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[19764] ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【禁書目録・超電磁砲】【再構成】
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2014/02/15 15:00

その日、不良に追われて路地裏を走っていた少年、上条当麻は一人の少女に助けられた。
名門中学、常盤台が擁するレベル4の空力使い、婚后光子。
二人はやがて恋に落ち、その出会いは彼らのみならず、インデックス、佐天涙子、御坂美琴といった、彼らを取り巻く人々の運命すら大きく変えていく。
このSSは、『トンデモ発射場ガール』をヒロインに抜擢し、「とある科学の超電磁砲」と「とある魔術の禁書目録」のストーリーを再構成して進められる物語である。

注意書き
本作の時系列は、小説版禁書目録とアニメ版超電磁砲(一期)に依拠します。
・正史(小説版禁書目録+漫画版超電磁砲)では、幻想御手<レベルアッパー>事件は夏休みの初め、すなわち上条当麻がインデックスを助けるべく奔走している裏で起こっていますが、アニメ版超電磁砲にあわせ、夏休み前の出来事であると設定しました。
・正史では婚后光子の常盤台転入は二学期からでしたが、アニメ版にあわせ、一学期から転入したと設定しました。
超電磁砲をマンガでしか知らない人は時系列がご存知のものと異なる点をご了承ください。

2010年6月:初投稿
2010年9月:prologue終了, ep.1_Index開始
2011年3月:ep.1_index終了
2011年4月:ep.2_PSI-Crystal開始
2011年5月:ep.3_Deep Blood開始
2011年6月:ep.4_Sisters開始
2011年8月:ep.2_PSI-Crystal終了
2012年4月:ep.3_Deep Blood終了
2013年6月:prologue改稿
2014年2月:prologue改稿終了,ep.4_Sisters再開

最新話の連載について
書き上げた内容を一旦SS速報VIPに掲載し、まとまったところで加筆修正をし、arcadiaに投稿するスタイルをとっています。
当該スレッドはこちら(アドレスは添付不可につきお手数ですが各自で検索してください)
SS速報VIP
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】【上条×婚后】
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】part2
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】part3
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【再構成】【プロローグ改稿版】
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】part4

誤字脱字のご指摘、お待ちしております。



[19764] prologue 01: 馴れ初め
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2013/10/12 23:36

雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。
上条当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。
ハァハァとまとまらない呼吸に毒づきながら、時々後ろを振り返る。
「ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」
そう、追いかけてくる連中には、実は昨日も会っていた。おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちとその子に間に割って入ってしまったのだ。おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。
当麻は何も体力に自信があるわけではない。昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。
足がガクガクだ。だが相手も本格的な武闘派スキルアウトではないようで、かなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――


カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。


「は? うわっ!」
日ごろから不運に見舞われることの多い当麻だが、空き缶が転がってきたからといってマンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。だが、右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す羽目になった。
そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。
「あいでっ……くそっ」
「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」
肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。
非常にマズイ展開に直面して、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。
「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」
そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。
当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。
その直後。べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音が当麻の耳に響いた。


婚后光子(こんごうみつこ)は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観では、の話だ。
彼女の通う学校、常盤台中学は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。そして彼女の寮もその区画内にあったため、2年生になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。
そして彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。
だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんていう、まるで不良みたいな行為は。
日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。

彼女はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息などある程度の男子の知り合いはいるが、それでも腕を組むなどという破廉恥な行為は考えたこともない。
道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けて、1つのクレープを食べあいしていた。その光景をつい凝視してしまう。椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、とつい自分に重ねて空想してしまう。
いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのだ。
町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。

もう少し先まで行ったら引き返そう、そう光子が決めたときだった。
店と店の間の、小型車両しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。
ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。
……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミ頭の少年を囲んだ。そこで光子は状況を理解する。つまり、あの髪のとんがった少年はどうやら襲われているらしい、と。
焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。

婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。
――困った人には、手を差し伸べること。
おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。
トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。


金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。
電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。普通の人が自分の腕でこの看板を投げたのなら、看板の描く軌跡はたぶんブーメランのように緩やかにカーブしたもののはずで、不良にはその角が突き刺さることだろう。だが実際には、宣伝内容が書かれた広い面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。
一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。
「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」
「へ?」
当麻と不良たちの声が唱和した。浮かぶ疑問は皆同じ。不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この子はどれくらい自分の実力に自信があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。気弱い普通の女学生からは真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に、その場の誰もが困惑した。
その中で、立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。
「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」
肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。
「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」
当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。
当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。
パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。
「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」
叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。
当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。
「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」
自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」
少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て、思わず血相を変えた。
「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」
いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。
そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。


「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っっ!」
「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」
「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」
慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は問答無用の良家の令嬢なのだ。繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。
女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。
「どこへっ、向かいますの!?」
それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。
「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に人集めはできなくなるはず! そこまで頑張れ!」
ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。
周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。
やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。


「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」
「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」
状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。
「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」
「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」
「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」
やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。
「まあでも、助かったよ。最悪なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」
「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」
目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。
こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。
「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、そっちはどういう用事で来たんだ?」
「え?」
お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。単に、おのぼりさんみたいな光子に危害が及ばないように必要なら簡単なエスコートくらいはするかと考えているのだった。
その申し出に、光子が視線を彷徨わせる。
「いえその、私」
言ってみれば、光子は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。
「やっぱこういう所、初めてだったりするのか?」
当麻は口ごもる光子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、光子は言い当てられて戸惑いを視線に浮かべていた。
「え、ええ。まあ。あまりこういうところは来ませんから……」
「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」
「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」
女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。彼女はどうもそれを知らないらしかった。
「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」
「ちょ、ちょっと。私そのような礼は不要ですと申しましたのに……」
「まあまあ。正直、ほとぼり冷ます時間もいるし、ああいう陰険な連中の目をくぐって帰らなきゃいけないだろ?」
「また会ったなら、その時こそ性根を直して差し上げる時でしょうに。レベルの低さに屈折して、暴力に走った学生なんて」
そう冷たく言い切る光子に、当麻は苦笑を返した。正論は正論なのだが、それは集団相手にはなかなか振りかざせない正論だ。
「言いたいことはわかるけど、あっちは群れだからな。ほら、慣れてないんだからとりあえず俺の言うこと聞いてくれよ」
「はあ。……あの、言うことを聞くというのは、こちらのレストランにエスコートすることについても承諾しろ、ということですの?」
ちょっと、戸惑いがないでもない。だって、男の人に案内されて食事なり喫茶なりをするなんて、これはいわゆるデートというやつではなかろうか。もちろん、自分とこの人は初対面だから、世間で言うところのデートとは違うのはわかるけれど。
「嫌なら、まあ別に断ってくれたらいいけど」
目の前の当麻が困惑気味にそう返したのを見て、光子は悩んだ。
こういうときは、断るのは失礼なことなのかしら。別に、あまり高いお店には見えませんし、巷ではこういう時に軽く殿方にご案内いただくのが普通なのかも……。
内心でそんなふうに悩んだ末、光子は当麻の方を見た。
「その、ご迷惑ではありません?」
「迷惑? いや俺の方にはそんなのないって。そっちこそ変に誘われて困ってるか? もしかして」
「い、いえ。分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、エスコートをお願い致しますわ」
「ん。甘い方か甘くない方か、どっちが好きだ?」
ハンバーガーというのはあまり馴染みがない。そちらにもちょっと気は惹かれたが、素直に好みを答えた。
「甘いもののほうが好きですわ」
光子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。
「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」
「1人だったらお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」
「わかった。じゃあ、行くか」
昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。
「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」
「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」
「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」
「あ、ごめん。婚后さんね」


騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。
初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。
「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」
「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」
硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。
「これ、アップルパイですの? 本当に?」
「え、そうだけど?」
光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。
生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。
「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」
ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。
一緒に購入した紅茶に口を付けると、安っぽいアールグレイの味がした。こちらはちょっと、いただけない。
対面にいる当麻はというと、アールグレイにミルクポーションと、さらにガムシロップとかいう液体砂糖を入れていた。
これはそうやって飲むものなのかもしれない。ポットで淹れて温かいままいただく光子のよく知ったアールグレイとは違うのだろう。
自分も当麻の真似をしてみればいいのかもしれないが、さすがに甘いアップルパイに甘いアールグレイを合わせる気にはならなかった。


「なあ婚后」
「はい、なんですの?」
「どうだ、こういう雑多なファストフードのノリは?」
当麻は、光子がほぼ完全にこうしたところに不慣れなことを見抜いているらしかった。
隠しても仕方がないし、率直に答える。
「なんだか、面白いですわね。たったの100円でこんなものが買えて、楽しめるなんて」
「はは。まあ、ちゃんとしたところのアップルパイだと800円くらいするもんな」
「え、ええ」
アップルパイの値段は知らなかった。
家で誰かが作ってくれるか、そうでなくても誰かが用意してくれるものなので、光子はアップルパイを購入したことなど一度もないのだ。
「見るからに、婚后ってお嬢様っぽいもんな」
「そ、そうでしょうか」
「だってさ、そうでしょうかなんて返事をする中学生がどこにいるんだよ」
「えっ? あの、私の言葉遣いは、もしかしてこうした街では浮いてしまっておりますの……?」
「いや、浮いてるっていうか。婚后には合ってると思うけど、普通の中学生はまあ使わないな」
「はあ……」
直せと言われて直るものでもない。あまり直そうという気もないし。
「悪いって言ってるんじゃないんだ。ただ、いいところのお嬢さんなんだろうなって」
「え、ええ。婚后はそれなりに名の通った名家ですわ。上条さんも名前をご存知ではありません? 日本で航空最大手の婚后航空を」
「ああ、名前は聞いたことあるな。ニュースで。学園都市にも乗り入れてたっけ」
当麻は小学校に上がる前からの学園都市暮らしだ。飛行機に乗ったことは、それ以前にはあったかもしれないが、ほとんど記憶にはない。
一般的な学園都市の学生らしく、航空産業にあまり興味はなかった。そんな当麻でも知っているのだから、大手の会社ではあるのだろう。
「はい。数に限りはありますが、いくつか就航していますわよ」
「婚后って、もしかしてその一族の?」
「ええ。こう見えて、跡取り娘ですわ」
「へぇ。すごいじゃないか」
当麻が感心したような顔をしたのを見て、光子はいくらか気分をよくした。
「私も、早くお父様やお爺様のお力になりたいんですけれど」
「将来のヴィジョン持ってるんだな」
「え、ええ。でも婚后に生まれた者として当然の自覚を持っているだけですわ。上条さんは、どうですの?」
「え、どうって?」
「お父様のお仕事を継いだりとか、そういうお考えは?」
「んー、あんまりないな」
当麻は苦笑しながら光子に答えた。父親の職業には由緒なんてのはこれっぽっちもない。
「うちの親はサラリーマンだからな。継ぐっていっても、父親が働いてるからって理由じゃ雇ってくれないだろうし」
「はあ」
光子が曖昧な返事を返した。サラリーマンの実態がいまいちイメージできないらしかった。
話していて十分に分かったことだが、どうも光子は、相当な箱入り娘というか、お嬢様なのだった。
「さて、もう食べ終わったよな?」
「はい」
「婚后に美味かったかと聞くのは無謀かも知れないけど、それなりに楽しんでくれたか」
「ええ。たくさんの初めてがあって、とても面白かったですわ。殿方にこんな風にお誘いいただいたのも初めてでしたし、こうした……ウェイターが注文を取りに来ないお店で食事をしたのも初めてでしたから」
「楽しんでくれたなら良かったよ。悪いな、長い時間付き合わせて」
「いえ。こちらこそお誘い下さって、ありがとうございました」
軽く頭を下げ合って、当麻は光子と自分のトレイを持って、ゴミ箱に向かった。
立ち去る時もセルフサービスなのが、また光子には不思議らしかった。
そしてファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。
「それじゃ、気をつけて」
「ええ、上条さんもお気をつけになって」
こちらを振り返ることなく男子禁制の世界に戻っていく光子の後ろ姿を眺め、可愛い子だったな、と当麻は今日の出来事を反芻した。
つい前日には同じ常盤台でも攻撃的なタイプの子に追い回されて、当麻の抱えていたお嬢様学校のイメージが崩れかけていたが、やはり光子のような子の方が常盤台らしい学生なのだろう。お嬢様気質な面は否めなかったけれど。
自分のいた環境が人より恵まれていたせいか、人を見下すような表現を使うことがあったり、あるいは自信家なところが自慢好きに見えたりと、敵を作りやすそうな女の子だなという印象はあった。けれど根はきっといい子なのだろう。当麻のからかいにたいする反応はどれも素直で、可愛いかった。
「ま、そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」
自分の不幸体質をさっくりと再確認してから、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。



これが、上条当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。



*********************************************************
2013年夏ごろにプロローグの改稿を行いました。その結果、以前と比べ数話程度の加筆があります。
また、細部に関しては描写の変更もありますので、改定前の版をお読みになりたい方は、
『prologue (old version)』のページへとお飛びください。



[19764] prologue 02: 目線の高さ
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2013/10/12 23:36

「暑いですわね……」
手にした扇子で直射日光を遮りながら、光子は誰ともなしにそう呟いた。
日傘も許されない校則というのは正しいものだろうかと訝しみながら、光子は寮への帰り道、繁華街を抜ける少し遠回りなルートをひとり歩いていた。
こんな場所にいる理由は、ついこないだと同じ。学舎の園と呼ばれる男子禁制の領域の、外にある方の寮に住むクラスメイトに、紙の資料を手渡しするためだった。
そういう仕事は、きちんと手続きを踏めばわざわざ生徒が運ばずとも目的地に届くはずなのだが、光子が普段、一番お世話になっている先生はどうもそういうところで人使いが荒いのだった。
とはいえ、教師から理由を与えてもらって外出するのは、大義名分をもらったようで気分的には悪くない。この暑さを除けば、だが。
せめて涼しい所で休憩できれば、と茹だりそうな頭で考える。美味しいとは言えないが、先日寄ったあのファストフードとやらのお店はエキサイティングだった。
不良を退治した上、助けた相手にアップルパイと紅茶をご馳走になった一日。人生の中でもトップレベルに風変わりな日だった。
見上げれば似たような店は近くにもあるようではあった。
「一人で寄るにはやはり敷居が高いですわよね……」
それが光子にとっての偽らざる思いだ。それこそ、なじみの呉服店だとかなら、自分一人でタクシーで乗り付けて一時間でも二時間でもいられるのだが。
そういえば今年は新しい服をあまり買っていないな、と思って周りを見渡したが、着たこともないような派手なTシャツだとか、生地の少ない服ばかりがショウケースに並んでいて、光子は自分のいた世界とのギャップに眩暈を覚えそうになった。Tシャツの良しあしなんて、店員にいくら説明をしてもらっても光子にはわかりそうにない。
「やっぱり、一人でここに来ても、どうしていいかわかりませんわ」
ため息をつく。学び舎の園の外を一人歩きするのは二回目だ。慣れてきた分周りがよく見えるようになった一方で、気軽に楽しめるほどには自分がとけ込めていないと感じていた。
「……もう、帰りましょうか」
ふう、とため息をついて、帰り道を探すために目線を上げる。
その時だった。
「あれ、婚后?」
「えっ?!」
若い男の声で、自分の名が呼ばれたのに気がついた。
声の先には、こないだ会って、アップルパイもどきをごちそうしてくれたツンツン頭の少年、上条当麻がいた。




特にすることもない休日の午前、上条当麻は買出しにでも出かけようかと繁華街を目指し歩いているところだった。
目的地は学校帰りの行きつけのスーパーではなくて、ショッピングモールに併設された大型スーパーの方だ。
特売のチラシを見かけたのも理由だし、暇だからいろいろ見る所のある場所へと行ってみようという程度の、大した目的もない散策だった。
「くそ暑い……」
汗を手で軽く拭いながら、空を見上げる。
自分の背丈よりも高いところまで陽炎は成長しているのだろうか、太陽が揺らめいて見えた。熱中症のせいではないと信じたい。
しかしこれが気のせいでなく本当に暑いせいなら、今から生鮮食料品を買いに行こうと考えている自分は結構愚かなんじゃなかろうか。
そう思いながらも、道半ばまで来てしまった以上引き返すのがもったいないと感じる貧乏性の当麻だった。
「あれ、婚后?」
交差点を曲がって、すぐ先。こないだと同じようにあちこち視線のせわしないおのぼりさんみたいな様子の少女が、足取りだけは優雅にこちらのほうに進んできていた。
思ったとほぼ同時くらいに条件反射で名前を呟くと、校則違反を見つけられた学生みたいにビクッと肩をすくめて、こちらをまじまじと見つけてきた。
「あ……、えっと、上条、さんでよろしかったでしょうか?」
こちらの顔に思い当たったのだろう。ほっとした感じで光子が最警戒態勢、といった感じの緊張を解いた。忘れられていなかったことに当麻としても少し安心する。
「こないだぶりだな。あれからなんともないか?」
「なんとも、ってなんのことですの?」
「不良に追いかけられたりしてないかって話」
「ああ」
会ってまだ二回目だからだろうか、無警戒で相対はしてくれないらしく、光子はやや戸惑い顔でこちらを見ていた。
ちょっと馴れ馴れしかったのかもしれない、と当麻は反省した。
「あれから学舎の園から出ていませんの」
「ああ、それなら会うわけないか」
光子のいる場所は男子禁制の、チェックの厳しい箱庭だ。不良集団<スキルアウト>の連中がおいそれと侵入出来る場所ではなかった。
「上条さんこそ、大丈夫ですの?」
「え? まあこちらも、なんとか」
「そう。なら良かったですわ」
薄い笑みを光子が浮かべた。親しくないからよくわからないが、営業用のスマイルな感じがした。
当麻の自意識過剰と言われればそれまでだが、なんとなく隔意があるような気がしてならない。
光子にしてみれば、暑いし日焼けもするこの場所に長居をしたくないという思惑がある程度のことだったのだが。
「今日はどうしてここにいるんだ?」
「前と同じですわ。体調不良で休んだ同級生へのプリントを届けるよう、先生から言付かったのですわ」
「ふーん」
そういえば、その辺の事情は前回聞いた。常盤台中学は全寮制の学校で、その寮は男子禁制の区域である学舎の園の中に一つ。こちらは常盤台自体のごく近くにある。そしてもう一つが、学舎の園の外、第七学区の中でも雰囲気のいいこの一角にあるらしかった。
光子の住んでいる寮をわざわざ本人に聞くのははばかられたが、状況からして、光子自身は学舎の園の中のほうに住んでいるのだろう。
「それで、お使いのついでに買い食いって感じか」
「お、お使いなんて言い方はやめていただきたいですわね。それに買い食いなんて。それ、道端で食べ物を買って歩き回ることでしょう。良家の子女として、そんな行為に手を染めたりなどしませんわ」
人聞きの悪い、と言わんばかりの不満げな表情で、光子はそっぽを向いた。
その態度を見て、当麻としては苦笑せずにはいられない。
「こないだ会った時は俺が買い食いに付き合わせちまったけどな。ってか、やっぱ婚后にとっては買い食い自体が耳慣れないのか」
「え?」
「小学生ならいざ知らず、寮で自分一人で暮らし始める中学生からは買い食いなんて普通すぎてむしろ誰も意識しないもんだしさ」
やはり純粋培養なのだろう。深夜までこのあたりを走り回ったりする当麻とは、育ちが違う。
「上条さんは、よくされますの?」
「え?」
「その、買い食いを」
「んー、実はあんまり。コンビニで生菓子でも買おうもんならあっという間に高くついちまうからな。飯以外の菓子類とかもスーパーとかで買っちまうんだよな」
「はあ」
「常盤台は三食全部出るんだろ? 羨ましいよ」
そんな所を羨ましがられて、光子としては困惑するほかなかった。だって、常盤台を選ぶ際に、食事のことなんて全く意識しなかった。きちんとした三食が何も言わずとも用意される、そんなものはあって当たり前のサービスなのだから。
「学園都市でも最高の教育を行っている学び舎に対して、食事があるからいいところだなんて評価、どうかと思いますわ」
「そりゃそうか、ごめん」
そんな風にあっさりと謝る当麻を見て、光子はどうも不満を隠せなかった。
不良に絡まれて苦労していたし、交わした会話の端々から察するに、当麻のレベルは2よりは下だろう。常盤台は女子校だから当麻に直接は関係ないが、それでも高レベル能力者を集めたエリート校だ。少しくらいは憧れてもらわないと。
「上条さんのレベルはおいくつですの? 常盤台は学園都市でも名の通った学校なのはご存知でしょう。それがどんなものかお分かりにならないのかもしれませんけれど、そこらの学校とは全く違いますのよ」
「まあ、そうだろうけど。小学校に上がるかどうかって頃からずっとレベル0の身としちゃ、ぶっちゃけ常盤台じゃなくてもっと低レベル向けでも俺には関係ない世界だからさ」
「はあ」
そう言い返す当麻にどんな反応を示していいかわからず、光子は曖昧な返事をした。
レベル0は、学園都市に在籍する学生の多くが属する階級だ。レベル1と並んで、能力者としては使い物にならない学生たちを指す。
その最下層の序列に幼少の頃から組み込まれていて、それでも劣等感らしきものを当麻はほとんど見せない。それも強がりだとかではなさそうだ。光子には、そんな当麻の自然体さがうまく理解できなかった。
そんな隙をついて、当麻が歩を進めだす。歩く方向が一緒だったので、光子も自然とついていくしかなかった。
「……上条さんはどちらへ?」
話すことなんて特にはない。だからつい、そんな無難なことを聞いてしまう光子だった。
「え? ああ、暇だからあっちのショッピングモールのスーパーにでも行って、買い物しようかと思ってさ」
「そうですの。お暇そうですわね」
「う……」
何気ない光子の言葉に、当麻はちょっと怯んだ。他意はないのだろうと思うが、自分の休日をバッサリとそう言いきられるとヘコむものだ。
「そういうそっちは今から何するんだよ」
「えっ? ま、まあ、少々することがあるといいますか……」
光子が空を見上げるように目を動かしてパタンと扇子を弄ぶ。非常にわかりやすい態度だった。
本当に用事があるんなら、あんなキョロキョロとあたりを見回しながら歩いていたりしないだろう。
どう見てもこないだの続きで、自分の知らない繁華街という世界に足を踏み出したところだった。
ただ、そういう態度を見ているとちょっといたずら心がわいて来るのも事実。当麻は光子の言うことに付き合ってやることにした。
「へぇ。こっちのほうで? 学舎の園って中で生活が完結できるだけのものがあるって聞いたけど」
「そ、それはそうですけど。でもエカテリーナちゃんの食餌ですとか品ぞろえに時々不満もありますし」
「エカテリーナちゃんって、ペットか何かか?」
「ええ」
「ということは、婚后はペットショップに行くところか」
「そういうことに、なりますわね」
光子がほっとしたのが態度で分かった。
「なるほど。ちゃんと目的が合ったんだな。おっかなびっくりで歩いてて、今日も知らない世界を大冒険してるのかと思ったんだけど」
「か、上条さん!」
ポッと顔が赤くなった。内面がはっきりとわかってしまうそのわかりやすいリアクションが可愛かった。
自分のクラスメイトの女子たち以上に擦れてない感じがするのは、年下だからという以上に、やっぱりお嬢様なのだろう。
「わ、私は別に冒険なんて……!」
「いいじゃん。俺だって初めて第7学区から遠出した時はドキドキしたし。今まで行ったことのない場所に行くのは冒険だろ」
「そ、そうかもしれませんけど、こういう場所、別になんてことのない普通の場所でしょう」
「婚后はめったに来ないんだから普通じゃない、だろ?」
「それはそうですけど……」
当麻は、光子にとってやりにくい相手だった。
強がりを見透かされたことは今までにだってあるけど、こんな風に見透かされた上でその強がりを肯定されると、どうしていいかわからなくなる。
もっと強がったり、言葉を重ねようとしても、もっと優しく笑われる気がする。嘲笑なら突っぱねられるのに、そういうのとは違うのだった。
同い年の男子ともそれほど親しくした経験はないのに、年上の男の人の相手は光子には少し荷が重い。
「で、ペットショップ、行ってみるか?」
「え?」
「行ってみたいってのは嘘じゃないんだろうし、せっかくだ、案内するから」
ニッと笑う当麻の好意を嫌だと思えなくて、突き放せないまま従ってしまう光子だった。




当麻に連れられ、ショッピングモールに光子は立ち入る。
通路が狭いことにすら少しびっくりだった。休日ということもあって人ごみがすごいこともあるが、それを差し引いても、反対側から歩いてくる人とすれ違うためには、当麻と並べた肩が少しぶつかってしまうくらいなのだ。
「あっ……」
「ごめん」
つい、過剰反応をしてしまった。擦ったといってもいいくらいの些細なぶつかり方だったのに、当麻に謝らせてしまったことを申し訳なく思う。
でもやっぱり、こんなに近い距離で男性と歩くなんて、初めてのことなのだ。ちょっとくらい過敏になったって仕方ない、と心の中で言い訳をした。
「婚后さ、人ごみ、苦手だったか?」
「えっ? そ、その。苦手というよりは初めてで」
「初めて? これくらいで?」
ここはそう大きくもない駅前のモールだ。はっきり言って、ハブ駅の前にあるショッピングモールまで行けば、これより大きく、また休日は芋洗いでもするような人ごみに出くわせるところが山ほどある。少なくとも、学園都市で普通の学生をしていればこれくらいは何ともないと思うのだが。
「だって。ショッピングをする所と言えばもっと道が広くて余裕のある場所でしたもの。ちゃんとお店の方が御用伺いに来てくださいますし、そういうお店で確かなものを選ぶというのがショッピングの楽しみ方ではありませんの?」
「……ん、まあ、それも間違ってないだろうけど」
拗ねているのか、あるいは怒っているのか。やや口早に光子にそう答えられると、当麻はどう返していいのかわからなかった。
「でもさ、たとえばお菓子とか買うときって、わざわざ店の人がついてきたりなんてしないだろ?」
ほら、と目の前の菓子屋を指さす。いわゆるスーパーの菓子コーナーに並んでいるようなものから、それより少し高級路線のものまでを扱うショップだった。
言うまでもなく子供が群がっていて、店員はそれを俯瞰的に監視こそすれど、一人一人にアドバイスなどするはずもない。
そう話を振ってみると、光子がまた困惑したような顔を見せた。
「お菓子を買う、なんてほとんどしたことありませんわ」
「え、お菓子もないの?」
「だって、そんなの家に帰ればあるものでしょう!? わざわざ買いに行ったことなんて、おじい様が体調を崩された時のお見舞いくらいですわ」
「……悪かった。なんていうか、馬鹿にするつもりはないんだ」
「当然ですわ。自分で買わなければいけない人に、馬鹿にされる筋合いなんてありません」
当麻は、なんとも複雑な気持ちになってしまった。
この婚后という女の子は、随分偉そうなことを言っている。庶民で何が悪いんだと反発を感じなくもない。
だが同時に、光子の見せる反応は、ショッピングモールが物珍しくて訪れたはいいけれど誰でも知っているような当たり前を知らなくて、それがきっと恥ずかしいのだろうと容易に推察させる態度だった。
そういうところは、可愛いとも思う。
「お菓子の一つでも、買ってみる気はないか?」
「べ、別に要りませんわ。お菓子でつられるほど子供でもありませんし、それにこんなもの」
光子が興味もなさそうなふりをして、陳列されたパッケージに目線を走らせた。だがそれが取り繕ったものなのだとわかるくらいには、光子は裏表のない少女だった。
「婚后が食べてきたお菓子より上品な美味さはないかもしれないけど、いろいろあって面白いだろ? いいじゃないか、冒険なんだから試してみれば」
「で、でも。上条さん、私を案内する先はペットショップではありませんでしたの」
「別にお菓子買うくらいの寄り道で硬いこと言うなよ。ほら、ポテトチップスとか食べたことあるか?」
当麻は傍にあったオーソドックスなやつをつまみ上げ、光子の目の前にかざしてやる。
「ば、馬鹿にしてらっしゃるの? ありますわ」
「そっか。普通の塩味?」
「え? ……それ以外に、何がありますの。ワインビネガーでも振りかけろとおっしゃるの?」
「いや、そんなの見たことない。そうじゃなくて、コンソメとか、だし醤油味とか、ピザ風味とか」
味の種類を言うたびに光子の唇がとがっていくのが楽しくて、つい当麻はあれこれ紹介してしまった。
「知りません! うちではもっと良いものをいただいてきましたから!」
「きっとそうなんだろうな」
「えっ?」
思わず、嘲笑とは別の意味で軽く笑ってしまう。そんな当麻の表情に光子は戸惑っているらしかった。
「ごめん。からかわれて気分良くないよな。ちょっとさ、慣れない所にきて肩ひじ張ってる婚后が、まあその、さ」
「……なんですの」
当麻の言葉をどう取っていいかわからず、曖昧な表情を浮かべる光子。
だがさすがに、会って二回目の女の子に、面と向かって可愛いと言うのは当麻にも照れ臭かった。
「なんでもない。ほら、どうだ、せっかくだから試してみろって」
「は、はあ」
「俺のおすすめってことで、俺が買っとくから」
「えっ? そ、そんな、こないだもそうやってご馳走になってしまいましたし、悪いですわ」
「いいから」
はっきり言って当麻に経済的余裕はないのだが、まあ、一日100円分のお菓子を我慢するくらいはどうってことない。
良く買う銘柄のうち、光子の知らなさそうな味のものをひとつ拾い上げて、当麻はレジへと向かった。
「上条さん」
「ん?」
「買っていただくのは……その、すみませんと言いますか、ありがとうございますと言いますか」
「いいって。俺がやりたいだけだし」
「それで、こんなことを聞くのはなんですけれど、恥を忍んで、お聞きします」
「ん?」
光子が、両手を重ねて軽く腰を折り、丁寧に質問を放った。
「これ、どのようにして温めればよろしいのでしょうか」
「……はい?」
小銭を手渡し釣りを待つその一瞬で、当麻は思わず硬直した。
「え、そのまま食べればいいんだけど」
「そうなんですの? でも、以前いただいたときは揚げたてでしたから、手で持つのがやっとくらいでしたので」
お嬢様はポテチすら揚げたてですか。
やっぱりギャップを感じずにはいられない当麻だった。




買ってはもらっても食べ歩きなどという行儀の悪いことをする気はない、というか光子はそれを思いつきもしないのか、その後はまっすぐペットショップを目指した。
人が多いのは相変わらずで、軽く肩が触れるのを繰り返した結果、光子は半歩下がって当麻に寄り添う、というポジション取りを覚えたらしかった。たぶん、当麻が気を使って細かく話を振るから、真後ろに下がって一列に並ぶことはしないでくれたのだろう。だが、その位置関係は結構親密な関係の男女っぽくて、綺麗な光子の横顔がすぐ近くにあることに落ち着かない当麻だった。
それはもちろん、光子にとってもそうだ。
もし、殿方とデートをするとしたら、こんな感じなのかしら。
そんなことを一人で考えてしまって、顔が火照るのを自覚する。覗かれるのが恥ずかしくて、当麻の肩で顔を隠した。別段当麻の肩幅は広いわけでもないし、ほんの一メートル以内にだって男性はいくらでもすれ違っているのに、なんだかその背中が特別なような錯覚に陥って、光子は自分で少し反省した。
別に、当麻のことを好きなわけではない。だって会って二回目だし、そもそも好きになるほど優しくされたわけでもない。当麻が光子のことを特別な女の子として見ている素振りだって全くないし。
それはそんなに面白いことではないが、と心の中でちょっと批判をしながら、光子は当麻が歩みを緩めたのを感じた。
「ほら、婚后。これが目的地のペットショップな」
「ありがとうございました。結構大きいんですのね」
「そうなのかな」
視線の先で、可愛らしい仔猫や仔犬が駆け回っているのを見つけて、ああいうのが婚后も好きなのかな、と当麻は視線を伺う。
だが光子はそちらにはさほど興味を示さず、冷蔵保存されたペットフードのコーナーに足を向けた。
ペットの餌なんて常温保存の利くものだとばかり思っていたので、一体光子が何を見ているのか気になった。
「一体どんなの見てるんだ?」
「ああ、上条さん。こちらのお店、非常によい品揃えですわ。ほら、こちらなんか丸々としてていいボリュームですわ」
ほら、と。光子がパッケージに入ったそれを、当麻に手渡した。
ひんやりとしたそれは、ビニールのパッケージ越しに、短い体毛の感触を伝えてくる。当麻は、手のひらに置かれたそれに、ただ硬直するほかなかった。
「上条さん?」
上条が受け取ったそれは、まごうことなき、冷蔵されたラットだった。
「……ごめん、哺乳類がくると思ってなかった」
「え?」
「婚后の飼ってるペットって、何かな」
硬い口調で、当麻は光子に尋ねた。
「エカテリーナちゃんはニシキヘビですわ」
愛着があるのだろう。光子が嬉しそうにそう答えた。ペットなんだから、愛情を持って飼っているのはいいことだ。
でも、蛇かー……
恐怖症などがあるわけではないが、蛇と聞けばとりあえずびっくりするのは自然な感覚だと思う。
手のひらにこんもりと乗っかるサイズのラットを、まさかそのへんで見かける小さな青大将が飲み込むはずもない。それなりのサイズだろうというのは推測できた。
当麻がいろいろな事実を受け入れている間に、光子は店員に声をかけ、配送の相談などを行なっていた。
「少々思いがけないことでしたけれど、いい店に巡り会えましたわ。上条さん、ありがとうございます」
「いや、婚后がもともと行く気だったのを無理やり案内させてもらっただけだからな。なんかお礼を言われると申し訳ない」
「ふふ。私一人ではたどり着けなかったかもしれませんから、やはりお礼は言わせてくださいな」
多分一人だったら、迷った挙句人いきれでくたびれてしまいそうだった。今度来る時はきちんと準備してこよう。
「さて、それじゃ婚后の捜し物も、これでおしまいか。他に行きたいトコとかないか?」
「いえ……もとより、その、そんなに目的があったわけではありませんでしたから」
「そっか」
当麻はそこで言葉を区切って、少し続きをためらう。
少し早いが、昼食時に差し掛かっていた。当麻はここのフードコートで適当に何か食べるつもりでいたが、光子はどうするつもりだろうか。
「お昼、どうする?」
意図をぼかした質問。ばったり道で会って、軽く道案内をした上に、さらに食事に誘うというのは当麻にとっても敷居が高い。というか、ここまでやると男女間のただの知り合いとしては距離感が取りづらい。下心があると取られて当然というレベルになる。
そういう当麻の考えを光子も理解したらしい、少し戸惑いと恥ずかしさを顔に浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、私は寮の方でお昼を摂ると寮監に伝えましたので」
「あ、そっか。それじゃそろそろ帰らないとだな」
「ええ」
内心でいくらかがっかりしたのを顔に出さないよう注意しながら、当麻は頷いた。
そうして、二人で店を後にする。そして人ごみに慣れてきた光子を連れて、言葉少なに上条はショッピングモールから外へと抜け出した。
「うわ、あちー……」
「うんざりしますわね」
婚后がぱたりと扇子を開き、軽く仰いだ。だが風もおそらく温いに違いない。
「車で迎えがあればこんなことにはなりませんのに」
「そうは言うけど、こんなとこ、駐車場もまともにないぞ」
なにせ駅前のモールだ。そもそも学園都市は自動車を運転可能な年齢層が外より極端に少ないこともあって、駐車場自体があまり大きくないのが普通だ。
「お店が雑多で、高密度にまとめられた施設では仕方ないのかもしれませんけれど」
「ま、婚后が普段行く店に比べたら、そうなのかもしれないけどさ」
「比べられるものではありませんわ。ペットショップの二つ隣に和ものの小物店がありましたけれど、ああいうのはどうかと思いましたもの。ああいったものは呉服屋と並んでいるのが自然でしょうに」
そんな愚痴を光子はこぼすが、まさか呉服屋をペットショップと並べるわけにもいかないし、こういうモールで小物を買う購買層と呉服屋はたぶん相容れない。あの配置はあの配置で理にかなっていたのだろうと思う。
「常盤台の子って、みんなやっぱ婚后みたいにお金持ちなのかね」
「えっ?」
唐突だった当麻の質問に、光子は戸惑った。お金持ち、という表現にドキリとしたのもある。
「そんなことはありませんわ。常盤台はああ見えて完全実力主義ですから。校風が上流階級向けではありますけれど、ご両親の経済状況に一切関係なく、入学は可能です」
レベル4以上なら学費の支援なども手厚いため、実力さえあれば問題ない、というのは本当だった。
「そうなのか。じゃあ、さ、婚后」
少し言いにくそうに、当麻が切り出した。
「婚后みたいにお金持ちの子と、周りの子じゃ感覚にギャップがあったりしないか?」
「べ、別に、そんなことは……っ」
光子はその言葉に、焦りを覚えた。
「いや、もしそうなら余計なお節介なんだけどさ」
当麻が頭を掻いて、その先を続けるかを、逡巡した。
「そういうのって、なんか距離を取られてるっていうか。庶民とは全然違う世界の人なんですって言うのってさ、なんか、友達減らしそうだなって思うんだよ」
ざくりと、その言葉は光子の急所に突き刺さった。
「……っ! そんなこと」
「俺の思い違いなら、ごめん」
「……」
上条さんの勘違いですわ、と強がることもできた。だけど、否定はできなかった。
身も蓋もなく、婚后光子の現実を表せば。
彼女は、友達が、少ない。
特に転校して数ヶ月。常盤台では休み時間に話す程度の知り合いはいても、放課後を共にしたり、毎度の昼食を共に取るような相手はいない。
「悪い。嫌な思いさせちまったな」
光子が答えを返さない、いや返せないうちに、当麻が軽く頭を下げた。
反射的に覚えた反発が和らいでくると、当麻に謝らせたこと自体が申し訳なくなった。
「どうして、そんなことを仰りましたの?」
「え?」
「私を馬鹿にしようとなさったんではありませんわよね?」
「そりゃもちろん。なんかさ、もったいないって思ったんだよ」
「もったいない、ですの」
少し奥歯に物が挟まったような言い方だと光子には感じられた。
実際、当麻は言葉を選ぼうとしているのか、話しにくそうだった。
「こないだと今日とで二回しか会ってない俺が言うのもなんだけどさ、ちょっと気になったんだ。婚后の態度って、時々偉そうに見えるっていうか、同じ目線で対等に付き合おうと思っても、それがずれてる感じがするというか。婚后は意識してないのかもしれないけど」
「私は……ただ、どなたのご友人としてでもふさわしい態度をとっているつもりですわ。成績や能力、立ち居振る舞いの面でも、相手の方に尊敬を持っていただけるだけの人であろうとしてきたつもりです」
投げかけてくれた当麻の方にも、そして答えようとした自分自身の方にも隠しきれない戸惑いがあった。
それほど親しくない知り合いだし、こんな立ち入ったことを話しているのが、不思議だった。
少しの時間、当麻は光子の言葉の意味を心の中で確かめているようだった。
「なあ、婚后」
「はい」
「さっきからさ、踏み込んだ話で嫌な思いさせてるかもしれないけど。ちゃんと、伝えておくな」
「どうぞ、仰ってくださいませ」
態度を改めた当麻に対し、光子も姿勢を正した。
自分を諌めてくれる人の言葉はきちんと受け止めなさいと、両親から教えられてきた。当麻がしようとしているのは、そういうことだと思う。
「確かに友達同士でも相手を尊重する気持ちって必要なんだろうけど、友達ってのはもっと、気軽というか、気さくな関係でいいんじゃないかと思う」
「……」
「例えば俺が、婚后にふさわしい友達であろうとしてるように見えるか? 自分の偉いところを示そうとしたりとか、そういうの。まあ言っちまえば、常盤台の生徒に誇れるところなんて別にないってだけだけどさ」
「……いえ。上条さんは、親しみやすい方だと、思いましたわ」
「そういう俺の態度は不愉快だったか?」
「そんなこと、思っていません」
「そりゃよかった。友達ってさ、こんなもんでいいと思うんだけど」
嫌な話はこれくらい、と区切るように、当麻が笑って歩き始めた。
信号を渡り、公園につく。
「上条さん。私は、やはり思い違いをしていたのでしょうか」
「そこまでのことでもないさ。だって婚后が嫌なヤツなら、上条さんにとって、こんなふうに道案内するのはお断りのはずだろ?」
おどけた口調でそう言ってくれる当麻の気遣いが嬉しかった。
「では私のこと、嫌いではありませんのね」
「え?」
「え?」
当麻が、不意に硬直した。その態度の激変についていけなくて、光子も首をかしげる。
そして直ぐに悟った。
今のはまるで、男女が、互いの気持ちを確認するときの言葉みたいだった。
「あのっ、私そんなつもりじゃ」
「ごごごめん! 俺の方が今のは悪い。そんな流れじゃなかったのはわかってる」
思わず互いに目線をそらし、呼吸と間を整える。
そして再び光子が顔を上げると、当麻が優しく微笑んでいた。
「やっぱ、ちょっとでいいから変えてみるといいと思うよ。自慢げに聞こえるような言葉を、きっと減らしたらいいと思う」
「そういう所が、上条さんをご不快にしていましたのね」
「俺はそうでもないよ。そういうところも含めて、何ていうか」
当麻は再び、可愛いという言葉を使うのはやめておいた。
「いい子なんだなって、思うよ」
「……もう、そんな言い方。子供扱いされているみたいですわ」
光子が顔を赤らめた。
「うまい言い方が他に思いつかなかったんだよ。ほら、時間大丈夫か?」
「あっ。ええと、今から帰ればちょうどくらいですわ」
「そっか。じゃあ、ここまでだな。今日は時間も早いんだし、わざわざ送ったりすると迷惑かな」
「迷惑なんてことはありませんけれど……でも大丈夫ですわ。上条さんも、ご自分のお買い物をお続けになって」
「ん、サンキュ。それじゃあ、また街で会ったら、話でもしよう。高校生の男子と友達ってのは難しいかもしれないけど、相談には乗るしさ」
「ええ。ありがとうございます」
当麻は脳裏で、偶然会うことは難しいんじゃないかと思いながら、別れを切り出す。
確実に連絡できる手段として、メールアドレスのひとつでも聞けばいいのだが、それは憚られた。
光子は二学年下の、美人の女の子。そんな子にアドレスを聞くのは、ナンパ以外の何物でもない。
内心の葛藤を押し殺して、当麻は軽く手を挙げた。
「それじゃあ、またな」
「はい。上条さん、ごきげんよう」
一度も口にはしなかったけれど、険のとれた優しい笑いを浮かべる光子は、とても可愛かった。



[19764] prologue 03: 人と人の距離
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2013/10/12 23:37

カラーンと優しい鐘の音が鳴る校内を、光子は一人歩く。
当麻にショッピングモールを案内してもらった次の日の、ちょうどお昼時だった。
屋内の食堂に、テラス、カフェテリアを備え、さらには寮に戻って食事も可能という常盤台の環境は、昼休みの混雑とはあまり縁がない。
入学当初は昼休みの時間まで利用して、自分の派閥を作ろうとスカウトに走ったものだが、それももうすっかりやめてしまった。
皆早々にほかの派閥へと所属したり、部活に専念するからと断られたり、そんなのばかりだった。
光子は二年からの編入。それで新参者が派閥を作ろうと奔走するのは、あまり好意的に映らなかったらしい。
長い休憩時間を持て余し気味に感じるのはいつものことだったが、今日は、それ以上に。
「昨日のこと、いい加減に引きずるのをやめませんと――」
当麻に、言われたことがずっと頭から消えなかった。
あくまで当麻自身は優しく言ってくれたし、その場では前向きな気持ちになれたはずだったのだが。
部屋に戻ってからが、自己嫌悪と自己否定がとめどなく続く一人反省会となったのだった。
これまでは気にしていなかったのに、すれ違う人の視線が光子の意識をざわつかせる。
すっかりと派閥形成に失敗した自分を、笑っているのではないかと、そう思ってしまうのだった。
「あ、婚后さん、お昼行くの?」
後ろから、朗らかな声がかかった。振り向かずとも分かる。入学当初から割と付き合いのある、御坂美琴という同学年の生徒だ。
学年を超えた人気者らしく、一緒に歩くとあっちこっちで声がかかる。
「御坂さん、ごきげんよう。こちらのほうでお会いするのは珍しいですわね」
美琴のクラスからこのルートを通るのは、カフェに行く時くらいだ。美琴と食事を摂る時も近場の食堂が多いので、あまり顔を合わせない場所だった。
「今日は黒子から一緒にご飯しようってねだられてさ。しょうがないから付き合うトコ」
黒子、というのは一年生の白井黒子のことだ。美琴のルームメイトだから、おそらく朝食と夕食はかなりの頻度で一緒になっていることだろう。学年が違うのに、わざわざ昼に一緒になることもない。
「婚后さんも一緒にどう?」
美琴がそう訪ねてくれた。義理という感じはしなかったが、わざわざ呼び出しを受けているところにお邪魔するのは気が引ける。相手が白井ならなおさらだ。どうも入学当時から、あの小さい一年生とは反りが合わないのだ。
「せっかくですけれど、御坂さん。お二人でお楽しみになって」
「そう? まあ、見飽きた顔だから楽しみってほどじゃあないけどねー」
苦笑いの美琴に、光子も笑みを返した。
「ごめんなさい、ちょっと横を失礼しますわ」
立ち話をする横からそんな声が掛かった。振り向くと、学年もまちまちな、30人位の生徒の集団が立っていた。
「御坂様、ごきげんよう。今日もお元気そうで何よりですわ」
「どうも。今日はお食事会?」
「ええ。定例の集まりですわ。新しいメンバーが増えましたからそのお披露目もありますの」
「まだ増えるんだ」
美琴が話している相手は、たっぷりとした長い髪を縦ロールにした少女。彼女はこの集団のサブリーダーだった。
「お陰様で順調ですわ。これでもうひとつくらい、面白いプランに手を出せそうですの。それでは、これで失礼いたしますわ」
「ええ、それじゃあね」
サブリーダーの少女が通り過ぎると、後ろの少女たちもが次々とこちらに頭を下げながら立ち去っていった。
すでにこれまでにも目にした光景だが、その数の多さに光子は圧倒された。
レベル4の能力者ですら10人以上を抱える、常盤台で最大の派閥。学園都市でも七人しかいないレベル5の能力者の第五位、『精神掌握<メンタルアウト>』をトップとする集団だった。
「相変わらずの大所帯よね。敵視はされてないみたいだけど会えば絶対こんな感じになるから、ちょっと面倒なのよね」
「御坂さんは人気者ですものね」
「あー、うん。まあね」
美琴は少し困った顔でそう返事を返した。人気者だからというより、単にもう一人のレベル5だからなのだが、どうも光子はそれを分かっていない節がある。かと言って「私がレベル5です」なんて名乗り出るのは恥ずかしすぎるので、ついついそのまま誤解が続いているのだった。
「御坂さんは、派閥を作ったりしようと思ったことはありませんの?」
「え?」
それは、光子にとっては素朴な疑問だった。話していれば美琴が優秀な能力者だということくらいはわかるし、人望もある。きっと派閥を作れば沢山の人が集まるだろうことは想像に難くない。なのにどうして作ろうとは思わないのか。
美琴は再び苦笑いを浮かべて、答えた。もう何度も、いろいろな人に尋ねられた質問だった。
「私は人のてっぺんに立ちたいって思わないしさ、堅苦しいの、嫌いだから」
「では、誰かの派閥に入ろうとは思いませんの?」
「それは……」
こちらは斬新な質問だった。まさか自分があのいけ好かないもう一人のレベル5と仲良しこよしになるなんて想像もできなかったし、レベル4の生徒が主催する派閥に自分が入るというのは、トップとなる子にとっても自分にとっても気苦労が絶えないだろう。だから、考えたこともない選択肢だった。
「私は結構、群れるの嫌いなタイプでさ。やっぱり派閥ってどこか上下関係が生まれるものだから、そういうのに馴染めないんだよね。もちろん派閥ってものを否定する気はないんだけど、私には合わないというか」
「上下関係、ですの」
「やっぱまとめ役はみんなを引っ張ってかないといけないし、参加した人は集団がバラけないように、みんなと同じ方向を向かないといけないじゃない?」
「ああ、それはそうですわね」
「そういうのより、もっと自然にさ、友達同士で集まる方が楽しいなって」
「……そのほうが、御坂さんらしい気がしますわね」
「ぅえっ? そ、そうかなー。って、ごめん。黒子を待たせてるから、そろそろ行くわね」
「ええ、ごきげんよう」
「それじゃ」
最後のドタバタとした動きは、照れ隠しだったのかもしれない。美琴を見送りながら、光子はぼんやりとそう考えた。
そして先程の会話を反芻する。上下関係、という言葉が光子の脳裏でリフレインしていた。
幼少期から構築しようとしてきた友人関係は、たぶん派閥を組むのに近い、自分が頂点にいるタイプだと思う。
自分で認めるのもなんだが、裕福な家庭に生まれて、ちやほやされて育ってきたというのは紛れもない事実だろう。
お父様の薫陶を受けて、尊敬を集めるだけの人であれと努力してきたつもりだったけれど、転校前の知り合いで今も連絡の続く相手がいないのを考えれば、自分はきっと。
「友達として、必要とされてきませんでしたのね、私は」
例えば美琴との間に、上下関係はないと思う。あちらがどう思っているのか、光子に心が読めるわけではないから絶対的な答えはないけれど、たぶん、間違っていないだろう。そういう関係を、作っていくべきだったのだ。
「上条さんは、嫌な方ですわね」
こんな風に落ち込んでしまうのは全部、元を正せば自分が悪い。だけど少し、恨まずにはいられなかった。
「……お昼を摂りませんと」
食欲もさほど湧かないが、食べなければ午後が余計に辛くなる。ふうっとため息をひとつついて、光子は顔を上げた。
すると。
「あら、婚后様」
「ごきげんよう」
湾内(わんない)と泡浮(あわつき)の二人が、職員室の方から出てくるところだった。
「ごきげんよう、お二人とも。なにか御用でもありましたの?」
「はい。水泳部の先生から、まとめておいたデータを提出するように言われましたので届けに行っていましたの」
二人は水泳部の所属で、ともに流体操作系の能力者だ。泡浮の方はプールの塩素にも色褪せのしない長い黒髪の持ち主で、湾内の方も、傷んだ感じなど微塵も感じさせないふんわりとした栗毛の少女だった。どちらも結構いいスタイルをしているのだが、プロポーションについては光子自身がさらにその上を行くので、美琴と違ってどうとも思わない。
「婚后様はどうしてこちらに?」
「え? 私はたまには違う場所でお昼をいただこうかと思いまして」
「まあ、そうでしたの」
湾内が泡浮にさっと視線を送り、軽く頷き合う。
「私たちも今からお昼ご飯のつもりでしたの。もし婚后様がどなたかとご予定があるのでなかったら……」
そんな風に、提案してくれた。
この二人は編入の光子と同じ、今年の四月に入学してきた一年生だ。学年は違うけれど、同じタイミングで入学し、同じ寮内に住んでいることもあり、こうして時折食事を共にするのだった。
年上であり、レベルも上である光子のことを素朴に慕ってくれていて、この二人といる時間は、美琴といる時間とはまた違う感じだけれど、楽しかった。
光子は別に、一緒に昼を食べる相手は決まっていない。いつもどおりに誘いに乗ろうと思って、口ごもった。
「ええ、よろしいです……いえ」
「婚后様?」
「どうかなさいましたの?」
ご一緒にいかがですかと尋ねられて、よろしいですわ、とこれまで答えを返してきたけれど。
そういうところが、当麻に指摘されたところなんじゃないだろうか。
「……ちょうど独りでしたの。ご一緒させて頂けたら、嬉しいですわ」
だからそんな風に、光子は返事をした。
その光子の雰囲気がいつもと違うのを感じて、泡浮と湾内は不思議に思った。だが、嫌な感じではない。
いつも自信に満ちていて力強い光子の笑顔はおとなしい二人にとって憧れの対象だったけれど、今みたいな優しい笑顔は、なんだか近しい感じがした。
「だったらちょうど良かったですわ。もう五分も過ぎてしまいましたから、早く向かいましょう」
そう言って、湾内はごく軽く、光子と腕を絡めた。
「わ、湾内さん?」
「あら、ずるいですわ。それじゃあ私も」
「ちょ、ちょっと泡浮さんまで」
反対側の腕をとって、泡浮がカフェへと先導し始めた。
初めて会ってから、もう数ヶ月になる。なのにこんなフランクなスキンシップは、初めてだった。
なぜそんなに二人の態度が変化したのか、光子は驚かずに入られなかった。
「今日はどうしましたの?」
「えっ? あの、ご迷惑でしたか?」
二人の腕が、少し迷うように動きをよどませた。
この二人と自分の間には、学年という隔たりがある。年長の自分が迷惑だと言えば、きっと二人は謝罪をするだろう。
そんなの、全然本意じゃない。
「そんなこと、ありませんわ」
両腕の二人を引き寄せる。三人並ぶと常盤台の廊下も狭くなる。何事かとこちらに向けてくる視線が結構あった。
「今日の婚后様は、ちょっとお優しい感じがして」
「そ、そうかしら?」
それにしたって、こんなにも親しげに振舞ってくれるものだろうか。いつもは、光子を立てるように少し後ろから付いてきてくれるのだが。
実際には、だんだんと仲良くなってきて、軽く手をつなぐくらいの下地はもうあったのだ。今日の光子の変化が、それを後押ししただけ。ただそんなことは光子にはわからなくて、驚きを隠せなかった。
そのまま、周囲の邪魔になりながら、カフェへと降りた。
さすがに注文は手をつないだままでは無理だから、仲良く注文を済ませ、席を探す。
「婚后様。こちらにしましょう」
空いていた席を手早く泡浮が見つけてくれて、三人は昼を摂り始めた。
食事を彩る話題は、いつもどおり他愛もないものだ。だけど、改めてその内容について考えてみると、ちゃんと、光子に対して気遣いをしてくれている。
二人は同じ部活、同学年、同クラス。だから内容によっては光子を置いてけぼりにする可能性は結構ある。だけどそうなりそうになるたび、どちらかが注釈を加えてくれたり、話題を自然と光子の参加しやすいものにしてくれたりしていた。
もちろん、今までだってそれに気づいていなかったわけではない。だけどそういった気遣いを、自分はありがたいとも思わず、当たり前のように受け取っていたと思う。
「湾内さん、泡浮さん」
二人が食事を終え、アイスティーのストローに口をつけたところで、光子は改めて二人の名前を呼んだ。
「はい、なんでしょうか」
「今更、こんなことを言っても仕方ありませんけれど」
目立たぬよう座ったままだったけれど、光子は髪を手で押さえ、深く頭を下げた。
「至らぬ私に付き合わせて、ごめんなさい」
「えっ……?」
「こ、婚后様? 一体どうなさったんですの?」
「何度もこうやってお食事に誘っていただいたりしてきましたけれど、その度に、私は失礼な態度をとり続けてきましたわ。お二人が後輩なのをいいことに」
「そ、そんな。失礼だなんて、私たちはそんなこと少しも思っていませんわ!」
「そうです! だから婚后様、どうかお顔を上げてくださいませ」
見ると、とんでもない失態でもやったかのように、二人が狼狽していた。
二人にしてみれば、仲良くしている先輩から、突然理由不明に謝られたも同然なのだ。
「あの、婚后様。私こそ失礼でしたらごめんなさい。今日の婚后様は、どこか様子が変わっていらっしゃいましたけれど、どうかされましたの?」
「私も同じことを感じていました。失礼でしたら、謝ります」
今度は逆に、二人に謝られてしまった。それも二人はカフェのど真ん中で、直立してだ。
「ちょ、ちょっとお二人ともおかけになって。謝られる理由なんてありませんし、ほら、目立ってしまいますわ」
慌てて二人を座らせて、不安げな二人に向けてなるべく優しい笑みを浮かべる。
「ええと、まずはその、混乱させてごめんなさい。はじめに謝ったのは、やっぱりけじめとして必要なことと、思ったからですわ」
「はあ……」
「つい昨日のことだったんですけれど、とある方から、私が知り合いに接するときの態度が傲慢だと、そんな風に指摘をいただきましたの」
「そんなことありませんわ! その方は、きっと婚后様のこと、誤解してらっしゃいます」
怒ったように、湾内がそうフォローをしてくれた。純粋にそれを嬉しく思う。だけど、やっぱり当麻の言葉は誤解なんかじゃなくて、一定の真実を含んでいたと思う。
「ありがとう、湾内さん。でもやっぱりそれは事実だと思いますの。お二人とこうやってお会いするときも、いつもお二人に誘ってもらうのを待って、お誘いに乗って差し上げる、なんて態度をとってきましたわ。おしゃべりの中でだって、私の自慢めいた話なんかしてしまって」
「……でも、それを嫌だって思ったことは、ありませんもの」
戸惑いながらも、泡浮がそう否定する。
「そう思っていただけて、本当に僥倖ですわ。……謝りたかったのは、こういうことでしたの。それと二人には、改めてお願いがありますの」
「なんでしょうか」
「何でも仰ってくださいませ。婚后様のお力になりたいですわ」
二人から、随分と真剣な目で見つめられてしまう。その視線に励まされて、光子は今まで、言えなかったその言葉を、口にした。
「泡浮さん、湾内さん。わたくしと、お友達になっていただけませんか」
二人は、示し合わせたように笑みを浮かべ、
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。婚后さん」
そう、唱和した。




食事を終えて、教室へと戻る。学年が違うから、改めて『お友達』になった湾内と泡浮とは当然別行動になる。
「お二人とも、本当にはしゃいで仕方ないんですから」
嬉しかったのは、もしかしたら泡浮たちもだったのだろうか。いつになく二人ははしゃいで、光子にじゃれかかってきたのだった。
友達なら失敗談だってお聞きしたいですわ、だとか、婚后さんの心を揺り動かした方って、もしかして女性じゃなくて殿方では……だのと、いつもなら質問を控えるようなところまで尋ねてきて、光子も困ってしまったのだった。
特に、昨日会った相手が男性だったというのは、二人の興味に俄然火をつけたらしかった。困ったものだ。別に当麻とは、なんでもないのに。
でも、お礼は言いたいと思う。連絡先の交換はしていないから、探すには名前しか頼れるものがないのだけれど。
「あ、婚后さん」
「御坂さん」
後ろから、美琴が追いかけてきた。
「さっきのアレ、なんだったの?」
「えっ?」
「離れてたけど、私と黒子もカフェにいたから。泡浮さんと湾内さんがすっごい謝ってたの、なんだったのかなーって。しかもそのあと普通に楽しそうに話してるし」
これがもし、先輩に対する粗相で後輩が真剣に謝っていたのなら、美琴とて尋ねるのをためらっただろう。だがそういうのではなさそうだった。
そういう状況を美琴が分かっているのが光子にも察せられたので、説明する前に、美琴にも改めてお願いをしようと思う。
「同じことで、御坂さんにもお話がありましたの」
「え、私に?」
美琴も、まったく心当たりがない、という顔だった。
「こちらに編入してきてから、御坂さんには本当に良くしていただきましたわ。至らないところも多い私に対して、色々と親身になってくださって」
「へっ? いやあの、婚后さん?」
美琴にしてみれば、そんな大したことをした覚えがない。ちょっと道案内をしただとか、常盤台独特のしきたりについて教えてあげたりだとか、そんな程度だ。
「私が一体どれだけのものを返せるのか、わかりませんけれど。御坂さん、わたくしと、お友達になっていただけませんか?」
「……っっ!!」
奇妙な顔をして、美琴は黙りこくった。そしてだんだんと顔を赤くして、そっぽを向く。
反則だ、と美琴は心の中でつぶやいていた。だって今更だ。こっちは、とっくに。
「あの、御坂さん」
「……私は、ずっと友達だと、その、思ってたん、ですけど」
「えっ?」
「だってそうでしょ! 同級生で一緒にご飯食べてんのに友達じゃないとか変じゃない」
「そ、そういうものかしら」
「そうよ。もう、どんなこと言われるのかと思ったら。びっくりしたじゃない」
「でも、私にとっては大事なことだったんです」
「……そっか。まあ、改まると恥ずかしいけどさ、これからもよろしくね」
「ええ。こちらこそ」
光子は、美琴に優しくほほえみ返した。
それにしても、なんだこんなことだったのか、と拍子抜けすらしてしまいそうだ。
親しい友達を作るというのは、もっと困難を伴うものだと感じていたのに。
「お姉さまぁー! ちょっと待ってくださいですの!」
「え、黒子?」
美琴の後ろの階段から、白井が大急ぎで駆け上がってきた。
「どうしたの? こっち、二年の教室じゃない」
「お姉さまが勝手に先に行かれるからですわ。お別れの挨拶がまだでしたのに」
「挨拶って……いらないわよそんなの。トイレ行くっていうから、また後でねって言ったじゃない」
「黒子がしたいんですの。それじゃあ、お姉さま、ごきげんよう」
「あーうん。またね」
ごきげんようの一言のためにわざわざここまで来た白井と、それをすげなくあしらう美琴。なんだか親しい関係なのに温度差があるように感じられる。だけど決して一方通行の関係のようには見えなかった。あれはあれで、二人の間に信頼関係があるのだろう。
「仲、よろしいのね」
これまでみたいに羨ましさを隠すわけじゃなくて、ああ、仲がいいんだなと光子は感想を呟いた。
その言葉でようやく光子の存在に気づいたように、白井がこちらに視線を向けて美琴に見せるのとは全然違う顔をした。
「婚后光子? 一体何の用ですの」
「私はお友達の御坂さんとお話をしていただけですわ」
「友達……? あなたとお姉さまが?」
「何かご不振な点でもお有り?」
そう質問を返してやると、確認を取るように白井は美琴を見上げた。
「何よ」
「この女の言ったことは真実でしょうか」
「もう。なんで二回も確認されなきゃいけないんだか。……私はそう思ってるわよ」
ちょっと拗ねたように、美琴はそう認めた。白井はその反応を見て面白くなさそうに舌打ちした。
その顔を見ていると、つい、光子の中に湧いてくる感情がある。
それは泡浮や湾内、美琴に対して持ったものとは明らかに異なっていた。
「つまり、私と白井さんはお友達のお友達ということになりますわね。この際だから、お友達になってあげてもよろしくってよ?」
これまでの光子のように。白井の目線に合わせようとすることなく、光子はそう宣言した。
白井は一瞬ぽかんとしたあと、先程の倍くらい苦い顔をしてこちらを睨みつけた。
「ハァ? 勘違いも甚だしいですわね。一体何の得があって私が貴女と友誼を結ばなければなりませんの。お友達を増やしたいのなら他を当たることですわね」
その険のある態度は、きっと白井以外から向けられたら落ち込んだことだろう。だが白井からならば、なんとなくこれでもいいかと思えてしまう光子だった。
「そう。残念ですわね。ところで、それならば私は二年で、貴女は一年なのだから、私たちの関係にふさわしい態度をお取りになったら? 模範的生徒、風紀委員の白井さん?」
「これまでの失礼なそっちの態度を鑑みればこれでも十分すぎるくらい丁寧ですわ」
フンッ、とそっぽをむいた白井を心の中でクスリと笑って、光子は手にした扇子をパタンとたたんだ。
「まあ、別に本当に下手に出て欲しいというわけではありませんから、それでよろしいわ。それではお二人とも、ごきげんよう」
光子はカジュアルでいながら優雅な一例をして、二人に背を向けた。
「黒子、もうちょっとマシな受け答えの仕方ってもんがあるでしょうが」
「ですがお姉さま」
自分がいなくなった途端声に甘えた感じの響きが混じる白井に苦笑しながら、光子は教室へと歩いていった。




それから数日。光子は再び、学舎の園から外に出て、人通りの多い道を歩いていた。
三度目ともなるとそこまで挙動不審にはならない。よくよく見てみれば、時折常盤台の制服を着た生徒を見かけるし、きっとこれくらいは普通のことなのだろう。
光子がわざわざ街に繰り出したのは、一番の理由としては、この間のペットショップを訪れるためだ。学舎の園の中のペットショップよりも、品揃えがよかったので、エカテリーナちゃんの口に合うものをあれこれ試した結果、ここで継続的に注文を頼むのがいいという結論に達したのだった。
けれど、その足取りは、店へと直行というわけではなかった。
知っている、つまりは既に通った道だからというのもあるけれど、先日当麻に出会った道を、きちんとなぞっているのだった。
理由は、もし、偶然にでも会えたなら、お礼を言おうと思ったからだ。
さすがに自分の方から、名前を頼りに探し出してお礼をするというのは敷居が高い。けれど、これまでに当麻と出会った場所を通れば、会えるかもしれない。そう思っての行動だった。
だからついついあちこち見渡してしまうし、似た声が聞こえると振り返ってしまう光子だった。
「……二度とも、普段とは違うところに来たって言ってましたものね」
だからまあ、きっと会えないだろうと思っていた。
全速力で近づいてくる、そのツンツン頭の一部が見えるまでは。
「あっ……!」
「ちょっとすいませーん、通りまーす」
割と焦った顔をして、当麻がこちらの方に近づいてくる。だけどその目はまるで光子になんて気がついていないふうだった。
「あのっ、上条さん」
と、声をかけてみる。だがあちらはまるで気づくことなく、そのまま光子の前を通り過ぎようとする。
それではわざわざ街に出てきたかいがないし、せっかく声をかけたのに素通りされるのは面白くない。
「上条さんっ!」
「え?」
びっくりしたようにこちらを振り返って、当麻がようやく足を止めてくれた。
「あれ、婚后か。どうしたんだ? また放課後の冒険中か?」
「だから冒険なんて言い方、やめてくださいって言いましたのに。それで、上条さん。今お時間は……」
「え? えっと」
当麻が視線を泳がせた。その先ではそのへんにありそうなごく普通のスーパーマーケットが大量の人を集めているところだった。
店員が入口で何かをがなり立てている。日本語のはずなのだが、光子は何を言っているのかを全く聞き取れなかった。
「すまん、タイムセール目当てでここに来たんだ。婚后の用事って急ぐか?」
「えっ? いえ、そういうわけでは……」
「問題なけりゃ、15分くらい後じゃダメか? 今日は月イチのセールなんだ。米は5キロ1400円、卵はLサイズ10個58円おひとりさま2パックまで、あときゅうりも3本で80円!」
「あ、あの、わかりましたから。それにお手伝いが必要でしたら――」
「マジ?!」
救い主を見た、と言わんばかりの目の輝きに光子は思わずたじろいだ。
「じゃあ卵の協力頼む!」
そう行って勢い勇む当麻に、光子は慌てて付き従った。


それからの五分は、まさにこれぞ庶民の暮らしと言わんばかりの熱気だった。
卵のコーナーに真っ先に向かったが、そこには既に人だかりができており、二人が他の買い物を済ませてレジに向かう頃にはもう売り切れていた。光子は光子で、卵を40個も買っていったいどうする気なのか不思議でならなかったのだが、とてもゆっくりとそれを尋ねられるような雰囲気ではなかった。
「こちらがお釣りとレシートになります。ありがとうございました」
光子の後ろでは、当麻が会計を済ませていた。あとは店から出て一言お礼をいえばいいだけなのだが、なんというか、そういう改まった雰囲気がすっかり吹き飛んでしまっていた。
そんな光子の困惑などお構いなしに、満足気な当麻は光子を促して道の隅へと誘った。
「婚后、ありがとな」
「いえ、別に大したことをしたわけではありませんから……」
光子はそう言いながら自分が手にした方のビニール袋を当麻に手渡した。それを大事そうに受け取り、ようやく一段落、という顔をした。
「それで、付き合わせちまってからでなんだけど、どんな用だったんだ?」
どう切り出したものかとためらう光子と対照に、当麻はこれっぽっちもこちらが何をしようとしているのかに気づかないらしい。その無頓着な態度に、ちょっとムッとなる。
「こないだのお礼を、と思ってお探ししましたのに……」
「え?」
「なんでもありません!」
小声で愚痴を呟いて、光子は気持ちを切り替えた。お礼をしたいなんて思ったのも、忙しそうな当麻を引き止めたのも、全部自分の都合でやったことなのだ。それで文句を言うのは筋違いなのも事実だ。
「……上条さん」
「ん?」
「先日は、どうもありがとうございました」
光子がそう言って、丁寧に腰を折った。その動きに合わせて流れる髪が綺麗で、うっかり当麻はそちらに気を取られてしまった。
「あ、うん……。その、なんの話?」
「え?」
お礼を言われる理由がわからなかったから単純に聞き返しただけなのだが、当麻のそんな態度に対し、まるで信じられないものを見たかのように、光子が絶句した。
「こないだ、アドバイスをしていただいた件について、お礼を言わせていただこうと……」
「アドバイス? ……って、友達がどうのってヤツ?」
「ええ」
律儀だなあ、というのが当麻の率直な感想だった。というか、あんなのは。
「お礼を言ってもらうような大層なことじゃなかったと思うけど。それにさ、婚后を結構怒らせたし」
「そ、そんなことありませんわ。それに、ああしてお声をかけていただいたおかげで、私自身、周囲の友人達との関係で、変われたと思ったところが有りましたの。だから、お礼を言いたくて」
「ほんとに大したことじゃなかったつもりなんだけどさ。でも、それでいい方向に進んだんだったら、ま、お礼を言われて悪い気はしないよな」
当麻だって彼女が欲しいお年頃の、普通の男子高校生だ。女の子の方からお近づきになってくれるなんて幸運以外の何物でもない。
そういう下心めいたものが当麻には無きにしもあらずだったのだが、軽く微笑んだ当麻を見て、光子の方も気持ちが軽くなった。
こうして礼を言おうとしたのは、当麻に知って欲しかったからなのだ。当麻のアドバイスで、こんなにも自分を取り巻く環境が変わったのだと。
もちろん当麻に対してたくさんの感謝の念は持っているけれど、それとは少し趣を異にする願いが光子自身が自覚しないところで含まれていた。すなわち、当麻に自分のことを見て欲しいという。
「でも。俺が言いたかったのはあくまでさ、勿体ない、ってことだったんだけどな」
「え?」
当麻の言うことがわからなくて、光子は首をかしげた。当麻も伝わらないことはある程度分かっていたのだろう。だが続きを言うかどうか逡巡、いや、照れているようで、鼻の頭を掻いて空を見上げた。
「あの、どういうことですの?」
「……婚后が何か変われたってんなら、それは俺がどうこうしたって訳じゃないよ」
照れくさそうな当麻の目が、光子にすっと向けられた。その瞬間、光子は訳も分からず、何も言えなくなった。
「婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ」
「――――ぁ」
思わず、呼吸が止まった。
そして、二人の間に完全な沈黙が訪れた。
光子はかあっと頬が火照って、頭が仕事をするのをやめてしまったから。
当麻は、あんまりにも気障ったらしいというか、光子に変に思われるようなことを言ったんじゃないかと心配になったから。
そうして、やがてその沈黙がむしろ二人を圧迫するようになって、ようやく当麻が口を開いた。
「ごめん。変なこと言っちまって」
「えっ? そ、そんなこと、ありませんわ。ちょっと、どうしていいかわからなくなってしまって……」
「別に婚后のこと、そんなに知ってるわけでもないのに偉そうなことばっかり言ってるからさ」
「そんなこと、ありませんわ。本当に私、上条さんに会えて嬉しくって……」
「え?」
「あっ、ち、ちがいますの。お礼を言いたかったから、会えて良かったという意味ですわ!」
「だ、だよな」
光子は恥ずかしくてさらに頭がぼうっとしてしまっていた。だって、今の言葉は意味深すぎる。そんなつもりじゃ、なかったはずなのに。それに当麻の態度だって、別に嫌そうには見えなかったし。
「そうですわ。お礼なんて言っておきながら、言葉で伝えるだけで済ますというのは婚后光子の名が廃ります。何か私に出来ることはありません?」
身を乗り出すようにしてそう尋ねる光子に、当麻は半歩ほどたじろいで対応した。きっと間を埋めるためなのだろうけど、ちょっと挙動不審な感じがした。
「え、出来ることって」
「上条さんの学業や能力開発のお手伝いをするとか」
「い、いや。能力の方は無理だと思うし、さすがに勉強でも中学生じゃさ」
「でしたら、お忙しい上条さんのかわりにお夕飯を作らせていただくとか」
「――え、作れるの?」
瞬間。はたと、光子の動きが止まった。どうみてもその顔は作れないのに勢いで言ってしまったという顔だった。
「……え、ええ。シェフには遠く及びませんけれど、少しくらいは」
「そうなのか」
表情を変えないようにしながら、つい当麻は心の中で笑ってしまった。たぶん、ちょっと意地の悪い笑いだった。
「それじゃどんなものを作ってもらおうかな」
「……な、なんでも仰ってくださいな」
「フランス料理のコースとか?」
「上条さんが、お望みでしたら」
今の無茶振りはイマイチだった。当麻の方が料理の中身すら想像できない一方、光子はそっちのほうは腕はともかく知識はたっぷりあるのだろう。
「んーでも善し悪しがいまいちわかんないしな。親子丼とか生姜焼きとかそういう簡単なのでいいや」
「え、ええ……わかりました」
露骨にこちらの方が、心配そうな顔になった。
「それとさ、さっきからちょっと気になってたんだけど」
「ええ、なんでしょうか」
これを突っ込むのは、ちょっと当麻も恥ずかしかった。
「料理を、うちに作りに来てくれるってことだよな? 俺の家、一人暮らしの学生寮なんだけど」
「――――」
あっ、と問題に気づいたような顔をして、手で軽く口元を抑えながら、光子がまた沈黙した。
もう、夕日でも隠せないくらい、頬が朱に染まっていた。
さすがに当麻も、まずいと思い始めていた。光子は、素直すぎる。からかうと面白いけれど、これ以上は知り合い程度の女の子にしていい範囲を、逸脱してしまうだろう。
そう自制を促す気持ちを脳裏で確かに感じていたが、当麻はそこで言葉を止めることを、しなかった。
「まあ、婚后が来てくれるって言うなら、大歓迎だけどさ」
「っ!」
光子が息を呑んだ。
「……でもやっぱ、良くないよな。高校生くらいになると、女の子を家に上げるってのはやっぱりまずいことだと思うし。だから料理の件は、婚后が料理の練習をしてからってことで」
場の雰囲気を変えるように、意地の悪い感じを押し出して光子に笑いかける。
その当麻の表情の意味に光子もすぐ気付いた。
「えっ? か、上条さん! もしかして――」
「見ればわかるって。婚后は、そういうとこあんまり裏表ないし。それにお嬢様なんだから料理したことなくても別に普通だろ」
「おからかいになったのね」
「見栄を張った婚后の方が悪い」
「でも」
つんと尖らせた唇が可愛かった。恨めしそうにこちらを上目遣いで見つめるその姿勢に、つい惹かれずには居られなかった。
「ごめん。婚后をからかうの、ちょっと楽しくてさ。……それで、さ。話があるんだけど」
「はあ、なんでしょうか」
「これで解散したら、また会えないだろ?」
「えっ? あ……そういうことに、なりますわね」
声に、寂しげな響きが混じった。少なくとも当麻はそう感じた。そんな光子の変化に勇気づけられて、当麻は続きを口にした。
「だから、ほら、アドレスくらい交換しとこうぜ」
そう言って当麻が差し伸べた手を、光子は思わずじっと見つめた。
「……まずかったか?」
「いいえ。そんなこと、ありませんわ」
思わず笑みが浮かんでしまった。また単純だと、当麻には思われているのかもしれない。
ポケットを探って、携帯を取り出した。そして簡単な操作を行うと、当麻の携帯の番号がディスプレイに表示された。
別に数字やアドレスそのものはなんの変哲もない無機質なものなのだが、その文字の羅列が光子には特別に見えた。
「よし」
これで無事交換できた、と二人共がホッとしたその瞬間だった。
チリンチリンとせわしない自転車のアラームが、邪魔と言わんばかりに二人に向けられた。
「きゃっ?!」
「婚后!」
ぼうっとしていた光子が、跳ねるように自転車をよけて、当麻の方に迫った。
倒れるのではないかと思って、当麻は思わず手をだして――

ふよんと、柔らかい感覚が手のひらいっぱいに広がった。

「え?」
「え?」
二人がはじめに感じたのは、戸惑い。
そして互いが互いにどんな状態になったのかを理解した瞬間。光子の顔がまた、真っ赤になった。
「あ、あ、」
「ごめん!」
初めてだった。光子が、幼い子供の頃はいざ知らず、心と体が女らしさを帯びてからは、こんなことは一度だってなかった。
それはもっと大人になったとき、大切な人にだけ、許すものだ。そう教わってきた。
だから、処理できないくらいの羞恥を、光子は感じていた。
だけど予想に反して、当然伴っているはずの嫌悪は、心の中に湧き上がってこなかった。
むしろまた当麻に謝らせてしまったと、場違いなことを考えていた。
「その、言い訳なんてできないけど」
「……分かっていますわ。その、もうこれ以上はなにも仰らないで」
「あ、ああ。ごめん」
「私の方こそ、その、どうしていいかわからなくって。今日のところは、そろそろお暇しますわ」
「そう、だな。わかった」
完全下校時刻まで、もうあまり時間もない。確かに潮時だった。
「それじゃあ上条さん、重ね重ねありがとうございました」
「俺は大したことはしてないさ。それじゃ」
「――――次は」
そこまでを言ったところで、光子の言葉は途切れてしまった。
言わないと、いつでも連絡が取れるのに、連絡が来ないような気が、したのだった。
だけどそれ以上は、言えなくて。
「……」
うつむいた光子を見て、当麻は、その続きを紡ぐべきか、少しだけ迷った。
だがやがて、離れた光子に一歩近づいて、その瞳をのぞき込んだ。
「次の日曜日、暇か?」
「えっ?」
「俺は試験明けでさ。婚后が暇なんだったら、少しくらい遊ばないか」
「――――」
ぼうっと、光子がこちらを見上げる。返事はないのに、視線だけが絡まった。
「あの、婚后?」
「わかりました。お時間、開けておきますから。それでは、あの、ごきげんよう」
そう言って、当麻が返事を返すより先に踵を返し、光子はカツカツと立ち去った。
「また、連絡するから」
その背中に声をかけると、びくりと立ち止まって、少しだけ会釈を返してまた歩き始めた。
嫌われたとかでなくて、照れているのだと、そう信じたい。
「……帰るか、俺も」
試しに二三歩歩いてみると、自分もなんだかふわふわとしていて、まるで落ち着いていなかった。
いつも持ち歩く傷だらけの携帯を、なくさないようにポケットの奥底にきっちりしまって、当麻も自分の家路を急いだ。
当麻は気付かなかったけれど、そっと携帯を手で包んで、大切そうに握り締めた光子の横顔は、夢を見ているように微笑んでいた。


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ラブコメ体質の上条さんに、インデックスさんというコブも美琴のようなすれ違い属性もなければこうなります、という話。



[19764] prologue 04: 遊園地とワンピース
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2013/10/12 23:37

「泡浮さん、湾内さん。外にお出かけになるときの服って、制服以外にどのようなものをお持ちですの?」
「え?」
二人は、光子からのそんな唐突な質問に、揃って首をかしげた。
場所は常盤台の学生寮。時刻は夕食を終えてすぐ、就寝までの自由時間となっている。
それぞれの個室に戻ってからは特に何時に消灯しろといった義務はないが、こうしてラウンジで部屋の異なる友人とくつろげる時間はある程度限られている。もちろん友人の個室にお邪魔することは可能だが、話し声がうるさいとすぐに寮監が飛んでくる。
「どうされましたの、婚后さん」
「もう夏休みのご予定をお考えですの?」
夏至を過ぎてまだ日も浅い。ラウンジの窓から眺める空は依然として夕焼け色をたたえている。
とはいえ夏休みに思いを馳せるには、まだいくばくか日が残っている時期だった。
「いえ、夏休みのことではなくって、その、次の日曜のことなんですけれど」
光子は改めて問うような視線を投げかけた。
常盤台は、外出時は原則制服着用が校則となっている。概ねそれは守られているのだが、校則というのは必ず誰かは破るものだ。
泡浮と湾内は顔を見合わせ、自分の手持ちの服を思案した。
「入学前の夏に買ったものが一通りありますけれど、そういえば今年の夏物はまだ買いに行っていませんわ」
「常盤台に入学すると皆さん口を揃えて言いますけれど、服を見に行く機会が減ってしまって」
着る見込みも見せる見込みもない服を買う趣味は、いかに少女たちといえど持ち合わせて居ない。校内校外を問わず制服姿を指定されている常盤台生にとってのファッションとは、拘束の中わずかに与えられた自由度、たとえば髪留めやリボンだとか、靴下やブラウス、さらにはその下に着るものに限られるのだった。靴下やブラウスは色や形がほとんど決められているから、敏感な子などはボタンのデザインにすら気をつかったりする。下着のほうも、二人の同級生の中に、色っぽいとかおしゃれを通り越して扇情的といっていいものを愛用する風紀委員がいたりする。
二人も多分に漏れずこうした小物のファッションには気を使っているのだが、私服の方はどうもアンテナが鈍っているらしかった。
「今年はどのようなものが流行りなんでしょうか」
「今週末は服を見に出かけませんこと? 婚后さんではありませんけれど、両親のところに帰るときに制服しかないのでは外に出られませんもの」
「いいですわね。私は賛成ですわ。婚后さんもご一緒しましょう」
「え、ええ。それは私としても望んでいたことなのですけれど……」
実は光子の悩みは、もうちょっと根本的かつ、深いのだった。
「どうかされましたの?」
歯切れの悪い光子の態度に、湾内が首をかしげる。
「実は、その。例えば遊園地に遊びに行くのにふさわしい私服というのは、どういうものかしら、って」
「遊園地、ですの?」
「ええ。……お恥ずかしながら、そういうところに私服で行ったこと、ありませんの。家では普段着が和物でしたし、パーティに来ていくようなドレスや、バカンス用のワンピースではちょっと場所に合わないんではないかと思ってしまって」
要は、街中を遊び歩くような服に、光子はとんと縁がないのだった。
「アトラクションに色々お乗りになるんでしたら、スカートよりはデニムのジーンズだとかの方がよろしいかも知れませんわね」
「はあ、ジーンズ、ですの」
「最近は非常に短いものが流行っていますけれから、そういったものとか……。あとは歩くのが前提でしたら、足回りから決めるのも手ですわね」
「お二人はそういうの、着ていましたの?」
勧めてくれた泡浮のほうは、素直にコクリとうなずいた。しかし湾内はそうでもないらしい。
「私、ほとんどスカートしか持っていませんの。ちょっと長めのスカートが好きで、そういうのばっかり集めていましたから」
なんとなくそれもわかる気がした。泡浮よりもさらにおっとりとしたところにある湾内は、ふんわりしたスカートなんかが似合いそうだ。
「考えたらそういう雑誌のひとつも持っていませんわ、私」
「常盤台に持ち込むのが、憚られますものね」
別に禁止もされていないし、学舎の園の中でも普通に買えるのだが、入学してまだ数ヶ月の二人にとってはまだ冒険的な買い物なのだった。
「婚后さんのスタイルでしたら、きっとどんな格好をしてもお似合いになりますけれど、どういったコンセプトを考えておられますの?」
「コンセプト、ですの?」
「ええ。バカンス風か、街中で見かけるような感じか、カジュアル寄りかフォーマル寄りか、お友達と遊ぶのか、ご両親と一緒なのか」
「ああ――」
そう納得しかけた光子にかぶせるように、泡浮が言葉を重ねる。


「あとは、恋人と過ごされるとか」
「えっ?!」
その指摘に、おもわず光子はドキリとなる。だって、この服選びを二人に相談している理由は。
――当麻に、遊びにいかないかと、誘われたからなのだった。


「その反応、もしかして、まさか婚后さん?!」
「本当に『そう』なんですの?!」
文字通りガタッと音を立てて、二人は座っていた椅子から飛び上がった。
上品というにはどこでも会話に花が咲きすぎているラウンジだから、周囲の学生たちはチラリと光子たちを一瞥すると、すぐに興味の対象は逸れていった。
だがそんな周りの目に関係なく、二人がずずいっと光子に迫ってきた。
「ちょ、ちょっとお二人ともお待ちになって!」
「待てと言われて待てる話ではありませんわ! どこでお知り合いになりましたの? まさかずっと前からとか」
「い、いえ。そんなんじゃありませんのよ。知り合ったのだって別に最近で……」
「最近?! でも婚后さん、そんな風には」
「違いますわよ湾内さん、だって、私たちが婚后様ではなくて、婚后さんってお呼びし始めたのって最近のことでしょう。きっとあの時婚后さんがお変わりになったのって、その方の――」
「そういうことでしたのっ? 以前は婚后さんは憧れの方でしたけれど、あれからはなんだかお顔も優しくなって、同性の私が言うのもなんですけれど、とってもお綺麗になりましたし」
「やっぱりそう思いますわよね。やっぱり恋は人を綺麗にするって、本当なんですわね」
「ちょ、ちょっと! お二人とも話が飛躍しすぎですわ! 別にそういう話じゃありませんのよ」
どんどん飛躍していく二人の話を必死に静止すべく、光子はなんとか口をはさむ。
だがもはや好奇心の塊となった二人にとっては、それすら光子の弱点を探る糸口でしかなかった。
「じゃあどういうお話ですの? そのご一緒される方って、殿方なのでしょう?」
「わ、私一言もそんな事言っておりませんわ」
「じゃあ女の方なんですか?」
「えっ? い、いえそれは……」
「お認めにならないということはやっぱり殿方なんですわね! どうしましょう、泡浮さん。私、デートの経験なんてありませんから、婚后さんにアドバイスなんてできませんわ」
「そんなことを言ったら私だってそうですわ」
湾内が両手を頬にあて、ぼうっとした表情で泡浮に相談する。泡浮のほうも頬が紅潮していて、目の輝き方がおかしかった。
「で、デートではありませんわ! ただ、ちょっとご一緒して遊ぶだけで……」
「ちょっと、っておっしゃいますけれど、場所は遊園地なんでしょう?」
「え、ええ」
あの日別れ際には、どこという指定はなかったけれど、ほんの数度だけやり取りしたメールの中で、そんな風に決まったのだった。
たかだかメールの一つに1時間も悩んだのは、あれが初めてだった。
困惑しながら光子が認めると、泡浮がほらやっぱり、という顔をした。
「これがデートでなかったら、一体デートというのが何かわからなくなりますわ!」
「そんなこと……。だって、デートはお付き合いをされている男女でするものでしょう? 私、あの方とはそういう関係なわけではなくて――」
「あの方! 湾内さん聞きまして? いま婚后さんったら『あの方』なんてお呼びになって」
「ああどうしましょう。私、ちょっと暑くなってきましたわ……」
まるで尋問される側のように、湾内の頬は赤く染まっていた。本人は男性恐怖症なところがあって実際に男子と接するとストレスを感じる方なのだが、他人の恋愛話は別腹ということらしい。いかにも興味津々という顔で手を振ってパタパタと扇いだ。
「でも湾内さん。ちょっと周りの視線が」
さすがに大騒ぎしたせいだろう。何事かと見つめる視線や、迷惑そうな視線が集まり始めていた。これはちょっとまずい。異性交遊と、そのために校則違反にあたる私服購入をする相談なんて、寮監に見つかったら一発で謹慎処分になるような危険なネタだ。
「婚后さん、これからご予定は?」
「え? 別に何もありませんけれど」
「じゃあ続きは私たちの部屋でしましょう! 夜を徹してでもご協力させていただきますわ」
「いえ、お気持ちは嬉しいですけれどそんなには……」
今すぐに手を引っ張ってでも行きそうな二人に、ちょっと光子はためらいを覚える。
だって根掘り葉掘りで質問をされそうな気がしてならない。それこそ本当に徹夜でもしそうな勢いで。
「とっておきの紅茶を淹れますわ。新茶の季節ですから、いいものを頂きましたの」
「まあ湾内さんたら、今からカフェインをとってどうするおつもりなのかしら」
二人とも、光子の言葉なんて聞いちゃいなかった。優しく、しかし強引に光子の手をとって、二人は光子を自室に連行した。


「どうぞ婚后さん、お入りになって」
「え、ええ。それじゃお邪魔しますわ」
勧められると断れず、光子は二人の部屋に入った。失礼にならない程度に見渡すと、光子とはまた違う、二人の趣味の反映された部屋作りとなっていた。水生生物のモチーフや、青を基調とした物の配置なのは、やっぱり二人が水泳部員だからだろうか。
「落ち着いた感じの部屋ですわね」
「ありがとうございます。でも、こないだ掃除をしたばかりですからこうですけれど、普段はもっとひどいですわ」
「さ、婚后さんはこちらのソファへどうぞ。すぐにお茶を淹れますわ」
さっと湾内が電機ケトルを給電スタンドから外し、水を汲んで沸かし始めた。
裏では泡浮がカップやソーサーと茶葉の入った缶を取り出して準備を進めている。
何気なく銘柄を眺めると、ダージリンの夏摘み(セカンドフラッシュ)だった。さっき言っていた通り、ほぼ摘みたて縒りたての新茶だろう。
紅茶のたしなみのある光子にとって、もちろん新茶のダージリンは楽しみな一杯だ。しかし、さっき泡浮が指摘したとおり、ダージリンはどれも発酵度が低く、カフェイン含有量は緑茶並みだろう。こちらを寝かせないという下心があるんじゃないかと、つい疑ってしまう光子だった。
「もう少々お待ちになって、婚后さん」
「蒸らし時間が結構長めですの、これ」
そう言いながらクッキーをさらに広げ、テーブルの中心にそっと置く。
しっかりそろったティーセットを前に、簡単には離してもらえない感じの空気が漂っていた。
「あの、あまりお二人のお時間をとってはご迷惑じゃ……」
「そんなことありませんわ!」
「むしろ頼ってくださって嬉しいくらいですのに」
とんでもない、という風に言ってくれる二人の好意が嬉しい。
……そう思った光子だったが、その思いは次の言葉を聞くまでしか続かなかった。
「それに、婚后さんとその殿方のお話、あのままじゃ気になって気になって」
「ですわよね!」
「べ、別にさっきお話しした以上のことなんてありませんわ」
「そんなはずありませんわ。だって私たち、どんな出会いだったのかちっとも光景を思い浮かべられませんもの」
ねえ、といった感じで二人は顔を見合わせ頷き合い、同時に光子に向かって微笑みかけた。
いつもどおりのおっとりした、優しい笑みのはずなのに、なぜか威圧感があった。
「そろそろですわね。お茶、入りましたわ」
湾内が、お湯で温めておいたカップとソーサーに茶濾しを掛け、静かにポットから紅茶を注いだ。
真っ白なボーンチャイナに薄い緑で模様が描かれたカップに、淡い琥珀色の水色がよく映える。
「さ、入りましたわ」
「婚后さん、どうぞ召し上がって」
「ありがとうございますわ」
準備を終えた二人もソファに腰掛け、三人でカップとソーサーを手にした。
常盤台の生徒の当然のたしなみとして、三人とも音を立てずに口をつけ、そっと紅茶の香りで口の中を満たした。
「ああ、いい香り」
思わず光子はそう呟いた。しっかりと葉が色づくまで発酵させるウヴァやアッサムと違って、ダージリンは若々しい香りがする。
上等のお茶というのはどんな銘柄でもたいていは果実めいた甘い香りがするものだが、やっぱりダージリンと言えば。
「新緑の葉っぱの香りの後ろに、マスカットの香りがちゃんとしますわね」
ふう、と満足げについた光子の溜息を見て、二人は嬉しそうに頷いた。
「今日はちゃんと淹れられたみたいでよかったですわ。実はマスカテルフレーバーがちゃんと出ないこと、時々ありますの。自分で見つけた一番いい蒸らし時間で毎回淹れているはずなんですけれど」
「匂いは形のあるものではありませんし、捕まえるのは難しいですものね。あまり気にしないほうがいいと思いますわ。何も果実香だけがダージリンの良さではありませんし。あ、でもお茶の香りを引き出すいい方法がありますのよ」
「どんな方法ですの?」
「こうしますの。お二人も試してみて」
光子は小さなクッキーを一つつまみ、口に放り込んだ。二人もそれに倣う。
次はどうすればと目で問う二人に、クッキーの味と香りをしっかり楽しんでから、光子はお茶にそっと口をつけた。
二人もそれに追従し、お茶を飲んで軽く目を見開いた。
「ね?」
「あら」
「確かに……」
「甘味の余韻が残った所で飲むと、お茶の香りのうち、甘いものが引き立ちますの」
「本当、これならマスカットみたいな香りだってちゃんとわかりますわ。お茶とクッキーなんて、よく食べている組み合わせのはずでしたのに、初めて知りましたわ」
「あら泡浮さん、クッキーをよくお食べになるの? 運動部ですから問題ないのかしら」
「それは聞いてはいけないことですわ、婚后さん」
そう言って、三人はほっと一息ついてしまった。
そしてようやく、ここに三人で集まった用事を思い出す。
「それで、婚后さんはどのような服をお買い求めに?」
「学舎の園の中だと店が小さくて品ぞろえがよくありませんし、ある程度は方向性を決めて、買いに出かけませんと」
「え、ええ。それがいいとは私も思うんですけれど……」
その方向性、というのがよくわからないのだ。
手持ちの服から選ぶなら、ワンピースあたりだろう。和装が決定的に合わないことくらいは光子にだってわかる。
だけど、ワンピースを着て行って、当麻に変に思われないだろうか。
また、ものをわかっていない、場違いな女だと思われたりしないだろうか。
「ヒールが高いのはよくないですよね。歩くと疲れますし」
「そう、ですわね」
「スカートとパンツだったらどちらがよろしいでしょう?」
そう尋ねた湾内に光子が答えるより先に、泡浮が言葉を継いでいく。
「婚后さんはとても恰好のいいスタイルをされていますから、サンダルと細めのデニムでどうかしら」
「泡浮さん。婚后さんはデートをされるのですから、恰好のいいファッションじゃなくて、可愛いほうがいいに決まっていますわ」
「ああ、そうでしたわ。なら、スカートのほうがいいのかしら」
その後もああでもないこうでもないと、二人は提案してくれたのだが、どうにもピンと来なかった。
「ごめんなさい、優柔不断でなかなか決められなくて」
「いえ、こちらこそちょっとはしゃぎすぎでしたわ。やっぱり実物を見ないとわかりませんし、土曜日は駅前まで出て、セブンスミストで買い物するのが一番ですわね」
そう泡浮が提案してくれた。セブンスミストは光子とて名前くらいは知っている、衣料をメインに扱うショップだ。
若者向けのカジュアルな服を多く取り扱っていると聞くし、たぶん光子の目的にも合致しているだろう。
「やっぱりそれがいいのでしょうね。……でも、私がもっとちゃんとしないと駄目ですわね」
自嘲するように、光子は笑った。
「え?」
「婚后さん?」
「どんな服を着ていくのかって、どんな心づもりであの方が約束をされたのかと、切り離せないでしょう。でも、私は、それがわかっていないんですわ」
ついこないだ再び会ったことで、当麻にお礼を言うという光子の目的は果たされている。日曜日に会うのは当麻のほうから誘いがあったからだ。それは、どういう意図を持った提案だったのだろう。
「お世話になった方とまたお会いするわけですから、失礼にならない服で、でもカジュアルなものを選ぶのがいい……そうでは、ありませんの」
誰というより、自分にそう光子は問いかけた。だがその独り言に、隣の二人は首をかしげる。
「でも、デートなんですよね? 落ち着いた服がだめってことではありませんけれど、もっと可愛らしさで服を選んだってよろしいんじゃありませんか?」
「そのほうが、お相手の殿方もきっとお喜びになるんじゃ」
「本当に、そうかしら」
「え?」
だって、当麻とは、なんでもないのだ。出会いからして色恋とは何の関係もないし、こないだだってお礼を言いに行っただけだ。
なのに、次に会う時に着飾って行って、勘違いをしていたら、どうしよう。
当麻が自分のことをなんでもない相手だと思っていて、そんな自分とただ遊ぶだけなのに、力の入ったファッションを見せてしまったら、きっと変だと思われる。
「デートなんて言葉、一度もお使いになりませんでしたから。だからこれは、そんな浮ついたものではないんですわ」
「二人っきりで遊園地で遊ぼうという提案を、デート以外の目的でされることはないと思いますけれど……」
とはいえ、ここにいる三人は、誰一人として男の子とデートをしたことがない。確証を持って、当麻の意図を判断することは誰にもできなかった。
「婚后さん」
「どうされましたの、泡浮さん」
「もし今からいうことでご気分を害されましたら、謝ります。でも、婚后さんに、聞きたくて」
「……どうぞ。なんでもお聞きになって。謝ることもありませんわ」
その前置きに、光子は少し身構えた。だけどこの二人はいたずらに人を傷つけるようなことをいうタイプではない。だから、今からいうことは踏み込んだ質問であっても、不躾なものではないだろう。
「婚后さんは、どうなさりたいんですの?」
「え?」
「当事者でもない私が言うのは、ずるいかもしれませんけれど。どんな服を着るかって、お相手の方の心づもりよりも、婚后さんが、そのお相手の方にどう思ってほしいかで決めるべきだと思います」
「私が、あの方にどう思ってほしいか」
「はい」
「そ、そんなこと……」
おかしな女だとは、思われたくない。友達の少ない、駄目な女だとは思われたくない。
婚后の本当の部分が優しかったって、そういうことだろ、と。当麻はそう言ってくれた。
それが真実であるような、そんな女でありたい。そう当麻にも思ってほしい。
そんな光子の気持ちを、端的に表すならば。
「わかりません、わかりませんわ」
頬を染めて、光子はそう繰り返す。
けれど湾内と泡浮にとって、裏腹な光子の内心は、どうしようもなくわかりやすかった。
「土曜日が楽しみですわね。婚后さん」
「いい服が見つかるといいですわね。いえ、絶対に見つけませんと」
困惑にうつむく光子の視界の外で、二人はしっかりとうなずき合った。


――――可愛い女だと、思われたい。
それが光子自身が気づいていない、偽らざる願いだった。






駅のトイレでいつも通りのツンツン頭を指で整えながら、当麻は身だしなみのチェックをする。
待ち合わせ場所まで、もう鏡はない。自分自身で鏡を持つ趣味もないので、事実上、これが最後のチャンスだ。
「鍵はある、サイフもある、ケータイもある。財布の中身も……これなら大丈夫だろ。ポケットに縫い目のほつれはないし、鞄も壊れてない。ハンカチとタオルとティッシュもオッケー、と」
不幸に見舞われる確率がどう考えても他人より高いという自覚がある当麻にとって、身の回りのチェックには、単に忘れ物の確認だけでなく、持ってきたものが壊れたりしないことの確認までが含まれる。あんなにも可愛い女の子と二人っきりで遊ぶ約束を取り付けるという出来事を前に、つまらない不幸を自分で呼び寄せるような真似だけは絶対にしたくなかった。
「待ち合わせ20分前、と。まあ、そろそろいい時間だよな」
こういう時、男は待たされるべきだ。時間に正確そうな光子のことだから、5分前に行ったのでは待たせることになるだろう。
「……行くか」
鏡の前の自分をじっと見据え、決意を固めて当麻は歩き出した。
待ち合わせ場所は、自分が今いる所から少し離れた噴水の前だった。
おそらくは自分たちと同じように遊園地でデートをするために集まったカップルが、あちこちに見られることだろう。
信じられないことに、今日の自分はそれを僻んだ目で見る必要がない。生まれて約16年目の、初めての奇跡だった。


「ちょっと早かったかしら……」
光子は初めて降りる駅であたりを見回し、駅前広場の中央に置かれた時計で時間を確認した。
乗り過ごしなどがあってもリカバーできるようにと早めに出た結果、約束の時間まで余裕を残した状態で早々に到着してしまった。
とはいえ、時間をどこかでつぶすほどの残り具合でもない。待ち合わせ場所の噴水近くの日陰で当麻を待つことにした。
まだ20分も前だから、当麻はいないだろう。そんな風に考えて、光子はすぐ傍に置かれた地図を確認した。
待ち合わせ場所は遊園地に一番近い出口のすぐ目の前にある。周りもほとんどは遊園地へ行く客のようで、その流れに身を任せていると、すぐに待ち合わせ場所へとたどり着いた。
「上条さんは、さすがにまだよね」
当麻はどれくらい早くに来る人だろう。少なくとも時間ちょうどまでは責める謂れはないし、数分くらいの遅刻なら、別に自分としても怒る理由はない。
光子の読みでは、あと10分くらいじゃないかと思う。それまでに、しっかりと心を落ち着かせないといけない。
ふう、と光子は深呼吸をした。噴水は屋根付きドームの下にあるから直接の日差しはないが、冷房の効いている駅舎中心から離れ、空気は夏らしくぬるんでいた。
取り出した大ぶりのハンカチで、トントンと首筋に浮いた汗を拭きとる。そして服に乱れがないか、ショーウインドウに映った自分の姿を最終確認する。
たぶん、おかしなところはない、と思う。
問題なのはきっと自分自身だ。変な子だって、思われないようにしないといけない。
「とりあえずは、もうちょっと落ち着きませんと――――」
そうウインドウの向こうの言い聞かせながら、光子は完全に油断していた。
「婚后」
「えっ?!」
不意打ちだった。当麻とは別の人である可能性を一瞬考えたが、声が間違いなく当麻のものだった。
慌てて振り向くと、まだ見慣れたというほどではないけれど、見知った高校生の顔。
よく知る制服姿とは違うものの、服装は大きくかけ離れてもいない。ちょっとデザインの凝ったTシャツに、ジーンズという出で立ちだった。
「かか、上条さん。ごきげんよう」
「おう。なんかお互い結構早めに来たみたいだな。まだ20分前だし」
「え、ええ」
次の言葉が、出てこない。もう少しちゃんとした応対をするためにあれこれシミュレートしていたはずなのに、それは全部無駄だった。
「えと、約束の時間までここにいても仕方ないし、早速もう行くか?」
「あ、はい」
なんてぎごちないんだろう。光子は、内心でそう呟かざるを得なかった。
悪いのはもちろん自分だ。ええだのはいだの、そんな答えしか返せないこちらをエスコートするのは、当麻だって大変だろう。
もっと、気の利いたことを言えばよかったのに。お誘いくださってありがとうございます、くらいなら、パーティの席で何度も言ったことがあるはずなのに。
「……」
どうしていいかわからずにうつむいた光子に、当麻が申し訳なさそうな顔をした。
「その、悪いな。変に緊張させちまってるみたいでさ」
「え?」
「こんなこといきなりバラしちまうのもどうかと思うけど、慣れてないんだ。こういうの」
「……あの、こういうのって」
「女の子と一緒に二人で歩くのがだよ」
「そう、なんですの?」
意外、というかそんなことはないだろうと勝手に光子は思っていた。
だって、こないだまで、あんなに何度も自分を連れまわしてからかっていたのだ。きっと学校にいる女友達ともあんな風に接しているのだろうと考えていたのに。
……そんなことを考えて、少し、胸が痛んだ。
「遊園地なんてなおさらだな。それに、婚后の今日の服が、さ。ほら、いつもの制服とは違うだろ?」
チラリと当麻は一瞥しただけで、光子の装いからさっと視線を外した。そんな反応に、つい不安になる。
おかしくはないだろうか。当麻自身の服装と釣り合わなくて、変だと思われていないだろうか。
光子が選んだのは、結局ワンピースだった。ただ元から持っていたものではなくて、つい昨日、泡浮や湾内と一緒に買ったものだ。
三人でどんな色がいいだとか、スカートの長さはどれくらいにすべきだか、そんなことを服を何着も手に取りながらあれこれ話し合った結果、光子が納得して決めたものだ。
色の薄い、パステル調の青と、体のラインをすっきりさせるために白い帯状のアクセントがあちこちに配されている。
日差しが強いだろうから袖付きの肩が露出しないものを選んだ。そのかわり、スカートが短い。常盤台の制服と同じくらいだった。
「……おかしい、でしょうか」
「え? い、いやいや! 逆だって」
「逆、ですの」
当麻がもう一度、光子を見た。だがやっぱり視線が光子に向けられる時間は、短い。
その理由が、当麻が照れているからなのだとは、想像が及んでいない光子だった。
だから、ぽつりとこぼれた本音に、光子は本気で驚くことしかできなかった。


「その……めちゃくちゃ可愛くて、びっくりした」
「……っっっっっ!!!!!」


顔が熱い。言葉が出ない。夏の日差しのせいじゃないのは、言うまでもなかった。
「わ、悪い。気の利いた事とか言えなくてさ」
「……」
「お世辞とかじゃないん、だけど、こんなこと言われて嫌だったら、ごめん」
「……しく、ありません?」
「え?」
「おかしいとか、変だって思ったりは、してらっしゃいませんのね?」
上目づかいで見上げる光子の瞳に、当麻は再びクラリとなりそうになった。
楚々とした色のワンピースと、色を合わせた帽子。綺麗なコントラストを見せるまっすぐ長い黒髪。
これで変だなんて注文を付けるヤツがもしいるんなら、光子のためにソイツと戦える自信が当麻にはある。
「そんなこと、あるわけないって。俺に褒められても嬉しくないだろうけど、よく似合ってると思う」
「本当ですの?」
「当たり前だろ」
ちょっとぶっきらぼうな、当麻の態度。それがなんだか正直さの現れな気がして、光子はほっとした。
そして同時に、当麻の言葉と正反対に、嬉しさがどんどんとこみあげてくる。
俺に褒められても嬉しくない、なんて、どうしてそんな風に考えるのだろう。
「良かった。上条さんに気に入っていただけて」
「う……」
経験値が浅いのは当麻も同じ。今度は、そんな光子の柔らかい笑みに、当麻がやられる番だった。
「じゃ、じゃあここにいても時間が勿体ないし、そろそろ行くか」
「はい」
その言葉に素直に従い、光子は当麻の隣に並んで歩きだした。
当麻が光子の空いた手に目をやったのには、気が付かなかった。


入場者の集中を避けるため、入り口で5分ほど並ばされた後、二人は無事に園内へと入ることができた。
真っ青な蒼天というにはやや雲が多いが、外で遊ぶにはむしろもってこいの天気だ。
だが、光子は周りの状況に少し圧倒されていた。
「婚后。どうかしたか?」
「……あの、こんなに人がいるものですの?」
「え?」
開けた視界が、人で埋め尽くされている。アトラクションの入り口らしき場所には、必ず待機する人の列があるようだった。
お世辞にも快適とは言えないが、それでも当麻からしてみれば、ごく普通の混雑具合だった。
夏休み中みたいに、破滅的な混雑具合というわけでもない。アトラクションは予約も可能だから、炎天下で待つ時間は一番人気のアトラクションでも15分程度だろう。
問題になるほどの込み具合ではない、というのが当麻の感想だった。
「空いてはいないけど、ひどいってほどでもないだろ?」
「こ、これでそんなものですの?」
「婚后、もしかして遊園地とかって初めてか?」
「そんなことありません! でも、以前通っていた学校の遠足でこういったところに訪れたんですけれど、その時は貸切でしたから」
「貸切、ね」
それが一学年、多く見積もったとして300人規模の団体だったとしても、貸切なら遊園地はガラガラだろう。代わりにどれほどのお金がかかっているのか、想像もつかない。
当麻は頭を振ってそんな野暮な見積もりを頭の外に追いやった。
「で、婚后はどういうのが好みだ? いきなりジェットコースターから攻めるとか?」
そう尋ねられて、光子は答えに窮した。
「いえ……。あまり何度も来たことがあるわけではありませんので、普段はこうするというパターンみたいなのはありませんわ。上条さんは初めにジェットコースターにお乗りになりますの?」
お任せします、と言ってしまうのは簡単なのだが、丸投げするときっと当麻を苦労させるだろう。
パーティに参加した時みたいに完全にお姫様を決め込むことも光子にはあるのだが、今日はそれはしたくなかった。
だって当麻の言葉で、自分は変われたのだ。相手に楽しませてもらい、それを当然のことかのように振る舞っていた以前の自分から。
とはいっても、当麻をリードするような積極性を発揮したいのとは違う。二人で相談して二人で決めたい、というのが率直な思いだった。
「俺も別に決まったルートはないな。って言っても、いきなりゲーセンとかお化け屋敷とか、他に占い系とかに行くってのは違う気がするんだよな。はじめのうちは乗り物系、観覧車以外のヤツってところか」
その当麻の意見は、光子にとっても納得のいくものだった。やっぱりこういう場所ははしゃぎに来ているのだし、大きく、あるいは速く動くアトラクションに乗りたい。
「私もそれがいいと思いますわ。確か、乗り物のアトラクションはあちらに集中しているんでしたわね」
「だな。よし、じゃあまずそっち行くか!」
「はい」
小ぶりのバッグを小脇に抱え直し、光子は当麻の隣に並んだ。
開園からそう時間が経っているわけでもないのだが、早くも向こうでは楽しげな悲鳴が響き渡っていた。
「メリーゴーランドは乗る派?」
「えっ?」
当麻が光子をからかうような顔をしていた。さすがに中学生にもなれば、あんな子供っぽい物に臆面もなく乗れるわけがない。
「婚后はこういうの、好きなんじゃないかって思ったんだけど」
「べ、別にそんなこと。だっていくら上条さんより年下と言っても、もう中学生ですのよ?」
「年の問題じゃなくてさ、婚后ってこういうお姫様的なヤツ、好きそうだなって」
「……昔は、乗ったりもしましたけど」
別に、それくらいは普通だと思う。有名な名前のアトラクションなのだから普通に好きな人は多いはずだし、自分が好きでおかしいことなんてないはずだ。
だけど面白くない。当麻の顔が、光子のことをただ綺麗な世界だけを信じている何も知らないお嬢様みたいに揶揄しているように感じられた。
今日は、そんな女だと思われたくないのだ。
「上条さんこそお乗りになったら? お好きなんでしたら」
「へ? いや、これはさすがになぁ。たぶん乗ったこともないし」
嫌味を言ったつもりが、冗談に受け取られたらしい。光子の不機嫌に気づいてないらしい、平然とした態度の当麻だった。
「ま、これは今日はパスだな。それより一発目はこれでどうだ? 涼しそうだし」
当麻が指差した先のアトラクションは、いわゆるウォーターライド系の、水路をコースターに乗って進むタイプのものだ。
「結構、最後は激しいんですのね」
光子の視線の先では、最後の部分で勢いよく水をまき散らしながらコースターが滝を模した急な坂を滑り落ちるところだった。
そりゃあ、涼しいだろう。これだけ水がしぶきをあげるなら。。
「濡れてしまいそうですけれど……。上条さんはこういうのがお好きですの?」
「そうだな。学園都市のジェットコースターってさ、どいつもとんがった仕様のばっかだろ? 疲れるから、実はこれくらいのほうが性に合ってる。ほら、近いし今なら空いてるみたいだしさ、この辺から攻めてこうぜ」
もう一度、目の前のアトラクションを眺める。Tシャツ姿の当麻と違い、光子には不安もあるのだが。
そういう思いは表情には出ていたはずなのだが、当麻には伝わらなかったらしい。
「メリーゴーランドよりは、こっちのほうがいいだろ?」
また、当麻がからかうように笑って、そんな風に蒸し返した。
どうしてわかってくれないのだろう。当麻と一緒にいるのは嬉しいけれど、当麻にそんなことを言われるのは嬉しくないのだと。
そんな不満が、つい、反射的に口からついて出た。
「……もし上条さんがお好きなんでしたら、どうぞお乗りになって。私はここでお待ちしていますわ」
「え?」
当麻が、返す言葉に躓いた。目的地であったはずの入場口を前にして、二人の足が止まる。
「……」
「……」
訪れた一瞬の沈黙が、光子に反省を促した。
今自分が口にしたのは、相手の好みを尊重するような表現を使って、婉曲に自分の不愉快を伝える、そういう言葉だった。
他人に自分の心の内を察してもらうのが当然と言わんばかりの、相手任せの行動を改めるべきだと、他でもない当麻に教えてもらったはずなのに。
そのアドバイスに感謝しているから、ここにいるはずなのに。
「ごめんな、婚后」
「えっ?」
ごめんなさいと、光子の側から言おうとした時だった。当麻が目を伏せて頭を軽く下げた。
「服のこと、全然気づいてなくてさ。俺と違って濡れちまうとまずいよな、そんな綺麗なワンピース」
「い、いえ。私のほうこそあんな言い方をしてしまって」
そう言いかけた光子を遮り、背後のメリーゴーランドに軽く目をやりながら当麻が言葉を続けた。
「それにさ、さっきの件も婚后を嫌な気持ちにさせただろ」
「そんな」
「こないだ婚后に偉そうなこと言った時の話を蒸し返すみたいだったよな。ちょっと、からかってみたいって感じのつもりだったんだけど、悪かったなって」
「……」
「だから、ごめん」
光子は、とっさに答えを返せなかった。当麻の謝り方が自然で、まるでお手本みたいだと思ったからだった。
こないだ湾内と泡浮にしてしまったような、相手を戸惑わせるような重い謝罪じゃないけれど、いい加減なのとは違う。ちゃんと当麻の気持ちが伝わってきた。
別に、当麻にとってみれば、何気ないことだったのだが。
「上条さん。どうぞお謝りにならないで。私のほうこそ相手に斟酌を押し付けるような態度でしたもの。こういうのが良くないって、上条さんに仰っていただいたのに」
そんな風に返して、当麻と見つめ合った。互いに変な顔をして、笑いあう。だって、遊園地でこんな真面目な話をするなんて場違いもいいところだ。
「じゃあ、許してくれるか、婚后」
「上条さんこそ」
「俺は婚后に文句なんてないよ」
二人で、今度こそ朗らかに笑いあった。気づかず肩に入っていた力を二人とも緩めた。
「じゃあ私も文句ありません。せっかくですもの、ちゃんと楽しみませんとね」
「だな。さて、それじゃあさ、このアトラクションの件なんだけど」
「はい」
当麻が再びウォーターライドを指さした。どうするのだろう、と光子はいぶかしむ。
水で濡れると困るのは間違いないのだ。生地からしてどう考えても服が透けてしまう。
「これ、ちゃんと跳ねた水の対策がしてあるから、ボートの先頭にさえ乗らなきゃ大丈夫になってるんだ。別にこれに乗らなかったからってここにはまだいっぱい遊べるトコはあるんだけど、逃すと俺は悔しい。だからさ」
照れ臭そうに、当麻が笑った。
「一緒に乗らないか、婚后。濡れないように俺もカバーするし。やっぱさ、二人で来たんだから、俺は婚后と一緒に楽しみたい」
そんな当麻の態度に乗せられて、光子の内心で「少しくらいなら濡れてもいいか」なんて思い始めていた。
現金なものだとは思うけれど、そんな風に言ってもらって、嬉しくないわけがないのだ。
「上条さんと遊ぶために来たんですもの。私を腹をくくりますわ、どうぞどこへでもお連れになって」
なんて、調子のいいことをつい言ってしまう光子だった。
二人の背後で、再び歓声と水しぶきが舞う。
日光を乱反射してキラキラと輝くその光景が、さっきとは全く違って見えた。



[19764] prologue 05: 好きな人がいるのなら
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2013/10/12 23:52
「ほら、婚后は前な。シート濡れてないか」
「大丈夫みたいですわ」
水に浮かんだ不安定なボートへと、光子は慎重に身を乗り出す。当麻に誘われて、結局乗ることになったウォーターライドだった。
座席に腰を降ろしてみると胸元までボートの中に隠れ、確かに濡れにくそうではあった。座席のふちには水除けのビニールシートもある。
面白いのは、当麻がいるのが隣ではないことだった。
「シートの取っ手、こっちによこしてくれ」
「はい。お願いしますわね」
もう出発まで時間がない。当麻に水除けシートの取り回しを任せ、光子は前を向いた。
二人の位置関係に、光子は結構ドキドキしていた。
もちろん隣りあわせでも、同じ思いをするのだろうけれど、それとはちょっと違う。
当麻は、光子のすぐ後ろの席に座っていた。カップルや、親子連れごとの席なのだろう、大きなボートは、二名か三名ずつで縦に連なって並ぶ間仕切りになってるのだった。
だから、当麻の声がすぐ頭の後ろから聞こえてくる。シートをつかむ当麻の手が、時折光子の二の腕に触れる。
抱きしめられているような、とまではいかないけれど。決して無視できない距離だった。
「よし、そろそろだな」
「ええ」
少しうるさいベルの音の後に、二人を乗せたボートは進み始めた。お決まりの上り坂で位置エネルギーを蓄え、やがて滑らかにコースを下り始める。
洞窟を模した暗いトンネルへと潜りこみ、ボートが右へ左へと危うげに揺れる。それに合わせて、水しぶきが跳ね上がるのを光子は頬や腕で感じた。
「濡れてないか?」
「えっ?! ええ。大丈夫です」
当麻がそんな風に尋ねてくれた。その声は、光子の耳の、ほんの数十センチ後ろから聞こえてくる。
水なんかより、そちらのほうが光子をドキリとさせる。当麻との距離が近すぎるのだ。それが光子の、率直な思いだった。
早鐘を打つ心臓が妙に気になって、光子はアトラクションに集中できなかった。
自分が、その距離を不快には感じていないということには、無自覚だった。
「お、そろそろだな」
「そうですわね」
どれくらいの時間だったかはわからないが、体感的にはあっという間に、ボートはゴール前にたどり着く。
もちろん降りる前には、さっき外から眺めたクライマックスが控えている。
「大丈夫とは思うけど、一応な」
「あ……」
当麻が、光子の肩から下をガードするように、しっかりとビニールシートを引き上げた。
「か、上条さんも、ちゃんとシートをかぶってらっしゃいますの?」
「大丈夫だよ」
むき出しの当麻の腕が、光子の視界にはっきりと映っていた。それを見て、光子はきゅっと胸が締め付けられるような気持になった。
紳士らしく振舞って、当麻は不躾に光子の体は触れたりはしてない。
だけど、当麻の腕は光子の肩を通り越し、体の前にまで回されていて、光子は当麻に抱きしめられているようだった。
その事実に戸惑い、周りのことを忘れかけた一瞬後。
勢いをつけてボートは滝を下り、浅く水が張られた地上へと突っ込んだ。

「きゃっ!」
「おー!」

巻き上げられた水のカーテンが視界を遮り、すぐさま水滴へと形を変えていく。
大きな粒はどれもあらぬ方向へと飛んでいき、光子にかかることなく水面へと戻っていった。
おそらくは、そういう水の動きをちゃんと計算して作ってあるのだろう。
私たちのほうにかかるのは、終末沈降速度が十分遅くなるような微細な液滴だけなのね、と光子はひとり納得した。
「な、大丈夫だったろ?」
「はい。それに、近くで見ると綺麗ですわ」
宙に残る小さな液滴で乱反射した光が、あたりをきらきらと彩っていた。
当麻がシートをどかすと、水滴を含んだ空気が、気化で光子の腕の熱を奪っていく。
「やっぱこの涼しさがいいよなー。婚后、どうだった?」
屈託なく笑いながら、当麻がそう尋ねる。はじめは渋った光子だったけれど、今は当麻と同じ気持ちだった。
「楽しかったですわ。乗る前にしていたの、余計な心配でしたわね」
「でも俺も言われるまで、心配しなきゃいけないかもなんて全然考えてなかったからな。ほら、婚后。つかまって」
「あ、はい」
いつしかゴールに戻っていたボートから当麻がさっと身を乗り出し、乗り場へと戻って光子に手を出した。
光子は自然とその手を握り、当麻に引っ張ってもらった。
「ありがとうございます」
「おう」
つないでおく理由がなくて、二人はすぐ手を放した。手に残る感触に、光子はくすぐったいような気持になった。
男性にこんな風にエスコートしてもらうというのは、洋式のパーティなどでは普通のことだ。
でも、そういう場所での振る舞いは、型として決められた儀礼的なものだ。当麻の手は、そういうのとは違う感じがした。
一方当麻は当麻で、成り行きでこんなにも簡単に、柔らかい女の子の手に触れてしまったせいでドギマギしているのだった。
「で、さ。次はどうする? 婚后がこういうアトラクションで疲れてないみたいだったら、しばらく派手な乗り物を続けてみようと思うんだけど」
「賛成ですわ。以前来た時に思ったんですけれど、私、そういうアトラクションが結構好きなほうみたいですの」
「お、気が合うな。つっても学園都市でも一番ヤバいジェットコースターとかは正直疲れる気はするけど」
「私はそういうのにも挑戦してみたいですわね」
光子が自信満々にそう言うのに苦笑しつつ、当麻はあたりを見渡した。
近い順に当たっていくのが、手っ取り早くはある。となると――――
「上条さん。次はあれは如何?」
光子が素早く次を見つけて、さっと手で示した。
その先には、自分たちのいたウォーターライドよりずっと高くまで聳え立った塔。
言わずもがな、落下体験を楽しむ、いわゆるフリーフォールだった。
「攻めるなあ、婚后。いいぜ、あれにするか」
こちらのアトラクションとは比べ物にならない、本物の絶叫が響き渡ってくる。
自由落下の浮遊感は、それが醍醐味とはいえ、恐怖感と切り離せるものではない。
そう思って顔を引き締めた当麻の横で、光子がつぶやいた。
「能力を使えない状態で強制的に落ちるのって、どんな感じなのかしら」
それは自力で学校の屋上からなら飛び降りたことのあるレベル4の大能力者の、平凡な意見だった。




その後二人は、予定通り尖塔の先から垂直落下することとなり、けろりとした光子がこわばった当麻の顔をくすりと笑う幕引きとなった。
続けてもう一つ回転系のアトラクションを回って、頃合いとなったのを見計らって当麻が光子を昼食に誘った。
両者ともに、対面で食事をするなんてもっと緊張するかと思っていたのだが、意外とそんなことはなくて、二人で地図を眺めてああだこうだと目的地を決めながら、少し安っぽいレストランの味を楽しんだ。
そんな感覚を、どこか不思議な気持ちで光子は振り返っていた。だって、異性と二人っきりで、しかも慣れない遊園地という場所にいるはずなのだ。
だから、わずかに体に残る緊張は、自分が持っていて当然の感覚だ。
そして胸が高鳴るようなドキドキとした感覚もおかしくはないだろう。女友達と遊んでいるわけではないのだから。
でも、この落ち着くような、そばに当麻がいることがとてもいいことのように思えるこの感覚は、何と言ったらいいのだろう。
午後を過ぎて、二人でアトラクションめぐりをしながら、光子は心の片隅で自分の気持ちに戸惑いを覚えていた。




乗り終えたアトラクションの出口を二人で抜けて、感想を述べ合う。
「二回目だから退屈かと思ったけどやっぱ下る瞬間は来た来たっ、ってなるよな」
「その感覚、わかりますわ。……それにしても下に戻ってくると暑いですわね」
「だな。連続で乗せてくれるんならずっとジェットコースターの上でもいいな」
「かなわぬ願いですけれど」
二人して、二度目のジェットコースターを降りてそう言い合う。
地に足のつかないタイプのジェットコースターで、ぐるんと宙を一回りする時の回転軸がスリリングで気に入ったのだった。
満足した顔で、すぐ隣の入口に目をやれば、そこそこの人だかりがいる。もう一度乗ろうとしてもおそらくは二週か三週ぶんは待たされるだろう。
もう一度乗るのは望むところだが、待たされるのはさすがに御免だった。なにせ、今は日中でも一番温度が上がる時間帯だ。
「そろそろ休憩するか。乗り物系はだいたい乗ったし」
「そうですわね。どこに行くにせよ、涼しい所がいいですわ」
どう繕ったところで真夏の暑いこの時期のこと、光子の頬にもいくつか玉の汗が浮いていた。
「近場で言えば……あれだな」
「ゲームアーケード、ですの?」
光子は中にあるものが想像できず、つい首をかしげた。
「行ったことないのか?」
「ええ、そういえば小さい頃に行った所には、なかったような気がしますわ」
「そっか。まあ、要はゲーセンだからな。別にお金がかかるから、遠足じゃ行かせないだろうし」
「そういうものですの」
「たぶん涼しいし、休憩ついでにここ行ってみるか」
「はい」
目と鼻の先にあったアーケードに足を延ばし、二人で滑り込む。予想通りの涼しい空気が肌に心地よかった。
フードコートと併設されているおかげで、ベンチもたくさん並んでいるし、しばらくはここで過ごすのも悪くなさそうだった。
「ゲームアーケードというのは、こういう小さなゲームが並べられた場所のことですのね」
「そういうこと。景品が当たるようなのも多くて楽しいんだけどさ、俺ゲームでもとことんツイてないからなあ」
バスケットボールのフリースローのような、実力を率直に反映するゲームは実力なりの成果が出るが、ちょっとでも運が絡む要素があると、まず当麻のもとにラッキーは舞い込まない。それがわかっているから、そういうゲームにはめったに手を出さないのだ。
「……まあ、上条さんがアンラッキーな体験に恵まれた方だというのは、今日を見て感じましたけれど」
見つめる先の当麻のTシャツは、朝とは色が違っていた。昼間に他の客からソフトクリームをぶつけられ、泣く泣く現地の高いTシャツを買って着替えたのだった。
当麻は午前だけで、そんな不幸を一つと、あわやというところで難を逃れたヒヤリハットの類がいくつか体験済みだった。
そんな頻度の高さを見ていれば、「不幸だー」などと嘆く当麻の言葉の意味を、光子もわからないでもなかった。
「では、あちらにあるみたいな占いとかは、まったくされませんの?」
「友達と初詣に行っておみくじ引いたりは普通にあるよ。大吉だって引いたこと何回かある」
「あら、それは幸運なんじゃ」
「引いて、五分後に車が撥ねた泥水を被ったこともある」
「……それは」
なんというか、不幸が増したような。ぎごちない笑みしか返せない光子だった。
「ま、良くも悪くも慣れてるってのも事実だな。できれば認めたくない事実だけど」
「どうしてそういう人がいるのかって、やっぱり不思議ですわね。不思議なことでもないとは思うんですけれど」
「え?」
当麻には光子の言いたいことが伝わっていないらしかった。それを見て、光子は言葉を重ねる。
「幸運な出来事も不運な出来事も、どちらも偶然に人に訪れるものだとすれば、統計的に言って、とことん幸運な人や不幸な人って、ある一定数はいて当然なわけでしょう? 多くの人は幸運と不運が足してプラスマイナスゼロに近くなるような人生を歩むのでしょうけれど、サイコロで1の目を引き続ける不幸な人だって、いて当然ですわよね」
「お、おう。まあ、そういうモンかもしれないけど」
「そして、そういうアンラッキーな人がたまたま私の隣にいらっしゃることだって、それは偶然以上の何物でもないはずなんですけれど、なぜか人は理由を求めてしまいますのよね。私も、つい疑問に思ってしまいましたの。そんなにアンラッキーが重なる人がどうしているんだろう、って。統計的にはナンセンスな質問のはずなんですけれど」
そう自分では言いながら、光子は少し思案した。当麻が他人より偏って不幸に恵まれていることは、はたして確率的に充分期待できるような偏りだろうか。
サイコロを百回転がして百回連続で1の目を当ててしまう不幸は、10のマイナス78乗オーダーの低確率だ。つまり地球の全人口を100億人と近似して、その人たち全員が一人100億回ずつこの遊びをやったって、まず誰一人として引き当てられないような事象と言える。当麻の不幸からの愛され具合は、百回サイコロの目で1を引き当てる不幸と比べても、さらになお、ありえないものじゃないだろうか。
わざわざ当麻にそんなことを伝えはしなかったけれど、光子が小難しいことを考えて当麻の不幸を合理化しようとしているのは当麻にもなんとなくわかった。
当麻としては、ひきつり気味の苦笑いで答えるほかない。当事者だからか、あるいは光子ほど統計の信奉者ではないからか、当麻は光子の感想を共有することはできなかった。
「まあ、ひどい目に合ってるのが偶然なのか意味があるのかって、本人にしてみればどうでもいいけどさ」
意味があろうとなかろうと、ソフトクリームがTシャツにべったりなんてのは全く嬉しくない点では変わらないのだから。
そう告げて、光子の意識を現実世界に引き寄せる。
「それに今日は全然落ち込んでないけどな」
「え?」
光子が、首をかしげた。
「だってそうだろ、婚后とこんなに楽しくあっちこっち行ってるんだ、少しくらいのアクシデントで気分が下がったりなんてしないって」
「……ふふ。嬉しい」
光子も同じ気持ちだった。目上の、それも異性と一緒に歩くのだから気疲れするだろうと思っていたのに、そんな感じじゃないのだ。
隣にいて、嫌じゃない感じ。たぶん当麻も、そんな風に感じていてくれる気がしていた。
「なあ、婚后」
「はい」
「写真、撮らないか」
わずかに緊張を声ににじませて、当麻が少し先を指差した。
そこに並ぶ筐体は、いずれものれんが掛かっていて、いくつかは中に人が入って遊んでいるらしかった。
「あれって……」
写真、という言葉であれがなんなのか光子は理解した。クラスメイトに、友人同士で撮影し、デコレーションをしたと思わしき写真のシールをペンケースに貼っている子がいたのを思い出す。
ここで写真を撮るということは、当麻と二人っきりでここに来たということが、事実として記録に残るということだ。
時間とともにぼやけていく思い出とは違い、いつまでも残るものが出来上がる。
そういうものを記念として残そうと当麻が思ってくれることが、嬉しかった。
「使い方、あんまり知らないんだけどさ。どうだ?」
「はい、私も、その……」
欲しい、とは恥ずかしくて言えなかった。だけど光子の表情を見て、当麻は察してくれたらしかった。
そっと肩のあたりを押すようにして、当麻は光子をのれんの奥にいざなった。
のれんで隠された入口に女性を連れ込むという行為で、当麻が別の場所のことを考えたのは、もちろん光子には伝わらなかった。
「これ、まずはお金を入れたらよろしいのね?」
「ゲーセンにあるものだし、そうだよな」
確認を光子がとると、さっと当麻が必要額を投入してしまった。
「あの……」
「いいって。あ、出てきた写真は半分ずつでいいよな? いらないって言われたら実は結構ヘコむんだけど」
「い、要ります! せっかく撮った写真なのに、手元に残らないなんて嫌ですわ」
焦って自分の発した言葉が、やけに周りに響いた。無理もない。騒音だらけだし、のれんの隙間や足元から外は見えているけれど、ここは正真正銘、当麻と二人っきりの個室なのだ。
「良かった。じゃあ、撮るか」
「はい」
写真をデコレーションするためのフレームだとか、そういった細々したものを当麻が適当に選んでいく。慣れてないし、そんなゴテゴテとした飾りが欲しいわけでもないので、オーソドックスなこの遊園地限定の設定とかいうのにして、早々に撮影モードに移った。
「そろそろ一回目」
「は、はいっ」
写真を撮られるのは五回だか六回だか、それくらいらしい。
写真写りが悪くならないように、とごく基本的な注意だけを気にしながら、当麻の横で光子はシャッターが切られるのを待った。
カウントダウンの音がやみ、人工的なぱしゃりという音がスピーカーから響く。
味気ないくらいに、操作パネルには撮影後の二人が映った。
「つぎは15秒後か。これ一時停止とかできないんだな」
「そのようですわね。せわしなくて、ちょっと慌ててしまいますわ」
「だな。……さっきのこれ、どう思う?」
次の撮影のことを考えてだろう、パネルに映った自分たちに対する感想を、当麻が尋ねてきた。
「緊張していますわね、私」
「いや、俺もだよ。表情硬いし、あとさ」
少し言いよどんで、当麻が鼻の頭を軽く掻いた。
「せっかく二人できてるのに、距離遠くないか?」
「えっ……?」
「ほら」
当麻が、光子のほうに肩を寄せた。それだけで、光子は呼吸が苦しくなる。
嫌だからではない。心臓が肺を圧迫するくらいに、激しく拍動するからだ。
うまく回っていない思考で、自分はどうするべきかと光子も考える。
だが光子が動くより先に、再び写真を撮られるほうが早かった。
「あっ」
淡々と撮影音を流す筐体の動作を、光子は呆然と見送る。
画面に出たのは、体を光子のほうに寄せた当麻と、がちがちに固まって視線すら合っていない自分の写真。
「ご、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ悪かった。変に緊張させたみたいで。やっぱりもう少し距離を」
「これで構いませんから!」
「へっ?」
「あの、上条さんはこのままで……」
光子はそう当麻に告げ、離れようとするのを留めた。
今の写真は、全く本意じゃない。楽しく遊園地で遊んだ相手との写真がこんなのだなんて、失礼だ。
もっと距離が近くたって、おかしいことはない、はずだと思う。
再び、カウントダウンが始まる。あと五秒で次の撮影だ。
腹をくくって、光子は寄せられた当麻の方に、自分の体を少しだけ預けた。
当麻が身じろぎしたのがわかる。それは、緊張のせいだろうか。
「そろそろだな」
「ええ」
当麻の体温が近くて、のぼせそうだった。
パシャリとまた音がするけれど、二人はそのまま体を離さなかった。
どうせ数十秒でまた同じ距離に戻るのだし、その時に離れた分を再び近づけるには、また勇気が必要になる。
「やっぱちょっと表情が硬いな」
「えっ? その、あの、すみません」
「……いや、自分の話だよ。婚后に言ってるわけじゃなくて」
「そ、そうでしたの。でも、私も自分でそう思っていましたから」
三枚目の写真は、距離的には仲睦まじそうな二人だった。ただ自分の表情が硬いのがよくわかる。当麻もそうかどうかは、よくわからなかった。
「次の課題は笑顔だな」
「ですわね」
「まだ終わってないけど、今日、めちゃくちゃ楽しかった」
「それは私もですわ」
その一言で、今日のこれまでを思い出す。あまりに楽しかったせいで、普段の自分とは全然違って、アトラクションに乗りながら悲鳴を上げたり大声で当麻とおしゃべりしたり、さんざん遊び倒した。
今隣にいるのは、そんな風に過ごした大切な相手だ。
そう思うと、光子の体から余計な力が抜けていった。そして自然と笑顔も戻る。
男性と接触することへの慣れない感じが減って、少しづつ触れ合う面積が増えていく。
そうやって待っていると、四枚目と五枚目はいい写真が撮れた。
「この辺は採用だな。で、次が最後」
「いい写真にしたいですわね」
「……だな」
気負いなくそういった光子に対し、当麻の返事が少し遅れた。
その含みのある態度に光子は首をかしげた。
「婚后。文句は、後で聞くからさ。嫌なら写真はプリントしないし」
「え?」
「もうちょっとくらい、近いのも撮らないか」
「あっ……」
当麻に寄せているのとは反対側の光子の肩を、当麻が抱いた。
呼吸が、止まる。
それ以上のリアクションを返さなかったからだろうか、当麻がそのまま、優しく光子の体を自分のほうへと引き寄せた。
「嫌なら、言えよ」
「……」
何かを言うことはできなかった。嫌だったからではない。それとは真逆で、こんな風にされたことをちっとも嫌だと思わなかったからだ。
自分はどうすべきだろう。光子は自問する。
当麻からのアクションに対し、受動的であるのは、嫌だった。
だから言葉じゃなくて、できる仕草で、答えを返した。
どちらかと言えば長身な光子に対し平均的な身長の当麻だから、もたれかかるとちょうど光子の頬のあたりに当麻の肩が来る。
今までは頬を寄せることはなかったそこに、まるで当麻の恋人のようにもたれかかって、カメラを見つめた。
もう表情なんて意識するだけの余裕がなくて、ただ、頬に触れる当麻の温かみを感じていた。

――そうして、最後の一枚が二人の姿を切り取った。

ほどなくして当麻の腕が外される。大義名分がなければ当麻とてなかなか続けられない行為だからだ。
だが、そこに名残惜しいものがあるのはどちらも同じだった。
「最後のは、どうかな」
映し出された写真を見て、当麻は光子がどうしても嫌だと言わない限りは、絶対に欲しいと思った。
楽しそうに微笑んでいた前の写真も悪くないけれど、最後の一枚は、一段と光子が綺麗だった。
「婚后が嫌じゃないなら」
「……嫌だなんて、言いません」
「じゃあ、これも採用な」
二人並んでカメラを見つめるのをやめて、視線を互いに向け合う。
光子の顔が上気していて、いつもより色っぽい感じがした。
「最後のが一番、可愛かった」
「っ!! そ、そんなこと。からかうのはおよしになって」
そう言って、光子は半歩だけ当麻から距離を取った。これ以上は顔が火照って死んでしまいそうだ。
「変なデコレーションとか、要らないよな。わかんないし」
「ええ、そうですわね。日付くらいなら入れてもよろしいんじゃなくて?」
「そうするか」
実際に印刷する写真をいくつか選んで、その一つに日付を入れる。
作業を済ませると、個室の外にある受け取り口から写真が出てくるようだった。
「……ふう。気づかなかったけど、中はちょっと暑かったんだな」
「そうですわね。仕方ないのでしょうけれど」
クーラーの効いた風で涼をとっていると、ほどなくして写真が筐体から吐き出された。
当麻がそれをつまみ上げ、光子に見えるように手の上に広げた。
「小さいけど、思ったより画質いいな、これ」
照れ隠しで、つい当麻はそんなことを言った。
自分の映りはともかく、隣にいる光子が美人なのは論を待たない。
そういうものが自分の手にあるのが、ある種の感動を当麻にもたらした。
そしてそれは、光子にとっても同じことで。
「大切にします。こちら、全部」
それしか言えないくらい、光子は嬉しさで心がいっぱいだった。




写真を綺麗に切り分けて配分し、フードコートの座席で休憩したのち、二人は再びアーケードを出た。
めぼしいアトラクションはあらかた廻ったから、もう急ぐような気分ではない。
「なんか、一気に日差しが弱くなった気がする」
「雲のせいかしら」
空を眺めると、確かにさっきよりも多くの雲が浮いていて、太陽の光を遮っていた。
とはいえ薄暗さはそれだけが原因ではない。お昼時より、もう太陽は明らかに空の端へと寄っていた。
「このままだと一雨きそうですわね」
「そうだな。雷とか来たらアトラクションはストップかねえ」
「どうします?」
「降ってくるまでは気にしないでいいんじゃないか。婚后はあと、乗りたいヤツあるか?」
「もうほとんど乗ってしまいましたけれど……」
子供向けのものはさておき、あと一つ、大型のものが残っている。
光子にとっては別段強く惹かれるアトラクションではなかったし、当麻の好みではないのだろうかと思って乗り過ごしてきたのだが。
「寮の門限に合わせて帰ろうと思ったら、もういくつもは回れないよな?」
「……ええ。残念ですけれど」
当麻が尋ねたのは、聞かれたくないけれど、避けられない質問だった。
ほとんど管理されていないも同然な当麻の私生活と異なり、光子は厳格な寮に住んでいる。
解散すべき時刻までもう猶予はあまりなかった。そうしなければ、寮監に目をつけられて再び当麻と外出するような機会は制限されるだろう。それは、嫌だ。
だが、そこまで考えて、光子ははっと気づいた。
今日みたいに当麻と遊ぶ機会が、果たしてこれからもあるのだろうか。
自分の目から見て、当麻もきっと楽しんでいてくれたとは思う。だけど、二度目や、それ以降はあるだろうか。
次がないかもしれないという不安を、光子はここに来て初めて自覚していた。
「じゃあ、アトラクションはあと一つで最後ってことにするか」
「……はい」
光子が切り出さなかったからだろうか。そうやって当麻が今日の終わりを提案した。
本当は素直に「はい」なんて返事はしたくなかった。けれど、どうしようもなくて。
当麻との接点を失わないように、二人の関係がこれ以上遠くならないように、つなぎ留めておきたい。
そういう焦りばかりが、光子の中で膨らんでいく。
そんな光子の気持ちを知ってか知らずか、当麻は、最後に残していたアトラクションを指差した。
それは遊園地で一番高い所へと昇るアトラクション、観覧車だった。
「あれ、乗らないか」
「ずっと乗ろうってお誘いがありませんから、お嫌いなのかと思っていましたわ」
「いや、そんなことはないよ。ただ、観覧車は最後の締めに持ってこようかなって」
それは、どういう意図だろう。
こんな、二人っきりで、誰にも邪魔されずに話ができる場所を残すなんて。
それも自分の変な思い込みなのだろうか。
「そういや観覧車は久しぶりだな」
「そうなんですの?」
「こないだはなんか吹寄……まぁクラスのヤツを怒らせて追い掛け回されたせいで乗り損ねてさ」
そんな当麻の言葉に、光子は聞き流せない何かを感じ取った。
「その方は……男性の、上条さんのお友達ですの?」
「え? いや、クラスの女子だけど……。こないだ誰かが企画してさ、親睦を深めようとかでクラスの連中でこういうところに行ったんだよ。この学区のじゃないけど」
「そう、ですの」
だから、なんだというのだろう。そんな話で、どうしてこんなにも自分は不安を感じているのか。
ただの知り合いでしかない当麻が、自分以外の誰かと遊園地に行ったっておかしくなんてない。そして一緒に行ったメンバーの中に女子がいたっておかしくない。
いや、それを言うならば。
当麻が、彼女と一緒にここに来たことがあったとして、それはおかしなことだろうか?
目の前の当麻が空を見上げて、降るかなー、なんて呟いている。
そんな当麻の様子を見て、まるで空の天気に呼応したかのように、光子の心の中に暗雲が立ち込めた。
写真を撮った時の、当麻の手の温かさがいけなかったのだろうか。


今日一日、わがままな自分を手際よくリードしてくれた。
それは、たくさん経験があって、もう慣れた行為だからではないだろうか。
今日という日は、そして自分は、当麻にとっては特別なものでもなんでもないんじゃないだろうか。
大事に大事に、手帳の中に仕舞った二人の写真。
当麻は、こんなものを、もういくつも持っているのではないだろうか。
それとも、もっと親密な女性との写真を、持っていたりするのだろうか。
そんな可能性が脳裏にこびりつく。

――――観覧車だって、私が変に意識しているだけなんですわ。
女性と二人で乗るくらい、よくあることと思ってらっしゃるんだわ。
だって、こんなに素敵な方なのだから。


そんな風には考えたくないけれど、悩むほどに、そうなのかもしれないと思えてくる。
振り向いた当麻の目を、光子は見れなかった。
「婚后。ぼうっとしてどうしたんだ?」
「えっ? いえ、何でもありませんわ」
「時間がないし、行こうぜ」
当麻が肩に触れ、そっと光子を促した。
不安がっているくせに、その感触にまた胸を高鳴らせ、光子は当麻の後をついていく。
こういう行為も、当麻にとっては慣れたものなのだろうか。
心の中で渦巻く感情の正体に、光子はようやく気付き始めていた。
自分が、当麻にとってなんでもない女だったらどうしようという、不安。
そうあって欲しくないという期待の裏返し。
つまり、自分は――――


「はい、フリーパスをお持ちですね。それではこちらへどうぞ」
思い悩む光子の前で、当麻と光子の二人分のチェックを済ませた係員が、観覧車の籠へと二人を案内する。
流れに逆らうこともできず、光子はそのまま当麻に続いて、乗り込んだ。
いってらっしゃいませ、という形式的な挨拶とともに、扉が閉められる。止まることのない観覧車がゆっくりと二人を押し上げていく。
「……あのさ、婚后」
「はい」
「さっきから……なんか疲れてるか?」
「えっ? い、いえ。そういうわけじゃ」
「そうか。ごめん」
当麻のその質問は、急にうつむいてしまった自分を、気遣ってくれたものだったのだろう。
だというのに、その気遣いに、自分は全然応えられていない。笑顔の一つでも、返せればいいのに。
「あ……」
見上げた先の、観覧車の窓に、ポツポツと水滴が落ちた。
光子の様子で当麻も気づいたらしく、窓の外に目を凝らした。
「タイミング悪いな。せっかくゆっくりと外を見れるアトラクションなのに」
間が持たないような、嫌な空気が観覧車の中に満ちていく。無言の時間が過ぎる間にも、観覧車は緩やかに上昇していった。
光子は、外を眺める当麻の横顔を、じっと見つめる。
格好いいと、素直に思った。
一般的に言って、だとか、客観的に見て、といった判断じゃない。
上条当麻という人と今日一日一緒にいた、自分という人間にとっての素直な感想だった。
当麻は、優しい人だった。自分のことを、ちゃんと考えてくれる。
そして優しさに裏打ちされた厳しさを持っている人でもあると思う。
こうやって、二人で遊ぶきっかけになったのは、当麻が言ってくれた言葉だった。
今日着ているワンピースを一緒に買いに行くくらい、泡浮や湾内と仲良くなったのも、当麻のおかげだ。
「最後は天気に振られたけど、また、こういう所に一緒に来れるといいな」
当麻がためらいがちに、そう言った。
「ええ。私も、上条さんとまた」
当麻の言葉は、光子の待っていた通りの言葉だった。だからもちろん嬉しかった。
だけど。当麻は、どういうつもりで自分を誘っているのだろう。
それは、とても重要な問題だった。
ただの友達としてだろうか。自分を特別な相手だとは思わずに言っているのだろうか。
もしそうなら、これからも当麻といい関係を続けていくためには、捨てなくてはならない。
期待することを、やめないといけない。
もしも当麻に、好きな人がいるのなら。自分は、この気持ちを諦めなくてはいけない。
「上条、さん……」
「婚后?」
声が、自然と震えた。尋ねるのが、怖い。
「上条さんは、私みたいな相手とこうした所に来るのって、慣れていますの?」
そうだったら、嫌だ。そんなことあってほしくいない。
「いや、そんなこと全然ないって。今日だっていろいろヘマしてたじゃないか」
当麻が笑ってそう否定した。別にそれが嘘だとは思わない。
だけど、光子はその答えだけでは不十分だった。悪いのは、光子の聞き方だろう。
光子はもう、当麻の顔を見ることができなかった。怖くて、とても直視なんてできない。
「じゃあ、上条さんは」
はっきりしたことを聞かなくちゃいけない。だから、解釈の余地のない、そんな質問をしなければいけない。
不安に押しつぶされそうな心から、光子は、質問を絞り出した。


「上条さんは今、好きな人はいらっしゃいますの?」


答えは、すぐにはなかった。
静寂を遮る雨音と眼下の遊園地の喧騒だけが、狭い個室に響き渡る。
ほんの数秒が痛いほどに光子の胸を締め付ける。


「いるよ」


答えは、唐突で、一瞬で、断定的だった。
突きつけられた事実の意味を脳が理解するのに、いくらか時間がかかった。
ようやく心に染みこんできたそれは、絶望的な事実。
こんなにも、当麻のことが気になっているのに。惹かれているのに。
この気持ちは、諦めなくちゃいけない。
クラクラと、現実感が剥落していく。
当麻の視線がこちらに向かっているから崩れ落ちるのは自制したけれど、体のどこにももう力が入らなかった。
だから、当麻の視線に気づかなかった。当麻の言いたいことは、それで終わりではなかった。
「婚后」
「……はい」
「俺が好きなのは誰かって、話なんだけど」
そんなの死んでも聞きたくない。
どうせ知らない誰かだろうし、知っている誰かだとしても、いいことなんて一つもない。
どうして、当麻はそんな話をするのだろう。
「最後までわざわざこれに乗るのを残したりとかさ、いろいろ小細工してばれてたかもしれないけどさ。あと、なかなか言い出せなくて、もうそろそろ頂上過ぎちまうし、婚后には先にいろいろ聞かれるし」
「……え?」
当麻が、言い訳をしているらしかった。だけどその理由に心当たりがない。
だがその混乱は、光子の心を占める絶望を少しだけ紛らわせた。
まだ当麻の目は見られないけれど、膝の上に置かれた手が、落ち着きなく動いているのが見えた。


「婚后。好きだ」
当麻が短く、だが間違いようなく、そう告げた。


「……ぇ、え?」
のろのろと、光子の顔が上がる。
今当麻は、なんて言った? わからない。勘違いだろうか。
「俺が今好きなのは、婚后なんだ。嫌じゃないなら……そう信じたいんだけど、嫌じゃないなら、俺と付き合ってくれないか」
当麻と、視線が重なり合う。
今日見たどんな表情とも違う、勇気を振り絞って、真剣にそう言っているとわかる、そんな表情だった。
「……嘘」
「嘘、って。こんなタイミングで嘘言うわけないだろ」
「じゃ、じゃあ、その……今、言ってくださったこと、本当ですの?」
思わず身を乗り出して、光子はそう尋ねた。
その勢いをむしろ押しとどめるように、当麻が光子の肩に手をやった。
「本当だよ。……何回言えばいいんだよ。婚后のこと、好きだって」
「でも。上条さん、好きな人がいるって」
「いやだから、それが婚后だって話なんだけど」
取り乱す光子に、苦笑するように当麻が笑いかけた。いつだって聡明だった光子が、まるでこちらの言うことを理解できていないのがおかしかった。
そして、そんな光子の態度で、当麻もほっとする。これで迷惑そうな顔だとか、申し訳なさそうな顔だとかをされていたら、おそらく当麻は死にたくなっていただろう。
ぶっちゃけてしまえば、女の子を遊園地に誘った時点で、当麻としてはこうするつもり満々だったのだが。
いまだ呆然とする光子に、当麻は問いかける。やはり当麻も、言葉で光子の気持ちが知りたかった。
「返事、聞かせてくれよ。婚后はどうなんだ」
「……私、私も!」
その問いかけに、光子は必死に答えようとした。だけど気持ちが先に出すぎて、言葉にならなかった。
当麻に触れたくて、肩に添えられた当麻の腕を掻き抱き、ぎゅっと頬を寄せる。
それを見た当麻が、優しげにため息を漏らした。そして光子の頬を、指が軽く撫ぜた。
その温かみで、じんわりと心の中に喜びが広がっていく。
こんなに嬉しいのは、お世話になった方だからとか、優しい方だからとか、そんな理由ではないのだ。


自分が、当麻のことを好きだから。そういうことなのだ。


「婚后……可愛いよ」
「嬉しい……嬉しい」
アトラクションで遊んでいたとき以上にはしゃいだ光子の態度に、当麻はほうっと長めの安堵のため息をついて、苦笑する。
「……ほら、返事、ちゃんと聞かせてくれよ」
当麻の手を離さないまま、光子が当麻を見上げた。
「私も、上条さんのこと、お慕いしています。上条さんのことが、好き、です」
言葉を紡ぐ光子の顔が、みるみる赤く染まっていった。自分の頬が思いっきり緩むのを自覚しながら、当麻はその言葉を聞き届ける。
「至らない私ですが……一緒に、いてくださいますか?」
「俺こそ、婚后に頼ってもらえるほど人間できてないけど」
「そんなことありません!」
「じゃあ、付き合って、くれるか?」
答えは、言うまでもない。


「はい。私を、上条さんの彼女に、してください」


その一言で、当麻にも笑顔が広がる。
当然だ。思わぬ助け舟めいたものが光子から出されたとはいえ、かなり緊張しながら告白をしたのだ。
それが叶って、嬉しくないわけがない。
「隣、行っていいか?」
「はい」
向かい合わせで座っているだけでは、物足りなかった。
彼女なのだから、手くらいはつないだっていいだろうし、写真を撮った時のように、肩くらいは触れ合ったっていいはずだ。
たぶん、光子もそう望んでくれていると思う。
観覧車を揺らさないように光子の側へと移り、その横に腰を下ろした。
「手、つなごう」
「はい」
差し出した右手に、光子の左手が絡まる。それだけじゃなくて、空いたもう片方の手すら光子は当麻に触れさせて、もたれかかった。
こんなにも甘えてもらえるとは思わなくて当麻としては驚きを隠せなかったが、それが嫌なわけがない。
「やばい。婚后がめちゃくちゃ可愛い」
「嬉しい。褒めてもらえるのが、すごく嬉しいんですの」
「好きだよ」
「私も。上条さんのことが、すごく好きです」
そう言い合うだけで、もっと嬉しくなる。当麻が髪を撫でると光子がはにかんで目を細めた。
「髪、綺麗だな」
「気に入ってもらえて、よかった」
「もっと触っていいか」
「はい」
躊躇いがちだった手の動きを、大胆にする。
指先で触れるようなのではなくて、髪の感触が手に広がるように、しっかりと撫でる。
光子は、そんな当麻の手つきに、嫌がるそぶりを全く見せなかった。
女の子が、自分の愛撫を積極的に受け入れてくれる。そんな事実に驚きと新鮮な感動を覚えながら、当麻は髪に触れ続ける。
ツンツン頭の手触りなんて考えたこともない自分の髪とは違って、光子の髪は柔らかく、指ざわりがなめらかだった。
そしてこの親密な時間に幸せを感じているのは、光子だって同じだった。
優しくて格好いい、当麻という人に、大切にしてもらえるという実感。
好きな人に好いてもらえるということがたまらなく幸せだった。
髪を撫でる当麻の指使いに陶然となる。きっとそれは、別段どうということもない手つきなのだろう。
だけど、撫でてくれるのが当麻だというだけで、光子は深いため息をついて、その優しい手つきに夢中になってしまうのだった。
「気持ちいい?」
「はい……とっても」
光子はそんな当麻の問いかけに、感じたままの答えを返す。
当麻の側はちょっと別の意味での受け取り方が脳裏をかすめて目線を泳がしたのだが、もちろん光子は気付かなかった。
そんな、光子の無防備さがつい当麻のいたずら心をくすぐった。
髪に充てていた手を、頬へと流す。
頤に手を添えると、光子が驚いたように目を見開いた。
「あ……」
二人の距離は、もうほとんど残っていない。
アクシデントですら、唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離。
その距離が持っている意味に、当麻も光子も、気づいていた。
先に進むのはまだ早いと思う。付き合おう、なんて話をしてからまだ数分なのだ。
それに、光子のほうは特に、まだ唇を捧げるのは怖かった。
今は、そんな急激な関係の深化よりも、優しく撫でてもらう時間が、たくさん欲しかった。
「……そろそろ、終わりだもんな」
「えっ?」
当麻が、硬直した二人の距離をゆるめるように、そういった。
慌てて光子が外を見ると、もはや遠景などはそこにはなく、二人が降りる順番は次、というところまでやってきていた。
万が一、仮にキスなんてしていたら。
たぶん、案内係の人に、思いっきり目撃されていただろう。
そんなことにも気づかないくらい当麻に夢中だった自分が急に恥ずかしくなって、光子は当麻の顔が見られなくなった。
「ほら、降りよう」
先に降りた当麻の手を握り返し、光子は観覧車を後にする。
この遊園地の、この観覧車は、きっと一生忘れられない思い出の場所になるだろう。
そんな場所ができたことに、光子はまた嬉しくなる。
「また来ような」
「はい、是非」
これで今日という日が終わっていくことはさびしいけれど、それを上回って余りある幸せを、今日一日で貰った。
「夜もさ、電話しても大丈夫か」
「夜も、お話できますのね」
「そりゃまあ、携帯あるし」
「嬉しい。私、お待ちしていますから」
光子はそう言って、つながれた当麻の腕に寄り添い、さらに強く手をつないだ。
その手は、当麻が立ち入ることのできない学舎の園のすぐそばまで、離れることはなかった。





がさがさとレジ袋の音を立てながら、夏日で煮えたぎった自室に戻る。
「ふいー、ただいま、っと」
よどんだ室内の空気に顔をしかめながら、当麻はエアコンのスイッチに手を伸ばす。
手にした生鮮食品をさっさと冷蔵庫に放り込み、手を洗って米を研ぎにかかる。
こうした生活感のある行いのすべてが、今は煩わしかった。
机の上で振動を伝える携帯を手に取り、しばらく眺めてから返事を書く。
相手はもちろん、光子だ。学舎の園の手前まで送って、別れてからも、5分間隔くらいでずっとやり取りをしているのだった。
それがたまらなく楽しい。会話の内容なんて、大したことはないのに。
自分を好いてくれる彼女がいる、というのが、こんなにも幸せだとは。
ずっと想像していた以上に、それはすごいことだった。
「夏休み前に彼女ゲット、って、雑誌か何かの売り文句そのまんまだな」
それはつまり、夏休みを彼女と一緒に大いに満喫できるということである。
高校生として、これ以上の幸運はそうないだろう。
「彼女できた日は叫びたくなるとか、馬鹿な話だと思ってたけど、まあ、わからないでもないよな」
事実、叫びたいくらいには喜びが渦巻いている当麻だった。
もちろんこれで窓を開けて叫ぼうものなら、隣に住むクラスメイトから何を言われるかわかったものではないのだが。
「……そういや、いつ周りに話すかタイミングも問題だよな」
すぐに誰かに話すのも気はずかしいし、などと考えながら、光子の返事を待つ当麻だった。



欧風の石畳の街並みを、軽い足取りで光子は通り抜ける。常盤台の寮はもう目前だった。
夕日に照らされるそこが、今日はとても輝いて見えた。それはそうだろう。光子は今、幸せの絶頂にあるのだから。
手には携帯電話。片時も手放さず、ずっと当麻からの返事を待っているのだった。
「あっ! 婚后さん!」
「あら、湾内さん、泡浮さん。ごきげんよう」
寮の扉をくぐり抜けると、すぐそこのサロンで二人が談笑していた。
興味津々という表情を隠しもせず、二人はパタパタと光子の元へやって来た。
「もうじき夕食時ですのに、こんなところでお茶をしていらしたの?」
午後のティータイムはとっくに過ぎているのに、と思いながら光子が尋ねると、二人はさらに目を輝かせて身を乗り出した。
「婚后さんをお待ちしていたんです。お帰りは門限ぎりぎりじゃないかって湾内さんが仰って」
「それで、婚后さんがお帰りになったら、ぜひ今日の話をお伺いしなくっちゃって」
それが二人の目的なのだった。二人にしてみれば、デートに来ていく服の相談を受け、さらにはその服選びにも付き合ったのだ。
自分たちに浮いた話はないし、恋愛の話なんて常盤台では珍しいから、二人は飢えているのだった。
「ね、泡浮さん。やっぱり当たりだったでしょう? きっと一日中、お楽しみになったんだわ」
「それで、婚后さん。一体どんなことをして過ごされたんですの?」
はしゃいでまくしたてる二人をおっとりと眺めて、光子は今日一日のことを思い出した。
「とっても、楽しい一日でしたわ」
「まあ!」
「それって、やっぱり」
二人に、そっと微笑みかける。
「お二人には、本当に色々と助けていただいて、感謝していますわ。そのお礼はまたしますから……ごめんなさい、今日のところは一人で過ごしたいんですの」
その言葉を聞いて、二人は顔を見合わせた。
言葉だけなら、傷ついたからそっとしておいてほしい、と言っているようにも聞こえるかもしれない。
だけど、そんな可能性は光子の表情が完全に否定していた。
だって、光子の顔はとても幸せそうで。
二人はそんな光子から根掘り葉掘り聞きだすのをあきらめて、そっと部屋を後にした。
光子の鞄の中でメールが来たことを伝える携帯の音が鳴ったのを、しっかり心のノートにメモしながら。


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当麻と光子が付き合うに至ったシーンでした。
改稿前には、この部分が欠落しているのを何とかしてほしいと要望をいただいていましたので、
それにお答えするべく、加筆を行いました。ご満足いただける内容であればいいのですが……。
また、ここをきちんと描写した関係で、プロローグ部分のこの先も、流れが自然になるように幾つか話を加えていきます。



[19764] prologue 06: 彼にとっての彼女とそうではない少女
Name: nubewo◆7cd982ae ID:17f07eb2
Date: 2013/10/15 22:07

休日の昼下がり。同じ寮に住む同級生たちが、ベッドの中で午睡を楽しんだり、あるいは町中へと遊山に出かける中、当麻はまさに後者に加わろうとしているところだった。
といっても今日の相手は、よく一緒に遊ぶ相手、青髪とピアスが特徴的な友人や隣に住む金髪グラサンの同級生ではなかった。
まだクラスの連中に話してはいないが、少し前から当麻には恋人がいる。今日はその彼女、光子の予定に合わせて午後からのデートなのだった。
「あれ、上条当麻ー。今から出かけるのかー?」
玄関の鍵を閉めて階下へ向かおうとしたところで背中に声がかけられた。当麻よりいくらか幼い女の子の声で、当麻には聞き覚えがあった。
「なんだ舞夏。今日は来てたのか」
声をかけたのは隣の家に住むクラスメイト、土御門元春の妹だった。
この二人は仲のいい兄妹で、妹が足しげく通い妻をしている光景を見かける。
「んー。定期的に掃除に来ないと大変なことになるからなー。兄貴の部屋は」
「家政婦養成の専門学校生が来るとか恵まれすぎだよな」
「今度そっちの部屋もお掃除してあげようか、お兄ちゃん?」
この暑い真夏の昼に長袖のメイド服を着こなす少女は、屈託のない笑顔でそう当麻に告げた。
当麻はそれに苦笑いを返し、手を振って歩き出す。
「頼むって言っても土御門に結局は妨害されるからな。ま、自分のことはなんとかするって。それじゃあな」
「ふーん。……またなー」
当麻のそんな態度に含むものを感じながら、舞夏は部屋に戻った。
室内では、もう午後になろうというのに部屋の主である彼女の兄がベッドの上でだらだらしていた。
「カミやんはお出かけか」
「そうみたいだなー。なあ、兄貴ー」
「ん? なんだにゃー」
「上条当麻に最近変わったことはなかったか?」
「変わったこと? いや、別に思い浮かばないけど」
「そっか」
「どうかしたのか?」
土御門が寝ころんだまま舞夏を見上げた。
なんでもないというように舞夏は少し笑って、台所へと足を向けた。
「なんとなく、上条当麻にも春でも来たのかなーと思っただけ」
「……カミやんに関しては心当たりがありすぎて逆にわからないにゃー」
女ほどは鋭くないということか、あるいは周囲から「義妹と言いながら一線を越えているらしい」と噂される相手が傍にいるからか、土御門はそれ以上突っ込むことなく、再び午睡に戻っていった。




町へと足を延ばし、光子との待ち合わせ場所へと向かう。
今日のデートの場所は、光子と二人で廻り、ペットショップを紹介したあのショッピングモールだった。
金銭的に余裕があるなら毎回遊園地だって構わないが、さすがにそういうわけにはいかない。
デートの一番の目的は光子と会うことだ。手をつないで喋れる場所なら、別にどこだって構わないのだ。
とはいえ、安上がりデートをしていても、予算的には圧迫されているのは事実。
「やっぱこうなってくるとバイトでも考えるべきか……」
そう呟いてみるものの、学業のほうも補習漬けで、しかもいろんな面倒事に巻き込まれて出席日数も不足がちなのを考えると、バイトは難しいだろう。
そんな自分の境遇に溜息をついて、大通りへ抜ける石畳の坂道を見上げた。
「……ん?」
視線の先では、妙齢の女性があちこちへと視線をキョロキョロとめぐらせながら、何かを探しているようだった。
ファッション性に乏しいごく普通のスカートスーツと、これまた飾り気のないブラウスで細い体を包んでいる。
横顔を眺めると、徹夜続きのような濃いめの隈があった。学園都市の大人は子供の数に合わせ、必然的に教師か研究者かその兼任を仕事とする者が多いが、見た感じ、この人は研究者なのだろう、という気がした。
ルート上にいるその女性へと当麻が近づくと、成り行きでばっちりと目があった。
「あの」
「ん? ああ、邪魔だったかい? 失礼」
思わず、当麻は声をかけてしまった。困っている人を放っておけないなんて言うと偽善臭いが、町中でトラブルに見舞われ途方に暮れる体験は他人事でもない、というか日常茶飯だし、当麻は基本的に人の好い性格なのだった。
「何かお困りですか?」
「この辺りのパーキングに車を停めたはずなんだが、場所がわからなくなってしまってね」
微笑んでいるようにも見えなくもない、けだるい表情でその女性はそう呟いた。視線の先には、人口密度の高い第七学区の駅前なら、どこにもでありそうなパーキングがあった。
このあたりは当麻にとっては庭みたいなものだから、他のパーキングの位置もわかる。ただ、線路をまたいで向こうのパーキングなんて歩いていけば15分はかかる。
さすがにそれに付き添うだけの余裕は、デート前の当麻にはなかった。
「あのパーキングじゃないんですか?」
「ああ。一台一台確かめたんだが、見つからなくてね。なんとなくここではない気はしたんだが」
ぼんやりとそう答える相手を見て、厄介なタイプにあたったなー、と当麻は思った。
学園都市には結構な割合でいるのだ。研究以外に興味がなくて、生活を送るにもいろいろ支障をきたすようなタイプの大人が。
そういう人間が研究だけをやっている分にはいいのだが、能力開発の現場、すなわち学校でも『研究』をやる教師がたまにいて、学生はそういう大人への対応を否応なしに学ばされる。
この目の前の女性は典型的な、自分の研究しか見えないタイプなのだろう。
「え-と……目印とか何か、覚えてないんですか?」
「目印、か。確か目の前に横断歩道があったな」
「横断歩道じゃあんまり目印とは……」
その女性――木山春生という名を当麻は知る由もない――の要領を得ない返事に、思わず空を仰いでしまった。
これは手伝っていると、とてもじゃないが待ち合わせの時間に間に合わない。
デートを理由に見捨てるのも気が引けるけど、光子に電話して謝るのもなんだかなあ、とどっちにするかと悩んだところで、不意に坂の上から声を掛けられた。
「アンタ……!」
「ん? おお! ビリビリ中学生」
見上げると、見覚えのある少女がそこにいた。当麻にとっては印象的な出会いをした女の子だった。
ビリビリ、と呼ばれたのが不満なのだろう。声をかけた時点で険のある態度だったのだが、さらに表情が尖ったものになった。
「ビリビリじゃない! 御坂美琴! 毎度毎度逃げられてるけど、今日という今日は決着つけてやるんだから!」
夜の繁華街で不良に囲まれているところを助けようとした、というなんともドラマティックな出会いが彼女と知り合ったきっかけなのだが、当麻にとって印象的なのはそれが理由ではなかった。その一件で不良の恨みを買ったところを今の彼女である光子に助けられた、というその後の展開が、美琴との出会いを当麻にとって特別たらしめている理由だった。
失敗に終わった、というか要らぬおせっかいだったとはいえ、せっかく助けようとしてやったのにその後も美琴は街でこちらを見かける度に突っかかってくる。結果的に役に立たなかったとはいえ、曲がりなりにも好意で不良からかばおうとした側に「決着を付けてやる」とは、一体どういう心境なのか。
とはいえ、この場では気安く物を頼める相手がいるのは行幸だ。
「ってことは、お前今暇なんだな?」
「時間ならたっっっぷりあるわ」
腰に手を当てて美琴がそう宣言した。はっきりと断言してくれて正直当麻はホッとした。
それならあまり気に病むことなく、美琴に自分の代理を頼める。
「じゃあ、この人の駐車場探すの、手伝ってくれないか?」
「は?」
やる気に満ちています、と言わんばかりの態度のまま、美琴が疑問顔で硬直した。
「車を止めた駐車場がどこだかわからなくなってしまってね」
助かるよ、と言わんばかりの態度で研究者らしき女性が肩をすくめた。
露骨にホッとした顔の当麻も、その隣の女性も、どちらもすっかり美琴が手助けしてくれることを既定事実のように扱っていた。
「え、ちょっと、なんで!」
美琴としては抗議の声を上げずに入られなかった。暇だとは言ってない。だって今日こそは目の前のバカに引導を渡してやらねばならないのだから。
全く、いつもコイツはこうだ。私のことを子供だとでも思ってるのか単に舐めているのか、ちっとも相手にしないで。
「俺、行かなきゃならないトコがあってさ。お前暇だからいいだろ?」
「いいだろじゃねーっつの! また適当にあしらおうたってそうはいかないわよ。毎回のらりくらり適当なことばっか言って、今日という今日はホントに許さないんだから!」
「適当ってなんだよ。別にそっちと勝負とかする意味ないだろ?」
「だからその態度がムカツクって言ってんの!」
当事者の自分をそっちのけで喧嘩し出した学生二人を眺め、研究者の女性――木山春生(きやまはるみ)――はため息をついた。
学生二人のじゃれ合いを鬱陶しがったわけではない。小学校教諭であったこともあるから、この程度の口喧嘩には慣れっこだ。
不快なのは、背中に張り付いたブラウスの感触の方だった。もう20分は炎天下を歩き続けている。
「いやー、それにしても暑いな」
少しでも涼を摂れるようにと、木山はごく合理的な考えに基づき、ブラウスのボタンに手をかけた。
「あーだからもう、私の言うとおりに……って、え?」
美琴はその瞬間、当麻への怒りを全て失い、木山の振る舞いに思考をフリーズさせた。
首元まできちんと留められていたボタンを、上から順に一つ一つ外していく。それどころか、木山はブラウスの袖から自らの腕を引き抜き、脱いだブラウスを腕にかけてため息をついた。
肌の色とあまり見分けのつかないベージュ色の、ごくごくありふれたデザインのブラジャーが、美琴の視界に飛び込んでくる。
言うまでもなく、そこは第七学区の、なんの変哲もない道の往来の真ん中なのに、だ。
「ぅおわっ!」
一瞬遅れて当麻も気づいたらしかった。
叫ぶ当麻は当然その木山のブラ一枚の上半身をモロに視界に収めているのだが、それに気づいても木山は文句一つ言わず、怪訝な目で学生二人を見るだけだった。
思わず、率直な疑問が美琴の口をついて出る。ついさっきまでファミレスで佐天たちと盛り上がっていた、ある「都市伝説」の話を思い出す。
「な……何をしている……んですか?」
木山の痴態は、まさしく『脱ぎ女』そのものだった。曰く、うつろな目をしていて、何の脈絡もなく、突然ブラウスを脱ぎだすという。
「炎天下の中、ずいぶん歩いたからね。汗びっしょりだ」
人心地ついた、と言わんばかりの清々しい顔で、木山は空を見上げた。
日焼けを知らない白い肌を見せて何気ない態度を取るその様子は、きっと自分の部屋でならおかしなことはなかっただろう。
それくらい自然な、脱ぎっぷりだった。
「なによ、この人?!」
「お、俺もさっき知り合ったばっかりだし」
つい常識にすがりたくて、美琴は助けを求めるように当麻を見た。残念ながら、あちらも同じ感想ではあったらしい。
「ちょ、ちょっとそんな格好まずいですよ!」
「うん? どうしてだい」
「どうしてって。ここ外ですよ、外!」
愕然とした当麻の声を、気が遠くなるような思いで美琴は聞いた。
齢二十歳を超えて、なぜ屋外で、このような格好になることがおかしいと感じられないのか。まるで常識が通じない。
「私の起伏に乏しい体を見て何かを感じる人間などいないだろう。それに下着まで脱いだわけでもない」
そんな理由で木山の中では十分に合理化がなされるらしかった。
自己申告通り、木山の体はグラマラスとは言えないだろう。まだ気恥ずかしくて聞けていないが、当麻の彼女は中学生にして既にすごいスタイルだ。その光子と比べれば、たぶん、木山は起伏に乏しかった。
だがだからといって木山の肢体に無関心でいられるかというと、決してそんなことにはならないのが男の性というものだ。
野暮ったい色とデザインのブラに包まれた小ぶりの胸は、当麻の視線を引きつけてやまなかった。
そうは言っても、もちろんジロジロと眺めるわけにもいかないし、衆目に晒しっぱなしでいいはずもない。
「と、とにかく! シャツを着てください!」
当麻は視線を木山に合わせないように顔を横に背け、木山の手からブラウスをひったくって広げ、正面から胸を隠すように覆い被せた。
その仕草は心のどこかが大変に残念がるような、善意に基づいた行為だった。だが客観的に見ると、当麻が妙齢の木山のブラウスを往来の真ん中で脱がせたように見えなくもない。
見計らったようなタイミングで、離れたところからきゃあっと言う声が上がった。
その悲鳴はあっという間に視線を集め、今まではこちらに気付きもせず遠くを歩き去っていた人間までもが、ブラウスを持った当麻に注目する。
そして状況を説明する間もなく、女の人が襲われてる?! あの男の人が脱がせたの? という声があたりから聞こえてきた。
「ち、ちがうって……」
当麻は咄嗟にそう呟くが、もはやその否定が逆に当麻が加害者であるという勘違いを助長しかねない空気だった。
美琴も、あまりの急展開にどう口を挟んでいいのか、アイデアが浮かばなかった。
「服を着ろと言うが……まだ脱いだばかりだ。木陰でしばらく休めば汗も引くだろう。ちょっと待ってくれないか」
「いや、ですから!」
木山が自身の下着姿を晒すことに全く頓着せず首をかしげているうちに、どんどんと当麻を非難する視線が増えていく。
女同士の自己防衛意識が働いているのだろうか、こちらの事情を聞くことすらなく、女子生徒達が通報を意識して携帯を手に取り出した。
もうひと揉めあれば確実に自分は性犯罪者になる、と当麻は確信せざるを得なかった。
「ご……」
「ちょ、ちょっとアンタ」
「誤解だああああっ!!!」
美琴はなんとかフォローをと考えて手を伸ばす。もちろんその手が何か助けになるわけではないが。
それを頼ってのことだろうか。当麻がブラウスを強引に美琴に預け、その場から走って逃げだした。
「あ、ちょっと!!」
当麻の逃避は決して美琴から離れるためではなく、もう変質者と呼んでやりたくなるような木山の振る舞いのせいだが、それでも逃がしたことには違いなかった。
美琴は思わず当麻を追いかけようと駆け出して、間もなく木山に止められた。
「君。それを持っていかれるのは、困るんだが」
「へっ?」
手には当麻から渡された、木山のブラウス。
それを手に走り去ろうとする自分は、一体どういう目で見られるだろうか。
それに気づいて美琴は頬に血が登るのがわかった。
「と、とにかく服を着てください! 見られてます、見られてますから!」
周囲からの誤解が解ける頃には、当麻はもう、見えなくなっていた。




缶ジュースを手に、美琴は木山と一緒に、自販機前の無料カフェテラスに腰を落ち着ける。
街路樹の傍にあるそこはちょうど日光が遮られていて、風通しもあるから涼しかった。
既にかなり歩いて疲労した木山の提案で、しばしの休憩を取っているのだった。
「済まないね、付き合わせて」
「いえ」
「研究のことばかり考えながら、珍しく繁華街に車を停めたのが仇になったようだ。こういう場所はどこも同じに見えてしまってね」
「研究って……学者さんなんですか?」
学園都市ではこういう強調の仕方をする場合、教職に就かない専門の研究者であることが多い。
それを肯定するように木山は軽く頷いた。
「大脳生理学、主にAIM拡散力場の研究をしているんだ」
「能力者が無自覚に周囲に発散している微弱な力のこと、でしたっけ」
「もう習っているんだな」
「ええ。一年の時に」
An Involuntary Movoment、すなわち無自覚な動きと名を冠されたこの力場は、人間の五感では感じ取れない、能力に由来する特殊な力場のことだ。機械を使わないと測定できないし、そもそも使い道自体が見つかっていないので、研究者はいざしらず、能力開発を受ける側の学生にとってはあまり注目されない存在だった。
「私はその力を応用する研究をしているんだ」
「応用、ですか?」
「性質としては電磁場よりは重力場に近くてね、対称性粒子の作用がないから集団になるほど増幅される」
「遮蔽効果がないってことですか」
「そうだ。さすがは常盤台の学生さん、と言ったところかな」
感心したように木山がそう呟いた。美琴は校則通り制服を着ているから、美琴のいる中学がどこかなんてすぐに分かることだ。
「能力は実に様々なバリエーションを持ったもので、すべての能力を体型的に説明づけるような理論なんてものは未だその雛形さえ見えない。だが不思議なことに、どんな能力者のAIM拡散力場であっても、互いにそれを打ち消し合う作用は見つかっていないんだ。静電場を考えると、私の体の中の電子と君の体の中の電子は互いに強い反発力を持っているけれど、君の体の中の陽子と私の体の中の電子の引力がそれにちょうど釣り合って、私たちの体の間には見かけ上、静電気力は働いていないように見える。そういう力場のキャンセルがAIM拡散力場にはないんだよ。重力をキャンセルする反重力がこの銀河系には存在せず、ゆえに月が地球の周りを回り、太陽系が出来、それらが銀河という途方もなく大きな集団構造を作るようにね。今後も今と同様に学園都市が膨らみ能力者が増加すれば、AIM拡散力場はどんどん強くなり、その利用価値は高まるだろう。問題はいかにして自然現象または人間の精神に干渉できるよう指向性を持たせるかの部分だがね」
「はあ……」
木山は能力者の多分に漏れず、自分の専門については饒舌らしかった。
いかに学園都市第三位の能力者である美琴と言えど、発電系能力以外の知識ではその道の専門家には勝てない。
ちょっとたじろいで、トピックを変えなければと美琴は焦った。
「あの……それじゃ能力についてもお詳しいんですか?」
「何か知りたいことでも?」
木山は言外に肯定の意を含ませて、美琴に尋ね返した。
個別の能力の開発に関しては対して知識も技術もない。だが、能力の多様性についてはそれなりに知識があった。
美琴のほうで気になっているのは、『脱ぎ女』と同様、今朝話題になった都市伝説のひとつだった。
「その……どんな能力でも効かない能力、なんてあるんでしょうか?」
そう尋ねながら、頭に浮かべるのはさっきのあのツンツン頭のことだ。
初めて会った時に見せられてから、ずっと気になっていた。アイツの能力は、まさにそんな都市伝説そのもののように思えたから。
「能力といってもいろいろあるが、文字通りあらゆる能力が効かないのかね?」
「その、例えば高レベルの電撃を受けてもなんともなかったり、とか」
「電撃か……。例えばその相手が自分より相当高レベルの発電系能力者なら、それも可能なのではないかな?」
一般論としてはその答えはイエスだ。レベル1や2くらいの相手なら、美琴は相手が作ろうとしている電磁場ごと全部上書きして、キャンセルできる。だが、美琴に対してそれができる発電系能力者はいないはずだ。それに、当麻はそういう感じの能者力だとは思えなかった。
「そういう同種の能力でキャンセルするのとは、別な感じがするんですけど」
「ふむ……。同種で上位ではないというなら、能力としてより高位である、という可能性はあるかもしれないな」
「えっと、どういう意味ですか?」
どう説明するかわずかに木山が思案顔を見せた。
「察するに君は発電系能力者<エレクトロマスター>だと思うが、この系統の能力者は、静電気力と磁力の両方を使えるのが一般だろう?」
「え、ええ。まあどっちかしか使えない人も結構いるみたいですけど」
美琴はどちらにも、不得手はなかった。というか、それらの力は統一されたひとつのものだという感覚が美琴にはある。
「より正確に能力名を定義するなら、静電気力だけを操れる能力者こそをエレクトロマスターと呼び、磁力だけならマグネトロマスター、両方を使える能力者をマグネエレクトロマスターとでも名付けるべきだな」
「はあ」
話が見えず、美琴は生返事を返した。それに取り合うでもなく、木山は手にしたスープカレーの飲料缶をぐびりとやった。
「電場しか扱えないエレクトロマスターにとって、マグネエレクトロマスターはより高度な理論をベースにした能力と言えるだろう? そしてこの両者が戦った場合、エレクトロマスターが電場を操ることしかできないのに対し、マグネエレクトロマスターは磁場を使って間接的に電場に干渉することも出来る。より世界の本質に迫った理論に基づく分、使える能力は相手の理解の及ばないような多様さ、奥深さを備えているはずだ。もちろん同レベルの能力者で比べないと無意味だがね」
「簡単に言っちゃうと、クーロンの法則とオームの法則を改変するレベルの能力者より、マクスウェルの電磁気学をベースにした能力者の方がすごい、ってことですよね」
「誤解を含まないでもないが、大胆に簡略化するとそういう説明になる。そして、こう言えば、君のような静電気力と磁力の両方を統一して扱う発電系能力者<エレクトロマスター>より、より高位な能力者が存在しうることに気づくかい?」
「さらに別の力まで統一した理論をベースにするってことですか?」
打てば響くように言うことを理解する美琴に、木山は愉快げに答えを返す。
「そう。この学園都市の発電系能力者<エレクトロマスター>はマクスウェルの電磁気学、つまり電場と磁場の統一理論をその理論的背景にもつ能力者だ。ならば、この電磁場と『弱い相互作用』までを統一したワインバーグ=サラムの電弱統一理論をベースにした能力者なら、君のような発電系能力者の理解を越える方法で能力のキャンセルをする方法を知っているかもしれない」
「でも……電磁気学以上に未完成な部分の多い理論でしょう? それに、電磁力は人間が観測できますけど、『弱い相互作用』なんて、人間の周囲で関係してるの、ベータ崩壊くらいじゃないですか」
「つまり電荷を持たない中性子から荷電粒子である陽子と電子を生み出せるということだろう? エレクトロマスターにはできない真似だ。他にも、今も君の体を素通りしているニュートリノにも干渉できるな」
木山は可能性の話をしているだけで、それが事実だと言っているわけではないのだろう。
改めて、あのツンツン頭がそういう能力の持ち主か、と考えてみる。正解という気がこれっぽっちもしなかった。
「まあ、君の提起した『どんな能力も効かない能力』を字義通り受け取るなら、電弱統一理論ベースでは不十分だろうな」
この世に存在する『力』は、静電気力と磁力、重力、そして素粒子オーダーの距離でしか働かない『弱い相互作用』と『強い相互作用』の五種類だ。電磁力を統一して四種類と数えることもある。普段全く気にすることのない残り二種類の力の名前は、冠詞というものの存在しない日本語では、ひどくマヌケな響きだが、もう固有名詞化しているので仕方ない。
百年前に静電気力と磁力は統一理論で説明されるようになり、学園都市ができるかどうかという時代、美琴の父親たちが幼かった位の時代に電磁力と『弱い相互作用』は統一された。『強い力』もその範疇に含めた大統一理論は美琴の生きる今この時代にほぼ完成されつつあり、すべての力をひとつの理論で説明する、すなわち『万物の理論』は、あとは重力を統一すれば完成、というところまで来ている。ただその壮大な目標は、学園都市というまったく新しい領域、超能力という科学を生み出した街をもってしても、未だ達成されていない。
せいぜいが、不完全な理論をつなぎ合わせて、11次元空間を利用したテレポートが実用化されている程度だった。
それとて自分自身をたかだか数百メートル転移させられるだけでレベル4などという大層なレベルがつくほどに、テレポートはまだ未完成な領域にある。
「どんな能力も効かない能力があるとしたら、完全な『万物の理論』をベースとしたものである、ってことですか?」
「ただの推論だよ。希望的観測といってもいい。もっとも、私の個人的な想像ではなく、それなりの数の研究者が考えていることだと思うがね。要は、レベル6へと至るひとつのアプローチは『万物の理論』を足がかりとすることだ、と考えている研究者は多いということさ」
「はあ……」
「内情は知らないが、学園都市の第一位や二位だって、そういう感じがしないかい?」
「え?」
たった二人しかいない、自分より高位の能力者。詳細は知らないが、その能力については少しくらいは聞き及んだことがある。
「あらゆる場のベクトルに干渉する『一方通行<アクセラレータ>』は、重力場だろうが電場だろうが、場の種類を選ばない点で万物の理論と関連しているとも言える。そして第二位は質量を操る能力者だ。『万物の理論』を困難たらしめているのは、質量と重力という相対性理論と密接に関わる概念を、量子力学に根ざす素粒子物理に統合することの難しさだからね。質量というものを最も理解する能力者、という点で彼も『万物の理論』を志向していると言える。結論としては、君の言う『どんな能力も効かない能力』に一番近いのは『一方通行』の能力だろう」
それが木山の見解だった。
『一方通行<アクセラレータ>』と呼ばれる学園都市第一位の人間の顔も本名も、美琴は知らない。だからあのツンツン頭がそうであるという可能性を否定する材料はないのだが、どうも、ピンとこなかった。
何をどう考えても、アイツはそんな大層な能力者じゃない。アイツの能力は、もっと単純で、もっと得体がしれない何かのような気がした。そんな能力、あるはずがないとも同時に思うにも関わらず。
「話が長くなってすまなかったね。ところで、君は誰かそういう能力者に心当たりでもいたのかい?」
「え?」
「なに、君の態度が、特定の誰かのことを聞きたかったように感じられたのでね」
そんなコメントを受けて、慌てて美琴は頭の中にいるアイツを思考の隅へと追いやった。
「いえっ! あの、ただの都市伝説の話です。都市伝説」
「都市伝説か……。懐かしい響きだね。最近の学生さんでもそういう話をするのか」
そう歳をとっているわけでもないが、木山はまるでおばさんを自任するかのように、そう独りごちた。




休憩を挟み、美琴は木山を引き連れ、駅前に点在する駐車場を巡った。
割と街に出るのが好きな美琴にとって、そこは自分の活動圏内だった。駐車場の場所くらいはだいたい把握している。
二つほど巡ったところで、どうやらアタリらしい場所にたどり着いた。
「トラックの影で見えないが、おそらくあそこだろうと思う。済まないね、付き合わせてしまって」
「いいんですよ。乗りかかった船ってヤツです」
「そうだ、彼にも礼を言っておいてくれ」
「彼?」
「君に会う前にいたあの男子生徒だよ」
「ああ、アイツにですか。まあいいですけど」
美琴は当麻の携帯番号も、それどころか名前だってまともに知らないのだが、また探し出して会うつもりだったのであっさり頷いた。
「君もそうだが、いい子だったな」
「おせっかいなだけですよ」
まったく、と美琴はため息をついた。
「別に頼んでもないし必要でもなかったのに、こっちの厄介事に首突っ込んできたり。その後もなんだかんだで毎回毎回いいようにあしらわれるし。そういのが上手いっていうか、ムカツクっていうか」
出会ったその日の夜と、当麻を見つけて追いかけた数夜を思い返して、美琴は毒づいた。
電撃によるスタンを狙うような攻撃まで美琴に繰り出させておいて、平気で逃げ切るのだ、あのツンツン頭は。
全然こちらを恐れもしないし、実際いくら能力を使ってもそれが通じたためしがない。
学園都市第三位のプライドを傷つけておいて、そんなことに全く頓着せず飄々としている。
絶対にごめんなさいと言わせないと、美琴の気が済まないのだった。
そんな風に内心で苛立ちを募らせている――と本人は思っている――美琴の顔には、ほほえみが浮かんでいて。
納得したように木山は頷いた。言葉と裏腹な感情を推し量ることなど木山には不得手中の不得手だが、美琴のそれはわかりやすかった。
「好きなんだな」
「――――は?」
端的な、短い木山の感想に、美琴は思考を完全に停止させた。
ついでに足も止まる。
「ど、どこを聞いたらそんなことになるってのよ! 私は全然そんな」
本気で美琴は戸惑っていた。だって、そんなことを言われる理由がまったくわからない。
だが美琴の混乱をよそに、木山は記憶の海の中から、美琴を表す言葉を思い出そうとしていた。
「君はあれだろう。一昔前に流行ったとかいう、ツン……ツンデル? ツンドラ? ああ、ツンデ……」
かあっと頬に血が登るのを美琴は感じ取っていた。それは相手に対する単なる怒りとは明らかに違う感情なのに、それが何なのかをきちんと理解しないままに、ただ声を荒らげた。
「ありえねーから!」
ドン、と美琴は地面へと踵を強く叩きつける。
感情の高ぶりがごく自然に電界への干渉を促し、軽い放電が起こった。
「おや、私の見かけ違いだったかな」
「そうです! だって、そんなんじゃないし!」
「まあ、あまり気にしないでくれ。人を見る目があるとは、お世辞にも言えたものじゃないからね。私は」
木山が肩をすくめ、そう美琴に言い放った。
それ以上木山に言い募る言葉が多い浮かばなくて、不機嫌そうに美琴は黙り込んだ。
木山が数百メートル先に自分の車を見出すまで、かけられた言葉が美琴の頭の中でグルグルと回り続けていた。
だって、本当にそんなんじゃないのだ。別にアイツのことなんて気になっていないし、変な気持ちとかを持っているわけじゃない。単に気に入らないだけなのだ。だから、なんとか見つけ出してとっちめてやりたいだけで。
「ああ、あった。ありがとう、君のおかげで無事に見つかったよ」
あれだ、と木山が指を指す。その先には青いスポーツカーが止まっていた。。
当麻に押し付けられた仕事は、これで終わりになりそうだった。
まったくなんの用事があってコッチに面倒ごとを押し付けたのか、と文句を言ってやりたい気分になりながら、美琴は礼を言う木山に返事を返した。




当麻の汗ばむ腕をぎゅっと自分の腕に絡め、光子は上機嫌で街を歩く。
彼氏が隣にいるだけで、嬉しくて仕方がないのだった。
「まだ結構汗かいてるだろ」
「大丈夫ですわ。別に、気になりませんもの」
指定の時間ギリギリに走って間に合わせた当麻は、デート前としてはいくらか残念な位に汗をかいている。
もう息は整っているが、汗が引くまでにはまだかかりそうだった。
「婚后は出てくるとき何も言われなかったか?」
「言われるって、誰にですの?」
「湾内さんと泡浮さん、だろ? よく相談に乗ってもらってるの」
「……そんなに、お名前を覚えるくらいお話したかしら」
ちょっと面白くない。名前を出したのは光子なのだが、別に当麻に覚えてもらいたいとは思っていなかったのに。
「結構何度も名前聞いてる気がするけどな」
当麻がそう言って光子を笑った。そんな反応に誘われて、光子は唇を軽く尖らせて当麻の腕を軽く叩いた。
拗ねてみせるけれど、内心では嬉しいのだった。このやりとりは当麻が甘えさせてくれているということの証だから。
「上条さんは誰かに話したりしませんの?」
「……いや、まだ。男同士でそういう話すると自慢にしかならないしさ」
女性同士でもそうなのかもしれないが、プライドの絡む微妙な問題なのだ。
彼女のいるいないは男としての優劣みたいなものがついてしまうし、付き合ってすぐに分かれるようなことがあったらむしろ名を落とすことになる。誰かに言うにしても、それはちゃんと光子との関係が落ち着いてからのつもりだった。
とはいえ、そういう上条の事情は光子の知るところではない。光子は少し不満そうな顔をした。
「そうですの」
「恥ずかしいだろ? 付き合ってすぐに、俺彼女できたんだぜなんて話をするのはさ」
「それはそうですけれど」
光子とて湾内と泡浮に話したのは、当麻と付き合う前から相談をしていたからだ。それ以外の相手に、お付き合いする相手ができましたなんて自分から言いふらすようなことはしていない。女の噂はあっという間に広がるものだから、いずれは光子に相手がいることも、周知の事実になるのだろうけれど。
「いつか、ちゃんと紹介するって」
「どなたに?」
「よく遊んでる友達にさ。言っとくけどどっちも男な。よくつるんでるのが二人いて、片方は部屋も隣だしな」
「……ふふ」
ころころと表情を変えて、今度は嬉しそうに光子は笑った。
「どうした?」
「ちょっと想像していましたの。上条さんとお付き合いさせていただいております婚后と申します、って言ったらいいのかしら」
「なんか恥ずかしいな」
「はい。でも、そういうことって、嬉しくなります」
上目遣いで当麻をのぞき込んだ後、光子は先程にも増して、当麻にべったりとくっついてきた。
それが可愛くて、つい当麻も微笑んでしまう。
「どんどん、可愛くなってる」
「えっ?」
「初めて会った時より、婚后は100倍は可愛くなった」
「本当ですの?」
「ああ」
「嬉しい」
褒められたのがたまらなく幸せだった。当麻に可愛いと言われるだけで、舞い上がりそうなくらい、心が満たされる。
「でも、もしそんなふうに思ってくださるんだとしたら、それは上条さんのおかげですわ」
「そうか?」
ゆっくりと深く、光子が頷いた。
「大したことはないって仰るかもしれませんけれど、上条さんにかけていた言葉で、色々なことがいい方向に回っていきましたもの」
「婚后はもとから優しい女の子だったと思うよ」
そうやって褒めてくれる当麻ににっこりと笑い返しながら、光子は首を横に振る。
「そう言ってくださるのは嬉しいですけれど、きっとそんなことはありませんでしたわ」
「そうかな」
「そうなんです。上条さんが、私を変えてくださったから」
光子の態度は、尊敬と感謝をただ当麻に向けているという感じだったけれど、当麻としては苦笑を感じないでもない。
男のせいで女が変わる、というのは普通のことかもしれないが、まさか自分が当事者になるとは。
「その言い方だと、俺がまるで婚后を自分好みの女の子にしたみたいだな」
「光源氏の物語みたいに、かしら」
くすりと笑って、そんな風に光子は茶化した。
光子は読んだことがあるのだろうか、と当麻は気になった。もちろん自分にはない。
「格好いいロリコンの話だっけ」
「そんな言い方をすると身も蓋もありませんわ」
光子が苦笑した。
「ストーリーを見れば、完全に女性向けの娯楽小説そのものですけれどね」
国を統べる帝の子として生まれ、類い稀なる才覚と容姿に恵まれながらも、母方の家の権力が足りないばかりに臣籍へと降下させられた光る君。それが主人公の物語だ。
そしてたくさんいた彼の恋人のうち、最も近しく、最も愛された女性が紫上だ。
「作者の紫式部は、同じ色を名前に持つ紫上に、自分を重ねたんですわ。光る君に幼いころから見初められて、やがて妻になるまで一番愛された人ですもの。誰だって女なら、格好のいい殿方に、導いてもらいたいんですわ」
「光子も?」
嬉しそうに光子はコクリとうなずいた。
「私にとってはそれが、当麻さんだったんですわ」
恥ずかしげもなくそう言う光子に、当麻は居心地が悪いくらいだった。
どう考えても自分は、稀代の天才だとか美男子だとかでは、断じてない。身分だって、知る限りはごく普通の庶民の親から生まれたのだから特別なことはないだろう。光源氏と自分を比べるなんて、冗談にすらならない。
「どう考えても光源氏なんてガラじゃないけどな、俺。それにあの話、たしか主人公は浮気しまくりだったんじゃないか」
英雄色を好むというが、そういうところも自分とは断じて違う、と当麻は言いたかった。
「光る君は初め、正妻として葵の君という女性を娶っていましたし、事実上の正妻と言えるくらいの寵愛を受けてからも、のちには幼い女三宮が正式な正妻の座について、紫上は立場を奪われるんでしたわね。他にも六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方……」
「ひでーな。俺は絶対そんなことにならないな」
確信を込めて当麻はそう宣言した。間違っても凡人の自分にそんな色めいた展開は舞い込んでくるはずがない。
「上条さんには、そんな方、いらっしゃいませんわよね?」
確認を取るように光子がそう言った。ゆらっと、背後に剣呑な空気が立ち上ったような気がした。
おしとやかで優しい光子のイメージとはちょっと違うので、きっと当麻の気のせいだろう。
「当たり前だろ」
「信じて、いますから」
その言い方は、信じているという事実の表明というよりは、信じさせてくださいねという要請に近かった。
柔らかい語気の裏にある強い何かにたじろぎながら、当麻は頷いた。
「ところで上条さん。さっきまでは何をなさっていましたの? あの、責めるんじゃありませんけれど、いつもは余裕をもって待ち合わせ場所に来て下さるのに、今日は時間ぎりぎりに走っていらっしゃったから」
「ああ、ちょっと道に迷った人に会っちゃってさ。解決はしなかったけど、知り合いが来たからそいつに任せてきた」
「知り合い?」
「そういやビリビリのヤツ、常盤台だよな。もしかして婚后と知り合いかも……って」
詳しいことを尋ねようとして、思わず当麻は口ごもった。恨みがましい目で光子が見つめていたからだ。
「……常盤台に、お知り合いがいらっしゃるんですの?」
「え? ああ、そうだけど」
「私より、親しかったりして」
「そんなことないって。……婚后にしか、言ったことないんだぞ。好きだから付き合ってくださいって」
「本当ですの?」
「嘘なんて言ってない」
「……ごめんなさい」
疑いを向け続けるのをやめて、光子が項垂れて謝った。
「こんな、嫉妬深いのなんて、良くないですわよね」
「妬いたのか」
「だって」
自分と同じ、常盤台の女子生徒。年齢でも差はないし、能力や学力でも光子と大きな差はないだろう。
自分は、その子よりも当麻に愛されるにふさわしい人間だろうか。その質問に自信をもってイエスと言えないから、不安になるのだ。
「婚后は、特別な女の子だよ」
「ごめんなさい。いつも、上条さんはそうおっしゃってくださるのに」
落ち込む光子が可愛くて、当麻は思わず微笑んだ。
頃合を見計らっていたけれど、今はちょうどいいタイミングなのかもしれない。
「あのさ、せっかく付き合ってるんだしさ、いい加減、呼び方を変えたいなって思ってるんだけど」
「えっ?」
人目を今だけ気にせずに、当麻は光子の髪に触れた。
「光子、って呼んでもいいか?」
「――――っ! あの、私も、上条さんじゃなくて」
切ない顔をして、光子が当麻を見上げる。期待と喜びが綯交ぜになった、もう一度光子に恋をしそうになる顔だった。
「当麻って、呼んでくれよ」
「……当麻、さん」
「さんもナシでいいけど」
「ううん。当麻さんって、お呼びしたいの」
「俺は呼び捨てでいいのか?」
「呼び捨てにしてくださったほうが、嬉しいです。私は当麻さんのものなんだなって、そう思えますから」
思わず足を止めて、二人はじっと見つめ合った。
「光子」
「当麻さん」
名前を呼ぶだけで、嬉しい。それは特別な関係であることの証だから。
このままずっと見つめ合って、もっと仲を深めたいと願う二人だったが、いかんせん場所が悪かった。
邪魔だと言わんばかりに、通行人が当麻の肘にカバンをぶつけて通り過ぎていく。
「ここじゃ迷惑か」
「……そうですわね」
不満顔で光子が同意した。二人でゆっくり落ち着ける場所なんて、そうそうない。
「個室でゆっくりお話できるような場所、カフェなんてないのかしら」
「んー、少なくとも俺は行ったことない。大人向けだろ、そういう所って」
個室でカフェというのは普通なのだろうか、当麻には判断し難かった。
それに、二人きりになれる場所の代表的な場所にひとつ、当麻は心当たりがある。
「部屋に入るまでがちょっと気になるけど、うちにくれば二人っきりにはなれるな」
「えっ?」
「光子は女子中の寮だから俺が入ることなんて絶対に無理だろうけど、俺の部屋なら結構なんとかなるんだ。彼女連れ込んでる奴って結構いるし」
規則としては、確か男子の部屋に女子を連れ込むのは御法度だった気がする。高校生にもなれば間違いを起こす確率がずっと上がるからだ。だが、不良ではないにせよ学園都市の落ちこぼれの集まる学校だからか、管理は行き届いていないのが実情だった。
そんな当麻の提案を聞いて、光子はすこしぼうっとして空を見上げた。
「光子?」
「あの……当麻さんのお部屋は、キッチンはありますの? 常盤台は個室にそういうものがありませんの」
「うちはワンルームだからな。狭っ苦しいけどキッチンは付いてる。それを聞くのってさ、もしかして」
ゆっくりと光子が頷いた。思い出していることは、二人とも同じだろう。
まだ付き合うより前。冗談から出た話で、いつか光子が当麻の家に来てご飯を作る、なんてことを言っていたはずだ。
「二人っきりのおうちで、当麻さんのために、ご飯を作る」
「……してくれるのか?」
「あの。笑わないでくださいましね。そんなに、上手なわけじゃなりませんの」
「そんなの俺だって一緒だって」
「きっと当麻さんより、もっと」
「いいよ。光子が作ってくれたものならなんでも」
優しくそういうと、ちょっと光子は拗ねた顔をした。
美味しくなくてもいい、期待はしない、と言われているようでそれはそれで面白くないのだ。
「せ、せっかくお伺いするんでしたら、それまでには少しは練習しますもの」
「……幸せだ」
「え?」
「こういう優しい子に、彼女になってほしかったからさ」
「……っ!!」
満面の笑みで、光子は当麻の腕にしがみついた。
「いつか、誘ってください。精一杯練習しますから」
「ん」
幸せすぎるのは、光子だって同じだった。
撫でてくれる当麻の手の感触に、光子はそっと目を細めた。




その後、目的地だったペットショップへ寄って簡単な買い物をし、何気ないファストフード店で、完全下校時刻ギリギリまでずっと喋っていた。
デートとしては低予算で、大したイベントもない逢瀬だったけれど、当麻にとっても光子にとっても、幸せな時間だった。
だからなおさら、別れの瞬間がさびしくなる。
「それじゃ、ここまでだな」
「ええ。いつも遠回りをさせてしまってごめんなさい」
「いいんだって。大した面倒でもないし、光子と長くいたいから」
「ふふ」
夕暮れ前の、学舎の園の入り口。身分証明書によるチェックを必要とする、男子禁制の領域へのゲート前で、二人は最後の言葉を交わす。
同じことをしている学生は周りにもちらほらいて、別の男子と視線が合うと互いに気恥ずかしかった。
相手のいないらしい女学生もいて、ちょっと恨めしそうな顔をしながら横をすり抜けていく。
「これ、俺たちが付き合ってるってバレバレだよな」
「隠したいんですの?」
「そんなことはないけどさ」
光子は気恥ずかしくないのだろうか。
「いつかは皆に知られることですし、当麻さんみたいな素敵な彼氏がいるのは、自慢ですもの」
「み、光子。声大きいって」
周りにいる男子に聞こえるのは、御免こうむりたかった。
「ほら、もうそろそろ門限だろ。中に入らないと」
「……ええ、そうですわね」
学舎の園を外から隔離する門はちょうど駅の改札みたいになっていて、おとがめなしにここを通れる時間は、もうあと数分程度だった。
門限超過が重なると外出不許可になるから、絶対にくぐらないといけない。
そしてもちろん、当麻はその先へはいけない。
「……寂しい。当麻さんと離れるの、嫌」
「俺もだよ。ほら、またすぐにメールするから」
「もう。私だけがわがままを言っているみたい」
「二人で文句を言ってても、どうしようもないだろ? ほら、光子」
「あ……」
人前だから、抱きしめられたりはしない。当麻は優しく髪を撫でてくれた。
その手を自分の頬へと導いて、光子はぬくもりを確かめた。
「それじゃあ、当麻さん。今日も楽しかったですわ」
「俺も。次に会う日も、すぐに決めような」
「はい」
互いに微笑みあい、しばしの別れを名残惜しんでから、光子はゲートをくぐった。
振り返ると、当麻が手を振ってくれる。それに手を振りかえしてから、光子は自分の寮へと歩みを進めた。
離れてすぐは寂しさに胸がきゅっとなるけれど、だからと言ってずっと当麻との逢瀬だけを楽しめるわけではない。
見知った道を歩くにつれ、だんだんと心は日常を取り戻していった。




常盤台の学生寮まで、もう路地を幾つか曲がったところ。
ゲートの門限とは別の、寮のほうの門限に間に合うか少し時間が怪しくなって、光子は時間短縮になる裏道を歩いていた。
立ち寄れる商店がないため、人通りが少ないその道だが、ショートカットのおかげで何とか間に合いそうだった。
西洋風の街並みを模して造られた学舎の園の路地は、その多くが車がギリギリすれ違える程度の狭い路地に、三階建てくらいの石造りの建物がひしめいているせいで、夕方になると地面に日の光が届かず、急に薄暗くなる。
男性を排除しかなり安全な場所とはいえ、長居はしたくない雰囲気があった。
カツカツと、歩みを進めるうちに、光子はふと違和感を覚えた。かすかに、足音が自分以外にもう一つ聞こえたのだ。
この道は常盤台の寮くらいしか目的地がないし、常盤台の学生はもう他にいなかったことを確認している。
「……?」
光子が歩みを止めると、足音は一つも聞こえなくなった。後ろを振り返っても、誰もいない。
気のせいだったかしらと思い直し、再び歩き出す。今後は踵が立てる音が控えめになるよう、少し慎重になった。
カツカツと、石畳に再び光子の足音が響く。だがそこに、やはり常盤台指定のローファーとは違う、誰かの足音が混ざっていた。
「――どなた?」
毅然とした声で、光子は誰もいない路地の先へと声をかけた。
反応はなかった。
「私を、常盤台中学の婚后光子と知っての狼藉ですの?」
不審な人物がいるなら、放置することはできない。
警戒を込めて自分の来た道を睨みつけながら後ろへ二三歩下がる。
突如、何もないはずの道端で、光子は何かに――否、誰かにぶつかった。
「……っ!」
慌てて振り返る。けれど、そこには依然として人影は見えなくて。
「なん……ですの?」
そうやって、ひとり呟いたその瞬間だった。
背後から髪と、首筋に何かが押し付けられる感触。
振り払うだとか、そんなことを考えるよりも先に、衝撃が光子を襲った。
「あ、――っ!」
他人事のように、自分の体が軽い悲鳴を上げた。
そして何が起こったのか、それを理解するより先に、意識が暗転していった。
スタンガンによる攻撃を受けたのだと理解するだけの時間は、光子にはなかった。
「……」
どさりと崩れ落ちた光子を、スタンガンと大きなマジックペンを手にした少女が見下ろす。
この常盤台の女が恋人と別れこの道にたどり着くまで、つけ狙った甲斐があった。
倒れこんだ光子の体を押し、あおむけにして流麗な顔のパーツを確認する。すこし歪んだ喜びを口の端に浮かべて、少女は光子の髪を掻きあげた。
手にしたマジックペンのキャップを開ける。そして少女は、無慈悲にその先を光子の眉に押し付けた。

そうして光子は、常盤台の女学生を襲った一連の事件、後に美琴や風紀委員である白井、初春、そしてその友人の佐天らによって解決されたその一件の、最初の被害者となった。



*********************************************************
あとがき
アニメ版超電磁砲第三・四話の焼き直しのストーリーでした。当麻と美琴の絡みについては大筋でアニメ通りになるよう書きました。あえて大きな改変を行わなかったのは、当麻に恋人がいるというバックグラウンドの部分が変化することで、このストーリーの意味が全く逆になる事を強調したかったからです。原作じゃあこの話は、主人公の美琴が気になるアイツとすれ違うっていうニヤニヤ回だったんですけどね……。
また、源氏物語を引き合いには出しましたが、だからと言って紫の上(に例えた光子)より前に当麻が別のヒロインを正妻にする展開なぞ考えておりませんし、後からやってきた若いヒロインに正妻の座を奪われたり、あまつさえそのヒロインがステ……別の男の猛烈なアタックにほだされて浮気→不義の子を身ごもる→事実を知りつつ当麻が自分の子として養育する、なんて展開にはなりませんので、どうぞご心配なく。
……しかし源氏物語のストーリーをパクるとドロドロの恋愛物語になるなあ。



[19764] prologue 07: その心配が嬉しい
Name: nubewo◆7cd982ae ID:e12161f9
Date: 2013/10/25 14:49

まだ午前の早い時刻、当麻はとある病院の中を、足早に突き進んでいた。
通り過ぎる病室の一つ一つのネームプレートを確認しながら、目的の場所を探していく。
ほどなく『婚后光子』と書かれたそれを発見し、当麻はスライド式の扉に手を掛け、息を整えた。
コンコンと扉をノックする。二度ほどやり直しても、返事は無かった。
「……光子」
そっと中に声をかける。返事がなかったので扉を少し開け、中を覗き込んだ。
部屋の中に動くものはなく、ただベッドが少し膨らんでいた。
「入るぞー」
小声でそう囁き、当麻は体を部屋に滑り込ませた。光子の個室に忍び込むのに、気まずい思いはないでもない。
外で会うことはあっても、二人っきりになった経験が、あの観覧車くらいしかないのだった。キスだってまだだ。
背徳感めいたものを覚えながらベッドに近づくと、光子はシーツを首までしっかりかぶって、寝息を立てていた。
「寝てるのか」
行儀がよすぎるくらいまっすぐに体を伸ばし、光子は目をつむっている。
その穏やかな表情を見て、改めて当麻はホッと息をついた。
ベッドサイドにあった椅子を手繰り寄せて、寝顔の見える位置に座り込む。


光子が暴漢に襲われて病院に運ばれたという話を聞かされたのは、数日前のことだった。
デートを終えた後、その日の晩に光子から一切の連絡が来ないことをいぶかしんでいた当麻だったが、次の日になって、警備員(アンチスキル)から連絡が来て、ようやく昨日の出来事を知ったのだった。
曰く、自分と別れた後、学舎の園の中で何者かの襲撃にあいスタンガンで意識を奪われた、と。
それ以上にどのような傷を負わされたのか、当麻は気が気ではなかった。
すぐに見舞いに行くと言ったが禁じられ、数日間の面会謝絶を言い渡された。
犯人は女性らしいということだったし、命に別状もなく、また身体への暴行などはなかったから最悪の事態は免れたのかもしれないけれど、それでも会えない時間は当麻の焦燥を募らせていた。
「……良かった」
首から下は見えないが、光子のきれいな髪と整った顔立ちにいささかの傷もない。昨日光子自身に電話で聞いた話でももう何ともないという話だったから、大丈夫なのだろう。
ようやく昨日になって光子の携帯電話が手元に戻ってきて、当麻と連絡が取れたのだった。
「起こすのも悪いかな」
朝ご飯は食べたとナースに聞いたから、これは二度寝なのだろうか。そういうことはしないんじゃないかと勝手に思っていたから、なんだかおかしかった。
起きるまで、待っていよう。そう当麻は決めて、光子の顔をじっと見つめた。
大好きな彼女の顔は、見飽きる気がしなかった。




……ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。
「もう、ずっと見るなんてずるいですわ」
顔から火が出そうだった。光子としては、当麻がお見舞いの品を片づけたりしている間に目を覚ましたことにしたかったのに、予想に反してずっと見つめられてしまったから、起きるタイミングがなかったのだった。
当麻に見せたのは、本当の寝顔というわけではなかった。あまりにも会うのが久々だし、着ているのは人任せで買ったパジャマだし、気恥ずかしかったのだ。
だからつい、ノックされた瞬間に寝たふりをしてしまったのだった。
とはいえ、当麻が起きて出ていくまで寝たふりをつづけることはできないだろう。どれくらい時間がかかるかわからないし、それに寝てばかりでは無駄な心配をかけるかもしれない。
なにせ、自分はすでに完全に回復しているのだ。
上半身を起こし、手元にあった扇子を開く。
当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いて、かすかに舟を漕いでいる。
光子は扇子でそよそよとした風を送り、当麻の頭にあてた。
扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。
弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。
その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。
バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度のそよ風だ。
思ったよりも幼く見える当麻の寝顔を眺めながら、光子は当麻のために涼をとる。
そうやって尽くせるのが嬉しくて、光子は黙って手を動かし続けた。
「……ふふ」
寝たふりの最中だったから顔を見られなかったのが残念だけれど、「良かった」とつぶやいた当麻の声が、本当に安心したという感じだったのが嬉しかった。想われているのがわかる、というのはとても幸せなことだ。
家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。
来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。
もちろん、当麻がひどく心配した理由は、暴漢に襲われた恋人が一週間近くも面会謝絶になったという事実のせいだろう。
率直に受け止めればそれは光子が大怪我をしたというような意味に取れそうだが、事実は異なる。

光子を襲った犯人は、中学生の女の子だったらしい。
その彼女がスタンガンまで使ってやりたかったことは、光子の身体への影響という意味では、なんでもないことだった。
目を覚ますと、何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。
彼女自身にとっては何か深い意味でもあったのかもしれないが、光子には到底理解しがたい所業だ。
あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。
年頃の女子学生にとって、ゲジゲジまゆげを晒しながら生活を送るなんて、とても耐えられることじゃない。そう我が侭をいった結果が、この数日間だった。
そして今日、ようやく光子に会えた当麻はほっと一息つけたというわけだ。その後うたた寝を始めたところで、今度は光子のほうが幸せを噛み締めているのだが。
――明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。この間行ったセブンスミストはカジュアルな服が色々揃っていたから、当麻さんに夏物を見てもらいたいし。
そう考えを巡らせながら扇子を畳み、光子はそっと当麻の髪に触れた。
尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。
肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。髪の艶の良さや手触りの滑らかさが保たれていると、自分の髪がとても好ましく思えるのだ。
その基準でいえばもちろん当麻の髪は落第だが、同じ基準で比べる気にはならなかった。石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感で、どことなく安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。
「当麻さん……ふふ」
つい寝顔がもっと見たくなって、体を傾けて当麻の顔に自分の顔を近づける。
それがきっかけになったのか、不意に、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。
「あっ」
「あ……婚、光子」
変えたばかりの呼び名を間違えそうになって、はっと当麻は覚醒したらしかった。
「当麻さん、おはようございます」
「あ、ああ。起きたんだな。悪い、こっちが寝ちまった。寝顔見たら、穏やかそうだったからほっとしたし」
「ごめんなさい。私こそ、今日当麻さんがいらっしゃるって聞いていましたのに」
「気にしなくていいさ。それより、大丈夫だったか?」
「はい」
光子は短くそう返事をした。
「心配、してくださったの?」
「当たり前だろ。いきなり警備員(アンチスキル)から電話がかかってきて、知り合いの女性が襲われたから事情を聴きたい、だぜ。それで詳しく聞いたら、光子が入院してて、しかもお見舞いもダメな面会謝絶って。頭が真っ白になった」
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることはないんだけどさ。光子だって、被害者なんだから」
「でも、誰にもお会いしたくないって言ったのは、病気のせいじゃありませんもの。実際、親しいお友達にだけは必要なものを持ってきてもらったりでお会いしていますし」
「結局、大丈夫なんだよな、体のほうは」
「ええ。心配ありませんわ」
「良かった。本当に」
当麻がそう言って、光子の手を両手で包み込んで、自分の額に押し当てた。長い気の抜けたような溜息をついて、わずかに疲れを見せた顔で優しく笑う。
そんな当麻の態度に申し訳なさを感じる半面、嬉しく思う自分を光子は否定できなかった。
「こんなことを言ってはいけないんでしょうけれど。当麻さんに心配してもらえて、嬉しい」
「嬉しいからって二度とやって欲しくないことだけどな」
「私だってご免ですわ」
苦笑しながら空いた手をさらに当麻の両手に重ねる。ベッドとベッドサイドという変則的な位置取りではあるけれど、二人っきりで、しかも近い距離にいられることが嬉しかった。
「たしか、今日退院だったよな?」
「はい。事件の犯人も捕まったそうですし、これで不安なく街を歩けますから」
お見舞いを受け付けたその日に退院というのも気が早いが、いろいろな事情で強引に引き延ばしていた入院なので仕方ない。
「解決したのか?」
「警備員の方にそう聞きましたわ。詳しいことは知りませんけれど」
常盤台の学生に恨みのある女生徒による犯行だったとのことだった。もとより学舎の園の中での犯行だから容疑者は絞りやすいし、その絞った中に犯人がいたとかであっさり補導に至ったようだ。
襲われた人間として詳しい話を聞きたくもあるが、警備員はそんな口の軽いことはしてくれないだろう。
「無事解決ってんならそれは一安心だな。それでさ、どうしようかと悩んだんだけど、お見舞いはやめておいたんだ。入院中に必要なものって考えても、すぐに退院だし」
「どうぞお気遣いなく。当麻さんが来てくださるだけで嬉しいですわ」
社交辞令などではなく、本心からの思いだった。
申し訳なさそうに髪をかく当麻の、その表情を見られるだけでとても元気づけられる。
「代わりにさ、快気祝いのほうがいいかなって」
「えっ?」
「光子が行けるタイミングでデートに行って、そこで何かプレゼントさせてくれよ。それとも俺が選んで買って行って、渡したほうがいいか?」
「そ、そんなの。気になさらなくっていいんですのよ? 大した怪我ではありませんでしたから……」
「光子こそ気にしなくていいって。俺が、光子に何かをあげたいんだ。それで喜んでもらえたら、俺も嬉しいし」
どうしよう、と光子は思案した。買ってもらえるという提案は、ものすごくうれしい。当麻に何かをもらえるなら絶対に欲しい。嬉しい。
だけど、そうやって好意に甘えるのは、図々しくはないだろうか。
「……図々しいって思われたら、嫌ですけれど」
「ん?」
「当麻さんに、夏物を一緒に見てほしくって」
「服ってこと?」
「はい。デートに着る服が、もう少し欲しいな、なんて思っていて、その」
「じゃあそれ、見に行こう」
「ごめんなさい、わがままを言って」
怒られたり、嫌われたら嫌だなと思いながら、光子は当麻の表情を窺った。自然とうなだれたような姿勢から当麻を見つめることになる。
そんな、光子の上目遣いのしぐさに当麻はドキッとした。甘えてくる女の子の典型的なしぐさなのだろうけれど、その破壊力を身をもって知ったのは初めてだった。
「謝らなくていいって。それより、もっと聞きたい言葉は別にあるんだけどな」
「あっ……」
当麻の言わんとすることに、すぐに光子も気づいたらしかった。
「次のデート、退院のお祝いって大義名分つけるからさ、何か、光子に贈らせてくれ」
「嬉しい。当麻さん、ありがとうございます」
形式ばった口調で告げた当麻に、光子は言うべきお礼を返した。
そうして、言葉にしてから、後になってさらに喜びが湧き上がってきた。
「どんなものが欲しい?」
「えっと……ごめんなさい、すぐには考えがまとまらなくて。ただカジュアルなものが欲しいと思っていましたから、そういうものを」
「じゃあ、そういうのがある店に行くか。知ってるところだと、駅前にセブンスミストって店があってさ、あそこは結構大きいんだけど」
「知っています。こないだお友達と行きましたの」
「そっか。んー、女性服の売ってる場所は詳しくないから、あそこしか出てこないんだけど」
「場所はそれで構いませんわ。ひととおりなんでも揃っていますし」
話しているうちに、今日これからの検査や退院手続き、帰宅といった面倒なことが頭から消えて行って、楽しい想像で一杯になった。
「ふふ、すごく楽しみですわ」
そういって目を閉じ、光子が溜息をついた。
カーテンによって薄められた陽光で浮かび上がる光子の優しい微笑みを見て、当麻はつい、光子を抱き寄せたい衝動に駆られる。
まだぎゅっと抱きしめたことはない。いつだって人前でしか会えなかったせいだ。
ほんの数日とはいえ、会えない日々がそうした欲求を強めていた。
「今日はまだ、時間あるのか?」
「ええと、午前中に検査だそうですから、その」
「そっか」
時計を見ると、診察開始の時刻までもうあまり残っていないらしかった。
「せっかく来ていただいたのに、あまり時間が取れなくってごめんなさい」
「気にするなって。一日でも早く会いたいからって、無理に押し掛けたようなもんだし」
さすがに退院すぐの光子は、その足で当麻と会おうにも学舎の園の外に出る許可が下りない。今日会うなら、見舞いというチャンスしかなかった。
「あのさ」
「はい」
光子とつないだ手をそっと離し、光子の髪を触ってから、その肩に手を置いた。
「光子、好きだよ」
「私も。当麻さんが来てくれて、すごく嬉しかった」
「良かった。光子」
何かを尋ねかけてから、口をつぐむ。光子が首をかしげて疑問を伝えてきた。
今から自分がしようとしていることに、当麻は許可を求めようとしてやめたのだった。
何も言わずにするほうが、喜んでもらえる気がしたから。
「あっ」
肩においた手に力を込め、ゆっくりと当麻は光子を抱き寄せた。
同時に自分も椅子を最大限に光子に近づける。
嫌がる素振りを光子は見せなかった。わずかに見せた不安顔は、行為へのというよりは、うまくできるかわからないという自信のなさだろうか。
ほどなくして、二人の距離はゼロになる。
接触の感触に少し遅れて、光子の体温がじわりと肌に届いた。
「ああ……」
光子が溜息をついて、沈み込むように、さらに当麻にしなだれかかる。
そうやって、恋人に体重を預けられることに、当麻は感動を覚えていた。
「光子、可愛いよ」
「嬉しい。あの、支えていただいて、お辛くありません?」
「大丈夫。それより光子こそ、その体勢しんどくないか?」
「全然気になりません」
首を振って、光子が顔をうずめた。
「当麻さんの心臓の音、聞こえます」
「俺は光子の、聞こえないけど」
「それはそうですわ」
光子が当麻の冗談をクスリと笑う。光子が当麻の体の内に収まっている以上、構造的にありえない。
「でも俺も聞いてみたいけどな、光子の」
「どうしてですの?」
目で笑いながら、当麻に問いかけた。だって赤ちゃんみたいだ。
自分で言っておいてなんだが、心音が聞こえるくらいの近距離なのは嬉しいけれど、心音そのものがどうかというとそこまで思い入れはない。
もっと当麻に甘えた気分で、眠たい時なら別かもしれないけれど。
からかわれた仕返しだろうか、そんな光子の素朴な疑問に、当麻は意地の悪い表情を返した。
「逆の状態って、どうなってるかイメージしたか?」
「え? 当麻さんが私の胸の……あっ!」
さあっと、光子の頬に朱がさした。逆バージョンというのは、つまり当麻が光子の胸に顔をくっつけるということだ。
からかわれたと悟って、光子は口をとがらせる。
「当麻さんのエッチ」
「なんで?」
「だって……そうじゃありませんの」
「わかんねえなー。付き合ってるなら、彼女を抱きしめるのと逆に、彼女に抱きしめてもらうのだってアリだと思うけど。それが駄目なことなのか?」
からかうようにそう言いながら、当麻はちょっとあやういものも感じていた。だって、光子の体は、とても二学年下の女の子と思えないくらい、成熟している。
今だって当麻の体に押し当てられたたわわなその感触は、ちょっと意識を集中させるとヤバい感じなのだ。
「当麻さんとそういうことをするのが嫌だなんて、言っていませんわ」
「そうなのか?」
「ええ。当麻さんが変なことを仰ってからかうのが悪いだけで……」
「じゃあしてもらおうかな」
「えっ?」
素直な光子は、誘導が楽だった。つい意地悪をしてしまうのはそのせいだろうか。
「で、でもっ。心の準備が」
胸の話でからかってからそんなことを要求するなんて、当麻はひどいと思う。
抗議を含んだ表情で当麻を見上げると、優しく笑い返されてしまった。
「光子は本当に可愛いな」
「こんなタイミングで言われても喜べませんわ。せっかくこうしてるのに、当麻さんたら私をからかって」
「拗ねるなって」
「知りません」
光子がそう言って俯いた。もちろん本気で怒っているわけじゃないのはわかっているが。
抱きしめたまま髪を撫でる。流れて頬にかかった光子の髪はいつもと変わらず、ほつれひとつなかった。
「光子」
「……」
返事はなく、ぐいと光子はもたれかかった体をより強く預けることで答えを返した。
「顔、見せてくれよ」
「嫌ですわ。きっとまた、からかわれますもの」
「しないって」
「本当に?」
「ほんとにしないよ。光子に嫌われたくないし」
「嫌いになったりは、しませんけれど」
わずかに笑って、光子が当麻を見上げた。
「光子は、綺麗だよな」
「もう、おからかいにならないでって言ったばかりなのに」
「本心からそう思ってるんだって。光子は、めちゃくちゃ可愛いよ」
「……あ」
当麻と、視線が重なり合う。今までで一番近い距離だ。
息遣いがダイレクトに聞こえるほどの接近。だから、二人とも、相手が息をのんだことがすぐに分かった。
「とうま、さん」
「光子」
「っ!」
真剣味を帯びた呼びかけに、光子は何も言えなくなった。
二人きりの個室に、沈黙が響き渡る。
目線を外すことができない数秒が、光子には何倍にも長く感じられた。
「光子……」
当麻の瞳が、強く当麻の気持ちを物語っている。その意思に抗おうとしない自分がいるのを、光子は自覚していた。
唇を、誰かに捧げたことはない。そして、今この瞬間がそうなのだとは考えていなかったけれど、いつかは当麻に貰ってほしいと、そう思っていたのは紛れもなく事実だった。
心臓が、苦しいくらいに鼓動を早める。
当麻が、何かを言おうとした。その時だった。




パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。




ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。
光子が慌てて着ていたパジャマの襟を直したり、髪を手櫛で直したりするのを情けなく見守りながら、当麻はがっかりした気分でいっぱいだった。
もちろんそれは、光子も同じだったけれど。
ほどなくサンダルの足音がやみ、コンコンというノックの音が部屋に響いた。
「どうぞ」
「おはよう。婚后さん、そろそろ検査の……って、あら。お邪魔してごめんなさいね」
「べ、別にお邪魔なんて」
「そう? でも、彼氏さんと二人っきりなんだし、若いあなたたちなら普通よ。けど、時間切れね。検査が始まるから、そろそろ準備をしてくださいね。そのまま退院だから、服はもう外出用のにして、荷物もまとめておいてね。あとで預かるから」
「わかりましたわ」
数日もここで過ごしたからだろう、もうそれなりに親しくなったらしかった。
よろしくねと一言残してさっさと出て行ったナースに、光子が恨めしい視線を送っていた。
「あの、当麻さん」
「わかってるって。ちょっと、もったいないことしたけど」
「ええ……あの」
「急ぐ必要ないもんな」
「え?」
当麻が再び身を寄せて、光子をもう一度抱きしめた。
「今後、二人っきりになったら、光子にキスする」
「……はい」
「嫌じゃない?」
「そんなわけ、ありません」
正直に言うと、そうやって相手に体を許す行為は、結婚をしてからだと教えられてきた。
別にそれが間違っているとまでは思わないが、キスくらい、光子だってしたかった。
当麻に愛されたかった。
「じゃあ、約束な。今日のところは、帰るよ」
「はい。当麻さん、来てくださって、ありがとうございました」
「光子の元気な顔が見れて俺もうれしかった。それじゃ」
「はい」
そう言って、当麻は立ち上がり、光子の部屋を後にした。




去り際に交わした視線に後ろ髪をひかれながら、当麻は出口へと向かう。
「さて、どこ行くか」
休日の午前に、今日すべき重要な用事が終わってしまった。
光子自身はもう回復したみたいだし、別に遊びに行こうが何をしようが、もう咎めるものはないのだが。
スケジュールをあれこれ考えていると、後ろから声がかかった。
「ん? 上条か。こんなところで何やってるじゃんよ」
「黄泉川先生?」
振り向くと、光子が霞むくらいのナイスバディを野暮ったいジャージに包んだ女性がそこにいた。当麻の学校で体育を受け持つ教諭だ。
名前は黄泉川愛穂(よみかわあいほ)。恋愛対象としてみるにはいささか年上すぎるとはいえ、容姿は間違いなく美女の部類に入る。
生徒からの人気も高く、また当麻自身も決して嫌いな相手ではないのだが、どっちかというと声をかけられると背筋を正してしまうような相手だった。
なにせ黄泉川は警備員(アンチスキル)だ。能力という厄介なものを身に着けた学園都市の学生の素行を取り締まる、実動部隊のお姉さんなのである。
最近は忙しいらしく、自分でクラスを持つことなく当麻のクラスの副担任を勤めているのだった。
「怪我でもしたのか?」
「あ、俺はなんともないです。知り合いが入院してるんで、その見舞いです」
「うちの生徒か? 具合は?」
「別の学校の生徒です。もう体調も良くて、今日退院です」
「そうか。ま、元気ならよかったじゃんよ」
そう呟いて、黄泉川は当麻の相手からは興味を失ったらしかった。
心の中で当麻はほっと一息つく。まさか副担任に彼女を紹介、なんてのは勘弁してほしい。
なにも付き合っている相手がいるというだけで怒られることはないろうが、小言を言われるのは確実だった。
「先生はなんで病院に?」
「ちょっと面倒な事件があってね。ここには顔も知識も広い優秀な医者がいるから、その人に相談にきたんだ」
「じゃ警備員(アンチスキル)の仕事ですか。大変ですね」
「好きでやってるんだ。文句はないじゃんよ」
ニッと笑って黄泉川はそう返した。嫌な顔一つ見せず、週末まで働くその仕事っぷりには一般市民としては頭が下がる思いだった。
「ところで上条」
「はい?」
「お前、レベルアッパーって知ってるか?」
何気ない口調で、黄泉川はそんなことを当麻に尋ねた。思い当たる節はないので、首をかしげるしかない
「なんですか、それ」
「レベルを上げる薬、だそうだ」
大真面目にそう告げる黄泉川に向かって、露骨にため息をつく。
あまりにありがちで、ばかばかしい話だからだ。
「違法な開発薬かスキルアウトの連中の興奮剤か、どうせそんなのでしょう。つーか、俺がそういうの知ってると思いました?」
「……すまん。そういう意図じゃなかった。ちょっと最近問題になっててな」
一般学生を不良扱いした形になったので、態度を改めて黄泉川が謝ってくれた。
だが謝られるとそれはそれで居心地が悪い当麻だった。
こちらから吹っかけたことはないが、当麻は暴力沙汰に巻き込まれたこともそれなりにある。
「上条、お前はそういうのには手を出さなそうだって、見てわかってるけど。一応教師だからな。釘は刺しとくじゃんよ」
「やりませんよ」
光子という恋人を得てこんなにも人生を満喫しているというのに、どうしてそんな馬鹿なものに手を出すものか。
そう心の中で一蹴したので、当麻は黄泉川が『レベルアッパー』なるものを単なるクスリにとどまらないものを感じていることに気が付かなかった。
「それじゃあたしはもう行くよ。また週明けにな、上条」
「はい。お疲れ様です」
手を振って挨拶をした黄泉川に会釈を返し、当麻は病院を後にした。




[19764] prologue 08: セブンスミストにて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:e12161f9
Date: 2014/02/17 10:23

キーンコーンカーンコーンと、一日の終わりを告げるチャイムが当麻たちの教室に響き渡る。
「よしっ、それじゃあ今日はこれで終わりです。ここの所物騒な話も聞きますし、野郎どもも子猫ちゃんたちもなるべく寄り道しないで帰るですよー」
休み明け、月曜日というのはどうしてこうもだるいのか。
担任の小萌先生の声を聞き流しながら、あくび交じりに伸びをして当麻はこれからの計画について思案する。
昨日退院したばかりの光子は、しばらくは学舎の園からは出られない。だから今日はデートの予定はない。
「あー……。授業が終わったのはいいけど、エアコンのない帰り道を考えると憂鬱だにゃー」
すぐそばで、土御門がだらけきった姿勢でそうこぼした。その発言には全くもって同意なのだが。
「けど帰ったらメシは出来上がってんだろ? 夏の台所を回避できるだけでも贅沢だっての」
エアコンも効かず、ガス火の熱風で蒸しあがるそこは、真夏における地獄である。
自炊を常とする当麻にとって、まさにそこは悪夢の場所なのだが。
「まーそれは、メイドにして妹という素晴らしい存在を手にした男の特権ぜよ」
悪びれもなくそう言って、土御門はだらだらと机の上の教科書を片付けだした。
「カミやん、これからどうする?」
「今日は駅のほうに出ようか考え中」
「駅? モールに買い物でも行くのか?」
「そんなトコだ。土御門はどうする?」
「買い物だったら付き合ってアイスでも買おうかと思ったけど、遠出はパスだにゃー。舞夏に怒られる」
「そうか」
内心で安堵したのを悟られないよう、当麻は表情を取り繕う。
今日行こうと考えているのは、セブンスミストと呼ばれる大手量販店だった。それも自分の服を買うのではなく、女物をざっと調べに行くのである。
一人で行くには根性のいる場所だが、だからといって男友達についてきて欲しくはなかった。
光子に合う服はどんなものかな、なんて考えながら男友達と一緒に女物のフロアを歩くのははっきり言って気持ちが悪い。
「そういやカミやん、物騒な話で思い出したけど、レベルアッパーって知ってるか?」
「あ、それ噂になってるやつやんね?」
別サイドからもう一人のクラスメイト、青髪にピアスの学級委員が割り込んできた。
180センチを超える長身が暑苦しい。
「使うだけでレベルが上がる魔法のアイテム、って話だにゃー」
「ボクも面白そうやから探してみたんやけど、まだ見つけてへんね」
両隣で交わされるその会話に、当麻ははあっと溜息をつく。本当にレベルを上げられる薬なんて、そんなものがあるわけがない。
しかも別に、この二人は使いたくて会話しているのではないだろう。
話のネタとして面白いから情報交換しているだけなのだ。どうせ。
つい昨日の黄泉川先生との会話を思い出しながら、当麻は二人の楽しげな雰囲気に水を差してやる。
「どうせ探し出せても、犯罪スレスレか犯罪そのものの禁止薬品が出てくるだけだろ」
だが当麻のそんな態度を見て、土御門はニヤリと笑った。
「それがどうも違うらしいんだにゃー」
「あん?」
「どうもマジで、あるっぽいんだよ」
「そんないかがわしい、レベルアッパーってのがか?」
「うそっ、土御門クン、なんか知ってるん?」
半分以上疑ったままの当麻の横で、青髪ピアスが身を乗り出す。その二人の反応に気をよくしたのか、土御門がうなずいて腕を組む。
「出所は明かせないけど、かなり具体的な情報が手に入ったんだにゃー。なんとこの幻想御手<レベルアッパー>、薬品じゃないらしいぜ」
「はあ?」
能力を引き上げるということは、幻想御手は脳に働きかける何かであることは間違いない。
そして、前代未聞の効果を発揮する優れものが、薬品以外のものとは考えにくい。超能力でもない限りは。
視覚や聴覚を入力とする洗脳の手段なんて、薬品で血流を通して直接脳の働きに介入するのに比べれば、効き目などたかが知れているのだ。
「でも、確かにそのほうが信憑性あるかも。そんな危険なものがクスリやったら、絶対にもう売ってる連中が警備員につかまってるはずやんね」
「ただの都市伝説だってほうがよっぽど信憑性あるけどな」
「カミやんの言いたいこともわかるけどな、最近流行ってる事件も関連してるって話ですたい。知らないか? 能力者が事件を起こしたってんで捕まえてみると、どうもそいつのレベルじゃ到底起こせないような大規模な破壊とかが起こってるって話」
「知らねえよ。ってかどこからそんなゴシップ引っ張ってきたんだよ」
「ソースは教えられないな」
「で、結局幻想御手<レベルアッパー>ってのは、なんなん?」
「それはな」
勿体ぶるように土御門が言葉を切る。そしてその一呼吸で注目を集め、答えを口にした。
「……音楽、らしい」
「は?」
「入手経路は分からんけど、その曲を聞けば能力が上がるとか」
どうだと言わんばかりの顔でそう言い切った土御門に、精一杯呆れ顔を返してやる。
だって、言うに事欠いて、音楽だって?
「んー、土御門クン、もっと上手にオチつけてくれへんと、モヤモヤする」
「だな。次からは最後までストーリーを練っといてくれ」
「今の情報はマジモンだって! ほらカミやん、街に出るってんならレコード屋に行って隠し部屋の探索とかしてみろって。もしかしたら見つかるかもしれないし」
「アホか。やりたいならダウンロードサイトの隠しページでも探してろよ」
「カミやんが探してくれるならやってもいいぜ。それで見つけたら使うか売るか考えてみるにゃー」
大して本気そうでもない顔で土御門がにやにやと笑う。だが顔に、不意に影が差した。
「そこ! なんて話をしてるですか!」
「げ、小萌先生」
見上げると、もとい、見下げると、小萌先生がすぐそばまでやってきて、仁王立ちでこちらを睨めつけていた。
いかんせん身長135センチ、自分たちよりはるかに年下にしか見えない担任だった。睨まれても、正直に言って怖くはない。
「げ、とはなんですか! 上条ちゃん。いいですか、そういうものに安易に手を出すような子たちじゃないって、もちろんわかってるです。でもちょっとならやってみてもいいとか、手に入れるだけならとか、そういう思いが非行に走る第一歩なのです」
「や、やりませんよ」
三人の表情を見て、小萌先生は満足したようにうなずいた。三人の顔に後ろめたさがなかったからだろう。
「よろしい。それじゃ、寄り道はしないで帰るですよ。特に上条ちゃんは」
「へ? なんで俺だけ」
「トラブルに恵まれる率が一人だけ桁違うからね」
「ま、そういうことぜよ。それじゃ、俺はそろそろ帰るわ」
舞夏が待っている、ということなのだろう。さっさと土御門がカバンを手にして、椅子から立ち上がった。
「それじゃ、また明日」
「またねー」
それを合図にして、当麻と青髪ピアスも腰を上げることにした。




小萌先生の言いつけを守らず、当麻はその足でセブンスミストへと向かう。
次の週末までにはデートだろうし、それまでに下見に行くならいつ行っても同じだからだ。
もちろん、帰り際に土御門と話したことは、すっかり頭から抜け落ちていた。
「……さすがに下着と水着はパスでいいよな」
そこは光子を同伴していても、入りづらい場所だった。
通りを曲がれば到着、という所で信号に引っかかる。ぼんやりと車の流れを眺めていると、視界の端でチラチラと小さい少女が動くのが映った。
手書きと思わしき地図を見ながら、不安げにあちこちを見上げ、途方に暮れているらしかった。
「なあ、どうした?」
「えっ……?」
「道に迷ったか?」
小学校の低学年くらいだろうか。綿のブラウスにサマーセーターを来た制服姿は、いかにも学校帰りという感じだ。
こちらを見つめる視線に戸惑いはあるが、あまり警戒感はなかった。不審者みたいに見られないのはありがたいが、あんまり無防備なのはどうかとも思う。
とはいえ学生の大半が親元から離れているこの町では、学生同士は少々年が離れていても気安いものではあった。
「えっと。洋服屋さんを探してるの」
「洋服屋?」
「うん。こないだテレビでやってて、それで」
声をかけた流れで、たどたどしい少女の説明に付き合うことになる。
根気よく聞き取ったところ、テレビで見た大きな衣料店が学校で話題になり、「テレビの人みたいにおしゃれする」ために一人でここまで出てきたらしい。
いかな学園都市とはいえ、この少女くらいの年なら十分冒険と言っていい外出先だった。
「その店、デパートみたいにでかいやつか?」
「うん!」
「まあ……セブンスミストだろうなぁ」
このあたりで服飾専門となると、おそらくはそこに違いない。
「知ってるの?」
「たぶんな。ってか、俺もそこに行くつもりだったんだ。よし、道曲がって向こうだから、一緒に行くか」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
物おじしないで屈託なくそういう顔は、年より大人びて見えるものの、もちろん当麻にとっては子供でしかない。
特に光子に対して後ろめたさを感じることもなく、少女の隣に立った。


ほどなくして、二人はセブンスミストの入り口にたどり着いた。
真夏の路上を抜けた後だから、エアコンがもたらす涼風が心地いい。
「ほら、到着っと」
「あっ、ここ、ここだった! テレビで見たの!」
「そりゃよかった。……しかし、こっからどうするかな」
無事着いたからもうあとは知らない、というのもできなくはないだろう。
だがこの少女、はたして無事に寮に帰りつけるだろうか。
「なあ、こっから家までの道、わかるか?」
「えっ? え、っと」
「あとこの店の中で迷ったりもしないか? 言っとくと、地下一階から九階まであるみたいだぞ」
その二つの質問で、早々と少女の表情は曇ってしまった。思わず頭を掻く。当麻の予想通りだった。
「乗りかかった船だ。どうせ行先も対して変わんねーし、一緒に行くか。迷子になるなよ」
「あの、ごめいわくで、ごめんなさい」
「迷惑ってほどじゃないから大丈夫だって。ほら行こう」
「うん!」
そう当麻が促すと、ごく自然に少女は当麻の手を握った。
おそらく迷子にならないために、大人と手をつなぐ機会が多いのだろう。
「さて、フロアは……婦人服、ティーンズ、子供服」
女の子向けの服のフロアは男より区分が広く、また数も多い。
「てぃーんずっていうところ!」
「んー」
子供服を選ばなかったのは背伸びしてのことだろう。だが悩ましい所だった。
学園都市の購買層で一番厚みがあるのは当然、中学高校生だ。
セブンスミストには、その彼女らに合わせたフロアが二つあり、20代以上の、大学生や教師たち向けのフロアが一つ、そして小学生以下の子供向けのフロアが一つあった。
少女の身長は小萌先生と同じくらいだから、多分130センチ台だろう。ティーンズ向けの服は、おそらくSサイズでも大きすぎるに違いない。
そう諭そうと口を開きかけて、当麻はやめることにした。
「じゃ、そっから見てみるか」
光子のために訪れるフロアは当然そこになるし、背伸びをしに来たこの少女に、最初から子供服売り場に行けと言わなくてもいいだろうと思ったのだった。
背格好で自分に合うものがないとわかれば、おのずと適切な場所へ行くことになるだろうし。
少女の手を引いて、当麻は目の前にあったエスカレータに乗り4階を目指した。
「えっとね、テレビでお姉さんが、ナチュラル系っていう服着てて、それ見たい!」
「ナチュラル系……」
それがいかなるものであるか、を当麻は明確に定義できなかった。
想像はつくのだが、カジュアルとどう違うのかと聞かれるとうまく答えられない。
なんにせよ、ゴシックとかロリータみたいな服への憧れでなくて助かった。売っているかもわからないし、子供向けとなるとなおさらだ。
「ま、このフロアであってるだろ。こういうとこ、来たことないのか?」
「んー、あったかも。でも覚えてない」
自分で自分の服に興味を持ったのが、この少女にとっては今だったのだろう。
当麻は通りすがりの高校生でしかないが、そう思うとこの子の成長が垣間見える気がして微笑ましかった。
「ほら、到着だ」
「わぁ……!!!」
目の前には、それぞれのブランド名を入り口付近に掲げ、8畳くらいのスペースを服で埋めたショップが立ち並んでいる。
その光景に目を輝かせる少女を見て、当麻も満足げに頷いた。今日の目的は、この子に付き添いつつ、どんな感じの服が並んでいるかをざっと見て回ることだ。
「どっから見る?」
「あっち!」
迷わずリクエストをしてくれるのがむしろ当麻には有難い。
こちらを振り返りもせず駆け出した少女に苦笑いをして、ゆっくりと後を追う。
道すがらにあった店を何気なく眺めていると、見覚えのある服を着たマネキンが目に入った。
「このワンピース……そっか」
全く同じデザインではないようだが、こないだの遊園地で光子が来ていたものとよく似ていた。
きっとここで、光子は服を買ったのだろう。
「同じ店はパス、かな。でもこういう路線はアリだよな」
こういう、華美すぎない服を光子に着せたいと当麻は思った。
自分で買って着てきたということは光子にとっても好ましいものなのだと思うし、そのままでも十分に華のある容姿だから、あまり主張の激しい服を着なくても映えると思うのだ。
その当麻の好みには、隣の自分が釣り合うかどうか、という点も反映されていたかもしれない。
「ワンピースは買ったばっかだし、上下どっちがいいか、聞いてみないとな」
ウインドウショッピングの視線を前に向けると、少女が早くも服を手にして手を振っていた。
「おにーちゃん、これ」
「ん?」
少女が見せてきたのは、長めのカットソーだった。ゆったりとしていて体のラインが出にくく、お尻の下まで届くような長さのヤツだ。
街中で、ショートパンツと合わせることでまるで下を履いていないように見える女の子を見かけるが、そういう着こなし方もできそうだ。
もちろんそれは、もっと背の高い女の子での話。
少女が自分の体に当ててみると、長めのワンピースと呼べるくらい、下に余ってしまった。逆に肩周りはだらしなく開きすぎていて、凹凸のない少女の体には似合わない。
「デザインは似合うと思うけど、さすがに大きいか」
「うん……もっと小さいの、ないかな?」
「Sサイズだよな、それ。SSとかもっと小さいのがあればいいけど」
少女が取り出してきた棚に近づき、サイズを調べる。
……まがりなりにも女の子の付添いであり、大義名分はあるのだが、周りの女の子の視線に緊張せずにはいられない当麻だった。
「ないな。それが一番小っちゃいやつっぽい」
「えー……」
はっきりとした落胆を少女は表情にのぞかせる。大人の女性のファッションに憧れてきたはいいが、年齢の壁に阻まれるのはどうしようもない。
「小さいサイズのを売ってる店もあると思うし、探してみ」
「うん」
深刻そうに深くうなずいて、少女はあたりを見渡した。
当麻もそれに倣うが、やはり周りにいるのはその少女よりは年上ばかりだ。最終的には、子供服売り場で同じような服を探してやることになるだろう。
「……お?」
そう思いながら、フロアの先のほうを見つめると。
見覚えのある、常盤台のお嬢様がやや挙動不審そうにあたりをうかがっていた。
「アイツ、なんであんなキョロキョロしてんだ」
別に、服を買いに来て戸惑うことはないだろう。普通に女子中学生なんだし。
声をかけるか、逡巡する。変に絡まれても面倒なのは面倒だ。
ただまあ、美琴の不審な態度に興味もあるし、あれで万引きと間違われても可哀そうだ。
そんな風に考えて、当麻は美琴のほうへと歩み寄った。




セブンスミストの四階、当麻たちがそこにたどり着く十分ほど前。
同じようにエスカレータではしゃぎながら登ってきた三人組の女子中学生たちがいた。
「こっちこっち!」
先頭にいた少女が、まだ登り切っていない連れに向かって急かすように声をかける。
快活に手を振るしぐさにつられて、肩甲骨くらいまで伸びる長いストレートの黒髪が揺れた。
見下ろす先では、すこしお姉さんらしい落ち着いた少女が苦笑いをしながら、隣の少女と顔を見合わせていた。
「初春さんは見たいトコある?」
「んー……特に、決めてないんですけど」
そう思案しながら、生花をあしらった大きな花飾りを身に着けた少女が返事を返した。
長髪の少女と花飾りの少女、佐天涙子と初春飾利の二人は同級生だった。
どちらも第七学区にある柵川中学校の一年生である。
そしてその二人と一緒にいるのが、美琴だった。
一人だけ超名門校、常盤台中学の学生で、しかも学年の違う二年生。
初春は風紀委員(ジャッジメント)として、美琴のルームメイトの白井とよく一緒に活動している。
そのつながりで美琴と初春たちは仲良くなったのだが、仕事に追われて今日は白井が欠けているのだった。
知り合ったのは昨日や今日ではないので、別に白井がいないからと言って気まずいことはない。
「あの子の息抜きも兼ねてたつもりだったんだけどねぇ」
そうひとりぼやいた美琴に、初春が苦笑を浮かべた。
ここの所、能力を利用した連続爆破事件が続いているのだ。
風紀委員が何人か被害に巻き込まれていることもあって、仕事の代理を買って出たり、調べ物に精を出しているらしかった。
「うーいーはーるー! ちょっとちょっと!」
その呼び声で、美琴と初春は顔を上げる。
見つめる先にはランジェリーショップが店を構えていて、その入り口にほど違いワゴンから、佐天が一枚、扇情的なパンツを取り上げていた。
「な、なんですか」
「じゃーん、こんなのはどうじゃ?」
履いてみてはいかがでござろうか、という顔つきでみょんみょんとゴムを伸ばしながら、佐天は初春にそれを見せつける。
腰の両端にリボンがついた、大人なデザインのものだった。二人が来ている野暮ったい中学のセーラー服の下には、さすがに合わないであろうデザインだ。
目の前に掲げられて、初春の顔が、ぽんと赤く弾ける。
「むっ、無理無理無理です! そんなの穿ける訳ないじゃないですか!」
両手をぶんぶんと振って初春は否定する。実際、そんな大人っぽい下着なぞ、着けたこともない。
目の前の佐天と違って、初春は自分がまだお子様体型なことくらい、わきまえている。
「これならあたしにスカートめくられても、堂々と周りに見せつけられるんじゃない?」
「見せないでください! めくらないでください!」
美人で周りにも気遣いのある、佐天はとてもいい少女だ。そして友達として彼女のことを大好きなのだけれど、初春にとって、決して看過できない悪癖が佐天にはあった。
すなわち、なんの脈絡もなしに、町中で、初春のスカートをめくるのである。それも、結果として周囲にいた男子学生や大人にも見えてしまうような形で。
今回も抗議を込めて佐天を睨みつけたのだが、どこ吹く風という感じでさっと下着をワゴンに戻した。
「ありゃー、残念。御坂さんは、何か探し物とかあります?」
佐天が話を美琴に振った。これと言って買うべきものを決めて来たわけではなかったので、思案する。
「えっ? そうねぇ、私は、パジャマとか」
「だったら、こっちですよ!」
美琴が今愛用しているのは、緑の水玉模様のパジャマだった。デザイン的にはごく普通だろう。
Tシャツやジャージで寝る気にはならないし、白井がこっそり隠し持っているようなネグリジェなんて、着るのも着ているのを見せられるのも御免こうむりたい。
夏場は汗をかきやすいからもう一着必要なのだが、現在サブ扱いのパジャマは、もう襟元がヘタってきていてそろそろ替え時なのだった。
「いろいろ回ってるんだけど、あんまりいいの置いてないのよね。って、あ」
初春に先導された先はパジャマショップらしく、ちょうど美琴たちくらいの少女を対象としたサイズの服が陳列されていた。
専門店として商品に幅を持たせるためだろう、ちょっと扇情的なネグリジェやフードのついた着ぐるみみたいなものまで、雑多に集められている。
その中で、何気なくマネキンの来たパジャマに、美琴は目を奪われた。
ピンク地に、黄色や薄紫の花柄があしらってある。上着の裾はフリルになっていて、柔らかい印象のパジャマだった。
「これ……」
とっても、可愛い。美琴の好みを直撃するような、愛らしいデザインだった。
同意を求めるように、傍らの佐天に呼びかける。
「ねえねえ、これすっごくかわ……」
「うわぁ、見てよ初春このパジャマ。こんな子供っぽいの、いまどき着る人いないよねぇ」
それは、正直な佐天の感想だった。サイズは身長150センチ台後半から160台までの、要は自分たち向けだ。
女児用としては悪くないだろう。でも、ここまでストレートに可愛い路線狙いだと、可愛いというよりは幼稚に佐天には見えた。
「小学生の時までは、こういうの着てましたけど。さすがに今は……」
苦笑いで初春も答えた。
つい半年前までは二人は小学生だったのだが、きっとこういうパジャマを『卒業』したのはもっと低学年の頃なのだろう。そう思わせる回答だった。
そんな二人の反応に、美琴は一瞬固まる。そして無理やり同意するようにぶんぶんと頷いた。
「そっ、そうよね! 中学生にもなって、これはないわよね! うん……ないない」
過剰気味の美琴の反応に、初春と佐天はきょとんとなる。だがさして気に留めなかったのだろう。すぐに、今日の目的の一つを思い出したらしかった。
目の前にたくさん服があれば、ついそちらに気を取られるのも女子中学生としては当然のことだ。
「あっ、あたし、ちょっと水着見てきますね」
「水着なら、あっちにありましたよ」
美琴に軽く会釈して、二人はパタパタと水着のエリアへと駆けていった。
まだ猶予はあるとはいえ、完全下校時刻という門限がある以上、せっかくの放課後は無駄にできない。
美琴は一人、溜息をついてパジャマを着たマネキンを見上げる。
――いいんだもん、どうせパジャマなんだから。他人に見せるわけじゃないし。
視界の片隅で、佐天たちは水着を眺めてあれこれ言い合っている。こちらに気付く様子はなかった。
今なら、大丈夫だろう。
「一瞬、合わせてみるだけなんだから」
素早く、棚に並べられた一着を手に取って広げる。
一瞥で姿鏡を探し、美琴はその前へと素早く移動した。
「それっ」
いささか服を試すのにふさわしくない掛け声とともに、美琴はピンクのパジャマを体の前面に当て、その姿を鏡で確認した。
鏡に映る、ピンクのパジャマを着た自分。
その行為はもちろん、パジャマ似合うかどうか、可愛いかどうかを試すものだったはずなのだが、そんな感想を抱くよりも先に、美琴の耳に衝撃的な声が響いた。
「……何やってんだ、ビリビリ」
鏡に、なぜか自分以外に、もう一人の人間が映っていた。
自分より身長の高い、男子高校生。ツンツン頭。変なものでも見るような顔。
愕然となって、美琴は後ろを振り返る。
いっそ嘘であってくれればよかったのに、あいにく鏡は嘘をついてなんていなかった。
「うぇっ?! な、え、ど、ど」
いつも街で会うバカ、上条当麻が、そこにいた。




美琴が手にしたパジャマを慌てて後ろ手に隠した。
それを見届けながら、当麻は軽く嘆息する。
「万引きの現場見られたみたいなリアクションだな」
「へっ?」
「なんで隠すんだよ、それ。もしかしてマジで盗る気だったのかよ」
「ちがうわよ! 変な疑いかけるなっ!」
そう言われても、美琴はパジャマを隠したまま、どうすることもできなかった。
だって返そうとしたら、自分がどんな趣味の服が好きなのか、ばれてしまう。
こんなピンクの、フリフリのついた服なんて見たら、コイツはきっと子供っぽいって笑うに決まっている。
そんな考えばかりが頭の中で巡り、当麻の呼びかけで周りの店員さんがどんなことを考えるか、まるで思い当たらなかった。
幸い、常盤台の制服を見てか、あるいは気安い男女がくだらない掛け合いをしていると判断されたか、店員に目をつけられることはなかったが。
「そういうの、着るんだな」
「……っ! 見るな!」
「いや、隠したつもりかもしれないけど、普通に見えてるし。ってか、別に隠すことないだろ」
「うっさい! 人の趣味をどうこう言われたくないの!」
「どうこうって、別に普通のパジャマだろうに」
たとえ普通の趣味だろうと、他人に揶揄されるのは不快なのは当麻にも分かる。だがそれにしても美琴の対応は過敏すぎるように当麻には見えた。
「べ、別に取り繕わなくていいわよ。子供っぽいって知り合いにも言われたトコだし」
「そうかねえ」
睨みつけてくる美琴の視線に取り合わず、光子がこのパジャマを着たところを想像する。
……ちょっと合わない気がした。光子はあまりファンシーな、こういう可愛らしさとは別の路線の可愛さを持っていると思う。
もちろん、着せてみたらそれはそれで可愛い気がするけれど。
ついでに美琴が着たところも想像してみる。
美琴は光子みたいに脱中学生級のスタイルの持ち主ではないが、年相応の可愛らしさを備えていると思う。
ピンクのフリル付きパジャマでおかしなことなんてないというのが当麻の感想だった。
「あんまり気にしなくていいんじゃないか?」
「……」
恥ずかしいのか、頬を赤らめて美琴が視線を逸らした。返事がないので当麻としても対応に困る。
「まあ、俺が言っても、って話だけど、結構似合うと思うぞ」
「お世辞はいらないわよ」
「わざわざお世辞を言う理由もないだろ。それにパジャマでもっと大人っぽい趣味って言っても、なあ」
ゆったりとしていて、寝るのに邪魔にならず、脱ぎ着しやすいといった特徴を満たすように作るため、ほとんど形が決まっているのがパジャマというやつである。
色が落ち着いているとか、そんな程度で大人もなにもないというのが当麻の感想だ。
そういう意図を伝えるつもりで、あたりを見渡す。だが、視線の先に映ったのは。
「げ」
「え?」
中学生に、いや、高校生でもふさわしくないようなネグリジェがマネキンに着せてあった。ふわふわとした素材で、中が透けている。
マネキンはカップ付きのインナーシャツを着た上半身しかディスプレイされていないが、実際に着れば上下ともに下着がよく見える恰好だろう。
「なんでこのフロアにあんなの置いてるんだよ……」
「……あ、あんなの着ろって言うんじゃないでしょうね!?」
「ち、違うって! 逆だ逆!」
「逆?! お前にはああいうのは似合わないよなって、馬鹿にしたいわけ!?」
「そういう意味じゃねえ! その人に似合った服ってのはあるだろう。お前が持ってるそれ、よく似合うと思うし、普通に可愛いと思うって話をしてるだけだ」
「か、かっ……!」
激昂していた美琴が、急に黙り込む。落ち着いてくれたのはありがたいが、美琴の機嫌が変わるタイミングが当麻にはまるで読めなかった。
一方美琴のほうも、突然に言われた言葉に、どうしていいかわからなかった。どうせお世辞を言われただけなのに、自分は何をこんなに動揺しているのか。
隠すように後ろ手に持っていた服を、そっと前に持っていく。当麻と視線を合わせないまま、美琴はそれを丁寧に畳んだ。
「アンタ、さ、その……」
「あん?」
自分は何を、当麻に尋ねたいのだろう。それすらよくわからないまま、美琴は沈黙を間延びさせる。
どうしていいかわからないまま頭の中で思考がどんどんぐるぐると渦を巻きだしたところで、不意に横から幼い声がした。
「おにーちゃーん、このおようふくー」
「お、サイズ合うのあったか」
やけに緊張していた自分と真逆に、急なその声にも当麻はのほほんと返事を返し、美琴から視線を外した。
それに安堵と苛立ちの両方を感じながら、美琴はパジャマを棚に戻した。そしてすぐ、声をかけた誰かを探す。
小学生くらいの女の子だった。身の丈にあったワンピースを手にこちらへ駆けてくる姿が愛らしい。
そして、その子の姿には見覚えがあった。
「こないだのカバンの子……」
「あ、トキワダイのおねーちゃんだ!」
先日、風紀委員の手伝いをした時に面倒を見た少女だった。向こうも覚えていたらしく、すぐにぱっと明るい笑顔を見せてくれた。
その少女の態度に美琴も笑みを返そうとして、愕然となる。この子は、誰に会いにここに来た?
「お兄ちゃんって、アンタ妹がいたの?!」
がばっと当麻を振り返る。相変わらず弛緩したままの、気の抜けた顔をしてぱたぱたと手を振った。
「違う違う。俺はこの子が洋服店探してるって言うから、ここまで案内してきただけだ」
同意を求めるように当麻が目を向けると、少女が大きく頷いた。
「あのね、お兄ちゃんにつれてきてもらったんだー。私もね、テレビの人みたいにおしゃれするんだもん!」
これくらいの年なら、確かにそろそろ自分で服を揃えるようになる頃かもしれない。
無邪気に大人びた憧れを語るその少女が可愛らしくて、直前まで当麻に対して抱いていた戸惑いをどこかにおいて、美琴は髪を撫でてやった。
「そうなんだ。今でも十分、お洒落で可愛いわよ」
「パジャマは置いといて、制服の下に短パンの誰かさんと違うよな」
からかうように、当麻がそんなことを呟く。美琴はその言葉にまたカチンとなる。
「何よ、ケンカ売ってんの? だったらいつぞやの決着、いまここでつけてやるわよ!」
「えぇ? ……お前の頭ん中はそれしかないのかよ。大体、こんな人の多い所で始めるつもりですか?」
「それは……」
次の言葉が出てこなくて、美琴は口ごもる。
最近、このツンツン頭に会うと、いつもこうなってしまう。
他の人なら気にならないような当麻の細かい仕草や言い回しが気になって、すぐに苛立ってしまうのだった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。あっち見たい」
結局、二人のじゃれあいに幕を引いたのは少女の一言だった。
「わかった。……じゃあなビリビリ」
「だからその呼び方やめろって言ってるでしょうが!」
何度言えば通じるのか。このバカには。
「あーはいはい」
「次は覚えてなさいよ!」
「あーはいはい」
「ばいばい、お姉ちゃん」
美琴の態度に動じることもなく、少女が手を振った。
当麻はと言えば軽く手を振って振り返った後、こちらを見もしなかった。
「ったく……ほんっとムカつくヤツ」
その言葉にこもった感情の複雑さに、美琴は気づいていなかった。




「こっちのほうは着れるのいっぱいあるの!」
「みたいだな」
フロアはティーンズ、つまり字義通りに取れば13歳以上を対象としているが、どうやら10歳くらいからを対象とした小さいサイズの服を扱う店が数軒はあるらしかった。
せっかく面倒を見てやった子なので、目的を達成できて嬉しそうなのを眺めると、当麻としても満足感がある。
「ナチュラル系って、あるかな?」
「んー、どうだろ」
「お兄ちゃんも知らない?」
「だな。ほら、店員さんに聞いてみな」
「えっ!? で、でも……」
少女が軽い足取りを急に止めた。戸惑いながら、当麻を見上げる。
「どうした?」
「笑われちゃったり、しないかな?」
「なんで?」
「だって私、こういうところに来たことないもん」
「大丈夫だって」
わしゃわしゃと、髪を撫でてやる。
もとより人見知りをしない子ではあったが、美琴の知り合いということも作用してか、少女は随分当麻に気を許してくれているようだった。
そうして残ったもう片手で手を挙げ、近くにいた店員の注意を引いた。
「あのー、すみません」
「あっ、お兄ちゃん」
「ほら、聞いてみ」
すぐさま服を畳む作業を中断して、若い女性店員がこちらに向かってきた。
「何か御用でしょうか」
「あの……ナチュラル系、って、お洋服、ありますか?」
おどおどと、少女がそう切り出す。舌が回らなくてナチュラルがアチュラルに聞こえたのはご愛嬌だろう。
店員は慣れているのか、それを笑ったりするようなことは少しもなく、朗らかにうなずいた。
「ありますよ。あちらのお店がお客様には合うかと思います」
指さした先はすぐそばの店だった。
「ありがとうございました!」
「すみません。ありがとうございます」
きちんと礼を言う少女の後ろから当麻も礼を言い、その店に向かう。
入り口のマネキンは、リネン生地のゆるいブラウスに、マフラーみたいなものを巻いていた。
こういうのが、ナチュラル系というやつなのだろうか。文字からして、確かに派手なデザインの服ではないのだろうが。
「あっ、これ! テレビでこれ着てた!」
指さしたのは、そのマフラーみたいなヤツだった。
「サマーストール……ストールってこういうのだっけか」
当麻のイメージでは、ストールは冬に女の子が羽織る、横幅の広いマフラーみたいなものだった。首というよりは肩にかける印象がある。
夏場にわざわざそんな暑いものをなぜ、と思わないでもない。
「これ、似合うかなあ?」
少女はストールを手にとって、首から肩に羽織ってみていた。鏡でそれを見て、自分でも首をかしげている。
似合う以前に、巻き方が全然なっていなかった。単に首にかけて、両端がだらりと体の前で垂れているだけ。
さすがにこれでは何とも言いようがない。
「よろしかったら巻きましょうか?」
試着している少女を目ざとく見つけ、店員が声をかけてきた。
「お願いします」
「お嬢ちゃん、制服かな? そういう服装だったらこういう巻き方が合うんだよ」
手早く店員はストールを首に回し、ラフに括ってしまう。
ナチュラル系という言葉にたがわず、無造作なそれが何とも様になる。
少女が一つか二つ大人びて見えた。快活そうなもとからの魅力を、よく引き出していると思う。
「わぁ……!」
「ね? ストールは結び方でいろいろ遊べるから、面白いよ。ほかにも、ほら」
今度は丁寧に広げて、肩を隠すように覆った。
「脇の下を通すから、ちょっと手を挙げててね」
「うん!」
カーディガン風に、肩と背中に広がっている。当麻の知っている使い方はこちらに近かった。
半袖のブラウスにサマーセーターの少女にはさっきの結び方のほうが似合っていたと思うが、それでもこちらも悪くはない。
「へー! すごーい!」
「こっちなら、襟付きのブラウスよりもああいうブラウスのほうが合うかな。良かったら着てみる? あ、それと髪をおろしたほうが合うかも」
「えっと……」
次々と勧めてくる店員に、少女は戸惑いを見せた。着てみたいのは着てみたいらしい。
だがこうして当麻を見上げてくるあたり、当麻が離れるのは不安らしかった。
彼女の、光子との買い物なら腹をくくって付き合うが、この少女にそこまで付き合う義理があるわけではない。
だから正直に言えば面倒だし御免こうむりたいのだが、頼られてそれを無碍にするのも、気が引けた。
「待っててやるから。ほら、行って来い」
「ありがと! お兄ちゃん!」
ぱあっと顔を輝かせる少女。当麻としても悪い気はしなかった。
……店員の顔も心なしか輝いたのは、何とも言えないが。
「さ、それじゃこちらにどうぞ」
店員はさっと似合いそうな服を見繕って、少女を試着室に送り込んだ。
そしてすぐさま振り返って、当麻に顔一面のスマイルを送った。
「ご兄妹ですか?」
「いえ、ちょっとまあ、知り合いです」
「そうでしたか。お客様自身は、何かお探しで?」
「ええと……」
こういう、服の営業は相手にするのがしんどい。当麻の苦手な相手の一人だった。
だがまあ、せっかくこういうところに来たのだ。相談しない手もない。
「実は、彼女に贈る服を探してまして」
「彼女、と仰いますのはあちらの……」
「ちがいます! 二つほど年下なんですけど、中学生で」
「これは失礼いたしました」
20代も後半に差し掛かっているであろうその店員にしてみれば、当麻も子供なのだろう。
店員なのにこちらをからかって上品に笑ってから、近くにあったストールを手に取った。
「サマーストール、今年は結構流行ってるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。大判のストールといえば秋冬物が主流なんですけど、今年は大手メーカーが通気性と水分の揮発性、防臭性を備えた最新モデルの生地を出したので、かなり攻勢をかけているんです」
「はあ」
「あちらのお客様で見ていただけますけど、かなり着こなし方のバリエーションがあるアイテムですし、お値段も低めからありますから、相手の方の好みにもよりますけど、結構おすすめできると思いますよ」
「へー……」
興味をそそられる内容だった。値札を見てみても、決して無茶な額ではない。付き合い始めの光子にあまり高価なものを贈るのは気が引けるが、これなら悪くはない。
ただまあ、だからと言って乗り気な態度を見せると、ひたすら売り込みで話してもらえそうにない気がしていた。
「あのー、できたの!」
「はい、それじゃ最後に結びますね」
声を掛けられてすぐ、店員は当麻の横を離れ、試着室に近づく。
手早くストールを整え、店員は当麻にその姿を見てみるよう手で促した。
ひとしきり自分の姿を鏡で眺め、手櫛で髪を整えてから少女が当麻を見上げた。
「どう、かな?」
「へー! いいな、これも」
小学生の制服然とした上着を脱いで、鎖骨をのぞかせたラウンドネックのブラウスを着ていた。それだけでもぐっと大人びて見えるのだが、そこにストールを羽織って、さらに髪を下すと、小学生高学年くらいには見えてくる。
だからと言って当麻の恋愛対象には全く入ってこないのだが、女は化ける、というのがこの程度の歳の少女であっても当てはまるというのは、すごいことだ。
「えへへー」
少女もまんざらではないらしく、はにかみながら嬉しさ全開、という顔だった。



幾つかの結び方をさらに試してもらい、少女はすっかり満足げだった。
ただストールは小遣いで買える額ではなかったらしく、最後にはしょんぼりしていた。
買ってもらえなかった店員にとっても働き損だろうが、こうやって服という楽しみを新しく少女に覚えさせたのが満足だったのか、嫌そうな顔は最後まで見せなかった。
「ありがとうございました」
「どうもすみません」
「ぜひまたお越しください。どうもありがとうございました」
一円も使っていないことに若干気が引けながら、少女を連れて当麻はその場を離れた。
「楽しかったか?」
「うん!! お兄ちゃんも、見てくれてありがと」
「いいって」
内心、疲れたのは否めなかった。光子が連れでも、きっとそうなのだろうと思う。
「この後、どうするんだ?」
「えっと、もうあんまり時間ないよね?」
「小学生は……そろそろだな」
小学生は高校生より二時間ほど早く、家に帰るよう推奨されている。少女の門限までもうあまりなかった。
帰りに付き合うとすると、当麻もこれで下見は終わりになる。見ていない場所はまだあるが、当麻もかなりもう疲れていた。
「じゃあ、そろそろ帰る準備するか」
「うん。あっ、あれ見ていい?」
「ん? あれって……水着か?」
「今度みんなでプールいくの!」
カラフルな布が乱舞するその一角を見て、足が固まる。
小学生の少女を連れて、女性ものの水着コーナーに足を踏み入れる高校生というのは、さすがに如何なものか。
この子に「お兄ちゃん、似合うかな?」と聞かれたとして、自分はなんて答えればいいのか。
普通の服なら、自分とて光子に合うものを見に来たわけだし、少々の視線の痛さにも耐えられるが、さすがに水着は厳しいものがある。
「な、なあ。俺もちょっと見たいところあるから、一人じゃだめか?」
「えっ? ……そっか、お兄ちゃんも行きたいところ、あるよね」
躊躇う当麻の一言を聞いて、少女の顔にさっと遠慮が浮かび上がった。
そういうところを見てもよくできた子だとは思うが、当麻にも事情がある。
「まあな。ほら、あと15分くらいで出なきゃいけないだろ? ここにいてくれれば、また迎えに来るから」
「うん、でもお兄ちゃんもっとここにいたいんだよね」
「大丈夫だって。用事はすぐ終わるし、迷子になってるかもって気になるしな。寮か駅の近くまで連れてってやるさ」
「ありがとね」
にっこり笑う少女に少し後ろめたさを感じながら、当麻はフロアの遠方、まだ行っていないほうへと足を延ばした。
道すがらに談笑する美琴の後ろ姿が見えたが、もちろん声はかけない。
「眺める分には無害なんだけどな」
うっかり接触すると、本当に面倒なヤツなのだった。あの御坂という少女は。




少女につられたせいか、フロアをめぐる間、当麻が足を止める店はカジュアル・ナチュラル系の店が多かった。どうもこの夏の流行の路線でもあるようだ。
光子に、合いそうな気がする。おそらく普段はこういう「飾らない」服よりも、凝った服を着ているのではないかと思うけれど。
だから趣味に合わなければそれまでだが、普段とは少し違う服ということで喜んでもらえるかもしれない。
「ま、リサーチとしては十分見ただろ」
そろそろ、あの少女のところに戻るかと思案する。少女から離れて強く感じるが、このフロアは、やはり気疲れする。
「やっぱ男一人だとなぁ、って……あいつもか」
知った顔ではないが、フロアの向こうから当麻と同じ高校生と思しき男子学生が歩いてくるのが見えた。
周りの女性服には目もくれないのは、気恥ずかしさの裏返しだろうか。
カエルのぬいぐるみを大事そうに手に抱いているのは、ゲームセンターの景品らしかった。
「このフロアにゲーセンあったっけ」
口の中でそう呟き、さしたる感慨もなくその学生とすれ違う。
そして少女がいるはずの水着店がどこだったか、遠くに視線を飛ばした、その直後。

――――ピーンポーンパーンポーン
お決まりのアラームの後に、硬い声のアナウンス。


「お客様にご案内申し上げます。店内で電気系統の故障が発生したため、誠に勝手ながら、本日の営業を終了させていただきます。係員がお出口までご案内致します。お客様にはご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます――――」
唐突なその放送の内容は、迷子の案内などではなかった
「営業を終了って、今すぐ出てけってか?」
その放送の裏で、周囲の客もざわめき始めていた。だって放課後のこんな時間帯に、いきなり閉店なんて珍しい事態だ。
電気系統の故障というのは、それほど深刻なのだろうか。少なくとも停電していないのは周りを見れば明らかなのだが。
どうするかな、なんて考えながらに三歩進めたところで、ハッとなる。
「そうだ、あの子んとこ行ってやらねーと」
後で合流するなんて言った以上、ほっておくわけにはいくまい。当麻は早足で水着店を目指す。
その道すがら、先程と同じところに目をやると、美琴たちが店先に集まっているのが見えた。
その表情は、戸惑いを見せる周囲と異なって、やけに険しい。
中でも大きな花の髪飾りと、風紀委員の腕章を付けたを少女が誰かと電話をしていて、ひどく逼迫した表情を浮かべているのが、やけに気になった。
「お客様。どうぞこちらからお降りください。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
機械的とも言えるような態度であちこちの店の店員が通路へ出てきて、足取りを澱ませる当麻や他の客に声をかける。エスカレータや階段への誘導が始められていた。
「あの……。連れがいるんで、探してきます」
「かしこまりました。御用がありましたら他の店員にもお声がけください」
そう告げる店員に会釈を返し、当麻は水着の売り場へと早足で進む。
近くには階段があって、そこにはすでに人だかりができていた。
「もう……降りたか?」
水着ショップの入口には早々とガードが置かれていて、中に人がいないことを物語っている。
あの少女も、当麻を気にすることはあっても、まさか指示に背いて店内に隠れているようなことはないだろう。
「あの、お客様?」
「すみません、連れを探してるんで!」
店内にふさわしくない速度で、当麻は駆け出した。もう一度フロアを探してみるつもりだった。
たぶん上の階に上がることはないだろう。だから1フロアずつ下がって探していけば、いずれ確認できるはずだ。
何もないことを願いつつ、当麻はひたすら少女を探し続けた。




「出口はこっちです! ゆっくり進んでくださーい!」
声を張り上げて、美琴は客の誘導を手伝う。
一番混雑する時間帯だったからかなりの人がいたが、目の前のこの人だかりを外に出せば、ほとんどの人は出たことになるはずだ。
ひとまず、任務を果たしたことにほっとする。あのバカの顔は見えなかったが、まさか逃げ遅れるようなヘマはしないだろう。
つなぎっぱなしにしていた携帯で今日の相棒に声をかける。
「初春さん。こっちは最後尾が今出ていったわ!」
「ありがとうございます。ほかの出口も誘導が済んだみたいです。あとは、警備員(アンチスキル)もあと数分で着くそうですから、御坂さんは佐天さんとそのまま外で待っていてください」
「何か力になれることは?」
「大丈夫です! ここから先は、警備員の仕事ですから。私もすぐにそちらに向かいます」
「了解」
初春は今、逃げ遅れた人がいないか確認しながら、退避のしんがりを務めている。
彼女も決して高位の能力者ではないが、風紀委員(ジャッジメント)としての職掌以上に、学生たちの安全に尽くそうとしている。
もう一人の連れである佐天は一般人ということでもう避難を済ませているはずだ。
「って言っても、こんなに人が多いんじゃ……」
人だかりの中に、佐天の影は見えなかった。自分も佐天もとりたてて背が高いわけではないから、仕方がない。
キョロキョロとあちこちを見渡していると、待っていたのとは別の声がした。
「ビリビリ! あの子見なかったか?!」
緊張を伴った、当麻の声。尋ねられたその内容に、美琴は愕然となる。
「えっ?! 一緒じゃなかったの?」
無駄と知りつつ当たりを見渡す。少女の影は、やはり見えない。
この人だかりにあのような子どもが混ざってしまえば見つからないもの無理はない。
だが、ひとしきり探したらしい当麻が、厳しい顔をしていた。
「外にいないんだ。もしかして中に」
戸惑う当麻の声に、カッとなる。当麻は当然知らないだろうけれど、この店は、ここしばらく連続発生している連続爆破事件の最新の爆破対象なのだ。
そんなところにあの子を放っておける訳がない。
「何やってんのよっ!!」
「あ、おい!」
当麻に構わず、美琴は出来てた扉をくぐり直し、セブンスミストの店内に戻った。
「待てよビリビリ……御坂!」
「うるさい! アンタは邪魔だから外で待ってなさい!」
「二手に別れないと意味ないだろ」
「エスカレーターはもう封鎖されてるわ! あとは階段だけ」
「じゃあ俺も行く!」
「邪魔!」
責任だとか義憤なんて、今は邪魔なだけだ。そう思いながらも、わざわざ当麻を排除する時間が惜しい。
美琴は当麻を無視して階段を駆け上がり、少女を探す。
「ついてくんなって言ったでしょうが」
「知らねーよ」
「……ホントにいるんでしょうね?!」
「下じゃ見つからなかった! それ以上はわかんねぇよ」
「使えないわね!」
そう毒づきながらフロアを駆け上がり、声をかけながら少女を探していく。
だがそこに返事はなかった。あるのはちらほらと見える、店員たちの影だけ。
このバカが、単に見落としただけじゃないのか。年の割にはもののわかる少女だった。とっくに避難していると考えるのが普通じゃないのか。
そうあってほしいという願望と裏表の不安とを噛み殺し、美琴は当麻と共に、階段を駆け上がっていく。
少女にとって大して興味もなさそうなフロアをしらみつぶしていき、やがて先程のフロアにたどり着いた。
「いない、か? ……っ!」
当麻が見える範囲に誰もいないことを確認しかけたところで、二人は気づいた。
「あっ、ちょっと待ってくれ! 小学生くらいのちっちゃな子、見なかったか?!」
「さ、さあ。僕は見てないよ」
おどおどとした態度の、男子高校生。そういえばこの警報がなる少し前にこのフロアですれ違った覚えがある。
「そうか、それじゃ――――」
「待ちなさい」
美琴が警戒感をあらわに、男子生徒を睨みつけた。
「アンタ、なんで逃げてないわけ?」
「それは……い、いま降りるところだったんだよ」
「御坂? それより早く」
自分の判断で走って逃げられる高校生を相手にしている場合じゃない。だから美琴に早く動くよう促そうとして、美琴の腕に触れる。
だがそれを振り早うようにして、美琴はキッと相手を睨みつけた。
「今避難してるのはね、どっかの爆弾魔がここを爆破しようとしてるからなのよ」
「爆破?!」
「だからコイツに聞いてるの。心当たり、ないかしらって」
「ヒッ」
一瞬のにらみ合い。目の前の高校生の動揺は、どう見ても尋常ではなかった。
美琴がさらに詰め寄ろうとした、その時だった。


「おねーちゃーん!」


二人の後ろを、探していた少女が駆けていく。
呼びかけた相手は美琴ではなく、もう一人この場に残った風紀委員の、初春だった。
少女は緑色のカエルのぬいぐるみを大事そうに手で抱いて、それを初春に渡そうとしているらしかった。
「よかった、中にいたんだな」
「心配させるんだから。って、あのぬいぐるみ……っ!」
「おい、御坂?!」
戸惑う当麻の横を、美琴がすり抜け走っていった。それを見てか、男子高校生も駆け出し、階段を勢いよく降りて行く。
「あ、おい! くそっ」
そして同時に、綿しか入っていないはずのぬいぐるみが、不自然にひしゃげ、つぶれ始める。
どれを追うべきか、一瞬の逡巡。だが判断を決めさせたのは初春の悲鳴だった。
「逃げてください! あれが爆弾です!」
とっさに少女の手からそれを取り上げ、あらぬ方向へと投げつけた。
「くそっ!」
間に合え、と念じながら当麻は爆弾と少女をかばう風紀委員、初春の間に割り込む。
すでにそこには美琴がいて、もしかしたら美琴でも何とか対処はできるのかもしれない。
だがそういうことを考えるより先に、当麻は誰より爆弾の近くに体を滑り込ませる。
目の前のそれが、能力によって爆発を引き起こそうとしているのは一目瞭然だ。
そういうものになら、自分の右手は、それこそジョーカーのように劇的に効果を示す。
「っ! アンタ――――」
「お兄ちゃ――――」


美琴と少女の声が、当麻の耳に聞こえかけたところで。
――――ズガンッッッッッ!


体に直接響くような、すさまじい破裂音が周囲をひどく叩いた。
「ぅぁっ! つつ、あ……」
強烈な光が目を焼き、美琴は瞬間的に前後不覚となる。
そしてまず、自分の体に痛みがないことを確認する。自分のところまで爆風や破片なんかは迫ってこなかったのは確かだ。
ならおそらく、後ろの初春と少女も大丈夫だろう。
でも、自分より前に立ったあのバカは?
「大丈夫か、御坂」
「っ! ちょっと、脅かさないでよ。アンタこそ」
「俺も大丈夫だ。そっちは?」
「……だ、大丈夫です。私たちも、何ともありません」
「お兄ちゃん!」
ホッとしたように息をついた少女が、当麻をみて涙ぐんだ。
「良かった、やっと見つかった」
「……ごめんなさい」
黒煙舞う中、当麻は少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
そしてなるべく優しい声で、確認する。
「風紀委員のお姉ちゃんに渡そうとしたぬいぐるみさ、誰にもらった?」
「眼鏡をかけた、おにいちゃん」
「ひょろっとしてて、ヘッドフォンつけっぱなしのヤツか?」
「うん」
「わかった。御坂、俺はあいつを負うからこの子を――」
「逆でしょうが。アンタが連れてきた子なんだからアンタがケアしてやりなさいよ。初春さん、犯人に心当たりがあるから、私は追っかける。連絡は携帯にいれて!」
「気を付けてください! すぐに白井さんも来ると思います」
「了解!」
とりあえずは、これで急を要する要件にすべて手を打てたはずだ。
立ち上がった少女の服を軽くはたいてやり、当麻もあたりを見渡した。
「ひどいな、これ」
「ええ……でも、御坂さんのおかげで無傷で済みました」
「あ、お姉ちゃん――」
目の前の少女をかばうので精一杯だったのだろう。爆風を防いだのが誰なのかは、見ていなかったようだった。
事実を伝えようとした少女の頭に、当麻はもう一度手をやって風紀委員の少女に声をかけた。
「それで、これから俺たちはどうしたらいい?」
「えっと……すぐに警備員の方が来ると思います。たぶん、その時にいろいろ聞かれることがあると思います」
「わかった。じゃあ、とりあえずここに残ってる」
「ご協力ありがとうございます。私は警備員の先導をしますので、ちょっと下に行ってきます」
「わかった」
駆け出す初春を二人で見送り、当麻は少女を連れてベンチへ向かった。
不安なのか、少女は当麻の手を放そうとしない。
「もう心配ないさ。嫌な目に会っちまったな」
「うん……」
「家、こっから近いのか?」
「えっと、電車に乗ってきたの」
「何駅くらい?」
「すぐ隣」
「そうか。ちゃんと家まで送ってやるから、もう怖がらなくていいからな」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん。やさしいね」
「ま、乗りかかった船だからな」
「お船?」
慣用句に首をかしげる少女に、当麻はくすりと笑い返した。
不安が少しずつほぐれてきた様が見えての、安堵の笑みだった。




しばらくして警備員がやってきて、事故現場の見聞を始めた。
それと同時に、下校時刻の近い当麻と少女からの聞き取りが進められた。
聞いたところによると早々に犯人が捕獲されたらしく、それほど質問の数は多くなかった。
すぐに解放され、目立たないようそっとセブンスミストの外に出て、二人で帰路につく。
今日、ほんの数時間前に出会った少女だったが、事件のせいか、ひどくなつかれていた。
帰りはもうずっと、手を放してくれない。
「当分あの店には買い物にいけないな」
「うん……」
店内は当然ぐちゃぐちゃだったから、それを直すのに一週間では足りないだろう。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「あの時、助けてくれたの、お兄ちゃんだよね」
「あー、そういやそうだったかな」
「いいの?」
当麻は警備員の取り調べでも、美琴が防いだのかと尋ねてくる相手に対し、首肯を返していた。
少女の質問はおそらく、それに対する疑問なのだろう。自分の功績を、伝えなくていいのかという。
「別に誰が助けたんでもいいんだよ。それに、細かいこと聞かれると説明が面倒だしな」
当麻の右手に宿る『幻想殺し』は、学園都市という科学の街においてもなお不可解な能力だ。
同じ学校の教師として事情を知る黄泉川のような警備員にでもないと、自分が爆発を防いだなどという主張は受け入れられないだろう。
「お兄ちゃん、かっこいいなあ」
「そりゃどうも」
ストレートな憧れを口にされて、つい苦笑いが出てしまうのはひねくれた高校生の精神年齢ゆえか。
より強く手を握ってきた少女の頭を、撫でてやる。
「……お兄ちゃんは、高校生だよね?」
「え? そうだけど」
「私と、何歳違うのかな?」
「5つか6つくらいだろ」
そう思案して、互いの年齢を教え合う。実際、そのくらいだった。
「そっかあ。私のお父さんとお母さんも、それくらい違う」
「へえ。うちの親はどっちも同じ年だな。親父のほうが老けて見えるんでたまにボヤいてるけど」
当麻の母、詩菜は何度会っても見た目があまり変わらない。
しかし、この子はなんでそんな話を気にしたのだろうか。
「お兄ちゃんって、好きな人……」
少女が何かを口にしかけたところで、当麻は視界の先に揺れるものを見つけた。
「ん? なあ、あっちの人、手を振ってるぞ」
「あっ、先生だ!」
夕日が随分と傾き、アスファルトを焼いている。その先に、少女の住む寮はあるらしかった。
寮母か学校の担任かはわからないが、少女の保護者らしかった。
「よし、それじゃもうこっからは大丈夫だな」
「えっ? うん」
「今日みたいなことは何度もあることじゃないけど、街に出るときは気を付けるんだぞ」
「うん。お兄ちゃん、きょうはほんとに、ありがとう。あの――」
「それじゃ、俺はもう帰るから。じゃあなー」
「またね、お兄ちゃん。また遊ぼうね!」
「おー」
高校生にもなるとさすがにあの年の子の相手はつらいのだが、まあ正直にそんなことを言うのも酷だろう。
安請け合いをして、当麻は少女に手を振りかえす。
「しっかし、デートの下見しようと思ったら爆発に会うって、どれだけ不幸なんだか」
溜息ひとつで今日の事件を押し流し、当麻は今日の晩御飯のことを考えながら、自分自身の帰路についた。




数日後。
当麻は再び、街に服を見に繰り出していた。
もちろん一人ではない。当麻の隣で、光子が嬉しそうに手をつないでいた。
「で、今日行く店なんだけどさ、実は行ったことのない場所でさ。いい物見つからなかったら、その時はごめんな」
「それでも全然構いませんわ。当麻さんと、デートできるのが楽しみなんですもの」
光子は入院とそれに続く学舎の園での療養(単に街に繰り出す許可が出ないというだけである)をようやく終えて、当麻と会えるのが嬉しいらしかった。
当麻としても、もちろん悪い気はしない。
「……それにしても、物騒な事件でしたわね。こう言うと不謹慎かもしれませんけれど、デートの日が重ならなくてよかったですわ」
「だな」
二人が当初行先に挙げていたセブンスミストは、目下、爆発事故の影響で営業停止中だ。
数日後には部分開店するらしいが、肝心のティーンズ女性向けのフロアは爆発の現場なので、もっと先まで閉店したままになる。
その爆発のひどさは誰よりも当麻が一番よく知っているのだが、光子に言う気にはなれなかった。
心配をかけるし、別にいう必要もないことだ。
「最近、こういう目を引くような事件が多発しているそうですわ」
「そうなのか?」
「ええ。犯人のレベルと実際に運用された能力の強度に差があるのが特徴だとかで。私を襲ったのも、どうやらそういう能力者だったとか」
「物騒な話だな。……それこそ、天気『予知』までやれる演算力があるんだから、誰がどんな能力を開花させるのか、全部計算すりゃいいのに」
「いくらなんでもそんなことは無理ですわ」
当麻のその意見を無茶苦茶だと言わんばかりに、光子がクスリと笑う。
「そういや俺のほうもさ、知り合いからレベルアッパーってのを聞いたな。それと絡んでたりして」
「なんですの、それ」
「飲むと……ああ、なんか音楽形式だとか言ってるヤツもいたな。なら、聞くと、が正しいのかな。とにかく使うとレベルが上がるって代物らしい」
「はあ。噂話にしても、ひねりがないというか、陳腐な印象がありますわね」
「だよな」
「そんなもの、本当にあるとしたら、もっと大きなニュースになるはずですわ。研究者は誰だって公表したいに決まっていますもの」
「でも隠したほうが利益を独占できるんじゃないか?」
「そういうものがあるということを公表して、細かい方法を秘匿する、というのが一番利益を得られる方法ですわ。だから、そんなものが本当にあるなら、もうちょっと詳しい話が流れていてもおかしくはないと思いますの」
「言われてみれば、そうかもな」
まあ、仮にそんなものがあるとしても、きっと当麻のレベルは上がらないだろう。
光子も、そんなものを欲するような人間ではなかった。
他愛もない会話をしながら、すぐそばの公園に目をやる。
「ルイコ、ほら、できた、できたよ!!!」
「すごい、アケミ、浮いてるじゃん!」
きっと、学園都市に来てすぐの学生なのだろう。能力が発現してすぐの、レベル1の学生らしいふるまいだった。
一学期がようやく終わりに差し掛かるこの時期の、ごくありふれた光景だから二人は気にも留めなかった。
「それでさ、光子。どういうものが欲しいとか、イメージ固まったか?」
「えっ? い、いえ。ずっと家におりましたし、当麻さんがくださるって考えたら、それだけで嬉しくて……」
そうして二人は、これからの買い物の算段に取り掛かった。


上条当麻がレベルアッパー事件にかかわったのは、この一件が最後だった。




[19764] prologue 09: 失ったものと得たもの
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2014/02/15 14:55

朝。
カーテン越しに、すでに猛暑を感じさせる日差しが否応なしに突き刺さる。
ピピピピというけたたましい音で、佐天は夢の中から強制的に引き上げられた。
「……」
不機嫌そうに壁を見つめ、目覚ましをオフにする。
二度寝の誘惑をすぐに断ち切って、佐天は大きく伸びをした。
とりあえずテレビでもつけようとリモコンに手を伸ばしたところで、不意に止めた。
手のひらを、じっと見つめる。
回れ、と念じながら、瞬きすらせずに、その手の上をただひたすらに睨みつける。
「……そりゃ、無理だよね」
結果は、何も起こらなかった。
当然だ。だって佐天涙子に対し学園都市が与えたレベルは、ゼロなのだ。
だが手のひらの上に感じる、あの日の感触の残滓は、まぎれもなく本物だった。
「さて、今日の朝は……控え目のほうがいいかなー」
軽い溜息ひとつで胸にたまった何かを押し流す。
ぱっとテレビをつけて、佐天は洗面所へと向かった。

数日前、佐天はその手の中に、小さな渦を作った。
それを手にしたことは、とてつもなく嬉しくて、楽しかったけれど、反則技に手を出して得たものでもあった。
幻想御手<レベルアッパー>。木山春生という名の研究者が開発したそれは、使用者同士の脳波をリンクさせ、互いが互いの演算を補うことで、個人にはなしえないような大規模な演算を可能とする技術だった。
佐天はそれを利用し、ほんの短い間の喜びをかみしめた後、使用者の昏睡という副作用を代償に支払って、そしてまた力を失った。
空力使いに分類されるその能力、いわば自分の可能性が泡沫(うたかた)のように儚く消えたことに、ショックがないと言えば嘘になる。
もちろん、もう一度、あんな手を使って能力を使いたいとは思わない。
人一倍、努力をして能力を磨くしかない。そのはずだ。
だけれど、レベル0という事実は、その努力をしようという強い意志を萎えさせる、強い足かせだった。

顔を洗って戻ってくると、ニュースがレベルアッパー事件の続報を流していた。
音楽ファイルとして配布されていたことと、二次利用しても効果がないことが、繰り返し強調されている。
佐天は被害者、いや使用者としてより詳細を聞かされていた。脳波の同期を統括する存在、すなわち木山春生が身柄を拘束されているため、学園都市内にばら撒かれたあの音楽データを聞いても、誰にも繋がらないのだそうだ。
だから、佐天が再び能力を使える日は、果てしなく遠い。
――――あんな風に、お手軽にじゃなくてもいいから。努力を、実らせる方法が知りたい。
そうした希望と、これまでため込んできた諦観が、心の中でせめぎ合う。それが佐天の、今の偽らざる心情だった。

「いただきまーす」

用意したトーストにかじりつきながら、テレビの画面に映る時刻をチェックする。
今日は『撮影のお仕事』が入っている日なのだった。




時は少し遡る。
光子は、年下の友人たち、湾内と泡浮と一緒にお茶のテーブルを囲っていた。
ただし目の前の二人の雰囲気は、いつもとちょっと違う。
「どうしましたの? なんだか、今日は変に遠慮されているみたいですわ」
一体何が原因だろうか。自分に心当たりはないから、おどけて見せて二人に言うよう促した。
「ええ……ちょっと、婚后さんにお願いがありますの」
「ただ、少し切り出しにくいことで」
「あら。遠慮なんて必要ありませんわ。お二人のお願いでしたら、できる事ならお引き受けしたいもの」
年下ではあるが、この二人には本当に世話になっているという思いが光子にはあった。
その気持ちをストレートに伝えると、二人は救われたように顔をほころばせて、軽く頭を下げた。
「そう言っていただけて、本当に助かりますわ」
「いいんですのよ。それで、どのような頼まれごとをすればよろしいのかしら」
雑用くらいなら喜んで手伝うし、勉強を見てほしいなんてのも大歓迎だ。
途中編入ではあるが、光子は常盤台でも少数派のレベル4、かなり優秀な学生だった。
そういう依頼なら喜んで引き受ける、のだが。
「実は、水着のモデルを、探しておりますの」
「……え?」
二人の頼み事は、そういう光子の予想を全く裏切るような内容だった。


「――それで、光子はどうするんだ?」
「いえ、その、何でもおっしゃってって言ってしまった以上、引っ込みがつかなくなって……」
光子に依頼をした後、二人は短いティータイムを終えてすぐ、他の人員を探しに行った。
一方光子はと言えば、断るに断れず引き受ける旨の返事をした後で、当麻に反対されるんじゃないかと不安になって電話をしたのだった。
「当麻さんは、やっぱりお嫌?」
「んー……。急な相談で混乱してるってのが正直なところだけど、まあ、不安、かな」
「不安、ですの?」
そのニュアンスは光子の危惧とは少し異なっていた。
はしたないと、そう怒られるかと心配していたのだけれど。
「やっぱり、水着なんだから露出が多いんだよな? その、変な写真撮られたりとか、さ」
「それは……私も初めてですから、確実なことは言えませんけれど、湾内さんと泡浮さんが言うには、心配なさそうですわ」
「そうなのか?」
「はい。毎年、常盤台の水泳部の子が協力しているそうですから。こういう言い方はなんですけれど、問題がある相手ならどうにかできる後ろ盾ですから。常盤台は」
それが今まで動いていないのだから、依頼してきた相手はまっとうな企業なのだろう。実際、ブランドの名前は学園都市ではよく耳にするものだ。
「もし当麻さんが、駄目っておっしゃるなら」
「駄目、とは言いたくないんだよな」
「え?」
「彼氏だからって、あれこれ命令するのはおかしいだろ? 光子が危ないことなら絶対に反対だし、男向けのきわどい写真を撮るってのも反対だ。けど、そういうのじゃないんなら、なんでも駄目っていうのは、よくないかなって思ってさ」
「当麻さん……」
「それに、光子の友達も一緒なんだろ? それなら、たぶん余計な心配だと思うしさ。光子がいいと思うなら、行ったらいいと思う」
「本当は、反対されているとか、そういったことはありませんのね?」
「正直なことを言うと、なんか光子が他の男にも見られるかもしれないってのがあんまり嬉しくない、かな。でも、無暗に束縛するのも、彼氏として違うと思ってる」
「……当麻さん、ありがとうございます」
「いや、礼を言われるようなことじゃないって」
「ううん。当麻さんに電話した私のほうにも、甘えがあったって、思いましたの」
「甘え?」
頼まれた以上は後輩に応えたいし、自分のプロポーションにはそれなりに自信がある。でも、肌を人目にさらすことで当麻に嫌われるのは絶対に嫌だ。
だから、駄目だと怒られるのが怖くて電話したけれど、同時に、お前が好きで、死ぬほど独占したいから行くなと、そんな風に言われたい気持ちもどこかにあった。
でも、恋人は、そういう強権的なものじゃないのだ。
当麻の言ったことは、光子の勝手にすればいいという、ある意味で突き放したものだ。
それをさびしく思う自分に、光子は反省した。過剰に束縛したりされたりするのは、たぶん、後でどんどん辛くなるのだと思う。
だから、当麻の信頼にもきちんと応えることが、一番大事なのだ。
「当麻さん。この話、やっぱりお受けしようと思います」
「……ん。わかった」
「絶対に、当麻さんに嫌な思いをさせるような水着は着ませんし、変な写真も撮らせません」
「わかった。ってまあ、あまり堅苦しくならなくていいって。普通の水着メーカーの水着だろ?」
「ええ。それも中学生から高校生がターゲットと聞いていますから」
「それなら、あんまり制約かけなくていいんじゃないか。……俺こそ、なんか嫌な彼氏みたいになってたら、ごめん」
「そんなことありません! 当麻さんにお電話してよかったって、思いますもの」
「ならよかった。それでさ、光子」
「はい?」
「撮ったやつ、俺にも見せてくれよ?」
「えっ?! わかりました。印刷されたらお見せします。でも、恥ずかしいですわ」
「なんでだよ。撮られるんだから今さらだろ」
「でも、当麻さんに見られるのは恥ずかしいんですの」
「そういうもんかねえ」
「だって、当麻さんにしっかりと見られてしまうんだって思ったら……っ」
想像して、顔がほてってくる。
今回は普通の水着姿だけど、ずっと先、このままずっと当麻と一緒にいたら、いつかは――――
「お、おう。なんか俺もドキドキしてきた。すげー楽しみだ」
「もうっ! 当麻さん、嬲るのはおよしになって!」
戸惑いながらもからかってくる当麻につい文句を言いたくなって、光子は電話に向かって叫んだ。




そんないきさつがあって、今日これからが、水着の撮影会になる。
佐天は家を出すぐ、初春と合流して集合場所へと向かっていた。
「初春はどんなの着るのかなー」
「私、ちんちくりんですし、似合わないのばっかじゃないかなってそれが不安です」
「ないない! 初春はとっても可愛いんだから、絶対合う水着あるよ。っていうか、初春の水着が見たくて今日のお仕事引き受けたんだから、そんな後ろ向きな気持ちじゃ駄目だよ」
「佐天さん!? そんな理由で引き受けたんですか?!」
この水着撮影はもともと、常盤台の水泳部がお世話になっている水着メーカーから依頼されたものだ。その水泳部員が美琴と白井、佐天たちの友人に声をかけ、さらにその伝手で自分たちにまでお鉢が回ってきたのである。
撮影依頼を白井から聞いた瞬間に、初春が難色を示すより先に佐天が快諾し、今ここに至る。
「そんな理由って、可愛い初春をコーディネートするのは友達としての義務だよね」
「佐天さんのほうがスタイルいいのに」
「お互いまだまだこれからだよっ。それと、いろいろあったから気晴らしもしたくって、さ」
佐天が明るく、さらりと口にしたそれに、初春はとっさに返事を打つことができなかった。
幻想御手<レベルアッパー>事件からまだ数日。
佐天とともにレベルアッパーを使用したクラスメイト達は、みな昏睡から目覚め、退院を済ませている。
けれど、やっぱりどこか心に傷を負って、陰りのある表情を見せていた。
「あ、あそこだよね」
佐天が、目的地らしきビルを指差す。建物の側面には、佐天らもよく知るブランドのロゴが描かれていた。
そのビルの足元を見れば、見知った白井や美琴の姿もあった。
手を振って挨拶をしてくれた美琴にこちらからも手を振りかえし、信号を渡って合流する。
「おはよー、二人とも」
「おはようございます、御坂さん、白井さん。それと……」
佐天は出迎えてくれた二人とあいさつを交わし、目線で隣にいた常盤台の学生たちの紹介をお願いする。
「ごきげんよう、お二人とも。こちら、私たちと同じ一年の、湾内さんと泡浮さん」
「ごきげんよう。初春さんに、佐天さんですわよね」
「あ、どうも、おはようございます」
おっとりとしていて上品な挨拶に、佐天は少し気圧される。美琴も白井も、常盤台の生徒ながらあまりお淑やかな印象を感じさせない相手だが、やはり普通の常盤台の学生はこうなのだろうか。
隣ではセレブな人々にあった一般人みたいに、初春が感激の表情を見せていた。
だが、もう一人、そこにいた女性の紹介をする段になって、その穏やかな雰囲気にひびが入った。
さっきとは打って変わって、ぞんざいな視線を投げて、白井がつぶやく。
「で、この残ったのがお姉さまと同じ二年の婚后光子ですわ」
「あら白井さん。なにも長幼の序を押し付けるようなことは言いたくありませんけれど、外部の方に紹介する場合にそんな態度をとるのは、常盤台の学生として如何なものかと思いますわ」
嫌々紹介する、といった態度の白井に、これまた嫌味ったらしく婚后と呼ばれた少女が返事をした。
バカだのアホだのといった単語が出ないのはお嬢様らしいのかもしれないが、こと人間関係でこういう仲の悪い例もあるというのは、お嬢様であろうとなかろうと関係ないらしい。
「お二人は私の友人ですから。けれど猫をかぶって貴女を持ち上げる必要なんてありませんもの」
「別に持ち上げてくださる必要はありませんけれど、ぞんざいに扱われる謂れはありませんわ。年上の学友を呼び捨てにする白井さんとは違って」
「貴女の人格的問題はそんな表層に現れているのではありませんわ。もっと根深い問題ですの」
「こら黒子、いきなり喧嘩しないでよね」
ため息をついて、美琴が白井の言葉を遮る。こんなところを見せられても初春と佐天は困惑するだけだろうし。
「喧嘩なんて。私はただ、あの女の――」
「あーはいはい。私からも紹介するね。婚后さんは、佐天さんたち、泡浮さんたちより一つ上で、私と同学年なの。一人だけ浮いちゃわないでちょっと安心したわ」
そう言いながら光子に笑いかけると、光子も美琴に笑顔を返してくれた。
「知り合いがいたほうが安心なのは確かですわ」
「今度はこっちの二人の紹介もしないとね。初春さんと、佐天さん。初春さんが黒子と同じ風紀委員で、そのつながりで今日は来てもらったってこと」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしますわね」
美琴の紹介で全員の名前の交換が終わる。仲の良かった相手とゆるやかにまとまりながら、談笑が始まった。
人見知りをあまりしない佐天も、初春や白井、美琴との会話をメインにしつつ、初めて会った常盤台の学生たちに目をやる。
同学年の湾内と泡浮は、おっとりしていて、まさに想像通りの常盤台の女子中学生、という感じだ。
初春も同感なのだろう、柄にもなく同い年相手に敬語で話しかけていた。
一方、もう一人、婚后という二年生の生徒がいるが、彼女は少し近寄りがたい感じがした。
あの我の強い白井といがみ合う根性がある時点で、気さくに話しかけるのはちょっと難しい。
ただ、美琴と話すその表情は穏やかで、さっきほどには険があるように見えなかった。
「おはようございます。お待たせしました」
少しの時間をおいて、エントランスからスーツ姿の若い女性が現れた。
「……あの人は?」
「メーカーの担当者さんですよ」
湾内に尋ねると、そっと教えてくれた。
「今日はよろしくお願いしますね。一人、二人……あら、あとの一人は?」
「まだいらっしゃるんですの?」
そう呟きながら目で問いかける光子に、泡浮が知らないというように首を振った。
「ああ、おひとりだけ別の伝手で来ていただく方がいるんです。あとはその方のようですね。あちらが、そうかしら」
こちらに向かって、ジャージ姿のラフな格好をした女子高校生が歩いてくる。企業のオフィスに場違いな年恰好からして、そうらしかった。
眼鏡をかけて、聡明な印象のある女性。
目があった初春が、「あれっ?」と驚いた声を上げた。
「固法先輩?」
「あら、初春さんに白井さんも。おはよう」
「先輩も水着のモデルを?」
思わず、初春はそう確認してしまった。固法は初春や白井と同じ、第177支部を拠点とする風紀委員<ジャッジメント>の一人だ。
モデルをするのに全く見劣りのしない、素晴らしいプロポーションの持ち主だが、生真面目なのでこういうことはしないと思っていたのだが。
「ええ。いつも通ってるジムで、風紀委員の先輩に頼まれちゃって。あなたたちは?」
「私たちは、水泳部の子に頼まれたんです」
「ああ。もしかして、常盤台はこちらのメーカーと提携しているのかしら」
固法はすぐに事情を言い当て、納得したように頷いた。
「お知り合いの方だったんですか?」
企業の担当がそう尋ねた。一人だけ違うルートで依頼したはずの相手が互いに面識があったことが気になったらしかった。
「ええ。私と、こちらの白井さんと初春さんとは、風紀委員の同じ支部で活動しているんです」
「そうでしたか。できればみなさんで一緒に過ごしていただきたかったので、面識があるのは助かります。それでは、さっそく水着を選びに向かいましょうか。どうぞみなさん、こちらにお越しください」
その案内につき従い、光子たちは水着の並んだ部屋へと足を運んだ。




「どれにしようかしら……。これ、はちょっと野暮ったいし」
一人、決めあぐねながら光子はハンガーラックに並べられた水着の間を歩いていく。
一緒に選んでいた水泳部の二人は、早々に決めてもう試着室に向かっていた。
着るならビキニにしようかと考えていたのだが、当麻に自分からわざわざ約束をしたし、あまり布地が少ないのは良くないかとも思う。
「あら、これ」
目に映った水着を取り上げ、眺めてみる。
色は濃いワインレッド。光子のお気に入りの色だ。ワンピースタイプなのだが、背中側が大きく開いていて、後ろから見るとビキニに見えるデザインだった。
「これにしようかしら」
あまりに選択肢が多いと、完全なベストを選ぶことは難しい。こういうのは直観に頼ってしまうに限る。
光子はさっと候補を決めて、試着室のほうを振り向いた。
「あら、御坂さん」
「ぅえっ?! ど、どうしたの? 婚后さん」
「どうしたもなにも、水着を選んでいるんですけれど……。あら、御坂さんはそういうのが好みですの?」
「えっ?! いや、その」
美琴が手にしているのは、トップス・ボトムともに大きなフリルのついた、水玉模様の可愛らしいビキニだった。
トップスはカップの見えないチューブ状となっていて、あまり起伏に富んだほうでない美琴のスタイルにはよく似合っていると思う。
「きっとよく似合うと思いますわ」
「そう、かな」
心中複雑な顔で、美琴がそうつぶやいた。似合うといわれるのは嬉しいのだが、素直に褒め言葉と受け取れない。
だってそう言ってくれた光子の、同い年なのになんと成熟した体つきをしていることか。
「婚后さんはそういうの、似合いそうだね」
「そうかしら? 私の好きな色ですし、これくらいなら派手すぎないかと思って」
……いや、婚后さんなら何着ても派手になると思う。
そういう心の声を押し隠して、美琴は苦笑いに見えないよう笑顔を見せた。
「私も、もうちょっとそういう落ち着いたのにしようかな」
溜息をついて、ハンガーをラックに戻そうとした時だった。
「えーっ、いいじゃないですか、それ」
やや大げさな、残念そうな声が隣から聞こえてきた。
「佐天さん?」
「あたし見てみたいなー、御坂さんのその水着姿」
「私も。是非着てみてください」
佐天に並んで、ひょっこり初春も顔を出した。
ここ最近になって、二人は美琴の好みと葛藤を、理解し始めているのだった。
どうやら「常盤台でもトップランクに位置するお姉さま」は、可愛らしいもの好きなのだが、立場上それを表に出すのがはばかられるらしい。
「い、いやいや。さすがにこれは、ね? ほら、また黒子になんて言われるかわかんないし」
「そう言わずに、試着だけでも」
「ぜーったいに、可愛いですって!」
「その、そうは言うけど、婚后さんと並んじゃうと、ほら。いくらなんでも子供っぽいっていうか」
「あら。いいではありませんの。その人に似あった水着ってあるでしょう。きっと御坂さんが来たら、子供っぽいんじゃなくて可愛くなると思いますわ」
「そう、かな……?」
美琴は周りの勧めに、つい抗えなくなる。
本当は一目で気に入った、大好きなデザインの服だ。着てみたいに決まっていた。
そういえば、この間のセブンスミストでもどっかのバカは、最後までこういう服の趣味を笑いはしなかった。
白井の趣味に合わないせいか小言をもらうことは多いけれど、別に、こういう服や水着が好きでも、いいのかもしれない。
「じゃあ、着てみよう、かな。と、とりあえず試着。試着だけだけど」
「よーし、じゃあ早速行きましょう! ほら初春も、それもってあたしたちも突撃だー!」
「はいっ」
「ちょ、ちょっと二人とも。何も押さなくても――」
善は急げ、美琴の気が変わるうちにと佐天と初春が美琴の背中を押していく。
試着室がいっぱいになったのでもう少し水着を眺めようかしらと光子が思案していると、隣でもう一人、まだ決めあぐねている眼鏡の少女が近寄った。
「楽しそうにしていたわね。あなたはもう決まったの?」
「ええ。こちらにしようかと」
まだ水着を一つも確保していない固法に、光子は手にしたそれを持ち上げて見せた。
「あら、なかなか刺激的なデザインじゃない」
「そうでしょうか? 布地の多いものを選んだつもりなんですけれど。何せ、サイズの問題であまり数がなくて」
「そう! それよね。ホント、選択肢がないのが不満っていうか。大手のメーカーだから期待してたんだけど、やっぱり少数派よね」
ため息をつく固法の胸元を見る。光子よりも、さらに大きかった。羨ましいというよりは、煩わしそうというのが感想だった。
「下着もそうですけれど、不平等ですわよね」
「本当にね。年々サイズが変わるからすぐ使えなくなるし」
「そうなんですの!」
つい、身を乗り出して同意してしまった。こういう話ができる友人の中に、光子の苦労をわかってくれる相手がいなかったのだった。
「まだ成長中? なら、私に追いつかないようにってお祈りしてあげるわよ」
「確かに、これ以上はいりませんわね」
共感たっぷりな苦笑いを、光子は返した。
「私は結局この辺しかサイズが合うのはないし、諦めてこれにしようかしら」
固法が手に取ったのは、白黒の水玉模様のビキニで、ボトムには小ぶりなフリルがついているものだった。
普通サイズのを普通の少女が着れば単に可愛らしいデザインなのだろうが、固法に着せるとかなりセクシーさが強調されるだろう。
「じゃ、着てみましょうか」
「ええ」
湾内と泡浮が着終えて、空きの出た試着室へと二人は向かった。




「そーれぇっ!」
「あっ、ずるいですわお姉さま!」
「ついさっき空間移動<テレポート>つかったアンタが言うな!」
文句の中身に反して意外と上機嫌な美琴の声が、あたりに響き渡る。
佐天、初春はいつもの美琴と白井のコンビと一緒に、ビーチバレーをしているところだった。
ホログラフィを始めたとした映像技術などをフルに生かした、学園都市最新の拡張現実技術を利用して作られた空想のビーチ。
海のない学園都市の、それも第七学区のビル内に再現された浜辺で皆は戯れているのだった。
「よしっ、これで勝ち越しっと!」
「もう、お姉さまったら本気になって」
佐天はガッツポーズをする美琴の後ろ姿を見て、うんうんとうなずいた。
やっぱり水着の効果だと思う。美琴自身嬉しいのだろう、いつもよりも美琴は快活な印象を周囲に与えていた。
「し、白井さん。ちょっと休憩しましょう」
「そうですわね。ゲームセットですし。私たちの負けで」
ふう、と白井はため息をついて、チームメイトの初春をねぎらった。
この四人の中では、初春が一番運動が苦手なのだ。それもあって疲れたのだろう。
傍の浅瀬に目をやると、湾内と泡浮、光子が水の中で水を掛け合いながら戯れていた。
「捕まえまし――――あっ、」
「ふふ。残念でした」
まるでイルカのように、滑らかに水中を突き進んだ湾内に対し、泡浮は捕まらないようにと水中から逃げ出した。
それも陸に上がるとかそういうのではなく、何と光子ひとりを抱きかかえて、水面に立っているのだった。
「すご……泡浮さんて、力持ち?!」
横から眺めつつ、佐天はついそう呟いた。湾内は水泳部で、使った能力はまさに水流操作そのものといった感じだ。
一方、泡浮の能力は、想像がつかない。あんな細い腕で光子を抱きかかえられるとは考えにくいし、能力を使っているのだと思う。
けど、それなら同時に水面にも浮かんでいるあの能力はいったいなんだろうか。
多重能力<デュアルスキル>はあり得ないというのが学園都市の定説だから、それらはきっと一つの能力に違いないのだが。
「泡浮さんは少々変わった能力の持ち主なんですの」
「水流操作じゃない、ですよね?」
「ええ。でも流体と関わりの深い能力ではありますわ。あの三人とも」
学園都市のマナーとして、白井は他人の能力そのものを教えてくれることはなかった。
視線の先では、水中を魚みたいなスピードで追う湾内から、水上を走る泡浮という構図が出来上がっていた。
だが、軽そうではあるものの、光子を抱えた泡浮は走るフォームをきちんと取れない。
わずかな駆け引きの後に追いつかれて、うねるように立ち上がった水流に絡め取られ、再び水中へと戻されていた。
「も、もう! お二人とも容赦がありませんわね」
そう文句を言いながら、光子は不敵に笑って起き上がる。
「あら、こういう時に遠慮をしては面白くありませんわ」
「水中は私たちの活躍の場ですもの」
年上相手だが、二人は能力を使って遊ぶのにためらいはなかった。
光子は二人より上の、レベル4の能力者だ。環境の不利くらい平気で覆して、遊びに加わってくれることだろう。
「まあ、水中で分が悪いのは認めざるを得ませんわね。でも――――」
光子が、傍にいた泡浮の肩に手をかけた。泡浮の力を借りてふわりと飛び上がり、体を横にしながら足を水面から出す。
そして、水面から1メートルくらいの高さを、滑らかに飛翔した。
「私から逃げられるかしら?」
「負けませんわ!」
湾内は光子のそのアクションを見ても、まだ余裕を感じていた。
光子は自由自在に空を飛べるタイプの空力使いではない。方向転換は不得意なはずだし、なにより空気より密度の大きい水流を扱う自分のほうが、機敏な動きは特異なのだ。
追いつかれる前にと、湾内は再び水に潜ろうとした。その時だった。
「引っかかりましたわね」
おかしそうに光子が笑うと同時に、幾本もの水柱が、湾内の周りで噴出した。
「きゃっ!」
「――――捕まえましたわ」
光子が、自らの滑空速度を減じながら、腕を湾内に絡めた。そのままギュッと抱きしめて、体を水に投げ出した。

ザッパーーン!

盛大な水音があがる。じっと眺めていた佐天以外の、陸にいた残りのメンバーも何事かとそちらを見ていた。
「ふふ。私の勝ちですわね」
「こ、婚后さん。水中にも『仕込んで』いましたの?!」
「油断してましたわね。湾内さん」
「婚后さんは、さっき落ちた時に空気の泡を全部ここの底に貯めていたんですよ」
笑いながら、そういうことだったのかと納得するように湾内が頷いた。
三人としては、ずいぶん能力を抑え目にしてのちょっとした遊びだったのだろう。
遠巻きに見る佐天には、そんな風に見えた。ただ、それでも少々、羽目を外しすぎたのかもしれない。
ビーチを再現したフロアに、どこからかアナウンスが響いた。
『お楽しみのところ邪魔をしてごめんなさい。能力を使って運動をされると、企業として安全が保障できなくなってしまうので、申し訳ないんだけど控えてくださいね』
「す、すみません!」
「失礼しました」
依頼を受けて皆を誘った側の湾内と泡浮が、恥ずかしそうに謝った。
『常盤台の学生さんですから、もちろん大丈夫だとは思うんですけど、依頼している我々の体裁もありますから。そうだ、そろそろお昼になりますけど、みなさんどうされますか?』
もうそんな時間だったのかという顔をした学生たちに向かって、撮影担当の女性は、続けて提案を行った。
曰く。撮影用に飯盒(はんごう)などのキャンプの道具と食材も用意しているから、自分たちで準備されますか、と。
ずっと遊んでいたい彼女たちにとっては、願ったりかなったりだった。




ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎといったオーソドックスな野菜と、牛肉のブロック、エビやイカなどの海鮮が並んだテーブルを挟んで、全員で顔を見合わせる。
「それじゃ、作りましょうか」
「はーい!」
固法の音頭に全員で返事を返し、それぞれの担当作業に手を付け始める。
相談の結果、美琴と白井が飯盒でご飯を炊き、佐天と初春が牛肉入りの普通のカレーを、光子と湾内、泡浮がシーフードカレーの調理をすることになった。
固法は全体を見回しつつ、シーフードカレー組のサポートに入ることになる。
理由は簡単、その組だけが、全員に調理経験があまりなかったからだ。
手始めにニンジンや玉ねぎの皮を剥かせ、包丁を三人に渡す。
「いい? 包丁は野菜を押さえるほうの手の形にさえ気を付けておけば、指を切ったりすることなんてまずないわ。だから左手には気を付ける事」
「わかりましたわ」
根は素直な三人なので、固法はあまり心配はしていなかった。現に、恐る恐るではあっても、危なげない手つきで光子たちは野菜を刻んでいく。
手つきが安定してきたのを見計らって、他のメンバーの進捗を見にいくことにした。
「それじゃこれ、全部切っておいて。準備の山場はエビの処理だろうけど、難しいと思うからちょっと待っててね」
「はい」
ひときわはっきりと、光子が頷く。先ほどから自分たちよりも光子がやる気になっているのが、湾内と泡浮は気になっていた。
普段の光子は、ことさらに食に関心があるほうではない。料理が趣味だなんて印象はなかったし、現にスキルという意味では自分たち同様、素人そのものだ。
だから、やる気の原因は、きっと。
「婚后さん、張り切ってらっしゃるのって、やっぱり」
「えっ?」
「作ってあげたいって、思ってらっしゃるのかしらって」
「な、何のことですの? 私別にそんなこと考えていませんわ」
「そんなこと、ですって! 湾内さん」
「私たち、別に何も言ってませんわよね?」
不穏な空気を感じて、光子が警戒感をあらわにする。だが視線が落ち着きなく揺れていて、口元が決して嫌そうな感じに見えないあたり、光子の内心はバレバレだった。
「婚后さんは、お付き合いなさっている殿方の話をするときだけは、嘘をつけませんわ」
「嘘なんて、私言っていません!」
「そういう照れ隠しが、素直すぎるんですわ。目上の方に失礼ですけれど、ちょっと可愛いって思いますもの」
「そ、そんなこと」
「ね、婚后さん。もう一度お聞きしますけど、手料理、振る舞って差し上げたいんではないんですの?」
穏やかそうな声で、しかしどストレートにぶつけられた質問に、光子は窮してしまった。
確かに自分は、嘘をついた。
「……いつも食事を用意するのが面倒だって、おっしゃいますの」
「常盤台みたいに寮で食事まで用意される学校ではありませんのね」
「高校でしたら、そういうのも普通だと聞きましたわ」
「今の私は、正直に申し上げて、あの人よりきっと料理下手なんですの。だからお力になれませんし、それが悔しくって」
「だから、料理を勉強しようって考えていらしたんですね」
「……ええ。お恥ずかしながら」
拗ねたようにそっぽを向く光子に、二人は温かく微笑んだ。
「とっても素敵ですわ」
「どこがですの。お付き合いしている方よりも、料理ができない女なのに」
それは本当に、自分の嫌なところだった。なにせ、当麻からはいずれ下宿に手料理を作りに来てくれなんて、言われたことがあるのだ。
付き合うより前の話だし、当麻はもう忘れているかもしれないが、光子はその言葉をずっと心にとどめている。
当麻のために自分ができる、数少ないことなのだ。こんな成り行きでも、料理の腕を磨ける気概があることは光子には有難かった。
「自分に足りないところを認めて、改めようとしているところが、格好いいんですわ。……いいなあ。私にも、そういう方がいたらもっと家庭科の勉強に身が入るのかしら」
愚痴のような独り言を泡浮が漏らす。湾内にとっても全く同意できる内容だった。
「婚后さんって、彼氏がいるのね」
「えっ?!」
慌てて振り向くと、後ろで固法が興味深げな顔をしていた。どうやら別のチームの監督はすぐ終えて戻ってきていたらしかった。
「た、立ち聞きなんてお行儀が悪いですわよ」
「それはごめんなさい。でも周りに聞こえる声で話していた側にも非はあると思うわよ。ね、それより、どんな彼氏なのか気になるなー、って」
大人の余裕が垣間見える態度で、固法がそう問いかけてくる。
あまり知らない相手に話すのなんて、照れくさいし恥ずかしい。
「そんなこと聞いてどうなさいますの。別に、普通の方ですわ」
「普通の方、ですって。泡浮さん」
「そうとは思えませんわよね。あんなに素敵な恋をなさっているのに」
「もう! お二人とも! 人の秘密をあけすけにばらすのはおやめになって!」
「秘密ですって! やっぱりお付き合いなさっている方が素敵な方だっていうことは、人には知られたくないんですわね」
「それはそうですわ。大切な人を独占したいっていう気持ちは、わかりますもの」
「そんな意味で言ったんじゃありませんわ!」
しれっと自分の言葉を曲解していく湾内と泡浮が恨めしくて、じっとりと睨みつける。だが最近はもうすっかり慣れてきたのか、年下の二人は全く物怖じしなくなっていた。
そんな三人のやり取りを、固法が楽しげに見つめる。
「固法さん、でしたわね。貴女こそどうですの?」
「えっ、私?」
「確かに気になりますわ。とってもお綺麗で、大人の女性ですもの。素敵な恋の一つや二つ、経験されているかも」
「あなたたちに綺麗って言ってもらえるほどじゃないわよ。それと、大人って言っても高校生だし、そういう浮ついた話は残念ながらできないわ」
光子の続きで盛り上がる湾内と泡浮に、固法は苦笑せずにいられなかった。
恋愛話は固法の周囲でももちろんホットな話題だが、その内容はもうちょっと下世話というか、オトナな内容になっているのは事実だった。
「じゃあ、お付き合いしている方は」
「いないわよ。別に、今すぐ欲しいとも思わないし」
「それなら、今までに恋をした殿方はどんな方でしたの?」
「恋って、別に、そういうのはないわよ」
固法がその返事にわずかに言いよどんで視線がぶれたことを、三人は見逃さなかった。
「今の、ちょっと怪しかったですわ」
「湾内さんも泡浮さんも目ざといですわね。固法さん、私に聞くんでしたら、貴女からもお話していただかないと」
ようやく自分にも攻める側に回るチャンスが巡ってきたので、光子が嬉しげに頷いた。
「あらあら。こりゃちょっと旗色が悪いわね。言っておくけど、これまでに付き合った相手なんていないんだから、面白い話なんてないわよ」
「じゃあ、片思い」
「さあ。でもそれくらい、誰だってある話でしょ?」
それは紛れもない固法の実感だったのだが。
うーんと首をかしげる三人の態度を見て、お嬢様とはこういうものかと変に納得させられた固法だった。




「あっちは盛り上がってるねえ」
「ちょっと手が止まってますけどね」
初春と一緒に苦笑しながら、佐天はシーフードカレー組を眺める。
こちらは野菜のサイズをどうするかでちょっと揉めたくらいで、あとは順調に進んでいる。
失敗するほうが難しいのがカレーという料理だし、慣れた佐天にとってはなんてことはない作業だった。
野菜くずをまとめてゴミ捨て場へと持っていくと、向かいからも湾内が捨てにやってきた。
「調子はどうですか?」
「固法さんのおかげで、今のところ順調ですわ」
「常盤台では、調理実習とかないんですか?」
「たしか二年か三年の時に、ありますわ。でもそれだってほんの数回のことですし、手際よくは難しいんじゃないかと思いますわ」
「まあ、そりゃそうですよね。寮は全部作ってもらえるんですよね?」
「ええ。ですからこんなことを言うと嫌味みたいですけれど、毎日ご自分で食事を用意される方って、尊敬しますわ」
湾内がそう言って、にっこりとほほ笑み掛けてくれる。
確かに内容は嫌味ともとれるのに、全くそう感じさせないおっとりとした笑みだった。
柄にもなく、佐天は気恥ずかしくなる。
「そ、そんな大したことじゃないですよ。とびきりおいしい料理が作れるわけでもないですし」
「きっとそんなことありませんわ。お向かいから、佐天さんの手つきを拝見していましたけれど、包丁の動きがとってもリズミカルで、なんだか自分の母親のことを思い出しましたもの」
「褒めすぎですって。それに、湾内さんたちは能力の開発を頑張ってるわけですから、私からすれば、そっちのほうがかっこいいです」
「そう言っていただけるのは、光栄ですけれど。でも能力を日常の中でに活かせることなんて限られていますし、自分のことを自分でできるのは大切なことですわ」
心のうちに広がる複雑な感情に気づかないふりをして、佐天は湾内に頷き返す。
きっと湾内も、自分を気遣って言葉を選んでくれているのだろう。湾内はそういうことのできる女の子だと思う。
「そういえば、さっきプールで見ましたけど、湾内さんって水流操作系の能力者……なんですよね?」
「ええ。そうですわ」
そう言って湾内は、手近な蛇口をひねって水を出し、手のひらの上に貯めて見せた。
水塊はこぼれることなくまとまり続け、自然には絶対ありえないような、立方体のブロック形状を示した。
「わー、なんかこのサイズだと可愛いですね。この能力を利用して、水中で早く移動していたんですよね?」
「はい。その通りですわ」
「じゃあ、泡浮さんの能力も、水流操作(ハイドロハンド)なんですかね?」
素朴な疑問を、ぶつけてみる。水面から浮き上がっていた様子から察するに、どうも違うような気がしていたのだ。
「いいえ。泡浮さんはちょっと違う能力をお持ちですの。私や婚后さんと同じ、流体に関する能力ではありますけれど」
「――――浮力を操る能力なんですよ」
隣から、泡浮本人がひょっこりと顔を出した。
「泡浮さん。下ごしらえのほうはよろしいんですの?」
「エビの皮むきは、婚后さんが全部するっておっしゃって」
苦笑気味に、泡浮は手持無沙汰を暴露する。
あちらでは光子が固法の手つきをまねながら、大きなブラックタイガーの頭を取り除いていた。
「浮力を操るって、よくある能力なんですか?」
「流体制御の一分野という意味ではよくある能力なんですけれど、浮力を直接対象とする能力はかなり珍しいですわ」
「珍しさで言えば、婚后さんに引けを取りませんわね」
「そういえば、泡浮さんもですけど、婚后さんも、空を飛んでましたよね」
「正確には、私の場合は浮いていただけですの。婚后さんはまさしく飛翔されていましたけれど」
「はあ」
本質的にどう違うのかわからなくて、佐天としては生返事を返すしかない。
二人はその態度を見て、佐天の疑問を察してくれたようだった。
「私は水の浮力を極端に大きくすることで、ほんの数センチ、足を沈めただけで浮かべるようになるんです。他にも、空気の浮力を大きくして、空中にものを浮かべることもできるんですよ」
そう言いながら、泡浮も能力を実演してくれた。手渡された空の鍋がステンレス製と思えないほどに、ふわりと佐天の加えた力に応じて持ち上がる。
「軽っ! っていうか、水でも空気でも操れるって、すごいですよね」
「この能力は重力と逆向きの力しか生み出せませんから、そういう不便もありますわ。そして、私と違って、空気の流れを操る空力使い<エアロハンド>でいらっしゃるのが、婚后さんですわ」
「空力使い……」
「それもレベル4ですから、非常に優秀でいらっしゃるんですよ」
それを聞いて、佐天は内心で、驚きを禁じ得ないでいた。
光子が空力使いだということが意外なのではない。それ以前に、自分と同系統の能力者がいて、自分よりずっと高レベルであるということが、佐天にとってひどく新鮮な事実だったのだ。
空力使い<エアロハンド>はありふれた気流操作の能力に対する大きな分類に過ぎず、仲間意識など持ってはあちらに失礼だとは思う。
けれど学園都市に来て以来、能力の系統すらまともに判定してもらえなかった佐天にとって、それは感慨を覚えるに値することだった。
「あたしと同じ、なんですね」
「佐天さんも空力使いなんですの?」
「はい。って言っても、そう名乗れるようなレベルじゃないですけどね」
苦笑いして、佐天は手を振った。
「さて、そろそろ炒めないと、先にご飯炊けちゃいますね」
「そうですわね。美味しく召し上がっていただけるものを、ちゃんと作りませんと」
悲壮な決意を見せる、といった感じに湾内がおどけて見せたのをひとしきり笑って、三人はそれぞれの持ち場に戻った。




「……それでは、今日の撮影を終わりにしたいと思います。写真を収録した雑誌は発行する前にチェックのためにいったんお送りしますから、問題があれば二日以内にご連絡くださいね。今日はお集まりいただいて、ありがとうございました。」
「お疲れ様でしたー!」
そう声を唱和させて、固法はふうとため息を一つついた。
慣れない体験に、気づかないうちに気を張っていたのだろう。
周囲の女子中学生たちにも、一様に仕事をした後の笑みが浮かんでいた。
「それじゃみんなお疲れ様。先に失礼するわね」
夏も真っ盛りだから、濡れていた髪の枝先ももうすっかり乾いている。
これからの予定を相談して盛り上がる残りのメンバーより先に、固法は水着メーカーのオフィスを後にした。
「相変わらず暑いわねー」
一人そう呟き、昼下がりの太陽にケチをつける。冬なら日も翳ろうかという時間帯だが、あいにく外はまだ十分に明るかった。
メールをチェックして、この後会う予定のあった友人とやり取りをする。予定通りの時間に終わったから、このあともうひと遊びするつもりだった。
そして、駅のほうへと歩き出したところで、見覚えのある相手が歩いてくるのに気が付いた。
「あら、上条君?」
「へ? って、メガネの先輩じゃないですか」
「その呼び方やめなさいよ」
「へーい。お久しぶりです、固法先輩」
「久しぶりね。もう一年くらい会ってなかったかしら」
「話したのはそれくらいだっけ。半年に一回くらいは街のどっかで見かけてましたけど」
そう言い返してきた相手は、上条当麻という学生だった。
風紀委員になってからも、その前からも、ちょくちょくと縁のある相手だった。
「私のほうには覚えがないんだけど……」
「そりゃ先輩、風紀委員<ジャッジメント>やってるじゃないですか。いたいけな一般市民としてはお近づきになりたくないっていうか」
「君が一般市民だって意見には納得できないんだけどね」
「それ言ったら、夜にバイクで流してた先輩が風紀委員ってほうが納得いかないんですけどね」
う、と固法は言葉に詰まる。親しい友人にしか知られていないが、二年ほど前の固法は、それなりにやんちゃだったのだ。
目の前の彼とは、その頃からの知り合いである。
本人は別にバイクの趣味もないし飲酒も喫煙もしないくせに、荒事の起こる界隈に出没する不思議な学生だった。
「ま、それは置いておくとして。こんなところで何してたんですか?」
当麻の質問は、もっともだった。風紀委員とはいえ高校生でしかない固法が、水着のメーカーのビルを訪れる理由はあまりない。
「ちょっとお仕事でね」
風紀委員の、とは言わなかったけれど、そうとも取れるような言い方で固法は答えをはぐらかした。
納得してくれたかと相手を観察すると、ふーんとつぶやいて、判断を保留するような顔をしていた。
だが、一呼吸おいて。
「てっきり俺は、先輩が水着のモデルでもやってたのかと思ったんですけど?」
当麻が見透かすように意地悪く笑った。
「っ! な、なんでいきなりそういうことを考えるのかしら」
「髪、ちょっと濡れてますよ」
「汗かいてるだけでしょ」
「今ビルから出てきたところなのに?」
ニヤニヤとした笑いをひっこめず、さらに問いかけてくる当麻を睨み返す。
一つ年下のくせに、固法に対して妙に遠慮がないのだ。この男は。
「上条君って、そういうデリカシーのないことは、あんまり言わないタイプだと思ってたんだけど」
当麻を牽制するつもりで放ったその言葉に、嘘はない。この男は口では女性に対して気を使えるほうだ。
隣にいる女性が、『不幸なアクシデント』にめぐり合うことが多いだけで。
「いや、俺は気になったことを聞いてるだけですよ。先輩が嘘をついているみたいだったんで」
「嘘だなんて。決めつけはよくないわ」
「じゃあ何してたんですか。そんな着替えでも入ってそうなスポーツバッグなんか持って」
そう言われて、むしろ固法は不審を抱いた。
お互い久々に話したことで少々テンションはおかしかったのかもしれないが、それにしても当麻の態度に余裕がありすぎる。
固法が本当に水着の撮影をしていたことを、内心では完全に確信しているように見えた。
「上条君こそ。こんなところにどうしているの? 駅から離れているし、遊ぶところも近くにはないのに」
「友達に会ってから、繁華街に繰り出すところだったんですよ」
その言葉に、嘘を感じた。だってこのあたりに学生寮はない。
不意に、撮影現場での会話が脳裏に思い出された。論理的な裏付けのないまま、固法は直観に従って当麻の嘘を穿った。
「友達だなんて、言い方はないんじゃない?」
「え?」


「婚后さん、とってもきれいな女の子だと思うけれど」


効果は覿面だった。
「ちょ、ちょっと先輩?! なんで」
「やった、正解だったのね。ごめんなさい上条君、確かに君の言うとおり、水着の撮影を頼まれていたわ」
面白いように狼狽した当麻の態度を見て、心の中でガッツポーズをする。
もう、水着姿を取ってもらったという話をばらしても恥ずかしくない。立場は固法が上だった。
「もう終わったんだけど、婚后さんはお友達とまだ帰る支度をしていたわ。待っていれば、そのうちここに来るとは思うけど」
「なんで、いきなり婚后の名前が出るんですか。っていうか、知ってたんならとぼけなくてもいいでしょう」
「婚后さんのお相手の名前なんて聞いてなかったわよ、もちろん。上条君が調子に乗って自爆しただけ」
「……ちぇ」
クスクスと笑うと、ふてくされた顔で当麻がそっぽを向いた。珍しく、可愛い所もあるものだ。
「それにしても、上条君に、ついに恋人登場かあ。あの子、一人目の彼女よね?」
「さあ。別に先輩に言う義理ないと思いますけど」
「それはそうね。でも今度婚后さんに会ったら、なんて言おうかしら。昔っからいろんな女の子に言い寄られてて、何人目の彼女かわからないって正直に伝えてもいいの?」
「人聞きの悪い! 俺、誰かに言い寄られたことなんてないですよ。それと、俺の名誉のために言っときますけどとっかえひっかえなんてしたことないですからね」
「うん。まあ、それは信じてあげるわ。陰で泣いてる女の子は多そうだけどね」
「いるもんなら光子と付き合うより前に彼女ができてたでしょうよ」
からかうつもりが地雷を踏んだ当麻の不機嫌な顔がおかしくて、つい固法は笑ってしまった。それを見た当麻の口元が、さらにひん曲がるのがさらにおかしかった。
「ま、久しぶりに会って楽しい話も聞けたし、よかったわ。私はそろそろ行かなきゃいけないから、またね」
「俺は会いたくない理由が増えましたよ。ったく。まあ先輩も、お元気で」
当麻が最後に見せた苦笑に満足して、固法は当麻に背を向けた。
そして数歩歩みだして、誰にも聞こえないように、そっとつぶやく。
「やっぱり恋人がいると、輝いて見えるわねー……」
独り身の自分を、全く嘆かないわけでもないのだ。
今から会う相手、と言ってもただのルームメイトだが、彼女にもまた恋人がいないことを意地悪く喜びながら、固法はその場を後にした。




「はー、なんだかんだで楽しかったねえ」
「そうですね。いつの間にか、撮影だってこと忘れて遊んでました」
夕焼けをバックに、佐天と初春は自分たちの寮を目指して歩く。
手には行きと同じバッグに加えて、夕飯の材料を詰め込んだ袋があった。
今日はこのまま、二人でお好み焼きパーティーの予定なのだった。
「にしても、やっぱ常盤台の人って、遊んでる時でも平気で能力が出てくるんだよね。あの辺の感覚は、やっぱうちらと違うよね」
「そうですね。レベル3以上の学生しかいないとなると、みんな何かしら、使える能力があるわけですもんね」
精一杯うんうん唸って、スプーンを曲げるのが限界な連中ばかりのクラスメイトと違うのは、むしろ当然だった。
「あの婚后さんって言う人、空力使いだった」
「……佐天さん」
その一言の意味を、初春はすぐに察した。
能力を行使したところを実際に見たわけではないけれど、幻想御手<レベルアッパー>によって発現した佐天の能力は、気流操作だったと聞いている。
「能力を使ってるところはちょっとしか見なかったけど、滑るみたいに空を飛んでたし、水中でも能力を使って水柱を上げてた」
「私も見てました。レベル4ってことは、きっともっとすごい能力を持ってるんでしょうね」
「そうだよねえ」
歯切れの悪い佐天の言葉は、彼女の苦しみを、物語っているのだろうか。
あの事件以降、良くも悪くも、佐天が能力のことを口にすることが、多くなっていた。
一瞬手に入れて、すぐ失ったそれに対する葛藤なのか、あるいは罪悪感の裏返しなのだろうと思う。
佐天を癒してやれない自分に、初春は少し苛立ちを覚えた。
「ねえ、初春」
「はい?」
佐天が、澄んだ瞳で自分を見つめていた。
「あの人に、能力の使い方を教わるのって、ダメかな?」
なんでもないことのように告げられた佐天の一言に、初春は思考を麻痺させた。
「えぇっ? さ、佐天さん?」
「この街に来たからには、あたしはやっぱり、能力を伸ばしたい。そのために、やれることをやりたいんだ。もちろん婚后さんに無理って言われたらそれまでだけど、まずは、当たって砕けてみよう、って。そう思うんだ」
そう言って照れくさそうに微笑む佐天を見て、初春は満面の笑みを浮かべた。
「そうですね。砕けちゃだめですけど、当たってもみないのはもっと駄目ですよね!」
佐天は、ほんの短い間だけ能力を身に着け、それを失った。
その喪失感ばかりが、ずっと佐天を苛んでいるのだと、初春はそう思っていた。
けれど、違うのだ。初春のよく知る佐天という少女は、弱さを抱えてはいても、弱いだけの少女ではなかった。
失くしたことで、佐天が得たものもまた、あるのだろう。
「とりあえずは婚后さんが街に出てくるところを待ち伏せかなー」
「待ち伏せって……御坂さんか白井さんに聞けば、連絡先を教えてくれるんじゃ」
「ま、そうだね。でもとりあえず今日は宴会だー。疲れたし飲むぞー!」
「佐天さん! その言い方は誤解を招きますよ! 私ジュースしか買ってません!」
初春は苦笑しながら、バッグをぶんぶんと振り回す佐天を追いかけた。


誰も、気づく者はいなかったけれど。
紛れもなく今日こそが、佐天涙子の『はじまり』の日だった。


*********************************************************
あとがき
白井の風紀委員としての先輩にあたる固法美偉の学年は、作中では明記されていませんが、
漫画版超電磁砲の一巻第四話(レベルアッパー事件)と三巻番外編(新人研修編・一年前)で着用している制服のスカートが、
どちらも同じチェック柄であることから、少なくとも二年生以上であることが示唆されます。
また、アニメ版超電磁砲15-16話の、彼女の二年前を描いたストーリーでは全く異なるセーラー服を着用していることから、
(転校の可能性に目をつぶると)アニメでは、高校二年生であると考えられます。
本作ではこの推測に基づき、二年生であると設定しています。

またスタイルの情報を調べる限り、固法、光子、泡浮さんの身長・体重・バストサイズはほぼ同程度なのですが、
アニメでは固法 >> 光子 >> 泡浮・湾内・佐天 > 美琴 > 初春 >>>>>>>>>> 白井 みたいな扱いなので、そのように描写しました。



[19764] prologue 10: レベル4の先達に師事する決心
Name: nubewo◆7cd982ae ID:0f404a7c
Date: 2014/02/15 14:56

「婚后さん! あたしに空力使い<エアロハンド>の極意、教えてくださいっ!」

どんな心境の変化だったろう。
彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。それも自分にとって決して親しみやすいとは言えなさそうな自信家のお嬢様。
これまでにもあったことはただの一度で、ほとんど話をしたこともない相手だというのに。

その日、光子は当麻と会うため、学舎の園と普通の区域の境となるゲート前で、一人待ち合わせ時間までの数分をぼんやり過ごしていた。
当麻が到着するまでにはもう少し掛かりそうなので漫然と景色を眺めていると、視界の中に、見覚えのある二人の姿が見えた。
向こうも遊ぶ気なのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が、こちらに向かって歩いてくる。彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。たしか白井や美琴の友人だったはずだ。
先日はどうもというような当たり障りのない挨拶をし、一体今日はどうしたのかと聞こうとした直前で。



いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。



「え、ちょっと、お待ちになって。唐突にどうしましたの? 極意を教えてって」
目を白黒させる光子に、焦った顔をした初春が頭を何度も下げた。
「佐天さん! いきなりそれじゃわからないですよ」
「あ、そうですよね。アハハ」
脈絡のない性急な切り出しは、佐天の緊張の表れだったらしい。光子と初春から説明を求める目で見つめられて、佐天は続きを言いよどんだ。
だが、すぐに意を決したように視線をまっすぐ光子に向けて、もう一度自分の願いを口にした。
「あたしの能力、空力使いなんです。レベルは全然、大したことないですけど」
「はあ」
「これまでもずっと能力は伸びないで、全然駄目なままだったんですけど、最近、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって、思うことがあったんです。それで、知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか」
「だから、能力について教えて欲しい、と?」
続きを先取りするように光子はそう言い、佐天に確認を取った。
帰ってきたのは、あっさりとした首肯だった。
「はい。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」
光子がこの申し出をどう思うか、それは初春には分からなかった。しかし佐天が明るい態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。
佐天は言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。
「あの、お願い、出来ませんか?」
光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女とは、直接話したことはほとんどない。初めて会った水着撮影の一日で、光子は佐天のことを、明るくて苦労の類と縁がない子だと勝手に思っていた。
「佐天さん、だったわね」
「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」
「可愛いお名前ね」
「はあ」
佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。
「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違いますから、簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっとよろしいわ。私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」
それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。
試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、
「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」
「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」
即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。
「でも、努力ならいつだってしていましたわ。そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」
その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。
白井との喧嘩を横から眺めていて、この婚后という先輩は気が強く嫌味な相手なのかもしれないと不安に思っていたが、どうやら少し違うようだった。
彼女が口にした天才という言葉には、自分より力のない他者を見下すような意味合いではなく、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、グラウンドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」
ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。
「私に出来ることなんて高が知れているでしょうけれど。でも、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ」
弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。
「えっ、あの、教えてくれるんですか?!」
半分くらい、断られるのを覚悟していた佐天は、あっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。
「貴女にやる気があるのなら、ね」
試すような目付きでのぞき込まれて、ビッ、と佐天は敬礼のポーズをとった。
「はい! 頑張ります!」
それを聞いて、話に割り込まず隣で聞いているだけだった初春も、安心するように笑った。
劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。
「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」
しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。
「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」
その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。
「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」
わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。
光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。
「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」
「あ、えっと……ゼロ、です」
噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、レベル0いきなりであるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。
「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」
弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。
「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」
はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。
「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」
「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」
自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと、そう決めてかかった行為だった。
「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」
「え、宿題、ですか?」
光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。そして、自分の面倒を見てくれている先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。
「貴女、風はお好き?」
「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」
その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。
「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き? それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」
「はあ……」
どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。
「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」
「自分で、ちゃんと考えてみます」
不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。
「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」
「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」
「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ? 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」
佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。





それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。
当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。
遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。
「どうして遅れましたの」
最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。
ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。なじるのを止めたりはしなかったが。

二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。
当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。
「鞄、持つよ」
自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。
「はい、お願いしますわ」
ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。
鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。
私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。
そう光子は納得していた。
自分のプロポーションに自信があるものの、それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。

「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」
安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。今でもそれをアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。
そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。
「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」
「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」
「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」
そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。
彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。
自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。だからこそ当麻と一緒にいることに息苦しさを感じないでいられるのだろう。そして彼の能力について付き合うより前に聞いてから、実はあまり詳しい話は聞いたことがなかったのだった。
レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。
「あの、怒ってらっしゃらない?」
「へ? なんで?」
恐る恐る確認を取った光子に、当麻は間の抜けた顔をした。急に光子が不安な表情を見せたことが全く理解できなかったらしかった。
「その、当麻さんも確か、レベルが」
「あ、うん。ゼロだな」
「ですから、その、佐天さんにあれこれと能力のことでアドバイスなんてするのを、当麻さんがお嫌だったらどうしようって」
「ああ、そういうことか。なんだ、そんなの気にすることないのに」
「構いませんの?」
「気にしないって。その子、光子と同じ系統の能力なんだろ? それならうなずける話だし、光子がいくらレベル4だからって、俺の右手をどうにかできるとは思えないしな」
そう言って握った拳を見せつけてきた当麻に、光子は曖昧な笑みを返した。
「じゃあ、佐天さんにこの週末、お会いしてきますわね」
「ああ」
「それで、当麻さんの能力の話についてなんですけれど」
光子の視線が右手に落ちたのを見て、当麻が首をかしげる。
ちょうどいいタイミングだから、光子は当麻の能力について尋ねてみる気だった。
「当麻さんの能力は……AIM拡散場を介した能力のジャミング、でよろしいのかしら?」
「へ? なにそれ」
まるで初耳だと言わんばかりの顔で当麻が聞き返してきた。断片的な会話からの光子の推測だったのだが、どうやら外れたらしい。
「ごめんなさい、違いましたのね。右手で能力を打ち消すようなことをおっしゃっていたから、身体接触を条件にAIM拡散力場に直接干渉できるような能力なのかしらって思っていたんですけれど」
「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」
よくそんなことを考えつくな、という風に感心しながら、当麻がニッと笑った。
「せっかくだし、試してみるか」
そう言って、当麻が大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。


ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。
能力者に特別な準備は必要ない。風を作るよう指示されて、光子は当麻の右手の手のひらに、風の噴出点を作ろうとした。
「嘘……なんで、どうしてですの?!」
結果を知るのも、あっという間だった。能力の制御に失敗するだとか、妨害されるといった感覚とは、全く違っていた。
とにかく、何も起こらない。遠慮をしてはじめは小さな威力で始めるつもりだったが、今や台風を優に超える風速と風量を発現させるつもりで脳をフル回転しているのに、世界は普段ならいつでも観測できるような超常現象を、これっぽっちも光子に感じ取らせない。
顔に困惑といらだちが浮かぶと共に威力は上がっていき、もはや、光子は全力だった。本当なら当麻は。自分の視界から音速で吹っ飛ぶはずなのに。何故か、そうはならなかった。
「何も出来ないなんて……。当麻さん、本当にレベルはゼロですの?」
当麻の右手は、学園都市でも明確にエリートに分類されるレベル4の能力者である自分の能力を、完全に押さえ込んでいる。
いや、それどころか、どんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。
それは途方もない異常のはずだ。
もし当麻が、光子自身が推測したようにAIM拡散場を介した能力のジャミングを行なっているのだとしたら、当麻のレベルは5でなくてはならない。
「こんなことをできる能力者が、無能力者なわけがありませんわ」
「だよなぁ。ホント、これでレベルが貰えるんなら貰いたいよ。レベル上がればこないだみたいに卵だけでタンパク質取らなくてももっといいメシが食えるのにさ」
「身体検査<システムスキャン>で結果は出ませんでしたの?」
「ああ。俺自身が世界に対して何かを働きかける能力は完全にゼロだ。十年近くこの街にいて、それこそ身体検査なんて何回受けたかわかんないけど、一度たりとも能力が発現したことはない。まあ、この右手のせいなのは一目瞭然だから、逆に気は楽だけど」
ため息たっぷりに、当麻がそんな愚痴をこぼした。当麻の環境に、光子は目眩を覚えそうになる。
能力のレベルは学園都市で最も重んじられる数字だ。通える学校から奨学金まで、それこそカーストのように学生たちのあり方を決定づける因子である。
それを、生活費の足し程度にしか考えていない当麻も当麻だし、こんな変わった能力を放置している学園都市側も問題だろう。
「当麻さんより、学園都市側に文句を言うべきなのかしら……。本来、レベル4の能力者がレベル0の無能力者に純粋な能力の比べ合いで負けた、というのはあってはならないことだと思うんですけれど」
「うーん、レベル制度に穴があるって状態だもんな。でもこれ、能力なのかどうか、わかんないんだよな」
「え?」
当麻の言葉の意味が、光子にはわからなかった。だって、能力でもないのに光子の風をキャンセルするなんて、どうやったらできるのだろう。
「能力者は多かれ少なかれ、何かに干渉するために演算を行うわけだろ? 俺、そんなの考えたことないし」
「はあ」
その言葉には肯けるところがないでもない。能力同士のぶつかり合いに負けたという意識は、光子の側にもない。ただ一方的に、なかったことにされただけというのが正直な感想だ。あまりに非常識すぎる結論だが。
「それに演算の速さだとかの比べ合いだってんなら、レベルが高い奴には負けるはずだろ? 俺の右手は、それが超常現象なら何でも無効化できるんだ。レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」
「はあ……え? ちょっとお待ちになって。当麻さん、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」
レベル5の雷撃と言えば、光子の同級生の超電磁砲<レールガン>の能力だろう。名前も知らないし面識はないのだが、その能力の凄まじさは見たことがある。身体検査の日に、音速をはるかに超えて加速されたプロジェクタイルの運動エネルギーを殺すため、盛大にプールに水柱を立てていたのを思い出した。
やり方によっては回避・無効化することはもちろん可能だが、真正面から受け止められる能力者なんて、果たして何人いるのだろうか。
「ああ、なんか道端で知り合ってさ」
その言葉に、ちょっと引っかかる。当麻は、道端で自分以外の常盤台生にも、声をかけたということだろうか。
「そうですの」
「それから時々街で見かけるんだけどさ、その度にアイツ、やたらと絡んで来るんだよな。こないだの決着をつけてやる、とか訳わかんないこと言ってさ。そういや、光子はやっぱりアイツと知り合いなのか? 確か中二って言ってたし、光子と同級生だよな」
共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。
「仲、よろしいのね」
自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。
「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」
「そうですの」
全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と当麻が首をかしげた。
そんな反応に、ますます苛立つ。唇が尖るのを、抑えられなかった。
他の女性の話なんて、しなくていいのに。
「……もしかして、妬いてるのか?」
驚きのこもった表情で、当麻がストレートにそう問いかけてきた。それに答える義理なんて、あるものか。
「知りません」
扇子をたたんで、鞄の取手に手をかける。
本気ではなかったけれど、立ち上がる素振りを見せたところで、当麻にきゅっと抱き寄せられた。
「可愛いな、そういうとこ」
「だって」
軽く睨むと、邪気なく微笑む当麻に髪を撫でられた。
それで機嫌を直してしまうのは悔しいのに、つい喜んでしまう光子だった。
当麻にされるがままになり、二人は警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らした。






あっという間にはすぎて、週末を迎える。
第七学区の中央近くにある小さな公園のゲートをくぐって、佐天は広場の方へと進む。ここが、宿題を課した光子との待ち合わせ場所だった。
「こんにちは、佐天さん」
「こんにちわです。婚后さん」
姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。
「今日はよろしく、お願いします」
光子は厳しいでも朗らかでもない、その真ん中くらいの表情だった。これから自分は、アドバイスを与えるに値する人間かどうかを評価されるのだと、否応なしに自覚させられる。
「それで宿題はできましたの?」
一言で、光子が単刀直入に本題に踏み込んだ。
「あ……はい、一応、考えてきました」
「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」
佐天はその質問にはいという返事を返そうと、思い切れないでいた。
宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。
数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。
もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。
「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」
「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」
誰かの口調の真似たと思わしき、少し前に聞かされた問いと、寸分たがわぬ言い回し。
自分が空力使い<エアロバンド>だというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。
きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。
自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」



[19764] prologue 11: 渦流の紡ぎ手
Name: nubewo◆7cd982ae ID:0f404a7c
Date: 2014/02/15 14:56
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」
くじけそうな顔をしながらそう返事をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。
「そう」
しかし、フォローすることなく、話を続ける。
「そのまま続けて質問に答えてくださいな」
返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。
しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。

「どうして好きになれないの?」
「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」
「違う? 説明して御覧なさい」
ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。
だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。
どこか佐天の態度に逃げがあることを、光子は漠然と感づいていた。
解決できない現実問題に対し、逃避という選択肢をとることは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。
だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。
無言で圧力を掛ける。光子は、佐天が自分自身で説明することから逃げることを許さなかった。
「風が気持ちいいとか、能力で空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」
空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。
もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。
そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。
「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」
「使う風、ですか?」
「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」
そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。
「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層に触れた際の剪断応力で物体を切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」
空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるが、その火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。
「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね」
佐天はその言葉に頷いた。光子が能力を使ってなめらかに水上を滑空したところを、こないだ見たばかりだ。
「それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」
「えっと……私が想像したのは、なんか手からぶわーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」
到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、
「あの!」
思わず声をかけた。その意図を光子はすぐに悟ってくれたようだった。こちらを宥めるように、軽く微笑んだ。
「合格ですわよ。ちゃんと真面目に考えていていますから。もちろん、もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」
その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。
しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。
「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」
「あら、お聞きになりたいんですの?」
光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心でしまったと呟いた。
だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。
「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」
そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。
「え?」
光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。
ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。
「うわわ、っとっと。びっくりした」
乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。
「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」
「風を出す……」
「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」
ふむ、と光子は思案して、佐天に問いかけた。
「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」
「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」
「まあそうですわよね……流体力学も?」
「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」
学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の科目が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。
低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、ラプラス・フーリエなどの各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。
光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。
「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」
光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。
「どういうことですか?」
「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」
「え?」
質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。
「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。風船の外にも空気はあるし、風船の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」
「はあ、それはそうですけど」
「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」
「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」
「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」
そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。
「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」
苦笑して光子は首を振る。原子や分子よりも先に量子という単語が初学者の口から出てくるあたりが、学園都市の歪なところだ。
「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」
「へぇー」
確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。
「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」
普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。
光子は足元の石を拾い上げた。
「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」
ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。
「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」
「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」
「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」
自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。
「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年生からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」
「え? 一年でレベル2から4ですか!?」
それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。
「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」
そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。
「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」
能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。
佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。
それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。
「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」
「え?」
「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」
そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。
「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えたこともなかったです」
それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。
光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。
「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の能力開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」
その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、
「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」
そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。
「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」
光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。
「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じには中々いかないじゃないですか」
自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。
「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」
「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」
佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。
「では扇子は?」
「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」
ふむ、と光子は思案した。
風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱うのもおかしな話だろう。
風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。
自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。
佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。
「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」
「え? えーと……」
その一言で、佐天が授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。
「すみません、ちょっと思い出せないです」
「そう、どこで習いましたの?」
「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」
それも学園都市の中か、実家で見たかも定かではなかった。
はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。
きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。
それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。
佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。
「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」
「っ――はい!」
突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。


渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。
そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。
その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。
そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。
その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。
頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。


「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」
五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。
「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」
「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」
それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。
「そこをもう少し上手く説明できません?」
「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」
「そこから風はどう生まれますの?」
光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。
「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」
「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」
本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。
「え?」
「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」
「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」
「なるほど、わかりました」
佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。
……次の瞬間。
「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」
一つレベルの高い要求が飛んできた。

身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。
その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。
佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。
特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。

「さて、そろそろおしまいにしましょうか」
ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。
「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」
佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。
「宿題も出しておきますわね」
笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。
「あー、はい。がんばります」
「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」
「わかりました」
真面目にそう返事をする。
「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」
佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。
「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」
「あ、はい!」
「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」
信じられない言葉だった。思わず、へ? と聞き返してしまう。
「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」
自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。
「なんでそんな……」
「どうして、と問われるほうが心外ですわ。貴女、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」
佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。
「……違います」
「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」
「あ」
パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。
「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」
すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!
能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。
「あたし、頑張ります!」


光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。出来あいの惣菜ばかりを買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。
帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。
相手を適当に空想して、その人物に向かって説明を試みる。それは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれたからだ。
その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。
それはおとぎ話を書くような、創作行為に似てるように佐天は感じていた。

風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。
もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。
能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。
つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。
そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。
コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。
お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。
左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。
「あー、思ったより効きが早いなあ」
薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。
こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。
「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」
指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。
今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。
「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」
佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。
この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。
佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。
なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。
指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。
佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。
指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。
幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。





パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。
違うんだ。
あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。
そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。
「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」
その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。





ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。
約0.2秒、数ミリ立方メートルという、分子にとって気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。
それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれはマクロを記述する古典力学に決定的に反しながらも、量子論のレベルでは『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。
途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。

「あ……あ! これ、これって!!」
言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。
規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。
機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!
佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。
「すごい! すごい!」
世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。
もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。
「あは」
馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。
自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。
その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。


二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。
渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。
個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。
時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。
手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。
すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。
机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。
ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。
「よかったぁ……」
これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。
今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。
能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。
あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。
多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。





髪を整えていると、けたたましいコール音がした。
「もう、こんな朝から誰ですの?」
当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。
「もしもし」
「あ、婚后さんですか!」
「佐天さん? どうしましたの?」
「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」
「え――」
興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。
「本当ですの?」
疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。
「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」
紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。
「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」
「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」
それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。
「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」
「はい、なんですか?」
「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」
年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。
授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。
「え……っと、変わりますかね?」
レベル0から、レベル1へ。
「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」
その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。
「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」
そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。
同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。
「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」
そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。




朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。
低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。
手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。
今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。
「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは数年に一人くらいしかいないね」
「珍しいんですか?」
書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。
「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあることなんだけど、それだってこんな短期間での成長じゃなくて、一学期分まるごとかかるくらいの成長速度が普通だよ。おめでとう、佐天」
担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。
「あ……」
佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。



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注意書き

大量にオリジナル設定が登場しているので原作設定との勘違いにご注意ください。
佐天の能力はアニメで手のひらの上に渦が巻く描写がありますが、細かい設定は公表されていません。マンガ版ではどのような能力が発現したかの描写自体がありません。アニメのブックレットにて空力使いと書かれているようですが、空力使いが大気操作系能力者の総称なのかなど、未確定な点は多いようです。
婚后の能力は原作小説には『物体に風の噴出点を作りミサイルのように飛ばす能力』『トンデモ発射場ガール』とありますが、そのミクロなメカニズムについては言及されていません。またこのSSでは噴出『点』と書かれた原作の『点』という言葉の意味を面積を定義できないいわゆる一次元の『点』とは捉えず、単に『スポット』として捉え、正しくは噴出『面』である、という解釈を行っています。
またこの話で出した学園都市のカリキュラムや投与される薬物が幻覚作用を持っていること、パーソナルリアリティの解釈などはオリジナルです。詳細を語らない原作と未だ矛盾はしていないかと思いますが今後は分かりません。

こうした解釈・改変を加えることは今後も充分にありえますが、まあSSの醍醐味の一つと思って許容してくださるとありがたいです。
今後ともよろしくお願いします。



[19764] prologue 12: 能力の伸ばし方
Name: nubewo◆7cd982ae ID:0f404a7c
Date: 2014/02/15 14:56

「さて、それでは始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天が返事をした。
常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには、流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。
部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。
「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」
涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。
「はい」
その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。
部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。
そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。
「あら」
光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1の域を超えていた。
「こんな、とこです。あ!」
佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。
「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」
「はい? え?」
才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。
「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」
「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますから、レベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」
「へっ?」
やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。
「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」
「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い<エアロハンド>や電撃使い<エレクトロマスター>のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される超電磁砲<レールガン>は相当のものですわよ」
光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。
「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」
「はあ」
佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。
「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」
そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。
部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。
光子は厳かに告げる。
「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」
「……はい?」
佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。
「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」
「はあ……」
運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。
ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。
「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」
打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。


「……ぷは、あの、どうですか?」
光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。
「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」
「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」
困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。
「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」
光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。
「うーん……」
佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。
「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」
「粒……水の粒……」
あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。
なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。
ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。
「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」
「そうみたいです。すみません」
「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」
「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」
「圧縮性の問題かしら?」
時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。
「圧縮性? あの、どういうことですか?」
「空のペットボトルは潰せるけれど、中身入りだと無理ということですわ。空気は、体積に反比例した力がかかりはしますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」
その説明で佐天はハッと気づく。
「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」
「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」
光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。


「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」
また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。
「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」
小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。
「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」
スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。
「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」
「ライターなんて持ってませんよ」
この年でタバコなんて吸わない。発火能力者<パイロキネシスト>の真似をして遊ぶのには使えるが。
「では、これで渦を作ってくださいな」
そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。
佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。
「やることはわかってらっしゃる?」
その一言でハッとなる。
「あ、はい」
「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」
平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。
空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。
目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。
50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。
「すごい」
思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。
普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。
「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」
「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」
言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。
もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。
他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。
「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」
あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。
「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、貴女のその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」


建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。
「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」
「あ、はい」
「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」
「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」
軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。
手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。
「く……」
もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。
グレープフルーツ大の、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。
「これくらいが限界みたいです」
出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。
「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」
「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」
二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。
「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」
「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」
自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。
「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」
「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」
「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」
「頑張ってみます」
そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。
「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……ああ、確か第七学区の繁華街の広場で、水を霧にして撒いているところがありましたわね」
ふと思いついたように光子が顔を上げる。
「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」
「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですから、うまく行かないかもしれませんけれど、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」
「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」
初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。
「ええ、そうされるといいわ。そういう貪欲な姿勢は嫌いではありませんわね。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」
「はい」
休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。
佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。
野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。
佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに、改めて気づいた。
「んー、これくらいが限界みたいです」
何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。
「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」
光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。
「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」
やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。
「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」
「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」
「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」
「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」
自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。
「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」
「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」
「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」
手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。

じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。
エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.03℃と表示されていた。
その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは感じ取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。
温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。
……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、一部が冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。
ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。
佐天がストップウォッチを見て、ため息をつく。
「2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すみません、あんまり上手くできなかったみたいです」
「いえ、充分ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやってもらうつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」
「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」
「ああ、自覚がありましたの」
「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」
「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」
光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。
そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。
「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」
「へー。……言われてみると、そんな気もするような」
「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」
「はい」
「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」
「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」
「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」
「はあ」
光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。
「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」
「熱を、集める」
「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」
「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」
そう佐天が茶化して言うと、
「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」
そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。


ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。
「これ……」
「燃焼試験室ですわ。私が関わっているプロジェクトの一つです。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」
光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。
「えっと、それで何をすればいいんですか?」
「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」
「はあ、分かりました」
「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」
「お小遣い、ですか?」
「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」
「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」
恥ずかしげに佐天は頭をかいた。
「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」
その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。
「あれ、入らないんですか?」
「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」
クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。
「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」
「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」
「では行きますわ」
光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。
「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」
「……」
佐天は返事をせずに、渦に集中する。
1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。
ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。
「ば、爆発?!」
思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。
「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」
「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」
「ええ。私もそう思いますわ」
光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、
「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」
なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。
「婚后さん、それってもしかして」
そう言えば、こないだの水着撮影の時に湾内や泡浮と騒いでいた話の中に、お付き合いしている殿方がどうのという内容が聞こえてきたように思う。
その時はあまり自分に近しい人の話のでもないからと、とりたててアンテナを立てていなかったのだが。
「え? あ、別に大したことではありませんわ」
「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」
「な、どうしてそう思われますの?」
図星だったらしく、目を見開いて光子が焦りだした。
「こないだその話してませんでしたか?」
「ああ、聞いておられましたのね……。まあ、そういうことですわ。『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くんです」
しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。
「はー、婚后さんオトナですねぇ」
「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」
ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。
この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。
「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」
そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。
「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」
「わかりました」
「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」
「はい」
「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」
「はい」
「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」
「う……」
微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。
「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」
「あー……、はい、頑張ります」
「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」
光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。


その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。
部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。
「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」
そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。
空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。




[19764] prologue 13: 彼氏の家にて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:2d489b24
Date: 2014/02/15 14:57

「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。
「今日は! 断じてさせません!」
不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。
初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。
「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」
今日の佐天は、今までと違っていた。
佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。
螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。
おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。

「え、ええっ?」
初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。
人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。
「あ、あ……」
何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。
佐天はもう笑うしかなかった。
「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」
「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」
テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。
「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」
「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」
初春が膨れ顔でそっぽを向いた。
「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」
アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。
「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」

佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。
「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」
自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。
「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」
どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っている。
「む……」
今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。
「これはちょっと、難しいかも」
「風、強いですもんね」
初春がそう相槌を打つ。
「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」
「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」
屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。
「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」
噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。
綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。
「お、お、お……」
一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。
「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」
手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。
「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」
佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。
「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」
初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。
「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」
自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。
「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」
生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。
「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」
指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。
「ひゃっ!」
渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。
霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。
「あー、今のは初春も悪いと思う」
「……何も言わないでください佐天さん」
ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。
「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」
「でも随分と大きく集まりましたね」
「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」
「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」
「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」
嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、
「きっと佐天さんには才能があるんですよ」
本心でそう言った。
「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」
「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」
初春はまっすぐ上を指差した。
「アレって……雲?」
天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。
「いやいや初春、天候操作は大能力者<レベル4>以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」
「試してみませんか?」
「え?」
「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」
初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。
雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。
「……いけるかも」
佐天がポツリと呟いた。
「え、ええぇっ?!」
初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。
すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。
「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」
「え?」
またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。
どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。
「ぬぅん」
低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。
雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。
それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。
「……あの」
「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」
何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。
「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」
「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」
大能力者への道は、果てしなく遠い。




ザァザァと水の流れる音がする。
「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」
学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。
「その点は空力使い<エアロハンド>は大変ですわね」
「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」
ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会って、シャワールームの間仕切り越しに会話する。
この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響している。
二人は水流を操作に関わる超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。
気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。
それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。
他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。
「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」
「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」
液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。
固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。
液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。
「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」
シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。
水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を持つ水を制御することこそ、湾内の能力だ。
泡浮は浮力の制御という特殊な能力だが、流体が関係する能力だから当然彼女自身もそういった話には精通している。
そして彼女達はレベル3。充分なエリートだった。
「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」
「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」
流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを演算するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。
「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」
おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。
「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」
それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。




シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。
上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。
コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。
「ここ、ですわね」
エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。
ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。
光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。
ほどなくして、扉が開かれる。
「こんにちは、当麻さん」
「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」
「はい、お邪魔しますわ」
光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。
靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。
「これが、当麻さんのお部屋なのね」
当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。
部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。
「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」
当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。
「今日は何作ってくれるんだ?」
「出来てからの、お楽しみですわ」
相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。
食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうが料理には慣れている。これまでの話から当麻はそう察していた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。
……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。
勿論当麻は何も言わなかった。
「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」
ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。
「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」
麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。
「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」
「もう!」
失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。


テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。
常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。
「……いいなあ」
「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」
「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」
「それは良かったですわ」
光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。
その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。
「結構練習した?」
「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」
光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。
その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。
どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。
「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」
「下の扉を開けたところだ。わかるか?」
光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。
「こちら、ですの?」
「あ、そっちじゃなくて」
別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。
「ありがとうございますわ……あ」
1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。
「今からそれ、炒めるのか?」
「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」
「ああ、ごめん」
謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。
光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。
当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。
「あ、すみません」
「ん」
うっかりしていた光子に笑い返す。
光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見える。
ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。
「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」
火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。
「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」
「光子が可愛いのが悪い」
「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」
中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、光子に意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。
「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」
そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。
「じゃ、またあとでな」
当麻は笑って婚后の髪に触れた。


軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。
ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。
「台所はやはり暑いですわね」
「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」
当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。
「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」
「そうですわね」
時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。
朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。
「はぁー、幸せだ」
ガラにも無い言葉を呟く。
「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」
コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。
同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。
土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。
「さっきみたいには、してくれませんの?」
甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。
「ふふ、暑いですわね」
「ああ、暑いな」
真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてくるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。
暑いくらいが、嬉しい。
「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」
当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。
「あはっ! もう、当麻さん!」
つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。
「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」
光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。
「う……」
突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。
「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」
「ねえよそんなの!」
「じゃあ、初めてですの?」
「……うん。光子は、どうなんだ?」
「私だって初めてですわ」
付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。
普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。
……い、いいよな?
眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。
化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。
当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。
すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。



――――プルルルルルルル
そんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。



ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。
「は、はい上条です!」
「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」
「ととと当然じゃないですか!」
電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。
「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」
「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」
「はい?」
「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」
最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。
「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」
「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」
学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。
「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」
「上条ちゃん?」
「いえなんでもないです」
この小学生並の身長と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。
当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。
「光子」
「聞こえていましたわ」
つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。
「昼からは一緒にいられませんのね?」
「……はい」
「明日からも補習漬けですの?」
「……はい」
「いつなら、お会いできますの?」
「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」
「そうですか」
はあっと、光子がため息をつくのが分かった。
「補習って、皆受けるものですの?」
「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」
「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」
「……ああ」
むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。
「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」



光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。
「み、光子、料理上手いじゃないか」
「褒めていただいて嬉しいですわ」
これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。
自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。
これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。

もくもくと、二人でカレーを消費する。

「……当麻さん」
「なんだ?」
「今日はいつ、学校に行かれますの?」
「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」
登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。
「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」
小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。
「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」
当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。
「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」
「……」
光子はむっとした表情を変えない。
「こないだ、水着をいろいろ着てみたんだろ? せっかくだから、プールでも行こうか。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」
「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」
ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。
「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」
「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」
「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」
「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃありませんの?」
率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。
だけど違うのだ。
「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも上等な洋食屋で二千円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」
「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」
光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。


食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。
「その、光子はこれからどうするんだ?」
言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。
「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」
「う……ごめん」
「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」
今なら30分の遅刻といったところだろう。
「まあ、な」
「……寂しい」
ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。
何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。
当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。
また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。
当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。
「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」
「はい」
でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。
「光子」
名前を呼ばれた。
「どうされましたの」
「キスしていいか」
「――っ!」
ドキン、と心臓が跳ねた。
そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。
心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。
口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。光子の教えられてきた貞操観念ではそういうことになっている。
当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいになる。
だが、手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。
「当麻さんの、好きになさって」
恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。
「それは嫌だって、意味か?」
当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。
「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」
こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。
「光子、好きだ」
「私も……」
「私も?」
続きを言うのが照れた。
「当麻さんのこと、すごく大好きです」


呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。
はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。
光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。
当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。


「ん……」
ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。
当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。
そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。
当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。
「嬉しい、嬉しい……」
自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。
当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。
ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。
「はあ……」
体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。
それを見て、当麻はドキリとした。
「どうしましたの?」
光子は、その意味を考えてないみたいだった。
「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」
「はあ……って、あっ」
恋人、二人きり、そしてベッド。
二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。
「そそそそんな、私はっ」
「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」
二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。
「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」
「え、ええ。仕方ないですわよね」
何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。
当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。
頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。


――そしてそこで、おかしな光景を眼にした。


「……あれ? 布団が干してある」
自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。
勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。
「当麻さん?」
怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。




ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。




***************************************************************
あとがき
長い間プロローグにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回から、原作小説の第一巻の再構成モノとなります。




[19764] prologue (old version)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:9c781da1
Date: 2013/10/12 23:46

以下に改定前のプロローグを残しておきます。
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改定後のプロローグをお読みになった方は、続きはep.1_Indexとなりますので、このページは飛ばしてください。


『prologue01: 馴れ初め』

雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。
当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。
「ハァハァ、ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」
そう、昨日も追いかけてくる連中には会っていた。おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちのその子に間に割って入ってしまったのだ。おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。
当麻は何も体力に自信があるわけではない。昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。
足がガクガクだ。だが相手も本気の武闘派スキルアウトではないようでかなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――


カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。


「は? うわっ!」
マンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。だが右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す。
そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。
「あいでっ……くそっ」
「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」
肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。
非常にマズイ展開に、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。
「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」
そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。
当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。
べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音がした。


婚后光子は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観ではの話だ。
彼女の通う学校は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。そして彼女の寮もその区画内にあった。だから2年になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。
彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。
だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんて不良みたいな行為は。
日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。

彼女はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息など意外と男友達はいるが、それでも腕を組むなど考えたこともなかった。
道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けてクレープを食べあいしていた。その光景を凝視してしまう。椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、それも面白そうだと思った。
いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのですわ。
町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。

もう少し先まで行ったら引き返しましょう、そう光子が決めたときだった。
店と店の間の、小型車量しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。
ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。
……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミさんを囲んだ。そこで光子は状況を理解する。つまり、あのハリネズミさんは襲われている、と。
焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。

婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。
――困った人には、手を差し伸べる。
おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。
トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。


金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。
電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。人がこの看板を投げたのなら、たぶんブーメランのように緩やかに回転しながら角が不良に突き刺さったことだろう。だが実際には看板の宣伝が書かれた面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。
一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。
「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」
「へ?」
当麻と不良たちの声が唱和した。不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この人はどれくらい自分の実力に自身があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。不良たちは気弱い学生と真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に困惑した。
立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。
「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」
肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。
「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」
当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。
当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。
パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。
「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」
叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。
当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。
「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」
自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」
少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て。
「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」
いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。
そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。


「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っ」
「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」
「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」
慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は箱入り娘なのだ。繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。
女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。
「どこへっ、向かいますの!?」
それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。
「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に追っては来れなくなるはず! そこまで頑張れ!」
ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。
周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。
やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。


「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」
「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」
状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。
「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」
「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」
「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」
やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。
「まあでも、助かったよ。不幸なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」
「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」
目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。
こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。
「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、君はどういう用事で来たんだ?」
「え?」
お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。単に、お礼をしようとだけ考えていた。
その申し出に、光子が視線を彷徨わせた。
「いえその、私」
言ってみれば、彼女は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。
「お、もしかしてこういう所、初めてだったりするのか?」
当麻は口ごもるその子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、女の子は言い当てられて驚き、
「え、ええ。そうなんですの。あまりこういうところは来ませんから……」
「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」
「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」
女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。
それを知らないと彼女は言った。
「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」
「ちょ、ちょっと。私そのような礼は要らないと……もう、分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、奢られてさしあげますわ。私、甘いもののほうが好きですわ」
仕方ないという風にため息をついた後、女の子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。
「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」
「1人ではお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」
「わかった。じゃあ、行くか」
昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。
「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」
「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」
「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」
「あ、ごめん。婚后さんね」


騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。
初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。
「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」
「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」
硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。
「これ、アップルパイですの? 本当に?」
「え、そうだけど?」
光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。
一方目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。
生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。
「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」
ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。


「それじゃ、気をつけて」
「ええ、上条さんもお気をつけになって」
ファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。
自分に自信があり、自慢好きなところもあったが、相手を立てて気遣うことも出来る女の子だった。
「そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」
自分の不幸体質にため息をつき、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。



これが、当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。




















『prologue02: その心配が嬉しい』

ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。
外には夕日。何の飾りもない白い壁と緑のシーツ、そして光子自身は慣れて気づかなくなってしまった薬品の匂い。そこは典型的な病室だった。
当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いてかすかに舟を漕いでいる。光子は扇子を開き、そよそよとした風で当麻の頭を撫でた。
扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。
弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。
バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度の「そよ風」だ。
もちろんそれを作り出すのには風の流れを読める測定機器や感覚を持つ人間が必要だし、彼女ならば人類には実現できないような風の流れも意のままに作り出せる。だが光子はその特別な力に頼ることなく、扇子で扇ぐ手間すらいとおしいと言わんばかりに、幸せに浸り、可憐な乙女らしい笑顔を顔一杯に咲かせていた。


隣でうたた寝をする上条当麻という人は、巷の言葉づかいで言うところの「彼氏」という人だ。


殊更に幸せを感じる理由は、ひどく心配した顔で当麻が自分の病室を訪ねてきてくれたから。家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。
来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。

もちろん、当麻がひどく心配したのも、面会がかなったその当日に病室を訪れたのも、当然の理由がある。暴漢に襲われた恋人が一週間の面会謝絶となるほどの怪我を負ったというのだ。
彼は毎日学校が終わるとすぐ病院に通っては、落胆と不安を味わうという日々を続けて、今日やっと光子の穏やかな寝顔を見られたのだった。

……というのが当麻の知る状況だったが、実際には光子のほうに色々と事情があった。
一週間前、光子は姿の見えない暴漢に襲われスタンガンにより昏倒させられた。犯人は中学生の女の子だったらしい。怪我らしい怪我もなく、身体的にはとっくに回復している。
問題は眉毛だった。何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。
そして光子の女心は「今は眉毛が太くなっていますからお会いできませんの」と当麻に告げることを許さず、病院に無理を言って面会謝絶の札をかけさせたのだった。

そしてようやく眉が元に戻ったのが今日。さっそく夕方に当麻が訪れてくれたが、久々に想い人に会えた光子は恥ずかしくてつい寝たふりをしてしまった。
その顔を見て当麻は光子が寝ているものと早合点した。その単純な反応を見て光子は、自分でどんな顔をしているかも分かりませんのに想い人にうかつに寝顔を見せる婚后光子ではありませんわ、と澄ましていた。しかし、医者に面会謝絶と言われる当麻がどれほど不安に思っていたかに気づかず、彼が心配顔で訪れてきたことを素朴に喜んでしまうあたりは光子らしかった。

で、今は元気そうな光子を見てほっと一息つき、彼女が起きるまで待つかとベッドの傍で眠り始めた上条当麻を見て、光子は幸せを噛み締めているという訳である。
明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。セブンスミストは庶民向けのものが多くて珍しいし、当麻さんにも合うものがあるだろうし、それがいいわね。
そう考えを巡らせながら扇子を畳み、初めて、当麻の髪に触れた。
尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。
肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。お嬢様学校にいることもあって彼女の周りには丁寧に整えられた長髪を持つ少女は山のようにいるが、自分ほど綺麗な髪をしている女はそう多くないと自負している。浅ましいことは分かっているが、髪の手入れが悪い同年代の少女たちに対して優越感を感じていたことも事実だった。
だが、当麻の髪にそういう気持ちは抱かなかった。雑巾を石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感の、安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。

それで、調子に乗ったのがいけなかったか。
見えにくい寝顔を覗き込もうと、体をひねって当麻の顔に自分の顔を近づけたその時。
衣擦れの音に目が冷めたのか、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。
まだ光子は当麻と口付けを交わしたことはない。結婚するまではだめよなんて自分に言い聞かせているものの、その禁を自分で破ってしまうのもそう遠くない気はしているが。
しかし現段階においては、この偶然の一瞬が、当麻ともっとも顔を近づけた瞬間だった。

「あ……」
「え、あ、婚、……后?」

どうしよう、目をつぶったほうがいいのかしら、なんて考えが頭を巡るのとは裏腹に、

「婚后、目ぇ覚めたか! 大丈夫なのか?!」
バッと顔を起こした当麻に肩を掴まれる。真剣なその表情にドキリとする。
「え、ええ。もうすぐにでも退院できるくらい回復していますから」
「本当か? 入院期間だってやたら長いし、医者は大丈夫だとは言うけど、やっぱ顔を見ないと、なあ」
ほっとした顔で『すっかり回復した』光子の表情を見つめる。……そしてパッと肩を掴んだ手を離した。
戸惑いはにかむ光子の顔を見て、自分が何をしているのか悟ったからだった。

「心配、してくださったの?」
「あ、当たり前だろ。メールが丸二日来なかったんだぞ? 今までそんなことなかったってのにさ」
照れくさそうにそっぽを向く当麻に、少し申し訳なく思った。昏倒したその日から電話もメールも出来たのに、ラクガキされた自分の顔を見られたくない一心で面会謝絶にまでした以上、引っ込みがつかず元気そうな便りをあまり送れなかったのだった。
「お見舞いの花とか持ってなくて、ごめんな。初めて来た日は一応持ってったんだけど」
「ううん、そうやって気遣ってもらえるのが、一番うれしいですわ」
さらさらと髪を揺らしながら、首を横に振る。掛け値なしの本音だった。恋心を抱く殿方に真剣に気遣ってもらえる。その人の注意を自分のほうに向けてもらえるというのは心満たされることだった。そう思うのは親元から皆が離れて生きる、学園都市という特殊性も要因の一つだったかもしれないが。
光子の表裏の無い柔らかな笑みに、当麻は思考能力を思いっきり奪われた。
この可愛さは犯罪だろ……やばい、こうやってふんわり笑われるとなんというか。高飛車で我侭なお嬢様だと思った第一印象と全然違ってるじゃないか。と、ついイケナイことをしてしまおうとする邪(よこし)まな考えが脳裏にいくつもマルチタスクで展開されていく。
「それで、退院はいつなんだ」
「明日ですわ。ちょうどお休みの日ですし、買い物に付き合ってくださる?」
二人っきり、それもベッド付きで―――というこの素晴らしい空間を明日にも引き払うというのに内心でかなりの落胆を覚えつつ、同時に感じた安心のほうを顔に出す。
「そっか。かなり治ってるんだな、良かった。あ、でも、痕とか残らなかったか……?」
「ええ、あまり強い電流ではありませんでしたの。使われたのも女性が護身用に持つものでしたから。首に当てられると気を失いやすいですけれど、傷跡が残るようなことはありませんわ」
そう言って光子は耳に掛かる髪を手で留め、後ろ髪を空いたほうの手で集めて首筋を見せた。
傷一つ無いその肌は、病的な白と活動的な小麦色のどちらでもない、自然で暖かな肌色だった。髪を触るその仕草は何気ないのにやけに色っぽくて、母親を除き身近に長髪の女性がいない当麻はそれだけで見蕩れてしまった。
「貴方はこの一週間、どう過ごされましたの? 私ずっとこの部屋におりましたからそれはもう退屈で退屈で」
「あー、まあ学校行って授業聞くかつるんでる連中とバカ話するかして、放課後は病院に顔出して、することっていったらそんなもんだったな」
我ながらつまんねー人生送ってるなと思いながら、当麻は頭をガシガシと掻いた。
「夕方や夜は何をなさるの? メールのやり取りも、電話も無かったからお暇だったんじゃありませんこと?」
「まあ最近無かった感じの暇だよな。テレビ見たりネットに繋いであれこれしてたな。ま、何って言うほどのことでもないさ」
照れ隠しの意味もあって説明になっていないような説明を当麻がすると、光子はやや不満げな顔になった。
「常盤台の女子寮はテレビを部屋に置くことは禁止されておりますし、私テレビはあまり好きではありませんから詳しくはありませんけれど、どういうプログラムをご覧になってるのかが知りたいんですの」
光子の追求を面倒に思いながら、自分の見ていたテレビ番組を思い出す。スポーツ特集のテレビだったり、ドラマだったりするが、どれも毎週見るようなものではなかった。1人暮らしにありがちな、BGM代わりに使っていることも多いからだ。
「適当につけてるだけだからこれを見てる、って言えるような番組は無いんだよな。なんていうか、家に帰ったらとりあえずスイッチを入れるもので、メシ作ってて聞こえないときも付けっぱなしにするようなものというかさ」
当麻の説明に、光子は分かったような分からないようなふうに首をかしげた。
「そういうものですの」
「そういう婚后は何して過ごしてたんだ?」
「私は寮の友人に最近読んでいなかった小説を持ってきていただきましたから、それを読んでおりましたけど――」
そこまで言って、む、と当麻の言葉を聞きとがめ、
「二人っきりでいますのに、名前で呼んでは下さらないのね」
そう、拗ねた声を出した。
「い、いやだってさ! 改めて付き合ってってなると下の名前を呼ぶのもなんか特別な感じがするし……それにそっちだって俺のこと名前で呼んでないじゃないか」
いきなり飛んできた言葉の槍を必死で回避しつつ、質問を投げ返す。
「私のほうから名前でお呼びするのは。その……不躾ですわ。そういうところはリードしていただきたいんですの」
下の名前で呼びあったことは初めてではない。いろいろな巡り合わせがあって、いい雰囲気になったときにこそばゆい思いをしながら呼んだ事は何回かあった。
「光子。えー、あー、」
視線を絡めあう所までは、当麻のレベルではたどりつけなかったが。
「これでいいか?」
「名前で呼んでくれたのは嬉しいですけれど、何も用が無いのにお呼びになったの?」
なけなしの根性をつぎ込んで呼んでみたというのに、からかうようにつーんと澄ましてそっぽを向く光子。
当麻はやけになって、
「好きだ、光子」
言ってやった。
「あ……はい!」
にっこりと笑うその表情の飾り気の無さは、丁寧に仕立てられた婚后光子という女性の容姿や仕草がむしろそれを引き立てていて、可愛いという言葉以外が出てこなかった。
「私も、お慕いしておりますわ。当麻さん」

会話がそこで途切れる。
ふと気づけばぽっかりとあいた空白。
不意に走る緊張感。

以前、名前を呼び合ったときのように、そっと光子の髪に手を伸ばし、軽く撫ぜる。
光子は何かを悟ったかのように、引き寄せられるように当麻の肩に頭を乗せた。
撫ぜていた手がそのまま抱きかかえる手にシフトする。そして少しの間、光子の髪を不器用に撫ぜ続けた。

「光子」
三度目でようやくマトモに呼べるようになってきた。
上目遣いに光子が当麻のほうを見て、そして恥ずかしさに耐えかねるようにむずがった。
そっと光子の双眸が音を立てずに閉じられる。
ほんの少し当麻が首を動かすだけで、"それ"が成される、そのときに。




パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。




ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。
期待を裏切られた当麻は情けない顔をしていたが、幸い光子に見られることは無かった。
目をつぶって完全に"待ち"に入った自分の顔がどんなだっただろうと、急速に理性を取り戻させられた光子の側にも余裕は無かったからだ。

二人して警戒したが、ナースはこの部屋には用がなかったらしく、扉についた窓からチラとこちらを見ることすらせずに離れていった。
なあんだと二人で顔を見合わせて、慌てて眼をそらした。光子が咎めるように当麻に囁く。
「もう、当麻さん。そういうことは、け、結婚してからするものですわ。気が早いのはよくなくてよ」
「う、なんだよ。俺のせいか。光子だって、期待してたくせに」
かああっと光子が顔を赤く染める。
「そ、そんなことありません! そんなことを言うんでしたら先日の当麻さんこそ私のむ、む」
「おいおい! だからあれは不可抗力だったんだって!」
街中で出会い頭につまずいて光子の胸にダイブしたのは、断じて当麻の意思ではない。
「とにかく、当麻さんはもう少しエッチなところを自重して下さる? 殿方は多かれ少なかれ、そう言うところがあるとお母様に聞きましたけれど……」
だが光子はまったく斟酌(しんしゃく)してくれなかった。

廊下のスピーカーから、扉越しに蛍の光が聞こえた。
「あ……」
その意味を瞬時に悟り、光子が寂しげな声をあげた。
日本においてその曲の意味は余りにも有名。営業時間の終了、ここは病院だから面会時間の終了をアナウンスしていた。
「もう、帰る時間なのか。ごめんな、長くいてやれなくてさ」
「当麻さんのせいではありませんから……」
語尾を濁す光子の素振りが、明らかにまだ一緒にいたいと告げている。
その顔を見て、当麻は閃く。
うすっぺらい鞄を担ぎ、じゃ、と手を上げた。
「また明日、な」
「え……あの」
去り際に、ほんの少しの触れ合いも残さず立ち去ろうとする当麻の態度に、光子は寂しさを感じた。
「いやさ、光子に触っちゃだめなんだろ? 嫌って言われちゃ仕方ないよな」
意地の悪い顔で当麻がそんなことを言った。
「そんなっ……私、その、嫌だとは、言っておりませんわ」
「俺がエッチだから駄目ってさっき言ったじゃないか」
「もう……当麻さん、嬲るのはおよしになって。去り際がこんな素っ気無いのは、寂しいです」
拗ねたその顔が可愛くて、当麻は満足した。
「光子」
「あ……」
そっと髪を撫でる。光子が嬉しそうに眼を細める。
「これで満足か?」
そう尋ねると、何か物言いたげな顔をして、結局そっぽを向いた。
ちょっと強引に抱き寄せる。
「あ、と、当麻さん。いけませんわ、こんなこと」
光子が当麻の胸の中で慌てていた。しかし、それもすぐおさまる。夕焼けの色が鮮やか過ぎてもう光子の頬の色は分からなかったが、たぶん、当麻は光子の内心を理解できたと思った。

リピートを何度かして、蛍の光がスピーカーから聞こえなくなった。
眼を閉じていた光子が顔を上げ、そして当麻はそっと体を離した。
「名残惜しくなっちまうから、そろそろ行くな」
「はい。仕方ないですものね。その、すごく嬉しかったですわ」
「俺もだ」
二人ではにかみながら見詰め合う。
「それじゃあ、また明日な」
そこではっと気づいたように光子が言葉を繋ぐ。
「あ、いえ、きょ、今日の夜にお電話はできますの?」
「え? ああ、できるよ。いつもの時間にまた掛けるから」
「嬉しい。お待ちしていますわ」
にこりと微笑んで、当麻の退出を見送った。


カラカラと音を立てながら扉が閉じる音を背に受けながら、エントランスへと当麻は向かった。
きっと不幸体質のせいなんだと信じ込むことにしていたが、基本的に自分は自分がもてない男であると、しぶしぶ事実を受け入れていた。
それが今ではひょんな経緯からお嬢様学校の女の子と付き合い始めることとなり、マメにメールや電話をしているのだ。彼女の容姿に文句なんてこれっぽっちもないし、性格もクセはあるが付き合いに慣れればひたすら可愛かった。
どう考えてもこれ幸せじゃね? 何故俺がこんなに幸せに? という不信感がぬぐえないあたり、当麻はまさしく不幸の人だった。
付き合いだしてからも学校帰りに卵パックが割れたり自転車にドロを跳ね上げられたりする程度で、不幸の量は以前と何も変わったところはない。
まあ運が良いことが人生に一回くらいあったっていいだろう。あとは、愛想をつかされないように付き合っていくだけだ。
当麻はそう思いなおし、病院の玄関を潜り抜けた。














『prologue03: レベル4の先達に師事する決心』

「婚后さん! あたしに空力使い(エアロハンド)の極意、教えてくださいっ!」

どんな心境の変化だったろう。
彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。それも低レベルの自分をいかにも見下していそうな高飛車なお嬢様。
自分らしくない嫌な気持ちが湧いて出るからと、彼女は婚后光子とは距離をとっていたのに。

当麻と待ち合わせをした、学舎の園と普通の区域の境目にて。
時計は無粋だから持ち歩いていない。携帯電話にはもちろん時刻が表示されているだろうが、それに光子が気づいたことはない。
周りに同じような子女が多い環境で育ったからか、周囲を見回せば大概は大時計や花時計が見つかるのだった。
待ち合わせまでまだいくらか時間がある。少し離れた位置にある時計から視線を戻すと、向こうも遊ぶ気だったのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が歩いてくるのが見えた。彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。白井黒子の友人らしい。
お互い顔は見知っているものの名前を光子は把握しておらず、簡単な挨拶と名前を互いに教えあったところで、



いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。



「え、ちょっと、お待ちになって。一体全体唐突になんですの? 藪から蛇でも出てきそうですわね」
「それを言うなら藪から棒に、ですよ。にしても、佐天さん一体どうしたんですか?」
初春にとっても寝耳に水だったのだろう。友人の意図を量りかねているようだった。
「え、いやあ。アハハ」
いきなり指摘を受けて佐天は視線をさまよわせ、しかしそれでもはぐらかしたりはしなかった。
「あたしの能力、一応空力使いなんです。あ、全然大したことないですけど。それで、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって最近思うことがあったんですよ。知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」
光子がどう思うか、それは初春には分からなかった。しかし佐天の自分を茶化したような態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。
佐天はそこで言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。
「あの、お願い、出来ませんか?」
光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女は、直接話したことはほとんどないが、明るくて物事をあまり深く考えていなさそうな子だとしか認識していなかった。
「佐天さん、だったわね」
「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」
「可愛いお名前ね」
「はあ」
佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。
「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違うのだから、簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっとよろしいわ。私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」
それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。
試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、
「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」
「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」
即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。
「でも、努力ならいつだってしていましたわ。そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」
その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。
「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、グランドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」
ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。
「私に出来ることなんて高が知れているでしょうけれど。でも、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ!」
弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。
「えっ、あの、助けてくれるんですか?!」
半分、手が差し伸べられるのを信じていなかった佐天はあっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。
「貴女にやる気があるのなら、ね」
「はい! 頑張ります!」
ビッ、と敬礼のポーズをとった。
初めは驚き、ただ話を聞いているだけだった初春も、佐天の少し後ろで安心するように笑った。
劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。

「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」
しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。
「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」
その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。
「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」
わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。
光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。
「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」
「あ、えっと……ゼロ、です」
噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、レベル0いきなりであるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。
「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」
弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。
「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」
はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。
「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」
「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」
彼女は自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと気づいていた。
「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」
「え、宿題、ですか?」
光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。そして、かつて自分の面倒を見てくれた先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。
「貴女、風はお好き?」
「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」
その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。
「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き? それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」
「はあ……」
どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。
「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」
「自分で、ちゃんと考えてみます」
不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。
「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」
「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」
「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ? 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」
佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。





それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。
当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。
遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。
「どうして遅れましたの」
最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。
ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。なじるのを止めたりはしなかったが。

二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。
当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。
「鞄、持つぞ」
自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。
「お願いしますわ」
ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。
鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。
私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。
そう光子は納得していた。
自分のプロポーションに自信があるものの、それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。

「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」
安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。今でもそれをアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。
そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。
「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」
「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」
「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」
そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。
彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。
自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。彼の能力について聞いたのは付き合う前だったから、実はあまり能力の話はしたことがなかったのだった。
レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。
「あの、怒ってらっしゃらない?」
「へ? なんで?」
いきなり話が変わって、当麻は間の抜けた顔をした。
急に光子が深刻そうな表情を見せたことが全く理解できなかった。
「その、当麻さんも確か」
「あ、あー。そういうことか。俺もレベル0だ。まああんまり気にしてないけど。右手のせいなのは分かりきってるしな」
「当麻さんの能力は確か、AIM拡散場を介した超能力のジャミング、でしたわよね?」
「へ? なにそれ」
まるで初耳だといわんばかりの顔で当麻は聞き返した。光子は学園都市の言葉で説明のつかないその能力を当麻の適当な説明を聞いて理解していたため、それがもっともらしい理解の仕方だった。
「違いますの?」
「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」
ニッと笑い、
「試してみるか」
大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。


ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。
「嘘……なんで、どうしてですの?!」
能力者に特別な準備は必要ない。すぐさま当麻の手を握って、そして愕然とした。
初めは小さな威力で、そしていまや自分の最大出力。台風を優に超える風速と風量で当麻は自分の視界から消えるくらい吹っ飛ぶはずなのに。
当麻の右手には何度やっても風の噴出面を発現させられない。これっぽっちも自分の能力による大気の変化を観測できないのだった。
次にその右手を自分の右手の甲に重ねてもらい、その状態で当麻の鞄に触れる。
「そんな、何も出来ないなんて……。当麻さん、あなた本当にレベル0ですの?」
レベル4の自分の能力を完璧に封じ込めて、それどころかどんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。
AIM拡散場を介した超能力のジャミング、さっきまで自分がしていた勘違いで説明をするなら、上条当麻はレベル5でなくてはならないだろう。
「誰が好き好んでレベル0なんてランク付けを貰うんだよ。もっと高かったら小遣い増えるのにさ」
カツカツの経済状況をもたらすことだけが、当麻にとってレベル0を疎む理由らしかった。劣等感から道外れた世界へ踏み出す人間が掃いて捨てるほどいるこの都市で、その認識はあまりにおっとりとしていた。
「でも、それならレベル0と認定された能力で、どうして私の能力を無効化できますの? ……自慢に聞こえたら嫌ですけれど、私、自分の能力は非凡なものを自負しておりますのに」
「うーん、なんでって言われてもな。俺の右手はそれが超常現象なら何でも無効化できるんだ。レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」
「と、当麻さんは、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」
怪我をさせないようにと丁寧に気遣った自分が莫迦だったかも知れない。光子はそう嘆息した。レベル5で電撃といえば、やはり常盤台の超電磁砲だろうか。グラウンドから見たあの水柱は、自分の能力で防げるようなものではないように思えた。それを防ぐというなら、自分の能力でも何も出来ないだろう。
「ああ、なんか道端で知り合ってさ、それからアイツがやたら絡んで来るんだよな」
「……常盤台の学生、ですの?」
「お、やっぱりビリビリと知り合いなのか? あいつ確か中二って言ってたし、光子と同級生だよな」
共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。
「仲、よろしいんですの?」
自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。
「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」
「そうですの」
全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と首をかしげる。そしてふと気づいた。もしかして妬いてるのか?
わずかにツンと尖らせた唇は、まさにそれらしかった。そういう機微に気づく当たり、誰とも付き合っていなかった頃の上条当麻とは違うのだった。
ベンチに座ったまま、光子の肩を抱き寄せる。
唇はもっと突き出されてしまったが、照れ隠しなのが見て分かった。
「可愛いな、そういうとこ」
「だって」
抗議するように軽く睨んだ光子に笑みを返した。
夕方までベンチでベタベタとじゃれあう二人は周りにとってはいい公害であり、警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らしたのだった。






そして週末。
第七学区の中央近く、小さな公園で待ち合わせだった。
「こんにちは、佐天さん」
「あ、こんにちわです。婚后さん」
姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。
「今日はよろしく、お願いします」

「それで宿題はできましたの?」
単刀直入に本題に踏み込んだ。
「あ……はい、一応、考えてきました」
「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」
短く、そして答えの読めない質問。それ一つで自分を量られることへの不安。
佐天は思い切れないでいた。
宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。
数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。
もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。
「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」
「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」
少し前に聞いた問いと、寸分たがわぬ言い回し。

空力使いだというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。
きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。
自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」
































『prologue04: 渦流の紡ぎ手』

「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」
くじけそうな顔をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。
「そう」
しかし、辛そうな顔の佐天をフォローすることなく、話を続けることにした。
「そのまま続けて質問に答えてくださいな」
返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。
しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。

「どうして好きになれないの?」
「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」
「違う? 説明して御覧なさい」
ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。
だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。
前向きになろうという決意と、そういう決意を出来た自分に酔うことが彼女の防衛機制、つまり逃げであることを、光子は漠然と理解していた。
解決できない現実問題に対し、そうした逃げを持つことは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。
だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。
無言で圧力を掛け、光子は佐天が逃げることを許さなかった。
「風が気持ちいいとか、空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」
空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。
もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。
そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。
「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」
「使う風、ですか?」
「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」
そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。
「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層でものを切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」
空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるがその火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。
「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね。それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」
「えっと……私が想像したのは、なんか手からぶわーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」
到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、
「あの!」
思わず声をかけた。
「合格ですわよ。もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」
その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。
しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。
「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」
「あら、お聞きになりたいんですの?」
光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心失敗したと思った。この人は自慢が好きそうだ。
だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。
「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」
そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。
「え?」
光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。
ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。
「うわわ……っとっと。びっくりしたあ」
乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。
「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」
「へえ……」
「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」
ふむ、と光子は思案して、
「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」
「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」
「まあそうですわよね……流体力学も?」
「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」
学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の授業が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。
低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。
光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。
「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」
光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。
「どういうことですか?」
「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」
「え?」
質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。
「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。風船の外にも空気はあるし、風船の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」
「はあ、それはそうですけど」
「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」
「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」
「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」
そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。
「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」
「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」
「へぇー」
確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。
「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」
普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。
光子は足元の石を拾い上げた。
「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」
ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。
「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」
「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」
「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」
自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。
「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」
「え? 一年でレベル2から4ですか!?」
それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。
「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」
そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。
「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」
能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。
佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。
それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。
「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」
「え?」
「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」
そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。
「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えたこともなかったです」
それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。
光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。
「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の能力開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」
その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、
「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」
そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。
「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」
光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。
「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じにはなかなかいかないじゃないですか」
自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。
「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」
「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」
佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。
「では扇子は?」
「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」
ふむ、と光子は思案した。
風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱うのもおかしな話だろう。
風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。
自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。
佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。
「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」
「え? えーと……」
授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。
「すみません、ちょっと思い出せないです」
「そう、どこで習いましたの?」
「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」
それも学園都市の中か、実家で見たかも定かではなかった。
はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。
きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。
それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。
佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。
「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」
「っ――はい!」
突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。


渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。
そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。
その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。
そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。
その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。
頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。


「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」
五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。
「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」
「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」
それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。
「そこをもう少し上手く説明できません?」
「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」
「そこから風はどう生まれますの?」
光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。
「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」
「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」
本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。
「え?」
「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」
「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」
「なるほど、わかりました」
佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。
……次の瞬間。
「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」
一つレベルの高い要求が飛んできた。

身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。
その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。
佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。
特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。

「さて、そろそろおしまいにしましょうか」
ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。
「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」
佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。
「宿題も出しておきますわね」
笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。
「あー、はい。がんばります」
「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」
「わかりました」
真面目にそう返事をする。
「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」
佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。
「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」
「あ、はい!」
「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」
信じられない言葉。おもわずへ? と聞き返してしまう。
「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」
自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。
「なんでそんな……」
「どうして、と問われるほうが心外ですわ。あなた、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」
佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。
「……違います」
「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」
「あ」
パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。
「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」
すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!
能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。
「あたし、頑張ります!」


光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。納豆や出来上がった惣菜を買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。
帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。
説明をしてみると言うのは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれた。
その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。
それはおとぎ話を書くような、創作活動に似てるように佐天は感じていた。

風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。
もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。
能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。
つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。
そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。
コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。
お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。
左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。綺麗な真円を描けるよう腕を動かすのが、佐天の癖だった。
「あー、思ったより効きが早いなあ」
薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。
こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。
「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」
指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。
今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。
「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」
佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。
この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。
佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。
なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。
指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。
佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。
指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。
幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。





パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。
違うんだ。
あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。
そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。
「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」
その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。





ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。
約0.2秒、数ミリ立方メートルという、気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。
それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれは量子論のレベルで『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。
途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。

「あ……あ! これ、これって!!」
言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。
規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。
機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!
佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。
「すごい! すごい!」
世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。
もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。
「あは」
馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。
自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。
その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。


二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。
渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。
個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。
時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。
手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。
すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。
机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。
ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。
「よかったぁ……」
これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。
今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。
能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。
あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。
多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。





髪を整えていると、けたたましいコール音がした。
「もう、こんな朝から誰ですの?」
当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。
「もしもし」
「あ、婚后さんですか!」
「佐天さん? どうしましたの?」
「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」
「え――」
興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。
「本当ですの?」
疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。
「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」
紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。
「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」
「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」
それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。
「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」
「はい、なんですか?」
「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」
年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。
授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。
「え……っと、変わりますかね?」
レベル0から、レベル1へ。
「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」
その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。
「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」
そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。
同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。
「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」
そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。




朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。
低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。
手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。
今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。
「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは年にほんの数人しかいないね」
「珍しいんですか?」
書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。
「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあるけど、そこからこんなに伸びるというのはあんまりないんだよ。おめでとう、佐天」
担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。
「あ……」
佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。
































『prologue05: 能力の伸ばし方』

「さて、それでは始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天は返事をした。
常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。
部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。
「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」
涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。
「はい」
その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。
部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。
そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。
「あら」
光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1の域を超えていた。
「こんな、とこです。あ!」
佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。
「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」
「はい? え?」
才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。
「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」
「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますからレベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」
「へっ?」
やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。
「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」
「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い(エアロハンド)や電撃使い(エレクトロマスター)のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される常盤台の超電磁砲は相当のものですわよ」
光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。
「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」
「はあ」
佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。
「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」
そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。
部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。
光子は厳かに告げる。
「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」
「……はい?」
佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。
「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」
「はあ……」
運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。
ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。
「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」
打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。


「……ぷは、あの、どうですか?」
光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。
「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」
「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」
困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。
「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」
光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。
「うーん……」
佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。
「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」
「粒……水の粒……」
あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。
なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。
ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。
「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」
「そうみたいです。すみません」
「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」
「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」
「圧縮性の問題かしら?」
時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。
「圧縮性? あの、どういうことですか?」
「空のペットボトルは潰せるけど、中身入りのは無理ってことですわ。空気は体積に反比例した力がかかりますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」
その説明で佐天はハッと気づく。
「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」
「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」
光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。


「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」
また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。
「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」
小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。
「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」
スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。
「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」
「ライターなんて持ってませんよ」
この年でタバコなんて吸わない。発火能力者(パイロキネシスト)の真似をして遊ぶのには使えるが。
「では、これで渦を作ってくださいな」
そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。
佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。
「やることはわかってらっしゃる?」
その一言でハッとなる。
「あ、はい」
「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」
平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。
空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。
目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。
50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。
「すごい」
思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。
普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。
「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」
「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」
言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。
もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。
他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。
「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」
あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。
「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、あなたのその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」


建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。
「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」
「あ、はい」
「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」
「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」
軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。
手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。
「く……」
もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。
グレープフルーツ大、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。
「これくらいが限界みたいです」
出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。
「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」
「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」
二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。
「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」
「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」
自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。
「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」
「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」
「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」
「頑張ってみます」
そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。
「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……あ、確か繁華街の広場に、水を霧にして撒いているところがありましたわね?」
ふと思いついたように光子が顔を上げる。
「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」
「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですからうまく行かないかもしれませんが、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」
「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」
初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。
「ええ、そうされるといいわ。ふふ、そういう貪欲な姿勢、嫌いではありませんわ。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」
「はい」
休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。
佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。
野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。
佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに、改めて気づいた。
「んー、これくらいが限界みたいです」
何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。
「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」
光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。
「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」
やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。
「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」
「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」
「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」
「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」
自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。
「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」
「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」
「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」
手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。

じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。
エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.03℃と表示されていた。
その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは感じ取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。
温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。
……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。
ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。
佐天がストップウォッチを見て、
「ふう、2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すいません、あんまり上手くできなかったみたいです」
「いえ、結構ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやるつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」
「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」
「ああ、自覚がありましたの」
「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」
「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」
光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。
そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。
「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」
「へー。……言われてみると、そんな気もするような」
「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」
「はい」
「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」
「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」
「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」
「はあ」
光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。
「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」
「熱を、集める」
「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」
「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」
そう佐天が茶化して言うと、
「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」
そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。


ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。
「これ……」
「燃焼試験室ですわ。私がかかわっているプロジェクトの一つですの。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」
光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。
「えっと、それで何をすればいいんですか?」
「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」
「はあ、分かりました」
「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」
「お小遣い、ですか?」
「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」
「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」
恥ずかしげに佐天は頭をかいた。
「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」
その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。
「あれ、入らないんですか?」
「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」
クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。
「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」
「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」
「では行きますわ」
光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。
「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」
「……」
佐天は返事をせずに、渦に集中する。
1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。
ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。
「ば、爆発?!」
思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。
「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」
「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」
「ええ。私もそう思いますわ」
光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、
「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」
なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。
「婚后さん、それってもしかして」
佐天は思う。この人は自分の考えていることをあんまり隠せない人だ。こんなお花畑いっぱいの笑顔を見せるって、そりゃあやっぱり、ねえ。
「え? あ、オホン。別に大したことではありませんわ」
「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」
「な、どうしてそう思われますの? ……まあ、『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くのですけれど」
しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。
「はー、婚后さんオトナですねぇ」
「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」
ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。
この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。
「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」
そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。
「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」
「わかりました」
「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」
「はい」
「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」
「はい」
「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」
「う……」
微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。
「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」
「あー……、はい、頑張ります」
「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」
光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。


その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。
部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。
「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」
そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。
空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。




































『prologue06: 彼氏の家にて』

「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。
「今日は! 断じてさせません!」
不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。
初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。
「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」
今日の佐天は、今までと違っていた。
佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。
螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。
おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。

「え、ええっ?」
初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。
人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。
「あ、あ……」
何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。
佐天はもう笑うしかなかった。
「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」
「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」
テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。
「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」
「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」
初春が膨れ顔でそっぽを向いた。
「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」
アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。
「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」

佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。
「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」
自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。
「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」
どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っていた。
「む……」
今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。
「これはちょっと、難しいかも」
「風、強いですもんね」
初春がそう相槌を打つ。
「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」
「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」
屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。
「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」
噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。
綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。
「お、お、お……」
一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。
「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」
手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。
「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」
佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。
「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」
初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。
「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」
自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。
「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」
生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。
「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」
指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。
「ひゃっ!」
渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。
霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。
「あー、今のは初春も悪いと思う」
「……何も言わないでください佐天さん」
ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。
「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」
「でも随分と大きく集まりましたね」
「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」
「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」
「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」
嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、
「きっと佐天さんには才能があるんですよ」
本心でそう言った。
「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」
「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」
初春はまっすぐ上を指差した。
「アレって……雲?」
天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。
「いやいや初春、天候操作は大能力者(レベル4)以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」
「試してみませんか?」
「え?」
「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」
初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。
雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。
「……いけるかも」
佐天がポツリと呟いた。
「え、ええぇっ?!」
初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。
すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。
「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」
「え?」
またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。
どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。
「ぬぅん」
低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。
雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。
それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。
「……あの」
「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」
何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。
「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」
「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」
大能力者への道は、果てしなく遠い。




ザァザァと水の流れる音がする。
「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」
学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。
「その点は空力使い(エアロハンド)は大変ですわね」
「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」
ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会話する。二人は一年生、つまり光子の後輩だ。先日の水着の撮影に参加したときに仲良くなったのだった。
この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響していた。
二人は水流を操作する超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。
気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。
「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」
「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」
液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。
固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。
液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。
「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」
シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。
水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を制御することこそ、泡浮と湾内の能力だ。
それも彼女達はレベル3。充分なエリートだった。
「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」
「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」
流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを予測するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。
「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」
おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。
「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」
それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。




シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。
上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。
コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。
「ここ、ですわね」
エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。
ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。
光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。

「こんにちは、当麻さん」
「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」
「はい、お邪魔しますわ」
光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。
靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。
「これが、当麻さんのお部屋なのね」
当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。
部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。
「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」
当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。
「今日は何作ってくれるんだ?」
「出来てからの、お楽しみですわ」
相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。
食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうがおそらく料理には慣れているだろう。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。
……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。
勿論当麻は何も言わなかった。
「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」
ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。
「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」
麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。
「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」
「もう!」
失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。


テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。
常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。
「……いいなあ」
「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」
「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」
「それは良かったですわ」
光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。
その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。
「結構練習した?」
「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」
光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。
その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。
どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。
「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」
「下の扉を開けたところだ。わかるか?」
光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。
「こちら、ですの?」
「あ、そっちじゃなくて」
別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。
「ありがとうございますわ……あ」
1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。
「今からそれ、炒めるのか?」
「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」
「ああ、ごめん」
謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。
光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。
当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。
「あ、すみません」
「ん」
うっかりしていた光子に笑い返す。
光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見えた。
ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。
「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」
火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。
「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」
「光子が可愛いのが悪い」
「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」
中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。
「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」
そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。
「じゃ、またあとでな」
当麻は笑って婚后の髪に触れた。


軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。
ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。
「台所はやはり暑いですわね」
「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」
当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。
「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」
「そうですわね」
時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。
朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。
「はぁー、幸せだ」
ガラにも無い言葉を呟く。
「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」
コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。
同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。
土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。
「さっきみたいには、してくれませんの?」
甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。
「ふふ、暑いですわね」
「ああ、暑いな」
真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。
暑いくらいが、嬉しい。
「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」
当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。
「あはっ! もう、当麻さん!」
つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。
「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」
光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。
「う……」
突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。
「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」
「ねえよそんなの!」
「じゃあ、初めてですの?」
「……うん。光子、お前は?」
「私だって初めてですわ」
付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。
普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。
……い、いいよな?
眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。
化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。
当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。
すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。



――――プルルルルルルル
そんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。



ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。
「は、はい上条です!」
「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」
「ととと当然じゃないですか!」
電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。
「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」
「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」
「はい?」
「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」
最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。
「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」
「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」
学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。
「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」
「上条ちゃん?」
「いえなんでもないです」
この小学生並の身長と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。
当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。
「光子」
「聞こえていましたわ」
つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。
「昼からは一緒にいられませんのね?」
「……はい」
「明日からも補習漬けですの?」
「……はい」
「いつなら、お会いできますの?」
「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」
「そうですか」
はあっと、光子がため息をつくのが分かった。
「補習って、皆受けるものですの?」
「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」
「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」
「……ああ」
むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。
「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」



光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。
「み、光子、料理上手いじゃないか」
「褒めていただいて嬉しいですわ」
これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。
自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。
これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。

もくもくと、二人でカレーを消費する。

「……当麻さん」
「なんだ?」
「今日はいつ、学校に行かれますの?」
「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」
登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。
「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」
小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。
「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」
当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。
「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」
「……」
光子はむっとした表情を変えない。
「こないだ言ってた店に買い物に行こう。暑いからプールって話のほうでもいい。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」
「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」
ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。
「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」
「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」
「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」
「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃないの?」
率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。
だけど違うのだ。
「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも店で1万円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」
「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」
光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。


食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。
「その、光子はこれからどうするんだ?」
言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。
「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」
「う……ごめん」
「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」
今なら30分の遅刻といったところだろう。
「まあ、な」
「……寂しい」
ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。
何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。
当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。
また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。
当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。
「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」
「はい」
でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。
「光子」
名前を呼ばれた。
「どうされましたの」
「キスしていいか」
「――っ!」
ドキン、と心臓が跳ねた。
そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。
心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。
口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。まだ、それにはあまりに早すぎる。
当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいだ。
……手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。
「当麻さんの、好きになさって」
恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。
「それは嫌だって、意味か?」
当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。
「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」
こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。
「光子、好きだ」
「私も……」
「私も?」
続きを言うのが照れた。
「当麻さんのこと、すごく大好きです」


呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。
はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。
光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。
当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。


「ん……」
ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。
当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。
そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。
当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。
「嬉しい、嬉しい……」
自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。
当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。
ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。
「はあ……」
体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。
それを見て、当麻はドキリとした。
「どうしましたの?」
光子は、その意味を考えてないみたいだった。
「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」
「はあ……って、あっ」
恋人、二人きり、そしてベッド。
二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。
「そそそそんな、私はっ」
「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」
二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。
「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」
「え、ええ。仕方ないですわよね」
何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。
当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。
――べつに床でも、って駄目だ! 光子だって嫌がるだろうし……
頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。
そこで、おかしな光景が眼に入った。
「……あれ? 布団が干してある」
自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。
勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。
「当麻さん?」
怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。




ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。



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以上、改定前のプロローグでした。



[19764] ep.1_Index 01: 魔術との邂逅
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:29
当麻が切なそうな目でその子を見つめていた。光子が恨めしそうな目でその子を見つめていた。
透き通るような銀髪に緑色の双眼。そして豪奢なティーカップみたいなデザインの白の修道服。
明らかに日本人ではない顔立ちと、学園都市の学生とも思えないような服装の少女は、
「美味しい、美味しいよ!! 空腹って言うスパイスがなくてもこれならまだまだ食べられるくらい!」
流暢な日本語を駆使しながら光子の作ったカレーにがっついていた。


「俺の晩御飯が……」
「行き倒れだという人間をたたき出すほど冷血では無いつもりですけれど、もう少し食べる量を自重してくださいませんこと?」
会心の出来というわけでもないが、光子が生まれてはじめて人のために作った料理であり、大切な恋人に美味しいと言ってもらえた料理なのだ。
どうして誰とも分からない胡散臭いシスターに振舞わなければならないのだろう。それも三皿も。
「あ、ご、ごめんなさい。丸一日くらい何も食べてなかったし、すっごくすっごく美味しかったからつい」
自分の立場を分かってはいるのだろう。しゅんとなってその少女はすぐ謝った。
「なあ光子。今度また、作ってくれるか?」
「ええ。もちろんですわ。もっと喜んでいただけるよう、練習しておきますわね」
光子が嬉しそうに笑った。当麻はガラステーブルをはさんで向かいにいる少女に気づかれないよう、こっそり光子の手を握った。
「で、えーと。一体何が起こってたのか、話してくれるよな? インデックス、って呼べば良いのか」
空腹時に嗅ぐカレーの匂いが持つ威力はすさまじい。それでこの目の前の少女は挨拶も自己紹介もそこそこに食事にむしゃぶりついた。インデックス・なんとかさんと名乗ってはいたが、まるで女性名に聞こえない。
「うん、インデックスはインデックスだよ」
「どうしてこの家のベランダに干されていましたの?」
「干されてた訳じゃないんだよ!」
スプーンを握り締めながらインデックスが抗議する。だが、8階建ての学生寮の7階のベランダにだらりとぶら下がる少女を、それ以外にどう表現すべきだったのか。
「おおかた空力使い(エアロハンド)の能力者に吹き飛ばされでもしたのでしょう」
「エアロハンド? なにそれ」
「何って、気流操作系の能力者の通称じゃないか。いやでもさ光子、それだと吹き飛ばされて怪我一つ無いことの説明ができないぞ」
「肉体操作か念動力系の能力者なんではありませんの? ビルから飛び降りても平気な能力者なんて常盤台なら両手の指の数じゃ足りませんわ。私もその一人ですし」
インデックスと名乗る少女は二人の会話の中身をまるで理解できないように首をかしげた。
「何を言ってるのか分からないけど、私が怪我してないのはこの防御結界のおかげだよ」
スプーンを置いて両手をそっと広げて、彼女は自慢げに修道服を二人に見せつけた。
「防御、」
「結界?」
思わず当麻と光子が顔を見合わせる。
「知ってる?」
「……原理的に難しいですわね。衝撃吸収性の服を着たって、殺せる運動量なんて高が知れています。それにこれ、手触りからしてただのシルクですわ。防御結界というのはどういう原理の対事故安全機構ですの?」
「どういうって、これは『歩く教会』って言って、教会として最低限の要素だけを集めて服に集約したものなんだよ。布地の織り方、糸の縫い方、刺繍の飾り方まで、全てが計算尽くされ尽くしたとっておきの一品なんだから!」
まるでそれは説明になっていなかった。服が教会を模したとして、だから物理法則が曲がるかというとそんなわけはないのだ。そんな科学は常盤台でも当麻の高校でも教えられていない。
「はあ。貴女、ずいぶん歪んだ教育を受けてきたようですけれど、一体どちらの方なの?」
「なんていうかさ、お前、学園都市の学生らしくないよな」
「それはそうだよ。だって私はこの街の住人じゃないもん。私はイギリス清教の修道女(シスター)で、魔術の心得もあるんだよ。それとあなた、歪んだってのは失礼なんだよ! この世の中に相容れない主義主張がいくつあると思ってるの? あなたの知らないものを歪んでるって言っちゃうのは視野が狭いかも」
「仰りたいことはわかりますけれど……その、魔術の心得、ですの?」
インデックスはちっちっちと不遜な顔をするが、光子はその言葉に怪訝な顔をせざるを得なかった。ありとあらゆる超常現象が投薬によって発現し目の前で再現されているこの街において、魔法なんてものは旧時代に超能力を理解できなかった人々が作った不適切な用語でしかないのだ。
「む、まだ信用してないんだね?」
「インデックスさん、この学園都市は超能力開発の町ですのよ? 海を割り雷を落とすような人間が学生服を着てアイスクリームを舐めながらショッピングをしているのに、魔術などというよくわからない言葉を受け入れられないのは自然だと思いますけれど」
「どーしても魔術を信用しないってこと?」
「というか、魔術とあなた方が仰るものは結局複雑な原理で働く科学なり超能力なりではありませんの?」
「なら試してみる! あなたがバカにしたこの歩く教会、傷つけられるものならやってみてよ! それでどうして傷つかないのか、科学で説明できるならしてみるんだよ!」
むすっとした顔でぶんぶんと腕を振り回すインデックスをもてあますように、困った顔で当麻と光子はため息をついた。
「まあ、疑って悪いとは思いますけれど、殊更に否定するつもりはありませんわ。学園都市の超能力とは雰囲気が違うのは事実ですし」
「あなたは結局私の言うことを信じないんだね!」
さらにヒートアップし始めたインデックスの横で、当麻は時計を気にしていた。補習の開始時間である午後1時をとっくに過ぎていた。
「お前これから、どうするんだ?」
「え?」
「そろそろ俺は補習にいかなくちゃなんねえし、これからのことを考える必要があるんだよな」
「そうでしたわね……。もう、10分だけでも二人でお話したいと思っていましたのに」
当麻と光子は憂鬱にうなだれた。インデックスはそれを見てへの字に曲げていた口をきゅっと引きしめ、居住まいを正した。
「あの、お邪魔してごめんなさい。二人にだって予定があるよね。食事を恵んでくださって、どうもありがとうございました。私はそれじゃあ行くね」
「行くって、どこにだよ?」
「イギリス清教の教会。日本じゃ珍しいけど、ないわけじゃないから」
当麻は首をかしげた。おかしい。学園都市の住人以外がここに入るときは、かなり厳しいチェックと内部関係者の身元保証を必要とする。
「お前、どうやってこの街に入ったんだ?」
「どうやってって、普通に歩いて、というか走ってだよ」
「誰にも見咎められずにか?」
「うん、この辺りに来たのは昨日の夜だけど、門をくぐってもなんともなかったよ」
光子と顔を見合わせた。どうやら、昨日の停電のタイミングで上手く切り抜けたのだろう。
「……ってことはこの街の住人用のIDカード持ってないんだな? それで街を歩くのはまずいだろ。……っていうか、なんでそんなことになったんだ?」
「追われてるからだよ」
こともなげに彼女はそう言った。薔薇十字や黄金夜明と呼ばれるような魔術結社に追われている、と。
自分が魔術師だという主張に加えて、さらには魔術結社ときた。それらの単語を、当麻と光子はきちんと理解し受け止める努力を放棄していた。
「その、追われているという貴女を信じないつもりはないんですけれど、どうしても単語が私達にとっては突拍子もなくて……」
「だからさっきから言ってるじゃない。ほら、あなた達も超能力者なんでしょ? この『歩く教会』の法王級の防御性能をそれで確かめてみればいいんだよ!」
「そうは言うけど」
この街の科学は原理すら悟らせないトンデモ現象をいくらでも作り出す。インデックスが魔術だと言い張るものは、おそらく科学でどうにか説明付けられてしまうだろう。
当麻はどうも胡散臭さの消えない彼女の言葉に、戸惑いを覚えていた。
「当麻さん。試しましょう。それで信じられるのなら一番話が早いですわ」
「お、おい光子?」
そう言うと、光子はインデックスのお腹辺りに触れた。
光子は彼女の触れたところに風の噴出面を作り出し、あらゆる物体を飛翔させてしまうトンデモ発射場ガールだ。その能力を利用して、光子は軽い衝撃をインデックスの腹部に打ち込もうとしていた。何も体を鍛えていなさそうなこの少女ならちょっと痛がりそうな程度の強度で。
「……あら?」
光子の触れた部分は光子の支配下となり、気体分子を集積する。そして全ての気体分子を同一方向のベクトルを持たせて噴出することで衝撃を与えるわけなのだが。
それ以前に、そもそも能力の発現面を上手く作ることが出来なかった。
水面のように揺らぎやすい面などに能力発現面を作れなかったことはあるが、服を着た人間という物体を対象にして能力を失敗したことなど当麻の右手を除いて一度もない。そして服に触れたときに感じた、奇妙な圧迫感。そちらは全く初めての感覚だった。
「……」
「ほーらどうしたのかなー? 何かしようとしたんだよね? 私、なんともないんだけど」
もう一度、光子はインデックスに触れた。しっかりと集中して、万が一にも失敗などないように。
だが結果は同じ。光子は内心で混乱していた。能力そのものを封じる素材の服など、聞いたこともない。
「……っ」
本棚から週間少年誌を引き抜いて、インデックスに飛ばす。人間が本気で週刊誌を投げ飛ばしたくらいの速度だった。当たれば当然痛がるだろう。
ところが雑誌がインデックスの修道服に触れた時点で不自然に運動量を失って、彼女の体にこれっぽっちもダメージを伝えることはなかった。衝撃吸収素材だとかそんなありふれたものでは断じてなかった。
「そ、んな。私はレベル4の能力者ですのよ?! どういう原理で防ぎましたの?」
この学園都市の学生らしく、光子は自分の能力に自信を持っている。向き不向きはあるから光子とて出来ないことは山ほどあるが、それでも能力の発現そのものを押さえつけられたことはなかった。さらに、全く別な能力と思われるやり方で、光子の飛ばした雑誌も防がれた。この結果は、光子の知る超能力では説明が付かない。
「ふっふーん。だからさっきから言ってるでしょ? 魔術だよま・じゅ・つ! あなたは自分の力に自信があったみたいだけど、全然何も出来なかったね。魔術だって馬鹿に出来ないものでしょ?」
「く……」
光子は憎まれ口のひとつでも叩いてやろうかと思ったが、そもそも能力を発動させられないのでは負け惜しみにしかならない。完全に敗北だった。
「じゃあ次はそっちの君も試してみる? 君がどういう力を使うのかは知らないけど、『歩く教会』は全てを防ぐんだから!」
光子が何も出来なかったことに驚いていた当麻は、自分に話が回ってきて驚いた。
「え? 俺もやるの?」
「魔術を信じないって言うならやってみるんだよ。それともこっちの人が失敗したのでもう認めてくれたのかな?」
パッと光子が顔を上げた。
「そうですわ当麻さん。当麻さんの右手なら、この子の服くらい突き抜けられるんじゃありません?」
「まあ、たぶん、出来ると思う。それが異能の力だっていうなら、神の奇跡だって打ち破れる」
「……敬虔なる神の子羊に対して、それはずいぶん挑戦的な言葉だね。やれるものならやってみればいいよ!」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
光子が期待のこもった目でこちらを見ていた。勝って態度の大きくなったこのシスターに一泡吹かせたいらしい。
女の子に手を上げるのもなんだけど、ほんの少し痛い程度に体を叩けばそれで足りるかと当麻は意を決した。
その前段階のつもり、とりあえず服の手触りを確かめようと手を伸ばして、肩から足元までをゆったりと覆うその服をつまんだ瞬間。


ばさりというよりもしゅるりという音を立てて、インデックスの肩より下を覆う全ての布が取り払われた。


「――え?」
それは、三人全員の声だった。
インデックスは唐突に布が体を滑って脱げていく感触に、光子は突然に目の前の女の子の肌が露出したことに、そして当麻は自分の手の中に修道服が存在することに、それぞれ戸惑いを覚える声だった。

「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ご、ごめんっ!!!」
体を隠しながらしゃがみ込むインデックスに、当麻は慌ててただの布になってしまったそれを突き返す。
「ばかばかばか! 信じられないんだよ!」
「うわ、ちょっとおい止めろ! いでででで!」
インデックスは布をひったくって体に無理矢理巻きつけたかと思うと、すぐさま当麻に噛み付いてきたのだった。
もちろん服としての機能が失われていているから、それは完全に体を隠したりはしない。チラチラと体のあちこちの見てはいけないところが見えたり見えなかったりして、当麻は直視することが出来なかった。
暴れる二人は、第三者から見ればじゃれあっているように見えた。そう、この場にはもう一人、婚后光子という人がいるのだった。

「あらあら当麻さん? 何をなさっているのかしら?」
「はひぃっ?」

優しい問いかけ声だった。だがそれに当麻はこれっぽっちも抗えなかった。その口調と声色には遺伝子レベルで逆らえないような気がした。
「何をなさっているの、とお聞きしたのですけれど?」
「いや、な、何をって」
「服が脱げてしまったのは、まあ良いでしょう」
「これっぽっちも良くないんだよ!」
「でも私の前で仲良くじゃれあうなんて、どういう意思表明ですの?」
「いや、べつにじゃれあってなんかないだろ? いえ、ないでせう? 当麻さんはこの女の子にただ噛みつかれただけで」
「当麻さん?」
「すみませんでした」
迷わず当麻は頭を地面にこすり付けた。逆らえなかった。
「何を謝っているのか分かりませんけれど、」
光子は冷たい目で平身低頭する当麻を睥睨したあと、傍らで必死に体を隠すインデックスに目を向けた。
「とりあえず貴女の服を何とかしないといけませんわね」




替えを着せようにも当麻の服ではサイズは合わず、それどころか下着を身に着けていないことが発覚して、結局布きれに変わってしまったそれを着なおすことになってしまった。
仕方ないから縫いましょうと光子が言ったものの、一向にソーイングセットが見つからない。
その結果が、目の前の光景だった。
「なんというか、非常にシュールな服装になっていますわね……」
「言わないで欲しいんだよ……」
縫い糸の代わりを何十本もの金属の安全ピンが成している。光子と二人がかりで何とか服の形にまで戻して、もそもそと袖に腕を通す。
「おーい、終わったか?」
玄関で廊下へ続く扉の方を向いたまま、当麻は正座している。裸の女の子のいるところから追い出され、反省を求める空気に負けて正座をしているのだった。
「ええ。当麻さんが引き毟(むし)った服は、暫定的にですけれど形を取り戻しましたわ」
「う。その、ぜひ私めの話を聞いていただきたいのですが当麻さんは決して狙ってやったんではないのですのことよ?」
「狙ってないのにどうしてここまで酷いことをできるのかな……」
インデックスは非常に落ち込んでいた。ずいぶんと愛着のある服だった。信頼もしていた。それが、ちょっと触れられただけで壊れてしまった。
「君はどういう能力なの? 右手で触るだけで霊的守護の行き届いた教会をガラガラと崩壊させる術なんて、絶対に魔術じゃありえないんだよ」
「詳しいことを俺もわかってるわけじゃないんだよな。生まれつきこうでさ、しかも学園都市のあらゆる測定機械で無能力判定だし。……そういや、魔術があるかどうかって話をしてたんだっけか」
よ、と当麻は立ち上がって二人のいるリビングに戻った。カレー皿は片付けられ、光子はテーブルサイドに、インデックスは当麻のベッドの上にたたずんでいた。
「そうだったね。なんか、そこからやけに遠いところにいっちゃった気がするんだよ」
「話を戻しましょう。……そうですわね、魔術はあると、認めざるを得ませんわ。魔術という言葉には抵抗がありますけれど、この学園都市のやり方とは違う超常現象の起こし方がこの世に存在するということは、受け入れましょう」
「……で、その魔術の関係でお前は追われてるんだっけか」
「そうだよ」
「俺達に出来ることって何かあるのか?」
「ご飯を恵んでくれたよね。それで充分なんだよ。それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。さすがにそんなことはお願いできないしね」
さらりと触れたその言葉は、冗談めかした比喩表現のはずなのにどこか真実味が合って、重たかった。
応えに戸惑って、わずかに会話が止まった。
「これからは、一体どうしますの? IDを持ってないんでしたら交通機関も限られますし、そもそも夕方の完全下校時刻以降は町を歩くこともままなりませんわよ?」
「うーん、まあ何とかするよ。イギリス清教の教会さえ見つかれば保護してもらえると思うし」
不安を気づかせないためなのだろうか、インデックスはなんでもないことのようにさらりとそう言った。
それを見て、光子はふむと考え込んだ。
「インデックスさん。これからその教会くらいまではご一緒しますわ。私と一緒なら怪しまれる可能性も減りますし、貴女と違って町の施設検索なども出来ます。なんだかんだといって広い学園都市ですから、あなた一人が歩いて探してもすぐには見つかりませんわよ」
「だめだよ! あいつらはあなたも私の協力者だとみなして襲うかも知れないし」
「ではあなた一人で目的の施設を見つけられる見込みはありますの? イギリスは確か歴史的にいわゆるカソリックとは異なる派閥になったでしょう? そうした系列の教会が日本にそう多いとも思えませんが」
「う……」
「追われているという人間を放っておくのも寝覚めの悪いものですわ。さっさと街に出てさっさと調べて、私達も安心したいですわ」
光子の言葉を聴いて、少しだけ当麻は納得しないものを感じた。出会って30分やそこらの女の子に地獄の底まで付いていくなんてのは無理だ。だけど、放っておくのも良心が痛む。光子が言い、そして当麻も異を唱えないそれがどこか偽善めいて感じられるのだった。
「危ないんじゃないのか?」
「私を誰だと思っておりますの? この子と同じ服を着ているのなら話は別ですけど、そんじょそこらの暴漢にやられるような実力ではありませんわ」
「『歩く教会』なんて着てるわけはないから、あなたの能力が通じないことはないと思うけど……。それじゃあ、教会の場所を調べるだけ、お願いしても良いかな? ちょっとくらいなら見つからないと思うし、人の多いところを歩いていれば異変はすぐに察知できるから」
「わかりましたわ。さっさと済ませてしまいましょう」
話がまとまって、光子はすっと立ち上がった。インデックスがそろそろとベッドを降り、光子に並ぶ。
「えっと、じゃあ俺も」
「当麻さんは補習がおありでしょう? 大丈夫ですわよ」
手を上げて言った当麻はむべなく断られた。まあ、補習をサボるとなると全ての話がひっくり返るのだ。今日のほんの数時間は光子といられるが、夏休みトータルではむしろ減ってしまう。
「……わかった。授業中でも電話が鳴ったら絶対出るから、必要ならかけてくれ。それとさ、光子」
「はい、なんですの?」
シンプルなキーホルダーが付いた鍵を、当麻が差し出した。同時に自分のポケットからも鍵を出して光子に見せる。
「あ……それ、もしかして」
「ん。まあ、この部屋の鍵だ。元から今日渡すつもりだったんだけどな、万が一何かあったらここに勝手に入って構わないから」
「……ふふ、嬉しい」
付き合っている彼氏の部屋の合鍵を持つのは、学園都市の女の子にとってひとつのステータスなのだった。逆のパターンも時折あるが、それははしたないと言われたりもする。なにせラブホテルの数は非常に限られ、しかも大人のIDを持っていないと入れないのだ。学生たちにとって彼氏の家というのは、色々と深遠な意味を持つ場所だ。そのせいか、合鍵プレゼントは初デートやキスと並ぶ、一つの重要イベントだった。
キーホルダーをおそろいにするという定番までちゃんと当麻が押さえて、初キスと初の彼氏の家訪問をしたその日にもらえたのが、光子にとってすごく嬉しいことだった。
隣ではインデックスがはてなマークを頭に浮かべていた。
「ねえ、もうちょっと待ったほうがいいの?」
「あっ、いえ。行きましょう。それじゃあ、当麻さん、また」
「ああ、なんかドタバタしちまったけど、埋め合わせはちゃんとするから」
「はい」
光子がにこりと微笑んだ。先に進んだインデックスが扉を開けて辺りを見回していた。彼女の視線が、扉によって遮られる。
その瞬間を当麻は見逃さなかった。
「光子。好きだ」
「え? あっ……」
インデックスに隠れてこっそりと、当麻は光子にキスをした。
余韻を楽しむように、唇を離してからもしばらく見詰め合う。
「見つかってしまったらどうしますの」
「別にそれでも問題はないけど、しないほうが良かったか?」
「ううん。すごく嬉しかったです。それじゃあ、行きますわね。当麻さんもお気をつけて」
「サンキュ」
二人が出て行くのを見送って、当麻も軽く部屋を片付け鞄を用意して、家を出た。
「はぁ、どういう言い訳を用意すりゃいいんだ。ありのままになんて絶対話せないしな。不幸だ……」




[19764] ep.1_Index 02: 誰ぞ救われぬ者は
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2013/10/25 18:13
冷房の行き届いた部屋で、ソファにインデックスは腰掛けていた。
目の前のテーブルにはミルク色の飲み物が置かれている。さっきお代わりを貰ったところだ。
味は甘酸っぱくて、ヨーグルトに近い。
涼しげなそれを眺めながら、インデックスはじっとしていた。
「ありませんわね。これで、第一学区から第二十学区までが全滅ですわ」
「他のところもこの調子だと望み薄ですね……」
奥では眼鏡をかけたオドオドした女性と光子がファイルを漁りながら教会を探している。
『昨日の落雷と停電のせいで、警備員(アンチスキル)の詰め所にある施設検索システムが落ちたらしいですの』と光子は言っていた。一言一句は思い出せるものの、その意味をインデックスはさっぱり理解できなかった。
一方、目の前で行われていることはよく分かる。便利そうな機械を使うのを諦めて地図と施設名の一覧をめくっているのだ。
結果は芳しくないらしかった。
「やっぱり調べるときの条件がシビアすぎるんですわ。イギリス清教の系列教会に限定すると、これっぽっちも見つかりませんわね……」
光子がぼやく。さっきから何度も「この教会は?」「そこじゃダメなんだよ」の繰り返しだった。
手持ち無沙汰にソファに腰掛ける風でいながら、インデックスは周囲に意識をやって魔術師の襲撃を警戒していた。
ここはいわゆる警察の交番に相当するような施設らしい。こんなところを襲撃するほど追っ手は過激ではないようで、今のところ何らかの魔術が使われたような形跡を感知することは出来なかった。
インデックスはこの一年、断続的に二人組の追っ手に追われてきた。何度かあったニアミスで相手の手の内はある程度は知っていた。
男のほうはルーン使い。人払いなどの細かい裏作業を担当している。女のほうは長刀を持った東洋人だ。これまでもずっと前衛としてこの女とは何度か相対してきた。女のほうの身体能力の高さはおそらく何らかの魔術による補助を受けたもので、追いかけっこでは絶対に適わないような相手だった。
それでもいつも逃げ切ってきたのは二人が魔術の実力をかなり注意深く隠し、実力を欠片ほどにしか発揮しないでいるからだった。自分達の追う相手が禁書目録である、その意味をきちんと理解しているが故のことだろう。
その実力の程をインデックスは読みきれていないが、本気を出された場合、あっさりと捉えられてしまう可能性と魔術を逆手にとって手痛いダメージを与えられる可能性、両極端な二つの選択肢が転がっていた。
「ふう。これで……全滅、ですわね」
「そっか……」
「ごめんなさいね。時間ばっかりかかっちゃって」
ため息をつき困惑した表情をした光子の隣で、ややいかついジャケットを羽織った大人の女性がインデックスに謝った。
二人を労うよう、インデックスは笑みを浮かべて礼を言った。
「調べてくれてありがとうございました。あなたも、ありがとね。私一人じゃここまで調べられなかったんだよ」
「お役に立てなかったのでお礼を言われると心苦しいですわ。それで、これからは……こちらにいると仕事のご迷惑でしょうし、外で話しましょうか」
「え? うん」
「あの、別にここで相談してくれてもいいんですよ? 警備員の詰め所はそういうことをするためにありますから」
「お気遣い、助かりますわ。でもなんとかするあてはありますから、どうぞご心配なく」
「はあ……」
IDも持たない不法侵入者と一緒に警備員の詰め所で話をするなんてのは論外だった。その辺りの機微をつかめていないインデックスを押しながら、光子は出口のドアを開く。
気弱な警備員で助かった、そう光子は思った。ネチネチと学生に質問をする面倒なタイプの警備員なら、もっと苦戦しただろう。
「暑いんだよ……」
「そうですわね……でもあそこでお話をするわけにもいきませんし」
そして方策を練らねばならない。少女に頼るべき保護者がいないとなると、今後の身の振り方は考えてもどうにかなるものではないかもしれないが。
あっという間に首筋を伝い始めた汗を指で拭っていると、そっとインデックスが口を開いた。
「もう、充分だよ」
「え?」
「これ以上は、どうやっても返せそうにない借りを作っちゃうかもしれないから、ここで別れよう」
インデックスが、その顔に優しい笑みをたたえていた。
「そうは仰いますが、IDも持たない貴女は不法侵入者で、この街はそういった者にひどく厳しい対処をとるんですのよ。ここは外の世界よりも20年か30年ほど進んだ技術を有していますから」
「うん、だからさっきの女の人みたいな人たちにも捕まっちゃだめなんだよね?」
「貴女が企業スパイでないことを示せるのなら数週間もすれば放免されるでしょうが、どこかに拘置されますわよ。貴女の言う魔術がこの街と全く無関係なら、捕まるのもまた一つの手段かも知れませんけれど」
警備員ならそこまで非道なことはしないだろう。そう言う意味で、インデックスは捕まるのもアリなのかもしれないと光子は考えた。
だがそのアイデアは、インデックスが微笑みながら首を横に振った。
「だめだよ。一箇所に留まると向こうにも準備を整えられちゃうから。この街の警備って優秀かもしれないけど、魔術には全然気を使ってないから追ってくる連中には無意味かもしれないし」
「でも、他に貴女をかくまってくれる所はないんでしょう?」
「なんとかなるよ。これでも一年間逃げてる身だからね」
「でも、身を寄せる場所もなく街から外に出ることも難しくって、おまけに夕方以降は外出もままならないのでは、難しいんではありませんの?」
インデックスは、笑みを絶やさなかった。
優しくて、楽天的な印象の微笑。
どれだけ光子が懸念をぶつけても変わらないそれは、光子を拒否する笑みだった。
「ありがとう」
「インデックスさん」
呼びかけても、また笑みが返されるだけだった。
「ずっと追っ手から逃げる旅をしてきたけど、あなたたちみたいに優しい人のお世話になったのは、初めてだったよ」
インデックスが身支度を整えるように、ピンの位置を気にしたり、はだけた裾を直したりした。
「二人には感謝してる。だから、ここでもう、いいよ。これ以上は巻き込めないからね」
これで最後というように、もう一度インデックスがにっこりと笑った。
「追われてるなんてのは、実は嘘なんだよ。友達と鬼ごっこしてるだけだから。だから気にしないで、明日から日常に戻ればいいんだよ。それじゃあ、とうまにもよろしくね、みつこ」
タッと、軽やかな音を立てて、インデックスは通りを駆け出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
制止する間もなかった。運動などあまり出来そうにもない子だと思いきや、意外と足は速かった。
光子は体格で勝る。きっとすぐ追いかけていれば、捕まえられるだろう。
だが、足は動かなかった。
追ったところで、自分に出来るのはせいぜい警備員に彼女を突き出すくらいだ。一緒にどこかに隠れたならむしろ光子が学園中で捜索されるようになる。当麻の家になら匿えるかもしれないが、想い人の家をそのような用途に使うのにはためらいがあった。
「……嫌になりますわね、こういうの」
駆け出していった少女に手を差し伸べたいという善意は、結局不都合を背負ってまで成し遂げたいものでもないのだ。
きっと光子の中で、この後味の悪さは数日もすれば消化されてしまうに違いない。
すぐ手近な路地を曲がってしまったインデックスの姿はもう見えない。光子は、さようならもきちんと言えなかったことを悔やんだ。


そのまま光子は一人で街中をぶらぶらと歩いた。目的が曖昧で、足取りは何かが絡みついたように野暮ったかった。
インデックスと名乗る少女が現れなければ、おそらく一人でショッピングでもしていたことだろう。だが今こうして繁華街をうろついているのは、形式上だけのショッピングである。ついさっき別れた、あの奇抜な格好をした少女のことをさっぱり忘れて遊べるほど、光子はさばけた性格でもなかった。
当麻は案の定、電話に出ない。補習中だから当然のことかもしれないが、モヤモヤした気持ちが晴れない。
そして結局買い物を楽しむでもなく、積極的にインデックスを探すでもなく、漫然と足を動かすだけになるのだった。
「あれ、婚后さん? 珍しいわね、こんなトコで会うなんて」
突然、聞き覚えのある声がかけられた。
「御坂さん、ごきげんよう」
視線を上げると、本の入った紙袋を手にした美琴がいた。光子とソリの合わない白井黒子とは一緒ではないらしく、一人で買い物をしていたようだ。
「婚后さんも買い物?」
「え、ええ。まあそんなところですわ。御坂さんも買い物でしたの?」
「あーうん。ま、ね」
僅かに気恥ずかしそうにするのは、おそらく紙袋の中身がマンガだからだろう。それくらいのサイズだった。
当麻の影響で光子自身も漫画を手にするようになったので、何となくわかるのだった。
「婚后さんは何買うの?」
「特に何かを買うつもりがあるわけではないんですの。ちょっと遊ぶ予定だった相手が急用でいなくなってしまいましたので、一人でぶらぶらしていましたの」
「それはご愁傷様ね」
同情するように僅かに笑みを浮かべて、美琴は髪を軽くかき上げた。実は美琴も同じ境遇で、黒子と遊びに行く予定だったところを、風紀委員(ジャッジメント)の同僚である初春(ういはる)に奪われたのだった。どうも期限一杯まで放置した始末書を始末するために、今日一日忙殺されるらしい。
――まあ、似たもの同士でこれから夜まで暇な上に、夜になってからだってすることないしね。ちょうど良いからお茶でも誘ってみようかな。
不仲な相手の少ない美琴だが、道端で会ってお茶に誘える友人となるとそれほど多くない。光子とも二人でお茶をしたことはないが、誘ってもいいかな、なんて思えるくらいには好意を抱いていた。
「ねえ婚后さん、あのさ――」



そこまで言いかけたところで突然光子の携帯電話が鳴った。ハッとなった光子の表情がやけに輝いていて、綺麗だった。
メロディはリストの夜想曲。『愛の夢』という組曲の三曲目で、一番有名な作品だった。『愛しうる限り愛せよ』なんて副題とあいまって、なんとなく、光子がどのような関係の相手から電話を貰ったのかが予想できた。
「ごめんなさい御坂さん。ちょっと失礼しますわね」
光子が美琴に謝って通話ボタンを押した。そして一歩美琴から離れ、口元を軽く隠すようにしながら話をはじめた。
耳年増なことをするのも悪いかと思って殊更に聞き耳は立てなかったが、光子がやけに嬉しそうで、しかも敬語を使っていながら甘えた感じなのを見て取って、相手が彼氏であることを確信した。
――彼氏から電話があるんなら、私はお邪魔か。ま、しょうがないわね。
光子が気づくように、大きめに手を振る。唇を大きめに動かしてまたね、と伝えると、眉を申し訳なさそうにきゅっと寄せて、光子が目礼を返してくれた。それを見届けて美琴は立ち去る。
「彼氏かー。確か婚后さんてホンモノのお嬢様よね。お嬢様学校に通うお嬢様が彼氏持ちかぁ。許婚とかそういうヤツだったりするのかしら」
光子に聞こえない距離になって、そう独り言をこぼす。とはいえあんまり異性に興味のない美琴にとっては、彼氏がいるとかいないとかはどうでもいいことだった。
……はずなのだが、ふとあのツンツン頭の高校生を、思い出した。
「だーっ、もう、いい加減に忘れろ私! なんでこのタイミングであのバカのことなんて思い出すのよ。へへ変に意識してるみたいじゃない。第一アイツにだってもしかしたら彼女だって――」
誤魔化そうとしてブンブンと振り回した手が、ピタリと止まる。
「ハッ、やめやめ。あの冴えないヤツに彼女なんて出来るわけないじゃない。変な心配してどうすんのよ」
学園都市で三番目に勉強が出来る人間とは思えないような論理矛盾を放置しながら、御坂美琴は独り言とともに雑踏へ消えていった。



「ゴメンな光子。さすがに授業中には出られなくてさ」
「こちらこそ、ごめんなさい。お邪魔になるのは分かっていたんですけれど、どうしても相談したくって」
光子は立ち去ろうとしている美琴と会釈を交わし、さっき起こったことを報告した。
「……そっか。あの子、行っちゃったか」
「ええ。どうしたらいいか、当麻さんに相談に乗って欲しくて」
「うーん」
当麻は光子から事情を聞いて、頭を悩ませた。悩みの中身は光子と同じだった。探したところでどうにも出来ないし、探すほどの義理があるわけでもない。しかし光子とそう変わらない年の女の子が追われていると言っているのにそれを無視するのは良心が咎める。けれども追われているという説明も魔術という言葉のせいでどうも真実味を感じられない。
しばらく考えて、当麻は決断した。
「光子、この後会えるか?」
「はい。当麻さんこそ大丈夫ですの?」
光子の声が僅かに上向いた。
「ああ。ちゃんと真面目に相談したら、頭ごなしに学生の言い分を突っぱねるような先生じゃないからさ。話せる範囲で事情を説明したら、そう暗くならないうちに開放してもらえると思う」
「嬉しい。……それで、当麻さんと合流できたらあの子を探しますの?」
「だな。捕まえられるならそれが一番だし、完全下校時刻までは歩いてみよう」
「お付き合いさせていただきますわ。でも、あの子と会えたとして、それからどうしますの?」
「うちの副担任に相談しようかなって、思ってる」
「はあ、警備員(アンチスキル)の方か何かですの?」
「ああ。黄泉川先生って言うんだけどさ、たぶん一番頼れる人だと思う」
学校で体育教師として見る黄泉川は、スパルタ上等な授業内容にはみんな辟易している点を横におけば、面倒見がよく親身になってアドバイスをくれる、いい教師だ。
警備員としても知名度が高く、並み居る不良を愛のある暴力でバッタバッタと朗らかになぎ倒すのだとか。
ちなみに当麻のクラスの担任の月詠小萌も学生に人気のある教師で、当麻は誰もがうらやむ『アタリ』のクラスに所属する幸せ者なのであった。
不幸なことに黄泉川先生も小萌先生も、クラスの問題児上条当麻を非常に愛しており、当麻は仲のいい友人と共に愛の鞭を雨あられと浴びている。
そういった理由で、当麻にとって黄泉川は、荒事に関しては一番信頼できる大人だった。
「私には頼れる伝手(つて)はありませんから、当麻さんにお願いしますわ。でも、警備員に相談というのはちょっと気が引けますわね」
「いやでも、ほっとくわけにもいかないだろ? あの子を追っかけてるヤツがいるなら野放しにするわけにもいかないし、それに考えたくはないけど、あの子が俺達を騙してる可能性だってゼロじゃあない」
「騙しているにしては随分と下手な論理でしたけれど」
「俺だってそこまで疑ってるわけじゃないよ」
当麻が声を和らげた。光子も当麻の言いたいことは分かった。
結局は大人に頼らざるを得ない、それはどうしようもないことだろう。インデックスを裏切るようなことになって後ろめたい所はあったが、光子は仕方のないことだと自分を納得させることにした。
「分かっていますわ。補習が終わったら、連絡を下さる?」
「ん。すぐ電話するよ。待ち合わせは駅前か隣の公園か、あのあたりにしよう」
「わかりましたわ」
もうしばらく、近くをぶらつくことになりそうだった。
「それでは当麻さん、また後ほど」
「ああ、またあとでな。光子、好きだ」
「えっ? あ」
照れ隠しだろうか、返事も聞かずに当麻が電話を切った。
「もう、当麻さんたら。私の返事くらい待って下さってもいいのに」
まんざらでもない顔で光子はそうこぼした。つい数時間前に交わした口付けの感触を、光子は鮮やかに思い出した。


夕方といえる時間帯の初めくらい、影が伸びてきて夜の訪れを意識しだすその時間帯まで、光子は街を歩いて過ごした。
本屋に入って料理の雑誌を眺めてみたり、当麻と二人でよく行くファストフードの店で水分を補給したり、インデックスがいないかと通りを端から端まで歩いてみたりと、あれこれと時間を潰してみるもののどうにも気持ちが漫(そぞ)ろだった。
「一人で歩くと、なんだかすごく色あせて見えますわね……」
自販機でジュースでも買えばよかったのに、ファストフードのあの店に入ったのが良くなかった。当麻と二人で過ごしたときの楽しさが、今の寂しさを対比的に浮き上がらせていた。
携帯電話を取り出して時刻を見る。完全下校時刻までには合流すると言った当麻だが、もう大して時間も残っていなかった。
「あまりここから遠くへもいけませんわね」
光子は当麻が通学に利用する駅の近くにある公園に来ていた。
この駅は常盤台からも当麻の高校からも近く、買い物にも適した場所だった。その駅近くにあるこの公園はそれなりの大きさのあるもので、大通りから近い入り口のほうはベンチがカップルで埋まるような場所なのだった。
遊びの時間は盛りを過ぎていて、公園内にあまり人気はない。光子はさすがに疲れてきた足を休めようと、ベンチの並んだ場所へと向かった。
そしてその後の算段を、頭に描く。
もうじき当麻から連絡が来ることだろう。第七学区内だけですらたった二人で探すには広すぎるのだ。完全下校時刻までうろついても、それは自分達への慰めにしかなるまい。
年はそう光子と変わらないだろうが、幼く純真な感じのする少女だった。研究などで大人と対等に接するために、大人びた言動やものの捉え方を光子は身につけていた。成果で大人を凌駕するといえど、その振舞いは子どもが背伸びをしたものかもしれない。だが自分の考えが、あの少女の無垢な笑みを『都合』という言葉で汚してしまっているような、嫌な気持ちになるのも事実だった。
このあと、二人で探して不発なら当麻の学校の先生だという警備員の人間に連絡をして、それで終わり。
ふう、と息をついたその時だった。


茂みの向こうで死角になっていた道から、件の少女、豪奢な修道服に身を包んだシスターが飛び出してきた。
「えっ?」
「みつこ?!」
それなりの距離を走っているのか、インデックスは荒く息をついていた。
「どうしましたの? そんなにお急ぎになって」
「どうしたって、追われてるんだよ!」
「追われて、って」
「言ったでしょ? どっかの魔術結社に追われてるんだって!」
逼迫した目が、真実味を帯びている。訳の分からないリアリティが光子を襲い始めていた。
インデックスは光子の判断が鈍いのに苛立ちを感じながら、逃げる方策を考える。
まだ間に合う。まだ追っ手にみつこが見られていない今なら、きっとみつこを平穏な世界に帰してあげられる。
「みつこ、よく聞いて。みつこは全速力であっちに逃げて。振り向いちゃだめ。様子も見ちゃだめ。電車に乗ったらすぐ家に帰って」
「ちょ、ちょっと。貴女はどうしますの?」
「私なら大丈夫だよ。時間がないから、早く言うことを聞いて!」
「そんなことを仰っても、このような状況で貴女を放り出すことなんてできませんわよ、インデックスさん!」


口論が、余計だった。
追っ手は息一つ切らせず、声はあくまで冷静で、遠くまでよく通った。
「鬼ごっこはお仕舞いですか。……隣の方は?」
身長と変わらないような長刀を手にし、左右非対称な長さのジーンズを身に着けた奇抜な美女。年恰好は20くらいだろうか。
予想外に荒くれても醜くもない追っ手の姿を、思わず光子はぼんやり眺めていた。
隣のインデックスが、舌でも噛み切りそうなほどに後悔に苛(さいな)まれていた。
「ごめんね、みつこ。ごめんなさい……」
この追っ手は振り切るので精一杯なのだ。こうして近距離で対峙してしまっただけでも間違い。肉弾戦で攻めて来る相手には防戦しか出来ないのだ。
そして防戦で頼みの綱となる歩く教会はすでになく、そしてそもそも隣の少女を守るものは何もない。
……巻き込んでしまった。平穏を生きるべき市井の人を。魔術を知らない普通の人を。暖かさを分けてくれた、その人を。
自分の中の10万3000冊を相手に渡すわけにはいかない。そのためには、隣の少女を盾にして逃げることすら正当化されるだろう。だけど、インデックスはそんな選択肢を選ぶつもりは、絶対になかった。
「鬼ごっこはすぐに再開してあげるよ。ねえ、この子は関係ないから逃がしてあげたいんだけど」
「逃げてくれるのなら殊更に追いはしませんよ。我々の目的には確かに関係のない人のようですから」
ほんの一瞥を光子に向け、あっけなくそう言った。
「聞いてた? みつこ。今すぐ逃げて」
「……貴女はどうするつもりですの」
「なんとかなるんだよ! だから」
「何とかなる人はそんなに焦ったりしませんわ」
必死の表情で光子に逃げろと促すインデックスを放って、光子は逃げるつもりはなかった。
「素直に逃げていただけるとこちらとしても随分と助かります。そうしてはくれませんか? その少女をかばい立てするようなら、あなたにも危害を加えることになってしまいます」
インデックスだけが目的である相手にとって、光子は単に障害物なのだろう。追っ手のこの女は光子を路傍の小石程度にしか思っていないようだが、それは過小評価というものだろう。光子が道をふさぐ大石であればインデックスは逃げ切れる。
光子は深く息を吸い、その女をキッと見つめた。
「確認しますけれど、インデックスさん、こちらの方が貴女の言う追っ手ですのね?」
「そうだよ」
嫌な予感に、インデックスは襲われていた。光子が目に強い意思を込めて、周囲を見渡していた。
「みつこ、まさか」
「貴女独りでは、もはや逃げられない状況なのは分かりますわよ? でも、手を合わせれば話は別。二兎を追うおばかさんになってもらえばよろしいわ」
それを聞いてなお、追っ手は無表情だった。刀の鯉口に添えられた左手だけが、そっと臨戦態勢を整えていた。
慌てたのはインデックスだけだった。
「だ、だめに決まってるんだよ! 何考えてるの?」
「もう決断しました。言い合うのは逃げ延びてからにしましょう。それにレベル4の大能力者というものを、貴女は分かっておられませんわ」
レベル4ともなれば、限定的にではあるが天候すら操作しうる規模の能力を発現させるのだ。単独で軍隊を制圧しうると言われるレベル5には及ばないが、それでも対人戦では驚異的な武器を持っていることに変わりない。
「考え直してはいただけないのですか?」
「貴女こそ、ここで考え直してまっとうな人生を送ってはどうですの?」
「残念ですが、それはできません。その少女を逃がすのに加担するというなら、七閃の刃をもってあなたを排除しましょう」
追っ手の女の黒い瞳の中が、光子の問いかけで僅かに色を揺らした。狂信で行動を支えるカルトとは一線を画すらしい。
危険を顧みず、一向に逃げる気配を見せない光子にインデックスは文句の一つも言ってやりたかった。どうして逃げないのか、どうして自分をもっと大事にしないのかと。
だがそこで、茶化して自分が言った言葉を、思い出した。
――それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。
光子は親切で正義感のある少女なのだ。自分に関わったばっかりに、彼女は地獄に誘い込まれてしまったのだ。
「……恨んでくれて、いいから」
最早ごめんなさいと言う事すら、許されない気がした。
「恨むも何も、ここで憂いを絶てばいいだけのことでしょう? 逃げ切ってしまえば、あとはこの都市がよしなにしてくれますわよ。外来の危険人物には非常に厳しい土地ですから」
トントンとつま先で地面を叩いて靴の履き心地を整える。運動に向かないローファーだが、それなりに穿き潰してあるので走りにくいほどではない。
あとは数メートル離れたこの相手に、いつ背を向けるかだけが問題だった。
「私を誰だかご存知ないでしょうね。か弱い相手に暴力を振るう下賎な追っ手さん。この常盤台の婚后光子を相手にした不運を恨むことですわね」
「ご紹介痛み入ります。私は神裂火織と申します。あなたの仰ることは一言一句が正鵠を射ていますので私から言うことはありません。とはいえ行いを改めるつもりはありませんが。それと」
神裂という女が、瞬きをした。ただそれだけのことが合図になった。抑揚に変化なんてないはずなのに、声の強さが変わった気がした。
「私にはもう一つ名乗るべき名前があります。ですが私はそれを名乗りたくはない。どうか、私にそれを口にさせる前に、抵抗を止めてください」
ザリッという音と共に、神裂が一歩を踏み出した。



身構えた光子と対照に、インデックスは身を翻して光子の手を引っ張り、駆け出した。
「みつこ、走って!」
「ちょ、ちょっと」
光子は初手を自分から出す気でいた。空力使いの能力を活かし、相手を吹き飛ばしてアドバンテージを得てから逃げる気だったのだ。
重心を落としていた分体勢を崩しながら、インデックスの後ろを走る。
それを見た神裂また、素早い対応を見せた。
冗談みたいな加速。
爆発するようにトップスピードに乗り、数メートルの距離をあっという間に詰める。
遅滞のないそのリアクションで、二人はすでに追い詰められていた。
光子が、小道の傍らに建つ小屋の壁に手を着く。
数瞬遅れ神裂が刀の柄に手をかける。

ビュアッ、と風が暴れる音がした。
インデックスは弾かれたように後ろを振り向き、驚きに目を見開いた。

こちらをまっすぐ追いかけてきた神裂が、横から誰かに突き飛ばされたように転がっていった。
受身はとっているものの、その表情が驚きの大きさを物語っている。
「これが超能力、ですか。成る程、発動の条件が全く読めないのは厄介ですね」
すぐに体勢を立て直す。だが、距離は20メートル近く開いていた。


「どうしますの? また追いつかれますわよ」
「とにかく全速力、いまはそれしかないんだよ!」
「そうですか。なら、加速が必要ですわね」
「え? あ、わ、うわわわわわわ」
光子がインデックスの背中をそっと撫でた、そのすぐ後だった。
インデックスは背中を何かが押しているような、そんな感覚に襲われる。
一歩一歩のストロークが普段の倍近い。慣れないペースと歩法のせいで足に負担がかかるが、確かにこれは早かった。
光子も自分の背に能力を発動して、加速する。
二人の足の速さは100メートルを10秒台で駆け抜けるレベルだ。
その速さはこの大きな公園でさえ一瞬で走破する。
光子は逃げ切ったことを確信した。

インデックスは慣れない速度に足をとられないよう注意を払いながら、後ろを警戒していた。
相対するこちらが魔術師ではないのだ。敵が飛行魔術でも使ってくればこの程度の速さは問題とならない。
だが、その懸念は無用だった。
「うそ……」
生身の足を使って、神裂は追ってきた。
速度は大差ない。だが、カーブでスピードが全く落ちない。
そして、腕を振らずに刀に手をかけても、その速さが変わらなかった。
「っ! みつこ!!」
名を呼んで注意を促すしか出来なかった。
光子も不穏な気配は感じ取ったらしかったが、瞬間的にとるべき行動を選べるほど、場慣れはしていなかった。

鋼糸で腱を切断しても、おそらく後遺症も残らないでしょう。リハビリは必要でしょうが――
神裂は、二人の数メートル後ろにまで肉薄していた。
この街の医療レベルは高い。取り返しのつく怪我を負わせて、この超能力者を排除するつもりだった。
インデックスが叫んで注意を促すが、もう遅い。

光子の対応が間に合わないことに気づくと、後のことは、条件反射に近かった。
光子と神裂を結ぶ直線状に、インデックスは自分の体を滑り込ませた。
みつこに怪我はさせない。
言葉にならない瞬間的な思いを表すなら、そういうことだった。

好都合だ、と神裂は思った。
七閃を使うのを止め、刀にやった手で柄をしっかりと握る。
常時のレベルに力を押さえておけば、霊的守護の行き届いた教会を切断できるほど、神裂の唯閃は強力にはならない。
歩く教会を着たインデックスに、気絶程度のちょうどいいダメージを与えるいいチャンスだった。



神裂は流麗な動作で刀を鞘から滑らせ、その勢いを少女を庇うインデックスの背中に向けて容赦なく解き放った。
衝撃を吸収され、そして刀の切れるという特性すら殺されてしまって、衝撃がインデックスを気絶に追い込むだろうと思っていた。
――――だというのに。



ザクリと、刀の先がシルクの白い布に飲み込まれる音がした。
空気とも水とも違う、粘りを感じながら、刀が布を切り裂いていく。
取り返しの付かないところまで刃を沈めてようやく、何が起こっているのかに気づき始める。
「あ――」
途中で一閃を止めることは出来ない。
棍棒のつもりで振り抜いた刃の先は、ぬるりと光っていた。

信じられない、信じられない、信じられない。
歩く教会が機能を失うなんて、何をすればそんなことが起こるのかさっぱり理解できない。
そしてインデックスの身を守る結界が失われていることに気づきもせず、刀を振るった自分が信じられない。

インデックスと目が合う。
倒れ行くその瞬間。傷を負ったことに驚愕しながらも、敵意ある瞳で神裂を見つめていた。
――この人は、傷つけさせない。
神裂を取り巻く事実の全てが、彼女の意思をバキンとへし折った。


「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」
近くて遠い目の前で、誰かの叫ぶ音がする。
「テメェ!!」
遠くて遠い公園の入り口で、誰かの叫ぶ音がする。


神裂はそれらを受け止めることも出来ず、自分がインデックスに刃を突き立てた、そのことに呆然となっていた。



[19764] ep.1_Index 03: 傷ついた者を背負って
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/14 11:57

「だいすきだよ、かおり」


たとえ彼女が、自らその運命を受け入れたのだとしても。
神裂火織は、インデックスという名の少女の人生が幸多きものになることを願わずにはいられなかった。
――Salvere000(救われぬ者に救いの手を)
それは彼女が自らの魂に刻み付けた決心。


イギリス清教が持つ裏の部分、必要悪の教会(ネセサリウス)。そこが神裂の居場所。
言葉や文化にも慣れてきた頃に上から与えられた使命が、彼女の護衛だった。
完全記憶能力によって優に万を越える魔導書という名の猛毒を頭の中に収め、そしてそれが故に一年ごとに記憶のリセットをしなければならない修道女。はじめてその情報を聞いたときは、なんて苛烈で、敬虔な信仰の持ち主なのだろうかと恐ろしくすら思ったものだった。
だが会って、そして仲良くなるにつれて、分からなくなった。その生き方が、彼女の幸せなのか。
同僚として共に護衛にあたったステイルとインデックスと三人で過ごす日々は、いつだって楽しかった。同年代の、そして対等に接してくれる人たち。
神裂が決別し、故郷においてきた家族とも言うべき人たちは彼女を女教皇様(プリエステス)と呼び、慕ってくれた。だがその在りようは、十を少し超えた程度の少女には軽々に容れられるものではなかった。
未開の国の村々でシャーマンから魔導書を口伝で聞くときも、何が起こるかわからない大英博物館の倉庫を探検するときも、敵意という針で全身を射抜かれるような思いをしてヴェルサイユ宮殿の書庫で魔導書に目を通したときも、いつだって三人には笑いがあった。
ステイルは自分の才を鼻にかけた自慢げなところがあって、インデックスとつまらない張り合いばかりしていた。ティーンエイジャーになる前から煙草に手を出し始めた彼を毎回諌めるのがインデックスの仕事だった。面白い話なんて出来ない性格の神裂はそれを見守りながら、時に話に加わるのだった。
初めの半年は、ひたすらに楽しかったと思う。だが、リセットの日が近づくその足音が聞こえて来る頃になると神裂は失うものの大きさにおびえていた。
彼女と出会ってから学んだ術式。その一つは彼女の記憶を奪うものだった。
インデックスは記憶をリセットしなければ死んでしまう。そんな彼女を『護衛』する任務というのは、襲いかかる敵からその身を守ることだけではなかった。一年ごとに迫ってくる死の淵を遠ざけるために、彼女の記憶を奪う。あるいはそちらこそが、最も重要な任務だったのかもしれない。
自分で学んだ術式だから、神裂はそれを行使した結果がどのようなものかをどうしようもなく理解していた。
二度と、インデックスは自分達を思い出さない。

初めての別離の時には、彼女は幼子のようにインデックスにすがりつき、泣いた。
そしてすがりついたその手で、インデックスから記憶を奪い去った。
それから年に一度、インデックスから記憶という名の幸せを奪い去るのが仕事になった。それが彼女に訪れる最悪の不幸、死を遠ざけるために必要なことだった。
どれほどの非行でも、それがインデックスの幸せに繋がるなら、あるいは不幸せを打ち祓うなら、彼女はためらわずやってきた。
救われぬ者に、精一杯の救いの手を差し伸べているつもりだった。


目の前で、インデックスが倒れている。
他でもない、それを成したのは自らの振るう、七天七刀という名の凶刃だ。
その刃は、救いの手ではなかったか? 何かしらの幸せをもたらすものではなかったか? 魔を退ける聖刃ではなかったか?
よく見れば、インデックスの着る修道服には無数のピンが刺さっており、魔力なんてこれっぽっちも発していない。人よりも優れた身体、あるいは運命そのものを与えられた自分がそれに気づけなかったのは、ミスを通り越して罪だと言っていい。
刃を振るう意味を忘れた自分を呪い殺したくなる。それは切るためにあるものだ。ほんの少しの注意不足で、切るべきではないものを断ち切ってしまう。
刀を手にして救いを口にするものは、その一閃の振るい方を絶対に誤ってはならないというのに。


神裂は振るった刃を仕舞うことも出来ずに立ちすくみ、うずくまるインデックスとすがる少女をぼうっと眺める、それしか出来なかった。




「はぁ。何とか開放してもらえたけど……こりゃ明日からもっと大変になるかもなあ」
当麻はようやく小萌先生に解放されて、電車を待ち合わせの駅で降りたところだった。
改札を出ても、光子は見つからなかった。人で混雑したそこで待ち合わせをせず、デートの時には傍の公園を指定することも多かったから、光子はそちらにいるのだろう、と当麻は考えた。
携帯を取り出し電話をする。だが、10コール待っても光子は出なかった。切ってすぐにメールを送る。到着を知らせる簡単な内容のものだ。
完全下校時刻という、光子を寮に帰してやらねばならない時間はすぐに訪れる。しかし当麻はその後も町を歩く気でいた。当麻にとって、不良に絡まれた女の子を助けた代償に不良から追いかけられ回されて深夜まで町を徘徊する、なんてのは珍しくない。

インデックスという名の少女を見つけられないことを前提に、当麻は黄泉川先生に連絡を取ったときの内容を頭に思い描く。
たぶん、怒られるだろう。不審者にはこの街は厳しい。この街の財産を流出させる人間や、それを助けた内通者は非常に厳しい罰を受けることになる。
純真そうなあの少女がまさかそうした企業スパイだとは考えにくいが、警備員(アンチスキル)である黄泉川先生なら、当麻の判断を良くなかったと評価する可能性は高い。

アスファルトの黒い道からこげ茶のタイルで出来た公園の道へと、足を踏み入れる。その境界に、いつもと違う気配でも感じられればそれらしかったのに。
公園を照らす夕日も、長閑な声を出すカラス達も、全てが何気ない日常だった。
だから、光子が離れたところにある角から走って現れたときも、鈍い反応しか出来なかった。
「あ、光子」
本人に聞こえるわけもない、独り言。
ついでに光子が先ほどの少女と一緒に走っているのに気づく。
なんだ、見つかったのか。まあその方が説明しやすいし、よかったよかった。
そんなことをぼんやり考える。
二人の表情がやけに強張っているのには気づいていたが、その意味が、まるで頭の中で予想できなかった。

奇抜なファッションの女性が、二人の後ろにいた。手には刀。
そこでようやく、当麻の中の危機感を告げるアラームが警鐘を控えめに鳴らし始めた。

「っ! みつこ!!」

焦りに満ちたインデックスの声。
警鐘は早鐘を打ち出す。
そしてそれでは、遅かった。
数十メートルを隔てたその先。平凡な高校生の当麻にそれを埋める術はない。
刀が水平に薙(な)がれるのを、インデックスが崩れ落ちるのを、ただ眺めるしか出来なかった。
「嘘だろ……なん、だよ、これ」
非日常は、簡単には行動指針を設計させてくれない。
喧嘩慣れした当麻だが、こんな光景は見たことがなかった。

「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」

当麻を始動させたのは、聞きなれた光子の声だった。
刀を持った危険人物が、恋人のすぐ横にいる。
光子が危険に晒されている。
当麻の心は一瞬で気化燃料で埋め尽くされた。
「テメェ!!」
考えるより先に足が動く。
当麻は光子と追っ手の女の間に走りこんだ。



ハッと神裂は、誰かが自分の前に迫っているのに気づいた。
距離は1メートル。
そして手にした七天七刀は2メートル。
もはや振り回して迎撃は間に合わない。
「オォォォアァァァァァァァァッ!!!」
敵意の乗った叫び声をあげる少年。
その拳が、神裂の頬をめがけて飛んできた。
「くっ!」
七天七刀を握った手を引いて、腕でその拳を受け止めた。

体重のよく乗った拳だが、格闘に慣れた神裂にはどうということのパンチ。
暴力に晒されることで、むしろ神裂は冷静になれた。
今すぐあの子を回収しなければ。手遅れにならないうちに。

神裂が感情を自分の中からバサリとカットして、当麻に向き合った瞬間。
手元から、パキンという音がした。
「え――」
七天七刀は、基本的には刃の付いた鉄の延べ棒だ。それを折れにくく、また霊的なものに干渉できるようさまざまな術式で強化してある。
今の音は、そんな術式が剥落する音だった。


「光子! 今すぐその子と一緒に逃げろ! お前の能力だったら、いけるよな?」
「え、あの、当麻さん!?」
当麻は舌打ちする。光子は動転している。
だが刃物を持った相手に当麻はそう応戦できるとも思わない。
「今は俺の言うことを聞くんだ! いいか、その子を連れて全速力で逃げろ!」
光子は力強く断定的な当麻の言葉に、あれこれ反論しようとして止めた。
今は議論をする瞬間ではない。光子は痛みに気を失ったインデックスの手足を整え、背中に触れた。
ぶわりという風をヘリコプターのように真下に吹き降ろしながら、インデックスの体が持ち上がる。
重力とつりあうだけの風力で重みをキャンセルしたインデックスの体を、これまた加速した自分の体と共に運んで、光子は一目散にそこを離れた。
インデックスを当麻に任せて自分があの女と相対するほうがよかったのではとか、他にもっといい選択肢はなかったかとか、不安ばかりが心を蝕んだ。


当麻は、素直に逃げ始めた光子にほっと息をつく。
そして時間を稼ぐために拳を握り締める。
さきほど手の甲が僅かに触れたとき、刀から変な音がしたのが分かった。
右手に備わる幻想殺しが何かを殺したのだと、気づいていた。
当麻の右手を明らかに警戒する動きで、追っ手の女は立ち回る。
表情は焦りに染まっていた。
「一体テメェはなんなんだよおおぉぉ!!!」
あからさまに大声で、当麻は敵に叫びかける。
内容なんてどうでもいい。
ここは開けた場所だ。叫び声で、すぐに誰かの気は引ける場所だった。
当麻は制服を着た男子高校生。
目の前の女は長刀を持った奇抜な格好。
当麻は時間さえ稼げれば自分に分があることを自覚していた。

神裂も短期で目の前の少年を打倒し、インデックスを追わねばならないことは当然分かっていた。
だが、それでも迂闊には動けなかった。
何をされたのかが皆目見当が付かない。
自分の持つ最も大きな攻撃手段が、すでに効力を失っている。
長すぎるこの長刀はそもそも儀礼用で、術式による補強がなければ、堅いものを切れは半ばであっさり曲がってしまうのだ。
主武器は失った。そして他の攻撃手段や、携帯する手当ての護符など、壊されてはインデックスを守り救えなくなってしまうものがいくつもある。
どうやって武器を破壊されたか、それが全く分からないが故に迂闊に神裂は手を出せなかった。

叫び声に触発されたのか、鋭い神裂の耳はいくつかの足音を聞き取っていた。
「……く、あの子を助けなければいけないのに」
ぼそりとそう呟いても、人前から撤退するしか、どうしようもなかった。
心配で押しつぶされそうになる心臓を無理矢理駆動させて、神裂は人気の無い方へと走り去った。





追っ手が姿をくらますとすぐ、駅近くに当麻は引き返して光子に電話をかけた。
喧騒が声を掻き消してくれる所で、当麻は壁を背に周りを窺った。
「もしもし、光子です! 当麻さん!」
「大丈夫か、光子。どこにいる?」
「怪我はありませんの? あの人はどうしましたの? 当麻さんがもし怪我をされたらって私、心配で心配で」
あっという間に、光子の声がくぐもった。ぐずぐずとした音が聞こえて、泣いているのが分かる。
「俺は大丈夫だよ、光子。人が集まったせいであっちはすぐ逃げた」
優しく諭すように、光子に声をかける。不安げな光子の声を聞いて、当麻は冷静さを取り戻していた。頼られているのだという自覚がそうさせた。
「光子。混乱してるのは、わかるよ。でもこういうときだから一つ一つ答えてくれな。まず、あの子はどうしてる?」
「今しがた、目を覚ましましたわ。じっと座っていれば耐えられないほどではないそうです」
「傷は……浅くはない、か?」
「そんな易しいものではありませんわ! だってこんなに血だって出てきて、服が血の色に染まってますのよ!」
ヒステリックな答えが返ってくる。
「そうか。光子、今どのへんにいるのか、教えてくれるか?」
さすがに遠くに逃げることも無理だっただろう。その予想通り、光子が言ったのは近くの路地裏だった。
当麻は走ってほどなく、そこにたどり着いた。人通りのある通りからほんの数歩立ち入ったところだが、死角にあり、人気が少ない場所だった。

「当麻さん!」
救いの主が現れたかのように、ほっとした表情の光子が駆け寄ってくる。瞳が不安定に揺れていた。
当麻は何より先に、光子を抱きしめた。
「あっ……」
「光子。怪我とかは、ないか?」
「私はなんともありませんわ。でもこの子が……私をかばって」
混乱の中に沢山の感情を込めた奔流が、抱擁をきっかけに堰を切った。
こんな光子を、本当なら一時間でも二時間でも抱きしめ続けて、癒してやりたい。だが怪我のない光子よりも、優先すべきはインデックスだった。
光子を撫でて、一度だけ強く抱きしめる。そして、そっと光子から体を離した。
光子もわきまえていたのだろう。不安げな表情をしながらもそれに当麻に逆らわなかった。

「ごめんね……」
インデックスの傍らにしゃがみ込む。まず口にしたのが、それだった。ごく普通の人生を送っていた人たちを、危険な目にあわせてしまったこと。それを悔いていた。
楚々とした白の修道服をどす黒く染めるほど傷ついてなお、最も彼女の中で強く渦巻く感情は当麻たちへの申し訳なさと後悔だった。
「こっちこそ、ごめんな。お前が追われてるって話を、信じてやれなかった」
「いいんだよ、そんなの」
「なあインデックス。応急処置でどうにかなるような怪我じゃ、ないよな。救急車を呼んでいいか」
当麻は一応、尋ねた。怪我の処置という意味ではそれが最良の選択肢だ。
だが、問答無用で当麻が呼ばない理由をインデックスも察していた。
「呼んだら私、捕まっちゃうよね?」
「ああ」
「じゃあ、それは、ダメ。とにかく血を止められれば、たぶん何とかなる、から」
長い言葉は苦しいのか、息が途切れ途切れだった。
「魔術とかそういうので、ぱーっと治ったりってのは、さすがにないか?」
当麻はだんだんと、超能力ではないそれを受け入れ始めていた。
ゲームの魔法みたいに傷を癒す呪文なんてものがもしあるなら、それに頼れるかもしれない。
「あるよ。でも、ここでは使えないかも」
「ここで、ってどういうことだ?」
「お昼に説明したことだけど。私には、魔力がないから。知ってるけど使えないんだ」
「じゃあ、じゃあ私達なら何とかなったりはしませんの?」
光子の悲痛な声が聞こえた。当麻はまだ傷口を直接目にはしていないが、光子は見たのかもしれない。
センチメートルのオーダーで出来た傷はあまりに凄惨で、慣れない人なら動転する。
「それも駄目なんだよ。あなた達は、超能力者だから。別の回路を頭の中につくっちゃった人には魔術は使えないの」
理不尽な事実に、光子は唇を噛んだ。
「能力開発してない普通の人間なら、いいのか?」
「……よくは、ないんだよ」
「インデックスさん?」
「素人に魔術をお願いしてもし失敗したら、取り返しの付かないことになっちゃう。それに成功しても、また、巻き込む人が増えちゃう」
「でもこのままだと、お前は」
「うん……。そうだね。迷惑をかけないようにしたら死んじゃうかも」
インデックスはそれだけ言うと、悔しげにうつむいた。


当麻は携帯を取り出し、電話をかけた。
「当麻さん……まさか」
「救急車じゃないよ」
光子の懸念を否定した。
「土御門か」
『お、カミやんどうかしたにゃー? コッチは今舞夏がすんげー美味そうな晩飯を作ってくれたところぜよ。悪いけど遊びの誘いなら今日は断るにゃー』
「悪い土御門。そういうのじゃない。聞きたいんだけど、黄泉川先生の家の場所とか、電話番号とか、わかるか?」
『……やけに焦った声だな。カミやん。どうかしたのか?』
「ちょっとな。また話すわ。それで、わかるのか?」
『住所録と連絡網を見ればいいんだろ? たしか……』

程なくして、番地や建物名が伝えられる。
ありがたいことに、ここからそう離れてはいなかった。

『にしてもカミやんがまさか黄泉川先生に告白しに行くなんてにゃー。結果は後で教えてくれ』
「違うっての。じゃ、切るわ。ありがとな」


「警備員(アンチスキル)の先生、でしたわよね?」
「ああ。黄泉川先生は、たぶんこういうときに一番頼りになる人だと思うからさ」
時間が惜しい。もう多くを、二人は語らなかった。
当麻はインデックスにそっと触れ、痛みをなるべく感じさせないよう体を起こすのを手伝った。
インデックスを背負い、揺らさないように歩き出す。
「ごめんね」
その一言を、当麻は聞かなかったことにした。空はすでに宵闇。なんとか、通報されずに黄泉川先生の家までたどりつけそうだった。



黄泉川愛穂は完全下校時刻の見回りを終えて、家に帰り着いたところだった。
ザクザクと切ったキャベツと椎茸と鳥の手羽元を少量の水を張った炊飯釜に放り込み、飲み残しの白ワイン少々とコンソメのかけらを入れてスイッチを押す。隣の炊飯器には研いだ米が漬けてあったので、そちらもスイッチを押した。
もうじき風呂も沸くだろう。
「あー疲れた。って言ってもやっぱ夏休みは副担任だと余裕があるなあ」
出勤の時も働いているときも常にジャージ姿の黄泉川は、家に帰っても特に着替えない。寝巻き用のジャージで出かけることは一応控えているが、デザイン自体は同じなのだった。
早めに目を通してしまったほうがよさそうな資料を頭に思い浮かべ、溜めた映画の一つでも見る暇はあるかと思案する。
プルルルと、その思考を遮る音がした。
「はい」
壁に掛かったオートロック解除のモニターに向けて呼びかける。
新聞屋か宅配便かと思いきや、声は聞き覚えのあるものだった。
『黄泉川先生、ですよね?』
「上条? 何の用じゃんよ?」
『追われてます。済みませんけど、匿ってもらえませんか』
緊張したその声でモニターを凝視すると、不安げな常盤台の女子生徒と、そして気を失って当麻に背負われている少女が映っていた。




[19764] ep.1_Index 04: 魔術との対峙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/06/26 01:42

「とりあえず背中に背負った子を見せな」

教職員用のマンションの13階、家族で住むような間取りのそこに通されてまず一声目がそれだった。
リビングにはすでに毛布が敷いてあった。インデックスをそこに、そっと横たえる。
「これ、かなりやばそうじゃんよ。……お前らには怪我はないのか?」
「あ、はい。俺と婚后は大丈夫です」
「そうか」
傍らには警備員(アンチスキル)御用達の救急キットがあった。部分麻酔と銃弾などの摘出と縫合までなら何とかなるだけの、かなり本格的なものだ。
黄泉川が黒ずんだ修道服をめくり上げた。お尻から腰や、背中までがあらわになる。
だが、女性である二人は当然として、当麻もそこに性的な感情を覚えることが出来なかった。
空気に触れて酸化した血で肌がどす黒く汚れている。10センチを越える長い傷が、腰から10センチくらい上を横に走っていた。
これほど酷い切り傷は、当麻だって見たことがない。あまりの凄惨さに、我を忘れそうになって。
「ひっ」
光子の存在を思い出した。振り向くと、光子が引きつった顔をして口元を覆っていた。
インデックスを視界から隠すように、光子に体を軽く触れさせる。血で汚れた手で光子を抱きしめるわけにはいかなかった。

「上条。救急車だ。そこに電話があるから、いやお前の携帯でもいい。ここに呼べ」
傷を明るいところで見ればどう考えたってそれは正論だった。だが目の前で倒れるインデックスには、それを許さない事情がある。
「あ、いや……」
「戸惑ってないでさっさと動け! お前はこの子の傷を見て、医者でもないあたしの手に負えるとでも思ってんのか!?」
うまく黄泉川を誤魔化す言い訳を、当麻は考える暇がなかった。本当はここまでの道中に考えておくつもりだったのに、途中でインデックスが気を失って、それどころではなくなってしまっていた。
当麻が硬直したその一瞬に滑り込むように、無機質な声が発せられた。
「――――出血に伴い、血液中にある生命力(マナ)が流出しつつあります」

あまりの声調の平坦さに、そしてそれを発したのが倒れて気を失っていた人間だということに、三人はぎょっとした。
話の中身は自分の体にかかわることなのに、あまりに事務的すぎる。
「――――警告。第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を越えたため、強制的に『自動書記(ヨハネのペン)』で覚醒めます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の体は必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」
うつぶせに寝かされたその姿勢で首だけを動かし、インデックスが光のない硬質の瞳で黄泉川をじっと見据えた。


「先生。その子の言うとおりにしてくれますか」
「はあ?」
「そいつの能力、かなり高レベルの肉体再生(オートリバース)なんです。緊急時には意識がなくてもこういうインターフェイスが立ち上がるようになってて、開発者に手伝ってもらう必要があるらしいです」
「……」
訝しげな黄泉川の沈黙と、当麻のついた嘘に齟齬を生じさせないよう黙った光子の沈黙が交差する。
当麻は指摘を受ける前に、言葉を重ねる。
「他の超能力者じゃ、うまく手伝えないらしいです。だったよな?」
「――――はい。超能力者、特にあなたの能力は私の魔術を破壊する恐れがあります。この部屋を退出していただけるよう、要請します」
「そうか」
当麻は自分ではどうにも出来ない歯がゆさを内心に押し隠した。光子は、不安や悔しさを唇に乗せて、それを噛んだ。
「言いたいことは山ほどあるけど。上条。お前がついた嘘はこの子を助けるのに必要なものだけだな? この子を助けるのに、邪魔になるものはないな?」
学生のとっさの嘘なんて、お見通しなのだろう。だが、それでも黄泉川は当麻がこの子を助けたいと思っていることは疑わなかった。
「はい。インデックスを、助けてやってください。俺は外に出てますから」
当麻に出来るのは、それだけだった。
そっとリビングを離れ、当麻は入り口のドアノブに手をかけた。
すっかり夏めいた、夜になっても生温い風が部屋に吹き入る。その横を通り過ぎて、当麻は部屋を出た。
「……同じフロアでも、まずいかな」
自虐的な思いのにじむ、独り言だった。
右手に宿る幻想殺し(イマジンブレイカー)が誰かの役に立ったことなんて、一体何度あっただろう。
不良の攻撃を無効化するのには役立つ。だが、当麻が自ら路地裏にでも行かない限りそんなものは役に立たないのだ。
当麻の右手には何かを壊す力しかない。治癒なんてのはどうやったって無理だ。それが歯がゆかった。
力なくエレベータに乗り込み、当麻は1階のボタンを押した。



「場所は特定できているのかい? 神裂」
「ええ。13階です。ルームナンバーも把握しています。この街の安全をつかさどる警備員(アンチスキル)という役職に就いた人の家のようです」
「そこで治療を受けている可能性は?」
「低いでしょう。あの傷は皮膚を縫い合わせるだけは済みません。専門の医者を呼ばない限りはあそこでは、あの子は……」
とあるマンションの1階エントランスで最低限の打ち合わせを済ませて、ステイルと神裂は二手に分かれた。
丁寧な下準備を必要とするステイルは階段を上って。そして万が一の逃走経路を潰すために神裂はエレベータで。
中身のないエレベータの前で、ギリ、と神裂は刀の柄を握り締める。剣先についた脂は丁寧に拭い、あの少年に破壊された術式は時間の許す限り組みなおした。
自分のつけた傷だ。程度の酷さは知っている。処置を施さねば、命にかかわるレベルだった。どういうつもりなのか、そんなインデックスを背負った彼らは、病院に運ぶでもなくこのごく普通のマンションへと来たのだった。
ステイルと歩調をあわせるにはしばらく神裂が待つ必要がある。
呼吸を一つ。それで焦りを押し殺した。遠くに聞こえるステイルの足音は今10階にたどり着いたことを知らせている。
潮時か、と左腰の刀に手を添えて歩き出した、その瞬間だった。



タイミングよく降りてきたエレベータの扉越しに、一人の少年と目が合った。
互いに驚きを隠せなかった。
当麻はもはや追っ手がそこまで迫ってきていたことに。そして神裂はインデックスを守る少年が独りでエレベータに乗って降りてきたことに。
日常を象徴するトロくさい勢いで、エレベータは開く。
当麻は何も言わずに閉じるボタンを連打した。
神裂は何も言わずに半開きになったドアを蹴り飛ばした。
扉がゆがんで、エレベータはただの箱になった。

「インデックスを、奪いに来たのか」

少年の、敵意と怒りに染まった目を神裂は直視した。
――奪う? 違います。あの子を救いに、私は来ているんです。
その一言は口には出さない。余計な情報を相手に与えても、何の得もない。
それよりも確認すべきことがあった。
「貴方はどこかの魔術結社の人間ですか?」
「……さあな。超能力者の街、学園都市でお前は何を言ってるんだ」
「では超能力者の何らかの集団に所属していると?」
「お友達グループ同士の喧嘩が随分好きなんだな。そういうのは他人の迷惑にならないところでやれよ。インデックスを巻き込むな」
神裂は、目の前の少年が何らかの組織の意思に基づいて動いているわけではなさそうだと判断した。
厄介なことだった。魔術結社の人間なら、神裂はためらわずに切るつもりだった。インデックスを利用する輩を彼女は救うべき対象とは見ない。
だがもし、彼が善意でこれをやっているのなら、神裂にはこの少年は殺せない。無辜の人を殺めるのは名に反する振舞いだからだ。
「なんと言われようと私は引きません。貴方にお願いがあります。そこをどいては、いただけませんか?」
だから請願から始める。そして従わないなら、少年が戦意を失うくらいの暴力を神裂は振るうつもりだった。
言葉の裏にある威圧感を少年も感じ取っているのだろう。右手をぎゅっと握り締め、足元を固めていた。
「俺がここをどいたら、お前は何をするつもりだ」
「貴方や、貴方のお連れの人には何も。わたしはただ『アレ』を回収するだけです」
無理解を示すぼんやりとした表情。アレ、という響きを少年は理解できなかった。それは人を指す言葉ではない。そして理解したとたん、不快で表情を染めた。
その反応を苦い思いで見つめる。いつから私は、あの子をアレと呼ぶことに慣れてしまったんだろう。
「回収して利用するつもりか。そんなのを、目の前で黙ってはいそうですかって許すとでも思ってんのか?」
「手ひどく扱うつもりはありませんよ」
その言葉は単に信じて欲しいという気持ちの発露だった。誰が可愛いあの子を、酷い目にあわせるものか。
だがそれは、『ついさっきの神裂のしたこと』で神裂を判断する当麻にとって、ブラックジョークにしか聞こえなかった。
「ハッ、お前らの手ひどくってのはどの程度なんだ? 後ろから背中をその刀で切りつけるのは、手ひどくなんてこれっぽっちもないわけか。ふざけんな! あんなか弱い女の子を相手に何のためらいもなく刃物を振り回せるお前みたいなのを信用できるわけないだろうが!」
神裂は自分の言葉が不用意だったことを内省した。目の前の少年の言い分は尤もだった。そして少年の言葉は、神裂が自分自身にナイフを突き立てて作った傷の上に、さらに足を乗せて踏みにじられるようなものだった。
弁明が思わず口をついて出そうになって、それを押し込める。
今すべきことは彼に納得してもらうことではない。インデックスの傷を癒すことだった。
ステイルは先行している。家にはインデックスのほかに最大で2人の女性がいるだろうが、どちらも戦力はそう高くない。
七天七刀をも無効化しうるこの少年を自分に引きつけておくことが一番重要な仕事だろう。
「そうですね。私が交渉のための言葉を持っていないことを、素直に認めましょう。そして改めて問います。そこを退く気はありませんか?」
「断る」
「断られた場合、貴方に危害を加えてでも私はそこを進みます」
「通さねえよ」
それは最後の問答だった。神裂は言葉を片付けて、左腰に差した刀の鞘をぐっと握り締めた。



光子はエレベータの前に立ち、1階に止まったままいくら待っても動かないそれに苛立ちを感じていた。
インデックスについているべきか迷ったが、結局光子もあの子を救う戦力にはならないのだ。そして当麻に声をかけてあげたかった。
自分は混乱するばかりで、当麻や黄泉川先生の言葉に従うだけだった。当麻だってほんの2つしか変わらないただの学生なのに、沢山の判断を押し付けた。
部屋を出る時の、苛立ちと悔しさのにじんだ当麻の声を聞いて、光子はそれを慰めたいと思ったのだった。
「――もう。なんで帰ってきませんの?」
一向に上ってこないエレベータに痺れを切らして、光子は階段を探した。そう離れていない位置に見つけ、カツカツと段差を降りてゆく。
遠くに夕日がほぼ沈んで、辺りを照らす光は夕日の赤と電灯の白が拮抗する程度。人声はなく、自然音だけが耳に届く。
部屋を出て独りになったせいだろうか。ふと、エレベータが1階で止まったまま動かないのが、先ほどの追われていた焦燥感と結びついた。
――もしかして、当麻さんは襲われてるんじゃ。
不安があっという間に心を埋め尽くしていく。当麻の顔が見たくて、階段を下りる足を速めた。
11階の階段を降りた、その時。

「やあこんにちは。君は、神裂の言ってた子かな?」

男が、下の階からぬうっと現れた。本能的に恐れを感じてしまうような長身。気持ち悪くなるような長髪の赤毛。目の下のバーコード模様のタトゥといくつも耳に空けられたピアスが見る人にあからさまなくらいの警戒感を抱かせる。
どちら様ですの、と光子は問わなかった。必要を感じなかったからだ。
目の前の男が横に咥えた煙草を軽く吸い、煙を吐いた。40センチ近い身長差のせいで煙は光子のすぐ真上を漂い、掻き消えた。
「神裂も相対したんならどんな術式――おっとこの場合は能力って言うんだっけ――それをちゃんと解き明かしておいて欲しいんだけどね。まあ君のほうが油断の塊でアレを神裂の七天七刀に晒したんだったかな?」
「あれはっ! ……貴方に何を言っても詮の無いことですわね」
「うんうん、君はいい子だね。物分りがいい。僕らに話すことはないし、そうだな、見逃しちゃって後で妨害されるほうが困るし。仕方ないね」
斜に構えた態度は地なのだろう。その上に友好的に見えなくもない笑顔を浮かべて、初対面の相手に頼みごとをするときの申し訳なさそうな仕草で、こう言った。
「悪いけど、死んでくれるかな」



黄泉川は、機械的な表情で目の前の少女が行う説明に混乱していた。
仮想人格を構築して能力を他人が間接的にコントロールする技術、というのはおそらく実在する。精神操作系の超能力者によって必要な手段と知識はすでに蓄積があったし、そんな便利な技術を学園都市の研究者達が開発していないと思うのは、希望的観測かあるいは何も知らないだけだろう。
能力開発の最先端、いや最暗部に足を突っ込んでいたこともある黄泉川にとって、人間味の感じられないインデックスの人格はむしろ納得できるものだった。
問題は、能力を発動させるのに必要なコマンドのほう。
屈折率の小さいアクリルで出来た小さなテーブル。黄泉川はその傍のソファに腰掛け、インデックスはその対岸に敷かれた毛布の上に跪いている。
そのテーブルの上に、血で描かれた五芒星。そこに部屋の家具と同じ配置になるよう救急キットの中身がぶちまけられている。
……いやこれも、まだ許容できる。煩雑な手続きを踏まないといけないようにするのは、いくらか理由をこじつけられる。
だが、「天使をイメージせよ」というインデックスからの要請、これだけは理解できなかった。
精神感応者(テレパス)と肉体再生(オートリバース)の能力は同時に持つことが出来ない。今から目の前の少女は肉体再生をするのだから、黄泉川が頭の中に何を描いたかを読み取ることは決して出来ない。
だから、黄泉川が天使をイメージすることと、インデックスの超能力発動は絶対に関係がない。
――魔術。
さっきからインデックスの使うその言葉が、気になっていた。
目の前の五芒星は、いわゆる魔法陣と呼ばれるものに見える。この少女が成そうとしているのは、超能力と呼ぶにはあまりに儀式的で、神秘的だ。
「――どうしたのですか。あまり猶予がありません。協力を要請します。思い浮かべてください。金色の天使、体格は子供、二枚の羽を持つ美しい天使の姿」

黄泉川は混乱を、捨てることにした。あれこれ判断しようとして手続きを止めるよりも、今は流れに身をゆだねるほうが先だ。
目をつぶる。そして頭の中で、どこかの噴水で仕事をしていた天使の彫刻に金箔を塗って羽を足す。
『何か』で満ち始めた部屋の空気をなんとなく肌で感じながら、黄泉川は祈りに似た仕草で瞑想を続けた。



神裂は最も不要な装備、刀の柄で当麻を殴打した。簡単な強度補強の魔術をかけておいたが、別にこれは破られてもなんら困らない。
数時間前に対峙した時に、目の前の少年は何気なく振るった拳で結界を破壊した。原理はさっぱり不明。だが呪文詠唱や特別な結界を必要とはしていないようだし、そうなると接触式だろうと予想はつく。
こめかみを薙ぎ鳩尾を突き足を払う。それで少なくともこの三点は結界を破壊するような力はないことが分かった。
「ゲホッ、が、あ……」
敵意ある人間に相対しても怯まない程度には喧嘩慣れしているようだが、人間を越える身体能力を持つ神裂を相手に出来るだけの力はないようだ。
急所を守ることすら出来ずに、地面にうずくまっている。
「そこでそのままうずくまっていてくれるなら、私は何もしませんよ。そのほうが互いにとって有益でしょう」
「ふざ、けんなっ」
神裂は心の中でため息をついた。少年の目は死んでいなかった。
「どうして、それほどアレに入れ込むのです? 我々が見失ってすぐにアレと出会ったのだとして、まだ6時間程度の付き合いだと思いますが」
「時間は関係ない。そんなんじゃねえよ」
「では何故?」
光子はどうかわからないが、当麻はインデックスとそれほど言葉を交わしたわけではない。だけどインデックスは目の前の女に襲われたときに光子を庇った。自らの体を刃に晒してでも他人を気遣えるその少女が、自らの境遇を『地獄』と称する。なるほどその通りだろう。これほど危険な女に追われ、このままでは捕らわれてしまうのだから。
そんなものを、当麻は断じて認めない。
「お前らみたいなワケの分からない連中がいることを、理解したからだよ。アイツを、インデックスを『地獄』から引き上げてやらなきゃならないからな」
「……貴方にできるほど、浅い沼ではありませんよ。そこは」
神裂はもう一度跪いた当麻へ鞘を振るった。パキン、と音がして魔術が壊れた。
――当たったのは右手。そういえば先ほども右手の一撃で壊れたんでしたね。
もう一度、魔術効果のない棒切れになった鞘を振るう。今度は何も起こらなかった。魔術破壊は出来ても、それ以上は特に何も起こらないらしい。
あまり少年の立ち位置には気を使っていなかった。ふと見ると、彼は階段を背にして立っていた。エレベータを壊した以上、この階段が上へと続く唯一の道だ。
悪くない判断だろう。たしかに自分の持つ七天七刀は室内で振るうには長すぎる。階段を切り落としては後が面倒だし、唯閃と七閃は使わないほうがよさそうだ。
だが特に、問題はない。鞘で小突いてもいいし肉弾戦で殴り合ってもいい。いや、殴りあうといっても反撃を食らう可能性はゼロだろう。
「13階まで上がらなければなりませんし、あなたを解放するわけにも行きません。一緒に上っていただきましょうか」
「行かせねえよ」
「歩いてくれなくて構いません」
神裂は爆発的な脚力で当麻に迫り、ガードの上から蹴り上げた。
「蹴るなり突くなりで、持ち上げてあげますから」
あとはこの少年の体が後遺症の残るほど損傷するより前にギブアップしてくれることを祈るだけだった。



「あああああぁぁぁぁぁっ!」
数歩先にいた赤髪の神父の手に、突如として炎の棒が生じた。およそおしとやかとは言いがたい叫び声を上げながら光子は下がって避けた。
足をすくませてしまわなかっただけでも合格点だろう。こんな荒事をほとんど経験したことのない光子にとっては。
常盤台中学のカリキュラムには護身術の授業がある。混乱で能力を使えないときには、あるいは使えるときにはどう行動すべきなのか。
――まずは逃げながら能力を使えるのか、小さく試す。
直前にインデックスと逃げた経験があったからだろうか、すんなりと足は廊下を蹴ってくれた。
赤髪の神父から逃げる。そして壁に手を突いて能力を発動する。何の問題もなかった。
問題は逃げられないことだ。この階から移動するには神父の後ろにある階段とエレベータを使う必要がある。そこが封じられている以上、いくら逃げても行き止まりが近づくだけだ。
それを神父も理解しているのだろう。急いで追ってくることもなく、悠々と近づいてくる。
近くの家のドアノブに手をかけてあけようとするが、オートロックなのか一つとして開かなかった。
「セキリュティの良いマンションで残念だったね」
いたわるような響き。それが逆に、酷薄な本音を照らし出している。
「……張り紙なんて、何をなさっているの?」
脈絡のないその言葉は、精一杯の強がりだった。声が震えていたかもしれない。
「ああ、これかい? これはルーンを記した符でね」
神父は鷹揚に答え、ぺたり、と手に持っていた最後の一枚を貼った。
そこで思い出したかのように、
「ステイル=マグヌスと名乗りたいところだけど、ここはFortis931と名乗っておこうかな」
そう言って煙草をふかした。
光子もそういう名乗り口上をよくやるほうだ。返礼の一つでも返す余裕があったなら、やっただろう。
出来るだけのゆとりはなかった。
「魔法名ってやつなんだけど、殺し名って言ったほうがこの場合はふさわしいかな」
「気障ったらしい趣味ですわね」
「僕の趣味というよりこれは魔術師の伝統なのさ。さて」
光子は会話をしたことを後悔した。どうして相手に時間を与えるのだ。まさか本当にただの張り紙をしているわけでもないのに。

「それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり。
 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり。
 その名は炎。その役は剣。
 顕現せよ、わが身を食らいて力と為せ」

理解の出来ない言葉の羅列。そして。
虚空にタールの塊のような黒いどろどろとしたものが表れたかと思うと、それはあっという間に赤々とした炎を纏い、人の形をとった。
その名は『魔女狩りの王(イノケンティウス)』。その意味は『必ず殺す』。




[19764] ep.1_Index 05: 交戦
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/17 23:31
赤毛の神父の生み出した人型の炎には、素早さはなかった。
人が歩くのより少し遅い程度。だが、煌々と赤黒く輝く体と対照な瞳の部分の昏(くら)い色は、ジリジリと光子の冷静さを奪い取っていく。
光子は傍においてあった植木鉢をつかんで、投げやすいように構えた。
「――くっ。近寄らないでくださいませ!」
「投げても君の腕力じゃとどかないと思うよ」
何をするでもなく、目の前の少女の足掻きをステイルはぼんやりと眺めた。
『魔女狩りの王(イノケンティウス)』に当たったところでどうもならないし、ステイル自身にまで届くことはありえない。
だが、その予想に反し、植木鉢の軌跡はあまりに直線的だった。
ボッ、という音と、サッカーボールのような弾道。植木鉢はまっすぐに『魔女狩りの王』に突っ込んだ。
「へぇ。それが君の能力なのか。すごいね!」
大げさに、ステイルは驚いてみせる。余裕を感じさせるリアクションだった。
「ただ、僕の『魔女狩りの王』はそれじゃ止められないよ」
赤い炎と黒いタール状の体が無残に飛び散っていた。だが、それだけだ。『魔女狩りの王』はあっという間に元の形に戻り、焦げた植木鉢は廊下に落ちて割れた。
自分の能力が事態を何も好転させなかったことに、光子はじわりと焦燥感を覚えた。

「あまり遊んでられないし、さっさとアレを回収しないとね。死なれちゃ困る」
真面目にやろうという合図だったのだろうか。深く吸ってから投げ捨てた煙草の吸殻が、激しく燃えて消え去った。
「アレ……?」
「君たちが匿っている、あの子だよ。詳しくは言えないけれど、アレはきちんと管理しておかないと大変なことになるんだ。君たちみたいなどこの誰とも分からない人間の手元に置いていいものじゃないんだよ」
神父は知ってか知らずか、光子が聞きとがめた事とはずれた返事をした。『誰』の話をしているかなど、とっくに分かっている。
「訂正していただけませんこと? アレという代名詞は、日本語では人には使わないものですわ」
「知っているよ。そんなに気に食わなかったかい?」
殊更に露悪的に振舞うその神父の態度が、癇に障った。
脳裏を少しずつ恐怖以外の感情が占めていく。あの少女の苦しそうな表情を思い出す。
インデックスは光子を庇って傷ついた。だが、それでも恨み言の一つも言わず、気を失う直前まで光子を気遣ってくれた。

すくんでいた足を、まっすぐ立たせる。
このまま放りだして逃げ出すことの出来ない、そういう理由、いや矜持が光子にはある。
勇敢にとまではなれなくとも、それが光子を奮い立たせる。
少しだけ取り戻した普段の態度で、光子は相手に話しかけた。

「名乗っていただいたのに返礼がまだでしたわね。私は常盤台中学の婚后光子と申しますの」
「ああどうも。で?」
「人と物の区別もつけられないような馬鹿な神父さん。狼藉物の貴方を、成敗して差し上げますわ
この神父の出した炎は、正体不明なせいで恐ろしく感じる。だが、超能力者でも似たようなことは出来る。
そして系統は違えど、自分だって超能力者なのだ。見かけにおびえることはない。いま用意すべきは、何よりも心構え。
ここで引いたら、インデックスと当麻が次に襲われる。それだけは、止めなければならない。

「この街には、発火能力者(パイロキネシスト)と呼ばれる超能力者がいることはご存知?」
「ああ。火を操る異能の力って意味じゃあ、親近感を覚えるものがあるしね」
光子に付き合うのは、あちらにも余裕があるからだろう。いや、余裕を見せ付けあうのも駆け引きのうちだということか。
「特に詳しいわけではありませんけれど、あの方々の能力開発の基礎のとして叩き込まれる知識を、貴方は学んでおられないのかしら?」
「……謎解きをする気分じゃないね。時間稼ぎがしたいだけならそろそろ鬼ごっこを再開させてもらうよ」
光子はもう一つあった植木鉢を持ち上げた。それを、ステイルに向ける。とはいえその間には『魔女狩りの王』が立ちはだかっている。
「燃やす、あるいは熱を伝えて物を溶かすという行動において気をつけなければいけないのは炎の温度でも量でもありません。正解はなんだかご存知?」
胸の高さに置いた鉢の底にそっと触れる。それだけで、植木鉢は砲弾となる。
「対象の熱伝導率と接触時間ですわ」
再び、空気を切る音と共に植木鉢が飛翔した。

光子は加減をしなかった。
見得を切っている数秒の間、植木鉢の底に気体分子を『チャージ』した。蓄えられた推進力は冗談にでも人に向けてはならないレベルだ。
す、と植木鉢から手を離す。
次の刹那、レーシングマシンみたいな加速が始まった。向かうは『魔女狩りの王』。
二酸化珪素を主成分とするレンガの植木鉢、それは金属などとは比べるのも馬鹿らしいほど、熱を伝えない。炎の温度なんてものは気にするに値しない。
光子の能力による飛翔体の航行速度は音速にまで達する。
この短い加速距離ではその四分の一がせいぜいだが、それでもあの炎の塊をぶち抜くことなど0.01秒で事足りた。

「なっ!」
水面を叩いたような、バンという破裂音。『魔女狩りの王』が花火のように飛び散った。
荒れ狂う炎と陽炎の壁。それを突き抜けて植木鉢が、砕けつつもなおミサイルのように飛んで来た。
そして背の高いステイルは立っているだけで大きな的になる。
「く、おォォっ」
ステイルはみっともなくしゃがみ込んだ。
頭を掠めて、植木鉢ははるか先に飛び、ばしゃんという音と共に割れ散る。
視界一杯に広がった『魔女狩りの王』が、人型ではなく火の海を作っていた。少女がいる廊下の先が、全く見通せない。
――直線状の廊下はまずい。
ステイルは防御に関して脆弱だ。それは自らの能力をめいいっぱいに攻性魔術に振り分けた代償。
追い詰めたはずの少女から遠ざかり、階段に身を隠す。
そして『魔女狩りの王』を再構成。視界を遮っていた炎と煙の壁を取り払う。
「なに?」
炎の先に、いるはずの少女が、いなかった。


光子は綺麗な廊下を走る。焦げ目のある荒れた廊下は、ひとつ下の階だ。
ここから階段を降りれば、あの神父に見つからずに攻撃できますわ――!
空力使いの能力の一つの応用例、飛翔。
光子のそれはロケットの射出に近いものがあるが、それを使って光子は神父との間の視界が悪いうちに、一つ上の階に上がっていた。
足音を立てないように進む。弾になるものがなかったので、財布からコインを取り出す。
苦肉の策だ。銃弾にするには光子の能力が出せる速度は不十分だから、出来ればもっと大きな質量のものが欲しかった。
とはいえ、直撃すればそれなりの怪我を負わせることにはなるだろうが。
「ふっ!」
10円玉3枚を、階段から身を乗り出してすぐに放つ。
神父はいなかった。マントの端がかすかに視界に映って、それで敵がさらに下の階に降りたことを悟った。
「お待ちなさい! ――っ!!」
背後に言いようのない圧迫感を覚える。振り返るのと同時くらいで、『魔女狩りの王』がそこに顕現していた。
「きゃあっ!」
無造作に振り下ろされる、真っ赤な腕。レンガは無理でも、人間なら容易に燃やせる炎の塊。
みっともなく階段を滑り落ちながら、光子はそれを避けた。追いかけてこられる恐怖が、頭の中をじわりと支配し始める。
「そんな、自律的に行動しますの?!」
神父はここから見えない階下にいる。目の前の炎の塊は、光子を追ってくるらしかった。
自分は赤毛の神父を追いかけ、そして『魔女狩りの王』が自分を追いかける。
身の危険をチリチリと感じる、鬼ごっこが始まった。


「そろそろ、答えのほうを変えてはいただけませんか?」
「こと……わるっ!」
目の前の少年の意志の固さに、神裂は戸惑っていた。
階はすでに5階にまで達している。それは2メートル近くある1階分の高さを4回も蹴り上げられたことを意味していた。
肉体破壊が目的ではないので毎回ガードはさせているが、それでも気絶くらいはしていいダメージだし、普通の人間ならそろそろ意思が折れていることだろう。
だが、少年の目はまだ火を灯している。
「このままではあなたが蹴られる一方で、状況は何も変わりませんが」
「……」
当麻も、ジリ貧な現状を理解していた。
殴りかかってはみたがまるで歯が立たない。超常現象が一切介在しない純粋なケンカにおいては、当麻は本当にただの一般人だった。
鍛えた人間にはかなわない。
――考えろ。今一番必要なのは、時間を稼ぐことだ。それが足りればインデックスは回復するし、光子や黄泉川先生が帰りの遅い当麻を心配してくれるだろう。殴り合いでは時間が稼げない。接触はマズい。なら。
幸いに、階段の傍には防災設備が備え付けてあった。よろける足を踏ん張って、5階から6階へと、自分で駆け上がった。
「……ご協力に感謝を。自分の足で上がっていただけると助かります」
冷めた口調で、見えない階下からそんな声が聞こえた。おそらく当麻が何かをたくらんでいるのだと、気づいているのだろう。
当麻は意図を見透かされているかもしれないという不安を意に介さず、階段から少し離れた場所にある非常ベルのスイッチを、躊躇わず押した。


ジリリリリリリリリリリ、というけたたましい響きがマンション中に響き渡った。
神裂にとって、勿論それは不都合な出来事ではある。だがあらかじめ予想していた事態でもある。
「困ったことをしてくれたものです。脱出の面倒が増えました。……まあ、もとよりあの子の回収はあと数分で終わる予定でしたから何も変わりはしませんが」
カツカツと少年が待ち受けるであろう6階へ歩みだす。
どこにいるのかと辺りを見回した瞬間。目の前がホワイトアウトした。


消火器の中身を、遠慮なく長髪の女に浴びせかける。粘性の強い、消えにくく熱にも強い泡が階段を立っている女ごと真っ白に染めた。
何秒間でこれをやめるか、そのさじ加減が問題だ。装置そのものは1分間頑張ってくれるらしいが、まさか1分も突っ立って消化剤を浴びてくれる相手ではないだろう。
嫌な予感に背中を押されて、当麻は弾けるように飛びのいた。直後、当麻の頭があった部分を強烈なアッパーが通り抜けた。
テレビのお笑い番組でしか見ないような、真っ白に染まったその状態で、目の前の女は当麻の頭部を性格に補足しているらしい。
「ずいぶんなことをしてくれましたね」
これまでより、一段と声が冷ややかだった。
鋭い蹴りが飛んでくる。消火器でそれを受け止めつつ、当麻は放射をやめなかった。
「残念ですがあなたの居場所は見えずとも分かります。無駄なあがきは……なっ」
攻撃を繰り出そうとした神裂の体が、くらりと揺れた。自分の体が意思に反したような動きだった。
「効いてきたらしいな」
「な、何を……」
「消化剤がお前の周りの酸素を食ってるんだよ。死ぬほどの低濃度にはなりやしないが、お前の周りの酸素濃度じゃ、激しい運動は無理ってことだ」
学園都市謹製のこの消火器は、酸化反応による酸素消費と、並行して起こるポリマーの吸熱熱分解反応による二酸化炭素の放出によって、酸素濃度と物体の温度低下を行う作りになっている。万が一人に向けて使っても死には至らないよう設計されているが、危険なのは間違いなかった。
「小ざかしいことを……っ」
「がっ!」
だが、その程度の支障では女は止まらなかった。手にした消火器ごと、当麻は蹴り飛ばされた。
「成る程、消防団を呼んで時間稼ぎですか。策そのものは賢明でした。ですが私がそれに付き合う義理はない」
五発、六発、と倒れた当麻に重い蹴りが突き刺さる。それを当麻は避ける術がなかった。
「ご安心を。手加減はしましたから病院にいけば回復しますよ。さて、ステイルがそろそろ……ステイル? なぜ降りてくるのですか?」
階段を駆け下りる音はベルの音にまぎれて聞こえなかった。
「神裂! 随分と面白い仮装をしているじゃないか」
「本意ではありませんよ。それより、どうして降りてきたのですか」
「ちょっと梃子摺っていてね。……神裂、空だ! 避けろ!」
「!?」
反射的に長身の二人組みが身を翻した。ほんの少し遅れて当麻が廊下の外に目をやると、光子が上から降ってきた。
手の平からそっと投げられた硬貨が、すさまじい速度で相手を狙う。
「当麻さん!」
「光子! 大丈夫か?!」
「ええ。私は。それより……当麻さんが」
「大丈夫だって。骨は折れてない」
「そんなの大丈夫だって説明になってませんわ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃ、って光子!」
当麻は光子の後ろの何もない空間に、手を突き出した。いや、当麻が動くとほぼ同時に、そこに炎塊が出現した。
「くっ、おおおおおおおおおおおお!!!!!」
「当麻さん!」
当麻がせき止めた『魔女狩りの王』の傍の壁を光子は手で叩く。
一瞬後に壁から噴出した風が、『魔女狩りの王』を吹き飛ばした。


「……君が何とかしてくれるだろう、という考えはまずかったようだね」
「私もそれは反省するところです。時間も限られています。手荒な方法も致し方ないでしょう。構いませんね、ステイル」
「もとより僕はそのつもりで動いているよ」
「くっ……」
光子と合流は出来たが、事態は好転したとはいえなかった。
こちらは別に戦うことにおいて、タッグを組んだペアではない。一方、目の前の赤髪の神父と神裂という女は、明らかにそういう二人組みだろう。
その二人よりもさらに一枚手前に、あの人型の炎が再び姿を現した。
あれを押し留めるだけなら、当麻にも出来る。だが、光子を守りながらさらに二人組みをどうにかすることは、当麻には無理そうだった。
ジャリっと、神裂という女が足場を固める音がした。もう、躊躇する時間もない。
「それでは、いきますよ」
感慨もなく神裂がそう告げた。その時。
目指す階上で、この学園都市にはありえない、魔術の光が瞬いた。



目の前の光景に、黄泉川は呆然となった。
10枚の羽根を持った金色の天使。明確な感情を表情に載せることなく、アルカイックな笑みを浮かべている。
それを説明付ける何かが欲しくて、ひたすらに頭の中で物理の教科書を手繰ろうとする。
「想像を揺らさないで! ここには確かに、今貴女の目に見えているものがあるのです」
その言葉にドキリとする。そうだ、超能力というのは、まず理屈でなく頭ごなしに受け入れてみることから始まるのだ。
……目の前にあるこの天使についても、その姿勢は流用できる。
黄泉川は自分が物理法則という言葉で語りえぬ目の前のソレを言外に受け入れつつ、インデックスの紡ぐ歌を唱和した。
テーブルの上にはこの部屋の『コピー』がある。上に乗せられた二つの人形が、自分達に同期して歌う。
そして歌のフレーズに区切りがついた瞬間。インデックスを模した人形についていた傷が治癒していくのを黄泉川は見た。
それは生物のプロセスとしての治癒には、お世辞でも見えたとはいえなかった。
むしろ塩化ビニルの高分子が加熱によって溶融し、形の汚くなった傷口を均していくような、そういう物理だった。
向かい合わせで座ったインデックスの背中に起こっていることを、黄泉川は想像できなかった。
「――――――生命力の補充に伴い、生命の危機の回避を確認。『自動書記(ヨハネのペン)』を休眠します」
その一言で、どうやら成功したらしいと黄泉川は悟った。



「そんな、魔術……だと?」
「あの子は使えないはず……いえ、誰かに協力してもらったということでしょう」
「神裂、それは」
「禁書目録を使う魔術師が、上にはいるということです」
「この町を根こそぎ荒野に変えるくらい造作もない魔術師をあと数分で制圧しろ、ってことかい?」
「……残念ながら撤退という選択肢を選ばざるを得ないようですね」
「チッ」
忌々しげにステイルは二人の少年少女を睨みつけた。
「貴方達の健闘は、賞賛すべきもののようですね。我々は今回は時間切れのようです」
ファンファンと警笛を鳴らす車両の音が、もう近づいてきていた。
「これで終わりだとは思わないことだね。……行こう神裂」


切り替えが潔いのもまた、手馴れているということなのだろうか。
光子と当麻は、二人の足音が遥か遠くなってもまだ、体の硬直を解くことが出来なかった。
「行った……のか?」
「……」
落としていた重心を少し上げて、当麻は構えを解いた。
「光子!」
尻餅をつくようにくたりとなった光子を、慌てて抱きかかえる。
「どっか怪我とかしたのか?!」
「ううん。大丈夫です。けど、ちょっと気が抜けてしまったから」
支える当麻に、光子はぎゅっとすがリついた。
「当麻さん」
「ん?」
「よかった、お怪我されてなくって」
「それは俺の台詞だって。光子に怪我させちまったら、ゴメンじゃ済ますことなんて出来ないし」
「もう。それは当麻さんにだって同じことですのに」
ようやく二人は、ほっと息をついた。ざわざわと、マンションに人の気配があるのが無性に心強かった。
「って! そうだ! インデックスはどうなったんだ?」
「そうですわね! 様子を見に行きましょう」
ほんの数階分の高さが、疲弊した二人には辛かった。




[19764] ep.1_Index 06: 黄泉川家
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/22 11:40

「……上条? どうした、その格好は」
「えっと、まあ。インデックスを追いかけてきた奴に襲われまして」
「さっきの非常ベルはそういうことか。で、逼迫してるようには見えないし、何とかなったって事でいいんだな?」
「とりあえずは追い返しました」
黄泉川の部屋に帰ると、インデックスは静かに眠っていて、黄泉川が部屋を片付けていた。
当麻と光子が危険な目に会ったらしいと分かると、すぐさま怪我の様子を診てくれた。
幸い、服の汚れはそれなりにあるものの、光子は怪我らしい怪我を負っていない。それは本当に僥倖だったと当麻は思った。
一方当麻も、幸い骨折に至るような怪我はなさそうだった。擦り傷などの手当てはシャワーを浴びてからということになった。
「インデックスさんは、その、もう何ともありませんの?」
「眠ってしまう前に、体力の消耗が激しいだけで傷は完治したって言ってたよ」
「そうですの。……良かった」
「……で、上条。それと婚后だっけ。とりあえず緊急事態は脱したみたいだし、洗いざらい、事情を喋るじゃんよ」
インデックスの傍に座ってほっと息をついた婚后を尻目に、黄泉川はそう切り出した。
当麻とて、ある程度は覚悟してきたことだ。黄泉川は警備員(アンチスキル)でもある。
魔術の手伝いだけしてもらって、何も聞かずにいてくれるなんて事はないだろう。
一瞬の間を空けて、当麻は口を開いた。


「先生。さっき、インデックスの傷を回復させるのに使った技術は、なんだと思いましたか?」
「おかしなことを聞くな上条。あれが超能力以外の、どんな物理だって言うんだ?」
「先生には、あれが超能力に見えたんですか」
とぼけたような当麻の物言いに、同じように黄泉川は答えを返す。
……そんな言い回しを当麻がする理由にも、思い当たるところはあった。
むしろ、ある意味で上条よりもっとリアルに、黄泉川は事の意味を理解していた。
「腹を割って話そう、上条。あの子は、学園都市の学生じゃないんだろ?」
「……」
「ま、黙っててもいいさ。あたしはこの点について確信があるし、警備員の事務所に問い合わせれば一発だしな。それにこの子の使った術は、少なくとも学園都市謹製の超能力じゃないのは確かな事だ。能力開発の専門家として言わせて貰うが、あれはこの街の超能力の系譜をたどってないよ」
「先生は、あの子を警備員として連行する気ですか?」
当麻も、一番聞きたかったことを率直に口にした。インデックスの傍で、光子も厳しい顔をしていた。
黄泉川は二人の様子を見て、苦笑した。この街の生徒のために自分は働いているのだ。学生の幼い敵意を向けられていることに慣れているとはいえ、理不尽だなと思う気持ちもないではなかった。
「言っておくが、とりあえずそれは一番の大正解じゃんよ。不法侵入者は取り締まる。お前らに不利益はないし、あたしにもない。ああ婚后、落ち着いて最後まで話を聞け。とりあえず数日は、面倒を見てやる。この家の中から出ないって条件でだけどさ」
二人の表情が、呆気にとられたようなものとなる。まあ、まさか匿ってくれるとは思っていなかったのだろう。
「あんまり喜んだ顔はするなよ。ちょっと必要な根回しが済んだら、この子にはこの街から出て行ってもらうことにはなるじゃんよ」
匿うことを決めた理由は、宣言通り根回しをするつもりだったからだ。このシスターの能力は、学園都市の多くの研究者にとって、物珍しすぎる。考え無しに事務所に突き出してこの子を拘束し、その後のことに黄泉川が関われなくなったとき、事と次第によってはこの子の『末路』がどうなるのか、想像しても愉快なことはなかった。
経験として黄泉川は知っていた。この学園都市には、学生とモルモットの区別をつけられない大人が、多すぎる。
とはいえ、学園都市から追い出しただけでこの子の幸せを確保できるかどうかは分からない。身寄りがあるのか、ないのか。
「まあ、これ以上のことはこの子が回復してからでもいいじゃんよ。とりあえず上条、お前はシャワーを浴びてこい。その間にこの子の体を拭くじゃんよ」
「はい。その、先生。迷惑かけて、すみません」
当麻と、婚后がそろって頭を下げた。
「何言ってんだ。それが教師の仕事じゃんよ」
お前みたいな問題児にはいつだって手を焼いてる、なんてどこか嬉しげに見えなくもない黄泉川の態度が、無性に有難かった。



あちこちにできた擦り傷が傷むのを感じながら、当麻はざっと汗と汚れとインデックスの血を洗い流した。
風呂場から出てみると、洗濯機が静かに仕事を始めていた。下着を残して、当麻の服はなかった。
「ほれ、さっさと来い。次はお前だ」
「へ? いやあの、服は」
「傷の手当てが済んだらあたしのジャージ貸してやるじゃんよ。とりあえず服を着る前に怪我見せてみな」
信じられない暴挙だった。黄泉川はめんどくさそうに洗面所に乗り込んで、下着一枚の当麻の頭を鷲掴みにしてリビングへと引きずっていった。
「きゃ! と、当麻さん?!」
「……」
光子に見るな、と言うのも自意識過剰の気がして恥ずかしかった。とはいえ、学校の先生に下着一枚の状態で手当てをされるなんて、どう考えても高校生の扱いではなかった。
手当て自体は非常に手馴れていて、あっという間に終わっていく。熱を持っていた打撲箇所にシップを貼られて、ようやく無罪放免となった。
「ほれ、あたしと大して背格好は変わらないし、家の中はこれでいいだろ?」
今も黄泉川が着ている、濃淡三色の緑のジャージ。上条に手渡されたのはそれと同じものだった。作りがシンプルすぎて、恐らく男女の別もないのだろう。
……とはいえ、普段は黄泉川が着ている、つまり女性の服なのだ。豪快すぎて言動からはいまいちピンとこないのだが、黄泉川は着飾って黙っていれば、間違いなく一級の美人だ。そう考えると心なしか服から薄く漂う匂いもなんだか華やかで――――

「あらあら当麻さん? そんなに服を顔に近づけて、何をなさっているの?」
「いぃっ、いえいえいえいえ、なんでもありません。なんでもありませんのことよ光子さん」

速攻で当麻は頭を下げて、そしてなんでもないことのように平静を装いながらジャージに袖を通した。
……サイズが自分に合っているのが、すこしプライドを刺激される当麻だった。
「さて婚后、お前もその服は洗うしかないだろ。上条の制服とこの子の修道服がじきに洗い終わるから、お前もシャワー浴びて来い」
「分かりましたわ。それじゃあお風呂をお借りしますわね。その、当麻さん。私がシャワーを浴びている間に、変なことはなさらないでね」
「変なことってなんだよ。覗いたりなんてしないぞ?」
「黄泉川先生やインデックスさんに、ですわ」
「当たり前だ」
「当麻さんは時々その当たり前が通じませんもの」
憮然とした表情の当麻にそんな言葉を返してから、光子はそっと洗面所の扉を閉めた。
その様子を傍で見ていた黄泉川が、意外なものを見たような顔をした。
「……上条お前、尻にしかれてるなぁ」
「ほっといてください」
「最初は大人しいお嬢様をお前が振り回してるのかとあの子の身を案じたんだが、心配は要らないみたいだな」
「なんですかそれ人聞きの悪い」
「付き合い始めてどれくらいなんだ?」
当麻は突然の質問に思わずむせた。
「副担任がそれを聞きますか」
「だって面白そうじゃんよ。月詠先生に教えたら喜ぶだろうな」
「止めてください。そんなことしたら良い笑顔でしごかれまくるに決まってるんですから」
「でもな上条。本当に良い事だなって思うところはあるじゃんよ。超能力で人を判断すれば常盤台のあの子は間違いなくエリートで、お前はまあ、それほどじゃないだろう。けど、そんなつまらない物差しじゃなくてもっと別のものでお互いを測れてるお前らは、この学園都市の子供らに歪んだ価値観を刷り込んでる大人としては、良いなって思えるんだ」
「はあ……」
別に常盤台の超電磁砲であっても臆さず鬼ごっこをする上条には、その悩みがいまいちピンと来なかった。
「さて、客が増えたことだし、飯を増やさなきゃな」
黄泉川はそう言って、夕食の準備を始めた。



「お、シャワー終わったのか」
「はい……あの! 当麻さん。あまりこっちを見ないで下さる?」
「え? なんで?」
「それはその、秘密です。いいから見ないで下さい」
突然そんなことを言われて戸惑う当麻だったが、2秒で事情を理解した。
洗面所と廊下の間の段差を降りた、光子の胸が。
……いつもよりたゆんって、たゆんって。
「光子もしかして、その下――」
「当麻さんの莫迦! 見ないでって言いましたのに!」
「いや、だって、着けてないとは……」
「違います! ちゃんと黄泉川先生に新品を頂きましたから。でも、その……」
「ああ――」
サイズがね。そうだね。光子もすごいけど、黄泉川先生はね。
つい訳知り顔になった当麻をみた光子の目が、すっと切れ長になる。
「当麻さん?」
「なんでもないです。そして俺は光子に満足してるから、別になんとも思いません」
いつもより脳みそが猿だった当麻に、光子はひたすら莫迦、と呟いた。
「借りておいて文句を言うのは筋違いだって分かっていますけれど、当麻さんにお見せする服がよりにもよってこんなジャージだなんて……」
「まあそう言うな婚后。あたしの勝負服で着飾ったって、しょうがないじゃんよ?」
「先生それ以外に服持ってたんですか?」
「当たり前だ。あたしは警備員だぞ。インナーウェアは自分で洗濯なんだから家に何枚かある」
「先生それ勝負用ってか戦闘用の服じゃないですか」
「まあ、一応何年も着てないスーツと、必要に駆られたら着るドレスくらいはあるじゃんよ」
「どれも着られませんわね」
「そういうことだ。さて、あたしもシャワー浴びてくるかな。お前ら二人っきりだからって変なことするなよ」
「しませんって!」
カラカラと笑いながら、黄泉川先生は洗面所へと消えていった。
「……そりゃあ、こんな場所では恥ずかしくて出来ませんけれど」
「光子?」
拗ねたような顔をして、光子が扇子を弄んでいた。
自分達二人は幸いにしてほとんど無傷だ。だけど、心をすり減らすような出来事に直面して慰めを欲している光子の気持ちを、当麻は少し感じた。
当麻自身にも、触れ合いたい気持ちはあった。
「とりあえず、コイツの面倒でも見てようぜ。っても寝てるだけだけど」
「はあ」
当麻は、静かに眠り込むインデックスの隣に腰を下ろして、隣の床をぽんぽんと叩いた。
その意図を察して、光子は、そっとそこに腰を下ろした。壁と、そして当麻にもたれかかって、そっと当麻の腕を光子は抱いた。
「これくらい、別に良いだろ。先生に見つかったとしてもさ」
「そうですわね。恋人なんだから、こうするのは変なことじゃありませんわ」
光子がそう言って、そっと目を瞑った。
「当麻さんって、暖かい」
「風呂上りだしな。光子も暖かいよ」
「それだけじゃありませんわ。私は、自分で言うのもなんですけれど、我侭なほうだと自覚してはいますわ。そういうのが苦手な方は私と仲良くはしてくれませんし、学校ではつい負けないようにと肩肘を張りますの。……でも、当麻さんには。全部、預けられますから」
「まあ、俺と光子じゃ元からレベルは比べても仕方ないしな」
「そうですわね。レベルなんて、私が当麻さんを好きになった理由とは、なんにも関係ないことですわ」
きゅ、と服がすれる音がした。冴えないジャージ姿の二人だが、おそろいの服を着るなんてこれが初めてだ。なんだかおかしくて、少し嬉しかった。
光子が当麻の腕を抱きしめなおした。ほお擦りをされているのが感触で分かった。
「でも当麻さん。当麻さんの能力は学園都市にも測り取れない、もっとすごい何かなのですわ、きっと」
「光子?」
「当麻さんと合流して、あの炎の巨人から私を守ってくださったでしょう? ……その、すごく、格好よかったです」
「う……な、なんか褒められると照れるな」
「荒事への心構えを持つのも淑女の嗜みと学校の先生は仰いますが、やっぱり、ああいうのは……」
思い出したのだろうか。光子の声に、少しおびえが混じった。
当麻は身を乗り出して、光子の顔を真正面から見つめた。
「これ以上、光子を危険な目に合わせないように、何とかするから」
「ううん。そういうことを言って欲しいのではありませんわ」
「え?」
「当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい」
光子はそう言って、キスをねだった。
その唇をふさぐ前に、当麻は言った。
「嫌だって言うまで、お前を放す気なんてないよ。光子」
くちゅ、と音が聞こえそうなくらい、当麻は光子に深い口付けをした。
「ん……ふぁぁ」
唇を離すと、光子はぼうっとした様子で当麻を見つめた。
当麻は迷った。光子の態度は、もっとキスをしても拒まないと告げている。
……嫌がられたりはしないよな?
「光子。愛してる」
「嬉しい。私もお慕いしていますわ。……ん」
再び当麻は口付けた。黄泉川が風呂から上がるまで、せめてこうしていようと思ったその時。
「んん……あれ、ここ」
当麻と光子のすぐ横で眠っていたインデックスが、覚醒した。
「イイイイイイインデックスさん?」
「おおお起きてたのか?」
「ふぇ?」
どうやら、そうではないらしかった。二人して、ほっとため息をつく。
そんな二人の挙動不審をこれっぽっちも意に介さず、インデックスは部屋の匂いを嗅いだ。
「おなかすいた。いい匂いがするんだよ」



インデックスが待ちきれないという顔をするので、インデックス用のおかゆを先に食べさせることになった。
だが、どうも自力で動けないくらい、衰弱しているらしい。テーブルの上に立ち上る湯気を爛々と見つめるその目とは対照的だった。
「ほれ、そいじゃテーブル前まで運んでやるから。脇開けろ」
「うん。ありがとう、とうま」
「あっ! 駄目です! 当麻さんお待ちになって!」
「え?」
「どうしたのみつこ?」
毛布から、インデックスの下半身がずるりと引き抜かれた。
インデックスには、黄泉川の服が決定的に合わなかった。それは着るべき下着がないという意味であり、ズボンを穿かせても脱げるという意味であり、別にジャージの上がミニスカート並みの長さになるしズボンはいらないんじゃないかという意味でもあった。
……要は、穿いてない下半身が光子と、そして当麻に丸見えになったということだった。
「え、え、……え?」
「いやぁぁぁぁぁ!! とうまの馬鹿! えっち! 一日で二回目って信じられないんだよ!」
「ご、ごめんインデックス! 悪気はない、悪気はなかったんだ!」
「当麻さん? あらあら、悪気がなければ、許されると思ってらっしゃるのかしら?」
もう今日何度目か分からない気炎を光子が上げる。遺伝子のどこか深いレベルで、そういう怒り方をする女性には無条件に負ける当麻だった。
「許してくれ光子! 悪気がないってことは、わざと見る気なんてこれっぽっちもなかった、つまり悪気がないってことなんだぞ?!」
「とりあえず目を瞑ってジャージの下を取りに行ってくださいませ」
「わ、わかった」
インデックスは本当に力が出ないのか、一回目のときのように噛り付いてくることはなかった。
光子の冷ややかな視線に、上条は本当に目を瞑って廊下を目指した。途中で壁にゴンと頭をぶつけたが、この際それくらいで済んだと思うべきだ。
リビングが視界から消えて、ようやく目を開ける。クローゼットのある部屋の前に進み、躊躇いなくノブをひねった。
「――え?」
いつの間に、風呂から上がったのだろうか。
薄くピンクに染まった肌が、綺麗だった。太ももやヒップ、バスト、そういうところの肉付きが良い。鍛えてあるから筋肉質の引き締まった体だろうに、一番体の外を飾る肉が、たまらなく成熟した女の色香を放っている。
仕草を見れば、何をしているのか予想は付く。自分の下着が、この部屋にあったのだろう。人を呼ぶとこういうときに面倒だ。一人なら廊下を裸で歩こうが何をしようが勝手だし、人を呼んでも普段の生活習慣どおりについ、物事を進めてしまう。。
黒いブラの肩紐を直して、ん? と黄泉川は上条に気づいたらしかった。
「なんだ覗きか? 彼女のいる場所でやるとかお前どういう神経してるんだ」
「あ、いや。インデックスが目を覚まして、ジャージの下が要るって」
「ああそうか。目を覚ましたんなら必要だな。ほれ、これ持ってってやれ」
「あ、どうも」
あれ? と当麻は首をかしげた。ごく普通の受け答えをしているのに、なにか、ひどく非常識な展開のような。
「で上条。今から覗きでお前を警備員の駐在所に突き出して、一晩冷たい床で寝て、反省書と小萌先生の説教と保護者呼び出しのフルコースでいいか?」
「すみませんでしたもうしません悪気はないんですほんとに悪気はないんです!!!!!」
「悪気はないってさっきお前あっちの部屋でも言ってたじゃんよ。ほれ立て。まあ大目に見てやるから」
「ほ、ほんとですか!」
「だから腹筋に力入れとけよ?」
「へ?」
洗練されたモーションのアッパーが、当麻の腹に突き刺さった。目の前で、光子のより激しく、胸が揺れた。
「ゴハァッ!!!!」
当麻は、床に這いつくばった。視界の片隅で、黄泉川がジャージを身に着けていく。
一応加減はしてくれたのだろう。1分くらい悶絶したら、リビングに戻れそうだった。
「あらあら当麻さん? また、ですの?」
訂正。リビングには戻れないかもしれなかった。



夕食を済ませて、当麻と光子とインデックスは、携帯端末から服を注文した。
さすがに下着のないインデックスはジャージの着心地がすこぶる悪いらしく、服を気にしていた。
当麻と光子も、ここを出ることは難しい。事実上の篭城作戦だった。
一人帰すのにも不安があった光子も、黄泉川先生の名前を出すことで何とか外出許可も降りた。やはり警備員の中でも特に信頼の厚い黄泉川の名は、それなりに力があったらしかった。
「ふぁ……ごめん。もうそろそろ眠たくなってきたかも」
「病人みたいなものですものね。インデックスさんはもう寝たほうがよろしいわ。……私たちも、そう遠からず寝ることになりそうですけれど」
当麻はインデックスにあくびを移されていた。今日はゴタゴタが多かった。
「だなぁ。もう寝ちまえば良いんじゃないか?」
「そうしましょうか」
布団はすでに敷いてある。だだっ広い家に見合うだけの客用布団の数があった。
黄泉川とインデックス、光子は当麻と襖を一枚隔てた和室で寝ることになっている。
あたしはもう少ししたら寝るから、という黄泉川を置いて、三人はそれぞれ、床につくことにした。
まだ起き上がるのはしんどいのか、ぺたりぺたりと四つん這いで布団に向かうインデックスを横目に、当麻と光子はこっそりとおやすみのキスをした。
「……ふふ。同じ部屋では勿論眠れませんけれど。眠る直前まで当麻さんといられて、嬉しい」
「俺もだよ。いいな、こういうの」
「本当は当麻さんに撫でてもらいながら寝るのが、一番良いんですけれど」
光子には自覚がなかった。当麻をドキリとさせるくらい、きわどいことを言ったのを。
しばし逡巡して、当麻は冗談めかしてこう言った。
「インデックスが寝た後、俺の布団に来るか?」
「えっ? え、あ……だめです、そんな。私たち、まだ、そんな」
「じょ、冗談だって! それに先生に見つかったらそれこそ洒落にならないし」
「そ、そうですわね。……その、私、ごめんなさい。嫌だとかそう言うわけではありませんのよ。でも……」
「いいから。ごめんな、困らせて」
「ううん。それじゃ、当麻さん。おやすみなさい」
「おやすみ、光子」
もう一度キスをして、光子は和室の布団にもぐりこんだ。
隣では、暑いのとめんどくさいので、インデックスが掛け布団の上にだらりと転がっていた。
仕方ありませんわね、とクスリと微笑んで、インデックスの掛け布団を引き抜いて、足とお腹にかけてやる。
「ねえインデックスさん。必要なことがあったら仰って。寝ていても起こしてくださって構いませんから」
「ありがとねみつこ。それじゃあ、今お願いしても良い?」
「ええ。なんですの?」
「インデックス、って。呼んで欲しいんだよ」
明かりを消して間もないせいで眼が暗さに慣れていなかったが、インデックスが微笑んでいるのが、光子には分かった。
「私はみつこのこと、みつこって呼びたいから。他人行儀じゃないほうが、嬉しいな」
「そう。分かりましたわ。インデックス。おやすみなさい」
「おやすみ、みつこ」
光子はインデックスが眠りにつくまで、そっと頭を撫でてやった。年恰好以上に、なんだか可愛らしかった。



当麻は、隣に随分と暖かいものを感じて、ふと目を覚ました。
「え、み、光子……?」
明らかに、隣に人がいる。真っ暗な部屋で誰かは咄嗟に分からない。
しかし男の上条の隣に来る女性といえば、そりゃあ光子しかありえないだろうと思うのが自然だ。
恐る恐る、隣の子の肩がありそうなところを、触ってみる。
ふにょりと、それはそれは柔らかい感触がした。
「ん……」
もうその声だけで誰か分かった。驚きが自分の頭を占めていく。
なんで、インデックスが、ここにいるわけ? 確かに寝るときは、光子のいるあちらの部屋で寝ていたはずだ。
その疑問をまるで無視して、インデックスは抱き枕みたいに当麻の体に自分の手足を絡めていく。
柔らかくて、いい匂い。当麻の心臓がドクリドクリと強く脈動する。
当然罪悪感も湧いてくる。こんなところ、光子に見つかったら――――
分からない。何故こんなにも今自分が焦りを感じているのか。光子が寝ているうちに何とかすれば良いだけのこと。
なのに。


パッと、部屋が明るくなった。
入り口に、仁王立ちする女性が、一人。
「あらあら当麻さん? インデックスさんと随分仲がよろしいのね?」
ああそうか、と。当麻は納得した。
心のどこかで、こうなると、自分は分かっていたのだ。


当麻はそっと布団から出て、土下座した。
怒涛の一日はまだ、終わらない。



[19764] interlude01: 数値流体解析 - Computational Fluid Dynamics -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/17 01:17
光子に常盤台で指導を受けてから数日。

「あっ……ホントだ、だいたい合ってる!」
「お、もう佐天には見えるのか。やるなあ」

佐天は、柵川中学のある一室で、先生と一緒に実験器具とパソコンを眺めていた。
目の前には、透明なアクリルでできたダクトがある。縦横は人が一人入れるくらいで、水平には大体3メートルくらいの長さがある。
片方の端にはファンが付いていて、ダクトの中の空気を外に排出している。ダクトの中を定常的に風が通り抜けているわけだ。
ダクトのちょうど中央辺りには、一本だけ、円柱の棒が生えている。金太郎飴くらいの直径だった。
これは、主にその円柱の周りの風の流れを見る装置。
「もう『見えてる』のなら別にいらないわけだけど、一応トレーサー流すから。ちゃんと視覚でも捉えてくれ」
「はい」
先生がそうやって、ダクトの入り口から水か何かを噴霧した。霧を孕んで僅かに白く濁った空気が、ダクトの中に吸い込まれていく。
佐天は霧がなくても流れは見えている。風はだんだんと柱に近づいて。
進行方向から見て円柱の背中に当たる部分で、霧は、くるりと渦を描いた。
「うん。ちゃんと乱れてるね。解析どおり」
「はい。この渦、可愛いですよね」
「……? うん、まあ」
今佐天が実演してもらっているのは、風洞実験と呼ばれるものだ。人工的に風の流れを作り出して、それを可視化する。必要なら温度計や圧力計を設置して、温度と気圧の変化も測る。円柱の代わりに飛行機の模型を置けば飛行機の性能試験になるし、ダクトの代わりにパソコンの筐体を使えばハードウェアの冷却試験もできる。
今日の目的は、この風洞実験の結果と、もう一つ。目の前にあるパソコンで、シミュレーションによって求めた円柱回りの風の動きが一致することを、体感させることだった。
「はぁー、ホントに計算で合うんですねー……」
「そりゃあな。物理ってのは物理法則に従う現象しか出ないんだから。その法則を数式にして、それを解けば当然答えは出るよ。誤差がないとは言わないけど。佐天は計算と合わないって思った部分はあったか?」
「えっと、間違ってるんじゃないんですけど、曖昧だなって」
「曖昧? どこがだい?」
「渦ってもっと中心まで細かく巻いてるのに、ほら、計算結果だと全然そういうの見れないじゃないですか」
「そうだね。有限要素法で解くと、格子の刻み幅より小さい現象は見られなくなるからね」
この世を貫く最も根源的な法則のひとつ、運動量の保存則。それを数式化したのがナビエ・ストークス式だ。式としては古くから定式化されているものの、『解く』ことに関しては、未だ一般的に解析解を得る方法、すなわち解の公式はない。初期条件と境界条件が都合のよい形になっているケースでないと、解けないのだ。
そういう時に、近似解を得る一つの手法として、有限要素法がある。
空間にメッシュ、あるいは格子を規定して、空間を小さなブロックに分けていく。そしてそのブロック一つ一つが、ある一つのベクトルを持つ風であるとするやり方だ。
隣り合うブロック同士には、風のベクトルに見合っただけの運動量のやり取りがある。それを逐次計算していくことにより、風の流れが変化するさまをシミュレートする方法だった。
「じゃあもっと空間の刻みを細かくすればいいってことですか?」
「細かく刻めば細かく見れる。だけど計算時間も膨大になる。計算機の、あるいは能力者の演算能力との相談になるね、その辺は
「そっか……」
「残念なのか?」
「できたら渦をもっとよく見たいなーって」
「うーん、渦はどこまで細かく見ても終わりのないものだからなあ。フラクタルな形状をしてるせいで微分不可能な特異点になるから、中心の点を見る、なんてのは無理だよ」
虫眼鏡で渦の中心を拡大してみても。渦は同じ形の渦しか見られない。そういう、小さく見ても大きく見ても同じモティーフが現れるフラクタルな構造だ。渦は、流れの解析においては少々不便な存在ではあった。
「まあ、佐天の能力は渦に関係しているみたいだし、おいおいそれについても考えたほうがいいだろうね。今日はまだ流体解析のイントロの部分だから、難しいことは後に回そうか。佐天。質問がなければ、演算処理のプロセスの構築をしよう」
先生は、綺麗なトパーズブルーの粉末を薬包紙に載せて、水と一緒に佐天に差し出した。
「これ初めて見る薬です」
「あれ、そうか佐天は飲んだことないか。レベル1用の、計算力開発の試薬だよ」
学園都市の学生は薬の色が変なくらいで戸惑うことはない。だが佐天はコップの水をあおる前に、手を止めた。
「あの先生。質問っていうか、聞きたいことがあるんです」
「なんだい?」
「私に能力が目覚めるきっかけを作ってくれた先輩が、言ってたんです。格子……えっと、格子ボルツマン法っていうのも勉強しろって」
「格子ボルツマン? なんでまた……」
「あの、別に勉強する必要ない……ですか?」
婚后は、佐天にとってとても頼りになる人だ。能力発現のきっかけをくれた人だし、実力が見る見るうちに延びるのは、全部この人のおかげだ。今日、夏休みなのにこうして先生に個人指導をしてもらえるのも、そもそも婚后の勧めで補習に出たからだ。
だが、それでも婚后は学生だ。能力を開発すること自体には、秀でているわけではない。
だから、婚后の勧めることと、学校の先生の方針、それがあまり一致しないときには佐天は戸惑いを覚えるのだった。
「いや、別に不要ってことはないよ。あれはあれで便利な計算手法だしね。ただ、あんまり普通は手を出さないんだよなぁ……ああ。そういうことか。佐天は、空気を粒のように捉えて、動かしているんだったね」
「はい。そうです、けど」
「成る程。それなら、ちょっと考えてみよう。けど今日のところは普通に有限要素法をベースにいろいろやろうか。通り一遍等で良いから普通のやり方にも習熟しておかないと、能力を伸ばせる幅が狭まるからね」
「はい」
そう言って、先生は佐天に薬を飲むよう指示した。効くまでに時間がかかるからだろう。佐天はそれに従った。
「それで、佐天。格子ボルツマンって、意味分かって言ってるかい?」
「えっと、いやー……あはは」
「まあそうだろうね。特別な意図がない限りは、あまり使わないやり方だからね」
「そうなんですか」
「格子ボルツマン法って言うのはね、いくつかの空気分子をまとめて一つの粒として見て、気体の流れをその粒の衝突として捉える方法なんだよ」
「えっ?」
その言葉に、ドキリとした。なんて、分かりやすい考え方なんだろう。
「そして演算に出てくる主要な要素が、有限要素法ならテンソルだけど、格子ボルツマン法ならベクトルなんだよね」
黒板に先生がつらつらと式を書いていく。一週間前ならちんぷんかんぷんだっただろう。今なら、ぼんやりとは意味が分かる。
要約すれば、こういうことだった。
格子ボルツマンで考えるような、単純な球と球のぶつかりあいであれば、受け渡しをする運動量について、
ベクトルのx成分
ベクトルのy成分
ベクトルのz成分
この3個の情報を考えればいい。だが、有限要素法で流体の流れを解く場合、空間には格子が切られていて、それにはいくつかの『面』がある。分かりやすく立方体に切ったのなら隣り合う立方体との間に6個の面を接している。その場合、
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
この、全部で9個の情報を考えなければならない。ベクトルの個数の二乗を考える、この9個の要素をテンソルと呼ぶ。
有限要素法と格子ボルツマン法、テンソルとベクトル。それらはどちらも同じ自然現象を再現する手法でありながら、演算の体系が全く異なるのだった。
「佐天の演算能力をテンソル系の能力者らしく作るか、ベクトル系の能力者らしく作るかってのは、その後の方向を結構変えていくからね。これは、注意して選ばないといけないんだ」
「へー……やっぱり、私も普通の人みたいに鍛えたほうが良いんですかね?」
「そこが難しいんだよね。……僕の、というかこの学校の先生は皆、能力を発現させられない子や思うように伸びない子が、なぜそういう状態にあるのかを研究して、一人でもレベル0と1を上に上げるための研究が専門なんだ。佐天は、今見てる限りじゃ空力使い(エアロハンド)の中でも多分特殊な能力者になると思う。そういう、個性的な能力を適切に伸ばすってのは、それはそれで難しい仕事になるんだよ。言い訳にしかならないけれど、僕らよりも、佐天の助けになる先生は他にいる気がするね」
「先生、それって」
安楽椅子に腰掛けたまま、佐天は先生の言った言葉の意味を反芻して、動揺を隠せなかった。
「うん。このまま伸びれば、佐天はこの学校じゃ収まりきらない能力者になるだろう。もちろん佐天の意思が一番大事だけど、転校も考えに入れておくと良いんじゃないかと、僕は思う。二学期からにすれば、ちょうどいい区切りになるしね」
その言葉は、今まで羨ましいとすら思った言葉だった。レベルアップによって先生から転校を進められること、それはつまりその学校でトップクラスに優れていたということの証明なのだ。その言葉を贈られた同級生たちはみな、佐天やほかの同級生から見れば眩しいばかりの学生達だった。皆が羨望を持って、そんな生徒を見たものだ。
だけれど。実際に佐天がその言葉を貰って感じたのは、寂しさだった。この学校にいる沢山の友人。それと離れ離れになって、知らない人たちと競争をする。
「皆おんなじ顔をするよ」
「えっ?」
「佐天の知ってる優等生たちも、みんな今の佐天と同じ気持ちだってことさ。でも会社なんかに入れば、佐天が今勧められているものは『栄転』と呼ぶんだよ。学生は友達づきあいだって大切なことだからね、どうしても自分の居場所を変えたくないのなら、それもいい。でも、自分を試すってことも、同じくらい大事だから。よく考えなさい」
「はい」
先生の穏やかな顔に、佐天はすこし心が軽くなるのを感じた。そうだ、今この手に作れる自分だけの世界、それをもっと広げてみたい、可能性を試したいという気持ちもあるのだ。
先生は、深刻になった佐天の顔をほぐすように、冗談めかしてこんなことを言った。
「まあ先生は佐天が能力を伸ばして、高校は霧ヶ丘女学院あたりに行ってくれると鼻が高いな」
「いやいや先生。柵川中から霧ヶ丘なんて聞いたことないですよ」
そこは個性の強い能力者を開発することで有名な、超エリート高校だった。
「だからすごいんじゃないか。……まあでも、いくら特殊でも霧ヶ丘じゃあ空力使いは目立たないかもしれないね。空気を粒のように扱う佐天のやり方も、佐天が初めてって訳じゃない」
「えっ、そうなんですか?」
自分と似た能力を持つ人がいる、というのは驚きだった。何度か婚后や、少ないながら同じ中学の空力使いの能力を見てきたが、自分とこれっぽっちも似ていなかった。
「言ったろう? 空気を粒のように扱うということは、テンソルを使わずに流体を制御するってことさ。普通の空力使いはそんな面倒なことをしないけどね。空力使い以外の、ある一人の高位能力者が、それをやったんだよ。佐天も名前くらいは知ってるだろう」
「はあ」
謎かけをするように、先生はそう言って演習の準備を始めた。薬もそろそろ、効いてくる頃なのだろう。



「君がもしかしたら進むかもしれない一つの道筋。それを最初に切り開いた人はね。
 ――――すべてのベクトルの支配者、"SYSTEM"に最も近い者。学園都市第一位の超能力者<レベル5>、一方通行(アクセラレータ)、その人だよ」



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おことわり
テンソルの説明は厳格なものではありません。格子ボルツマン法の説明は不確かです。
この辺は数学的にきちんとしたことを言うには作者が不勉強なので、分かる人はニヤニヤしながらこいつわかってねーなーと思ってください。
また、小難しい話を躊躇いなく出しましたが、これを理解しないと読めないSSにはまずならないので、深く考えずにさらっと呼んでいただいて大丈夫です。
風洞実験は流体解析の基礎の基礎ですし、有限要素法も格子ボルツマン法も、全て実在している学術用語です。
詳しいことが知りたければ調べてみてください。
それと、一方通行は現象の解析と制御において、テンソルを用いずベクトルで解く能力者である、と本作では設定しています。
かまちーはテンソルを知らないんだと思いますが、その設定の裏というか穴を突いていきたいと思います。



[19764] ep.1_Index 07: 決意
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/02 23:45

「あー、こんなに楽な朝も久しぶりじゃん。それじゃ、大人しくしてろよ。なんかあったらちゃんと連絡入れるように」
「はい。じゃあ先生、いってらっしゃい。小萌先生によろしくです」

ヒラヒラと手を振って出て行く黄泉川を、三人で見送った。
朝食は当麻が作った。四人分、それも健啖家を含めたそれは、これまで当麻の作ってきたどんな食事より量が多かった。
二リットル鍋に一杯の味噌汁や、五合炊きの炊飯器いっぱいの白米。卵も一食で七個も消えた。
思わず食費を計算して、背筋が寒くなった。もちろん当麻が全額出すわけではなく、当麻と光子は実費ということにはなっていたが。
「ごちそうさま、とうま。ちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりだから、すっごく美味しかったかも」
小さななりをして、インデックスは食べる食べる。当麻と変わらない量を平気で平らげた。
「そりゃ良かった。光子の口にもあったみたいでよかった」
「……そりゃあ、美味しかったですし、当麻さんの作ってくれたものですから」
おそらく自分より当麻のほうが料理が上手いことに、少し悔しい思いがあるのだろう。少し拗ねた態度が可愛かった。
「午前中に服は届く予定だし、洗濯はそれからでいいか。掃除は朝ごはんの片付けが終わったらさっさとやろう」
「そうですわね」
光子はお嬢様だからその辺は何も出来ないのかと思いきや、常盤台の寮では掃除などは学生の義務なのだと言っていた。
それも教育の一環ということだろう。雑巾の絞り方の分からないお嬢様、というわけでもないらしかった。
「ねえインデックス。もう体のほうはいいの?」
食後のお茶を淹れた湯飲みをインデックスに差し出しながら、光子はそう尋ねた。
当麻もお茶を受け取って一口啜る。美味い。きちんと手順を踏んで、適切に茶葉を蒸らした結果だから当然ともいえる。料理と違ってこちらは作法の部類に入るからなのか、光子のお茶を淹れる仕草は優雅だった。
「本調子とはまではいえないかもだけど、歩けることは歩けるよ」
確かに、朝起きたときには昨日と違って這いずることはなかった。壁に伝って、独りで起きてきた。
だが、この家から出ていけるほどには回復していない。黄泉川がインデックスの熱を測っていったが、充分に高いといえる温度だった。
「動くにしても、やっぱ明日か明後日か」
「あ、うん……」
インデックスは、何かを気にして言いよどんだ。自分が迷惑をかけてしまったこと、体が回復したらここを出て行かねばならないこと、そういったことを考えてしまったのだろう。
「まあ今はよろしいじゃありませんか。インデックス、冷蔵庫にヨーグルトがありましたわよ?」
「食べる!」
「……あれ先生のだろ」
食料品も配達してもらうので、確かに問題はないのだが。


光子と二人で、掃除を始めた。
食器洗いとゴミの始末を光子がして、掃除機を当麻がかけた。1Kの自分の部屋と違い、3LDKのこの家は恐ろしいほどだだっ広い。
掃除機は三分あれば済むという当麻の常識を覆して、それには十五分くらいの時間がかかった。しかも腰が痛い。
黄泉川愛穂という人は大味なのか、どの部屋もそこそこ散らかっていた。
目も当てられないようなことはないが、女性の真実を見たような、ちょっとやるせない気持ちを感じないでもなかった。
そもそも、本人のいないところで男の当麻が下着と洋服の詰まったドレスルームの掃除をしているのはどうなんだろう。
「こちらは終わりましたわ。何かお手伝いすることはあります?」
「いや、大丈夫だよ。こっちもすぐ終わるから、光子はインデックスの相手でもしてやってくれ」
「すみません。それじゃ、お願いしますわね」
光子は当麻より先に仕事を終えることを申し訳なさそうに詫びた。
「光子」
「あっ……」
ここなら、インデックスの目がない。
当麻は光子にキスをした。
「もう……。急には恥ずかしいです」
「今日、まだしてなかったからさ」
「ふふ。ほんとのことを言うと、私もしたかったです」
もう一度、口付ける。新婚生活みたいで、なんだか心が躍った。


掃除機を片付けて、細々とした仕事を済ませてリビングに戻ると、光子がインデックスに膝枕をしてやっていた。
「ご苦労様でした、当麻さん」
「ありがと。光子もお疲れ。で、インデックス、随分と幸せそうな場所にいるじゃないか」
「んー? あ、とうま」
インデックスが姉に可愛がられる妹、というより飼い主に可愛がられる犬か猫みたいな顔をしていた。
光子の隣に、当麻は腰掛けた。娘と妻がいる男のような、不思議な立ち居地にいる気分がした。
ぺたぺたと、ジャージの上から太ももを触られる。
「とうまのほうが硬いかも」
「へぇ。やっぱり男のほうが硬いとか、そういうモンなのかね」
「えへへー」
今まで枕にしていた光子の膝に体を預けて、インデックスは頭を当麻の膝に乗せた。
当麻と光子、二人並んだ膝の上に体を預けた格好だ。
怪我をしていたインデックスを負ぶさったときには何も思わなかったが、こう落ち着いたときに顔をすぐ傍で見ると、どきりとする。
あどけなさがまだまだ魅力を隠しているとはいえ、インデックスはものすごい美人なのだった。
――不意に条件反射で背筋に冷たいものが走る。隣の光子の顔を恐る恐る見ようとして。
表裏なく優しく笑った光子が、当麻に腕を絡めながら空いた手でインデックスの体を撫でた。
なんだかそれに毒気を抜かれて、光子に軽く体重を預けた。
そして当麻も空いた手でインデックスの頬を軽くつねった。
「痛いよ当麻。もう、なんでいじわるするの? 光子は優しいのに」
「優しいだけじゃ良い子に育たないだろ? 誰かが叱ってやらないと」
「むう、人をお子様扱いして! 当麻だってそんなに大人じゃないし、私と光子はほとんど同い年くらいのはずだよ!」
「そうは言うけど、なあ」
精神年齢が離れて見えて、スタイルが離れて見えるこの二人を同年代として扱えというのも。
「もう、当麻さん。どこを見てらっしゃるの」
「ご、ごめん」
「うー」
二人の差が歴然と現れている胸元。光子のそれを覗いたら、女の子二人ともに怒られた。
インデックスが当麻の太ももに噛み付いた。
「いでっ、痛いって! インデックス!」
「わたしだってすぐに光子みたいになるもん!」
「そう言うのは説得力ってのをよく考えて言うんだな」
「とうまのばか! えっち! 私の裸見たくせに!」
「いやだから、あれは事故だって!」
「二回もやっておいて事故なんて絶対に嘘なんだよ。当麻は絶対にそういう星の元に生まれてるに違いないんだよ!」
「なんか魔術師がそれを言うと妙に怖いんですけど! ……って言うか、『そういうの』ってほんとにあるのか?」
どう考えても他人より不幸な自身のある当麻としては、是非聞いてみたいことだった。
当麻の真意を、光子は察したらしかった。気遣わしげに、抱いた当麻の腕をきゅっと引き寄せる。
とはいえその気使いは無用だ。上条当麻という人間は、降りかかる不幸に心折れることは、ない。
じゃれていたときの甘えた表情を潜めて、インデックスは口を開いた。
「もちろん。生まれたときの星の巡りや、その人の血統、色々なものが影響して決まるものだよ。運のよさなんていう分かりにくいものじゃなくても、貧しい家に生まれるか裕福な家に生まれるかだって生まれる前から決まってるよね。それと一緒」
「なら、俺のこの右手も」
「……それはよく分からないかも」
「え?」
「当麻のその手は、規格外だよ。魔術で人型に組まれた炎の巨人を押しのけた、って。そんなことが出来る右手を生まれつき持ってる人なんて聞いたこともない」
超能力者の街、学園都市ですら上条の右手を理解することは出来なかった。そして、今、世界で最も豊富な知識を持つ魔導図書館がまた、上条の右手を理解できないものだと言った。
「当麻の面白体質は、右手のせいかもね。神様のご加護とか、そういうのを片っ端から消しちゃってるんじゃないかな」
「……最悪だ」
「気にすることはありませんわ。当麻さんのことは、私が絶対に幸せにして差し上げますもの」
何か気に入らないことがあったように、つん、と光子が澄まして言った。
夫婦は苦楽をともにしてこそ。当麻は自分ひとりで背負わなくて良いのだ。もう、自分が隣にいるのだから。
「みつこはとうまが好きなんだね」
「ええ。とっても」
「……いやその、嬉しいんだけど、光子は恥ずかしくないのか?」
「どうしてですの? この子に聞かれても、私は別にどうとは思いませんわ」
そう言って、光子はインデックスを撫でる。
「とうまは光子の事どう思ってるの?」
「……ああもう。好きだよ。すげー惚れてる」
「ふふ。当麻さんの言ったことが分かりました。これ、嬉しいですけど恥ずかしくってこそばゆいですわ」
照れる光子の横で、もう一度、当麻はインデックスの頬をつねった。


「……さて。ホントはもっと早くすべきだったのかもしれないけど。これからの話、しておかないとな」
じゃれあうのが一段楽したところで、当麻がそれを切り出した。
インデックスが、二人の膝を枕にするのを止めて、フロアにぺたりと腰を落ち着けた。
「そうだね。ここもいつまで安全かは分からないし、いつまでも私はここにいられないし」
「あいつらが諦めたって可能性はないか?」
「ないよ。それは断言できる」
甘えているときや、食事をしているときの浮ついた感じの全くない、冷たさすら感じるような断定口調だった。
「どうしてですの?」
「自慢じゃないけど、私の持ってる10万と3000冊の魔導書は、欲しい人たちなら何をしてでも手に入れるくらいの価値はあるから。日本には親を質に入れてでも欲しいって言い回しがあるけど、私っていう『禁書目録<インデックス>』は家族どころか知り合い全部の命を差し出してでも欲しがる人が、いるんだよ」
「10万3000冊って……あの、そんなものがどこにありますの?」
「ここだよ」
インデックスは指でこめかみをコツコツと叩く。そのサインが意味するものは。
「全部、覚えてるっていうのか?」
「うん。私はそれが出来る人間だから」
「それも魔術なのか?」
「んー、ちょっとわからないかも。小さい頃から、こうだったはずだから」
「ふうん」
消えない記憶を持つ人間。それは学園都市の人間にとっては、魔術を信じる人間よりはずっと受け入れやすい生き物だった。
「サヴァン症候群と理解するのも少し苦しい気はしますが……まあ、ありえない話とまでは言えませんわね」
「それで、つまりお前は重要な書物を持ってるせいで狙われてる、ってことか?」
「そうだよ。だから、もう諦めたなんて事は絶対無い。私を匿う人がいればその人を殺すことなんてきっと道端に転がったゴミを踏むのと同じくらい簡単にやるし、手に入るまでに10年でも20年でも、平気で追い続けると思う」
脅すような、芝居がかった口調はなかった。むしろインデックスの口調は淡々としていて、逆にそれが話すこと一つ一つに真実味を与えていた。
恐ろしく長いあの長刀の一閃を、激しく熱いあの炎塊の巨人を、つい昨日覚えた恐怖と同時に思い出す。
人知れず自分の右手がソファの縁をつかんでいることに当麻は気づいた。
「本当に、助けてくれてありがとね。とうまとみつこが助けてくれてなかったら、もう捕まってたかもしれない」
「……でも、私が関わらなければ」
光子が公園でインデックスに再開しなければ。インデックスは今頃、逃げ切れていたかもしれないのに。
「みつこ。それを言い出したら、そもそも二人のいたあの部屋のベランダに落ちた私が悪いんだよ。だから――――」
不意にインデックスが立ち上がった。勢いをつけて、元気そうに。
だが、立ちくらみを起こすくらいに病み上がりなのだ。ふらりと頭が振れそうなのを、隠しているのが二人にはよく分かった。
「朝ごはんまで作ってくれて、ありがとう。もう、一人で大丈夫だから。二人と、あいほにも迷惑をかけないうちに、出て行くね」
ぺこりと、日本人らしくインデックスが頭を下げた。それで前につんのめって、たたらを踏む。
「ちょ、ちょっとインデックス。貴女そんな体で歩けるつもりでいますの?! いいからもっとお休みなさい」
「大丈夫だから。これ以上、ここにいちゃ駄目だから」
優しい笑いは、遠慮の塊。光子の好意を突き放す笑みだ。
「でも! 貴女、まともに歩けもしないでしょう」
「そんなことないよ? ほら」
「ふらついていることも分かりませんの?」
「大丈夫だよ。すぐに良くなるし。心配してくれて、本当に嬉しいけど。大丈夫だから」
「そんなこと――――」
光子より、インデックスの声のほうが切なかった。まるで光子より自分を納得させるための言葉のようだった。
ブチリ、と指の先で音がした。ソファの縁の縫い糸が切れた音だった。強く、握りすぎた。
「ここにいたら、何で駄目なんだよ?」
ビクリと、隣の光子が怯えるように身を固めた。こんなにドスの聞いた声を光子に聞かせた覚えはなかった。
インデックスも怒られた子供のような顔をしていた。
「だって。みんなに……迷惑がかかるから」
「だからどうしたって言ってんだよ」
「どうした、って。死んじゃうかもしれないんだよ? 今日や明日を乗り切っても、これから何年も、もしかしたら一生だって、ずっと何かに怯えることになるかもしれないんだよ?」
「お前が今から一人で行こうとしてる世界が、そこなんだろ? そんな地獄にお前が行くと分かってて、その手前で俺たちはお見送りでもしろってか?」
「で、でも」
「頼れよ」
「だめ、だよ。私は二人に、幸せでいて欲しいんだから」
「お前は幸せに、なっちゃいけないのか? 俺がお前に手を差し伸べたら」
「とうま! ……駄目。それ以上言ったら、私」
否定の声は、弱弱しい。
誰かに助けて欲しい、そんな思いが見え見えだった。そして同時に誰も不幸に巻き込んではならないという強い決意があるのも分かってはいた。
だが、上条当麻は、そのどちらも選ばない。
「お前が独りで抱え込んでるもの、俺にも貸せよ。何でも出来るって訳じゃないかもしれない。けど、俺はお前の不幸を許さない。お前が笑って安心できるようになるまで、絶対にお前を独りになんてしない」
インデックスが僅かに肩を震わせて、顔をくしゃりとさせた。誰かに自分の辛さを背負って欲しい気持ちと、そう思えるくらい好きになった人を不幸にしたくない気持ち、それが危ういところで均衡を保っている。
それを突き崩すように、当麻は言った。
「頼れよ、インデックス。お前と一緒にいることで俺が不幸になるなんてことは絶対にない。そんなつまらない幻想は、俺がぶち殺してやる」


インデックスはしばらく耐えるように当麻の顔を見上げていたが、
ふぇ、と。いきなり、目元から涙がぽろりとこぼれた。


「……とうまは馬鹿なんだね」
その言い方が、甘えた感じで。インデックスが少し荷物を自分に分けてくれたのだと当麻は理解した。
「だってとうまにはみつこがいるのに。みつこをどうするつもりなの?」
「あ……」
隣の光子を振り向くより先に、手の甲にそっと手が重ねられた。
「当麻さん。今から、私に何を仰る気でしたの?」
「えっと、ごめん。光子の話を何も聞かずに、先走っちまった」
「それはよろしいですわ。それで?」
「荒事にもなるから、光子は隙を見て……」
「当麻さんの莫迦」
きゅ、と手をつねられた。つんと尖らせた唇が、あからさまに不満を伝えている。
「私を誰だとお思いですの?」
「……常盤台中学のエース、婚后光子さん、か?」
望まれている答えを、当麻は言ったつもりだった。
「そうじゃありませんわ。私は、その、上条当麻という方の、女です。当麻さんとの馴れ初めだって、あの時当麻さんは不良に絡まれていた方を助けたツケで追われていたんでしょう? あれからだって、当麻さんがこうやって人助けをしにいくところを見てきたんですから。当麻さんていう方が、どういう人かは私が一番知っています」
「光子」
「私、昨日も当麻さんに念を押しました。覚えていては、くださいませんの?」
――――当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい。
昨日光子は、そう言った。それに対して返した自分の答えも、覚えている。
「後悔しないか?」
「当麻さんに置いて行かれるほうが、よっぽど後悔します。それに、婚后家の人間として品行方正と破邪顕正を体現する義務が私にはありますもの。寮に帰れなんて、言いませんわよね……?」
光子は最後に上目遣いで当麻を見た。当麻の考えを伺う体でありながら、目には意志の強さを表す光があった。
「光子の、意外な面を見た気がする」
「そう? 私、結構我侭なほうですわ。偉そうに言うようなことじゃありませんけれど」
「お嬢様って決め付けはしてないつもりだったけど、もっとこういうときの押しは弱いかと思ってた」
「もう。そういうところ、お嫌?」
「心配にはなるけど、嫌ではないよ。まあ惚れた弱みって事で」
「ふふ」
話は決まった。少しだけ涙をこぼした顔でこちらを見ていたインデックスを、光子が抱きしめた。
「インデックス。今度は貴女を傷つけさせたりはしませんから」
「光子だって危ないんだからね」
「私たちを頼りなさい、インデックス。貴女と一緒にいることで私たちが不幸になるなんてことは、絶対にありませんわ。そんなつまらない幻想は、私たちが打ち払って差し上げます」
格好をつけて臆面もなく当麻の台詞を真似た光子に、当麻は思わず苦笑した。
そして抱きしめあう二人を、さらに後ろから抱きしめた。



[19764] ep.1_Index 08: イギリスへ辿り着く道
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/06 20:19

「で。一番大事な方針が決まったけど、具体的なプランはまだ白紙だ。それもちゃんと考えないとな」
「そうですわね。当麻さんには何か妙案がおありなの?」
「いや、それは今からちゃんと考えようと」
今後の見通しが立つから方針を決めたわけではない。やりたいことがまずあるから方策を練るのであって。
だから別に無策なのを攻められる謂れはないと思うのだが、ジト目でインデックスに睨まれた。光子にまであきれたようにため息をつかれてしまった。
「とうま……かっこいいこと言ってたけど、口だけなんだね」
「なにか案あってのことだと思ったんですけれど……」
「いや、ごめん」
「それで、インデックス。私たちはまず貴女の事情を聞いておかなくてはいけませんわね。魔術というものがあることを、私は受け入れますわ。だからもう一度、何故貴女がこうした境遇にいるのか、説明して頂戴」
「だな」
何をどうするにも、確かにそこが出発点だった。インデックスは何者で、何故追われるのか。
ソファに座った光子と当麻の間にインデックスは体を落ち着けて、今は光子にもたれかかっている。
「後悔、しない?」
「確認を取る必要はありませんわ。私も当麻さんも、それは今さっき済ませましたでしょう?」
「うん。ありがとう。……ねえ光子。この世の中には、魔術がありふれてるって言ったら、びっくりする?」
「そうですわね……そもそも、そんなものはあるはずがないとつい昨日まで思っていましたわ。今でも、ありふれているといわれても、ピンと来ないというか」
「普通の人にとってはそうだよね。でも魔術って、世界中のどこの文化にでも存在して、いつの時代も使われてきたんだよ。キリスト教徒もそれを使うし、キリスト教徒に敵対してきた人たちも、それを使ってきたの」
不意に太陽が雲に隠れて、陽気が部屋から遠ざかる。
「邪教なんて言い方をすると一方的だけど、普通の人の知らないところで、私たちは主の教えに従わない魔術師と戦ってきたんだよ」
「……私たち?」
「そう。『必要悪の教会<ネセサリウス>』って呼ばれる、イギリス清教の一番暗くて一番穢れた所」
主の怨敵を払う為。邪教に相対することはおろか染まることですら厭わず、あらゆる仕事を引き受けてきた部署。
自分のいるべき場所を、インデックスはそう説明した。
「私には魔術は使えないけど、代わりに、世界中のあらゆる集団のあらゆる術式に精通してる。どんな魔術師と敵対することになっても、どんな魔術なのか、どうすれば防げるのか、どうすれば倒せるのか、全部知ってる」
「つまりお前は、敵のステータスが細かいことまで全部乗ってる攻略本みたいな存在なわけか?」
「攻略本っていうのがよく分からないけど。私はイギリス清教が誇る最悪の蔵書、『禁書目録<インデックス>』なんだよ。私を手に入れれば、世界中のあらゆる敵を打ち滅ぼせる。だから私を追う人が、後を絶たないんだよ」
「じゃああの二人も、そういう連中だって訳か」
「別に確認してみたことはないけどね。まず間違いないんだよ」
なんでもないことのように、インデックスは淡々と話す。それが逆に背筋を空寒くさせる。いつ終わるとも知れない、いや、いつまでも終わることのない逃避行は、いったいこの少女の心をどれほど蝕んでいるのだろうか。
「ずっと、ですの?」
「え?」
「いつからこういう生活を続けてますの?」
きゅっと、光子がインデックスの頭を引き寄せた。甘えるように薄くインデックスが光子の胸に鼻をこすりつけた。だが、困惑したような、何かをはぐらかそうとするような微笑が、ずっと顔から消えなかった。
「え……っと。一年前から、だよ」
「それまでは、誰かと一緒でしたの?」
「……隠しても仕方ないよね。わからないんだよ」
「わからない?」
「うん。わたし、一年以上前のこと、覚えてないから」
さらりと、そう言った。
理由も分からないまま気がつくと日本にいた。自分が何故ここにいるのか、自分にはどんな知り合いがいたのか、そんなことはすっかり忘れているくせに魔道図書館としての機能にはこれっぽっちの傷も付いていなかった。
そしてそのまま、一年間、逃げ続けた。
……それが彼女の知る彼女の全てらしかった。
「なにも、覚えていませんの?」
「うん。気がついたら日本にいたの。『必要悪の教会』だとか、そういう知識だけはあったけど。それですぐに私を追ってくる敵が現れたから、ずっと逃げてた」
「一年間も、独りで、ずっと?」
光子は言葉を上手く継げなかった。あまりの苦境だと思う。何故この子が、と言わずにはいられない。
そしてそれは、当麻にとっても同じだった。
「なんだよ、それ……」
「とうま? どうして怒ってるの?」
「なんでお前がそんな目にあわなくちゃいけないんだ?」
「きっとそれが、私の決めた生き方だから」
「インデックス」
理不尽を嘆いても、誰も責めないだろう。
この幼い少女がこんなにも追い詰められた生活をしているのだ。嘆くぐらいは許されたっていい。
「何も覚えてないんだろ? 誰かに無理矢理押し付けられた生き方かもしれないじゃねーか」
「確かなことは分からないけど。でもねとうま。私が記憶している10万と3000冊を、他の人には背負わせられないよ。普通の人の普通の幸せを守るために、こんな狂信と敵対心の詰まった本を誰かが引き受けなきゃいけないんだったら、私はそれを引き受けるよ」
それはインデックスの、決意だった。決して人並みとはいえない辛い人生を、すでにインデックスは自分で選択している。
光子も当麻も、それぞれ乗り越えなければならない壁や苦労を毎日背負っている。だが切実さが、比べようもないほどインデックスとは違っていた。
「貴女も、私たちと同じような、平凡な幸せを満喫できればいいのに」
どこか悔しそうな、そんな響きを持った一言だった。
それを見てインデックスは笑う。当麻は怒ってくれた。光子は悔しがってくれた。
短い付き合いでも、そうやって思ってくれる人がいれば、まだ頑張れる。
「とうまとみつこがいてくれるから、これからは幸せだよ。ずっと一緒にはいられなくても、私のことを気にかけてくれる人がいるってことは、それだけで幸せなんだから」
むしろインデックスが二人を慰撫するように、優しく微笑んだ。


「……結局、やっぱりゴールはイギリスの『必要悪の教会』ってことになるのか」
「そうだね。とうまとみつこに一生助けてもらうことは出来ないから。そこまで帰れれば、あとは同じ教会の人たちと助け合えると思う」
「それが、きっと良いのでしょうね」
「うん……」
まだ実感はないが、寂しさがないでもない。それに結局、『禁書目録』という生き方をするインデックスを自分達の世界に引き入れることは出来ないのだ。
「あの、ホントにいいんだよ。私は、とうまとみつこがここで見送りをしてくれても、恨んだりしないし、もう、充分嬉しい気持ちにさせてもらえたんだから」
「それじゃ逃げ切れないって結論が出てるだろ。体調も万全とは言えなくて、しかもスタート地点からすでに相手にばれてるこの状況じゃ」
「それで、やっぱり飛行機でイギリスまで行くしかないということでよろしいのね?」
シルクロードを伝うなんてまるで現実的じゃない。異教の民の渦巻くそのルートは、腹を空かせたライオンの群れの隣を歩いて帰るようなものだ。船も長旅になる。補給も必要で、いつか船に乗り込まれてしまったらそこでおしまいだ。
相手を振り切って飛行機に乗って、そのまま一足で『必要悪の教会』までたどり着いてしまう、それが唯一の方法だった。
「飛行機っていってもな……お前、パスポートとかあるのか?」
「ぱすぽーと? なにそれ」
相手はどうやって日本に来たのかも分からない少女なのだった。
「もしかしてこれかな?」
「ああ、持っていますのね。……って、これは」
懐から取り出したそれは、確かにイギリス国民のパスポート。しかし渡航暦は全くの白紙。
偽造でもないようだからちゃんと渡航はできそうだが、手続きのときに問いただされそうな不安を感じる。
「ま、まあ有るんなら飛行機には乗れるんだな」
「でも当麻さん。この子は学園都市のIDを持っていませんのよ? 外の空港には出て行けないし、中の空港だって、IDのチェックで引っかかってしまいますわ」
「げ、そうか……」
情報の漏洩には厳しいこの街のことだ、こっそり飛行機に忍び込むなんて真似は、絶対に出来ないだろう。
つくづくインデックスがこの街に入ったことは困難の原因だと思う。これでは脱出もままならなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむいた。
「飛行機にさえ乗れれば、道は切り開けるってのに」
「そうですわね」
悩んでいる暇も、実はそうない。すぐに襲ってくる素振りこそ見せないが、相手もインデックスを捕まえる準備をしていることだろう。それに、黄泉川が警備員として、いずれインデックスをどうにかすることになる。完全記憶能力を持った少女を学園都市がすんなり開放するわけがない。黄泉川はそれなりに信じられる相手だったが、黄泉川が従わざるを得ない学園都市の意思というのには、二人は信用を置けなかった。
当麻は街の裏路地を歩く程度には学園都市の『表』以外の部分を知っているが、禁止薬物の売買や企業スパイなどとはさすがに無縁だ。
強引にインデックスをイギリスへと飛ばす方法が、思いつかなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむく。その頭をぽふりと光子が撫でて、
「二十四日の夜、ちょうど三日後ですわね、第二三学区で新型航空機の、性能実証試験がありますの」
すこし自慢げにそう言った。
「実証試験?」
「中型なんですけれど、戦闘機以外では学園都市どころか世界でも一番早い音速旅客機になりますわ。最高速度は時速7000キロ超。私、この旅客機を撫でる表面流の摩擦低減のための材料開発を担当していましたのよ。材料創生は私の仕事ではありませんけれど、どんな機能や構造を持った表面であれば望み通りの物性が発現するのか、理論的な側面から候補になる新規材料の評価とスクリーニングを手伝ってきましたの」
「光子、それって」
財布から光子が一枚のカードを取り出す。学生証とは別になった、機密の多い第二三学区への入区許可証だった。
「実証試験は、日本イギリス間の往復が課題ですわ。最高速度のベンチマークテストと、振動や騒音などの旅客機としての品質テストをやる予定ですの」
比較的イギリスには学園都市との協力機関が多い。まさかインデックスとはなんの因果関係もないだろうが、その偶然はまさに渡りに船だ。
「部外者が乗れば勿論犯罪ですから、コンテナ辺りに忍び込むことにはなると思いますけれど。それでも普通の空港よりずっと確実でしょうね」
「……いいのか?」
失敗すれば、光子は極めて辛い立場に立たされることになるだろう。上手く行っても、疑われるようなことがあれば同じだ。
はっきり言って、光子にとってはデメリットの多い行いになるだろう。
「あの飛行機はもう私の手を離れていますし。それに開発者としての信用が失われても、別に構いませんわ。そういう生き方をこれからもするつもりじゃありませんもの。ねえ当麻さん?」
「え?」
「こういう逃げ方はよろしくないのかもしれませんけれど。私が一番なりたいのは当麻さんの妻ですもの」
ぱしっと肩を叩かれた。インデックスがニヤニヤしていた。そっぽを向いて頬しか見えないが、光子が真っ赤なのはよく分かった。おそらく、当麻も同じなのだろう。
「そ、それじゃ、光子。いいんだな? そのプランで」
返事をせず、こっちも見ないで光子はコクコクと頷いた。
「それで、その二三学区っていうのは遠いの? この家からそこまでが、一番危険な道のりなんだよ」
「大丈夫ですわ。それにも、案がありますから」
つまりは、妙案を持っているのは完全に光子のほう、ということだった。





「あの子はどうだい?」
「さきほど少し見えました。傷は塞がって、歩けるくらいにはなっているようです」
「そうか。他に誰がいる?」
「あの少年達はいるようですね。それと家の持ち主は朝出かけました。それ以上は分かりません」
インデックスの匿われた部屋は、マンションの13階だ。それなりに高い場所にあるせいで、1キロ以上離れたところにある高層ビルの屋上からしか中を窺うことが出来なかった。
しかも間取りを手に入れたところ、あの家はかなり広い。神裂から見えないところに、5人以上は匿えそうだった。
最悪の場合、あの家には禁書目録を手にした魔術師に加えて超能力者、そして魔術を打ち消す少年がいることになる。その見積もりで行けば、人数でも実力でもこちらを上回る。
カーテン越しに横顔を見るのが精一杯の現状では、相手の会話を拾うことも出来なかった。まさか禁書目録を相手に、魔術を使った盗聴など出来るはずもない。
「……幸せそうですよ、とても」
「……」
ステイルは応えず、カチンとライターの蓋を開けた。くわえた煙草に火をつける。
神裂は憂鬱そうな表情で、カーテン越しにごく薄くだけ見える三人の影を見つめた。
「あの少年達の真ん中に座って、三人で、幸せそうにしていますよ」
「儚い思い出さ。どうせ、あと一週間もしたら、なかったことになるんだ。全部ね」
淡々と、ステイルが紫煙を吐き出す。
神裂はいつも、こういう時のステイルの態度を測りかねていた。強がりなのだろうか、それとも過去の出来事を乗り越えたのだろうか。まさか、どうでもよくなったとか、そういうことではないだろう。
二年。あの子に忘れ去られて、あの子の敵になってからもうそれほどの時間が経つ。それだけの時が流れてもなお、時折この境遇が神裂の心をギチギチと締め上げる。
「かつての自分達を、重ねずにはいられませんね。あの構図は」
神裂とステイルの間に座って、ああでもないこうでもないとはしゃいだインデックスの姿が、今でも脳裏に浮かぶ。
そしてそのヴィジョンにはいつも『最期』の姿がおまけとして付いてくる。誰にも悟られないよう、胸につかえた鈍く重たい何かを、ため息と同時にそっと吐き出した。
――――全てを教えれば、あの二人はインデックスのために泣きじゃくるのでしょうか。
自分達の背負った苦しみを、あの二人にも背負わせてやりたいような、暗い気持ちがかすかに芽生える。
「関係ないよ。僕らはこれからずっと、あの子のためにあの子から全てを奪うんだから」
気負いのない態度で、ステイルはそう応えた。神裂にもその決心はある。だが、きっと飄々とした態度のステイルのほうがきっと、神裂よりも強い覚悟があるのだ。
「それで。準備のほうはどうなっているのですか」
「あのマンションにうっかり焦げ痕を残したせいで、ちょっと近寄りがたかったけど、ようやく落ち着いてきたね」
ステイルは今、あそこに攻め込むのに必要な術式を組上げているところだった。魔術は思い立ったらすぐ、で使えるほど便利なものではない。相手を逃がさないだけの規模の魔術を構築するには、時間が必要だった。
「攻め入るまでに、どれほどかける予定ですか」
「60時間。僕はこれがベストだと思ってる。あっちがどういうつもりで篭城しているのかよく分からないけれど、あの子の回復を待っているのなら、ちょうどそれくらいの時間にあちらも動き出すだろう。未完成でも45時間後くらいで動けるようにはしておくから、何かあれば連絡をくれ」
「分かりました」
そう言ってステイルは、神裂のいる屋上の壁の目立たないところにルーンをぺたりと貼って、挨拶もせずに出て行った。
残り15万枚。マンションの周囲2キロに渡って、ステイルはルーンを刻み歩く。
神裂の仕事は、準備が終わるまで、幸せそうな一つの家庭を複雑な気持ちで眺める、それだけだった。





「おっふろ♪ おっふろ♪ おっふっろー♪」
リビングでインデックスが、そんな歌を歌っている。
昼からも何をするでもなくだらだらと家で過ごし、時刻はもう夕方だった。
インデックスが少し遅めの昼寝をしている間に、光子と二人で野菜や肉を調理して、後は時々灰汁を取れば終わりの段階だった。
作ったのはカレー。光子に無理なく手伝ってもらえるし、分量も稼げるから便利だった。
……まあどこから見ても新品だった鍋を使うのに抵抗はあったが。
台所の横を光子が横切る。和室に置いておいた着替えを持ってきたようだった。
「それじゃ、入りましょうか。インデックス」
「うん!」
「当麻さんは、ちゃんとお料理の様子を見ていてくださいね?」
「あ、ああ。わかってるって」
「別に私達の様子を見にいらっしゃらなくって結構ですのよ?」
「しないって!」
まるで信用されていないことにトホホとなる。
「とうまは全然信用できないもん! ねー光子」
「信じられないなんて言いたくありませんけど、当麻さんは、ねえ」
困りますわよねえ、なんて感じでインデックスと頷きあって、二人はバスルームへ向かった。
「昨日のあれでは拭き残しもあったでしょうし、ちゃんと洗ってあげますわ。インデックス」
「うん。ありがとねみつこ」
ひとりで風呂に入らせるとまだ危なっかしいインデックスに、光子が付き添う。
扉二枚を隔てたその先にお花畑があるのが、ちょっと悶々とするところもある当麻だった。
邪念を振り払いつつ、カレールーのパックをあける。
軽く割ってぽいぽいと鍋に放り込んで、焦げ付いたりジャガイモが煮崩れたりしないように少し注意しながら混ぜて、頃合を見て火を落とした。
ちょうどそこで、鍵がガチャリと開く音がした。
一瞬身構えたが、見知った長髪の美女、この家の家主だと気づいてほっとする。
「ふいー」
「あ、先生お帰りなさいです」
「へっ? ああ、上条いたんだっけか。ただいま。良い匂いがするじゃんよー」
「今日はカレーです」
「いいなぁ。帰ってきたらご飯を作ってくれてる同居人がいるって」
「彼氏作って同棲したらいいんじゃないですか」
「彼女持ちがそういうこと言うとムカつくじゃんよ」
軽く当麻を睨んで、手にしたリュックサックをリビングの所定の位置にやってうーんと伸びをする。
胸の揺れが大胆すぎて、思わず当麻は目を逸らした。まったく黄泉川は頓着しない。
「ご飯とお風呂、どっちにします?」
「ぷっ……上条、お前それ似合いすぎじゃん。それじゃあ風呂に入ってくるかな」
やけに主夫が板に付いた当麻の態度に黄泉川が噴出した。
独り暮らしをしてるんだから学園都市の男子はこんなもんだと思うんだけどな、と当麻は憮然となった。
「あ、先生。いまインデックスと婚后が入ってるんですけど」
黄泉川を当麻は止めようとした。さすがに三人目は入れないだろうし、待つ必要がある。
黄泉川は違う違うといった風に手を振った。
「分かってるよ。手を洗うだけだって」
そしてガラリと洗面所の引き戸を開けた。



「えっ? きゃあっ!!」
「あー、ゴメンゴメン」
「先生早くお閉めになって! 当麻さんに、その、あの……。当麻さん!」
「ごごごごめん!」
洗面所にはブラとショーツだけしか身に着けてない光子が、インデックスに服を着せているところだった。インデックスはすでに服を気負えていたせいで、難を逃れた。
デザインは黄泉川先生並に色っぽい。布地が少ないとかそう言うことはないが、清楚な常盤台の制服の下にあんなワインレッドの下着をつけているのかと想像すると、なんというか、こう、当麻も男の子なのである。
胸を庇うように腕を畳んだ光子が可愛い。スタイルには気を使っておりますし、自信もありますからと豪語する光子だが、さすがに不意打ちは恥ずかしいらしい。
……正直に言って、インデックスや黄泉川先生よりも、光子の体に当麻はドキドキした。



「……当麻さんの莫迦」
「う、でもあれは俺が悪いんじゃないと言いたい」
「間接的にでしたけど、きっと当麻さんが悪いんですわ」
髪を濡らしたまま出てきたインデックスとは対象に、光子はしばらく洗面所から出てこなかった。
唇を尖らせて文句を言う光子の頬は、まだ赤かった。
「でも、下着姿の光子、やばいくらい可愛かった」
「……もう。嬲るのはお止めになって」
「本当だって」
「どうしよう。今つけている下着がどんなのか当麻さんに知られてるなんて。落ち着きませんわ」
ひそひそ声で、二人はそんな会話を交わした。
今回は光子以外に被害がないので、怖いことはないのだった。恥ずかしがる光子がひたすら可愛い。
「あっ。て、天気予報の時間ですわ」
話を打ち切るように、テレビの前にいるインデックスの隣に光子が逃げた。
タオルでさらにインデックスの髪をぬぐいながら、一週間分の予報に耳を傾ける。
「良かった。24日は、夜までずっと晴れですわ」
「この街って天気の予知を無料で聞けるんだね。これって当たるの?」
「予報って言ってくれ。予知だとこの街じゃ別の意味になっちまう。で、この予報だけど、学園都市じゃ的中率100%だ。原理的に外れないんだよ」
「え?」
「お前だって算数くらいは出来るんだろ?」
「当たり前でしょ。馬鹿にしてるね、とうま」
「時速100キロで走る車は1時間で何キロ進むでしょうか」
「引っかけ問題なの? ……100キロに決まってるんだよ」
「なぜそう分かる?」
「なぜって……馬鹿にしてるの? とうま」
タオルをかぶったその顔で、インデックスは当麻を睨みつけた。
「そうじゃねーよ。今のは簡単な算数のレベルだけど、必要な情報をそろえたら未来のことでも分かる、ってのが科学だってことさ。もしこの地球に存在する全ての空気分子の動きを計算できたら、それって未来を予測できるって事だろ? 学園都市の上に浮いてる『おりひめⅠ号』って衛星に積まれた『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』ってスーパーコンピュータが、それをやってるんだ」
「分子? こんぴゅーた?」
「まあ、人間よりも計算の上手い機械に、一から全部計算してもらってるから正しい、って事だよ」
「ふうん。よくわからないけど、信じていいってこと?」
「……当麻さんの言っていることは間違いですけれど。およそ外れない、という意味では信じてよろしいわ」
黙って話を聞いていた光子が、仕方ないというように軽いため息をついて答えた。
そして間違いを指摘する時の先生のような表情で、光子が当麻を見つめた。
「当麻さんのそれ、よく巷で流れている説明ですけれど。そんなやり方で予測をしているはずがありませんわ」
「え……? そうなのか?」
「もう、計算科学なんて基礎の基礎……あ、ごめんなさい。自然科学系の能力者でもなければそうとまでは言いきれませんわね」
光子がタオルでインデックスの髪を拭くのを止めた。そして傍に置いたドライヤーで、髪を乾かし始める。
「たとえばここにある22.4リットルの空気。この中に空気の分子が一体いくついるかご存知?」
「アボガドロ個数個だから、6.02×10の23乗個だろ?」
「そうですわ。その全ての分子の、今この瞬間の情報を記憶するとしたら、どれくらいのデータ量になるでしょうか。仮に16桁の精度で位置と速度のベクトルを記憶したとすれば、三次元空間なら一つの分子につき384ビット、22.4リットルの空気なら2.3×10の26乗ビット、つまり200ヨタバイトくらいのメモリが必要ですわね。ヨタって分かります? 当麻さんの携帯はあまり新しくはありませんからテラバイトくらいのオーダーでしょうね。たった22.4リットルの空気の情報を記録するのに、当麻さんの携帯が1兆個くらい要りますのよ。地球上の全ての空気は、その一兆倍でも足りませんわ」
「えっと……まるで実感が湧かないな」
「ええ。それだけの情報をメモリに保存して、読み書きをするのは大変なことですわよ」
「だから無理、ってことか?」
「無理な理由なんていくらでもありますわよ。空気の流れはナビエ・ストークス式で解くわけですけれど、その微分方程式を解くには初期条件が必要ですわ。つまり、計算の始点になるある瞬間の、世界中に存在する全ての空気分子の位置と速度のベクトルを把握する必要があるということです。そんなこと、超能力者でもなければ出来ませんけど、そんなことが出来る超能力者はレベル5程度ではありえませんわ」
空力使いだから、だろうか。なんだか口調が当麻をたしなめるようで、謝ったほうがいいのだろうかと思案してしまうのだった。
「それにこの世界は量子力学が支配していますから、どこまでも確かなこと、なんて絶対にありませんのよ。過去も未来は一つに定まらない、というのが科学の常識ですのに」
「えっと、その、すみませんでした」
「え? あの。……ごめんなさい当麻さん。口が過ぎましたわね」
はっと我に返ったように、光子が謝った。充分に乾いたらしく、インデックスの髪に当てていたドライヤーを切った。
途中から話についてくるのを完全に放棄したインデックスが、ぽつりと聞いた。
「結局、この人の言ってることって信じていいの?」
「ええ。原理上、100%なんてことはありませんけれど、99.9%くらいまでは正しいですから」
「なあ光子。『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』がそんなにすごいわけじゃないのなら、何で外と違って学園都市の予報ってこんなに当たるんだ?」
「それは私達、空力使いの努力の賜物ですわよ。確かに気象というのは予測のしにくいカオスな所はありますけれど、外の学者はカオスという言葉を言い訳にしすぎですわ。カオスではないものにカオスであるってレッテルを貼って逃げたりせず、真摯に誠実に、空気の流れというものを見つめれば、もっと精度の高い予測モデルを組み立てられる、それだけのことです。この街には空気の流れが『見える』能力者が多いですから、もちろん大きなアドバンテージを持っているわけですけれどね」
「へー……ごめん。完璧には理解できてないかもしれないけど」
「ううん。こっちこそ熱くなってしまってごめんなさい。でも、『樹形図の設計者』は力技で何でも出来る夢のスーパーコンピュータではありませんわ。結局、外から見てもたかだか30年しか進んでいない技術ですもの。分子レベルで世界の全てを演算することなんて、それ自体がこの街の最終目標そのものですわ」
小萌先生が時折口にする『SYSTEM<神ならぬ身にて天上の意思にたどり着くもの>』という言葉。当麻はそれを思い出した。軍事にも民生にもとてつもなく貢献しているレベル5の超能力者でさえ、学園都市にとっては副産物でしかない。神様にしか分からないことを理解するために神様みたいな人間を作ること、超能力者の総本山は自分達のスローガンが神学的なことを、むしろ逆説的に愛していた。


バタリと、そこで風呂の扉が開く音がした。黄泉川先生が広から上がった音だ。
「あ、あいほが上がってきた。ほらとうま、早くおふろ入って。とうまがお風呂からあがってこないと晩御飯食べられないんだから」
「ん。わかった。けど先生がちゃんと出てきてからじゃないと動けないだろ」
「むー。それはそうだけど」
インデックスに苦笑いしつつ当麻は腰を上げる。自分の着替えを整えるためだ。
なんだかんだでインデックスがご飯を待ってくれるのは、実はちょっぴり光子が怖いからなのだった。

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あとがき
工学系の専攻の統計熱力学の授業で、教授が「古典力学、ニュートンの世界では未来と過去は唯一つですが、これに不確定性原理を導入すると未来は一つではないし、過去も一つではありません」なんて言いだしたときにはドキドキしたもんです。量子力学なんて化学反応のためにあるとしか思ってなかったですからね。



[19764] ep.1_Index 09: 鬼ごっこ
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/28 00:46
怪我をしてから、きっかり三日。夕焼けが街を真っ赤に色づけている。その日が落ちれば、動き出すことになっている。
インデックスはこの三日でかなりの回復を見せた。
はじめて見たときと同じ、瀟洒な刺繍の入った修道服に身を包み、頭にフードを載せる。もう一人で歩くくらいは、何の問題もなかった。
とはいえこれから敵に追われてかなりの距離を走るのだ。それには不安がないわけではない。
「もう、走れますの?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃなくても、走ることになるけどな」
「そういうこと。それじゃあ、二人の準備はもういいの?」
当麻と光子は、コクリと頷く。光子がインデックスの服のよれを直した。
「ねえ。もう一度だけ聞くね。本当に、私についてくるの?」
「ああ」
「ええ」
「ここでお別れしたほうが、二人は幸せかもしれないよ」
「それはない」
「そんなことをしたら、ずっと後味の悪いものが残りますもの」
当麻と光子の返事は素っ気無かった。もう決まりきったことだからだ。インデックスは、もうそれ以上は聞くまい、と思った。
もし、本当の本当に危機が迫ったなら、自分が囮になれば二人はきっと助けられる。
一度相手を振り切れば、あとは自分ひとりで何とかなるのだ。これまでもそうやって生きてきたのだから。
今ここで二人と別れない理由は、相手に補足されているからではないと、インデックスは分かっていた。
別れたくないのだ。この数日間が自分にとってかけがえのないほど暖かだったから、それを手放したくなくて、自分は二人の好意に甘えているのだ。
……心のどこかでそう分かっていながら二人を突き放せない。
それは禁書目録を背負う強い少女の、弱さだった。
部屋の明かりはまだ点いていない。いや、今日はもう点ける予定のないものだ。
黄泉川に書置きは残さなかった。保護してくれた人間を振り切って逃げるのに、ありがとうを言う資格はないだろう。
インデックスはついさっきまで、そこにあった穏やかな空気に別れを告げる。真っ暗で人のいないリビングは、何も返事を返さなかった。
「じゃ、行くか」
「うん」
「まずはこのマンションを無事降りるのが一番の仕事だな」
「だね」
当麻が、ドアノブをひねる。
ガチャリというありふれた音が、戦いの火蓋を、切って落とした。


「な、なんか拍子抜けするくらいだな」
「……」
マンションを出てすぐ。
インデックスは廊下をざっと見渡して、あの炎の巨人を呼び出すルーンがないことを確認した。
そしてエレベータが近くの階にいたのを見て、それで降りてきたのだ。当麻と光子にしても三日ぶりの下界だった。
「人が、いませんわね」
社会人の帰宅には少し早い時刻。おかしいとまでは言えない。
「思ったより、速いかも」
「え?」
「もう私たちの動きを知ってて、人払いの魔術が発動してる!」
「っ……走るぞ!」
「はいっ」
目指すは駅。沢山の人を乗せた交通機関に乗れば、相手は手出しが出来ないはずだ。だからそれは相手の最も警戒していることでもあるだろう。
これは鬼ごっこ。
逃げるこちらは三人。そして追うあちらは二人と、そして。
「とうま! 右!」
「くっ、おおおおおおおお!!」
何の拍子もなく不意に現れる、炎の巨人。
発現からノータイムで襲ってくるそれは、インデックスの指示がなければ対応すら出来ない。
黄昏時のなんてことはない道路が真っ赤に照らされる中、当麻の右手が炎と拮抗する。
当麻一人なら、もうこの時点で詰みだろう。
「当麻さん!」
地を走るのが仕事のはずの大型バイクが、滑空する。
鈍重で知性を感じさせない炎の巨人は、ぼんやりとそれを見つめる。
粘性のベシャリという音とともに『魔女狩りの王』は飛び散った。
「光子! 無理するなよ」
「このくらい! 平気ですわ」
「能力は使いすぎると消耗するんだから、光子は温存してくれよ」
「はい。分かっていますわ。でも当麻さんが」
「大丈夫。何とかなる」
「二人とも! もうこっちは終わったから! 行こう」
壁に黄泉川家から持ってきた果物用のペティナイフで何かをガリガリと刻んでいたインデックスが走り出す。
進むにあたってやることは、変わらない。
顕現の前触れをインデックスが読み取って、当麻に指示を出す。当麻が炎の巨人の腕をつかんで動きを止める。
光子がそこらにある何かを投げつけて、『魔女狩りの王』を吹き飛ばす。そしてまた逃げる。それの繰り返しだった。
10メートルに一度、インデックスが壁や木にナイフで何かを刻む数秒と、50メートルに一度、顕現しなおして襲ってくる『魔女狩りの王』をいなす数十秒が、三人の足を止める障害だ。
全力で走っているはずが、結局早足程度のペースにしかならない。
「あっちがこのままだったら、乗り切れるんだけどな」
「うん。とうまとみつこがいればこの術式だけなら楽勝だね。でも」
「もう一人」
インデックスを背後から切りつけた、あの女がいる。あちらにこちらの動きが知られているのは明らかだ。
ものの数分で襲ってくるだろう。駅までは幸い1キロもない。
問題は、そうなる前にどこまで逃げられるか。




「そちらの首尾はどうですか、ステイル」
「予定通りだけど、人払いに忙殺されそうだ」
「では『魔女狩りの王』のみの参戦で貴方は裏方に徹するのですね」
「そうなるね。ま、止めは君に任せるよ」
「誰も死なせる気は、ありませんが」
「そうかい」
通信魔術で二三言ステイルと話をしてから、息一つ切らせず、神裂はビルの最上階から地上までを降り切った。
エレベータよりも自分で降りたほうが早い。その膂力を遺憾なく発揮して、神裂はインデックスたちとの距離を詰めにかかる。
殺したくない、と神裂は思っている。
確証はないがインデックスを匿った少年少女は、禁書目録を悪用する気のある人間に見えなかった。もっと素朴な好意で、匿っているように見えた。
昨日と一昨日の二日間は、チリチリと自分の中の思い出を焦がすような嫌な気持ちを感じるくらい、彼らはごく自然に、仲睦まじく見えたのだった。
自分の直感が正しいのなら、あの二人は自分が刀を振るっていい相手ではない。
――もちろん、インデックスを救うことよりそれは優先しない。
結局、自分は二人を死なない程度に痛めつけることになるのだろう。誰も傷つかないで、誰もが幸せになることはもう、諦めていた。
「お願いだから、あの子を素直に渡してください」
まだ少年たちに対峙もしていない。聞こえるはずのないお願いを誰にともなく呟く。
話し合いの出来る相手であって欲しい。もしそれが叶う相手なら、まだしもましな未来を全員に配り歩ける。

神裂の目が夕闇を走るインデックスを捉えた。純白の修道服はよく映える。
逃げられやすくなるというから不都合なことだが、足取りが確かであることに、神裂は安堵した。
「止まりなさい!」
その一言で、三人がびくりと振り返った。だが覚悟は決めてきてあるのだろう。誰一人、足を止めなかった。
「言い方が悪かったですね。止まらないのもご自由ですが、その子の回収だけはさせていただきます」
ギリ、と自分を睨む少年の顔を見つめ返した。
――と同時にコンクリート辺が、神裂めがけて飛んでくる。
七閃でそれを落とす。神裂にとってどうということのない攻撃だった。
「そちらこそ、言葉一つで説得されてはいただけませんの?」
「申し訳ありませんが、そうもいかない事情がありますから」
意志の強そうな瞳。敵は少年一人ではないことを神裂は確認した。

追いすがる神裂に、もう一片、コンクリート片が飛んできた。
先ほどと同じ。神裂の足を全く緩めさせることのない無為な攻撃だった。
無駄と思いつつも、忠告はする。それで相手の心が萎えてくれればと僅かに願うからだ。
「無駄です。石やコンクリートなど、一瞬と言われる時間に七度は切り捨てられますから」
「じゃあ、炎は切れるの?」
「え?」
久々に、あの子から話しかけられた。不敵に笑った目で、憎憎しげに見つめられながら。
「――――っ!」
呼吸が止まる。瞬間、右に弾け飛ぶように逃げた。
『魔女狩りの王』が神裂のいた場所を抱きしめた。
「まさ、か。もう」
「ちょっと読むのに苦労したけど。ルーンなんて所詮はラテン文字の亜種なんだから。ゲルマン系とラテン系の古語を知ってれば知らない文字があっても読めるんだよ」
神裂は背筋が寒くなるのを感じた。
ステイル・マグヌスは失われたルーン文字を復活させ、新たに力ある文字を加えるほどの術者だ。あの年齢にして、ルーン使いの中ではトップクラス。
そのステイルが己の全てをかけて編み出したのが『魔女狩りの王』だ。
それを、インデックスはほんの一瞥で読み取り、それどころか逆手にとってしまっている。
それは魔術師としての底を見透かされたということだった。
インデックスという少女が蓄えた知識、それが凄まじいものであることは神裂も知っている。
だが、こうまでも恐ろしいものなのか。ここまで読まれてしまうものなのか。
――――手の内を明かしてはならない。
自分が何者なのかを知られればどんな『毒』を吹き込まれるか、分かったものではない。
神裂は、自身の使える魔術はどれ一つとして見せることが出来ないのだと、悟った。

インデックスが何かを呟く。
再び、『魔女狩りの王』は禁書目録の命に従い、神裂に襲い掛かった。
遠隔操作なのがまずい。ステイル本人が目の前にいれば、操作を奪い返すことも出来るだろうに。
「くっ!」
無様に『魔女狩りの王』から逃げる。
防ぐための魔術を使うことが許されない条件では、神裂にもそれしか手がなかった。
いや、唯一手はある。
なんの手加減もせず、全力の抜刀術をもって『魔女狩りの王』と少年達切り殺せばいい。
正確には、何の手加減も出来ないのだが。そうすれば何の障害もなくなって、晴れてあの子を助けることが出来る。
禁書目録は恐ろしい存在だが、単体ならただの非力な少女なのだ。
……だから。三年前、自分は彼女の傍にいたのだ。
「切らなければ、ならないのですか」
神裂は呟く。出来ることなら、と辺りを見渡す。
幸い『魔女狩りの王』は鈍重だ。次に襲い掛かってくるまでに退路を確保しようとして。
『魔女狩りの王』が突然進路を変えて、超能力者の少女に襲い掛かった。


「光子!」
神裂とは違い、あちらの陣営には魔術に対するジョーカーがある。上条の右手が『魔女狩りの王』の身動きをあっさりと封じた。
「そういうことですか。ルーンを書き換えた場所でしか、貴女は『魔女狩りの王』の制御を奪えないのですね」
「とうまがいればそれでも充分だけどね」
「そうですか?」
返事をするのと同時に七閃を繰り出す。
滑空する自転車と、神裂に向かっておかしな勢いで倒れこむ樹木を細切れにした。
どちらもあの少女の能力だろう。それで足止めをする気らしい。
「私の足止めが甘いように思いますが」
「もう終わったけど?」
上条が押さえていた『魔女狩りの王』が姿を消して、また神裂に襲い掛かる。ルーンは木にナイフで刻むもの。習字のような丁寧なものではない。
『魔女狩りの王』が正しくあちらを攻撃するのは少しの間だけ。
「ふっ! ……成る程、厄介ですね」
「当麻さん! 速く!」
「おう!」
三人は住宅街の信号のない道を抜けて、駅前大通りに抜け出た。閑静だった住宅路とは違い、いつもよりずっと少ないものの車の往来がある。
まさに今、人の気配が消えつつある場所のようだった。
「やっぱり。こんな大都市の駅前から五分で人を消すことなんで無理なんだよ」
「ってことは一旦逃げ切れたってことで良いのか?」
「楽観されては困りますね!」
『魔女狩りの王』を避けながら、こちらに神裂が追いすがってくる。もうすぐにあちらも大通りに出てくることだろう。
こちらが開けたところにいて、あちらが隘路にいる。この一瞬がチャンスだった。
「光子」
「ええ。分かっています」
婚后光子の能力は、豪快だった。
本当は繊細な能力の使い方もあるのだが、本人の性格のせいか、とかく『ぶっ放す』ことが多い。
今しようとしていることは、その際たるもの。

神裂はチラリと目の前の少女と目が合ったのに気づいた。
それで、何かを仕掛ける気なのだと看破する。戦い慣れのしない、分かりやすい視線だった。
先手を取られる前にこちらから仕掛ける、そう決めて踏み足にぐっと力を込めたところで。

ぶわっと、足元から突風が吹き出した。呼吸が止まる。
この風速ではフルフェイスのヘルメットでもして口元の風を緩めないと息も出来ない。
体に先んじて吹き上げられた長髪に痛みを感じながら、神裂はなすすべなく大空に舞い上がった。
――――やられた。
神裂は空で自分を動かす方法を知らない。落下までの五秒がひどく緩慢だった。
「凶刃を振るう貴女に、手加減はしませんわ。この子を傷つけたことを後悔なさい」
視界の外から、冷ややかな声が聞こえた。少女の声は、身の危険に戸惑っていた先日とは雰囲気が違っていた。
次の瞬間。
バシュゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ
圧縮空気が激しく空気をかき乱す音と共に、重量1200キログラムのそれが、持ち上がった。
「な……っ!」
「死なないように受身をお取りになることね」
神裂に出来るのは斬ることだけだ。だが切ってなんになる。運動量は切ったところで減りはしない。
目の前に迫る乗用車に対し、神裂に出来ることは何もなかった。

ガゴッ!!

神裂は、時速30キロで空を飛ぶ乗用車に、なす術もなく轢かれた。




ガヤガヤとしたショッピングモールを足早に駆け抜ける。
人払いが全く効いていないのか。それとも諦めたのか。夕暮れ時の駅ビルの中は帰宅中の学生達で一杯だった。
「ついてきていますの?」
「わかんないんだよ。魔術の気配がしないから」
「それは逃げ切れたって意味じゃねーのか」
「探してるのは間違いないから。それに追いかけるのが専門の相手から逃げ切ることなんて簡単には無理」
土地勘のある上条の先導で人ごみを突き進む。
長髪の女に対しては、あれから三台くらい車を住宅路の先にねじ込んで、道をふさいでおいた。
迂回したのか乗り越えたのか、その光景に立ち会うより先に三人は駅前に飛び込んでいた。
今のところ、あの赤髪の神父からもあの女からも、見つかっていないように思う。
もう目と鼻の先には、最上階にあるモノレールの駅へ通じる広場があった。
「まだ走れますの?」
「大丈夫だよ。光子こそ、まだ疲れてない?」
「ええ。大したものは飛ばしておりませんから」
インデックスのしっかりとした足取りにほっと一息をついて、再び前を向いて走り出した時、光子はドシンと人とぶつかった。
「ごめんなさい」
一言謝って、あとは無視する気だった。知らぬ人の心象が悪くなったところで、どうでもいい。
だが、その人から、声をかけられた。
「あ、婚后さん?」
「えっ……佐天さん!?」
「どうしたんですか?」
「いえ、その」
「みつこ!」
「ごめんなさい、今急いでいますの。お話はまた今度」
「え?」
佐天は友達と遊んだ帰りに、駅前をぶらついているだけだった。
急に会って驚きはあったが、できれば光子にいろいろと報告したかった。だが後姿はもう人影にまぎれ始めている。
――知り合いと一緒にいて、やけに焦ってるみたいだったなー。婚后さん。
この時間は五分に一度電車が来る。あんなに焦って一体どうしたのかと首をかしげた。
いや、焦りというよりはむしろ、緊張感に近かったような。
まあいいやと忘れようとしたところで、ふたたび背後からカツカツと足早な音を聞いた。
振り向くと、気持ち悪いくらいの赤髪の、長身の神父がいた。
終日禁煙指定の学園都市の公共スペースでくわえ煙草をするその姿は、衆目を集めずにはいられない。佐天も多分に漏れず、その神父を凝視してしまう。
……と、その神父が辺りを見渡して、光子たちがいる方向に目線を合わせて、すぐさま歩き出した。
直感で、佐天はその神父と光子たちが関係が有るのだと、そう感じた。光子たちは神父にまだ気がついていないように見える。
そして彼らの関係は、きっと平穏なものではない、そう佐天は判断した。
自然と次に佐天が取った行動は、思慮の結果というよりは、直感に近かった。
「婚后さーん! こっち!」
ぶんぶんと、探していた友達を呼ぶように手を振る。
それなりに声を出したから、近くの人たちがいっせいに佐天を見た。
もちろん、光子たちも。そして佐天の意図どおり、佐天以外の誰かを見つけたのだろう。
急に足取りを速めて、その場からいなくなった。
「チッ……」
忌々しそうな目で、神父がたっぷり三秒くらいこちらを睨みつけた。
それに対して目を合わせずに、あれーおっかしいなあ、という態度を佐天は繕った。
急いでいるからか、もとからそれほど佐天には興味がないのか、神父は目線を外すとすぐ光子たちを追い始めた。
そこまでして、佐天は自分の背中が嫌な汗で濡れているのに気づく。さっきの神父の視線は、なにか普通と違う、嫌な視線だった。
もし光子たちが困っているのなら何か手伝ったほうが良いかもしれない。
そう思いながら、しかし佐天は足が前には向かなかった。




「神裂、そっちは?」
「今、駅の改札にいます。彼らは今どこに?」
「間に合ったらしいね。こっちは今から広場に出るよ」
そう言った瞬間に、ステイルは広場に出た。中央のエスカレータを上れば改札だ。
階上にいる神裂と目線を合わせる。距離にして30メートルくらいの二人の間に、ちょうどインデックスたちを挟みこめた。
「悪いね。モノレールの旅はまた今度にしてくれ」
三人に聞かせるでもなく、そう呟く。ここを目指すであることは前日から予想できていたから、ここの地図は完全に記憶に入っている。
この配置で、次に逃げる位置はもう一つしかない。
少し遅れて三人は神裂に気づいたらしかった。慌てて進路を変えたのが分かる。
ステイルも神裂も、すぐには追いかけない。都合のいい方向に逃がしていくのにちょうどいい距離、というものがあるからだ。
逆に言えばそれを測れるだけの余裕があるという意味でもあった。
三人が広場を後にしてきっかり15秒後、神裂とステイルは合流した。
「さて、それじゃあ仕切りなおそうか」
「ええ。あちらも充分消耗してきているでしょう」
「そういえばさっき、随分と外で面白そうなアトラクションが見えたね」
空を飛ぶ車に轢かれるという貴重な体験をした神裂が、ふんと鼻を鳴らす。
まんまとしてやられたのことに少し自分で苛立ちを覚えているらしかった。
「……全身を打ちましたから本調子とは言えないですが、どこかを損傷したということはありません」
「そうか」
別ルートから上条たちを追い抜いて改札に先んじるくらいのことは、出来る状態だった。
神裂の受けたダメージついては、ステイルは問題ないと判断した。
これからは、振り出しに戻る、ということになる。
目の前の通路はエレベータと螺旋階段に繋がっていて、上に行けば袋小路、それを避ければ下に、つまりまた街中へと出て行くことになるからだ。
五分に一度、百人単位で人を吐き出す駅前を無人にすることはかなり無理があるが、人の流れに手を加えることは出来る。
彼らの逃げる先は人のいない、つまり『魔女狩りの王』とステイルと神裂、三人で立ち向かえる場所だった。
「エレベータがちょうどあったらしいね」
「こちらは間に合いませんね」
目の前で三人がエレベータに乗り込むのが見えた。15秒遅れて、ステイルたちもたどり着く。
「そう速くないことを祈るね」
「走って降りても追いつけるでしょう。扉の開閉は時間の掛かるものですよ。……ちょっと待ってください! ステイル」
「どうした、神裂」
ステイルは階段を下りようとして、立ち止まる。
「エレベータは上へ向かっています」
「……まさか、上に逃げたのか?」
このエレベータは一階と、駅のあるこの階と、そしてビルの最上階の展望台にしか止まらない。
つまり展望台に上がってしまえば、逃げ場がないのだ。非常階段で下りることは可能だろうが、それにしたって結局一階まで一本道。
「してやられたね。上と見せかけて下に行ったか」
「あるいは本当に上に逃げていて、こちらの予想を超える手立てがあるか、ですね。混乱をきたして愚策を選んだのかもしれませんが」
「二手に分かれるか?」
「そうですね。ただ、手の内を読まれているあなた一人では苦しいのではありませんか、ステイル」
「……嫌なところを突いてくるね」
「私が上に行きます。ステイルは下を探してください」
「わかった」
僅かな目配せ。マントを翻してステイルがその場をすぐに去った。
神裂は軽く息を整える。上に登りきったエレベータが、もうじき降りてくるところだった。




屋上展望台に出て一息つくほどの暇も与えられないまま、エレベータは再び下に降りて新たに誰かをまた、ピストン輸送してきた。
……いや、誰かとは言うまでもない。心当たりが一人しかいなかった。
「ああ、ステイル。こちらにいましたよ。……ええ」
手にした携帯電話で、ひとことそんな連絡を取る長髪の女。上条たちの後ろに、神裂火織が追いついた。
「それで、どうするつもりなのですか」
大きめの声で神裂が声をかけた。このビルの屋上はかなり広かった。
神裂のいるエレベータ前からここまで、一挙手一刀足の距離とはいかないだろう。
「別に。覚悟を決めてた、そんだけだよ」
「覚悟、ですか。捕まる覚悟をしてくれたのならいいのですが。無駄と知りつつ戦う覚悟でもしましたか」
真っ直ぐではなく、神裂は壁を伝うようにしながら上条たちに近づいていく。非常階段がそちらにあるからだ。
下に逃げられたところでステイルがいるのだが、神裂はもう、ここでけりをつける気でいた。
「ちげーよ」
上条は、不敵に笑った。……正直に言うと、ちょっと恐怖心を隠していた。
インデックスは祈るような仕草をしていた。祈りたい気持ちは、上条には分からないでもない。
そっと目を開いたインデックスが、上条を前から抱きしめた。
唐突の抱擁に、神裂は混乱する。
「……な、何を」
「何の覚悟を決めたかって言うとな」
上条がカチャカチャとベルトを伸ばしてインデックスに巻きつけて、素早く留めた。
二人は屋上の端から2メートルくらい離れたところにいる。上条が端に背を向けて、インデックスがビルの外を向いていた。
そのインデックスの背に、とん、と光子が触れた。
「マジでコレ聞いたときは怖いって思ったし、やっぱ実際にここに来るとビビっちまったんだよ。ちょっとそれで覚悟に時間がかかったんだ」
「酷いですわ。私、100キロ程度の質量を100メートル飛ばす時の誤差は5センチ以下ですのよ?」
「もうなんでもいいから早くして!!」
神裂はその言葉で、むしろ自分達が手玉にとられていたのだと悟った。
ついさっき、見せられたではないか。目の前の少女はトンを超える鉄塊でも飛ばせるのだ。人間など、造作もないことだろう。
「地図を見れば分かることですから、お教えして差し上げますわ。この一体には数キロ四方に渡ってビルが乱立していますの。私達がどれを伝っていくのか、せいぜい頑張ってご推理なさるのね」
「くっ……させません!」
「もう遅いですわ」
神裂は分かっていなかった。光子がインデックスに触れた瞬間から、気体のチャージは始まっているのだ。
常人離れした膂力で神裂が間合いを詰めるよりも早く、上条とインデックスは、空を飛んだ。
「いぃぃぃぃぃぃぃぃやああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
「うわぁぁぁぁ! ってインデックス! 落ち着け!」
「……だから大丈夫だって言ってますのに」
屋上から飛び降りた経験のある人にしかわからないだろう。
掴まるものが何もない空中から、街を見下ろすのがどれほど怖いことかなんて。
三人は、神裂を振り切って、空を伝って逃げ出した。
……あといくつも、これをやらなければならないのかと思うと、上条はゾッとした。




「ただいま。帰ったじゃんよー」
ガチャリと黄泉川は自宅の扉を開けた。
ようやく家に誰かがいて、ただいまというのが習慣になってきたところだった。
「あれ?」
部屋が、暗いのに気づいた。
さすがにもう明かりをつけないとやっていけない時間帯だ。
それに夕食の匂いもしない。こちらから要求こそしなかったが、子供達は毎日食事を作ってくれていた。
「おい上条、婚后、インデックス、いないのか?」
……結果は明らかだった。
きちんと掃除された部屋、片付けられた自分達の布団。彼らの私物は一つもなかった。
ここを出て行ったと、いうことなのだろう。
「あんの馬鹿野郎ども……」
警備員である黄泉川を信じられなかったのか、それとも迷惑を掛けたくなかったのか。
どうでもいい。――――無事でいろよ。
黄泉川は荷物もおかずに、再び街へと駆け出した。



[19764] ep.1_Index 10: ここに敵はいない
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/27 18:35
いくつものビルを飛び越えるうちに、インデックスがぐったりしてきた。
ヴァーチャルリアリティなりあれやこれやで、学園都市の人間は非常識に慣れているほうだ。
インデックスも魔術的な意味では非常識に慣れているだろうが、さすがに人に任せて生身で飛翔するという行為は気疲れするらしかった。
「平気か?」
もうそういう次元じゃないんだよ……」
インデックスは当麻の胸に顔をうずめたまま、もごもごとそう呟いた。
隣の光子の顔を一瞬気遣うが、まったく意に介していなかった。
それもそのはず。光子はそれを気にする余裕がないほど、疲弊していた。
「光子、そろそろ」
「大丈夫です。まだ、いけますから」
「……ん、分かった」
そっと、というには若干重たいどしんという音と共に腰から地面に落ちる。
地面というのは勿論どこかの屋上だ。さっきはビアホールの片隅に下りて悲鳴を上げられた。だんだん、着地の瞬間が荒くなっている気がする。
光子にとって長距離を飛ばすことと落とす場所をコントロールすることは大した苦痛ではない。
ただ、壊れないようにそっと物を「降ろす」には細心の注意が必要で、それが光子の集中力をガリガリと削っていた。
その光子に何もしてやれない苛立ちが当麻の中で募る。
右手はポケットに入れっぱなしだ。空中でうっかりインデックスの背中にでも触れようものなら、その瞬間から垂直落下が始まるのだ。洒落にならない。
「……ごめんなさい当麻さん。これが多分、最後になりますわ。
 これ以上はもう当麻さんたちをちゃんとコントロールできなくなりそう」
「ここまで来りゃかなり引き離しただろ。このまま行けば逃げ切れるはずだ」
「ありがとね、みつこ」
ニコリ、と光子はくたびれた顔で微笑んで、インデックスの背中に触れる。人間二人を持ち上げるだけの力が、その背中に加わった。
またインデックスの表情が苦しげになった。この瞬間は呼吸が止まるからだ。人間の体は瞬間的な力には弱いが、ゆっくり掛けていけばかなりの応力に耐える。
この発射の瞬間も、光子の精神力を削る作業の一つだった。
「――――ぷは」
「うし、これで終わりだな? 外すぞ」
「ん……」
「終わり、ですわね」
最後のビルに飛び移ってすぐ。光子が浅い息をつく。当麻はインデックスから離れて、光子を抱きしめに行った。
顎を伝う汗を指で拭ってやる。
「あ……ごめんなさい」
「いいって。お疲れ、光子」
「こんなの、大したとはありませんわ」
つんと澄まして強がる光子がつい可愛くて、頬と髪を撫でる。
ただ急いだほうがいいのは分かっているから、名残惜しくても慰撫するのはそれで終わりにした。
「とりあえず降りるか」
「ええ」
上条たちがいるのは4階で終わりのビルだ。
狙っていたわけではないが、階段なりエレベータなりを駆け下りるのに楽なビルだった。



下に降りると、幸いに大通りにタクシーがいくつも走っていた。一番先に呼び止められたのが、幸運にも無人タクシーだった。
乗ったのが誰なのか、誰か一人の学生証の提示が必要だが、余計な受け答えはせずに済む。
「お待ちになって。私が先に乗りますから」
「え? ああ」
光子を先に乗せて、奥から光子、当麻、インデックスの順に後部座席に乗り込んだ。
当麻の身分証をかざして行き先を告げると、タクシーは静かに走り出した。緊張をほぐすのに、数秒がかかる。
「なんとか、乗れたな」
「ええ……。当麻さん!」
ぎゅっと、突然光子に抱きつかれる。反対側のインデックスも当麻の腕を抱いて、もたれかかってきた。
「ど、どうした二人とも」
「良かった。二人をちゃんと怪我させずに、運べましたわ」
「ありがとな、光子」
「嬉しい。こんなにも自分の能力が誰かのためになったことなんて、ありませんでしたの。自慢には思ってきましたけど。でも、やっぱり大切な人のためになるときが、一番嬉しい」
「みつこ、ありがとね」
「ふふ。礼には及びませんわ」
当麻の胸の辺りで、二人が見詰め合ってそっと微笑んだ。当麻はそれで心が随分と癒されるのを感じた。
一人じゃないというのは、すごいことだと思う。
どんなに疲弊していても好きな子のためだから頑張れるし、その子が微笑んでくれば、疲れさえ吹き飛んでしまうものなのだ。
それは、絶対に一人では起こることのないサイクルだった。
「どれくらいかかるの?」
「えっと、どれくらいで着きますか?」
誰もいない運転席に向かって問いかける。スピーカーが抑揚のない声で『あと20分程度です』と返事をした。
あと20分は、タクシーに任せて心と体を休めることが出来る。その言葉に上条はほっとした。
上条自身は、出来ることのなど知れていると分かっていても、気を緩める気はなかった。
自分を頼って、安心してくれている二人がいるだけで、充分だった。
……同時に、良くないことだと知りつつ、光子の言ったその言葉に、嫉妬を覚える。
役に立っていないとまでは行かないが、上条当麻がこれまでずっと付き合ってきた、右手に宿る『幻想殺し』は、さっきは光子の邪魔になる存在だったし、刀を振るうことを主体にしたあの長髪の女に対してはまるで無力だった。
別にヒーローになりたいって訳じゃ、ないけどな。そう心の中で呟く。
両手がふさがれているから、頬でインデックスの髪に触れた。さすがに寝てしまうつもりはないのだろうが、かなりリラックスできているらしかった。
それを見て思いなおす。自惚れじゃなく、今二人の女の子が心の拠り代にしてくれているのは自分なのだ。
元から折れるつもりなどないが、それでも、自分が心折れてしまえば、きっと二人も崩れていくだろう。
「光子。好きだよ」
「……はい。ふふ」
「とうま。私にも何か言ってくれてもいいと思うんだけど」
「あー。好きだぞ? お前のことも」
「別に良いけどなんかみつこより言い方がぞんざいなんだよ」
「きっと照れ隠しですわよ。大丈夫。みんなが笑える未来を、手繰り寄せましょう」
「ん。そだね」
再び光子とインデックスが微笑み会う。三人は、じっと絡まりあって、20分の猶予を過ごした。



お金を支払って、タクシーを降りる。
動き出したときには夕暮れ時だったのが、今はもう、夕焼けが遠い空に僅かに残るだけだった。
二三学区そのものはセキュリティの塊なので、車で入ろうとすると厄介だ。だから降りた場所は、二三学区の近くの住宅街。
正規の入り口からはそれなりに離れた場所だった。
「なぁ、これ、乗り越えて大丈夫なのか?」
「ええ。そもそもこの広い学区の全域に監視の目を光らせるのはかなりコストがかかりますから。重要な施設の周りにだけ、重点的に監視網が敷かれていますの」
固体表面における気体分子の物性物理が専門の光子は、航空産業の中心地である二三学区とはそれなりに関係が深く、内情をよく知っているようだった。
常盤台中学きっての空力使い、その面目躍如といったところだろう。
「だから、このフェンスなんていい加減でしょう? 本命の滑走路の近くにはもう一重に険しい障壁が有りますわ」
がしゃ、と光子が金網のフェンスに手をかけた。イタズラをする子供への対策なのか金網の壁に返しがあって、上手く越えないといけない。
とはいえおざなりなものなので、越えられないようなことはない。
「じゃあ、これを登ればいいんだね?」
「そうですわ。あの、当麻さん。絶対にこちらを見ないでくださいね?」
「え? ……ああ、うん。わかった」
「こっちも駄目なんだよ?」
光子の貼り付けたような微笑に戸惑いを覚える。インデックスも光子の言わんとすることを理解していた。
登るときにも降りるときにも、光子の短いスカートは非常にきわどい光景を提供してしまうのだった。
インデックスは長いローブだから見えにくくはあるが、一度見えると胸元まで全部行ってしまう作りだ。
本音は極力出さないように努めながら、当麻は気にしていない風を装った。

ガシャガシャと音を言わせて揺れる金網に精一杯気を使いながら、暗い学区の境のフェンスをよじ登る。
住宅の並ぶ手前とは対照的に、これから行く先はだだっぴろい場所だ。
アスファルトは打ち付けてあるが、ひび割れから草は生えているし、殺風景な印象しかない。
「あの遠くに、機首が見えますでしょう? あれに、忍び込むのが目的です」
三人でフェンスを越えて、フェンス際のライトから遠ざかる。
もう一般人には見つかることのない場所だった。これから見つかるとしたら、学園都市の治安部隊だ。
そしてそれはインデックスと光子の社会的死を意味する。上条は失うものに乏しいのだった。
「見つかれば勿論終わりですわ。あそこに近づいてからは、絶対に私の言うことを守ってくださいね」
「わかった」
「うん」
「それまではどうせ見つかる理由もありませんし、さっさと向かいましょう」
そして、三人は歩き出した。学園都市の掟を破った、その第一歩目はなんてことがなかった。
見つかる心配の低い場所で、緊張感がなかったせいとも言えるだろう。
万が一に備えることは難しいことだが、一番体力のある自分がしっかりしなければと、当麻は言い聞かせた。


何歩目か、両手で足りる程度だろう。歩き始めてすぐの、すぐその時。
――――上条は左足のふくらはぎの辺りに、すっと何かが走る感触を覚えた。紙で指を切ったときに近かった。
「え? あ……ぐ、あああぁぁぁあ!」
「とうま!?」
隣にいたインデックスが当麻の声に不審がるより先に、当麻は足で自重を支えられずに、地面に倒れこんだ。
「不意打ちで恐縮ですが、これ以上先へ行かれると困りますので」
先ほどから、何度も聞いた声だった。姿はほとんど見えないが、誰なのかは聞くまでもない。
その追跡者の体の近くで、糸状の何かが、きらりと瞬いた。
神裂火織と名乗る、魔術師だった。




「当麻さん!」
「いぎ、が……」
熱い。左足がひたすらに熱い。ジリジリと当麻の理性は苛まれて、声は自制と関係無しに漏れていく。
急速にズボンが濡れていく感触がする。なぜ濡れているのか、当麻は察していた。
「心配には及びません。この程度なら死に至るまでには相当な時間がかかりますから。今すぐその子を開放していただければ、後遺症もなく完治しますよ」
「人を……切っておいて言うことはそれなの?」
「……ええ、それが何か」
神裂の反応は鈍かった。冷ややかというには切れの悪い答え。それでもインデックスの心の中に憎しみの炎を灯すには充分だった。
光子は一瞬周りのことを忘れたように当麻さん、当麻さん、と声をかける。
「だい、じょうぶだ。インデックス。いいから光子と先に行け!」
「とうま。それは出来ないよ」
「俺と光子の目的が何か、忘れるなよ。いいからお前は早く逃げ切れ」
当麻は膝を立てて、腰を上げようとした。だが左足に全く力が入らなくて、再び崩れ落ちる。
光子が支えるように体に腕を回す。当麻にじっとしていろとか、そういうことを言わなかった。
それはつまり、当麻が神裂の足止めをするという途方もない無茶を、呑んでいるということだ。
立っているのがやっとに近いが、上条はなんとか、神裂とインデックスたちの間に置かれた障害物になった。
「インデックス。走りますわよ」
「でも」
「でもじゃねえよ。良いからさっさと行け」
「……彼我の脚力差をよく考えてください。この遮蔽物のない場所でどうやって逃げ切るつもりです?」
「なんとでもして見せますわよ」
「やれやれ。神裂は優しいね。好きなだけ鬼ごっこに興じれば良いさ。その間に、僕はこの男を殺すよ。嫌なら逃げないことだね」
カチンと、ジッポを開く音がする。一瞬だけ長髪の赤毛が暗闇に瞬いた。
長い吐息は、紫煙を吐き出しているのだろう。煙草の小さな明かりがゆらゆらと揺れていた。
「とうまをこれ以上、絶対に傷つけさせないんだよ」
「馬鹿、違うだろ」
「違ってない。とうまの命と引き換えで助かるなんて、死んでも嫌」

当麻と神裂の距離は、およそ5メートル。インデックスはその間に、立ちふさがった。

「逃げずに立ち向かう勇気を、賞賛する気にはなれませんね」
「別に、敵に褒めてもらう趣味はないんだよ。そっちの人はルーン使いの十字教徒みたいだけど、あなたも?」
「ええ。……あまり詮索をされても困ります」
「もう充分だよ。貴女がもう主の御名も無原罪の懐胎をした御母の名前も忘れちゃった人たちなのは、分かったから」
「な――」
「ずいぶんと、あっちこっちの宗教を習合しちゃってるね。そっちのルーン使いより分かりやすいよ。貴女がカクレだって」



カクレキリシタン。
長崎の沖に点在する小さな島々にのみ生きながらえた、異質の十字教徒。
教えの記された聖書を失い、マリアという象徴を観音像に秘め隠し、祝詞(のりと)の中にオラショを偲ばせ、彼らはかろうじて信仰を守ってきた。
長い年月を経ていつしか正しい教えは失われ、形式上のみ受けいれたはずの仏教と習合し、もはや、彼らの自覚以外には、十字教徒であることを示すものが何一つない人々。
「なぜ」
「そっちの人が十字教徒なら、貴女もそうでしょ? なのに十字の一つも着けてないし、逆にケガレを忌避するアクセサリを着けてる。それだけ分かればあとは予想は簡単なんだよ。貴女がカクレだってことは。どこの宗派か知らないけど、西洋の教えとコンタクトを取ったのなら、正しい教えに帰依したら? それとも自分たちしか信じてないおかしな形の神様を捨てちゃうと、やっぱり祟りが怖いのかな?」
取り合ってはならない。
世界を殺す毒の詰め合わせ、禁書目録が囁く『魔滅の声<シェオールフィア>』はもう紡がれ始めているのだ。
唇の形すら見てはいけない。それだけで、神裂という一人の信徒の信仰がガラガラと崩壊するかもしれない。

体に繰り返し繰り返し刻み付けた、その挙動だけで刀の柄に手をかける。
鞘から刃は引き抜かない。ホルスターに手をかけて、ぱちんと鞘ごと外す。
刃渡り2メートルに及ぶ七天七刀は、鋭くなくとも長物として充分に役目を果たすのだ。

狙うはインデックスの鳩尾。話すのが困難になる程度に横隔膜を突いてやれば問題ないのだから。
視界から外したつもりで、インデックスの唇がどこかにちらついている。
いつもより切っ先がぶれてしまって戸惑う。もう、『魔滅の声』にやられてしまったのか。
――――違う。それより前に、自分はあの子を傷つけたのだ。
どんなことをしてでも救いたいと願った女の子をその刀で傷つけて、さらにもう一度振るおうとしている。
ちゃんと鞘に刃を仕舞ってあるくせに、ためらいが消えてくれなかった。
それでも充分素早く、神裂は突きを繰り出した。そのはずだった。

バシン、という音と共に鳩尾に目掛けて突いたはずの切っ先がぶれた。
婚后という名の少女が、闇雲に振り回した手に当たった結果だった。
再び神裂は腕を引いて、インデックスに突きの狙いを定める。

「無駄ですわよ」
「な?!」

バヒュッと音がして軌道が逸れた。もう初対面ではない。それで何が起こったのかは理解した。
神裂の手元から離れるように、七天七刀が荒れ狂う。
さして自慢でもない怪力で柄を握り締めていると、やがて鞘だけが遠くに飛んでいった。
神裂は歯噛みした。傷つけずにインデックスの意識を奪う術が、またひとつ失われた。
「超能力ですか」
「ええ」
インデックスが、神裂にだけ分かる言葉を呟き続ける。
意味は光子にも理解できるが、光子には何の意味もない言葉だった。
神裂が一瞬、呆然となった。
その隙を逃さず光子は、神裂の懐に攻め入った。
「やめておくんだね」
「くっ! かは……」
ステイルが横から割り込んで、光子の通ろうとした場所に拳を置いた。
光のないところに『魔女狩りの王』を顕現させて監視網に感知されるのを嫌った苦肉の策だった。
能力で加速していた光子は、腹部にその拳をまともに受ける。
肺からずべて、息が出て行きそうになった。
「光子!」
「あ、ふ……」
「格闘は専門外だけど、こうも見え見えだとね」
光子は渾身の力で腕を振るう。だが手は警戒されているのか、ステイルに当たることはなかった。
場慣れ、体格の差、そういうものを光子が埋めるには超能力しかない。
そして相手に触れるまでが難しいのなら、自分を加速するしかない。
「だから、直線的過ぎるんだよ。君の能力は」
ステイルは加速する光子から体一つ避けて、再び拳を通り道に置く。
根がお嬢様なのだ。なんの捻りもないカウンターで、光子はうずくまるように崩れ落ちた。
インデックスが心配げに一瞥して、しかし言葉を乱さずに、神裂にだけ効く毒を吐き続けた。
「だ、大丈夫、です。当麻さん」
「まあカウンターで沈まれちゃってもね」
「……馬鹿な魔術師さん」
「なに?」
「私に触れておいて平気な顔ですの?」
「何?」
別に光子は、手で触れたものにしか術を使えないわけではない。
経験に乏しい光子がどれほど浅知恵を捻っても、光子の手が届くことはなかったろう。しかし。
手で触ることは能力発動のトリガーとして優秀だが、お腹で何かに触ったって別に能力発動そのものは可能なのだ。
光子は数秒でステイルの腕に充分すぎる気体分子を集めていた。分子の運動速度は、人よりずっと早い。
そもそも空気中で音を媒介するのが分子運動なのだから、音速以上の速さを持っていることは自然と分かることだ。
ステイルの腕にはもう、重みを感じられるレベルの分子が集積していた。
光子は容赦をする必要を感じなかった。だから、人には決して用いたことのない威力のそれを、開放した。


多くの空力使いは空気を連続な塊とみなす。あるいは極稀な能力者が空気を粒の集合体とみなす。
それは神ならぬ人の身では、分子一粒一粒を見つめて制御することなど、到底あたわぬからだ。
だが、光子はそれらのどちらとも違っていた。婚后光子が制御するのは、分子集団の『可能性』。
一つ一つの分子がどう動くか、などという厳密なコントロールはしない。
分子から、好きなように動く、という可能性を奪う。ある一つの場所、固体の表面に留まってしまうように。
そうすれば分子は自然と集積されていく。そして溜めた気体を解放するときにも光子は可能性を束縛する。
ランダムな方向へ飛ぶはずの分子から可能性を奪い、99.99%の分子が同じ方向、個体平面に垂直な方向へと動くように仕向ける。空気の集積とコントロールしつつの開放、それが光子の能力だった。
分子一つ一つを制御せず、状態の出現確率を収束し、可能性を限定する。その可能性の名はエントロピーという。空力使いといえば流体力学の専門家、という常識に全くなじめない、異色の能力者だった。


ステイルがいぶかしんだ直後。
音速を優に超える、秒速500メートルで風がステイルの腕から噴出した。
悲鳴を上げる暇すらない。
ビシリという手の甲にヒビが入る音がステイルの耳に伝わるより先に、その手がステイルの胸元に向かって体当たりならぬ腕当たりをぶちかました。
ガホ、という肺がつぶれる音と共にステイルはごろごろと転がって、暗闇の奥に横たわった。
「……残るは貴女ですわね」
優雅に髪を払って光子は神裂のいた場所へそう宣告した。


ステイルのそれは確かに油断だったし、光子のこれも、油断だった。互いを読み切れない超能力者と魔術師のすれ違いだと、言えなくもないだろうか。
とすりと、傍にいるインデックスの胸元で軽い音がした。
気づけばそこには、長い神裂の髪が舞っていた。
「あ――――」
あっけない音と共にインデックスが気を失う。呼吸を奪って脳髄に的確な一撃。それでインデックスは堕ちたらしかった。
「インデックス!!」
「チ。邪魔です」
当麻が自由の利かない体でインデックスをそのまま奪っていこうとする神裂に抱きついた。
それを振り払う隙に、光子が神裂の体に手を伸ばす。神裂はその手から必死で逃げる。
幸い、インデックスを奪われることはなかった。当麻が精一杯インデックスを庇いながら倒れこんだ。

再び、神裂が二人から距離を取った。
あちらもこちらも、一人ずつがリタイヤ。だがそれは決して痛み分けではない。当麻はもう走れない。インデックスを背負って神裂から逃げ切り、さらには学園都市のセキュリティまでかいくぐるというのは、あまりに無理がある話だった。
「……もう、いいではないですか」
「ああ?」
「どうして、そこまでその子に肩入れするのですか」
「つらい目にあってる女の子を助けるのに、あれこれ理屈をつけないと、動いちゃ駄目なのか?」

馬鹿馬鹿しい。

「俺はてめーがわかんねえよ。どこの誰に命令されたのか知らないが、こんな女の子を酷い目にあわせるのに、どうしてここまでやれるんだ。アンタは、人をいたぶって楽しむような趣味には見えない」
インデックスを横たえて、ずるずると当麻は立ち上がる。
神裂に隙はない。体勢や周囲の状況への気配りだけではなく、意思にも揺らぎを見出せなかった。
ただ、灰色に意思を塗りつぶしたような表情に、すこしだけ物言いたげな色がついた。
「……事情はあるのですが。貴方に説明する必要がありませんね。そこをどいてください」
す、と剥き身の七天七刀を神裂は当麻に突きつけた。
インデックスの前に膝を着いた当麻は、その切っ先が真っ直ぐ上条の額を狙っていても視線をゆるがせなかった。
これまでの疲労のせいか表情に精彩を欠いた光子が、当麻の少し後ろでじっと様子を見ている。
何度か牽制の視線が神裂から飛んできている。不用意に動けば、当麻に危害が及ぶことが予想できて、自分から動けなかった。
「どいたら、どうする気だ?」
「以前も言った気はしますが、あなた方をどうこうする気はありませんよ。その子を連れて帰る気です」
「――――ハッ。連れて帰る、ね。インデックスは俺達の仲間だ。勝手なことをされちゃ困る」
ズルズルと、当麻はインデックスから離れ、神裂に迫る。
左足の痛みが引いている。それはむしろ危険なことで、普段の当麻ならきっと不安を感じたことだろう。
後のことなんて、考えにも浮かばなかった。
神裂火織まで、ちょうど2メートル。これ以上進めば、突きつけられた切っ先が頬辺りに刺さることになる。
す、とその刃を退けようと腕で触れようとしたところで。

ガキィィィン、という音が自分のこめかみの辺りから鳴り響いて地面が急に目の前に迫ってきた。

「当麻さん!」
「ごっ、あ……」
光子は退けられた当麻の代わりにインデックスとの間に割り込もうとして、ギン、と神裂に強い視線で睨まれて、足がすくんだ。
一瞬遅れて、どうしようもなく自分を恥じる。ここで自分が守らねばインデックスが悪い魔術師の手に堕ちると分かっているのに、足が前に出ない。
「彼を痛めつけていることについて苦情を受け付ける暇はなさそうです。ですが貴女とはまだ話が通じそうですね。貴女の感じているものは人として当然の感情です」
それは遠まわしに馬鹿にされているのと同じだった。
婚后家の直系として、常盤台中学の学生として、あるいは上条当麻の隣を歩く人として。正義が為されぬことから目をそむけてはならないと教えられているのだ。
これを不正義と言わずして何が不正義か。見栄とは、こういうときにも張るから許されるのではないか。
「ごめん遊ばせ。私もこの人と、志を同じくする人間ですわ」
「……くだらない面倒を、掛けさせないで下さい」
光子に触れると危険なことを神裂は理解している。だから、光子に近く出来ないくらいのスピードで刀を振るって、こめかみを峰打ちした。
もう一度、先ほどと同じ鈍い金属音が響く。悲鳴もなく、光子は崩れ落ちた。
「……最悪ですね」
皮膚が切れたのだろう。たった今峰打ちで倒した少女の頬にじわじわと血が伝うのが見えた。
少年の左足にはもっと酷い傷を負わせた。どちらの二人も、敵でなかったなら、好感を抱けるいい人たちだった。
インデックスを大切に守ろうとしてくれる、いい人たちだった。それを、こんなにも手ひどく傷つけた。
「本当に、最低の行いですね」
「そう、思うなら、なんで、やめねーんだよ」
「――――」
神裂が動くより前に足首をつかまれた。意識を飛ばすつもりでこめかみを打ち抜いたはずの、少年の手だった。
「魔術師ってのは相当えげつない連中だってインデックスは言ってたけど、アンタ、まともじゃないか。そっちのヤツはどうか知らないが、アンタはちゃんと人の痛みを分かってる。なのに、なんで」



負けられない、と当麻は思った。
常識も良識も持ち合わせたこの女が、一体何に心折れたのか知らないが、自分は折れてなるものか、引いてなるものか。
全く言うことを効いてくれない体をよそに、目線だけは神裂よりも強い意志に輝かせて、神裂を睨みつける。
神裂は無意識に、ほんの少しだけ重心を後ろに引いた。それは当麻には気づけないような極小さな変化でありながら、神裂の意思を押し返したという、大きな意味を持っていた。
「なんで。アンタはこうまでしてコイツを地獄に陥れようとするんだ!」
「……違う! 私はそんなことしてない!」
足をつかんだ腕を、神裂は蹴って振り払う。乱暴なそれは上条を軽く吹き飛ばした。
「私やステイルがどんな気持ちであの子を追っていると思っているのですか!」
「知ら、ねえよ。事情も話さずに切りつけてきたのはそっちだろうが」
「それは……っ!」
「いつの間にか『アレ』が『あの子』に変わってるよな。アンタらがインデックスの敵なら、なんで、そんな呼び方するんだろうな」
当麻は、少し前から感づいていた。インデックスの知識が必要なだけの人間にしては、気遣いが丁寧すぎる。
観念したように、神裂はボロボロの当麻から視線を逸らして言った。
「私達の所属は、『必要悪の教会<ネセサリウス>』といいます」
「それ、インデックスの」
その名は確かにインデックスの口から聞いた。敵対する魔術結社の名前などではなかった。
「ご存知のようですね。そうです、これはあの子の所属する場所の名前でもあります。あの子は、私とステイルの同僚にして――――大切な親友、なんですよ」
「……じゃあなんで、インデックスはお前達をどこかの魔術結社の悪い魔術師だなんて言ったんだ」
「あの子のこの一年を振り返れば、妥当な予測だろうね」
いつの間にか、遠い暗がりでステイルが起き上がっていた。
立つ気がないのか立てないのかは知らないが、足を伸ばして座っている。
とはいえ座っているから戦えないとは限らないのが魔術師だ。立っていても戦えない当麻とは違う。脱臼でもしたのか、不自然に右腕をだらりと揺らしたまま、ステイルは左手で器用に煙草に火をつけた。
「あの子の記憶を消してから一年、ずっと僕らは追いかけてきたわけだし、ね」
「記憶を、消した?」
一年前から、記憶がないと確かにインデックスはそう言っていた。それからずっと追われているとも。
「ええ。この子がそれまで持っていた記憶を、私達と一緒にいたという事実を、この子の頭から消し去りました。私が、この手で確かに」
「なんで、そんなことを」
「まあ、話す義理があるわけでもないけど。その子は一年に一度、記憶をリセットしないと死んでしまうんだよ」
ぷかりと、ステイルが煙草の煙を宙に浮かべる。
追い詰めた側の余裕なのだろう。神裂は少し離れたところに飛んだ七天七刀の鞘を回収しに行った。
「死ぬってなんだよ」
「完全記憶能力、というのがこの子に備わった特殊な才能でね」
「それで10万3000冊、だっけ、訳のわからねーことが書かれた本をあれこれ覚えてるんだろ」
「ああ。そこまで知っているのなら話は早い。この子は、もうこれ以上何も覚えられないんだよ」
「え?」
「あんまりにも沢山のことを覚えすぎて、もう頭の中は一杯。人生、今は70年くらいかな。70年分もくだらないことを覚え続けられるほど、この子の頭に容量はないんだ。だから何かを捨てていかないといけない。魔導書を捨てられないなら、過去を捨てていくしかないよね」
「だから、私は、あの子の記憶を一年ごとにリセットするんです。楽しい思いでも、つらい思いでも、何でも」
再び五体満足な神裂がインデックスを取り巻く当麻たちの前に戻ってきた。それは、確かに絶望的なサインだったはずだ。
だが当麻は意に介さなかった。もっと、問いたださねばならないことがあった。
「親友だって言ったよなお前。自分の親友からそんなにも大事なものを奪って、お前、それで平気でいられるのかよ! 何とかしようとか、そうは思えないのかよ!」
「思いましたよ! この子を助けられるのならと情報を集めましたよ!でも、これしかないんです。この子から記憶を奪っていくしか、方法がないんですよ。この子の中に『溶けて』しまった魔導書は、自分という書物が消えないために、ありとあらゆるプロテクトをかけてしまっているんです。この子から自分の記憶以外のものを奪う気なら、この子と同じ10万3000冊の魔道書を読んだ天才が必要になるんです」
それは自家撞着な結論だった。インデックスを救うには最低限、もう一人の『禁書目録』が必要になる。
神裂は説明が済んだとばかりに、一歩を踏み出した。
「話はもう終わりです。分かっていただけたでしょう。この子を、返してください」
足元のインデックスにチラリと目線をやる。気がつくと、光子がインデックスに覆いかぶさるようにしていた。焦点の合わないぼやけた目で、神裂を見つめている。
「どうして。この一年。インデックスの傍にいてあげませんでしたの」
光子がそれだけ言った。なじる様な一言だった。
後ろめたそうな感情が神裂の表情によぎった。
「何も、本当に覚えていないんですよ。この子は。どれほど忘れがたい思い出を作ったつもりでいても、写真を渡してもアルバムを渡しても、一年たてば、もう絶対に思い出せないんです。申し訳なさそうに、ゴメンとしか言わないんです」
「だから何だよ。また、思い出を作り直せば良いじゃねーか。一年で全てを忘れるんだとしてもそのたびにイチからでもやり直せばいいじゃねーか。それすらせずに何で一年も逃げ回るだけの生活なんてさせてんだよ!全部テメェらの都合じゃねえか! テメェらが勝手に見限って――」
「――うるっせぇんだよ、ド素人が!!」
当麻の言葉は鞘に入れた七天七刀の横殴りで遮られた。
インデックスから1メートル以上はなれた所に倒れこんで、その体に雨を降らせるように神裂が鞘を何度も突きたてた。
「私達がどんな気持ちで、あの子を追いかけているのか。あなたなんかに分かるんですか!? 何度でもやり直せばいい? あの子との別れを経験したこともないあなたにそんなことを言う資格なんてない!! どんな思い出を作っても、あの子はもう二度とそれを思い出せないんです。記憶をリセットする度に、あの子は何度も何度も、幸せを失うんです。一年後にそれが来るのを分かっているあの子に、それでも毎年幸せを与え続けろというんですか? ……私には、もう耐えられないんですよ。あの子の痛々しい笑顔を見ることが」
肋骨が、いくつか酷いことになっている気がする。まともに息が吸えなくて酷く苦しい。
だがもっと苦しいことは、他にある。
「なんで、俺と光子はこんなに殴られてるんだろうな?」
「おいおい、今更命乞いかい?」
神裂が怒りに身を任せている間、ステイルはずっと煙草を吸い続けていた。
足で踏んで火を消すこともしないで、先端がまだチリチリと燃えた吸殻がいくつも足元に転がっている。
ステイルにの気負いのない風を装った態度の奥にはくすぶった思いがあることを、それが告げていた。
突然その吸殻がボッと瞬いて一瞬で灰になる。
冗談めかして命乞いかと聞いたステイルは、言葉の裏で、本気で不愉快を感じていた。
「ちげーよ。そんなことがしたいんじゃない。純粋に聞いてるんだ。この場所に、インデックスを不幸にしたいやつが一人でもいるのか? 敵同士のヤツが一人でもいるのか? 傷つけあわないと幸せになれない理屈があるのか?」
ステイルも神裂も、当麻の言葉に反論しなかった。お互いに、悪意のある相手だという誤解はもう解けたのだ。
当麻は酷く傷ついた、否、傷つけられた体のことなんて忘れて、ただ、真実を告げた。
「ここに、敵はいないんだよ」
「……」
理不尽が苦しい。殴られたことではない。こんな馬鹿馬鹿しい殴り合いしか出来ない、自分達に怒りを覚えた。
「お前らだって、インデックスを助ける方法なんてもう見つからないってくらい探したんだろうさ。けど、人が多ければ開ける道はあるかもしれない。お前達二人が駄目でも、ほかに救い手がいれば、助かるかもしれない。なんでそれを、その可能性を模索しないんだよ。ここは学園都市だぞ」
「学生の貴方達に、何かが出来るとでも?」
「ここの学生は超能力者だ。確かに俺は無能力者だし、光子だって記憶を操るような能力はない。けど例えば光子の同級生には学園都市最強の精神感応能力者がいる。その子なら出来るかもしれない。それにそもそも学園都市は科学技術だって世界最高峰だ。『治療』できる可能性だって有る」
「そんな言葉じゃ、僕らの考えが揺るぐことはないよ。正直に言って、あの子の頭を切り開いて脳を弄るような科学者達に任せる気にはなれない」
「随分と酷い偏見ですわね。……当麻さん?!」
足元の傷とはいえ、失血量はそれなりだ。加えて呼吸がまともに出来なくて、視界が定まらない。
――――くそ、せっかく道が切り開けるかもしれないのに。インデックスの未来を、変えられるかも知れないのに
「救いたく、無いのかよ」
「これまでも救いではあったと、思っていますよ。少なくともあの子を死なせてはこなかったのですから」
「それが救いだって? お前それ本気で言ってるのか? インデックスを救ったってお前胸張っていえるのかよ?! なんでそんなにも力があって、そんなにも強い意思を持ってるのに、可能性をもっと探せないんだよ! アイツを幸せにしてやるために、なんでできること全部やらないんだよ!!!」
答えは無かった。
ふつりと、自分の意識の糸が切れたのが分かる。せめて、傍にいられるようにと、上条はインデックスに向けて倒れた。
光子、ステイル、そして神裂。意識の残った誰かが動くよりも先に。


パッ、と五人を車のライトが照らした。拡声器から音が聞こえる。
『そこにいる連中! 全員大人しくするじゃんよ!』
警備員の服を身に纏った、黄泉川愛穂だった。




[19764] ep.1_Index 11: 反撃の狼煙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/22 02:31

目を覚ますと、そこは真っ白い部屋だった。窓の外には学園都市が見えている。場所を特定できるような風景はない。
自分が着ているのは、手術服とでも言えば良いのか、緑一色の安っぽい化学繊維でできたローブだった。
「あれ俺、なんで」
まるで何日も寝たように、現実味がない。
確か、俺は二三学区で光子たちと――
「そうだ! 俺はあの二人組と戦って、それで」
二人がいない。
自分がいるのは病院だろう。なら、二人はどうなったのだ。
慌ててベッドに降りようとして、足に包帯が巻かれている感触がするのに気づいた。
自分でも思い出すとぞっとなるくらい、酷い傷をしたはずだ。当麻は恐る恐る、布団をめくって左足を見た。
包帯でガチガチに固めてあった。ただ、指を動かしてみると問題なく動く。足首もスムーズに回る。
そっとベッドから降りてみると、それほど違和感なく左足は仕事をしてくれた。
チクチクとした痛みはあるが、激痛だとか、そういうのはない。
これなら、二人を探しにいける。そう思ってベッドから少し離れた扉に向かおうとしたところで。

ノックもなく、カラカラと音を立てて扉を横に引きながら、光子とインデックスの二人が入ってきた。
二人の顔は暗い。何かあったのだろうかと当麻はいぶかしんだ。
……自分が目を覚まさなかったのが理由だとはすぐに思い至らなかった。
「光子、インデックス」
「えっ?」
「え、当麻さん?」
当麻はすこし気まずかった。なんだかあちらの予想を裏切ったみたいで申し訳ないような気分だった。
光子もインデックスも、一瞬、呆けたようにベッドサイドの当麻を見て。
「当麻さん……!」
「とうま、とうま!!!!」
あっという間に二人に抱きしめられた。そしてそのままベッドに倒れこんだ。
当麻さん、当麻さん、とうま、とうま。
首筋に回されたのがどっちの腕なのかも分からないし、名前をこうも連呼されるとペットの犬になった気分だ。
なんでそんなにも、喜ばれるのかが不思議だった。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ。なんか俺、死ぬはずの状態から生き返ったみたいじゃないか」
「縁起でもないことおっしゃらないで。当麻さん、どれくらい寝ていたと思っていますの!」
「そうなんだよ! もう、こんなに無茶して、こんなに傷ついて……」
「その、何日寝てたんだ?」
「ほぼ二日、ですわ。もうずっと目を覚まさなかったらって、私、心配で」
枕元にあるデジタルの時計には7月26日と書いてあった。時間は夕方というには少し早い、といった所だろう。
さすがに24時間以上意識を失っていた経験はないので、自分の体に不安を感じないでもない。
……というか、ほんの40時間やそこらで左足のあの怪我がどうにかなってるっておかしくないか?
「怪我のほうは、大丈夫ですの?」
「ああ。なんか、信じられないけど、折れたと思ったアバラもなんともないし、足の怪我もそれなりに治ってるぽいし」
「ここに連れてきてくださったのは黄泉川先生なんですけど、先生曰く、相当の名医だということらしいですわ」
「医者の腕っていうよりこれ物理に反してるレベルだと思うけど……まあ、再生医療の最先端ってこんなものか?」
医療は特許の塊であり、また科学のあらゆる分野の中でも特に倫理・道徳との折り合いが難しい学問だ。
学園都市の人間でも、学園都市の医療がどんな手法で、どんな治療を出来るのかをよく分かってはいなかった。
たいていの怪我と病気が治るので、あまり気にしないのだ。
「ほんとに痛いところとかないの?」
「かなり回復してると思う。それより、光子とインデックスは大丈夫だったのか?」
「ええ。ここの絆創膏も明日には取れるってお医者さんが言ってましたし」
光子がこめかみに貼った絆創膏を指差した。女の子が顔に怪我をしている光景は、なんとも痛ましかった。
そっと傷の近くに触れると、気遣われたのが嬉しいのか、光子が微笑んだ。
「傷、残るのか?」
「お医者さんに尋ねたら、『光学顕微鏡じゃ分からないくらいに修復してあげるから』だそうですわ」
当麻にはよく分からなかったが、要は電子顕微鏡の必要な、分子レベルの誤差で修復するということだった。
「インデックスはどうだ?」
「私は、どこも怪我はなかったから」
罪悪感をにじませて、インデックスはそう報告した。
確かに構図としては、巻き込まれた二人が傷ついて張本人が無傷だった、ということになる。
当麻はうつむくインデックスの頬をつねってやった。
「いひゃいよ、とうま」
「そういうの、気にすんなよ」
「うん……ありがとね、とうま、みつこ」
「それで、これからどうなるんだ? 何か分かるか、光子」
「二三学区進入の件は暴漢に襲われていたから逃げるためにやった、という風に処理したと黄泉川先生が言っておられましたわ。だから私達にお咎めはないんですけれど、近いうちにインデックスはどうにかしなきゃいけないって」
「それって」
「……このままではこの子は、警備員に拘束されることになります。私達は三人とも、病院から出ようとするのは禁止されていますわ。黄泉川先生は悪いようにはならないようにすると仰ってくれていますけど……」
どうにもならない事態に、光子は唇を噛んだ。インデックスは怒るでもなく光子を見つめていた。
「あの二人は?」
「あの場ですぐさま逃げて、それからは知りませんわ」
「そっちも問題か」
「ええ……」
本当ならもっと助かったことを喜び合いたい。明るい明日を、これからのことを語りたい。
丸二日を無駄にして、出来たことは少し事態を悪化させたことだけだった。三人で、晴れやかとはいえない気分で見つめ合った。




コンコンと、扉がノックされた。どうぞと当麻が返事をすると。
――――病院にまるでなじむことを知らない、赤髪の神父と長髪の日本刀美女が、部屋に入ってきた。




「やあ、目が覚めたのが見えたんでね、失礼するよ」
「失礼します」
飄々とした態度のステイル。日本人らしい仕草で目礼をした神裂。
どちらにも、悪びれた風はない。
「何しにきたの?」
三人の誰よりも早く、インデックスはその二人の前に立ちはざかった。
声に憎しみを込めて、目に怒りを灯して、当麻たちと神裂たちの間に線を引くように。
神裂とステイルがそれで怯んだのが分かった。
一瞬の戸惑いを捨てて、再びステイルが軽薄そうな笑顔を浮かべた。
「お見舞いさ」
「ふざけないで。貴方達が、とうまとみつこを傷つけたくせに!」
「下手に動かないことですわね。私たちは警備員の方々に、少々目をつけられていますの。この部屋で荒事があればすぐ面倒なことになりますわよ?」
光子の冷ややかな声がする。相手を自分と同じ人と認めないような、軽蔑の篭もった響きだった。当麻は二人の態度に少し、驚きを感じた。
「別にこちらに争う意図はないよ。ただ穏便に、禁書目録を渡してくれとお願いしに来ただけさ」
「まだ、そんなことを……!」
光子は怒りに言葉がつかえているようだった。その影でインデックスが視線を揺らした。
逃げ延びるチャンスは減る一方で、返すあてのない借りばかりが当麻と光子にたまっていく。
自分が諦めさえすれば、という提案が、魅力的に見えた。
「インデックス」
びくりと、その背中が震えた。上条に釘を刺されたのだと理解したのだろう。
その通りだった。諦めさせてやるつもりなんて、これっぽっちもない。
「光子も。ちょっと落ち着いてくれ。今すぐ戦おうってんじゃないんなら、話もできるだろ」
「当麻さん?! 当麻さんは、あんなにも酷い怪我をさせられて、まだこの狼藉物と話をする余地があると思ってらっしゃいますの?!」
光子の中で、当麻が傷つけられたことは絶対に許せないことだった。
話し合う必然性だとか、歩み寄る余地だとか、そんなものはこちらにはない。
だって、あんなに酷く人を傷つけられる人間と、同じ言葉で会話できるとは到底信じられないのだ。
「光子。あの時、俺は言ったよな。ここに敵はいない、って」
「……」
光子を静かに見る。物言いたげな目で光子は見つめ返したが、当麻の意思が変わらないのがわかって悔しげに視線を逸らした。
こちらの意思はまとまった。当麻は神裂のほうを向いて問いかける。
「それで、あんた達には俺の言いたいことは伝わったのか?」
「……ええ、そのつもりです。だから問答無用にこの子を奪うことはしませんでした」
それも可能だった、と言わんばかりの口ぶりだった。
「僕としてはその必然性を感じなかったけど。どうせ」
「改めてお願いします。禁書目録を、こちらに引き渡してください。貴方なら分かってくれるでしょう。私達はこの子を、悪いようにはしません」
神裂はステイルの言葉にかぶせるように、上条たちにお願いをした。
その言葉に嘘はない、と上条は思った。
そもそも一昨日の話が真実なら、神裂はインデックスの親友なのだから。
「なあインデックス。こいつらが、どこの魔術しか知ってるか?」
「さあ。十字教徒みたいだからローマ正教のどこかの支部だとか、その辺じゃないのかな」
インデックスが興味なさげに呟いた。目の前の二人が、僅かに動揺を浮かべた。
「上条さん、でしたね。その話は……止めていただけませんか」
「断る」
隠したままで、話が進むわけがない。
そしてインデックスを救う気なら、インデックスの敵のままではいけないのだ。
この二人に覚悟がないのなら、こっちから背中を押してやるだけだ。


「インデックス。こいつら、『必要悪の教会<ネセサリウス>』の魔術師らしいぜ」
「えっ?」


ガラガラと、インデックスのこの一年の生き方を決定してきた大前提が、崩れる。
インデックスは一瞬理解が及ばないという顔をして、魔術師二人を見た。
「……そんなはずない! だってそこは」
「お前の所属する教会だ、っていうんだろ?」
「そうなんだよ。とうまが何を聴いたのか知らないけど、この二人は敵なんだから、そんなことありえないんだよ」
「違うんだよ。一年前、お前の記憶を消したのがこいつらで、お前は勘違いでずっと逃げ続けてきたんだって」
「そんなの嘘だよ。だって、この二人には何度も追い詰められかけたけど、一度だって仲間だとか、そんなことは言わなかった! 逃げ場がなくて雨水を飲んだときも、どこかのお店の廃棄物を食べたときも、この二人はずっと敵だった!」
唇を噛むようにして、神裂がいたたまれなくなって目を逸らした。
その態度を、どう見れば敵だと思えるのか。だがインデックスには神裂たちは敵以外の何者にも見えなかった。
「なあインデックス。お前は、『必要悪の教会』の中でも、飛び切りヤバイ存在なんだろ? だから色んな魔術師が追ってくるって思ったんだろ? だったら、なんで肝心の『必要悪の教会』の人間が、お前を一年間もほったらかしにするんだよ?」

……それは、何度も気になったことだった。どうして誰も救いの手を差し伸べてくれないのか。
だけど、もし。ずっと隣にいたのだとしたら?
敵だと思って逃げ続けてきた相手が、実は救いをくれる人だったのだとしたら?

「こいつらは、お前の記憶を消して、そしてまた一年後に同じことをするために、ずっとお前に付き添っていたんだとさ」
「そんな、はず……ないんだよ。だってそうなら、どうして」
どうして、あんな目にあわせたのか、と。戸惑いのせいで言葉にならなかったそれは、容易に神裂とステイルに届いていた。突き刺さっていた。
記憶をなくしたインデックスに、それがお前のためだったのだ、と言っても仕方がない。
そして、これ以上は心が持たないと、そう思った自分達の弱さと向き合わざるを得なくなって、結局二人は、何も出来なかった。
「一年間、幸せな思い出を作っても、お前はそれを失う運命なんだとさ。けど最初からそんなものがなければ、とびきりの幸せもどん底の不幸もない、そういう生き方が出来る。そういう選択肢を、お前に与えたって事だ。別に悪意じゃない。こいつらなりに考えた結果なんだろうさ」
「知らない。私、そんな一年が欲しいなんて、言った覚え、ない」
受け入れられないと、インデックスは頭を横に振った。二人を仲間だとは、思えなかった。
今はそれでもいい、と当麻は思った。感情的に納得できなくとも、一年で記憶をリセットしなければ生きていけないなんていう、馬鹿みたいな呪いを解いた後に、ゆっくり失った時間を取り戻せばいい。
「事情は、一応これで説明したからな。俺たちは、いがみ合う敵同士じゃないんだ。これから、どんなことをしてでもお前の不幸を取り除いてやる。そのためにはこいつらとも手を組まなくちゃいけないんだ。……だろ?」

当麻は魔術師二人の目を、見つめた。
――――反応は、薄かった。

「……決して貴方の意見を馬鹿にするつもりはありません。ですがもう、遅すぎるんですよ」
「え?」
「あと二日。55時間くらいかな。それがこの子の『タイムリミット』さ」
「二日……だって?」
「一年前に記憶を消したといっただろう。そして一年しかこの子の脳が持たないともね。ちょうど一年まで、あと二日なのさ」
「そん、な」
「貴方の気持ちはありがたく思います。ですが。あと二日でこの子は貴方達を忘れます。二日ではどうしようもないでしょう。静かに過ごしてくれるのであれば、そのときまで私達は身を引きます。ですから、どうか、この子の命が失われてしまうような真似だけはしないで下さい」
当麻は二人が何をしにきたのかを、ようやく理解した。リミットを告げて、諦めてくれと言いにきたのだ。
知らずに逃げて死なせては、それこそ誰の幸せにもならない。だから、お願いをしに、正面から来たのだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! 二日じゃどうにもならないなんて保証もないだろ? それに、この二日で無理でも、次の一年があればこの街なら」
「この二日で急ごしらえで対策をするのですか? それが、確かな策になりえると? そして仮に、次の一年をこの街で過ごすとして、あなた方学生にこの子を預ける理由がありますか?」
「……」
「そもそも、我々は『科学』をそれほど信用できません。世界中の魔術を探して、それでもどうしようもないこの子の完全記憶能力を、科学ならどうにかできると? ……この子の脳をクスリに浸して、メスで切り刻んで、機械に犯されても、この子の命を無駄に削るだけに決まってる」

馬鹿馬鹿しい妄想だ、と当麻は言ってやりたくなった。
だが、逆に科学の支配するこの街でどうにも出来ないことがあって、魔術にそれが出来るとして、はたして当麻は魔術を信じられるだろうか。きっと答えは、否だ。
どんな物理・生物的作用を持つのか訳の分からない儀式で、無駄に時間を使うだけだと思うだろう。
咄嗟に言葉を見つけられなかった当麻の代わりに、光子が口を開いた。
「この街は世界で一番科学が進んだ街ですけれど、その中でも一番進んでいるのが人間の脳を開発することですのよ。180万人もの被験者を使って脳のメカニズム解明、さらなる機能開発にいそしんでいます。それと同じことを、魔術はやってきましたの?」
「……」
「それに、随分と貴女の仰る科学とやらは猟奇的ですのね。この100年で生まれてすぐに亡くなる乳幼児の数が半減どころか100分の1にまで減ったことはご存知? きちんと食事を皆が摂れるように、肥料、つまり窒素とリンの化合物を安定供給したのは誰の功績かご存知? それまでの時代に、一体魔術は何をしていましたの? 科学は、人に牙を向くこともありますけれど、使い方さえ誤らなければ、ずっと魔術よりも優しいものですわ」
「……その言葉で、我々の考えを改めろといわれても、できるものではありませんよ」
「なら。この場に要れば良いですわ。私達は今から、あらゆる手を使って、解決策を探しますから。それが貴方たちにとって許せないことだと言うなら、そこで考えれば良いでしょう。……たとえ二日で叶わなくても、貴方達だって、この子を幸せにしてあげたいのでしょう?」
不信感。どちらの陣営もが相手に対して、それを抱いている。
手を取り合えば簡単なことが、往々にして出来ないのだ。人間には。
「とうま。みつこ」
「なんだ?」
「……私、二人のことを忘れるのは嫌だよ」
本音が漏れた、という感じだった。
インデックスは一年以上前の記憶を喪失している。だからこの突拍子もない話にも、リアリティを感じているのだろう。
「そうか。じゃあ、二日で何とかしないとな」
「なんとかなるかな」
「なんとかする。諦めちまえば、そこで終了だからな」
ニッとインデックスに笑いかけてやる。心の中に燃料を投下して、エンジンを回すのが何より重要なのだ。
打開策はいつだって動いているからこそ見つかる。同調するように、軽い感じで光子がそれに応えた。
「……じゃあ当麻さんは、テスト前はいつも試験を受ける前から終了していますのね」
「う、嫌なトコつくなあ光子は……」
「あは」
不安が心を押しつぶしそうな局面だが、インデックスはまだ自分が笑えることに感謝した。
二人がいてくれれば、絶望なんてものと自分は無縁でいられる。その幸福に、インデックスは小さく、心からの微笑を浮かべた。
「……ステイル」
「別に。僕は反対はしないよ。……あんな、微笑みを見るとね」
「率直に言って、私は自分があの輪の中にいないことに、やるせない思いはありますよ」
「そんなものは、過去に捨ててきたよ。どうするんだい、神裂?」
「私ももう、腹をくくりました」
そっと、二人は囁きあう。
もう分かっているのだ。二年前、目の前にある光子と当麻の席は、自分達のものだったのだ。
インデックスという少女の幸せを最後まで担ったのが自分達だったと、自負している。
二日という制約に縛られないほうが良いといえば良いのだ。
唯一つ、目の前にあるインデックスの幸せをまた、取り上げてしまうことだけに目を瞑れば。
――――二人にはそれが、出来なかった。
ステイルが、当麻たちに向かって、一歩、踏み出した。
「やってみろよ。超能力者。けど、この子を弄ぶなら必ず殺す。いつでも殺す。何度でも殺す」
「訳の分からないことを仰るのね。私達がこの子を徒に死なせると? 貴方こそ無理解の果ての勘違いで駄々を捏ねるようなら、容赦なく吹き飛ばしますわよ」
光子が身長差のせいで見下ろしてくるステイルに怯まず、そう言い返した。
当麻はここにいる全員を見た。
わだかまりを抱えていても、ようやく、インデックスを救うために全員が纏まれた。
ここは病院。ならやることはまず、医者に話を聞くことだろう。当麻はベッドサイドにある、ナースコールをカチリと押す。
小さな音で、五人がたたずむ病室に、可愛らしいメロディが響いた。


――――それは、魔術と科学が手を取り合って。
インデックスという女の子の一年に一度全てを失うなんていう幻想<ふこう>をぶち壊す、
そんな反撃の狼煙だった。



[19764] ep.1_Index 12: 黒いマリア
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/06/26 01:43
「……で、あたしらに情報がないか、教えてもらおうと」
「妥当な判断だね? 人に聞くのを躊躇わなかったのは、正解だよ」
窓際に置物のように立った神裂とステイル、そしてベッドに腰掛けた三人に、黄泉川先生とカエルみたいな顔をした中年の医者が向かい合っていた。
「こう言っちゃ悪いけど、要領を得ない説明だからな。こちらから確認していくじゃんよ」
今は一通り、事情を説明したところだ。先生も隣の医者も、なんだか微妙な表情をして、こちらを見つめていた。
インデックスを救うことが、可能だとも不可能だとも言わない。むしろ、なにか頓珍漢な答えを口にした学生を前にしているようだった。
「インデックスは、10万冊を超える書物を一字一句完璧に記憶している。そしてそれは脳の記憶容量を酷く圧迫する。現状でその占有率は85パーセントで、残り15パーセントを生命維持に使える。そして類稀な記憶能力のせいで、その15パーセントはきっかり一年で消費され、放っておけば死に至る。だから一年ごとに脳の容量を確保するために記憶を消している。なお、書物を覚えた部分の記憶削除は出来ない。……こういう現状を、なんとか改善したい、であってるか?」
ちらりと、神裂たちを見る。コクリと頷いた。
「前提が、ずいぶんとおかしいんだね?」
「どういうことですの?」
困ったというように頭をかく医者に、光子が尋ねた。
ふむ、と黄泉川は嘆息して、腕を組んだ
「婚后、お前常盤台の学生だろうに。まあいい、夏休みだから、今度上条と一緒に小萌先生の補習を受けるじゃんよ」
「はい?」
「記憶野が一杯になるなんてことが有ったとして、それで人が死ぬとお前本気で思うか?」
「……それは。呼吸は出来るでしょうし、食事も摂れるでしょうね」
しばし逡巡して、光子は答えた。
情報を記憶する細胞と、生きるためのプログラムが書き込まれた細胞は別物だ。
生命維持に必要な部分を侵食するような『記憶』行為を、人は記憶するとは呼ばない。
指摘されてみれば、たかが記憶が一杯になった程度で死ぬなんて、おかしなことだった。
「この場合記憶って長期の記憶だろう? 短期、中期的な記憶は保持できるから、ある程度の会話も可能だな。喜怒哀楽を失うこともない。それに今まで覚えたことは忘れないんだろう? ……お前達の言うことを最大限信じたとして、インデックスはそれなりに人間らしい生活を送れるじゃんよ」
ステイルと神裂は、難しい顔をしたまま黙っていた。
科学的にはそれはおかしいことになっている、という議論を、どこまで受け入れるべきなのか。
神裂は、インデックスに一つ、尋ねた。
「……頭痛は、ありますか?」
「さあ? どうかな」
「ちゃんと教えてくれ。……その、どうなんだ」
弱みを神裂たちに見せるのにためらいがあったのだろう。だが今はその逡巡は不要だった。
インデックスは、嘘がばれたような顔をして、一言こぼした。
「二三日前から、時々ちょっと痛む、かも」
「ちょっとどころではないでしょう。一年前も、そうでしたから」
「……」
「あなた方が言うことと、矛盾しているように思うのですが」
神裂がじっと黄泉川先生と医者を見つめて言った。
「矛盾、って言われてもな。そもそも85パーセントって数字の根拠はなんなんだ? 1冊100メガバイトで計算して……10万冊なら10テラバイトか? 記憶できる情報量で言えば、全シナプス数の1パーセントくらいだけどな、それ」
単純なフェルミ推定だ。100メガバイトという値に信憑性があるかは分からないが、テキストデータなら本一冊100メガバイトは見積もりすぎだし、画像データとしてもそんなものだろう。少なくとも、2桁も精度がおかしいことはないはずだ。
「学園都市ですら、脳細胞の何パーセントがどの機能を持つ細胞か、なんてのを完全には把握できてないじゃんよ。それを、お前らの誰が知ってて、誰が数字をはじき出したんだ?」
答えは、なかった。
「おい、答えろよ。魔術師」
「……根拠、と言われましても。我々もこの事実は突きつけられたに過ぎません」
「知らない、ということですの? どうしてそんなあやふやなことでこの子を追いまわして……」
「理屈なんてどうでもいいだろう。……実際一年に一度記憶を失っていて、頭痛で意識さえ保てなくなってくるこの子を見ているのに、憶測でああだこうだと言われてもね」
成る程、現場がまず成すべき仕事は問題解決であって、解決法の改善だとか、そういうのは現場に遠いことだから出来る、というのは事実だろう。
黄泉川も医者も、所詮は他人事だから、まるで現実に即していない憶測をあれこれ捏ね繰り回せる。現場の直感と理論屋の理屈が合わないのは、よくある話だ。
ただ、現場の人間、つまりステイルと神裂が、黄泉川の常識で言ってあまりに経験則に頼りすぎだった。
「別に難しいことじゃないじゃんよ。確かな事実の積み重ねにちょっとした推論を足しただけだろ」
「その確かな、というのがどこまで確かなのかは疑わしいね。科学に基づくと、なんていうと聞こえは良いけど、本当のところはこの子の頭に穴でも開けてみないとわからない癖に」
それは確かにそうだった。ある一個人の特性全てを、あらかじめ知ることは出来ない。
科学が把握しているのは、人間という生き物の平均的な姿と、平均からのずれ方だ。禁書目録と名づけられたある一人の少女のことを、あらかじめ知っているわけではない。
だが黄泉川は科学者の直感として、インデックスがこれまでの脳生理学の常識を覆す、人類初のケースだとは思えなかった。
もっと、これまでの科学が集めてきた経験的事実で、説明付けられるはずだ。
その態度は、科学を信仰する、つまり大概の事実はすでに人類が持っている科学法則で説明が出来ると、そう信じることを意味している。
だから異教徒である魔術師には、その言葉は届かなかった。


「僕からも言わせてもらうとね?」
口を挟んだのは、魔術師でも科学者でもない、医者だった。
科学寄りではあるが、科学が持つ哲学、信仰としての側面には頼らない。
あくまで人を死なせないことに最も重きを置く、そういう職業の人だった。
「考えてみるべきなのは、君たちらしい理屈で言って、この子を一年に一回、記憶喪失にさせるメリットはあるのか、だね」
「……答えにどんな意味があるかは分かりませんが。メリットはあるでしょうね」
「それはどんな?」
「この子を10万3000冊の書庫とするなら、その管理人が必要です。誰か一人がその任を独占してしまうより、一年の任期を与えたほうが健全と言えるでしょう」
「なるほどね。それじゃあ、科学寄りの僕の意見を言わせてもらおうか。記憶能力のせいで余命一年だという説明より、君が言ったような理由で、一年に一回何らかの処理を受けないと死んでしまう体にされてしまった、と捉えるほうがよほど自然だね」
ギクリ、と。神裂とステイルの顔が、はっきりと強張った。
「そ、そんなはずは――――」
「……あの女狐の好きそうなことだね。真実かどうかは分からないけど」
「しかし、我々に嘘をついて何の得が?」
「実に都合のいい存在じゃないか。あの子と仲良くなるのを避けているくせに、どこへ逃げるときにも文句一つ言わずずっと付き従って、僕らはあの子の監視だけをしている」
「それは……そうですが、しかし」
「別にこの医師の言葉を完全に受け入れたわけじゃない。ただ、一理ある、と言っただけだよ」
医者は、納得したように頷いて、もう一言添えた。
「そういう考えを裏付けられそうな方法は、あるかい?」
「裏づけ、ですか?」
「ああ。一年に一度処理をしないとこの子を死なせてしまう魔術がこの子に掛けられている、そういう仮説を確かめられる何かさ」
神裂が鋭い表情で、医者を見た。
「……ずいぶんと魔術に親しみがあるような言い方ですね」
「まさか。僕は医者だよ。人間にはさまざまな信仰を持つ人がいる。命を助けた上で幸せにするのに、必要な方便を沢山知っているだけさ。科学はいつでも人を納得させてくれるわけじゃない」
肩をすくめて、医者はそう言った。
超能力者を開発する科学者、学園都市の高校教師である黄泉川にはその柔軟性はなかった。
人の生死に近いところには、理性でカタのつけられない世界があるのだろう。
黄泉川は医者が魔術という言葉をそういう意味で使っているのだろうと理解した。
「神裂。この子の体に、なにか魔術を施されたような痕跡は?」
「……別にまじまじと見たわけでは有りませんが。そんな目立つものは、見えるところには……」
神裂は何度となく二人でシャワーや風呂を共にしたことがある。そのときに、特徴となるような刺青や聖痕は見なかった。
わざわざ見ないような場所だとか、内臓に直接彫られているだとか、そういうことなら分からない。
光子が医者を振り返って尋ねた。
「レントゲンとMRIは撮れますの?」
「ああ。でもMRIは駄目だね」
「どうしてですの?」
「金属が体に埋め込まれてたら発熱が大変だよ。刺青のインクに金属微粒子が入ってた場合も危険だね」
「何をしようとしているのですか?」
「切らずに体の中を見ようとしているのですわ。それで何か分かるかもしれませんでしょう? 仮にこの子の体に魔術が施されているとして、その場合どんな痕跡があるとお思いなの?」
「……そんなのあるかどうか分からないけど、人に施す術にはやっぱり刺青が多いんだよ」
まさに自分のことなのだ。気味の悪そうな顔をしながら、インデックスは答えた。その答えに光子は考え込む。
MRIは原子の磁化変化を調べることで生体内の様子をイメージングする技術だ。磁化の変化を促す磁場のせいで金属の発熱が促されると、40℃以上の熱に弱い生体に悪影響がある。刺青には発色のため金属粉が混ぜられることがあるから、安易には使えなかった。
レントゲン、X線CTは原理が違うからこの心配はない。超音波イメージングも可能かもしれない。
……問題は、そういった技術でインデックスの体を隅から隅まで調べられるか、という問題だった。
むしろ、まずは触診を行うべきなのだろう。
「まあ、必要なら言ってくれれば用意はするよ。……ところで、この子の上顎、軟口蓋の所に彫ってある魔法陣は、関係あるのかな?」
「えっ?」
インデックスがまず、一番驚いた。それはそうだ。知らないところで、自分の体にそんなものが彫られていたのだから。
神裂とステイルは硬直していた。別に、医者の言い分が正しかったのかは分からない。
ただ自分達が信じてきた前提がだんだんと不確かになって、全く別の可能性が存在感を増している。
当麻と光子は、インデックスを上向かせて口を開いた。医者がペンライトを渡してくれる。
意味など、二人に理解のしようもない。
だが、確かに、そう大きくもない紋章が一つ、インデックスの喉の辺りに、彫られていた。
「なあ魔術師」
「なんだい?」
「お前らならこの紋章の意味、分かるのか?」
「……君と違って、紋章の魔術的な意味を損ねることなく書き写すことは出来ると思うよ。意味を理解することが出来るかは、見ないとわからないね」
「そうか」
「だけどここには、10万3000冊の魔道図書館がある。僕が知らなくても、この子ならわかるかもしれない」
ステイルは、どうせ何も二日では出来ない、と思ったことを自嘲した。
この子を救うのに、あと二日もある。それは、とても希望に溢れた事実に思えた。


ステイルが一歩、インデックスへと踏み出す。
当麻はステイルと神裂に、インデックスに触れさせることを一瞬、躊躇した。
そして当麻以上に、インデックス自身にためらいがあった。
その隙を突くように、部屋にピリリリ、と携帯端末の音が響く。
「はい黄泉川。……また、か。分かったじゃんよ。こっちは人を減らしても大丈夫そうだから、すぐ行く」
黄泉川が事務的な口調で二三言を交わして電話を切った。そしてステイルと神裂を見つめる。
……事情の説明のなかで、結局この二人と共闘することになった経緯が、きちんと伝えられなかった。
「上条。こいつらと、一緒で平気なのか」
「俺たちは一つの目的に沿って動いてます。こいつらは俺を信じてるわけじゃない。けど、インデックスを助けたいってことについてだけは、俺もこいつらも信じあえる」
ふん、と馬鹿にするようにステイルが鼻で笑った。青臭く信じる、なんて言葉を使われたことに対する照れ隠しだった。
「……わかった。それじゃあたしはちょっと地震対策のほうに顔を出す。悪いけど、病院からは出ちゃだめじゃんよ」
「黄泉川先生。また地震ですか?」
一番敏感に反応したのは医者だった。
二日前まで黄泉川家で眺めていたテレビでも、盛んにその件を報道していた。
学園都市の、それも一部だけを襲う地震。震度は大したことがないから大きな問題にはなっていないが、普通の地震ではないことは確かだった。
「ええ。原因は特定されつつあるらしいですけどね」
「困ったな。僕も設備の点検をしておかなくてはならないね」
ここでは体で感じるほどの地震はなかった。だが精密機器の多い病院は、地震に神経質だ。
医者は当麻たちのほうを向いて、諭すように口を開いた。
「君達。何をするにしても、万が一の準備だけはしておくよ? ここは僕の病院だ。死なせないためのあらゆる技術を、ここなら提供できる。かならず相談してくれ」
神裂と、当麻と光子は、部屋を出て行く医者と黄泉川に向かって丁寧に頭を下げた。


「さて。それじゃあ、調べようか」
「……」
嫌味な笑みだとか、そういうのを全部消して、ステイルが酷く真面目にそう宣言した。
手には当麻の手からひったくったペンライト。インデックスが、きゅ、と上条の袖をつかんだ。
記憶を失ってしまった過去に、目の前の神父が仲間だったと言われても、インデックスの警戒感は解けてはくれなかった。
「インデックス」
「わかってる。とうま」
「……こうしましょうか」
光子が、ベッドに座るインデックスを後ろから抱きしめた。
そして当麻が、インデックスの顎に手を添えて、口を開いて上向きにさせた。
ステイルはペンライトを当てて覗き込むだけだ。
「随分と厳戒態勢だね」
「悪く思うなよ」
「別に構わないさ」
胸元からメモ帳のようなものをペンを取り出してから、ステイルはインデックスの喉にライトを当てた。

一瞬の硬直。

周囲の誰しもがその意味を窺う中、すぐさま我に返って、紋章の写しを取り始めた。ステイルは恐ろしく上手かった。中心に一文字あって、それを囲うように円が書かれている。その円はよどみのない真円を描いているように見えるし、円を縁取る細かな文様までも、正確だった。
「……描けたよ」
さして時間も掛からず、ステイルは写した紋章をインデックスの手のひらの上に置いた。神裂が身を乗り出してそれを覗き込む。
「……これで意味が分かるモンなのか?」
「君は黙っていろ。何も期待なんてしていないからね」
当麻は言い返してやりたかったが、全くそのとおりなので黙ることにした。
光子はインデックスを抱いた手を離さず、後ろから眺めた。
「私の知らないルーンが有るね」
「……ははっ」
乾いた笑いが、ステイルからこぼれた。軽薄な響きの癖に、怒りが篭もっているのが分かった。
「どうしました、ステイル」
「いやなに、このルーンは、僕が新しく付け加えた字なんだよ。力ある字を加えるってのは、かなり高度な技なんだけどね。……僕以外にこれを作ったルーン使いがいるとしたら、そいつは僕の読んだ書物なんかを全て知ることの出来る立場にいるんだろうね」
『必要悪の教会』に自分の知らされていないルーン使いがいるのかと笑ったステイルだったが、事態はもっと外道だった。
自分の編み出した術式を、丸ごと盗んで使った術者がいる。そしてそれを可能にする権限を持った人間も関わっている、そういうことだった。
「あの女狐ならやりかねないな」
「こういう手が好きそうだというのは否定はしませんね。……それでステイル。あなたはこれを読めるのでしょう?」
「ああ。当然だね。
 『姉妹よ、救済者が他のすべての女性たちよりもあなたを深く愛しておられたことをわたしたちは知っています。あなたが覚えている救済者の多くの言葉、あなたが知っていて、私達の聞かなかった言葉を私たちに話してください』
 ――――だってさ」
「……どういう意味ですか?」
「福音書の一節だよ」
インデックスが、素っ気無く答えた。ああ、とステイルが相槌を打つ。
「十字架に架けられ墓に埋葬された主が復活するくだりか。……こんなシーンだったか?」
「十二使徒に女性の使徒はいませんが」
原語のまま読めるステイルと違い、神裂はステイルの日本語訳を聞いただけだ。
別段聖書に慣れ親しんでいるわけでもない神裂には、ピンとこなかった。
いぶかしむ二人に、当麻は答えを急いた。
「これ、聖書の引用なのか?」
「……考えているところだ。せかさないでくれ」
「聖書の一節、ではないんだよ。聖書っていうのは、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカ、この四人の使徒が書いた福音書から出来てるの。これはこの四つとは違うね」
「これは外典からの引用なのですか?」
「むしろ偽典と言っていいかも。マグダラのマリアの福音書だね」
「マグダラの……あの罪深き女の守護聖人、ですか」
なるほど、と神裂は思った。あらゆる魔導書を取り込んだインデックスは、キリスト教的価値観から言って、まさに罪深き女だ。
「マグダラのマリアの加護を、利用した魔術なのですね」
7つの悪霊をイエスに追い出してもらい、ほかの婦人達と共に自分の物を出し合って、主イエスにガラリヤから付き従った女。
かつては娼婦であり、知性の足りぬ女という生き物が、それでも改悛をしたという象徴的な存在。
カトリックという教えの中で、売春婦達の心の拠り所であり続けた。
神裂は不愉快を、そっと心の中に押し留める。
誰かが穢れを引き受けなければならないから、それを引き受けただけなのに。
インデックスを罪深き人のように象徴することは受け入れがたかった。
「あなたもカトリックの人なんだね。とんだ勘違いなんだよ。マグダラのマリアが罪深い人だなんていうのは」
「え?」
「まあ、歴代のローマ教皇がそう認定してきたから、カトリックにとっては『そう』なのかもしれないけど」
「どういうことですか?」
いぶかしむ神裂を尻目に、インデックスは光子に問いかけた。
「キリスト教は、その成立時点でかなりばらばらに分かれちゃったんだよ。どうしてだと思う?」
「それは……やっぱり主義主張の違いではありませんの?」
「例えばどんな?」
「例えば……ああ、聞いたことがありますわ。キリスト教はユダヤ教の派生として生まれたわけですけれど、たしかユダヤ教はかなり女性を低く見る宗教だったようですわね」
地政学の授業で聞いた話が、どことなくリンクしている気がした。
「そうだね。礼拝所に女性は入ってはいけない、なんて戒律があったみたいだね。そういう考えが自然な社会に、もし女性の高弟がいればどうなると思う? 今まで皆を導いてきた救済者イエスが人としての肉体を失ってしまった後に」
「……仲たがいを、起こしましたのね?」
「確かなことはもう分からないけど。今のキリスト教を広めた12人の使徒の中に、女性はいないんだよ。聖書に載った『正しい』福音書にはね、マグダラのマリアは、主の使徒に奉仕した女性、つまり使徒の使徒であり、主が復活したときには驚き慌てて、取り乱しながら男性使徒に報告しに行ったって風に書いてあるの」
「マグダラのマリアが書いた福音書ではどうなっていますの?」
光子はそう尋ねた。
聖書に書かれたことは、確かに真実なのかもしれない。
だが、女性とは蒙昧な生き物であるという社会常識が前提となっていたなら? 女性はそのように書かれるべきという考えが普通だったなら?
インデックスは自らが収録した邪教の教えを、次々と明らかにしていく。
「主が亡くなって、教えを広めようとしたときに男性使徒はみんな怖気づいたの。異端の宗教である主の教えを広めれば、弾圧されるから。マグダラのマリアはそんな皆を慰めて、ほかの使徒たちに語られていなかった主の教えを伝えたの。そうしたら、ある男性使徒がこんな風に言ったって書いてある。
 『あの方がわたしたちには隠れて内密に女と話したのか。わたしたちのほうが向きを変えて、彼女に聞くことになるのか。あの方は、わたしたちをとびこえて彼女を選んだのか』
 って」
「時代や風土によって価値観は決まるものですから、悪いとは言えないのかもしれませんけれど。……女は馬鹿だと、そういう前提があるのでしょうね」
「ちなみに、こんなことを言った人のお墓、『使徒十字<クローチェ・ド・ピエトロ>』の上に、ローマ正教の大聖堂は建てられているんだよ」
仕方ない側面はあるのだろう。
水が少ないあの土地では、月に一度、血で汚れる女はさぞかし穢れて見えるのだろう。
日本ですらそうだったのだ。女という生き物がそんな役目を引き受けた『合理的な』理由を考えれば、自ずと女は男より罪深く、劣った存在だという答えが出てくるのだ。
マグダラのマリアと相容れなかったペトロは、その時代のユダヤ教徒の、ごく普通の価値観の持ち主だっただけなのだろう。
そして主に最も愛された女使徒は、いつしか元売春婦というレッテルが貼られ、教皇達によってそれが承認されてきた。
正しい過去は塗りつぶされ、罪深い女になった。
「……つまり、マグダラのマリアの福音書をわざわざ引用したのは」
「私の過去を否定する、そういう意味合いがあるのかも」
「ふうん、気が効いてるね。たとえこの子の紋章を見つけても、今までの僕らなら、この子を保護するお守りに見えたわけだ。本当は首輪なのにね」
面白そうな口調で、ステイルはそんなことを言う。目が全く笑っていなかった。
「それじゃあインデックス。この真ん中の文字は分かるかい?」
「ルーン文字だけど……アルファベットのMの借用文字だよね」
「マグダラのマリアのM、ということですか」
「どうかな。Mに象徴されるのは普通、聖母マリアのほうだろう。……ああ、そういうことか」
「何か分かったの?」
「マリアをルーン文字で、それも黒に金粉を混ぜた墨で書いた意味はなんだろうね。ヒントは、銀髪で分かるように君がケルトの血を引いてるって事かな」
つまらなそうにステイルがヒントを出す。
科学側の二人にも神裂にも分からなかったが、それだけで、インデックスは分かったらしかった。
「黒いマリア」
「ご名答」
「説明してください、ステイル」
「あなたは日本人みたいだから知らないかな。ヨーロッパの各地に、黒塗りのマリア像があるんだよ。キリスト教では黒は死の象徴だから、マリア像に黒を塗るなんておかしいよね」
北西ヨーロッパに黒人などいるはずもない古代。そんな時代から深い森に生えた古木の洞(うろ)や洞窟の中に残されてきた、黒いマリア像。黒塗りの下には金が塗られているものもある。
インデックスに彫られた紋章は、それを象徴していた。
「何故そんなことを?」
「君こそその心境をもっともよく理解する人だと思うけどね、神裂。キリスト教を押し付けられたケルトの民が、マリア像のなかに自分達の女神を隠したんだよ。いや、どこまでその認識が正しいかは君に聞いたほうが早いな。観音様の中にマリア様を隠した君たちは、それでもマリア様だけにすがったのかい? それとも観音様とマリア様、どちらにもすがったのかな」
「……」
「なんにせよ、マリアという存在に塗りつぶされて、ケルトの女神は名前すらも忘れられてしまったんだ。こう言えばもう、言いたいことはわかってくれたかい?」
「ケルト人のインデックスを、この名前すら忘れられた女神になぞらえている、と。そう仰りたいの?」
「よくわかっているじゃないか。全く、よく出来た仕掛けだね。この子を二重にマリアになぞらえる。過去を否定されて、いつしか娼婦になったマグダラのマリアと、過去を塗りつぶされて、いつしか聖母マリアに同化させられてしまった『黒いマリア』とにね。一人の人間からただ過去を奪うだけなのに、随分と凝った術式だ」
そして、術式を発動させるのは神裂火織なのだ。正しい教えから離れさまざまな宗教を習合させてしまった、天草式十字凄教の元女教皇。
これほどうってつけの人材も少ないだろう。
神裂が使ってきたのは、主の教えから遠い天草式が、それでも忘れないで保ってきたマリアの加護、それを利用する術式だった。
正当なカトリックであればあるほど、マリアの加護に頼ることはしない。もともとそれは正しい教えではないからだ。
そもそもマリア信仰は、歴代の教皇達に何度も否定されてきた。信仰の対象は主イエスであるべきで、その生みの母は無価値な人ではないにせよ、注目すべき人でもないとされてきた。
だが、民衆は常にその意に常に反した。なぜなら、マリアは母の象徴だから。子どもを産むという、その行為の象徴だから。
数字を見れば笑ってしまうほど子どもの死亡率が高い近代以前において、最も人が救われない思いをするのはわが子を失ったときだ。
だから、異端とは言わずも正統ではない、と何度教皇がそう認定してもマリア信仰は失われることはなかった。
そしてその信仰の根深さは、異端を取り込むときにも存分に発揮される。
古代ケルトにおいても、そして日本の九州においても、主イエスよりも強い影響力を、マリアという存在は担ってきた。主がその御名どころか存在すら忘れ去られる一方で、カクレキリシタンはマリアを忘れることだけはなかった。
そして今、その信仰の有り様を逆手に取られていた。神裂ならマリアの力に頼ると分かっていたから、マリアの紋章に呪われたインデックスの、記憶消去を託されたのだ。
一人では、神裂はその紋章の深遠な意味に気づくことはなかっただろう。そしてこの事実は、とても大きな意味を持っていた。神裂は、ステイルに問いかける。
「確認をとります。私はこの子の記憶を消しましたが、新しい記憶は何度もそこに上書きされていると思っていました」
「違うらしいね。この術式、『黒いマリア術式』とでも名づけておこうか。これはこの子の記憶を消し飛ばすものじゃない。徹底的に否定して、隠匿する術式だよ」
「つまり、それは」
インデックスが言葉を継いだ。
「この式を正しく解いたなら、私は今までのことを、全て思い出せるんだね」
神裂は、胸を押さえた。とめどなく沸いてくる希望が、胸につかえて苦しい。
ステイルが笑った。いつもどおりの嫌味な笑いを作るつもりだったのに、失敗していた。


言葉に詰まった魔術師二人の代わりに、光子がインデックスに声をかけた。
「上手くいけば、インデックス、晴れてあなたも人並みの生活が送れますわね」
心の中には、チクリと刺すものがあった。
全てを思い出せば、たった一週間を過ごしただけの自分達は、ちっぽけな存在になるだろう。
励ました言葉にキレがなかったことは認めるが、それ以上に、インデックスに喜んだ雰囲気がなかった。
「インデックス?」
「この人たちが私を助けるために頑張った人たちなら、それを忘れた私はどれだけ薄情なんだろうね。そうやって到底返せないような借りを、私は何人の人に対して作っちゃったのかな」
それは迷いでもあった。過去は時に重荷でもある。
人は誰しもその荷を下ろすことが出来ない。しかし換言すれば慣れているという意味でもある。
逆に今から背負わねばならないインデックスにとっては、過去を背負うことは漠然と恐ろしかった。
「……あなたに忘れられた私達ですが、それでも貴女を恨んだことなど、ただの一度たりともありはしません。きっと、歴代の、あなたの傍にいた人たちも全てそうでしょう」
神裂はそれに自信があった。それだけ、愛らしい少女なのだ。
その心に一年間触れた人間が、インデックスを恨むことなどありえない。それは確信できることだった。
「……で、結局なんとかなる、ってことでいいのか?」
「ステイル」
当麻の質問を、神裂はステイルに振った。
「原理は簡単なんだ。『黒いマリア術式』を解呪するには、『黒いマリア』の力を借りればいい。ただ、この便宜的な名前じゃなくて、ケルトの名もなき女神からマリアの要素をちゃんと差し引いた、本来の女神の力を借りられればいいんだ。それも大規模な魔力は必要ない。その女神をその女神として看做す、それだけでいいんだけど」
ステイルがそこで言葉を切った。ルーンやカバラのように、莫大な知識を必要とする術式ではない。そういう意味で簡単な術式だった。
……ただし、マリアと習合してしまう前の、古い女神の本当の姿さえ分かるならば。
神裂がインデックスを見る。インデックスが女神の真名を知っていれば、それで解決する問題だった。
インデックスは静かに首を横に振った。
「知らない、か。……真名に頼れないと長くなるけど、祈祷文を作ってみよう」
祈りを捧げるというプロセスで女神の力を引き出す。英国人には珍しくもない、ステイルもケルトの民の末裔だった。
正しい祈りさえ捧げられれば、力は問題なく発動する。だがその正しい祈りというのが難しかった。
ケルトの民は、大和王権が統一する前の日本のように、似たような原語と文化を持っていながらそれぞれ違う集族として纏まっているような、そういう有り方をしていた。
比較的詳細に史料の残った『トゥアハー・デ・ダナーン<ダーナ神族>』の物語のような、特定の集族のものに頼りすぎれば本質を見逃すかもしれないが、そういう具体的記述に頼らなければ女神の本質に迫ることさえ出来ない。
確実な呪文を構築するのが難しい術式だった。

「なあ、俺の右手で触っちゃまずいのか?」
当麻は、ついそう聞きたい気持ちを抑えられなかった。
「……最後の手段として、決して否定はしませんが。貴方の右手は何もかもを壊します。例えば時速60キロで走る車から、突然エンジンとブレーキを取り外せばどうなります?」
「そりゃ、事故るだろうな」
「貴方の右手がすることは、そういうことです。それでは戻る記憶も戻らなくなるでしょう。下手をすればこの子の命を脅かすことになるかもしれません」
「だから早まった真似だけはしないでくれよ」
「言われるまでもねーよ」
トントン、と地面をつま先で叩いて、無力感を紛らわせる。いま必要なのは不貞腐れることではない。
「いつやる?」
「今日やろう。時間はもう少し遅いほうがいいだろうね」
「インデックス。絶対に……救ってみせますから」
「……うん」
神裂の、万感篭もったその瞳に、インデックスはたじろいだ。それが今の二人の距離感だった。いや、インデックス側の距離感だった。
神裂はしまったと後悔した顔を一瞬見せて、あとは事務的な表情を装った。
「その、こういうのを聞くのはよくないかも知れませんけれど、失敗したらどうなりますの?」
「どうもならないか、正しい記憶封印の術式以外に晒されることでペナルティが発動して、この子の死を招くか、そんなところだろうね。まあこの子に魔力はないから、周りを巻き込むような派手な死に方はしないだろうけど」
「では失敗したら、この街の医療に頼ることになりますのね?」
「……そうだね、魔術で、咄嗟にペナルティを解呪するのは難しいだろうね」
「そう。じゃあ、あとで医師の方に伝えておきますわ」
「頼みます」
「で、場所はどうするんだ?」
「……聞いてどうするんだい?」
「どうするも何も、そこに行くに決まってんだろ?」
「正直、魔術を使う場所に君は必要ないんだけどね。その右手がどんな悪さをするか分からないし」
「……」
そっと、当麻の袖をインデックスが引いた。
「とうまと、みつこに隣にいてほしい」
「魔術には、必要ないだろう? 君だって分かっているはずだ」
「二人がいてくれたほうが、私はずっと頑張れるから」
インデックスに真っ直ぐ見つめられて、ステイルは苦々しげに目を逸らした。
「好きにしなよ。だが上条当麻。君はこの子からちょっと離れていることだね」
「……いいさ。理由は理不尽じゃない。従うよ」
話は、決まりだった。インデックスという少女が、死を迎えるまでにあと2日。
それだけの時間を残して、今日、全ての決着がつく。
みんなが幸せになれる未来が手繰り寄せられるように、当麻はそれだけを決意に。
インデックスの頬をつねってやった。
「むー! いひゃいってば、とうま!!」

****************************************************************************************************************
あとがき
『黒いマリア術式』を考案するにあたり以下の文献を参考にしました。
『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』 Karen L. King著 山形孝夫・新免貢訳 河出書房新社(2006)
『聖母マリア崇拝の謎 「見えない宗教」の人類学』 山形孝夫著 河出ブックス(2010)
『カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音』 宮崎健太郎著 長崎新聞新書(2001)



[19764] ep.1_Index 13: ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/06/26 01:43

おにぎりを頬張る。
時刻はもう夜といっていい時刻だった。今日がなんてことのない平穏な日だったなら、夕食を囲んで談笑しているところだろう。
しかし今は、そういう明るい気持ちにもなりきれなかった。あともう少ししたら、屋上に行くことになるからだ。
星の見える場所で、インデックスにかけられた呪いを解く。そういうことになっていた。今頃あの二人は準備をしているのだろう。
こちら側に出来ることは何もない。せめてその時まで、心を落ち着けて体を休めておくくらいだった。
「みつこ」
「どうしたの?」
「呼んだだけ」
「……ふふ。ちょっと待ってて頂戴ね」
三人は病院の個室にあるベッドに腰掛けて、売店で買った軽い夕食を摘んでいた。
インデックスは自分の分をさっさと平らげてベッドに転がっている。座っておにぎりを咀嚼する光子の腰に腕を回して、じゃれ付いていた。
「ごちそうさんっと」
「とうま」
返事をせずに、当麻はベッドに倒れこんだ。光子に抱きつくインデックスを、後ろから撫でてやる。
猫みたいにインデックスが目を細めた。
「ご馳走様でした。……もう、インデックスも当麻さんもお行儀が悪いですわよ」
そう言いながら、自分もインデックスの腕を解いて、ベッドに倒れこんだ。すぐさまインデックスが光子に抱きつく。
たいして年齢差のないであろう二人なのに、ちょっと年の離れた姉妹みたいだった。インデックスを撫でる光子と、目が合った。
「ほらインデックス。当麻さんが寂しそうですわ」
「ふーん」
「構ってあげたら?」
「やだもん。とうまはすぐほっぺたつねるから」
「照れ隠しですわよ」
「意地悪なだけだと思う」
酷い言われようだった。悪い子は、つねるしかない。
インデックスに手を伸ばすともう当麻の意図が分かっているのか、すげなく手を払われる。
「なんだよ。触ったって良いだろ」
「良くないんだよ。っていうかとうまは男の人なんだから気安く触ってもらっちゃ困るんだよ!」
「まあ、そりゃ俺は男だけど。触っちゃまずいような体か?」
「とうまの意地悪!」
光子より体型が子供なのを揶揄されると毎回ムッとするのだった。
「もう。当麻さん。そういう意地悪は女の子にとっては嫌なだけですわ。こういう時くらい、ちゃんと向き合ってあげればよろしいのに」
「いいんだよ。私にはみつこがいるから」
光子の言葉を受けて、当麻はふむ、と考え込む。
「インデックス。これからのこと、怖いか?」
「え?」
「強がりだって、悪いことじゃないから何も責める気はないけどさ」
「……怖くないって言ったら嘘になるよ。でもね、とうま」
光子に抱かれたまま、インデックスが幸せそうに笑う。インデックスが本音を偽れる悪女なら、相当の手練手管だろう。
本当に幸せを感じてくれている、自分達は幸せにしてやれていると、そう信じてしまう笑顔だった。
「こんなにもみつこととうまが私のことを気遣ってくれるから。それにあの二人も頑張ってくれてる。それを、不幸だとかそんな風には思えないよ」
「そっか。なあインデックス」
「うん?」
「こっち来いよ」
いつも、光子が抱きしめるインデックスを外から見る構図だった。
不用意に光子以外の女の子をべたべたと触るもんじゃないし、それで済ませてきたが、インデックスを、抱きしめてやりたいという気持ちは当麻にだってあった。
腕を開くと、疑うことを知らないインデックスが、ぽふりと当麻の胸の中に飛び込んだ。
「えへへ、とうま」
「インデックス」
ぎゅ、っと。息が苦しくなるくらい抱きしめてやった。
光子より硬い印象のある抱き心地。光子より小さくて、やはり幼かった。
「とうま、力強いね」
「そりゃ光子よりはな」
「ねえとうま」
「ん?」
「大好き、だよ」
ドキリと、当麻の胸が高鳴った。
ほんの一瞬だけ隣に光子がいることすら忘れて、インデックスをもっと抱きしめたくなった。

サラリと、細い指が当麻の頬と首に絡みついた。
光子が、当麻の同意を取ることもなく、いきなりキスをした。
インデックスの見ている目の前だった。

「み、光子……」
「あー、みつこ今、妬き餅やいたでしょ」
「だ、だって。当麻さんは私の恋人です!」
「別にとったりしないよーだ。みつこととうまは、お似合いだからね」
事実、光子の妬き餅は思い過ごしだ。光子と当麻が仲良くしていると、インデックスも嬉しそうだったから。
予定の時間まで、あと20分。互いの情愛を深め合うように、三人はベッドの上でじゃれあった。




医者と簡単な打ち合わせをして、当麻たちは屋上への階段を上る。
扉を開けて、物干し竿がいくつも並んだその先に、ステイルたちの影がうっすら見えた。
今日は晴天。明かりの豊富な学園都市の中だから余り星は綺麗に見えないが、それでも力強い光が、点々と見えていた。
「よう。待たせたか?」
「いえ、定刻までは我々もすることがありません。ちょうど頃合に来てくれましたね」
「もう準備は出来ていますの?」
「ああ。あとはその子に、ここに立ってもらえばいい。それだけさ」
空には月。地には、直径5メートルくらいの車輪模様に敷かれた護符。
「呪文は、もう練れたの?」
「ああ。ゴール語で文章を組み立てるのは無理だし、ラテン語だけどね」
ラテン語はケルトの民を攻め滅ぼした側だが、それは後世に資料を残した本人達だということでもある。
ラテン語から翻訳した英語で唱えるよりは、まだしも原点に近い。
「何かあれば、すぐ行くから」
「……とうまはよっぽどおかしいことがあるまでは、ちゃんとここで待っててね」
インデックスを中心として発動する、車輪の魔法陣よりさらに数メートル離れたところで、当麻はインデックスを見送った。隣に光子も残った。
カツカツとかかとを軽く響かせながら、インデックスは車輪の内側へと足を踏み入れる。そして中心点で、立ち止まった。
「それじゃあ、はじめるよ。だけどその前にもう一度確認しておこう。インデックス。君は今から僕の魔術に、命を託すことになる。失敗すれば死ぬ、と覚悟しておいたほうがいい。それは充分にありえることだ」
車輪のすぐ外に片膝を着いたステイルが、インデックスにそう尋ねた。まるで止めておけというような、否定的な響きさえ感じられる言い方だった。
事実、ステイルに迷いがないとは言えなかった。
後一度、インデックスが全てを喪失してしまうことさえ諦めれば、もっと時間をかけて準備をすることが出来る。
死ぬかもしれないリスクを、冒すべきだと断定は出来なかった。
「あなたは、失敗する気なの? 自信がないの?」
「こんな専門外の魔術に自信を持てというほうが無茶だとは思うけどね。……はは。今の君に言っても仕方のないことだけれど。僕は今この瞬間のために、魔術の腕を磨き続けたんだ。何にでも誓うよ。この命に代えてでも、失敗なんてするものか」
「ありがとう。貴方のことを覚えていない私に、そこまでしてくれて」
それはむしろ謝罪だったと思う。淡く笑って、ステイルはそれには返事をしなかった。
「こんな言い方をすると悪いけど、私は貴方の死を背負いたくはないんだよ。そういう風に誰かの命の上に生きていきたいとは、思えないから」
「こちらとて死ぬ気はないよ。……それじゃあ、やろうか」
「うん。とうま! みつこ! すぐ、終わるから」
「おー、途中で寝るなよ」
「そんな子どもじゃないんだよ! とうまのばか!」
ほっぺたをつねられるのも、こんな冗談を飛ばされるのも、インデックスは嫌いじゃなかった。
落ち込んだときだとか迷ったときに、こういう冗談でいつも気持ちをしゃんとさせてくれるから。
光子はニコリと微笑んで、頷いてくれた。
助かろうと、そう思える。あの二人がいなかったら、自分はこの魔術に頼ろうとしただろうか。リセットされて困るだけの一年になっただろうか。
絶対に光子と当麻のことを忘れたくない、その思いがインデックスを奮い立たせてくれた。

「――――O Fortuna imperatrix mundi」

ケルト、そしてローマの地に繰り返し現れる、出産、生と死、輪廻、車輪、そして運命をつかさどる女神の元型<アーキタイプ>。
一言一言を踏み締めるように、ステイルが祈るように手を組んで女神への祈りを唱え始めた。




ただの黒いインクで描いたルーン文字、それが光を帯びて、金へと変わっていく。
そして青色、赤色を経て黒い光を発し、そして金へと還る。
その中心で、インデックスは手を胸元に組んで、俯くように祈っていた。
朗々とステイルが祈りの文を読み上げる。隣では神裂が目を瞑って、こちらも祈っているようだった。
祈りは救い。どのような身分でもいかなる時でも、人は祈ることが出来る。
科学の言葉で言えば、それは無価値な行いだ。
科学を信じる人にとって、世界を作り変えるのは祈りではない。物質世界への主体的な働きかけだ。
だから当麻たちは祈ることが出来なかった。祈る以外に、すべきことを探してしまう。
当麻と光子は、徐々に光の強さを増していく魔法陣を、じっと見つめていた。

「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis」

祈りによって熱を帯びた魔法陣が、光で飽和するように、ある瞬間を境に瞬き方を変えた。
地上からでも光が見えそうな、それくらい強い光を発している。
インデックスを含め、全員の顔を昼と遜色ないくらい見分けられる明るさだった。

「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima」

車輪の外周に、少しづつ文字が現れ始めた。見た目からしてルーンというやつなのだろう。
はっと、インデックスが驚いたように唇を押さえる。口腔内に彫られた紋章が、反応したのだろうか。
魔法陣に現れた文字は、インデックスに刻まれた紋章を打ち消すものだ。それが完成したとき、解呪の魔術は成される。
再びインデックスが俯いて祈り始めた。

光子は、目の前の出来事に語るべき言葉を見つけられなかった。魔術を見たのは初めてではない。『魔女狩りの王』に何度も追われているのだ。
だが、儀式めいた、魔術らしい魔術を見たのは初めてだった。光を再現する分には、もちろん超能力でも可能だろう。
だが、心のどこかで理解できるのだ。これが超能力ではないことを。
この学園都市のみがたどり着いた一つの答えと、まったく矛盾する存在であることを。

七割、八割、そして九割。
もとより院長に許可を取って、屋上でやっている行為だ。邪魔が入るはずもない。
神裂も当麻も光子も油断はしていなかったが、警戒すべき外乱の影すら見当たらなかった。

――――そして、車輪を縁取るルーン文字が完成した。
魔法陣がひときわ強く瞬く。そしてステイルが何かを一言呟くと、シュン、という音と共に、魔法陣から全ての光が失われた。
成すべき仕事を終えたのか、神秘的だった何かが失われていくのを光子は肌で感じた。

「……うまくいった、のか?」

その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、ステイルの目線が一瞬当麻と交錯する。
そして小さな頷きが帰ってきた。
術式そのものは簡単だ。そして手ごたえもステイルの中にはっきりと残っていた。
だから、術式が用を成さなかったという意味の失敗は無いと断言できる。
問題は、解呪が済んだ後のインデックスに、ペナルティがかかるかどうか。

俯くインデックスを四人は注意深く見つめる。
どうなったのか、それを確かめるのが怖くて誰しもが足を進められなかった。
インデックスが組んだ腕をだらりと下ろした。
そして、顔を上げる。

危険な兆候はない。足取りは少なくとも確かだ。
もしペナルティがかかっていれば、もうインデックスの体を蝕んでいていい時間だ。
だからステイルの中の期待が痛いほど膨らんでいく。
その目で見つめて、名前を読んで欲しい。微笑んで欲しい。
それだけで、全てが報われる気がする。

インデックスがまず顔を向けたのは、ステイルのほうだった。
それはきっと記憶を取り戻したからだと、そうステイルは思った。
当麻のほうではなかったことに素朴な喜びと優越感を覚える。
読み取りにくい表情で、インデックスが双眸を開くと。

――――生来の緑を塗りつぶして、血のように紅い魔法陣が両目に浮かんでいた。




「ステイル!」
呆けるステイルを我に返らせたのは当麻の声だった。
咄嗟に体を捻ると、キュッという、自分のわき腹が焼ける音がした。
「が、あああああああああ!!!!」
理解できない。今自分は何をされた?
拳銃でも撃たれたのだろうか。それは酷く納得できる答えだった。
もしかして、なんて自分の頭の中を巡っている可能性に比べれば。
「ど、うして……あの子が、魔術を使えるんですか!?」
それは一番最初に本人から与えられた情報だった。沢山の魔導書を読んだが、自分自身はその力を使えないのだと。
これは、その事実に反している。
そして説明の言葉はインデックスからはなかった。ただ、無機的なアナウンスが口から流れる。

「――――警告。第三章第二節。Index-Librorum-Prohibitorum――禁書目録の『首輪』の消去を確認。10万3000冊の『書庫』の保護のため、侵入者を迎撃します」

突きつけられたインデックスの指から、再び赤い光が飛ぶ。現代で言えば銃弾と同じような、目にも留まらぬ速さだった。
それを神裂は咄嗟に防いだ。
「神裂! ステイル! なにぼけっとしてやがる! どうすればいい? 何をすればインデックスは元に戻る?!」
「――っ! 発動しているのはこの子の緊急時を預かる『自動書記<ヨハネのペン>』です。これを止められれば」
「どうやれば止まる?」
「そんなこと……っ! 考えたこともなかったんです!」
次々と飛んでくる光の矢を、神裂は造作もなく弾き飛ばす。
埒が明かないとインデックス、いや『自動書記<ヨハネのペン>』は判断したのだろう。
ジロリ、と当麻を見つめたのが分かった。

「――――侵入者に対し最も効果的と思われる魔術の組み込みに成功しました。これより特定魔術『聖ジョージの聖域』を発動、侵入者を破壊します」
インデックスの瞳に浮かんだ魔法陣が一気に拡大して、目の前に投影された。直径は二メートル強。二つの魔法陣は互いに重なり合った。
「    、    。」

当麻と光子、いや神裂たちにも理解できない声で、『何か』をインデックスは歌う。
バギン、という空間がきしむような音と共に、黒いひび割れが空を這った。
それはまさしく雷の先駆放電であり、次の瞬間、二つの魔法陣から、黒い雷が奔流となって当麻に襲い掛かった。
「当麻さん!!!」
「お、お、おおおおおおあああああああ!!!」
誰もがその光を、人間など一撃で死に至らしめるものだと理解している。
当麻も勿論知っていた。だから、それに立ち向かう。自分がよければ誰に当たるかなんて考えたくもない。
ごく、手馴れた仕草で当麻は右手を突き出した。自信があった。自分の右手は、それが超常現象なら、神様の奇跡だって打ち消してみせる――――!



「『竜王の殺息<ドラゴン・ブレス>』って、そんな」
「どうしてこんな強力な魔術をこの子が……」

離れたところで魔術師達が呆然と呟いている。隣では光子が余波で尻餅をついていた。
ジリジリと右手が焦げていくような錯覚にとらわれる。秒単位で皮膚が削れていくようだった。
そして受ける圧力は、音速の風でも掴めばこうなるか、というような硬質な流れを感じさせる。
強風にガタガタと音を鳴らす窓のように、骨をへし折りかねない、嫌な振動を指が起こしている。
「おい! ステイル! 神裂! 寝ぼけてねーで起きやがれ!」
「……く! 上条当麻! あの子の紋章を何とかするんだ! 少なくともそれでこの攻撃は収まる!」
「そうは言うけど、これじゃ」
動けない。馬鹿みたいな圧力で、足を踏ん張って立っているのがやっとだ。
「当麻さん! 今!」
気づけば光子が、数十個のコンクリート塊を頭上に打ち出していた。能力で床にヒビを入れ、強引に砕いてはがしたらしかった。
雨の様に振るそれは当然ながらインデックスにとっての脅威。迎撃のために視線が逸れて、当麻は自由になる。
「ステイル!」
「気安く名前を呼ぶな!」
当麻は、ステイルがカバーしてくれることを疑わなかった。
神裂はもう光子の隣に駆け寄って、手ごろなサイズのコンクリート塊を量産している。


神裂火織とステイル・マグヌスは魔術師だ。普通の人が決して背負わぬほどの誓いを、魂に刻みつけた人々だ。
これまでもその名に違わぬよう、道を外さぬよう、精一杯やってきた。だが、これほど、今ほど、魂を震わせてその名を口に出来たことはなかった。
あの子を絶対に救い出す。幸せと笑顔を取り戻す。
「――――Fortis931<我が名が最強である理由をここに証明する>」
「――――Salvare000<救われぬ者に救いの手を>」
二人は同時に叫んだ。
そしてステイルが、胸元からありったけのルーンを取り出してばら撒た。
「顕現せよ、わが身を喰らいて力と成せ。『魔女狩りの王<イノケンティウス>』!」
インデックスに接近する当麻を、再びインデックスが捉えようとする。その刹那。何かに突き動かされるように当麻は頭を下げて転がった。
一瞬後に頭のあった場所を太い『光の柱』が薙ぎ、そしてそれを炎の巨人が受け止めた。

「『魔女狩りの王』の発動を確認。反抗魔術<カウンターマジック>、『神よ、何故私を見捨てたのですか<エリ・エリ・レマ・サバクタニ>』を組み込みます」

瞬時に『自動書記』が対応を練る。
『魔女狩りの王』を一度も見せていなかったなら、もっと時間が稼げたかもしれない。
もし、たら、れば。全部無駄なことだ。現にステイルは、もうインデックスの前で手の内を明かしてしまった。
仕方ない状況があったとはいえ、それはインデックスと対峙する上で最もやってはいけない愚だ。
『魔女狩りの王』が『竜王の殺息』を受け止めて数秒後には、もう、ジリジリと押され始めていた。
「……く。上条当麻! 急いでくれ!」
「――――! 上! 避けてください!!」
相反することをステイルと神裂が叫んだ。
空には幾枚もの純白の羽。直感でそれが酷く危険な、『竜王の殺息』と変わらないものだと気づいた。
それを迂回するように当麻は光子から見てインデックスの反対へと回る。
それはどうしようもない隙だった。視線の外では『魔女狩りの王』とそれを成す全てのルーンが引きちぎられていた。
「こっちですわ!」


光子は歯噛みする。
自分には援護しか出来ない。しかも、援護のためにばら撒いたコンクリートが明らかに危険そうな羽根に変わるのだ。
だけど、数秒でもインデックスの視線を上条から逸らさないと、近づくことすらできない。右手で触れることが出来ない。
病院の床を削られないように、もう一度数十個のコンクリート塊を空に飛ばす。密度がなるべく低くなるように、散り散りに。
インデックスの視線が空をあちこちと掃引した。視界にあったいくつもの雲が引きちぎれる。
学園都市のあちこちで予報から外れた局地雨が振っていることだろう。下手をすれば衛星だって打ち落としそうな威力だ。
神裂の用意してくれる速さより、自分の能力のほうが遅かった。あっという間にこめかみに浮いた汗を袖で乱暴に拭う。
レベル4、学園都市に在籍する空力使いの中でも、ほとんどトップにいるはずの自分の力を持ってしても、

「間に合って! 当麻さん!」

あと50センチが足りなかった。
もう少しなのに。あと少しなのに。
当麻にたった1秒の猶予を与えてあげられれば、それで全てが解決したのに。
奥歯が割れるんじゃないかというくらい、光子は歯を食いしばった。

「おおおおおおお!!!!!!!」

叫び声を上げていなければ押し返されそうだった。拮抗。神裂や光子は、二人の距離が近すぎて手を出せない。
あと5秒あれば、神裂辺りは妙案を思いついて何とかしてくれるかもしれない。
ただ、当麻にその時間がなかった。
ビキ、と小指の骨が割れた音がした。薬指ももう限界だ。
だが当麻は痛みを感じなかった。そんなちっぽけな痛みよりも、もっと救ってやりたい女の子が、前にいるから。

「俺はお前に誓ったよな。インデックス。お前といるせいで俺達は不幸になったりなんてしないって。言っとくけどお前もだぞ。俺たちといて不幸になんてさせるか! 呪縛なら俺が断ち切ってやる! お前が悪夢から覚めないってんなら、その幻想<ゆめ>をぶち壊してやる!!」

さらに耐えたその1秒で薬指が逝った。もう、光の奔流を押さえ切れなかった。
……だから押さえることを、諦めた。

「くっ、曲がりやがれえええぇぇぇ!!」

圧力に負けじと突っ張った体を無理矢理に傾けて、当麻は『光の柱』をいなす。
真横に伸びた巨大な円柱の側面を撫でるように、ザリザリザリと右手が壊れる音を耳にしながら、上条は最後の距離を詰めて、インデックスの魔法陣に手をかけた。
――――学校の宿題のプリントを破るより、軽い抵抗しか手に残らなかった。

「――――警、こく。最終……章。第零――……。『 首輪、』致命的な、破壊……再生、不可……消」

カッと開かれていたインデックスの真っ赤な瞳が、色あせると共に閉じられていく。倒れそうになるインデックスを、当麻は確かに胸に掻き抱いた。
当麻は気づいていた。もう身長と変わらない所まで降りてきた、沢山の白い羽根に。
逃げ切ることは出来ない。右手はピクリとも動いてはくれない。せめて、インデックスに触れさせるまいとした。

遠くでステイルと神裂の叫ぶ声がする。ただそれは絶望的に遠かった。
くそ、こんなところで諦めてたまるか。俺たちはこいつのせいで不幸な目にはあっちゃいけないんだ。
それは、この少女との一番大切な、約束だった。自分のせいで人が傷つけば、この少女はどれほど自分を呪うだろう。
記憶を取り戻して、これから幸せにならなければいけない少女なのだ。
その門出に、こんな理不尽はあってなるものか。
ギリ、と当麻は歯噛みする。諦めることだけは絶対にしない、そういうつもりだった。



「当麻さん! インデックス!」



ハッと周りを見渡す。その声は、やけに近くから聞こえた。当麻はその声を聞いて、ニヤリとなった。
「愛してる、光子」
後で冷静になって考えれば、そんなことを呟く時間はなかったはずなのだ。実際に呟いたのかどうかは誰にも分からなかった。
生身の人間が出してはまずいような神速の踏み込み。
光子は自分の能力に出し惜しみをせずに、死の羽根の舞うインデックスの傍へとたどり着いて、二人を抱きしめた。
そして、えげつない運動量をもってして自分ごと、その場から吹き飛んだ。
後にははらはらと舞い落ちながら消える、羽根だけが残された。








目を開くと、空が見えた。綺麗な星空だ。
体がズキズキする。擦り傷だらけで全身が痛いし、それ以前に右手が怖いくらい腫れている。
直ったと思った左足も筋肉痛を酷くしたような痛みがあった。
「当麻さん!」
綺麗な髪も調えてあった服もをぐしゃぐしゃにして、光子が抱きしめてくれていた。よく見れば隣でインデックスが眠っている。
「……なあ、問題解決ってことで、良いのか? ステイル、神裂」
「とりあえず『自動書記』による迎撃は止みました。というかほとんど『自動書記』自体も破壊したので、再びこの子が襲ってくることはないでしょう。そういう意味で、我々の身の安全はおおよそ確保されました」
煮え切らない言い方だ。それもそのはずだ。自分たちが何故こんなことをしたのか、当麻の頭から蒸発していた。
記憶の封印は、破れたはずだ。まだ目を覚まさず眠っているインデックスが起きたとき、それが本当の勝負なのだ。
「酷い怪我ですわね」
「まあ、あの医者なら何とかしてくれるだろ。それはそれで怖いんだけどさ」
「もうすぐ担架が来ますから」
気を失っていたのは一分やそこらだったようだ。こと頭への衝撃に限れば大したことはなかった。
「ん……」
「インデックス!」
僅かに漏れた声に、一番早く反応したのはステイルだった。
「おーい、起きたか?」
「インデックス?」
「とうま、みつこ……あ」
愕然と、何かに驚いたようにインデックスが目を見開いた。
くるりとステイルと神裂にも向けられて、二人の背中がビクリと震える。
息をすることすら忘れて、泣きそうな顔をして、こらえるように唇を噛んで、インデックスは数秒間、何かを耐え忍んだ。

そして。
おぼつかない足でふらふらと立ち上がり、座り込んだ光子の肩に捕まりながら、
まっすぐ、ステイルと神裂の二人を見つめた。
「ごめんね、って言うのは二人に失礼になっちゃうかな。……ありがとう。かおり、ステイル。ずっと私を見守ってくれて」

ひう、と女々しい吐息がこぼれた。
それが神裂のものだったかステイルのものだったか、当麻は分からなかったことにしてやった。

「インデックス。インデックス……っ!」

どたどたと、普段の足取りの切れの良さなんて微塵も見せないで、
神裂が倒れこむように、膝を突いてインデックスを抱きしめた。
「思い出して、っ……くれたんですか」
「うん」
「良かった。良かった……! ああ……」
ぽろぽろと幼子のように神裂は涙をこぼした。どちらが年上か分からなかった。
インデックスが、自分の知っている仕草そのままに、自分を抱きしめてくれる。
止め処のない喜びが後から後から溢れてきて、どうしていいか分からなかった。
「まったく、一年ぶりとは随分薄情だったね」
「ごめんね」
「……謝ってもらおうと思って言ったんじゃないんだけど」
「うん。ステイルこそ随分と時間をかけてくれたね」
「ごめん」
「……私こそ謝ってもらうことじゃないんだよ」
シニカルな口調が全然似合わない、少年みたいな笑い方だった。
ははっ、とステイルが空を見上げて息を漏らした。上向きは、一番涙がこぼれにくい向きだった。
その光景を好ましく、しかし寂しく光子と当麻は見つめる。
自分たちだけがインデックスの仲間だったついさっきとは、もう事情が全く違うのだ。
これからはインデックスは目の前の二人と歩んでいくのかもしれない。
自分たちは、ほんの一週間の付き合いだから。
「みつこ、とうま」
「インデックス」
泣きすがる神裂に一言ごめんと告げて、インデックスは、当麻と光子にしがみついた。
「約束、ちゃんと守ってくれたね。三人みんなで幸せになるって」
「おーい、体が結構痛いんだけど」
「ごめんね」
「馬鹿。いまのは謝るとこじゃないだろ」
「もう。みんなそれを言うんだから」
優しいインデックスの微笑を、当麻は可愛いと思った。陰影のないその表情を、これからも守ってやりたい。
光子を見ると、同意するように、笑ってくれた。

遠くの扉が開いて、ガラガラとストレッチャーが運ばれてくる。
誰のためかといえば、そりゃあ自分のためだろう。
ああ、さすがに痛くて眠い。
もういいやとばかりに、当麻は自分の意識を放り投げて、幸せそうに笑って、気絶した。

****************************************************************************************************************
あとがき
ステイルの唱えたラテン語は、Carl Orff作曲の世俗カンタータ『Carmina Burana(カルミナ・ブラーナ)』より引用しました。
それぞれ意味は、
「――――O Fortuna imperatrix mundi(全世界の支配者なる運命の女神よ)」
「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis(運命の女神の与えし痛手を涙のこぼれる眼もて私は嘆く)」
「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima(幸あれかし、この上なく姿美しい人よ)」
となっています。



[19764] ep.1_Index 14: 記憶回復の代償、そして未来
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/06 00:21


「部屋を間違えていませんか?」



当麻の第一声は、それだった。
困惑したような表情で、目の前にいる女性にそう尋ねた。
「貴方の容態を私が見に来るのはおかしいですか」
憮然とした神裂がそう返事をする。
実は目覚める直前におでこに手を当てて熱を測ったりなんてしたもんだから、内心では結構、神裂はドキドキしていた。
「いや、なんつーか。最初に見たいのはやっぱ光子の顔かなって」
「起きて最初にすることが惚気話ですか。……脳に障害でも負いましたか?」
「その台詞シャレになってないぞおい」
確証は無いが、光子が助けてくれなかったら、あの舞い散る光の羽根は当麻に何をもたらしただろう。
死か、あるいは四肢の消失や人格の破壊か。本当に笑えない。
今更にちょっと背筋が寒くなるような思いをしている当麻の隣で、これまでと変わった様子の無い当麻に神裂は安心していた。
「それで、インデックスと光子は? ……たぶん、そんなに酷い怪我は負ってなかったと思うんだけど」
「ご心配なく。経過観察――要は湿布の張替えに行っているだけです」
「そっか」
ほっと一息つく。二人に怪我が無ければ、当麻としては万々歳だった。
「そっか、ではありませんよ。貴方がそれほど酷い怪我をしては、あの子達が気を揉むでしょう」
「う、いやまあ、そうかもしれないけどさ」
「本当にもう大丈夫なのですか? 一応私も、治癒のための魔術に心得はあるほうだと自負しているのですが、貴方の体質に対しては全くの無力でして……。その、ここの医者を疑うつもりはありませんが、もう、なんともないんですか?」
ずい、と神裂が身を乗り出してそう尋ねてきた。慌てて上条は怪我をしたところを思い出して、確認していく。
マズイ方向にぽっきり折れていた右手の薬指と小指はガチガチに固められている。感覚が無いので、麻酔を打って手術でもされたのかもしれない。
ほかにも体中に絆創膏が貼り付けてあるが、どれも耐えられないような痛みを発するところは無かった。
「まあ、右手以外はほとんど大丈夫そうだな」
「そうですか」
神裂が、ふう、と安心するようにため息をついて優しく微笑んだ。
ドキリとする。背も高くてスタイルのいい神裂は、これまで当麻の前では厳しい顔や真面目な顔しか見せてこなかった。
よく考えれば、上条より年上の、ちょっと好みのタイプなのだった。
剣を持たず険のある表情を止めて、少し野暮ったい感じの私服にエプロンでもしていたら、見とれてしまうかもしれない。
まあ剣を振るっている時の怖い顔だと好みだと感じることも無いが、優しく笑われると、こう。いやもちろん一番好きなのは光子なのだが。
心の中で光子への言い訳を考えていると、それが届いたのか、当の本人がインデックスを連れて部屋に入ってきた。
「当麻さん! あ……」
「み、光子」
「しし、失礼しました。私はこれで」
「あ、おい」
「落ち着いたらステイルともう一度伺います」
ベッドに横たわる上条へと半身を乗り出していた神裂は、こちらの確認も取らずに、あわただしく部屋を出て行った。
「あらあら、私の知らないところで、随分あのひとと仲良くなっておられたのね?」
「ち、違うんだって光子! 今目を覚ましたばっかりで」
「目を覚ましてすぐに、口説き落とせるんですの? 私も当麻さんの手練手管に引っかかったのかしら」
「だから違うんだって」
「とうま、どういうつもりなの?」
慌てて光子に弁解していると、どうやらインデックスもご機嫌斜めらしかった。
「どう、って。ほんとにどうもこうもねえよ。つーか怒られてたんだよ。お前らに怪我がなくてよかった、って言ったら、俺が怪我してるせいで全然安心してなかったぞって」
当麻としては上手いこと言ったつもりだった。
……逆効果だった。
わが意を得たりといわんばかりに、二人は柳眉をきりりと吊り上げて、心配を不満に変えて当麻にぶつけだした。
「そうですわ! 本当に、本当に心配したんですから……!」
「そうなんだよ! ……私、全然覚えてないし、私が悪いんだけど、でもあんまり無茶しちゃ駄目なんだよ!」
「う、ごめん。いやでも、光子が助けてくれただろ?」
「あんなの、何度も出来る保証有りませんわ! 当麻さんが危ないって思ったら咄嗟に足が動きましたけど……。当麻さんの莫迦。もっとご自分のことお気遣いになって」
「そうは言うけどさ、光子。じゃあ、もう一度あんな場面があったとして、光子はどうする? 次は危ないかもしれないから、インデックスを助けないのか?」
「……当麻さんの意地悪。二回目があったって、そりゃあ、同じことをしますわ、きっと。でもそういうことじゃありませんの! もう、怪我をした人はちゃんと反省してください!」
理屈抜きで怒られた。ただ、自分を心配してのことだと分かるから、嬉しい。
傷つけた張本人が自分らしいと言うのは聞き及んでいるらしく、インデックスは攻める口調を途中からトーンダウンさせた。
そのほっぺたを、つねってやる。
「むー」
「もっと怒っていいぞ。お前はお前に出来る一番の選択肢をちゃんと選んだんだ。いちいち細かいことで気に病むなよ」
「でも、とうまが」
「だーから、いいんだって! ほら、結局、なんとかなったんだし」
「……えへへ、とうま」
「おう」
「みつこも。ありがとね。大好きだよ」
くしゃりと髪を撫でてやる。光子が後ろからインデックスを抱きしめた。
光子と当麻はそっと顔を近づけあって、軽いキスを交わした。
「ん……」
「光子、愛してる」
「ふふ。私もですわ」
「だんだん遠慮しなくなってきたよね、とうまとみつこ」
「だって、あなたの前で隠すこともないでしょう?」
「んー、別にみつこが見られて平気なんだったら私はまあいいけど。でもちょっと目のやり場に困るんだよ。私は一応、イギリス清教の修道女(シスター)なんだし」
目を泳がせながら弁解をする光子に、憮然とインデックスが答えた。
当麻は慌てて話を変える。
「それでインデックス。お前、これからどうするつもりなんだ?」
「あ……」
「やっぱり、あいつらと一緒にイギリスに帰るのか?」
「……」
「当麻さん。そんな急にはインデックスも決められませんわ」
光子にそうたしなめられる。ただ、それも本当にインデックスのことを想ってというより、自分の手元からインデックスが離れるのが寂しい光子自身が、時間を欲しているように見えた。
「ここにいたら、とうまとみつこに、迷惑かかるかな」
「えっ?」
インデックスの言葉は、二人にとっては意外だった。
「迷惑なんて事ありませんわ! でも、よろしいの?」
「うん……。最大主教(アークビショップ)が記憶を取り戻した私をどうするつもりか、分からないしね」
一度は記憶を全て手放す事を受け入れた。それは強制ではなく、禁書目録として生きると心に決めたときに、最大主教に施してもらったのだ。
あの時は、それで良かった。今は、それで良いというには、捨てても良いというには、大切な思い出を貰いすぎた。
「もう一度、記憶を消されるのか?」
「危険な書庫をきちんと管理するには、正しい方法なんだよ。それは」
「だからって、受け入れますの!?」
チクリ、とインデックスの心に光子の言葉が突き刺さる。咎めるような響きがあった。
「それが嫌なら、どうしたらいいと思う?」
「俺たちか、神裂たちか、それ以前にもお前の面倒を見てくれた人がいるんだろ? その、誰かのところに転がり込むになるってことか」
「うん……そういうことを考えたときね、みつこととうま以外に、頼れる人はいないんだよ」
「え? もちろん、私達は全然構いませんけれど、どうしてあのお二人では駄目なの?」
「魔術師だから。いざとなれば私の知識を活かして、危険な魔術を行使できるから」
10万3000冊を自在に使う魔術師、畏怖を込めて人はそれを魔神と呼ぶ。誰しもが憧れ、そして誰しもが恐れる魔術師だ。
イギリス清教の意思より優先するものを持った魔術師にインデックスを託すことは、リスクが大きかった。
インデックスの預け先になるには、魔術を使えないことが必要な条件になる。だから当麻と光子が適任だった。
「じゃあ、決まりだな」
「ですわね。身の振り方を考えませんと」
「え? あの、みつこ、とうま」
インデックスとしては、結構恐る恐る出した提案だった。
当麻にとっても光子にとっても、インデックスはイレギュラーな存在だ。
自分がいるだけで、今までどおりの生活は送れないだろう。それだけの迷惑を、背負わせるのは心苦しかった。
だから、心のどこかで期待していながら、快諾なんてしてもらえるわけがないと思っていた。
「住むところが一番の問題だな」
「学園都市のID発行のほうが大変だと思うんですけれど」
「そっちは神裂辺りに相談してみよう」
「それでなんとかなると良いんですけれど。それで、家のほうは……私は」
「常盤台は全寮制だもんな。そうなると、まあ、俺の家か」
「……」
光子の沈黙の意味が当麻には分かっていた。
光子に会える時間は限られている。もとより学び舎の園という男子禁制の世界で生きている光子だ。
そうなると、当麻は光子の何倍もの長い時間を、インデックスと二人っきりで過ごすことになる。
きっと何事もないだろう、と光子は信じている。だけど、信じる気持ちと疑う気持ちは心の中で同居するのだ。
不安に押しつぶされてしまう不安が、光子にはあった。
「住む場所って、そうだよね、一番大事な問題だよね」
インデックスはてっきり、これからも黄泉川の家で暮らせると思い込んでいた。だがそんなわけはないのだ。あそこはあくまで、間借りしているだけだった。
「……ちょっと、考えがないわけでもありません。でもまずは学園都市のIDが要りますわ。これが無いとどうしようもありませんし、警備員の黄泉川先生と知り合いである以上、インデックスがここで暮らすにはIDを作成するほかないでしょうね」
法の番人とは少し違うが、警備員は規律に厳しく有るべき立場の人だった。なあなあで、インデックスを置かせてはくれないだろう。
「インデックスがここにいるのが一番だって点であいつらと合意が取れたら、やれることも増えるかもしれないだろ。あとでちょっと聞いてみよう」
「そうですわね」
そろそろ昼食時だ。そのうちステイルと神裂は来るだろう。
三人はステイルたちや黄泉川先生が来るのを、上条のいる個室でじゃれあいながら待った。






インデックスがきょろきょろを外を見回している。
まさか高速道路を走る車に乗ったことがないのだろうか。
それについて尋ねると、
「"ハイ"ウェイがホントに高いところを走ってる国なんて日本くらいなんだよ」
とブリティッシュな答えが返ってきた。
ここは黄泉川の運転する車の中。空には茜色がかすかに残る、夕飯時だった。
面会時間を過ぎてすげなく病院から追い出されたインデックスと光子は、今日はまた黄泉川の家に泊めてもらうのだった。なんだかんだで数日振りの部屋だ。
イギリスへと飛んでしまって二度とその部屋には戻れないことを覚悟していたから、三人で幸せに過ごせたあの場所に戻れるのは二人にとって嬉しいことだった。
ただ、上条はいなかった。
「で、婚后。寮にはいつ帰るんじゃん?」
由々しき問題だった。外泊届けは、二日前に期限が切れている。
黄泉川の取り成しで無断外泊という重大な校則違反こそ回避できたものの、寮長に目をつけられているのは間違いないし、一週間くらいは謹慎が出てもおかしくなかった。
親にも怒られるかもしれない。甘やかされて育ってきたから、事実上、人生で一番の親に対する反抗だった。
……そういう現実問題を考えると、ちょっと頭の痛い光子だった。
まあ、一番の反抗は多分、当麻という彼氏と付き合い始めたことなのだが。
「明後日の朝に、と思っていますわ」
「明日はだめなのか?」
「明日の夜が、この子が突きつけられていた『本来の』期限ですわ。あの魔術師も見届けるそうですし、当麻さんも、当然インデックスもいます。そこに居合わせられないのは、嫌ですから」
「そうか。ま、お前の校則違反のレベルじゃ、今更だしな」
「そういうことですわ」
帰り際に、二人はステイル達と会っていた。インデックスの今後について話す為にコンタクトを取って来たらしかった。
当麻の病室で話したとおり学園都市に在留する旨を二人に伝えたところ、ある程度予想していたのか、それを受け入れて早速動き出したらしかった。
そしてその時に聞いたのが、明日の夜の予定だった。インデックスがもともとの期日を過ぎても健在なのを見届けたら、二人は学園都市を去るということだった。
「あの二人、インデックスをあまり引き止めませんでしたわね」
「……そうだね。たぶん、私が決めるべきだって考えてくれてるんだと思う」
あれほどインデックスを救おうと努力してきた二人だ。自分の気持ちを棚に上げて言うと、あの二人はもっとインデックスに傍にいて欲しいといっても許されたと思う。
だが、インデックスが全ての記憶を思い出したのなら、一年ごとに代わったインデックスの保護者全てが、平等なスタートラインに立つ。
だからこそ、インデックスに誰を選ぶのかと委ねたのだった。
「それにしても、魔術って言葉に、えらく馴染んだじゃんよ」
「ですわね」
嘆息する黄泉川に光子はため息交じりの笑いで同意した。あるわけがないと、そう思っていたものが今では自分の中でリアリティを獲得している。
今でも半信半疑なところがある。だが、もう魔術を鼻で笑って無視することはないだろう。
「あとどれくらいでつくの? おなかすいたかも」
「病院食は質素ですものね。あと20分くらいかしら」
「そんなところだろうな。けど晩御飯が出来るまでは一時間以上あるじゃんよ」
その一言でインデックスがげっそりとなった。黄泉川が差し出してくれた眠気覚まし用のガムはおなかの足しにはなりそうにない。
ぐでー、ともたれかかってきたインデックスに膝枕をしてあやしながら、光子は隣に当麻がいない寂しさを感じていた。
……夜、晩餐に当麻がいないときには、もっと寂しさを感じた。






「おはよ、とうま」
「ごきげんよう、当麻さん。お加減はいかが?」
「おはよう。二人とも。まあ手以外はもうほとんど大丈夫だ。手は固められてるからよくわかんねーんだ」
黄泉川家で一晩過ごし、朝一番に二人は上条の病室を訪れていた。
どうせ今日の夜までは落ち着かないし、それならここにいるのが一番だという結論だった。
社会人たる黄泉川の都合に合わせた光子たちも、することがなくて早く寝た当麻も、夏休みとしては充分朝早い時間から、しゃっきりと目が覚めていた。
「悪いんだけどさ、これからすぐに検査があるから、ちょっと待っててくれるか」
「あら、そうなんですの」
「ごめんな」
「ううん。当麻さんのベッドで二人で待ってますわ」
「……あ、うん」
「どうかしましたの?」
当麻が歯切れの悪い返事をした。理由に特に思い当たらない。
座り心地の悪いソファよりはインデックスも自分もこちらのベッドに腰掛けるほうが楽だった。
別にベッドに座られるのが嫌だということはないだろうと、思う。隣のインデックスも首をかしげた。
「ベッドで、彼女が待つってさ」
「え……あっ! もう! 当麻さんのエッチ!」
「とうま何考えてるの……」
「そうですわ! 私達って私言いましたわよね? まさか当麻さんインデックスまで」
「馬鹿! 違うって!」
結構光子はエッチな話に免疫がないのだった。それでいてキスのときとか、表情が中学生と思えないくらい大人びていて、当麻はつい惹き込まれる。
「うー、みつこ。とうまはエッチだからこの部屋にいないほうがいいんだよ。ここにいたらうつされるかも」
「人を変な病原体の保持者みたいに言うな」
「むー! ほっへたはあめあんだよ!」
頬をつままれて呂律が回らないままインデックスは抗議する。
摘んだまま、当麻が手を頬からビッと離すと、歯を見せてぐるぐるとインデックスが唸った。
「とうま。怪我は治ったんだよね?」
「え? 今から検査だけど」
「治ったんだよね?」
返事を聞いちゃいなかった。
靴を脱いだかと思うと、すぐさまインデックスがベッドの上に上がって、掛け布団の上から当麻にまたがった。
ちょうど当麻の腰の上に、インデックスが腰を下ろした位置関係だった。
「お、おいインデックス」
当麻の戸惑いは、インデックスが怒っていることにではなくて、きわどい体位にインデックスがいることに起因していた。
それにまったく気づかず、インデックスはキシャァッと鋭い歯を見せて。
「止めろって、おい、あいででで! 痛い、痛いって!」
「これは仕返しなんだよ! いつもいつもとうまはみつこには優しくするくせに私にはいっつもいっつも意地悪ばっか!!!」
「そ、そんなことないだろ! それに光子は彼女だ!」
「別にみつこといちゃいちゃしてもいいけど私にももっと優しくして欲しいんだよ!」
文句を雨あられと降らせながら、インデックスはガジガジと上条の頭皮を削っていく。
ちょっと健やかなる毛髪の育成が心配になる当麻だった。
「わ、わかったわかった。じゃあ何すればいいんだよ? 光子みたいにキスしろってか?」
「え――――」
勿論、冗談だった。冗談ぽく聞こえるように言ったつもりだった。
だというのにインデックスがピタリと硬直して、さっと頬をピンクに染めて、誰もいない窓のほうを向いた。
隣にいる光子が頬に手を当てて、ふう、とため息をついた。
「あらあら当麻さん。とてもおもてになる当麻さんは、私一人ではやっぱり満足ましていただけませんの? よりによって、インデックスだなんて。むしろ勇気があるって褒めてあげるべきなのかしら」
「い……いやいやいや! 違うんですよ光子さん! 今のは、決して」
「……とうまのばか」
ちょっぴり顔を赤くしたまま当麻のベッドを降りるインデックス。
貼り付けたような朗らかすぎる光子の笑顔が消えるまで、当麻はひたすら謝りとおした。



当麻のいないベッドで、光子とインデックスはごろごろする。
検査のためについさっき出て行ったばかりなので、当麻の温かみと、匂いが残っていた。
インデックスが枕をぎゅーっとしているのが光子は気になった。
それは自分がしたい。というか、まさかとは思うが当麻の匂いを求めて抱きしめてるんではなかろうか。
「その枕、そんなに好きですの?」
「え? 別にそんなことはないけど。光子はベッドで横になると抱きつくもの欲しくならない?」
「いえ、あまり……」
なるほど、と光子は納得した。
寝ている間にインデックスに抱きつかれた覚えが、インデックスと同じ家で寝た夜のと同じ回数分だけあった。
二度ほど、あろうことかインデックスは当麻のほうに行こうとしたこともあった。
どうも悪気がなさそうだったので、あまりやきもきせずにきたのだが、それは当たりらしかった。
まあ、インデックスが本気で当麻に気があるのなら、自分はインデックスと一緒にはいられないだろう。
インデックスは美人だ。あと数年もすれば、きっとすごいことになると思う。そのときに、自分はインデックスよりも魅力的な人でいられるだろうか。
人は外見だけではない。そう思いつつも、焦りが無いといえば嘘だった。
「えへへ、ねーみつこ」
とはいえ、今においては全くの杞憂。
当麻の匂いなんてまるで気にしていないのだろう。ぽいっと枕を近くにおいて、インデックスがぎゅっとしがみついた。
「なんですの? インデックス」
「こうやってだらだらするのもいいね。とうまがいないとちょっと物足りないけど」
「ふふ。でも当麻さんがここにいたら、またほっぺをつねられますわよ?」
「あれほんとにひどいよね。わたし、悪いことしてないのに」
光子は当麻の気持ちが分からないでもない。可愛いからつい意地悪をしたくなるのだ。
当麻のまねをして、インデックスのほっぺたをつまんでみる。
むー、と拗ねる顔を期待したのだが、軽く驚いた後インデックスは笑い返してきた。そして光子の頬をつねった。
別に痛くはなかった。当麻のつねり方はもう少し強いのかもしれない。
「みふこがはなはないほはなひてあげない」
「いんでっくふこそはきにはなひて」
ぷにぷにと頬を上下させながら、わかるようなわからないような会話を続ける。
「正直に言うとね、インデックス」
「なあに?」
「どんな事情であれ、私と当麻さんの所に残ってくれるって決めたこと、嬉しかったですわ」
「……邪魔じゃなかったかな? 私がいなければ、とうまとみつこはふたりっきりになれるし」
「いいんですのよ。あなたがいなければ、黄泉川先生の家であんなに同棲みたいな事をすることも出来ませんでしたわ」
損得勘定をすると、得だったかもしれないとさえ光子は思う。
補習三昧の当麻とは、毎日会える時間も知れているだろう。夏休み前の延長みたいな、そんなデートしかしなかったと思う。
インデックスを間に挟んでだが、当麻との距離がすごく縮まったのを光子は感じていた。
「良かった。ちょっと、邪魔だって思われてないかって気になってたから」
「じゃあこれからはもう気にしないことですわね」
「うん。とうまもおんなじかな?」
「きっとそうですわ。ふふ、気になるなら後で聞いて御覧なさい。きっと、つまんねーこときくな、ってほっぺをつねられますわ」
「うー、それは嫌かも」
心底嫌です、といった顔を作るインデックスにクスクスと笑いかけて、そっとフードや修道服の乱れを直してやった。ついでに短めの自分のスカートも直した。
検査がどれくらいかかるのか分からないが、あまり長いと寝てしまいそうだと思う光子とインデックスだった。






ザリザリという音をさせながら、当麻は階段を上る。
砂とホコリで汚れた階段だ。無理もない。打ち捨てられてそれなりの年月を経たビルだった。
隣には、光子とインデックスと、黄泉川。
「夜の屋上は、やっぱり落ち着きませんわね」
階段を上り詰めて、空を見上げて光子が発した第一声がそれだった。まあ、言いたいことは分かる。
当麻は屋上で重症を負ったし、光子はギリギリのところで当麻の死を回避した。
そしてインデックスは無意識にせよ、それほどの窮地へと二人を追い込んだ本人だった。
階段を上りきると、あの時と同様に、床一杯に張られたルーンと、そして二人の魔術師。
「随分と回復したようだね。上条当麻」
「ああ、おかげさまでな」
「貴方の治癒に関しては、我々は何も出来ませんでしたが」
時刻は午前零時。
インデックスが何の処置も受けなかったらそこで死ぬはずの予定時刻から、ちょうど十五分前だった。
全ては解決したと、おおよそ誰もがそう思っている。だがこの死線を潜り抜けるまでは、安心できない。
何かがあってもいいようにと選んだのがこの廃ビルの屋上だった。
「インデックス。正直に答えてください。頭痛など、体の不調はありませんか?」
真剣な目で、神裂がインデックスを見つめた。
もちろんずっとと奥から見守っていたから、そんな素振りを見せなかったことは知っている。
だが、それでも確認はしておかねばならない。
「大丈夫だよ。体におかしなところはないし、晩御飯も一杯食べたから」
「ふふ。あれは食べすぎです」
神裂がそう返事をする。夕食を一緒にとった覚えはないのだが、どこかから見ていたのだろう。
「育ち盛りだしいいじゃないか」
「ステイル。あれが適正な量に見えたのですか?」
「なんだ。正直に言うほうが正解かい? あれじゃ、太るよ」
「……ふんだ」
思ったより反応が薄いことにステイルと神裂は少し戸惑った。
少なくとも一年前なら、ひと喧嘩やらかすくらいのネタだったはずなのだが。
そうやって、お互いの距離感を測りなおす。
「そうだ、インデックス。これを」
「え? これ何?」
「学園都市のID……ですわね」
「こんなもの、どうやって手に入れたじゃんよ?」
疑うような声で黄泉川がそう尋ねた。当然だ。偽造カードを見過ごせる立場の人ではない。
この場くらいいいじゃないかと、思わなくもなかったが。
「正式に統括理事会、だったかな。この街の上層部から発行されたものだよ。僕ら魔術師は超能力なんてものがこの世に存在するのを認めてないし、同時にこの街のトップも魔術師を認めてない。それが建前さ。だけど、裏ではちゃんと話を通すためのラインが繋がってる。だからむしろ当然だと思って欲しいね。こっちとそっちの上が話し合って、決まった結果がこれだってことさ」
ステイルはインデックスの手のひらからIDを取り上げて、黄泉川に渡した。
偽造技術もレベルの高い学園都市で、チェックを目視でやるのは無意味に近かったが、黄泉川はカードの表から裏まで全ての情報をきっちり読んだらしかった。
「ま、事務所に帰ってきちんと調べるじゃんよ。それで婚后。インデックスがこの街に残るなら、相談があるって言ってただろ。ちょうど暇だ、今でいいか?」
「ええ、私はそれで構いませんわ」
ちらりと、光子が当麻のほうを見た。それに頷き返す。三人で話し合って、決めた結論だった。
とはいえ、結論などと胸を張って言えるものじゃなくて、誰にどうお願いするか、ということなのだが。
「インデックスを誰がどこに住まわせるか、が問題ですわよね」
「だな」
「私達が預かるからこそ、『必要悪の教会』はインデックスの在留を認めたのですわ。ですから、少なくとも私達のどちらかは、この子と同居する必要があります」
「どちらか、な。まあ常識で言って上条はないじゃんよ」
「となれば私が一緒にいることになりますけれど、私は今、常盤台中学の寮にいるのですわ」
「だから、現状では一緒には住めない、と。ここまでは分かってる。で、何が決まったんだ?」
三人はすっと、姿勢を正した。離れたところで神裂も同様にしていた。
「この子と私の二人を、先生の家で面倒を見ていただくことはできませんでしょうか」
「……」
皆、腰をきちんと折って、そうお願いした。
「答える前に質問だ。婚后、それって可能なのか?」
「はい。自律を促すため、という名目で常盤台の学生は学生寮に住むのですわ。もちろん能力者として価値の高い学生を集めていますから、セキュリティ上の都合もありますけれど。逆に言えばこうした問題をクリアできるなら、申請すれば学生寮以外の場所に寄宿することも認められていますの。監督責任者が親類でないこと、信頼できる身分の人間であること、女性であること、といった条件ですわ」
「まあ、あたしは適任って事か。で、婚后。いつまでいる気だ?」
「……短いほうがよろしいのでしたら、他に引き受けてくれる方をなるべく早く見つけるようにします。それと、高校は自由の利くところを選ぶようにしますから、私が卒業するまで、最長で一年半です」
「ほかの引き取り手に心当たりは?」
「……今のところは、その」
「ふむ」
黄泉川の中で、答えはすでに出ていた。実はそれほど抵抗もなかった。たぶん問題のある学生を泊めるのが好きな知り合いの教師の影響だとは思う。
それと、光子の性質もそう悪くはない。調べた限り相当のお嬢様だったが、家事などもそれなりに積極的だった。
甘やかされてはいたのだろうが、他人のために尽くせるいい性根の持ち主だ。
出来の悪い子好みな性分から言えば上条のほうがしごき甲斐があるが、まあ、同居人に求める資質ではない。
「上条」
「はい」
「仮に、婚后とインデックスがうちに住むとして、お前はどうするんだ?」
「いや、俺は男ですし、一緒には無理ですよね?」
「要するに、お前が通い婚をするわけか」
「通い婚って……まあ、会いに行っても良いなら、行きたいですけど」
「そうか」
当麻も、ちゃんと線引きは分かっているらしかった。
なら構わないだろう。
「婚后、インデックス。一年半先までどうなるか保証は出来ないけど、しばらくはウチに来い。面倒見てやろうじゃんよ」
「ホント? いいの?」
「もちろんお客様じゃない。別に楽をしたいわけじゃないけど、家の仕事はきちんと引き受けてもらう」
「当然ですわ。あの、それじゃ、ご迷惑をおかけしませんよう気をつけますので、どうぞよろしくお願いいたします」
再び、光子がぐっと頭を下げた。
当麻とインデックスもそれに習う。黄泉川が神裂に目をやると、神裂も御礼をした。
「無事に決まって、こちらとしても安心しています」
「さて、それじゃあ後はインデックスのデッドラインを見届ければ、めでたくハッピーエンドだな」
当麻は時計を持っていない。
後何分あるかは分からないが、万が一に備えて、治ったばかりの右手を確かめるように握り閉めた。
その当麻を、ステイルが馬鹿にしたように鼻で笑った。
「もう終わったよ」
「え?」
「君たちがお気楽そうに話をしている間に、もう時間がとっくに過ぎてしまったよ」
光子が慌てて時計を見ると、零時十七分を差していた。インデックスを見ると、まるでなんともなかった。
杞憂は、無事に杞憂のままだった。
「さて、それじゃ長居しても仕方ない。帰ろうか、神裂」
「そうですね」
荷物らしい荷物もない二人は、軽く身だしなみを整えるだけで、もう出発の準備を終えた。
当麻は傍らのインデックスを、ぽんと押し出してやった。
一瞬インデックスがこちらを見て、そして神裂とステイルのほうへと歩き出した。
「ありがとね、ステイル、かおり」
「礼を言われるようなことじゃあないよ」
「そうだったね」
その答えに二人は微笑んだ。ずいぶん遠い昔に交わした約束を、インデックスが覚えているという証明だった。
「また、会いに来ます。暇はあまりありませんが、年に一度くらいは、必ず」
「うん。待ってるね」
ぽん、とステイルがインデックスの頭に手を置いた。神裂がインデックスを抱きしめた。
それに微笑を返す。
「それじゃあ、また」
「うん」
別れはとてもあっけなかった。
むしろ隣で見ている光子と当麻、そして黄泉川のほうがそれでいいのかと気にするくらいだった。






黄泉川家に帰ってきて、インデックスは光子たちに気づかれないように、そっとため息をついた。
ようやく、この心苦しさから少し開放された。
それは根本的な解決ではない、というか、解決なんて一生しないものだ。

インデックスは記憶を取り戻した。それは、嘘ではなかった。
初めて神裂とステイルに会ったその瞬間から別れ際まで、時系列に沿って全ての思い出をインデックスは書き出せる。
とても幸せな日々だった。確かに記憶は、戻ったのだった。

でも。例えば。
インデックスにとって、神裂とステイルとの幸せな日々の始まった日は、大好きな『先生』と別れた日でもあるのだ。
『先生』も自分にはよくしてくれた。必ず思い出させてみせると、不幸な境遇から救い出してやると誓ってくれた。
そんな『先生』を、自分は、どれほど恩知らずの恥知らずでもやらないほど完璧に、忘れたのだ。
『先生』が涙して、自分も涙して、お別れをしたその数時間後には、自分は神裂とステイルと仲良くなり始めていた。
そして一年後、自分はまた、『先生』の時と何も変わらず、ただ、隣にいる人だけをとっかえて、泣きじゃくっていた。
次に目を覚ましたときも、神裂とステイルがいてくれた。二人を思い出せない自分に、絶望する顔が鮮明に浮かぶ。
薄情にも許される限度があるだろう。これは殺されていい程度だと、自分でも思う。
二年目の二人は、疲れていくばかりだった。一年目と比較できる今なら、ようやく分かる。
不安と諦めが、二年目の終わりの二人には会った。こんなによくしてくれた人を、よくもここまで苦しめられるものだ。
自分の浅ましさに、窒息しそうになる。
そして、三年目。自分は一体どんな感情を持っていただろう。
勿論それだって覚えている。これは記憶を消されていない部分だから当然ともいえるが。
神裂とステイルに、憎しみを覚えていた。二人は理不尽の象徴だった。
人と関わることを許さないように、つかず離れずで二人はインデックスを追い詰める。
どうして私が、と誰に対しても吐き出すことの許されなかった苦しみを、心の中でインデックスは全て二人に背負わせた。

そんな最低の自分にできることはなんだろうか。
謝ることなんて、もう無意味だ。とても償える額の負債ではなかった。
せめて、喜ぶ二人のために、一年前か、二年前の自分でいてあげようと思う。
確かにそれも、自分だったのだから。

インデックスは一年以上前のことを、確かに思い出した。
ただそれは、記録としての記憶に、アクセスすることが可能になった、というだけ。
記憶を、自分の記憶として引き受けたという、そういう意味ではなかった。
リアリティがないのだ。いつ、だれと、どこで、何をしたのか、それを全て覚えている。
だというのに、それを行ったのが自分だったという実感だけが、得られない。
それは当然だった。ステイルや神裂といた頃の自分は、その時点で持っていた記憶だけを頼りに生きる自分だった。
こんな俯瞰的な視点で過去を見た自分は今までにいない。
今の自分は、もう、いままでのどのインデックスとも別人だった。
救おうとしてくれた人の期待に応えるインデックスでは、ない。
神裂とステイルが愛したインデックスは死んだ。死んで、しまったのだ。

自分にとっての救いは、光子と当麻だった。
彼らに愛されたインデックスは、自分だ。
正しいことは分からないが、自分にとって幸いなことに、自分は光子と当麻が好きなインデックスだという、自覚があった。
だから、こうして、ソファで三人座っている今の時間が、たまらなく幸せだ。
だけどそれは、二人にとっての幸せではない。
あれだけの人に支えてもらいながら、光子と当麻にしか心からの感謝を見出せない自分は、きっと二人にとってもお荷物だと思う。嘘つきだし、不誠実だ。
そんな内面を、二人に説明するのが怖い。
嫌われたら、沢山の人に沢山のものを貰ったはずの自分が、全てを失った人になってしまう。

テレビがよく分からない番組を流している。
画面越しに見る人くらい、自分が空虚になった気がした。
「インデックス。もう眠い?」
「えっ? ……うん、そうだね」
「もう遅い時間ですものね」
明日の朝から早い家主が、一番風呂だった。三人はこれからお風呂に入る。眠くもない目をこすると、光子が布団を敷くといって出て行った。
当麻と二人きりになる。じっと、見つめられた。その視線にドキリとするより、当麻の言葉のほうが早かった。


「お前、隠し事、何かしてるだろ」


答えなんて、言えるわけがない。むしろ指先が震えそうだった。
真夏の、冷房もまだろくに聞いていない部屋で、そんなことになったら怪しまれるに決まってる。
今でももう怪しまれているのだから。
「隠し事、って?」
「あいつらを見送ったとき、お前は何かを取り繕うような顔をしてた」
「別にそんなことはないんだよ」
「あいつら、気づいてたかな」
「……」
「浮かれてたから、そうでもなかったかもな」
インデックスはむしろ、当麻にこんなことを言われていることに驚いていた。
心の機微に気づくなんてことからは、遠い人だと思っていたのに。


「お前、全部を思い出したはいいけど、昔のことを割り切れてないんじゃないか?」


あまりに、核心をついた一言だった。避ける余地すらなかった。
目を合わせられない。糾弾する人の顔を見られないのは、疚しい自分にとって当然だった。
だが、無理矢理にでも目を合わせるようにと、当麻がインデックスの正面に回った。
逃げられずに、目を合わせてしまう。ただその目を怖いとは、思わなかった。意外だった。
優しい目をしているわけではない。ただ、案じてくれて、すがりたくなる、そんな目だった。

「私を助けてくれた人たちのために、私は、その人たちのインデックスでいなきゃいけないんだよ。救ってくれた人に、せめて、それくらいは」
「ばーか」

本当に馬鹿にするように、当麻がそんな返事をした。むっとする。
「救われたのはお前じゃないんだよ。きっと」
「え?」
「お前が幸せでいてくれることで、救われるやつってのがいるんだよ。まあお人よしって言うんだけどな、そういう連中のことは。……そういう連中にとって一番は、今、お前が幸せでいることだろ」
「でも、私、それじゃ何も返せない」
「代償が欲しくてやったと、思ってるのか? そういう側面も有るだろうさ。けど、例えばステイルと神裂にとって、一番大切な目標はなんだったと思う? 自分たちを思い出してもらうことか? それとも、記憶を失うことで不幸になる、そういうお前を救い出すことか?」
「……」
「仮面を取り繕ったって、誰も幸せにはならねえよ」
「そう、だね」
でも、どうすればいいのだろう。もう一度神裂とステイルに会ったとき、落胆させればいいのだろうか。
「また仲良くなれよ。喧嘩でもして仲悪くなったと思えばいい。ただの仲直りだ」
「うん」
「俺たちとだって、そうやってやり直せばいい」
「え?」
「会って高々一週間の付き合いだ。気まずさなんて、すぐ薄れるだろ? だから――」
当麻が思い違いをしていることにインデックスは気づいた。
ステイルたちに疎遠な感覚を覚えてるのとは違って、居心地が悪いのにここにいるわけではない。本心を偽って、ここにいるわけではない。
唯一ここ、当麻と光子の隣は、自分の居場所なのだ。
「光子と当麻には、嘘ついてないよ」
わかって欲しくて、真剣な響きを込めて当麻にそう伝える。だが、これすらも取り繕いだと思われたら、どうしようか。
心に差した不安が膨らむより前に、後ろから声をかけられた。
「じゃあ、一緒にいたいって、本当に思っていてくれてますの?」
振り返ると光子がいた。当麻とは全然違う、優しい顔だった。二人がいてくれて良かったと、インデックスは思う。
過去に向き合う勇気を当麻はくれた。今という居場所を光子はくれた。
「みつこ、とうま」
「ん?」
「なんですの?」
「大好き。すっごく、大好きだよ」
「私もですわ」
「俺もだよ。……言ってて恥ずかしいな」
もう、とたしなめるように光子が当麻に笑う。そして光子と二人で笑いあうと、当麻が髪を撫でてくれた。
「ま、それじゃあこれからもよろしくな、インデックス」
「うん」
あっさりとした、そんな言葉のやり取り。
幸せな日々をはじめるのだと、そうインデックスは笑って誓った。

****************************************************************************************************************
あとがき
これで第一巻分の内容が終了となります。お付き合いくださって、ありがとうございました。
この後は軽い目のお話を少し挟んで、能力体結晶編(アニメ版超電磁砲の後期エピソード)に触れていこうと思います。
アニメを視聴されていない方にも分かるよう、なるべく説明を端折らないようにしながら描いていく所存です。
これからもよろしくお願いします。

さあ、お待ち兼ねの佐天さんが動き回る章に突入です!



[19764] interlude02: 渦流転移 - Vortex Transition-
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2014/01/29 14:28

びっくりするほど、昨日は暇だった。寮の個室で本を読む以外にすることがないのだ。

どうも噂では学び舎の園の外にあるほうの学生寮は鬼寮監がいるらしく、光子のようなケースは厳しい罰が与えられるらしい。
こちらの寮監はそれほど苛烈ではない。男子禁制の空間の中だから緩いのかもしれなかった。
とはいえ、一週間近く外泊をした上、最後の数日は警備員、黄泉川からの連絡で延長したものだった。
夏休みといえど、そして事情があったといえど、慎み深い生活を送ってくださいねと諭す寮監の言葉に、光子はきちんと従わざるを得なかった。
何せ、来週からは黄泉川で暮らすことになるのだ。寮で暮らさないだけで不良みたいな目で見られかねないのに、これ以上学校から睨まれるのは面倒だ。
それで、早朝に黄泉川家から戻って以来、寮内で謹慎していたのだった。
ついさっきまでは。
「大義名分が出来て、本当に助かりますわ」
「いえいえ。っていうか、どうして謹慎なんてことに?」
「こないだ駅でお会いしたでしょう? あのときの関係ですの」
「あー、なんか、その」
「ごめんなさい佐天さん。ちょっと、お話し辛い事情がありますの」
「あ、私のほうこそ変なこと聞いちゃってごめんなさい」
「気になさらないで」
学び舎の園の入り口の程近いバス停で、光子は佐天と話をしていた。
昨日、ちょうど佐天から連絡があって、話している内にまたレッスンをすることになったのだった。
読書にも早々と飽き、暇を持て余していた光子にとっては幸いだった。
そしてやけに歓迎されたことに戸惑いを覚え、佐天は光子が謹慎中であるという事情を知ったのだった。
そして面倒だと思われないのなら、佐天は光子に自分の伸びを是非見て欲しいと思っていた。
光子にとってはまだまだちっぽけかもしれないが、この数日でまた能力が伸びたという自覚がある。
最初に自分の能力を芽吹かせてくれた人だから、報告したかった。
「それにしても婚后さん、ちょっと会わないうちに、なんか雰囲気変わった気がします」
「えっ?」
「なんだか優しくなった、っていうか。あ、すみません。変なこと言っちゃって」
「ふふ。妹が出来たからかもしれませんわ」
「はあ、妹さん、ですか?」
親元から離れている自分たちに年の離れた妹が出来たとして、果たして関係が有るだろうか。
そう佐天が首をかしげていると、光子が訂正するように笑った。
「正しく言えば妹分、ですわ。血縁のある妹という意味ではありませんの」
「はあ、要はその妹さんの面倒を見るようになった、と?」
「そういうことですわ」
笑い方が、前より絶対に優しいと思う。そしていい傾向だと佐天は思った。
初めて会った、一ヶ月ちょっと前と比べて、ずっと親しみを感じる人になっていた。
妹が出来たからだというが、彼氏が出来たからじゃないかとも佐天は思う。
だって、人としての輝き方が、なんだか嫉妬してしまうくらい綺麗なのだ。
「バスが来ましたわ。近い距離ですけれど、お付き合いくださいな」
「はい」
謹慎中で商店街に近づけない光子にあわせて、バスに乗った。
行き先は一度佐天が行ったことのある場所、常盤台中学内の別棟、流体制御工学教室だった。



「お、おじゃまします……」
「そんなに緊張なさらなくても良いですわ。初めてではありませんでしょう?」
おしとやかな女学生ばかりが歩く常盤台中学のキャンパスをここまで歩くと、やっぱり縮こまってしまう佐天だった。この建物は静かだからなおさら緊張する。
「いやー、やっぱりここに来るとどうしても落ち着かないんですよね」
「知り合いが少ない場所ですから、仕方ないかもしれませんわね。コーヒーでもお飲みになる? こないだと違って実験から始める気はありませんから、気持ちをほぐす意味でもよろしいんじゃありません?」
「あ、はい。確かにちょっと喉が渇いちゃったかも」
佐天がそう言うと、光子がまだ行ったことのない部屋へと案内してくれた。扉を開くと、コーヒー豆の匂いが鼻をくすぐる。休憩室なのだろう。
事務的で常盤台にしては質の悪い明るい色のソファと、無機質な感じのするガラスのテーブルが置かれていた。
部屋の端にはコーヒーメイカーとポット、そして個人のものなのか綺麗な瓶に入った茶葉があった。
「すぐ淹れますわね。って、あら、湾内さんに泡浮さん」
「まあ婚后さん。ごきげんよう」
「それに、佐天さんも。どうなさったの?」
対面で全部で10人くらい座れるソファの端に、水着の撮影会で知り合った湾内と泡浮が座っていた。
大き目のポットで二人分淹れた紅茶を、二人で仲良く飲んでいるところのようだった。
ポットとカップ、ミルクサーバーが綺麗な絵をあしらったボーンチャイナで、絶対にあれは高いだろーなー、なんてことを考えてしまう佐天だった。
「こんにちは。湾内さん、泡浮さん。実は婚后さんにちょっと能力のこと、色々教えてもらってるんです。今日も面倒見てもらえたらなって思って、押しかけちゃったんですよね」
「まあそうでしたの! じゃあ、すごく筋の良いお弟子さんというのは、佐天さんのことでしたのね」
「え?」
「ふふ。名前はお伺いしなかったんですけれど、自分のことみたいに婚后さんが自慢なさって、ちょっと後輩の私達が妬いてしまうくらいだったんですよ」
「もう。恥ずかしいですから嬲るのはお止めになって、お二人とも」
コーヒーを二つサーバーから淹れて、光子がソファへと佐天を誘った。
「そう仰っても、私達、婚后さんにお聞きしたいことはたくさんありますのよ?」
「そうですわ! ねえ、佐天さんも気になりませんこと?」
「え?」
「婚后さんが、お付き合いなさっている殿方と最近どうされているのかについて、ですわ」
二人ともおしとやかなのだが、やっぱり女の子なのだった。
そりゃあ常盤台という女子校の中にいると、出会いは少ないだろう。そうでなくてもこんな話、盛り上がらないほうがおかしい。
……とはいえ佐天は、気になるけどちょっぴり聞きたくないような気持ちもあるのだった。
婚后光子は、感覚で言うと『師匠』に近い。
彼女もまた人なり、ということは分かっているが、恋愛だとかそう言う浮ついた話と、自分の才能を花開かせてくれたすごい人という感覚が、どうも相容れないところがあるのだった。
とはいえまあ、勿論話は聞かせてもらう気なのだが。
「ちゃんと聞いてなかったですけど、やっぱり彼氏さん、いるんですか?」
「え、ええ……まあ、その。イエスかノーかといわれると、イエスですわ」
「当麻さん、って仰るんでしわたよね?」
「もう泡浮さん! ちょっと名前を漏らしただけなのに……もうお忘れになって!」
「悪いですけど、お断りしますわ。ね、湾内さん?」
「ええ。苗字をお教えいただくまでは忘れようにも忘れられませんわ」
そんなものを聞いた日にはもっと記憶が確かになることだろう。こっそり佐天も心の中にメモをする。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「もう、佐天さん。お答えするの恥ずかしいですわ、そんなの」
「そろそろ一ヶ月半くらい、ですわよね?」
「もう!」
「婚后さん、かなりばらしちゃってるんですね」
「だって、その」
聞かれたらつい喋ってしまう、そういう性格なのだった。光子は。
だって惚気話をするとつい幸せになってしまうのだ。
「初デート前日の慌てっぷりといったら、もう幸せそうで見ていられませんでしたもの」
「ええ、明日友人と遊ぶのですけれどどの服がよろしいかコメントくださる?って」
「女友達とならあんな風に迷ったりなんてするわけありませんのにね」
「ですわよねえ」
光子は顔が火照ってきてどうしていいかわからなかった。
お座なりに佐天に勧めて、自分が先にコーヒーに口をつける。
「婚后さん」
「なにかしら、佐天さん?」
「もうキスしたんですか?」
ぶほ、という返事があった。慌てて光子がテーブルを拭いた。
向かいのソファでは、まあ、という顔で二人が光子を見つめていた。晩生(おくて)の二人には、ストレートすぎて聞けなかったのかもしれない。
「さ、ささささ佐天さん?! なんてことを聞きますの?」
「え、だって恋人同士なら普通じゃないですか? キスくらい」
「そんなことありませんわ! 結婚もしてない男女が、その、そのようなこと……」
常盤台らしい、貞淑な価値観だと思う。光子が口にするのは。
だが佐天は口ぶりとは裏腹に、どうも光子は経験があるらしい、と踏んだ。
「別に恋人同士ならキスくらいは普通だと思いますけど」
「知りません!」
「キスしてないんですか?」
「知りません!」
鋭く突っ込む佐天を、対岸の二人は頬を赤く染めながらわぁぁ、と期待した目で見つめていた。
そこまでは、二人は聞けなかったのだった。佐天はそっと、光子の肩に手をかけて、耳元で囁いた。もちろん全員に聞こえる音量でだ。
「……やっぱりレモンの味なんですか?」
「そ、そんな味するわけありませんでしょう?」
あ、と光子が漏らす。他愛もない。語るに落ちるとはこの事だった。
「じゃあどんな味だったんですか? 婚后さん?」
まさかカレーの味だったというわけにもいかない。
というか、なんでばらしてしまったんですの私の馬鹿、と頬を染めながら自省し、でもちょっぴり話せて嬉しい光子なのだった。
「いつごろ、しましたの?」
「もう、許してくださいな……」
「それじゃあ、いつしたのかだけお聞きしたら、もう止めますわ」
引き際を心得た二人は、そうやってもう一つ余分に情報を聞き出す気だった。
光子は光子で抗えないのだった。
「今月の20日……ですわ」
「夏休み初日ですわね」
「まあ、じゃあ婚后さんは夏休みをキスからお初めになったのね」
「それじゃあ、この先はもっと……きゃあ! 婚后さんってば大胆すぎますわ!」
「ちょ、ちょっと泡浮さん?! 私そんな破廉恥なことしませんわ!」
「そうは仰るけど、だって、初日にキスですもの!」
「ねえ? 佐天さんも気になりませんこと?」
「やっぱりキスよりもっと先の――――」
「もう佐天さん! それ以上言ったら今日はここで終わりにしますわよ!」
それは困る。
まあ、冗談だろうと分かってはいたが、武士の情けで今日はここまでにしてあげることにした。
……先は長い。ここでなくとも、いくらでも、光子をからかう機会はあるのだった。


「そう言えば、お二人はここでどんなことをしてるんですか?」
話が変わってほっとしている光子を横目に見ながら、佐天は二人に質問した。
能力の話をしたことはなかったが、ここにいるということはやはり流体操作系の能力者なのだろうか。
「今日は今開発中の発電システムの改善点の洗い出しに来ましたの」
「私と泡浮さんは他の方と何人かで同じプロジェクトに関わっていますの」
「発電、ですか?」
そう聞くと発電系能力者の仕事のようにしか佐天には思えなかった。
ピンとこないので首をかしげていると、二人は丁寧に説明してくれた。
「海洋深層水ってご存知ですか?」
「あ、はい。化粧水とかに入ってるアレですよね?」
「そうですわ。ちょっと非科学的な宣伝が出回っているせいで誤解もあるんですけれど、基本的には、表面の海水と比べて冷たくて清潔で、栄養分が豊富で、酸素が少ないただの海水ですわ」
「それを汲み上げて、温度差で発電しますの」
表面海水は東京近海なら年間を通して10℃程度はある。一方深層水は2℃くらいだ。冬で8℃、夏で30℃くらいの水温差を利用して、発電を行うのだった。
通常、発電用のタービンを回すのは水蒸気だ。原子力や化石燃料を燃やして作った高熱源体に水を触れさせて蒸気を作り、水が気化するときの膨張仕事をタービンのトルクに変え、電力に変換し、最後に低熱源体で蒸気を再び水に戻してリサイクルする。
水を使うのは量が豊富で安いこと、入手簡単なこと、捨てやすいことなど利点が多いからだ。
しかし湾内と泡浮の携わる海洋温度差発電プラントは、高熱源体に30℃程度の表面海水を、低熱源体に深層水を利用するシステムのため、気化・凝縮のサイクルを繰り返す媒体に、常圧の水を選ぶことは出来ない。
減圧して10℃くらいで水を気化するか、加圧してアンモニアを気化させるか、といったちょっと面倒なコントロールが必要なのだった。
「私は不得意ですけれど、液体であれば水以外の物質も扱えますから、アンモニアと水の熱機関部の開発に携わっていますの」
「へえー」
おっとりとした湾内が語るその内容が、佐天には眩しく見えた。同時に、すこし嫉妬も感じる。
何かを成した人とそうでない人の差がそこにはあった。だが、能力者を眺める無能力者の卑屈さはなかった。
「私は排水の応用の幅を広げているんです。この間、第七学区でお魚や貝のお祭りみたいなセールをしたでしょう?」
「あ、私行きました。生物プラントじゃない、海水養殖の学園都市産、っていうのが売りでしたよね」
「そうですわ。プラント培養は癌化などの問題を抱えていて、多品種少量生産は苦手ですから。一番確かなのはやっぱり海水を利用した養殖ですのよ」
学園都市に海はない。だから海産物は日本の周辺都市から仕入れるか、生物プラントでの培養に頼ることになる。
だが生物プラントは生物の複雑な仕組みを再現するのは苦手だ。だから牛や豚、鶏のような比較的大きい生物の、ロースやバラ、ももといったそれぞれの部位を培養し、製品化することになる。
生物全体を食べる貝などは苦手な品目だし、内臓で作る製品、イカの塩辛や魚醤のようなものはそもそも作れない。それを打開するのが泡浮の仕事の一つだった。
発電に使った水は、ミネラルを多く含んだ排水とほぼ純水の二つに分かれる。
それらのうち濃縮塩水のほうをポンプで学園都市まで輸送し、加水して海水を作ることで、恒常的に富んだ海を内陸部に作るシステムを構築するのだった。
ちなみに残った純水のほうにも使い道がありそうに思えるが、学園都市の上水道を支えられる量にはとてもならないので、河口近くに流したり現場の地域に提供している。
「世界の海に温度差が有る限り、無尽蔵にエネルギーを取り出せるシステムですから、開発する価値は充分にありますわ」
「濃縮海水からは金やウラン、希土類も回収できますから、学園都市が自前で元素を確保する意味合いもありますし」
「はー、なんか、すごいですね」
人の生活に密着したところで、それほどの業績を上げられるのは、本当にすごいことだと思う。
だが謙遜なのか、二人は軽く笑って手を振る。
「でもこれ、外の世界でも、15年位したら普通に実用化するレベルの技術ですの」
「それに熱効率が悪いから、原子力みたいな出力はなかなか得られませんし」
「まあ、私達にはちょうどいい課題、ということですわ」
「それでもやりがいはありますもの」
ね、と二人は笑いあった。
外の世界に持ち出せる程度の技術のほうが儲かり、そしてそういう簡単な技術をレベル3程度の能力者に開発させる。
このレベルは学園都市の、一番の稼ぎ頭なのだった。


「長くお引止めしてすみません。それでは、婚后さんも佐天さんも、頑張ってくださいな」
「また機会があったら一緒に遊びましょうね」
「はい、それじゃあまた」
湾内と泡浮の二人に自分の学校の同級生には見せないような丁寧な挨拶をして、佐天は光子を振り返った。
「それじゃ、レッスンを始めましょうか」
「はい、お願いします」
きゅっと顔を引き締めた佐天の顔を光子は気に入った。学んで自分を伸ばしたいという、前向きな意欲で満ちている。
休憩室から出ながら、佐天の進捗状況を尋ねた。
「微積分の講義のほうはどうですの?」
「えっと、流体力学に使う簡単な微積分はだいたいマスターしました」
「そう」
微積分といっても、応用先は山ほどあるし、数学的に厳密なことを言い出すといくらでも深みに嵌れる。
佐天が今必要としているのは厳密な証明などではなく応用のためのツールとしての微積分だ。
特に流体であれば時間発展の微分方程式を解けることが最重要となる。それに必要な知識は、大体身についていた。
教室に入って、光子は佐天が暗算できそうな問題をいくつか解かせた。
飛行機の翼周りの流れ、湾曲した円管内の流れ、固体表面へと吹きつけた空気の流れ、そういったもの一つ一つに佐天は的確に答え、正解した。
解くのに構築した演算式を聞くとまだまだ計算コストの低い方法はいくらでも考える余地があったが、それはこれからブラッシュアップしていけば良いものだ。
前に会ってから9日、充分すぎるだけの伸びといってよかった。
「満点、ですわね。よく努力されましたわね、佐天さん」
「ありがとうございます!」
「こう言ってはなんですけど、一緒に補習を受けた二年や三年の先輩方より出来が良かったのではなくて?」
「あ、途中から私、担任の先生が付きっ切りで見てくれるようになったんです。だから上の学年の補習に顔を出したのは一日だけで、そのへんはよく分からないです」
「そう。では言っておきますけど、これだけできれば十中八九、佐天さんの学校では佐天さんがトップですわね」
「え?」
「私も去年レベル2であまり上位の学校にはいませんでしたから予想がつきますわ」
誰かと比べてどうか、ということは佐天にはよくわからなかった。
自分が数日前の自分と比べて明らかに伸びたことは分かるのだが。
「そういうの、気にしちゃうと私調子に乗っちゃいますから。あんまり見ないほうが良いって先生も思ったのかもしれませんね」
「違いますわよ。佐天さんほど伸びる学生を他の学生と混ぜてしまっては玉と石を自分から混ぜるようなものですわ。特別扱いは当然のことですから、お気になさらないことですわね」
「はあ」
「それで、計算能力が上がったのは確認できましたけれど、能力そのものの開発はされましたの?」
「はい。うちの学校で扱ってる一番強い薬、貰いました」
「もしかしてトパーズブルーの粉薬ですの?」
「そうです」
低レベルの能力者にとってはきつめの開発薬だ。光子にも飲んだ覚えがあった。
今光子が投与されるのはもっと作用の強い薬になる。レベルが上がるほど、専門の開発官に副作用を細かく管理してもらう必要のある高価なものになっていく。
「それでどんなことを?」
「えっと、どういう方程式の解き方で流体を解くのが一番かっていうのを、相談しながら色々探したんです」
「そう。好みだったのは連続場と粒子場のどちら?」
「粒子場でした」
「やっぱり」
佐天は、空気の粒が見えるといった。そういう世界の描像の持ち主なら、当然の選択だろう。
決まっていないなら、光子もそれを勧めるつもりだった。
「それと、渦を作り方も数式として纏めるようにしたんです」
「あら。今日それをやろうと思っていましたのよ。もう出来てますの?」
「あ、これで良いかは分かりませんけど……」
「どういうものか説明なさって?」
「はい。えっと……」
佐天は説明のために、先生と一緒に勉強した理論の名前を思い出す。
数式ならすぐにでも書けるのだが、言葉にするのがちょっと難しかった。
「ランジュバン方程式に向心力を足した式を解く、ってことなんですけど……」
「ランジュバン? それって確か、コロイドの……ああ、成る程」
「はい。ブラウン運動をランダムウォークで再現したあれです」
コロイド、身近な例で言えば花粉だとか、あるいは牛乳の濁りの元になっている油液滴だとか、そういうもののことだ。
これらは水中で、不規則で無秩序な運動、いわゆるブラウン運動をしている。
この不規則な運動は、分散媒である水分子の揺らぎによって、瞬間的に不均一な力がコロイド粒子に加わることで、酔歩のような、予測できない動きをする現象だった。
「どうしてそんなものが出てきますの?」
それが光子の素朴な疑問だった。
確かに空気の粒という考え方は、確かにコロイドとイメージが近いかもしれない。ただ、あまり空力使いとはなじみのない現象だった。
「えっと、まずはじめに考えたのは、渦を作る式を作ることだったんです」
「ええ、それで?」
「そしたら、中心力を入れようってまず考えるじゃないですか」
「まあ、それは分かりますわね」
中心力は、何かの中心に向かって働く力のことだ。たとえばそれは磁力だったり、静電気力だったり、重力だったりする。
渦の中心に向かって空気の粒を引き寄せるような力を考えれば、確かに空気の粒を回転させたときに生じる遠心力と上手くつりあって渦が作れそうだ。
「でもそれだけじゃ駄目だったんです」
「どうしてですの?」
「星と同じで、綺麗な軌道の粒子だけが残っちゃったんです。後のは全部、ぶつかっちゃって」
「ああ……」
沢山の無秩序に動く粒があって、それがある一つの中心に向かって吸い寄せられる系(システム)。
それは原初の宇宙そのものだった。ブラックホール周りの星系はそんな感じだったろう。
だが今では、天体は、極めて美しい均衡の取れた周期を形成している。
たとえば地球は随分と長い間、他の星と衝突して星の形を歪めるような出来事を体験していない。宇宙には無限に星があって、それらは動き回る上、互いに引き合っているのにだ。
これはお互いにぶつかってしまうような周期のかみ合わせの悪い星同士はすでに衝突を終えて、今我々の目の前にある宇宙は、お互いに均衡の取れた、秩序ある宇宙に落ち着いてしまっているからだ。
向心力によって空気の粒がある一点の周りを回る系を作ると、宇宙と同様にあっという間に粒子が衝突・合一してしまい、鈍重で遅い、綺麗な軌道の渦しか残らないという問題があるのだった。
これでは、渦の演算に使える式ではない。
「それで、お互いがぶつからないようにするのと、もっと乱れた流れを作るために、何かいい方法はないかなって色々考えたんです」
「その結果が、コロイドのブラウン運動でしたのね」
「はい。あれって、なんかすごくイメージに合うんですよね。無秩序に、こう、ゆらゆらっと」
「要は中心力と遥動力で渦を制御する、と」
「あ、はい! そうなんです」
とてもシンプルで、佐天はその結論を気に入っていた。
渦を作る『種』は向心力だ。まるで太陽のように、あるいはブラックホールのように、空気の粒をある一点へと引き寄せる力。
だがこれだけでは渦の軌道が整然とした、逆に言えば内包するエネルギーに乏しいものになってしまう。
だからそこに、揺らぎを加える。
無秩序な揺らぎを加えることで、渦は乱雑で、そして複雑怪奇な軌道を描くようになる。
渦は普通は二次元だ。だが佐天は、この揺らぎによって三次元の球形の渦すらも作り出せる。
そして渦を巻きながら強く強く圧縮された空気の球を作る、それが佐天の得意技だった。
この支配方程式の良いところは、遥動力という唯一つのパラメータでさまざまな渦軌道を作り出せ、そしてその空気玉の規模というか威力を、中心力、まあ言ってみれば佐天の気合一つで決められる、非常に扱いやすい方法論であるところだった。
「えっと、お聞きした範囲では、非常に理にかなっていて良いように思いますわ」
「本当ですか?」
「ええ。何より佐天さんが気に入っておられるのでしょう?」
「はい」
「なら、当面はそれで能力をコントロールすればよろしいわ。ここまでよくまとまっているんでしたら、能力の伸びを再測定して、あとは一番大事なところに手を伸ばせそうですわね」
「大事なところ、ですか?」
佐天は首をかしげた。
どういう演算式で能力をコントロールするか、というのが一番大事なことだと思う。
それ以上のことなんて、あっただろうか。
「ええ。能力解放の仕方、ですわ」
「あ」
渦を作るのが楽しすぎて、暴発でしか能力を終わらせられないことを、すっかり忘れていた佐天だった。
「これまでずっと、発動した能力を終わらせるときは、暴発でしたの?」
「あ、はい。先生もどうしていいのかよく分からないみたいで」
「まあ流体制御の能力者には普通存在しない悩みですものね」
「そうなんですか?」
渦というキーワードが重要となってくる自分の能力は、確かに変り種だとは思う。
とはいえ、そんな根本的なところで人と違うのか、と首をかしげる佐天だった。
「空力使いは普通、気体を『流す』能力者ですわ。自分の意思で空気の流れを作るのを止めれば、また自然な状態に還っていくだけですから、空力使いが能力の終わりで悩むことはほとんど有りません。一方、私と佐天さんは、空気を『集める』能力者でしょう? 集めたからには開放しないといけない、という理屈で、私達は変わり者なんですのよ」
「あー、なるほど。言われてみればそれって確かに変わってますね。……自分で言うのも変ですけど」
言われてみて、確かに気づくことがある。
渦として空気を集める以上、解放しなければいけないのだ。そういう能力を授かった身なら、終わりまでコントロールしきって一人前。
半分しか出来ない自分は、半人前だということだ。佐天はそう、増長しそうな自分を戒める。
その姿勢はもはや無能力者の、そして劣等感に苛まれたかつての佐天とは一線を画していた。
「それで、解放の練習は何かしましたの?」
「あ、いえ。何をしていいのか、全然手がつかなくて……」
「そう。暴発、と表現してきましたけど、まずはそれから見直しましょうか。弱い威力でよろしいから、渦を作って、ここで解放して御覧なさい」
「はい」
光子が指導者らしい口調になったのを受けて、佐天は姿勢を正した。
そして言われたとおり、10センチくらいの小さな渦を作って、光子がじっと見つめているのを確認してからいつもどおりコントロールを止めた。
ボワ、という鈍い音が小さく響いて、風肌を撫でる。光子はその空気の流れをじっと見詰める。
「これはこれで、綺麗ですわね」
「え?」
「かなり等方的、どの方向にも均一に広がっていますのね。もっと歪なのかと思っていましたの。使い勝手は良くないかもしれませんが、これも一つの解放の様式、でしょうね」
「はあ……でもこれ、ただ広がってるだけですよ?」
「その通りですわね。制御が簡単、というか無制御でこうなる分イージーですけれど、その分、利用価値がないですわね。等方的というのはそういうことですけど」
方向によって性質が異なること、異方性というのは重要なことだ。
分子を並べる方向によって光の反射・屈折特性が変化することを利用して液晶ディスプレイは出来ているし、工業的に重要な触媒が重金属に偏っているのは、重金属がd軌道電子という極めて異方的な軌道を持つ電子を持つためだ。
佐天の能力で言えば、佐天が蓄えた100の力を、全ての方向に均一に散逸させれば、威力の減衰があっという間に起こってしまう。
それでは佐天の蓄えた渦という高エネルギー体の利用価値はあっという間に損ねられてしまうのだった。
「えっと、すみません。どういうことを考えたらいいんですかね?」
答えそのものを聞く学生になってしまったことを恥ずかしく思いながら、佐天は光子に尋ねる。
「そうですわね……。私の言葉で言えば、相転移を考える、ということかしらね」
「相転移?」
「流れている渦にこの言葉を使うのは不適切かもしれませんけれど、渦という一つの相(フェイズ)から、全くそれとは別の相(フェイズ)へと劇的に転移させる、という考えですわ。球形の渦が佐天さんにとって、一番自然な相なんでしょう。そこから、不安定だけど利用価値のある相へとガラリと転移させるのですわ」
相転移というのは、気体から液体、あるいは固体といったように相を転じる現象一般を指す言葉だ。
鉄の磁化も相転移だし、ただの伝導体が超伝導体になるのも相転移だ。そういう、ある温度や圧力、磁場強度を境としてガラリと状態が変わってしまうことを相転移という。
『流す』能力者と違って、『集める』能力者は何かをトリガーに劇的に状態を変化させないと、価値ある現象というのを引き起こしにくいのだった。
「相転移、うーん、すみません。ちょっとピンとこなくて」
「私も言葉が悪かったかもしれませんわ。要は、式に入力する値を変えるなどして、全く違った状態に変化させる、という意識を持てということです」
「あ、はい」
「ためしにやってご覧になったら?」
「はい……えっと、パラメータを適当にいじるので、どうなるか分かりませんよ?」
「構いませんわ」
佐天はいつもどおり、渦を作る。そしてしばし眺める。
いい仕上がりの渦だ。一週間前に自分が作っていたものが稚拙に見えるほど、巻きが安定していて、それでいて内部に大きなエネルギーを蓄えている。
その渦の制御式の遥動力の項に、今までに入れたことのないようなパラメータを代入する。
どうなるかはやってみないとわからない。とはいえ、予想はつくのだが。
――――さっきと変わらない、ボワ、という音。先ほどと同じような風が、二人の肌を撫でる。
それだけといえば、それだけだった。
「綺麗に広がった先ほどと違って、今は随分と広がる方向が乱雑でしたわね」
光子は違いに気づいていた。槍の様に、天上に向かう風が二条、そして足元に向かう竜巻が一つ。
水平方向には大体同じような広がりだった。
「変な値を入れて渦を目茶目茶にすると、こうなっちゃうんですよね」
「簡単なことですの?」
「え? まあ、数字を変えるだけですから」
「……」
考え込む光子を邪魔しないよう、佐天は黙る。
そして同時に自分でも考える。要は、全ての方向に均一に広げなければいいのだ。
それだけでも使い道は生まれてくる。そして、ある方向にだけ延ばすとなると……
「槍みたいに吹き出させれば、いいんですかね」
「あら佐天さん。私と同じ答えにたどり着けましたのね」
軽く驚いたような顔をして、すぐに褒めるように笑いかけてくれた。
「私がイメージしたのはさっき佐天さんの話に出た天体ですわね」
「え?」
「重力崩壊する星はパルサーと呼ばれる電磁波を放出しながら崩壊するのですわ。その放出方向は全方向にではなくて、大体自転軸に近い方向にのみ吹き出しますの。ちょっと試しに、やってくださらない?」
「あ、はい。……どうしたらいいですか?」
「そうですわね、まずは、一つの回転軸を中心に回る渦を作ってくださる?」
「はい」
それは簡単だ。
佐天は手のひらの上に、渦を作る。
水風船を回したときのように、垂直に渦の中心軸が出来るような流れを作る。
「それを上手く変化させて、全ての運動量を軸の方向に噴出させられませんか?」
「これを垂直にですか? それは……えっと」
こんな感じだろうか、とアタリをつけて値を入力し、渦に変化をつける。
再び鈍い音と共に、渦は破裂した。
「うーん……」
「イマイチ、でしたわね」
僅かに狙ったような傾向は見えたものの、結局は全方向に空気が散ってしまった。
「もし代案があれば、そちらを試してもよろしいのですけど……」
「ちょっと、思いつかないですね。すぐには。それに狙った変化を起こすのに必要なパラメータが今は予想できないので、なんとも」
「まあ、焦る必要は有りませんわね。毎日意識しながら能力に向き合っていれば、いずれ妙案を思いつきますわ」
「それで、大丈夫ですかね?」
「心配はもっと時間が立ってからされればよろしいわ。佐天さんはたった二週間くらいで、こんなところまで来ましたのよ。まずはもっと喜んで、自慢に思っても罰なんて当たりませんわ」
そう言って光子が笑いかけてくれた。
勿論、そんなことは重々承知していた。毎日が嬉しくて、渦を作りまくっているのだから。
「それは大丈夫ですよ! あたし毎日、能力が使えなくなるまで渦を作ってから寝るようにしてるんです」
「いい心がけですわね」
「おかげで長袖のパジャマで寝てるくらいですからね」
「え?」
「渦で熱を集めて窓の外に捨てるって、婚后さんのアドバイスにあったじゃないですか。あれ毎日夜にやってるんです。おかげで今週はクーラーいらずでした」
「ああ。ほら、やっぱりそういう練習が一番続くでしょう?」
「ですね。あはは」
光子に自慢をするつもりで、佐天は手のひらに、一番巻きの強い渦を作り出す。体を力ませないように気をつけながら、全力で。
出来た渦は中心が揺らめいていた。高圧に圧縮した空気の屈折率が変化するせいだ。
それは内包するエネルギーが相当強くなった、三日前くらいにようやく出来た現象だった。
「……ここまで、巻けますの?」
「え?」
驚いたあと、光子は予想に反して少し厳しい目をした。褒めて欲しかったのだが。
「あ、ごめんなさい。すごいですわね。目視で分かるくらい、渦の中は物性が違っていますのね。……とても、レベルが上がってから一週間やそこらの能力者、それもレベル1とは思えませんわ」
「はあ」
「もちろん褒めているんですのよ。ごめんなさい、同じ空力使いとしてつい」
何気に、その反応は嬉しかった。レベル4の光子が遠い存在なのは、勿論分かっている。
だからこそ、その光子が無視できないだけのものを作れた自分が、嬉しかった。




「……ふうっ」
「ここまでにしましょうか」
「はい」
3分間、佐天は散り散りになりそうな渦を耐えに耐えてコントロールした。
平均で直径30センチ、渦をスイカくらいの大きさで30気圧くらいに制御して、それだけの間、渦を崩壊させないで維持したことになる。
規模、時間、あらゆるファクターで一週間前の倍以上をマークした。
「素晴らしい伸びですわね。佐天さんのポテンシャルが、それだけ高かったのでしょうけれど」
「あはは、ポテンシャルなんて。褒めすぎですよ」
「何を仰いますの。短期間でこれだけの伸びを見せるなんて、努力でコツコツとでは得られませんわよ。こういうのを才能と言いますのよ」
佐天は落ち着かなかった。そりゃあ伸びれば嬉しいし、褒められるとついにやけてしまう。
だが、どうも才能なんて言葉と自分が結びつかないのだ。
「まあでも、すぐに頭打ちになりますわ。能力の伸びにまだまだ知識が追いついていませんし、体に染み付けないと、次のステップに進めないなんて事は山ほどありますわ」
光子のその言葉はむしろ佐天を安心させるような言葉だった。
苦労しながら伸ばすのが能力というものだろう。
壁に突き当たれば苦しい思いをするのかもしれないが、順調に伸びていて能力を使うのが面白くて仕方ない今は、そんな困難の一つくらい気合で乗り切ってしまえなんて風に心の中が勢いづいているのだった。
「さて、それじゃあ午前はこんなものにして、お昼にしましょうか」
「はい」
「どちらで摂りましょうか。学外の関係者の方々の利用する食堂があちらにありますけれど、それよりは、私達学生用の食堂かテラスのほうがよろしいかしら」
常盤台女子は男子禁制の学び舎の園の中にある。
しかし、レベル5を二人も要することからも学園都市の最高学府のひとつであることは間違いない。
当然のことながら、学生と共同研究を行う男性の研究者は沢山いて、常盤台の中に来ることもある。
人目に触れないように常盤台の外れに案内されるので大半の人間には気づかれないが、実は結構、常盤台には男性が入ってくることがあるのだ。
そして彼らは食事を摂りに出かけることすらままならない。そういう研究者向けの食堂が、この常盤台の外れに一つあるのだった。
とはいえ佐天は服装以外はここにいてもなんらおかしくない女子中学生だし、常盤台に知り合いがいないわけでもない。
「あー、視線を集めるのはちょっと嫌なんですけど、初春に、ぜひとも常盤台の皆さんのお食事している場所がどんなのか、その目で見て教えてください、って頼まれちゃってるんで」
「はあ。別に大したものはありませんわよ」
「常盤台でもですか?」
「私達も、佐天さんと同じものを食べる同じ女学生ですもの」
クスリと笑って光子は腰を上げた。佐天と知り合いなのは湾内と泡浮、そして御坂と白井だろう。
湾内と泡浮となら、上手くいけば会えるかもしれない。
居心地が悪いであろう佐天にとっては知り合いが多いほうが良いだろう。
なるべく知り合いを探そうと思いながら、光子は佐天を食堂へ誘った。




[19764] interlude03: 乙女の昼餐(そう淑やかでもない)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2013/10/25 18:10

休憩室を覗いて、湾内と泡浮の二人を探す。食事に行ったか、あるいは出かけたか、二人はいなかった。
夏休み中で、昼に学外へと昼食を摂りに行くのもアリだから、そうしたのかもしれない。待っても仕方ないし、二人は流体制御工学教室の学舎を出た。
「あつー……」
「分かってはいますけれど、外はたまりませんわね」
光子は扇子を取り出してパタパタと仰いでいる。渦を作って、佐天も首筋に風を作り出した。
風も生ぬるいので、あまり意味はないのだが。
「冷たい麺類にしようかしら」
「あ、いいですね」
「割とあの食堂の冷製パスタは気に入ってますの」
「パ、パスタですか」
ちょっと予想外だった。てっきり冷凍麺で作った冷やし中華やうどん、そばだと思ったのだ。学食なんて普通はそんなもんだ。
しかし、確かにこの学校の雰囲気にはパスタのほうが合っていた。
「細かく刻んだ蛸の食感とバルサミコ酢のさっぱりした感じが、暑い日には軽くて良いですわ」
「へー」
とりあえず佐天の昼は決まった。具体的な説明があるとつい味を想像してしまう。
聞いたところ材料はそう突飛でもないし、バルサミコ酢は家にないが黒酢ならあるから、家で真似することも出来るだろう。
「おーい、佐天さん! 婚后さん!」
「あら?」
「あ、御坂さん」
「ごきげんよう佐天さん。それと、婚后光子」
「どうして呼び捨てにされなければいけないのかしら? 白井さん」
別の建物から出てきたらしい二人、白井黒子と御坂美琴に返事を返す。どうも光子は白井と反りが合わないのだった。
いや、反りが合わないというか、光子としては普通に接しているつもりなのだが、どこか光子の態度が白井には合わないらしかった。
レベルは同じだが、学年は一つ上なのだ。もう少し態度に敬意があれば、光子のほうから歩み寄る気にもなるのだが。
「これは失礼しましたわ、婚后先輩」
「過ぎた慇懃は無礼と同じ、それくらい学びませんでしたの?」
「私は精一杯丁寧にお詫びを申しあげただけですわ、婚后先輩」
先輩という響きは、あまり常盤台では聞かれない。慣例としてさん付けが多いのだ。
だからその先輩というフレーズを強調する白井が、やっぱり気に入らない光子なのだった。
そしてお姉さまに比べて自分の能力を鼻にかけてお嬢様な態度をとりがちな先輩の婚后が、どうも気に入らない白井なのだった。
「ま、まあまあ。それで佐天さん、今日も婚后さんにレッスン受けてたの?」
「はい。そうなんですよ」
「佐天さんは物凄く伸びがよろしいですわ。二学期が始まる前が大変でしょうね」
「……え? なんでですか?」
「転校されるんだったら、どこに移るかは大事なことだと思いますけれど」
「え? 佐天さん転校するの?」
「え? いや、私まだ考えてないですけど……」
サラリと光子が言ったことは、先生には言われていたが、光子とは話をしたことがなかった内容だ。
突然だったので動揺してしまった。
「今の段階で、通ってらっしゃる中学ではもう一番だと思いますわよ。上の学年も含めて」
「へー! 佐天さんそんなに伸びたんだ。すごいじゃない!」
「い、いや、全然実感がないんで分からないんですけどね」
「今、レベルはいくつですの?」
「まだレベル1ですけど」
「すぐに上がりますわ」
レベルを尋ねた白井に、光子が隣でそう断言した。もうレベル2という評価がすぐ手元に近づいている状況だった。
そしてレベル2なら、中堅の学校を狙う段階だ。支給される奨学金の額が全く変わってくるからだ。
きりもちょうど良いし、確かに順当に行けば転校が自然なことなのかもしれない。
「でも、初春さんと別れちゃうのは寂しいよね」
「そうですね。入学してからずっと一緒に遊んでましたし」
「大丈夫ですわ。あの子は転校したくらいで忘れる薄情者じゃありませんし、風紀委員の支部に来れば毎日でも会えますわよ」
白井と初春の信頼関係は、自分と初春のそれとは違う。
二人がスキンシップを取っているようなところは見たところがない。
なんというか、相棒なのだ。そういう関係が羨ましくないこともなかった。
「ねえ、立ち話もなんだし、さっさと食堂に行きましょ」
「ですわね。お姉さま、今日は何にしますの?」
「んー、麻婆豆腐の気分かな?」
「御坂さん、この暑いのによくそんなもの召し上がりますわね……」
「今日は東洋の気分なのよねー」
「東洋?」
「お姉さまの共同研究先、今回は東洋医学の方々らしいですわ」
「え、御坂さんが医学、ですか?」
発電系能力者というのはそんなこともするのか。佐天は軽い驚きを感じた。
それに美琴が、シュッシュッとシャドーボクシングをしながら茶化して返事をした。
「まあね。ちょっと殺気の感じ方を勉強しようかと」
「え?」
食堂に入る。中はそこそこ混んでいて、僅かに並んだ人の列の最後尾で四人は立ち止まる。
美琴の不思議な発言に、白井が軽く顔を片手で覆っていた。
「変わった依頼をお引き受けになったと思ったら、マンガが動機ですの?」
「別に良いじゃない。それなりに成果をまとめる自信があるから引き受けたんだし」
「西洋医学でも発電系能力者を必要としているところなんて山ほどあるでしょうに」
「そういうところに協力したこともあるわよ。筋ジストロフィーのとか。今回はそういうので見てないところに切り込もうってだけ」
オーダーの順番が回ってくる。佐天と光子は冷製パスタを、美琴は麻婆豆腐、黒子は炊き込みご飯のランチセットを手早く頼む。
「御坂さん、東洋医学と電気、というのはどういう組み合わせになりますの?」
「ん? ほら、人間の体にはツボってあるじゃない? 足の裏のある場所を押すと肩こりがほぐれる、とか。お灸や鍼もあるよね。経験則として東洋医学はこれを体系化してるけど、東洋医学でここにツボがあるっていう場所を切開しても、西洋医学では何も見つけられないんだよね。で、この前黒子に肩揉んで貰ってて、ふと思ったのよ。皮膚の表面電位とツボって関係してるっぽいって」
「お姉さま……もしかして、黒子がお役に立って、いましたの?」
「え? うんまあ、あの後手が急に胸に伸びてこなきゃ感謝しようと思ったんだけど」
「じ、事故ですわ」
「随分と意図的な事故だったように思うけど?」
感極まって目をウルウルさせたかと思うと、一転して冷や汗をダラダラ垂らす白井だった。
「ま、まあそれでさ。考えれば当たり前だなーって。脳は人間の体を制御する重要な部位だけど、国家だとかと同じで、中枢が何でもかんでも裁くわけにはいかないでしょ。細かいことは現場、人間で言えば皮膚が知的な処理ってのを行っててもおかしくないのよね」
空いた席に適当に座って、四人はランチを始めた。常盤台の常識なのか、座ってきちんといただきますを言う三人に佐天も唱和する。
細いパスタ、カッペリーニに黒みがかったソースと蛸を乗せて、口に運んでみた。
「あ、美味しい」
「でしょう?」
「さっぱりしてていいですね」
「辛っ……」
「お姉さま、かなり辛いと書いてありましたの、読みませんでしたの?」
「い、いや学食のメニューなんてもっと万人向けじゃない? 普通は」
「数量限定メニューですわよ、これ」
白井があきれた目で炊き込みご飯をパクつきながら、涙目の美琴を眺めた。



空腹をとりあえず解消する程度まで箸を進めて、軽く落ち着いた辺りで白井が美琴に尋ねた。
「そういえばお姉さま、お昼からはどうされますの?」
「え? 昼から? んー」
「婚后さん、私達は?」
「昼からは佐天さんは猛特訓ですわ。へとへとになって意識が混濁するまで頑張ってもらいますわよ」
「え、意識が、混濁ですか?」
ニコニコとたおやかに微笑む光子の裏に、ゆらっとオーラが見えた。
スパルタ指導者の雰囲気というか、そんな感じだった。
「ええ。昼からは外部の研究者の方もいらっしゃって、航空機のエンジン開発の手伝いをしてもらう予定ですわ。あら佐天さん。そんな顔はおよしになって。新薬の被験者に応募するのの倍くらいはお小遣いが手に入りますわよ?」
「自由になるお金が増えるのはありがたい事ですけれど、そんな直截的な言い方ではあまりに品がありませんわ。裕福な家庭の子女の多い常盤台ですけれど、それだけに成金上がりも多いですから、どうぞ言葉遣いには注意なさったら? 婚后さん」
「素敵な箴言をくださってありがとう、白井さん。でも杞憂ですわ。婚后は旧くからの名家ですし、その子女として厳しく躾けられてきましたもの。私が強調したかったのは、学園都市や両親から与えられたお金ではなくて、自分の努力で手にしたお金が手に入る、ということですわ」
「ああ、そうでしたの。それは失礼しましたわ。婚后さんがそのようなことを仰るとは思い至りませんでしたの」
「分かってくだされば結構ですわ」
ふふふふ、と本音を見せずに微笑みあう婚后と白井を見て、仲がいいんだか悪いんだかと佐天は心の中で呟いた。
「それで、御坂さんは昼から何するんですか?」
「あ、うん。私は佐天さんたちと違ってもう学校に用事はないから、ちょっと出かけようかなって。黒子は確か風紀委員の仕事よね?」
「そうですけれど、それが何か?」
「いや別に、ちょっと確認しただけ」
ちょっと、黒子には聞かれたくないことだった。
だがそれに何か感づいたのか、黒子がクワァッと目を開いて、手をわななかせた。
「おおおお姉さま。まさか、まさかとは思いますが。その……殿方と?」
「へっ?」
「いけません、いけませんわそんなこと!」
「ハァ? アンタ突然何言ってんのよ。私デートなんて一言も」
「デートっ!? お姉さま、今デートと仰いましたの?!」
「だから落ち着け! ったく!」
「これが落ち着いていられますか!」
両手を頬にぎゅっと押し付けてアッチョンブリケな表情をして黒子があとずさる。
傍らには椅子が倒れていた。
「お姉さまは最近、変ですもの」
「へー、御坂さんのそういう話、ちょっと気になるなー。ね、婚后さん?」
「ええ、まあ」
そうでもない光子だった。彼氏持ちの余裕だった。
とはいえここは佐天と白井にあわせたほうが面白そうなので、相槌を打っておく。
「佐天さんと婚后さんまで……もう、別に遊びに行くわけじゃないわよ」
「ふうん……白井さん、御坂さんって気になる人、いるんですか?」
「そうなんですのよ佐天さん! 私というものがありながらお姉さまったら最近はことあるごとに、あのバカは、あのバカなら、あのバカと、なんて『あのバカ』さんの話をなさいますのよ」
「グガホゲホゴホッ! わ、私は別にそんな何度もアイツのことなんか――」
「やっぱりいるんですね! 気になる人!」
「ちちち違うわよ! 大体す、す、好きな人にあのバカとか言うわけないでしょ!」
「好きなんですか?」
「だから違う! 逆、逆よ。大体頼みもしないのに助けてくれちゃったりさ、正義の味方気取りの調子に乗ったヤツなのよ!」
ん? と光子は首をかしげる。なんとなく引っかかりを感じたのだ。
となりで歯噛みする白井と目を爛々と輝かせた佐天が容赦なく追及していた。
「御坂さんが不良に絡まれてるときに、助けに来てくれたってことですか?」
「え、ああ、うん。まあ勿論手助けなんていらなかったし、余計なお世話だったんだけど。……ってああもう! この話はもういいでしょ?」
「分かりました。それじゃあ次行きましょう。どんなところに惹かれたんですか?」
「だーかーらーもう、佐天さん! からかわないでよね」
「アハハ。ごめんなさい。でも、御坂さんも可愛いとこありますね」
「か、可愛いって……。そ、それより! 佐天さんはどうなの?」
攻撃は最大の防御と言わんばかりに、美琴が佐天に矛を向ける。
光子は美琴の恋愛事情よりは興味があった。自分の弟子の話だからだ。
「私も聞きたいわ。佐天さんは気になる殿方はいらっしゃるの?」
「え? やだなぁ、そういうの、今はないですよ。今は初春一筋ですから」
「えっ?」
美琴が凍りつく。なにせ、『そういうの』の実例が自分の同居人にして今も隣に座っているのだ。
そういう趣味には見えなかったのだが、言われてみれば佐天はかなり初春とのスキンシップが好きだ。
それも、結構濃くて、初春が真っ赤になるような感じの。
「初春ですの? それじゃ同性じゃありませんか」
「え?」
「? 何か?」
不審な目で白井を見つめた美琴に、不審げな視線が返ってきた。
自分の普段の行いをまるで振り返っちゃいない態度だった。
「白井さんだって御坂さんのこと好きでしょ?」
「ええ、心の底から体の先、髪の一本一本に至るまでお姉さまのことをお慕いしていますわ」
「気持ちだけなら受け取ったげるから離れろ黒子!」
イカかタコのようににゅるりと腕を滑らせて白井が美琴に絡みつく。
見事な手裁きで美琴の脇の下に差し込まれた腕は、明らかに美琴の慎ましい胸にタッチしていた。
「私も初春のこと、なんかほっとけないんですよね。クラスの男子は皆ゲームだのなんだのってはしゃいでて、あんまり興味もてないし」
「自分の話となると、興味はないのかしら。それとももっと年上の方が好みとか?」
「んー……。それもわかんないんですよね。学校の先輩とかじゃピンとこないし、高校生の知り合いはいないし。むしろ今ここで教えてほしいです。婚后さんは年上の人とお付き合いしてるんだし、いろいろ知ってるじゃないですか」
「婚后さん、彼氏いるの?!」
美琴はこないだ街中で会っているときに彼氏に電話をしているらしい光子に出会っていたから、ちょっと気になっていた。
隣で白井が露骨にありえない、という顔をした。
「えっ? ええ、まあ……」
「あなたに……? まあ、物好きな殿方もいらしたものね」
「少なくとも白井さんに懸想する殿方よりは普通だと思いますけれど」
こんなお姉さまLOVE!という空気を撒き散らす女子生徒に寄り付く男のほうが、当麻よりも物好きだと思う。
「そういえば私も聞いてなかったですけど、どんな方なんですか?」
「どんなって、その、ちょっとエッチですし何かとおっちょこちょいなことをして不幸だなんて呟きますけど、格好よくて、いざというときにはすごく頼りになって、私には優しくって……」
「へー……好き、なんだね」
白井が露骨にイラッとした顔を見せ、佐天と美琴は困ったように顔を見合わせた。惚気話というのはこんなにもめんどくさいのか。
独り者のやっかみかも知れないが、正直長く聞いていたい代物ではなかった。
「そ、それはやっぱりお付き合いしているんですもの。好きに決まっていますわ」
「一応聞いておきますけれど、ちゃんとお相手の方からも愛されていますの?」
「と、当然ですわ! 失礼なこと仰らないで」
「ごめんあそばせ。でもそんな顔をその方の前でされたら千年の恋も冷めますわ」
当麻は光子の怒った顔も結構好きなのでそんなことはないのだが、光子はくっと堪えて自制する。
そしてスカートのポケットから丁寧に鍵入れにしまった鍵を取り出す。
「物で証明するのは浅ましいとお思いかもしれませんけれど。あの人は家の合鍵を、私にくれましたわ」
「おおおおおおおーーー!」
「う、わぁ。それ、確かに常盤台の寮の鍵じゃないよね」
「ええ、それはこちらですもの」
違う寮に住んではいるが、光子の寮の鍵は美琴のと同じ意匠だ。
光子が手にしているのはいかにも下宿の鍵、という感じの鍵だ。それにちょっと劣等感を覚える美琴だった。
光子はまあ、言葉の端々にお嬢様なというか、無自覚に不遜な振る舞いが出ることはあるが、根はいい子だしスタイルもいいし、間違いなく美人だ。
受け答えだって、知り合った頃よりもずっと丸くなった。
以前の彼女ならいざ知らず、今の光子なら、付き合いたいという男が山のようにいることだろう。
「はぁー、婚后さん、大人だね。年上って言ってたけど、三年生? それとも高校生?」
「高校一年の方ですわ」
「近くに住んでるの?」
「ええ、同じ第七学区の学校に通っておられますの。寮もこの学区内ですわ」
「じゃあ出会いのきっかけってナンパとか……そういうのですか?」
「違いますわ。その、不良に追われてらっしゃったのを私が助けたのがきっかけなんですけれど」
「あ、それじゃ御坂さんと逆なんですね」
「そうなりますわね」
あれ、と美琴は首をかしげる。そういやこないだ、あのバカを追いかける不良どもを軽く焦がしてやったっけ。
なんとなく引っかかるものを感じた。
「それからどうやって仲良くなったんですか?」
「佐天さん、もうよろしいんじゃありませんこと? 婚后さんが話したくってうずうずされてますわ」
「べっ、別にそんなことは……!」
「惚気たいって顔に書いてありますわよ。まあ、恋人が出来るというのはそういうことなのかもしれませんけど」
「まあいいじゃないですか白井さん。ね、御坂さんも気になりません? 街中で知り合った男の人と仲良くなる方法」
「え? そ、そんなの別に興味ないわよ!」
こういうとき素直になれないのが美琴なのだ。佐天はそれが分かっているから、光子を誘導する。光子も佐天の意図に気がついた。
白井に嫌味を言われたことだし、自慢にならない範囲で美琴のアドバイスになるよう、言葉を選ぶ。
「助けて差し上げた関係で初めて会ったその日に、ファストフードのお店でアップルパイをご馳走していただきましたの。おかしなきっかけだったんですけれど、会えば話すような仲になって……。それで、三度目だったかしら、街でお見かけしたら、あと15分で卵のタイムセールがおわっちまう、一人二パックまでいけるんだ、なんて仰るから、つい面白くなってお手伝いしましたの。それから一緒に遊びに出かけたりして」
「へー。彼氏さん、結構家庭的なんですね」
「そうですわね。私より、料理の腕は確かですもの。ちょっと悔しくなってしまいますわ」
「おー。じゃあ、気になる男の人がいる御坂さんに何かアドバイスは?」
「ア、アドバイスですの? そんなこと言われましても、その方がどんなことか分からないことには……」
面白くなさそうな白井の横で、『わ、わたしそんな話興味ないわよ!』という顔をしながら耳を澄ませている美琴を見る。
露骨に動揺して、『うぇっ、だ、だから好きとかそんなんじゃないって』という感じだった。
「御坂さんも隠すのは得意なほうではありませんわね」
「か、隠すって何よ。私は別に、アイツのことなんか気にしてないし!」
「じゃあ例えば他の女性がその方と仲良くしていても問題ありませんのね?」
「そりゃ、そりゃそうよ。私とアイツはなんでもないし……」
ズズズズガラガラガラガラと氷っぽくなった紅茶を吸い上げて、美琴がガジガジとストローを噛んだ。
隣の佐天がわかりやすいなあ、と苦笑いを浮かべていた。
「その人って高校生ですか?」
「も、もうこの話はいいでしょ?!」
「何言ってるんですかこれからですよ!」
「高校生の方とお見受けします」
「え?」
「ブツブツと部屋で呟いているお姉さまの口の端から聞こえてきた情報ですわ」
「ほっほーぅ、婚后さん、御坂さんも高校生が好きらしいですよ。何かアドバイスを!」
「さ、佐天さん。もう……そうですわね、やっぱり、あまり妬き餅を焼かないことですわね。口げんかをするとすぐに年下扱いされて、同い年ではありませんことを思い知りますの。クラスメイトの女性の方と話す当麻さん……あの人を見たことがありますけれど、やっぱり私では子どもなのかしらって、悔しくなってしまって」
「……」
今光子はなんと言っただろう。ドキリ、として美琴は咄嗟に相槌を打てなかった。
こっそりとネットワークにハックして手に入れたアイツの情報。
名前が、似ている気がした。しかし聞き返すのもおかしいいし、確かめられなかった。
「ですから天邪鬼な態度はお止めになったほうがよろしいわ、御坂さん」
「え?」
「気持ちを確かめるのって、すごく勇気が必要で、だから相手の方だって躊躇ってしまうものですわ。やっぱり男の方から告白されたいっていうのは、みんな思うことだと思いますけれど、きっと素直に相手に接することが、思いをかなえるためのハードルを下げるための大切な方法なんだって、思いましたの」
「はぁー、もうっ! 婚后さん惚気すぎですよ」
「さ、佐天さん。今のはアドバイスであって惚気とかそんなんじゃ……」
「まったく。もうお姉さまを解放してくださいまし。昼休みが終わってしまいますわよ」
「ごめん遊ばせ。御坂さんが可愛らしくて、つい」
「可愛いって、もう、婚后さん」
「ふふ。ごめんなさい。でも御坂さんはお綺麗だし、その方にアタックすればきっと」
「しないって!」
「それでお姉さま。お昼から、その方のところでないのなら、どちらへ?」
「ああ、うん」


急に醒めたように、美琴が浮ついた表情を消して、椅子に腰掛けなおした。


「木山のところに、行ってみようかなって」



[19764] interlude04: 爆縮渦流 - Implosion Vortex -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/23 01:25

美琴たちと別れ、再び先ほどの教室へと戻る道すがら。
「佐天さん、どうされたの? あまり顔色が優れませんようですけれど」
「あ……」
光子は気がそぞろになった佐天の様子が気になっていた。集中できないとあまりレッスンにも意味がない。
そして佐天は、何気なくであったのに、光子にそう尋ねられたことに息が詰まりそうな思いを感じていた。
「木山春生っていえば、確かあの幻想御手<レベルアッパー>事件で主犯格として拘束された人でしたわね」
「……」
「その方の逮捕に白井さんが関わっている、というのはまだ分かりますけれど、どうして御坂さんが……って、佐天さん? あの」
「ごめんなさい」
唐突に、佐天が光子に謝った。
反射的に問い返そうとして、追い詰められたような佐天の表情に口ごもった。
「謝ってもらうことに、心当たりがありませんわ。嫌ならこれ以上はお聞きしませんけど、もし話を聞いて欲しいなら、いくらでも付き合いますわ」
「……あの、わたし」
右手をきゅっと握り締めて足元を見つめた佐天が、そこで言い淀んだ。
初めてアドバイスをしたときもこういうことがありましたわね、と光子は思い出した。
気を重たくさせぬように微笑んで、僅かな仕草で空気をかき回す。
「婚后さんが今言った幻想御手、私、使ったんです」
「えっ? それって――」
確か、一時的に能力は伸びたが、暴走によって使用者全員が意識を失った大事件だったはずだ。
テレビでそう話しているのを光子は見た覚えがあった。
「前に一度、言いましたよね。私、一回だけ能力が使えたことがあって、それで空力使いだって分かったって。何の能力かもわかんないくらいの無能力者だったのに、いきなり能力が使えるわけないじゃないですか。……幻想御手<レベルアッパー>で、私はズルをしたんです」
「そう、でしたの」
「ごめんなさい」
「どうして謝りますの? それに後遺症とかは、大丈夫でしたの?」
「はい。後遺症とかはぜんぜんなくて……でも、大事なことなのに、婚后さんに黙ってました」
自分から沈み込んでいくように、佐天が懺悔を続ける。
佐天が謝る意味を、ようやく光子は理解し始めていた。
「ずるいやり方で能力を伸ばしたから、私に謝っていますの?」
「……はい」
「別に、気にする必要なんてないと思いますわ。だってそういう人、普通にいますもの」
「え?」
困惑するように佐天が光子を見上げた。
流体制御工学教室、と書かれた見知った建物に佐天と光子は再び入り、二人のために用意した部屋へと戻る。
冷房の行き届いた部屋で汗が引くのを待ちながら、光子が続きを話した。
「私は開発官が勧めてくれた未認可の薬を何度か服用したことが有りますわ」
「え?」
「レベルが2の頃でしたから、今みたいな細かなチェックをしていただけるわけもありませんし、健康に対するリスクから、人数の多い低レベル能力者への投薬を認められていないものでしたわ」
学園都市の大半は、無能力者や低いレベルの能力者だ。そして学生達をチェックする大人の数は、かなり限られている。
その結果、当然のこととして大半の人間に与えられる能力開発の試薬は効き目がマイルドで、安全な物が多い。
能力を伸ばすために高レベル能力者が使う試薬に手を出す、それはある種の禁じ手でありながら、功を焦る開発官と劣等感に苛まれる学生の利害の一致から、しばしば横行する反則技だった。
もちろんそれが反則技になる理由は明快だ。管理できないほどの人数に、強い幻覚剤を与えて安全なことなどあるはずがない。副作用で精神的な障害を負うことだってないとは言えないのだ。
そういう危険を承知で、細かなチェックをすることでリスクを潰しながら、数の少ない高レベル能力者は作用も副作用も強い薬を服用していく。
ぱたり、と扇子を閉じて穏やかな表情で光子が佐天を見つめた。
「皆やっているから、でこういうことを許すのが良いとは限りませんけれど、開発の現場で、反則行為というのは横行しているものですわ」
佐天はその表情の意味を読み取れなかった。
微笑みを浮かべているものの、表れた感情は佐天への同情とも、反則を正当化するような意思とも、いずれとも違っているように見えた。
「あの。責めるんじゃないですけど、そういうことをして、悪いなとか、良くないなって思いませんか?」
「……普段は考えないことにしていますわ。みんなしていることだ、とあの時開発官は繰り返しましたから。それに、身につけてしまった能力は、たとえ私が好まざろうとも、もう私のものですわ。それを間違ったものだといっても、もう、捨てることも嫌うことも出来ません」
「……」
「だから、といってしまうのは浅ましいかもしれませんけれど。どんな方法を使ったにせよ、確かに佐天さんは能力を伸ばしたのですわ。だからもう、それでいいじゃありませんか」
光子の返事は答えというより、正当化の理屈、だっただろう。現に佐天は釈然としない思いを感じている。
言われてみれば幻想御手という反則は、実は気に病むほどの行為ではなかったのかもしれない。
でも、だけど。
「婚后さんはもう、吹っ切りましたか? また勧められたら、またやりますか?」
それを、聞かずにはいられなかった。光子が目を伏せながら笑った。
「勧められたこと、ありますの。でも断りましたわ。当麻さんの顔を思い出したら、やめようって思いましたの」
「彼氏さん、ですか」
「ええ。能力を伸ばしても、あの人に胸を張れないのは嫌ですの。あの人に褒めてもらうのがすごく嬉しくて、今は頑張っていますから」
当麻はレベル0だ。だが、それに卑屈になることのない人だった。
そんな人と心を通わし合えたおかげで、レベルなんてものが、本当の人の価値を測る定規ではありえないことを理解できた。
手段を選ばずレベルを上げるような人間じゃなくて、あの人に尊重される人でありたい。その考え方の変化を、とても光子は気に入っていた。
そしてその理屈は、佐天にとっても、すごく格好よく見えるものだった。
「はぁー……。彼氏さんが出来るって、いいことですね」
「あ、ごめんなさい。また惚気だって叱られますわね」
「でも羨ましいです。そういう風に思える人が隣にいるって」
「恋人じゃなくても、佐天さんの隣には、きっと素敵なお友達がいるんじゃありませんこと?」
真っ先に思い浮かべたのは、初春の泣き顔。佐天が幻想御手の副作用から意識を回復させた後に真っ先に見た表情。
ちょっと鼻水が出てグズグズの情けない顔だったのに、すごく嬉しかった。
頼りなくて涙もろい友達だけど、初春には胸を張って能力を伸ばしたい。
「レベル4の能力者にアドバイスを頼むのも、一応反則技ですのよ?」
「え? そうなんですか?」
「規則としては、開発のサポートは開発官にしてもらうものですから」
「……でも。婚后さんに教えてもらって、私はすごく、嬉しかったです」
「そう。まあ、駄目と規則に書かれているわけでは有りませんし、いいじゃありませんか」
「そうです、ね。もっと、頑張って伸ばします」
「ええ。私も負けないように頑張りますわ。ね、佐天さん」
「はい、あっ……」
不意に、光子に抱きしめられた。いい匂いがして、ドキドキする。
婚后さんってこんな人だったのかな、と佐天は不思議に思った。
こんなにお互いに仲良くなってからも大して経っていないと思うのに、すごく優しい人だと感じる。
ナデナデと頭を撫でて、目の前でそっと微笑んでくれた。
「ふふ」
「こ、婚后さん、あの」
「照れてる佐天さんも可愛らしいわ」
「ちょっと、もう、恥ずかしいですよ……」
「是非常盤台にいらっしゃい」
「えぇっ? いや、いくらなんでもそんなの」
「あら、無理だなんて仰ってはいけませんわ」
「はあ……」
普段は初春に抱きつく側だし、年上の美琴もこういうスキンシップを佐天にとってくることはなかった。
年下扱いも、意外と悪くなかった。
「さてそれじゃあ、続きのレッスンをしましょうか。スパルタで行きますわよ?」
「はい! 望むところです!」
意識を切り替えて、二人は実験室へと向かった。




先日、燃料を爆発させる実験をやったときの部屋の辺りに、佐天は連れてこられた。
実験室は四畳くらいの小さな部屋だったはずなのに、部屋と部屋の区切りが取り払われて、教室二つ分くらいの広さになっている。
そのせいで前と同じところに来た実感をいまいちつかめなかった。
「あちらがこのプロジェクトのリーダーですわ。事実上、学園都市で一番の空力使いです」
常盤台に外部から来ているからなのか、スーツ姿の研究者達がパソコンと向かい合う中、少し大人びた感じのする常盤台の女学生が微笑んで会釈した。もしかしたら三年生だろうか。
佐天もペコリとお辞儀を返した。
空力使いにレベル5はいない。だが、おそらくレベル4の空力使いはかなりいるだろう。
能力の分類でいえば念動力使い<サイコキネシスト>や発電能力者<エレクトロマスター>と同様、カテゴライズされる人間の多い、平凡な能力だ。
「一番ってことは、あの、婚后さんよりも?」
「ええ。数字の上では、私より上ですわ」
向こうがその光子の一言に苦笑いを浮かべた。だが、瞳の中に謙遜の色はない。
事実そうだと言い、負ける気は無いという気の強さを感じさせる目だった。
「ま、このレベルまで来ると比べてもあまり意味がありませんわ。個々の能力に特色がつきすぎて、比較が無理矢理になってきますから」
もとよりこの話は続ける気はないのか、光子が佐天をラボの端の机の島へと案内する。
島ごとにチームが分かれているらしい。
「今日佐天さんがお手伝いするのはここの班ですわ」
「よろしくお願いします」
にこやかに笑いながら、先生とは違う雰囲気を持った大人たちが対等な感じで自分に会釈をしてくれた。
「最初は私もお付き合いしますわ。慣れてきたら私も担当のブースに顔を出しますけれど」
「え? 婚后さんは別のところなんですか?」
「ええ。ここには超音速旅客機をつくるグループが集まっていますけれど、私は機体表面の設計グループの長ですから。エンジン設計のグループであるここは、担当外になりますの」
ここのプロジェクトリーダーは、先ほどの生徒とは別の空力使いらしい。もちろん常盤台の学生だ。
よく見るとちらほらいる常盤台の生徒には皆研究者とは別の大人が付き添っていたりする。一瞬秘書かと思ったが、どうやら先生らしい。
能力的には天才の集まる常盤台であっても、所詮は皆中学生だ。指揮を執る才に恵まれた人ばかりではない。
おそらく、そういう慣れない部分を補佐するために、マンツーマンで先生がついているのだろう。
「婚后さんには先生、いないんですか?」
「私も普段は助けていただいていますわ。今日は非番ですの。一応佐天さんの面倒を見るつもりでしたから」
「あ、なんだかすみません」
「いいんですのよ。メリットを出せるかどうかは佐天さん次第ですけれど、絶対に損をするとは限りませんから」
心臓が緊張に跳ね上がるのを佐天は自覚した。試験などとは違う形で、自分は今、試されているのだ。
うまくやれれば、ここで自分は誰かのために能力を使うことが出来る。
駄目でもともとと思われているかもしれないが、でも、失敗すればお荷物になって貴重な他人の時間を浪費させてしまう。
姿勢を正して、目の前の人たちにもう一度挨拶した。
「出来るだけのことは、やります。よろしくお願いします」



光子が佐天の担当部署の長にあたる1年生らしい人に声をかけ、佐天を紹介してくれた。
そしてすぐさま、仕事を割り振られる。説明は簡素だった。おそらく光子が細かいことはしてくれるとの判断だろう。
「さて、それじゃ始めましょうか」
「あ、はい。えっと、これとあれを比べればいいんですよね?」
「ええ。そうですわ」
手元には、データの入った小さなメモリと数式の書かれた紙の束。そして指差す先には燃焼試験室。
佐天が割り振られた仕事は、その二つを比較してコメントしてくれ、というものだった。
光子が事情を理解した顔をしているので頼ることは出来るだろうが、佐天は何を頼まれたのかよく分かっていなかった。
「あの、比べるって、なんていうか」
「佐天さんはあまりレベルは高くありませんでしょう?」
「あ、はい」
「そういう人が研究開発に従事するとき、まずすることは何かご存知?」
「え? えっと」
下っ端がすることといえば、お茶汲みかコピー取りじゃないのだろうか。あるいは掃除か。
だが少なくとも渡されたデータの重みは、そんなレベルじゃないように感じる。
「測定装置代わりになること、ですわ」
「装置の、代わり?」
「ええ。研究というものは最終的な目標がまずあって、それを達成するために何をすればいいのかを明らかにし、どうやって達成していくか計画を立て、それを実践する、そういう流れになりますわ。でも佐天さんにいきなりその流れに沿って何かをやれといっても難しいでしょう? だからまず、研究をする側の人ではなくて、研究者に使われる測定装置になってもらいます」
「はあ……あの、それはいいんですけど、何をしたらいいんですか?」
「まず、このデータを拝見しましょうか。数式の意味は理解できる?」
「えっと……これがよく分からないんですけど、あとは」
論文というか報告書というか、ファイルになったその紙をめくっていくと、基本的には佐天が慣れ親しんだのと同じ手法で表現された流れの支配方程式が並んでいる。
ただ発熱に関する部分が、化学反応、どうやら燃料の燃焼に関する式で書かれているらしく、そこだけ怪しかった。
「ああ、これは結局、気体自身が発熱するんだと思えばよろしいわ。細かい化学反応の部分は後でも理解できます」
「あ、はい」
「それで、佐天さんはこれを解析できます?」
「……たぶん、なんとか」
じっとその数式群だけを見つめながら、佐天はそう返事をした。扇子で隠した口元で、光子は満足げに微笑んだ。
「ではこれに従って流れを想像して御覧なさい」
「はい」
書かれた式を脳裏に思い浮かべ、数値演算で無理矢理解けるよう、式を変形しながら連立していく。
そして書かれた初期条件、境界条件を丁寧にイメージし、確かな幻を作り上げる。
あとは解くだけだ。集中力はいるけれど、もう不可能なことは何もない。
微積分を習う前には、レベル1になって渦を作れるようになった後でもそれは出来なかったことだった。

ケロシンという揮発性の高い航空燃料の充満したチェンバー。エンジンの心臓となるその空間を、複雑な形状まで注意深く想像する。
演算を開始する。内壁の一部が気体を押しつぶすように内へ内へと向かう。佐天にとってそれは、シミュレーションボックスの端、つまり境界条件の動的変化に相当する。
そしてボックスの圧縮率がある敷居値を越えた瞬間、佐天にとってのブラックボックス、化学反応式がトリガーされる。
暴虐的な熱と運動量が、何もないところから生じる。もちろんケロシン蒸気で満ちているから、何も無いというのは佐天の主観だが。
そして爆発によって起こった気流が内壁を押し返し、その壁が接続されているプロペラを回す。プロペラへ伝わる動力は佐天にとっては抵抗としてのみ意識される。
仕事を終えた内壁が再びチェンバーを圧縮すると同時に、排気とケロシンの再噴霧が行われる。
……これが、1サイクル。
1秒間にエンジンの中では何千回と起こるそれを、佐天はたっぷり1分はかけて計算した。
「……ふぅ」
「どう? 再現できましたの?」
「あの、1サイクルだけ」
「そう。初期条件の人為性を消して、ちゃんと定常状態を計算するには1000サイクルくらいは要りますわよ?」
「そっか。そうですよね。……ちょっと待ってください。色々整理します」
「ええ、どうぞ」
こちらの思考を邪魔しないようにだろう、光子が少し離れた自分のデスクで報告書を読みに行ってくれた。
そう高くもなさそうなコーヒーの香りを味と僅かに楽しんで、頭をスッキリさせる。もう一度佐天は数式から、現実を頭の中に組み立て始めた。

二度目は振り回されない。佐天が解くのは計算機と同じ方程式でありながら、機械と佐天は決定的に違う。
何でも出来る計算機は、特化が出来ない。そして何かに特化すれば、それは汎用性を捨てることとイコールだ。
佐天は違う。経験を元に、この方程式に特化した演算処理システムを作る。そしてそれはいつでも忘れられる。
式の解き方と特化するための方法論だけを記憶して、大掛かりなシステムそのものは忘却できる。それを生かすのが能力者だった。
勿論、佐天が脳内に構築する回路はたとえば光子と比べてまだまだ稚拙だ。
それでも二度目は、1サイクルの演算を20秒で済ませた。1000サイクルを、これなら6時間くらいで計算できる。
現実的か非現実的か、どっちとも断言しづらいギリギリのラインだった。そこまで持っていくのが佐天個人の限界だった。
この計算時間では今日は何も、ここにいる人たちに渡せるものがない。焼け石に水と知りつつ5サイクルを演算。
そこで、佐天は思考を中断した。疲れてそれ以上は上手く出来なかった。
「どう?」
「あ、1サイクル20秒くらいには縮まったんですけど……」
佐天は聞かれるままに、自分の組み立てた解法を光子に伝える。
「佐天さん、その三つの式は対称性がよろしいから、ベクトル化できますわ」
「あ、そうですね」
「それとこの式だけ随分と精度の高い式で解いていますわね。精度は一番悪い式に引きずられますから、この式の精度は落としてもよろしいでしょう。指数関数の展開が簡単になりますから」
「はい」
「それとこの式の展開型、ラプラス変換で一度変換してから戻すと多項式近似で綺麗に近似できますわ」
「おー……婚后さん、すごい」
「そりゃあ、一応レベル4の空力使いですから」
佐天が解釈しなおした式を紙に書き出すと、それが真っ赤になるほどに訂正を加えられた。
知恵熱を出しながら解いたのがバカらしくなるほどの修正だった。
そんな計算コストの削り方があったのかと、目からうろこが落ちるようなテクニックがあれこれと出てくる。
それは宝の山だった。逸る気持ちを必死に押さえる。自分の能力の演算にこのテクニックを応用したら、どうなるだろう。
だけど今は目の前の式を解くのが先だ。


すう、と息を深く肺に溜める。アドバイスを生かして、もう一度初めから佐天は1サイクルを計算した。
正確な数字は分からなかった。だって、1秒以下の時間を正確に測るのは佐天にも難しい。
「1サイクル1秒……!」
「まあ、こんなものですわ。1000サイクルで1000秒、17分ですわね」
それはもはや非現実的な数字ではない。
早速演算をしようとする佐天に、光子が薬を差し出した。こないだから飲み始めた、トパーズブルーの薬。
演算能力を一時的に伸ばす薬だった。
「昨日は使っておられませんわよね?」
「はい」
「なら大丈夫。うちの先生を通して佐天さんの担任には報告しておきます。明日はお飲みにならないで」
「分かりました」
水と共に渡されたそれを、佐天は嚥下した。効いてくるまでの数分間を、座り心地のよいソファに寝そべって過ごす。
これっぽっちも眠くはならない。誰かの邪魔だったかもしれないが、それをあまり気にかけなかった。
薬が効いてきたら、どれほどのことをできるだろうという期待で周りがよく見えていなかった。
「頃合ですわね」
「はい。ちょっと冴えてきた感じがします」
「じゃあ、時間を計りますから。……どうぞ」
さらり、と現象が紐解けていく。そんな流麗な印象を、自分の演算に対して佐天は感じた。
初めて能力が使えたときの、あの爆発的な全能感とはまた違う。
自分の世界が広がっていくような、トロくさかった自分の世界の流れが加速するような、広がりを感じる。
清流の滞りがなきが如く、1ステップずつ、1サイクルずつがさらさらと解けていく。
―――17分と見積もられたその演算、複雑な現象であるエンジン内の爆発現象を、佐天は10分で再現しきった。
「……できました」
「そう。予想よりかなり縮めてきましたわね。さて、正しいかどうかの検証は私達では出来ませんから、データに頼りましょうか」
「あ、そのためにあるんですね」
「そういうことですわ」
言われてみれば当然だが、佐天は自分の演算結果を見える形に表現できない。
可視化できないということは、光子と議論が出来ないということだ。そこでこのデータを使うのだった。
光子が自分の計算機にそれを差し込むと、中には数値のままの生データが入っていた。
カチカチと可視化プログラムにそのデータを投入して、見やすいように色などを調整する。
二人の目の前に1000サイクル分があっという間に表示された。
「どう?」
「……大まかに言うと一緒なんですけど、最後のほうは同じとはいえない感じ、です」
「流れの一部一部が同じでないことは別に構いませんわ。熱量の規模だとか、風の流れだとかは大体合っていますの?」
「それは、はい。だいたい合ってます」
「ならよろしいわ。計算はサイクルが進むに連れて計算誤差の影響を膨らませていきますから、ずれは仕方ありませんし」
労うように光子が佐天に微笑を向けて、リラックスを促すように自分も椅子に腰掛けなおした。
「少し休憩しましょう。それが終わったら、本格的に定常化した流れのデータをお渡ししますから、次はそれで演算しましょうか。それが済んだら実験に向かいますわね」
「はい」
佐天はそれでようやく、自分がかなり汗をかいていることに気がついた。
すこし気持ち悪い。ハンカチで軽く拭くが、乾くまではしばらくかかるだろう。
ふうっ、と息を吐く。頭が熱を持っているような感じがする。
それを冷ますように手近にあった紙束で自分を仰いだ。
「あ。これ、かなり過敏になってるなぁ」
光子がまた自分のデスクに向かっている。誰も自分に注視していないのをいいことに、そう独り言を漏らした。
部屋中の空気の流れを感じる。目を瞑っているのに、全てが分かる感じ。
それを手元に集めればどうなるだろう、という考えに心が惹かれるが、迷惑なのでさすがにやらない。
そのまま5分くらい、佐天はじっとしていた。
「さて、そろそろ再開してもよろしくって?」
「はい。やりましょう」
光子が、膨大なデータを佐天に見せた。16桁の数字の羅列。大体100万行くらいだ。
カタカタとデータを間引きして、読める量にする。さっきの演算とは違い、あらかじめ気流にベクトルが与えられている。
うねる炎の流れを時間ごと止めたようなデータ。そこから演算を始めることで、定常的なエンジンサイクルを再現できる。
佐天はあっさりとそのデータを読み込み、脳内でそのシミュレートを始めた。


どかん、ぐるん、どかん、ぐるん。
爆発とプロペラ回転のとめどないサイクル。それが内燃機関の基本原理だ。
1サイクル1サイクルは微妙に動きが違っている。だが、大きくは変化せず、ある平均的な状態に近いものばかりが再現される。
ようやく佐天は、再現に必死なだけではなくて、それを冷静に横から見つめる視点を得られ始めていた。
「そろそろよろしい?」
「はい。また1000サイクルくらいはやれました」
「あら、また少し早くなりましたわね。それで、余裕は出てきました?」
「かなり。こういう閉じ込められた空間で出来る渦って不思議ですね」
「ああ、佐天さんは制限空間は専門外ですものね。ところで、何か気づいたことはありません?」
「気づいたことですか?」
「ええ。ここで空気抵抗が大きいなとか、そういうことですわ」
ああ、と少し佐天は納得した。それを見つけるのが、自分の仕事なのか。
「排気弁の近くが、流れが汚いって思いません?」
「そう……かもしれませんわね」
「この辺とこの辺の流れがぶつかって渦が出来るんですけど、弁から飲み込むにはサイズが大きいから変にほどかないといけないじゃないですか」
「ああ、言われてみれば」
「だから、弁を大きくするとか」
「ふふ。さすがにそれは厳しいですわ。この形は色々な都合で決まっていますから」
特定の部分、部品に熱と圧がかからないように、必要な出力が得られるように、化学反応で煤が出ないように、なんて風にエンジンには沢山の『都合』が存在する。
そしてそういう都合を全て満たすような答えが、これまた無数に存在する。その答えの中で一番いい答え、最適解がどんなものか、それを見つけるのはとても難しいことだ。
計算機上でエンジンをデザインし、その演算をすることは簡単なことだ。だが、それでは局所解しか得られない。
エンジンと名のつくあらゆる可能な形状の中で、どれが一番優れたエンジンなのかはあらかじめ分からない。
全ての可能性を調べつくすことも出来ない。エンジン設計はアート、芸術の世界なのだ。
だから、新しい風をいつも必要としている。今までの人々とは違うものが見える人を。
もちろん、エンジンに限らずあらゆるものの設計にそれは通じていることだが。
成功するかはさておき、光子は佐天にそういう期待をしていた。
「ここまで出来たら、本題に移れますわね」
「あ、はい」
充分に今までもタフな作業で、それが本題でないことなどすっかり忘れていた。
疲労は充分にある。だが、まだやれる。まだやりたい。
実験を行うチームは他にないのか、燃焼試験室の近くはがらんとしていた。
「あ、これ」
「気づきましたのね。そう、さっきからずっと計算していたエンジンのレプリカですわ」
「えっと、まあ、形は一緒ですけど……」
数値としてのスペックは勿論、シミュレーション条件だから全て佐天の頭に入っている。
だが目の前のそれはどうも与えられた数値よりも小ぶりに見える。
佐天の身長よりも高いはずのエンジンは、腰までくらいの高さしかなかった。
そして何より、エンジンという無骨な響きに反し、それは全ての部品が透明だった。
視界を遮らないいくつかの部品は鋼鉄製なのだが、エンジンの外壁がガラスか何かで出来ていて、中まで丸見えだった。
なるほど、おそらくそれが目的なのだろう。
「流れを見るために、あえてこうしているのですわ。あとスケールが小さいのは小さな熱で済ませるためです。ガラスでも、さすがにエンジン内部の熱には耐えられませんから」
例えば、飛行機の羽根を設計したとして、揚力がどれくらい得られるかを実験するとしよう。
それを試すのに、設計図どおりの大きさに羽根を作り、空を飛ぶときと同じだけの風速を巨大な扇風機で作り、
実機どおりのスペックでデータを得ることも、一つの手段ではある。
だが、それにはあまりにお金がかかるし、スケールが巨大すぎる。気軽にはとても実施できない実験になる。
そこで利用されるのが、実験のスケールダウンだ。羽根のサイズを10分の1にして、上手く同じものを見ようという思想になる。
だがこれには問題もある。羽根を10分の1にしたとき、ほかの条件、たとえば風速はどのようにスケールダウンすればいいだろう。
もちろんそれにも制約があって、レイノルズ数とマッハ数が一定に保たれるように決める、ということになる。
エンジンには燃料の爆発というプロセスがあるから、さらに制約は増える。
中が透けて見えるエンジンを作る、ということはそれだけで大きく困難な現象だった。
「佐天さんが計算したあのエンジンよりも全てが何分の一かの規模ですけれど、現象としては相似なはずですわ。今から点火しますから、よくよく流れをご覧になって、先ほどのシミュレーション結果と比べて頂戴」
「わかりました」
光子が目配せをすると、いつの間にいたのか、佐天の協力部署の人たちが何人か実験の手伝いに来ていた。
コンソールのボタンを押すと、エンジンに付いたピストンが緩やかに動き、エンジン内部に吸気が始まった。
「これを」
光子に暗視用の眼鏡を渡される。
燃焼試験室と測定室の間を隔てる透明の壁は強すぎる光を遮断してくれるのだが、万が一のための保護眼鏡だった。
それをつけると、いきます、と研究員の人が佐天たちに声をかけた。



爆発だから、ドン、と音がするものだと思っていた。
――エンジンなのだから鳴り響くのは唸るような音だった。1秒間に数千回の爆発が起こる音とは、そういうものだった。
「どう?」
「どうって、これ目で追えないくらい早いんですけど」
「そう? 本当に?」
本当だった。視覚はまるで用を成さない。佐天の動体『視力』はそこまでハイスペックじゃない。
だが空気の流れを感じる佐天の第六感は、大量に情報を間引きながらも、その空気の流れを捉え始めていた。
「どこまで真に迫れるか知りませんけれど、可能な限りこの流れを追って御覧なさい。全ての現象の元には、必ず『観測』という行為がありますわ。大きく、詳しく、正しく現象を観測できる人ほど、大きな能力を使えます。世界を観測することと世界に干渉することはコインの裏表、それがハイゼンベルグの不確定性原理が暗にほのめかしたことで、そして超能力の生まれる源でもありますわ」
わかる。光子の言っていることが、佐天には納得できる。空気の流れを感じる時、それはその流れを制御できる時だ。
目の前の超高速の爆発サイクル、エンジンを佐天は掴みきれない。だから操ることは出来ない。
だけど、手の届かないほど不可思議な現象じゃない。

取っ掛かりは、爆発直前の渦。
ディーゼルエンジンに点火部はない。空気と混合した燃料を圧縮することで、自然発火させるのだ。
その基点となるのは、いつも渦だった。一様に圧縮されたエンジン内部の中で局所的に圧力の高まる、流れの特異点。
渦が出来る位置はサイクルごとに微妙にずれはするが、エンジン形状に固有の、渦の出やすいポイントは存在する。
そこのことなら、佐天は誰よりも観測が上手い能力者だ。レベル5相手なら知らないが、光子にだってこれだけなら勝てる。
幾度となく繰り返される爆発を観測し、佐天は脳裏に渦の平均的な姿を浮かび上がらせた。

次は爆発。
渦はその中心に、外へと広がる滅茶苦茶な運動量を発生させる。そしてその高温高圧の空気はあっという間に広がる。
広がるときにも、渦を作りながら広がる。複雑な形をしたエンジンの内壁は、流れを乱す要因になるからだ。
壁の近くに出来た渦のいくつかは、その回転周期と内壁の振動周期を一致させ、ブーンという騒音を発生させる。

「ここ、渦酷いですね」
「え? ……そうですわね、渦が共鳴して、騒音の元になっていますのね」
「これってやっぱり、よくないことですか?」
「ええもちろん。振動が助長されると壊れる原因になるし、騒音公害の元にもなりますから」
渦共鳴は時に冗談にならない破壊力を生み出す。ほんの少しの強風が自動車用のつり橋を壊したことがあるくらいだ。
佐天の指摘した部分は、致命的ではないがこのエンジンが抱える問題点のうち、まだ知られていないものだった。
「まだご覧になる?」
「あ、そろそろ……すみません、集中力のほうが限界かも」
「ふふ。この実験はこれくらいでいいでしょう。佐天さん、少し休憩したら、今みたいな調子でこのエンジンの問題点を洗いざらい書き出してくださいな。他に影響を及ぼさない改善案まで出せればもっといいんですけれど、さすがにそこまでは注文しませんから」
「わかりました」
すこしふらふらする。渦に集中しすぎたせいだろう、小説にのめりこんだ時みたいに、頭の中にぐるぐる回る渦と、眼球が脳に送ってくる情報の、どちらが現実なのかよく分からなかった。




光子は佐天を置いて休憩室に入り、携帯をチェックする。
当麻からの連絡が恋しいこともあるが、もうじき引っ越すさきの家主である黄泉川からも連絡が多い。
「もう、当麻さん」
朝七時にきちんと起きた光子と同様、黄泉川に叩き起こされて当麻も早起きしたらしい。
他愛もないことがつらつらと書かれていた。
返事に、佐天のことをあれこれと書く。別に当麻は佐天のことを直接は知らないのだが、
光子が何度となく話に出しているから、当麻も佐天のことはよく知っている。

すぐにきびすを返して実験室の前のラボに戻ると、佐天がエンジン開発部のメンバーから質問攻めにあっている。
開発部長は確か1年で、そしてレベル3だ。光子に気づいて微笑み付きの会釈をしてきたが、心中は穏やかでないだろう。
レベル1だと聞いているだろうが、佐天のあの結果を、一体誰がレベル1の成果と見ることやら。
常盤台ですらないレベル1の学生に刺々しく当たれば、むしろ自分の株を落とすことくらいは分かっているらしい。
だから指摘が嫌味にならないように気をつけながら、鋭い指摘になりえるものを必死に探しているのが分かる。
「えっと、すみません。これくらいしか、思いつくことがなくて」
大人の研究者達が営業スマイルで佐天を褒めた。よく頑張った学生をおだてることくらいなんでもないし、実際面白い結果だった。
開発部長の1年がやや褒めすぎなのは、複雑な感情の裏返しだろう。
それを裏でそっと笑う自分もまた、同じようにレベルという序列の世界にいることに気づく。
当麻の顔を思い出して、自戒した。優越感は劣等感の裏返しでしかない。
「ご苦労様、佐天さん。皆さんも申し訳ありませんけれど、最後に一つ山場が残っていますし、こんなところで」
「婚后さん」
「休憩はもう充分?」
「え? いやあの、今まで話しながらずっと頭の中で計算してて……」
しんどいという感想を正直に顔に出して、佐天がそう言った。
クスリとそれを笑いながら、光子は休憩はいらないだろうと思った。
最後の仕事は、何かの実験を追いかけるような内容ではない。
「最後のは、佐天さんに渦を作ってもらう仕事になりますわ」
予想通りだった。少し笑ってしまう。その一言で佐天の顔が変わったのだった。
疲れが抜けたのではなくて、疲れていてもなおやりたいという顔に。
「やります」
答えはすぐさま返ってきた。




ようやく試せる、と佐天は胸を高鳴らせた。
別にちょっと失礼と一言言って屋外に出ればいつでも試せたことだが、佐天は渦が作りたくて、仕方がなかった。
だってまた、能力が伸びたことに気づいていたから。これまでとは違う。渦を発現させてみてから能力の伸びに気づくパターンではない。
使う前から、きっと伸びていると確信があるのだ。

感覚が研ぎ澄まされている。もう、空気の粒は見えない。
それは香水の匂いに似ている。匂いは確かにあるが、慣れてくると意識されなくなるのだ。
す、と指で文字を書くように空気をかき混ぜる。それにつられた風の流れを、粒と思うこともなく、佐天は粒として処理した。
「やって欲しいのはこないだと同じ、燃料を渦で圧縮して点火することですわ。エンジンの内部にカメラや温度計を差し込むことは簡単ではありませんから、佐天さんの渦を使うことでその代替をしようという試みですの」
「わかりました。けど、その前に普通の空気でやってもいいですか?」
「ええ、もちろん。納得するまでやってから、声をかけてくださいな」
燃焼試験室は、四畳くらいの狭い部屋だ。それでいて天井は高い。その部屋の中の空気を、余すところなく、手中に収める。
ファンがあって外から空気を取り込めることが感じとれる。たぶん、今までで一番大きな渦になるだろう。空気の量で言えば。
それをどこまで圧縮できるかが、勝負になる。
圧縮すればするほどコントロールが難しくなるから、部屋一杯の空気を、運動会で使うような大玉に出来ればいいほうだろうか。
「とりあえず、作ります」
「ええ。頑張って、佐天さん」
気負いはない。ただ、発動の瞬間にカチン、と頭の中で何かが噛みあったような音がした。
一瞬遅れて、現実にも、音が響いた。

ガッ、という硬質の音。それは佐天が風を集めた音だった。
今までと桁が一つ違う速度だった。稚拙な能力でゆるゆると集めていた頃には起こらなかった空気の悲鳴。
音速の10分の1を超え始めた、突風の音だった。隣で光子が息を呑んだのが分かる。
次は集めた空気をタイトに巻いていく作業だが、これも、あっけないくらい簡単に完了した。
それなりに大きな部屋の空気全てを、一つのスイカの中に詰め込むくらい。
佐天が思ったよりも、それは高圧縮になった。
「……ねえ佐天さん」
「はい」
「何気圧くらい、ですの?」
「100、ってとこです」
「そう」
光子は、佐天に危機感を覚えた1年を笑ったさっきの自分を、笑った。こんなものがレベル1であってたまるものか。
淡々とした佐天の表情がむしろ空恐ろしい。どこまで、上り詰めたのだろう。どこまで自分に追いついたのだろう。
「すみません、なるべく上下に逃がしますけど」
「構いませんわ。好きに解放して頂戴」
顔をしかめた佐天が、渦を手放した。
ボンと鈍い音がしてすぐ、試験室と観測室を隔てるガラス壁がビリビリと音を立てた。
「すごいですわね」
「あ、はい……。それで、実験は」
「ああ、やりましょうか。すぐ用意しますわ」
佐天にも光子にも戸惑いがあった。
あまり喜んだふうに見えない佐天と、素直に喜んであげられない光子。
「それじゃ燃料を噴霧しますから、上手く纏めてくださいな」
「はい」
プラグの先から、霧吹きみたいに燃料が飛び出す。
佐天はそれを苦もなく集めて、待機する。あわただしく周りがカメラやセンサをセッティングしているのが分かるからだ。
「……できましたわ。佐天さん、いつでもどうぞ」
「それじゃ、いきますよ」
佐天はその緩い渦を、握りつぶす。
周りが何を望んでいるのかは知っている。コントロールなんてされていない、無秩序に広がる爆炎が見たいのだ。
佐天はそれに逆らう気だった。そうしたいという気持ちに抗えなかった。

燃料の爆発、それはすさまじいエネルギーを渦の内部に生じさせる。外から取り込むのではない。
佐天はそれを、コントロールできる気がした。そしてするべきだと思った。べきだ、という思いに合理的理由はない。
ただ、心のどこかで気づいていたのだ。
――――あの程度のエネルギーなら、『喰える』と。

慎重に渦を束ねていく。内へ内へと巻き込み、渦を圧壊させていく。
何度かの経験で、爆発限界は肌で感じ取っていた。その一線を、超える。
カッと光が周囲を照らす。佐天はそれを失敗だと感じた。違うのだ、自分の能力は、こうじゃない。
全てのエネルギーを飲み込んで、漏らさない。そんなイメージの渦。それが今の佐天に思い描ける理想だった。
光るということは輻射熱が漏れるということ。それは美学に反している。だから気に入らない。
ある程度エネルギーを散逸させたところで、渦は落ち着いた。渦のままだった。
「嘘……」
「婚后さん」
「あれを、押さえ込みますの?!」
光子の焦りが少し、気持ちいい。師の予想を上回るというのは愉快なことだ。
ようやく気持ちが舞い上がってきた。
そう、そうなのだ。自分の力は、こうなんだ。ベースは確かに空気。だけど、それだけじゃない。
エネルギーを、外に漏らさず蓄えて、そしてさらにそのエネルギーを内へ内へと向かう力に変える。
『爆縮する渦流』、きっとそういうイメージなのだ、自分の能力は。
ただ、爆縮には限界がある。いつかは外へ向かう、いわゆる爆発へと転じなければいけない。
何とか束ねようとして、それには失敗した。


ガウゥゥンンンン!!


間延びした爆発音が、試験室を満たす。生じた煤はあっという間に流されて、綺麗な部屋の光景がすぐに戻った。
ほぅ、とため息を一つついたつもりが、膝の力まで抜けてしまう。
「佐天さん!」
「あ、すみません、婚后さん」
「かなりお疲れのようですわね」
「はい、なんか急に、思い出したみたいに疲れちゃって」
光子が咄嗟に支えてくれた。申し訳ないとは思うのだが、抱きついていたい。ちょっと幼い自分の思考回路を佐天は反省する。
「あの、婚后さん」
「なんですの?」
「私今、あの爆発を纏められ、ましたよね?」
半信半疑だった。確信があったはずなのに、渦を消したらなんだか霧散してしまった。
そんな佐天に、にっこりと光子が微笑んだ。棘のない、褒めてくれる笑顔だった。
「ええ、自分でも覚えているんじゃありませんこと? その感触を」
「はい……はい!」
「すごかったですわ。よく頑張りましたわね、佐天さん」
「はいっ!」
褒められて、なんだかじわじわと嬉しさがこみ上げてきた。ようやくだった。
佐天はぎゅっとそのまま光子にしがみつく。ぽんぽんと背中を撫でてくれた。
「あーどうしよ、嬉しくってなんか変です、私。あの、なんだか少しだけですけど、自分の能力がどんなのか分かった気がするんです」
「そう、良かったですわね。少し落ち着いたらまた聞かせてくださいな」
「はい。本当に婚后さん、ありがとうございます」
「私も佐天さんがすくすく育って嬉しいですわ」
「あはは、すくすくって子どもみたいですね」
「あらごめんなさい」
そこでようやく、光子が回りに目で謝っていることに佐天は気がついた。
そりゃそうだ、ここには沢山の研究者がいて、しかも自分は実験中だったじゃないか。
「あ、ごめんなさい! つ、続きを……」
「その様子じゃ無理ですわよ。まあ、初めての参加でここまでやれたなら合格……でよろしい?」
光子がプロジェクトリーダーに話を振った。ええそうね、と気前のいい返事が返ってきた。
「だそうですわ。まあ、これからも参加してもらいますから、覚悟なさって」
「はい! こちらこそ望むところです」
「そうそう、このデータ、あとで佐天さんの学校に送っておきますわ」
「はあ、別にそれはいいですけど」
「明日には新しい学生IDが交付されるでしょう」
「えっ?」
佐天のIDカードは、まっさらだ。なにせ変えてから一ヶ月もたっていないから。
変えた理由は、レベル0から、レベル1に上がったから。飛び上がるくらい嬉しくて、貰ったその日はずっと眺めたくらいだ。
それが、もう一度変わるというのは。
「何を驚いていますの。あの測定値ならどう低めに見積もってもレベルは上がりますわ。システムスキャンなんてする必要もありません」
システムスキャンは、能力者としての実力の測り間違いがないよう、総合的なチェックを行うものだ。
だが、レベルアップの認定にそれは必ずしも必要ではない。
ギリギリレベル2に上がれる程度ならいざ知らず、誰が見てもその規模がレベル2相当だと分かる能力を発動すれば、そのデータをもってしてレベルアップの根拠に出来る。
佐天はすでに、その域にいた。それだけだ。
「えっと、なんか前より実感ないですね」
「ふふ、システムスキャンをしたほうが通過儀礼がちゃんとあって、締まりますものね。でもレベル1と2は待遇が全然違いますから、早めに取って損はありませんわ。夏の間にもっとのびるかもしれませんし、ね」
「やだなあ。これ以上伸びたら、それこそ出来すぎですよ」
「まるで伸びないような物言いね?」

くすりと、光子が笑った。

「ね、佐天さん。もう実験はよろしいですけれど、また休憩したらなるべく皆さんと仲良くなって、顔を覚えるとよろしいわ」
「はい。また勉強させてもらえるんだったら、そうしたほうがいいですよね」
「それもありますけれど、特に常盤台の学生とは、いずれお友達になれるかもしれませんでしょう?」
「はあ、年は近いですけど、私バカだしあんまりお嬢様みたいに振舞えないですよ。雲の上の人みたいに言うと、婚后さんは怒るかもしれないですけど」
「私が言いたいのは、いつか同級生のお友達になる人がいるかも、ということですわ」
「え?」
佐天は、自分が柵川中くらいのレベルに身の丈があっていると思っているから、全く気づけなかったのだ。
周りの常盤台の学生達が、佐天のことをどう見つめ始めているのか。そして、光子がどう見ているのか。
戸惑う佐天に向かって、光子がちょっと挑戦的で、誘うような目を向けた。
きっとすぐだと、光子は思うのだ。

「佐天さん。常盤台の入学基準は品行方正な女生徒、そして、レベル3の能力を有していること、たったそれだけですのよ?」

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湾内・泡浮や美琴の研究ネタを書くにあたり参考にした書籍:
『ブレイクスルーの科学者たち』 竹内薫著 PHP新書(2010)
また渦の破壊力に関してはタコマ橋で検索すると勉強になるやも知れません。



[19764] interlude05: ローレンツ収縮が滅ぼしたもの
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/25 01:31

「ここか」
「……」
「気に入らないか?」
「別に、そんなことないけど、この都市の教会っていうのがどんなものか分からないもん」
当麻は朝から、インデックスと二人である教会までやってきていた。
イギリス清教の主流派、聖公会の流れではなくピューリタン系の弱小会派、ということらしい。詳しいことは当麻には分からなかったが。
「まあそう言うなって。学園都市の住人になるからには学校に通う義務が当然あるし、まさか超能力開発をやる普通の学校には通えないしな」
「それはそうだけど、『必要悪の教会』はカトリック寄りだし、こんなプロテスタント側に寄った学校にしなくてもいいのに……」
まあそりゃあ、不安はあるだろう。聞いたところ、学校に通うのはこれが生まれて始めてらしい。
読み書きは手の空いた修道女達に交代で教えてもらい、算術や暦の読み方など、魔術を学ぶ上で必要となる専門的な素養は『先生』に叩き込まれたのだそうだ。
「とりあえず、中に入るぞ。暑くてたまんねーし」
「うん」
「どうしても嫌って言うなら、まだ考え直せるけど」
「いいよ。これ以上の場所はないのも、分かってるから」
受け入れるように薄く笑ったインデックスを見て、当麻は大仰な扉につけられたノッカーに触れた。
コンコンと音を鳴らして、二人は中へと入った。




「……確かに、イギリスからの紹介状ですね」
「はい。時期的に突然で申し訳ないんですけど、面倒を見てやってくれると助かります」
「我々に拒む理由はありませんよ。ええと、インデックスさん、君が望んでくれるなら」
「……あの、おねがい、します」
教会の長となる司祭であり、また神学校の校長でもある老齢の男性は、頭を下げたインデックスにニコリと微笑んで、立ち上がった。
「今は夏休みで、授業は特に開いていません。本格的に通うのは九月からになりますな。隣の寮に移るのを希望されるのであれば、手配をしておきましょう」
「あっ、あの。ここじゃなくて、今いるところから通いたくて」
「そうですか。まあ、友達を作ったりするのもそれからでいいのであれば、また九月に来なさい。それとも一人で寂しいようなら、毎週の礼拝と、掃除を手伝いに来ても構わないよ」
「はい」
「ああそうだ、せっかくだから敷地の中を見ていくといい。私がしてもいいが、手続きの書類を纏めないとね」
そう言って、司祭は応接に使う木のデスクから離れ、近くにいたシスターに二三言、何かを呟く。
シスターが待っていてくださいねとこちらに告げて出て行った。案内してくれるのだろうか。
ようやく人目から解放されて、当麻とインデックスは辺りを見渡す余裕が出来た。
コンクリート製の建物に、あちこち絨毯が敷かれている。おかげで近代的な建造物の安っぽさは隠れていた。
見渡すところにある調度品には木製のものが多く、これも教会らしさを醸し出している。
だが、いたるところに電源があり、そして無造作にパソコンが置かれている所は良くも悪くも学園都市らしいといえる。
ここはかなり保守的だが、それでも宗教を科学する、そういう教会の一つなのだった。
「案内は君と同じ学生が良いと思ってね、今、連れてきてもらったよ」
司祭がそう言って、一人の少女を紹介してくれた。年恰好は、たぶん光子と同じくらい。僅かにインデックスよりは大人びて見えた。
シスター達と司祭も含め日本人の多い場所にあって、はっと目を引く天然のブロンドと碧眼。
髪に癖は少なく、さらりと肩まで流れた金色が白地のローブと紺のカーディガン・フードで出来た修道服と綺麗なコントラストを作っていた。

「こんにちわ。エリス・ワイガートって言うの。これからよろしくね」

こちらからの挨拶を聞くのもそこそこに、エリスはインデックスと当麻に握手を求めた。
気さくな笑顔の持ち主で、とっつきやすい感じにインデックスも当麻もほっとする。
それじゃあ案内するねと言って扉を開き、教会の敷地、教室のあるほうへと誘った。



「インデックス、って変わった名前だね」
「む。私は気に入ってるからいいの」
「あら、そりゃごめん」
当麻は少し離れて、二人の後を追う。インデックスが作るべき友達関係だし、一歩引いているつもりだった。
だが、エリスも年頃だからか、チラチラと当麻のほうを何度か気にしていた。
「一緒についてきた人、結構カッコイイよね」
「えー、とうまが?」
「あ、とうま、って言うんだ。ねね、あの人、インデックスの彼氏さん?」
え、とインデックスが硬直した。
そしてすぐにブンブンと首と腕を振り回す。
「ち、ちがうもん! とうまはそんなんじゃなくて」
「ふーん? アヤシイなぁ」
「だ、だってとうまはみつことお付き合いしてるし!」
「みつこ? なんだ、もう別の相手がいる人なんだ。じゃあなんで今日は一緒に来たの?」
「え? なんでって、とうまは私と一緒にいてくれるって、言ってくれたから」
インデックスの言い方は、いちいち誤解を招く。
ちょっと心中穏やかじゃなくなった当麻は、口を出した。
「俺と光子って子の二人と、一緒に暮らそうってことになったんだよ。インデックスは」
「あ、そうなんだ」
当麻よりは年下に見えるのだが、エリスは敬語を使わずインデックスにも当麻にも対等な感じに喋る。
「エリスはいつからここにいるの?」
「んと、10年には届かないかなあ、ってくらい」
「へー」
「インデックスはいつから教会暮らしなの?」
「んと、生まれたときから、かな?」
「あ、ごめん」
「別に気にしてないよ」
エリスの謝り方には、引け目がない感じがした。
それはつまり、彼女もまたそういう境遇だということなのかもしれない。
「そういえば。ここは教会だけど、エリスは学園都市の学生だよね。エリスは超能力、使えるの?」
それは素朴な疑問だった。
インデックスにとって教会とは魔術の暗い匂いがする場所だ。正確にはそういう教会にいた。
だから教会に超能力者がいるのには違和感がある。だが同時に、ここは学園都市でもあるのだ。
光子がそうであるように、ここにいる生徒は超能力者のはずだ。まあ、例外中の例外が二人の後ろをのんびり歩いているのだが。
「うん。使えるはず」
「はず?」
「もう何年も使ってないから。大した能力じゃなかったし」
無関心な感じの素っ気無さに、触れて欲しくなさそうな態度が透けていた。
「教会にいる人でも、能力使えるんだね」
「いや、学園都市じゃ当たり前でしょ。というか、どうして教会と超能力が相容れないと思ったの?」
「え?」
確信を突かれた質問で答えに窮した。教会は魔術に通じるところだから、という答えをまさか返すわけにもいかない。
「ま、言いたいことは分かるけどね。ここだって必死に隠してるから。信仰心っていうのがどんな性質を持つ心の働きなのかとか、そういうのを調べる場所でもあるからね。司祭様だって、心理学の博士号持ってるし」
良くも悪くもそれが、学園都市の教会というやつなのだ。


エリスはこぢんまりとした校舎を案内してから、校庭にもなっているグラウンドというには小さな庭へと出た。
小等部と中等部があるらしいが、建物は一緒で、両方あわせても生徒は50人もいないような、小さな学び舎だった。
「さて、とりあえず場所の紹介は全部終わったけど」
「うん」
「これからどうするの?」
「どうするの? とうま」
「お前のことだから自分で把握しとけよ。インデックス。……そろそろ書類もそろってるだろうし、必要事項書かなきゃな」
「だって。ありがとね、エリス」
「うん。頼まれごとだったし、それはいいんだけど」
当然のことかもしれないが、エリスと当麻たち二人は初対面で、互いの間に引いた一線を越えられないまま、他人行儀に過ごしてしまった。
それがエリスには少し、気になっていた。
「せっかくあそこのオレンジが綺麗に生ったからご馳走しようかと思ったのに」
エリスが少し離れた壁際を指差す。深緑で大ぶりの葉をつけた低木が、目にも鮮やかな色の柑橘を実らせている。
教会までと、そして案内で歩いた分、喉はかなり渇いていた。だが剥くのがちょっと面倒くさい。
「食べるなら剥いてあげようか?」
「そ、それはとっても嬉しいかも。施しをしてくれる人を拒むのは良くないって主の教えにもあった気がするし」
「おいおい、食べ物に釣られすぎだろ」
「あはは、気にしないで。水はやってるけど、勝手に生ってるようなものだし。あ、でも結構甘いよ」
「贈り物を断るのは良くないんだよ、とうま。すぐ追いかけるから」
「ちょ、おいインデックス。まあ、いいけどさ」
当麻にもエリスの気遣いはなんとなく伝わっていた。
保護者の自分がいると仲良くもなりにくいだろうし、先に行くかと思案した。……とそこで。
ぐに、と足元の感触が芝生とも石畳とも違う感触を伝えた。ホースのゴムらしい感触だった。おまけに中に水が流れている。
視線の先には、シスターらしい人が掃除に水を撒いているところが映る。
返す刀で、水の根元をたどると。


プシャァァァァァァッッッ


「きゃあっ!!!!」
「ひゃっ! な、何? 水?」
当麻から少し離れた地面、まさにエリスとインデックスがいる辺りでホースが外れて、二人に水が襲い掛かっていた。
白に金刺繍のインデックスと、白に紺のカーディガンとフードのエリス。どちらも、濡れるのに弱い服装というか、そういう感じで。
光子に言われて付け始めたらしいホックなどのないブラのラインが透けたインデックスの上半身と、
こちらはインデックスと違ってホックもワイヤーも入った正規のブラの、あの独特の凹凸をくっきりと再現したエリスの胸元が見えた。ちなみに色は黒だった。
「ご、ごめん。えっと、その、大丈夫でせうか……?」
「とーーーうーーーーまああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「お、おい止めろってインデックス、その、透けて、あいででで痛い痛いって!」
「なんていうか、お客様に文句を言うのはあれだけど、エッチだね」
「いやその、ごめん、悪気は……なっ!!!」
「死ね」
突如、男の声が後ろからして、当麻は反射的に身をよじった。間一髪で、後頭部が合ったところを拳が突き抜けた。


「ちょっとていとくん! お客さんにいきなり手を出さないで」
「だから帝督だって。ちゃんと呼んでくれよ、エリス」
「いきなりそういうのは駄目だよ。垣根くん」
「だからそうじゃなくてさ。まあいいや。ところでエリスの透けた修道服の中を見ようとしたコイツは誰だ?」
「いや、事故だって点ははっきり言わせてくれ。それと、そっちこそ誰だよ」
「俺か? 俺はエリスの彼氏だ」
「ちがうでしょ、ていとくん」
「否定しなくてもいいだろ」
「もう。あ、インデックス。それと上条くん、こちら、垣根帝督くん。高校の名前忘れちゃった」
「構わねーよ。どうせ通ってない。転校三昧だし」
当麻は知らなかった。目の前にいる人が、学園都市第二位の超能力者であることを。まあ言われても咄嗟には受け入れがたかったかもしれない。
当麻より10センチは背が高くシックな服装に身を包んだその垣根という男は、受け取る側に迷惑をかけない程度の数輪の花を持って、エリスに相対していた。
「垣根、でいいか。まあそっちに謝る理由はない気もするけど、エリスに水をかけたのは悪気あってのことじゃない」
「ていうかとうま、私には一言もないの?」
「い、いやそりゃ悪いと思ってるけど」
「お前、名前は?」
「上条だ」
「そうかい、なあ上条。悪気がないんならこれ以上は言わないが、エリスに手を出す気ならまず俺に勝ってからにしな」
「ていとくん?」
「なんだよ。文句あるか」
「私、ていとくんとはお付き合いしないって言ったよね?」
う、と垣根が怯むのが分かった。そんなに惚れているのか。
結構光子の方から熱を上げてくれたので、実は当麻はここまでのアプローチはしたことがない。
「とうまにはみつこがいるから、心配要らないんだよ」
「そういうこと。もう、変な言いがかりはつけないでよね。こっちが困るんだし」
「ふん……」
「エリス。とりあえず着替えが欲しいんだよ」
「そだね。ほら! 上条くんもていとくんも、反省してここにいること!」
「コイツは分かるがなんで俺が」
「文句言わない!」
二人でお互い見せたくないところを隠すようにしながら、室内へと逃げ込んだ。
当麻は垣根と二人、燦燦と太陽の降り注ぐ死ぬほど暑い神の庭に取り残された。


「暑い」
「黙れよ」
罰としてちゃんと日差しの当たるところにいないと後で文句を言われそうなので、当麻はその場で直立している。
垣根は早々に近くの影に逃げていた。
「お前、エリスに惚れてるのか?」
「ああ。それと上条、エリスを下の名前で呼ぶな」
「いやあっちがそう呼んでくれって言ったんだし」
「チッ、それでも気を使えよこの三下野郎」
「はあ? 気を使うってお前にか? 垣根」
「お、やる気か? 誰でも殴るほど分別がないつもりはないが、エリスが絡むなら話は別だ」
「やらねーよ。だからあの子に手を出す気はないって言ってるだろ?」
「ならいい。ま、やる気があってもお前じゃ相手にもならねーけどな」
「だから喧嘩を売るなよ。殴り合いで怪我でもしたら困るのはエリスだろ?」
「俺に傷がつくわけねーよ。悪いが犠牲者はお前一人だろうさ」
「俺が怪我したってエリスは困るだろ」
街のチンピラよりは分別があるのに、垣根の物言いはチンピラそのものだった。
自分は無害な子羊なのだ。何も好き好んで牙をむき出した生き物の近くに寄りたくはない。
「……」
「……」
沈黙が息苦しい。時々牽制のように垣根からきつい視線が飛んできて、当麻の神経をピリピリさせる。
「お前のほうこそ、インデックスに手を出す気はないだろうな?」
「あるわけないだろ。お前こそあんな色気のいの字もないガキにお熱か?」
「ちげーよ、惚れた子は別にいる」
「じゃあ何であのガキと二人でいるんだよ?」
「俺と彼女とで、インデックスの面倒を見ることになったからな」
「ふーん、まあ、刺されろ」
「は?」
「ガキだからいいのかもしれねーがな、女を二人同時に囲うのは男としてよっぽどのクズかよっぽど出来たやつだ」
「囲うって、だからインデックスは違う」
「そーかい」
別に対して興味がないのだろう。当麻の弁解を垣根は適当に聞き流した。
「なあ垣根、エリスのどこが好きなんだ?」
「い、いきなりだなおい」
「別に話したくねーならそれでもいい。暇だから聞いてみただけだ」
「……ほっとけないんだよ、アイツ」
靴の裏にこびりついた泥をこそぎ落とすように石にガリガリと踵を擦り付けながら、垣根はボソッと呟いた。
「どういう境遇か知らないが、人懐っこいわりに最後の一線踏んで立ち入るのは許さないんだよ。そういうの、ムカつくだろ? で、今は追い詰めてる最中だ」
「追い詰めるって、ひでー言い方だな」
「本気で拒まれてるんならとっくに止めてる」
「それにしても、なんでこんなところにいるエリスと出会ったんだ? お前も普通に能力者だろ?」
「普通じゃあないが、超能力者には違いない。にしても上条。大して興味もないのに出会ったきっかけなんか聞くなよ」
「言いたくないなら言わなくていい」
「……あいつ、俺より能力が上なんだよ」
「? ……で?」
結局喋りたいのかよコイツと思いながら、当麻は話を続けさせた。自分も光子の方が圧倒的にレベルは上だし、ちょっと気になったのだった。
それなりに自分の能力に自身のありそうな男だ、レベル1や2ってことはなさそうだが。
「第二位にそう思わせるってのは無茶苦茶なことなんだよ」
「第二位?」
「あん?」
「お前、『未元物質<ダークマター>』の第二位か?!」
「サインでもやろうか?」
「いらねーよ。っていうか、ちょっと待て。第二位のお前より上って、エリスはそれじゃ、あの」
ガスッと、当麻は何かを額にぶつけられた。痛い。
足元を見ると乳白色の玉が合った。ピンポン球くらいだが、金属並に重たい感触だった。
なんてことはない石に見えるが、これが『未元物質』というやつだろうか。
「いってーな、おい」
「なあおい、あのクソ野郎とエリスを並べるとか死刑ものだぞ? ってか、お前もクソつまらねぇ噂を信じてるクチか? あのいけ好かない『一方通行』の野郎が女だとかいうアレをよ」
「いや興味ないから知らねーよ。っていうか、お前の言い方だったらそうなるだろ。エリスが学園都市第一位だって」
チッ、とまた垣根は舌打ちをして、当麻の足元に視線をやった。
そちらを見ると、ふっと雪が解けるように、あの白い玉が消えてなくなった。
そしていつの間にか、垣根の手のひらの上に、それと同じものがある。
「ありがたく思えよ。『未元物質』について俺が直接講義をする相手なんざほとんどいないんだ。俺の能力はこの世にはない物質を生み出す能力だ。素粒子のレベルで全く違う、そういうものをな」
「……で?」
「エリスは俺にも作れない『物質』を作れる。惚れるより前に気になった理由はそれだ」
大して知識もないが、上条は思案する。第一位と第二位は、その特殊さで群を抜いている、というのが定説だ。
この世にない物質を創作する能力なんて、『未元物質』以外に聞いたことがない。
発電系能力者<エレクトロマスター>や空力使い<エアロハンド>とはレア度が違うのだ。
「それって、エリスも相当な能力者ってことじゃ」
「私がどうかした? 上条君」
濡れた服を動きやすそうなジャージに替えて、エリスが当麻の後ろから声をかけた。
後ろには同じ格好のインデックスもいる。学校指定の体操着なのだろうか。
エリスはそのまま近くの物干し竿に二人の服をかけた。この日差しだ、ものの30分もあればカラリと乾くだろう。
「それで何の話をしてたの?」
「垣根のやつが、エリスは自分以上の能力者だって」
「え?」
驚いた顔をして、エリスが垣根を見つめた。
そしてすぐ、申し訳ないような、だけど嫌そうな、そんな顔を垣根に向けた。
「ていとくん。そういう話、誰かにされるの嫌」
「え? その、悪い」
「うん、私の方が我侭言ってるの分かるから、謝らなくていいけど、もうしないで。上条くんもあんまり気にしないでね。別に私、ただのレベル1だし」
「あ、ああ」
お前何やってんだよ、という視線を当麻は垣根に送った。
知るかよ死ね、という視線が返事だった。



「案内してくれてありがとね、エリス」
「サンキュな」
「うん。またね、インデックス」
二度と来んなという垣根の視線をスルーして、当麻はインデックスと教会内へと戻った。
ちなみに垣根が声に出さなかったのはエリスに足を踏まれているからだ。
「……そんなに、気にしてたのか。エリス」
「ていとくんは自分がすごい人だって分かってないよ。そんな人が『俺よりすごい』なんてこと言ったら、私が目立っちゃうし」
「悪い」
「ん」
そんな一言で、エリスは許してくれた。その気安さに救われている自分を、垣根は感じた。
安い同情を買いたくなくて突っぱねているが、学園都市第二位というのは中々に不愉快な立場だ。
友達になれるヤツなんて数えるほどしかいない。だってクラスメイトという概念が垣根にはないのだ。
絶滅危惧種なのに実験動物、垣根は学校にいるときの自分をそう思っていた。
「ていとくんが私以外とあんなにおしゃべりしてるとこ、初めてみたかも」
「そうか? 街の不良相手なら結構喋るぜ」
「上条くんはそういうのには見えないけどなー」
垣根はガラでもない、と思いながら頬が火照るのを自覚した。
安い好意を売りたくないと思いながら、ああいう気さくなヤツが垣根は嫌いではない。
……悟られるのが嫌で、垣根はもう一度、手元に石つぶてを用意して当麻に投げつけた。
相手のレベルなんぞ知らないが、周りの物理を何も歪めはしないただの石だ。
「あっ、もうていとくん!」
「いいんだよ」
ぶつかったって怪我にはならない。それにあっちが切れたって万が一にも負けることはない。反抗の子どもっぽさに垣根は目を瞑った。
エリスが気をつけてと当麻に言うよりも先に。垣根は突然当麻が振り返ったのに気づいた。
そして、当麻の右手が未元物質で出来た石を、軽くはたいた。
「すごーい! 上条くん、背中に目でも付いてるみたい!」
「どうしたの? とうま」
「垣根テメェ! 喧嘩売ってんのかよ!」
「買いたいんなら売ってやるぜ」
「いらねぇよ。馬鹿」
やってられるかと当麻が垣根に背を向けた。隣ではてなマークを浮かべるインデックスを急かした。
「アイツ、自分のことを一切喋らなかったが、なるほどね」
正体は不明。だが垣根の能力を、何気なく消し飛ばした。
燃やしただとかテレポートしただとか、そんなチャチな能力じゃない、もっと何か得体の知れない能力の片鱗だった。
「ていとくん!」
「エリス、いてててて!」
耳を引っ張られた。こういう態度をとってくれるのが嬉しくて、つい露悪的に振舞う。
垣根自身、自覚はしていなかったが、エリスといるときは少し精神年齢が低くなるのだった。
「ああいうのよくないよ。友達減っちゃうよ?」
「大丈夫だ。友達ってのは正の整数しか取れない変数だ」
「え?」
「ゼロから何を引いてもマイナスにはならん」
「友達いないの?」
「この身分と性格じゃ、な」
「そうかなぁ。上条くんは友達になってくれそうだよ」
「はあ?」
「ちゃんと仲取り持って、あげようか?」
「うぜえ」
別にあんなヤツとつるまなくても、エリスがいればいい。それが本音だった。だがさすがにそれをストレートに言うのは躊躇われた。
エリスがトコトコと垣根から離れて、木に生ったオレンジに手を伸ばした。
低いところの実は採りつくしたのか、微妙にエリスには届かない。
「ほら」
「ありがと、ていとくん」
「帝督、って呼んでくれよ。呼び捨てでいい」
「そういうのはお付き合いしてる女の人にお願いしなよ」
「いねぇよ。エリスに、そう呼んでほしいんだ」
「駄目って、前にも言ったよ?」
垣根はもう二度ほど、エリスには振られている。付き合ってくれというお願いにはっきりとノーを突きつけられたのだ。
ただ、一度も嫌いだとか、迷惑だとか、あるいは付き合えない理由だとかを教えてはもらえなかった。
そして垣根がここを訪れるたびに、裏表のない優しい顔で、エリスは迎えてくれる。
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「ていとくんってやっぱり私の体が目当てなの?」

息が一瞬、詰まった。

「俺はエリスの心も体も全部自分のものにしたい」
「……ていとくんは、いつも直球勝負だね」
「変化球のほうが好みか?」
「ううん。直球が一番。ところで私が言いたいのはそういう意味じゃないよ」
体が目当て、というのは色のある話ではない。もっと物理的に直截的な意味だ。
垣根がエリスという人以外にも体そのものに興味を持っていることは知っていた。
初めて会ったときに、垣根がエリスに釘付けになった理由は、それだから。
エリスという女性に、垣根が一目ぼれをしたわけではなかった。
「知りたいって気持ちがないわけじゃないが、エリスに嫌ない思いをさせる気はねえよ。エリスが教えてくれる気になれば、聞かせてくれ。その心臓のこと」
「私は誰かとお付き合いをしたことはないけど、そんな人ができても教えるつもりはないよ」
「それでもいい」
「でも、だめ。好きな人には全部知ってて欲しい」
「じゃあ教えてくれ」
「だめ」
垣根は当麻に、ぼかして話を教えていた。エリスが能力を使うところなんて、垣根も見たことがない。
ただ知っているのは一つ。

――――この世のどんな元素とも違い、そして『未元物質』の垣根にすら解析不能な、そんな元素でエリスの心臓は出来ている。

「なあエリス」
「うん?」
「こないだ誘ったやつの、返事が欲しい」
「うん……」
数日後に第七学区で行われる、花火大会。垣根はそれに誘っていた。
教会の修道女が行くにはいささか晴れやか過ぎるイベントだが、この教会はそういうのに緩い。
エリスの意思以外に、障害はなかった。
「前向きに検討、っていう時期をさすがに過ぎちゃったね」
「本気で検討してくれるんなら、当日の昼過ぎにでも俺はここに来るぜ」
「あはは、それは悪いなあ」
この教会に寄宿してから、かなり経つ。エリスはその間一度もここから出たことはなかった。
買い物にだって、出かけたことはないのだ。それだけは断っていたから。
だから、単純に外が怖い。だけど、外を恐れている気持ちは、理由のはっきりしたものじゃなくて、ぼんやりと抱いた恐怖でしかないのだ。
連れて行ってくれる人がいるのなら、外へと出てもいいのかもしれない。垣根の熱意に絆されている部分も、確かにあった。
あっさりとした決断を装って、エリスは自分にとっての大きな決断を、口にする。
「じゃあ、行こうかな」
「よしっ!!」
珍しく斜に構えていない、本気の垣根の喜んだ顔を見られた。エリスはそれに笑顔を返す。
「浴衣とか、着たいか? もしそれならなんとかする」
「え、いいよ。そんなの悪いし」
「気にするな。どうせあぶく銭が捨てるほどあるんだ。この教会丸ごとかって釣りが出るくらいには」
「もう。お金持ちをひけらかすのは格好悪いよ。……ていとくん、見たい?」
「見たい。死ぬほど見たい。エリスの浴衣」
「……じゃあ、私のことは私が何とかするから」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫。見たいって言ってるていとくんに買わせるのは、私が嫌だから」
「……わかった。ありがとなエリス、それと愛してる」
「莫迦」
垣根は別れの挨拶をせず、ニッと笑顔を見せて踵を返した。エリスはその後姿にまたねと声をかけた。
垣根帝督に夏休みなどない。垣根を材料にした実験は、100年先までやれるくらいのプランが後ろに控えている。
だがそんなことをお構い無しに昼間に時間を作って会いに来てくれる垣根を、エリスとて憎からずは思っていた。
ただ。
「ていとくんは優しすぎて、どうしていいのかわかんないよ……。こういう時、相談に乗ってくれる相手がいればよかったのにな。ね、シェリーちゃん」
胸元に手を当てて、ずっと昔に別れた親友の名前を呟いた。

****************************************************************************************************************
あとがき
タイトルは謎架けになっています。意味が分かるとエリスの秘密がちょっとわかるかも?
ちなみに姓として与えたワイガートは森鴎外の『舞姫』のヒロインから拝借して英語読みに直したものです。



[19764] interlude06: 能力者を繋ぐネットワーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/26 01:36

「久しぶりね」
「……ああ、君か。元気そうだな」
「そりゃ夏休みだからね」
「学生はそんな時期になるのか。こう空調が行き届いた場所にずっといると、実感がなくてね」
美琴は窓越しに、そんな言葉を交わした。
目の前にいるのは、美琴の知っている姿と同じスーツ姿の木山春生だった。
「ところで、何の用だい? こう見えて色々と、忙しいのだがね」
「随分と暇そうな場所にいるように見えるんだけど」
「そうでもないさ。以前言った気がするが、私の頭はずっとここにあるんだ。考えないといけないことなんていくらでもある。やれることもある」
気だるそうで何を考えているのかよく分からない木山だが、その瞬間だけ、怜悧で明晰な思考を覗かせた。
「あれだけのことをしても、救えるかどうか怪しいんでしょ? ……その、どうにかなるものなの?」
「君は優れた能力者だが、研究者としての哲学はまだ持っていないようだね。どうにかならないものをどうにかするのが研究だよ。工学とはそういうものだ」
それは答えのようでいて、答えではなかった。
「それで、繰り返しで悪いが、何の用だい?」
「う、いやえっと。アンタの過去を覗いちゃった身としては、あのまま忘れることも、出来なくて」
「ああ、そうだったな。そうか、君は私の教え子の身を案じてくれたのか」
「そりゃあ、ね」
「そして特にそれ以外の具体的な目的はなかったと」
「う」
実のところ、それが実情だった。あのヴィジョンは、生々しく脳裏にこびりついている。
それがずっと気になるせいで、つい話を聞こうと思ってしまったのだった。
「知ってしまったら、忘れて戻ることは出来ないわ」
「君は優しいな、ありがとう」
「何か、出来ることはない?」
「ならここから出してくれないか。君のレベルなら、相当の額を持っているだろう。保釈金が欲しい」
「……それは駄目」
「何故?」
「アンタはまた、幻想御手<レベルアッパー>みたいな方法で、誰かを犠牲にしようとするかもしれない」
「犠牲は出さない予定だったがね。……まあ、あんな予測していなかった化け物を出した身で、言えた事ではないか」
少し前、美琴は木山のやろうとしたことを食い止めた。
幻想御手というプログラムによって、能力者と能力者をネットワークで繋ぎ、それを統括することで巨大な演算能力を手に入れる。
『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』を利用できなかった代わりの、苦肉の策だった。
幻想御手が安全だったという保証は、ない。結果的に後遺症を残した人はいなかった。だけど、あれを使ったことで、傷ついた学生がいたのは確かなのだ。
だから間違ったことをしたとは思っていない。
しかしその一方で、木山が救おうとした教え子達を、目覚めることのない今の状態から救い出すのを阻止したことを、美琴はずっと気にかけていた。
「そういやさ、アレは幻想御手を使った人たちの思念の集まり、だったのかな?」
「データを取る暇もなかったんだ、推察でしかないが、そうだろう。君もそう感じたんじゃなかったのか?」
木山が演算を暴走させた瞬間生まれた、幻想猛獣。
暴走するそれを美琴は打ち抜いた。そのときに、沢山の能力者たちの声を聞いた気がする。
だから、アレが生まれるきっかけが、能力者たちの思念だったことに疑いは持っていない。
しかし。
「ずっと気になってたのよね。幻想御手でネットワークの部品になっていた能力者たちを解放した後も、アレはずっと自律して存在してた。それって、変じゃない?」
「そうか、話す暇がなかったな、そういえば」
「え?」
「虚数学区、五行機関、そういう名前に心当たりはあるか?」
「よくある都市伝説のひとつでしょ?」
脱ぎ女だとか、どんな能力も打ち消す能力だとか、そんなのと同じだ。
……と言おうとして、どちらも真実だったことに思い至る。
「アレがそうだ」
「え?」
「虚数学区という言葉を大真面目に使う研究者達が記した論文にはね、常にAIM拡散力場の話が出てくるんだよ。あの幻想猛獣はそのものではないにせよ、確実にその系譜に身を連ねる何かだ。ふふ、分野はかけ離れているが、その方面の学会で発表すれば最優秀研究者として賞をもらえるのは確実だな。なにせ虚数学区を実体化させた人間なんて、まだいないのだから」
そこまで言って、ピクリと木山が体を震わせた。
そしてすぐ、何かを笑い飛ばすように、ふっと息を吐いた。
「何よ」
「いや、考えすぎだとは思うがね。……私の試みは全て誰かの敷いたレールの上を走っていて、あの幻想猛獣を形作らせること、それを目的にした人間がいるんじゃないか、ってね」
「そんな、考えすぎでしょ」
「そうかな……。だがずっと、私も引っかかっていたんだよ。例えばアレが頭の上に浮かべていたものだとか、な」
「え?」
そう言われて美琴はお世辞にも美しいとはいえない幻想猛獣のフォルムを思い出す。
確か、頭の上には輪っかが付いていた。学園都市には不似合いな特長だった。
何が影響して、アレはあの光の輪を頭にかざすに至ったのか。
「天使の輪、あるいは後光、そういうものは中央、西アジアで興った宗教、つまりゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教あたりには共通して見られる概念だ。そういう意味で、人の集合的無意識が備えている一つの元型<アーキタイプ>だという主張も通らなくはないが」
「気にしすぎじゃない? もうそれで、一応の説明にはなっていると思うけど」
「そうだな。追いかける手があるわけでもなし、保留以外にはない。だが、やはり気になるのだよ。私が構築したやり方では、どんな偶然が起こってもあんな存在は生まれるはずがないんだ。もちろんAIM拡散力場なんて、まだまだ未解明な部分は多くて、確かなことは誰にも分からないのだけれど。原理も分からず振り回す科学者の言い訳かもしれないが、誰かが意図を持って、私のプランに介入したんじゃないか、そんな冗談を吐いてみたくもなるものさ」
ふふっと自重するような笑みをこぼして、木山は足を組み替えた。
仮に、仮に誰かが自分のプランに介入したのだとして、その人間は何故、幻想猛獣を天使に模したのだろう。
オカルト趣味なのか、あるいは、例えば天使は実在する、なんてのが真実かもしれない。
稚拙ではあったが、幻想猛獣は高次の生物的特徴を備え、自意識を持ったAIM拡散力場の塊だ。
人類がこれまで獲得したあらゆる概念の中でアレに最も近いのは、きっと天使だろう。
そんなどうしようもない思考の坩堝に陥ったところで、木山は考えるのを止めた。
ウインドウの向こうで、美琴もまた沈黙していた。
木山は、過去に名目を偽られて、実験に加担したことがある。それで教え子達を、植物人間にした。
それを思えば、そうやって誰かが自分を都合の良いほうに誘導しているのだという考えをを笑い飛ばすことは出来ない。
だが、やはり考えすぎだろうという感覚が一番強いのだ。
学園都市にとってもかなり有益な存在であろう自分の日常に、そんな暗い影だとか、陰湿なものはない。
「幻想御手ですら誰かの手のひらの上だった、なんて。アンタの生徒のことを思えば、考えすぎ……って、言えないのかな」
「私の意思と無関係に、全く別の人間が描いたレールの上を走って、私は教え子を傷つけた失格教師だからな。そういうことに、鈍感ではいられないんだよ」
ふう、と憂いを体の外に吐き出すようなため息を木山はついた。
「まあでも、あんなこと考える無茶苦茶な研究者はそういないでしょ」
「……そんなことはない。あれは、君に教えてもらったアイデアだよ」
「え?」
そんなものを開発した覚えも、提唱した覚えも美琴にはなかった。
木山は驚いた様子の美琴に付き合うでもなく、話をぼかしながら、取り留めなく喋る。
「君は発電系能力者<エレクトロマスター>の頂点に立つ能力者だったな」
「ええ、そうよ」
「ネットワークを構築するものといえば、普通はパソコン、電気で動くエレクトロニクスだ。君の能力は、精神操作系の能力と並んで、ネットワーク構築に向いている。なまじ物理に根ざしている分、扱いやすいくらいだ」
「……何が言いたいの?」
いらだつ美琴に、木山はぼんやりと答えた。
二人の会話に同席している保安員が、ちらり、と木山を見た。
「私は何度も『樹形図の設計者』の使用申請をして、すべてリジェクトされた。一般に募集されている計算リソースの割り当て枠にはいくつかのジャンル、素粒子工学の計算や、天体の多体問題計算、生物工学なんてのがあるんだがね、私は脳神経工学で応募していたんだ。そして、同じ採用枠で競っていつも負けた相手がね」
木山が、透明のウインドウの前の小さな出っ張りに肘を乗せて、美琴の至近距離に迫った。
得体の知れない不安に、背筋が寒くなる。
「『学習装置<テスタメント>を利用した発電系能力者ネットワーク構築のための理論的検討』という題目だよ。よく似ているだろう? 私の研究と。ちなみに主任研究員は長点上機の学生だったよ」
「発電系能力者<エレクトロマスター>の、ネットワーク?」
「ああ。学習装置を利用して特定の脳波パターンを全ての能力者に植え付け、それを使って複数の発電系能力者の意識を繋ごう、という計画さ」
「そんなの、無理に決まってるじゃない!」
それは発電系能力者としての、美琴の正直な感想だった。
「そうだな、もし実行していれば、私と同じ結果になるだろう。そんなことはね、『樹形図の設計者』を使わなかった私でも理解できるし、たどり着ける程度の高みなんだよ。だから私は自分のプロジェクトの優位性を何度も申請書に書いたし、あちらの批判を書いたこともある。率直に言って、あんなお粗末なプロジェクトが一位として採用され続けるはずがないんだ」
「どういうこと?」
「……おかしいと思わないかい? プロジェクトに関わって意味がある程度の、高レベルな発電系能力者は学園都市に一体何人いるだろうな? そして、君を外す理由なんて、あるだろうか?」
それはそのとおりだ。発電系能力者にとってそれほど大きなプロジェクトなら、美琴が関係しないわけがない。
たとえ何らかの理由でプロジェクトから外されても、そういうものがあること自体は、知っていなければおかしいのだ。
「君の知らないところで、有力な発電系能力者を集めることなんて不可能だ。じゃあ、彼らはどうしたんだろうね」
「……」
「一つの答えは、新しく作ればいい、さ」
「作るって、誰にどんな能力が宿るかは、予測不可能ってのが定説でしょ?」
「そうだな。だが、そんなまどろっこしいことはしなくてもいい。例えば、レベルの高い能力者の遺伝子からクローンを作って、ソレに能力を使わせればいい」
「えっ……?」
「再生医療と遺伝子工学、そちらの方面のプロジェクトでも、その長点上機の生徒の名前はよく見たよ。能力者ネットワークの研究と同じ名が名を連ねるには、随分とかけ離れたテーマだがね」
「それって、まさか」
暗に木山が言っていることを、じわじわと美琴は理解し始めていた。
能力者のクローンを作って、同じ能力者を大量に用意する、それは倫理的な問題に目を瞑ればシンプルな思想だ。
そして、サンプルに使う発電系能力者は高レベルなほうがいいだろう。
蓄積されていく事実に、キリキリと美琴の内臓が締め付けられていく。


――美琴は、過去に自分の遺伝子マップを、学園都市に提供したことがあった。



「ああ、そろそろ面会時間が終了のようだ」
「待って! 詳しい話をもう少し」
「悪いね。実を言うとこれ以上詳しいことは覚えてないんだよ」
そう言って、木山はとんとんと地面を叩いた。
ハッと美琴はその意味に思い当たった。正当な方法で得た情報だから、木山はここまで隠さなかった。
そして不正に得た情報を、どうやって得たのか説明つきで語ることは拘置所では到底出来ない。
そういうことらしかった。
「そうそう。長点上機のその優秀な生徒の名前だけは教えておこう。論文を読むといい。勉強になるからな」
「……」
保安員に促されて立ち上がった木山が、別れを惜しむでもなく美琴に背を向ける。
その別れ際に、一人の名を呟いた。
「布束砥信(ぬのたばしのぶ)だ」




拘置所を出ると、夕方というにはまだ早く、夏の日差しがようやくほんの少しの翳りを見せた頃だった。
今から風紀委員の仕事に借り出されている白井のところに向かえば、ちょうどいい時間になるだろう。
しかし美琴は、その足を寮や白井のところへは向けなかった。

人通りは途切れないものの、数は多くなく、また中を覗かれにくい公衆電話を探す。
手ごろなものを一つ見つけて、手持ちの端末を繋いで、ネットワークにアクセスした。
公衆電話からのアクセスで与えられる権限は"ランクD"、これは美琴自身が持っているものと同じだ。
細かな能力開発の履歴を閲覧しないならば、個人情報の取得は一般教師の保有する"ランクB"で事足りる。
指先に意識を集中させる。電磁誘導で端末の回路の一部に、自分の意思を反映した電流を流した。
美琴は電気現象のスペシャリストだが、情報工学のスペシャリストではない。
電流を制御するのは誰より上手いが、0と1で表されたバイナリデータそのものを読む力には乏しい。
だから端末には、普段は使わないデータ翻訳用のコアが積んであった。
ハッキングが違法なのは美琴にとってもそうだから、このコアと搭載した特殊な処理系は完全に自作で、ハッカーとしての美琴の唯一にして最大の武器だった。
難なく、場所も知らないありふれた高校のパソコンの一つにアクセスし、そこのランクB権限を使って、長点上機学園の生徒一覧を参照した。

「布束砥信、長点上機学園三年生、十七歳。幼少時より生物学的精神医学の分野で頭角を現し、樋口製薬・第七薬学研究センターでの研究機関をはさんだ後に本学へ復学」

ありがたいことに、今は名の知れたエリート高で普通の学生をしてくれているらしい。
さらに調べればあっさりと学生寮の場所までつかめた。
「ま、家で大人しくしてるかどうかまでは知らないけど」
カチャカチャと手早くケーブル類を回収して、美琴は布束の家を目指した。思い過ごしであればいいと、そう思う。
木山春生という人間を、自分は半分信じて、半分疑っている。
人並みに誰かを慈しめる人だということは疑っていない。だから好意で美琴に情報をくれたのかもしれない。
だが、昏睡状態にある教え子たちを救うためならかなり手段を選ばないことも、疑っていない。
例えばこうやって美琴を動かすことも、木山の手の一つで、まんまとそれに自分は乗っているのではないか?
そんな不安も、拭い去ることは出来なかった。
「おーい」
電車とバスを乗り継いで、大きな駅前に出る。
長点上機学園は第一八学区にあるから、電車を使ってある程度の遠出をすることになる。
門限破りもありえるが、美琴の足は引き返すほうには動いてくれなかった。
「おーい、って聞いてないのかビリビリー」
「だぁっ! うるさいわね! ビリビリじゃなくて私には御坂美琴って名前が――――って、え?!」
「ん? どうかしたのかビリビリ、じゃなくて御坂。随分暗い顔して」
「……アンタはやけに幸せそうね」
上条当麻が、目の前にいた。




つい昼に、光子や佐天、白井たちとの話で出てきたばっかりの人だから、ドキリとする。
まさか、誰かと噂をした日に会えるなんて。
だがそんな美琴の内心の動きになんてまるで気づかず、当麻は幸せそうにニコニコしていた。
「いやー、さっきショートカットしたら路地裏でマネーカード見つけてなあ。1000円だぜ1000円。人生でお金拾ったのなんかコレで何回目かな。最高金額の記録がこれで10倍になったな、うん」
「ショボ」
「んな?! おい、お前今なんて言った? ショボイとかおっしゃりやがったんですか?!」
「そりゃ1000円拾ったら私だってラッキーって思うけど、アンタ喜びすぎでしょ。カジノで一山当てたくらいの喜び方じゃない? それ」
「人の喜びに水を差すなよ。こんなラッキーなことなんて俺にとっちゃ奇跡みたいなことなんだよ」
「ふーん」
美琴は当麻に、少しだけ苛立ちを感じていた。
悩みのなさそうな明るい顔で、今焦りを感じている自分の気持ちと、対照的だったから。
「おい、御坂」
「――――え?」
「なんかやけに元気ないな」
「別に、そんなことないわよ」
「そうか。なら、いいけど。ところでどこ行くんだ?」
「なんで言わなきゃいけないのよ」
「言いたくないなら別にいいさ。でも軽く聞いたっていいような内容だろ?」
それはそうだ。白井のところに行くのなら、美琴だってはぐらかしたりはしない。
ただ、今はそう納得させる余裕が少し欠乏していた。
「アンタこそどこ行くわけ?」
「どこって、そこら辺のスーパーに行くだけだ」
インデックスは神学校の見学から帰るとすぐに暑さでばてて、『買い物はとうまひとりでがんばってね、応援してるよ』とのことだった。
「そ、じゃあさっさと買い物して晩御飯の仕度すれば」
「まあそのつもりだけど。……俺がイライラさせたんなら謝る。けど今日のお前、なんか変だぞ?」
「変って、アンタに私のことがなんで分かるのよ? 大して会ったこともないくせに」
「回数は知れてるかもしれないけど、夜通しで遊んだ女の子なんてお前しかいないぞ?」
「う」
かあっと顔が火照るのが分かる。コイツの言葉に他意なんてない。
けど、まるで、それじゃあ私が特別な女の子みたいで――ッッ
「……ちょっと人探し」
「人探し? この時間に? 完全下校時刻ももうすぐだぞ?」
「まあいいじゃない。そういうのにうるさく言える立場じゃないでしょ、アンタも」
「そうだな。それで、名前は?」
「え?」
「探してるやつの名前」
ジトリと、当麻を睨みつけてやる。
軽く受け流すようになんだよ、と呟く態度が気に入らない。
「何で聞くわけ?」
「まだ時間はあるから付き合ってやってもいいし、そうでなくても俺の知り合いだったら話は早いだろ?」
「知り合いなわけないわ。レベル0のアンタとじゃ一生接点のなさそうな相手よ」
「そうは言うが、レベル0でもレベル5のお嬢様と知り合いになったりはするんだけど?」
もっともな切り返しに、美琴は口ごもった。
別に、名前ならいいかと思う。長点上機の三年生という点を伏せておけば、それ以上探られることもないだろう。
やましいことを美琴はしたわけではないが、どこか、細かな説明をするのは躊躇われた。
「探してるのは、布束砥信、って人。知らないでしょ?」
「……」
「ほら、さっさと買い物済ませて帰りなさい」
「あの目が……ええと、パッチリしてる三年生か?」
顔写真を見た美琴にも、よくわかる外見の説明だった。パッチリというのは男性の当麻が見せた女性への気遣いだろう。
美琴なら迷わず、目がギョロっとしていると言うところだった。
「……なんでアンタが知り合いなのよ」
「いや、知り合いって程でもないけど、これ絡みで」
「え?」
そう言って当麻が見せたのは、例のマネーカードだった。
「それ絡みって、どういうこと?」
「お前知らないか? ちょっと前から噂になってるらしいんだけど、学園都市の裏通りを歩いてるとマネーカードを拾える、って話」
「知らない」
「……まあ、常盤台の学生ならこの額じゃ小遣い以下か」
「別にそんなんじゃないわよ。噂を仕入れるような情報網を持ってないだけ。その手のソーシャルネットワークサービスとか嫌いだし」
「そっか。ごめん。常盤台だから、みたいな色眼鏡で見てものを言うのは良くないよな」
「う、うん。分かってくれればいいわよ」
まさか謝られるとは思ってなくて、美琴は思わずたじろいだ。
だけど嬉しくもあった。話す前から自分との間に壁を作る人は少なくない。
常盤台の人だから、あるいは第三位だから、そんな風に美琴を遠ざけて話す人は多い。
そんなものを取っ払って、気安く話してくれるところは、とても高評価で。
……そんな思考を振り払うようにブンブンと頭を振った。
「で、マネーカードの噂と布束って人の関係は?」
「これ置いてるのが、その布束先輩だ」
「はぁ?」
「なんかよくわからないけど、こないだ会ったときには街の死角を潰すため、とか言ってた」
「死角を、潰す? 何のために?」
「なんかよく教えてもらえなかったけど、止めたい実験があるんだってさ」
そのフレーズに美琴はピクリと反応してしまった。
起こって欲しくなかったことが、あったのかと、そう疑ってしまうような一つの事実。
「こないだ布束先輩がカードを置いて回ってて不良に絡まれたところに偶然居合わせてさ」
「それじゃあ、もしかして」
「人通りも多かったし、今日はこの辺でやってるのかもな」
「ありがと。良い情報貰ったわ」
近くにいるのなら、取り逃がす前に捕まえるに限る。
美琴は早々に会話を打ち切って、路地裏へと歩き出した。
「で、ビリビリ、なんで布束先輩探してるんだ?」
「……なんで付いてくるのよ?」
「探すなら二人のほうが早いだろ?」
「仲良く歩いてちゃ意味ないでしょうが」
「それもそうだな。じゃあちょっと携帯貸してくれ」
「え?」
「俺のアドレス教えとくから」
「えっ? え、あ……え?」


急にピタリ、と美琴が立ち止まった。セカセカと歩いていたので急変に当麻はびっくりした。
手分けをするのなら連絡先が必要だ。美琴のアドレス帳にアドレスを登録して、自分の携帯には着信履歴を残す気だった。
自分の携帯にはさすがに美琴のアドレスを載せる気はなかった。
可愛い彼女に操を立てる意味も込めて、必要がない限り女の子のアドレスは登録しないようにしていた。
「ちょ、いいの? そんなにあっさり」
「いいのって、そりゃむしろ俺の台詞だろ。お前こそ嫌なら止めるけど」
「だ、大丈夫。私だってアンタに知られて困ることなんて別に……」
「よし、じゃあ貸してくれ」
びっくりするくらいの急展開だった。
アドレスが手に入るって事はつまり、いつでも、寝る前にだって連絡できるし、朝起きてすぐにだって連絡できるし、休み時間のたびにだって連絡できるし、会いたいときにはいつだって連絡できるし、例えば明後日の盛夏祭、美琴たちの暮らす常盤台中学の寮祭に当麻を招待する事だって、できるのだ。
当麻はおずおずと差し出された可愛らしい携帯に何もコメントすることなく、カチカチとアドレス送信の手続きを行った。
処理に問題など生じるはずもなく、上条当麻という登録名のアドレスが、美琴の携帯に一つ増えた。
「……なんだよ、ぼうっとして」
「なんでもない」
「で、お前はどっちのほうを探す? 土地勘あるか?」
「あ……」
そもそもそういう話でアドレスを貰ったのだから今から当麻と離れることになる、ということに、美琴はいまさら気づいた。
そしていきなり心のどこかで、一緒に歩いていても視線が二つになるだけでかなり違うのではないかとか、二手に分かれて当麻のほうが布束に接触した場合、自分が駆けつけるまで待ってくれないかもしれないし、そういえば当麻と布束は知り合いでしかも待ってる間は二人っきりなのかそうなのかと、そんな言い訳みたいななんともいえない思考が沸きあがってきた。
「場所は、あんまりわかんないかも」
嘘だった。風紀委員の白井に付き合ってそれなりになじみの場所だった。
「そうか。……まあ、お前の実力なら危ないトコに迷い込んでも俺より安全な気はするけど、でも女の子がそういう場所にフラっといっちまうのを見過ごすのも嫌だしな。効率悪いけど二人で探すか……って、ありゃ」
「え?」
当麻が突然会話を打ち切って、目線を横に滑らせた。
その先を美琴も追うと、絵に描いたような不良が5、6人と、その真ん中に白衣の女子高生。
耳の下までくらいの濃い黒の髪をピンピンと跳ねさせ、ギョロリとした瞳を揺らすことなく不良に付き従っている。
当麻には会った覚えが、美琴には見覚えのある人が、そこにいた。
布束砥信、その人だった。

****************************************************************************************************************
あとがき
漫画版とアニメ版の超電磁砲の違いについてコメントしておきます。
漫画版では、幻想猛獣を倒してすぐ、木山が警備員に拘束される直前に、美琴に対して意味深な説明をしています。これが布石となって次の妹達編へと進むわけです。
しかしこのSSは基本的にアニメ版に基づいたストーリーとなっています。すなわち、木山は捉えられる直前に超電磁砲量産計画に繋がるような情報を美琴に与えたりはしていなかったため、このSS内で美琴が木山を訪ねて始めて、美琴はその情報を手にしたことになります。
ですので漫画版からすると木山が美琴に美琴の『絶望』について二度喋っていることになりますが、こういった事情があるのだということをご理解ください。
……ただ、多くの人にとっては気にならない程度のことではないか、と思います。



[19764] interlude07: 最強の電子使い(エレクトロン・マスター)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:53

物陰から、美琴は様子を窺う。
当麻自身が言ったとおり、この場面での実力で言えば間違いなく美琴が最強なのだ。身を潜めるべきは自分じゃなくて当麻だろう。
だというのに。仲の良い知り合いのふりして助けてくる、無理なら布束をこちらに誘導するから適当に逃げてあとはうまくやってくれ、と言うのだった。

「大人しくしてくれりゃー手荒なことはしねぇからよ。ウチのリーダーは女子供に手出すの禁止してるからな」
「砥信! 悪い、遅れた」
「お、にーちゃん彼氏か? こえー顔すんなよ。俺たちがお世話になりたいのはカラダのほうじゃなくてカネだけだ。出すもんだしてくれたらすぐ立ち去るぜ。紳士だからな」
「こっちにも事情があってやってるんだ。悪いけど、これをお前らの小遣いにしたいわけじゃない」
「……いいわ」
ちらりと当麻が布束を見た。布束の首が横に振られたのが見えた。
鞄が不良たちに預けられる。躊躇いなく開かれたそこからは、たった2枚のマネーカード。
「おいおい、コレだけしかないのか? その懐に溜め込んでんじゃねーの?」
「砥信に触るな」
「あぁ? 誰に口聞いてんだ?」
「落ち着けよ、お前こないだ彼女に振られたばっかりでひがんでんのか?」
いきり立つ不良を、格上らしい男が揶揄する。周りがそれで爆笑していた。
「格好良い彼氏君よ、お前がやって良いからポケット全部探りな。手ぇ抜いたら俺らがやるぜ?」
「……ごめん」
「構わないわ」
プツプツと制服の上から来た白衣のボタンを外し、白衣と制服のジャケットについたポケットを、当麻に改めさせた。
「ホントにコレだけかよ。おい彼氏君調べ方が足りないんじゃないか? おい、代わりに調べてやれよ」
「ああ、まー好みの顔じゃねえけどなぁ」
「お前もっとババァでもいけるだろ?」
「ひでー」
そんな下品なやり取りをして布束に手を伸ばそうとした不良の動きを、当麻は遮る。
「触るなっつってんだろ」
「ああ?!」
額をこすり付けそうな距離で、不良が当麻を睨みつけた。
怯まない当麻より先に、不良は脅す視線ににやりと嘲笑を混ぜて、距離をとった。
「大して可愛くもねー女にお前よくそんな惚れてるなあ」
「惚気話でも聞きたいのかよ?」
「面白そうだから言ってみろよ。カラダは悪かねーし、具合がいいんなら俺にもやらせてくれよ。金なら出すぜ?」
「くだんねー話で砥信を汚すな」


イライライライライライライライライラ
当麻はこないだ知り合ったと言っていた。明らかに彼女とは違うような口ぶりだった。
だからこれは演技だからこれは演技だからこれはただの演技。
美琴はずっとそう言い聞かせながら推移を見守っていた。


「砥信、あっちから出れば繁華街に近い。先に行ってろ」
「……それは申し訳ないわ」
「いいから」
そう言って、当麻がこちらを見た。意図は、布束を回収してうまく逃げてくれ、だった。
美琴はそんなお願いを聞いちゃいなかった。
「……いい加減にしなさいよ」
「え、おい、隠れてろって」
「お? 嬢ちゃんがもう一人?」
「なんだ? お前ら、どういう関係?」
「話がこじれたじゃねーか、ビリビリ」
「どうせこの子にも手を出せるわけじゃねーしなあ、サクっと貰うもん貰って彼氏君と楽しく遊ぼうぜ。小銭で楽しく格ゲーでもやろうや」
「ところでお嬢ちゃんは俺らと楽しいことする気はない? 付いてきてくれるならアリだよな?」
美琴が好みなのか、不良の一人がそんなことを言って誘ってきた。
いい加減、我慢の限界だった。美琴のそんな様子を察した当麻が、空を仰いだ。
この結末を回避させてやりたくて、不良のために当麻は努力を尽くしたのだが。
「悪いけど、外野は寝てて」
「あん? っておぎぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ビリっと一発、人間から人間への志向性を思った放電、道具なしのスタンガンが炸裂した。
「アンタ達、事情はきっちりと聞かせてもらうわよ」
ジロリと立ったままの二人、布束と当麻を美琴は睥睨した。




「アンタ達、どういう関係な訳?」
場所を移そうと提案して歩き始めたばかりだというのに、美琴が待てないのか早速食って掛かってきた。
「どういうって、こないだも路地裏で不良に絡まれてたから、ちょっと声かけたんだよ。それだけだ」
「Don't worry. 私達の関係は誰かが嫉妬する必要のない程度のものよ」
「わ、私は別に」
嫉妬なんて、と続く言葉が口から出なかった。
目の前にいるのが高校生二人組で、子供扱いされている感じがムカつく。
まるで動じた風のない布束に当麻がすみませんねと謝っているのが、嫌だった。
「なんにせよ、まずはお礼を言うべきだったわ。ありがとう」
「先輩、喧嘩慣れしてないんだったら気をつけたほうがいいっすよ。口では金以外に興味はないって言ってたから、助けなくても良かったかもしれないけど、何かあってからじゃ遅いです」
「そうれはそうね。でも、やれることはやらないと」
「こないだも教えてもらえませんでしたけど何やってるんですか? ……ってそういやビリビリ、御坂がなんか聞きたいことがあるって」
「そう……。あなた、オリジナルね」
「え?」
もとより気安い人間ではなさそうな布束だが、美琴に向けられた視線がどこか余所余所しさに欠けるというか、初対面ではないような雰囲気を持っていた。
そして、聞き逃せない単語を、呟いていた。
オリジナル、という言葉の裏には、コピー品かイミテーションか、そういうものの存在を感じさせる。
人間においてコピーであるというのは、それは。
「やっぱりアンタあの噂のこと何か知ってるの?! 教えて!」
「あ、御坂」
返事は鞄の角だった。ガスッと、美琴の頭に突き刺さる。
「いたっ」
「長幼の序は守りなさい。あなたは中学生、私と彼は高校生」
「前回俺もやられたなあ。つか御坂、俺にも敬語使ってくれたって良いだろ」
「ふざけんな、なんでアンタに! って痛い、ちょっといい加減にして……下さい」
「常盤台の知り合いは他にいるけど、そっちは敬語使ってくれるんだけどな」
布束先輩は上条先輩に敬語を使わない美琴もNGらしかった。また鞄の角が振るわれる。
そして当麻は、敬語を使ってくれるほうの子が自分の彼女だとは気恥ずかしくて言えなかった。
「それで話を戻すけれど。噂というのは?」
「あ、その」
話そうとしたところで、隣にいる当麻が気になった。
聞かれたくなかった。気にしすぎだと笑われるのは嫌だったし、自分の懸念が正鵠を射たものだったとして、頼れるわけでもない。
何があったとしても、それは自分が撒いた種で、そして自分はレベル5なのだ。
「悪いけど。ちょっと外して……下さい」
「俺が聞いちゃまずいか?」
「うん。ごめん」
「わかった」
美琴を立てて、当麻は言うとおりに従ってくれた。
そうしたのは美琴のプライドと、それを尊重する当麻の気遣いだった。
廃ビルの小さな階段を上り始めた布束に美琴は付いていき、当麻は表で待つことにした。
「Anyway, 話を聞きましょう」
「私のDNAマップを元に作られたクローンが軍用兵器として実用化される、なんて噂があるじゃないですか。それについて何か知りませんか?」
コクリと布束が頷いた。それは悪い知らせ。だが、覚悟はしていた。
布束というこの女子高生の専門をくまなく調べれば、薄々分かること。
「噂にはそう詳しくもないけれど、事実についてはあなたよりは詳しく知っているわ」
布束のほうも美琴が自分にたどり着いたことの意味は理解していた。
冗談では済ませられないほど確度の高いソースを持って、事の真偽を、そして真実を求めに来ている。
そりゃあ、自分のことなら知りたいと言う気持ちはあるだろう。それは分からないでもない。
「教えて、ください」
「『妹達<シスターズ>』、私がかつて関わったプロジェクトの名前よ。今ではもう目的も内容も変わってしまったようだけれど」
「それって」
「あまり深追いしないことね。知っても苦しむだけよ。あなたの力では何もできないのだから」
「それはあなたが決めることじゃない」
「Exactly. ……アドバイスはしたわ」
布束は、それ以上を語らなかった。
たとえ御坂美琴がレベル5であっても。レベル6に群がる大人たちにはかなわない。今自分与えた単語で、どこまで辿れるだろうか。
きっと、本当に深いところまでは、来られないだろう。
それで良いと布束は思う。学園都市は御坂美琴そのものは表の顔として綺麗なままにしたいらしいように見える。
それならそれで、幸せを謳歌すればいいのだ。
レベル5であっても、御坂美琴本人はその程度の利用価値だから。
「あまり彼を待たせても悪いから降りましょうか」
廃墟に取り残されたデスクの引き出しから書類を取り出して、火をつけながら布束が言った。
もう話は終わりだと暗に告げる布束に、美琴はこれ以上声をかけなかった。
だって、噂が事実なのなら、あとは全力で探すだけだから。
僅かに焦げ後を残した廃墟から出て、当麻と合流する。律儀に待っていたらしかった。
降りてくる二人に気づいて、表通りまでの近道をナビゲートしてくれた。
「先輩、もうあんまりやらないほうが」
「そうね。今日のも尾行されていたみたいだし、やり方には気をつけるべきね。それじゃあ、私はこちらに帰るから」
「あ、はい。それじゃ」
「どうも」
長点上機の近くに住む布束が真っ先に別れた。
気になっていたはずなのに、あっさり布束を解放した美琴の様子に当麻は首をかしげた。
「いいのか?」
「うん。これ以上は話してくれなさそうだし、自分で調べるから」
「困ったことがあれば連絡入れろよ。まあ、大して力にはなれないけど」
「私を誰だと思ってんのよ、アンタに頼るほど落ちぶれちゃいないわ。じゃね」
「御坂、それじゃな」
「うん」
駅前で、素っ気無く美琴は別れた。
余計な心配をされるのが嫌だったし、別れ際が気恥ずかしかったからだった。
そして、心のどこかで、アドレスを知っているから繋がっているような、そんな思いもあった。




「さて」
スーパーに向かう当麻を見届けて、美琴は町をうろついた。
昼下がりと同じ、公衆電話を探してだった。

目的は一つ、樋口製薬・第七薬学研究センターにアクセスすること。
幼少期なら長年にわたり布束がいた場所だ。『妹達<シスターズ>』という計画に、一番関わっていそうだった。
最低限、場所の見取り図を。そして出来るのなら、全ての情報を。
美琴は直接潜入することも辞さぬつもりで、その前段階として情報を得るつもりだった。
まさか、機密がこんな簡単に手に入るわけはないだろう。

初めから、美琴は全力で逆探知回避の策を講じ、そして私企業のプライベートデータにアクセスできるだけの権限を偽装した。
ネットワークから一切切り離された情報には美琴はアクセスできないから、本当に大事な情報は手に入らないだろう。そういうつもりでいた。

「見取り図はこれ、と。意外に緩いわね」

施設として機密性の高いところを探し、潜入すべき場所にアタリをつけていく。
電気的なセキュリティは簡単に無効化できるからあまり気にしない。
警備員の配置についても情報がある。まあ人はスケジュールどおりに動かないものだが、ないよりは良いだろう。

必要な物をそろえた上で、次は研究データの探索に当たる。
これは一番大事な情報だから、当然セキュリティも極端に厳しい。
すべて量子暗号によってデータはロックされていた。

「……バックアップのためにデータが流れてる」

どういう手続きで中身を見るかが問題だった。
誰かの権限を奪って、正規の手続きを踏んで情報を見るのも一つの手だが、その場合閲覧したという履歴自体を消さなければならない。
それよりも、データバックアップのために流れている、暗号化されたデータを傍受するほうが確実だった。
理由は簡単。それは原理上、出来ないことになっているからだ。
光の量子状態を巧みに操って行う量子暗号は、観測に弱い。
それを逆手に取ることで、送り手と受け手以外の誰かが送信されたデータ内容をどこかで傍受、すなわち観測すれば、それによってデータそのものが変質し、第三者による傍受がすぐに検出される。
そういう『理論上第三者による情報の傍受を絶対検知できる』という性質を量子暗号は持っているのだ。
だから、普通のやり方なら、傍受なんて諦めて別のハッキングを試すことになる。

美琴は、だからこそその逆を行く。
光という名の電磁波を、美琴は制御下に置ける。超能力によって、量子の基本原理すら捻じ曲げて、物理的に不可能とされる痕跡を残さない量子暗号の傍受を行うのだ。
こんな風にはっきりと犯罪に当たる行為に使ったことはなかったが、技術としてすでに美琴はそれを身に着けていた。
そして、コレをやれる能力者は、発電系能力者でもレベル4では不可能だろうと実感している。
つまりこの美琴の破り方を警戒している研究者はいないし、ましてや対策が講じられていることなんてあり得ない。

「何もアラートは鳴らない、わね」

情報を横から掠め取る。傍受はばれるときはすぐさまばれるはずだから、それが無いということは、このセキュリティは美琴にまるで気づいていないということだった。
流れる情報を手元の端末で逐一デコードし、解析にかける。ほぼ全ては無関係で不要なデータだが、美琴が情報のダウンロードに集中している間に、いつの間にか一つヒットしていた。
集中を切らさないよう気をつけながら、そのファイルを開く。
「超電磁砲量産計画、通称、『妹達』……その最終報告書」
タイトルからして間違いなかった。
「あったんだ……噂じゃ、なかった」
カチカチと歯が音を立てたのが分かった。
あの日、美琴を対等な一人の人間として認め、腰を落として美琴の目線に合わせ、そして握手を求めてくれた、そんな科学者がいた。
美琴のDNAマップを使って研究をして不治の病を治したいのだと、そう言った彼と彼の患者を救いたくて、美琴は首を縦に振ったのだ。
それが、まるで冗談、酷い嘘だったことを突きつけられた。
今日、今も、この町のどこかで御坂美琴の外見をした御坂美琴ではない生き物が、御坂美琴のふりをして生きているかもしれない。
あるいは、美琴を研究するために、非道な実験に使われているクローンがいるかもしれない。
それは、おぞましい可能性たちだった。

真夏の電話ボックス内で、美琴はぶるりと震えた。
誰かに混乱しまくった頭の中をそのままぶちまけたくなる。
始めに思い浮かべたのは何故だか、ついさっき別れたばかりの、当麻の顔だった。
今なら、探せば会えるかもしれない。声を聞けるかもしれない。

「って、アイツに相談したってどうしようもないでしょうが。……悪いのは、私なんだから」

つまらないことを考えた自分の弱気を振り払うように、美琴は髪を掻き上げた。
そして端末の実行キーに、人差し指を触れさせた。ページをめくるのが、怖い。
……アイツは、事情に一切気づいてなかったのに、私のことを気にかけてくれた。
もし、どうしようもないくらい困ったことがあれば、あのバカはきっと、力になってくれる気がする。
いつでも、連絡は出来るのだ。メールだって電話だって、出来るのだ。美琴の意思一つで。
その事実はどうしてか、美琴の気持ちを軽くしてくれた。
どうせ見ずにはいられない資料。不安という名の呪縛を振り払って、美琴はキーをそっと押し込んだ。
カタ、と音を立ててページが送られ、資料の内容が表示される。

『本研究は超能力者<レベル5>を生み出す遺伝子配列パターンを解明し、偶発的に生まれる超能力者<レベル5>を100%確実に発生させることを目的とする。――――本計画の素体は『超電磁砲』御坂美琴である』

イントロダクションの一行目で、美琴は自分の不安がそのまま現実になったと、そう理解した。
ああ、と心の中で声が漏れる。現実が歪んでいく。どうしようもないことを、自分はしたのだと、ようやく理解した。
心の底に降り積もった絶望をさらに追い増しするように、続きを読む。
乾いた笑いすら口からこぼれる今の美琴の心境では、もう、苦痛とすらも感じなかった。
ここまで堕ちれはもう同じ、そんな気分だった。

美琴のDNAマップの入手経路、そしてクローンの合成法、
美琴の成長と同じ年月、すなわち14年をかけずとも美琴程度の肉体にまで急速成長させる方法、布束砥信の作成した『学習装置<テスタメント>』による教育、いや機械的な知能の注入法、そんなエクスペリメンタル・メソッドの説明に目を通す。
これまで、学園都市じゃグレイゾーンに足を突っ込む科学者も少なくない、なんてのを平気で喫茶店で話してきたくせに、完全にブラックな所にいる科学者のことを考えられなかった自分を、美琴はあざ笑った。
よく書けた報告書だ。主観を排除して必要な情報をきちんと列挙した、お手本のような実験手法の紹介。
扱っているのがラットでもカエルでもないこと以外は、至極まっとうだった。
御坂美琴のクローンを作ることが、極めて低コストに実現可能であること、それがよく分かる内容だった。
「それじゃ、学園都市には私の知らない私が歩いてるって、そういうことなんだ。――――あれ?」
それ以上に細かなチューニングには興味はなくて、読み飛ばす。
するといつのまにか、成功物語の報告書かと思いきや、少し違う感じのするストーリーが訪れた。
――『樹形図の設計者』に演算を依頼、『妹達』の能力について計算を依頼。
――その結果として、『妹達』はどのようなチューニングを施しても、レベル2程度の能力しか宿さないことを確認。

『本計画よりこうむる損害を最小限に留めるため委員会は進行中の全ての研究の即時停止を命令。超電磁砲量産計画『妹達』を中止し永久凍結する』

あとはデータの取り扱いの細かな支持だけだった。

「そ、っか。なによ。もう、終わってるんじゃない」
周りに、音が戻ってきた。怪しまれないために人通りの絶えない場所を選んだので、それなりの喧騒があった。
長いため息を美琴はついた。額の汗を指で拭う。
「……ったくなによ。ほいほいこんな能力コピーされちゃたまったもんじゃないわよ。ま、レベル2なんて量産する意味、あるわけないし。これで資金に困った研究者あたりが、飲み会の話のネタにでもしたのが噂になって広まった、ってのが実情なのかな」
ずるずると壁にもたれかかったままへたり込む。もう歯の根がかみ合わないことはなかったが、腰が砕けたように、起き上がる力が入らなかった。
「にしても、あの時のDNAマップが、ね……。過ぎた事は言ってもしょうがないか」
端末を回線から丁寧に落として、ケーブルを回収する。
とそこで、コツコツと外から透明のボックスの壁がノックされた。
外には、豊かな胸元を無骨な警備員のジャケットで覆った長髪の美女がいた。
「おーい、もう完全下校時刻過ぎてるぞ。なにしてるじゃんよ」
「あ、すみません。すぐ帰りますから」
「常盤台のお嬢様がこんなことしてちゃ、寮監が黙ってないだろう」
「知ってるんですか?」
「まあな。常盤台の学生でお前と同じ不良少女を知っているんでな」
「はあ。あの、すみません、帰ります」
「おう、まだ明るいけど、細い道は通るなよー!」
「はい」
足取りも軽く、美琴は帰路に着いた。
自分の犯したミスに、美琴は気づいていなかった。
否、気付ける能力が、無かった。






「麦野ー。持ってきたよ、カーディガン」
「ありがと。まあ、無駄になっちゃったけど」
「え? もう終わったの?」
「ええ。あちらの完勝でね」
悔しくもなさそうに、そう呟いた麦野がうーんと伸びをして自分の端末を閉じた。
胸元は大きいと言うほどでもないが、大人びたルックスとそれに見合うスタイルの持ち主である麦野の、妖艶すぎない、均整の取れた色香に遠目で見ている男達の視線が釘付けになる。
来ているビキニの布地も、面積は少なめだった。冷たい無表情で男を見返すと、皆目線をすっと外した。
「終わったんなら麦野も泳ぐ?」
「当然。滝壺は……プールは浮いて遊ぶところだって言ってたけどホントにあの子浮いてるだけなのね。絹旗は?」
「さっきまであっちのプールサイドで昼寝してたみたいだけど」
「ふうん」
滝壺はクラゲそのものと言った感じで、色気のないスクール水着みたいなワンピースを着て、髪を広げながら水面に浮いている。
絹旗は中学生にはちょっと早いんじゃないかというデザインのビキニ、目の前のフレンダは逆に、ちょっとメルヘン過ぎるくらいの可愛いフリルが着いたビキニだった。
ちなみにそんな装いなのに四人で歩くと一番視線を集める胸は滝壷の胸なのだった。
楚々とした女の子ほど狙いたくなるのが男の性かもしれないが。

手元のジュースに口をつける。氷が溶けて味が薄くなっているのに麦野は顔をしかめた。意外と、長い時間集中していたのだろう。
ここのトロピカルジュースとスモークサーモンのサンドイッチはお気に入りだったのだが。
外はかなり暗くなって、窓の外には光の海が広がっている。
この一体で一番高いビルである超高級ホテルの、最上階のプール。麦野たち四人はそこで遊んでいた。
いや、許しがたいことにリーダーである麦野沈利にだけ、仕事が割り振られたのだった。
「それにしても、麦野にそんな仕事を頼むなんて変な仕事だったねー」
「そうね」
「結局、どうなったの?」
「ん? さっきも言ったでしょ、あっちの勝ちだって。全部情報は取られちゃったし」
フレンダは首をかしげた。麦野沈利という女が、負けてこんな態度のはずがない。
そしてそもそも、電脳戦で負けるなんてことがあるはずがない。仮にもレベル5の発電系能力者が。
その表情から言いたいことを汲み取ったのだろう、超然とした微笑を麦野は浮かべた。
「負けたのは私が加担した側ね。私個人では、勝ってるわよ」
「なんだ。まあ当然だよね。結局麦野が一人勝ちって訳ね」
「結果はそうだけれど、なかなか面白い相手だったわ」
「へえ」
麦野にそう言わせる相手は、遊び相手として面白いくらいの実力があって、そして麦野に完敗した相手だ。
電脳戦そのものにはそう強いわけでもない麦野だが、ひとつだけ、専門があった。
「発電系能力者<エレクトロマスター>ってのは電子や光子一粒、ってくらいの世界になると、途端に甘さを露呈しだすのよね。まとまった流れが無いと扱えないのかもしれないけれど」
「ふーん?」
「あれ、麦野、終わったんですか?」
「ええ。絹旗は泳いでいたの?」
「来たからには超泳いでおかないと損ですから」
こちらに気がついたのか、フラフラと滝壺も漂いながらこちらに近づきつつある。
麦野はちゃぷ、とプールサイドで水を掬って、自分の足にかけた。
もとから体を濡らしていた三人はすでにプール内で待っている。
軽くだべりながら、ビニールの玉でバレーもどきの遊びをするつもりだった。
太ももに塗り、胸にかけ、足を浸す。四人ともそうだが、真夏にこの長い髪は暑いことこの上ない。
じゃぽんと音を立てて水に入って、髪を濡らすと気持ちよかった。

麦野が引き受けた仕事は、今晩、ハッキングされるかもしれないある研究施設を、監視することだった。もちろんネットワーク上で、だが。
つまらない仕事のつもりだったから、わざわざプールサイドにまで出てきて、せめてもの慰めにするつもりだったのだ。
だが、意外な収穫があった。
たぶん、自分が今日情報を抜き取っていく様を眺めていたその相手は、御坂美琴。
最強の発電系能力者だ。

麦野は自分を発電系能力者だと思っていない。電子に関わる能力でありながら、麦野は電流操作なんてほとんど出来なかった。
電磁場の制御なんて、きっと麦野は御坂に逆立ちしたって勝てないだろう。
それを悔しいとは思わない。魚に嫉妬する水泳選手がいないのと同じだ。

ただ、唯一の自分の土俵で、麦野は勝った。
仮に麦野がレベル4ならあちらには勝てないだろうから、自分の土俵といっても相手が何も出来ないほどの場所ではない。
その土俵というのは、量子的な情報の盗みの上手さ、だ。

この世に存在するあらゆるものは波でありそして同時に粒である。
観測によって粒らしさ、波らしさのどちらの特性を発現するかは決まるが、観測されない限りはそれは『未定』なのだというのが、いわゆるコペンハーゲン解釈だ。
麦野はそんな物理の常識を超越する。人間の五感、理性においては矛盾するはずの二つの特性、それをコントロールするのが最も上手い能力者が、麦野沈利だった。
御坂美琴とて相当の手練であり、実際研究所のセキュリティはまるでハッキングに気づいていなかった。
だが、その美琴に、自らが監視されているのを気づかせないだけの実力が、麦野にはあった。
「ねえ、例えば、自分のクローンが突然目の前に現れたら、どう思う?」
ふと思いついたように、麦野はそんな質問を三人にぶつけた。
なんでそんなことを聞くのか、という一瞬の戸惑いの後、短い答えが三つ並んだ。
「気持ち悪ーい」
「超嫌ですね」
「私は、あんまり気にならないかも」
聞いておきながら、麦野にとって返事はどうでも良かった。一番聞いてやりたい相手は、御坂美琴だったから。
美琴がひったくったものを、麦野もこっそり閲覧していた。
学園都市の『闇』の中でもトップクラスに生ぬるいプロジェクトの、最終報告。
ハン、と麦野は笑う。超電磁砲がアレで満足したんなら本当に脳みそお花畑だ。
学園都市が、まさか超能力者のモルモットを簡単に手放すわけがない。
レベル2程度だろうと、どんなことをしてもどこからも文句の出ない能力者で、しかも何でも好きに教えこめるのだ。遊び甲斐なんていくらでもある。
「そんなのがもしいたら、ちゃんと本人には伝えてあげるのが、優しさよね」
店先でお気に入りのおもちゃを見つけた、そんな顔を麦野は見せていた。
ニィ、と嬉しそうな笑顔を浮かべて。
学園都市最強の発電系能力者<エレクトロマスター>は御坂美琴だ。
だが、量子の風の使い手、『電子使い<エレクトロン・マスター>』としては、第四位、『原子崩し<メルトダウナー>』麦野沈利のほうが上、そういうことだった。



[19764] interlude08: 電話をする人しない人
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/01 01:22

「これとこれは、もう要りませんわね。勿体無いですけれど、仕方ありません」

確認するように光子は自室でそう呟く。
もうじき黄泉川家へと引っ越すので、その荷造りの前段階、要らないものを捨てる作業に入っているのだった。
光子に割り当てられたスペースは今いる寮の自室の半分くらいだ。それなりに私物は捨てるなり、実家に送るなりしなければならない。
「せっかく揃えましたのに……。飾るスペースがないのでは仕方ありませんけれど」
大きな棚を埋め尽くすように静かに座った西洋人形たち。光子の部屋にはもう一つ棚があって、そちらには主に文学小説が並んでいる。
棚の端っこには漫画がある。当麻に借りたものと、話を聞いていて気になったものだった。当麻と同じ物語を共有したのが嬉しくて、ここ最近で一番読んでいるのはこの漫画だった。
この棚の半分以上は実家に送らないと、黄泉川家には入らない。
一番広い部屋を貰えたとは言え、黄泉川家は庶民向け家族用マンションだ。
そんなところペットのニシキヘビ、エカテリーナのための巣箱とエサ用冷蔵庫、さらには勉強机まで置こうというのだから、すでにそれだけで手狭だ。
ちなみに光子はベッドも入れようとしたのだが、計画段階で黄泉川に駄目出しをされてしまった。
常盤台の寮で使っているベッドは光子の実家から持ち込んだもので、ゆうにダブルベッド級のサイズだから部屋に入りきるはずがない。
ではどうすればいいのかと聞くと、カーペットが敷かれただけの床に直接布団を敷いて寝るべし、とのことだったが、布団は畳に敷くものという常識を持っている光子には仰天モノだった。
そのアドバイスに従うことにしたのは黄泉川の一言のせいだ。
曰く。『下宿暮らしなら珍しいことでもないじゃんよ。それに、上条はお坊ちゃんじゃないぞ? あいつと暮らすならこれくらい慣れとかないといけないじゃんよ』
だそうだ。その一言で光子の腹は決まった。
将来、婚后の家が当麻を応援すれば、光子は今と同じ暮らしをずっと出来るかもしれない。でも、そういうものがなければ、財閥の令嬢の暮らしをきっと当麻は維持できないと思う。若くて収入がないっていうのは、きっとそういうものなのだ。
惨めな暮らしをしたくないとは思う。本音としてそれはある。だけど、いつか迎えたい当麻との未来において、あれこれと文句を言うだけのお嬢様になんて、絶対になりたくない。できるなら当麻と苦楽を共にする、パートナーでありたい。
部屋が狭いくらいで、床に直接布団を敷くくらいで、文句を言うようじゃきっと駄目なのだ。
……ファミリータイプのマンション暮らしよりも新婚生活は貧しいであろうことまでは予想の埒外だったが、光子はそういう決意を持って、黄泉川家に引っ越すのであった。


捨てるものをまとめて、部屋の隅に置く。時計を見ると、いつも当麻と電話をする時間だった。
電話は何時間でもしたくなるけれど、大体20分から1時間くらいと決めていた。
会えなかった日は必ず、どちらからか電話をする。デートをした日も今日の楽しかったことを二人で思い出して、短めにかける。
当麻と同じ屋根の下で暮らした日々のギャップで、一人でいることがいつもに増して寂しかった。
今日はインデックスの通う学校に挨拶しに行ったはずだから、それも聞いておきたい。
光子は鞄に入れてあった携帯を取り出し、慣れた手つきで当麻に電話をかけた。
「もしもし」
「あ、当麻さん。私です」
「おう。元気してるか、光子」
「はい」
受話器の外の喧騒がいつもと違った。アニメらしい爆発音や女の子の声がする。
この時間のアニメではないから、録画だろうか。
「もしかして黄泉川先生のところにいますの?」
「よくわかったな」
「後ろでカナミンの音がしますもの」
「あー、なるほど。いまインデックスが必死だよ。いけーだのやれーだの」
そんなこといってないもん! という声がうっすら聞こえた。
「でも当麻さん、こんな遅くに先生の家から帰るのは危ないですわよ」
「大通りならまだまだ人はいるけどな。でも今日は泊まることになるかもな」
「え?」
「こないだから地震多いだろ? それも不自然なのが。そのせいで対策会議だの資料作成だのが大変らしくて、まだ先生帰ってきてないんだよ。インデックスを一人にするのも良くないしさ、帰ってくるまではいようと思って」
「そう、ですの」
「光子?」
「当麻さんは、インデックスと二人っきりですのね。まだ私だってそんなことしてませんのに……」
「い、いや仕方ないだろ? それにインデックスといたって何もないって」
「それは、信じていますけれど」
「だって考えてみろよ。光子と俺が二人っきりだったら、俺は理性保てない自信がある」
「えっ? も、もう! 当麻さんの莫迦。エッチなことばっかり仰るんだから」
「へー? 具体的に光子はどういうこと考えたんだ?」
「知りません! もう」
ちょっと声が大きくなったのを自覚して、光子は慌てて布団にもぐりこんだ。
顔までシーツをかぶって声を漏らさないようにする。
「インデックスに替わろうか?」
「あ、はい。でもカナミンに夢中じゃありませんの?」
「今終わったところだよ。ほれ、インデックス」
途中から当麻の声がインデックスに向けたものになる。
「あ、みつこ?」
「元気にしてますの? インデックス」
「うん。っていうか一昨日まで一緒だったんだからそこから急に変わるわけないよ」
「風邪でもひいていたら話は違うでしょう?」
「風邪とかは大丈夫だから。ねえねえみつこ」
「どうしたの?」
「今日、とうまと一緒にこれから私が通うっていう学校に行ってみたの」
「そうでしたわね。どうでした?」
「学校を経営してる教会は胡散臭すぎてちょっとどうかと思うけど……。でも司祭様もシスターの人たちも、あと友達になったエリスも、みんな良い人だったよ」
「もうお友達が出来ましたの?」
「うん。校舎を案内してくれたの。あー、それとね! 聞いてよみつこ! 当麻が水道から出たホースを踏んだせいで私とエリスの服に水がかかったの!」
「あら、それは災難ですわね」
「私もエリスも服が透けてきちゃって、とうまがジロジロ見てくるし」
「あらあら。当麻さんはやっぱり、当麻さんなのね。どこに行っても、何をしても」
お、おいインデックスと当麻の戸惑う声がする。光子は当麻への恨みを書いた心のノートに、この一件をしっかり記録した。
いずれ、電話ではないところできちんと問い詰める必要がある。
インデックスが話してくれた続きを聞いて、再び電話を当麻に替わってもらった。
「当麻さんのエッチ」
「む、替わってすぐがそれかよ」
「だって。一緒にいられないときに当麻さんはすぐそうやって他の女の人と仲良くするんですもの」
「そんなことないって」
「じゃあ今日は他の女の人とは会いませんでしたの?」
「ないない」
「もう……疑いだしたら切りがありませんから、これくらいにしておきます」
この流れで、当麻は布束先輩と美琴に会った話をする勇気はなかった。
実際、別にナンパだとかそういうわけではなかったのだし。
「光子は、今日は何してたんだ? たしか昼過ぎにはあの佐天って子の面倒を見てるってメール見たけど」
「ええ。今日は朝から佐天さんにお会いしていましたの。あの子、今日また一つ、レベルが上がりましたのよ」
「へぇ。たしか一ヶ月前にはレベル0だった子だろ? すごいな、そんなに上がるものなのか」
「才能がおありなんですわ。私と違って」
「そう言う光子はレベル4だろ?」
「……たぶん、レベル3もすぐですわ、あの子。私と肩を並べることも充分ありえると、最近思いますの」
今日佐天は、簡易検査でレベル2認定を受けた。
それは、幅広い知識を身につけ自分の能力を最適化することや、反復練習によって能力をより深く体に刻み込むことなしに、とりあえずで取れる点数がレベル2クラスだったということを意味している。
能力を使えるようになって一ヶ月どころか、まだ三週間にも満たない。『慣れ』という最も強い武器を未だ手にしていない佐天が、あと一ヶ月でどこまで伸びるか。
レベル4に届かないでいて欲しいと、そう嫉妬する自分がいるくらい、佐天は先が知れなかった。
「あの子みたいな方を、たぶん、天才というのですわ」
いい師だと自画自賛するのは気が引けるが、おそらく、彼女は指導者にも恵まれたのだろう。
ほんの少しの間に学べたことが、あれもこれも、能力を伸ばすのに活きている。
同時に心配の種でもある。これからは、むしろ花開くまでに時間の掛かる知識を詰め込む作業になる。
今までの伸びが急激なだけに、伸び悩みに屈しない気持ちの強さを持てるかどうか、それが問題だった。
「天才……か。そう言うって事は、光子もライバルって意識し始めてるのか」
「そうかもしれません。最近、私自身は伸び悩んでますの。だから余計に」
「そっか。ま、能力は人それぞれ。誰かと競争するものじゃないしさ、あんまり気にするなって」
「ええ。そうですわね」
それで良いと思う。光子も最近気づいたのだが、よく考えれば光子は誰とも競ってなどいないのだ。
自分の能力、可能性を広げたい、その思いでこの街にいるのだから、他人は関係ない。
学園都市は競争原理を持ち込んで能力者の開発をしていて、小さい頃から先生に誰彼より上手い下手だなどと言われなれているせいでつい引きずられてしまうが、仮にレベルが0のままだったとして、別に、誰かより劣るなどと考える必要はないのだ。
本当にこれっぽっちの劣等感も感じさせず、レベルで人を測らない当麻を、光子はとても尊敬していた。自分には中々それが出来ないがゆえに。
「俺もレベルが上がれば生活は楽になるから、それだけは羨ましいんだけどなあ」
「ふふ。でも当麻さんみたいな『原石』の方には、レベルという概念自体が無意味なのかも知れませんわね」
「原石?」
「そういう名前が付いていると、常盤台指定のヘアサロンで耳にしましたの。学園都市に来るより前から、何らかの能力を身につけていた人のこと、らしいですわ」
「へー。たしかに俺、その定義のとおりだな」
「私達が養殖で育った能力者で、当麻さんが幻の天然超能力者、ということなのかしら」
「なんかそれ全然嬉しくないぞ。ブリか鯛みたいだ」
「ごめんなさい。でも、原石なんて意味深ですわよね」
「え?」
「だって、磨けば光る、ということではありませんの? 当麻さんの能力も、もしかしたら」
「んー……、別に、昔っから何も変わらないけどなあ」
あまり興味なさそうな当麻だった。
電話している時間はかれこれ20分くらいだろう。
布団の中に篭もっている光子のほうが、実はいつも先に眠くなるのだった。
当麻の声を聞いた後、そのまま眠るのが習慣になっていた。
「ねえ、当麻さん」
「どうした? 光子」
「明日、お暇はありますの?」
「特に予定はないけど、宿題やらないとな」
「もし、よろしかったらですけど、常盤台の寮祭にいらっしゃいませんこと?」
「寮祭?」
光子は、今日佐天に言われて思い出したことを、当麻に伝えた。
盛夏祭は学び舎の園の外にあるほうの寮でやるイベントなので、あまり興味がなかったのだ。
だが、当麻に会える唯一の手段となれば話は別。
「私も忘れていたんですけれど、明日は寮を外部の方に公開する日なのですわ。インデックスも暇でしょうし、それに」
「そこなら、俺と会える?」
「……はい。当麻さんの顔が、見たくって。来てくださいませんか?」
「勿論。俺も、光子に会いたいからさ」
「当麻さん」
光子はベッドの中で目を瞑る。布団の暖かみを当麻の抱擁に重ねて、抱きしめられているときを思い出す。
「好きだよ、光子」
「私も。大好きですわ、当麻さんのこと」
「じゃあ明日はデートするか。常盤台の寮で」
「はい、恥ずかしいですけれど……。そこでしか、会えませんものね」
「佐天って子も来るのか?」
「ええ。時間があったら紹介いたしますわね。あと、湾内さんと泡浮さんも」
「おー、話にしか聞いてなかった光子の友達と会えるんだな。楽しみだ」
「私じゃなくて、私のお友達の女性と会えるのが楽しみですのね」
「光子が一番なんて、言うまでもないことだろ? 受付なんだったら、出会い頭にそこでキスでもしようか?」
「だ、駄目ですわ! そんなの恥ずかしすぎて死んでしまいます! 大体当麻さんだって、恥ずかしくて出来ないくせに」
「さすがに人前ではなぁ。だから光子、人のいない場所、探しといてくれよ」
「え?」
さらっと言った当麻の一言が、光子の胸を高鳴らせた。
「会ってキスの一つもできないんじゃ、寂しいだろ?」
「……はい。わかりました」
「ちなみに人前で手を繋ぐのは?」
「あの、ごめんなさい。先生に目をつけられると、困りますから」
「そうか、それじゃあ、人前ではあんまりそういうのできないんだな」
「ごめんなさい」
「いいって。光子、声がだいぶ眠たそうだけど、もう寝るのか?」
「あ、はい。もういい時間ですし、このままがいいです」
「そっか」
当麻が歩く音がした。ガラガラとベランダの窓を開く音がして、家の中の音が遠ざかった。
理由はなんとなく分かった。きっと、インデックスに聞かれるのが恥ずかしいのだろう。
「光子」
「はい」
「愛してる」
「ぎゅって、してください」
「ぎゅーっ。……はは、光子可愛いな」
「当麻さんのためだったら、いくらでも可愛くなりたい」
目を瞑って、当麻に抱きしめられているつもりになって、話をする。
話の中身だとかには僅かに差異があるが、この中身のないピロウトークはほぼ毎日の、寝る前の儀式なのだった。
「こないだ町で俺の同級生に会っただろ? アイツ、あれから羨ましいしか言わねえんだよな」
「そうですの」
「正直、光子と付き合ってなくて、光子みたいな可愛い子の彼氏やってる友達見たら、羨ましいしか言うことないと思う」
「嬉しい。もっと褒めて、当麻さん」
「光子は最近可愛くなった。なんか、甘え方が上手になった気がする」
「ふふ。ずるくなったとは言わないで下さいましね?」
「ずるくても可愛いからいいよ」
「じゃあ、もっとずるくなりますわ。……ねえ当麻さん、外は暑いでしょう? そろそろ私は寝ますから、当麻さんも部屋にお戻りになって」
「ああ、じゃあそうするな。光子、お休み」
「キスして、下さい」
「ん」
ちゅ、という音が耳に聞こえる。キスを聞かせるのが、互いに随分と上手くなった。
「光子も」
「はい」
耳に当てていた携帯を目の前において、音の受信部に口付けをする。
自分の気持ちが全部、当麻に伝わるようにと願いながら。
「光子、愛してる」
「私も。当麻さん、愛してます」
「それじゃあ、おやすみな」
「はい、おやすみなさいませ」
電話を切るのは、いつも当麻のほう。寂しくて切れない光子のかわりにやってくれる。
もちろんそれは寂しいことでもあるが、光子はいつまでも余韻に浸っていられる。
寝る準備は、もう済ませてある。
光子はベッドの中から出ることなく、リモコンで明かりを消して、眠りに付いた。
当麻が傍にいてくれる光景を、心の中に浮かべながら。






あと、1プッシュ。それで届く。

美琴の携帯電話のディスプレイに映るのは、
『今日はありがとね。あなたのおかげで、すぐに布束さんが見つかったし、問題も解決しました。お礼って程じゃないけど、もし明日暇なら、常盤台の寮祭に来ませんか? もしよかったらだけど、来てくれたら案内くらいはします』
というメッセージ。ホントに、ガラでもない。
アイツに敬語なんて使ったこと、一度も、いや、布束に言われたとき以外にはないのに、なんでこんな丁寧な表現のメールにしたんだか。
理由は、今日の夕方のやり取りだった。アイツには、常盤台の知り合いが他にいるらしい。
その子はきちんとした言葉遣いで話すらしい。まあ常盤台ならそのほうが普通だ。年上の男の人なんだし、生意気にアンタなんて呼ばれてうれしい事は無いと思う。
だから、お礼のメールくらいはちゃんとしたほうがいいのかな、とか、でもいつもとギャップがありすぎたら絶対笑われるし、本音の部分では軽く見ているのだと思われるのは嫌だなんてあれこれ考えてしまう。
黒子にばれないようにコソコソ何回にも分けて推敲を重ねたのに、送らないのも勿体無いわよね。
……まあ、あのバカに寮祭なんてそれこそ勿体無いかもしれないけど。お嬢様の多い場所で鼻の下なんか伸ばしたら承知しないんだから。
ルームメイトの白井は、今ちょうど入浴中だ。何をするにも、今ならばれない。
扉の向こうの音は、ちょうど髪か体を洗い流しているらしいシャワーの音を立てていた。
「やっぱり、電話にしようかな」
誰にともなく、そう呟く。電話なら言葉遣いで戸惑うことなんてない。いつもどおり喋ればいい。
頭の中で会話をシミュレートする。
『もしもし』『御坂美琴です』『おうビリビリか』『今日はありがとね。ねえ、明日うちの寮に来ない?』『え? 何しに?』『寮祭があってさ、その、案内くらいはするから』
「ああもう……。お礼に寮祭って絶対変じゃない。別に来てもらったって大してお礼は出来ないし。ってかアイツにお礼するほどのことしてもらってない!」
それならそもそも当麻を誘うという発想自体が要らないのだが、その考えに美琴はたどり着かない。
そして悩んでいるうちに、だんだんメールの内容まで陳腐に見えだして、送信ボタンを押す勇気がまた萎えてしまうのだった。
「『ウチの寮祭に興味ある?』って書くのは……なんか『はい』って言われても下心が見えてイヤ。かといって明日寮に来なさいって命令するのは全然話が通ってないし……」
ごろごろとベッドの上を転がる。
『明日よかったら、ウチの寮祭に来ない? 案内するから』ではどうだろう?
「駄目駄目。こんなんじゃ私がアイツに来て欲しいみたいじゃない。――――そんなわけ、ないんだから。っていうか、私の誘いなんか、むしろ断るほうが普通よね。追い回してばっかりで、仲良くなんてしてこなかったんだし」


断られたときをシミュレートしようとして、1ケース目で挫折した。
『よかったら明日、寮祭があるから来て』『悪い、忙しいんだ』『そっか、ごめんね?』『おう、じゃ』
この反応ならいいほうだ。せっかく誘ったのに、断られたら怒ってしまうかもしれない。
『来て』『忙しい』『せっかく誘ってやってるのに何よその態度!』『はあ?』
……こうなるとお終いだ。次に会ったときにもうこれまでどおりには話せなくなる。
電話をするからには、疎遠になんてなってはいけないのだ。
「やっぱりメールにしようかな……。でも、男の人にどれくらい顔文字とか付いたメール送っていいかわかんないし。それに黒子とでも内容の取り違えで喧嘩するんだから、アイツとならなおさら……。よし、腹をくくれ御坂美琴。ただ電話をちょろっとかけるだけじゃない。ハッキングと違って、緊張なんか要らないのよ」
メールを保存して、アドレス帳を開く。上条当麻という名前の検索は10回以上はしたので、慣れたものだ。
あとは、これまた1プッシュで当麻に電話が繋がる。

押せ押せ押せ押せ。あとそれを押したら、もう後はなるようになるに決まってる!
たかが寮祭にちょっと誘うだけじゃない! つまんないことでウジウジするのは私らしくない!
ほら、さっさと指、動いてよ! 動けっつってんのよ!

力の入らない親指を、コールボタンの上に乗せた。あとはぎゅっと押し込むだけ。左手を上から添えて、出力不足を補う。
これを押して、アイツを誘って、寮の中を案内したりお昼ご飯を二人で食べたり、その後のヴァイオリン独奏を聞いてもらったりするだけじゃない!
別に変な意味なんてないし、さっさと電話すればいいのよ!
「もう一度息を吸ったら、ボタンを押す!」
それは自分への宣言だった。残った息を肺から追い出す。
急に仕事をしだした心臓に苛立ちを覚える。なんで緊張してるみたいにドクドク言うのだ、今このタイミングで。
スゥゥゥゥゥ、と美琴は息を吸い込んだ。
もうどうにでもなれ、と思いながら親指にグッと力を込めて――――
「ああ、いいお湯でしたわ。お姉さまも早くお入りになったら……って、床に転げ落ちるなんて何をしていおられましたの?」
「なななななななんでもない! 別に何もしてない! ちょっと携帯弄ってたらベッドから落ちただけ!」
「だけ、って。それは充分おかしなことだと思いますけれど。それでお姉さま。まだ入られないんでしたらお風呂のライトを消しますわ」
「入る入る! すぐ入るからそのままにしといて!」
「はあ。……まあ、言われた通りにはしますけれど」
テンションが高いというか、やたらめったらに慌てている美琴にいぶかしみながら、黒子は体を流れる水の雫をぬぐった。
美琴は開きっぱなしの携帯をベッドに上にぽんと放り出して、パジャマと下着の準備を始めた。


「もしもし? なあ、返事してくれビリビリ」
返事がない。ただのいたずら電話のようだ。
……とはいえかけてきたのが御坂美琴なのは電話番号で分かっているので、いたずらなのかもよく分からない。
何かの緊急事態かとも一瞬身構えたのだが、後ろで、『お姉さま、ご一緒させていただきますわ』『黒子アンタいま入ったところでしょうが!』
なんて平和な声が聞こえるので、どうもそういうわけでもなさそうなのだ。
「ねーとうま。またみつこから電話?」
「いや違う。光子は寝たからな」
「それじゃ、あいほ?」
「いや、先生もいい加減電話くれても良いと思うけど……今のは違う」
「じゃあ誰」
「まあ、知り合い、かな」
「女の人だよね」
「え?」
「とぼけても駄目だよ」
インデックスに、なぜか睨まれている。
それなりに遅い時刻に女の子から電話を貰ったというのは光子になら謝らなければならないような気もするが、インデックスには、こう言ってはなんだが関係ない。
「言っとくけど、俺からかけたんじゃないぞ。それに御坂のやつ、かけてきた癖に出やがんねーんだよ。わけがわかんねえ」
「ふーん。……浮気じゃ、ないんだよね」
「当然だ。ってかあっちも俺のことなんて別に気にしてないだろうさ」
「ならいいけど」
「俺と光子が喧嘩したら、心配か?」
インデックスの髪を撫でてやる。お風呂上りだからか、乾かしたものの僅かに湿りを帯びて、柔らかい。
「当たり前なんだよ。みつこは、とうまに嫌われたら絶対に落ち込むもん」
「いや、俺も光子に嫌われたら本気で落ち込むけど」
「とうま、やめよう。そういうの考えるの嫌だよ」
「だな」
くぁ、とあくびしたインデックスが、ソファに座った当麻の隣に腰掛け、そのままぽてんと倒れた。
「眠いなら布団に行けよ」
「まだ起きてる。あいほが帰ってこないし」
「そう言いながら俺の膝を枕にするな」
「しらないもーん。とうまだからいいの」
腰に手が回されて、ぎゅっとインデックスがしがみついた。
テレビの音量を落として、髪を梳いてやる。ものの数分でインデックスは落ちたようだった。
まるで子供をあやしながら夫の帰りを待つ主婦みたいだな、と自分の境遇を自嘲しながら、当麻は黄泉川を待った。






「佐天さーんお邪魔しますよー、って、寒っ!! なんですかこれ?!」
「あ、ういはるー。いらっしゃい」
今日は、七月の終わり。冷房のない外はうだるような暑さで、当然のことながら初春は半袖のシャツとスカートという夏向きの軽装である。
ところが初春を招いた佐天はと言うと、モコモコの半纏を着て、季節外れのコタツに入っているのだった。
「なんでコタツが出てるんですか……」
「え、なんでって。鍋にはやっぱコタツでしょ?」
「そもそもこの季節に鍋っていうのが分からなかったんですけど」
初春はさっき電話で、鍋するからうちにおいで、と佐天に誘われてきたのだった。
突拍子もないことを考える友人なのは知っていたから、夏に鍋ということはさては相当辛いヤツで汗だくになるイベントか、と覚悟していたのだが、どうやらおかしいのは鍋じゃなくて室内温度のほうだった。
電気代が、すさまじいことになっていると思う。
「エアコン何℃にしてあるんですか?」
「ふっふーん、エアコンは切ってあるよ」
「え? じゃあ」
「うん。窓から熱だけ追い出してる」
窓を見ると半開きになっていて、それをハンパにふさぐようにダンボールが目張りされている。
窓の上下二箇所が開いた状態になっていて、どうやらそこから換気扇みたいに空気をやり取りしているらしい。もちろんファンなんてどこにも見えないが。
「片方の口から部屋の中の空気を追い出して、もう片方から外の空気を入れてるの。んで、外の空気は取り込むときに熱だけ私の渦の中に溜めておいて、熱が一杯になったら外に捨てるって訳」
「こないだも人間エアコンやってましたけど、なんか随分性能上がりましたねー……」
この前は、室内で渦を作って、佐天が窓際に歩いていって渦を捨てる、という動作を必要としていた。それで普通の冷房並みの温度に保っていた。
今日はどうやら、窓のところに定常的な渦を作って、それを制御しているらしい。
ぶるりと初春は体を震わせた。エアコンの設定温度なんてどれだけ頑張っても20℃くらいのものだが、この部屋の温度は、どう考えてもそんなレベルじゃなかった。
「ほら見て初春。なんかキラキラして綺麗でしょ?」
「え、ちょっ……佐天さん! それダイヤモンドダストです! 冷やしすぎですよ!」
「え? ダイヤモンド?」
知らずに作っている同級生に初春は頭痛を覚えた。
道理で寒いはずだ。まさか、氷点下とは。高い湿度、緩い風。確かにダイヤモンドダストができる好条件は整っている。
すでに準備が終わっているらしくコタツの上にはガスコンロと切った野菜、そしてお肉が並んでいて、電灯付近でキラキラ瞬く細氷のせいで文字通り肉が霜降りになりかけていた。
ここで夏服の自分が過ごすのは、どう考えても無理というか無茶苦茶というか。
「ほら初春。そんなカッコじゃ風邪引くよっ」
「あ、ありがとうございます。じゃなくて佐天さん! 何もこんなに冷やさなくても」
「え、でも今からお鍋だよ? 寒いほうが美味しいじゃん」
「やりすぎです! 佐天さんのご実家だって、まさか氷点下の室内でお鍋なんてしないですよね?」
「当たり前でしょ。それに空気は冷たいんだけど、床とかが全然あったかいんだよね。だから大丈夫」
「あ、ホントだ……」
佐天は空気なら冷やせるが、他のものは間接的にしか冷やすことが出来ない。
真冬の建物は真冬並みの温度になっていてすこぶる冷たいものだが、ここはそれとは違い、地面なんかは真夏の温度から冷えていっているところなのだ。
地べたに座り込んでも、腰が冷えるような感覚は覚えなかった。
……意外と、いいかもしれない
「じゃ初春、さっさとご飯にしよっ。私のこの能力も、長くは持たないし」
「あの佐天さん、食べながらコントロールするって大変なんじゃ」
「んー、でも毎日やってるからね。もう慣れたかな?」
佐天は今月の電気代を見るのが楽しみだった。
エアコンを自分が肩代わりすると全くといっていいほど電気が要らないので、恐らくは春先よりも電気代は下がるだろう。自己最安値を更新するだろうと見込んでいた。
エアコン修行は、何気に一番お気に入りの修行だ。
帰宅から就寝までの5時間くらい、常に冷やさないとあっという間に室温は上がるし、お風呂上りを涼しくしたいなら入浴中も能力を保たないといけない。
そして渦の形や熱吸収の効率など、工夫するポイントはいくらでもある。
……それが本当はレベル1の能力者にとってどれほど過酷なはずの修行なのか、あっさりと今日、レベルアップを果たした佐天にはまるで分かっていなかった。
「実用性のある能力が使えたらレベル3って言いますけど、佐天さんってもうその域にあるんじゃ」
「うーん、でもエアコンのほうが疲れないわけだし、実用性って言われると微妙じゃない? あ、でも、ほら」
佐天は財布からIDカードを取り出した。光子は交付は明日だと言っていたが、面倒見のいい担任が、今日のうちに認可して、カードを作ってくれたのだった。レベル2と刻印された、佐天のカードを。
「えっ? レベル……2?」
「うん。今日、上がったんだ」
「すごい! すごいじゃないですか佐天さん! こんなにあっという間にレベルがまた上がるなんて。これちょっとした話題になるレベルですよ!」
「あは。ありがとね、初春」
「ゆくゆくは御坂さんを超える逸材に……」
「ちょっと、それは無理だって。御坂さんレベル5だよ?レベル2になっても大人と子供くらいの差はあるんだから」
「じゃあ白井さん超えで」
「いやレベル4もあんまかわんないでしょ。そういうことは、もっと伸びてから言わないとね」
謙遜する佐天を初春は見つめる。レベル4の白井に並ぶことを、無理とは言わなかった。
さすがに学園都市で7人なんていう超エリートは見据えていなくても、佐天は今、とても高い場所を見つめている。憧れではなくて、手の届く場所として。
そんな風に親友が前を向いてくれてるのが嬉しかった。
「佐天さん。お腹すきました。晩御飯食べましょう」
「だね。じゃあ、ささっと用意するから」
足が冷えてきたのでコタツにもぐりこむ。
真夏に半纏とコタツで鍋をする、というのも、意外と悪くないものだと初春は思った。



[19764] interlude09: 盛夏祭開始!
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/04 23:42
「光子」
「当麻さん! 会いたかったです!」
「俺もだよ」
「おはよ、みつこ」
「インデックスも来てくれましたのね」
「とうまが遊びに行くのにおいてけぼりはやだもん」
昼前の、常盤台中学女子寮。
二つあるうちの、光子たちが今いるのは学び舎の園の外にあるほうだ。
普段光子が暮らしているのはこことは別で、美琴や白井が住む場所となる。
今日は盛夏祭、つまりこの女子寮の寮祭で、一般に対して寮が開放される日なのだった。
光子は朝から、入り口で受付の仕事をしていた。当麻が来るというので急遽引き受けた仕事だ。
ここなら絶対に当麻に会えるので、好都合だった。実際、一目見ただけで光子は心が躍るのを感じていた。
「あの、こんにちは」
「ええと、ごきげんよう」
光子はインデックスと当麻に満面の笑顔で挨拶をして、そして二人の後ろからおずおずと出てきた女の子に、
お互い戸惑いながらの挨拶をした。光子の知らない、金髪の少女。
「昨日知り合ったばかりなんですけど、インデックスが遊ぼうって言ってくれたからついてきました。この子が二学期から通う学校の生徒で、エリスって言います」
「インデックスがお世話になりますのね。こちらこそよろしくお願いしますわ。私の名は婚后光子と申しますの」
「はい、お二人から色々伺ってますよ。上条君の、彼女さん……なんだよね?」
「ええ、そうですわ」
にこやかに会話をするエリスと光子の隣で、当麻はぶるりと震えた。
いつもの五割り増しで愛想を振りまく光子の顔が、明らかに怒っている時の笑顔だった。
「まったく当麻さんたら。初対面の私達をほったらかしにして他の女生徒に目移りなんて、よっぽど私じゃ退屈なのかしら」
「えぇっ? いや、そんなことないって!」
「……ふふ。上条君は婚后さんに頭上がらないんだね」
「う、茶化すなよ、エリス」
「あはは。ごめん」
「……本当、当麻さんはどこでも女の人と仲良くなってくるんですから」
面白くなさそうに光子が呟いた。
「本人の前でいうのもアレだけど、エリスとはなんでもないって。第一、エリスには惚れてる相手がいるし」
「もう! 上条君、ていとくんのことを言ってるって分かるけど、そういうのじゃないよ。私とていとくんは」
ちょっとエリスは光子に申し訳なく感じていた。そりゃあ彼氏が知らない女と一緒に歩いていれば気に入らないだろう。
エリスが同伴した理由は、第一には教会に取りに来てもらう予定だった書類を届けることになったついでだからというのと、本音としては垣根と二人で夕方の街を歩く前に、女の子の知り合いがいるところで、日中に出歩いておきたかったから。
垣根には悪いが、一番初めが男の子と二人っきり、というのはやっぱり怖いのだった。その点、インデックスとは話しやすいし、同伴の上条は彼女持ちだからエリスをそういう目で見ない。
そんなこんなで、急遽、光子には不本意であろう形で話が決まったのだった。
「みつこ。その、エリスは私が連れてきただけだから。今回はとうまは悪くないんだよ」
「もう。みっともないって分かりましたから、あまりフォローをしないで頂戴」
エリスに嫉妬して当麻と光子の空気が悪くなったのを気にしたのだろう。今回に関してはその一因を担っているインデックスが、一言挟んだ。
その状況を察してか、エリスがインデックスに声をかけて、当麻から少し距離をとるようにしてくれた。
「当麻さんの莫迦」
「む、俺は光子以外の女の子に愛想振りまいたりなんてしてないぞ」
「じゃあどうして女性の知り合いが増えますの?」
「どうしてって、たまたまだよ。……ところで光子、受付、しなくていいのか?」
「えっ?」
名前くらいしか知らない、受付担当の生徒達が興味津々と言う顔で光子たちのほうを見ていた。
慌てて光子は当麻と距離をとった。


「じゃあ、光子が仕事終わるまで、適当に見て回ってるよ」
「はい、時間になったら、待ち合わせ場所にすぐ向かいますから」
「おう」
当麻の後ろにも入場希望者が集ってきている。インデックスとエリスはすでに先行して、敷地内をふらふらしているようだ。
迷惑にならないようにと当麻が光子の傍を離れようとしたところで。
「ごきげんよう婚后さん」
「お勤めご苦労様ですわ」
「ああ、湾内さんと泡浮さん」
光子の友人である二人が、校舎のほうから歩いてきた。
わざわざ受付に来たのには目的があるらしく、どう見てもそれは視線の先にいる、当麻だった。
「あの! もしかして、こちらの方が?」
「えっ? ええ……はい。そうですわ」
茶色がかったふわふわした髪の女の子と、清楚な感じのストレートな黒髪の女の子。
どちらも穏やかな顔をしていて、当麻の知っている二人の常盤台の女の子、光子と美琴のどちらよりもとっつきやすい感じの女の子達だと思う。
その二人が、光子への挨拶もそこそこに、興味津々と言う顔で当麻に近寄ってきた。
「あの! お名前でお呼びして不躾ですけれど、当麻さん、でいらっしゃいますか?」
「あ、うん。そうだけど」
「はじめまして。私、婚后さんの後輩で、湾内絹保と申します」
「私は泡浮万彬と申します。婚后さんにはお世話になっています」
「あー! 光子のよく話してくれる二人だな。俺は上条当麻だ。俺が言うことじゃないかもしれないけど、光子と仲良くしてくれてありがとな」
「お名前を存じ上げていなくてすみません。上条さん、でいらっしゃいますのね」
「本当に婚后さんにはお世話になっていますし、その、失礼ですけれど上条様のお話も、いつもとても楽しく聞かせていただいておりますわ」
「いつもって、光子はどんな話してるんだ……?」
「上条さんとどこへデートで行っただとか、どんなふうに髪を撫でてくださったかだとか、あとは、その……ね?」
「ええ、これはご本人の前では言えませんわ」
きゃっと頬に手を当てて、二人で恥ずかしがりながら微笑みあう。
つい昨日、ファーストキスの日付をばらしてしまった光子は、二人の反応の意味を理解して真っ赤になった。
「み、光子。別に話されて困ることはないけど、さすがにあんまり詳しくは……」
「ご、ごめんなさい。でも私だってなるべく惚気話なんてしないように気をつけていますのよ」
「まあそうでしたの? 婚后さん。私達も楽しみにしていましたけれど、婚后さんもそうとばっかり」
「もう! からかうのはおよしになって! 当麻さん、受付の仕事もしなければいけませんから、そろそろ中にお入りになって。交代の時間になったら、待ち合わせ場所に伺いますから」
「お、おう。そうだな」
女子校で自分の彼女と、その彼女から色々聞いた女の子達に囲まれる。
なんというか、ちょっと嬉しいところもあるのだが、動物園の動物になった気分だった。
さっさと退散してインデックスに合流するかと当麻が思ったところで。
「もしよかったら私達が案内しますわ。上条さん」
「え?」
「あら、湾内さん、積極的ですわね」
泡浮が少し驚いた顔をした。湾内は女子校育ちで、学校の先生のような人を除いて、基本的に男の人が苦手だからだ。
たぶん、分類で言えば当麻は苦手な部類に入るはずだ。
「心配してくださらなくて大丈夫ですわ、泡浮さん。知らない殿方にはやっぱり怖い感じを受けますけれど、なんだか上条さんは大丈夫ですの。婚后さんに優しい方だと聞いておりますし、今お会いして、そのお話に間違いないように思いますから」
ね、と微笑んでくれる湾内に当麻はドキッとした。
年下の子の年下らしい可愛らしさというのはこういうものだと思う。
光子よりはストレートに可愛らしい感じだ。もちろん、惚れてるのは光子にだが。
「あらあら当麻さん。鼻の下がずいぶん伸びてらっしゃいますわ。治してさしあげたほうがよろしい?」
おっとりと困ったわねえ、という表情で頬に手を当てて光子が首を僅かにかしげる。
遠めに見るとホントにちょっと困ったという感じの態度のお嬢様にしか見えないのだが、ゆらりと立ち上る気炎はぶっちゃけ当麻にはよく見えるしちょっとドス黒い感じなのだ。
「そそそそんなことないって!」
「鏡なんて当麻さんはお持ちでないし、気づかれないんでしょうけれど。本当に伸びてますもの。もう、どうしたら当麻さんはこの病気を治してくださるのかしら」
「だから別に鼻の下なんか伸ばしてないし、光子以外の女の子に気持ちが行ったことなんてないぞ」
「……もう」
周りを気にして当麻が小声でそう伝えると、まだまだ言い足りなさそうな顔をしながら、光子はしぶしぶと引き下がった。
受付の仕事を再開しないと、受付に人が並んでしまいそうだ。
「それで、話を戻しますけれど。もしよかったら私達でご案内しますわ」
「あ、ああ。連れが他にいて、そっちもまとめてでお願いしたいんだけど」
「承知いたしました。それでは参りましょうか……あっ、湾内さん」
「えっ?」
そこで。突然泡浮に呼ばれた湾内が、振り返った。事情は当麻にはよく分からなかった。
ただ、湾内は当麻の横を抜けて先導しようとしたところであり、呼ばれた自分ではないのに当麻も振り向いてしまったことで、自分と湾内の位置関係があやふやになったのは確かだった。


ふよん、と手の光に柔らかい感触が乗ったのを、当麻は感じた。


「へ?」
「あっ……えっ。あの」
お互いになんだか分からない顔をして、至近距離で湾内と当麻は見つめあった。
湾内にとって、人生で最も男の人に接近された経験だった。恋人との距離、と言える短さだ。
一瞬の無理解が生んだ空白を経て、湾内はさあっと頬に血が上って行くのを自覚した。
初めて、男の人に胸を触られた。
「ごめんっ!」
すぐに当麻が真剣な顔をして謝った。湾内もショックだったが、だけど嫌悪感のようなものはなかった。
事故だとすぐに分かったし、謝ってくれる態度が誠実だったから。
動転しながらも赦す笑みを返すとほっとしたように当麻が笑い返してくれた。やっぱり優しい方だなと湾内は思った。
……そして、気づけば満面の笑顔の光子に睨まれていた。当麻だけじゃなくてどうやら自分にまで笑顔の矛先が向けられていた。
「こ、婚后さん、お許しになってあげてくださいな。上条さんは悪気はありませんでしたから。私も、すこしはしゃぎ過ぎてしまって」
「……当麻さんはこういう人ですから、湾内さんもお気をつけになって。それで、大丈夫でしたの? 湾内さん」
光子の怒りがおおよそは当麻に行っているのにほっとしながら、湾内は自分の男性恐怖症を気遣ってくれた光子に微笑を返す。
「はい。上条さんにでしたら、私」
「えっ?」
「わ、湾内さん?!」
上条さんは婚后さんの彼氏さんですから心配していません、と伝えたはずだったのに、酷く光子と泡浮に驚かれた。
それで自分の言った言葉を反芻して、やけに深遠なことを言っているように取れることに気がついた。。
「ちち、違いますの! そういう意味ではなくって、婚后さんのお付き合いされてる男性だから、気にならないというだけですの! 別にその、婚后さんがいま思い浮かべてらっしゃるようなことじゃなくて!」
真っ赤になった湾内が、弁解という名の泥沼にはまるのを、一緒に溺れながら当麻は優しく見つめた。
この先どれほど当麻に問題がなかろうとも、湾内が余計なことを言うたびに、光子の沼が深くなるのは確定なのだった。






当麻の後姿が建物の中に消えたのを確認して、光子はため息をついた。乙女の園、常盤台中学に当麻を呼んだのは浅はかだったかもしれない。
学校に来る前から知らない女を連れてきた。そして建物にも入らないうちから、あんな風に湾内と仲良くなった。湾内もあんな思わせぶりなことを言わないでくれればいいのに、と思う。
心の中にわだかまるモヤモヤしたものを顔に出さないようにしながら、笑顔と元気よい挨拶をして入場者を迎えていく。
多くは来年常盤台に入るつもりらしい小学生の女の子達や、その保護者らしき人。そして同年代であろう女子中学生たち。
……その中に、見知った顔があった。うち一人は寮など見ずとも、つい昨日常盤台の敷地にいたくらいだ。
「ごきげんよう、佐天さん。それと、初春さん、でよかったかしら」
「は、はい! ご、ごきげんよう、婚后さん」
「その挨拶、初春が真似しても全然しっくりこないね。こんにちは、婚后さん」
昨日もそうだったが、街中で会うよりも佐天の装いが良家の子女らしい感じになっている。
襟付きの白いシャツの上から紺のカーディガンを羽織り、ベージュのパンツを履いている。パンツの裾が短くサンダルを履いているのは夏らしかった。
初春のほうも、薄手だが長いスカートを履いていた。いつものことながら、髪飾りに生けた花が可愛らしい。
「昨日は寮祭のこと、思い出させてくださって助かりましたわ」
「どういたしまして、って……もしかして、婚后さん?!」
佐天が寮祭のことを話に出してくれたおかげで当麻と会えた。そのことに礼を言うと、目を煌かせて佐天がこちらを見た。
まあ、言いたいことは、分かる。
「……ええ。お呼びしましたわ。だって、会いたかったですもの」
「おおおおおおおおおお!!!」
「え? どうしたんですか?」
話を聞いていないらしい初春が、困惑しながら光子と佐天の顔を往復で見た。
「婚后さんの彼氏さんが、今日ここにきてるんだってさー!」
「ちょ、ちょっと佐天さん! 声が大きいですわ。先生方に見つかったらなんて言われるか……」
「あ、すみません。でも気になるよね初春っ! ……初春? ちょっとどうしたの?」
「婚后さんのお付き合いしてる人……はぅ。どんな人なんでしょう。やっぱり婚后さんに釣りあう人ですから、いいところの育ちで、すっごく紳士な感じなんでしょうか」
「聞いてないや、こっちのこと」
「もう……変な想像はしていただいても困るんですけれど」
普段の言動から佐天にはなんとなく初春の脳内のイメージ図が予測できた。
おそらく白馬にでも乗っているのだろう。あと歯はキラリと輝いているはずだ。
初春の想像図の雰囲気は察せた光子は、なんともいえない気持ちになった。
残念ながら当麻は光子の、というか常盤台の学生にふさわしい印象の生徒ではないだろう。
客観的に見てそうだということは、分かっているのだ。だけど勿論、当麻のことが大好きだ。
もし、初春が当麻を見てがっかりしたりするなら、それはすごく嫌だなと、光子は思う。
落胆されるようなところなんて、当麻にはないのに。
「それで、お二人の待ち合わせは……ああ、ちょうど来ましたわね」
「あ、ほんとだ。おーい御坂さん、白井さん」
自室から直接来たのだろうか、寮祭で公開されてない建物から二人は出てきた。
白井が挨拶をすると同時に、あきれたような顔になった。
「ごきげんよう、佐天さん。それと初春……の燃えかすですの? これ」
「燃えかすって酷いですよ白井さん!」
「初春さんなんか考え事してたみたいだけど、どうしたの? あ、おはよう」
ジト目の白井の一歩後ろから美琴が挨拶をした。
聞いてくれとばかりに、佐天が情報の売り込みにかかる。
「聞いてくださいよ御坂さん! 婚后さんが彼氏さん呼んだらしいですよ」
「へぇー! そ、そっか。やっぱそういう子もいるのよね。それじゃ仕事終わったら会うの?」
「え、ええまあ。呼んだからには会いますけれど」
努めて素っ気無い態度を光子は取るものの、彼氏持ちを羨む周囲の視線にちょっと優越感を感じる光子だった。
ケッ、という擬音がふさわしいような態度で、白井がそれに冷や水をかける。
「寮祭でカップルがイチャつくというのは随分と斬新ですわね」
「別に二人っきりで会うわけではありませんもの。私達の共通の知り合いも含めて案内するのですわ」
「そうですの。良かったですわ、婚后さんが破廉恥なことをなさる学生でなくって」
「ええ、貴女とは違いますもの。良識くらい、わきまえていますわ。白井さん」
カチンときた白井が光子をにらみ返す。
人のことをアレコレいえるほど、白井は常識人ではないだろうと光子は思うのだが、白井は白井でおかしいのは光子だけだと思うらしい。
「私が非常識なような物言いですわね」
「違いますの? 御坂さん」
「う、私に話振っちゃうか。……悪いけど黒子、フォローはしないから」
「そ、そんなっ! お姉さまの露払いとして恥ずかしくないよう、精一杯振舞ってきたつもりですわ」
「ああそう。アレが、そうだったのね」
ジットリと睨みつけられた白井が怯んだ。
いつものやり取りらしく佐天と初春は苦笑いで見ていたのだが、ハッと気づいたように佐天が美琴のほうを向いた。
「そうだ! 御坂さんは気になる人、呼んだんですか?」
「へっ? い、いやそんなわけないじゃない!」
「えー、呼ばなかったんですか?」
つまらない、と佐天は口を尖らせる。面白くなさそうに白井がそっぽを向いて嫌味を言った。
「昨日もお会いしておりましたのに?」
「ぅえぇっ?! 黒子なんでアンタ……!」
「お姉さま、まさか」
がばりと振り返る。ちょっとカマをかけただけだったらしい。釣れると思ってなかった大物が釣れてしまったようだ。
過剰反応する美琴を見て、白井が絶望的な顔をした。
「べべべべつに会ってなんかないわよ! それに別に誘うようなヤツじゃないんだから! あんなヤツここに来たらどうせ女の子みてヘラヘラするに決まってんのよ!」
「……」
ちょっと共感してしまった光子だった。まあ、殿方というのはそういう生き物なのだろう。
自分とて、きちんとした服装と仕草を身に着けた好青年と、だらしない青年なら、どちらに愛想良くするか。
おそらく平等には扱うまい。そういう論理で納得は出来ないが、そういうものなのだろう。
「それじゃ、時間も勿体無いですからそろそろ行きませんか?」
「そうですわね。初春が待ちきれないようですし」
「だってせっかくの常盤台ですよ! 今日はは最初から最後までリミッター解除ですから!」
ふんす、とこぶしを握り締めて初春が鼻息を荒くした。
「彼氏さんをまた紹介してくださいね、婚后さん」
「え、ええ。まああの人に佐天さんは紹介してくれって頼まれていますから」
「へっ?」
「よく私が佐天さんの話をしますのよ」
「あー、あはは。なんかちょっと恥ずかしくなってきました」
「それじゃあね、婚后さん」
「ええ、御坂さん。独奏頑張ってくださいね」
「うん、ありがと」
彼氏を呼んだ光子を羨ましそうな目で一瞬見つめてから、美琴は白井を連れて二人を案内しだした。






はしゃぐエリスとインデックスを後ろで見守りながら当麻が歩いていると、後ろから歩いてきた集団に見覚えのある女の子がいるのを見かけた。
案内役らしい常盤台の女の子が一人、私服の子が二人。大きな生花の髪飾りをつけた子に見覚えがあった。向こうも気づいたらしい。
「あっ。こんにちは」
「おう、こんにちは。たしか風紀委員の」
「初春です」
「ああそうだ、下の名前は覚えてたんだけど」
飾利という名前は髪に付けたアクセサリとよく対応しているからだ。
だがそれをどうも気障ったらしい意味合いに受け取ったのか、隣の常盤台の女の子が不審げな顔をした。
「初春。こちらは?」
「えっと……上条さん、でよかったですか?」
「ああ」
「こちら、固法先輩の中学時代のお知り合いの方で、上条さんです。春先くらいに町をパトロールしてるときに、ちょっとお世話になったんです」
「固法先輩の?」
「なんか親しそうだったんで固法先輩の好きな人だったりしないかなーって思ってたら、上条さんから固法先輩の本命の相手を教えてもらっちゃったんですよね」
「……初春。その話は後でじっくりしましょうか」
「いいですよ、白井さん」
ニヤ、と二人で笑ったところを見ると、どうやら常盤台の女の子、白井のほうも風紀委員らしい。
固法も大変だなあと当麻は心の中で思った。一昔前はワルの側にいてうるさいことは言わなかったのに、進学校に行って風紀委員になってからは固法はどちらかというと会いたくない相手だった。
「そういやさっき固法のやつをチラッと見かけたな」
「あ、そうなんですか。ところで上条さん、今日は誰に誘われたんですか?」
うっ、と当麻は初春の興味津々な態度に怯んだ。
あまり物怖じしない子だなとは以前会ったときにも思ったことだが、誰に誘われたのかを話すのはちょっと恥ずかしい。
入場チケットは当然、常盤台の生徒から貰っているはずで、それが誰かといえば、彼女からなのだ。
「あーうん、まあ。常盤台の知り合いからさ」
「知り合いじゃなくて彼女でしょ、とうま」
「イ、インデックス」
離れていたはずのインデックスが引き返してきて、女の子と仲よさげにしている当麻を睨みつけていた。
光子以外の女の子に光子を彼女ではないかのように説明するのは、インデックス的にはアウトなのだった。
それは、浮気である。
「上条さんって常盤台の彼女さんがいらっしゃるんですか?!」
「あ、ああ」
「あの! もしかしてそれって、婚后さんて人だったりしませんか?」
「へ? なんで……」
黒髪の可愛らしい女の子が、光子の名前をスバリと当ててきた。思わず怯む。
「私、佐天涙子って言います」
「お! それじゃ光子の教えてる子って」
それで当麻にも合点が行った。えへへ、という感じで佐天が頭をかく。
「はい、私です。白井さん! この人が婚后さんの彼氏さんみたいですよ」
「どうして分かりましたの?」
「いまそっちのシスターの子が、下の名前呼んでたじゃないですか。それで」
佐天と白井がインデックスのほうを見つめると、むーーっ!!と敵対的な目でにらみ返された。
連れと思わしき金髪の女の子が一歩離れて苦笑していた。
「とうま。この人たちとどういう知り合い!?」
「どういうって、初春さんは友達の後輩って感じで、佐天さんは光子がアドバイスしてあげてる子だ。言っとくけど疚しいことは何もないぞ」
「……まるで彼女に弁解するような口ぶりですわね」
光子の彼氏であるはずの当麻がインデックスの尻に敷かれているのを見て、白井は困惑していた。
「コイツはインデックスって言って、今度光子が一緒に暮らす相手だ」
「暮らす? 常盤台の学生は全て寮暮らしですけれど」
「あれ、知らないか。光子は今度寮を出て、インデックスと一緒に別のマンションで暮らすんだよ」
「そうなんですか? 昨日婚后さんと会いましたけど、そんなこと言ってませんでした」
微妙に佐天が悔しそうな顔をした。佐天は光子の弟子、インデックスは光子の妹。
ちょっとポジションがかぶってお互いに面白くないのであった。
「にしても。婚后さんとお付き合いする殿方にしては、いささか普通の印象の方ですわね」
「ちょ、ちょっと白井さん」
白井がストレートな感想を当麻の前で臆面もなく吐き出したのを見て、初春が焦った。
自慢が多く高飛車な婚后光子の事だから、彼氏もさぞかしお高く留まったお坊ちゃんだろうと思っていたのだ。
それが意外と、率直に言ってみずぼらしいどこにでもいそうな高校生なので、拍子抜けしたのだ。
「まあ、言いたいことは分かるけどな。光子がお嬢様なのは確かだしさ。でも光子は裏表のあるタイプじゃないしさ、うまいこと付き合ってやってくれるとありがたい」
「……ええ、そうやって頼まれた以上は、ある程度は応えますけれど」
軽く頭を下げた当麻に、白井は困りながら応えた。
あまり好きではない相手の彼氏だが、普通の感覚を持った人間のようだし、頭を下げられたのを無碍に扱うのは常盤台の学生としての沽券に関わる。
「これからどちらへ行かれますの? よろしければご案内しますわよ」
「ああ、ありがとう。でももうじき光子と合流できるからさ、大丈夫だ」
「そうですの」
エリスが頭を下げ、インデックスが不満げに佐天から視線を外す。
光子に嫌な思いをさせそうで湾内と泡浮の案内も断ったので、白井の申し出も同じ理由で遠慮した。
待ち合わせ場所は食堂だ。少し早いが、混む前に食べたほうがいいだろう。当麻は軽く手を上げて、佐天たちから離れた。
後姿を見つめる佐天が、耳打ちするように白井に呟いた。
「後で御坂さんにも教えてあげなきゃいけませんね。婚后さんの彼氏って、結構いい人みたいでしたよって」
「別に私はどちらでもよろしいですわ。どうせそんな話をしたら、上条さんなどそっちのけで、ご自分の気になる『あのバカ』さんのことでお姉さまの頭の中は一杯になるのですわ」
ふんっと詰まらなさそうに白井がため息をついた。美琴は午前に割り当てられた雑用をこなしているところだった。






「ごちそうさま、っと」
「よく食べましたわね、当麻さん」
「バイキングだとやっぱな。……まあ、あっちには到底かなわないけど」
「当麻さんより食べるって、どういうことなのかしら」
光子と合流して、当麻たちは昼食を摂り終えたところだった。エリスとインデックスは当麻と光子から離れ、料理に近い場所に席取っている。
エリスがこちらに遠慮をしたのもあったし、インデックスが料理に心奪われたのもあった。
ようやく二人っきりになれて、光子は食事をしながらチクチクと当麻に恨みつらみを吐き出していたのだが、お腹が一杯になって怒りも収まったのか、ようやく態度が柔和になってきたところだった。
……のだが。
「あれ、舞夏か」
インデックスの席に近づくメイドが一人。当麻のクラスメイト、土御門元春の妹の舞夏だった。
光子はいつもなら瞬間的にさっと嫉妬の炎を燃え上がらせるものだが、余りにも今日は回数が多いので少々反応は鈍かった。
はあっとこれ見よがしにため息をつく。嫉妬の火種が深いところまで浸透しているので、完全な沈火はいつもより大変そうだった。
「当麻さん。次は誰ですの?」
「い、いや。クラスメイトの妹だよ。兄貴が寮の隣部屋に住んでてよく飯を作りに来てくれてるらしい」
「そうですの。それはそれは、当麻さんとも仲がよろしいんでしょうね」
「そんなことないって。第一、舞夏に手を出したら土御門のヤツに殺される」
「そのわりには下の名前でお呼びになって」
「それは兄貴と区別するからで」
「じゃあお兄さんのほうはどうして苗字なんですの?」
「男同士で下の名前で呼ぶのはないだろ」

当麻が必死に光子をなだめているのを横目に、インデックスは舞夏に問いかけた。
「それで、あなたは何をしにきたの? バイキングだし、沢山食べて怒られるのは納得行かないんだよ」
「怒ってはいないぞ。料理の責任者だから、食べてもらえて勿論嬉しいからな」
「じゃあ何?」
「まだ食べるのか聞こうと思ったんだ。それなら用意しなきゃいけないからな」
「んー、もう八分目だし、あとはデザートかな。エリスももういい?」
「私はもうとっくにおなか一杯になってるんだけど……」
初めてみたインデックスのすさまじい旺盛さに引きながらエリスは半笑いになった。
清貧を旨とする修道女として、この食べっぷりはどうなんだろう。
というか同じ学校で同じ釜から食事を食べる身になったらどれだけ大変なのだろう。
「にしてもちっこいのによく食べるんだな」
「む、そっちだって小さいくせに」
「名前はなんていうんだ?」
「インデックス。……名前を聞くんだったらそっちから言うのが筋だと思うけど」
「これは失礼した。私は土御門舞夏である」
「つち……みかど?」
「どうかしたのかー?」
「もしかして、まいか。にゃーにゃー言う変な日本語のお兄さんがいたりしない?」
「兄貴はいるけど、もしかして知ってるのか?」
「なんでもない」
まさかそんなわけはない。土御門元春は陰陽師の大家で、事情があって『必要悪の教会』に入った男だ。妹が超能力者の街にいるなど、冗談が過ぎる。
……あやうくおかしな日本語を教え込まされかけて、身に付く前に神裂に訂正してもらった身としては、土御門元春には恨みのあるインデックスなのだった。
なんにせよ、知り合いのほうの土御門と目の前の舞夏は似ていないし、人の良さも違う。
「デザートってあれだけしかないけど、出てくるの?」
「うん。昼食にはまだ随分早い時間だったからな、デザートの配膳は今からだ」
「よう舞夏」
インデックスが詳しくデザートの話を聞きだそうとしたところで、当麻が横から割って入った。
舞夏が気安い感じで、おやっという顔をした。
「あれ、上条当麻じゃないか」
「エリスとインデックスに何か用か?」
「大した用事はないぞ。というか知り合いなのか?」
「ん、まあな。そういや土御門のやつは来てるのか?」
「チケットは渡したし、昼ごはんを食べに来るかもなー」
「とうま。まいかとどういう関係?」
またか。またなのか。
いい加減にして欲しいとため息をつきながらインデックスは当麻を睨む。
光子のほうを見ると、向こうもこちらを見て頷いた。女二人の意図はよく一致している。
エリスもなんとなく当麻という人間が分かってきたのか、苦笑いの中に咎めるような雰囲気が混じった。
「上条君。彼女さんを大事にしてあげたほうがいいよ」
「え? なんだよ急に」
「女の人の知り合いが多いって、それだけでも不安になると思うけどな」
「……って言われても、なあ」
ちらと当麻が光子のほうを見ると、あからさまに視線を逸らされた。光子はこれからまた一度仕事に戻る。
そのあとはインデックスとも離れて本当に二人っきりになる予定なのだが、この調子ではそのときに機嫌を回復させられるかどうか。
「女難か? 上条当麻」
「ほっといてくれ」
世の男性の恨みを一身に集めそうな贅沢な悩みを抱えて、当麻は不幸だとため息をついた。






「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん、ごゆっくり。光子によろしくね」
「……おう」
昼食後に軽くぶらついた後、トイレを装って自然に席を外す予定だった当麻にインデックスがにっこりと笑みを返した。
となりのエリスがクスリと笑う。インデックスにも内緒で光子に会う気だったのが、バレバレだったらしい。
場所は中庭。先ほどまではオークションが行われていたらしいのだが、次は何かイベントに向けて準備中だった。。
特に興味はなかったが、なにやら人が多いのと、あらかた見回ってしまった都合もあって、光子を除いた三人は並べられたパイプ椅子を確保していた。

校舎に入って、周囲を見回す。待ち合わせ場所は確かこの先を曲がったところのはず。
……だったのだが、光子はいない。そして初めてきた場所だということもあって、なんとなく自分が場所を間違えたのではないかという気もしてくる。
どうするか。待つか、探しに歩くか。
昼ごろから機嫌の悪かった光子だ。ここでさらに待たせると、謝っても簡単には許してくれないかもしれない。
結局、間違ったところで待っているのが一番機嫌を損ねるだろうという判断から当麻はとりあえず足を動かすことにした。
1階で待ち合わせておいて階段を上り下りするほどの方向音痴ではないが、学校というのはどこの廊下も似たような作りで、しかも曲がりくねっているからなかなか把握しづらいのだ。
ぐるっと歩いても光子どころか人影も見当たらないし、待ち合わせの場所だったような気がする場所が二箇所になって、どうしたらいいものか当麻は途方にくれてしまった。
……ようやく、人の影を捉える。当麻はほっとしてその子に声をかけた。



「やだもう、へんな汗でてるし。なんでこんな……胸がドキドキしてんのよ」
昼食後、初春と佐天の案内から離れて、美琴は着替えを済ませていた。
そして自室で弦を拭き、弓に松脂を塗り、軽くヴァイオリンの音出しをする。
プログラムには明記されていない、本日の最終イベント。御坂美琴によるヴァイオリン独奏がこれからあるのだった。
別に、美琴の腕が学園一というわけではない。下手なほうではないと思うが、上には上がいるものだ。
なんとなく、音楽の実力以外の要素のせいで、客寄せパンダに任命されたような居心地の悪さがある。
それなのに白井はおろか、初春や佐天も期待してます、なんて目を輝かせて言うものだから、なんだかいつもの自分らしい調子というのが狂って、落ち着かないのだった。
手にしたヴァイオリンもなんだか心もとない。一通りチューニングは済ませたが、昼下がりの日光に晒されるあんな環境で弾けば、すぐにまた音程は狂ってしまうことだろう。
もしかしたら真夏の炎天下を嫌って常盤台きってのヴァイオリニストたちは辞退したのかもしれない。
そんな考えが、ぐるぐる美琴の頭の中で渦巻いていた。

近くのパイプ椅子に楽器を置いて、ため息をつく。
この校舎の扉を開ければ、すぐステージ裏だ。もう五分もしたら、そこで待機しないといけないだろう。
――これって緊張? いやいやいや、私に限って、そんなまさか。
軽く息を整えてみる。だけどそれも上手く定まらなくて、気持ち悪い。
「ああもう、しっかりしろ!」
自分の頬をぴしゃんとやって叱咤するのに、一向に気分がいつもどおりにならない。
そんな風に戸惑う美琴の傍に、不意に人が近づいてきた。それをふと見上げて、美琴はカチンコチンに硬直した。
「あのう。お取り込み中すいません。実は……って、あれ、ビリビリ?」
「へっ?! あ、が、う……?」
信じられない。この、タイミングで、なんで、コイツが。
そんな美琴の態度にまるで頓着しないで、このバカは淡々とした態度のままだった。
「ちょっと知り合い探してんだけどさ、悪いけど教えて――」
「――んでここにいんのよ」
「へ?」
「なんでこんなトコにいんのかって聞いてんのよ!」
があーと美琴が吼えた。ちなみに顔は真っ赤だった。
「な、なんでって。招待状もちゃんと持ってるし」
「人の発表を茶化しにきたわけ? 慣れない衣装を笑いに来たわけ?!」
「い、いやちげーよ、ってか普通にきれ」
「ばかー!!!!!!!!!!」
「うぉわ、落ち着け、落ち着け御坂」
「何よ何よ何よ! 見てわかんないわけ? コッチはいま取り込み中!」
「いやこっちも困って、ってだから落ち着け! その綺麗な格好見たらお前の事情は大体分かるから!」
「えっ?」
きれ、い?
絶賛爆発中だった怒りを全て萎れさせてしまうくらいの破壊力が、その一言にはあった。
振り上げていたパイプ椅子を、美琴はそっと下ろす。
「落ち着いたか? 落ち着いたな? お前あれだろ。今から何かやるんじゃないのか?」
「……うん」
「そのヴァイオリンか?」
「……そう。私より上手い人がいるってのに、何で私が」
「まあ、お前レベル5だろ? この学校の顔じゃないか」
「それとヴァイオリンは関係ない! こんな歩きにくい格好までさせられちゃってさ」
スカートの端を摘む。サマードレスだから暑くはないのだが、汗が気になる服だった。
髪飾りも、いつもよりもずっと大仰で、視界にチラチラ入って鬱陶しいことこの上ない。
「そうは言うけど、よく似合ってるぞ」
「馬子にも衣装って分かってるからそれ以上言わないで」
「そんなこと言ってないだろ。ってか、褒められるのがイヤか?」
「え?」
「普段のお前と違って、やっぱり女の子らしい格好すると映えるもんだな。……まあなんだ。別に自分で駄目だと思う必要なんてねーよ。自信持っていけ」
「ア、アンタに言われたって嬉しくないんだから」
「ところで下に短パン履いてるのか?」
「このドレスでんなわけあるかあっ!」
顔が火照って、胸がさっきとは違うドキドキで満たされて、全然コントロールが聞かない。
指摘されてスカートの下がいつもよりスースーするのが気になってきて、落ち着かない。
そんな美琴を見て当麻は、さすがに履いてないか、と心の中で呟いた。
とはいえ見えるわけでもなし、さして興味はなかった。なにせ、自分が一番可愛いと思う女の子は美琴じゃなくて光子なのだし。
もうちょっと後になったら、相対してるだけの美琴とは違って、光子の体に触れ、唇を啄ばむ気なのだし。
「ところで話戻していいか? 実は知り合いとの待ち合わせ場所がどこだったか迷っててさ」
「あ」
誘ってなかったのに、当麻が来てくれた事に色々と感じ入っていた美琴が、そこでようやく、とても大切なことに気がついた。
ここに当麻がいるということは、この学園の誰かが当麻に招待状を送ったということだ。
白井に当麻のことは知られていない。だからどういう思惑にせよ、白井が当麻に送った筈はない。
だから、当麻に会いたいと思った女の子が、きっとこの学園に、いる。
そしてコイツは、その子に、会いに来たんだ。
「……アンタ、誰に誘われてここに来たの?」
「へ? 急になんだよ」
「なんでもない。ごめん、変なこと聞いた」
それ以上、問い詰められない。だって何でそんなことを尋ねるのかと問われても、何も言い返せないから。
質問を無視された形の当麻と、質問を投げつけておいて横に捨てた形の美琴の間に、沈黙が流れる。
それを破ったのは男の声だった。
「おーいカミやーん。本番前の女の子をナンパするなんて、ほんと困ったヤツだにゃー」
「げ、土御門」
「また会ったなー。上条当麻。御坂も元気してるかー?」
「……何、アンタ土御門と知り合いなの?」
咎めるような美琴の声に、当麻は戸惑った。
当麻が呼びかけた兄、土御門元春と親しくしていて怒られる理由が分からない。
……そうか、御坂は兄貴を知らないのか。
「御坂。コイツ、土御門舞夏の兄貴だ。俺のクラスメイト」
「あ、どうも」
「どうも妹がお世話になってますにゃー」
「なあ舞夏、ちょっと聞きたいんだけど」
なあんだ、と美琴はほっと息をついた。
舞夏が自分の兄とクラスメイトに招待状を送ったのなら、別にいい。
見てても当麻と舞夏の間におかしな空気はない。
……って、何を安心してるのよ私は! どういうことよ。
「あれ、やっぱあそこで合ってるのか」
「待ち合わせなら早く行ってやれよー」
「おう、そうするわ。御坂。それじゃ悪いけど俺行くから」
「あ……うん」
「演奏、頑張れよ」
「言われなくてもいつもどおりやるわよ、バカ」
「ん。もう大丈夫そうだな」
最後に微笑んで踵を返したその当麻の表情に、美琴は胸が高鳴るのを感じた。
バカみたいに突っかかって喧嘩をしていた以前には、一度も見せてくれなかった、こちらを気遣う優しい顔。
いつの間にか、心の中のパニックが嘘のように引いていた。
熱を散々放出してクリアになってきた頭の中と、そして胸の中にだけ、ぽっと灯った静かな高揚。
一番、自分がノッているときの状態だった。



[19764] interlude10: キッス・イン・ザ・ダーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/06 22:31

「ごめん! 光子」
「……」

うつむいて、光子はその場に立ちすくんでいた。遅れたことに関しては、光子の側が悪かった。つい服装に乱れはないかと、わざわざ遠回りしてトイレの鏡でチェックして遅れてしまったのだ。
そして、当麻に落ち度がないことも分かっていた。目と鼻の先で、御坂美琴や土御門兄妹と話をしていたのも、そもそもは自分を探してのことだった。
「光子がいなかったから、場所間違えたのかと思って、つい」
「……御坂さんと、仲がよろしいのね」
「え?」
知らなかった。自分は莫迦だ、と思う。
常盤台中学どころか、学園都市をも代表するのが七人しかいないレベル5の超能力者たちだ。
そのうち2人までもがこの学園にいるというのに、光子は今まで、その顔と名前をきちんと覚えてこなかった。
当麻の言うところの、レベル5の『ビリビリ』。彼女は何度も折に触れて話にのぼり、当麻の影にチラチラと映る嫌な存在だった。
それがまさか、自分の友人だったなんて。
鉛を飲み込んだような、重たい感覚に体が支配されている。
だって御坂美琴は、自分とインデックスを除いて今まで一番当麻と親しくしてきた女だから。
知り合いの女性の多い当麻の口から、今まで一番多く出てきた人。
自分と会う直前に美琴に見せた当麻の笑顔に、光子はじわりじわりと心の中に嫉妬という毒を振りまいていた。
「み、光子?」
「朝はエリスさんを連れてきて、湾内さんに破廉恥なことをして、さきほどは白井さんや佐天さんや初春さんに会ったといいますし、繚乱のメイドともお知り合いのようですし。それで、挙句の果てに御坂さんですの」
なんだ、と馬鹿馬鹿しくなってくる。呼ぶんじゃなかった。こんな場所に。
自分が大して愛されてもいないんだって、思い知るような結末なら、いらなかった。
「……光子以外、見てなかったよ」
「嘘。当麻さんはいつもデレデレしてましたわ」
「そんなことないって。……見つかるとまずいだろ? 移動しよう」
「見られたら困ることでもありますの?」
「俺にはない。なんなら御坂の前でキスでもしてやろうか? 言っとくけど、ホントに光子と二人で会えるのを楽しみで、ここに来たんだからな。……ほら、見つかると、これから先デートがしにくくなるだろ? 行こうとしてた場所に、案内してくれよ」
僅かに目線を下げて、高さを光子に合わせてくれた。
そして髪を撫でられる。この状態でも先生に見つかったら大問題だ。
これくらいでは納得も出来ないし当麻を再び信じることも出来ないけれど、貰った優しさを動力に、光子はとぼとぼと逢瀬の場所を目指した。
「ここ……」
「人来ないのか?」
「調理室の火が落ちましたから。夕方までは誰も来ませんわ」
夏にはほとんど用のないボイラー室、そこの鍵を開けて光子は中に当麻を案内した。クーラーの効いていないそこは、二人でいればすぐ蒸し焼きになりそうだ。
でも、誰も来ず、安心していられる場所は少ない。外から見えにくい場所の窓を申し訳程度に開けて、当麻は光子に向かい合った。


「当麻さんが……悪いんですわ」
いきなり、ほろりと光子の瞳から涙がこぼれた。
泣かせたことは、あんまりなかった。
「み、光子?!」
「昨日の夜、当麻さんをお誘いしてからずっとずっと、楽しみにしていましたのに。朝来る前からもう、私以外の女の人と一緒にいて、さっきだって。私と待ち合わせをしているときに、御坂さんと会わなくたっていいでしょう?」
「……ごめん」
「仕事をしている間も、ずっと不安で、イライラして」
「ごめん」
「こんな嫉妬深い女なんて嫌われるってわかっていて自己嫌悪もしますのに」
「いい。光子ならなんだって可愛い」
「でも、当麻さんが他の女の人と親しくしているのは、嫌なの」
「光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するから」
ぎゅ、と光子は当麻に抱きしめられた。安心する。だから余計に涙が出てくる。泣くのは悲しいからではないのだ。
自分が悲しいということを、当麻が分かってくれると思うから当麻の胸で泣くのだ。
ぐずぐずと鼻を詰まらせながら光子は当麻に自分の涙をしみこませる。
「光子」
「……御坂さんとは、いつからのお知り合い?」
「光子とはじめてあった日の、前の日から」
「私が追い払った不良は、前日御坂さんを助けたときに絡まれた相手でしたのね?」
「そうだ」
「……莫迦みたい。当麻さんの特別な人になれたと思っていましたのに、私は、御坂さんのおまけでしかありませんでしたのね」
「光子は莫迦だな。俺が光子を、どれだけ特別だと思ってるかわかってないよ。……こんなに好きな女の子、光子が初めてなんだからな。まあ、初めて付き合った子だし」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあどうして、御坂さんにあんな甘い顔をしますの?」
「してたか?」
「していました! 私にはそんな顔、ちっとも見せてくださいませんのに」
「そんなことないだろ? つーか御坂のやつにどんな顔したかなんて思いだせねーよ」
「私が一番なら、もっとそういう態度、見せてください」
拗ねた光子が今までで一番可愛かった。やっぱりかなわないな、と当麻は思うのだ。
だって、こんな顔を見せられたら。惚れ直さないわけがない。
気丈な光子が涙で僅かに目を腫らし、幼さを感じさせるような上目遣いで、こちらを見ているのだ。
抱きつかれたときにほつれた髪を、そっと直してやる。
「キス、するぞ?」
「……どうしてお聞きになるの?」
「今までより激しいの、するから」
「えっ? あ、ん……」
薄暗がりの中、唇で唇に噛み付くように、当麻は光子に口付けをした。
驚いて少し腰を引いた光子を捕まえる。腰にぐっと手を当てて、自分の体に密着させる。
「ん、ん、ん」
「光子、可愛いよ」
「ふあっ」
光子の目が大きく開かれた。当麻が、キスをせずに光子の唇を舌で舐めたから。そのまま光子の下唇を、噛んだり、舐めたりする。
しょっぱい味がした。残念なことに自分のこめかみから流れた汗の味だった。
「ごめん、光子。汗が」
「ううん。気になさらないで。私もその、汗はかいていますし。それに当麻さんのなら私、気にならない」
「そっか」
「だから、その」
もっとして欲しい、という言葉は言わせなかった。言われなくても分かっていたから。
「ん、ちゅ、あ……」
当麻は、舌を光子の歯と歯の間にねじ込んだ。噛まないようにと、光子が慎重にキスに応じる。
よく分かっていないせいか動きの緩慢な光子の唇に強引に自分の唇を押し当てながら、光子の奥深くへと舌を滑り込ませ、蹂躙していく。
「あっ! あ」
ガクリと、光子の膝が落ちた。
抱いた両腕でそれを支える。むしろその方が良かったのかもしれない。
ぐいと引き上げられて、光子の唇が、より当麻に接近した。
光子の瞳の中から強い輝きが失われた。代わりに艶のある、にびた光がとろんと浮かぶ。
当麻を求めてくれているのだと、そう感じさせる瞳だった。
「光子、愛してる。俺が見てるのは、光子だけだから」
「……当麻さんは誰にでもそんなことを言いますの?」
「そう思うか?」
「知りません。だって、光子はいつも、当麻さんに騙されていますもの」
「騙してなんかないよ。むしろ、俺がどれくらい本気で光子の事好きなのか、分かってくれてないみたいで悔しい」
「わかりませんわ。だって、当麻さんはいっつも、あ、ん、だめ、だめ……」
嫉妬をくすぶらせる光子が可愛くて、つい、当麻は耳を噛んだ。
そのまま舌でつつつ、と耳をなぞると、ピクンピクンと光子が震えた。
そして耳の裏へ舌を滑らせ、汗を舐めとる。
「あ! 当麻さん! そんなの、いけません。汗なんて」
「いいって言ったの、光子だろ? 俺は全然気にならないよ。しょっぱくて、光子の匂いがする」
「あ、汗の匂いなんて駄目ですっ! 匂いなんて嗅がないで……」
「いい匂いだけど」
「そんなはずありませんっ! もう、やだ……あ! だめ、です。当麻さん」
調子に乗って、当麻は耳の裏の髪に隠れた辺りを強く吸った。
「痛……えっ? 当麻さん、いまのまさか」
「おー。痕、ついてるな」
「嘘、嘘! 当麻さんの莫迦。私、この後皆さんと片づけをしますのよ?! そんなときに見られたら……!」
「困るのか?」
「困るに決まっています! だって、見られたら当麻さんと何をしていたのか、皆さんに」
「今、何をしてるんだ?」
「えっ?」
「光子は今俺に、何をされてるんだ?」
「……莫迦」
上目遣いの瞳が、可愛い。
「耳噛まれたり、首筋にキスされるの、嫌か?」
「……そんなことはないですけれど、でも、恥ずかしい。それに力が抜けてしまいます」
「じゃあもっとすればいいんだな?」
「当麻さんの、好きになさって」
ぷいと目を逸らして素っ気無く光子は言った。
その口元が、期待に緩んでいるのを当麻は見逃さなかった。
「光子、舌、出して」
「え? んん、ちゅ……」
当麻の舌が、再び口の中に入り込んできた。
ゾクゾクする。背骨に沿って、得体の知れない感覚がぞぞと這い上がってくるのだ。
快感というには、まだ、光子の体がそれを受け入れられていなかった。
おずおずと、光子は舌を当麻の舌に絡める。舌と舌で互いを撫であうような、不思議な感覚。
当麻の鼻息が頬にかかってくすぐったい。でも、自分のだってきっと当麻にかかっていることだろう。
息苦しくて、吐息を気遣う余裕はなかった。
「ん?! んーっ」
突然、舌を当麻に吸われた。当麻の舌と唇で、光子の舌は愛撫される。腰の辺りがじわりと重たくなるような、不思議な反応を体が見せ始めた。
体つきは大人びているが、自分の体が当麻に与えられる刺激でどんな風になるのか、光子はよくわかっていない。
知識としてはいろいろなことを知っていても、経験で言えば、光子はインデックスと代わらない、初心な少女なのだった。
「どうだ? 光子」
「ふぁ……おかしく、なりそう」
「次は逆に、俺のも吸ってくれよ」
「当麻さんはエッチですわ」
「え?」
「どこでこんなこと、覚えてきましたの?」
「覚えてって、俺も初めてだよ。だから光子に嫌な思いさせてないか、ちょっと不安だ」
「……なんでも、してください」
「え?」
「当麻さんのなさることで、光子の嫌なことなんてありませんもの」
光子を見つめると、優しく微笑んでくれた。
暑い。それは気温のせいでもあるが、たぶん、高ぶってきた自分の気持ちのせいでもある。
光子の後頭部を抱きかかえるようにすると、じわりと汗で湿っているのが分かる。
「ん、あ」
鼻にかかった声が光子から漏れて、それがたまらなく当麻をくすぐる。
光子のほうからも舌を積極的に出しはじめて、キスにぴちゃりぴちゃりと水音が混ざる。
腰砕けになった光子はすっかり当麻に体重を預けていて、豊かな胸のふくらみが当麻の胸板でつぶれていた。
「光子」
「はい……ん」
キスで口の中に溢れてきた、自分と光子の唾液が混ざったものを、掻き出すように光子の口に中に注ぎ込む。
驚いた顔をした光子。キスを止めずに、口付けたまま至近距離でずっと見つめてやると、コクンと、それを飲み込んだ。
ほう、と蕩けた様なため息を漏らした。
「味は?」
「当麻さんの莫迦。味なんてしませんわ……」
「嫌だったか?」
「当麻さんのですもの」
軽くキスをしてやる。そして口付けたまま動きを止めると、光子は一瞬戸惑った後、口を動かした。
そして、おずおずと光子の唾液を返してきた。
「んッ」
強く吸い上げて、光子の口の中から残さず唾液を搾り取る。そして当麻も飲み込んだ。
ぼんやりとよく分からないといった顔をした後、光子がじわじわと喜びを口元に表した。
「ちょっと、光子のほうが冷たいかな」
「当麻さんのは、熱かったです。どうしよう……こんなことされて嬉しいって、私変なのかしら」
「俺も嬉しいよ」
「じゃあ私は変なのですわね」
「俺は変態扱いかよ」
「だって、当麻さんはエッチですもの。あっ!」
エッチなんていわれたら、期待に応えるしかない。
光子のお尻から15センチくらい下、太ももの裏に、当麻は手のひらを当てた。
そうしてすうっと撫でながら、手を上に滑らせていく。
「あ、あっ、あっ……当麻さん駄目、それ以上は」
「止めて欲しい?」
「だ、だって。スカートが」
常盤台のスカートは短い。こんな風に太ももから直接撫で上げていけば、それは当麻の邪魔をしないのだ。
つまり、スカート越しじゃなくて光子の履いた下着に、直接触れることになる。
優しい肌触りの布の縁に、当麻の指がかかった。そこは太ももの終わり、お尻の始まり。
当麻はキスをする。そうして顔をどこにも逸らせなくなった光子の、真っ赤になった顔を眺めながら、当麻は下着の上からお尻に触れた。
「ああ……駄目って、言いましたのに」
「柔らかいな」
「莫迦」
女の子のお尻だった。ぷっくりと丸くて、柔らかい。
泣きそうな顔の光子が可愛くて、つい、お尻を撫でたまま強引なキスをした。






美琴は舞台に立って、お辞儀をした。足元の座席には、白井と初春、佐天がいる。
うっとりした表情の白井にイラッとし、同じ表情の初春には苦笑してしまった。佐天と目が合うと、微笑んでくれた。
それらを落ち着いて眺めながら、もう一度楽器のチューニングをする。
寮祭はそれほど大規模ではない。おそらく、この時間には展示を見るのにも皆飽きてきたのだろう。
人は結構多くて、色んなところから見ていてくれる。自然に辺りを見回しながら、美琴は一曲目を奏で始めた。
「ああ、御坂さん……なんて美しいんでしょう」
「初春があっという間にトリップしちゃった。白井さんはいつもだけど……」
「お姉さま、ああお姉さま、お姉さま」
実際、美琴の演奏は上手かった。
佐天はクラシックに造詣などないが、器楽を専門にしていない一人の中学生の演奏としては、なによりまず、堂に入っていると思う。曲の世界観をちゃんと表現できていた。

演奏しながら、美琴には余裕があった。
あ、湾内さんと泡浮さんだ。婚后さんは……仕事だっけ。アイツが見えないのよね。でも、この場にいてくれた。
土御門の兄あたりと遊んでいるのかもしれないわね。こういう音楽に興味がありそうなヤツには見えなかったし。
だけど構わない。たとえBGMでも、自分の音は、きっと当麻の耳に届く。
自分が立っているのが舞台だなんてことを忘れて、美琴は気持ちの乗った演奏を続けた。
結局当麻に連絡を取れなかった昨晩からついさっきに至るまでの、どんよりした気持ちは吹き飛んでいた。
音を奏で、届けたい人に届けられることが楽しかった。






「あ……」
遠くで、ヴァイオリンの音が聞こえ始めた。優しい音色が、二人の熱気と荒い吐息で満たされたボイラー室にまで届く。
すぐに光子が窓を閉めた。聞こえる音量はそれで半分くらいになった。もう耳を澄まさないと聞こえない。
光子の、それは妬き餅だった。
「当麻さん、大好き……」
「俺も好きだよ、光子」
「もっと……ああ」
腰ではなくて、下着の上から鷲づかみにしたお尻をぎゅっと持ち上げて、光子を自分のほうに引き寄せる。
窓を閉めてさらに部屋は暑くなった。密着した二人の頬で汗が交じり合って、光子の胸元へ滴っていく。
光子、と耳元で吐息混じりに呟いて、じっと目を見つめた。
「とうま、さん」
真剣で、燃えたような当麻の瞳に見つめられて光子はクラクラと眩暈を覚えていた。
心臓が痛いくらいにドキンドキンと鳴っている。
なにか、重大な言葉を告げようとしているのが、光子には分かった。
「もっと触りたい。光子に」
「……」
「胸に触っても、いいか?」
答えられなかった。イエスと言うべきなのかもしれない、だけど、答えはノーだから。
「光子が嫌なら、絶対にやらない。でももし、望んでくれるんだったら」
「……嫌いにならないで、くださいませ」
「え?」
「怖いの……」
遠まわしに、気持ちを伝える。告げた言葉が全てだった。
当麻を怖いと思ったことはない。手つきはずっと優しかったし、体が目当てなのではないと、光子の心を欲してくれているのだとも分かっていた。
だけど、あまりに深い関係は、光子をひどく不安にしてしまう。
一度越えてしまえばもうきっと戻れない。容易に失ってはならない純潔を、流されて、捧げてしまいそうになる。
それではいけないとも、光子は思うのだ。当麻のためにも。
当麻にも光子にも、将来を添い遂げる覚悟はない。いや、覚悟をしたくても幼さがそれを許さない。
だから、怖い。
「怖がらせてたんなら、ごめん。光子が可愛いからさ」
「ううん。当麻さんが怖いんじゃないの。だけど……。ごめんなさい
もう一つ、光子には怖いものがある。
遠くから聞こえてくる、この曲。御坂美琴という友人の気持ち。
常盤台の生徒にしてはざっくばらんな性格で、好ましく思っていた。面倒見が良くて、いつも大人びた感じのする同級生だと思っていたのだ。
だけど、当麻に見せた顔は、光子の知らない顔だった。本音むき出しで、すこし幼さすら見せる感じで。当麻という人に、甘えているのがよく分かった。
それを当麻も自然と受け止めていて、すごく、お似合いな気がした。
高飛車で我侭で、当麻を困らせてばかりの自分より、美琴のほうが当麻も好きなんじゃないかと、そんな後ろ向きな気持ちが、心の片隅にずっと引っかかっているのだ。
「光子」
「えっ?」
さらさら、と髪を撫でられた。
優しい当麻の笑顔に、無条件に安心してしまう。
「なんか今日は変だな」
「そうですか?」
「……俺が色んな女の子と喋ったからか?」
「だって、嫌ですもの。御坂さんとだってあんなに仲良く」
「んー、光子が何で御坂をそんなに気にするのかがわからないんだけど」
「……」
「う、ごめん。泣くなよ」
「泣いてません!」
ちろりと目尻を当麻に舐められた。
女の涙腺は一度緩むと、止めどがないのだ。
「よくわかんないけど、光子が嫌なら、御坂のやつとは距離を置くようにするから」
「嫌な女ですわ、私。そうして欲しいって、思ってしまったの」
「光子が他の男と仲良くしてたら、俺だって絶対にそうなるから。だから気にするな。光子、キスするぞ。分かってもらえるかわからないけど、俺が惚れてるのは光子だって、教えてやるから」
「はい……」
光子が、当麻の頭を抱くように手を伸ばした。
耳にかかるように置かれた光子の手のせいで当麻は美琴の音楽を見失って、光子の甘い吐息だけに集中した。
「ん! ふぁ……あ、あん」
耳を噛み、首筋を舐め、唇と舌でぐちゃぐちゃに光子の口内を犯す。
壁に光子の体を押し付けて、さらに自分の体を押し付ける。二人が一つに溶け混じりそうだった。

美琴の演奏が終わって、中庭に喧騒が戻るまでの間、二人はそうやってキスを続けた。






日もまだ翳るには早い夕方、当麻とインデックスはエリスを送って教会の前にまで来ていた。
「今日はありがとね、インデックス。それに上条君も」
「また今度ね、エリス
「次は夏祭りだな」」
「うん、ありがとう。それじゃあね」
数日後の夏祭りでまた会うから、挨拶は軽いものだった。
あの後、当麻と二人で過ごしてかなり機嫌の回復した光子は、エリスともある程度打ち解けてくれた。
インデックスに加えてエリスの浴衣の着付けまで引き受けたようだった。
……実はエリスが垣根と逢瀬をするつもりなのだとわかって安心したから打ち解けたのだった。
光子もエリスも、そういう事情を当麻にはわざわざ教えなかった。
扉を閉めるまで手を振ってくれたインデックスに笑顔を返して、エリスは中庭へ出る。
「お帰り、エリス」
「あ、ていとくん……」
いつもどおりの態度で迎えてくれた垣根が、どこか拗ねているのに雰囲気で気づいた。
ちょっと後ろめたく思った自分の態度が、垣根の本音をうまく説明している。
形として、エリスはデートに誘ってくれた垣根を差し置いて当麻と遊んだことになるから。
「ていとくん。今日のこと、話すね」
「いいよ。……そういうので怒るほど、了見は狭くない」
「私が嫌だから、話をさせてほしいんだ」
「そうかい。ならまあ、聞くけど」
そっぽをむいた垣根の唇がわずかながらに尖っている。妬き餅を焼かれるのは、嬉しい。
良くないことと知りつつ、垣根に好意を向けられるのを喜ぶ自分がいた。
「今日は常盤台の寮祭に、インデックスと一緒に遊びに行ってたんだ。ていとくんが怒ってるように、上条君とも一緒だったけど」
「へー」
「上条君の彼女さんに怒られちゃった。もちろんインデックスも一緒だったけど、上条君とも一緒にいたから。でも彼女、婚后さんにも悪いから、上条君とは一度も横に並ばないようにしてたよ」
「並びたかったんなら、並べばよかっただろ。あのヤロウの彼女がどんなもんか知らないが、エリスより可愛いことはない。すぐに追っ払えたんじゃないか?」
「ふふ。そんなことするわけないでしょ。上条君はいい人だけど、別になんとも思ってないし」
「なんとも思ってないのは、アイツだけじゃないだろ?」
フンと自嘲めいた笑いをこぼす垣根に、心が引っ張られた。
違うんだけどな、と心の中でエリスは呟いた。
「ていとくんは、特別扱いしてあげてるよ?」
「そうなのか?」
「……もう。夏祭りの約束、忘れちゃったほうがいい?」
「上条とでも行くんじゃないのかよ」
「あ、ていとくん。今の妬き餅の焼き方、好きじゃない」
「別に妬いてねーし」
「上条君は彼女さんと一緒だし、そうじゃなくても、一緒には行かないよ。私を誘ってくれたのは、ていとくんだったし」
「そーかよ」
ずっとエリスを直視しないその横顔が僅かに緩んだのを見て、エリスももう、と笑った。
当麻はたぶんいい人だが、インデックスがいつも間に挟まるために、すこし遠い人だった。
光子がいなくても、たぶんその次はインデックスに遠慮していただろう。
光子がいない世界がもしあるなら、インデックスと当麻はもっと恋心を抱きあうような関係になっている気がするから。
「ね、ていとくん。私のお小遣いそんなに多くないけど、それにあわせてくれる?」
「別にいいぜ。全額出すくらいのことはなんでもないけど、それが嫌なら、エリスにあわせる。夜店で遊んで晩飯食えるくらいはあるのか?」
「うん。でも品数はあんまり揃えられないし、半分こしよ?」
「お……おう」
「あーていとくんがデレた」
予想外の反応。ストレートなお願いに、垣根が戸惑っていた。可愛いと思う。
しかしすぐさま気を取り直して、また気障を装った。
「なんなら全部口移しでもいい」
「いいよ? じゃあそうしよっか」
また、照れさせるつもりでエリスはそんな冗談を言った。
これで垣根が真っ赤にでもなったら、とても楽しいと思う。
だけど、垣根のリアクションは真面目だった。
「本当に、いいのか?」
「えっ……?」
「そこまで俺に踏み込ませて、いいのか?」
「……」
それは垣根の気遣いだった。
三度も垣根の告白を拒み、あと一歩の距離を譲らなかったエリスが見せた油断に、つけ込まなかった。
「……ごめん」
「いつでも本気にしてやるから、その気になったら言ってくれよ」
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「そういえば、私が何歳かって、ていとくん聞いてきたことなかったね」
「どうでもいいからな。エリスが何歳でも、エリスはエリスだ」
「もしかしたらていとくんよりおばさんかもしれないよ?」
「そうは言うけど年上の余裕を感じないぞ? エリス」
「むー」
垣根はそれで悟った。おそらく、エリスは自分より年上なのだろう。
冗談めかした言い方に、真実を混ぜている味がした。
でも、本当に関係ないと思う。だって本当にエリスは可愛いくて、そして自分が好きだと思っている気持ち以上に重視すべきことはない。
「ね、ていとくん。オレンジ剥いてあげるよ」
「ん、サンキュ」
「でも届かないから……手伝って」
「……いいぜ」
垣根は能力者だから、手の届かないところにあるオレンジをとる事なんて、工夫次第でなんとでも出来る。
だけどそれを言い出さなかった。エリスが望んでいるのはそういうことではないと思うから。
かがんで、エリスの腰を抱く。突っ張った態度の裏で、とんでもないくらい垣根は動揺していた。エリスの優しい匂いに、クラクラする。
悟られないように足を踏ん張って持ち上げると、抱いた手に、そっとエリスの手が重ねられた。
「ありがとう、帝督くん」
「エリス、重いから手早く頼む」
「もう! ていとくんのバカ!」
ずっと抱きしめていたいけど、そんな気持ちを悟られるのが嫌で垣根は意地悪をした。
エリスはそんな垣根の態度も、分かっていた。そして自己嫌悪にそっと蓋をする。
こんな風に好いてくれる人を弄んでいる自分は、なんなのだろう。
ずっと一緒にはいられないと分かっている癖に。自分の事情に未来ある人を巻き込んではいけないと分かっている癖に。
当麻が悪いのだ。あんなに、恋人との幸せそうな光景を見せ付けるから。
人とのつながりが、ぬくもりが、エリスは恋しかった。






「こんなトコ、かな」
美琴は自室の脱衣所件ドレスルームに備え付けの大きな鏡の前で、軽く髪を手でほぐす。
別になんてことはない。演奏が終わったというのに着替えもさせてもらえず、挨拶ばかりやらされていたのがちょうど終わって、ようやく制服に戻れたところだった。
いつもどおりの制服に戻った、ただ、髪飾りは元のヤツに戻さなかった。白い小さな花をふたつあしらった、可愛らしいデザインの物を身につけた。
「まあ前のもこれもママがくれたヤツだし、世代交代しても文句は言われないわよね」
ちなみにこの髪留めを渡した当のママ、御坂美鈴は美琴に向かって、恋するお年頃なんだからアクセサリくらい気を使ったら、と言っていたのだが、当麻と知り合う前だったので聞き流してしまって覚えていないのだった。
自分が髪飾りを替えようと思った心境を、美琴はちゃんと把握していなかった。
綺麗だと言ってくれた当麻の、その言葉が引き金だった。
白いサマードレスは着替えざるを得ないけれど、青リボンをあしらった花飾りを取る段になって、いつもの素っ気無い髪留めに戻すのが味気ないと感じたのだった。
とはいえドレスに合わせた髪飾りは実用性が低いし、これだけ目立つと寮監のチェックが入る。
そう思って、アクセサリーの入った小箱から取り出したのが、この髪留めだった。
「ま、これなら別に誰にも何も言われないでしょ」
白井は当然出会い頭に大仰に驚くのだが、そこに美琴は気が回らなかった。
そろそろ、戻らなければならない。片付けはそこかしこで行われているから手伝わなければ。
美琴は疲れもあまり感じていなかった。大仕事としておおせつかったヴァイオリン独奏が会心の出来で、楽しんでいるうちに終わってしまったから。
歩きつかれた客が休憩するのにちょうどいい程度の時間でプログラムは終わったし、まだまだ手伝える。
「土御門が皿洗いやれってうるさかったし、あそこに行けばいいかなっと」
足取りも軽く、美琴は自室の扉を開いた。
今日は一日、楽しい盛夏祭だった。



[19764] 他作品の紹介
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2013/08/03 18:32
私nubewoがこれまでに執筆したSSを紹介させていただきます。

『Portraits of EMIYA -士郎のいる象景-』
【原作】Fate/stay night, Fate/hollow ataraxia
【状態】打ち切り
【ジャンル】大長編(の予定だった)・ロンドンもの(の予定だった)
【掲載場所】私立アール図書館
【あらすじ】
Unlimited Blade Works編のGood End(Sunny Day)直後の士郎を取り巻く日常・非日常を描いた作品。
構想としては伏線を張りつつロンドンものへと話を展開する予定だった。
【コメント】
処女作なのに大長編プロットを描いて序盤で頓挫するという絵に書いたような初心者の過ちをやったSS。
しかしプロット練りのために調べたことが今後のSSで役に立ったりと、決して無駄ばかりでもなかった。
読者の方には無駄な時間を割かせてしまったかもしれない。


『エンゲージを君と』
【原作】Fate/stay night, Fate/hollow ataraxia
【状態】塩漬け
【ジャンル】中編・恋愛・シリアス
【掲載場所】Arcadia TYPE-MOON板
【あらすじ】
なんてことはない穂群原学園の生徒、氷室鐘には婚約者がいた。
普段は言葉も交わさないはずの衛宮士郎とひょんなきっかけで接点を持ったその日の夜、
10年前の大火災で死別したその人の名前が士郎であったことを知る。
そんな不思議な出来事をきっかけに、二人の距離は縮まって――――
【コメント】
二作目。Portraits of EMIYAが長大すぎること、また執筆力の低さに困った結果、
短編を書いて実力をつけようという意図から書き始めた。
ところが士鐘モノ、しかもセイバーend後という設定から強い批判も受け、
設定と描写の緻密化に試行錯誤した結果、短編で終わらなくなった。
そして書き手の構成力の限界から、続きを書くのが難しくなり中断。
終わりまでが遠くないので処女作と違い続きの執筆を諦めきれずにいる。
「マリア様がみてる」という小説の影響で女性の心理描写を濃くすることに面白さを感じ、
以降の自分のテイストが出始めるきっかけとなった。


『上条「姉妹丼ってのを食べてみたいんだけどさ」』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】完結
【ジャンル】短編・恋愛・ギャグ
【掲載場所】Arcadia その他板
【あらすじ】
街中で御坂美琴、御坂妹と出くわした上条当麻。
ちょうどお昼時だったこともあって上条はクラスメイトに聞いた、「姉妹丼」なるメニューを出すお店に行こうと二人を誘う。
よくわかっていない当麻、お子様の美琴、斜め上の方向に想像のかっとぶ御坂妹、
それにお姉さまの「妹」白井黒子が横槍を入れて、事態はとんでもない方向へ――――
すれちがいと勘違いが織り成すギャグテイスト短編。
事態はとんでもない方向へって実は本当にとんでもないことになります↓
【コメント】
三作目。アニメ版超電磁砲の面白さに触発され、執筆意欲が再燃。エンゲージの中断から数年ぶりに執筆したSS。
絶対に完結させるという目的のため、短編で終わることを強い枷として書いた。
ギャグという路線は初めてだったため、読了感の出し方が分からなかったことを残念に思っている。
思ったより人気が出たのをいいことに↓の続編を執筆。


『上条「姉妹丼ってかなり美味いよな」』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】完結
【ジャンル】短編・恋愛・18禁
【掲載場所】Arcadia xxx板
【あらすじ】
『上条「姉妹丼ってのを食べてみたいんだけどさ」』の続編。
変な勘違いをきっかけに、正しい意味で姉妹丼を頂いちゃうことになった上条さん。
初二つの女の子達を五段重ねにして丸ごと平らげちゃうとかマジ鬼畜。
Sっ気のある上条さんが無垢な女の子達にあれやこれやしちゃいます。
【コメント】
18禁も人生経験だし書いておくか、というよく分からない動機で書いたSS。
他の作品以上に文体や描写に対するコメントをいただいたのが印象的であった。
自分が最も興奮を覚える文体の官能小説とはこのようなものであると思って書いているが、
読者の男子諸兄にとって、一番好みがはっきりするのがこのジャンルなのだろうか。


『ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】連載中
【ジャンル】長編・原作再構成
【掲載場所】Arcadia その他板, ss速報vip
【あらすじ】
初夏のある日。
上条当麻は不良に襲われているところを、ひとりのお嬢様に助けられた。
佐天涙子は伸びない能力に向き合うため、ひとりのお嬢様に助けを求めた。
常盤台中学が誇る空力使い(エアロハンド)、"トンデモ発射場ガール"がヒロインのお話。
【コメント】
短編の予定が長編になるという失敗をまたやらかしたSS。
アニメで好きになった婚后光子を活躍させたいという思いが執筆の動機。
同じことを原作サイドも思ったのか、その後漫画版では主役級の扱いになった。
光子を当麻の恋人にすることで、女の子らしい側面を書くと同時に、佐天を導くお姉さまとしての側面を描いて、
禁書目録と超電磁砲の両方に出演する美琴のポジションに取って代われるだけのキャラクターとすることが当初の目標だった。
……のだが、佐天の成長パートが好評で、自分でも調子に乗って書いた結果、佐天が主役級の役をいつの間にか張っていた。
現在、自分の作品中で最長の作品。文庫一冊分を超える文字数となっている。


『上条「もてた」』
【原作】とある魔術の禁書目録
【状態】完結
【ジャンル】中編・恋愛
【掲載場所】製作速報vip, ss速報vip, まとめwiki
【あらすじ】
クラスメイトとの口論から、上条は女の子をデートに誘うことに。
偶然すぐ傍には、姫神秋沙がいた。その偶然が、二人の関係をガラリと変えていく。
いわゆる姫神大☆勝☆利!
【コメント】
どうやら時代は2chタイプの掲示板にレスという形で連載するものらしいということで、
そういう環境で書いてみたくて立ち上げたSS。
行数が少なくても投稿が可能で、しかも感想が気軽につくため、大きなメリットを感じた。
これに影響を受け、トンデモもss速報で掲載してからArcadiaにまとめるというスタイルを採用した。
エンゲージで好きになったコテコテの恋愛モノをそのまんま禁書でやった感じ。


『吹寄「上条。その……吸って、くれない?」』
【原作】とある魔術の禁書目録
【状態】完結
【ジャンル】中編・恋愛・R-15
【掲載場所】ss速報vip, Arcadia
【あらすじ】
保健室の扉を上条が開くと、困惑した顔の吹寄がいた。
不安に押しつぶされた吹寄は、そこで上条にある『お願い』をした。
【コメント】
トンデモがバトル三昧になり、苦手意識もあって閉塞感があったので立ち上げたSS。
安易なエロで話を進める軽い内容にしよう、というコンセプトで書き始めた。
タイトルは、「吹寄が『吸ってくれない?』とか絶対釣りだろコレと思ったらガチのおっぱいSSだったでござる」を目指しました。
二人は一体どこまで行くんだろうか。













以下はnubewoのお気に入りSSのまとめです。
知りたい人がいるかは分かりませんが、興味がおありでしたら、是非読んでみてください。

『凍った時』
【原作】痕(きずあと)
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・後日談
【掲載場所】最果ての地
【あらすじ】
千鶴end後、次郎衛門の記憶を取り戻した耕一がその記憶と恋人たる千鶴への想いの間で葛藤する話。
他ヒロインendで得た設定などをきちんと昇華しつつ、鬼との混血という彼らがこれから
どう生きていくのかにきちんと向き合ったSS。原作に無い道教の要素を取り入れているところも非常に面白い。
【コメント】
原作後すぐから始まり本編が残した課題に向き合う、というスタイルが確実に『Portraits of EMIYA』や『エンゲージ』に影響を与えている。
また、道教の要素を足すことで原作から一歩進んだ世界観を作っているところは、『トンデモ』に影響しているかもしれない。
いくつかのKanon SSと並び、SS界に自分を引きずり込んだ一作。


『最強格闘王女伝説綾香』
【原作】To Heart
【状態】連載中
【ジャンル】超長編・バトルもの
【掲載場所】なつのき会
【あらすじ】
全年齢版にあった来栖川綾香ルートの後日談。
浩之は惚れた相手である綾香に勝つという大きな目標を胸に、格闘技の研鑽を積むことに。
作中では触れられるだけだった格闘技大会エクストリームに浩之が参戦するなど、
格闘技の要素をつよく押し出している。
【コメント】
大量のオリキャラによってもはや原作からはかなり離れている。
ガチの格闘技モノであり、バトル描写は物凄い。
そしてなにより物凄いのは3日~2週間に一度の更新ペースで10年以上ずっと執筆し続けていたことだろう。
更新が止まってしまったのが大変残念。


『二分の一の恋愛劇』
【原作】Kanon
【状態】完結
【ジャンル】長編・並行世界モノ
【掲載場所】参加することに意義がある!!
【あらすじ】
美汐が死んだ世界の祐一と栞が死んだ世界の祐一の話。
【コメント】
起承転結が美しく、読了感が非常に良い。
SSとは書きかけて投げるものだと言って良いほど途中で終わるSSは多いが、
並行世界モノであることの意味をきちんと描いてきちんと終われたSSという意味でも高評価だと思う。


『I LOVE MY FATHER』『LOVE LOVE MY FATHER』
【原作】Kanon
【状態】完結
【ジャンル】短編・娘モノ
【掲載場所】(本文で検索を)
【あらすじ】
祐一と佐祐理さんの間に生まれた娘の話。
【コメント】
本文の一部、
『公序良俗とかモラルとか世間体ってのは、きっと本気で人を好きになった事が無い人が言い始めたんじゃないかと私は思っている。』
『つまるところ自分は若さを持て余したお母様とおとうの『一時の過ち』の産物なのだと気付いたのは、私が人知れず『女』になった日の午前0時を回った頃だったと記憶している。』
で検索すると読める。HPに掲載されているのではない様だ。
すさまじい隆盛を誇ったKanon SSの中では娘モノなどありふれたネタでしかないが、文体をとても気に入っていた。


『Proto Messiah』
【原作】Fate/stay night
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・本編再構成
【掲載場所】on the lock
【あらすじ】
言峰に拾われて育った「言峰士郎」が遠坂凛と組んで聖杯戦争を戦う。
【コメント】
序盤で更新停止。しかし文体が好きだった。
言峰士郎モノは書ききった例を知らないが、これは一番有名な部類ではなかろうか。


『Brilliant Years』
【原作】Fate/stay night
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・後日談
【掲載場所】なし(web archivesで読むしかない)
【あらすじ】
Unlimited Blade Works編Good End後の話。ロンドンもの。
ルヴィアゼリッタと親交を深めつつ、研究を通してゼルレッチの第五魔法を目指す。
【コメント】
更新停止を最も惜しんでいる作品。
研究生活を主題においたSSは後にも先にもこれしかないのではなかろうか。
その設定のすごさには引き込まれるばかり。
『Portraits of EMIYA』でロンドンものをやろうとしたきっかけであり、
『トンデモ』で佐天の能力開発をやろうとしたきっかけの作品である。
たぶん一番影響を受けているSS。


『マブラヴ オルタネイティヴ MAD LOOP』
【原作】マブラヴ オルタネイティヴ
【状態】連載中
【ジャンル】大長編
【掲載場所】Arcadia Muv-Luv板
【コメント】
文章の量がすでに一日では読みきれないほどの量にまで増えているSS。
原作ではある意味「投げて」しまった人類救済への道筋を、説得力ある描写で描き続けている。
確かな更新ペースと文章量に敬服せざるを得ない。


『クロスゲージ』
【原作】Fate/stay night
【状態】完結
【ジャンル】長編・三次創作
【掲載場所】Arcadia TYPE-MOON板
【コメント】
『エンゲージを君と』の続きをnubewoが一向に書かないことに業を煮やした中村さんが書いて下さった三次創作。
掲載前にnubewoの了解を取り付ける、作品の雰囲気を壊さない、ちゃんと完結させるという、非常に模範的な姿勢で書いていただけた。
正直に嬉しい。ただ、続きを書こうかという煮え切らない自分の態度のせいでまだ未読である。申し訳ない。



















SSを書いてみようかなと思う人へ

 偉そうなことを書ける様な実績のあるSS書きではないことは自分で承知していますが、「SSを書いてみようかな」と思う人に向けた私の考えを書いてみます。役に立つかは分かりませんけども。
 「SSを書いてみたい」と思う人は、結構いると思います。書き手も自分と同じ側に立つ人なのが二次創作の面白いところなので、自分の書いたSSが賞賛を浴びる夢を持つのは、良くあることと思います。私がSS書きをはじめたのもそれが動機でした。以降では、書いてみたいなと思ったことはあるのに、実際には書いてみたことのない方へのメッセージとして、きっとそういった方がお持ちであろう「書かない理由」にコメントをしていきたいと思います。

「いいものを書ける自信がない」
 今あなたの頭の中にあるアイデアを、今すぐ文章にしてみましょう。文章を書いたことのない人が他人を満足させられる文章を書くというのは、ほとんど無理なことです。この理由で悩んでいる方は、「スキルがないから書けない」を「書かないからスキルが身につかない」に読み換えるべきだと思います。身も蓋もない話ですが、処女作が超人気作になる人はごく一握りです。初めは誰しもコケるものですが、さっさと書き慣れてしまえば、そのうちいい反応をもらえる作品が書けるようになると思います。
 私のケースを紹介すると、連載できるだけのスキルもないのに大長編のプロットを切って序盤で打ち切るという、典型的な初心者の失敗をやらかしています。これくらいのことは多くの人がやっている過ちだと思うので、あまり失敗は恐れず、まずは書けるものを書いてみたらいいと思います。私にとってもこの経験はプラスとなっており、オリジナルな展開をひらめくために、自分がそれまで興味を持ってこなかったものにまで手を出したり、日常生活の中でも注意深く物事を見る習慣が身に付きました。「これ、ネタになるかも」という思想はちょっと浅ましいと自分でも思うことはありますが、未経験の事や物に挑戦するいい動機付けにもなるので、人としての幅を広げるのにもプラスだと思います。「Portraits of EMIYA」のためにキリスト教の「聖杯」の勉強をしようと思い、その関連で十字軍→聖櫃(アーク)→コプト教を含む異端のキリスト教→マグダラのマリアの福音書、とたどり着いた結果、そのネタがこの「トンデモ発射場ガール」に生かされています。要は、書いてみようと思って実際に努力したことは絶対にプラスになるので、悩むくらいなら書こう、というのが結論ですね。


「書いてもエタらせてしまいそう」(エターナる、とは書きかけで無期限放置することです)
 これも読者の立場としては常に不満に思うSS界の問題ですが、書き手としては、別に構わないと思います。もちろん完結してるほうがいいし、完結するしないで作品としての評価は随分変わりますが、自分でも行き詰った作品を書き続けるなんてことは出来ないというのも書き手の本音だと思います。特にまだSSを書いたことのない人にとって、完結させるというのは自分が思う以上にハードルの高い課題なので、これを理由に執筆をためらうのはもったいないと思います。まあ、特に初心者の方は、エタるのも仕方ないと開き直って書いて構わない、と私は思います。


「クライマックスシーンのネタしか思い浮かばない。だけどこれ書くとなるとSSが長編になるんだよな」
 典型的なあるあるネタではないかと思います。壮大な物語を書くことに憧れるのは自然なことだと思いますし。お決まりのアドバイスとして、まずは短編を書いてみよ、というのがありますが、書きたいSSを妄想すると普通に長編になる、というのが人の常なんじゃないでしょうか。自分の失敗を振り返るに、これは初心者が罹る仕方ない病気みたいなものだと割り切って、書きたいように書けばいいと思います。その経験がいずれ生きてくると思います。


「オリジナリティある作品が書けない」
 たとえ二次創作でもオリジナリティ、つまり他の人の作品にはない魅力というのは要求されます。この点に対してだけは、常に尊重し、また意識しているべきと思います。
 オリジナリティなんて表現だと非常にレベルの高いものだと感じるかもしれませんが、「オリ主」というジャンルは本来はオリジナリティの塊です(他人のオリ主ものをコピーしたような作品が大量に出回ったせいで、言葉に反しオリジナリティに乏しいと言われていますが)。二つの独立な作品のクロスオーバーものも、クロスによって原作にはないオリジナリティを出すことを目指すものです。「トンデモ発射場」は光子を主役級に抜擢することでオリジナリティを出していますが、こういうものがオリジナリティです。
 SSを書いてみたい、と思っている方の脳裏には、きっと「自分にとっては最高に面白いネタ」が一つや二つはあると思います。これを他人が楽しめるSSの形にするには、「そのネタのオリジナリティは一体何だろうか」を、漠然とでなく言葉で自覚的に理解し、そのオリジナリティをぶれさせないことが大事だと思います。ここではオリジナリティという言葉を使いましたが、これは、SSを面白い作品足らしめる一番大事な「物語の軸」だと言えると思います。自分で書き連ねたストーリーがなんかイマイチだな、と感じた時はたいてい軸がぶれていました。
「トンデモ発射場」を書くにあたり私がオリジナルな部分として大事にしているのは、「光子がヒロインであること=当麻に恋人がいること」「超能力について原作よりも科学的に書くこと」です。後者の「科学的描写」ですが、たとえば電撃文庫の「ウィザーズ・ブレイン」でされているように、これそのものはオリジナルでも何でもありません。ですが、「禁書目録・超電磁砲」に対してこれをやったSSは、私の読んだ範囲ではありませんし、あっても互いにネタが被るような数はないと考えています。
 この問題だけは、スキル不足だとかエタる不安と異なり、目をそらしてもいいことがないので、真摯に対応するほかないと思います。



 結局、私の結論は「悩むなら書け」の一言に集約されますね。書いて初めて見える世界というのもあるので、「とりあえずやってみなはれ」の精神は大事だと思います。さて、以降は処女作を書くに当たって、簡単なアドバイスを。

「推敲する」
 これが出来ないばかりに酷いコメントを貰う作品というのは多いと思います。推敲とは、一旦書き上げたものを読み直してチェックすることです。この際、必ず書き上げた日から1日以上あけてチェックすることです。そうすることで、書いた内容をある程度忘れ、客観的に見られるようになります。とりあえず迷うなら書け、とここまで言ってきましたが、この、「書いたものはすぐ見てほしい」という自然な欲求にだけは自制をかけるべきと思います。
 書いたら上げる前にチェック! 何を差し置いても、絶対にコレだけはやりましょう。

「予防線を張るような前書きを書かない」
前書きで「駄文です」などという表記を見かけますが、私は反対です。この表現は拙い文章を読みたくない読者への気遣いではなく、批判を恐れて過度に自分を低めているように受け取れるからです。前書きは読む人のことを考えた内容であるべきで、批判回避の予防線張りに用いるべきではないと思います。あらゆる批判を回避することは絶対に不可能なので、批判を受けることそのものは覚悟をしたうえで、投稿に臨みましょう。

 大したアドバイスでもありませんが、必要不可欠なのはまず第一に推敲でしょうね。これからも後続のSS書きの方がArcadiaをにぎわせてくれることを願っています。 ……人が増えると私の作品のPV数も増えますので。
 ここまでお読みくださってありがとうございました。

 Aug. 2013 nubewo




[19764] ep.2_PSI-Crystal 01: 乱雑解放(ポルターガイスト)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2014/02/15 14:58

「あの子たちに鎮静剤を。大至急だ」
「わかりました」
時刻は日付の変わる少し前。
医者であっても当直や救急でなければとうに仕事を終えている時間に、カエル顔の医者は病院の廊下を早足で歩いていた。
向かうは地下、一般の患者の立ち入りを禁じた一区画に、医者は少年少女たちを寝かせている。
学園都市に捨てられた子供たち、いわゆる置き去り<チャイルドエラー>であり、施設で育った子たち。いずれも目を覚まさない。
医者の超人的な力を持ってしても、回復の見込みそのものが立っていなかった。
子供たちのいる治療室に入り、医者はバイタルデータ、心拍数や脳波と、AIM拡散力場の変位測定装置を見る。
この異常事態において、脳波はむしろ正常だった。普段の植物状態で示す異常値に比べて、ずっと波形が覚醒した人のそれに近い。
そしてAIM拡散力場は。
「……木山君は、明日保釈か」
解決策に最も近い、頼みの綱の知人の名を呟く。覚醒を始めた子供たちを、再び眠りに引き戻すことしか出来ないことを憂う。
だが、こうしなければ、危険なのも事実。
「今日の乱雑開放<ポルターガイスト>が小規模だといいが」
木山に依頼をされて、初めてこの子達を覚醒させようとしてから数ヶ月。
だんだんと、薬で沈静させるのが難しくなりつつあった。覚醒の周期も早まっている。
いつしか止められなくなる日が来る。それは、もう遠くない未来だった。
それでも医者は絶望しない。希望を捨てず、淡々と意欲的に、解決策を探す。
無痛針をカシン、カシンと押し当てられていく子供たちを見つめながら、医者は考え続けた。






カタカタカタカタと家具が揺れる音がして、光子は読みかけの本から顔を上げた。幸い、身の危険を感じるほどの揺れではなさそうだ。
「地震? そう言えば黄泉川先生が地震がどうのと言っておられたけど……」
とはいえ地震など珍しくもないのが日本だ。
よくあること、と自分を納得させ、紅茶に手を伸ばす。さあっと陶器が木の机をすべる音をさせて、紅茶が逃げた。
「えっ?」
読書用のデスクに置いたカップに、光子はナイトキャップティとして薄く淹れたアールグレイを注いでいた。その紅茶はカップの中で激しく揺れ、いくらかこぼれていた。
自分の手でカップを突き飛ばしたかと、一瞬疑う。だがそんなことがあれば気づくだろう。
元の位置より10センチは動いていると思うから、こんなに動くくらい手を当てれば痛みの一つも残っているはずだ。
「……気のせいかしら」
そう呟くのと同時くらいで、カタリと音を立てて、棚に座らせた人形が一体、床に落ちた。
「誰ですの?!」
飾るくらいに人形の好きな光子だ、こんな風に情けなく倒れ落ちるような座り方はさせていない。現に人形が落ちたことなんて今まで一度もなかった。
そしてデスクを離れたとたん、今度はカップががしゃんと、床に落ちて割れた。これはもう、怪異というほかない。
「私を常盤台の婚后光子と知っての狼藉ですの?」
一番に警戒したのは、自分の姿を隠せる能力者。
一ヶ月ほど前に実際に襲われた経験があるので、常盤台にそんな能力者が侵入するわけがないと一蹴は出来なかった。
だが返事はない。人の気配も感じられない。
先生を呼ぶべきか、と考えたところで、ふと自分自身に違和感を感じた。
能力使用中に動転してしまった時のような、力がコントロールを外れる感覚。それを光子は感じていた。
その感覚が光子の混乱をさらに呼び、その混乱が光子の感覚をさらに乱す。

背中に視線を感じて、光子は部屋の中で大きく振り返った。
人などいるはずもなかった。代わりに、いつの間に動き出したのか、お気に入りでコレクションした西洋人形達が、覆いかぶさるように重なりながら、ガラスの目で光子を見つめていた。
普段人形を愛でる光子を、恐ろしいという感情一色で染め上げるほどにそれは、シュールな光景だった。
「いや……っ、いやあああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その日の夜、学び舎の園は、同系統の能力者たちが上げた悲鳴でちょっとした騒ぎになった。
だがそんなことは教職員が多く住むファミリータイプのマンションの中で、携帯を耳に当てながらどっかりとソファに腰を下ろしたレベル0にはまるで関係がなかった。
「……光子、出ないな」
「光子に愛想尽かされちゃったの?」
「そんなはずはない。寮祭のあとは、ちゃんと仲良くやってるし」
「ふーん。まあそうだよね、あれからみつこの機嫌はよかったもん。とうま、何したの?」
「何って……そのまあ、キスをだな」
「とうまのえっち」
聞いてきたほうのインデックスがむしろ顔を赤くして、当麻から離れた。






朝、初春はいつものようにざっと食事を摂って髪を整え、制服に着替えた。
風紀委員をしている限り、夏休みでもこうやって制服で仕事をしに行くのは普通のことだから、寝坊もせず定刻どおりに起きて生活することは、初春にとって別段大変なことでもなかった。
とはいえ今日は、風紀委員の仕事とは別だ。担任の先生から呼び出されたのだ。
頼みごとがあるとのことだった。
「失礼します」
「ああ、おはよう、初春」
「おはようございます、先生」
そこは初めて入る部屋だった。教室や職員室ではなく、応接室。
掃除当番で入室する生徒もいるようだが、ほとんどの生徒にとっては卒業まで縁のない場所だ。
「座ってちょっと待っていてくれるかい?」
「はあ」
担任は、つけ始めてすぐで慣れないのか婚約指輪を気にしながら、そんなことを言った。
ますます初春には事情が分からない。
「そういえば昨日、地震があったみたいだけど君の寮はどうだった?」
「大丈夫でした。こっちは全然揺れませんでしたから」
「そっか。不思議だね、同じ第七学区でも揺れた場所と揺れなかった場所があるなんてさ」
「そうですね。……何か、普通の地震とは違うんでしょうか」
「地球科学は僕の専門外だからなあ。ところで初春。佐天とは確か、仲良かったよね」
「あ、はい」
「来月からのこととか、何か聞いてないかな?」
「え?」
佐天とは夏休みに入ってからもほとんど毎日一緒に過ごしているが、改まった話をした覚えはない。
いつもおやつの話だとか、テレビの話だとか、宿題の話だとか、そんなのばかりだ。
だけど先生の言うことに心当たりはあった。佐天はもう、柵川中学では並ぶものがいないレベルの能力者だ。
「それって、佐天さんが転校するかも、っていう話ですか?」
「話をしているのかい?」
「いいえ。佐天さんからは何も。でも、あれだけレベルが上がったらそのほうが自然ですよね」
「そうだね。もっと高みに上れる人は、上を目指したほうがいいとは僕も思う。ただ、そういう話を進めてみたはいいけど、佐天のほうから音沙汰がないんだよね」
良かれと思ってレベル2のIDをすぐ発行し、そのときにも改めて聞いたのだが、それから数日たっても何も言ってこなかった。
親友と離れがたいのが一因かと思い探りを入れたのだが、そのあたりは初春の反応を見てもよく分からなかった。
「まあいいや。今日は転校は転校でも別件でね」
「はい?」
ちょうどタイミングよく、コンコンと扉がノックされた。入っておいで、と担任が言うと、控えめな感じに扉が開かれた。
現れたのは初春と同じくらいの体格の少女。柵川の制服を着ている。髪の一房をゴムで縛って触覚みたいにしてあるのが可愛らしい。
大人しくて優しそうな印象の女の子だった。
「新学期からの転入生の子だ。実は君のルームメイトになる」
「へ、えぇっ?」
「いやーごめん、急に決まったことでさ。こういうとなんだけど、わが校の風紀委員として、この子の力になってあげて欲しいんだ」
「あ……はいっ!」
そうやって任されるのは、初春とて悪い気はしなかった。
少女に向き合うと、緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げてくれた。
「春上衿衣(はるうええりい)……なの」



唐突に春上を紹介されて数時間。すっかり日は真上まで上り詰めて、お昼時を示していた。
二人は今、初春の自室の前、これから春上にとっても自室となる寮の扉の前で立ち尽くしていた。
「ちょ、ちょっと佐天さんに連絡とってみますから! 白井さんも来てくれると思うし、そうすれば」
「はいなの」
慌てて携帯を耳に当てる初春を春上は戸惑いながらぼんやり眺めた。二人の目の前には、うず高く積まれた春上の私物。
引越し業者のダンボールに詰められたそれは、扉を開けられないように置かれていた。
見慣れないマークの引越し業者で、信じられないような対応の悪さだった。
事の次第はこうだ。
朝一番に春上の紹介を受けた初春は、大急ぎで帰宅して片づけをした。なんでも今日の昼に引っ越してくるらしかったからだ。
そして引越しのトラックとは別にやってくる春上を駅まで向かいに出ている間にトラックが着いたらしく、信じられないぞんざいな対応で、荷物をごっそり扉の前においてさっさと引き上げた、ということのようだ。
動かしてもらおうにもその業者の電話はずっと通話中で、まるで当てにならない。
「あ、佐天さん? 今どちらに……あ、はい。わかりました」
電話を切った初春が春上のほうを見て、にっこりと笑う。
「力持ちが来てくれそうなので何とかなりそうです」
「力持ち?」
「まあ、力を使わずに物を運べる人なんですけどね、正しくは」
白井を自分の住む寮に招いたことはなかった。
だが、転校生の話を聞いた佐天が白井と美琴を迎えに行ってくれているらしい。
「ういはるーぅ。お待たせ」
「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも」
「やっほー」
「ごきげんよう……で、コレはなんですの」
「引越しの業者さんが置いて行っちゃったんですよ。春上さんを駅に迎えに行ったのと入れ違いで。 ……あ、それでこちら、新入生の春上衿衣さんです」
「はじめまして、なの」
「んでこちらが私達と同じ柵川中学の佐天さん、それと常盤台中学の白井さんと、その先輩の御坂さんです」
よろしくねと笑いかけた美琴に春上は微笑を返す。
その隣ではこれ運ぶの大変なんですよー、と白井の眼を見つつ初春が言ったのに、白井がため息をついていた。
「お昼も近いことですし、さっさと運びませんとね」
そっと白井がダンボールの山に手を触れる。ただそれだけのことで、目の前から荷物が文字通り消えた。
白井の能力、空間移動<テレポート>が発現した結果だった。この程度の重量と距離なら、白井にとっては造作もない。
「白井さん、助かります!」
「おおぉ~」
春上が口を可愛らしく開けて驚いていた。それを見て、素直な賞賛に白井は気を良くした。
「これだけのことができる空間移動能力者はそうおりませんのよ?」
「とってもすごいの」
「さて、それじゃあパッパと済ませちゃいますか」
初春が扉を開いて五人は荷物の整理に取り掛かるべく、靴を脱いで部屋に上がった。



春上の荷物をてきぱきと仕分けし、新しい居場所であるこの部屋に仕舞っていく。
重い荷物は白井がささっと移動させてしまうため、非常に手早く済んでしまった。
ぱんぱんと服の汚れを払いながら立ち上がった佐天がにこっと笑って春上を見た。
「これでおしまい、でいいのかな?」
「うん、これで終わりなの。皆さん、今日は手伝っていただいてありがとうございました。とっても助かりました……なの」
「どういたしまして。それにしても、おなか空いたわね」
「朝もあれだけ召し上がりましたのに、もうですの?」
「あれだけって、いつも通りじゃない。それにもうお昼摂ったっておかしくない時間でしょうが」
「皆さん! これから一緒にランチしましょう! 春上さんはこの辺りのこと良く知らないし、懇親会もかねて!」
文句を言い合う白井と美琴をよそ目に、初春がそう提案した。
春上はよくわかっていないのか、ぼんやりした顔をしている。佐天がそれを見て微笑みながら、賛成と手を上げた。
しかし白井があきれた顔で初春を見つめた。
「初春、忘れましたの? 私達は午後から合同会議ですわよ?」
「へ? あっ……。そうでした」
「合同会議? 誰との?」
「風紀委員と警備員の、ですわ。このところ地震が頻発していますでしょう? その関連だそうですわ」
「地震で、風紀委員と警備員が合同会議?」
議題がピンと来ないのか、美琴が首をかしげた。実際、白井と初春にも趣旨が良く分かっていなかった。
せっかくのランチ計画が、とうなだれる初春を見て、もう、と佐天が笑った。
「それじゃあお昼はうちで冷や麦にしましょう」
「え?」
「テーブルが足りないからちょっとお行儀悪いかもしれないですけど、いいですよね」
頭に買い置きの薬味を思い浮かべる。しょうがとすりゴマは常備しているし、タイミングよく大葉と茗荷もあった。冷や麦は実家から大量に送ってもらったから問題ない。
佐天の家でなら移動の時間は掛からないし、麺類ならすぐ作れる。ちょっとドタバタするが、これなら全員で親睦を深める暇もあるはずだ。
「賛成! 賛成です! 佐天さんありがとうございます」
「いいってことよ。初春のルームメイトなんだから春上さんは私にとっても親友候補だもんね」
「ですよね! クラスメイトとして仲良くやっていきましょう!」
「あ……」
「えっ?」
急に、佐天の勢いがしぼんだ。それで初春はハッとなった。春上のタイミングがやけにおかしいだけで、転校シーズンはむしろこれからだ。
夏休みを使って転校先を探し、二学期から編入というのが王道のパターン。そして、佐天はそうやって栄転する可能性の高い、そういう立場にある人だった。
「ご、ごめん。雰囲気悪くしちゃったね。さっ、うちに行きましょう! 早速準備しますから」
佐天自身も、未だ身の振り方を決めあぐねている、そんな段階だった。
まだ一週間くらいは、何も動かなくても間に合う。そういう考えに佐天は甘えていた。






「それではこれより、風紀委員と警備員の合同会議を始める。あたしは警備員の黄泉川だ。 今日の議題に関しての担当になる。……前置きは別にいいだろう、それでは早速説明を始める」
アンチスキル第七学区本部第一会議室、会議室というには大きく、演壇とそれに向かい合う沢山の座席からなるホールであるそこに、初春と白井を含めた風紀委員の学生、および警備員を務める教職員が集まっていた。
少なくとも風紀委員の側は、地震に関する議題だとは知っているもののそれ以上の情報は与えられていないらしく、皆一様に落ち着かないような、そんな雰囲気だった。
「このところ頻発している地震について判明したことがある。結論から言えば、これは地震ではない。正確には、これはポルターガイストだ」
「ポルターガイスト……?」
「普通は家具が宙を舞うようなものですわよね」
白井と初春が小声で会話する。その声が演壇上の黄泉川に聞こえるはずもなく、淡々と説明が進んでいく。
「地震は波動の伝播メカニズムの違いにより、P波とS波という伝播速度の異なる波を必ず生じる。だが一連の揺れにはこれがなく、またその発生地域が極めて局所的だ。この点で所謂地震ではないことが分かる。また地震、というと語弊があるがこの現象は全て学園都市内でのみ起こっている。この事からも、この学園都市に固有の事情でこの揺れが生じていると見るのが自然だ。こうした事実から我々はこの揺れがポルターガイストの一種であると仮説を立て、調査を行ってきた。その結果先日、この仮説が実証された。今日はその仮説の中身について説明していく。調査と実証の手法についてはレポートにまとめてあるから興味のあるものは各自読んで、提供できる情報があるならあたしの所まで連絡をくれ」
黄泉川はそこまでを通しで喋って、舞台袖をチラリと見た。
そちらと目配せで情報をやり取りしてから、再び聴講しているこちらへ体を向けた。
「この現象、地震にも似た局所的な揺れは、端的に言うとRSPK症候群の同時多発によって引き起こされたものだ。詳しいことは先進状況救助隊のテレスティーナさんから説明してもらおうじゃん」
黄泉川が舞台袖に体を向けて、壇上中央に招くように手を差し出した。
それに答えるように、カツカツと小美味いい音を立てて、スーツ姿の女性が姿を現した。
年は二十台半ばくらい。理知的な印象を与える丸い銀縁の眼鏡と、ピンできちんと留められた髪。
ヒールを履かずともそれなりに背丈もあるところは異なるものの、髪の色や毛先をカールさせているところは白井に似ていなくもなかった。雰囲気はかなり違うが。
テレスティーナが黄泉川からマイクを受け取って、息を整えた。
「先進状況救助隊って……白井さん、知ってました?」
「いいえ。まあこの手の研究機関は山ほどありますし、その一つではありませんの?」
「えー、ただいまご紹介いただきました、先進状況救助隊のテレスティーナです。RSPK症候群とは、能力者が一時的に自律を失い、自らの能力を無自覚に暴走させる状態を指します」
スクリーンに『Recurrent Spontaneous PsychoKinesis(反復性偶発性念力)』という名称が示される。
この症候群そのものは、割と学園都市では有名だった。というのも能力発現とこれは裏表の関係だからだ。
超能力は普通の現実から人を切り離すことで発現する。
例えば佐天が能力発動に至った鍵である幻覚剤の投与、他にも五感の遮断などによって学園都市は超能力を開発する。
そして、これとは違う現実からの切り離し方として、子供にトラウマを植え付けたり、安定した庇護を受けられない環境に追いやりストレスを与えるといった行為が挙げられる。
このようにして不安定かつ暴走的な形で能力を発現させた子供の例は学園都市が出来る以前よりしばしば見られ、RSPK症候群の一種、いわゆるポルターガイストを発現させることが知られていた。
児童虐待と能力開発の関係は、反面教師として教職員には周知であり、また学生達も能力開発史の授業で学ぶことだった。
「RSPK症候群が引き起こす現象はさまざまですが、これが同時に起きた場合、暴走した能力は互いに融合しあい、一律にポルターガイスト現象として発現します。さらにこのポルターガイスト現象がその規模を拡大した場合、体感的には地震と見分けが付かない状況を呈します。これが今回の地震の正体ということになります。RSPK症候群が同時多発した原因については目下調査中ですが、一部の学生の間ではこの現象を具にもつかないオカルトと結びつけ、それによって集団ヒステリーなどが起き、被害が拡大することも考えられます。今回風紀委員の皆さんに集まってもらったのは、そのような噂を学生達が面白半分に広めないよう、注意を促してもらいたいからです。私からの発表は以上となります」
「今日の内容を後で各自の携帯端末に送っておく。風紀委員の皆にはそれを熟読してもらい、学生への周知を図ってもらいたい。……風紀委員の皆への用件はこれで終わりになるじゃんよ。何か質問はあるか?」
テレスティーナからマイクを受け取り、黄泉川が皆にそう尋ねた。
終わりとばかりに腰を上げ始める白井の隣で、一緒に座っていた固法が首をかしげていた。



「思いのほか、早く終わりましたね」
「警備員はこの後もミーティングなんですって」
会議室から退出した白井と初春、固法は各自の端末に届いた今回の一件の報告書にざっと目を通しつつ、外へと足を向けているところだった。
注意喚起は受けたものの、することは別段これまでと変わらない。受け持ちの場所のパトロールやその他の雑務をするだけだ。
「白井さん、これからどうします? 私、春上さんと佐天さんと御坂さんに合流しようと思うんですけど」
「私もご一緒しますわ。どうせ今日は非番ですし。固法先輩は?」
「私も調べ物はしてみるつもりだけど……することは大して変わらないわね」
うーん、と白井が伸びをしたところで、視界の端に二人の男女が映った。
風紀委員の腕章をつけていないし、そもそも今退出を命じられた会議室のほうへと逆行している。
それを奇妙に思って眺めてみると、つい先日見覚えのある、ツンツン頭の高校生と修道服の少女だった。
「あれは……」
「え、上条君?」
「固法先輩! ちょうど良かった。警備員の先生達ってこの先か?」
「え、ええ……。急にどうしたの?」
「いや、ちょっと用あがあってさ」
曖昧な返事を返した当麻の表情は、緊迫したものだった。隣の少女の顔も不安に揺れている。
時間が惜しい、といった感じの態度だった。
「会議はまだ続くけど、風紀委員の退出に合わせて短い休憩を取ってる、今なら大丈夫だと思うわ」
「そうか、サンキュ」
当麻が短くそう告げて踵を返す。その後ろをインデックスがペコリと軽く頭を下げながら追いかけていった。
あたりを見回しながら歩いていくと、幸い、タバコを吸いに来た黄泉川をすぐに見つけることが出来た。
「先生!」
「上条。どうした? 早く婚后のところに行ってやるじゃんよ」
「いや、光子の入院先を教えてくれてないじゃないですか」
「しまった、すまん」
合同会議もあってうっかりしていたのだろう。端末を取り出してサッと当麻に転送する。
「みつこ、大丈夫なの……?」
「先生はさっき別条はないって言ってましたけど」
「ああ。まあ……あんまり研究者の都合をぶっちゃけてしまうのもアレだけど、この一件でポルターガイストに巻き込まれた被害者は全部経過は良好で、最近じゃ入院なんてさせてないんだ。ところが婚后のやつがレベル4なのを知って病院側が目の色を変えてな。だから本人は元気そうだったじゃんよ」
「そうなんだ」
当麻の伝聞だけでは落ち着かなかったのだろう、黄泉川の説明でようやくインデックスがこわばった顔を緩めた。
「それじゃ、悪いけどあたしはもう戻るじゃんよ」
「忙しいとこすみません。ありがとうございました」
「おう」
休憩中に一服できなかったことに僅かにイライラしつつ、黄泉川は再び会議室へと足を向けた。
ぽん、と優しくインデックスの頭を撫でながら、当麻はすぐに光子のいる病院への経路を頭に描く。
『先進状況救助隊本部・先進状況救助隊付属研究所』という病院らしくない響きの施設に、光子はいるらしい。
「あの、上条さん。どうかしたんですか?」
固法、白井、初春の三人が追いかけてきて、当麻に声をかけた。
「初春さんか。いや実はさ、昨日の地震……っていうかポルターガイストなんだっけ、これ。とにかくそれが原因で光子のやつが入院してるんだ」
「ええっ? 婚后さんがですか?」
「ああ、それで見舞いの場所が分からなくて、聞きに来てたんだよ」
「警備員の先生に、ですの?」
「光子は来週から黄泉川先生の家でこいつと一緒に暮らす予定だからな。それで知ってるんだよ。……それじゃ悪いけど、早く見舞いに行きたいし、俺たちはもう行くわ」
「あ、はい。婚后さんによろしく伝えてください」
「ありがとう。それじゃ」
「上条君も気を付けて」
「ありがとな、先輩」
挨拶もそこそこに、二人はまた足早に、建物の外へと出て行った。
婚后光子とそりの合わない白井がふんっと息をつきながらこぼした。
「……いい殿方ですわね。肝心の付き合っている相手は好きになれませんけれど、上条さん本人の態度には好感が持てますわ」
「そうね。……にしても意外よね。上条君が彼女作って落ち着いちゃうとはねぇ」
「はぁ、よく女性にモテる人だったんですか?」
「うん。けどまあ、朴念仁だったからね、彼は」
過去を知る固法が嘆息した。






暇を持て余した病室で光子がまどろんでいると、不意にコンコンと扉が鳴った。
「光子、入るぞ」
「あ……」
夢と現の境目にいたせいで弱弱しい返事しか返せなかったが、当麻はこちらの反応を待たずに扉を開けた。
ベッドの背を高くして本を読めるような姿勢にしていたから、そのまま当麻と目が合う。
当麻が痛ましそうな目でこちらを見つめた。
「みつこ、みつこ……っ」
当麻の影からインデックスが飛び出してきて、ぼふりと光子の胸に飛び込んだ。
何も言わないインデックスに、そのままぎゅっと抱きしめられる。少し遅れて傍に立った当麻が、光子の頬に触れた。
「大丈夫か……?」
「あ、はい。その、別に何ともありませんのよ?」
「無理しなくていいんだぞ」
寝起きの頭を必死にしゃっきりさせようとしているのを、強がりと取り違えられてしまったらしい。
いつになく優しい手つきで、当麻が抱き寄せてくれて、おでこにキスしてくれた。
なんだか贅沢をしているような嬉しい感じ。だが同時に、どうも分不相応というか、自分の現状から乖離した余計な心配をさせているように思う。
「あの、寝起きでちょっとぼうっとしているだけですの。ごめんなさい」
「やっぱり昨日は、眠れなかったのか?」
「事情、お聞きになったの?」
「ああ、黄泉川先生からの又聞きだけど、ポルターガイストに巻き込まれたって」
「そうですわ。でも、他の人もそうですけれど、何ともありませんのよ」
「そうは言うけど……無理しちゃ駄目なんだよ、みつこ」
「ありがとう、インデックス。でも、今日は退院できませんから、インデックスの楽しみにしていた浴衣は着せてあげられませんわね。あと、エリスさんにもご迷惑をおかけしてしまいますわ……」
今日は予定では、光子と当麻、インデックスは夏祭りに出かける予定だったのだ。
インデックスには光子のお下がりを、そしてエリスは持参した浴衣を、それぞれ光子に着付けてもらう予定だったのだが、それも光子が入院となっては無理な相談だった。
ちなみに常盤台は夏祭りに出かけられるような門限にはなっていないので、黄泉川に監督を委任しつつも常盤台の寮に部屋を残した期間、要は引越しの猶予をちょうど今日からに設定していたのだった。
「仕方ないよ。みつこがこんなところにいるのに、お祭りになんて行けないし。エリスには連絡して、何とかしてもらうようにするから」
「ごめんなさいね。インデックスはお祭り、初めてなのにね」
「今日はずっと、ここにいるから」
絶対に離れないといわんばかりに、インデックスが光子の胸の中でそう宣言した。
それを可愛く思って微笑む。そして髪を梳いてやりながら、困ったことに思い当たった。
「あの、気持ちは嬉しいけれど、夕方になったら検査なんですの。それなりに時間がかかるそうですから、お二人を待たせてしまいます」
「そうなのか。それって夜まで会えないのか?」
「いえ、ここの面会は結構遅くまで大丈夫のようですから、夜にはお話できます。それに合わせて黄泉川先生は来てくださると仰っていましたけれど……」
「んー……それじゃあ、もしかしてちょうど夏祭りに行ってれば暇を潰せるのか?」
「ああ、言われて見ればちょうどその時間ですわ」
「よし、それじゃ晩飯はそこで摂ることにするよ。光子の分まで楽しんでくるから、申し訳なくは思わなくていいからな。まあ、俺たちが遊んじまった分の恨みは、後で聞くし、埋め合わせもするから」
「ふふ。私そんな狭量な人間のつもりはありませんわ。しっかり楽しんでいらして」
ちょっぴり保護者っぽい微笑を二人が交わしたところで、光子の携帯が音を立てた。
誰でしょうかと思いながら、光子はディスプレイに目をやる。佐天らしかった。
「もしもし、婚后です」
「あ、婚后さん。……その、電話大丈夫ですか?」
「ええ」
「昨日の地震で入院したって聞いたんですけど……」
「あら、情報が早いのね。お恥ずかしながら、そのとおりですわ」
「お体は大丈夫なんですか?」
「なんともありませんわ。医師の方が酷いことを仰いますのよ。レベル4でのポルターガイスト発現例は珍しいから調べさせてくれですって」
「はあ。それじゃホントに元気なんですか?」
「ええ。外因性のもので、私自身が心的ストレスを感じてポルターガイストを発現したのではありませんし、体調不良もありませんもの。病院食が美味しくないというのは本当につらいことですわね」
「よかった。元気ならそれが一番ですよ。それで、もし婚后さんがお暇だったら、みんなでお見舞いに行こうかって話になってたんですけど、どうですか?」
「暇……まあ、取り急ぎの用事はありませんけれど」
言葉を濁したその返事に、佐天はピンと来たらしかった。
「彼氏さんが来てるんですか?」
「え、えっ? あの、どうして」
「やだなー、素敵な彼氏さんだって婚后さん言ってたじゃないですか。もしかして今も隣で抱きしめてくれてたりするんですか?」
「そそそそんなわけありませんわ! もう、嬲るのはおよしになって」
思わず当麻のほうを振り返ると、はてなマーク付きの表情だった。今は当麻とのスキンシップは控えめだ。
だがそれはインデックスが抱きついているからであって、二人きりなら佐天の言に図星だったかもしれない。
「それじゃあ、夕方くらいに皆で行ってもいいですか?」
「あ、五時から検査ですの。ですからその前なら……」
「五時ですね。わかりました。そのときにみんな、ええと、私と初春と白井さんと御坂さんと、あとうちに転校してきて初春のルームメイトになる春上さんを連れて行ってもいいですか? 婚后さんに失礼かとも思うんですけど、転校したての春上さんを放っておくのも悪いし、それにお見舞いのついででアレですけど、夏祭りに行こうとも思ってて」
「かまいませんわ。佐天さんのお友達なら、またご縁もあるでしょうし」
そこで、ふと思い至る。
光子が元気そうだから気を使わないでくれたのか、これから夏祭りに行くことを教えてくれた。
それなら頼みごとを聞いてくれるかもしれない。
「そうそう、佐天さん。夏祭りって、服はどうされますの?」
「え? 浴衣をみんなで着ようかって」
「皆さん着付けられますの?」
「ええと、分かりませんけど私と御坂さんは大丈夫です」
「そう。……あの、お願いがあるんですけれど、着付けを二人前ほど追加で引き受けては下さいませんこと?」
「それは構いませんけど、誰のをですか?」
「私の連れのインデックスと、その友人のエリスさん……たしか盛夏祭でお会いしたんではありません?」
「あ、はい。わかります」
「あの二人の着付けをお願いしたいの」
「いいですよ」
良かった、と光子は安堵した。インデックスには最悪謝ればすむし埋め合わせも出来るが、連れのエリスは当麻以外の男性と逢引と聞く。
さすがにそんな一大イベントを控えた女の子に事情があるとはいえ断りを入れるのは心苦しかった。
もう二三言交わして、光子は佐天との電話を切った。
「浴衣、着付けてくれるって?」
「ええ。助かりましたわ」
「だな。エリスに申し訳ないと思ってたところだし。集合場所はどうしたらいいんだ?」
「ここは中心街から遠いですから、駅前のほうで都合をつけるのが良いと思います。佐天さんたちがここに来たら、当麻さんは落ち着きませんでしょう? その、追い出すようなつもりはありませんけれど、入れ違いでインデックスの服を取りに行ってくださったら……」
「わかった。気にしないでいいよ、光子」
優しい手つきでまた当麻が頭を撫でてくれた。
目を合わせると、軽いキス。
突発的な入院のせいで夏祭りデートは中止になってしまったが、心の寂しさは埋められた光子だった。






インデックスの浴衣を取りに黄泉川家へ戻ったあと、エリスと合流して当麻たち三人は光子に聞いた場所を目指す。
「ごめんね、上条君。彼女さんが大変なのに手間かけちゃって」
「いいって。浴衣着れなかったら垣根のヤツが可哀想だしな」
「む、私のためじゃないんだ」
「いや、そういう言い方するとアレだろ?」
エリスのために都合をつけた、という言い方をするとむーっと怒る女の子が二人ほどいるのだ。
現に隣で咎めるように当麻を見る銀髪の女の子と、ただいま入院中の当麻の本命が。
「ふふ。尻に敷かれてるね、上条君」
「それくらいがいいんだよ。俺と光子は」
「とうまはすぐ他の女の人と仲良くなるんだもん。怒られて当然なんだよ」
「ひでえ。そんなことないだろ。……っと。ここらしいな」
柵川中学の学生寮。どうやら目標はここのようだった。詳しい場所は分からないから、当麻は光子に教えてもらった番号に電話する。
「はい、もしもし」
「あ、佐天さん、かな? 上条だけど……」
「こんにちは。もうこちらに来てらっしゃるんですか?」
「ああ。寮の目の前にいる」
「ちょっと待ってくださいね。……あ、いたいた、こっちです。おーい」
途中から声が電話じゃなくて直接聞こえるようになった。見上げると浴衣姿の佐天が手を振っていた。髪を結っていて、可愛らしい。
……もちろん当麻はそんなことを口には出さないが。
佐天は身軽にタタッと階段を下りてきてくれた。
「鏡があるし、私の部屋に案内しますね」
「サンキュ。それじゃあ、二人は着替えてきてくれ」
「はーい。とうま、変な人に声かけられちゃ駄目だからね」
「ふふ。インデックス、彼女さんみたいだよそれ」
「ち、ちがうもん! 私はみつこの代わりに怒ってるだけ」
「それじゃ、あの、佐天さん。着付け、お願いするね」
「よ、よろしくおねがいします……」
「はい。任せてくださいな」
フランクながら丁寧な感じのするエリスのお願いとは対照に、インデックスのは敬語慣れしていない子供の挨拶みたいだった。
それに苦笑いしつつ、当麻はインデックスに浴衣とインナーの入った手提げを渡してやった。
「そういや他の子はいないのか?」
こちらの女子メンバーも光子の見舞いからもう帰ってきているはずだった。
「あ、白井さんと御坂さんは寮の門限をこっそり破るらしくて、今は一旦帰ってます」
「こっそりって、大丈夫なのか? 常盤台なんて厳しそうだけど」
「白井さんはレベル4の空間移動能力者<テレポーター>ですからね」
「へー」
「あと、初春と春上さんって子は自分たちの部屋にいると思います」
「そうなんだ」
盛夏祭で会いはしたが、肝心の演奏はほとんど聴いていなかったので美琴とは微妙に会いづらい。
というか、先ほどの光子が受けた電話の辺りで、ようやくこのメンバーと美琴が知り合いだと知ったところなのだった。
またいずれ、きちんと自分が光子の彼氏なのだと、一応言っておかねばなと思う当麻だった。
もちろん美琴に対してではなく光子に対しての気遣いとして。

佐天に連れられて階段を上るエリスとインデックスを見送る。さすがにこの距離なら変なアクシデントも生じない、と思った矢先。
慣れない荷物のせいでつま先を階段に引っかけて、すってーん、とインデックスがこけた。
当麻も何度も見た事のある、白い綿のパンツが夕日に照らされた。
……何度も見たことがあるのはその、偶然と不幸の成せる技であって決して自分に負い目はないと当麻は思っている。
「とーーーうーーーーまーあああああああ!! ばかばか! こっち見なくていいんだよ!」
「す、すまん!」
……つい見てしまうのは実は当麻のスケベ心のせいなのは、当麻自身気づかないようにしていることなのだった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 02: 友を呼ぶ声
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/16 23:32

「私達はあっちで待ち合わせなんで」
「上条さん、失礼します」
「おう」
「佐天さん、今日はありがとうね」
「ほら、エリスが挨拶してんだしお前もちゃんとしろよ」
「……え? あ、ありがとね、るいこ」
夕焼けの川沿いを春上、初春、佐天と当麻、インデックス、エリスの六人で歩いてきた。
全員が中学生くらいの女の子達なのでちょっと居場所のない当麻だったが、いつもの保護者気分でいると最後のほうはなんかもう慣れてきたしどうでもいいやという感じだった。
ちなみにインデックスが歯切れの悪い挨拶をしているのは人見知りのせいではない。
珍しくストレートに、当麻に可愛いよと言われてしまったせいで戸惑っているのだった。
「婚后さんにいつもお世話になってるののお礼だから、気にしないでいいよ。それじゃあ、またね」
ぺこりと頭を下げたインデックスに笑い返して、佐天は土手を登った。
日本人ではない二人に着物を着付けたのだが、やはりエキゾチックな魅力というのはあるなぁ、と思っていた。
インデックスは光子のお下がりを貰って喜んでいたが、銀髪との対比が鮮やかな、いい色選びだったと思う。光子の事だからいくつかあるお下がりから選んだのではないかという気がする。
一方エリスも、自分で選んだとのことだったが、やはり黒髪と金髪では同じ色の服を着ても印象が全く違う。
ちょっと羨ましく思う佐天だった。実際、当麻にもインデックスが可愛らしく見えたらしかった。
……改めて、光子ではなくインデックスと当麻の関係が気になる佐天だった。
「あ、春上さん。ちょっと着崩れてる。キャミが見えちゃってるよ、こっち向いて」
「ありがとうなの」
ちょっと隣で初春が悔しそうな顔をするのを見て、佐天はクスリと笑った。
お姉さんぶりたいのだろうな、なんてクラスメイト相手に思ってしまったのだった。
「お待たせしましたわね、皆さん」
「おー、春上さんも初春さんも、佐天さんも素敵ね」
ようやく寮監の監視から解放されたのか、少し遅れて白井と美琴がやってきた。運良くというか、全員上手く浴衣の色がばらけて、綺麗に並んでいた。
白井の紫や初春の桃色にはなんだか納得。そして美琴のオレンジ、というか黄朽葉色の浴衣は五人の中でも落ち着いた色で、大人っぽく見える。
本当はもっと可愛らしいデザインのを着たいんじゃないのかな、なんて邪推を佐天はするのだった。

あたりはそろそろ夜。
鼻をくすぐる祭りの匂いが濃くなって、なんとも食欲が出てくるのだった。
こういうときの切り込み隊長を自認しているので、佐天は勢いよく言った。
「あっ、あっちのほう、かなり夜店出てる! ん~っ、我慢ならん!」
「ちょ、ちょっと佐天さん! 土手を走ったらこけますよ」
「私も行こうっと!」
「あ、お姉さま! そんなに走っては……んもう!」
次に続いたのが美琴だった。白井は着崩れるのが嫌らしく、走らずに能力で飛んできた。
「春上さん、私達も」
「うん!」
いちばんおっとりしている春上・初春組も祭りの雰囲気に当てられて、はしゃいでいるようだった。




とりあえず、五人でたこ焼きを食べた。
春上はそれから林檎飴を完食し、お好み焼きをほおばり、そして今、スーパーボールすくいをやる初春の後ろでフランクフルトをかじっていた。
風紀委員の癖で自分では使い切らない量のティッシュを持ち歩く初春も、そろそろストックが切れそうだった。とにかく春上は、良く食べる上にほっぺたにソースだのをつけるのである。
可愛い顔をしているせいか不思議と怒る気にはならないのだが、このペースだと近いうちにソース類を初春はお気に入りのハンカチで拭いてあげることになる。
染みが残るのはちょっぴり嫌なのだった。
「春上さんはやらなくていいんですか?」
「うん。見てるだけで、すごく楽しいから。こんなに色々遊んだの、初めてなの」
「やりたいのがあったらいつでも言ってくださいね、私も得意じゃないですけど、お教えしますから!」
「うん! ありがとうなの」
気持ちはわからないでもないが、春上は金魚すくいで実際に掬うのをやらずとも、水槽の中の金魚を眺めるだけで満足できるらしかった。
「もうちょっとしたら花火ですね」
「そうなの?」
「ええ。大きな川が流れてる学区は限られてますから、ここの花火は学園都市じゃ大規模なほうで、人気なんですよ」
「おおー」
「一時間くらいありますから、食べ物を買って食べながら見ましょうか」
「うん。そうするの」
普段からあれこれ遊んでいるせいでカツカツの初春は、実はもうあんまり食べられないのだった。




「はぁぁ……」
ぽやー、と美琴は一点を見つめていた。視線の先には、お面のかかった屋台。
デパートの屋上でやるヒーローショーで熱くなれるくらいのお子様向けのものだと言っていいだろう。そこに何の因果か、ゲコ太のお面がかかっていたのだった。
奇跡のようなめぐり合わせに、美琴は身動きが取れないほど魅了されていた。
だって、このお面がそう売れるとは思えない。現に美琴が見つめている間に売れていったお面は、どれもこれもヒーローモノや女の子向けの魔女っ子アニメのお面なのだ。
ゲコ太は子供のなりきりたいキャラではないので、到底売れそうにもない。
……ふと気づくと、隣には銀髪の女の子。
こちらもぽやーっとお面、どうやら超起動少女(マジカルパワード)カナミンのを見つめているらしい。
「おーい、インデックス。何見てるんだ」
「と、とうま。なんでもないんだよ」
「お面? ……って、御坂じゃないか」
「んなっ、ななななななななんでアンタここにいんのよ?!」
「第七学区の夏祭りにいたらおかしいのかよ……。で、ビリビリお前は何見てんの?」
「へっ? いやっ、うえぇっ?」
隠せるわけもないのに、お面の屋台を当麻から隠すかのように美琴が手を広げる。
その様子を見て、インデックスが深いため息をついた。
「とうま。この女の人は誰?」
「えっ……?」
美琴はガツンと頭を殴られたような衝撃を覚えた。
どう見ても年下にしか見えないこの少女は、今、なんと言っただろう。
まるで恋人が嫉妬しているかのような、そんな口ぶり。
「え? 常盤台の寮祭で会ってなかったっけ」
「知らない。会ってたら私、絶対覚えてるもん」
「光子の同級生だよ」
「ふーん……」
まるで二人の会話が頭に入らない。二人の距離が、仕草が、あんまりにも近すぎる。
友達だとか知り間とかの距離じゃない。もっと、近しい人たちの距離感だ。
お祭りの熱が急に冷めそうなくらい、美琴は嫌な汗をかいていた。
「その、あ、あ、あんた達って、つつ、付き合っ……」
「ん? ああ、違うぞ」
「え? そうなんだぁ……でででもっ、じゃなんで二人で」
「いや、ホントはもう一人いたんだよ。それだけだ」
「そ、そっか。じゃあ、なんでもないんだ」
「ん、まあ、そうだな」
「確かに恋人とかそう言うのじゃないけど、なんでもないって言われるのは心外かも。この人こそ当麻の何なの?」
「何って、知り合いだよ」
「どういう?」
「……俺たち、どういう知り合いなんだろうな?」
「私に振るな!」
ふーふーと美琴は荒い息をつく。そしてさすがに周りの目を集めていることに気づいて、ちょっと心を落ち着けた。
どうやら、目の前の少女の詳しい情報を集めるに連れ、心は落ち着いてくれたらしい。良く分からないが。
そして向こうにも余裕が出来たのか、思いついたようににやりと当麻が笑った。
「で、インデックス。お前、これ欲しいのか?」
「い、いらないもん。こんな子供っぽいの、買ったってしょうがないんだよ」
それを聞いて当麻はさらにニヤっとした口元を歪める。チラチラ見るインデックスの視線が、言葉と裏腹だった。
そしてもっと面白いのが、美琴だった。インデックス以上に年上だと当麻も思っているのだが、なかなかどうして、可愛いところがある。
「御坂。お前もこういうの、子供っぽいと思うか?」
「……あ、当たり前でしょ。中学生にもなってこんなの!」
「買ってやろうか?」
当麻は二人に声をかけた。値段は良心的で、二個で五百円だ。
「ば、馬鹿にしてんじゃないわよ!」
「そうなんだよ! 私のこといつもいつも子供扱いして!」
「お前ら子供だなあ。童心に帰ってお面を買うのが恥ずかしいとか、むしろガキの証拠じゃねえか」
「え?」
「子供じゃないってのは、たまには遊びでこういうの買うものアリかなーって思う余裕があって言える事だろ」
高校生論理を振りかざして、当麻は上から目線でニヤニヤと二人に諭してやる。
なんだか全く新しいものの見方を覚えたような顔で、二人はぼんやりと当麻と、そしてお面を見た。
「ほれ、インデックスはカナミンで、御坂、お前はこのカエルか?」
「カエルじゃなくてゲコ太! ……じゃなくて! なんで、それって」
「お前の携帯、たしかこのモデルだろ?」
「うん……」
当麻が自分のことを知っていてくれたのが不意にうれしくて、美琴は口ごもった。
「よし、おじさん、これとこれ二つ!」
「あいよ!」
「ほれ」
当麻が財布から硬貨を取り出して、僅か数秒。
インデックスと美琴は、それぞれ内心で欲しいと思っていたものを、ゲットしてしまった。
「むー、だから私は別に」
「ほらインデックス、かぶるのが恥ずかしかったらこうやって帯に留められるから」
「別に、私アンタに欲しいって言った覚えないし」
「だな。別に礼はいらないぞ?」
「……ありがと」
これ以上、恥ずかしくていてもたってもいられなくなった美琴は、そのまま当麻の前からフェードアウトした。
素直に喜びを表せなかったことがちょっぴり悔やまれるのだった。




辺りに白井がいなくなったのに気づいて、美琴は集合場所へ向かう。
花火がそろそろ始まるから、穴場に向かうとのことだった。
「あ、お姉さま。どこへ行ってらしたの……って。そのお面」
「なによ」
「別に、人の趣味をとやかく言うのは好みではありませんけれど、お姉さまは常盤台のエースとしての風格を……」
「あーもーうるさいわね。別に自分で買ったんじゃないし」
「え?」
「な、なんでもない。いいじゃない。童心に返ってこんなの買ったって」
「お姉さまは童心に返るのではなくてずっとお子様なだけでしょうに」
もう、と白井が嘆息していると、次々に佐天と初春、春上も集まってきた。
「お、みんなそろってるねー。それじゃ、案内しますよっ。イ・イ・ト・コ・ロ♪」
「佐天さん、言い方がいかがわしいですよ……」
もふもふとベビーカステラをほおばる春上がコクンと頷いた。
「変なところじゃないですよっと。ちょっと川上にある公園にテラスがあって、そこから良く見えるんです」
「それじゃそこでゆっくりと眺めますか」
美琴が佐天に並んで、目的地を目指して歩き始めた。


ドーン、と空振が花火から自分たちの下へと伝わってくる。
パリパリとした肌を撫でるような響きと、お腹の底にくるような響き。
花火につきものの夏の風情を体で感じながら、五人は空を見上げる。
「ほら! また上がりますわよ!」
「おー」
珍しく白井まではしゃいで、空を眺める。
「すっごくきれいなの……」
「そうですねえ」
「飾利、キミの瞳のほうが、ずっと綺麗だよ」
「……なんの真似ですか佐天さん」
「真似じゃないよ。心の底からそう思ってるの」
「はあ……」
「うーん、初春ノリ悪い」
「佐天さんがはちゃめちゃなんですよ!」
「ふふっ」
初春と佐天の馬鹿なノリを見て春上が笑った。
「どうしたんですか? 佐天さんが面白かったですか?」
「初春……それ取りようによっちゃ酷いこと言ってる様に聞こえるんだけど」
「気のせいです」
「初春さんと佐天さん、仲、いいんだなあって」
きょとんとした顔で、初春は佐天と見詰め合ってしまった。
春上が胸元から、ペンダントを取り出す。それをそっと握り締めて、語り始めた。
「思い出してたの」
「……何を?」
「あのね、昔、私にも佐天さんと初春さんみたいに、仲のいい友達がいたの」
「そうなんですか。でも佐天さんみたいな人、珍しいですよ?」
「だから初春、なんか酷いこと言ってない?」
「そうですか?」
「佐天さんとはちょっと違う感じだったけど、明るい子で、ぼんやりしてる私を色んなところに連れてってくれて……」
「へー。……えっと、昔ってことは」
そこで不意に、昔語りに頬を緩めていたところに何かが憑いたような、そんなぼんやりした表情を春上が見せた。
何かに耳を傾けるように、顔を上げて辺りを見渡す。
「あの、春上さん?」
「……どこ?」
「え?」
「また、呼んでるの」
「春上さん、どうしたの?」
突然の豹変に初春と佐天は戸惑う。
そして二人の混乱をよそに、春上は踵を返して、テラスから公園内部へ続く階段を上り始めた。
「あ、ちょっと! 待ってください春上さん!」
「どうしたの?!」
慌てて初春が追い、佐天も遅れてその後を追う。
隣にいた白井と美琴は、どうやら花火の音にかき消されてこちらの異変に気づかなかったらしい。
のほほんとした目で離れていく初春たちを見ていた。




声が、聞こえる。
少し前からたびたび感じる、誰かに呼ばれている感覚。
低レベルとはいえ精神感応者<テレパシスト>である春上にとって、音や、言語というものすら媒介としない思念の交感は未経験のものではない。
ラジオが時々予期しない電波を拾うように、何かが聞こえてくることというのはある。
だけどこの声は違っていた。
迷子になったときみたいな不安を乗せた、助けを求める響き。
そして声の主は、どこか懐かしいというか、聞き覚えがあるような声で。
「どこなの? ねえ、応えて……」
その声は、日に日に春上の現実感を奪っていっている。
初めてその呼び声に気づいたときには、いつものノイズと同様に意識からカットしていた。
なのに何度も呼びかけに気づき、戸惑っているうちに、いつしか春上は引きずられていた。
まるで自分も居場所が分からない迷子になってしまったかのように、不安を埋めるために互いを引き寄せあい、共鳴し、そして声の主とのリンクをより太くする。
こうなったときの春上は決まって意識を手放したり、そうでなくとも声が聞こえなくなって数分が立つまで白昼夢を見ているかのように硬直したりする。
今が、まさにそうだった。
春上にはもう、初春と佐天は見えない。
「どうしたんですか? 春上さん、春上さん!」
「どこかわからないよ……教えて。絆理(ばんり)ちゃん」
ガタリと、地面が揺れた。
「えっ? じ、地震?!」
「絆理ちゃん……」
「春上さん! 動いちゃ駄目です!」
本震に先行する疎密波、先触れとなるカタカタとした小さな揺れを経ることなく、唐突に地面が揺れている。
フラフラと歩いていこうとする春上を抱きとめて、初春は足を踏ん張って揺れに耐える。
そうしなければ躓いてしまいそうなほどの揺れ。
「御坂さん!」
「お姉さま!」
階下のテラスでは、その一部がガラガラと崩れかけていた。
慌てて白井がテレポートを使って美琴と共に安全圏へと非難する。
「良かった。初春も気をつけて!」
「私は大丈夫です! 佐天さんこそそんな場所危ないですよ!」
佐天は階段の中ほどにいた。確かに、倒れれば一番危険な場所だ。
幸いに揺れも収まってきたから初春のほうに歩いていこうと、そう思ったときだった。


ギギギギ、と金属が軋む音がした。
テラスの崩れる音にまぎれて、その音源が階上の電灯であることに、佐天以外の誰も気づいていなかった。
電灯の足元、数百キロの金属棒が倒れこむその先にいる、初春と春上でさえ。


「初春! 危ない!」
「えっ? くっ――! 春上さん!」
地震の引きと同時に崩れていた春上を助け起こして横へと逃げるのは、非力な初春には無理だった。
それでも、せめてもの助けになれればと逃げずに春上に覆いかぶさった。
「逃げて!」
佐天は、その一部始終を見たところで、初春達に目を向けるのを止めた。
自然と、本当にごく自然と、体が動いていた。
――超能力なんてものは、たいそうな名前をつけて特別視するようなことじゃない。
そんなことを、しばらく前から佐天は感じ始めていた。自転車をこぐことを、現代日本人は特別視しない。二輪車に体を預けてバランスを取る行為は、ほんの100年前まで一部の酔狂な人だけの行為だったのに。
それと同じなのだ。超能力なんてものは、使える人にしてみれば、咄嗟にでも使える自分の身体能力の一部でしかない。
佐天の意識しないところで、呼吸が整えられる。
スッと必要なだけの息を肺に留めて、視線の先に渦を作った。
階段の隣の上り坂、その足元。佐天の歩幅よりいくらか広い間隔で数個並べたその渦を、佐天は躊躇いなく踏みつける。
「初春!」
その試みは初ではない。佐天の想像力の範囲で、すでに試したことのある応用。
――渦で蓄えた高圧空気を踏みつけて、バネ代わりにして加速の手助けをする。
文字通り一足飛びに、佐天は坂を駆け上がる。
ポールの倒れこむタイミングは、佐天の測ったとおり。まさに佐天の鼻先を掠めるところ。
それに、佐天はフックの軌道で掌打を叩き込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
浴衣の着崩れなんてお構い無しに、手のひらに作った最大出力の渦をぶつけた。
佐天のコントロールを離れ爆縮をやめた渦が、そのエネルギーを撒き散らす。
その爆発の方向性をちゃんと制御することは出来なくて、電柱の落下軌道を変えるだけの運動エネルギーの一部が佐天にも伝わり、右手は激痛を発しながら弾け飛ぶように電柱から離れた。


ドゴォォォォォンンン


数メートルの電柱は共鳴しながら重い音を吐き出して、地面に転がった。
初春と春上の、すぐ30センチ隣。アスファルトを舗装しなおさなければならないような深い爪あとが刻まれていた。
「あ、ぐ……いったぁ」
「初春さん! 佐天さん!」
「大丈夫ですの?!」
すぐさま白井と美琴が駆けつける。だが当たらなかった電柱は、当然ながら春上と初春には何の危害も及ぼさなかった。
「あれ……?」
「大丈夫? 初春」
「佐天、さん?」
初春は、目の前で右手を胸に抱いて顔をゆがめた佐天が自分を見つめているのに気がついた。
自分の下にうずくまる春上にも目をやったが、怪我はなさそうだった。
「これ、もしかして佐天さんが?」
「うん。意外と、こういうときに体って動くもんなんだねぇ」
「な、何のんきなこと言ってるんですか?! こんな危ないこと、しちゃ駄目ですよ!」
「でも初春と春上さんを、守れたよ。へへ……」
「それはそうですけど……って、佐天さん!?」
「ちょっと手を拝見しますわ!」
風紀委員の実働部隊として怪我慣れした白井が、すぐさま佐天の右手を診た。
ほんの一瞬前のことだ。佐天自身が感じている痛みを別にすると、外見的には手には何の変化もない。
「痛みますの?」
「……正直、かなり」
「出血はありませんけど、骨折の類、ひびくらいは覚悟されたほうがよろしいわ」
「まあ、仕方ないよね。この怪我と取引にしたのが何かって考えたら、全然安いけど」
「とりあえずすぐ病院に行きましょう。春上さんは?」
「原因は分かりませんけれど、気を失ったみたいです」
地震も収まり、ようやく状況が落ち着いた辺りで、遠くからカシャンカシャンと機械音が近づいてきた。
災害用パワードスーツ、それもあまりいい趣味とはいえないピンク色の期待だった。
「怪我はない? 大丈夫?」
「MAR……先進状況救助隊?」
「そうよ。その子、怪我?」
「はい! 咄嗟に私達を庇ったときに自分の能力で右手を……。あとこっちの子はちょっと気を失っただけです」
「そう。あちらに救急車両を用意してあるから、まずはそちらに行きましょう」
そう言ってパワードスーツは顔の部分のスモークを解除し、素顔を見せた。
長い髪をきちんと留めた、流麗な素顔の女性。
「貴女は……!」
つい数時間前、会議室で講演をしていた女性、テレスティーナだった。




当麻とのキスは、たっぷりソースの味がした。
「ん、ふ……」
「光子、可愛いよ」
誰もいない二人きりの病室で、花火を遠目に見ながら当麻と光子はキスを交わした。
光子にあてがわれた個室は窓の大きい部屋だから、花火見物のちょっとした特等席だ。
当麻は唇を離して、傍らに置いたたこ焼きに手を伸ばす。
「もう一つ、食べるか?」
「ええ、くださいな、当麻さん」
「ん」
夏祭りの会場である川沿いから時間をかけて持ってきたので、中がほろ温い程度にまで冷めている。
当麻はたこ焼きが口から少しはみ出るようにくわえて、もう一度光子に口付けをした。
最初は恥ずかしがっていたが、もう三個目だ。当麻から口移しで食べさせてもらうのにも、慣れてきていた。
「ん……」
当麻と唇をはしたなく触れ合わせて、当麻に歯を立てないよう気遣いながら、そっとたこ焼きを噛みちぎる。
たこの足が中々噛み切れなくて、まるで舌を吸い合うような深いキスをしたときみたいに、長く口を押し当ててしまう。なんだかそれが、やけに恥ずかしい。
唐突に当麻が、自分の後頭部を抱いたのに光子は気づいた。そのまま、ぐっと唇を強く押し当てられる。
「んっ! んぁ」
当麻の口から貰った分け前、まだ咀嚼すらされず光子の舌に乗ったたこ焼きの中身に、当麻が舌をねじ込む。
ソースの旨みが絡んだ半熟のたこ焼きのトロリとした感触と、当麻の舌が舌を撫ぜる感触。
性欲と食欲をぐちゃぐちゃにかき混ぜて楽しむようなその行為に、光子はいけないことだ、汚いことだと忌避感を感じる裏で、ひどく、体を高ぶらせていた。
食物は神の賜物、スパイスは悪魔の賜物。上手い格言があるものだ。背徳という名のスパイスは、確かにキスを極上の味に仕立て上げるものだった。
「っふ、はぁ……。と、当麻さん。もう、だめですわ。インデックスが帰ってきてしまいますから……」
「見られても、別に困らないけどな」
「困ります! こ、こんないけないキス、見られたわ死んでしまいますもの……」
だんだん、当麻に流されている。光子は最近の自分を振り返ってそう思っていた。
常盤台の、それも立ち入り禁止のボイラー室で貪るようにキスをしたり、今だって、口移しなんでレベルじゃなくて、もっといやらしいキスをしたり。
……嫌ではないのだ。ついその行為に溺れてしまう自分がいるから歯止めがきかないのだ。
このままでは、すぐに、引き返せないところまで行ってしまいそうで、不安になる。
「ま、まあ、今のはちょっとやりすぎだったかな」
「当たり前です! こんなの。だって私、出店のたこ焼きをいただくのだって初めてだったんですのよ?」
「え、そうなのか。……光子の初めて、もらっちまったな?」
「――――っっっ!! 当麻さんの莫迦!」
何を揶揄したのかすぐに光子は理解して、顔を火照らせた。
もう一言言ってやろうと思ったところで、これ見よがしな音量でコンコンと扉をノックされた。
「もう、みつこもとうまも病院なんだからもっと静かにするんだよ。廊下までイチャイチャが聞こえてて、入りにくかったもん」
「なっ――」
「みつこも、とうまに久々に会えたから嬉しいのは分かるけど、とうまのエッチに引きずられちゃ駄目だよ」
「……」
何も言い返せない光子と当麻だった。
肌を重ねているところを子供に見られた夫婦のように、酷く居心地の悪い思いをしながら、光子は病院着の襟を正して、口元を拭いた。
「お、俺。トイレ行ってくるわ。ついでに飲み物買ってくる」
インデックスと二人で残された光子の恨めしい視線を見ないようにしながら、当麻はその場を逃げ出した。




トイレを済ませて自販機を捜し歩いていると、曲がり角の先で二人の女性が向かい合っているのに気づいた。
どちらも長髪で、一方は二十台半ばのスーツ姿、もう一方は洒落たコートを着た大学生くらいの女性だ。
口論というわけでもないのだが、剣呑な雰囲気を醸し出している。思わず当麻は一歩下がって耳を澄ませてしまった。
「ようやくお勤めは終了? 随分と待たせてくれたわね」
「こう地震が続くと、先進状況救助隊の隊長ってのは、寝る暇がないくらい忙しいのよ」
「そう。きっとお肌のお手入れも大変なんでしょうね」
ほんの少しの年齢差を嵩に、大学生の方が嫌味を言った。
「ええ、本当に困ってしまうわ。あなたももうすぐ同じ境遇だから、気をつけることね」
ギスギスとした雰囲気。だが表面上だけでも冗談を飛ばしあっているのは、互いを牽制する狙いがあってのことだ。
「それで、こちらの依頼していた品は出来上がったの? 木原さん?」
「私の姓は『ライフライン』よ。テレスティーナ・木原・ライフライン。変にミドルネームで呼ばないで頂戴。第四位さん」
「これは失礼したわね」
「それで、依頼の品だけど」
テレスティーナは、ポケットから無造作に、目薬より一回り大きいくらいの、透明なケースを取り出した。
中には粉薬が入っている。
「学園都市で最高純度の体晶よ。ありがたく思って欲しいわね」
「もちろん。混ざり物の多い体晶で一発で壊れられちゃ、使いどころに困るもの。いいものを渡してくれたわね。……で、これって貴女の脳味噌から取り出したの?」
「さあ? それを聞いてどうするの」
「暴走しない程度に舐めてみようかと思ったんだけど、貴女の脳汁だって思うと躊躇っちゃうのよね」
麦野はファミレスで雑談を交わすのと同じ顔で、そんな言葉を吐き出していく。
テレスティーナは丁寧に作った顔で応対するのが、だんだん馬鹿馬鹿しく感じてきた。
どうせ目の前にいるのは、顔は整っているがただの下種だ。
「体晶はどれもこれも全部脳汁だろうが。気にいらねえんならさっさと返せよ」
「だから気に入ってるって言ったでしょう? そちらこそ、予算が欲しいんなら下手なことはしないことね」
二人の会話の中身は聞き取り辛く、また出てくる単語の多くが当麻には良く分からなかった。
……夜の病院でああいう会話をされると、やけにいかがわしいというか、犯罪めいた匂いがするよな。
そんな自分の考えを鼻で笑いつつ、こっそり逃げるのもおかしなことかと思って自販機にコインを入れてボタンを押した。
ピッ、ガシャコン、と自販機はお決まりの音を立てて、目的のジュースを吐き出す。
それをぐびりとやりつつ、後ろを振り返ることなく当麻は病室へと戻った。



[19764] ep.3_Deep Blood 01: 第五架空元素
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/17 02:28

川の向こうに上がる花火を、エリスと垣根は黙って見つめていた。
お腹はいっぱいだ。エリスの予算に合わせてそれなりに遊んでそれなりに食べた後、エリスが申し訳なく思わないギリギリの所まで、垣根がおすそ分けだなんて言いながらおごってくれたから。
インデックスたちから離れ、垣根に会った瞬間の、あの顔を思い出してクスリとなる。自惚れじゃなく、あの顔は自分に見とれている顔だったと思う。
まあ、本人の口から綺麗だなんて言ってもらえたから間違いはないだろう。
その後ここまでのエスコートをしたのが当麻だったことに妬き餅を焼いた垣根をなだめて、夏祭りを堪能したのだった。
花火は、もうすこししたら終わってしまうだろう。
はっきりとは門限のないエリスだったが、さすがにもう遅い時間だ。帰らなければならない。
そしてそれを知って、さっきから垣根が何かのタイミングをうかがっていることに、エリスは気づいていた。
「花火、綺麗だね」
「お前のほうが綺麗だよ、エリス」
お世辞が即答で帰ってくる。とても軽薄な調子だった。
垣根が本音を言うときはそうやって誤魔化すのだと、エリスはもう知っている。
「ありがとう」
「……」
調子が狂うとばかりにへっと垣根がそっぽを向く。これは照れ隠しだ。
自分の行動パターンを見透かされたせいで、戸惑っているのだ。
「ていとくん、可愛いね」
「あ? この顔のどこに可愛らしさがあるんだよ。エリス、眼鏡かコンタクトでも買いに行くか?」
「ふふ。ツンデレに萌えるってこういうことなのかなぁ」
「……」
きっとお祭りのせいだった。いつもなら垣根をこんな風に追い詰めたりしない。
もっと距離をとって、近寄られてもいなせるように、ずっとエリスは気を遣っていたのに。
本当に今日は楽しかった。浴衣を着て、気になる男の子と夏祭りの屋台を見て歩いた。
その幸福感に、大切なことを忘れてしまっていたのだろうか。
エリスの隙を突いて、垣根が、エリスを強引に抱き寄せた。
「ててて、ていとくん……?」
「エリス」
名前を呼ばれて、ドキンとなる。主導権を取っているはずなのに、あっという間に奪い返された。
「今度こそ逃げずに、真面目に、俺に向き合って欲しい」
「……駄目、だよ」
「どうして?」
「駄目なものは駄目」
「本気で俺に向き合ったら、惚れちまうからか?」
「さあ。……ていとくんは気障だね。そういうの、女の子は本気にしちゃうから駄目だよ」
それは半分本当で半分嘘だった。垣根は格好の良い男なので、気障なことを言われるとクラリとなるのは事実。
だけど、今更エリスはそれでなびいたりはしない。だって、もう、エリスはとっくに。
「なあエリス。俺のことを気障だとか口が上手いとか散々言うがな、俺は童貞だしファーストキスもまだだ」
「えっ?」
「……さすがに俺も傷つくから聞き返すなよ」
「うん、ごめん。でも意外」
「エリス以外に惚れた女がいないんだから当然だろ」
「……」
そういう言葉に、女は弱い。エリスだって弱い。
また、エリスは垣根にもっと強く惹かれた自分を感じた。
……だけど、駄目なのだ。垣根とは、一緒にいられない。
「ていとくん」
「エリス。俺は何度振られたって言い続ける。俺と、付き合ってくれ」
「……あのね、嬉しいとは、思ってるんだよ」
「事情があるから、俺のお願いに応えられないんだろ?」
「うん……」
「お前が教えないでいること、教えてくれ。全部、俺にも半分背負わせてくれ」
「いつもいつも、ごめん。それは、出来ないから」
また、いつもの返事だった。こんな言葉で、いつも曖昧なままはぐらかされてきた。
だけど、今日は引かない。そう決意したからこそ、垣根は胸の中にエリスを抱く。
「絶対に、駄目か?」
「……絶対に、駄目、だよ」
「じゃあ、こうされるのも迷惑か」
「それは……」
「嫌ならはっきりとそう言えよ。俺は小心者だからな、お前に本気で拒まれたら、きっと俺は追えやしない」
「嘘だよ。ていとくん、何度断っても付き合ってくれって言いに来るもの」
エリスは、これまで本気で垣根を拒んだことはなかった。
好きだと思うほど価値がない相手だとか、嫌いだとか、あるいは他に好きな男がいるとか、そういう断る理由を、明確に提示してこなかった。
垣根が言う、本気の拒否というのはそういうものだ。そしてエリスにはそんなことは出来ない。
だって、垣根は魅力的な男の子で、嫌いなことなんて全くないし、垣根以上に好きな男もいないから。
今だって、エリスが腕に力を込めて離れようとすれば、垣根は抗わないと思う。だけど出来ない。
好きだといってくれる男の子に、真正面から気持ちをぶつけられて、嬉しくない女なんていないから。
「エリスはいつだって、本気で拒んでない」
「あー、そういう思い込みは良くないんだよ?」
「茶化すなよ、エリス」
頬に、手を当てられた。川沿いとはいえ真夏は暑く汗をかいているから、垣根に触られるのが恥ずかしい。
視線をぶらさず、真摯に見つめてくる垣根の瞳に、エリスは身動きが出来ないでいた。
「キス、していいか」
「えっ……?」
「順番がおかしいけどな。踏ん切りがつかないんだったら、ちょっと強引にでも唇を奪っちまうぞ」
「あ……」
垣根は、待たなかった。エリスの逡巡を見透かしていたのかもしれない。
あっという間に、唇と唇の距離を詰められる。
思わずそれに流されそうになって。
「駄目!!」
はっきりと拒否の意を示すように、バッとエリスが垣根から逃げた。
そして傷ついた垣根の表情に気づいて、エリスは自分のしたことの意味を悟った。
「ご、ごめん。ていとくん……」
「……いや、謝るのは俺のほうだろ。すまん、悪かった」
「違う、違うの。その、ていとくんを拒んだのとはちょっと違って」
必死でエリスはフォローの言葉を考えた。
垣根に嫌われるのが、怖い。
ずっとアプローチしてきてくれる垣根に甘えていたせいだ。拒んでいるくせに、決定的に自分の下を去られてしまうこともまた怖いのだということを、つい忘れていた。酷い女だと自分でも思う。
踏み込まれたくない一線の一歩手前で、ずっと垣根には留まって欲しい。
何度も告白をしながらそのつど自分に断られる、そういう状況で満足して欲しいと、自分はそう思っているのだ。
どう考えたって、そんな自己中心的な願望は叶わないだろう。
「エリス。どうあっても、俺に諦めろって言うのか」
「……」
「エリスの元に、俺はもう現れないほうが良いか」
「駄目……やだよ」
「じゃあ、どうすれば良い?」
垣根は、泣きそうな顔のエリスを見て、抱きしめたい衝動に駆られる。
エリスが大好きで、エリスのために尽くしてやりたいと思う垣根にも、出来ないことがあった。
たぶんエリスが望んでいるであろう、近すぎず遠すぎない今の関係を、ずっと維持することはできない。したくない。
もっと、エリスと深い仲になりたい。
「ごめんね、ていとくん。私にもわかんないや……」
「背負わせてくれ。エリス、お前は何か俺に遠慮するような事情があって、ずっと拒んでるんだろう。それを、俺にも背負わせてくれ。人より、俺は少しくらいは役に立つと思う。俺の力が、エリスのためになるなら、こんなに嬉しいことはない」
「ていとくん……」


「エリス。俺のことは、嫌いか?」
だまって、エリスが首を横に振った。


「俺に踏み込まれるのは、嫌か?」
また、首を横に振った。


「そうか、じゃあキスするぞ」
返事は無かった。ただ、何度も拒まれたのに、今回は、それが無かった。
だから垣根は迷わず、再びエリスを胸の中に抱きしめた。
「ていとくんは、女たらしだね」
「お前を口説き落とすテクならいくらでも磨かないといけないからな」
「……ねえ」
「ああ」
エリスが、初めて、垣根の胴に腕を回した。きゅ、と抱きしめられる感触がする。
たったそれだけでも、垣根は頬が緩むのを止められなかった。
エリスが初めて見せてくれた、弱さだった。
「結構、ヘビーな内容だよ」
「そうか。俺も結構笑えない人生送ってるぜ。不幸自慢でもするか」
「ふふ。ていとくんの話も、聞かせて欲しいね」
エリスは、一線を越えてしまった自分の心に、後悔を感じる反面、重荷を下ろせる安堵と、垣根を受け入れられる嬉しさを噛み締めていた。
もう、自分は堕ちてしまった。
学園都市第二位の実力者は、きっと、自分のために大変な苦労を背負うことになる。
垣根を不幸にするのは、きっと自分だ。
……でも、きっと垣根を幸せに出来るのも自分じゃないかと、必死にそう思いこむ。
「ねえ、ていとくん。私の心臓の話、しようか」
「……ああ」
そっと、エリスは自分の胸元に手を当てる。
いつもと変わらぬ拍動が、エリスという存在を主張していた。
だが心臓を構成する材質は、ヒトとは決定的に異なる。




「第五架空元素」
「え?」
「私の心臓を形作っている元素の名前。ていとくんは、聞いたことあるかな?」
「いや……。というか、魔術(オカルト)じみた単語だな、それ」
「うん。だって、その通りだから」
エリスは苦笑いした。垣根は典型的な学園都市の生徒だ。オカルトには、勿論疎い。
とはいえそう科学と無縁なものでもないのだ。
「1904年まで、科学者も信じていた元素だよ。ローレンツ収縮が滅ぼすまで、それは優れた科学者達が皆躍起になって観測しようとしていたもの」
「……」
垣根はその情報を元に、思索をめぐらす。
ローレンツ収縮は、当時大きな矛盾を抱えていた二つの学問をすり合わせるために考えられた仮説だ。
今では正しい理論だとされ、科学の体系の中に、特殊相対性理論という名前で組み込まれている。
互いに矛盾していたのは、力学の中で公理となるガリレイ変換と、マクスウェルが完成させた電磁気学。
「光の速度についての取り扱いの話、だったっけか」
「そうだよ。さすがは第二位の超能力者、だね」
「科学史の成績で能力は測れねーよ」
電磁気学は、そして、現代の物理学は、光が誰にとっても一定速度であるということを根本的な事実と捉えている。
これは、人類の常識的な感覚からするとおかしなことだ。
100キロで走る車から、100キロで走ってくる対向車を見つめれば、相手は200キロで走っているように見える。
これがガリレイ変換だ。力学の大前提と言える。
これを適用すると、太陽に向かって進む人間から見た光と、太陽から遠ざかる人間からみた光の速さは、違うことになる。
だから日の出の時と日の入りの時に光速を測定すると、値が違うことになるはずなのだ。
「力学の常識で言えば光の速度は人によってまちまちのはずなのに、電磁気学は誰にとっても一定の値だと要請する。この矛盾を、1904年以前の人たちはどう解決する気だったか、ていとくんは知ってる?」
それで垣根は、エリスが第五架空元素と呼んだそれが何か、ようやく気づいた。
「宇宙を満たすエーテルによってその矛盾は説明される、って。そういう『信仰』を持ってたんだっけか」
「そう。結局はアインシュタインが特殊相対性理論を完成させて、エーテルは科学からは見捨てられたんだよね」
「……なんか引っかかるな。科学からは、ってさ」
「うん。言葉どおり、科学からは、見捨てられたんだよ」
いつしか花火はやんでいた。騒音が無くなり、遠くから喧騒が再び聞こえるようになっていた。
エリスは暑くなって、そっと垣根の腕を振り解く。そして自分の腕に絡めて、寄り添った。
「エーテルって言葉には、とても沢山の意味があるよね」
「化合物にもあるしな」
科学は1904年に捨てたのとは別の意味で、揮発性の有機物にもエーテルの名を冠していた。
「魔術でもね、沢山の意味があるんだよ。属性の無い魔力そのもののの塊もエーテルって呼ぶし。そのときには架空を抜いて第五元素って呼ぶんだけどね」
「……なんつうか、俺の常識には無い話だな。それ」
「うん、魔術なんてていとくんは信じてなかっただろうけど、聞いて欲しい。あと受け入れられなくても、納得して。私の心臓を形作る物質はね、天空に架かるほうの第五『架空』元素なの。古代の叡智を結晶化させた哲学者、アリストレテスが人類の手の届かぬ高みに見出した、神が住む天界の構成元素。それが第五架空元素、エーテルなんだよ」
「エリスの心臓は、それで出来ている?」
「うん、そう」
「……どう納得して良いかわからないけど、信じることにする」
垣根は心のどこかで、エリスの説明に納得していた。
垣根提督は科学が今、必死になって突き詰めようとしているテーマ、『物質とは何か』の答えに最も近い人間だ。
そして『未元物質』を創生する中で、やがて窮理の果てに、人類がオカルトと呼んで捨ててしまったものを再び手に取る必要性があるのではないかと、そんな匂いを感じていた。
だから、エリスの言うことは、なんとなく信じられる。
垣根は続きを促した。
「それで、そんな変わった物質が、エリスの胸の中に納まってる理由はなんなんだよ?」
「うん……それを話すとね、酷い話をいくつもしなきゃ」
元素の名前を漏らしたところで、エリスに痛痒はない。
垣根に本当に話せなかった話は、ここからだ。
「ちょっと回りくどいけど、ていとくんには『魔術』を受け入れてもらわなきゃいけないね」
「……魔術、ね。マジックって単語にゃ手品って意味合いがついて回るからな、この街じゃ」
時代遅れの理論を振りかざす魔術は芸の一つとして実演される手品と同じ、というのが学園都市の基本的な理解だ。
受け入れろといわれて、どう受け止めたら言いのかが分からない。
「Magic(マジック)じゃなくてMagick(マギック)、って呼ぶといいかもしれないね。私が話をしようとしてるのは、手品じゃないほうの、オカルトとしてのマギックだから」
「そんな呼び分けがあるのか」
「うん。アレイスター・クロウリーっていう世紀の大魔術師が、ただの手品や不完全な魔術から本当の魔術を分離するために、そう名づけたの」
「アレイスター……クロウリーだと?」
聞き慣れた名前だった。
なんてことはない、この学園の人間なら大半が知っている、学園都市理事長の名前だった。
「逆さ宙ぶらりんのホルマリン野郎と同じ名前じゃねえか」
「うん。もしかしたら本人かもしれないね。……それで話を戻すけど。ていとくんはこの世に無い物質を作れる人だよね。もし、ていとくんが作った物質だけで出来た世界があったら、その世界はなんていう名前なのかな?」
「……」
「そこに息づく人も、そこを貫く物理法則も、全部この世とは違う世界。……なんだかこの街が捨て去ってしまったはずの、宗教的な概念に近づくの、わかる?」
「俺だってそういうことを考えたことはあるがな。此方(こなた)に無い世界は彼方(かなた)の世界といえば、天国か地獄だろ」
「そう。……ねえていとくん。ていとくんは、超能力でそんな『在りもしないもの』を創れる人だよね。これまでの歴史の中で、超能力とは別の概念で、それを成し遂げた人がいないって言いきれる? うーん、これで受け入れてもらえるかは分からないけど、ヒトが天界という概念を手にしたのは、誰かが天界を創ったからじゃないのかな。これまでにも、ていとくんとは違う方法で、ていとくんと同じ高みに上り詰めた人がきっといたって、そんな風には思えない?」
垣根は、漠然とエリスが魔術と呼びたいものの存在を、匂いとして感じ始めていた。人がオカルトを信仰した理由を、心理学を初めとした科学書ではあれこれ説明してある。
麻薬や、集団心理、機の触れた人間の見る幻覚。学園都市の人間は疑うことなく、魔術とはそんなものだと信じている。
だけど、科学の教科書にはこうも書いてあるのだ。物理法則は絶対だ、と。そんな教科書の常識を、垣根は軽くすっ飛ばす。
魔術など無いと垣根に保証してくれる書籍の全てが、垣根の超能力などありえないと保証している。
「超能力だけが、物理法則を超える唯一の手段じゃない、と?」
「そう。魔術が無いってことは、科学的に証明されたことじゃないもんね」
「……具体的にじゃあ魔術ってなんだよ」
「うーん……これでどうかな」
エリスが木の枝を拾って、辺りに四つ、何かの紋章を描いた。ぼそぼそと何かを呟き、天を仰ぐ。
するとそれぞれの紋章の上に、盛り土が突如として生まれ、水が地面を濡らし、小さな炎が立ち上り、そしてぶわりと土ぼこりを舞わせた。
「どう?」
「どうって、エリスの能力を知らないからな。超能力でもこんなこと、出来るだろ」
「そうだね。……えいっ」
エリスが突然、垣根に顔を近づけた。垣根はその行為にドキリとなって、……そのまま、身動きが取れなくなった。
「私の能力は精神感応系のだよ。物理に作用するものじゃないの」
エリスが目線を離すと垣根の体は硬直から解放された。レベル1だと言っていたが、きっともう少しは高いだろう。
そして確かにエリスは、全く異なる能力を、多重に展開した。
いや、物理に働きかけたのが魔術だというなら、魔術師にして超能力者ということか。
「超能力は一人一つしか宿らない。だから、今のはかたっぽが魔術なの。私はね、学園都市が魔術師と手を組んで、魔術と超能力を同時に使える人を作り出すために行った実験の最初の被験者なの」
エリスの言葉に、垣根は表情を凍らせた。
ずっと、目の前の少女は学園都市の暗部とは無縁な人だと思っていたのに。
「結論から言うとその実験は全て失敗でね、能力開発をした後に魔術を使った子供たちは、全員、体中を破壊されて死んでしまったんだ」
「じゃあ、エリスは」
「うん。もう、私は、死んじゃってるんだ。享年は……何歳だったかな。その実験が行われたのはもう20年位前だから。私、ていとくんより10歳は年上なんだよ」
垣根は、エリスを確かめたくて、近づいてそっと手を伸ばす。
しかしエリスが同じだけ距離をとって、垣根の接近を拒んだ。
「それじゃ、俺の目の前にいるエリスは、なんなんだ?」
「ゾンビですって言ったら信じる?」
「信じろって言うなら、信じるさ。それしかないだろ。エイプリルフールには随分遅いが、嘘だって言うならなるべく早めに頼む」
「うん。ゾンビっていうのは嘘。だけど、超能力者だった私が魔術を使って死んじゃったのは本当なんだ。ただの人間には、魔術と超能力を受け入れるキャパシティがないからね」
どうしたらいいのか、垣根には分からなかった。
エリスとの間に開いた、二メートルくらいの距離。今すぐそれを詰めて、抱きしめたい衝動に駆られる。
だけど、無闇にそんなことをしても、エリスに逃げられる気がした。
「あ、でも精神年齢はきっと、見た目どおりだよ。死んでから10年くらいは、冷蔵庫で保存されてたから、成長して無いし」
「……エリスは20年前に命を落として、10年前に、生き返った」
「そう。計算速いね、ていとくん。私が適合者だって、誰かが知ってたんだろうね。10年前に、この心臓を植えつけられて、私の人生は再開してしまったんだ」
生を謳歌できることを、喜んでいるような響きはこれっぽっちも無かった。
そのまま死んでいたほうが、幸せだったというかのように。
「その心臓は、一体なんなんだ」
「――第五架空元素。って、今ていとくんが望んでるのはその答えじゃないね。これはね、10年位前のある京都の寒村で集められた遺灰から、生成されたものなの」
「遺灰?」
「そう。私と同じ、エーテルの心臓を持った人――ううん、生き物の遺灰」
垣根には、またしても話がピンと来ない。
だってこの世のどんな生き物の灰を集めたって、この世の物質しか得られないはずなのだ。


「ああ、ようやく話の最後にたどり着いちゃったね」
また一歩、エリスが遠ざかる。暗くてもう、エリスの表情が見えない。
「この心臓を持つ生き物はね、本来は異界に住むべき生き物なんだよ。人間界で生きていくには、人間にしか作れない栄養を、人間から摂取する必要があるの。私を含めたこの生き物はよく漫画とか映画なんかで出てくるんだけど、ていとくん、わかるかな?」
可愛らしくエリスが首をかしげたのが分かる。いつもの仕草だ。
だけど、暗がりにいるせいでそんな仕草までが、なぜか暗い色を伴って見えた。
「もう、何がなんだかわからねーよ。魔術なんてさ、小説でしか出てこないようなものだろ。エリスが言いたいソレが、俺にはどうしても実感を伴って受け止められないんだ」
「ていとくん。ていとくんが私をどんな生き物だって予想しているのか、教えて」
決定的なことを、エリスは垣根に言わせる気だった。
垣根は、淡々としたエリスの態度に戸惑いながら、自分の用意した答えを、口にした。






「――――――吸血鬼」
「ご名答。ていとくん」






クスリとエリスが笑う。エリスが得体の知れない淫靡な笑いを浮かべたように見えて、
垣根は思わず、エリスを恐れた。
「もちろん、私は無計画に血を吸ったりはしない。だってご飯のほうが美味しいもんね。それに仲間を増やしたりもしない。こんな体になって幸せな人なんていないもの。でも私は、ていとくんの知らないところで、ていとくんの知らない人から、血を啜ってるの」
「……」
「もう成長期を過ぎたから、わたしはこれからずっとこのままなんだ。私は100年でも200年でも、ずっと生き続ける。ていとくんを置いてね」
「……」
「だから、ごめんね。ていとくんは、こんな化け物に関わらなくていいんだよ。ていとくんを幸せにしてくれる人間の女の子が、きっとどこかにいるから」
また一歩、エリスが遠ざかった。電灯がさっとエリスを差して、その表情を垣根に見せた。
ギリ、と垣根は歯噛みした。自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。一瞬でもエリスに距離を感じた自分を殴りつけたくなる。
……エリスの頬が、濡れていた。


「お前のことは、誰が幸せにするんだ」
「えっ?」
「お前の隣にいて、お前のことを幸せにしてやるヤツは、誰なんだよ。候補でもいるのか?」
「どうだろうね。私は一人ぼっちの吸血鬼だから。どうやれば同類に会えるのか、これっぽっちも知らないんだ」
「探さないのか」
「この町を、私は出られないから。目を覚まして、運良く研究所から逃げられたけど、きっと今でも学園都市は私を探してる。IDもない私は、この街の端の、あの壁を越えられないんだ」
吸血鬼と言えど、自分の力をどう振舞えばいいのかわからないエリスは、ただの人間と変わらなかった。
「それじゃずっと、独りで、生きていくつもりなのか」
「そういう運命なのかなって、諦めたんだけどなあ。ていとくんと会う前は。……ヒトより強い生き物なのにね」
「だったら、俺が」
「駄目だよ。ていとくんも、いつかは私を置いて死ぬ。そうなる前にだって、追われる私をずっと匿うことなんて出来ないし」
「関係ねーよ」
イライラとした垣根の口調に、エリスが黙った。
「幸せに、なりたいか?」
「……」
「解決方法なんていくらだってある。その心臓を、別のものに差し替えられればいいんだろう? 簡単には無理だからこその吸血鬼だろうが、俺が、何とかしてやる。『未元物質』を侮るなよ。それに仮に人間に還ることが無理でも、俺がお前と――」
「駄目! 私は絶対にそんなこと、しない。ていとくんを私の地獄(せかい)に引きずり込んだりなんて、しない」
「……。ならいい。俺は勝手に、自分でお前と同じになる」
吸血鬼も、結局はこの世界に「物質」として存在する物体だ。そう見れば、吸血鬼もまた、垣根にとっては理解不能な存在ではないはずだ。
惚れた女のために腹をくくるのは、悪くない気分だった。こんなにも、自分と誰かの幸せのために前を向いたことは、なかった気がする。
「え?」
「第五架空元素、か。はん。その底を理解すりゃ、俺はお前と同じになれるんだろう。2000年前の人間に理解できた概念だ、俺に出来ないわけがねえ。どんな風に助かりたいか、どんな風に幸せになりたいか、毎日考えろよ。俺はお前の幻想(ふこう)を全部理解して、全部解いてやる」
ザリッと音を立てて、垣根はエリスへと足を向けた。
怯えるように、エリスも一歩後ろに下がった。だが浴衣のエリスは、そう大きくは動けない。
躊躇いなんて、もう垣根には無かった。二歩三歩と進めると、エリスの表情がくっきりと目に写った。
不安、そして、垣根のうぬぼれでなければ、歓喜。きっとエリスは、自分に傍にいて欲しいと、思っている。
垣根は再びエリスに腕を回した。
「駄目、なのに。ていとくん……」
「帝督って呼んでくれ」
「もう。今はシリアスな時じゃないのかな」
「真面目に言ってるんだよ。俺を、お前の彼氏にさせてくれ。エリス」
「帝督、君」
くしゃりと、エリスの顔が歪んだ。見られまいとしてエリスが垣根の胸に、顔をうずめた。
初めて、エリスが垣根を求めてくれた瞬間だった。
エリスを好きだという気持ちが、心の中から溢れていく。自分のそんな心境に、垣根は笑ってしまう。
こんなにも人生が色彩鮮やかに、意味を持って自身の瞳に写ったことが無かった。
エリスを幸せにするために生まれたんだと、本気で思えるくらい、垣根はエリスが愛おしかった。
「愛してる、エリス」
「愛してるは早いよ、帝督君」
「じゃあ好きだ、エリス」
「うん。……帝督君が、悪いんだよ。気持ちの弱ってる女の子にこんなに言い寄るんだもん」
「悪いってなんだよ」
「私と幸せになるなんて、絶対、割に合わないよ。もっと、帝督君は別な幸せを手に出来たはずだもん」
「俺はエリスが良かったんだ。俺がエリスを選んだんだ」
「うん……嬉しい。ごめんね。すごく、すごく嬉しいの」
「謝るなよ。それより、お前の口から、俺だって聞きたいんだ。エリス」
垣根がそっと、エリスの頬に手を当てた。
エリスの泣き顔をそっと持ち上げて、垣根はじっくりと眺めた。
涙に腫れた瞳すらも可愛い。
「私も、帝督君のことが、好き」
「そうか。……初めて、言ってくれたな、エリス」
「だって言っちゃ駄目だって思ってたもん。初めて告白された日からずっと好きだったけど、帝督君に迷惑だからって」
またぽろりと、耐えかねた気持ちが目じりからこぼれた。それを垣根は拭ってやる。
何度悲しみにエリスが泣くことがあっても、絶対に、泣いたままになんてさせない。
「エリス、好きだ」
「うん……」
もう一度だけ、垣根はそう言った。それで、エリスも垣根の意図を察したようだった。
垣根の手に抗わず、エリスはそっと、垣根に唇を差し出した。
さらに溢れた涙を垣根は指で拭って、エリスの髪を撫でた。
「ファーストキスだな」
「私もだよ」
エリスは、たまらないくらい嬉しい気持ちで、垣根の温かみを感じていた。
好きな人と口付けを交わすなんて、こんな幸せな時間、叶わないと思っていた。
目をいつ瞑ろうかと、ドキドキしながらエリスはちょっと身を硬くしていた。
そんな初々しさも何もかもが、幸せの象徴で――






――――不意に、とても甘くていい香りが、エリス鼻をくすぐった。
ラフレシアみたいに自分を惹きつけて放さない、椿みたいな香り。






「エリス? なあ、エリス?」
分からない。どこから匂い、するんだろう。
風上はあっちだから、川の上のほうからかな。
弱い匂いだから、距離はあるのかも。
「なんだよ、嫌なのか。どうしたんだよ?」
隣でうるさい声がする。
匂いが消えてしまった。
風向きのせいかな。
あんなにいい香りのする血なら――――
「エリス!」
「えっ?!」
ハッと、エリスは我に返った。そして自問する。今、自分は何を考えた……?
わけが分からない。如何に生きるうえで必要な血液とはいえ、あんなに我を忘れて匂いに夢中になったことなんて、一度もない。
「突然どうしたんだよ?」
「帝督、君」
「やっぱり、急だったか?」
「えっ?」
垣根が、不安げな顔をしていた。
それでエリスは気づいた。呆けた自分の態度が、垣根には拒否として伝わったらしいと。
「違う、違うの。ごめん。ちょっと、動転しちゃって」
「う、ごめんな。こういうの慣れてなくて」
「帝督君は悪くないよ。私のほうが、謝らなきゃ」
せめて、垣根に嫌な思いをさせないようにと笑顔を繕った。
それに安心してのことだろうか、垣根もまた笑顔を返してくれた。
それだけで、ほっとする。垣根に笑いかけてもらえるだけで、自分の微笑みが本物になった。
「嫌じゃないんだったら、止めないからな」
「うん。その、お願いします」
「お、おう」
再び、仕切りなおし。
垣根がエリスの肩を抱いて、ぐっと引き寄せた。
もう一度、エリスは垣根の唇を、至近距離で見つめた。






――――ああ、なんて美味しそうな唇。めくって齧ったら、どんな味がするのかな。






「っっっ!!!!」
どんっ、と、垣根は思い切りエリスに、突き飛ばされた。
まるで無防備に、強かに腰を地面にぶつける羽目になった。
「エリ、ス……?」
「ごめん……ごめんなさい。帝督君。ごめん、私どうしてこんな、なんで……っ!」
もうさっぱり、垣根には訳が分からなかった。
ただエリスにはっきりと拒まれた事実だけが、垣根を真っ暗にさせる。
だけど同時に、エリスの様子がおかしいことも分かるのだ。
なんだか突き飛ばした側のエリスのほうが、何かを信じられないような愕然とした顔をして、心臓の辺りをギリギリと爪を立てながら鷲づかみにしている。
「ごめんなさい、帝督君。どうしよう、私」
「エリス。嫌なんだったら、きちんと言ってくれ」
「違う! 私そんなこと思ってない!」
「じゃあ、なんなんだ。今の」
垣根はしまったと、自戒した。突き飛ばされたことにショックを感じているのは事実。
だけど、それをいらだちに変えてエリスにぶつけてはいけないのに。
エリスが怯えた目で垣根を見つめた。
「帝督君……次に、次に会うときはまた普通に戻ってるから。私のせいなの。帝督君は全然悪くないから。だから、ごめんなさい。嫌な思い、させちゃったよね。ごめん。それじゃ!」
「あ、エリス!」
エリスは、浴衣の合わせが崩れるのもお構い無しで、駆け足でその場所を後にした。
それ以上、聞きたくなかったのだ。自分の中から聞こえてくる声を。
おぞましいことを言う、自分自身の声を。
「なんで、なんで……っ!」
とめどなく涙が溢れて、視界が一定しない。
好きな人とキスをしようとしただけなのに。当たり前の行為のはずなのに。
どうして、私は恋焦がれたヒトに、食欲を覚えるのか――
気色が悪い。自分という生物のありように吐き気がする。
そして、どうしようもない事実に、死にたくなる。
絶対に嫌われた。あんな拒み方をして、まだ好いて貰おうなんて虫が良すぎる。
「あはは……私、人間じゃないんだ」
かつんかつんと下駄がせわしない音を立てる。
たぶん当てもなく自分が向かっている先は、駅とは反対方向なのだろう。まるで人がいない。
自分が人の世に蔓延る悪鬼の一種だと、そう思い知らせるような静寂だった。
「化け物は化け物らしく、なのかな。こんなところ、来なければ良かった」
催眠術で周りの人を騙して作った、自分のためのゆりかご。
そこでずっと暮らしていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
なんで、私はこんなことになったんだろう。


また、椿の匂いを、嗅いだ気がした。きっと錯覚だ。
ぼてぼてと真っ赤な花弁を開かせ、甘い匂いを撒き散らす、品の無い花。
ほんの少し、それがエリスの五感を撫でただけで、エリスは垣根のことも忘れてその匂いを反芻することだけに集中してしまう。
自分という存在が突然に汚らわしく思えて、エリスは時々えづきながら、街を彷徨った。
教会に戻るのに、信じられないくらいの時間がかかった。

――垣根は教会に、訪ねてこなかった。






「ごちそうさま」
独り、姫神秋沙(ひめがみあいさ)は神社の境内でたこ焼きを完食した。こういう味も、悪くない。
真っ白な襦袢にソースをつけないよう気を使いながら袋にたこ焼きの入っていたトレイを仕舞う。
ポーチに入れたウェットティッシュで手を拭って、耳に挟んでいた長い黒髪をストレートに垂らした。
「……もう。帰ろうかな」
夏祭り会場にいながら、姫神は一人だった。
友人がいないわけではないが、誰かとここに来た訳ではない。
目的を考えれば、巻き込むわけには行かないのだから当然だった。

姫神が人通りの多い夏祭りに足を向けた理由は、ひとつ。
人ならざる、ある存在を呼び込むため。
一般に吸血鬼と呼ばれるそれを、姫神は探しているのだった。
……いや、正確には、姫神自身は釣り餌でしかない。
姫神の体を循環する、物質的にはなんてことも無いはずの血液。
だかそれは『吸血殺し(ディープ・ブラッド)』という名のついた、吸血鬼のための最強最悪の毒物なのだった。匂いは、たまらなく良いらしい。
もちろん姫神本人は人間だから、匂いなんて何度嗅いでも鉄臭い普通の血の匂いだとしか思わないのだが。

今日もまた、何も収穫の無い一日だった。
いるかどうかも分からないのが吸血鬼だ。だから、仕方ない。
いつか出会えるまで、自分はこれを続けるだけだ。
姫神はごみ捨て場にごみを捨てて、帰路についた。

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あとがき
科学史的に正しいことを言うと、ローレンツ収縮と呼ばれる一連の式群はアインシュタインの特殊相対性理論と全く数学的には同値な物です。
作中で語ったとおり、力学と電磁気学の間に存在していた光の扱いに関する矛盾、それを解決するために、ローレンツはローレンツ収縮という『エーテルの性質』を仮説として提出したのに対し、アインシュタインは『時空そのものの性質を捉えなおす』ということをやってのけました。この差がカギとなり、後世には特殊相対性理論の名前が広まったようです(アインシュタインのノーベル賞受賞は別の研究テーマによるものです)。こういうのをパラダイム転換というのでしょうね。

また、エリスは原作で名前のみ登場したシェリー・クロムウェルの親友なわけですが、原作の情報だけでは性別が確定しきらないようです。
というのもエリスの綴りはEllisとされており、このスペルの場合エリスは名ではなく姓の可能性が高いからです(女性名としてのエリスなら一般にElis)。
コミック版禁書目録にて男性らしい描写があったという情報もあり(私は未確認です)、それが正しい場合、エリスの性別が原作とは異なることになります。
とはいえもう変えようのない設定なので、このSSではエリスは女性であるとして、続きを描いていこうと思います。原作に忠実でない可能性がありますが、ご容赦ください。
……言い訳をすると、森鴎外の『舞姫』やベートーベンの『エリーゼのために』のせいでエリスという響きを女性名だと信じて疑っていませんでした。英国人であるシェリーが親友の名前をまさか姓で呼ぶとも考えにくいというのも一因だと思います。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 03: 水遊び、湖畔の公園にて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/13 00:54

「うん、春上さんはあれから何もないみたいだし、佐天さん、あなたももう包帯は外して大丈夫ね」
「やたっ!」
夏祭りの日、ポルターガイストに巻き込まれてから数日が経っていた。
災害現場のすぐ傍にいた先進状況救助隊の隊長、テレスティーナが病院に連れて行ってくれて、春上の介抱と、能力を使って右手を痛めた佐天の治療をしてくれたのだった。
春上はその日のうちに目を覚まして寮に戻れたし、佐天も幸い、軽いヒビで済んだ。飲み薬を飲んで右手はほとんど完治していた。
そして今日で、ちょっと遠くて面倒だった通院も終わりになる。
目の前で優しくニッコリと笑うテレスティーナに微笑を返して、佐天はぐぐっと右手を握った。
もう鈍痛もない。まあ、右手に渦を握りしめるのはまだ止めておいたほうがいいらしいけれど。
「よかったですね、佐天さん。これで無事にピクニックにいけますね」
「お弁当、楽しみなの」
「期待しててくださいね。気合入れて作りましたから!」
朝食からまだ一時間やそこらなのにもう昼食に思いをはせる春上に、初春が元気よく返事をしていた。
影で佐天はこっそり苦笑した。今日、初春が作っていた海苔巻きは、以前佐天が初春に作ってやったものと同じレシピなのだ。
まあ、そのレシピは佐天も母親に教わったものだし、母親もきっと本で見たか、誰かに聞いたものだろう。そう思えば誰にレシピを教わったかで優劣のつくものではないか。
佐天は調味料に間違いがないといいなと思いつつ、待合室のソファから腰を上げた。
「初春、春上さん、それじゃあ行こっか。テレスティーナさん、どうもお世話になりました」
「といっても私が診たわけじゃないし、通りすがりだけれどね」
くすっと苦笑いをしながら眼鏡を直して、テレスティーナは小脇に挟んだファイルを軽く揺らした。
「それじゃ、私も仕事があるからもう行くわね。学生さん達は良いわね、夏休みが長くて」
「それが学生の特権ですから」
「ありがとうございました、なの」
「失礼します」
初春も今日は風紀委員の腕章を外して、涼しげな私服姿だ。当然、春上も佐天もだ。
とはいえピクニックにいこうと言いながらスカートを履くのはどうだろうと思いつつ、三人は電車の駅へと向かうため、病院の出口をくぐった。




三人であれこれと話をしながら電車を乗り継いで、第二一学区の自然公園にたどりつく。
前日のうちから計画を立てて朝早くに家を出たおかげで、昼ごはんまでにひと遊びできそうな時刻だった。
「さあ着きました! 春上さん! 何しましょうか」
「えっと……」
「初春、アンタ気合入り過ぎだって」
「そうは言いますけど佐天さん! あと遊べる時間はもう5時間くらいしか無いんですよ!」
「充分だと思うけど……」
春上と一緒にいる初春は、ずっとこうだった。
春上は転校したてで右も左も分からない状況だし、そもそも性格のせいか抜けたところがあるというか、ぽややんとした状態がデフォルトなので、初春がやたらとお姉さんぶって甲斐甲斐しく世話をするのだった。
「あれ」
「え?」
「あれに乗ってみたいかも、なの」
すっと春上が無表情に指を差した。
無表情というのは知らない人から見たらそう見えるという話で、実際にはいつもより楽しそうな感情が浮かんでいる。
指の先を初春と一緒に見つめると、公園の真ん中にある大きな池の対岸に、貸しボート屋が店を構えていた。
「ボートかぁ、いいね」
「三人ならお金も問題なさそうですね」
「じゃあ決まりっ!」
善は急げといわんばかりに、池の外周を歩いて貸しボート屋に行き、荷物を預けてボートを借りに行った。
中学生にしてみればここまでの交通費とボート代をあわせるとそこそこ手痛い出費なのだが、
春上の気晴らしにと企画したのだ、パーッと使ってやろうと佐天はむんずと財布から千円札を取り出した。
「おおっ、佐天さん奢ってくれるんですか?」
「えっ? いいの?」
「ちょ、ちょっとちょっと。いくらなんでもそれは酷いでしょ。あたしだって夏休みの軍資金はまだまだおいときたいんだから」
ボートは極普通の形で、アヒルさんのデザインなんてしていない。
なので、一時間でお札が一枚もあれば足りるのだった。


「それじゃ一時間後にここにボートを持ってきてね」
「わかりました」
「よーしいこっか!」
初春たちのいるこの公園は別段大きいところでもない。
サクサクと借りる手続きを済ませ、佐天はオールをかついでボートの縁に足をかけた。
「ほら、ボート支えてるから乗った乗った」
「ありがとうなの」
「すみません佐天さん」
スカート組を先に乗せて、初春にオールを渡す。たぶん初春が漕ぎ役を買って出ると思ったからだ。
膝より下まである長めのスカートを履いた春上はどうということもなかったのだが、なんでそうしたのか、初春は膝上までの黄色いスカートなので、大股でボートに飛び移ると下着が良く見えた。
「初春ーぅ。そのパンツはじめて見たよ。スカートとあわせたの?」
「さ、佐天さん! あっちでおじさんが聞いてるじゃないですか……!」
貸しボート屋の主人がはっはっはと笑いながら手を振った。よくある役得なのかもしれない。
もう、と呟きながら初春はぎゅっとスカートの裾を膝まで伸ばした。
その仕草を笑いながら、ぐっとボートを佐天は蹴り押した。
「え?! さ、佐天さん?」
「いってらっしゃーい、なんてね」
「初春さん。も、戻らないと」
春上も佐天が陸に残されたのに気づいて、慌てて初春に指示を出す。
しかし抵抗に乏しい水の上のこと、すぐにボートは陸から2メートルくらい離れた。佐天の渾身の一押しだった。
「大丈夫だって。私もすぐに追いつくから」
「え?」
まさかもう一台ボートを借りる気なのか、と初春がいぶかしんだところで。
佐天が足元を気にした。見えない何かを踏むように。
……いや、見えないと思ったのは一瞬だ。土ぼこりを吸って、あっという間に渦が可視化された。ぶよんぶよん、と佐天が踏みつけるたびに弾性変形する。
何をやろうとしているのか、咄嗟に初春には分からなかった。春上も首を傾げるだけだった。
二人は、ついこないだ佐天が行ったそれを目撃していなかったから。
「んじゃ、いっくよー」
湖に来た時点で、佐天はやりたくてうずうずしていたのだ。
東洋の神秘、忍者の秘術。水面歩行。
水流操作系の能力なら簡単だろう。体重と同じ力を水面下からかければいい。
空力使いも、風で自重を支えれば擬似的に水面歩行は出来る。
他にも佐天の師である光子は足底に空気の膜を作り、水との界面張力をコントロールすることで、かなり苦手ではあるが最も正当な水面歩行が可能だそうだ。
佐天はそういうのと比べると、一番スマートさに欠ける。
――水面近傍で渦を踏みつけ爆発させて、それで垂直方向の運動量を稼ぐ。
水面上で静止することの叶わない、ダイナミックな方法だった。
「ほっぷ、すてっぷ、じゃーんぷ、っと」
渦を3つ、70センチの間隔で。
湖面にさざ波を立てつつ生じた渦に目掛けて、佐天は足を踏み下ろした。
渦の下が硬い地面では無いから、その分渦の爆発で得られる力は小さいはずだ。
うっかり飛びすぎるのはいい。だが出力不足で池に落ちることだけは避けなければならない。心持ち大きめに渦を作る。
そしてぐぐっと踏むと同時にコントロールをストップ。それで、渦の持っていたエネルギーが佐天の足に伝わった。
……勿論、水面にも。
「え? わわっ、さ、佐天さん!」
「冷たいの……」
ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん! と盛大に音が鳴る。
水溜りを容赦なく踏んだときの水跳ねをもっと酷くしたような感じだった。
佐天の移動のほうは問題なくて、無事ボートに着地した。
そして予想通り、滅茶苦茶に揺れた。
「お、落ちちゃう……」
「春上さん、掴まって!」
「って初春に掴まっても一緒に落ちるよ?」
「この揺れの張本人がのんきに言わないで下さい!」
この揺れなら大丈夫だ。佐天の運動量を奪って、ボートはさらに沖のほうへと進みだした。
それにあわせて、そっと佐天もボートに腰掛ける。
場所は春上の後ろ。ぴょこんとはえたアンテナみたいな一房の髪を眺めつつ、
正面の初春のパンツが拝める場所だった。


「さて、んさんっ、代わって下さいよ」
「えーやだ。汗かいたら春上さんとくっつけなくなるし」
「あはは……でもちょっと暑いかも」
後ろから春上は佐天に抱きしめられていた。湖上で涼しいとはいえ真夏の昼前だ。暑くないわけがない。
それを初春ははーはーと大きく肩を上下させながら恨めしげに見つめていた。
疲れて足がガクガクするたびにパンツが見えると佐天に指摘されるので、ただでさえ辛いボート漕ぎが何倍も大変だった。
「ほらっ、はるうえさん、も、嫌がってるじゃないですか」
「えっ? 春上さん、もしかして嫌だった?」
「え? そんなことはないけど……。佐天さん、優しいし」
「ほーら初春。春上さんは嫌じゃないって」
「もう、だめですよ、春上さん。佐天さんが付け上がり、ます」
もうこれ以上は腕が動かない、といった風情の初春を見て、さすがに佐天も悪いと思ったらしい。
「もう、それじゃあ代わってあげよう」
「お願いします。それじゃオール――」
「いらないよん。佐天さんは自分の力で泳ぐのだッ」
春上を抱きしめた手を離して、二人に背を向ける。そしてサンダルを脱いでちゃぷんと足を池に浸す。
そして背中を春上に預け、手でしっかりとボートを押さえた。
「じゃあ、行きます!」
数日前に咄嗟に足元に渦を作ってから、佐天は渦の発生場所を手に限定しなくなった。
四肢の先端、つまり手に加えて足でも問題なく発動できるようになったのだ。
さらに言えばそういった「指し示すもの」を一切使わなくても目の前に渦は作れる。
手はあくまでも補助の一つだったということを、佐天は理解していた。
残念ながら、遠く離れたところには渦を作れないが。

両足元に、渦を作る。
そしてその空気塊を水に浸けて、すぐ解放する。
水のはねるじゃばっという音と泡の発生するぼわっという音が混じったような音がした。
「ひゃっ? ま、またですか?」
「でも冷たくないの」
「そりゃそうよ、さっきと違って水しぶきは全部後ろに流れてるからね」
「……それはいいんですけど、ほとんど動いてませんよ」
振り返るとジト目の初春と目が合った。
うーんと今の行いを反省する。足に伝わった運動量は、渦の持っていたそれの二割程度。
ロスがあまりに大きかった。人間三人分の質量を動かす運動量なのだから、もっと効率を上げるか渦の出力を上げるしかない。
「んー、この方式イマイチだね。これで足の骨にヒビ入れたら絶対怒られるし」
渦の暴発という瞬間的な現象で運動量をまかなおうとすると、瞬間的に佐天の足に大きな応力がかかる。
渦の出力が佐天の体の破壊に繋がるレベルに達していること、それがこの間初春を助けるときに怪我を負った原因でもあった。
――やっぱり、連続的に仕事をする渦じゃないと駄目だよね。
「気液の二相混合流とかコントロールできるのかな……」
「え、佐天さん?」
「ああうん、ごめん、ちょっとコッチの話」
少しだけ、佐天は友達二人を忘れて自分の能力に没頭した。
佐天の作る渦は基本的に球形だ。それは自然界によくある円筒状の渦とは大きく形が異なる。
だが円筒型のものも、別に作るのに苦労があるわけではない。
「円筒の渦を作ったら、あれなら色々吸い上げられるよね」
アメリカに発生する竜巻など、車や家畜ですら吸い上げるのだ。
ああいうイメージで、空気で作った渦の中に水を引き込めば、渦が水を吸い、吐き出すときの反作用で船が動かせるだろう。
「よっと」
足、というか骨が一番頑丈なかかとの先を基点に、竜巻を作る。そしてそれをほんの一部だけ、水に触れさせる。空気の吸引口に水が混じりこむように。
「おっ、おっ、おっ」
「あのー、佐天さん?」
「ごめん初春いいところだから!」
「もう」
初春は自分の世界に入り込んだ佐天にため息をついた。
能力が急激に伸びていて嬉しそうな佐天を見るのは嫌ではないが、今日は春上の気晴らしにとここへ来たのだ。
春上と目が合ったので謝意を目線で伝えると、気にしていないという風に笑って首を振った。
「佐天さん。すごいね」
「ありがとー。んくっ、コントロールが難しい」
「あれでレベル2って嘘ですよね」
「うん、私もレベル2だけど、あんなにすごいことできないの」
「実用レベルってレベル3からですもんね、普通」
「柵川中学にはレベル3の人っていないんだよね?」
「はい。だからたぶん、佐天さんはうちで一番だと思います」
「すごいの」
後ろの会話をほとんど聞き流しながら、かかった、と佐天は感じた。
エンジンが始動から定常回転を始めるように、渦が水を噛む時の状態が、上手く安定した。
そして緩やかに、ボートが動き出す。
「あ、動いたの」
「ホントだ。佐天さん、上手くいったんですか?」
「うん。なんとか」
初春は再び春上と苦笑を交わす。
コントロールに必死なのか、佐天が会話に乗ってこなかった。
「さてそれじゃあ佐天さんが運転手をしてくれてる間、私達はこの空気を堪能しましょうか」
「はいなの」
うーんと初春は伸びをしながらそう宣言した……のだが。
後に佐天が方向転換は出来ないと知って対岸にぶつかりしたりしそうになって結局大変なのだった。




「ふいー、漕いだ漕いだ。もうお腹ぺっこぺこだよ」
「全部食べちゃ駄目ですからね」
「はいはい。っていうかそれは春上さんに言ったほうがいいんじゃないかな?」
「え?」
春上がきょとんとした顔で佐天を見た。3人の中で飛びぬけて大食漢であることにまるで自覚がなかった。
貸しボートを満喫して、今はもう早めの昼食時だ。早起きした三人にとってはもう待ちきれない時間だった。
さっそく初春の持ってきたボックスを開ける。
「おー」
「すごいの」
夏だからと酢を利かせた酢飯で巻いた海苔巻き。
定番の厚焼きやらキュウリやらで巻いたそれは、ちゃんとしたすし屋のには見劣りしても、そこいらにあるスーパーの出来合いの一品となら勝負になる出来上がりだった。
「朝から頑張りましたから。さ、それじゃ食べましょう」
「いただきますなの」
「ほら待った、春上さん手拭きなよ」
「ありがとう」
ウェットティッシュを春上と初春に渡して、自分も手を拭く。
そして6本も作られた海苔巻きの一つに丸のままかぶりついた。
佐天好み、というか佐天が母から教えてもらったあの味がする。
「んー、んまい」
「おいひいの」
両手で縦笛みたいに持った海苔巻きを春上がもっきゅもっきゅと食べていく。
失礼を承知で言うと、ちょっと食べ方が汚いというか、豪快なのだった。
ほっぺたにご飯粒がぽつりぽつりと付いている。
「もう、春上さん。ほっぺにご飯粒付いてますよ」
「うん」
「やっぱりこういうところで食べる海苔巻きはいいですね」
「うん。ピクニックって感じがするよね。夏のうちにまたやってもいいなぁ」
「じゃあまた計画しましょう。秋の紅葉とかも良いですし、二一学区は冬には雪が降るらしいですし、
 せっかく中学に上がったんですからこういうとこに旅行するのもいいですよね」
「うん……」
初春はこの先の計画に思いをはせて、ぐっとこぶしを握った。
しかし、それに対して佐天が淡く返した微笑が気になった。
「佐天さん?」
「いやさ、二学期から、どうしようかなって」
「あ……」
そのことを思い出して、初春は表情を翳らせた。
「初春さん、佐天さんって、2学期に何かあるの?」
「えっと……」
「転校、しようかなって思ってるんだ」
「転校?」
「うん」
自慢するように、手のひらに渦を集める。そしてそれを池に投げ入れると、ばしゃんっ、と水音を立てた。
佐天の表情は、あまり誇らしげでなかった。
そしてどうしようか、ではなくて、転校しようかと佐天が言ったことに、初春は気づいた。
「あたしのレベル、これだったら3に行くんじゃないかなあ」
「そう思うの。だってこれ、レベル2の威力じゃないの」
「システムスキャン、受けたらあがるかも知れませんよ?」
「うん。多分上がると思う」
「じゃあ」
どうして受けないのかと言おうとして、なんとなく初春は理解した。
柵川中学にレベル3の学生はいない。レベル0と1、そしてたまに2。それが柵川のランクなのだ。
レベル3の認定をもし受けてしまったら、まず間違いなく柵川にはいられない。
だからきっと、佐天は先送りにしているのだ。
「……佐天さん、近いうち、システムスキャン受けましょう」
「え?」
「もっと能力を伸ばしたいって思ってるなら、ぜったいそうするべきです! それで出来るだけいい学校に行って、お小遣いで私と春上さんにパフェご馳走してください」
「パフェ? ……あは、もう、初春。いま結構シリアスな話だったよ?」
「私は大真面目です」
「うん。そっか」
「佐天さん。転校したって、私と友達でいてくれますか?」
「え? ……それは、私が言うことだよ」
「質問に答えてください。私は、ずっと佐天さんのこと友達だって思ってますから」
「ありがと、初春。私だって、初春のことずっと友達だって思ってるから」
「じゃ、今まで通りですね」
「そだね。うん、それじゃあ転校前に春上さんともっと仲良くなっとかないとね」
二人で春上を見つめると、にっこりと笑い返してくれた。
そして、どこか羨ましそうな響きを込めて、ぽつんとこぼした。
「佐天さんと初春さん、仲良いね」
「え? うーん、それはどうかなぁ」
「佐天さんなんか今さっきといってること違いませんか……」
いつの間にか完食した海苔巻きの容れ物から残ったご飯粒を摘み上げて、初春が佐天を見つめた。
そんな様子が、ますますやっぱり仲良さげに見える。春上は胸から下げたペンダントに軽く触れた。
「私にもね、すっごく仲のいい友達がいたの」
「え?」
過去形のその言葉に、佐天と初春は返事をし損ねた。
その二人の様子に構わず、春上は言葉を続けていく。
「私とその子、どっちも置き去り(チャイルドエラー)で、施設で育ったの。ある日その子はどこかに引き取られて、離れ離れになったの。最後の日に、また会おうねって行ってくれたから、それをずっと待ってたの」
「春上さん……」
佐天自身も、そして友人にも、置き去りという境遇の人間はこれまでいなかった。そのせいで、どんな言葉を返すべきなのか佐天はわからなかった。
春上は決して自分の境遇を悲観しているようには見えない。その表情を曇らせているのは、友達と離れたこと、それだった。
「そのお友達、今は」
「分からないの。しばらくしたら、連絡も来なくなっちゃったから」
憂いを帯びた声で、春上が首を振る。
佐天はかけるべき声を見失って、しかし初春は春上と距離をとらなかった。
「探しましょう」
「え?」
「私、こう見えて情報収集とか検索とか、そういうのは得意なんです。だから」
「ありがとう」
初春の声に、春上が声を重ねた。眩しそうに初春を見上げて、笑う。
「初春さんと佐天さんには、たくさん勇気を貰ったの。待ってるだけじゃ、だめだよね」
「みんなで探せば、きっとすぐ見つかりますよ。そのお友達も」
「何か手がかりとか、ある?」
自身もあまり積極的なほうとはいえなかった初春の気持ちの強さを嬉しく思うと同時に、自分もちゃんとしなきゃと省みつつ、佐天も春上に声をかけた。
だが、気楽にしたはずの質問が、春上の表情を暗くさせた。
「声がね、時々聞こえるの」
春上がスカートの裾をきゅっと握って、じっと地面の一点を見つめた。
思いつめたような雰囲気があった。
「声?」
「うん。私、精神感応者(テレパシスト)なんだけど、その子の声が時々聞こえるの」
「それなら、その子と話をすれば」
「私、受信しかできないし、それにあの子、何か変なの」
「変?」
「うん。なんだか、苦しそうで」
「春上さん、こないだの夏祭りの夜のって」
「うん、たぶんそう。あの子の声を聞いたらいつも私、何も他のことが分からないくらい、混乱しちゃって」
佐天は初春と顔を見合わせた。
あの日、鮮明に残っている記憶は二つ。不意にふらふらと歩き出した春上と、そして地震。
結びつけるなというほうが、無理があった。
「もしかして、それってポルターガイストと――」
「ちょ、ちょっと佐天さん。いくらなんでもそんな、飛躍しすぎですよ」
「けど、春上さん。春上さんがその友達の声を聞く日って、地震とか――」
どうしてそんなことを尋ねるのか、と初春は佐天に問いたかった。
短い間に何度も学園都市を襲い、怪我人を出した局所地震。春上がその犯人かのような言い分。
春上に、すぐ否定して欲しいと顔を向けた。
佐天も佐天で、この新しい友達が厄介ごとに無縁でいてくれるなら、それに越したことは無かった。
「……春上さん?」
「――」
予期せぬ長い間に、佐天と初春は戸惑う。
返事が、なかった。あまりに唐突な、会話のやり取りの拒否。春上はぼうっとどこかを見つめている。
意図しての無視とも違う、本当にいきなり佐天と初春が眼中に入らなくなったような、そんな自然な無視だった。
目線がやけに奇妙だ。佐天とも初春とも違う、何も無い方向に向いていながら、焦点はすぐその辺りにあわせられている。
――――まるで、すぐ傍にいる誰かを探すように。
「どこ? どこから呼んでるの?」
「春上さん……もしかして」
冗談が過ぎるような噛み合わせ。ほんの数日前の焼き直し。
目の前の友人二人を意識の外に追いやって、春上は誰かの声に、意識の全てを奪われていた。
「春上さん! しっかりしてください、春上さん!」
「何をそんなに苦しんでいるの? ねえ、どこ?」
「ちょっと、春上さん。初春どうしよう」
風紀委員として怪我の応急処置や心臓発作などの対処は習っている。
だが、突然夢遊病にでもかかったような場合なんて、聴いたことも無い。
初春は呼びかけるほかに出来ることを知らなくて、ひたすら声をかけた。
「春上さん! こっち向いてください!」
だが佐天は、それを一瞬躊躇した。友達と能力で交信していること自体には、何の問題もないのだ。
この呼びかけで二人が会えるなら、それは悪いことではない。
「お願い、何を言ってるのか、分からないよ」
どうしよう、止めるべきか、止めるとしてどうやって止められるか。
そんなことを逡巡していると、不意に、意識にノイズが走ったような違和感を覚えた。
なんとなく、自分の能力が自分から遊離していくような。
渦を出す意思なくしては発動しないはずの渦が、なぜかそこに現出してしまうような。
「――あ」
まずい、と佐天は思った。
池のほとり、草の刈り取られた広場に、佐天は渦を見出してしまった。
ちょうど、お昼時で地表が強く熱されて上昇気流が起こり、冷たい湖面の風が流れていく場所。
軽く舞った砂埃が、ゆらりと弧を描いた。


同時にシャラシャラと木々が葉をこすり合わせ始めた。
湖面はさざなみを打ち、そして突如、ドンと深く低い音と共に、公園全体が揺れだした。
人が危険を感じるレベルの揺れをもつ、地震だった。
「そんな! 地震?! 春上さん! とりあえず開けたところに――」
「待って! 駄目、初春」
「佐天さん?!」
慌てて佐天は初春を引き止める。春上は相変わらず、茫然自失のままだ。
佐天は焦りを隠せない初春の向こう、広場を指差した。そこには空へと向けて立ち上る、砂埃の柱。
「竜巻!? こんな時になんでっ」
竜巻、つまり空気の渦は自然界にも存在するものだ。佐天が作ってしまったのは、小さな渦だけ。
だがそれは、種さえ与えてやれば、周りのエネルギー、すなわち気圧差や温度差を喰らって自然に成長する。
日本で生じる竜巻など規模は高が知れている。数十秒もあれば、消えうせるだろう。
だが、地震の最中に広場を占有するそれは、間違いなく人を危険に晒しかねない危険物だった。

逃げ場を探して辺りを見回す。
宙に浮いたボート、不自然に回転するブランコ、木々の間を縫って現れる断層。
そらへと逃げ惑う鳥達の羽音が耳障りだった。
「とにかく! 木の隣は危ないからあっち行こう!」
少しでも安全なところへと、二人は春上の手を引いて必死に動いた。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 04: 暴走する能力
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/08/23 22:35

低く、うめくようにざわめく待合室。佐天はそこに一人座っていた。
「夕方からまた通院なんて、ついて無いわね」
見上げると、そこにテレスティーナがいた。朝一番に、声をかけてくれた相手だった。
再び会った理由はこれまた単純だ。
数日前に佐天が怪我をしたのがポルターガイスト事件で、今回も同じ。
そして救助の先鋒を担うのがテレスティーナ率いる先進状況救助隊、そういうことだ。
「あまり気にしないことよ。あなたはポルターガイストに巻き込まれただけ。あなたを加害者にカウントするなら、あそこにいた学生の全員が容疑者で、そのうち何割かは実行犯。そんなこと、考えるだけ馬鹿らしいでしょ」
「……」
実際、ここにいる怪我人の大半は地震による転倒や落下物による傷害ばかりだ。
佐天が種を作った竜巻はたぶん、きっと、誰かを怪我させたことはないと思う。
だけど。
佐天は、あの阿鼻叫喚の図を描いた側の一人だった。
「ショックで能力のコントロールを失う学生って結構いるのよ。もし自分の能力に不安があるなら、いつでもいらっしゃい。ここの医者が相談に乗るわ」
「はい。……すみません」
「お大事にね。貴女のお友達も、もう面会できるはずよ」
超能力を使えるようになって、佐天は初めてその孤独を感じていた。
自分を取り巻く世界をどう観測するか、それが人と異なる人間を超能力者という。
佐天の持つ「自分だけの現実」は、文字通り他人には理解されないものだ。
そしてそれが歪んでしまった今、それをどう直せばいいのか、正しい答えを知る人はいない。
目の前がまた、ゆらりとなる。それが佐天には怖い。
能力を使おうと思っていないのに、いつの間にか渦を作ってしまいそうで。
それで誰かを、傷つけそうで。
「初春……」
診察室から出ると初春はいなかった。
外傷もなく意識もはっきりした佐天より、春上の元に向かうのは変なことではない。
自分も行こうかと、腰を上げたところで、病院に入ってきた美琴と白井、そしてもう一人の教職員に気がついた。
街で見かけたこともある、たしか警備員の先生だっただろう。
「佐天さん! 大丈夫だった?」
「お怪我は大丈夫でしたの?」
顔を見るなり、美琴と白井が駆け寄って、佐天を心配してくれた。
慰めてくれる人がいると、やっぱりほっとした。
「はい。私は怪我とかなんにもなしですから。初春もちょっとの擦り傷だけです」
「春上さんは」
「……あの、またこないだみたいに」
それだけで二人は察したのだろう。その意味を考えるように、沈黙した。
「その春上って子には面会できるのか?」
「え? はい。もうできるみたいです」
「そうか、じゃああたしも話し聞かせてもらうじゃんよ。ああ、自己紹介もまだだな。あたしは警備員の黄泉川だ。ポルターガイストの件のとりまとめをやってる」
ざっとそれだけ説明すると、黄泉川は春上の病室へと、先陣を切って歩き出した。




「ん……」
「あ、春上さんっ!」
「初春、さん?」
日の長い夏の太陽が真っ赤に染めた、春上の病室。
検査中も覚醒しなかった春上がようやく意識を取り戻してくれたことに、初春はほっとした。
こないだの花火大会のときにも、こんなに長く意識を失っていることはなかった。
「大丈夫ですか? どこか痛い所とか、無いですか?」
「え? うん、別になんともないの。それより私、どうしてたんだろ」
「また地震があったんですよ。それで春上さん、気を失っちゃって」
その説明は、正確ではなかった。
春上がおかしくなったのは、ポルターガイストが起こるより数秒は前だった。
だから地震は、春上の意識の混濁とは別の話だろう。
「そうなの。私、また――――あっ、ない!」
また、呼ばれて意識を失ったのかと続けようとして、春上は習慣となった仕草、胸元のペンダントを確かめようとした。
そしてそこが寂しいことに気づく。
「大丈夫、検査の前に私が預かってただけですから」
「あ……」
それで春上はほっとした。初春が手のひらにジャラリと出してくれたそれを、両手で受け取る。
付けようかと思ったところで、コンコンとくっきりとしたノック音が響いた。
「はいなの」
「失礼します――って春上さん。目が覚めたんだ」
「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも。あと――」
「悪いな。あたしは事情聴取に来た警備員の黄泉川だ。元気そうなら話が聞きたくてね」
「私も失礼するわね。一応、所長さんだし」
愛想のない黄泉川と、病人を気遣うスマイルなのか、柔らかい笑みのテレスティーナが後から入ってきた。
「春上さん、あなたが意識を失っている間にやった検査の結果なんだけれど、健康に害がありそうな病気などは見当たらないわ。急に意識を失ったその原因さえハッキリすれば、別に退院してもらっても構わないんだけれど」
「テレスティーナさん、それじゃここで質問をしても構わないのか?」
「はい。春上さんが構わないようでしたら。あまり負担をかけない範囲でお願いします」
「わかってるじゃんよ」
話をするために、黄泉川はカラカラと椅子を引っ張ってきて、春上の隣に置いた。
友人の一人、初春が警戒するように春上と黄泉川の間に収まっていた。
それに苦笑する。
「春上さん。起きてすぐに警備員に迫られて不安は有ると思うが、ちょっと話を聞かせてもらってもいいか? もちろん春上さんが悪いことをしたとか、捕まるとかそんな話じゃないから安心するじゃんよ」
「はい。だいじょうぶなの」
春上は初春を安心させるように微笑んで、黄泉川に向き合った。
「春上さん、今日、意識を失ったのは何でだったか、覚えてるじゃんよ?」
「えっと……覚えてないけど。たぶん、また呼ばれたからなの」
「呼ばれた?」
「うん。……昔の、お友達に」
「もうちょっと詳しく教えて欲しいじゃん」
意識を失った後に、この話を医者にしたことならある。だけど、警備員に話したことはなかった。
警備員に目をつけられるのは学生にとっては面倒ごとでしかない。春上は不安げに髪を揺らした。
それでも、聞かれたことには答えていく。
自分がチャイルドエラーであること。施設時代に親友がいたこと。
その子が引き取られてからほとんど交信していないこと。
ひと通り話すと、納得したように黄泉川が頷き、初春が小言をもらした。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「白井に聞いたんだよ。春上さんが、地震発生より前に不安定になったってな」
「白井さん?! なんで!」
「な、なんでって。……私おかしいことをしたとは思っていませんわ」
白井が春上を黄泉川に売った、と言わんばかりの表情だった。ただ白井にだって言い分はある。
このポルターガイスト現象はRSPK症候群の同時多発によるものだ。
つまり、何らかの理由で能力者が同時に複数人暴走するのである。
偶然ではありえず、それならば原因、あるいは基点となっている人間を探すというのが筋だろう。
事件の犯人というものに悪意があるとは限らない。それに犯人でなくとも、ポルターガイスト発生より先んじて自失する春上に、何の注目もしないことのほうが不自然だ。
「今回だって、怪我人を70人も出してるじゃんよ。このまま放置ってわけには行かない。手がかりが欲しいところなんだ。友達に疑惑がかかるのは気持ちのいいことじゃないかもしれないが、これ以上被害を出さないためだと思って、わかって欲しいじゃんよ」
初春は納得いかないという目で黄泉川を見つめ返し、後ろで春上が気にしていないという風に黄泉川に首を振った。
「にしても、春上さんの友達って、どこに行ったんだろうね」
話を変えるように、美琴が春上の傍で呟いた。
初春が黄泉川に食って掛かっても止められるようにと傍にいたのだが、杞憂に終わってほっとした。
思い出を反芻するように、春上が笑った。
「置き去りの子たちは施設から出ると、中々連絡が取れなくなっちゃうの。だから仕方ないかなって。でも元気にやってると良いなあって、思うの」
病院の個室で、黄泉川は思わず煙草を探してしまった。胸糞の悪くなるような話だった。
……なぜ施設を出た置き去りの子供の足取りをたどるのが難しいのか、黄泉川は知っていた。
テレスティーナと目が合う。煙草を探したことを悟られたのだろう。目で謝ると、ニッコリと微笑まれた。
そしてそんな大人たちの仕草に気づかず、春上はペンダントに触れて、友達の写真を美琴と初春に見せた。
「枝先絆理(えださきばんり)ちゃんって言うの」
「この子……!」
「え?」
驚く美琴に、周囲が不思議そうな表情をした。あわてて取り繕う。
「な、なんでもないって。ちょっと知り合いに似てただけ」
そんなことはなかった。
いつか見た、木山春生の記憶。
彼女の教え子であり、人体実験の被験者にされ、今も目を覚まさない子たち。
春上が胸に下げたペンダントに映るその顔は、紛れもなくその子達の一人だった。




負担になるからと、短い時間で面会は終わらせた。
初春、佐天、白井、美琴、そして黄泉川とテレスティーナ。
帳が落ちて電灯の光が明るく照らす廊下を歩きながら、美琴はさっき見たものを報告する。
「つまり、春上が茫然自失となるきっかけはその親友の枝先からのテレパシーだと」
「そして、その枝先さんって子は、幻想御手(レベルアッパー)事件の主犯、
 木山春生の人体実験によって植物状態へと陥っている」
黄泉川とテレスティーナは、考え込むようにうつむく。
「いやあの、関係があるとは限りませんけど……」
「まあ、な。春上が枝先からテレパシーを受信することとRSPK症候群を同時多発させること、この二つの相関が全く取れてないからな」
「そうですね。ただ……木山の携わったその『暴走能力の法則解析用誘爆実験』というのが気になりますね。名前で全ては分かりませんが、その実験結果を手にしている木山は、能力者を暴走させるための条件を知っているのかもしれませんね」
「……」
大脳生理学の新進気鋭の研究者にして、AIM拡散力場のコントロールによる複数能力者の演算能力を纏め上げるという、倫理的な面に目をつぶれば革新的としか言いようの無い成果を出している木山だ。
ポルターガイストを起こさせることは、彼女の才能なら可能だろうとは、黄泉川も思っていた。
「木山はあの子たちを救う為になら、なんでもするって」
木山のやったことではないが、美琴は自分の体細胞クローンを作られかけた被害者だ。
学園都市は、それが利益になるなら平気で人倫の道を踏み外す連中の集まりだと肌で理解していた。
木山の行動には美琴でも納得できるだけの理由がある。未だ死者を出さないポルターガイスト現象。
きっとこれくらいなら、木山は許容範囲内だと思っていることだろう。
「……拘置所の面会時間は終わりだな。明日でも様子を見に行くか」
黄泉川が独り言をもらす。
「初春。なるべく春上の傍にいてやれ。あたしらが疑うのをお前は善しとしていないが、どっちに転んでも風紀委員が傍にいることはマイナスにはならない」
「言われなくてもやります」
詰まらなさそうに、黄泉川から露骨に目線を外して初春は返事をする。
その態度に気を悪くした様子も見せず、黄泉川は続ける。
「あたしは『風紀委員』のお前に言ってるんだ。警備員もそうだがな、身内だからってのは理由にならない。犯人が分からない今、手がかりを探すのは当然のことだ。友達想いで風紀委員の本分から外れるようなら、今だけでもその腕章は外しておけ」
「大丈夫です。言われなくても、やりますから」
「そうか」
ハラハラと見守る周囲をよそに、初春は態度を変えず、黄泉川も怒りを見せずにやり取りを終わらせた。
黄泉川は時計を見ながら、この後のことを考える。家に帰るのはまだ先になりそうだ。
新しい同居人のインデックスのおかげでまちがいなく上条が食事を用意してくれているので、最近残業が楽になった黄泉川なのだった。
「婚后の顔だけ見て帰るか。テレスティーナさん、春上は、今日は?」
「今日というか当分、こちらで経過を見てみたらどうかと思っています」
「なぜ?」
短く、黄泉川は聞き返した。二人の視線が交錯する。
テレスティーナの瞳は戸惑いに揺れた。善意の人が疑われたときの狼狽のように、誰の目にも、そう見えた。
「私の学位論文のテーマが近いこともあって、この病院はAIM拡散力場の測定装置が充実しています。ここなら春上さんのことを細かく調べられますし、それにここは普通の病院と違って人があまりいません。仮に春上さんを中心に被害があったとしても、ここなら怪我人を少なく出来ますから」
「……そうか、わかった。協力に感謝します、テレスティーナさん」
「ええ、早急に原因を突き止めましょう」
真摯な目で、テレスティーナが黄泉川を見つめ返した。




「さて、それじゃあ婚后さん、またね」
「ええ。御坂さんも、それに皆さんもお元気で。お手数をかけてすみません、黄泉川先生」
「いいじゃんよ」
春上の病室から出た後、テレスティーナを除いたメンバーで光子の病室を訪ねた。
暇を持て余していたのがありありと分かる態度だった。いつもより饒舌な光子に白井が辟易していた。
ここから帰宅するとそれなりの時間になるため皆で帰ろうとする中、佐天は一人、ここに残ったのだった。
「元気ありませんわね、佐天さん」
「……ちょっと」
それは春上の病室にいたときと、立場が逆になったせいだった。
負担をかけまいと、さっきは平静を保っていた。
だけど。
「ちょっと婚后さんに、相談に乗って欲しくて」
「あら。なんですの?」
病室に押しかけて病人にすがるというのはおかしな話だが、それでも光子の優しい微笑みに、ほっと佐天は息をついた。
「あの、婚后さんもたしかポルターガイストで、ここにいるんですよね」
「ええそうですわ。本当、私を巻き込んでこんなことをするなんて、どなたか存じ上げませんけれどいい迷惑ですわ。せっかくまたエカテリーナちゃんのお世話を出来ると思ったのにまた人に頼む始末ですし」
想像を絶するサイズのニシキヘビを飼う光子だ。エサやり代理はどんな気持ちなのだろう。
「怖く、ないですか?」
「えっ?」
「……私も今日、巻き込まれて。それで、今までちゃんと見えてたはずのものが、急に歪んで見えて」
「そう。佐天さんもポルターガイストの被害にあわれたのね」
「はい……」
光子はベッドから体を起こして、シーツから出た。そして佐天にベッドに座るよう促した。
「えっと、失礼します」
「ええどうぞ。能力は勝手に暴走しますの?」
「え? いえ、そんなことはないですよ。でも」
「時々見えてるはずの世界が歪む?」
「はい。なんていうか、渦を作る気が無いのに、空気がゆらってなるんです」
「そうですの。……あまり気になさらないことですわ」
「え?」
「そういう不調って、起こす人は起こすものですわよ。事件とは関係なく」
「そうなんですか?」
「ええ。自転車に乗っていてこけるのと、何か違いまして?」
その比喩の意図を、佐天は探る。
出来なかったことが出来るようになるという意味で、自転車に乗ることと超能力を使うことは似ている。
それは何度か光子が比喩として説明したことだった。
そして、補助輪を外した後、小さい頃に自転車にこけた後というのは、確かに乗るのが少し怖いものだった。
またこけてしまうのではないかと思うから。まあ、予想に反し慣れればそうこけるものではないのだが。
むしろ包丁の扱いのほうが佐天にはしっくり来た。
手を切ったって調理を止めるわけにはいかないし、また手を切りそうだと不安に思う反面、そうそうそんなことは起こらない。
「心配しなくても、使ってみれば案外大丈夫ってことですか?」
「ええ。だって私、今強がっているように見えて?」
「いえ、別に」
「でしょう? お恥ずかしい話ですけれど、コントロール失敗をきっかけに不調になったことなんて、何度もありますもの。今更一度の暴走でくよくよなんてしていられませんわ」
「え? 何度もあるんですか?」
「よ、四回くらいですわ」
失敗ばかりしているようにとられてちょっと恥ずかしくなって虚勢を光子は張ってしまった。まあ、正直に言うと年に一回くらいのペースだった。
特に人より早熟で初潮がきた時など、自分の体の激変によって能力がまるで使えなくなって、能力者としての自分は終わったなどと本気で悲観したものだ。
「どうやって、復活したんですか?」
「どうもこうも、落ち着いた頃に能力を使ってみればまた普通に使えますわよ。思いつめたほうが後々酷くなりますから、気にしないことですわ」
「はあ……」
「不安ならここで、荒療治してしまいましょうか」
「え、ええっ?」
随分と、光子は師としての振る舞いに慣れ始めていた。
佐天がどういう弟子かも分かってきていたし、たぶん、すぐに治せるだろう。
ベッドに乗り上げて、佐天を後ろから抱きしめる。
「ちょ、ちょっと婚后さん! その、シャワーとか浴びてませんし」
「……そんな色っぽいことはしませんわよ?」
「い、色っぽいって、そそそんな別に、私は」
当麻のせいで耐性が出来たのか、ついそんな冗談を飛ばしてしまった。
まあなんにせよ、汗の匂いが気になることは無かった。そのまま髪を撫でる。
「ほら、まずは落ち着いてもらいませんと」
「はあ。そう言われても……」
そう言いながら、光子に撫でられるのは気持ちが良かった。
お姉さんって良いなと、やっぱり思う。
髪の手入れの話や、ファッションの話、そんな他愛も無いことで時間を使うと、意外なほどに佐天のささくれ立っていた気が治まった。
疲れで眠かったのも、あるかもしれない。
「さて、それじゃあ渦を作ってみましょうか」
「えっ」
「ほら、指を突き出して」
佐天の右手を握って、光子は手を広げさせた。
そして佐天の目の高さへと持っていく。
手のひらに上にはまだ、渦は無い。
「発動させなくてよろしいから、手の上に渦を思い描いて御覧なさい。一つ一つ手順を私に説明しながら」
「はい。えっと……。手のひらの上の空気を、粒に見立てます」
「そうね、それが佐天さんの原点ね。どんな粒なの?」
「球体です。スケールはマイクロオーダー。……今思うとこの粗視化粒子、分子よりはるかに大きいですよね」
空気は分子という粒で出来ている、という解釈から始まった佐天の能力だったが、佐天も自身の描く粒が空気の分子とはサイズが桁違いなことに気づいていた。
人の扱うモノの大きさと比べて、分子は9桁くらい世界が違うのだ。分子を直接操れば、例えばサッカーボールの軌道演算よりも9桁大きな計算時間がかかることになる。粗視化は当然のことだ。
「分子よりは百万倍くらい大きいのね。粒、見えました?」
「はい」
「どんなのか説明して頂戴」
「えっと、特定の方向は持ってなくて、普通にブラウン運動しています」
「ブラウン運動って言ってしまうと完全にコロイドですわね」
空気中、あるいは水中で粒子が酔歩、つまりランダムウォークすること。ブラウン運動とはそういうものだ。
レーザーを当てれば光の散乱によりその粒子の動く行程が見える、いわゆるティンダル現象の元になる。
何気なく呟いた単語だったが、佐天はまだ学校では習ったことの無い知識だった。
もう学校のカリキュラムより、佐天の知識はずっと先んじている。
「こうやって見立てておくと埃とかのエアロゾルが混じっても把握が楽で良いですよ」
「成る程、確かにそうですわね。さて、それじゃあ渦を回す前に、どうやって回すのかを説明して頂戴」
光子は抱きしめて囁きながら、よし、と心の中で呟いた。
目の前の佐天が視界を揺らさなくなった。集中を失っていた佐天が、目の前の一つの渦に、ちゃんと集中している。
「粒の一つ一つに、ある一点へと向けて収束する力と、ばらばらに乱れる力を持たせると、自然と巻きます」
「そう。今把握している領域を渦にしたら、どれ位の規模になりますの?」
「中心圧力が2気圧、サイズは直径8センチくらいです」
それなら暴走してもどうということはない。それに光子とて空力使い。押さえ込むことは難しくはない。
「わかりました。では作って頂戴」
「はい」
佐天は失敗の恐怖に冷たい汗をかきつつ、粒に意志を通していく。
無秩序にバラバラな動きをしていた空気の粒が、ある一点を中心に、ゆらりと回転運動を始める。
手のひらの上の小宇宙。星雲の如く粒は一つの塊を作り始めた。
結果は、なんてことはなかった。尻込みしていたのが無駄だったといわんばかりに、ごく普通に渦が巻いた。
「あ、できた……」
「でしょう?」
渦が予告どおりの規模であるのを見届けて、光子はさっと抱擁を解いた。佐天は独力で克服したのだと伝えるために。
案ずるより生むが易し。そういうことだった。佐天がこちらを振り向いて、嬉しそうな顔をした。
褒めて欲しそうにしているのが分かったので、髪をまた撫でてやった。
「失敗なんてこんなものですわ。落ち着いて、自分の原点にちゃんと立ち戻れば、それで回復します。だって佐天さんにはレベル0からここまで、ちゃんと歩いてきた道がありますもの」
「ありがとうございます! あは」
佐天はもう一度、渦を巻いてみた。なんともない。なんだ、心配して損した。
やっぱり持つべきものは先達だと、佐天は思った。
自分の苦労をまるで自分しかしたことの無いもののように捉えていたけれど、そんなはずはない。
同じ悩みを抱え、克服した人は必ずいるのだった。
「ほら、そろそろ完全下校時刻までに帰れなくなりますわよ?」
「あ、ほんとだ。あのっ、なんかドタバタですみません。婚后さん、ありがとうございました!」
「佐天さんの元気な顔が見られて何よりですわ。それじゃあ、また」
「はい!」
さっきまでよりずっと足取り軽く帰路につけることを嬉しく想いながら、佐天は病室を後にした。
当麻に電話をするのは何時にしようかと思案しながら、光子は佐天に手を振った。



[19764] ep.3_Deep Blood 02: 仲直り
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/13 23:44
「ねえエリス。調子が悪いなら、ちゃんと言ってね」
「ありがとう」
顔色のすぐれないエリスに声をかけてくれるシスターに礼を言って、エリスはまた自室に戻った。
ここの人たちは皆、優しい。神父もシスターも、そして教会で暮らす子供たちも。
それはずっと、嬉しいことだった。当たり前だ。周りの人が自分のことを気遣ってくれて嫌なはずがない。
「ふう……」
だけど。
あの日、垣根を拒んで夜遅くに帰ってきた時から、この優しい世界が白々しい世界に変わってしまった。
原因は彼らにあるわけではない。完全に自分のせいだ。
エリスねーちゃんあそばねーのーという声に、ちょっとしんどいからと返事をして、ベッドにうずくまる。
ぐるぐると頭の中で巡るのは、垣根の顔。それも優しいのじゃなくて、怒った顔。
垣根をそんな風にさせたのは自分が垣根を突き飛ばしたからだ。これもまた、悪いのは自分。
あの日、自分に口づけをしてくれようとした垣根を振り払って、浴衣を着崩しながらトボトボとここまで帰ってきた。
外出すらもほとんどしない引っ込み思案のエリスだ。だからボーイフレンドと外出したというだけで、神父さまたちは驚き、喜んでくれた。
頑張っておいでと送り出してくれたその後でボロボロになって帰ってきたエリスを見て、酷く彼らも驚いていた。
垣根に弄ばれたのかと、誤解に任せて口走ったシスターもいた。
当たり前の如く、説明を求められた。
何もかもがそのときは煩わしくて、もう二度としないはずのことを、してしまったのだ。

学園都市のIDすら持たないエリスは、ここにいるために皆に暗示をかけていた。
エリスがここにいることを不自然に思わないように、と。
超能力者としてのエリスには、それが可能だった。
今にしても、自分で聡明な判断だったと思うが、エリスはその最低限の暗示以外、自分の保護者達の精神を歪めることはしなかった。
だから、気持ちよくここにはいられたのだ。
悪さをすれば叱られる。だからこそ、愛してもらえたときには素直に喜べる。
だというのに。
今、この教会と学舎に、エリスが垣根と出かけたことを思い出す人間は、一人もいない。
傷を抉るのは止めてくれと、エリスは超能力を持ってして、彼らに厳命してしまったから。
だから、彼らはいつもどおりにエリスに接してくれる。
顔色が優れなくても、エリスが大丈夫だといっている程度ならそう干渉してこない。
当たり前だ。普通にしててくれとエリスが強制したのだから。
けれど。彼らが普通であればあるほど、エリスだけには、現実が白々しいものに感じられるのだった。

あれから、もう何日経つだろう。普段も垣根は毎日は来ない。だからいつものペースだと言えばそれだけのことだ。
だけど、もう二度と来ないかもしれないと、そういう覚悟もすべきだろう。
自分が垣根にやったことは、おおよそ、彼氏に対して最も酷い対応だったと思うから。
嫌われて文句など言えるはずもない。それに垣根が来るよりも、自分が謝りに行くほうが筋だ。
家の場所も学校の名前も聞いているのだから、その気になれば、エリスは会いにいけるはずなのだ。
そうするのを、もしかしたら試されているのかもしれない。
そして例えば一週間くらい待って、もし私が来なかったら。帝督君はもっと他の女の子と――
ジクジクと心が膿んでいくのが分かる。垣根が他の女に惹かれるなんて、絶対に嫌だった。
窓から外を眺めると、ようやく太陽が仕事を終えて地平の先に落ちようかという気配を見せたところだった。
まだまだ明るくて、グラウンドで年下の寮生たちがサッカーをしている。
普段なら自分だってあれに混じったりするのだが、今はそんな気になれなかった。
扉の向こうにふと気配を感じる。コンコンと、控えめなノックがされた。
「エリス、起きてる? 垣根君が来てくれて、エリスが調子悪いって言ったらお見舞いするって」
「えっ?!」
エリスはそれで、ベッドから跳ね起きた。
どうしよう。
会うべきか会わざるべきか。
優しい垣根の笑顔なら、見たい。問い詰められるときの顔なら、見たくない。
来てくれたということはまだ愛想を尽かされていないのだと思うけれど、でもさよならを言うために来たのかも知れない。
会うことが、エリスにとって禍福のどちらをもたらすのか。
あるいはあざなえる縄の如く、どちらもなのか。
「エリス? せっかく来てくれたんだし顔だけでも出してあげなよ」
「う、うん……」
会うしか、なさそうだった。
起き上がって身だしなみを再確認する。別に、いつも通りだった。
本当は髪をもう少し整えたいが、時間がない。だけど普段も子供たちと遊んだ後ならこんなものだろう。
ドアノブに手をかけて、一瞬逡巡した後、ぐいと押し開いた。
「悪い、エリス。中々来れなくて」
「えっ? そ、その、そんなことないよ」
すらりとした長身、年齢よりも大人びたファッションスタイル、髪を切ったのか前より整っている。
やっぱり、垣根は格好良いと思う。顔に惚れた訳でなくとも、格好良いからドキッとしてしまう。
その垣根が、まず、謝ってくれた。謝られることなんて何一つ無い。
だけどそうやって心を開いてもらえたら、どんな悩みを伝えるのも、謝罪をするのも、とても気が楽になるものだ。
エリスは涙が出そうになった。きっとたぶん、まだ、嫌われていないと思う。
「じゃ、ごゆっくり」
ニヤニヤとした顔で立ち去る寮の仲間のことなんてすっかり眼中にいれず、エリスは垣根だけを見た。
「狭いところだけど、その、入って」
「ああ、お邪魔するな」
二人っきりの密室で、垣根と向かい合ったのはこれが初めてだった。


エリスの部屋は洋風の質素な見た目だ。
ここは宗教施設に併設された学生寮だから清貧であれという思想が当然あるのだろうが、しかし由緒などあるはずもないこの学生寮が、少なくとも見た目には木造らしいつくりなのは、おそらく普通の学生寮より内装が高くついているだろう。
見た目の清貧さのためにお金がかかっている辺り、なんとも学園都市らしい。
「エリス」
いっそ垣根が部屋を隅から隅まで見尽くしてくれれば良かった。
それなら、冗談めかして怒ることも出来た。
だけど、垣根はエリスから真剣な目を一向に逸らさない。
呼びかけに、エリスは応えられなかった。何を答えてたらいいのか分からない。
「その、まずは謝らせてくれ。ごめん。あの後、本当は追いかけるべきだった」
「えっ?」
「エリスを一人になんて、させるべきじゃなかった。一人にしちまって、ごめん」
その謝罪が嬉しかった。嫌われてないことの証明だから。
その資格はないと分かっていながら、恨んでいないといえば嘘だった。
垣根に追ってきて欲しかったと、エリスは思っていた。
「いいよ、帝督君。だって帝督君は全然悪くないから」
「でもさ、エリスをきっと傷つけただろうとは、思うんだよ。悪い。やっぱ突き飛ばされるとまあ、足が竦むっつーかさ。笑ってくれ。俺はお前に嫌われるかもしれねえって考えると、結構チキン野郎になるらしい。喧嘩沙汰ならいくらでも強気になれるんだがな」
「おあいこだよ。私も、帝督君に嫌われたって思って、あれからずっとうじうじしてたから。だから、私もチキンだね。……ね、帝督君。座って話しよ」
「え?」
エリスの部屋には勉強机にあわせた椅子がある。
だがエリスがぽんぽんと叩いたのは、自分も座るベッドの上だった。
その場所に二人で腰を落ち着けることは、特別な意味を持っているようないないような。
「変なことしたら多分すぐに人が飛んできちゃうよ?」
「し、しねーって」
よく自分のことをチンピラみてーなヤツなんて評する垣根だが、今日は特にそんな感じだった。
それを好ましくエリスは思う。人間としての底が浅いんじゃなくて、天才なのに愛嬌があるのだ。
この街で天才だということは、決して幸せなことではないことをエリスは理解している。
エリスの超能力は、人ならざる身に変貌してなお、直接人を視認することで相手の記憶や認識を少し歪めることが出来る程度だ。
ヒトであった頃にはそんなことすらも出来なかった。
それでいて、エリスは学園都市のエリートだった。だから、実験に投入された。
それから10年。垣根提督という能力者を作り出すのに、一体学園都市はどれほどの高みまで堕ちて行ったのか。
きっと、まともな良心なんて育たなくて普通だろう。
だけど、垣根は冷血でも、淡白でもなかった。
普通の男の子と恋愛はしたことがないけれど、垣根に感じている追慕の情は、きっと普通の女の子が抱えるものと同じだとエリスは思う。
「帝督君。ほら」
「お、おう」
恐る恐る、垣根が横に座った。軽く腕に触れると一瞬と惑った後、そっと腰に腕を回してくれた。
「嫌なら、言えよ」
「帝督君こそ。嫌だったらしなくていいからね」
「馬鹿。それならそもそも来ねーよ」
「うん……」
次に話すべきことを持っているのは自分だと、エリスは自覚があった。
なぜ、あの日垣根を突き飛ばしたのか。なぜ、ぐしゃぐしゃの泣き顔を見せながら、逃げ帰ったのか。それを説明しなければならない。
自分が嗅いだ、あの匂いのことを話さなければならない。
一度嗅いだら気にせずにはいられないなんて特徴は下水や腐った何かの匂いそのものの特徴で、それでいながらエリスにとってはたまらないくらい芳しく、甘い匂い。
そしてきっと、化け物にしかわからない。ヒトには、それは気づけない。
脳裏であの匂いを反芻する。それは自発的な行為ではない、発作だった。
嗅覚が何かのシグナルを捉えたとき、少しでもあの匂いに通じる雰囲気があれば、自分はすぐさま回想に入って、耽溺してしまうのだ。
それが食事のときでも、友人と話しているときでも、垣根と口付けをするときでも。
今、この瞬間だって――
「エリス?」
「えっ?! あ……」
「その、言いにくいことが有るのかもしれない。急かして悪い」
「ううん、違うの」
また、だった。気づかないうちに、そうやって自分は蝕まれているのだ。
怖かった。友達と楽しく遊んでいるその真っ最中に、何かのクスリの中毒者みたいに、突然に立ち止まって全ての状況を忘れ去って、ぼうっとしてしまいそうで。
「私、おかしいんだ」
「え?」
「このところ、ずっとぼうっとしちゃって。……原因は、原因の根本は分からないけど、夏祭りのときに、変な匂いを嗅いでから」
「匂い?」
「うん。甘い匂い。椿の匂いみたいなの」
「……俺の知ってる中に椿と似た匂いのドラッグはないな」
「そういういけないおクスリじゃないよ。だって帝督君には分からなかったもの。目の前に、帝督君の顔があったあの瞬間に」
「じゃあ、なんでエリスだけ反応したんだろうな」
特に深い意味を込めたでもない垣根のぼんやりした呟きに、エリスは、泣きそうになった。
吸血鬼なんだとバラしたときより、それは二人の距離を感じさせる。
ただの記号としての吸血鬼じゃなくて、今から自分の言うことは『人外』を強く意識させるから。
「椿の匂いみたいなのに、それはね、血の匂いなんだよ。きっとそれは、帝督君の感覚系じゃわからないんだ。AIM拡散力場を感じられない多くの人にとって、超能力の予兆が感じ取れないようにね」
「……」
「血の匂いなんて、鉄臭いだけだと思わない? 私はそう思えないんだ。血の味と匂いを嫌悪する気持ちはもう薄れちゃった。それでも普段は美味しいと思ったことなんてなかったはずなのに。……あの匂いの持ち主は、なんだろうね。吸血鬼を蛾か何かみたいに、集める人」
シーツの端を、ぎゅっとエリスは握った。
また不安がぶり返してきた。だけど多分、それは垣根が隣にいてくれるからでもある。
慰めもなく、狭い部屋で鬱々としているうちに鈍磨していた感情が、垣根に触れてまた鮮やかになったからだ。
慰めて欲しいから、抱えた気持ちがこみ上げてくる。エリスの期待に、垣根は間髪いれずに応えてくれた。
腰に回していた手が肩に回され、そしてもう一方の手もエリスを抱きしめてくれた。
「帝督君」
「これで、エリスがちょっとでも安心してくれると助かるんだけどな」
「もっとしてくれないと、駄目かも」
「そうか」
「ひゃっ?」
エリスの躊躇いがちの我侭を、垣根は見逃さなかった。
エリスの足の裏に腕を差し込んで、ぐいと持ち上げて自分の膝の上に下ろした。
ベッドに座った垣根の膝上にエリスが寄り添う形になった。
「えっ、えっ?」
「……なんだよ。嫌なら下ろすぞ」
「い、嫌じゃないよ」
「じゃあ、腕、回してくれよ」
「うん……はい」
膝上に乗ったエリスと、垣根の視点はそう変わらない。わずかにエリスのほうが高かった。
そして垣根の首に腕を回せば、二人の顔は自然と近くなる。
「あ、あの」
「エリス。そこまで打ち明けたんだ、俺にも協力させてくれよ」
「え?」
「問題があるなら、解決すればいい。オカルトやら超能力が絡んでいようと、問題解決の方法論ってのは変わらない。ほらあれだ、苦楽を共にするのが寄り添う二人のあるべき姿、だろ?」
「……ふふ。帝督くん、ガラにもないこと言って背中が痒いですって感じ丸出しだよ」
「わ、悪いかよ」
「ううん。悪くない。帝督君、そういうとこ格好良いよ。帝督君、大好き」
「だ――――」
「大好き」
「お、おう」
気持ちをぶつけられるほうには免疫がないのか、垣根が恥ずかしげにそっぽを向いた。
可愛らしい反応だった。
「ねえ、帝督君。私を選んでお得なことなんて絶対にないよ」
「んなことは絶対にない。お前は佳い女だよ、エリス」
「これ以上迫られたら、私帝督君に頼っちゃうよ。頼りきりにはならなくても、頼りにしちゃうよ」
「望む所だって、言ってるだろ?」
「うん――」
もういいや、とエリスは思った。
こんなにも自分のことを求めてくれる人だから。
楽な道ではないし、終わりに悲劇があるのかもしれないけれど。
この人に、寄り添ってもらおう。この人と、歩いていこう。
重荷を背負わせることになるなら、同じだけの荷を背負ってあげよう。
それが叶わぬときのことは、後で考えよう。
エリスは垣根の髪の匂いを嗅いだ。垣根の匂いがした。
それは椿の匂いなんかじゃなくて、男性の、好きな人の匂いだった。
「エリス」
真剣な目で、垣根に見つめられた。
その一瞬で思いが交錯する。垣根が何をしたいのか、そして自分が何を期待しているのか。


さらさらと髪を撫でる垣根の手つきに陶然としながら、真摯でいながら優しい垣根の微笑みに、そっと頷き返す。
三度目の正直には、邪魔は入らなかった。
緊張した手つきでエリスの頬に垣根の手が添えられて。
「――――ん」
とてもとても幸せで、嬉しくなってしまうような、そんなファーストキスを。
垣根とエリスは、静かに交わした。






「それじゃ。また行ってくるから」
「ああ」
姫神秋沙はもうこの一ヶ月ですっかりと慣れ親しんだ監禁部屋を後にした。
正確には、一週間ほど前からは監禁部屋ではなく、安全な居室になっている。
事情はこうだ。
日本最大手の大学受験用の進学塾、三沢塾。
そこが学園都市が秘匿しているさまざまな科学知識や教育の方法論を手にするため、学園都市に支部を設けた。
しかし当初の目的に反し、ゆがんだ方向に学園都市の知を吸収し、先鋭化した結果、三沢塾学園都市校は科学カルトと呼んで差し支えないような、危うい存在となっていた。
そして平凡でないオンリーワンの能力者を神輿に担ぐために、『吸血殺し<ディープ・ブラッド>』の姫神秋沙は、幽閉された。
それが一ヶ月前の出来事だった。
「本当にこんなので。見つかるの?」
「蓋然。絶対を口に出来るわけではないが、この街に吸血鬼がいる可能性は高い」
『吸血殺し』を欲していたのは、三沢塾だけではなかった。
今、姫神の目の前にいる緑髪の長身の男性。アウレオルス・イザードもその一人だった。
一週間前、アウレオルスは三沢塾を制圧し、以来、姫神はアウレオルスと共闘関係にあった。
目的は、どちらも吸血鬼。
アウレオルスは吸血鬼の持つ力、あるいは知識を手に入れるため。
姫神は吸血鬼を遠ざける力を手に入れるため。
「どれくらいで帰ってくれば良い?」
「夜の眷属の相手を夜にするのは危険だ」
「そう」
初めて聞いたアドバイスではない。夜までならどこで何をしても良いという意味の言葉だった。
姫神は普段着の巫女服に着崩れがないか軽く気にして、アウレオルスに背を向けた。
アウレオルスは姫神が外出する際にはいつも見送ってくれるのだった。
もちろん、それは親愛の情でなく、目的の成就のための行為であったのだろうが。
姫神はエレベーターに乗り込み、最新らしい制御の行き届いた音を聞きながら階を下っていく。
地上に程近いフロアに出ると、夏休みのためか日中から生徒でごった返していた。
さしたる注目も浴びず、たんたんとそこを抜ける。巫女服くらいは普通なのが学園都市だ。
さっとそこを通り抜け、真夏の日差しがまだ強い外へと姫神は足を踏み出した。
「今日は何をしようかな」
夏休みであるという以前に、家出少女と化した姫神にはすべきことが何もない。
適当に財布に入れた所持金で、適当に歩き回ればいい。本屋でも喫茶店でも、どこに訪れても構わない。
釣りと同じだ。自分は釣り餌で、釣り場の海をぷかぷかと浮いているだけの簡単なお仕事。
そういえば行きたいと思っていた高台の公園にでも行ってみようか、それとも無料のクーポン券が余っているからそれを消費しに行こうか。
漫然とそんなことを考えて姫神はバス停へと向かった。




「よう、っておい! 無視かよ」
「あん? 返事して欲しかったのか?」
光子を見舞った帰り。インデックスを連れて当麻はスーパーへと足を向けているところだった。そこに正面から垣根が歩いてきた。
もとから目つきが悪くて軽薄そうな奴だが、今日はそうした態度に緩みが感じられた。
往来を突っ張って歩くのが不良の仕事なのに、どうも今日はにへらっとしているというか。
ちなみにインデックスはエリスの想い人と分かっていながら、あまり垣根のことが得意ではない。
当麻から一歩下がったところで垣根を眺めていた。
「別に挨拶して欲しいってわけじゃないけどさ、曲がりなりにも知り合いなんだから声くらいかけるだろ。つかお前、どうかしたのか?」
「あ? どうかしたってのはなんだよ」
垣根は内心で慌ててすっとぼけた。
顔には出していないつもりだが、先ほどから心の中ではずっとニヤニヤしているからだ。
「なんつーか、浮ついてる?」
「エリスと何かあったでしょ」
「え」「な」
漠然としか当麻が捉えられなかった機微を、インデックスがばっさり突いた。男二人して、戸惑いを隠せなかった。
当麻にはまさかこの男が女がらみで浮つくほど初心にも見えず、垣根はまさかインデックスがそれほど鋭いことを言うとは思わなかったから。
「みつことベタベタしたあとのとうまとおんなじだもん」
「な、なんだよそれ。別にそんな風になったことねーよ」
「上条のヤロウがどうかは知らないが、俺がコイツ並にお花畑な脳味噌だと思われるのは不愉快だ」
「喧嘩売ってんのかよ……」
お互い嫌そうに、垣根と当麻は目を見合わせた。
「エリスにひどいことしちゃ駄目なんだよ」
「しねーよ。アイツを泣かせるような真似はな」
「ならいいけど。とうまもいつもそう言うけどよく喧嘩するし、信用は出来ないかも」
「コイツと一緒にするんじゃねーよ」
「……あの、インデックスさん? ひょっとして垣根をダシにして俺に嫌味を言ってるんでしょうか?」
なぜか自分が怒られている気になって、当麻は恐る恐るインデックスにそう尋ねた。
ところがインデックスは何かを思い出して怒りが再燃したらしく、つい、と当麻から顔を背けた。
「知らない。だいたいとうまはみつこのお見舞いにいく度に私を部屋から追い出してイチャイチャしてるし」
「なっ、イ、インデックス。何もコイツの前で――」
垣根が馬鹿にした顔でハンと笑うのが悔しかった。
ただ、当麻は気づかなかったが、エリスと当麻の仲にすこしくすぶる気持ちを抱えていた垣根にとって、インデックスがひけらかしてくれた情報は色々と気持ちをなだめるような効果を持っていた。
「模範的な高校生じゃないか、上条。犬か猿みたいに盛ってる辺り、実に良い青春だな」
「だからお前は何でそんなに喧嘩腰なんだよ。……で、お前は何でそんなに浮かれてんだ? エリスとファーストキスか?」
「……さあな、てめーに言う理由がない」
「返事遅れたぞ。なんだ、図星か」
「テメェこそ喧嘩を売りたいらしいな?」
両者の目線が交錯する。一触即発の張り詰め方というよりは、追い詰められた弱い犬同士が吼えあって体裁を取り繕っている絵に近い。
「エリスと、キスしたんだ」
「……な、なんだよ」
「別に、なんでもないもん」
じっと見つめるインデックスの視線に垣根は戸惑った。なにせエリスの女友達だ。邪険には扱えない。
しかしその視線がなんともいえなかった。
インデックスは唇を気にするようにそっと指で自分の顔に触れて――
「お、インデックス。もしかしてお前も年相応にキスをしてみたいお年頃か?」
ニヤニヤとした顔の、当麻に見つめられた。距離が意外と近くて、心臓が急に仕事をし始めた。
図星らしいインデックスの戸惑いを当麻が笑っていると、あっという間に、その柔らかい唇の下からシャキーンと歯がその威容を現した。
「とーうーまーぁぁぁ! ばかばかばか! そんなんじゃないもん!」
「いでで! おいばか、人前でやるなっつっただろ!」
「人前で変な質問するとうまが悪いんだよ!」
呆れる垣根の目の前で、二人は取っ組み合いを始めた。
付き合ってられるかと垣根は嘆息する。恋人同士のじゃれあいと言っても差し支えないようなバカップルぶりだった。
挨拶もなしに二人の横を通り抜けようとして、唐突に上条がじゃれあいを止めて遠くを見つめたのに気がついた。
「あ、おい垣根。って――あれ」
「ん?」
車道を挟んだ向こうに、この辺を縄張りにする不良が二三人。
そして、いかにも場違いなもう一人の……女学生、でいいのだろうか。巫女装束を着た長髪の少女。
どう好意的に見ても、親しい仲間内の集まりには見えなかった。
「ったく、ここら辺の不良ってどんなもんかね。からかって遊んでるだけならいいんだけど」
「……お前、興味あるのか?」
「いや、興味って」
「絡んだって得することはないだろ。お前にも決めた相手がいるんなら」
「下心があるわけじゃねーよ。ただ、ほっとけないだろ。ああいうのに慣れてそうな子には見えないし」
繁華街から遠くないここには奇抜なファッションの学生も多い。
巫女装束もそれの亜種だと言えばそれまでだが、着慣れた雰囲気から類推するに宗教系の学校の子なのかもしれない。
男慣れ、いやそれ以上に不良慣れしているとは思えなかった。
……隣にいるインデックスを見る。今、不良たちのほうに行くのを躊躇しているのは、自分が女の子を連れているからだった。
その雰囲気を悟ったのだろう。怒るように唇をへの字に曲げた。
「とうま。私だってあれくらいの相手から逃げ切るくらいは大丈夫。行くんだったら、私もついていく」
「いや、お前みたいなのが諭しに来たら向こうは絶対舐めるだろ。……垣根、ちょっとの間で良いからこいつの面倒見ててくれ」
「ちょっ……とうま! それじゃまるで私が幼稚園児か何かみたいなんだよ!」
「ちげーよ。あいつらと揉めたときにお前のほうに人が来たら困るだろうが」
「話を聞けよ」
はあっと垣根はため息をついた。
そもそも、知り合いでもなさそうな女の子をわざわざ助けるというのがもう垣根には信じられなかった。
不良どもとてこの往来でそこまで悪辣なことはすまい。
捕まってしまう女学生のほうにも悪い点はあるだろうし、目の前の一人を助けたからといって、それが何になるのだ。
「とりあえず俺はもう行く。後ろからそっちのガキがついてくるんなら止めはしねーよ」
「――ガキって、それ私のこと?」
インデックスはカチンときたらしい。馬鹿にしないでと言わんばかりの目を垣根に向けた。
「事実だろうが」
「ちょっと知り合っただけの相手をそんな風に馬鹿にできるなんて、人としての程度が知れるんだよ。自分を低く見せるってことはエリスを低く見せることと一緒だよ。彼氏さんのくせに」
「……エリスは関係ないだろ」
「おい、インデックス。落ち着けって」
「とうま。早く行こう。こんな女の人に優しくない人なんてほっておいて、さっさとあの巫女を助けてあげないと。とうまはみつこのものだから、エリスにはあげないけど。貴方よりとうまのほうがエリスを幸せにできるよ、きっと」
精神的にもタフそうな垣根の痛いところを突くにはエリスを引き合いに出すのが一番だとインデックスは思ったのだろう。
それは実際、正鵠を射ていた。そして当麻は垣根が唯一、上手く解きほぐせない隔意を感じている相手だった。
別に車道の向こうで不良に絡まれた巫女を助けなかったからといって、自分とエリスの関係が変わるはずがないと思う。
逆に助けたところで、これまた何も変わらないだろう。これからずっと、垣根が不良と戦っていく正義の味方でもやらない限り。
笑ってしまう役回りだ。この自分が正義のヒーローなんて。
「おい上条」
「あん? なんだよ」
「何でお前、そんなヒーロー気取りのことするんだ?」
あちらを気にして急かす当麻に、垣根は尋ねた。
至極、それは素朴な疑問だった。いつでもどこでも駆けつけるヒーローになんて、なれやしない。
当麻は垣根のその言葉に、背筋がむず痒くなったような顔をして、憮然と応えた。
「ヒーローって、そんなつもりはねーよ。ただ、見ちまったもんは、見過ごせないだろ」
「……」
「とりあえず行ってくる。インデックスを頼む」
「待てよ」
「あ?」
まだ引き止めるのかと迷惑そうに見る当麻の肩に、垣根は手をかけた。
青臭い当麻の物言いに、垣根は共感したわけではない。
これからも同じシチュエイションに出合ったとして、次は垣根は動かないかもしれない。
だけど、エリスを引き合いに出された上で当麻に負けたような気になることは嫌だった。
「テメェの出る幕はねーよ。さっさと止めればいいことだろ」
垣根は、二人に先んじて、車道を横断し始めた。




現地に到着してからは、一瞬だった。
「はあ? 何でお前が――」
「いいから散れっつってるんだよ。恨みたいなら存分に恨め」
ちょうど、垣根が誰なのかを知らず絡んできた不良を再起不能にしたのがつい先日のことだった。
それを覚えていたのだろうか、不良たちは対峙している相手が絶対に手を出してはいけない相手だとすぐに気づいていた。
そのおかげといえるだろう。散れ、の一言で、不良たちは腰を浮かして撤退に移っていた。
「とうま、役立たずだったね」
「うっせ」
あまりの手際のよさというか、展開の速さに当麻は立ち尽くすしかなかった。
何せ自分が絡みに行くと不機嫌になった不良が当麻に手を出そうとしたりして後処理が面倒なのだ。
能力者に蹂躙されるというのは不良達のコンプレックスを刺激するものだとは思うのだが、さすがにレベル5が相手となると次元が違いすぎてあまり劣等感も沸かないらしい。
「おい上条。もういいか」
「え? あ、ああ。……なあ、大丈夫だったか」
当麻は絡まれていた巫女装束の女の子に声をかけた。
近づいたときから気づいていたことだが、飛びきりの美人だった。
色白の整った顔立ちに、攻撃性が皆無の穏やかな顔。
腰まで伸ばした髪も長さに似つかわしくないほど艶を保っていた。
その女の子が、こくんと首を縦に振った。
「大丈夫。喋りかけられていただけだから」
「そうか。まあ、ああいうのについていくと面倒が多いし、ちゃんと振り払えよ」
「別に。振り払うことも出来た。けどたまには路地裏を歩くのもいいかと思って」
「へ?」
当麻は間の抜けた返事をしてしまった。こんな牙を持たない兎みたいな子が狼の溜まり場に繰り出すって?
巫女服の女の子の態度が気に入らないのか、苛々とした態度で垣根が地面の石を蹴った。
「ただの馬鹿女かよ。どうせ次は俺達がいないところで酷い目に遭うんだ。助け損だったな」
「振り払うことも出来たって、どうやってだよ」
垣根の言うことにも一理あると感じ、脱力しながら当麻は女の子に尋ねた。
返事がこれまた、電波の入ったヤツだった。
「私。魔法使いだから」
「…………」
三人全員が沈黙した。ただ、単なる呆れではなかった。
垣根は心の中で魔法使いという言葉の意味を反芻する。つい数日前までの自分なら、きっとそれを鼻で笑っただろう。
だが、垣根の惚れた相手は、自らを魔術師でもあると説明し、その秘術を見せてくれた。
だから魔法使いという言葉をただの冗談や妄想とは切り捨てられなかった。
それは勿論当麻にとっても同じような心境だった。そして隣を見ると、なんだかイライラと爆発しそうなインデックスの顔があった。
「魔法使いって何! カバラ?! エノク?! ヘルメス学とかメリクリウスのヴィジョンとか近代占星術とかっ! 『魔法使い』なんて曖昧なこと言ってないで専門と学派と魔法名と結社名を名乗るんだよオバカぁ!」
「?」
「その服見たらどう考えたって卜部(うらべ)の巫女でしょ!?」
「うん。じゃあそれ」
「じゃあってなんなんだよ?!」
コンクリートの壁をばんと叩くインデックス。はぁと当麻はため息をついた。
「突然に魔法使いってなんだよ」
「……魔法のステッキ」
「いやそれ、痴漢撃退用の護身グッズじゃねーか」
なるほど、彼女一流のジョークだったかとまたしても当麻は脱力した。
隣で、垣根はインデックスの言動に気になるものを感じていた。だってその物言いはまるで、魔術を知っているようで。
ただ確認してみるほどの気にはならなかった。
付き合っているのも馬鹿らしくなってきたところだったから、挨拶も面倒になったし帰るかと身を翻したところで。
「ん?」
同じスーツを着た20代から30代くらいの男達が、路地裏への入り口をふさいでいた。
垣根につられて振り返った当麻とインデックスも絶句していた。
退路を奪われるまでまるで気づかなかった。そしてすぐさま重心を落として敵襲に備える。
数の上でも位置取りでも、不利な条件だった。
「なんだ、てめえら」
「……」
垣根の誰何(すいか)に返答はない。
全ての人が硬直したその場で、ただ一人巫女服の女の子が動いた。
「大丈夫。もう解決していたから。ここにはもう用はないから次に行く」
姫神が黒服に向かってそう言うと、コクリと静かに頷いた。
どうやら、姫神を追う敵だとかではなくて、知り合いらしい。
「ありがとう。助けてくれて。それじゃあ私はもう行くから」
「お、お前――」
「姫神秋沙」
「え?」
「私の名前。助けてくれたから。一応。名前くらいは」
それだけ言うと、さっさと姫神は黒服たちの間をすり抜けて、表通りへと帰っていった。
そして助けに入った三人だけが、残される。
「……今の、なんだ?」
「スーツの襟章に覚えがある。あれは確か、三沢塾のだ」
「三沢塾って、あの進学塾のか?」
「カルト化してるって噂だがな」
「え?」
垣根は一ヶ月ほど前に、三沢塾に誘われたことがあった。ウチの生徒にならないか、と。
まあ駄目で元々だったのだろう。
垣根にしてみれば塾生になったところで良い教育が得られるわけもないし、お金にも住むところにも困ってなどいない。
誘いに乗る理由が一つもなかった。ただ、その時のスカウトに来た講師か社員かの、あの宗教めいた盲目さは記憶にあった。
「ま、助けを求める顔じゃなかったのはあの連中のバックアップがあるからか。よっぽど変わった能力なんだろうな」
「……何か厄介ごとにでも巻き込まれてるのか?」
「さあな。だが気にすることもないだろ? 宗教なんてどれもこれも似たようなもんだ」
垣根はそれだけ言って、じゃあなと呟いて路地裏から去っていった。
「とうま。私達はどうするの?」
「どうするも何も、問題は全部解決したんだし、帰るか」
「そうだね」
何か、釈然としない終わり方だった。
争いの後を欠片も残していない路地裏から、二人も立ち去った。



夜の教会。食後の片づけをしながらため息をつくエリスに、周りが戸惑っていた。
調子が悪いと言っていた数日とはうってかわって、吐息がなんだか悩ましかった。
「はぁ……」
「ねえ、エリスって今日どうしたんだろ?」
「知らないの? 今日、垣根君が来てたんだよ」
「それで? だって彼、週に二回くらいは来るじゃん」
「ここんとこエリスの様子がおかしかったし、垣根君もなんか思いつめてたのよ。あれ絶対喧嘩か何かして、仲直りしたんだよ」
エリスは、そんなあけすけな噂話にも耳を貸さず、皿を洗いながらキスの感触を思い出していた。

とても、垣根は優しかった。そして不器用な感じがした。
やっぱり、ファーストキスってのは本当だったのかな。
洗剤のついた手で唇に触れることは出来ないから、その感触を反芻することは出来なかった。
唇と唇を触れ合わせた後、別れるまでに二人は五度、キスを交わした。
何度もエリスに愛してると垣根は言ってくれた。撫でてくれた。
それは、とてもとても幸せな思い出だった。これから、毎日でもしたいくらいだった。

エリスはその日、椿の匂いを思い出すことはなかった。
そして姫神は、エリスに近寄ることはなかった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 05: 統計が結ぶ情報とエネルギー
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/25 00:00

コンコンと、光子は病室をノックした。
「はい。どうぞ、なの」
扉を開いた先には春上がいた。予想外の来客にぼんやりと首をかしげていた。それはそうだろう。
光子が春上と会ったのは、こないだの夏祭りの日に光子の見舞いに佐天が来たときだけだ。
碌に話をした覚えもなかったし、気が合いそうだとか、そういう予兆があった訳でもない。
「ごきげんよう、春上さん。私のこと覚えていらして?」
「あ、あの。確か佐天さんのお師匠様って」
「お師匠様……。ええ、間違いではないんですけれど、なんだか落ち着かない響きですわね、その呼び名」
「えっと」
「改めてご挨拶させていただきますわね。私、常盤台中学の婚后光子ですわ」
「あ……春上衿衣なの」
「春上さん、今、お暇?」
「はい」
「そう、それは重畳」
パタンと扇子を閉じて、なるべく優しく微笑む。
光子の目的は一つ。
「良かったら少しお話しませんこと? 私もう、暇で暇で――」
そうなのだ。光子はもとより体調不良などなく、体力を持て余している。
ここの医者はみな理由をつけてなんとか光子を引きとめよう、検査に付き合わせようとする。
そのあからさまな下心というか、そういう態度にうんざりして光子はいい加減不満が爆発しそうなのだった。
とはいえ能力の暴走は一歩間違えば重大な事故に至る。医者がうんと言わないと中々退院できない。
そんな中、同じ病院に入院してくれた春上は、無聊の慰めになる格好の話相手だった。
「私も暇だったから。でも、もうすぐ初春さんが来るの」
「あら、そうでしたの。お邪魔かしら?」
「そんなことないの」
春上は初春と光子の仲をよくは知らない。
だが佐天がたびたび尊敬している旨を口にしている相手だし、一緒にいて嫌なことはないだろう。
「婚后さんは、彼氏さんがよくお見舞いに来てるって」
「えっ?!」
「佐天さんがそう言ってたの。かっこいい人だったって」
「そ、そうですの? もう、恥ずかしいですわ」
そんな風に言いながら、光子はまんざらでもなかった。
やっぱり彼氏を褒められるのは嬉しい。
「春上さんには気になる殿方はいらっしゃるの?」
「え? ううん。そういうの、良く分からなくて。男子は、ちょっと怖いの」
「そう。私もほんの2ヶ月前くらいはそんな風に思っていましたけれど、きっかけがあれば変わるものですわ」
「そうなのかな」
今でも、当麻以外の男性にはあまり近づかれたくない。恐怖感とは違うが、どう接していいかわからないのだ。
春上も同じようなものなのだろう。線が細く、儚げな雰囲気のある子だ。
少なくとも当麻くらいには落ち着いて女の子に接してくれる年齢じゃないと、釣りあわないだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こうから音がした。
「春上さん、起きてますか?」
「あ、初春さん。どうぞなの」
「それじゃお邪魔しますね。おはようございます春上さん、って――」
「ごきげんよう、初春さん。愛しの春上さんを先にとっちゃってごめんなさいね」
上機嫌で扉を開けた初春の脳裏には春上しかいない病室が描かれていたのだろう。
光子を見てびっくりしたのか扉から一歩入った所で足を止めていた。
「あ、いえ! そんな愛しの春上さんなんて」
「? 初春さん、私のこと嫌い?」
「え? えぇっ?! ち、違いますよ。そんなことないですけど、愛しのって」
真っ直ぐな友情以上の意味合いを含み持たされたその表現に、初春は反応して春上はまるで気づかなかった。
うろたえる初春を春上が不思議そうに見つめる。ぴょこん、と傾げた首に連動して一房くくった髪が揺れた。
「初春さん、それ」
「あ、はい。春上さんのお見舞いにと思って、ちょっと遠出して買ってきたんですよ」
初春が気を取り直してぱかりと手に持った紙箱をあけると、程なく甘く素朴な香りが病室を満たした。
光子にとってはなじみが薄い匂いだったが、先日、当麻とインデックスが買ってきてくれた屋台の食べ物と同じ匂いがした。
ほんのり焦げ目のついた、小ぶりの鯛焼きが6つほど入っていた。
「第八学区にある話題のお店の鯛焼きです。春上さん、冷めないうちに食べましょう。婚后さんもどうですか?」
「え? 私もよろしいの?」
「はい。春上さんをお見舞いに来てくれた人ですから。それに、すみません。正直に言うと、婚后さんのお見舞いの品とか用意してなくて」
「別によろしいのよ。初春さんとはそこまで親しくしていたわけではありませんもの。むしろ気を使わせてごめんなさいね」
「いえいえ。機会があったらまた遊びましょうね」
「ええ」
佐天が間に挟まれば、そういうこともありうるだろう。年上でいながら御坂は親しくしているし、ああいう風に付き合えばいい。
初春が紙の箱の蓋を開けて、春上に仲良く並んだ鯛焼きを差し出した。そのうち一つを摘んで、春上が驚いたように呟く。
「まだすごくあったかいの」
「あら、本当ですわ」
遠めに見た光子からも、出来立てと見間違うほどの湯気が立っていた。
鯛焼きを買った第八学区というと、ここ第七学区から真北にある。電車でこちらに向かったにせよ冷めるには充分なだけの時間がかかるはずだった。
不思議そうに春上と光子に見つめられた初春が、えへへと照れ隠しをするように笑った。
「実はこれ、私の能力なんですよ」
「えっ?」
「あら、初春さんの能力の話を聞くのは初めてですわね」
そう興味深げに光子が言うと、躊躇うような、光子には話したくなかったような、そんな顔を初春がした。
それでなんとなく分かった。春上にだけ打ち明けたかったのかもしれない。
高レベル能力者の前で自分の能力をするのは、あまり気持ちの良いものでもないから仕方ないだろう。
……光子は、初春が誰にも能力の話をしたことがなかったのが故に躊躇ったとは、気づかなかった。
「私の能力、『定温保存<サーマルハンド>』は持ってるものの温度を一定に保つ能力なんです。って言っても、私が触れる温度くらいの物だけですから、あんまり大したことは出来ませんけど」
「すごいの」
「な、何言ってるんですか。春上さんはレベル2なんですから私より上じゃないですか」
「私は受信専門だから。こうやって、何かに働きかけられる能力って羨ましい」
「も、もう。褒めても何も出ませんよ。ほら、あったかいうちに食べちゃってください」
「ありがとうなの」
優しく春上が笑う。その笑顔につられて初春もまた笑みを見せる。
第三者の光子は疎外感を感じないでもなかったが、初春も春上も良い子なんだな、なんてお姉さんぶったことを考えていた。
ベッドに腰掛け半身をシーツの中に潜らせたまま、春上がはむと鯛焼きにかぶりついた。
「おいしいの。初春さん、ありがとう」
「やっぱり優しい味がしますわね。この鯛焼きというお菓子は」
光子は当麻に、鯛焼きは数平方メートルの大きな鉄板で豪快に焼くものだと聞かされている。
粗製濫造な味かと思いきや、この素朴さはなんだか悪くないものだった。熱々の皮がところどころとろりとしていて、またそれが良い。
「やっぱり有名店だけはありますね。もう一つ食べますか?」
「ありがとうなの」
「私はこれで充分ですわ。もう一つは春上さんに差し上げて」
優しく大人しげな少女と思いきや、春上はどうやら食欲は旺盛らしかった。
身近によく食べる女の子がいる光子としては、その勢いで食べて太らない体が羨ましい。
普通に食べる範囲で体重が増えたことはないので光子も気を使ったことはないが、春上やインデックスの真似をすれば早晩当麻に愛想をつかされる体になるような気はする。
「んー、やっぱり鯛焼きは熱々ですね」
ふう、と初春が一息ついて、ティッシュを取り出した。もちろん口の周りを汚した春上に渡すためだ。
その後姿に、光子は先ほどから気になっていたことを口にした。
「初春さんの能力って、かなり変わっていますのね」
「え? あ、はい。温度のコントロールってあんまり聞かないですよね」
「そうですわね。でも、初春さんらしい能力ですわね」
「私らしい、ですか?」
「ええ、だって初春さんは情報処理系のスキルで右に出るものはいないって佐天さんに聞きましたもの」
「はあ。まあ情報理論にはそれなりに自信ありますけど、何か関係あるんですか?」
「あら、温度を制御するということはエントロピーを制御するということでしょう?」
「え?」
しまった、と光子は自分の短慮を気まずく思った。誰しもが自分と同じ知識を持っているわけではない。
情報系なら当然知っているかと思ったのだが、そうでもないのだろうか。
「情報学でもエントロピーという単語は耳にするんではありません? 情報量を意味する言葉として」
「あ、はい。それはわかりますけど」
「自然を支配する熱力学において、エントロピーは温度と対になる重要な概念ですわよ。『乱雑さ』なんて風に表現されますけれど」
「そうなんですか。あの、すみません。うまく話が見えないんですけど……」
「ごめんなさい。取り留めのない話し方をしては分かるものも分かっていただけませんわね。……そうですわね、まずは氷と水の違いから話をしましょうか。春上さん、水と氷の違いって何でしょうか?」
鯛焼きに夢中な春上にちょっと意地悪をしてやった。わたわたと戸惑いながら考える仕草が可愛らしい。
「え、えっ? あの……水は流れてて、氷は固まってるの」
「そうですわね。マクロに見ればそれで正解ですわ。じゃあ初春さん。分子スケールで見れば、何が違うんでしょう?」
「えっと、氷は分子同士がガチガチに動きを止めてて、水はそうでもない、でしたっけ」
「あら、佐天さんよりはよくわかってますわね」
「まあ筆記試験は私、学年上位ですから」
常盤台中学の二年生に褒められてまんざらでもないのか、頬を染めながら初春が頭を掻いた。
「初春さんの言うとおり、分子の動きの違いが水と氷の差を出しているんですわね。ところで初春さん、水と氷、どちらの持っている情報量が多いか、ご存知?」
「え? 情報量、ですか? ……そう言われても、ピンとこないんですけど。すみません」
「情報学の専門的な意味合いではなく、直感的に捉えてくださいな。情報量という言葉の意味合いを」
「はあ……。なんとなく水のほうが多そうな気はします」
「どうして?」
「動き回ってるってことは、それだけお互いの位置関係とか決めにくそうじゃないですか」
「正解。非常に模範的な答えですわ、それ」
早々についていき損ねたのか、三個目の鯛焼きをほお張りながらこちらを眺める春上を他所に、光子は講義を続ける。
最近は佐天がめっきり賢くなって、あれこれ指南してやることが減って寂しいのだった。
「氷は結晶です。つまり、たった一つの分子の位置ベクトルさえ与えてやれば、あとは結晶の格子定数というほんの少しの情報量だけで全ての分子の位置が再現できます。水は分子の相対位置が揺らぎますから沢山の情報がないとその状態を再現できないのですわ。ちなみに、水蒸気はさらに多くの情報量を蓄えています」
初春はその説明を聞いて、一つ納得していることがあった。
そもそも普段は意識すらしないことだが、初春が情報量を処理するときには普通、底(てい)が2の対数を取っている。
Xという規模の現象に対しlog2_Xという値を計算することで、ビットという単位で表される情報量が定義できる。そして8ビットを1バイトとして組みあがっているのが世のパソコン群だった。
電子機器は電流のオンオフという2つの状態を取るから、自然と2という数字を土台に据えるのがいいのだが、自然現象はもちろんそんな事情とは無関係だ。
そして『底が2の対数』などという小馴れない名前ではなく、自然現象を取り扱うときに頻繁に出現する『自然対数』というものが存在することを初春は思い出した。
「確か自然現象には自然対数を使うって――」
「そう! 筋が良いですわね。2の代わりにオイラー数eを底に取れば、それが『自然』の情報量の数え方になりますわ。自然界のあらゆる現象は、そうやって可能性、あるいは情報量と名づけるべきものをやり取りして起こっているのですわ。もちろん情報量というのは単位の存在しない値ですから、エネルギーが支配する自然現象と結びつけるイメージがわかないかもしれませんわね。――――そして情報とエネルギーを結びつける係数、それが温度ですわ」
初春はドキドキとする気持ちを抑え切れなかった。佐天があれほど光子の名を口に出す理由は、これだろうか。
「ねえ初春さん。私達空力使いは、おしなべて空気の体積をコントロールする能力だとも言えますわ。そして体積と対になる変数が圧力です。現象の大きさをつかさどる体積という示量変数と、現象の強さ、テンションをつかさどる圧力という示強変数、この二つを常に意識せねばなりません。発電系能力者なら電流と電圧が、それぞれ対になるパラメータですわね」
「それじゃ私の場合は――」
「温度という示強変数をコントロールする能力者なら、必ず対になる示量変数であるエントロピー、すなわち情報量をコントロールする能力者でもあるということですわね」
例えば初春は、自分が手にしたお湯に温度計を差してじっと眺めたことがある。温度を保つ能力というのだから温度計は必要だと思ったから、温度測定の勉強なんかは結構頑張ったことがある。
だけど、自分が手にしているモノ、系<システム>が保持しているものがなんなのかについて、思いをめぐらしたことはなかった。
自分が手にしているのが情報量なのだと、そうイメージすることは、やけに納得できることだった。
自然現象をそんな目で捉えたことはなかった。
「初春さんの能力は佐天さんと同じで変り種ですから、上手く行けば面白い伸び方をするかもしれませんわね」
「そう……なんですか?」
「温度の直接制御は珍しいですわよ。間接的に温度を維持するだとか、そういう能力にはありふれていますけれど」
「じゃ、じゃあ。伸びたら私、どんなことができるようになるんでしょうか」
その初春の態度に光子は少し感心した。佐天にあった必死さとは違う。あくまで一歩引いていて、自分の能力を客観視する冷静さがあった。
同時にそれは、佐天ほどのがむしゃらさがないという言い方も出来るかもしれない。
「そこまではわかりませんわ。能力のことを一番理解しているのは、いつだって自分ですもの。でも、そうですわね。あれこれ想像してみることは可能ですわ」
ふむ、と一旦言葉を切って思案する。仮に自分の想像が的外れだった場合、初春をひどくミスリードしてしまう。
「何を直接的に扱う能力者なのか、というのはよくよく気をつけなければなりませんわ。初春さんが情報系のスキルをお持ちだからついエントロピーに話を膨らませましたけれど、全く無関係な可能性だって勿論あります。それはまず含み置いてくださいませ」
「はい」
「その上で、まず熱的な側面の応用から考えると、単純なのはやはり保持できる規模や温度の拡大ですわね。初春さん、どれ位の規模までなら保持できますの?」
「え、規模ですか? 持てるものくらいならどうにかなりますけど……」
「質量依存ですの? それとも体積依存?」
「質量依存です」
つまり、軽いものなら大きなモノでもコントロールできるということだ。
「では質量の限界は今のところどれくらいですの?」
「えっと、それが曖昧ではっきりしないんです。大きなものの温度を保とうとすると、ちょっとずつ保持が難しくなるんで、どこまでが限界っていうはっきりしたラインが引けなくて」
「そうですの。どれくらいのものなら問題ありませんの?」
「あの、この鯛焼きくらいが精一杯で……」
恥ずかしそうに初春が目線を下に落とした。
くいくいと、春上が初春の手首を掴む。
「鯛焼き美味しかったの。初春さんの能力、すごいの」
「あは、こういうときには便利で良いですよね」
たしかに、日常生活への実用性という意味では、この規模でも充分だろう。
カキ氷を食べるときなど随分重宝するに違いない。
「どういう能力かという話からは逸れますけれど、初春さんは自分の手にも熱が漏れてくるんでしょう? そういう能力発現の境界面設定はきちんとされたほうがよろしいですわね」
「あ、はい。いつも言われます」
「そうですの、ごめんなさい。余計なアドバイスでしたわね」
持てるものは普通に触っても大丈夫な程度の温度のみということは、初春の手には温度を保っているはずの物体から熱が流れ込んでいるのか、あるいは熱を保つ境界面が初春の皮膚の内側に設定されてしまっているのか、その辺りだろう。本来、温度を完璧に保てる能力者なら、原理的に言って触れている対象物が何度だろうと何の関係もない。
それこそが難しいのかもしれないが、能力の境界面を上手く設定することは初春にとって非常に重要なテーマだろう。
「それで、初春さんがレベル5になったときの話ですけど」
「レ、レベル5って」
「あら、夢は大きいほうが良いですわ。こういうときくらい良いじゃありませんの。……対象物の温度を自在に制御、灼熱のマグマを一瞬で常温に、あるいは鉄の棒を一瞬で溶融させる、なんてのは如何?」
「はあ。そういう風になれたら良いなっていうのは、やっぱり思いますけど」
初春にとって、それは魅力的な想像図とは思えないらしかった。
まあ順当な伸び方をすればそうなるのだし、この程度の予想は初春だってしてきたことなのだろう。
「では割れたコップの復元なんてどうでしょう?」
「え?」
それは、定温保存と名づけられた自らの能力とかけ離れて聞こえた。
「コップと言う形に分子が束縛されている時に比べて、コップが崩壊していく過程というのは分子がばらばらになる可能性、つまり情報量が流入していく過程ですわ。もし割れたコップから『割れる』という現象の中で流入したエントロピーを排斥することが出来れば、コップは復元できますわ」
「えっと、それって温度と関係あるんですか……?」
「破壊に伴って僅かながらに熱が発生していますわ。すぐに散逸してしまいますから気づきませんけれど。後、情報寄りの解釈をすれば、精神感応系の能力者に対するシールド、というのも面白いかもしれませんわね」
「へ? え?」
どうしてそうなるのか、もはや初春にはさっぱりだった。
「温度を一定に保つと言うことは、初春さんが触れた系<システム>は、外部とのあらゆる情報のやり取りをシャットアウトするということでしょう? それなら、誰かに触れれば、その人に対する精神感応系能力者による意識の読み取りも防げるんではないかと思いましたの。何人にも犯されざる、聖なる領域。心の壁。誰もが持っている心の壁。そういうものをより強固に具現化させられる能力に発展したりすれば面白いですわね」
「は、はあ……」
初春がこぼしたのは戸惑いの声。だが、内心では沸き踊る何かがあった。
「……もちろん、こんなものは空想の域を出ませんわ。でも、色んな可能性を探ってみることは、決してマイナスではありません」
「それは、そうですね。……うん、佐天さんに置いてかれちゃうのは悔しいですもんね。私もちゃんと、前を向いて自分の能力と向き合わないと」
「ふふ。まあ、初春さんの能力は私からは遠くてアドバイスは難しいかもしれませんけれど、できることがあればお手伝いくらいはして差し上げますわ。温度と情報というつながりに手ごたえを感じているのでしたら、まずはマクスウェルの悪魔とお友達になることですわね」
「はい」
その表現に初春は苦笑した。
マクスウェルの悪魔はエントロピーの低い状態を作り出す仮想的なツールのことだ。
温度で言えば均一だった温度を不均一にする、例えば水だけのコップを氷の浮かんだ状態にするだとか、
あるいはスクリュードライバーというカクテルをアルコールとオレンジジュースに戻すだとか、そういうことが出来る。
情報と自然現象を繋げば自ずとマクスウェルの悪魔の名前は出てくるものだが、この学園都市で悪魔と言う響きを耳にすると、なんだかむずがゆくなるのだった。
「上手く行けば情報エンジン辺りの開発に協力する名目で奨学金の増額もありますわよ」
「はあ、情報エンジンってなんですか?」
「熱を食べて仕事をこなすエンジンと違って、情報を食べて仕事をこなすエンジンのことですわ。私も詳しくは知りませんけれど、開発が難航しているそうですの。初春さんなら、もしかしたら第一人者になるかもしれませんわね」
なんて言って、光子がクスリと笑った。自分の生きるべき地盤は、計算、あるいは情報処理、そういうものだと初春は思っている。
これだけは誰にも負けない、一番好きな分野。
佐天ほど、急激に伸びる人間はきっと稀有だろう。でもそれでも、自分の能力に突破口が見えたのかもしれないと、漠然と初春は期待に胸を膨らませた。
そんな初春の表情に、佐天の指導をしたときと同じ満足感を光子は感じた。
「そうそう、生体なんてエントロピーが増大しないように必死になっているシステムですから、うまくやればその頭の花飾りも差し替えずにずっと保存できるかもしれませんわね」
卑近な例だし、良いアドバイスを光子はしたつもりだった。
「なんのことですか?」
「えっ?」
「えっ?」
初春がきょとんと首をかしげた。






春上の部屋から戻ると、当麻とインデックスがいた。
「あ、みつこおかえり。どこに行ってたの?」
「ごめんなさいね、インデックス、当麻さん。春上さんのところで、つい話に花が咲いてしまって」
あれから程なくして佐天や白井、御坂が来た関係で大いに盛り上がってしまったのだった。
昨日の今日で佐天もすっかり能力を回復させたらしく、好調そうな快活な笑みを浮かべていた。
「ねーみつこ。退院まだなの? とうまが全然遊んでくれないんだよ」
「仕方ねーだろが。宿題サボらせてくれるほど甘い環境に暮らしてねえ」
このところ当麻は晩御飯を毎日黄泉川家で摂っている。作るのは当麻が7割黄泉川が3割といったところ。
黄泉川の帰りが遅い日はインデックスを一人にしないために遅くまで当麻も帰らないから、すでに何日かは黄泉川家に泊まっている。
完璧に通い婚の下地は出来ているのだった。
そうすると必然的に、宿題の進捗を黄泉川にチェックされることになる。止めてもらっている恩義もある分、宿題をきちんとやらざるを得ないのだった。
まあ、当麻は何もなければきちんと宿題をやる人間なのだ。自発的意志としては、やる気があるのだ。
宿題が燃えたり消えたり濡れたり、あるいは当麻自身が病院送りになったりとそういう都合で無理になることはままあるのだが。
「あとどれくらいかかりますの?」
「え? ……まあ、20日くらい?」
「あ、ごめんなさい。毎日コツコツされるのね」
「……いえその、それくらいかけないと終わらないと言いますか」
八月の上旬から徹夜攻勢でガリガリと宿題なんてやりたくない、というのが本音だった。
情けない顔をすると、光子がちょっと拗ねた顔をした。
「もう。課題は早めに済ませませんと、アクシデントに見舞われたら後々困りますわよ。その、お嫌でなかったら私もお手伝いいたしますから」
「お、おう」
「私も理科と英語と歴史くらいなら助けてあげるんだよ」
「……はい、その、ありがとうございます」
インデックスは化学や力学には疎いものの、天体と人体にまつわる理科は非常に詳しい。
英国人として英語なんてのは前提知識として持っているし、歴史も19世紀以前の歴史ならどこのを聞いても完璧だ。
まあ、学園都市か日本の教育委員会かが認めていないオカルトな歴史も普通に混じっているので、インデックスから歴史を教わるのはテスト対策としては危ないのだが。
ちなみに光子にはあらゆる教科で負けている。こちらはもう、ぐうの音も出ないのだった。
能力と違ってここは本来なら光子に勝っているべき分野だから、肩身が狭い。
「光子に愛想つかされないように頑張らないとな」
「そういうので愛想をつかしたりなんてしません。でも遊ぶ予定を潰されてしまったら、分かりませんわ。お盆の辺り、当麻さんがどうされるのかずっと気になっていますのに」
「え、お盆?」
「だ、だって。学園都市の外に出られるんでしたら、しばらく会えないかもしれませんし。それに、その。当麻さんのご実家とうちはそう遠くありませんから、外でもお会いできるかも、なんて」
光子が忙しなく扇子を開いては閉じた。ちなみにお互いの家が近いなんて話は、初耳だった。
実家の場所の話もしたことはあったが、そこまで詳しくはしていない。
実家にあまり自分の居場所としての思い入れがなかったからだ。
「そっか、近いんだったらウチに遊びにこれるな」
「とうま! 私のこと忘れてない?」
「え、いや。光子が泊めてやってくれるのかな、とか」
さすがに一人っ子の息子としては実家に年頃の女の子、それも銀髪碧眼の子を連れ帰る勇気はなかった。
それを察して光子は当然といった笑みを浮かべた。
「インデックスの部屋くらい用意させますわ。なんなら私の部屋にベッドを足して、二人で過ごしましょうか」
「えっ? いいの?」
「ええ。それくらいのスペースはありますもの」
「じゃあ当麻も一緒にいればいいよね?」
「えっ?」
「えっ?」
インデックスはごく何気なく言ったつもりだった。
しかし、当麻が婚后家に行くという事は、当然光子の両親にも顔を合わせるということなわけで。
「そそそそんな、私まだ心の準備が」
「そ、そうだぞインデックス。別に嫌ではないけど、やっぱり光子の家に行くときにはそれなりに覚悟がいるというかだな」
「え? なんで?」
「……いやだって、光子のご両親にさ、『俺が光子の彼氏です』って言いに行くことになるわけだろ?」
「事実なんだから問題ないんだよ」
「あるの! だって、なあ」
「ええ……」
ドキドキと、光子は心臓を高鳴らせていた。
そうやって自分の家に当麻が来てくれることは、とても深い意味を持っているように感じられて。
……でも同時に、怖くもある。両親が当麻のことを快く思ってくれるだろうか。
箱入りで大事に育てられた娘だと自分でも自覚している。
「な、なあ光子」
「なんですの?」
「光子のご両親って、光子が俺と付き合ってること、知ってるの?」
「……はい。何も言ってきませんけれど。当麻さんは?」
「いや、言ってない」
「えっ?」
「なんか、恥ずかしいだろ?」
分かってもらえるかと思って打ち明けたのだが、光子はあからさまに拗ねてしまった。
インデックスは完全に光子の肩を持つ気なのか、当麻に鋭い目線を向けていた。
「とうま! そういうのは良くないんだよ」
「そういうのって何だよ」
「ちゃんと光子のこと認めてあげなきゃ、女の子は不安になるんだから」
「み、認めるって。光子は俺の大事な彼女だよ。そんなの間違いないことだろ」
「だからそういうのはちゃんと周りにも報告しないと。隠されてるみたいなのは不安なんだよ」
「イ、インデックス。もうそれくらいにしてくださいな……」
恥ずかしいらしく光子が控えめにインデックスを止めた。だが本音は今言ったとおりなのだろう。我侭を言う時の目で、当麻をチラリと見た。
恥ずかしいのは恥ずかしいが、別に親に彼女がいることがばれたって何の問題もない。
「じゃあ、お盆前に帰るときに親にメールするよ。付き合ってる彼女がいて、家に帰ってからも彼女と遊ぶかもって。うちの母さんのことだから絶対にウチに連れて来いって言うんだろうけど」
「と、当麻さんのお宅に私が、ですの?」
「ほら、恥ずかしいだろ?」
「……」
顔を真っ赤にして、光子がぼうっと当麻の事を見た。
まんざらでもない顔だった。しかし急に、ハッと何かを思い出したように不安げに瞳が揺れた。
「光子?」
「あの、私のことを紹介したら、ご両親は困らないかしら」
「へ?」
「婚后の姓は珍しいですから、きっとすぐにお気づきになるし」
「ああ、良いところのお嬢様だってか?」
「……というかその、当麻さんのお父様が勤めてらっしゃる証券会社がありますでしょう。その日本支部の証券取引対策室の長が、うちの兄ですの」
「え?」
親父は確か外資系のはずだ。婚后グループは当たり前だけど日本の財閥だから、なぜ?
そのへんの機微に疎い当麻は首をかしげるだけだった。
しかし光子は物凄く気を使った風に戸惑いを見せた。
「うち、婚后グループと当麻さんのお父様の会社は色々な方面で提携していますの。それで人の出向がお互いにありまして、今は兄がそちらの会社に出向いているそうですわ」
「へ、へえー……。よくわかんないけど、光子のお兄さんが俺の親父の上司ってこと?」
「……あの、気を悪くされないで」
「いや、別に俺がどうこう思うようなことじゃないけど。改めて婚后って家はでかいんだなーと。てか、光子のお兄さんっていくつ年上?」
「自信はちょっとありませんけれど、十二、三年上だったはずですわ」
長をやるにはまだまだ若手と言っていい年だった。当麻の父、刀夜も勿論30代半ばだからまだ若手の部類だったが。
「ってことは、上司の妹に息子が手を出している、と」
「……はい、そういうことに、なっていまして」
「事情が事情だけに、ご家族は皆このことを把握していると」
「い、いえ。うちの執事が事情を把握して、それがお父様のところには流れているのは確実なんですけれど。それにうちがあちらの証券会社の日本支部を人ごとそっくり買収する話もあると聞きまして、そうなると当麻さんのお父様も婚后グループの傘下の一人ということになるんですの」
はぁー、と当麻はため息をついた。あの親父殿も、事情を知ればため息しか出ないに違いない。
玉の輿が真逆の意味で成立する関係だった。
「ですからその、私が当麻さんのお宅に伺うと、ご迷惑かもしれませんし、きっときまずくて、その」
光子が残念さや不安を隠すように笑った。インデックスもそれに気づいたのだろう。口は挟まなかったが、当麻を見つめた。
その心配は、無用だろうと思う。
「まあ、大丈夫だろうさ。まずいとしたら俺だな」
「え?」
「父さんも母さんも、そういうので色眼鏡使う人じゃないから。居心地が悪いのは保証するけどさ。でも絶対喜ぶか戸惑うかでてんやわんやにはなるだろうな。んで俺はもっと勉強しろだのなんだのと言われそうな予感がする」
正直に言うと、それは重荷だ。
光子のために頑張りたいと言う気持ちは勿論あるけれど、頑張るべきことが高校の勉強だと思えばやる気が鈍るのが学生というものだろう。
「そんな、その。私、自分が婚后の出だからって当麻さんに負担を強いるの、嫌です」
「ん、でも仕方ないだろ。親は選べない。ってか光子だって親御さんには恵まれてるほうなんだから、こんなので文句言ってちゃ罰が当たるだろ。光子のお父さん並に光子を幸せにしてやれるかは分からないけど、やっぱりほら、頑張らないとな」
「……はい。当麻さん、大好き」
「ん、俺もだよ。光子」
うまく纏まったのを見届けてよし、と頷いたインデックスを軽く撫でて、当麻は光子にキスをした。

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あとがき
『情報をもって自然現象に干渉することが可能である』ということは、2010年11月に東京大学の加藤教授らによって世界で初めて実証されました。
その結果は一流の物理雑誌"Physical Review Letters"および"Nature Physics"に掲載されています。ウェブ上では『情報をエネルギーに変換』で検索すると関連情報が入手できます。
これは情報をエネルギーに変える『情報エンジン』の開発に繋がる画期的成果です。情報エンジンはプロトタイプの作成ですらまだまだ遠い未来の話でしょうが、楽しみな分野ではありますね。





[19764] ep.2_PSI-Crystal 06: 真実を手繰り寄せる糸
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/31 01:51

春上を見舞った帰り。佐天たちいつもの4人組は自分達の家のほうへと岐路についていた。
検査を受ける春上と別れ、遅めのランチの上に長話を咲かせた結果、今はもう陽の色が薄赤く色づく時間だった。
「さて、初春。すっかり時間が遅くなりましたけれど、よろしければ今日すぐにでも、調べましょう」
「……わかってます。白井さんに言われなくてもやります」
「初春は私を恨んでいるのかもしれませんけれど、私だって面白半分だとか、そんなつもりで言ってるわけではありませんのよ」
「それも、分かってます」
先ほどまで楽しく談笑していたのに、初春はその一言で表情をこわばらせ、白井に頑なな態度をとった。
初春も、別に白井が間違ったことを言っているとは思っていないのだ。
ただ、あんなにも素直で、そして一生懸命な春上が色眼鏡で見られて嫌な立場に立たされそうなのを分かっていて、それでもなお問い詰める白井の態度に、どうしても納得できないのだった。
だけど、風紀委員が公平を期す存在なら、白井の態度のほうが、むしろ正しいのかもしれない。

すれ違いの原因は、学園都市をにぎわすポルターガイスト現象と春上の相関について。
関係を疑うのも馬鹿馬鹿しい、というのが当初の初春のスタンスだった。
だって、パッとしない普通の中学である柵川に来た転校生が、そんな特別な存在であるものか。
その一方で、白井のスタンスは逆だった。何度か見せたポルターガイストと春上の自失の同期。
それが偶然だとどうにも思えなくて、白井は春上からなにか事件の真相が手繰れないかと思っていた。
根拠に欠けるのが白井案の問題であり、そして初春の恨みを買った元凶でもあるだろう。

四人は風紀委員第一七七支部の扉をくぐった。入り口から離れたラックの奥に、初春のデスクはあった。
風紀委員でない美琴と佐天も勝手知ったる何とやらで、その初春のデスクの周りに集まる。
「あの、ちょっとこんがらがってきたから何を調べたいのか、整理したいんですけど」
「そうね。確認の意味も込めて事実確認と整理しよっか」
佐天の提案に、美琴が頷いた。
「まず、テレスティーナさんからの情報で、最近街で頻発している地震は正確にはポルターガイストで、そのポルターガイストはRSPK症候群の同時多発によるものだって分かってるんですよね」
「ええ。私と初春の出席した、風紀委員と警備員の合同会議でそう発表がありましたわ」
佐天の問いに白井が頷く。ここまでは確定情報だった。そして続きを美琴が継ぐ。
「RSPK症候群、まあ簡単に言っちゃえば『自分だけの現実』がゆがんで能力を制御できなくなる状態だけど、これって普通はそんな簡単に人から人へと感染するものじゃないわよね」
「ええ。まずそれが第一の疑問ですわね。心神喪失の状態にある人と接すれば自分自身も心的にストレスを溜める傾向はありますから、RSPK症候群が他人に伝播する可能性はありますわ。ですが、このような広範囲にわたっては考えにくい、というのが私達の直感的な感想ですわね」
「……そして、もう一つ気になってるのが、春上さんについてだよね」
春上のことを口にしたのは佐天だった。白井が言うとまた初春が不機嫌さを見せるのではないかと案じてのことだった。
佐天が言ったからとて初春の態度が硬化しなくなるわけではないが、白井が言うよりましだった。
「無関係な可能性だってあります」
「そうですわね。そして、その逆も」
「ここで一番問題なのは、関係があるとしたら、どう関係があるのか説明が必要ってトコよね。……第二の疑問、春上さんはこの事件と関係あるかは、結局第一の疑問が分からないとはっきりしないね」
美琴がふうっとため息をついた。
能力の暴走状態を、どのようにして他人に伝えるのか。
もちろんそれがはっきり分かっている事柄なら、こんなに今苦労はしないだろうが。
「昨日の夜、必要な情報を選んで纏めるバッチを組んでおきましたから、運がよければ情報が手に入っていると思います」
初春はそう言い、パソコンのディスプレイの電源をつけた。本体はずっと稼動していた。
ほどなくディスプレイに映し出されたのは、いくつかの論文と特許に関する文献。
およそ数百件に絞られたその情報を、初春のデスクにある複数のディスプレイに割り振って、四人でそれぞれ調べていく。
「げ、英語……」
「佐天さん、苦手なのはスルーしてこっちにまわして。さっさと数を処理していきましょ」
「ありがとうございます、御坂さん」
学術論文というのは大体がもったいぶった言い方というか、その道の専門家以外にはスラスラとは読めない文体なのだ。
どうやらそういうものが一番苦手なのは佐天らしい。慣れた感じの三人に比べ、ペースが上がらない。
「えっと……『AIM拡散力場の共鳴によるRSPK症候群集団発生の可能性』かあ」
ざらざらと論文やレポートのタイトルをスクロールしていくうちにその標題が目に留まり、佐天は思わず手を止めた。そしてレポートの頭に貼り付けられた要旨に、ざっと目を通す。
専門用語の嵐は容易に理解を許さないが、二度ほど読み返すうちに、その論文が自分達の探している情報に近そうだと気がついた。
手を止めて読みふけっている佐天に気づいたのだろう。御坂が、身を乗り出してこちらを覗き込んだ。
「何かいいのあった? ……って、これ」
「難しいんですけど、これ、アタリのような」
「見つかりましたの?」
「佐天さん?」
美琴の様子でただならぬ雰囲気を察したのだろう、白井と初春も佐天の周りに集まってきた。
「これ、概要をざっと読んだだけだけど、なんかそれっぽくて。御坂さんも同じこと思ったみたいだし」
「ああ、違うの。もちろんタイトルも関連がありそうだって思ったけど、そうじゃなくて」
美琴が佐天の言葉を訂正して、論文の一部に、そっと指を指した。
お決まりの書体で書かれた、著者の名前。
「ファーストが木原幻生、セカンドが……木山、春生」
論文を連名で投稿するときは、基本的に論文の執筆者名が筆頭に、そして研究に貢献した順に残りの著者名が並ぶ。
ファースト・オーサーが木原なのはプロジェクトリーダーであった木原が執筆したということで、セカンド・オーサーが木山なのは、その研究で恐らく実働部隊としてもっとも精力的に活動したということなのだろう。
「お姉さま。木山春生はいいとして、この木原という研究者に心当たりがありますの?」
「木山が面倒を見てた置き去り<チャイルドエラー>の子たち、あの子たちを利用して実験を行った、そのトップが木原よ」
首をかしげる白井にそう答え、美琴はいつか読み取った木山の絶望をフラッシュバックさせた。
優しく微笑む置き去りの子供達。そして実験の失敗……否、成功。目を覚まさぬ子供達を前に立ち尽くす木山。
暴走能力の法則解析用誘爆実験。
「それじゃこれって、あの実験の成果――」
「……たぶん、ね。」
目の前に表示されるこのレポートはきっと、木山が携わったあの実験の産物なのだ。
初春がデータをコピーして、それぞれのディスプレイに張った。
四人はしばし、その内容を読みふけった。


「……みんな、読めた?」
「ええ、なんとか。事情を知れば褒め言葉なんてふさわしくないんでしょうけれど、良く書けた論文ですわね」
「そうね」
美琴の言葉に真っ先に反応したのは白井だった。
優れた研究者は優れた論文を書くものだ。それは人倫の道を踏み外した研究者にも適用できる法則だった。
「あの、すみません。目は通したんですけど、はっきり分からない所があって」
「私もです……」
佐天がおずおずと切り出すと、初春もちょっとヘコんだ顔をして同意した。
「私達も専門家じゃないし、完全に理解してるわけじゃないけどね。確認がてら、おさらいしようか」
「お願いします」
薄く笑って美琴が二人を慰めた。そしてページを冒頭にあわせ、軽く息を整える。
「研究の動機はRSPK症候群、つまり自分の能力のコントロールが出来なくなる病気に罹った能力者、そういう人に接した別の能力者もRSPK症候群を発症してしまう傾向があるらしくって、その解決なり予防なりをするための方法を開発するってことらしいわね」
「ええ。そしてRSPK症候群が他人に感染するメカニズムはAIM拡散力場の共鳴である、と言っていますわね」
「で、最後に感染速度と人口密度や能力の関係を定式化した被害者数予測モデルが書かれている、と」
ざっとまとめると、そういう内容だった。
初春が押さえ切れない感情を流出させるように、身を乗り出して美琴に尋ねる。
「あの、それでこの内容って春上さんと関係ありますか?」
「論文に書かれてることそのものじゃ、分からないけど」
「お姉さまが覗き込んだ木山の過去とこの論文を両方参考にしなければならないというわけですのね」
「うん。……もちろん、本当の事はわかんないけど。でも、この論文に描いてある『RSPK症候群罹患者に協力を仰ぎ』ってフレーズ、引っかかるのよね」
マッドサイエンティストとして有名な木原だ。被験者をわざわざ探さずとも、作るほうが早いのは確かだろう。
「この被験者こそが、春上さんのお友達だと?」
「そこは、確証がないからはっきりしたことは言えないわよ」
だけど、木原と木山が共に実験に取り組んでいた時の論文が、木山の悪夢となったあの事件の時以外にあっただろうか。
「前に調べた限りじゃ、意識を失ったあの子たちは、いくつかの病院に分散して収容された後転院を繰り返して、今じゃもう居場所がたどれないの。それを例えば木山が集めて、覚醒させようとしてるなら」
覚醒させるための方法なんて良く分からない。だが、AIM拡散力場の共鳴というテーマは木山の専門だ。
このポルターガイスト事件を木山が起こしていると、そう考えるのに無理はない論文だった。
美琴は椅子から立ち上がった。白井が、どうしたのかと不審げな目を美琴に向けた。
「……木山にもう一度、会ってくる」
「えっ?」
「少なくとも、この事件には木山か木原か、そのあたりが絡んでる可能性は充分ある。関わってしまった人間として、私は目はつぶれない」
幻想御手を使った木山のやり方が良かったとは今でも思っていない。
もちろん木山が願って止まない、彼女の教え子達の回復を阻止したのが自分だということも、分かっていた。
だが誰かを弄んで目的を果たす気なら、きっと自分はまた木山の前に立ちはだかる。
それは、美琴の決意だった。
「私もお付き合いしますわ。……でもお姉さま。今日行けば確実に門限の時刻に間に合いませんわよ?」
「え? あ……。もうそんな時間だったんだ」
「ええ。それに拘置所の面会時刻にも限りがあるでしょうから、明日、じっくり話を聞かれては?」
「……そうね」
美琴が画面から目を離して伸びをし、時計を横目に見た。
佐天も人知れず、ため息をつく。
「これ、テレスティーナさんに報告したほうがいいのかな?」
「そうですわね。あの方がこの件の取りまとめ役だそうですし。……初春」
「私が連絡いれておきます。あの、白井さん」
「どうしましたの?」
おだやかに、白井が初春にそう尋ねた。
今の情報で、少なくとも春上の友達である枝先たちが、この事件に関わっている可能性は充分にあると思えるようになった。
春上が精神感応者<テレパス>であることも、間接的に春上が事件の関係者だと示しているように思える。
「春上さん、やっぱりこの事件に関わってるんでしょうか」
自分の希望的観測を諦めきれないように、初春がそう白井に問いかけた。
「確かなことは分かりませんわ。でも、もし関わっているとしたら、きっと春上さんはこのままではいい方向には向かわないのではなくて?」
「……そうですね」
「だから、私は春上さんや枝先さんについて、もっと調べてみるべきと思いますの。それが、きっと友達のためになると私は思いますから」
どこか諭すような響きを込めて、白井は初春にそう告げた。
ゆっくりと初春はそれを受け止めて、そして白井を真っ直ぐに見た。
「すみませんでした。白井さんは間違ったこと、言ってなかったのに」
「いいですわよ。友達に疑いをかけて、気持ち良いはずがありませんもの。というかそんな野暮な謝罪なんて、貴女の相棒であるこの私には要りませんわ」
「そうですね。相棒ですもんね。分かりました。御坂さんとのデートに仕事をかぶせちゃったときも私、野暮な謝罪はしませんから」
不敵に笑う白井に初春はそんなことを言い返して、初春は背筋をしゃんと伸ばした。
その裏で、佐天は美琴と苦笑いをかわした。
再び、初春が集めていた資料全てにざっと目を通した後、四人は腰を上げた。
「じゃ、帰ろっか」
「あ、私はテレスティーナさんに連絡入れてから帰ります」
「ん、ごめんね。門限は守れる日は守っとかないとね」
白井と美琴はもうそろそろここを発たねばならない時間だった。
挨拶を交わす三人の横で、佐天がなにかを躊躇うようにしていた。
美琴はその様子を見て、首をかしげた。
「佐天さん?」
「あの、私、今から木山のところに、行ってみようかなって」
「え?」
「佐天さん? 急にどうしたんですか?」
案の定、皆が佐天の言葉に驚いていた。
それは一週間くらい前に、拘置所にいる木山を美琴が訪ねると言っていたのを聞いてから、考えていたことだった。
どれくらいの気持ちで、木山は幻想御手を作ったのか。自分の起こした事件ことを、今はどう思っているのか。
責める気持ちがあってのことではない。ただ、納得したかった。
幻想御手をきっかけとして能力を伸ばし始めた自分には、いつもスタート地点でずるをしたような、そんな引け目がある。
だからというわけではないが、一人で、木山に会ってみたかった。




夕日を背に受けながら、佐天はようやくの思いで目的の建物へとたどり着いていた。
あれからすぐ、美琴と白井は寮に帰っていった。初春も、もう電話は終えて家路についている頃だろう。
乗り換えや簡単な地図を見ながらの道のりはどこか心細かった。
そして勿論、木山のいるこの拘置所、つまりゴールの前にたたずんでも、不安は和らぐことはなかった。
強化ガラス製の重たい扉を開けて、佐天は静謐な受付へと足を勧める。
「こんにちわ。面会ですか?」
「あ、はい」
「面会時間は今日はもう15分程度しか取れませんが、それでも面会されますか?」
「はい」
「ではあなたのお名前とIDの提示をお願いします。それと、面会希望の相手の名前を」
「佐天涙子です。えっと、木山春生……さんと、話をしたいんですけど」
IDを提示しながら、佐天は名前を告げた。
素っ気無い態度の事務員が、眼鏡の奥の瞳をいくらか揺らした後、その名前を検索にかけた。
ほどなく想像通りの答えが出たのか、軽く頷いて事務員が佐天を見た。
「あの、木山春生は先日保釈が認められて、もうここには拘置されていませんが」
「えっ……?」
一瞬、予想外の事態に何をしていいか分からなくなった。
木山がいない、保釈されたって。
「あの! 保釈って、お金が要るんですよね?」
「え? ええ」
「自分で払って出て行ったんですか?」
「それぞれの人のことをお教えすることは出来ません。本人が払うケース以外にも、保証人をつけるケースだとか色々とオプションがあるのは事実です」
「えっと、それじゃどこに住んでるとかは……」
「申し訳ないですけど、それも教えられません。制度としては、申告した住居に住むことになっています」
「はあ」
完全に、無駄足だった。不安を胸に抱えてきたはずの道のりの無意味さに、脱力しそうになった。
いないんだったらこんなこと、しなかったのに。
そう考えて事務員に挨拶をし、再び扉をくぐって夕日に体を晒したところで、大事なことに気がついた。
「保釈されてるって事は。木山は今、目的のために動いてるって事……!」
そして、私達は、木山の居場所を知らない。
佐天は急いで初春に電話をかけた。
「どうしたんですか、佐天さん?」
「初春! 木山、もう保釈されてる!」
「えっ?」
「木山はもう拘置所にいないんだって。だから、ホントに木山が動いてるのかも!」
点と点を結ぶように、春上衿衣という少女から始まって、ポルターガイスト、RSPK症候群、暴走能力の実験、そして木山春生へと話が繋がった。
もちろん偶然かもしれない。だけど、偶然と笑うには、そこに何かがあるという思いが強すぎた。
「佐天さん、落ち着いてください。木山先生の居場所は分かりますか?」
「駄目。拘置所が個人情報は教えてくれなかった。でも、申告した場所に住まなきゃいけない決まりがあるって」
「……分かりました。私、まだ風紀委員の支部にいますから。少ししたらもう一度連絡ください」
「もう一度って、それは良いけど。なんで?」
「木山先生の事件前のマンションなら調べられます。引き払ってるかもしれませんけど、すぐに見つかる手がかりはそれくらいですから」
「分かった。とりあえず、あたしはそっちに行くから」
「はい。細かいことはまた、後で」
初春はそれだけ言って、電話を切った。
佐天もそれを聞き届けてパチリと携帯を閉じる。
長閑な夕日が、陰りを見せ始めていた。


初春の所に戻ると、ちょうど初春も出る準備を整えたところだった。
少なくとも罪を犯す前は仮初ながらに小学校の教諭をしていた木山だから、住所を得るのは初春にとっては大したリスクもない簡単なことだった。
「案外、すぐそこなんだね」
二人でタクシーに乗り込んで、15分ほど第七学区内を走ったところで木山のマンションが見えてきた。
ごく普通の、セキュリティも大したことのないような建物。不良たちに襲撃されればひとたまりもないだろう。
幻想御手を使った低レベルな能力者たちは皆、コンプレックスを嘲笑され、今、辛い立場にある。誰しもが佐天のように幸運を手に出来たわけではない。
ここに木山が住み続けているとしたら、それは危険なことだった。
「家の周りとかポストとか見れば、分かるのかな?」
「はい。居留守かどうかくらいは判断できるはずです。風紀委員じゃなくて警備員のマニュアルですけど、そういうの、私持ってますから」
荒事に何かと首を突っ込む相棒を持った初春だ。その手の知識も、少しは持ち合わせていた。
だが、どうやらそれは必要なさそうだった。
ふと前を見ると、見覚えどころか乗った覚えすらある、青いスポーツカー。
運転手は見えないが、無人のわけはない。駐車場を出て、どこかへ行こうとしているところだった。
「あれ!」
「え?」
「木山先生の車ですよ! あの青いの」
大通りに出るべくじわりと加速を始めたそのスポーツカーの前で、無人タクシーは清算のために減速していた。
あわてて座席を揺らし、AIに通じるマイクに叫んだ。
「待って! 前の車追いかけてください!」




バタリと浴室の扉を開けて、白井は美琴に声をかけた。
「お姉さま、お風呂空きましたわよ」
「んー、わかった」
「もう、食事をとってすぐだと言うのにベッドに寝そべってゲームなんてされて。太りますわよ」
「はいはい。もう、大丈夫だってば。ちゃんと管理してるし」
「確かに今日は控えめのようでしたけれど」
管理しているとは言うが、美琴が食事の量に気を使ったところなぞ見たことがない。
いくら食べてもとは言わないかもしれないが、美琴は太りにくいのは事実らしかった。
まあ、今日の少ない食べっぷりなら確かに大丈夫なのかもしれないが。
「さて、じゃあ私も入りますか」
用意してあった着替えを手に取り、美琴は浴室へと向かった。
服を脱ぎ、浴室で軽くシャワーを浴びる。髪と体を洗う手つきはお座なりだった。
普段とて丹精を込めてというような洗い方なんてしないが、今日は特に適当だ。
理由は簡単。これから、汗をかく予定があるから。シャワーはもう一度浴びればいい。
美琴は頭に、先ほど調べていた地図を浮かべなおした。
今はもう廃墟となっているはずの、木原幻生の研究所の一つ。おそらくは春上の親友たちはそこで実験台にされたはずだ。
そこにいけば、何かしら、情報が手に入るかもしれない。
黒子が寝静まってから、部屋を出る気だった。




青いスポーツカーは淀みなく主要国道を抜けて、病院の駐車場に車を止めた。
タクシーの融通の利かなさが幸いして、少し離れた正面玄関に、初春たちはたどり着いた。
頭痛のするような額を支払って初春と佐天はタクシーを降り、木山の影を探した。
「正面からじゃなさそう……?」
「はい。あっちに関係者用の入り口がありますから、そっちから入ったんだと思います」
「それってこっちからじゃ追えなくなる?」
「えっと……大丈夫です。見たところ一般の入り口からと廊下が続いてますから」
入り口傍の地図を見て、初春がそう答えた。
時間はもう夕食時。だが夜の診察はこれからだ。中は人でごった返していて、初春たちを不審に思う人はいない。
臆せず初春は表入り口から病院に入り、受付の目を盗んで中の廊下を進んだ。
目的は木山に会って話を聞くことだったが、病院という場所へ着いて二人の目的は少し変わっていた。
確証はないが、ここで、木山は意識不明の植物状態へと追いやってしまった春上の親友たちを匿っているのかもしれない。
そうであれば、その現場を押さえるところまでたどり着きたい。
「いたっ!」
「あっち、地下への階段ですね」
「……ここから先、関係者以外立ち入りをご遠慮願います、らしいけど?」
「私、枝先絆理さんの関係者ですから」
「風紀委員の初春が行くなら、別にあたしも問題ないよね」
前にいる木山をじっと見つめる初春に、佐天は苦笑を返した。
木山が階下へ姿を消したのを見計らって、二人も病院の関係者のみが出入りする領域へと足を進めた。
病院らしいいかにもなデザインの手すりが着いた階段を下り、木山の背中を探してぐるりと辺りを見渡す。
そこで。
「君達。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだね?」
後ろから、カエルみたいな顔をした、白衣の壮年男性に声をかけられた。
うだつの上がらない風貌で、白衣のくたびれ方からも威厳のなさが伝わってくる。
悪いことをしている自覚はあったが、二人は怯まなかった。
初春が時折行うデータベースへの不正アクセスより、ずっと罪は軽いだろう。
何事かと振り返った木山にも聞こえるように、初春が大きな声でカエル医者に返答をした。
「私達は関係者です。木山先生、枝先さんのお見舞いに来ました!」
二人の医者が、驚きに眉を動かした。そして戸惑いのためか硬直した木山に代わって、カエル医者が嘆息した。
「なるほど、こんなところにお見舞いにこられる人がいるとはね? ……木山君。ここまで来られては隠しても何も変わらないだろう。この子達を案内してあげたらどうかい」
「ええ……。そうですね」
じっと、意図の読みにくい隈のできた目で、木山は二人を見つめ返した。
「こっちだ」
「……」
「確か君は、初春さんだったかな?」
「はい」
「こちらの子は、すまない。人の顔を覚えるのは苦手でね。会ったことはあっただろうか」
「いえ……」
「そうか。まあいい、こちらの部屋だ。枝先は、この一番手前のベッドで眠っている」
長くもない廊下を歩いて扉を開いた先。
そこには、目を覚ます見込みもない、十人くらいの男の子と女の子達がいた。
一人一人は個別のベッドに寝かされ、さらに透明のカバーがベッドにはつけられていた。
呼吸補助のマスクをつけているせいで、一人一人の顔はほとんど覗けない。
ただ、例外なく華奢な手足の、自分たちの同級生だったかもしれない子達、それを見せ付けられた瞬間、清潔で静謐なその集中治療室はまさに地獄なのだと、空気が佐天と初春に思い知らせた。
子供達を覆うカバーが佐天には棺に見えて、その不吉なヴィジョンを振り払うように頭を振った。
「木山先生が、この子達を一箇所に集めていたんですね」
「ああ」
「どうして、ですか?」
「学園都市は、置き去り<チャイルドエラー>なんてどこまでも使い潰す気だ。生半可な治療では復帰を見込めないこの子達なんて、良くてお荷物、悪くて出来損ないのモルモットだ。……むしろ教えてくれ。どこなら、この子達を救ってくれるんだ?」
「……」
「何を敵にしたって、私は絶対にこの子達を救うと決めたんだ。手を回してこの子達を集めるくらい、なんだというんだ」
扉の開く音がして、静かに医者が部屋に滑り込んできた。そしてバイタルデータを一括監視するモニターの前に座った。
「木山先生。それで、次は何をするつもりなんですか」
「さあな。なんだってするとは言ったものの――」
「地震を起こして、沢山の人を傷つけてでも助けるんですか」
「……相変わらず。君は鋭いな。この子達とRSPK症候群の同時多発の関係をどうやって発見したんだい?」
軽薄な驚きと賞賛が、木山の口からこぼれた。
軽薄さが揶揄している先は初春ではなく、むしろ木山自身の様に思えた。
「そんなことはどうでもいいです。それより木山先生、どうしてこんなこと、するんですか。幻想御手の時だって、先生は誰も傷つかないための努力はしてたじゃないですか」
ポルターガイストによる被害者は、もう三桁に上っていた。一歩間違えば死者もでかねない、危険な事故がいくつもあった。
そんなやり方で助かっても、きっと枝先たちは胸を張れないと、そう思う。それをわからない木山ではないと、初春には思えたのに。
隣で見つめていた医者が口を挟んだ。
「君は、少し思い違いをしているようだね?」
「え?」
「これは我々にも計算外の事態だったんだね」
そういって医者は体を横にずらし、二人にモニタを見せた。
今映っているのは、誰かの脳波だろうか。
「静かな波形だろう? 活動中の人間のものではないんだね。だが、一ヶ月ほど前から時折、この子達は目を覚ます兆候を見せているんだ」
「え?」
「だけどこの子達は、正常には目覚められない。この子達の『現実』は、薬で滅茶苦茶になってしまっているから」
「薬、ですか?」
それは話に聞く、木山が騙されたあの実験での事だろうか。
「ああ、能力者を暴走させるための劇薬さ。能力体結晶、いや体晶のほうが通りは良いかな」
まるで麻薬みたいな白い粉なんだけどね、と付け加えて、医者はモニターのデータ確認に戻った。
二人が視線を木山に戻すと、思い出した何がしかの感情に蓋をするように唇を噛んでいた。
「別に身の潔白を晴らしたいとも思わないがね、一応言っておこう。ポルターガイストの引き金は、確かにこの子達なんだ。もう、長い間は止められそうにもない。覚醒の間隔は短くなって、今にも目を覚ましそうだ」
「目が覚めちゃ、だめなんですか?」
「いいや。覚醒自体は悪いことではない。だがその過程で必ずこの子達は周りの能力者を巻き込んで、ポルターガイストを生む。それも酷く広範囲に、な。予想としては学園都市の八割の学生を巻き込んだ、大規模災害だ」
「えっ?」
どう甘く見積もっても、そんな異常な規模のポルターガイストは、きっと学園都市を破滅的なところまで崩壊させる。
「それって」
「この子達をそのまま覚醒させれば学園都市は終わると言うことさ。まあ、この子たちのいるこの場所は地震くらいではどうにもならないから、この子達は無事だろうがな」
「……助けるためなら、手段を選ばないつもりですか」
初春と、そして佐天が身構えた。
その敵意に晒されても、木山は表情を変えなかった。ただ視線をどこか遠くにさまよわせて、ぽつんと呟いた。
「……天秤になど、かけられないよ。私はこの子達に人並みの幸せをあげたい、それだけなんだ。それだけで、いいのに」
それを学園都市は、赦さなかった。

佐天はうなだれる木山に尋ねずにはいられなかった。
「なんとか、ならないんですか?」
「せめて、体晶の成分でも分かればね」
晶の字が付くくらいだ。
それが結晶構造を有する、すなわちたかだか数種類のペプチドないしたんぱく質群からなる薬品であることくらいは想像が付いている。
経口でも効き目が出るらしいから、酸にも強い構造なのだろう。それくらいは分かる。
だが、その程度の情報から組成を推定することなど、できるわけがない。
暴走能力者の脳内でのみ分泌される特殊な神経伝達物質、あるいはホルモン。
そのサンプルさえ手に入れば、大脳生理学の新進気鋭の天才として、絶対に木山はその生理を逆算してみせる。
「私は今、あちこちを駆けずり回って体晶のサンプルを探している。間に合わなければこの子達が本格的な覚醒を始めて、学園都市は崩壊する。君達は、今すぐここを通報して私を止めるかい? そして最悪の措置としてこの子達を死なせることに、同意するかい?」
履いて捨てるほどいて、そして基本的に金食い虫でしかない置き去り<チャイルドエラー>。
それをほんの10人ほど、それも植物状態の子たちを死なせるだけで、学園都市の安全が担保されるなら。
学園都市は、一体どういう選択をするだろう。
「あの、木山……先生」
「先生をわざわざつける必要はないよ。それで、なんだい?」
佐天が初めて、一対一で木山に向き合った。
そして、一言、事実を告げた。佐天にとっての、惨めな軌跡。
「私、幻想御手を使いました」
「……そうか。私は君に、恨まれている人間だったのだな」
「恨んでないって言ったら、嘘になります。でも、私にだって弱い心があったのは、事実だから」
「漬け込む人間がいるのが悪いのだよ。私のことだがね。恨んでくれて、構わない」
「恨まれても……じゃなくて。そんなふうに傷つく人のことを、どういう風に思ってあの事件を起こしたんですか?」
それが佐天が一番聞きたいことだった。
麻薬でもタバコでも、あるいは自分を引きずり落としていく性質の悪い不良友達でも、そういうものは悪意をひけらかしたりしない。
堕ちていくとき、人の傍にあるものはいつだって優しい。幻想御手もまた、優しい薬だった。
犯人なんてものがなくても、心が弱い人はその優しさに溺れる。佐天は犯人を見つけたところで自分が癒されないのは分かっていた。
「考えていなかった」
「え?」
「救いたい人がいて、その子達のためなら君という被害者に、私は目をつぶれたんだ」
「……」
「正直な、答えだと思う。軽蔑したかい?」
「どうしようもない事態に、泣き喚くだけなら子供、何かを犠牲にして解決するなら普通の大人、誰もが幸せになれる第三の答えを生み出すことこそ、この学園都市が目指していることだって教わりました」
それは佐天たちの学校のとある先生が生徒に語る、お決まりのフレーズだった。
「いつだって、私はそれを目指しているつもりなんだ」
天才の名をほしいままにする大脳生理学者が、シニカルな顔で笑った。それは泣き顔のように佐天には見えた。
しかし木山は一瞬でその笑みを消した。
「まだ、この子たちには少し時間がある。私は諦めない。体晶のサンプルを手に入れて、この子達を助ける」
それは通告。
学園都市の中でも第一級の犯罪者になった女の、揺るがない意地だった。
人の脳を知り尽くしていながら人懐こさなど欠片も見せない科学者が見せた、それは母性だった。


「学園都市は貴女の独断行動を容認しません。木山春生」
――――冷徹な声が、佐天と初春、そして医者と木山の四人の後ろから聞こえた。


「なっ?!」
「テレスティーナさん?!」
現れたのは怜悧な瞳を眼鏡の奥に覗かせたテレスティーナと、そして配下のパワードスーツ舞台が数名。
病院に存在するには暴力的過ぎる存在。
「その子たちは、我々先進状況救助隊の施設で預かります」
「なん、だと……?」
「学園都市の生徒達を平気で意識不明に陥れる人間を学園都市が自由にすると思っているのなら、それは勘違いね」
「テレスティーナさん?! 木山先生は別に!」
「初春さん。心配しないで。この子達は責任を持って、私が救ってあげるから」
「なぜ、ここが……」
呆然と、木山は呟いた。
「直前に初春さんと電話していたからね。尾行するつもりはなかったんだけれど、初春さんが木山を追っているらしいって分かってから追わせて貰っていたの。ここに踏み込む手続きに手間取ったけど、逃げられたりする前に確保できてよかったわ」
テレスティーナが優しい笑みを初春と佐天に向けた。
「木山春生。保釈されている貴女は抵抗しなければこちらから拘束することはしない。大人しく、その子達をこちらに引き渡しなさい」
「くっ……だが!」
「言ったでしょう? 解決を目指すのはこちらも同じ。ただ、貴女と違って私たちは一線を越えない」
「なんだと?」
「教え子のためなら一万人もの学生を昏睡状態にしても平気な貴女には、大事故の引き金になりかねないこの子たちを管理する資格などないと言っているのよ」
出来損ないの社会人を見下すように、テレスティーナは木山の隣をすり抜けた。
開けてくださる?と医者に声をかけると、ため息をついて医者はその以来に従った。
「ありがとう、初春さん、佐天さん。あなた達のおかげで重大事件は深刻な状態を免れそうだわ」
「……あの! 枝先さんたちは、助かりますか?」
「医者じゃないけれど、医者みたいなことを言わせてもらうわね。最善を、尽くします。私達の最善を、ね。……やれ」
そして立ち尽くす人間達をよそに、静かにパワードスーツ部隊が搬送を始めた。






ファミレスでたむろしながら、携帯を見て突然獰猛な笑みを見せた麦野に、滝壺と絹旗、フレンダは一様に驚いた。
「来た」
「来たって、何が来たの? むぎの」
「超面白そうな顔をしていますね」
「何々? 新しい遊びのネタ?」
興味を見せた三人に応えず、麦野は電話をかけ、指示を出す。相手は何匹飼っているかも分からない兵隊の一匹。
お嬢様学園の寮を監視するという、トップレベルに安全で楽しい仕事をさせてやっている連中からだった。
「麦野、我々には超内緒らしいですね」
「そんなつもりはないわよ。シンデレラ・ガールが家を出たところって報告を受けただけよ」
「はあ。メルヘンですね」
「そうねぇ。さて、魔女としては何はともあれ招待状を拵えて届けてあげないと」
手元から取り出したのは、しつらえの良いメッセージカードだった。
刺繍入りの豪華な装飾に、嫌味のない花の香りが付いている。
「パーティでもするんですか?」
「ええ、と言っても私は参加しないで、主催者に内緒のままシンデレラを案内するだけだけれどね」
そこに書かれた内容は、とある路地裏の場所、時刻、それだけ。差出人の名前は、親愛なる妹達より、と書いた。
そのパーティは毎日時と場所を変えて開かれているらしい。
必死の思いで麦野はそのスケジュールを手に入れて、何の理由かは知らないが深夜に寮を抜け出そうという第三位に、優しくも招待状を送ってやろうというのだった。
品行方正、努力家、人当たりが良く頼れる、学園都市の模範的学生の筆頭。そんな彼女ならきっと、このパーティに興味を持ってくれるだろう。
――――もっとも、12時を過ぎた後にはシンデレラは全てを失うのだが。

連絡を終えてすぐ、兵隊の一匹がその招待状を取りに来た。すぐに、夜遊びの過ぎる御坂美琴を追い始めることだろう。
結末にあるものを予想して、麦野はニイッと犬歯を覗かせて笑った。




春上の転校をきっかけに、少しずつ手繰り寄せた真実に連なる糸。
最後に美琴が引いたのは、悪意ある誰かの混ぜた、全く別の糸だった。



[19764] ep.4_Sisters 01: 手繰り寄せた真実からは絶望の味がした
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/06 01:26

「はぁ、夜を潰して来たは良いけど、空振りか」
軽くため息をついて、美琴は変装用のキャップのつばを整えた。
明日木山を問い詰めようと約束したその夜に、美琴は木山と木原幻生の勤めていた研究所を探っていた。
発電系能力者としての能力を最大限に活かせば、自分ひとりならセキュリティなんてどうにでもなる。
美琴はそう思って一人でここに来たが、電気も通っていないここにはセキュリティなどという言葉もなかった。
打ち捨てられた計算機に慎重に通電して調べては見るものの、中に入っているのは、当然のことながら打ち捨てられて問題ないような、どうでもいいデータばかり。
「帰ろ。今からならちゃんと寝られるし、まあ、可能性を潰すってのも必要よね」
奥まった部屋を抜けて、大きな廊下へ出る。そして堂々と、明かりのないエントランスから美琴は外に出た。
治安対策なのか、無人のビルの外壁についたライトなどは光を放っており、敷地を抜ければそこはもう、ギリギリ普通の世界の側だった。夜に女性の歩く場所ではないが。
「さて、どうやって帰るかな、っと」
帰りの足について考えをめぐらせようとしたところで、美琴は進行方向を遮るように人が立っていることに気がついた。
――――気づかれてた?
腰を低く落として、敵襲に身構える。
「よう。御坂美琴サマ、で合ってんのかい?」
「……」
「まあ間違ってても、俺はアンタに渡すだけだからどうでもいいけどさ」
「私がその御坂美琴様だったら、何なの?」
「ちょっと手渡したいものがあってな」
そう言って、影に身を潜めて姿を見せなかった声の主が電灯の下に出てきた。
どこにでもいそうな、普通の不良。もしかしたら恨みでも買っていただろうか。
なんにせよ、恐らくは打倒するのに問題はない。
無能力者が相手なら銃を持っていたって、美琴は勝てる。あのバカ以外なら。
「スタンガンのショックでも手渡したいの?」
「そんなことは考えてねえよ。つか、御坂美琴って常盤台のレベル5の名前だろ? アンタがそうなら俺は何やったって勝てないんじゃないのか?」
口ぶりから、どうもこの不良はただのメッセンジャーなのだろう。
「誰の差し金でこんなことしてるわけ?」
「言わなかったらどうするんだ?」
「言わせるけど?」
「……兄貴だよ。血の繋がってる兄弟じゃなくて、この辺の不良を取りまとめてた人だ。けどまあ、その兄貴も多分、誰かに頼まれたんだろうけど。そこまでは知らねえよ」
その兄貴とやらの名前を聞き出すか、と美琴が思案したところで、不良が胸元から一通のメッセージカードを取り出した。
まるで似つかわしくない、ピンクとオレンジが可愛らしい、花柄のカードと封筒。
「とりあえず、これ受け取ってくれ。招待状だ」
「はぁ? 何処に案内してくれるわけ?」
「知らん」
「……」
「俺は頼まれて、お使いをしているだけだからな」
「ストーカーもやってんじゃないの?」
何処から美琴を補足していたのだろうか。
常盤台の寮を監視していたというのなら、まさにストーカーだ。
「俺は知らない。ほら、読んでくれよ」
「アンタが取り出しなさい」
「……疑り深いな、アンタ」
美琴はその挑発に取り合わない。
金属が仕込まれていないことは感覚で分かるが、好き好んで罠にかかる必要もない。
不良は無造作に、封筒からカードを取り出し、美琴に見せた。
「本日夜12時より、第七学区西端の廃車場にて、貴女をお待ち申し上げております。――――貴女の妹達より」
読み上げた美琴の目線が差出人の名に届いた瞬間、美琴は表情を凍らせた。
「妹……達?」
ありえない。その名は。その計画は。だって消滅したはずだ。
美琴の驚きを理解しなかったのか、不良は美琴の驚きを眺めるだけだった。
「読み終わったか? なら招待状は置いていくから、好きにしてくれ」
「待ちなさい」
「……帰してくれよ。頼む」
「ふざけないで」
「ふざけてねえよ。怪我なんてしたくねえんだよ」
「じゃあ知ってること洗いざらい喋ってから消えなさい」
「何も知らねえよ。そうじゃなきゃ誰がタイマンでレベル5の前に立つか。っておい、落ち着いてくれ! 本当に何も知らないんだよ!」
男は美琴の背後でチリチリと放電が始まったのに怯えて、後ずさった。
聞けたのは、その先をたどることも出来そうにない、うだつの挙がらない不良の名前だけだった。




「ごちそうさん、っと。上条のメシ、結構いいじゃん」
「そりゃどうも」
夜ももう遅くになって帰ってきた黄泉川に、当麻は新妻並に甲斐甲斐しい世話を焼いてやっていた。
インデックスはテレビを見ているうちにソファで眠ってしまっていた。
黄泉川が帰らないうちはベッドに入ってくれないから困り者だ。
「なあ上条」
「なんですか?」
「婚后は元気してたか?」
今日は黄泉川は病院に行かなかったらしい。まあ、保護者であるとはいえ他人は他人なのだ。
元気そうな光子のために毎日足繁く通うのは当麻とインデックスくらいだった。
「ひたすら退屈だって愚痴ってましたよ。まだ検査がしたいのかって」
「……」
「先生?」
「ああ、すまん。ちょっと、あそこの施設には気になることがあるじゃんよ」
「気になることですか?」
研究所というだけあって、病院らしさは少ないと当麻も思っていた。
しかし医師はちゃんと常駐しているし、清潔感もある。
「まあ施設がというよりは、所長のテレスティーナさんがな」
「いい人そうですよね。話したことはないんですけど」
「いい人、ね。確かにそう見えるじゃんよ」
ただ、黄泉川はテレスティーナと言う人に、どこか引っかかりを覚えているのだ。
いい人というのは目の前の上条みたいなのを言うんだろう。コイツはバカっぽくて、裏がなくていい。
打算を感じさせない点は好感がもてる。テレスティーナは、底が見えなかった。
その言い方に何かを感じたのだろう。上条がそういえば、という顔をした。
「夏祭りの日だっけな、夜に光子の見舞いをした帰りに、大学生くらいの女の人と喋ってるのを聞いたんですよ。内容とかはちゃんと覚えてないですけど、なんか怖い雰囲気でしたね」
「ふーん」
「なんだっけ、何かを頼まれて作ったような話だったと思うんですけど。体……晶だっけな」
当麻は、話の種にでもなればいいやという程度のつもりで話したことだった。
あやしげな薬なんて学園都市にはありふれているから、仮に当麻がかすかに聞いただけの話が真実だとして、別に大したことだなんて思わなかったのだ。
だが、黄泉川の反応は予想と全く違っていた。帰宅後の弛緩した空気を一瞬で吹き飛ばして、酷く真剣な表情だった。
「上条」
「は、はい」
「体晶って、お前言ったか?」
「いや、うっすら聞いただけなんで自信はないですよ?」
「そうか」
しかし黄泉川はそれを聞いても上条の話への評価を下げることはしなかった。
「春上と婚后に連絡はつくか」
「へ? 春上さんの連絡先なんて知りませんよ」
「……いや、春上はいい。婚后にとりあえず連絡して、明日すぐ、退院するように言え」
「はい?」
――体晶。超能力の研究者、黄泉川愛穂にとって、それは耳慣れない響きの物では決してなかった。
超能力を発現した学生にそれを投与すればどうなるのか、黄泉川はそれを十二分に理解していた。
上条は知らないのだろう。知っていればこんな暢気な顔などしていないことは予想できる。
そしてその不穏な響きとテレスティーナの間に、黄泉川は聞き間違いでは済ませられないような、確固たるつながりがあるような気がしてならなかった。
もちろん、杞憂ならそれでいい。自分で無駄な仕事を増やすことになるが、そんなこと笑って済む話だ。
そしてテレスティーナが体晶に関係しているという疑惑を自分が直感的に納得してしまった今、もう彼女の元に春上と光子を置いておく気にはならなかった。
光子はもとより無理をして入院させている状態だ。圧力をかければ退院は可能だろう。
問題は、春上。病状が根治したわけでもない今、警備員が何を言っても病院は退院を認めなどすまい。
そして確たる証拠を持って挑まねば、のらりくらりとテレスティーナは追求を免れるに違いない。
遅い夕食の余韻もすっかり忘れて、黄泉川は明日自分がすべきことを練った。




美琴は黙って道を進む。今いる場所はもう、表通りではない。
見えるところに姿こそないが、ここはもう学園都市にまつろわぬ学生達が跋扈する領域だった。
ドラッグをやろうが、純粋無垢な表の世界の住人の体を弄ぼうが、ここには止める人間がきっと来ない。
きっと廃車場という施設がその雰囲気を垂れ流している原因なのだろう。
「妹達<シスターズ>……ね」
美琴は定刻よりも前に、窓ガラスが割れボンネットがぱかりと開いたグシャグシャの車が幾重にも重なった場所、すなわち指示された廃車場に着いていた。
近くにはハイウェイが走っていて、建物の壁は灰色にくすんでいた。ゴムにカーボンブラック、つまり煤を混ぜて作ったタイヤという部品を車が備えているうちは、いくら科学が進もうと高速道の近辺が汚いのは普遍的事実だった。
廃車を集めるこのグラウンドや、訳アリの車格安で中古車を売りさばくディーラーなど、資金的にも社会的ステータス上でも大通りには構えられないような商売がこの辺りには多く、とにかく深夜には人が少なかった。
フェンスで区切られたこの廃車場はそう広くない。3分ほどかけてぐるりと歩いて、少なくとも美琴が感知できるような罠はないことを確認した。非金属で出来たトラップなら必ずしも感知はできないが、それも可能性としては低そうだ。
指定された時刻まで、あと15分以上はある。
「この時間で、まだ準備が何もされてない。まあ、コレが本当ならの話だけど」
まだ、手渡された招待状の内容に対して美琴は半信半疑だった。
逆恨みした不良による美琴への復讐にしては、ちょっとこれは凝りすぎだ。だが妹達は、計画段階で致命的な問題が見つかって、その生産計画自体がストップしているはずの存在。
希望的観測という他ないが、美琴は招待状の中身は嘘ではないかと、そう心のどこかで思っていた。

――――それはある意味、隙を見せたということだったのかもしれない。美琴の意識の隙間に滑り込むように、異変は静かに起こった。

キィン、と耳鳴りがした。それは、パズルのピースがはまるような感覚。あるいは自分の中のなにかが共振するような感覚。
言葉にしがたい不思議なシンクロニシティに、美琴は一瞬、パニックになった。
「何、これ……誰!?」
弾かれたように辺りを見回す。今、自分が感じているこれは、何だ?
改めて周囲を目視でスキャニングしていく。光学的情報を欲してのことではない。
美琴に近い大能力者の発電系能力者でもないと出来ない、視覚器官、つまり目を利用した電気力線の把握。
学園都市を広がる電磁波など、洪水同然だ。その中から意味ある情報など掬えるはずもない。
だが自分が無意識に発する電磁波なら話は別だ。それなら、特徴を知り抜いているのだから。
今、自分がどこかから感じ取っている電界の変化は、まさしく自分が纏っているそれに瓜二つだった。
――その事実が意味するところは、一体なんだろう。
答えはすでに自分の中にあるかもしれなかった。だが、美琴はそれに気づかないふりをして、発生源を探る。
フェンスの向こう、そう遠くない場所らしかった。
廃車場の入り口になっているフェンスを力任せにぶち開けて、草生した車道に出る。
発生源は多分、ハイウェイのほう。
頼りない電灯の明かりだけには頼らず、赤外線の情報まで拾い集めながら美琴はいくつか角を曲がって高架下の道路に出た。
一体誰が使うのか、むしろ治安悪化の材料にしかなりそうにない、汚らしいトイレと雨避けの屋根つきベンチ。
その傍には、こんなところに置かれて補充がされているのか疑いたくなる、自動販売機が一台。
そして。その目の前に、良く知った制服に身を包んだ、女子中学生が三人。
「――――」
言葉が出なかった。何を言えばいいのか、頭が真っ白で分からない。
自分と同じ、御坂美琴の姿をした誰かが、そこにいた。
いや、誰かなどとは言うまい。招待状にあったではないか。『妹達』と。
自販機に向かってじっとラインナップを眺めていた三人が、同時に美琴のほうを振り返って、美琴と同じ声色で言葉を発した。
「ネットワークに接続していない個体ですか。ナンバーを、とミサカは目の前のミサカに要求をしてみます」
「それは冗談ですか? 9982号」
「可能性としてありえないほうをミサカは口にしただけです。そしてどうやら目の前のこの方は、ミサカではない様子」
「ごきげんようお姉さま、とミサカはやや緊張しつつファーストコンタクトを取ります」
全く瓜二つの姿をした三人。いや、美琴を入れれば四人。
表情がほとんどないせいか、目の前にたたずむ三人がひどく人形めいて見えた。
そして呟かれた、お姉さまという響き。クラリと、世界が平衡感覚を失っていく。
「なん、で――」
失敗に、終わったはずだ。樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>が間違うはずがない。
美琴のクローンを作ったとして、それはたかだかレベル2程度の、使い道のない能力者でしかないはず。
事実、目の前の三人が周囲に形作る電界と磁界からは、脅威になるような雰囲気を一切感じない。
美琴の疑念に答えてくれるのか、三人のうち一人が、こちらを見て呟いた。
「お姉さまが能力を使って自動販売機から清涼飲料水を不法に奪取しているという噂は真実ですか、とミサカは今最も気になっていることを問いかけます」
「え?」
それは、冗談だったのだろうか?
あまりに場違いでくだらない言葉に、美琴の脳は処理を上滑りさせた。
日本語としては理解しているはずなのに、何を言っているのか、さっぱり分からない。
「法規に反することを無闇にすべきでないことは我々も理解していますが、お姉さまがされるのであれば、我々が真似ても許容されることのように思います、とミサカは正当化の論理を並べてみます」
「何を言っているの……?」
「生憎、我々には不要なものを買う所持金が与えられていません。しかし我々の待機場所にはこのような非常に興味深いものがあります。そこで所持金無しにこの飲料を手にする方法を考えていました、とミサカは察しの悪いお姉さまに懇切丁寧に説明をします」
身構えたこちらが、馬鹿だったのだろうか。
彼女達が恐ろしい人間のように思えたのは、得体の知れない相手に自分が投影した恐怖だったのか。
美琴を見ながらもチラチラと自販機のディスプレイに興味が行く目の前の三人は、自動販売機に群がるただの学生のようにも見えた。
「発電系能力者として、やはりお姉さまもインテリジェントな過電流で制御系を破壊もしくは書き換えたのでしょうか、とミサカはお姉さまが乱暴な真似をしなかった可能性を希望的に述べてみます」
「人を見境なく自販機を壊す破壊魔みたいに言わないで」
「違うのですか」
三人の瞳が、一斉に美琴を貫いた。おもわず、それに怯んでしまう。
「アンタ達。私の――――クローンなの?」
「はい」
その即答はあまりに軽かった。しかし、そのあっさりしすぎた肯定は、美琴の心を打ちのめした。
「あの計画は、凍結した筈でしょ? 現にどう見たって、あんた達レベル2程度でしょ」
「我々は確かに、個々の能力はレベル2相当ですが、とミサカは事実を認めます」
「なんで、アンタたちが、ここに存在するの?」
キッと美琴は再び三人を睨みつけた。答え如何によっては、暴力的な手段に訴えてでも尋ねる気だった。
だが、その美琴の鋭い視線を受けても眉一つ妹達は動かさなかった。その無反応ぶりは得体が知れなくて、ひどく美琴の心をざわめかせる。
「ZXC741ASD852QWE863'、とミサカは符丁<パス>の確認をとります」
「え?」
「やはりお姉さまはこの計画の関係者ではないのですね。それでは先ほどの質問にはお答えできません」
唐突に美琴には解読<デコード>できない何かを呟いた。
「いいから答えなさい」
パリッと、美琴は体から誘導電流を走らせた。逃げ場を欲する電子の流れは、導体として妹達を狙っている。
美琴がその気になれば、目の前にいる三人の発電系能力者など、無能力者と変わらぬ扱いを出来る。
そう、妹達に教えたつもりだった。
「関係者以外には計画の内容をお教えすることは出来ません、とミサカは規則を繰り返しお姉さまにお伝えします」
「いいから、答えなさいっつってんのよ!」
「いくらお姉さまといえど、関係者ではありませんから」
「力づくででも聞き出してやるわよって脅してんのがわかんないワケ?!」
ミサカと自販機の隣に立った電灯が一本、犠牲になった。
大過剰の電流で派手にダイオードを散らして、辺りに暗闇をもたらす。
「お姉さまが拷問慣れしているとは思いませんが」
「それにやっても詮の無いことです」
「50万円の損失では、この計画は止まりませんから、とミサカは事実を端的に指摘します」
「……50万円?」
「お姉さまが我々を毀損した場合に生じる損害です。我々の製造コストである単価18万円の三体分になります。他に金額では評価できないロスとして製造と調整にかかる数日間という時間がありますが、こちらも計画にとっては無視小です」
淡々と、化学試料の調整レシピでも語るように。
御坂美琴のクローンたちは、自分達の価値<コスト>をそう評価してのけた。その、あまりに自己愛のない突き放した感情が気色悪かった。
この子達は、自分が死ぬことを恐れていない。怖くないとか、そういう人間的な考えじゃない。
死ぬことに意味がないと思っているんだ。
「……聞いても口は割らないって、言うわけね」
「はい」
「そう。なら勝手にしなさい。どうせそのうち研究所か何かに戻るんでしょ? 勝手に尾けさせてもらうわ」
レベルの差は歴然。普通の学生なら逃げ切れないと観念させるだけの追跡力が美琴にはある。
しかしその宣言に対しても、妹達はなんの反応も示さなかった。
「……」
「で、今からあんた達は何するわけ?」
「先ほども説明しましたが、ジュースを買おうと思っています」
「ですが生憎、持ち合わせがありません」
「それでお姉さまの真似をしようかと、話し合っていたのですが」
自分達の話をするときとまったくトーンを変えずに、三人はもとの興味の対象である自動販売機に目線を戻した。
「言っとくけど私は電流で自販機を壊すなんてこと、滅多にしないわよ」
「普通は絶対にしないものですが、とミサカは法律遵守の精神に乏しいお姉さまをかすかに哀れみます」
「しかし困りました。正規の手続きでジュースを買い求めるには、我々には所持金が足りません」
妹達からは、一切の悪意を感じなかった。
会えば死ぬと言うドッペルゲンガーのような凶悪さもないし、性格を凶悪に改変されたような痕跡もない。
ただ、希薄なだけだ。
警戒心を解いたつもりは美琴にも無かった。
だが、美琴は三人を押しのけて自販機の前に立ち、ポケットから紙幣を抜いて自販機に突っ込んだ。
「お姉さま?」
「別に。これから朝まで付き合ってもらおうってんだから、喉を潤すくらい普通でしょ」
ピッという音の後に、スポーツ飲料が口から吐き出された。
自販機がくわえ込んだ残額を表示している。もう三本分くらいはあった。
「要るんならボタン、押しなさいよ」
「いいのですか? とミサカは太っ腹なところを見せるお姉さまに一応確認をとります」
「私の気が変わらないうちにさっさと押しなさいよ」
「……では、お言葉に甘えて」
誰がどれを選ぶのか、ああでもないこうでもないとにぎやかに話し合った後、三人は紅茶とオレンジジュースとコーラを選択した。
「いただきます」
「あーはいはい」
ジュースを買う手つきに慣れないところは無かったのに、初めて見たようにじっと缶とペットボトルを眺め、三人は三様に、ジュース類をぐびりとやった。軽く口に含み、官能試験をするように味や香りを吟味して、こくんと嚥下した。そして三人で、得られた情報を整理するように、味を報告しあった。
「舌に乗る渋味の収斂感がディンブラ三の茶葉のよさの一つとミサカは記憶していますが、これはそのような繊細さのある渋味ではありませんね。また保存料のデキストリンとビタミンによって紅茶以外の匂いがつき、またそれを隠すために香料で香味の上書きを行っています。水をまだしもマシな味にして飲むというお茶の起源に立ってみればこれでいいのでしょうが、ミサカはこれをお茶とは認めません」
「このオレンジジュースも加水加糖によってオリジナルの味からはかけ離れたものになっていますね。オレンジのpHを考えればペットボトルの量を気軽に飲めば胃の調子を悪くすることくらいは予想できますが、かといってこのように改変されたものをオレンジジュースと呼ぶことに違和感を覚えないものなのでしょうか」
「自動販売機で手に入る飲料にクオリティを求めるなど、おかしなことです。その点でコーラは完璧ですね。人口甘味料と香料で作られたこれは、劣化などという概念とは無縁です」
「アンタ達ジュース一つでどんだけ語るのよ……」
高々150円で買える飲料なのだ。
評論などそもそもするに値しないと思うのだが、どうやら彼女達はあれで楽しんでいるらしかった。
「そうは言いますが我々はこれも初体験のことですから」
「……そう。悪かったわね」
「お気遣いは無用です。むしろこのような楽しみに触れる時間があったことを喜ぶべきでしょう、とミサカはお姉さまにジュースのお礼を伝えます」
「いいわよ別に、これくらい。お礼がしたいんならアンタ達の秘密をバラしてくれればいいわ」
「それはできませんが」
「そ。……ならまあ、時間はあるんだから、符丁の解読でもさせてもらいましょうか。悪いけど、ここから動かないでね。ジュースを飲むのに差し支えはないようにしたげるから」
美琴は遠くの地面から、そっと砂鉄を引っ張ってきた。
先ほどから水面下で行っていたテストで、妹達が電場と磁場の変化に鈍感なのは確認済みだったから、感づかれずに行うのはそう難しくなかった。
おそらく頭につけた大仰な暗視ゴーグルは、美琴と違って電気力線と磁力線を可視化できない妹達の補助部品なのだろう。
そうした推論を立てつつ、妹達の腕に砂鉄を絡め、ギッと手錠の形に固めた。妹達の腕と腕をつなぎ、そしてその端を電灯にかける。
これで恐らく逃げられないだろうと思えた。戦闘能力で及ばないのを理解しているからか、妹達は抵抗しなかった。
それを見届け、美琴は近くにある公衆電話のボックスに入った。
端末を繋ぎつつ、初春に連絡を取る。もしかしたらもう寝ているかもしれないという危惧は、幸いにして杞憂で済んだ。
「もしもし」
「あ、初春さん。夜分にごめんなさい」
「どうしたんですか御坂さん? もしかして、木山の件で……」
「え? うん、ごめん。それとは違うんだけどさ、ちょっと、助けて欲しいことがあって」
「はあ……」
「ZXC741ASD852QWE863'って符丁、解読できる?」
友達の挨拶をばっさりと前略して、美琴は必要なことだけを聞いた。
初春は急な電話にはじめ戸惑いを見せていたが、暗号解読の依頼をされたのだと悟った瞬間、明晰な回答を瞬時に口にした。
学園都市が暗号のコーディングに使う数式、その解読の仕方、そうしたものを的確に、そして短く教えてもらって美琴は電話を切った。
何か、木山の件について話したがっている素振りがあったけど、今は聞く余裕がない。
それは確かに美琴にとっても重要な話だ。だけど、今は気持ちを割く対象にならなかった。


外をチラリと見ると、美琴の飲み残しのスポーツ飲料に手を出しているようだった。
暢気そうなその三人の態度に、美琴はどこか希望を感じる。
妹達が従事しているのは、別におぞましい実験なんかじゃなくて、たまたまクローンを必要とするような、大したことのない実験に付き合っているんじゃないか。
そうであればいいのにと、そんな希望を抱いてしまう。
一体何をするために、妹達は生み出されたのか。それは知らなければいけないけど、知ってしまうのが怖いこと。
符丁の解読が終わった。上位権限を持つ適当な研究者のアカウントをハックして、美琴はその計画書に、手を届かせた。
エンターキーをカタンと押すと、計画の要綱を示したらしいドキュメントファイルが、現れた。
「絶対能力進化<レベル6シフト>……?」
タイトルは、あまりに壮大だった。レベル2の能力者なんて使っても、どうにも届きそうにない。
まだ能力者のクローンを軍事転用する量産能力者計画<レイディオノイズ>のほうが現実味があった。
騙されているのではないかというような、半信半疑な気持ちで美琴はディスプレイをスクロールした。
だって、こんなタイトルを誰が真に受けるというのか。
――――実現するとしたらどれほどの犠牲が必要なのか、想像すら出来ないこんな計画を、一体誰がやるというのか。


優しい現実なんて、そこにはなかった。行を読み進むごとに、美琴の舌は乾いていく。
学園都市の掲げる大目標の一つである、絶対能力<レベル6>の超能力者の輩出。
その高みに届く能力者はただ一人、学園都市第一位、一方通行<アクセラレータ>のみであると、樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>がはじき出した。
通常の時間割<カリキュラム>では250年という非現実的な時間を要するため、戦闘による能力の成長促進を試みる。その相手は、第三位、超電磁砲。
しかし超電磁砲を持ってしても進化には128回の殺害数を要し、当然128人の御坂美琴を用意できないことから、その代替として、妹達を使う。
計画のために生産される妹達は20000体。その全ての殺害をもって、計画の完了となる。
――――そんな、計画だった。


「ハハ……さすがにこれは、嘘でしょ。こんな無茶苦茶なこと、できるわけ、ないわよ」
どさりと、電話ボックスの壁に背中を預けて、ずるずるとへたり込んだ。
透明の壁の向こうから、妹達がこちらを見ていた。
ジュースに興味を示して、なんだか可愛げだって感じられたような、そんな気がしたのに。
殺されるために合成されて、それを理解したうえでああして実験に赴いているのなら。
分からない。さっぱり分からない。無表情なその目は、もう無機質にしか見えない。
美琴が普段飲むジュースと同じものを飲むその生き物が、美琴には受け入れがたかった。
フラフラと、電話ボックスを後にする。
「ねえ」
「なんでしょうか、とミサカは問いかけに応じます」
「アンタは、一方通行に殺されるために、ここにいるの?」
「……計画書を読まれたのですね。それでは、隠しても無意味ですね」
「質問の答えは、イエスです。私達は絶対能力進化の一実験を実施するための部品ですから」
淡々とした返事を、ミサカたちは返した。
「なんで……。なんでアンタ達そんな平気な顔してんのよ!」
「どうしてと言われても。我々は単価18万円で替えの利くものですから」
「試料など、1グラム1万円、1ミリリットル1万円の世界でしょう。それに比べれば我々は使い捨てに向いています」
「そんなの!」
重さで価値などはかれるものか。それなら人より象は高潔だとでも言うのか。
「我々には人生がありません。知己もいません。社会性を持たない我々は、ある種の定義でいえば人間ですらありません」
「それにもう、およそ1万体が消費されています」
「え?」
いちまん、たい――?
計画は二万体を製造し、全てを殺害するとしている。
よく考えれば、この目の前の三人が、実験に投入される第一号だなんてことは、むしろ考えにくい。
すでに何人か死んでいたって何もおかしくないのだから、一万人の妹達が死んでいても、おかしなことはない。
でも。
そんな論理的な答えと、美琴が受け入れられる答えは、違う。
一万なんて数はもう想像できる数字ではない。そんなにも沢山の妹達が、死んだ?
――――違う。私が、殺した?
あの日優しげな研究者と交わした握手。病気に苦しむ子供達のために、美琴は自らの遺伝子マップを提供した。
それが、今日、今に繋がっている?
「そんな、なんで」
すっかりと馬鹿になってしまった美琴の精神に、泥水でも流し込むように、重く苦しい気持ちがせりあがってくる。
取り返しのつかない過ちをしてしまったのではないかと、そんな思いに窒息しそうになる。
だけど、どこかで美琴はその最悪の事実を受け流してもいた。規模が大きすぎ、実感がわかないせいだ。
その美琴の硬直を、妹はどう受け取ったのか。
「この後どうされるつもりかは存じ上げませんが、お姉さまが介入したところで計画が変更されることはありません、とミサカはお姉さまが無駄なことをせぬよう事実をお伝えします」
飲み干した缶とペットボトルを、妹達はゴミ箱に捨てた。
そして思い出す。なぜ、妹達はこんなところにいる?
「アンタ達。今から『実験』に行くつもり――?」
時計を見た。定刻はもう、過ぎている。美琴がみたこの計画書が真実なら、歩いて二三分のあの廃車場にはきっと、一方通行が待っている。
妹達を殺そうと、待っている。
「行かせない」
「お姉さま?」
「アンタ達なんて好きでもなんでもないけど。目の前で、死なせたりなんてしない」
一万人という響きを、美琴はどう受け入れたらいいか分からない。だけど、目の前の三人は、話をして、ジュースを奢ってやった相手だ。
このまま枷を放さなければいい。抵抗されれば電流で手足の自由を奪ったっていい。
その間に計画を止めればいいのだ。第三位(じぶん)が、第一位(あいて)と戦って。それは勝率五分の試合ではないかもしれないが、そんなこと今はどうでもいい。
計画書の末尾にあった、妹達の殺害レシピの参考例。どれもこれもおぞましくて、気が狂っていた。
そんなものにこの子達を晒す事なんて、まっぴらごめんだ。
妹達を牽制するように手をかざした美琴に、しかし妹達は僅かに躊躇うような雰囲気を見せた。
「お姉さまの決意に水を差して恐縮なのですが、とミサカは前置きをします」
「え?」
「今日の実験はすでに半分ほど終了しています。我々は先ほどより、お姉さまの足止めを担当していました」
「我々はまだスペアが充分ありますから、明日の投入予定だった個体を繰り上げで投入したということです」
合理的だった。残り一万体もいるのなら、何も今日、この三人が実験に立ち会う必要はない。どの妹も全く同じスペックなのだから。
美琴に掴まったあとにわざわざ振り切って実験に向かったりなど、する必要がないのだから。
誰か別の個体が、一方通行の『実験』に付き合えばいい。
それはシンプルで明快な答えだった。

「嘘」

美琴は三人を置いて、廃車場へと駆け出した。
全力で走ってもかかるその一分が、もどかしい。
意識を向ければ、確かに揺れ動く、戦闘用の出力らしい電磁場の変化。
不自然にふっと途切れたその変化の波は、誰かがまるで事切れたかのようだった。

こんなの、やめてよ。
冗談だって誰か笑ってよ。
妹達にジュースを奢って、暢気に調べものなんかしたりしたその裏で。
私のせいで、妹達が死んだなんて。



[19764] ep.4_Sisters 02: 序列の差
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/10 11:08
乱雑に積まれた廃車の上に腰掛けて、一方通行<アクセラレータ>は地上を見下ろす。
「あー、今日はだいぶ散らかしちまったなァ。ま、俺が掃除するンじゃねえからいいンだけどよ」
遮蔽物の多いここでの三人同時襲撃というのは趣向としては悪くなかった。
重火器を手に同期した動きを見せるあちらに対し、こちらは無手で一人。
「く……」
足首から先を失って地面に這いつくばった妹達の一人が、一方通行に良く見える場所でうごめいていた。
骨も動脈もむき出しの傷からはオイルのように血液が流出していく。
一方通行はその様子を見て軽くため息をついた。
今日の三人はこちらの『反射』を上手く回避した立ち回りを演じてきたが、一人が落ちてから瓦解までは一瞬だった。
「なァどうする? 俺はもうオマエから学ぶモンなんてないしな」
「……?」
「アリを一匹一匹丁寧に潰すってのもよォ、いい加減飽きンだよ」
そういえば通り道にあった自販機には今週のローテーションにしているコーヒーがあった筈。
それでも飲みながら帰るかと思案する。一方通行の頭の中はすでに実験は終了していた。
「ミサカはまだ戦闘能力を喪失してはいませんが」
「そォは言っても、オマエ、何してくれるの?」

体勢すら整えるのに苦労をしながら、最後に残ったミサカが自動小銃を一方通行に向ける。
ゆらゆらとぶれながらその照準が合うのを、一方通行は優雅に待った。
自身の能力である『反射』は、銃弾の持つベクトルなどまるで意に介さない。
綺麗に軌道を演算して、元の銃口にお返ししてやることすら造作ないのだ。
カチンと、ミサカが引き金を引いた。
ただし銃のではなく、一方通行の近くに隠して設置した可塑性(プラスティック)爆薬のトリガーを。
「おォ、ソッチからかよ」
バァァァン! と人気のない一帯に騒音が弾け飛ぶ。木の板を叩いた音を鼓膜が破れそうな音量にした感じだった。
その爆風を受けて、一方通行はふわりと舞い上がる。もちろん爆風の持つエネルギーを全て受けていれば一方通行ははるか先まで吹き飛んだはずだった。
だがミサカは爆風一つで一方通行が戦闘不能になる可能性など全く考えていなかったように、小銃の照準を滑らかに空中の一方通行に合わせた。
そして今度は、小銃の引き金を躊躇いなく引く。
バババ、と断続的な炸裂音が始まった次の瞬間、手にした銃は弾け飛んだ。
「俺の計算能力を上回りたいンだったら、場をもっとグチャグチャにしねえとなァ」
そう言いながら、一方通行はミサカの残った足の上に着地した。
グギリという骨が砕ける鈍い音。激痛に目を見開くミサカ。
その姿をしばし鑑賞して、一方通行は悩む。
「まあ、ここまで来たし殺ってやるけどよォ、どんな殺やれ方がオマエの好みだろうなァ」
血流を全部逆流させて殺すのはもうやったことがある。
このまましばらく待てば恐らくあちらから電撃の矢でも飛ばしてくるだろう。
それを反射して絶命されるのは面白みがなかった。
「あァ、体を流れてる生体電流を変えて遊んだことはまだなかったな」
優しい手つきで、一方通行はミサカの腕に触れた。
――――その瞬間。闖入者の存在を知らせる、カッカッというローファの足音が近づいてきた。




さっきと、匂いが違う。
操車場を目前に、美琴が思ったのはそれだった。
鉄臭い匂いと、名状しがたい獣のような匂い。
そして突然の、耳をつんざくような轟音。
明らかにそこは、30分前に自分がいた場所とは、違っていた。
「何、コレ――――」
積み上げられた廃車が視界を遮らないところに出て、美琴はそこを見た。
頼りない電灯の光が、はっきりとした情報を映してはくれないけれど。
常盤台の制服を着た、自分に良く似た、いやさっき会った三人に良く似た髪の色をした誰かが、地面に転がっていた。
誰一人として、ピクリとも動かない。
それはそうだ。転がるその子達は誰一人として五体満足ではなくて、どう見たってこんなの、生きていやしない。
「あン? 処理係か。まだ終わってないうちから来ンのは初めてだな」
「え……?」
視界の目の前にいたのに、美琴は今はじめて、その男に気がついた。明かりが逆行になって表情は良く分からない。
だけど、線の細い体格に真っ黒な服を着込んだ、若い男だというのは分かった。
「まァ待たすのは悪いしよ、さっさと殺るか」
「あ、ぐ……あ、うあぁぁぁぁぁっ」
「ちょ、ちょっと止めなさいよ!!」
「あ?」
「止めろって言ってんのよ!!」
美琴は勢いに任せて、その男に雷撃を飛ばした。人に当たれば後遺症を残すレベルだった。
しかし目の前の男は、それを意に介さない。
一方通行に踏みつけられた妹は激痛に目を見開き、涙腺が壊れたみたいに涙を流している。ビクンと体が震えるたびに、折れた足が不自然に揺れ、足首をなくしたほうの足からはダラダラと血が溢れた。
そんな、おぞましい光景を生み出しながら、目の前の男はごく平静な様子だった。

「おいおい。止めろってオマエ何様だよ。っつーか、オマエラこそこれを希望してるンじゃないのかよ」
「こんなこと、望んでるヤツがいるわけないでしょうが! アンタ、頭おかしいの?」
「イカれてンのは学園都市の上の連中だろ。……オマエ、他のヤツと随分違うな」
「何を言って――」
「まァいいや。とりあえずコイツで遊ぶのは満足したしな」
もう一度、男が妹に触れようとした。
「止めなさい!」
美琴はもう能力に制限をかけなかった。後のことだとかに気を使う平静さは無かった。
磁力で集めた砂鉄の剣を地面から引き抜く。そして躊躇い無く妹に伸ばす男の手に振り下ろした。
高周波振動のブレードはたやすく腕を切り――――裂かない。
「え?」
「面白い能力の使い道だなァ。いいぜ、そういうの。でもこの俺を相手に近接戦はいただけねェよ」
あっさりと砂鉄は美琴のコントロールを離れた。
そしてぬるりと、男の手が蛇のように美琴を狙った。
それに本能的な恐れを感じて、美琴は崩壊しかけた砂鉄の剣を幕にして、男の視界を遮った。
そしてバックステップで至近距離を脱した。
「悪くない判断だな」
息つく暇を美琴は与えなかった。自動車なんて鉄塊みたいなものだ。
この廃車場には、美琴が弾に出来るものが山ほどある。
美琴は妹の位置を計算しながら、三台の軽自動車を砲弾にして目の前の男に突っ込ませた。
男は避けるほどの身体能力を見せなかった。特に何もアクションを起こさず、静かに自動車は男に突っ込んで。
「……? この出力、オマエ」
「――――ッ!! くあ、あぁぁっ!」
次の瞬間、美琴に向かって飛んできた。渾身の力で電場を歪め、その質量弾を横に逸らす。
噛み締めた奥歯が痛い。ハァハァと美琴は荒い息をついた。
「砂鉄の剣にこの大質量のコントロール。どう見てもレベル2や3じゃねぇよな。そっかそっか。俺は勘違いしてたってワケか」
実験結果を眺めるように腕組みをして男は頷くと、美琴の中身を覗き込むような目で、呟いた。
「オマエ、オリジナルかァ」
ニィ、と目の前の男が笑みを深くした。ゾクリとする爬虫類じみたその表情に、美琴は半歩後ずさる。
次は美琴をおもちゃにするつもりなのか、一歩、男がこちらに近づいてきたところで。
不意に男の視線が後ろにやられた。
「待って下さい。一方通行」
「お姉さま<オリジナル>との戦闘は計画の大幅な修正を必要とします」
「突発的にそれを選択することはむしろ障害となりますので、ここは手を引いてください」
「それに本計画ではお姉さまを投入することは見送られたはず」
「世界にたった一つしかいない人間を無闇と消費することは赦されないことでしょう」
男は面倒くさそうな顔をした。美琴を足止めしていた三人の妹達が追いついたのだった。
男は妹達のリレー方式で喋る癖が嫌いだった。
「今日はすでに実験に投入する個体の変更をしています。これ以上、計画を変更すれば樹形図の設計者による大規模な再演算が必要となりますから、計画遂行上の障害となる、お姉さまとの戦闘は容認されませんとミサカは詳細に事情を説明します」
「チッ。はいはい分かった分かりました。ちょっとからかっただけだってェの」
いたずら心を先回りで牽制された子供みたいなすねた口調で男は妹達に従った。
その様子に満足したのか、妹達が次は美琴のほうを向いた。
「お姉さまも、速やかにここを立ち去ってください。我々はこれより死体の処理をしなければなりませんので」
「処理、って……アンタ達はコレ見て何も思わないの? こんなの、絶対おかしいわよ……」
「そうは言いますが、これは学園都市が主導する計画のひとつですが、とミサカは客観的な評価を口にします」
言葉が、通じない。絶対に、普通の人間ならこの状況をおかしいと思えなければいけないのだ。
目の前にいる妹達みたいに、自分と同じ姿をした死体が転がっている現場を見て平然としているなんて、ありえないのに。
妹達の一人が現場の隅から、寝袋みたいな袋をいくつか取り出した。
「ところで一方通行。貴方に課せられた今日の実験はまだ、終わっていないようですが? とミサカは確認をとります」
「え?」
さしたる感慨を持たぬ目で、妹達は這いつくばる自分の分身を見つめた。
痛覚をつかさどる神経を流れる電流を、いつもの数百倍流されて悶えてはいたが、両足首から先を失ったミサカは、まだ絶命していなかった。
「あァ、殺さないと実験が終わらないンだよな。この規則は変えられないのか。興が殺がれた日に後始末をするのはかったりいンだよなァ」
美琴を無視して、男が傷ついた妹に、近づいた。
美琴はその足取りを遮るように数歩踏み出し、そっと、ポケットからコインを取り出した。
人にそれを向けたことは、どこかの馬鹿を除けば、一度もない。
「止めなさい」
「あ? 指図される謂れはねェよ。オマエの妹も皆賛成だぞ?」
「知らないわよ。こんなことして平気なあなたもこの子達も頭がおかしいのよ」
「凡人よりネジが飛ンじまってるのは否定しないけどよォ、オマエ、部外者じゃねえか」
「この子達の姿を見て、部外者で私はいられないの」
「あー、そうだよなァ。さすがに俺も自分のクローンがこンな消費のされ方してたら気色悪ィな。分かるよ」
うんうんと頷く男の態度が、酷く美琴の癇に障る。
クローンを作られることになった美琴の浅はかさを揶揄しているのは明らかだった。
「まァでも、俺がレベル6になるには、コイツラを使って実験しなきゃいけないンだよ。悪いが、止められねェなァ」
見せ付けるように男はゆっくりと妹に手を伸ばした。美琴の目を見ながら、美琴の理性の減り具合を確かめるように。
ニタニタとした笑み。人を一人殺すのに、どうしてそんなに微笑むんだ。妹達だって、普通に生きられる、普通の人なのに、なんで。
ぷつんと美琴は何かが振り切れるのを感じた。心の中の引き金を、ガチンと引いた。

「止めろって言ってんのがわかんないのかあっっ!!」

コインに先駆けて、男のこめかみまでの空気をイオン化する。
雷のような曲がりくねった大気の電圧破壊ではない。
整然と伸びた二本の直線、それはまさにレールと呼ぶにふさわしい。
数メートルの加速台一杯一杯に自分と言うコンデンサから絞れるだけの電流を絞り出して、美琴はコインを加速させた。
人の認識速度を優に超える音速を獲得し、コインは急激な摩擦を持つ。
そして温度の四乗に比例して周囲に赤熱を撒き散らしながら、美琴の奥の手、『超電磁砲』は目の前の男に襲いかかった。
男に訪れる結果のことを美琴は考えなかった。

――――直後。美琴は自分の耳元で、キュインという、風を切る音を聞いた。

チリチリと髪と頬が熱風に当てられたような感覚を伝えている。
視線が僅かにその軌跡を捉えていた。男に直撃した瞬間、跳ね返った超電磁砲の軌跡を。
結果は何より雄弁だ。死んだっておかしくないはずの男が、先ほどとかわらず立ち尽くしている。
「そん、な」
歩みを止めることすら男はせず、そしてつま先で瀕死の妹を小突いた。
ただの蹴りではなかったのだろう、地面から浮き上がるくらいにビクリと妹は震えて、仰向けに転がった。
真横を向いた顔を見ると、血も涙も、あらゆる体液を垂れ流しながら、目をかっと開いていた。
妹が今まさに死んだのだと、悟るのに何の無理もない有様だった。
「嘘……でしょ」
「なァ。今の確か、オマエの必殺技だよな。……いや、悪ィな。自信喪失なんてさせるのは申し訳ないなァ。でもまさか、第三位の必殺技がそんなシケたもンとは思わねェだろ?」
蛇が忍び込むように、その男の声は美琴の心に絡みつく。
今のは一番、自分の持っている応用の中で殺傷力の高い技だった。だからその名を自分は冠しているのに。
まるで、その男は意に介さなかった。ただの一般人なわけがない。美琴は相手が誰なのか、どうしようもなく理解していた。
気がつくとカチカチと美琴の歯が音を立てていた。
足が現実を支えていられなくなって、その場にへたり込んだ。
「実験は終了しました。これより現場の処理を行います。一方通行。速やかに退出してください。お姉さまも」
「了解っと。なンだ、そう落ち込むなよ。俺も今日はかなり楽めたからなァ。ああそうだ、自己紹介がまだだったな」
汚れ一つない男が、美琴に近づいてきた。それを、美琴はどうすることも出来ない。
色素の薄い髪と肌、気色の悪い赤色の目。そんなものを美琴の視界一杯に映して、そして忘れられなくするように、耳元で囁いた。
「学園都市第一位、一方通行<アクセラレータ>だ。ヨロシク」
それだけ告げて、揚々と一方通行は引き上げた。
呆然とする美琴の前で、妹達が、死んだ妹の部品をかき集め、無造作に袋に詰め込んでいく。
自分の体に流れているものと同じ血が辺りを汚しているのを意に介さず、薬品で淡々と洗浄していく。
美琴は、崩れていく自分の世界を修復することすら出来ないまま、ただ呆然とするほかなかった。




「み、光子。……ちょっと、くっつきすぎじゃないか?」
「そんなこと、ありません。ふふ、当麻さん」
ラッシュアワー直前くらいの時刻。
当麻の二の腕にべったりと抱きついた光子にやや戸惑いながら、当麻は駅前を歩いていた。
光子が上機嫌なのは、実に一週間ぶりの外出だから。
光子はちょうど一週間前、ポルターガイストに巻き込まれ、『自分だけの現実』が歪んでしまったため、テレスティーナ率いる先進状況救助隊(MAR)の研究施設兼病院に入院した。
主治医の主張ではまだ経過を観察する必要があるとのことだったが、精神的にも肉体的にも堅調で、どうもポルターガイストに巻き込まれたレベル4を研究したいという彼らの都合のせいで、不等に入院期間を延ばされているような印象が拭えなかった。
そして昨日の夜、急に黄泉川が光子に早期退院を勧めだし、今日、退院に向けて動いているのだった。
光子は早朝に迎えに来た当麻と一緒に、以前世話になったあのカエル医者の病院に赴き、すぐさま退院して問題無しと言うセカンド・オピニオンを受け取ってきたところだった。
「ああ、それにしてもこれでやっと退院できますわ! 一緒に暮らすとインデックスと約束しましたのに、一週間も先延ばしにしてしまいましたし、本当、いい迷惑でしたわ」
「そうだよな。デートとか、する機会も減っちまったしな」
「もう、当麻さん。そういう嫌なことはもう思い出したくありません」
「ごめん」
悪態をつきながらも、光子の機嫌はすこぶるいい。
「当麻さんと二人でこうして歩くの、何日ぶりかしら」
「考えたら、インデックスが来てからはそんな時間、一度も取れなかったんだな」
「そうですわ。夏休みに入ってからこれが初めてですのよ?」
「……俺が悪いわけじゃ、ないぞ?」
「それはわかっていますけれど」
せっかくの当麻とのデートなのに、急な出来事のせいで碌なお洒落もできず、代わり映えのしない常盤台の制服を着ざるを得なかったのがちょっと不満だった。
「あ、そうだ。光子が退院できそうなら、昼からインデックスと合流するか?」
「え? あの子は確か、今日はエリスさんと遊ぶ予定をいれてましたわよね」
「そうそう。一人で電車乗り継いでな。そのために携帯まで持たせたし」
当麻と光子の携帯となら無料で通話の出来る、一番安い携帯だった。
渡されたとき、インデックスはまるで爆弾の起爆装置でも持たされたようなおっかなびっくりの態度をしていた。
「それじゃ、エリスさんはどうしますの?」
「どうするつもりかよくは知らないけど、まあアイツのことだから、エリスも含めて、俺達四人で遊ぼうって魂胆なんじゃないか?」
「はあ。……そんなにエリスさんとは、私親しくないんですけれど」
光子の入院中に当麻が親しくなった女の子だ。本人の気質とは別に、それが引っかかっている光子だった。
「まあ、これからあっちの病院でひと悶着あるだろうし、実際に遊ぶ余裕が出来るのは昼からだろうな」
「そうですわね。でも、悪いのはあの主治医の方ですもの。私、一歩も引き下がるつもりなんてありません」
早朝にここにいるのは、MARの医者達の目を盗んで抜け出したからだった。
他の医者の判断を求めるなどと言えば、あれこれと文句を言って足止めされるだろうし、時間も掛かる。
そして反則技を使った反動で、病院に戻れば紛糾するのは想像に難くなかった。
「んじゃ、その辺のことインデックスに伝えてやらないとな。さすがにもう起きてるだろ」
「あ、当麻さん。私が電話しますわ。インデックスが慌てるところを、私も見てみたいですから」
二人で意味ありげな笑顔をかわした。
インデックスは最新機器にすこぶる疎く、電話をかけると面白い反応をするのだった。
光子が携帯を取り出し、耳に当てた。駅の建物内に入ると電話はかけづらい。
光子はビルの手前で立ち止まり、インデックスと会話を始めた。
当麻も隣で漏れ聞こえる声に反応していたのだが、ふと、駅から続く歩道橋に見知った女の子が座り込んでいるのに気づいた。
いつも元気で、気丈な御坂美琴。
まばらな人通りから取り残されて、ぽつんと一人ぼっちに見えた。




あれから、廃車場を立ち去って一体どうやってここに戻ってきたんだったか。
惰性でいつも自分が歩く町へ、日常へと戻ってきたくせに、自分の部屋に戻る気になれなかった。
時計は持っていない。携帯はポケットにあるはずだが、取り出すのも億劫だ。
ぼうっと、こうして歩道橋の花壇に腰掛けて早朝からどこかへ向かう人たちを眺めていると、日常の世界にいるはずなのに、隔絶されたような、取り残されたような気になる。
……そんな表現がしっくりくる。なんてことはないはずの普通の日常の裏に、あんなものがあるなんて知ってしまった今となっては。
「朝、か……」
いい加減に行動を起こさないと、教師の見回りが始まって、面倒なことになる。
だが、この期に及んで日常を取り繕う必要があるのか。
そんなことをしたって、あの地獄は、きっと今日も明日も関係なくやってくるのだろう。
いっそ、関わらなければいい。妹達は美琴のクローンだが、他人も同然だ。
美琴が何も干渉しなければ、きっと妹達は淡々と消費されて、何も無かったかのように実験は終わるだろう。
それなら、もうそれでいいじゃない。
その弱気は、きっと美琴らしくない。自分は絶対にそんな風に割り切れなくて、ずっと気に病むに決まっているのだ。
だったら助けに行けばいい? それこそお笑い種だ。第三位なんて冠をかぶっていても、第一位にとってはゴミ同然の実力だった。
努力だとか、そんなものでひっくり返せないと思うくらい、それは圧倒的な差だった。
自分は、助けることも出来やしない。
……結局、忘れることも積極的に問題解決することも出来ない行き詰まりのせいで、今ここにいるのだった。
「夜遊びは楽しかった?」
「え……?」
不意に美琴の前に影がよぎり、声がかけられた。
のろのろと見上げると、顔立ちの整った、大学生くらいの女の人。
ミニのワンピースにニーソックス。軽くウェーブしながら腰まで伸びる長い髪。
ベビードールみたいに胸の下をきゅっと絞ったデザインで、豊かな胸を強調していた。
知り合いではなかった。濁った美琴の頭は、ただぼんやりとその女の人の笑顔を見つめた。
「私が貴女に招待状を送ったのよ。やっぱり自分のことだから、知っておきたいかなって思って」
「え……」
一体、誰?
差出人の「妹達」というのが、嘘だったということだろうか。
でもそれなら、一体この人は、どうやってあの計画を知った?
「ったく。あんな程度でこんなに脳味噌バカになんのかよ? 元が緩すぎんじゃねェのか?」
見下ろす目が、はっきり嘲りを含んでいた。
その悪意で美琴の警戒心がマウントされた。
「……あなたの目的は何?」
「んー、面白半分かな」
「趣味が悪いのね」
「テメェほどじゃねえよ。ホイホイと遺伝子マップを渡して学園都市に弄んでもらうほどマゾじゃない」
「っ!」
「おいおい黙るんじゃないわよ。もうちょっと歯ごたえ見せるかブザマに泣きじゃくるかしろよ」
「もう一度聞くわ。あなた、何者?」
「内緒だよん。あれだけ重要な情報を教えてあげたんだもの。これ以上は簡単には教えてあげない」
「……力づくで聞きだしてもいいけど?」
「やだ、怖ーい! 第三位の本気なんて怖いわ。――まあ、第一位<アクセラレータ>には蟻みたいな扱いをされる程度みたいだけど」
言葉の端々で、美琴の傷口が足で踏みにじられる。
そのたびに敵意で奮い立たせた意識が、折れそうになる。
「それで、これからどうするの?」
「あなたには関係ないわ」
「そうでもないんだけど、まあいいわ。勝てないけど足掻くってトコかしら? 泣かせるわね」
「イチイチ五月蝿いわね。それこそ第三位の本気ってので黙らせて欲しいわけ?」
「やってみろよ。優等生の立場を捨てて駅前テロやる気なら付き合ってあげる」
虚勢ではないように思えた。
目の前の女は、自分と、少なくとも絶不調の今の自分となら互角に遣り合えるのだろう。
「ま、超電磁砲<レールガン>から白星拾っとくのも悪くはないけど、本調子のを叩かないとね。今日のところは負けてあげるわ。惨めな顔も堪能したし、それじゃあね」
「待ちなさいよ。話はまだ終わってない」
「終わったわよ。私に構うより、助けてあげたほうがいい相手がいるんじゃないの? そんなこと無理だっていうのは、きっと自分が一番分かってるだろうがな。せいぜいぶつ切りの骨付き肉の生産ペースをちょっと落とすために頑張ってみたら? テメェに出来るのはその程度だろ?」
目の前の女の揶揄で、美琴は足をすくませてしまった。女が怖かったからではない。
自分が見殺しにした妹達、その死体が脳裏でリフレインして、泥沼に使ったように動けなくなった。
この女が言うことは、きっと正しい。実験を根本的に止めることなんて、美琴には、きっと。
どうしようもなく、妹達の死体が増えるのを毎日数える以外にない、それが美琴の、絶望だった。


「おーい、御坂?」
「あ……」
知り合いの男子高校生の声が、不意に美琴の耳に触れた。


「あら、彼氏でも呼び出したの? 男に慰めてもらうなんていいご身分じゃない。まあいいわ。私はもう用はないし――――そうそう。テレスティーナをあまり信じないことね。あのアバズレも関係者と言えなくもないし」
当麻がこちらへ近づくのと合わせて、目の前の女が反対方向に立ち去った。
女を追っても別に良かった。だけどそうすればきっと、当麻はついてくるだろう。
正体不明の女、こちらに近づく当麻、そして突然聞かされたテレスティーナの名前。
どれから片付けるか迷っているうちに、女は視界から消えた。



[19764] ep.4_Sisters 03: 私が、知らないだけだった
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/13 00:30
長髪の女と入れ違いに、あのバカはやってきた。
「よう、御坂」
「……なんでアンタ、こんなトコにいんのよ?」
会いたく、なかった。美琴にとって当麻は幸せな日常の一ページに登場する人だったから。
自分は、とてもそんなところに戻れるような人間じゃないと思うのに。
当麻という人と言葉を交わすようなことは許されないはずなのに。
「朝早いのは事実だけど、別に歩いててもおかしいような時間じゃないだろ。それより聞きたいのはこっちだ。常盤台の学生は外出時も制服着用だろ? お前その格好、どうしたんだよ」
美琴が身につけているのは体の動かしやすいタイトなTシャツと短パン。そして顔を隠すキャップ。
お洒落をしているようには見えないし、何のつもりの服装なのか当麻には皆目見当がつかないだろう。
「常盤台の決まり事を知ってるとかストーカーか何かなの?」
「ひでえ言い草だなおい。で、どうしたんだ」
「なんでもないわよ。別に――」
「また夜更かしか? 人のことは言えた義理じゃないけど、結構夜は危ないぞ」
「煩いわね。私が何処で何をしようと、アンタにこれっぽっちも関係ないじゃない」
「いや、あるだろ」
何も聞いて欲しくなくて突き放した美琴の言い分を、当麻が真顔で否定した。
「お前知り合いが夜な夜などっかに繰り出してて、心配しないのかよ?」
「さあね。少なくとも私の心配なら要らないわよ。そこらの無能力者なら何匹かかってきたって相手にならないんだから」
「そういう問題じゃないだろ」
美琴の言い方が気に障ったのだろうか、当麻の声に、咎める響きが混じった。
なんでだろう、大したことのないはずのそれが、ひどく美琴の気に障る
「ああもう! アンタは私の保護者じゃない! 何よ、知った風なこと言わないで」
吐き捨てるように、美琴は当麻への苛立ちを吐き出した。
当麻はその言葉に戸惑いを見せて、嘆息する。
「まあ、お前が言うように俺は大してお前と親しい訳じゃないんだろうさ。俺みたいなのに偉そうに言われちゃ、ムカつきもするか」
「あ……」
自分が突っぱねたせいで、当麻が自分から距離をとった。
バカな話だ。自分でやっといて、寂しいような気持ちになってるなんて。
「ごめん」
「別にいいけど。……俺とお前のやり取りなら、普通こんなところで謝らないだろ? 調子が狂うっていうかさ、なんか、お前が何か困ってるように見えるんだよ。それこそ余計なお世話かもしれないけど、心配しちゃ駄目か?」
いつも会ったときと変わらない、飾らない当麻の顔。
それが優しく見えて、美琴は泣きそうになった。
最悪だ。妹達を地獄に突き落とした自分が、こんな軽々しく泣いて誰かにすがることなんて許されない。
「なあ。聞いちゃまずいことだったら言わなくてもいい。けど言って楽になるなら話してみろよ。昨日の夜何やってたんだ? もしかしておねしょでもして白井のヤツに嫌われたか?」
「……」
せっかく軽口で美琴を挑発してくれたのに、美琴は当麻に何も返せなかった。
そんな出来事だったならどれほど幸せだろう。数時間前の記憶に、白井は出てこない。
バラバラでグチャグチャの妹達と、その肉片を無表情に拾い集める妹達と、そして、一方通行。
そして、眺めることしか出来なかった自分。
生々しい鉄臭い匂いがまだ鼻にこびりついている。
拭ったはずなのに、自分が吐き戻した胃液の匂いが服から漂っている気がする。
そういった話を全部、当麻にぶちまけたら。一体どんな顔をするだろう。
信じてもらえず笑われるか、それとも距離をとられるだろうか。
「アンタさ、もし取り返しのつかないくらいの迷惑を誰かにかけたら、どうする?」
「え?」
迷惑と比喩した自分の言葉を美琴は冷笑した。
迷惑なんて程度で済むような、可愛げのあるものだっただろうか。
「相当重いのか」
「例え話よ、あくまで。……絶対に弁償とか無理なレベルの、そういう迷惑」
「やらかして後悔してるのか?」
「……うん。すごく」
「謝って済むのか?」
「それはない。そんなレベルじゃないって話」
「……行き詰ってるな」
「そうね」」
行き詰ってないなら、御坂美琴はなんだって解決できるのだ。それだけの能力あるしも努力もできる。
綺麗でもない花壇の縁に、美琴は再び腰掛けた。自分のほうがもっと汚いから、服に土がつくことは気にならなかった。
その美琴をじっと見つめた当麻が、問いかけを続ける。
「お前一人じゃどうしようもないのか」
「なんで私の話になってんのよ。アンタが一人じゃどうしようもないことをやってしまったらって話」
「そうだったな。なあ、知り合いに助けてもらうのは無しなのか?」
「そんなの。許されないでしょ。誰に言ったって責められるくらいの大失敗してるの」
当麻が首をかしげた。納得の行かない顔をしている。
それはそうだろう。こんなどうしようもない設定の問題を与えられたら、誰だってああなる。
美琴はそんなふうに当麻の表情の意味を推し量った。だが当麻が納得行かないのはそこではない。
「なんか、良くわかんないな」
「何が?」
「誰かに助けてもらうのは無しなのかって質問に、許されないって答えるのは答えになってないだろ」
「え?」
「絶対に一人じゃ取り返せない失敗をしたのに、一人で何とかしなくちゃいけないって、そりゃ設定が無茶だ。知り合いを頼るって方法は駄目なのかよ」
当麻の言っていることは、至極当たり前のことなのかもしれない。
だけど。
「それほどのことをした人間が、誰かにすがるなんて許されるわけないじゃない」
だってそうだろう。馬鹿としかいい用のない脇の甘い善意で遺伝子マップを提供して、
そのせいで二万体もの自分のクローンを無残な死に追いやる自分が、
ひどいことをしてしまったの、なんて誰かに打ち明けて楽になることが許されるものか。
「お前、真面目なヤツだな」
「……え?」


ふっと、当麻が笑った。


「人一倍努力してきたお前はそれでやってこれた、って事なのかもな。自分でまいた種は自分で刈り取らないといけないんだな。お前にとっては」
「……」
「話してみろよ、御坂。一人じゃ取り返しのつかないはずのことが、皆で頑張れば意外と何とかなったりするもんだ。一般論で言ってるんじゃない。確かに、そういうことってのは、あるんだよ」
絶対に一年に一度、記憶を捨てなければいけないはずだった少女を当麻は知っている。その少女今どうしているかといえば、毎日黄泉川の家で暢気に暮らしているのだった。絶望ってのは案外、近視眼的になった人に訪れるもので、広く見渡せば何とかなることだってあるのだ。
そう諭す当麻の言葉を聴いて、美琴は初めて当麻のことを年上だと意識した。
考えてみれば、美琴の親しい相手に年上は少ない。いつも優等生の美琴は、いつだって頼られる側だったから。
……コイツに話して、どうなるとも思えないけど。
でも、話していいかな。それで少しでも楽になって、成すべき事に向き合えるようになれたら、意味はあるかもしれない。
「アンタに何が出来るって言うのよ」
「聞いてみなくちゃ、わかんねえよ。でも一人より二人のほうが、いいだろ」
「アンタにだって背負いきれるような話じゃないわよ」
「それなら、他にも助けてもらおうぜ。それじゃあ駄目なのかよ」
当麻がもう一度、美琴に笑いかけた。
言っても、信じてもらえないかもしれないと思う。話が壮大すぎて冗談にしか聞こえないから。
そして話したところで、どうにもならないに違いない。
話してしまいたくなる心に、美琴は蓋をした。もう、コイツにこんな風に言ってもらえただけで幸せなんだから。
「やっぱいいや。やめやめ」
「え? 御坂?」
「誰かに話を聞いてもらうのがアリってのは、納得した。まあ、その。今アンタに聞いてもらってちょっとスッキリしたから」
一方通行が潰せなくても、できることは他にだってある。
計画を遂行する研究施設や、宇宙(そら)に浮いた無機質の意思決定装置。
壊せば美琴は捕まるかもしれないけれど、そんなのどうだっていい。
「……ま、いいか。今のはいい顔だったし」
「え?」
「お前は笑ってるほうが似合うよ。さて、悪い御坂、実は人を待たせてるんだ」
「何よ。お人よしが過ぎるんじゃないの? ほら、さっさと行きなさいよ」
「おう。それじゃ、行くわ」
「あ、あの!」
「ん?」
身を翻しかけた当麻を、美琴が引きとめた。
その虚勢を張らない、優しい顔に少し当麻はドキリとした。
「その、ありがと。アンタが声かけてくれて、嬉しかった」
「ん。あんまり根詰めるなよ」
「うん」
素直に、美琴は頷けた。当麻の指図なんて一度だって聞かないではむかっていたのに。
それを見てしょうがないな、という感じに笑う当麻の笑顔が優しくて、また少し美琴は優しい気持ちをもらえた。
そして当麻が、いつものペースを取り戻すようにからかうような色を視線に乗せた。
「ところでお礼を言うときくらい名前で呼べないのかよ」
「――え?」
「アンタとしか呼ばれたことないだろ、俺」
軽口を飛ばしあうきっかけのつもりで投げた当麻の言葉は、美琴にとっては剛速球のストレートだった。
だってそれは。上条とか上条さんとか上条先輩とか、どれ一つとしてしっくり来ないのだから。
かあっと頭に血が上る。一番しっくり来る呼び方は、口にするのが恥ずかしいのに。
こんな呼び方、男の知り合いにしたことなんて、ないのに。
「あ、ありがと。と、と、と、とう――――」
「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」
美琴の言葉を奪うように、誰かが当麻を呼ぶ声が、重なった。




少し時間は遡って。
「もしもし」
「は、はい! あ、あのこちらindex-librorum-prohibito……」
「インデックス?」
「えっ?!」
なんというか、どう見てもインデックスは携帯電話慣れしていなかった。
インデックスの携帯には明らかに婚后光子の名が表示されていたのだが、それに全く気づいていなかった。
「みつこなの? もう、とうまからしかかかってこないと思ってたから、びっくりしたんだよ」
「ふふ。それはごめんなさい。もう起きてましたの?」
「うん。別に朝は普通に起きられるけど、寝坊したってこの時間にはあいほに起こされるし」
黄泉川家は必ず七時には起きて夜は日付の変わる前には寝ることが義務付けられていた。
「私はあまり朝は得意なほうではないから気をつけないといけないわね」
「もうすぐみつこも一緒に暮らせるんだよね?」
「ええ。そのことですけれど、今別の病院で、退院を許可する診断をようやく貰ってきましたの」
「あ、それじゃ」
「ええ。近いうちに、これで私も黄泉川先生のお宅に間借りできますわね」
「やったぁ! 嬉しいんだよ、みつこと毎日一緒にいられるって」
「ふふ。ありがとう、インデックス。ねえ昼からはどうしますの?」
「これからすぐにエリスの所に行って遊ぶ予定だから、昼から私達もみつこと一緒に遊ぶ!」
「エリスさんは何て?」
「え? まだ会ってないからわかんないけど」
きょとんとしたその言葉に、苦笑いする。携帯電話で打ち合わせをするという考えはないらしかった。
「まあ、もし不都合がありましたら、また夜にでも会いましょう。今日は寮に帰らないといけないけれど、夕食は黄泉川先生の家で頂くつもりにしているから」
「うん! でもせっかくだから一緒に遊びたいな」
「ありがとう。でもエリスさんにご迷惑じゃないかしら」
「え? どうして?」
「だって、あまり私とエリスさんは面識があるわけじゃありませんし」
「大丈夫だよ。エリスはみつこのこといい人そうだって言ってたし。それに最近、彼氏さんが出来たって言ってたから、妬き餅焼かなくても大丈夫だよ?」
「べ、別にそういう心配してるわけじゃありません!」
「ふーん、でもみつこの学校の寮祭で、エリスに妬き餅焼いてたよね?」
「そ、そうだったかしら」
「誤魔化してもバレバレなのに。大丈夫だよ。とうまが好きなのは、みつこだもん」
「もう! そんな風に嬲らないで頂戴」
「えへへ。それじゃ電車の時間があるから、そろそろ行くね」
「初めてなんでしょう? よく気をつけてね」
「うん、それじゃあまたね」
楽しいことが重なったからかはしゃいだ様子のインデックスの言葉を聞き届け、光子は電話を切った。
自分の顔にも笑顔が浮いているのが分かる。
インデックスと三人で過ごせるのも楽しいし、昼までは当麻と二人きりなのだ。
もちろん病院でひと悶着あるだろうことは憂鬱だが、楽しさはそれを補ってあまりある。
「さて、当麻さんを探しませんと」
コールの途中で何かを見つけたのか、ふらふらとどこかへいった当麻を目で探す。
電話をしているにせよ、彼女を放っておくというのはどうかと思う。
大したことではないので怒ることはないが、一言くらいは愚痴を言ってやりたかった。
「歩道橋を上がって行きましたわね、たしか」
カツカツとローファの音を鳴らして階段を上がる。
もう30分もすれば通勤客でごった返してろくに見渡せなくなるが、この時間はまだ人はまばらだ。
まして立ち止まっている人間は皆無だったので、特徴的なツンツン頭はすぐ見つかった。
「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」
見ると、誰かと対峙していた。背は低いからきっと女の子だろう。
それだけでもうムッとするものがある。せっかく朝から二人っきりだというのに、また女の知り合いか。
そう思いながら、短パンにTシャツ、キャップで顔の良く見えないその女の子を凝視する。
髪の色で懸念を抱いて、そして光子のかけた声に反応してこちらを見た瞬間、自分の直感の正しさを確認した。
なんで、ここに?
――――光子が一番、チリチリとした嫉妬の炎をくすぶらせている相手。御坂美琴だった。




割り込むように響いた声に、美琴は振り返った。
少し離れたところに、見慣れた常盤台の制服を着た、美琴の同級生がいた。
美琴とは少ししか身長が変わらないのに体つきはずっと大人びていて、その長く綺麗な黒髪とあいまって、ちょっと容姿では負けてるような、そんな気になる相手。
親しいというほどではなかったが、悪い人間でないことは知っている。
つい最近、彼氏がいるという話を聞いた。二つ上の、高校一年の人と付き合っている。
幸せそうにはにかむのが、羨ましかった。
「婚后さん……」
「御坂、さん?」
二人の疑問で満ちた視線が絡み合う。そして次の瞬間、キッと光子の視線が鋭くなったのを美琴は感じた。
美琴はわけも分からず、心に湧いた不安に戸惑うほか無かった。
「どうして、御坂さんがいらっしゃいますの?」
ごきげんようとか奇遇ですわねとか、そんな言葉ではなかった。柔らかさのない、端的な切り口。
どちらかというと婉曲な物言いの多い光子の言葉としては不自然だと美琴は思った。
「み、光子?」
「なんですの、当麻さん。私、ちょっとびっくりしてしまっただけですわ」
光子の声に棘を感じて躊躇いがちに声をかけた当麻に、光子は思わずなじる響きが言葉に篭もったことをはぐらかした。
その二人の会話に、美琴の心は混乱という名の思考停止に陥った。
それは無意識の逃避だった。理解してしまえば、心がおかしくなりそうだから。
だが昨日の夜から、美琴の心は何度も逃避を行い続けている。確かに美琴は自分の心の働きを具体的には理解していない。
だけど、自分が何に直面しているのか、手にかいた汗や急に浅くなった呼吸が、もうじわじわと美琴に悟らせ始めていた。
不安が心の中を染めていくのを、止められない。
「それでお二人で朝から何を談笑してらしたの?」
「え? いや、御坂のヤツ朝帰りらしくてさ」
「さっきいた場所からここまで距離もありますのに、良くお気づきになりましたわね」
「……いや、花壇に座ってる子がいるのが見えて、横顔で御坂っぽいって思ってさ」
「そう、ですの」
光子が、美琴ではなく当麻と話をした。
本来なら、それはおかしなことだ。常盤台の学生とうだつのあがらない高校生の当麻に接点なんてあるわけがない。
だから、光子は美琴と話をするはずなのに。当麻と話なんて、するはずがないのに。他人だから。他人のはずだから。
一方光子が美琴と話さない理由は、嫉妬の矛先を美琴に向けてしまいそうだったからだ。
盛夏祭、常盤台の寮祭で、綺麗なドレスで着飾った美琴が当麻と話してるのを見た。
その二人が親しげで、とてもただの知り合いなんて距離には、見えなくて。
それ以上親しくなって欲しくない、美琴と会って欲しくない、当麻にそんなことは言わないが、光子は内心では、そう思っていた。
理不尽な理由で長い入院をする羽目になって、その間にも当麻は美琴と夏祭りにだって行っていた。
勿論それが二人っきりでないことは知っている。だけど、それでも。
美琴と当麻が二人でいることに、どうしても割り切れない思いを、光子は感じてしまうのだ。
じっと、光子は当麻を見つめた。それで気持ちは伝わった。


当麻は、いつか光子にした約束を思い出す。
――――光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するから
あの時も、光子を嫉妬させてしまった原因は、美琴だった。


「御坂」
「っ――!」
ビクリと、美琴が肩を振るわせた。その瞳に浮かぶ不安に当麻は戸惑った。
なんだか、大好きなおもちゃを取り上げられた子供みたいな、そんな顔だった。
さらにもう一つ、自分が美琴からおもちゃを取り上げるような、そんな悪者になった気分。
錯覚だ、と当麻は思うことにした。美琴は何か事情があってかなり落ち込んでいる。
直接伝えたことはないが、たぶん美琴は光子が自分と付き合っていることなんて知っているはずだと思うし、別に、今さらだろう。ちょっとくらい惚気たって。
「知ってると思うけど。光子とさ、俺、付き合ってるんだ」
「あ――――」
僅かに照れて、でもどこか誇らしげに。
頭をかきながら当麻は美琴にそう伝えた。
そしてちらと光子のほうを見て、ごく軽く引き寄せた。光子が嬉しそうに当麻の体に寄り添った。
美琴が見つめた光子の瞳の中には、どこか、優越感めいた感情があるように見える。
そのあからさまな構図に、美琴はひどく打ちのめされた。
「御坂?」
「え……?」
「いや、なんか無反応だとこちらもどうしていいか困るっつーか」
その言葉で、自分でも不思議に思う。どうしてこんなに、私はショックを受けているのか。
ただ、知り合いと知り合いが、実は付き合っていましたって、それだけなのに。
慌てて、返事を返す。頭がまるで仕事をしていないから、何を言っているのか自分でも分からない。
「ごめん。その、知らなかったから」
「え?」
「アンタ達が、その――」
その先の言葉を口に出来なかった。きっと口がカラカラに渇いているせいだ。
そういえば妹達にスポーツドリンクを横取りされてから、何も口にしていない。
吐いた口元を洗うのに含んだ公園の水道水くらいだ。
「あれ、知らなかったのかよ。白井と佐天さんと初春さんには話したから、お前もてっきり知ってるものと思ってたんだけど」
「知らな、かったわよ。――――そっか、私が、知らないだけだったんだ」
なんて、自分はものを知らないのだ。
自分は何も知らないで、自分の狭い世界で、あれこれを楽しい思いをしていたんだ。
本当はそんなの、幻想なのに。
「そう。御坂さんは、私のお付き合いしている方が当麻さんだって、ご存じなかったのね」
光子が薄い笑顔で、確認するようにそう言った。
「いつだったか、他の方も交えて好きな人の話までしましたのにね。当麻さんと御坂さんがお知り合いなのは、私もつい最近知ったから人のことは言えませんけれど」
おぼろげにしか美琴も覚えていないが、光子は彼氏のことをどう評していたんだったか。
たしか、「不幸だ」が口癖で、格好よくて、いざという時には頼りになる人。
――――どうしてあの時、疑わなかったんだろう。そんなのコイツのことに決まってる。
「そっか。婚后さんが言ってたの、コイツ――ごめん。この人のことだったんだね」
友達の恋人をコイツ呼ばわりは出来なかった。「この人」なんて、使ったこと無かったのに。
「ええ。私の知っている当麻さんと御坂さんがご存知の当麻さんは、別の顔なんてしていませんでした? 当麻さんはすぐ色々な女性と仲良くなるから、みんな別の顔をしてるのかなんてつい思ってしまって」
「お、おい光子。そんなわけないだろ。顔色の使い分けとか、そういうのはしねーよ」
「そうかしら」
当麻が、妬いた顔を見せる光子の背中に軽く手を触れた。その気遣いは、一度だって美琴に向けられたことはない。
そりゃあ、そうか。婚后さんって彼女が、いるんだもんね。
当然のことか、と嘆息するつもりなのに。ギリギリと締めあがる肺が苦しくて、何も出来ない。
その美琴の内心の動きを知ってか知らずか、光子が思い出したように呟いた。
「そういえば御坂さんにも気になる方がいらっしゃったのよね」
「えっ……?」
「確か当麻さんと同じ、高校一年の方なのよね」
「あ、あ……」
あの時、光子が惚気話をした隣で、自分は誰の話をしたんだった?
好きな人の話ではなかった。何度も自分はそう断った。
でも、自分は、誰のことに言及したのだったか。
光子は、気づいていないのだろうか。美琴が、他でもない自分の恋人である当麻の話をしたことに――――
「お! 御坂、お前好きなヤツいるのか?」
隣の当麻が、面白い話を聞いたという顔をした。
それが、たまらなく悲しい。そんな人、いるわけないのに。
どうして、よりによって当麻が、そんな風に聞くのだ。
「御坂さんは頑なに否定されていましたから、本当のところはどうか分かりませんけれどね」
光子はさっきからずっと、美琴の表情を見つめていた。
もう、美琴が誰を好きなのか、全部分かっている。
美琴はあの時、おせっかい焼きの正義の味方気取りと言った。そして、当麻の前で美琴は、恋をしている女の子の顔をしている。
……光子は今この構図を、気の毒だとも、申し訳ないとも思わなかった。
当麻は、自分のものだ。美琴になびくなんて絶対に許さない。当麻の気を惹くなんて、絶対に許さない。
二人の間に何かが起こる可能性が目の前にあったら、それを摘み取ることに光子は躊躇いなんて無かった。
「あれから御坂さんはその殿方と進展はありましたの?」
あ、は、と美琴は自分の吐息が震えるのが分かった。
何でかわからない。今まで、ずっと言ってきたことを、ただ繰り返すだけなのに。
口ごもる美琴を見て、光子は情けをかけることを、止めた。
「あの、間違っていたらごめんなさい。御坂さんの話に出てきた殿方って、もしかして」
「っ!」
「でも、御坂さんは確か好きっていうのは否定されてましたわよね」
「光子? 話が良く分からないんだが」
もう、やめて。聞かないで。
そう当麻に言いたかった。言えなかった。
「その……御坂さんの話に出てきた方が、当麻さんみたいな方で」
「え?」
当麻がその意味を理解しようと、頭を捻る。
美琴に好きな人がいるかもという噂話があった。話に出てきた懸想の相手というは、高校一年生らしい。
そして自分はこの二ヶ月、何かと美琴と会うことが多かった。
それは、つまり……?


「ち、違うわよ! だからあれは黒子の勘違い! 私が、コイツのことなんて、好きなわけないでしょ!」


もう、そう言うしかなかった。それ以外の逃げ道が美琴に無かった。
……いやその理屈はおかしい。実際、自分はこのバカのことなんてなんとも思ってないんだから、
婚后さんのためにもちゃんと否定してあげるのは、正しいことのはずだ。
「やっぱり、白井さんの早とちりでしたのね。あの方は御坂さんのこととなると冷静でいられなくなりますものね」
困ったものだというため息交じりの笑顔で、光子が美琴の言葉に同意した。
当麻がそれを聞いて、なんだ誤解かと納得したようだった。
美琴はその流れを止められない。自分の放った言葉が、瞬く間に事実として、固まっていく。
「ホント迷惑すんのよね、黒子の暴走にはさ」
なんで、そんなことを自分は笑って言えるのだろう。顔だけを取り繕ってそう言っていることに、美琴は気づいていた。
言葉というのは不思議なものだ。いざ口にしてみると、それがどれほど嘘なのか、良く分かる。
好きなわけがない、なんて。嘘だった。その気持ちにはずっと気づいてなかった。あるいは、目を瞑ってきた。なのに。
さっき言ったのが嘘だったのなら、自分の「本当」はどこにある? 美琴はもう、気づいていた。
黒子のアレは勘違いなんかじゃなくて、私は。コイツのことを。
でも、コイツの隣には、もう婚后さんが。
――――心の中が、真っ黒に染まっていく。
自分の大好きなもので彩った綺麗な部屋に、きつい匂いのタールをぶちまけるように。
美琴が大事に大事に、自分でさえ気づかず育てていたその気持ち。
それが今この瞬間に立ち枯れてしまったことに、美琴はどうしようもない喪失感を覚えた。
後の祭りだった。いや、いつ手遅れになったのかといえば、今日なんかじゃない。
ずっと前から、自分が心のどこかで当麻に会えるかもしれないと視線をさまよわせていたときから。
目の前の二人は疾うに仲睦まじくなり、優しい言葉を交し合っていたのだ。
知らないのは、美琴だけだった。
「さて、それじゃ光子、これからのこともあるしそろそろ行かないと」
「あ、そうですわね。それでは御坂さん、ごきげんよう」
「うん……」
「ま、ちょっと元気出たか? 頼りが欲しいなら、声かけろよ。俺も、光子も多分、力になるから」
「ん。ありがと」
立ち去る準備を、二人が整えた。また美琴は一人ぼっちだった。
そして去りがけに、何かを思い出したように当麻が空を見上げた。
「そういや俺が声かける前に話してた人、お前の知り合いか?」
「え? ……さあ、別に。あっちは顔知ってたみたいだけど」
「あれ、御坂は知らない人なのか。光子のお見舞いに行ったときに、あの病院でテレスティーナさんと話してるのを見た覚えがあったから、知り合いかと思ったけど」
まいいや、と言って、当麻が光子と手を繋いで、美琴のもとを去った。
涙は出なかった。そういうものじゃ、ないのだ。なくした瞬間というのは。
「私、知らないことばっかじゃない。バカすぎるよね」
妹たちのことを知らなかった。自分の気持ちを知らなかった。
――――だから、失くしてしまったのだった。



[19764] Intersection of the three stories: 繋がる人と人
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/22 02:07
コンコンというノックの音で、まどろんでいた春上の意識は覚醒した。
「おはよう、春上さん。朝早くにごめんなさいね」
「あ……おはようございます、なの」
病院が本格的に活動する前からパリッと紺のスーツを着こなしたテレスティーナが、にこりと春上に微笑みかけた。
それに少し恥ずかしくなりながらお辞儀を返す。一応、もう起きていないといけない時間だった。
「体の調子はどう?」
「大丈夫なの。普段は、なんともないから」
「そう、よかったわ。実は朝からちょっと検査をしようと思っていたの。食事前でないと困るから、起きてすぐで申し訳ないけど、準備してくれるかしら」
「わかったの」
ベッドから降りてスリッパを履き、ざっと髪を整える春上を笑顔で眺めながら、テレスティーナがカーテンを開くスイッチを押した。
夏の嫌になるような強い太陽が、燦燦と外の世界を照らしていた。
「いい天気ね」
朝から仕事で疲れるのよね、なんて感じにテレスティーナが伸びをする。
その隣で細々としたことを済ませ春上がテレスティーナのほうを向いた。
「お待たせしましたの」
「ううん。大丈夫よ。さ、それじゃ行きましょうか。今日はいいものも見せてあげられるわ」
「いいもの?」
「ええ」
テレスティーナは多くを語らず、いつもと違う方向へ春上を案内した。
そしてある一室の扉を開ける。
「ここがそうよ」
「ここ……?」
「うん。ポルターガイスト事件の核になっている子供達を保護することが出来たの。あなたのお友達も、いるんじゃないかしら」
「えっ?!」
絆理ちゃんが、ここにいる?
ずっとずっと会いたかった、春上の親友。
待ってるじゃ会えそうにもなくて、退院したら、初春に助けてもらって絶対に見つけようと思っていた。
その、枝先がこの部屋にいるとテレスティーナは言う。
10床以上ベッドが並び、各々が衝立で仕切られているから、何処に誰がいるかが分からない。
ふらふらと春上は歩きだし、ベッドを一つ一つ調べ、テレスティーナの言を確かめていく。
「あ……!」
こげ茶の髪、そばかすの浮いた頬。
手足がガリガリとやせ細って見ると苦しくなるけれど、その顔を、春上は間違えたりなんてしない。
「絆理ちゃん! 本当に……絆理ちゃんだ!」
痛ましい。どうして、こんな風になっているのだろう。そう思いながら、春上は枝先のこの姿を、どこか驚きなく見つめていた。
あれほど、悲痛な声で自分に呼びかけをしていた枝先のテレパシーを思い出すと、むしろ納得すらしてしまえそうだったから。
シーツの横から手を差し入れて、そっと枝先の手を握る。ほっと春上は息をついた。普通に、人の温かみを持っていた。
「あ! そうだ、初春さん連絡してあげなきゃ!」
「ごめんなさい春上さん。検査の装置、使う予定がつまってるからすぐ測らせて欲しいの。春上さんの検査で、この子達を助ける方法が分かるかもしれないから」
申し訳なさそうなテレスティーナの声に、春上はハッとなった。
検査の後でも、初春さんには連絡できるよね。それより、一秒でも早く、絆理ちゃんたちを助けてあげなきゃ。
「ごめんなさいなの。すぐ、行くの」
「うん、頑張りましょうね」
慌てるように春上は部屋の外へと向かった。その後姿をテレスティーナが微笑みながら見つめた。
――ニィ、と犬歯をむき出しにして。
近くの検査室では、全身麻酔の準備が整っていた。




朝の病院を、黄泉川はカツカツと進む。服装はいつもの緑のジャージではなく、警備員のジャケットに身を包んでいた。
もちろんこの格好の教師が山ほど街中を歩いているから、これで威圧感を覚える人間などいないだろう。
だが、立場をはっきりさせる意味で、黄泉川はこれを着ていた。
「朝から精が出ますわね」
「ああ、アンタを探してたんだ。おはようございます、テレスティーナさん」
「おはようございます、黄泉川先生」
アッサリとした薄い笑顔の黄泉川と、いつもどおりの優しい笑顔をしたテレスティーナ。
黄泉川はテレスティーナの笑顔の作為感に改めて違和感を覚え、テレスティーナは黄泉川の教師ではなく警備員としての笑顔に警戒感を抱いていた。
「ちょっと仕事が朝から立て込んでてね。ところで、春上の見舞いに行こうとしたら止められたじゃんよ」
「ああ、春上さんは午前一杯は検査になりますわ」
「検査? 春上自身にはほとんど問題なくて、原因はポルターガイストの引き金になる子供達だろう? 何で今更、春上の検査を?」
「事情が変わったんですよ。正式には午後にも警備員のほうへ連絡を入れるつもりだったんですけれど。――――木山春生が匿っていた懸案の子供達の身柄を保護しました」
微笑を消して、テレスティーナが重要な事実を告げた。
黄泉川も営業用の軽めの笑みを消して、テレスティーナの続きを促した。
「彼らの覚醒を手助けする上で春上さんの検査を行うことは有意義と判断した次第です」
「……そうか。まあ、医者がそう言うんなら、あたしには反論はないじゃんよ」
「ご理解頂けて助かりますわ。ところで、その子達を見ていかれます?」
「ああ。頼む」
「わかりました」
テレスティーナが、病院の奥、搬入口に程近いほうに黄泉川を案内した。
その道すがらに、黄泉川は何気ない口調で軽く訪ねた。
「そう言えばテレスティーナさん」
「はい?」
「ここって体晶のサンプルを扱ってるのか?」
黄泉川は、僅かにテレスティーナから遅れるように歩いているので、声は肩越しに届いた。
テレスティーナは、ピクン、と肩を揺らした。足捌きは、澱みながらも止まりはしなかった。
「体晶のことは知っているんだな」
「黄泉川先生。その単語には、さすがにびっくりしてしまいますわ。……知っています。研究テーマが近かったこともあって、その悪魔の薬のことは聞き及んでいましたから」
「ふうん。で、ここにサンプルはあるじゃんよ?」
「いいえ。正式な令状でもお持ちなら、捜索なさってください。疑われるのは心外ですけれど、身の潔白を証明することにやぶさかではありませんから」
黄泉川は優しげなテレスティーナの微笑みの裏に、僅かに優越感を感じた。
きっと、本当にないのだろう。
「それにしても、急に能力体結晶の話なんて。黄泉川先生、どうしたんですか?」
「ん、昨日上条が……ああ、入院していた婚后の彼氏であたしの学校の生徒だ。そいつがテレスティーナさんが大学生くらいの女と体晶の話をしていたって言ってな。聞き間違いかもしれないが、無視するには重い情報だろ?」
黄泉川は包み隠さず、そう話した。
一瞬テレスティーナが見せた苛立ちの瞳の中に、冷酷なものが混じったのを黄泉川は感じた。
「体晶は学園都市の生んだ狂気の結晶ですから、確かに危険ですけれど。そんなものがここにあると疑われるのは残念です。たぶんそれは、とある能力者の方と能力開発に使う薬品の話をしていただけですよ」
「そうか。悪かった。変に疑って。それと婚后が朝からここを抜け出しているだろう。たぶんもうじき別の医師の診断書を持ってここに来ると思う。テレスティーナさんには不愉快なことだと思うが、一週間拘束されて婚后も相当カンカンだったらしい。出て行くって聞かなかったじゃんよ」
「ああ、そういうことでしたの。主治医が困っていたから何かと思ったんですけど。黄泉川先生の指示でそうされたわけではないんですね。まあ、一週間もいれば我侭になるのかもしれません」
光子は確かに黄泉川の指示で動いたのだが、しれっと黄泉川はそれを誤魔化した。
黄泉川はもう、別のことを考えていた。
テレスティーナは、放置するにはあやしすぎる。昏睡状態にある子供達も、ここにいて安全かどうか分からない。
警備員として最短で行動を起こす方策を考えながら、黄泉川はベッドに横たわる子供達を眺めた。
いつかの、自分の過去を思い出して、平静でいることは大変だった。




朝、さまざまな商業施設などが門戸を開く時刻。
「……ええ、分かりました。では制服と下着の替えを預けておきましたから、お姉さまも体をお休めになったら合流なさってくださいませ」
白井は昨日から帰宅しなかった美琴にようやく連絡を取れていた。
あのバカと遊んでた、なんていう言い訳に大きくため息をついて、白井は私服では寮の部屋に戻れそうにない美琴のために、駅前のホテルのクロークに美琴の着替えを預けたのだった。
「御坂さん、なんて?」
「どうもこうもありませんわ。また、あのバカさんと遊んでいたのだとか」
「夜通しって、それってやっぱり、そういうことなんですかね?」
佐天がどこかぎごちない笑みでそんな茶々を入れた。普段ならいくらでも佐天と初春は盛り上がるネタだろう。
だけどなんだか考え込んだ風の初春と、場をはぐらかそうとして滑ったような佐天の二人の様子はいつもらしくなかった。
今、白井は初春、佐天と共にとある病院の前にいる。
木山春生がポルターガイストの原因となっている子供たちを匿い、そしてつい昨日、初春と佐天の目の前でテレスティーナにその子たちを「保護」された病院だった。
「まあ、お姉さまのことはよろしいですわ。それより、木山春生のことです」
「……うん」
「昨日の夜、テレスティーナさんが昏睡中の子達を保護してから、木山はどうしましたの?」
「別に、何かしたとかはなくて……呆然、って感じでした」
なんとなく、初春は木山に共感できるようなものを感じていた。
きっと、木山は学園都市を敵に回したって、その子達だけは絶対に助ける気だったのだと思う。
だからテレスティーナのやったことは、正しいのかもしれないけれど、母親から子供を取り上げるようなことみたいだった。
木山の喪失感で埋め尽くされた顔が、見ていられなかった。
立ち尽くす木山を励ますことも出来なくて、カエル顔の医者の采配で佐天と初春はタクシーで自宅に帰されたのだった。
「木山先生、まだいるでしょうか」
「……帰る場所はあるんだし、そっちかもしれないけど」
昨日の夜、暗くなってから訪れたのとでは印象が違う病院の入り口をくぐる。
ぽつりぽつりと診療に来た人たちはいるものの、片手で数えられる位だった。
そして広い待合室の奥隅に、カップのコーヒーを持ったまま、うなだれている長髪の女性の姿があった。
無造作な髪と、いつにも増して濃い目の下の隈。木山春生その人だった。
「木山先生」
「……君達か」
ちらりとこちらを一瞥して一言呟くと、木山は再び地面を見つめ、佐天と初春、白井に取り合わなかった。
「あの、昨日は……ごめんなさい」
「謝るのはよしてくれないか。君たちが悪いわけでは、ないのだろう?」
迷惑だという響きをはっきり込めて木山はそう初春に返した。実際、謝罪をすべきことはなかった。
犯罪を犯して保釈中の木山の手元から、昏睡中の子供達の身柄を保護し、しかるべきところに移す。
初春たちはその出来事に、間接的に関わっただけだった。
だけど、目の前の木山は失意の泥に沈んでいて、痛ましい。
「それで、何をしに来たんだ」
「その、木山先生はどうしているかなって……」
「見てのとおりだよ」
自嘲を頬に浮かべて、木山は氷も溶けてぬるくなったコーヒーの残りを飲み干した。
味が薄くなってひどく不味い。
「昨日の夜から、何もすることがなくなってしまってね。ずっと後ろ向きなことを考えていたよ。もう少しだったのに、なんて思い出すときりがなくてね」
「木山先生……」
木山は、初春たちに恨み言を言うことはなかった。だが本当に恨みがない、ということはないと思う。
その態度は、初春の勘違いかもしれないが、間違ったことをしていない学生を叱ることはしないという、ごく教師らしい考えを木山が守っていることのように思えた。
だってこの人は、研究にしか興味がないような態度でいながら、とても生徒のことを愛せる人だから。
教師だからといって誰にでもできることではない。
だけど、だからなおさら、昨日木山から子供達を取り上げてしまった自分達の行いが、正しかったと胸を張れない。
かける言葉を失った初春の代わりに、白井と初春の後ろにいた佐天が木山に歩み寄った。
「あの……木山先生って呼んでいいですか」
「昨日も言ったが、君は私を恨む資格がある。なにも敬称をつける必要などないよ」
「いいんです。初春もそう呼んでるし、木山先生は、先生って呼ぼうって思える人ですから」
「そうかな……そう言われるとむしろ居心地の悪さを感じるよ。私は学生の敵だからな」
親身に関わった13人の小学生を昏睡に陥れ、後に自らの作ったプログラムで一万人の学生を意識不明に陥らせた女。
たしかに学生達にとって悪魔と言える実績だった。
でも、やっぱり佐天には恨めないのだった。初春が木山に感情移入しているせいもあるかもしれない。
「先生はこれから、どうするんですか?」
「どう、というのは?」
「あの子たちをテレスティーナさんが助けるまで、何もしないで待っているんですか?」
「……彼女には救う手立てがあるのだろう。前科持ちの私の協力なんて、向こうが願い下げだろう」
「信用されないかもしれないですよね、確かに。でも」
木山は見上げた佐天の瞳に、強くこちらに問いかけるものがあるのに気がついた。
気丈に自分の目の前に立つその女の子は、一時は幻想御手で意識不明になったことがある。
何を言われるのか、木山には見当がつかなかった。
「先生はあんなズルをしても、叶えたい思いがあったんですよね。だったら、ズルがばれて信用されなくなったって、もっと足掻かなきゃいけないと、思います。じゃないと、あんな目にあった私達が、浮かばれないです。……ズルをしたら、絶対にしっぺがえしがあるんです。それはきっと当たり前のことなんです。でも、だからって生きていくことを止められるわけじゃないですよね」
幻想御手を使ってあの子たちを助けるという手を、佐天はさすがに認められはしない。
だけど、やってしまったのなら、後には引かず、信用されずともあの子たちのために最善を尽くすことだけは、止めてはいけない。
佐天は自分にも、同じ事を言い聞かせる。
幻想御手を使ってでも能力を伸ばしたいと思ったなら、それが失敗に終わっても能力と向き合うことを止めてはいけない。
……それがきっかけで、幸運にも自分は大きく能力を花開かせられたのだ。
「あの女に、協力しろと君は言うんだな」
「それが、一番あの子たちのためになる道じゃありませんか?」
「……そうだな。取り戻すのは、もう無理だろうから」
木山は内心にくすぶる、理論的でない憎悪を噛み殺す。
テレスティーナは職務を遂行しただけだ。決して、自分からあの子達を面白半分に奪ったのではないのだ。
「体晶のサンプルがあれば、ワクチンが作れるところまでプランは構築してあったんだ。引き継いでもらえるとも限らないが、やれることをやる義務が、私にはあるんだったな」
初春が潤ませた瞳で、立ち上がった木山を見つめた。
白井は二人と木山の表情を見て、そっと笑みを浮かべた。




カギを開けて、美琴はホテルの一室に崩れ落ちる。
昨日の夜からさっきにかけて、随分とめまぐるしく自分を取り巻く世界は変わっていた。
酷使した体は休息を欲していて、このままベッドに身を預けてしまいたい。
……それにも、罪悪感を覚えるのだった。心の均衡を失った人は、まず、眠れなくなるものだ。
だが美琴は、あの廃車場から離れて駅前でうずくまっているときにもうつらうつらと意識を手放したし、きっと今も、目を瞑れば眠れるだろう。
自分は、これだけの目にあって、まだ眠気を覚えるくらいに不貞不貞しい。
眠れないほどに苦しんで当然なのに。
「シャワー、浴びなきゃ」
玄関でだらしなく座り込んだ体を起こすでもなく、だらだらと這ってユニットバスへ向かう。
服は全て捨てるつもりだった。酷い汚れがこびりついているし、何より、今日に繋がる思い出なんて、何一つほしくない。
キャップを外し、髪を括ったゴムを外す。それを、躊躇い無くゴミ箱に突っ込んだ。
靴下とシャツを脱ぎ、短パンと合わせてこれもゴミ箱へ。
下着を脱ぐ。ゴミ箱の中からシャツを取り出して、シャツに下着を包んでこれもゴミ箱へ。
まだ着られる服を捨てる後ろめたさが、また美琴に引っかかる。
後ろ向きな時は、どこまで行っても後ろ向きな考えが出てくるのだった。
「木山のところ、か」
合流地点は白井に連絡を貰っていた。もちろん、無理なら来なくていいとは言っていた。
その言葉に甘えてしまおうかとも思う。だって、もう、何もかもがどうでもいい。
浴室に入って、シャワーのコックを捻る。
夏場のことだからぬるめのお湯なら温度なんて適当でよかったから、湯加減なんてほとんど見ずに美琴は頭から水に近いお湯をかぶった。
皮脂と埃で濡れにくくなった髪がシャワーのお湯を素通りで下に垂らしていく。
汚れた髪は、指で梳きながら濡らさないといけなかった。
「気持ち悪い……ホント、最悪」
しばらくばしゃばしゃとやって体全体を濡らして、ようやく汚れが落ちていくような気になる。
小さなパックに詰められたシャンプーを取り出して、髪につけた。
泡立ちの悪さに苛立ちながら、ふと隣の姿見を見る。
――昨晩、死んだあの子たちと同じ顔だった。
将来に希望なんて感じさせない、無表情。生気の無さで言えばいまの美琴のほうが酷い。
生まれてから、あの子たちは何度髪を洗うのだろう。
自分が今使っているシャンプーは、値段はそれなりに張るもののはずだ。
そういう女の子らしいおしゃれを、あの子たちはするのだろうか。
女は女に生まれるのではない、生まれてから女になるのだ。
――――偉い人はそう言った。なら、妹達は女ではないらしい。
それに妹達がおしゃれをするとして、それに意味はあるだろうか。意味があるかを決めるのは誰だろうか。
道具は、作られる前から作られる目的があらかじめ決まっている。
人間は、作られてから後に、自分が何者であるのかを決めていく。
妹達は、どちらだろうか。
シャワーで、シャンプーを洗い流す。それでようやく、人心地ついた気がした。
トリートメントで髪を整えて、続いてスポンジにリキッドソープをつけて泡立てる。
昨日、美琴の体にこびりついた何もかもをそれで剥がしとっていく。
その間にふと思い出した。靴を、まだ捨てていなかった。
「靴……も捨てればいいか」
お気に入りのスニーカーだったが、妹の血がついていた。洗っても染みは消えないだろう。
……妹の血を汚らしいものと考えている自分に嫌気が差す。
だけど、やっぱりあのスニーカーをもう一度履くのは嫌だった。
「私のこと、恨めばいいのに」
だが妹達に、そんな素振りはない。それがむしろ重荷だった。
美琴がこれからしなければいけないことは決まっている。
無駄かどうかなんて、やってみないとわからない。無駄でも、やらないといけない。
でも、あの実験を止めるなんて大きなこと、出来る自信がない。そう思ってしまう。
頭から、美琴はシャワーをかぶった。起伏に薄いその体からさらさらと泡が流れ落ちていく。
助けて欲しかった。話を聞いてくれるだけで、いい。
一番に浮かんだのは、母親だった。でも言えるわけがない。
すごく可愛がってもらった。今だっていつも気にかけてもらっている。
そんな人がお腹を痛めて生んだ自分と同じ顔の子たちが、毎日ラットみたいにダース単位で死んでいるなんて。
両親には、言えなかった。
そして自分を頼ってくれる、かわいい後輩や友人達にも。学園都市第三位が何も出来ない状態で、何を話せというのだ。
両親がだめで、頼ってくれる後輩もだめ。そう考えれば、話せる相手は一人だけだった。
美琴は昨日の夜から朝までずっと、その人の顔を思い出しては、期待しては駄目だと言い聞かせていた。
来てくれるはずがないから。迷惑だから。嫌われるかもしれないから。
……だけど現実はもっと美琴に冷淡だった。確かに当麻は、美琴の前に来た。一番来て欲しいときに来てくれた。
ただし、彼女を連れて。
嫉妬だったのだろう。あれほど、明確な敵意を光子から向けられたことなんて、無かった。
それで、美琴は頼れるかもしれなかった最後の人を、失った。
「っ……」
シャワーを頭から浴びる。
汚れた体は思考を鈍化させていた。それを洗い流すと、峻烈な後悔と悲恋の味が心に出来た傷に染みた。
泣くのも許さることじゃないと、美琴は思う。だから、必死に嗚咽を隠した。
シャワーの音が煩いのが幸いだった。
しばらくの間、じっとうつむいた後、美琴はキュッとコックを捻った。
体を拭き、浴室から出る。ざっと髪を乾かして、下着を身につけた。
そしてバスローブを羽織って、美琴はベッドでシーツにくるまった。
当麻は、自分のことを恋人としては見てくれない。
そう分かっていたのに、美琴の心を支えてくれるのは、光子が現れる前にかけてくれた当麻の言葉だった。
それしか、無かった。それを反芻しながら、美琴は1時間、意識を手放した。




駅前にたどり着いて、インデックスは辺りを見回した。
目の前のエスカレータを上った先に改札があって、奥のプラットフォームから出る電車に乗れば、ほどなくエリスのいる、インデックスが通う予定の神学校へとたどり着ける。
「うー……暑いんだよ。東洋の夏はどうしてこうジメジメするのかな」
当麻が歩く結界の機能を完膚なきまでに破壊してくれたおかげで、この豪奢な修道服は夏場の日本で着るには少々厳しかった。
とはいえそれくらいで元放浪少女の健脚がへこたれるはずもなく、記憶のとおりにインデックスは目的地を目指す。
「おー、誰かと思ったら、懐かしい顔が見えるにゃー」
「え?」
その声が誰なのか、一瞬インデックスは分からなかった。
忘れたからではない。いるはずのない知り合いの声だったから。
警戒しながら横に振り向くと、金髪にサングラスをかけた、いかにもチャラい男子高校生がいた。
上半身はボタンを留めずにアロハを羽織っていて、痩せぎすでいながら無駄のない筋肉をさらしている。
胸からは二つほど金色のネックレスを下げていて、まあ、お世辞にもかっこいいとはインデックスは思わなかった。
昔とはあちこち雰囲気が違うけれど、その軽薄さだけは変わらない、土御門元春がそこにいた。
「どうしてあなたがここにいるの?!」
「いやー、色々と最大主教<アークビショップ>の人使いが荒くてにゃー、こんな敵地もいいトコに単身赴任だぜい」
どんな重要な話をしているときでも、はぐらかす気なら土御門はこんな態度を取る男だ。
学園都市に何をしに来たのか、それを探るのは難しい相手だった。
ただ。
「単身赴任っていうのは嘘だよね。妹がいるんでしょ?」
「んー? 妹カフェは嫌いじゃないけど特定の子と仲良くなるには出費がきつくて難しいにゃー」
「はぐらかしても無駄だよ。舞夏もこの学区にいるんだし」
「――知ってるのか」
その声の響きにインデックスは本音の匂いを嗅ぎ取った。
舞夏のことを、インデックスには知られたくないような、
いや、「そっち側」の人間を忌避する響きだったように感じた。

「舞夏はとうまと一緒に行った学校で会った」
「ああ、常盤台でか。まさか面識ができているとはにゃー。保護者の二人はどうしてる?」
「べつにあなたに言う必要なんてないけど?」
「おいおい、冷たいぜよそれは。日本語を教えてやった仲じゃないか」
「あなたに教わってない! だいたいちゃんと日本語喋れるのに変な日本語しか教えない人なんて信用できないんだよ! かおりがいなかったら大変なことになってたんだから」
はっはっはと笑う土御門をインデックスは睨みつけた。
「で。一体何の用?」
「え? いや別に、見かけたから声をかけただけぜよ。今日はいい天気だし、この駅はあっちこっちの遊び場に繋がってるからにゃー、声をかければ誘いに乗ってくれる可愛い子もきっといるに違いない! ってな感じで」
土御門元春は軽薄な男である。それは作った顔というよりも地の一部な気がする。
だから、その態度が作り物か本音か、見分けがつかなかった。
「実はさっき巫女装束を着た超絶美人がコッチに向かってるのを見かけてにゃー、他の男が何人も玉砕してたから、ここは一発自分を試してみようかと」
「……そう」
時間に余裕は持たせてきたからいいが、すでに予定の電車に乗り損ねるのが確定している。
これ以上付き合ってエリスに迷惑をかけるのは嫌だった。
「それじゃ私はもう行くんだよ。その格好で清楚な女の子を口説くって成功率を舐めてるとしか思えないけど」
「それはどうかにゃー。なあ、答えを聞かせてくれるかい?」
土御門が、インデックスの後ろの、ごく近くに向けて声を投げかけた。
振り返るとすぐ傍に巫女服の少女、姫神秋沙がそこにいた。
「格好は。気にしないけど」
「おおっ! 八人目にしてついに脈アリ!!」
「そもそも私は君に興味がないから」
地面にのの字を書く土御門を尻目に、インデックスは姫神を見つめる。
「今日はこないだの黒服の人達、連れてないの?」
「きっとそのあたりにはいると思うけど」
「ふうん」
「気になるの?」
「……普通はあんな人たちを連れたりなんてしないんだよ」
「そうだね。でも。私は普通じゃないから」
「どう普通じゃないわけ?」
「わたし。魔法使い」
「だからそんなわけないんだよ!」
学園都市にそうそう魔術師なんているわけが――
――目の前で落ち込む当代きっての陰陽師には目を瞑った。
「そんなわけないって言われても。私は魔法使いになるのが目標だから」
「なるのが目標って。それなら、あなたはやっぱり魔術師じゃないんだね。魔術なんて使えないんでしょ」
「……使える」
「え?」
「最悪の。だけど」
「どういう意味?」
姫神はそれには取り合わなかった。
「あのー……よかったらそろそろ声かけてくれると助かるにゃー」
「あ、まだいたの?」
「インデックス、それは冷たいにゃー」
「知らない。って、私もう行かなきゃ」
長居すればもう一本、電車を遅らせることになる。
それでも遅刻は免れるが、ギリギリで走るのは嫌だった。
……のだが。すっと、姫神が胸元からチケットらしきものを数枚取り出した。
すぐ目の前にあるクレープ屋の、無料試食券。
「お礼」
「え?」
「この前。助けてくれたでしょ? そのお礼に。一枚あげてもいい」
今日は朝は当麻がいなくて味気ない朝食だった。まだまだ、胃には空きがある。
――――インデックスはその瞬間、電車一本分遅らせることを容認した。




ピリリリとけたたましく鳴る音で、美琴は意識が僅かに覚醒した。
起きなきゃ、という義務感だけで体を何とか引き起こして、アラームを止める。
「う……」
惰性で顔を洗いに行こうとして、軽くふらっと体が横に揺れた。
調子がおかしい。いや、こんな精神状態で好調とはいかないだろう。
だが、気のせいかと思ってもどうも見過ごせない、確かな不調を美琴は感じた。
そんな自分の失態に、起きてまだ間もないのに、もう苛立ちを覚えている。
「熱なんて……最近出したことなかったのに」
心のどこかで、無理もないと囁く自分がいる。
深夜から次の日の昼前まで町を徘徊したし、思い出したくないこともいくつもあった。
戦闘もしたし、胃から物がなくなるまでトイレで吐いた。体力を失って当然だ。
……そんな弱弱しい自分に腹が立つ。そんな理由で、自分は許されることなんてないのに。
しんどければ休んでいい学校とは違う。どんな目にあったって、動けるのなら動かなきゃ、いけないんだから。
夜までに、しなければいけないことが美琴にはあった。
――――テレスティーナさんに、絶対能力進化実験のことを、聞き出す。
実験を止めるのに、主役である一方通行を排除することと、妹達を逃がすことの二つは選択できない。
どちらも、美琴には止められないから。
それを再確認するだけで、足がすくんだ。
超電磁砲は美琴の唯一の必殺技ではない。手数の多さ、応用力がきっと一番の武器だとは分かっている。
それでも、やはり二つ名にもしている技をあっさり封じられたことは、ショックだった。
結局、美琴に出来るのは絶対能力進化<レベル6シフト>に関わる施設を破壊し、プロジェクトを進行不可にすることだけ。
ハッキングによって手に入れた関連施設は、どこも美琴になじみがない。日中にはアクションを起こせなかった。
今、美琴がアクションを起こせるのは、口の悪い大学生くらいのと当麻の残した、テレスティーナという糸だけ。
もしテレスティーナが学園都市の暗部、こんな非道に手を染めているのなら、春上が危なかった。
「早く、行かないと」
木山のところに行くという白井たちには悪いが、そちらに付き合う気はなかった。
なにか重要な情報があれば三人がそれを手に入れて、何とかしてくれるだろう。
不快な寝汗をタオルで拭ってから、まごつきながら美琴は制服を身につけた。
テーブルに置いた携帯を見ると、白井からの連絡が入っていた。
曰く、木山と共にMARの病院を目指すらしい。行き先は、これで同じになった。
「合流しても……ね」
あちらはもう着く頃だろう。むしろ、会わないほうがありがたかった。
自分だけでテレスティーナに対峙するつもりだった。
自分がやったことのツケを誰かに払ってもらおうなんて考えれば、きっと良くないことが起こるのだ。
朝の、あの瞬間がフラッシュバックして、ボタンを留めていた手で美琴は胸を押さえた。
誰かにすがるのは、怖かった。




「おはよう! エリス!」
「うん、おはよう」
「ギリギリ間に合ったよね?!」
「大丈夫だよ。っていうか、遅れてもそんなに気にしないけどね。寮まで来てもらったんだし」
ぜいぜいと息をつくインデックスにエリスは苦笑いを返す。
寝坊でもしたのか、随分急いで来たらしかった。
「家を出るのが遅かったの?」
「えっ? えと……うん」
なんというか嘘なのがバレバレの態度だった。
理由は良く分からないが、迷ったか道草を食ったかどちらかだろう。
行きがけに奢ってもらったクレープは非常に美味しかったが、それにつられて遅刻寸前になったとエリスに告白するのはさすがにインデックスも恥ずかしかった。
「さて、今日は何しよっか。いいなあ、インデックスは宿題ないんだよね?」
「え? うん。まあ別にあってもすぐ終わるけどね」
「へー、優等生だったんだ」
そりゃあどんな内容だってインデックスは一度聞けば全てを記憶できるのだから。
理解は記憶することと違い必ずしも一瞬ではないが、人よりはずっとアドバンテージがある。
記憶力は生来のものだし、ズルをしていないのだからインデックスはそれを恥じることはなかった。
「ここの勉強ってどんなの?」
「え? まあ普通の学校の内容と大部分は同じだよ。宗教の授業が追加されるくらい。ここは修道士を育てるとか、そういう場所じゃなくて、言ってみれば孤児院みたいなところだから」
「ふーん」
「インデックスもすぐ慣れるといいね。それで、何したい?」
「あ、今日は行きたいところがあるんだけど……」
「どこ?」
「みつこの病院。今日、退院するって言ってたから」
「あ、そうなんだ。おめでとう」
「うん!」
エリスはその誘いに付き合うか、迷った。この教会の敷地の外に出るのは、怖い。
吸血鬼の遺灰から取り出した抽出物を埋め込まれ、自身が吸血鬼になってすぐにエリスはここに逃げ込んだ。
そのときから外の世界への恐怖心はずっとあったけれど、ここ数日は、垣根の前で我を忘れたあの瞬間を思い出して、殊更外出に臆病になっているのだった。
「それで、エリスがよかったらとうまとみつこと一緒に、お昼ごはん食べて遊びたいな、って」
「うん」
「どうかな?」
「……いいよ。そうだね、ちょっと最近外出してなかったから、体を動かしに行こうかな」
「本当? やった! エリス、準備はできてる?」
「うん。って言っても、出かけるのにそんなに準備もいらないからね」
垣根と正式に付き合うようになってから、心の余裕が随分と出来た。このまま引きこもっていれば垣根に退屈だと思われるかもしれないし、一度くらい、外に出たって問題ないだろう。
エリスは棚の一つを開けて必要なものをポーチに詰めた。隣でインデックスが眺める中、準備は本当にあっという間だった。
「よし、行こっか」
「うん」
さっき乗ってきた電車のホームにインデックスはトンボ帰りすることになる。
ちょっとそれがおかしかった。真夏の炎天下ではあるが、駅まで遠くはないし、日陰もそれなりにあった。
寮の入り口を出て、教会の敷地と大通りを隔てる門をくぐる。
「エリスは指輪とかつけないの?」
「えっ?!」
インデックスが、お洒落なワンピースを来たエリスにそんなことを尋ねた。
ちょっと唐突過ぎる質問だった。
思わずそれにわたわたする。なにせ、インデックスが垣根との話を振ってくるとは思わなかったのだ。
「ま、まだ早いよ。帝督君とお付き合いしだしたの、ついこないだだし」
「そういうものなのかな? 最近、みつこがとうまにねだってたから、エリスも欲しいのかなって」
「え、えーと。それはやっぱりあれば嬉しいけど、上条君と婚后さんみたいに長い付き合いのカップルじゃないと」
「とうまとみつこもそんなに付き合ってから長くないって言ってたよ」
「そうなの?」
「うん。まだ二ヶ月くらいって」
「二ヶ月かあ……」
自分と垣根の関係の、十倍以上の長さがあった。
あっという間なのかもしれないが、今の自分にとってはずっと先に思える。
それまでに、何度、帝督君はキスしてくれるんだろう。それに、その先、とか。
「エリス?」
「なんでもない」
インデックスにばれないように、一瞬妄想に浸った自分を自戒しつつ、エリスは足を進めた。
程なくして、駅にたどり着く。時間のせいもあるだろうが、人はまばらだった。
二人で切符を買って、モノレールに乗り込む。
「この電車ははじめてなんだよ」
「私も」
「……ちゃんと着くかな?」
「大丈夫だとは、思うけど」
不慣れな二人で顔を見合わせて、モノレールの進みに身を任せた。
「ねえエリス」
「うん?」
「エリスの彼氏さん、私のこと何か言ってた?」
「え、帝督君が? どうして?」
「こないだとうまと一緒に歩いてたら会ったんだよ。それで、とうまみたいなことを言うからつい、いろいろ言っちゃって」
「色々って?」
「エリスを泣かせちゃ駄目だよとか、そういうの」
「……もう、恥ずかしいよ」
「エリス、キスしたんだよね……?」
「えっ?! もう、だからそういうのは恥ずかしいから駄目」
さすがに友達に根掘り葉掘り聞かれるのは恥ずかしくて、エリスは強引に会話を切った。
チラチラとインデックスも照れた感じでこちらを見つめてくる。
なんだろう、上条君がキスするところとか、見慣れてるんだよね。だったら何でこんなに気にしてるんだろう。
それがエリスの疑問だった。問いかけないから答えはないが、インデックスにとっては、当麻と光子のキスはもう別物というか、それは当たり前のことなのだ。
しかしやっぱり自分の友達が彼氏を作ったと聞くと、なんだかやっぱり女の子めいた気持ちになるのだった。
何か別の話を振らなきゃ、と二人が思案していると、本日二度目となる携帯のコールが鳴った。
「わっわっ、またなんだよ! 誰なのかな、直接会いに来てくれればいいのに」
さっき光子に笑われたので、ボタンを押す前にディスプレイを見る。知らない番号だった。
インデックスはそれでむっとなった。やっぱり、携帯電話は全然ひとにやさしくない!
「は、はい。こちらIndex-Librorum-Prohibitorum……です」
「……久しぶり。誰だか分かるかい?」
「ステイル?!」
携帯から聞こえてきた声は、今まで一度も電話越しでは聞いたことのない、かつて身近にいた人の声だった。
「今いいかな?」
「えっ? うん、いいけど……」
「ちょっと学園都市に来る用事があってね、良ければ、会って話せればと思うんだけれど。……君にも関わりのある、問題事が起こっていてね」
「えっ?」
「なんにせよ電話じゃ心もとない。どこかで会えないかと思ってさ」
ちらと横を見る。エリスが首をかしげてこちらを見つめ返した。
「ステイル。それって、急ぐのかな?」
「え? ああ。遅らせるほど事態は悪化するからね、今日がいいんだけど」
「そう。私、いまみつこのいる病院に向かってるんだけど、場所とかわからないよね」
「いや。上条当麻と婚后光子の場所なら把握しているよ。困ったことに君がそこにいなかったから、なんとかして電話番号を手に入れたんだけど」
「……じゃあ、みつこのいる病院で待ち合わせでいい?」
「ああ。そこで合流しようか」
「うん。他に用はある?」
「え? い、いや特にはないんだが」
「ごめん。友達と一緒にいるから、切るね」
返事を聞かずに、インデックスは通話をオフにした。
ドキドキと、緊張に心臓が鳴っていた。自然に、話せただろうか。
ステイルの期待するインデックスで、いられただろうか。
強張った顔のインデックスを、エリスが見上げる
「あの、どうしたの?」
「エリス、ごめんなさい」
「え?」
「もしかしたら、遊べなくなっちゃうかも。ごめんなさい。せっかくここまで来てくれたのに……」
はしごを外されて、エリスは戸惑った。インデックスが誘うからためらいのあった外出をしたのに。
だがすぐに思いなおす。インデックスにとっても予想外だったのだろう。そして楽しそうなことはなさそうだ。
それなら、責めるのも悪いだろう。垣根とも連絡を取れば会えるかもしれないし、光子のお見舞いというか、浴衣の件でお礼を言いにいくちょうどいい機会ではあった。
「ん。いいよ。もし駄目になったら、帝督君誘ってどこかに行くから。それに婚后さんにもお礼を言わなきゃね」
「ごめんなさい」
もう一度いいよと言って、エリスは窓の外を見た。病院まではもうそう遠くない。
自分にインデックス、光子と当麻、そして入院中の春上、最後にステイルという名の男の子。
なんだかにぎやかになりそうだなと、意外と人嫌いではないエリスは考えながら景色を見つめた。




「さて、言われたとおりのことは済ませてきたぞ、アレイスター」
ドアもなく、階段もなく、エレベーターも通路もない、建物として機能するはずのないビル。
その中で、土御門元春はシリンダーの中に浮く男に声をかけた。
足を上に、頭を下に向けた銀髪の人間。緑の手術服を着て、赤みを帯びた液体に使っている。
真っ暗な部屋を彩るように数多くの計器とモニターが光を発しているが、部屋の全体を照らしてはいない。
「ご苦労。事はつつがなく進んだのかね?」
「ああ。これで禁書目録と吸血殺しが繋がった。これはどういう目的だったんだ?」
「君に旧友と会う時間をあげたのが不満だったかい?」
「ぬかせ。貴様のプランに無関係なわけがないだろう」
「ふむ。繋いでおくと役に立つ線というのもあるのだよ。特に今回の件は私の采配で事を運びにくいのでね」
アレイスターが言うのは、この街に入り込んだ錬金術師を追い払う件だった。
まるで無策かのように困った声色で言うが、土御門の前で浮いているのはそんな隙のある生き物ではない。
「ハン。さんざん今ここでステイルをけしかけたんだろう?」
「魔術師の考えることは私には分からないさ」
「お前が言うとジョークとしてもブラックに過ぎる」
男性のように、女性のように、老人のように、子供のように。
アレイスターの笑みは友好的な表情のはずなのに、土御門はそこから何も読み取れなかった。
「ところで吸血鬼とやらはどうなっている?」
「とやら、などと知らないような言い方をするな。お前の手の平の上で踊っている駒だろう。今は禁書目録と行動を共にしているようだな。それとも第二位との関係のほうが知りたいのか?」
「どちらも気にはなっているよ。アレが私の第二候補<スペア・プラン>と交流してくれるのなら、プランの相当な短縮になる」
「どうせお前が手引きをしたのだろう?」
「まさか。人と人の交わりはそう簡単には操れぬよ」
「そうは思えないがな。何せ第五架空元素<エーテル>と未元物質<ダークマター>の組合わせだ」
報告を済ませて、さっさと土御門はここを立ち去る気だった。
だがもう数分は、迎えの空間移動能力者<テレポーター>が来ない。
地面を這うコードの一つをつま先で弄びながら、土御門は気になっていたことを問いかけた。
「科学の最先端を統括するお前が、今更第五架空元素に興味を持つ理由はなんだ」
「考えすぎだよ。計算外の事態、吸血鬼を探す錬金術師が学園都市に忍び込んだのでそれを活用しているだけさ」
「空にあんなモノを浮かべておいて、言うに事欠いて『計算外』とはな。なあアレイスター。科学は一度第五架空元素<エーテル>を捨てた。それは知っているだろう」
「今更ローレンツ収縮の講義かね? 学園都市の長である私に向かって」
「お前が忘れるわけがない。お前にとっても転機となった年に発表された理論だからな。科学がその理論体系から第五架空元素を排斥した1904年。――――それはお前が、守護精霊エイワスと交信し、『法の書』を書き上げた年だろう? そして100年後の今、お前は科学にソレを拾わせようとしている。お前は、それで何をするつもりなんだ」
アレイスターは浮かべたままの微笑を少しも変えずに、こう答えた。
「汝の欲する所を為せ。それが汝の法とならん」

****************************************************************************************************************
あとがき
アレイスターが法の書を書き上げた年と、ローレンツがローレンツ収縮の論文を書き上げた年がともに1904年であるというのは史実です。
歴史的事実として、アレイスターはまさに科学が錬金術や魔術的・神学的な世界観と決別した時代に生きていたんですね。




[19764] Intersection of the three stories: 其処に集う人達
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/21 22:20

木山の車に乗って、初春と佐天、白井の三人は先進状況救助隊(MAR)の病院にたどり着いた。
いつものとおり春上への面会を申請すると同時に、テレスティーナへの面会を希望する。
今までもこの事件がらみの話ならすぐに対応してくれたから、当然今日もそうだと思っていた。
しかし。
「あのう、申し訳ないんですが今日はスケジュールが埋まっていまして。所長への面会はできません。それと春上衿衣さんへの面会も、申し訳ないんですが」
気の弱そうな顔をした受付の男性が四人にそう告げた。その言葉に、初春は動揺を隠せなかった。
「は、春上さんに会えないってどういうことですか?! あの、まさか」
「ええと、詳しいことは私にも分かりませんが、容態が急変したとかで、面会謝絶です」
「そんな……昨日まで、なんともなかったじゃないですか!」
「ちょ、初春落ち着いて。受付の人に当たっても仕方ないよ」
「彼女は春上さんのクラスメイトで、風紀委員をしていますの。きちんと話をしていただければ、私どものほうから学校への連絡をしますから」
「はぁ……」
木山はそのやり取りに不審な思いを抱いたが、春上とは直接関わりがないので口を挟まなかった。
白井が身分を明かして話を聞きだそうとしているのに、受付は困り顔を少しも変えず、そして一言も説明を加えなかった。
そうした受付の態度が、木山は気になった。どうも、作り物のように思えるのだった。
頻繁に通ってきていたらしいこの三人に、完全に情報を遮断する理由はない。定期的に通ってくれる人間を病院が邪険に扱うことはそうないのだ。
「これはこの街の安全にも関わる重要な案件だ。ここの所長のテレスティーナ氏もそれは分かっているだろう。まずは取り次いで、彼女自身の判断を仰いでくれ」
「いえ、しかし。執務室にずっといるわけではありませんので……」
「テレスティーナさんは携帯持ってるじゃないですか」
「いえ、しかしそちらに連絡するのは緊急時に限られていまして」
「だからそれが今だと言っている!」
声を荒げた木山に、周囲の患者達が不安げな顔をした。
ここは普通の市民病院ではない。そのせいか数が少なく、どうやらポルターガイストに巻き込まれた被害者達らしかった。
「そ、それではメールで折り返しの電話をするよう連絡を入れておきますので、お待ちください」
「それなら電話をまずすればよろしいんじゃなくて?」
「いえ、しかし……所長はあまりこういうことで煩わされるのを好まないと申しますか、その」
その一言で木山はこの受付の態度の意味を察した。
要は怒られるのが嫌らしかった。おそらくはテレスティーナが忙しい日なのだろう。
事務方のこうした事なかれ主義には苛立たされる。古今東西、事務とはそういうものかもしれないが。
これでは折り返しの連絡を求めるメールとやらも、テレスティーナが目に留めないような代物になりかねない。
「仕方ない。ならば、執務室の前で待たせてもらおう」
「それは困ります!」
「ではすぐ連絡してくれ」
「ですが……」
歯切れの悪い受付に、学生三人の苛立ちが募っていく。
佐天が噛み付こうとしたときだった。後ろから、いつもより怜悧な声が投げかけられた。
「あら、どうしたの?」
「テレスティーナさん!」
テレスティーナはいつもの親しみやすい笑みを薄くして、どこか、こちらに興味がなさそうな顔をしながら近づいてきた。
初春、佐天、白井と顔を見て、木山のところで視点を固まらせた。
「どういった用件かしら?」
「あの! 春上さんが面会謝絶って!」
木山より、初春のその言葉のほうが早かった。
それを聞いてテレスティーナは、ああ、と安心させるように笑顔を浮かべる。
「大丈夫。春上さんは変わりないわ。今はちょっと検査のせいで眠っているけれど、またすぐに連絡があるわ」
「あ、だ、大丈夫なんですか?」
「ええ。ただ、お友達と一緒の病院に移る予定だから」
「え?」
「ほら、あなた達は関係者だから分かっていると思うけど。昨日、春上さんのお友達を含めた、13人の暴走能力者の子供達を保護したでしょう? この病院じゃちょっと対応しきれないから、別の病院に移ってもらう予定なの」
眼鏡を直しながらそう告げるテレスティーナの笑顔に、木山はクラクラと、眩暈をするのを覚えた。
あの子たちを、転院だって?
それは何度も何度も繰り返された出来事。
悪辣な実験の『証拠品』でもあるあの子たちは、その足取りを分からなくするために何度も転院してきた。
まるで、その続きが始まったみたいな。
「何処へやる気だ?!」
掴みかからんばかりに近づいた木山とテレスティーナの間に、近くにいた救助隊員が割って入った。
まあ、無理もないのだろう。木山は頭に血が上って咄嗟に理解できなかったが、木山は前科のある人間だった。
「まさか、あなたに教えられるとでも思っているの? 木山春生」
「なんだと……」
「昨日、あなたからあの子たちを取り上げた理由を分かっていないのかしら。納得してもらうためなら何度でも言わせて貰います。犯罪者である貴女には、あの子たちを管理する資格はありません」
テレスティーナが冷然と通告した。それは、木山の心を軋ませる言葉。
誰よりもあの子たちのためにいるのは、自分なのに。
こんな、信用できない女よりも自分のほうがあの子たちのためになることをしてやれるのに。
掴みかかれば、何とかなるだろうか。そんな馬鹿な考えを、木山は頭にめぐらせた。半分くらいは本気だった。
「木山先生」
手を出すより先に、冷静な声が隣からかけられた。佐天という名の、自分が幻想御手で意識不明に陥らせた少女だった。
木山が使用としたことを、咎める目をしていた。
「やっちゃいけないことをした人は、それ相応の目で見られても、仕方ないんです」
「……だが!」
「信用されていないのは悲しいわね。春上さん、佐天さん、それと……ごめんなさい、名前を覚えていないんだけれど」
「白井ですわ」
「そう、白井さんね。それと御坂美琴さんね。春上さんのお友達である貴方達には、いずれちゃんと教えてあげるから」
「今すぐは駄目なんですか?」
「ええ、だって隣に木山がいるもの。悪いけれど、少し時間を置かせてもらうわね。……用件はこれだけ?」
テレスティーナが露骨に時計を見た。
そしてためらいを見せる木山を、佐天は促した。
「木山先生」
「……わかった。これが、あの子たちのためになる、一番の方法なんだろう?」
木山が小脇に抱えていた厚手のファイルと、スティック上のメモリをテレスティーナに差し出した。
ぎゅっと紙に食い込んだ親指が、内心の葛藤を訴えていた。
「これは?」
「あの子たちを救うために、私が作ったワクチン作成スキームだ。あの子たちが投与された、『ファーストサンプル』という体晶さえ手に入れられれば、それの組成・構造解析をして、ワクチンを作成できる」
「そう」
もう一度、テレスティーナが時計を見た。そして、ニコリともせずに受け取る。
「ご協力感謝するわ、木山さん。私達の最善を尽くして、あの子たちに向き合うことを約束します」
「よろしく……頼む」
「それじゃあ、これで用は終わりね?」
最後にニコリと笑顔を見せて、テレスティーナは踵を返した。
遠くからはパワードスーツの駆動音が聞こえる。転院のための作業でもしているのだろうか。
「これで……良かったのだろうか」
「きっと、そうですよ。せめて皆が元気になってくれたときのことを考えて、いろいろ準備しましょう」
木山を、いや、自分を励ますように初春がそう呟いた。




カツカツと音を立てて、テレスティーナは関係者専用の廊下を歩く。
その道すがらのゴミ箱に、バサリと木山の資料を捨てた。
「ったくよォ、どうせ見ないんだからいらないっつうんだよ。役にも立たないゴミなんざな」
取り繕うのに、随分と不愉快な思いをした。
ようやく偽善者ヅラから解放されたと思っていたのに、まだあんな面倒が残っていた。
「ったく、朝から警備員には目ェつけられるし」
それがきっかけで、テレスティーナはもう少しだけ外面を取り繕うのを止めなかったのだ。
もう、テレスティーナの希望の星、春上衿衣は手元にある。そして使い潰しの重要な部品も、ようやく回収できた。
木山の言う『ファーストサンプル』は、テレスティーナの手元にあった。
それはテレスティーナの誇り。おじい様、木原幻生がテレスティーナの脳から抽出したそれは、
今でも世界で最も効果が高く、そして世界で始めて得られた、体晶の『ファーストサンプル』だった。
掃いて捨てるほどいる置き去り<チャイルドエラー>を救う? 馬鹿馬鹿しい。
私はこれを使って、学園都市が待ち望んだ、神ならぬ身にて天上の意志に辿り着くもの<レベル6>を生み出す聖母になる。
あとは、あの置き去り<チャイルドエラー>どもを、暴走させるだけ。
ニィ、とようやく自分らしい笑みを浮かべられることをテレスティーナは感謝した。
今日の夜までには、自分は報われる。おじい様から貰った長年の狂気<ユメ>を、ようやく叶えられる。
それがテレスティーナの、追い求めるものだった。




足取りの空虚さに、木山自身戸惑いながら病院を出た。
「木山先生。……その、元気出してください。そうじゃないとあの子たちだって」
「初春さん」
「はい?」
「本当に、あの女は信用できるのかい?」
「テレスティーナさんを疑うんですか?」
佐天は、その木山の態度を好ましく思えなかった。だって、悪いことをしたのは、木山だ。
信用をなくしてしまったのは自分なのだから、誰かを疑うなんて筋違いもいいところなのに。
「……転院なんて、する必要があるとは思えない」
「どうしてですの?」
「あの子たちは覚醒しない限り、ただの植物状態の患者だ。ベッド数も足りているし、人口密度の低い地区にあるこの病院は立地としては悪くない」
「でも、あたし達には分からない事情が、あるかもしれないじゃないですか」
「それは、そうだな」
そういう可能性があることは、木山にだって分かっているのだ。
だけど、必死に一人一人探して、手元に集めていったあの子たちが、またあっさりと自分の知らないところへ消えていくのを、どうしても、指をくわえて見てはいられないのだ。
「……初春さん、それに白井さんだったな。私が、これからあの子たちを移送する車を尾行すると言ったら、止めるかい?」
「木山先生?! どうして」
「約束する。場所を見届けて、そこが納得できる受け入れ先だったなら、私は何もしたりはしない。……私の被害妄想だというなら、笑ってくれ。だけど、もう、嫌なんだ。あの子たちがこの手からこぼれていくのは、嫌なんだ」
木山がぐしゃりと髪を鷲づかみにして、そう呟いた。俯いたその瞳が揺れていて、初春は、それを見て何も言えなくなった。
佐天も、その本音の吐露を見過ごすことは出来なかった。見届けるくらいなら、いいのかもしれない。
「白井さん。私が木山先生に付き合うって言ったら、止めますか」
初春が白井を見た。
黙って経過を見ていた白井は、はぁっと嘆息すると、諦めたように笑った。
「約束を違えるようなことをしたら、勿論止めますわ。でも見届けるだけなら、いいでしょう。私も付き添いますわ」
「あたしも、付いていきます」
「……そうか、すまないね」
少し離れたところで、こちらをうかがうことになるだろう。
木山はそう考えながら車のカギを開けた。




道すがらに誰とも会うことなく、美琴はテレスティーナのいる、先進状況救助隊の病院にたどり着いた。
門をくぐると、敷地内がいつもより騒がしい。馬力の出る車がスタンバイしている音だった。
「何かを、運び出す気なの?」
病院の現状は、美琴にはそういうふうに映った。
普通の入り口からは離れた場所にある搬入口は遮蔽物が多くて見にくいが、人の動きがチラチラとしていた。
受付には行かず、美琴はそちらを目指した。どうせ、正攻法で聞いて教えてもらえるようなことを聞きに行くつもりはないのだ。
大きなトラックの間を縫って、搬入口の見えるところにたどり着く。誰かは分からないが、どうも患者を運んでいるらしかった。
呼吸器をつけられたままストレッチャーに乗せられた人達が見えた。
そして美琴の姿に気づいた救助隊員の一人が、視界を防ぐようにやってきた。
「君! ここは立ち入り禁止だ。立ち去りなさい!」
「テレスティーナはどこ?」
美琴はその警告に取り合わなかった。
「所長? ……用があるなら受付でアポをとってくれ。さ、退いて!」
美琴はその隊員を値踏みした。この人は、『計画』に携わる側の人間だろうか。それとも、善良な人だろうか。
いっそ悪いヤツで確定なら、もっと簡単に暴れられるのに。
「話を聞いているのか? 力づくで排除してもいいんだぞ?!」
そんなことは不可能だ。パワードスーツを着たって、レベル5には勝てるわけがないのだから。
美琴は動かず、さらに運ばれてきたストレッチャーに目をやる。
業を煮やした隊員が、前言を言葉どおりに実行すべく動こうとするのを押しのけると、ベッドで眠るその女の子の顔が見知ったものであることに気づいた。
「春上さん?!」
「お、おい?! クソッ」
隊員の顔が、露骨にマズいという顔をした。
そしてスタンガンを取り出して、美琴に押し当て制圧しようとした。
「寝てろ! ……何っ!」
「寝てるのはそっちね」
腕に押し当てられて擦り傷が出来た。パチッと音が確かにしたのに、美琴はそれに無反応だった。こんなものが自分に効くはずがない。
スタンガンを無造作に払って地面に落とす。そして美琴は自分の手を使って、電流を男に返した。
これが麻酔銃だったなら話は変わったかもしれなかった。
「ねえ。話を聞かせて欲しいんだけど?」
美琴は、建物の中から搬入口の外にいる自分を見下ろすテレスティーナに、声をかけた。
「随分とうちの隊員に手荒なことをしてくれるわね」
「そっちが先にやったんでしょ。立ち入り禁止区域に入ったくらいで、ここの隊員はスタンガンで対応するの?」
「病人を運んでいるときっていうのは、デリケートなものよ。不法侵入で開き直るのはいただけないわね」
テレスティーナの瞳が、今まで美琴に見せてきたのとは全く違う、冷たい色をしていた。
美琴に、というか人間に興味がないような、そんな視線だった。
「春上さんをどうするつもり? 昨日の夜まで、元気そうだったわよ?」
「麻酔で寝ているだけよ。貴女も知っているでしょう? 昨日、初春さん達が木山春生の集めていた置き去り<チャイルドエラー>の居場所を教えてくれたの。春上さんもお友達と一緒のほうがいいだろうから、移すだけよ。これで満足?」
もう話は終わった、とばかりにテレスティーナが美琴から視線を外し、隊員たちに指示を飛ばし始めた。
聞いた話は、また、美琴の知らないものだった。
実際には白井はずっと電話で知らせようとしていたが、美琴の声色から様子を察して口をつぐんだのだった。
もしテレスティーナがいつもどおり柔和な笑みを浮かべていたなら。
そして、美琴が決して見逃すことの出来ない、あの事件に気づいていなかったなら。
美琴はここで踵を返して、日常に戻ったかもしれない。
春上は春上で、きっと枝先と共に幸せに暮らすのだろうと、そんなことを思ったかもしれない。
……全てはifの話だった。
「体晶……って知ってるわよね?」
テレスティーナに聞こえるよう、美琴ははっきりとそう尋ねてやった。
聞き流せなかったのだろう、ピクリと反応があった。
煩わしさを目じりから放ちつつ、テレスティーナは振り向いた。
「いきなり何かしら。こういう病院にいれば、それが何かくらいは知ってるわよ、当然ね」
反応してしまった時点で、テレスティーナの負けだった。美琴はその反応に、手ごたえを感じた。
まさか、何度も会ったその人が、という思いを捨てきれない。
だけど目の前の、テレスティーナの態度は、美琴の知らない裏の顔があることを、如実に知らせていた。
「絶対能力進化<レベル6シフト>――――」
「……」
「コッチも、知ってるわよね? ちょっと詳しい話を聞かせてもらいたいんだけど」
そのためなら実力行使も辞さない、と美琴は目線で伝えた。
恐らくそれは伝わったのだろう。数秒に渡って目線が交錯し、チッとテレスティーナが舌打ちした。
「誰に聞いた」
「大学生くらいの、嫌味ったらしい女が教えてくれたわよ。髪は軽い茶色で、ウェーブががってて腰くらいまであるヤツ」
「……あンのクソアマ、要らなくなったらお払い箱ってことかよ。ハン、主役になれない第四位の味噌っカスが」
ひん曲がった口元、としか言いようのない表情だった。
上品な髪留めで髪をまとめ、パワードスーツ用の綺麗なアンダーウェアに身を包んだその外見にはひどく不釣合いだ。
もう、隠すものがないということだろうか。急に振る舞いが攻撃的というか、貞淑さを失った。
「アンタもレベル6なんていう馬鹿げた妄想に取り付かれたクチ?」
「ハァァ? 妄想? バァッッカじゃねぇの? 大真面目だっつの。学園都市の最終目標だぞ?」
「こんな人間には出来ないような酷いマネしなきゃたどり着けないようなものを最終目標だなんてお笑い種よ」
「テメェの言ってることのほうがよっぽど意味不明だろうが? お嬢様のお綺麗なお研究で達成するものだとでも思ってんのかよ。大体、誰にも生きることを望まれてないあんな生き物、何匹使い潰してもかまやしねぇだろうが」
「……」
それで、美琴は割り切れた。この女を、死なせないくらいにならどんな風に扱っても良いと思えた。
妹達は望まれない子だったのかもしれないが、それでも、使い潰していいはずなんてない。それは美琴にとって、譲れない思いだった。
ただ、美琴は誤解をしていた。
テレスティーナが使い潰すと言ったのは、置き去り<チャイルドエラー>の枝先たち。美琴はそれを、自分の妹達のことだと勘違いした。
無理もないことだった。テレスティーナは確かに、絶対能力進化<レベル6シフト>に関わっていると自供したから。
体晶だとか春上さんだとかが、絶対能力進化実験にどう関わるか、美琴は知らない。
だが、そのプロジェクトに関わるもの、テレスティーナが自由に動かせるもの全てを壊す、それを美琴は決心していた。
「議論は平行線しかたどらないわね」
「箱入りのお嬢様とは喋ることなんざねえんだよ」
「そう。じゃあ、潰すわ」
美琴のその短い一言を、テレスティーナは嘲りを込めた笑みで迎えた。
雷撃を頬に向かって投げつけようとしたところで、横から機械の腕が手を出した。
MAR専用の、パワードスーツ。恐らくは手下の隊員が操っているのだろう。
「邪魔!」
美琴と力比べなど、パワードスーツ如きでは不可能だ。
美琴の作った電磁界に囚われた鉄製のパワードスーツは、美琴から伸びた電気力線と僅かに拮抗した後、形をゆがませ腕の関節を破壊された。
その装甲を一枚はがして武器に変えつつ、数メートル先のテレスティーナに迫る。
「大人しくしなさい!」
人間スタンガンの美琴につかまれて無事な人間はいない。
だから美琴との間に遮蔽物のないテレスティーナは、もう捕まえたも同然。
そう思ったのに。
「バーカ。無策で突っ立つヤツがいるかっての。カカシと間違えんじゃねえよ」
意地の悪い笑顔を浮かべて、テレスティーナが何かのスイッチを押す。
――――キィィィィィィィ、と耳障りな雑音がどこかのスピーカーから響いた。
「あ……れ?」
美琴はテレスティーナのところへの跳躍に、静電反発を利用したブーストを利用していた。
常人とは一線を画する速度で懐にもぐりこむはずだった。
なのに、不意に能力の演算がゼロで割り算をしたみたいに値を沸騰させて、その奔流が美琴の頭の中を暴れまわった。
「あ、づッ!」
「覿面覿面、効きすぎかもなぁ。大丈夫かよォ? ほら、コレくれてやる」
ひととおりの格闘の修練を受けているテレスティーナにとって、フラフラと慣性で寄ってくる美琴は美味しいカモだった。
綺麗にタイミングを見計らって、美琴の腹に膝を叩き込む。
「ゴハ、あ、が……」
ヒューヒューと喉が音を立てる。逆流しないのは胃の中身がないからだ。
テレスティーナの足元に、なすすべなく美琴は崩れ落ちる。
「テメェはコレ、初めてだったか。ざーんねん、キャパシティダウンは高レベル能力者ほど良く効くんだよ」
単なる音波でありながら、劇薬級の効き目の示す能力者対策装置。
偶然の産物だったが、テレスティーナの元で開発されたこれは絶大な利用価値があるのだった。
洗いたての美琴の髪を無造作に握って持ち上げ、テレスティーナは美琴の顔を覗き込んだ。
「満足した?」
「ふざ……けないで」
「ギャハハ! 『ふざけないで』? なーんかテンプレどおりでつまんねェ台詞だな。コッチのプランを潰しにきた悪役ならもうちょっと面白いことを言えよ!」
「あの子たちを消費して……一方通行をレベル6にするなんて、悪役はそっちでしょうが」
テレスティーナの冗談を笑って流せなくて、美琴は精一杯の怒りを込めて睨みつけてやった。
それを見て、テレスティーナが「ん?」と首をかしげた。
そして数瞬、事情を理解するために間をおいて。


「ぶひゃ」
爆笑した。


「アハハハハ! テメェ、まさか勘違いでここまで来たのかよ?!」
「……え?」
「絶対能力進化<レベル6シフト>ってプランネームは一緒でも、コッチは部署が違うんだよ! テメェが言ってるのは一方通行を……ああ! テメェ、クローンのコピー元じゃねーか! そうか! 自分のコピーを使わないで下さいってお願いしに来たのかよ! ゴメーン! ココ、そういうところじゃないんで……ギャハ、アハハハハハハ!」
「嘘、そんな……」
「ここは私が管轄してるほうの絶対能力進化<レベル6シフト>よ! 説明してあげる。暴走能力者から抽出した体晶を一人の能力者に大量投与することで、私はレベル6へと至る能力者を作るつもり。木山の壊しかけたモルモットと春上衿衣は、いい実験材料になってくれたわね」
それじゃあ、自分が、ここにいる意味は。
今こうしてロスしている時間の分、一体何人の妹が、殺される?
その恐怖に、美琴は完全に思考を停止した。
「さて、暇ならお前が泣いて許しを請うまで遊んでやるんだが、時間がねーんだ。……これで遊ぶくらいはいいか?」
キャパシティダウンは依然として、美琴の頭にズキンズキンと響き続ける。反撃も戦線離脱も、無理だった。
どこかから拾い上げた高出力スタンガンを、テレスティーナは美琴の首に押し当てた。
「スタンガンも平気な最高位の発電系能力者<エレクトロマスター>さん、この状況なら電流はどうだい?」
返事も待たずに、テレスティーナは笑ってトリガーを引いた。




腕組みをして指でトントンと二の腕を叩く光子の隣で、どこかおっかない気持ちになりながら当麻は光子の顔色を伺う。
光子がつい今朝抜け出してきた先進状況救助隊の病院に戻り、退院の許可を求めて主治医と遣り合う気だったのだが、忙しいから待てという理不尽な扱いをされたまま、もう15分は受付前のベンチに座っている。
あとどれくらい待たされるのか、待てば会えるのか、そういうことがきちんと説明されなかった。
「ああもう、そろそろインデックス達もこちらに着きますのに」
「そうだな」
「本当、どうしてこんな病院に収容されなければいけなかったのかしら。私の退院に文句があるなら早く言いに来ればよろしいのに、個室のカギをロックして私の荷物を人質に取るなんて、やり方が陰湿ですわ」
「ま、まあ落ち着けよ」
「落ち着いていないように当麻さんには見えますの?」
「う……いや、まあ」
「……ごめんなさい」
口を尖らせて拗ねながらも謝る光子が可愛かったので、当麻は撫でてやった。
一瞬はそれで機嫌が直るのだが、どうも根本的には解決しそうにない。
光子の主治医が応対に出てこない理由は、嫌がらせだけではないように当麻には見えた。
というのも、さっきから病院の敷地を出る車が何台か続いていて、忙しい印象を受けるからだ。
ここは通いの病人を診るより、事故などの救急がメインのはずだから、学園都市のどこかで大事故でもあったのかもしれない。
「何か、あったのかしら」
「なんかあっちの方、荷物積んだりストレッチャー運ぶ音がしたり、忙しそうだよな」
「ええ。また、ポルターガイストが起こったのかもしれませんわね」
不穏な空気を感じるほかの病人と共にぼうっと建物の奥を眺めていると、当麻の携帯が震えた。
ディスプレイには黄泉川先生と表示されていた。
「あれ、先生だ。……もしもし」
「上条か」
「あ、はい。そうですけど」
「お前と婚后、今何処にいる?」
長い世間話は特に好きでもない黄泉川だが、今日のはいつにも増して口調が端的だった。
「MARの病院にいます。退院の交渉したいんですけど、先生が来なくて待ちぼうけしてます」
「そうか。上条、頼みがある」
「何ですか」
「婚后が、たしか春上と面識があるだろう。すまないが見舞いたいと申請してみてくれるか」
「はあ、それはいいですけど。でもなんで?」
「風紀委員でもないお前を使っておいて何だが、色々と一般人には話せない事情があるじゃんよ。すまないが、事情を聞かずに見舞ってくれ。それで、もし断られたらすぐ連絡をくれ」
電話越しの黄泉川の声に、焦りの響きを感じて当麻は詮索するのを止めた。
警備員として腕の確かな黄泉川の指示だ。反論だの事情の詮索だのよりまずは、指示に従うべきだろう。
「わかりました。じゃあ、光子とお見舞いに行ってみます」
「頼む」
それだけ言って、黄泉川は素早く電話を切った。
話の途中から表情の変わった当麻を見て、光子も何かを感じていたのだろう。
目が合うと、先ほどの苛立ちを消して当麻の言葉を待っていた。
「ちょっと、春上さんのお見舞いに行かないか」
「え?」
「先生に頼まれたんだ」
受付が近いから、当麻は黄泉川の名前も警備員という単語も出さなかった。
それでも当麻の顔色から、意味合いを汲み取ってくれたらしい。光子が怪訝な顔をするでもなく、笑顔で応えた。
互いに、なんだかそれが嬉しかった。修羅場を潜り抜けたこともあったおかげか、阿吽の呼吸で分かり合える。
「当麻さんが春上さんに鼻の下を伸ばしてはいけませんから、ちゃんと見張りませんと」
「おいおい、そんなのしたことないだろ?」
「知りません。私、当麻さんが春上さんや他の女性のお友達と夏祭りに行ったとき、一人でここにいましたもの」
「なんか俺が女の子を引き連れて歩いたみたいな言い方止めてくれよ。後ろから離れてついていっただけだって」
「ふうん。何処を眺めながらお歩きになったの?」
「何処って、そりゃ景色だよ。……あの、すみません」
自然な感じを装うのにどうしてチクチク責められるのかと若干理不尽な思いをしながら、当麻は受付に再び声をかけた。
「はい」
「春上……下の名前なんだっけ?」
「春上衿衣さんに、お会いしたいのですけれど。私の用件のほうは待たされるようですから」
「春上さんですか……あの、すみませんが、それは出来ません」
黄泉川の危惧が的中したらしかった。
「どうしてですか?」
「春上さんは先ほど、転院するためにこちらの病院を出ましたので」
「えっ? 転院、ですの? そんな話は昨日、一度もお聞きしませんでしたけれど」
「まあ、今日決まったことなので……」
「そんなに急なこと、ありますの?」
「はあ、まあ……」
それだけ言うと追求されるのが面倒なのか、受付が事務室の奥へと引っ込んだ。
バタバタと忙しない病院、そして急に転院した春上。そしてそれを危惧する黄泉川。
何か、不穏な空気が病院を流れていることを、当麻と光子は気づき始めていた。
「とりあえず、先生に電話するか」
「ええ。それと当麻さん、ちょうど受付の方もいませんから、私と春上さんの病室まで行ってみましょう」
「ん、わかった」
転院したのが本当なら当然そこはもぬけの殻のはずだ。無駄足かもしれないが、確認の意味はある。
当麻は携帯を操作して、黄泉川へとコールを入れた。そしてその足でエレベータに乗り込んだ。
エレベータが上りきるだけの長いコールを経て、ようやく黄泉川に繋がる。
「上条、どうだ」
「春上さんには会えませんでした。何でも今日突然、転院することが決まったらしいです」
「……そうか」
光子の先導で、春上の病室の前に来た。ネームプレートはまだ掛かったままで、中を見るとまだ私物が残っていた。ただ、部屋の主はいなかった。
「今春上さんの病室に来ました。荷物はあるんですけど、本人はいません」
「了解した。上条、助かったじゃんよ。婚后の件は今日じゃなくてもいい。とりあえず今日のところは、家に戻って来い」
「あの、手伝えること、ないですか」
「上条、お前は常日頃から厄介ごとに首を突っ込む馬鹿野郎だ。何度も怒られてもう分かってるじゃんよ。この街の問題に対応するのは警備員の仕事だ。お前はさっさと帰れ。婚后を泣かせたいか?」
「う……わかりました。帰りますよ」
「ん、そうしろ。それじゃ切るぞ」
また一分に満たない時間で、黄泉川が電話を切った。事情を問う顔の光子に、当麻は軽く首を振った。
「なんか厄介事らしい。光子の退院の件も保留でいいから、今日は家に帰れだってさ」
「春上さんが、行方知れずですのに?」
「一応この病院が手続きしてるんだぜ。誘拐とはわけが違うさ」
「でも……」
「なんか普段は俺が怒られるのに、俺が光子を諭すって不思議だな」
「当麻さんに毒されたんですわ、きっと」
ただの一般人である自分達が帰らされるのは、言わば当然のことだ。
だけど放っておけないはずの人を放っておくのは、何だか居心地が悪い。
行動を起こせないことに歯がゆさを覚える辺り、光子は、当麻と考えることが似通い始めていた。
……お互い、実はそれもちょっと嬉しかった。
「とりあえず、下に降りよう。それで医者の先生に会えなかったら、帰ろう。インデックスにも連絡しなきゃな」
「そうですわね。もう、これで帰ることになったら、インデックスには随分と足労をかけてしまいますわね」
二人はそう言い合いながらエレベータで再び下に降りた。
二人きりのボックスの中で、光子は当麻の二の腕をかき抱く。
もう随分と自然になった。こうやって当麻に甘えるのはなんだか楽しいのだった。
――だというのに。
「当麻さん?」
エレベータを出る。いつもならもっと気遣いの一つくらい見せてくれる優しい当麻が、軽く振り払うように光子の腕を解いて、光子とは違う方向を見た。
「御坂!」
「えっ?」
その名前に、光子の心臓がドキンと跳ねた。
だって、また会うなんて、思っていないから。
朝の一件から時間も経って、ようやく嫉妬がどろりと流れ出すのは収まっていたのに。
だが、当麻の影で死角になっていた美琴の姿を目にすると、そんな気持ちは、一瞬で吹き飛んだ。
――――美琴は気を失って、ストレッチャーの上に寝転がされていた。
「お、おい御坂! 大丈夫かよ?!」
「御坂さん?! あの、御坂さん!」
二人で声をかけるが、一向に目を覚ます気配はない。
眠っているというよりは、完全に意識を失っているらしかった。
ただ、幸い呼吸は確かで命に別状は内容に思えた。
「どうしてコイツ、ここにいるんだ?」
「さあ、私にも分かりませんわ。朝と服が違いますし……」
さらに分からないのは、美琴の横たわるストレッチャーが、一般の病人からは見えないところ、トラックや救急車用の搬入口に置かれていることだった。
治療をする医師もいないし、これから病室に運ぶという様子もない。先ほどから騒がしいことと関係があるのかもしれない。
「そこで何をやっている!」
敵意に近い警戒感のある声が、廊下の奥から飛んで来た。
パワードスーツ用のアンダーウェアを纏った男だった。MARの隊員だろう。
鍛えてあるらしく体つきは良かったが、目つきが陰湿だった。
「この子、俺達の知り合いなんです。どうして気を失ってるんですか?」
「さあ、詳しいことは知らないね。さあ、退いた退いた」
「お待ちになって。御坂さんは今からどうなりますの?」
「それはお前等の知ったことではないよ」
「待てよ。知り合いだって言ってるだろ?」
「彼女は他の病院で治療することになった。詳しいことは、目が覚めてから本人と連絡を取ってくれ」
露骨にチッと舌を鳴らして、その男は面倒くさそうに当麻を睨んだ。
そしてもう話は終わったと言わんばかりに、男は美琴の乗ったストレッチャーをトラックに載せようとした。
「待てよ!」
「……病人の移送を邪魔するなら、警備員に通報してもいいんだぞ?」
「そっちこそ通報されて大丈夫か? 春上さんを無事に運びたいんだろ?」
当麻は、それでカマをかけたつもりだった。情報の一つでも引き出せればいいと思ってのことだった。
だが、効果は覿面すぎた。
「ほう。随分と困ったことを知られたものだ」
「な?! が……っ!?」
「当麻さん?!」
当麻は突然飛んできた拳を腕でなんとか受け止め、数歩後退した。
光子は突然の荒事に硬直した。
その二人の隙を突いて、男は美琴の乗ったストレッチャーを近くに控えるトラックのほうへと押し始めた。
「どうせ今日の夜にはコトは全部終わってるんだ。証拠隠滅も、適当で構わないな。――おい! このクソガキをさっさと積み込め! これが最後の車両だ。遅れると所長に殺されるぞ!」
その返事を聞いていたのだろう、トラックから運転手らしい男が降りてきて、後部のコンテナ部分を開いた。
後部のドアが開くタイプではなく、車両のサイドの壁が持ち上がるガルウィングドアで、中にはパワードスーツが数着、積み込まれていた。
男はそれに飛び乗り、手馴れた仕草で起動する。
「さて。お前たち二人もこれから怪我人になる。そして我々と一緒に目的地まで行こうか」
「簡単にそれを許すと思いますの?」
「ああ、思っているよ。なにせ学園都市で三番目に貴重なサンプルでも、このザマだからな」
「えっ?」
躊躇わずに、男は病院の敷地全体に届くスピーカーのスイッチを入れた。
圧倒的なスペック差をつけた状態で蹂躙するのがその男の好みだった。
――――キィィィィィィィ
当麻はその不快な音に眉をひそめた。長く聞いていると気分が悪くなりそうだ。
そしてその程度では、光子はすまなかった。
「あ……、う。これ、は――」
「光子? お、おい大丈夫か?」
「当麻さ、ん……頭が」
「一体どうしたんだよ?!」
「『キャパシティダウン』さ」
「何だと?」
「超能力ジャミングの音響兵器だ。一般人には無害だが、能力者に対する効果はすさまじいよ。そちらのお嬢さんのようにな。それにしても、レベル4の能力者に付きまとう男が無能力者とは、みみっちいと自分で思わないのか?」
当麻はその言葉に取り合わなかった。
ただ、光子の体に右手で触れても、耳や頭に触れても様子が変わらないことを確認した。
「音を止めろ」
「ああ? お前ももう少し実力差を考えて言葉を選べよ。ほら!」
「クッ!」
ひどく緩慢な動作で、男はパワードスーツの腕を振り回した。
生身の人間より遅いそれをかわそうとして、軌道の先に光子の体があることに気づいた。
光子を退けるように、抱いて横に運ぼうとする。
――幸い、光子には当たることはなかった。
「が――――は、ア?!」
「当麻さん? 当麻さん……!?」
「ほう、これは謝罪せねばならんな。すまない少年よ。君は中々に高潔な人じゃないか」
わざわざこの構図を狙って作っておいて、男は慇懃に笑いながら当麻に謝った。
この方式を気に入ったらしい。
「さて、第二撃だ。彼女は動けないぞ?」
光子は状況把握も正確に出来なくなった脳裏で、歯噛みする。
力が使えないどころか、当麻が傷つく、その理由にされるなんて。
「ゴハァッ!」
「当麻さん……!」
ダメージは運動量に比例する。速度は遅くとも、大質量の鉄塊は充分な威力だった。
そしてダメージの蓄積部位は速度に依存する。
高速な物体であれば体の表面を壊すが、この遅い腕の振りはダメージを体に浸透させる。
悠然と飛んでくるその二撃で、当麻は足元が覚束なくなった。
そして三撃目。当麻を目掛けて繰り出されたそれは、鋭く腹部に突き刺さった。
「あ……が……」
当麻は必死に打開策を考える。逃げるのは可能かもしれない。でもそれは自分だけならだ。
そして超能力なんて使えない自分は、パワードスーツなんて相手と戦うのは、そもそも不可能だ。
学園都市のパワードスーツは発火能力者や発電系能力者を意識して作られているに決まっているのだから、そこらからガソリンを拝借して火をつけたくらいじゃどうにもならない。
トラックで轢いてやればダメージはあるだろうが、そんな悠長なことは出来ないし、そもそも運転も出来ない。
「く、そ……」
「さすがに三発でギブアップか。さて、時間がないのが悔しいところだな。隣の彼女が傷つく様をなすすべなく見る彼氏、という構図は中々に悲劇的で悪くないが、生憎凝った事をする余裕がなくてね。……本当に残念だ。生身なら触り甲斐もあったろうね」
「やめろ! 光子に触るな!」
「と言われても。言っただろう? 君もこの子も、学園都市の裏の世界についてきてもらわなきゃならないんだよ。何、どうせここで私が手を出さずとも、遠からずこの子は慰み者になるさ。レベル4などそうそう価値もない」
パワードスーツの腕で、抵抗の出来ない光子を男が掴み挙げた。
そして肩に担ぐようにして、トラックへと運ぼうとする。
「くそっ、待て! 待てよ!」
足が言うことを聞かない。倒れないように必死に二歩三歩と進むうちに、男はずっと先へと進んでしまう。
どうすれば。何をすれば光子を助けられる?!
当麻は、なす術のなさに頭を真っ白にしかけた。
その瞬間だった。
「みつこ!!!」
「やれやれ、上条当麻。君はこの状況じゃ本当に使えない男だね」
聞きなれた女の子の声と、小憎たらしいどこぞの赤髪の神父の声がした。




「おや、新手かい?」
男が余裕ありげに振り向いた。
光子がどさりと美琴と一緒のトラックに載せられたところだった。
「能力者が束になるとかなりの脅威なんだがね。今はキャパシティダウンの稼動中だ。その間に動ける君達は、つまりレベル0なんだろう?」
2メートルを越す身長の男は、生身なら脅威かもしれない。だがパワードスーツを着ている限り肉弾戦では敵ではない。
後ろにいる銀髪と金髪の二人など論外だった。むしろ、憐れみすら覚えた。どちらも逃がすわけには行かない。
と言うことは、今しがたトラックに載せた女と同様、この二人にもそう明るい未来は残されていなかった。
「レベル0というのは、確かこの都市の能力者のランク付けのことだったね?」
「ん?」
その物言いからして、目の前の赤髪の神父は学園都市外の人間らしい。尚更、脅威と見るに値しない存在だった。
だがその事実を理解していないのか、神父は悠長に煙草をふかしている。
目の下のバーコードや過度に纏いすぎたアクセサリの数々が、オカルトでも信奉しているような、蒙昧な印象をかもし出していた。
「僕は超能力者ではないからね、レベル0で合っているのかな」
「開発どころか検査も受けていない人間にレベルは与えられないさ」
「ああ、それもそうか。……ところでインデックス。僕は、科学<かれら>に能動的に干渉することは禁じられているんだけど」
インデックスは、ステイルの言っていることが魔術師としてごく常識的であることは理解していた。
だけど、そんな悠長なことを言うような場合では、ないのだ。放っておけば、光子がさらわれかねない状況だから。
光子を助けようと走り出したインデックスを止めたのがステイルだった。
そんな原則論を持ち出すのならなぜ自分を止めたんだと、インデックスは非難を込めた目で見つめ返した。
すぐさまステイルは、怯んだ目をした。
「……僕が言ったのは正論だよ。まあ、どうせ彼は僕らも逃がす気はないだろうしね。それで合っているかい?」
「そうだな、反論はしないよ。君に『需要』はないが、後ろのお嬢さん達には価値がある。さあ、地面に這いつくばれ」
男は当麻を無視して、ステイルと、その奥にいるインデックスとエリスの方を向いた。
そして無造作にステイルに腕を振り上げる。それを見て、ステイルは口の端を釣り上げた。
フィルター前までしっかり吸いきった煙草をピッと指で投げ捨てる。
こちらから露骨なアクションは取れなくても、反撃なら許されるのだ。
「仕事だよ、魔女狩りの王<イノケンティウス>」
「なっ?!」
煙草の吸殻を基点に、爆発的にオレンジがかった光が広がる。
それはあっという間に人型を成し、人の身長を越える。ちょうど、パワードスーツを来た男といい勝負のサイズだった。
「やれやれ、不穏な空気を感じてあらかじめルーンをバラ撒いておいたのが役に立つとはね。さて、一応聞くけど。その機械仕掛けの鎧から降りて、降伏する気はないかい?」
「貴様。なぜ能力を使える?!」
「さあ。どうしてだろうね」
「くっ!」
ブゥン、と一度止めた腕を男は振り下ろした。魔女狩りの王がそれを受け止める。
その二者の接触面が軋みをあげ、猛烈な勢いでパワードスーツのセンサーがアラームをかき鳴らした。
異常な熱を検知した報告だった。すぐにこれでは腕が駄目になる。
炎の塊から遠ざかるために男は反射的に後ろに下がって、そして愕然とした。
重さを感じさせない炎の塊が、自分の腕を掴んだままついてくる。
なのに振り払おうとすると、今度はパワードスーツの力に負けない強さで、その動きに逆らう。
その間も、腕はあっという間に熱を持って、その温度を見過ごせない温度にまで上昇させていく。
「その装甲。何度まで耐えられるんだい? さすがは学園都市製と、もう充分褒めるに値する健闘ぶりだけど」
魔女狩りの王の内部温度は、三千度程度。
それは温度で言えば、タングステンやダイヤモンドなど、強靭な物質を溶融させるにはやや心もとない温度だ。
だが、魔女狩りの王が司るのは熱ではない。酸素の存在を暗黙の前提とする、燃焼という現象だ。
酸素雰囲気下の三千度。それだけの条件で溶けも燃えもしない物質は、学園都市のどんな生産プラントでも作れない。
この世に存在しない物質を作れる、ある男を除いては。
勿論パワードスーツの装甲はそんな物質ではなかった。
「は、離せ!」
「どうしてだい? まずはお互い、分かり合うために対話をしようじゃないか」
炎の恐怖に顔を引きつらせる男に、ステイルはゆっくりとした動作で語りかける。
目の前で怯える人がいて、それに微塵も流されない。
「くそっ!」
男が何かを決心した顔で、開いた腕に銃をマウントした。そして、それをステイルに向け、引き金を引いた。
魔女狩りの王がステイルを庇い、腕を離した。

――ガンガンガン!!

それはもう、周辺にいるあらゆる人を警戒させるに足る音だ。すぐに通報されて、野次馬もたかってくるだろう。
速やかに、この神父を制圧しなければならない。炎の塊に阻まれて神父がどうなったのか見えないが、これが消えないと言うことは。
「残念。その程度の口径の銃が魔女狩りの王を貫通することは出来ないよ。以前、高速度の飛翔体に対する対策を考えさせられる経験があってね。魔女狩りの王にはかなりの粘りを持たせてある」
ステイルがチラリとうずくまる光子に目をやって、そう呟いた。
魔女狩りの王の中身は木炭や石炭の溶けたものだ。もちろんそれは魔術的、象徴的な意味であって、物理的な正しさはない。
三千度の炭の液体などというものが実際に存在するはずもないが、もしあれば、それは水よりさらりとしていておかしくない。
温度が上がると粘度が下がるという物理法則に、魔女狩りの王が従う必要は無かった。
「にしても、面倒だな。君を殺すのはちょっと問題がありそうでね。出来れば無力化したいんだが」
「うるさい、死ね!」
「ああ、会話にならないのか。君に科学を講釈するのは釈迦に説法というやつかも知れないけれど。――――熱膨張って知ってるかい?」
ステイルに向けられた銃の機構部分を、魔女狩りの王が優しく掴んだ。
恐怖にやられたのか、男は自動小銃をフルオートで打ち始める。だが、それも長くは続かなかった。
――――バンッ!!!
ひどくあっさりと、銃がその部品を四散させた。
「うわっ! な、なんで――」
「この温度で銃が正しく動作するわけがないだろう。さあ、魔女狩りの王。そろそろ戯れは終わりだ。彼に熱い抱擁を」
「止めろ! 止めてくれ!」
「それを言った上条当麻に君はどんなリアクションをとったっけね? ――やれ」
「ヒィッ!!!」
男は、緊急脱出用のコマンドを躊躇いなく実行した。
そしてもぬけの殻になったパワードスーツの外骨格に、魔女狩りの王が絡みついた。
弾性の付与と引き換えに熱に耐性のない関節から順に、あっという間に破損していく。
そして装甲が発火したところで、ステイルは魔女狩りの王を引き離した。
「クソ、なんでこんな――」
「よう」
「え?」
先ほどとは打って変わって、腰を抜かした男はいつの間にか当麻の足元にいた。
当麻は手加減なんて微塵も考えなかった。
全力のストレートを、男にぶち込んだ。
「寝てやがれ!!!!」
「ガハァッ!!!」
ガツンと頬骨が折れる音とともに、男が吹き飛ばされて転がった。
そして当麻はすぐにトラックの運転席で事態を怯えながら見つめていたMARの隊員を睨んだ。
「今すぐこの音を止めろ!」
魔女狩りの王がすっとトラックの前に立つ。逃げ切るより自分が殺されるほうが早いと悟ったのだろう。
当麻にぶちのめされた男よりも小心か、あるいは根が腐っていないのか、コクコクと頷いてキャパシティダウンを止めた。
すぐさま当麻とインデックスが光子の下に駆け寄る。
「みつこ! 大丈夫?!」
「ええ……。頭痛はもう消えましたから。すぐに良くなるとは、思いますわ」
「ごめんな、光子」
当麻の表情を見て、光子は切ない気持ちになった。
何も出来なかったことを悔いている顔だった。当麻はレベル0だ。こんなとき、何も出来なくたって誰も責めやしないのに。
自分を庇って、助けようとしてくれただけで、恋人の自分は充分に満足なのに。
「当麻さん、気になさらないで。本当に別に、私何ともありませんから」
「ああ……」
「まあそういう感傷的な事は後にまわしてくれないか」
「っ」
面白くなさそうに煙草をケースからとんとんと取り出しながら、ステイルが後ろで呟いた。
エリスはステイルからも離れて所在なさげにしている。
「悪い。ステイル、助かったよ」
「別に君たちが被害にあうだけなら止めなかったけどね。この子に手を出すと宣言したそこの彼にでも感謝したらどうだい」
不調でうずくまる光子を見ても全く容赦のないステイルだった。
だが恨みがましい目でインデックスに見られると、居心地悪そうに目線を外した。
「なあ、ステイル」
「なんだい?」
「さっきの運転手を操るとか、そういうことって出来るのか」
「……そんなことを何故聞くんだ?」
「光子」
ステイルに取り合わず、当麻は光子を撫でた。それだけで、光子は当麻の言いたいことを全部理解した。
そして答えに、沢山の言葉を尽くす必要なんてない。
「私は当麻さんについて行きます」
「おう。じゃあステイル、頼んだ」
「状況くらいは説明しろ」
「インデックスの友達の一人、春上さんって言うんだけどな、その子がこいつらに誘拐されてる。今から、助けに行くぞ」
運転手を操った上でトラックを運転させ、前方の車両に追いつく。当麻が考えているのはそういうことだった。
事情を確かめるように、戸惑ったステイルはインデックスを見た。
懇願する目で、コクリと頷いた。
「魔術師として、この学園の超能力者と戦うのは駄目なんだよね。そういうのは、しなくていいから。だからステイル、お願い」
ろくに吸ってもない煙草を投げ捨て、足でグリグリと踏みにじる。
正義を語るようなおこがましい趣味はステイルにはない。だが、そういうインデックスの顔には、弱かった。
「ああもう、僕は知らないぞ」
この場の全員に聞こえる大きな舌打ちをして、ステイルは運転手のほうへと向かった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 07: 科学と魔術の交差点
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/30 11:42
カタンカタンと、トラックが高速道路の継ぎ目を通るたびに規則的な音が室内に響く。
簡易ベンチに当麻と、光子にインデックスが座り、ストレッチャーに乗せられた美琴が横にいる。
三人から離れ噛みタバコを噛むステイルと、その全員から離れたところにエリスが座っていた。
「まったく。僕にも用があって、ここに来たんだけどね」
ハッとため息をついて、ステイルが肩をすくめた。
そういう文句はトラックに乗り込んでから、三度目くらいだ。
「いやだから、来てくれるのはありがたいけど、来いって言ったわけじゃないだろ?」
「別に僕は君達に用はないから、あそこで別れても良かったんだけど」
「ごめんね。でも、私にとっても、他人じゃないもん」
ステイルはインデックスに謝られて向ける矛先を失い、フンと鼻を鳴らした。
「それにしても、追いつくのに時間が随分と掛かるね」
「この辺は高速が狭くて追い越しとかほとんどねーんだろうさ。差がついちまってるんだから、仕方ないだろ」
当麻たちを乗せたトラックは今、春上を乗せたトラックを追いかけている。
差がついているのは、当麻たちがパワードスーツを着た男と争ったのもあるが、その後にトラックから予備のパワードスーツを下ろすのに手間取ったからでもあった。
走っている途中で遠隔操作で自爆なり脱出ポッドの強制排出なりをされてはたまらない。
だが、あんな重い機械を手で運べるはずもなく、手間取ったのだった。
「もっと彼女が、早く手を貸してくれていれば良かったんだがね」
そう言ってステイルが、エリスを横目で見た。
インデックスが不安げな顔をする。一人、エリスだけが皆から離れているのは、ステイルの采配だった。




――――MARの病院で、ステイルがルーンを使って運転手を操ったところでその事態は起こった。
エリスは一般人だ。ついて来たところで足手まといになるのは明らかだった。
当麻がそれを心配したのがきっかけだった。
「エリス。ここからは危ない。悪いけど、近くの通りまで出て、タクシーで帰ってくれないか」
「上条君……。インデックスは、構わないの?」
「ステイルの魔女狩りの王<イノケンティウス>、見ただろ? インデックスはそういうのが出来る連中の一人なんだ」
「まあ戦力外だろうけどね、今回に関して言えば」
「そんなことないもん!」
ステイルの揶揄にインデックスがむっとした顔を返す。
それは心配の裏返しだった。魔術師の中でなら、インデックスは驚異的な力を発揮する。
だが、彼女の能力は超能力者の中にあっては、一般人と大差が無かった。
あらゆる信仰を論破するインデックスをして、太刀打ちできないのが科学だった。
「君が行かなきゃ、僕も行かなくて済むんだけど」
「……別に来てくれなんて、言ってない」
「だけどさっきみたいなことがあれば、君の保護者二人はまた戦力外になる。彼らが怪我をするのは僕の知ったことじゃないが、インデックス、君に関しては違う」
「じゃあ、ステイルは私と一緒にここに残って、とうまとみつこが怪我をするのが一番いいって言うんだね?」
「それは……」
「私も行く。もう私はそう決めたから。ステイルがついてこないのは自由だけど」
インデックスと春上とは、少し話した程度の間柄だった。
夏祭りに行った日に話したのだが、その時も主に世話になったのは浴衣を着付けてくれた佐天で、ほとんど春上とは接点を持たなかった。
でも、もう春上は、インデックスの友達の一人だ。苦しんでいるところを見過ごすことの出来ない、そういう相手に入っていると思う。
それは当麻にとっても、光子にとっても同じことのようだった。
この二人は、デートしているときに突然家のベランダに引っかかった女の子を助けて、そしてずっと一緒にいてくれるようなお人よしなのだ。
インデックスは、自分の決断を間違っているとは思えなかった。
「ああもう。分かった、行くよ」
ステイルはざっと髪をかき上げ、エリスに目をやる。
「君にも、親切で一応言っておくと、ついて来ない方が良いと思うよ。いざと言うときに、足手まといがいると困るからね」
「ステイル! そんな言い方しなくてもいいでしょ!」
「事実だよ。……さて、上条当麻。トラックに積まれた機械の鎧が邪魔だな。動かして車の外に出してくれ」
ステイルは無理と分かっているのだろう、当麻はその嫌味に苛立ちを覚えた。
この場で当麻は、今のところ何も出来ていない。
「無茶言うな。こんなモン、ロックが掛かってて部外者には動かせねーよ。手で動かすには重すぎるしな。さっきの運転手にやらせるか?」
「不可能じゃないけど、時間が掛かる。僕の魔女狩りの王は動かすのは可能だけれど、トラックも壊しかねないし、あまり作業には向いていない」
「じゃあ、私がやるよ」
「エリス?」
意を決したように呟いたエリスに、インデックスが戸惑いながら尋ねた。
「やるって、どうやって?」
「エリスさんは、それほどレベルは高くないんでしょう? できますの?」
美琴のストレッチャーの隣で座り込む光子がそう確認する。
トラックから地面まで1メートルくらいの段差がある。
エリスの超能力のことは良く知らないが、空間移動、念動力、そういう能力でこのパワードスーツを動かすにはそれなりのレベルが必要だった。
どうする気なのかと尋ねる光子に、エリスはあっさりと、自分の秘密を打ち明けた。
「ううん。私、ホントはね、超能力者じゃないんだ」
「え?」
驚くインデックスに、エリスは微笑んだ。
それは仲のいい知り合いに、また一つ嘘をつく後ろめたさを隠すための笑みだった。
エリスは、本当は超能力者でもある。
だがその「でもある」をきちんと目の前の皆に説明することは出来ない。
だからこの場では、エリスは自分の超能力者としての側面を隠した。
「あの、エリス……」
「ちょっと待ってね」
エリスはポケットから、印鑑入れのようなケースを取り出した。開くと、中には白いチョークのようなものが入っていた。
その質感から、インデックスはそれが微細な塩を油とワックスで固めたもの、オイルパステルの一種だと推測した。
エリスはかがんで、そのチョークめいた白色の棒で地面に紋章を描き始めた。
超能力者の、わけの分からない理屈ではなくて、むしろインデックスの良く知った理論に沿って。
「エリス……嘘、どうして」
「ごめんね、今まで、言わなくて」
それはいい。だって、インデックスだって自分が魔術師だなんて一言もエリスに言わなかった。
もちろんindex-librorum-prohibitorum、すなわち禁書目録というフルネームを見れば、魔術師ならインデックスが何者かなんて言わなくても分かるだろうけれど。
準備が終わったのだろう、詩歌を吟じるように、いつもより心持ち低いトーンで、朗々とエリスがその紋章に向けて声をかけた。
「私の可愛い土くれシェリー。あのトラックの上のパワードスーツを、どけて頂戴」
ぐにゅり。エリスの一言をきっかけとして、硬いコンクリートの地面が突然、やわらかい音を立てた。
コンクリートがひび割れ、その下から茶色い泥が、人の形を作るようにぬるりと這い上がる。
割れたコンクリートを身にまとい、その泥はステイルより一回り大きい程度に盛り上がっていく。
そしてやがて四肢と頭を形作り、泥の人形、ゴーレム=シェリーは完成した。
作り方を親友に教えてもらった、魔術師エリスの最高位の技だった。もちろん、魔女狩りの王となんて比べ物にならないが。
親友の名を冠したゴーレムに、エリスは笑いかけた。
たぶん存命のはずのシェリーがこれを見れば、自分と同じ名前をいかついゴーレムにつけたエリスのことを一体どう思うだろう。
「……ふうん、君は魔術師だったのか」
「うん」
「インデックスに近づいた目的は?」
「逆だよ。あの子が私のいる学校に来なければ、私からコンタクトすることなんて無かったもの」
少し寂しそうに、エリスがインデックスに笑いかけた。その微笑が表裏のないものに感じられて、インデックスは、エリスを信じたいと思った。
だけど、魔術師同士であるということは、そう簡単には埋められない距離があることを意味していた。
「エリスは、どうしてこの街にいたの?」
「……インデックスには、話してもいいよ。もう帝督君には教えちゃったから」
「じゃあ」
「でも今は、嫌だな。インデックスの知り合いだからって、誰にでも喋りたいことじゃ、ないから。……例えばステイルさんは、私に学園都市に来た理由を話せるの?」
「まさか。どの結社に所属する魔術師かも分からない相手に、そんなことができるものか」
「だよね。ほら、これでおあいこ」
ステイルの言い分はもっともだった。
とある錬金術師が、「吸血殺し」という究極の対吸血鬼集蛾塔のようなものを手に、本気で吸血鬼を集めようとしているなどという話が知れたら、普通の魔術師なら何を差し置いても、「吸血殺し」か吸血鬼の横取りを目論むだろう。
だがエリスは、ステイルが内心で考えていることなんて当然知りえない。
シェリーを見上げ、トンと触れた。
「さあ、早く仕事をなさい。急がなきゃいけないから」
シェリーは物も言わず、重たげな音を立てながらパワードスーツを退けに掛かった。
――――そんな経緯で、エリスはステイルの警戒心を買い、インデックスから離れて座っているのだった。




トラックの中の沈黙を、インデックスが破る。
「ねえ、エリス」
「何かな?」
「また、落ち着いたら。一緒に遊べるかな」
ステイルのほうを、エリスはチラリと見た。返答は無言だった。
「私はこれからもあの学校にいるし、インデックスが通ってくるなら、一緒に遊ぶこともあるよ」
「うん、そっか」
「インデックスこそ、私を避けたほうがいいのかもしれないよ?」
「……そうだね、ステイルは、そんな顔してる」
「なあエリス。お前はさ、友達としてのインデックスを、裏切る気なんてあるか」
「ないよ」
「ん。じゃあ、俺らから聞くことはもうねーな」
「……ありがと、上条君」
光子が当麻の手を握って、当麻と一緒にエリスに笑いかけた。
そして目線を横にやると、ストレッチャーの上の毛布が、もぞりと動いたのに気がついた。
「御坂さん?」
「ん……」
美琴が、意識を覚醒させたらしかった。




誰かの話し声が気になって、美琴は目を覚ました。
はじめに目に映ったのは、頼りない感じのするベッドと、灰色の壁だった。
ここ、どこだろ。
そんな暢気なことをぼんやり考えていると、御坂さん、と知っている誰かの声が背中にかけられた。
誰だっけ、知り合いの声なのは確かだけど。そう思いながら、気だるい体を横に向ける。
初めに目線を合わせた相手は、ツンツン頭の、見知った高校生だった。
「御坂、大丈夫か?」
「え……?」
どうして、コイツが?
理由は単純だった。美琴のストレッチャーの隣に当麻が座っていたから。
もちろん美琴にそんなことが分かるわけがない。
心臓が、トクリと高鳴った。目を覚ましたときに、傍にいてくれるなんて。
今この状況も、数時間前の記憶も、そういうものへの理解をせず、美琴の心は当麻の気遣う声が聞こえたことを、素直に喜んだ。
……それは決して、幸せではないことなのに。
「御坂さん、大丈夫ですの?」
「え? 婚后、さん……」
肺が苦しい。ギチギチと、急に呼吸が苦しくなった。
なんで、って。そうだ。今朝、話をしたんだ。コイツと婚后さんが、その、付き合ってるって。
よく見れば、確かインデックスとエリスという名前の美人の外人さん二人組に、知らない赤髪の人までいた。
呆然とする美琴に、当麻が立ち上がって手を触れた。
おでこに、当麻の温かみが広がる。夏だからか美琴は額に汗がにじんでいて、触られるのが恥ずかしかった。
「お前、熱あるだろ」
「え?」
「さっきからお前、『え?』って言ってばかりだな」
きっと普段なら、美琴が弱みを見せたらまずはそこを攻めにかかると思う。
いつも倒す倒されるみたいな話ばっかりしてたから、今だってそうだと思った。
なのに、馬鹿だな、なんて顔をしているのに。当麻の笑みの中に美琴を労わるような優しさがあった。
それは、隣に光子がいなければ、どうしようもなくなるくらい嬉しいことのはずなのに。
「ほら、喋れるか?」
「……ば、馬鹿にしないで」
「だったらちゃんと喋るんだな。こうなってるお前に無理言う様な事して悪いけど、聞かなきゃいけないことがあるからな。……お前、どうして倒れてたんだ?」
当麻の顔が、真面目なものになった。
それでようやく美琴も、自分の意識がなぜ飛んでいたのか、思い出した。
「私、テレスティーナにやられた。スタンガンで」
「あれ、お前、そういうの平気だっただろ?」
「なんか、あの音でおかしくなって」
「キャパシティダウンだっけか。そうか、お前もアレにやられたってことは、能力者であれば即アウトか」
美琴が首をさすり、傷を探した。
手に触れると、ざらりとした感触があった。ズキンと痛みが走って、そこがひどいやけどになっているのが分かった。
「痛っ……」
「ひどいな……それ。跡が残らないといいけどな」
当麻が痛ましそうに、その傷を見た。
別に、傷が残ったっていい。傷一つないのが女の勲章、なんて価値観は美琴は持ち合わせていない。
だけどやっぱり、自分の体が綺麗じゃないところを見られるのは、嫌だった。
「残ると吸血鬼っぽくて嫌ね」
「冗談言ってる場合かよ」
「いいでしょ、それくらい。なんでアンタが私の心配するのよ」
「しちゃいけないか?」
「……うん。駄目」
「そうか」
アンタには、婚后さんって彼女がいるでしょうが。
……それを、声に出すことは、現実を認めてしまうことになるから、言えなかった。
もうその現実が覆らないことは、薄々分かっているけれど。
「今、これ車に乗ってるんだよね?」
「ああ」
「どこに向かってるの?」
それも、聞いておかなければならないことだった。
規則的な振動から、どうもこの車は高速道路を走っているらしいとわかる。
しかも医者らしい人は乗っていなくて、救急車じゃなくてもっとゴツい、トラックのような車だった。
美琴のために別の病院へ、という感じではなかった。
「……体調悪いお前には悪いけど、この車は、春上さんを乗っけたトラックを追いかけてる」
やっぱり。
美琴は自分の予想が正しいことを確認して、そしてこう、思ってしまった。
私は、こんなことしてる場合じゃ、なんて。
そしてすぐに自分を責めた。
今、自分は春上と妹の命を天秤にかけて、優先順位を決めようとした。
それは、やってはいけないことだと思う。
そんな風に命に値段をつけるということをやってしまえば、妹達には、どうしようもないほどの客観的な値段がついている。
それが許せなくて、自分は動いているはずなのに。
……だけど、妹達と一方通行の作り出したあの惨劇が脳裏にこびりついていて、それがどうしようもなく美琴の焦燥感を掻き立てるのだ。
「朝から悩んでたの、この件だったのか? とりあえず、警備員の知り合いには連絡してある。どれくらい切羽詰ってるのか、詳しいことは御坂に聞きたいんだけどさ、ここにいるヤツはみんな、荒事に付き合ってくれる気で来てる。だからまあ、頼れよ」
「……うん」
美琴は当麻の勘違いを正さなかった。
やっぱり、あれは当麻にも話せることではないと思うから。
そして、いつか美琴がどうしようもなくなった最後には頼れる、そんな希望が感じられるから。
もう、それで良いと思った。今は、春上を助けることに集中しよう。
――不意に、当麻が美琴の髪をくしゃりと撫でた。
その感触に美琴は目を瞑ったのに、当麻の手は名残を見せずにすっと美琴から離れた。
「ごめんな」
「えっ……?」
不意に、謝られた。意図が分からなかった。
「お前、朝から随分追い詰められてたよな。もっと、ちゃんと聞いてやればよかったな」
「……別に、アンタに聞いてもらったって何も変わらないわよ」
「そうか?」
「そうなの。ったく、お人よしにも程があんのよ。そんなんじゃ、アンタ」
美琴はそこではじめて、ようやく、光子のほうを見た。
「婚后さんにすぐに愛想つかされるわよ」
「御坂さん……」
それは、敗北宣言だった。
だって、当麻はもう光子の恋人で、自分の居場所はそこにはないんだから。
友達としてなら、当麻の傍にはいられるように思う。だから、もうそれでいいじゃないか。
年上の、なんだかお互いにじゃれあいたくなるような、仲のいい男友達。
「愛想つかされるって、別に光子は」
「御坂さんの言うとおりですわ。当麻さんは、もっと反省してくださいませんと」
「え、光子?」
戸惑う当麻に光子が僅かに咎める視線を送った。
美琴はその光景を見ていられなくて、腕で、視界を覆い隠した。
「お、おい御坂。変なこと言うから」
「当麻さんはあちらに座ってらして」
「え、ちょっと、光子」
光子が強引に、当麻を自分の席に押しやった。
美琴の体がわなないて、何かを堪えるように唇がきゅっと横に引かれたのを見て、光子は当麻に見えないよう、美琴の頬にハンカチをそっと押し当てた。
「婚后さん……?」
「これが、嫌味なことに思えるんだったら、ごめんなさい。朝は、私もつい……ごめんなさい」
「いいよ。別に婚后さんは、悪くない」
「ええ、それは私も、譲れません。でも御坂さん、私、御坂さんとお友達でいたい」
「え?」
光子はそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、美琴の気持ちに共感するように、空いた美琴の手をとって、ぎゅっと自分の手を重ねた。
覆った腕の隙間から、美琴は光子を見た。
真摯な目で、優越感とかそういうのとは無縁に、美琴を慰撫してくれる表情だった。
「……ありがとね、婚后さん」
「お礼なんて」
美琴は光子の手を握り返した。
優劣がついて、明暗が分かれて、蹴落とした側と蹴落とされた側になったのに。
今この瞬間が今までで一番、美琴と光子が友情を交し合えた時だった。




「初春、何をしていますの?」
「なんだか、前を走ってるトラックの台数がおかしい気がして……」
木山の運転するスポーツカーで移送中の春上や枝先を尾行している最中、助手席で端末を操り始めた初春に、白井がそう声を投げかけた。
病院を去るときに見たトラックは4台だった。死角にいて見落としたかもしれないが、それならもっと多いことになる。
目の前を走るトラックは3台、数が合わない。
……もちろん全てのトラックが春上や枝先の輸送に絡んでいる保証はないので、数が合わないことが即、異常というわけではない。
だが、例えば今追っているトラックは実は全く別の目的のトラックで、自分達が勘違いしてる、なんて事があっては困る。
それで、下っ端警備員の権限でも閲覧できる監視カメラの映像を漁っているのだった。
「――我々がミスリードされている、と?」
「え? ああ、そういうんじゃなくてただ勘違いで、ってことです」
「そうか。君もそういう危惧を抱いたのかと思ったのだが、違ったか」
「え?」
木山が吐露した懸念に、佐天は首をかしげた。
トラックは百メートルほど先を車の流れに乗って走っている。
高速道路の上だから突然いなくなることはないし、そもそもあの巨体だ、隠れることは無理だろう。
「何かおかしなことでもあるんですか?」
「おかしなことではないかも知れないがね。目の前のあのトラック、相当の重量のものを積んでいるようだ」
軽い段差にタイヤが差し掛かるたび、積荷に衝撃が行かないようスプリングが揺れを緩衝する。
その揺れの周期が、どうにも重たげだった。トラックに詰めるだけ子供達を積んでも、あれほど重くはない。
「確かになんか、重そうですね」
「ああ。……そしてね、普通あの仕様のトラックに積むのが何か、君達は知っているか」
「えっと……」
考え込む佐天の隣で、風紀委員の白井はその答えがパワードスーツであることを知っていた。
それを告げようとしたところで、白井の携帯電話が音を立てた。
ディスプレイを確認すると、見慣れた同居人の名前。
「お姉さま?!」
慌てて白井はコールに答えた。
そして美琴の声からはかけ離れた、野太い声がしたことに戸惑った。
「よう、白井か」
「……誰ですの?」
「悪い、上条だ……って言って分かるか?」
「上条さん……ああ、婚后さんの彼氏、でしたわね」
婚后さん、などとさん付けでなどほとんど呼ばない相手をそう呼ばざるを得なかったことに僅かに顔をしかめながら、白井はいったいどういう状況なのか、確認に努める。なぜ、婚后光子の彼氏がお姉さまと?
「わかってくれてよかった。ちょっと御坂のヤツに携帯借りてるんだ。聞きたいことがあってさ」
「あの、お姉さまは?」
「んっと、実は今ちょっとダウンしてる」
「ダウン?! 何がありましたの?」
「えっと、その御坂の件と俺の聞きたいことが関連してるんだけど……いいや、先に答えたほうが早いな。御坂のヤツ、それと後から俺と光子……婚后もだけど、あの病院の関係者に襲われた」
「えっ?!」
白井の驚きは二つあった。
いままで足繁く通った病院の関係者が、こちらに牙をむいたこと。
そして、それによって、学園都市最強の発電系能力者である美琴が、やられたこと。
その不穏な雰囲気を察したのだろう。後部座席、すぐ白井の隣にいる佐天はもちろん、前にいる初春と木山の二人も聞き耳を立てた。
それを見て音量を上げつつ、白井は心を落ち着かせながら、情報の把握に努めた。
「そっちも病院に言ったって聞いた。大丈夫だったのか?」
「ええ。少なくとも、私達が病院に伺ったときには、暴力的なことはありませんでしたわ。ただ、春上さんやそのお友達の枝先さんという方たちが病院を移るから、面会をすることは出来ないと一方的に通告されましたの」
「そうか。御坂はそれを止めようとしてやられたらしい。んで、俺達はやられた御坂がどっかに連れて行かれかけたところに出くわしたんだ」
「そう、ですの。……まずはお礼を。上条さん、お姉さまを助けてくださってありがとうございます」
「……俺は礼を言われるほどのことは出来なかったけどな。それで、今はどうしてるんだ?」
「私達は今、MARのトラックを追跡しています」
「え? そっちもか」
「ということは、上条さんたちも?」
「ああ。かなり離れてるけど。MARのトラックを一台かっぱらった」
「そうでしたの。あの、お姉さまに替わっていただけませんか?」
「そうだな、いきなり俺がかけて悪かった」
「いえ、緊急時ですから」
謝罪もそこそこに、上条は受話器を美琴に返してくれたらしかった。
荒事の真っ最中だが、当麻はちゃんと落ち着いていて、話し合えるいい相手だった。
携帯から耳を離さずにいると、程なくして美琴の声が聞こえた。
「……黒子」
「お姉さま! ご無事ですの?!」
「ああ、うん。アンタのキンキン声で耳が鳴ってる以外は平気」
「そんな言い方、つれないですわ」
「で、私に替わってって、何かあった?」
「いいえ。お姉さまのお声を聞いて、黒子の励みにしたかっただけですわ」
本心は違っていた。声を聞いて、美琴が大丈夫かを確認したかったのだった。
白井のお姉さまは普通に戦って傷つくような実力の人ではない。
だからそれが折られたとなれば相当な事態だと思えるし、安否はきちんと聞いておきたかった。
もちろん、ストレートに心配なんてしたら、この天邪鬼のお姉さまは大丈夫だって言い張るに決まっているのだ。
「……そ。ならもう補充したわね。またアイツに替わればいい?」
「ああ、待ってくださいお姉さま。出来ればもっと黒子を優しく励ましてくださいまし」
「ったく。世話の焼ける。ほら、頑張んないと夏休み後半の予定、アンタ以外の知り合いと遊ぶので埋めるわよ」
「え、ちょっとお姉さま、そんな酷い――」
「白井か? また替わった。それで、これからのことなんだけど」
美琴にもう少し言い募ろうとしたところで上条にまた替わってしまった。
当麻には聞こえないようにはあとため息をついて、もう一度その声に応える。
「なんですの?」
「行き先とか、そっちは把握してるかって――」
「白井さん! 御坂さんたちにも教えてください! 前のトラック、多分ダミーです!!」
「えっ?!」
当麻との会話を遮るように、助手席の初春が突然に叫んだ。
「初春! どういうことですの?!」
「今、MARの病院近くの監視カメラの映像にアクセスしたんですけど、私達が前方のトラックを追ってから、後発のトラックが別方向に向かってるんです! それに前のトラック、私達が追いつくまでかなり低速運転してます。見た感じ、あっちが本命ですよ!」
「そちらのトラックの行き先は?!」
「えっと、高速に乗って初めの分岐で曲がってますから……」
「人も少ないし、病院も少ない学区のほうだな」
「そうですね」
「……木原幻生の、研究所がある。そちらには」
「え?!」
まさか、と初春は思った。
木山と枝先たちが巻き込まれた悪夢を取り仕切った研究者。
そんなところに、転院するはずの枝先たちが、行くはずがない。
「おい白井! 今木原って名前が聞こえたけど」
「え、ええ」
「それテレスティーナの親類か?」
「え!? どうしてですの?」
「あの人のフルネーム、パンフレットで見た。テレスティーナ・木原・ライフラインだ」
「そんな……」
ガンッ! と木山が力任せにハンドルを殴りつけた。
けたたましいクラクションが鳴って、何事かと周囲の車が不審げな挙動をとる。
その中、木山は周りの迷惑を一切意に介さず、乗客三人に告げた。
「舌を噛まないように気をつけろ!」
「え?!」
「反対車線に出る!」
言うが早いか、木山が高速道路の真上で、駐車でもするときのように非常識な角度までハンドルを捻った。
タイヤがギャリリリリリリリとアスファルトに爪を立てる。
「うわわわっ!」
「きゅ、急すぎますわ!」
「へ、えぇぇぇぇぇっっ?!?!」
「お、おい! 大丈夫か?」
上条が悲鳴に反応してこちらをうかがう。未だ続く横殴りの加速度に抗いつつ、白井は怒鳴り声を返す。
「今から木原の研究施設に向かいます! お姉さまの携帯……いえ、佐天さんの携帯から婚后さんの携帯に目的の場所を転送しますから!」
「わかった! ……ってそっちは青のスポーツカーか! コッチから無茶苦茶な車が見えた!」
「それですわ。こちらも一台きりのMARのトラックを確認しました。難しいでしょうが、上条さんたちも早く引き返してくださいませ!」
「ああ、わかった。とりあえず用件は済んだけど、しばらく繋いでるぞ」
「ええ。話があれば私がすぐに出ますから」
白井は当麻にそう告げて、車と車の間をすり抜けていく木山の横顔を見つめた。
大切な生徒の、無事を願う顔だった。




当麻は白井との話を一旦打ち切って、ステイルに声をかけた。
「ステイル、こっちのトラック、後発の癖に先発のダミーを追いかけてる!」
「そんなこと僕に言われても知るものか」
「責めてるんじゃねえよ。すぐに行き先変えてくれ!」
「チッ……どう指示すればいい」
「どうって」
「行き先の名前は? それも分からずあの運転席の男に命令するのは難しいぞ」
「行き先はこちらです!」
光子が佐天から送られてきた情報をステイルに渡す。
すぐさまステイルがトラック前部の男に話しかけ始めた。
「上条さん! 聞こえています?」
「なんだ白井」
「ダミーのトラックが!」
当麻はその言葉に反応して、ステイルの隣から前方を覗いた。3台のMARのトラックが、強引に車を止めている。
そしてハッチを開き、その重たい鋼鉄製の積荷を開帳した。
合計、九台のパワードスーツ。対テロ制圧用クラスの重装備で、普通の学園都市の生徒など相手にもならないレベルだった。
「マジかよ……」
当麻はうめくように呟いた。トラックではこの込み合った高速でスピードも出ないが、高機動パッケージを積んだパワードスーツなら白井たちのスポーツカーにも追いつけるかもしれない。
そして、鈍重なトラックしかない自分達など、到底逃げ切れないだろう。
当麻の後ろで、光子が美琴に歩み寄った。
「御坂さん」
「婚后さん?」
「御坂さんは、レベル5の、常盤台のエースでしたのね」
「へ?」
「私、つい最近まで存じ上げませんでしたの。ごめんなさい」
「それはいいけど……」
突然のその言葉に、美琴は戸惑った。
どこか、美琴を試すように、あるいは勇気付けるように、光子が挑戦的な笑みを美琴に向けた。
「ねえ御坂さん、このトラックから、対向車線を走るあの車に、取り付くことはできますの?」
「え?」
「一番の戦力が、こんなところで足止めなんていうのはおかしな事ですわ」
「……」
「あの邪魔な追っ手なら露払いを済ませて起きますから、御坂さんは白井さんたちと先に行ってくださいな」
「婚后さん……」
美琴は改めて、自分に問う。
こんなことを、自分はしている場合だろうか。
ここで力を使って、テレスティーナを止めても、妹達を助けるのに何一つためにはならない。
だから、この事件は誰かに任せて、自分は自分のことをすべきだろうか。
美琴は自分を見つめる光子から視線を外して、光子の、彼氏の背中に目をやった。
赤髪長身の、ステイルといっただろうか。その人といがみ合いながら必死に打開策を練っている。
ふっと、それを見て美琴は笑った。
今、ここを離れても、自分は絶対に後悔するのだ。枝先や春上たちを放っては、やはりいけないのだ。
それが、御坂美琴という人間なのだと思う。後で後悔だってするかもしれないけれど、それでも、動くのだ。
「ありがと、婚后さん」
「お礼なんて要りませんわ」
「うん」
それだけ言葉を交わし、美琴は当麻のほうに近づいて、乱暴に押しのけた。
このトラックのハッチを開くボタンがそこにあったからだ。
「お、おい御坂、なんだよ」
「邪魔。……私、行くから」
「へ? 行くって?」
「ありがと、と、と、とう、ま」
「え、なんだって?」
「なんでもない! じゃ!」
「あ、おい!」
光子の顔は見なかった。小声で言ったから気づかれなかったかもしれないし。
もう、能力は本調子。
ちょうどおあつらえ向きに迫ってきた、見覚えのあるスポーツカーに向かって、美琴はダイブした。
相対速度は、時速100キロくらいあった。
「光子、御坂のヤツ」
「あれでいいんですわ。ステイルさん、車のターンはまだですの?」
「今、減速しているだろう。もう少し待つんだね」
「……ということは、運転手の方への指示は済みましのね」
「ああ。済んだけど」
「それは重畳」
クスリと笑って、光子はステイルの背中に優しく触れた。
気味悪げに、ステイルが光子の顔を見た。
「なんだい」
「みつこ?」
光子は当麻とインデックス、そしてエリスの顔を見渡した。
「当麻さん。可愛らしい女の子二人だからって、変な気はくれぐれも起こさないで」
「へ?」
当麻に、自分が浮かべられる飛び切りの笑顔にちょっとだけ嫉妬を混ぜて、気持ちを伝える。
そしてまだ疑問顔のステイルに、光子はため息をついてやった。
光子の能力で気絶さえしたことが有るというのに、触れられて無頓着とは、どういうことか。
「婚后。君は一体何を――」
「私達は口より手を動かすのが先ですわ」
そう言って、自分とステイルに蓄えていた気体を、光子は噴出させた。
「うわっ!」
「みつこ!? ステイル!」
「インデックス! こちらは私達に任せて!」
「君は一体何を! 僕がいなくなったらトラックの行き先は変更できないんだぞ!?」
「大丈夫! 私が何とかするから!」
超能力者エリスは、人の心を操ることが出来る。
魔術師としてのエリスを知る他の面子は、エリスが魔術でそれをするものと思い込んだ。
勘違いをエリスは正さない。
「光子……」
「当麻さん。適材適所、ですわ。私はここで、あちらの方々を制圧します」
「……無茶するなよ」
「あら、それは当麻さんこそ自分で自分にお言い聞かせになって」
くすっと光子が笑う。当麻は自分の乗るトラックがギヤを入れ替え、アクセルを踏んだのが分かった。
名残を惜しむ場面でもない。しばし光子は当麻と見詰め合って、そしてすぐさま目の前の課題に集中した。
ステイルはさすがに荒事には慣れていた。やれやれという風にため息をついて、起動を完了させたパワードスーツを眺めた。
「ひどい無茶をやってくれたものだ」
「あら、そうは思いませんわ。超能力者の事情には関われないのでしょう?」
「もうとっくに巻き込まれているだろう」
「目の前のあれは、超能力とは全く関係のない、ただの最新鋭のブリキのおもちゃですわ」
「それにしては随分と攻撃的だ」
それに取り合わず、光子はステイルの腰に腕を回した。
「遠距離戦では周りに被害が出ます。とりあえず肉薄しますから、さっさと必要なビラ配りは済ませて頂戴」
「ビラとは失礼な。それと、準備は5秒で事足りるよ」
光子はステイルを引き連れ、敵地へと赴いた。
自分達がパワードスーツの連中を見逃せば、インデックスに危害が及ぶかもしれない。
インデックスを人質に取っていることになるのは不本意だが、ステイルが本気で目の前の連中を足止めするだろうことには、光子は自身があった。
炎の魔術師と風の超能力者、それに対するは9機の学園都市製パワードスーツ。
気に食わない相棒だが、相性は悪くない。
光子はステイルを信頼して、今この瞬間は、背中を預けることに決めた。
「行きますわよ!」
「ああ!」



[19764] ep.2_PSI-Crystal 08: 背中を預ける戦友は
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/14 00:24

木山がスポーツカーのアクセルを踏み、美琴たちの乗ったトラックとすれ違おうとしたその時だった。
白井は窓の外に、とんでもない無茶をやる美琴の姿を見た。
「お姉さま?!」
「えっ?」
「ちょっと、み、御坂さん?!」
戸惑う佐天と初春をよそに、白井は窓を開け、身を乗り出す。
呼吸が苦しいのか顔をしかめた美琴が、加速中のスポーツカーに追随していた。
もちろん足で走ってのことなどではない。
糸で繋いだタコのように、スポーツカーの斜め上に浮いているのだ。
糸の正体は、美琴の生み出した磁力だった。
「くっ、お姉さま! 無茶にも程があります!」
白井は窓を前回にして、ほぼ半身を乗り出す。
佐天は驚いて、白井の下半身に抱きついて支えた。
「手を! もっと伸ばしてくださいまし!」
無言、というか返事する余裕のない美琴に手を伸ばす。
レベル5の面目躍如というか、力任せすぎる出力でスポーツカーとの距離を詰め、そして白井の伸ばした手に自らの手を重ねようとする。
だが美琴の体を時速数十キロの乱流が上下左右に振るせいで、なかなか繋ぐことが出来ない。
「ああもう!」
相対速度がこれだけ近ければ問題ない。白井はそう判断して、シュン、と車内から姿を消した。
そして美琴の隣に現れ、首根っこにしがみついた。
「お姉さまっ」
「黒子?!」
「戻りますわ!」
高速で走る車からのテレポート、そして空気抵抗で減速する前に帰還。
それを一瞬で済ませ、黒子と美琴は後部座席に返り咲いた。どさっと背もたれにぶつかって、ほんの少しの減速分の運動量を補充する。
「いたっ!」
「ちょ、ちょっと白井さん。危ないですよ!」
「何を仰いますの佐天さん。レベル4の空間転移能力者として、この程度は当然可能なことですわ」
フッと白井はそう不敵に笑って、そして美琴へのスキンシップを再開した。
「もう! お姉さまったら昨日の夜からどちらにお出かけしていましたの? 黒子はそれはそれは心配しましたのよ」
「……ごめんね、黒子」
「え? あ、はい。分かっていただければ……」
素直な美琴の態度に、白井は面食らってしまった。
「あの、それで何をしてらっっしゃいましたの?」
「ちょっと、ね。この件の調べ物をしに木原幻生の研究所に忍び込んだんだけど、空振りでさ」
美琴はそれ以上を語るつもりは無かった。
そしてポケットの軽さに気づいて、美琴は携帯を忘れてきたことに気がついた。
「携帯はあっちに置いてきちゃったか」
「ああ、そういえば上条さんにお渡ししたままですわね。お姉さまの携帯とまだ、繋がってますけれど」
「じゃそのままでいいわ。あのバカに、後で延滞料金つきで返しに持ってきなさいって言っといて」
「はあ。あのバカさんに、ですのね?」
「え?」
「上条さんにそうお伝えしますわ」
「うん。……?」
何に白井が引っかかったのか、美琴は分からなかったらしい。迂闊なことだと思う。
白井は、美琴のその不用意な一言で理解したのだった。美琴がこれまで何度も何度も呟いてきた「あのバカ」が一体誰なのかを。
言われてみれば、なるほどという気はしないでもない。
レベル0の癖にこんな厄介ごとに首を突っ込んで、無茶をやっているなんて、当麻は確かにバカそのものだろう。
話した限り、いい人なのも分かる。そう悪い男性ではなさそうだ。
でも、だから。上条当麻が少なくとも一ヶ月くらい前からは、婚后光子の彼氏であったというのは、美琴にとって可哀想な事実だった。
電話の向こうに、光子と当麻が揃っていることは知っている。きっと美琴も、もう当麻には恋人がいることを知っているのだろう。
そう思うと、不憫だった。勿論実際に美琴と当麻の間に特別な関係が進展していたなら、自分は猛烈に反対するのだろうが。
「何? 黒子」
「なんでもありませんわ。それで初春、この車なら追いつけますの?」
「追いつくのは無理です。距離が離れすぎてますから。でも、行き先は分かりますから問題はそこじゃありません」
いぶかしむ美琴をあしらいつつ白井が投げかけた質問に、前方の景色と手元の端末の映像とに忙しく視線を往復させながら、初春はそう返事する。
問題は、追いつけないことではなくて、むしろ。
「木山先生、春上さんたちを乗せるのにトラックって何台必要ですか」
「二台もあれば事足りる」
「……白井さん。追いかけてるトラックは、四台です。ちなみにさっきのトラックには、一台あたり三機のパワードスーツが積まれてました」
「つまり、六機にいずれ襲撃される、と初春は言いたいんですのね」
「はい」
しばしの沈黙が、車内にエンジン音を響かせる。
美琴がその懸念を、ハン、と鼻で笑った。
「上等。邪魔するなら、退場してもらうだけね」
「ですわね。で、あちらとの接触はどこになりそうですの?」
「あっちがどう動くかによります。すぐにじゃないと思いますけど、正確なことはわかりません」
「じゃあ皆でしっかり周りに注意してろってことだよね」
「はい。木山先生は運転に集中してください」
「ああ、分かっている」
美琴が自分に手足を絡めた白井を強引にはがし、窓側に座る。
空間転移能力者<テレポーター>の白井は何かがあっても自力で逃げられるし、こちらから手を出す際にも窓際にいる必要がない。
美琴が、反対の窓側にいる佐天を見つめた。
「御坂さん?」
「何度かチラッと見ただけだけど。佐天さん、もう充分に戦力になるよね」
「えっ?」
そう言われるのが嬉しくて、佐天は思わず胸を高鳴らせた。
レベルなんて勿論関係なくお付き合いしているが、美琴は、誰もが憧れるレベル5の人だから。
「無理はしなくていい、ってか出来ないだろうけど。ノーマークの能力者がいるって、それだけで脅威だから」
美琴も、そして風紀委員の白井もある意味有名人だ。その二人についてはあちらも警戒しているだろう。
そこに空力使い<エアロハンド>が紛れ込むことは、決してマイナスではない。
断片的に見た佐天の能力者としてのセンス、そして光子から伝え聞くそのポテンシャルの高さ。
レベル3相当なら、少なくともかく乱には充分使える。
「私、頑張ります!」
佐天がそう宣言した直後だった。
初春と木山が見つめる前方、高速道路が別の路線へ分岐するポイントで。
「バリケード!?」
「MARのマークが入っている! 封鎖でこちらの足止めか!」
「御坂さん! あれ壊せますか?」
ギヤに手を当てて木山が前方を睨む横で、初春が振り返って美琴に訪ねる。
「止まらないと無理。コインのレールガンじゃ、あれは壊せない」
「時間が、惜しいのに……」
目前、あと200メートルに迫るバリケードは、赤い三角コーナーとプラスチックの棒で出来たような粗末なものではない。
鋼鉄製の骨子が格子状に組まれ、トラックでも止められそうな頑丈なヤツだった。
恐らくは鉄製であろうそれには美琴の磁力なら通じるから、至近距離に近づけばどうとでもなる。
だが、ポケットの中のコインをどんなに加速したってどうこうできる質量ではなかった。
バックミラー越しに首を振る美琴を見て、木山が悪態をついてブレーキに足を伸ばした。
それを。
「待って!」
佐天が止めた。
バリケードの張られたジャンクションまで、もう100メートルしかない。
「あれ越えよう!」
「佐天さん?! 私と黒子じゃ無理よ!」
白井のテレポートはこの車を動かすだけの力はない。
だからそれは美琴たちレベル4以上の二人には無理なこと。
反射的に美琴はそう返したが、佐天の発した言葉は他力を願う響きではなかった。
「大丈夫です! 私が飛ばします!」
「佐天さん?!」
初春が驚いた目で佐天を見つめる。
「木山先生! スピード上げて! 時速150以上!」
「……いけるのか?」
「はい。無茶じゃありません。私の能力なら、できます」
「わかった。君を信じよう」
木山は納得するための時間を尽くすことを、脇に放り投げた。
佐天がさっきの白井みたいに、初春のいる助手席に割り込んで、そして窓を開けて半身を乗り出す。
「初春、支えててね! お尻触ってもいいから」
「さ、佐天さん! こんな時に何言ってるんですか!!」
「こんな時だからだよっ! ――――いくよっ!!」
佐天は、突き出した左手に、ありったけの意識を集中する。
この車が、スポーツカーでよかった。鈍重なトラックや風の流れに無頓着なファミリーカーなら、こんなマネは出来なかった。
車高が低くて、車体と道路の隙間から空気が漏れにくいのがいい。
美琴が車内から佐天の能力を見つめた。もちろん空力使いではない美琴に佐天のしていることは目に見えない。
だが、その威力の大きさはすぐ実感することになった。
ふっと、佐天が呼吸を止める。そして瞬時に能力は発動した。
――空気の軋む音がやけに硬質で、ガツッという響きに近かった。
「なっ?!」
バリケードの直前で、木山は慌ててハンドルにカウンターを当てた。
佐天のいる助手席側に、車が急に曲がっていったからだ。原理は野球の球が曲がるのと同じ。
急激に佐天が気流を集めたことで気圧が下がり、車体の左右に生じた気圧差を埋めるように、車が引きずられたのだった。
問題は、佐天の手のひらの、たった数センチの渦が車を動かすだけの出力を誇っていることだった。
「先生! 絶対ブレーキ踏まないで!」
「失敗すれば死ぬのは君だぞ!」
バリケードは格子状だからしなやかだ。恐らく、車内の四人はぶつかっても生き残れる。
だが半身を乗り出した佐天はどう足掻いても無理だった。そんな状況でも、佐天は一向に不安を抱いていなかった。
だって、コレは、自分ならできることだから。賭けだとか、そんなのじゃない。
渦流の紡ぎ手たる自分が、こんなことを出来るのは、ごく当たり前のことだ。
「佐天さん……!」
バリケードが迫る。もう、ブレーキを踏んだって衝突を回避は出来ない。
初春が祈るように佐天の名前を呟く。
「はああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
佐天が車のボンネットに、いや、その少し先に向かって、手のひらの上の何かを投げつける仕草をした。
――直後。
ブワッという鈍い音がして、木山のスポーツカーの鼻先が、バリケードの少し上まで持ち上がった。
「きゃっ!」
「佐天さん! 車! 落ちちゃう!」
フロントウインドウ越しに見る外の世界がぐるんと移り変わって、綺麗な青空になる。
タイヤが転がり摩擦から解放されて、ファァン!と甲高い音を立てて空回りする。
そして幅跳びをする選手のように、スポーツカーは絶妙な高さでバリケードを越えた。
そして車内で誰かが悲鳴を上げたそのとおりに、高さ1メートル50センチまで持ち上がった車が、上がった分だけ落ちはじめた。
その時には、佐天はすでに次の渦を、手元に用意している。数は四つ。
着地のほうが、佐天は不安だった。
――――渦の同時生成はもうできる。けど、問題はその四つを独立に制御すること!
乱暴に持ち上げ、そして突風にさらされたスポーツカーは、四つのタイヤを綺麗に地面に向けてはいない。
真っ直ぐ落ちれば佐天の後ろの助手席側後輪が一番に落ちて衝撃を受けることになる。
それでは、車が駄目になる。中の自分達だってきっと怪我をしてしまう。
無事に目的地まで走ってもらうために、タイヤは同時に落とさないといけない。
それはつまり、タイヤの下にクッションとして置く渦を、独立に操らないといけないということだ。
佐天は目を凝らしタイヤと地面の位置を測る。
そして五感で検知できない風の流れを読み取る。もうそれは、意識すらしなくても出来る。
得られた情報を総動員して、いつ、どんな出力で渦を解放すべきか、決定する。
佐天の演算能力は、実用レベルとされる水域に充分に達していた。
「ふっ!」
身を乗り出す。まずは左後輪。そこに置いた渦を、佐天は歯を食いしばって維持する。
トンを越える重量の車重に耐えながら渦を保つのは、酷くコントロールを要求されることだった。
そして、その間に残ったタイヤの下に三つの渦を配る。真っ先に落ちてきた左後輪の対角にある右前輪の渦だけ出力を落とす。
多分、これで上手く行くはずだ。この出来なら、細工は流々、なんて言ってもいいだろう。
「後は仕上げをご覧あれってね!」
ぱちん、と佐天は心の中でトリガーを引いて、威力を丁寧に振り分けた渦を四つ、同時に破裂させた。
衝撃は、まとめて一つ。スポーツカーは車体の傾きを直しながら、四つのタイヤで見事に接地を果たした。
とはいえ高みから落ちた分の運動エネルギーを相殺するには、車のサスペンションに大きく頼ることになる。
車が、グワングワンと揺れた。
「わっ! これ、大丈夫!?」
「オフロードを走ればこれくらいは優しい部類になる。大丈夫だ。やるじゃないか」
「へへ。私、役に立てましたよね」
「やりますわね、佐天さん」
車内に戻ってバサバサになった髪を直す佐天を、初春は横目に見つめる。
ちょっと置いていかれて悔しい感じはするけれど、眩しい笑顔が、格好よかった。
佐天の努力を労うように笑みを浮かべ、すぐさま初春はディスプレイに目を落とした。
自分の戦う場所は、ここだ。まだすべきことが終わったわけじゃない。
遭遇するかもしれないパワードスーツの部隊との接触に備え、情報を集めることが必要だった。




ステイルと光子が九機のパワードスーツの元へとたどり着くのと、あちらがスタンバイを済ませたのはほぼ同時だった。
「早く準備をなさって」
「人使いの荒いことだ。分かっているよ」
ステイルは光子が文句を言うより先にすでに手を動かしていた。ルーンを刻んだカードが、意志を持ったように周囲の壁という壁に張り付いていく。
パワードスーツの一団は、六機が高機動パッケージを装備し、残り三機がこちらの相手をする腹積もりらしい。
もちろん光子は、一機たりとて逃がすつもりはない。
「いつでもどうぞ」
「ご苦労様ですわ」
光子はステイルを労うと、まるで無警戒に、パワードスーツに近づいた。
ここからさっさと立ち去り、当麻や美琴たちに迫ろうとしているほうの一機だった。
そのパワードスーツは光子の行動の意図を読めなかったのだろう、警告すべきか、無視すべきか、戸惑いをその動きに反映させた。
その間に光子は機体の足元にまで迫り、太もも辺りをコンコンと叩いて中の人間に声をかけた。
「常盤台中学二年、婚后光子と申します。春上衿衣さんを誘拐した件についてお伺いしたいのですけれど?」
慇懃に、光子は笑いかけてやる。
当麻の目の前ではこんな底意地の悪い顔をしたことはないが、今は別だ。
返答が、スピーカー越しの声で帰ってきた。
「誘拐とは何のことだ? 我々は彼女を看ている救助隊の者だが」
「その救助隊が一体どうして高速道路の往来でそんな物騒なものをお出しになっているの?」
「言わなくてもそちらが知っているだろう。すまないが、話をする暇はない」
「そう。強引に突破するというなら、お友達の皆さんを守るために、私達はあなた方を制圧します。正義がどちらにあるか、ちゃんと理解なさっていますわね?」
「ああ。若さゆえの過ちというのは誰にでもある。幸い君の歳ならまだ前科もつかないだろう。後で社会の常識をきちんと学ぶといい」
ステイルは先ほどから、このやり取りに興味がないのかそっぽを向いてタバコを吸っている。
それが決して油断を意味しないことを、光子は分かっていた。流れてきたタバコの臭いが鬱陶しくて、軽く扇子で払った。
……良くない傾向だ、と思う。ステイルといると、なんだか悪役<ヒール>めいた笑顔を浮かべたくなってくるのだった。
あくまで楚々と、自分らしい仕草や身のこなしを徹底しながら、光子は瞳の中にだけ侮蔑を込めて呟く。
「暴走能力者を利用して体晶の投与実験を行おうとするあなた方が、常識を語りますの? 本当、社会になじめないクズほど、臆面もなく開き直りますのね」
クズ、という表現を光子は生まれてはじめて使った。
自分の中の攻撃的な側面が、それでカチンとスイッチが入ったように動き始めたのが分かる。
つい一ヶ月前までは純粋培養のお嬢様で荒事なんてまったく経験が無かった。
だが、当麻と二人でインデックスを助けるために危険に身をさらし、そして今、戦うためのメンタリティというものを光子は身につけつつあった。
暴力を振るうことは良くない、という金科玉条を抱いてきたこれまでの光子には考えられない変化だった。
「……君は物知りだね。さて、我々は患者の安全を守るため、君達を排除する。抵抗しなければこちらも酷いことはしないよ」
「それなりに面白い冗談だ。君の同僚が僕らの前で、秘密を知った人間は元の世界には帰さないって言った後だから尚更ね」
ステイルがフィルター前まで吸いきったタバコを地面に捨てた。
それが、合図になった。
ギュアッ、とアクチュエーターの音を鳴らしながら、パワードスーツが光子に腕を伸ばす。
今光子と話をしていたのとは別の、ここで光子たちの相手をする気の一台だ。
「ステイルさん!」
その相手を、光子はしない。
一言ステイルの名を叫ぶと、光子の替わりに魔女狩りの王<イノケンティウス>がパワードスーツと力比べをする格好になった。
「なっ!? クソ、貴様は発火能力者<パイロキネシスト>か」
「さあ、それはどうだろうね」
ステイルがそう嘯く。その隣で高機動パッケージを積んだチームが動き出した。
「かなり遅れをとっているんだ。追いつけるうちにさっさと行くぞ」
「させませんわ!」
「退け。怪我をしたくないならな」
「別にあなた方の進路に身をさらしたりなんてしませんわよ?」
声色に嘲笑の響きを込め、光子はトントンと靴のつま先で地面を叩き、ローファの履き心地を確かめた。
そして最後にもう一度、ステイルと視線を交わした。
「ステイルさん、では、はじめましょうか」
「手短にやろう」
そんな短い一言を交わして、光子は扇子をぱたんと閉じた。
そして先ほど迂闊にも光子に接触を許したパワードスーツに仕込んだ、風の噴出点を開放する。
――――ゴウァッッッ!!!
「うわっ! な、なんだ?! お、おおおおぉぉぉ!!」
高機動パッケージを積んだ六機の先頭にいたパワードスーツが、突然自分の太ももから噴出した突風に、体の制御を失った。
尻餅をつくようになすすべなく後ろにこけて、同僚を巻き込む。そして被害を拡大させながら、機体が使い物にならなくなるまで地面を転がった。
一瞬の出来事ではなく、数秒間に渡って断続的に相手の体から自由を奪うのが光子の能力のいやらしいところだ。
その隣で魔女狩りの王と取っ組み合いをしていた一機が装甲を溶かす熱量に怯えながら毒づいた。
「クソッ、いい加減に離れろ!」
「別に構わないよ。とりあえず離せ、魔女狩りの王」
ステイルが新しいタバコを胸元から取り出しながら、鷹揚に応じた。
突如として、魔女狩りの王はそのパワードスーツの前から消え去る。
「何?!」
驚いた声を出しながらも、目の前の恐怖が去ったことに、一瞬パワードスーツの仲の男は安堵を覚えた。
だがその油断が、まさに余計。
魔女狩りの王が突如として男の後ろに現れ、機体に抱きついた。
ビービーと計器がエラーをがなりたて、男は一瞬にして混乱の渦に落ちていく。
「ヒッ?! ああっ?! 嫌だ! 火が、火が! 誰か離してくれ! 背中に火が!」
「脱出用の仕組みがあるんだろう? 別に君が死んでも僕は……ああ、今回は死なないでいてくれたほうがありがたいのか。おい、頑張って助かりなよ」
いかなる存在であっても、学園都市の人間を殺すのは魔術師ステイルにとっては剣呑だ。
インデックスを傷つけると明言した相手だから、ステイルの本心としては容赦の必要を感じない。それに、超能力者でないこの男達はどのように扱っても揉み消すのも無理ではない。だが各所に要らぬ貸しを作るのが面倒で、ステイルは情けをかけてやった。
「クソ、おそらく連中はレベル4だ! アレを起動しろ!」
「ステイルさん!」
「分かっているよ」
連中がキャパシティダウンを起動させようとしているのは、すぐに分かった。ステイルとてパワードスーツを相手に九対一は御免蒙りたいので、光子の指示に従う。
キャパシティダウンは見た目はただの大型スピーカーだ。ハッチを開きっぱなしなので、それを積んでいるトラックは一目瞭然だった。
魔女狩りの王は、ルーンで決めた領域の中なら顕現する場所を好きに決められる。
パワードスーツ部隊の誰かがキャパシティダウンを鳴らすより先に、ステイルは魔女狩りの王をそのスピーカーに触れさせた。
何も全てを破壊する必要なんてない。スピーカーの中心にある磁石に触れるだけでいい。それも溶かす必要すらない。磁性を失うキュリー温度以上に引き上げてやれば、それで事足りる。
腕を広げた魔女狩りの王が、大型スピーカーで出来た壁に取りすがるように、体全体で触れた。それだけで、キャパシティダウンはその効力を完全に失った。
「!? 音が! 鳴りません!」
隊員の一人が叫ぶ。すかさず取り乱した隊員とは別の隊員が、ステイルに銃口を向けて檄を飛ばす。
「あの赤髪が無防備だ!」
「させませんわよ」
光子はパワードスーツの連中の注意が自分から逸れたのを利用して、トンと地面を蹴って飛躍した。
目の高さより上にあるものを人は中々認識しないものだ。
上空2.5メートルを滑空し、光子はタンタンと二機の頭部を足で踏みつける。
優雅なステップだったが、その足取りはスケートリンクの上の踊り子よりずっと速い。
「馬鹿が! あのメスガキに触られるな!」
「えっ?!」
光子の能力発動のトリガーが接触であることに、隊員の一人が気づいた。
だが察しの鈍かった二人はコレでリタイアだった。
バシュゥゥゥゥッッッッ!!
銃もその他装備も満足にあったのに、二機はそれを活用することなく、メチャクチャな縦回転をしながら吹き飛ぶ。
「えええああああっっ?!」
「なんだ?! おい、うわあああああ!!」
特にカーブもない、ストレートな高速道路だから壁の高さも強度も無かった。
二機はぐしゃんと透明のプラスチック壁に衝突し、それを壊しながら高架の下に落ちていった。
学園都市の安全機構なら、アレでも死なない位のことはやってのけるだろう。だがマトモな受身は取れない。
戦闘機動は取れなくなるだろうことにも、光子は確信があった。
――――あと、五機。
後ろを振り返ると、一般人が車を乗り捨て、走って逃げていた。焦ってUターンをしようとした車のせいで、車は身動きできない状況だった。
だが混乱するのも無理はない。20メートル先でこんな大立ち回りを去れれば誰だって身の危険を感じるだろう。
「余所見をするな!」
ステイルのその叫びで光子はハッとなる。
目の前には、ようやく反撃の体制を整えたパワードスーツが、こちらに銃口を向けていた。
ステイルがいつの間にか光子の隣を駆けていた。目指す先は、誰かの乗り捨てた大型ワゴン。
「バリケードを!」
「分かりました!」
魔女狩りの王が仕事を追えてステイルや光子とパワードスーツの間に顕現する。
狙いを定めた敵からの射線をそれで塞ぎ、得られた一瞬で光子はワゴンの扉に触れて横に倒した。
そして防壁の役目が済んですぐさま、魔女狩りの王を敵に襲い掛からせる。
銃は照準を固定して使う武器だ。つまり、鈍重な魔女狩りの王にも狙わせやすい。
光子たちを、あるいは魔女狩りの王そのものを狙う銃をひと握りで無力化し、戸惑うパワードスーツの背後を取って抱擁する。
コレで四機。足の速いのはこのうち三機だった。形勢が決して良くないことを悟っているのだろう。
仕事をこなすためにも、さっさと脱利しようという意図が見て取れた。
「おい! 逃げられるぞ」
「大丈夫ですわ。人を積んだ装置が出せる加速度なんて高が知れていますもの」
射線とワゴンの間から、身を低くしつつ光子は人のいなくなった乗用車の間に走りこんだ。
無人の車が並ぶそこは、光子にとっての弾頭置き場みたいなものだ。
お決まりのデザインの軽トラックに、黒いセダン、赤のワンボックスカー。
何処にでもある普通の車にトントントン、と手のひらを押し当てていく。
エンジンが掛かっているかどうかなんて関係ない。ついでに言えば重さもほとんど関係ない。
光子が集積した気体がゴウッと噴出し、車は本来の前方などお構いなしに、適当な方向と角度を向いてパワードスーツに飛び掛った。
「え? ……うわぁ!!」
リアルな3D映画みたいに、パワードスーツを着た隊員たちの目の前に乗用車が文字通り飛んでくる。
高機動パッケージの加速よりもそれは速かった。当然だ。
光子の能力によって実現できる最大速度は分子の平均速度そのもの、音速の1.3倍程度なのだ。
パワードスーツといえども受け止められないだけの運動量を持った鉄塊が、装甲越しに隊員たちの体に衝突する。
三機のうち二機が乗用車に跳ねられ、下敷きになった。
残り一台も光子が進路を車で障害物だらけにしたせいで立ち往生した。
「あっけないものですわね。この程度ですの?」
「そういうのは勝ってからにするんだね……上だ!」
「えっ?!」
気がつくと、静かにパリパリパリと空気をはためかせる音がしていた。水平なプロペラを回転させて飛ぶ機体、軍用ヘリだ。
光子はその音に気づいていなかった。ヘリが、こんなに静かにこちらに肉薄するとは思っていなかったのだ。
「まずい! 早くアレを打ち落とすんだ!」
「ええ!」
光子は手ごろな弾を探して動こうとし、突然ステイルに腕をつかまれた。
動こうとした先が、蜂の巣にされる。
高機動パッケージを搭載した最後の一機と、本来光子たちを足止めするはずだった最後の一機、その二機のパワードスーツの援護射撃だった。
ヘリとあわせて三方向から銃を向けられるのは不利だ。今いる、往来のど真ん中はまずい。
「あちらに!」
光子がステイルの腕を掴んで走り出した。無策に見えるその背中に一瞬ステイルは怯む。
どう見ても、ガラ開きの背中を敵にさらすからだ。だが、感じた恐怖をかみ殺して光子の後を追う。
ステイルは光子を信じた。きっと案があってのことだろうと、そう自分に言い聞かせる。
すぐさま向きを整えたヘリがこちらに照準を合わせた。地上の二機もそれに習う。引き金が引かれるまでタイムラグは無かった。
ザリザリリリリリリリッッッッ
ガガガガガガガガガガガガッッッッ
断続的な発砲音がステイルの後ろで鳴り響いた。緊張に背中がこわばる。
だが、同時に聞こえた鋼鉄とアスファルトの奏でる不愉快な擦過音のせいか、ステイルに直撃は無かった。
状況を知りたくて、後ろを振り向いた。
「うわっ!」
「何を驚いていますの! このトラックは私が制御しています!」
ステイルのすぐ後ろを、横倒しになったMARのトラックが追いかけてきていた。
轢かれるのかと心臓が不安を訴えたが、どうもスピードはこちらにあわせているらしい。
これが光子のひらめきだった。逃げる先に弾除けがないから、弾除けを併走させればいい。
数トンの質量を平気で操る人間の、まさに暴力的な発想だった。
ドン、とステイルと光子は高速道路の壁にぶつかって体を止めた。
追随したトラックがちょうど、二人の目の前で止まる。隙間は2メートルなかった。
「このトラック以外の砲弾は取りにいけませんわね……」
「これを空に飛ばせるかい?」
「可能は可能です。でも、重力に逆らう方向には動きが遅いですから、避けられますわね」
「つまり君に対空兵器はないと」
「ええ。……ヘリが、問題ですわね」
ヘリが二人の真上を取るために動き始めている。
もう数秒しか安息の時間はない。じっくりと考えて策を練る暇は、なかった。
すぐさまステイルが、光子に次の動きを提示した。
「ヘリは僕が引き受ける」
「えっ?! ……わかりました。では私が地上を」
深くは聞かない。ステイルが出来ると言うなら、出来るというその言葉を信じるだけだ。
光子は引き寄せたトラックにもう一度触れた。気体が集積していく。
いつぞやの当麻とインデックスを飛ばしたときとは違う。ただ飛ばすだけだから、能力に衰えはない。
このトラックを飛ばせば、地上のパワードスーツのうち一機は無力化できる。
だが共倒れを危惧して離れている二機を、同時に落とすことは出来ない。
こちらに銃を向け今か今かと待ち構えるもう一機を、光子は生身で倒すしかなかった。
「合図で動こう。スリー、トゥ」
「ワン、ふっ!」
最後のワンカウントを光子に奪われ、ステイルはフンと笑った。
辺りに撒かずに手元に残したカードを三枚、くしゃりと右手で潰す。

「世界を構築する五大元素の一つ、偉大なる始まりの炎よ
 それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり
 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり」

自分に、あるいは世界に言い聞かせるように、ステイルは決まりの言葉を口にする。
だが、ここからは違う。

「その名は炎、その役は鉄槌
 限りなき願いをもって、災厄の緒元をなぎ払わん

魔女狩りの王は、ステイルが決めた世界でしか動くことが出来ない。
だから例えば、空を飛びまわる相手を落とすことは出来なかった。
かつて煮え湯を飲ませてくれた敵は不思議と今自分の隣にいるのだが、ステイルは足りないものを足りぬままに放置することは、しなかった。

――――魔女狩りの王にして淫蕩と私欲の教皇、インノケンティウス八世。
かの教皇がその生涯に残した、ヨーロッパ全土に激しく広がる魔女狩りの端緒となった回勅。
ステイルがその名を冠した、それは。
「『魔女に与える鉄槌<マレウス・マレフィカールム>』!!」
ステイルの傍に侍っていた魔女狩りの王<イノケンティウス>がその形を溶かし消え去る。
それと同時に、重質の真っ黒い油が棒のように延び、ハンマーを形作った。
これまで近距離の兵装として扱ってきた炎剣とは、比較にならぬ攻撃力。
その鉄槌の発動条件も、威力も、ステイルの切り札である魔女狩りの王と同等だった。
「はあああぁぁぁぁぁ!」
ステイルはヘリを見据え、『鉄槌』を真上へなぎ払った。
魔女狩りの王と同質の素材からなるその槌は、柄を湾曲させながらしなやかに伸び、ヘリに襲い掛かった。
ヘリが照準を合わせ、引き金を引くのより僅かに速く、それはヘリの窓ガラスに届いた。
「火あぶりでどうこうなるかよ! ハッ!」
ヘリの中で、隊員が見下しながら笑う。
高速回転するプロペラが健在だし、いかな高温の炎といえど、この一瞬の接触で学園都市の兵器が壊れるわけがない。
……そう思っていた。
「な、なんだ?!」
「魔女狩りを象徴するこの炎が、そんな淡白なわけないだろう? もっと粘着質だよ」
サッと消え去る炎かと思いきや、そんなことはない。
ジクジクとその炎は勢いを保っていた。気がつくと、皮膚が熱い。
ガラス越しにこれほどの輻射熱を伝える温度は、無警戒で済ませられるものではない。
「ヤベェ! お、おいこれ消せないのか?! 消化装備とかないのかよ?!」
並ぶボタンを一つ一つ目で追いながら、隊員は必死に打開策を探す。
救急隊でありながら、火災現場になど行った事もないし、そんなことを考えたこともなかった。
だから、あるはずの装備を探せない。
戸惑う隊員を下から眺めて、ステイルは『魔女に与える鉄槌』を肩に構えなおした。
タバコをその火で付けようとして、あっという間に先が炭化してしまって渋い顔をした。
「もう一発、いくかい?」
ステイルが『鉄槌』を振り上げるのと、ヘリの乗組員がヘリを脱出するのは同時だった。




ステイルの動きの裏で、光子は飛ばしたトラックでパワードスーツを一機落とすのと同時に、もう一機に迫っていた。
射線をステイルから外すために、一旦折れ曲がった経路を光子は走った。
「く、寄るな! 死ね!」
救助隊員にあるまじきことを口走りながら、男は光子に照準を合わせようとする。
この時点で、光子は一つ賭けに勝っていた。
もしパワードスーツの男が冷静さを失わず、そしてステイルを狙ったなら、それを阻害するために足元のコンクリートか手元のコインで相手の銃を狙わなければならなかった。
打ってからも照準の微調整が出来るのが光子の能力だが、細かい演算が必要で、自分のほうが足を止めてしまう。
その心配無しに走れるのは、とりあえずは僥倖だった。
だが賭けに勝ったから安全というわけではない。むしろ、自身の身をさらすという意味ではこちらのほうが危ない。
光子は自分に真っ直ぐ銃口が向いたところで、ダンと足を慣らして飛び上がり、能力を限界まで使ってブーストをかけた。
目標は、相手の少し上。肩口にでも手が触れられれば良かった。

――――ガガガガガッッッ!

パワードスーツが引き金を引いた。
当麻が見ていたらきっと卒倒するだろう。
ほとんど水平になった光子の体の下、1メートルくらいのところを銃弾が交錯した。
「はああぁぁぁぁっ!」
――タンッ!
光子の反撃は、始まりはいつも静かだ。能力の性質上、かならずチャージを必要とするのがその理由。
銃を持つ右腕の付け根、肩当ての部分に光子は手を触れさせて、そのままパワードスーツの後ろへと飛び去る。
慎重に着地を済ませ、光子は自分の足で安全圏へと走った。光子の体にはもう気体のチャージがないからだ。
本番は、この数秒間だった。自分の体も、相手の体も、吹き飛ばすにはあと3秒はチャージが必要なのだ。
もし、吹き飛ばすならば。
学園都市で武力を振り回す人間の常識として、敵に能力者がいれば必ず能力の概要と発動条件を探るというのがある。
パワードスーツの男とて、それくらいはわきまえている。
光子がチャージを必要とする能力なのはもう把握している。だから、男は悠長に構えたりなどしなかった。

「逃げるな! 死にな!」

男が振り向いて、光子に照準を合わせに掛かった。あと2秒のチャージタイムは、余裕で光子を殺すだろう。
それを理解した男の動きの端々には、勝者の余裕、いや油断があった。
それを光子は不敵に笑う。もう逃げも隠れも時間的に不可能だった。
腰と肩の関節をぐるりとやって、銃口が光子の方にあと少しで向くという、その瞬間。
――――バギン!
パワードスーツの間接が、音を立てて壊れた。
鈍重な装甲を生身の筋力では支えきれず、男はそのまま銃を腕ごとだらりと下げた。
「な、なんだ?」
「膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>、とでも申しましょうか」
悠然と残りの距離を走り、光子は銃弾の届かぬ車の傍へと逃げ込んだ。そして講釈をしてやる。
「はぁっ?」
「あらゆる材料には微細なヒビがある。その隙間に滑り込んだ流体は、その隙間を押し広げるように力を加えますの。その応力って、条件によっては1000気圧に届きますのよ? 金属材料でも、これには抗えません」
何も、固体の表面に空気を集めてぶっ放すことだけが光子の得意技なのではないのだ。
表面に集めた空気は容易に超臨界流体となり、液体の表面張力と空気の拡散速度を持った流体として、ほんの少しの亀裂や、あるいは亀裂でなくても金属材料の結晶粒界に滑り込み、それを拡張し、材料の剛性を著しく損ねさせることが出来る。
古代中国では、岩の亀裂に水で濡らした布と大豆を押し込み、その膨潤応力で岩を割っていた。こと狭い穴を押し広げる力に限っては、ダイナマイトと威力は同等なのだ。
膨潤応力を受けて亀裂を拡大し脆化した関節は、ほんの少し操縦者が振り回しただけで破断させる。
これが、目の前の男の身に起こったことだった。
「本当、トンデモ発射場なんて不本意なあだ名は、止めていただきたいんですけれど。貴方に言っても詮のない愚痴でしたわね」
光子は足元から砕けたコンクリート塊を拾い上げた。制御を失った手から反対の手で銃を回収するのに苦労するパワードスーツに向かって、それを飛ばす。
ガシャン! と集中的に健在だった左肩にぶつかり、パワードスーツは攻撃能力を失った。中の男も戦意を消失させたらしかった。
ふう、と光子はため息をついた。
「そっちも済んだかい」
「ええ。で、この方に運転してもらえばよろしい?」
「そうだね。とりあえず機械の中から出てもらおうか」
光子に合流したステイルが、病院でやったのと同じく、半壊のパワードスーツの中にいる隊員に暗示をかけた。
今から追いかけたのでは、先行した二台に追いつくことはないだろう。
「当麻さん、インデックス。それに御坂さん達も。……無事でいてくださいませ」
日が傾いて、夕暮れの雰囲気を出し始めた空を仰いで、光子はそう呟いた。

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あとがき
(2011/ 07/ 10 Sun)光子の使った技の名称を『膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>』と改めました。元の『膨潤応力<ソルベイション・フォース>』は学術用語そのまんまで、しばらく経ってからあんまり良くないなと思ったもので。
 尚、膨潤応力が関係した現象は色々ありますが、卑近な例では粘土と水の関係があります。乾いた粘土はサラサラとしたきめの細かい砂粒であり、二酸化珪素からなる二次元のレイヤーが積層した構造をしています。このレイヤーとレイヤーの間には水を蓄える力があり、乾いた粘土を水に接触させると、層間に水を吸着しつつ粘土は膨潤します。そして水を「つなぎ」にして砂粒同士は凝集し、皆さんが粘土といわれて思い浮かべる、捏ねて土器を作ったりできるような性質を示すようになります。粘土は物凄く値段が安いのでその遮水性や応力緩衝性の高さから工業的にも色々と利用されており、上手な利用のためには膨潤挙動の理解が重要です。卑近な例といえば長風呂で手がふやけるのも膨潤現象ですね。
 この他にも、二酸化炭素固定化技術の一つとして期待される、地中泥炭層への二酸化炭素封入が膨潤現象と関係しています。二酸化炭素と泥炭はものすごく分子間力が強いので、膨潤応力によって泥炭が変形します。そのせいで二酸化炭素を泥炭層へどれくらいの速度でどんな量を突っ込めるのかの予測が難しくなります。また、大型液晶ディスプレイの「光学的むら」が問題となっていますが、その原因が有機薄膜が空気中の水分を吸湿して膨潤するからだ、という報告もあるようです。
 膨潤現象はその解析が非常に困難です。以降、専門外の人にはさっぱりわからん話をしますと、膨潤現象を取り扱うためには、特殊なアンサンブルと自由エネルギーを定義する必要があります。ヘルムホルツの自由エネルギーであれば、分子数N・体積V・温度T一定のアンサンブルの平衡状態を記述できますし、ギブズエネルギーなら体積を圧力Pに変え、NPT一定のアンサンブルの平衡状態を記述できます。ところが膨潤現象を起こす系は、膨潤する側のホストの分子数Nhは一定ですが、入り込んでくるゲスト分子については個数でなく化学ポテンシャルμを指定する必要があるため、NhμPT一定というどう扱ったらいいのかわからんようなアンサンブルになります。そのため良く知られたヘルムホルツやギブズの自由エネルギーではうまく系の平衡を記述できません。現象としても複雑なため、膨潤現象の物理化学的、熱力学的な解析はあんまり進んでいません。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 09: 同じ世界の違う見え方
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/14 00:24

「ええいクソッ、こんなときに部隊の出し渋りなんて、それじゃあたしらは何のためにあるじゃんよ!!」

警備員<アンチスキル>部隊が運用するトラックの中で、黄泉川がガンと壁を叩いた。周囲の同僚達が何事かと振り向く。
きっと上に、圧力が掛かっているのだろう。テレスティーナ・木原・ライフラインが体晶を使ってやろうとしている何か。
それは随分と、学園都市のお偉方に気に入られているらしかった。
「高速道路の封鎖許可まで出すとはな……親玉はどんだけ上なんだか」
「あの、黄泉川先生。先行している学生というのは……」
「常盤台の高レベル能力者を中心に10名弱、だそうじゃんよ」
今、黄泉川が上層部から受け取った命令は、先進状況救助隊を襲撃しようとする学生を止めて来い、というものだった。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。なぜあの子たちが動いたのか。どれだけMARがいかがわしいのか、調べればすぐ分かることなのに。
制圧対象とされた学生達の名前を聞いて、黄泉川はやっぱりなとしか思わなかった。
春上の元にたびたび訪れていた初春たち、そして光子や当麻にインデックス。自分の見知った学生達だった。
ため息を一つついて、黄泉川は自分の苛立ちを整理した。警備員になって数年。
時折起こるこうした出来事に直面するたび、常に悩んできた。
不良の起こす瑣末な事件になら、警備員は完璧に対応できる。悪さをしたその子達自身とも向き合える。
だけど、こうして時折学園都市の暗部とでも言うべき事件が起こると、むしろ自分達警備員はその暗部の体のいい手先として、使われていることがあるのだ。
今回だってそうだ。排除すべき相手を守り、守るべき相手を排除する、そんな仕事を任される。
体晶に、子供達が食われそうになっていて警備員がそれを見過ごすなんて、絶対にあってはいけないのに。
子供達を非行から救い上げ、どうしようもない暴力から守り抜くのが、自分達の仕事なのに。
――せめて、やれることを。
黄泉川はそれを言い訳と分かっていながら、自分にそう言い聞かせるほかなかった。
「さて、我々の任務はMARに協力して子供たちを止めることですか?」
隣に座っていた同僚が、黄泉川に問いかけた。
薄く、ニヤリと笑った顔。黄泉川の考えていることを、分かっている顔だった。
「あのバカ連中にはお仕置きは必要じゃんよ。学生が荒事になんて、首を突っ込むべきじゃないからな」
「それは、そうですね」
「でも、それは後でできる。あたしらが一番にすべきことは、先進状況救助隊が、体晶を使った実験をしようとしているって噂の事実確認からだ」
「それがもし事実だったなら?」
黄泉川が顔をキッと挙げて、虚空を睨みつけた。
「先進状況救助隊の実験阻止を最優先に動く」
「まあ、この装備じゃ高速道路に展開した数部隊を止めるので精一杯ですけどね」
黄泉川が動かせたのは自分の所属する支部の隊員と、そして懇意にしている数支部の隊員だけ。
テレスティーナからより後方にいる以上、あちらが実験を始めるのに間に合わない可能性が高い。
この一件で、最も先を走り最も攻撃的なのは、警備員である黄泉川たちではなく、学生達だった。
良くないことだ。実験の阻止に失敗し、助けに行った彼女達も心と体に癒えない傷を負う、そんな最悪のシナリオも充分ありえるのだ。
光子や当麻に電話をかけて止まれと言ったところで、絶対に止まらないだろう。
……学生を先鋒にするなんて最低の大人だと思いながら、黄泉川は結局それを受け入れ、行動するしかなかった。




光に透かすと赤く輝くその結晶。手のひらにおさまるくらいのガラス製の円筒に入ったそれを、テレスティーナは優しげな瞳で眺める。
15年位前から、それは彼女の宝物だった。大好きな祖父で、敬愛する研究者である木原幻生その人が、テレスティーナに残してくれたものだから。
――――お前は学園都市の、夢になるのだよ。
テレスティーナの脳から体晶を抽出・精製するその直前に、祖父が残してくれた言葉がそれだった。
嬉しかった。大好きな祖父の力になれることが。学園都市の追い求めるものへと、なれることが。
……結果は、失敗だった。
テレスティーナが植物状態から1年近くかけてようやく目を覚ましたとき、そこにはもう祖父はいなかった。
遺されたのは、自分から取り出した体晶。
何度か祖父に会おうとしたが、祖父の秘書なのか、誰とも分からない人々に多忙を理由に無理だと言われた。
テレスティーナはそれをむしろ、当然だと思った。
思い通りの結果が出たなら、自分はまだ祖父の隣にいることだろう。だが、現実はそうではなかった。
テレスティーナから作った体晶では、駄目だったのだ。だからきっと、祖父は自分の手元に体晶を遺してくれたのだ。
自力で高みに登ってきなさい、と。きっと祖父はそうメッセージを、この体晶に込めてくれたものだと思っている。
テレスティーナは自分と体晶が等しくゴミとなったからまとめて捨てられたのだという、その事実に達したことは一度も無かった。
『体晶を使って生み出した暴走能力者がレベル6に至ることはない』という樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>の結論を、テレスティーナは知らなかった。
ひとしきり宝物を眺めて心を落ち着けたところで、身につけたパワードスーツからザッと無線の入った音がした。
「イエローマーブルよりマーブルリーダー。現着しました。これより搬入を開始します」
テレスティーナは最速で現地入りし、すでに実験のスタンバイを整えてある。
今の連絡は、枝先を初めとした13人の暴走能力者と、テレスティーナに成り代わって学園都市の夢になる春上衿衣が、ここ、第二十三学区の木原幻生の施設研究所へと到着したことの連絡だった。
ここまでは予定通り。問題は、こちらを追っている木山春生と常盤台の学生、そしてオマケの数名だ。
そちらは高速道路に展開した部隊が、足止めをすることになっていた。
「パープルマーブル。そっちの首尾はどうだ?」
「こ、こちらパープルマーブル。警備員<アンチスキル>がこちらに疑いをかけてきて、その、交戦中です!」
「あぁん?」
戸惑いと焦りにしどろもどろとなった部下の言葉を、テレスティーナはいぶかしむ。
たしか首尾としては、警備員はこちらの行動を最低でも黙認はしてくれるはずだ。
無線の向こうにも聞こえるよう、チッ、とテレスティーナは舌打ちした。
そういえば、警備員には黄泉川という名の、面倒くさそうな女がいた。
この件の警備員側の取り纏め役なのだし、体晶という言葉にも心当たりがあるようだった。
おそらくは、あの女の働きなのだろう。面倒なことをしてくれる。
「警備員なんてどうせ殺傷装備も持ち合わせてない雑魚だろうが。三分で殺れ」
「は? やれ、って。警備員を敵に回すなんてそんな無茶な」
「テメェは私と警備員とどっちを敵に回したいんだ? 言われたことはさっさとやれ!」
「りょ、了解――」
返事を聞くより先にスイッチを切る。
全く、困ったことを言ってくれる。パープルマーブル隊が機能しないとなると、ここまで連中が素通りでやってくることになる。

「ドイツもコイツも無能ばっかりかよ。ったく。レベル6にたどり着く人間以外、全部どれもこれもゴミなんだ。踏みにじるのに躊躇なんざしてどうする。 イエローマーブル隊! 指示が無くても手順は分かるな?! 私はアレで出る」
「了解しました」
どやされたパープルマーブル隊を意識してのことだろう、実験の準備をするイエローマーブル隊は小気味の言い返事をした。
テレスティーナはパワードスーツのバイザーを下ろし、きちんと武装をする。
そしてそれを着たまま、パワードスーツより二回り大きなその機体に、目をやった。
無骨な足腰、そしてニッパー状の両手。パワードスーツの上から着る仕様の、建築・工作用機械だった。
ブルーカラーの労働力が慢性的に不足する一方でエネルギーとテクノロジーが余っているこの街では、建設にはこうした機体が借り出されることがよくある。
祖父、木原幻生はこの研究所の建設・メンテナンスのためにという名目で用意したのだろうが、この機体には建築と工作に必要な高出力以外に、俊敏さまで備えた整備と改造が施されている。
木原幻生も単に、工作機械としてコレを導入したのではないことは明白だった。
「邪魔な羽虫はさっさと潰しておかないとな。プチっとよぉ」
テレスティーナは上機嫌に、大きな機体のコックピットを目指した。
十年来の夢が、今、叶うのだ。
「お爺様。私が、学園都市の夢を叶えて見せますから……!」
人知れず、テレスティーナは純真な少女のように、そう一人呟いた。




無人の高速道路を、木山の駆る青いスポーツカーが疾走する。
MARが高速道路を勝手に封鎖してくれたのは幸いだった。おかげで開いていた差を、かなり詰められた。
「あと10分くらいで高速の出口ですね。降りてからはすぐです」
「そうか。その10分というのは、あちらの邪魔が一切入らない場合の数字だな?」
「はい」
初春が言ったのは単純に距離を時速で割っただけの数字だった。
木山が気にしているその通りに、おそらくは妨害があることだろう。
「急ぎだし、時間通りの進行でいきましょう」
「だね」
茶化して言った佐天の言葉に、美琴が同意する。
カタカタとキーボードに数値を打ち込んだり映像を複数再生したりと忙しない初春が、よしっ、と呟いて顔を上げた。
初春なりの、解析結果が纏まったらしい。
「向こうは、高速出口の手前にある、別の線とのインターチェンジで待ち構えているみたいです。そこを塞げばこちらに逃げ道ないですから」
「バリケードはあるの?」
「金属の格子で作ったバリケードはありません。さっきと違って、この車は脇道のほうじゃなくて本線を走りますから」
先ほどバリケードで塞がれたのは、別の線へと乗り換えるための一車線の道だ。
確かに、三車線ある本線を丸ごと封鎖は出来ないだろう。
「じゃあ、この広い道をどうにかして塞いでるってことかな」
「二台のトラックを横にして道をかなり塞いでますね」
初春のディスプレイには、一車線ぶんくらいの隙間を残してトラックが道を塞ぎ、残った隙間にもパワードスーツが展開している光景が映し出されていた。
それを見て、美琴は木山に問う。
「パワードスーツが塞いでる隙間なら、抜けられる?」
「可能だ。こちらの時速を見れば向こうは回避するだろう。でなければ死ぬ」
「無人機で塞いでたら?」
「その場合は君達の援護がいるな」
「私が超電磁砲<レールガン>で隙間をこじ開けるか、佐天さんに飛ばしてもらうか、二択ね」
佐天はその発言を受けて、すぐさま軌道の演算に入る。
パワードスーツの高さは2.5メートル近くだ。それを飛び越えるのは先ほどより大変だが、可能だろう。
「御坂さん」
「何?」
「銃弾、止められますか?」
「金属なら、逸らせるわね。この車にむけて飛んでくるヤツ程度なら防ぎきれる」
「じゃあ御坂さんの仕事はそれですね」
「ま、そうなるわね。一番の懸念はあっちからの銃撃だし」
「銃弾、というが。レベル5の君はある意味で人質みたいなものだろう。おいそれと君を死なせるような判断をするだろうか」
確かに、レベル5は学園都市の顔であり、金のなる木だ。そうそう簡単に死なせられはしない。
だからその木山の考察を、つい昨日までの美琴なら真剣に受け止めて考えもしただろう。
だが、あの忌まわしい計画の、名前を知ってしまったら。
「テレスティーナは別にレベル5に執着なんてしないわよ。今から、それ以上の高みを、アイツは目指す気でいるんだから」
「それ以上……?」
美琴の言っていることを理解できないのか、ぼんやりと佐天が復唱した。
レベル5は、学園都市がこの数年でようやくたどりついた高みだ。
レベル4までの能力者とは一線を画す、天賦の才の持ち主。
それより上なんて、それは。
「佐天さん」
「は、はい」
「さっきみたいに乗り越えられる?」
「私なら大丈夫です。御坂さん。アレくらいのことなら、あと10回はいけますから」
「10回ね。それだけあれば充分でしょ。……佐天さん、レベル3はあるね」
「そうですね。自分でも、自覚はあります」
「うん。頼りにしてる」
美琴が佐天に、ニッと笑いかけた。その笑みが、美琴の隣に立てたことが、嬉しい。
佐天は、自分の実力を謙遜しなかった。さっきだって、窮地を脱する力があることを証明できたから。
「御坂さんは防御に専念してください!」
「わかった。初春さん、あとどれくらい?」
「ちょうどですね。もうすぐ、見えてくると思います」
美琴と佐天は、シートベルトを外した。急ブレーキでも踏もうものなら、きっと大変なことになるだろう。
だがそういう危険に目を瞑り、二人は、来る一瞬に備える。
運転手の木山が声を上げた。目視で、敵方を捉えたらしい。
「見えたな。あれか……」
「はい。最後の追撃部隊ですね」
「トラックの数がおかしくないか?」
「えっ?」
初春は、慌ててディスプレイの情報と目の前の光景を照合する。
監視カメラからの映像は一分くらいはタイムラグがあるのだろう。
どうやら一台、つい今しがた増えたらしい。
「MARじゃない……?」
「そのようですわね。あれは警備員のロゴですわ」
どういう状況なのかと白井はいぶかしんだ。敵なのか、それとも味方なのか、それが問題だ。
不意に、ピリリと白井の携帯がコールを訴えた。繋ぎっぱなしの上条を保留にしてそちらに出る。
「はい」
「白井か? 警備員の黄泉川だ」
「黄泉川先生?」
「そっちからあたしらの車両が見えてるじゃんよ?」
「え、ええ」
「手短に済ます。これは警備員として言ってはいけないことだけど。……頼む。あの子たちを、助けてやってくれ。目の前の連中はコッチで何とかするじゃんよ」
苦渋がにじみ出たような、そんな声だった。学生に危険分子排除の尖兵をさせるなんて、確かに警備員の理念の間逆だろう。
でも、レベル5の能力者を擁するこちらのほうが、確かに駒として上だった。
「一人の教師である黄泉川先生が、学生をそうやって案じてくださることを嬉しく思います。背中は預けますから、どうぞこちらを信頼してくださいまし」
「ああ、頼む」
白井はそれだけで、会話を打ち切った。
もう、パワードスーツの部隊まで200メートルくらいだったから。
「木山先生、車、右に寄せてください」
「右? それはいいが、どうする気だ?」
三車線ある高速道路の両端を、トラックが塞いでいる。
そしてトラック同士の間にあいた隙間を、パワードスーツの部隊が固まって塞いでいる状態だった。
トラックよりはパワードスーツのところのほうが背は低いのだし、そこを狙うものと木山は思っていた。
佐天の答えはシンプルだった
「対向車線側にはみ出します」
「佐天さん!? あっちは封鎖されてませんから、対向車と正面衝突しかねませんよ?!」
「大丈夫。べつに、対向車線を走るわけじゃないから。ちょっと説明してる時間ない! 木山先生、言う通りにしてくれますか?」
「壁に向かって走るというのは中々精神的に負担のかかる行為なんだがね」
フウ、と木山が呼吸を整えて、正面を睨みつけた。
「速度は?」
「さっきと同じで」
「わかった」
多くを木山は問わなかった。
ただ、アクセルをクラッチみたいにガンと踏みつけて、中央分離帯に向かって車を加速させた。




パワードスーツを着た男が、焦った表情で黄泉川に怒鳴りつける。
「だからあの車を止めるのが任務だと言っているだろう!」
「学生の乗った車を銃撃するような真似を任務にする部隊は学園都市にはない!」
黄泉川は自分の言が嘘だということを知っている。そんな非道な部隊くらい、きっと学園都市には山ほどある。
「学生だとはいうが、能力でバリケードを越えてくるテロリストだぞ!? こちらの安全を考えてくれ」
「お前等の何処に大義名分があるって言うんだ! さっさとテレスティーナ・木原の計画について聴取を始めるぞ!」
「勝手に所長を呼び出してやってくれ! こっちは仕事があるんだ!」
「おい! パワードスーツを動かすな! そっちがその気なら、こちらも動くしかないじゃんよ!」
「いいからやれ! 所長にどやされたいのか!」
リーダー格の男が、黄泉川から視線を外し、部下のほうに振り返って指示を出した。
封鎖した高速を走ってくる青いスポーツカーは、もうすぐそこに迫っている。
あれを止めねばここにいる全員、すなわちマーブルパープル隊はテレスティーナに殺されかねない。
町の公権力よりも、自分達のボスの非道さのほうが恐ろしいことを隊員達は理解していた。
躊躇の感じられる動きだったが、それでも5機のパワードスーツは、銃を持ち上げるのを止めなかった。
それを見て黄泉川は、さあっと瞳に怒りを走らせる。学園の名を冠するこの都市に、こんな出来事があってはならない。
子供達が夢を叶え幸せになるための町なのに、それを弄ぶような人間は、いてはいけないのだ。
「パワードスーツの連中を制圧する! 子供達に怪我なんてさせちゃいけない!」
「了解」
黄泉川の後ろに控えていた警備員達もまた、黄泉川と意志を同じくしていた。
町を巡回する美観・治安維持用ロボットを先行させて盾にしつつ、警備員のメンバーはパワードスーツが狙う美琴たちとの射線の間に、自分達の体を割り込ませた。
「あっちは子供に銃を向けてるんだ! 遠慮なんて要らないじゃんよ!」
「当然です!」
パワードスーツに乗った隊員たちがスポーツカーに照準を合わせようと、警備員を振り切るよう鬱陶しげに動く。
だが局地戦で細かな動きでマーカーを振り切るのに、パワードスーツは不都合だった。
慣性の法則を捻じ曲げる力は、超能力者にしかない。パワードスーツを着るということは、慣性を増やし、鈍重になるということだ。
それをもちろん出力で補ってはいるが、細かなストップアンドゴーにおいては、生身にパワードスーツは叶わない。
警備員達は、盾を用意しているとはいえ生身だ。パワードスーツから発砲されれば無事ではすまない。
だが、隊員達はその選択肢を選べなかった。警備員は、警備員を傷つけた相手を、決して許さない。
傷つけたのがチンピラ学生なら話は別になる。だが、学生に仇(あだ)なし、そして警備員にも仇なした相手には容赦がない。
上からの指示で今はこの目の前の数人以外は押さえつけられているが、この数人に手を出せば、あっという間に自分達を追い詰める猟犬は100倍に膨れ上がるだろう。
それを隊員たちが恐れているのを知っているから、警備員達は自分の身を、果敢にさらしているのだった。
「クソッ……近いぞ! 抜けさせるな!」
「やらせるか!」
スポーツカーは、もう視界の中で充分な大きさを主張している。ここに到達するまで、もう数秒だ。
黄泉川は目の前のパワードスーツに、非殺傷用の銃弾を躊躇わず発砲しながら、僅かに振り返ってその車の動きを見た。
「くっ、邪魔するな!」
「お前らこそ子供に銃なんてむけるんじゃない!」
「ガキは使い潰すもんだろうが! それが学園都市だ!」
「そんなこと、あたしが許さない!」
ギャリっと、タイヤが歪みながらアスファルトを蹴りつける音が聞こえた。
突然直進していたスポーツカーが、中央分離帯に向けて進行方向を曲げた音だった。
「なっ?!」
黄泉川は一瞬、それに絶望する。タイヤが銃で狙われ、パンクしたのだと思ったからだ。
このスピードでその事故は、あまりに致命的だ。
パワードスーツなど何の関係もなく、それは搭乗者を死に至らせる。
バカにしたように、ハンとパワードスーツに乗った男が笑った。
――――だがそれは、ただの勘違い。
スポーツカーから、髪の長い女の子が、上半身を出した。
黄泉川はその姿を見て、駄目だ、と叫んだ。
突然の出来事に、おかしな行動をとったのだろうか。
駄目だ、あんなことをしては、助かるものも助からない。
そんな黄泉川の心配をよそに、その少女、佐天涙子は目を細めて真っ直ぐ前を見詰めていた。
呼吸すらままならない風速に耐えながら、佐天が手を虚空にかざした。
黄泉川も、そして隊員も、判っているようで判らないことがある。
超能力者とは、つまり自分達とは違う、パーソナルなリアリティに生きる人間なのだ。
同じ世界を共有しながら、それを見るためにかけた眼鏡が全く違うのだ。
空力使い<エアロハンド>の佐天が生きる世界においては、佐天の行動は奇異なものでもなんでもない。


――――ガッ、と空気の軋む音がした。


「なっ?! そんな、空力使いだと?!」
隊員が驚きながら、そう叫んだ。無理もない。黄泉川だって知らなかった。
あそこに、あんな高位の空力使いがいるなんて。
そうか、アレが婚后の教え子か、と場違いに黄泉川は感心した。
スポーツカーが、その巨体をものともせず、跳躍した。
「対向車線に出る気か!?」
黄泉川は思わず叫んだ。
MARが封鎖したのは、こちらの車線だけ。スポーツカーが向かう先には、沢山の対向車。
だが黄泉川の視界の先で、佐天が地面に向けて何かを放った手を、再び振りかざした。
空気を吸い込み、集めるように。掃除機なんかよりずっと暴力的に。
見えない壁を佐天が掴んだみたいに、スポーツカーの軌道が、直線ではなくなった。
その軌跡はブーメラン。中央分離帯という仕切りを斜めに飛び越え、MARのトラックという障害物を回避して、そして再び空中で方向を歪めながら、そのスポーツカーは元の車道上へと、その進行方向を戻した。
「なん……だと? クソッ、抜けられた! 追え!」
「無茶言わないで下さいよ! コッチには高機動パッケージはないんです!」
「それでもやれよ! 所長に殺されたいのか?!」
黄泉川の前で隊員たちが失敗に歯噛みしていた。
スポーツカーは、速度を一度も緩めなかった。
一秒で40メートルを走破するその速度によって、あっという間に銃の射程外へと逃げたのだった。
「……やるじゃん」
自分の心配が杞憂だったのを、黄泉川は軽く笑った。
「すまん。学生を前に出すなんて、駄目な警備員だ」
聞こえないのを判っていて、黄泉川はスポーツカーに乗った子供達に、そう謝った。
せめて、自分はここの後始末をきっちりつけないと。
混乱する隊員達に銃を向け、黄泉川は自分が次にすべきことを、為し始めた。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 10: 渦流共鳴 - Vortex Resonance -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/19 00:49

「佐天さん、グッジョブ!」
「へへ。木山先生、車、大丈夫ですか?」
「ああ。少なくとも残りを走りきるのに不安はなさそうだ」
ドキドキと心の高鳴りを伝える心臓を沈めながら、佐天は美琴に微笑を返す。
車にも、あまり負担をかけずに済んだようだった。
調子がいい、と佐天は思った。
別にいつもと比べ、それほど出力や制御がいいわけではないが、いつもどおりを土壇場でやれるのは絶好調だと言えるだろう。
このドライブの目的は春上たちを助けることで、失敗すれば、沢山の不幸を招くことになる。
だから楽しいなどと思うのはきっと不謹慎なのだが、佐天は逸る心を抑えるのに必死だった。
「あと、残ってる部隊はある?」
美琴が初春に問い直す。
コレで終わりなら、ほとんど消耗せずに本拠地に乗り込める。
あまり本調子ではない美琴にとっては、ありがたいことだった。
「結構調べましたけど、多分あれで終わりだと思います。ただ、木原幻生の私設研究所のほうに装備があれば、何かしてくるかもしれませんけれど」
「そう。とりあえずは、しばらく体を休めてればいいのかな」
「そうですわね――――?!」


ズガンッ!!!!!
白井が相槌を打つより先に、突如、重たい音と振動がスポーツカーに伝わった。


「一体何?! パワードスーツは振り切ったはずじゃ」
「違いますわ! お姉さま、後ろ!」
「え? ってなによアレ?!」
衝撃は、コイツの着地音だったのだろう。
スポーツカーの後ろを、巨大な二足歩行型のロボットが走っていた。距離は50メートルくらい、後方だろうか。
安全第一と書かれた外装をまとい、カニバサミ型のアームを持っている。
見かけはよくある、学園都市製の建築・工作用機械だった。
「ったくよォ、使えねえ部下を持っちまうと、苦労するよなぁ」
「この声、テレスティーナ!?」
スピーカーから響いた声で、その大型機械の搭乗者が誰なのか、美琴は理解した。
佐天が、窓を開けて後ろを覗き込む。
「あれが、テレスティーナ……?」
「ええ。たぶん、あの口調が地なのよ」
美琴を除く四人は、汚い口調のテレスティーナの声を聞くのは初めてだった。
つい昨日まで、優しげに接してくれた人の声とは到底思えなかった。
「ほんっと、ちょこちょこといつまでも付きまとう羽虫ったらうぜーよなぁ。ここまで来た事は褒めてやるからよ、テメェらさっさと、逝っちまえや!!」
聞こえないだろうから当然だが、テレスティーナはこちらの返事を待たなかった。
工作機械がその腕を振りかぶる。こちらからの距離はかなりあるし、腕が届く距離には見えなかった。
だが。
「佐天さん! アレ、たぶんアームが飛んでくる!」
「御坂さん止められますか!」
「っ……地上なら、そりゃなんとか。でも車の上は結構キツい。佐天さんは?」
「私も威力を落とすのは出来そうですけど、完全に止めるのは無理そうです」
「じゃ」
目配せをして、コクリと頷きあう。
「二人でやりましょうか!」
後部座席、左右の窓から美琴と佐天は身を乗り出した。
スピードを落とせばそれだけ時間のロスになるから、木山にはブレーキを踏ませない。
「ほうら行くぞ。上手く避けないと、ブッつぶれちまうぞォ?」
笑いながら、テレスティーナはそう宣告した。
振り上げた腕を、すっとこちらに向けて振り下ろした。
「そォ、れっ!」
バン、という音と共に、1メートル近い鋼鉄のアームがスポーツカー目掛けて飛んできた。
「佐天さん!」
「――はい! 止まれぇぇぇぇっっっっ!」
能力をフルに解放して、佐天は気体を集めていた。それを、飛んできたアームの正面で、解放する。
ボワァァァァァン!
初めに、膨らむような音がした後、すさまじい破裂音が美琴の耳を叩いた。
音速に近い勢いで膨らんだ空気が音を鳴らしたのだった。
いつか佐天が、初春と春上に倒れ掛かる電灯を払いのけた時には、佐天は渦を手元で制御していた。
この場合は佐天の腕にも破裂の衝撃が行くが、今みたいに体から離して使えば被害は減らせるのだった。
だが気体の膨張仕事を逃がす先が多い分、エネルギーのロスは多くなる。
止め切れなかったアームが、スポーツカーに伸びてきた。
「佐天さん、ナイス」
防壁は、二段構えだ。美琴はアームに向けて手を伸ばした。
美琴から放射状に形成された電磁場が、美琴とアームの間に斥力を生み出す。
馬鹿にならない質量だったが、スポーツカーの手前で、アームは相対速度を失った。
ガランガランと地面を転がりながら、スポーツカーからアームが遠ざかる。
「ほぉ、頑張るじゃねぇか。それなら、真上からはどうだ?」
受け止められたほうのアームを有線で回収しながら、もう片方をテレスティーナは投げつける。
狙うはスポーツカーの上空、そして充分に飛んだところで、アームの回収ワイヤを引き寄せた。
放物線が歪んで、大体真上からアームが落ちてくる。
「くっ! 邪魔!!」
「さぁ二発目はどうだぁ? お、やるじゃねーか」
佐天が歯を食いしばって渦を巻き、アームにぶつける。
アームそのものがそこまで鈍重でなくて良かった。これで車並みに重ければ、どうしようもなかった。
佐天がアームの落下速度を殺したところで、美琴が電磁場を操ってそれをスポーツカーの横に逸らして落とす。
背後から一直線に襲われても、投げ落とされても、どちらも防御に掛かる労力は大差なかった。
……大差ないというのは、どちらにせよ何度もしのいでいる内に疲弊していく点では同じ、ということだ。
「初春! あとどれくらいでつくの?!」
「このスピードで10分です!」
「そんなに?!」
「佐天さん、厳しい?」
「だって、このままじゃ1分に4発ペースですよ!」
「そうね」
とはいえ、あちらが一方的に有利というわけではない。
高速を降りればこの工作機械は身動きがとりにくくなる。つまり、美琴たちが高速道路上にいるうちに仕留める必要があるのだ。
一方、美琴たちはそれを乗り切ればよいのだが、疲弊してしまえばただの女子中学生になる。
研究所に立ち入って春上たちを助けるには、演算を続ける集中力を残しておかねばならない。
「私と佐天さんじゃ、止めるのが目一杯か」
「お姉さま」
白井が美琴に声をかける。
美琴は、その声に含まれた響きだけで、白井の言いたいことを理解した。
「……私が、最後にあのアームを止めればいい?」
「! はい! 要は回収用のあの釣り糸を切ればよろしいのでしょう?」
「そうね。でもアンタ、乗り物の中から物を狙うの、苦手でしょ」
「ええ。でも、私だって日々進歩してますもの」
「そ。じゃあ、任せたからね」
「はいですの!」
白井は美琴に愛想良く返事をして、佐天を視線を交わす。
美琴の相棒は譲らない、そんな不敵な笑みを浮かべていた。佐天も白井に同じ笑みを返す。
そして視線を戻すと、テレスティーナが、また腕を振り上げていた。
「あぁ、面倒すぎる。まったく、お爺様ももっとちゃんと武器は残して置いてくださったらよかったのに。そら、さっさと潰れろよ! ちょっと変化つけてやるからよぉ!」
テレスティーナが先ほどと同様、こちらに向けてアームを構える。
そして先端にある二本の鉤爪を、グルグルと回転させた。
触れると危険なくらいの回転速度になったところで、再び射出した。
「くっ……一発目!」
佐天は、右手に蓄えた渦を、アームに突き出す。
流れをかき乱すその動きは、佐天の渦の威力を半減させるものだった。
テレスティーナもそれを見越してやったのだろう。
その渦だけでは、アームはそれほど速度を落とさなかった。
「二発目!」
佐天の左手から、蓄えていたもう一発が解き放たれる。
一発だけの渦より制御が甘いから個々の威力は落ちるが、二発トータルではさっきを上回れる。
もちろん、精神的疲弊が大きいこととの、引き換えなのだが。


ボワァァァンッッッ!!!


今度こそ、アームは回転も推進力もすり減らして、ふらふらと美琴たちに近づいた。
補足するのは簡単だった。美琴が、磁束を手のように伸ばして、それを捕まえる。
「黒子!」
美琴の呼びかけに、黒子は返事をしない。
そんな余計なことにリソースを割かず、黒子は後部座席で後ろを向いて、車の床につま先を立て膝を座席に触れさせた状態でじっとアームを見据えていた。
理由は簡単。車が伝える地面の振動を、つま先と膝をクッションにして目と脳に伝えないためだった。
白井黒子を初めとするほとんどの空間移動能力者<テレポーター>は、ある絶対的な縛りを課せられている。
それは、かならず自分自身を原点にとらなければならない、という制約だ。
その制約は、いくつかの条件下では、かなりのマイナス要因として働く。例えば車内にいる今がそうだった。
白井は車と一緒に、地面に対して揺れている。
その白井を原点に採るということは、つまり地面こそが揺れている、と演算式上では扱われるということを意味している。
ただでさえ蛇のようにのたうつワイヤーに、自分自身の揺れまで加算して、演算しなければならない。
それが50メートル以内ならミリ精度で飛び道具の行き先を調整できる白井をして、ワイヤーの狙撃を困難にするファクターだった。
「――ふっ!」
呼吸を止めて、白井は手元の金属棒を空間転移させる。
手元に弾はたっぷりある。惜しまず、10本をまとめて転移させた。
「どうです!?」
結果を白井は美琴に問う。後部座席中央では、その成果は良く見えない。
キンキン、と澄んだ音と共に白井の愛用する武器が金属ワイヤの辺りで音を立てたのが、美琴の耳には届いた。
白井の空間転移は、転移先の物質を押しのける形で発現する。今の金属音は、白井の金属棒がワイヤに突き刺さった音だ。
それを合図に、美琴はアームを無造作に投げ捨てた。
「御坂さん!」
「大丈夫」
テレスティーナがアームを回収しかけたところで、バツン、とはじけるような音と共に、アームがワイヤーから引きちぎれた。
「あ? なんだよ」
「やった!」
「黒子。ナイス」
「黒子に掛かればこの程度、お茶の子さいさいですわ」
ガランガラン! とすさまじい音を立てながらアームが後方に流れていく。
高速で追いかけっこをしながらのことだから、落としたものはすぐさま消えていくのだ。
「もう一回いける? 黒子」
「当然ですわ!」
「あー、ったく、往生際の悪いクソ虫どもだ。まだこっちには一発残ってるんだよォ!」
テレスティーナがスピーカー越しに愚痴を呟きながら、残る片腕を、工夫無く振り上げた。
そんなもの、美琴と佐天、そして白井の敵じゃない。
「今更すぎんだよ! とっくに実験は始まってるし、もうすぐ春上衿衣は高みにたどり着く。テメェらにもう出番なんざねぇんだよ!!」
「嘘です! 枝先さんたちを運び入れてまだ15分です。まだ実験なんて始められるわけありません!」
テレスティーナの言葉に、初春がすぐさま否定を返した。
その声はテレスティーナ自身に届くことは無いが、佐天や美琴には届く。
「落ち着いてあれを落としてください! テレスティーナがいなければ、どうせ実験なんてまともに進まないはずです!」
「それは、まかしといて、初春」
それは初春の願望も混じってはいた。だが、断言してしまえば、人は自ずと前に集中するものだ。
初春に佐天が笑って言葉を返した。目の前で、テレスティーナが残った左腕を飛ばした。
「来ます!」
「うん!」
「了解ですわ!」
佐天が、再び両手に蓄えた渦でアームの威力を殺ぐ。そして美琴が電磁場でそれを留め、白井が切断する。
もう一度、綺麗な連係プレーが成立してアームは本体から断裂した。
「やった!」
「! 違います御坂さん!」
「なっ!」
三人の努力の裏を掻くように、テレスティーナは速度を上げ、機体をスポーツカーに肉薄させた。
美琴は、咄嗟にポケットからコインを取り出そうとした。それが、一番威力があって、一番速く出せる技だから。
だがスポーツカーのウインドウから半身を乗り出した、不自然な格好からはコインが上手く取り出せない。
まごついた数秒は、命取りだった。
「詰めが甘かったなぁ。本体を沈黙させてないのに、やったぁ、は早すぎんじゃねぇの?」
ニヤニヤとした、テレスティーナの嫌味な笑み。
美琴の不手際の間に、テレスティーナの駆る工作機械は、肘より上しかない腕を振り上げた。
この距離なら、もはや遠隔アームなどいらない。直接潰せるからだ。
「アンタにはやらせない!」
そう叫んだ佐天を、テレスティーナは眼中に捉えていなかった。それはレベルという序列に基づいた行動だった。
レベル5の美琴が身動きできない環境を用意すれば、勝ちだと思って無理はない。
もちろん、それはテレスティーナ側の慢心だった。
佐天が、車と工作機械のコックピットの間、僅か3メートル位の空間で最大出力の渦をブチ撒けた。
直径1メートル、圧縮率100の高エネルギー弾。それが、スポーツカーと工作機械に、襲い掛かる。


バァァァァァァァンン!!!


ビリビリと後部座席の窓が震える。割れる不安を感じるレベルの揺れだ。
思わず白井と初春は目を瞑り、木山は車のスリップに備えた。美琴も吹き飛ばされない努力で精一杯だった。
突然のその一撃から数秒、白井は我に返り、周囲を見渡した。
気づくと、佐天がいるべき隣の座席に、その体が見当たらなかった。
「佐天さん……佐天さん?!」
「えっ?!」
「な、まさか?!」
前方にいる木山と初春が、佐天の姿が見えないことに戸惑った。
状況をつかめない三人をよそに、美琴がぽつんと呟いた。
「飛んでる……」
「え?」
白井は、窓越しに後ろを見た。爆発に巻き込まれ、また工作機械は十数メートル車から離れていた。
そして車とテレスティーナの間には、足を地に向け巨大工作機械に相対する佐天。
「そんな……佐天さん! 危険ですわ!」
こんな無茶、レベル4でも早々はやらない。いや、やれない。
バサバサと髪を、セーラー服を、スカートをはためかせながら。
佐天は、空に浮いていた。
「佐天さん! 戻って! この距離ならレールガンで!」
だがその声は、遠く離れた佐天には届かなかった。
それにレールガン一発でどうなるものでもないのも事実。
佐天が、何をする気なのか、それが美琴には読めなかった。
「ふぅっ!」
佐天は、息を整えて、前、いや後ろを走るテレスティーナを見つめた。
いつになく、神経が研ぎ澄まされているのが判る。
何しろ、今佐天には、浮いた自分の目の前にカーペットが見えるくらいだから。
車という物体は気流をかき乱し、その後方に連なった渦を生成する。
カルマン渦と名づけられたそれは、束ねた孔雀の羽模様みたいに渦の目を鈴なりに作るのだ。
木山のスポーツカーは、そんなおあつらえ向きの、鈴なり渦のカーペットを用意してくれていた。
佐天はその全てを一つ一つもぎ取り、自分の渦にする。
それだけでもう、空力使いの自分にとっての足場が、空に出来上がる。
自分という空力使い<エアロハンド>は、飛翔は苦手だろうと佐天自身も思っていた。渦で空を飛べれば苦労しない。
だが、応用次第では空を翔ける少女になら、なれるのだ。
ダンダン!と踏み締めるごとに渦を消費しながら、佐天はテレスティーナに肉薄する。


「あん? テメェ、殺されたいのか?」
爆発に振り回され、一時的に視界を失っていたテレスティーナが再び見たものは、アップで映る佐天の姿だった。
それを見て、テレスティーナは戸惑った。たかだかレベル2の能力者が、一体この工作機械に近づいて何をする? 何が出来る?
そのテレスティーナの混乱を、慢心とは言うまい。
佐天の伸びを正しく理解しているのは、この世でただ二人、佐天自身と婚后光子だけだった。
「――――ふ、やぁっ! ……いったぁ」
スポーツカーと工作機械と佐天。この中で推進力を持たず、空気抵抗によって減速するのは佐天だけだ。
僅かについた工作機械との相対速度を、機体から出た落下防止用の手すりに掴まることで強引に殺す。
佐天の細腕がビキビキと悲鳴を上げた。どう考えても、明日は腕の筋肉痛で苦しむことになりそうだった。
今、佐天が掴まっているのは工作機械の腰のスカート辺りだった。
すさまじく大きな機体だけあって、佐天が掴まって体を寄せられるだけのはしごがついている。
「そんなところにいて、テメェ、休憩する余裕あんのかよ?」
「そっちこそほっといたら御坂さん達、着いちゃいますよ?」
「テメェを始末するのに時間なんかいるかよ。乳臭いガキが英雄気取りか?」
短くなってしまった腕でも、充分に届く位置に佐天はいる。
腕で自分の腰を叩けば工作機械は傷つくだろうが、人間を引き裂くのに必要な力なんて大したことはない。
テレスティーナは腕を振り上げた。その一瞬のロスで、佐天には充分だった。
テレスティーナの油断を鼻で笑いながら、佐天は空に手をかざした。
静かに流れていた空気は、その手に触れることでかき乱され、内在していた駆動力を解放してやる。
真夏の高速道路上の空気には、エネルギーがたっぷりと詰まっている。
太陽で熱された地表の空気は上空よりずっと熱くて、つまりそこには温度差という名の駆動力が山ほど眠っているのだ。
何も無ければ、緩やかな対流でその駆動力は消費されていくのだが、時折、大気はそれとは全く違う運動モードで、エネルギーを消費する。
その現象の名を、渦という。
――――そう、渦なんて、特別なことをしなくてもいくらでも出来るんだ。この高速走行する機体の傍なら。
佐天の腕から指先までがかき乱した大気、それを少しだけコントロールして、佐天はテレスティーナに『干渉』した。


ガタガタガタガタン!


突然、テレスティーナが振り上げた腕が酷い振動を起こし始めた。
コックピットの中でパワードスーツまで着込んでいるテレスティーナの耳にまで、その異様さがはっきりと判るほどの騒音が鳴り響く。
テレスティーナは何事かと腕を止めた。むしろそれが命取りだった。
――――ガタガタ、バキン!
それは予想だにしない出来事だった。右腕が、肩から先を折って吹き飛んだ。
そして失ったパーツはあっという間に後方に流れ、テレスティーナは佐天へ攻撃する術を失った。
「何?!」
「渦流共鳴<ボルテクス・レゾナンス>とでも申しましょうか、なんちゃって」
ちょっと高飛車な感じの師の口癖を真似て、佐天はそんな風に言った。
「おうちに帰ったらタコマ橋でググってみるといいですよ!」
佐天がしたことは、自らの腕を使ってカルマン渦を発生させ工作機械の脇の下をくぐらせる、というものだった。
カルマン渦は、固有の振動数を持っている。
それが対象物の持つ固有振動数と一致する場合、渦は物体と共鳴を起こし、すさまじい応力を物体にかける。
それは、かつて川にかけたコンクリート製の大橋すら崩壊させたほどの、渦を基点とした破壊現象だった。
高速で走る複雑な形状の物体、つまりこの工作機械にはうってつけの技だ。
佐天は、ぐっと拳を握った。
渦を使うということは、何も自分で無から渦を巻かなければいけないということではないのだ。
自然の力が使えるなら、それを利用すればこの工作機械の太い腕ですらへし折れる。
「で、どうする気?」
挑発するように、佐天はテレスティーナに声をかける。
「テメェ……殺す手段が他にないと思うなよ?」
「そっちこそ、あたしがコレやりたくてこっちに来たと思ってんの?」
「あぁ?」
「春上さんたちのところに、あなたを行かせない!」
「雑魚がいっちょまえに吼えてんじゃねぇよ!」
「学園都市の学生を見下すことしか出来ないあなたには、成長って言葉の意味は判らないんだね!」
佐天はもう一度、腕を伸ばして鈴なりのカルマン渦を使り、それを能力でもぎとった。
10を越える渦が佐天の傍で揺らめく。屈折率が揺らぐほどの、高圧渦流だった。
腰というのは、機体の重心なのだ。それは二足歩行するシステムの基本だ。人間でもロボットでも代わらない。
そして、重心には重たいものが来る。人間で言えば太い胴に詰めた内臓、特に膀胱であり、このロボットにおいては、エンジンだった。
「学園都市でも、コレだけ大型の機械を動かすための動力に電気は使わない。さっきからディーゼルが排ガス出してるもんね。じゃあ問題です。エンジンにきちんと空気が供給されなくなったら、どうなると思う?」
返事を佐天は待たない。
エンジンの吸気口付近で、佐天は渦に大量の空気を食わせた。
弁によって負圧となり、エンジンに流れ込むはずの空気が、渦に取り込まれてきちんと供給されなくなる。
酸素が無ければ燃料なんてただのガスだ。
すぐに、工作機械がスピードを落としたのがわかった。
「テメェ、止める気か! やらせるかよ!」
腕と出力がなくなっても、テレスティーナが切れるカードがなくなるわけじゃない。
テレスティーナはガンとブレーキを蹴りつけた。それも、機体の片足のだけ。
左右の足でスピードが変わったせいで、機体がギャリギャリと音を立てながら円舞を踊った。
「うあっ! う……く……!」
遠心力が、佐天を振り回す。
髪やスカートが引きずられ、手すりを掴んだ指に佐天の体重がのしかかる。
佐天の腕は、その加速度に耐えられなかった。
「あっ……!」
あっけなく、佐天は機体から引き剥がされた。
地面まで、5メートルくらい。そして自分は時速50キロくらいで吹っ飛ばされている。
何もしなければ、死ぬのは確実だった。
だけど佐天は、その心配をしない。それより先にすることがあるから。
「あばよ。さて追うか」
「……いってらっしゃい」
クスッと冷淡に笑い、小声でそっとそう呟く。
今みたいに渦で吸気を絞りあげることなんて、永続的には出来ない。むしろ本題は、今からなのだ。
佐天は、ありったけの渦を、さっきは妨害をした吸気口に、全弾ブチ込んだ。
エンジンの排気量なんて、たかだか50リットル。それは佐天の作る渦の体積と、ほとんど変わらない。
そんな狭い空間に、100気圧の渦を解放して気流を流し込めば、一体どうなるだろう。
答えは、ガウゥンッ!と、エンジンが吼える音だった。
「なんだっ!?」
テレスティーナは、加速するためにレバーをいつもどおり倒しただけだった。
エンジンはその入力に対応しただけの動きをするはずだった。
だが、あまりに過給気になったエンジンは、その出力を暴走させた。
すさまじい加速に、コックピットでテレスティーナが顔を引きつらせる。
それは恐怖もあったし、加速度に皮膚が歪んだためでも会った。
こうなってしまえばもうテレスティーナの制御など、受け付けない。ブレーキすらも意味など無い。
「お、おい。止まれ! クソッ、壁が――。くあぁぁぁぁぁぁッッ!!」
両腕を失った、木原幻生の工作機械。
スポーツカーを凌駕する加速度でそれは高速道路のフェンスに突き進み――


ガッシャァァァァァァァァァァ!!


すさまじい破壊音と共に、高架下へとダイブした。
「最後っ!」
佐天はそれをほとんど見届ける暇なく、自分のためのクッションを用意する。
スポーツカーを支えたノウハウがあるから、衝撃吸収にそんなに不安は無かった。
一番面積のある背中を下に向けるのにやや抵抗を感じつつ、佐天は渦を自分と地面の間で破裂させた。
バン、バン、バン。
お尻と手で風船を割るような要領で、断続的に渦を破裂させ、何度もバウンドしながら位置エネルギーと運動エネルギーを殺してゆく。
100メートルくらいかけて、佐天はようやくアスファルトの上に、どすんと落ちた。
「いったぁ……てか地面熱っ。でも、へへ」
微笑が、止まらない。
自分はやれたんだという思いが、佐天の中ではじけていた。
気づくと、青色のスポーツカーが、キュっと自分の傍で止まった。
「佐天さん! 佐天さん! なんて無茶するんですか!」
「あ、初春。急いでるんだから。私もすぐ追いかけたのに」
「そんなこと言ってる場合ですか! ほら、こんなにすりむいて」
「擦り傷はすぐ治るよ」
「他に怪我はないですか?」
「うん。まあ、ちょっと腕が痛いけど、骨折とかはなし!」
「良かったぁ……」
涙目の初春を、佐天は撫でてやる。
目線を挙げると、美琴と目が合った。
「すごいね、佐天さん」
「あたし、頑張りました、よね?」
「これだけやれるレベル2なんて、詐欺もいいところですわ。レベル3かも疑わしいと言いますか」
ふう、と白井が佐天を見落とし、そっと手を差し伸べてくれた。
それを掴んで佐天は立ち上がる。並んだ白井の瞳が、なんだかライバルを見る目みたいで、嬉しかった。
「もし白井さんの言うとおりなら、あたし、白井さんに並びますね」
「さあ、そう簡単には追いつかれませんわよ。さ、急ぎましょう」
「はい!」
まだ、なすべきことがある。春上たちを助け出すまでは止まれないのだ。
随分と疲弊して、今後に問題があるのは間違いなかったが、
充足感で満ちた佐天は、それをものともしないくらい、気分が乗っていた。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 11: 踏みにじられる想い
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/24 11:42

二人っきりのトラックのコンテナ内。
当麻の傍に寄り添うインデックスが、そっと声をかけた。
「とうま」
「ん?」
シャツの袖をくいっと引っ張られ、当麻はインデックスのほうを向いた。
インデックスの瞳に現れていたものは、戸惑い。
「エリス、ちゃんと運転してる人に暗示をかけてるみたい、だね」
「だな。ちゃんと封鎖されてた道のほうに進んでて、進路はあってるらしいしな」
「そうだね」
当麻とインデックスは、エリスと三人で、先行する美琴たちを追いかけている。
車の運転なんてできない三人は、MARの隊員に魔術で暗示をかけて運転させているわけだが、当初その役を受け持っていたステイルは今、後方で光子と別働隊の足止めに借り出されている。
だから、その代わりをエリスが引き受けているのだった。
今、きちんとトラックが正しい道を走っているということは、エリスが魔術を使えるという証明だ。
それがインデックスにはショックで、不安の種なのだった。
「……エリスは、どうして学園都市に来たのかな」
「さあな。気になるか?」
「うん。私は必要悪の教会<ネセサリウス>の人間だから。エリスの所属してるところとは、相容れないかも」
それが、インデックスの不安だった。必要悪の教会はイギリス清教に仇なすあらゆる怨敵を滅ぼす機関だ。
エリスがイギリス清教に与さない魔術師だったなら、つまり自分とエリスは敵同士だということになる。
……魔術を持たない人となら、こんな心配は要らないのに。インデックスは内心でそう苦悩した。
魔術世界の歴史は嫌になるほど遠大だ。それは人類の歴史とイコールで結ばれる。
その長い時間の中で、あらゆる魔術結社が互いにしがらみを作り、憎しみあっている。
インデックス個人には、簡単に解きほぐせるようなものではない。
「なあインデックス」
「何? とうま」
「さっきエリスには聞いたけど。エリスがもし必要悪の教会<ネセサリウス>の敵だったら、お前はどうするんだ?」
「どう、って」
「殺し合いをするのか?」
「そんなの、やだよ。せっかく……友達になれたと思ったのに」
「なら、それでいいじゃねーか。エリスはお前を裏切らない、エリスはそう言ったぞ」
「うん……」
内心に抱える悩みは、エリスへの疑念ではなかった。
そんなことじゃなくて、もっと二人を縛るしがらみが、敵対することを強制するような、そんな不安。
自分は、確かに好き勝手に誰とでも仲良くして、おいそれと何処へでも行っていい存在じゃない。
魔術世界の最低最悪の兵装、禁書目録<インデックス>なのだから。
ぽふん、と当麻に頭を撫でられた。
「むー、また叩いた」
「難しいこと考えすぎだろ。エリスはいいヤツだ。彼氏はぶっちゃけ口の悪い野郎だけど。一緒にいて問題になることがあるんなら、その時は皆で頑張ってなんとかすりゃいい。それだけだろ?」
「うん、そうだね」
冷房の効いた室内で、インデックスはベンチに座ったまま当麻の二の腕に頭を預ける。
インデックスの大好きな当麻は、基本的にこういう人だ。
物事をなんでも楽観的に考えていて、問題が生じたら自分でそれに立ち向かう人。
きっと、今当麻が言ったことを、何かあれば当麻は実行するだろう。
今、知り合いの春上に起きたことを、解決するためにここにいるように。
「とうま」
「ん?」
「とうまって、ほんとに変な人だよね」
「……なんだよそれ」
急にそんなことを言われて顔をしかめた当麻にインデックスは微笑む。
自分とエリスは、春上たちの求め向かう最前方の魔術師だ。ステイルはかなり遅れている。
きっと、自分達にも役目があるだろうという思いがインデックスにはあった。
「手遅れにならないうちに着いて、なんとかしなきゃ」
「ああ」
「そういえばとうま。さっき、みつこが苦しんでた音なんだけど」
インデックスには、ずっと引っかかっていることがあった。
その言葉を受けて、当麻が病院での出来事を思い出した。
光子を助けられなかったことに、ズキリと心が痛んだ。
それをインデックスに気取られないよう、表情を変えずに答えた。
「ああ。キャパシティダウン、だっけか」
「あれってどういう仕組みか、とうまはわかる?」
「いや。さっぱり。っていうかあんな便利であぶねえモン、もっと有名でいいと思うんだけどな。それに他人の能力に干渉するのって、結構難しいことのはずなんだけど」
当麻は首をかしげた。キャパシティダウンの仕組みがわからないのは勿論だが、それよりもインデックスの言いたい事がわからなかった。
インデックスが学園都市のテクノロジーに興味を見せるのは珍しい。
鋭い目つきであの音を反芻し、インデックスは端的に自分の考えを口にした。
「たぶん、あれには魔術が使われてるんだよ」
「は? 魔術?」
「それもすごく原始的なものだね」
「いや、だってあれ学園都市製だろ? まさか学園都市に魔術師がいて、そいつが作ったって言うのか?」
「ううん。もしそうなら、もっと酷いものを作るんだよ。超能力者に魔術を使わせれば、死なせることは簡単なんだから。まあ、そんなことをすればきっと超能力者と魔術師が正面衝突することになって、酷い争いになるからやらないだろうけど」
虚空を見つめるインデックスが魔術師然とした冷たい瞳をしていた。
やっぱり時々見せるその表情が当麻は苦手だった。
「お前の言ってることが、全然判らないんだが」
「魔術っていうのは、結構簡単に起こっちゃうんだよ。必要な手続きを踏みさえすれば、誰でも使えるんだから。極端に言えば主や聖母マリアに祈りを捧げているだけでも、発動するものなんだし。なんのきっかけかは分からないけど、きっと試行錯誤の中であの音楽が出来ちゃったんだろうね。たぶん、あの音を聞いたら、すごく原始的な魔術が発動するんだと思う。私達魔術師にとっては無意識に防御できちゃうくらいちっぽけなのだけど」
インデックスが、心配げに前方を眺めた。もちろん壁で何も見えないのだが。
ついさっきここにいた美琴や、白井、初春、そして佐天。
皆、超能力者のはずだ。無事でいてくれることを、インデックスは祈った。


エリスは、トラックのコンテナ内で交わされた当麻とインデックスの会話を、助手席で聞いていた。
後部の音はマイクで拾われ、運転席に聞こえているのだった。
こちらの声も、伝えようと思えば伝えられる。だがエリスはそうしなかった。罪悪感が、それを邪魔した。
今、運転手を暗示にかけているのは、魔術ではない。エリスの使える超能力だった。
もちろん、そんなこと言える訳がない。さっき、ゴーレムのシェリーを見せてしまった。
超能力と魔術を同時に使えることを、知り合いに明かすのは怖かった。
ザッ、と無線の入る音がする。
「こちらイエローマーブル隊。マーブルリーダーおよびマーブルパープル隊、応答願う!」
何度も繰り返された呼びかけだ。リーダーというのは、何度か話に出たテレスティーナという人だろうか。
そして一向に呼びかけに応じないというのは、どういう事なのだろうか。
そう思いながら、エリスは前方に目を凝らした。ふと、無人のはずの高速道路上に大きな何かが見えたから。
「何だろ、あれ……? ちょ、ちょっと止めて!」
それがなんなのか、シルエットがはっきりしたところで、エリスは慌ててトラックを静止させた。
「上条君! インデックス」
「どうした? エリス」
「ハッチ空けるから、外に出てみて! なんか大きいのが」
「わかった」
エリスも助手席の扉を開き、慎重に足場を固めながらトラックから出た。
すぐさま、二人と合流する。
「大きいのって?」
「あれ」
エリスは当麻に問われ、さっと指を差した。そこには、高さ1メートル強の鉄塊が転がっていた。
エリスと当麻の二人には、どことなく見覚えのある形状。
「これ、建設現場でよくある機械の……」
「腕、だな。でもなんでこんなトコに?」
「とうま、エリス! こっち!」
気づくとインデックスが少し先へと走っていた。
そちらを見ると、高速道路の側壁が、ごっそりと破壊されて外の世界をのぞかせていた。
「コレやっぱり、交戦の後か」
「下に何かあるんだよ!」
当麻とエリスはインデックスに追いつき、恐る恐る、下を覗き込んだ。
そこにあったのは、先ほど二人が想像した、建設現場の工作用機械の本体だった。
ただもちろん、高速道路から落ちた分の衝撃で、下半身が酷く壊れていた。
「中に乗ってたのが、あいつらって事はさすがに無いよな……?」
「そりゃ、こんなのに乗ったってメリットないしね」
エリスとそう頷きあう。ならば、乗っていたのは恐らく、MARの人間なのだろう。
そう思いながら、ふと当麻は気づいた。工作機械は、股関節が破壊され上半身が前につんのめった形になっている。
その背中、人が入るにしては大きいハッチが、あまり壊れていない状態で解放されていた。
人が死んでいないのは歓迎すべきことかもしれないが、それでも、無人なのは気になる。
搭乗者は誰で、一体何処に行ったのか――
「とりあえず、見に出たはいいけど、何にもなさそうだね」
「うん。とうま、早く戻って追いかけよう!」
「お、おう」
二人に促され、当麻はふたたびトラックに戻った。
――――それが、佐天たちが目的地である木原の私設研究施設を制圧したのとおよそ同時刻だった。




カツカツと、佐天たち五人は階段を下りる。
研究所にたどり着いてすぐ、佐天達は研究員達の無力化を済ませた。
武装をほとんど道中に配置したせいか、この施設にはパワードスーツの一体もいなかったので制圧は容易だった。
その後すぐに初春が電源の管制室をハックして調べた結果、施設の最下層の消費電力が不自然に多かったため、五人はそこへと向かっているのだった。
「この下に、春上さん達が……」
「きっとね」
「無事で、いてくれ……!」
先頭を走るのは木山だった。
五人の中で飛びぬけて最年長というのもあるが、普段全く体を動かさないのだろう、一番息が切れて辛そうだった。
だがそんな体の都合なんてお構い無しに、木山は誰より先を急ぐ。
その努力を惜しんだせいで自分の教え子達がまた悪夢の泥の中に沈んでいくなんて、想像するのも恐ろしい。
カツカツとパンプスのかかとを響かせ、木山は無骨な造りの階段を駆け下りた。
「これで終わりか」
「着きましたの?」
五人とも息を整えながら、最下層の入り口をくぐって、辺りを見回した。
天井が随分と高い。壁際には鉄骨がむき出しになっていて無骨な作りをしている。
おそらく、そこはさっき佐天が退けたあの工作機械があったのであろう。
床は全て金属板の打ちっぱなしで、おそらくその広さは普通の学校の体育館より大きい。
明かりらしい明かりが無く、全て計器類の放つ光だったから、視界がかなり限定されていた。
「あの子たちは……!」
「木山先生、あっち」
佐天が、入り口から横手のほう、10メートルくらい離れたところに何かを見つけた。
皆でそちらを振り向く。どうも、横たえられた筒のようなものが見えた。
そちらに早足で近づくと、それが人を中に横たえた、シェルターなのが判った。
そして、中に誰がいるのかも。
「春上さん! 春上さん!」
初春が駆け寄り、アクリルでできた透明のカバーをドンドンと叩く。
中で、春上はベージュの病院着を着て静かに眠っていた。
初春の呼びかけか、あるいは衝撃音か、それに反応して春上がうっすらと目を開ける。
ういはるさん、と唇が動いたのが、初春の目に見えた。
良かった。春上さん、おかしくなってない。
わっと喜びが心の中を駆け巡る。
そして音が聞こえないのに気付いて、慌ててカバーを外そうとあれこれ見回す。
その初春を優しく見つめ、木山は春上の寝かされたシェルターより先の、手すりで遮られた先にある闇に目を凝らした。
「これがライトのスイッチかな、っと。……お」
遠くで、ぱちりと佐天がスイッチを押した。
初春たちがいる入り口近くに小さな明かりがいくつか灯り、そしてそれと逆に、
木山の見つめていた先が、大きくライトアップされた。
急な光量の変化に目を薄くしつつ、木山と、そして近づいてきた四人がその先を見つめた。
「あ、みん、な。よかった……!」
心の底から教え子を案じた、木山の漏らした声がフロアに響く。
学生の四人もそれを聞いて、嬉しくなった。
そうやって学生のことを心から好きでいてくれる先生がいるというのは、やっぱり嬉しいことだから。
「木山先生、すぐシステムをハックします。はやくあの子たちを助けてあげましょう!」
「あ、ああ。そうだな。この施設になら、体晶のファーストサンプルもあるかもしれない」
「じゃあ私達はそれを探します!」
しばらくすれば、当麻たちも追ってきてさらに人手は増えるだろう。
黄泉川にしかるべき相談をすれば、体晶の捜索を警備員に手伝ってもらえるかもしれない。
開けた未来に心を軽くして皆がなすべきことをなそうと、決意した。
――――その瞬間だった。
美琴が「それ」に誰より先に気付いて、声を上げた。
「佐天さん! 後ろ!」
「えっ?」
「……この、クソ餓鬼どもが!」
破損の酷い紫のパワードスーツ。そして高速道路の上でスピーカー越しに何度も耳にした、その声。
工作機械と共に退けたはずの、テレスティーナがそこにいた。
佐天たちに見えないところで、カチンとある装置のスイッチを入れる。
「――っ! あ、ぐ?!」
「さっきの礼だ!」
「がっ!!」
パワードスーツの回し蹴りが、佐天の胴をなぎ払った。
1メートルくらい飛んで、さらに地面をごろごろと転がる。
その痛みに、佐天は意識が飛びそうになった。息が苦しい。横隔膜が、きちんと働いていないらしかった。
そして何より、頭が痛い。ズキンズキンと痛みを訴え、あらゆる演算が滅茶苦茶になる。
背後で、キィィィィィィィィィと、耳障りな音がしていた。
「これ、さっきの――くっ」
壁に手を着いて、美琴がテレスティーナを睨みつける。
美琴にはこの音に、聞き覚えがあった。
「あぁ、お前は知ってるだろ? キャパシティダウンさ。まさかここにはないと思ってたのかぁ? お花畑はほどほどにしろよ?」
「貴様ぁ!!!」
「あん?」
キャパシティダウンに、学生達四人は苦しんでいた。
白井が最も酷く、立てなくなって地面に膝を着いている。
初春もシェルターに手を着いて耐えていて、中の春上が心配そうに呼びかけているらしかった。
佐天は特別テレスティーナに気に入られたのか、さらに弄ばれようとしているところだった。
そして残った木山が、生身でテレスティーナに挑みかかる。
「馬鹿かよ」
「ぐ、あ、ガハッ!」
パワードスーツを着ている時点で、生身の木山との間には大きな開きがある。
ましてテレスティーナはある程度格闘のたしなみもある身だ。お勉強ばかりの研究者に、負ける要素など無い。
なんの衒いも無い前蹴りを木山は喰らって、佐天とは別の場所に蹴り飛ばされた。
「さて、お前、たしか佐天って名前だったよなぁ」
「――う」
「ちゃんと返事くらいはしろよオラ!」
「あ、ぎ、ぎ」
テレスティーナが横たわる佐天の頭の上に、パワードスーツの足を乗せた。
鉄板の地面との間で佐天の頭蓋がギシギシと歪んだ音を立てる。
その音に、心がすくむ。このまま頭を壊されてしまうんじゃないかと、不安が募る。
何より楽しそうなテレスティーナの声が、佐天の勇気を奪っていく。
「はい、お名前を教えて頂戴? じゃないと、次は内臓潰しちまうぞォ?」

ガンと肩を蹴りつけて、佐天を仰向けにする。そして腹の上に足を乗せ、踏み潰し始めた。
「さて、ん、さん……!」
美琴は殺すくらいの視線で、テレスティーナを睨みつける。
それに気付いたテレスティーナが、涼しげにその視線を受け止めた。
「まあ落ち着けよ。次はテメーを潰してやるからよ。コイツは大金星を挙げたんだ。私がお爺様に頂いたあの機械をブチ壊すってマネをよぉ」
「うあぁぁぁ!」
グリ、とテレスティーナが足を捻る。不自然に腹に食い込んだその足に、佐天は悶絶した。
「やめなさい……!」
「なら止めてみろよ。ったく、レベル5のテメェを警戒してたのが仇になったぜ。伏兵にやられるなんてよ。このガキは褒めるに値するから、ちゃんとご褒美をやらねーとなぁ。……にしても、テメェのショボさにはむしろ文句を言いたいくらいだ。余計な警戒しちまったからな。『場の統合者<インテグレータ>』の開発コードが泣いてんぞ?」
「インテグ、レータ?」
「……あ?」
聞きなれないその響きを、美琴が反芻する。
知らなさそうな素振りにテレスティーナも首をかしげた。
「お前、絶対能力進化<レベル6シフト>の計画知ってるんだろ? 自分の開発コード名も知らねえのかよ。まあ、序列の第三位ってのに比べて、絶対能力進化のプランの中ではお前は絶望的な落ちこぼれ扱いだがな」
「何を言ってるの?」
「隣に11次元を観測する能力者が侍(はべ)ってるのだってそれが理由だろ? あらゆる場を統合するにはそれだけの次元に渡って能力を展開する必要がある」
「え? 黒子は、そんな――」
「まあその辺りはどうでもいい。テメェは汎用性っつう素晴らしい特徴があって、学園都市に愛されてるんだ。喜べよ。お前のコピーが一番使いやすいってのは、いろんな意味で真実だからなぁ!」
「――っ!」
そう言って、テレスティーナは美琴が心に負った傷を抉る。
なぜ、体細胞クローンの作成の対象となったのが自分だったのか。
それはテレスティーナの言うとおり、発電系能力者<エレクトロマスター>という能力の普遍性にあるだろう。
能力の素性がわかりやすいし、応用も幅広い。それが仇となったのだろうということは、わかっていた。
そしてふと、テレスティーナの言ったことが耳に引っかかった。
――いろんな意味で、とはどういう意味だ?
美琴の顔を見てテレスティーナは満足したのだろう。佐天を踏みつけるのを止めて、壁際へと悠然と歩いた。
「コレ、なんだかわかるか?」
左手に、大振りで細長い砲身を持った何かを装着して、テレスティーナがニヤニヤと美琴のほうを見た。
銃の先を誰かに突きつけるでもなく、見せ付けるように全体を美琴の視界に入れる。
その砲身に刻印されたアルファベットに、美琴は気付いた。

『FIVE_Over
 PROTOTYPE_"RAILGUN"』

「それ――」
「プロジェクト・ファイブオーバー。そういうのがもう始動してるのさ。テメェに拮抗するには必要かと無理矢理横流ししてもらったんだが、別に必要なかったな。ま、テメェのお友達は全部コレで殺してやるから、喜べよ。お前の能力はホント、大量殺戮に向いた良い能力だよなぁ」
「!? そんなの、させない――!」
「んなこたァ自分で動けるようになってから言えよ」
その武器は、おそらく、自分の能力を元にして開発された最新の兵器なのだろう。美琴は、その刻印で悟った。
また、だった。良かれと思い必死になって磨いてきた自分の能力。
誇りにさえ思っていたのに。知らないところで、誰かがそれを利用している。それも美琴の望まない最悪の応用方法で。
それが、たまらなく悔しくて、怖い。自分の能力で、友達が死ぬなんて。
睨む美琴など眼中になく、哄笑を撒き散らしながら、テレスティーナは春上のほうへと近づいた。
進路上の白井と木山を蹴り飛ばし、シェルターの前に進む。
「やらせ、ません……!」
「ったく、メンドクセーんだよ」
「あ、ぐっ!」
開いた右手で初春を掴み、横に投げ飛ばした。
「お前、春上と仲良かったよなぁ。先に死なせるのは興ざめだな。ちゃんと、春上がこの学園都市の夢になるところを、見届けてから死にな」
カタカタと片手でテレスティーナがコンソールを操作する。
シェルターの中に何かが噴霧され、くたりと春上が意識を失って倒れた。
「春上、さん……」
誰も、動けない。誰しもが動け動けと、体に言い聞かせているのに。
その悔しげな顔を、テレスティーナは愉快そうに見下ろしている。
「やめ、なさいよ……学生は、アンタ達のモルモットじゃない!」
「いや? モルモットだろ? 一番弄ばれてるお前が一番わかってるんじゃねーかよ」
「私は……そんなの認めない!」
「別に認めてくれとは言ってねえよ。モルモットを実験に投入するのに本人の意思確認なんてするわけ無いだろ? さて、準備は出来ちまったぞ? ほら、コレで暴走能力どもから神経伝達物質の抽出が始まった。春上に届くまで、もうちょっとだ。喜べよ。お前らは、レベル6が生まれる瞬間に立ち会えるんだ」
タン、と始動キーを押して、プレゼントの包装をあける子供みたいにワクワクとした目でテレスティーナは前を見つめる。
心の中で、髪を撫でてくれる優しい祖父を思い出す。またきっと、これで会える。また褒めてもらえる。また愛してもらえる。
「お爺様。不肖のテレスティーナですけれど、これでお爺様と私の夢を叶えて見せますから……!」
喜びに、体中が震えそうなくらいだった。
このときのために自分は生まれて来たのだと、テレスティーナは思った。
「あの子たちにそんな衝撃を与えたら、覚醒してしまう……!」
「えっ?」
木山がガクガクと足を震わせ、必死に立ち上がろうとする。だがまるで下半身が反応していなかった。
無理もない。パワードスーツに痛めつけられたのだから。佐天も、同じ境遇だった。
頭を踏みつけられたせいで、首が不自然な痛みを訴えている。動かすとビキリと痛みが走る。
内臓を踏みつけられたせいか、体全体が酷く重い。血を吐かずに済んだのは僥倖なのだろう。
木山の発した言葉に、テレスティーナが反応した。
「ああ、そういやコイツら、そういう面倒があるんだっけな」
「早く、止めないと……」
「別に良いだろ。レベル6が誕生すれば、学園都市なんざどうなったって」
「え?」
呟いた佐天を、テレスティーナが見た。
ヒトを見つめる、視線ではなかった。
「この街は実験動物の飼育場だろ? テメェもそういや木山のモルモットだったらしいじゃねえか」
「それは……」
木山が、反論を失ったように歯噛みし、テレスティーナから視線を逸らす。
否定できない事実だった。確かにそんな風に、木山は学生を私欲のために使ったことがあった。
……その表情を見て、佐天は思う。あれが、学生達を実験動物扱いした人のつくる表情だろうか。
「違う」
「お?」
「木山先生は、アンタなんかと違う。人をモルモット扱いして笑ってるアンタなんかとは――!」
「まあ、そうだな。私のほうが、そこの常識人気取りよりもずっと高みにいるんだからよ。さて、しばらく暇なんだ。もう一回相手してやるよ。その生意気な目をさっきみたいに怯えさせるのは、楽しそうだ」
「くっ……!」
ガシャガシャとパワードスーツを揺らし、テレスティーナが跪く佐天の前に立つ。
ゴルフグラブでも振るように、左手に装着した砲身で佐天を殴り飛ばした。
「あがっ、う……。い、あ、あぁぁぁぁぁ!!!!」
転がった佐天の右の腱に砲身を突きたてグリグリと踏みにじる。
激痛が体を走り抜けて、嫌なのに、抗いたいのに、顔から鼻水と涙がこぼれて視界が乱れた。
「そうそう! その顔! 良いねぇ、もっとやれば命乞いでもし始めるか?」
折れるもんか、と佐天は強がる。そうしないと、折れてしまえば、どこまでも自分が卑屈になる気がした。
痛いものは痛い。怖いものは怖い。そう開き直るのは、甘美な誘惑だった。
次の一撃が来るのに耐えていると、ふと、テレスティーナが視線を上げた。
春上のいるシェルターへと、暴走能力者から取り出した脳内伝達物質が届いてた。
「きた! 早いじゃないか。よし、お前も春上の晴れ姿、見たいだろ?」
「うぁ! あああ!」
ブチブチと髪が嫌な音を立てる。
パワードスーツの腕が無理矢理佐天の髪を引っ張り、佐天を引きずっているのだった。
「さてん、さ……」
「お前も特等席だ」
「あっ!」
どさりと、佐天は初春と一緒にシェルターの前に転がされた。
中で、春上は静かに気を失っている。
「ほら、見てみろ。あの無痛針の中にある液体に、体晶が溶け出してるんだ」
宝物を自慢する子供のように、あるいは自分の仕事を自慢する親のように、テレスティーナはシェルターの中の様子を佐天と初春に解説する。
胴を押さえつけられ身動きの出来ない二人は、それを眺めることしか出来ない。
「……春上さん! 目を開けて! 逃げて!!!!」
もう、そんな悲鳴を上げることくらいしか初春には出来なかった。
だけど現実は、そんな願いなんてお構い無しに淡々と時間を進めていく。
すっと、春上の首元に、無痛針が押し当てられた。
「あ……そんな」
「さぁて! やっと、このときが来た! ほら春上、さっさと目覚めな!」
喜色満面で、テレスティーナが声をかける。
防音性の高いシェルター越しにその声が届いたはずも無いが、ぱちりと、春上が目を開いた。
ぼんやりと、天上を見つめる。
「どうだ? 新しいお前のための世界は、一体どんな風に見える? なあ春上」
テレスティーナが、防音シェルターの向こうで聞こえもしない春上に、そんな優しい声をかけた。
母親なのだ、テレスティーナは。そんなつもりで、彼女は春上に声をかけていた。
そっと半身を起こして、春上はテレスティーナを見つめ、そして初春と佐天に目をやった。
「春上さん!」
「私です、初春です! わかりますか!」
その呼びかけに、春上はまるで反応を示さない。
やがて、なにか自分の体に違和感を感じたようにうつむいて、そして。


どろりと、鼻や口から、血をこぼした。


「春上さん!!」
「大丈夫!?」
「なんだと!? そんな、血を吐くなんておかしい、こんなはずじゃない!」
「こんなはずって、春上さんを止めて!」
「指図してんじゃねえよクソガキが!」
春上が、シェルターの中で咳を続ける。そのたびに押さえた手の隙間から血がこぼれた。
空いた手で握り締めたシーツが、あっという間に赤く染まる。
「クソッ! 何でだ! ちゃんと全部、プランは上手く行ってた!」
コンソールを叩き、実験を中止しようとするテレスティーナ。
そこに、けたたましいアラームがなった。
「なんだ? ……地震か! クソ、この面倒なときに……! まあいい。あの連中の体晶は用済みだ。死ねば地震は止まるんだし、もうお払い箱でいいか」
「やめろ!!」
木山の悲痛な叫びが響く。気付けば回りで、低く唸るような音が始まっていた。
一体、どれほどの人間を巻き込んで、ポルターガイストが起こるのだろうか。
あの子たちを、絶対に死なせたくない。
それが木山の願いだ。だけど、それが酷く空虚に聞こえる。
「こんなの、ひどいですよ……」
「初春」
「何処から止めたらいいのか」
「泣いちゃ駄目だよ。出来ることを、探さないと」
「でも、この音が」
それが、一番問題だった。
これがある限り、木山以外はまともに歩くことさえ出来ない。
そして行動を何も起こせなければ枝先達がテレスティーナに殺される。
テレスティーナを退けたって、春上を助けて、地震を止めなければいけない。
無理難題のフルコースだった。
誰かが傷ついて、不幸せになるような終わり。そんなのは、絶対に嫌だ。
佐天は、シェルターの縁に手をかけて、必死に立ち上がる。
テレスティーナを、そして何処ともいえない虚空に浮かぶ運命の影を、佐天は睨みつける。
それでも、打開のしようがないこの状況に振り絞った勇気が刻一刻と削られていく。
チャンスが欲しかった。今一瞬だけでいいから、皆が幸せになれるためのチャンスが。
「――佐天!!!!」
「えっ?」
その時。どこかで聞いた男の人の声が、スピーカー越しにフロアに響いた。
たしかそれは、ツンツン頭の高校生の。
――上条当麻の声がした。




[19764] ep.2_PSI-Crystal 12: 渦流の正しい使い方 -Advance in Implosion Vortex-
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/08/01 01:33

「上条さん! 音を、止めてください!」
スピーカーから響く当麻の声に、佐天は自分が出せる精一杯の声で返事をした。
キャパシティダウンさえ、これさえ消えれば、戦況はきっとひっくり返せるのだ。
「チッ。時間をかけすぎたか」
僅かに内省を込めた声で呟いたテレスティーナが、佐天を殴り飛ばす。
「うぁっ」
「面倒なことになる前に、とりあえずテメェら三人、始末しといてやるよ」
佐天が殴られた頬に手を当てながら振り向くと、さっきから地面に這いつくばったままの白井や美琴が、ちょうど佐天とテレスティーナを結ぶ直線の延長上にいた。
テレスティーナは右手に構えたレールガンの銃口を三人に向け、見下ろしながらニタリと笑った。
「恨むんならこんなテクノロジーを生み出したそこのレベル5を恨むんだな」
大型の馬上突撃槍みたいな、円錐型の尖ったフォルムを持ったその大砲が、その真の形を展開した。
砲身の周りを覆っていた滑らかな円錐が均等に裂けて、パラボラアンテナ様に広がった。
美琴は、そのレールガンが周囲の時空に干渉し、『レール』を作り上げていくのをその目で見た。
その機構はまさに、美琴のそれと同じだった。
なんら機械的機構を必要とせず、プロジェクタイルに通電してローレンツ力を印加し銃弾となす、言わば砲身自体も電磁場で構成してしまうのが美琴の超電磁砲だ。
テレスティーナの持つそれは明らかに金属製の砲身を持ってはいるが、加速を行う砲身、無色透明の電磁場は、美琴と同様に機械部分よりも先、佐天の体を突き抜け、美琴のすぐ傍まで真っ直ぐに伸びていた。
三人まとめて殺す気なのが、良くわかった。問題は、美琴の体が動かないことだけだった。
動くのなら、止めようだってあるのに。
「させない……! 絶対に!!」
「佐天さん! 動けるなら射線から離れて!」
佐天が笑う膝を叱咤しながら、中腰くらいまで立ち上がった。
爛々とその目がテレスティーナを睨みつける。心は、折れていなかった。
だって、当麻が、きっと音を止めてくれるはずだから。
それは信頼というには独りよがりだったかもしれない。
別に、佐天は当麻にそれほど親しみがあるわけじゃない。どれほど信頼できる人かは知らない。
だけど、ここに来て、苦しむ春上たちを助けようとしてくれた人だから。
きっと、状況を打開してくれるものだと、信じている。
その希望的観測を、テレスティーナが鼻で笑った。
「いい顔しちゃってよぉ、自殺願望でもあんのか? まあいい。それじゃあ逝ってらっしゃい、ってなァ!」
テレスティーナがトリガーに手をかけたのが判る。
もう、このままでは三人の命は、数秒で終わってしまうのだろう。
だが、佐天は希望を捨てない。それは、最後まで機会を逃さぬ意志の表れ。
「さてん、さん――逃げて」
「やめろ! ……お願いだ。止めてくれ」
遠くで、木山と初春がうめくようにそう叫ぶ。
地面の奥深くから聞こえてくるような地鳴りが、酷くなる一方だ。
佐天からは見えないけれど、きっと春上もまた、シェルターの中で苦しんでいるのだろう。
こんな、酷い「終わり」なんて許さない。
あっていいわけない。
学園都市は、沢山の子供達の夢と希望を詰め込んだ、世界一幸せな場所じゃなきゃいけないのに。
こんな悪夢を、あたしは絶対に認めない!
テレスティーナが笑みをひときわ強くした。
邪魔な佐天たちを排除できると、確信の笑みを浮かべたその瞬間だった。




先ほど、上条が佐天の名を響かせたそのスピーカー越しに、三声聖歌<シンフォニア>がフロアに響き渡った。




「えっ?」
「……あん?」
互いに主題を変奏し掛け合わせながら、女声が二声、主奏と助奏を入れ替えつつメロディを奏でていた。
まるで教会の中でしか聞けないような、聖歌のように。
佐天が、そしてそこにいた全ての能力者が、そのメロディに聞き覚えを感じていた。
そして、漠然と理解する。
通奏低音のように間延びしたトーンでメロディを奏でている三声目、
その音こそが、この場でずっと自分達を苦しめてきた音であることに。
それは奇妙なハーモニーだった。
頭にギチギチと食い込んで、ずっと自分を苦しめていたはずのその音が、まるでその役目を忘れたみたいに、綺麗に残る二声と唱和している。
それが実際に、インデックスとエリスによって為された、魔術のキャンセルであることには誰も気付かなかった。
そして戸惑う佐天の後ろで先に美琴が、「それ」に気付いた。
「佐天さん!」
「えっ? あ!」
「な、動けるのかよ!? うぜーんだよテメェら!!!!」
美琴はなすべきことを、もう理解していた。
佐天と白井を庇うために、テレスティーナの射線から身をかわす。
白井がたぶん演算をまだ回復できないこと、佐天はもしかすれば動けるかもしれないこと、それくらいは脳裏にあった。
ちらと視線をやると、佐天も射線から身をずらし、的を分散させていた。
美琴は息をつく。これで全滅はもうない。
誰かにテレスティーナが銃弾を浴びせても、残り二人が絶対にテレスティーナを食い止めてくれる。
これで、きっとこの破滅的状況は、なんとか打開されるだろう。
美琴はポケットからコインを取り出した。たぶん、これでテレスティーナが狙うのが、自分に決まるだろうから。
「レールガン対決か、面白いじゃねェか!」
案の定、テレスティーナは一番の脅威が御坂美琴だと見て取って、レールガンの照準を合わせた。
その裏で、ようやく体の自由を取り戻した佐天が、為すべきことを探して視線をめぐらせる。
美琴と目が合った。その視線に、佐天はいぶかしんだ。
――ごめん、後は頼んだから。
そんな風に、美琴の目が言っているみたいだったから。
「えっ?」
おかしい、と佐天は思った。
美琴の手のひらの上のコイン。レールガンを打つときは、確かもっと、その腕の周りに火花が散っていたはずなのに。
今はただ、力なくコインが乗っかっているだけのように見えた。
それもそのはずだ。いかな御坂美琴とて、あれほど手ひどくうけたキャパシティダウンの影響から、たった5秒で超電磁砲の複雑な制御を可能とするところまでは、回復できない。
そのコインは、友達を巻き込みたくなくて美琴がとった、ブラフだった。打てて、チャージの足りない生半可な一撃だけだろう。
美琴は、何も自己犠牲のつもりでそうしたのではない。誰かが傷つくのを、横で黙って見ているような真似が出来ない、損な性分なだけ。
改めて、美琴はテレスティーナを睨みつけた。刺し違えてでも、絶対に止める。
意識の矛先をテレスティーナに収束させ、美琴は、その時に備え呼吸を止めた。
だから、瞬間的な佐天の動きが、見えなかった。
「御坂さん! 駄目です!」
「えっ? 佐天さん?! こっちに来ないで!」
佐天は美琴の意図を汲み取った瞬間、気付かないうちに足を動かして美琴のほうへと走りこんでいた。
美琴と同等の威力のレールガンを打とうとするテレスティーナに、自分が一体何を出来るかなんて、考えもせずに。
だって、佐天だって、大切な友達が苦しんでいるのを、横で指をくわえていることなんて絶対に嫌だったから。
能力を、不可能を可能にする奇跡の力を手に入れたのだから、傍観者に甘んじることなんて、絶対にしない。
間に合ってと願いながら、残るほんの1メートルを、必死に埋める。
「くっ……!」
「それじゃあな、あの世で元気にやってろよ!!」
見下したテレスティーナの目が美琴を苛立たせる。
早く、あれを止めなきゃ! 佐天さんを巻き込んじゃう!
なけなしの出力じゃ何の意味も無い。
美琴には時間が足りなかった。
テレスティーナの右手に装着したその砲身が赤熱し、プロジェクタイルの投射準備が整った。
そして絶望的な、ガチンという、電気二重層キャパシタが落雷に匹敵する大電流を砲身に流し込む音が聞こえた。
「御坂さん……!!」
白井が割り込めない理由は、空間移動<テレポート>という大能力と引き換えに得たその演算の難しさだった。
美琴が立ちすくんでいるのも、また同じ。強力な能力の代償を演算コストという形で支払う二人には、この状況は致命的だった。
だけど、佐天は違う。
佐天は稚拙な能力者だ。応用なんて、ほとんどない。自分は渦しか作ることが出来ない。
だけど、ただそれだけなら。
毎日毎日、それが楽しくて、寝ているとき以外ならほとんどいつでもそれをやっていたから、
ただ渦を作って、テレスティーナのレールガンを逸らすことくらいなら、自分には出来る……!!
「あああぁぁぁぁっ!! 止まれえええぇぇぇぇぇぇ!!!!」
ギッと、テレスティーナの砲身のその目の前に、佐天は己の能力で渦を作る。
もっと強く、もっと大きく……!
キャパシティダウンの影響か、稚拙な巻きをした、児戯に等しい渦しかできない。情けない自分に発破をかける。
銃弾の大敵は空気抵抗だ。威力さえ落とせば、きっと美琴が何とかしてくれる。
そう心を定め、佐天は渾身の力をもってただ風をかき集める。
それでもなお、状況は絶望的だ。白井が来るべき未来を覚悟して、視線を逸らしながら目を瞑った。
絶望的な目で木山と初春はこちらを眺めている。その後ろには、血まみれで生死をさまよう春上と、学園都市を巻き込んだ超巨大地震を引き起こしながら、覚醒を始めた13人の少年少女たち。
だけど美琴は、まだ希望を捨てていない。そして佐天の目は、目で銃弾を押し返さんばかりに強く、銃口を睨みつけている。

――――そんな中。テレスティーナの放った真っ赤に焼けた弾丸が、佐天の渦に、直撃した。

極限まで集中を高めた佐天の前で、渦にプロジェクタイルが衝突し、すさまじいエネルギーを持ってして渦を霧散させようと襲い掛かる。
主観的には、その現象はむしろゆっくりと起こっているくらいだった。些細な変化まで、余すことなく感じ取れる。
佐天の口元が僅かに釣り上がって、笑みを形作った。
恐怖に、では無い。
予感が、あるのだ。いやそれは確信というべきか。
いつだったか、常磐台中学で光子に指導して貰った時に、ケロシンの燃焼熱を丸ごと喰らったあの時と同じような印象を、受けていた。
佐天涙子は知っている。御坂美琴の、超電磁砲<レールガン>の威力を。
それと同等の力を持つ、テレスティーナの一撃。
それを佐天は。
――――『喰える』と、佐天はそう感じているのだった。
赤熱が白熱に変わって、そのフロアにいる誰も彼もに襲い掛かる。皆、眩しさに目を瞑った。
「……あ」
誰かの、間の抜けた声がフロアに響き渡って。




――――無音。




その、突然の静寂に、辺りは一瞬呆然となった。
「あはは」
佐天の上げた笑い声に、美琴がぎょっとして振り返った。
「なん、だと……?!」
「できた、できた……!」
今度は、音も漏らさなかった。ほんの少し、ジリジリと弱い光が漏れているが、これ位ならいいや。
「嘘……」
美琴が驚きに目を見開く。
佐天の渦が虚空に揺らめいていた。だがそれがただの空気で作った渦ではないことを、美琴の感覚が告げている。
それはそうだ。金属弾と、そしてそれを音速の8倍以上の速度で飛ばすだけのエネルギーを食った渦なのだ。
内部に金属蒸気どころか電離した流体を内包して、プラズマになってたって何もおかしなことはない。
おかしいのは、そこに存在する渦のエネルギー密度が、佐天のレベルなんて軽く凌駕していることだけ。
佐天は逸る気持ちを抑えて、渦の取り扱いを冷静に考える。不思議なくらい、頭の中がクリアだった。冷徹でさえある。
きっと、これをいつものようにあちこちにブチ撒けてしまえば、大変なことになる。
じゃあどうすればいい? どうやってこれを解放すればいい?
すべきことは、瞬時に脳内にプランとして組みあがった。
時間を惜しんで、美琴に声をかける。
「御坂さん! コントロール!」
「え?」
「荷電流体なら、御坂さん操れますよね?!」
「……!」
美琴は返事をしない。ただ全速力で、佐天の渦のもとへと走りこむ。
「チッ、この死に損ないどもが!」
テレスティーナが、二発目の装填を始めた。
目の前のそれがテレスティーナに向かってくる前に、何とかしないといけない。
だってそうしないと、あんなものを跳ね返されて無事でいられるわけがない。
チャージに必要な数秒が、ひたすらテレスティーナを苛立たせた。
その猶予を最大限に生かして、美琴が佐天の渦に肉薄し、手を添える。
準備はそれで充分だ。美琴は、電場を使って何かを加速したり寄せ集めたりする必要は無い。
エネルギーなら底にある。あとは手のひらで、正確には手のひらに展開した電磁場で、制御するだけでいいのだ。
「電界は添えるだけ、ってね!」
佐天にニッと笑いかけ、美琴は渦の周りに、一箇所だけ口のあいたケージを作る。勿論その口は、テレスティーナに向いていた。
その渦流の制御を、佐天が手放した。ごく短い一瞬だけゆらりと静的な状態を維持して、プラズマはすぐさま出口を求め、美琴の作ったケージの中で荒れ狂う。
一瞬の後、出口部分で収束した高エネルギー荷電流体がテレスティーナに向けて一直線にほど走った。
「フザけんな! 私は、この街の夢を叶えるんだ!」
「そんな悪夢(ユメ)、絶対に認めない!!」
「この、クソがァァァァァァァァァ!!!」
慌ててテレスティーナがチャージも未完のままレールガンを解き放とうとする。
だが、自らが放った最大出力の一撃をそのまま鏡面反射したその一撃には、それでは太刀打ちなどできるはずもない。
佐天の渦は回収したエネルギーの全てをプラズマアークに変え、テレスティーナに突き刺さった。


ジィィィィィャァァァァァッッッッッッ!!!!


「くっ!」
「目が……」
アーク放電によるすさまじい光量が周囲を襲う。誰もその一撃を直視することは出来なかった。
ただフロアに響く鉄の沸騰する音だけが、テレスティーナの悪意を全て押し流していることを、物語っていた。




当麻は急いで階段を駆け下りる。
随分と地下最下層は遠いのだが、エレベータの一つも見つけられなかった。
テレスティーナや美琴、佐天の声を頼りにそちらに向かっていると、たどり着く直前に、すさまじい発光と音がしたのを、当麻は聞いた。
それ以上加速は出来なかったが、走りを緩めずにその場に当麻はたどり着いた。
「佐天! 御坂! 大丈夫か!?」
扉をくぐり、開けたフロアを一瞥する。
何かの焼けた異臭が立ち込め、煙が広がっているせいで視界が良くない。
一番近くに倒れていた女の子のところに近づく。白井だった。
「白井!」
「私なら大丈夫です。それより、お姉さまと佐天さんは?」
「私はこっち」
「あたしはこっちです。って御坂さん、お互い随分と吹き飛びましたね」
シュウシュウと煙が立つ一角から数メートル離れて、二人はバラバラに倒れていた。
手ひどく痛めつけられた佐天はともかく、美琴はそう酷い怪我はない。
「私がバックファイアをせき止められるのは電導性のあるものだけだからね。普通の爆風はどうしようもなかったし」
「あ、ごめんなさい。それってあたしの仕事ですよね」
「別にいいわよ。ただの風なら、そんなにヤバくはないんだし」
美琴が防いだものの中には、金属蒸気が冷えて出来た微粉末があった。
冷えて尚高温のそれを浴びていたら、かなりの火傷になっていただろう。
「で、無事解決なのか? その割には揺れが収まってないけど」
「! そうだ。まだ春上さんを何とかしなきゃ! あの子たちも!」
テレスティーナは、フロアの片隅で完全に沈黙していた。
鋼鉄のレールガンを大破させ、パワードスーツも脇の下辺りが溶解して完全に機能停止しているらしかった。
恐らくは死には至っていないと思うが、それを確認するより、先にすべきことがあった。
初春と木山が、もう春上や枝先たちを助けるために、動き出していた。
シェルターへのハックを済ませ、カバーを開く。
むっと、むせ返るような血の匂いがした。それはもう、死の匂いといってもいいのかもしれない。
あれほど酷く喀血していながら、まるでそれに気付かないで、嗚咽を漏らしながら頭を抱えている。
そのヒトらしさからかけ離れた振る舞いに、初春は反射的にゾッとなって半歩後ずさった。
「はる、うえさ、ん……」
「ねえ木山、何とかする方法わからないの?」
「……無理だ!」
「え?」
美琴が木山に尋ねると、ガンとコンソールを殴りつけて木山が叫んだ。
「この子に投与されたのはあの子たちからの抽出物と体晶のファーストサンプルを混ぜたものだ。成分がわかれば時間をかければ何とかなる。だけど、この子はそれに耐えるだけの時間がない」
「そんな!? けど!」
「あの子たちも……」
「えっ? アンタ、あの子たちなら助ける方法知ってるんでしょうが!」
「ファーストサンプルならきっとあの女が持っているだろう! だがそれでも駄目なんだ。暴走を始めて、もうかなりの能力者と共鳴を始めている。ああなってしまったら、止めようが無いんだ!」
「無理だ無理だって、そんなこと言ってないで打開策考えてよ!」
「科学はそんなに万能じゃない!」
何が、大脳生理学の権威だ。木山はそんな肩書きを僅かでも誇ったことのある自分を罵った。
今、この場でこの子達を救えないものに、一体何の価値がある?
「御坂」
「何よ?」
当麻が、美琴に声をかけた。今は一刻を争うのだ。状況の飲み込めていない男の相手なんて、している暇はない。
そっけなく美琴が返した返事に、ひどく真面目に当麻が言葉を返す。中身はいつもどおり、突拍子もなかった。
「アレ、止めればいいのか?」
「え?」
「この地震、ポルターガイストなんだろ?」
「う、うん。そうだけど」
「ならそれは任せろ。先生……アンタはその後のことを頼む。それと、春上さんのことも、何とかできるヤツがもうじき降りてくるはずだ」
「えっ? それって」
「科学が駄目なら、別のに頼ればいい」
戸惑う佐天に、当麻がそんな良くわからないことを呟いた。
そういえば、いつの間にかあの歌声は聞こえなくなっていた。
もちろんキャパシティダウンと共にだ。
恐らくは、うまく止め方を見つけたのだろうと思う。
さっき響いたあの歌声には聞き覚えがあった。佐天がいつだったか、浴衣を着付けてあげた、二人の声。
「ちょ、ちょっとアンタ! 地震を止めるってどうやる気よ?!」
春上に必死に声をかける初春の裏で、美琴はそう当麻に詰め寄った。
ポルターガイストを止めるなんて、そんなことをやれる人間なんて聞いたこともない。
実体の無いものに干渉することは非常に困難だ。学園都市で一番の精神干渉系の能力者でも、こなせるかどうか。
だが当麻は、いぶかしむ美琴に至極あっさりと返事をした。
「アレを止めればいいんだろ?」
「だから、アレって何よ!?」
「よく俺にもわからねーけどさ。別にいいだろ、御坂。嫌な夢なんて誰も見たくない。あの子達の上に浮かんでるアレが学園都市の悪夢(ユメ)だっていうなら、俺はそれをぶち壊すだけだ!」
当麻はそれだけ告げて、覚醒を始めた少年達へと走り出す。
「――アイツ、AIM拡散力場が、見えてるの……?!」
呆然と美琴はそう呟いた。だって、そうでもなければ。
一体アイツは、何を殴りつけるというんだ?


「おおおおおおおおおおおおおォォォォォォォォォ!!!!」


寝たきりの少年達が転がされたベッドの傍で、当麻が自分よりも背の高い打点に向かって、拳を振り上げた。
そして体のバネを使って、打ち下ろすように腕を振りぬく。
何か、ぶよぶよとしたものに当たったような不自然な抵抗を見せて、

――パキィィィィン、と何かが割れるような音を響かせた。

立っているとふらつく位だった地震が、それをきっかけに静かに減衰していく。
見る見るうちにそれは近く出来ない程度へと揺れ幅を減じていった。
ポルターガイストを阻止したのは、明らかだった。
「木山!」
「もうやっている!」
ハッとなって美琴が振り向くと、白井がすでにテレスティーナの体から体晶を探り当て、木山に渡していた。
木山はコンソールに向かう。そこからはもう、何度も何度も頭で反芻し、練習してきた手続きだった。
ここからならもう、木山は自分の研究の全てをぶつけて、あの子たちを救うために動ける。
体晶の組成をチェック。充分に予想の範囲内だった。そのまま、解析をしてワクチンを作成し、あの子たちに投与する。
木山はそのためのプログラムのバッチファイルを起動させた。
あとはただ、無事目覚めてくれることを祈るのみ。
「とうま! 大丈夫?!」
「インデックス、エリス! こっちに来てくれ! 春上が!」
「えっ?!」
「お願いです! もし方法があるんだったら、春上さんを助けて……!」
初春が涙でぐしゃぐしゃになった顔でインデックスにそう懇願する。
もう救急車なら呼んだ。警備員も呼んだ。そして待っていればきっと助からないことも、分かっている。
人を癒せる能力なら良かったのに。初春は、そんな無いものねだりをする自分を叱咤する。
希望を捨てたり、有りもしないものに縋ったって、春上を救えたりはしないのだから。
「初春さん、だよね?」
「え?」
「祈ってあげて。祈るって行為はね、どんなに苦しい人にも等しく許された、とっても尊い行いなんだよ」
「……わかりました」
「エリス」
「わかってる。インデックス、さっきもそうだけど、いまは所属がどうとか関係ないよ。友達を助けるためだから」
「うん。それじゃ、術式の行使はエリスがやって。私は、今だけエリスの魔道図書館になる」
「いいよ」
インデックスは呼吸を整え、血まみれの春上に躊躇いなく触れた。
呼吸と脈拍を測り、瞳孔を調べる。医術は決して魔術と無縁ではない。
インデックスには、そうした心得があった。
「――解析完了。大丈夫。与えられた毒が何かはわからないけど、それは最悪のものじゃない」
「助けられる?」
「助けてみせる。エリス、さっきみたいに、私の歌うとおりに歌って」
「うん」
呆然と、佐天や美琴、そして白井がその光景を見詰める。
隣では時折春上に視線を送りながらも、木山が枝先たちのバイタルデータにずっと注意を払っていた。
そして初春はインデックスとエリスを疑わなかった。
そんな非科学的なことに何の意味もないはずなのに、手を組んでただ春上のために祈っていた。
「ごめんね、とうま。悪いんだけど」
「気にするなよ。俺は離れてる」
「うん、ありがと」
謝る当麻に微笑を返して、インデックスは声を、フロアに響かせた。
決して声質や声量が優れているわけではないのに、それは聞くものの心にすっと染み込んだ。
エリスが、インデックスの紡ぐメロディに抗わず、その位置とリズムを巧みに同期させながら、同じメロディを輪唱した。
呆然と、そこ場にいる誰もがその光景を眺めた。
手持ち無沙汰という理由も、あったかもしれない。
いつしか佐天も、白井も美琴も、そっと組んだ手を胸元に当て、うつむいて目を瞑った。
そうさせるだけの神秘的な何かが、そこにはあった。
魔術の臭いなんてほんの少しも感じ取れないその五感でいながら、皆、感じ取っていた。

――救いと呼ばれる、何かを。

朗々とした詠唱が三分ほど続いたところで、メロディがフィナーレを結んだ。
ふう、とインデックスとエリスが息をつき、こめかみを滴り落ちる汗をエリスが手で拭った。
「終わった……の?」
美琴が、インデックスに声をかけた。
半信半疑のその顔に、インデックスはコクリと静かな頷きを返した。
それに弾かれたようにして、初春が春上の元に駆け寄った。
シェルターに横たわる春上の様子を、何も見逃さないつもりでスキャンするように眺める。
血まみれなのは当然血まみれなままだった。血が消えるようなことはないらしい。
だが、さっきまでみたいな開いた瞳孔で何処を見ているのか判らないような様子はない。
目を瞑り、おだやかな呼吸をしていた。とりあえず、その様子にほっとする。
美琴たちも集まって様子を眺めると、ほどなく春上は目を覚ました。
「あ……ういはる、さん……?」
「ぁ……春上さん! よかった。よかった……!」
こらえられない様に、初春の目じりに一杯に涙が浮かぶ。
伝えたい言葉はいくつもあるはずなのに、せいあがってくるのは嗚咽ばかりだった。
だけど、悪いことじゃない。だってその嗚咽は、嬉しさのせいで出てくるものだから。
涙ぐむ初春の隣で、コンソールがアラームを奏でた。
それは、体晶によって能力を暴走させられていた置き去り<チャイルドエラー>の子供達の治療が終わったことを示すものだった。
パシュ、と軽い音を立てて、子供達が寝かされていたシェルターの蓋が開いた。
「あ……」
ふらふらと、足取りも不確かに木山が子供達の方へと歩み寄る。
こんな目にあわせた張本人だから、罵られるかもしれない。恨まれるかもしれない。
それでも良かった。この子達が、再び目を覚まして、太陽の下を歩ける日が来るのなら。
手近なベッドに眠る子の顔元に、木山は近づく。頬にそばかすの浮いた女の子、枝先だ。
「ん……せん、せ」
一体、それは何年ぶりに発した声だったろう。
すっかり弱って、記憶にある張りのある声からは程遠い、か細く弱った、枯れた様な声だった。
でも、それでも。その声は、その顔は、紛れもなく枝先のもので。
「ああ……」
頬が自然と上がって、笑みを形作っているのが判る。
おかしいな。自分は無表情で、素っ気無いのが普通の、駄目な教師のはずなのに。
視界がもう、まともに確保できない。
涙の粒がこぼれるたびに一瞬だけ戻る視界の中で、枝先もまた、微笑んでいた。
「先生、助けてくれたの」
「……助けただなんて、私は」
「ありがとう」
この子達には、きっと土下座をしたって許されないことをした。
助けてくれたなんて勘違いはすぐにでも糺して、自分がいかに酷い人間か、教えてあげるのがフェアだろうに。
嬉しい。ただ、この子達が目を見開いて呼びかけてくれることが嬉しい。
はっとなって、木山は立ち上がった。
「他の子たちも、見てくるよ」
「うん」
枝先は、自分が何故ここにいるのかも判らない状況にいながら、それほど酷い混乱を覚えなかった。
目を覚ましたその瞬間に、木山先生がいてくれたから。
そして、ずっとずっと混濁した意識の中で呼び続けた大切な友達が、すぐそこにいることに気付いたから。

――――衿衣ちゃん

心の中で、そっと呼びかける。
起き上がる力もない自分からは姿は見えないけれど、春上に、その声が伝わったことに枝先は自信があった。
数メートル離れたシェルターの中で、初春に見つめられたまま春上が目を瞑る。
嬉しい。ただただ、嬉しい。
その声が聞けるだけで満足だった。大切な友達が、ずっと会いたかった友達が、声をかけてくれたから。
「絆理ちゃん……」
枝先に聞こえるほどの声ではない。だけど、きっと思いは通じた。
自分と枝先は、深い絆で繋がっているから。
「枝先さんも、目を覚ましたんですね」
我が事に様に喜んでくれる初春をみて、春上は嬉しくなった。
そうだ、元気になったら枝先を紹介して、皆で遊ぼう。
引っ込み思案で友達なんてほとんど作れなかった自分だけど、そうやって、枝先と一緒に、初春と一緒に、沢山の友達を増やしていくのだから。




初春たちからは少し離れたところで、当麻はインデックスの頭をぽんと撫でた。
そうやって労われて、インデックスは素直に嬉しそうな顔をする。
魔術は人を幸せにするものだ。
現実はしばしばそんな牧歌的な考えを打ちのめすが、こうやって幸せのために役立てることがあると、救った側もまた、救われるものだ。
隣にいるエリスと、当麻がハイタッチを交わした。
「ありがとうな、エリス」
「お世辞なんて。水臭いよ、上条君」
「そうだな」
だって、エリスもあそこにいるみんなの友達なのだから。
しがらみだとか、そういうもののことを考えるのは野暮だった。
「ありがとうございました、上条さん」
かけられた声に振り向くと、白井が皆から離れて上条のもとに来ていた。
「おう。まあ、礼なんていいさ」
「今のお礼は、お姉さまを助けていただいた分のものですわ。前日から、少々無理を重ねていたようですから。あちらの病院でお姉さまを救っていただいたことには、御礼をしませんと」
「こっちも成り行きで助けただけだからな。気付かなきゃ、そのままだった」
美琴のほうを振り向く。佐天と、なにやら話しているらしかった。
佐天はどっと出た疲れに耐えかねたのか、どすんとその場に腰を落としていた。
行儀が悪いのは百も承知だが、そのまま床に寝そべることの魅力に抗えなかったのだった。
「なんとか、できましたね。御坂さん」
「そうねー」
あちらも同様に疲れきっているのだろう、美琴が佐天の隣に座った。
「あたし、頑張れました、よね?」
佐天が美琴にそう尋ねた。
誰かにそれを確認したかったのだ。
手に感触は残っているが、もうさっきのリアリティは失われつつあったから。
だが、予想に反して美琴の沈黙は長く、佐天を戸惑わせた。
「あの、御坂さん?」
「うん。佐天さんの活躍は、それこそレベル2なんて肩書きを持ってるのがおかしいくらいだった」
「……あは」
「レベル3でも、おさまるか判らないわね、もう」
そこで言葉を切り、美琴はテレスティーナのほうに視線をやる。
アーク放電がもたらした破壊は美琴のレールガンのそれを上回っていた。
それを、佐天はどうやってもたらしたんだったか。
「まさか佐天さんに止められちゃうなんてね」
「え?」
それは佐天を馬鹿にした物言いのつもりはこれっぽっちもなかった。
だって。


「あれ、止めたのはまだ二人しかいなかったんだけどな」


学園都市第一位の能力者と、学園都市唯一の風変わりな無能力者。
その二人だけだったのに。
まさか、三人目をこんなにすぐ出すなんて。しかもそれが、友達の佐天だなんて。
仲間だから、決して敵視をするつもりなんてない。
だけど、さっきのあの瞬間から、美琴にとって佐天はもう見過ごすことのできない能力者となっていた。
「ま、私の研鑽がもう終わったわけじゃない。影は踏ませても、本体にはまだまだ届かせないわよ。……佐天さん、お疲れ」
「はいっ!」
パン、と今日一番の功労者二人が、タッチを交わした。
能力者として美琴の隣にいることというのは、きっと大変なことのはずだ。
うぬぼれかも知れないが、佐天は美琴の隣にいて、きっと自分の能力は恥じることなんてないと、そう思えるようになっていた。
「さて、あたしも、これからのことちゃんと考えなきゃね」
「これから?」
「明日、あの屋台のクレープとうちの近くのアイス屋がセールするんです。どっちにするか、ちゃんと考えないとってことですよ」
美琴にそんな冗談を返して、佐天は初春のほうを見つめた。
迷いは、吹っ切れていた。
自分の可能性を信じて、これからも真っ直ぐに進んでいきたい。
実技もそうだが、きっと猛勉強しないといけないだろう。
美琴や白井、そして光子と同じ学校の生徒になるならば。
「あいたた」
「佐天さん?」
「結構痛めつけられたんで、しばらくは病院通いかなぁ」
たぶん、クレープもアイスも明日は無理そうだった。
でもそんなこと、気にならない。
ここにいる誰しもの頬に、笑みが浮かんでいる。
きっとまた、皆で幸せな日常を過ごせる。
そんな「当たり前」を取り戻せたことが嬉しくて、佐天は顔一杯に笑みを浮かべた。

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あとがき
三声聖歌の当て字に選んだ『シンフォニア』は著名なピアノ練習曲であるバッハのインベンションとシンフォニアからとりました。
私はインベンションで練習を止めてしまいましたが……。

また、あとがきでネタ解説をして恐縮ですが、『キャパシティダウン=魔術』説について触れたいと思います。
原作では15巻において『AIMジャマー』なる、超能力を妨害する装置が登場します。しかし、作中での表現を読む限り、これは明らかにキャパシティダウンよりもスペックの劣る装置です。なぜ、より高機能な『キャパシティダウン』が15巻には登場しなかったのでしょう?
身も蓋もない答えは、15巻よりもアニメのほうが現実世界では後発だから、というものかと思います。しかし、やはりこういう疑問にはちゃんと作品中で説明のつくような解釈を与えたい。その意図により、この説は生まれました。またおかげで、魔術サイドの二人組の活躍シーンも生まれましたし、結果的には面白いことになったのではないかと思います。

さて、後日談はさておいて、ひとまずアニメ版レールガンの乱雑解放編がこれで終了となります。
原作では主人公の美琴が戦闘においても主役を張りましたが、先の妹達編とシナリオを混ぜることにより、主役が佐天さんにシフトしました。
アニメにおいて、あの日、バットを振りかざすことしか出来なかった佐天さんに、能力者としての未来をあげたいと思っていました。その執筆当初の目標を見事達成できたことに、ひとつ、ほっとしています。
無能力者だったところから書き始めた彼女ですが、随分と成長しましたね。はたしてどこまで行くのやら、今後にご期待……してもらって大丈夫かな。頑張ります。
さて、テレスティーナ戦を終えてすぐの強行軍ですが、作品中での日付は、二巻の吸血殺し編が起こったその日だったりします。
思わぬ事件に巻き込まれた形のステイルとエリスですが、果たして今夜どうなるか――――?

ということで、ここまでお読みくださってありがとうございました。
今後とも、よろしくお願いします。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 13: 幸せな結末
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/08/19 01:43

「ただいまー、っと」
「ただいま戻りました」
誰もいないマンションの一室、慣れ親しんだ黄泉川家に向かって当麻と光子は声をかけた。
リビングには西日が差し込んで、テーブルからの照り返しが目にまぶしい。
二人で目を細めながら中に進んで、定位置にあれやこれやの荷物を片付ける。
先進状況救助隊(MAR)の付属病院から回収した衣服を詰めたキャリーケースは、近日中に光子の部屋になる予定の一室に置いた。
主に当麻が頑張って片づけをしたおかげで、そこはもう黄泉川の私物はほとんどない。
「はー、なんか長い一日だったな」
「そうですわね」
スーパーの袋に入れた夕食の材料を冷蔵庫に仕舞いながら、キッチンで肩をくっつけて微笑みあう。
夕日にさらされた光子の髪が綺麗だった。
さっき褒めたら、暴れて埃まみれになった後だったので逆に怒られた。決してお世辞ではなく、当麻は本心でそう思っていたのだが。
「晩飯の用意は……まだでいいか」
「そうですわね。インデックスからも黄泉川先生からも、まだ連絡がありませんし」
インデックスはステイルと会う用事があって今はいない。
夕食はもしかすれば二人で摂るかもしれないし、連絡するようにと言ってある。
必要なら当麻が迎えに行く用意もしなければならない。
黄泉川先生は、今日の午後に起こったMARによる学生の略取および非合法な人体実験に関する事件の後処理に忙殺されている。
病院でほんの一瞬だけ会ったとき、被害者の子供達が全員、いずれは元通りの日々を送れると聞いて笑った顔が印象的だった。
こんな仕事で忙しいんなら大歓迎じゃんよという言葉を遺して、颯爽と仕事に戻ってしまったので、今日の夕食をどうするのか、こちらも聞きそびれたのだった。
「二人とも帰ってこない、なんてことはないよな」
「……黄泉川先生はわかりませんけれど、インデックスにそれを許す予定はありませんわ。偉そうな態度をとれる歳ではありませんけれど、インデックスもまだ子供なんですから、夜遊びなんて」
「だな」
「誰かさんは、深夜まで女の子とお戯れになったそうですけれど」
「え?」
「……そうやってすっとぼけるのは、本当に心当たりがないからですの?」
「い、いや、その」
美琴が誰のことを好きなのか、光子は知っている。そしてその美琴が思い人とどんなことをしたのかも、聞き及んでいる。
どうやら自分と付き合う前のことらしいので責めるのはお門違いと分かってはいるが、一度もそんな遊びに誘ってくれたことがないのを根に持っている光子だった。
「御坂さんとはして、私とは嫌なんですのね」
「違うって」
「じゃあなんですの」
「あれは、ただ追いかけられてただけだって。それに、光子と街中を夜歩くのはちょっとな」
「どうして?」
「面倒くさいのに絡まれるのは御免だ。光子となら、こうやって部屋でくっつけるし」
「それは、そうですけれど……」
「光子」
「え、あっ……」
言い訳を言葉でするのが面倒くさくなって、当麻は光子を抱き寄せた。
背中が棚にぶつかって、中の皿がかちゃんと音を立てた。
「ちょっと先の話だけど」
「はい」
「ナイトパレードは、二人っきりで見ような」
「あ……」
大覇星祭と呼ばれる、学園都市全体で開催する巨大な体育祭。
その最終日には学園都市の電力という電力をすべて光に変え、盛大なライトアップを行う。
学園都市の住人の多くがカップルでそのイベントを過ごすことに憧れ、直前の時期にはあれやこれやと男女の距離を近めあうような出来事が起こるものだ。
光子も当麻も、当然恋人とその時間を過ごすことを夢見てきた。
「はい! 当麻さん、嬉しい……!」
「すぐの事じゃないし、インデックスには悪いことするけど、やっぱし恋人同士のイベントだからな」
「ええ。やっぱり、当麻さんと二人でいたい時もありますから」
「インデックスには……沢山弁当でも用意してやればいいか」
「もう。あの子は確かに良く食べますけれど、それで釣るような言い方をしてはまた怒られますわよ」
くすくすと光子が笑って、レジ袋から野菜を取り出すのを再開した。
最後にじゃがいもと玉ねぎを冷蔵庫の脇のカゴに入れて、思い出したように呟いた。
「そうそう当麻さん」
「ん?」
「絶対に、他の女の方とおかしなことになって遅れるようなことは、なさらないで下さいましね?」
「へっ……?」
冷蔵庫の冷気に当てられたのか、不意にヒヤッとしたものが背中を伝う。
当麻の身長で背中に冷気が当たることはないと思うのだが。
髪に隠れて僅かしか見えない光子の横顔が、薄く笑っているように見えた。
なぜか、どうしてもそれがいつもの朗らかなそれに見えないのだった。
「さっきだって当麻さん、私と二人っきりだっていうのに、あの巫女服の方と……」
「い、いやいや光子さん? 別に姫神とはなんでもないって」
「なんでもない方の、どうしてお名前をご存知なの?」
「そ、そりゃ教えてもらったから」
「教えてもらった……? あらあら当麻さん。困りますわ。当麻さんったらまた、また、また無自覚にそうやって女性の気を引いたり名前をお知りになったりしましたのね。もう一度、ちゃんと言って聞かせたほうがよろしいのかしら……? 私、とっても嫉妬深いほうだって」
「ごごご、ごめんって! 別に変な意図はないんだよ!」
「悪気がないのが尚更悪いですわ」
ふう、と光子はため息をついた。
この家にたどり着く前、駅前で二人は姫神に会ったのだった。
もちろん光子のほうは姫神を知るわけもなく、見知らぬ上条の女友達と出くわすという最悪のシチュエーションだったわけである。
インデックスにお菓子を奢ってやった関係でちょっと姫神の態度が気安くなっていたのが災いした。
そのときは一言、小言を言われただけだったのだが、どうやら許したとか気にしなかったとか、そういうことではないらしい。
どうもピリピリした光子の空気に居心地が悪くなって、つい当麻は逃げた。
「お、俺、黄泉川先生にとりあえず電話するわ」
「……ええ、じゃあお願いしますわ」
チロリと向けた視線に怖いものを感じて、当麻はキッチンから逃げ出す。
ソファに座って、黄泉川の携帯を呼び出した。
夕日を眺めながら、コールを数回待つ。
「はい黄泉川」
「あ、先生。上条です。今日の晩御飯どうします?」
「あー、悪い。食べられるような時間には帰れないな」
「じゃあ作り置きしておくってことでいいですか」
キッチンに目をやる。買ってきた食材から考えて、それは問題なかった。
帰ってきて軽く暖めれば食べられるだろう。
「そうしてくれると助かる。悪いな」
「いや、いいですよ。それで帰りはいつ頃に?」
「わからん。日付は変わるだろうな」
「俺、帰ったほうがいいですか」
一応、お伺いを立てておく。黄泉川がいない日には、当麻は深夜になるまでに帰ることになっているからだ。
「……いや、あんな事があった日だ。お前も婚后もインデックスも、あまりバラバラは落ち着かないだろう。泊まっていいぞ。ただ、婚后と間違いは犯すなよ」
「わかりました。約束します」
「ん。じゃあな」
「はい。それじゃ」
携帯の通話をきり、一息つく。
キッチンの片付けも済んだのか、光子が隣に来て、スカートを調えながら腰掛けた。
「黄泉川先生は、なんて?」
「今日は午前様だとさ。いろいろあったし、今日は俺も泊まっていいって」
「えっ?」
淡々と当麻が伝えた言葉に、光子はドキリとなった。今ここには、光子と当麻の二人きりだ。
もちろんいずれはインデックスが戻ってくるのだろうが、今日はこれから随分と二人っきりの時間を過ごせる上に、夜まで当麻と触れ合って、話し合って、そしてすぐ近くで眠れるのだ。
それがなんだか無性に嬉しい。ほっとする。
「嬉しい。ずっと当麻さんと、一緒にいられますのね」
「寝る布団は別だけどな」
「もう、それは当然です! 部屋だって別なんですもの」
口で当麻を拒絶するようなことを言いながら、光子は当麻の肩にそっともたれ掛かっていた。
「当麻さん。大好き」
「俺も好きだよ、光子」
「ふふ」
見詰め合って、そのまま軽いキスを、二人は交わした。
暗くなり始めた部屋の中で、二人の影が重なり合う。
「光子」
「はい?」
当麻がソファから体を起こして、光子を抱き寄せる。
何をするのかと光子が不思議がっていると、当麻がソファの背もたれに手をかけて引き寄せ、カチンと留め金を外した。
完全に、それで背もたれが真横に倒れる。
「あ、これ」
「ああ、こないだ気付いたんだけど、背もたれが倒れてベッドになるんだよな」
「当麻さん……?」
「嫌だったら、嫌って言えよ」
もう一度、当麻がキスをした。
そしてそのキスでそのまま、光子の体を押し倒していく。
当麻が何処までする気なのかわからないし、抗うべきだと光子の理性は訴えていた。
だが、これまで何日も溜め込んでいた不満、そして今日の出来事で感じた不安、疲労、そういったものが抗うことを光子に躊躇わせる。
当麻と、触れ合いたかった。撫でて、抱きしめて、キスして欲しいと思っていた。
少しくらい、深いところまで行っても自分を止められないような、そういう気がしていた。
「あ、あの当麻さん」
「ん?」
「その、今日は汗をかきましたから……」
髪を撫でる当麻に、一応そうやって抗ってみる。
実際、シャワーを浴びてからのほうが、匂いの心配はしなくていい。
「そっか、まあ俺もだ」
「え? そ、そうですわね」
当麻が光子の髪から手を引っ込めた。
もっと強引に来てくれるものと思っていたので、光子は肩透かしを食らった気分になる。
伺うように当麻のほうを見ると、いたずらを思いついたときの顔でニッと笑っていた。
「一緒にシャワー、浴びるか」
「え、えぇっ?! そ、そんなの、いくらなんでも急ですわ!」
「嫌か?」
「い、嫌ってことはありませんけれど、でも、そんな」
「じゃあ、行くか」
「えっ?」
突然の展開にあたふたする光子を尻目に、当麻がソファから立ち上がり、光子の背中と足の下に手を差し入れた。
「ふっ!」
「あ、きゃっ!」
結構気合の入った掛け声を出して、当麻が光子を持ち上げた。
当麻と光子の身長差はそれほどないので、当麻にとって結構光子は重かったりする。
とはいえ持ち上げておいてそんなことを言うのは万死に値すると当麻も分かっているので、根性でなんとか体を安定させる。
「意外と、できるもんだな」
「これ……」
「光子、俺の首に手を回してくれ。支えがないときつい」
「あ、はい」
腕を当麻の首に絡めると、二人の顔がぐっと近くなった。
キスだってしたことがあるのに、なんだか物凄くドキドキとするのだった。
当麻に体の全てを預けて、抱かれている。
ちょっと首を傾けると当麻の胸に耳が触れて、心音が伝わってきた。
「当麻さん……」
「痛くないか?」
「ううん。大丈夫。当麻さんこそ、重くありません?」
「まあ、羽根の様に軽いとは行かないな。ごめん、力なくってさ」
「そんなことありませんわ」
一瞬、それまでの経緯を全て忘れて、光子はうっとりとなった。
結婚式のことに思いをはせたりして、なんだか嬉しくなるのだ。
……すぐさま、当麻が何を思ってこれをしたのかを思い出させられる羽目になるのだが。
「それじゃ、浴室まで行こうか」
「え? あっ……! 当麻さん、そんな」
この姿勢は光子に移動の自由がない。自力で降りられる姿勢でもない。
当麻が笑ってなくて、真剣にこちらを見つめているのが一層の混乱を加速させる。
もしかして、当麻さんは本気で言ってらっしゃるの……?
「駄目、ですわ……」
「俺と一緒は嫌か?」
「そういうことじゃありません。恥ずかしいの」
「光子の裸、見たい」
「っっ!! 駄目……駄目です」
「なんで?」
「だ、だって」
恥ずかしいに決まっている。そんなの。
だいたい、今日まで病院で不健康な生活をしていたのは誰だと思っているのだ。
「もう一週間くらいも、外に出ないで不摂生していましたのよ。そんなときに体のラインを見せるなんて……」
「光子、それって普段ならアリだって言ってるのか?」
「ちち、違います! もう当麻さん、嬲るのはおよしになって」
「ごめん。光子が可愛いからつい、な。さて浴室に到着っと。自分で脱ぐか? それとも脱がされるほうがいいか?」
「えっ?! あ、あの当麻さん。本当に、一緒に入りますの……?」
光子は高鳴る心臓を押さえ切れない。半分以上、当麻が本気なんじゃないかという気がしてきた。
心の準備は、率直に言ってできてない。裸を見せるなんて、恥ずかしいの一言に尽きる。
だけど嫌なわけじゃない。そして当麻の希望を裏切るのも心苦しい。
好きな人にだから、全てを捧げても良いという気持ちも、どこかにはある。
「光子」
名前を呼んで、当麻が光子の体をそっと下ろした。足を着いて、光子は自分の体を自分で支える。
二人ともいくらか服が着崩れていて、そして、密着していた。
「当麻さん……」
「好きだよ」
「んっ……!」
二人で見詰め合う。キスをするタイミングを理解して、磁石で惹かれあうみたいに、互いの体を引き寄せあった。
そしてくちゅりと、舌と舌で濡れた音を立てる。
「ん、ん、ん」
当麻にくいくいと舌を吸い込まれる。同時に当麻のほうから唾液が流れ込んできて、咽そうになる。
必死になって息を吸い、僅かな間隙をついてコクリと口の中に溜まったものを嚥下する。
唇はもうベタベタだった。クーラーなんて全然効いてないし浴室はそもそも暑い。
当麻のこめかみから伝った汗が口の中に入る。しょっぱい感じはするけれど、嫌だとは光子は思わなかった。
「ごめん」
「全然、気になりません」
それよりもキスを中断されたほうが不満だった。もっとして欲しい。
目を見てそれを感じ取ってくれたのか、当麻がもっと激しく光子の口を吸い上げた。
「んんっ」
両手で当麻が、光子の背中とお尻を撫でる。
そのちょっと乱暴なくらいの仕草が、今の光子の気持ちの高ぶりに良く合っていた。
今までで、一番エッチな手つきだと思う。
お尻を撫でるとかそんなんじゃなくて、全体をぐっと手のひらに収めて形を楽しむような触り方だった。
「当麻さん、手がいやらしいですわ……」
「そうかな」
「ええ。当麻さんは、いっつもエッチなんだもの」
「そんなつもりはないけどな」
「嘘を仰っても駄目ですわ」
「……ならもっと、正直になろうか?」
「えっ?」
至近距離で囁くのを止めて、少しだけ当麻が上半身の距離を離す。
そして、お尻を触っていた手を滑らせて、光子の胸のすぐ下、横隔膜の辺りに添えた。
それが意図するものを、光子はすぐに察した。
「あ……」
「駄目、か?」
「恥ずかしくて、その……あの」
「ん?」
光子の表情が、明確なノーではないことに当麻は気付いていた。
ただ、服を脱がせて直接触るようなことは拒否される気もしている。
光子を傷つけないギリギリまで、当麻は行きたかった。
「光子、可愛いよ。光子が彼女になってくれて、ホントに良かったって思ってる」
「わ、私もですわ。……でも当麻さん、急にそんな話をしても、はぐらかされませんわ」
そうでもなかった。結構単純な光子は、そうやって褒められるとついつい当麻に甘くなる。
「胸、触ってもいいか?」
「……」
潤んだ瞳で、光子が当麻を見上げる。
もう一押し、というところだろうか。
「光子の綺麗な体のこと、全部知りたいんだ」
「当麻さんのエッチ。何処でそんな言い方、覚えてきますの」
「覚えてきたとかじゃなくて、本音だって」
「莫迦……」
トンとごく軽く、光子が当麻の胸を叩いた。可愛らしい抗議の仕草だった。
「じゅ、十秒だけ……」
「え?」
「十秒だけ、ですからね……?」
それが光子の妥協できる限界だった。
だって五分も十分もされたら、どうなるかわからない。
恥ずかしすぎて自分は死ぬかもしれない。
当麻はその提案に乗るか、検討する。
まあ、今回はこんなところだろう。
「両手で触っていい?」
「そ、そんなの知りません! でも、ちゃんとキスをしてくれないのは、嫌ですわ」
「わかった」
胸に興味があるからと胸ばかり弄ばれるのは絶対に嫌だ。
そういうのは全然嬉しくない。
当麻はそれを察してくれたらしかった。
壁際に、光子は押し付けられる。そして両手を当麻に繋がれて自由を失う。
そのまま当麻が覆いかぶさって、光子を文字通り押し倒すようにしながらキスをした。
「ん! ああ……」
キスをしてすぐに、首筋を舐められる。
ゾクゾクとした何かが体を這い上がって、腰が砕けそうになる。
思わず目を瞑ると、平衡感覚も失いそうになった。
執拗に当麻に攻められる。光子は理性を全部失うんじゃないかと、不安になるくらいだった。
「それじゃ、触るな?」
「あっ……」
当麻が与えてくれる快感に陶然となっていると、待ちかねたように当麻がそう宣言した。
心理的な抵抗は、もう随分と磨り減っていた。
当麻は、安心させるためにもう一度、優しくて軽いキスをする。
恥ずかしそうにしながらも、僅かに笑った光子の表情が可愛かった。
「光子、愛してる」
「私も……。ふあぁ……」
ふにゅりと、両手で当麻は光子の胸をすっぽりと包み込んだ。
その温かみだけで、光子が可愛らしい声を上げた。
「すげ……」
重みがしっかりあって、手のひらにおさまりきらない。
中学生を恋人にしておいてこう言うのもなんだが、スタイルが良すぎるような気がしないでもない。
なんだか不思議な感動を感じながら、ハッと当麻は我に帰る。
今、何秒使った?
勿体無いという気持ちが猛烈にこみ上げてくる。
なんというか、もっとこう、こねくり回さないと。
「あっ! あ、当麻さん、駄目、んんっ! あぅ、ん」
パンでも捏ねるように、両手で当麻は光子の胸の形を変える。
下から救い上げ、押し上げるように。
抗議を上げる光子の口をキスで塞ぐ。行き場を失った光子の手が当麻の肩に触れる。
当麻を押しのけるような力を光子はかけたりしなかった。それを確認して、さらに続ける。
「んーっ! んんん……んは、ん」
苦しげに光子が息を吸う。そんな余裕すら与えたくなくて、ひたすら当麻は胸に触れ続ける。
親指で、その胸の先端あたりの布をこする。何かその『痕跡』を見つけたいのだが、ブラジャー、ブラウス、サマーセーターと三重に防御策を張り巡らせた常盤台の制服は、中々『それ』の存在を当麻に悟らせなかった。
仕方ないから、摘むようにして先端を執拗に攻めてみる。
「はぁぁん!」
吐息や鼻声じゃなくて、光子がはっきりと甘い声を漏らしたのを当麻は聞いた。
そのびっくりするくらいの色っぽさと女らしさに、むしろ当麻のほうがやられそうだった。
可愛い彼女だし、大好きだったけれど、こんな風に自分の手で女としての側面をさらけ出したところは、初めて見た。
その生々しいリアクションに、当麻のほうがドキドキしてどうにかなりそうだった。
だがどうやら光子は自分で自分のした事に気付いていないらしく、
手を動かすのもキスをするのも止めてしまった当麻を不安げに見つめていた。
「当麻さん……?」
「あ、悪い」
「ん……」
なだめるようにキスをすると、光子が安心した顔をした。
なんとなく、それで当麻も胸を触るのを止めることにした。
もっと、こんな一足飛びな感じじゃなくて優しく光子を導いてやりたい。
「光子、大好きだよ。光子が可愛すぎて、どうにかなりそうだ」
「嬉しい……。当麻さんに喜んでもらえるのが、私、一番嬉しいの」
光子が当麻の首に腕を回した。
それに応えて、当麻も光子の背中と腰をぎゅっと抱いてやる。
汗が混ざり合うのも気にせずに、二人は深く深く、キスをした。
夕日が存在感を失うくらいまで浴室の暗がりで、ずっと。




「あたたたた……」
佐天は体のあちこちに出来た擦り傷が染みるのに耐えながら、ぬるいシャワーを浴びる。
警備員の、たしか黄泉川という先生の紹介で案内された病院で、佐天は今日一日の汚れを落とし、治療を受けるところだった。
各種測定で、骨折や内臓損傷などの深刻な怪我はないことがもうわかっている。
足の腱が一番の大きな怪我だったが、きちんと治療すれば後遺症もないと聞いている。
そんなこんなで一息ついて、経過観察のために今日は入院なのだった。
「佐天さん……大丈夫ですか?」
間仕切りの向こうから、初春の声が聞こえる。
初春自身の怪我は佐天よりさらに軽いが、あちらも経過観察入院だった。
美琴と白井は、今診察を受けているところだ。
「染みるのは擦り傷だけだから、別に問題はないよ。まあ、痛いのは痛いんだけど」
「……」
シャワーの音の向こうで、初春が痛ましそうな顔をしたのがなんとなく佐天にはわかった。
たぶん、怪我の程度の差を、初春は申し訳なく思っているのだと思う。
春上たちを助けるために体を張った度合いが自分は少なくて、役に立てなかったとかそんな気持ちを感じているんだろう。
「怪我、早く治りそうですか?」
「なんかゲコ太っぽいあのお医者さんが言うには、全治一週間だって。完治までは二週間くらいかかるってさ」
「そうなんですか」
「しばらくは食べ物は少なめで、優しいものをだってさー。困っちゃうよね。治るころにはお盆も終わっちゃってるし」
「でも、こんなこと言ったら何ですけど、それ位で済んで良かったです」
「あはは、まあそだね」
地味に、髪があまり傷つかなかったのは嬉しかった。肌と違って元通りになるのに時間も掛かるからだ。
シャンプーをとって、髪を泡立てる。爪を立てないように、髪の根のほうからきちんと汚れを取るように指を動かしていく。
「ねえ初春」
「なんですか?」
「ホント、良かったよね。みんな無事でさ」
「そうですね。春上さんも、ひどくないみたいですし」
声に安堵と喜色を込めて、初春が頷き返した。
一番の重症と思われた春上も、検査の結果は予想外に良好で、失血による一時的な眩暈や疲労を除けば後はそれほど時間も掛からず復調するとの事だった。
口や首、胸の辺りを血まみれにして呻いていたあの時のことを思えば、信じられない結果だ。
「アレは、一体なんだったのかな」
「え?」
問い直してから、初春は自分で佐天の言わんとしたことに思い当たった。
インデックスとエリスが、春上に一体何をしたのか。とても、超能力とは思えなかった。
そもそも他人の人体に干渉して、医者以上の結果を叩きだせる能力者なんてそうはいない。
佐天が不思議がるのはむしろ当然だった。
「祈りが届いたんですよ」
「え?」
だが、なんだか初春はあの時起こった出来事に、科学的な見方をわざわざ持ち込んで不可思議だとか言うのは、野暮な気がしていた。
「なんとなく、判らないままっていうのが一番正解に近い気がします」
「……ふーん」
佐天はそういう姿勢をあまり受け入れられなかった。
あの時、真っ先に春上のために祈りを捧げた初春との、差がそこにはあったのかもしれない。
佐天はまあいいかと思って、シャンプーを洗い流し、トリートメントをつける。
「佐天さん」
「んー?」
「今日の佐天さん、すごかったですね」
「……ありがと」
褒められるのは、勿論嬉しい。だけどなんだか佐天は寂しくもあった。
初春と、距離が開いてしまったようで。
「佐天さんは、システムスキャン、また受けたりしないんですか?」
「退院したら受けようかな、って思ってる」
「きっと、またレベル上がりますよ」
「そだね。……偉そうに聞こえたらごめんだけど、たぶん、上がると自分でも思ってるんだ」
「そうなれば柵川中学でトップですね。レベル3以上は、うちには一人もいませんから」
「うん……」
初春が朗らかにそう言ってくれるのが、寂しさの裏返しのように聞こえた。
柵川中学でトップというよりは、事実上、もう転校するべきレベルだということを、意味しているから。
「ねー初春」
トリートメントを洗い流し、スポンジを手にして佐天は初春に声をかける。
なんですかと返事が来るより先に、間仕切りを迂回して、初春のシャワールームに乱入する。
「えっ、ちょ、ちょっと佐天さん!?」
「んー、可愛いお尻だね」
「ひぁっ?! な、なんで触るんですか!!」
「え、駄目? あたしのも触っていいけど?」
「別に触りたくないです! っていうか狭いところに二人って無理がありますよ」
一人分のスペースしかないところにいるものだから、肘や膝や、太ももや上半身のきわどいところなどが時々触れたりする。
そのたびに彼我の戦力差というか、女らしい佐天の体つきに、初春はくっと呟いてしまうのだった。
身長は7センチ差なのに、バストはそれ以上差があるって一体どういうことなのか。
「ほら、洗いっこしよ」
「え? さ、佐天さん。それ本気で言ってます? それとも私をくすぐる口実ですか?」
「どっちも正解かなっ」
ボディソープをスポンジにとり、お湯を含ませ揉む事でしっかりと泡立てる。
口ではくすぐるようなこともほのめかしたが、実際は特にそういう気はなかった。
「あっ……」
初春の背中に、そっとスポンジを当てる。
傷がないかをよく確認しながら、怪我のない部分をこしこしとこすっていく。
「どう初春? 気持ちいい?」
「え、えっと……。なんか落ち着かないですけど、気持ちいいです」
「そりゃ良かった」
弟を風呂に入れてやったときの要領で、佐天は腕、首筋などを続けて洗ってやる。
あっという間に初春が文句を言うのを止めて、佐天の優しいタッチに身を任せていた。
「佐天さんって、やっぱり格好良いなって思います」
「もう、突然どしたの?」
「同級生にこう言うのは変ですけど、なんだかお姉さんな感じで、優しくて」
「こ、こら初春。照れるでしょ。ほら前向いて」
「え?」
「洗ったげるから」
「い、いいです! そこは自分でやれます!」
「まあまあ。ほら、初春の全てをお姉さんにみせてごらん?」
「そのお姉さんって表現はいかがわしいですよ……」
胸を隠すように腕を前に回した初春に、佐天は笑ってスポンジを渡してやる。
やっぱり初春をからかうのは、楽しかった。
初春がそそくさと体の前を洗うのを見届けると、初春が振り返った。
「じゃあ次は、私ですね」
「ん。お願いね」
初春はソープを足して、少し泡立てなおした。
そして自分よりちょっとだけ背の高い佐天の背中に、そっとスポンジを当てる。
「んっ、たた……」
「あの、ごめんなさい佐天さん」
「いいって。さすがに染みないように洗うのは無理だしね。一思いにやっちゃってよ。ゴシゴシと」
「ゴシゴシって、そんな洗い方しませんよ」
傷に直接触れることは避けながら、初春は佐天の綺麗な肌に泡を付けていく。
時々目に入る紫色の痣が痛ましかった。
快活ではあるけれど、やっぱり佐天にこんな傷まみれの肌は似合わない。
「もう、なんて顔してんのよ、初春」
「だって……」
どれくらい痛かったのだろう、と想像すると、眉が自然ときゅっとなってしまうのだ。
そんな初春の様子を、佐天は気にした風もなくあっさりと笑う。
「別に気にしてないよ、あたしは。だってあの時、心は折れなかったから。怪我はしても、ずっと前向いてたから。だからこの怪我は勲章なんだ」
「男の子の言い分ですよ、それ」
「大事な人を守れた人の言い分なんだよ、正しくは。……ってちょっとカッコつけすぎか」
てへっと笑う佐天に、もう、と仕方なく初春は笑い返した。
確かにあの時、佐天はとびきりに格好よかった。
美琴に引けをとらず、どうしようもないとすら思った状況をひっくり返して、ハッピーエンドを強引に手繰り寄せた。
きっと自分は、そんな佐天に憧れているのだろうと、初春は思った。
「ん、ありがと。じゃあ前よろしく」
「……はい。いいですよ。佐天さんがして欲しいなら、してあげます」
「え? ちょ、ちょっと待って! もう、恥ずかしがってくれなきゃ困るでしょ?」
「恥ずかしいですけど、別に嫌って訳じゃないですから」
「え、えっ? ……ごめん初春。あたしが恥ずかしいので、スポンジを下さい」
「もう、だったら最初から言わなければいいんですよ」
「だって初春からかうの、好きだからさ」
照れ隠しに、さっと佐天も体の前を洗う。
初春が洗い流すシャワーを用意しようと、コックに手を伸ばした。
そこを、佐天はもう一度急襲する。
「ひゃっっ?! ささささ佐天さん?」
「大好き、初春」
「なななな何を言ってるんですか?」
ぬるりと、肌が石鹸膜越しに触れ合う感触がする。
素っ裸で、二人っきりのシャワー室で、初春は佐天に抱きつかれていた。
背中にピッタリと、佐天のおなかや胸が張り付いた感触がする。
ここまで来るともうなんだか、友達の一線を越えちゃうんじゃないかっていうくらいのスキンシップだ。
「さ、佐天さん?」
「……」
「あの」
初春を抱きしめてからしばらく、佐天は言葉を発さなかった。
その雰囲気が、なんだか真剣なのに気付いて、初春は言葉を急かしたり、暴れたりするのを止めた。
やがて、ぽつんと佐天が言葉を漏らし始めた。
「初春や春上さん、クラスの皆と柵川中学で過ごすの、楽しいよね」
「……そうですね。もし、佐天さんがいなかったら寂しいですね」
「そう、かな。寂しがってくれるかな」
「当たり前じゃないですか。佐天さんは明るくて、クラスでも人気ありましたし」
「……じゃあ、二学期からはそんな感じで行こうか」
「もちろん、大歓迎ですよ」
「そっか」
「でも。佐天さんは、別の選択肢のことも、考えてるんですよね」
「うん」
初春から、佐天の表情は見えない。だけどわかる。だって自分は佐天の親友だから。
「佐天さんは、どっちの道を進みたいですか?」
「あたしは……」
心の中で、もうほとんどは、決まっていることだった。
だけど寂しくて、忘れられそうで、初春の前ではなかなか、それを口に出来ないでいた。
決定的なことを言うのが、怖かった。
「応援してます!」
「う、初春?」
突然、ぐっと拳を握って初春がそう叫んだ。
「私、佐天さんのこと応援してますから! 佐天さんはもっと伸びるに決まってます! そのために、できることはきっとあります! 転校したら、一緒に遊べる時間は減っちゃうかもしれませんけれど、別にいつだって会えるんです! だから、だから……っ」
勢いの良かった初春の声が、だんだんぐすぐすと鼻声に替わっていく。
なんだか、その雰囲気に佐天も中てられそうだった。
「ちょっと初春。なんで泣くのよ。こっちまでなんか変になるでしょ」
「電話もします。メールもします」
「あたしだって、するよ」
「だから、あのっ……!」
「うん」
初春を抱いた腕を放し、正面を向かせる。
そして、初春の目を見て、佐天は初めて、きちんと自分の決心を伝えた。
「あたし、転校するね。もっと自分の能力を伸ばせる場所で、もっとビッグになってくるから」
「……はい、っ。がんばっで、さてんさん。ふえぇぇ」
「あーもー、泣いちゃだめでしょ。後ろ髪引かれちゃうじゃない」
「だ、だって、覚悟はしていましたけど、やっぱり佐天さんから聞いちゃうと、本当なんだなって……!」
「うん。あたしも、初春に言ったら、なんか寂しく……っ。ほらもう、もらい泣きしちゃったじゃない」
「佐天さぁぁぁん」
シャワー室でわんわんと涙をこぼしながら、佐天は初春と抱き合った。
悲しいだけではない。何でこんなことになったんだと二人で変に爆笑しながら、また泣いた。
佐天のもらい泣きが一通りおさまって、冷たいシャワーをぶっ放してクールダウンさせるまで、初春は泣き通しだった。
強い子だと思っていたからなんだかそれが意外で、そういう側面を見れたのもきっと親友だからだと思って、佐天は勇気付けられた。
二人でバスタオルを巻いて、脱衣所へと戻る。
「初春、落ち着いた?」
「……はい。佐天さん、冷静になるのが早いです」
「って言われても。初春は泣き虫だったねえ」
「だって佐天さんが転校するって言うのに……!」
「あーほらもう、また泣いちゃ駄目でしょ。あたし、転校できなくなっちゃうよ?」
「駄目ですっ。佐天さんは、頑張らないと」
「そだね。まずは初春に勉強教えてもらわなきゃ」
「もう、それじゃ全然足りないですよ」
文句を言い合いながら、二人でおそろいの下着を身につけていく。
ちなみに可愛げのまったくないオーソドックスな中学生用下着だ。
縞模様の青いヤツだった。この病院が用意してくれるのは、これしかないらしい。
「んー、可愛いお尻だね」
「もう、さっきもずっと見てたじゃないですか」
「下着を着けてるところをみると、安心するね」
「毎日ちゃんと履いてます!」
「これからも、忘れちゃ駄目だからね」
「なんで忘れると思うんですか……」
そして上から、病院着をすっぽりかぶる。下はハーフパンツ状だった。
夏真っ盛りなこともあって、軽い素材だった。
「初春がスカートじゃないと、めくれない」
「当然です! 言っておきますけど、ずり下げたりしたら絶交ですか、ら……う」
「あーもう、自分で言って自爆しない」
絶交なんて、このタイミングでは聞きたくない言葉だ。
また初春の目じりに涙が浮かぶ。
「大丈夫だって。転校したって、また普通に会えるから。白井さんや御坂さんともちょくちょく会ってるでしょ?」
「白井さんは風紀委員で一緒ですから……。でも、なんでお二人の話が?」
「あ、あたしが受けるつもりの学校、まだ言ってなかったね。って言っても、受かるかどうかわかんないし、相当無茶やってるのは、自分でもわかるんだけど」
言うべきときは、今だと思う。
まだ誰にも、断言はしてこなかったこと。
最初に初春に言えるのは、嬉しかった。
「あたし、常盤台中学、受けるつもりだから」
それで覚悟は決まった。
いい顔をして宣言した佐天に、飛び切りの笑顔を初春が返した。

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あとがき
ここの佐天さんはアニメ準拠なので、巨乳御手を使用し、公式の数値よりもバストを盛っています。
この件に関するお問い合わせはアニメ版超電磁砲13話の作画監督へどうぞ。



[19764] ep.3_Deep Blood 03: 不幸せな結末
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/10/30 07:33

ありふれた夕方の雑踏の中を、インデックスは早足で歩く。記憶を振り返れば、それは慣れ親しんだペースだった。
長身のステイルと神裂にとっては遅めで、インデックスには早め。仲良くみんなの中間を取った早さを、インデックスの体は覚えていた。
そしてもちろん、隣を歩くステイルがそれを忘れるわけもない……はずなのだが。
どうも、一挙手一投足に流麗さがないというか、ありていに言って緊張していた。
「ようやく、落ち着いたね」
「うん」
体の動きは言葉と裏腹なのだが、ステイルはそうインデックスに切り出した。
二度と、ないだろうと諦めていた。こんな風にインデックスと一緒に歩くことなんて。
だからこそ、ぎくしゃくするものがあるのだ。
例えば全てを忘れてしまう直前に、自分はこの子になんと約束したんだったかとか、そういうことを考えるとステイルは歳相応の緊張を強いられてしまうのだった。
こんな醜態、インデックスと二人きりでもない限り絶対にさらすことのないものだ。
「で、昼からまるで無関係な仕事をこなしたあの一件については、結局、円満に解決したってことで、いいのかな?」
「うん。みんな、最悪の事態は避けられたみたいだから」
「そうかい」
無難な質問を、ステイルはこなしていく。
婚后光子に高速道路のど真ん中に放り出され共闘させられたせいで、事の顛末はあまり知らされていないのだ。
とりあえずステイルが打倒した側がわかりやすい非道であったのが有難かった。
どちらが正義かわからないような、そういう判断の難しい案件だったら手を出すのは余計に躊躇われただろう。
そういう意味で、一般人に危害を加える結社の類を妥当するのが生業のステイルにとってはいつもの仕事に近いといえた。
だが同時に、学園都市という名のこの町に、改めてステイルは空恐ろしいものを感じてもいた。
この事件を打開した立役者だとか言われていた、長髪の黒髪の女の子と、トラックに同乗したあの御坂とかいう女の子を思い出す。
どちらも、ただの素人だった。心構えという一面で見ればステイルからすれば甘いにもほどがある。聞けば普段は女子中学生だとか。
少なくとも『必要悪の教会<ネセサリウス>』という団体に所属するステイルとはまるで立ち居地が違う。
だというのに、そんな女の子ですら、ステイルが危機と感じるような敵を相手に大立ち回りを演じ、そして自分たちの望む未来を手繰り寄せられる。
この町の子供たちが何気なく手にし、日々開発している能力。
それがいかに強大で危険か、外部の人間だからこそステイルは思い知らされていた。
この町では、何気なくすれ違う学生の中に、ステイルが脅威と感じるような人間がいくらでも存在している。
そんな日が来ないことを祈るばかりだが、この町が中心となってまとまった科学サイドと魔術サイドがぶつかることがあるなら、この町は確実に脅威となる。
ステイルは沈み込みかけた意識を引き上げ、インデックスに再び問いかける。
「彼女は……エリスって言ったっけ、あの後、どうしたんだい?」
それも気になることだった。こちらは困ったことに学園都市で知り合った同業者だからだ。
土御門には連絡を済ませ、問題があれば対処が行われるだろうが、少なくとも今日は、ステイルがあの少女に関わっている暇はない。
すぐにでも片づけるべき別の案件を抱えているからだ。
「……ごめんね。ちゃんと聞いてなかったから、私もよく知らない」
「そうかい」
二人を取り巻く景色は、歩みを進めるたびに変わっていっている。
駅前の繁華街を歩いているので人通りは多い。
今は飲み屋街の赤提灯が並ぶ通りを抜けて、ラブホテルの並ぶ一角を抜けている。
ステイルはなんとなくそのことに落ち着かない気持ちでいるのだが、インデックスの横顔があまりわたわたとしていないので、平静を装っていた。
そのホテル街も抜けて、再び駅のホームにほど近い場所へと戻ってくる。
雑踏にまぎれて話をして、誰かに注目されるのを避けているのだった。
インデックスがステイルのほうを振り返って、わずかに首をかしげた。
「ねえ、それで話って何かな?」
「え?」
インデックスの態度に、ステイルは戸惑っていた。素っ気無いような、そんな風に感じるのだ。
大体真面目な話を始めれば、旧交を温めるような優しい気持ちになどなれないのが『必要悪の教会<ネセサリウス>』だ。
それをインデックスも分かっているだろうに、こうさっさと本題に入ろうとするのは寂しい気持ちにならなくもない。
……ステイルはそんな自分の心を戒める。
素っ気無いなんてのは、久々にこんな機会を得て動転している自分が勝手にインデックスにかけた色眼鏡だ。
インデックスは真面目な子だ。学園都市にステイルがわざわざ潜入するほどの事件があると知ったなら、それについてもっと詳しくなろうとするのはおかしくなんてないはずだ。
ステイルは短くなったタバコを新しいものに替えながら、気持ちのスイッチを入れ替える。
そして、言葉を選びながら説明を始めた。
「察しているとは思うけど。僕は君と旧交を暖めに来たわけじゃなくて、ある任務を帯びてここにいる」
「……どんな?」
「とある場所に、女の子が監禁されている。その子を助け出すってのが僕の仕事なんだ」
インデックスはそのステイルの言葉を聞いて考えを巡らせる。
科学の町でステイルが事件に首を突っ込むというのだから、それは間違いなく魔術絡みなのだろう。
「敵は誰?」
「ちょっと回りくどいけど、事情を追って説明するよ」
端的に言う、ということをステイルは避けたかった。
決してインデックスにとっても無関係の事件ではないから。
順を追って説明することで、インデックスに感じさせる負担を減らしたかった。
「三沢塾って、さすがに君も知らないかな」
「うん。聞いたことはないんだよ」
「日本で最大手の進学塾さ。日本は大学に入学するための試験がかなり難しいらしい。まあ科挙に始まる東洋の普遍的な現象だね。より高難度な試験を課す大学ほどステータスのある大学なんだ。で、その難しい試験に合格するために、日本の高校生は高校以外に学習塾というやつに通ってさらに勉強をする。その学習塾で一番大きいのが三沢塾なんだそうだ。その支部が、学園都市にもある」
「それで、魔術とどう関係があるの?」
「日本が珍妙な国だといっても、この街ほどじゃない。日本に広く展開している三沢塾そのものは、何の変哲もない教育機関なんだけどね。学園都市の方式だとかを取り込むためにここに作った支部が、いつしか思想的に先鋭化して、科学宗教と化した」
そこまで聞いて、インデックスはあらましの予想が十分ついた。
新興宗教とはどれでも多くはそうだが、現状に対する強い不満を抱えているがゆえに、そして信徒を多く獲得する必要があるがゆえに、過激な行為に手を染める傾向がある。
三沢塾の学園都市支部とやらも、恐らくそうなのだろう。
「その顔を見ると予想がついてるらしいね。彼らは象徴として、自らの手に希少価値のある能力者を欲したんだ」
「それで間違って、魔術師でも捕まえちゃったの?」
イギリス清教の信徒だったとか、そういうことだろうか。必要悪の教会の人間だとは思いたくないが。
そのインデックスの質問にステイルは首を横に振った。
「いいや。その程度なら話はまだ簡単なんだけどね。三沢塾が監禁した女の子の保持する能力は、とてもじゃないが魔術師にとっても無視できる代物じゃなかった」
「どんなの?」
「『吸血殺し<ディープブラッド>』さ」
「えっ?!」
その単語に、インデックスも聞き覚えがあった。
存在するのかもはっきりしない、ある生き物。
いや、見た人がいるという記録がないだけで、痕跡だけなら人類は何度も目にしているのだ。
西洋から遠く離れたここ日本とて例外ではない。10年ほど前に、京都のとある寒村で観測されている。
ソレは、生物というカテゴリに当てはめるべきかもはっきりしない。
なにせ、文献に言われる通りであれば、およそ生物としての限界だとか枠組みを超越した生き物だからだ。
名を、吸血鬼という。
そして『吸血殺し<ディープブラッド>』は、その吸血鬼を集め、殲滅する異能を指す言葉だ。
なぜ発現するのかもはっきりせず、またその効果も実証された例などないはずなのに、あるとされている異能。
不確かなことが多いが、伝承を全面的に信じれば、三沢塾は吸血鬼を捕獲する下地を構築した状態にあるらしい。
それも、恐らくは本人達はまるでそのことを理解しないままに。
「この情報が魔術サイドに流れた時点でいろいろと問題になっていたんだけどね、吸血殺しそのものは生来の異能、つまりは超能力の一種に属する。だから案件としては完全に科学寄りで、僕らの手出しする余地はなかったんだけど、つい最近、事態はかなり変化したんだ」
「……」
インデックスは静かにステイルの言葉の続きを待つ。
夕日は刻一刻と傾き、一日を終えようとしている。
夜は魔術師の時間だった。そして、吸血鬼の時間でもある。
「顛末を言ってしまうと、三沢塾は乗っ取られた」
「え?」
「思想としても不確かで、ついでに言えばただの学習塾上がりだ。魔術師に襲われればひとたまりもないよ」
「それが、私たちの敵なんだね?」
「……」
ステイルは答えに窮した。敵と、インデックスの前で断定したくなかった。
「所属はどこなの?」
「今はフリー、のはずだ。術者としての系統は、チューリッヒ学派の錬金術師、だね」
ドキリ、とした。
インデックスは、知り合いにチューリッヒ学派の錬金術師がいるから。
とてもお世話になった人だ。ステイルと神裂とともにインデックスが行動するようになる、一年前に。
ステイルの顔を見上げる。その、何かを悟ったような、そしてインデックスを気遣うような顔が、気になった。
「その魔術師は昔、ローマ正教に所属していた。もっと言えば、足しげく『必要悪の教会』に足を運んでいたよ。……君は、すべてを思い出しているんだろう? もうそれが誰か、言わなくてもわかっているだろうと思う」
ステイルが名前をはっきりと告げなかったのは優しさというより、その存在を認めたくないが故の躊躇いだった。
そばを徘徊する清掃ロボに、ステイルは吸殻を投げつける。
灰皿を携帯するよう警告するその声を無視して、ステイルはインデックスのリアクションを待った。
「……先生、なの?」
ステイルはその響きに、ドキリとした。
考えてみれば当然だ。相手は自分と同じ、かつてインデックスの傍にいた人間なのだから。
吸血殺しを監禁した錬金術師、アウレオルス・イザードは、まぎれもなくインデックスの『先生』だったのだから。
だが、それでもステイルにとってその気安い先生という呼称は気持ちをざわめかせるものだった。
自分の知らないインデックスを目の当たりにするのは、決して心地よいものではない。
それは、本気で、心の底からインデックスを救いたい、幸せにしたいと思った男に共通の、ある種の感情だった。
すがるようなインデックスの視線に、ステイルは冷淡な答えを返す。
「ああ。吸血殺しを監禁し、吸血鬼を手に入れようとしている魔術師。現在あらゆる魔術結社から狙われるその人間こそ、君のかつての師であるアウレオルス・イザードさ」
「どうして、先生がそんなこと……」
するはずがない。インデックスの知るアウレオルスは、そういうやり方を好む人ではなかったと思う。
もちろん魔術師だから、自らが魂に刻んだもっとも大切な目的のためなら何をやってもおかしいことはない。
だが、人類の歴史上、まともに御したこともないような吸血鬼の力なんて、いったいどう使う気なのか。
そうしてまで叶えたいことなんて、一体なんだろう。
「インデックス」
ステイルが、静かに呼びかけた。
その瞳を、じっと見つめ返す。
「君と知り合った二年目、そして君を追いかけ続けた三年目、僕らは何を胸に抱いて、行動をしていたんだと思う?」
「……あ」
今だから、インデックスはわかる。
常にインデックスを追い続けた二人を、憎悪すらしていた。それほど執拗に二人がインデックスを追った理由。
――――自分を、助けたいが故だった。
世界に20人くらいしかいないはずの聖人である神裂が泣きじゃくっていた。
そしてステイルが最後に真剣な表情でかけてくれた言葉、インデックスはそれを思い出す。


『――――安心して眠ると良い。たとえ君は全てを忘れてしまうとしても、僕は何一つ忘れずに君のために生きて死ぬ』


どれほど、重い言葉だろう。どれほど、自分を案じてくれた言葉だろう。
そして、そのステイルの残像すら脳裏から消えないうちに、インデックスはまた別のシーンを思い返す。
アウレオルスが、眠り際の自分にかけてくれた言葉を。その時の表情を。
……ステイルの表情と重なったというのは、どちらにもきっと失礼なことだろう。
とても思いつめて、本気で言った言葉だったのがよくわかる。
「嘘、だよね……」
「そうなら、笑い話なんだけどね」
「先生は、私を」
それ以上先が言葉にならない。
だが言いたいことはステイルには伝わっていた。
「おそらくは、ね。記憶を失ったままのはずの君を助けるために、アウレオルスは吸血鬼という禁断の果実に手を出そうとしているんだ。いや、最悪の場合、彼はもう手にしているのかもしれない」
それはこの一件をアレイスターから聞いて、ずっと懸念していることだった。
アウレオルス・イザードは錬金術師だ。通常の魔術師とは異なり、あまり攻撃的な技能を有していないはずなのだ。
もちろん、格闘家のような強靭な肉体を有しているわけでもない。
そんな男が、『吸血殺し』を匿えるということは、ステイルの知らない何らかの術式をもって、その少女を御しているということだろう。吸血鬼を捕まえる気なら、そうした術式をむしろ持っていないほうがおかしい。
そう考えれば、最悪の可能性として、既にアウレオルスが『吸血殺し』にとどまらず、吸血鬼そのものを捉えている可能性すらあるのだ。
「……」
「インデックス」
思わず足を止めたインデックスに、そっとステイルが声をかける。
「彼を止めるのに、力を貸してほしい。遅れれば、恐らく学園都市に侵入した他の魔術結社との間で吸血殺しの取り合いが始まるだろう。吸血鬼がそこにいれば、吸血鬼を認めない教会勢力によって、アウレオルスや吸血鬼、『吸血殺し』のすべての関係者の抹殺も試みられるだろう。君がいなければ、僕一人でそれを止めるだけの余裕はない。アウレオルスの生死を気にすることはできずに、『吸血殺し』の少女を助けるだけで精一杯だろう。まあ、君に助けてもらってもなお、それが限界かもしれないけどね」
他意なく、ステイルはアウレオルスに対しては冷淡だった。
魔術師が願いをかなえるために行った事のツケを一緒に払う気はない。
「ステイル。お願い、先生の所に、私も連れて行って!」
インデックスの返答は、すぐだった。その答えに、ステイルは二律背反の思いを抱える。
全てを思い出したインデックスに、ステイルは事実を話さざるを得なかった。そして打ち明けてしまえば付いてくるのも予想できたことだ。
こうすることで、死者の数を減らせる可能性は上がる。そしてきっと、インデックスのためにも、これが良かったのだろうと思う。だが、インデックスを危険に晒すのは、間違いなかった。だから、ステイルとしては、ためらいがないわけではなかった。
だが結局、内心の苦悩を、ステイルはインデックスに見せなかった。
「こちらとしても手間が省けて助かるよ。幸い、吸血鬼がいるという情報があるわけじゃない。すぐ行動に移れば、アウレオルスを説得をしてあっという間に解決できるかもしれないね」
「……だと、いいね」
「油断でなければ、希望は持っているべきだよ。ところで一応君の保護者になっている、あの二人には知らせるのかい?」
「あ……」
夜遊びは厳禁だと釘を刺されたところだった。
説明をすれば、二人は絶対に駆けつけてくれるだろう。だけど、必要以上に心配をかけそうだった。
そして、自分の過去にまつわる話に、二人を触れさせるのが怖かった。
二人は、今のインデックスの居場所だったから。
「とうまとみつこは、関わらなくてもいい人だから」
「そうだね。特に婚后光子は超能力者だ。昼間はあちらに巻き込まれたが、本来僕らは交わるべきじゃない」
「うん。そうだよね」
「まあ、楽観的な見通しを建てるなら君の説得がメインになるから、助けは必要ない。大所帯も面倒だし、今回は僕らでやろう」
「うん。ステイル、なんとか先生を、止めなくちゃ」
「……ああ、そうだね」
ステイルが、足を駅のほうに向けた。
今すぐに、その三沢塾へと向かう気なのだろう。
インデックスとて準備は整っている。ステイルのすぐ後ろを追った。
「そうそう。吸血殺しの担い手について、きちんと話していなかったね」
ステイルがシャッと一枚の紙を胸から取り出し、インデックスに広げて見せた。
「えっ?!」
驚きに、インデックスが目を見開く。
そこに描かれていたのは、知った顔だった。
腰まである黒髪に薄い表情の女の子。姫神秋沙だった。




歩き慣れた第七学区の雑沓を、垣根は颯爽と通り抜ける。機嫌はかなり良かった。エリスから会いたいと連絡があったから。
今、垣根のいる場所は割と治安の悪い通りだ。その道を、ショートカットになるからとまったく臆さず進んでいく。
女の子が歩けばいろいろと面倒事の起こりそうな場所だが、垣根は女の子でもないし、そもそも銃による遠方からの狙撃ですらも危害を加えるのが難しい人間だ。誰一人垣根に近づく人間はいなかった。
そんなわけで、足取りも軽く革靴をカツカツ言わせていた垣根だったが、ふと視界の隅に、女の子を見つけてチッと舌を鳴らした。
「あの馬鹿女、またかよ。阿呆なのか?」
ここはコスプレで歩くような通りではない。
何の趣味かは知らないが巫女服で一人歩きなんぞ、ある意味スキルアウトの連中にケンカを売っているようにも見える。
襲ってみろ、と言わんばかりの不用心さだ。
いつぞやのようにバックには黒服の連中が山ほど控えているのかもしれない。
放ってもいいだろうとは、思う。というか普段の垣根なら確実に無視だ。
だが、もう一度、舌打ちをする。自分に向けて。
「善行なんぞいくら積んでもエリスのご利益は変わらねぇけどな」
垣根は足を向ける。不良に絡まれ、腕をつかまれている姫神のほうへ。
そんなことをしたって別にエリスに報告する気もないし、何も変わらないのだが。
だがもし無視を決め込んで、それをエリスに教えたら、きっとエリスは自分を咎めるだろう。
そういう、エリスの良しとしない在り方はなんとなく避けておこうと思うのだ。
垣根はため息をつきつつ、不良たちに声をかけた。
「おい、散れ」
「あ? なんだ、彼氏さん登場か?」
「ちげーよ、こんな馬鹿女の連れ添いなんぞ御免だ」
「随分と。酷い言いようだね」
「好き好んでこんなところを歩くお前を馬鹿女と言って何がおかしいんだ」
「用がある。だからここにいるだけ」
「……まあいい。とりあえずお前はここから出てまともな道に戻れ」
「なぁおい、随分仕切っちゃってくれるけどよぉ、お前、なんでそんなに偉そうなの? 背後から角材でカチ割られたい?」
「悪くないな、それぐらいの悪辣な手で攻めて来たほうがいいぞ。やりたいなら」
「……この通りでそんな台詞を吐くやつがいるなんてな。テメェ、顔は覚えたよ」
「お前より偉い奴はとっくに覚えてるよ。ほら、隣のやつの蒼白な顔見てからもう一回考え直せ。で散れ」
言葉を吐くのも面倒くさい。雑魚の始末なんて、どんなものであっても面倒の一言しかない。
一番威勢のよかった不良が仲間の耳打ちを聞いて、同様にまずいという顔をした。
「……クソ、あんた趣味悪いぜ。隅っこで生きてる奴を蹂躙するのが趣味かよ」
「だったらもっと煽ってるよ。近道に通っただけだ。今度からはそっちが避けるんだな、災害みたいなものだと思って」
姫神を残して、不良たちが路地のさらに奥の通りへと立ち去って行った。
恨めしそうな視線をくれてやった奴もいたが、それには取り合わない。
姫神のほうを見ると、礼を言うでもなく、じっと垣根を見つめていた。
「彼女さんに会いに行くの?」
「な」
「この前。シスターの女の子に会ってもう一人の男の子と君の話を聞いたから」
「……聞いてどうすんだよ」
「別に。学園都市第二位でも。人並みの恋愛するんだね」
「学園都市第二位でも、人並みの人間なもんでね」
そういって垣根は目線を外し、会話を打ち切った。
「もういいだろ、それじゃあな。用事が何かは知らないが、精々頑張れよ」
「うん。言われなくても。私はすることをするだけ」
垣根はもう姫神のほうを見ることはせず、その場を立ち去った。その背中に、ありがとうと声がかけられる。
礼を言われるほどのことをした覚えはなかったので、返事はしなかった。
そのまま路地裏を脱し、駅前に出る。待ち合わせの時間まで少し待っていると、やがて遠くからエリスが現れた。
よそ行きな感じのする、かわいらしい服装だった。それを見ただけでにやけそうな自分を戒める。
「お待たせ、帝督君」
「ん、今日も可愛いな、エリス」
「あは。嬉しいんだけど、出会い頭にそのストレートな褒め言葉は顔が火照っちゃうね」
「そうか?」
「今日も帝督君がカッコよすぎて、ドキドキしてる」
「べ、別にそういう仕返しはいらねーんだよ」
「ほら帝督君も照れた」
くすくすとエリスが口元に手を当てて笑う。柔らかいブロンドが風に揺れた。
首元に汗で張り付いた数本の髪が、夏らしい色っぽさを感じさせた。
「今言ったこと、嘘じゃないからね?」
「俺も、嘘じゃなくて本気で言った」
一呼吸分、二人で見つめあう。そしてどちらからともなく、軽く手をつないだ。
「エリス、どこに行きたい?」
「えっと、ごめん。急だったから、私もあんまり考えてないんだ」
「そうか。場所、どうする? この辺りは遊ぶところは多いけど、教会の近くまで戻るか?」
垣根の家がここから近いし、MARの病院からエリスの住む教会への戻り道の途中だからと、二人は第七学区のとある駅前で落ち合っているのだった。
ちょっと、怖い気持ちもある。あの異常な匂いに心を乱されたのは、第七学区でやっていた夏祭りでのことだったから。
ここにいたら、また遭ってしまうかもしれない。あの香りの持ち主に。
……きっと、大丈夫だよね。こないだと同じ川沿いは避けて、人の多いところも避ければ。
「ここでいいよ、帝督君。そのほうが長く遊べるし」
「そうか。まあ、とりあえずここにいても仕方ないし、歩こうぜ」
「うん」
「さっきまで、何してたんだ?」
「あ、えっと……。それ、ちゃんと説明しなくちゃね」
「んじゃ、お茶でもするか?」
「うん。えっと、公園でもいいかな? 人に聞かれるとよくない話だから」
「いいぜ」
人込みを、垣根とエリスは手をつないで歩きぬける。猥雑な駅前の空間を通り抜け、近くの公園に足を運ぶ。
暑い季節のことでつないだ手があっという間に汗ばんできたが、どちらも手を放そうとはしなかった。
垣根は視界の隅に、また見知った顔を見つけた。先ほど姫神との話でも出た修道服の少女、インデックスだ。
遠目でもわかる真っ白な服を今日も来ているらしい。そして目立つ理由がもう一つ。
妙にお似合いな、身長が二メートル近い、ガラの悪そうな赤髪の神父と一緒に歩いているからだ。
「エリス、教会にもうじき通うっていうお前の友達、あれも彼氏持ちか?」
「え? あ、インデックスだ。あの子もここに来たんだね。えっと、隣の人はステイルさんって言って、まあ、あの人がインデックスを好きなのは確定だね。ただ、インデックスのほうはそういうのにあんまり興味を持ってない感じなんだよね。あの子が一番好きなの、たぶん上条君だと思うよ」
「アイツは確か、別の女がいるんだろ?」
「うん。だからインデックスの好きは婚后さんって彼女がいることと矛盾しないような好きってこと。こういったら怒られるだろうけど、まだちょっとそういう事には幼いんだろうね」
二人は駅のほうへと向かっていく。恐らくは別の場所が目的地なのだろう。
上条たちと待ち合わせでもしているのだろうか。
なんにせよ垣根はたいして興味もないので、視界から二人が消えると同時に二人のことは忘れ去った。
「じゃあ、この公園でとりあえずイチャイチャするか」
「うん。帝督君が、優しくしてくれるなら、私は全部任せるから」
「お、おう」
「ふふ。デレた帝督君ってすっごく可愛いよ」
「からかうなよ」
エリスが腕をぎゅっと絡めた。そんなには大きくないが、やっぱり柔らかい胸の感触が腕に当たるとドキドキした。
指摘するとパッと離れてしまうかもしれないので、垣根は黙ってその感触を楽しむ。
そしてあたりを見回し、人通りの少ない場所にあるベンチを見つけた。
「あそこでどうだ?」
「うん。二人で座ろっか」
目の前が雑木林で、見た目にも悪いベンチだった。
だが内緒話をするのには悪くない。ついでに睦みあうのにも。
そこを垣根は手で払い、葉っぱを払い落とす。ゴミがないのを確認してから、エリスに腰掛けさせた。
「ありがとう、帝督君」
「エ、エリス」
ギュッと、抱きつかれた。なんだか積極的なエリスの態度に垣根は戸惑った。
勿論嬉しい。だが、かつてこれほどエリスが垣根に積極的に抱きついてくれたことはなかった。
「どうしたんだよ? 今日、なんか」
「……うん。私も自覚ある。上条君が悪いんだよね」
またあの野郎か、と垣根はいら立ちを覚えた。誰であれ彼女の口から出てくる男の名前なんて気に入らないものだ。
それを慰めるように、垣根の胸にエリスが髪を触れさせる。
「別れ際に婚后さんと、おもいっきりイチャイチャしてるの。目に毒っていうくらい。あれで自分たちは自重してるつもりなんだからいい迷惑だよね。たぶん、今もどこかでベタベタしてるんじゃないかな」
「……」
「それにやっぱり、中てられちゃったんだよね。私も帝督君に、優しくしてほしいなって」
「してやるさ、いくらでも」
「うん」
垣根はエリスの肩に腕を回す。そこそこゆとりのあるベンチのど真ん中で、二人はぴったりくっつきあった。
「そういうことする前に、今日の話、しちゃうね」
「え?」
「あのね、インデックスと遊ぶはずだったってことしか、帝督君には言ってないと思うんだけど、あれから、結構危ないこととか、あったんだ」
「危ないこと?」
初耳だった。エリスはいろいろと問題を抱える身だ。
厄介ごとからは遠ざかっているべきだし、気になる話だった。
「何があったんだ?」
「私も、完全に話を把握してるわけじゃないんだけど……」
そう言いながら、エリスはかいつまんで出来事について垣根に話す。
学園都市の各地で起こっていた、局地的地震について。それを引き起こしていた暴走能力者の子供たちについて。
そして体晶のことに触れると、垣根が表情を鋭くして、エリスの話を注意深く聞いた。
「それで、MARの所長だったテレスティーナは、体晶を使ってレベル6の能力者を作る、絶対能力進化<レベル6シフト>っていうプロジェクトに加担していたみたい」
「……」
「あの、帝督君?」
「エリス。しばらく、その一件で会った奴からは離れたほうがいい」
「えっ?」
問い直すと、垣根の顔がいつになく真剣だった。
「そのプロジェクトはマジでヤバい。学園都市の本丸だ。多岐にわたったでかいプロジェクトの、恐らくは末端に触れただけだろうが、もうそれ以上は関わらないほうがいい」
「詳しいこと、知ってるの?」
「誘われたことがあるんだよ。俺もな」
「えっ?」
「第二候補<スペアプラン>なんてふざけた名前を教えてくれたおかげで蹴ってやったがな。学園都市第一位の人間を主軸に、今も動き続けているはずだ。学園都市の悲願をかなえるための、一番重要な計画だ。それは」
レベル5など、単なる通過点でしかない。それは何度も開発官から言われ続けてきたことだ。
現状に垣根は満足したことなどないが、それでもレベル4と5の間に横たわる深い溝よりもさらに幅広いものが、自分の前には広がっているはずなのだ。それを越える具体的なプランを垣根は持ち合わせていなかった。
「そんなに、危ないものなの?」
エリスは確かに外道な実験の一部を垣間見たが、自分自身も実験動物であった過去を振り返るに、それと一線を画するような外道さではなかったと感じていた。
「漏れ聞く話じゃあ、一万単位で人間を使い潰したって話を聞くがな」
「一万って。それ、ホントなら学園都市の学生の間でもっと大きな騒ぎになるんじゃ」
「やり方ってのは、いろいろあるんだよ。エリスが会った実験体だって、置き去り<チャイルドエラー>を利用して問題を露呈させないようにしてたわけだろ?」
「それは、そうだけど……」
「まあ、もう絶対にかかわるな。俺も連中とは接触もしないようにする。平穏な暮らしを続けられるのが一番だろ?」
「うん。帝督君がいて、静かにあの教会で暮らせれば、私はそれで十分だから」
それはエリスの本心だった。
あそこが、自分の居場所なのだ。
いずれ老いない自分があの場所にいられなくなるまで、ずっとエリスはそこで暮らしたかった。
そして垣根は、そんなエリスの平穏を、守ってやりたかった。
「今日も、教会の門をくぐるまでちゃんと送るよ。外出するときは、よっぽどのことがない限り、しばらくは俺と一緒の時にしてくれ」
「んー、そういうのは私一人じゃ決められないよ。教会の都合だってあるし。でも帝督君が、もっと来てくれるなら」
「そうするよ。エリスは、絶対に守るから」
「うん。じゃあ、守られます。私も帝督君に飽きられないようにしなきゃね」
「馬鹿野郎。飽きるわけ、ないだろ」
「そうだといいな。上条君と婚后さんも、なんだか初々しい感じだったし、ああいうのがいいな」
それを聞いて、垣根がむっとした顔になった。それに気づいてフォローをする。
「もう、上条君の名前を出すと、すぐに焼き餅焼くんだから。私、上条君に特別な気持ちとか、そういうの全然ないよ? 婚后さんの幸せそうな所を見て、私も、カッコいい誰かと幸せになりたいなあって」
「そのカッコいい奴ってのが誰か、見当もつかないな」
「もう、帝督君って自信家なのに、こういうところは控えめだね」
「能力なら客観的評価がいくらでもある。だけど、エリスに好かれるかどうかはそういうのじゃ測れないだろ」
「そうだね。でも、私は結構単純だから、普通に優しくしてくれたら、好きになっちゃうよ」
「俺以外でもか?」
「もう。そんなんじゃないよ。帝督君は、特別……」
ちょっと満足げな顔を垣根がした。そしてそっとエリスは抱き寄せられる。
背中から垣根のほうに倒れこみ、支えてもらう。
垣根の首に腕を回すと、顔と顔が至近距離になった。
「俺は、エリスにとってカッコいい男になれてるのか」
「うん。帝督君が彼氏さんなんて、夢みたいだもん」
「好きだ、エリス」
「うん。ね、キスしよ……」
ねだるように、エリスが垣根を見上げた。
邪魔な髪を指で優しく払いのけ、エリスの唇をあらわにする。
震えたりはさすがにしないが、それでもたどたどしい自分の手つきにいら立ちながら、垣根はキスの準備を整えた。
「エリス」
「帝督君……」
名前を呼ばれるのが嬉しい。
他でもない自分が求められているのだという気がするから。
「ん……」
唇を押し当てる。夕方とはいえ夏の公園だから、二人とも汗ばんだ感じの唇だった。
しっとりとしたその感触に、しばしの間神経を集中する。
隠すようにそっとついたエリスの吐息がかわいらしかった。
垣根のほうは、我慢しすぎると余計にエリスに気を使わせそうだったので、ちょっと乱暴目に息をつく。
そして一度、離した。
「ふう……」
「息、そんなに無理しなくていいぞ」
「えっ? もう、帝督君! 恥ずかしいんだから、隠してることを指摘するのは減点だよ?」
「でも、無理しないほうがいい」
「それは、そうかもだけど」
「これから息継ぎなしじゃ苦しいキスするからな」
「え? あっ……!」
エリスがびっくりするくらいにギュッと体を抱きしめて、垣根はもっとディープなキスに取り掛かった。
ここに来る前から、今日はそこまで行けたらいいなと思っていたのだった。
雰囲気も悪くないし、エリスは受け入れてくれる気がした。
「エリス」
「帝督、君……ん」
ちゅ、と音を立てながら、垣根はエリスの唇に自分の唇を合わせ、そして強引にその間に舌をねじ込んだ。
どうしていいかわからないエリスの戸惑いが、その唇の動きに表れていた。
こちらも引くべきなのかもよくわからず、そうやってエリスの唇を蹂躙することをやめない。
するとやがて、おずおずとエリスが歯の間を開き、垣根の舌が自分の口の中に侵入していくことを許した。
その隙間に、垣根は躊躇わず舌を差し込む。
はぁ、と悩ましい吐息が出ていくのと入れ違いに、垣根はエリスの舌に舌を触れさせた。
「んっ」
エリスの舌と、舌が絡み合う。
大面積にねっとりとからみつくものかと思いきや、案外と舌と舌というのは触れ合わないものらしい。
垣根が抱いた感想は、そんなものだった。
「エリス。もっと」
「え……? どうしたらいいの?」
「舌、出してくれ」
「う、うん」
そうリクエストすると、素直なエリスは垣根の求めに従ってくれた。
ニチニチと、舌と舌が音を立て始める。
途端に、そのキスが性的な意味を帯びた、とても親密なものに豹変した。
「ん、ん、ああ……」
エリスが頬を染めて陶然とした声を出した。それが可愛くて、夢中になる。
垣根の首に回した手から力が抜けて、エリスの体が弛緩する。
それをしっかり抱きとめると、エリスは嬉しそうな顔をした。
「帝督君は、ぶっきらぼうだけど優しいね」
「誰にも言うなよ」
「どうして?」
「ガラじゃねえんだ。本当にな」
「うん。大好きな帝督君を独占したいから、そうするね」
「エリスもその可愛いところ、俺以外に見せるなよ」
「見せないよ。っていうか、帝督君以外にこんなに甘えられないもん」
「エリス」
「私、帝督君にこうやって可愛がってもらえるだけの価値のある人じゃないかもだけど、本当に、こうしている時間は幸せで、すっごく楽しいんだ」
「そういう卑下はやめろよ」
「うん。でも、ただの卑下じゃなくて、いろいろ事情のあることだから」
それでも、嫌だった。
惚れた女に、ほんの一欠けらでも負い目を負わせることなんて。
「エリス。そういうつまらない事は、忘れさせてやる」
「うん。帝督君といると、嫌なことなんて全然思い出さないよ」
「今思い出してるだろ?」
「もう。そういう揚げ足取りは却下です」
「悪い」
「帝督君、大好き」
もう一度、エリスの口を吸い上げる。
結構ディープキスというのは体力を使うのか、あるいはくっつきすぎているせいなのか、
二人とも随分汗をかいていた。もちろんそんなことは気にならないけれど。
「エリス、今日は、どこまでしていい?」
「どこ、って」
正直すぎるその質問に、エリスは視線を虚空にやった。
「帝督君の、好きにして……」
「いいんだな?」
「……知らない。あっ!」
垣根がエリスの二の腕を抱いていた手を、肩に滑らせた。
その腕がどこに近づいているのかを、エリスは察した。
だが、だめだとは言わなかった。
「エリス」
「帝督君……」
いよいよと、垣根が覚悟を決め、エリスがその時をそっと待ったその時。
タッタッと軽快なスポーツシューズの音が聞こえた。
「えっ?!」
ババッと二人で瞬時に元の姿勢に戻る。誰かはわからないが、後ろを誰かが走り抜けていった。
夕方の公園だ。ジョギングする人がいたって、おかしいことはない。
「い、行ったかな……?」
「ああ」
「びっくりしたぁ……」
はー、と息をついてエリスが姿勢を崩す。
人の視線のある中でやれるほど、二人とも肝は据わっていなかった。
放心した垣根がエリスを見つめると、視線が合った。
そしてさあっと、エリスの顔が羞恥に染まった。
「わ、て、帝督君。今私、すっごい顔してたよね」
「え?」
「み、見ちゃ駄目。今はナシで」
「突然どうしたんだよ、エリス」
「恥ずかしいの!」
「恥ずかしいって、さっきまでキスしてたってのに」
そういうことではないのだ。
だって。胸を触られるかも、というその時に、エリスは陶然とした顔をしていた。
内心を思い返せばわかるが、たぶん自分は嬉しそうな顔をしていた。
なんというか、それじゃ自分がそういう性的なことを受け入れたみたいで、恥ずかしい。
駄目なのだ。垣根がエッチで自分にそういうことをするのは駄目ではないが、自分がそうしてほしいと思ったというのはアウトなのだ。
「て、帝督君。のど乾かない? 私お茶かジュース買ってくるから!」
「エリス? ちょっと落ち着けって」
「ちょっとクールダウンなの! すぐ帰ってくるから、帝督君はここで待ってて!」
「あ、おい!」
エリスは腰を浮かせた垣根の肩を抱いてベンチに座らせ、小走りにそこを離れた。
なんだか一人残されるのは落ち着かなかった。ちょっと、やりすぎたかと反省する。
胸ってのはサイズによってはコンプレックスの塊だし、エリスにもいろいろあるのかもしれない。
煙草でもあれば吸えば恰好もつく間だろうが、あいにく垣根に喫煙の習慣はなかった。
仕方がないので、ぼうっとエリスの帰りを待つ。
ただ、思い返してもこの傍に自販機はなかった。帰ってくるまでに、往復で五分以上はかかりそうだ。
何の面白みもない雑木林を眺め、垣根は嘆息した。
そしてふと後ろに人の気配を感じたと同時に、不意に、後ろから声をかけられた。
「彼女と。何かあったの?」
「あん?」
振り向くとそこには、先ほど助けた巫女服の少女。
恰好が悪くて、垣根は睨みつけながら舌打ちをした。
「テメェ、見てたのかよ。趣味が悪いな」
「大丈夫。今ここについたところで。あなたの彼女の顔もほとんど見てないくらいだったから。直前に何をしていたのかは。憶測しかできない」
「邪推なんざいらねえよ。忘れてさっさとどっかへいけ」
「そうだね。ここにいて。彼女さんを困らせるのは悪いし」
「つうか、人通りの少ないところを徘徊するのはいい加減にしろよ。助ける義理もないし、これからお前がひどい目にあったって俺の知ったところじゃないがな」
「じゃあどうして忠告してくれるの?」
表情を一つとして変えず、無表情に近い姫神がわずかに首を傾けてそう尋ねた。
垣根は足元の小石を蹴っ飛ばす。
「たとえば、自分の女になら絶対にしてほしくないようなことをしてるんだよ、テメェは。お前なんぞどうでもいいが、それでも関わった知り合いにその程度のことを忠告するのはそんなに変か」
姫神は髪を揺らしながら、首を横に振った。
「ありがとう。意外と。いい人なんだね。でも忠告には従えない」
「そうか」
「理由があるから。こういうことをしているの。探し物なんだけれどね」
「そーかい。見つけるまで頑張ってくれ。幸せの青い鳥<ブルーバード>は案外近場にいるらしいぞ」
姫神は垣根に背を向け、歩みを再開した。
空気に紛れるように、そっとつぶやく。垣根に聞かせる気はなかった。
「吸血鬼<ブルーブラッド>は。なかなか見つからないんだけどね」
案の定もはや姫神から興味を失っていた垣根はそのつぶやきを耳に入れなかった。




ガシャコン、と軽快な音を立てる自販機の前で、
エリスはようやく早鐘を打つ心臓が落ち着いてきたことにほっとしていた。
「あのまま、しちゃってもよかったかな」
嫌だとはこれっぽっちも思わなかった。
垣根は優しい手つきだったし、エリスの不安をよく察して、リードしてくれていた。
さすがにホテルや垣根の自室にお持ち帰りされるのは困るが、あれくらいなら許してもよかったと思う。
「落ち着けるところが、いいなぁ」
それが本音だった。やっぱり公園だとか、そういうところは誰かが来る不安が付きまとう。
もっと二人っきりの所で落ち着いて睦みあいたかった。
インデックスが愚痴った話によると、光子と当麻は半同棲状態らしい。何ともうらやましいことだ。
自販機から二本のジュースを拾い上げ、エリスは抱くように持った。冷えすぎていて握るには冷たい。
「あんまり待たせたら悪いよね」
早足で、垣根の所へとエリスは戻る。
その道すがら、垣根のいたほうから一人の女性が歩いてきていた
たぶん、垣根と同い年くらいだろう。長い髪の毛が綺麗で、うらやましい。
もしかしたら垣根の横を通って、その時に垣根が黒髪に見とれたかもしれないと思うと、ちょっと嫉妬を覚えた。
とはいえ無関係な人なので、とくに話す気もなかった。
急ぐこちらを気にしてか、わずかに道を譲ってくれたので、会釈をした。




――――カランカランと、手に持ったはずの缶ジュースが地面に落ちた音がした。
幸せが、手からこぼれた音だった。




「え?」
気づくと手の中にはさっき買ったジュースがない。
いつ落としたのか、まるで気づかなかった。
――へこんでたらやだな。帝督君に渡す時に恥ずかしい。
そんなことを考えながら、早く拾わなきゃと腰をかがめようとする。
いや、したはずだった。
だというのに体はいつまでたっても行動を起こさない。ずっと自分のすぐそばに視線をやったまま微動だにしない。
――困ったな。巫女服着ててこの人も変だと思うけど、絶対私のことも変って思われてる。
事実、目の前の女性は驚きに目を見張り、一歩二歩と、あとじさりを続けていた。
まるでこちらが、危険な何かのように。
――それにしても、綺麗な人だよね。
額に掛かるようまっすぐ切りそろえられた前髪も、服装や顔つきによっては野暮ったいだけなのに目の前の女性がやると綺麗だった。
長い黒髪は、肩までしかないブロンドのエリスにはあこがれの対象だ。
垣根は日本人だし、黒髪好きならエリスとしては困る。
ブロンドは尻軽な印象のある髪の色なので、自分でもちょっと好きになれないところがあるのだ。
それにこの人の香水がまた、悔しいくらいにその服や顔立ちに似合っているのだ。
柑橘系のポップな感じじゃ似合わない。この人の香りはまさに、椿だと思う。
匂い立つような甘い椿の香りに、惹きこまれそうになる。
香水ひとつで印象が変わるなんてのはずるい話だと思うが、本当にこの人はきれいで。


――まるで、食べてしまいたいくらい。


何かがかみ合わない。
自分がおかしなことを考えているのか、それとも正常なのか、よくわからなかった。
そういえば、さっき自分は何かを拾わなきゃと思ったはずなのに。
もうどうでもよくなっていた。だって拾うにはこの人から視線を外さなきゃいけない。
――ああ、どうしよう。随分この人、離れちゃったな。そろそろ追いかけないと、逃げられちゃう。
エリスは今はいている靴が割としっかりしたものなことをありがたく思った。これなら全力で走っても脱げたりしない。
のどが渇きを訴える。もちろんジュースで癒えるほうの渇きじゃない。だがエリスの脳裏ではもうそれらの区別はつかなかった。
吸血衝動と食欲を分けて考えるほうが、異常なのだ。エリスは、そういう生き物なのだから。
――なんか変な人たちが出てきた。邪魔だな。別にこの人たちは美味しくないのに。
いつしか巫女服の少女はエリスから随分と距離を取っていた。
そしてエリスの視界から巫女服の少女を隠すように、黒服の男達がぞろぞろと現れる。
だがエリスは居場所を見失うことはない。こんなにかぐわしい椿の香を残してくれるのに、見失えというほうが無理だ。
黒服の人間がエリスの肩をつかんだ。だがそれをエリスは意に介さない。
アリが靴にたかったのを気にする人間がどこにいる? どうしても邪魔なら払いのけるだけのことだ。
――早くあの人でのどを潤して戻らないと。じゃないと。
そこで、エリスはハッとなった。
「私、今」
そうだ、自分は今、垣根とデートをしている。
これからも幸せでいようと、ずっと一緒にいようと言ったところだ。
ちょっとアクシデントがあってエリスが席を外したが、垣根は今もあのベンチでエリスを待っている。
だから、落としたジュースを拾ってすぐに垣根のもとに走らないといけないのだ。
それを、すっぱりと忘れていたことに、エリスは気が付いた。
「やだ、そんな」
しなきゃいけないことは、頭で理解している。
だけど。
足が、手が、巫女服の少女を追うために、機能していく。
細胞の一つ一つが活性化したように、体中に力がみなぎっていく。
こんな経験、一度としてなかった。
だって吸血鬼である自分を認めたことのないエリスは、生物として強靭なその力を十全に発揮したことなどないから。
「てい、とくく――」
名前を呼ぼうと、した時だった。
ラフレシアみたいに濃密で醜悪な、かぐわしい椿の香がエリスの鼻腔をくすぐる。
それだけで、もうだめだった。
「あ――」
エリスの心の中の何かが、ぼとりと首を落とした椿の花みたいに、散った。




垣根はそろそろエリスが出かけてから十分が経つのを、イライラとしながらベンチで耐えていた。
時計でその十分が過ぎたのを確認すると、さっと腰を上げた。
「エリスのやつ、電話にくらいは出ろよな」
自販機を探してエリスが走って行った方向へと垣根も進む。
人っ子一人いない、夕方の公園の光景がそこには広がっている。
人がいないのは違和感を覚えないでもないが、垣根はそれ以上は考えなかった。
「ん?」
道の真ん中に、缶ジュースが転がっている。
別に、それくらい気に留めるようなことではないはずだが、随分と缶が汗をかいていてまだ冷たいらしいこと、そしてその銘柄が自分とエリスの二人が好きな組み合わせであること、その二つを看過することはできなかった。
「開けてもない缶を、棄てるってどんな馬鹿だよ……」
冗談を飛ばしたのは、自分を落ち着かせるためだった。
嫌な汗が、ジワリと背中を伝う。
離れるな、といったのは誰だった? ほかでもない垣根自身だ。
「エリス! いるか?!」
声を上げて、エリスを探す。だが返事は静寂しかなかった。
影一つ、動く気配がなかった。
「おいおい、冗談じゃねえよ」
声が、震えた。最悪の予想が脳裏を駆け巡る。
杞憂ならそれでいい。後で笑えばいい。
垣根はあたりを見渡す。何か、僅かでもいいからヒントがほしい。
そう念じていると、視界の隅、植木の隙間に黒い何かが見えた。
近づいて、それを引きずり出す。
気絶した黒服の男だった。胸元の襟章を見る。
「……」
三沢塾の、姫神を守る黒服が、どういうわけか気絶し、そしてそれを隠ぺいするように茂みに隠されている。
「クソッ、おい起きろ! 全部話せ!」
垣根は数発ほど容赦のないビンタを張って、黒服の覚醒を促す。
だが起きる気配のない黒服にすぐ業を煮やし、公園の一番近い出口に走った。
「エリス……!」
どこにもいない、大切な女の子の名前。
呼びかける先さえ分からないまま、垣根は茫然と呟いた。




全力で走った後の荒い息を、必死に整える。
吸血鬼の身体能力は姫神の比ではない。だから全力で走った。
公園を抜けた先に用意された、黒塗りの車。
姫神はそれに乗り込み、道路交通法を無視して走るその車で、アウレオルスの居城、三沢塾を目指していた。
姫神は携帯を取り出し、慣れた手つきである番号をプッシュした。
携帯電話の通話機能とは違うメカニズムで、それはどこかと繋がる。
彼女が共闘する、錬金術師のところへ。
「どうした?」
誰何すらない、端的な質問。
自分とアウレオルスの間にあるのは、そういう関係だった。
だから自分も、一言だけ返す。それで通じるのは間違いなかった。
「会えたよ」
アウレオルスはすぐに返事をしない。
その邂逅を噛みしめるような、一瞬の間があった。
「そうか。それでは、速やかにこちらへ誘導を」
あらゆる準備を整えた希代の錬金術師は、万感の思いを込めてそう呟いた。

******************************************************************************************************
あとがき
吸血鬼であるエリスにとっての姫神の血の香りについて「ラフレシアみたいな椿の香」と表現してきましたが、これはOrbitの『顔のない月』という伝奇小説風のヴィジュアルノベルゲーにおいて用いられていた椿に着想を得ています。原作では吸血鬼の血の香りとは全く関係ありませんが、五感に訴える美しさを持ちながら、そこに絡め取る様な淫靡さや恐ろしさを象徴させた手法を真似ているつもりです。



[19764] ep.3_Deep Blood 04: 重なるコインの表裏
Name: nubewo◆7cd982ae ID:cb4a3376
Date: 2011/10/30 07:35

バタン! と勢いよく扉が開くのを、アウレオルスは感慨もなく見つめる。
当然だ。この三沢塾という建物の中で起こったあらゆることを、彼は把握しているのだから。
息を切らせ、協力関係にある姫神が駆け込んでくることも、事前に気付いていることだった。
「……安全な場所は。どこ?」
「扉を閉めろ。この部屋にいれば、何処でも安全だ」
「そう」
4つのビルからなる三沢塾学園都市支部の、北棟の最上階、そこにある校長室という名の煌びやかな一室に、姫神は駆け込んでいた。
その部屋は実質的にアウレオルスの居室であり、魔城と貸した三沢塾の、まさに本丸だった。だが、部屋の広さや装飾の華美さはアウレオルスの趣味によるものではない。
アウレオルスは実用性からこの場所を選んだだけで、内装の悪趣味さは、単に前の支配者たる校長の趣味を反映しているだけ。
アウレオルスの醸し出す空気は、そうしたものに一切頓着しない虚無さだった。
姫神は、しつらえのいいソファに腰掛け、荒い息を整える。
つい今走ったのは、黒塗りのリムジンを出て建物の正面にあるエレベータに乗り込むまでと、このフロアに着いてからの僅かな距離だけだ。
こんなもの、健全な女子高生の姫神秋沙にとってはどうというほどの距離ではない。
息が切れて、心臓がバクバクとあわただしく拍動しているのは、単に疲労のせいではなかった。
理由は、怖かったから。安全の保証されないその場所に、1秒でもいたくなかったから。
「ご苦労だった。後は私の仕事だ」
労う言葉にほんの少しのいたわりも込めずに、無機質にアウレオルスがそう言った。
なんとか、この安全な結界の中まで逃げ込めた。
ここなら、大丈夫だ。
――――ここまで逃げ込めたなら、自分があの子を殺すことは、ない。
姫神は自分の心配など欠片もしていなかった。
自分の能力は、絶対なのだ。例外などない。
吸血鬼は、何をどうやっても、自分に危害を加えるようなことは出来ない。
そして、何をどうやっても、自分に相対した吸血鬼が死ぬことも、絶対なのだ。
どれほどその吸血鬼が善良であっても、ヒトの群れの中で穏やかに暮らせる個体であっても。
恐怖に笑う膝を、姫神は手のひらを当ててグッと握りつぶすように力を込めた。
「アウレオルス=イザード」
「何だ」
「約束は。覚えている?」
自分の中の弱い気持ちを押し殺して、無表情に、姫神は問いかけた。
それは何度か繰り返した、確認事項。
アウレオルスは冗談を返さない男だ。まさかこの段に至って、それを崩すこともないだろう。
あっさりと、アウレオルスは首肯した。
「ああ。ここに呼び込んだ吸血鬼を、殺すことはしない。私は私の目的を果たすために、説得または生け捕りを行うことになる。説得は私の一存で叶うものではないが、最悪でも生かしたまま捕らえるに留めることは保証しよう」
「そう」
それが、アウレオルスとの約束。
姫神は、吸血鬼を殺す自動機械みたいな自分をどうにかしたくて、ここにいるのだ。
もう、誰も死なせたくないから。
かつて京都の寒村で自分を可愛がってくれた村の皆を虐殺した姫神秋沙の、誓いだった。
「あの子の。彼氏が追ってくるかも」
「それは、人間か?」
「うん」
姫神が、なにもかもをブチ壊しにしてしまうほんの数分前まで、吸血鬼の少女は、幸せなひと時を満喫していたのだ。
年頃の女の子らしい、なんてことはない、普通の幸せを。
吸血鬼なんて、ファンタジーの世界にしか出てこないような響きを持った種族でありながら、実際の吸血鬼は皆、普通の世界でありふれた幸せを手にする人々だった。
それをまた、姫神は壊してしてしまったことを、後悔する。
どうして幸福というのはもっと強固で壊れぬものでないのだろう。
薄氷の上でしか営めないものを幸福と呼ぶのは、一度も踏み割らなかった人間の牧歌的な思想にしか思えなかった。
きっと、事実を知れば、何度か言葉を交わしたこともあるあの彼氏はきっと姫神を恨むだろう。
姫神を殺そうとするかも知れない。切れのあるその表情を思い出して、姫神はそう思った。
それほど深い知り合いではないが、好きな人には一途で、他人には冷淡なタイプに見えた。
「気をつけたほうが。いいと思う」
「何に?」
「彼氏に。たぶん。学園都市の第二位だから」
会話の断片や、噂で流れてくる風貌と本人の顔の比較から、姫神は捕らえようとしている吸血鬼の女の子の恋人が、垣根帝督であることにほぼ確信を持っていた。
「レベル5の超能力者は。人という括りに分類すべきじゃないって言われる力の持ち主ばかり。警戒は。しておいたほうがいい」
もう、きっとあの子は自分を追ってこの建物に入る頃だろう。
後には、引けないのだ。ならばせめて失敗はしないよう、アウレオルスに忠告する。
だが、返事は素っ気無いものだった。
「ふむ、もちろん、全ての敵対者に対し必要な準備をしよう。だがこの建物は超能力者であっても、一足飛びに走破できるものではない。私とて、常人の括りからは逸脱した存在であると、自負している。私を破ることは、世に二十を越えぬと言われる聖人であっても、易々とは叶えさせん」
「そう」
姫神は、アウレオルスを信じることしか出来ない。
懇願の込められた姫神の視線を一顧だにせず、アウレオルスは傍らのデスクに手を置いた。
そして残るもう一方の手で懐から長い鍼を取り出し、痕がいくつも残る首筋へと、すっと突き刺した。
自らの術に対する自負を、そうやって捨てる。機械へと成り代わる。
目的に達するには、自我すら余計だった。
「決然。では侵入者の迎撃と、吸血鬼との対話ないし捕獲を始めよう」
誰にともなく、アウレオルスがそう宣言した。



花柄をあしらった薄手のワンピースを着た少女が、三沢塾の扉をくぐる。
やや、場違いな雰囲気はあった。
勉強をするために施設に赴くにしては、装いが晴れやか過ぎる。
スカートは長めだし首の露出も少ない清楚な装いではあったが、それは確実にデートのためだとか、そういう目的にふさわしいような、控えめな女の子の勝負服だった。
さらさらとブロンドを揺らすその女の子に、きっと、周りの誰もが注目するだろう。
学習塾という場所に対する、服装だとか、勉強道具一つ持っていないことだとかのミスマッチさもその理由になるし、なにより、そのモデルみたいな可愛らしさと、その奥にある不思議な妖艶さは男女区別なく惹き付ける力がある。
だけど。
誰一人として、彼女に注視する人間はそこにはいなかった。
路傍の石にでも、もうちょっと人は視線を向けるものだろう。
その完璧に少女を蚊帳の外に置く態度は、不自然と断言して差し支えないものだった。
だが、それを少女は一向に不思議がらなかった。
理由は簡単。周囲の学生なんて、彼女にとってもまた、路傍の石と変わりないものだから。
「上、かなぁ」
おっとりした声で、エリスはそう呟く。率直に言って彼女は困惑していた。
とても芳しい、椿の香りをたどってここに来たのだ。
このエントランスに入るまでは、確かにここまでその匂いが連続していた。
だが、なんだか霧散したみたいに、このエントランスで香りが急にぼんやりとして、そして、何処に続くのかがはっきりしなかった。
この匂いをたどれないなんて、そんなこと自分に限ってあるはずがないのに。
「……あれ?」
ふとエリスは、傍らから漂う麝香(ムスク)のような甘く粉っぽい香りに気付いた。
悪くない香りだ。ただ、生涯であれ以上はないというほど芳しい香りをした、あの椿の香りに酔いしれた後だから、どうしても陳腐な印象が拭えない。
彼女は匂いに誘われる自分を、戒めた。
だって素晴らしい正餐の直前に、コンビニで買えるスナックをつまむ趣味はないから。
そしてエリスと対面したその香りの持ち主は、愕然とした顔でエリスを見つめていた。
誰もがエリスに注目しない世界で、ただ一人だけ。
「き、貴様、は……そんな、まさか、嘘だ」
その男は、エレベータ横の壁際に立てかけられた騎士鎧の中で息も絶え絶えにそう呟いていた。
声はかすれくぐもってエリスには届かない。ただ、その麝香の臭いのきつさに顔をしかめるだけだった。
おそらく、ここから先はエレベータに乗るべきだろう。自然と匂いの元に近づくことになるが、仕方ない。
それにしても、とエリスはため息をつく。芳しい匂いの香水でも、一瓶丸ごと地面にぶちまければ、こんなに醜悪になるのか。
脳裏で反芻する椿の匂いが麝香の匂いに染まってしまう前に、そこを立ち去りたかった。
エレベータのスイッチに手を触れさせると、カチンとボタンが動いて、適当な階にあるエレベータを呼び出した。
ちょっと、首をかしげる。今、スイッチは自分が押し込むより前に、勝手に動いた気がしたから。
もちろんどうでもいいことだ。匂いの元から少々距離をとって、エレベータが降りてくるのを待つ。
「知らせ――ないと、抹殺対象に、コレが、接触する前に」
騎士鎧が、何かをつぶやいた。だけど意味の分からない独り言だから、エリスは意に介さなかった。
騎士は、もう長くないその命の残り火を、消えないように必死に使って、指先を動かす。自分の所属する一団へと連絡を送るためだ。
万が一のためにと持たされた道具だったが、まさか、その万が一が起こって使うことになるとは。あってはならない事態が起こっていることを、伝えることになるとは。
その合図が指し示す内容はいたってシンプルだった。目の前の、この楚々とした少女が、ヒトではなく、伝承の中に語り継がれるある生き物であるということだけ。
「どうして、いま、いるのだ。吸血鬼が――」
見積もりが甘かったのかも、知れない。
吸血鬼なぞ、探して見つかるものではない。むしろ偶然にしか、会うことは叶わない。
吸血殺しを所有したとしても、博打のアタリが0.001パーセントから0.01パーセントに変わる程度のものだと、思っていたのに。
ここで吸血鬼を待つあの男もまた、偶然に掛けるだけの魔術師だと思っていたのに――
「行くな、止まれ――――」
か細い声で、右腕に『Parcifal』というコードネームを刻まれたその男が、無駄と知りつつ静止を促す。
チン、と軽い音を立ててエントランスにたどり着いたエレベータに、エリスは乗り込んだ。一度も振り返らなかった。
騎士凱の中で、男は自分の無力を呪う。何も出来ず、吸血鬼を錬金術師の元に、近づけてしまうことを。
眼前で吸血鬼の少女をなすすべなく見送って、男は無力感と死の絶望感にがっくりと首をうなだれた。



「おい! ブロンドの女の子が通らなかったか!?」
「え?」
おそらく、黒服の連中から遅れること10分程度。
三沢塾の正面入り口、そのすぐそばで談笑する学生たちに、垣根は強引に割って入った。
エリスのことを問いただしても、誰しも見せるのは困惑の顔だった。
本当に、何も知らなさそうな態度をとっているように見えた。
そんなはずはないのだ。だって黒塗りの車が、この建物の正面に停まっていたのだから。
そんな目立つことがあったからには、誰一人として騒ぎの雰囲気を感じていないなんて、ありえないのに。
「クソッ!」
正面ゲートの自動扉が開くのを待たず、強引に体を滑り込ませる。
ウインドウ越しに唖然とする学生たちの表情にいら立ちが募る。
そんなにも、日常を見せつけたいのか。異常なんてここにはなかったのだと、自分が見当違いの所を探しているのかと焦りを覚えている垣根に知らしめたいのか。
そんな、はずはない。状況証拠が整然とここを指示していたはずだ。
エリスと入れ違いで姫神が現れた。そして彼女の取り巻きである三沢塾の黒服が、人目をはばかるように茂みの中に隠された状態で失神していた。
エリスは買ったジュースをそのまま地面に置いて、どこかへ消えた。
これだけの事実があれば、誰だって三沢塾を疑うだろう。
怪しんで、何らおかしくない。ただ、垣根にははっきりとした事実が必要なだけだった。
「……ん?」
ゲートをくぐった瞬間、わずかにクラリとなるような感覚を覚えた。
「何だ……?」
初めは匂いかと思った。視覚的には何も歪みはないし、靴裏から伝わる感触も普通のリノリウムのものだったから。
だけど鼻を利かせてみても、あるのはどこにでもありそうな街や学校の匂い。
瞬間的に感じた違和感を、垣根はうまく把握できなかった。
「ちょっと君! 何か用かい?」
強い口調で、スーツを着た教師らしい男がこちらに近づいてきた。それで自問を中断する。
後ろに追随するガードマンも、いたって普通のガードマンらしい服装だった。
チッ、と垣根は舌打ちをする。どちらもあの黒服の、画一的で無機質な印象からは遠かったからだ。
今は問題の核心に近づけそうな分、黒服のような物騒な輩のほうが嬉しかったのだが。
「なんだか大きな声が聞こえたけど、どうかしたかい」
教師が垣根を値踏みする。それを垣根は鼻で笑ってやった。科学に溺れた連中が、まさか自分の顔を知らないなんて。
おそらくは勉強道具ひとつ手に持たないことを理由に、不良のレッテルでも張ってくれたのだろう。
こういう態度は順位のせいで下手に出られるよりはマシだが、いずれにせよ今は構っている暇はない。
「なんでもねえよ」
「あ、待ちなさい!」
垣根は教師に取り合わず、さっとエレベータを目指す。
追及されないうちに体を滑り込ませ、入口エレベータで行ける最上階の5階を押した。



チン、とエレベータがアラームを鳴らして、扉を開いた。
扉の上のインジケータには5階と記されている。
別にエリスが望んだわけではないが、なぜか他の階を指定しようとしてもボタンが反応しなかったのだ。
「あ……この階、食堂があるんだ」
悪くない香りが、廊下に漏れ漂っている。
エリスはまた空腹を刺激されて、ちょっと苛立ちを感じた。
先程から、ずっと鼻を利かせているのに一向に捕まらない、あの匂い。
「誰か、邪魔してるのかなあ……」
換気扇や脱臭剤程度でどうにかなるようなものじゃない。
エリスからそれを遠ざけるには、かなりの意図的な工夫が必要だと思う。
そういう直感を、エリスは覚えている。いらだちまぎれに自分の髪を弄んでから、軽く整えた。
「あの、巫女服を着た黒髪の女の人、来ませんでした?」
そばを通り抜ける学生に問いただしてみる。
だが、返事は一向にない。どころかエリスの方を一瞥すらしなかった。
「……ここの人、なんでこんなに他人に興味ないのかな」
聞えよがしに言ったつもりだったが、またも返事はなかった。
はあっとエリスはため息をついた。いい加減、焦れてきたのだった。
食堂になら山ほど人もいて、話も聞けるかもしれない。
そう思って、エリスは食堂の扉に手をかけた。
「あれ?」
ぐっと力を込めて引いているのに、一向に扉が動かない。
鍵がしまっているとか、そういう風でもなく、ただ、ガタつきもなくびくともしなかった。
「もう!」
この建物に入ってから、なんだかうまくいかないことが多い。
あと少しで、あの甘美な香りに包まれて陶然となるはずだったのに。
それが、どうしてうまくいかないのか。
どうせ周りの学生は、また無視を決め込むことだろう。
もう一度、力いっぱい扉を揺らす。だがそれでも、扉は開かなかった。
「ここ、入口だよね?」
さすがに女の子として、力いっぱい扉と格闘するのは恥ずかしい。
いくら非力とはいえ、こうも強情な扉というのはどうなんだろうと思いながら、エリスは扉から離れた。別段、この中に執着があるというほどでもないのだ。
「でも、行く宛、ないんだよね。ほんと、どうしてわからなくなっちゃったんだろ」
エリスが今いる世界は、いわば「コインの裏」と言うべき世界だった。
塾生たちのいる「表」の世界とは、世界を共有していながら、裏にいるエリスの方から表に干渉することができない。
だから扉は、文字通り、びくともしないのだった。
弱く引いても、強く押しても、活性化したエリスの体が、人の膂力を軽く越えた力をかけても、微動だにしない。
だから、エリスは気付かなかった。
自分の体が、人らしく生きてきた今までを捨てて、より強靭な生命として、活動を始めていることに。



「破壊も厭わず、『吸血殺し』を探しまわるものかと思ったが」
静謐さの支配する校長室で、アウレオルスが目を閉じたままそう呟いた。
姫神は突然のその呟きの意味を、汲み取れなかった。
それも当然だ。ここには、別段ディスプレイがあって、映像で吸血鬼のあの少女を監視しているわけではない。
アウレオルスが自らの作り出した結界の中を、五感とは別の何かで感じ取っただけだった。
「あの子は。どうしているの?」
「『吸血殺し』の匂いを見失い、手近なところから歩き回っている、というところか。魔術を行使して探索をする気配は今のところない」
「そう」
もとよりアクシデントが起こった程度で心を乱すことはないアウレオルスだが、それにしても、呆気ないと評さざるを得ない吸血鬼の振る舞いだった。
これでは、人と何ら変わらない。
アウレオルスの言いたいことを汲み取ったのだろうか、姫神が咎めるように言葉を重ねた。
「言ったでしょ。吸血鬼と言っても。私たちと何も変わらない心の持ち主。だから。人が周りにいるところでむやみに力を振り回したりしない」
「であれば、我々の目的も容易く叶えられる。あらゆる可能性への警戒を怠る気はないが、この現状は歓迎しよう」
アウレオルスは微動だにしない。懐に忍ばせた鍼を使う必要もなかった。
「あの子は今。どんな風?」
「その質問からは、どのような返答を望んでいるのかを推し量れん。明快な回答を得たいなら明快な質問をすることだ」
「誰かの血を。吸おうとは?」
「していない」
「私を探すために何かを破壊したことは?」
「ない」
「そう。……だったら。まだ戻れるのかな。話し合う余地は。あるんだね」
「可能な限り、まず対話から、というのがお前との取引条件だ。この流れであれば、その条件を飲めるだろう」
今も記憶に残っている。自分が死なせた、村の人たち。
ヒトにあらざる生き物となった彼らが心の底から化け物にでもなるのなら、あの時、まだしも姫神は救われただろう。
だが、吸血鬼に「成る」というのは、そういう豹変を意味しないのだ。
彼らの精神は、人としての心や倫理観を完全には崩さないまま、ゆるやかに、連続に変化をするのだ。
空腹時には食欲を満たす行動が優先されるように、睡眠欲が強いときは居眠りをしてしまうように、行動を決める欲求のひとつに、吸血衝動が加わるだけ。
ただ、それは三食満ち足りた人間の食欲のように、我慢のできるようなものではない。
「どうやって。話をするの」
それは、アウレオルスにとっても最大の難関だった。
吸血衝動に犯された吸血鬼に、握手を求めるような友好的な態度は通じるのか。
それともある程度の物理的、または精神的な拘束を課した上で交渉に望むべきなのか。
彼女の機嫌を損ねて、敵対されればどれほどの困難に直面するのか、想像がつかない。
「今少し、対象の行動原則を測りたい。答えは、それを待って見極めることにしよう」
アウレオルスは指一つ動かさず、心の中で、エリスの対面する扉に、開けと命じた。
食堂には、たくさんの学生がいる。コインの裏表、別の世界にいるエリスは学生たちに干渉は出来ないが、その状況でどのような手に出るか、例えば手荒な手段を厭うかどうか、調べるつもりだった。



「あれ、開いた……」
誰かが開けたのかなと思案したが、エリスの目の前で、食堂の扉は自動扉みたいに開いたようだった。
まあ、なんにせよ目的が果たされたのでエリスとしてはどうでもいい。
真っ白な4人がけのテーブルが20ほどと、一人用のカウンターが壁際に並ぶ、小さめの食堂。
夕食時だからだろう、テーブルは全て埋まっていた。
ところどころ置かれた観葉植物は、おそらく教室よりはまだしもこの部屋の空気を和らげているのだろうが、それでも堅苦しいというか、勉強至上主義的な、そういう「塾」らしさの抜けきらない部屋だった。
「あの! ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
定食や麺類、あるいはパスタなどを食べながら、テストの点数や問題の解き方を話しあう学生たちに向けて、エリスは大きめの声で呼びかけた。だが返事は一向にない。完全に、エリスは空気のように意識されない存在だった。
「ちょっと、いいですか?」
食事を終えたところだろう。トレイを返して退室しようとする少女たちに歩み寄り、その肩に手をかけて呼び止めようとした。
「あっ!」
その手を、圧倒的な力で振りほどかれた。崩れかけた体勢を、たたらを踏んで元に戻す。
ふりほどく素振りがあったわけじゃなくて、まるで機械みたいに、エリスの手から力を受けても頑なにその動きを変えなかったように見えた。
「なんか、変」
気のせいかとも思ってきたが、どうやらそうではなく、
物理に反した何らかの異常がこの空間を取り巻いているらしいと、エリスは悟りつつあった。
「能力……? っていうより、魔術」
超能力には、能力者が現象を観測しなければならないという制約がある。
必ずしもそばに能力者がいる必要はないが、能力は「設置する」という行為に向かない。
むしろ箱庭を作ってそこを支配する方式は、魔術が得意とするものだった。
「上の方……かな」
それは直感的に得た結論だった。椿の香りは依然としてエリスの鼻をくすぐらないが、
少なくとも結界の起点らしきものは、上のフロアにあるのが感じ取れる。
おそらくは、匂いの元もそちらな気がした。

―――アウレオルスは、そのエリスの様子を見て吸血鬼たる彼女の危険度を推し量る。
「存外に、攻撃的な側面を見せないものだな」
「言ったでしょ。吸血鬼って名前が付いても。心は人と変わらない」
「では、心性が変わらないならば、あちらの精神への干渉は可能か?」
「……知らない。でも。心の作りが人と同じなのは確か」
「そうか」
アウレオルスは逡巡する。
エリスは既に三沢塾の中にいるから、彼女が人ならば、その意識を乗っ取ることは容易かった。
人と同じメンタルを持つ、人以外の生物。それにアウレオルスの術式が通じるかは不明だった。
「あの子を追いかけて来た人は?」
姫神は、もう一つの懸念事項を口にする。
たった一人でいながら、姫神とアウレオルスの野望を完全に叩き潰しかねない大勢力。
いっそ彼がナイトさながらにあの少女を救い出してくれるのなら、姫神はそれでも構わなかった。
アウレオルスとおそらくは垣根であろうあの青年とが拮抗して、全てを台無しにしてしまうよりは、ずっと。
「アレがこの建物に入って後に新たに入ってきた学生十余名の居場所はすべて把握している。アレは位相のずれた世界に進ませたが故に、侵入者がアレを見つけることは叶わん。おそらくは問題にはなるまい。だが、私には能力者の位階を判断することはできん。姿と成りを説明しろ」
「身長は180センチはある。茶色がかった髪。ワックスとかで固めたりはしていない。服はさっきと同じなら。すこしフォーマルな感じのジャケットと革靴」
「……ふむ」
三沢塾の建物は、アウレオルスの意のままに支配できる世界だ。
それは学生の心であっても例外ではない。いわば木偶人形のように、アウレオルスは学生たちを操れる。
だが、例えばトイレを借りに来ただけの人間だとか、そういう立ち寄っただけの人間まで取り込むのは、逆に管理の都合上損でもある。学生を取り込む条件として、入塾の契約書へのサインをトリガーにしていた。
今、建物の中にいながらアウレオルスの管理下にない人間の中で、姫神が口にした特徴をもった者を探す。
「五階か」
「それって……」
「アレと、なかなか近い場所にいるものだな」
「大丈夫なの?」
「無論。言ったはずだ。同じ場所でありながら、アレがいるのは隔絶された世界だ」
予想以上に、吸血鬼の少女が攻撃的な面を見せないのが好都合だった。
錬金術師という存在にとって、想定内の出来事ばかりが起きる状況というのは、およそ失敗とは無関係でいられることを意味している。
アウレオルスは胸元の鍼を弄びながらも、使うことはしなかった。
事の推移を自らの制御下に置けることを疑っていなかった。



「エリス!」
叫ぶ垣根のほうを、何事かと食堂にいる学生たちが振り向いた。
荒々しく人の流れをかき分けて、垣根は食堂内にいる人間を確認していく。
居合わせたのは当然のごとく日本人ばかり。エリスのあの、綺麗なブロンドは影もなかった。
「チッ」
雑な調べ方なのを、垣根は自覚していた。
一つ一つの部屋を入念に調べていれば、それだけで丸一日はかかる。
三沢塾は大手だけあって、それなりに中は広かった。
だから、めぼしい大部屋を回るくらいしかできない。
食堂をのぞき込んだ理由も公算あってのことでなく、広い部屋だからという理由だけだった。
「おい、金髪の女の子がここに来なかったか?」
「え、い、いや、知りませんけど」
一人で食事をとっていた男子学生が、垣根の攻撃的な態度に明らかに怯えながら返事をする。
周りの誰の表情を見ても、困惑ばかりだった。
すっとぼけているのかと、詰問したい気持ちを垣根は抑えた。おそらく、時間の無駄だ。
もう一度当たりを見渡す。どこにも争っただとか、何かを急いで隠したような痕跡はない。
「あれだけ堂々と正面から入ったのに、気配も無しか」
裏口でも使っているのであれば納得も出来るのだが、
一般学生がたむろする正面ゲートに堂々と車を止めて出入りしているのに、
学生の中にそれを不審に思う人間が皆無なのが、気になるところだった。
この建物にいる学生の精神を能力で書き換えるとなると、
そんな大規模な操作はせいぜい学園都市で一人しかできない。
「……違う、気がするな」
建物に入った瞬間に感じたかすかな違和感を、垣根はずっと引きずっていた。
精神操作に関しては垣根は門外漢で、相性は悪い部類に入る。
だから、相手が精神操作の最高位であるなら、垣根が何かを感じ取るなんていうのは考えにくい。
むしろもっと、物質に根ざした、何かがおかしいような気がしていた。
だがその違和感を言葉に変えることが垣根には出来ない。
字幕もなしに外国の映画を見たような、わかるようで分からないもどかしさ。
「チッ。頭を冷やせ、馬鹿が」
垣根は、いつになくコントロールがきかず苛立っていく自分の心を罵った。
頭を使うというのは、もっと冷徹な作業だ。沸いた頭で妙案など思いつくはずもない。
「……上を、目指すか」
関係者以外は立入禁止の区画に、足を踏み入れたほうが話は早いだろう。
後々面倒なことになるかもしれないが、そんなことは今は全く考える気にならなかった。
がしゃんと乱暴に食堂の扉を開けて、垣根は呆然とする学生たちの目の前から姿を消した。



「エリス!」
「えっ?!」
突然の声に、エリスは思いっきりびっくりして、振り返った。
呼ばれた名前はもちろん自分のものだったし、その声にも覚えがあった。
「帝督君……?」
エリスが感じたのは戸惑いと不安だった。
だって、公衆の面前で、いきなり名前を大声で呼ばれたら、
何か自分がいけないことをしてしまったのだろうか、怒られるのだろうかと思ってしまうものだ。
困惑しながらも垣根に返事をしたのだが、その垣根は、一度だってエリスに目線を合わせてくれなかった。
そして、エリスのすぐそばをすり抜けて、気弱そうな男子学生に詰め寄った。
「おい、金髪の女の子がここに来なかったか?」
垣根に尋ねられた学生は、ひどく動揺してぼそぼそと返答をしていた。
そりゃそうだろう。自分の彼氏さんだから怖いと思わないが、垣根は目付きがきついし、身長の高さもあって威圧感が結構あるのだ。
それにしても、一体何の冗談だろう。
目の前にエリスがいるのを露骨に無視して、誰かもわからない人に、自分のことを尋ねるなんて。
それに、恥ずかしかった。あんな奇行のせいで、部屋中の誰しもが垣根に注目している。
「ちょっと、帝督君! どうして私のこと無視するの?」
その呼びかけにも、一向に垣根は応えない。完全に無視を決め込んでいるようだった。
それは、まるで他の学生たちと同じようで。
「もしかして……帝督君、私に気づいてない?」
「あれだけ堂々と正面から入ったのに、気配も無しか」
なにか毒づくような言葉を吐きながら、垣根が再びエリスの隣に立って当たりを見渡す。
だけどその視界の中に、明らかにエリスは映っていなかった。
「やっぱりここ、何か変だよね」
エリスはそれを、ようやく確信していた。
だって、垣根が自分をこんな形で無視するなんて、ないと思うから。
「なんで帝督君は、こんなところに来たのかな?」
呼び掛けるように声に出しながらも、返事はあまり期待していなかった。
案の定、垣根は少しもこちらを振り返らない。
エリスは用事があってここに来たわけだが、垣根はこんなところに用はないだろう。
学園都市で、二番目に勉強のできる人だ。こんな塾なんて、来る必要がない。
「……あれ?」
そういえば、さっきまで、垣根と二人っきりだったのに。
別れて自分が一人だけ、ここに来たのはどうしてだったっけか。
理由はもちろん分かっている。だって、ここにはアレがあるから。
だけど。何か。おかしい。
「私、なんて言って帝督君と別行動したんだったっけ」
あのキスは、恥ずかしいくらい甘かった。
誰かに見られるかもしれない場所だったからドキドキしたけど、
自分の目の前で優しく微笑んでくれる垣根の表情に、エリスも陶然となったはずだった。
そんな空気を打ち破るなんて、結構乱暴というか、自分勝手な真似のはずだ。
「ああ、そうだ」
途中で恥ずかしくなって、ジュースを買いに逃げたんだった。
そして、そこで。
あのたまらない香りの持ち主に、ようやく出会えたんだった。
脳裏に黒髪の少女を思い出すと同時に、胸が切なくなる。
そりゃあ、仕方ない。垣根にはこれからも会えるけど、あの香りにはもう会えないかもしれない。
見つけた以上は、優先してしまうのは仕方ない。
「帝督君には、吸わせてもらったあとで謝ればいいよね……?」
なんだかんだで、垣根は自分には優しい。
だから、血を吸ったあとで、垣根にあってきちんと事情を話せば。
「あ……」
何を、話すことになる?
「え、でも。仕方ないよね?」
エリスの呟きが、虚空に向かって溶けていく。
何度確かめても、計算間違いが残っているような違和感。それをエリスは感じていた。
それは、気づいてはいけないことのような。どこか後ろめたい出来事のような。
でも、仕方ないのだ。だって、あんな香りをかげば、そりゃあ、誰だってそちらを優先してしまうだろう。
「ねえ、帝督君」
呼びかけずには、居られなかった。振り向いて微笑んでもらえれば、自分の心の平穏を守れる気がしたから。
だけど垣根はやはりエリスのことなんて見てくれなくて。
「……上を、目指すか」
キッと踵を返して、エリスのそばを離れていった。
誰一人エリスに気づかない世界に、エリスは取り残された。
垣根にすがれなければ、エリスが頼りに出来るのは、もう一つのあの香りだけだった。



静かな校長室のソファに腰掛け、姫神はアウレオルスの変化を探る。
目に映るのは、わずかな変化すらも見せない、機械のようなその姿だけ。
「あの子は。どうなったの?」
雰囲気を一切変化させないアウレオルスに対しては、問いかけるしか、外のことを探る術がなかった。
姫神のことを振り返りもせず、ただ、アウレオルスは答えを口にする。
「予測どおりの結果を得たのみだ。アレが知己と邂逅することは回避した。これまでの様子を観察する限り、対話も可能だろう。あとはアレをしかるべき場所へと案内するのみだ」
「そう」
ほっと、姫神はため息をついた。最悪の事態だけは、避けられそうだった。
このまま、あの子とアウレオルスが取引をうまく交わせればそれでいい。
まだ、あの子は引き返せる。自分という猛毒から離れれば、きっと元通りの暮らしを送れる。
そして自分は、命を絶たなくとも、誰の命も奪わない平穏を得られることだろう。
少しだけ、頬が緩むのを、姫神は止められなかった。



[19764] ep.3_Deep Blood 05: その名を呼ぶのが重なる時
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/02/04 00:22

「あれが、三沢塾なんだね」
「ああ」
インデックスは背の高いビルを見上げ、傍らのステイルに呟いた。
視界に入り始めた三沢塾は、どうというほどもない普通の建物だ。
12階建てのビル4棟からなる施設でそれぞれのビルから中空に陸橋がかかっている辺りは、一応は学園都市の中でも変わっている方なのだが、魔術師二人組にはいかんせん何もかもが奇妙に見えるので、二人とも特に気にしなかった。
「準備は大丈夫かい? ま、君に聞く必要はないだろうけど」
「うん」
インデックスは短く答える。
もとより武器を手にすることも、何らかの儀式の準備を必要とすることもない。
彼女の最大にして唯一の武器はその知識だった。尤も今回は、できればそれも振りかざしたくはない。
相手が、自分の知った人だから。とてもお世話になった人だから。
沢山笑顔を向けた覚えがある。先生は、喜怒哀楽をあまり表さない人だったが、それでも自分と一緒にいることを歓迎してくれた気がする。
折を見て幾度となく自分のもとを訪れてくれたあの好意を、ありがたいと思う気持ちは今でも本当だ。
……嬉しいと、心の底から思えるインデックスはもう亡いけれど。
「全く、異常は見当たらないね」
そのステイルの言い回しを、インデックスは正直には捉えない。
その意図するところを、瞬時にインデックスは察していた。
「そうでもないよ」
「君は何か、気づいたかい」
「ステイルは自分で魔術を大量に練っている人だから気づかないんだよ思う。あそこからは、少しも魔力が漏れてこないんだよ。まるで、枯れてるみたいに。なんていうのかな。死んだ魔塔……うん、遠くから判断するのは不確かだけど、外敵から身を守るための結界でなく、内に入り込んだ敵を逃がさないための殺界、かな。モデルケースはエジプトのピラミッド――クフカ王の墓かな」
「……そんなものを作ってまで逃したくないその敵とやらは、果たして僕らか、それとも」
それ以上はステイルも語らなかった。
言うまでもなく、気づいていることだから。
それだけ、アウレオルス・イザードが本気であることに。
「……小細工は無用だ。さっさと正面からお邪魔しよう」
「うん」
ステイルに気取られぬよう、決然とした表情をしているその裏で、インデックスは決意を固めきれずにいた。
甘い、と自分でも思う。たとえ仲間でもそれが必要なことなら焼き払うことを命令されるのが、自分のいた場所だ。
それをインデックスは、自分で選択したはずなのに。
「ん?」
ステイルはふと傍らのインデックスから、振動音がするのに気がついた。
「電話、鳴っているよ」
「えっ? あ、ちょ、ちょっと待ってて」
「ああ。突入前に、気づいてよかったよ」
ニコリと胡散臭く笑ってステイルが嫌味を言う。
たしか、こういう時には自分は怒った顔を見せたはずだ。
だから、もう、と一言言って軽く睨むと、ステイルがふっと笑った。きっと正解だったのだろう。
そして、電話の相手は、当麻だった。その名前を見てインデックスは緊張を覚える。
上条当麻は今、自分の面倒を見てくれている人だから。
かつてステイルが、そしてその前には先生がそうであったように。
「もしもし」
「お、インデックス。ちゃんと出れたか」
「……とうま。どうして第一声がそういう私を信用してない言葉なのかな」
「だってお前機械関係については信用できねーじゃん。物覚えいいのに」
「それとこれとは直接関係ないかも! で、どうしたの」
「ん。何時に帰ってくるのか聞こうと思ってな。」
「あ」
そういえば、ちゃんと報告していなかった。
光子や当麻と別行動を始めたときには、こんな展開になるとは予想していなかったのだ。
正直に言うと、これからのことはインデックスにも全く読めなかった。
アウレオルスという個人と、自分とステイルの交戦だから、規模としては小さい。
長引いたって明日じゅうには終わるだろうが、今日の夕食までの一時間やそこらで片付くとは思えない。
「ごめん。ちょっと、遅くなるかも」
「ちょっとって、どれくらいだ?」
「えっと、いつもあいほが帰ってくるくらい……とか」
「はい? お前、その年でそんな夜遊びって、しかもステイルと」
「え?」
「……もうちょっと早く帰ってこい。つかステイルに替われ」
「な、なんで?」
「どういうつもりか知らないが年頃の男女が夜の十時を過ぎて夜遊びとか上条さんは許しませんのことよ!」
「とうまがどの口で言うかな! もう、もうちょっと早く帰るようにするから、とうまはちゃんと家で待ってて! みつこを泣かせちゃダメなんだからね!」
あたりまえだろ、となぜかやや狼狽えたような声でいう当麻の声を聴きながら、インデックスは強引に電話を切った。
あまり長く話すと、自分が危険なことをしようとしているのを気取られそうだったから。
「全く。上条当麻が関わると何もかもが滅茶苦茶になる」
必要悪の協会の人間が日常的に感じている、チリチリとした危機感。
そういうものが吹き飛んでしまった。ステイルは間をもたせるようにタバコに火をつけた。
「上手く誤魔化せたんだろうね?」
「……たぶん、大丈夫だと思う」
「なら結構。さっさと済ませてしまおう。もうすぐそこだ」
一口吸って、ステイルは煙を吐き出す。真新しいそれを、ステイルは道端に投げ捨てた。
それでステイルも、インデックスも日常と決別した。
そこから先は、何年か前までは日常だった、彼らの非日常だった。




「当麻さん。それで、結局インデックスは?」
「んー、歯切れ悪い返事だったな」
そろそろ夕ご飯の用意をしませんと、なんて言いながら、当麻と光子はまだソファに腰掛けたままだった。
昼間の一件でずいぶん疲れたのもあって、べったりくっついたまま優雅に昼寝を決め込んでしまったからだった。
そのおかげか、すこぶる光子の機嫌がいい。やはり久しぶりに、たっぷりをスキンシップを取ったおかげだと思う。
インデックスには悪いが、二人っきりというのもよかったのだろう。
「アイツも意外と夜遊び好きなのかね」
「も、っていうのはどういうことですの? 当麻さんに似て、ということかしら」
「ステイルも、って言いたかったんだよ。ってか、なんで俺のことだと思うんだよ」
「だって」
それ以上は言わなかった。昼寝前にも一度詰ったので、あまり蒸し返すと当麻が起こるかもしれないと思ったから。
……まあ、乙女心は空模様と同じなので、当麻が迂闊なことをいえば、蒸し返したくなるかもしれないが。
「インデックスの分の夕飯はどうしますの?」
「まあステイルと食べちまうかもしれないけど、一応作っとこう。どうせ黄泉川先生の分も作る予定なんだし」
「そうですわね」
「あとまあ、あんまり遅くなるようなら、悪いけど迎えに行くわ」
「当麻さん、私も」
「女の子に夜道は危ないからって迎えに行くのに、光子を連れていってどうするんだよ」
ふっと笑う当麻に、ちょっと光子はムッとした。
口にしたりはしないが、腕一本の当麻よりも能力者の光子の方が安全かもしれない。
それになにより、そういうきっかけで外出しては、適当な女の子と仲良くなって帰ってくるに決まっているのだ。
「……拗ねても、ダメだからな」
「あっ」
上条が、なだめるように光子を抱き寄せた。
もとからくっつきあっていたが、さらに密着する。
衣擦れの音が胸元から聞こえた。姿勢のせいか、当麻に胸を押し当てるような状態だからだ。
それにちょっとドキドキしつつ、光子は抗わなかった。
「もう。誤魔化さないで」
「誤魔化すって、なんだよ」
「知りません。あっ、ん――」
目覚めのキス、というにはインデックスに電話をしたあとだったが、くちづけを交わす。
触れ合う時間は長めだけれど、舌を絡めたりはしない軽いもの。
「ねえ、当麻さん」
「ん?」
「お夕飯、主菜は私が作りますから」
「ん。ほかのは手伝うよ」
「はい。一緒にって、嬉しい」
「頃合になったら、インデックスを迎えに行くわ」
「ええ。お願いします」
嬉しそうに笑う光子に、当麻はもう一度キスをして、抱き寄せた。だがその目は、光子の方を見てなかった。
さっきのインデックスの電話を、反芻する。なにか、引っかかりを感じていた。




「死にたくなければ退避しろ。我々とて無為な殺戮は好まん」
インデックスとステイルの通行を阻むように、中世の騎士鎧に身を包んだ男がそう通告する。
ローマ正教一三騎士団の一人、『ランスロット』のビットリオ=カゼラと名乗ったその男は、まるで自分たちの怨敵に出会ったかのように、最新の注意を払って二人を警戒していた。
「……人払いは、君たちのものだったか」
「いかにも。無駄に被害を広げることもないと判断したのである」
「何をする気なのか、尋ねれば教えてもらえるのかな?」
騎士に負けず、ステイルもあからさまにならない程度に腰を落とし、戦闘に備える。
インデックスは定位置たるステイルの後ろに控え、周囲の分析を試みていた。
「中には突入しないんだね」
「……」
「外からの攻撃であの建物をどうにかするには、たったの十三人じゃ心許ないんだよ。むしろ、ここには何かを引きつけるための信号」
「それはつまり、援軍がいると?」
「……グレゴリオの聖歌でも、届ける気なの?」
インデックスが警戒を緩めない目で『ランスロット』を見つめた。
ステイルという明らかな脅威の後ろにいた脆弱そうな少女を、騎士はその一言で脅威と看做した。
「聞きしに勝る聡明ぶりだな。破邪顕正のためとはいえ、汚れた蔵書で脳を埋めた魔導図書館というのは」
「インデックス。それって」
「何人の聖呪を重ねる気か知らないけど、バチカンから直接神罰を下す気みたいだね」
『ランスロット』が後ろを振り返り準備の進捗を確認した。インデックスの見立てでは、もう完成までいくばくもない。
「あの錬金術師を我々は甘くは見ていない。これをもって吸血鬼の殲滅が叶うかはわからないが、少なくともあの男だけは確実に葬らねば、これからの世界にどれほどの禍根を残すか想像すらできん」
「……今、なんて言った?」
それはとても聞き流せない情報だった。
アウレオルス・イザードの殺害にとどまらず、吸血鬼の殲滅を目標としているなどというのは。
それはつまり、この建物の中に吸血鬼が既におり、アウレオルスが捕獲しているということにほかならない。
恐れていた事態が怒ったいるらしいと、ステイルは悟った。
「悠長におしゃべりに付き合う暇は尽きたようだ。貴様らにも、聖地バチカンに集められし三三三三人の修道士の聖呪が神罰を下す瞬間を見届けさせてやろう」
「待て! そんな人数で作った大魔術、この建物を完全に壊す気か?!」
その数字を聞き、ステイルは驚きに顔をしかめる。ほとんど最大級の攻撃といってよかった。地球の裏側の、まるで主の威光が届かぬこの日本にでも、それは災厄と呼べるだけの破壊をもたらすだろう。
詰め寄ろうとしたステイルの影で、白いシルクと金刺繍のフードが翻った。
「――先生!」
「なっ?! インデックス!」
振り返って愕然となる。インデックスが、まさに神罰を受けんとするその巨塔へと駆けていた。
チラリと見えたその表情は、必死だった。
「愚か者が! 自らの生をないがしろにするなど、神の僕たる我ら修道士のすることか! ――勝手に死んで地獄に落ちるがいい!」
そんな罵声を背中に受けながら、インデックスは三沢塾の建物へと走り込む。
アウレオルスを、死なせたくなかった。お世話になった人だから。笑顔をくれた人だから。
呼びかけたところでどうにかなるものではないかもしれない。だが、それでも。
のろのろと開く自動扉に体をぶつけながら、インデックスは三沢塾の中に滑り込む。
「先生!」
ホールでその名を叫ぶ。周囲の学生が、重なる不審人物の闖入に顔をしかめる。
その日常の中で、インデックスはもはや避けようのない非日常からアウレオルスを逃がすために、必死でその姿を探した。
何処にいるのかと、駆けて探しに行こうとしたところをステイルに抱きとめられる。
「馬鹿か君は! 君まで死ぬ気か!?」
「でも!」
「クッ、文句は聞かないよ! もう時間はないんだ。逃げるぞ!」
ひょいと抱きかかえるようにインデックスを持ち上げ、ステイルは一目散に建物の外を目指した。
外では最終段階に入った大魔術を唱える声が響いている。
「ヨハネ黙示録第八章第七節より抜粋――――」
辺りにいた騎士が一斉に腰に差した大剣を掲げる。
またたく間に、それらが淡い赤色に、輝き始めた。
「――――第一の御使、その手に持つ滅びの管楽器の音をここに再現せよ!」
「クッ、間に合え――!」
空を覆う雲から、清浄な色の光が突如として三沢塾に降り注いだ。
その聖らかな光景も一瞬だった。光が、雷のような轟音とともに、降り注ぐ槍、神罰へと姿を変えた。


――――ガリガリガリガリバリバリバリバリ!!!!!!!


自然の雷が空気という名の絶縁を破壊していく様さながらに、その閃光は空から地上へと鋭く落ち、真上から三沢塾を狙い打った。
カロリーメイトにフォークでもつきたてたように、三沢塾という名のビルが、バラバラと崩れ地へとそのコンクリートと鉄を降らせていく。
生きた心地などしないような思いで、ステイルは崩れていくビルから躍り出た。
抱きかかえたインデックスが、もはや間に合わないであろうことを無視して、必死に叫んでいた。
「先生! お願い、逃げて!!!」




5階のエレベータホール。エリスは急に明るくなった窓に、戸惑いを覚えた。
「えっ? 何、これ……」
エリスはつい垣根の方を振り返ってその顔を見た。だが、視線が絡み合うことはない。
周囲を染める閃光が何らかの異常を示しているのは間違いないが、それよりも垣根と擦れ違い続けることが寂しかった。
「帝督君……っ!?」
ガンッッ!と、ビルごと金槌で叩いたような音と揺れが、エリスを襲った。
文句を呟く間もなく、轟音とともに床や壁が崩壊した。
「きゃあっ……!」
視界がまず光で奪われた。足元は、重力を失い地に足の着いた感覚が消失する。床ごと、エリスは崩落していた。
床が重みを返さないその感触は、飛行する手立てを知らないエリスに混乱をもたらすものだ。
エリスがただの人なら。あるいはただの人に擬態し続けたかつてのエリスなら、おそらくこの瞬間になす術なく、この状況に振り回されてしまっただろう。
だが。
「シェリー!」
鋭くその名を呼んで、エリスは虚空にオイルパステルを走らせた。自らを守るゴーレムを召還するために。
とはいえ、この建造物は誰かに支配されている。だがその支配の方法論を、エリスはなんとなく感じ取っていた。
これはは、よくある因果関係への干渉ではない。扉に手をかけ力を込めるという原因と、扉が開くという結果の関係を切断するような術式ではない。
おそらくは、物質そのものの支配。その扉には他に持ち主がいるから、エリスには自由に出来ないのだ。
それはつまり、シェリーを召喚するにはこの建物の構成物質の支配権を、誰かから強引に奪い取らなければならないことを意味している。
だがこの建物をまるごと支配できる魔術師など、自分とは比較するのもおこがましいほどの高位にあるのは間違いない。
エリスが仕掛ける支配権の横取りなど、プロにアマチュアが真剣勝負を挑むようなもののはずだ。
なのに、自分が競り負けることを、エリスは心配しなかった。
「おいで。そして私を守りなさい!」
瞬間。自分を取り巻いていた粉塵や、自分を潰すように飛んできた瓦礫が、意志を持ってエリスの傍らに集い始めた。
エリスは自身がその瞬間に魔法陣に流し込んだ魔力が、魔術構成の稚拙さと全く対照にヒトの上限を超えすさまじい量であることを自覚していなかった。
どこから生み出しているのかも分からないまま、どこまでも尽きることのない魔力を再現なく流し込む。
そしてエリスはこれまでに作り上げた中で最大となる、巨大なゴーレム、シェリーを形作った。その巨体を傘にして、降り注ぐ神罰から身を隠す。
この防御策は完璧ではないかもしれないけれど、きっと二人くらいなら守り通せる。
エリスは周囲を見渡した。
「帝督君、帝督君は?!」
シェリーのせいで視界は限られている。
また、そうでなくても強烈な光と当たりを舞う粉塵で視界は無いに等しかった。
だから叫んだ。精一杯、垣根に届くように。今まで届かなかったことなんて忘れて。
「帝督君っっ!!!!!」




「クソッ! 一体なんだ!?」
閃光と破壊に包まれた世界で、それでも垣根は理性を一切揺らがすことなく、状況を把握する。
それはこれだけの環境でありながらなお、垣根にとっては危機的状況ではないから。
毒づきながら、能力を展開する。
自分の知識の中にいくつも蓄えてある『未元物質』のレシピ。その中から一つを選択した。
垣根の操る『未元物質』そのものは、ただひとつの『素粒子』だ。垣根はそれしか創れない。
だがそれで十分だった。垣根の創る『未元物質』は数段階の階層構造を経ていくつかの原子に化け、分子を構成し、さらにその分子がメゾ・マクロな物理構造を形成していく。
その結果として、万や億に届くバリエーションを垣根にもたらす。
素粒子、すなわちあらゆる物質の最も基礎的な構成要素、レゴのブロック。それが自然界の物質と根本的に異なっているが故に、垣根の作った物質はあらゆる意味で現実の物質とは存在が異なっていた。
垣根の能力名である『未元物質』は、ある一種類の素粒子の名前であると同時に、人の目に見えるスケールにまで構築された、多彩な物性を示す材料の総称でもあった。
「……ビルが崩壊か。クソ、エリスはどこだ」
垣根は透明な球体に包まれていた。薄手でいながらコンクリートなどよりもはるかに硬いという性質を持つ『未元物質』で出来ている。
自分の安全は確保出来たが、そんなことは当たり前だ。問題は、エリスの行方。
「エリス!」
外に向けて、声を響かせる。だがその崩壊の轟音は、垣根の声をかき消すに十分すぎた。
能力を使い、あらゆる方法でエリスを探しながら、それでも叫ぶという原始的な手段を取りたい衝動を垣根は抑えきれなかった。
「エリィィィィィィス!!!!!」
垣根が、腹の底からその名を叫んだ。
――――それは、インデックスがアウレオルスに届けと叫んだその呼び声と、エリスが垣根を求め響かせた呼び声と、全く同時だった。



その崩壊の、ほんの少し前。姫神の見守る中、アウレオルスがすっと目を開き顔を上げた。手にした鍼を弄ぶ。
そうしたやや突然の動きは、何かがあったと気づかせるのに充分だった。
「何か。あったの?」
「どうやらローマ正教は事の他、この一件を重要視していたらしい。在職中にここまで目をかけてもらった覚えはないが」
それは余裕の表れか。アウレオルスが珍しく皮肉をこぼした。
「おそらく、この建物が崩壊する」
「えっ?」
「それなりの数の修道士を集めて滅びの喇叭<ラッパ>を再現すれば、街一つでも容易い」
「止められないの?」
「止める術はない。錬金術師の職掌に外界へ働きかける力は無い」
「……落ち着いているってことは。対策はあるんでしょ」
「当然。内界たるここに、私の意に従わぬものなどない」
窓の外が真昼みたいに明るくなったのに、姫神は気づいた。
その横で、アウレオルスがすっと鍼を首筋から引き抜いた。それは、精神を整え、予定調和を守るための儀式。
ヒトという不完全な存在にすぎない自分が、十全、完璧を要請される大魔術を使うために必要なことだ。
精神が、引き締まるのを感じる。常に揺らぐことを本質とする人間のそれが、たった一つの目的のために収斂する。
たゆたう水面を凍らせるように。それは人間らしさを手放したことと同義だった。
後悔はない。必要なものを手にするために、自分はこの塔を作り上げたのだから。
僅かに深呼吸をする。これから来る破壊を『巻き戻す』のは簡単だった。そう願えばいいだけだから。
――――だが。
「先生! お願い、逃げて!!!」
「な、に?」
不意に、そんな声が、聞こえた。
見知った声だった。もう何年も直接は耳にしていないはずなのに、それは聞こえた瞬間に誰の声なのかをアウレオルスに悟らせるのに充分だった。
「インデックス……!?」
その名を、アウレオルスは呟いてしまった。歓喜という感情を伴っているのが、この瞬間には余計だった。
この三沢塾というビルで起こるあらゆる出来事を、アウレオルスは意のままに操れる。
それは裏を返せば、アウレオルスの意志が揺らげば、このビルもまた「揺らぐ」ということだ。
歓喜はすなわち、混乱だ。先生と呼ばれることを何度夢見たことか。
だが、それは自分の手を下さねば成し得ないことのはずだ。
あの少女は、記憶を失うことでしか、生き続けられないのだから。
なぜ、その久しく聞くことのなかった呼び名を、自分は耳にした?
「アウレオルス!」
そう、ごく僅かの間に呆然としていたアウレオルスを後ろから姫神が叱咤した。その声に現実に引き戻される。
そしてすぐに気づいた。この崩壊を巻き戻さねば、インデックスの命が失われかねないことに。
事情はわからない。だがそれは最優先事項だ。
引き抜いたばかりの鍼を、もう一度首に突き刺す。
対して効果を感じる時間すら取れないままに、厳かにつぶやいた。
「――――元に戻れ」
それで、全てがもどるはずだった。時間を逆向きに進ませるように。
少なくともアウレオルスは、それを実行できる程度には平静を取り戻している自信があった。
ふう、とほっと一息をつき、改めてこの塔を再び支配し、元の姿を取り戻させる。
……自信を持つ、あるいは安心するという行為が、自らが感情を揺らしていることと表裏一体なことに、アウレオルスは気づかなかった。
そして何より、アウレオルスは、その獅子身中に虫<バグ>を飼っていることに気づいていなかった。
アウレオルスをはるかに凌駕する魔力で建物を侵食する吸血鬼と、『未元物質』をばら撒いて建物を汚染する学園都市第二位の能力者という、抱えるにはあまりに大きすぎる虫が、身中に巣食っていることには。




「帝督君っっ!!!!!」
「エリィィィィィィス!!!!!」
その声は、二人の思いが通じたように、互いに届けられた。それは互いにとって希望そのものだった。
「あっ……!」
「エリス! エリス!」
喜びが心を占め、互いが互いを探し求め、己の能力を行使する。
互いに互いの位置を把握できるような能力者ではない。探索に関する能力と魔術は持ち合わせていない。
だが、それを補って余りあるほど、互いを見つけたいという気持ちがあった。
垣根は糸状の未元物質を周囲に張り巡らせ、エリスの位置を探る。
垣根は気づいていなかったが、崩壊前にはすぐ目と鼻の先にいたのだ。ほどなくして、垣根は伸ばした糸の一つがエリスにたどり着いたことを確認した。
エリスもその糸の意味にすぐ気づき、シェリーを動かして必死に垣根に近づく。
そして、二人は崩壊する瓦礫の中、互いの姿が見えるところまで肉薄した。
だが、依然として落下は続いている。垣根はすぐさま声をかけた。
「帝督君!」
「エリス、大丈夫か!」
「うん! 帝督君、来てくれたんだ……!」
「ごめん! お前を、見失っちまった」
「大丈夫。私ちょっと用事があってこっちに来ちゃったんだけど」
「……そうか。怪我してないか?」
「うん。これくらいじゃなんともないよ」
「話はあとだ。とりあえずこっちに来い!」
「うん!」
用事とはなんだろうか。そこに不可解なしこりを覚えながらも、垣根はエリスの変わらぬ姿にほっとした。
そして届かない手のかわりに未元物質を伸ばす。エリスの身に何があったのか、きちんと理解しなければならないことはまだあるが、とりあえず、これでエリスの安全は確保できる。
そう、垣根が思った瞬間だった。
突如、あらゆる瓦礫が落下をやめた。
「なっ?!」
「えっ? ……帝督君!」
気づけばエリスも浮かんでいた。超能力、なのだろうか。周囲の物理法則が完膚なきまでに破綻していた。
エリスの後ろでシェリーが再び瓦礫に戻った。まるでエリスの手を離れ、再び誰かの手に戻ったように。
その一方で、まるで救いの対象から外れた罪人のように、垣根は落下していく。
理由は単純。未元物質と、それに包まれた垣根はアウレオルスの制御の埒外だった。
再び、二人の間に埋めがたい距離ができる。
そして時計のネジを逆巻きにするように、瓦礫は瓦礫となる前の整然としたビルの形を目指して、再び動き始めた。
ただひとり、垣根を除いて。


「帝督君!」
「俺は大丈夫だ! エリス、今そっちに行くから待ってろ!」
未元物質で風を創出し、垣根は反動で飛び上がる。瓦礫の動きは落ちるときよりはいくらか緩慢で、また軌道の予測も十分に可能なレベルだった。
隙間を塗って、垣根はエリスが居るはずの場所へ、向かっていく。
エリスはちらつく垣根の影を見ながら、再び自分のもとに垣根が来てくれる瞬間を待った。
危ないことをなるべくして欲しくない。良くはわからないが、この現象はエリスを傷つけないよう動いている節があった。
だから、自分の近くにいれば、垣根はきっと安全だと思う。
「帝督君、こっち!」
エリスは叫ぶ。声で垣根を誘導する。
垣根の影がやがて大きくなって、もうじき手が届く、その瞬間だった。
「エリス、手を伸ばせ!」
「うん!」
もうちょっとで、垣根がここに届く。大好きな垣根が、手を握ってくれる。
その希望を胸に、エリスは必死に声を張り上げた。
なのに。


――あの香りが、エリスをくすぐった。
とろけるような甘さの、椿の匂い。
それは垣根の香りや、あるいは与えてくれた思い出や優しさよりも、ずっとどろりと重たくて、甘美で。


「あ……」
エリスはその香りがどこから立っているのか、理解してしまった。
もっと上の階、それもこのビルではなく崩壊しなかった別の棟。
距離だとかを考えれば、そんなことはわかるはずがないのに、エリスには分かってしまった。
そして分かってしまえば、もう抗えない。
「あぁ……」
垣根の姿がチラリと見えた。それが、エリスの心にヒビを入れた。
自分の心は、明白に垣根よりもその椿の香りを欲していた。切望していた。
あの巫女装束に身を包んだ少女の、その血を。
垣根の身を案じるだとか垣根に心配をかけさせないだとか、そしてもっと大切な、垣根が好きだという気持ちよりも、あの少女の血を吸いたいという気持ちの方が、何百倍も強い。
それに、気づいてしまった。
「私、なんで」
愕然となる。理性が整合性を求めてガンガンと頭の中で警鐘を鳴らす。
そこにもう一度、椿の香りがかすめた。
誰かの悪意を疑わずに居られない、不自然さだった。
だけどエリスの意識はもう、そんな事に気付けるような余裕はなくなっていて。

「あ……あ、あ、ああああアアアァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

獣じみた、衝動に忠実な叫び声を、あげた。




「どうして! アウレオルス!」
「慙愧。……予定調和が狂ったことを、素直に認めよう。この状況においてこれは避けられぬ次善の選択肢だった」
「そんなこと。だってこれじゃ。あの子は」
姫神は、いつになく強い視線でアウレオルスを睨みつける。咄嗟にアウレオルスがしたことが、許せなかった。
勿論直接見えたわけではない。ただ姫神は、吸血鬼の少女がこの遠い場所まで響かせたその声で、全てを察していた。
アウレオルスが、何らかの事情で再び姫神の香りをあの少女に嗅がせ、理性を剥奪したことを。
それは、不可逆な変化なのだ。姫神の香りに犯されれば犯されるほど、戻れなくなる。
人らしさを失い、吸血鬼としての本能に従わざるを得なくなる。
あの少女は、一体どこまで堕ちてしまっただろう。
再び、幸せを取り戻せるところで止まっているだろうか。それを自分は、無力に願うことしかできない。
「アウレオルス・イザード」
「なんだ」
「次は。ないから」
「……」
「お願い。信じさせて。次にあなたが同じことをやれば。私は自分で命を絶つ」
ここに来る前からもう覚悟は決めてあるのだ。
誰かを殺すことになるなら、その前に、ナイフで胸を突いて死ぬと。
あの少女の幸せを奪ってまでは、自分を生きながらえさせたりはしないと。
姫神は自らの不利を理解している。自分の生死など、もはやアウレオルスの興味の範囲外だろう。
吸血鬼の少女を呼び出すことが、姫神の仕事。その報酬は吸血鬼から無事にアウレオルスが目的を果たした後に得られる。
だが、今ここで姫神を殺したとして、アウレオルスに不都合はない。二人の契約は最初から姫神に不利だった。
巫女服の袖に隠れた拳が、詰めが食い込むほどにぎゅっと握りこまれていた。
無力な自分が、悔しい。
「――――約束を違えるつもりはない。私の願いを叶えるのに、これ以上吸血殺しの力を借りることもあるまい。
 アレはこちらを認識した。じきにこちらに向かってくるだろう。そちらの扉から隣の部屋に行け。お前を目の前において、交渉はできん」
「……わかった」
姫神の強い視線を無感動に受け流しつつ、アウレオルスは視線を僅かにだけ交錯させた。
くるりと踵を返し、姫神が隣の部屋へと立ち退いた。不自然に丁寧な姫神の仕草は、爆発しそうな苛立ちの裏返しだった。
それを見送ってからアウレオルスは独り、虚空に向かってつぶやく。
「……インデックス。今、お前を助けよう」
姫神のことは、それでもう脳裏から消えた。かわりに先程のインデックスの声を思い出す。珍しくアウレオルスは、つい数秒前の自分の記憶に自信が持てなかった。
あるはずがないのだ。自分のことを、あの少女が思い出すことなど。
あれが自分の願望が生み出した幻聴でなく、自分が救うまでもなくインデックスが記憶を取り戻しているという可能性を、アウレオルスは考えるのをやめた。
希望的観測にしたがって全てを失うのは愚か者のすることだ。
吸血鬼を捕獲し、取るべき手を取れるようになってから、インデックスについては改めて問いただせばいい。
それは、アウレオルスのたったひとつの悲願なのだ。だから、失敗するわけにはいかなかった。
吸血鬼の少女、エリスを迎えるためにアウレオルスは呼吸を整え、鍼を首に刺した。

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あとがき
未元物質<ダークマター>は、原作においてその詳細が明かされていません。
自然界にある物質とは別な物質とされていますが、一体どの「階層」から彼はコントロールできるのでしょうか。
可能性としては、大別して以下の3種くらいが考えられると思います。

1、素粒子レベル
2、原子レベル
3、分子・その配列構造レベル

どういう違いがあるかというと、

1、本当に何でもアリ。物質と反物質を作って対消滅による爆発で地球を消滅させることも可能だし、ゲージ粒子(光子、重力子等とそれらの超対称性粒子)のコントロールによりあらゆる力を制御したりできる。作れる物質の種類も無限に近い。
2、100強発見されている元素に、新たな一種類を加える程度。力を媒介するゲージ粒子は扱えず、また人間の目に見える大きな「もの」を作るとなると、その種類は可能性1の場合に比べ限定的。
3、素粒子や原子を意識するレベルより取り扱いがもっとマクロ。よって未元物質とは目に見えるレベルでただ一種類の物質である。

本作では、1に近いけれど不完全、という立場を取りたいと思います。レベル6に二番目に近い能力者であることを考えると、やばり2や3の能力設定では不満だと思うからです。現状のていとくんは、ゲージ粒子は扱えないけれど、「もの」を構成する粒子、すなわちフェルミオンについてはかなり自由に制御できると考えたいと思います。反物質は生成できると自分でも思っているものの、ミリグラム以下の制御が不可能で、自分を巻き込んだ大爆発を必ず誘発してしまうがために反物質合成は自重している、と私は設定しています。



[19764] ep.3_Deep Blood 06: 物質の支配者
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/02/04 00:24
「あ、ああ」
三沢塾の外の路上で、騎士鎧に身を包んだローマ正教の使徒たちがその光景を呆然と見つめていた。
遥かローマの地から聖呪を届け、下したはずの神罰。その神の威光がビルから立ち上り、天へと戻っていく。それが一体どこまで戻るのか、騎士達はどうしようもなく理解していた。
がしゃんと、誰かが膝から崩れ落ち、金属の擦れ合う音を響かせた。
「そん、な――」
ありえない。三三三三人もの敬虔なローマ正教徒を集め練り上げた聖呪に、たったひとりの錬金術師の力が勝るなどということは。
一体それがどれほどの天使の力<テレズマ>を内包した一撃なのか、それを見積もれば明らかだ。およそ、一人の人間が立ち向かえるような量ではないはずなのだ。
だがそのごく常識的な判断が、まるで目の前の現実とかみ合わない。

光が騎士達の前から、否、学園都市から消えた。これは、「巻き戻し」なのだ。
ローマの中心、バチカンで祈りを捧げる修道士達を基点としてこの学園都市へと向けられた天使の力は、そっくりそのまま、再びバチカンへ戻ることになる。
そして志向性を失くした天使の力は、その役目を終えるためにバックファイアとして修道士の体に跳ね返ることだろう。
……祈りを捧げた修道士たちの末路がいかなるものか、彼らの集う聖堂がどのような惨劇に見舞われるのか、想像に難くなかった。

絶望に崩れ落ちる騎士達のすぐ傍で、インデックスとステイルもまた、呆然とその出来事を見つめていた。
宗派が違うとはいえ、目の前で起こったそれは、十字教が敗北する瞬間だと言っても過言ではない。
十字教最大宗派の最大威力を誇る一撃がこともなげに跳ね返されたのだから。
とはいえ、騎士達とは二人の態度は異なっていた。絶望に、思考を全て投げ捨てることはしない。
それは『必要悪の教会<ネセサリウス>』と名づけられた一派に属する者としての、ある種の『慣れ』だった。
その職業柄、彼らは常に、意外性と相対している。
教えの矛盾を突く技や、異教、邪教の業を振舞うものに対し、思考停止するのは敗北とイコールだ。
だから、ありえないはずの出来事に会いながら、心の片隅でその異常の異常さの量を見積もる。
「コレは、つまりアウレオルス・イザードがあの想像上の生き物を手に入れたと、そういうことかい?」
「ううん。これは、魔力の多さで実現できる術式じゃない。だからステイルの思ってることとは、違うかも」
「……どれくらい状況を正確に把握してる?」
「ステイルも分かってるよね? これは、技法としては完成しているけど、詠唱時間が非現実的だから、誰にも為せないはずの術式」
「――――黄金練成<アルス=マグナ>」
「そう」
重くステイルが呟く。インデックスは、視線を建物から逸らさずに、ステイルに相槌を打った。
「絶対に為せないはずの術式を、彼はどうやって発動させたと?」
黄金練成<アルス=マグナ>。それは万物の理を見通すことを目的とする錬金術師の、前人未到にして究極の到達点。
端的に言えば、頭の中に描いた出来事を、現実にそのまま具現化させる術式だった。
それを行使するための方法論、すなわち詠唱呪文は確立している。
問題は、術式を発動させるのに必要な詠唱時間を概算すると、軽く数百年はかかり、一人の人間がそれを成し遂げるのは不可能だということだった。
「はっきりとは分からないけど、たぶん先生が吸血鬼を捕まえたのは今日か、最近の事のはず。だから、これは別の方法で成し遂げたんだと思う」
「方法は分かるのかい?」
「……あそこは、学生が集まる施設なんだよね?」
「そうだね。それで?」
「一人で詠唱すれば数百年掛かる呪文も、二人で頑張れば時間はその半分、十人で頑張れば数十年で終わる。そうやって、沢山の人を利用すれば、詠唱時間は短く出来る」
「安直なアイデアだね。錬金術師なら誰でも考え付きそうなアイデアだろう」
「うん。だけどこれも結局難しいから、今まで実現化したことはなかったんだよ」
コンピュータでもそうだが、並列演算というのは、一つの脳を用いて術式を行使するのとはわけが違う。
一人ならばそもそも存在しない、「お互いの同期を取る」という仕事が新たに増えるため、それに忙殺されてしまうのだ。
数百年分の詠唱を人数分に分けて、ただ漫然と同時に始めさせて並べたところで呪文の形は成さない。
分割した場合の詠い方をまずアレンジし、その上で、詠唱の重なりが適当となるよう誰かが指揮者として詠唱者を統括しなければならない。
感情という名の揺らぎを常にもつ人間に、その指揮者を勤めるのはほとんど不可能に近かった。
だからこれまで誰も、この安直なプランを実行し、成し遂げたものはいなかったのだが。
「あそこにいる学生を使って同時に呪文を詠唱させたんだったら、その中心にいる先生は……」
もう、人として笑い、怒り、あるいは悲しみに暮れるといった人間らしい行いを、行えるはずはない。
人の身にして、人の身に余る大魔術を行使する代償としては安いだろう。
魔術師であれば、目的を果たす代償が自らの感情でいいのなら、喜んで差し出す輩はごまんといる。
「フン。心を失って機械に成り下がるのは、錬金術師としては本望な気もするけどね」
錬金術師はそれを目指す生き物だ。だから、ステイルの言う通り先生は、後悔なんてしていないかもしれない。いや、本望なのだと思うほうが当然なのだ。
だがインデックスは、それを受け止められなかった。
錬金術師として、アウレオルスの名を告ぐ高名な一族の末裔として、先生が本懐を遂げているのかもしれないのに。
インデックスの記憶にある先生の、その素朴な笑顔は、このあまりにも良く出来た練成の塔とは、似つかわしくなかった。
「……ステイル」
「何だい?」
「先生に、私の声が届くか、分からない」
「だから?」
「私のことも、分からないかもしれない。それに、ステイルのことも。だから安全とは限らないよ」
「元よりそんなイージーな見込みなんて持って来ちゃいないけどね」
死地に向かう気で、ステイルは来ている。いつものことだった。
いつもと違うのは、何があっても絶対に傍らに立つインデックスを、傷つけさせないという覚悟。
それはむしろ、ステイルを鼓舞するものだった。そのために戦えることは、幸せだ。
「そろそろ修復も止む。入ろうか」
「うん」
ステイルは、近くで依然としてへたりこむ騎士達に最後の一瞥を送った。
戦意を喪失し、誰も三沢塾へと向かわないのを見届けてから、彼らのことは二度と振り返らなかった。
彼らに背を向け、魔塔へと進める歩みを止めることなく、十字を切った。
目の前の塔の中で一人失われたパルツィバルという騎士と、沢山のバチカンにいる十字教徒のために。



垣根の前で、優しく可愛らしい少女の、大切な思い人であるエリスが、声を張り上げる。
「あ……あ、あ、ああああアアアァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
「エリ、ス?」
それはおよそ言語とは呼びがたい叫び。直前に一瞬の愕然とした表情を見せたが、それすらももう消えた。
今エリスの顔に浮かぶのは、獰猛な、乾きを覚えた獣の表情。
垣根はエリスに伸ばした手を硬直させた。普段はおっとりとした恋人の、あまりの豹変を前にして、それは仕方のないことだったのかもしれない。
だが、その躊躇は。
「くっ! エリス!」
落下する垣根と、不思議な力によって落下を阻まれたエリスの間を、ほんの少しだけ引き離した。
手の届く距離から、ほんの少し遠い距離へ。その差は距離にして小さく、意味にして大きい。
「俺を見ろ! エリス! エリス!」
「アァァァァァアアアア!!!!」
エリスの手がわななく。何かを渇望するその仕草は、垣根のいる階下ではなく、上を狙っていた。
視線も、もう交わらない。エリスは、はるか上を見つめているから。
垣根は虚空を掻くように、手を振りかざした。周囲の足場は自分と同じ加速度で落ちている。踏み締められるものはない。
だが、無策に手で空を掻いているわけではなかった。
垣根には、ただの人間には持ち得ない、特別な物質を想像する能力がある。
海を泳ぐ哺乳類のひれの如く、突き出すように垣根は両足を蹴りだした。
空気にはそれで人間を持ち上げられるような抵抗などあるはずもないのに、垣根の体が重力に逆らい、上へと登りだす。
垣根が得た上昇方向の加速度は、未元物質の噴射によって得たものだった。
地球を脱するスペースシャトルは、下に向けて噴射する大量の燃焼ガスから受ける反作用で空へと向かう。それと同じ機構で垣根は空を飛んでいた。
万物の元を操る垣根にとって、できないことというのは少ない。だが、不得手はある。今、エリスのもとへと向かおうとしているその応用、「飛翔」がその一つだった。
「クソッ、邪魔だ!」
天へと落ちていく逆巻きの瓦礫。それを縫うように避けながら、垣根は未元物質を噴射する。
空力使いでもない能力者である垣根がこれだけの飛翔を行うのは十分に賞賛されるべき応用だが、それでも鳥のように優雅に、合理的に飛ぶことは能わない。急を要する今は、それはただもどかしいだけだった。
エリスとの距離が、離れていく。
「エリス! 行くな!」
視界が、閉じていく。コンクリートの断裂が姿を消し、秩序を取り戻していく。
垣根の目の前に、なんでもないごく普通の塾の廊下が、天上が、形を取り戻していく。
あっという間にエリスの姿が見えなくなった。同時に、どこの階かもよくわからないが、垣根は三沢塾内部のどこかに降り立った。
「チッ、なんなんだ、あれは……!」
訳もなく、壁を殴りつける。ぞわりと不安が這い上がる。
エリスのあの様子は、尋常ではなかった。何かを渇望するような悲鳴。それも、およそ獣じみた。
薬物中毒だとか、そういう尋常なる異常の範疇に、あの様子は当てはまらない。
薬や病害で人が醜悪に成り下がることはあっても、人を辞めるようなことは、人には出来ない。
あの叫びは、人並みの心を捨てていない人間に、人であることを辞めさせるような響き。
……垣根は、理解していた。エリスに対して悪意を向けた誰かが、ここにはいるということを。
一瞬、毒気が抜けたかのように腕を弛緩させ、見えない上階を見上げた。
「……無事に生きては帰さねえ」
どこかそれは他人事のような呟きだった。ポツンとこぼれたその言葉には、裏腹に持て余すほどの静かな敵意が満ちていた。
垣根の元をエリスが離れたのは彼女の本意ではなく、そして、誰かがエリスを、傷つけようとしている。
戸惑いや不安、そういった垣根の中でただ渦巻いていた感情が、流れ込む先を見つけて志向性を帯びていく。
それは初めてのことだったから、酷く緩慢な変化しかもたらさない。
……自分以外の人を傷つけられて、こんな風に怒りを感じたことなんて、なかったから。
「これを、どうやって成した?」
壁に触れる。何処から何処まで、普通のコンクリート壁だ。大崩壊の爪痕など、微塵もない。
垣根は手を振り上げ、壁をはたくように振り下ろした。ガツッと硬質の音を立てて、コンクリートの破片が飛び散る。
それは金属より硬く重い未元物質を作れる垣根にとっては、どうということのない行為と結果だった。
――もし、それが三沢塾という異界でなかったならば。
時間を空けることなく、それらは復元を始めた。




呼吸を整え、アウレオルスは吸血鬼がこの場にたどり着くその瞬間を、じっと待っていた。
内心に湧き上がっているはずの期待をあえて横から眺め、心を揺らさず、万が一の抜かりもないように。
ひたりひたりと、というにはあまりに暴力的で直線的な進攻だが、金髪の吸血鬼の少女は今もアウレオルスに近づきつつあった。
「む……?」
不意に何かの違和感を、アウレオルスは嗅ぎ取った。
建物内あちこち歩き回る、自らの支配下においた学生たちの動きを意識の外に追いやる。そうして建物の中の「動くもの」の中から侵入者を探し出す。
そうした異物の筆頭はあの吸血鬼の少女だが、その動向は把握済みだ。基本的には階段などの人間用の通路を使っているが、障害となる扉などを破るのに躊躇はなかった。
取り繕うことを辞めて、欲求に忠実となったが故の無表情を、顔に浮かべている。
だが、アウレオルスの意識に止まったのはそちらのほうではなかった。
インデックスが現れる可能性のある、建物入り口付近からでもない。
場所はどうということはない、ビルの5階辺りの、何もない区画。
「ビルの復元が行われている……?」
あるべきカタチを常に保てと、自動修復するよう設定したばかりだ。
それは地上にいるであろうローマ正教の尖兵への対策のつもりだったのだが。
「疑念。超能力者があの破壊を生き残ったか」
破壊前にはそこに、姫神が指摘した高位の能力者がいたことは事実である。その死は確認していない。
意識をめぐらし気配をたどれば、確かにその男が、健在でいるらしかった。
「あの程度の破壊ならば。脅威と数え上げることもない」
壁など何度壊してくれても構わない。というか、破壊という行為だけならいくら好きにやってくれてもいいのだ。
この異界の支配者たるアウレオルスにとっては、それは瑣末なことでしかない。
だからアウレオルスはこれ以上の注意を払う気もなく、垣根帝督という存在を、無視しようとした。
「……? なん、だ?」
魔術師アウレオルスには、超能力者を正しく見積もる目がない。
その過小評価を動揺という形で、アウレオルスは支払うことになる。




地味な色の壁を背に、垣根はふっと呼吸を、一息ついた。焦りをほぐすように丁寧に呼吸を整える。
行動を、垣根は急がなかった。焦ることはむしろ目的を果たすまでにいたずらに時間をかけることになりかねない。
先ほど壊したはずの壁にもう一度触れる。そこには破壊に伴った亀裂や粉塵化などは一切もう見られない。
今起こった現象は、時間を逆流させたといっていいような完全なる復元だった。
――ガツッと硬質の音を立てて、コンクリートの破片が飛び散る。垣根は同じ事を、もう一度繰り返した。
破片は物理に従い、飛び散って床に広がろうとする。だがそれよりも前に、これまた先ほどと同じように修復を始めた。
もう、三沢塾という異界はその異形を隠したりはしなかった。そして垣根も、それを理解し観察することの意味を感じていた。

思考をめぐらせる。どのような超能力なら、コレを成せるか。――答えは、ない。そのような能力など、到底有り得ない。
応用性の広さと規模の点で、この建物の支配者がレベル5以上の演算力を持っていることになるのは確実だ。だがこんな能力者は7人の中にはいない。
思考をよぎるのは、魔術という言葉。エリスに教えられても、頭のどこかで垣根はその概念を受け入れられなかった。
今この状況に陥っても、未だ魔術を受け止めることは、垣根には難しい。だけど、それでも結論はシンプルだった。
受け入れなくとも、この塔で起こっていることを見透かすことは、不可能じゃない。その方法論は、能力者を相手にするのとさほど変わらない。
――人は完全なカオスを扱うことは出来ないのだ。無秩序を成すのに、どこかで秩序、法則、ルール、そう言うものを必要とする生き物だ。
ごくシンプルな時間発展の微分方程式、例えば流体力学の方程式がカオティックな乱流を生み出すように、この不可解な、超能力では到底記述の出来そうにない現象にも必ず法則はある。
そして、だからこそ、突きくずせるポイントがある。
「ブチ抜け」
垣根はポケットに手を突っ込んだまま、上階にを睨みつけてそう呟いた。
直後、グワッッシャァァァァァ!!!!!! とコンクリートをすり潰すような、奇妙な音が壁から起こった。
そしてまるで水滴が壁から染み出るかのように、金属光沢を持った鈍い朱色の物体が天井から浮き出した。
壁を構成するコンクリートと同じ空間座標に、垣根は未元物質を出現させたのだった。
「テメェがどんな敵なのかもまともに知らねーがな、物質(モノ)の取り合いで俺に勝てるとは思うなよ」
未だ顔さえ見えぬ敵に、垣根は冷酷な顔で告げた。




侵される。理路を整然と並べ、完美を体現したはずの錬金の塔が。
黄金練成(アルス・マグナ)によって作られたこの場所は、アウレオルス・イザードが砂埃の一粒に至るまで支配した場所だ。
なのに。
「戻れ」
その言葉に、従わぬ場所がある。元の形を失いぐしゃりと変形した、ある一角。アウレオルスが戻れと言ったのだから、そこは元に戻るはずなのだ。
「……戻れ」
二度言葉を繰り返す、その時点でおかしいのだ。黄金練成は完全であるが故に黄金なのだ。僅かな判例でもあれば、それは卑金に成り下がる。
「何を成した、能力者……!」
苛立ちが、言葉に篭もる。
自らの手からまだ零れ落ちていない、その変形した場所の周辺に意識を集中し、事態を把握するための情報を集める。
「これは、水銀、いや銅か……? 否、貴金ではない」
金属光沢を持ち、鈍い朱色といえば銅だ。だが錬金術師たる自分が、まさか貴金属の目利きで間違いを犯すなどありえない。
これは、断じて金属ではない。アウレオルスが知る、地球上に存在する金属のどれとも性質が異なる。
超能力によって物性を歪められたのだという仮定を否定することは出来ないが、アウレオルスは直感で、相対している能力者が、そんなチャチな小細工で挑んでいるのではないことを理解していた。
アウレオルスが見ている「それ」はもっと、錬金術という魔術を根底から覆すような、恐ろしい能力の片鱗に違いなかった。
「――く。まさか、虚数物質の類だとでも言うのか」
錬金の理の、埒外に存在する物質。自乗で負になる数のように、自然の摂理に逆らった空想上にしかありえないはずの物質。
成る程、超能力というのは自然を超える能力のことだ。そんなものがあっても、無理はないのかもしれない。
そして。それがアウレオルスの知の埒外にあるモノであるならば。
「解さぬ物を操れる道理は錬金には無い」
錬金術師としてのプライドなどというものでアウレオルスは動いているわけではない。
黄金練成の完成など、自分の本当の願いから見ればただの道具に過ぎない。
ただそれでも、錬金、その中興の祖パラケルススの末裔たる彼にとって、その一言はまごうことなき敗北宣言だった。
もう何度目か、右手に持った鍼をアウレオルスは首筋に打ち込んだ。
「敢然。而して立ち向かうべきは、能力者ではなく――」
アウレオルスはそこで言葉を切った。
しつらえのいい校長室の入り口の扉がギッと軋む音を立てた。程なくして、それはバギンという木製の扉の壊れる悲鳴が聞こえた。
その奥から音も無く現れたのは、薄い微笑を口の端に浮かべた、金髪の清楚な少女。その瞳は本能に根ざした欲求にあまりに忠実すぎて、澄んでいた。
「歓迎しよう。吸血鬼の少女よ」
値踏みを擦るように見つめてくるエリスに、アウレオルスは作り笑いを浮かべた。
この少女を奪還するつもりであろうあの少年がたどり着くまで、時間をとるつもりは無かった。




「クソ、進まねぇ」
舌打ちをして、焦りを歪めた唇に浮かべる。自動修復の壁というのは厄介だった。
大規模な爆発を起こすことも垣根の能力なら可能だが、修復されるのならあまり意味はない。
未元物質を壁材に混ぜ込んでやればどうやら相手のコントロールからは外れるらしいが、これは進行速度の観点からすると大した成果は上がらなかった。
効果的に使えば、階段のために遠回りするよりいくらかマシ、という程度だ。
そして先に進んでいるつもりだが、エリスの行き先にも確証を得ているわけではない。あてずっぽうみたいなものだ。
だから下手をすれば最上階近くになってから、また先ほどと同じようなかくれんぼをやる必要があるかもしれないのだ。
時間のなさが容赦なくかきたてる焦燥を、垣根は必死に押し殺す。
「……何だよ」
不意に、随分と久々に塾生とすれ違った。そういえば崩壊後は初めてだ。
別に見た目におかしなところなんてない。ただ垣根をジッと見つめているだけだ。
だが垣根は、その瞳になにか、感化できぬものを感じ取っていた。
何せ、つい今しがた、廊下をぶち抜いて階下から飛び出してきた男を見つめるにしては、驚きがなさ過ぎた。
黒髪のおさげに丸眼鏡の、まるでこんな異様な場所からは縁遠いような凡庸な顔の少女。
その異様さに僅かに意識をと時間を割いた垣根が、再び自らの行動に移ろうとしたその一瞬に、少女が何かを呟いた。
「罪を罰するは炎。炎を司るは煉獄。煉獄は罪人を焼くために作られし、神が認める唯一の暴力――――」
垣根はその言葉の意味を汲み取れない。だが言葉以外の別の感覚で、垣根はその言葉がもたらす結果を理解していた。
少女の眉間の辺りに、ピンポン球くらいの青白い球体が火を灯す。
「テメェが黒幕、ってことはないか――」
おそらくその予想は正しいだろう。だからこんな雑魚相手に時間なんて潰したくはない。
だが、攻撃されれば、迎撃せざるを得なかった。
「寝てろ」
野太い柱を生成し、垣根は少女の腹を突いてやった。ごほ、と息や胃の中身を逆流させるような音を立てて少女はぐしゃりと崩れ落ちる。
同時に飛んできた火球を、空いているほうの手で振り払う。
――パキン、と子気味良い音が手のひらから響いた。
「……未元物質を割った?」
異様な感触だった。未元物質とて物質の一種であり、作り方によっては酸に侵されもするし、壊れることも風化することもある。
だが今、振り払う手にあわせて作った未元物質が割れた瞬間のあっけない感触は、そうした変化とは違う。
まるで能力を打ち消されるような感覚。というか、相手の打ち放った火球とそもそも存在自体が相容れなかったかのような、不自然な反応だった。
この少女は何者だろうか。そう探る目を垣根が向けると、少女は吐瀉物を床に撒き散らし、汚れた口を隠すことなく垣根を見つめていた。
意志の見えない顔だった。そしてまた、垣根に分からない呪文を、紡ぎ続ける。
少女がもたらすのは取るに足らない脅威だ。だから垣根はもう捨て置こうと、そう思ったのだが。
ばじっ、と。
少女の頬が、まるで皮膚の裏に仕掛けた爆竹でも爆発させたように吹っ飛んだ。
「暴力は……死の肯定。肯、て―――は、認識。に―――ん、し―――」
自らの傷を少女は意に介さず、さらに言葉を続ける。指や、鼻や、服の内側で続けざまに爆発は生じ、少女は少女としての形を壊していく。
それは、火球を作り出した代償なのだろう。自分の体の崩壊と引き換えに、ちっぽけな火球が再び宙に浮いた。
「何度やっても、結果を変えるほどの威力じゃねえよ」
言い聞かせるように垣根はこぼす。それは思いやりに近かった。
だがその慰めを聞き届ける相手はいなかった。たとえ耳が弾け飛んでいなくとも、少女に聞く意志はなかった。
垣根は十数秒のそのロスを歯噛みしながら、階段の先を見つめた。
あとはもう、能力で建物を壊すような真似をせずともこの階段を上りきれば、最上階にたどり着くはずだった。
――その階段から、低い呟きを幾重にも重ねた、呪いの声のようなものが聞こえた。
「操られたのは一人、ってわけじゃねえか」
その様に、垣根は怖気を走らせた。傍らの少女や、階上の学生達を哀れんだからではなかった。
この壊れ行く少年少女達に、エリスを重ねたから。

――――だが、垣根は。

ぐしゃり、と。少女の額に浮いた火球を、少女の顔面ごと蹴り潰す。
未元物質でコーティングした靴は、パキンという音と共にそのコーティングを壊しただけで、後は特に変化はなかった。
垣根帝督は、エリスを救うためにここに来た。他の誰も彼もを救えるような、博愛主義の持ち主ではない。
それでいいと、垣根は思っていた。自分は英雄ではないのだから。
「悪いが、歯向かうなら手荒く退ける」
雨の様に降り注ぐ火球を見て尚冷静に、垣根はそう告げた。




「さて、少女よ。私の名は、アウレオルス・イザード。錬金術師の端くれだ」
「……」
アウレオルスは、目の前の少女を「測る」。
吸血鬼というのは、どれほど人から乖離した生き物だろうか。
元が人間で、協力者の少女に言わせれば人間と何も変わるところがないという。
ならば、話し合いも可能だろう。……つい先日までは、そういう予測の元に動いていた。
「ここに君を呼んだ理由を単刀直入に話そう。君に協力してもらいたいことがある」
「……」
「ある少女を救うために、君達、カインの末裔の知恵、あるいは術を教えてもらいたい」
「……」
「君達は人間と同じ容れ物に、無限の命と、そして無限の記憶を蓄えている。どうやって、それを成しているのか、それを聞かせて欲しい」
「……」
金髪の少女、エリスがぼんやりとアウレオルスを見つめた。
この部屋にある他のもの、たとえば高給そうなソファだとか机だとかよりも、喋る人間のアウレオルスのほうがまだしも注目を惹き付ける存在だ。
だが、エリスの関心はその程度だった。もとより話の中身など、エリスには届いていなかった。
「当然。やはり、あれだけの吸血殺しの匂いに触れては、もはや理性は残っていないか」
「……どこなのかな?」
独りごちるエリス。確かに、匂いはここから漏れていたはずなのに。
その匂いの元、根本、それ自体がここにはなかった。
目の前のニンゲンからは普通の匂いしかしない。違うのだ。
あの、たまらなく芳しい椿の香りを身に纏った、巫女服の少女とは。
「こっちかな」
部屋には、扉が二つある。それらの部屋も調べてみれば、見つかるかもしれない。
緑髪の長身の男性、アウレオルスを無視して、エリスは隣の部屋へ続くドアのノブに手をかけた。
「悪いが、君を死なせるわけにはいかないのでな。吸血殺しとの接触は禁じさせてもらう」
「開かないか。もう、邪魔なドアが多すぎるよ、この建物」
グッと、エリスはドアノブを握り締め、強引に力を込める。
その細腕からは想像も出来ない膂力で、ドアに軋みをかけた。
「開かんよ。ただの物理的な封鎖ではないからな」
「おかしいなぁ。もう!」
――ギギギギギギギギギ!!!!!と、黄金練成が課した「絶対に開かれるな」という言葉と、それにエリスの魔力が抗う音がした。
「吸血鬼に単純な方法で打ち勝つのは、黄金練成といえど不可能か。――――音速で這う水銀の弦にて敵を拘束せよ。数は1000」
「えっ?」
ぎゅるりと、水のような銀のような、不思議なストリングがエリスを絡め取った。
不意打ちというか、まったく眼中になかった相手だったから、エリスは対応できなかった。
「最大速度で魔力を吸引せよ」
「あ……」
ごくん、と。自分の中の魔力が誰かに飲み込まれる音を、エリスは聞いた。
まるで誰かの胃の腑の中にいるような、生暖かい胎動。
自分を吸っているのは、きっと、この建物そのものだ。
気持ち悪いはずなのに、不思議と、眠たくなる。
「吸血鬼はこれで死ぬことはない。後で血が必要なら、いくらでも階下から調達しよう。しばらく窮屈を強いるが、我慢願おう。禁書目録はもう私の傍まで来ている。時ほどなくして、私は私の願いを全うし、君にも可能な限りのことをする」
あっけない、幕切れだった。
いや、そもそも吸血鬼を、人を殺戮するための狡知に長けた生き物だと思うほうが間違いなのかもしれない。
長閑に生きてきた少女にしてみれば、むしろ悪意に満ちた生き物は人間のほうだ。
見下ろすアウレオルスの前で、エリスはすうっと瞳を閉じ、うなだれた。
アウレオルスはさらにその体を丁寧に水銀の糸で巻いた。

ふう、と一息つく。間に合ってよかった。
アウレオルスは自分が乱戦に弱いことを自覚している。
命令を細かく設定しなければならない黄金練成という能力は、一対多の戦闘には向いていないのだ。
だから、吸血鬼をさっさと眠らせてしまえたのはまさに行幸だと言えた。
「エリス!!!」
この、得体の知れない物質を扱う少年を、次に相手しなければならないことを考えに入れたならば。




暗がりで、姫神秋沙はジッと息を潜める。
呼吸をするのも恐ろしかった。扉一枚向こうに、あの子がいるから。
出来ることなら心音も止めてしまいたいくらいだった。
吸血鬼なら、自分の居場所をそれくらいの物音で見つけ出すのも、無理じゃない気がする。
――ビクリと、姫神の体が震えた。
ガチャガチャ、ギギギギと扉を乱暴にこじ開ける音がするから。
それがアウレオルスの所作でないのは確実だ。
部屋の隅の、死角になったところでぎゅっと丸くなりながら、姫神はただ願う。
音にならぬ声で、唇だけで祈る。
「アウレオルス。お願い……。うまく」
無限に長い時間を、ガタガタと震えながら過ごす。
祈るしか出来ない。惨めな自分を呪いたくなる。
いや、呪い続けて生きてきたのだから、それは今に始まったことではないけれど。
「静かになった……?」
事が上手く行っていれば、アウレオルスは一言告げてくれるだろう。
期待と疑念が心の中で渦巻く。一秒、二秒と時間を心の中で数える。
アウレオルスの声は、姫神に掛からなかった。
外からの返事は、アウレオルスの声ではなかった。
「エリス!!!」
「この声。垣根……帝督」
姫神は走り出したい衝動に駆られた。
アウレオルスが、垣根を説得できるはずはない。
自分だってできるかは怪しいが、それでもアウレオルスよりはずっと望みがある。
何も、自分達はあの子を傷つけるつもりなどないのだ。
ほんの少し協力してくれたら、あとはむしろあの子のためになんでもする覚悟がある。
だから、私達は、争うべき相手ではないはずなのに。
「……なんで。私は」
姫神は、垣根と交渉することはできない。
だってその部屋には、エリスも傍らに存在しているから。
傍らに置いた短剣を、姫神は握り締めた。それはお守りだった。
いつでも、必要とあれば自害が出来るようにと、持った剣。
これ以上あの子のような境遇の吸血鬼を死なせたりなんてしない。
もう一度、姫神は誓いを呟きにする。
「もう一度誰かを殺すくらいなら。私はその前に命を絶つ」
その短剣の重みは姫神の手に良くなじんでいた。
ここ数日は毎日手入れをし、丁寧に研ぎ澄ませた剣だ。
細く長く、姫神のあばらの間からきちんと差し込めて、間違いなく心臓に到達する。
どの骨と骨の間を通せばいいのか、その時の手の角度はどんな風がいいか、そんなことはもうちゃんと考えてある。
真っ暗な部屋で、ドクリドクリと波打つ自分の心音にすがりながら、じっと姫神はその時を待った。
誰かを殺す恐怖に怯えた毎日を、終えるその時を。
その結果に自分の死か生か、どちらがくっついてくるかは、分からなかったけれど。



[19764] ep.3_Deep Blood 07: 正義は斯くもすれ違い
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/04/02 23:39

「エリス!!!」
垣根は強引に破られた形跡のある校長室の扉から、躊躇いなくその中に進入した。
無警戒な訳ではない。ただ、自分の身を案じるための時間は、エリスを助けるための時間の浪費だと考えていただけだった。
まず初めに目に入ったのは、緑色の髪の西洋人。年恰好は垣根とそう変わらないが、その紳士的な服装と顔の裏に、狂気めいたものが感じられる。
垣根は、その男こそがエリスを傷つけようとしている敵なのだと、直感的に理解した。
「エリスをどうした」
「案ずることはない。さほど手荒くはない手で、先ほど眠ってもらったところだ」
アウレオルスが垣根の真横を指差した。視線が相手から外れるのは好ましくなかったが、エリスの安否を確認したい欲求には抗えなかった。
エリスは膝を僅かに曲げたくらいの姿勢で、立っているというか、吊るされていた。
十字架に掛けられたどこぞの宗教の神の子のように、手を広げている。
腕全体と手首、そして胴や腰、足に、銀色の糸の束が幾筋にも分かれ、絡まっていた。
出来損ないの繭みたいなそれに、エリスは囚われている。
うっすらと開いた目は、意識を保っている証拠のように見えるのに、その目の焦点はどこにもあっていない。
それはまるで、蜘蛛に掴まり捕食される寸前の状態の蝶の様で。
銀の糸もエリスの金の髪も、あらゆるものが美しい部分で構成されたはずのそのオブジェが、垣根にはおぞましく見えた。
「放せ」
「靦然。私とて目的があってこれを為したのだ。おいそれと願いを聞くことはできん」
互いに相手が誰なのかと問うようなことはなかった。相容れない関係であることを、その雰囲気で察したから。
そしてどちらも饒舌さなどとは縁遠い人間だ。視線の交錯は、ほんの一瞬だった。
アウレオルスが鍼を首に突き刺し、引き抜く。僅かに空白の時間を置いてから、垣根に手をむけながら告げる。
「少年よ。君に恨みはないし君に落ち度もないが、君の願いは聞き届けられない。故に死――」
「てめーが死ね」
垣根がアウレオルスの通告に言葉を重ねながら、殺意を物質に変換する。
キュァア! という悲鳴を空気があげ、突如として虚空に乳白色の三角錐が出現した。
この世のどんな物質とも異なる、アウレオルスの埒外の物質。
細長く尖った錐上のそれは、回転をかけながらアウレオルスに迫る。
「鎗突を防げ。円盾を彼我の間に――!」
後手に回ってしまったことに囚われぬよう、アウレオルス目の前の事実のみに集中する。
奇妙な事実に、アウレオルスは驚嘆を禁じえなかった。
錬金術として、この黄金練成<アルス・マグナ>は容易にはたどり着けぬ高みにある。
惜しくはなかったが、黄金練成の代償にアウレオルスが捨てたものは山ほどとあるのだ。
その魔術が成しえる神秘と、目の前の少年、学園都市でも高位の能力者らしい彼の成している奇跡、それらのなんと似ていることか。
垣根の錐が、アウレオルスの盾に突き刺さる。
瞬間。パキィィィンと軽い音を立てて、両者はひび割れ、砕け散った。
まるでその存在同士が、矛盾することを証明するように。
「――ハ。テメェがこのビルを牛耳ってんのか」
未元物質を用いて攻撃を繰り出す垣根に対し、物質の操作で立ち向かうアウレオルスの姿を見て、その緑髪の男こそがこのビルの異常な現象を司っているのだと垣根は理解する。
そして手を緩めることなく、四つ五つと、垣根は眼前に球状の未元物質を作る。それは今アウレオルスに向けた錐の「種」だった。
この錐は、垣根にとって一番作るのが簡単で、大量に用意できる攻撃だった。それでいて、充分な威力を誇る。
質量はどんな能力にとっても弱点になりやすい。充分な重みを持ったこの錐を防ぐのはどんな能力者にとっても負担となる。
そして物量もまたシンプルな強さを持っている。一本の錐を回避するのは能力の種類によっては容易いが、数に物を言わせるとすぐにそれも頭打ちになる。
だが目の前の男は、これまで垣根が相対してきたどの能力者とも、決定的に違う手でその錐に相対していた。
すなわち、たいして大きくもない盾を「創製」して防ぐ、というやり方だ。
足元の土で壁を作っただとか、そういうことではない。無から物質を呼び出すという対処法を、男は取ったのだ。
その意味で、この目の前の魔術師とやらは他のどんな超能力者より自分に似ていた。
「先の手順を複製! 数は十、すべての刺突を迎撃せよ」
襲い掛かる錐に立ち向かうよう、古代ヨーロッパの面影を残す円状の盾がアウレオルスの前にいくつも浮かぶ。
同心円をいくつも重ねたデザインで、その意匠には円形に作られた古代都市の町並みが模されている。
そうして町を守る外壁と同等の守りが付与された強靭な盾を、垣根の未元物質は相打ちという形であっけなく破壊していく。
――この能力と黄金練成は、噛み合いすぎるな。
アウレオルスは迎撃の方法を選び間違えたことを理解した。
超能力とは自然の法則を利用し、捻じ曲げるものだと漠然と思っていた。だから魔術的な盾を作り、それで防御を行うことは最も理に適っていると思っていた。
だが、この相対した少年の能力は違う。断じてアレは自然の一部ではない。故に魔術の盾と彼の錐は明確に対立し、相克する。
「――床及び側壁より石壁を構築。それを以って盾と為せ」
瞬間、床が泥のように流動し、垣根とアウレオルスの間に立ちふさがる壁になって屹立した。
ゴリッという音と共に未元物質の錐はその壁を貫通するが、そこで勢いを失い、アウレオルスには届かない。
「千日手を回避するのは良いが、有限の材料に頼るとどこかで詰むぞ?」
それは何度も垣根がやった詰め将棋だ。例えば石や大地を操る能力者は確かに垣根の錐を防ぐ壁を作れる。
だが一度はそれで防げても、際限なく降り注ぐ未元物質の攻撃を、どこかで防ぎきれなくなる。
壁に加工できる材料なんてのは、周りに無限にあるわけではないからだ。ついでに言えば、垣根の攻撃方法はこんな単調なものに留まるわけもない。
だがアウレオルスは垣根の忠告に答えなかった。答える暇がないからだ。
黄金練成に、厳密には言葉による命令は必要ない。アウレオルスが脳裏で望めば、それだけであらゆる出来事が具象する。
だが言語化という過程を挟まずに術式を発動させると、どうしても不安定な結果が生まれるのだった。
それは黄金練成という術式の問題ではなく、言語というものを使わないと思考ができない、人間という生き物の限界だ。
「石壁を複製。数は5枚」
追い詰めているつもりの垣根の予想に逆らい、アウレオルスはこの膠着を問題視していなかった。
能力者というのは、一人で何種類もの力を身につけることは出来ないらしい。
壁向こうの少年の能力はこの未知の物質を生み出し、操ることだろう。であれば、おそらく他人の精神に干渉するような真似は出来まい。
それが、勝機だ。
垣根の錐が、工事現場さながらの音を立てて用意した壁を破壊していく。
土埃が舞い、瓦礫が足元に積もっていく。それを気にせずアウレオルスはさらに命令を紡ぐ。
「石壁を複製。数は10」
「後がなくなって来たぞ」
垣根はじわじわと責めていく。アウレオルスを弄ぶためではない。
相手を防戦一方にすることが確実に勝つための手段として最良なだけだ。
その証拠に、材料が枯渇してきて部屋のあちこちで床が抜けはじめた。
「後一手か、二手か」
この先の展開を垣根は冷淡に教えてやる。焦りがミスを生めばそれだけ儲けになるからだ。
「石壁を複製。数は10」
アウレオルスもまた、その詰めにチェックメイトまで付き合う気だった。
この石壁を破られれば、アウレオルスは自分の周囲から材料を失う。
自分の足で離れたところまで逃げ、垣根に相対することになる。
勿論先手は向こうに取られるはずだから、恐らくは防御が間に合わず、自分はそこで詰む。
――ガリガリガリ! と掘削機のような音を立てて、最後の壁が崩壊した。
僅かな隙間を通して、垣根とアウレオルスは視線を交わした。
どちらの目にも、大きな感情の起伏はない。互いに、互いを殺すことをもう心に決めていたから。
「終わりだな」
確認するように垣根は呟く。ポケットに突っ込んでいた手を出すこともなく、淡々と、アウレオルスの命を奪うための錐の種を空に浮かべた。
あと数秒後には、アウレオルスは致命傷を追う。
だがアウレオルスはそれを恐怖などしていなかった。なぜならば、それこそが勝機だから。
眼前で余裕をもって見下ろすこの少年には、あらゆる物理的な干渉が届かない。
モノのぶつけ合いではアウレオルスは垣根に届かない。手続きに時間の掛かる黄金練成よりも、未元物質を発現させるほうが早いからだ。
だが、逆に物質を扱うことに囚われた少年には、防げないものがある。
勝利を確信しているのは、垣根ではなくアウレオルスだった。
呼吸を整え、改めて垣根を睨みつける。一言、垣根自身の体に「死ね」という命令を与えるために。
錐の種が、部屋中にばら撒かれた。恐らくは全方位から無秩序にアウレオルスを刺し貫く予定なのだろう。
ピンポン玉くらいの種から、突き立つように、錐が伸び始めた。
それにあわせ、アウレオルスは厳かに呟く。
「少年よ、死――」
その、一瞬だった。
「――先生!!!!」
随分と見通しの良くなった階下に、純白の布地と金縁の刺繍のされた服を着た少女を、アウレオルスは見た。その少女の叫び声を聞いた。
瞬間、アウレオルスが脳裏で封印していた感情が沸騰した。紡ぐはずの言葉の残りが、霧散してしまっていた。
そして。幾条もの錐が、ほとんど音も立てずにアウレオルスの体を串刺しにした。




時は少し遡る。
ステイルは大きく息をつきながら、最上階に向かって階段を駆け上がる。
「ハァハァ、エレベータ位は動かしておいて欲しかったんだけどね」
敵の胃の中にいる以上は、エレベータだろうが階段だろうが危険度なんぞ変わらない。
エレベータがあれば本当にそれに乗ってやるくらいのことはしたかもしれないが、そもそも動いていないのなら自分の足で進むしかない。
「ステ、イル。あとどれくらい、なの?」
「あそこを上れば終わりだよ」
先導するステイルに連れられ、インデックスはアウレオルスに肉薄するところまで来ていた。
不安は、ずっと心の中を這い回っている。
いつだったか、確かに自分は言ったのだ。先生のことを忘れたくないよ、と。
その自分の願いは、半分だけ叶った。アウレオルスを先生と呼んでいたことを、あの日の思い出を、確かに持っている。
だけど、その思い出に対する実感だけは、インデックスはもう二度と得られない。先生の望んだインデックスは、もういない。
それはどれほどの裏切りだろう。恐らくは、自分を助けるためにこんなことまでしてくれた先生に対する、最悪の仕打ちだろう。
恨まれるくらいのことは覚悟していた。せめて、先生がこれ以上誰かの敵にならないよう全力で止める、インデックスにできるのはそれくらいだった。
「インデックス」
「どうしたの?」
「あれを」
最上階の、一つ下の階。その廊下をステイルは指差した。
そこには夥しい数の人が倒れ、血で廊下が彩られている。
「っ! これ……」
「フン。どうやら、アウレオルスは随分好かれているようだね」
「え?」
「これだけ人形が壊されてるって事は、すでに僕ら以外に侵入者がいて、ここまで来たって事だ」
イギリス清教と、ローマ正教と、そしてもう一つはどこの勢力か。
無意識にタバコを探して胸の辺りを探るステイルに、インデックスがきつい目を向けた。
「ステイル。この人たちは人形じゃない」
「知ってるよ」
「この人たちは、人形じゃないんだよ」
「……だから? 助けたいのかい? 僕らの知らない誰かは、雑魚を殺さない程度の良心はあるらしいね。まあ、僕の魔力がすっからかんになるまで回復魔術を使えば、助けられるかもしれないね」
「……私は」
「君がどうしてもと頼むなら、考えてもいい。だが回復すれば彼らはまた襲ってくるだろう。下の階の連中みたいにね。そうすればアウレオルスを目前にして僕も君も死ぬだろうけど、それが君の望みかい?」
ステイルは、朝から学園都市で戦っている。光子と一緒に学園都市の機械を相手にしたのだ。
そして今さっきは、この下の階で襲ってくる学生たちを退けた。その時にだって、たくさんの学生を傷つけてここまできたのだ。
インデックスは、ステイルにそうやって罪を押し付けてここまで来た。ステイルはそれに文句一つ言わない。
こうやって意味もなくなじる様な事をしたインデックスに対しても、怒りを微塵にも見せない。
「ごめんね、ステイル」
「謝られる理由がないんだけどね。僕は、そして君も、必要悪の教会の人間だろう? 綺麗に誰かを救う生き方をするために、僕はここにいるわけじゃない」
汚れることには慣れている。
だが、人形と茶化した言い方をしていながら、本心まではその軽薄な考えに染まりきっていなかった。
「もう一つ上にあがろう。アウレオルスさえ止めてしまえば、彼らをどうにかすることだって出来るんだ」
「うん。そうだね」
インデックスに背中を見せて呟くステイルに、インデックスは短く返事をし、立ち上がった。
そして、何気なくアウレオルスがいるはずの上に向かって、天井を眺めた、その時だった。
ぬるり、と。まるで泥のようにコンクリートの天井が波打ち、
――ガリガリガリ! と掘削機のような音を立てて、天井が崩壊した。
「なっ?! 上は交戦中か!」
ステイルが慌ててインデックスに駆け寄る。
頭にでもぶつかれば無事ではすまない大きさの瓦礫が穴から降り注ぐ。土埃が部屋を埋め尽くし、視界を奪っていく。
その中に、インデックスは懐かしい姿を見た。きっちりとしたスーツに身を包み、緑の髪をオールバックにした、長身の青年。
記憶にあるその姿よりいくらか凛々しくなったアウレオルス・イザードが、階上にいた。
インデックスは、叫ばずにはいられなかった。止めるためにここに来たのだから。
私はもう大丈夫と、もう私のために何かをしてくれなくても良いと、そう言いに来たのだから。
「――先生!!!!」
息苦しいほど埃の舞うその場所から、ありったけの声で、インデックスはアウレオルスに呼びかける。
誰かを睨みつけていたアウレオルスの視線が、抗いがたい誘惑にひきつけられるように、インデックスのほうを向いた。
よかった、とインデックスは思った。だって、これだけの時を経て尚、先生は、自分の声に応えてくれたから。


――――次の瞬間。乳白色の錐が何条も、アウレオルスの体を貫いた。


「え……?」
「ご、ぼ―――」
見上げるインデックスの目の前で、何か言葉を紡ぐようにアウレオルスが唇を動かした。
こぼれたのは、血の塊。胴や手足に何本も錐が突き刺さっているのだから当然だ。
人がそのように殺害されかけているのを、インデックスは見たことがない。
例えて言うなら、毛糸の編み針で小ぶりの人形を串刺しにし、地面に縫いとめたようだった。
ゆるゆるとその乳白色の錐が血で染まっていくのが、生々しかった。
「せん、せ――先生!」
くぐった修羅場の数がそうさせたのか、インデックスが呆けたのはほんの一瞬だけだった。
死の淵に引きずりこまれそうなアウレオルスを繋ぎとめるように、大きく呼びかける。
「クッ。上にまだ誰かいるんだぞ」
ステイルは苦々しい顔で、アウレオルスに近づこうとするインデックスを抱きとめた。
その長身で彼女を覆い、姿の見えぬ敵の射線上に自らの体を置いた。
見上げる先では、百舌の早贄の如く四肢を貫かれたアウレオルスが、震える手で何かを握り締めていた。
恐らくは、東洋医学に用いられる、鍼灸用の鍼。
アウレオルスはそれを、ほとんど自由の効かない腕で持ち上げ、首にあてがう。体を縫いとめられるというのは酷く面倒なことだった。
受けた傷は死に至るに充分だろうが、しかし即死には届かない。あの少年がすぐに止めを刺しにくれば、恐らくは助かるまい。
だがそんなことは、今のアウレオルスにはどうでも良かった。死ぬかもしれない、なんて可能性を考えたりなどしなかった。
紛れもなく、階下に見えるは捜し求めた少女。その彼女が、他の誰でもない自分を案じ、先生と呼んでくれたのだ。
「――ボ、は、ハハは」
一体何年ぶりだろう。こんな風に朗らかな笑いが自分の口からこぼれるのは。
なぜ、インデックスが自分のことを思い出してくれたのか。それは確かに重要な問題なのだろうが、傷を追ったアウレオルスはそれを考えなかった。
何を代償にしても、成し遂げたかった奇跡。もう一度あの少女に名前を呼んでもらいたいというその願いが、期せずして叶ってしまった。
もしかしたら、黄金練成は不要だったのかもしれない。だけど、その徒労には爽快感さえある。
このどうしようもない状況を、なんとしてもひっくり返したいと思う気持ちが胸に湧き上がる。
もしインデックスがここに現れなければ、それは執念と呼ばれるものだっただろう。
だがそれよりももっと峻烈な、希望という名の感情が今はアウレオルスを満たしていた。
そんなアウレオルスを見下ろすように、垣根が傍に歩み寄る。
「下か。……誰だ、そこにいるのは」
「それは僕らが聞きたいところだけどね」
垣根は、いつでもアウレオルスを殺せるタイミングにいながら、決定的な一撃を加えぬまま下を見つめていた。
売られた喧嘩は倍返しを基本にしてきたから、誰かを死なせたことはあるのかもしれない。半身不随までは自覚がある。
だが、明確に垣根は誰かを殺害したことはない。別に、誰かを殺さないといけない局面になど出くわしたこともないのだから。
必要なら焼死体をダース単位で作るくらいのことはやってきたステイルに比べて、それは甘い考えだった。
「ん?」
「あなたは……」
照明がいくつか機能を失ったせい見えにくかったが、インデックスは、自分達を見下ろしているその青年が、決して知らない相手ではないことに気がついた。
完全記憶能力などというものに頼らなくとも、忘れることはなかっただろう。
「エリスの、彼氏さん……」
「テメェは上条の所のガキか。随分とブッ飛んだ衣装だとは思ってたが、お前もこういう連中の一味か」
「貴方が先生と戦ったの?」
そう問うインデックスの瞳は揺れていた。この状況は、双方に混乱をもたらしていた。
垣根にとっては、エリスを苦しめる敵とエリスの友人が知り合いらしいということであり、インデックスにとっては先生を傷つけた敵が、親友の想い人だった。
敵対すべきなのか、あるいは、何かの間違いなのだと確認をするべきなのか。
「悪いが口を挟ませてもらう。君は、どういう目的でここにいる? なぜその男を攻撃した?」
「……」
「僕らはその男と知り合いだが、味方じゃない。その男がやろうとした凶行を止めに来ただけさ」
「……で?」
ステイルの呼びかけに、垣根は多くを答えなかった。ベラベラと喋れば不利になる可能性だってある。
「僕らはここに囚われているであろう、ある少女を保護し、その男を捕まえることが目的だ。それさえ邪魔をしないのなら、僕らは君に干渉しない。君がここにいる理由を教えてくれ」
「コイツを生かして捕まえるのか、それとも死体の回収か。それと女をテメェらが連れ去りたい理由は何だ」
「その男の生死は、僕はどちらでもいいけどね。それと少女の保護であって誘拐じゃない」
「――ハ」
ステイルは、正直に誠実に、意図を伝えているつもりだった。囚われの少女である姫神秋沙を保護し吸血鬼から遠ざけるのが目的なのだから。
垣根帝督は、裏の透けた言い分を鼻で笑うしかなかった。囚われの少女であるエリスがどんな女の子かなんて、自分が一番知っているのだから。
――――事実はかくしてすれ違い、互いへの無理解が敵意へと変わっていく。
「お願い。先生から離れて」
インデックスは、そう言わずにはいられなかった。
いつしか、先生の体から流れた血が天井から滴り、ぴちゃりとインデックスのいるフロアを汚していた。
今すぐに助けなければ、長くは持たないことは明らかだ。
だが、そのインデックスの懇願に垣根は一層、不信感を募らせた。何故この少女はエリスに近づいた? その理由が、コレだとしたら?
「どうしてエリスを苦しめる奴と、お前が知り合いなんだ」
「えっ……?」
とぼけたインデックスを見て、垣根はそれ以上を、問うのを辞めた。
「コイツは危険だ。悪いが生きてもらっちゃ困る」
「待って! お願い!」
垣根がアウレオルスを見下ろした。もう、呼びかけるインデックスには答えない。
僅かな時間のうちに、垣根の目が据わっていくのを、ステイルは感じていた。
それは殺しに慣れていない人間が覚悟をする瞬間。自分にも覚えのある逡巡だった。
垣根がその余分な時間を取っている間に、ステイルもまた、自分に問いかけていた。
きっと自分一人なら、アウレオルスを見殺しにしただろう。
これだけの魔術を成すのに、アウレオルスが手を汚したことは間違いないのだ。そんな錬金術師をステイルは救う理由がない。
仮に、傍にインデックスがいなければ。
見殺しにすれば、インデックスは悲しむだろう。誰がその死を呼んだのか、間違いなく彼女は自分を責めるだろう。
自分は何のために、生きて死ぬと誓ったのだったか。
「じゃあな、死――」
「魔女狩りの王<イノケンティウス>!!!」
不本意だった。本当に不本意だった。こんな錬金術師は、死んでしまえばいいと本心で思っている。
ステイルの魔力が生み出す炎塊の巨人、魔女狩りの王が垣根とアウレオルスの間に出現した。
「――それがテメェの答えか」
垣根の生み出した白色の錐が魔女狩りの王を貫く。キィィンという澄んだ音と共に、超能力で出来た物質と魔術の炎がぶつかり合った。
その、およそ加熱だとか燃焼だとかで生まれる音とはまったく違う響きに、ステイルは困惑する。
超能力を使って飛ばされた植木鉢くらいなら受け止めたことがあるが、超能力そのものとぶつかったのは、これがはじめてだった。
「僕は君と話をしたいだけだ。君が矛を収めてくれないなら君を無力化して話をする必要がある」
「この状況で交わす言葉なんてねえよ」
ステイルはインデックスを抱え、積み重なった瓦礫とむき出しの鉄筋をたどって垣根とアウレオルスの立つ階へと上がった。
垣根の、こちらを見る目が冷酷さを帯びていく。ステイルは不審者から敵へと格上げされたのだろう。
魔女狩りの王を見て眉一つ動かさないその男に、ステイルは危険を感じざるをえなかった。
それが虚勢なのかそれとも本当に魔女狩りの王を意に介さないのか、その違いは分かっているつもりだ。
……学園都市の、ただの学生のはずなのに。目の前の男はたぶん後者だった。
「邪魔だ!」
垣根が腕を横に薙ぐ。それだけで魔女狩りの王を貫く白い錐が倍に増えた。
あまりに突き刺された場所が多くて、魔女狩りの王は形を保てなくなり、霧散した。
「ハン、随分と弱えな」
「火に定まった形を求めないほうがいい」
「っ!」
術者であるステイルを狙おうとした垣根に、ステイルは淡々と言葉を返す。
ステイルと垣根を結ぶ直線、そこから僅かにずれた位置に魔女狩りの王を再び顕現させた。
それくらいのことは、いくらでも出来るのだ。魔女狩りの王が、垣根に抱擁を捧げるべく、肉薄する。
パチパチと何かの爆ぜるような音を立てながら、その炎塊は垣根の命を脅かしに掛かった。
だが。
「純度は気にするクチか?」
自分の身長を越える炎の塊が至近距離にあれば、人間は本能的な恐怖に襲われるのが普通だ。
なのに、垣根は体を動かさない。そして垣根の見上げた天井と、そして足元から再び未元物質の錐が鋭く突き立った。



――――ジュアァァァァッッ!!



色が、これまでの錐とは違っていた。これまでより濃い、金属光沢のあるねずみ色だった。ステイルが咄嗟に理解したのはその程度だ。
だが顕著な違いがあることに、すぐに気づかされた。
魔女狩りの王に突き刺さったその錐は、受け渡された熱によって、どろりと融解を始めた。
そして、突き刺していたはずの魔女狩りの王の胴体と、溶け合っていく。魔女狩りの王と未元物質の境目が失われていく。
「何っ?!」
それは、初めて体験した出来事だった。魔女狩りの王が、ステイルの制御に対して極端に鈍くなった。
自然界のものなら、それが土であれ金属であれ、魔女狩りの王に取り込んでも問題にならない。
だが、今までだって銃弾なんていくつも受け止めてきた魔女狩りの王が、得体の知れない物質に毒されていた。
「――ク!」
体内に練り混ぜられた未元物質という毒を、掻き出すように魔女狩りの王が体を手で抉る。
ぐちゃりと地面に打ち捨てられたその泥は魔女狩りの炎のように消えることなく、緩やかに冷え固まりながらそこに残った。
身の自由を取り戻した魔女狩りの王は、再び垣根をさがすように、ぐるりと当たりを見渡した。
「トロくせぇ」
つまらなさそうな顔でつぶやき、垣根が手を振った。危険すぎるはずのその炎塊を一瞥さえしない。
垣根の視線は殺すべき相手、つまりアウレオルスに向けられている。
血を流すその錬金術師の隣に寄り添うインデックスを、垣根がどうするつもりなのかはわからなかった。
垣根が何かを言おうとインデックスを見据えた瞬間。
不意に掻き消えた魔女狩りの王が、元の場所から離れた虚空に現出し垣根に襲いかかる。
「邪魔だって言ってるだろ!」
声に応じて、未元物質の錐が虚空に鋭く聳え立つ。だが貫いたのはまたしても虚空だけだった。
魔女狩りの王が居場所を転移するのに、特に回数制限なんてない。
垣根は外した相手を仕留めるために、さらに手を振るった。
「僕の手元にあるのがそれだけだとは思わないことだね」
魔女狩りの王を睨む垣根の背後から、ステイルが垣根に襲いかかった。
手にした炎剣も、垣根を殺すには十分すぎる武器だ。それをステイルはためらわずに降りおろす。
躊躇などしては、この敵は容易に攻撃をかいくぐりステイルを殺すだろう。
全力で向かう他に、方法はなかった。
「―ーハ。手数が増えた程度で俺に勝てると思っているのか。おめでたい頭だな。時間をいたずらに消費するな、どうせお前は死ぬ。だがエリスに手を出さずに逃げ帰るなら、追いはしない」
「……エリス?」
襲いかかる錐が魔女狩りの王を貫く。そして垣根を燃やすはずのステイルの剣は、何かに阻まれた。
それは真っ白な、湾曲したプレートだった。デザインからしてそれは盾だったが、現代の警察が持つような機能性一点張りの、無骨な作りだ。
ステイルの炎剣は燃え散ることなく、その縦に拮抗する。大柄なステイルの体重が乗った一撃は、垣根とて全身に力を込めて耐えるほかない。
だがその姿勢からでも、垣根の未元物質は攻撃を可能とする。
「クッ!」
縫いとめられた魔女狩りの王を再び動かしながら、ステイルは追撃の錐を体を捻って回避する。
ステイルと垣根、二人は生身の人間であり、身体的な強さは同格だった。
各々の持つ攻撃力に対して、その体は脆弱すぎるということだ。
魔女狩りの王とタッグを組むステイルに、垣根は手数の多さと多彩さで応戦する。
いずれそのバランスは崩れるのかもしれないが、互いの手の内を知り尽くす前においては、ステイルと垣根の戦いは拮抗状態にあった。




「――先生! 先生!」
垣根たちが戦うその傍で、インデックスはアウレオルスの震える腕に、手を添えていた。
インデックス自身の手もそれにより血で濡れていくが、そんなことは気にしない。
体が示す明確な死の兆しに反し、アウレオルスの心が死んでいないことを、インデックスは分かっていた。
血に濡れた細い銀の鍼が、平時よりもずっと大きくその先端を揺らがせながら、アウレオルス自身の首筋に突きつけられつつある。
それが打開策なのだろう。そして、この状況を覆したいという強い意志が、アウレオルスの瞳に乗っていた。
先端が狙い定めた先へと向かうように、インデックスは手を添える。
「イ――クス」
肺から空気がこぼれるせいで、アウレオルスの声は声にならない。だけど、自分の名前を呼びかけてくれていたと、わかる。
その必死さに応えるように、インデックスはアウレオルスの為そうとしていることの意味を、探り当てる。
――首筋に鍼の跡がある。これで心を……消して、るんだ。
東洋医術についてもインデックスは心得がある。それは先生と一緒に学んだものだ。
アウレオルスの突こうとしている経絡は、鎮静効果のあるものだ。
だがこんなやり方では、心を落ち着かせるなんてレベルじゃなくて、感情の起伏をねじ伏せてしまう。そんな強引な術だった。
何度もやれば、人らしい喜怒哀楽など、失われてしまうだろう。
これはきっと、黄金練成という、不可能とされる術式の代償。
「……」
反射的にごめんなさいと言いかけて、インデックスはそれを口にできなかった。
それはどういう意味を持った謝罪だろうか。口にするのにどんな資格が必要な謝罪だろうか。
インデックスに、アウレオルスが優しく微笑んだ。
その鍼を突き刺せば、インデックスに会えた喜びすらも押さえつけ、機械に成り下がる。
それをアウレオルスは分かっていた。今はそれでいい。
とりあえず目の前で白い錐を振るうその男を始末して、ステイルを説得すれば、全てが解決するのだから。
再び、あの無垢な笑顔を向けてくれるインデックスと、共に歩んでいけるのだから。
「行くね、先生」
コクリとアウレオルスは頷き返す。その弱々しい反応をインデックスは読み取って、手に力を込めた。
鍼が、ずぶりと首筋に突き刺さっていく。
ひと呼吸おいて、脳に広がり始めた穏やかな快感と、冷徹になる心を自覚しながら、アウレオルスは命じた。
「治れ」
ぎゅるりと、機械で何かを巻き取るような音がしたのを、インデックスは聞いた。
手のひらから、ゆっくりと先生の血が逃げ始める。地に落ち、這い、アウレオルスの体へと近づいていく。
そして土ぼこりと交じり合い、どす黒く汚れたはずの血も鮮やかさを取り戻していく。
そうして今まで伝い落ちた錐を血が這い上がり、その体へと戻っていった。
その遅さに、アウレオルスは少し苛立つ。
体に錐が突き刺さった状況からの復帰は思ったより大変だった。
錐が、現実に存在する物質だったら一瞬で済んだだろう。
思考をクリアにするために、もう少し、血液が必要だった。




「何だ?」
体中を貫かれたまま、ジリジリとアウレオルスが動いたのに垣根は気付いた。その不自然な動きに一瞬視線を奪われる。
「超能力でもこれくらいできるだろう?」
戦いの最中に、その驚きは大きな隙を生む。ステイルはそれを逃さなかった。
自身は垣根に側面から炎剣を振るって襲い掛かりながら、魔女狩りの王に正面から突撃させる。
その瞬間、自分の置かれた位置関係を理解し、垣根は戦慄した。
相対している敵との関係にではない。
自分が今背にしている未元物質の錐の束、先ほど緑髪の男を殺すためにつきたてたそれらの奥に、銀色の糸で出来た繭があることに、気がついたのだった。
つまり、エリスの包まれた銀の繭に、禍々しい姿をしたマグマらしき塊が向かっていた。
「チイッ!」
魔女狩りの王に向けるはずだった錐をステイルに向けて突き出し、垣根は身を翻した。
読みどおりそれで炎塊の拳は軌道を逸らし、繭からは射線を外して垣根を追いかけた。
勿論、それは危険な動きだった。無理な体勢からの回避は、その動きの幅が小さい。
垣根は余裕を持って逃げ切るための足を遺していなかった。
そして、魔女狩りの王の殴打は、掠めただけでもダメージは免れない。
ジッ、と小さな音を立てて垣根の右上腕が、その熱気と接触した。
「――――づ、あぁぁぁ!!」
激痛に、声を漏らさずに居られなかった。
痛みという情報で沸騰する脳を蹴っ飛ばして、体を確認する。幸い指まできちんと動く。腕が失われたわけじゃない。
だが左手で触ったそこには、真っ黒に炭化して何かがパラパラ崩れる感触があった。
それが、ジャケットの燃えかすだけであって欲しいと願う。
後ろを一瞥すると、エリスの眠るそこは無事だった。だが、それにホッとする気持ちは湧かなかった。
膨れ上がるのは、ただ、殺意。
「エリスは、別に壊れててもいいわけか!」
「一体何を。……それにその名は」
荒れ果てた戦場で、ステイルは錐の聳え立つ一角の向こうに人が、否、吸血鬼が眠っていることに気付いていなかった。
「待て。話を聞いてくれ」
「今更命乞いはいらねえよ」
「違う!」
攻撃の手を緩めたステイルに、垣根は容赦なく錐を突きつけていく。
「クッ! 話を聞けといっているだろう!」
「ならテメェの四肢を串刺しにしてから聞いてやる!」
「僕らが探している少女は別人だ!」
「あぁ?!」
だけどその声は届けるには少し、遅すぎた。
止まることなく真横に伸びた、特大の未元物質の錐。それが魔女狩りの王とその後ろの壁までを、滅茶苦茶に破壊した。
「僕らが探しているのは、異能の少女、姫神秋沙だ」
「じゃあエリスは」
「……僕も面識がある。悪いが、彼女は無関係だよ」
そうであれば、事態はハッピーエンドをここで迎えたのかもしれない。
ステイルは、まさか日中に共闘すらしたあのエリスが吸血鬼だなんて、考え付かなかった。
垣根帝督は、まさか夕方にすれ違ったあの少女の名前をここで聞くとは、思ってもみなかった。
だから、二人は油断していた。
「……よかった、見つけたよ」
ステイルが顔を上げて呟く。垣根がたった今壊した壁の向こうに、姫神がいた。
だが絶望にまみれた姫神の表情の意味に、二人は気付かなかった。
「まず……い」
「先生?」
「一メートル後方へ転移。すぐさま治癒を完遂させよ」
ようやく血液をかき集め、複雑な命令を下せるほどになった。
だが既に、会わせてはいけない二人を、会わせてしまっていた。
アウレオルスは、貫かれた体を少し離れた位置へテレポートする。
インデックスがそれに気付いた時には、もう傷が癒えていた。
「先生!」
「インデックス。あの吸血鬼の少女は、お前の友なのか?」
「えっ……?」
アウレオルスが指し示した先に、エリスが繭に囚われていた。
だが、アウレオルスの言葉の意味は、良く分からないままだった。
だって、エリスは友達だ。だから吸血鬼だなんてわけがない。
論理を無視して、インデックスの脳裏に浮かんだのはそういう思いだった。
「何を言ってるの?」
「知らなかったのか。エリスと言うらしいが、あの少女は吸血鬼だ」
「えっ……?」
じわじわと、その現実が心にしみこんでくる。
ぼんやりとエリスの傍の壁に開いた大穴を長めると、そこにはもう一人の知り合いの姿があった。
エリスと姫神の姿を、同時に視界に納められることの意味に、インデックスは咄嗟に気付けなかった。




カタカタと手が震える。ナイフを握り締めた手にいくら力を込めても、その震えが収まらない。
「どうして……」
姫神は、不意に光の差した壁の向こうを、絶望を持って見つめる。
面識のない赤髪の神父と、垣根が対峙している。離れたところではインデックスと、アウレオルスが寄り添っている。
でもそんなのは今は重要じゃない。だってその場には、あのエリスという少女がいるはずなのだ。
ぎゅっと、体を縮こめる。全くの無駄だ。自分の体から広がる吸血殺しという名の香りは、確実に吸血鬼の少女に届いてしまう。
こんな至近距離で、なんの遮りもなくなってしまったら、もうどうしようもない。
「あ、ァ――――アァァァァァァァァ!!!」
姫神は、自分に見えない死角でエリスあげた叫び声を、聞いた。
耳にナイフを突き立ててしまいたいくらい、それはどうしようもなく、恐ろしい現実だった。



[19764] ep.3_Deep Blood 08: 一途の想いが成れの果て
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/04/08 11:54

銀の繭に絡めとられた、金髪のあどけない少女。
純朴そうな、悪性とは縁のなさそうな顔を見せるはずのその少女が、体が覚える渇きを余すところなく表情に乗せて叫ぶ。
「あ、ァ――――アァァァァァァァァ!!!」
そこに邪悪さを見出すのは、欲望に忠実であることを嫌うニンゲンという種族の性だろうか。
エリスが見せたその表情は単に獣じみているだけであって、きっと悪意なんてものはない。
「エ、リス――」
呆然と、垣根はエリスを見つめる。そして弾かれたように垣根はエリスに歩み寄った。
「エリス! 俺の声が聞こえるか?! エリス」
銀の繭に手をかけ、エリスの頬に触れて垣根は叫ぶ。だがエリスは、確実に視界に垣根を収めているのに、垣根を見ていなかった。
この場、この瞬間においてエリスという吸血鬼を埋め尽くしているのは、ただ、たまらないほどに芳しい、椿の香り。
辺りに漂うそれは、これまでにないほど濃密だった。嗅覚が他の五感すらも刺激して、エリスを恍惚とさせる。
垣根は繭を払いのけ、あるいは引き千切ろうと手をかける。だが、魔術的に強化されたその糸は垣根の力ではどうにも出来なかった。
「アウレオルス。彼女が、そうなのか」
「ああ。そちらの事情は先ほど耳にした。『吸血殺し(ディープブラッド)』の保護だったな」
「そうだ。君には僕を邪魔立てする理由はあるかい?」
「返答は否だ。どのような軌跡の果てにかは知らないが、私の目的は既に叶っているようだからな」
アウレオルスは、傍らにいるインデックスに微笑みかけた。
三年前、あの日分かれたときよりもずっと大きくなった。
子供から少女へと羽ばたくその片鱗を見せるに過ぎなかったあの頃と比べ、ずっと、女らしさをその表情に纏わせていた。
自分は変わらぬ微笑をインデックスに向けられただろうか。微笑みなんて、ずっと前に強張らせたままだから思い出せなかった。
たぶん、上手くは行っていないのだろう。こちらを見つめ返すインデックスの表情は、以前のように大輪を咲かせてはくれなかった。
「インデックス」
「……先生?」
「久しいな。三年という時間は無常に流れていったというのに、振り返れば、随分と長かった」
「あの……ごめんなさい」
「何故謝る?」
「忘れて……ごめん、なさい」
「お前から思い出を奪ったのは、紛れもない私だ。謝る道理がない。それに」
アウレオルスは、自然と頬を緩めた。
そうしてしまう自分を、止める術がない。
「私とお前の、止まっていた時はまた動き出したのだ」
アウレオルスはそう告げながら、エリスと垣根を見据えた。
あの二人を片付ければ、あの穏やかに幸せだった日々がまた、始められるのだ。
そんなアウレオルスの顔を、ステイルは色のない顔で見つめた。
インデックスは、何も言えずに俯いた。
「インデックス。今一度問う。あのエリスと言う少女はお前の友なのか」
「……そうだよ。エリスは、友達だから」
「では、死なせたくはないのだな?」
「えっ?」
「手短に言おう。『吸血殺し』はあの奥にいる」
アウレオルスが指を差したのは、壊れた壁の向こう側。この広い校長室の隣にある、校長の私室らしかった。
良く見ると、そこには地面に座り込んだ、長い髪の少女。震える体を抱きしめ、鈍く光るナイフを手にしている。
その少女もまた、インデックスにとって他人ではなかった。
「あいさ!」
「テメェは……」
垣根もまた、姫神に気付いたらしかった。
ただその恐怖に歪む表情を見て、垣根は姫神を敵と認識すべきなのか、エリスと同じ境遇と見るべきなのか、迷った。
「銀の繭よ、その数を倍加せよ。吸血鬼の少女を霊的に完全に拘束せよ」
「なっ?!」
垣根は、自らの失態にそれでようやく気付いた。
言葉の上で、少なくとも赤毛の神父とインデックスという少女はエリスに手を出さないと言った。
だがこの緑髪の青年は? 一言も、エリスにこれ以上手出しをしないとは言っていない。
すっと、心を凍てつかせる。怒るほどに冷える心に逆らわず、垣根は再び錐を細く長く、尖らせる。
「その判断は焦燥だ。それはその少女を守るための策だ」
「口を閉じろよ。もう一度喋れない人形にしてやる」
「やめて! 話を聞いて! それでエリスは傷ついたりはしてないから!」
「じゃあなぜ」
「エリスを、止めなきゃいけないの!」
垣根はちらりとエリスを振り返る。もう、顔から上以外は完全に銀の鋼糸に覆われていた。
インデックスは垣根に何かを言わせるタイミングを与えず、さらに言葉を繋ぐ。
「貴方は知らないかもしれないけど、エリスは……普通の人間じゃないみたいなの。学園都市の超能力者に言っても信じてもらえないかもしれないけど、エリスは、吸血鬼だから」
「……で?」
「今、エリスは暴走しそうな危ない状態なの。だからお願い、私の言うことを信じて、従って。エリスを呼び戻すには、きっと貴方の声が必要だから」
「……」
垣根は黙って後ろを振り返った。そしてうつろな目をしたエリスを見つめる。
そっと頬に手を添える。暖かく柔らかいその質感は、人間以外の何かだとは信じられない。
そしてそのインデックスと垣根の対話の裏で、エリスと垣根から距離をとりながら、ステイルが姫神に近づいていた。
「大丈夫かい」
「……あの子は」
「今、何とかしているところだ」
とりあえず、こちらには怪我一つなさそうだった。少なくともアウレオルスは丁重に扱ってはいたのだろう。
酷く怯えているのは、十年前にも、吸血鬼に変わり果てた村人を丸ごと葬り去ったからだろうか。
ステイルはそう思案しながら、魔女狩りの王を召還するためのルーンを姫神の周囲にも刻んでいく。
「エリスは、元に戻るんだろうな?」
「それは……」
二人からは死角になるところで、垣根はインデックスとアウレオルスを睨みつけていた。
元に戻らないといわれたら、最低でもアウレオルスは殺す気だった。
だって何の落ち度もないエリスは、絶対に元通りの生活を手にしなければいけないのだから。
それが為されることこそ、正義だろう。
エリスに寄り添うようにしながら、垣根は戸惑いを顔に浮かべるインデックスを見つめる。
その表情が意味するのは何か。アウレオルスの無表情が意味するのは、何か。
「っ! 避けて!!!!」
インデックスが不意に、驚愕に目を見開いて垣根に声をかけた。
意味が分からず、垣根は僅かに重心を落とすくらいしか出来なかった。
だが、インデックスが視線を向けているのは自分ではなくその後ろだと気付いた瞬間、垣根は弾けるように身を投げ打った。
愛する人、エリスから距離をとるように。
「――つっ!」
肩口に鋭い痛みが走る。反射的に触れると血がゆるゆると流れ出す感触がした。
振り返ると、食べようとしていたお菓子を目の前で取り上げられた子供のように、残念そうな顔をしたエリスがいた。
ただ、その口元は淑やかそうにものを食べる普段と違って大きく開かれていて、鋭利そうな犬歯が覗いているのが生々しかった。
「エリス……?」
「エリスに近づいちゃ駄目! エリスは、今――」
きっと、『吸血殺し』に影響されているのだろう。
でなければ、友達のインデックスがいる前で、恋人の垣根帝督に、牙を剥いたりなんてしない。
「先生! 黄金練成でエリスを止められないの?」
「既に試した。単なる空腹なら欺けるが、あの状態はそんなものではない」
『吸血殺し』という能力で、強制的に狂わされているのだ。
あまりに限定的な効力しか持たないその能力は、吸血鬼という対象に対しては、黄金練成よりもはるかに強力だった。
その言葉を聞きながら、垣根はただ、エリスを見つめる。
残念そうな、ぼんやりとした目がだんだんと澄んでいくのが分かった。
僅かなりとも理性を取り戻そうとしているのかもしれないと、垣根は、そしてインデックス達もそう期待するほかなかった。
「エリス……」
「帝督、君」
「エリス! 俺が分かるのか?!」
「うん……」
「良かった。エリス、エリス……!」
名前を呼ぶと、微笑んでくれた。それが嬉しくて、垣根は何度も名前を呼ぶ。
「良く分からないけど、ちょっとお前の様子がおかしかったからそんな窮屈なことになってるんだ。大丈夫そうならすぐ取り払わせる。体は、なんともないのか?」
「うん。……あの人たちも、私を傷つける意図はなかったみたいだから」
「そうなのか」
「あのね、帝督君」
「エリス?」
その、エリスの穏やかさは何を意味していたのだろうか。垣根は他意なく、単に疲労でもしているのだろうと思っていた。
だけど、違うのだ。例えば大事なテストの日に寝坊して、ひとしきり愕然とした思いを味わった後の、あの諦念のような、そういうものがエリスを支配していた。
ただ一言、エリスは垣根に伝えるために、口を開いた。



「――――ごめんね」



静まり返るその部屋で、その言葉は誰の耳にもしっかりと届いた。
垣根も、他の皆も、言葉の意味を図りかねていた。
だって、静かに生きていただけのところを誘拐された立場であるエリスが、謝る理由なんて何処にもない。
例外はただ一人。その言葉に息を呑み手にしたナイフを心臓に向けてそっとあてがった、姫神秋沙だけだった。
「……こんなことには。ならないはずだった」
「なんだって?」
隣のステイルが、その仕草を見てギョッとなる。何故、姫神が自害を試みているのか。
「……お願い。あの子を止めて。私が邪魔なら。私は死ぬから」
それは前から覚悟を済ませたことだ。これ以上誰かを死に追いやるなら、その前に自分が死ぬと。
エリスと言う少女がつぶやいたその謝罪の言葉の意味を、姫神はよく理解していた。
だって、それは10年前に耳にして、それからもうずっと脳裏にこびりついて離れない言葉だから。
「もうあの子は。自分の意志では止まれないから」
その影で、エリスが銀の糸を力任せに引き千切る音がした。


「エリス? 一体どういう――」
「ごめんね、帝督君」
「謝られても意味がわかんねぇよ!」
エリスを前に、垣根は声をかける以外の行動ができなかった。
バツン、と金属の糸を無理矢理引き千切る歪な音を、エリスの細い指が立てる。
声が諦めを混ぜた静かな響きをしているのと矛盾した、暴力的な音だった。
その指の動きは、ただ単に助かろうとして敵から逃げようとする行動とは、違って見える。
エリスの声や表情と動きの間にある齟齬が、本来ならば何を差し置いてもエリスを助けるはずの垣根を、動けなくさせていた。
「……止めて」
「あん?」
「私を止めて」
「いや、え? 何でだよ?」
困惑で必死さが空回りする。なぜか乾いた笑みがこぼれる。そんな垣根を前に、エリスは変わらず淡く微笑む。
「言う通りにしてあげて。お願い」
「……理由を言え」
目を伏せ、震えながら嘆願する姫神に垣根は言い返す。
「私の香りに中てられて。その子はもう吸血衝動を抑えられないの。さっきまでは理性まで持っていかれてたけど。もう違う。それより悪化して堕ち着くところまで行ってしまったから」
姫神は、もう何人となく吸血鬼を滅ぼしてきた。何度となく、吸血鬼が自分という毒に堕ちていく様を見てきた。
香りを嗅いですぐは、その衝動に引きずられて獣同然になる。
そして、やがては理性が回復し、本能的な行動との間にある矛盾のせいで、酷く精神状態が不安定になる。これが第二段階だ。
だけどそれを乗り越えた最後には。
冷静さと理性を残しながら、体は明確に姫神を狙うようになるのだ。
そしてこの段階に至った吸血鬼は皆、同じ言葉を残してきた。

――ごめんね、と。

吸血鬼になった元人間たちも、分かっているのだ。それがいけないことなのだと。
吸血という行為を、普通の人間は一度だってやったりしないのだから。
なのに、求められずにはいられない。それを止められない。
だから、怯える姫神に謝罪の言葉を口にするのだ。
抗えずにごめんなさい、怖がらせてごめんなさい、と。
姫神の母親ですら、そうだった。
「――戻せよ」
「……」
「エリスを戻せ」
垣根は、ただ憎憎しげな目で、姫神を見つめ返した。黙って、姫神はそれを受け止める。
憎しみを向けられるのは姫神にとって喜びですらあった。無実の人に死刑を下すより、誰かに断罪されるほうがはるかに幸せだ。
だけれど、姫神は正直な、たった一つの答えを垣根に返す。
「――――そんな方法は。今まで誰も知らない」
「ハ。どうせテメェが知らねえだろうが」
垣根は、そんな絶望を信じない。
エリスに向かって、できる限りに優しげな顔を作って、声をかける。
「止めて欲しいなら、とりあえずは止めてやる。心配するな。学園都市第二位ってのは、エリスみたいな普通のヤツじゃ太刀打ちできないんだよ」
エリスが、笑みを深くした。だがそれは希望を見出した笑みには、見えなかった。
「帝督君。大好きだよ」
「俺もだ」
未元物質で壁を補修する。物量ならお手の物なのだ。
エリスを、千切れかけの繭ごとさらに外から未元物質で覆っていく。
その高度はダイアモンドを超える。これだけの厚みと質量のものを破壊するのに必要な応力は、ダイナマイトの爆発力を軽く凌駕するだろう。
チンピラにでもこんなことをやってやったなら、きっとすぐに絶望して、負け犬の目を見せるだろう。
だが今は違う。焦燥と無力感が苛むのは、垣根の心のほうだった。
「もし、私があの人を襲いそうになったら――」
誰に聞いたわけでもない。だが、エリスはもう理解していた。
こんなに自分を惹き付ける血が、普通の血の筈がない。今まで血液を貰ってきたどんな人とも、あまりに違うその香り。
きっと、それは猛毒なのだと思う。自分にとって良いものではない。恐らくは死をもたらすような、何かなのだろう。
だがそう分かっていてなお、それを求めることをやめられない。
「帝督君」
「やめろ」
ぞくりと悪寒を感じて、垣根はそう言い返した。
「私は帝督君に、死なせて欲しい」
「訳のわかんねえ事を言うなエリス!」
「これでも心だけは、化け物じゃないつもりなんだよ。――でも、あの人を、食べたら、私は」
「させねえよ。現にお前は身動きできてねぇだろうが!」
「……」
そうだ。何も悲観することはない。膠着状態なら、現に垣根は簡単に作れている。
この時間を使って、エリスを苛むこの問題を解決すればいい。
例えば、その元凶をこの世から取り除いてしまったりして。
姫神は、垣根がこちらを再び見つめたのに気がついた。さっきより温度の下がった、冷たい目線。
恐れはなかった。だって、垣根の考えていることは、自分自身が考えていることと一緒。
最悪、自分が死ねば問題は解決する。もうとっくに心に決めた最後の選択枝だった。
「先生……」
インデックスは懇願の目をアウレオルスに向ける。
吸血鬼を呼び寄せたのは、そもそもはアウレオルスだ。
だったら、この事態にも打開策を持っているかもしれない。そうあって欲しい
「エリスと、あいさを助けて」
「……」
「先生!」
「『吸血殺し』を死なせない策なら講じよう。だが、吸血鬼を救うというのは私の手には負えん。まず止めることができん」
「だったら、ステイルとあの人にも手伝ってもらって!」
ステイルはフンと言ってそっぽを向いた。態度と裏腹に、イエスを意味する返事だった。
垣根も、こちらが信用できるのかと見透かすような目だったけれど、敵対することはなかった。
ここにいる皆が、手を合わせれば。何とかなるかもしれない。そうあって欲しい。
「助けて、その先はどうする?」
「え?」
「イギリス清教に属する修道士なら吸血鬼はむしろ滅ぼして自然。その少女を今死なせなかったとして、次はどうなる?」
「それは……」
「そしてインデックスよ。助かったあの少女をどうするのだ。匿うことも出来まい。この街にいても、外にいてもな」
吸血鬼なんていう、とびきりに希少でしかも危険な生き物を、一体何処に連れて行けばいいのか。
その脳に詰まった沢山の禁書以外に何も力となるものを持たないインデックスには、何も出来ない。
だけど。
「あの人やステイル、それにみつこやとうまだっている。みんなと一緒ならきっと何とかなる!」
「……」
「今、ここで二人を助けないとその先はないんだよ! だからお願い、先生」
真摯ではあったけれど、その請願にはどこか、インデックスの甘えがあった。
そうしたインデックスの願いを、一緒にいた頃のアウレオルスは微笑んで引き受けてくれたから。
だから心のどこかで、怒られることはあっても、断られないだろうと思っていた。
「――ミツコ、トウマとは誰だ」
「えっ?」
瞬間、インデックスは答えを失った。
ジトリと、背の低いインデックスを見下ろすその視線が重たくなった。
その名をアウレオルスは聞き流せなかった。
アウレオルスはインデックスを救うために、黄金練成を完成させ、吸血殺しを匿い、吸血鬼を呼び込んだ。
不幸を背負ったその少女が救われればいいと、そう思って代償を払いながらここまで来た。そのつもりだった。
だが、それは少し違う。
インデックスが救われるだけではなくて、再び自分の下へと戻ってきてくれること、そこまでがアウレオルスの願いだった。
それをアウレオルスは、自分でははっきりとは自覚していなかった。
処理の出来ない苛立ちを視線に載せて、インデックスを見つめる。
それにすぐに答えるべきだったのに、インデックスは答えに窮していた。
不用意に出した、光子と当麻の名。それは裏切りの証だったから。
アウレオルスという人が自分を助けようと三年と言う時間を費やし、
たくさんのものを失いながらここまでやってくれたのに、自分はもう、助かっているのだ。
そしてあろうことか、あれほど仲睦まじく一年を過ごしたというのに、
アウレオルスという人は今、過去の自分が愛した人という、それだけの人でしかないのだ。
旧い恩人、それ以上の人としては、看做せないのだ。
こんなに薄情なことは、ないだろう。
「インデックス。お前という人間の性質上、常に『管理者』が隣に付いているだろう。――今、お前にパートナーはいるのか」
一歩、アウレオルスはインデックスに踏み込んだ。
「あ……」
「お前は、私のことを思い出してくれたのだろう? 短くも、思い出深いあの日々を」
その一年は、アウレオルスの未来を書き換えた、あまりに意味のありすぎた一年だった。
インデックスにとっても、きっとそうだろう。
だってあれほどアウレオルスと過ごす時間を喜び、それがなくなることを悲しみ、忘れたくないと、言ってくれたのだから。
それを思い出したのなら、また、インデックスは笑いかけてくれる。そうでなくては、あの日々は、嘘になってしまう。
「インデックス」
「――っ!」
アウレオルスが、優しくインデックスの頭を撫でようとした。
記憶に何度も出てくる、それは懐かしい行い。過去の自分はその不器用な手つきが、大好きだった。
少しも忘れることなく、自分の記憶の中にその事実はしまわれている。
だけど。
――インデックスは、半歩、足を後ずさりさせた。
僅かにアウレオルスの手は、インデックスに届かない。
「……何故、拒む」
「私は……」
「やめておくんだね、先々代の管理人」
ステイルが、姫神の傍からアウレオルスに笑いかけた。
シニカルな笑みだった。きっとその笑みは、ステイル自身にも向けられていた。
「その子は全てを思い出したんだ。これまでの全てをね。つまり、君だけじゃないんだよ。彼女と忘れがたい一年を過ごし、そしてその記憶を封じてきたのは」
「――何が言いたい」
「君にとってあの一年が替えの効かない重みを持った一年だって事は、想像は付くさ。だけどこの子にとっては、そんなことはないんだよ。一年に一回繰り返した、恒例行事さ」
インデックスは、そう笑って言うステイルのほうを向くことが出来なかった。
薄々、感づかれていたのだろう。自分が、かつての自分と同じようにステイルに好意を向けていないことに。
「それで良いじゃないかアウレオルス。僕らは、あの子の幸せだけを願って、そのために生きた。願いはちゃんと叶っただろう? あの子は過去を思い出した。もう一年に一度のリセットはしなくて良い。僕らの夢は、既にハッピーエンドに到達しているんだよ」
「それで貴様が、これから先のインデックスの所有者というわけか」
そう確認するアウレオルスに、ステイルは笑いかけた。同病相哀れむ、そういう意味だった。
「違うよ。あの子を助けたのは別人で、だからあの子のパートナーは僕らじゃない。共に酒でも酌み交わそう。彼女にとっての『その他大勢』に成り下がったことを祝おう。あの子がそんな沢山の知り合いを作って忘れないでいられるなんて、なんて幸せなことだろうってさ!」
ステイルは、それを言わずにはいられなかった。
振られた男のみっともない言い分を、笑い飛ばさずにはいられなかった。
インデックスと、そして同じ境遇のアウレオルスの前で言ったのは、ステイルが少しだけこぼした、恨みと妬みと、悔しさだった。
「ステイル……」
「エリスを、救うんだろう。姫神秋沙を連れて逃げるんだ。吸血鬼を狂わせる元凶を遠ざけた後なら、解決の手立てだって見えるかもしれない。アウレオルスと話し合うのは後でも出来るだろう」
「……」
インデックスは、恐る恐る、アウレオルスを見上げた。
恨まれても仕方ないと思う。だけど、恨まれているという事実を確認するのは、怖かった。
「そうか。お前は、お前なりに幸せを見出したのだな」
「先生……」
アウレオルスはインデックスに微笑みかけた。
だけどそれは優しげな、あのときの笑顔ではなくて。
歪な笑いだった。インデックスのために笑い方を忘れた男の、泣き笑いのような、引きつった笑顔。



「は、はは……はははははははははは!」



こんな風に馬鹿笑いをしたのは、一体何年ぶりだろうか。
そんなことも思い出せないくらい、この三年間、インデックスのために生きてきた。
それが可笑しい。笑う以外のどんな方法で、今の気持ちを表せるだろうか。
「先生……!」
「吸血鬼を救うのだろう? 頑張るといい。邪魔などせんよ。私は、お前の敵ではないのだから」
もう、何もしたくない。努力が無為に終わった今この瞬間に、さらに努力なんてしたくない。
「お前は勝手に救われたのだろう、インデックス。ならばその吸血鬼も勝手に助けてやれば良いだろう。私はもう、何も知らん。はは。どうでもいい」
懐にしまっていた鍼をアウレオルスは地面に投げ捨てた。
くつくつと笑いながら、どかりとソファに腰掛ける。
そして一振り、手を振った。
「銀の繭よ、消えろ」
アウレオルスは、もう何もしない。吸血鬼を押し留めたりしない。
吸血鬼を生かしては、ただでさえあちこちの魔術結社に睨まれている自分が、さらに追われる身になる。
死んでくれるならそれが一番いいのだ。ついでに『吸血殺し』も自害する気だろうし、ちょうど良い。
そんな風に心の中で呟きながら、アウレオルスはエリスを眺める。
「――あの野郎、クソッ、エリス!」
「ああ……」
悲しい顔を、エリスがした。
エリスの体と、外から覆う未元物質の間にあった銀糸が掻き消えたことで、束縛が瞬間的に緩んだ。
その隙を、エリスの体は逃さない。
「帝督君、逃げて」
「エリス?!」
「シェリーが、帝督君を傷つけちゃう……」
エリスの指が三沢塾の壁を走る。
それは正規の手続きではなかったが、それをものともせず、魔術が発動する。
魔術師が使う魔力が水道の蛇口を捻るようなものだとするなら、吸血鬼という存在が個として振舞う魔力は、ダムから放水された水のようなものだ。
あらゆる不都合を洗い流して、暴虐的に、それは成立する。


――――メキメキメキメキィィッッ、と。


コンクリートを破壊する音を立て、このフロアを滅茶苦茶に壊しながら、巨大なゴーレムがビルの最上階に現れた。



[19764] ep.3_Deep Blood 09: 死を受け入れる覚悟
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/04/12 00:45

「シェリー……」
目を瞑って、エリスはゴーレムから顔を背けた。
シェリーは、離れ離れになった親友の名を冠した、言わば友達代わりの存在だ。
エリスは時折、小さなシェリーを誰かに見られぬようこっそりと召還し、声をかけて慰みを得ていた。
自らの思考することはないゴーレムは、当然、エリスを裏切ったことなどない。
だけど今は、別だった。召還された目的どおりに、シェリーは動く。
「エリス!」
「帝督君。私から離れて」
「あん?」
直後。シェリーはエリスを潰しかねないような勢いで、自らの拳をエリスを覆う未元物質へと突き立てた。
材質はそこらにあるただのコンクリートで、未元物質よりずっと脆い。だが大質量を充分な高度から落とす威力は、未元物質の強度を上回る。
ガシャァァァァ! と構造物が崩れる音を轟かせながら、瓦礫と土ぼこりがその場にいる人間から視界を奪った。
だが、見えずとも分かる。垣根はエリスの拘束が外れてしまったことを確信していた。
「エリス! 聞こえてるなら返事しろ!」
「……出ちゃった」
「そうか。抱きしめてて欲しいならすぐにやってやる」
「だめだよ」
そんなことをされたら、きっとエリスは垣根を欲してしまう。
単に血を欲するだけじゃすまない。絶対に、垣根を自分の「伴侶」にしてしまう。
生き場のない、吸血鬼に変えて。
「インデックス! 姫神秋沙を連れて逃げろ」
「ステイル?!」
「君の能力が活躍する場はない!」
シェリーというゴーレムは、つくりは馬鹿みたいに単純だ。ただ単に流し込まれた魔力量が莫大で、それが脅威なのだが。
そういうのと戦うのに必要なのは、禁書目録という知識ではない。単に物量だ。
だから姫神秋沙を逃がすのに、ステイルを充てるのはミスマッチと言える。
そうしたことを、ステイルとインデックスは目線を交わすだけで理解しあう。
「分かった。……先生」
成金趣味とは言え、あれほど綺麗に整っていた室内が、今は見る影もない。
土埃が積もり所々が裂けたソファに腰掛け、アウレオルスは穴のあいた天井から星空を見上げていた。
インデックスの呼びかけには答えてくれなかった。もう、説得したり、関わっている暇はない。
振り切るようにインデックスは背を向けて、恐怖のせいか顔を青ざめさせた姫神に駆け寄り、手を引いた。
「……あいさ。逃げよう」
地べたにへたり込んでいた姫神は僅かに頷いて、ふらふらと頼りげなく立ち上がる。
だが問題はここからだ。下へ降りるための階段は、エリスとシェリーの向こう側にある。
「彼女を食い止める。逃げ出す隙は見逃さないのでくれよ。――垣根帝督、だったね。名前は」
「テメェに名前を呼ばれたくはねえな」
「あの吸血鬼を死なせずに止めたい。利害は一致しているだろう?」
「そっちが俺の邪魔をしなければいいだけの話だ」
「君一人で止める気かい」
「誰に聞いてるんだ?」
傍らに立つステイルを一瞥もせず、垣根は手を振るう。エリスじゃなくて土くれの塊のほうなら、容赦する必要はない。
垣根は脳裏で演算を行い、直径一メートル、長さが五メートルに達するような長い錐を作り出す。そして五本、六本とゴーレムの体にぶち込む。
ステイルは魔女狩りの王を召還し、その光景を手を出さずに見守った。
ステイルが後ろに控える意味は二つある。一つは垣根帝督と共にエリスを止めるため。
そしてもう一つは、エリスを助けるために垣根が姫神秋沙を殺そうとしたならば、それを止めるためだった。
「エリス。悪いが、お前じゃ俺を押しのけて先には進めねぇよ」
「……そう、だったらいいな」
瓦礫の向こうには、未元物質で出来た巨大な六角柱。その中にエリスは埋め込まれていた。
ただの人間の女の子なら絶対に脱出なんて出来ない。
だが、ビシリと、その結晶にヒビの入る音が断続的に聞こえていた。
エリスが、人間並みの膂力しか持ち合わせていないというのはあまりに楽観的だった。

――バキィィィィィィィン!!!

未元物質が、音を立てて割れ爆ぜる。
それは今この時点の垣根が作れる、一番硬い物質だった。
「――エリス、ちょっと馬鹿力すぎるぜ」
「……」
「エリス?」
「そう、だね」
軽口を返してくれなかったエリスに、不審なものを感じる。
その表情は、どこか感情に乏しかった。嫌な予感に、垣根は心を締め付けられる。
エリスの心さえもが、壊れていっているのではないかと。
「シェリー」
ゴーレムに呼びかけながら、おっとりとした足取りでエリスはこちらに近づいてくる。
垣根はもう一度、エリスを足止めするために、未元物質を生成する。
だがエリスに狙いをつけようとしたところで、視界が遮られた。
傍らで、白い錐にぶち抜かれていたゴーレムが、瓦礫へと戻っていく。
そしてそれと釣りあうように、新たなゴーレムがエリスとの間に構築されつつあった。
「再召喚か」
「チャンスだ! そこの二人さっさと逃げろ!」
インデックスは垣根の叫びに従い、姫神の手を引く。
崩れたゴーレムがいたその場所から、瓦礫を伝って階下へ向かう気だった。
「降りちゃえば階段もあるから!」
「うん」
二人とも運動をするには不向きな服で、足場の悪い崖を下る。
その後ろでは、再び垣根が出来かけのゴーレムを未元物質で貫く音がした。
「エリス! 悪いがコイツはもう活躍できねーよ。そういう暇はやらない」
「……」
垣根はそう言って、再びエリスを未元物質に閉じ込めようとした。
足元から、白い結晶がエリスを取り込みながら成長していく。
だが二度目は、大人しくそれを待つことはしなかった。
「アアアァァァァ!」
自分の靴すら引き千切りながら、エリスは足を振るって未元物質を破壊する。
そして周囲の瓦礫に向かって、腕を振るう。どれもこれもが原始的な行いだった。
「――! くそっ!」
「チッ!」
瓦礫が、そして崩壊した未元物質の破片が、垣根とステイルに襲い掛かった。
垣根は未元物質で、ステイルは魔女狩りの王を盾にしてそれぞれ防ぐ。
「こちらを先に潰す気になったみたいだね」
「テメェも働けよ」
「そのつもりさ。だが、分かっているだろうね?」
「あ?」
「吸血鬼は手足を焼かれたくらいじゃビクともしない。だから僕は、それくらいは平気でやる」
「……テメェ」
「激昂する前に君こそ覚悟を決めるんだね。説得が無理で、単なる拘束も無理なんだろう? 殺さない程度に自由を奪う以外に、いい選択肢があるなら提示することだ」
「……」
苦々しい顔で、垣根はステイルを睨みつける。
代案はない。でも、だからといって恋人の体に、怪我をさせるなんて。
――その逡巡が、余計だった。
「っ! 来ているぞ!」
「何?」
バキバキと、エリスが垣根の作った盾を引き裂いて、すぐ目の前に現れた。
「魔女狩りの王<イノケンティウス!>」
「シェリー!」
そのエリスを止めようと、炎の塊が襲い掛かる。
だがその動きは、地面から突如生えた泥の腕につかまれ、目的を果たせない。
「帝督君、逃げて――」
言葉と裏腹に、エリスの拳が垣根に迫る。
「エリ、ス」
垣根は、先手なら取れた。未元物質でエリスの体を貫けばよかった。
だけどそんな凶刃を振るう手を、垣根は持ち合わせていない。
一番大好きで、一番守りたい人に、垣根はそんなことをできなかった。


ざくんと、エリスの爪が垣根の肩口から腹の方へと走った。


「つ、ああぁぁっ!」
「帝督君……ごめんなさい、ああ……」
強引に引き裂いた傷口から、鮮血が溢れる。
傷は深刻なほどには深くない。だが立ち上る血の香りは、エリスの体をさらに高揚させる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝りながら、エリスが真横に手を振るう。
ガチィィィン、と金属質な音を立てて、垣根のこめかみを掌打が打ち抜いた。
くるりと90度傾く世界を、垣根はただ見つめるしかなかった。
「あ、が……」
腕だけ召還されたシェリーから魔女狩りの王を奪還し、ステイルはエリスに襲い掛かる。
「くっ!」
ステイルは手に炎の剣を携え、エリスに襲い掛かった。
エリスの背後から、魔女狩りの王にも狙わせている。
振り下ろされる炎剣を、エリスは何も対策を講じずただ手のひらで受け止めた。
ジィィィィッ、と肉の焼ける音と、そして匂いがする。
ステイルにとっては、慣れた音と匂いだった。それは人を焼き殺した時と同じ、酷く不快な匂い。
「やめ、ろ――!」
地べたに這いつくばった垣根が、誰にも届かないかすれた声で叫ぶ。
四肢の自由を奪うために、魔女狩りの王がエリスの両足を鷲づかみにした。
垣根はそれを見つめることしか出来なかった。
「ギィアァァァァァァァ!!」
「エリス!」
エリスが、人ならざる声を上げる。同時に、ステイルは炎剣を振りぬいた。
「エリス、エリス……!」
「こんな程度で吸血鬼はどうにかならないさ。これで大丈夫だから困るんだけどね。おい、能力は使えるのか? ならこのままこの子を拘束するんだ!」
「何を……!?」
「ゴーレムを呼ぶための指先と自分で動くための足を壊した状態で動きを封じれば、逃げ出せないはずだ!」
そう言って、ステイルは倒れこんだエリスの左手を踏み潰す。炭化した右手のほうは大丈夫だろう。
「早く! 僕の魔術じゃ吸血鬼を押さえ込めるものは作れない! それともジリ貧覚悟で延々とこの子を焼かせたいのか?!」
垣根はその言葉に答えて、未元物質を作り出す。再びエリスをその結晶の中に閉じ込めるために。
そして、もう一条。
「クッ! おい――」
「当ててねぇだろ」
ステイルはすんでのところで垣根の錐を避けた。
それが必要なことだからと言われたって、垣根は、エリスを傷つける男を許す気にはなれない。
「僕に当たる暇があるならさっさとこの子を封じるんだ」
「やってるだろ」
にらみ合う二人の足元で、エリスがその手を這わせる。
ステイルはその手の動きの意味を、すぐに理解した。
「ァ、ァ――――」
「早く封印しろ! チッ!」
「やめろ!!」
ステイルが、ゴーレムを召還しようとするエリスの腕を踏み砕こうと、足を上げる。
それを垣根は錐で制した。見ているだけなんて、出来なかった。
「馬鹿か君は!」
「テメェこそエリスに恨みでも――」
それ以上を垣根は言えなかった。エリスがシェリーを呼び出したからだった。
そしてシェリーは、体を形作るのもそこそこに、その巨大な拳を真下に振り下ろした。
「何を……おい! やめろォォォォォ!」
ゴーレムは、未元物質に包まれきっていないエリスに、直接その拳を突きたてた。


――――グシャアァァァァッッ


瞬間。いい加減に限界を迎えてたフロアの床全てが、崩落した。
「エリス! ……エリス!」
崩れ落ちる瓦礫の中、垣根は視線を散らしてエリスを探す。
だが負った傷のせいで、肝心の体に力が入らない。
未元物質の行使も、自分自身を落下から守るので精一杯だった。
「――いた。さすが化け物、と言っておこうか」
「何ッ?」
「もう五体満足らしい。これじゃすぐに……まずい!」
焼け焦げて短くなったスカートを履き、瓦礫の中を裸足で歩く少女。
体中がすすけているけれど、足取りに不安定なところはない。
向かう先には、足に怪我を負ったらしい姫神と、賢明にそれを支えようとするインデックスがいた。
この崩壊に巻き込まれたのだろう。女二人の足取りだからか、思ったほどは逃げてくれていなかった。
「クソッ!!」
ステイルは魔女狩りの王を再び顕現させる。
だが構築した結界の中に生み出す魔術である魔女狩りの王は、この崩壊する建物の中ではそろそろ出現させるのも難しくなっていた。
「おい……止めてくれ!」
「それは見送って彼女の死を見届けろということかい?」
垣根の言葉に取り合わず、ステイルは次善の策を目指す。
「魔女狩りの王! その子に取り付くんだ!」
間に合ってくれ、とステイルは瓦礫を走り降りる。自分とて、魔女狩りの王には劣っても戦力にはなる。
だが。
フロアをぶち抜き姿勢を崩していたゴーレムが立ち上がる。そして、ステイルに向けて容赦なく、腕を振り払った。
「しまっ――――」
魔女狩りの王で時間を稼ぎ、回避することは出来たかもしれない。だけどそれではエリスを逃がしてしまう。
だからステイルは呼び戻さなかった。そしてスイングの射程外に逃げ込むため、一人身を投げ出した。
「ゴハァッッッ!」
ゴーレムの人間よりも太い手が、ステイルの背中を掠めた。
バットで殴られたように、重たい衝撃が体を走り抜ける。肺からは息が搾り出され、ステイルは一瞬気が遠くなった。
「だ、め……だ」
意識だけは、必死に繋ぎとめようとする。それを失っては魔女狩りの王が消えてしまうからだ。
だがその努力も、むなしく終わる。
ゴーレム・シェリーが、ステイルと傍らにいた垣根を弾き飛ばすように、もう一度腕を振るった。




熱を帯びて体重を支えられなくなった片足を引きずりながら、姫神は階下を目指して少しずつ、進んでいた。
後ろで、何かが壊れること、誰かが傷つく音が何度も聞こえた。それを振り返らず、一歩でも、せめて遠ざかろうと進んだ。
「あ――」
支えてくれていたインデックスが、息を呑む音がした。
ついでに後ろで響いていた争う音が、しなくなった。
「急ごう。あの子が。追いかけて来る前に」
「……」
それがある種の現実逃避であると、インデックスは分かっていた。
きっと姫神も気付いてはいるのだろう。
だけど、認められなかったのだ。
「――追いついちゃった、ね」
もう、エリスという名の吸血鬼が、すぐ傍にまでやってきてしまっていることを。
「エリス……」
「ごめんね」
「謝らないでよ」
「うん。謝らないで済ませたかった」
そう言いながら、エリスは後ろに目線をやった。
その向こうでは、不自然な姿勢で崩れ落ちた垣根とステイルと、静かに仁王立ちするゴーレムの姿があった。
血でどす黒く赤汚れた垣根の服が、痛ましい。
「ステイル!」
「うん……おねがい、助けてあげて。私が壊しちゃった、あの人と帝督君を」
エリスが瞳から、一粒涙をこぼした。
だけどその体は姫神を庇うインデックスの前に立ち、威圧するように迫っていた。
「そこを退いて、インデックス」
「出来ないよ。そんなことをしたら、エリスが」
「……うん。きっと、死ぬんだね?」
「分かってるなら」
「分かってても止められないの」
それが、『吸血殺し』の毒の、最もおぞましいところだった。
インデックスを退けるためだろうか。エリスが腕を、振り上げた。
その瞬間、後ろから声をかけられた。
「ありがとう。守ろうとしてくれて」
「あいさ?」
「その子を殺すくらいなら。私は自分を殺す」
「えっ……?」
姫神が、ずっと手にしていた短刀を、逆手に持っていた。
右手でぎゅっと柄を握り締め、左手を添え、切っ先は左胸、つまり心臓に向けられていた。
「あいさ――? 駄目!」
咄嗟に、インデックスは姫神を止めようと体を捻った。
だがエリスに向けた背に、容赦のない手での打ち払いが襲った。
「あっ! ……ぐ、ぅ」
がつんと鈍い音を立てて、インデックスは成すすべなく弾き飛ばされる。
エリスの膂力は、女らしいレベルをはるかに超えて、インデックスを1メートル以上は跳ね飛ばしていた。
そしてそのまま姫神に手を掛け、顔を肉薄させた。
「――ごめんなさい」
「っ! やめて。その言葉は。聞きたくないよ」
「貴女を傷つけて、ごめんなさい」
「傷つけてるのは。いつも私のほう」
だから、死のうと思ったのだ。
吸血鬼よりもずっと化け物みたいな、おぞましい自分が死ぬべきだと思ったのだ。
「あなたこそ。謝らなくていい」
姫神は巫女服の胸元に切っ先をねじ込む。後は一呼吸、突き入れるだけだった。
エリスは、濃密過ぎてクラクラするほどの椿の香りがする姫神の胸元に、唇を触れさせた。
「やめろエリス……!」
「クッ、間に合え。――顕現しろ、魔女狩りの王<イノケンティウス>!」
ほんの数秒、気を失っている間に消えたそれをステイルは再び呼び出す。
垣根はもう、止める手段を持っていなかった。
「お願い止めてエリス! あいさも、死なないで! 駄目!!!!」
そう叫んで、傍で見つめていたインデックスはぎゅっと目を瞑り、顔を背けた。





救いの手はなかったんだなと、エリスはむしろ穏やかな気持ちでそう思った。
ただひたすら、この目の前の女性に申し訳ない。こんな化け物のおかしな衝動につき合わされて。
そして垣根には、もう謝ろうとは思わなかった。
感じるのは優越感。きっと、この先垣根を愛するほかのどんな女性よりも、自分は垣根帝督という人の心に自分を刻めたと思う。
大好きな人を、自分みたいな不自然な生き物につき合わせるのは、引け目を感じていた。
だけどもうそんなことはないのだ。死んだら、死んだ者勝ちだ。
あ、の形にエリスは口を開く。そっと頚動脈の位置に鋭い犬歯をあてがう。後は、押し込むだけだった。




ナイフの切っ先のちくりとした痛みを正しい部分に感じて、姫神は薄く笑った。
吸血鬼の少女が肉薄している。薄い笑みの中に、隠しきれない悦びが混ざるのを、おぞましい思いをして見つめる。
姫神に噛み付く前に、誰もが謝罪を口にする。それでいて、最後の最後には、この、本能のままの笑みを見せるのだ。
これまではそれを、見つめることしか出来なかった。灰になって、姫神の前に積もっていくさまを見つめることしか出来なかった。
だけど今は違う。自殺マニュアル、他殺マニュアル、そんなものを見開き、勉強して、たった一突きで自分の心臓を止められるようになったのだ。
それは、姫神の復讐だった。こんな能力、いや呪いが自分の体に宿ったのは一体誰が願ったからか。
それが誰かは知らないけれど、今ここで自分が死ぬことで、この理不尽な運命に、抗える。

遠くでアウレオルスが無表情に見つめていた。
赤髪の神父が、悔恨に表情を歪ませた。
傷つけられた垣根帝督が、声にならない声で精一杯、吸血鬼の女の子を呼んでいる。
そして、ほんの少しの間だけ友達だったインデックスが、傍らでこちらを見つめている。
短い時間の中でそれらに微笑みを返し、姫神は、グッと、渾身の力を腕に込めた。


「――――駄目えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!!!!!!」


インデックスは、叫ばずにはいられなかった。
届かない。自分のありとあらゆる知識と能力が、ほんの一メートル先の二人に、届かない。
間際の一瞬に、ぴくりと姫神の体がこわばった。沈み込む切っ先が、ほんの僅かだけためらいを見せた。
ただ、止まることはない。ざくりと、二つの傷が、姫神の体についた。


頚動脈まで突きたてられた、牙の跡と。
心臓にまで突きたてられた、ナイフの痕が。













「あ――」
軽い声を姫神が上げた。死へと向かい速やかに機能停止を始めた体が、精一杯に発した驚きの声だった。
ごくりと、エリスの喉元が鳴ったのを、姫神は聞き逃さなかった。
だってそれは、とても深刻な意味を持っているから。
「う、そ」
姫神は一瞬、自分が躊躇したことに気がついた。
そんなはずはなかった。一体何度、死ぬことの意味を考えてきた?
それが怖い事だなんて疾うに分かっていて、だけど躊躇を死ないようにと、何度も何度も、死の間際の心のありようを考えてきた。
死ぬ覚悟なんて、出来ているはずだった。少なくとも直前まで、それは完璧だったはずだ。
なのに。
「ア、ァ、ァ」
薄れ逝く意識の中で、姫神はエリスの声を聞いた。
吸血鬼という生き物が、吸血殺しで滅びていくときの、断末魔。
それがどんな理由で発せられるのかは分からない。自分の血の味は、果たして美味いのか、不味いのか。
だけどこの声をエリスが発しているということは、つまり。

――ほんの一瞬、躊躇したその隙に、自分はまた、吸血鬼を殺してしまったということだ。

「あぁ……」
どうしようもなく、愚か者だ。
これ以上誰も死なせたくないなんて思うのなら、どうしてもっと前に死んでおかなかった?
こんなにも周囲の人を巻き込んで、傷つけさせて、挙句の果てには公言どおりに死ぬことすら出来ないなんて。
結局自分は、死ぬのが怖いから、ここまで死を先延ばしにしてきたのだ。
そんな自分が、死にたいと思った瞬間に、思い通りに死ねるわけなんてない。
それだけのことだった。
「ご――め、……」
最後まで、謝罪の言葉は口に出来なかった。
急激にブラックアウトしていく視界の中、姫神秋沙は、駆け寄るインデックスの姿を見ながら意識を亡くした。






「エリィィィィィス!!!!」
そんな叫び声をエリスが聞き届けたのは、姫神の体から、自分の体を引き離した瞬間だった。
ごくんと、自分の喉が姫神の血を嚥下したその瞬間、欲求を満たしたエリスの本能は体の自由をエリスに返していた。
「ていとく、く――」
「?! エリス!」
だが、自由になったはずの体が、またすぐに言うことを聞かなくなる。
理由はさっきより分かりやすかった。だって手足がしびれてきて、冷たくなる感じがするのだから。
幸い、目はすぐにやられたりはしないみたいだった。
視界の遠くで、自由にならない体を引きずって、垣根が近づいてきているのが見えた。
こふ、こふとエリスは咳き込む。その口元から、どろりと血が吐き出た。胃から食道にかけてがあまりに熱くて涙が出た。
それでようやく、エリスは悟った。
自分が、もうすぐ死ぬのだと。
「……や、だ。嫌」
一瞬、自分の口から出た言葉を、エリスは自分で信じられなかった。
だけど呟いてはじめて、実感が湧いて出てきたらしい。
これで、自分の人生が終わりなんて。
もうどこかで遊ぶことも、誰かとおしゃべりすることもないなんて。
そして、垣根と一緒に過ごす未来がないなんて。
手足の冷たさが、その未来のなさに、オーバーラップしていく。
周りを傷つけてごめんなさいと、謝ったはずの自分の気持ちがあっという間に嘘に変わっていく。
生きたい。死にたくない。助かりたい。
その利己的な思いに、エリスは囚われていく。
自分は化け物だから、死んでも仕方ないだなんて、嘘っぱちだ。
心の奥底ではそんなことを微塵にも思っていやしない。
自分は、化け物になったって、人並みの幸せがほしいのだ。
垣根に愛されたいのだ。尽くして欲しいのだ。
そう理解して、あまりに自分が醜いことに気付いて、それでも尚、エリスは自分が死ぬことだけが怖かった。
「エリス……エリス!」
垣根が、あと少しというところまでエリスに詰め寄った。
そこにむけて、精一杯にエリスも手を伸ばした。
いずれ手は届くだろう。だけど、エリスの意識は、それに間に合わなかった。
「エリス! しっかりしろ!」
垣根の目の前で、エリスは体を弛緩させ、だらりと床に崩れ落ちた。
もう、垣根の声も、姿も、エリスの心には届かなかった。



[19764] ep.3_Deep Blood 10: 天使 - 翼を持ち奇跡をもたらす者
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/04/15 23:58

友達二人が、瀕死で崩れ落ちている。
それをインデックスはただ見つめていた。思考を回転させるという思考が、インデックスから消えていた。
「嘘、だよね……」
「全くだね。死んでもいいなんて覚悟は、いつだって嘘っぱちさ」
「――っ!」
傍らに、ステイルが立っていた。瓦礫の中から拾ったらしい廃材を杖代わりにして。
その表情は全くいつもどおりの、誰かの死に対してさえ無感動な、そんな顔だった。
「ステイル……」
「僕らは、誰だい?」
すがるようにかけたインデックスの言葉に被せる様に、ステイルは問いかけた。
淡々としたステイルの目線に、インデックスの揺らぐ視線が交差する。
その目の、そして投げかけられた言葉の意味するところを、インデックスは悟った。
数瞬を置いて、瞳から揺らぎを消し、震える感情の色を消していく。
「私たちは魔術師」
「そう」
「この場に奇跡を呼ぶために、私たちはそれを手にした」
「そういうことさ。インデックス。振るおう。君は知識を。僕は力を」
インデックスを、そんな風に立ち直らせることは、きっと上条当麻と婚后光子には出来なかっただろう。
死に日常的に触れているステイルだから、それは出来たのだ。
パートナーではなくとも、きっと居場所はある。
ステイルはそう信じ、インデックスの力になるために、隣に立つ。
「ステイル! エリスの喉を焼いて」
「……分かった」
「お、おい――!」
「黙って! 吸血鬼はそんなくらいでは死なない! それよりも毒を絶つほうが先!」
「止めろ――」
「私を信じて!!!」
混乱する垣根を、インデックスは叱り飛ばす。
そして魔女狩りの王がエリスの喉に手を添えるその間に、姫神に手を添える。
「あいさ! 私がわかる?!」
応えはない。無理もないだろう。血流が止まれば、人間は速やかに意識を消失させる。
インデックスは崩れた姿勢で転がる姫神を、そっと仰向けにする。
ナイフを引き抜いてしまわないように気をつけながら、握る手を、丁寧に引き剥がした。
「……あいさは、ステイルなら助けられるよね」
「君の助力があればね。まあ、魔力が尽きかけてて危ないけれど」
「ナイフで傷ついた心臓さえ復元できれば、あとはきっと」
この町の病院なら何とかしてくれるだろう。姫神については、それでいい。
だけど、エリスは。
「エリスは?!」
「……さっきみたいに復元はしないよ」
「っ!」
見るも無残な、有様だった。
あちこち服は焼け焦げ、手足にも酷い黒ずみが目立つ。
それでも五体満足なエリスだったが、今、最後につけられた喉元は、元の肌色に戻らなかった。
顎から鎖骨にかけてが無残に黒こげている。周囲の皮膚も赤く爛れ、引き攣れていた。
だけど、それでもまだマシだ。伝承通りなら、もう灰に還ってしまってもおかしくないのだから。
「体の崩壊は?」
「ないね。今のところ」
インデックスはエリスの手を取り、指先から丁寧に触れていく。
まるで死んだみたいに冷たくて、それが怖かった。
『吸血殺し』は即効性だ。飲んだらすぐ死ぬはずなのだから、少なくともその最悪の段階よりは手前にいるのだろう。
とはいえ、エリスに意識を取り戻す兆候はない。
インデックスは、破れかけの服を裂いて、エリスの胸に耳を当てる。
どんなに耳を済ませても、そこに心臓の音はなかった。
「インデックス?」
「心臓が止まってる」
「――おい」
垣根が顔をこわばらせた。だってそれは、誰が聞いても最悪の言葉にしか聞こえない。
だがインデックスはむしろそれに意味を見出していた。
「吸血鬼を吸血鬼たらしめるのは、心臓なんだよ。それが止まってる」
「何が言いたいんだ」
「私たちがするべきなのは、心臓の復元。本来不死身の吸血鬼は、心臓さえ健在ならあとは四肢が千切れたって治るんだよ」
「インデックス。次はどう動く」
「ステイルはあいさを助けて」
「いいのかい?」
その確認には、特別な意味が込められていた。
インデックスの指示の通りに動く魔術師は、ステイルしかいない。
それを姫神秋沙に割り振るということは、エリスを助けるための力は別に用意しなければならないということだ。
つまり、インデックスのその指示は、姫神をエリスより優先するような、そんな言葉に近い。
「……何かを創る魔術師じゃないステイルには、吸血鬼は手に負えないんだよ」
「フン。ルーン使いは万能であるべきなんだけどね」
誰かを殺したり、何かを壊したりするために、ステイルは魔術を磨いてきた。
だからステイルにとっては、普通の人間が負った致命傷を治癒するのだって充分に大変なことだ。
ステイルは魔女狩りの王をかき消した。もう、今日は再び召還することは出来ないだろう。
そのリスクを頭の片隅に追いやりながら、ステイルは倒れた姫神の傍に、膝を付いた。
「ねえ」
「……なんだ」
「エリスの体のこと、どれくらい聞いたことがある?」
インデックスはボロボロだったエリスの下着を毟り取るように取り去って、その胸元をはだけさせる。
そして何かを探るように指を左胸あたりに滑らせた。
ほとんど鳩尾に近いその辺りで、手を止める。
「エリスの心臓は、普通じゃない物質で出来てる」
「――! 詳しく話して!」
「何とかなるのか?!」
「何とかするために知りたいの!」
垣根は、その少女を信用していいか分からなかった。
だって当然だ。たかが中学生か小学生にしか見えない少女の、何を信じろというのだ。
だが、その真摯な瞳に睨まれて、垣根は喋るほかの選択肢を失った。
だって、すがれるものはもう目の前の、インデックスなんて変な名前をつけられた少女しかいないのだから。
「第五架空元素」
「えっ?」
「エーテル、宇宙の構成物質、アリストレテスが見出した」
いつだったか、エリスが明かしてくれた話。
荒唐無稽で、とてもじゃないけれど、全て記憶なんて出来なかった。
だけど断片的な言葉なら思い出せる。
「それで分かるか?」
「……」
「なあ」
「分かるよ。そっか。そういうものを体に備えた人を、吸血鬼って言うんだね」
禁書目録、と名づけられた彼女をして、それははじめて手に入れた知識だった。
感心するようなその響きに、垣根は苛立ちを募らせる。
「どうやればエリスは助かる?」
「……第五架空元素って呼ばれてる『それ』を作れれば、エリスの心臓の修復は出来ると思う」
「じゃあ」
「でも」
絶望に、打ちひしがれてしまいそうになるのを必死に押さえて、インデックスは考える。
「その完全な作り方は、分からない」
「……」
魔道図書館と呼ばれたインデックスにとっても、それは不可能なことだった。
過去の叡智を、インデックスは蓄えている。だが、誰一人としてそれを作り上げた人間がいないのであれば。
新しいものを創造するための特別な力や才能は、インデックスには備わっていなかった。
「練成する方法なら、文献があるの。だけど、必要な材料が手に入らない。純粋な『世界の力』の塊を、誰も作れないの」
「世界の力?」
「魔力だとか、地脈に流れるものだとか、そんなのだよ。だけど世界にあるものは全て色付けされちゃってる。どれだけ精製しても、今まで純粋な『世界の力』を手にした人はいないの!」
魔力だとか、天使力<テレズマ>だとか、そんな名前が付いているものはもう色づいた後の力だ。
インデックスはエリスの手を再び取り、自分の手で包んだ。
それは全く無駄な行為だった。その手の冷たさで、更なる絶望感を覚えただけ。
「……きっと、完全なものは得られないけど。それでも時間を稼ぐことは出来るかも」
ほんの少し、ステイルに手伝ってもらって魔力を練り上げられれば、後のことはインデックスにも出来る。
だがそれはあまりに拙い策だった。無色の魔力の精製は、これまで高名な錬金術師達が生涯をかけて練り上げ、失敗してきたものだ。
それを急場でこしらえたって、きっと満足いくものは得られるはずがない。
そうしたインデックスの心を見透かしたのだろう。垣根が苛立ちを見せた。
「友達が死ぬかもってときにお前は実験でもする気かよ!」
「私だってしたくない! だけど、他に手立てなんてない。吸血鬼なんて特別な生き物を助けることは、そんなに簡単な訳がないんだよ」
下唇を、血の味がするくらい噛み締める。
惨めだ。こんな時に、誰かを救える知の宝庫であるために、インデックスは禁書目録<インデックス>であるはずなのに。
焦りで空回りを繰り返しながら、救いの手を必死に捜す。
助けたい。こんなにも無残な姿で床に転がる友人を、もう一度、笑って太陽の下に立てるように戻してやりたい。
こんなにも愛してくれる恋人がいて、きっと、幸せな毎日をエリスは送っていたはずなのだ。
それを取り戻したい。また、一緒に、なんてことはない日常を過ごしたかった。
「お前の力じゃ助けられないのか?!」
「助けたいよ! だけど!」
「俺は!? 俺じゃ力になれないのか?」
「無理に決まってる! 魔術と超能力は相容れない! あなたの学んだ知識はアリストテレスの理論<テオリア>も実践<プラクシス>とも関係ない。そこから発展した錬金の体系とも関係ない! ヘルメスもパラケルススもあなたの知識には出てこないでしょ?!」
「だったら教えろ!」
「教えたって、どうしようもないんだよ!」
焦りをインデックスにぶつけてくる垣根が煩わしかった。
だって、どんな優れた超能力者か知らないが、魔術を使えない人間に魔術の講釈をして何になると言うのだ。
後ろでは、ステイルがインデックスの指示に応えるための準備をほとんど終えている。
姫神にだって時間を割かないと、助からないのだ。どうしていいか分からないまま、エリスにすがっているわけにはいかない。
「なん、で。エリスがこんな目に逢うんだ! コイツは平穏しか望んでない、普通の女なのに」
その、切実な垣根の目が苦しい。滅び行くエリスを見つめるのが苦しい。
そしてその二人を放り出して姫神を助けるほうに意識を割かないといけないと、冷静に頭の片隅で考えている自分が憎らしい。
こんな、救われない状況にでも答えを見出すために、自分という人間は、『禁書目録<インデックス>』を背負ったのに。


「わたし、は――」
「窮まっているようだな」


冷淡な命の取捨選択を、垣根に告げようとしたその時だった。
魔術の準備に追われるステイルと、打ちひしがれたインデックスと垣根の傍らで、アウレオルス・イザードが皆を見下ろしていた。
「先生……」
「何をしに来た」
さあっと、垣根の目に殺意が立ち上る。
エリスにとっては、こんな状況を作り出した全ての現況。悪魔そのものだ。
ステイルは、アウレオルスの心境を判っているような顔をして、すぐに自分の仕事に戻った。
インデックスだけは、どうしていいか分からず、ただ見上げるしかなかった。
恨みを言い募りに来たのか、この状況を笑いに来たのか。
あるいは、ただの希望的観測かもしれないが、自分達を助けに来てくれたのか。
「何をしに来たというほどの事も無い。ここは私の城だ」
「なら消えろ」
舌打ちをして、垣根が視線を外した。
つまらない問答をする時間が惜しい。係わり合いになどなりたくもない。
だが、インデックスは、そのアウレオルスの目に先ほどのような濁りが見えないような気がしていた。
「助けて、くれるの?」
「それはできんよ。……こんなものを練成できるなら、私は吸血鬼などそもそも必要なかった」
それは真実だった。魔術師の未だ届かぬ高み、第五架空元素。
こんな物質が手に入れられるならアウレオルスはこれを使った神秘でも探したことだろう。
『黄金練成』と『吸血殺し』で吸血鬼を誘い込むなんて方法より、よっぽど確実だ。
「じゃあ、どうして」
先生は、ここに来たのだろう。本当にただの冷やかしだと言うのだろうか。
インデックスの目をじっと見つめ返してから、アウレオルスは目を閉じた。
三年前を思い出す。あの日、インデックスに必ず救ってやると誓ったその日のことを。
なぜ、こんなにも茨で覆われた道をアウレオルスは歩んだのか。


「その少女を、救いたいのか」


既にインデックスに尋ねたことのある質問を、アウレオルスは繰り返した。
「――うん」
「なぜだ」
「友達だから」
答えはいたってシンプルだった。そして、そう真っ直ぐに答えるインデックスの声は、あの日の呟きと、同じ響きだった。
「忘れたくないよ」と、インデックスは言った。アウレオルスという人を想った言葉だった。
いつだって、このインデックスという少女は、誰かのために真剣に生きている。
その心があまりに尊くて、自分は、インデックスを救うと誓ったのではなかったか。
アウレオルスは、傍らでこちらを睨み、いつでも殺せる準備をした垣根を見つめた。
「学園都市の能力者よ」
「――――あ?」
「例えば、だ。能力者であるお前が、その吸血鬼を助けるために魔術などというものを使えば、最悪死ぬ」
「だから? 諦めろとでも言うのか」
その目には、アウレオルスへの紛れもない憎しみがある。
だけど、その奥には想い人である吸血鬼の少女を助けたいという、強い意志がある。
その目は、きっとあの日自分がインデックスに向けたものと、同じであるはずだ。
「アウレオルス・イザード」
顔だけをアウレオルスに向けて、ステイルが短く呟いた。
ステイルには全て分かっていた。彼もまた同じ立場だったのだ。
――――救いを求める人に、手を差し伸べる人でありたい。
そうあろうとするインデックスに寄り添う自分達もまた、そう願わずにはいられなくなるのだ。
「突っ立っていないで、さっさと救いの手を差し伸べろ」
ステイルはそれだけ言って、インデックスを呼んだ。
「さあ、姫神秋沙の心臓の構築、手伝ってもらうよ」
ステイルの声にインデックスはすぐには応えず、アウレオルスを一瞥した。
「先生」
「――君の力はそちらに貸すといい。私の作り上げた結末だ。せめて失敗したら、そこの男に命くらいはくれてやる」
「……ありがとう」
その礼を、アウレオルスはほんの少しだけの淡い笑みで受け取った。
そして、もう余命いくばくもない吸血鬼の少女と、傍らの能力者に目を向ける。
「この世にない物質を創生する能力、それが貴様の能力だろう」
「ああ」
「喜べ。この少女を救えるのは、貴様くらいだ」
「……」
「当然、分の悪い賭けに勝った上での話だがな」
「賭け? 自分の意志でどうにかできるものを賭けとは呼ばねぇよ」
垣根はエリスの手に触れる。指先からもう肘を越えた先まで血の気を失い、真っ白だった。
崩れ落ちてしまうのではないかと思わせる危うさ、つまり死がエリスに目に見えて迫っていた。
「今から、無色の『世界の力』に最も近いものを作ってやる」
それは、恐らく世界で最も純粋なものだろう。アウレオルスには、その自信がある。
その自信を持っても尚、吸血鬼を救うには届かない自覚もまた、持ち合わせているのだが。
「……で?」
「出来上がったものは純度の足りない、使い物にならないものだ。貴様はそれと同じものを、自身の能力で作れ」
「模倣か。……どう、コピーをしろってんだ。見た目、質感でいいのか」
「逆だ。本質さえ真似てあれば、形質なぞ瑣末に過ぎん」
アウレオルスの指示には矛盾があった。本質的に同じ物を作ることを、模倣するとは言わない。
そしてその言葉にはひどく深遠な問いかけが含まれていたことに、二人は気付かなかった。
超能力が生み出す『未元物質<ダークマター>』と、魔術の極みにある『第五架空元素<エーテル>』は、一体何が違うのか、ということに。
「……その『世界の力』ってのは何で出来てるんだよ」
「科学を基盤に据えた貴様には絶対に理解できまい。大地を流れる竜脈、人体を流れる生命力、そう呼ばれるようなものだ」
「俺には作れないと、そう言いたいのか?」
「この学園都市の、能力者の常識では作れないだけだ」
「謎かけやってる時間はねぇよ!」
苛立ちを垣根はぶつける。だが、錬金における教えとは基本的には回りくどく、暗喩に富んでいる。
それは本質的な理解を促すために、そして初学者に安易な実践と失敗を起こさせないために必要なものだ。
垣根の言葉を受けて、アウレオルスはそうした気遣いを取り払う。今教えている相手は弟子ではない。
この場、この瞬間に奇跡を求める人間だ。たとえ大きな代償があるとしても。
「……物を創るという行いは、錬金に通じる。お前も複雑な物の創造を行うときには、ある種の『式』を用いるのだろう。錬金から化学が派生してからも、その根にある基本思想は引き継がれているのだからな」
「……ああ」
「ではその大元に、お前が入れたことのない物質を代入しろ。――所定の手続きに従い竜脈を濾過。ここに魔力を顕現せよ」
アウレオルスはそれだけ告げて、虚空に手をかざした。
そして一瞬後。フゥゥン、という静かな音と共に、ぼんやりと光る毬のようなものが浮かび上がった。
「これが私に創れる最も純度の高い魔力だ。とはいえ、私が私から創った以上、私の色が付いている」
「――――なん、だよ。これ」
分からない。今までもどうやって為したのか、さっぱり説明の付かない「現象」ならば見てきた。
あらゆる他人の超能力はそういうものだし、能力でなくとも、崩壊するビルがムービーの巻き戻しのように復元する様を、今日この目に見てきた。
だが、何から出来ているのかが全くわからない「物質」を見たのは、初めてだった。
「これを、練成式の反応物として代入しろ」
「――っ!」
「やらなければその少女が死ぬ」
そんな無茶は、低レベルな能力者のする行為だ。
自分の能力を理解せず、振り回す数式を把握せず、ただ、値の入る函(はこ)に値を放り込むだけ。
レベルが上がるほどに、その行為は恐ろしくなる。どれほど危険か分かるが故に。
だが、垣根はその愚行を躊躇いはしなかった。アウレオルスの挑発を糧に、ためらいを見せる理性を吹っ切った。
「……時間は有限なのだろう。急げ」
「黙れ」
感じていたはずの焦りから、瞬間的に垣根は解放された。ただ目の前の、その不思議な白色の光に吸い込まれる。
触れずとも静かな温かみを感じる。生命の躍動感とでも言うべき、力強さの塊。
それを、垣根は何かの言葉で表現することが出来なかった。垣根の学んだ科学にそれを指す言葉はなかった。
だというのに、何故だろう。こんなにもこの光の存在感には『説得力』がありすぎる。
科学が認めないものだというのに、何故に、こうもリアリティがあるのか。
「――練成式とやらを、説明しろ」
「いいだろう」
垣根は続きを促す。練成式なんて名前は垣根は使ったこともないが、きっとそれは化学反応式の前身となった何かだろう。
アウレオルスが、手元の羊皮紙に恐ろしいスピードで書き連ねていく。絵のような、文字のような、時に数式のような何かを。
それが魔術書と呼ばれるものの断片だとは、垣根は気付かない。
「基本的な概念はこうだ。地、水、火、風。四大元素よりなるこの大地から、純粋な風を用いてこの魔力塊を高みへと昇華させる。そして純粋な炎を用いて、結晶へと転華させる。第五架空元素は天体を成す物質だ。故にこの星に囚われた地と水の属性からは分離されなければならない」
そして続けて、アウレオルスがその魔術式の意味を説明していく。
文字ではなく絵で描かれた式の意味や、見慣れない文字の読み方、定義を錬金の言葉で説明する。
それはアウレオルスにだからこそ、垣根に伝えることが出来る。
古代、アリストテレスの知恵を中世に再結実させ、近代、そして現代の化学の礎を築いた希代の錬金術師、パラケルスス。
その末裔であるアウレオルス・イザードだからこそ、『科学と地続きの魔術知識』を伝えられるのだ。
垣根は、その荒唐無稽な魔術式を全て呑み込んで、脳裏に化学式をでっち上げる。そして初めての函に、強引に数値を叩き込んだ。
その、瞬間。




――――ブシュッ、という音と共に垣根の眉間から血が噴き出した。




「が、ぁっ?!」
ハンマーで殴られたような痛みと共に、混乱が垣根の意識を襲う。
――何が起こった? 誰かに攻撃を喰らったのか?!
だが、最も信用のならないアウレオルスでさえ、ただ静かにこちらを見ているだけだ。
「能力者が魔術を使う代償だ。無理なら今諦めろ。中途半端にリタイヤすれば、お前もあの少女も死に至る」
「――!」
アウレオルスの視線に誘導され、エリスの体を見つめる。
もうその体は、肩の近くまでと、太ももの半分くらいまでが蝋のように真っ白だった。
四肢のあちこちが、垣根の血を浴びていた。その血が皮膚の中へと、しみこんでいく。あたかも砂に吸い込まれる水の如く。
それは普通の肉体にはありえない現象だ。日常のエリスの肌だって、そんなことは起こさなかっただろう。
「え――?」
「触れるな。何処まで灰化したか分からないが、貴様は少女の形を崩してしまいたいのか」
ドキリと、その言葉に心臓を鷲づかみにされる。
見ればエリスの指先からは、少しずつ何かがサラサラと吹き流れていっていた。
それはエリスが喪われていくことの象徴だった。
既に死の淵にあるエリスが、越えてはいけない川を渡ろうとする証左。
「させ、ねえよ!」
させない。エリスを死なせることだけは、絶対に。
垣根は、依然として自分の行為に不審を抱く自分を黙殺した。
能力、あるいは魔術かもしれない、自分が行使しようとする何かをさらに推し進める。
ガンガンと頭痛と言う形で脳が訴える危険を、垣根は省みない。
「オ、オ、オ、オ――――」
魔力と呼ばれるものを未元物質の一種として作ったつもりでいながら、同時に、自身の体力を削っているようなおかしな印象がある。
それがまぎれもなく魔術を行使するということだった。勿論垣根はそれを知る由もない。
練られた魔力を、精製の段階へと送り込む。大気素(アーエール)で昇華し、燃素(フロギストン)で燃やしていく。
科学がとっくに捨てたはずの、架空の物質を未元物質で代用し、プロセスを踏んでいく。
――ボン、という濁った音と共に垣根の体のあちこちが弾ける。血が失われていく。
だけど、そんなことはどうでもいい。エリスを、喪わないで済むのなら。
「はじめて、惚れた女なんだ」
誰にでもない。自分に言い聞かせるように、垣根は呟いた。
「コイツ以上に大事なものが、俺にはないんだ」
高位の能力者にありがちな、小さい頃からの孤独感。
垣根を苛むそれは学園都市においては陳腐なものかもしれない。
だけど、それは真実の言葉だった。
「だから――――」
少量では意味がない。ありったけの魔力を精製し、垣根は自分の創ったことのない物質を、創製する。
第五架空元素、エーテルと呼ばれる何かを。
そして叫ぶ。痛みや迷いに縛られないように。
「おおおおおおおおおおオォォォォォォォォ!!!!!!!」
垣根やアウレオルスの身長よりも高くに浮いた光に、あてがうように手をかざす。
ビキビキと体中が軋むのが分かる。見開きすぎた眼が、はじけそうなくらい痛みを訴える。
垣根には予感があった。ぼんやりと実体のない光が、結実するであろうことが。
それはかつてない機能を持つ物質だろう。人類、いや、学園都市が未だたどり着かない世界の真実の断片。
かつてエーテルと言う名で想起された、神秘の物質。その誕生の予感に、場違いに垣根の心が高揚する。
だがその時、不意に垣根は気付いた。
金より高貴なその結晶に、この世界のあらゆる卑しい物質は、触れることを許されない。
この世に産み落とされれば、たちまち穢されてしまう。エリスの心臓へと収まるより前に。
それでは、意味がない。
「――成るか」
アウレオルスが、垣根と同様にどこか期待を感じているような顔で呟いた。
まるで馬鹿な発言だ。だって、このままでは第五架空元素は劣化してしまう。それに気付いていないのだろうか。
ふつふつと光が揺らめき始めた。ある一つの形へと、収束を始める。
もう、止めることは出来ない。だが裸のままの第五架空元素を顕現させることは許されない。
だから。





――――ばさりと、何かが羽ばたく音が、した。





「えっ……?」
インデックスが、それ以上の言葉を失った。
ステイルとアウレオルスも、それぞれが、その光景に思考を停止させていた。
「お、お、お、ああああああぁぁぁぁぁぁ!! 具現化しろォォォォォォォ!!!!!」
叫ぶ垣根以外に、誰一人として、第五架空元素の誕生を見届けることが出来なかった。
垣根の背中から突如として生えた一対の羽根が、その光を覆っていたが故に。
「嘘……」
「天(あめ)の、御遣い――?」
垣根が意図したのは、未元物質で第五架空元素を多いこの世界から隔離すること、それだけだった。
なぜ自分が羽根を生やすという方法でそれを成したのか、分からない。分かる気もない。それよりも大切なことは他にあるから。
「エリス、今、助けてやる」
超然とした笑みを浮かべ、垣根が倒れたエリスの左胸に触れた。
布一つ隔てない裸の乳房を埃を払うように軽く手で撫で、そっと、何かを包んだ羽根をその上に近づけた。
「――」
アウレオルスや、ステイルやインデックスでさえ手を止め息を呑み、その光景に釘付けになる。
超能力と呼ぶにはあまりに宗教的で、神秘的なその営み。
垣根は羽で優しくエリスの胸に触れる。それだけで鋭利な刃物で切ったかのように、羽根がエリスの胸の中に沈み込む。
エリスの血で朱に染まる羽を、インデックスたちはただ美しいと、そう思うことしか出来なかった。
「もう、大丈夫だ。また笑ってくれ。叱ってくれ。お前がいれば、俺の世界はそれだけで花が咲いたみたいに、綺麗になるんだ」
優しげに、垣根が微笑んだ。
そして羽根を、すっ、と引き抜いた。
胸に開いた真っ赤な切り口へ、金よりも高貴な金色をした正八面対の何かが滑り落ちていくのが、一瞬だけ見えた。


「あ……」
「なん、て」
「綺麗な」


この世界のありとあらゆるものより、それは美しく見えた。
それを巡って血なまぐさい争いが起こっても理解できるほどに。
「……帰って来いよ、エリス」
そう、垣根が呟いた。
それが引き金だったかのように、エリスの体が復活を始めた。
ぽっかりと開いた胸の傷が、たちまちに閉じていく。
灰化しかけていた四肢に、血の色が戻り始める。赤みが差していく。
垣根が真っ黒に焼け焦げていたはずの喉元に手を触れると、焦げた炭の下から瑞々しい肌が現れた。
エリスが、壊れてしまう前の姿を取り戻していく。
「はは、良かった。良かった……!!」
泣きそうな声で、垣根が素直な喜びを漏らす。
だって、こんなに嬉しいことはない。
好きな人が、ちゃんと戻ってきてくれる。
そのために、自分の能力を振るうことが出来る。
「……見事」
アウレオルスが一言、そう賞賛した。
「そちらも障りはないな」
「当然だ。救われるべき人を救うのが僕らの仕事だからね」
ステイルは誰より早く我に返り、姫神を助けるための術式を発動させていた。
こちらも、恐らくは問題なく助けられるだろう。
「エリス、エリス……! はは」
繰り返し、垣根は想い人の名前を呼ぶ。
目は覚まさずとも、穏やかに寝ているかのような息遣いをエリスが取り戻したのを見れば、それで充分だった。
その垣根から背を向け、アウレオルスは呟いた。
「貴様は、錬金術を越える高みの、その片鱗を手にした。それは賞賛すべきことだ。だが代償は安くはあるまい。ツケはきっちりと支払うのだな。――それと、お前は心臓という器官の求める『完全性』に苦しむだろう。永く現世で寄り添いたいのであれば、さらに先へと手を伸ばすことだ」
「あ……?」
水を差すようなアウレオルスの言葉に、垣根は不愉快そうな顔を見せた。
発した言葉の意味を、垣根はこの場で全て理解することは出来なかった。
ただ、留めることすら出来ずフェードアウトしていく意識の中、近づいていく床だけが垣根の目に映った。
「……先生?」
どしゃりと崩れ落ちた垣根を一瞥すらせず、アウレオルスは静かに歩き出した。
インデックスの声に、一度だけ足を止めた。
「今のお前に私は必要ないのだろう」
「っ……!」
「ではな」
その背中に、インデックスは何も言うことが出来なかった。
裏切り者の自分に何かを言う資格なんてあるだろうか。
……本当は、それでも言い募るべきなのかもしれない。行かないで、と。
だが、インデックスはその言葉を告げる事はできなかった。
「……息災に、過ごせ」
「先生は、どうするの?」
「さあ。誰かに追わせる生活になるやも知れんが、それでもいい。私は私のなすべきことをするだけだ。
 ――Honos628、我が名誉は世界のために。私はそう生きると、その名に誓って決めたのだからな」
「先生。私……」
背を向けるアウレオルスに、インデックスは小さく頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
「そんな言葉を聞きたくて、こんなことをやってきたわけではない」
「――っ」
「謝罪など、無意味だ」
ふっと、アウレオルスが笑ったらしかった。
「もう会わないことを祈っているよ」
「私たちはそうあるべきだろうな」
ステイルのその餞別の言葉に、むしろアウレオルスは面白そうに返事をした。
そしてもう二度と、インデックスたちを振り返ることはしなかった。
「インデックス」
「……」
「君を救うことに失敗した馬鹿に、追い討ちをかけるようなことを言うのは野暮さ」
「馬鹿なんて、言っちゃ駄目だよ」
「馬鹿さ。あいつは、そして僕は、やり方を間違えていたんだ。それだけさ」
多くを、ステイルは語らなかった。
そして傍らに倒れた姫神の額に手をやった。
姫神からも、既に死の兆しは消えていた。
「ほら、祝おうじゃないか。死なせたくない人を、君は死なせずに済んだんだろう?」
そのステイルの言葉に、インデックスは微笑を返した。



[19764] ep.3_Deep Blood 11: 人為、その不完全性
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/04/23 01:05

カタンと音を鳴らして、インデックスは病室の扉を開いた。
「終わったかい?」
「うん。私は、大した怪我じゃなかったから」
「それは良かった」
室内は、かろうじて表情がわかる程度の光に抑えられている。
その中で、ステイルが安堵の表情を浮かべたのが分かった。それが申し訳ない。
だって、心配してもらうほど、自分は戦場の最前線に立ったりはしなかったのだから。
代わりに、沢山の傷を負ったのはステイルだったのだから。
「まあ、座りなよ」
「……うん」
インデックスは、ステイルの隣の椅子に腰掛けた。
その安物のパイプ椅子は、隣に置かれたベッドに眠る人を見舞うためのものだ。
「まだ目を覚ましていないの?」
「そうだね。まあ、自分で心臓に届くほどにナイフを刺したんだ。すぐに目覚めなく起って不思議はない。それに」
言葉を切って、ステイルは眠り続ける姫神秋沙に目をやった。
「体は救えても、心はどうかは分からないさ」
小さく動く胸元を見れば、生きて呼吸をしていることは分かる。
だが、それ以上はどうかは分からない。
果たして目を覚ますかどうか。
そして目を覚ましたとして生き続ける意志があるかどうか。
もう一度死を望むとしたら、その時はステイルは止める気はない。
インデックスが、ほつれた姫神の髪をそっと手で直した。
ステイルとの間に流れた沈黙が、耐えづらかったからだった。
「……あのね、ステイル」
「なんだい?」
言わないと、いけない言葉があった。
出来ればそれは、ずっと隠し続けていたかったのだけれど。
「ごめんなさい」
「何がだい?」
「ステイルと、かおりを……騙していて」
「何のことかな?」
「分かってるでしょ。あの時、先生の前で言ってた」
インデックスは、二年前に共に過ごしていた頃のことを思い出していながら、そのインデックスとは別人なのだ。
思い出の内容は、甘く優しいものだった。ただそれはテレビで見たお菓子のように、インデックス自身には甘さをもたらさない。
そんなことになっていながら、インデックスはそれをステイルに伝えなかった。
それは裏切りだ。過去、自分達と過ごしたインデックスを取り戻すために、ステイル達は頑張ったのに。
「……上条当麻と、婚后光子」
「えっ?」
「彼らのことを、君は好きかい?」
「……うん」
「君の思い出にいるあのときの君が、僕らを好きでいてくれたくらいに?」
「……きっと、そうだと思う」
「そうかい」
ステイルは、ポケットからタバコを取り出し、口に咥えた。
すぐに病室にいることを思い出し、苦い顔でライターを仕舞った。
火をつけない咥えタバコをして、口の脇からため息を一つついた。
「それで、いいんだよ」
「……」
「君は変わらないね」
「えっ?」
当麻と光子、その前はステイルと神裂、さらに前はアウレオルス。
自分自身を『管理』するはずの人と、インデックスは深い愛情で繋がってきた。
近しい人を大切に想い、邪な意図で無辜の人々に仇なす魔術師を打ち破る知識の宝庫として生きる。
一年ごとに愛する人を替えたのは、インデックスの悪意や気まぐれのせいじゃない。
だから、ステイルは今の自分の立ち居地を、喜びを持って受け入れる。
自分は今、文句一つないハッピーエンドを生きている。
ただ、ほんの少し、ほろ苦い感傷を噛み締めているだけだ。
「さて、君に異常がないことも確認できたし、そろそろ動かないとね」
「……これから、どうするの?」
ここに、エリスはいない。姫神と居合わせられるはずもないから当然だった。
垣根と共に別の病院に行ったと聞く。
そして、姫神についてだって。
「とりあえずはイギリスに蜻蛉帰りかな。本来なら君に渡そうと用意していた十字架が、出来上がったらしいからね」
「それって」
「外部からの干渉に対する防御力はゼロだ。その点で君の『歩く教会』には劣る。だが結界としての機能だけはそれと同等さ」
それを、姫神の首から掛けさせるつもりだった。
一生、肌身離さずつける運命になるが、それでも今よりずっとマシだろう。
ステイルはそれを取りに、本国の『必要悪の教会』に戻る気だった。
書置きを残し、ステイルは椅子から立ち上がった。
「さっき電話をしていたね」
「うん。とうまに怒られちゃった」
「そうかい。なら、ここでお別れしておこうか」
「わかった。――またね、ステイル」
「僕らは会わないほうが幸せさ。そういう場所に、僕らは生きているだろう」
「……でも。私はステイルにまたねって言いたいんだよ」
「君らしいね」
またねと、ステイルのほうから返してくれることはなかった。
ただ、扉を開ける直前に、そっと呟いた。
「最初から気付いていたよ」
「えっ?」
「二年に渡る付き合いだったんだ。君が過去の君ではなく今を生きているんだって事くらい、見ればすぐ分かったさ。神裂もそうだろうね。アウレオルスも、時間があればそれを悟ってもっと穏便に受け入れてただろうさ。まあ、言っても詮のないことだ。それじゃあね」
インデックスに返事をするタイミングを与えず、ステイルは姫神の病室を後にした。
アウレオルスには、結局あれから会えず終いだった。
夥しい数の救急車が集まる三沢塾の建物から、誰にも見つからずに忽然と姿を消したらしかった。
この先、また会えるのかはもう分からなかった。
「先生……」
どれくらい、自分はあの人を傷つけただろうか。
もっと酷い罵倒を浴びせられても仕方ないはずだった。
だけど、最後の最後にアウレオルスはエリスを助けようとしてくれた。
ありがとうの言葉は、受け取ってくれなかったけれど。
「あいさ、また来るから」
ここにいても仕方なかった。
当麻を待たせて心配させるのは、嫌だった。
今、自分の傍にいて、幸せを共有してくれる人だから。
インデックスは最後の一瞥を眠る姫神に向けて、そっと病室を後にした。
夜の病棟を巡回する看護婦の間をすり抜け、夜の街へとくぐり出る。
真夏の熱気は、この時間になっても引く気配がない。
一日分の疲労をずっしりと足に背負って、インデックスは駅のあるほうへと向かおうとした。
「遅いぞ、インデックス」
「とうま……」
何歩も歩かないうちに、その声に気付く。携帯電話を手にした当麻が目の前に立っていた。
駅からも遠いこんな場所まで、きっと迎えに来てくれたのだろう。
「……浮かない顔だな」
「うん。そうだね」
「ステイルと喧嘩でもしたのか」
「違うよ」
病院から出てきたということは、何かがあったということだ。
それを当麻はすぐには追求しなかった。
「ステイルにも迷惑をかけたし、先生にもひどいことをしちゃった」
「先生?」
「ステイルより前に、私の面倒を見てくれてた人。私を助けようと、頑張ってくれてたんだ」
「そうか」
あの日当麻と光子に助けてもらった時から、過去がインデックスにとって記憶でなく記録に過ぎないことを、二人には打ち明けていた。
だから、インデックスがそれ以上説明せずとも、インデックスが何に苦しんでいるのかを悟ってくれた。
そして当麻は何も答えず、ただ、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
そのぞんざいな仕草はいつもなら煩わしいのに、今日はやけに暖かい感じがして。
――ぽふ、と。
インデックスは当麻の胸におでこをぶつけた。まるで光子が、時々そうしているみたいに。
「今日は弱ってるな」
「いろいろあって、疲れたんだよ」
「そっか、じゃあ帰ろう。その様子なら、とりあえずは解決したんだろ」
「え?」
「お前は、何かを解決できないままに残して、こんな風に甘えたりするヤツじゃないからな」
そういう責任感の強い少女だということは分かっている。
だからインデックスが弱みを見せたということは、弱みを見せてもいい状況に落ち着いたということだ。
当麻はインデックスの肩を抱き寄せ、軽く抱きしめてやった。
「ほら、泣くなら今だぞ」
「むー、馬鹿にしないで」
泣くのは違うと思う。今、当麻の胸で泣くのは、ステイルと、アウレオルスに悪い気がした。
上条の着ているTシャツにこっそり噛み付いて、インデックスは離れた。
「帰ろう、とうま」
「そうだな。光子も待ってるし、とっとと帰ろう」
インデックスが微笑んだ。それは少し、気持ちが上向いた証拠だろうと思う。
もう一度ぽんと頭を叩いて、当麻はインデックスと帰路についた。





深夜の、病室。
目を開けて訳の分からないままに状況確認をした姫神が、自分は何処にいるのかと考えた予想がそれだった。
恐らく間違いではあるまい。腕には点滴が繋がり、胸にはバイタルデータ確認用の素子が貼り付けられている。
着ているものも、薄緑の手術着だった。
「私……」
なぜ、ここにいるんだったか。
あまりに脈絡なくベッドに横たわっていたせいで、起きる前の記憶が思い出せなかった。
たしか。いつもみたいに散歩をしていたら金髪のあの子と会って。
「――っ!!」
ギリギリ、と心臓が締め付けられる。取っ掛かりを得れば思い出すのは早かった。
エリスと呼ばれていたあの子をアウレオルスのいた最上階まで案内し、そして、どんなアクシデントがあったのかは分からないけれど、きちんと傷つかないようにと捉えていたはずの少女が暴走した。
そして最後は。
姫神の首元へと、優しく噛み付いたのだった。
そっと手をやると、滑らかとはいえないラインを肌が描いているのが分かる。きっと10年前みたいに噛み傷がついているのだろう。
「あの子は」
どうなったのだろう。もう、生きてはいないのだろうか。
だけど灰になったところを姫神は見届けていない。一縷の望みを、姫神は捨て切れなかった。
ナースコールを探しながら、ふと、ベッドサイドのテーブルに目をやると、小さな紙片が無造作に置かれているのに気がついた。
手に取ると、どうやらあの赤髪の神父かららしい、伝言が記されていた。

『気分は如何かな。
 君がまた死にたいと言うのでないなら、僕達は君を預かろう。
 と言っても修道女になれというわけじゃない。
 君を外界から秘匿する十字架を贈ろう、って提案さ。
 それで君の能力は防ぐことが出来る。
 新たな吸血鬼を呼ぶことはなくなるだろう。
 受け入れるかどうかは君の勝手だけれどね。
 いずれにせよ、二三日は君は入院することになる。
 退院までには必要なものを携えて君を訪れる。
 待っていてくれ』

そんな提案が、書かれていた。
きっと魅力的な内容だから、昨日までの自分ならすぐにでも飛びついた気がする。
だけど、今はそんな気持ちになれなかった。
救われたいと思えるほど、自分が綺麗な人間ではないことを思い知った後だから。
紙片には、続きがあった。

『P.S.
 君のナイフは返しておくよ。ベッドの中に隠したから探ってみるといい。
 それと、あの少女は、無事に命を取り留めた。
 僕は君に甘い夢を見せる義理なんてないから、あの少女が死んだなら遠慮なく死んだって言う。
 証明しようにも君は二度と会えないからどうしようもないけれど、
 僕を信じる気があるなら、信じてくれ』

素直に信じるには、やはり姫神はステイルのことを知らなさ過ぎた。
心を苛む重荷が少し軽くなったけれど、それだって今一番大切なことではない。
「私が生きていたら。また」
誰かを、死なせることになる。
そうなる前に命を絶つと決心してさえ、自分は失敗したのだ。
「ナイフ……」
姫神はベッドのシーツをまさぐった。すぐに、硬い感触に突き当たる。
何かの皮が刃に巻かれた状態の、姫神のナイフ。
簡単に手入れが済ませてあるらしく、柄に汚れはなかった。
これならすぐにでも、もう一度使えるだろう。
姫神は、右手にナイフを握り締め、刃を仕舞った皮を、取り払った。
今、死ぬのが一番だ。そうすれば誰ももう悲しませない。
あの日家族すらも殺した自分なんて、もう、誰からも見向きもされないのだから。
月明かりが、ナイフに反射する。
その鈍い光はこれまで姫神を勇気付けるものだった。
必要ならば命を絶つのだと、最後の選択肢が自分の手の中に在るのだと。
だけど、今はもう違っていた。
カタカタと、手が震えだす。胸に切っ先を向けようと腕を動かしたいのに、腕は頑なにそれを拒んだ。
怖かった。たまらなく、自分が死ぬのが怖かった。
あの時は怖いと思いながらも、心臓にまでナイフは届いたというのに。
二度目は、もう無理だった。
「こんな。ことって」
姫神はもう悟ってしまった。自分を殺すことは、出来ないと。
そしてまたきっと、誰かを殺してしまうだろうと。
自分と言う生き物が、おぞましい。どれほど生き汚く浅ましい人間なのだろうか。
二三日待てば、姫神の能力を封じる十字を赤髪の神父が持参するという。
もう、それにすがることしか出来なかった。それともいっそ、その場であの神父に殺してもらおうか。
たまらなく視界が褪せていく。何もかもがもう、どうでもいい。
ナイフを握った腕から、姫神はだらりと力を抜いた。


――――コンコンと、扉をノックする音が聞こえた。
「感極まっているところ、失礼するよ」


医者か誰かだろうと、思っていた。
だから答える事もなく、暗い病室で誰かが姫神の視界に納まるまでじっと待っていた。
「……え?」
現れた男は医者ではなかった。そんなことは風貌で分かる。
中肉中背の、典型的な南欧系の白人だった。背丈や体格は日本人と大差ない。
金というには色の濃い、茶色のくせ髪。髭は丁寧に剃っているらしかった。
年は三十には届かないだろうか。日本人とは違う顔立ちだから、うまく見積もれなかった。
「予後の体調は如何かな、姫神秋沙」
「貴方は誰」
身につけた服は、洋装とは言えまい。上下共に麻で出来た服らしかった。
色が白く編みの細かいものを下に、灰や茶交じりの荒いものを上に重ね着している。
胸にはヒスイの首飾り。弥生か縄文時代の日本をコンセプトにしているように見えた。
そういえば、言葉はネイティブであろう、流暢な日本語だった。
「名は沢野忠安という。君にこれを渡そうと思ってね」
顔に似合わぬ純和風の名前をした男、沢野が懐から何かを取り出し、姫神に示した。
六芒星をあしらった、銀のペンダントだった。
「……陰陽師?」
「安倍氏のシンボルならば六芒星ではなく五芒星だ。日本にも籠目といって六芒星を利用した魔除けはあるがね、通常、このように円の中に六芒星を配置することはない。これは典型的な『ダビデの星』というヤツさ」
饒舌に、そして友好的に沢野は姫神に説明する。
姫神は手にしたナイフをぎゅっと握り締め、その男を見つめる。
「怖がる必要はない。そうだろう? お前は死んでもいいと思っている訳だから俺を警戒する理由がない」
「……」
「一人でいても、お前はいたずらに吸血鬼を殺すだけだ。あと人生で何度、そういう思いをしたい?」
「私は」
「あの神父は信用に値するのか? ……これはまあ、俺にも言えることか。押し売りの営業だしな。いいか。このペンダントはイギリス清教の神父が持ってこようとしているものと同じ力を持っている」
「……」
「今ここで、お前にこれを渡そう。身につければ、外を歩いても吸血鬼が寄ってくることはなくなる。信じられないならシステムスキャンでも受けてみろ。晴れてレベル0の無能力者になって、霧ヶ丘から放校だな」
「あなたは魔術師?」
「そのとおりだ。超能力者には見えないだろう?」
「……なら。どうしてそこまで学園都市に詳しいの?」
「どうして、と言われてもな。この街に魔術師が入ることは、不可能なことではない。そして一旦入ってしまえば後はこの程度の情報を得るのは難しいことではないさ」
沢野は、手のひらに乗せたペンダントを摘み、首にかけるチェーンの留め金を外した。
そして目で姫神に問うた。どうする、と。
「どうして私に接触したの?」
「吸血鬼に触れさせない形で、お前の力を利用したいからだ」
「そんなこと――」
「出来るはずがないと? そんなことはない。我々は他にも『場形成』タイプの原石を見つけて仲間にしている」
「えっ?」
「お前が形成するのは飛び切りの特殊な『場』だ。吸血鬼にしか影響がないとくる。だがそうでない、他の『場』を作る原石というのは結構あるんだよ。俺達はそういう原石、生まれもって能力を持った人間を探し、集めているんだ。悪いようにはしないさ。だから、俺達についてこないか」
この男の真摯な目は、信じられるだろうか。詐欺師だって、そんな目くらいは出来るだろう。
吸血鬼を集めるために自分を利用したアウレオルス。納得ずくで自分は付き従ったが、もう二度とはやりたくなかった。
赤髪の神父たちも、どういう理由で自分を匿おうとするのかは、分からない。
いや、教会の人間なのだから、いずれ吸血鬼と敵対したときの切り札にでも、するつもりかもしれない。
それに比べれば、目の前の人間の言うことは、悪くない。正直に信じれば、だけれど。
「判断は早くしてくれ。急かして悪いが、アレイスターを出し抜ける時間はごく短いんだ。――俺達を受け入れるなら、髪を上げてくれ。ペンダントを通そう」
姫神は、ナイフを膝の上に置いた。
それがいいことなのかどうか、正常な判断はもう出来なかった。
慎重さを姫神は欠いている。自覚はあるけれど、止めるつもりになれなかった。
だってどう生きたって、この世界は自分に優しくない。
目の前に差し伸べられた手に、姫神はすがりつきたい弱い気持ちを押さえるが出来なかった。

「あなたたちは、誰?」

最後に、姫神は訪ねた。
しまった、という顔をして、沢野が軽く笑った。
「これは失礼。紹介が遅れたな。私はとある魔術結社の人間だよ。名は血族、つながりを意味するヘブライ語を冠して、『絆<イェレフ>』という。正式名称はもっと長いんだが、それはおいおい紹介する。――――では、姫神。我々は、君を歓迎しよう」
姫神が手で髪を救い上げる。真っ白な首元が、露わになった。
白磁のように滑らかでいながら、首筋には、噛み傷が一つ。
それを見て淡く笑いながら、沢野がそっと、ペンダントを姫神にかけた。






「……おはよう、帝督君」
「よう、エリス」
なんてことのない挨拶を、二人は交わす。
場所は病室。ベッドで体を起こし、本を読んでいたエリスを垣根が訪れた形だった。
「調子は、どうだ?」
「大丈夫。もう、心配しすぎだよ」
エリスが死の淵をさまよってから、もう数日が経つ。
垣根に助けられてからは体調不良なんて一度もないのに、毎日、エリスを心配する垣根の顔が真剣すぎる。
過保護さがくすぐったくて嬉しいけれど、それだけ心配をかけたのだと思うと、申し訳なくなる。
それに、垣根の体だって充分に傷ついている。
「帝督君の怪我、あんまり治ってないのかな」
「そりゃ、あんだけ赤毛の野郎に追い回されちゃな。火傷は時間が掛かるんだ」
「……それにシェリーも、帝督君を傷つけたから」
覚えがある。シェリーが腕を払い、垣根とステイルと弾き飛ばしたところに。
エリスが目を伏せると、ふん、と馬鹿にするように垣根が笑った。
「アレで俺がどうにかなると思うんなら、それは舐めすぎってもんだ。それともエリス、結構あのでかい人形にプライド持ってるか? だったら悪いけどよ」
「うーん、シェリーの造り方は友達に教わっただけで、私は専門じゃないから。大切なものなんだけれど、強さとか、そういうのにプライドはないよ」
「なら気にしないことだ。俺を殺したいんならもっとえげつないものを用意するんだな」
「しないよ。帝督君の馬鹿」
しまった、と垣根は反省した。
意思に反してでも、自分が垣根を傷つけたことをエリスは気にしているらしかった。
そのエリスに殺すだのなんだのと言うのは良くなかった。
「悪い、エリス」
「私こそ、言いすぎちゃってごめんね」
「いいって」
垣根がエリスの髪を撫でた。
気持ちよさそうに、エリスが目を瞑る。
夏真っ盛り、窓から差し込む朝日は力強い。
「なあエリス、今日はこれから検査だったよな?」
「うん。また大変なやつみたい」
「そうか」
「麻酔が要るみたいだから、また、傍にいてくれる?」
「いいぜ。つまんねーことをしようとするヤツがいるなら、俺がぶちのめす。だから安心して眠ってろ」
「うん。帝督君がナイトだったら、安心かな」
「そんな上品な生き方はできねーがな」
時計を見上げると、ちょうど朝の十時だった。もう準備は済んでいる。
エリスは、垣根にキスをねだった。最近はもう、見上げるときの雰囲気だけでそれが伝わるようになっていた。
そんな気安さと、他人には分からない秘密のサインを共有できたことが嬉しかった。
「ん……」
「愛してる、エリス」
「私もだよ、帝督君」
「目が覚めたら、また話をしような」
「うん。しばらく私の楽しみはそれしかなさそうだから」
「そうか。また、来るよ」
「どうしたの? 帝督君」
「何がだよ」
「いつもはぶっきらぼうな帝督君が、やけに優しいことを言ってくれたからびっくりしただけ」
「俺はいつだってお前にだけは優しいつもりだぞ」
「あは、そうかも」
名残惜しそうに、エリスは垣根と唇を離す。
垣根がきたのがギリギリだったのが残念だった。そうでなければ、抱きしめてもらうくらいは出来ただろうに。
定刻になった瞬間、病室の扉がノックされた。
「エリスさん、おはようございます。今日の検査を始めますね」
「はい」
「頑張れよ」
「私は寝てるだけだよ」
「それでもさ。体力とか、持ってかれるだろ」
「それくらいは仕方ないよ。あの、付き添いの人を今日も……」
「分かりました。構いませんので、検査室まで付いてきてください」
「ほら、エリス」
「うん。よいしょ、っと」
垣根に肩を借りながら、ベッドから降りる。
院内用のスリッパを履いて、ゆっくりとエリスは検査室に向かった。
「あんまり人前でくっつくなよ」
「あー、病人にそういうこと言うんだ」
頬をべったりと垣根の胸元にくっつけていたら、文句を言われてしまった。
ナース達は視界の端でこちらを見て、クスリと笑ったらしかった。
別にいいじゃないかと思う。入院しているときくらい、恋人に甘えたって。
だが、検査室までの道のりは遠くない。大してくっつく暇もなく、たどり着いてしまった。
この部屋に来るのはこれで二度目だ。前回はベッドごと移動だったから、それに比べても随分と回復した。
「やあ、おはよう。エリスさん」
「おはようございます。よろしくお願いします」
「うん。それじゃ、することは前回と同じだから。早速やっちゃおうか」
「はい」
若い男性の医師だった。微笑んでくれる相手に会釈をして、エリスはベッドに体を横たえた。
麻酔用の、透明なプラスチックマスクが顔にあてがわれる。
全身麻酔が必要な検査というのに疑問がないでもなかったが、垣根が傍にいてくれるから、平気だった。
そもそも、生物的には自分は簡単には死なない生き物なのだし。
「じゃあ、ガスを流すよ」
その言葉にコクリと頷くと、手を垣根が握ってくれた。ゆっくりと、深呼吸をする。
エリスが意識を手放すまでに、数分と掛からなかった。




数分後、力の抜けたエリスの体を眺めながら、垣根は医師に目をやった。
「――では、後は手はずどおりに」
「ああ」
医師は先ほどの笑みを取り払っていた。もうエリスに対し興味を示してもいない。
男は、エリスの医師ではなかった。男は医師ではあるのだが、患者はエリスではなく、垣根。
とは言っても目の前のそれなりに健常な垣根を診るのではなかった。男の出番は、垣根の『出番』の後にある。
「モニター越しに観察していることに文句は言わないでくれ」
「勝手にしろ」
「では後程。さあ撤収しよう」
エリスではなく、垣根の治療の準備をしていたナース達に声をかける。
程なく全員がその部屋から立ち去り、エリスと、垣根だけが残された。
エリスを助けるための人間は、この病院には一人もいない。垣根を除いて。
「エリス」
眠り姫に垣根は声をかけ、髪を撫でる。もうマスクのせいで口付けは出来なかった。
そして、エリスの胸元に、垣根は手を這わす。一つ一つボタンを外して、胸元をはだけさせた。
エリスの許可を取っていないので、見えてはいけないところまでは、服をはだけさせないように気をつける。
垣根が用があるのは、鳩尾の少し左の部分だ。それより横の、慎ましやかな膨らみのほうではない。
「悪いな。出来が悪くてよ」
そう先に謝っておく。努力はしているけれど、きっと今回も、足りないだろう。
シャツを脱ぎ、適当な机に投げ置いた。上半身は布地の少ないタンクトップになる。
ふう、と息を整えた。
数日前、三沢塾で経験したあの工程を思い出す。あれを再現するのは今日で三回目だ。
回数を重ねたことで、手続きはスムーズになった。かかる時間はきっと短縮できるだろう。
「ふっ!」
息を止める。次の瞬間、垣根の背中に二枚の羽根が現れた。
随分と簡単に出るようになった。前は、痛みにのた打ち回った挙句だったのに。
「……やるか」
腹はとっくに括ってある。
だから、躊躇わずに垣根は「それ」をはじめた。
『世界の力』とやらをでっち上げ、それを古臭い錬金術の言葉でしか説明できないようなプロセスで処理していく。
分かっていることだったが、それをきっかけにまた、体のあちこちが壊れ始めた。
「ぐ、あ、あ――――」
あっという間に体が血に濡れる。筋肉が爆ぜたのか、足に力が入らなくなる。
鼻から逆流した血のせいで、口の中は不愉快な味がする。
口でしか息が出来なくなって、フロアに血を吐き捨てながら、ゼイゼイと荒い息をつく。
自分で言い訳が聞かないほどに、無様だった。だけど構わない。
四肢が壊れていこうとも、エリスを救うための羽根だけは傷つく気配がないから。
「――クソ、はやく、固まれよ」
燃やす。燃やす。勿論その言葉は概念的なものだ。
だけど垣根の意志がそう願うほどに、『世界の力』のまがい物は過熱し、ぼんやりした存在からある一つの結晶へと、昇華していく。
「……いける、だろ。エリス、助けてやるから」
未元物質、いや、捏造した第五架空元素を羽根に隠し、垣根はエリスの胸元へそれを近づけた。
前と同じように胸元に羽根を刺し通し、そっと、今動いていた心臓と、新しい核を交換する。
「明日も、笑ってくれよ。エリス」
垣根の声が届くことのないはずの思い人にそう声をかける。
程なくして、今作った新しい心臓がすぐにエリスの体に適合したことが、なんとなく分かった。
それを見届け、垣根はエリスの眠るベッドの横に、崩れ落ちた。
そして激しく咳き込む。苦しい。気道のどこかが、血で詰まったのだろうか。
反射的に体は咳き込むことを欲求するが、垣根の体力はそれについていけるほど残っていなかった。
羽根を杖代わりにして、垣根は体を起こす。力の入らない四肢と比べ、それはあまりに優雅だった。
そして、その羽の先に握りこまれたエリスの心臓をそっと手に取り、見つめる。
いくつも、見過ごせないひび割れがそこには入っていた。ほどなくして脆く崩れ落ちる。
それを見て、垣根は『次』を見積もった。
「……二日くらいなら、問題なくもつな」
それくらいの時間ならば、垣根がでっち上げたエリスの心臓は、機能してくれるだろう。
だが、三日、四日となってくると、指数関数的に危険は増していく。
とりあえず今日を無事に乗り切ったことにほっと息をついて、垣根は力なく血だまりに崩れ落ちた。
それを見ていたのだろう。扉を開いて、医師たちが入ってきた。
「首尾はどうだい?」
「……誰に、聞いてんだよ」
「これは失礼。さて、治療を始めようか。次までに直せるだけ直して、体力をつけてもらわないとね」
その男は、垣根の開発を担当する人間の指示で動いている。
だから羽根のことも、男は何も聞かない。そしてただ、垣根を生かすために動く。
ただ、それに限界があることも当然わきまえていた。
「あと数回かな」
「……」
「打開策を考えたほうがいいだろう。このペースでこの儀式をやるなら、君の余命は一ヶ月を切るだろうね」
自分のやっていることに儀式と言う言葉があまりに似つかわしくて、垣根は口の端を僅かに歪めた。
垣根の体は、エリスを助けるたびに壊れていく。学園都市の医療をもってしても、自然治癒では回復が追いつきそうもなかった。
「ところで、化粧は必要かい?」
「あ……?」
一人で起き上がることも出来ない垣根をベッドに載せて、男は面白そうに尋ねた。
「そろそろ、君の怪我は完治していないと、その子に怪しまれる」
「……」
「偽装が必要なら言ってくれ。まあ、気休めにしかならないだろうけどね。それと」
そこで医者は言葉を切った。ナースと共に傷の手当てをしながら、後ろを振り返った。
「流石にこのまま君を死なせる気は上もないらしいよ」
「何が、言いたい」
「打開策を持ってきたらしいってことさ」
医師の視線の先には、病院に似つかわしくない派手なドレスを着た少女がいた。
「そこのベッドに倒れているあなたが、垣根帝督さんかしら」
「誰、だ」
「……ちょっと、これで大丈夫なの?」
困惑を見せながら、少女は手にした端末に声をかけた。
映像は映らず、男の声だけが機械から流れてきた。
「まだ壊れないだろうさ。こっちの予想では、後二三回までは容認できる見通しだ」
「あっそう」
「それよりさっさと話を進めろ」
二三言の言葉をやり取りし、そのドレスの少女は垣根に近寄った。
年恰好は、たぶんエリスと同じくらい。ただ雰囲気が夜の裏町にあっているような、そんな水っぽさがあった。
「こんにちは。あなたの監視役よ」
「ハ。何を監視するって言うんだ。とっくに俺達はこの街のモルモットだろうに」
「あなたにはこれから、この端末の向こうの相手の手足になって動くことになる」
「どうやって俺に言うことを利かせる気だよ。テメェが俺の心を縛るってか?」
「あら、分かったの? 私が精神感応系の能力者だって」
本気で驚いたのか分からない顔で、少女はそうおどける。
垣根は少女の能力なぞ知ったところではなかったが、口ぶりからして、精神感応系なのだろうか。
「でもそういう力ずくではないわよ。結局そういうやり口はリスキーだと考えてるんじゃないかしら」
「……」
「とりあえず事情は分かってもらえたみたい。後は自分で交渉してよね」
面倒くさげに言って、少女は端末を垣根の横たわるベッドの傍に置いた。
自分自身は手近な椅子に座って、爪を気にしだした。
「さて、交渉内容だが」
「てめーは誰だ」
「さあな。それを知るのにお前は何を差し出す?」
愉快げな男の声が返ってくる。
「差し出すも何も、その不愉快さを止めるためにテメェの命を取りに行ってやったっていいぜ?」
「実際に来られると怖いだろうな。まあ、止めておけ。お前にだって悪くない話を持ってきているんだ」
男はそこで一旦言葉を切った。
そして垣根が聞く態度を見せたのを間で感じ取って、説明を始めた。
「エリス、だったな。お前の恋人は。随分と重病を患ってるらしいじゃないか。今のところはお前が救ってやってるとのことだが、それも一ヶ月で限界だろう」
「まるで見てきたような言い分だな」
「映像越しになら見ているし、細かいことはとある大規模計算機で予測済みだ。信じてくれていい」
チ、と垣根は舌打ちした。
相手の言うことが真実なら、『樹形図の設計者』にそんな計算をやらせられる立場だということだ。
「何故お前は、出来損ないの心臓しか、作ることが出来ないのだろうな?」
「――!」
「私は開発官でも能力者もないので受け売りの言葉しか口に出来ないんだがね、それは君の、能力上の限界だそうだな」
「ハッ、学園都市第二位を随分と過小評価してくれるな」
「何位であろうと、多重能力者にはなれん。君にも出来ないことがあるのは当然だ。さて、そろそろ本題に移ろう。君の恋人を助けるのに必要な能力者を、用意してやる。どんな能力者でもいいぞ。好きに言え」
その男の言葉に、垣根は笑うしかなかった。
バカな話だ。そんなもの交渉にすらなりはしない。
「得手不得手で言えば、俺は物質の創製については学園都市で一位だぜ。あのいけ好かねえ第一位ですらこの一点じゃ俺には勝てねえ。他の能力者を連れてきたところで、何の意味がある? 交渉がやりたいんなら、もう少し賢くなることだな」
垣根の嘲りに、男は静かに笑った。
それは子供の稚戯を笑うような響きだった。
「そういう正攻法の提案ではないのだよ」
「――あん?」
「『能力乗算<スキル・インテグレーション>』をやれと、言っているのだ」
能力の掛け算。それは特定の場合を除いて、学園都市においては禁止されている行為だ。
足し算とは違う、という意味で掛け算と呼ばれている。
足し算のほうは、日常的に行われている。誰かが発生させた能力に、誰かが別の能力をぶつけることだ。
念話能力者同士の会話は互いの能力の足し算みたいなものだし、発火能力者の火を水流操作系能力者が水を動かして消せば、それも足し算の一種だといえる。
それとは対照に、掛け算とは、二人以上の能力者が互いの「自分だけの現実」を同期させることで能力を発生させることを指す。
例えば、発電系能力者と発火系能力者を同期させ、一人ずつでは到底作りえない、高密度高温度のプラズマ塊を作ると言った風に。
それは誰もが思いつき、そして夢のような結果をもたらせる方法論だが、同時に大きなリスクがあるが故に、禁じられている。
異なる人間の「自分だけの現実」を溶け合わせるがゆえに、自我の崩壊や精神の不安定をしばしば招くのだった。
「……俺に合わせれば、相手が壊れるだろうな。たとえレベル4でも」
「構わんよ。この町は随分と成熟した。レベル4なら使い捨てられるくらいにはな」
垣根は、傍らのエリスの顔を眺めた。
こんなやり方をすれば、きっとエリスは悲しむだろう。
誰かの犠牲の上に成り立つなんてのを、好むわけはない。
だけどこれを呑まなければ、エリスの死は確定する。
「どんな能力者でも良いと言ったな。レベル4以下なら、誰でも連れてこられるってんだな?」
「ああ。約束しよう。学園都市とて普通の街だ。毎日交通事故は起こるし、死者も出る。何処の誰だって不運な事故に会うことはあるものだからな」
男の言葉は、ひどく危険な内容を含んでいる。
やろうとしていることの非道さの話ではない。
男の口ぶりは、路地裏に救う無能力者<スキルアウト>とは身分が違う、もっと、学園都市の中枢に近い人間であることを示唆していた。
つまり、男のやろうとしていることは、学園都市が暗に容認している、ということだった。
「――テメェの条件を言え」
「物分りが良くて助かる。何、君なら充分やれるさ。この街には中にも外にも敵が多い。具体的にこれをやれというのは今はないが、とりあえず、君には掃除係をお願いしたくてね」
「随分と簡単そうな仕事じゃないか」
「そうだろう? 楽に構えていてくれ」
恐らくは、言葉とは裏腹な現実があるのだろう。
実際、垣根が相対したアウレオルスという敵は、危険な力を持っていた。
魔術なんて言う名前の付いた、学園都市とは違う力を手にした敵。
垣根は、きっとそう言う人間の排除に使われると、そういうことなのだろう。
「とりあえずは、君の恋人の救命に取り掛かってくれて構わんよ。こちらは先払いでも、問題はないのでね」
「エリスはいつでも狙えるってか?」
「邪推をするなよ。そう人の腹を疑うものじゃない」
この街からエリスを連れ出すことは、どれくらい難しいだろうか。
一生追っ手から逃げるのは、どれほどの困難を伴うだろうか。
相手が余裕を見せるのは、垣根達が逃げ切れないと確信していることの裏返しだった。
「さて、そろそろ話をまとめようじゃないか。伸るか反るか、どちらにする?」
「選択肢を下さってアリガトウ、とでも言ったほうがいいか?」
どうせ、拒む手はないのだ。この病院で得ている安全だって、ここでノーを返すだけで危険へと裏返る。
「――テメェの手のひらの上で、踊ってやるさ」
「交渉成立だな。いや、手早くいって良かったよ。では、君が必要としている能力者を言いたまえ。彼女の完全な心臓を作るためのね。捕縛は君にやってもらうかもしれないが、見繕うのはこちらですぐにやろう」
ベッドの上で、垣根は目を瞑る。
垣根が作ったエリスの心臓は、数日で崩れてしまう。元の心臓が五年以上動き続けたのと対照に。
なぜかは、分かっていた。端末の向こうの男が言ったように、原因は垣根の能力の限界だった。
垣根は、この世にはない物質を創製する能力者だ。第五架空元素などという訳の分からないものですら、垣根は作ることが出来る。
どんなにそれが複雑でも、あるいは希少でも、ありえないようなものでも、垣根は作れる。純度だって百パーセントだ。
だが、一方で不得手がある。垣根は形を作ることについては、不十分だった。
人間の目に見えるレベルなら、何の問題もない。最新鋭の車だろうと船舶だろうと飛行機だろうと、その形を作ってみせる。
だがそれよりもずっと小さな、ナノの領域では垣根はコントロールが効かない。だから垣根はパソコンの基盤などは作れない。
エリスの心臓を作るに当たってはその、制御の不完全性が問題となっていた。魔術で作ったなら、それは現れない問題だった。
吸血鬼の核をなす第五架空元素。その結晶構造、原子配列には一部の隙すらあってはならない。
自然界の結晶が本質的にもっているような規則性の破綻、いわゆる格子欠損は、ただの一つもあってはならないのだ。
その状態は、エントロピーがゼロと言う、自然界においてはあまりに理想的な条件を要求している。
垣根はそれに、応えられていなかった。第五架空元素の粒子ひとつひとつを制御するだけの精度は、垣根は持ち合わせていない。
「……環境制御の能力者がいい」
「ふむ。どういうものだ?」
「揺らぎを排斥できる能力。典型的には温度の制御か。厳密に場の温度を一様に保てるような能力がいい」
「他には?」
「もっと言えば、エントロピーの制御。まあ、能力よりはレベルが重要だろうしな。こんな条件で当てはまるヤツはいるのか」
返答は、数秒遅れた。
「温度の制御ならいるようだな。君に勧められる人材のように思われる」
「レベルは?」
「レベル1だ」
「そんな役に立たない低能力者なんぞいらねえよ」
「そうでもないさ。お前は随分と常識に縛られているようだな。もっと視野を広く取ってはどうだ?」
「視野を外道なほうにも広げろってか?」
「そうだな、それも必要だ。レベルが低いなら、上げてやればいいのだよ。さて、今日のところはもう話は充分だろう。とりあえず治療を済ませることだ。
 明日にでも、また連絡を入れよう」
傍らの少女が、やっと話が終わったかと言う顔をして、端末を手に取った。
「これからは一緒にお仕事をすることもあるだろうし、よろしくね。第二位さん」
「……テメェはただのメッセンジャーじゃないのか」
「あなたと真正面から戦える力はないけれど、役に立つとは思うわよ」
「そーかい」
「あら、写真が送られてきたみたい。今のお話にあった能力者かしら」
ドレスの少女が、端末に映る一人の能力者の情報を眺める。
「おい、まだ聞こえてるのか」
「ああ。どうかしたかね?」
垣根は端末の男に、問いかける。
「狙って簡単にレベルを上げる方法なんて、あるのかよ」
「当然だ。お前だって名前くらい知っているだろう」
「あ?」
「幻想御手<レベルアッパー>なんてものが、あるらしいじゃないか」
男は、そう告げて回線を切った。
少女が抱えた端末を見上げると、花飾りをした中学生くらいの少女が、映っていた。


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あとがき
『吸血殺し』編はここで終わりとなります。
エピローグでかなり伏線を張ってみました。賛否は色々とあるかと思いますが、後々の展開に向けて必要なものと考えております。
垣根がこれで暗部落ちし、また初春にもちょっと暗雲漂ってます。親友の危機に、佐天はどう動くのか。
これからもどうぞご愛顧ください。




[19764] interlude15: 「観測」に対する能力者のスタンス
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/06/27 00:33

朝。
ジジジジ、と家の外で騒ぎ始めたセミの声が引っかかり、インデックスの意識が緩やかに眠りの淵から引き上げられていく。
「ん……」
場所は当然のごとく黄泉川家の一室、光子の部屋だった。
ぼんやりした眼で時計を眺めると、目覚ましの鳴る七時までにはもう少し時間がある。
隣に敷いた布団で、光子はまだ寝息を立てていた。
「もう暑いんだよ……」
これまた黄泉川家のしきたりで、クーラーは既に切れている。外が明るい時はエアコンはつけない決まりなのだった。
薄暗い部屋の片隅にあるガラスケースでは、とぐろを巻いたニシキヘビの「エカテリーナちゃん」が静かにたたずんでいる。
昨日はラットを二匹も平らげたので、きっとおなかが一杯だろう。さすがに襲ってくる不安を覚えることはないが、まだ光子のように可愛いと思える心境にはなかった。
「どうしようかな」
中途半端に目が覚めてしまった。
今から起きたところですることは別にない。ただ寝なおすと、目覚ましが鳴るタイミングで寝覚めが悪くなるような気もする。
ひとしきり考えて、インデックスはとりあえず光子の布団にもぐりこむことにした。
「みつこ」
「んん……インデックス?」
「えへへ」
「今何時ですの?」
「もうすぐ七時だよ」
「まだ七時前ですのね? もう、時間までは寝かせて……」
光子の声が可愛かった。インデックスの前では大抵お姉さんぶっているのだが、こういうタイミングでは甘いところを見せてくれる。
……まあ、インデックスの眼前であっても、当麻とイチャつく時にはベタベタに甘えた態度を取っているのだが。
インデックスの頭を光子が抱え込んだ。ちょっと息苦しくてむせそうになる。なんというか、反則的なくらい自分との間にはスタイル差があった。
「んー、みつこー」
「おやすみ、インデックス」
そう言いながらも、光子はインデックスの髪を丁寧に撫でてくれた。
「流石に暑いわねー……」
「そうだね」
光子の声がいつもより間延びしている。
眠いせいで隙を見せる光子を見てつい、インデックスは立場を逆転させてみたくなった。
布団の中で体をゆすり、位置をずらす。
そしてさっきと反対に、光子の頭が自分の胸元に納まるようにして、光子を抱きしめてみた。
「どうかな」
「ふふ。悪くありませんわね。インデックスお姉さま?」
「あは」
抱きしめられながら、インデックスの華奢さを光子は実感する。
普段自分をこうやって抱きとめてくれるのは当麻だ。その胸と比べると、薄くて、そして柔らかい印象だった。
当麻も自分を抱きしめて、同じようなことを思っているのだろうか。
「あー、みつこ。とうまの感触と比べたでしょ?」
「えっ? そ、そんなことは……」
「みつこはわかりやすいから」
「もう」
インデックスが髪を撫で始めた。手つきがなんとなく、当麻のそれに似ている気がする。真似ているのだろうか。
……そういえばインデックスだって当麻に抱きしめられたり、髪を撫でてもらったりしていたなと思い出して、ちょっとチクリとなる光子だった。
そして、そうやって当麻のことを二人で思い出していたせいだろうか。
「……あれ、二人とももう起きてるのか?」
「えっ?!」
「あ、とうま。おはよ」
扉越しに、想い人の声がした。
昨日の記憶を漁ってみると、そういえば当麻はこの家に泊まっていったのだった。
光子が無理矢理病院を出た日、つまりはテレスティーナ率いる先進状況救助隊と一戦やらかしてから数日、最近はお泊まりが結構多いのだった。勿論光子との間に特別な出来事はない。
ただ、最近は物騒なことが続いたからだろう、黄泉川の帰りが遅くなった日はそのまま泊まって行けと言われることが多いのだった。
光子と当麻も首を突っ込んでいた一件に加え、その日の夜にはインデックスの周りでもうひと騒動あったらしいのだ。
そちらも一応は丸く収まったらしく、この数日曇った顔を見せていたインデックスもようやく心が前を向いてきた。
「とうま、何してるの?」
声に警戒感を含ませ、インデックスが当麻に尋ねる。
「おいおい、何って朝飯の準備だよ。つーかインデックスさんはいったい何をご心配で?」
「とうまが私と光子の寝起きを覗こうとしてないかって疑ってるんだよ」
「……光子はともかく、なんでお前の寝顔見なきゃいけないんだ。よだれ垂れてるぞ」
「垂れてないもん! って言うか、ドア越しに見えるわけないんだよ!」
「あの、当麻さん」
少々バツの悪い想いで、光子は当麻に声をかける。
「おはよう、光子」
「ええ、おはようございます。その、ごめんなさい」
「え?」
「朝の準備をさせてしまって」
「いいって。まだ目覚まし鳴る前だろ? 俺も起きちまったから勝手にやってるだけだしさ」
黄泉川家の朝は基本的に和食だ。パンにするとコストがかさんで大変になるほど食べる住人が約一名いるせいだった。
漬物や海苔、納豆などの手の掛からないおかずと大量のご飯、あとは切り身の魚を適当に焼いて、味噌汁を作る程度だ。
準備はもう大体済んでいる。
「で、とうま。いつまで私達の部屋の前にいるの? なんかとうまがそこにいると、急に扉が外れて倒れそうなんだよ」
「上条さんの能力はそういう超常現象を起こす力はありません。つーかその心配はなんだよ」
「なんだよ、って真顔で聞けるとうまがわからないよ……」
冗談みたいなタイミングで当麻に際どいところを見られた経験は、インデックスにも光子にもあるのだ
ついでに言えば、この家にはもう一人女性がいる。こちらは犠牲者と言うか、なんと言うか。
「上条? お前もう起きてるのか?」
「あ、先生おはようございます……って! 先生、前、前!」
「あー悪い。忘れてた」
黄泉川が自室から廊下に顔を出し、上条に声をかけたらしかった。
それも、ジャージの前を留め忘れて、とんでもないサイズの胸を仕舞うブラを覗かせた状態で。
基本的に上条を男として見ていないので、色々とガードのゆるい黄泉川だった。
あまりに回数が多いせいで耐性が出来たのか、はたまた眠いのか、光子の気炎は大して上がらなかった。
きっと心の帳簿に、メモはしておいたのだろうけれど。
「今日は朝も急ぎだから、さっさと朝飯食べるじゃんよ。お前らは急がなくてもいいけど。悪いな」
「あ、もう準備できてますから並べます」
「サンキュ。お前がいると助かる、上条」
その会話が光子もインデックスも面白くない。
なんだか黄泉川の見せる素っ気無い感謝と上条の甲斐甲斐しさからは、働いている夫婦の朝、という雰囲気がにじみ出ていた。
もちろん黄泉川が夫で当麻が妻の方だが。
「じゃ、二人とももう朝ご飯にしちまっていいか?」
「はい。構いませんわ」
流石にもう、眠気は飛んでいた。
仕事をしようと待ち構えていた目覚まし時計をオフにして、光子はうんと伸びをした。
「さ、着替えましょうか」
「うん」
「髪は……大丈夫そうですわね。軽く梳くだけで済みそう」
二人とも髪の長いほうだから、酷いときは本当に酷い。幸い今日は湿度が低いのか、跳ねた髪は見当たらなかった。
布団を畳み、その上に服を広げる。光子はいつもの常盤台の制服、インデックスもいつもの修道服だ。
横に並んで、プツプツとパジャマのボタンを外す。ズボンも脱いで、二人とも下着姿になった。
光子はシルクの、水色の上下だった。インデックスは綿の可愛らしいヤツだ。ブラにも、ワイヤーは入っていない。
インデックスの下着はそもそも上下でセットになっていないので組み合わせは毎日変わっている。
光子はというと、上下で不ぞろいなのを着ているのは見たことがなかった。
以前共に暮らしていた神裂火織はそもそも上半身にブラを着けていない人だったので、光子が普通なのかどうかは分からなかった。
黄泉川はジャージ同様、下着も同じものをまとめ買いしている人なので組み替えているかはわからないし。
「……むー」
「インデックス?」
「ちょっと汗かいちゃった」
寝汗で、ブラの感触が少し気持ち悪い。綺麗に乾いている服を上から着たくなかった。
「なら替えればいいですわ。夏はすぐに乾きますし」
「そうだね」
光子のやつのようにカップはなく、チューブ状をしているブラを押し上げ首から引き抜く。
軽く畳んで布団に投げ置き、インデックスは新しいブラに腕を通した。
「開けていい?」
「ええ、大丈夫ですわ」
二人とも着替え終わったのを確認して、インデックスは部屋から出た。
廊下のほうが、部屋よりはひんやりしていた。
「お、出てきたか」
いつもどおりの服装の当麻が、黄泉川のお茶碗と味噌汁を持ってこちらを見ていた。
自分達の分はその後に控えているのだろう。光子は何も言わずに手伝った。
インデックスが何も言わずに食卓に座ったのは、これも役割分担と言えばいいだろうか。
「婚后、お前今日は何をするんだ?」
「今日は佐天さん達と一緒に春上さんのお見舞いに行って、そのまま勉強会ですわね。佐天さんの編入試験日までもう日がありませんし。それに、当麻さんはいませんから」
「……あー、その、すみません」
当麻が縮こまるようにして謝った。
今日は、あの小さくて可愛らしい担任に呼び出しを喰らって、補習なのだ。
こないだ見たときに光子は絶句してしまった。まさか、自分より見た目が幼いだなんて。
しかも頬を赤らめて「上条ちゃんは入学してすぐからいろいろありましたからねえ」なんていわれた日には、いくら担任という立場だから上条の恋愛対象ではないと分かっていても、色々と面白くない光子であった。
「上条。彼女が出来ても、いや出来たからにはこれまで以上に真面目に頑張るじゃんよ」
「あー……。はい。真面目に通います」
「たぶん盆の頃には丸々休みが取れるだろうさ。うちら先生側だって休みたいしな」
上条から受け取った白米を素早く平らげて、黄泉川はそう言った。
「悪い。あたしはもう行く。上条、見送ってくれなくていいぞ」
「え? あ、はい」
したほうがいいのかなと思って、新婚妻よろしく朝いるときは毎日見送りをしている上条だった。
今日はいいと言われたので箸を置かず、健啖なインデックスを眺めた。炊いたご飯の量から逆算して、あと三杯は余裕で渡してやれるだろう。
「じゃ、行って来る」
「はい。後のことはやっときます」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい、あいほ」
変則的ながら、穏やかな家族の朝がそうやって過ぎていく。
がちゃりと扉が閉まる音を背中に聞きながら、上条は対面に座る光子に問いかけた。
「佐天ってさ」
「はい」
「常盤台、受かりそうなのか?」
佐天が常盤台を受ける話はかなりの頻度で光子が口にするから、気になっているのだった。
隣でインデックスが黙々とテレビを見ながらご飯を食べているせいか、なんだかすごく夫婦らしい会話な気がする。
「かなり、見込みはあると思いますわ。常盤台の受験資格はレベル3以上で佐天さんはまだ届いていませんけれど、明日のシステムスキャンで、レベル3に上がるでしょうね。これはほとんど確実ですわ」
「それ、かなりすごいよな。だって確か俺達が付き合い始めた頃にはまだ、レベル0だっただろ?」
「ええ。事実上、一ヶ月に満たない時間でレベル0からここまで来ましたから」
「天才ってヤツか?」
「レベル3で天才と呼ぶかという問題はありますけれど、このペースで4まで伸びたら天才クラスですわね。レベル5まで行ったら正真正銘の天才ですけれど」
「そうなれば、光子越えか」
「あら、私だって伸びしろはまだまだありますわよ」
澄まして、当麻にそう言い返す。だが言うほどにはこだわっていなかった。
危機感を感じないことはないが、レベルが全てではない。
超能力を使いたいと願ってこの街に来たのであって、能力のレベル争いをしたくて来たわけではない。
教師達が競争を煽っているところもあり、学園都市では忘れられがちなことだった。
「盆休みの予定、そろそろ立てないとな」
「えっ? ええ、そうですわね」
その一言で、光子はドキリとなった。
いつかは口約束だけで終わっていたが、当麻やインデックスと一緒に、学園都市の外で遊ぼうなんて話をしていた。
そしてついでに、当麻の両親に会う話も。
「光子ってその辺の話、もう親としたのか?」
「はい。少なくとも二日は実家に帰って、家族で集まる予定ですわ。当麻さんは?」
「何にも決めてない。そろそろ電話でもするかなって感じ」
「もう……」
だって、その電話で話す内容は、とっても重要だというのに。
目でそう訴えると、当麻は分かってくれたらしかった。
「今日の夜にでも、連絡入れる」
「……はい」
「その時に、まあなんだ。彼女と一緒に遊ぶかもって話は、しておくから」
「はい。その、変なことは仰らないで下さいね?」
「変なことって?」
「私が当麻さんの前で失敗した話だとか、そういうの」
「なんでそんな話するんだよ。しないって」
「ならいいんですけれど」
笑う当麻に内心でほっとしながら、光子は味噌汁の椀を口元に運ぶ。
やっぱり、初めて両親に紹介される時には、見栄を張りたいものだ。
「ふー、ごちそうさま」
「早いな、インデックス」
会話にいそしんでいた二人を差し置いて、倍は食べたインデックスのほうが先に食事を終えてしまった。
麦茶もあっという間に飲み干して、さっさとテレビにかじりついた。
「……本当、家族の団欒みたい」
「光子?」
インデックスを眺めていた光子が、手に持った椀をそっと置いて笑った。
「今日もなるべく、早く帰ってくるから」
「はい。夜に、また」
そんな幸せな約束を取り付けて、当麻と光子は微笑みあった。




コンコン、と軽快に扉をノックする音が聞こえる。
部屋で本を読んでいた春上は顔を上げ、扉の向こうの相手に返事をした。
「どうぞなの」
「こんにちは、春上さん」
「あ、初春さん」
ぴょっこりと、花飾りが扉から見えた。当然のことながらそれに続いて初春の顔が見える。
その後ろには佐天もいた。ついでに久々に光子の姿もあった。どうやら三人で見舞いに来てくれたらしい。
光子と会うのは、あの大事件があった前日に初春と一緒に即席レッスンを受けて以来だった。
「春上さん元気してるー?」
「私は大丈夫なの。もうほとんどなんともなくて、今週中には退院できるって」
「そうなんだ! よかったねぇ。枝先さんは?」
「絆理ちゃんも、そろそろ立ってリハビリしようってお医者さんが言ってたの」
「快復に向かっているようで何よりですわね」
佐天と共に、満足げに光子は頷いた。それでこそ自分も体を張った甲斐があるというものだ。
高速道路上にステイルと二人で残り、並み居る敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げの大活躍をした光子だった。
まあ、あんまり詳しいことは誰にも言っていないのだった。
というか一番聞いて欲しい相手の当麻に詳しい話をしても喜ばれない気はするし、ちょっとモヤモヤしたままなのだ。今度泡浮と湾内の二人にでも聞いてもらおうか。
そんなことを考えている光子の隣で初春が着替えを春上に渡し、枝先にも挨拶をしていた。まだ呼吸を助けるマスクをしたまま寝たきりの枝先が、微笑を返した。
随分と良くなったので短い時間なら起き上がって会話もできるらしいが、失った体力の回復には時間がかかるし、長時間の会話はまだ結構な疲労になるらしい。
とはいえ、ほんの数日前と比べても、肌の艶や張りが増し骨ばっていた四肢に柔らかさが出てきたように思う。
「佐天さん」
「ん?」
「昨日初春さんが、佐天さんは忙しいからあんまり来れないかもって言ってたけど、大丈夫なの?」
「平気平気! 友達のお見舞いに来る暇くらいあるよ」
「来週には常盤台を受ける、って人の言うことじゃない気もしますけど」
「んー、でも。こういうことを後回しにして勉強するって、なんかちょっとやだな」
「しかも明日はシステムスキャンを受けるんですよね?」
「うん。でもそっちは今から勉強するようなものじゃないし」
実技のほうは最近は最低限しかやっていない。
光子に聞くと、システムスキャンの時にいつもどおりの実力が出せればレベル3に充分届いているから、別にそれでいいのだそうだ。
「今日も授業、するの?」
「ええ。佐天さんには筆記試験の勉強をやってもらいませんと」
「これでも理数はなんとかなってきたんですけど、常盤台って国語、英語に社会、あと能力の概論みたいなのもいるんですよね」
「ほら、やっぱり大変そうじゃないですか」
今佐天と初春、そして春上のいる柵川中学は、若干名の能力者を囲いつつも結局は外の学校とそこまで大きくは変わらない。
そんな学校の普通の生徒でしかない佐天が、常盤台の学生になるのに求められる知識を受験を決意してからの一週間で何とかしようというのだから、想像を絶するような努力が佐天には必要とされている気がするのだが。
「常盤台は校風として幅広い知識を求めるところはありますけれど、結局は能力次第ですわ。佐天さんが実技できちんと力を発揮できれば、合格も夢ではありませんわ。勝率は六割はある、と踏んでいますわよ」
「すごいの」
呆ける春上の隣で、小さく枝先も頷いていた。
「それで、何の勉強を教えてもらうつもりだったんですか?」
「能力の概論の予定だよ。試験勉強にもなるし、能力の改善に役立つかもしれないしでお得だから」
「科学というのはそれぞれ分野が違うようでいて、ひょんなところでつながりが出来たりしますものね」
そう言いながら手を動かす初春を眺めていると、看病に必要なことはもう済んでしまったらしかった。
毎日来ているから、手馴れているし、することも少ない。
光子は手に提げたクッキーの折り詰めを傍らの机に置いた。
「あの」
「はい? ああ、クッキーを広げたほうがよろしい?」
「えっと、食べたいけど、そうじゃないの」
「はあ」
違うと言いながら物欲しそうな目をする春上のために、光子は袋をてきぱきと開ける。
持参した見舞いの品を自分で開けるのはちょっと変な気分になるが、春上にインデックスを重ねるとなんだか納得してしまうのだった。
ただ、これとは別に春上には言いたいことが有るらしい。
「婚后さんの授業、また聞きたいの」
「え?」
「ここで出来るんだったら、私にも教えて欲しいの」
「ええまあ、そういった内容の話があれば披露しますけれど……」
光子も、そして部屋の皆も戸惑いを感じているようだった。
だって春上が、こんなに能力のことについて積極的になるなんて。
「私、もっと能力を伸ばしたいの。今は受信専門で、絆理ちゃんの声を聞くことしか出来ないから」
春上衿衣は変わり種の精神感応能力者だ。他のテレパスの『声』を聞くことに特化している。
枝先の声を聞き取ることにかけてはレベル4相当の受信感度だし、それはそれですごいことだ。
だが、自分からが意志を発せないのを残念に思っていた。
いつも聞くばかりの受身。それは自分からは何も出来ない自分らしさを象徴するような能力だ。
春上はそれを、変えたかった。
今度は自分が、枝先に声を届けられるようになりたい。
光子はその真摯な目を見て、とても好ましく思う。佐天のときのように助けてやりたいとは思う。
「お手伝いできることがあればやりたいんですけれど、その、精神感応は私の専門外ですから……」
「空力使いですもんね、私たち」
「物理系と精神系の壁ですね」
能力者を区分けする概念は色々とあるが、一番根深いのがこれだ。
カリキュラムも全く違うし、互いに互いの能力の本質を理解しあうのはほとんど不可能なペアといっていい。
流石に光子も、春上の指導は不可能だった。
「婚后さん」
「はい?」
「ちょっと質問なんですけど」
「お聞きしますわ。佐天さん」
ちょっと決まりの悪そうな顔で、佐天が光子を見ていた。
これは知っとかないとまずいかなあ、という苦笑いだった。
「物理系と精神系って、何が違うんですかね?」
「と言いますと?」
「私たち、物理世界に干渉する能力者って、能力の背後にある理論が分かりやすいと思うんですよね。結局は未来って言う不確定なものが潜在的に持っている、低確率にしか起き得ない『奇跡』を手繰り寄せてる訳じゃないですか。でも精神系の能力って、一体なんなんだろうって。そもそも物理じゃ精神とか心って呼ばれるものが出てこないし」
その質問に、光子がぽんと手を叩いた。
「春上さんは説明できますの?」
「え? その、よくわからないの」
精神感応は物理的な変数を使った演算をあまりやらない。というか、数式として取り扱うのが難しいのだ。
だから物理系の能力者が良く口にする、ハイゼンベルグの不確定性原理に基づいてどうのという議論がいまいちピンと来ない。
その答えに光子が頷く。ちょうど良いトピックだろう。この話は常盤台を受けるレベルなら必修だろうし。
「ではこの辺りの話を、かいつまんで紹介しますわね。結論を先に言うと、観測問題に対する解釈の違いが、カギですわ」
「観測問題……ね、初春これって常識だったりする?」
こっそりと佐天が耳打ちをした。それに対し、初春は黙って首を振った。
「有名なシュレーディンガーの猫の話も観測問題の一種ですわ。箱に閉じ込められた猫の生死は見てみるまでわからない。だけど開けて見れば、生きているか死んでいるか、どちらかの結果が手に入る。このとき『見る』という行為が結果に関わる重要な出来事ですけれど、何故観測という行為が物理学の主役になるのは何故なのか、まだまだ詰めきれていませんの」
「そんなので、理論として使えるんですか?」
「物理の理論なんて突き詰めれば突き詰めるほど謎が湧いてくるものですわ。それで、この問題への答え、つまり解釈は色々提案されていて、物理系の能力者は、ほとんどの人が標準解釈、たまに多世界解釈を支持しています。一方、厳密な意味での精神感応能力者が頼る解釈は多精神解釈と呼ばれていますわ。これが、精神系と物理系の能力者を分けている根本的な要因です」
いきなり難解な言葉を口にした光子に、枝先と春上が置いていかれそうになり、初春が習ったことはなかったかと頭を捻り、佐天が面白げにふんふんと頷いていた。
「まず初めに言っておきますけれど、ここでいうテレパスというのは、感じでは精神感応と書くほうの能力です。念話、つまり遠くの人間と単なる発声以外の方法でコミュニケーションを行う能力とは少し違います。分類が難しいせいで学園都市内でも混乱が見られますけれど、この違いは把握していますの?」
この問いには春上もこくんと頷いていた。それはまあ、自分が「厳密な」ほうのテレパスだし、専門だから当然だろう。
むしろ佐天のほうが自信なさげだった。初春がそういえば、という顔をして天井を見上げた。
「念話のほうだと、風紀委員の人に空気の性質を制御して、遠くの人間と会話できる能力者がいると聞いたことがあります」
「いい例ですわね、初春さん。その方は念話能力をお持ちですけれど、精神感応と呼ぶには演算が物理寄りですわね。他にも、御坂さんあたりなら携帯電話の電磁波をコピーすることで脳からダイレクトに携帯へとメールを送信するくらいのことはやってのけそうですわね。こういう風に、能力としては物理的ですけれど、それを応用することで会話以外の意志の疎通方法を持っている人が念話能力者の中にはいます。そして、これとは全く別に、物質世界には何の影響も及ぼさずに、他者と心を通わせられる能力者がいます。佐天さんも常盤台に来るのなら、当然覚えてらっしゃるでしょう? その、純粋な意味での精神感応能力者の頂点を」
「えっと、御坂さんのほかにもう一人いるレベル5、学園都市第五位の能力者さんですよね」
「ええ。その方を筆頭に、枝先さんや春上さんも、念話が可能な能力者ですが、物理に頼らない点で特別視されています。まだ制御と能力開発の方法が確立しているとは言いがたく、そして他の系統の能力者と根本的に異なっていると言う点で」
そこまで言って、光子はクッキーを一つ手にとった。何とはなしに春上に渡してみる。
戸惑いながらも礼を言って、春上は袋を開けクッキーにかじりついた。
光子はそれをクスリと笑い、もう一つ手に取った袋を佐天に投げた。
「えっ?! わ、とっ。あの、婚后さん?」
「ナイスキャッチ、佐天さん。どうして受け止められましたの?」
「はい?」
そりゃ不意打ちとはいえ、飛んでくる所を見ていたのだ。飛ぶ先に手を出せば、そこに収まるのは当たり前のことだ。
変な顔の佐天をひとしきり楽しんで、光子は先を続ける。
「私たちの世界は、予測可能なことで溢れています。今のクッキーの軌道がそうですわ。どんな風にクッキーが飛んでくるか、その未来が予測可能だからこそ佐天さんはあらかじめ手を出しクッキーを受け止められた。同様に、あらゆる球技は放たれた球の軌道がおおよそ予測できるからこそスポーツとして成り立ちます。勿論サッカーの曲がる弾道のように、開発を受けていない方の演算能力では予想しきれないために、予測不可能性がゲームを面白くすることもありますけれど。なんにせよ、計算ができれば未来はきちんと予測できる、というのがマクロな世界の常識です。でもこれは厳密には成り立たないことを、当然皆さん習っていますわよね? 初春さん?」
「はい。ハイゼンベルグの不確定性原理により、未来は一つに定まらないんですよね」
「そういうことですわ」
この時点で、春上がついていけない顔になった。枝先もそうなのだろう、声を出さずに会話した二人が、苦笑していた。
「ニュートンの運動方程式、というのがあります。物理の基礎の基礎ですわね。これは投げられたボールが今この時点でどんな位置と運動のベクトルをもっているかが分かれば、それを元に少し先のベクトルが計算できる、という式になっています。言うなれば、現在の情報から唯一つの確定した未来を予測できる式です。私たち人間のスケールでは、この式はほぼ完全に正しいと言ってよろしいわ」
だから、飛びながら曲がっていくボールでも、回転速度や空気との摩擦が分かれば軌道が予測できる。
でも、と一言置いて光子は扇子を弄ぶ。
「ミクロな世界では、これは成り立たないことが知られています。20世紀になって、ニュートンの運動方程式は、もっと正確な別の方程式、シュレーディンガーの波動方程式の近似式でしかないことが分かりました。佐天さん、これはどんな式でしょう?」
「位相空間上の確率密度分布が、波動方程式の解の二乗により求まるんですよね」
「……ええ。かなり正確なお答えなんですけれど、この場ではちょっと不親切ですわね」
説明に必要なのは、時に正確性よりもわかりやすい表現だ。概論として初学者の理解を促す意味では、佐天の答えには足りないところがある。
でも、ほんの一ヶ月前の佐天なら、きっと春上よりもこうした知識に興味を持っていなかったに違いない。それを考え、光子は心の中で佐天のその変化を喜んだ。
佐天はたぶん、能力を使うときに波動方程式を演算したりはしていないだろう。だからきっと、この辺のことは自分で頑張って勉強したのだ。
「ニュートンの運動方程式は完全な決定論、つまり未来が唯一つに決まると考えていたのに対し、より正確なシュレーディンガーの波動方程式からは、起こりうる未来の『確率表』しか手に入りません。外の世界での天気予報みたいなものですわ。学園都市じゃ的中率が高すぎますから例として不適切ですけれど、あれって、降水確率が80パーセント、なんて言い方をしましたでしょう? あっ……。ごめんなさい」
「いいの」
光子は、そこまで言ってすべき気遣いを出来なかったことを恥じた。
枝先と春上は、置き去り<チャイルドエラー>だ。外の世界を二人は知らない。
「もっと教えて欲しいの、婚后さん」
「……ええ。では、続けますわね。雨は降るか降らないか一つの未来しか起こらないのに、天気予報は80パーセント、なんて言い方で二つの可能性を提示する。波動方程式の解も同じ。この先に起こる出来事の選択肢を挙げて、それぞれ起こる可能性をパーセントで提示するのですわ」
ここで光子は一息ついた。思ったよりもまだ回りはついてきてくれているらしい。
ありがたいことだ。本番は、ここからなのだし。
「さて、話のお膳立てがようやく済みましたわね。精神系と物理系をわける量子力学の解釈、その話に入りましょう。前日の夜に見た天気予報が、降水確率80パーセントだったとします。でも実際にその日に自分が見た結果は雨という結果でした。この場合、予想の段階では80パーセントだったものが、ある意味で100パーセントになったと言うか、結果が一つに収束していますわね? 量子力学の言葉で言えば、未確定だった未来が、『観測によって一つに収束した』と言えるわけです。そしてここに、量子力学が未だ明らかにできていない、重大な問題があります。佐天さん、それが何かしら?」
「え、えっ?」
今度の質問には、佐天は答えられなかった。
波動方程式の演算も練習としてやったことがあるが、こんなところで疑問を覚えたことは佐天にはなかった。
「あの、すみません。問題ってなんですか?」
「波動方程式を『使う』人間にとっては問題になりませんのよ。むしろその式のさらに奥に本質が隠れていないかと探求する人間にとって、興味があることなのですわ。雨の降る確率、曇りか晴れになる確率。そういうものが与えられていたのに、観測によってその中からただ一つが選ばれる。――どうして、たった一つの未来が選ばれますの? 選ばれなかった残りの可能性は、どうなりましたの?」
「……えっと」
問いかけに、佐天はうまく答えを返せなかった。
だって未来は一つだろう。自分がまさか二つに分かれるわけにも行くまい。
「この疑問に対する答えは、量子力学の枠組みでは説明できません。まあ、未解明ということですわ。だから量子力学の『解釈』なんて名前が付けられています。では、ここからは能力と絡めて解釈の話をしましょうか。まずは大半の物理系能力者、私や佐天さんや、たぶん初春さんもそうですわね。このケースから話をしましょう。私たちは、標準解釈、またはコペンハーゲン解釈と呼ばれる立場に基づき、演算を行っています。この立場は、先ほどの質問に対しては無頓着な立場と言えるかもしれませんわね。佐天さんもそうではなくて?」
「あ、はい。だって、未来が二つに分かれるって、パラレルワールドかって話ですよね。そういうことがあっても少なくとも今ここにいるあたしは、どっちかの世界にしかいないんだし」
「ふふ。歴史を見事に遡るご回答でしたわ。パラレルワールドなんて概念を佐天さんが持っているのは、コペンハーゲン解釈の問題点を指摘するために生まれた多世界解釈という解釈が、やがて小説や映画にとりこまれていったせいですから」
「言われてみれば、そうですよね」
佐天は自分自身でパラレルワールドなんてものを想像できる人間ではない。そういう概念は、たぶん、子供のころに見た未来のネコ型ロボットの映画で知った気がする。
「宝くじのたとえ話をしましょうか。当たれば配当は大きいけれど、ほとんどの人はハズレしか引かない、そういうくじってあるでしょう?」
「年末ジャンボとかですか?」
「ごめんなさい。その名前は存じ上げませんわね」
「たぶんその設定で大丈夫です。一等が当たるの、日本人の中から毎年一人か二人とかですから」
初春がそうフォローをした。話をこんなところで折られるのもつまらない。
光子はそれに頷き返す。
「なら、そのジャンボとか言いますのを考えてくださいな。くじを買っても普通の人は、たいていハズレを引く。配当金が当たる人は一握りの人だけ。それが宝くじ。くじで一等や二等が当たる確率がとても低く、まず自分はそのような幸運に巡り会えないということを、私たちはくじを買う前から理解しています、つまり、当たるかどうか、未来はわからないけど、どんな未来が手元にやってきそうかは分かっている。さてここで、当たりのときの配当をお金ではなくて現実世界で起こる『奇跡』に置き換えてみましょうか。我々は常に、この宝くじを引き続けています。さきほど佐天さんにクッキーを投げたものそうですわ。奇跡が起これば、あのクッキーは突然テレポートしたり、発火したり、変形したりしたかもしれません、だけどそんなことはまず起こり得ない。だから佐天さんはクッキーが常識通りの動きをする可能性に賭け、それを引き当てた。くじで言えば残念賞ですわね。それは奇跡と呼ぶに値しない結果でしたから」
「はあ」
生返事を佐天は返す。だって、周りの人たちの行動一つ一つに奇跡を期待するなんて、疲れるだろうし。
「奇跡と呼ばれるような、手繰り寄せるのが困難な未来は普通は引当てられません。ですが何らかの方法で、その引き当てるのが難しい未来を見つけ、自分の意志で掴み取れる人間がいます。それが、学園都市で開発を受けた能力者という人々です。先程のくじの例えで言えば、当たりくじの番号を自分に都合よく操作できるような、そういう不正行為を行える人になりますわね」
自分たちを、不正をする人間かのように言う光子にちょっと釈然としない思いを抱きながら、佐天は耳を傾ける。
「静かに空気の流れるこの病室の未来には、常識では考えるのも馬鹿らしいくらいの低確率で、空気の中に渦が生まれる可能性が内包されています。ほとんどの人はそんな未来に出会いませんが、例えば空力使いと呼ばれる人は、その可能性を自ら手繰り寄せられます」
目で指示されたので、佐天は渦を手のひらに作る。
饅頭くらいのサイズのを、かなり高圧にしてやった。屈折率を変えて渦を可視化するためだ。
「こんなふうに、ですわね。これをコペンハーゲン解釈に基づく普通の能力者の解釈で説明すると、未確定だった未来を、起きる可能性が限りなくゼロに近かった方向へと収束させた、とでも言うことになりますでしょうか」
「ってことは、超能力が引き起こせる現象っていうのは、そういう可能性が未来の可能性の中に含まれてないと起きないってことですか?」
初春は気になった点を光子に訪ねた。佐天の渦や自分の低温保存くらいならまだしも、レベル4以上の能力なんて、それこそ想像もできないような破天荒な未来をたぐり寄せてくるものだ。そんな可能性が、そうそう簡単に『未来の可能性』の中に含まれているものだろうか。
光子がその質問に頷いた。
「有り得ないなんてことは、有り得ない」
「えっ?」
「物理の大原則ですわ。原則的にはどんな奇跡だって、起こりうる可能性があるものですわよ。もちろんそれをたぐり寄せられる特別な『目』をもった人、つまり能力者がいれば、ですけれど」
佐天は、空気に渦を作るような奇跡ならば、観測することが出来る。だから空力使いなのだ。
そしてそれ以外の奇跡を観測することは出来ない。
「ちなみに、奇跡の規模が大きいほど、常識から外れているほど、その奇跡の起き難さが上がります。ボルツマン統計、あるいはフェルミ・ディラック統計がその基礎付けになりますわね。そういったより不自然な現実を観測する優れた感覚を持った人間が、高レベルな能力者なのだということですわ」
佐天はこの間まで、手のひらに小さな渦が生まれる未来までしか感じ取ることが出来なかった。
だけど今は、もっともっと異常な、例えば手のひらの上に100気圧に及ぶ高密度な渦が生まれる未来を手繰り寄せられる。
光子の言葉を、佐天は実感として理解していた。
「……解釈の話に戻しましょうか。私や佐天さんは、超能力を起こすということを、あまねく可能性の広がる未来というものの予想図の中から、望ましいたった一つの可能性を現実へと『収束』させることと捉えています。ですがこの解釈に異説を唱えた人がいます。エヴェレットという名の方ですが、彼はこう考えました。未来は一つに『収縮』なんてしていない。ただ『世界が分岐した』のだ、と。観測により未確定なイベントが確定していく毎に、世界は分岐し、互いの関連性を失っていく。そういう解釈を、多世界解釈と呼んでいます。この解釈では、世界がいくつかに分岐する前には、互いの世界が重なり合っているように取り扱えて便利なところがあるので、量子効果が強く影響する能力の持ち主がよく使うそうです。有名どころではやはり第四位でしょうね。詳しくは知りませんけれど」
学園都市第四位の能力者は、電子の粒子性と波動性、あるいは不確定性の制御に関わる能力だと言われている。
レベル5の能力者と言うのは、誰も彼も、世界の本質に深く根ざした能力を持っている。
劣等感ゆえに言い訳かも知れないけれど、空力使いにレベル5がいない理由を、能力としての底が浅いせいだと思ってしまうことが光子にはあった。
「さて、それじゃようやくここまで来ましたから、多精神解釈の話までしてしまいましょうか」
春上が再び、興味を持ったらしかった。
「多世界解釈が出来たのは、標準解釈がひとつの問題、つまり未来が一つに『収縮』する理由が説明できない問題を抱えていたからでしたの。この問題については、多世界一応の答えを与えることが出来ました。ですが多世界解釈にも、不完全な部分があります。というかあらゆる解釈が全て不完全だからこそ、理論ではなく解釈という名前が付くんですけれど。多世界解釈の問題点は、観測が世界の分岐を促すところです。人間の意識が現象を観測することで世界がいくつにも分岐していくなんて、誇大妄想みたいだとは思いませんこと? 観測という行為が物理学で重要視されるようになって、意識とは何か、心とは何かという問いかけが、哲学ではなくて物理の問題になったんですの。そこで生まれたのが、多精神解釈です。分岐するのは世界ではなくて、人間の心のほうだと考えたのですわ」
佐天は、首をかしげた。
心が分岐すると言われても。佐天の心は能力を使ったって多重人格にはならないし、そもそも、心の問題とは言うけれど確かに目の前の世界は佐天の能力で変容する。
「軽い例えで話をしましょうか。佐天さん、今日の初春さんの下着の色はご存知?」
「え?」
「へ、え? えっえっ?」
初春は、信じられないことを聞いた気がした。
だってあの、常盤台のお嬢様であるところの光子の口から、自分の下着の話が出るなんて。
「いやー、今日は確認できてないんですよ。ちゃんと履いてる?」
「ななな何言ってるんですか急に! 履いてます! っていうか婚后さん、なんでそんなことを?!」
「いえ、御坂さんと白井さんから、お二人はそうやってスキンシップをすると聞いておりましたので……」
「佐天さんの一方的な意地悪です!」
「意地悪って、酷いよ初春!」
「酷いのは佐天さんです! その渦、絶対に使っちゃだめですからね!」
「え?」
初春が佐天のほうを睨みつけながら、手のひらに目をやった。
さっきまでは屈折率のゆがみが映る佐天の手のひらの形を曲げていたというのに、今はそれがない。
くっきりと、何の変哲もない佐天の手のひらが見えていた。


――次の瞬間。
ぶわっ、という音と共に初春のスカートが持ち上がった。
……だって、そういえば今日は確認してなかったな、なんて佐天は思ってしまったから。


「佐天さん」
「おー、今日は黄色かぁ。なんかいつものより高そう」
「佐天さん、言うことはそれだけですか」
「あ、ごめんごめん。ちゃんと良く似合ってて、可愛いよ」
「もう……」
なんだか脱力して、初春は怒る気にもなれなかった。今回は周囲に女性しかいないし。
苦笑した光子が、話を続ける。
「佐天さん。初春さんの下着の色は?」
「黄色でした」
「これで誰も観測していなかった初春さんの下着の色が、一つに収束しましたわね。多世界解釈で言えば、これは初春さんの下着が黄色の世界と水色の世界に分岐した、といった感じに表現できます。多精神解釈だと、佐天さんの心が、『初春の下着は黄色だ』と思った部分と『初春の下着は水色だ』と思った部分に分裂した、と表現されます」
「えっと。この場合世界は分岐しないんですか?」
「分岐しません。というか、佐天さんが世界だと考えているようなものがそもそもありません」
「はい?」
「佐天さんが世界だと考えているもの、つまり初春さんの下着が黄色の世界だとか水色の世界だとかっていうのものは、佐天さんの心の外には存在しない、と考えるのが多精神解釈です。あるのはそれらが全て溶け合ったスープのようなものだけ。その一部を適当に掬い取って味見するごとに、佐天さんの感想が分岐するだけですわ」
「へー……」
そろそろ、佐天もついていけなくなりつつあった。
逆にこの話だけは、春上がなんとなく分かると言う顔をしていた。
少し喉の渇きを覚えながら、光子は締めくくりに入る。
「さて、じゃあおさらいをしましょうか。私や佐天さんのような標準解釈に頼る人にとって能力を発現するということは、無数にある未来の可能性の中から、普通には絶対に起こらないような低い確率の未来を選んでひとつに『収束』させ、それを現実に起こすことです。そして多世界解釈に頼る人、例えば学園都市第四位などにとって能力を振るうということは、自分が今いる世界とは極めて関連の低い別の並行世界へと今の世界を接続することです。そして多精神解釈に頼る人、例えば春上さんや枝先さんのような精神感応能力者にとっての能力行使とは、異なる現実を認識した自我を今ここにある自我と入れ替えるということです」
初春の下着が黄色だと認識した佐天の心を、初春の下着が水色だと認識した佐天の心と入れ替える。そういうことだ。
枝先は、「絆理ちゃんの声を聞いた」と思わない春上の心を、「絆理ちゃんの声を聞いた」と思う春上の心で置き換える。
そうすることで、春上に自分の意識を伝えているのだった。
「これらの能力は全て、たった一つの量子力学という学問に沿って説明することが出来ます。だから全く違う精神系の能力も、私たちの能力と地続きではありますのよ」
魔術などという、まるで説明の付かない奇跡とは違って。
……その言葉は流石に光子は口にしなかった。
ぱん、と扇子を畳んで光子は微笑んだ。これで講義は終了と言う合図だった。
「どう? 佐天さん」
「え? いやー、すみません。理解するうえで取っ掛かりになる知識で、すごくためにはなるんですけど、流石に理解できたかというと……」
「まあ、そんなものでしょうね。こういうのは結局は自分で良く考えてみないと身につきませんから、どこかで決心して、きちんと独学なさることですわね」
「はい」
隣で春上も、コクコクと頷いていた。
「あの、ところで婚后さん」
「はい?」
「さっきの初春のパンツの色の例えで、水色が出てきたのってなんでなんですか?」
「べ、別に深い意味はありませんわ」
光子は後ろ手でスカートの裾を押さえながらそう言い返した。今日自分の履いている下着の色、というだけのことだった。
「さて、授業はこれくらいでよろしい? 一応、今日はこの後少しだけ佐天さんの実技を見る予定ですの。明日はシステムスキャンですし」
「あ、確か私たちの学校じゃなくて、別のところでやるんですよね?」
「うん。柵川中じゃ、もう設備的に無理だからって」
柵川中学にはレベル2までしかいない。料理用のグラム秤で人間の体重を測ることが出来ないように、佐天の能力を測るには設備があまりに小さすぎるのだ。
だから、ちゃんと強能力者以上の能力を測れる場所に測定を依頼し、測定を行うことになったのだった。
「何処に決まったんですか?」
「常盤台だよ」
「えっ?」
「先生がさ、常盤台の寮監と知り合いらしくて。常盤台を受験する学生の測定だったら、むしろ喜んで引き受けるって」
転校試験の受験者の能力を吟味する機会が増えるので、メリットが常盤台側にもあるのだった。
「じゃ佐天さん、明日は常盤台に行くんですか?」
「うん。婚后さんが案内もやってくれるって言うし、百人力だよね」
「私は佐天さんだけの案内ではありませんわよ。測定参加者みなさんの、ですわ。たぶん明日は佐天さんのライバルもいらっしゃるでしょうね」
そう焚きつけて、光子は佐天の顔を見る。
「比べても仕方ないって、婚后さんがよく言ってるじゃないですか。あたしそんなに賢くないし、やれることを、やるだけですって」
そう告げる佐天の顔は、自然体でありながら自信を感じさせるものだった。

****************************************************************************************************************
あとがき

量子力学の観測問題に関する解釈については、以下の参考文献で勉強しました。あまりググっても手に入らない多精神解釈についてもよく載っているので、けっこうお勧めです。基本的に数式は出てきませんから、量子力学の概念的なものにさらっと触れたい人もどうぞ。

『量子力学の哲学 非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』
森田邦久 著
講談社現代新書(2011)


観測とは何か、あるいは心とは何か、といった哲学的な問題に関しては、高校生の頃に倫理の先生が推薦していた以下の本で勉強しました。高校生で充分理解できる平易な文章でありながら、結構深い内容だと思います。これをきっかけにニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』やカントの『永遠平和のために』を読んだりと、色々影響を受けた本でした。カンペキに高二病ですねw

『哲学の謎』
野矢茂樹 著
講談社現代新書(1996)




[19764] interlude16: 師匠の彼氏
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/09/04 23:03

「佐天さん、それくらいで結構ですわ」
「あ、はい」
光子の声で、佐天は集めていた渦球を慎重に歪ませていく。最近佐天が取り組んでいるのは、渦を開放するときの手続きの改善だ。
等方的に圧縮空気とエネルギーをまき散らすのでなく、両刃槍のように互いに反対向きのベクトルを持った二箇所の噴出口に絞って、開放していく。そうすることで、出口を絞った分威力を増加させるのが目的だ。
本当は出口は一箇所に絞りたい。だが二方向に出口を作る様式以上に、一箇所からの開放は形状としての対称性が低く、制御が難しかった。
水風船の上下に穴をあけたように、率直に言ってしまえばみっともない感じで、空気が漏れ出た。
「ふぅっ。えと、こんな感じです」
「悪くはありませんわね」
光子のコメントは成長の跡を見て取ってのものだろう。そうでなければ、こんな不細工な結果に悪くはないなんていえないはずだ。
とはいえ、確かに成長しているのも事実ではあった。
「集められる気体の量や密度の伸びに比べると、この制御はなんだか苦手な分類のようですけれど、それでもレベル3としては悪くないでしょう。緊張で失敗でもしない限り、明日のことはあまり悲観することはなさそうですわね」
「はい。ありがとうございます」
「では、今日はこんなところにしましょうか。初春さんも待っていることですし」
光子が傍で眺めている初春に視線を移すと、初春は二人にパタパタと手を振って応えた。
「あ、私のことは気にしなくていいですよ。こないだも見てましたけど、改めて佐天さんの能力、すごいですね」
「へへ。ちょっとは、能力を利用して色々やれるくらいにはなってきたからね」
「あれはちょっとどころじゃなかったですよ、佐天さん」
つい先日のことなのだ。まだ鮮明に、初春は覚えていた。
人間の身長の何倍もあるような大型工作機械を相手にして、それを破壊してのけたこと。
そしてあの御坂美琴の超電磁砲<レールガン>のエネルギーを丸ごと、自分の渦に取り込んでしまったことを。
そんなこと、普通ならレベル3でも4でもできっこない。
レベルだけでは測れない佐天の凄さを、初春は感じていた。
「佐天さんを見てたら、私も頑張ろうって気になってきます」
「へへ。でも初春が触発されたのはむしろ、春上さんの方じゃないの?」
それを佐天は察していた。同い年だけれど、なんとなく、姉と妹に近いような立場の差がある二人だ。初春が負けられないと思うのはむしろ春上に対してな気がする。
問われた初春は、少し気恥しそうに笑って、視線を外した。
三人がいるのは人通りの少ない河原だ。別に必要ないくらい佐天は伸びていたが、佐天が光子に最終チェックを請うたのだった。
「ちょっと、焦っちゃうこともあるんですよ」
「え?」
不意に初春がそんなことをこぼした。
「佐天さんは自分の道を見つけて伸びてるし、春上さんもどんな風になりたいかの方向は決まってるじゃないですか。それに比べると、私、どんなふうになりたいんだろうって思っちゃって」
佐天の伸びが見たくて付いてきた初春だったけれど、文字通りレベルの違うその能力の規模を見せつけられて、何も思わないでは居られなかった。
その初春の悩みを、佐天は心の中で淡く笑った。そんな優越感が綯い交ぜになった気持ちを初春には見せたくなかったが、同じ悩みをかつて自分も感じ、光子にぶつけたことがあったのを思い出したのだった。
「こないださ、婚后さんにいろいろヒントもらったって言ってたじゃん」
「え?」
「あの日、なんか初春嬉しそうだったし、やっぱりそういうところにヒントってあるんじゃないかな」
「確かに視野が広がった気がして、いろんなことを考えるきっかけにはなったんですけど……。でも、佐天さんみたいには、なかなか伸びませんよ」
「……」
苦笑めいた表情の中に薄く劣等感と悔しさを含ませて、初春はそう言った。
「あたしは、ズルしてこうなっただけだから」
「そんなことないですよ。幻想御手(レベルアッパー)を使った人のその後って調べたことありますけど、佐天さんみたいに伸びた人、他にいませんから」
巷に広がる情報では、あの事件をきっかけにレベルを上げた人間の話はほとんどなかった。そういう危険な裏技を求める学生が増えるのを危惧して、情報が意図的に隠されているのかもしれない。そう思ってもっと深いところまで初春は探したことがあったが、調べた限り、佐天はかなり特殊な例のようだった。
「佐天さんを育てたのは、婚后さんですよ。きっとあの事件がなくたって、佐天さんはここまで来ていたと思います」
「そうかな」
「いつも陽気で嫌なことはすぐ忘れる佐天さんらしくないですよ」
「うん。ありがと、初春」
「私がどれほど力になれたのかわかりませんけれど、きっと卑下することなんてないのですわ。ところで、初春さん」
「はい」
「あれから、何か変わりはあって?」
「えっ? いえその、あまり……」
光子と、春上と一緒に能力の話を聞いたのは数日前だ。
その時に自分のこの先について光明が見えた気もしていたのだが、だからといって急に伸びることはなかった。
『演算能力は高いけれど、センスがない』
それが初春に与えられている評価だった。
あなたは秀才ですと言われながら、実際に与えられたレベルはたったの1だ。
劣等感を初春が持っていないと言えば、嘘になる。
「佐天さんが異常だったのは事実ですわ。だから、別に大きく変わったことなんて無くて普通ですわよ。でも例えば、ほかの誰にもわからない自分だけの現実というのが、本当はどんな姿なのかを見つめ直すのは悪いことではありませんわ」
「え?」
「本当に深いところまで、初春さんを理解できる人間は、初春さん自身以外にはいませんわ。やっぱり、自分は熱、または温度を制御する能力者だと、そうお感じになっていますの?」
どうだろう、初春には、わからなかった。
そこに何かしら、何でもいい、確信が得られていればもっと自分は伸びている気がする。
エントロピー、あるいは情報。
自分が本当に見つめているものはそれではないのか、と光子に指摘されてから、
初春はますます、自分がどんな能力者なのか、わからなくなっていた。
「あのさ初春」
「佐天さん?」
ためらいがちに声をかける佐天の目が、余計な言葉ではないかと疑いながら、それでも何かを伝えたそうにしていた
「よかったら、どんな風に初春が能力を発動してるのか、教えてよ」
「えっ? あの、どうしてですか」
「初春のこと、もっと知ってみたいなっていうのもあるし、それに、そうやって自分を見つめ直すのって結構アリだと思うんだ」
低レベルな能力者同士の集まる柵川中学のような学校では、あまりそういう話というのはしないものだ。
人に言うのが恥ずかしい程度の、弱小な力の持ち主ばかりだから。
「……あの、たぶん佐天さんや婚后さんと違って、すごく簡単なことしかしてないんです」
初春はまず、そんな予防線を張った。
きっとこの二人は自分のことを笑ったりはしないだろう。それでも、言わずにはいられなかった。低能力者は皆同じだった。
「設定が下手なので手で触らないと駄目なんですけど、こうやって触ることで、触った物の表面に境界を作るんです」
「境界?」
「あ、物理的な意味じゃなくて、あくまで私の演算上の設定です。私が演算するのは、物体をくるむように作った閉じた曲面上だけなんです。その曲面を、熱が通り抜けないように検知して、排斥してます」
「へー……」
佐天はその能力の性質上、『境界』にも『面』にもとんと疎かった。
能力が及ぶ果て、つまり渦の外殻というのは、自分の演算の限界によって自ずと決まるものであり、
初春の言ったように明確に設定するものではない。
「それを簡単にやってのける人って、私に言わせれば羨ましくて仕方ないんですけれど」
「え、どうしてですか?」
「いえ、別に普通のことですし、私が苦手なだけですけれど」
光子はそういって、手をかざした。
その、固体の何もない虚空に、気体を集める面を設定し、空気を集める。
「あ……」
初春が不思議そうに首をかしげる隣で、佐天は何が起こったのかを感じ取っていた。
ただ、大したことはなさそうだった。光子が本気で空気を集めたら、こんなレベルじゃない。
屈折率が変わって、空気レンズが出来上がるはずだ。
「婚后さん、固体表面じゃなくてもできるんですか?」
「……これが限界ですわ」
直後、バシュッという気の抜けるような音がして、僅かな風が初春の花飾りと佐天の髪を揺らした。
少し光子が拗ねた感じだった。
「私は気体を集める面というのを設定して、そこに気体を集め、放出する能力者ですけれど、この面というのを、固体表面以外の場所に設定するのが非常に苦手なんですの。だから、1トントラックを空に飛ばすくらいは造作もありませんけれど、虚空に突風を生み出すのは、大の苦手なんですわ。空力使いですのにね」
初春は佐天と一緒に、そんな自分の弱点について話す光子をあっけに取られて見ていた。
それは純粋な驚きだった。まさか、こんな簡単でくだらない設定すら、できないレベル4がいるなんて。
自分と違って、とんでもない量の物質を操れるし、とんでもない体積の空間を制御できる人なのに。
「ふふ。驚きました?」
「あ、はい……。その、レベル4の人でも苦手ってあるんだなって」
「境界面の制御なら初春さんのほうが上かしら?」
「えっと。はい。それは私、問題ありませんから」
控えめに言ったけれど、初春には明白に自分のほうが優れている自覚があった。
光子は今までの観察結果から考えるに、基本的には平らな表面に気体を集めるのだろう。
きっと極端な球面は苦手なはずだ。自分は、それと逆で複雑な境界面の設定だって何の造作もない。
「話を逸らしてごめんなさい。それで、境界面を設定するのはいいですけれど、そこからどうやって温度を保ちますの? 熱の検知って仰いましたけれど……」
「そこが全然ダメだから、レベル1なんですよね。例えばこないだ春上さんのお見舞いで持って行った鯛焼きがあるじゃないですか」
「ええ、美味しかったですわね」
「え? 婚后さん食べたんですか? 初春、ずるいよ」
「佐天さんはすぐ買えるじゃないですか」
佐天の非難を、初春は軽く一蹴する。話の腰を折ったのが分かっているからか、佐天はそれ以上は口を挟まなかった。
「それで、鯛焼きって出来立ては周りの温度より高いじゃないですか。放っておくと室温との差を利用して熱が外に流れちゃうんですけど、私は設定した境界面に触れた部分の温度が感覚的に分かるので、熱の流れを演算するときに、無理矢理境界面の温度を室温と同じってしちゃうんです。そうすると、温度差がないから外に熱が流れる理由を失うので、中身の温度は保たれます」
「成る程」
その説明を聞いて、割とクリアに、佐天と光子は初春の演算を理解できた。
温度分布も、熱の流れも、どちらも流体を解く者には必須の知識だからだ。
「でもその方式で、輻射熱の散逸って演算できるの?」
素朴な疑問を、佐天は初春にぶつけた。初春は首を横に振り、答える。
「出来ません。といっても、そもそも手で触れるくらいの温度までしか制御できない私にはあまり関係ないんですよね」
「あと、完全な固体はいいですけれど、鯛焼きみたいに水分などの蒸発がある場合も大丈夫なんですの?」
「いえ、そこが今、一番の弱点なんです」
輻射熱は、光として物体から逃げていく熱だ。
火に手をかざして暖を取るときには、この輻射熱を手に受けている。まさか燃えた物質に直接触れて暖を取る人間はいまい。
温度は熱を伝える分子の運動エネルギーの強さだ。だから、物質ではなく光が伝える輻射のエネルギーには温度というものはない。
それ故に、初春の設定した境界面を通過するときに輻射熱は検知できない。エネルギーは保存せず、中身は温度を下げていく。
この問題は『定温保存』と名づけられた自らの能力にとっての大きな欠点のように見えるが、実態としては、室温程度の物質が出す輻射熱はごく小さいので、初春は問題にしていなかった。
むしろ問題は光子の指摘した、物質の流れを伴う熱の散逸だった。
鯛焼きに含まれた水分は、鯛焼き自身の熱を奪って気化し、逃げていこうとする。
境界面でこの物質の動きを検知し、ベクトルを操作して元の鯛焼きへ戻せばいいわけなのだが、初春にとっては、これが厄介な問題だった。
熱、つまりはエネルギーだけならいいのだ。温度を初春は感知し、操れるから。
だが物質の流れがそこに加わると、初春のキャパシティを超え始める。
境界面をまたごうとする質量の流れとエネルギーの流れ、この二つを同時に解くのが初春には困難だった。
御坂美琴のような『場』を操る能力者と、春上のような精神系の能力者以外は、ほとんど誰しもがこの両方の流れを難なく計算できないといけないのに。
それが、初春をレベル1に留まらせている理由だった。
「流体屋さんに言わせれば馬鹿みたいなことだと思うんですけど、質量流と熱流を同時に解くのが、すごく苦手なんです」
「うーん」
「普通の空力使いなら、そんなこと問題なくこなしていますわね。確かに」
含みのある光子の言葉の真意は、こうだった。
佐天はあまり、熱のことで困らない。操っている空気の粒の運動エネルギーがそのまま温度になるからだ。
そして光子は気体の流れを直接制御しない、要は「ぶっ放す」能力者なので、あまり関係ない。
まあ、どちらも空力使いとしては異端ということだ。
「色々演算式はいじってみて、改良する努力はしたんですけど、うまく行かなくて」
「まあ、改善というのは失敗がつきものですけれど……」
少し、言うべきかどうかを光子は逡巡した。
今までの初春の努力を否定するようなことは、良くないかもしれない。
光子は全く違う系統の能力者だから、助言が初春のためになるとは限らないからだ。
だけど、感じていることを伝えなければ、初春にプラスになることはない。
「例えばなんですけれど」
「はい?」
「どうして質量と熱、エネルギーは別物だとお考えなの?」
「どうして、って言われても……。あ、流石に特殊相対性理論の式くらいは分かりますよ?」
たぶん、ずっと前から佐天より勉強家なのだろう。初春はあっさりとそう言った。
特殊相対性理論。エーテルを物理から排除したその理論はその最終的な帰結として、極めて美しく、シンプルな式を打ち立てた。
エネルギーは質量と等価である、ということを指し示したその式は、やがてウランの核分裂反応という現実の例が見出されたことで、原子力を利用した爆弾と発電施設というテクノロジーを人間にもたらした。
とはいえここではそんな物騒な話は関係なくて、物質も究極的にはエネルギーなんだから、質量流と熱流などと分けずに、全てエネルギーとして扱って解けと言っているのだった。
もちろん流体工学や伝熱工学の常識から言えば暴論もいいところだが、そういう常識ばかりではうまく行かないのが能力というヤツだった。
「初春さんの素質が空力使いや水流使いに近いなら、普通に熱と物質の流れを解けば良いと思うんですけれど。……ご自分でそう思ってらっしゃる?」
「それが分かったら苦労はしないんですけどね」
「ごめんなさい。その通りですわね」
かすかに自虐がちらつく初春の苦笑を見て、光子は反省した。
レベル4とレベル1の人間が、能力についてあれこれ話すというのは、きっと心穏やかではいられないこともあるだろう。
「役に立つかは分からないですけど、世界の見方について、時々考えることがありますの」
光子は、視点を変えるようにして、そう切り出した。
「この世に本当に存在するものって、なんでしょうか?」
「え?」
「例えば人間が、直接に感じられるものは『物質』と『力』ですわよね。だけれど力を積分することでポテンシャル、つまりは『エネルギー』になる。そしてエネルギーは『物質』と等価だとアインシュタインによって示されました。『物質』『力』『エネルギー』一体これの、どれが本質でしょうか?」
「……なんか、哲学っぽいですね」
「高度な科学技術は魔法にしか見えない、と喝破した人がいましたわね。高度な科学理論は哲学にしか見えないものですわ。きっと」
そう言って、光子は足元の石を拾い上げた。それを川に向かって投げる。
水面に触れる直線で、突然の加速を見せた石は、何度も何度も水面を跳ねて悠々と対岸まで渡りきった。
「私は、エネルギーを本質と見る能力者ですわ。私は力と質量をあらわに解かないといけない運動方程式を使いません。エネルギー、そして統計と確率。そういう概念で世界を見る能力者です。一方佐天さんは『力と質量』の典型ですわね。ちょっと話は逸れますけれど、きっと春上さん達精神系の能力者にとっての世界の本質は『精神』なのでしょう」
「じゃあ、私にとっては……」
どれだろう。なんとなく、エネルギーは近い気がする。
光子は、答えを溜めるかのように、口をつぐんでこちらを見つめていた。
「唯情報論って、ご存知?」
「えっ?」
「20世紀に生まれた物理学の新理論は、人類が持っていた世界観そのものを塗り替えるようなインパクトを持っていました。唯情報論は、統計力学が最後に示したその新しい世界観のうちの1ピースですわ。力や物質、エネルギーと呼ばれる物質世界のあらゆるものは、『情報』と等価である。この世界に唯一つある本質、それは情報である、という考えですわね。発想が逆説的というか、いろいろ批判もありますけれど」
空気には、暖かいところと冷たいところがある。圧力の高いところと低いところがある。
そこには、たしかに情報がある。違う性質を持つ場所があるということは、そこに情報があるということだ。
光子の言う言葉が、概念が、やけに心に引っかかる。初春は夏の川原の熱気に汗ばんだ手を握り締めて、思考に没頭する。
咀嚼できない。理解できない。そのまま自分に適用できない。だというのに、無視できない。
ただ無表情で、何かを飲み込もうとする初春を、佐天はじっと見守っていた。
「たとえば量子力学は、シュレーディンガー方程式の解である『波動』とは何か、という疑問に答えを出せていません。複素関数である波動の絶対値を二乗すれば、存在確率分布という物理的意味を獲得しますけれど。でも、世界の本質は物質である、という唯物論的な考えを止めて、世界の本質は情報だと思えば、波動とは情報そのものであると捉えてしまえます。これはまあ、詭弁だと私も思っていますけれど」
「……」
あまり初春は量子レベルの物理に踏み込んだことはない。そんな細かくて厳密な計算をしたら、実在世界における計算規模が小さくなる。
「ごめんなさいね、初春さん。それに佐天さんも」
「え?」
「ごめんなさい、って、私もですか?」
「私も、って。今日は佐天さんのために集まったんじゃありませんか。初春さん。あれこれ沢山と話をしてしまいましたけれど、あんまり深刻に受け止めなくて結構ですわ。私が尊敬している先生の言葉ですけれど、十を聞いて三くらい理解してくれればいいんですのよ」
「あ、はい。その、ありがとうございました! ちょっと自分の中で整理できてなくて……。でもすごくためになりました! これをヒントにして佐天さんみたいに伸びたらいいな、って思うんですけどね」
腰をしっかりと折って、初春は丁寧に光子にお辞儀をした。とても好感の持てる態度だった。
ただその後で見せた苦笑は、光子にも苦笑を誘うようなところがあった。
佐天のように、は無理だろう。自分で導いておいてなんだが、もはやこの状況は、奇跡と言っていい出来だ。
一ヶ月に届かないこんな短期間で、レベル0が3にまで肉薄するなんて。
「佐天さんも、すみません。本当はもっと佐天さんに時間を割いてもらうべきだったのに」
「気にしなくていいよ初春。あたしもそんなにじっくりチェックして欲しいわけじゃなくて、やっぱり、最後に婚后さんに励まして欲しいなー、って思ってたところもあるし」
「あら、私をそういう軽い気持ちで呼び出しましたの? 明日のこともありますし、あまり暇な身ではないんですけれど?」
「えっ? あ、いやいや、そういう意味じゃなくてですね……」
あわてて佐天が弁解するように、こちらを見た。勿論冗談めかして言っているだけだ。
ちょっと呼び出されるだけでも、嬉しい。やっぱり頼られるのは光子としても悪い気がしないし。
「学校の先生には悪いですけど、やっぱり、あたしの能力を引き出してくれた人は婚后さんですから。その人に、ちょっとでいいから見てもらえるって、なんだか安心するんです」
「そう言ってもらえると、弟子を取った甲斐がありますわ。ふふ。私も楽しかったから気になさらないで、佐天さん」
「はい。ありがとうございます。あと、初春の能力の話が出来たのも、面白かったです」
きっと、一ヶ月前にはそんな風には思えなかっただろう。
光子の言うことなんてほとんど理解もできなかっただろうし、レベル1の初春の能力の話を、レベル0だった自分は聞く気になれなかったかもしれない。
「佐天さんにはあっという間に追い越されちゃいましたけど、頑張ってまた追い抜き返しますよ」
「お、じゃあライバルは初春かなっ」
佐天と初春は、そういって互いに不敵に笑いあった。
その心の奥には、互いに気遣いがあったことは否めない。
だがこんな感じに笑い合えるのは、嫌じゃなかった。
「ね、初春」
「はい?」
「初春の能力のこと、あたしあんまり聞いたことなかったじゃんか」
春上と光子に能力についてあれこれ説明したすぐ後くらいになって初めて、佐天も初春の能力について教えてもらったのだった。
だけど、その時もそこまで詳しく話してくれたわけじゃなかった。
「まあ、変な能力だって自覚はありますし」
常盤台を受けようか、という佐天の能力とは違う。
初春の能力は温度というごく自然でありふれた変数を扱うものながら、他に同じような能力者は滅多にいないという変り種なのだった。一般的な能力を好む常盤台とは、あまり相容れないほうだろう。
「初春の能力ってさ、ケータイとかでも温度を保てるの?」
「はい? そりゃ出来ると思いますけど」
携帯電話は、普通に考えて初春が手で触れる温度だ。何の問題もない。
ただ、わざわざ『定温保存』などしなくても、もとから周りの温度とほとんど代わらないのに、と初春は首をかしげた。
素朴な感じに問いかけられた、その佐天の質問の意図を理解していなかった。
「ケータイの中には電池が入ってて、ボタンを押せば電気エネルギーを消費して通話とかゲームとかするわけじゃん? その時に出る熱って、どうなるのかなって。熱が出て、外にそれが逃げなかったらケータイの温度上がるよね?」
「えっと、そう言われてみたらそうですけど」
「そういう時ってどうなるものなの?」
「……私、あまり感度が良くないので、たぶんそれくらいの熱だったら温度なんて上がらなくて、ほとんど分からないと思います」
「じゃあ、熱分布があるものを能力で保護したら、どうなりますの?」
「え?」
二人の質問は流体を扱う能力者にしてみたら当然の疑問だった。
佐天の質問は、エネルギー保存則という物理の常識に対する質問だ。自分自身が発熱するものを『定温保存』するというのは、物理としておかしい。
だけど、境界面での制御しか考えていなかった初春は、あまり深く考えてこなかったことだった。
そして光子の質問には、もっと深い意味があった。
温度にムラがあるものを『定温保存』したら、そのムラは保たれるのだろうか。
その疑問の奥にあるのは、エネルギーではなくエントロピーの保存。
温度が均一になってもエネルギーの保存則は満たされるが、エントロピーは増大することになる。
『定温保存』で冷めかけの鯛焼きを保護したなら、皮が冷めていて中がホクホクの状態は保たれるだろうか。それとも温度は均一になるだろうか。
それは初春の能力の本質を理解する上で、重要な情報になるだろうと光子は思っていた。
ただ、質問に対する初春の表情は、すこぶる芳しくなかった。
「……わからないです。私、境界面以外で温度とかを見るのがうまく行かなくて」
文句の一つも言いたい気分ではあった。こちらはレベル1なのだ。
アレもこれも分かるような、便利な能力なんかじゃない。スプーン曲げ位に、役に立たない能力のほうが多いのがレベル1なのだ。
『定温保存』と名づけられたこの能力も、大して優れたものじゃない。
何時間も能力を維持していると、徐々に熱は漏れて温度は室温に近づいていくし、境界面での温度検知だっていい加減なものだ。
0.1度くらいの小さな差を検知することは出来ない。能力で作ったセンサーなんてそんな程度の精度だった。
何かを調べようにも、あまりにコントロールが稚拙すぎて、本質が誤差に完全に埋もれてしまっているのだ。
それもまた、レベル1の能力者が能力を伸ばせない原因の一つだ。
「初春さん」
だが、光子はそんな事情に、耳を傾けていなかった。
脳裏を巡るのは、レベル1の人の能力にあれこれと関わって嫌な思いをさせるかもしれないという、懸念。
光子はそれを、そっと心の隅に追いやった。劣等感とは、誰だって付き合わなければいけないのだ。
たとえそれが1パーセント以下の可能性にかける行いであっても、やらないよりは、やるほうがいい。
だから、顔を上げて初春のほうを、じっと見つめた。
「あの、婚后さん?」
「今日これから、お暇?」
「え?」
「よろしかったら、うちに来ませんこと?」
唐突な光子の言葉に、晩御飯を食べようという提案だろうかなんて気楽な予想をした初春の予想とは裏腹に、光子が脳裏に思い浮かべているのは、つい最近、黄泉川が貰ってきた電卓だった。
勿論その辺で売っているようなものではない。
警備員<アンチスキル>という役職に付いた黄泉川は、他の教職員よりも優遇されていて、いいマンションに住んでいる。
そしてそこには、定期的に学園都市最新の面白い製品が送られてきて、モニターとなったりするのだった。
光子が気にしている電卓も、その一つだった。
「あの、急にどうしたんですか」
「超伝導回路で作った、発熱量がほぼ理論下限値になる超省エネ電卓なんてのがありますの」
「ああ、最近市販化の目処がたったって噂の計算機ですよね」
「ちょっと、それを試してみたくて」
「あの、それを私が使えばいいって話でしょうか……?」
「初春」
話を遮るように佐天が声をかけた。
「どうしてもの用事がなかったら、行ったほうがいいよ」
「え?」
「あたしも行くから」
初春を促すように、佐天は微笑んだ。
光子の提案を呑むべきだと思った理由を、佐天は説明しにくかった。直感に近かったからだ。
だが、きっと初春にとって、プラスになるような気がしていた。
それは自分を導いた人への信頼だけではなくて、上手く説明できないけれど、
光子のやろうとしていることに意味がありそうだと、心のどこかで感じていたのだった。





インデックスは、だらっとソファに寝そべったまま、当麻を見上げた。
アニメが終わって余韻に浸りつつ、空腹を訴え始めた体を休めているのだ。
ご飯を作ってくれる当麻はといえば、なんだか良く分からないけれど光子と電話で話をしているらしかった。
「わかった。じゃカレーでいいよな。とりあえず鍋二つ分作るから。材料は大丈夫だ。……ん。じゃあすぐ作りはじめるから。炊飯器も山ほどあるし、心配要らない。それじゃ」
当麻は電話を切ると、少し呆れたようなため息をついて、台所を見つめた。
「とうま。どうしたの?」
「光子がさ、友達を連れてくるって」
「え?」
「なんかよくわかんないけどさ、うちでやりたいことがあって、ついでに晩御飯も食べてくらしい」
「ふーん」
「ほら、お前もこないだ会った佐天さんと初春さんだって」
「えっ? あの二人が来るの?」
それはちょっと嬉しかった。あんまり喋ったわけじゃなかったけれど、特に佐天には浴衣を着付けてもらった。
一緒に喋って遊べるのは、悪くない。……とそこまで考えて。
「でもとうま。カレー足りなくなるよ」
「……5リットル鍋いっぱいのカレーと5合炊きの炊飯器をフル活用して、それでようやく一食にしかならない普段のウチをおかしいと思いなさい。心配するな。今日は鍋二つと炊飯器二台だ。なんとかなる」
二つ目の鍋は小さいからそこまで大量には出来ないが、炊飯器は大丈夫だ。
この家の主が炊飯器であらゆる料理を済ませようとする人だったおかげで、台数だけは二台どころではない。ご飯だけは同時に三十合くらいは炊ける。
「二人も増えるけど、それで足りるかな?」
「お前みたいな馬鹿食いはしないだろ。あの二人は」
「馬鹿食いって人聞きが悪いんだよ!」
「平均的な男子高校生の上条さんより沢山食べるお前にはピッタリの言葉だろ」
当麻はインデックスの相手をしつつ、台所に向かう。
食材は充分にある。とりあえずはフル回転で野菜を切って炒める事になる。お腹を空かせた女子中学生達のために、当麻は調理を始めた。





「お、お邪魔します……」
扉を開けてにこやかに微笑む光子の隣を、佐天は恐る恐るすり抜けて中に入る。
光子の寄宿先がどこだったか、気付いた故の反応だった。
表札には、「黄泉川」と書いてあった。それだけじゃ勿論分からなかっただろうけれど、初春から説明されて、ここが有名な警備員の家であるとついさっき知ったのだった。
「先生はまだ帰ってきてらっしゃらないようね」
「そうなんですか?」
「靴がありませんもの。まあ、最近はほとんど夕食時には帰ってきませんけれど」
「へー……」
後ろで光子が扉を閉めた。中からは、何かを炒める音がする。
夕飯はカレーで良いかと聞かれたから、きっとカレーの準備なのだろう。
そこで佐天は気になった。誰が料理をしているのだろう?
確かインデックスとかいう変わった名前の女の子が一緒に暮らしているらしいから、あの子だろうか。
「お、いらっしゃい」
「え、えっ? あの。こんにちわ」
初春は、廊下の先からひょっこり顔を出した当麻に声をかけられて飛び上がった。
だってまさか、男の人がいるなんて。
「……婚后、さん?」
「はい?」
混乱して廊下ですっかり足を止めてしまった初春の隣で、佐天は困惑気味に光子を見つめた。
だって、こんなの、聞いてない。
っていうか、これは果たして中学生に許されていい人生だろうか?
「彼氏さんと、同棲中だったんですか?」
「ち、ちがいますわよ佐天さん。というかここは黄泉川先生の家ですわ。当麻さんは、うちで暮らしているというわけではありません。それに、インデックスもいますし」
「……みつこ。私をとうまのおまけみたいに言わないで欲しいんだよ」
同棲中という言葉が嬉し恥ずかしくて、光子は顔を赤らめながらそっぽを向いた。
だが当麻の様子はその説明には似つかわしくなく、明らかに台所仕事に慣れていた。
当麻もそうだが、ジトリとこちらを見つめるインデックスの立ち居地がさっぱりわからない佐天と初春だった。
「でも、彼氏さん……上条さんでしたっけ、なんか専用っぽいエプロンしてますけど」
「あーうん、まあ、ウチで料理に一番慣れてるの、俺だしな」
「さ、最近は私も頑張っていますわ」
玄関からは見えないけれど、台所の片隅には、当麻と色違いのエプロンが掛かっているのだ。
光子は硬直する二人を促し、リビングへと案内した。
「ひさしぶりだね、るいこ、かざり」
「え? あ、うん。久しぶり」
「お久しぶりです。えと、インデックス……さん?」
初春が自信なさげに名前を呼んだ。まあ、何せ辞書に載っている英単語そのままの名前だ。
ただ、いかにも、と言う感じでうなずいた感じからしてこの修道服の少女は間違いなくインデックスさんなのだろう。
「今日はどうしたの?」
「なんだか婚后さんが初春の能力開発で試したいことがあるからって」
「ふーん」
興味あるのかないのか、良く分からない相槌をインデックスが打った。
もしかして、能力開発のこともよく知らないのだろうか。返事からそう佐天は感じていた。
一緒に暮らしているということは光子から聞かされているが、どんな境遇の子なのか、二人は全然知らないのだった。
「当麻さん、お手伝いは……」
「ん? 大丈夫だよ。だいたいもう終わったし」
「あっ、あたしもお手伝いを」
「いいっていいって。何かしたいことがあって光子が連れてきたんだろ? お客さんはゆっくりしていってくれよ」
当麻が苦笑して、佐天にそう言った。実際もうすることはほとんどない。炒め終われば、カレーは煮込むだけだ。
佐天も料理は得意なほうだから、手伝うことが確かになさそうなのは見ていて予想が付いた。
「ごめんなさい、当麻さん。全部させてしまって……」
「気にしないでいいって。なんか、光子が友達連れてきてるの見るの、楽しいし。いつもと違う感じが」
「もう。恥ずかしいですわ」
ちょっと嬉しそうな当麻の表情を見て、つい、光子は口を尖らす。
そんな光子の仕草はこの家では勿論普通の反応だけれど、佐天と初春の前では、滅多に見せるものじゃない。
「……いいなぁ」
「えっ?」
「羨ましくない? 初春」
「はい。やっぱり男の人とお付き合いするって、こういう感じなんでしょうか」
「ちょ、ちょっと佐天さんも初春さんも……。もう」
羨ましいに決まっている。
優しくて理解のある彼氏さんが、家に帰ったら頑張ってご飯を作ってくれているのだ。
しかも光子がからかわれたり拗ねたりする時のイチャつきっぷりが、これまたイラッとするくらい幸福そうなのだ。
中学生の少女達にとって、目の前の光景は、かなり得がたく、また垂涎の的であるのは間違いなかった。
彼氏の当麻がどんな人かを詳しく知っているわけじゃないけれど、自分達と、春上やその友達が危険な目に逢っていたあのとき、助けに来てくれたのは、上条だった。
だから、二人の中での当麻の評価は悪くないし、むしろ結構カッコイイ側に分類されている。
「黄泉川先生がいないときって、やっぱゆっくりイチャイチャしてるんですか?」
「べべ、べつにそんなことはありませんわよ。インデックスもいますし」
「……見栄を張っても駄目なんだよ、みつこ。毎日毎日、ちょっと時間が空いたらすぐとうまとベタベタしてるくせに」
「インデックス!」
「とうまに最近ひきずられすぎなんだよ、光子は。エッチなのはよくないよ」
「もう! どうしてこんなところでそういう事を言いますの」
「ねえ、インデックス、さん」
「インデックスで呼んでくれていいんだよ、るいこ」
「じゃあ、インデックス。婚后さんて、彼氏さんの前だとどうなの?」
「すっごい甘えてばっかりだよ」
「……お願い、インデックス。もうそのあたりで許して」
楽しげに次々と暴露話をするインデックス。顔を真っ赤にしてそれを遮ろうとする光子。
そんな光景をドキドキとニヤニヤが半分くらい混ざった顔で見つめる初春と佐天。
……そして当麻はといえば、そんな女の子トークが炸裂する空間で、酷く居心地の悪い思いをしているのだった。
「じゃあさ、上条さんって、どんな人なの?」
「え? とうま?」
「あのー……俺もからかいの対象にされるんでしょうか」
「自業自得なんだよ。いつもいつもエッチなことして! しかも私にも!」
「え」
「ちょーっと待った! それは恥ずかしいとかじゃなくて俺の尊厳に関わる悪口だから! 初春さんに佐天さん、言っとくけど女の子に変なことしたりなんかしてないからな。その、光子以外には」
「当麻さんっ!」
若干引き始めた二人に、当麻は必死で弁解した。
光子は彼女だから、キスは当然オッケーだしお尻くらい触ったって犯罪じゃないだろう。
他の女の子に対しては、少なくとも当麻のほうから手を出して何かを起こしたことはない。
「えっと……上条さんは、インデックスさんとどういう関係なんですか?」
「どうって、とうまは私の大切な人なんだよ」
「えっ……?」
一瞬にして、佐天と初春の空気が気まずいものになる。
だってきっと当麻は光子にとっても大切な人のはずだ。
そして、三人が一緒に暮らしている、というのは。
「妻妾同衾……?」
「え?」
ぽつりと、佐天がそうこぼした。瞬時に意味を理解できなかったのか、インデックスがぼんやりと首をかしげる。
そして少しの時間を置いて、ぽん、と顔が赤くはじけた。
「さささ佐天さん! 何を言ってるんですか!? 失礼ですよ!」
「ちがうもん! そんなことが言いたかったんじゃないもん!」
「そうです佐天さん。インデックスの大切な人っていうのはそう言う意味ではなくてもっと、家族らしいと言いますか」
その点については、光子はそんなに心配していない。
だってこの一ヶ月弱のインデックスの態度を見ていれば、当麻に恋心を持っているわけではないらしいことくらいは分かる。
「あー、コイツは俺と光子の同居人だから。分かりにくい関係だとは思うんだけど、俺と光子は付き合ってて、そこに一緒にコイツが暮らしてるって関係だから。別にそれ以上のことはないんだ」
どう収拾をつけていいのか分からない酷いドタバタを前に、自分へのおかしな誤解をもたれないといいなと真剣に願う上条だった。
「えっと……まあ、婚后さんがそれで納得してるんだし、そういうことなんですよね」
「そうなんだ。頼むから、信じてくれ。そうじゃないと俺の人生がヤバい」
「あはは……」
まあ、こんなに堂々と二股をかけているのなら、確かに大問題だろう。
「じゃあ話戻すね。上条さんって、どんな人なの?」
「とうまはエッチなんだよ」
「話を戻す気ないですねコノヤロウ」
「だってほんとのことだもん! こないだだって私がお風呂から上がったところを」
「だからアレは黄泉川先生がいきなり扉を開けたせいだろ!」
「あいほの裸も見てた!」
「おいばかやめろ! あれは先生が服をちゃんと調えずに部屋から出てきたのが悪い! 俺のせいじゃないぞ! ……なあ。俺のこと、たぶんものすごく評価が下がってるとは思うんだけどさ、お願いだから、不可抗力だったってことを分かってくれないか……?」
なんかもう、二人からドン引きされてもしょうがないような、そんな気に当麻はなってきた。
困惑と苦笑いの混ざった顔をしたまま、二人は曖昧な答えを返した。
「自分は悪くない、って顔をされていますけれど、一体どうやったらあんなに何度も、そういう『ラッキー』にめぐり合われるのかしら。それも、私以外の女の人についても」
「ラッキーじゃないって。毎回めちゃくちゃ怒られてるだろ? 光子やインデックスに」
「怒られて当然です! 私以外の人を見るのが悪いんですわ」
つーん、と口を尖らせて光子がそっぽを向いた。
そろそろ、佐天と初春はこのやり取りに食傷気味になってきたところだった。
はたを見ると、インデックスが言うだけ言って溜飲が下がったのか、ふうとひとつため息をついて落ち着いた口調で語りだした。
「とうまはね、優しいんだよ」
「え?」
「私がどうしようもないことになっていたとき、みつこと一緒に、私を助けてくれたんだ」
「インデックス」
光子がそう呼びかけ、目じりのラインを柔らかくした。当麻は馬鹿みたいに恥ずかしいのでどこかに行きたい気分になった。
だって、別にやるべきだと思ったことをやっただけのことだ。
確かに、結構酷い怪我も負いはしたけれど。
「だから、とうまは困った人だけど、大切な人なんだよ」
「そうですわね。当麻さんは、本当に困った人ですわ」
ふふ、と光子はインデックスに微笑みかけた。
やっぱり惚れた相手を褒められると、嬉しい。
……だが、インデックスはただ褒めるだけでは済まさなかった。いたずらっぽい表情が顔に浮かぶ。
「あと、みつこに優しいのはいつもだよ。私には意地悪ばっかするけど。みつこがご飯を作る日は、絶対に隣で一緒に作ってるし、あいほが帰ってこないうちは、ソファでずっとくっついてるもん。私の前でも、時々キスするし」
「インデックス! もう、何度やめてって言ったらやめてくれますの? 恥ずかしいのに……」
「恥ずかしくて人に言えないようなことをしてるみつこととうまが悪いんだよ」
はー、と。ただため息を漏らすしか、初春と佐天には出来ることがなかった。
「さっきも言いましたけど、こんな同棲生活をやってるって、すごすぎますよ」
「私たちよりも大人だなって思うのも、無理はありませんよね」
毎日、一日の終わりの時間を恋人と過ごすのだ。
その時間の濃さと長さは、きっと普通の中学生・高校生カップルが得られる経験なんかじゃまるで及ばない。
「あたしも、彼氏を作るとか考えてみようかな」
「えっ?! さ、佐天さんがですか?」
「初春妬き餅焼いちゃった? 今まではずっと初春一筋だったから、仕方ないかな」
「わ、私一筋ってなんですか佐天さん」
「今までの態度でわかって欲しいな、飾利」
「もう、変にかっこつけないで下さい佐天さん」
すごく羨ましい関係の光子と当麻だったが、自分が同じような境遇になることには、ピンとこない佐天だった。
そんな光景を見て、上条が大人びた笑いをふっと浮かべた。さらに光子がその横顔に気付いて、微笑む。
そうして、互いの視線に気づきあって少しのアイコンタクトを交わしてから、場を仕切りなおすように、上条が口を開いた。
「……さて、そろそろご飯できるけど。この話はこの辺にして、もう食べないか?」



[19764] interlude17: 世界、この一つだけの花
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:56

作るのは時間が掛かるが、食べるのはあっという間。それが料理というものだ。
見慣れた大食いシスターに加えて、遊びに来た二人も中々の健啖っぷりだった。
普通に食べてもらえるくらいには好評だったことに男子高校生としてほっと胸をなでおろしつつ、当麻は空になった炊飯器と鍋を見下ろした。
「ごちそうさまでした。当麻さん、洗いものは私がしますから、どうぞおくつろぎになって」
「あの、なんだったらあたし達で」
「そうですよ。何から何までしてもらって、その、申し訳ないですし……」
「いいって」
そう申し訳なさそうに言う二人を見て、いい子だな、と当麻は心の中で呟く。
言っても詮のないことだが、一番食べた誰かさんは、満足げにぽんぽんとお腹を叩いているのだった。
こっちを見てすらいない。
「光子。さっき聞き忘れたけど、やりたいことがあってここに皆で集まったんだろ? やっぱりあんまり遅くなってからこの子達を帰すのはよくないし、すぐやったほうがいいんじゃないか?」
「そうですわね。流石に日が落ちきるまでには終わらないでしょうけれど……」
早めの晩御飯だったから、外はまだギリギリ、夕日が顔を覗かせている。
中学生の帰宅時間としては、もうそろそろいい時間だった。
「じゃあ、初春さん。ちょっと試してみましょうか」
「あ、はいっ」
緊張した面持ちで、初春は背筋を正した。
カレーということもあってちょっと食べ過ぎたことを、いまさらながらに後悔する。
光子は何をするのだろうかと探してみたら、当麻に「いいから」と言われ、髪を撫でて貰っているところだった。たぶん、食事の後片付けを当麻にさせたくなくて言い募ったのに、優しくあしらわれてしまったのだろう。
なんというか、お世話になる先輩なのに、可愛らしい。そして羨ましい。
なにも当麻が特別好きなわけではないが、あんな風に彼氏に撫でられるシチュエーションなんて憧れに決まってる。
「ごめんなさい初春さん。それで、これが話をしていた超省エネ計算機、というものなんですけれど」
光子が手に差し出した端末を、佐天と初春は見つめた。
当麻は奥の台所で洗い物を、インデックスはソファで時々こちらを見つつ、テレビにかじりついていた。
「原理を先に説明したほうが良いでしょうね。初春さん、よく聞いて下さいな。分からないことがあればすぐ聞いて」
「はい!」
「超伝導材料くらいは分かるわね?」
「それくらいは。電気抵抗がゼロの伝導体のことですよね? 車輪が浮いてるバイクとかに使われてる……」
「そうですわ」
普通の導電性の物質、例えば銅線のようなものは必ず電気抵抗を持っており、電気を通すと発熱し、エネルギーのロスが起こる。
だがある温度を境として、それより低温では電気抵抗がゼロになる物質というのがある。それが超電導物質だ。抵抗がゼロというのはまさに夢のような性質だが、ネックとなるのは温度で、たいていの物質はマイナス200度以下の超低温でしかこの性質を示さない。
学園都市の外の世界では未だ、液体窒素で冷やさないと超伝導状態にならない材料しか存在しないが、この街では既に、室温で超伝導となる物質が存在しているのだった。
その応用例の一つが超伝導リニアバイクと言うヤツで、なんとバイクの車輪がシャフトと物理的に接触しておらず、磁気で車輪がホールドされているという代物だった。
「とにかく端末からの発熱を減らしたい、という一心で作成された端末だそうですわ。単純に電気が通るだけの部分は全部超伝導材料で構築して、演算に必要な半導体も論理反転に必要な仕事を極限まで減らしたそうですわ。私はどちらかと言うとエンジニア寄りな嗜好を持っていますからつい面白くて話を聞いたんですけれど、値段を聞けばこれが酔狂の産物だということが良く分かりました」
誰も求めていないレベルにまで無駄を削った、超高性能コンピュータ。
それも計算が速いとか軽いとかではなく、エネルギーのロスが少ない方向の改良だ。
はっきり言って、学園都市製の普通のパソコンでもエネルギーロスなんてあってないようなレベルなので、この努力は「売る努力」としては全く無駄と言い切っていい。
「製作チームの自慢、というか自己満足は、理論限界とほぼ同程度のオーダーまで発熱が減っていることだそうですの」
「理論限界、ですか?」
「ええ。計算機は計算をすれば必ず、ある一定以上の発熱を伴います。能力を使わない限り、この理論上の下限を下回ることは出来ません。……まあ厳密に言うとそんなことはありませんけれど、良くある古典的な例については事実です。ここまではよろしい?」
「えっと、その理論上の下限っていうのがどうしてあるか、よくわからないんですけど……すみません」
「謝らなくていいんですのよ、初春さん」
光子が労わるようにそう微笑む。だって、パソコンが熱を出すなんて、当たり前のことだ。
熱のロスを減らし続けてもどこかで限界が来るなんて聞かされても、現実のパソコンはその限界よりもずっと多くの熱をロスしているのだから、あんまり現実味のない話なのだ。
「結局はマクスウェルの悪魔の話なんですけれど、具体例で説明したほうが早いわね。初春さん、ちょっとその端末でプログラムを組んでくださる?」
「はい。どんなのですか?」
「別に何でもいいんですけれど……そうね。メモリの端から順に、数字の1、2、3と値を書き込んでいくプログラムを組んでくださいな」
「え?」
それはつまり、ただの数字の羅列でメモリを埋めてしまうだけのゴミみたいなプログラムだ。
「そして最後に、確認のインターフェイスを出してから、メモリを全部解放する様に組んで頂戴。初春さんなら簡単ですわよね?」
「はあ……それはもちろん、すぐに出来ますけど」
困惑顔で、初春はさっさとプログラムを組む。
どうってことのない繰り返し文が一つと、最後にメモリ解放の指示を出すだけの、ほんの20行のプログラム。実行して0.001秒もあればプログラムは手続きを全て終えるだろう。
流れるような手つきで初春はコードを打ち込む。そちらの作業も、15秒くらいしかかからなかった。
「できました」
「え、もう? なんていうか、初春のそういうスキルはほんとに別格だよね」
「まったくですわね」
光子とて、こんな初歩的なプログラムくらいなら問題なく書ける。
ただそのための時間は、たぶん3分くらいかかるだろう。
「それで、これで何がわかるんですか?」
「今から説明しますわ。初春さん、このメモリに蓄えられたデータは一体いくらでしょうか?」
「えっと……メモリいっぱいいっぱいの数字なので、1テラバイトらしいです」
このサイズの端末なら、普通くらいのメモリ容量だろう。むしろ小さいくらいだろうか。
「1テラバイトということは……1兆ビット強ですわね。室温を27度、つまり300ケルビンとすると、このメモリに蓄えられた情報をエネルギーに換算すると一体何ジュールになるでしょう? 初春さん、計算式はご存知?」
「こないだ言われて、勉強したんで大丈夫です。だいたい25ナノジュールくらいです」
「……ええと、たぶん正解ですわね。さて初春さん、もう一度聞きますわ。このプログラムの演算に必要な最低限の発熱量って、どんな値だと思います?」
ニコリと笑って光子が問いかけた。これほどにエネルギーと情報の話をしてからの質問だ。
その意図は、もちろん初春にも簡単に察せるものだった。
ただ、そのあまりにあっけない事実に呆れた以外は。
「え? もしかして、このエネルギーが下限値ですか?」
「ええ、そうですわよ」
メモリに情報を書き込み、それを解放し、忘れる。
そのために必要な最低限のエネルギーは、メモリから失われた情報量そのものだ。
「なんていうか、ほとんどゼロみたいな熱量ですよね」
「そうですわね。たかだか1テラバイト程度の情報量では、現実世界に影響はほとんどないということですわね」
1グラムの水の温度を1度上げるのに、大体4ジュール必要なのだ。
25ナノジュールというエネルギーはその1億分の1くらいの小ささでしかない。
「さて初春さん。本題に入りましょう。準備はよろしい?」
「はい」
初春が、改めて背を伸ばし、表情を引き締めた。その態度に満足げに微笑んで、光子は言葉を続ける。
「コントロールに難ありの初春さんの能力で、こんな微小な発熱を感知することは可能?」
「無理です」
「そうね。ということはつまり、『定温保存』を発動させながらこのプログラムを実行し熱を生むことは、きっと可能なはずですわね?」
「そう、なりますね」
初春が検知できるより小さな熱の発生を、初春は止める術がない。
「では、それを実際に試してみましょうか」
「え?」
気負いなくそう告げた光子に、初春は困惑を返すほかなかった。
『定温保存』を使ったって、きっとプログラムは走る。そして熱を出す。
だけど、その熱は馬鹿馬鹿しいくらいに小さくて、自分には感知できない。
だから結局、『定温保存』を使っていてもいなくても、同じ結果が出るだけだろう。
そのはずなのに。
「えっと、これを持ったままで能力を発動して、演算させてみればいいってことですよね?」
「そのとおりですわ。簡単でしょう?」
「はい。なんだか簡単すぎて、逆に変な感じがして」
「そうかしら? 物理の実験なんて、シンプルなほどいいものだと思いますけれど」
初春は、手にしたその端末に目を落とす。
普通の端末よりいくらか重たくて、大きい。だがそんなに風変わりなものにも見えないのだ。
だから、自分がいつもと違って、特別なことが出来るなんて思わない。
……そんな期待を持ってしまえば、裏切られたときの落胆が、怖い。
「初春」
「佐天さん」
励ますでもなく、佐天がこちらを見て微笑んでいた。笑みの中には、自分を応援していてくれるような、そんな色があるように思う。
気を利かせてくれたのだろうか、あるいは見たい番組が終わっただけかもしれないが、インデックスがテレビを消した。
たぶんそれに気付いてだと思うけれど、台所の当麻が水道のコックを閉じて、皿洗いを中断した。
初春の集中を削ぐものをそうやって減らしてくれたのだろう。
そんな、周りの変化に気付いてにわかに心が緊張しだす。
「初春さん」
「はい」
「この導き方は、初春さんの本来の能力ともしかしたら違っているかもしれないし、もしかしたらピッタリかもしれません。開発官でもない私の思いつきですから、間違いはあるかもしれません。けれど」
光子が言葉を切った。
そして、噛んで含めるように、初春に最後の説明を聞かせる。
「この端末は、情報処理と物理現象、それらが厳密には分けられなくなるようなシステムですわ。自分が一体何を操り、変容させる能力者なのか、自分だけの現実を良く見据えて、このシステムを『定温保存』して御覧なさい」
その言葉に、初春はコクリと一つ、頷いた。光子のくれたヒントを、自分に染み込ませるように。
そして手にした端末に意識を集中させた。プログラムはもう最後の一ステップまでは終わっていて、あとは、「メモリ消去?」と書かれたメッセージボックスにYESのコマンドを返せば、それでメモリは解放される状態になっている。
0と1が書き込まれた半導体はその情報を忘却し、それはすなわち、エントロピーの増加と、発熱という物理的な変化を世界にもたらす。
それは別に、特別な出来事ではない。
この現象は、見方によれば、電気を通して機械に仕事をさせたから熱が出るという、それだけのことなのだ。
それをわざわざ、エントロピーだと情報だのと難しい言葉を使って、再解釈しているに過ぎない。
だけど、それは徒に難解な言葉を振り回しているわけではないのだと、「世界の見方」をどのように選ぶかはとても大事なことなのだと、薄々初春は悟り始めていた。
多くの人と同じように、普通なやり方で世界を捉えることは、別に大事でもなんでもない。
能力者を能力者たらしめるのは、他の誰とも違う自分だけのヴィジョン、「世界の見つめ方」なのだ。
「……」
よし、と心の中で呟いて、初春は『定温保存』を発動した。
見た目に、何も変化はない。佐天以上に地味なのが自分の能力なのだ。
そして地味だからという理由以外にだって、自分の能力が嫌いな理由ならいくらでもある。
その一番が、その二つ名に反する、能力の不完全さだった。
『定温保存』の境界面、そこで初春はエネルギーの出入りをコントロールしている。だけど、その制御は大雑把で、本当は中身を『定温』に『保存』することなんて、できやしない。
感じ取れるより小さいレベルで少しずつ熱は漏れ出していく。それが低能力者、初春飾利の限界だった。

光子は、集中し始めた初春から視線を外し、台所のほうをそっと見た。
洗いものを中断した当麻が、そっとこちらを見守っていた。その気遣いに、そっと目で礼を言う。帰ってきたのは、優しげな想い人の微笑だった。
隣でそういう仕草に気付いて、羨ましいなあと佐天は心の中でため息をつくのだった。
とはいえ今は初春が頑張っているのだ。そう思いなおし、佐天はすぐに視線を初春に戻す。
「……どうしたの?」
「な、なんでもないです」
初春の顔に困惑のようなものがにじみ出ているのに、佐天は気付いた。
理由は突然にスランプに陥ったためだった。
これまで使えたはずの、あのちっぽけな能力すら発動しない。
理由はたぶん、分かっている。いつも自分がやっていることと似ているようで違うことをやろうとしたから。
例えばバスルームで体を洗うとき、普段は意識なんかしなくてもできているのに、いつもとは違う手順で洗おうと意識した瞬間、元の洗う手順すら分からなくなって、混乱してしまった感じに似ている。
体なら適当に洗ったって構わないけれど、能力はもっとデリケートだ。
「初春さんが今手にしているのは、演算機です。そうですわね?」
「……え?」
光子が、気がつけば斜め後ろくらいに立っていた。戸惑いを隠せずにいると、そっと背中に手を触れられた。
しばしの沈黙。それは光子の逡巡だった。
自分は初春の能力になんて責任を持てない。彼女の「自分だけの現実」をいたずらに歪め、かき回すだけかもしれない。初春という素直な子の女の子に、害しかもたらさない可能性だってある。
だが、光子はそういった懸念に、そっと目を瞑った。それは正しい態度ではないと、もちろん分かっている。
初春の開発官、きっとその人は大量のレベル0と1を抱える柵川中学の先生だろう。忙しいであろうその人に掛け合い、自分の考えを伝え、時間をかけて初春を導くことこそが、きっと王道だ。
だけど光子は、それを待てなかった。能力が花開く「その時」というのがある。
今この機を保留することがいいとは、限らないのだ。だから。
善意で、悪魔の言葉を、光子は初春に囁いた。
「貴女が手にしているそれは、『物理』ではありません」
「どういう、ことですか」
「その計算機からは演算以外の余計な熱なんてほとんど出ません。だから、初春さん、貴女はその端末の中にあるものは、唯の情報だと思えばいいんですのよ。貴女なら、その端末が、一体どんな処理をしているかなんて、全てわかるでしょう?」
無茶苦茶だ、と初春は思った。
だって、自分が握っているのは間違いなく物理的な「もの」だ。
絶縁体、半導体、超電導体、それらで出来ていて、電子が流れている、間違いなく「機械」なのだ。
情報処理をしているからといって、自分の『定温保存』とそれは、関係ない。そのはずなのだ。
その苦悩を感じ取って、光子もまた、苦しい思いだった。
佐天の能力なら、もっと見通せたのに。佐天の「自分だけの現実」がいかにオリジナルであろうと、共感できないまでに、かけ離れてはいなかったのに。
初春の底を、光子は見通せない。
ゴールはあっちだなんて指し示しておきながら、自分は初春の手を引いて暗闇に飛び込むことは出来ない。
「初春さんがYESのコマンドを返せば、メモリは解放されます。私たちはメモリの中身を今は既に知っていますが、それが、失われますのよ。情報の喪失。そしてそれは放熱という形で、世界のエントロピーを増大させます。それで、よろしいの?」
よろしいも何も、それはごく自然なことじゃないかと、初春は思った。それが自然現象なのだから。
光子が自分にどうさせたいのかが、分からない。心の中に、さざなみのように苛立ちが広がっていく。
何も出来ない自分に、あるいは自分の行き先をうまく照らし出してくれない光子に。
そして、隣で見つめる佐天への嫉妬や劣等感もあった。
同じように導いてもらっているのに、自分は何も出来ないような気がする。
佐天のように才能がないからだろうか。光子との相性が悪いからだろうか。
「初春」
「大丈夫です」
硬い声で心配してくれた佐天に声を返す。その自分の返事に、初春はドキリとした。あまりに余裕のないその響きに。

ふう、と息をつく。

焦ったって何も手に入らない。分かりきったことだった。
まず一つ、押さえておかなければならないのは、光子のアドバイスには限界があると言うことだ。
佐天のように、手取り足取りは教えてもらえない。当然だ。光子の能力は『空力使い』なのだから。
だから、先を見通すのは、自分でやらないといけないことだ。
自分で、「自分だけの現実」とはどんなものなのか、そのシステムの全体像を理解しないといけない。
「……直交座標系<カーテシアン>で世界を捉えなきゃいけない理由なんて、ないんですよね」
「え? ええ。それはそうですわね」
唐突な呟きに、光子は戸惑った。初春の言っていることはあまりに基本的すぎた。
物体の位置を把握するのに、直交する三つのベクトルを用いる必要はない。
X軸とY軸が直角にならないような座標系で捉えたって構わない。
他にも円筒座標系や球座標系でもいいし、そもそもそういう現実の空間をフーリエ変換した座標系で捉えたっていい。
それらは、演算の些細なテクニックでしかないのだから。
だから、初春の言い出したことの意図が、分からない。
「世界を、多角的に捉え、機構を推測する――」
初春は、そう口にした。別に誰かに言って聞かせたかったからではない。
よくよく考えれば、それは自分の「得意技」なのだ。
『守護神<ゲートキーパー>』と、学園都市のハッカーに囁かれるまでに達しているその情報処理技術の根幹にある、初春の技能。
なんらかのシステムを花に見立て、さまざまな角度から捉え直し、その全体像を把握する方法論。
その技術を磨いてきた相手は、誰かの創ったハッキングプログラムだとか、そういうものばかりだった。

今、初春はそれを『世界』に適用する。
――――見通せ、見通せ、見通せ!
あらゆる角度から、『世界』を見つめなおす。
子供の頃から、自分の五感を使って培ってきた世界観。
世界には光があり、音があり、匂いがあり、そしてどうしようもなく、「もの」で出来ている。
そんな現実観を一度、初春は捨てる。五感なんて信じない。だから空間座標だとか、そんなものは本当にはないと決め付ける。
それは計算上の都合だ。質量があるなんてのも、光があるなんてのも、全部嘘だ。
なぜそんな不確かなものを、自分は信じる?
目がなければ、耳や鼻や、皮膚がなければ感じ取りさえ出来ないものが「ある」なんて。
本当の本当にあると信じられるものは、自分の『理性』だけ、それだけなんだ。

初春は、目を瞑った。
その意図をうかがう周囲の人間を、忘却する。
そこに人間なんていない。自分と同じ『心』を持った存在なんていない。
そこにあるのは全て、物理現象だ。ニンゲンと自分が定義した、物理現象。
否。物理現象という言葉もまた、ある一つの世界観に縛られた言葉だ。
世界に本当に「ある」のは、きっと情報という言葉が最もそれらしいであろう、何かだ。
――――そう思った瞬間、初春は「情報」という言葉が嫌いになった。
そんな陳腐な言葉で、この実感は括れない。
あまりにその言葉は使い古され、さまざまな意味を獲得し、手垢が付きすぎている。
違うのに。この世界の根源にあるのは、それじゃないのに。
もどかしい思いをしながら、言葉に出来ない何かを、初春は手繰り寄せられたような、わずかな手ごたえを感じていた。

もう一度、手にした計算端末に目を落とす。さっきまでとは、それは別物のような気がした。
物が変わったわけじゃない。初春の見方が、変わっただけだろう。
メモリを構成する半導体の結晶格子にトラップされた、電子の揺らぎを感じる。そしてバンドギャップ上にディラックコーンを形成した質量ゼロの電子が、超伝導回路上を流れる音を感じる。
あたかも、風に揺れ、地から命の源を吸い上げる花のように。
そのヴィジョンは、単に計算機のシステムを植物という生態系のシステムに見立てたという、そんな陳腐なものではなかった。
世界そのものを、たぶん自分は花になぞらえて捉えているのだろう。初春はそう感じていた。
もちろん、全知でも全能でもない自分が、完全に世界を掌握などできはしない。
だけど、それでも良かった。自分が新たに作った「世界の見方」を、初春は好ましく思っていた。
「……行きます」
「え?」
「初春?」
ぽかんとする二人の声を聞いて、初春は口の端で笑った。
きっとこの結果を見れば、佐天はもっとぽかんとするだろう。

――タン、とYESのコマンドを返す。1秒と掛からず、端末はその指示を実行する。
すなわち、メモリにあった情報の忘却、世界へとエントロピーを吐き出すその命令を。

「……できました」
「あの、初春?」
顔を上げると、さっぱり分からない顔をした佐天と目が合った。何が起こったのかを知ろうと、端末を覗き込んでくる。
初春は心の中で笑いがこみ上げるのを抑え難く感じていた。佐天があの時、美琴の超電磁砲を喰って笑った理由がわかる気がした。
「……プログラムは正常に実行されました、ってあるけど」
「確かに実行はしていましたよ」
「え? あの、初春。それに婚后さんも。あたし、何が起こったのか全然わかんないんですけど」
「私も、結果の説明を聞くまではなんとも……」
「ちょっと待っててください」
初春は、新しくプログラムを書き、それを実行する。
中身はさっき以上に簡単だった。
今、メモリに格納されている値を、そのまま画面に吐き出すだけ。
それを実行して、佐天に見せた。
「……えと、これ消したはずのデータだよね?」
「はい。プログラムはこのデータの消去を実行しました」
「でも、消えてない?」
「はい。私がこの『情報』を『保存』しましたから」
気負わず、初春はあっさり言った。自信に満ちた笑みを浮かべた顔だった。
それは、本来極めて重い価値を持っている言葉のはずだった。
だって、初春飾利の能力は『定温保存』のはずなのだから。
「ということは、初春さん」
「……正解は分からないですよ」
「え?」
「こういうやり方でも、私は能力を発動できちゃいました。それだけです」
「熱や温度の保存では、ありませんでしたのね?」
「違います。だって、言ったじゃないですか。私には、25ナノジュールなんていう極小の熱を、保存できるような精度はないって」
その熱量では、この端末の温度を0.000000000001℃、10ピコケルビンくらいしか上げられないのだ。
初春の感知限界はたぶん0.1℃もない。というかこんな微小な温度変化を探れる温度計なんてそうそうない。極低温環境の制御装置だとか、そういうところにしかないだろう。
「ですから精度って意味じゃちょっとすごかったのかも知れないです。けど、逆に規模で言うとレベル1も怪しいですよね、これ」
だって、スプーン曲げなんかよりもずっとずっと地味な能力だった。鯛焼きの温度を保つよりも、くだらない能力だった。
それを嘆くべきかはわからないけれど、事実として、そのことを初春は認識していた。
「そうですわね。まあ、こういう形でレベルダウンするということはほとんどありませんから、レベル0に逆戻りはありませんわ。それで、初春さん」
「はい」
「今までの貴女の能力と、今発動したこの能力、別物というわけではないんでしょうけれど、結局、どちらがお好き?」
その質問に答えるのを、初春は躊躇った。その隙に、佐天が初春の背中から抱きついた。
「さ、佐天さん?」
「うーいはる」
咄嗟にスカートの心配をしたのだが、両手で自分を抱きしめているのだから、捲られる心配はない。
「あたしは自分の能力が発動した瞬間、これしかないって思った」
「え?」
「直感って、たぶん大事だよ」
初春が悩んでいることに、佐天は気付いたのだろう。
手に入れてすぐの、真新しい演算方法。
ほとんど新しい能力と呼んでもいいくらいに変容してしまったそれを、認めていいのか、自信がなかったのだ。
だけど。
「もう一度聞きますわね。本質そのものを捉えなおした、新方式の能力。初春さんは、これのことをどう思いますの」
その質問に、初春は意を決して答える。
「嬉しかったです。私の能力はこれなんじゃないかって、思えました。前から比べてさらにちっぽけで、大したことなかったんですけど」
「そっか。なら初春。それがきっと、初春の能力なんだよ」
佐天の言葉を聞いて、かちんと何かが嵌ったような感覚を、初春は覚えた。
半信半疑だった何かを、初春が受け入れた音だったのかもしれない。
情報量の保存。それを物理に反映した結果としての、定温保存。
初春の心は、それが本当なのだと、納得し始めていた。
「じゃあ能力名も変えちゃう? 『定温保存<サーマルハンド>』じゃ不正確ってことになるんだよね?」
「しばらくはそれでいいですよ、佐天さん」
「えー、なんで?」
「今私が出来るのは、たぶんそれくらいがせいぜいですから。もっと伸びたら、また考えます」
すぐさま変えるほどに自信がないと言うのも、理由の一つだった。
今の自分の実感は、気の迷いかもしれない。
「佐天さんこそ、そろそろ自分の能力名とか考えたらどうなんですか?」
「え? いや、あたしは『空力使い』で充分だと思うんだけど」
「でも普通の『空力使い』とは随分違いますよね? ほら、たまに婚后さんが言う『爆縮渦流<インプロージョン・ボルテクス>』とかどうですか? かっこいいじゃないですか」
「ちょ、ちょっと止めてよ。まだレベル2なのにそんな名前つけたら恥ずかしいじゃん! って言うか、婚后さんは自分の能力に名前とかつけないんですか?」
「100気圧越えの空気爆弾を作れる人が謙遜しなくても良いと思いますけれどね。私も考えたことがないといえば嘘になりますけれど、もう少し、考えてからにしようかなって思っていますの」
トンデモ発射場なんていう不名誉な二つ名を払拭しようと考えたこともあったのだが、悔しいことに的を射た表現でもあるのだ。
光子は、集めた気体をぶっ放すだけではない、幅の広さを身につけてからちゃんと名前を考えたいと思っているのだった。
「ね、初春」
「なんですか? 佐天さん」
「どんな風に、初春の中で変わったの?」
「え?」
「能力の質を変えるってすごいことじゃんか。そういうの、どうやってやったんだろうって」
「べ、別にそんな大した変化があったわけじゃ……」
「そんなことないよ。それと、結構真剣に、知りたいんだ」
疲れてソファに座り込んだ初春を佐天は案じてくれているようだったが、目は確かに真剣だった。
能力の開発は難しい。時に自分の能力の伸びが袋小路に迷い込んだとき、一旦バックしてからやり直すのは、とても心に負担が掛かることだ。
それをやってのけた初春に、佐天は聞いてみたかったのだ。
どうやって、それを成したのか。いずれ自分が行き詰ったときのために。
その気持ちが伝わったのだろうか、初春は、一度も佐天に、いや、誰にも語ったことのなかったことを、教えてくれた。
「花に見立てる、っていうことを。やり直したんです」
「え?」
「私の一番得意なことです。プログラムだとか、システムだとか。そういうものを花に見立てるんです。外界から活動の源を集めてくる根っこ、全体を支える幹や茎、そして集大成としての花。そういうシステムが持っている細かな役割を植物の機能になぞらえて把握して、全体像を理解していくんです。私の一番の得意技なんですけど、能力とは今まであまり噛みあってこなくて。だからさっき、もう一度、この世界を花になぞらえて、把握しようとしてみたんです。まあ、完璧には程遠かったですけど」
初春はあまり自分の能力のことを他人に話すのが好きではなかった。底が知れる不安もあるし、あるいは陳腐だと思われるかもしれないからだ。
だけど、周囲の反応はそんな感じじゃなかった。
「すごい! 初春なにそれ、すっごくかっこいいじゃん!」
「え?」
原点に戻る、か。確かに有効そうだ。ベタベタなのかもしれないけど、それは王道だからベタなのだ。
自分にとっての回帰点はどこだろう。それは佐天にはまだよく分からない。確固たる物は自分にはない気もした。
それにカッコイイ点は、もう一つ。
「生花をあしらったカチューシャってのがさ、名前にも、自分の原点にもかけてあるってのがすっごいかっこいいじゃん!」
似合いすぎていると思う。管理は大変だろうに、枯らしたり元気ない花を飾ってあるのなんて、見た事がない。
それだけきっと、その髪飾りが自分というものを表しているのだと、自負しているのだろう。
「なんのことですか?」
「えっ?」
「えっ?」
褒められた初春を含め、その場にいる誰もが首をかしげた。





「それじゃ、失礼します。今日は有難うございました」
「そんなに何度もお礼をするなんて無粋ですわ。それじゃあまた、何かありましたらお教えくださいな、初春さん」
「はい」
「佐天さんも、明日の朝に寝坊だけはされませんように」
「えっ? アハハ、やだなあ、しませんよ」
ちょっと痛いところを突かれた様な佐天の顔を見て、苦笑交じりに光子はため息をつく。
まあ、光子も朝にそう強いほうではないので、気をつけなければならないのだが。
「上条さんも、インデックスも、夜にお邪魔してすみません」
「いいって。なんか光子がお姉さんぶってるトコみれて楽しかったし」
「もう! 当麻さん!」
「今度はゆっくりしていってね、るいこ、かざり。あと、当麻に襲われちゃだめだからね」
「だーかーらお前は、洒落にならねーんだよその台詞は」
「だって私は本当に心配してるんだもん」
「しなくていい! つか、光子以外の子に手を出すわけないだろ」
夜の帰り道は物騒というほどのことはないが、万が一ということはある。
ちゃんと二人の寮の近くまでは、女の子だけで歩かせないほうがいい。
そういう判断で、当麻が二人を送ることになっていた。
内心、家に残されるインデックスと光子にはちょっと面白くないところはあるのだった。
「その言葉が本当だったらどれだけよろしかったことか……」
「ちょ、光子まで。俺のこと疑うのかよ」
「だって。当麻さんったら何度も何度も。……まあ、裏切られるなんて心配を、しているわけではありませんから。お願いですから当麻さん。あとお二人も。アクシデントにはお気をつけて」
「えっと、はい。あの、別に二人でも帰れますよ? 場所も分かりますから」
「この時間に女子中学生だけで返すのはアウト。ビリビリくらいに実力があるんならまあ、別かもしれないけど。……いてっ!」
二の腕を光子につねられた。責めるようにインデックスにも睨まれていた。
たぶんインデックスは、事情を知らずに光子が怒っているからという理由で怒っている。
「そういうアクシデントにも絶対に遭わないで」
「別に御坂のヤツに会うわけないだろ。常盤台の寮と全然場所違うし」
「どうして知っていますの?」
「どうしてって。前に光子が住んでる場所が気になって……」
「私はそちらの寮には住んでおりませんでした!」
「いや、そんなの調べる前にはわかんねえって」
別にもう美琴に含むところはないが、それでも妬き餅を焼くなと言われても無理なのが光子だった。
「ほ、ほら。遅くなっちゃ良くないし、さっさと行ってくる。ごめんな、二人とも」
「いえいえ。なんか婚后さんの痴話喧嘩を見るのってちょっと楽しくなってきましたし」
「佐天さん! もう、からかわないで」
「ごめんなさい。それじゃ婚后さん、また明日」
「ええ。頑張ってね、佐天さん」
一瞬だけ、師弟の顔で、言葉を交わす。
レベルアップを疑わない顔の師と、気負いを見せない顔の弟子。
そういう緊張感のあるやり取りが、佐天には嬉しかった。
二人の愛の巣、もとい黄泉川家の玄関をくぐり、佐天と初春、そして当麻は熱気の篭もる夏の夜へと歩き出した。
見送りが見えなくなるところでもう一度、インデックスと光子に手を振り、三人はマンションの建物から外に出る。
「あちーな」
「ですねー。ところであの、上条さん」
「ん?」
佐天は、光子の恋人に素朴な質問をぶつける。
「またこの家に戻ってくるようなこと、さっき言ってましたよね」
「ですよね」
初春も横で相槌を打った。どうやら、相当気になっているらしかった。
「ああ、そうだけど。それがどうかしたか?」
「それってやっぱり、お泊りなんですか?」
「もも、もしかして、黄泉川先生が残業で午前様とか、下手したら徹夜して帰ってこないとか」
「……あー」
興味津々な二人の、その視線の理由を当麻はようやく理解した。
つまり、二人は当麻が光子と一緒の家に、黄泉川抜きで泊まるのかどうかが気になっているのだった。
「惚気でわるいけどさ」
「はい」
「このまま俺が自分の家に戻ったら、光子が不安になるだろ。俺がそのまま佐天さんと初春さんと一緒にどっか行っちゃったことになるわけだから」
「え?」
「いやもちろん、バカな話なのは分かってるけど。でも光子を不安にさせたくないから、一回光子のところに帰るんだ。それだけだよ。黄泉川先生は帰ってこなかったことは今のところないし、そうならたぶん俺の携帯にメール来るから」
二人に見せるように携帯をチェックすると、黄泉川からそろそろ帰る旨の連絡が入っていた。
「えっと、もし帰らなかったら、婚后さんが、上条さんがあたし達と遊んでるかもって不安になるってことですか?」
「そ。もちろんそこまで光子が疑い深いわけじゃないし、光子が悪いんじゃないけどさ。でも彼氏なら、出来る限りは疑わせるような、しんどくなるようなことはさせたくないし」
つまり当麻は、そういう些細なことのために、わざわざまた黄泉川家に戻るらしい。
「いいなぁ」
「へ?」
そう漏らした初春と、同意するように頷く佐天に当麻は戸惑った。
「あたしも上条さんみたいな彼氏さん、欲しいなって思い始めました!」
「え? お、おう。頑張れ、佐天さん」
だってそんな風に自分を大切にしてくれる人がいるって、羨ましい。
……まあ、当てがこれっぽっちもないのが問題だが。
「これはまたちゃんと、お二人の馴れ初めを聞いて勉強しないといけませんね」
「やめてくれ……。光子、そういうの隠せるタイプじゃないの知ってるだろ」
「だから聞くんじゃないですかー」
「やめてくれって。こりゃ次に佐天さんと会うのは怖いな」
苦笑いの当麻と、ニヤニヤ笑いの佐天の視線が交錯した。
「初春さん、疲れてるか?」
「えっ? いえ、大丈夫です。ちょっと考え込んじゃってただけで」
「そっか、ならいいんだけど。やっぱ能力が伸びた瞬間ってそうなっちまうのかね」
その言葉で思い出す。たしか上条当麻のレベルは、ゼロだ。
ただ。
「上条さんの能力のこと、たまに婚后さんが不思議なことを言うんですけど」
「ん?」
「あの、嫌なこと言ったらすみません」
「いや、いいよ。というか大体どういうことかは分かるし」
別に気にするほどのことでもない。だから、当麻は佐天に続きを促した。
「上条さんはレベル0なのに、そんなはずはない能力を持ってるって」
「どうなんだろうな? 生まれてこの方、変な右手とずっと付き合ってるだけだ」
「生まれて……? え?」
「上条さんって、もしかして『原石』なんですか?!」
驚いた顔で、初春がそう尋ねた。
「初春、原石って何?」
「ネットの深いところを見てると時々見つかる単語です。生まれながらにして、超能力を持っている人のことみたいです」
「そういや光子もそういう呼び名があるって言ってたっけ」
きっと姫神秋沙も、その一人なのだろう。今更ながらに自分と姫神が似ていることに当麻は気付いた。
「たぶん、俺はその原石ってヤツなんだろうな」
「そうなんですか?」
「学園都市の測定機器は、小さい頃からずーっと俺のレベルを0って判定してる。ただまあ、俺の右手、結構変わり者でさ」
気負いなく上条はそんな話をする。別に、誰にも隠したことはない。クラスメイトならだいたい知っている話だ。
「佐天さん。ためしに渦、作ってみてくれよ」
「え? はい」
キュッと音がして、佐天の手のひらに空気が集まった。
「初春さん、俺の後ろに回ってくれ」
「はい」
「で、佐天さんはその渦、こっちに投げてくれ」
「え? でもこれ、当たったら結構痛いくらいの威力になってますよ?」
「大丈夫。当たらないから」
「あの、当たらないって……」
「投げてみたら分かるって」
自信があると言うか、まったく気負わない風の上条の態度を見て、佐天は決心する。
まあ、当たったところで大怪我はしないだろうし。
そう思いながら、佐天は当麻の体の数十センチ前に向けて、渦を放り投げた。
当然それを解放すれば爆発し、当麻に尻餅くらいはつかせるだろう。
そう思って、心の中でカチリとトリガーを引く。
それに合わせたのだろうか、ごく自然に当麻が右手を突き出した。

――瞬間、三人の周囲に暴風が吹き荒れる。バン、と急激な密度差に空気が軋む音がする。
だというのに。

「……えっ?」
声を上げたのは、佐天だった。
そしてその戸惑いの声で、初春も異常に気付く。
上条の背で遮られているからとはいえ、余りにも自分に風が吹いて来なかった。
「なんで、あれ?」
砂埃で、視覚的に確認する。
佐天の渦は同心円状に砂埃を巻き上げているのに、当麻のいる辺りから後ろには、それがまったく届いていなかった。
まるで、当麻が爆風を打ち消してしまったかのように。
「一体どうやって……」
「こういう『異能』を無力化するのが、俺の右手なんだよ」
ニギニギと右手を動かして当麻は佐天に見せた。誰がどう見ても、何の変哲もない右手だった。
「え、え、それってもしかして」
「上条さん! あの、先月の中ごろ、セブンスミストっていう洋服屋さんに行きませんでしたか?!」
佐天が聞こうとしたのは「どんな能力も打ち消す能力を持つ男」の都市伝説の話だったのだが、初春に遮られてしまった。
「セブンスミスト? 行った覚えはあるな」
「そこで事件に巻き込まれませんでしたか?」
「ああ、そういえば」
ふと思い出した些細な事件、といった風に上条が相槌を打つ。
とてもそんな言葉では済まされない、風紀委員<ジャッジメント>の中では大事件だったはずなのだが。
「私と小さい女の子と、御坂さんを助けてくれたのって」
「あー、あれ初春さんだったのか。そういや風紀委員なんだもんな」
「やっぱり……!」
今、当麻は不自然なくらいに自分の周りから超常現象を消し去ってしまった。
その光景は、あの時に見た爆破後の痕跡と良く似ていた。
セブンスミストで遭遇した、『量子変速<シンクロトロン>』の能力者による爆破テロ事件。
やがて幻想御手<レベルアッパー>事件の一端であることが分かり、ここから事態は急展開したのだった。
爆破跡を見た白井が「あれはお姉さまがやったのとは違う気がしますの」と呟いていたが、その理由がこれで説明が付いた。
「あの時は、有難うございました」
「いや、別に右手突き出しただけだしな。別にいいって」
「でもおかげでみんな怪我しなかったわけですし」
「御坂のヤツが何とかしてたんじゃないかって気もするけどな。まあ誰が助けたとかは別にいいだろ。ああいう荒事にいつも立ち向かってる風紀委員の初春さんのほうがすごいって」
「私はおつとめですから」
「それでもすごいって。流石はあたしの初春だけあるね」
「あたしの、って。どういう意味ですか佐天さん」
茶化した佐天にため息を一つついて、初春は笑った。





コトン、とやや荒い音を立てて、光子はマグカップをテーブルに置く。
「当麻さん、もう帰り路についたかしら」
「……五分に一回そういうことを言っても、まだまだなんだよ、みつこ」
「べ、別にそれくらい分かっていますけれど」
「それにとうまはなんだかんだ言って、ちゃんとみつこのこと大事にしてるし、すぐに帰ってくるよ」
「勿論信じてはいますわよ」
ただ、信じている思いとは別に、どうしても気になってしまうのが彼女というものなのだ。
「今日の話、ちゃんとは分からなかったけど、超能力の開発の話をしてたんだよね?」
「ええ、そうですわ」
「かざりって変わった能力を持っている人なの?」
「……ええ。たぶん」
「そうなんだ」
「興味がありましたの?」
光子の能力に、インデックスが特に興味を示したことはなかったと思う。
無関心というわけではないのだが、込み入った話はどうせ分からないからと、突っ込んできたことはないのだった。
なのに、どういう風の吹き回しだろうか。
「えっと、なんだか、世界とか、自分自身を花に例えるような話をしてたと思うんだけど」
「ええ。初春さんはシステム、何か機能を持った集まりを植物、特に花に見立てるのが得意だそうですわ」
それが能力とは無関係な、初春の得意技らしかった。無関係だったのはもしかしたら昨日までかもしれないが。
「その概念は、どこか魔術みたいな感じがするんだよ」
「え?」
「世界樹とか生命の樹って、聞いたことない? 北欧には世界を貫く世界樹ユグドラシルの神話があるし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を貫く旧約聖書には生命の樹、セフィロトがでてくるんだよ。セフィロトの樹は特にカバラ数秘術と絡めて、人としての位階を上げていくための神秘を構築してるし」
そんな風にカバラを現代の知恵を用いて再解釈し昇華させたのは、『黄金の夜明け団』という魔術結社であり、20世紀最大にして最悪、そして災厄の魔術師、アレイスター・クロウリーがかつてそこに所属していた。
……という話を脳裏に浮かべたが、どうせ光子は知らないだろうから、インデックスは口にしなかった。
「……宗教の時間に、その樹の名前は聞いたことがあるような気がしますわね」
国際的に活躍できる人であれという精神から、常盤台では宗教学もカリキュラムに入れられている。
あまり興味はないけれど、耳に入れた覚えくらいは光子はあった。
「でも、初春さんお得意のモデリング技術は、別に魔術というわけではありませんでしょう?」
「それは当然そうだよ。だって、魔術と超能力は、同時に身につけることはできないんだもん。でも」
そこでインデックスは、言葉を区切った。
改めて、自分の脳裏にある、10万3000冊の知の宝庫に問いかけるように。
「私も知らないんだよ。超能力と魔術、その本当の意味での境目が、どこにあるかなんて」
ある科学者曰く。物質は神が創り賜うたが、界面は悪魔が作ったものである。
境目というのはどんなものにでも、「あるのにない」ものなのだった。





明かりで照らされた自分達の寮を背にして、初春と佐天は頭を下げる。
「送ってもらっちゃってすみませんでした」
「ありがとうございました」
「いいって。それじゃ、またいつか」
「はい。拗ねてる婚后さんに何をしたか、また明日聞いておきますね」
「やめてくれよ」
いたずらっぽく言う佐天に、当麻は苦笑しつつ踵を返す。
それを見送って、二人は軽く息をついた。
別に緊張する相手ではないけれど、やっぱり高校生の男の人と一緒というのは、気を使うところもある。
「上条さんって、いい人だね」
「そうですね。優しかったですし、婚后さんが好きになる理由も分かった気がします」
同級生と比べて、格段に大人っぽいし、余裕がある。
それに、もうひとつ、すごくかっこいいところを佐天は見つけていた。
佐天の渦を完全に無効化してしまうような、そういう滅茶苦茶な能力の持ち主なのに、それを誇るようなところがなかった。
それはまるで自分の一部だと言わんばかりだった。
無能力者と低能力者の集まりだからか、やっぱり柵川中学の学生には、大した能力でもないのにそれを鼻にかけたような学生が結構いる。
そうした嫌な同級生達とは、当麻はまるで違っていた。
かっこいい、と思う。佐天の心にあるのは、そんな当麻と一緒にいたいというよりは、そんな風に自分もなりたいという、憧れに近かった。
「……まだ数が足りないかな」
「え?」
「渦を作った数が、さ」
一日に、せいぜい100個くらい。それをまだ一ヶ月くらいしか作っていない。
だから、自分が作った渦なんてせいぜい数千個だろう。まだまだだ。
食事、つまり自分が箸を使った回数だって、もう一万回は越えているのだ。
それにすら及ばないようじゃ、息をするように能力を振るうなんて、到底できやしない。
佐天はそう自戒しながら、流れるように、渦を作ってみた。
初めの頃には真剣に頑張ってようやく作れたような規模の渦を、軽い一息で。
佐天の振る舞いに気付いた初春は、同意するように微笑んだ。

――だが、ふと、戸惑いにその笑みが崩れる。
何かが、見えた気がした。

「佐天さん」
「どしたの?」
「その渦、あんまり強くないですよね?」
「え? そりゃ適当に作っただけだし……」
気圧も2気圧とか、その程度だろう。特筆するようなことは何もない。
だが、じっと初春がそれを見つめていた。初春の視線の先を手繰ってみると、たぶん、そこには渦の中心があった。
初春には、空気の渦なんてものは、目に見えないはずなのに。
「……あの、佐天さん。ちょっとそれ、貸してくれませんか?」
「それ……ってこの渦? え?」
「失敗したらすみません。でも、お願いです、すぐ渡して欲しいんです」
「べ、別にそれはいいけど……」
期待とも、予感とも付かない何かが、初春を急きたてる。
見えるはずのない渦が、そこにあるのが分かる気がする。
別に、空気の流れが見えているわけじゃない。分子の動きが分かるわけじゃない。
だけど、そこには渦があるのが、分かるような気がするのだ。
さざなみのような小さな変化を絶えず繰り返すカオスの海。初春の周りにある空気はそういうものだ。
だけど佐天の手のひらの上には、明らかにそれとは違う何かが感じられる。
佐天の意思というアトラクタに惹きつけられ、空気はある特有の運動のモードを持っているような、そんな感じがする。
「はい、初春」
「どうも」
ぐるぐる巻く風の気配を、手の皮膚が伝える。もう知っていたことだけれど、それはやっぱり渦だった。
初春は自分の心が直接に感じ取った気配を、五感で再認識した。
だが、佐天から初春の手に渡る一瞬で渦は乱れ、大きく精度を落とす。ただそれでも渦はその巻きを捨ててはいなかった。
そっと、初春は両手で包み込むようそれを手にする。
一瞬後に、何が起きるだろう。示し合わせたわけでもなく、二人ともが同じ予想を共有していた。
すなわち、直後に二人の目の前で起こった、結果それそのものを。
「解けない……」
佐天の手を離れた渦は、速やかにその密度が周りと同じになるまで、暴発して広がるものなのだ。
だけど渦は、その自然な帰結に至らなかった。
終わりを感じさせず、渦は初春の手の中でぐるぐると回り続けていた。
「初春。これって――」
「やっぱり、そうなんですよ」
「え?」
「私が保存してるの、温度だけじゃないんです」
あっさりと、初春はそう告げた。事実を、佐天にと言うよりも、初春自身に言い聞かせているような感じがした。
その結果は、さっき黄泉川家でやった実験の成果よりも、ずっと大きな意味があった。
『定温保存』なんて名前を、明らかな間違いにするくらいの、能力の拡大。「自分だけの現実」の拡大だった。
渦が遺失されれば、渦という風の特異点が持つ情報が損ねられ、世界のエントロピー増加を招いてしまう。
自分はたぶん、それを禁じているのだ。だから渦は、消えない。
「それが初春の、本質なんだね」
「そうですね」
自身の能力の深いところにまで手を触れられた初春を見て、佐天は感動にも似た何かを感じ、呟かずに入られなかった。
それはたぶん、自分がそれを成し遂げたときの気持ちを、思い出したからに他ならなかった。
初春は初春で、佐天には短い答えしか返さなかった。答えるのが億劫だったからだ。
やがて渦をコントロールできなくなってしまう数分後まで、初春はただじっと、自らが『保存』した渦を眺め続けていた。

*********************************************************************************************************
あとがき

初春のやった計算を一応詳しく書いておきます。
ボルツマン定数 k = 1.38e-23 (1.38の10の-23乗)
温度 T = 300 [K (ケルビン)]
として、
1ビットの情報が持つエネルギーEは
E = kT ln2
と書けます。
メモリ容量が1テラバイト = 8,796,093,022,208(=約8兆8千万)ビットなので、
これをEに掛けてやる事で、25ナノジュールという値が出てきます。

『パウリの排他律』で著名なパウリ曰く
God made solids, but surfaces were the work of the Devil
"固体は神の創りし物だが、界面は悪魔の産物である"
だそうです。本編でこれを引用しています。

ディラックコーンの下りは特に説明せずに話に出しましたが、これについてちょっと解説します。
 21世紀に入り、革新的な超伝導物質があまり報告されなくなっていましたが、2008年、東京工業大学の細野教授らが鉄系超電導物質と呼ばれる、鉄を含んだ超電導物質を作った事でまったく新たなメカニズムに拠る超電導物質が誕生し、物理学の世界では大ニュースとなりました。古典的な超電導物質が超伝導性を示すメカニズムは、1972年にノーベル賞の対象となったBCS理論により「とりあえず」説明が付いていましたが、鉄系ではまるでこれでは説明が付きませんでした。そこで、なぜ、鉄系で超伝導が現れるのか、その理由を説明できるメカニズムの解明・提唱が望まれていました。
 2010年、東北大学原子分子材料科学高等研究機構の高橋隆教授らの研究グループにより、鉄系超電導物質中において、「ディラックコーン」と呼ばれる質量がゼロの特異な電子状態が実現していることが確認され、これが超伝導性を示す原因であると示唆されました。本作中でのデイラックコーンの下りは、この研究成果をミーハーな気持ちで拾い上げて書かれています。
どちらの成果もNatureやPhysical Review Lettersという超有名科学雑誌に載るような成果です。もし鉄系の超電導物質がブレイクスルーとなって、作中に出したような、室温で超伝導性を示す物質が作られるようなことがあったなら、細野教授はノーベル賞をとってもなんら不思議ではないでしょうね。

ちなみに、こうした理系ネタを拾ってくるために、私は月に一回くらい、理化学研究所と科学技術振興機構のウェブサイトにあるプレスリリースにアクセスして読んでいます。学術振興会も時々見ますね。「なるほど、わからん」という内容がほとんどですが、キーワードをここで仕入れておくと、たまに別のところで知識を仕入れる機会があったりするので、役に立ちます。




[19764] ep.4_Sisters 04: ヒトとヒトガタの姉妹
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:57

「――――これで三件目です!」
「今日は相当にハイペースですネ」
「落ち着いてる場合ではありませんよ! それで、樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>で"彼女"の行動予測をするプランはどうなったんです?」
「蹴られました。予想していたことですガ。名無し<ジェーン・ドゥ>が誰かも分からないようでは仕方もありませんネ」
執務室に飛び込んで着た研究者に柔和な笑みを返しながら、掘りの深い顔をした白人の男性が訛りのある日本語で返事をする。
彼は担当するプロジェクトである『絶対能力進化』において、重要なポストを占めるリーダーの一人だった。
彼らは今、窮地に立たされている。誰とも分からない人間に研究拠点を襲撃され、こっぴどく破壊されているのだ。
今日に至っては、なんとそれぞれに離れ、独立していた三つの施設を再起不能にまで追い込まれた。
被害総額なんて、想像するのも恐ろしい。たかが1000万円やそこらの自分の年収で払えるようなちっぽけな金額ではない。
「名無しなどと貴方が申請したのが問題では?!」
詰め寄る日本人研究者は、相当焦っているようだった。それもそうだろう。あまり自分で研究を進められる脳のある人間ではない。ここで切られては、再就職は難しいだろうから。
だがそんな冷淡な査定を表情にはおくびにも出さず、リーダー格の白人男性は落ち着いた微笑を浮かべ続ける。
「プロジェクトの申請書の内容は誠実であるべきでス。実際、これが本当に貴方の言うように"彼女"の仕業なのか、それとも対立するチームの妨害工作なのか、我々も判断しかねているわけですかラ」
「状況証拠からして明白ではありませんか!」
襲撃者の手口はシンプルにして強力だ。
施設進入前に、ハッキングで施設内のセキュリティを全て外し、堂々と進入する。
そして進路上にあるありとあらゆる電子的なセキュリティを無効化しながら、大電流によると思われる短絡<ショート>で施設の電子機器を全てお釈迦にしていく。
侵入者の人数は明らかに少人数、下手をすれば一人。
こんなことをやれるテロリストなんて、一体"彼女"以外に誰がいるというのか。
目の前で悠然とたたずむこの男だって、御坂美琴以外の誰かを、頭に思い描いてなどいないだろうに。
「……まあ、樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>の利用は些か無謀な申請でしたね。例え"彼女"の名前を書いていようと、利用申請は受理されなかったと思いますヨ」
「では一体どうするんです?! あと我々の施設は二つだけですよ? 明日にも落とされます!」
「我々だけではどうしようもありませんネ。助力を誰かに願わねバ。ふム……」
考える不利をして、白人の男は考えをめぐらす。
考えているのは今後どうすべきかではなくて、最善と思われる案がどれ位の資金を持っていくか、そして研究を続けるのに必要な金が残るかどうか、それだけだった。
それにしたってもう何度か見積もっていた。幸い、そうした人材の派遣が得意な人間と、懇意にしている。
「必要な手を、打ちましょウ」
「では」
「ええ、いい増援に心当たりがありますので、明日の夜には配置しまス。心配せず、研究を続けてくださイ」
電話の向こうの相手が誰なのか、正体を知っているわけではないが、どうやら女性らしいその相手が寄越す増援の実力が折り紙つきなのは疑っていなかった。
自信ありげ微笑む男を見て、焦りを隠せなかった日本人の研究者は、いくらか不満を静めたらしかった。
立ち去る後ろ姿に侮蔑を込めながら見送り、男は一人、自分のデスクでため息をついた。
「さて、事態がつつがなく進むことを祈るばかりですネ」
そう言って、必要な連絡をするために、受話器を取り上げた。
だがその男も、まさか迎撃のために次の日に寄越される手駒の中に、学園都市第四位の兆能力者が含まれているなんてことは予想は出来なかった。





「よし、っと!」
人目に付かず、また敵のセンサーからも逃げ切った路地の一角で、美琴は安堵するようにため息をつく。
眠気とも集中力の途切れとも付かない、フッとした意識の断線を感じて、慌てて心を引き締めなおす。
こんなところで倒れてしまえば、きっと疑われる。明日から動けなくなる。
「……電話、しないと」
美琴はポケットに入れていた携帯を取り出し、ボタンを押して耳に当てる。
共闘できる人間がいることは、幸せだろうか。
あのギョロ目の先輩のニコリともしない顔を思い浮かべながら、コールの数を数えた。
「Good evening. 調子はどうかしら?」
「悪くないわね。また一つ、潰したわ」
「そう。Congratulations.(おめでとう) それで次はどうするの?」
「今日はこれが限界ね。続きは明日やるわ」
残りの施設は今いるところからはかなり遠い。移動の時間を含めればもう時間は足りないだろう。
それに、次が恐らく仕上げになる。その時の体力を温存しておきたかった。
「これで残りは二つね。そっちの首尾は?」
「予想通りと言えるわね。明日、研究所に私も行くわ」
「そう」
「私が呼ばれたのはSプロセッサ社。もう一つは近くの製薬会社だったわね。そちらよりはこっちを優先して潰すべきでしょうね」
「どうして?」
「私を招く気だからよ。それも急に、明日になんてね。あちらにしてみれば破壊活動で仕事に支障をきたしている時期に研究者を呼び戻す理由はない。私の招聘には、恐らく事故の責任を私に取らせて自分達は雲隠れでもする意図があるのでしょう」
布束は電話越しに、そんな予想を美琴に伝えた。
初めて美琴<オリジナル>と対面して数日後、二人は再び出会い、そして共闘関係を結んでいた。
といっても施設の破壊には布束はほとんど関わっていない。実働は美琴がすべて行っていた。
布束の仕事は一つ。
再び妹達を教育する『学習装置<テスタメント>』にアクセスし、彼女達に「ある感情」を仕込むこと。
それは美琴にはできない、妹達全てに変容をもたらすプラン。
『学習装置<テスタメント>』の開発者にして、妹達の情操面での育ての親である布束にしかできない仕事だった。
「アンタがコッソリ仕事をするのに好都合ってことね」
「Exactly. あなたと時間を上手くあわせて動けば、恐らくは目的を遂行できるでしょう。セキュリティは今日の比ではないと思うから、良く休んでおきなさい」
「セキュリティなんて私の前にはいくらあったって同じよ。どうせ壊すだけなんだから」
「ならいいけれど。では明日、もう一度連絡するわ」
「分かった」
「良い夢を。Good night.」
その言葉を最後に、電話は切れた。
美琴の足は、繁華街にさしかかろうとしている。もう夜遊びをする普通の悪い連中と見分けは付かないだろう。
はあっとため息をついて、携帯を持った手をだらりと力なく下げる。
いい夢なんて、もう随分見ていない。随分といっても二週間程度の話だが、それでも美琴の心は安息を許されず、磨り減りつつあった。
当たり前のことだと思う。そんな軽い罰で済んで、むしろ幸せなくらいだ。
今も死に続けているかもしれない、あの子たちの比べれば。
沈み込み始めた感情を奮い立たせるように頭を振り、美琴は目の前のホテルに堂々と入った。
夕方に借りた一室に、制服が置いてあるのだった。何食わぬ顔で預けたキーを受け取り、部屋に入る。
シャワーを済ませ、制服に戻って倒れる。
程なくまどろみ始めた自分にハッとなって、起き上がった。
「そろそろ帰らないと、黒子にまた怒られるわね」
また夜遊びですのお姉さま、という白井の決まり文句を脳裏で反芻する。
最初は咎めるような口調だったのに、今日さっき貰ったヤツは、はっきりと心配する響きを含んでいた。
明日で全てを終わらせれば、これ以上の心労はかけないで済むだろう。
風紀委員の可愛い妹分が、自分を探して危険に巻き込まれるようなことは避けたかった。
ホテルを引き払い、学生寮へと足を向ける。そして帰り道をショートカットするために、通いなれた公園を横切った、その時だった。
自分の発している電磁場の、奇妙な共鳴。チリチリと細波のような不快感が広がると同時に、美琴はそこに誰がいるのか、悟った。
「アンタ――――!」
「ごきげんよう、お姉さま。とミサカは数日振りにお会いしたお姉さまに丁寧な挨拶を送ります」
「なんで、ここにいるわけ?」
「今日は自由行動が許されていますので特に意味はありません」
目の前には、いつか見たときと同じように美琴と同じ制服を着た、美琴と同じ顔、それどころか遺伝子全てが同じ少女がいた。
個体名はない。ただ通し番号のみで個々を管理されている。
美琴は、目の前の少女が今日は死なないらしいと知って、安堵した。
そして同時にその安堵を蹴っ飛ばしたくなるような、後悔に苛まれた。
――何をホッとしてんのよ。だって、この子が死んでなくたって、代わりにきっと、誰かが。

今日実験に投入されたのは、10010号までの妹達だ。
大規模な実験に投入されるため現地の実況見分にきたものの、自分自身が投入されるのはまだ先だろう。
施設内でやっていた実験と違い、市街での実験は時間が掛かる。
勿論、そんな細かな事情を美琴に教えるわけには行かない。
怖い目でこちらを見つめてくる姉を、彼女――10032号は無表情に見つめた。





光子は、着信を伝えてくる携帯を取り出し、カチカチと慣れた手つきでチェックした。
「とうまから?」
「ええ。今送り届けたから、すぐ戻るって」
「ふーん。この時間なら、遊んで帰ってきたって事はなさそうだね」
「そんな風に疑っては当麻さんが可哀想ですわ」
「みつこだってほっとしたでしょ」
「べ、別に私は」
図星だった。インデックスには、完全に読まれているらしかった。
必死になんでもない風を取り繕いながら、光子は部屋を見回した。
黄泉川はまだ帰ってこない。今日も多分、深夜まで残業なのだろう。
台所の片付けは済ませた。洗濯は帰りの遅い黄泉川の仕事だ。
「インデックス、お風呂が沸きましたわよ」
「んー、この番組が終わったら」
「気持ちは分かりますけれど、片付きませんから」
「終わったら一緒に入ろう、みつこ」
「もう、わかりましたわ」
お姉さんというよりはお母さんみたいだな、とため息をつきながら、光子は携帯を机にそっと置いた。
当麻が戻ってくるまで30分もないだろう。そんな風に、光子は考えていた。





背中にかいた汗を不快に思いながら、当麻は帰り道を一人、歩く。
「夜になってもこの温度か。30度以上あるんじゃないのか、これ」
いくら学園都市といえど、熱力学が与える理想効率を越えるようなエアコンは存在しない。
あちこちで廃熱を撒き散らすファンが回っているせいで暑いという夏定番の事情は、学園都市の中と外でも変わりはないのだった。
ちょっとでも風があるんじゃないかと根拠のない期待をして、当麻は公園を突っ切るルートを選ぶ。
暗がりには不審者がいるという噂もあるが、まあ、女の子ではないし大丈夫だろう。
ついでだから自販機で飲み物でも買うか、と歩みを進めたときだった。
「……ん?」
言い争うような声が、聞こえた。
一瞬身構えて、そして警戒が不審に変わった。声は二つとも良く似ていて、そして女の子の声だった。不良に絡まれているような雰囲気ではない。
視界の広がるところまで進んでそちらを見ると、争う女の子達が来ている服は、どちらも良く知っているものだった。
光子と同じ、常盤台の制服。というか、良く見れば女の子『達』の顔に、当麻は見覚えがあった。
「御坂?! って、何で二人?」
美琴に姉妹がいるなんて話は、聞いたことがない。
光子という彼女がいて常盤台には縁がある自分だから、知っててもいい話だろうに。
片割れを睨みつけているほうの表情には、覚えがあった。いつもの美琴そのものだ。
もう一方は、良く分からない。感情に酷く乏しくて、存在感が明らかに美琴と違う気がした。
その、美琴だと思われるほうが相手に向かって怒りをぶつける。
「なんで……ッ! わかんないわよ! なんでそんな平気な顔してるのよ!」
「なぜ、という問いには答えかねます。お姉さまと違って、私はそのために生まれた存在ですから、とミサカは自分とお姉さまの本質的な違いを指摘します」
「説明になってないわよ! あんな酷い目に合わされるのなんて、一回だって許せるものじゃないでしょ!?」
「そうは言いますが、お姉さま。実験に投入されるために生み出されたのが、私達ですから」
当麻はその会話を、余すところなく聞いていた。
申し訳ないと思う。きっと、プライベートな話だろうから。
だけど美琴っぽいほうの美琴が、苛立ちをぶつけているように見えて、あまりに辛そうで、ただの姉妹喧嘩には到底見えなかった。
だから、つい、足を止めて聞いていた。
美琴が、ガクリとその場にへたり込んだ。口元を手で押さえて、吐き気を必死で抑えているみたいだった。
「お姉さま。体の調子が――」
「触んないで!」
「お姉さま」
「やめてよ」
「ですが今のは明らかに」
「やめてって言ってるでしょうが!」
やめてと言う言葉を、美琴の妹と思わしき少女は素直に受け取ったらしい。
伸ばしかけた手を、止めた。だけど引っ込めることも出来ずに、指先に戸惑いを見せていた。
横から推察していたって、きっと妹は姉を心配しているのだろうと、そう思えた。
だが美琴は、そんな仕草を見ていなかった。追い詰められた目で、地面を見ていた。
当麻は知る由もない。
目の前の少女が数日もすれば死ぬであろう事も、少女がそれをなんとも思っていない事も、美琴が必死にそれを止めようとしている事も、それが上手く行っていないことも、そしてこんな出来事のきっかけを作ったのが美琴自身であることも。
「アンタ達は、命に代えたって私が絶対に助ける。だから、その貼り付けた能面みたいな顔を止めなさい。その顔で、その声で、その姿で……。誰かに虐げられて生きるのを止めなさい。お願いだから止めて、よ」
「……ですがお姉さま。ミサカはそのために作られた生き物ですから」
ひどく薄い感情しか見せない妹の顔に、困惑が浮かんでいる気がした。
事情は分からないが、きっと誠実な答えを返しているつもりなのだろう。
だが美琴は、その言葉でむしろ我慢の限界をブチ切ったらしかった。
「アンタはそれでも人間かぁっ!!」
「種族としてではなく、哲学的な意味での回答をお望みでしょうか。そうであるならば、ミサカは――」
「そんなこと聞いてない! なんで、なんでそんなこと……っ!」
もう何度「なんで」を繰り返しただろうか。最後は、吐き捨てるような呟き声にしかならなかった。
妹にはきっと、歩み寄る努力はあるのだが、歩み寄る余地がなかった。
沈黙が二人の間を吹きすさぶ。夏なのに、冬の冷気みたいに重たい空気が公園に広がっていた。


「なあ、二人ともさ」
当麻は、呟かずにはいられなかった。


「え?」
驚きに目を開き、二人がこちらを一斉に見つめた。
まだあどけなさを残す少女の顔。美人といって間違いないその顔は、二人とも瓜二つだ。
だけど美琴が見せたのは困惑で、隣の妹からかろうじて読み取れるのは警戒感だった。
「なんで、アンタがここにいるのよ」
「ちょっと用事があってさ。その帰りだ。別に変なことはないだろ。高校生が出歩いててもおかしな時間じゃなし、ここはウチの近くなんだしさ」
「お姉さま。この方は知り合いですか」
「アンタはちょっと黙ってなさい。……聞いてたの?」
その質問の返事を、二人はじっと耳を傾けて待った。
返答次第では、対応をよく考えないといけないから。
当麻も二人の緊張感は感じ取れただろう。だけど、答えは至極あっさりしたものだった。
「ああ。聞いてたぞ。そっちの妹が殺されるとかどうとか、実験がどうとか」
「――他愛もない冗談よ。姉妹喧嘩に口出しは要らないわ」
「御坂」
真っ直ぐ、当麻が自分を見つめていることに、美琴は気がついた。
何一つはぐらかさない、そしてはぐらかせないような、そんな目だった。
知れず、糾弾されるのを美琴の心は怖がった。
人殺しだと、許せないといわれるのが怖かった。
だけど。
「あの時、お前が辛そうだったのは、このことだったんだな?」
「え……?」
思い出すのは、もうずっと前のことのように感じられる、あの日。
初めて『一方通行<アクセラレータ>』に出会い、敗北し、妹達の死を知った日。
薄汚い姿で途方にくれた自分を、当麻は励ましてくれたのだった。

――――ズキンと、その後のことを思い出して心が軋んだ。

「御坂。全部話せよ」
「何をよ。喧嘩してるだけだって、言ってるでしょ」
「隣の子のことだ。実験とか、その子が死ぬとかって話だよ」
「だからそんなの売り言葉に買い言葉で出て来ただけの言葉だから――」
「嘘は止めろよ」
「嘘じゃない」


「ならなんで、そんな自分を殺したような顔、してるんだよ」
怒ったような当麻の顔を見て、美琴は何も言えなくなった。でも怒られているわけじゃない。
真剣に、美琴のことを案じてくれている目だった。
当麻にしてみれば、当たり前だった。だって、目の奥に、光がない。美琴のあの快活さが、微塵にも伝わってこないから。


「お前が黙ってるんなら、そっちの妹に話を聞くだけだ」
「……貴方は、お姉さまのお知り合いなのですね、とミサカは状況に困惑しつつ確認を取ります」
計画が外にばれるのはまずい。だからここで拉致し、薬物で記憶を破壊するのが最善の手のはずだろう。
だが、10032号は当麻の存在をネットワークに知らしめ、そんな手はずを整えさせるのを躊躇っていた。
もとより自分以外の人間を傷つけることは忌避するよう設定されているのだ。美琴の知り合いなら、尚更だった。
「俺はコイツの知り合いで、上条だ。妹さん、名前は?」
「ミサカの名前はミサカです」
「いや、苗字じゃなくて、下の名前のほうだよ」
「……名前はありません、とミサカは返せるギリギリの答えを返します」
「ありません、って、え?」
双子の妹にだけ、名前をつけないなんてことがあるのだろうか。
「何も聞いてないんじゃない。アンタ」
「あんな途中からの会話で全部わかるわけないだろ」
「なら忘れてこっから消えなさい。これは中途半端な気持ちで、関わっていいことじゃない」
苛立ちが募る。それを吐き出すように、鋭い言葉を当麻に投げかけた。
そんな風に尖ってしまう自分を、美琴はまた嫌いになる。
見上げた当麻の瞳に自分への怒りか何かを見つけようとして、見上げた。
……当麻の瞳は、やっぱり真っ直ぐだった。
「中途半端な気持ちなんかじゃない」
「どこがよ。他人事に本気になんてなれるわけないじゃない」
「他人事ならそうかもな。だけど、お前は違うだろ」
馬鹿みたいに、心臓が高鳴る。
無意識に期待した何かなんて、与えられることは無いと分かっているのに。
それを、あの時いやというほど味わったというのに。
「御坂、そんな顔をしてたお前を、俺は見ないふりなんて出来ない。しない。だから話してくれ。お前一人で抱えるには重荷なら、俺が半分背負うからさ」
一人で、誰にも迷惑をかけずに済ませたかった。それがけじめだとも思っていた。
だけど二度は、耐えられなかった。助けてやると言ってくれた当麻の言葉を、二度拒むことは出来なかった。
「後悔するわよ」
「しねえよ。後悔するとしたら、ここでお前を見捨てた時だ。そっちの……御坂妹。お前も文句はあるかも知れねーけど、聞かないからな」
「……お姉さまが話すと決めたことを、ミサカは止める権限がありません。ですが、お姉さまの言ったとおり、後悔を伴う可能性が高いことをミサカは指摘します」
「じゃあ聞かせてくれよ。場所は、ここでいいのか? ジュースくらいならそこで買えるけど」
「ここでいいわよ。どうせ制服じゃ、どこの店にもいられないし」
「そうか」
小銭を確認しながら、当麻がすぐそばの自販機に向かう。その背を見ながら御坂妹が呟いた。
「お姉さま。ミサカにもスケジュールがあります。許される時間は、今日はもう多くありません」
「知らないわよ」
「お姉さまの都合には関係のないことでしたね。では、ミサカはこれで立ち去りますので、あちらの方とお話を続けてください」
今帰れば、何事もなく終われるだろう。
美琴自身のことも、美琴の友人らしいあの少年のことも秘密にしたまま、計画を遂行できる。
そのはずだった。
「……何言ってんのよ」
「え?」
「今アンタを帰したら、アンタは死にに行くんでしょ?」
「それがミサカに与えられた使命ですから、とミサカは改めてお姉さまにお伝えします」
「認めない」
「お姉さま?」
「アンタが死にに行くのを、私は認めないって言ってんのよ――!」
「当たり前だ」
美琴と、そして隣にいる少年が強い瞳で10032号を射抜いた。
10032号はただ、混乱するほかになかった。
死ぬなと強い口調で言われたことなんて、今までに製造された20000体の個体の誰一人として、経験したことはなかったから。





二人で過ごすには大きすぎる黄泉川家で、光子は風呂上りのすぐに携帯を手に取った。
当麻はそろそろ、帰ってくるはずだ。行きと同じ時間掛かるなら、後三分もあれば帰ってくる。
――――メールには素っ気無く、「ちょっと用事が出来たから遅くなる」とだけ書いてあった。





静かな公園のベンチに腰掛けて、美琴は当麻を見上げる。
少し離れて隣に座る妹は、視線を自分と当麻の間で往復していた。
「つまり、そっちの御坂妹はお前の妹って訳じゃなくて、同じ遺伝子から出来たクローンだと。しかもその妹はコイツだけじゃなくて、他にも全部で2万人いる。で――」
当麻は聞いた話をまとめて、美琴に確認を取っていた。
時折美琴は言葉を詰まらせ、黙って端末を差し出すこともあった。
段々と、厳しくなる当麻の眼に、自責の念を感じた。
後戻りできないところまで、当麻を堕としてしまう様で。
「もう1万人くらいが殺されて、お前自身が殺される日も、もうすぐってことなんだな?」
コクリと御坂妹が頷いた。それが、『絶対能力進化<レベル6シフト>』と呼ばれる実験の実態だった。
あまりの大きな規模に、当麻は現実感を見出せずにいた。まるで冗談にしか聞こえないような、そんな話。
「御坂。お前はこれを止めるためにこんな夜に出歩いてるのか?」
「夜でもなきゃ、研究施設の破壊なんて出来ないでしょ」
昼間は無関係な人も巻き込みやすいし、顔を見られやすい。
「成功したのか?」
「……」
チラリと、美琴は妹の方を見た。
妹を救うために美琴は動いているが、その妹は、実験のために生きている。
ここで話せば、その情報を誰かに漏らさないとも限らなかった。
「誰にも喋ったりはしません、とミサカはお姉さまの懸念に回答します」
「どうして?」
「話せばお姉さまと上条さんに危害が加えられる可能性があるからです」
「……それの一体何が、アンタにとって問題なわけ? 学園都市の学生が高々二人、死ぬだけの話でしょ? まあおいそれとやられる気はないけど」
「私と違って、お姉さまや上条さんは造られた人ではありませんから。替えの利かない人を、危険にさらすわけには行きません、とミサカは自信の行動理念を表明します」
「アンタは、替えが利くからいいって?」
「そのとおりです。単価18万円、必要な機材と薬品があればボタン一つで自動生産できる、それがミサカです。作り物の体と借り物の心しか持たない人形である我々は、正しく替えの利く存在です」
だからこそ、消費されて良いのだ。実験のために。モルモットのように。
実験動物が殺されるのは正しいことだ。善悪に如何を問うような難しい問題ではあるけれど、それで救われる人間の命は数知れない。
この実験だって、学園都市の悲願を達成するために、学園都市そのものが推進するプロジェクトなのだ。
御坂美琴というかけがえのない人の変わりに、自分たちが消費されるのは、正しいことだ。
「御坂妹」
「はい」
「歯、くいしばれ」
「え、ちょっとアンタ」
上条が妹の前に立って、手を振り上げていた。
それをどういう意味だと思ったのかは分からないけれど、妹は指示に、ただ従っていた。

――ベチンッと、当麻の指が御坂妹のおでこを叩く音がした。

「……あの」
「自分を大切にできねーようなヤツには、もれなく愛の鉄拳制裁だ。それが黄泉川家の掟なんでな」
自分を含め、光子やインデックスも居候組で殴られた人間はいないのだが、
警備員、黄泉川愛穂といえばスキルアウトの間では愛ある暴力で有名なのだ。
「私は今、叱られたのでしょうか?」
「ああそうだ」
「理由がわかりません、とミサカは自身の混乱を端的に伝えます」
「そうか、わかんねーか。なら、分かるまで考えろ。あと死ぬな。お前の姉妹を死なせるな」
横で見ていて、美琴は、出来るならそれは自分がすべきことだったのだと、感じていた。
自分自身を当麻や美琴と同じ人間だと捉えていないのなら、それが間違いなのだと、教えてやらなければいけなかったのだ。
偉そうなことを言えなかったのは自分に負い目があったから。だけど、それに目を瞑ってでも、言うべきだったのだと思う。
「御坂。次に動くのはいつだ」
「それを知って、どうする気? レベル0の足手まといなんて、いらないわ」
「お前ほどなんでもできるわけじゃない。けど、能力によって起こされた現象なら、どんなことでも俺は無効化できる。お前の超電磁砲<レールガン>だって例外じゃない。いつだったか、見ただろ?」
「敵として学園都市の学生が出てきたことなんてないわ。だから、アンタが活躍する場所なんてない」
「……そうか、ならバックアップに行く。お前が怪我して逃げづらくなったら、背負って走るくらいのことはしてやれる」
「そんなヘマ、私はやらないわ」
「手伝うなんて言って、結局できるのはこれくらいなんだろうけどさ。それでもいざって時の準備はしたほうがいい」
例えば拠点を守りに、一方通行が来るかもしれない。既に美琴は一方通行には勝てないと判断しているらしい。
自分だってまず勝てるわけはないだろうが、それでも相性の問題で、逃げるくらいはできるかもしれない。
なにより、精神的に追い詰められている美琴を、少しでも楽にしてやるのが重要な気がしているのだった。
「明日のことは、とりあえずそういう予定にしておこうぜ。それで、むしろ大事なのは、御坂妹を今からどうするか、だな」
「……そう、ね」
「どうするか、とはどのようなことを指すのでしょうか、とミサカは自らの処遇が分からず疑問を呈します」
「俺達が放って置いたら、今からお前はどうするんだ」
質問の糸がつかめず、御坂妹は回答に少し時間を置いた。
「もといた拠点の一つに戻ることになるでしょう。ミサカの居場所は、そこですから」
「悪いけど、それは駄目だな」
「……そうね。結局はそれも、偽善みたいなもんだろうけど」
目の前の、10032号の少女を匿ったって、実験は止まらない。誰かの死を回避できるわけではない。
だけど、それは目の前の少女を死なせても良いという理由にはならない。
「ホテルは……駄目か。制服はウチのを着てても、IDまでは誤魔化せないでしょ」
「はい。もとよりそのような行動を取れるようなIDは持っていませんから」
街中で買い物をしたり、警備員の簡単な職務質問にくらいは対応できるようなIDカードは与えられている。
だがホテルとなると話は別だ。夜に、寮などの決められた場所以外に宿泊した記録が明確に残り、所属する学校に送られるのだ。
御坂妹たちに与えられたIDは、何でも誤魔化せるような高等な偽造IDではなかった。
「御坂。お前の住んでるところは、まずいよな」
「当たり前じゃない。いきなり双子の妹です、なんて紹介できるわけないでしょ」
「となると」
「……アンタ、何考えてるわけ?」
「お前の考えてることそのものだと思うぞ。ウチに泊めるかどうか、考えてた」
「ちょ……っ! 駄目に決まってるでしょうが! ほらアンタもなんか言いなさい!」
「私はそもそもお二人に迷惑をかける気はありません。ですが、仮に上条さんの家に泊まるとして、それが問題となる理由はなんですか、とミサカはお姉さまに質問します」
「だって男女が一晩屋根を共にするなんて、駄目に決まってるでしょ?!」
それは許せないことだった。当麻が、女の子と一つ屋根の下なんて。
それも、自分と瓜二つの体を持った女の子と一緒なんて、絶対に駄目だ。
だが美琴のその怒りをいなすように、当麻は苦笑した。
「別に心配は要らないって。まあ、御坂に手伝ってもらう必要はあるけど」
「え?」
「俺は別の家で寝るから、御坂、妹と一緒にウチで夜を明かしてくれ」
「……はぁ?」
当麻のプランはこうだった。
ホテルなんかには泊まれない御坂妹を、上条家に泊める。
監視役としてどちらかが残らないといけないが、もちろん男女ではまずいので、美琴に泊まらせる。
そして自分はというと、最近の常であるように、黄泉川家で眠ればいい。
それを説明すると、渋々ながら美琴は納得してくれたようだった。
ただ。
「黄泉川先生の家って、婚后さんのいるところ、よね?」
ぽつんと、美琴が呟いた。当麻に確認を取る感じとも少し違って、自分自身の心に語りかけるような感じだった。
「インデックスって、ほら、こないだの夏祭りでお前とまとめてお面を買ってやった女の子も住んでる。女所帯なのは事実なんだけど、別に変なことはしてないぞ。んなことしたら黄泉川先生にボコボコにされるし」
「そう」
返事が、急に不機嫌そうな響きに変わった。
それに戸惑っていると、ため息をついて美琴は頭を振った。
顔つきが、すぐにさっきのものに戻った。
「朝に一回、常盤台に戻る必要があるわね」
「そうか。まあ、こっちは明日は朝から時間取れるし、そっからは俺が交代するさ。御坂妹。そういうわけで、文句はあるかも知れねーけど、俺と御坂でお前が出て行かないように監視するから。俺達を振り切ってでも、お前は実験に参加したいか?」
「……それはミサカの、存在理由です」
「ちげーよ。何言ってんだ、馬鹿」
取り付く島もなく、ばっさりと当麻はそう返した。
理屈を懇々と説くよりも、それが正しいのだと直感的に思っているが故の対応だった。
「ほら、それじゃあウチに行くぞ。あんまり長いことここにいると、ややこしいことになる」
夜の見回りの担当者の一人はもしかしたら、黄泉川愛穂かもしれないし。





上条家は公園からそう遠くない場所にあった。部屋の中は、想像していた最悪のケースよりはずっとましで、小奇麗といえるレベルだった。
間取りを二人に案内すると、上条はすぐさま出て行った。その後、洗濯機と洗剤を勝手に借りて、二人は服を洗濯しながらシャワーを浴びた。
パジャマはその辺にあるもんでよければ使ってもいいなんて言われたけれど、美琴は結局、洗って乾かした自分のTシャツにした。
今日の襲撃で、幸いに敗れたりはしなかったので問題はなかった。
妹は当麻のシャツを拝借したらしかった。それを見て、なんとも言えない気持ちになる気持ちを慌てて追い払った。
「電気消すわよ。一応手錠かけるから、起きたいなら私も起こしなさい」
一つしかないベッドに、妹と二人、腰掛ける。自分とそっくりな顔を、未だ好きになることは出来ない。
そして信用も出来ないから、能力で即席の手錠を作り、自分と相手を縛った。
「ミサカが錠を壊して逃げるとは思わないのですか?」
「気付かれずに壊せるようなものじゃないわよ。こんだけ磁化した鉄を、力で引き千切るのは無理だから」
隣で『電撃使い<エレクトロマスター>』としての能力を使われれば、美琴だって気付く。
「それじゃ、お休み」
「ええ。お姉さまも、いい夢を」
カチカチと音を鳴らして電気を切った。
慣れない部屋の、慣れないベッド。かすかに、アイツの匂いがした。
否応なしにその香りのせいで当麻のことを思い浮かべてしまう。このベッドに眠る意味を考えてしまう。
例えば、当麻と恋人になって深い関係になったなら、こんな風に眠ることがあったのかもしれない。
もしかしたら、光子は、このベッドで眠ったことがあるのかもしれない。
そんな考えが、ズキンズキンと音を立てて美琴を苛んだ。





ガチャリと、黄泉川家の扉を開く。
エントランスでオートロックをあけてもらうときに光子に声をかけたから、部屋の鍵は開けられていた。
「ただいま」
「……お帰りなさい、当麻さん」
いつもより笑顔が5割減の光子が出迎えてくれた。
何せ、元の帰宅予定時間よりも二時間近く遅れたのだ。
ただ佐天と初春を送って帰るだけで、こんなに時間がかかるわけがない。
「ごめんな」
「何がありましたの?」
「ちょっとさ、替えの服を取りに家に戻ってたら、そのまま土御門のヤツに捕まってさ。新しい家具を買ったとかで、部屋の片付け手伝わされてたんだ」
当麻は、用意していた嘘を、光子についた。
後ろめたさは、ないわけじゃなかった。だけど本当のことを言うわけにもいかなかった。
女の子を泊めたことを隠したいんじゃなくて、学園都市の暗部と言ってもいいその事件のことを、光子に言いたくなかったのだ。
言えば、きっと光子も関わろうとするだろう。どうせ明日で全てが終わるなら黙っておきたかった。
「こんな夜に、ですの?」
「おおかた夕方に受け取ってから、掃除でもしてたんだろうさ」
「すぐ戻るなんて仰ってたんですから、こんなに掛かるとは思っていませんでした」
光子は当麻に不満をぶつけながら、かすかな引っ掛かりを覚えていた。
だけど、そんなの自分の杞憂だろう。妬き餅焼きだから、あれこれつまらない心配をしてしまうのだ。
もちろん、一番悪いのは当麻だけれど、当麻の重荷になるような疑いなんて、持ってはいけないとも思う。
「佐天さん達とはすぐ別れましたのね?」
「ああ。普通に送ってって、それで分かれた」
たぶんそれは正しいのだろうと思う。
家に着いた佐天から「上条さんにもありがとうございましたって伝えてください」とメールが着たのは、予定通りの時刻にだった。
「当麻さん。つまらないことで拗ねて、ごめんなさい」
「な、なんで光子が謝るんだよ」
「こんなに当麻さんに大切にしてもらってるのに、帰りが遅れたくらいでイライラした自分が、みっともなくて」
「いいって。そういうところも、可愛いんだしさ」
当麻がそう言って、笑って髪を撫でてくれた。
随分とそれで、ささくれ立っていた心が穏やかになる気がした。
黄泉川先生はまだ帰ってこない。短くなってしまったけれど、今日これからの時間を、大事に過ごそう。
「それじゃ俺、風呂に入るわ」
「かなり汗、かいてらっしゃるものね」
当麻に付き従って、部屋の奥に戻る。
ふと、当麻の後姿、お尻に辺りが気になった。泥で薄く汚れているらしいのだ。
その汚れ方には見覚えがある。いつだったか、当麻の家の近くの公園でデートしたときにも、そんな汚れをつけていた。
きっと、あそこの植え込み近くに座ったせいだったのだろう。
今、当麻の服についている汚れがそれとは限らない。むしろ当麻の言い分が正しければ、そんなはずは有り得ない。
いや、帰りに公園を横切って、ジュースでも買って飲んだのかもしれない。暑い夜だから無理もない。
だから、それは矛盾とすらいえない、些細な違和感のはずなのだ。
だというのに、それは棘のように引っかかって、光子の頭から消えてなくならなかった。
「……光子、今日はごめんな」
「えっ?!」
不意に、当麻が謝った。それがむしろ、光子を不安にさせる。
「夜にもっと一緒にいられたはずなのにさ、時間を削っちまって悪かったなって」
「……当麻さんにだってお付き合いがあるのは、分かっていますもの」
「今からも含めて、頑張って埋め合わせするから」
「はい」
微笑を作って、当麻に返す。不自然には思われなかっただろうか。
そのまま当麻は、洗い場のほうへと曲がって、消えて行った。
「……気にしすぎ、ですわ」
妬き餅焼きの、駄目な自分の憶測が脳裏から消えてくれなかった。
公園で座り込むようなことがあるとしたら、きっとそれは誰かと話すときだ。
飲みながら歩くのを、多分当麻は恥ずかしいとは思わないだろうから。
そして、光子にそのことを話さない理由は、相手が女の子だったからかもしれない。
嫌な汗が額を伝う。光子はエアコンのほうに近づいて、冷気を直に浴びた。
当麻に早く上がってきて欲しい。抱きしめてもらえば、こんな気持ち、すぐに飛んでしまうだろう。
仮定を積み上げた、馬鹿げたストーリー。
だけど、光子の想像の中で、当麻の相手として出てくる女の子は、たった一人だけだった。
自分と同じ常盤台の制服を着た彼女を思い出して、光子は何かを吐き出すようにため息をついた。





御坂妹――10032号は、傍らで眠りだした姉の寝顔を眺めていた。
よほど疲れていたのだろう。ミサカネットワークにアクセスし状況を探ると、どうやら今日は三箇所ほど、研究施設が破壊されたらしかった。
狭いベッドに無理矢理二人で寝ているから、互いの距離は酷く近い。そして互いの腕は、適当にその辺の鉄材で作った手錠が嵌められている。
その状況を、妹は奇妙な心持ちで観察していた。
「どうしてここまでするのですか」
何度も、口にも出して説明したことだ。
自分はほんの18万円で「買える」存在だ。そんなものを大切にしてどうするのだ。
こんな風に、まるで普通の人間と同じみたいに扱われれば、混乱せずにはいられない。
「お姉さまも、そして上条さんも」
おでこを叩かれた、あの感触をまだ覚えている。愛の鉄拳制裁と当麻は言っていた。
暴力に愛があるというのは、おかしな事のはずだ。
実際、一方通行に体を破壊された記憶ならいくらでもある。殺された記憶もある。
だけどあの一撃は、それとは違っていた。妹達の破壊を目的としたものじゃなかった。
叩かれることに恐怖はなかった。叩かれた後にも、恐怖はなかった。
「……考えても、私には分からないことでしょう」
自分は、人形なのだから。所詮普通の人が持つ、普通の感情の事を理解することは出来ない。
そう一人で呟いて、御坂妹はシーツを手で引き上げた。美琴のお腹の辺りまで、そっと掛けなおす。
「……」
シーツを手放して、不意に、自分が何故そんなことをしたのかが分からないことに御坂妹は気付いた。
取った行動の合理性には自信がある。だけど、それをしようと思った動機は?
疲れ果てあどけなく眠った姉に、自分が親愛の情を覚えたのだということを、御坂妹は理解できなかった。
ただ、もう少しだけ、穏やかな美琴の寝顔を見つめる。
こんな悪夢みたいな現実に直面しているけれど、多分、彼女が今見ている夢は悪夢ではなさそうだ。
そう確認して、やがて自分も、目を瞑った。




[19764] interlude18: 身体検査[システムスキャン]前編
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:57

部屋の窓辺で、朝日をいっぱいに浴びる。
んーっと声をだしながら大きく伸びをして、佐天は一回目の決戦の日を迎えた。
一回目、つまりシステムスキャンが今日だった。ここでレベルが上がらなければ、常盤台の受験資格は無いに等しい。
とはいえ師匠の光子は太鼓判を押してくれているし、多分大丈夫だろう。
本戦である常盤台の編入試験が正念場だが、まあまだ数日ある。
暑くなったのでさっさと窓際から離れ、台所に向かった。
寝起きの気分は悪くなかった。思ったよりもリラックスして眠れたのも大きい。
出発までゆうに一時間半はある。何度か行った場所だから、道に不安もない。
「これで調子に乗って優雅な朝ごはん作ると後で焦るかなー」
日曜日だとかなら、ベーコンと目玉焼きとサラダ、そしてドリップコーヒーくらいを用意して、とても中学生の朝とは思えないような優雅な朝食だって食べたりする佐天だが、さすがに今日はそうもいくまい。
結局はいつもどおりのトーストを用意した。
「あ、初春もう起きてるんだ」
携帯を確認すると、数分前に初春からメールが来ていた。
返事をしなかったらきっと心配して起こしに来るだろうから、さっさと電話をしてしまう。
「――もしもし」
「おっはよー初春。頭のお花は元気してる?」
「おはようございます、ってどんな挨拶ですか……。もう、こんな日でも佐天さんは元気なんですね」
「あはは。でもちょっと緊張でハイになってるところはあるかも」
「佐天さん、何時ぐらいに出発ですか?」
「え? あと1時間ちょっとしたらかな」
「わかりました。あの、そのときお見送りに行っていいですか?」
「もっちろん! 初春はそのまま春上さんのところでしょ?」
「はい」
「あたしのぶんのお見舞いもよろしくね」
「もちろんです! 春上さんと枝先さんと一緒にお祈りしてますから。それじゃ、そろそろ切りますね。佐天さん、また後で」
「うん、また後で」
出発前に余計な時間を取らせないためだろう、初春はさっと電話を切った。
朝から初春に励ましてもらって、佐天は鼻歌交じりに朝食を済ませた。
来ていく服は制服だ。中に着込むものも昨日のうちから全部用意してあるから、あとは袖を通すだけ。
パジャマを脱ごうとして、佐天は手を止めた。そしてじっと手のひらを見つめる。
トラブルなく、ごく自然に手のひらで渦が巻いた。一応それにホッとため息をつく。
そして洗面所の扉を少しだけ開けて、隙間に渦を固定した。
「2分あれば充分か」
夏場の洗面所というのは、恐ろしい湿度と温度を誇る場所だ。
鏡の前で身だしなみを整える女子にとって、その環境は最悪といっていい。
普段なら髪を梳かすくらいだから面倒くさがって何もしないが、今日は晴れ舞台だ。
鏡の前で時間をとっても汗をかかずに済むよう、人力エアコンで熱を取る気だった。
威力を増した佐天の渦は、2分あれば洗面所をキンキンに冷やせる。
なにせ設定温度10℃の風が扇風機の強モードくらいで吹き荒れるのだ。


テレビの音声を聞くでもなしに聞きながら着替えを済ませ、心地よくひんやりと冷えた洗面所で丁寧に髪を梳き、お気に入りの髪留めできちんと留めた。寝癖だとか、あるいは肌荒れなんかはないかとひとしきり鏡を見てから、歯を磨いて準備を済ませた。
鞄にはシステムスキャンの案内と筆箱が入っている。別にそれ以外に必要なものはなかった。
余った時間を少しだけぼうっと過ごして、気負いなく、佐天は家を出た。
「おはようございます、佐天さん」
「おはよ。今日も初春は可愛いね」
「もしかしてまだ昨日の、引っ張ってるんですか」
階下へ降りると、日陰で初春が待っていた。
ちょっと呆れ顔なのは、自分が褒めたからだろう。佐天としては、ポロっともれた本音なのだが。
「男の人とお付き合いを考えようにも、常盤台って女子校ですよね?」
「あのー初春。別にあたしはそんなつもりじゃなかったんだけどね。でも、別に常盤台でも彼氏さんは作れるでしょ。婚后さんは、そうなんだし」
昨日、ここまで二人を送ってくれた当麻の顔を思い出す。
多分あのあと、もう一度黄泉川家に戻って光子とイチャイチャしたのだろう。


「――佐天さん」
改まった声で、初春が佐天を呼んだ。
見れば背筋もきちんと伸ばしていた。
「初春」
「応援してます! バッチリレベル3、取ってきてください」
「うん! それじゃ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
病院への道と、常盤台への道は交わらない。
佐天は初春に背を向けて歩き出した。だけど、それは別れを意味するようなものには、感じられなかった。
学校が同じになるとは限らないけれど、きっといつか、初春も自分と並ぶ日が来るような、そんな気がするから。


いつもと変わらない道を歩き、常盤台を目指す。暑さだけはどうにもならず、額の汗をタオルで拭った。
そして道すがらに、見知った公園を横切ったときだった。不意に、声をかけられた。
「ルイコー。今から常盤台だって?」
「あ、アケミ。おはよう」
「おはよ」
公園の日陰に、クラスメイトが立っていた。会いたいなら部屋を訪れたほうが確実だろうに。
だけど、この場所を選んだアケミの気持ちが、分かってしまう。
ここは、アケミや仲のいいクラスメイトを誘って、佐天が幻想御手<レベルアッパー>を使った場所だった。
あの日の喜びを、苦い思い出と一緒に今でも覚えている。
自分は彼女たちに負い目を作った側だ。幸いにして、誰も目を覚まさないようなことはなかったけれど。
「調子どう?」
「バッチリ」
「そか。よかったな」
アケミの、少しよそよそしい笑顔。昨日までは普段通り、ただの友達だったのに。
もちろん理由はわかっているのだ。
幻想御手<レベルアッパー>なんてものを使ったせいで、意識を喪失して病院に収容され、以降は先生や周囲の人間にもおかしな目で見られることだってあった。
そんな代償のかわりに得たのは、一時の夢。あの日一日限りの、ちっぽけな能力だけだった。
唯一、佐天を除いては。
「ちょっとルイコの渦、見せてよ」
「え?」
アケミたちの前では、一度も誇示したことはなかった。
そもそも、レベル0と1の集まりの柵川中学で、能力を実演する機会はほとんどない。
だからアケミのお願いの意図が分からなくて、佐天は戸惑った。
「……わかった」
ふう、と呼吸を整えて、軽く手をかざした。
佐天はもう駆け出しの能力者ではない。息をするように、あっさりと渦は集まり、手のひらの中で安定した。
「出来たけど、見えないよね」
「そっか。空力使いの能力って、見えないんだよね」
「見せるのには向いてないね」
苦笑いして、渦を木立の中に投げ込んだ。
バン! という空気が膨張する音が聞こえ、大量の木の葉が舞い、枝で休んでいた鳥だちが一斉に飛び去った。
その様子をアケミは驚いた顔で見つめ、何かを諦めるように笑った。
「アンタはすごいわ、ルイコ」
「……」
アケミが立ち上がり、口ごもった佐天のもとに近寄った。
そのまま、軽く抱きしめられる。
「そんな顔しないでよ。ルイコだって自分がそんなキャラじゃないってわかってるでしょ」
「……アケミはキャラにあってるね」
「そ。このグループの姉御は私だかんね」
いつも明るく振舞うくせに、割と小心者で、気にしすぎなタイプの佐天を分かっていて、きっとアケミはここにいてくれたのだ。
だってこんな早朝に、こんな公園にいる理由なんてそれしかない。
「ありがとね、アケミ」
「ばか。水臭いって」
「うん。じゃあ今度マコちんとむーちゃんに内緒でパフェおごったげる」
「やった! マジで!? ルイコ、ちゃんと約束は守ってもらうからね。忘れないでよね」
「忘れないって。あたし、義理堅い方だし」
「うん。それは疑ってない。それじゃ頑張ってきなよ」
「ありがと」
「常盤台の制服着たルイコに、パフェおごってもらうの楽しみにしてるかんね。それじゃー私帰るわ。こんなとこにいたら溶けちゃうし」
「うん。それじゃまたね、アケミ」
さばさばと、普通に街で会った時と同じように。
そんな風に別れてくれたアケミの優しさが、嬉しかった。
昨日電話をしてくれたマコちんとむーちゃんの優しさも、ちゃんと佐天の胸に残っている。
もう授かってしまった力なのだから、伸ばせるだけ、伸ばしていこう。
それは、アケミ達を見捨てることとは意味が違うんだ。
少しだけ軽くなった足取りで、佐天は決戦の舞台へと、再び足を向けた。





常磐台の校門付近で、光子は扇子をパタパタとやりながら、気休め程度の涼をとる。
そろそろシステムスキャンの受験生が集まってくる頃だろう。
学内の生徒向けには夏休み開けに開催されることもあって、今日集まる受験生は大半が学外の生徒だった。
もちろん全員女だ。そもそも学舎の園の中にある常盤台には、女子しかアクセスできない。
「では婚后さん、私たちは学舎の園の入口に待機しますから」
「ええ、よろしくお願いしますわね、湾内さん、泡浮さん」
二人を微笑みながら見送り、光子はこっそりため息をついた。
学生寮から出て暮らしているせいか、はたまた事件に巻き込まれて慎み深いとは言えない生活を送っているからか、光子は常盤台の生徒の中でも、どうやら目を付けられているほうだ。
それを帳消しにさせようとでも言うかのごとく、光子はこういう雑用を押し付けられたのだった。
本来は、こんなもの全て風紀委員の仕事だろうに。
「全く、あなたがたの怠慢ではありませんの?」
シュン、と特有の音をかすかに立てて近くに出現した生徒に、光子は嫌味をぶつける。
暑さもあいまってか、その相手、白井黒子は露骨に嫌な顔をした。
「学外の生徒の誘導なんて、指折り数えられる数しかいない我々風紀委員<ジャッジメント>だけでは人手が足りるわけありませんでしょう?」
「そうかしら。人数だって百人もいませんのに」
電撃使い<エレクトロマスター>や空力使い<エアロハンド>、発火能力者<パイロキネシスト>などのよくある能力を持った学生が、だいたいひとつの能力につき10人ずつ位やってくる。
学舎の園から中の道のりなんてそう間違えようもないし、案内係なんて二人もいれば足りるだろう。
学校内に入ってからの試験に関わる部分は当然常盤台の先生たちが担当するわけだから、学生の手なんて必要とされている部分はたかが知れていると思うのだが。
「風紀委員の実態を知らない人の典型的な勘違いですわね。勝手の知らない場所で人がどれほど無茶をやらかすのか、風紀委員のトラブル対処マニュアルでもお見せしたいくらいですわね」
うんざりしたようにため息をついて、白井がその場所を後にする、
「ここから外はお任せしますわ。何かあれば、連絡をくださいまし」
「ええ。つつがなく誘導を済ませられるようにしますわ」
光子も、そしてもちろん白井もやらなければいけないことを蔑ろにはできない性格だった。
だから仕事の部分だけはきっちりと意思の疎通を図り、すり合わせておいた。





時間通りに学舎の園の門をくぐり、佐天は常盤台の校門前へとたどり着いた。
目の前には、見知った顔。自分のためではなくて、受験者全員の応対を担当しているのは知っているけれど、それでも知り合いがいるのは嬉しかった。
「おはようございます、婚后さん」
「ごきげんよう、佐天さん。昨日は良く眠れまして?」
「はい。自分でもびっくりですけど、バッチリでした」
おや、と思いながら佐天は答えを返した。少し、光子の言葉に含みがあるように感じたからだ。
――上条さんに迷惑かからないようにと思ってすぐメールしたんだけどな。
光子の機嫌がわずかにナナメというか、そういう陰りを感じさせていた。
もちろん佐天以外にはわからないだろうし、佐天だってどうこう思うほどではない。
まあたぶん、帰ってから当麻と喧嘩でもしたのだろう。
「上条さん、光子が待ってるから、なんて言って昨日はすぐ帰っちゃいましたよ」
「……そう、ですの」
「え?」
いつもみたいに惚気けてもらったら機嫌も直るかなー、位のつもりで言ったのだが、逆効果らしかった。
「どうかしたんですか、昨日」
「別に、大したことではありませんけれど」
「上条さん、帰ってこなかったとか?」
「いえ、もちろん戻ってはこられましたけど、ずいぶん遅くて……」
語尾を濁して光子が地面を見つめた。内心怒ってるんだろうなぁ、と感じさせる口ぶりだった。
促すと、ちらほらと事情を語ってくれた。当麻が男友達の片付けを手伝わされたらしい。
試験の当日に、校門前でする会話じゃないななんて思いながら、短い愚痴を佐天は聞き届けた。
「婚后さんは心配しすぎですって」
「まあ、そうなのは分かってはいますけれど」
「こういうのってお付き合いしてると見えないかもしれなせんけど、上条さん、相当婚后さんのこと好きだと思いますよ」
「そうかしら」
「うちのお母さんもお父さんによく怒ってましたし、カップルって喧嘩するものじゃないですか」
「……まあ、うちの両親でもそういうところはありましたわね」
気軽に笑い飛ばす佐天を見て、だんだん気が楽になってくる光子だった。
言われてみれば、そのとおりだ。遅れたのは怒っていいと思うけれど、心配するほどのことではないだろう。
重たい嫉妬や心配で束縛するほうが、よっぽど当麻に嫌われそうだ。
「ごめんなさい、佐天さん。こんなところで変な話をしてしまって」
「つい昨日まで助けてくれたんですから、そのお礼です。それじゃあたし、そろそろ行きますね」
「そうですわね。まだ時間に余裕はありますけれど、それがよろしいわ」
すこし、光子のほほえみが柔らかくなったようだった。
それに安堵して、佐天は教室を目指す。
「佐天さん」
後ろから、名前を呼ばれた。
「どうしました、婚后さん?」
「楽しんでらっしゃい」
にっこりと、いつものおっとりとした笑顔で光子が微笑んだ。
ニッと、自分も笑みを返す。
「はい、楽しくやってきます」
初春、マコちん、そして光子。そうした人々に、優しく送り出してもらった。
とても幸せなことだと思う。半ば不正に、能力を伸ばし出した自分にとっては。
気負わないようにと思いながらも、そうした応援を背負って試験に挑もうと、佐天は心に決めていた。
今までとは違う特別な意味で、佐天は常盤台の敷地に足を踏み入れた。
それが、佐天涙子の長い一日の、始まりだった。





受験者がちょうど収まるくらいの大講義室に案内されると、しばらくして一日の簡単な流れの説明が始まった。
普段と大して変わるわけでもない手続きの説明だが、常盤台にいるせいか、受験者みんなが真剣だった。
「――ということで、今から口頭面接をして、その後、実技に移ります。実技の合間にお昼を挟みますから、昼食の用意が無い方は、学食を利用してくださいね」
佐天は少し落ち着かない自分を自覚しながら、当たりを見渡す。
何度かほかの学生と視線がぶつかって気まずくなった。
目が合うということは、他のみんなもそわそわしているのかもしれない。
佐天が座っているのは教壇から扇形に広がった座席の一つ、壁に近いところだ。
名前を言うと座席を指定されたから、もしかしたらすぐ周りにいるのが、同じ系統の能力者なのだろうか。
すぐ隣の学生と目が合うと、軽く笑って会釈をしてくれた。あわてて佐天も返す。
「それでは、アナウンスはこれで終わりです。各自、案内があるまではここで待機していてください」
担当らしき40代くらいの女性がそう言ってマイクを切った。
同時に、名前を呼ばれた数人が出ていった。おそらくは、面接のためだろう。
この面接というのは、レベルアップの合否を決めるためのものではなくて、今日一日、どんな試験をしていくかの相談に近い。
佐天なら『空力使い』だから、きっとそれに沿った試験になる。
だがもちろん、佐天の能力の他の誰とも違う側面を図るために、特別なプログラムが組まれるかもしれない。
そういうところを詰めるのが、この面接だった。
「それではまず、列の先頭の方からどうぞ」
名前を呼ばれた数人が立ち上がり、講義室から出ていった。
佐天の番まで、もう少し時間が掛かりそうだった。
手持ち無沙汰な時間ができて、さあどうしようかと軽いため息をつく。
また、隣の子と目があった。
「待ち時間、長いと嫌ですね」
おずおずと、間を埋めるように佐天に話しかけてきた。
座っているからわかりにくいが、背は佐天とそう変わらないだろう。
少し癖がついた黒髪が枝先をゆるくカールさせながら、頬の当たりまで伸びている。
胸の感じは初春並みで、焦げ茶の四角縁の眼鏡が、理知的な印象を与える。
「そうですね。でも、普段と違う学校で受けるスキャンだから、面接長いかもですよね」
初対面の相手だし、年もわからないから佐天も敬語で返す。
「あの、学年、おいくつなんですか?」
「あたしは一年です。あ、名前は佐天です。お名前聞いてもいいですか?」
名前を聞こうと思って、その前に名前を名乗る。
おそらくは学年の方が理由で、ほっとしたのだろう。少し顔が緩んだ。
「私も一年です。おんなじなんですね。私は綯足(なふたり)って言います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。あの、綯足さんって、空力使い<エアロハンド>か風力使い<エアロシューター>とかだったりしますか?」
「えっ? いえ、違いますけれど……」
綯足が眼鏡の奥の瞳を困惑に揺らした。同時に、佐天は予想が外れてちょっと恥ずかしくなる。
もしかして、学年別で分けたんだっただろうか。
「ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。学生の並びが、能力ごとなのかなって思ったんですけど」
「ああ、そういうこと。佐天さんは、気流系の能力者なん……ですか?」
「えっと、うん。空力使い、かな」
同学年だし、敬語は変だなと思って、佐天は苦笑混じりに綯足にほほえみかけた。
意図をすぐ察したようで、いくらかリラックスした口調で返してくれた。
「たぶん、佐天さんの予想は正しいと思う。私も流体系の能力ではあるから」
「そうなんだ。じゃあ、水流系の能力者なの?」
「うん、だいたいそうかな」
おおっぴらに話したくないのか、綯足は曖昧に肯定した。
別に直接対決することはないが、ここにいる学生たちは基本的に、この夏の編入試験を受けて常盤台を目指す学生ばかりだ。
自分の能力のことをあけすけに喋るのは、あまり得策ではないだろう。
「それにしても、人多いね。今日受けない人も本番の編入試験にはくるんだろうし、狭き門だよね」
つい、当たり障りのない会話に話を持っていってしまう。
だが佐天のそういう心境を綯足も分かっているらしかった。
「これ受けないで常盤台を受験する人、ほとんど居ないみたいだよ」
「え? そうなの?」
「うん。十分受かる実力の人は四月から入学してる訳だし、ここにいるのは、能力が伸びてギリギリ常盤台に受かるかもって人たちだから。ってことは、選んでもらうためには自分の将来性をちゃんと見てもらわないといけない。審査の回数が少ない人のことってよくわからないから、受かる人はちゃんとシステムスキャンもここで受けてるんだって」
「へえーっ、そうなんだ」
そういうことを深く考えずに、単にレベル上げのために佐天はここに来ていたので、そういう受験テクというか、合格率を上げるための努力というものがあることに少し驚いていた。
「だからまあ、上がる見込みはないんだけど、私も受けに来たんだよね」
苦笑して、綯足は髪を軽く手で弄んだ。
上がる見込みが無くても常盤台を受けるということは、レベル3以上なのは確実だ。
「綯足さんって、レベルいくつなの?」
「え? んと、4だけど」
「4って」
そりゃ上がるわけない、と佐天は心の中で突っ込んだ。
上がったら見事『第八位』の出来上がりだ。
そんな能力者が、常盤台に入らずこんな時期にくすぶってるなんてありえない。
「佐天さんは?」
「あたしは綯足さんと逆だねー。崖っぷちの2ですよ」
「ってことは、今日レベルアップ確実?」
「それはわかんないけど、上がらなかったらそこで試合終了だね」
レベル2のままでは常盤台の受験資格自体がそもそもなくなってしまうのだ。
だからタイミング的にはまさに崖っぷち。
だが、レベル3なら余裕だと光子も言っていたし、実際その実感はあった。
「嫌な風に受け取らないで欲しいんだけど、お互い、頑張ろうね」
「だね。ポカだけはやらかさないように気をつけないとね。綯足さんも頑張って」
「うん」
頷きあったところで、ちょうど面接のタイミングがやってきたらしかった。
「佐天涙子さん、綯足映花(なふたりえいか)さん、面接会場に移動してください」
「はい」
「わかりました」
短時間で醸成された少しの連帯感を目配せで再確認しながら、二人は別々の部屋へと移動した。





目の前にあるごく普通の引き戸を、佐天はノックする。
何気なく配置されたそれは、一枚板の木材を切り出したものだ。普通の学校にありがちな合板などではない。
ノックに答えて軽やかな音を引き戸が鳴らし、中にいる人がどうぞ、と返事をした。
「失礼します」
知らない人を相手に面接を受けるなんて、人生でも数えるほどにしか経験がない。
それなりに緊張して、体が変に強ばっているのを自覚しながら、佐天は面接室に入室した。
眼前に座っているのは、いかにも補佐らしき若い女性と、面接の相手であろう壮年の女性だった。
振り返ってもう一度目礼すると、友好的なほほ笑みを浮かべて、二人は佐天に会釈をした。
「こんにちは。お名前をフルネームで伺ってよろしいかしら?」
「あ、はい。佐天涙子です」
「学校は?」
「柵川中学の一年です」
「はい。よろしくね、佐天さん」
「こちらこそ、その、よろしくお願いします、」
柵川中学の先生たちより、ずっと理知的な印象がある先生だった。
ブラウスにスーツというフォーマルなスタイルだからというのもあるだろうが、学園都市で五指に入る名門で教鞭を振るっている女性の、自信に裏付けられた微笑みに気圧されているのも否めない。
「あなたが佐天さんね」
「え?」
「婚后さんからちょくちょく話を聞いていたわよ」
目の前の女性は、名前を告げると同時に自らが婚后光子の開発官でもあることを告げた。
だから緊張することはない、と冗談を交えながら佐天に話しかけてくれた。
残念ながら佐天はあまりうまく返せなかったけれど。
「大まかな話はもう聞いてあるわ。普通の空力使いとは駆動方式が違うのよね」
「はい。流れを小さな空間に分割して、それぞれのセルの流れを解く方式じゃなくて、流れを仮想粒子の集団とみなして、粒子の運動を解く方式です」
「いわゆる格子気体法の亜種なのかしら。どっちかって言うとDPD(散逸粒子動力学法)に近い?」
「格子気体法に近いです。格子ボルツマン法を元に理論を組んでるので。もしかしたらDPDの方が合ってるのかも、とは思うんですけど」
「あら、じゃあどうして格子気体法寄りなの? ……ああ、もしかして」
散逸粒子動力学法(Dissipative Particle Dynamics, DPD)は本当に流体を離散化して粒子集団として解く方法だが、格子気体法の流れを組む手法は、セルオートマトンに様々な制約を課すことで、流動という物理現象を再現できるように無理やり形を整えていくような方法だ。
佐天のように直感的な操作を好むタイプには、DPDの方が向いているかもしれないという思いはあった。
そちらに手を付けていない理由は、面接官の思い至ったそのとおりだろう。
「最初にこういう方法があるって教えてくれたお師匠様が統計屋さんだったんですよね」
「婚后さんは完全にそちらよりだものね」
光子はマクロに流体を操るのではなく、ミクロに、分子に本来とは違う性質を付与することで、
統計的な性質を間接的にコントロールする変り種の能力者だ。
直感的な操作で能力をコントロールするのが下手な反面、能力の「見た目」に左右されない変幻自在さを持っている。
佐天とは、空力使いとして正統派ではないという意味では共通しているが、能力の本質的なところでは、やはり異なった面があるのだった。
「じゃあ、佐天さん。婚后さんから一通り聞いてはいるんだけど、あなたの言葉であなたの能力のことを聞きたいの。説明してくれるかしら?」
「わかりました」
共通の知人がいるおかげか、短い会話で佐天はいくらかリラックス出来た。
そして聞かれるだろうと思って用意してきた答えを、佐天はよどみなく口にした。
『空気の粒』を操ることが出発点。
この粒はある一点へと収束する指向性を持ちながら、同時に揺動することで球状の渦を形成する。
そして巻きを強く、取り込んだ空気を多くすることで渦の持つエネルギーは増大し、開放した時の破壊力を増す。
最後に、熱を集める性質もありエアコン替わりにも使える便利な能力だ、と少し笑いを取りに行って、佐天は説明を終えた。
「ご苦労さま。よく纏まっていましたね」
「ありがとうございます」
「これも婚后さんの教育方針かしら」
「あ、はい。よく説明してみるようにって、言われるんです」
「うぬぼれじゃなければ、それは私の指導方針を踏襲しているのね。だからだとは思うけれど、佐天さんの能力はとっても好みだわ。私は編入試験のほうには関与していないから言ってしまうと、合格してくれれば是非あなたの能力開発に関わらせて欲しいわね」
「えっと、頑張りますとしか言えないんですけど、そんな風に言ってもらえて嬉しいです」
その話を聞いて、失礼ながらに、佐天はまるで「おばあちゃん」と話をしているような気分になった。
普段面倒を見てくれている師匠の、そのまたお師匠様に当たる人なのだ。この人は。
年齢でも祖母に近いから、尚更そう感じるのかもしれなかった。
面接官の女性はコメントを手元の紙に書き込んでから、再び顔を上げて佐天を見た。
「佐天さん、今日のこととは直接関係ないんだけれど、一つ聞かせて欲しいことがあるの」
「はい。なんでも聞いてください」
すっと、面接官の女性の顔が真剣になった。年齢相応の柔和さを消して、研究者の顔で佐天を見つめた。
「あなたにとっての能力のゴールはどんなもの?」
「え?」
「レベル5になったら、あるいはそれより先の高みにたどり着いたら、どんな能力者になりたいの? ここで聞きたいのは『みんなから尊敬される能力者になりたい』なんて答えじゃなくて、どんな演算で、どんな物理現象を起こせる能力者になりたいのかが知りたいってこと。佐天さん、どうかしら? 具体的なビジョンは持っているのかしら?」
そのストレートな質問を、佐天はうまく打ち返せなかった。
光子にも似たような質問は何度か受けていたけれど、やっぱり、答えを自分の中で固められないのだ。
「こうなりたい、って明確な姿はなかなか見つからないんですけど」
「それで構わないわ。聞かせて頂戴な」
「大雑把な演算モデルは、基本的に今のから変えたくないんですよね。シンプルだし、あたしに合ってる気がするし」
「なるほど」
「でもそうすると、あんまり能力に変化がつかないんですよね。今はもっと制御できる領域を大きくしたくて、空気をどのように認識するか、って部分をもっと大切にしたいんですけど」
「……ふむ」
能力者は何も多彩である必要はない。だが、応用力の低さは光子ともども、悩みの種ではあるのだった。
美琴のような例を見るにつけ、根本から能力を組み立て直して汎用性を身に付けたほうがいいのかと考えてしまうのだった。
とはいえそんなアドバイスを貰えばとんでもない苦労をするから、望んではいないのだが。
「佐天さん。質問があるんだけれど」
「あ、はい」
「佐天さんの渦って、もっと圧縮したらどうなるの?」
「え?」
「そこまで想定してない?」
「……モデルとしては、そうです。あたしの演算の中には、あくまで普通の空気の演算しか想定されてません」
「その言い方だと、例外を経験したことがあるみたいね?」
それは、一度っきりの経験だった。
まだ記憶は鮮明に残っている。とある研究施設の地下深く、大切な友達の能力を模倣して放たれた一撃。
音速の八倍で進み、身に余る摩擦熱を獲得したプロジェクタイル。
「小さい金属片が気化した蒸気を渦にしたことがあります」
「金属蒸気? ……そうか、あなたの能力だと熱量を失うことなく取り込めるから、そんなものでも渦に出来るのね。それにしてもそんなもの、どこで用意したの? 失礼だけどあなたのレベルじゃ中々用意してもらえないと思うんだけれど」
低レベルの能力者に危険な実験をさせることはまずない。そのための施設自体が、そもそも常盤台のような有力校にしかないのだ。
佐天は、本当ではないけれど、嘘とは言い切れない答えを口にする。
「あたし、御坂さんと友達なんです。それで、あたしに向けて撃ったんじゃないんですけど、御坂さんが超電磁砲<レールガン>を使ったのを、横から」
「御坂さんのアレを受け止めたの?!」
「……はい。そう言って、嘘にはならないと思います」
「そう。それは、面白いわね」
挑戦的な笑みを浮かべ、佐天を見つめる。
そんなふうに期待を持って見られたことがないせいか、恥ずかしくて居心地が悪いくらいだった。
「要は、あなたはプラズマ位なら制御できるってことね」
「短時間のことだったし、そこまでは言い切れないですけど」
「まあ今日は試すのは無理だけれど、是非見てみたいわ。さて、それで質問の続きだけれど、例えばあなたの渦の規模を、質量とエネルギーの両方の意味で大きくしていった時の話に戻すけれど、とりあえずプラズマにはなりうると。それじゃ、その先は?」
「え? 先、ですか?」
分子の電離までは、佐天は体験していた。だから想像できる。
だけど、その先って、一体何だろう?


「次はやっぱり、核融合でしょ?」


面接官の女性は、気負うことなくそれを口にした。
「はい?」
「もちろんずいぶんハードルが高いから、口にするのはためらわれるかもしれないけれど。あなたの能力の将来に、これは有り得そう? それともなさそう?」
「えっと、勉強不足ですみません。空気を圧縮したら核融合が起きるってことですか?」
「空気というか、軽い原子同士の衝突によって重い原子ができる核融合ってプロセスによって、この宇宙は出来上がった訳でしょう? 創世<ビッグバン>後と同じ高密度・高エネルギーを再現してやれば、酸素や窒素からもうちょっと重たい原子も出来るんじゃないかって、単純な思いつきなんだけれど」
「はあ……」
それに必要な温度と圧力はどれほどのものか。多分、自分の今いる領域よりも文字通り桁がいくつか違うだろう。
「もう一つ気になったのはブラックホール生成かしら。ナノサイズのブラックホールを作って、ホーキング放射を制御できれば、あらゆる質量を直接エネルギーに変換する超高効率エネルギー炉になれるわね。汎用性で楽に太陽を超えるわよ。水素しか食えない天体より上ね」
自分の思いつきを面白気に語るのを見て、佐天は取り残された思いだった。
良くはわからないけれど、そんなのできっこない。
プラズマですら、自分では作れなくて、誰かにエネルギーを入力してもらわないといけないのに。
「佐天さん。今みたいな応用、もちろんすぐには手に入れられないし、考えるだけ無駄かもしれないわ。でもどこにたどり着きたいのか、行き先をある程度考えておかないと、能力を伸ばすときにも苦労するわ」
「はい」
それは、光子にも言われたことだった
たとえば、ブラックホールというのは自分の能力の極限だろう。
そういう意味では憧れないわけでもない。
「ホーキング放射ってのは、よく知らないんですけど」
「まあ細かいことは今は知らなくていいわね。ブラックホールは、質量から見ると、一度入ったら逃げ出せない罠みたいなものだけど、実は『蒸発』してるの。質量をエネルギーに変換して、逃がしているのよ。これがホーキング放射。小さなブラックホールだと質量を吸い込む速度とエネルギーを逃がす速度が同じオーダーになってくるから、
 上手くコントロールすれば、質量をエネルギーに変換できるって訳。こんなの学園都市でも実現していないけれど、もしできたら人類は無限のエネルギーを手にすることになる。基礎研究くらいはどこかでやってるだろうから、そこに加わればあなたは第一人者になれるかもね」
要は、空気を集め、とんでもないレベルにまで圧縮すると、集めた空気がそのままエネルギーに化けるということだ。
原子爆弾が示すとおりに、少量の質量でもとてつもないエネルギーに変換される。
それを考えれば、確かに面白い応用ではあるのだろう。

「まあ、地球をパチンコ玉位に圧縮できるような能力が必要なんだけど」

……結論から言って、無理そうだった。




[19764] interlude19: 身体検査[システムスキャン]中編
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:58

面接を終えて出てくると、綯足もちょうど終わったところらしかった。
「綯足さん」
「お疲れさま、佐天さん」
「どうだった? 面接」
「能力のことを根ほり葉ほり聞かれた、って感じかな」
面倒だったと笑いながら語る綯足には余裕が見えて、これがレベルの差から来る経験の差かな、なんて邪推をしてしまう佐天だった。
「佐天さんの方は?」
「あたしも能力のこと、演算をどうやってるだとかを細かく聞かれた感じ。知らない人に説明することってほとんどないから、ちょいと疲れちゃったね。いつもと同じシステムスキャンなのに、面接が丁寧でびっくりした」
「そうだよね。すっごい長かった」
「これからすぐ、最初のテストだっけ」
「だね。佐天さんは空力使いだし、私とは別の集合場所かな」
「あたしはあっちの方の教室だって」
「私はグラウンド。ってことはまた別々だね。お昼に会えたら一緒にご飯行こうよ。常盤台の学食ってどんなのか、楽しみだったんだよね」
「うん。それじゃあたし、終わったらさっきの部屋に顔出してみるから」
「ありがと。それじゃ、またあとで」
「うん。お互い頑張ろう」
常盤台に知り合いの少なくない佐天だが、今日はそんなに会いたいとも思えない。
やっぱり既に常盤台に合格した人間と今日の気持ちを共有するのは、難しいから。
綯足はレベルはかなり違うが、親近感を感じられる相手だった。
「さて、最初は何のテストだったかな」
リラックスしたつもりでつぶやいた独り言が硬い声だったことに気づいて、佐天はうんと伸びをした。
さっき、面接室を出る前に言われたことが、気になっていた。
――曰く。「普通の空力使い向けのテストも受けてもらうから、覚悟して受けなさい」だそうだ。
オーソドックスな空力使いではない佐天の能力を図るには、普通のテストだけでは不十分だ。
というか、そういうテストで計られては、自分のレベルが正しく評価されない。それを分かった上での指示らしかった。
普通と自分がどう違うのか、その違いが何に由来しているのか、そしてその違いをどう「良さ」につなげられるか。
それを考えるための切っ掛けを得ろと、面接官は佐天に諭すように説明してくれた。
「ごきげんよう。空力使いの方よね」
「え? そ、そうですけど」
「ごめんなさい。さっきの教室での話を横から聞いていましたの。お互い、頑張りましょうね」
いかにも先輩という感じで、教室前でテストを待つ生徒の一人が佐天に挨拶をした。会釈をしながら、普通くらいのサイズの教室に入る。
編入試験のこれまでの傾向を考えると、気流操作系の能力者の中から合格するのは、三学年あわせてせいぜい一人か二人だ。
つまり、ここで待っている空力使いの少女たちは、その全員が佐天が蹴落とすべきライバルだと言っていい。
とはいえ、特に三年の夏からの編入志望者はよっぽどのことがないと採用されないので、一年の佐天はスタート位置という意味では有利だ。レベルも、ほとんどの人は3らしい。綯足や光子みたいな例外もいるにはいるが。
そのライバル達を眺めると、来ている服はもちろん常盤台のではない他校のものだが、品が良いというか、雰囲気が常盤台に居そうな感じだった。
それだけ、意識しているのかもしれない。逆に佐天は常盤台には似つかわしくない方だろう。まあ、サバけ具合では全校生徒憧れのお姉さま、御坂美琴もいい勝負だが。
「みなさん集まっていますね? これから、ここでは気流操作系の能力者のシステムスキャンを行います。もし場所を間違えた人が入れば、速やかに手を挙げて伝えてください。なければ、呼んだ順にテストを受けていってもらいます。よろしいわね?」
佐天の後ろから、さっきとは別の先生が現れた。さっと指示を飛ばして場を掌握し、実験に移る。
教室を前から後ろまで占める複雑な形をした細い筒、ダクトに軽く触れて、その先生は周囲を見回した。
「実験の内容はよくあるものですから、説明は不要かと思いますが。一応、知らない人は挙手してください」
どうしよう、と佐天は思った。目の前にいる15人位の生徒が誰一人手を挙げなかった。
だけど当然、佐天はこんなテストを受けたことがない。
よく考えれば、レベル1の時にはこんな大掛かりなテストをうけるほどの実力はなかったし、レベル2に上がったときは試験無しで上がってしまったのだ。知らないのは、自分が悪いからではない。
「あの」
「はい?」
「あたしこのテスト受けたことがないので、知らないです」
「受けてない? あなた空力使いよね?」
どこか険のある尖った表情の先生が、不審げに佐天を見た。
「空力使いであってます。だけど、受けたこと無いんです」
「……そう」
ちらと紙面に目を落とし、先生は何かを確認した。そして納得したように頷く。
たぶん、佐天のレベルを見て、事情を推察したのだろう。
「では改めてテストの意図を説明します。ここにあるダクトは、真っ直ぐでなくうねった形をしていて、さらに内壁には抵抗の大きい不織布を貼っています。みなさんにはここに空気を通してもらいます。その間、こちらで入口と出口の差圧を測り圧力損失を求めます。やることはそれだけです。気流をきちんとコントロールできれば抵抗なく風を流せますから、損失は小さくなるでしょう。コントロールが悪ければ、制御無しの時に得られる圧力損失の理論値に近づきます。この理論値より如何に圧力損失を小さく出来るかで、皆さんの能力を計ります」
普通に入口からファンか何かで空気を流せば、曲がりくねったダクトのあちこちに風はぶつかり、その推進力、すなわち動的圧力を失っていく。
能力で制御すれば、そのロスは抑えられる。つまりは空力使いの風のコントロール力を試す試験なのだった。
「質問は……ありませんね。あなたも直前の人たちのしていることをよく見て、すべきことを理解しなさい」
「あ、はい……」
佐天は、いきなりこのテストが自分にとっての鬼門であることに気づいた。
こちらを奇妙なものを見る目で見ていた生徒たちが一人づつダクトに手をかざし、風をコントロールする。
蛇のようにうねるその筒の形どおりに風をうねらせ、エレガントに通していく。
さすがは、レベル3以上の生徒たちだった。今までに見たことがないくらい、誰もが、正確なコントロールを行なっていた。
当然、優れたコントロール力を持っている学生達の圧力損失は小さく、時に「すごい」と誰かがこぼすのが聞こえた。
「佐天涙子さん。あなたの番よ」
「はい」
もう一度だけ、よく考える。自分に勝ち目があるかどうかを。
しばしの黙考で出てきたのは、自分の努力不足に対する反省だけだった。
「それでは、始めてください」
先生に促されるままに、ダクトの前に佐天は立った。
ほかの生徒なら、ここからダクトに手を添えて、外から空気を呼び込むのだろう。
自分にできるのは、それではない。
ガッと勢いよく音を立てて、佐天は手のひらの上に、空気を蓄えた。
「へぇ」
誰だっただろう、後ろの生徒の一人が声を漏らした。
能力者ではない先生には見えないだろうが、後ろの生徒にしてみれば、佐天のやったことは丸分かりだ。
手のひらに渦巻く気流を、はっきりと見つめていることだろう。
とはいえ、威力が求められる試験じゃないから、佐天だって本気は出していない。
だって、さすがにダクトを壊したら怒られるだろうから。
「……いきます」
集めた渦を、佐天はダクトの入口に突っ込んで開放した。
できる努力は、無秩序に開放せず、せめて、両刃槍のように尖った方向を作って風を噴出させることだけ。

――直後。

ビリビリとダクトを震わせて、渦から放たれた風がダクトを満たした。
その様子は、はっきりとエネルギーが失われ、散逸していることがわかるものだった。
複雑な軌跡を要求するダクトの中を繊細に通す感じからは程遠く、細い管に口をつけて、ほっぺたを膨らませながら無理矢理息を吹き込むような稚拙さだ。
とても、気流を制御する能力者のやることとは思えない。そんなふうに、先生や周りの学生の顔に書いてあった。
気まずい空気が流れる中、無機質にコンピュータが測定結果を報告した。
『測定結果。圧力損失は1.15kPaでした。理論値からの差はプラス0.60kPaです』
「プラス……?」
圧力損失の理論値は、上限の値だ。これより小さいほど優秀な値であり、マイナスの値にしか測定されないはずなのだが。
そう、誰もが一瞬訝しんだ。
「たぶん、入口に渦を置いたせいです。理論値って、多分入口にファンか何かを置いて計算した値ですよね」
佐天がそうフォローした。学生たちはそれで一様に納得したように頷き、先生も、測定結果の詳細なログを眺めて納得したらしかった。
「入口にこんな圧力がかかるのは想定外ね、確かに。ついでに言えば入口から外に空気が漏れるのも。さて、中々面白い結果が出たけれど、時間がないから次に行きましょう」
先生は何かを書き込んで、次の生徒を促した。
ここで点数を告げられるようなことはないけれど、まあ、自分は0点だろう。
理論値以上にロスの大きな結果を出しても点数がマイナスになることはないだろうし。
佐天は、ダクトの中を走る空気のコントロールなんて、これっぽっちもできなかった。ふうっとため息をついて結果のことを忘れた。
どうせ、元から点をとれたテストではない。
それより、テストを通して気づいた、もっと大事なことに心を配るべきだ。
佐天は、渦を開放するとき、どこかに投擲したことがある。
例えばそれは、大型の工作機械の、エンジン給気口だった。
そういう時に、自分はどうやって渦を「投げた」のだろうか。
渦だって気流の一部なのだから、普通の物体のようには投げられないはずだ。
それを投げられるということは、自分が渦を、手から離れたあともコントロール出来ることを意味している。
これに気づいてもっと技を磨いていれば、ダクトの中を渦を通して、もうちょっとマシな対処を出来たのではないだろうか。
もちろんそのアイデアはテストを裏技でクリアするようなものだが、そういう邪道も王道なのがシステムスキャンだ。
「これで全員終わりましたね? では次のテストに移ります。次からは屋外テストですのであちらの更衣室で着替えて、15分後に下のグラウンドに集合して下さい」
担当の先生は事務的にそう告げ、教室からすぐの更衣室の鍵を開けてどこかへ行った。
学生達はなんとなく顔を見合わせ、順に更衣室に入る。
更衣室といえば鉄製の細長いロッカーの並ぶイメージだが、ここは全てのロッカーが木製だった。
壁に並ぶベンチもなんだかお洒落だ。ここは本当に学校なのだろうか。そう思わずにはいられない。
だが、そういう驚きは入り口を入ってしばらくすると全員の頭から消えたらしかった。
「あつ……」
「まったくですわね」
先ほど佐天に話しかけてきた、年長らしい生徒がため息をついた。
エアコンはあるようだが、稼動していない。そもそも夏休みの更衣室だから仕方ないのかもしれないが。
真夏に風のない部屋に大人数で篭もり、さらには今から着替えようというのだ。
それを歓迎する顔は一つもなかった。
「窓、少し開けてみてくださる?」
「え?」
「学舎の園の中ですわよ、ここ。外の視線に神経質になる必要はありません」
別に窓の近くにいたわけでもないのだが、お願いされれば動かないのも感じが悪いだろう。
頼まれたとおり、佐天は窓を15センチほど開けてみる。外はすぐに別の建物があるらしい。そちらから覗かれる心配もなさそうだった。
「換気はできそうね」
「あ、風なら私が」
ここにいるのは全員が空力使い<エアロハンド>と風力使い<エアロシューター>だ。風がなくて暑い場所に来て考えることなんて、皆一緒だ。
一人の生徒がくるりと部屋を循環するように気流を描き、窓の外と繋げた。
この程度のことは別に誰でも出来るからだろう。誰も文句を言わず、ただ、チラリと能力を使った少女の顔を確認した程度だった。
佐天は扇風機方式、つまりは気流を作ることで体の放熱効率を上げるやり方よりも、エアコン方式で部屋の温度そのものを下げるほうが得意なので、そういう流儀の違いにちょっと面白さを感じていた。
適当にロッカーを一つ決めて、鞄を放り込む。ついでに中からいつもの体操服を取り出した。
周りでもさっさと着替え始めているので、同じように体操服の下を履きながら、スカートを腰から落とす。
普段は同学年の子しかいない場所で着替えるのに比べ、年上がいるからだろうか、普段よりもスタイルの良い子が多い気がした。
あまり意識していないが、そういう少女達をさしたる感慨もなく眺められるくらいに佐天のスタイルはいいのだった。
「随分と余裕がおありね」
「え?」
佐天の隣で着替えていたあの年上の少女が佐天を見てクスリと笑っていた。
「先ほどのテストの様子を見て思いましたけど、貴女、風力使いはおろか、普通の空力使いともかなり違っているんではなくて?」
「え、ええ、まあ。そうですかね」
「わたくし達と同じテストで比べても、正当な評価は出来ないでしょうに」
「そうかもしれないですけど、さっきの面接で同じテストも受けるように言われちゃって」
「へえ。どういう考えなのかしらね、常盤台の先生方は」
「それはあたしにも……」
二人して、着終わった服をハンガーに掛け、髪を整える。
佐天より僅かに長身のその少女は、僅かに佐天を見下し、呟いた。
「この中から合格者なんて一人か二人ですわ。まだ一年で、他にチャンスがおありだから余裕なのね」
佐天が答えを返すより先に、少女は部屋を後にした。
やや尖った空気をかもし出したその一角を無視するように、他の少女達は着替えを続ける。
佐天は、また反省した。
自分向きのテストじゃないからと、気を抜いてやしなかったか。
さっきのあの人の嫌味は、嫌な感じよりも、本人の必死さが伝わるような感じがした。
「やっぱり駄目だった」なんて、友達に言いたくない。高みを目指したい気持ちで、別に周りに負けてるなんて思ってない。

「まーがんばりなよ」

部屋を出ようとした瞬間、佐天を揶揄するような声で、面白がるように誰かが呟いた。
続いて、くすくすとそれを笑う声が続く。振り向いても声の主が誰かは分からなかった。
佐天はそれを意に介さず、踵を返して扉を開いた。





「さて、定刻になりましたので次のテストを行います。これもオーソドックスな物体運搬の試験ですが、詳しい説明は必要ですか?」
「はい。お願いします」
「わかりました」
佐天は正直に手を上げた。ふっと誰かが鼻で笑ったらしいのが聞こえた。
たぶん、佐天の自意識過剰なんかではないだろう。誰とは言いにくいが、受験者の中に佐天を下に見ている人間がいるらしかった。
馬鹿なことだと思う。佐天を見下して、自分が上に上がることなんてないのに。
佐天の知り合いの常盤台の生徒には、そんな性根の人はいなかった。
……一番その傾向が強い例で、まあ、お師匠様の光子みたいな人もいるけれど。
「まず、こちらの箱に、今から申請してもらったとおりの重量の重りを入れておきます。それを、能力を使えばどのような方法でもいいので、指定位置へと動かしてもらいます。移動できた重量と指定位置までの距離、そして置き場所の正確さで評価をします。この際、最も評価されるのは狙った位置におけることで、次に重量、そして距離となります。貴女はこの試験も、受けたことはないのね?」
「はい、ありません」
「では重量と目標距離はどう決めますか? 貴女のレベルの標準設定は、だいたい重りが10キログラムで距離は10メートル。レベル3向けには50キログラム20メートルくらいが良くある数字だけれど」
佐天は一瞬、思案する。
重さは、別に50キロで問題ない。自分の体浮かせたことくらいはあるからだ。
だが、狙い通りのところに、渦ではなく渦をぶつけた物体を飛ばすというのは、物凄く困難なことだろうと思う。
「正確さが大事なんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、10キログラム10メートルでいいです。あたしの番まで、グラウンドの隅っこで練習してもいいですか?」
「ええ。構いませんよ。もう10分くらいしかないと思うけれど」
「わかりました」
奇妙なものを見る目でこちらを見つめる受験生達を意に介さず、佐天は10キロの重りを一箱借り受け、必死に手で運んだ。
光子は多分、この試験が大得意だろう。重さは1トン、距離は100メートルくらいは平気なんじゃなかろうか。
それでいて狙った位置に的確に落としそうだ。
それに比べると、自分は不慣れなせいもあるが、不利だった。
「では始めてください」
後ろで、テストの始まる声が聞こえた。テストの流れを知るため、一人目だけ観察する。
一番目の受験者は、ごくオーソドックスな風力使いらしい。風を重りの下に差し込んで、風圧で持ち上げた。
僅かに前後左右にと触れているが、全体として安定した挙動だった。
重さは、風圧から推測するに50キログラムやそこらだろう。まさに平均値だ。
それを、50メートルくらい先のサークルに向かって動かす。
コントロールは重りが自分から遠ざかるほどにあやしくなり、少し危うさを感じさせる挙動で、何とか重りを置いた。
『記録。50メートル23センチ。指定距離との誤差23センチ』
その結果をたたき出した少女は嬉しそうな態度は見せなかった。
レベル3なら悪い数字ではないはずだが、実力を出し切れなかったと言うことだろうか。
こちらが眺めているところに気付かれて、少しきつい目でにらみ返された。
既に申告した値の関係で、彼女の記録を超えることはまず無いと思うのだが。
「眺めてる時間は、無いよね」
自分で、佐天は言い聞かせた。そして傍らの重りに目をやる。
気流系の能力者向けだからだろう、底は下駄を履いたように隙間が作ってあって、そこに空気を流し込めそうだった。
「まず、渦をこの下で解放して上空に飛ばすと。で、渦を次々ぶつけて動かして、最後に地面から吹き上がるヤツで捕集すればいいか」
仕上げの渦だけ、球状の渦ではなく、自然界にある竜巻型で作る。そしてその内部に重りが入れば、後は台風の目に重りは落ち着くだろう。
佐天はその練習を時間いっぱいまで行った。考えていた時間を除いたら、結局練習なんて五分できたかどうかだった。
「次。佐天涙子さん」
「はい」
名前を呼ばれ、すぐに先生の前に向かう。
目の前のグラウンドには、砲丸や槍投げ用と思わしき、放射状に広がるガイド線と距離を示す同心円状の線が描かれていた。
そう遠くないところ、正確には佐天の申告した10メートル先に、ゴールを示す円が書かれていた。
「あそこを狙って落としてください。準備はいいですね?」
「はい」
傍に置かれた重りを確認し、そして手を握って開いてを繰り返し、能力の調子を確かめた。
「では、始めてください」
その声を合図に、佐天はガッと空気を手に集める。
そして、その一つ目の渦のために集まった空気がさらに周りの空気を渦巻かせるのを、片っ端から意識の中で捕まえる。
周りの学生の視線を見るに、渦の種がいくつも固定化されたのに気づいているらしい。
それを感じながら、一つ目の渦を使って、佐天は重りを空に打ち上げた。

――――バンッッッ!!!!

砂埃が重りの下から弾け飛ぶ。同時に、もっと鈍重な慣性を纏って、ゆらりと重りが打ち上がる。
緊張のせいか、あるいは不慣れなせいか、佐天は自分が少し失敗をしたことに気付いた。
佐天の目の高さくらいにまで浮いた重りが、ゆるく回転を始めていた。
直方体の重りだから、平たい面を何処に向けているかは、かなり重要なことだ。
回転はその狙いを難しくする。特に、次の渦をぶつけるときに回転を消すために重心を貫こうとする時には大問題だ。
「ふっ!」
佐天に、渦で正確に一点を狙う技術はない。渦の生成そのものとは関係が無い技術だし、センスを養ってこなかったから当然だ。
だけど、この場でそれは結果を著しく歪めていく大きな弱点になる。
バンッ! という音とともに第二撃が加えられる。なんとか底面に当てられたが、重りは望ましい方向からは軸をずらして飛んでいく。
回転も、減じるどころか早まる一方だった。
「うわー、大変そ」
誰かが囁く言葉に、僅かに動揺を誘われる。
名前も知らない相手なのに、どうせ、一緒に常盤台に通うことはまずない相手なのに。
自分が気にしなければいいだけなのに。
「――くっ」
佐天は、底面に渦をぶつけることを諦めた。目標地点に向かって重りが飛ぶように、少し離れたところで渦を爆散させる。
渦そのものでなくて、渦から生まれた気流をぶつければ回転の影響はあまり気にしなくて済む。ただ、望むほどの推進力は得られない。
急造の渦を次々とぶつけて、目的地の当たりまで重りを届ける。10メートルにしておいて良かったと思う。
重りのたどった軌跡は、酔っ払いの足取りみたいにあちこちに振れていて、美しさの欠片も無い。
「最後――!」
心の中で、開始時点から意識の片隅に待機させていた渦の種のトリガーを引く。
砂を巻き込みながら上昇気流を生じ、ゴール地点の上空に向かって、竜巻が生じた。
その中へ向けて、重りが転がり込む。
底がどっち向きだったかさっぱり分からなくなるくらいぐるぐると回転して、重りは、目標のあたりに落ちた。
尖った一角を下に向けて落ちたせいで、着地後にも重りが酷く暴れた。
その結果が。

『記録。10メートル55センチ。指定距離との誤差55センチ』

書かれた着地点の円から体半分くらいはみ出た状態で重りは落ち着いた。
先ほどの50メートル飛ばした人よりも、さらに誤差が酷い。
てんで駄目な、結果だった。
悔しくて、ずっと重りを睨みつけていた。それを止めたら、回りの生徒の何人かの笑いをかみ殺す顔に突き当たった。
――下を向いてちゃ駄目だ。
佐天は、自分にそう言い聞かせる。
集団のほうに戻り自分のやったことの問題点を考えていたら、テストのほうはすぐ最後の人まで終わったらしかった。
「これで全てですね。では、運搬のテストは終わります。次は飛翔のテストですので、プールサイドに移動してください」
グラウンドから更衣室のある棟をくぐらず、プールサイドの金網に取り付けられた簡易ドアを抜けて、プールの横のコンクリートに踏み出す。
汚さないようにと靴裏を洗ってから、靴と体操服のまま、佐天と他の能力者たちはプールサイドに立った。
そのプールは飛び込み用らしい、深さのかなりあるものだった。ついでに言えば、柵川中学の敷地では望めないくらいに、広い。
対岸の一番離れたところでは、別のグループがテストをしていた。
佐天にはこれも初めて見る光景。学生が皆、順番に水面を歩行していた。
「あちらでは水流系の能力者が水面歩行測定をしています。あちらはこちらと違って面積をそう必要とはしませんが、接触事故を避けるためにも近づかないで下さい。さて、今から実施するテストについて説明します。先ほども言ったとおり飛翔のテストです。つまり、ここでは皆さんに、自分自身を風力で浮かせ、移動してもらいます。大移動が可能な方は、プールの上を飛んでください。この際高さはあの飛び込み台の一番上を上限とします。また苦手な場合、あちらのマットの上も選択できます」
いつだったか光子が言った事だ。空力使いや風力使いは、誰でも空を飛べるというわけではない。
能力の特性によっては得手不得手が出てくる分野であった。
飛べる人間は、プールに溜めた水と言う緩衝材の上で実技を見せる。苦手な人間はあの厚手のマットの上で、恐らくは一メートルそこそこ浮くのだろう。
恒常的に飛び回ることができなくたって、用途によればそれで十分ということは山ほどある。
「空間中に描いた飛翔距離、滞空時間などで評価を行います。質問が無ければ、早速始めましょう」
淡々と、試験は進む。一人目の人間が早速マットを希望したらしく、その準備が始まっていた。
佐天は再び、対岸でテストをする一団に目をやった。
試験のペースが速いらしく、難なく歩き回る人、長い距離を歩こうとして水に落ちる人、初めから諦め気味の人、いろいろだった。
水に浮くというと、やはり水流を足の裏にぶつけて重力を相殺するような方式だろうか。
佐天の想像力ではあの試験の「解き方」がそれしか思い浮かばなかった。
自分達の試験に目を戻すと、二人目か三人目にさしかかっていた。
試験はあちらよりはずっと派手だ。飛翔というのは、ある意味で気流操作系の能力者の花形と言っていい。
今試験に挑んでいる子は、目いっぱいに能力を解放している、という顔でプールの上に浮いていた。高さは5メートルくらい。
これくらいの高さによって空気の性質なんてそう変わらないから、5メートル浮けるならもっと高くに行けそうなものだが、彼女はそれ以上の行動をほとんど取れずにいた。何らかの理由で、それが彼女の限界なのだろう。まさか高所恐怖症は無いと思うが。
「あっ」
階段を踏み外すように、ぐらりと空中で体勢を崩した。そして、なすすべなく地上に墜落する。
あまりにあっけなく、彼女はプールに頭から突っ込んだ。
「あのやり方じゃアレが限界だよね」
そんな風に話し合う声が聞こえた。別にそうやって馬鹿にする連中に合わせる気はないが、確かに良くない方式だろう。
人間は縦に風を受けるより、横に受けるほうが効率がいい。断面積の問題だ。
足裏に必死に風を当てて「浮く」よりも、背中にでも風を受けて「吹き飛ぶ」ほうが風からエネルギーを貰いやすいのだ。
溺れはしなかったらしいが、落ちた子の救出が始まるため、こちらの試験は一旦中断らしかった。
佐天はもう一度、水流操作系の能力者試験に目をやった。
何気なく向けた視線の先に、見知った少女がいた。
「綯足さん……やっぱ水流系なんだ」
落ちたらプールを泳ぐことになると言うのに、縁の大きな眼鏡をかけたままだった。
そのせいか運動が得意な印象は無いのだが、まあ、落ちる心配はないと言うことだろう。
余裕のある感じが、瞳の奥に透けていた。
プールサイドでしゃがみ、綯足は水温でも確かめるように手を触れた。
そしてコクリと頷いて、試験官に合図を貰って歩き出した。
「……あれ?」
綯足が他の人と同じように、水の上を歩き出す。
だが、そこにある違和感に、佐天は思わず呟かずにいられなかった。
水の様子が、おかしかった。
さっきまでは、歩みを進めるたびに水面はさざなみを打っていた。
水面下に流動を感じさせるものが見えていたはずなのに。
綯足の周りの水は、自然に出来るはずの揺らぎさえ消して、のっぺりと水面が広がっていた。
整った水面で太陽光が反射して、眩しい。
同じようにいぶかしんだ学生達が見守る中、綯足はさっさと課題になっている距離を歩ききって、陸に上がった。
もう一度プールを見ると、水面はまた、いつもどおりの表情をしていた。
「レオロジー制御系かしら」
「えっ?」
佐天の隣にいた学生の呟きに、佐天は振り返った。まだ話したことのない人だった。
おっとりとした感じのその人は、佐天に友好的な笑みを浮かべて言葉を続けた。
「あれはレオロジー、つまりは粘性や弾性の制御だと思いますわ。大方、水を高弾性のゲルにでも変えたのではないかしら」
水といえば、サラサラとしていて、手に掬えばこぼれていく流体だ。
だがこの性質を、例えば佐天が昨日食べた、カロリーゼロの夜のおやつゼリーに変えたらどうだろう。
ゼリーはスプーンで掬っても形を変えない流体だ。だけど口の中で、咀嚼という形で力を加えると、流動を始める。
そういう風に性質を変えて、綯足は「ゼリーのプール」の上を渡ったのではないか、というのが彼女の予想らしかった。
「そういうの、見てすぐ分かるんですか?」
「違いますわ。知り合いに似たような能力者がいたからですわ」
「あ、そうなんですか」
少し佐天はホッとした。自分が駄目なだけ、というわけでもないらしかったから。
「あの、さっきから少し気になっていたんですけれど」
「はい?」
「貴女のレベルって、もしかして……」
聞きにくそうに言葉を濁したので、佐天のほうで答えてやった。別に、隠すことも無い。
「あ、レベル2ですよ」
「そうだったのね」
佐天は、試験を受けていない学生達がこちらを見ていたり、見ていなくても耳がこっちを向いているのに気がついていた。
誰だって、周りにいる学生のレベルは、気になる。みんなライバルなのだから。
「とてもレベル2には見せませんわ」
「そう、ですかね?」
今までの試験で見せた結果なんて、酷い有様だったのに。
「レベル2でレベル3以上が対象のテストを受けて様になっているんですもの、充分ですわ」
自分がレベル2の時なんて、といってその人は苦笑いを手で隠した。
後ろで、試験官の先生が次の生徒をコールした。
「では次の方」
「あら、私ですわね。じゃあ行ってきますわ」
「あ、はい。頑張ってください」
「貴女もすぐでしょう? いい? 貴女をみて笑っている方がいらっしゃるけど、そんなの気になさらないほうがよろしいわ。自分の能力の良し悪しより他人の結果が気になる人なんて、結局たかが知れていますわ。レベルもどうせ3でしょう」
別に見知らぬ佐天を庇い立てする理由もないが、彼女なりに、不愉快を感じていたのだろう。
揶揄された苛立ちが、空気の中から感じ取れた。
それにしても、最後の一言は結構きつい言葉だった。ああ言い放った彼女のレベルは、いくつだろうか。
「では行きますわ」
試験官にそう告げて、佐天に微笑んだその少女は空に舞い上がった。
足を伸ばし、つま先を下に向けている。腕を大きく伸ばし、羽ばたくように動かしている。
その様子は、鳥とはいかずとも、確かに空駆ける人にふさわしい所作のように見えた。
「すごい……」
佐天とは違う、気流操作系能力者の高みを見せつけられた思いだった。
斜め下から吹き上げる風が、彼女を空へと押し上げる。能力と、そして手足の向きをコントロールすることで、巧みに空を舞い上がる。
さしたる時間も掛けずに、彼女はゴールへとたどり着いた。
プールの上で直線的に最も離れた、飛び込み台の最上段に。
彼女は振り返って、こちらに向かってお辞儀をした後、笑って手を振った。
自分のほうを見ている気がしたから、佐天も少し、手を振りかえした。
「では次の方、佐天涙子さん」
「えっ? あ、はい!」
後ろでは、もう次の人が試験を終えていた。高くは飛べず、プールサイド近辺を少し飛んで終わったらしい。
佐天は靴の調子を確かめた。さっきしっかり結んだから、脱げる心配は無い。
ほんの少しだけ落ちていた靴下をたくしあげ、佐天は長い髪をゴムで縛った。
「準備が出来次第はじめてください」
「はい」
背中に、やっぱり視線を感じる。もちろん皆が見ているからだが、それ以上に、視線の中に佐天の無様な失敗を願うものがある気がした。
分からないでもない。今、飛び込み台から梯子でゆっくり降りているあの人は、多分レベル4だろう。
そういう人に、馬鹿にされたのだ。レベル3の癖に、下にいる人間を笑う余裕があるなんて、と。
しかも笑っていた相手の佐天は、本当にレベルが下の、2なのだ。順当に佐天が失敗してくれないと、これでは面子が保てなくなる。
そういう事情を、佐天は分かっていた。だけど、だからこそ笑う。
「それじゃ、行きます」
これは今日はじめての、佐天向きの科目なのだった。
正確には、佐天がやろうとしているのは「飛翔」と言えないかも知れない。
だけど。


佐天は、さっきまでよりずっと強力に、手のひらに渦を集めた。
その威力を見て、周りの警戒感が強まるのが分かった。その渦をレベル2の能力者が生み出したとは、誰も思えなかったから。
佐天は高揚する気分を隠しきれないまま、その渦を虚空に向かって投げ上げた。
自分と、レベル2の能力者が目指すにはあまりに高い頂、飛び込み台の頂点を結ぶ直線のちょうど真ん中に。



――刹那。空気が引き千切られるバァンという音が、プールに響き渡った。



気流・水流関係なく、全ての生徒がその音に視線を引き寄せられる。
そして誰しもが、その行動の意味を理解できずに首をかしげた。
空を飛ぼうというときに、虚空で渦を爆発させてどうするのだ、と。
理由は簡単だった。佐天が欲したのは気流の乱れ。渦の核。
建物の並びによって比較的風が少ないここでは、渦を作るのが難しい。
だから、自分で渦を作ってやったのだ。
結果は上々。たわわに実ったブドウのように、あちらこちらに渦が出来ているのが、佐天には容易に見て取れた。
その中から、自分のルート上にあるおあつらえ向きなヤツを探し、さらに育てる。
もうそれは、何度か試した行為だ。それも練習じゃない。あの日、悪意に晒された高速道路の上でだって、何度も佐天はそれをやったのだ。
助走をつけて、佐天はプールの上の空気に向かって、足を振り上げた。
そして何も無いそこを、踏みつけていく。
「……っ!」
声にならない怨嗟が、プールサイドから響いた。
レベル3の学生達は、ただ佐天の行為を見上げることしか出来なかった。
――能力とテストの相性問題があるから、自分には出来なくても仕方が無い。あの子は相性が良かっただけ。
そんな慰めを心の中で呟く。
能力で渦を作り、その爆発的なエネルギーを丸ごと踏みつけることで、佐天は空へと駆け上がる。
バン、バンと小うるさい音を立てて進むその姿は、彼女達にとって理想でもなんでもない。そこにエレガントさは無かった。
でも、自分達よりも確実に、あのレベル2の少女は高みにたどり着くだろう。
システムスキャンは結果が全て。反則でなければ、王道だったか邪道だったかは評価の対象ではないのだ。
「……別にこの試験一つじゃないっての」
遠く離れた佐天には聞こえないところで誰かがそう呟いた。それもまた、事実。
見上げた先では、佐天が無事、飛び込み台の先にたどり着いていた。
「うわー、これ怖いなー」
佐天は下を見下ろしてそう呟いた。高所もジェットコースターも大好きなほうだが、飛び込み台というのはそれと違った怖さがある。
真下に何も見えない、そこはプールに向かって突き出た場所なのだった。
「次の人の邪魔だし、帰りますか」
ふうっと、佐天は息をついた。充実したため息だった。
使った渦は、20個くらい。上った距離は15メートルくらいだろうか。4階建ての建物と同じくらいの高さだ。
そこまでの距離を、佐天は渦を使って駆け上がったのだ。
難しいとは、思っていなかった。だってやったことのある行為だ。
自分の体重なんて、木山のスポーツカーに比べたら綿みたいなものだ。
コントロールだって、高速道路上でテレスティーナに振り落とされたときと比べたら欠伸が出る。
だけど、テストという場で望みの結果を出せたことは、佐天の自信に繋がっていた。
カンカンと踵で小気味いい音を立てながら、梯子を降りる。
その先には、佐天の直前に飛び込み台に上った、あの人がいた。
「お疲れ様」
「あ、お疲れ様です」
「すごいわね」
「え?」
やったことは、二人とも同じなのだが。
「レベル4と同じことをしてその顔なの? まったく、寝首を掻こうって顔してるあちらの人たちより、貴女のほうが怖いわ」
それだけ言って、すぐに佐天の元から立ち去ってしまった。その苦笑には、どこか緊張感が漂っていた。
その少女は佐天に背を向けつつ考える。実際、昼からは能力者別の試験に移るのだ。この佐天とかいう風変わりな能力者は、自分のためのテストを受けてどれだけ点数を稼ぐのだろう。
その少女にやや遅れて佐天が集団に戻ると、ちょうど試験が全て終了したらしかった。
「それでは飛翔の試験を終了します。また、少し早いですがこれで午前のテストを終了し、昼休みに入ります。次の威力試験は13時ちょうどからグラウンドではじめますので、遅れないよう集合してください。また今日の始めにも通達しましたが、昼食の準備の無い方は学食を利用してくださって結構です。それでは、解散とします」
佐天はその声を聞いて、少し肩の力を緩めた。
太陽が真上から、猛威を振るっている。それでも優雅な空気の消えない、常盤台のお昼休みの始まりだった。



[19764] interlude20: 身体検査[システムスキャン]後編
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2012/11/25 00:58

「綯足さん、お疲れ」
「あ、佐天さんも、お疲れー」
安全のためにプールサイドから速やかに立ち去るようにと常盤台の先生に促され、来た道を戻る途中で、佐天は少し前を歩いていた綯足に声をかけた。もとより昼は一緒に摂る約束だった。
「午前はどうだった?」
「まあ、悪くは無かったかな。えっと、佐天さんは?」
少し聞きづらそうに綯足が返した。
そりゃまあ、レベル4がレベル2にそういう話を振る時には、どうしても気遣ってしまうのだろう。
「いやー、なかなか厳しいね。ちょっと慣れてないテストが多くて」
「そうだったんだ。やっぱり常盤台に来るとテストって変わるものなのかな? 水流系のテストは普通すぎるくらい普通だったけど」
「気流系のテストも普通だったんだと思うよ。皆そんな顔してたし。あたしにとっては慣れてないのが多かったってだけでさ」
「そうなんだ」
そう言いながら綯足が佐天の制服を眺めた。たぶん、それで学校の品定めをしているのだろう。
柵川中学の制服は、学園都市の外で言うところの、普通の公立中学の制服みたいなものだ。
デザインに奇抜なものは無い。学区内に見分けの着かない制服の学校が五つはあるだろう。
一方綯足の制服は、どこか質が良いと言うか、目立たない制服でいながら品がいいのだ。
そういうところにも、掛かっているお金というか、能力のレベルの差が反映されるのだった。
「学食、行ってみる? あたしはご飯用意してないからそのつもりなんだけど」
「私も用意はないから、そのつもり。せっかくだし常盤台ライフを楽しんでいかないとね」
「あはは」
言いたいことは分からないでもない。光景を説明すれば、初春あたりは羨ましがるだろう。
「せっかく一時間半も休みがあるんだし、ゆっくりしたいよね。ほら、ああいう感じに言葉遣いも変えて、『綯足さん、お昼はなににされますの?』なんて言っちゃってさ」
佐天が目配せで示した先では、常盤台の生徒が、食堂の場所などを丁寧な声で何度も紹介していた。
その口調も常盤台らしいというか、いかにもな感じだった。
「やっぱりお淑やかな人が多いのかな。肩が凝るから、そういうの苦手なんだけど」
苦笑しながら綯足が返事をすると、佐天が不意に、目線の先の常盤台の学生に声をかけた。
「……そのへんどうなんですか、白井さん」
「なにが言いたいんですの? 佐天さん」
呼応したのは、すぐ目の前で受験生の誘導を受け持っていた白井だった。
校内でこういう仕事に借り出されるのは第一に風紀委員だから、そこに白井がいても、おかしいことなんてなにもない。
知り合いにあったからか、ジトっとした素の表情を一瞬浮かべて、白井は佐天に抗議した。
「え? 佐天さん?」
「びっくりさせちゃったね。あたし、こちらの白井さんと友達なんだ」
「へぇー。……あの、こんにちは」
「ごきげんよう。昼からもテスト、頑張ってくださいませ。それで、今からどちらへ?」
営業スマイルも半分入っているのだろう。綯足に友好的な笑みを浮かべ、白井はそう問いかけた。
「あたし達は学食です。こないだ食べ損ねたパフェに手を出そうかなって。白井さんは?」
「私は見てのとおりお仕事ですわ。受験者の皆さんが試験を再開してから、交代でゆっくり頂きますからお構いなく」
「あ、そうなんだ。それじゃあ、また今度、ですね」
「そうですわね」
白井とそう微笑を交わし、佐天と綯足は邪魔にならないよう、再び学食まで足を動かした。
勝手が分かるほどではないが、ここは佐天にとって知らない場所ではない。
人の列をたどりながら、間違わずにさっさと学食にたどり着く。
「さっきの人って、知り合いなの?」
「うん。白井さんっていって、あたしたちと同じ一年の人」
「そうなんだ。その、常盤台の人と知り合いなんだね」
驚いたというニュアンスを込めて綯足がそうこぼした。無理もない。
既に常盤台に入学できるだけの実力者と未だレベル2の佐天が接点を持っているというのは、それなりに珍しいことだろう。
「白井さんって風紀委員でさ、あたしのクラスメイトとよく一緒に行動してるから」
「そういうことかぁ」
常盤台の制服とその倍くらいの他校の制服が彩りよく混じった食堂へと、トレイを持って入り進む。
そのトレイも佐天の学校にあるような安っぽい樹脂製とは違うので、本当にここは住んでる世界が違うという感じがする。
小洒落たランチプレートを二人で注文し、宣言通り佐天は横にパフェを載せて席に着く。
「白井さんとここに来たことがあるの?」
「え?」
「さっき、そのパフェを以前に食べそびれたような話をしてたから」
「ああ、えっと」
サラダをつつくフォークを止めて、少し佐天は話すのをためらった。
白井とはまた別の、常盤台の知り合いの話をしないといけないから。
あたしにはこんなに常盤台の友達がいるんだぞ、なんて自慢に取られるのも面白くない。
「白井さん以外にも知り合いがいてさ、同じ空力使いの人なんだけど。その人に案内してもらったんだ」
「佐天さん、常盤台の知り合い結構いるんだね」
「うん。ひょんな縁がありまして。それもあって、無茶かもしれないけど、ここ受けようって思ったんだ」
綯足と比べれば、ずいぶんハードルは高いだろう。
そういうニュアンスを込めて綯足に苦笑いを見せたのだが。
「キツイかも、みたいなこと佐天さん言ってたけど、そうでもないんじゃない?」
「え?」
「あの飛び込み台に登ったの、15人くらいいる内の4、5人だけだよね」
綯足が見たのはあの試験だけだ。そして、その成績だけならきっと、佐天は上位三分の一に入る。
気流系の能力者があれをどう評価するのか知らないが、佐天はあの中でもトップといっていいくらい、危なげなかった。
まあ、飛翔の試験で佐天がやったのは「跳躍」だったけれど。
「あのテストは悪くなかったかも知んないけど、はじめの二つは散々だったからなあ。それに、レベルが上がったって3だからね。今日あたしが目指すべきは、スタートラインに立つことなんだよね」
「あれできるんなら大丈夫でしょ」
綯足はそう一蹴し、冷たいじゃがいものスープを口にした。
「佐天さんは、高密度の空気を操る能力者なのかな」
「うん。空気の渦を操る能力、ってとこかな。綯足さんのも、不思議な能力だったね」
「あ、やっぱり見てたんだ」
「そりゃ同じ場所にいたからね」
先程の光景を思い出す。
水面歩行というのは、水流の「制御」の試験だろう。みんな慎重そうな動きで歩いていた。
その中で、綯足は全く違って、足取りが普通すぎた。まるでコンクリートの上を歩いているみたいに。
「どんな能力か、わかった?」
「あたしにはさっぱり。でも隣の人が、レオロジー制御の能力じゃないかって呟いてた」
「ま、わかる人にはすぐわかるよね」
首をすくめて、綯足は肯定した。システムスキャンを受けるということは、自分の能力の紹介をするようなものだ。
「レオロジー制御って、よくわかんないんだけど、水流使いになるのかな?」
「んー、正確にいえば気体は操れない流体使い、かな」
佐天は首をかしげた。流体とは、気体と液体、すなわち流れる性質を持った二つの相の総称だ。
そのうち気体を扱えないのなら、それはまさしく水流使いだと思うのだが。
「ごめん、よくわかんない」
「佐天さん、もしかしてレオロジーって科目勉強したことない?」
「うん」
「そっかー。……こんなこと言って悪いんだけど、たぶん、あとの本試験で苦労すると思うよ、それ」
「げげ」
苦笑いで綯足が告げた言葉に、思わず佐天は顔をしかめた。
座学もどんどん面白くなる今日このごろだが、尽きることのない学問の深みに、やや食傷気味でもあった。
手でパンをちぎりながら、綯足は思案した。どう説明したものか。
「佐天さんに問題です」
「えっ? はい」
「スライムって作ったことある?」
「あるある。小学生のときやった」
「なら話は早いね。あれは流体だと思う? それとも固体?」
その質問に、佐天は窮した。
スライムは水みたいに際限なく広がったりしない。だけど、力を加えたらすぐに形を変える。
「スライムは……ゲル!」
「いや、えっと。そのゲルが固体か流体かって話をしてるんだけど」
「どっちでもありどっちもでないっ!」
どうせわからないし、あてずっぽうだ。というか、答えなんてあるのだろうか。
そう思っていたら、綯足が我が意を得たりという顔で頷いた。
「佐天さん、最後ので正解だよ。固体を固くて動かないものだと思えば、ゲルは流体になる。自然と流れ出すものを流体だとするなら、ゲルは固体ともとれるけど。私はそういうものの制御も出来るってこと。水だけじゃなくてね」
「へぇー!」
「佐天さんや普通の水流使いはニュートン流体が専門で、その流動を細かく制御できるでしょ? 私は流れの制御はそうでもないけど、非ニュートン流体、例えばダイラタント流体とかチキソトロピック流体でも、ニュートン流体と同じように扱える。だから、プールの水に、ゴムみたいな弾力を与えるくらいのことは簡単」
「なるほど、そうやって水の上を歩いたんだ」
「そういうこと」
食べ終えて綺麗になったプレートの上にスプーンを置きながら、綯足は頷いた。素直に佐天が感心してくれるので、つい、喋りすぎてしまった。
もちろん今の説明程度で、自分の能力の全貌を見透かされることはないだろうけれど。
目の前の佐天が既にパフェに手を付けているのを見ながら、綯足は紅茶に口をつけた。





綯足と別れ、再びグラウンドに立つ。
試験再開までもうすぐだから、ほぼ全員の気流操作系の能力者が集合していた。
共通テストの最後のは、威力試験というらしい。やっぱり名前のとおりの試験なのだろうか。
良くはわからないが、なんとなく、佐天はストレッチをして体をほぐした。
「腕力試験じゃないっての」
小馬鹿にするような声がまた、聞こえた。だけど賛同するような笑いだとかは、あまり起こらない。
佐天を笑えるのは、その実力があって、かつ、嫌味な連中だけだ。どうやらそういうのは多くないらしかった。
「渦投げるのに、肩作っとかないといけないんだ」
「は? だっさ」
気まぐれに佐天は相手をしてやった。
それが余裕の表れだったか、虚勢だったかは、佐天自身にもわからないところがあった。
だがそのおかげで言い返した相手の顔がわかった。意地の悪い顔をしていて、佐天はすぐに嫌いになった。
……特に髪型や背格好が、アケミに似ていたから。友だちとちょっと似てるのが、なおさら不愉快だ。
例えば佐天が、あんなきっかけじゃなくて、ジリジリとレベルを上げていたら、目の前の少女のような心の持ち主になっていただろうか。
佐天は、その可能性を否定できなかった。自分は、そういうところで弱い心を持っている人間だ。
「ええと、皆さん揃っていますね?」
試験官の先生が来たらしかった。
振り向くと、午前中の先生じゃなくて、佐天の面接をしてくれた先生だった。
部屋で見た姿と違い、軽装に着替えて帽子をかぶっていた。言ってしまっては悪いが、やっぱりそういう装いをすると年齢が分かる。
「それでは、午後の試験を始めます。試験内容の説明は端折りたいんだけれど、よろしい?」
「あ、あの」
「どうかしたの、佐天さん?」
「あたしこの試験受けたことなくて……」
「そうなの? ……あら、貴女、レベル0から1へのレベルアップしたあと、一回もシステムスキャンを受けてないのね」
ざわり、と周囲の生徒たちを取り巻く空気が音を立てた。
学生なら、学期ごとに一回は受けるのがシステムスキャンというものだ。それを、レベル1に上がったあと、一度も受けていないというのは。
学生たちは、どういうケースなのか思案を巡らす。
それは、目の前のおかしな能力の少女が、まさか一学期に満たない短期間で、レベルを0から2まで上げ、それどころかレベル3に手を届かせようとしているとは考えられないからだった。
「じゃあ説明しましょうか。と言っても、威力試験は『なんでもあり』の試験だからね。今から図るのは、皆さんの能力の規模です。エネルギー的にでも、体積的にでも構いません。希望者がいれば時間的な規模でも測ります」
とにかく、強く大きい能力を発動させてみろ、ということだ。ついでに言えば、一瞬でなくずっと続くほうがなおいい。
「ぶつける対象が欲しいって人が例年多いから、あちらのグラウンドの隅に土嚢(どのう)を積んであります。まあ、試験はあちらでやりましょうか。それと土嚢以外の対象が必要であれば自己申告するように案内してありましたけれど、今回は誰も申請しなかったようね。それで間違いはありませんね?」
そういえば、佐天のシステムスキャンの申し込みは柵川中学から届いているはずだが、その時にそんなことをちらっと言っていた気がする。
先生の問いかけに、誰も異議を唱え無かった。
「よかった、今回は手間が少なく済みそう。三月の編入試験は大変だったのよ。覚えている子もいるかしら。合格した受験生だったんだけれど、長距離輸送用のコンテナに土嚢を五トンほど詰めたのを用意してくれって言い出したのよね。それを空に向けて打ち上げて砲撃にするなんて言うもんだから、仕方なく二三学区まで出張して、わざわざあの子のためだけに試験をやったのよね。まあ、あれが空を飛んだのを見るとちょっと景気のいい気分になったけれど」

……佐天は、苦笑いをしながら髪を軽く掻いた。誰のことかなんて言うまでもない。
というか、そんなことをやったら、そりゃあ『トンデモ発射場』なんて呼ばれたっておかしくないだろう。
そのあだ名が、光子を嫌う人間が付けたわけじゃなくて、光子の行いを見た人間が自然と付けたものであろうことを、佐天は悟った。

「愚痴はこのへんにしておいて。この試験をやるたびに私は上から、常盤台にふさわしくないなんて小言をいただくんですけれど、それでもこれは非常に重要な試験だと思っています。繊細な制御を教えることは後でも出来ますが、結局のところ、能力の伸びを決めるのはパワーです。それを私に見せつけてください」
面接のときから思っていたけれど、このおばあちゃんは、なかなかに破天荒だ。
おそらく編入試験をこれまでに受けて、落ちてきた生徒も中にはいるのだろう。そういった生徒からも人気の高い先生らしかった。
佐天も、なんだかやる気をもらってしまった。
自分で出せる自己ベストを更新してやろう、と心に決める。
「それじゃ、はじめましょうか」
その一言で、最後の共通試験が、始まった。





他の系統の能力者たちが、何事かという顔をしながら遠巻きにこちらを見つめている。
そりゃそうだろう。グラウンドの端近くで、壁の方に体を向けて、近所迷惑な試験をしているのだ。
さっきから「どごーん」だの「ばーん」だのと、騒音をこの一角はまき散らしている。
「はぁっ!!」
カマイタチ使いの少女が、持てる最大威力、最大の数で土嚢に切り掛かる。
疾走する高密度の振動空気が化学繊維の袋を引きちぎり、中身の土をぶちまける。
1メートルくらいうずたかく積まれた土嚢の壁には、ざっくりと爪痕が残った。

それを見届け、隣では別の少女が体の脇に太い筒を抱くような格好で腕を広げ、風を流した。
それなりに高密度に束ねられた風がゴウゴウと音を立てながら土嚢にぶち当たる。
あおりを受けて、積まれた土嚢の、上のほうの数個が転がり落ちた。

次に控えた少女が、風で作った槍を握り占め、土嚢に突き刺した。
ザクリとそれは突き刺さったあと、何かを引きちぎるような耳障りな音を立てながら、厚みも同じく1メートルくらいあるその土嚢の山を突き破った。

それを見ながら、壮年の試験官は測定値を記録していく。と同時に、風の流れ等を映像としてまとめておく。
この試験は、評価が複雑だ。圧力損失の大きさだとか、指定位置からのずれだとか、そういうシンプルなデータでの評価ではない。
まず重要なのは、操れる空気の量と速度だ。それが無くては威力は上がらない。
だがそれだけでは測れないのが、風の威力だ。物体を物体にぶつける力学的な現象と違い、空力学においては、かならずエネルギーのロスがそこにはある。
空気は物体にぶつかれば、自らの形を変えほかのところに逃げてしまう。それを許さず、如何に力を伝えきるか。
風そのものの威力と、物体への伝達効率、それらをあらゆる測定データから評価するのが、この試験の趣旨だった。
土嚢に刻まれた試験結果を記録しながら、試験官の女性は思案する。
目の前で能力を発動したこの三人の中には、レベル4の生徒もいた。だがそれほど自分の気を引くほどの結果ではなかった。
あくまで自分はシステムスキャンの監督であり、編入試験の採点には関与していないので権限はないのだが、心の中で、目の前の三人には不合格を出した。
常盤台は、充分な人材を入学試験で既に採っている。編入で受け入れたいのは平凡な能力者ではない。
目の前の生徒たちは平均的な常盤台の空力使いと比べてそう悪いことはないが、それくらいの学生は、必要ない。
常盤台が追加で欲しいと思えるだけの人材が欲しい。そして自分の目の前でその力を見せつけ、納得させて欲しい。
半年前の突飛な人材を思い出しながら、そう思案する。
編入後も周囲になじむのにやや苦労があったり、今も学外からの通学となったりと問題児なところがあるのは否めないのだが、婚后光子を合格させた時の、ああいう納得感を試験官の女性は欲しているのだった。
手元の紙面に眼を落とすと、次の受験者はその光子の弟子だった。
「さて、次は佐天涙子さん、貴女ね」
「はい」
緊張した面持ちの佐天を見て、微笑んだ。彼女は何をしてくれるだろう。
光子と同じような突飛な準備は用意してこなかった。まあ、今はレベル2なのだから、それも当然といえば当然なのだが。
「準備はいい?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ、始めて頂戴」
「わかりました」
そう言って、佐天は気持ちを整えに掛かる。そこにもう一言だけ、他の学生より多く言葉を貰った。
「頑張りなさい」
「あ、ありがとうございます」
微笑みに、佐天も微笑んでそう返す。婚后さんの知り合いだから気にかけてもらってるのかな、なんてことを考えながら、佐天は呼吸を整えた。
時刻は昼を過ぎ、一日の温度が最も高くなるころに差し掛かっている。
それは佐天にとっては好都合。温度差というエネルギーがあちこちに眠っているから。
土嚢の周りは他の人のテストのせいでもう空気が混ざりきっているが、問題なかった。
これまでの受験者たちよりも、20メートルくらい土嚢から離れる。
佐天はうだるような日差しを浴びながら、大きく息を吸い込んだ。
夏の乾いた土埃の臭い。かすかに香る、遠い食堂の臭い。
あちこちから聞こえてくる、システムスキャン中の生徒たちの声。騒音。
落ち着いた集中が広い世界観を与えてくれる感覚を、佐天は覚えていた。
こんな穏やかな精神状態を保てるのはきっと、あの高速道路の上で稼いだ貯金のおかげだった。
あの時は、自分が伸びているだとか、そんなことを振り返る暇なんてなかった。
全てが終わったあとで、あれが自分の成長の瞬間だったのだと、思い出すことしかできなかった。
でもそのおかげで、今がある。
今から披露するのは、誰かの都合にあわせて、歪に歪められた条件で出す次善の結果じゃない。
自らの意思が、結果の最後の最後までを操り尽くすのだ。
自分は万全だ。緊張の糸を残したまま、佐天の世界は適度に緩み、広がる。
グラウンドの上で陽炎が笑う。ゆらゆらと揺らぐ空気の中に、いくつものほつれを見出した。
それは、渦の種。一つ一つを心の中で数え上げると、世界は、自然と佐天の意思を『記録』した。
生まれては消える運命の渦が、定めに抗い、蓄積されていく。
数は、きっかり30個。今から始まる試験の中で、佐天はそれを弾の上限とした。
再現なく渦を補給するのは不可能ではないが、やったところで待っているのは劣化だ。
それよりも、今手元に用意したものだけを、育て、操りこなすことに決めた。
「それじゃ、いきます」
土嚢を見つめたまま、佐天はそう宣言した。始まりは、至極あっさりとしたものだった。
その声に、試験官は不思議と期待感を誘われた。周りの学生達も、気負わないその声に、何かがおかしいと感じていた。
グラウンド上に存在するすべての空気を背負って引っ張るように、佐天が腕をぐいっと前に突き出した。



――――直後。背面に広がる空の上で、雲が醜く引き攣れた。



「え――?」
その場にいるすべての空力使い・風力使いが、空を見上げた。
だってその高さに、レベル2の能力者なんかが届くはずがないのだ。
雲は、気流操作系の能力者にとっての、ひとつの憧れ。
そこに能力が届くというのが、レベルの高さの、何よりわかりやすい指標だからだ。
その雲に、空から槍を突き刺したみたいに孔がいくつも開いた。
その穴から雲がこぼれる。地面に向かって落ちていく。
槍の正体は、竜巻だった。
それは熱い地表と冷めた上空の温度差を埋めるために生まれたものだ。
渦巻くダウンバーストが地面に向かって螺旋を描いて落ちていく。
空が吸い寄せられ、地が吸い上げられる。その流れの中心にあるのは。佐天の渦。
遠慮知らずに、貪欲に、その渦は空気を飲み込んだ。
際限なく渦の中に風が巻き込まれ、押しつぶされる。
それを見ながら、周囲の学生達は佐天が今まで本気を出していなかったことを理解した。
ダクトに風を通すにも、50キロに満たない自分の体を持ち上げるのにも、このレベル2の少女は本気を出す必要がなかったのだ。
渦は、すぐに試験官の目にも見えるようになった。屈折率を変化させ、渦の向こうの景色が歪んだからだ。
そんな風に景色をゆがめる風というのは、多くの能力者を見てきた試験官にもはじめてのものだった。
ニヤリとした笑みが広がるのを試験官は抑えられなかった。こういう、こちらの思惑を超えるものを見るのが、学園都市の醍醐味だ。
対照的に、周囲の学生達は呆然と佐天を見つめることしか出来なかった。
「ふっ」
そんな渦の一つを手のひらの上で作り上げ、佐天は土嚢に向かって投げつけた。
狙ったのは、土嚢と土嚢の間にある隙間。


――――バァァァァンン!!!!!


空気そのものが風船みたいに破れる音を立てて、振動を学校中にまき散らす。
周囲の学生もビリビリと自分達の服や、髪や、皮膚が震えるのに耐えながら、その光景を見つめる。
それはあまりに圧縮されすぎた空気が、開放の瞬間に音速を超えた証拠だ。
その威力を保証するように、積み上げられた土嚢が空へと舞い上がり、いくつも虚空を突き進む。
「危ないっ!」
誰かが鋭く叫んだ。30キロはくだらない土嚢が、自転車より速いスピードで佐天に向かって飛んでくる。
その心配を佐天は笑った。これをやったのが、誰だと思っているんだろう。
土嚢は、偶然に飛んできたんじゃなくて飛ばされてきたのだ。だから心配なんていらないのに。
それともまさか、この一撃で自分のテストが終わりだとでも思ったのだろうか。
空を見れば一目瞭然だろう。まだ、これと同じものがあと29個もあることなんて。
口の端で佐天は笑う。楽しくて仕方なかった。

佐天は頭を軽く降った。それだけで向かってくる突風が佐天の髪を束ね、背中に流した。
空のてっぺんに向けて指を突き上げ、渦に心を通わせる。それらは全て、もう外に向けて弾ける準備を整えきっていた。
準備は、これでばっちりできた。満足げに佐天はそう判断した。
そして、タクトを振るう指揮者のように、ついと腕を降り下ろした。

「い――っっっけぇぇぇっ!」

29個の、渦という名の鉄槌が降り下ろされる。
一つ一つの渦の向かう先には、ぴったり対応する数だけの土嚢が、まさに落下しようとしている。
手始めは目の前に迫ったひとつ。打ち返すバッターのつもりで、佐天は渦をそれにぶつけた。
凝縮された時間の中で、佐天は渦がブチブチと化学繊維を捻り破くのを見た。
そして裂け目はあっという間に土嚢全体に広がり、土をまとめるという役目を果たせなくなる。
そこにぎゅうぎゅうに押し固められていた空気がぶつかり、そして、弾けた。
同じことが、あちこちで起こった。あらかじめ演算しておいたとおりに飛んでいく土嚢に渦が追いすがり、接触する。


――――バァァァァンン!! バァァァァンン!! バァァァァンン!!


フィナーレに向けて盛り上がった花火のように、とめどなく爆発音が響きわたった。
破裂音ひとつにつき、土嚢に詰め込まれていた土と砂が空にひとつの花を咲かせる。
色彩は花火と比べれば地味で汚いけれど。なにせ、はじけたのは全部土くれだ。
20秒に満たない短時間の中で、学舎の園という優雅な世界を完全に台無しにしながら、1トンもの質量を佐天は弄んだ。
「……ふう」
全てが終わったあとのグラウンドは、寒々とするほどに無音だった。
誰一人として、声を上げることが出来ない。呼吸すらもし辛い緊張感が在った。
視界が晴れると改めて、その結果の異常性が目に飛び込んでくる。
ほんのついさっきまで、地面には黄土色の土と積まれた白い土嚢があったはずなのだが、今そこにあるのは、焦げ茶色をした土と元のグラウンドの土の、まだら模様だった。
そして打ち捨てられたレジ袋みたいに、中身を失った土嚢の化学繊維が地面に点在している。
「――28、29。壊した土嚢は29であってるかしら?」
「はい」
「そう。50個くらい置いたんだけど、もうこれでなくなってしまったわね」
見ていたものの硬直を破るように、試験官が声を出した。
佐天の前の10人が使った結果として、だいたい20個の土嚢が消費されていた。
それらは部分的に破れたり、あるいは地面にぽつんと落ちたりしている。
そして残りが、ご覧の有様というわけだ。
「コントロール力のアピールもなかなか気が利いてて、面白いじゃない」
面白がるような声で、試験官の先生が佐天を褒めた。
佐天がまき散らした土は全て、学生や先生に掛からないように吹き飛ばされていた。
仮に失敗したって、周りには風を操れる能力者ばかりだからよけてくれるだろう、という打算もあったので、心置きなく佐天は土嚢の中身をぶちまけたのだった。
放心するような生徒の多い中、試験官が厳かに進行を告げた。
「準備をしますので、次の人の試験まで10分ほど休憩とします。木陰に入ってくれて構わないけれど、あちこち歩いたりはしないでくださいね」
それが佐天にとっての、共通試験の終わりの合図だった。
そしてもう誰も、振り返った佐天に見下すような笑みを向ける学生はいなかった。





パタンとロッカーの扉を閉め、当たりを見回す。
「忘れ物は……大丈夫かな」
渦の圧力測定、集めた空気の量の測定、定常状態の維持時間の測定。
まるでいつかの光子がしてくれたような試験を経て、佐天は今、全ての試験を終えたところだった。
あとは、はじめの教室に戻って休憩しながら、結果を待つだけ。
直ぐに帰って結果を後日聞いてもいいらしいが、やっぱり今ここで知りたいのが学生の本音だ。
周りには四、五人、佐天と同じタイミングで個別試験を終えた生徒たちが着替えをしていた。
午前にここを訪れた時と違い、もう、佐天を笑う声は聞こえなかった。
その理由を佐天はちゃんと理解していた。自分が、実力で黙らせたのだ。
能力の規模が全てじゃないだろうけれど、それを評価する試験で、佐天はかなりの高得点を叩き出したはずだ。
それを気持ちよく思っている自分を、否定できない。
優劣に一喜一憂するのは格好のいいことじゃないかもしれないけれど、誰にも文句なんて言わせない結果だった。
廊下に出ると、ちょうど、教室に向かっている綯足の背中が見えた。
「綯足さん」
「あ、佐天さん」
「お疲れ」
「佐天さんもお疲れ様。テストのとき、すごい音だったね」
「え? あー」
思い返して、そりゃあ学校中に響き渡っただろうなあ、と佐天は今更に迷惑だったかと反省した。
「あれ、誰がやったの?」
「え?」
その聞き方からして、佐天がやったと言う可能性を、綯足はまったく考えてないようだった。
可愛らしく、きょとんと首をかしげた。
「えと、近所迷惑の主は、あたしです」
「えっ……?」
「いやー、なんとしてもレベルは上がって欲しいしさ、ちょっと無茶やっちゃった」
「一体何をしたの?」
「えっとほら、こうやって作れる渦をとにかく何個も何個もぶつけてみたの」
手のひらに渦を巻いて、綯足の肌の近くに持っていった。
風を感じて、綯足は考え込んだ顔をした。
「あんな音、すぐには出ないよね。っていうか、音速といい勝負の風速が出ないとあんな音しないはずだし」
たかだか台風程度の風速では、空気が震えたりはしない。それより一桁は大きい風速だろう。
そんな威力を持った渦を、何発も用意したって?
「なんでレベル2だったの?」
「え?」
「それだけあれば、今までに普通にレベル3に上がれたと思うんだけど」
レベルも3くらいからは、「2よりちょっと上」と「4よりちょっと下」の差というものがかなり開いてくる。
佐天の実力は、断片的に見立って、「2よりちょっと上」なんて段階じゃない。
だから、とっくの昔にレベル3くらいとってたっておかしくないはずだ。
「えっと、レベル2になったのも割と最近だから」
「……そっか。佐天さん、いま伸びてるんだね」
綯足は注意深く、佐天への評価を改めた。
編入試験の合格者のパイは大きくない。
そこそこ近い流体系の能力者同士だから、食われる可能性がゼロとまでは言えないのだった。
とはいえ、まだ自分と同じ高みにまでは来ていないと思う。綯足は、そう判断して気を取り直し、微笑を浮かべた。
「佐天さんは今からどうするの?」
「あたしは結果、聞きに行こうと思って。綯足さんも?」
「うん、まあ一応ね」
綯足が肩をすくめて頷いた。尋ねておいて思い出したが、そういえば綯足はレベル4だ。まずレベルは上がるまい。
そう考えたのは、レベル5誕生なんて非常識なことが自分の目の前で起こるとは佐天には思えなかったからなのだが、きっとその感想を佐天と一緒に試験を受けた人間に聞かせたら顔をしかめることだろう。
他人にとってどれほど驚異的な結果か、佐天自身も正しく理解はしていなかった。
「試験官の先生がコメントくれるかもーって思って」
「あ、それが目当てなんだ」
「うん。やっぱり常盤台の先生だからね、結構いいこと言ってくれるんだよね」
「なんかそれいいね。あたしも何か言ってもらえるのかな?」
綯足に向かって、疑問顔で佐天はそう返した。
だがちょうどそこに通りがかった常盤台の先生が、あら、という顔で佐天を見た。
「もちろん言いたいことがあるわよ。色々ね」
「え? あっ!」
面接を受け持ってくれたあの先生だった。
ただ、向けられたのは佐天をねぎらってくれるような微笑みではなく、どこか不満を感じさせる顔。
「まずは、お疲れ様」
「ありがとうございます。それで、あの……」
「演算の規模は決して悪くないのに、ちょっと応用力の低さが目立つ結果だったわね」
「……」
前置きも無く告げられたその言葉は、佐天を突き放すような言葉に聞こえた。
目の前がさあっと暗くなる。だって、もし「そう」なら、自分は常盤台を受ける資格がないことになる。
「流体の圧縮も、貴女の演算能力でまだいけたはずでしょう。渦になったって気流は気流、いつだって流れの枝分かれの取り扱いはついてまわるんだから、普通の空力使いの演算の勉強をおろそかにすべきではないわ」
「はい……すみません」
手にした紙をペラペラとめくり、佐天の評価が書かれた紙を先生は見直す。
「あえて普通の空力使いと同じ試験を受けさせたのは、特異な演算方式の能力者でも、応用と工夫次第で、普通の能力者にできることもちゃんとカバーできるからよ。それを確認したんだけれど、特に午前のテストは散々だったわね」
「そう、ですか」
自覚は、確かにあった。できなかったという思いを佐天は間違いなく心に抱えていた。
「渦の基本性能についても、液体密度以上に圧縮してくれたら、もうちょっと加点のやりようもあったんだけど」
「はい」
曇っていく佐天の表情を、どうしていいかわからずに綯足は横から見つめる。
ただ、納得行かない部分もあった。やけに採点が厳しい気がするのだ。
つけている注文が、レベル2相手とは到底思えない。
「とりあえず本番まで、まだ日にちはあるから。弱点を埋めてきなさい。言ったこと全部よ。いいわね?」
「はい……って、えっ?」
「何?」
「あの、本番って」
「本番は本番よ。あなた、転入試験受けるって言ったじゃない」
「え? でも」
佐天は混乱して、先生が何を言っているのか分からなかった。だって。
「レベルが上がらなかったら、あたし受験資格ないじゃないですか」
「え?」
「えっ? あの」
先生も、佐天の反応を見て何か勘違いが有ると気付いたらしい。
困惑がもたらす空気の停滞を挟んで、ああ、と先生が手を打った。
「まさか、レベル3に上がれない心配なんかしていたの?」
「え? は、はい。だってその、レベル2ですし」
「もう、違うわよ」
呆れたように先生はため息をつき、髪を掻き上げた。そして佐天を安心させるように微笑んでくれた。
そしてプリントを一枚、手にした束から引き抜いた。
「分かっていたでしょう? それだけ演算能力があればレベル3が取れることくらい。私が文句を言ったのは、飛び級が失敗したっていうこと。もう一ヶ月くらい時間をかけて練習していれば、今日ここでレベル4になっていたんだろうれど」
大して字も書かれていないプリントが、手渡された。隣から覗き込む綯足と一緒にそれを見る。
初めにびっくりしたのは、佐天涙子宛てになったそのプリントに、とても繊細で華やかな常盤台中学の判が押してあることだった。
不思議と、それが感慨深かった。
「おめでとっ! 佐天さん」
「え?」
綯足が、急にそんな風に労ってくれた。まだ内容を読んでいなかったのでびっくりしてしまう。
慌てて目を通すと、そこには、佐天涙子をレベル3と認定するという趣旨が書かれていた。
「あ……」
「これで、ライバルになっちゃったね」
冗談交じりにポーズをとって、綯足がそう言った。そうだ。レベル3なら、自分は常盤台を受ける資格がある。
「嬉しいのは当然だろうけど、レベル4を取り逃したことの反省もして欲しいわね。これで編入試験に落ちるようなつまらない真似だけはやめて頂戴」
「えっ? あ、はい。それはもちろん頑張りますけど」
そんな風に、佐天に目を掛けてくれるようなことを常盤台の先生が言うのが信じられなかった。
「貴女は私が面白いと思えるだけの結果を出してくれたわ。だから私は貴女に常盤台に来て欲しい。貴女には教えたいことが沢山あるし、やらせたいことが沢山ある。もっと今より能力を伸ばして、もっと面白いことが出来るように導いてあげるわ。だから、うちに来なさい。弱点を埋めて本番に臨みなさい。いいわね?」
「はい。あの、頑張ります!」
「いい返事ね。それじゃ、また新学期に会いましょう」
それだけ言って、先生は佐天たちを追い越してさっさと教室に向かった。
かけられた言葉の意味を受け止めるのに、佐天はぼうっと立っていることしか出来なかった。
きっとあれはリップサービスだ。ああいう言葉を他にも何人かかけているに違いない、と心に言い聞かせる。
だけど、それでも。
「佐天さん、あの」
「あたし、常盤台に受かりたい」
「え?」
「あの先生みたいな人たちのいる学校で、勉強したい」
「……そうだね。あの先生面白いね」
佐天の瞳の中に宿った輝きを見つめ、綯足は笑った。
常盤台中学が女子の中学生達の中で最も人気がある中学なのは、そこがお嬢様学校だからじゃない。
そこに、最高の教育があることを知っているからだった。
「佐天さん、今からどうする?」
「え?」
「私はその紙もらいにあの教室に行くけど、佐天さんもう用事無いよね」
そういわれてみれば、もうレベルアップ通知も、先生からのコメントも貰ってしまった。
けれど。
「綯足さんについてっていい?」
「いいけど、どうして?」
「今日せっかく仲良くなったんだし、お互い最後まで見届けようかと」
「最後って。別に私はレベルアップは期待してないからねー」
苦笑いしながら、綯足は歩みを再開した。佐天もそれに合わせて教室に進む。
綯足にも常盤台に受かって欲しいなと、そう佐天は思えた。
綯足は、気取らないし嫌味なところもないし、いい子だと思う。
そういえば合格すれば白井も、泡浮も湾内も同級生だから、友達の数に困ることは無いだろうけれど。
「あ、先生もう来てる」
扉をくぐり、綯足がそう呟いた。恐らくは視線の先にいるのが水流系の能力者の試験官なのだろう。
朝と同じ席に二人して座ると、間もなくして、綯足が試験官に呼ばれて行った。
流石に慣れない場所で知らない人たちとずっといると、気疲れする。僅かなため息をつくと、またすぐに誰かに声をかけられた。
「佐天涙子さん、でお名前はあっているかしら?」
「えっ? あ、はい。そうですけど」
振り返ると、声をかけてきたのは見覚えのある顔の学生だった。
一つ目の試験を終えて着替えているときにきつい言葉を投げかけてきた人だった。
その隣には、これまた見覚えのある、飛び込み台に向かって飛んでいく試験のときに話をした人がいた。
制服を見てみると、どうやら二人は同じ学校の、それも同級生らしい。
「廊下の奥で先生と話しているのが見えましたけれど、結果はどうでしたの?」
きついタイプの先輩のほうが、佐天の鞄を見ながらそう聞いた。もう、紙が手元にあるのを知っているのだろう。
となりのちょっと優しい先輩も、興味があるらしく頷いていた。
「一応、レベル3になりました」
「そう。おめでとう、佐天さん」
「おめでとう」
「あ、その……ありがとうございます」
礼を言うのに少し戸惑いを感じた。二人は一応、自分のライバルでもある。
そして、その鋭いライバル心を向けられたこともあるから。
「レベル4になるのかなって、思ってたんだけど」
「あ、それにはまだまだ応用力とか、足りないところがあるって言われちゃって」
「……あの先生がそう言ったの?」
「はい」
「ふうん」
その相槌には、警戒感があった。
編入試験を何度か受けたことのある二人だから、知っているのだ。
あの先生は、見込みの無い学生にそんな駄目出しはしない。
「佐天さん。朝言ったこと、覚えていて?」
「はい」
「あの時、つい棘のある言い方になったこと、謝りますわ。ごめんなさい」
「え? いえそんな」
「ただ、内容については、撤回する気はありません。最後に見たあの試験を振り返れば、貴女の演算能力なら、もっと工夫の仕様があっただろうにって思いますから」
「先生にも言われました」
「そう。まあ、初めてのテストで戸惑ったのかも知れませんけれど」
試験が終わったからだろうか、二人の態度はさっきよりも柔らかい気がした。
そういえば、二人は佐天を陰で笑ったりはしなかった。
きっと、それだけの余裕がある人たちなのだと思う。
「そういえば、どの試験も初めて受けたようなこと言っていたけど、本当?」
「はい、そうですけど」
「それにしてはレベル3にしても充分すぎる出来だったわよね」
「たしか先生が呟いていたと思うのだけれど、レベル2に上がるときも試験免除だったらしいわね」
「あ、はい」
「レベル2までは、システムスキャン無しで昇格ってのもたまにある話だけれど……。それにしても、上がってからスキャンを受けていないって言うのは、かなり早いペースでレベルアップしてるのかしら」
「ねえ。レベル2に上がったのっていつなの? あ、嫌なら別に言わなくてもいいけど」
話の内容が、また受験者として互いを比べるような流れになったからだろう。二人の先輩達が気遣うような顔をした。
とはいえ、まあ、話しても佐天が困ることはない。
「上がったのは3週間くらい前です」
「え」
「3週間……?」
二人の少女は、思わず絶句した。それは、一体どんな滅茶苦茶なペースだろうか。
システムスキャンは学期ごとに受けるものだから、レベル2に上がったのが五月以降であることは二人にも予想がついていた。
だけど、3週間なんて。
「レベル1から、よくこんなところまで上がりましたわね」
「そうね。レベル1の下積み期間はどれくらいだったわけ?」
佐天はまだ中学一年だ。可能性として、例えば学園都市に来たのがそもそも今年の四月、なんてのもありえる。
そういう意図の質問だったのだが、答えはまたも、二人の予想を裏切った。
「そっちは2週間くらいです。あたし、7月の中ごろまでレベル0でしたから」
完全に自慢に聞こえてるだろうな、なんて思いながら佐天は質問に答えた。
佐天の答えを聞いて、二人は完全に固まっていた。その答えが、まるで嘘にしか聞こえなかったのだ。
それもあざとい嘘じゃない。見え透いた嘘とはったりを言ってるんじゃないかとしか思えない。
だって、たったの一ヶ月で、レベル0から3だって?
「本当、なの?」
「はい」
それ以上、何を言っていいか二人にも分からなかった。
これが真実なら、佐天涙子は編入試験のダークホースだ。誰も注目していなかったのに、誰も彼もを差し置いて合格しかねない。
空回り気味だった頭が正気を取り戻してきて、二人は気付いた。
自分達と佐天が話しているだけだと思っていたけれど、回りの学生達に、会話が無かった。聞き耳を立てているのが丸分かりだった。
「もし良かったらIDを見せて?」
「え? いいですけど」
少し固い顔で、優しいほうの先輩がそう要求した。
逆らう理由も無く、佐天はパスケースからIDカードを取り出し、手渡した。
作られたばかりの真新しいカードなのは、見れば分かる。少女は手首を捻って裏面を見た。
「カード発行日、たしかに2週間前ね。しかも、その前の発行日が3週間前」
裏には最近のことが5行ほど書かれているのだ。
そこにはレベルアップのことは明記されていないが、カード発行の記録があった。
もちろん、それは紛失による再発行などではない。
学園都市側が、佐天涙子のステータスが変わったことを理由に発行しなおしたのは間違いなかった。
まるで、この一ヶ月で二度、レベルアップを果たしたかのように。
そのログは佐天の言葉以上に雄弁だ。
疑いを消しきることは出来ないけれど、でも、あるはずが無いなんて否定するには、重みがありすぎた。
「一ヶ月でレベルを0から3に上げてきた、ってことね」
確認するように、佐天の目の前の少女が呟き、佐天の瞳を覗き込んだ。
それはもう、油断を見せられない相手、格下などでは断じて無い相手への視線だった。
「おーい、佐天さん。おわったよー」
綯足の穏やかな声に佐天はホッとした。
「それじゃ、あたしはこれで」
「ええ。次に会うときもよろしくね」
「えと、はい。失礼します」
「ごきげんよう」
佐天は頭を下げ、教室の後ろの生徒達を見上げた。いくつか、ばっちりと目線が合う。
そちらにも軽く頭を下げてから、佐天は綯足のほうへと逃げるように歩み寄った。
「すごい空気だったね」
「うん、まあ」
「佐天さん、完全にライバル視されてた」
「負けるつもりは無いけど……びっくりした」
だって、一ヶ月前にはこれっぽっちも考えられなかったことだ。
まさかレベル3や4の人たちが、自分を敵だと看做すなんて。
「さて、それじゃお互いに終わったし、そろそろ出よっか」
「そうだね。綯足さんはもう家に帰る?」
「うん。そのつもり。佐天さんの家ってどのへん?」
「あたしは割と近いよ。第七学区内だし」
「そっか。じゃあ学舎の園の入り口まで一緒に帰ろうよ」
「うん。綯足さんって家どこなの?」
「制服じゃわかんなかったか。私、この中の学校の生徒だよ」
「えっ?」
言われて、改めて制服を見つめる。
そういえば学舎の園の中で、何度か見た制服だった。
「綯足さん、実はお嬢様……?」
「そだよー。えっと……肩が凝るから嫌いなんですけれど、一応言葉遣いも含め、そういう教育を受けておりますわ」
居住まいを糺し、綯足はおしとやかな身のこなしで佐天に微笑んだ。
ああいう仕草を佐天あたりがやっても嘘臭くなるだろう。綯足は本当にお嬢様学校の出らしかった。
「ごめんね。気付かなくて」
「もう、なんで謝るかなー」
綯足は笑って、佐天と歩みを並べた。
ちらほらとすれ違う常盤台の先生や生徒に挨拶をしながら、二人で校門をくぐった。
佐天は、階段を下りて常盤台の敷地を振り返る。
「よし、来週またくるぞー!」
「おー! って、次の学期もだよ。佐天さん」
「九月から毎日来るから覚悟しろー!」
「もう。人が見てるって」
そう咎めながら、綯足もお腹に手をあてて笑っていた。
前に来たときより、今日の朝より、佐天はこの学校のことが好きになっていた。



[19764] ep.4_Sisters 05: 私の知らない御坂美琴
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2013/05/11 03:33

「じゃあ、またね、綯足さん」
「また来週ね、佐天さん」
アドレスを交換して、学舎の園のゲート前で二人は別れた。
同じ制服の生徒がいるせいで、綯足はあっという間に雑踏にまぎれる。
夕日はまだまだ赤みが差すには早い時間だが、長くなった影が夏の終わりを感じさせた。
「さて、それじゃ帰りますか」
「そうですわね」
「……あれ、白井さん?」
振り返ると、穏やかな顔で白井が佐天を待っていた。
ゲートの内側には白井だけしかいないが、外側で、ぶんぶん手を振ってくれている友達もいた。
「初春……。それに春上さんも!」
「みんなで一緒に帰るんだって、初春から連絡がありましたの。それで私も風紀委員の仕事を済ませてすぐこちらに来ましたの」
「そうなんだ。……その、ありがとうございます」
「お世辞なんて水臭いですわ。もうじき同級生かもしれない相手に向かってですから、尚更ね」
二人でゲートをくぐり、初春、春上と合流する。
「お疲れ様です!! 佐天さん!」
「お疲れ様なの」
「二人ともありがと」
「それで、そのっ、結果は……?」
「あー、うん」
わざと言葉を濁して、佐天は困った顔を作って頭を掻いた。
答えるのを躊躇って帰り道を歩き出す。
その反応に、初春を筆頭として皆が言葉を失った。
「演算能力足りてないって」
「えっ?」
「応用力もまだまだだし、もっと磨いて来いって怒られちゃった」
「それ、って……」
初春が、まるで自分が落第したみたいに、暗い顔をした。
かわいいなあ、と佐天は思う。こんなに心配してくれるなんて。
繁華街に通じる道を歩きながら佐天は思わずにやけた。
「だからレベル3しかあげられないってさ」
「へっ?」
「……意地が悪いんではなくって? 佐天さん」
「あはは」
同じ事を常盤台の先生にやられたのだ。ちょっとくらいいいじゃないか、と思う。
ようやく佐天の引っかけに気付いた初春が、口をぷくっと膨らませて抗議を始めた。
「ひどいです佐天さん! 落ちたのかって、落ちたのかって思ったじゃないですか!!!」
「やーごめんごめん。初春が可愛いからさ、つい」
「そんなの理由にならないですよ!」
「そうかなあ」
「そうかなじゃありません!」
「佐天さん。レベル3になったの?」
怒る初春からさらにワンテンポ遅れて、春上がそう聞きなおした。
優しくそれに頷き返し、佐天は答える。
「うん。ほら」
「あ……レベル3って書いてあるの」
「でしょ? これで、あたしも常盤台の受験資格はギリギリ手に入れました。みんな、応援してくれてありがとう」
初春の顔を見て、最初に心に湧き上がった感情を佐天は言葉にした。
支えてくれる人がいたから、自分はここまで来た。
「婚后さんにもお礼が言いたかったんだけど」
「婚后光子はまだ仕事中ですわ」
「え、風紀委員が先に帰っていいんですか……?」
「だって先生が指示されたことですもの。私の身分がどうこうという話ではありませんわ」
呆れ顔で突っ込む初春にしれっと答えを返して、白井は歩みを緩めた。
四列並んで歩いていたのを崩して、二列にする。傍を自動車が走り抜けて行った。
佐天は、白井に合わせて後列に並びながら光子は今どうしているか、思い浮かべた。
なんとなく、光子に仕事を与えた先生はあのおばあちゃん先生ではないかという気がするのだった。
「春上さん」
「どうしたの?」
「ごめん、あんまり自然だから聞くの遅れたんだけど、その、退院できたの?」
よく考えれば、春上は昨日までは入院中だったはずだ。
どうして今、ここにいるのか。
「お昼から夕方までは外出許可が出たの。ちょっとずつ慣らすんだって」
もとより春上は身体的な怪我はほとんどない。復帰が早いのは自然ではあった。
「それに絆理ちゃんにも、外の景色とか教えてあげたいから」
「そっか」
枝先は、流石にまだまだ入院生活が続くだろう。
早く快復して仲良く学校に通うようになるのを、佐天は願わずにはいられなかった。
その時に、自分はいないかもしれないけれど。
心に隙間風のようにさしこむ寂しさに目を瞑って、佐天は前を向く。
そこはもう、美琴と白井の住む寮と、佐天たちの下宿の分岐路に当たる公園だった。
「そういえば、御坂さんは?」
「お姉さまはお忙しい用があるそうですの。『おめでとう』という言葉を言付かっておりますわ」
「おめでとう、って。合格するの前提ですか」
「事実レベルアップされたではありませんの」
「まあそうですけど。それじゃ、御坂さんに会うの、もしかしたら常盤台に合格後かもしれないんだ」
「そうですわね……って」
そこは、まさに別れ際となるある一角。
また今度と別れの挨拶を切り出そうとした、ちょうどその時だった。
「お姉さま……?」
猫でも追っていたのだろうか。茂みのほうに向かって、常盤台の制服を着た御坂美琴らしい少女が立ち尽くしていた。
忙しいはずのお姉さまがどうしてここにいるのか。そして、どうしていつもとまったく違う雰囲気を纏っているのか。
うまく処理の出来ない違和感を抱えながら、白井はその少女を見つめる。
「おー、いいタイミングじゃないですか。おーい、御坂さん」
「あ、お待ちになって佐天さん!」
佐天は、ちょっとハイな気持ちのまま、その少女の下に駆け寄る。
どうやら今日は頭に、いかついゴーグルを乗せているらしい。サバイバルゲーム用の小道具だろうけれど、質感が本格的だった。
美琴らしくないその装備はどういう事情なのか。きっとつついたら面白い話が聞ける気がする。
そんな気持ちで、佐天は少女の腕を取り抱き込んだ。
「会えてよかったです、御坂さん。聞いてくださいよ、あたし――」
それ以上を、佐天は言えなかった。
御坂美琴のはずの、それ以外の人間ではありえないはずの少女が、まったくの無表情で、静かに佐天を観察していた。
「御坂さん……ですよね?」
「……」
その誰何は馬鹿馬鹿しいことのはずだった。だというのに、少女は彫像のように瞬きひとつしない。
その間は逡巡だったのだろうか、やがて佐天から目をそらし、素っ気ない返事をよこした。
「すみませんが、人違いです。とミサカは見知らぬあなたに答えを返します」
「お姉さま……では、ありませんの?」
「どうしたの?」
「白井さん、佐天さん、どうしたんですか?」
やや遅れていた初春と春上も、何かがおかしいことに気付いたらしかった。
その少女の前に、四人は集まった。
「失礼ですが、貴女は常盤台の生徒ではありませんわね。お姉さま、御坂美琴その人でないと言うならば」
白井は直感で、それが美琴の演技などではないと気付いていた。
なんらかの能力による擬態か、あるいは。
「クローン……?」
それを呟いたのは佐天だった。この中で一番、噂好きで、都市伝説なんかも大好きな少女。
そんなはずは無いと、誰もが心の中で呟いた。
「御坂さんじゃ、ないんですか?」
「人違いです、とミサカは先ほどの答えを繰り返します」
その時、その場にいた誰一人として気付かなかった。
この出会いが、どういう意味を持っているのかを。
どれほどほの暗い、学園都市の深淵を覗きこんでいるのかを。






上条家。最近は家主が別宅に入り浸っているせいで生活感にやや欠けていたそこが、今日に限っては様子が違っていた。
と言っても、楽しい空気が漂っているわけではない。
一晩の宿を求め、次の日の夕方を迎えた今も、御坂美琴と御坂妹の間には隔意があった。
「とりあえず、家の準備は出来ただろ」
「そうね。この子がどうこうしない限り、電波はここには届かない」
「……」
昼間に当麻が買い込んだアルミホイルが、家中の壁と言う壁に張られていた。
おかげで部屋の中は銀一色、ギラギラとしていて照明をつけるのが躊躇われるくらいだった。
そんなことをした理由は単純。電磁波遮蔽のためだ。
妹達は、脳の活動によって生じる電流が生み出す電磁波を増幅し、それを受発信することで情報をやり取りしている。
それを遮断するための最も原始的な方法が、御坂妹を導電体、例えばアルミの薄膜で覆った部屋の中に閉じ込めることだ。
完全に電磁波を遮断するには1ミリ程度の穴でさえ見つけ出して塞がねばならないが、幸い、御坂美琴がいればその問題は難なくクリアできる。
「……手錠、されたい?」
部屋の真ん中に御坂妹は座っている。ネットワークから物理的に遮断された経験はこれまでに無い。
だからだろうか、襲ってくる孤独感にジワジワと蝕まれているような気がした。
自分が製造された目的に照らし合わせれば、なんとしてもこんな状況から脱し、実験へと再び身を投じなければならない。
それが正しいことだと思っているはずなのに、御坂妹は行動を起こすことが出来なかった。
「もう、いいだろ。何度も話したことだろ」
「アンタはアンタで信用するのが早すぎるわよ」
そう、このアルミホイルの檻の作成も、そこに自分が幽閉されることも、そして、その状況で二人が実験を止めるために夜の街に出かけることも、もう何度も話し合われ、既に決まったことだった。
実験の被験者である自分は、二人に外出を禁じられた。
それは、外に出て他の個体とリンクすれば、当麻や美琴の意志よりも誰かの命令を優先して、死へと赴くかもしれないという懸念からだった。
その懸念は間違っていない。だって、そうすることが、正しいことのはずだから。
やれといわれたら、きっと自分はやるだろう。
だけど、だからといって二人の用意したこの檻を壊し、外へ出ようと思うかというと、自分の心は、いや、心などという高尚なものが自分にあるのかは分からないが、御坂妹の心は外へ出ようというアクションを起こせないでいた。
その理由は分かっている。昨日の夕方からの、24時間。その間に投げかけられた言葉が、自分を動けなくしているのだった。
彼女のお姉さまは、死ぬなと言った。死ぬのは許せないと言った。死ぬことはやってはならないことだと言った。
上条当麻という青年も、死ぬなと言った。死んでいいはずがないと言った。絶対に死なせる気はないと言った。
そんな自分が死ぬのは、良いことだろうか、悪いことだろうか。
ヒトは喪われてはならないもの。ヒトガタの自分は、そんなヒトの代わりに失われるべきもの。
そのはずだった。そう刷り込まれて自分は短い生を生きてきた。
じゃあ、ヒトにお前は喪われてはならないと宣告されたヒトガタは?
御坂妹は、思考をそれ以上前に進めることが出来ないのだった。
「どうする気なのか、正直に言いなさい。アンタが嘘をついたって私にそれを調べる術はない。だから……私はアンタの言ったことを信じる。信じるなんて言っても、本当は信じないって選択肢が選べないだけだけど」
せめて、紡がれた言葉が欲しかった。口約束なんて不確かなものに意味なんて無いけれど。
表情に乏しい御坂妹の瞳と、毅然とした表情の中でどこか揺れている美琴の瞳が視線を交わらせる。
「お二人が戻るまでここにいます、とミサカは誓います」
「……わかった」
「いいのね?」
「善悪の判断を、ミサカはつけられませんでした。判断保留が決して有益でないことは承知していますが、今は状況を見据えたいと、ミサカは偽りの無い気持ちを言葉にします」
「そう。なら、絶対にここに戻ってくるから。だから、お願いだからそれまで、ここにいて」
御坂妹に背を向け、扉へと歩き始めながら美琴はそう宣言した。
今から、今日これからで全てに決着をつける。こんな馬鹿げた実験なんて終わらせて、許されない死を、ここで終わりにしてやる。
「メシは炊いてある米と冷蔵庫の中身で何とかしてくれ」
ぽんぽんと頭を叩いて、ツンツン頭の少年が美琴に続いた。
今から危険な場所へ赴くというのに、なんて場違いなことを言うのだろう。
だけどそれを指摘する気持ちが湧き上がらなかった。
きっと、食事なんて摂る気になれない気がする。自分が選んだこの選択肢は、何処までも「停滞」を意味している。
死地へ向かう二人を止められず、刷り込まれた価値と二人の言葉の齟齬に判断を下すことも出来ず、自分はただ、ここに座っていることだけを選んだのだ。
それが今の、御坂妹の限界だった。
「じゃ」
「行ってくる」
一瞬だけ、家の扉が開いた。
赤い夕日の色が部屋に差し込み、一瞬後、御坂妹は誰もいない部屋に一人、閉じこもった。





夕日が眩しい通学路を、光子はとぼとぼと歩く。
風紀委員の白井黒子でさえ帰ったというのに、最後まで仕事を手伝わされた結果がこれだった。
「……夕食の準備は、私ですわね」
今日は当麻は、黄泉川家に来ない。朝は一緒に過ごしたけれど、夜は用事があるらしい。
詳しい内容を聞くことが出来なくて、隣人の土御門と一緒らしいということしか知らない。
その名前は昨日も聞いた名前だった。確か片付けの手伝いだったか。
昨日と同じ相手と一緒にいるというのが、当麻の言葉の信憑性を高めているような気もするし、逆に言い訳であることの証拠のような気もした。
「疲れているのかしら。こんなつまらないことで、ウジウジと悩んで」
声に出して、自分を非難する。だって当麻は一度だって自分を裏切ったりしたことはない。
いつも自分が不安がって、疑心暗鬼になっているだけで、当麻はずっと光子のことを見ていてくれた。
だから、変な不安なんて捨ててしまえばいいのだ。
そう分かっていても、なかなか光子の心は晴れなかった。
「いっそ、当麻さんの家に寄れば」
悪くない気がした。自分は彼女なのだ。合鍵だって貰っている。会いたいから会いに行って、悪いことなんて無いはずだ。
気恥ずかしい思いをさせるかもしれないけれど、それくらいは付き合っているんだから、いいはずだ。
「……どうせ買い物のついでにちょっと足を伸ばすだけだもの」
そう決めてしまえば、頭に浮かぶのは、いいイメージばかりだ。
男友達と話している当麻の所に自分が押しかければ、きっと冷やかされる。
当麻は照れるだろうけれど、嫌な顔をしたりはしないだろう。
そしてきっと自分のために席を外してくれて、二人っきりの時間を少しだけ取ってくれるだろうと思う。
「どうして来たんだ」「当麻さんのお顔が見たくて」
それだけで、もう自分のつまらない不安なんて消し飛んでしまうのだ。
なんだ、それでいいじゃないか。
そんなことで済んでしまうような悩みを、どうして自分は晴らしてしまえなかったのだろう。
光子は大通りを曲がって、スーパーへの道を、少しだけ遠回りするルートに変えた。





「準備はいいのか、御坂」
「ええ。アンタこそ」
「俺はこれで大丈夫だ」
「……服のことを聞いてるんじゃ、ないわよ」
美琴は制服姿ではなく、昨日着ていた短パンとTシャツの出で立ちだった。
当麻も当たり障りのない、大手量販店の品で固めた私服。
部屋を出てエレベータに乗り、階下へと下っていく。
「アンタには、本当は関係のないことなんだから」
「何度言わせるんだよ」
「これが最後よ。だって、この先まで行っちゃえば」
もう、やっぱり関わるのは止めなさいなんて言えなくなる。
今が最後の引き際なのだ。
「俺は、お前や御坂妹の事情をもう知ってるのに、それを放り出してどっかになんて行けない。他人事じゃない。それを見なかったことになんて、出来ない」
「……アンタに大したことが出来るって期待はしてない。けど、今ここで引き下がらないんなら、私はアンタにも、役に立ってもらう気でいるから」
「ああ。そうしてくれ」
チンとベルを鳴らし、エレベータが到着したことを伝えた。
シャワシャワと夏の終わりの蝉時雨が騒ぎ立てる中、二人は雑踏の中へと、静かに歩き出した。
未だ視界に入らぬ、妹達を作る工場を睨みつけながら。





「え……?」
光子が最後の角を、ちょうど曲がったその時だった。
数十メートル先には、当麻の住む寮のエントランスがある。
手の平にはもう、当麻の部屋の合鍵だって用意してあったのに。

――――眼前には、エントランスから出てどこかへ消えていく男女の影。

見たことのある背格好と髪型、見たことのある服。
男が当麻なのは、見間違えなどでは有り得なかった。
じゃあ、女性のほうは?
目深にキャップを被っていて、顔は半分くらい隠れていた。どうしてそんな変装じみたことをするのだろう。まるでそれじゃ、浮気現場みたいだ。
……それが誰なのか、考えたくもなかった。だけど、背格好で、すぐに分かった。
一つ一つ特徴を確認するまでも無い。自分の直感を、光子は疑わなかった。
「なん、で」
疑問の言葉だけが脳裏をリフレインする。
今日は、当麻は男友達と用事があるらしいのだ。
もしかしたら、用事なんて大層なものじゃなくて、ゲームでもしているのかもしれない。
そういう予定の、はずなのに。
夜の街に、女の子と、御坂美琴と二人きりで繰り出すなんてこと、あるはずが無いのに。
「当麻さん」
呟いたその名前の空虚さに、光子はゾッとした。
そうやってあの人の下の名前を呼んでいるのは、自分だけじゃないかもしれない。
愛されていると思っていたのに。その裏で、美琴は自分を笑っていたのだろうか。浅はかな女だと。
クラクラと揺れ動く視界の中で、光子は思わず壁に手をついた。
その間に、光子の視界の外に、あっという間に二人は消えていった。
「嘘……嘘」
――――口の中に湧き上がった裏切りの味に、光子は押さえ切れない吐き気を感じて、そこにうずくまった。
余りにも酷い現実は、泣くことも嗚咽を漏らすことも、許してはくれなかった。





「――――ということで、5分ほどで到着するだろう。彼にも説明をしておいてくれ」
「わかったわ。話はそれだけ?」
「ああ」
「そう。それじゃ」
傍らに置いた端末をパタンと閉じて、少女は軽くため息をついた。
装飾の少ないナイトドレスからすらりと伸びた四肢を丸め、片膝を抱くようにしてソファに座る。
学園都市内でもそこそこの高さのビルの、窓際に置かれたそのソファからは都市内の夜景が綺麗に映っていた。
それに見蕩れることも無く、少女は日課であるマニキュアの補修を行っていた。
足の親指から順に、剥げ易い爪の先に足すように塗り広げていく。
暗みがかったワイン色のマニキュアが似合うような年ではなく、事実、娼婦と見るにはあまりに体の線が若すぎるが、妖艶さというよりは危うさを感じさせるその雰囲気が不思議と少女には似合っていた。
その装飾には、あるいは『心理定規<メジャーハート>』と呼ばれる彼女の能力を利用した「副業」と関係があるのかもしれない。
不意に、少女が顔を上げフロアの奥を見た。そちらにあるのはエレベータだ。
「あら、随分と早い……違うわね。彼のほうかしら」
エレベータが開くと、現れたのは青年だった。
フロアの調度に対し似合ってなくもない、それなりにフォーマルな服を着ている。
彼ともなれば所持金はいくらでもあるだろうから、一ヶ月前までならこのフロアで食事くらいは出来ただろう。
ここは、つい先月夜逃げしたばかりのフレンチ・レストランの跡地なのだった。
「お早い出勤ね、包帯男さん」
「誰が包帯男だ」
「体から薬品の匂いをさせているんだもの。服の下はどうせそうなんでしょ?」
「……」
目の前の長身の青年、垣根帝督が不機嫌そうに顔をゆがめ、少女から離れたソファにどかりと体を預ける。
その際についた呼吸が、少し震えていた。
「とうとう隠し切れないレベルになってきたのね」
「あ?」
「体のほうよ」
少女は一度目の当たりにして知っている。
垣根提督は恋人らしき少女を助けるために無茶な能力行使をし、そして、理由は分からないが代償として体を損傷させている。
治るよりも壊れる勢いのほうがいくらか早いせいで、垣根は会うたびに消耗していっている。
寿命はもって今月末ということだから、やせ我慢などせずに体を労わってやればいいだろうに。
「これくらい何でもねーよ。別に俺は体が動かなくたって大して問題ない」
「そう。あなたがそう言うなら、私は、それでいいけどね」
「あん?」
フゥンと小さな音を立てたエレベータにもう一度目をやる。階下に下って行ったということは、おそらく、来たのだろう。
「いつものエージェントは、かなり心配しているみたいよ」
「お前の中で心配って言葉はどんな意味だよ。あの男がしそうな行為なのか?」
「彼は自分の手元で動かせる人間のメンテナンスには気配りしそうなほうでしょうね。それで、今日あなたを呼んだ理由だけど」
少女はポーチにマニキュアを仕舞い、ソファから立ち上がった。そしてエレベータホールのほうに歩みを進める。
垣根のほうをじっと見つめて、相手をこちらに振り向かせた。
不機嫌な目と無関心な目が交錯すると同時に、チン、と音が鳴った。
「新メンバーが加入することになったから、その顔合わせをするわね」
そこから出てきたのは、お嬢様学校の制服に身を包んだ女子中学生だった。
短めに切りそろえられた髪に黒縁眼鏡。野暮ったいとまでは言わないが、平凡ではある。
巷の評価なら可愛らしいなどといったものもあるだろうが、学園都市の暗部にいる人間としては、不似合いすぎた。
「お二人が『スクール』の人たちですか?」
「……『スクール』?」
「あれ、え、ちがいます?」
垣根の露骨な不審顔に、穏やかな顔で返す。その様子は天然っぽくも合ったが、どちらかというと打算な気がした。
事実、偶然や何かでこんな場所には来れやしない。
ドレスの少女は、小出しに与えられる情報のせいでさらにイライラを募らせた垣根にフォローを入れてやる。
「私たちを運用するのにグループ名がないんじゃ不便ってことで、エージェントが指定してきた名前よ。だから彼女の言っている事は間違ってないわ」
「……そうかよ」
名前などどうでも良かった。『スクール』などという安直な名前のせいで、命名の理由を聞く気にもなれない。
「私は元々体を動かす能力者じゃないし、あなたも怪我で不安が残る。そういうことでエージェントが連れてきたのが彼女って訳。よろしくね。いきなり、あなたには色々動いてもらうことになると思うけれど」
「別にそれは構いませんけれど。あ、自己紹介が遅れました」
スタスタとローファの音を響かせ、少女は二人の手前までやって来る。
適当なソファに少し膨らんだ鞄を置いて、丁寧にお辞儀した。
「綯足です。レベル4の流体制御系の能力者です」
「垣根だ」
「よろしくね」
「……ええと」
垣根は名前だけ、もう一人のドレスの少女のほうは営業スマイルだけだった。
綯足は困った顔を返す。まあ、ある程度はエージェントから聞いているから、知らないわけでもない。
それに。
「垣根さんって、第二位『未元物質』の垣根帝督さんですよね?」
「ああ」
こちらをもう見もせず、垣根はぞんざいに返事をした。
「先月くらいまで、こっちの業界で垣根さんのお名前を聞いた覚えはなかったんですけど。やっぱり、こないだの三沢塾の一件、あれに関係していたんですか?」
「……そんなことを聞いてどうする?」
「すみません、興味です。それより、今日は顔合わせで終わりですか? 一応私、それなりに真面目な学生なので帰れるならすぐ帰りたいんですけど」
「……まあ、別に今日何かやれとは言われてないけど。そうね、私たちの初仕事の内容、聞いてる?」
「いいえ」
「そう。ならこれを見ておいて」
ドレスの少女が、綯足に封筒に入った写真を手渡した。
開けて中身を覗き込む。
「……可愛らしい髪飾り」
「それが私たちのターゲット」
「どうすればいいんですか?」
「生きたまま誘拐」
「分かりました」
綯足は何枚かある写真を一つずつ見ていく。
中には制服を着ているものもあった。
「このセーラーだと公立、それもレベルは低そう」
「能力のレベルは1。どんな能力かは知らないけど、それが障害になることはないでしょ。……何かあるの?」
「あ、すみません。今日ちょっと話した子の制服に似てるなって」
「どこにでもあるデザインじゃない」
「ですね」
すみません、と目で謝りながら綯足は写真を封筒に戻した。
「だいたい一週間以内には捕まえたい。実働はほとんどあなたになる予定よ。そっちの第二位さんはちょっとお疲れみたいだから」
「疲れてようがレベル1を捕まえるくらいなら関係ねえよ」
綯足など必要なかったと言うように、垣根が面白くなさそうに呟いた。
その態度に苦笑を返して綯足は説明する。
「誘拐って結構根気要りますよ。相手の場所も掴まなきゃいけないし、拉致るポイントも大事ですしね」
「そうかよ」
「あ、でも今回は偉い人に通じてるから、結構楽かな。この子の居場所ってわかります?」
「IDがスキャンされた場所は追えるらしいわ。だから大体はわかる」
「そうですか、じゃあ、機を見て動きます。今日すぐにじゃなくていいんですよね? とりあえず自分の生活もあるので」
「長くは待てないわ。せいぜい、もって十日ってところね」
「もって?」
わかりにくい言い回しをした相手に、綯足は首をかしげてみたが、意味ありげに薄く笑みを浮かべただけで、何も返事はなかった。
何かが「もたなく」なるから、十日以内なのだろう。だが綯足はそれ以上聞かないことにした。大事なのは、その期限を守れるかどうかだけだ。
「十日ですね、分かりました。サポートが必要なら電話すればいいですか?」
「……ええ。そろそろ下部組織も整うって噂だから、できればそちらを動かして対処して。誘拐の手伝いをやれなんて、面倒以外の何者でもないし」
「結局は全部私の仕事ですか」
半笑いで綯足はため息をつく。確かに、垣根帝督を運用するにしては随分と仕事が小さすぎる。
「あなたがここに連れてきてからは私の仕事よ。そちらは心配しないでいいわ」
「わかりました」
話は、これで終わりのようだった。
もとよりここにいるのは暗部の人間。仲良くなるための時間なんてとったりはしない。
必要が無ければ接触することも無いのがこの業界の常なのだ。
綯足は置いた鞄をまた持ち直し、帰る準備を整えた。
「……この子の情報、まだあるんですか?」
「名前は初春飾利。それ以外のことは面倒だからあのエージェントに聞いて」
「分かりました。それじゃ、また」
「ええ」
垣根は挨拶すらくれなかった。それに気を悪くするでもなく、また一人でエレベータに乗り込んだ。
そして誘拐すべき少女のことについて、頭で再確認する。
「初春飾利、レベル1。おそらく中学生」
別段、その少女に思い入れもない。サッと捕まえればいいだろう。
その後の彼女の人生について、自分の関与するところではない。
「とりあえず電話しなきゃね」
そう言いながら、綯足はエレベータが地上に着くのをそっと待った。
彼女は、この後エージェントから情報提供を受けたその後も、知ることは無かった。
初春飾利の親友が誰なのかということは。



[19764] ep.4_Sisters 06: 彼女たちの邂逅
Name: nubewo◆7cd982ae ID:cb4a3376
Date: 2013/05/06 00:12
「――――ということで、5分ほどで準備して。いいわね?」
「あーはいはい。話はそれだけ?」
「ええ。そちらこそ聞きたいことないの? 失敗しないように何か確認事項とか――――」
「ないわね。それじゃ」
電話の向こうでさらに何かを言おうとするのを無視して、麦野は通話をオフにした。
「ったく。言われなくてもギャラの分くらいは働いてあげるわよ」
「言葉の割に、珍しく超やる気ですね、麦野」
「そう?」
少し、高揚が態度に透けて出ていたらしい。鋭い絹旗の指摘にとぼけた声を返して、麦野は自省した。
麦野を含めた『アイテム』のメンバー達四人。彼女達が待機しているのは、ゆったりとしたボックスカーの中だった。
スピーカーから聞こえてきたのは彼女たちの上司からの仕事の指示で、もう間もなく、彼女たちは与えられた仕事のために動くことになる。
その指令は、麦野を除く三人にとっては不可解なものだった。そんな仕事は珍しいこともないから誰も文句は言わないが。
内容を簡単に言うと、ある施設を破壊しまわっている能力者を撃退すること。相手は発電系能力者らしい。
不可解な点というのは、注文内容に「相手の素性の詮索は無用」とあること。
仕事の依頼主は相手の能力のことをかなり正確に理解していて、まるでその相手が誰なのかを知っているようにさえ思える口ぶりだった。なのに、こちらから消しに行くこともせずに、ただ攻め込まれるのを待ち、『アイテム』に迎撃を依頼している。
……まあ、事情を知っている麦野からすれば納得の行動ではあるが。『絶対能力進化<レベル6シフト>』はかなり上位のプロジェクトとはいえ、さすがに学園都市の『顔』を消し飛ばすのは無理だろう。
「ねー麦野。ギャラはどう分けるの?」
フレンダの声に、麦野は思案する。だいたいこういう時の配分は、シンプルな取り決めがある。しかし、今回はそれをあまり歓迎できない事情があった。
「いつも通り仕留めた人の総取り……って言いたいところなんだけど、ちょっと私にターゲットを譲って欲しいのよね。襲撃はこっちのビルの可能性の方が高いんだったわよね。だから、そっちに私と滝壺が行くわ。フレンダと絹旗は反対側」
「まあ、それは別に構いませんが。でいくらで手を打ってくれるんです?」
「私が仕留めたら6割貰っていくわ。残りを滝壺が2割、あんたたち二人で1割づつ」
「えーなにそれ! 譲るかわりに1割ってひどくない?」
「いくら欲しいわけ?」
「じゃあ2割!」
「1.5割ね」
「横暴だー。私達んとこに来たら全額貰ってくからね」
「それでいいわ」
口を尖らせるフレンダの相手をそこで打ち切って、麦野は腰を上げた。
彼女たちの上司が依頼先から仕入れた情報だと、15分もすれば『敵』が来るらしい。僅か先の未来に思いをはせて、麦野はニヤリと笑みを浮かべた。
この件については、自分はただ仕事を引き受けた掃除屋の立場に留まらない。あの口うるさい上司が把握しているのか知らないが、誰が来るのかを、麦野は知っている。絹旗あたりも、敵が誰かまでは分からずとも、自分がそれを知っていること自体には気付いているかもしれない。口出ししてこないので、麦野からは特に何も言わなかったが。
「さて、それじゃさっさと終わらせて帰りましょう」
その麦野の号令で、『アイテム』のメンバー達はワゴンを後にした。
先頭をゆっくりと歩きながら、麦野は押さえがたい戦意を表情の奥に押し込めていく。
ようやく、お膳立てが出来たのだ。野試合などではなく、誰かに望まれた形で公然と第三位を倒す、その下準備が。
絶望に塗れた御坂美琴の表情を思い出しながら、麦野は襲撃予定の場所、樋口製薬の研究所に足を向けた。
――ただ、彼女も、そして依頼主たちも、誰も予想していなかった。
御坂美琴の他にも、侵入しようとする者がいることは。




夕日が林立するビルの奥に消え、人工の明かりが街を照らすその時間帯。渋滞で込み合う大通りに面した歩道を、佐天と白井の二人は疾走していた。
白井はスティック状の携帯端末を常に耳に当て、佐天はその後ろを付き従いながら、白井が立ち止まるたびに白井の肩に触れる。
それは二人が向かっているとある研究所へ、最短でたどり着くための努力だった。
「初春! 次は?!」
『そのビルの『厚み』は裏手まで50メートルです。まっすぐ素通りしてください』
「了解」
佐天は電話越しにやり取りされるその声を傍で聞き、白井に向かって手を伸ばす。その感触を肌で感じ、白井はすぐさまに能力を発動した。
もう何度目か分からない、一瞬の視界のブラックアウト。テレポートの感覚にようやく佐天は慣れつつあった。
瞬きをする前とでガラリと変化した視覚情報を大急ぎで処理しつつ、佐天はひたすら白井の後を追う。
『白井さん、そこから300メートルは障害物無しです』
「そう。走る距離が長いのは休憩と捉えるべきですわね」
『行き止まりが、ちょうど研究所の側面の壁になります。そこからは、白井さんのほうでもよく様子を見てください』
「ええ、分かっていますわ」
高密度に形成された学園都市の街中では、自動車の実効的な時速は30キロを下回る。その中で、文字通りの直線的なルートを時速80キロ近くで駆け抜ける白井達は、超高速移動していると言っていい。
そんな二人が今、こうして夜の学園都市を走ることになったのは。
「御坂さん……きっといます、よね」
「私たちにできるのは、それを信じることだけですわ」
つい数時間ほど前に、御坂美琴にそっくりな、とある少女に邂逅したことがきっかけだった。
「初春。そちらに変わりは?」
『ありません。こちらは三人ともさっきのままです』
初春は春上とともに、詰所である風紀委員の第117支部から白井たちに連絡を取っている。
そして初春が口にした三人目、それが件の少女。御坂美琴のクローンである妹達<シスターズ>の一人だった。
彼女は先程、白井たちもいた頃に宣言したとおり、初春たちに暴力を振るうこともなく、静かに隣で待機しているらしい。
病み上がりの春上、バックアップが専門の初春を後方に残し、そこに御坂のクローンをとどめておく。
そして白井と自分が実働部隊になるのは、佐天にとっては決まりきったことだった。
「佐天さん、飛びますわよ!」
「はい!」
這い上がる様々な感情を演算に使う脳から必死に追い出しながら、白井は前を見続けた。
目的意識がギリギリのところで理性を押し止めていてくれているが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

――――数時間前。白井たちは、第七学区の公園で、『妹達』の一人に出会った。
言ってしまえば、見た目が美琴と瓜二つというだけの少女。それくらいなら驚くには値しないはずなのだ。
外見を偽装する能力や技術なんて、学園都市にはありふれているのだから。
だから普段なら、風紀委員として何かと事件に首を突っ込む悪癖のある自分とて、警備員あたりを呼んでそれで終わりにしたことだろう。
そうなる、はずだった。もし初春が、少し前に美琴から電話を貰ったことを思い出さなかったならば。
春上たちを救うためにテレスティーナを退けた、その前の日。初春は夜、電話越しに美琴とおかしな会話を交わしたのだった。
何に必要なのかわからない符牒<パス>。そのデコードを手伝ってくれという依頼だった。
あの時の美琴に感じたどこか不自然な、何かを隠すような態度。
それと目の前にいた少女を結びつけて考えた初春の直感は、残念ながら、まったくもって正しかった。
「――っとと」
「佐天さん、大丈夫ですの?」
全力疾走したままのテレポート。それは、転移後の様子まで脳裏に思い描いてある白井にとってはもう何でもないことだが、佐天にとっては大変な作業だ。だが白井が気遣うと、気にしないで、というふうに佐天は首を振った。
その表情には、消えない戸惑いが貼りついていた。
きっと電話の向こうの、初春や春上だってそうだろう。あまりに、資料が物語る事実が、非現実的すぎた。
曰く。
この学園都市には、約一万人の御坂美琴の妹達<シスターズ>が存在している。
そして、これまでに約一万人の妹達が、実験の過程で死亡、処理されている。
こんなもの、まるで実感を伴わない事実だ。あの10031号というナンバーを振られた彼女を見ても。
だって、そんなに簡単に人が死ぬなんて。そんなに簡単に人間の複製<コピー>を作るなんて。
白井は独り、唇を噛んだ。戸惑いを隠せない友人たちとは、少しだけ違っていた。
自分だけは、気づけたはずだった。様子のおかしいお姉さまの姿を、ずっと見続けていたから。
だが自分は深くは踏み込まなかった。関わるべきか、見守るべきかを逡巡していた。
そして、その判断が、たぶん間違っていたことを白井は思い知らされたのだ。
「この壁……」
『そうです。これを越えたら、目的の製薬会社の敷地内です』
風雨に晒され僅かに黒ずんだ塀。上には簡素ながら鉄条網が張ってあるし、監視だってされているだろう。
だが、そういうものを白井は平気ですり抜ける。コストの関係から、テレポーターを想定したセキュリティは張っていないらしかった。
それでも、進入するのには二の足を踏まずにはいられなかった。
この施設が美琴のクローンの量産プラントだと言っても、見た目は完全に善良な研究施設なのだ。
そこに入り口以外から、許可を取らずに忍び込むのだ。それも風紀委員の一員たる、この白井黒子が。
「佐天さん」
「はい」
「迷いはありませんのね?」
「大丈夫。さっさと御坂さんのところに、行きましょう」
背負うものが少ないからだろうか、まっすぐな瞳で佐天が瞬時に返事をした。その決然とした様子に自分も背中を押される。
風紀委員である分、見つかったときに自分の方がより重い処罰を受けるのは確実だ。だけど、その多寡など些細な差だろう。
産業スパイそのものの行為なのだから、佐天だって見つかれば拘束されるに決まっている。
それを分かっていないのかと問い直そうとして、白井はやめた。
佐天は、そういうことをきちんと理解できる、聡い友達だ。それでも、ここにいる。
「佐天さん、手を」
「はい」
出された手を、白井は握った。
市街に張り巡らせられたカメラによる監視網、その間隙を縫って、二人は学園都市の優しい世界から、姿を消した。




カツカツと、ローファを響かせながら、布束はガードマンに付き添われて通路を歩く。
電子機器から発せられるオゾンと酸化物の臭い、それに混じって漂う、培養プラント特有の匂い。
いつもの制服の上から白衣を着て、こんな薄暗い室内を歩くと、決まって『彼女』の顔が思い出される。
初めて日の光を浴びて、「世界とは、こんなにも眩しいものだったのですね」とつぶやいた、布束砥信の実験動物<モルモット>。
10001号と銘打たれた彼女の顔はもう、思い出せない。二万人いる彼女たちの無個性な顔の中に埋もれてしまった。
そういうふうに作るのが目的ではあったけれど、その目的が完璧に果たされていることに、あの日の布束は疑問を持ってしまった。
だから、今ここにいる。
小さな音と共に開いた扉の向こうでは、慌ただしく職員たちが駆けずり回っていた。
「あなたが……布束砥信さんですか?」
「ええ。はじめまして。御社の学習装置<テスタメント>の監修を担当しました布束です」
「はじめまして。すみません、『量産型能力者計画<レディオノイズ>』の頃から関わっているとお聞きしていたので、こんなに若い方だったとは……」
対峙した瞬間の動揺をそんなふうに言い訳して、中年の研究者が手を差し出してきた。
軽く握手を交わし、当たりを見回す。その視線の意図に気づいて目の前の研究者が説明を加えた。
「ちょっとしたトラブルがありましてね、研究所の全設備と研究データを他所へ移す必要がありまして……」
「私は何をすればいいのですか?」
「ああ、いえいえ。こちらに控えていてくだされば結構です。何分我々もこんな大規模な移送は初めてで……」
歯切れの悪い言い回しを続ける研究者の言葉にじっと耳を傾けていると、不意に血相を変えた男が入ってきた。
「失礼します! 所長」
「なんだ? ……ちょっと失礼」
布束の前から少し移動し、入ってきた男の耳打ちを聞いて、所長らしいその研究者も覚悟を決めたような顔になった。
「分かった。では急ぎつつ、手はずどおりに」
「はい」
布束は、もちろんその様子が示すのが何か、よく理解していた。
自分がこの施設に立ち入ったのが15分前。その瞬間は、この施設の出入口でセキュリティが甘くなる瞬間でもある。
御坂美琴が、侵入したのだろう。そしてもうこちら側がそれに気づけるほどに破壊活動が始まったということでもある。
「布束さん、それではこちらにご案内します。学習装置<テスタメント>の搬送もしばらくすれば始まりますので、その時にまたアドバイスをいただければ……と」
「そうですか。わかりました」
まだ、自分が動くべき時ではない。
素直に布束は案内に従った。




同時刻、同施設にて。
美琴は姿を潜めつつ、内部からセキュリティ情報にハックをかけて、自分たちの身の安全を確保していた。
隣では、かばうように当麻が立って周囲を警戒している。
当麻はいつもの私服の上から白衣を着込んでいた。そんな変哲な格好をした理由は、似たような人間が施設内をうろついていたから。
どうやら、スキルアウトらしき連中を人足として雇って物資の運搬をやらせているらしい。
そちらを襲撃する手もあるにはあるが、根元を叩くほうが先だ。
二人が侵入しようとしているところは、運搬口から少し離れた、施設深部への通路だった。
その先には多分、何百人かの妹達が待機していて、そして彼女たちの育成、いや培養プラントがあるはずだった。
そこまでたどり着いたほうが安全だと美琴は考えていた。妹達は、クローンでない人間を殺傷することを強く忌避する。
だからこちらなら見つかっても当麻は殺されたりはしないだろう。
「……できた」
「そうか」
障害物の向こうで時折聞こえる足音に緊張を隠せない当麻が、硬い顔で返事をした。
プシュ、という音と共に機密の高い扉がロックを解除された。
素早く美琴がそれを開き、二人は体を滑り込ませた。
「アンタは足音はあんまりたてないようにしながら、降りてきて」
「お前は?」
「私はアンタの先行くから」
怪訝な顔をした当麻に、美琴は多くを説明しなかった。どうせすぐにわかるからだ。
すぐさま現れた階段の前で跳躍すると、美琴は階下へと一気に飛び降りた。
「ちょ、おい――」
「シッ!」
声を上げようとする当麻に釘を指しながら、美琴は付かず離れずの距離を先行する。
生物系の研究施設と思えない無骨な作りの地下が、建物の外見以上の規模で広がっていた。
居住空間としては二階ぶんくらいある高い天井の廊下、そこに連なるのは乗用車が楽に乗り入れられる広い入口を持った部屋の数々。
閑散としているのは、施設の運び出しが済んでいる証拠か、あるいはもとから何もないのか。
美琴は見えない磁力線を手のひらに束ね、それをつかんでふわりと降り立った。
そしてすぐさま、人気のないその廊下を駆け抜ける。
「御坂、ちょっと」
こわばった顔で、息を切らせているくせに疾走をやめない美琴に追い詰められたものを感じて当麻は思わず声をかけた。
その声が聞こえないほど離れてはいなかったが、美琴は当麻の声に耳を貸さず、さらに歩を早くする。
当麻はそこで、ようやく美琴の様子がおかしいことに気づいた。
早く事態を解決してしまいたい、そんな感じの焦りが美琴の態度に透けていた。
慎重さよりも拙速に重きを置いた歩みで、ためらいなく美琴は深部へと向かう。
大型のトラックの間をすり抜け、大量の資材を乗り越える。
自分たちがいるのは、実験室で作った製造プロセスと実機のプラント運転の間をつなぐ、実証試験用のパイロットプラントを設置するスペースなのだろう。
あるけども人の気配に全く出くわさないのをいいことに、美琴が足音を警戒するのもそこそこに、さらにペースを上げた。
そして当麻の方を見ることもなく、角を曲がり視界から消える。
さすがに、その行為を見とがめないわけにはいかなかった。警戒感が薄いのもあるが、何より、美琴の態度が危うかった。
「御坂。急ぐ気持ちはわかるけど、もう少し――」
小走りに角を曲がって、思ったより近くにあったその背中に声をかけたところで、当麻は先の言葉を紡げなくなった。
美琴が、全く人気のなかった廊下で、じっと『誰か』を睨みつけているから。
「ごきげんよう」
そこに居たのは、私服姿の、若い女が二人。ひとりは自分よりは年上だろう。だが研究者という風にも見えなかった。
もう片方は、私服というか、野暮ったいジャージ姿で、こちらは同い年くらいだった。
「アンタは……」
「え?」
その人を知っている、という感じの口ぶりで美琴が呟いた。
「……知ってるのか?」
「顔はね。どうも、色々『物知り』な人みたいよ」
「ま、そうね」
すらりと背が高く、胸を強調するような服を着たその女性は、余裕のある態度で肩をすくめた。
「どういうつもりでここにいるわけ?」
「どう、って。私は不審者が入れば追い払うようにっていうバイトを引き受けているだけよ。そちらこそどうしてこんなことをしているのかしら、不審者さん?」
「……理由なんて、私が言わなくたって知ってるでしょうが」
「まあそうね。私が教えてあげたんだったものね? 別に礼を要求するつもりはないけど、その分遠慮はしないわよ?」
そう嘯くその女を、美琴は睨みつけた。
忘れた訳がない。妹達が投入されている実験を知らせたのがそもそも、この女だ。
情報提供という意味では、確かに恩があるとも言えなくはない。
だけど、コイツは、真実を知った自分を見て、面白そうに笑ったのだ。
礼を言う気にも、そしてこの場にいる時点で味方だと思う気にも、到底なれなかった。
「……邪魔だからどいて」
「お仕事だからね。そういうわけにはいかないのよ。だから、仕方ないわね」
あまり残念そうにも見えない笑顔を浮かべて、その女は組んでいた腕を下ろした。
そして、後ろに控えていた当麻に、視線をやった。
「あの日の彼氏だっけ? ここまで付いてきてくれるなんて、女冥利に尽きるじゃない」
「……」
「どれくらい使い物になるの? 別に2対1でも構わないけど、できればサシがいいんだけど」
「そっちの後ろにも一人いるけど?」
美琴には、正面切って戦う気はない。ここを壊しさえすればいいのだから。
だが、口先で牽制し合って互いの実力を図るのは、必要なことだった。
「アッチは私のバックアップ。直接手は出さないから。そうね……これ、使っときなさい」
小さなパスケースを、女が後ろの少女に向かって投げた。
不器用な手つきでそれを受け取り、慣れた仕草で、手の甲に中身を少し乗せた。
それを見届けて、女――麦野沈利は重心を軽く落とした。
「さ、逃げられると仕事にならないし。――灰も残さずプラズマに変えてあげる」
それが戦いの、合図だった。
狙い通りに美琴を自分の方に呼び込めたことにほくそ笑みながら、麦野は美琴と、後ろの雑魚の始末をどうするか、プランを描き始めた。
襲撃者が訪れず、することのなくなったはずの残りのメンバーのことは、脳裏には少しも浮かばなかった。




フレンダと絹旗は、階段の上から慎重に侵入者を見下ろす。
「……ターゲットは一人と聞いていましたが」
「自信満々で一人って言ってたクセにぃ、あんのやろう」
臨戦態勢を保ちつつも、話が違うことに絹旗とフレンダは文句を行ってやりたい気分だった。
そして侵入者の二人も戸惑っている様子だった。まあ、自分たちのような能力者の掃除屋に出会ったのが初めての連中が決まってみせる表情だ。
「あなたがたは、何者ですの?」
ツインテールの少女が、そう尋ねた。しかし制服を着ているのは冗談なのだろうか。それも、超有名校、常盤台のなんて。
もう片方は特徴のない制服だった。とはいえ、こちらも研究施設に侵入した人間の装いとしては極めて不自然だ。
「何者って、ねえ。言う意味あるの?」
「何がおっしゃりたいの?」
「結局始末されちゃうのに、教える意味あるのって言いたい訳よ」
「……」
白井は、金髪の少女のとぼけた態度に対して、警戒心を深めた。
相手はスキルアウトのような暴力に溺れた不良とは違う。
「おしゃべりは超そこまでにしてください。あちらと連絡が付きませんし、さっさと済ませるべきでしょう」
「え? つながんないの?」
「どうも上が予想していた以上に忙しいようですね」
もう一人の、ショートパンツからスラリと白い足を晒し、半袖のジャケットから生えたフードを目深にかぶった少女が端末を畳みながら階段の淵に歩み寄ってくる。
「我々は雇われ稼業の人間です。受けた仕事は侵入者の排除。捕縛と追跡は仕事に入っていませんので、逃げてくれれば追いませんよ」
「あ、それいいね! 頑張らずにギャラをゲット!」
こんな異常な事態の中で、明るく振舞うその少女に、白井と佐天は困惑を隠せなかった。
さっぱりわからないのだ。こんな場所に、自分たちと同年代の女の子が、それも敵としているなんて。
「どうしてあたしたちの邪魔をするの?」
「……そちらと似たような状況だと思っていましたが」
何かを言おうとしたフレンダを遮るように、フードの少女、絹旗最愛が返事を返した。
「私たちは金銭目的ではありませんわ。そちらこそ、ここで何が行われているか分かっていて、お金のためにこんなことをしますの?」
ギャラをゲット、というフレンダの言葉を、白井は聞き逃していなかった。
たんに金銭目的で、このような非人道的な実験に加担しているのなら、彼女たちの相手をする理由なんてない。
不意に見つかったからと、時間を割いて言葉を交わしたこと自体が無駄だった。
「別に何してるかなんて知らないけどねー。興味もないし」
それは、自分が加担しているのが悪事であろうと薄々分かっていながら、それに全く頓着していない、というポーズだった。
「白井さん」
「ええ。話し合う時間はありませんわね」
美琴を見つけて、無事に戻るまで、自分たちは引き下がれないのだ。
まだ何も成し遂げていないこんなところで、足止めされるわけにはいかない。
だが、別段話し合いも、有効的な態度も取る気がないのは、フレンダ達にとっても同様だった。
「あ、やる気? なら先手は打っても文句ないよね?」
警戒は怠っていなかった。だが、フレンダ達の方が、きっと戦いに関しては上手。
無造作に手にもったペン状の何かを、フレンダが放り投げた。
「――っ!」
「佐天さん!」
直後。光が走り抜けて、佐天と白井のいた場所を、爆風が吹き飛ばした。





じっとりと首筋を伝う汗を不愉快に感じて、光子は空を見上げた。
どのくらい時間が経っただろうか。空を見上げると、夕日がいくらか傾いていた。
もっと長い間、何もできずに立ちすくんでいた気がしたのに。時の流れは、こういう時には持て余してしまうくらい遅かった。
帰らなければ、と理性が訴える。
一人歩きすべき時間ではなくなるし、きっと黄泉川家でインデックスがお腹を空かせていることだろう。
だけど、そうしたくなかった。このまま夜の繁華街でも、当てもなくぶらつけば、心に空いた隙間を埋めてくれるかもしれない。
自分の知っているところに戻れば、いずれ当麻に見つかる気がする。
会いたくなかった。どんな顔をして会えばいいのかわからない。
恨めばいいのか、泣けばいいのか。でも、光子の心の中に渦巻く気持ちは、どれも刃の向きが自分に向いていた。
もう、自分は当麻に会えないと思う。
あれは自分の見間違いだったかも、なんて考えはもう何度も吟味した。
だが、何度思い出したって、光子の前で寮から出ていったのは当麻で、そして付き従っていた女の子は、美琴だった。
自分に嘘を言ってまで、当麻は美琴と過ごすことを選んだのだ。自分はそれに何を言える?
当麻に会っても、泣くことしかできないだろう。
美琴に会うことは、考えたくなかった。自分の怒りの刃は、彼女には鋭く向けられているから。
「……合鍵、なんて」
当麻とすれ違う直前まで、もしかしたら使うかもしれないと思って鞄に忍ばせていたそれが、急に汚らわしく思えた。
だってその部屋から、美琴と当麻は出てきたのだ。
ずきんと、その事実を認識して心が痛んだ。初めてキスをしたのは、あの部屋だった。
初めて彼氏に手料理を振舞って、喧嘩をして、キスをした。インデックスが現れたのは、なんとも言い難い思い出だが。
それを、美琴に汚されてしまった。そこは当麻の部屋であり、上がり込んでいい女は自分だけのはずだったのに。
カツ、とローファで小石を蹴り飛ばした。そして、近くの家の塀を見上げた。
このまま、合鍵を投げ捨ててしまおうかと、そう考えた。
「……部屋に、返しましょうか」
思いとどまったのは、育ちの良さから来るものだった。
ポストに入れておこうかとも考えたが、結局、部屋番号を確認しに上がらないとどこに入れたらいいかわからない。
それなら、一言書いたメモと一緒に、当麻の部屋の新聞受けからでも、鍵を返してしまえばいい。
とぼとぼと寮のエントランスをくぐり抜け、八階を目指す。
常盤台の制服を着ているせいだろう、向けられる視線が奇異に染まっていて、鬱陶しい。
人目から逃げるように当麻の部屋へ進む。けれど。
「――お、そこにいるのは、たしか婚后」
「カミやんの彼女か」
今から出かけるところという雰囲気の兄妹が、そこに居た。
どちらの顔も見覚えがある。兄の方は、当麻の隣人で、悪友だ。妹の方は、たまに自分の学校に研修に来る。
「土御門さん。……ごきげんよう」
「上条当麻に会いに来たのかー?」
舞夏の何気ない言葉に、光子は何を返していいかわからなかった。
隣では、軽薄な装いの兄が口をつぐんでいた。
「まあ、そんなところですわ」
「……舞夏。ハンカチ忘れたからとってきてくれ」
「えー、自分でやれ」
「どこにあるかわからないからにゃー。舞夏がどこに仕舞ったかわからんぜよ。勝手に漁ると怒るし」
「出すときに散らかすからだってのをどうしてわからないかな。まあいいや、ちょっと待ってて」
じゃあね、という感じで光子に笑みを送って、舞夏は部屋に戻っていった。
光子は土御門に相対したまま、それを見送った。
「……私に、何か」
「んー、まあ俺に何か聞きたそうな顔をしてたからにゃー」
「……」
そんな思わせぶりな態度をとるということは、つまり。
……別に再確認する必要はないのだ。当麻が美琴と一緒にいたことは、ほかでもない自分で確認したのだから。
「土御門さん、昨日の夜は当麻さんとご一緒でしたの?」
事情を知らなければ戸惑いを覚えそうな質問を、前置きなしで光子は突きつけた。
だが土御門は、動揺することもなく、ただ何かを悟ったように頷いた。
「いや。昨日はカミやんとは会ってない」
「――――そう、ですか」
「婚后さんこそ、昨日はここに来なかったか? カミやんの部屋が騒がしかったけど」
「いえ」
もう、充分だった。
せめて、ここに来た用件だけは済ませよう。
「なあ、その鍵、どうするんだ?」
「え?」
会釈して、通り過ぎようと思った矢先。土御門が光子の手を見ながら、そう尋ねた。
「……私には、もう持っている資格がありませんから」
「返すのか。なあ、一回くらい、部屋を見てみたらどうだ」
「どうしてそんなことを勧めますの?」
「間違いかもしれないから、だ」
「間違い?」
間違いを犯したのは、不義を働いた当麻のほうだ。
今ここで確認したことが、勘違いな訳がない。これ以上何があるというのか。
だけどそれを言い返すより前に、舞夏が部屋から出てきて、ハンカチを土御門に渡した。
「お、サンキュ。それじゃ買い物に繰り出すぜい!」
「遊びに行く時のテンションで買い物に付いてこられてもなー。それじゃ婚后、またな」
「ええ」
「ま、部屋見て考えることをカミやんの友人として勧めるぜい。それじゃあな」
ひらひらと手を振って離れていく土御門に、光子はどう返していいかわからなかった。
その、去り際に。
「これからもカミやんをよろしくな」
軽いようでどこか真剣な響きの、そんなお願いをして階下に消えていった。
「……」
わからない。というよりは、明らかにおかしい。
土御門と今確認したのは、当麻が、自分以外の女を部屋に連れ込んだという事実だったはずだ。
もう、当麻をよろしくなどと言ってもらえる立場に自分はないはずだし、自分だって当麻のしたことを許して受けいられれるとは思えなかった。
だから、今日で、二人の関係はおしまいだと思っている。だからこんなに苦しくて、眩暈すら覚えているのに。


でも、もしかしたら。


期待をしそうになる自分の心に恐怖を覚える。そうやってまた落ち込むなんて、嫌なのに。
予定通りに、自分の足は前に進む。ほんの数歩、それで当麻の部屋の目の前にたどり着いた。
鍵に手を触れることがどうしてもできなくて、意味もないのに、インターホンを鳴らした。
返事はなかった。当たり前だ。家主は今、ここにはいないのだから。美琴と、どこかに出かけてしまったのだから。
光子の長い溜息が、人気のない廊下にかすかに木霊する。
この鍵穴に合鍵を通したとして、何がわかるだろう。
美琴のいた痕跡があるかもしれない。ないかもしれない。でも、それだけだ。
悩むくらいなら開けてばいい。それが怖いなら、扉についた小さな口から、鍵を放り込んでしまえばいい。
そう思いながら、意を決して、鍵に手をやった。
「……?」
そうして、ふと気づく。
扉の隙間からかすかに覗いた、銀色の何か。
注視するまでもなく、それはくしゃりとなったアルミホイルだった。
まるで何かを漏らさないよう塞ぐかのように、扉の隙間にしっかりと詰めてあった。
「なんですの、これ」
部屋の修理だとか、そんなふうには見えない。
とはいえ、別にこれを何かの事件などと結びつける必要はない。ただのアルミなのは、見ればわかった。
……だけど。
光子は鍵を取り出し、一瞬、その先を戸惑いに揺らしてから鍵穴へと突っ込んだ。
この夏を迎えてから、光子は今までと全く違う人生を歩んでいる。
インデックスと出会い、魔術師たちから彼女を守り抜いた。
間接的とはいえ、春上たちと知り合い、学園都市の暗部から彼女たちを救い出した。
どちらの時にも、ふとしたきっかけが、日常を塗り替えていった。
小雨がアスファルトの匂いを変えていくように、そのはじまりは何気ないものだ。
嗅覚と言えるほど、異変に鋭い感性を得たわけではない。だが光子は、そこに当麻の光子に対する裏切りだとかを超えた何かを感じて、鍵を回した。
鍵はなめらかにその力に答え、ロックを解除した。ノブも扉を開くことに抗いはしなかった。

アルミがカサカサと擦れる音を立てながら、扉はあっさりと開いた。

そして廊下を見つめて、光子はギョッとした。
一面の、銀。もっとも銀よりはくすんだ色をした、ただのアルミホイルの色だ。
それが、床と言わず、壁、天井にまで貼り付けられている。
部屋に入る前、自分の過ごした当麻の部屋が変容していることを、光子は恐れていた。
だがこんな意味じゃない。こんな異様な変化を、光子は予想していなかった。
そして何より。
「え――」
「――どなたですか、とミサカは鍵を使ってこの部屋に入ったあなたに問いかけます」
自分と同じ、常盤台の制服。茶色がかった肩までの髪。
当麻と一緒に、ここから出ていったはずの御坂美琴が、そこに居た。
いや、見た目は美琴だが、この違和感はなんだろう。
「御坂さん、ではありませんわね」
「肯定します。それともう一度質問をくり前します。あなたはどなたですか」
「常盤台の婚后光子ですわ。ここに住んでいる上条当麻さんの――」
その先を光子は言い淀んだ。二人の関係がここで終わってしまうと、そういうつもりで来たから。
だけど、事態はそんな光子の絶望とは違う様相を見せてきた。
「――恋人です」
そう、言い切った。
美琴に酷似したその少女は、わずかに表情を驚きに変えて、呟いた。
「言動から推察してはいましたが、やはり上条さんには恋人がいらしたのですね、とミサカはお姉さまにわずかに同情します」
「……貴女は、当麻さんとどういうご関係ですの?」
お姉さま、という響きが美琴を指すのだろうと想像しつつ、光子は最も大事なことを確認した。
「事情があって他に行く所のない私を、昨日と今日限りで泊めて下さいました。お姉さまも昨晩はここにいました。ただ、上条さんは私たちにこの部屋を貸してすぐ別のところにお泊まりに行かれたので、部屋で共に過ごしてはいません、とミサカは上条さんの恋人に対する弁明としてベストなものを探しつつお答えします」
「その事情というのは、何ですの?」
「それをお教えすることはできません、とミサカは事実の開示を拒否します」
「秘密にするのは、当麻さんと御坂さんがここから出ていったことと関係はありますの?」
「イエスでありノーでもあります。お二人が共に行動されていることと事情は起源を一にしますが、上条さんたちに指示されたから黙っているというわけではありません」
「……そもそも貴女は誰ですの?」
「その質問にもお答えできません。上条さんにいただいた愛称ならばお答えできますが」
御坂妹と申します、と無表情に答えながら、その少女はまたも黙秘した。
光子はそれを冷ややかに見つめながら、じっと考えを巡らす。
「アルミで部屋をシールしたのは、どうして? ……電磁波対策ですの?」
「ええ」
「どうしてこんなことを?」
「お答えできません。ただ、私はずっとここの中から出ないように言いつけられています、とミサカはできる限りの事情をお伝えします」
扇子を開いては閉じ、いつもの優雅さを欠いたまま、光子は御坂妹を睨みつける。
容姿は、あまりに美琴に似すぎている。学園都市の科学技術は底なしだから、全くの他人でも美琴そっくりに返送できないとは言い切れない。だけど、きっと彼女は、そういう存在じゃない。
「どうあっても、何も仰らない気?」
「はい。申し訳ありませんが」
「痛い思いをしても?」
「拷問という苦痛を与えるのが目的の行いに対し、どの程度までこのミサカが耐えられるかは未確認です。ですが、死ぬほど痛い、という程度でしたら別段どうということもありません、とミサカは否定的な回答を行います」
「……」
もちろん、光子には苦痛を与えて情報を吐かせる術など持ち合わせていない。
虚勢を張っているだけかもしれないが、それ以上確かめることもできないのは事実だった。
「教える気のない人に何を聞いても無駄かもしれませんけれど」
ポケットから携帯を取り出す。同時に一面銀世界のこの部屋では、まともに電波が入らないだろうことに気づく。
「御坂さんと当麻さんは、危険なところに向かっていますの?」
「……答えることは、できません」
「そう。意外と、わかりやすい人ね、貴女は」
御坂妹の逡巡で、感づいてしまった。また、当麻は行ってしまったのだ。
光子と一緒にインデックスを助けたように。今回は、自分じゃなくて、美琴が隣にいるみたいだけれど。
それ自体は、すごく嫌だ。どうして自分に声をかけなかったのか。それどころか、秘密にしようとしたのか。
問い詰めて、たくさん怒らないと気が済まない。
光子は御坂妹に背を向けた。
室内では電波が届かない以上、電話をするには外に出ないといけない。そしてこの少女は室内に居なければならない。
まったく、どうして恋人の家にこの少女を残して、自分が出ていかないといけないのか。
「どうされるのですか、とミサカは問いかけます」
「貴女は教えてくれないみたいですから、他の人に聞くんですわ。もう一度確認しますけれど、ここにいるのは当麻さんたちの提案ですのね?」
「はい」
なら、言うことはない。こんな異様な光景を作り出してまで、当麻たちはこの少女をここに留めることに決めたのだ。その判断を覆す理由は光子にはない。
「そう。わかりました。私が言うのもなんですが、それなら中にいらっしゃればいいわ」
「あなたは?」
「決まっています。当麻さんが誰かのために動くなら、私もそれに付き従うだけ」
返事を聞かず、光子は携帯を手に、御坂妹の残るその部屋を後にした。
足取りは、この部屋にたどり着いた時の迷いに満ちたものとは、もう違っていた。
おかしなことだと思う。常盤台のエリートと言ったって、自分はただの女子中学生。
なのに、当麻がいるというだけで、危険な目に合いに行くのを、ためらわない自分がいるのを、光子は自覚していた。
「当麻さんは、どうしてこんな莫迦ばっかりなさるのかしら」
その愚痴っぽい独り言に、安堵が篭っていたのは否定できないが。
毅然としたストライドで、光子は一歩を踏み出した。




パタリと閉じた、扉の向こうを御坂妹はじっと見つめる。
「……」
一瞬だけ開いた、わずかな隙間。そこから御坂妹は妹達の思考の海、ミサカネットワークにアクセスしていた。
得られたのは断片的な情報のみ。だが、どうやら一人、美琴の知り合いに拘束された個体がいるらしい。
白井黒子、初春飾利、佐天涙子、春上衿衣。彼女らの誰かは婚后というあの少女と知り合いだろう。特に白井は同じ常盤台の生徒なのだ。
取り残された室内で、御坂妹は悟っていた。直感なんてものを信じるには、あまりに自分達は非人間的な存在なのに。
婚后という名のあの女性は、きっと真実を手にするだろう。そして、危険を承知で、恋人のところへ向かうだろう。
瞳の輝きが、当麻にそっくりだったから。
そして自分は、それを止められない。当麻を止めずに、光子を止める理由がないから。
「戸惑いを感じて停滞したままで、それでいいのでしょうか」
そう、禍々しいほどに銀色の世界で、ひとり呟く。
ネットワークからも、人からも断絶した彼女に、答えは出なかった。



[19764] ep.4_Sisters 07: 同能力者対決
Name: nubewo◆7cd982ae ID:cb4a3376
Date: 2014/02/15 15:00

とある製薬会社の研究所。
佐天と白井が相対している敵の片方、中学生か高校生と思しき金髪の少女が地面に向けて何かを落とした。
不意を打たれ、佐天はとっさに心のギアを入れ替えることもできず、ただ落下する様をを見つめた。
ちょっと太めの万年筆みたいなもの。先端はペンじゃなくて、少し鉤状に曲げられた金属針が取り付けられている。
重心がその鉤の近くにあるのだろう。地面に針を向けて、まっすぐと落下した。
その落下予定地点には、あとから誰かが貼ったのであろう、テープのようなものが一直線に走っていた。
そしてその先にはかわいらしい人形が場違いに鎮座している。そのミスマッチさが、脳裏に警鐘を鳴らした。
どんな手かは知らないが、これはあの金髪の少女からの、攻撃の始まりだ。
ペン状の何かがその先端をテープに触れさせる。
バシュッという音とともに、テープ、否、導火線が火花を立てて弾け、人間の全速力よりずっと速いスピードで火種を人形へと運んだ。
「――っ!」
「佐天さん!」
花火に似た導火線の燃える音とは違う、けたたましい音が佐天の耳に届いた、その瞬間。

――バ、アァァァァァァン!

佐天の目が一瞬にして違う風景を映し出す。すぐそばで聞こえるはずの爆音は離れて聞こえた。
それは今日一日で慣れ親しんだ感覚だった。おそらく、白井が助けてくれたのだろう。
「テレポーター? やっぱ、聞いてない相手だよね」
「そのようですね。イレギュラーな事態なのか、上が超怠慢だったのか、どちらか知りませんが」
呑気ともとれるような声色でそう話し合う敵を横目に、佐天は爆心地を観察する。
置かれていたはずの人形が跡形もなく消えて、黒い焦げが辺りを彩っていた。
もしあそこにとどまっていたら、きっと無事では済まなかっただろう。火傷程度で済めば幸運なくらいだ。
つまりは、それくらいの非道、相手は平気でやるということだ。
「佐天さん! 相手にしていては埒があきませんわ。先へ進みましょう!」
「はい!」
この二人をゆっくり倒してから先に進む、というのは得策じゃない。
佐天たちは、美琴に合流するのが目的なのだ。
美琴に、人として越えてはならない一線を越えさせないために。
そして美琴一人では見つけられないような、より良い答えをみんなで探すために。
そのためには、この二人に構ったところで時間を浪費するだけだ。
白井があたりを見渡し、先へと進むための経路を導き出す。
爆発がその場を襲う直前、再び二人は姿をかき消した。

爆炎渦巻くそこを、フレンダは冷静に見つめ結果を確認する。
体が吹き飛んでバラバラになるほどの爆薬ではないから、当たっていれば結果は見ればわかる。
とはいえ、あまり期待はしていなかった。相手の能力は、こういう設置型爆弾に対してアドバンテージがあるからだ。
「フレンダ。足止めを。近接戦闘に持ち込んでくれればこちらで超撃破します」
「てか絹旗じゃテレポーターの相手は無理だよ、ねっ!」
文字通り忽然と二人が消えてしまったのを確認し、フレンダはとんとんと重心を確認するようにペン型の着火装置を弄ぶ。そして手近な所以外にもあちこち火種を撒いた。
フレンダは仕込んだトラップで相手と戦うスタイルを得意としている。それは基本的には、テレポーターと相性が悪い。
相手がどこに現れたかを視認してから導火線に着火する限り、後手しか取れないからだ。
だがそれに嘆くでもなく、不敵な笑みをフレンダは浮かべる。
交通の便のよい平地が限られた学園都市特有の、ビル風に高く積み上がった実験用プラント。さながら剥き出しのコンクリートと鉄骨、ダクトがなすジャングルを、絹旗とフレンダは自分の庭のように駆け巡った。

爆音と爆風があちこちを赤く染める世界。そんなものを一秒程度のコマ送りで変化させながら、白井は施設内を突き進む。
「全く、趣味の悪い仕掛けですこと!」
白井が毒づきながら眺めるその先では、火花が爆弾へと届こうとしているところだった。
その設置型の罠という趣味の悪さも不愉快だが、それだけではない。
爆弾がどれもこれも、ファンシーなぬいぐるみに仕込まれているのだ。
幼児向けにデフォルメされたキリンやパンダのような動物や、毛糸で編んだ洋装の少女の人形。
年は自分よりは上であろうあの少女の趣味としてもどうかと思うし、さらにそこに爆弾を仕込むという感覚がどうにも悪趣味すぎる。
「白井さん! 爆発来ます!」
佐天の声と同時くらい。ぬいぐるみが最期を迎えるより先に数十メートル先へと瞬間移動した。
「テレポート、まだ続けられますか?」
「大丈夫ですわ。ただペースが」
白井の『飛距離』は最大で80メートル程度。安定的に繰り返せる距離でも50メートル程度はある。
だがそのポテンシャルを発揮できず、短い転移が続いていた。見通しが効かないからだ。
ゆっくりと次のポイントをさがす暇が与えられないせいでもある。
再び視界が暗転し、そして。
「――くっ!」
着地の瞬間に、爆発が重なった。
「任せて!」
テレポートとテレポートの間にある、白井の息継ぎの瞬間。それが佐天の働き時だ。
手にした渦を、爆弾に向けて叩きつける。
そして空気を震わせ迫り来る爆風を、佐天の圧縮空気が押し返す。
そうして被害はもとより、視界の悪化を最小限に抑え、白井の能力をサポートする。
「次、行きますわよ」
「はい!」
白井は佐天のそれに驚きも褒めもせず、テレポートを発動した。
それは、佐天を自分の背中を預けられる能力者として、白井が認めた証だった。

苦虫を噛み潰したような顔で、フレンダは敵を見つめる。
「ねーちょっと絹旗、今のあれ、電撃使い<エレクトロマスター>じゃなかったよね?」
「ええ。使われたのは高圧縮された空気。素直に考えれば空力使い<エアロハンド>でしょうか」
「結局事前にもらってた情報は、ひとつも合ってない訳?」
「そのようですね。あの女には超失望させられました」
彼女たち『アイテム』を取り仕切る上役の女性から聞いていた話では、高位の電撃使いの単独犯、とのことだったのだ。それがどうだ。蓋を開けてみれば、相手はどう見積もってもレベル4はあるテレポーターと、レベル3はあるエアロハンド。
「乗っ取られ対策でわざわざリモコン式爆弾を避けたのに、意味なかったじゃない!」
「で、どうです。超仕留められそうですか」
いつもどおりぶーぶーと不平を垂れるフレンダに取り合わず、絹旗は必要なことだけを淡々と確認する。
「大丈夫、ちゃんと追い込んでる。もう二三手あれば狩れる」
「そうですか。ですがフレンダ」
「何?」
無表情な絹旗の声に、わずかに咎めるような響きを感じて、フレンダは振り返った。
「あちらの反撃を超計算に入れての話ですか?」
フレンダには見えなかった。合成火薬の炸裂ほどではなくとも、優に人間を吹っ飛ばせるレベルの空気弾が、こちらに向かって降ってきていることが。

「白井さん、次のターン、二秒ください」
「? 何を――」
「逃げてるだけじゃジリ貧ですよ!」
その言葉の意味を理解して、白井はテレポートを発動する。
たどり着いた先はまだ破壊が及んでいなかった。二秒の安全は確保できそうだった。
「――ふっっ!」
虚空に向かって拳を握り締め、佐天が空気を手元に引っ張る。
ボッ、という鈍い音をたてて空気が歪み、渦を鈴なりに作り出す。
その10発程度の渦を、佐天は敵の二人に向かって投げつけた。
「オッケーです!」
渦が届いたその瞬間、佐天がそう叫ぶのを聞いて、白井は再び飛んだ。
互換から入力される情報の不連続な変化。そして、敵のいる場所から、爆弾の爆発とは異なる破裂音がいくつも響いた。
「やりましたの?!」
爆風で霞んでよく見えない。首尾を知りたくて佐天に尋ねる。
「……」
「佐天さん?」
佐天は、喜びとも落胆とも違う、厳しい顔をしていた。
「防がれました」
「防がれた? ……それは、能力で?」
「はい。多分、体にまとった、空気の壁で」
硬い声で、佐天が肯定した。
これまで手をだしてこなかったパーカーを着た少女が、爆弾魔のメルヘン女のほうの前方に立ち、爆風をブロックしていた。
それはつまり、相手の能力もまた、空力使いということだろう。
同能力者の対決は、互いの手が読みやすいだけに創意工夫と経験がものを言う。
それを薄々感じ取って、佐天は危機感を覚えていた。

爆風の切れ目で、絹旗は渦巻少女と目線が合ったことに気がついた。
「うー、絹旗、ありがと」
パンパンとスカートを払い、隣にいるフレンダが尻餅を付いた体を素早く起こした。
その間にも導火線の準備や、施設の破壊は忘れてはいないようだった。
「私の『窒素装甲<オフェンスアーマー>』と相性のいい能力で助かりました。やはり空力使い、渦を操る能力のようですね。フレンダ、詰みまで後何手ですか」
「絹旗が防いでくれるなら変わらないよ」
絹旗はフレンダの答えにわずかに首をかしげ、疑念を伝える。
相手のあの渦があれば、爆発は防がれてしまうだろう。だから止めようがないのではないか、と。
「こういうタイミングでね、行けるって確信した能力者の裏を書くのが最っ高に快感なわけよ」
フレンダは明確には答えず、ただ笑みを浮かべて絹旗を見つめ返すだけだった。

立体的な工場内部をかけ登り、白井と佐天は高さにして5階程度のところまでたどり着いていた。
「佐天さん、多分、もう少しですわ」
中央管制室は、そう遠くないところに来ている。佐天たちが遭遇した妹達のひとりの言によると、施設はどれも中央部を電気的に破壊することで無力化されているらしい。だから、美琴がいるならきっとそこだろう。
「いい加減、しつこいっ!」
繰り返される爆撃にそう文句をつけながら、佐天は渦を投げつける。
方向だとか、開放のタイミングを変えてはいるのだが、爆弾を操作している方には中々届かない。
佐天の渦は、空気であるが故に当然無色透明だ。それは敵に渦の場所を悟られないための利点なのだが、あいにくと空気の流れを読める空力使いが相手ではまるで意味をなさない。
一つ一つ、パーカーの少女に被害を食い止められている。
「佐天さん、手を!」
そして、焦燥を晴らすことができないまま、白井のテレポートが完了した瞬間。

「チェックメーイト」

爆発は起こらず、金髪の少女の楽しげな声が、二人の耳に届いた。
ただ導火線が走り抜ける音だけが、佐天たちの耳を通り抜けていく。
――――直後、世界が揺らいだ。
「えっ?」
突然に地面が自分たちを支えることをやめた。
綺麗にナイフで切ったみたいに、自分たちの立っていた鉄骨の階段がバラバラに壊れ、佐天たちと共に落下を始めたのだった。

「ただの導火線じゃなくて、本来これはドアや壁を焼き切るツールだったって訳よ」

そんな道具を、ただの導火線かのように使うため、フレンダはこれまで厚い壁に走らせたものだけに点火してきたのだ。
それは、敵を陥れるためのひとつの布石だった。佐天たちが厚みの薄い簡易の鉄階段に降り立つこの瞬間を、フレンダはずっと待っていたのだった。
「白井さん!」
「こんなものっ!」
どうってことはない。白井の能力に、地面のあるなしなんて関係ない。

「これで終わりと思った訳? 視線を誘導したかっただけだよん」

白井たちが壊れやすい通路を使ったのはこれが初めてではない。今ここを狙ったのには、ちゃんと理由、というか続きがあるからだ。ゴールが近く、また地面までが派手に高くなってきたこのタイミングでなら、施設構造を知るフレンダにとって、次に白井が飛ぶ場所を読むのはわけもない。
だから、次の目標をテレポーターが睨みつけるタイミングに合わせて、ちゃんとスタングレネードを投げてあるのだった。
かぶったベレー帽で光を防ぐ準備をしたのと同時に、カッと、強い閃光が周囲を満たした。
「あっ?!」
白井は唐突な光に、視界を完全に奪われた。そしてそれは、このタイミングでは致命的なダメージ。
テレポーターにとって、空間把握能力は生命線だ。それは音や匂い、直前までに自分が感じていた速度とか速度などでも限定的には察せるが、実際に「見える」ことに比べればはるかに劣る。
まして、床が崩落中のこの瞬間に、絶対に手放してはいけないものだった。
あっけなく白井の空間認識は混乱をきたす。演算式に代入すべき座標の情報が、11次元どころか3次元のレベルで完全にぐちゃぐちゃになった。
白井は自分の顔が強ばったのを自覚した。目の見えない状態で、地上5階の高さで自由落下状態になるというのは、飛び慣れている白井にとっても恐怖を誘うものだ。
「く……っ!」
能力が、まとまらない。焦りが焦りを呼び、どうしようもな空回る。
もはや自分にはどうもならない、そう白井は思い始めていた。
とはいえ安易な絶望は白井の好みではない。自分の能力に頼りすぎたテレポーターが、哀れ一人で墜落死、とならないことを、白井は予想していた。。
「白井さんっ!」
隣に響く力強い声。自分が心にこの方だけと決めた相方ではないが、信頼できる仲間がいるのだ。
佐天が、白井の胴を抱え込むように抱きしめ、足元に作った渦をぐっと踏み込んだ。
線の細い白井だから、自分より重いことはあるまい。佐天の心配は自分の渦の威力ではなく、踏み込む足の負担の方だった。
自分の体がいつもの倍くらいの慣性を持っているせいで、高速移動に体が軋む。それに必死に耐えながら、佐天はすぐ階下の足場に着地した。こちらの床は、破壊できないくらい頑丈そうだ。
そこにきちんと足を下ろし、ようやくうっすらと視覚を取り戻しつつある白井を立たせてやった。
これでようやく仕切り直しができる、と佐天が軽く息をついた。地に足の付く安心は、空力使いにとっても大きいものだ。
だがそれは、この場においては油断でしかない。

「ほい、チェックメイト。ちゃんと言ってあげたのに」

そんな余裕のある声に、佐天は顔を上げた。
少し離れたところで、髪を弄びながらニヤリと笑みを浮かべるフレンダの隣に、絹旗がいなかった。
そして自分たちの背後で、空気が不自然に『固まる』のを佐天の感覚が感じ取った。
「くっ……はああぁっ!!!!」
理屈より先に、手のひらが渦を集めた。
パーカーの少女、絹旗が音も無く忍び寄り、細腕を白井に向かって振りかぶった。
依然として危機に気づかない白井の頬の間に拳が届くより前に、佐天は渦を、敵対する少女にぶつけた。

――刹那。佐天の渦は、絹旗が纏った『窒素装甲』に傷一つ付けられず、ただ白井を、吹き飛ばした。

「あ……か、はっ」
視界を奪われた上での完全な不意打ちに、白井はなすすべなく地面に叩きつけられる。そして2メートルほど転がった。
突然の事態に、再び頭を混乱が占める。今自分を吹き飛ばしたのは、佐天の渦ではなかったか?
「ひっどーい。お仲間だけ痛そう」
「正しい判断ですよ。まだ、痛みを感じられるんですから」
そんな声が、すぐ近くから聞こえてようやく白井は理解できた。
おそらく、佐天にも、こんな乱暴な方法で自分を吹き飛ばすしか、できなかったのだ。
「その威力と速さならレベル3、いや4でしょうか。いずれにせよ相性が悪かったですね」
その言葉を、佐天は否定できそうもなかった。
佐天は集めた渦の威力で相手を吹き飛ばすことしかできない。空気を固める能力を持つ相手に対して、打つ手がなかった。
「さて、じゃあ詰みまで行ったから、ちゃんと狩っちゃおう。絹旗、ギャラは半分こでいい? さくっともらって遊びに行こうって訳よ」
「――あなたたちは」
「ん?」
その、軽薄なフレンダの声に、佐天はカチンとなった。
「どうしてこんなことをするの?」
白井を庇うように、絹旗に立ちはだかる。そして少し離れたフレンダをキッと睨みつけた。
「自分が、どんなものに協力してるかわかってるの!?、学園都市の生徒としておかしいって思わないの!?」
こんなふうに、美琴を傷つけた連中に従い、こんなふうに、白井を傷つけて。
そんな佐天の義憤に対し、フレンダはめんどくさそうに手を振った。
「あーいいからいいから。雇い主の目的とか、消す相手が善人か悪人かとか、そいつが歩んできた人生とか、結局んなもんはどーでもいい訳よ」
「そ、んなっ……」
あっけらかんとしたフレンダの態度に、佐天が言葉を詰まらせる。その様子を馬鹿にするように笑いながら、フレンダは最後の仕掛けに取り掛かった。
絹旗に任せても取りこぼすことはないだろうが、相手と能力が近い分、仕留めるまでにはまた手数がかかるだろう。それよりは自分のほうが早いはずだ。
左手のペン型着火器と、右手のぬいぐるみを、フレンダは無造作に投げつけた。
テレポーターは無力化済み。空力使いは、二人を抱えてこの数の爆弾からは逃げ切れない。
これで、終わりだった。
「恨みつらみは別のところでゆっくりやってね。それじゃ」
絹旗が軽く距離を取り、そして、閃光と爆音が、佐天と白井を包み込んだ。
結果をまともに確かめることもせず、フレンダは爆風に背を向けた。
「一丁上がりー、っと。さぁ何買おうかな」
脳裏にあれこれ欲しいとおもった商品を並べながら、出口までの道を見通す。
ずいぶん壊したから、帰りも道をよく考えないといけない。
最悪、絹旗におぶってもらえば少々危険な道でも大丈夫だが。
そこまで考えて、ふと、違和感に気づいた。
仕込んだ爆弾のわりに、音と熱が、少ないような?
投げつけた爆弾は威力が飽和するくらいあったはずだ。だけど、どうも物足りない感じがする。
だが、足取りを変えることはなかった。相手には、防ぐ手段がないのだ。死んだに決まっている。
そう、思ったところで。
「フレンダ!」
離れたところから、絹旗が鋭い声で注意を促した。
反射的に目をやると、赤く光った球体が、自分に迫ってくるのが後ろ目で見えた。
本能的な恐怖を感じ、戦場に慣れた反射神経があっという間に身を地面に投げ出し、伏せの体勢を作らせた。
直後。

――フレンダの爆弾そのままの音と熱が、うずくまったフレンダの体を襲った。

「っつつ、あ――。い、一体何」
チリチリと皮膚が焼けているような感覚。熱波に髪が傷んでやしないだろうなと考えつつ、とりあえず大きな外傷はないことをフレンダは確認した。
「今まではタイミングがなかったけど」
煙が晴れた。もっとたくさんの爆弾を発動させたはずだから、こんなに早く見通せるはずはなかったのに。
その先には、自分たちに向かって立ちはだかる空力使いの少女と、回復してきたのか、体を起こしつつあるテレポーターの少女がいた。
「こんなチャチな爆弾を止めるくらい、別に難しくない」
そう言い切る佐天を見て、フレンダは、いたずらに爆弾を投げつけたのが、失策だったことを悟った。
佐天の周りには、爆風を『食った』と思わしき赤熱する渦が、いくつも宙に浮いていた。





お洒落とは程遠いジャージ着の少女が、粉薬を手の甲に乗せ、唇をあてて舐めとった。
それとほぼ同時に、年上の女の方が手をかざし、当麻と美琴を睥睨する。
「さ、逃げられると仕事にならないし。――灰も残さずプラズマに変えてあげる」
その声が響いてすぐ、能力が発動する直前に美琴は何かを感じ取って、当麻を突き飛ばした。
「――っぶない!」
「おわっ!」
直後、二人が固まっていた当たりを、直径50センチはありそうな極太のビームが貫いた。
周りの空気を熱しているからか、ボウ、と鈍い音を立てながらそれは二人のそばを通り過ぎ、背後にあった壁にビームの太さそのままの大穴をぶち開けた。
その一撃だけで、美琴を最大限に警戒させるに十分だった。
「ずいぶん派手にやる気なのね」
「派手? 意外ね、こんな程度でそう思うのかしら?」
再び女が手をかざす。今度は、当麻の方も何が起こるかを理解したようだった。
二人してさっと体をひねり、ビームを回避する。馬鹿正直な照準のおかげで、ビームはあっさりと二人の元の位置を素通りした。
普通、これだけ太いビームというのは収束が悪く、エネルギー密度が低いことを意味するものだが、このビームはそんなやさしいものではない。十分な厚みのある施設の壁に、平気で穴を開けるのだ。
「気を抜くんじゃないわよ!」
美琴はそんな当麻に、鋭く注意を促す。この女は、今のところは甘い攻撃しかしていない。おそらく奇襲で勝つ気はない、ということなのだろう。
だが、殺意はひしひしと伝わってくる。それは攻撃的な意思というよりは、殺害という行為への抵抗のなさだった。
だったら、こちらも加減なんて必要ない。どうせ死なせるくらいのつもりで攻撃しないと、相手のリアクションを稼ぐことすらままならないだろう。
「――ふっ!」
手近にあった金属製のタンク数台を、美琴は電磁場を操作して引き抜いた。中身もあるのかそれなりに重たい。
一人のジャージの少女の方に何か指示を飛ばすその横顔に、美琴はタンクを投げつけた。
麦野は焦るでもなく、鋭い放物線を描いて飛んでくるタンクを一瞥する。
そしておもむろに手をかざすと、たったそれだけで、タンクは相手に届く前にボロボロと崩れ、消滅した。
さながら、何らかのバリアでも貼っているかのよう。おそらくは、先程のビームと根は同じ。
「ちょっと。まさか今のが『超電磁砲<レールガン>』だなんて言わないわよね?」
「当たり前でしょ」
挑発というよりは純粋な落胆すら感じられるその響きに、美琴は端的に事実を返す。今のは電磁場を感覚的に変化させ、手の延長みたいにして投げただけだ。簡単な代わりに、レールガンのようにプロジェクタイルを音速まで加速するのは到底不可能。
とはいえ手数を簡単に増やせる点では、レールガンより優れているところもある。
美琴は10ほど手近な金属物をかき集め、四方から再び、敵の女二人に投げつけた。
「だからヌルいって言ってるのがわからない?」
美琴のそれが近づくより前に、麦野はビームを放ち、一つ一つを迎撃する。
その過剰な破壊力は、金属物をあっさり貫通した上で、美琴に襲いかかった。
直前。美琴が、すぐそばのパイプを引きちぎり、目の前にかざす。
――ボワァァン!と音を立てて、パイプが爆発し、もうもうと白煙が立ち込めた。
すぐに消えていくそれは、明らかに水蒸気のもの。冷却水をビームにぶつけたということだろう。
その意味を、麦野は咄嗟に考える。これはもう一人の男の方の身を隠すための方策か、それとも――
ハッと、麦野は上を見上げた。そこには、壁にくっつきこちらを見下ろす、美琴の姿。
「きついのが欲しいってんなら、いくらでもくれてやるわよ」
そう言い放つ美琴の額の先で、パリッと電界がはじけた。
麦野に向かってまっすぐ、室内で、人工の稲妻が降りおろされる。
死にはすまい。だが、ギリギリの威力まで強くした一撃だ。
美琴の能力によってあっさりと絶縁を破壊された空気が、不自然なほどまっすぐに、雷を麦野へと届ける。
その先端が、麦野に触れそうになった刹那。
「バーカ」
まるで恐れるように、麦野の体を避けて地面に墜落した。
「なっ」
かわした?!と美琴は愕然となる。強制的に曲げたらしかった。レベル5の、御坂美琴が操る電撃を。
もとより低レベルの能力者の訳がないとは分かっていたが、それにしても、これは。
美琴は向かってくるビームを避けるため、寄り添った壁を蹴り飛ばし宙に身を投げ出しながら、驚きを隠せずにいた。
「飛んじゃってどうするの。狙い目だけど?」
「御坂っ!」
小馬鹿にしたような麦野の言葉にも、慌てた当麻の声にも取り合わない。
何の取っ手もない空中で電気力線を束ねて、曲芸のように空中で軌道をねじ曲げる。ビームが美琴の傍をかすめていった。
電磁場で大きなものを引き寄せられるのと逆に、自分を壁に対して引き寄せることなんて簡単なことだ。
身をひねり、地面に着地する姿勢を整えながら考える。どうも、敵は一発の攻撃力は大きいが、同時照準の数は多くない。
構造物の投擲も雷撃も防がれていて打開策こそ見つかっていないが、それはあちらも同じ。
むしろ美琴が心配なのは、当麻の方だった。
わずかな時間の隙間に、麦野が当麻を、見つめた。
「っ! 何ぼさっとしてんのよ!」
はっきり言って、当麻は足手まといだ。万が一狙われたら、美琴がカバーするのは難しい
慌てて、麦野の照準が当麻に向かないよう、天井から鉄パイプを投擲する。
だがそんなもの、麦野にとっては防ぐことなど造作もない。お座なりな美琴の攻撃に、むしろ麦野は興ざめしていた。
「彼氏が殺されちゃうかも、なんてビビりはいらねェんだよ。人質とって勝ったなんて、後でイチャモンつけられたら面白くねェしな」
舌打ちをして、麦野は当麻に視線を移す。
「手を出せば容赦なく殺す。余波で死んでも文句は聞かない。嫌なら逃げ回ってなさい」
「言われてはいそうですかって聞けるかよ」
「……アンタ。一人で先行って」
「え?」
両者の攻撃の手が、止まった。そして美琴がストンと当麻の隣に降りてきた。
「ここで足止め食らっていいことなんかない。一対一なら、倒してからって手もあるけど」
もう一人の能力者が、まだ一切アクションを起こしていない。ぼうっとして人畜無害そうな見た目のくせに、美琴はどこか不気味さすら感じていた。
「私は別ルートから行くから。そしたら、とりあえずアンタが襲われることはないでしょ」
「けど、それじゃお前が」
「あのオバサンの狙いは私だから、どのみち構ってやんないといけないわよ」
そんな打ち合わせを内緒にするどころか、美琴は相手に聞こえるような声で言ってやった。
「余計な心配すんじゃないわよ。アレが第何位かまでは知らないけど、どうせ私よりは下なんだから」
美琴は、この女が自分と同じ七人のうちの一人だと、ほぼ確信していた。
これまでのこの女の口ぶり、そしてレベル4の範疇に収まらないだけの能力の規模から考えた、結論だった。
そして、見え見えの挑発をしてやった美琴の言葉で、ぶちっと、相手の女――麦野の中で何かが切れる音がした。
猪突猛進するほどまでに冷静さを失ったりはしてくれなかったようだが、これで敵の狙いはこちらに絞られるだろう。
「序列を決めてんのは能力研究の応用がもたらす利益の大きさだろうが。そりゃあ負けるさ。こちとら二万人もクローン作ってもらえるほど高尚な能力じゃねェからな」
心をえぐる言葉。それに、美琴は取り合わなかった。もう、できるだけの後悔はした。あとはただ、行動するしかないのだ。
「……」
「電撃使いってのは、なんでも出来る便利な能力さ。テメェは一番おりこうさんなんだろうが、たかが『超電磁砲<レールガン>』で、あたしの『原子崩し<メルトダウナー>』に勝てるなんて夢は見ねェこったな」
そんな口上を言い切ると、ゆらりと、麦野が動いた。
「みさ――」
「行きなさい!」
美琴は鋭く当麻にそう叫び、今にも動こうとする麦野を油断なく見つめた。
そして一瞬後、当麻が自ら走り出すまでもなく、雷撃と光撃の乱舞が凄絶に始まった。




柔らかなソファに座り、背後で置時計の秒針が立てる音を数え初めて300度目。
ちょうど五分を告げたところで、そっと布束は腰を上げた。
美琴に手渡され、頭に叩き込んでおいた見取り図を頼りに進み、布束は一人、妹達の脳へと知識をインストールための『学習装置<テスタメント>』の管制室にたどり着いていた。
そっと、ポケットの中身を確かめる。
ひとつは、これから使うもの。あるデータを保存した、メモリディスク。
もうひとつはできれば使いたくない。非力な自分が抑止力を得るための、野蛮な武器。
どちらも問題なく自分の手元にあることを確認して、布束はメモリの方をそっと抜き出した。
この『学習装置』の生みの親たる布束だ。目の前に存在する大型コンソールの持つ機能はほぼ理解している。
操作に不安はない。物理的にここまでに厳重なセキュリティを敷いている分、この装置の保護は甘かった。
システム作成者としての上位権限をそのまま使って、布束はシステムにアクセスする。この瞬間をもって、布束は学園都市のプロジェクトに抗う、犯罪者となった。
ただ。
――これは本来、私たちが負うべき罪。
美琴はきっと、そう遠くないこの施設のどこかで、戦っているのだろう。それがなければ、こんなにスムーズにここまでたどり着けはしなかったはずだ。
だけど、本当はそんなことを、彼女がする必要はなかったのだ。
待機時間に僅かな焦りを覚えつつ、美琴の顔を思い出す。自分達が作り出した妹達と同じ顔でいながら、布束ははっきりと妹達とは別の人間として美琴を捉えていた。
表情の数が、人としての躍動感が、妹達とは違うと思う。それが個性と呼べる差異なのか、それとも布束が作り上げた妹達の精神構造の不完全さなのか、布束には判断できなかった。
こんなことが起こってしまったことについて、美琴に罪はない。幼い頃に、卑しい大人の善意を信じて、彼女は遺伝子マップを提供しただけだから。
だから、彼女に罰を押し付けてはいけない。精算を彼女にさせてはならない。
そしてさらに、美琴に付き従う当麻のほうには、本当に罪がない。なにせ全く無関係な人間だったのだから。
なのにどうしてここにいるかというのは、はっきり言って不可解ですらあるけれど、美琴と、昨日知り合ったという妹達の一人を、不幸の谷底から救いたいという意思は、伝わってきた。
それが少し羨ましい。
今ここで、自分がヘマをして捕まったら、きっと自分もまた学園都市の暗部に囚われ、昏い人生を送ることになるだろう。
そうなったときに、自分をそこから救い出そうなどと想ってくれる人はいまい。
「……データのデコードは完了。あとは」
その内容を、たった今『学習装置』の中にいる、あの妹達の一人にインストールするだけ。
あとは彼女が覚醒しミサカネットワークに接続すれば、自動的にそのデータは、妹達の全員に広がるだろう。
その命令を布束はコンソールに入力する。既に彼女を使用者として受け入れているシステムは一切抵抗をすることなく、それに従った。
「これで、もう」
誰にも止められない。布束は心の中でそう呟いた。ミサカネットワーク内では、20000体の妹達が互いに同格の権限を持っている。一人が受諾した命令は全ての個体が受諾することになる、そういうネットワークなのだ。
少なくとも、布束が知るプロジェクトでは、そうなっていた。
けれど現れたのは、おざなりなアラーム音と、無情なエラーメッセージ。
「な、んで」
何がいけなかったのかと考えを巡らせるより先に、そのメッセージが原因をわざわざ教えてくれた。書かれていたのは、『上位個体20001号のものでないコード』という表示。
「上位個体、20001号……?」
そんなもの、聞いたことがない。このプロジェクトは、きっかり20000号で打ち止めではなかったのか?
あまりに上手くいきすぎた潜入と、それをあざ笑うかのような対照的な事態に、布束は呆然とする他なかった。


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