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[19752] 【実験・習作】読み専が書くローゼンメイデン二次創作【完結】
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/04 22:13
※ご注意
 本作の趣旨は「1日にどれだけ書けるか」の実験でした。

 SSのジャンルとしては【転生オリ主物】→【特定登場人物強化物】になるかと思います。
 なお、あまり見られないタイプですが、アニメのローゼンメイデンと漫画のローゼンメイデンのクロス物のような体裁となっております。

 なお、実験対象は本文内容ではなく、あくまで「1日でどれだけの分量書けるか」です。

 当初、9回の実験の結果、【転生オリ主物】では10kB/日程度書けました。
 以後、同じ話の続きで主役を交代し、人称を三人称に変更したらどう書けなくなるか(執筆速度が鈍るか)を検証しました。
 こちらは長くなりまして、合計230回の実験の結果、平均約12kB/日程度の執筆量となりました。
 これは元々三人称を私が書き慣れていること、長期間の執筆で慣れが生じたこと、文章を推敲したり校正する手間を省いたことなどにより、当初よりも文章量を増すことができたのではないかと考えます。
 実際内容だけを取り上げると、後者の方が一話あたりの内容は薄くなっております。

 よって、【一人称転生オリ主物】が書きやすいとまでは言い切れないものの、取り立てて書き難いとも言えない結果となりました。
 玉虫色の結論ですが、個人的にはどちらも誤差の範囲であり、【一人称転生オリ主物】であるから劇的に書きやすいということはない、ということが分かったことは収穫でした。


 以下本文は、1記事目が【転生オリ主物】の実験、
 2記事目が橋渡し的な部分
 3記事目以降が【特定人物強化物】という形になります。

 ※内容を読まれる方へのご注意:半端無く長く、完成度は低いです。
  暇つぶしと割りきって読める方にしかお勧め致しません。



☆ 2012.08.04 追記

7/18~8/1の間、Arcadia全体に繋がりにくい状況が続きました。
今後も類似のケースが起きないとも限りません。
今回の原因は複合的ということで、一般のアクセス過多だけが原因とは言えませんが
特に重くなったときにリロードを繰り返すことがサーバに負担を掛けてしまうことは間違いありません。

書庫代わりのブログに、本作のテキストを置いておりますので
今回のような場合、よろしければご利用ください。

 駄文墓場改1 でググっていただければ見つかります。


 2011.10/19
 あまりに長くなりまして、記事数が多くなりすぎたため、記事の統合を行いました。内容はほぼ変化ありません。

 2012.7/17
 本文完結いたしました。以後、メンテナンスと記事整理をする予定です。

 2012.08.02
 Arcadia復活、管理人様お疲れ様です。記事整理を致しました。

 2012.08.04
 サーバは安定動作しているようなので、トップのみ改稿。
 完結後の板移動が必要だと思い込んでおりましたが
 「チラシの裏について」を再読したところ、完結時の板移動については触れられていませんでした。
 特に板移動を勧められたこともありませんので、本作は趣旨が趣旨ですのでこのままチラシの裏に置いておこうと思います。

 ※ もし板移動(本作の場合、「その他」板)についてご意見がありましたら
   お手数ですが感想掲示板にその旨レス頂けると助かります。



[19752] 序章 転生
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2012/08/02 03:49
1

 確かその日は寒かったと思う。
 コートの襟を立てていたのは覚えている。髪が湿っていたような気もするから、雪だったのかもしれない。まあ今となってはどうでもいいことだ。
 帰宅途中だった俺は、交差点で信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始めた。そこに、信号無視の車が突っ込んできた。いや降雪時だったとすれば、ブレーキが間に合わずにオーバーランしてしまったのかもしれない。どちらにしろ今となっては確かめようもないし、結果も変わらない。
 横滑りするような車と、驚愕に目を見開いている運転手が俺の「前世」での最後の記憶だ。
 こちらの世界におぎゃあと生まれて思ったことは「ああ、生まれ変わりってあるんだなあ」という感慨だった。
 そこから十数年はある意味で忍耐の日々だった。詳しく書こうとすると愚痴の羅列になるので割愛するが、赤ん坊時代のままならない状態とか、小学校までの学校の授業の退屈さといったらなかった。
 三歳頃円形脱毛症になって親を大いにビビらせてしまったが、振り返ればあの頃が一番苦労していたような気もする。

 しかし、後知恵だからもうどうしようもないが、当時の俺に言ってやりたい、と二度目の中学生をやっている俺は思う。
 いっそ生まれ変わりを公言するか、秀才とかって触れ込みにして脳の柔らかいうちに余分に勉強やっとくべきだった。まあ俺の頭なんで早晩馬脚は現しただろうが、十年間ほどまともに勉強していたら末は学者先生とは行かないまでも今後の受験なんかで随分と楽ができたはずだ。
 実際のところは、元来騒がれるのが嫌いでなおかつ勉強嫌いの俺はひたすら「生まれ変わり」であることを隠し、退屈な時間をただただ惰眠やらなにやらに浪費してしまった。
 結果として、二度目だというのに俺はまたもや優秀な何かを発揮することもなくこの人生を過している。当然、進学関係については親やら担任の笑顔を見ることもほとんどない。
 宿題が必須なのは転生云々に関係ないが、予習復習も必要なのだ。一度通った道とはいえ、主観時間でもう三十年近く前になる中学校時代の勉強内容はかなりの部分が俺の鳥頭から抜け落ちていて、特に英語やら古典の文法関係はほとんどお天道様に返却済みだった。
「現実は散文的ってやつか……」
 最初の頃はバレて騒ぎになるのが厭で隠すのに苦労した生まれ変わり云々も、今となってはばらしてみたところでオカルト好きな連中の話題の種程度にしかなりそうもない。若しくは比類なき痛い子として匿名掲示板あたりで祭り上げられるだけだろう。
「歴史は何のために俺をこの世界に呼び込んだのか……」
 うろ覚えの半村良の某小説の台詞を呟いて、俺は机に突っ伏した。まあ気楽な学生生活を他人の二倍送れているからありがたいといえばありがたいわけだが、しかし。
「また病気が出た」
 いや、独り言だって。
「テストの点が悪かったからって、自分が異世界人って設定で言い訳するのはどうかと思う」
 はいはいそうですね。顔を机に付けたまま、俺は右手をひらひらと振ってみせた。
 最初にこの呟きを追及されたとき、咄嗟に邪気眼っぽい言い訳をしたのは拙かった。冷静に受け流しとけば変な口癖で済んだところだが、いまや変なやつという認識が広まりつつあるらしい。
「まあ次は本気出す」
「そうしてね」
 前の席から返って来た声は明らかに何の期待もしてなかった。
 この遣り取りもなにやら既に恒例になりつつあるな、と考えてから、ふとあることを思い出して俺は顔を上げた。
「そろそろ始めたほうがいいんじゃね?」
「……うん」
 前の席に座っていた柏葉巴は小さく頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
 柏葉は学級委員で、これから始まるホームルームでいくつかの連絡と評決の司会をすることになっている。整った顔立ちの美人なんだが若干物静か過ぎるのと、頼まれごとを断れない性格なのが災いして、どうも常に損をしているような気がしてならない。

 ……っと、今更そういう説明は要らないかもしれない。
 そう、ここは──某元首相も空港で読んでいたという噂のある、例の──ローゼンメイデンという漫画の世界、またはそれにごく近い世界なのだ。
 そして、今は本編開始前の状況。ここは主人公桜田ジュンの所属する一年三組の教室。原作で数回にわたって「厭な記憶」としてリフレインされる、彼が中学一年生の折の「桑田由奈嬢文化祭のプリンセスに選ばれること」の段というわけだ。
 もっとも、この段階では柏葉がクラスの面々に淡々と連絡を行うだけだ。この場で即何かが起きるわけではない。
 主人公桜田ジュンが不登校の原因となる「中学生の男子が描いたにしては本格的過ぎるプリンセス用のドレスのラフデザイン」を課題提出用のノートに思わず走り書きしてしまうのは今夜のこと。翌日うっかりそれを消し忘れたまま提出したことが全校集会でのカタストロフィに繋がるのだが、そこまではまだ数日はある勘定だ。
 とはいえ、既に俺という異分子がこの場に混じっているわけで、今後の出来事が漫画のまま進むとは限らない。絵を描き上げた桜田がハッと気付いて消しゴムでゴシゴシやってしまったり、そもそもノートでなくその辺のチラシの裏にでも描いてしまえばそこで終わりではある。
 腕を上に伸ばして大欠伸をしがてら桜田の席を見遣ると、眼鏡を掛けた中性的な顔立ちの少年はごく真面目に正面を向いていた。ふむ、まあ取り敢えずホームルームの内容を聞き漏らして例の絵を描かないとかいう事態にはならないらしい。

──さて、どうしたもんか。

 ローゼンメイデンでの大イベントの一つと言っても過言でない場面に刻一刻と近づいているのに、どうして俺が落ち着き払っているかって?
 それはぶっちゃけ、事態がどう転ぼうと中学生としての俺の生活にはさして影響がないからだ。
 ローゼンメイデンという作品(面倒なので以下「原作」と呼ぶことにする)は、恐らくどう展開してもドールたちとその媒介となった人々以外にほとんど影響が出ない話なのである。
 酷な言い方をしてしまえば、この後桜田が不登校になろうとなるまいと、ドールたちが血みどろの死闘を繰り広げようとまったり安穏と時を過そうと、同級生としての俺には殆ど関係ない。せいぜい「桜田君登校してね寄せ書き」を書いたり「同級生のみんなで桜田君のうちに説得に行ってみるイベント」が起きる可能性が出たりするかどうかの違いである。
(ちなみに、後者は原作ですら起きていない。桜田の家に連絡に行ったのは柏葉で、説得に行ったのは担任だった)
 そのうえ、これからの出来事が原作どおりに進むかどうかも分からない。俺が何もしなくてもイベントが起きない可能性さえあるのはさっき言ったとおりだ。
 そんなこんなで、俺としてはいまいち盛り上がりに欠けてしまうのである。

──ただ、まあ。

 それとは別の立場というのも当然ある。それは、曲がりなりにもこちらの世界で十数年という時間をかけて成長してきたゆえのしがらみというやつだ。

 欠伸をしながらそんなことを考えていると。
「──各学年から一人投票でプリンセスを選出するんですが……」
 お、きたな。
「一年はうちのクラスの桑田由奈さんに決まりました」
 原作どおりの柏葉の言葉に、まばらな拍手といくつかの賞賛の声があがった。斜め前の席に座った桑田は恥ずかしそうにありがとうを返している。
 桑田は可愛さと美人さがほどよく調和した女の子といっていいだろう。性格も穏やかで友人も多い。過度に嫉妬を買うこともなければ、このことで天狗になるようなこともあるまい。まあ、無難な人選と言えるのではないか。
「──文化委員会でデザインを募集していますので……」
 ちらりと振り返ってみると、桜田はぼんやりと桑田のほうに視線を向けていた。おそらく、頭の中ではそろそろドレスの形が出来始めているのだろう。いかにもそんな雰囲気だった。

 やれやれ、と俺は溜息をつく。結局、何もなければ筋書きはおおむね原作どおりに進むわけか。
 言い換えれば、桜田ジュンに厭な思い出を作らせるかどうかは俺の胸先三寸ということだ。
 俺がちょっかいを出さなければ、桜田は原作どおり桑田の衣装のラフスケッチを国語のノートに描き上げ、それを担任で国語教師の梅岡が発見して掲示板に貼り付け、さらに全校集会で名指しまでされて桜田は引きこもり一直線ということになるだろう。あまり後味のいい選択肢とは言えない。
 反面、引きこもり状態にならなければ、今後のストーリーは原作どおりに進まないはずだ。下手をすると(原作の設定にのっとるならば)もうローゼンメイデンはこの世界に現れないかもしれない。そうなってしまって、果たしていいものなのだろうか?
 正直なところどちらも御免蒙りたいのだが、上手いこと両立できる方法は思いつきそうもない。そして、どちらにしても俺の状況にはさして変化がおきるとは思えない。どうにも気の進まない二択問題ではある。


 翌朝の目覚めは最悪だった。何年かぶりに上司に仕事の失敗を責められる夢なんてものを見てしまった。それだけ自分の決定に自信がもてなかったのだろう。
 前夜寝る直前まで考えてみて、結局俺はちょっかいを出してみることに決めた。
 理由はいくつかある。
 まず、このまま進んだら間違いなく全校集会でゲロの臭いを嗅がされることになるということ。これは文句なしに厭だと言い切れる。それに、原作では詳らかに語られていないが、そういう事件が起きたらクラス全員、いや文化祭自体が微妙な雰囲気になってしまうのは間違いない。なにしろ全校生徒が一堂に会する場所でやらかしてしまうわけだから。
 二度目とはいえ、既にどっぷりとこちらの人生に漬かってしまっている俺としては、折角の文化祭が白けてしまうのは楽しいものではない。ならばその要因は取り去っておくべきだろう。
 次に、個人的な興味もある。外部から来た俺のような異分子が、いわばこの世界の歴史に働きかけるわけだ。その結果がどうなって行くのかというのは興味深い。バタフライ効果というやつが現出するのか、それとも歴史の修正力というやつが働くのか。
 まあ、原作でしばしば語られていた世界の分岐というやつが起きて、原作で出てきた「巻いた世界」「巻かなかった世界」以外の世界、というオチになっていくだけかもしれない。それはそれで楽しめそうな気もする。
 そして最後に、これが一番でかい理由になるだろう。
 桜田ジュンは一応単行本を全部買う程度にはファンだった漫画の主人公であり、なおかつ現在は俺のクラスメートでもある。
 俺という小人物は、そいつが公衆の面前でゲロを吐いた挙句不登校になってしまうのを知っていながらみすみす見逃して、後からああだこうだと悩まずにいられるほど神経が太くないのだ。

 さて、その実行の方法だが。

「よう、おはよ」
「おはよう……今日は早いんだね」
 君が始業三十分前に来るなんてなんかの前触れかな、と苦笑するクラスメートに、俺はにやりと笑って課題のノートを振って見せた。
「なあんだ。宿題やってなかったの」
「うむ」
 うむじゃないでしょ、と言いながらそいつは俺のノートを覗き込み、眉をしかめた。
「なにこれ……?」
「すげーだろ」
 俺は胸を張ってみせた。課題ノートの1ページ丸まる使って、原付バイクのチューニングポイント……排気ポートを何ミリ削るとか、キャブレターのセッティングはどうとかびっしり書き込んである。
 当然、普通の中学生が覗き込んだところで、何がなにやら理解できないだろう。
「昨日の晩、就寝時間を削って考えた」
 それは大袈裟だが、それなりに時間は掛っている。キャブの断面図を描いていたらつい懐かしくなってしまって、課題を最後までやる時間がなくなってしまったのは事実だ。
「いや、そうじゃなくてさ。これ課題ノートでしょ。こんな落書きして」
「アイデアが浮かんだら即書きなぐる。これがいい物を作る鉄則らしい」
「いやでもさ、提出物に宿題の代わりに落書きしてたなんて、さすがの梅岡先生でも怒ると思うよ」
「だから、今宿題もやってるって」
「むちゃくちゃだよー」
 そんなやりとりをしているうちに、次第に人が増えてきた。そのうちの何人かは俺たちの遣り取りに気付いて、俺の机を覗き込んで行ったりする。
 最初の奴と問答をしながら課題の残りをやっつけ、よっしゃと言いながら顔を上げると、ちょうど数人のクラスメートがこちらを覗き込んだところだった。
 その中に桜田の顔があることを確認して、俺はガッツポーズを取った。
「どうだ、始業前に終わったぜ」
「だからー、落書きが問題なんだってば」
 すかさず最初の奴が言う。ナイスだぜ相棒。
「んー」
 俺はきょろきょろと周りを見回す振りをして、桜田の顔を窺った。まだこちらを見ている。よし。
「やっぱ落書きはだめですか?」
「だめです」
 俺は妙にレスポンスのいいクラスメイトに内心感謝しつつ、筆記用具入れから消しゴムを取り出した。
「勿体無いが仕方ないか……」
「当然だね」
「ちぇっ」
 実際のところ消してしまうのは惜しいような気もするが、俺は丁寧に消しゴムを動かした。さらば幻のポッケ強化計画。もう二度と日の目を見ることはないだろう。だが、これも全て桜田のためだ。
 すっかり消えたところでノートを持って立ち上がると、もう桜田は自分の席についていた。何かノートのページを切り離すような作業をしている。そこに桑田用ドレスのラフデザインが描かれているであろうことは容易に想像できた。

──畜生、その手があったか。

 恐らくちょっかい出しは所定の成果を収めたのだろうが、ある種の敗北感が湧き上がってくるのは何故だろう。

 ともあれ、そんなこんなで、俺の行動によってこの世界は原作から違う道を辿り始めた。それがどういう結果を齎すかは、まだなんとも言えないのだが。


2

 最初は何かの見間違いかと思った。
 次に、これは夢なんじゃないかと極ありきたりの疑いを持った。
 試しに自分の頬をつねってみた。痛かった。
 最後に、それがここにある訳と自分がここにいる訳を結びつけようとしてみた。なにやら繋がるような気も繋がらないような気もする。
 長いため息を一つついてみる。それから意を決して一つしかない質問の片方の選択肢にチェックをつけ、運勢判定サイトの「結果を見ます」ボタンをクリックする。
 わずかなローディングの時間が過ぎ、ごくありきたりの結果が表示された。ブラウザの戻るボタンをクリックしたが、再表示されたページにはよくある毒にも薬にもなりそうもない質問が並んでいるだけだった。

 そして今、俺は幼稚園児くらいの背丈の、やけに不機嫌そうな黒衣の天使とテーブルをはさんで向き合っている。
「茶でも飲むか?」
「いらないわよ」
 苛々した調子で即答した彼女は……ああ、説明は要らないか。
 どういう巡り合わせか分からんが、俺はローゼンメイデン第一ドール水銀燈のネジを巻く役に抜擢されたのだった。
「まあ、説明は理解したんだが」
 目の前の銀髪のお嬢様がいつまで経っても茶菓子に手をつけないので、俺は月餅を引っ込めてチョコレートを置いてみた。お、これは食べるのか。
「だったらさっさとこれを嵌めて契約しなさいよぉ」
 不貞腐れた調子で無造作に指輪を投げて寄越す。その手つきは華麗といってもいいんだろうが、片手では食いかけのチョコを持ってるから、なにやら拗ねたおこちゃまという感じで微笑ましい。
「何ニヤニヤしてんのよぉ。緊張感のない奴」
「いや、全然。光の加減でそう見えるだけだろ」
 そう言ってやると、ちっ、と言いそうな表情をしてそっぽを向いた。
「ああもう……なんでこんなのを選んだんだか」
 鋭い視線を傍らでチカチカ光ってる蛍の親分みたいなものに向ける。そいつは困ったようにくるくると回って、部屋の隅に逃げ込んでしまった。
「あのちっこいのが工作とかスカウトを担当してるわけ?」
 確か人工精霊だったか。物を運んだり攻撃の増幅だかなんだかもしてたり、かなり優秀なサポート役だ。
「まぁね……そんなことはどうでもいいんだけど」
 じろり、と赤い瞳がこちらを見る。俺は思わず笑いを引っ込めた。さすがにこういう表情には迫力がある。
「契約か」
 俺は腕を組んで天井を見上げた。安物の丸型蛍光灯が僅かに揺れ動いている。

 正直に言うと、運勢判定サイトで「まきますか まきませんか」を見るまで、こういう事態は全く予想していなかった。
 なにしろ俺のちょっかい出しが成功したにもかかわらず、同級生たる桜田ジュン君は現在ご自宅に天の岩戸状態なのだ。
 結果として工作が不発に終わってしまった俺としては、歴史の修正力というのはあるんだなあと実感し、このまま進めばほぼ原作どおりの展開になるだろうと漠然と考えていたのだ。


 桜田が引き篭ってしまった理由は実に簡単だった。
 あの日、俺のちょっかい出しを見た桜田は国語の課題ノートに描いたプロはだしのラフスケッチを思い出し、そのページを切り離して提出した。
 結果、ラフが梅岡教員の目にとまって無断で掲示されることはなく、数日後の全校集会で名指しされた桜田が吐いてしまうこともなかった。
 そこまでは良かった。俺も心中胸をなでおろしたものだ。
 だが、破局はあっけなく訪れた。
 数日後の朝、いつものように始業ぎりぎりに登校した俺が見たものは、教室の黒板に書かれた大量の中傷の言葉と、その中心にある桜田の例のスケッチ、そして教壇の前で蹲って吐いている桜田とそれを取り囲んでいる野次馬だった。
 俺が教室の入り口あたりで呆然としている間に桜田は教員を含む何人かに連れられて退場し、以来学校に姿を見せていない。
 タネを明かせば簡単なことだ。
 あの日桜田がノートのページを切り離しているのを、以前から桜田に付き纏っていた馬鹿どものひとりが見ていたのだ。ほどなく連中のうちの誰かがそれを桜田の鞄から持ち出し、黒板に貼ったというわけだ。
 中傷の言葉を書いたのはそいつらだけではないらしい。消す前に見た限りでは、女子のものと思しき字を含め、軽く十人は下らない種類の筆跡が黒板に躍っていた。
 「桜田が桑田の『エロい』衣装を密かにデザインし、それをばらされるとゲロ吐いた」という噂は文化祭前には全校に尾鰭をつけて伝播してしまった。その後行われたプリンセス云々が微妙なムードになったのは言うまでもなく、クラスについて言えば文化祭自体も白けたものになってしまった。
 最悪の顛末だった。小賢しい工作などやってもやらなくても何の変化もなかったわけだ。

 異分子たる俺が積極的な介入を試みてもこの世界の歴史の流れには逆らえないのだろう、とこの件で俺は悟らされた。
 同時に、不謹慎ではあるが安心もした。これでローゼンメイデンの物語は成立する。桜田ジュンはいずれドールの薇を巻き、彼女等とともに自力で成長していくのだろう、と。


 しかし現実にはご覧のとおりだ。
 原作ではこの街の大学病院に入院しているジャンクな(失礼)美少女のもとに現れ、どうやら半ばその子のために戦っているらしい黒翼の天使が、なぜか今現在目の前で俺に契約を迫っている。
 まずいだろう、これは。
 まきます、の選択肢にチェックを入れて送信ボタンを押した段階では、まさか相手が水銀燈だとは想像しなかった。
 ストーリーと媒介(契約者)との関わりにおいて、原作のドールたちは概ね二つのグループに分かれる。一つはストーリー上欠かすことのできない媒介と、深く契約しているドール達。もう一つは原作開始時点での媒介が誰であれストーリーの上ではあまり重要でないドール達だ。
 水銀燈は間違いなく前者だ。しかも水銀燈と媒介は愛憎だの立場だのという点で非常に似通っていた。少なくとも、人間である俺より水銀燈の方がよほど原作での媒介の少女に似ているだろうと思えるくらい、お似合いのはずなのだ。
 だから薇を巻く相手は雛苺か金糸雀になるものと決めて掛かっていたのだが……。
 視線を正面に戻してドールにしては大きな、人間としては小さすぎる存在を見やる。俺の態度に退屈したらしく窓のほうを見ている横顔もまた、人間というには整いすぎ、人形というには硬質な生気に溢れすぎているような気がする。
「契約しなくてもパワードレインはできるんだよな」
 水銀燈は若干眉根を寄せてこちらを見たが、目顔で肯定した。俺は腕を組んだまま一つ息をついた。
「まあこっちが死なない程度なら力は吸い取ってもらって構わんが、契約するのは待って貰えないか」
「あらぁ、怖いのぉ?」
 くすくすと笑う。非常に残念ながら、見惚れてしまいたくなるほど美しい。凄艶というのはこういう姿を言うのだろうか。
「うん、ぶっちゃけ怖い」
 どう考えてもこのドールの相方に相応しい少女がいる。その子は自分だけの天使を待っているのだ。偽善かもしれないが、その子からこの黒衣の天使を奪ってしまうのが怖い。
 そんなこっちの気分を知ってか知らずか、水銀燈は今度は満足そうに笑った。
「いいわぁ。そのくらい聞いてあげる。どの道貴方は私の糧になるんだもの」
「それはありがたい」
 俺は素直に頭を下げた。変な人間、と水銀燈は笑いを大きくした。表情がころころ変わるのは思春期の少女のようで、少しばかり可愛らしく、そして意外だった。


 翌朝、俺は大学病院に向かった。
 起床したときまず鞄の有無を確認したが、部屋に似つかわしくない鞄は相変わらず昨夜の場所に鎮座していたし、そっと開けてみると黒い逆十字のドレスを着たドールも消えずにその中で眠っていた。やはり原作どおり、夜型なのだろう。
 土曜日だというのに正面玄関は混雑していた。どうやら幾つかの診療科は土曜日も外来を開いているらしい。
 人ごみを縫って案内窓口に行き、柿崎めぐという名前の少女がどの部屋に入院しているのか尋ねると、あっさり西棟の716号だと教えてくれた。プライバシーの保護上あまり芳しくないんじゃないか、とも思ったが、俺はありがとうと素直に礼を言ってその部屋に向かった。
 なんとなく違和感を感じたのは、病棟のエレベータに乗っているときだった。

──脳神経外科……放射線科……腎臓内科……

 何気なく眺めた診療科ごとの病棟分けを全部読み終わる前に、エレベータは目的地に到着した。
 ナースセンターの前を過ぎ、個室の並ぶ一角に入ってからも違和感は消えなかった。むしろ、次第にはっきりしていった。
 716号の前には「柿崎めぐ」と名札が掲示されていた。ドアは閉まっていたが、俺はノックせずにそこを開けた。
 広く、設備の整った個室だった。窓は大きいが、壁の面積に比べれば広いとはいえない。ベッドは窓に近づけられており、座ったままでも手を伸ばせば窓を開けられそうな配置だった。
 部屋の主は眠っていた。酸素マスクをつけ、点滴と心電図計が繋がっている。他にも何やら大掛かりな機材があったが、俺にはどういったものかよく分からない。
 ただ、近づいて覗き込んだとき確実に分かったことがある。
 この少女にはもう、契約だかなんだか知らないが、そういったものに耐えうる余力なんぞ残っていない。手足は明らかにむくみが出ていたし、頬は紅潮しているくせに肌には全く艶がない。到底、原作のようにベッドの上で両手を広げて元気な電波発言をできるような状態ではなかった。
 西向きの窓から空を眺め、俺は循環器内科の領分のはずのこの患者が、腎臓内科の病棟の外れ、ナースセンターから最も遠い場所に、一等広い個室を与えられている理由が漸く分かった気がした。

 ここからの眺めはすばらしいのだ。いつでも本物の天使が孤独な命を空へと攫って行ってくれそうなほどに。

 柿崎めぐの病室の中にいたのは二十分ほどだったろうか。その間、誰も病室を訪れることはなく、柿崎めぐが目を覚まして電波なことを言ったり癇癪を起こすこともなかった。
 帰り際にナースセンターの前で俺を呼び止めた看護士は、ひとしきり俺に柿崎めぐの近況、というよりはほとんど病状を話してくれた。
 時折非難がましい口調が挟まれていたのは、俺のことを柿崎めぐの親族か友人だと勘違いしたからだろう。実際のところ全く見ず知らずの他人なのだが、特に訂正する必要もなかった。俺は黙って彼女の話を聞き、丁寧な説明に感謝してその場を立ち去った。


 自宅に帰り着いてみると既に正午を過ぎていた。
 ごく簡単に昼食を済ませてから畳の上にごろりと転がり、現在の状況と考えを整理しようとしているうちに、しまりのない話だがいつの間にか寝ていたらしい。
 目を覚ますとベランダの窓は開け放たれており、部屋の中に夜風が吹き込んでいた。昼寝にしては長いこと寝ていたものだ。
 鞄は元の位置にあったが、中身はもぬけの殻だった。馴れ合う気はないと原作で言っていたが、どうやらそれは俺に対しても同じらしい。水銀燈は水銀燈、といったところか。
 昨日の今日で別段気を使われたわけではないと思う。しかし今はそのドライさが有難かった。お蔭様で今後について考えをまとめる時間ができそうだ。

──さて。

 俺は特に何をするでもなくこの十数年を生きてきた。生まれ変わりということを意識してはいたものの、何か特殊な能力を発揮することも、異次元転生者狩りエージェントみたいな存在が出現して命を狙われるなんてこともなかった。
 なけなしの原作知識とやらを使って桜田ジュンのトラウマを作らないために下手な工作もしたが、それもあっという間に覆されてしまった。それ以来俺は転生したという利点を生かして能動的な何かを試みることは諦めていた。
 だが、今になってローゼンメイデンの媒介として選ばれたということは、俺にはやはり何等かの役割が与えられているのかもしれない。
 元の世界に極近いが異なる世界の戦国時代に移動した自衛隊の面々が生き延びるために戦っていったことが結果としてその世界の信長や秀吉たちの不在を埋めることになったように、俺にもなにがしかの代替的役割が求められているのか。

──だとすれば、それは柿崎めぐの不在を埋めるものなのだろう。

 その認識は実に面白くなかった。人選としても疑問が残る。
 手前味噌な話だが、俺は原作の柿崎めぐほど派手に壊れてはいないと思う。転生した体は五体満足だし、あれほどピーキーである意味素直な性格でもない。
 実を言えば、俺は水銀燈に力を与える代わりに、柿崎めぐとの契約を提案するつもりだった。原作のままならば、二人の関係は他者が入り込む余地のないほどぴったりと平仄が合っている。
 しかし今朝見た光景は、柿崎めぐに本来の役割を押し付けるのが無理だということを嫌でも分からせてくれた。

 頭を振りながら台所に立ち、ケトルを火にかけていると、蛍の親玉のような光が横切ったかと思うとくるりと顔の周りで一回りした。
 部屋のほうに視線を遣ると、暗い空を背景に、銀色の髪を靡かせた黒衣の天使が開け放った窓から入ってくるところだった。
「あら、起きてたわけぇ? もう目覚めないかと思ったのに」
 くすりと笑う彼女は掛け値なしに美しい。
「生憎と、そう簡単には死ねないもんでね。誰かさんと契約しなきゃならないから」
 へえ、と彼女は肩をすくめ、昨夜と同じように無造作に指輪を放って寄越した。
「決心がついたんならさっさとしなさぁい。また、怖くならないうちにね」
「そうだな、お言葉に甘えさせてもらうとするぜ」
 ケトルの笛が間抜けな音を立てる狭い台所で、俺は水銀燈と薔薇の誓いを交わした。


3


「ハハッ、この『シルヴィア』は最強だぜェ!」
「1/7のピースを足してやっただけでこの能力アップ…全部集めたら、そして完成したらどんな化け物になるのだこれは」
「ンな事ァ知るかよ! 今はこいつのパワーを存分に使いきってやる。その次は2個目、それから3個目だ! どんどん強くなるぜこいつはよォ」
「ああ、そうだな…」
「ボヤボヤしてる暇はねーぜ。見ろ。早速お出ましだ」
「……! 『アゲート』と『ピンクコーラル』か。思ったより早かったな」
「さあ、おっ始めてやるぜ、ALICE GAMEをよォ!」

 Advanced Logistic & Inconsequence Cognizing Equipment。それは、自律型学習コンピュータの究極の形である。
 1年戦争終結後、モビルスーツを含む宇宙機パイロットの深刻な不足に悩んだ地球連邦軍は、完全な無人兵器による戦闘を構想していた。その制御A.I.として開発されたのがALICEであった。
 しかし、ALICEと、その搭載機であるスペリオルガンダムは確かに高性能であったものの、そのコストはあまりにも高すぎた。
 ALICEを中心とする無人戦闘システムの開発が難航するうちに人工的ニュータイプ──強化人間の実用化の目処が立ち、研究は中止され、ALICEとスペリオルガンダムも4機を試作したのみで量産は放棄された。
 後にペズンの叛乱と呼ばれる一連の紛争において、α任務部隊に配備された1機のスペリオルガンダムが実戦に参加したものの、母機の大気圏突入の際にそのALICEは失われてしまった。
 残る3機も数年のうちに分解・破棄され、その機材はあるものはスクラップとなり、あるものは分解されて安価な二線用装備に流用されて、ALICE達はモビルスーツの無人化計画とともに時代の徒花として消えていった。
 公式には、そのように記録されている。

 宇宙世紀0097。世に言う【ラプラス戦争】の直後から、この物語は始まる。


「なるほどね……」
 俺は夜食を食いながら見ていたDVDの音量を少し下げた。夜中に見るにしてはこのアニメはだいぶ音がでかい。
「退屈な感じぃ……」
「同感だ」
「なら、なんで見てるわけぇ?」
 窓枠に腰掛けた水銀燈が至極当然な質問をしてくる。俺は首を傾げ、少し間を取ってから答えた。
「んー、なんだろな。話題づくり? 友達との」
「くっだらなぁい」
 そう鼻で笑いながらも、昨日借りてきたDVDをきっちり全部見ているのはどういうわけなんだか。
 にやにやしながら、俺はお茶漬けの残りを掻き込んだ。

 今後のことをいろいろと考えているときにふと「こっちの世界ではローゼンメイデンの代わりにどんなアニメが放映されたんだろう?」などという下らないことを思いついたのは随分前のことだった。
 そのときは、番組名と宇宙世紀物のガンダムの続編らしいということを知っただけで満足してしまった。さほど興味も湧かなかったし、よくよく考えれば長寿人形劇くんくん探偵シリーズなど、深夜枠どころかゴールデンタイムの番組さえ違った編成になっている。ローゼンメイデンの代わりどころの話ではなかった。
 それを今になって見ている理由は、番組のあらすじをたまたま伝え聞いてしまったからだ。


「アリスゲーム?」
 単語としてはこの世に生まれる前から知ってるが、その名前を人間の口から聞くのは初めての言葉だった。
「なんだ知らないのかよ。これだから種と00しかガンダムしらねー奴は」
「悪かったな」
 残念ながら彼のご期待には添えない。何故ならタネとかゼロと言われてもさっぱり理解できないからだ。
 俺が知ってると言えるのは前世で見ていたVガンダムとかGガンダム程度のものだ。物心ついた頃にゼータガンダムとかをやってたのは覚えているが、内容は完全に忘れている。難しい話だったというから、若しかしたら当時は理解できなかったのかもしれない。
 向こうで死ぬ数年前に「MAJOR」の裏番組で新作のガンダムを放映していたのも知っていたが、それは全く見ていない。ビール片手にぼんやり見るにはライスあったけマジうめー♪ の方が気楽だったのだ。
 こちらの世界でも同じ番組を見てしまっているのは許されることと思いたい。さすがに昨今の規制下では未成年がビールを買ってくるわけにはいかないが、十数年ぶりに見る再放送のようなもので懐かしさがどうしても前に立つのだ。
「アリスってのは超すげえAIなんだ」
 メガネを掛けた、いかにもという感じのクラスメートは、得意げに語り始めた。
「けど、開発途中で解体されて七つに分割されちまった。んで、それぞれが別々のモビルスーツに補助コンピューターとして搭載されたわけよ」
「へえ」
 何やら怪しい話になってきた。
「AIは七分の一になっても自分で学習して機体制御できるわけ。けど、全部集めれば超すげえパワーになるんだ。ニュータイプよりつええの」
 ニュータイプはエスパーみたいなもんじゃなかったっけ。
「だからそれを奪い合うのがアリスゲーム。んで、モビルスーツに乗ってるAIがさあ」
 その後何十分かに亙る彼の懇切丁寧というか執拗というか微妙な説明を要約すると、要するに演出上の都合で「AIの操っているモビルスーツ」を表現するのに、オーバーラップで少女たちを重ねるような手法を取ったらしい。
 AI自体も女性の人格が与えられているという設定で、実際に喋りながら戦う。まさに萌え狙いというか、あざとい商法だ。
 ALICEを現出させるために少女たちは文字通り死闘を繰り返す。擬人化しているといってもロボット同士だから、腕がもげたり体が消滅したり、人間同士ならスプラッタになるところを美しく演出できたという。
 モビルスーツの擬人化としては斬新な方法だったようで、当時はその筋の人々には大人気、2ちゃんねるには各AIごとのファンスレが立ち、ガレージキット屋からはフィギュアのみならず限定品のドールまで発売されたとか。
「で、お前さんは誰が好みだったわけ?」
「そりゃーもちろんサファイアだろ! さふぁ子は俺の嫁! ボクっ子は正義!」
 そうですか。
 肩を竦めて辺りを見回すと、放課後の教室に残っていた面子は呆れたようにこちらを眺めていた。普段寛容な柏葉の視線さえもだいぶ低温になってきている。
 できれば声を慎んでほしいものだ、と思わず溜息が出てしまう。桜田にこの厚顔無恥さの半分でいいから分けてやりたい。そうすれば、学年が変わったのを切っ掛けにしてでも登校を再開するように誘えたのに。


「ちょっと」
 細い指が俺をつつく。はっとして顔を上げると、画面は青くなっていた。眠気に負けてついうとうとしてしまったようだ。
「終わってるわよ」
「あー、すまん」
 結局今晩も水銀燈は四話分のDVDを最後まで見ていたらしい。こっちは最後の一話分ほどはストーリーがあやふやなのだが。
「半分にした方がいいんじゃないのぉ? お馬鹿さぁん」
「返却期日の関係があるからなー」
 前期後期と特別篇で合計二十六話、まさに元居た世界でのローゼンメイデンの放映話数そのままのアニメだが、それを全部一気に借りてきたのだ。一週間で見終えるためには毎日四話ずつ消化しなくてはならない。
「ぷっ」
 本当に馬鹿ねえ、と笑う彼女は、原作よりも幾分肩の力が抜けているような気がする。
 原作では柿崎めぐに対して心を許していることを認めたくなくて──または心を許してしまっている自分を見せたくなくて、かもしれないが──自分のスタイルを貫くべく突っ張っていたが、俺に対してはそうする必要もないほど見下しているというわけだ。
 それが残念とは思わない。原作の媒介とは違い既に契約を交わしているのだし、同じようになぞることには意味がないだろう。こちらのやり方で付き合っていけばいいだけの話だ。
 ただ、関係がべったりしていないことにはいささか問題がある。
「そういや、昨日話してた『本物の』アリスゲームはどうなってるんだ」
 こうして聞かなくてはならないこともその一つだ。
 桜田が実際に媒介になっているかどうかは確認が取れていないが、少なくとも原作の桜田は頻繁に戦いの場に連れて行かれていた。戦いの経緯についても、お互いに話して愛情を深めていたようなフシもある。
 しかし、今のところ俺にお呼びが掛かったことはない。向こうからゲームの進行状況を報告してきたこともない。尋ねてみたのもこれが初めてだった。
「貴方には関係ないでしょ。必要になったらいつでも力を吸い上げてやるから安心しなさぁい。そのための契約なんだから」
 余裕のある含み笑いとともに、ある程度予期していた言葉が返ってくる。俺はDVDプレイヤーの電源を落とし、台所に向かいながら窓枠の天使を振り向いた。
「そりゃ、そっちはそれでいいかも知れんが、こっちだってパワードレインを受けるんだからな。それなりに進行状況くらい知りたいと思っても当然だろう」
 水銀燈は頬杖をつき、若干面白くなさそうな顔でふぅんと鼻を鳴らした。
「今のところ、進展はなし」
「まだ全機揃ってないってとこか?」
 先ほどのDVDに引っ掛けてそう言ってみると、はっきりと機嫌が悪くなったのが見て取れた。
「まあそうね。その割に、もう一人中途半端に脱落してるけど」
「……そりゃ、早いな」
 雛苺か、と喉まで出掛ったが、どうにか抑えた。雛苺が真紅に負けてから蒼星石が自刃するまでなのかと思ったが、展開は原作どおりとは限らない。
「勝った者がローザミスティカを奪わないなんて……恥知らずもいいところだわ」
「ゲームの勝者はローザミスティカを奪う決まりだったっけ?」
 小さなティーカップに紅茶を淹れてやると、意外にも素直に受け取って口をつける。淹れ方が適当なので不味い紅茶だと思うが、彼女は文句も言わずに返事をした。
「取り決めなんてないわ。でもゲームの目的はローザミスティカ。それを奪わないなんてイカレてるのよ……真紅のやつ」
 ふむ、まあここまでは原作どおりか。多分負けたのは雛苺で間違いないだろう。
 俺は自分の分の紅茶をマグカップに注いで窓から外を眺めた。水銀燈に肩が触れたが、彼女は少し避けただけで文句は言わなかった。
「まあ、物は考えようじゃないか?」
 日付が変わって、街の明かりはそろそろ消え始めていく。ある意味で一日中で最もさびしい時間帯だ。なんとはなしに、水銀燈に似合うような気がするのはなぜだろう。
「真紅ってやつのローザミスティカが二つになっちまえば、その分だけパワーアップするんだろ? お前さんにしてみれば、相手がチョンボしてくれて大ラッキーじゃないか」
「……」
 水銀燈がこちらを向く気配が分かったが、俺は気づかない振りをして続けた。彼女の言いたいことがなんとなく分かるような気がしたからだ。
「どうせ奪い合うことになるんなら、相手のミスはこっちの加点だ。後ろ向いてニヤリと笑って、その状況を有利に使ってやればいいのさ」
 片目を瞑って見上げると、黒衣の天使は毒気を抜かれた表情で何かを言いかけたがそれを引っ込めて、紅茶の残りを飲み干した。
「不味いわね、これ」
 そう言ったときには、彼女はもうごく当たり前の表情に戻っていた。
 そいつは失礼、と俺が頭を下げると、水銀燈は優雅といえる手つきでこちらにカップを返して寄越した。
「温度はめちゃくちゃだし、苦すぎるわよ。せめて次からはミルクを入れて」
「了解」
「全く……退屈しちゃう。少し飛んでくるわぁ」
「俺は寝るとするか。紅茶の効き目もないし。もう目が落ちそうだ」
 水銀燈はふわりと宙に浮き、くすりとこちらをみて笑った。
「それは死ぬときの表現でしょ、おばかさぁん」
「そうだったっけ」
 水銀燈はくすりと笑い、机の上のPCを指差した。
「起きたらそこの大きな箱で調べなさぁい。……おやすみ」

 おやすみ、と返す間もなく、黒衣の天使は銀色の蛍を従えて闇の中に消えていった。
 俺はPCを振り返り、ひとつ欠伸をした。明日登校する前に紅茶の淹れ方くらい調べておこう。いや、原作でも真紅が何巻だかで淹れ方をのりに教えてたよな。確か本棚のあの辺りに……
「ああ、そうか……」
 当然のことに気づいて苦笑いする。この世界にはローゼンメイデンはなかった。どうも眠気のせいでおかしな調子だ。


4

「ああ、別に風邪も引いてないし、元気にやってるよ。そっちこそデモとか巻き込まれないようにね。……あはは、それじゃ」
 毎度ながら、通話を切ると唐突に寂しさが襲ってくる。部屋の中に一人ということを意識する瞬間だ。
 この春の人事異動で両親は東南アジアの現地法人に出向させられた。長くても数年で戻るということもあり、俺は社宅から小さな安アパートに移って元の中学にそのまま通学している。
 今の状態を考えると便利といえば便利な状況というべきか、生活が落ち着き、まるで彼女を迎えるための環境を整えたようなタイミングで水銀燈は現れた。何やら胡散臭いものも感じるが、その点は深く考えないことにしている。
 ともあれ、生まれ変わったとはいえ、赤ん坊の頃から十数年間同じ屋根の下で暮していた両親が居なくなるのは寂しいものだ。一人暮しそのものは大学時代から数えて十余年続けていたから慣れているが、かえってそのせいで一人暮しに新鮮味もなく、不便なところばかり目に付いてしまう。
「電話?」
 振り返るともう一人の住人が目を覚ましたところだった。既に鞄は閉じており、テーブルの上に腰掛けている。この辺りの隙を見せないのが水銀燈の矜持なのだろう。それとも、鞄が開いただけでは気配に気づかないこちらが鈍いだけなのか。
 俺は生返事をして固定電話の子機を戻した。
「今日は早いんだな」
 まだ土曜日の午後三時を僅かに過ぎた時間だ。大抵二十時過ぎに起きてくる彼女としては例外的な早起き、というよりは夜中に起き出したようなものと言っていい。
「どうでもいいじゃない。早めに目が覚めることだってあるのよ」
 僅かながらいらつきの混じった声に苦笑しながら台所に立っていき、冷たい麦茶を持って戻ると、水銀燈はどこか思いつめたような表情で視線をこちらに向けていた。
 今日に限ってどういう風の吹き回しなのか。異例ずくめだなと思いつつ、早くも汗をかき始めているコップを渡すと、水銀燈は受け取った姿勢のままそこに視線を落とした。
 一体何を思い悩んでいるのか、とちらりと考えたが、原作の動向まで含めると心当たりがありすぎてとても推測しきれるものではない。お互い無言のまま時間が流れた。

「──扉が開いた」

 唐突に沈黙を破ったのは水銀燈のほうだった。何の扉だと聞き返す間もなく、彼女はコップを置いて立ち上がり、漆黒の翼を広げた。
「行くわよ、メイメイ」
 主の声を聞いた人工精霊が慌てたように鞄から飛び出すのも待たずに、彼女は慌しく青い空にむけて飛び立った。途中ちらりとこちらを振り向いたような気がしたのは、俺の勘違いか、それとも相棒がついてきているか確認したのだろうか。
 彼女の残していった何枚かの黒い羽が部屋の中に舞っている。それがゆらゆらと床に落ちる頃には、黒衣の天使も銀色の相棒も既に昼の光に呑まれて見えなくなっていた。
「扉、か……」
 俺はその言葉の意味するところを思い出そうと、曖昧な記憶を手繰り始めた。

 忌々しいくらい良い午後だった。PCの画面を睨む俺の機嫌が悪くなっていくのと逆比例するかのように、時折振り返って見てみる空は雲の量を減らしていき、その色も秋の空のように高く澄んで行く。

──畜生。

 俺は机の天板をぶっ叩いた。安物キーボードが音を立てて跳ね上がる。クラッシャーよろしく叫びながらキーボード自体を叩きまわさなかったのは、ひとえに俺に染み付いた貧乏性のせいだ。
 生まれ変わった場所がローゼンメイデンの世界だと気付いたときから、俺は原作について備忘録を付けていた。
 準備が良かったと誉められるような代物ではない。これからの役に立つかもしれないという功利的な動機すら建前のようなもので、本音は「記憶の中にしかない好きな作品を忘れないうちに記録しておきたいから」程度のものだった。
 そんなものだから、書いていて思い出すこともあれば、書いてしまったことに安心して忘れてしまうこともある。扉云々はまさにそれだった。

『バーズ版三巻
 翠星石が気づく(ロールがほどけている)
 翠:扉が開いているです……
 蒼:行くよレンピカ(出撃)
 翠星石、ジュンに懇願。告白っぽい。ジュンドキドキ。でも夢の扉を開く罠(ピアノ線引っかかって転ぶ)
 ……』

 ここまで読めば、いくら頭の良くない俺といえど流石に思い出す。
 蒼星石が扉を開いたのだ。それを翠星石と水銀燈が知ったことで、この時点で登場していたドールと桜田ジュンが全員nのフィールドに揃う。そして当然のようにゲームが始まり、真紅が腕をもがれるのだ。水銀燈に。
 原作最初の大きな戦いだが、実のところここでゲームは半ば終わっていたかもしれない。真紅の腕をもいだことで欲を出した水銀燈が蒼星石との約束を反故にし、蒼星石まで攻撃するようなことがなければ。
 架空戦記ネタで喩えるならばミッドウェイの兵装転換とか真珠湾の第三次攻撃のような「痛恨の一事」に値するだろう。後知恵でいろいろ考えられるところも含めて。
 もっとも、原作において全ての事柄は兎頭の慇懃無礼紳士に操られている可能性もないではないから、決着がつかなかったことは既定事項だったのかもしれない。

──いずれにせよ、俺はここで待つほかない。

 nのフィールドに俺は単独で侵入できない。全てを桜田に話した上で同道する手は──成功の可否は無視するとして──あったのだろうが、今となっては時間的に間に合わない。
 原作どおりに進まない可能性が僅かながらある、という点だけが慰めだ。
 水銀燈が蒼星石との共同戦線を張る際の口実として使った「殺したい相手がいる」というのが柿崎めぐの父親を指していたなら、おそらく柿崎めぐと面識すらないであろう今の水銀燈には蒼星石と共同戦線を張る理由がない。
 いや、分かっている。それは俺の希望というか手前勝手な妄想に過ぎないことは。
 損得ずくで考えれば、何か適当な理由をこじつけても蒼星石を抱き込んだほうが水銀燈としては得策だ。そもそも原作の取引きにしてからが、手を組むための虚偽の口実に過ぎない可能性もあるのだ。
 俺はもう一度机を叩いた。マウスが床に転がり落ち、画面のカーソルがあらぬところに飛んだ。
 舌打ちをしてかがみ、マウスを拾い上げる。こんなことは意味がない、と俺の中の冷静な部分が告げる。物に当たったところで何も変化はおきない。

──だいたい、何故こんなに悔しがる必要がある?

 原作どおりに進ませればいいではないか。真紅が片腕を無くすことで真紅と桜田ジュンは確実に成長できたのだし、二人の絆も深まった。むしろ、妨害や偶発的な要因で不首尾に終わらせてしまう方が、二人にとっては不幸だし俺にとっても損ではないのか。
 第一、nのフィールドに入り込んだからといって俺に何ができるわけでもない。せいぜい水銀燈の媒介として狙われる程度のものだ。

──理屈はわかってる。

 だが、何かが気に喰わないのだ。それはただ能動的な関与を諦めねばならないから疎外感を受けたというような理由ではない。むしろ──
「なっ……」
 マウスを置こうとして画面に視線をやって、俺は息を呑んだ。光沢加工をしたモニターが半球状に盛り上がり、波打っている。
「これは……ッ」
 何が起きたのか把握する前に、俺は何かの手に掴まれてモニターの中に引きずり込まれていた。


 モニターが広めで良かった。17型なら途中でつっかかっていただろう。
 引っ張り込まれた瞬間、俺はモニターから飛び出していた。とっさに受身を取り、目の前に迫っていた床に激突するのをどうにか避けたはいいが、柔道の授業そのままに手を斜め横にバタンとやったら椅子の脚らしい部分にしたたかに打ち付けてしまった。
「ってえな」
 手をぶらぶらやりながら立ち上がると、そこは見覚えがあるようで全く異質な場所だった。
 知らない店の暖簾をくぐったら自分の部屋に出たような奇妙な感覚。それと、自分の体が自分のものでないような感触。これは……
「いらっしゃぁい……」
 上の方から声が響いてくる。振り仰ぐと、黒い翼を持った少女と、青い服を着てでかい鋏を持った少年がゆっくりと降りてきた。いや、少年と呼ぶのはいくらなんでも失礼だろう。
「水銀燈と……蒼星石」
「初めまして、水銀燈のマスター」
 蒼星石は俺と視線の合う所まで降りてくると、帽子を脱いでお辞儀をした。所作は完全に少年のそれだ。宝塚で男役をやったら国民的な人気女優になれるだろう。
「ここはnのフィールド。その中の、貴方の記憶とイメージの世界さ」
「ほお。それはそれは」
 特に意味もなく裾を払ってみるが、当然のように埃は付いていなかった。肩を竦めて顔を上げると、水銀燈と目が合った。
「やあ。俺の世界にようこそ、お二人さん」
 蒼星石はもう一度礼をし、水銀燈は鼻を鳴らした。
「汚くて狭いところね。ある程度想像はしてたけど」
 そう言ってわざとらしく周囲を見回す。蒼星石が小首を傾げた。
「想像? 君が毎日帰っている場所じゃないのかい」
 水銀燈は胡散臭そうに俺を見、それから蒼星石に向き直った。
「見るのは初めてよ。ここも、そしてそこの男の姿もね」

 俺は改めて自分の身体を見た。血管の浮き出たがさがさした手。洗いざらしのツナギ。多分一回り背が伸びて、体型自体も変わっている。懐かしい「俺」の姿だった。
 そう。ここは俺が十数年間忘れずにイメージしてきた、生まれ変わる前の俺の部屋だ。壁も天井も机も、あちこちに無造作に置かれたパーツやら工具の山も。
 既にそこで暮していた時間よりも回顧している時間の方が何倍にもなってしまっているが、俺の記憶の中では強固に結晶化して崩れることはなかったらしい。まるで本物のように、本棚の本の並びまで手に取れそうなほどはっきりと質感を持っている。

──ローゼンメイデン。

 近づいて、恐る恐る本棚から出してみる。ある種の恐怖と期待がない交ぜになった興奮は、しかし読もうと開いてみたときに急速に凋んだ。漫画はカバーと形だけで、中身は白紙だった。一巻から順に全部開いてみたが、全て同じだった。
 一つ大きく溜息をつき、ま、世の中こんなもんなんだろう、そう上手くは行かないものさ、と漫画を元通り棚に戻したところで、俺は二人がこちらを見つめていることに漸く気が付いた。

「やっと戻ってきたみたいね」
 水銀燈が呆れたように言った。
「説明してもらうわよ、人間。貴方は一体何者?」
 言い終わると同時に、黒い羽が俺を取り囲む。蒼星石も一歩引いたところで鋏を持ち直した。
 後から考えればあまりにも急転直下の展開だったわけだが、そのときの俺には恐怖や驚きはなかった。原作どおりに進んでいないことへの疑問やら考察やらも浮かんでこなかった。
 ただ、二人が──水銀燈がこちらをねめつけている視線に全く温度がないことだけが、些か悲しく思えた。
「何者って言われてもな」
 いきなり実力で脅迫とは理不尽だとは思ったが、編成自在の羽毛の軍団と斬り突き両用の武器を持った相手に丸腰で勝てるわけがない。俺はまあまあと手を上げながら、その場に座り込んだ。
「見てのとおり、機械弄りが好きでヲタクなオッサン『だった』だけの、無力な一般市民だぜ」
「信じられるものですか」
 水銀燈が警戒を緩める素振りはない。
「それが何故姿形を変えて子供になっているわけ? しかもその漫画、題名がローゼンメイデンなんて、ありえないじゃない」
「確かにな」
 そりゃ、ありえない話だ。死んだと思ったらおぎゃあと生まれて、あまつさえその先が愛読してた漫画の世界だったなんてな。実際に死ぬまでそんな可能性を考えたこともなかった。
 生まれ変わってからでさえ、同じクラスに桜田やら柏葉の名前を発見するまで、そんなトンデモな異世界に迷い込んでいるなんてことは想像もしなかった。生まれ変わったこととどうやら十数年ほど時間を遡行していることだけで奇天烈体験は腹一杯だった。
 結局のところ、俺は異常な環境に放り込まれたにもかかわらず、これまでただ漫然と生きているだけだったとも言えるし、逆の見方をすれば目の前のことで一所懸命だったとも言えるだろう。
 いずれにせよ確かなのは、こちらの世界に生まれ変わったからといって、日常のこまごました俗事をCtrlキーでスキップできるようなことはないということだ。
 生まれ変わったと言っても飯を食わなければ死ぬし、金がなければ飯は食えない。痛いものは痛いし、無くし物は探さなければ出てこないのだ。
「物分りが悪いわけでもなさそうねぇ」
 俺は頷いてみせた。頭が良くないのは自分でも承知してるが、現状を受け入れる能力だけは人並み以上にあるつもりだ。
 俺の態度を従順になったものと解釈したのか、水銀燈の顔から険が消えた。
「なら、さっさと洗いざらい話しなさぁい。それとも──」
 羽がこちらを指向する。まあ、痛い目に遭わせるだけのつもりなのは明白なんだが、それでもこういうシチュエーションは嬉しいものじゃない。
「痛いほうがいいのかしら?」
 そう言ってうっそりと笑う顔には、契約を迫ったときに見せたものと同じ凄みと色気が同居していた。
 やはり彼女はSっ気があるらしい。それも原作そのままというわけだ。
 俺はやれやれと肩を竦め、これまでの経緯を話し始めた。


5

 水銀燈は片膝を立てて窓枠に座り、気だるい風情で夜空を眺めている。
 nのフィールドに俺を引きずり込んだ日から、こっちが起きている間だけでも毎日一度はそんな姿を見せるようになっていた。
 媒介の危険性について考えているのかもしれないが、今のところ契約を解除したりエネルギーを吸い取りきって殺してしまうつもりはないらしい。
 ただ、それまでも大して多くなかった会話は、あの日を境にほとんどなくなった。俺との間に新たに一線を引いているのは間違いなかった。
 俺はと言えば、相変わらずだ。面倒臭い宿題を片付け、翌日当てられそうな所だけ渋々予習して、後は雑事に追われている。毒にも薬にもなりゃしない。

「ねえ」
 水銀燈が声を掛けてきたのは、課題を終わらせて立ち上がろうとしたときだった。
 随分久しぶりのような気がしてそちらを見ると、思ったよりは近くに、そっぽを向いたままの彼女の姿があった。手の届くほどの場所ではない。それでも近いと思うほど、最近は距離を置いていたということかもしれない。
「前の暮しに戻りたいと思ってるでしょ、貴方」
「なんだい藪から棒に」
 俺は何回か目をしばたたいた。てっきりアリスゲームの話か、契約を破棄したいとかいう話をするのだとばかり思っていた。
「言い方を変えるわ。今の生活は楽しい?」
 俺は絶句するしかなかった。全く予想外の質問だった。何も言えないでいるうちに、水銀燈は自分で回答を口にした。
「楽しくも、おかしくもない。生まれ変わってからずっと。違って?」
 目の前の水銀燈はいらついた調子で、しかし何かを辛抱強く耐えているようにも見える。
「最初は変な人間だと思っただけ」
 斜め下を向いたまま、半歩だけ彼女がこちらに歩み寄る。
「次は、退屈なやつって思った」
 じり、とまた距離を詰める。
「そして、真紅の話をしたとき──ぞっとしたわ」
 あのときか、と俺はぼんやり思い出す。真紅が雛苺のローザミスティカを奪わなかったことをラッキーだと俺が言い放ったときだ。
「貴方の中には何かある。とても空虚で深い闇が。それがどうしても知りたかったからあの世界に行って、……貴方の話を聞いて、やっとものすごい勘違いに気が付いたってわけ」
 どんな勘違いなんだ、と言おうとしたが、何かに縛られたように口が動かなかった。しかし、言われなくても何故か分かっているような気がした。

「貴方の中には何もなかった。
 いいえ、むしろ貴方はここにいない。歩みを止めて、終わってしまった夢の底にこびりついているの。
 ここに居る貴方は抜け殻。
 義務感は持ってる。社会にも順応してる。
 でもそれはただ、目の前のことだけに対処しながら、日々を繰り返しているだけ。
 人間としての生活も、媒介としての私に対してのありようも全部そうなんでしょう?
 当たり前よね。貴方の時間は、こちらの世界にくる前の瞬間で止まっているのだもの」

 水銀燈はそこで漸く顔を上げた。
 それは今まで俺に見せたことのない、真摯な怒りの表情だった。

「貴方は生きてない」

 何かの圧力に襲われたような気がして、俺は体を震わせた。彼女の怒りに満ちた双眸は俺を真っ直ぐに射抜いていた。
「器となるべき体は生まれかわっている。生命は確かに生き返っている。でも、心は死んだままなのよ。魂の時間は止まっているのよ。生まれたときからずっとね」
 それは、俺のありように対する全否定だった。
 言われるとおりだった。自分でも薄々は考えてきたことだけに、纏めてぶつけられると反撃する言葉もでてこない。図星をつかれたようなものだった。
 怒りがないといえば嘘になる。だが、それは目の前の小さな天使に対してのものではなかった。こんなときでもどこか他人事のように覚めた目でこの世界を見ている自分自身への怒りだった。

 温度の低い怒りに目を閉じ、また開く。水銀燈は視線を脇にやりながら、まだそこにいた。赤い瞳がちらりとこちらを見た。
「本当……むかつくったらないわ。こんな死人と契約したなんてね」
 自分の言葉が終わらないうちに彼女はくるりと俺に背を向け、何も言わせないタイミングで窓の向こうに飛び去った。銀色の相棒がどこからか漂い出、俺の周りをくるくると二度ばかり回ってから彼女の後を追った。

──追わなきゃ。俺も。

 何故かは自分でもわからない。反射的にそう思った、としか言えない。
 いつものように理屈を捏ね回すことはなかった。
 俺は玄関先に停めてある自転車の施錠を乱暴に解除し、飛び乗って彼女の飛び去った方向を目指して走り始めた。
 当てはない。ただ、追いかけなくてはならないという気持ちだけが先に立って、俺は子供のようにがむしゃらにペダルを踏み込み、夜道を駈けた。


 街路灯だけがぽつぽつと灯る中を、闇雲に自転車を走らせていると、不意に一つの光景が浮かんできた。
 天井の高い、戦争映画に出てくるようなコンクリ剥き出しのぼろぼろの教会のような建物の中。運び去られた聖母像と埃まみれの説教壇の間に立つ黒くて小さい姿。
 解体寸前の古い礼拝堂は、大学病院の裏手に、確かまだあったはずだ。
 大通りを逆走し、ニアミスした酔っ払いの怒鳴り声を後ろに聞き流し、最後に「工事中」のバリケードにぶつかって派手に鳴らしながら俺はその場所に辿り着いた。
 庭は重機の置き場になっているものの、礼拝堂はほとんど完全な形でまだそこにあった。
 入り口の扉には×字に板が打ち付けられていたが、世話好きの案内人が待っていた。
「メイメイ」
 俺の言葉が聞こえるのかどうかは分からないが、人工精霊はついてこいと言うように礼拝堂の脇に回り、割れた窓を教えてくれた。
「済まないな」
 人工精霊はくるくると回り、ろくに月の光も差し込まない室内を、闇に溶け込むような服を着た天使のところまで案内してくれた。

 水銀燈は不貞腐れたような顔で、割れていない窓の近くに座り込み、窓越しに外を見ていた。
「……何よ。無様に生きてる人形に情けでもかけに来たわけ?」
 俺は黙って水銀燈と同じ窓際に並んだ。彼女はこちらを見なかったが、どけと言うことも自分からよそに移ることもなかった。
「きちがい人形師に作られ、そいつの顔をもう一度見るために自分たちの命を奪い合う七体の可哀想なお人形。一段高いところから見ていればさぞかし楽しい見世物でしょうね」
 激烈な内容の言葉だったが、彼女の口調は静かだった。
「知ってるんでしょう? これから起きることも」
「ある程度のところまでは」
 原作の連載が終了する前に俺は死んだ。だから、結末は知らない。いつ結末がつくのかも知らない。
「だがそいつは漫画の上のことだ。この世界のことじゃない」
「詭弁ね。貴方が媒介であること以外、ほとんど漫画をなぞってるって言ったのは貴方よ、異邦人」
 水銀燈はぴしゃりと俺の言葉を抑えた。
「もしもこの先が貴方の知っている漫画とは違っても、ここまでの出来事を貴方は全部知っている。私たち薔薇乙女のことも」
「謎が明かされている部分はね」
「私の心の中も覗いていたのでしょう。悪趣味すぎるわ。ただの媒介のくせに」
 薄く笑ったが、からかうような響きはなかった。乾いた笑いだった。
「君の心じゃない」
「同じことよ。きっと。貴方が漫画を読んでイメージしている『水銀燈』を言葉にすれば、私と同じになるはず。それは、私が心を覗かれたのとどう違うというわけ?」
 正論だった。何も言えない。
「貴方にしてみれば、ここは舞台の袖みたいなもの。貴方は時の止まった夢の中で、漫画で描かれたのと同じ場面の再演を舞台のごく間近で見ているだけ」
 ただしそこには少しばかり危険もある。その部分は水銀燈は指摘しなかった。
「いっそのこと、薇を巻かなければ良かったのに。そうでなければ持ってる知識を全部使って可哀想なマリオネットたちを好きに操れば良かったのに。貴方はどちらも選ばなかった」
 肩を竦め、いっそさばさばした調子で、半ば自嘲するように彼女は喋りつづける。
「観ている分には面白いけど、そこまでのめりこむ『作品』でもなかった、ってわけね。私達の人形劇は」
 ちがう。それほどの知識量を俺は持っていない。全員を手玉に取るなんて不可能だ。

──いや、果たしてそうか?

 水銀燈の言うのは極論だ。だが、真実を突いている。
 あの日、あのサイトで「まきません」を選べば、少なくとも俺の前に水銀燈は出現しなかった。そのまま、流れるままに任せて行けば、全く関わりを持たないことだって有り得た。
 逆に、その気になればできたことはいくらでもある。水銀燈の思うところに沿って手助けしてやることもできたし、桜田の同級生という立場も利用すれば、桜田の家に入り浸るなどして逆に真紅に肩入れすることさえもできた。
 そのほかにも、例えば薔薇屋敷の主人を無益な犯罪をするなと諭してみたり、誰か特定の一人だけにそれとなくその後の情報を垂れ流すだけでも、場合によってはその後の展開は大きく変わりうる。
 nのフィールドに引き込まれた日にしてからが、ダメ元で桜田の家に電話を掛けて状況を確かめるという選択肢もあったはずなのだ。
 それらは成功したかもしれないし、失敗する目の方が大きかったかもしれない。ただ、真剣にこの世界と向き合っていくなら、手を出してしかるべき枝だった。
 情けない話だ。「まきます」を選んだとき、柿崎めぐの状態を見て指輪に口付けたとき、そのいずれのときにも俺は、誰かの力になろうと思ったのではないのか。

「確かにゾンビだな、俺は」
 病院のベッドの上でしか暮していない柿崎めぐの方が、俺よりもよほど生きている。
 彼女の代わりを務めるには、今までの俺では役者が足りない。
 柿崎めぐを水銀燈が愛せたのは、彼女が不遇だからというより、もがきながら懸命に生き方(と、恐らく死に方)を探っているのに共感したからなのだろう。
 不遇さはともかく、その懸命さが、俺にはない。
「だけど、椅子の上にふんぞり返った観客で居ようとした訳じゃない。結果的には、そう見えるかもしれないが」
 水銀燈は言い訳を聞く気はないと言いたげにそっぽを向いた。だが、その場から去ろうとはしなかった。
「俺はただ、臆病だったんだ。その辺の砂粒くらいの度胸しかないチキン野郎だから、手を出すのをひたすら怖がってた」
 桜田が傷つきながら成長していくのを止めてしまうことが怖かった。水銀燈が、翠星石が、蒼星石が、真紅が、雛苺が原作どおりに痛みを抱きつつも変わっていくのを邪魔したくなかった。
 本気で何かを変えようとするなら、それによって引き起こされる痛みを受け止めなければならない。俺にとってはそれが、漫画のキャラクターたちが自分の知らないものに変化していくことだったのかもしれない。
「失礼な話だよな。君たちは全力で生きて、前に進もうとしているのに、俺は重心を後ろに残したままちょっかいを掛けようとしてたんだから」
 そのくせ、契約した相手が姉妹の腕を引き千切ることを原作の展開から勝手に予想して、それを止めさせたいと考え、止めるのが無理だと思えば癇癪を爆発させたりもした。その意味ではまさに彼女の言うとおり、ダブルスタンダードな観客だ。
「本当にごめん。それから……ありがとう。そんなに真摯な言葉をくれて」
「……お礼なんか要らないわよ」
 僅かな間があって、そっぽを向いたまま、水銀燈はぶっきらぼうに呟いた。
「私はただ──」
 がさりと物音がして、俺は反射的にそちらを振り向き、水銀燈も言葉を呑み込んで立ち上がった。
「やあ、水銀燈。水銀燈のマスターも」
 青い光が近づいてくる。メイメイがすっと飛び上がり、それを迎えるようにくるくると回った。
「貴女がここに来るなんて珍しいわね、蒼星石」
 二つの人工精霊の放つ僅かな光と、外からの薄明かりに照らし出されたのは、見覚えのある青い服を着た少年のような少女だった。
「約束を果たしに来たんだ。君が探し物の在り処を教えてくれたお陰で、時間に余裕ができたからね」
 蒼星石は色の違う瞳で俺を一瞥した。瞳には紛れもない生きた意思の光があるが、表情はビスクドールのように硬質だった。
「お邪魔だったかな」
「構わなくてよ。話は済んでるわ」
 水銀燈はこちらを見ずに答えた。蒼星石は軽く頷き、ちらりと窓の外の重機を見た。
「外はだいぶ準備が進んでるようだけど、鏡はまだあるのかい」
「まだ壁に嵌ったままね。丸ごと壊すんじゃなぁい?」
 水銀燈は奥の部屋に続いているらしい入り口に視線を向けた。扉は壊れたのか運び出されたのか既になく、黒い穴がぽっかりと口を開けている。
「そう。来た甲斐があったよ」
 蒼星石はまたこちらを見上げた。
「彼も一緒でいいのかい」
「ええ」
 水銀燈は頷くと、ふわりと宙に舞った。
「自分の目で確かめればいいのよ。どんなに歪な形をしているか」


 床のない世界というのは初めてだった。
 水銀燈が無言で先頭を飛び、蒼星石も泳ぐように頭から「下」に向かって舞い降りていく。俺は足を下にしてそれに続いた。
 床に相当する部分はないのに天地は存在していて、天には太陽のようなものがかかり、一本の太い幹が曲がりくねりながらそこへと伸びている。
 底の見えない巨大な井戸のような世界だった。幹はさながら井戸に投げ込んだ水汲み桶の縄のような按配で、幹の末も、根元もどうなっているのかは遠すぎて見えない。
 俺たちはそれに沿って緩やかに降りていった。
 幹の周囲には幾つかの光がまとわりつくように見えている。近づくと、それは一つ一つが小さな苗だったり雄大な樹木だったりした。心の木というやつなのだろう。
 幹そのものも一様ではない。曲がり、枝分かれし、ときには繁茂しているかと思えば全く心の木が見当たらない場所もあった。
「心の木の姿が人の数だけあるのと同じように、世界樹にも無限の様相がある」
 いつのまにか蒼星石が隣にいた。
「違うのは、世界樹は決して死なないこと。心の木は容易に枯れたり朽ちたりするけど」
 そう言って伏目がちになる。思いつめたような表情だった。
「……伐り倒すのかい」
 彼女は驚いたような顔で俺の顔をまじまじと見たが、すぐに元の硬い表情に戻った。
「そうか、すべてお見通しだったね」
「たまたま知ってるだけさ」
 会話はそこで途切れた。暫く無言のまま、俺たちは先を行く水銀燈を追って降下を続けた。
「どんな結果が出ることになろうと、マスターがそれを望むのであれば、僕は鋏を使う」
 ぽつりと呟くように彼女は言った。
「たとえそのために誰かが犠牲になるとしても」
 俺はごくりと唾を飲んだ。硝子のように割れる世界と力尽きた蒼星石が、昨日読んだかのように浮かんでくる。
「……それが、媒介や自分自身であっても?」
「それは──」
「見えたわよ」
 だしぬけに前から声がかかった。俺たちはそれ以上会話を交わすこともなく、水銀燈の示す場所に向かった。

 俺のものだというその心の木は、水銀燈の言葉で思い描いていたものとは全く違っていた。
 捩れたり曲がったりはしているが、それなりに大きく根を露出させながら、枝を伸ばして立っている。ただ一つの点を除けば、立派だろうと鼻を高くしても良さそうな按配だった。
 そう、完全に枯れていることを除けば。
「この木は不思議だね」
 蒼星石は木の周りを一周して首を傾げ、近づいてきて俺の顔を見上げた。
「枯れてから十数年経っている筈なのに元の姿を留めている。こんな木は初めて見るよ」
 木に近づいて一回りしてみる。遠目からは立派に見えたが、近づくと樹皮は腐ってきており、根元近くにはウロがあいて草か何かが生えてきていた。張っていると見えた根も、単に浮いてきているだけなのかもしれない。
 それでも、見上げれば葉の一つもないまま、うねる幹は頑強に天を目指し、枝は恐らくほとんど折れもせず頭上で存在を主張している。
「あの世界、そのままね」
 水銀燈は不快感を隠そうともせずに言い捨てた。
「とうに終わってるくせにしぶといったら……」
 蒼星石はウロの辺りに屈みこみながら、考えを整理しているような口調で、水銀燈に答えるともなく言った。
「人は何かに依存しているものだ。現在、未来への希望、他者……過去に囚われることだってある。それが強くなれば、こんな形もあり得るのだろう」
 ご覧、と立ち上がった彼女に促されるまま、俺はウロの中を覗き込んだ。幾本かの雑草に混じって、小さいが明らかに若い樹木とわかるものが生えていた。
「それが今の貴方の木よ」
 肩越しに水銀燈が言う。俺は一歩下がり、枯れた木全体を見上げ、うろの中の小さな木に視線を戻した。
 生まれ変わってから十数年。それは年数だけ取ってみれば一度死ぬまでの年月の半分近くにもなる。それなのに、この違いはどうだ。
 頭の中がもやもやとしたもので満たされていく。漠然とした不快感のような。
「うろは木の成長を妨げているけど、守ってもいる」
 蒼星石の声が、なぜか少し遠く聞こえた。もっとも彼女は俺にではなく、背後の水銀燈に語りかけているようだった。
「それでもいいのかい?」
 一拍置いてから水銀燈の声がする。
「構わないわ。やっちゃって」
「契約者と僕たちの心は繋がっている。マスターの木はドールの木と同じだ。それも分かっているんだね」
「構わないわ」
 今度は間髪をいれずに返事があった。
「いざとなれば契約を解除すればいいんだもの。簡単なことよぉ。そうでしょう?」
「君は……」
 蒼星石の声に僅かに苦笑の響きが混じったような気がした。
「なによ」
「いや、わかったよ。……レンピカ」
 靄が立ち込めてきたようだった。うすぼんやりとした視界の中、蒼星石の手の中にあの大きな鋏が出現した。
 彼女は鋏を構えると、物も言わず枯れた木の幹に切りつけた。二度、三度。
 次に、逆手からうろの近くを突いた。持ち替えてまた突く。切りつける。
 だが、俺のぼんやりとした目では、木には全く変わった様子は見えなかった。彼女はさらに二度ばかり切りつけて、ぐらりとその場に蹲った。
「蒼星石?」
 水銀燈が座り込んだ蒼星石に歩み寄った。

 俺もそこに行こうと霞の掛かったような視界の中を歩き出したが、何かに蹴躓いた。
 緩慢な動作でそれを見遣る。
 何であったか理解すると、唐突に霞は晴れてしまった。

「手ごわいね……これは」
 蒼星石は疲労感を滲ませていた。
「……十余年変わらずにここにあったのは偶然じゃないってことね」
 水銀燈は憎しみさえ感じさせる声で言い、思い切り幹を蹴りつけた。ばらばらと腐った樹皮が落ちてきたが、それだけだった。

「何かのSFかファンタジィで読んだことがある。『異界の由来を持つ物質は、その世界の構成物でなければ壊すことができない』。まあ、よくありがちな便利設定だと思うが」
 二人がこちらを向き、信じられないものを見るような目になった。
 俺はさっき拾い上げたチェーンソーを目の前に置き、オイルタンクと燃料タンクを確認した。どちらも満タン。キャブレターの燃料ポンプをくちゃくちゃやると、懐かしいガソリンの匂いが鼻を突いた。畜生、そろそろタンクのパッキンの交換時期だったか。
 だが、構わない。どうせもう二度と使うことはないのだ。今回使うには十二分だ。
「仲間内でバカやってな。チェーンソーのエンジンでバイク動かそうとか。そのために阿呆みたいにチューンしたエンジンのなれの果てがこいつだ」
 小さい素朴なエンジンだが、少しでも馬力を上げたくてだいぶ長いこと弄っていた覚えがある。結局その計画がポシャったときにも、捨てるのが忍びなくて元通りチェーンソーに組み込んだほどだ。だから、この場に現れたんだろう。
「きっとこれは、死んだ俺に対して誰かがくれた最後のプレゼントなんだろう」
 リコイルスターターを引く。一度では掛からない。
「だから、自分のなれの果ては自分で始末させてくれ」
 四度目でかかった。こいつにしては優秀だ。
 耳栓が一緒に現れなかったのは誰の不備なんだろうか。耳を聾する轟音が辺りに響き渡った。
 俺はオイルの飛び散るチェーンソーを大事に構え、身振りで安全圏に出ていろと二人を下がらせて、幹に刃を食い込ませた。
 腐りかけの枯れ木などこいつの手に掛ればあっという間だ。二人の位置を確認し、逆側に木を倒すまで、ものの二分と掛らなかった。
 伐りながら、手応えが妙に軽いような気がして、俺は手元を見た。
 情報連結を解除された朝倉涼子のように、役目を終えつつあるチェーンソーは光の粒子になって消え始めていた。
「もうちょっとだけ保てよお前。いい子だから」
 うろの周りを注意深く切り広げる。チェーンソーの起こす風で、なよなよした若い木が揺れ動く。まだ持ち手と刃は残っている。まだいける。
 若い木の障害物になりそうなものをあらかた削り終えたところで、轟音は止んだ。手の中にはガソリンとオイルの匂いだけが残っていた。
 俺は二人を振り向いた。水銀燈が微笑んだように見えたが、そのまま彼女はかくりと倒れこんだ。慌てて駆け寄ろうとした瞬間、俺の目の前も急速に暗くなってきた。
 恐らく、『俺』はここで消える。なんとなくだが、わかってしまった。
「蒼星石っ……水銀燈を連れ帰ってくれ」
 その声が出たのか、それとも頭の中で形成されただけなのかはわからない。俺の視界は黒一色になり、そして、すぐになにもわからなくなった。


6

 意識の底。奔騰するイメージ。縦横に流れて自分を攫う濁流。
 自分が何者であるかなどわからず、達観して流れに身を任せる余裕もなく、ただ、自分を保たなければ呑まれて消えるという恐怖だけがあった。
 どうにか姿勢を保ち、方向を定めて移動を始める。何処へ辿り着こうとしているわけではない。ただ、せめて流れの緩やかなところに出たかった。ここは危険すぎる。

 どれだけそうしていたかはわからない。
 いつのまにか、目の前に一つの人形が流れていた。
 優雅に拡がる灰白色の髪、切れ長の紅い眼、逆十字を標された黒いドレス。なんだろう、確かに見覚えがある。ひどく古いようでとても懐かしいイメージ。
「あなた……だれ」
 名前は……なんだったか? 思い出せない。自分のも、人形のも。
 まあ、何だっていい。その場でそれぞれを識別できれば問題ない。ジョン・ドゥとメリー・ドゥでも一号と二号でも。
「たすけて……ここから出たいの」
 まだあどけなさの残る白い顔を大きくゆがめ、必死にこちらに手を伸ばしてくる。待ってくれ。こっちだってここから出る方法なんか知らないんだ。
 しかし逡巡する暇はない。いま手を繋がなければ、どんどん離れていってしまう。
 辛うじて手を取り、胸元に引き寄せる。
 瞬間、横合いから突風のような激しい流れが押し寄せた。咄嗟に両腕で人形を抱き締める。
「こわいよ……おとうさま」
 胸元にしがみついてくる人形は、おこりのように体をがくがくと震わせている。

──守ってあげなくてはいけない。

 頭のどこかでそんな声がする。
 そうだ。ここにはこの子と自分だけだ。この小さな存在を護ってやれるのは他にいない。
「お父さんのところに行きたいんだな」
 腕の中で頷く気配があった。
「わかった。一緒に行こう」
 どうせ何処に行く当てもないのだ。それなら、目標がある方がいい。
 それにしても、名前は何だっただろう。確かに知っていたはずなのにどうしても思い出せない。
「君の名前を──」
 教えてくれ、と言い終えることはできなかった。今までで最も激しい流れが横合いから襲ってきたからだ。
 大きな波の圧力とともに、頭の中に記憶の奔流が押し寄せる。
 麻枝准なら「耳の中に無理やり鉄棒を押し込まれるようなもの」と書くのだろうか。理解不能の事柄が、そのほとんどは痛みを残すだけですり抜けていく。覚えていられるのは頭の中に引っかかったごく僅かな残滓でしかない。
 それでも、腕の中の人形の名前を思い出すには十分だった。あまりにも繰り返し繰り返し、記憶が絶えてからも反復して思い出していた名前のひとつ。
「──『水銀燈』」
 なぜ忘れていたのだろう。人形師ローゼンによって作られた七体の人形。その最初の一体。こんな大切なことを。
「わたしのなまえ……?」
「そうだ。君は誇り高いローゼンメイデンの第一ドール」
 人形は口の中で何度かその言葉を反芻し、かぶりを振った。
「お父さんに会いたいんだろう? だったら思い出さなくちゃいけない。何故会いたいのか、どうやったら会えるのか」
「おとうさま……おとうさま……」
 人形は必死に何かを思い出そうとし……そしていきなり、激流が途絶えた。


 どのくらい歩いたろうか。『水銀燈』のかすかな記憶だけを頼りに、無限とも思える世界を俺たちは彷徨していた。
 どれだけ歩いても飢えもしなければ渇きもしなかった。不思議に思ったが、『水銀燈』が言うにはここは夢の世界らしい。
 その説明だけでなんとなく納得したような気になるのは、まだ俺の方の記憶が整理しきれていないせいだ。もやもやして絡み合った記憶は、奔流が去ってからもほとんど解けていない。
 なぜか、疲労感だけはあった。疲れて座り込めばそこが野宿の場所になり、目覚めれば出発だった。そうしたサイクルをどれだけ繰り返したかも覚えていない。
 ただ、変化は確実に起きていた。『水銀燈』が次第にこちらを見上げることが多くなり、出発を渋るようになってきたのだ。いまや、お父さん探しは俺が『水銀燈』を引きずりまわしているようなものだった。

「ねえ」
 そしてついに、決定的な瞬間が訪れた。
「もう、疲れちゃったわぁ……」
 俺の前を飛翔していた『水銀燈』がいきなり地面に降り、膝を抱えてしまったのだ。
「もう少しだけ探してみないか、折角ここまで頑張ってきたんだから」
 『水銀燈』は首を振った。
「きっとどれだけ探しても、どんなに求めてもお父様には会えないのよ」
 俺は黙ってその隣に座った。なぜか最初から分かっていたような気がした。会えないと認めたくないのは俺のほうだったのかもしれない。それでも、何がしかの可能性があることを信じたくてここまで来たのだ。
「ここから出ようか」
 その言葉を口にするのは勇気が要ったが、言うのは俺でなければならなかった。
「外に出たら、どうなるの」
「わからない」
 俺は正直に答えた。
「でも、どうなったとしても、ここで絶望しているよりはいい」
「外には、なにがあるの」
「……そうだな」
 俺はまだ解ける気配のない記憶の断片をいくつか取り上げ、思いつくままに喋ってみた。
 外には他のドールたちがいる。ここから出て記憶が戻れば、『水銀燈』は彼女達の動力源を巡って他のドールたちと敵対することになるかもしれない。
 相手には神業級の職人もいる。それは何人ものドールのミーディアムになっている少年で、彼らの絆は深い。遣りあうとなれば分は悪い。
「それでも、君は独りじゃない。ミーディアムもいる。それから……」
「あなたは?」
 不安そうな瞳が俺を見上げる。
「あなたはそこにいてくれるの?」
 その肩を抱きかかえると、緊張の糸が切れてしまったように胸の中に倒れこんでくる。俺は大きな息をついて、震えている灰白色の髪を宥めるように撫でた。
「出るときは一緒だ。俺も君も同じ世界に行く」
 突然、目の前に扉が現れた。
 驚きはなかった。夢の世界なのだから当然だろう、と漠然と思った。俺は人形を抱き上げ、扉を開けて世界を越えた。


 扉を抜けて出た先は、最悪といっても最高といっても良かった。
 「向こう」の出口は姿見のような鏡だったが、それを通り抜けるとドールたちがこちらをあっけにとられたような表情で見つめていた。その数三体。
 どういうことだと俺は緊張し、俺の腕の中の人形は記憶が一気に戻ったらしく音を立てるような勢いで俺から離れた。
 その後のてんやわんやの騒ぎはひどいもので、ノリさんが顔を出して(彼女にしては珍しい)雷を落とすまで続いた。
 後から知ったところでは、ドールたちはジュンに裁縫するからと部屋を追い出され、鏡のある部屋で遊んでいたところだったらしい。全く、どんな間の悪さだ。

 既にアリスゲームは終わっていたが、『水銀燈』は他のドールたちとは若干距離を置いていた。これまでの経緯からして止むを得ないのだろう。
 『水銀燈』と『蒼星石』のミーディアムの病状が気懸かりではあるが、その他は平穏な日々が続いている。
 俺はあまり話し相手の居ない『水銀燈』の相談に乗ってやったり、ミーディアムたちと話して他のドールとも遊んだりもした。
 『蒼星石』は、時折双子の姉の手も借りながら、再び老夫婦と静かな時を過ごしている。
 ジュンを巡る『翠星石』と『真紅』の関係は次第に恋の鞘当て状態となり、両者のミーディアムでもあるジュンとしてはストレスの溜まる日々らしい。
 図書館で一緒に課題を片付けているとき、ジュンは二人の見え見えのアタックについてあれこれと零すのだが、全て惚気にしか聞こえないのは何故だろう。
 『雛苺』は再びトモエをミーディアムに選んだものの、少々居づらいのか桜田家に入り浸っている。恋の板ばさみに悩むジュンとしては、ある意味で気兼ねなく話のできる『雛苺』はいいお相手らしく、最近は部屋でわざと遊ばせておくこともあるようだ。
 『金糸雀』とそのミーディアムはいいコンビで、二人して他のドールを撮りまくっている。特に『翠星石』か『真紅』がジュンとツーショットになったところを狙い撃ちするのがいいのだとか。
 お見舞いがてらそんな他愛のない近況話でメグと盛り上がった後、俺は病院の屋上に出た。
 手すりに凭れて見るともなく町並みを眺めていると、『水銀燈』が隣に飛んできて手すりに座った。
「いい風だわぁ」
「そうだな」
 目を閉じてみる。隣に『水銀燈』を感じているせいか、古い記憶が呼び覚まされては消えて行った。
 甘いような、それでいて苦いような不思議な感覚だった。暫く存分にそれを味わってから、俺は自分の手を見つめ、予想していたとおりのモノを見つけた。

「──そろそろ終わりでいいよ」

「……な、何? どうしたのよ」
 唐突な言葉に驚いてこちらを見る『水銀燈』を片手で制し、俺はもう一方の手でそのモノをぐいと引いた。
 若干の痛みと手ごわい感触があったが、力任せに引き絞るとモノは巻きついていた手から離れた。そのまま振り向きざまに両手で引くと、それはずるりと動いてぴんと張りつめる。病的に白い、太陽の光を受けたことのないいばらの蔓だった。
 その先に何が居るかを俺は知っていた。
「いい夢をありがとう、第七ドール」
 その瞬間、世界は池の表面に張った薄い氷の膜を踏み抜くように割れ落ちていった。


「……どういうこと……?」
「全ては偽りだったってやつさ」
 俺は茨を引き千切りながら、素早く周囲を見回した。以前水銀燈と蒼星石に連れて来られた事のある場所だ。死んだときの俺の部屋を模したという世界だった。
 ただ、部屋の中はがらんとしていた。あのときはもっと大量にあったはずの家具や私物はほとんどなくなっており、玄関の戸は開け放たれて闇がぽっかり口を開け、力を失った白い茨がそちらへと伸びている。
 心の木を伐り倒したためなのだろうか、うそ寒い光景だった。
「出て来てくれてもいいんじゃないか? 夢のお礼くらいしたいんだがね」
 玄関に向かって怒鳴ってやると、ゆったりとした足取りで相手が現れる。柔らかな、柔らかすぎる声が場違いすぎる舞台に響いた。
「残念ですわ……もうお気づきになってしまわれたのですね」
 薄暗い部屋の入り口に立っているのは、純白の茨を従えた、純白そのものの小さな姫君だった。
 無垢そのものの顔立ちをした、何色にも染まっていないがゆえに何色にも染まろうとする貪欲さを持つ夢喰鬼とでも言うのだろうか。瞳に狂気を宿しているわけでも、所作に異常な点があるわけでもないのに、一目見ただけで悪寒が背筋を這い上がるのが分かる。
「夢を操ったというの、このドールが」
「そういうことになるかな」
 なんでもいいから武器になるものが欲しかったが、がらんどうに近い部屋の中には得物になりそうなものは見当たらない。いや、あるにはある。だが遠い。むしろ相手のほうがそれに近い位置に居る。
「第七ドールって言ったわね。名前は?」
「さて、名前か。何だったかな」
 俺は肩を竦めて一歩下がった。白い少女は満足そうな表情で優雅に会釈した。
「申し遅れました……初めまして。私は薔薇乙女の末の妹、雪華綺晶」
「手の込んだ夢をありがとうよ、雪華綺晶。こっちの自己紹介は必要なさそうだな」
 背中が壁際の本棚に行き当たった。埃っぽいその上を後ろ手でなぞると、なにか四角い小さなものがあった。それを急いで握りこむ。藁にも縋るとはこのことだ。
「ええ……存じていますもの、黒薔薇のお姉さまのマスター」
 雪華綺晶は微笑み、右手をこちらに向かって伸ばした。それとともに白茨がぞろりと動き出す。
「さ、参りましょう? 黒薔薇のお姉さまもお待ちです」

「!?」

 俺の脇で灰白色の髪のドールが驚愕に目を見開く。俺は心にずきりと痛みを感じながら、純白の妖怪を睨みつけた。
「……水銀燈を確保してるとはね」
 苦い思いが広がる。この夢の世界に残っているのは自分だけだと思っていたのだが。
 蒼星石に叫んだつもりだったが、やはり間に合わなかったのか。勢いで心の木を伐採する前にこうなる可能性について考えておくべきだった。
 俺か蒼星石が心の木を伐り、俺たち二人がダメージを受けて無防備になる。この夢喰鬼には俺を捕食し、水銀燈を葬り去る絶好の機会だったというわけだ。
 それにしても。
「タイミング良過ぎるじゃないか、大したもんだよ」
「お褒め戴き恐縮ですわ」
 雪華綺晶は言い終わらないうちに手を一振りした。ザッと床と擦れ合う音が立つほどの勢いで、一群の茨が俺に殺到し……
「させないわよ!」
 『水銀燈』の召喚した両手剣がそれを両断した。
「まあ……」
 雪華綺晶は隻眼を丸く見開き、片手を口に当てて無邪気な驚きの表情を作った。
「まだこんな力が残っているなんて……貴女は──」
「言うなッ」
 両手剣が唸りを上げ、力任せに振り払われた一撃は雪華綺晶の寸前まで迫り、彼女の纏う茨と服の端を切り裂いた。
 雪華綺晶の表情はしかし、驚きから含み笑いに変わっていた。軽く体を開いて次の一撃をやり過ごすと、『水銀燈』の後ろに回りこんで耳元で言い放った。

「──ただの、舞台装置の消え損ないですのに」

 その言葉に鋭く胸を抉られたのは、『水銀燈』ではなく俺のほうだったかもしれない。
 だが、躊躇する暇はなかった。俺は転がりこむような勢いで部屋の隅に打ち捨てられた物を拾い上げた。
「あら、そこではお逃げになった意味がありませんわ」
 囁くような声は、もう間近に迫っていた。
 振り向くと、純白の隻眼鬼は俺に手を伸ばすところだった。茨の間から、倒れている『水銀燈』の姿がちらりと見えた。音も無く倒したのか、活動限界だったのか。
「おいたをしないで、参りましょう? お姉さまのところに」
 満面の笑みで、雪華綺晶は俺の顔を両手で挟んだ。
「ああ……そうするしかないみたいだな」
 俺は拾ったものを持った両手を体の前でちぢこめた。茨とドールの体がのしかかり、殴りつけることすらできなくしようとしている。
「うふ……聞き分けの良い方は、大好き──」
「──だけどな、行くのは俺だけだ」
 左手でジッポーのフタを開けて点火し、同時に右手で殺虫スプレーのスイッチを押す。
 何かを感じたらしい雪華綺晶は反射的にとびすさったが、彼女の茨に簡易火炎放射器の炎が浴びせ掛けられるのを防ぐことはできなかった。
 火力は大したことはないはずだ。だが、茨は生木が燃えるときの独特の匂いを放ちながら呆気なく燃え始め、あっという間に俺と雪華綺晶の間には灰の緩衝地帯ができてしまった。
「ここは俺の夢の世界だ。あんたとしてはその方が手の込んだ罠を構築しやすかったんだろうが、ここでは俺の精神もアストラル体であるあんたも同時にダメージを受ける可能性がある。裏目に出たな」
 雪華綺晶は呆然と茨を見つめていたが、やがて無言でそれを引っ込めた。
「悪いが、俺のご都合主義がある程度通るこの世界じゃ、こんなチンケな火炎放射器でもあんたを焼き殺すことができるかもしれん。ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない」
 ハッタリもいいところだった。ご都合主義云々は今この場ででっち上げた嘘だ。だが、軽く恐慌状態に陥っている雪華綺晶には効果があったらしい。
「……はい……」
 呆然とした顔色のまま、彼女は空間に穴を開けて出て行った。

 がらんとした部屋の中には、俺とアニメ版ローゼンメイデンの水銀燈の形をしたドールだけが残された。
 俺は屈んでドールを抱き上げた。かくん、と手足が重力に逆らわずに折れ曲がる。夢の世界で重力もくそもないものだが、俺がそういうイメージで捉えているからなのだろう。
 どうして未だにこのドールが形を留めているのかはわからない。本来はこの世界の上に構築された幻影が割れてなくなったときに消えていてしかるべきだった。

──まあ、そんなことはどうでもいい。

 実時間ではほんの短い時間だったのかもしれないが、俺は伐り倒したときに心の木から湧き出た記憶の奔流の中でこのドールと出会い、旅をし、暮した。
 その中で、本来雪華綺晶が配置しただけのドールの中に自我に近いものが芽生え、この夢の世界とはいえ、実際に動き回るまでに急激に成長した。そう思いたいような気がした。
「君は」
 物がなくなってしまった机の上にドールを横たえながら、そっと囁いてみる。
「幸せだったかい?」
 偽りの幻影とはいえ、ほんのいっときだが、まるでアニメ版ローゼンの終了後のような世界に生きて、楽しかっただろうか。苦しかったのだろうか。

 人間が使うなら片手で振り回せるような小さな両手剣を拾い上げたとき、部屋の窓が波立ち、銀色の使者が飛び出してきた。
「メイメイ」
 水銀燈の相棒は嬉しそうに俺の周りをくるりと回った。
「連れて行ってくれるんだろ、水銀燈のところに」
 もちろんだとばかりに、メイメイは窓に飛び込んだ。
 窓をくぐる前に、俺は机を振り向いた。
 蒼星石や翠星石に連れられてこの世界にまた来ることはあるかもしれない。だが、次に来たときはもう、机の上は空っぽになっているような気がした。
「さようなら、『水銀燈』」
 懐かしいその名前を呼んで、俺は窓に体を沈めた。


 メイメイに連れられてやってきた先に広がっていたのは、湿気と温度を無くした濃霧の中のような光景だった。
 数メートル先、というのも視覚的なイメージに過ぎないわけだが、とにかく何も見えない。それでいて暗いという印象はなかった。
 ためしに、何故か手にしたまま消えていない剣を前に突き出してみたが、剣の先端は霧に巻かれるようなこともなくクリアに見える。物が何もないから霧が濃く見えるだけなのか。
「なんていう世界なんだ、ここは」
 メイメイに尋ねてみるが、人工精霊は困惑したようにジグザグに飛んでみせるだけだった。こちらの言うことは通じるようだが人工精霊のほうでは俺に伝えようが無いのだ。
 いやまて、この濃霧には覚えがあるはずだ。
 嫌な予感を抱きながらおぼろげになってしまった記憶を必死で探る。ほどなくして、それは記憶の闇の中から見つかった。
 原作の連載中断前くらいに何度も出てきた場所。金糸雀以外の五姉妹がみんな捕まったり、あるいはそれぞれの想い人を追いかけて行き着いたところ。
「例の雪華綺晶が罠を張ってたエリアか」
 頷くように二度ほど跳ねてから、ついてこいと言うようにメイメイは先に立って飛んでいく。
 舌打ちしながらその後を泳ぐように漂っていくと、ほどなくそれは現れた。

──繭か?

 紡錘形の真っ白なものが、蜘蛛の巣のような網の真ん中に鎮座している。更に近づくと、網も繭も同じものでできているのが分かった。白茨の蔓だ。
 これがそうだと言うように、メイメイは繭の周りを回ってみせた。
「入念に巻いてくれたもんだな」
 予想はしていたが、中身がまるで見えないようになるまで巻きつけてあるとは思わなかった。体を拘束するにしては物々しすぎるんじゃないのか。
 なんにしても、雪華綺晶が現れないうちにこれを切り開かなければならない。先ほどの火炎放射に対するショックのせいで自分の世界かどこかに戻っているのだろうが、気を取り直して出てこられたら今度は手の打ちようがない。
 どれだけ使えるか分からなかったが、俺は剣を振るって蜘蛛の巣状の白茨を切り始めた。最悪の場合繭のままでも、蜘蛛の巣からは切り離そう。無様なだけかもしれないが、切り離せれば抱いて逃げ回ることもできる。
 白茨は意外に脆かった。原作でも茨の刺自体で誰かを傷つける描写は確かほとんどなかったが、これも同じだった。思い切り握って引っ張り、テンションを掛けて一本一本斬っても、茨を持った手は痛い程度で済んでいる。
 だが、斬り落とすたびに他の痛みが走り抜けていった。

 ──586920時間38分ぶりね、真紅。
 ──なぁにそれ。意味あるのぉ?
 ──そういうおままごとにはつきあってられなぁい……

 俺が直接知らない水銀燈の記憶の断片が、茨を一本断ち切るたびに浮かび上がるのだ。それ自体が痛々しいわけではない。痛むのは俺の内心の何処かだった。
 俺と契約してから今日までの水銀燈の闘いを、俺は原作でしか知らない。
 大筋は同じなのだろう。だが、概略を知っていればそれで良かったのか? 良いはずがない。
 水銀燈が笑い、怒り、驚き、虚勢を張り、内心悔しい思いをしていたとき、契約者の俺はほぼ知らぬぞんぜぬを通していた。
 彼女は何も言わなかった。聞かれて答えたのは雛苺が真紅に敗北したこと、それなのに真紅がローザミスティカを取り上げなかったこと程度だ。
 それは俺を必要以上に巻き込むのを嫌っていたせいだ。契約のときは大仰な言い方をしていたが、要は、媒介は必要なときに力を貸してくれればいい、それ以上のことは求めないのが彼女なのだ。
 ローザミスティカに関しては容赦も仮借もないが、自分の媒介には必要以上の関与をさせない。
 本人が意識しているかどうかは分からないが、それが水銀燈の戦い方だった。

「くそったれっ」
 普通の媒介に対してならそれでいい。しかし、俺は水銀燈の行動はおろか、その後何が起きるかまでも知っていた。その気になれば安全に、かついくらでも力になってやれたのだ。
「くそっ、このっ」
 俺は半ば自分への罵りを口に出しながら、柄が細すぎて握りにくい剣を不器用に振るった。

 ほどなくして、繭は蜘蛛の巣から離れた。
 雪華綺晶はまだ現れない。
 メイメイに安全な場所まで案内してもらうことも考えたが、繭が世界を飛び越えるときにどうなるか、自信が持てなかった。中にいる水銀燈もどうなるか分からない。できればここで開けて連れ帰りたい。
 剣を茨の間に強引に滑り込ませ、削ぐようにして断ち切る。いかにも分厚そうな繭を相手にするのには心許ないやり方だが、中にいる水銀燈を傷つけたくなかった。
 不思議なことに記憶の断片は現れなかった。いや、不思議ではないのかもしれない。茨が何らかの方法で雪華綺晶に接続されているのだとすれば、雪華綺晶が俺にわざと水銀燈の記憶を見せていた可能性はある。
 俺は独り言も漏らさず、機械的に白茨を切りつづけた。手にマメができて潰れ、皮が剥けて握ったところの茨にリンパ液と血が滲む。純白だった繭は切り口のあたりが薄汚く汚れていった。

 やがて茨の中に銀色の髪と黒い翼が見えてきた。
「はは、メイメイ。ご主人様だぜ」
 俺は思わず安堵の息をつき、人工精霊を振り仰いだ。メイメイはチカチカと光って返事をした。
 俺は暫く雪華綺晶のことも忘れ、ひたすら丁寧に剣を動かした。だが、剣を動かして更に白茨を切り続けていくと、突然妙な違和感を覚えた。
 その原因は考えるよりも早く自分の目に飛び込んできた。

──ドレスもなにも着てない?

 水銀燈は胎児のような姿勢で、こちらに背を向けて繭の中に横になっている。手足の球体関節は丸出しで、衣装は何も着ていなかった。
 裸を見た、というような興奮はない。むしろ、別のことが頭に浮かんでしまった。

──雪華綺晶にボディを奪われたドールは、素体になっていた。蒼星石も雛苺も。

 まさか、という焦りの思いが、鈍っていた作業のペースを早くした。どうにか体を持ち上げられそうな状態まで繭を切り開いたところで、俺は待ちきれずに水銀燈を繭から抱き上げた。
「水銀燈っ」
「……う……あ」
 背中から漆黒の翼を生やした少女は、のろのろと苦しそうに動き始めた。
「わかるか? 水銀燈──」
 俺が安堵を噛み締める前に、水銀燈は俺の胸にくずおれる。
 その瞬間、今までにない鮮明で連続的な記憶が、洪水のように頭に流れ込んできた。


 俺が水銀燈と距離を置いている間に、事態は原作の筋どおりに、しかもかなりの部分まで進んでしまっていた。

 水銀燈は蒼星石に探し物を教えることとバーターで、俺を夢の世界に連れて行くこと、そして危険だと思ったら俺の心の木をズタズタにしてしまうことを要求した。
 そしてあの日、俺の夢の世界を見た水銀燈は、俺があまりにも予想の斜め上を行く存在だと知って判断を保留した。
 原作では後から乱入してきた桜田と三人のドール達は、水銀燈が俺を即座に夢の世界に引きずり込んだことで間に合わずにニアミスで終わってしまったらしい。
 だが、今度は蒼星石に水銀燈が探し物の在り処を教える段になって、再び夢の世界で会同した二人を桜田たちが追いかけてきた。
 激しい戦いの末、水銀燈は真紅の右腕を引っこ抜き、勢いに乗って全員を倒しにかかったが、これは裏目に出た。
 結局その場では蒼星石とは敵対したが、水銀燈も約束は違えなかった。
 今日、彼女は蒼星石に探し物の在り処を教えた。いつものようにあてどない探索に出ようとしていた蒼星石は、水銀燈と同道して心の木の位置を確かめ、探し物が見つかったと契約者に告げ、彼から翠星石を説得するよう求められると桜田家に赴いた。
 そこからあとは、俺の見てきたとおりだった。

 声が聞こえる。
「真紅の言うとおり……ジャンクなのは私」
 それが水銀燈が呟いている声なのか、頭の中に響いてくるメッセージなのかは分からない。
「ローザミスティカを集めてお父様に会う、そのためだけに動いてる機械みたいなもの」
 なにか言ってやろうとした瞬間、頭の中を今度は整理されていない映像が駆け抜ける。戦っているときの情景ばかりが順番もごちゃごちゃに圧縮されていた。
 最後に、赤い腕を根元から引き千切るさまが浮かぶ。
「姉妹を壊して、六つのジャンクに変えて、それでどうなるの。たった一つの願いがかなうだけ」
 大きな手のようなイメージが浮かんで消える。その後に、桜田を守るように前に立つ真紅と雛苺の姿が浮かび上がる。
「アリスゲームがあるかぎり、姉妹の絆も、マスターとの絆も引き千切られて消えていく。
 だったら、最初からなくていい。千切られてから絶望するくらいなら、最初から絶望していればいい。
 世界には私と、お父様だけいればいい……」
 すべての映像は消え去った。

「……真面目過ぎるよ、君は」
 俺は息をついて、小さな背中を抱き締めた。
 多分、これは体と離れた水銀燈の意識下の心なのだろう、とやっと見当を付ける。原作で桜田が出会った水銀燈も、夢の中で膝を抱えていた。物理的な体の方は蒼星石が連れ出してくれたのだろうか。
「あまり生真面目だから、長い間にそんな風に固まってしまったんだな」
 この声が届くかどうかはわからない。だが、届かなくても構うものか。
「俺がそれを解いてやれるかどうかはわからないけど、死人にどこまでできるか、挑戦してやるよ」
 そろりと立ち上がり、彼女の体に引っかかっていた茨を取り去ってやる。
 メイメイがくるりと回り、彼方を指し示すように飛んでみせた。お帰りはあちらというわけだ。
 俺は頷き、人工精霊の後に続いた。
「逃げ回ってばかりの死人の俺と、馬車馬みたいに真っ直ぐ生き急いでる君。お互いぶっ壊れでいいコンビかもしれないな」
 腕の中から、お馬鹿さぁん、という声が聞こえたような気がした。


7

 くたびれた古いブラウン管テレビを点けたことがあるだろうか。
 リモコンも前面ボタンもないそれは、選局か音量のツマミを引くとトゥン、と独特の通電音がして、音だけが聞こえ始める。
 最初は画像は映らない。画面の真ん中だけがなにやら光っている。
 半秒くらいの間を置いて、光っている部分が全体に広がり、やがてぼんやりと薄暗い画像が映りだす。

 まさにそんな風にして、俺の意識はゆっくりと戻ってきた。
 目を開くと、そこが以前見たことのある場所だとわかる。薄暗い解体寸前の礼拝堂の、撤去され損ねた鏡の前だった。蒼星石が俺を眠らせ、三人で夢の扉をくぐった場所に戻ってきたわけだ。
「お目覚めだね」
 小さな声がする方を見る。蒼星石が手近な瓦礫に座ってこちらを見ていた。傍らに黒い羽毛と銀色の髪が広がっている。水銀燈だった。鞄の中にいるときのように、胎児のような姿勢で横になっている。
 俺はがばっと跳ね起き、そのままの勢いで思わず乱暴に抱き上げた。

──軽い。

 ぞくりとする。こんなに軽いとは思っていなかった。なんとなく、同じ背丈の人間の子供と同じような重さを想像していたのかもしれない。
 黒衣の天使は力なく俺の胸に頭を凭せ掛けた。黒い羽が何枚かふわふわと目の前に舞う。
 背中を冷たいものが伝い落ちる気がした。細い顎の下に手を遣って上向かせる。端正な顔にはまったく表情がなかった。

「意識はないけど、迷子にはなっていない」
 蒼星石の声に俺は安堵の息をつき、水銀燈を助け出してくれた礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
 振り向いてありがとうと頭を下げると、蒼星石は微笑んで首を振った。
 この少女はこんなに柔和な顔もできるのか。初めて見る彼女の表情に、今まで見せていたのとは違う一面を垣間見たような気がした。
「貴方は心の木を一気に伐り倒した。そこから記憶が噴出したのが原因なのだろうね」
 蒼星石は手を伸ばし、目の前に浮かんでいる黒い羽をつまんだ。微笑は翳り、また硬質な表情に戻っている。
「僕らにも心の整理をする時間は必要なんだ。いちどきに多すぎる情報をぶつけられたときにはね」
 そう言う彼女は、自分の心の整理はついているのだろうか。いやに多弁な気がする。まるで、言葉を発することで自分自身を落ち着かせようとしているように。
 しかし、それは無理もないことかもしれない。
「……怖いものだね、いざとなると」
 寂しそうな、それでいてニヒルな笑いが、かすかに浮かぶ。
「水銀燈をここに運んできたとき、見えてしまった。彼女の近くにいたせいかもしれないね」
 何を見たかは言われなくても分かった。
 たぶん遅くとも数日のうちに、薔薇屋敷と呼ばれている結菱家で、蒼星石は桜田とドール三体を迎え撃つことになる。
 物事が原作どおりに進んでしまっていることを疑う要素はもうない。水銀燈が真紅の腕をもぎ取り、その呵責に耐えていたのだから。
 そして、予定外のことが何も起きなければ多分全ては蒼星石の見てしまったとおりに進む。何も起きなければ、だが。
「それでも、やるのかい」
 色の違う瞳がこちらを見た。
「やるよ」
「望まない結末が見えているのに?」
 蒼星石はもてあそんでいた羽を指で弾き飛ばした。色の違う瞳は決意の色を湛えていた。

「それが、『僕』だから」

 月が翳りかけていた。暗がりに慣れた目でも色が分からなくなりかけている中で、彼女は背を向けて立ち上がった。
「だいぶ夜更かしをしてしまった。僕はもう行くよ。明日は万全の状態で臨みたいからね」
 何気ない一言だったが、蒼星石がもう戻れないところまで来ていることを俺は確信した。
 蒼星石が翠星石を連れ帰るのを諦めた翌日、桜田と三人のドールは薔薇屋敷に乗り込むのだから、もう彼等への宣戦布告は済んでしまっているはずだ。恐らくここにくる直前に桜田の家に赴いたのだろう。
「俺は暫く様子を見て、ぼちぼち帰るとするよ」
「それがいいだろうね。水銀燈も貴方の近くに居た方が目覚めが早いだろう」
 何事もないような言葉を俺たちは交わした。
 蒼星石は迷いの一切ない足取りで鏡に向かい、人工精霊を呼んだ。彼女の忠実な相方は無駄のない動きで鏡に近づき、表面を波立たせた。
「明日は敵対するかもしれない。もしそうなったときは全力でお相手するよ、水銀燈のマスター」
「望むところだ」
 俺は腕の中の小さな少女を見つめた。
 水銀燈に、考え方やらやり方について言ってやりたいことはある。
 だが、彼女が望むなら望むだけ、俺は力を与えるだろう。媒介だから、契約者だからというのはさして重要じゃない。いずれ強制的に力を奪われるからでもない。
 顔を上げると、蒼星石は鏡に腕を突きたてていた。波紋が広がり、腕は異空間に入り込んでいく。
「それじゃ……」
「蒼星石」
 振り向いた彼女に、水銀燈を抱いた窮屈な姿勢のまま俺はもう一度頭を下げた。
「ありがとう。君のお陰で俺たちは助かった、二人とも」

 蒼星石がここに連れてきてくれなければ、水銀燈の体は心と離れ、ずっとnのフィールドを漂うことになったはずだ。そして、そうなってしまえばいずれ俺もあの白い夢喰鬼に捕食されてしまっていたに違いない。
 俺が心の木を伐り倒した瞬間に記憶が噴出し、その一部を「見てしまった」だとすれば、水銀燈の体を抱えてこちらの世界に戻ってくる時点で蒼星石は既に知っていたはずだ。
 自分が明日自刃に近い形で契約者の望みに決着を着けることも、そのとき自分が翠星石に託そうとしたローザミスティカを、水銀燈が横合いから奪うかもしれないことも。
 それでも蒼星石は水銀燈の体を夢の世界から連れ出し、無防備な状態の彼女を置いてひとり姿を消すこともなかった。
 そんな蒼星石の姿勢は甘いといえば甘いのかもしれない。しかし、今は素直に感謝したかった。

「僕は特別なことは何もしていない」
 蒼星石は照れたようにかすかに微笑み、静かに首を振った。
「水銀燈との約束を果たしただけさ」


 水銀燈は家に帰り着いてからすぐに意識を取り戻した。
 運んでいる間でなくて良かった。自転車の前籠に入れられて運ばれるというのは彼女にとって愉快な体験ではなかったろうから。
 もっとも、そのことを知らなくても水銀燈の機嫌が良くないのは同じだった。
「人間に抱きかかえられていたなんて……おぞましいったら」
「じゃあどうすれば良かったんだ、あのまま目を覚ますのを廃屋で待ってろとか?」
「その方がまだマシだったわ」
 水銀燈は窓枠に横向きに座った。怒気のせいか顔が紅潮しているのが、薄暗い照明の下でも分かる。
「それで、用向きはなぁに? 聞くだけは聞いてあげる」
 俺は細めのショットグラスにライム汁と氷を入れ、アルコールの代わりに水で割った。レモンを添えてストローを挿して手渡しながら、明日のことはどうするつもりなのかと尋ねた。
 水銀燈は緑色の液体を飲みにくそうに口に含み、酸っぱさをまともに食らってなんとも言えない顔つきになったが、それについてはコメントせずに答えた。
「貴方から力を吸い上げることになるかもね」
「横取り決行か」
「そうよ。好機は好機。見逃すわけにはいかないもの」
 赤い瞳がこちらを見る。
「ただし、蒼星石があのとおり動くかは分からない。そこは五分五分」
 片膝を立てて窓枠に背をもたせ、月を見上げながら片手でグラスを揺らす。もう少し細いグラスならさぞかし絵になるだろう。
「かなり苦しむことになるんじゃないのか、取り込んだら」
「大したことはないわ、そんなこと」
 言い切って、またストローを咥える。勢い良く吸い上げて、また眉を顰めた。
「翠星石に揃えさせる訳にはいかないのよ」
 空になったグラスをこちらに差し出す。お代わりかと尋ねてみると、別のものにしなさいと少し強い口調になった。

 チョコレートと冷たい紅茶で口直しをしてから、水銀燈はやや機嫌を直したようにテーブルの向こう側に座った。
「如雨露と鋏が揃ったら、さっきの貴方と同じことがいつでもできるのよ。他人の生きた樹相手にね」
 チェーンソーのようには行かないが、時間を掛ければ人間の心を確実に殺してしまえる。
 それで他のドールの媒介を端から潰していけば、アリスゲームは翠星石の思いのままというわけだ。
「性格的に無理なんじゃないか、そういうことは」
 桜田の許にいる姉妹は、真紅を除けばある意味ゲームを半ば投げていると言っていい。翠星石は特に、桜田と蒼星石がいればゲームなどどうでもいいと考えて……いたと思う。
「今みたいに他のドールがそれぞれ孤立している状態で──お馬鹿さんの真紅は雛苺を半端な形で従わせているけど──独りで倍の力を持っていたら、どう考えを変えるか分かったものじゃないわ」
「疑い深いなぁ」
「──今ここで力を全部吸い上げてあげましょうか?」
 俺は少し考えてから肩を竦めてみせた。
「それはあまりいい方法じゃないように思えるな。まあ、取り敢えず今は勘弁」
「いつまで他人事みたいに言えるかしらね」
 水銀燈はふんと鼻で笑ってまた窓の外に視線を転じた。
「とにかく、他の姉妹に渡してしまうくらいなら私が持っている方が安全というものよ。真紅が2つめを持つことがあり得るのだから、特にね」
「……雛苺の分、か」
 しかしそれは同時に、あの雪華綺晶に雛苺のボディが奪われることを前提にした話でもある。

──あれだけは駄目だな。

 先ほど夢の中で会った白いドールを思い出すだけで、耳の後ろが粟立つような気分がする。
 他愛ないハッタリであっさり引いてくれるあたり、案外目の前の黒衣の少女などより余程与し易い相手かもしれない。チャンスを掴むのは上手いが、手が込みすぎていて墓穴を掘ったようなところもある。稚拙と言ってもいいだろう。
 蜘蛛のような捕食方法にしても、単独になったところを狙って行くやり口も、独りローザミスティカの争奪を放棄して姉妹の体を欲しがることも、存在の特異性とこれまでの経緯を考えればいっそ哀しく致し方ないことなのかもしれない。
 だが、なんというか、駄目なのだ。頭では分かってもいざ対面して相対してみると生理的に受け付けない。
「七番目は誘き出して叩くしかないわ。今のところね」
 水銀燈はどこか作文を読むような調子で言った。
「そのためには雛苺と蒼星石のボディは餌として必要ってことか」
「そう。物質化しているところを潰すほかに七番目を倒す方法はないのよ」
「いや、もう一つある」
 水銀燈は訝しげにこちらを見る。俺はその前に菓子を並べた。
「相手が例の取引を持ちかけてきたらそれを呑む。君はゲームに勝利し、相手は君以外の全姉妹の体を手に入れる。履行されればどちらにもハッピーエンドだし、場合によれば隙を突いて倒すことだってできるだろ」
 水銀燈は菓子に伸ばしかけていた手を中途で止め、何か言いかけてやめた。
 ふっと息をついて彼女が口にしたのは、恐らく最初に言おうとしたこととは別の言葉だった。
「自分を買い被るのもいい加減になさい、お馬鹿さぁん」
 どこかわざとらしいゆっくりした手つきで菓子を手に取り、包み紙を綺麗に剥いて中身を口に入れる。
「あれは漫画のジャンクな媒介と私が特別親密な関係にあったから持ち掛けられた話でしょう。媒介が貴方じゃ有り得ないわぁ」
「それもそうか」
 口ではそういいながら、俺は眉間に縦皺を寄せるような勢いで眉を顰めた。……そうだったのか?
「ええ。間違いないわ」
 彼女もなぜか少し早口に言い、ティーカップに口をつける。
「で? それだけなのかしら、用件は」
 明日のために少し寝ておきたいんだけど、と彼女は時計を見上げた。俺も釣られるように壁の時計を振り返る。
 あの世界の中での体感時間は莫大な長さだったが、実際の時間ではまだ日付が変わったところだった。まさに夢の中ということなのか。
「もう一つあるんだ」
 正面を見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合って、自然に俺は居ずまいを正した。
「俺の前世の記憶は多分、次に目覚めたときには消えてる」
 水銀燈は固まったような、口の端を吊り上げるような表情になった。

 短期記憶は睡眠時に整理されるという話だ。おそらくその時に、前世の記憶は抜け落ちていく。根拠はないが確実な予感がある。
 今も次第に昔の記憶の鮮明さが失われていくのが分かるのだ。
 さっきの取引うんぬんの話も、水銀燈に指摘されても、漫画の中で柿崎めぐのことを絡めていたかどうかあやふやのままだ。PCの中のカンペを見れば分かるかもしれないが、それは読んで思い出すというよりは読んで知るということに近い作業になるだろう。
 案外今の今まで前世の記憶を引っ張っていられたのは、さっき噴き出した記憶にあてられているからで、本来の古い記憶は既に消えているのかもしれない。どちらにしても長いことは保たないだろう。
 前世の記憶が消えたときの俺は、果たしてどんな木偶の坊になるのか。
 幸か不幸か元々頭のいいほうではないから、傍目から見れば何の変化もないように見えるかもしれない。

「当然の報いね。自分で自分の心を刈り取ったんだもの」
 水銀燈は冷ややかに言い放ったが、表情は少しずつ歪んで行き、すぐに嘲笑に変わった。
「あは、あっはははは! そう! 今まで散々何でも知ってるって顔で余裕ぶってたくせに! あはははは」
「余裕ぶってた訳じゃないさ」
 俺はぶつぶつと応えた。実際のところ、特に水銀燈の薇を巻いてからは状況を変えたくない心理が先に立って、余裕どころか逆に思い悩むことが多かった気がするが、さっきの謝罪を繰り返すのは気恥ずかしい。
 目の前の黒い翼の少女は、そんなこちらの態度を見てか、まだ笑いつづけている。
「あは、あは、あはは……おっかしー」
 目の端に涙さえ浮かべているのが少々癪だ。
 さすがに笑いすぎだろう、と目の前の菓子と飲み物をさっと片付ける。水銀燈はむっとした顔になって笑いやんだ。
「それで何が言いたいわけ? もう役立たずだから契約を解いて下さい、ってことぉ?」
 人をあしらうときの、少しばかり語尾を伸ばすような言い方になってこちらの様子を眺める。
「そうねえ、媒介としては使うけど、お望みなら契約は解いてあげてもいいわよぉ? どっちにしても──」
「それは好きにしてもらっていい」
 俺は被せるようにして水銀燈の言葉をさえぎった。
「俺の覚えていた限りのことは、さっきの一件でまるまる君に伝わってる。つまりこっちに記憶があってもなくても、情報源としての俺の役目は終わってるってことに変わりはない」
 あとは、純粋に水銀燈の力の媒介としての役目だけだ。それも、別に契約を必要とするわけでもない。彼女がその気になればいつでも誰でもドレインはできるのだから。
「ただ、一つだけ──今の気持ちを整理しておきたいんだ」
 水銀燈はまた口の端を吊り上げるような表情になった。
「遺言のつもり?」
「まあ……そんなとこかな」
「殊勝なこと」
 そう言う顔はまた嘲笑の一歩手前という風情だった。俺は目を閉じてひとつ息を吐き、よしと水銀燈を見据えた。
 水銀燈が笑いを引っ込めてこちらを見直す。目が合ったところで漸く俺は口に出した。
「君が好きなんだ」

 元々、俺は誰かの熱烈なファンというわけではなかったと思う。思う、というのは今もその頃の記憶が次第に抜けていくのが分かるからだ。
 ただ、強いて言えば漫画では水銀燈と雪華綺晶がお気に入りのキャラクターだった。
 メインヒロインの真紅や、そこに親しく出入りしている姉妹には(ヒキコモリだからどうとかいうことは置いておいて)マスターとの楽しい暮しがある。自然と、かけがえのないみんなの今を守るというような雰囲気になる。特撮ヒーロー物の王道のような話だ。
 だが水銀燈には暮しはない。たった一人の壊れかけの媒介がいるだけ。
 雪華綺晶に至っては誰もいない。理解者すら与えられず、アリスゲームの盤上に立っていると言いながらも目的はゲームの進行ですらない。
 何故かそういうところが、当時の俺にはツボだったのだろう。

 その前提があって今の気持ちがあるということを、俺はネガティブな意味では捉えていない。昔憧れていた子に似た人を好きになったっていいじゃないか、と思う。
 また逆に、昔の記憶がなくなってしまえば、何かのストッパーが外れて彼女に対して年齢相応の熱烈な恋をするかもしれない。それも否定しない。
 ただ、今の気持ちが、昔の記憶が無くなってからも同じように続くことはないだろう。
 仮に同じところから続くとしても、それは今の俺の預かり知らない新たな始まりなのだ。
 その意味では、これはまさしく遺言のようなものだった。

「人形に恋をするなんて、とんだフェティストね」
 やれやれと水銀燈は大仰に肩を竦め、掌を天井に向けて首を振ってみせた。
「死人は人間を愛することもできないってことかしら?」
「そりゃ斬新な視点だな」
 思わず苦笑すると、水銀燈は楽しそうな笑い声を立てた。
「まあ、それで……君には怒られてばかりだったし、苛々もさせたし、迷惑ばかりかけどおしだったけど」
「そうね。こんなに手のかかる媒介は初めてだったわ。契約がこんなに重荷になるなんてね」
「そこは悪かったと思ってる」
 何度目になるかわからないが、俺は頭を下げた。
「だけど、君に会えて良かった。本当に感謝してる」
「当然ね。どれだけ感謝されても足りないわぁ」
 それ寄越しなさいよ、とさっきこちら側に寄せてしまった菓子を指す。
「手厳しいな」
 目の前に置いてやると、当然でしょ、と水銀燈は菓子の子袋を破った。
「言いたいことはそれで終わり?」
「ああ」
 俺は椅子を引いて立ち上がった。
「御清聴ありがとう。シャワー浴びて寝るよ」
 彼女は菓子をぽりぽりと齧りながら、視線をこちらに向けもせずひらひらと手を振った。
「そうなさぁい。これ食べたら私も鞄に入るわぁ」
「おやすみ、水銀燈。寝坊するなよ」
「失礼ね、貴方じゃないわよ。おやすみ」


 シャワーを浴びて寝間着に着替え、部屋に戻ると、水銀燈の姿はなかった。
 言っていたとおり、明日のために早めに鞄の中に戻ったのだろう。動機は違うが、彼女も蒼星石と同じく、俺の知っていたそのままの行動を取ることになったわけだ。
 布団を敷いて蛍光灯を消し、布団に潜り込む。複雑な気分だった。
 結局俺の存在はなんだったのだろう。俺の記憶を持とうが持つまいが、今後の彼女達は同じ道を行くということなのか。
 妙な話だが、自分が完全に消えてしまうとかいう、ありがちな悲劇的な状況でないのがもどかしいような気もする。現に、こんな状況だというのにもう睡魔がそこまでやってきている。我ながら緊張感のない話だ。
 朝起きたら記憶がだいぶ欠落していて、ひょっとしたら忘れたことさえ分からないかもしれない。まあ、それだけの話だ。どちらかと言えば喜劇的かもしれない。
 うつらうつらとそんなことを考えていると、かすかな風を切る音が聞こえた。
「まだ起きてる?」
 水銀燈は少し離れたところから声を掛けてきた。開け放たれた窓枠に座っているのかもしれない。
「いま布団に入ったところさ」
 なんとなくそちらに寝返りを打とうとすると、いいから寝なさいよ、と水銀燈は言った。
「柿崎めぐって子の病室を覗いて来たのよ」
 意外だが、なんとなく頷けるような気もする。
「少しは元気になったのかい、彼女」
「さあね……」
 そこで暫く声が途絶え、かさりと小さな音がしたかと思うと、今度は背中のあたりで声がした。
「貴方の記憶を見せられて、あの子のことを可哀想だと思ったし、興味も湧いたわ。少しはね」
 でもあの子じゃ駄目ね、とふっと息をつく。
「私は天使じゃないから」
「漆黒の堕天使でいいじゃないか」
 ぼすっ、と腰の辺りに衝撃がくる。蹴ったのか殴ったのか。
「ああもう全く、最後まで口の減らないったら」
 ぼすぼす、と更に何度か、あまり力の乗っていない攻撃を加えたあと、水銀燈は続けた。
「あの子が薇を巻いていれば、今より確実に癒されてたでしょうね。あの子のために自分を犠牲にしても何かしてあげたいと思っていたかもしれない。七番目に捕えられたら何処までも追いかけて探しに行ったかもね」
「間違いなく、そうなってたさ」
 柿崎めぐと水銀燈の境遇はとてもよく似ていた。二人はお似合いのカップルみたいなものだったはずだ。
「でも、メイメイも私も貴方を選んだ。今はそのことを後悔してないわよ」
 どんな返事を口にすればいいか途惑ったが、ありがとうという月並みな言葉しか言えなかった。
 暫く水銀燈は黙っていた。俺の方はさっきの彼女の一言で安心したせいか、現金にも眠気がまた忍び寄ってきていた。
 はっきりしない意識の中、多分こんな言葉を聞いたような気がする。
「今までこんなに世話を焼かせた媒介はいなかったけど……嫌いじゃなかったわよ、貴方のこと。おやすみなさい、良い夢を」



[19752] 第一部 アリス・ゲーム  第一章 胎動
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 03:51
1

 …
 ……
 ……
 夢。
 夢を見ていた。

 見たことのない、柔らかな表情で赤い眼の女の子に手を引かれて、ひどく懐かしいところに二人で戻ってゆく夢だった。

 その女の子が水銀燈と同じ服装をしていた理由はなんだろう。
 理由はすぐに思い当たった。俺は真っ赤になった。
 布団から顔だけ出して、恐る恐るテーブルの脇の大きな鞄を見てみる。
 幸いというかなんというか、黒いドレスの小さなお姉さんはまだ起きていないみたいだ。

 うはぁぁぁぁぁぁ。恥ずかしすぎる。死にたい。ていうか死ぬ。俺乙。

 俺は布団に包まったままゴロゴロと転げまわった。あれはこの後一生忘れられそうもない。

 俺は、ローゼンメイデンの第一ドール水銀燈の契約者だ。もっとも、水銀燈からはもっと簡単に「媒介」とか「人間」で済まされている。たまにマジになると「貴方」に昇格するからちょっと嬉しい。
 彼女と出会ったのは四月の頭で、それから俺たちは少しずつ愛を育んできた……訳じゃない。
 そもそも媒介とか契約は好き嫌いとあんまし関係ないみたいだし、水銀燈は俺のことを全然そういう目で見てないらしい。
 でも、俺のほうでは水銀燈を好きになってしまった。それについては色々とあるんだけど、あれだ、上手く言語化できないってやつ。別の言い方すると説明が面倒臭い、ってかぶっちゃけ恥ずかしい。

 取り敢えず、俺は水銀燈に昨日の晩、君が好きだと告白してしまったのである。

 彼女の反応は超クールだったけど。
 そりゃそうだよな。水銀燈は人間じゃない。生きてるけど人形だ。レンアイ対象としてどーかとは思う。

「でもしょうがないだろっ、好きになっちゃったんだから」

 う、口に出したらまた恥ずかしくなってきた。もう一度ゴロゴロと転がってから、俺は立ち上がって頭をぼりぼり掻いた。
 取り敢えず、水銀燈が起きてくる前に布団畳んで着替えて朝飯食ってしまおう。うん、それがいい。


 ところで、今日はとても大切な日なのだ。
 あ、俺がじゅうろくさいになったひ、ではない。まだ中学生なんで念のため。
 今日、桜田ジュンとローゼンメイデン三人が、坂の上のでかい屋敷に殴りこみにいく。水銀燈はそれに便乗して、戦闘で弱った奴からローザミスティカを奪おうとしているらしい。

 凄い! なんて頭脳派な行動! さすが冴えてますね姉御!

 ……じゃなくて、それはどうかと思うんだ。
 どういうわけか知らないが、悪いことが起きそうな気がするんだよね。ローザミスティカはローゼンメイデンのエンジンみたいなもんだけど、それ2つ持ってるからってパワーが単純に倍増ってこともないみたいだし。
 なんつってもエンジンの燃料は俺の生命力? らしいから、俺が一緒にいないと何個持ってても大して変わんないだろうし、俺がいるときでも燃料が倍に増えるわけじゃないんだよな。
 で、敵はエンジン3つに燃料タンク1つ、とエンジン1つにタンク1つの組み合わせ。
 水銀燈としては多分エンジン1つの方が弱ったとこで、そいつのミスティカゲットだぜ! なんだろうけど、相手のほうがだいぶ弱っててくれない限り、まともに相手したら逆にやられてしまうんじゃないのか。
 あと、ミスティカを奪ってツインエンジンになってちゃんと動くのか? ってのも気になる。
 なんで気になるのかよくわからんけど、絶対まずいことになりそうな予感がする。
 心臓移植とかでもそのときは大丈夫でも、後から拒否反応とか出て結局上手くいかないことがあるだろ? ミスティカもそんなことになりそうな気がするんだ。
 そんな訳で、俺としては水銀燈を止めたい。彼女を止めるなんて媒介として失格かもしれないけど……それに、そんなことをして嫌われるのも怖いけど、悪い予感がおさまらないんだ。

 問題はその方法だったりする。
 水銀燈に直接言うのは、多分無理。俺の言うことで行動を変えるようなお姉さんじゃありません。
 それに、細かいとこまでは覚えてないんだけど、昨日寝る前に話した時は水銀燈も悪いことが起きるかもしれないって覚悟はしてるみたいだった。覚悟完了した人を説得するのは俺には無理だ。
 次は、水銀燈に頼んで俺も一緒に連れてってもらうこと。んで、羽交い絞めとかで腕力に任せて止める。
 これも×。今まで水銀燈が俺を戦いに連れてったことは一度もないんだ。今度に限ってOKしてくれるなんてことはあり得ない。
 こっそり後をつけていくのもダメ。
 今度の戦いはnのフィールドって亜空間みたいなところが舞台になる。もし自力でそこに入り込めても、多分中で迷子になってしまう。
「やっぱし、あの方法しかないかなぁ」
 歯を磨きながら、もごもご呟いてみる。気乗りしないんだけどしょうがない。
 あ、今度から歯磨き粉は塩の味のしない奴にしよう。なんか気持ちが悪い。

 鞄が開いた気配がないのを確認して、俺はそぉーっと家を出た。コーンフレークと牛乳で朝飯にしたのは初めてだけど、ガス台使ったりして気配で水銀燈を起こしたくなかったんだ。
 まず、手土産が必要だ。何がいいんだろう?
 最初に開店したばかりの本屋に寄ってみる。なんとなく直感が閃いてハヤカワのSFを手に取った。
「三冊で2400円かよ……」
 あうち。いきなり痛い出費になってしまった。
 次になんとなく選んだのは「レンジでできるお料理入門」。こっちは1000円台で済んだ。
 それからおもちゃ屋でちっちゃな人形何体か。店員さんに妹さんに上げるの? と聞かれてしまった。ハイと答えたらにこにこしながら簡単にラッピングしてくれた。何故か胸が痛い。あと財布にも痛かった。
 最後に、不死屋で売れ線の菓子を買い込む。これで準備は完了だ。
 同時に俺の小遣い分もほとんど終了してしまったけど、これも水銀燈のため……。な、泣いてなんかいないもぅん。
 時計を見るともう十一時前だ。やばい。急がないと昼飯の時間になってしまう。

「えーと……こんにちわー……」

 俺が主に眼のあたりから出た汗を拭いながら向かった先は、桜田の家だった。
 桜田は、今は三人のローゼンメイデンの契約者なんだけど……一年のときにちょっとした事情から不登校になってしまった。
 そこから、俺たちは一度も顔を合わせていない。

 文化祭のときに学年対抗で女王を決めるんだけど、そのための衣装のデッサンを桜田が宿題のノートに描いてたのをクラスの奴が見つけて、面白半分に黒板に貼り出した。
 下手ならまだ良かったんだろうけど、桜田の描いた衣装は誰が見てもプロ級だったんだよな。それがエロいとか上手すぎるとか、衣装のモデルの桑田が可哀想だとかで大勢がよってたかって黒板に文句を書き殴ってしまった。
 俺が登校したときはもう、桜田が黒板の絵と落書きを見てゲロ吐いて保健室に連れて行かれるところだった。なんのことかよく分からずに黒板拭いたけど、黒板消しで足りずに雑巾で拭き取ったくらいひどい落書きだった。
 実は、俺は偶然……だったと思うんだけど、その何日か前、桜田が宿題のノートにやばそうな絵を描いていたのを知ってる。でもそのときは、桜田も自分で気がついてデッサンを描いたページを切り取ってカバンに仕舞っていた。
 それをわざわざ見つけ出して、多分放課後か登校時間前に貼り出した奴がいたわけだ。不登校の直接の原因はそいつらってことになるんだろうけど、担任の梅岡先生がそいつらを連れて桜田の家に謝りに行っても桜田は会いもしなかったみたいだ。
 当たり前って言えば当たり前か。クラスみんなにいじめられたようなもんだし。
 学年が変わってクラス替えもあった。一応桜田といじめた連中は別クラスになるように組まれたみたいだけど、桜田はまだ一度も学校に顔を出していない。
 ちなみに俺は相変わらず桜田と同じクラスで、担任も梅岡先生のままだ。
 桜田だって、登校してくればそれなりに楽しいと思うんだけどなあ……。でも、家に三人も可愛い女の子がいれば、そっちのほうが楽しいのかもしれない。

 そんなこんなで、あまりどころかとても気乗りしないけど、俺は桜田家のインターホンを鳴らした。
「はーい、どなたですか?」
 なんか可愛い系の声がインターホンから聞こえる。う、これはまさかドールの誰か? いやいやいや、まさかなー。
 いや、そうじゃなくて。挨拶しないと。
「桜田ジュンくんの同級生です、はじめまして」
 一瞬間が空く。なんか厭な間だな、と思っていたら、半オクターブくらい高くなった声で、まあ、どうぞどうぞって言われて扉が開いた。
 顔を出したのは、ちょっと桜田に似た、ウェーブのかかった髪の女の子だった。桜田のお姉さん……かな?
「こんにちは、ジュンくんのお友達なのぅ? はじめまして」
「はい、桜田くんに会いたいなって……」
「あらぁ、それじゃ上がって待っててもらっていいかしら? いまジュンくんお部屋なの」
 俺を客間っぽいフローリングに通すと、お姉さんはぱたぱたと廊下を走っていった。
 やべえ、むちゃくちゃ可愛いじゃんお姉さん! これは引き篭もりたくなるね! ってか都合四人のハーレムかよ! 普通に学校行く気なくなるんじゃね?
 ってお姉さんは学校行ってるなら関係ないか。
 あーでも畜生、引き篭もりなのに女の子たちとキャッキャウフフのリア充とかどうなってんだよ。世の中不公平すぎるだろ。

 そんなことを考えていると、スリッパの音がぱたぱたと聞こえてきた。
「ごめんなさいね、そのぅ……ジュンくん、今ちょっと具合が良くないみたいなのぅ……」
 お姉さんの顔は困ったような、ちょっと泣きそうな感じだった。うん、明らかに嘘だよねそれ。なによりもその表情が物語ってます。
 この人をもっと困らせるのは心が痛むんだけど……ここは言うしかない。

「大事な話なんです。蒼星石のことで──」

 言いかけた途端、がたん、とドアの外で音がした。反射的にそっちを向くと、ガラス戸にひっついてる髪の長い金目銀目と、金髪縦ロールの小さな姿がある。
 しかしなんだ、盛んに指差してなんか言ってるけど、俺の左手の薬指がそんなに気になるのか?
 左手の甲を見せてコンニチワと手を振ってみると、金目銀目がせいいっぱい手を伸ばしてドアレバーをぐいっと押し下げ、ドドッと走ってきて……お姉さんの足の後ろに隠れた。もう一人も同じように走ってきて、逆側に隠れる。なんだそりゃ。
「あ、あのぅ……二人とも」
「や、やい人間、蒼星石の何を知ってるですか! 洗いざらい全部吐きやがれですコンチクショウ!」
 お姉さんの後ろからべそかきそうな顔で言われても怖くないんですけど。っていうかお姉さん無茶苦茶困ってるじゃん。
「それとその指輪、契約の指輪なのよー。誰のなのー?」
 あんまりびびってない感じの縦ロールの子が、俺の左手を指差して首を傾げる。
「あ、これは──」
「チビ苺は黙って真紅とチビ人間を呼んでくるです! こいつの尋問は翠星石の仕事なのです!」
「うゅ……」
 チビ苺……雛苺って子だよな、確か。しぶしぶという感じでお姉さんの足から手を放して、俺とお姉さんと金目銀目……こっちが翠星石か。その三人を交互に見つめている。
 お姉さんは俺の方を見てごめんなさいと言うように頭を下げた。
「それじゃヒナちゃん、一緒にジュン君たち呼びに行こう?」
「うー、うん」

 お姉さんに手を引かれて、なんか名残惜しそうにこっちを振り返りながら雛苺がドアの向こうに消えると、部屋には俺と翠星石だけになった。
 視線を合わせてみる。びくっとしてソワソワし始める。
「あ、えーとその……」
 ぎくぎくって感じになった後、泣きそうな目でじーっと睨みつけてくる。

──ファンが多かったのも道理だな。この上目遣いは反則だろう。

 ん? 今なんでそんなこと思ったんだ俺。そもそもファンってなんだよ。
 まあいいか。
「薔薇屋敷に行くんだよな?」
「なっ、なんでお前がそれを知ってるですか」
 いちいち反応するのが可愛い。くそう、桜田……この調子であと二人もいるなんてマジでハーレムじゃねーか。
 でも……あれ?
「白ァ切るつもりですかっ、とっとと喋りやがれですこのアホ人間」
「あ、蒼星石から聞いたんだ、昨日の晩」
「え……」
 じりじり接近していた翠星石の勢いが止まった。
 と同時に、俺のほうも思考が止まってしまった。
 蒼星石から聞いたのは間違いないんだけど、おかしい。なんだかその前から知ってたような気がする。蒼星石から聞いたんじゃなくて確認を取っただけみたいな覚えも……
「蒼星石と、会ったですか」
「うん」
 それは確実。夢の中じゃない。っていうか、俺と蒼星石と水銀燈で俺の夢の世界に入ったんだけど、さっきの話を蒼星石から聞いたのは出てきた後だ。……ん? いや合ってるはず。
 あるぇー、確認取ったってのが覚え違いなのかな。どうも昨日の晩のことはよく思い出せない。
 まあ、大事なことに気を取られてて、細かいことは忘れちまったんだろう。忘れるくらいだから大したことはないんだ。うん。
 なんて考えてたら、翠星石が俯いてしまっている。
「やっぱり、戦うって言ってたです……?」
「……うん」
 あ、やばい。泣く。
「う……」
 ぽろぽろと落ちる涙はまるで真珠のようで。じゃなくて。
「泣くなー!」
「な、泣いてないですコンチクショー!」
 顔を真っ赤にしてなんか手当たり次第に投げつけようとしたみたいだけど、生憎とフローリングの床の上には投げるもんがない。
 どうするかと思ったら接近戦に持ち込んできた。フッ、だが貴様は所詮ちびっ子! 立ってしまえば圧倒的な背丈の差が……あれ?
「ちょ、あ、足痺れて立てねえしっ」
「フッ……お前の動きは見切っていたです、くらえっ」
 翠星石は数少ない飛び道具、クッションを投げつけ、俺の視界を奪ってからフライングボディプレスをかましてくる。たまらずひっくり返ったところをそのままマウントポジションに移行しやがった。
 くそぉ、体勢が崩れすぎていなければ……ていうかつい正座してた俺が悪いんだけど。
「うわわ、いて、いててててっ、髪むしるなっ」
「さあさあさあ、観念して全部ゲロするです……って」
 翠星石の動きが止まった。チャンスとばかり相手の両腋の下に手を突っ込みリーチの差を最大限に利用してひきはがし……
「……ん?」
 なんだか翠星石は脇の方に視線を向けている。
 その先を追ってみると。

「会ったばかりだというのに随分仲がいいのだわ」
「ヒナ知ってるの。二人はすでに強敵と書いてトモと読む仲なのよー」

 雛苺とお姉さんに挟まれるようにして、赤いドレスを纏った片腕のドールと、それを抱いている桜田がいた。
 視線を戻す。自分の姿を確認してみる。OK。
 俺は半分膝を立てて仰向けに寝っ転がり、両手を真上に最大限に伸ばして、翠星石さんを精一杯高い高いしています。
 あ、やっと向こうもこっちを見ました。目が合ったでござる。

 眼を反らさず見詰め合う俺たち二人の瞳の間に何か見えない光が交錯してッ……
 漢と漢の友情が今ッ……!!

「……いいかげん下ろしやがれです」
「はい、そうですね」


「えーと、順番ぐちゃぐちゃになっちゃってすいません、これ……」
 幸い潰れもせず原形を留めている菓子箱をテーブルの上に置く。向かいに座っている雛苺の瞳がぱあっと見開かれた。
「うにゅーなのー」
「うにゅう? い、いや苺大福だけど」
「ふふ、ありがとうございます。ヒナちゃんは苺大福のことをうにゅーっていうのよ」
 お姉さんは優しく笑って雛苺に苺大福をあげている。なんか、和むなぁ。姉妹っていうか親子みたいだ。

 そういえばこの子達、似てないけどみんな水銀燈の妹なんだよな。
 正面で左手一本で不器用に紅茶を飲んでる赤いドレスの子……真紅を見て、なんだか複雑な気分になった。
 真紅の右腕は、水銀燈が壊した。事故とかじゃない。最初からやる気で、もぎ取った。俺はその場にいなかったけど知ってる……ん? なんで知ってるんだろう。
 多分本人から聞いたんだと思うけど、いつ聞いたんだか忘れてる。今日はやけに多いな。
 俺の頭がぶっ壊れなのは置いとくとして、やっぱ、姉妹で壊し合いするのって良くないよなぁ。こんな風に楽しくやってるのに、最後はみんな壊れて独りだけになっちゃうなんて切な過ぎる。

 水銀燈は切なくないのかな──

「──で、お前は蒼星石の何を知ってるですか」
 はっとして隣を見ると、翠星石がこっちを見上げている。
 テーブルが小さいんで渋々隣に座ることにしたみたいだけど、こっちとしてはさっきのどたばたのせいか、他の子や桜田に隣に居られるよりは気が楽だ。
 これが拳と拳で語り合った仲というやつなのか? いやいや。
 しかし、何から話していいのか……
 ほんの少しの間微妙な沈黙が流れた。
 一番最初に動いたのは、お姉さんだった。
「……ジュンくん、お姉ちゃんちょっとお台所に行くからよろしくねっ」
 ごゆっくり、と俺に頭を下げてお姉さんは出て行った。明らかに空気読んで席を外したな、お姉さん……。

 なんとなくドアが閉まるまでお姉さんを見送ってから、俺はその場の人をそろりと見回した。
 桜田以外全員こっち見つめてる、というより睨んでる。当たり前か。
「蒼星石が薔薇屋敷で私たちを待っている。それは知っているわ」
 ティーカップを置いた真紅が静かに言った。
「昨日の晩、蒼星石本人が言い残して行ったの。だから、私達は薔薇屋敷に行かなければならない」
「そっか……」
「貴方がそれを告げに来ただけならば、用はもう済んでいるのだわ」
「あ、いや俺はそのことを言いに来たんじゃない」
「そう」
 真紅はちょっと微笑んだ。あ。今の……ひょっとして助け舟なのかな。
 ありがとうと言うのもなんだけど、ちょっとだけ真紅に頭を下げて俺は話し始めた。
「蒼星石は、自分のマスターがほんとは何を望んでるか知ってるんだ。マスター本人は気づいてないみたいなんだけど」
 不思議なほどすらすらと言葉が出てくる。まるで俺じゃない誰かが喋ってるみたいだ。
 ちらっと翠星石のほうを見ると、俯かないでちゃんとこっちを見ていた。
「だけどマスターが気づかなければ、蒼星石は言いつけどおり翠星石と戦う」
 スカートを握っている翠星石の手がぎゅっと握り締められる。
「気づいたら……どうなるです?」
「蒼星石はマスターの心を覆ってる殻を壊す。それがマスターの本当の願いだから」
「それは……ダメです!」
 翠星石はがばっと立ち上がって俺の襟元を掴んだ。
 ぐっ、二度までもインファイトに持ち込むとはッ、このちっこい少女のどこにこんなスピードとパワーがっ……
「や、やめれ」
 なんとか翠星石の両肩を押さえる。取り敢えず止めさせないと俺が死ぬ。ていうかマジやばい、主に絞め落とし的な意味で。
「マスターの心は蒼星石の心なんです。それを無理矢理壊すなんて……そんな無茶したら蒼星石まで……」
 攻撃再開かと思ったら、翠星石はそのまま下を向いてしまった。
 やばい。これは、また泣く。
「冷静におなりなさい、翠星石」
 真紅がぴしゃりと言うと、翠星石ははっと気づいたように俺の襟元から手を放した。
 凄いな真紅。なんかリーダー的存在みたいだぜ。っていうか、俺にお説教するときの水銀燈にちょっと似てる。
「それで、貴方は蒼星石を助けたいのかしら」
「うん」
 くちゃくちゃになってしまった襟を直しながら俺は頷いた。
「俺は心の専門家じゃないけど、蒼星石は少し焦ってる気がする。心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。切っ掛けは要るにしても、マスター自身が少しずつ突っついて壊していけばいいと思うんだ。蒼星石と一緒に」
 お、今の言葉ちょっとかっこ良くね? 俺えらい!
 しかし、相変わらず自分の口からでてると思えないほど滑らかに回ってるよな台詞。
「それに、蒼星石がもし大怪我したり……もう会えない、とかになったら、マスターは当然心に別の重荷を背負うだろうし、みんなも悲しいだろ?」
 俺に肩を掴まれたままの翠星石が顔を上げてこくりと頷いた。
「だから、止めさせたいんだ。みんなと蒼星石が戦うことも、蒼星石が無茶をすることも」

「……ねぇー」
 む? 結構いいところだってのになんだ。
 声のほうを振り向くと、雛苺がテーブルのこっちにきて、翠星石の右肩の辺りを指差している。
 そこにあるのは翠星石の肩を掴んだままの俺の左手くらいなもんなんだけど。何が問題なのかな?
「誰の指輪なのか教えてほしいのよ」
 雛苺の人差し指は俺の薬指の付け根の辺りにある指輪を指している。
 俺は翠星石の肩を放して、指輪を見つめた。
「これか」
 今言っちゃっていいのかな、とも思うけど、どうせいつかはばれることなんだよな……。

「……水銀燈の契約の指輪だよ」

 その瞬間、部屋の中の温度が三度ほど下がったような気がした。


2

 言った途端に、みんな凍りついたような表情になった。
 それだけじゃない。元々熱い視線じゃないのは分かってたけど、この視線の冷たさは何よ。北海道から一気に南極って感じだ。
 やっぱまずかったかなぁ……。

「……尋ねてもいいかしら」

 固まった中で一番先に動いたのは真紅だった。
「貴方の今までの話、水銀燈も同じことを知っているのでしょう」
 俺は頷いた。水銀燈は全部知っている。蒼星石が翠星石と戦うことになっても自分から心の壁を壊すことになっても、隙を見て一番弱っている誰かを倒してローザミスティカを奪うつもりなんだ。
 真紅は、そう、と頷いて俺を真っ直ぐ見詰めてきた。
「それでは、貴方がここに居て私達に話をしていることはどうなのかしら」
「水銀燈には言ってないよ」
 案外、こっそり起き出して来たからまだ寝てるかも……
「でも、遅かれ早かれ気付くことになるでしょうね」
 う、確かに……。起きてたらとっくにばれてるかもしれない。水銀燈は俺の考えそうなことなんて全部読んでしまいそうな気がする。
「それは仕方のないことだけれど、貴方はそれでいいの?」
 ちょっと意外な一言だった。俺はまじまじと、片腕の無い金髪の女の子を見つめた。

「蒼星石の戦いを止めれば、水銀燈の目論見は実現しないのではなくて?」

「え……それは……」
 背筋を冷たい汗が流れるってこということを言うんだなきっと。
 なんでこんなに眼光鋭いんだこの子。眼の色や物の言い方は違うけど、ほんと水銀燈に良く似てる。
「どういうことですか真紅」
「少しは察しろよ」
 あ、今桜田に言われてむくれた翠星石に凄く親近感が湧いたような気がする。
 でもあれか。翠星石が気付かなかったのは蒼星石のことで頭がいっぱいだからかも。ちぇっ。
「水銀燈はお前たちの誰かが負けたら、ローザミスティカだっけ? ……それを奪うつもりだってこと」
 桜田もすごいなぁ。偏差値高いだけはある。でも、それをそっぽ向いてぶっきらぼーに言う辺りは……やっぱり桜田だな。
「た、確かに奴の考えそうなことですぅ……」
 翠星石はちらっと俺を見上げた。釣られるように雛苺もこっちを見上げる。小首を傾げてるのはなんでだ。
「そうなの?」
「うん、合ってる」
「わー!」
 雛苺はまんまるく目を見開いた。銀英伝の最終巻みたいに言うと両目と口で三つのOを作ったって感じ。
「真紅すごいのー! くんくん仕込みのパーフェクトな推理なのよー」
「いいからお前は黙ってこっち来い」
 桜田がひょいと手を伸ばして雛苺を抱き上げ、なんとも言えない雰囲気が周囲に漂った。

 いいタイミングで、かちゃ、と音がしたのは、真紅がティーカップを置いたからだ。音を立ててしまってちょっと口惜しそうな表情になったのは見なかったことにしてあげよう。
「貴方がやろうとしていることは水銀燈を不利にするかもしれない。それで良かったのかしら」
 真紅の視線を俺は受け止めた。
「良くなかったかもしれないけど」
 改めて言われるとちょっと迷うのは確かだ。でも。
「もう教えちゃったし、蒼星石には無事でいてほしいし……それに、なんか嫌な予感がするんだ。ローザミスティカをそんなふうにして手に入れたら、水銀燈になんか悪いことが起きる気がして」
 たっぷり一拍の間、真紅は俺の目を黙って見返していた。それから、ぱちぱちと二度ばかり瞬いて、視線を斜め下に逸らした。
「……そう」
 それはちょっぴり寂しそうで、でもなんか優しい感じのする顔だった。
 アンニュイっていうんでもなくて、なんかこう、見てるだけで切なくなってくるっていうか。
 あああああ、桜田お前関係ないほう向いてる場合じゃないだろ! なんかフォローしてやれよ! だっこするとか!
「──るのね……」
 真紅はそのまま、小さな声で呟いた。
「え?」
 よく聞こえない。なんなんだろう。
「貴方の行動が正しいか、正しくないかは分からないけれど」
 俺が目をぱちくりしている間に、こっちに向き直った真紅は、もう元の生真面目な表情に戻っていた。
「教えてくれてありがとう。想いは私達にも伝わったのだわ」
「ど、どういたしまして」
 なんとなく気圧されるような感じでぺこっと頭をさげたとき、がちゃりとドアの開く音がして、何か非常に美味そうな匂いとお姉さんの元気のいい声が流れ込んできた。

「さあ、みんなお昼ご飯よぅ。ジュン君のお友達もご一緒にどう?」
「あ、俺はその……」
「ごはんっ」
「ヒルメシですぅー」
「いただくのだわ」
 三人の子はそれぞれ嬉しそうな声を上げて、どたばたとてとてと部屋を出て行った。背丈がちょっと小さめだけど、普通にお腹を空かせたがきんちょって感じだ。さっきまで超シリアスな雰囲気だった真紅も、後姿だけ見ていると子供にしか思えない。
 どうしたもんか、と立ち上がると、桜田と目が合った。
「いいのかなぁ」
 桜田は困ったような顔つきになってポリポリと頭を掻いて、そっぽを向いて口を尖らせた。
「……食べてけば?」
 素直にありがとうと言うのと、腹が鳴ったのは同時だった。
「ぷ、くくく」
「笑うなよ」
 そう言うか言わないうちにまたもうひとつ腹が鳴った。
 ああああ畜生。なんだこの間の悪さは。
 なんかツボにはまってしまったらしく背中を向けて笑いつづける桜田に続いて、やれやれと肩を竦めながら俺は部屋を出た。

 まあ、いいか。
 ほんとのことを言うと、なんかちょっぴり解放されたような気分もあるんだ。ここに来たのは同級生って立場じゃないけど、やっぱりこいつは俺の同級生だから。
 みんなによってたかって黒板に酷いこと書かれてゲロ吐いて顔見せなくなった桜田が、ここで腹抱えて笑ってる。
 月並みだけどそれがなんとなく嬉しい。
 水銀燈や蒼星石たちのことはもちろん大事だけど、それとは別の大事なものもあるんだよな。


3

 雪華綺晶は水晶の森の中で膝を抱いていた。

 途惑っていた。
 途惑う、ということ自体が初めてなのかもしれない。彼女は作られて放たれてこのかた、あらまし同じことだけを繰り返してきたし、それは最初から成功が保証されていて、失敗などすることは今まで一度もなかったからだ。
 薔薇乙女達は常に似たような形で媒介と契約を交わし、そしてさまざまな形で契約を解く。その「お下がり」の媒介のうち、使えそうなものを夢の中に引き込み、あるいはこちらから夢に入り込んで自分の領域に確保する。
 媒介を引き込むことは簡単だった。引き込めるような媒介を見分けるのが簡単だったと言い換えてもいい。
 薔薇乙女を失った媒介たちは大なり小なり消えない寂しさを背負い込む。媒介となる資質を持つような人間にとって、永く自分の傍にあった薔薇乙女は自身の一部のようなものだ。もう逢えないと分かっていても心がそれを否定したがっている。
 雪華綺晶に必要な工作は、彼らの見ている夢にほんの少し手を加え、彼らが決して目覚めたいと考えないくらいに幸せなものに変化させることと、そうして閉じこもった彼らの意識を自分の領域に運び込んで幸せな夢の中で遊ばせつづけることだけだった。

 周囲を見回す。水晶の結晶の中には何人もの媒介たちが、眠りについたときの姿のままで収められている。

 雪華綺晶の欠けた心、欠けた実存を埋め、放って置けばすぐに弱ってどこかに消え去ってしまうはずの不完全な魂をローザミスティカの近くに保つためには、媒介たちを確保し、夢を見続けて貰わなければならない。
 大抵の場合はひとつの時代にそうして確保できる媒介は一人か、多くても二人に過ぎなかった。それを彼女は大切に「遊ばせた」。数は多くないから失敗は許されなかった。糧が途切れれば、ローザミスティカだけでは彼女を保つことはできないから。

 これまで彼女が捕えてきた媒介たちは、自分から幸せな夢を拒むことはなかった。
 媒介として選ばれる人間達に心の強い人々は多くない。薔薇乙女を求めたからこそ選ばれ、薔薇乙女を愛したからこそ別離がくれば悲しみに沈む。
 今回も、そのはずだった。違っているのは、媒介が契約を解除される前に媒介の心が壊される予定だ、という点くらいだった。
 契約の相手が水銀燈で、どういうわけかその本人が媒介の心を壊す瞬間に立ち会うというのは好都合だった。普段は他の姉妹に比べて媒介に依存しないし依存させない水銀燈だが、媒介の心を壊す現場に立ち会って無事で済むはずはない。
 水銀燈が心に大きな負荷を掛けられ、何もできない隙を狙ってそのボディを盗む。心を壊されて脆弱になった媒介は夢の世界に引き入れて遊ばせる。場合によっては水銀燈の心すら自分の領域の水晶に閉じ込めて無為に遊ばせることができるかもしれない。
 しかも、どちらかは失敗に終わってもいいのだ。
 ボディを失った水銀燈は精神だけの何もできない漂流者に成り下がるだろうし、媒介は無力な人間に成り下がる。そしてボディさえ手に入れてしまえば自分ははれて物質界の一員となれる。
 仮にそちらが不発に終わっても、媒介の心を確保してしまえば、当面の糧を確保できるだけでなく水銀燈に対しても何等かの交渉ができるだろう。
 やり方は複雑になるが、流れで見ればいつもの手順だ。できなくはない。なにしろ、相手は完全に無防備なのだから。
 そんな風に考えていた。

 それでも、二つの作業を平行して行うのは失敗の危険がある。
 雪華綺晶は慎重に段取りを整えた。
 万にひとつの失敗もないように、幸せな夢を見せるのは媒介の精神世界で、と決めた。媒介の記憶と想念の世界でなら、そこのパーツを使って夢の構成を補強することができる。より「本物らしい」夢を展開するほうが媒介の誘導には効果的だ。
 そのために彼女は媒介が好み、彼の世界の延長線上で違和感がないものを彼の世界から「借りて」幻覚の罠の中に配置さえした。夢の中で媒介がそれに依存してしまえば、もし夢だと分かってしまったとしても、彼はもうそこから抜け出たいなどと思うことはないだろう。
 水銀燈についても、最初からボディを欲張らずに心を縛りつけることを選択した。ボディにはローザミスティカが残っているはずだから、心が朽ちないまま確保したとしても雪華綺晶の思うまま扱うわけには行かない、という事情もあった。
 心を失ったボディはいつでも回収できる。魂が離れていけばいずれローザミスティカもボディから抜け出てしまうだろう。自分の手元に手繰り寄せるのはそれからでも問題はない。
 ローザミスティカには拘りはなかった。むしろそれよりも物理的な身体が欲しい、というのが雪華綺晶の本音だった。
 体を得て、煩わしく不確定な糧の確保という制約から解放されれば、自分もやっと他の姉妹と同じスタートラインに立てる。いや、自分の能力を考えれば、物理的な体躯に依存している他の姉妹よりも一気に優位に立てるだろう。
 ここから動かず、生きるためだけに生きることには飽きている。かといって、死ぬ気もない。

 彼女は既に長いこと機会を待ちすぎたのかもしれない。
 いつ自分がローザミスティカに興味をなくしたのかさえ、覚えていない。
 孤高の人形師ローゼンが彼女を今のありように作ったのも、このnのフィールドに放ったのも、ローゼンの考える至高の少女──アリスとするためだった。
 そのためには姉妹全てのローザミスティカを揃えることが必要の筈だった。少なくとも、そう思われていた。
 しかし、彼女はあまりにも永く、同じ目的の姉妹の誰一人とも接触を持つことなく、それでいて姉妹たちの姿を見つめながら生きてしまった。
 姉妹の誰もが次の媒介と契約するまで眠りに就いているときも、媒介も薇も鞄も、話し相手の人工精霊さえも持たない彼女はひたすらここで待ちつづけていた。しかも、それはほとんどが自分が生き延びるための糧を見定め、確保し、そこから細々と心を吸い上げて生き続けるために根を張るだけの待機だった。
 途方もない、孤独。
 永い永い時間の間に、アリスというもの自体に対する考えさえも変わってしまった。
 姉妹達はお互いに争って生命の欠片を奪い合い、勝者を定めることを当然と考えている。だが、それに勝ち残ったところで、他の個性は全て失われるしかない。ローザミスティカは生命の源であって、心ではないからだ。
 自分はからっぽの白、器すら持っていない。だが、姉妹達のボディを集め、その心を確保すれば。
 自分はからっぽ。からっぽだからこそ、何色にも染まることができる。ときとして烈しく、愛しく、切なく、無垢で、気高く……
 ただひとつでなく、製作者の呻吟して生み出した全ての個性、つまり心と形を兼ね備え、時宜に応じてそれを着替えることができる。
 それこそが至高の少女ではないのか?
 ならば、それに成り得るのは、無機の器というしがらみを持たないがゆえに自由に器を乗り変われる自分しかいないではないか。
 それは──詰まるところ彼女自身の物理的な実体を持ちたいという欲求が先にあってこじつけた、論とも呼べない考えなのかもしれない。
 だが、雪華綺晶はそれを信じた。なにがしかの目的がなければ、彼女は自らの在りようを保つことさえ危うかった。

 視線をゆっくりと動かし、茨のひと揃いに目をとめる。
 そこは昨日の晩に焼かれたまま、灰色に薄汚れていた。

 不思議だった。
 タイミングこそシビアだったが、その分いつもより周到に夢を誘導した。そのために、水銀燈の媒介が最も好むだろう人形を、彼の記憶の中から選んで幻覚の中に配置したほどだ。
 案の定、最初の幻覚にするりと媒介を入り込ませることはできた。あとは、放っておいてもそこから媒介は自分で夢を紡いでゆく。今までそこに例外はなかった。
 水銀燈の心を確保するのも簡単だった。媒介の近くで倒れた水銀燈の心は全く無防備にnのフィールドを漂っていて、彼女はそれを茨の中に完全に封じてしまうことさえできた。
 いくらか誤算があったとすれば、媒介が蒼星石に水銀燈の身体を物質世界に持ち帰るように警告したことと、蒼星石が予期していたかのように機敏に脱出してしまったことくらいだった。
 だが、それは些細なことでもあった。心を確保していればボディは抜け殻に等しい。いずれ奪い取ることができる。
 そこまでは、何等の問題も起きなかった。全ては手はずどおり進んでいたはずだ。
 蹉跌が生じたのは何処だったのか。考えてみるが、分からない。
 確かなのは、媒介を雪華綺晶の領域に引っ張ろうとする前に、向こうから夢を破ってしまったことだ。それも、何かが切っ掛けで偶然見破られたというよりは、途中からずっと気付かれていたように思える。

 そこからは、彼女にしてみれば一方的な展開だった。
 力と言葉で媒介を誘導しようと試みたが媒介はそれに乗らず、あまつさえ戦い慣れた薔薇乙女なみに狡猾に自分の世界の構築物を使って彼女に反撃し、最後は恫喝で彼女を退けた。
 媒介の夢の中に配置しただけの人形が、夢が破れた後も確固たる存在のまま残り、自分に刃を向けたのも予想外の出来事だったし、自分が呆然としてここに戻る間に彼が水銀燈の心を封印から解き放ち、易々と物質世界に帰還してしまったのも慮外の痛恨事だった。
 もっとも、あのとき自分が水銀燈の心の傍で媒介を迎え撃ったとして、結果が変わったとは思えない。いや、圧倒的優位にあったのは彼だった。恐らく、自分は手もなく捻られて魂と生命──ローザミスティカ──を切り離され、こうして自分の領域に戻ることもなく永久に無意識の海を彷徨する魂のひとつになっていただろう。

 千歳一遇と言うべき好機を逃した。それは口惜しい。しかし、それだけではない。
 もっとぞくりとした、何か。肌が粟立つような感覚。それに、彼女は途惑っていた。

 他の姉妹がその感覚を説明されたら、それを恐怖だと表現するかもしれない。
 同じ感覚を抱いた水銀燈なら、多分それが異質なものに対する本能的な嫌悪感だと理解するだろう。
 いずれにせよ、雪華綺晶は途惑い、そして、既に存在しないものの影に萎縮していた。結果的には、そのことが彼女に大きな見落としをさせてしまうことになる。



[19752] 第二章 薔薇屋敷
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 03:52
1

「じゃあ、みんなお夕飯までにちゃんと帰って来るのよぅ」
「わかったから早く行けっての」
 ジュンが口を尖らせるのを見て、のりはやっと踵を返した。
 ここは薔薇屋敷と呼ばれる高台の家。華族の出の一族が優雅に暮していたというが、昭和の中頃から急速に没落していき、今は見る影もない。とはいえ、広大な家と庭を手放さずに維持するだけの資産は残しているらしい。
 のりはもう一度振り返った。よく見る屋敷の姿にどこか違和感を感じたからだ。
 暫く考えて、あ、と彼女は思い出す。

──お庭の薔薇がお手入れされていたのね。荒れ放題だったのに……

 ジュンが急に薔薇屋敷に行くと言い始めたことについて、のりは詳しいことを知らない。三人のドールと、今日の昼前に尋ねてきたジュンの同級生という少年が関わっているらしいことは分かったが、それ以上踏み込むことはできなかった。
 自分は一歩退いたところから見ていた方がいい。
 自力で動く人形の真紅が家にやって来てからというもの、ジュンが不思議なことに巻き込まれているのは明らかなのだが、自分は彼が教えたがらないことまでは知りたがらない方がいいのだ、と彼女は割り切ることにした。
 真紅が来てから、ジュンは少しずつ明るくなっている。自分も可愛い小さな妹達を持ったようで、大変だけど楽しい毎日が過ごせている。
 今はそれでいい。いつか、教えてくれることもあるだろう。
「さあ、今日のお夕飯はみんなの分、腕によりをかけて作らなくちゃね。ジュンくん、久しぶりの遠出だもの」
 どんなときも、みんなが安心して帰る場所を作っておくのが自分の役目だ。
 暗い気分を振り払うように青い空にうんうんと頷いて、のりは坂を下っていった。


 現実世界ではのりが今夜の食材を買い足すためにスーパーマーケットに入った頃になるだろうか。
 蒼星石が用意した舞台で、一同は対峙していた。
 ある女性──蒼星石の契約者である結菱老人の過去に深く関わる人──の、心の木がそこにある。
 老人が蒼星石に命じたのは、その木を蒼星石の持つ庭師の鋏で切り刻むことだった。

 半世紀以上昔の話である。
 結菱老人には双子の弟が居た。二人は何をするにもお互いを必要とするような関係だったが、弟はある外人女性と恋に落ち、引き留める兄から逃げるようにして彼女の待つ海外に渡ろうとした。
 渡ろうとした、というのは、その途上で海難事故に遭い、船もろとも海の藻屑と消えてしまったからである。
 結菱老人(当時は未だ青年だったが)は突然のことに呆然とした。
 損傷が激しいものの、その船に乗り合わせた客の中に東洋人は一人だけ、ということで形ばかりの遺体確認に立ち会った彼の中で、何かが音を立てて崩れていった。
 こんなのはちがう。死んでいいはずがない。ならば目の前のこれは誰だ。誰の遺体だというのか。
 ……簡単なことだった。
 その場の人々に向かい、彼はとんでもない話を始めた。スキャンダルと言っていい内容だった。
「死んだのは、兄です。彼は僕の名前を騙って、船に乗りました──」
 その瞬間、彼は法的に死んだ。
 同時に、自分が手がけようとしていた一切の事業も失うことになった。家は傾き、彼の手元にはほとんど財産は残らなかった。
 だが、そんなことさえも彼には些細なことだったかもしれない。自らの半身と認めていた弟が、もう二度と戻ってこないのだから。

 弟の名前を使い、薔薇屋敷に逼塞しながら、老人は半世紀をずるずると生きてきた。消し残しの蝋燭が一本だけ点いているような人生だった。
 それが俄かに熱を持ったのは、ごく最近のことだった。
 弟が恋に落ち、死ぬことになった原因の女性が、生きていることをひょんなことから知ったのだ。
 老人は彼女を激しく憎んだ。弟と同じ船に乗り、同じように事故に遭い、同じく海の藻屑と消えたはずの女がいまだに生きて結婚をしていまや孫に囲まれた幸せな生活を送っている。
 許せるものではなかった。
 老人は双子のドールの薇を巻き、そして、女性の心の木を腐らせ、刈らせることを命じた──。


 結菱老人の夢の世界。それが彼の執着対象である女性の心の木の場所まで広がっているのは、彼の執念の強さの故だろう。あるいは更に強く、女性の心の木をこの場に現出させるほどの頑強な妄執なのかもしれない。
 どちらにしても、今の翠星石には無関係だった。
 蒼星石に心の木を傷つけさせるわけにはいかない。それは人を直接手にかけるのと同じだから。
 誰にもそんなことは許されない。まして、こんなことで蒼星石の手を汚させるわけにはいかないのだ。
「今日は君と存分に戦えると思ったのに……」
 蒼星石はシニカルな笑顔で言った。
「木を背にしてもまだ如雨露を持ち出さないんだね、翠星石」
 翠星石は顔を上げた。既に二度ばかり蒼星石に跳ね飛ばされていて、木にぶつかった背中と腕がずきずき痛む。
 でも大丈夫。まだ、泣いていない。まだ自分はがんばれる。
 だが、彼女の目の前の双子の妹はあくまで冷徹だった。
「君が無抵抗を貫くなら僕にとっては好都合だ。心の木を切り倒す前に君も倒してしまおうか」
「蒼星石、貴女は──」
「真紅」
 翠星石は真紅の言葉を遮った。
「これは……私達の戦い……ですなの。真紅たちは見守っていてくださいです」
「うぃー……で、でも」
 雛苺が翠星石と真紅を見比べ、真紅は一拍置いてから返事をした。
「わかったわ。でもローザミスティカを奪われそうになったら、その時は否応無く手を出させてもらうわよ」
 それは目の前に見えている蒼星石でなく、姿を現していない水銀燈かもしれない。真紅は言外にそう含めていた。
「……はいです」
 翠星石の人工精霊が、彼女の得物──庭師の如雨露を召喚した。
「一人は怖いです……けど、頑張るですよ」

「翠星石……」
 少し離れたところで、水銀燈の契約者である少年は無念そうな声を上げた。
「それでいいのかよ……ってぐるぐる巻きじゃ俺にはどうしょーもないけどね!」
 ジュンよりちょうど頭ひとつ大きい少年は雛苺の苺わだちで縛り上げられていた。
「ジュンの言いつけなの」
 雛苺は申し訳なさそうに言った。
 のりに言われるまま桜田家で昼食をご馳走になった少年は、そのままこの場所に連れてこられていた。要は水銀燈が来襲したときの人質のようなものらしい。
 水銀燈は契約者に限らず、その場の人間を媒介として力を得ることはできる。しかし契約した者の方が力を使いやすい。放っておけば水銀燈が彼を伴って来襲することも十分考えられる。
 同じなら手元で拘束しておいたほうがいい、というわけだ。
「ヒナは真紅のけらいで、ジュンは真紅のマスターだから、言うこと聞かなきゃなの。ごめんね」
「この状態で頭なでなでしてもらってもあんま嬉しくない……」
「うゆ……」
 雛苺にしてみれば、可哀想だな、と思う。何か出がけにジュンと真紅がひそひそ話をして、どうしたんだろうと思ってそっちに行ったらジュンが怖い顔をして雛苺に命令したのだ。戦いが始まったら縛り上げろ、と。
 悪いことしたわけじゃないのに縛るの? と聞いたら、悪いことをするかもしれないから縛るのだとか。よく分からない理由だったが、真面目なときの真紅とジュンの命令は絶対だった。
 すっかりアヒル口になってしまった少年に、雛苺はごめんねと謝った。あとでマポロチョコくらいは分けてあげてもいいと思う。
 ジュンがその様子をじろっと見遣った。
「頭まで巻いてもらったほうがいいか?」
「いえ、結構です」
 少年は即答した。

 鋏を構えて翠星石に突き進んだ蒼星石は、視界をいきなり如雨露の起こした霧で塞がれ、一瞬たじろいだところを心の木の枝で突き飛ばされた。翠星石の力は場所が限定されるものの、弱弱しいものとは到底言えなかった。
「やる気になってくれたみたいだね、嬉しいよ」
 体勢を立て直し、蒼星石は不敵に笑った。今の攻撃で頬が傷付いてしまったが、痛みは気にならない。
 自分には契約者がついているが、それは相手も同じだ。更に、翠星石には手負いと能力を制限されたコンビとはいえ真紅と雛苺がついている。相変わらず状況は有利とは言えなかった。
 しかし、だからこそ克ちたかった。
 昨晩、今後のことを僅かに見せられたうえで水銀燈の契約者と話したことを思い出す。
 なにが起きるか見えてしまったのになお自分の気持ちを貫くのか、と彼は尋ねてきた。
 彼に曖昧な一言で返したのは、自分の気持ちがはっきりと言葉にできるところまで行っていなかったからだ。
 今なら言える。これは自分が「双子の庭師の片割れ」でない、自分自身になるための戦いなのだと。
 確かにここで死ぬかもしれない。自分のローザミスティカは誰かに奪われるかもしれない。だが、そんなことは些細なことだった。ここから何度契約者を代えて生き続けても、双子の片割れのままでは何も変わらない。
 その思いの強さが、どこか迷いのあるような翠星石の防禦を掻い潜った。何度か弾かれ、防がれながらも、蒼星石は霧を抜け、翠星石の間近に飛び込んだ。
「僕は君を断ち切る、翠星石。僕が、僕自身になるために」
 金属質な音を立てて鋏が半開きにされる。蒼星石がそれを僅かに引き、突きの姿勢に入ろうとした瞬間、翠星石は心の木を後ろに庇ったまま、結菱老人を睨み付けるようにして叫んだ。
「思い出すです陰険おじじ! おじじの望みはこんなことなんですか? 蒼星石も分かってるはずです、おじじが本当は何をしたいのか!」
 一瞬の間があって、空間は酷い振動に見舞われた。

「地震!?」
「違うわ、これは」
 この空間が、記憶自体が揺さぶられているのだ、と真紅は気付いた。
 老人が何かを思い出そうとしている。恐らく──
「本当の願いに関わる何か、なのね」
 振動の中で真紅は水銀燈の媒介の少年の方をちらりと見遣った。苺わだちに絡めとられたまま、雛苺と一緒になって無様に目を回しながら揺さぶられている。まだ水銀燈の気配はなかった。
「いつ仕掛けてくるの……」
 必ず来る、という確信はある。媒介ですらあれだけのことを知っていたのだ。水銀燈自身が把握している情報はもっと正確なのだろう。それを利用して、最も効果的な瞬間を狙ってやってくるに違いない。
 しかし、何時なのか、何処からになるかは分からない。そのときに自分は皆を守れるだろうか?
 右腕が無いからといって薔薇の花弁を操る技には関係ない。しかし、幾分軽くなったバランスの悪い身体でどこまで俊敏な行動が起こせるか自信がなかった。

──ジュン。もしかしたら、ここでアリスゲームは終わってしまうかもしれない。

 もちろん、その結末が自分の思い描いていたものでないことは間違いない。勝者はこの場に姿を見せている誰でもない。
 それは絶望に近い感覚だった。傍らの眼鏡の少年に縋り付きたい気分を断ち切るように、真紅は翠星石たちの方を見つめた。彼女が弱気を見せていいのは、ジュンと二人になったときだけだ。


2

「思い……出した」
 振動の中心で車椅子に乗ったまま頭を抱えていた老人は、ぼそりと呟いた。
「私は彼女を」

──好きだったのだ。

 記憶がつながった瞬間、振動は嘘のように止まった。

 弟と老人は似すぎるほど似ていた。何をするにも常に一緒だった。二人は当然のように同じ一人の女性に恋をした。
 皮肉にも、そのことが弟が兄から離れてゆくきっかけになった。
 弟のほうが人間として正直だったのかもしれない。彼は女性の心をつかみ、兄弟でやってきた事業も財も捨て、駆け落ち同然で女性の故郷へと旅立ち、その途上で死んだ。
 老人が弟の名前を名乗った理由は、弟を失った喪失感だけではなかった。

 ──何故自分は愛されなかったのか。どうして弟なのか。自分と弟は二人で一人、同じ半身のはずなのに。何故なのだ。理不尽だ。
 ──そうだ、死んでいいのは恋に破れた双子の兄なのだ。弟になることで、自分は女性を勝ち取ったことになる。愛されたのは、自分ということになる。

 病的、倒錯も甚だしい心境と言えるかもしれない。それは老人もどこかで理解していた。そして、そのような思考をした自分を認めたくなかった。
 だから、いつのまにか記憶の中で綺麗な話に摩り替えてしまっていたのだ。
 女性を殺したいほど憎むのも道理だったかもしれない。彼女の存在自体が、自分の一番触れたくない汚い部分にざらりと障るサンドペーパーのようなものなのだから。

「ようやく、分かった」
 顔を手で覆ったまま、老人は搾り出すように言った。
「私が殺してしまいたかったのは、彼女でも弟でもない──」
 弟の名前を借り、自分の心を繋ぎとめている、自分自身の影だったのだ。

 蒼星石は心の木の前から老人のもとに歩み寄った。
 自分でも驚くほど、気持ちの角が丸くなっている。何かずっしりと心にのしかかっていた重石のようなものが嘘のように消えていた。
「マスター……やはり、それが貴方の本当の望みなんだね」
 車椅子の上で、老人の姿は哀れなほど小さく見える。恐らく、自分もそうなのだろう。
 蒼星石は独り言のように呟いた。
「僕も同じだ。半身なんかじゃない、本当の自分自身になりたくて」
 ずっと永いこと、もがいて、あがいて。
「そして気が付けば、自分自身の影にがんじがらめに縛られている」
 いや、それを気付いてもなお、自分はその欲求を満たすことも解消することもできずにいた。
「だからきっと、僕は貴方の願いを叶えてあげたかったんだ。そうすれば自分もこの迷路から抜け出せるような気がして」
 力なく提げていた鋏を持ち直す。
 認めたくなくて言わずにいたことを口に出してしまったせいか、不思議なほど心が軽かった。
 とん、と宙に舞う。

「だめえっ、蒼星石!」
 如雨露を抱えたままの翠星石は慌てて立ち上がった。
「蒼星石!」
 真紅は目を見開き、蒼星石の方に飛び出した。間に合わないことは分かっているが、見過ごすことはできない。
 周囲の声が聞こえないかのように、蒼星石は鋏をふりかぶった。

「それで貴方が解き放たれるなら、僕は──」

 瞬間、彼等の目の前に黒い羽毛が舞った。
 横合いから突進してきた黒と銀の何かが、蒼星石を突き飛ばすようにして彼女の動きを止めた。


3

「かっこつけタイムは終了よ、自殺志願のお馬鹿さぁん」
 突然の奇襲に倒れこんだ蒼星石を抱き起こしながら、彼女を突き飛ばした張本人──水銀燈は囁いた。
「生憎だけど、貴女にはもう少しやってもらいたいことがあるのよ」
 そこで周囲を見回す。僅かな差で間に合わず、目の前のことに呆然と立ち尽くしている真紅を見つけ、にやりと笑いかけた。
「わざわざうちの媒介を運び込んでもらって悪かったわね、真紅。お陰で間に合ったわぁ」
 蒼星石を抱き寄せながら水銀燈は微笑む。
「どうしたわけ? 揃いも揃ってお間抜けな顔しちゃってぇ。私がここに来ることは知っていたでしょうに」
 真紅ははっと我に返り、急いで周囲を確認した。庭師の鋏はさきほどの衝突で蒼星石の手から離れ、少し向こうに転がっている。翠星石は二人を挟んで鋏の逆側にいた。
 雛苺は言いつけどおり水銀燈の契約者を拘束していて、すぐにはこちらに来れそうもない位置に居る。
 ジュンは慌てたようにこちらに急いでいるが、まだ遠い。
 蒼星石を人質に取られたような状態だった。

「水銀燈……」
 蒼星石は困惑していた。水銀燈の両腕は蒼星石の背中に回され、黒い羽と両方で彼女を抱きすくめている。
「邪魔しないでくれ。僕は……」
「聞こえなかった? 貴女にやってもらいたいことがあるの」
「僕を止めない方が君のゲームは有利になるはずだろう」
 結菱老人の心の影を壊すことは、蒼星石にとってそのまま自分の心を壊すことと同義だった。そうなれば結菱老人の心は救われるが、彼女はローザミスティカを失って物言わぬ人形になる。
 水銀燈はそのローザミスティカを奪えばいい。少なくとも、蒼星石が『見た』未来ではそういう筋書きになっていたはずだ。
 それでも蒼星石は、他の選択肢を取らなかった。彼女なりの意地のようなものもあったし、何より結菱老人のために心の影を壊したかった。
 水銀燈は意外そうな顔をした。
「あら、まさか本当に契約者の心の影とやらに体当たりして自殺するつもりだったの? ゲームを放棄してまで、たかが媒介ひとりのためにそこまでするぅ?」
 からかうような声に、蒼星石は俯いて唇を噛んだ。
「僕には僕の価値観がある」
「そうね。私には理解できないけど。美しくないもの、お父様の意思に逆らって、僅かな時間を共にするだけの媒介のために死ぬなんて」
 それは耳に痛い言葉だった。父の望みどおり至高の少女になることが彼女達の目的だったはずなのだから。
 しかし、そう言いながらきゅっと力を込める水銀燈の腕や、身体をきつく取り巻いている黒い羽にふと懐かしいような温かみを感じてしまうのは、蒼星石の錯覚だろうか。
「君だって人のことは言えないじゃないか、マスターの──」
「とにかく、貴女にやってもらいたいことがあるの。勝手に自殺されちゃ困るのよ」
 水銀燈は急に早口になって蒼星石の言葉を遮った。
 普段なら、蒼星石は水銀燈の顔に僅かばかりの焦りか照れのようなものを見出したかもしれない。しかし、今の蒼星石にそこまでの余裕はなかった。
「僕が易々と君に従うとでも……?」
「あら怖い目。でも、この体勢でそんな反抗的な口を利いても説得力ないわよ?」
「く……」
 蒼星石は絶句した。
 水銀燈は自分を固く抱きすくめていて、容易に動けない。華奢な水銀燈がしているからそうは見えないだけで、鯖折りやベアハッグに近いような按配だった。
 そのうえ黒い翼までが身体を包んでいる。その羽は何かあれば即座に自分を切り刻める。得物のない自分の不利ははっきりしていた。
 だが、言葉に詰まったのは有利不利のためではない。
 傍から見れば、熱烈に抱きつかれて親しげに囁き交わしているような姿勢だったからだ。しかも、自分自身どこかでこの状態に安心感さえ抱いている。
 そんな蒼星石の混乱を見透かしているように水銀燈は目を閉じ、くすくすと笑う。珍しく、全く険のない笑顔だった。
「分かったら落ち着いてこれからの身の振り方でもお考えなさいな」
 口を蒼星石の耳元に寄せ、相変わらずからかうような口調で囁く。
「これから……?」

「そうよ。
 契約者の望みを叶えるために命を懸けました、なんて格好付けじゃなくてね。
 じっくりお考えなさい。生きている貴女がその死にかけの老人にしてあげられることは何なのか。
 死んでしまったらそこの薔薇園も、老人の心の木も手入れをする人が居なくなるのよ。庭師の仕事は契約が終わるまで続くのではなくて?」

 蒼星石は色の違う両目を大きく見開いた。
「水銀燈……」
 暫くそのまま水銀燈の閉じた目を見つめていたが、やがて視線を逸らすと首を振った。
「……頭を冷やして、よく考えてみるよ」
 まだ、ありがとう、と素直には言えなかった。
「そうなさいな、不器用な庭師さん」
 水銀燈は目を開き、蒼星石の拘束を解いてぽんと軽く肩を押し、数歩分後ろに飛びのいた。
 ぐらりとよろめく蒼星石を駆け寄ってきた翠星石が抱きとめ、安堵したのか堰を切ったように泣き始める。黒い羽が数枚、二人の周りを舞っていた。


4

「真紅」
 名前を呼ばれて振り返ると、ジュンが傍らにいた。
「あいつ……なんで蒼星石を助けたんだ?」
「分からないわ」
 ただ、真紅も呆然と成り行きを見ていたわけではない。蒼星石と水銀燈の会話は小声過ぎて全ては聴き取れなかったが、蒼星石を水銀燈が説き伏せたのは見て取れた。
 水銀燈の媒介が言っていた言葉を思い出す。

 ──心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。

 水銀燈は同じことを別の言葉で伝えたのだろう。
「どういう風の吹き回しなんだよ。それともアイツが嘘ついてたのか?」
 ジュンは雛苺が頑張って引き摺って連れてこようとしている少年を指差した。
 水銀燈がこの場で敗れた者──または蒼星石──のローザミスティカの横取りを狙っていると言ったのは他ならぬ彼なのだ。
 蒼星石を助けてしまったら、ローザミスティカは手に入らない。
「彼が嘘をつく意味はないわ。何の得にもならないもの」
 水銀燈のほうに、何か行動を変えるような判断の変化があったのだろう、と真紅は思った。その原因まではわからないが。
「今は水銀燈の行動に感謝しましょう。少し不本意だけれど」
「……」
 ジュンは不決断に黙っていたが、水銀燈をちらりと見遣ると真紅を抱き上げた。
「ジュン?」
「やっぱり僕はあいつを信用できない」
 ジュンは自分の体で真紅を庇うような姿勢になった。
「お前の腕をもぎ取って、一度は一緒に組んだ蒼星石を裏切ったりした奴じゃないか。か……感謝なんてできるもんか」
 真紅の右腕の付け根を自分の胸に押し付けるように抱き締めて、ジュンは水銀燈を睨みつけた。
「……ジュン」
 ジュンの鼓動と想いを感じながら、真紅はふと、その中にかすかな危うさのようなものも感じ取っていた。

「丸々全部聞こえてるわよ。おばかさん」
 水銀燈はジュンのほうを向き、やれやれと肩を竦めた。
「ま、感謝なんて興味ないし、筋違いもいいところだけど……メイメイ」
 呼ばれて、銀色の人工精霊はするりと彼女の脇に控えると、心得たとばかり何かを召喚した。
 水銀燈の背丈の半分ほどもある両手剣だった。それを、水銀燈は無造作に放り投げた。
 唐突な行動に身構える真紅とジュンの脇を抜けて、両手剣は雛苺の引き摺っている苺わだちを両断した。
「わぷっ」
「のわぁ」
 突然のことに何がなんだかわからずに雛苺は前のめりに倒れ、苺わだちで曳かれていた水銀燈の媒介の少年はわだちでぐるぐるに縛り上げられたまま放り出され、両手剣の近くまで転がっていった。
「おはよう、人間。一晩で随分働き者になったようね」
 水銀燈は少年に若干笑いを含んだ声を掛けた。
「お、おはよってもう昼過ぎだぜ」
「定番の口答えね。それにしても、想像してはいたけど無様ねぇ」
「う……ごめん。でもなんだこの剣。こんなの持ってたの?」
 少年は不審そうに両手剣を眺めた。人間が使うには柄が細い片手剣というところか。いずれにしろ、蒼星石の鋏並に物騒な意匠の得物だった。
 水銀燈は何故か僅かに落胆したような表情になった。
「それは貴方の得物よ。どうやら忘れてしまったようだけど」
「俺の?」
 少年は芋虫のように身体を捻りながら首を傾げて見せた。全く思い至るフシが無いと言いたそうな声に、水銀燈はやや不満そうに腕を組んだ。
「ええそう。好きなように使ってとっととこっちに来なさい」
「でもどうやって使うんだか……手は縛られてるし」
 少年がぶつぶつ言いながら首を捻っていると、両手剣はひとりでに動いて苺わだちと彼の身体の間に入り込み、わだちをすぱりと切断してその場に落ちた。
「勝手に動いたの……」
 雛苺はびっくりして目をぱちくりした。少年本人も呆気に取られた表情をしている。
「なんだこれ、考えただけで切れた」
「全自動なんて便利ね。予想外だわ」
 情けない声を上げる少年が滑稽に見えたのか、水銀燈はくすくす笑ったが、すぐにそれを引っ込め、早く来なさいと少し強い調子で言った。
「勝手に抜け駆けするような媒介にはお仕置きしなくちゃね」
 少年は一瞬びくりと強張ったが、こわごわと剣を拾い上げる。

「うゅ……」
 雛苺は少年とジュンを交互に見遣った。もう縛らなくてもいいよね? という視線なのだが、ジュンは水銀燈と少年に向かって身構えていて、雛苺のほうを向いている余裕は無さそうだった。
「そんなに怖い顔しなくたっていいのよ」
 こっちを向きもしないで水銀燈の出方を窺っているジュンに、雛苺は聞こえないくらいの声で呟いて口を尖らせる。ちょっとだけ不満だった。

 この少年は怖くない。それに嘘もついていない。
 なんとなくそれが分かったから、雛苺は最初から怖がらずにお話することができたし、人見知りの翠星石もすぐに馴染めた(と、雛苺は思っている)。
 怖くなく正直者というのは、裏を返せば他人に言われるまま主体性なく、あるいは刹那的に行動していて何も考えていないだけなのかもしれない。
 もっとも雛苺はそこまで細かく考察しているわけではなかった。あくまでも怖くないと思っているだけだ。

 少年が雛苺の方を向き、ごめんな、と片手で拝むようなしぐさをして、水銀燈に向かって小走りに駈けて行く。さっき雛苺を転ばしてしまったことを謝ったつもりらしい。
「ジュンも真紅も命令しないから、ヒナ縛らなかったのよ?」
 にこにこして手を振ってから、「いいの?」と言うようにもじもじふらふらと漂っているベリーベルに雛苺は言い訳をした。


5

「これがヤツの遺留品の山ですか……」
 翠星石は顎に手を当てて首を傾げ、買い物袋をじろじろと見比べた。
「小さいのが一つ、薄ぃーのが一つ、そして大きいけど軽そうなのが一つ……むむむ」
「中身は何かしらね」
 真紅はそう言うもののあまり興味なさげに、ジュンの膝の上に陣取って本を開いている。右腕の代わりにジュンがページをめくっていた。
「スリルでサスペンスなのー」
 雛苺は開けたくてしょうがないと言いたげに、紙でできた買い物袋をつついてみている。
「迂闊に突付くなですチビ苺!」
「うょ?」
 思わず一歩下がった雛苺の耳元に手を当て、翠星石はヒソヒソ囁く。
「ヤツにとってここは紛れもない敵地……午前中、ヤツは相当の覚悟をキメて乗り込んで来たに違いねえです。
 自分が殺されたときはこの家の全員道連れにする!
 まさに決死の潜入! です」
「ふぇ!?」
「いや、あいつ玄関から入ってきたし、思いっきりリラックスしてただろ。いきなりお前と取っ組み合ってたし」
「つまりこの中身は」
 翠星石はキッと買い物袋を指差し、睨みつけた。
「な、中身は……?」

「ずばり爆弾です……!」

「キャー!!」
「ない、ないから!」
 ジュンは空いている左手をぶんぶん振って、妄想街道を突っ走りはじめそうな翠星石を止めた。

 薔薇屋敷全体と契約者三人、薔薇乙女五人を異空間に巻き込んでの大立ち回りは、現実の時間では十分にも満たないものだった。
 水銀燈は自分の媒介の少年を羽根で突付きながらnのフィールドから去り、ジュンは現実世界の屋敷で紅茶をご馳走になった後、ドール三人を連れて帰途についた。
 帰る道すがら、結局何も起きなかったようなものですぅ、と翠星石は軽口を叩いたが、桜田家に帰ってみるとちょっとした騒動のタネが出現していた。
「ジュン君たちが帰ってくる前にお電話があったのぅ、女の子から」
 のりは困ったような顔をしていた。
「うちのバイカイからドールたちへのプレゼントらしいわよ、適当に開けちゃってねって。バイカイって何かわからないから聞き返したんだけど、すぐに切られちゃって……」
 そう言ってのりが示したのは、客間のテーブルに置かれたままになっている、少年が薔薇屋敷に行く前に渡し損ねていた手土産だった。

「このままでは埒が明かないわね。ジュン、包みを開けて頂戴」
「お前達宛ての荷物だろ? 自分で開けろよな」
 口ではぶつぶつ言いながらも、ジュンは真紅を膝に乗せたまま、小さな包みを買い物袋から取り出してナイフで丁寧にセロハンテープを切り、包装紙を開いた。
「ご本なの」
「随分小さなペーパーバックね」
「文庫本って言うんですよ。この国ではありふれたサイズです」
 ジュンが広げた包装紙の上に、翠星石が一冊ずつ本を並べた。真紅は題名を眺めて首をひねった。
「どれも随分個性的な題名なのだわ。どんな本なのかしら」
「SFだろ」
 ジュンはあまり関心なさそうに題名を眺めた。
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『人間の手がまだ触れない』『時間外世界』……
 知っている題名はあったが、読んだことのあるものはなかった。
「きっとこれは私かジュンに読んで欲しいということね。SFというのは読んだことがないけれど」
「『ドールにプレゼント』って言ったんだから、対象はお前だろ」
 少しだけ面白くないようにジュンは言い、今度は薄めの包みを開いた。
「これは翠星石向きのようね」
 真紅は思わず微笑んだ。
 翠星石は料理をのりから教わっているのだが、のりがいないときに火を使ってはいけないと釘を刺されている。「レンジでできるお料理入門」という題名のその本は、今の翠星石にはぴったりだった。
「翠星石おめでとうなのー」
 雛苺がふらつきながら一生懸命差し出す大判の料理本を、翠星石はぶすっとした顔で受け取った。
「ま、まあ貰ってやらんこともないです。翠星石は寛大ですからね」
 こんなもので懐柔されるほど安くもないですけどね、と言う口調は、しかし満更でもなさそうだった。
「最後のこれは……?」
 どういうわけか一番大きな包みだけは綺麗にリボンが掛っている。ジュンは気をつけてそれを外し、包装を解いた。
 覗き込んでいた雛苺の顔がぱっと明るくなる。
「お人形なのー!」
 ごく薄い透明プラのケースの中に、十センチを少し上回るほどの人形が七体入っている。だいぶ時期を過ぎてしまったアニメのキャラクター人形だった。
 実はワゴンセールで千九百円の値札が付いた在庫処分品だったのだが、そのことは買った当人しか知らない。
「ヒナだよねっ、ねっ」
 雛苺は飛び跳ねながらみんなの顔を見回した。
「なーんか一人だけ沢山ですけど……しゃーねーです。確かにチビチビが喜びそうな大きさですし」
 翠星石も雛苺が寝転がって遊んでいる人形のサイズを思い出していた。
 落書き用の画用紙やぬいぐるみなどは思い切り大きなものが好みの癖に、おままごとに使う人形は小さなものが好きなのだ。
「そうね、雛苺の好きなサイズだわ」
 言いながら、ふと真紅は首を傾げた。何か引っかかることがあるような気がする。

 五インチ=約十二分の一というサイズは、丁度標準的なドールハウス用人形の大きさだった。その大きさの人形で遊ぶことに雛苺は慣れていた。以前、雛苺が幼い少女と契約していたとき、その少女が雛苺と遊ぶときによくドールハウスを持ち出していたからだ。
 コリンヌ・フォッセーという名のその少女との暮しは、雛苺に多大な影響を与えていた。それは雛苺本人も気付かないほど深く心に入り込んでいる。

 だが、そこまでは翠星石も真紅も知らない。知っていたら何かに気付いたかもしれないが、二人ともこのときはそこまでの推理やら憶測を巡らせることはなかった。
 ジュンが唐突に口を開いたからだ。
「雛苺」
「うぃ?」
 歓声を上げていた雛苺は、ジュンの声に訝しげに振り向いた。少しばかり思いつめたような言い方だった。
「これ、一旦僕が預かっていいか」
 その言葉に真紅と翠星石もジュンの顔を覗き込む。ジュンは先ほどまでの仏頂面を止めて、無闇に真剣な顔つきになっていた。
「ど、どうしたですかジュン、そんなに人形が気に入ったですか?」
 翠星石の言葉にジュンははっと顔を上げた。そして何故か頬を赤くしてしどろもどろに、いや全部じゃなくて半分でいいとか、雛苺の人形を取り上げてしまうつもりはないというようなことを言い訳した。
「ジュンが欲しいなら、全部ジュンに上げてもいーよ」
 雛苺はにこにこして答えた。
「ジュンの机の上に飾ってあっても、ヒナも見れるもん」
 手にとって遊べないのはちょっぴり悲しいけど、本棚や机の上に飾ってある人形たちの仲間が増えるのは雛苺にとっても嬉しいことだった。最近はそういった人形の埃を払ってあげたり、あちこちいろんな角度から見つめて意外な表情を見つけたりするのも楽しくなっている。
「……そうじゃない」
 ジュンはどういうわけかますます顔を赤くしていた。
「と、とにかく……これとこれとこれ! あとこれ……だけ、暫く、僕が、預かっとく、からな!」
 言いながら、物凄い勢いで人形をプラケースから出して抱え込んでしまう。勢いに押されて雛苺はただあいあいと頷くしかなかった。

 客間からジュンの部屋に移動してもジュンは人形をどこかに並べたりはせず、机の上に置いてパソコンを弄りだした。
 恒例の「ジュンのぼり」もすげなく断られた雛苺は、運んできたプラケースを覗き込んだ。
「うーと、残ったのは紺色と、黄色と、紫……?」
 プラケースの中には三体だけが残されていた。それを取り出して雛苺はためつすがめつしていたが、やがて何かを思いついたように叫んだ。
「あ、この紺色の子、銀髪でちょっと水銀燈に似てるのー!」
「ほえっ? な、なんてこと言いやがるですか縁起でもない」
 料理の本を広げようとしていた翠星石はびくっとして振り向き、胡散臭そうに雛苺の持っている人形に視線を向けた。
 何故か机に向かったジュンもびくりとしていたが、翠星石の視界には入らなかった。
「そう言われてみれば多少は似てなくもないですけど……銀髪って言ってもかなり白っぽいですし」
 プラケースを眺めて首を傾げ、にやりと笑って残った人形の片方を取り出した。
「それを言うならこの人形のほうが。……黄色い服に緑の髪で、どっかの誰かさんに似てるですよ」
「ほんとだー! かなりあに似てるの!」
「『水銀燈どこかしらー』」
 翠星石が黄色い人形にコミカルなポーズを取らせ、彼女達の姉妹の一人、金糸雀の口真似をさせる。雛苺はぷっと吹き出して、手に持った銀髪の人形で黄色い人形を小突いた。
「『痛いかしらー』『ふん、おばかさぁん』」
「翠星石、物真似上手なの」
「ふっ、口真似なんぞちょろいもんです。『くらうかしら! カナのおとっとき』『何よそれぇ。全然当たらないわよぉ』」
「あは、あはははは! 似てるー」

「……騒々しいわね」
 部屋の隅で人工精霊に苦労して文庫本のページをめくらせていた真紅は、呆れたように溜息をついた。栞を挟んで雛苺の隣に歩いていくと、二人がはしゃいで振り回している人形を見遣る。
「……似ているというほどではないのだわ。色遣いだけね」
 二人に聞こえない程度の声で呟くと、ケースの中に残った最後の一体を見て何かを思い出そうとするように唇に指を当てていたが、何かに得心したように頷くと、懐から時計を出して蓋を開いた。
「あら、もう二十一時を回っているわ」
 少し大きな声で言う。二人がこちらを向いて部屋の壁掛け時計を見上げているのを見遣り、ややオーバーなアクションで、そろそろ寝なくてはね、と言って蓋を閉じた。
「そうですねぇ……とっとと片付けて寝ちまいますか」
「うぃー」
 時刻が二十一時を回っているのは嘘ではなかった。三人は散らかした小物を仕舞うと、ジュンにおやすみを言ってそれぞれ鞄の中に入った。

「……やっと寝たか……」
 ジュンは念のため振り返り、鞄が三つとも閉じられているのを確認して机の上の人形を一列に横たえた。
 赤、ピンク、緑、青。服装自体はほとんど似ていないが、どことなく自分の周囲のドールたちの雰囲気がある。
 水銀燈が見たら、馬鹿じゃないの、と苦笑するか微笑するに違いない。それは、彼女と彼女の媒介が一週間でどうやら二十六話分を見終えた例のアニメのキャラクターグッズだった。
 薔薇乙女とは比較にならない、大量生産品のちいさなドール。それを見ていてジュンは何気なく思いついたのだ。

──こいつらそっくりの服を着せて、改めてそれぞれにプレゼントしてやろう。

 水銀燈の媒介である少年には、彼のプレゼントを勝手にいじってしまって悪いような気もする。だがそこは、自分への当て付けのようにプレゼントを持ってきたのはそっちなんだ、という言い分で開き直ることにした。
 初対面のくせに──自分はそうではないけれども、ドールたちとは初対面だ──なにか手土産を持って来るということ自体、どことなく胡散臭い。なら、こっちはこっちで使ってやったって別にいいだろう。そんな気分もあるにはあった。
「まず真紅からかな……一晩でどこまでやれるかな」
 ひとりごちて、裁縫道具を引出しからそっと取り出す。
「布地、あったかな……」
 色味の似た赤い布を探していると、ことん、と目の前に紺色の人形が置かれた。
「うわっ」
「あら、失礼ね。大声を立てるものではないわ」
 真紅がいつのまにか机の脇まで来ていた。
「お前、寝たんじゃなかったのかよ」
「眠れなくて起きてしまったわ、何をしているの?」
 だいたい分かっていると言いたげな口調で、真紅は机の上を見つめている。ジュンは赤くなった。
「この子達に良い衣装を作ってあげようとしていたのでしょう、恥ずかしがることはないわ」
 でも内緒にしておきたかったのね、と真紅は微笑んだ。
「もう、お前にばれちゃったけどな」
 ジュンは真っ赤になってそっぽを向いた。
「……す、翠星石たちには言うなよ」
「誰にも言わないわ、でも一つお願いがあるの」
 真紅はもうひとつ、黄色い人形もジュンの目の前に置いた。
「この子達二人にも、服を作ってあげてくれないかしら」
 それが口止め料よ、約束したら私も誰にも言わないという約束を守るわ、と真紅は微笑み、抱っこしてちょうだいと片手をジュンに伸ばした。
「……うん」
 ジュンは真紅を膝の上に座らせると、表情を引き締めて作業を始めた。



[19752] 第三章 夢の人形
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 03:54
1

「あれ……ここはどこです……?」
 無数の扉が浮いている空間に翠星石はぽつんと立っていた。
「あれは夢の扉」
 そうですか、と合点して小さく頷く。ここは人々の夢と夢の狭間、人々の夢が混在して在るところ。
 それが分かると、ちょっとした悪戯心が湧いてくる。
「折角だからチビチビの夢でも覗いてやりますかねぇ」
 彼女がこうしたところに迷い込むのは初めてではない。夢の庭師としての力がそうさせるのか、まどろんだときにごく近しい人の夢の扉がある場所に出てしまうことは何度かあった。
 開けてみなければ誰の夢の扉かは分からないが、今まで開けた扉は全て、精神的にも物理的にも近い位置にいる人の夢に続くものだった。恐らく自分にとって近しい人の扉ほど近く、遠くに行けば行くほど縁遠い人の夢なのだろうと翠星石は理解していた。
 自分に一番近い存在は、いま一緒に暮している桜田家の面々。それでなければ、蒼星石しか思いつかない。
 人見知りを自認する翠星石が全く躊躇せずに適当に手近な扉を開けたのは、そういう理由があってのことだった。

「……なんですか、ここは」

 しかしそこに広がっていたのは、彼女が想像していたような光景ではなかった。
 がらんとしてほとんど何もない暗い空間に、白い髪の人形が仰向けに横たわっている。
 恐る恐る近づいてみると、球体関節人形らしいことが見て取れた。大きさは自分と同じくらい。塗装されているのか、腹部だけが暗い背景に溶け込んで──
「ひっ」
 もう一歩進んだところで翠星石はびくりと立ち止まった。
 人形が目を見開き、こちらを見ている。
 ピンク色の虹彩、シャギーの入った前髪、そしてまるで生きているような顔立ち。
「──」
 それは何かを言いたげに口を開け、右手をこちらにゆっくりと動かす。
 翠星石は異様過ぎる光景に、思わず数歩あとずさった。視線は魅入られたようにそれに固定されていて、外すことができない。
 やがて、もがくようにこちらに寝返りを打つと、それはゆっくり立ち上がって……いや、立ち上がろうとしてがしゃんと崩折れ、胸から上と腰から下が泣き別れになった。
 腹部は、塗装されていたわけではなかった。その球体関節人形には、腹部そのものがなかったのだ。
 上半身はこちらに頭を向けてうつ伏せに転がり、下半身はそれと百八十度捩れた体勢で、腰の空洞を薄暗くこちらに見せながら倒れた。
 だが、やがてそれらはまたもぎりぎりと音を立てるように動き始め、上半身は不器用に手で這いながら、下半身は蠢くように不恰好に這いずりながら、それぞれがこちらにじりじりと……

「──っ」

 そこまでが限界だった。
 目を瞑り、竦んだ足をどうにか動かして回れ右を──しようとしたとき、後ろから伸びてきた手が彼女の肩を叩いた。
「ひぃぃぃぃっ!」
 びくんとして、思わず数センチ飛び上がる。だが、案に相違して、聞こえてきたのは聞き慣れた声だった。
「あら、ご挨拶ね翠星石。そんなに怖がられるなんて、むしろ光栄というべきかしら」
 笑いと毒気を含んだ声。こわごわと目を開くと、にやりと笑う黒衣のドールがいた。
「す、水銀燈……?」
「貴女も酔狂な趣味を持ってるものね」
 水銀燈は失笑する寸前の表情で翠星石の顔を覗き込んだ。
「よりによって、私の媒介の夢を覗くなんて」


 上下が分離してしまった人形を、水銀燈は丁寧に元のように寝かせた。人形はぶつぶつと呟きながら力なく抵抗していたが、下半身と上半身が(腹部の長さほどの距離をおいて)揃うと、やがて安堵したように紅い目を閉じて静かになった。
 水銀燈は翠星石に背を向けたまま人形の手足を真っ直ぐに伸ばして揃え、あやすようにその髪を撫でた。
「……意外です……」
 翠星石はふと思ったままを呟いてしまった。
「何が?」
 水銀燈は振り返りもせずに尋ねた。翠星石はびくりとして両手で口をふさぎ、しまったという表情になったが、もう一度尋ねられて口を開いた。
「……出来損ないとか言ってぶっ壊しちまうと思ってたですよ」
 嘘を言っても仕方がない。正直に彼女は答えた。
 翠星石が認識している水銀燈は、ある意味完璧主義者だった。役に立たないもの、穢れたものは「みっともない」と捨て去ってしまう。自分の媒介の夢の世界の中とはいえ、こんな怪談じみた人形を大切に扱うのは彼女らしくない。
 なにか謂れのある人形なのか、なにがしかの利用価値があるのか、それとも。
「なんか悪いモンでも食ったんですか」
 言ってしまってから翠星石は青くなった。つい、いつもの癖で一言多くなってしまったのだ。怒り狂った水銀燈に羽で縛り上げられるかもしれない。
「貴女、どこまで人を凶暴なイメージで捉えてるのよ」
 水銀燈はこちらを振り向いてわざとらしい溜息をついたが、案に相違して怒りの表情はそこにはなく、ただ呆れたような顔をしているだけだった。ただ──
「壊すには惜しい価値があるから壊してないだけ、かもしれないけれどね」
 そう笑う横顔にはいつもの獰猛さが戻っている。余計な一言はなるべく慎もう、と翠星石は思った。

「始まるわ」
 水銀燈は立ち上がり、上を向いた。
「何がです?」
 釣られるように翠星石もその視線を追う。しかし、見上げてみてもこの夢には夜空もなければ太陽もなかった。漠然としたものが広がっているだけだ。
「夢の切り替わりよ」
 水銀燈がそう言った瞬間、夢の世界は大きな一室に変貌した。


2

 全く同じパイプ机が何十個も並んでいる。一方の壁には大きな窓があり、開放的な雰囲気の部屋の中はざわめきで包まれていた。
 ジュンが夢の中で着ている服と同じものを着た少年達と、つい数日前に初めて逢った雛苺の元契約者──柏葉巴──と同じ水兵服を着た少女達が大勢、それぞれ何人かずつの小さなグループに分かれてお喋りをしている。
「学校、ですか」
「今日はそんな夢みたいねぇ」
 水銀燈はあまり関心もなさそうに言い、手近にあった大きな机の上に腰掛けた。それは教卓なのだが、翠星石は名前を知らなかった。
 翠星石はなんとなくその机に隠れるような位置に移動する。
「凄い人数ですねー……」
 夢の中とはいえ、あまり大勢の人間が出てくるところは得意ではない。翠星石は身体を縮めるようにして教卓の陰から周囲を見回した。
 そして、あるものを目に止めて大きく目を見開いた。
 ローザミスティカのかすかな脈動が、急にはっきりと聞こえてくる。人間なら「心臓が高鳴る」というところだろうか。
「三、四十人ね。ひとクラス分よ」
 今は授業の合間か昼休みってところかしらね、と水銀燈は言い、つまんないわぁ、と一つ伸びをして、組んだ足の上に肘を置き、上に向けた掌に顎を乗せた。
 しかし、翠星石にとってはつまらないどころの話ではなかった。
「……ジュンがいるです」
 ジュンは、水銀燈の媒介の少年の近くにいた。家で見せるのと同じ、あからさまに機嫌が良くない顔つきで机に座っている。
 思わずそこに近づこうと歩き出し、こちらに来る少女にぶつかりそうになって仔リスのように慌てて机の下に逃げ込む。水銀燈がそれを見て笑ったが、それも耳に入らなかった。

 何度かそんなことを繰り返して、翠星石はジュンと少年の声が聞こえるところまでどうにか辿り着いた。
「──久しぶりの学校だって悪くないだろ?」
 少年が屈託なく笑いながらジュンに言っている。ジュンはぶっきらぼうに生返事を返すと、照れたようにそっぽを向いた。
「気分いい時だけでいいからさ、たまにゃ出てこいよ」
「……ああ」
「クラス換えして、お前んとこイジった連中は別のクラスになったし」
「……うん」
 そこで少年は人の悪そうな笑みを浮かべ、ジュンの耳に手を当て、もう片方の手で誰かを指し示しながら囁いた。
「あいつも待ってるぜ」
 ジュンは顔を上げ、少年の指差すほうを視線で追いかける。翠星石はそのジュンの視線の先を更に追いかけた。
「なっ!?」
 ジュンの顔がぼっと音を立てそうなほど赤くなる。そこには、翠星石も知っている顔──雛苺の前契約者、柏葉巴がきょとんとした表情でジュンたちを眺めていた。
 胸の中に何とも言えない感情が湧き出るのを翠星石は訝しく思った。今まであまり経験したことがないような、腹立たしいようで切ないようなもどかしい気分だった。

 少年はそんな観客がいることを知りもせず、さっと身を引いて、にやにやしながらとんでもない事を言った。
「ま、でも出て来たくない気持ちも分かるぜ」
「……どういう意味だよ」
「なにしろ、お前ん家には恋人が三人もいるもんなぁ。完璧少女の真紅、可愛い妹の雛苺、それと──」
 恋人。ジュンの恋人。
 翠星石はごくりと生唾を飲んだ。顔は真っ赤になっているのが自分でもわかる。
 自分は一体なんだろう? 小さな淑女? ちょっぴり恥ずかしがり屋のお茶目さん? それとも──

「──熱き漢の魂を持つ女、翠星石!」

「何頓珍漢なこと言ってやがるですかっこの馬鹿人間!」
「いてっ、いてててて、向う脛蹴るかよ容赦ねーな翠星石さん!……て、翠星石?」
 少年は脛を押さえながら、信じられないものを見たと言いたげに翠星石を見つめた。
「すっ、好き勝手言ってんじゃねーよです! 翠星石はローゼンメイデン第三ドール、花も恥らうれっきとした乙女です。熱きオトコとかそういう蒸せそうな存在とは無縁です!」
 茹で蛸のように真っ赤な顔で、翠星石は力説した。
 少年がなんと反応していいのか分からずに目をぱちくりさせていると、水銀燈が教卓の上から滑るように飛んできて彼等の脇の机に座った。
 少年はああそうかと長い息をつき、気の抜けたような声で呟いた。
「水銀燈、やっぱり毎晩夢に入り込むのは止めてほしいなぁ」
 水銀燈はそれには答えず、いいものを見せてもらったわ、とにやりと笑った。


3

「お馬鹿さんね、あれは私の媒介の夢の中の虚像のひとつ。貴女の契約者じゃないのは分かっていたはずでしょう?」
 窓枠に腰掛けながら、水銀燈はくすくすと笑った。
 安物のテーブルの、これまた安物の椅子に腰掛けた翠星石は口を尖らせたが、黙っていた。水銀燈の媒介の少年が見ていた夢の中に出てきたジュンは──もちろん、本物ではない。夢の主が好き勝手に構築した偽者だ。
 分かっていたのに、その姿を見つけただけでどきどきしてしまったし、少年が自分をジュンになんと紹介するか、などという些細なことで羽目を外してしまった。「心の専門家」としても恥ずかしい。
 これ以上、この性格の悪い長女に言質を与えるわけにはいかない。必要最低限以外のことは口に出さず黙っているべきだ、というのが翠星石の考えだった。
 幸いにも水銀燈は翠星石にそれ以上ちょっかいをかけようとはせず、すぐに用件に話を移した。
「ところで、聞きたいことは何なのかしら」

「……さっきの夢のことです。切り替わりとか、あの……人形とか」

 それが聞きたいから、翠星石はわざわざ現実空間の少年の家に乗り込むような真似をしたのだ。
 少年の夢は、翠星石と水銀燈が現れたことで破れた。最近、毎日のように夢の中に入り込んでは監視している水銀燈に辟易しているらしい少年は、一旦目覚めることを選んでしまったのだ。
 夢の世界が消えていく中、あっさりと「戻るわ」と言って去ろうとした水銀燈を、翠星石は、聞きたいことがあると引き留めた。
 翠星石としてはnのフィールドの中の何処か適当な世界を借りればいいと思っていたのだが、水銀燈はやはりあっさりと、ならば自分達の部屋に来いと言った。
 二人はグレア仕様のパソコンのモニターを通り、この狭くてあまり綺麗とは言えない部屋にやって来たのだった。

「人形ねぇ。何から話せばいいのか分からないくらい長い話になるわね」
 満更茶化しているだけとも思えない言い方で水銀燈は肩を竦めて見せた。
「長くて込み入っている割に、中身がなくて面白くもない話よ。それでも聞く?」
 翠星石はまじめな面持ちで頷いた。最近の若干不可解なことがらが、全てそこに繋がっている。何故かそんな気がしたからだ。
 水銀燈はやれやれと言いたげに天井を見上げ、彼女の言ったとおりの長い話を始めた。


 昔々あるところに、一人のきちがい人形師がいました。後に素晴らしいオートマータを何体も作りだすことになる、たぐい稀な業の持ち主でした。
 いつの頃からか、その工房の隅の作業台の上に、一体の作りかけの人形が居りました。
 人形は、ほとんど完成していました。白い髪も、薄紅色の眼も、他の人形達に優るとも劣らない出来栄えでした。でも、肝心の、胴の部分がありませんでした。人形師がすぐに次の人形を作り始めてしまったからです。
 人形師は、素晴らしい人形を次々に作り出しました。薇のネジを巻くと動き出す、最高のオートマータです。人形達はみんな綺麗に造作を整えられ、人形師の手で優しく抱かれて工房を出て行きました。
 作りかけの人形は、工房の隅の作業台の上で埃をかぶったまま、美しく完成した自分の妹達が人形師と共に出て行くのを、いつもただじっと見守るしかありませんでした。
 どうして、自分だけ完成させてもらえないのだろう。
 作りかけの人形はいつも、そう思っていました。悔しかったのです。だって、胴の部分さえあれば、自分も妹達に負けない美しさを持っているのだし、自分のドレスさえももう出来上がっていて、工房の中に飾ってあるのですから。
 あるとき、人形師は、今までで一番素晴らしい人形を作り上げました。
 人形師は、いつもよりもっと念を入れて人形の仕上げをしました。やがて、いつものように完成した人形を抱き上げると、大きな鞄を片手に持って、工房を出て行こうとしました。
 作りかけの人形は、それをじいっと見つめていました。そして、動かない口で必死に叫びました。
 『待って、行かないで。私も連れて行って』
 すると、どうでしょう。動力も入れられていないのに、作りかけの人形の身体はぎしぎしと動き始めたのです。
 作りかけの人形は、必死にかいなを上げました。届かない人形師の背中に手を伸ばしました。立ち上がろうと、身体を前に動かしました。
 でも、やっぱり人形は作りかけのできそこないでした。すぐに前のほうにのめり、そして、胸から上だけが作業台から床に転げ落ちました。胴の部分がないから、立つこともできないのです。
 それでも、できそこないの人形は人形師を追いかけて、両手だけで人形師のほうに這いずりました。
 『お父様、お父様、連れて行って。私を作って、妹達のようにここから連れ出して』
 その目の前で、扉がばたんと閉まりました。人形師は、作りかけの人形のことなど気にも留めていなかったのです。
 工房の木屑だらけの床の上に、できそこないの人形の涙がぽたぽたと跡を残していました。
 」

「──それがさっきの人形なんですね」
「そういうことになるわね」
「……可哀想なお話ですぅ」
 翠星石はもらい泣きしそうな顔になって視線をテーブルの上に落とした。天邪鬼な振りをしているものの、根が素直な性格の彼女にはじんと来る話だったらしい。
「夢の中にあんな風にぽつんと出てくるなんて、その人間はとってもそのお話を気に入ってたんですね」
「ええ」
 水銀燈は吐息のような声で肯定した。
「でも聞いた覚えがない話です……なんていう童話なんですか」
「『Rozen Maiden』ってアニメよ。その中の『Overture』って話ね」
 翠星石はオーバー気味な身振りでテーブルに突っ伏した。
「まじめに教えてくださいです。せっかくいいお話だと思ってましたのにぃ」
「間違えてないわよ」
 口を尖らせる翠星石に、水銀燈は皮肉な微笑を浮かべた。
「そして作りかけのドールは、ローゼンメイデン第一ドールとなる『水銀燈』……」
「だーかーらー!」
 翠星石はテーブルを叩こうとしたが、水銀燈の媒介の少年が布団を敷いて寝ていることを思い出して、行き場を無くした拳をぶんぶんと左右に振った。
「いくらなんでも水銀燈が作りかけじゃないことくらい知ってます。それに翠星石たち……私と蒼星石より先に世の中に出ていっちまったじゃねーですか」
 結構覚悟キメて来たんですからまともに話してください、と翠星石は顎をテーブルに載せて水銀燈を睨みつけた。
 水銀燈はそんな翠星石の視線には構わず、微笑を浮かべたまま淡々と話し続ける。
「契約者として人工精霊に選ばれた者が『巻かないこと』を選んだら、世界はそこで分岐する。そうして幾つもの世界が平行していくけれど、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在しえない……貴女も知っているでしょう」
「そりゃ知ってますけど、いきなり何を……」
「では、その外側に私たちが認識できない別の世界があったらどう? そこは、私たちがフィクションの産物として存在しているところ。現実的な形ではなく、活字の上や映像上の登場人物という形でね」
 水銀燈は肩を竦めた。
「私自身まだ疑問が残ってるけど、とにかく、そういう世界は存在するのよ。そして、そこで寝てる媒介は、その世界のとある住人が死ぬと同時にこの世界に生まれ変わった異邦人ってわけ」
 翠星石はぽかんと水銀燈の顔を眺めていた。あまりにも現実離れしていて、うまく話が繋がらない。
「そういうことがよくあることなのかは分からない。でも、そいつの場合明らかに普通と違ったところがあるわ。それは前の人生の記憶をそっくりそのまま受け継いでいたこと」
 翠星石は斜め下を見た。水銀燈の媒介の少年は、二人がひどくシリアスな話をしていることを知りもしないように太平楽に眠っている。
 異邦人と言われても実感が湧かない。確かにおかしな、というよりも何かが欠如しているようなところはあるが、少年に前の人生の記憶があって行動しているようには思えなかった。
 彼の行動はどちらかといえば刹那的というか、衝動的な風にさえ見えたのだ。
「そいつの愛読していた漫画のひとつが『ローゼンメイデン』。呆れるほど詳細に記憶に残っていたわ。意識上ではそれほど鮮明に覚えていたわけではないでしょうけど」
「……アニメじゃなかったんですか?」
「元々は漫画だったようね。それがアニメにもなったってわけ。貴女達の好きなくんくん探偵だって人形劇がオリジナルで、絵本や漫画、小説まで作られているでしょう? 順番は逆だけど、同じことよ。
 アニメのほうは私達の現実とは近いけれど、細部は懸け離れているわ。例えば貴女達双子の契約者が没落貴族ではなくて、どこかの時計屋の老夫婦だったり、『水銀燈』がさっきの人形だったりね」
 だいたい分かるかしら、と水銀燈は念を押した。翠星石はこくりと頷いた。

「でも漫画は違う。私達の現実とごく近かった。少なくとも薔薇屋敷の一件までのところは殆ど一致していたわね。
 明確に違っているのは、漫画では私の媒介がそこの異邦人ではなくて病弱な少女だったことくらい。
 そしてもう一つ困ったことに、漫画はもう少し未来のところまで描かれていたってわけ。
 ──つまり、そいつはこれから何が起こるか知っていたのよ」

 それなのにそいつは何もしなかったのよ、と水銀燈はやや呆れたような声で言った。
「もちろん契約したときも、他の契約者とは違って薇を巻いたら何が起きるか明確に知っていたことになるわね。……何もしないのなら薇なんか巻かなければ良かったのに」
 翠星石は黙って下を向いた。
 水銀燈の言い分は正しいのだろう。
 契約者といっても一つの典型には収まらない。薔薇乙女と契約して狂ったように愛玩する者もいれば、彼女たちの戦いに身体を張って介入する者もいる。蒼星石の契約者のように自分自身の目的を果たすための道具として見てしまった者もいる。
 しかし今後のことを知っていても手を出さないというのは、それらとはどこか違っている。ドールに対する執着が薄いか、見世物でも見ているような気分だったのだろうか。

──でも変ですね。

 翠星石は内心首をかしげる。
 その人物像と、自分が見たこの少年のイメージとが全く繋がらないのだ。むしろ反対に、そういった知識があれば何処かに向かって暴走していきそうな性格にしか思えない。
 そのことを問い質すと、水銀燈はあまり面白くなさそうな顔つきになった。
「もう一度質問するわよ。ここからが長くてつまらない話になるけれど、それでも聞きたいかしら」
「覚悟キメて来たって言いましたよね? バッチコイです」
 椅子の上でふんぞり返る真似をすると、安物の椅子がぐらりと揺れた。翠星石は慌ててテーブルにしがみついた。
 水銀燈はその様子を見ても笑いもせずに、少年と契約してからの経緯を話し始めた。


4

 開いた窓から夜の風が吹き込んできた。
 翠星石は水銀燈が寄越したオレンジジュースを吸いながら、机の上のデジタル時計に視線を向けた。
 既に時計の表示は日付をまたいでいた。
 普段二十一時には寝てしまう翠星石が水銀燈の話をここまで聞き通せたのは、一応一旦寝て起きた形だからというよりも、水銀燈が語った内容が自分達の過去から未来にまで亙って関係することがらだったからだろう。
 いくら一度眠った後とはいえ、そんな重大な内容でなければ話の半ばで船を漕いでいたに違いない。
「どう? 少しは話が見えてきたかしら」
「……」
 翠星石はこくりと頷いてストローから口を離し、水銀燈の長話の間もほとんど寝返りも打たずに気楽な顔をして眠っていた少年を見遣った。

「可哀想な奴だったんですね、この人間も」

 水銀燈は眉根を寄せた。もう少し別な感想が出てくるかと思ったのかもしれないが、斜め下の媒介の頭の辺りに視線を向けただけで何も言わなかった。
「翠星石の頭は欠陥品かも知れんです。今の話を聞いても、真紅や蒼星石みたいに冷静にパッパと整理はできないです」
 翠星石は音を立てないように注意して椅子から降り、少年の布団のほうに歩み寄った。
「ただなんていうか……」
 煎餅布団に横たわり、毛布にくるまって太平楽な表情で寝ている少年の頭の近くに座り、水銀燈を見上げる。
「こないだ、おじじの屋敷に行った日、こいつがいきなりペラペラ喋りだした理由だけは分かった気がするですよ」
 翠星石は数日前のことを思い出していた。
 いきなり現れた、契約者の指輪を嵌めた少年。蒼星石のことをいやによく知っていたこと、やけに子供っぽい振る舞いをしていたくせに蒼星石の意図の説明のときだけは立て板に水といった調子で喋ったこと。
「あれはきっと、伐り倒しちまった心の木の最後の残りカスってやつだったんですねぇ」
「そんなところでしょうね、きっと」
 水銀燈は目を細め、くすりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それも結果的には貴女達を振り回す誤情報に過ぎなかったわけだけど」
 そこは翠星石も苦笑するしかない。
 水銀燈が蒼星石の無茶を止めるという、他の皆にとって良い方に転んだ形で終わったからいいようなものの、少年の持ち込んだ「水銀燈が敗者のローザミスティカの横取りを企んでいる」という話は肝心なところが間違っていたわけだから。
「でも、翠星石の言葉がきっかけで、おじじが本当の気持ちに気付いたのなら──」
 少年がもぞもぞと動いて向こうに寝返りを打った。翠星石は驚いて一歩下がったが、動きが止まると近づいて少年の肩に毛布を掛けなおしてやった。
「こいつのやったことも、全部無駄になったってわけでもないですよ」
 あの日、蒼星石に鋏を構えられたとき、翠星石は少年が言った「本当の願い」を結菱老人本人に思い出させようと声を上げた。
 それが結菱老人に何等かの影響を与え、結果として老人が閉じられた記憶に辿り着けたのであれば、少年のしたことは必ずしも無意味というわけではないはずだ、と翠星石は水銀燈を見上げた。

 水銀燈は翠星石の顔を見つめ、一拍置いて黙って頷いた。
 漫画でも同じタイミングで老人は「本当の願い」を思い出している。そこに翠星石の台詞はなかった。
 だから、実のところ翠星石の言葉は言っても言わなくても同じだったのかもしれない。媒介の行動は全くの無意味だったと言ってしまってもいい。
 だがそのことを教えて翠星石を落胆させたところで、何がどうなるわけでもない。
 それに、この現実と漫画で、老人の心理が完全に同じとは限らない。この世界では、老人は本当に翠星石の言葉で思い出すきっかけを得たのかもしれない。
 正確なところは時間を巻き戻して検証してみなければ分からないことだ。
 どちらとも言えることなら、翠星石は翠星石の望む解釈を信じていればいい。余計な口を挟む必要はない。真実は人の心の数だけ存在していいのだから。

 問題は、事実がどうなのかが重要になってくることがらの方だ。
 例えば、アリスゲームの真の意味、狙い、といったような。
 それは少年の知識の中にもない、しかしその知識を得て否が応でも考えざるを得なくなったことがらでもある。

「もう一つ確認したいことがあるです」
 いいですか、と翠星石は上目遣いに水銀燈を見上げ、水銀燈は飲みかけていたジュースのコップを置いて、どうぞと返した。
「毎日夢の世界を覗いていたのは、こいつの記憶を……」
 そうよ、と水銀燈は頷いた。

「昔の記憶に強く依存して生活していたせいね。そこがごっそり心から抜け落ちたから、今のそいつの記憶は残りの部分まで穴だらけ。
 それだけならまだ良いのだけど、整合性を取るために残った記憶で強引に辻褄合わせをしてしまうの。スカスカになった部分なんかは無茶苦茶になりかけてるわ」

 だから、なるべく事実に沿うように調整してやるために媒介の夢の扉を開けているのだと水銀燈は言った。
 本来許されるべきではないことかも知れないが、事情が事情だけに看過できないのだと。
「都合のいい嘘で塗り固めた世界が完成したら、目も当てられないものね」
 あの爺さんみたいに、と言われると、翠星石としても頷かざるをえない。
 結菱老人は自分が恣意的に忘れてしまった記憶の辻褄を合わせるために、逆恨みに近い形で昔の想い人を恨み、生きていると分かって手に掛けようとし、それに蒼星石と自分は振り回されてしまったのだ。
 今現在の契約者があんな風になってしまうのを見過ごすことは、翠星石にもできないだろう。
「夢が切り替わるまで──あの人形がいる空間が見えている間のことよ──それが、意識下で辻褄合わせが一番活発にされているときのようね。切り替わってからの夢は、いつもかなり鮮明ではっきりしているわ」
 さっきのようにね、と水銀燈は笑い、翠星石は顔を赤くした。
 まるでテレビドラマの場面を見るように鮮明で精細な光景だったから、思わずその中にいたジュンに我を忘れてしまったのだ。
「いつもはもっと混沌とした状況よ。なまじ鮮明だから余計酷く見えるってのもあるわね」
 伐った晩の記憶なんかは毎回筋書きが変わって迂闊に手を付けられないわ、と水銀燈は肩を竦める。
「ただ、学校の教室が舞台のときは別。大抵貴女の契約者が出てくるのよ。あんな風に話し掛けたのも初めてではないわ。
 過去の記憶があまり関わらない部分で、ずっと気に掛けていたのかもしれない。俗な言い方をすれば「目下一番気がかりなこと」ってわけね」
 契約したドールよりも他のドールの契約者の方が大事なんて呆れたものよ、と言いながらも、水銀燈は満更でもない表情をしている。
 それは、何事にも根本的には無関心で積極的な興味を示さなかったように見えた少年が、昔の心の木を伐ったことで多少は周囲に目を向け始めたことを、水銀燈自身無自覚のうちに喜んでいることの現れだったかもしれない。
 もっとも、翠星石はそこに気を回す余裕はなかった。
「……そうですね」
 ジュンが不登校になった原因を、翠星石はおぼろげながら理解していた。真紅の腕を取り戻したとき、彼の記憶から来る痛みを共有していたし、日常の何気ない会話からも少しずつ経緯の断片を窺い知ることはあった。
 真紅は恐らくもっと的確に知っているのだろう。自分よりずっとジュンに近いから。
「ま、あれは過去の記憶でなくて今の願望だから、私が手を付ける必要はないところよ。
 ただ、お気をつけなさい。あの日よりはだいぶマシになってきたけど、まだ行動に抑制が効かないから。また乗り込んでいってひと騒動起こすかもね」
 内向きに落ちそうになった翠星石の思いを知ってか知らずか、水銀燈はそんな言葉で話を締めくくった。
 翠星石は顔を上げ、大丈夫ですと不敵な笑みを浮かべた。
「失礼なことをやらかしたら、翠星石がしばいてやるです。なにしろ相手が水銀燈の媒介ですからね、何かあれば容赦無しですよ」
 その途端、少年が大きく寝返りを打って翠星石の方を向いた。翠星石は小さな悲鳴をあげて机の下に逃げ込んだ。
 頼もしいこと、と水銀燈は唇の端を上げて笑った。


5

 5体目の人形の服が仕上がった。
 ジュンは大きく伸びをして、凝り固まったような身体をほぐした。
 最近、立ち上がろうとしてちらりと後ろの鞄の様子を窺うのが癖になってしまっている。言うまでもなく作業しているところを真紅以外のふたりに見つからないようにするためだ。
 今夜は三人とももう寝入っている。鞄を開けて起き出していることもなかった。
 ジュンはほぅと小さな安堵の息をつき、机の上を手早く片付けた。
 小さな布地を手縫いするのは慣れていたが、真紅以外のドールに見つからないように作業時間を取るのが大変だった。
 夜、彼女等の寝入った後か昼寝の時間を利用していたのだが、どういうわけか最近翠星石が夜の散歩を覚えたらしく日付が変わる頃まで鞄に入らなかったり、昼間は昼間で今仕上げた黄色い人形のモデルが来訪し始めたりと、予定は狂いっぱなしだった。
 ジュンは少し恨めしげに今仕上げた服を人形に着せ始めた。金糸雀という名前の第二ドールは雛苺や翠星石といい仲間のようで、昼間やってきては夕方まで遊んで帰っていく。
 お陰で雛苺と翠星石の昼寝の時間はあったりなかったりで、ジュンとしては中々工作をする時間が取れなかった。
 毎日1体分ずつ作って行けるだろうという目論見はすぐに崩れて、もうあれから二週間以上経ってしまっている。
 それでもここまでは、見本が向こうからいくらでも纏わりついてくるから模倣するのが楽だった。

──あとは、あいつか……

 最後の一体が大問題だった。
 ジュンは引出しを開け、紫がかった濃紺の服を着ていた小さな人形を手に取った。今は元の布を取り去り、ドロワーズだけを履かせている。
 軽くカールが掛っていてやや多目の白い髪は、モデルどおりに輝くようなストレートの銀髪に代えてある。ペイントされていただけの瞳も刳り貫いて自作した小さなアイを入れ、顔の輪郭も地のポリ材に穴があかない範囲で多少整形している。
 実のところ作業が遅延している理由の一つには、他の人形も同じような改造をしていたから余分に時間を食っているという側面もあるにはあった。だが、作り始めるとそういった些細な部分がどうしても気になって仕方ないのだった。
 作るものに安易に妥協しないというか、凝り性というか、彼らしい一面ではあった。

──顔やヘッドドレスは作れたけど、あの服は実物を見ないとどうしようも……

 一度は手を付けたのだが、どうしても上手い具合に頭の中で裁断図が浮かばない。それで送り送りになってしまって、とうとう最後に残ってしまったのだ。
 ジュンにしてみれば、元々真紅に言われなければ作る予定もなかった分だし、そもそもモデルの水銀燈本人に対していい感情は持っていない。
 ならばいっそのこと適当に作ってしまえば良さそうなものだが、そういう選択肢は彼の心には浮かんでこないようだった。
「どうしたもんかな……」
 小首を傾げたものの、いい思案は浮かんでこない。眠気もかなり強くなってきている。
 取りあえず今日は寝よう、と点けっぱなしになっていたパソコンの電源を切ろうとしたとき、モニターの画面が波打つように歪んだ。
 はっとして飛び退き、回転椅子の背もたれの陰に身を縮める。
「まさか……また?」
 彼の懸念どおり、瞬く間に画面は半球状に膨れ上がった。

「ごきげんよう、人間。客観的な時間では371時間23分ぶりね」

 モニターの画面が破裂するように黒い羽が噴き出し、そこからうっそりと微笑みながら出てきたのは、彼がまだ右手に握ったままの小さな人形のモデル。水銀燈本人だった。

「な、何の用だよッ。真紅たちならもうみんな寝てるぞ」
 ジュンは椅子を盾にして、というよりは椅子の陰に隠れて水銀燈の様子を窺った。彼女は以前ここに現れたときと同じように笑いを顔に貼り付け、机に腰掛けてこちらを眺めている。
「そう、真紅も寝てるの。それは丁度良かったわぁ」
 とは言っているものの、眠りに就いている時間を狙って来たに違いない。もう時計の針は夜中の一時をとうに回っている。
 とすると、彼女の目的は……
「言わなくてもお分かりのようね。貴方に用事があって来たの」
 さすがにうちの媒介とは違うわね、と水銀燈は机を降り、ジュンの隣に歩み寄る。
 ジュンは素早く椅子を回して距離を取った。
 水銀燈が逆に回る。ジュンは椅子を回してその反対側に動く。
 そんなことを数回繰り返すと、水銀燈は肩を竦めて椅子の上に飛び乗った。背もたれを掴んでいるジュンの手を、水銀燈の小さな手が、しかしかなりの力で押さえる。
 二人は背もたれ越しに顔を合わせた。正面から至近距離で見詰め合う形になって、ジュンは思わず視線を逸らした。
「……前言は撤回するわ。案外似たようなものねぇ」
 ジュンは頬を赤らめた。くすくすと笑う声の邪気の無さに、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまったのかもしれない。

「それで……何の用なんだよ」
 結局こうなるんだな、とジュンはティーカップを水銀燈の前に置きながら口を尖らせた。
 水銀燈はちらりとそれを眺めただけで、手を付けようとはせずにジュンを見詰めた。
「勿体ぶった話は得意じゃないから、用件から言わせてもらうわ。──取引しない?」
「取引? ぼ、僕が?」
 吃るほど大層な話じゃないわよ、と水銀燈は黒い羽根を一枚拾い上げ、指で弄んだ。先ほどパソコンの画面から出てきたときにばら撒いた羽根だ。また掃除しなきゃいけないのか、とジュンはちらりと考える。
「そう、貴方の可愛いお人形について、ね」
 気のない風の水銀燈の言葉に、ジュンの肩がびくりと震えた。
「お前、これ以上まだ真紅を……」
 あら怖い顔、と水銀燈は笑う。
「でも早とちりしない方がいいわよ? 用件は確かに真紅のことだけれど、あの子をどうこうしようって訳じゃないわ。むしろ逆」
「逆って」
「それのことよ」
 水銀燈は弄んでいた羽根を人差し指と中指の間に挟み、手首のスナップを利かせてダーツのように飛ばした。羽根は部屋の隅に向って飛び、歪んだ鳥籠に当たって床に落ちた。
「それを、元通り真紅に戻す方法を教えてあげる」
 鳥籠の中にはドールの腕が納まっている。
 nのフィールドから拾い上げてくることはできたものの、どうやっても鳥籠から出すことができないでいる真紅の右腕だ。
「その代わり私に協力しなさい、人間」
「──お前ッ」
 ジュンの顔が赤くなった。今度は恥ずかしさとか照れではない。
「元はと言えばお前がやったことじゃないか! それを今更っ」
 水銀燈は落ち着き払い、真紅に負けないほど優雅な動作で紅茶を口に運んだ。
「確かに腕をもいだのは私よ。今更否定はしないわ」
 かちりとも音を立てずに、機械仕掛けの人形のように精確にカップをソーサーに戻す。
「そして、普通なら欠けたパーツを戻すなんて有り得ない。だから、真紅は諦めて現状を受け入れようとしているわ。当然の反応ね。……でも」
 水銀燈はジュンの手を指差した。
「貴方にはできる。恐らく世界でただ一人、神業級の職人たる資質を持っている貴方だけはね」
「そんな……何言って」
「あら、真紅にも言われたことがあるんじゃなくて? 思い出して御覧なさいな」

 ジュンは瞬いた。確かに似たことは言われたことがある。

  ──その指はきっと魔法の指だわ。
  ──いまに、王女のローブだって作れるわ。

 そのときちらりと見せた真紅の瞳は、二人だけのときに見せる甘えるようなそれとも、偶に見せる優しいそれとも違っていた。まるで夢見るような、憧憬にも似た何かを感じさせるものだった。
 ジュンは水銀燈を見詰めた。水銀燈の紅い瞳は甘酸っぱさなど微塵も含まずにこちらを見据えていた。
「……僕が、そんなに凄い腕前を持ってるわけないじゃないか」
 ジュンは俯いてかぶりを振った。
「たまたまぬいぐるみを直したりしただけだ。裁縫なんて、ただの遊びで」
「別に遊びだろうが食べるために厭々商売してようが、この際関係ないのよ。貴方にはその資質がある。大事なのはそれだけ」
 水銀燈は部屋の隅を指差し、次に真紅の鞄を指した。
「そこの腕をその子に付け直すことはできる。貴方にはそれを可能にする資質がある。でも現状ではまず、あの鳥籠を開けなくてはならない」
 それは資質とは無関係なのよ、と水銀燈は言い、溜息をついた。
「真紅が諦めているのは案外そっちなのかもね」
「そっちって何だよ」
 水銀燈は直接それには答えなかった。
「あの子は姉妹の中でも一番諦めが早いの。智慧があるから抑制が利き過ぎているとも言えるわね」
「……そんなことないだろ」
 ジュンは普段の真紅の姿を思い返して、むしろ正反対だろうと思った。契約した自分を下僕と言い、何かといえばこき使う。生粋のお嬢様タイプだ。もちろん悪い意味で。
 腕をなくしてからは、どちらかと言えば甘えん坊にシフトしてきたような気はするが……。
「あの子は本当に不器用だから」
 苦笑するように水銀燈は口の周りを歪める。
「下僕、家来、そういう風に定義づけしないと契約者に甘えることもできないのよ。覚えておくと良いわね」
 水銀燈はまた紅茶を口に運んだ。冷めかけているのが気にならないのか、と思ってしまう。
 自分が目の前の水銀燈と真紅とをつい重ね合わせてしまっていることに、ジュンは気づいていなかった。
「だいぶ脱線したけど、ともかく貴方は鳥籠を開けなくてはならないわね。そして、それを為す鍵は物理的な物や方法ではなくて、貴方の心」
 ジュンは息を呑んだ。
「翠星石も言ってた。籠は僕の心だって」
「そうね。あの子もそこまでは踏み込んだのねぇ」
 もう一歩踏み出せばいいのに、と水銀燈は呟いた。翠星石が、ドールが契約者に抱く想いとは一線を画した感情をジュンに向け始めているのを知っているからだが、当のジュンには勿論知る由も無かった。
「……僕は、何をすれば」
 ジュンは顔を上げて尋ねた。それは二週間前に翠星石から籠のことを聞いて以来考えつづけ、どうすればいいのかわからずに保留していた課題だった。
 思い返せば水銀燈の媒介が置いていった人形を薔薇乙女たちに似せようとしたのも、そこから目を離したくて別のことに逃避した証なのかもしれない。
 それで二週間も無駄にしてしまった、とジュンはちくりと心が痛むのを感じる。

 もっとも、ジュンはつい内罰的にそう思考してしまうのだが、周囲──彼を取り巻くドールたち──は鳥籠についてそんな風に捉えてはいない。
 ジュンが翠星石とnのフィールドに入り込み、傷だらけになりながら鳥籠を持ち帰ったことも、腕力ではどうしても鳥籠を壊せないと諦めるまで、どれだけ必死に開けようとしていたかも知っているからだ。
 当面は手をつけられずにいるのだろう。でも籠を見えるところに置いているから、まだ諦めてはいない──と思っているだけだ。
 薔薇乙女の外れたパーツを元通りにできることなどないと考えているから、当然といえば当然のことだった。
 むしろ、臆病だと自他共に認めてはばからないジュンがそこまで頑張ったことを多かれ少なかれ肯定的に捉えてさえいる。
 翠星石がジュンに胸をときめかせるようになったのも、そのときnのフィールドで痛い記憶に苦しみながらも鳥籠を茨の中から取り出したのを見たことがきっかけだった。
 真紅とジュンの立場に立てば籠を開けることを安易に諦めるべきでないわけだが、それを知っていたのは水銀燈だけだった。

「その前に、私に協力してくれると約束してもらえるかしら?」
 水銀燈はまた顔に微笑を貼り付けていた。そこまでお人好しではないのよ、と言外に語っているようでもある。
「……わかった」
 僕にできることだけだぞ、元はと言えばお前のせいなんだからな、と念を押すように言うジュンを、水銀燈はろくに見てもいない。
 彼女の視線はジュンの肩越しに、彼の机の上のあるものに向けられていた。
「じゃ、まず協力の一つ目」
「うっ……うん」
 何を言われるのか、とジュンは唾を飲み込んだ。
「なんでもいいから服を着せてくれない? ドロワーズだけで放り出されてるのはいい気分じゃないから」
 ジュンは水銀燈の視線を追い、自分の机を振り向いて頬を染めた。
 机の上には、さっきつい仕舞い損ねた小さな人形がモニターにそっと立てかけられたままになっていた。


6

「……いや、水銀燈の役に立つっていうのは嬉しいんだけどさぁ」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の上に上半身を起こして、パジャマ姿の少年は頭を掻いた。
「いくらなんでもこりゃ、寝にくいっていうか……」
 そう言ってばつが悪そうにぐるりを見回す。
 狭いアパートの一室に、彼の布団を中心にして、ドールと人間合わせて都合七人が座っている。この場に金糸雀のマスターがいれば失神しそうな眺めだった。
「時間も時間だし」
 窓の外は鮮やかな夕焼け空だった。少年のいつもの就寝時刻とはだいぶ違っていた。
「大丈夫、僕が貴方を眠らせる。確実に夢に入れるようにね」
「そうです。蒼星石の力を信じられないですか」
 双子の庭師がそう言っても、少年はまだ首を傾げている。
「そうは言っても、みんなの役に立つ夢なんて一発必中で見れるかどうか……」
「この期に及んで女々しいこと言うんじゃねえです」
 翠星石は腕を組んで少年を見下ろした。
「人数が多いのは全員一緒に夢の中に入る必要があるからです。そうじゃなけりゃこんな狭っ苦しい部屋にわざわざ来やしねえですよ」
「そうね、浴室の鏡が使えて良かったのだわ。パソコンから出ていたのではジュンが引っかかってしまったでしょうね」
「……僕一人なら、別に歩いてきても良かったんだぞ。鏡を通ってきたのは嵩張る物を抱えてたからで」
「そんなこと言ってるくせに、真紅を抱いて離さないところがジュンの可愛いところかしら」
「真紅だけ抱っこしてもらってずるいの。ヒナもジュンのぼりするのよ」
「よせ、ますます重たいだろっ」
「重いとは聞き捨てならないわ、私達ドールは人間の女の子ほど重くなくてよ」
「絶対的な重さってのはあるだろ」
「ジュンはひ弱かしらー」
「自分でも認めるヒッキーだから仕方ねーですよ」

「えーとぉ」
 少年は苦笑いして窓の方を見遣った。西の空を染めている夕焼けを背景にして、いつものように窓枠に座っている水銀燈は、黙って呆れたように部屋の中を眺めていた。
「そろそろ始めようか」
 枕許に座った蒼星石の生真面目な言葉に、それまで騒いでいた者も静かになった。
「これから貴方を眠らせる。横になって、目を閉じて」
「あ、うん。オーケー」
 少年は言われるまま枕に頭を載せ、目を閉じた。
「姉ちゃんのときはいきなり眠らせたくせに……」
 ジュンが口を尖らせると、蒼星石の動作は一瞬止まった。無表情だった横顔が複雑な表情に変わっていく。
 翠星石はジュンをぽかりと叩いた。
「余計な茶々入れんなです! 蒼星石を悲しませるのはジュンといえども許さんですよ」
「……ごめん」
「謝る必要はないよ。君が言ったことがらは事実だ。僕のほうこそ、あのときは手荒い真似をして悪かった」
 蒼星石は立ち上がり、帽子を取ってジュンに深く一礼した。
「次に逢ったら君のお姉さんにも謝っておくよ」
 顔を上げ、硬い表情のまま帽子を被り直して、少年の額に手をかざす。
「始めるよ」
 少年は薄目を開けて蒼星石を見た。視線が合って蒼星石が瞬く。少年が気にするなと言うように頷くと、蒼星石は薄く微笑んだ。
 少年は目を閉じ、布団に入ったままガッツポーズを取った。
「おう、もうジャンジャンやっちゃって。バッチコーイっス」
「お前も無駄口叩くなです」
 翠星石は容赦なく少年の腰の辺りを蹴っ飛ばした。ぐぇっというような呻きの後、了解、と少年は眉を顰めながら返事をした。
 痛そうな声に、ハッと気付いた金糸雀と雛苺が水銀燈を見遣る。しかし、彼女は自分の媒介が蹴られても軽く肩を竦めただけで、窓枠から離れて少年の枕許にふわりと降り立った。
 ほどなく、少年は寝息を立て始めた。
 同時に彼の頭上の空間が、さながら池に小石を投げてできた波紋のように揺らぎ、夢の世界への入り口が現れる。
「急ぐわよ」
 水銀燈は短く言い、飛び込むように夢の中に入っていった。
 翠星石がすぐに続き、他の姉妹たちもそれぞれ夢の中に入り込む。ジュンは途惑うような素振りを見せたが、真紅が促すと意を決したように波紋の中心を越えて行った。
 その場に残ったのは蒼星石だけだった。


7

 真紅が心配そうな視線を自分のほうに向けているのを軽く頷いて返し、ジュンの背中を見送ってから、蒼星石は少年の顔を見下ろした。
 硬い表情は崩れない。そのまま、淡々と蒼星石は呟く。

「貴方はこうなることを恐れていたんだね。

 水銀燈が一番のお気に入りではあるけれど、僕達全員を好きだった貴方は、僕達が互いに傷つけあいながら成長していく漫画の展開を肯定的に捉えていた。
 貴方自身は完結まで読みきることができなかった漫画。そのラストに貴方は希望を抱いていたんだね。
 僕たちは皆一つずつ階段を上り、最後は誰もが幸せになれるだろうと……。
 だから、自分が柿崎めぐの立ち位置になることで、漫画の展開になるべく近い方向に進むようにと願っていた。
 『巻かない』を選ぶことはできなかった。それは次の時代に僕達の成長を持ち越し、もしかすると成長の機会を永遠に逸してしまうことになるから。
 積極的に水銀燈に手を貸すこともできなかった。自分がストーリーに手を加えることでストーリーが変化することよりも、僕達の誰かの成長を阻害してしまうのを、臆病な貴方は恐れていたんだね。

 それなのに、どうして貴方は──」

──自分で自分を切ってしまったのか。水銀燈に完全な知識と膨大な量の記憶、そして僕には不完全な知識と貴方の思考の軌跡だけを与えて。

「臆病な僕には、水銀燈と契約してからの貴方の選択を間違っていると指弾することはできない。
 僕も、同じ立場になったら迷ってしまうかもしれないから。

 でも、心の木を伐ってしまった理由は判らない。理解できない。
 何通りでも推定はできるけれど、どれも決定的ではないんだ。それに、どれであっても我侭な僕には納得できそうにないよ。

 真紅の腕は戻らず、彼女の契約者はまだどこか絆が欠けている。僕との別離を知らない翠星石は子供のままで、逆にその後を見せられてしまった僕は水銀燈の言葉を受け入れて、おめおめとこうして生きてしまっている。
 知識を得た水銀燈は何か大きな事を考えているようだし、ここにいる貴方はもう、貴方ではない。

 僕達のちっぽけな世界は、貴方が恐れていた方向に動いているんだ。
 貴方が心の木を伐ることで、自分のスタンスを放棄して……ある意味で積極的に僕達に関わり始めたときから」

 蒼星石は膝を抱いて座り込んだ。
 その目の前に、青い人工精霊がすっと現れる。
「レンピカ……?」
 人工精霊は二度ばかり瞬くように光ると、主人の命令もなしに何かを召喚した。
「両手剣か」
 見覚えはある。薔薇屋敷の一件で水銀燈が召喚し、この少年に向かって「貴方の得物よ」と言ったものだ。
 蒼星石は座り込んだまま、手を伸ばして剣の柄を握った。いきなり、両手剣はまるで人工精霊のように強く明滅した。
「──っ」
 何かが、頭の中に流れ込んでくる。
 人工精霊との会話や念話のような整然としたものではない。剥き出しで未整理の汚くて醜い情報。
 それでも、言いたいことはおおむね理解できた。
「……貴方はやはり、飽くまでも水銀燈の契約者。そういうことなんだね」
 蒼星石は首を振り、長い息をついた。
「臆病で疑心暗鬼の塊、と自分自身を評価していた貴方に、そこまで信頼されている水銀燈が羨ましいよ」
 剣はちかちかと二度ばかり光り、また一塊の情報を蒼星石に叩きつけると、初めて硬い表情を崩して驚いたような顔になった彼女をその場に残し、そのまま幻影のように薄れて消えていった。

 蒼星石は立ち上がり、まだ揺らめいている夢の中への入り口を見上げた。
「まだ間に合うかな? どう思う、レンピカ」
 レンピカは一度だけ瞬くと、最短距離で入り口を潜り抜けて夢の中に飛び込んでいった。
 何事にも独りで果断に対処していた我武者羅な貴女はどこに行ったのですか、と言いたげなその行動に蒼星石は一瞬苦笑いを浮かべる。
「……どうも弱気になっていていけないな、あれから」
 一つ首を振ると帽子を目深に被り直し、生真面目な表情に戻って自分も波紋の中に身を沈めていった。


8

 彼女は孤独で、絶望していた。
 自分が何者かはよく分かっていない。何故ここにいるのかも完全には理解できていない。
 ただ、自分がここから動けないこと、そしてここには殆ど誰も来訪しないことは知っている。
 昔の記憶は断片的にしか存在していないし、前後の順序も判然としない。
 記憶の多くの部分は、忘れてしまい心に浮かばないという状態でさえなかった。記憶そのものが最初から存在しないのだ。
 持っている記憶さえも、その殆どは自分の体験ではない。植え付けられり与えられた擬似的なものだ。もっとも、彼女自身はその違いの意味を知らなかった。
 彼女の意識は毎日一回から数回、ほんの数分間だけ開いて閉じられる。
 その時間、自分の存在する場所の裏側で、混乱した作業が忙しく続けられていることなど彼女は知らない。
 作業が済んで、そのときの夢の舞台が整ってしまえば、彼女の存在する空間は閉じられ、彼女の意識も閉じこめられるのだ。

 最近、毎日一度かせいぜい二度、彼女を訪れる者がいる。
 それは彼女の心をかき乱し、擬似記憶を励起させる。だが、いつも彼女はそうやって提示された記憶を一つに繋ぎ、纏めることができない。
 彼女に与えられた時間はそれほど短いものでしかなかった。
 それでも、彼女はその者の来訪を期待するようになっていた。
 彼女にとって、それだけが他者との繋がりだったからだ。
 今日も彼女は胴のない体を苦労して動かしながら、それが来るのを待った。
 暫くしてそれがやってきたとき、彼女はいつもとは比べ物にならないほど心が突き動かされるのを感じた。


「真っ暗なの……」
 雛苺はジュンの右足にしがみついた。
「夢の主の心の闇を表現しているかしら」
 金糸雀は左足に要領よく掴まる。ジュンはしがみつくなと口を尖らせたが、二人は無視して話を続けた。
「第0世界ほどではなくても、夢はその人の深層に迫っているから」
「うー」
 雛苺はきょろきょろと周囲を見回したが、どれだけ見直してもなにやら薄ぼんやりとした不定形のものが見えるばかりで、不気味としか言いようのない空間だった。
「こんなのがあの子の夢なんて、信じられないの」
 水銀燈の媒介とは薔薇屋敷の一件のときに会っただけだが、そんな闇を抱えているようには到底思えなかった。むしろ裏表ない素直な人物に見えたのだ。
 だから水銀燈の媒介だと言われてもなんとなく悪い感情が湧かなかった。
 しかし、これは酷い。絶望して何もない世界より不気味だった。
「人の心は一筋縄ではないわ。特に夢や無意識の領域は──」
 真紅は雛苺を諭そうとして言いかけた台詞を飲み込んだ。隣にいるジュンがぎゅっと拳をつくったのに気づいたからだ。
 真紅は黙ってその拳に手を重ねた。一筋縄でいかないのはジュンの心も同じだ。自分の趣味に対して劣等感とプライドを合わせ持っているから一層複雑なのかもしれない。
「これが貴女の見せたかった物なの?」
 真紅の声に、数歩前に立っていた水銀燈は振り向いて首を振った。
「あら、せっかちねぇ。こんな殺風景な眺めなんてわざわざ見に来るわけがないでしょう?」
 それとも化け物が出そうで怖くなったのかしらぁ? とからかうような声になったが、自分の言葉にそれぞれがどう反応したかを確かめることもなく、また前を向いた。
「これがあいつの夢の全てって訳じゃないわ。今は、パソコンで言えば電源スイッチを押してから使えるようになるまでの時間ね」
 水銀燈は左右を見渡して何かを見つけると、ついていらっしゃいと先に立って歩き始めた。
 一歩前を歩いていた翠星石はジュン達を振り返り、大丈夫ですよというように頷いてそれに続く。残りの面々は顔を見合わせたが、黙って水銀燈の後を追った。

「見せたいと言ったモノの一つは、あれよ」
 水銀燈が指差した物を見て、金糸雀はまあと口元を手で押さえてジュンの服の裾を掴み、雛苺はびくりとしてジュンの後ろに隠れながらもこわごわそれを見詰めた。
 裸の球体関節人形だった。それがぽつんと横たわっている。
 服も着せられておらず、腹部のパーツもない。まるで作りかけの状態だった。
 ジュンは首を傾げ、右隣を歩く真紅に視線を向けた。
「なんでこんなとこに人形が置いてあるんだ?」
 真紅はジュンを見上げることもせず、人形に歩み寄る。
「分からないけれど、確かに不自然ね。何もない場所にドールだけ……」
「あいつ、そんなに人形に興味あるのかな」
 そんな風には見えなかったけどな、とジュンは両足を掴まれて歩きにくそうに人形に近づく。
「興味ではなくて……あの人形のことを気に掛けていたのです」
 翠星石がジュンを振り返った。
「哀しい過去を持った人形のことを、ずっと気にしていたから、ああして夢に……」
 真紅は立ち止まり、首を振った。
「いいえ、それでも不自然よ」
 どういう意味ですか、と尋ねる翠星石の手に真紅は左手で触れた。
「優しい翠星石、でも今は事実を見て。あの子は夢の世界の一部ではないわ。魂がある。生きているのよ」
「そんなの、ブーさん人形とかと同じだろ」
 ジュンは自分の部屋の呪い人形達を思い出していた。適当に通販で買った人形達だが、魂があると言ったのは真紅だし、現実に動いたところさえ見せられている。
 喋り出したりこそしなかったものの、真紅や水銀燈が力を付与しただけで暫くの間活発に動いてみせたりしたのだ。
「そう。だから不自然なの。夢の世界は、当人が夢を見終われば閉じてしまう。そこにヒトの手で作られた人形が存在するなんて」
 翠星石は「あ」という形に開いた口を手で覆い、人形の方を見遣った。
「人形は自力では動けないわ。でも、私達以外にここには誰もいないし、訪れる者もほぼ存在しえない」
 真紅は人形の傍らまで近づいた。
「一体誰が、何のためにここに人形を置いたというの、水銀燈」
 水銀燈は微妙な笑みを浮かべ、人形を挟んで真紅の向かいに回り、腰をかがめた。
「流石と言うべきかしらね。ご明察よ、真紅。その話をするために──」
 水銀燈はぎくりとして言葉を中途で止め、弾けるように跳び退った。真紅も後ろに大きく跳んで身構える。
 倒れていた人形がむくりと上半身を持ち上げ、真紅に視線を向けたからだ。


9

「しん……く……しん、く……」

 薄紅色の瞳は真紅に向けられ、のろのろと右腕が差し伸べられる。繋がっていない下半身ももがくように動く。
 胴部が無いのにもかかわらず、人形は立ち上がる動作をしようとしていた。
 あまりにも異様な光景に、真紅はさらに数歩後退した。元来、この手の化け物じみたシチュエーションはあまり得手ではないのだ。

「しんく……『真紅』ぅ……『真紅』……!」

 何かを懇願するようだった表情が、いきなり凍りつき、そして次の瞬間には憤怒と憎悪に染まった。

「『真紅』ッ……! うああああああああああっ!」

 どっ、と音を立てるようにして、人形の背中から黒いものが噴出する。後方でそれをまともに食う形になった水銀燈は咄嗟に腕を顔の前で交差させ、視線を背けた。
「翼……なの?」
 雛苺は瞬いた。人形の背中からは、一対の長い黒色の翼が禍々しく伸びていた。
 噴き出した物は細かく分かれ、ひらひらと周囲に舞っている。それはこの場の誰にとっても、よく見慣れたものだった。
「黒い羽毛……。水銀燈のと同じかしら」
 のんびりとした口調で言いながら、金糸雀はすっとジュンの前に進み出る。
「事情は分からないけど、念のため、ジュンは後ろにいて欲しいかしら」
 ウィンクをしながら事も無げに言う彼女にジュンが返事をしようとしたとき、次の変化がおきた。

「わたしは……壊れてなんか……」

 歯を食いしばるようにして立ち上がろうとしている人形の口から、途切れ途切れに言葉が発せられる。その間も、人形の視線は真紅に固定されていた。

「ジャンク、なんかじゃ……ない!」

 その言葉と共に、まるで胴部が存在しているかのように人形は立ち上がる。青白い炎のようなものが人形の体を包み、それが収まると裸だった人形は濃紺のドレスを纏っていた。

──そっちの方に記憶が繋がったか……

 水銀燈は舌打ちをし、自分も翼を広げる。この事態は想定していなかった。
 翠星石や真紅の寝ている間に話をつけ、桜田ジュンだけを連れてくるべきだったか、とちらりと考える。
 そもそも彼女としては、ジュンだけにこの人形の存在を知らせればそれで事は足りた。蒼星石に頼んで媒介を眠らせ、ジュンと二人で夢の世界に入ればいいだけの話だった。
 それがこんな大人数になってしまったのは、翠星石に説明したときのもどかしさから、様々なことを一纏めにして一度の説明で済ませようという思惑を持ってしまったことが原因だった。
 もう一つには、誰と遭遇しても人形は大して反応を返さないだろう、と高を括っていたという側面もある。
 まさか、『真紅』という名前にここまで激烈な反応を返すとは思っていなかったし、人形の記憶が『真紅』に対する憎悪と怒りの部分で繋がるというのも予想外だった。
 要は急ぎすぎてしまったのだが、それにしても。

──時系列を追って……最後に作り直されたか、その手前の破壊されたところ辺りまで順序良く思い出してくれれば好都合だったのに。

 あるいは、そういう「製造時」に与えられた記憶でなく、実際に「彼」と見た夢の末尾まで思い出すか、そうでなくても自分が体験したことを優先して思い出してくれれば。
 しかし、今となっては繰言だ。
「よりによって最悪のところに繋がるとはね」
 水銀燈は独語し、人形を大きく回りこんで真紅のもとに向かった。
 あの人形の力は未知数だが、元々あまり闘いが得意でない真紅が、片腕を失った状態でまともに相手ができるとは思えない。攻撃されるなら手助けが必要だ。
 今はまだ、真の意味での脱落者を出すわけにはいかないのだから。

「水銀燈と同じ格好なの……」
「逆十字のドレス……」
 雛苺が息を呑み、ジュンが目を見張る。金糸雀は人工精霊を呼び、いつも持ち歩いている傘をバイオリンに変えた。
「念のためかしら」
 愛想良く片目を瞑ってみせたが、その場の誰も、何も起きないなどとは思ってはいなかった。

 翠星石は混乱していた。何がどうなっているのか、分かるようでいて分からない。
 彼女は水銀燈から、媒介が生まれ変わる前の世界で視聴していたという「ローゼンメイデン」の話の筋を全て聞いたわけではない。ただ漠然と、水銀燈に相当するドールがひどく哀しい存在だということを知っているだけだ。
 それでも、人形が憎悪を抱いている対象が真紅でないことは分かっている。あの人形は、自分の物語の中の『真紅』と、目の前の真紅を取り違えているのだ。
 『水銀燈』が『真紅』をそこまで憎悪する理由については、水銀燈は端折って話さなかった。あの時点ではそれは特に必要のない話だったし、『水銀燈』が誰を憎もうと自分達にはあまり関わりのないことでもあった。
 哀しいハンデを背負い、お父様への想いで動いている第一ドール。そんな思いで人形を見ていたのに、目の前の人形はむしろ『真紅』への怒りで動き始めている。
「一体何があったですか、『水銀燈』と『真紅』の間に……」
 それに答えるだけの知識を持っているのは水銀燈だけだった。
 翠星石は真紅と人形の間に割って入ろうとする水銀燈の姿を目で追いながら、何かこの場で自分にできることを必死に見つけ出そうとしていた。

「っあああ!」
 目の前の人形から、無数の黒い羽根が放たれる。攻撃方法もその姿も、まるで水銀燈そのものだ。少なくとも真紅にはそう思えた。
「ローズテイル!」
 薔薇の花弁をぶつけ、自分に向かってくる羽根だけは辛うじて反らす。
 何がどうなっているのか分からないのは真紅にしても同じだった。ただ、降り掛かる火の粉は払わなければならない。
 真紅にとって幸いなことに、人形の第一撃の狙いはめちゃくちゃだった。怒りに任せて方向だけを示して放った、荒っぽい攻撃だった。
 同じ攻撃を繰り出したのが水銀燈だったら、片腕では逸らしきれなかったに違いない。
 いや、水銀燈の攻撃には限らない。人形が冷静に真紅を狙えば同じことだ。悪いことに、人形の飛ばした羽の速さ、密度、量といったものはむしろ水銀燈のそれよりも苛烈だった。
「弾くだけ?」
 人形の顔に、初めて憎悪と憤怒以外の表情が生まれる。それはかすかな疑惑だったが、すぐにまた怒りで上書きされてしまった。
「本気でかかってきなさいよ! それともまだ、わたしを小馬鹿にしてるの?」
「待って。貴女は何か勘違いをしているわ。私が貴女に会うのはこれが初めてよ」
 言いながら、真紅は後ろを確認した。
 ジュンの前には金糸雀がバイオリンを持って立っている。雛苺もジュンの陰から出てこちらを見守っている。視界の隅では翠星石が人工精霊に命じて如雨露を召喚していた。
「私は確かに真紅。ローゼンメイデンの第五ドール。でも貴女は……一体何者なの?」
「白々しいことを! それとも、わたしを存在しなかったことにしたいわけ?」
 人形は嫌悪感の詰まった言葉を放った。薄紅色の虹彩が異様な光を放つ。
「いいわ、そっちがその気なら、嫌でも分からせてあげる。金輪際無視できなくさせてやろうじゃないの!」
 どっ、と音を立てそうな勢いで黒い羽根の束が形成される。
「行け!」
 人形が手を振ると、それは大きく口を開けた獣のような頭部を持った蛇に変化し、奇怪な叫び声を上げながら真紅に迫った。
「ローズテイル!」
 紅い花弁が蛇の頭部を叩いたが、蛇は全くダメージを受けた様子もなく、一瞬の遅れが生じただけで真紅を指向してくる。直撃されるのはステップを踏んで辛うじて避けたが、そこに行き過ぎた蛇の体が鞭のようにしなって襲ってきた。
「ッ…」
 真紅の身体は横ざまに払われ、高く舞い上がった。
「真紅!」
 ジュンは思わず駆け出していた。金糸雀と雛苺が制止の声を上げたが、無視する。手を伸ばし、ヘッドスライディングするような恰好でどうにか落下する前の真紅を拾い上げた。
「ジュン」
 真紅は一瞬だけ安堵したような表情になったが、すぐに気づいて警告した。
「左! 来るわ」
「えっ……うわっ」
 真紅を胸元に抱え込み、そちらを向いたジュンの左肩を、蛇の胴の一撃が容赦なく叩いた。ジュンは真紅を抱えたままごろごろと転がった。

「『真紅』のミーディアム? 無駄なこと──」
 人形が蛇を引き戻そうと腕を振ったとき、いきなりその半身に十数本の黒い羽根が突き立った。
「何ッ」
 痛みよりも驚愕を感じたように人形はそちらを向く。
「貴女も左ががら空きよ、お間抜けさん」
 水銀燈はにやりと、しかしあまり余裕のない声で言い、横合いから滑り込むように飛んで来てジュンと真紅の脇に立った。
「お前っ、何やってたんだ」
 一番人形と真紅の近くに居たくせに、とジュンがなじると、水銀燈は肩を竦めた。
「真紅ったらとっとと逃げればいいのに、正面きって防ごうとするんですもの」
 真紅はジュンに抱かれたままむっとした顔になっただけで、水銀燈にはその表情を見せなかったが、ジュンは腹立ちを隠そうとしなかった。
「他人事みたいに言いやがって……あいつなんなんだよ!」
「第七ドールに作られて、ここに独りぼっちで放置されてる哀れな幻影よ」
「第七?」
 真紅はジュンの懐から顔を覗かせた。
「貴女、末妹に会っていたの」
「ええ、一度だけね。……詳しいことは落ち着いてから話すわ、流石にこれは想定外だったけどね」
 言いながら、横薙ぎに来た蛇の頭部に燃える羽根をぶつけて炎上させる。蛇は退いたが、炎もすぐに消えてしまった。
「まずあいつをどうにかしろよ。ここにみんなを連れてきたのはお前なんだぞ!」
「善処はするわよ」
 水銀燈は前を向いたまま薄く笑った。このまま素直に正面から力をぶつけ合ったら勝ち目はない。人形の力は出鱈目に強力だった。
 それは雪華綺晶が水銀燈の媒介に対して、他ならぬこの夢の世界での短い闘いで抱いたのと同じ印象だったが、水銀燈もそこまでの知識は持っていない。
 ただ、雪華綺晶と違って彼女には目の前の人形に対する勝算が全くないわけでもなかった。
「とんだとばっちりを喰ってしまったものね、真紅」
「謝罪の言葉と受け取っておくわ。それはいいのだけれど」
 真紅は腑に落ちないといいたげな表情だった。下手をすれば壊されていたかもしれないのにここまで冷静で居られるのは、真紅らしいといえばらしい態度ではある。
「どうして私の名前を知っているの、あの子」
「それも落ち着いてから」
 水銀燈は答えながら人形の様子を窺った。
 人形は自分の姿とよく似たドールを見て少なからず動揺しているようだった。攻撃は散発的に続けているが切れがなく、どれも水銀燈の手で防がれている。
「今のところは、『そういう風に作られたから』というありきたりな回答で満足してもらうしかないわね」
「偽りの記憶を埋め込んで作ったというの……」
 真紅は絶句して人形を見遣った。
 おぞましいと言いたげな表情になっているのは、真紅の美的感覚というよりは倫理観の方が関わってくるかもしれない。記憶、時間、経験といったものに対して彼女は潔癖だった。
 水銀燈がその表情を見れば皮肉に顔を歪めたかもしれないが、生憎と彼女は前に注意を向けていなければならなかった。
「ええ、それもごく短時間に。ほぼ即座でしょうね。もっとも──」
 黒い羽根が雨のように降り注ぐ。水銀燈は舌打ちして翼を広げ、自分達に降り掛かる分を防いだ。

──こんな形で存在し続けることまで予測していたかどうかは別だけれど。

 媒介が水銀燈を雪華綺晶の「繭」から救い出したときに、水銀燈は媒介と雪華綺晶のやり取りの記憶を「見て」いる。そのせいで人形のことも知っているのだが、当の人形に対して雪華綺晶は冷淡に「ただの舞台装置」と言っていたはずだ。
 雪華綺晶は媒介を他の契約者達と同じように自分の糧とする腹積もりだったのだろう。人形は媒介に心地よい幻を見させ、抵抗力を失わせるための道具に間違いない。
 本来、そういった道具は幻が破られればそれとともに消え失せるものだ。それだけの力しか持っていない。
 人形がこうして残っている理由は、雪華綺晶の能力の高さによるものではあるまい。媒介の心という全くの異物──あるいは薔薇乙女ですら到達し得ない遠い異世界とこの世界との接触による歪み──に触れているうちに、人形自体が命を持ち、自律して動き始め、実体を持たぬままこの夢の世界に定着したのか。
 恐らく、推論は正しい。直接の証拠はないが。
 第一、雪華綺晶がそこまでの能力を持っているのなら、姉妹の誰かがnのフィールドに入ったところを一人ずつ葬っていけばアリスゲームは簡単に終わってしまう。
 今まで散発的に続けられたゲームで誰一人落伍者が出ず、かつ誰も雪華綺晶に出会ったことがなかったのだから、nのフィールドだけに根を張る異質な存在とはいえ、雪華綺晶が出鱈目な力を持っていないことは明らかだ。
 また、そうでなければ、水銀燈自身が自分らしくなく回りくどく手配りをしていることも全くの無駄ということになってしまう。

──全く、厄介なものを産み落としてくれたものねぇ。でも、こうなったからには有効に利用させてもらうわよ。

 既に自分と蒼星石の記憶の中にしか居ないツナギを着た男と、全身が禍々しいほどの白さに包まれていた雪華綺晶とを若干恨みがましく思い出しながら、水銀燈は人形に向かって一歩踏み出し、そこで思わぬところから放たれた声に舌打ちした。

「い、いい加減にするです、『水銀燈』!」

 翠星石には、目の前の状況は絶望的に見えていた。
 手負いの真紅、力を制限された雛苺、媒介のいない金糸雀、戦い慣れていない自分。ジュンが居るとはいえ、四人でせいぜい水銀燈一人分の力しかないだろう。
 その水銀燈でさえ、隙を見て初手を取った後は防戦一方に回っている。人形の方では水銀燈の姿を見て動揺したのか攻撃を躊躇っているようだが、それでもジュンと真紅を庇うように立っている水銀燈は防禦で手一杯に見える。
 人形が本気に戻ったら、多分今度は勝てない。全員がらくたとなってこの夢の世界に閉じ込められたままになってしまう。
 それだけは避けなければならなかった。

 人形が横目で翠星石をじろりと見る。翠星石はびくりとしながらも、必死に言葉を継いだ。
「『真紅』とお前の間に何があったか知らねぇですが、そこにいる真紅はお前の知ってる『真紅』ではない……です」
 人形の攻撃の手が一旦止まる。翠星石はなけなしの勇気を振り絞った。
「翠星石達は……ここにいるお前以外のドールは、お前とは別の世界の存在なのです。それとジュンも」
「……有り得ない嘘をつくんじゃないわ」
 人形は翠星石に向き直った。翠星石は思わず目を瞬き、如雨露の取っ手をぎゅっと握り締めて自分に言い聞かせる。大丈夫、まだ泣いてない。まだ頑張れる。

「時間稼ぎにはなりそうね」
 水銀燈はふっと息をついて、ジュンを振り返った。
「金糸雀と雛苺のところまでお戻りなさい。真紅を抱いたままね。早く」
「水銀燈──」
 真紅が何かを言いかけたが、ジュンは真紅を抱く腕に力を込めて立ち上がった。
「わかった」
 水銀燈は返事を聞く前に翼を広げ、翠星石の元に飛んだ。

──これで金糸雀が技の出し惜しみをしなければ、防戦で負けることはないわね。

 むしろ今まで傍観に徹していたことが訝しいくらいだが、金糸雀には金糸雀なりの思惑があるのだろう。この場に自分の媒介が居ない不利というのもあるだろうし、何か他の考えもあるかもしれない。
 人形が自分と概略同じ種類の攻撃しか繰り出さないのであれば、金糸雀の技とは相性が悪い。それは、水銀燈自身が単独で行動している金糸雀を真っ先に狙わなかった理由でもある。
 それよりも翠星石の蛮勇が問題だった。

「真紅は私を無視し、アナタは嘘をついて惑わすの? そう! そんなにわたしを除け者にしたいってわけ」
 人形は一群の黒い羽根を礫のように放った。翠星石は咄嗟に如雨露をかざし、彼方にある世界樹の枝を呼び寄せて伸ばす。羽根は全て枝に阻まれた。
「やるじゃないの」
 人形の顔が獰猛な笑みを湛える。
「これは防げないわよ」
 また蛇のような形に羽根を集め、世界樹を回りこむように放つ。翠星石は別の枝を伸ばしてそれを防ごうとしたが、蛇はその隙間を縫って翠星石を突き飛ばした。
「きゃっ……」
 倒れこんだ翠星石を、蛇が大きく口を開けて飲み込む態勢になる。翠星石は慌てて立ち上がろうとするが、蛇の口の方が早かった。
 翠星石は観念して目を閉じかけたが、その耳に金属質の音が聞こえ、続いて蛇の発する耳障りな叫びが響いた。
 こわごわと目を開くと、蛇は庭師の鋏に顎を切り離されて退却するところだった。
「……蒼星石!」
 蒼星石は翠星石を振り返って済まなそうに微笑んだ。
「遅れてごめん」
 全くです、と減らず口を叩こうとしたが、言葉にならなかった。翠星石は蒼星石に抱きつき、蒼星石は途惑ったようにその頭を撫でた。
 大きく回りこんできた水銀燈は二人の様子に肩を竦め、人形の方を見遣った。

「双子が揃ったか」
 人形は舌打ちし、真紅の姿を追って辺りを見回す。赤い服のドールは、契約者に抱えられて金糸雀のもとに向かうところだった。
「させないっ」
 人形は翼を長く伸ばし、ジュンの足首を掴んで締め上げた。
「うわっ」
 たまらず、ジュンはバランスを崩して前のめりに倒れる。それでも、真紅を抱えた腕はそのままだった。
「放してジュン、あの子の狙いは私なのよ」
「もうばっちり全員ターゲットになってるよっ」
 ジュンは顔を赤くして怒鳴った。
「そ、それに──」
 立ち上がりながら何かを言いかけた彼の背中に、黒い羽根が降り注ぐ。相変わらず狙いは絞れていないが、それでも少なくない数の羽根がジュンの服に突き立った。
「っ、こ、こういう攻撃なら僕の方が身体が大きい分、打たれ強いだろ」
 そのまま、痛みをやせ我慢して真紅を守るように背中を丸めて立ち上がる。
「しぶといわね」
 人形は羽根を滞空させ、それに炎を灯した。
「燃やしてあげる──」
「それこそ、させるものですか」
 撃ち出す寸前の羽根の群れに、全く同じ羽根の一群が横合いからぶつけられる。羽根同士が接触して燃え上がり、下に落ちた。
「小癪なッ」
 人形は腕をぶんと振り、伸ばした翼を薙刀か大鎌のように振るった。
「くっ……」
 水銀燈は咄嗟に自分も羽根と翼で防ごうとしたが、力負けして横ざまに放り出され、倒れこんだ。
 起き上がりながら、受けるのでなく避けるべきだったと後悔したが、後知恵でしかない。その間に人形はジュンに向き直って一撃を放っていた。
 相変わらず芸のない乱射だった。しかしジュンと、たまらず金糸雀の制止の声を振り切って駆け寄っていた雛苺の足を止めるには十分だった。
「ひゃぅ!」
「ぐぅ……」
 痩せ我慢も限界だった。ジュンはよろめき、その場に尻餅をついて座り込んだ。半身になりながらも人形の方を向いたのはほとんど意地だけだった。
「しぶとさだけは大したものね」
 人形は嘲笑した。
「ミーディアムに用はないの。さっさと抱えてる真紅を放しなさい」
「ジュン」
 真紅は俯いてしまったジュンの頬に触れた。


10

「……もう、やめろよっ」
 ジュンは振り絞るような声を出し、真紅は驚いて手を引っ込める。痛みに耐えながら立ち上がると、ジュンは顔を上げて人形を見た。
「ミーなんとかってのは、僕は知らない。お前が何者かとか、何があったかなんて興味もない。だけどっ」
 右手で真紅を抱えなおし、人形を睨みつける。
「八つ当たりか、恨みか知らないけど、もうこいつらを苛めるなっ」
 薔薇の指輪の嵌った左の拳を突き出す。その手はみっともないほど震えていたが、それでもその顔には決意の色があった。

「どうしてもやりたいなら、ぼ、僕が相手になってやる!」

 人形の隙を窺って次の一撃を入れようと身構えていた水銀燈ははっとして目を見張った。

──そうか、これで。

 その直感は正しかった。
 真紅を抱えたジュンの足元から、いきなり一本の巨大な薔薇の蕾がぬっと生えた。足を掬われるような恰好になったジュンはまた尻餅をつき、真紅はジュンの腕の中から出て薔薇を見上げる。
「なんだこれ……」
 薔薇はゆっくりと開花してゆく。その中心にあるものを見て、ジュンは息を呑んだ。
「真紅の……腕?」
 その瞬間、ジュンの指輪から赤い光を放つ糸がするりと伸びた。
 それは真紅の右腕の関節部と真紅の肩の穴をテンションゴムのように繋ぎ、花弁の中の腕を勢いよく引き寄せた。

「私の……手」

 拍子抜けするほど呆気なく、真紅の右腕は元通り繋がっていた。
「い、今のなんなんだ? ど、どーしちゃったんだ一体」
 つい先ほどの必死の決意もどこへやら、全く状況を理解できないと言いたげに、ジュンは指輪と自分の手を眺め回す。

「凄い……です」
 蒼星石にしがみついていた翠星石の手にきゅっと力が篭る。
「ジュン……」
 蒼星石は翠星石の顔をちらりと見て、途惑ったようにまた前を向いた。翠星石の瞳には素直な憧憬と、恋する者の熱が篭っていた。それは蒼星石の見たことのない、眩しい色だった。

「まさか。そんなこと」
 雛苺を助け起こしながら金糸雀は信じられないと言いたげに瞬いた。
「薔薇乙女の外れたパーツを全バラせずに組み直すなんて非常識なことができるのは、お父様本人か……」
 雛苺は金糸雀を見上げた。
「ジュンは神業級の職人……マエストロなのよ、カナ」
 金糸雀は頷き、生唾を飲み込んだ。
「……凄いわ、ジュン……やっぱりあれは本当だったのかしら」
「あれって?」
 雛苺に答えることも忘れたように、金糸雀は真紅とジュンを見守っていた。

 水銀燈は構えを解き、人形に数歩歩み寄った。
「そろそろ続きを思い出しても良いのではなくて? 『水銀燈』」
 自分で自分の名前を呼ぶというのも奇妙なものだと思いつつ、呆然と立ち尽くしている人形に声を掛ける。
 人形は鋭い動作で振り向いたが、その瞳は不安定に揺れていた。
「貴女の記憶にもあったのでしょう、今と似たような光景が」
「うるさい!」
 人形は黒い羽根を数本飛ばしたが、水銀燈は上体を軽く開いただけでそれを避けた。狙いが甘すぎ、先ほどまでの鋭さもなかった。

「貴女の記憶の大部分は私も持っている。ええ、ほぼ同一でしょうね。なにせ、出所は同じですもの」

 それどころか、今や人形の構成要素そのものが全て水銀燈の知識の中にあると言っていいし、人形自身が体験したことも媒介の記憶として概ね知っている。
 水銀燈は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。こういうシチュエーションを好む者もいるのだろうが、少なくとも彼女にとってはあまり愉快な感覚ではなかった。
「何を言って……」
 人形の動揺は激しくなった。水銀燈は視線を逸らした。警戒しなければ危険なのは分かっているが、どうにも自分自身を見ているようでやりきれないのだ。
「他人から与えられた記憶だけで自己完結していてはつまらないわよ。貴女には貴女自身の体験があるでしょう。思い出しなさい、そこまで」
「わたし自身の……?」
 人形は頭を抱え、小さく震え始めた。

「貴女は今とほぼ同じシチュエーションで『真紅』と戦って敗れた。
 媒介──ミーディアム、と言ったかしら?──の力を得た、貴女の姉妹の中でも最高傑作の『真紅』には、媒介なしの貴女では為す術もなかった」

 何故そんな極端な設定にしたのかと言いたい気分はあるが、こればかりはどうすることもできない。今更異世界のアニメ製作者に問い質すことはできないのだから。
 ちらりと見遣ると、真紅はじっとこちらを見詰めている。水銀燈は話を続けた。

「その後、貴女はローゼンの弟子である人形師の手で修復され、彼の思惑に乗って姉妹達と戦い、そして姉妹ともども、その人形師のドールに薨された」

 彼女に柿崎めぐという媒介がいたことは省いた。最後に腹部を作りつけられて再生されたことも。
 何故かそこは人形に思い出させるままに留めて置いた方が良いような気がした。

「──そこまでが、貴女に捻じ込まれていた記憶。
 残念だけど、そこにいる、貴女が躍起になって羽根を当てていた真紅は、翠星石の言うとおりの存在よ。
 貴女の記憶にある『真紅』とは、言わば同名の別人ね」

 人形は何も言わずに蹲った。身体の震えはおこりのように大きくなっている。

「そこから先──九秒前の白のような世界で誰かと出会ってからが、貴女の大事な記憶。
 本物の、貴女自身の記憶ということになるわね」

 水銀燈はできるだけ柔らかくそう言い、ゆっくりと人形に近づき、肩に手を触れた。
 人形は反射的にそれを払いのけた。水銀燈は一歩下がって身構えたが、人形はそれ以上何もせず、震えつづける。
「今は思い出せなくてもいい。でも、それは君だけの大切なモノだ。君自身が思い出さなければ、他に知る者はいない。いつか、思い出して」
 いつのまにか水銀燈の隣に来ていた蒼星石が、どこか自分自身に語りかけるような響きでそう言うと、人形は初めて、かすかに頷いてみせた。


 そのまま、暫く誰も言葉を発しなかった。
 やがて、水銀燈は人形が肩を震わせて涙を流していることに気付いた。先ほどまで薔薇乙女六人を相手に大立ち回りを演じていた姿が信じられないほど、邪気のない姿だった。
 水銀燈は大きく息をついて構えを解いた。
 首をひとつ振って脇を向くと、若干非難の色を含んだ蒼星石の視線があった。
「真紅の腕、真紅のマスターの決意……こうなることを知っていてわざと利用したのかい、『水銀燈』を」
「まさか」
 水銀燈は力なく笑った。
「あれがあの男並みの法外な力を持ってるなんて、予想外もいいところよ」
 あの男、というのが誰を指すのか、蒼星石には言わずもがなだった。彼女達二人、それに恐らく雪華綺晶と蹲ったままの人形の記憶以外にもう何処にも存在しない異邦人。
 結局、彼がその力を発揮したのは一度だけで、それもその殆どは彼女達の前ではなかった。しかも、本人はそれをまともに認識していたかどうかも怪しい。
「でも、君はあの剣を使わなかった」
 蒼星石は硬い表情のまま、淡々と指摘した。追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「メイメイに召喚させることはできたはずだ。あの剣なら、彼女を貫くことも切り捨てることもできた。違うかい」
 水銀燈は肩を竦め、頷いた。
「ええそうね。何が何でもあの人形を屠るって気はなかったわ。使える物は何でも利用する方が有利でしょう?」
 アリスゲームのためにはね、と水銀燈は笑い、蒼星石は思わず苦笑してしまう。
「……敵わないな、君には」
「何のこと?」
「僕は君ほど──」
 蒼星石が続きを言いかけたとき、蹲っていた人形の姿が不意に消えた。
「時間のようね。だいぶ手間取ったけど」
 水銀燈はやれやれと首を左右に傾けた。
「どういうこと?」
「夢が、切り替わるです」
 翠星石が真紅に告げる。
「ここからは、あのアホ人間の普通の夢です……」


11

 目映い光が辺りを包んだかと思うと、そこは明るい昼過ぎの教室に変わっていた。
 当番が給食道具を片付けた後なのか、教室の中には一クラスの半分ほどの人数が残ってそれぞれに好きなことをやっているようだった。
「最近こればっかりね」
 水銀燈はひょいと手近な机の上に飛び乗った。
「突拍子もない場所が出てこなくなったのはいいけれど、あまり変化がないのもつまらないものね」
「突拍子もない場所?」
 蒼星石は水銀燈を見上げて首を傾げる。
「例えば架空の宇宙ステーション、例えば古生代のジャングル。他にも記憶のどこから出てきたのか分からないような混沌とした場所とか……一度は教会の中、ってのもあったわね」
 水銀燈は遠くを見るような目になってそう言い、自分の言葉に慌てたように首を振った。
「……そうなのかい」
 蒼星石はそんな水銀燈の仕草を見なかった振りをして、内心でくすりと笑った。どうも例の病院裏の廃教会が舞台という訳ではなさそうだった。
「僕には新鮮だよ、この光景も。初めて見るものも沢山ある」
 へえ、と水銀燈は意外そうな声を上げて蒼星石に視線を向けた。
「貴女は契約した相手の夢をいつも覗いているものだと思ってたわ」
 蒼星石は苦笑した。
「マスターが命じれば毎日でも夢に入るさ。でも、できればあまり覗いてしまいたくないんだ」
「……それもそうね」
 水銀燈はまた視線を戻した。
 記憶の補正という、水銀燈が時間を掛けて手作業でやっていることを、蒼星石や翠星石は(それぞれ手段が偏っているとはいえ)自らの能力であっと言う間に片付けてしまうことができる。
 それだけに、一旦覗いてしまったら自分の思うように契約者の心を変えたくなってしまう誘惑も大きいのだろう。
「でも、君のしていることを否定するつもりはないよ」
 蒼星石も前を向いた。ジュンや水銀燈の媒介の少年の姿を目で探しながら、若干の羨ましさが混じった言葉を口にする。
「鋏で枝を切り揃えたり、如雨露で水を遣ったりして──ばっさりと不要なところを整形するのは簡単だ。
 自制さえしなければどんな相手に対してでもすぐにできる。それが僕たち双子の力だから。
 でも、君のやっていることは違う。よく知っている相手に、その人のことを想って接していなければできないことだ」
「それは誇大評価ね。私はこいつの記憶を、自分のできる範囲で、破綻が起きないように自分に都合のいい方向に改変して再構築させようとしているだけかもしれなくてよ」
 水銀燈は礼を言う代わりに素っ気無くそう切り捨て、大きく辺りを見回した。
「他の子は何処に行ったのかしらね。こう人間が多いと見付けにくいわ」
 ややわざとらしくやれやれといった風情を作り、水銀燈は天井近くまで舞い上がった。
 蒼星石は微笑んでそれを見上げ、視線を転じて教室の中の喧騒を眺めた。
 夢にしてはとても鮮明で、細かいところまで作られている。明るく開放的な雰囲気こそ正反対だが、心の木を伐る前に見たこの夢の主の夢の世界とどこか似ているように彼女には思えた。

──夢の世界を緻密に構成するという点では、心の木を伐る前の貴方も、今の貴方も変わらないのかもしれない。

 その感覚に安堵してしまうのは何故だろう、と蒼星石が首を傾げたとき、彼女が注意を向けていなかった教室の入り口の方から声があがった。

「しっかりするですチビ人間! ここはアホ人間の夢の中です、現実じゃないですよ」

 翠星石は制服姿になったジュンの袖をつまんで必死に言い聞かせた。
 ジュン達──ジュンと、彼と契約している二人、それに真紅を介してジュンから力を得ている雛苺──が出たのは同じ夢の中でも教室ではなく、その外側の廊下だった。
 廊下自体は薄暗く、まるで教室とは別の領域のように静かだった。
 水銀燈と蒼星石のように教室の中に移動しなかったのは、水銀燈の媒介の少年と彼等との距離を示しているのかもしれないし、ジュンの側で無意識に拒否感のようなものが働いたのかもしれない。
 ともあれ、三人の薔薇乙女達は引き戸を潜って教室の中を見回し、初めて見る光景を珍しがったり、既に何度か同じような光景を見て慣れている翠星石が得意げに雛苺に説明をしたり、と夢の風景を楽しんでいた。
 しかしそうしているうちに、彼女達の契約者の方は次第に顔色を悪くして、遂にはその場に座り込んでしまったのだ。
「どうしたのかしら」
 教室の中から金糸雀が顔を出したときには、ジュンは立てた膝を抱え込んで座り、俯いて上目遣いにぼんやりとした視線を引き戸に向けているだけで、翠星石と雛苺が話し掛けても反応を返さないところまで悪化してしまっていた。
「ジュンは大丈夫かしら」
「ここは、ジュンの心の傷に直に触れる場所なのだわ」
 金糸雀は真紅に目顔で尋ね、真紅は目を伏せて呟いた。
「ジュンも夢に入ることを決めたときに、こうなることをある程度は覚悟していたようなのだけれど……」
「そう……」
 頑張ってジュン、と金糸雀が右腕にそっと触れたが、ジュンはかたかたと震えるだけだった。
 それでもこの場から逃げ出したいと言ったり、目や耳を塞いでしまわないだけ、ジュンとしては意地を張っているのだ。ジュンの服装が制服に変わっているのもその表れだった。
 何度かトラウマに触れたときのジュンを見ている真紅にはそれが痛いほど分かったが、口にするのは躊躇われた。
 意地を張っているということは、この教室はジュンにとって、自分の力で何食わぬ顔で克服したい事柄なのだ。そうであれば、なけなしの意地を張っているなどと見抜かれたくもないだろう。
「貴女達、姿が見えないと思ったらここに居たの」
 水銀燈はもう一つの引き戸から出て廊下を飛んできたが、ジュンの様子を見ると眉根を寄せた。
「……まずいわね」
「あら、どうってことないのだわ」
 真紅は努めて明るい声で言った。
「確かに下僕は少し具合が悪そうだけど、私達に問題はなくてよ。それとも、私達だけでは貴女の用向きに差し障りが出るのかしら」
 水銀燈は何かを言いかけたが、真紅に問い掛けるような視線を向けると、一つ二つ瞬いてその言葉を飲み込み、ふっと息をついて別の台詞を口にした。
「そうね、差し障りはないわ。その気なら中の様子は見えるものね」
 実際には、引き戸を潜らなければ中の様子は見えない。それどころか音もほとんど漏れてこない。だが、水銀燈は厭味でそんなことを言っているわけではなかった。
 水銀燈は翠星石と雛苺の肩に手を置いた。
「貴女達はこっちにいらっしゃい。金糸雀、貴女もね」
 翠星石は抗議の声を上げそうになったが、水銀燈の顔を見て頷いた。部屋の中では少年の記憶が再生されている、それも何か重大な時点の記憶だろう、と見当をつけたからだ。
 そして、それは正しかった。当たっていなければよかったと後悔したくなるほどに正しかった。

 水銀燈に促されて三人がめいめい振り返りながら教室の中に入ってしまうと、真紅はジュンに寄り添って座った。
「ジュン」
 名前を呼ぶのは今日何度目だろうと思う。
 返答はないと思っていたのに、ジュンは僅かに身じろぎして真紅に視線を向けた。
「……お前は、入らなくていいのかよ」
「貴方を置いて行くわけにはいかないもの。全くどうしようもない下僕ね」
 こういうときの突き放した物言いは水銀燈の方が上手いのだろう、と真紅は僅かに羨望を覚えた。自分はどうしても何処かに本音がちらついてしまう。
「どうせ、どうしようもない奴だよ僕は」
 ジュンは恐怖も嫌悪感も何もかもぐるりと一周してしまったのか、膝を抱えるように組んだ腕の中に顔の下半分を埋めたまま淡々と言った。
「ウソの学校の中でも、こうやって教室に入れないで座ってるし」
 真紅は暫く黙ったまま、ジュンの横顔を見詰めていた。
 自虐の言葉には慣れていない。下手に慰めてはいけないのだとは思うが、では何と言葉を掛ければ良いのか、彼女には今ひとつ良い方法が浮かばない。それがもどかしく、そして自虐の言葉を安易に口にするジュンに苛立ちも感じる。
 それならば、と真紅はひとつ息をつき、素直な心境を口にした。
「ホーリエの選択に文句を言う気はないけれど、貴方の一体何処がこの真紅と共鳴しているのかしら」
「……なんだよ、急に」
 真紅は手を伸ばし、今度は顔をこちらに向けたジュンの頬に触れた。
「私の瞳を覗いて御覧なさい」
 ジュンは無言で真紅の瞳を見た。
「どう、何か見えて?」
 ジュンは何回か瞬いたが、よく分からないと言いたげにかすかに首を傾げる。
 真紅は僅かに落胆したが、それを表情には出さずに静かに語り始めた。
「人は皆、心に海を持っている。貴方も行ったことがあるでしょう、あの無限に広がる無意識の海のほんの一部がジュンの心の領海なの」
 人と薔薇乙女が契約するということは、薔薇乙女がその人の心の海から力を汲み上げることを契約することなのだ、と真紅は説明した。だから契約者の心が薔薇乙女に流れ込むことも起き得るのだと。
 だから、人工精霊はそれぞれの乙女の心に似合う心の持ち主を選ぶ。ホーリエがジュンを選んだということは、真紅の心とジュンの心は似通っているか、何処か平仄が合っているということなのだ。
「マスターの心はドールの心。蒼星石がマスターの心の影を壊していたら……あの子の魂は遠くに行ってしまったでしょうね。それ程までに契約者と私達は……今のジュンと真紅は近いものなのよ」
 私の瞳の中に貴方の心は映っていて? と真紅は小さな両手でジュンの頬を挟むようにして顔を近づける。
 だが、ジュンは辛そうな表情になって視線を逸らしてしまった。
「……僕はお前と近くなんかない」
 ジュンは腕を解き、真紅の肩を掴んでそっと引き離した。真紅は何も言わずにジュンを見詰めた。
「わかってるさ、そんなこと」


 真紅がジュンに薔薇乙女と契約者の繋がりを語っている頃、教室の中では過去の情景のリプレイが上演されていた。
 水銀燈がジュンの状態を見て表情を険しくしたのも当然だった。
 リプレイされているのは昨年の文化祭の前、ジュンのクラスから学年対抗プリンセスの候補が選ばれたことが発表されたことから始まる、ジュンにとっては非常に厳しい情景の連続だった。教室に入る前から躓いているのでは、到底正視に耐えられないだろう。
 水銀燈の媒介の少年は、一貫してあまりやる気のない風で教室の真ん中後方に座っている。雛苺の前契約者とは仲が良いようで折々に話はしているが、全体としてみれば何にもあまり関心を向けずにぼんやりと過ごしているようだった。
 リプレイの中のジュンはそうではなかった。プリンセス候補に選ばれた少女の方を熱っぽい視線で見遣り、翌日にはその娘をモデルにした衣装のスケッチを、あろうことか課題のノートに描いてしまっていた。
「随分積極的かしら」
 金糸雀は目をぱちくりさせた。
「でも、あのノートは国語のノートみたいだけど……」
 金糸雀の言葉が届いたわけではないが、ジュンもどうやらノートを提出する寸前にそのスケッチを描いたことを思い出したらしい。ジュンはそのスケッチを描いたページだけをノートから切り取り、鞄に仕舞いこんだ。
 水銀燈以外のドール達が息を呑んだり小さな悲鳴を発したのはその後の場面だった。

 ジュンが衣装のラフスケッチを描いたノートのページが黒板の真ん中に貼り出されている。
 勿論、賞賛の意味合いでなど欠片もない。むしろ反対だった。濃緑色のはずの黒板は色とりどりのチョークで書き殴られた非難、揶揄、悪意ある煽り文句といったもので埋め尽くされ、大袈裟に言えばほとんどその色を留めていない。
 遅れて教室に入った少年が見たのはその黒板の惨状と、その前で座り込んでしまっているジュンの姿だった。
「これは……」
 蒼星石は呆然と黒板を眺めた。
「酷いの……ジュン悪くないのよ」
 雛苺は泣き出し、金糸雀に縋り付いた。
「醜い嫉妬。才のある者が疎まれるのはいつも同じかしら」
「嫉妬だけではないです」
 翠星石は込み上げて来る感情をどうにかこらえていた。中傷の一つを指差す。
「男らしくないマイナーな趣味持ってる……って、排斥の対象になってるですよ」
 ジュンは既に数人の大人に抱えられて教室を出ていた。教室の中は事情を知らずに黒板を見て驚く者、黒板に中傷を書いた者を非難する者もちらほらと居たが、大半は黒板を遠巻きにして無感情な顔で眺めているだけだった。
「難しいことはわかんないけどさ、苛めの構図、ってヤツ? あれだよ」
 水銀燈の媒介の少年はドール達を振り向いてそう言い、黒板を消し始めた。しかし、チョークを大量に浪費して書かれた文字たちは分量が多すぎ、なかなか一気に消せない。
 結局少年はバケツに入れた雑巾を持ってきて、濡れ雑巾で黒板を拭いた。
「桜田は頭はいいんだけど、友達を作るのが下手で大抵一人ぼっちだったからさ」
 少年はドール達に向き直り、苦い声で言った。
「金持ちのボンボンでお高く止まってる、って言うヤツもいたし、親譲りの変な趣味持ってるって前から噂を広めてるヤツもいた。そういうのが一気に噴き出したんだよな」
 もちろんジュンの鞄から絵を盗み出して黒板に貼り付けた者が直接の原因なのだが、少年はその一人か数人だけに罪を擦り付ける積もりはないようだった。
「あとは、便乗、便乗さ。多分半分くらいのヤツはただ面白がって書いただけ。雰囲気に乗っただけだ」
 少年はバケツの水で雑巾を洗い、残りをどうにか消してしまった。
「あと、俺みたいなヤツもいる」
 少年は本来の色になった黒板に、何にもしなかったヤツ、と書いた。一拍の間自分の字を見つめて、そして雑巾で拭き取った。
「注意すればできた。前から桜田の粗を探して付き纏ってるヤツがいるのは知ってたし、黒板の事だって、桜田より先に見つけたヤツが消しちまえば、桜田が見ることはなかったんだ」
 みんな最低ヤローだよ、もちろん俺もだ、と少年はクラスメイトを一纏めにして吐き捨てた。
「俺は桜田が課題ノートになんか描いて学校に持ってきたのは知ってたんだ。あのとき学校に持ってくんなよって注意しとけば、何も起きなかったかもしれない」
「意味のない繰言よ。それとも自虐で許しを請いたいの?」
 水銀燈は媒介の妄想を冷徹な言葉で止めた。

 蒼星石が水銀燈の心境を知ったら、微笑むか苦笑したかもしれない。
 媒介は実際には回りくどい方法でジュンにとってのカタストロフィを回避しようとし、それ自体は成功した。ただし、ジュンにとっては更に辛い結果を招来することになった──水銀燈はそのことを説明せずに、彼の言葉だけを窘めて話を終わらせた。
 その行為をしたことで、ある意味で更に酷い結果を招いたのだ、と告げるのは、行為の意図が何処にあったかの記憶を持たない彼にとってあまりに残酷な気がしたからだ。

 自分がそこを敢えて触れないことは、自ら口にしたように「都合の良い記憶の捏造」とも言えるのではないか、という認識は針のように水銀燈の内心のどこかを刺した。だが、彼女はそれを無視して言葉を続けた。
「あちこち記憶を失っていても、後悔する癖は抜けてないようね。卵が割れた責任の所在を後からどう論争しても、卵は元には戻らないわよ」
 その言葉は間接的に媒介のした行為をも赦すものだったが、口にした本人以外は恐らく誰もそのことを知らない。
「……ごめん」
 少年は素直に頭を下げた。
 水銀燈は軽く頷き、今日は本当に悪い方にばかり事が進んだわね、と溜息をつく。一気呵成に物事を進めるというのは、なかなかに骨が折れることだった。


12

 教室の風景はまた賑やかな昼休みに戻っていた。
 いち早く気を取り直した金糸雀が少年にあれこれ質問し、少年もすぐにいつもの調子に戻ってそれに答える。どこか薄ぼんやりしていたモノも少年が説明にかかると急にはっきりとした輪郭を持って存在し始めるのは、夢の中特有の光景だった。
 雛苺は巴の姿を見つけて盛んに話し掛け、抱っこしてとおねだりしてみたり、膨れたり笑ったりしてみている。もちろん夢の中の虚像だからろくに反応を返しはしない。雛苺もそれは分かっているはずなのに、楽しそうに巴の隣に寄り添っていた。
 蒼星石と水銀燈も少年の傍でなにやかやと話をしているのを確かめてから、翠星石はそっと教室の引き戸を開けた。ジュンのことが気になっていた。

──まあ、真紅がついてるから、大丈夫なんでしょうけど。

 翠星石にも、自分より真紅の方がジュンに近いのは分かっている。普段の日常では等距離と言ってもいいが、こと重大な局面では真紅とジュンは表裏一体といってよいほど近い存在だった。
 ジュンが何かを乗り越えようとするときは、必ず真紅が関わっていた。nのフィールドに漂っていた腕を取り戻したときもそうだったし、先ほどの人形との戦いでも、ジュンは真紅を必死に護ろうとして何かを吹っ切り、腕を繋ぎなおすことができたのだ。
 真紅がいればジュンには他に助けなど要らないだろう。むしろ、他人が介在するのは邪魔なのかもしれない。
 それでも翠星石はジュンの様子を確かめたかった。理由は自分でもよく分からないが、自分だってジュンをマスターにしているのだから当然だ、と思うことにする。
 何処となくもやもやした気分のまま引き戸を開けると、ちょうど真紅が引き戸の前にいた。
「ジュンは……」
 真紅は少しだけ驚いたような表情になったが、大丈夫よ、とはっきりした声で言った。
「これから中に入ろうと思っていたところよ」
 翠星石は真紅の背後を見た。ジュンは廊下の壁に手をついて、前かがみになりながらもどうにか立っている。操り人形のようにぎこちなく、それでも一歩ずつ引き戸に向かってきていた。
 頑張って、と翠星石は声には出さずにジュンを見つめた。これで中に入れれば、ジュンは多分何かもう一つ吹っ切ることができる。
 それは何なのか、具体的には分からないけれど──
「──翠星石」
 思わず身を乗り出していた翠星石を真紅がつつく。
「あ、はい」
「もう水銀燈の用向きは終わってしまったのかしら」
 翠星石は一拍の間考え、いいえ、と答えた。
 教室の中は少年を中心にして雑談に花が咲き、何とはなしに和気藹々といった雰囲気になっている。普段の水銀燈ならそういうことを無駄だと断じて、用事は終わったと皆を追い出してしまうはずだ。
「元々水銀燈はジュンに話したいことがあったはずです。だから、多分」
「中で待っている、ということ?」
「はいです」
 もっとも今はみんなアホ人間と騒いでるだけですけどね、と翠星石は水銀燈を真似て肩を竦めてみせた。
「そう。だったら、どうしても中に入らなくてはね。これだけ前座芝居を長く見せて貰ったのですもの、本番くらいはこちらから出向かなくては」
「……だから、そのために、もうここまで来てるだろっ」
 ジュンは青い顔のまま強がってみせる。
「ぼ、僕は別に教室に入れないわけじゃないんだ。ただ、ちょっとこういう世界に慣れてないから、調子が悪いだけで」
「それならば早くなさい、あまり待たせると水銀燈が痺れを切らして襲い掛かってくるかもしれないわよ」
「……わかってるよ」
 いざるように引き戸に近寄るジュンを、真紅は微笑んで見守っている。翠星石は何故かそれを見詰めるのが苦しくて、ジュンの顔に視線を向けた。
 ジュンが減らず口で言い訳ができるような心境になれるまでに真紅がどれだけ頑張ったのか、翠星石にはわからない。ただ、真紅は必要ならばいくらでも時間を掛けてジュンを励ますだろう、ということは知っている。
 真紅は不器用だ、と水銀燈は言った。そうかもしれない。それでも、真紅には時間がかかっても自分のやり方を通すだけの粘り強さと、それを裏付ける賢さと忍耐がある。
 翠星石はそういった資質には劣っている。その代わり、直感で物事を見抜く力や行動力には長けていた。
 そういった長所は、真紅にとってはいっそ眩しいくらいに映ることもあるのだが、今の翠星石自身としては全く意味のないことにしか思えなかった。
 むしろ、如雨露を持たないときの自分は全く無力だ、と思う。いつでも直截な言葉か捻くれた台詞しか掛けてやれないなんて。それでも──

「──頑張るです、ジュン」

 言ってからハッと気づく。今度はつい口に出してしまった。
「言われなくても頑張ってるだろ」
 ジュンは言葉だけはすげなく、しかしあるかなしかの感謝を込めて返事をした。
 翠星石は思わず口元を手で覆った。

──翠星石の気持ちが、通じたのですか。口を滑らせただけなのに……

 そんなことは契約しているから当然なのかもしれない、とは思う。しかし、それでも素直な嬉しさが胸を満たしていく。
 翠星石は泣いているのか笑っているのか自分でもよく分からない顔で、頷く代わりに毒づく。
「そんなヘナヘナな姿勢で言っても説得力ゼロですぅ。悔しかったらもっとシャキっと背中伸ばして二本の足で立ってみやがれですこのチビ人間」
「うるさい!」
 ジュンは顔を真っ赤に染め、今度は本当に怒りを露わにした。
「た、立って堂々とすればいいんだろ。やってやるよ」
 もう、引き戸まではわずか数歩の距離だった。ジュンは翠星石の言ったとおり、壁に寄りかかるのをやめ、背中を伸ばしてギクシャクと引き戸に歩み寄る。
 だが、それはあと僅かのところで止まってしまった。

 三人とも、暫く無言だった。
 あと一歩。それがなかなか踏み出せない。
 こんなときジュンの肩を抱いたり、後ろから支えて導いてあげられたら、と翠星石は思う。偶然にしても気持ちは伝えられるが、そういったことは彼女には無理なのだ。
 それは人形と人間だから、とか、作られたときに与えられた性格付けが、とかいった高尚なこととは無関係だった。単に、彼女とジュンの背丈の差だけの問題だ。
 それでも、できることはないわけではない。彼女は真紅の手を取った。
「翠星石……?」
 真紅の手を、ひどく震えながら引き戸の方に伸ばそうとしているジュンの手に重ね、自分もそこに手を添える。真紅はやっと得心したように頷き、ジュンの手を引き戸の取っ手のところに導いた。
「ほーらジュン、また前かがみじゃねーですか。陰険おじじもびっくりの前傾姿勢ですぅ。いっそ杖でも突きますか?」
 目の前の真紅は安堵したように微笑んでいる。それは先ほどまでの作った微笑ではなく、彼女自身の嬉しさが滲み出た笑いだった。
 ジュンがどもりながら抗議するのを聞きながら、自分は今度はちゃんと笑えているだろうか、と翠星石は思った。


「さて……全員揃ったわけだけど」
 少年はきょろきょろと周囲を見回した。
 彼の近くには蒼星石と水銀燈が座り、雛苺は無理をしてどうにか巴の虚像の膝の上に乗り、他の四人はジュンを真ん中にして、入り口近くの場所に集まっていた。
「みんな集めて、どんな話があるんだい」
 言葉を向けられた水銀燈は、最近お気に入りらしい教卓の上に飛んでいった。そこに腰を掛け、ジュンに視線を向ける。
「初めに言っておくけど、今日はことごとくサイコロに裏切られた心境」
 彼女にとっては概ね悪いほうにばかり転んだわけだが、水銀燈は悔しさや苛立ちは見せなかった。
「そこの媒介が酷い夢を見たお陰で、結果的には話したかったところ以外まで生々しく見せられたわけだけどね」
 皮肉たっぷりの口調で言ったが、当の本人には上手く伝わらなかったようだ。媒介の少年はどちらかと言えばこそばゆいような表情をしている。
 水銀燈はまじまじとその顔を見遣り、全員の視線が少年に集まってから大仰に肩を竦めてみせた。
「ま、事故だと思って頂戴。本人にもどんな夢を見るのかまでは操れないのだから」
 そもそも全員同意の上で同行したのですものねぇ、と言い置くのも忘れない。
 ブーイングこそ出なかったが、何人かはぶすっとした顔になった。
「あの子についても、やはり事故なのかしら」
 真紅は生真面目な表情のまま、真っ直ぐに水銀燈を見る。水銀燈は視線を逸らさずに答えた。
「あの人形の件は私の見込み違いよ。予想外もいいところだったわ。甘く見過ぎていたかもね」
 動き出して立ち上がるくらいのことは想定していたが、真紅を見て一気に記憶が戻るとは思いもよらなかった。しかも完全に全てというわけではなく、考えうる限り最悪の時点まで。
 まるで何者かにその辺りを操られているようでもあった。
 もっとも、仮に操る者がいたとしたら、その正体には大体目星はついているのだが。
「それで話っていうのは……」
 ジュンはそちらに興味が向いているようで、水銀燈を急かした。意地の悪い見方をするならば、彼にとってここは依然として居心地が良くない場所だから用件を早く済ませたいのかもしれない。
「人形のことなのか?」
「まずはそれね」
 単刀直入に言うわ、と水銀燈はジュンに視線を向けた。
「人間、貴方には、あの人形のボディと衣装を作って欲しいの」
「え? ぼ、僕があれの……なんでだよ」
 ジュンは混乱しているようだった。水銀燈はそれを無視して、事も無げに続ける。

「勿論、あの人形を現実世界に存在させるためよ」


13

 何のことか分かっていない少年以外の全員が一様に息を呑んだ。
 最初に小首を傾げてコメントしたのは金糸雀だった。
「水銀燈らしい大胆な提案ね、でも理由がわからないかしら」
 彼女は水銀燈の意図を肯定も否定もしなかったが、他の反応は概ね否定的だった。
「水銀燈、遂に頭イカレちまったですか」
 翠星石は直截な言葉を放った。
「アンタがその……『水銀燈』に拘りを持ってるのは分かってますけど、無茶苦茶です。そんなことできるかも分からんですし、出来たとしても何になるって言うんですか」
 真紅は翠星石を手で制してジュンを見遣り、水銀燈に視線を戻した。
「ここにいればあの子は曲がりなりにも自分の力で動けるのだわ。ここは幻影──アストラルでも存在することができる場所なのだから。でも現実世界ではそうは行かない。エーテルの体が自律して動くためには誰かが力を与えるか、それに代わるものが必要よ」
 例えばローザミスティカのような──真紅ははっとして水銀燈を見詰めなおす。
「まさか、貴女はローザミスティカを……」
「そうなったら美しいお話ね。でも生憎とただの可哀想な人形にそこまで入れ込むような趣味は持ち合わせてないわ」
 むしろ逆ね、と水銀燈はあっさり首を振った。
「ここを含めて、nのフィールドにあれを置いておくのは危険なのよ。おわかりでしょう、さっきのことだけでも」
 その点について異議のある者はいなかった。
 更にもう一つ、と水銀燈は若干間を置いて続けた。
「あれの力を雪華綺晶──第七ドールが利用する可能性もあるわね」
 真紅は瞬き、先程の水銀燈の言葉を思い起こした。
「貴女、第七に逢ったと言っていたわね、水銀燈」
「ええ。中々の狂いっぷりだったわよ」
 水銀燈は何かを思い出すように視線を天井に向けた。
「彼女は何もかも異質。それに、言わばあれの生みの親でもあるわね。もっとも意図して作り上げたのではなくて、勝手に育ってしまったのでしょうけど」
 真紅は少し顎を引き、金糸雀と視線を交わした。
「詳しく教えて欲しいのだわ、水銀燈。私たちの末妹と、あの子の作られた経緯を」
 水銀燈は頷き、長くなるわよ、話してるこっちがうんざりするほどにね、と前置きをしてから、自分の媒介のこと、そして雪華綺晶のことを順を追って語り始めた。


 水銀燈が長い話を終えると、その場には何とも言えない空気が流れた。
 事前に話を知っていた双子の庭師以外の者にとって、水銀燈の媒介が奇妙な存在だったことはもちろん驚くべき事実には違いない。しかし未だに見たことのない第七ドールの異質さはそれを遥かに上回る衝撃だった。
「実体を持たないゆえに、何にも縛られない自由な存在……」
 そんな都合のいいものなのだろうか、と真紅は首を傾げる。
「制約はあるのよ。現実世界に出て行けない、力を振るえない、というのはアリスゲームを遂行する上で絶対的な不利かしら」
 金糸雀は床に丸を描くように傘の先を回した。
「捕食者としては優秀でも、正体を知られて警戒されて、例えばnのフィールドでいつも複数で行動されたら息を潜めてるしかないの」
 今度は動き回っている生徒の虚像を傘の先でひょいひょいと示す。なにやら彼女としては傘を説明の補助に使っているらしいが、お世辞にも役に立っているとは言えなかった。
「それにマスターの心を糧にしてるなら、一人か二人しか起きていない時代に姉妹の数を減らしていったら、下手をするとその先自分の糧が断たれてしまうかしら」
 翠星石は得心したようにぽんと手を鳴らした。
「今まで誰も会ったことがなかったってのは、そういうことだったですか」
「推測だけど、多分間違いないかしら。七人全員が揃って『起きている』時代に一気に勝負を掛けないと雪華綺晶の勝ち目はない。しかも複数を一時に相手取ったら勝てないかもしれない。こいつはハードルゲロ高かしら」

 ただし、と説明をしながら金糸雀は思う。
 こちらとしてもnのフィールドに潜む雪華綺晶を最初のターゲットにするわけには行かないから、初期配置時点ではさほど不利とは言えないかもしれない。
 何しろ何処にいるのかさえ知られていないのだから「誰かの次」の目標にするしかない。そして、雪華綺晶側は戦いの行く末をじっくり観察した上で、戦いがnのフィールドで行われているときを選んで好きなように介入できる。あわよくば漁夫の利を狙うこともできよう。
 気長に考えれば、どこか戦機が動いたところで後の先を取ることが出来る彼女はゲームのプレイヤーとして特殊だが立場は互角とも言えるだろう。
 だが、それは正体が知られるまでの話だ。
 金糸雀は巣を張って昆虫を待ち構える蜘蛛を思った。巣を掛ける場所をどれだけ選んだところで、そこに巣があると分かれば虫はなかなか寄り付かない。
 そして今、最初の待ち伏せに失敗してしまい、巣の在り処を虫達に知らせてしまった蜘蛛はどう行動するのだろうか?
 巣を掛け変えて更に時を待つのか、それとも慣れないけれども襲撃者として動こうとするのか。

「なんか、厭だな俺」
 水銀燈と雛苺がジュンのところに集まり、結果的に少し皆と離れてしまった自分の席で、少年は呟いた。
「どうしたんだい」
 隣の席に器用に座った蒼星石が少年を見上げる。
 彼女にとって、水銀燈の長い話を聞いているのは微妙な心境だった。退屈とは言わないがあらましは知っていたし、言わば当事者の一人でもあったからだ。
 それでも、蒼星石は同意や意見を求められたとき以外は黙って聞き役に徹していた。語る方に加わるには彼女の関わり方は薄すぎた。
 それについては致し方ないと思う。何しろ雪華綺晶が二人を襲撃したとき、彼女は自分自身のことで手一杯だったのだから。
「アリスゲームが大事ってのは知ってるけど、今の説明じゃ……なんていうか」
 昔の俺なら上手く説明できたのかな、と少年は情けない笑いを浮かべて蒼星石をちらりと見る。彼女は困惑して首を傾げることしか出来なかった。
「雪華綺晶って最後に生まれたんだよな」
「そうだね」
 蒼星石は少し遠い目をした。

 人形師にして錬金術師ローゼン、彼女等の父であり創造主は、膨大な時間を費やしてローザミスティカを生成した後、最高の素体──ローゼンメイデンを創り上げた。
 しかしローザミスティカを七つに割ったひと欠けずつを入れられた彼女達も、彼の追い求める至高の少女たり得なかった。
 一体作っては嘆息し、二体作っては絶望に打ちひしがれながらも、ローゼンは自分の娘達に愛情を持って接することは止めなかった。姉妹の数が六人になったときも、彼はまだ創るのを止めようとはしなかった。
 しかし、姉妹の誰にも見せずに七体目を作った後、ローゼンは遂に絶望の淵から帰ってこなかった。彼は近くて遠い何処かに去り、彼女達は野に放たれ、そして──

「作ったときはみんな、その時の最高傑作なんだよな」
 少年はぽつりと言った。蒼星石ははっとして少年の顔に視線を向けたが、少年は考えを言葉に纏めようと必死になっているだけで、その一言に特別に意味を持たせたわけではないようだった。
 蒼星石はまた、そうだね、とだけ答えた。
 彼女達は皆、最高傑作でありながら同時に不完全だった。それが薔薇乙女の誇りであり負い目でもある。
 彼女達が皆アリスになろうとするのは、父に逢いたいという願望のためだけではなく、真の最高傑作かつ完全なモノに成るためでもある。いや、何人かにとってはむしろその方が重要なのかもしれない。
「だったら……どうして雪華綺晶だけ、独りぼっちにしたのかな」
 少年は蒼星石に視線を向けた。彼女は返事に詰まり、その視線をただ受け止めるしかなかった。
「あの説明のままじゃあ、まるでアリスゲームをするためだけに生まれてきたみたいじゃないか」
 それは記憶を失ったことでほとんど何も知らない状態になってしまった少年だからこそ生まれた感想なのかもしれない、と蒼星石は思った。
 幼稚な感想かもしれない。だがいつもそうであるように、今回もまた彼女には頭ごなしにその感想を否定することはできなかった。
「……僕達だって似たようなものさ」
 金糸雀を中心に、雪華綺晶に対してどうすべきか、というような話題になりかけている他の面々を眺めながら蒼星石は呟いた。
「人間が子供を作って自分の遺伝子を残すように、僕たちはアリスゲームを克ち抜いてアリスになる。そう刷り込まれているんだよ」
 どんなに動くさまが似ていても、彼女達は人間ではない。遺伝子を残すことを最初から否定されているという点では生物であるとさえ言えない。
 しかしどれほど外見が同じだからといって、ただの自動人形でもない。自律して自我を持ち、生きる意味と闘う意味を明確に持っているのだから。
「本来、他のことは全てそのための準備や布石に過ぎない。マスターとの生活も、姉妹での語らいも……」
 少年は蒼星石を見詰めた。その視線を感じながら彼女は敢えて淡々と言葉を続ける。
「雪華綺晶の立場では偶々そういったものが周囲に無いだけなんだ。
 それに……これは僕の推測に過ぎないけど、彼女が本当にマスター達の心を吸って生きているのなら、その心に触れることだってあるんじゃないかな」
 最後の一言は、どちらかと言えば蒼星石の願望に近かった。
 少年は暫くの間、どうにか彼女の言葉を納得しようとするように黙り込んでいた。やがて、申し訳なさそうにごめんと首を振った。
「……それでも厭だな、俺。良いとか悪いとかじゃなくて、なんか、上手く言えないけど、厭だ」
 蒼星石はますます困惑して少年を見詰め返した。
 もしかしたら自分は何か大事な視点を欠いているのではないか、とふと感じてしまったからだ。
 少年は何を誤解したのか、ごめんな、とまた頭を下げ、ついでに帽子の上から蒼星石の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 どうやら彼なりの謝罪のつもりらしいが、少年の撫で方は壊れ易い人形に対するものというよりは親しい元気な男の子を構ってやるときのように粗雑だった。
 父親からも今までのマスター達からも、こんな撫で方をされたことはなかった。彼等は常に彼女を大切なドールとして丁寧に扱ってくれていたし、そもそも頭を撫でるという行為自体、あまり一般的でない場合が多い。
 しかし、不思議と少年の手の感触は悪いものではなかった。彼女は素直にそのがさつな謝罪を受け入れた。

 蒼星石がもう少し散漫な性格か、そうでなくても気持ちに余裕があれば、少年の直前の言葉の意味をおぼろげなりとも理解したかもしれない。
 しかし、こういった契約者以外との些細な触れ合いが雪華綺晶には有り得ない、彼女の世界は完全に閉じているのだとこの場で再認識するには、蒼星石の感性は生真面目過ぎていた。


14

 夢から出ると、空はもう真っ暗だった。部屋の真ん中に敷いた布団で相変わらず太平楽な表情で眠っている少年をそのままにして、ユニットバスの鏡からジュンと薔薇乙女達はそれぞれの家に戻った。
 ジュンの部屋に戻った真紅は右手で時計を持って時間を確認し、ひとつ溜息をついた。右腕側で何かをするというのは久しぶりの感覚だった。
 もっとも、真紅にとっては片腕が戻ったことよりも、何処かが欠損していても自分は自分なのだということを知ったときの方が嬉しかった。右腕がなくても不便なだけだ。今なら、負け惜しみでなくはっきりとそう言える。
 今も彼女に背を向けてなにやらパソコンに熱中しているジュンをちらりと見遣り、もう一度時計に視線を落として先程のことを思う。

 別れ際、真紅は最後に鏡の前に残った。ちらりと部屋を振り返る。
「水銀燈」
 蛍光灯が消されて豆電球の明かりだけになった部屋の中で、水銀燈は姉妹達を見送ろうともせず、窓枠に座ってなにやら外を眺めているようだった。
「教えて貰ってもいいかしら」
 薄暗い中で水銀燈がこちらを向いた。真紅は風呂場を出て部屋の戸の前まで歩み寄った。
「あの人形がどうして『真紅』をあれほど憎んでいたのか」
「『そういう風に作られた』では満足できないの? さすが、無駄な知識欲の塊ねぇ」
 くすくすと笑い声が夜風に乗って吹き込んでくる。
「茶化さないで。……知りたいの」
「呆れた」
 水銀燈は肩を竦めた。
「どう考えたって面白くない物語なのはお分かりでしょうに」
「それでも知りたいの。お願い」
 貴女が話したくないのなら諦めるけれど、と言うと、水銀燈は座っていた足を組み替えて視線をまた窓外に向けた。
「腹部のないドールが勝手に動いて貴女の足元に擦り寄ってきたら、貴女はどうする?」
 ああ、聞くまでもなかったわねぇ、と水銀燈はにやりと笑い、先程の光景を思い出した真紅は恥ずかしさとからかわれたことへの怒りで頬を僅かに染めた。
「作られると同時に工房を出され、それからアリスゲームにのみ生きていた『真紅』は違う反応をしたのよ。どうやら、心霊現象には強かったようね。
 ローゼンメイデンの第一ドールと名乗るだけで、ただ『お父様』を求めること以外にろくに記憶も知識も持っていなかったその不完全な人形に手を差し伸べたってわけ」
 とは言っても、そのとき人形はもう逆十字のドレスを着ていたのだけどね、と水銀燈は自分の服を指差す。
 真紅はどきりとしたが、黙って頷いた。水銀燈の仕草は、まるで自分自身のことを話しているかのようだった。ただ、それは──
「世に放たれてから幾つかの時代を経て、その間ひたすら姉妹と戦い続けてきた彼女にとっては、その人形に優しくしてあげること自体が慰め……というのは言い過ぎかしらね。癒しだったのかもしれない」
 それは、まるで水銀燈自身が──
「『水銀燈』は作りかけの習作。あるいはジャンク。動力源も胴体部も持たないのに自律して立って動く化け物とも言えるわね」
 化け物という言葉に真紅が抗議しかけるのを、貴女だって化け物と思ったでしょう、と水銀燈はにやりと笑って制した。
「その人形が、人形らしく楽しく暮してくれること。それが彼女の望みだった。
 でも人形はあろうことか動力源を手に入れ、いよいよおおっぴらにローゼンメイデンを名乗ることになってしまった」
 その動力源も誰かから奪ったのではなくて、『お父様』が後から思い直して彼女にくれたらしいわ、と水銀燈はシニカルな笑いを浮かべる。
「どうして……」
「そこは明かされていないの。だから実も蓋もない言い方をすれば、作劇上の都合でしょう。『水銀燈』をより悲劇的に見せる為の。
 劇中の経緯から敢えて推測するなら、やっと『お父様』への想いに気付いて遅まきながら第一ドールとして認めてあげた、という筋なのかもね」
 水銀燈はあっさり切り捨て、あっさりと続けた。
「ともかく、それで彼女は思ったままを口にしてしまうのよ。貴女は作りかけの可哀想なドール、究極を目指して作られた私達とは違う、ってね」
 真紅はなんとも言えない気持ちになって水銀燈を見た。

「『水銀燈』は怒って『真紅』が大切にしていたブローチを壊してしまう。それは『お父様』から貰った大切なもの。それを見て、彼女は遂に本音を吐くのよ。
 『どうして……ジャンクのくせに。作りかけの……ジャンクのくせに!』
 ってね」

 端折っているけどだいたいこんなところね、と水銀燈は薄く笑った。これじゃ恨まれてもしようがないでしょう? と肩を竦める。
 真紅はありがとうと言い、ごめんなさい、と頭を下げた。
「謝るようなことをされた覚えはないけど」
 水銀燈は首を傾げた。真紅はふるふると首を振った。
「『真紅』のことを話していた貴女は、まるで自分の過去を振り返るようだったわ」
「そう?」
「ええ。貴女──戦いだけに生きていたという『真紅』は、貴女にとてもよく似ていたから。そんな風に突き放して話すのは、辛いのではなくて?」
 それなのに、私は貴女に無理を言ってしまった。ごめんなさい、と真紅は俯いた。
 水銀燈はやや困惑したように黙っていた。そういう視点があるとは思わなかったのかもしれない。
「それから、もう一つ」
 真紅が続けると、水銀燈はくすくすと笑った。
「やけに素直なのね。いいわ、神父の代わりに懺悔を受けてあげる」
「茶化さないで」
 真紅は少しだけむきになったような声を出したが、すぐに改まった調子になった。
「……ジャンクなんて言って悪かったわ」
 水銀燈は今度ははぐらかすようなことは言わなかった。それは『真紅』が『水銀燈』に放った言葉のことでないのは、説明されるまでもなかったのだろう。
 真紅はもう一度、ジャンクなんて言ってごめんなさい、と呟くように言い、顔を上げた。不粋だとは思うが、聞きたいことができたのだ。
「貴女の知っている世界でも、私は同じことを言ったのかしら」
「……シチュエーションに違いはあったけれどね」
 水銀燈は漫画の場面のように激昂する代わりに、真紅の右手を取った。
「そして貴女はこうも言っていた。
 『ジュンが迷子のぬいぐるみや私の右腕を蘇らせたように、呼んでくれる声に気付きさえすれば、誰もジャンクになんてならない。そうジュンが私に教えてくれた』
 ──それは、この世界でも貴女の想いとして捉えていいのかしらね?」
 真紅は目を見張り、それから返事の代わりに水銀燈の手をきゅっと握った。
「本当になんでもお見通しなのね」
 本音を言えば少しだけ怖い。今の水銀燈に仕掛けられたら、勝ち目はないように思う。
「たまたま知ってるだけよ」
 真紅は知らないことだが、水銀燈は以前、自分の媒介が蒼星石に答えた言葉を使った。それなりの諧謔を秘めた言葉なのだが、その意味も真紅には分からなかった。
 ただ、水銀燈に自分の心持ちが伝わっていることだけは、素直に嬉しかった。自分は元々戦いが得意ではない。それよりは、こうして姉妹や契約者、そしてその周囲の人々と心を通わせていたいのだ。

 実のところ、もう一つ真紅が知らずに通過してしまった出来事がある。

 水銀燈が漫画の場面のように激昂しなかったのは当然だった。怒る理由がなかった。
 漫画の世界の真紅は、この時はまだ水銀燈が柿崎めぐと巡り逢って、事実上めぐのために戦っていることを知らずに、水銀燈を激昂させる一言を放ってしまった。
『あなたのように人間を糧としか思わない子に、マスターとドールの絆なんてわからないでしょうけれど』
 それは、少なくとも漫画の世界では真紅が水銀燈の「外面(そとづら)」しか見ていなかったことを示している。水銀燈が決して自分の行動の裏を取らせなかった、とも言える。
 だが、水銀燈は敢えてそのことには触れなかった。

「もう二十一時ですか?」
 回想を破る明るい声が響き、階下でなにやらやっていた翠星石が部屋の扉を開けて入ってきた。真紅は目を上げて微笑んだ。
「いいえ、まだ二十四分三十七秒あるわ」
「じゃ、そんなに急がなくても良かったんですねえ」
 むう、と翠星石は少しだけ口を尖らせた。どうやら、明日の朝食用の何かの下ごしらえをしていたらしい。
「もう一度広げて続けてる時間はないですし、しょうがねーです。明日は早起きです」
「食えないもん作るなよ」
 背中をこちらに向けたまま、ジュンがぼそっと言った。翠星石がむかっ腹を立てて怒り、ジュンはそれを軽くあしらう。そのうちに八時からの番組を見終わった雛苺が階段を上ってきて、部屋の中の雰囲気はいつものこの時間帯のように混沌とし始めた。
 真紅はそんな様子を横目で眺め、ジュンの椅子の後ろに陣取って水銀燈の媒介からプレゼントされた文庫本を開いた。今日の夕方まで、一人では開きにくくページをめくりにくかった本だ。
 彼女は微笑んだ。確かに片腕しかないというのは不便だった。しかし、それより大事なことはある。この場の雰囲気、暖かさ、姉妹とジュンの声。
 些細な日常かもしれない。だがもし自分が何かのために戦う必要があるならば、この日常を守るために戦いたいと真紅は思った。



[19752] 第四章 部外者達
Name: 黄泉間信太◆bae1ea3f ID:d11f58f6
Date: 2012/08/02 03:55
1

「御機嫌宜しゅう、黒薔薇のお嬢さん」
「随分とお久しぶりね、腹黒兎さん」
 二人は同時にお辞儀をする。片方は慇懃無礼に、もう一方はわざとらしく。
「今日もまた御出掛けですか」
「ええ。最近はすっかり暇なんですもの、散歩が日課になってしまったわ」
「おお、それはいけません。変化のない日常はつまらぬもの」
 兎頭の紳士はステッキを傘に変え、ぽんと一挙動で広げてみせる。
「いつ見てもお見事ね、その傘の開き具合は」
 黒衣の少女はくすりと笑う。心底楽しそうに見えないのは、口の端が釣り上がっているからだ。
「ところが魔法の傘だと思っていたそれも、今になってみればごく一般的な自動傘と同じ機能でしかないわねぇ。トリヴィアル(つまらない)!」
「おやおや、これは台詞を取られましたな」
 まさに剥製のような兎の顔からは紳士の表情を読むことはできない。その口調もまた、顔つき以上にその裏側を読めないものだった。
「そうです。科学の進歩は速い。いずれ人は生きて動く人形さえもごく当たり前に作り、それが世に出ることもあるでしょう」
 紳士は傘を畳んだ。傘は元通りステッキに戻っていた。
「そうなったとき、果たして我々は如何様に身を処さねばならないか。非常に重要な案件ですな」
「同情するわ」
 全く心の篭っていない声で少女は答える。紳士は慇懃に帽子を取って礼をした後、小首を傾げて少女を見た。
「ご同情は感謝致しますが、貴女も例には漏れませんぞ」
「ご心配ありがとう。警告として有難く受け取らせてもらうわ。随分貴方らしくない言葉だけど」
 少女は表情を変えずに肩を竦めた。
「でも、ご心配には及ばないわ。私に関してはね」
「それはまた、傾聴に値するお言葉ですな」
 紳士はおどけてステッキをぐるりと回した。
「どんな物も時の流れには無関係では居れません。たとえそれが天才の創り出した最高傑作であっても」
「そうね」
 少女はあっさりと肯定した。
「ただし、それは生きていればの話」
 紳士は首を傾げ、すぐにぽんと音を立てて掌をもう一方の拳で叩いた。
「おお、おお。このうすのろ兎にも話が飲み込めましたぞ。なるほど、なるほど」
 何度も何度も頷いてみせる。
「確かに、アリスはもうすぐ生まれます。そうなれば──」
「──そうなれば用済み。ローザミスティカを失って動きを止める」
 少女は言葉を引き取り、いっそ楽しそうに続ける。
「依然として魂がそこに在ったとしても、物言わぬ人形になってしまえば世俗の自動人形がどうあろうと関係ない。そうでなくて?」
「その通り、いや、まさしくその通り」
 ぱち、ぱち、と紳士は間の不揃いな拍手を送る。まるで歌のように奇妙な拍子を付けていた。
 相手を焦らすように随分長いことそうしてから、口の端を歪める。
「しかし、残念ながら聊かその予測は性急でもあります」
 少女は意外そうな顔を作った。紳士はステッキを振って台詞を続ける。
「死後のことは関係ない、とはよく言われる言葉。しかし首尾良くアリスと成った暁には、果たしてそのように言い切れるでありましょうや?」
「そうね」
 少女はまた、あっさりと肯定した。
「……アリスが生まれるときにはその一部になるのだったわね、皆、一様に」
「そうです、そうですとも、それについてはその通り」
 紳士はまた間の不揃いな拍手をした。
「しかし先程から貴女らしくないお言葉を続けられていらっしゃいますな、黒薔薇のお嬢さん。貴女こそは何を措いてもアリスに成る、そのための生き方を貫いていらっしゃったのではありませんか」
 紳士は少女を覗き込むような仕草をする。少女ははっきりと皮肉な表情を浮かべ、否定も肯定もせずに言葉を返した。
「ところで、私は少々忙しいのだけど。貴方の目的が久闊を叙することだけならば、そろそろお暇乞いをしたいところね」
「おお、これは申し訳ございません」
 紳士はまた慇懃に一礼した。
「わたくしめの用向きなぞ、貴女の貴重なお時間を割かせるほど重大なものではございません。それではこれにて失礼させていただきましょう。また後日」
「悪いわね、ラプラスの魔。それではごきげんよう」
「ごきげんよう、黒薔薇のお嬢さん」
 紳士が帽子を取ろうとしたとき、少女は紳士がしたように不揃いに手を叩いてみせた。紳士は──兎の剥製の顔にそういう表現が許されるなら──微笑に近いものを浮かべ、ぽん、と音を立ててその場から消えた。
 少女は一つ息をついた。
「どういう風の吹き回しなの」
 呟いて、いつものように自分の媒介の夢の扉をくぐった。


2

 ジュンはパソコンの画面を睨んで口を尖らせている。真紅は当然のようにその膝の上に座り、机の天板に手をついて画面を見守っていた。
「すぐには製作に取り掛からないのね」
 服はあっという間に仕上がったのに、と真紅は壁際のハンガーに掛けられた濃紺の複雑な形状のドレスを見遣る。水銀燈の媒介の少年の夢に入ってから今日までのわずか一週間で、ジュンは水銀燈のものとほぼ同じ形状のドレスを仕上げていた。
 ジュンは型紙さえ殆ど描かなかった。まるで必要な図面が既に全て頭の中にあるように、生地を無駄なく切り、縫い合わせ、刺繍を施して作り上げてしまった。
 しかし工程はそこで止まってしまっていた。服ができてもそれを着させるボディがまだ無かった。
「服のほうは作ったことがあったけど、ボディは初めてなんだ」
 二人が小声なのは、雛苺と翠星石が既に寝ているからだ。
 既に時計は二十三時を回っている。真紅も一度は鞄に入ったのだが、妙に寝つきが悪くて起き出してみると、ジュンがパソコンにかじりついていたのだった。
「フィギュアみたいに型取りしてレジンで複製するか、最初から軽量紙粘土で作る方法しか紹介されてないな……お、ここはビスクの作り方が出てる」
 ジュンは腕の中の真紅をちらりと眺め、何度か見た薔薇乙女達のボディを思い起こしていた。パーツの分割は今風の球体関節人形のように複雑だが、素材はビスク(二度焼き)という手法で作られた、硬くて軽い焼き物……のはずだ。
 本来割れやすいはずのそのボディが強靭なのは、素材や焼き方そのものが特殊なのか、それとも薔薇乙女達の手や顔が自在に動くように何か不可思議な力が働いているのか。
 どちらにしても、今作ろうとしているドールボディにはビスクそのものが使えない。どこかの焼き物工房にでも申し込まなければ、窯のないこの家では焼入れも前段階の素焼きもできない。
「強度的にはウレタンに真鍮線入れるほうがマシなのかな」
 紙粘土は本当に軽量に仕上げられるらしい。その分強度を稼ぐ必要はなくなる。
 しかし、もし水銀燈が意図したように人形が自律して動くなら、薄い粘土ではあまりにも脆すぎるような気がする。いや、その方が都合は良いのかもしれないが。
「でもウレタン型取りだと重さにばらつきが出そうだし……ムクで作ったら重過ぎるだろうし……それはビスクも同じか……」
 ぶつぶつ言いながらページをめくる。真紅は彼女にしては珍しく、興味津々といった風でそれぞれのページの画像を見ていたが、ジュンがページを移動するのに文句を付けることはしなかった。
「やっぱり窯を買って……あれ?」
 ジュンは目をぱちくりさせた。画面が急に真っ暗になってしまったのだ。慌てて本体を見たが、電源LEDは緑に点灯しているし、特に異音もしていない。
「まさか……これってまた」
 その予想は当たっていた。ジュンが真紅を抱えて机の脇に転げ込むのと、画面から黒い羽根が噴き出すのはほぼ同時だった。
「あら」
 肩から先だけ出した水銀燈は、机の横に並んで座ったジュンと真紅を見てにやりとした。
「さすがは真紅のナイトね。準備が良いようで何よりですこと」
「ナイトではなくて下僕だけれど、今の判断は的確だったわ」
 真紅はさらりと言い、下僕かよ、とジュンは口を尖らせた。
「ナイトの方が良いんじゃなくて? 頬が随分赤いわよ」
 パソコンのモニターを窓枠のようにして姿を現すと、水銀燈はそんな軽口を叩きながら一旦モニターから出、真紅の抗議の声を聞き流してまだ波打っている画面の中に腕を突っ込んだ。
「退席するか隠れなさい、真紅。ちょっと厄介なものを引きずり出すから」
 真紅は憮然とした表情になったが、黙って鞄のところまで退却した。それでも完全に鞄を閉じることもなくパソコンの方を見守っている。引きずり出されるものが何なのか、彼女にもだいたい見当はついていた。
 果たして、引きずり出されたものは真紅の推測の通りのモノだった。

 人形は裸の状態で、やはり相変わらず胴部の無いまま、パソコンのモニターから引き出された。
 胴部がないのにあたかも透明なパーツで繋がったように上下がいちどきに出てきたものの、その身体には全く力は篭っておらず、テンションも掛っていなかった。
「じっ……実体化?」
 いきなりの事態に、ああでもないこうでもないと悩んでいたボディ製作がほとんど必要なくなったことに気が付く余裕もなく、ジュンは目を見張るしかなかった。
「げ、幻影じゃなかったのか」
 妙に軽い音を立てて引き出され、キーボードの上に積み重なったそれは、ドールとしては大きかったものの、どことなく安物の人形のような風情があった。
 引きずり出す、と自分で言っていた水銀燈自身も唖然としている。ただし、彼女の視点はジュンとはまた別のところにあった。
「やけに軽いと思ったら……」
 自分とほぼ同じ背丈の人形を床に降ろし、手早く仰向けにさせると、彼女は内部の見える腰と胸のパーツをしげしげと眺めた。
「やっぱり、未塗装部分を見れば一目瞭然ね」
 人形の表面は白っぽい肌色、というよりは肌色がかったクリーム色に塗装されている。しかし、パーツの内部までは塗装されていなかった。黒い地肌がそのまま表れていた。
「どんな素材で出来てるんだ?……っていうか無茶苦茶だ、なんで実体化できるんだよ。元は想像の中だけのモノなんだろ」
 ジュンは座り込んだまま手を出そうとしない。好奇心に駆られて痛い目を見るのは懲りているのか、それとも別の理由なのか。
「炭素繊維強化プラスチック。俗に言うドライカーボンってやつ。レースマシンのカウルとかに使われている素材よ。軽くて強靭、熱にも強い……ええ、確かに無茶苦茶ね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「こんな複雑なパーツの塊を全部カーボンで作るなんて。想像が産んだモノか、完全に採算を度外視して作った物でなければ有り得ないわ」
「へえ……ってそこじゃないだろ、僕が言ってるのはなんで実体化できたのかってことだよ」
 とは言うものの、素材の名前が出たせいで興味が勝ったのか、ジュンは水銀燈の隣に来て人形の胴部を覗き込んだ。動かないのを見て取った真紅も鞄から出て人形に触れてみる。
「顔や手は、私たち薔薇乙女そのものだわ」
「あいつもそこまでは材質の想像が及ばなかったようね」
 水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつって……雪華綺晶ってやつのことか」
「いいえ。もし雪華綺晶が作るなら、当然陶製の焼き物……ビスクでしょう。末妹が欲しいのは他の姉妹達のようなボディ。こんな素材は美しくないもの」
 水銀燈は言い切って顎に手を当てた。
「これは私の媒介の仕業よ。いくら軽くて強靭な素材だからってドライカーボンで出来たドールを想像するなんて、おぞましいったら」
 あの男らしいと言えばそこまでだけど、と言う口調には嫌悪感だけでなく、妙な懐かしさのようなものも混じっていた。
「この子は雪華綺晶が彼の夢の中に作り出した舞台装置ではないの?」
 真紅は膝の上に人形の頭を乗せ、手櫛で髪を梳いてやりながら首を傾げた。裸の胸の上には可愛らしいハンカチを載せてやっている。
「そして、雪華綺晶が意図しなかったのに舞台装置は何故か勝手に成長して自我を持ち、魂も持った──貴女はそう説明したわ」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣り、お優しいこと、と呟いてから答えた。

「成長というよりはあの男が作っていったのかもしれなくてよ。
 恐らく末妹の能力は夢を誘導すること。誘導するための舞台装置の「材料」は本人の中にあるのだから、複雑な部分は夢の主に勝手に作らせているはず。
 あの男は夢の中を緻密に作り上げる方だった。多分最初は薄ぼんやりしていたこれを、あの男は緻密に作りこんでしまった。自分の夢の世界の都合のいい住人としてね。
 そして、本人は無自覚だったとしても、あの男に纏わり付いていた何か奇妙な力が、これを『誰かが夢の中に置いていった実体のある人形』に近いものとしてあそこに生成してしまった」

 全ては憶測でしかないけれどね、と水銀燈は溜息をついてみせた。つくづく厄介なものに関わってしまったと言いたい気分のようだった。
「桜田ジュン」
「なっ、なんだよ」
 いきなりフルネームで呼ばれて、腰の空洞から球体関節の繋ぎ方を観察していたジュンはびくりとした。なんとなく気恥ずかしいような気分になる。
「胴部だけでもお願いできるかしら。素材は何でも構わないわ。そうね、上下の球体関節さえ十分な範囲で可動して、上半身の重量に負けない程度の強度があればいい」
 ジュンは腕を組んだ。
「レジン──ウレタン系のプラや紙粘土でも?」
「任せるわ。私は樹脂や工作粘土の強度については知識が無いから。貴方がそれで十分だと考えるもので構わないわよ」
「かーぼんというのは使えないのかしら」
 真紅が思いついたように言う。
「同じ素材では揃えられないの?」
「それは、原型を作ってドライカーボンのエアロパーツを作っている工場にでも特注すればできないことはないでしょうけど」
 でも高くつきすぎるわ、と水銀燈は眉をひそめた。
「もちろん技術的には問題ないでしょう。でもあまり現実的とは言えないわ」
「そう……」
 真紅は手を止め、残念そうな顔をして人形の顔を見た。
「貴女がそれでいいのなら、私が口を出す事柄ではないけれど」
 でも、と視線を下に向けたまま呟くように続ける。
「それで本当にいいのかしら」
「どういう意味よ」
 ハンガーに吊るされたドレスを見遣っていた水銀燈は視線を真紅に戻し、小首を傾げる。真紅は暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に続けた。
「神業級の職人がいて、良い素材のあてがあって、ここに奇跡のようにこの子がいるのに、それでも簡単な素材しか使えないなんて」
 残念だわ、と真紅は目を閉じる。
「仕方ないでしょう、それは」
 水銀燈はドライな口調で告げた。
「そもそも、人形のボディにカーボンなんてオーバースペックもいいところだもの。加工の手間を考えたらマイナスと言い切ったっていい。
 無理矢理軽量化しなくてはいけない物でもないし、強度はソフトビニールでも間に合う程度のものなのよ。なんでも金銭を積めば良いというものじゃないの」
「そうかしら」
 真紅は顔を上げ、目を開いて水銀燈を真っ直ぐに見た。
「貴女は『真紅』と同じ間違いをしているような気がする」
 水銀燈は虚を突かれたように黙った。真紅はまた目を伏せた。
「貴女は何故、この子を創り出した人物がボディを軽くて強靭な素材にしたいと思ったのか、分かっていないのではなくて?」
 私には素材の良し悪しは分からないけれど、その人の想いはおぼろげに理解できるわ、と真紅は人形の背中に手を回し、何かを拾い上げて水銀燈にかざして見せた。
 水銀燈ははっと目を見開き、何度か瞬いた。
「『水銀燈』は軽くて、しかも強くなくてはいけなかったの。自在に飛んで、戦うために」
 真紅がかざして見せたのは、水銀燈のものと見分けが付かない黒い羽根だった。

「ビスクでできたボディよりも強く、しなやかで、軽いボディがあれば」

 真紅は歌うように言った。何かが乗り移ったようにも見えた。

「『真紅』にも誰にも負けなかったかもしれない。
 狂気と言われ、姉妹から憎まれ、『ミーディアム』にも恵まれなかったけれど、いえ、それだからこそ、せめてボディだけは望みうる最高のものを……」

 口を噤み、羽根をそっと手放して、真紅はまた視線を人形の顔に落とした。

「姉妹で最も物理的な力に恵まれ、契約しなくても媒介に困らない貴女には分からないかもしれないけれど」
 真紅は人形の髪を撫でた。
「貴女のマスターはこの子にもう一つの翼を与えたかったのではないかしら。精一杯生きたけれど、最後まで力を満足に振るうことのできなかった『水銀燈』に……」
 水銀燈はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「それにしては随分と適当な仕事をやらかしたものね。だったら胴のパーツも構築しておけば良さそうなものだけど」
 それもあの男らしいかもしれないけど、と言って、水銀燈はジュンを見た。
「いいわ。自作パーツ関係に強いショップは幾つか知ってる。もしドライカーボンを使いたくなったら言って。口利きはできないけど教えて上げるわ。……強制するわけじゃないけどね」
 ジュンは慌てたように顔を上げた。
「え、でも費用は」
「こちらで持つから心配ないわ。記憶を無くしたといっても本人が作ったものなんだから、作り忘れたパーツの経費くらい捻り出させてもいいでしょう」
 ただし手間賃は貴方に泣いてもらうけどね、と水銀燈はまたにやりとしてみせた。


 水銀燈が窓から去って行くのを見送ってからふと時計を見直すと、もう時刻は零時を回っていた。
「……いつも無駄に緊張させるよな、あいつ」
 はあ、と大きく息をついて、ジュンは真紅を振り返った。
「水銀燈だもの、当然よ」
 真紅もやれやれという表情になっていた。こと、この時代にあってはアリスゲームのために敵対していたから、という部分を差し引いても、元々あまり仲が良いほうではないのだ。苦手と言ってもいい。
「でも、変わったわ」
 真紅は苦労して人形にドロワーズとキャミソールを着せながら微笑んだ。
 ジュンは何故かそれを見ていられずに視線を逸らした。裸のときは胴部が無いことも手伝ってパーツの集合体としてしか意識しなかった人形が、下着を着けただけで急にエロティックな姿に見えてしまったのだ。
「無駄に攻撃的じゃなくなったことか?」
「それはやり方を変えただけかもしれないけれど、他にも変化があるわ」
 真紅は何度も人形の体を不器用にあちらこちらと動かしながら、どうにか下着を着せ終わった。
「他人の言うことを素直に受け入れるようになった。それは、とても大きな変化……」
 言いながら、真紅ははっとして動きを止めた。背中を向けてパソコンを見ていたジュンはその姿には気付かなかったが、真紅の意識に浮かんだ単語を無造作に言い当てた。

「成長って言うんだろ、そういうの」

「……ええ」
 真紅は呆然と頷いた。ジュンからは見えない位置のままだったが。

──私達人形は、成長しない。ただアリスゲームという衝動によって突き動かされているだけ……。

 それが真紅の認識だった。そして、彼女が知り得る範囲内では、今までの時代ではそれは常に正しい認識でもあった。
 彼女達は世に放たれたときのまま、それぞれに付与された精神と性格のまま、眠り、再び起きて契約者を変え、経験と記憶だけを積み上げて生きてきた。そう思っていた。
 そして、その認識こそが真紅の漠然と抱えている絶望でもあった。

──もしかしたら、私はとても大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「──ジュン」
 真紅は水銀燈が「真紅のナイト」とふざけて言った、自分の契約者の名前を呼ぶ。
「なんだよ、急に黙り込んだと思ったら……」
 椅子を回してこちらを向いたジュンに、真紅は両手を差し伸べる。
「抱っこして頂戴」
 全くおこちゃまだな、とジュンはいつものように口を尖らせながら、慣れた手つきで彼女を膝の上に引き上げ、パソコンに向き直るでもなく彼女をゆるりと抱いてくれた。
「これでいいか」
 真紅はもぞもぞと位置を直し、いつものように返事をする。
「ええ。抱っこは上手になったわね、合格点だわ」
 手に手を重ねると、お子ちゃまの癖に人を子ども扱いするなよ、とジュンはそっぽを向いてみせた。真紅はいつものように少し気取った顔になり、ゆっくりと目を閉じる。

──もし、私達が成長できるのだとしたら。

 今はまだそう言い切れる材料は整っていない。だが、もし人間のように成長することができるなら。
 私は、何をすることができるのだろう。何をしたいのだろう。
 心地よいジュンの鼓動と心を感じながら、真紅は眠くなってくるまでのひととき、そんな想像を楽しんでみることにした。


3

 数日が過ぎていた。
 ジュンはハンガーに掛けたままのドレスを見遣り、次に壁際に置いた椅子の上を見て少し疲れた表情になった。
 椅子の上には厚手の型紙で作った筒を胴代わりにして、例の胴のない人形を座らせている。下着だけでは可哀想だと雛苺が言うので今はジュンのトレーナーを着せているが、のりに言わせると「よく眠ってるから、お布団掛けてあげたくなるのぅ」ということで、ときどきタオルケットがその上から掛けられていたりもする。
 ただ、人形自体は相変わらずぴくりとも動かない。
 動力源が無いからだと水銀燈は説明していた。必要ならそのときだけ力を付与すれば動けるわよ、と言ってもいたが、その後水銀燈が力を付与してみたときも一向に動き出そうとはしなかった。
 真紅や翠星石の言うところでは「魂はここにある、でも自分の殻に閉じこもっていて殆ど会話が成り立たない。身動きしたくもないらしい」ということだが、それは水銀燈に無理矢理引きずり出されたからじゃないのか、とジュンは疑っている。あの夢の世界の中での暴れ具合を考えると力ずくで水銀燈がこの人形に勝てるとは到底思えないが、どうにもそんな風に思えて仕方がない。
 彼の推測が当たっているかどうかは兎も角として、問題なのは肝心の胴が原型さえ手付かずということだった。
 既存の人形に胴体部分を作りつけるというのは存外に大変なことだ、とジュンが気付くまでにはそう大した時間は必要なかった。
 胸と腰を採寸してそこに合う丸棒を押し込めば良い、というわけにはいかない。上下には関節を仕込まなければならないし、胴体そのものも単純な筒型で間に合わせるわけにはいかないのだ。大分タイトな球体関節の造り付けが必要になるだろう。
 それに加えてもう一つ問題がある。
 胸と腰のパーツを見る限り、人形はドールというよりはキャラクターフィギュアに近いボディラインをしている。要するにアニメのキャラクター、それも高校生から成年女性に設定されているような体型だった。
 それは正直なところ、ジュンにとって完全にではないものの未知の分野だった。当然ながら似たようなフィギュア類の実物は見たことがない。人形の服飾類はいくつも作ったことはあるが、それはドールだったりぬいぐるみだったりしていて、キャラクターフィギュアのようなものは対象外だった。
 いっそ見えない部分だから適当に作ってしまえばいい、と割り切ってしまえば簡単なのだが、それは彼の内心の何かが許さなかった。職人気質とでも言うのだろうか、納得できるまで徹底して作らなければ気が済まないのだ。
「材質なんて考えてる場合じゃなかったな……」
 人形が現れたときの真紅と水銀燈の遣り取りを思い出しても苦笑する余裕さえない。
 椅子の上の人形の髪を撫で、なかなか取り掛かれなくてごめんな、と小さく呟くと、ジュンはアイデアを得ようとパソコンに向き直った。
 部屋の入り口、ドアの陰から小さな黄色い姿がそれを見守っていたが、ジュンはその姿に気付くこともできなかった。

 金糸雀に似た小さな人形はトコトコとぎこちない動きで歩き、廊下の端で待っている二人の元に戻ってきた。
 その報告に何やら耳を傾けた後、金糸雀はふむふむと頷いてみせる。ジュンから貰って以来、金糸雀は「ピチカート二号かしら」といたくお気に入りで、ちょっとした「偵察」に人形をよく使っていた。
 もっとも、人形の外見はピチカート二号というよりはミニ金糸雀と呼ぶ方が相応しいのだが、そこのところは気にならないのか、敢えて自分の名前を避けているのかは分からない。
「確かにちょっと重症かしら。スランプってやつね」
「うー……」
 雛苺は眉を八の字にして、一生懸命にどうしようか考えているらしい。それは金糸雀からは泣き出す数秒前の顔にしか見えなかったが、案に相違して雛苺は涙を見せずに頑張っていた。
「胴体って難しいのね」
 ぽんぽんと自分のお腹の部分を叩く。
「おへそとかあるからかな?」
「おへそは……うーん、あんまり関係ないかしら」
 金糸雀は動きが止まった人形を拾い上げ、胸の下辺りを指差した。
「球体関節のドールは、普通は二分割で作ってあるの。鳩尾──この辺で上下に分けるのね」
「うん」
 雛苺はこくこくと頷いた。金糸雀は人形の足をひょいと持ち上げる。
「球体関節なら脚の付け根がよく曲がるから──この子はただのソフビ人形だからいい具合に曲がらないかしら──ポーズ取らせるだけなら二分割で十分なのよ。みっちゃんのドール達も二分割や分割なしだけど、股関節の球体関節がしっかり動けば大抵のポーズは取れるかしら」
 雛苺は自分の鳩尾のあたりを手で押さえ、はっと顔を上げる。
「あ! でも、あの子は新しいお腹付けたら、二つも関節があるのよ。三分割なのよ」
「そう! そこが大問題かしら。三分割した人形の胴体を壊しちゃうと後からはとても作りにくいの」
 金糸雀はびしっと人形の下腹部を指差した。
「普通は三分割にはしないのね。人間のお腹は柔らかいし背骨も多関節だから、確かに三分割の方が動きの再現性は高いんだけど、実際問題として二分割だと股関節から鳩尾まで綺麗に作れるし、鳩尾のところで球体関節を入れればほとんど人間と同じポーズができるから」
 そして、少し声を落として続ける。
「私達姉妹の中でも、お腹が完全に別パーツなのは水銀燈だけかしら」
「水銀燈は三分割なのー?」
 知らなかったのー、と雛苺は目を見張った。金糸雀はこくりと頷いた。
「水銀燈はいろいろと特殊なの。違う点は他にもいろいろあるけど……お父様が初めて自分で傑作と認めたドールだから、仕上がりはとても美しいわ。他の姉妹と同じに見えるでしょ」
「うん」
 水銀燈おっかないけど綺麗なのよ、と雛苺は無邪気に言う。それを見て金糸雀は何故か言葉に詰まったような素振りを見せたが、すぐに、ええっと、と唇に指を当てた。
「つい脱線してしまったかしら……そうそうそれでね、後から胴体を作るのは大変なのよ」
 金糸雀は人形の胸の辺りと腰の辺りを人差し指と中指で指し示した。
「胴体が壊れると、大体この間がなくなってしまうことになるのね」
 雛苺が自分の体を触ってみたりしてうんうんと頷くのを待って、金糸雀は話を続ける。
「この部分の細さとか、長さとか、お腹の張り具合なんかは、『大人の』フィギュアの美しさの何割かを占める大事な部分なの。特に、あの子みたいなセクシャルボディの子は、お腹が不出来だと全体のバランスが崩れてしまうかしら」
「ほぇー」
 何故か力説し始めた金糸雀に、雛苺は丸い瞳を瞬いた。微妙な反応に気付くこともなく金糸雀は脇腹と背筋とくびれの大切さを語り、ドールと男性向けフィギュアの違いはそこにあると言ってもいい、とまで言った。
「ジュンは今、そこで壁にぶち当たっちゃってるかしら。他の人の作ったところにパーツを組み入れる形だから、自分の美的感覚とボディを作った人の美的感覚も違うだろうし、前途多難かしら」
「ふーん……」
 雛苺は暫く考えていたが、不意にもやもやの晴れた表情になった。
「いいこと思いついたの! 水銀燈に頼んで、お腹のふくせいを作ればいいのよ。水銀燈も『水銀燈』も三分割なんだから」
 ね? ね? と小首を傾げて金糸雀の顔を覗き込むが、今度は逆に金糸雀の方が難しい表情になってしまう。
「それはちょっと無理かしら……」
「なんでー? 水銀燈なら背丈もおんなじくらいだし、少しちょうせいすればきっと合うのよ」
「確かに削ったり盛ったりすれば寸法はどうにかできるけど、そう簡単な問題じゃないかしら」
 金糸雀は手に持った人形の胴体の部分を軽く指で突ついた。
「水銀燈は確かにパーツ分割は同じだけど、基本は少女体型なのね。ぶっちゃけカナ達と同じ、言わばズン胴ってやつかしら」
 でもあの子はモデル体型っていうかフィギュア体型なの、と金糸雀はお手上げといった素振りをする。
「同じ大きさだからってぬいぐるみの胴体をドールにくっつけたら、みっともないおでぶちゃんになっちゃうでしょ? それと同じことかしら」
 大分大袈裟な喩えではあるが、それだけに雛苺にもよく分かったようだ。
「あぅ……」
 雛苺は困り顔になり、ジュンの部屋の方を見遣った。部屋からは何の物音も聞こえてこないが、多分今もジュンはパソコンと向き合って手懸りを模索しているのだろう。
「まあ、手は無いこともないかしら」
 金糸雀はにっこりと、取って置きの腹案があると言いたそうな笑みを浮かべる。
「ここはカナにお任せかしら!」


「……ってカナはゆーんだけど、ヒナは心配なのよ。カナ、たまに『どじっこぞくせい』が出ちゃってカラ回りするから」
 苺大福をもしゃもしゃと食べながら、雛苺は珍しくませた口ぶりで、ジュンというよりは金糸雀の方を心配しているようだった。
 雛苺に手元の大福を取られ、あーあ、といかにも残念そうな情けない声を出した水銀燈の媒介の少年は、雛苺の隣に座って口の周りについたあんこを拭いてやっている柏葉巴に視線を向けた。
「どんなアテがあるんだろ?」
「さあ……」
 巴は微笑みながら小首を傾げる。夕暮れの公園のベンチに座った巴は少し大人びて見え、柏葉ってこんな顔もできるんだなぁ、と少年は妙な感慨を抱いた。
 少年が巴の表情を見たことがあるのはほとんど学校の中だけだから、その感想は当然とも言える。巴のこの笑顔は雛苺の世話をしているとき以外は殆ど見せないものだった。
 こんな場所で三人が顔を揃えるのは偶然もいいところだった。「ぽすとにお手紙を預けに行った」雛苺を部活帰りの巴が見つけて抱き上げ、そこに買出しに来た少年が通りがかったのだった。なにやら確率を操作されているのではないかとさえ思えるような偶然だった。
「カナはね、マスターがたくさんお人形持ってるって言ってたの」
 そんな少年の感慨には気付きもせず、雛苺は話を続ける。
 金糸雀のマスターの草笛みつはドール好きが昂じて今の仕事に鞍替えしたほどで、部屋には大小さまざまのドールが飾られている。金糸雀がドールについて詳しかったのも、以前から人形のボディに興味があったからというわけではなく、マスターの人形を実際にポージングさせたり着替えさせたりと、みつの助手のようなことをやってみた経験から来たものだった。
 雛苺はそこまで詳しいことを知っているわけではなかったが、金糸雀が任せろと胸を張ったのはそういうことだろうと見当を付けていた。それなりに長い付き合いではあるのだ。
「でも、フィギュアまで持ってんのかなー」
「それはわかんないのよ」
 そこが心配だと言いたそうに雛苺は巴を見上げ、巴は元気付けるようにまた微笑んだ。雛苺はその表情を見てにっこり笑い、安心したように巴の胸に頬ずりする。
 微笑ましい二人の世界を眺めて、少年は思ったままをつい口にしてしまう。

「……お母さんって感じだなぁ」

「ふゅ?」
 こちらを向いた雛苺の口に、割った板チョコのひと欠けを押し付ける。雛苺は疑問符を浮かべたような表情のまま、取り敢えずそれを口に入れ、頬の中で転がした。
「いや、柏葉が雛苺のさ。なんか、雰囲気ってゆーのか、そんな感じ」
「えっ……」
 巴は雛苺の口の周りを拭いていた手を止め、ぱちぱちと瞬いてから一拍置いて頬を薄く染める。雛苺は溶けかかったチョコを喉を鳴らせて飲み込んだ。
「トモエがヒナのママ?」
 無邪気そのものの表情で巴を見上げる。巴はますます赤くなったが、何も言わず雛苺を抱き締めた。雛苺は嬉しそうに笑ってまた巴に頬ずりする。ひとしきりそうしていた後、雛苺はもぞもぞと体を動かして少年に向き直った。
「じゃあね、じゃあね、パパは?」
 明らかに一つの答えを待っている言葉だった。少年は間髪入れずに、期待どおりの答えを返した。

「そりゃあ、桜田に決まってるじゃん」

 わーい、と喜ぶ雛苺と、自分の言ったことの意味を把握しているのかどうか、傍目からは判断できない少年の顔を交互に見比べながら、困惑を絵に描いたような巴の顔は西の空の夕焼けよりも赤く染まっていった。


4

「ええええええええっ、そんなぁぁぁぁぁ」

 日曜の朝の桜田家の応接間に、女性の悲鳴に近い叫びが木霊する。
 実際のところ、それだけならばほぼ毎日のことだ。のりか翠星石か雛苺、あるいは遊びに来た金糸雀。稀には真紅のこともあるが、今日のところはその誰でもないというのが珍しいところだった。
 叫んでいるのは草笛みつ。金糸雀の契約者であり、ドールに対する知識や熱量といったものは、恐らくこの時代に限らず数多の契約者達の中でも最右翼に位置するだろう。
 なにしろ、自分でドールの本体を自作する以外のことは一通りやってしまうだけの熱意があり、その熱意のために仕事も変え、そして将来はドール服のショップを開くという夢さえ持っているのだ。もちろん日本でそういった店を開くことがどれだけ経営的に難しいかは分かっているはずなのだが、それでも夢に向かって突き進んでいる。
 ただ、熱意が昂じて些か猪突猛進が過ぎるきらいはあり、そして、空回りする率もあまり低くはないようだった。

 今日の悲鳴の原因も空回りに近いが、そう言い切ってしまうのは気の毒なところもあった。
「それじゃあ、もう出来上がりってことかしら……」
 ややオーバーに肩を落としているみつの代わりに、金糸雀が恐る恐る尋ねる。あまりの急転直下のしょげっぷりにジュンも気の毒に思うというよりはやや引き気味になっていたが、うん、と小さく頷いた。
「まだこれからが長そうだけど、原型はだいたい出来上がった」
 今朝早くなんだけどさ、と言う口ぶりも幾分歯切れが悪い。
「のり……姉ちゃんも協力するって言ってくれたんだけどさ……」
 どういう種類の協力かはさて置くが、結局ジュンはそれを真っ赤になって断った。のりは非常に残念がっていたが、それもさて置く。天然と言うべきかブラコンと言うべきか、微妙なところだった。
 行き詰まっていたのを解決したのは昨日巴が持ち込んだ、数体の有名メーカー製のフィギュアだった。
 アニメ好きのクラスメートから借り出してきたというそれらは、数年前深夜に放映していたアニメのフィギュアだという話だった。まさに「大きな男の子向け、二次元キャラ立体化フィギュア」と言うべき出来上がりの代物で、真紅に言うところによると凄腕の職人の作品とのことだが、翠星石に言わせれば、チビ人間にはまだ早いです、という品物らしい。
 ともあれ、そのうちの一つがどことなく胴のない人形に似た面影を持っていたこともあって、ジュンは一晩を丸々費やして一気に紙粘土製の原型を粗方完成させてしまっていた。あとは粘土の乾燥を待って球体関節となる部分と接合し、上下のパーツと擦り合わせをすれば原型の完成ということになる。
「──なるほどね。今はどこに置いてあるのかしら」
「僕の部屋。まだスチロール型も外れてないけど」
 その言葉に反応したように、みつはがばっと身を乗り出した。
「ねえ、それ、見せてもらってもいいかな? あ、ううん、文句付けるとか偉そうに指導したいって訳じゃないの。その人形とかジュン君の作った胴体とか凄く興味があるのよ。それからねこれが本命なんだけど──」
「み、みっちゃん、ジュンが引いてるかしら。取り敢えず一旦座るかしら」
 金糸雀は慌ててみつの裾を引っ張った。みつははっと気が付いて座りなおす。
「ごめんなさいね、つい興奮しちゃって」
 てへっ、と舌を出してみせるみつに、ジュンは顔を引き攣らせないように努力しながらこくこくと頷いた。

──なんか、今までで一番凄いのが来たな。

 翠星石といきなり取っ組み合いを始めた水銀燈の媒介もなかなかインパクトが強かったが、彼は一応クラスメートだったこともあってそれなりに馴染みがないでもなかった。しかし今回は全く見ず知らずの女性だし、その上さっきは自己紹介もまともに終わらないうちに真紅と翠星石を両手に抱きしめて頬ずりを始めたのだ。
 巻く・巻かないの話から、自分達がどうやって薔薇乙女を「お迎え」したかというような話をしている間はノーマルだったものの、これでまた暴走しかけた訳だ。やはりこの人は情熱を増幅して少し外れたところにぶち当てる特技でも持っているのではないか、とジュンは半ば嘆息するような気分で考えた。

「凄い……凄いわ。神の子を見つけちゃった……」
 ジュンの部屋で、周囲の視線を全く気に留める風も無く、みつは完全に舞い上がっていた。視線は、何気なく壁際のハンガーに掛けられているドレスに釘付けになっている。
「天使。悪魔的天使……。今回のドルフェス出展作のテーマに合わせたとしか思えないわッ。蟲惑的でありなおかつ冷笑的、神にも刃向かう凛とした雰囲気を持ちながら少女の愛苦しさを生かす大胆なデザイン……! 神様神様、年始参りくらいしかやってないけど神様、貴方は私に自らの子を遣わしてくださったの? これも日頃の行い? 毎年お賽銭けちらずに払ってるから? 今年の運勢凶だったのは超クールだと思ってたけどもしかしてツンデレだった? それともこれは貧しい少年が死の間際に見たルーヴェンスの絵画ってこと? いいえまだ私死ねない、到底死ねないわせっかくこんな素晴らしい才能にめぐり合えたっていうのに! あああパトラッシュ私まだ全っ然眠くないから! だから連れて行かないでおじいさんのところには貴方一人じゃなくて一匹で行って明日の朝の牛乳配達は私が全部やっとくからあの牛乳缶クソ重いけど!」
 明らかに天国でなく何処か異次元に行ってしまいそうなみつの雰囲気に、部屋に入りかけた翠星石達はその場で固まってしまった。部屋の中ではジュンが必死に何か言っていたが、一言言うたびに相手のテンションがいちいち上下していくので辟易しているようだった。
「……なんかいろいろとネジがぶっ飛んでやがるです」
「ああなっちゃったらみっちゃんは誰にも止められないかしら……ネジっていえば、初めて巻かれたとき、最初に感じたのは火傷しそうなほっぺの熱だった……」
「カナ、あいと、あいとーなの」
「うう……かえって切なくなってしまったかしら……」
 ぐす、と鼻を鳴らす金糸雀の脇で、真紅は一人冷静な表情だった。
「貴女達」
 部屋の中の喧騒に視線を遣らずに真紅は言った。
「こちらはこちらで話があるの。行きましょう」
 三人は一瞬虚を衝かれたようにぽかんとしたが、顔を見合わせてから揃って頷いた。

「ま、まさかこんなにボッタクリ価格なんて……」
「由々しき問題かしら……」
 真紅が示した金額を見て、金糸雀と翠星石はこわばってしまった。
「じゅうにまんえんって?」
 雛苺は実感が湧かない様子で、指を唇に当てて小首を傾げる。
「少ない月のみっちゃんの家賃引いた手取りに匹敵するかしら……」
 金糸雀は引き攣った顔を隠そうともしない。みつの場合、その手取りが多かろうと少なかろうと惜しげもなくドール関係に注ぎ込んでしまうことの方がより一層の問題なのだが。
「うー、ますますわかんないのよ」
「お前の好物不死家の苺大福十二個入りを百箱買える値段ですよ。お子ちゃまには過ぎた買い物ですぅ」
 翠星石は言い捨て、早速数え切れないほどの苺大福に囲まれた想像を始めたらしい雛苺をさし置いて真紅に視線を戻した。
「ボッタなのは分かったですが、どうするつもりです? ドールにゃ百円だって稼げねーですよ」
「そうね……でも、なんとかしなければ。言い出したのは私なのだから」
 真紅は珍しく落ち込んだ表情で考え込んでしまった。ふむ、と翠星石は腕を組み、真紅が持ってきた紙を見遣る。
「確かにこれは、なんとかしないとですねぇ。額がでかいってことは、水銀燈やアホ人間にも大変だってことですし」
 ウェブページをそのまま印刷した紙には「フルオーダーワンオフ/ドライカーボンパーツ 60,000円~ /1点」というところに赤いマーカーで大きく丸が付けられていた。先日家に来た巴に真紅がこっそり頼んでプリントアウトしてもらった、カーボンパーツ専門店の価格表だった。
 胴部のパーツが容易に一体整形できないことは水銀燈から聞いていた。どう繋ぐかは別問題として、二つ以上のパーツ分割が必要らしい。塑像みたいには行かないのよ、と水銀燈が肩を竦めていたことを思い出す。
「私達にはアルバイトはできないし、何か作って売るしかないかしら」
「あ、ヒナいいこと思いついたのよ。翠星石が手作りクッキー作って売るのよ。薔薇乙女特製クッキーなのよ」
 おお、と他の三人がその素晴らしい提案に乗りかけたとき、後方から無慈悲な声が響いた。
「クッキー何枚必要だと思ってんだよ……無理だって」
 ぎくりとして振り向くと、そこにはジュンとみつが並んで立っていた。
「い、いつから聞いてたのかしら」
「『少ない月の……』からかなー?」
 みつが少し強張った顔で言う。
「ごめんねカナ、みっちゃんの手取りが少ないばっかりに……」
「み、みみみみっちゃんごめんなさいかしら! 泣かないでー!」
 思わず駆け寄った金糸雀をみつはひょいと抱き上げる。
「捕獲成功! ああんもうカナったら可愛いんだからぁ。そんなに想ってもらえるなんてみっちゃん幸せ……!」
 言い終わらないうちに、おろしがねで大根おろしを作るような勢いで頬ずりを始める。
「み、みっちゃんほっぺが、ほっぺが摩擦熱でぅぇぇぇぇ!」
 ちょっとした地獄絵図だ、とその場の他の四人は思った。

「十二万円ねぇ……」
 客間に戻り、漸く冷静になって話を聞いたみつは、形の良い顎に指を当てて暫く考えていた。それは金策の方法というよりも、具体的な金額の予測をしている風にも見えた。
「まだ、それと決まったわけではないのだけれど……難題なのだわ」
 真紅は居心地が良くないような風情で斜め下を向いた。みつはその姿とジュンを交互に眺め、ふふ、と笑った。
「多分大丈夫よ。アテがあるの」
 全員の視線がみつに集まる。みつはにっこりと、艶然と言ってもいいような笑みを浮かべた。
「ええ、みっちゃんにどーんと任せちゃって。これでも社会人ウン年目なのよ。だから、ジュンジュン」
「え、その呼称で固定なのかよ」
 抗議は当然のように聞き流し、みつはジュンにびしっと指を突きつける。
「さっきの話、よろしくね♪」
「……なんでそうなるんだよっ」
 口を尖らせながらも、ジュンは嫌だとは言わなかった。


 膝の上に真紅を抱いて、ジュンは刺繍の針を動かしている。
「……白薔薇ね」
「ああ……生地が水色だから」
 あれから暫く打ち合わせという名目の雑談をして、みつは帰っていった。
「あの話、引き受けるの?」
「……ああ」
 あの話、というのはみつが持ち込んできた、ドール服を作ってほしいという依頼だった。ドルフェスというドール関係の即売会に合わせてデザインしているドール服がなかなか思うように行かないらしい。ジュンの作った人形用のドレスを見たみつはえらい熱の上がりようだった。絶対悪いことにはならないからチャレンジしてみて、と迫られるとジュンとしても首を横に振るわけにもいかなかった。
「みっちゃんの作ったドレス、大したことないなんて言っちゃったけどさ」
 ジュンは下絵もなしに、手早く美しい薔薇の花弁を仕上げていく。真紅は半ばうっとりとそれに見入っていた。
「仕事の合間にコツコツやってるんじゃ、一ヶ月に一着くらいだろうな……値段も原価ぎりぎりだって言うし、好きじゃなきゃやってられないかも……」
 真紅は刺繍針が動いている辺りの布を押さえてぴんと張らせた。
「あ、指危ないぞ」
「……ふふ」
 真紅の笑いに、ジュンはくすぐったいような感覚を覚える。
「どうしたんだよ」
「成長したわね、ジュン」
「……は?」
 一瞬だけ、手が止まる。だが、ジュンはすぐに口を尖らせた。
「呪い人形に言われたくないな、そんなこと」
「──そうね」
 真紅は漸く手をどけた。
「私達人形に成長はない。本来、何かに突き動かされているだけ」
「なに言って……」

「あなたはどう思うかしらジュン、薇が錆びて朽ちるまで、アリスゲームに生きること。
 人が眠るように、呼吸するように、あるいは心臓の鼓動のように、それが私達の──薔薇乙女に本来求められた、自然であり必然なのだとしたら──」

 遠くを見るような瞳で、真紅は独語するように言った。
「どうって……」
 ジュンは手を止め、暫く次の言葉を探していたが、やがて刺繍を再開した。
「どうしたんだよ。なんかみっちゃんに感化されたりしたんじゃないだろうな」
「──ふふ」
 そうかもしれないわね、と真紅はまた柔らかく微笑んだ。
「……おいおい」
 正面から真紅を見ていたら、その表情に僅かに寂しさと羨望のようなものが混じっていることに気付けたかもしれない。だが、ジュンの視線からは真紅のヘッドドレスと自分の手元しか見えていなかった。
 ジュンの溜息がヘッドドレスをかすかに揺らす。真紅は目を閉じ、ジュンに体を預けるようにした。
「ねえ、ジュン」
「ん……」
「貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも」
 そっとトレーナーの裾をつまんでみる。
「いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……」
 きゅ、と少しだけつまんだ手に力を込める。
「私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて」
「……ん」
 ジュンは不明瞭に返事をして、やや間を置いてから、なに大袈裟なこと言ってんだか、とわざとらしい溜息をついてみせた。
「飛び立つとか何言ってんだよ。僕には無理だ。なにしろ自他共に認めるヒキコモリだし。だけど……」
 また刺繍の手を止める。だいぶ続きを言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お前達こそ……ゲームが終わって……アリスになっても、僕のことを忘れるなよ。そ、そりゃ、ヒッキーで取り柄も何もないかもしれないけど、お前達のこと三人も纏めて面倒看てやってるんだからな」
「忘れないわ。貴方は魔法の指を持った神業級の職人。そんな人間のことを忘れるはずがないもの」
 真紅は即答した。
「それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──」
 それから口の中で不明瞭に何か続きを呟いた。
「え?」
「──なんでもないわ。ドレスのアイデア出しの邪魔をしてしまったわね。静かにするから続けて」
「……うん」
 真紅はトレーナーの裾を掴んだまま、眼を開けて刺繍が出来ていくのを見守った。
 静かな部屋の中に、ジュンの息遣いと針の進む音だけが僅かに聞こえていた。


5

 水銀燈は宵っ張りで朝に強くない。特に最近は媒介の夢に入り込んでいることもあって、ほとんど昼夜逆転とも言える生活になっていた。
 あまりいい生活習慣と言えないのは分かっている。だが、鞄に入る時間はきちんと取っているし、特段疲労がたまってきているわけでもない。
 それでも自分の夢の中で、知識として知ってはいるが出会うはずのない人物と会話してしまうほどには疲れているのかもしれない。それがごく普通の夢のありようなのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「また君かね」
 長身の男はうんざりしたような素振りで水銀燈を見る。またこの夢か、と水銀燈は舌打ちしたい気分でそっぽを向いた。
「ええ、どういうわけかしらね」
 そこは人形工房だった。小綺麗に整頓されているのに、山のように失敗作のパーツが積まれたままになっている。普通はありえない光景だった。これだけまめに掃除されている仕事場なら、そういうものは誰かが片付けてしまっているはずだ。
「何度来られても、私の人形はそう簡単に完成しないし、もうお披露目先は決まっているんだ。この次の作品までね」
「いいのよ。ここにこうして私がやってくること自体に意味があるのでしょう、きっと」
「それもそろそろ聞き飽きた」
 そう言いながらも、男はいつものように椅子を勧める。水銀燈も素直にそれに座る。そうすると、男は水銀燈に気兼ねすることなく作業を始めるのだ。
「今日もまた、荒唐無稽な話を聴かせてくれるのかね」
 作業台に向いたまま、男は溜息をつくような声で言う。水銀燈はせせら笑った。男が本当はその話を楽しみにしているのは見え見えなのだ。
「気が向いたらね」
 とは言うものの、話さなかったことはない。水銀燈もその話をするのを日課の一つにしているのだった。日課と言ってもあくまで夢の中での話だが。
 暫くの間、男の使う鑿と鑢の音だけが響いていた。
 水銀燈はこの音の出所を知っている。媒介の見たアニメ作品でもなければ、それやら漫画を基に彼が膨らませた想像でもない。自分自身の記憶だ。
 遠い遠い、それでいていつも近い記憶。工房の中で姉妹達が作られて行くのを、水銀燈はこうして椅子に座って見ていた。椅子の上で様々な話を聞いて、様々な受け答えをした。
 ときには椅子を降りて様々にねだりもした。だが、ねだったモノが与えられることはいつもなかった。父親は優しくはあったが、工房の中ではそのときの仕事が最優先だった。
 水銀燈もそれを知っていながらねだるのだった。ほんの少しの間でいいから人形を作っている手を休めて自分の方を振り向いてほしくて。
「その微笑ましい話の娘がまた何故、そんな真っ黒な服を着せられたのかね。ご丁寧に逆十字まで標されて」
 珍しく、男は水銀燈のことを尋ねてきた。所詮自分の明晰夢だ、とあまり関心も無かったので気に留めていなかったが、案外これが初めてかもしれない。
「さあ、何故かしらね」
「はぐらかすのは良くないな」
「はぐらかしているのは貴方のほうでしょう。其処に掛かったドレスと、其処に座った人形が答えよ」
 水銀燈は作業台の上の人形を「座っている」と表現した。実際には、人形には下半身がなかった。
「容姿と服装が似ているからといって、意図するところが同じとは限らん。私には私の、君の父上には君の父上の、それぞれの思惑がある」
 くっ、くっ、くっと男の肩がわずかに震える。笑っているようだった。
「それとも君は、あの出来そこないの作り掛けと自分を同一視しているのかね。あんな、あんな」
 くくくく、と笑いが大きくなる。
「どうしようもない、がらくたと」
 水銀燈は肩を竦める。
「似たようなものでしょ、どちらも。完成に漕ぎ着けたかどうかは別として、所詮は失敗作に過ぎなかった」
「完成したかどうかは重要だと思うがね。それはまだ、失敗作にすらなれていない」
 男は背を向けたまま、持っていた鑿で人形を指し示した。
「作り上げていないからね。完成に近いところまで行ったが作業を放棄した、言わばジャンクの塊の一つに過ぎない」
 そうしてまた、くくく、と笑い、作業を続ける。
「放棄したにしては、随分と未練があるじゃないの。ドレスはこれ見よがしに飾ってあるし、人形自体はがらくたの山に埋もれさせるでもなく、そうして座らせて置いてある。確か名前もついていたわよね。やはり失敗作と見るべきではなくて?」
「私は『まだ、失敗作にすらなれていない』と言ったのだよ。確かにこの時点ではあれはがらくたに過ぎん。そして結果としても、がらくたの域を出なかった。動力源も無しに自ら動き出しただけあって力だけは人一倍あったものの、私の最高傑作に終に及ばなかった。その力を見込んで、後から動力源まで与えてやったのにな」
 まあ、その最高傑作も、結局のところ弟子の作ったドールに敗れたわけだが、と男はさも残念そうに言った。
「結局あれのしたことは、『ローゼンメイデン』の一人をゲームから退場させ、一人を最後の場面で守ったことくらいか。後者は結果的には無意味な行動だったが。まあ、見方を変えれば与えたモノの対価くらいは支払ったとも言えるだろう」
「あれだけ暴れれば十二分に支払ったと言えるでしょうね」
 水銀燈は人形に視線を向けた。灰白色の髪の人形は動き出す素振りも見せない。
「むしろ貴方の思惑が、『アリスゲーム』という名の下に自分の娘達を殺し合わせる退廃的な娯楽にあったのなら、その人形はどの『ローゼンメイデン』よりも貴方のお眼鏡に適う働きをしたのではなくて? だとしたら、むしろ私と姉妹達なんか足許にも及ばない大成功作よ」
「はは、それは面白い」
 男は鑿を置き、ぱちぱちと手を叩いた。その仕草は誰かによく似ていた。
「だが残念なことに、その人形はがらくたなのだ。今も、そしてこの時点から見た未来においても」
「そうかしら」
「そうなのだよ。何故ならあれは、完璧な少女たり得ない。なにしろ当初は姉妹のうちに数え入れられず、あまつさえ体さえも作り掛けのままなのだから」
「口ではそんなことを言っても、最後の最後で貴方はその人形に対する今までの扱いを見直したのではないの? 復活させるときボディを作ってやったでしょう? まさかお忘れかしら」
「ああそうとも。ご褒美さ。がらくたにしてはよくやったことに対するご褒美。そして新たな、腕力にものを言わせない戦いに挑ませるためのアメ、でもある。実に哀れなものじゃないかね、物理的な力が必要なくなってから物理的な欠損を補ってもらうというのは」
 男の背中がく、く、とまた震えるのを見て、水銀燈はやれやれと肩を竦めた。
「……悪役を気取るなら止めはしないけど、結局のところは薔薇水晶とかいうドールとの戦いの後、貴方はその人形に対しても他の『ローゼンメイデン』と同じスタートラインに立たせることに決めたわけでしょう。だとすれば、その人形はやはりがらくたで終わったわけではないわ。
 むしろ、貴方はその人形をがらくたから失敗作さえ越えて他の姉妹達と同じ場所にまで引き上げるために、『ラプラスの魔』や自分の弟子までも巻き込んで、現実時間で百何十年も掛けて延々と回りくどいことをやってのけたと言っても過言ではないわね」
 男は黙りこんだ。鑿の音も鑢の音も止まっていた。
「貴方は死んでもそれを認めることはないでしょうけど、貴方達の紡いだ物語は全て、貴方がその人形の立場や状態を他の姉妹達と同じくするための布石だった。言い換えれば他人にも自分にも素直になれない貴方の、その人形に対する不器用な想いの軌跡。そんなふうに見ることも出来なくはないわ」
 かけがえのない自分の作品を二体も犠牲にしてね、と水銀燈はかすかな羨望を交えて言葉を終えた。
 男は黙ってまた作業を始めた。背中が震えているのを除けば、それは会話を始める前と何等変わらない光景だった。

 暫くは、鑿と鑢の音しかその場にはなかった。やがて、男はぽつりと言った。
「君は自分を失敗作だと言い切っている」
 水銀燈は無言で男の背中から視線を逸らし、人形を見た。人形はぴくりとも動かない。水銀燈の夢の中なのだから動き出してもよさそうなものだが、動き出したとしてもそれは現実世界に引き出されて胴部の補修を待っている人形そのものではない。水銀燈の夢の中にある虚像だ。
「それは正しい認識だろうか?」
「……少なくとも私はアリスではなかった。その意味では間違いなく、私は不完全で失敗作よ」
「はぐらかすのは良くないな」
 男は先程と同じ台詞を口に出した。水銀燈は言い返さずに男を見遣った。
「数日前から思っていた。君は自分が他の姉妹より劣っている、だから遮二無二ローザミスティカを集めなければ、姉妹には勝てないと言いたいのではないかと」
 手を止めずに男はぽつぽつと喋った。
「そして様々に類推してみた。黒い翼と服を纏わせられたからなのか。最初に作られたからなのか。契約についての特異性か。それとも、そのボディに欠陥があると思っているのか」
 水銀燈はちらりと人形を横目で見た。相変わらず人形は動く気配すら見せない。
「部分的にはどれも当たっているだろう? そして、君の懸念事項は恐らく、言ってしまえば当然ながらある意味で正しい。君に不完全な部分、他の姉妹より劣っている部分は確実に存在する」
「……でしょうね」
 素直な声音で水銀燈は答えた。男は向こうを向いたまま軽く首を縦に振った。
「君は紛れもなく、不完全な失敗作だ。だが……」
 男は椅子を引き、できたばかりのパーツを取り上げて木屑を払った。水銀燈の冷静な部分が軽い驚きを感じる。アイホールも開けられていなかったが、それは、彼女の目にはドールの顔部分のように見えた。
「まさか、顔が木彫とはね」
「これは手慰みだよ。本物は粘土で作り、窯で硬く焼き上げる」
 言いながら、彼は人形に歩み寄り、そのうつろな顔面に仮面のように木彫の顔を押し当てた。そして、手早く人形の髪をツインテールに纏め、前髪を梳いた上で、懐から出した赤いボンネット調のヘッドドレスを器用に被せる。
「さあ。何に見えるね?」
 言われるまでもなかった。髪の色は違い、その長さも、末端のカールも無かったが、そこには即製の真紅がいた。
「君の、他の姉妹達との違いなど、私に言わせればこんなものだ。Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
 君と、君の五人の姉妹達は全て、言ってしまえば私の作った『真紅』以外のドール達のようなものだ。それぞれ欠けたところがあり、ユニークな部分もある。全てが失敗作であり、彼にとっての最高傑作だ。君の言うとおりだな。
 君のお父上とて全能ではないだろうから、付与された能力の種類によって、結果として優劣は付いてしまったかもしれないがね。まあ、そんなものは些細なことだ」
 男は手際良く人形の頭を元に戻した。再び人形は水銀燈に似た顔に戻り、何事も無かったようにそこに止まっている。

「第二ドール金糸雀。彼女の性格は人懐こく明るく、しかし才気走ったものとされた。そして、容易にめげない克己心を根底に持つ。
 小柄で腕力には劣るものの、人工精霊の手助けを得てある程度空中を浮遊でき、音を使った技も持たされた。
 マスターへの依存度は小さいが、性格的にマスターを大切に思うようになることが多かっただろう。
 ローザミスティカへの執着はそれほど大きくないが、目的意識は高い」
 相変わらず背を向けたまま、男は歌うように言った。
「今日は厭に多弁なのね」
 水銀燈は苦笑した。
「やめるかね?」
「いいえ。その調子で全員分お願いするわ」
 男は軽く頷いた。
「そこまでの二人は、言わば個で全てを網羅しようとしたのだろう。どちらも完成度は高かったが、完璧とは言えなかった。そこで彼は考える。ある程度の完成度を持った二人に、お互いの不足を補わせれば良いのではないか。一人では無理でも、二人なら高みに到達できるのではないか。
 そうして作られたのが庭師の双子だった。
 一方は前向きで猪突猛進、臆病な面も見せるが好奇心が旺盛。他方は思い遣りに富み慎重だが容易に曲がらない信念を持ち、いざとなれば冷徹果断になれる。そして、二人とも感受性は強かった。
 技においても二人は表裏一体となった。そして他の姉妹には無い大きな力──他人の心をある程度操れるという能力を付加することで、更に『何か』を獲得させようとしたのかもしれない」
「何か、とは?」
「私は彼ではないから、その点は分からない。私が私の作った姉妹に持たせた能力は、極めてシンプルだから。
 即物的なパワー、音波を操るパワー、心を操るパワー。それらのいずれかを動力源の欠片一つ一つに込めただけだ。だから、私の娘達は他の動力源を奪えばそのパワーも振るえるようになった訳だが。
 君の父上はそれを人工精霊に与えたり、逆に人工精霊を増幅器としてのみ行使させたりしている。結果は同じだが、そこに至る過程は異質過ぎて推測しかできない」
「ふむ」
 水銀燈はちらりと腕時計を確認するような仕草をした。
「続けて頂戴」
「そのようにかなり大胆な作りをしたのだが、しかし、これは失敗だった。双子は性格付けの強さと二人一組という行動形態、そして何よりあまりにも平仄の合うお互いを持ったゆえに、強く依存し合うようになってしまった。高みに到達する、どころの話ではなくなったわけだ。
 彼はここで初心に帰ることにした。つまり、次のドールは今までの姉妹達の経験を踏まえて、その時点での全てを込めて正攻法で作ったのだ」
 水銀燈は溜息をついた。
「それが真紅」
「そう。高潔で思慮深く、知識欲旺盛だが慎重で、固い信念を持つが他者を思い遣る心も併せ持ち、技に依存することのないよう特異な能力を持たないが、その代わりに物の時間を巻き戻せる時計という重要な品物を持つ」
「でも、彼女も至高の存在には届かなかった」
「それら要素を全て併せ持った結果、彼女はとっつきにくく頭でっかちで、こと物理的な能力においてはか弱い存在となってしまった。後年、ローザミスティカを巡るゲームでは他に弱い立場の姉妹がいない限り繰り返し真っ先に狙われるような。性格付けそのものも厳し過ぎたのだろうが、彼としては気付いていなかったのだろう、作っている間は」
「それでも、彼女は選ばれたわよ、マエストロのパートナーとして」
「さあ、それも私には分からない方面の話だ。私の真紅は確かに桜田少年を『選んだ』が、これは選ぶ側が逆だからな。君の妹が本当に、君の言うように契約者のパートナーとして選ばれたのなら、それは私には理解できない世界の話ということだ」
 男はちらりと水銀燈を振り向き、水銀燈は肩を竦めた。
「事ここに至り、彼は自分にほぼ絶望してしまう。結局自分の思う至高の存在など、自らの手では作り出せないのではないかと。神ならぬ自分の想像力や創作力には限界があり、理想を具現化しようとしてもどこかしら届かないのではないかと。
 そして、次の娘には、敢えて彼が避け続けてきた要素だけを盛り込んだ」
「純真無垢、天衣無縫……」
「そして、未完成。雛苺はある意味で他の姉妹とは反対の手法で作られた。その人形としてのボディ以外は。
 だが、そうしてできあがったのはどこにでもいる素直で可愛い子供に過ぎなかった。至極当然だがね。言わば成長することに全てを託したのだから、成長する前の段階で完成しているはずがない」

「結果として、君達は全て何等かの欠陥を抱えたが、それは能力的な不均一という意味でなく、どちらかと言えば性格的なあれこれだった」
 男の言葉に憐れむような響きが幾らか混じった。
 その憐れみが自分達に向けられたものでないことは、水銀燈にはよく分かっていた。
 彼は自分の娘達にやや不均等な能力を与えた。そしてそれは、自分達よりも物理的な力に優り、幾らか戦闘的な、そして動力源を集めれば集めるほど強くなれる彼女達にとっては致命的な格差でもあった。
「よく分かる話だけど、まだ総括には早いのではなくて? 貴方は五人分しか考察を話してないわよ」
「ああ済まない、君の分が未だだったな。だが分かってほしい、私にとって金糸雀から雛苺までの五人は、自分の作品でもあるのだ」
 水銀燈は鼻を鳴らし、素直じゃないこと、と足を組みなおした。
「どこまでも水銀燈はがらくただと言い張りたいわけね」
「それはイエスでもあり、ノーでもあるが、君の話とは無関係だろう」
 男は作業台に道具を置き、水銀燈に向き直った。
「さっきも言ったとおり、君は他の姉妹とさして変わらない。強いて言えば、君と真紅だけにしかない特徴はあるが」
「そのときの実力を注ぎ切った、ということ?」
 男は頷いた。
「君は薔薇乙女として最初の作品だけに、彼は持てるものを全て注ぎ込んだ。仕上がりの美しさを犠牲にして人間に近い動きに拘った腰部と胸部の二重の胴関節こそ、胸部関節の適切化で金糸雀以降は使わなくなったが、君に初めて使い、その後の姉妹達に使いつづけた技法は数多い。むしろほぼ全ての技術は君で既に完成されていたのだ」
「言わばテストベッド。試作品ということね」
 水銀燈の皮肉な言葉に男は渋い顔をする。
「君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
 君のコンセプトは、天使だった。誇り高く自分を貫く意思の強さを持ち、高く羽ばたける翼を身につけている。自分の内面は誰にも見せず、誰かのために一途に生きて行く。無駄なことに脇目を振ることもなく、愚直なまでにまっすぐに」
「誰かに言わせれば『馬車馬みたい』だけどね。全く上手いことを言ったものだわ」
 水銀燈は今では自分の記憶の中にだけある言葉を思い返していた。言ったのは決して好きにはなれなかったが、嫌いにもならなかった人物だった。まだ数ヶ月と経っていないのに遥か昔のことのような気がする一方で、まるで今も薄汚れた作業着姿のまま肩を竦めながら、何か手を出すでもなくこの場をただ眺めているようにも思える。
「君には契約者との繋がりはさほど重要ではなかった。それは、君が個として完成していたからだ。
 他の姉妹達は契約者がいなければ力を振るえないが、その理由は簡単だ。奇形的に性格付けされた彼女達は、傍に人の想いがなければ暴走しかねない。何があっても人から遠ざからないように、彼は言わば保険として契約という行動の制限を設けた。考えてみたまえ──」
 男はほぼ完成しているドールを棚から下ろし、机に横たわらせた。
「君を作り始めたときの彼は、それこそ永年の想いを結晶化させていたはずだ。それこそローザミスティカを生成しようとした頃からの、彼本来の理想だ。その理想には──あくまでその時点までは、だが──揺るぎ無いものがあった。それが苦し紛れの迷走を始めるのは、君を作った後のことだ」
「それは取りも直さず、私が失敗作だったからということでしょう」
「否定する訳ではないが、私が言いたいのはそこではない」
 男は苦笑した。
「少なくとも君は、思いつきやその場のひらめきで作られた代物ではないということだ」
 言葉にもひどい苦味があるように、男の顔は次第に歪んでいった。自分の身に照らして、自分の作品のうちのいずれかに思いを馳せてしまったのだろうか。
 顔を強張らせながら、男は続ける。
「結果的に彼の力が、彼自身が求める水準に及ばなかったとはいえ、君は確固たるコンセプトに沿って作られた。だから君には音を操ったり心を強制的に動かすような奇妙で特殊な力はない。ただ、羽を自在に操ることができるだけだ──これは、ある程度原点に立ち返って作られた真紅も同じだな。彼女は強くあれとすら求められなかったから、能力はより限定されているが」
 水銀燈は眉根を寄せたが、何も言わずに続きを促すような素振りをした。男は苦い顔を隠そうともせず、これで終わりだ、と素っ気無く言った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃない。言っただろう、私から見れば君と他の姉妹の違いなどそんなものだと。

 ──そして、そこの人形は君『達』と根本的に違うのだと」

 男は斜め下に視線を落とし、溜息を一つついてまた机に向き直った。作業を再開しようとしたが暫くして道具を乱暴に置き、抽斗から何かを取り出して抛りつけるように机の上に転がすと頭を抱えた。それは不規則にゆっくりと転がって行くと、机の端から床に落ちた。木と木のぶつかる音がして、それは水銀燈の足許まで転がってきた。

「ああ、ああ、そうだとも。素型を作っているうちから分かっていたさ、その人形が何か異常な力を持ってしまったことくらいは!
 だから私は完成させることを躊躇した。出来上がったが最後、あれは私の手を離れて勝手に動き出すだろう。そして究極の少女どころか悪魔に、神に刃向かうものにすらなりかねない。
 しかし、簡単に打ち棄てることもできなかった。そうするには、あれが作り上げる前から独り手に自我を得たという事実はあまりに魅力的だったのだ。究極の少女となるのに必要なリソースの一つ足り得るのではないか、と思えてしまうほどに」

 水銀燈は立ち上がり、転がり落ちたものを拾い上げた。微妙なラインで構成され、上下に半球状の丸みを付けたそれは、人形の胴のパーツだった。
「ドレスに標された逆十字はそのせいなのね」
 自分の胴とはあまり似ていないそのパーツをためつすがめつしながら、水銀燈は尋ねるというよりは確認する口調で言った。
「仮に完成させていたとしても、悪役扱いは免れなかったということかしら。どう転んでも不幸の種にしかなり得ないじゃないの、その人形は。いっそ後顧の憂いを断つためにも壊してしまえば良かったのに」
「そこであっさりと自分の命題を解く鍵になりそうなものを壊せるような果断で執着心のない人間が、膨大な時間を注いでローザミスティカなどという如何わしい物を作り、自分の作品に埋め込もうなどと考えるはずがないだろう。いや、少なくとも私には壊せなかった。そして」
「ずるずると、それが勝手に動き出した後も見て見ぬ振りを続け、七体目までを完成させて『アリスゲーム』が始まった後もまだ未完成のままとしていた。その認識が変わるのは、貴方の最愛の娘が人形に情けを掛けたから?」
「それもある。だが、あれが言った言葉が引き金だった。『ローゼンメイデン第一ドール』と、あれは名乗ったのだ。
 個々の仕上がりだけで『アリス』を目指していた頃ならば、戯言を言っているだけだと思っただろう。だが、私は動力源の最後のひとかけらに剣のイメージを宿してあれに渡した。
 力ずくで動力源の欠片を奪い合う試練を課したからには、あれにも相応の使い道が出来たのだ。動力源も力を与えてくれる者もなしに平然と動き回れるのだから、あれに動力源の一片を渡してお前も『ローゼンメイデン』だと言ってやれば、絶好の敵役になれるのだ。事実、そうなった」
 水銀燈はパーツを机に置き、人形を見遣った。
「それだけではないでしょう。今更貴方に認めろとまでは言わないけど、人形に対する愛着も当然あったはず。けれども自分の内心を認めたくない貴方は、パーツを作り付けないまま動力源だけを与えた。中途半端な形とは言ってもその人形にも至高の少女になれるチャンスを与えたのは、何か言い訳をしない限り自分の心に嘘を吐けなかったということよ」
 男は黙り込んだ。水銀燈は暫くそのまま待っていたが、やがて元の椅子に戻って腰掛け、足を組んだ。
「貴方が最終的に自分の気持ちに素直になるには、貴方の娘達が弟子の人形一体に全滅させられること、その弟子の人形が見せた純粋な想い、そして無力なはずの一人の契約者が貴方に問い掛ける言葉が必要だった。
 自分が作ったものが自分を慕うくらいの生半可な働きかけ──」
「──そうだ。彼女達からどれだけ愛されようと、私の中で何かが変わることなど有り得ない。娘達が碌に話を交わしたこともない私を慕うのは当然だろう。そういう風に性格付けされているかもしれないのだから。私自身が無意識のうちにそうしていない保証など、何処にもない」
 男は早口で、水銀燈の言葉に被せるように言う。水銀燈は目を閉じ、希代の錬金術師にして人形師がとことん自分を信じられない性格とは皮肉なものね、と呟いてから続けた。

「でも、貴方は気付いた。貴方がドールに与えた全ての能力よりも、力の源とした不可思議なクリスタルよりも強く働くものがあり、それは存在を知らなかった新奇なものでも全く見落としていたファクターでもなく、ただ単に重要視しなかっただけのありふれたモノだと。

 それは、ヒトの手によって作られ、魂を持ったモノが自ら持つ『想い』。

 貴方の想いを一身に受けて作られたその人形は、貴方が異様な未知の力だと勘違いするほど強い想いを持った。動力源を持たずとも勝手に動き出すほどに。
 娘達が貴方を慕ったのも、貴方が製作時に与えた特性ではなくて、自らの想いの発露に過ぎなかった。
 そして、本来貴方の作った娘達の動力源を体内に取り込めば壊れてしまうような、弟子の作った脆弱なはずの人形が、ほんの一時にしろそれを行使までして貴方の最高傑作を打ち破ったのも、弟子と人形のお互いの想いの結果だった。
 それを知ったからこそ、貴方は自分の宣言したルールを破らないぎりぎりの形で貴方の娘達を修復し、動力源の欠片を与えなおした。さり気なくその人形も含めて、ね」

「根本的に間違っていたのだ。
 究極の少女など限られた特質の中で優劣を競わせて決めるものではない。むしろ長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない」

 男は頭を抱えていた手を伸ばし、水銀燈が置いた胴のパーツを手に取ると机に肘を突いて両手でくるくるとそれを回した。
「そこに気が付くまでに何百年と掛かるとは、私は何処まで頑迷だったことか。より良い何かを生み出すために練成と変化が必要だということは、動力源を生成する過程でよく分かっていたというのに」
「そうねぇ。でも」
 水銀燈はふっと微笑んだ。
「間違った道を行き止まるまで我武者羅に突き進んだのも、自分の感情に気付かない振りをして遠回りをしてしまったのも、とても……人間らしい。到底賢明とは言えないけど、少なくとも懸命ではあった。
 私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないわよ。愛すべき性格とはお世辞にも言えないけどね。
 何を考えているか分からないほど超然としていて、全てを予測してシナリオを組み上げている存在より余程『生きている』もの」
 男は手を止め、水銀燈を眺めて苦笑した。
「それは……君の父上のことかね」
 さあ、どうかしら、と水銀燈が言うと、男は苦笑を微笑みに変えた。
「君が抱いているのは幻想かもしれないぞ。少なくとも私と彼には──異なる世界の同一人物だ、というのは置いておいても──手法や技術が異質であるとはいえ、それほどの差があるとは思えない。例えば、あれがそうだ」
 水銀燈は男が指した方を見遣り、訝しげに瞬いた。
「その人形と私は似ても似つかない。そう言ったのは貴方じゃなかったかしら」
「そうだとも」
 男は頷いた。
「確かに君とは外見と名前、そして第一ドールという点くらいしか共通点はない。だが、あれに相当するものはいるだろう。生まれたときから異質で、まるで悪役と定められて生まれてきたようなドールが」
 水銀燈は体を何かが走り抜けたような気がした。
「……末妹が、そうだと言うの」
「ああ。彼女こそは私にとってのあれに相当する特異なドールだ」
「仮にあれをドールと呼ぶのなら、という感じだけどね」
 なにしろ物理的な本体さえない。魂だけの存在。どのように製作されたのか、そもそもどうやったらそのようなモノを製作できるのかさえ明らかでない謎のドール、それが雪華綺晶……

──どうやって製作されたか不明……?

「共通点はだいたい理解できたようだね」
 水銀燈の内心を見透かしたように、男は続ける。
「彼の『手』で作られたものでなく、彼のイデアが『生んだ』モノだとしたらどうだ。ここまでの文脈に沿って、想い、と言い換えてもいい。まるで、あれの自我と同じじゃないか」
「……屁理屈だけど、そういう見方もできなくもないわね」
 それに、雪華綺晶が取っ掛かりを作り、水銀燈の媒介の記憶の世界の中で信じられないほど急速に自我を持つまでに成長したあの人形とも同じだ、と水銀燈は微かな良心の痛みと共に考える。
「そして、私があれを『アリスゲーム』の悪役駒として活用したような泥縄式の遣り方でこそなかったが、彼もまたアリスゲームにおける雪華綺晶を独特な立場として設定した」
 男は口の端を吊り上げた、やや偽悪的な笑みを浮かべた。
 水銀燈は黙って男の顔を見詰めた。男の笑いがまた自虐的な、あるいは自嘲的なものに変わるのではと思ったのだが、どういうわけかその気配はまるでなかった。

 水銀燈は左の手首を軽く押さえた。
「雪華綺晶が独特な立場というのは理解できるわよ、多少は末妹のありようを知っているから。誰かから押し付けられた知識だけじゃなしに、実際に危うい目に遭わされたこともある、という意味でね。もっとも出会ったのはそれきりだけど。
 でも、雪華綺晶の特殊な立ち位置というのは存在の異質さに起因しているんじゃなくて? 何かしら後付けの特殊な立場が有り得るのかしら」
 男はくくく、と笑った。ちらりと見ただけで不快になるような厭な笑いだった。
「君には分からんのだろうな、と予想していたが、そのとおりだったな」
 そう言ってから笑いを引っ込め、感情を見せない表情で淡々と続ける。
「偶然生まれてしまったモノと呻吟と試行錯誤の末に生まれたモノという違いはさておき、私と彼のそれらに対しての処置には共通する点がある。それは、手に入れたモノを最大限自分の目的のために活用したことだ。
 生まれてしまった雪華綺晶を見た彼が、私のように『とんでもないモノが宿ってしまった』と思ったのか『遂に実体のないドールの製作に成功した』と喜んだかは知らん。だが少なくともそれが自分の思い描くアリスでないことは即座に理解したはずだ。
 恐らく、彼はそこからいくらの時間も経たぬ内にアリスゲームを始めることを決意した。あれが純粋に私を慕っていたように、君の末妹もまた純粋に彼を慕っていたのだろう。だから、彼女の特性も織り込んでアリスゲームの『汚れ役』をやらせるには丁度良かった」
「分からないわね。悪役だったら私にやらせておけば良いようなものでしょう。なにも現実世界に出て来れない、不利な立場の雪華綺晶に悪役をさせる必要はないでしょうに」
「もし悪役が必要なら君を選んだだろう──極端な性格付けをされていないために最も個として安定していて、特殊な力こそ持たないが戦いとなれば手強い、それに尽きせぬ不安と不信を何処かに抱えている。確かに都合がいい──だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ」
 男は無感動な視線を人形に向けた。

「ゲームを長期間に亙り遂行する上で、どうしても必要だが厄介な廃棄物と化してしまうものがある。それが契約者だ。
 契約を終生のものとした場合、各々の契約者が寿命を終えるまで待っていたら、いつまでもゲームは進まない。また、死に際の契約者を抱えた薔薇乙女はそれだけでゲームの遂行上多大なハンデを背負うことになる。よって、契約は薔薇乙女の側から随意に破棄できるものとしなければならない。
 ところがそうなると、今度は使い終わった契約者が問題になる。薔薇乙女の側から一方的に契約を破棄されれば、精神的な依存が強ければ強かったほど残された契約者は不安定になる。
 最悪の場合は何等かの経路を通じて薔薇乙女の存在を妄りに広めてしまうかもしれない。方法は書籍の執筆、その手のコミュニティへの参加、放送媒体への露出など、幾らでも考えられる。そうなれば、いずれ薔薇乙女自身やらローザミスティカを目当てに暗躍する者も出てくるだろう。
 中には特異な能力を持つ者もいるとはいえ、物理的には薔薇乙女達は大きなお人形に過ぎない。それなりのコミュニティが血眼になって捜索し、手段を選ばずに獲ようと思えば、いずれかの時代の何処かで必ず捕獲されてしまう。そうなればもうアリスゲームどころの話ではない。
 ただ、薔薇乙女に強く依存している契約者だけでも、その場面の全ての契約が終わり、薔薇乙女が眠りに就いた後に隠密裏に始末してしまえば、そういった情報の漏洩は最小限に抑えられるのではないか。つまり──」

 何かを抗議しかけた水銀燈を男は手で制した。
「──雪華綺晶に求められた役割は悪役などではない。むしろ君達姉妹の尻拭いと言った方が良かろう。彼女に期待されたのは、ゲーム環境の維持だ。つまり、君達の名を過度に広めず、同時に、特に君以外の姉妹達が契約を解いた後まで以前の契約者達のことを心残りとして必要以上に引き摺らないように」
 水銀燈は悪寒を感じたように身震いした。
「素養のある者の意識を自分の領域に引き込んで死ぬまで離さない、雪華綺晶にとっては自分の存在を維持するために欠くことの出来ない捕食行為。ゲームのためにそれを利用した、いえ、むしろそういうふうに雪華綺晶を作ったと言いたいわけ?」
 いくらなんでもそれは、と言いかけて、水銀燈は思いとどまった。

──雪華綺晶だけではないかもしれない。

 以前、訝しく思ったことが何度かある。
 他の姉妹がやたらと強調する契約者との繋がり、それは自分にとっては殆ど理解できないほど強いものらしい。ならば、果たして契約の終わった後、時代を超える眠りから目覚めるときまでに、それまでのしがらみをすっかり捨て去ることなどできるのか、と。
 自分だったら、到底忘れることなどできそうもない。
 契約者との繋がりが薄いらしい自分でさえ、最初に契約した人物のことを未だに覚えている。流石に今でこそ懐かしさと寂しさに心を食い荒らされるようなことはなくなったものの、最初の頃は苦労したものだ。
 その経験があったからこそ、それからは契約を交わしても馴れ馴れしくすることはなくなった。煩わしいと思えば契約を結ばずに媒介として利用するだけに留めてしまうこともあったし、それはそれで気楽にやれた。
 今回の相手もそのはずだった。最初に契約を拒まれれば鞄置き場としての役目と薇を巻く役目だけ押し付ける予定だった──実際にはこれまでにないほど振り回されている訳だが。
 自分ですらこのとおりなのだ。自分よりも感受性が強く契約者との繋がりも深いらしい他の姉妹ともなれば、下手をすれば以前の契約者のことをトラウマとして持ち続けるはずではないのか、と。
 しかし、どの時代で出会ったどの姉妹からも、その折々の契約者に対しての愛情やら共感は感じられるものの、それ以前の契約者に対する未練は全く感知できなかった。それは、今の時代においても全く同じだ。記憶そのものが消えている訳でないのは分かるが、少なくとも精神的な依存は綺麗さっぱり無くしてしまっている。
 それでいて以前からの記憶はそのまま保持しているのだから、不可解だった。
 その不可解さは媒介から得た知識でも深まるばかりだった。雛苺は前の契約者との別れのことを半ばトラウマのように覚えているらしいが、他の姉妹は以前の契約者のことを思い出すような素振りも殆ど見せない。
 彼女達は今までの経験を、それを得たときの情景とは全く切り離して蓄積しているのだろうか、と首を傾げたくなるようなこともあった。それにしては、例えば真紅は猫を苦手にしている理由を以前の契約者と結び付けているらしい。謎だった。
 結局、そのときは分からずじまいだった。どうにもすっきりしないまま、その問題を放り出さざるを得なかった。
 後になって媒介から得た知識も、その問題を解決するための役には立たなかった。そこは彼が死ぬまでに読んだ範囲の漫画でも語られていなかった部分なのだ。

──しかし、「後から振り返ることのないように作られている」としたら。

 ゲームの遂行のため後付けで設定されたか、それとも作られたときから刷り込まれているのかは分からない。しかしどちらにしても、彼女達の造物主は、彼女達に器と魂と性格、才能、技までを与えたのだ。そこに更なる細工を組み込むことができないはずはない。
 例えば鞄の中で次の時代を待つ間に、前の契約者への依存やら愛情を「懐かしい記憶」に変え、依存の対象を次の契約者へとすんなりと移動できるように作っておく、あるいは刷り込んでおくというような細工は造作も無いだろう。つまり──

「ああ、君の考えていることが概ね分かるというのは良いのか悪いのか、微妙なものだな」
 男は口の端を皮肉に歪めた。
「自分の娘達全員に問い掛けられ、詰られている気分になる。
 ま、それはこちらの事情だが、私の言いたいことは君の考えていることと恐らく殆ど同じだ。つまるところ、君達姉妹は全員、ゲーム遂行のために何等かの──ローザミスティカに対する渇望のようなもの以外にも、ゲーム進行に関する──心理的な後付けの制約を掛けられている。つまりは、ゲームを遂行してアリスに成るためにある程度最適化された、言わばゲームのための駒なのだ」
 水銀燈は何かを言いかけたが思い直して途中でやめ、続けて、と先を促した。
「君の末の妹は実体を持たない。強固な自己イメージで真っ白なドレスを身に着けたアンティークドールという姿を保持しているが、実際はボディを持ったことのない、ただの幻影のようなものだ。彼女に関しては何かしら他とは違った方向性でゲームに参加させる必要があった。
 ただ、それが彼女にとって有利だからといって、例えばnのフィールドの中では姉妹の誰にでも化けて襲撃するというようなありきたりな行動をさせてはいけない。糧となる人間を手当たり次第に確保させてもいけない。そういった見境のない行動は短期的には有効でも、いずれ彼女の意識を拡散させ、消滅させるか、ただの捕食衝動の塊に変化させてしまうだろう。自分の傑作、薔薇乙女である限りは誇り高くなくてはならない。
 彼女に他の姉妹の契約者だった者を選択して糧として確保させることで、これらはそれなりに上手く解決できるわけだ」
 なるほどね、と水銀燈は首を振り、頬杖をついた。

「彼女は厭でもゲームのことを覚えていなければならないし、一旦ゲームが動き出せば関わらざるを得ない。
 他の姉妹のマスターだった人間を騙し、糧とするために長期間もっともらしい夢を見せ続けることは、直接繋がっていないながらも現実世界の動向を注視する必要と、マスター達の精神に触れる機会を生む、ということね。良く出来ているわ」

「流石に理詰めでゲームシステムを構築するだけのことはある。確かに良く出来てはいた」
 男は皮肉な顔のまま頷いた。
「だが、大きな見落としも同時にしていた。それは、雪華綺晶の心情というものについて殆ど考えなかったことだ」
 そこのところが私と彼の最大の共通点だろうな、と男は肩を震わせて笑った。
「長丁場のゲームの遂行にあたり、半永久的な無機のボディを持つ六体は孤独とは無縁だ。人との出会い、別れはあるが、他の五人のうち一人は必ずどこかにいる。人工精霊も話し相手にはなる。更にその場その場では契約者が彼女達を愛している」
「雪華綺晶には誰もいない、という訳でもないでしょう。元マスター達が必ず自分の世界に──」
 言いかけて水銀燈は息を呑んだ。いや、違う。彼女が確保している契約者達は、当然のごとく自分達に都合のいい夢の中だ。その意識の中に雪華綺晶は当然存在していない。彼女はあたかもどこか無人の場所で、カタログを見て注文して配達されてきた物言わぬ人形に囲まれて生活しているようなものだった。
 しかも、悪いことに雪華綺晶は常時それらの世話──目覚めることを忘れているほど楽しい、あるいは美しい夢を見せ続け、夢が悪い方に転がり出したらそれを修正したり──をしなければならないはずだ。
 長く世話をすればするほど彼女の養分にはなるかもしれない。だが、その分手間は多くなる。投げ出せば自分が飢える可能性が出てくる。なにしろ、次いつ新しい糧が得られるかは、完全にあなた任せなのだから。
 そして、彼等は自分に都合のいい夢の中に居るに過ぎない。絶対に雪華綺晶そのものを愛してはくれない。それはおろか、存在そのものも感知し得ないし、させてはいけないのだ。
「──更に、彼女には時代をまたぐための眠りすら許されない。ひたすら糧を啜り、時を待つしかない。もっとも彼の考えでは、それがゲームへの執着と自己認識の強化を生起するものと思えたのかもしれないが」
 男は力なく首を振った。
「彼の思惑通りには行かなかったのだろう。『僅か』ここ百数十年の間に、雪華綺晶は疲弊してしまった。そしてアリスに対して独自の解釈を持つに至った」
「要は狂ったわけね」
 水銀燈は彼女らしい割り切った言葉で切り捨てた。
「そこの人形と同じように、自分の欠損部分とゲームの目的を重ね合わせてしまった、ということでしょう。もっとも、アリスになることで欠けた部分を埋める、そのためにゲームを遂行しているのは皆一緒かもしれないけど」
 そういうことだ、と男は溜息をついた。
「まあ、私も彼も、他と異質なモノの本質に対して深く掘り下げて考えるよりは、その特質をどれだけ自分の目的に活用できるかを優先した。そこは多分変わらない、ということだ。そして、恐らく──」
 言い切る前に、男は振り向いた。そして、そこに居た者を見て微笑んだ。

「──来たわね」
 水銀燈は立ち上がり、人工精霊を呼んだ。メイメイは待ってましたとばかりがらくたの山の中から飛び出た。掬い上げるような軌道で勢い良くカーブを描くと水銀燈の頭くらいの高さで急ブレーキをかけ、彼女の隣に控える。
「随分長いこと様子見していたものね、雪華綺晶」
 言いながら水銀燈は左の手首に絡んだ細い白茨を掴み、引き千切った。ぶつりと音を立てて切れた茨から、早くも透明な樹液が垂れる。色は着いていなかったが、彼女にはそれが何故か血のように見えた。
 雪華綺晶は無言で工房の隅に立ち尽くしている。どこか虚ろな表情は、以前遭ったときの雰囲気とはまるで異なっていた。
 あまりの違いに水銀燈がやや面食らったように次の行動を起こすのを躊躇っていると、雪華綺晶は視線だけを彼女に向け、体のどこも動かさぬまま、茨の太い束を二本、男に向かわせた。
 男は抵抗する素振りもなければ何か言うでもなく、案山子のように立ったままで左右から包むように押し寄せた茨に巻かれた。
「どうするつもり?」
「糧にいたしますわ」
 雪華綺晶は虚ろな表情のまま、口だけを動かして答えた。水銀燈は眉をしかめた。
「錯乱しているの? 悪いけど、その男は間違っても糧にできるようなモノじゃないわよ」
「糧にできなければ潰してさしあげます。いいえ、いいえ、錯乱などしてはおりませんわ黒薔薇さま。ただ──」
 茨の伸びていない、一つだけの開いた眼から、つうっと一筋の涙が流れた。
「当たらずとも遠からずな推論を語られ、改めて悲しくて寂しい気持ちになったのだろう? 雪華綺晶」
 男が低い声で語り掛けたが、雪華綺晶は視線も向けなかった。返事の代わりに白茨が膨れ上がり、男の体は頭の先からつま先まで白茨の渦に飲み込まれてしまった。
 男を取り込んだ茨はまるで巨大な繭か卵のようにも見えた。だが次の瞬間、それは無残な形に萎んでしまった。
 茨が空しく元のように引き込まれると、その中に捕えていたはずの男の姿は何処にもなかった。繭に包まれた瞬間に忽然と消え失せてしまったようだった。
 嘆くように茨が退却していく間も、雪華綺晶の隻眼は水銀燈を固定されたように見つめていた。
 愛らしい口からぽつりと短い言葉がこぼれた。

「──もう、意地悪しないで」

 水銀燈は何も答えず、何か身振りをすることもなかった。
 二人は暫くそのまま無言で見詰め合っていたが、やがて雪華綺晶は二、三歩あとずさり、それからふっと消えた。自分の領域に移動したようだった。
「神出鬼没、か」
 水銀燈は呟いて、人形を見た。人形は最後まで微動だにしていなかった。ただ、どういうわけかその無機質な眼も今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「少し急がなければいけなくなってきたようね」
 誰にでもなくそう言うと、水銀燈は人形の目蓋をゆっくりと閉じさせ、今度ははっきりと人形に向かって言った。
「そんな顔しないで頂戴、広い意味ではみんな同じなのよ。私達は人形劇のマリオネットなのだから」
 ただ、それで終わりたくなくてこれ見よがしに足掻いてみせているか、そうでないかの違いだけだ。
 その違いが大きいか小さいかは水銀燈には分からない。しかしたとえ微細な差であっても、あるいはなにも変わらないとしても、自分は足掻くのを止めないだろうと彼女は思った。それなりの知識を得てしまったからには、それ以前のような真っ直ぐで純朴なアリスゲームのための歯車では居られないのだ。


6

「柏葉ぁ、おはよっ」
 少年が大きく手を振る。竹刀袋を肩に掛けた巴が大きな袋を持ちにくそうにしながらそちらを向くと、少年は慌てたように駆け寄って来た。
「ごめんな、朝練行く途中だってのに寄り道させて、おまけにでかい荷物持たせちゃって」
 片手で拝むような手真似をしながら、少年はにっと笑って袋を受け取り、ありがとな、と頭を下げてから少し心配そうな顔になった。
「ホントに役に立ったのかな? こんなんで。大きさ全然違うし」
「さあ……」
 巴は首を傾げたが、右手を口のところに持っていき、ほんのりと笑顔になった。
「でも桜田君はありがとうって言ってたわ。参考になったって」
「そっか、ならいいや」
 少年はうんうんと頷き、ちらりと袋の中を覗いた。
 袋の中身は何体かのキャラクターフィギュアだった。数年前深夜に放映していたアニメのヒロイン達の立体化ということだが、素人目にはあまりデザインに統一性があるようには思えない。
 強いて言えばどれもこれも露出度が高く、特に胸の下辺りから腰骨の上までは生身が露出している、いわゆるヘソ出しなところが共通点といえば共通点だった。
 言うまでもなく先日、巴がジュンの家に持ち込んだものだ。

 そのときも少年は巴に、でかいし重くて悪いんだけど、と片手で拝むような仕草をして、これを桜田のところに持ってって欲しいんだと袋を差し出したのだ。
 訝しく思っている巴に、少年は胴体のない人形の一件とジュンが胴体を作ることになった経緯をごく簡単に説明し、参考になるかと思ってアニメ好きの友人から借りてきたんだ、と袋を開けて中身を見せた。

──持ってくのは俺より柏葉の方がいいかと思ってさ。

 いつものように理由を言わずに少年は頭を下げてみせた。巴も特に理由を聞かずにこくりと頷いて引き受けた。
 巴がそういう人柄であったり、二人の間に以心伝心とかいう高等な事情があったわけではない。そこで理由を尋ねても、少年に納得の行く説明を求めることが無理だと分かっていたからだ。
 雛苺の言うところではごく最近、少年は昔の記憶を失ってしまい、そのために性格が変わってしまったらしいが、巴にはそうしたところが以前と特に変わったようには思えなかった。クラスメートになってからずっと、外から見る限りにおいては、少年はいつも理屈より感性を信じて動くタイプに見えていたのだ。
 もちろん変わったと思うところがないでもない。どこか世の中を皮肉に眺めていたような眼差しは好奇心が丸出しの素直なものに変わったし、謎のような苦笑は快活な笑いになった。だが、そうした変化でさえごく親しい何人か、そして彼をよほどじっと見つめていた者以外は気付いていないだろう。

「ところでさ、桜田のやつ今日のこと何か言ってなかった?」
 相変わらずのあっけらかんとした声に、巴は短い回想から引き戻された。
「今日?」
 何も言っていなかったけど、と巴が返事をすると、少年は斜め四十五度に首を傾け、眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、目の前の巴が怪訝な顔をしているのに気付いてごめんごめんと笑顔になった。
「そっかぁ。いやさ、今日はお出かけみたいなこと聞いてたから」
「お出かけ?」
 意外な言葉に思わず鸚鵡返しに尋ねると、うん、と少年は頷いてみせた。
「金糸雀のマスターが運転して、水銀燈がナビやって、みんなで例の人形の胴体作ってもらいに行くんだってさ」
「そうなんだ……」
 巴は思わず微笑んだ。車の中で大はしゃぎする翠星石と雛苺の姿が見えるようだった。
「柏葉は行かないのか……なんとなく関係者全員なのかなーとか思ってたんだけど。あ、でも朝練あるから当たり前か」
 あら、と巴は瞬いた。
「栃沢君も一緒に行くの?」
「俺? なんでさ」
 少年は驚いたように巴をまじまじと見、ひらひらと手を動かした。
「全然お声もかからなかったって。『ただの媒介』だもん、俺」
 ならばどうして自分が呼ばれると思ったのかと巴が尋ねると、少年は腕を組んで小首を傾げた。
「柏葉は雛苺の元マスターで、今でも雛苺が一番懐いてるじゃん。それに桜田も……」
 それは何かとても重大な勘違いをしている、と巴は赤くなって抗議したが、少年は大きな疑問符を頭の上に浮かべたような表情で首を捻るばかりで、話は上手い具合に噛み合わなかった。


 郊外の幹線道路で、みつはレンタカーを快適に走らせている。日曜日の午前中の道路は適当に空いていて、適当に混んでいた。
「すごいの、とっても速いのよ」
 雛苺は目を丸く見開いて後部座席の背もたれにしがみつき、後ろに流れ去って行く景色を、言わばかぶりつきで見詰めている。あまり外に出かけたことのない彼女には見るもの全てが新鮮で、驚きに満ちているようだった。
「いろんなお店がいっぱいあるのね……」
「後ろ向きで景色見てると三半規管がイカレちまうですよ。おとなしく前向いてやがれです」
 鞄に乗って街の中程度なら何度か行き来している翠星石は、何処で仕入れて来た知識か、最初だけはそんな風に少しばかり姉らしい注意をしてみせたが、雛苺が何あれと興味を示すとその都度隣に並んで指差す方を眺めては適当な答えを返している。
「RED BARONってなに?」
「それはですね……」
 ボソボソと翠星石が雛苺の耳元で何事かを囁くと、雛苺は愕然として首をぶんぶん振った。
「うう……赤男爵さん可哀想なのよ。そんなにじこぎせいしちゃ駄目なのよ」
「レッドバロンは中古バイク屋かしら……」
 流石に何度も似たような問答を繰り返しているせいか、ややうんざりした顔でおざなりな訂正をする金糸雀も、後ろを向いているうちの一人だった。
 彼女がうんざりしている理由は翠星石の出任せだけではなかった。
「ちゅうこばいく、というのは何なの」
「中古……他人が一度は所有したバイクってこと。バイクはわかるかしら?」
「教えて頂戴」
 意外にも通過していく事物に興味深々なのは真紅も同じだった。しかもその知識も雛苺と似たり寄ったりに過ぎない。
 魔法や錬金術、心理学や哲学関係の書籍は読み漁っているくせにニュース関係にはあまり興味が向かないらしい──そのくせワイドショーはよく見ている──彼女の知識はひどく偏っていた。唯一の常識人として相手をしている金糸雀としては、それこそ一般常識の基礎と言えそうなことも全て噛んで含めるようにして説明しなければならない。
 悪いことに、真紅は飛び飛びに知識は持っていて、しかもそれは正しかったり微妙に間違ったり、あるいは古かったりとごちゃ混ぜだった。そこを丁寧に説明すると「知っているのだわ」と不機嫌になったりいじけたりもする。金糸雀は延々と忍耐力を試されているような気分だった。
「──そのうちコンビニを役所とか言い出しかねないな、あいつ」
 助手席のジュンは振り返る気力もないとばかりに溜息をついた。真紅が頓珍漢なことを言い出すのか、翠星石が適当にそう言うのかは特定しなかった。両方有り得ると思ったのかもしれない。
「あの子が活動的になったら苦労しそうね」
 ジュンとみつの間で背もたれに寄り掛かりながら水銀燈はにやりとしてみせた。
「興味が人形劇と小難しい学問からどこか変な方にシフトしないように、一生傍についてて世話を焼いてやらないといけないかもね。ご愁傷様」
「勘弁してくれよ」
 一生呪い人形の世話を続けるなんてどんな笑えない未来だ、と言いながらも、ジュンの顔は満更でもなさそうだった。
「それよりさ、お前」
 ジュンは改めて水銀燈をしげしげと眺めた。
「──いいのか?」
「確かに少し眠いけど、吸血鬼じゃないんだから昼間に弱いって事はないわね。それとも金糸雀の契約者と二人きりが良かった?」
「ジュンジュンと二人きりねえ……それも悪くなかったかな」
 瞬間、みつの横顔が大人の女性らしい艶っぽさを見せる。ジュンはまじまじとそれを見詰めてしまい、かあっと顔を赤くした。
 しかしすぐにそれは過ぎ去り、みつはいつものフェティシストの顔に戻った。
「でもローゼンメイデン五人揃い踏みも実現させたかったのよねぇ。もう幸せで舞い上がっちゃうくらい……」
 みつはマニアが趣味の対象を見るときの目でバックミラーに視線を向ける。そこには色とりどり、四つのドールの後姿が仲良く並んでいた。
「なっ……そうじゃなくって。その、水銀燈は服装とか、そんなんでいいのかって」
 ジュンは赤い顔のまま、慌てたようにぶんぶんと手を振った。
 今日の水銀燈はいつもの凝ったドレス姿ではない。長袖のシャツにジーンズにスニーカー、頭には野球帽を被って度のない眼鏡まで掛けている。
 靴と眼鏡以外はのりが用意したジュンのお下がりだった。紛うことなく五歳児くらいの男の子用の服装なのだが、意外にもよく似合っている。やや脚が長いことと髪の毛が銀色に輝いていることを除けば、どこにでもいる子供だ。いや、白人の子供だと言ってしまえばそれも特に気にならないだろう。
「あまり気に入ったデザインじゃないし翼も広げられないけど、悪くはないわよ。機能的だし」
 一揃い媒介に揃えさせてもいいわね、と水銀燈は薄く笑った。
「ただ、学校や職場に制服があるように、製作者が作ったドレスは私達が私達であることを示すものでもある。無駄にプライドの高い薔薇乙女にとっては、普段からそれ以外の服を着て過ごすのはなかなか勇気が必要なのよ」
 それでもいいなら、と水銀燈は左右の二人を見比べるようにした。
「貴方達が思いの丈を込めてドレスを作ってもいいかもね。綺麗な服を贈ってもらって悪い気はしないはずだから」
 みつはそうよねそうよね、とうんうんと頷いてみせたが、ジュンは若干複雑な表情になってしまった。

──考えてみたら、あいつらに作るより先にあの水銀燈もどきの服作っちゃったことになるな……。

 しかも服を作る間と人形のボディに時間を取られている間、三人の相手もろくにしていなかった。この間みつが来た日の夜中、いつも九時には寝ているはずの真紅が彼の膝の上に乗って刺繍を見せてとせがんできたのも、寂しかったからかもしれない。
 これからはもっと一緒にいる時間を増やした方がいいのだろうか。確かに、例えば蒼星石は起きてから寝るまで結菱老人の傍にいるか家の庭の手入れをしているらしい。真面目な性格もあるのだろうが、そうしていることが幸せらしいと半ば呆れ顔で翠星石が言っていたのを思い出す。
 一方、水銀燈と契約者の関係はほとんど正反対だ。一日のうち二人が顔を合わせている時間は、水銀燈が少年の夢の世界に潜り込んでいる時間を合わせても多分数時間にも満たないはずだ。それでいて水銀燈が少年を蔑ろにしている訳でもないことは、それこそ毎日夢の世界に入ったり、そこにいた人形を危険だからと引きずり出して見せたことでもよく分かる。
 一方少年の方も、水銀燈にとってのアウェーであるはずの桜田宅に自分一人で乗り込んできた。少年自身は気付いているかどうか分からないが、あのときから水銀燈とその媒介の二人に対しての他のドール達の対応は大きく変わった。ばらばらに行動しているけれども、二人の繋がりが弱いようには思えない。
 ケースバイケースということなのかもしれないが、事実上三人の契約者の自分は誰を基準にして対応すればいいのだろうか、などと考え込んでいると、何時の間にか水銀燈の視線がこちらを向いていることに気づいた。
「必要以上に深く考えてもいい考えには辿り着けないこともあるわよ」
 水銀燈はジュンの気持ちを見透かしたように、若干意地の悪い笑みを浮かべた。
「貴方は慕われてる。そして慕ってるドール達も全くの子供って訳じゃないの。裏づけのないモノじゃないんだから、自分に自信を持つべきね」
 その言葉はジュンが黙り込んだ原因に対して誤解を含んだもののようにも思えたが、ジュンは素直にありがとうと答えた。
「それにしても、お前が僕のこと励ましてくれるなんて、ちょっと前には考えられなかったな」
「御生憎様」
 水銀燈は照れた風もなく肩を竦める。
「励ましが必要なら貴方の可愛いお姫様にやってもらいなさい。私が言ったのは掛け値なしに客観的な、貴方が気付こうとしていない現状。それ以上でも以下でもないわ」
 ジュンはふっと息をついた。
「はい、はい……」
「生返事ね、ま、どうでもいいことだけど」
 遣り取りだけは真紅との会話に似ている。しかしやはり水銀燈は水銀燈の言葉と雰囲気を持っていた。
 それが具体的にどういうものかは、まだ漠然としていて上手く説明できない。だが、真紅が持って回った表現で人を励ますのが得意でなく、ついぶっきらぼうな言い方になるか真摯に直截な表現で語ってしまうように、水銀燈も表に出てくる言葉ほどは冷徹な内心を抱えている訳ではないことは、何処となく分かったような気がした。


「じゃ、午後二時にこの先の駐車場で」
「分かったわ。みんなの世話はみっちゃんに任せといて♪」
 運転席で片目を瞑ってみせるみつに、車を降りたジュンと水銀燈は顔を見合わせた。その語尾の跳ね上がり方が一番気懸かりだと言いたいのは二人とも同じだったが、お願いしますと形だけは素直に揃って頭を下げた。
「頑張ってねジュン。水銀燈もバレないように気をつけるかしら」
「……余計なお世話よ、お馬鹿さん」
「むう、人がせっかく心配してあげてるのに。水銀燈ったらもう少しは感謝の心を持つべきかしら」
 口を尖らせる金糸雀の隣で、雛苺がぶんぶんと手を振る。
「こうしょう頑張ってなのよ。あいとあいとあいとー!」
「ヒッキーにゃいろんな意味で荷が重いでしょうが、精々頑張りやがれです」
 翠星石はジュンが重そうに持っている大きな鞄に視線を向けた。そこには胴のない人形と、それを完全なものにするための胴部の原型が収められている。
「その子を宜しくお願いするです、ジュン」
「──うん」
 ジュンは鞄を少し持ち上げてみせる。
 鞄の提供者は翠星石だった。段ボールで持って行けばいいとあっさり言う水銀燈にそれではあんまりだと抗議して、自分の鞄を貸し出すことにしたのだ。
 話の転びようによっては、もしかしたら翠星石は一週間以上鞄で寝られないかもしれない。だが、そうなったら大変だと思いはするものの彼女は鞄を貸し出すことを躊躇しなかった。彼女も彼女なりの遣り方で『水銀燈』のことを気に掛けているのだった。
「ジュン」
 真紅は後部座席の窓にしがみつき、目から上だけを出してジュンを見た。暫く、といってもほんの数秒だが、二人の視線が交錯し、真紅の顔が微かに笑みをたたえる。
「行ってらっしゃい、ジュン」
「……うん」
 真紅が何か続きを言いかけたとき、信号が青に変わった。みつは水銀燈に手を振り、車を発進させる。薔薇乙女達の身体はぐらりと揺れ、慣性で後部座席の背もたれに押し付けられたり座席の上に倒れこんだりした。
「感動のお別れシーンが台無しね」
 ぷっ、と水銀燈が吹き出す。
「みっちゃん、急発進しすぎじゃないのか?」
「それもあるし、自動車の動きに慣れてないのよ。金糸雀以外は初めてでしょうね」
 ふと水銀燈は目を閉じた。

 彼女が最後に自動車に乗ったのは、爆弾の雨は降らなくなったものの、まだ時折何処からともなく無人の飛行機や大型のロケット弾が降ってくる街の郊外だった。
 確かアメリカから大量に供与された四輪トラック、戦闘神経症で後送された当時の媒介が運転するそれのサスペンションは、今から思えばあまりにも旧式で、軍用としてはどうか分からないが、人間も運ぶ車としては最低限の機能しか持っていなかった。
 鞄の中に入っていても眠りに就けないほどに手ひどく揺さぶられながら、彼女は媒介の実家に運ばれ、そしてそれきり媒介と会うこともなく長い眠りに入った。
 仮に今生きていたとしても、彼は九十歳近いはずだ。今更会いたいとは思わない。だが、消息が全く気にならないと言えば嘘だった。
 結菱老人の一件の後、少年の目を盗むようにして試しに人名で検索を掛けてみたこともあったが、しかし、それらしい結果には行き当たらなかった。これといった特技や資産のない男だったから当然といえば当然だが、一抹の寂寥感が残ったことも事実だった。

「──行きましょうか」
 まだなんとなく不決断にレンタカーの走り去った方を眺めているジュンを、水銀燈は軽くつついて現実に引き戻した。
「……うん」
 ジュンはひとつ頷くと、水銀燈の後ろについて歩道を歩き出した。
 五歳児くらいの子供の背丈なのに、水銀燈の足はさほど遅くなかった。大股で迷いなく──まるで毎日通って知っている道のように──そのくせ軽やかに歩いていく。
 まるで羽を広げているようだ、とジュンは思った。実際には彼女の羽は今まで見たことのないほど小さく、近づいて見てもシャツの上からではほとんど存在が分からないほどに畳まれているのだが。
 対して、ジュンの足取りは軽くない。鞄は確かに大きく嵩張っているが、中身が軽いから見た目ほど重いわけではない。足を遅くしているのは別の要因だった。
 服は作ったことはあるが、人形のパーツは初めてなのだ。しかも他の部分を作ったのは自分ではないから、出来上がってしまえば自分の作った胴体部分が他の部分の作風と合わない可能性が大きい。それを、確実に一人以上の赤の他人の目に晒すことになる。
 あれは違う、と思いつつも、どうしても自分の描いたラフスケッチの顛末を思い出してしまう。黒板一杯の中傷の文字、その場の全員の蔑むような冷たい視線、嘔吐してしまった自分を見ても手を出そうとしないクラスメート達。
 額に汗が浮かぶ。しかし、歩みを止めるわけには行かなかった。こんなところで座り込んだらみんなは落胆するだろうし、前を歩いている子供の姿をした黒衣の人形には鼻で笑われてしまうだろう。それは癪だった。
 百メートルほどの距離を歩くと水銀燈は唐突に立ち止まった。振り返って大分遅れているジュンを見ても何か特別なことを言うでもなしに「ここよ」と素っ気無く到着を告げた。
 ジュンはガラス張りのショールームの中に並べられているスポーツバイクや大柄なスクーターを眺め、視線を上げて看板を確認し、それまでよりは幾分ましな歩調で水銀燈の前まで歩み寄った。
 水銀燈は帽子の下でにやりと笑い、両腕を大きく広げてジュンを見上げた。
「機械と油と熱と騒音の世界へようこそ、綺麗な世界のお坊ちゃん」
 ジュンは何度か瞬いた。水銀燈の姿が、何故か長身の男のように見えた気がしたからだ。


「良かったんですか真紅」
 後部座席に並んで座りながら、翠星石は真紅をちらりと見遣った。
「何の事かしら。ジュンのことなら心配要らないわ。水銀燈だって、まさかジュンを焼いて食べたりはしないでしょう」
 澄まして答える真紅に、翠星石は水銀燈のように肩を竦めてみせた。
「ジュンのことはいいんです。ホントは一緒に行きたかったんじゃないですか? ジュンと」
 真紅は翠星石の顔を見、それから視線を前に向けた。金糸雀と雛苺は助手席に移動してみつとはしゃいでいる。肝心の運転が気もそぞろなのは決して誉められることではないのだが、それは経験の乏しい彼女達にはあまりよく分からない種類の事柄だった。
「そうね、水銀燈の代わりになれるのだったら一緒に行ったでしょう」
 でもそれは貴女も同じではなくて? と真紅は翠星石の手に手を重ねる。
「水銀燈のように変装してしまえば、いいえ、貴女ならそのドレスのままでも可愛い女の子で通るわ」
「真紅だってそうじゃねーですか。現に、おじじの家からはみんなで歩いて帰ってきましたよね? あれでも騒がれることがなかったんですから。それにチビチビやチビカナだって平気で外に出てます。いくら小うるさい時代になったからって、その気にさえなりゃ、薔薇乙女には外を闊歩することなんて御茶の子さいさいなんです」
 それなのにどうして、と翠星石は真紅を見詰める。真紅は伏目がちになり、貴女も分かっているのでしょう、と呟くように答えた。
「ジュンは、一度は閉めてしまった扉を開く鍵を手に入れたの。それは偶然与えられたものかもしれないけれど、自分自身で使うべきものよ」
 それを私達が邪魔すべきではないわ、と真紅はちらりと翠星石を見、また前に視線を戻した。
「今日の水銀燈には役割がある。それはジュンの側の私達にはできない役目。代われるものなら代わりたいけれど……」
 翠星石の手に重ねられた真紅の手に、僅かばかり力が篭る。
「人は成長するわ。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。ジュンが重い扉を開こうとしているなら、私達はこちら側からそれを見守ることよ」
 それにね、と真紅は固い表情をやや崩した。
「一緒に行ったら、私はきっと嫉妬してしまうわ、水銀燈に」
 ちらりと翠星石の顔を見上げる。どうしてですか、と口には出さなかったが、翠星石の表情がそう尋ねていた。真紅はまた俯き、少しばかり照れたような、それでいて寂しいような顔で続けた。
「彼女にはその場での役割があるもの。でも、私にはなんの役割もない。ただの見物人に過ぎないの。それがきっと妬ましくなってしまう……」
 そうですか、と翠星石はこくりと頷いた。真紅がこんなにはっきりと弱気な部分を見せるのが少しだけ意外だった。

──真紅でも、他人に嫉妬したりすることはあるんですね。

 正直なところ、翠星石がジュンに同行しなかった理由の半分ほどは似たような理由だった。自分が居てもジュンにして上げられることがない、というシチュエーション自体が怖かった。
 今回の件は事務的なことについては水銀燈がいれば全て事足りてしまう。また、もしジュンが精神的にダメージを受けるようなことがあっても、今の水銀燈なら尻を叩いてでもその場は切り抜けさせてしまうだろう。未知の場所に同行してお邪魔者になるだけという図式は、真紅ほどプライドが高くない翠星石であってもやはり楽しいものではない。
 そして、真紅がもう一つ理由を持っているように、翠星石にもそれ以外の理由がある。それは、ついて行くなら真紅も一緒でなければ、という翠星石自身の拘りのようなものだった。
 何故そういう拘りを持ってしまったかについては、翠星石本人にも明確な答えは出せない。ただ漠然と、真紅が片腕を失っていた間自分が感じていたちょっとした疎外感とか、小さな嫉妬とか寂しさのようなものを、自分が味わわせたくはないという気分があるだけだ。
 だから、その部分については翠星石は心の中に仕舞って置くことにした。
「──翠星石も同じですよ」
 彼女は微笑み、真紅の手を取って指を絡み合わせ、助手席で元気一杯にしている二人を見遣った。
「さっきの難しい話は、今は置いておくです。でも、真紅がちょっとだけデレてくれて嬉しかったですよ」
 それは身勝手な思い込みかもしれない。しかしこの場はそういう納得の仕方をしておけばいい、と翠星石は思い、空いている方の手で真紅の肩を抱き寄せた。
「──翠星石?」
 驚いてこちらを見上げる真紅に、翠星石は少し意地の悪い──雛苺や金糸雀に見せるような──にやりとした笑みを見せた。
「いいから、たまにはジュン以外にも甘えるです。お姉ちゃんが抱き締めてやるですよ、このツンデレ妹」
 ひっひっひ、という笑いに真紅が身体を強張らせるのをぐいと抱き寄せ、翠星石は真紅の顔を自分の胸元に押し付けた。真紅がくぐもった声で何か言ったが、翠星石は気付かない振りをして目を閉じた。

 二人は全く気付かなかったが、運転席のみつはバックミラーでそれを確認し、金糸雀に左手の人差し指を立ててみせ、次に親指で後部座席を示した。金糸雀は流れるような動作で敬礼を返すと、懐から取り出したカメラを後部座席に向けて立て続けにシャッターを切った。
「……完璧な連係プレーなの」
 雛苺は目を丸くしてひそひそと囁き、金糸雀は無言で親指を立ててみせた。


7

「変わった形のパーツですねえ……縮んだ芋虫? おっきな抵抗器? みたいな」
 ショップの受付担当だという女性は、なんとも言いがたい形状をしている原型を見て、ごくありきたりだが的確な形容をした。水銀燈は思わず吹き出し、ジュンは居心地が悪そうな表情になって原型をまた鞄に仕舞った。
「今、担当を呼んで来ますね」
 女性はあくまで笑顔で、事務所の奥に消えた。
「あは、あはははは」
 水銀燈は腹を抱えて笑い出した。
「確かに抵抗よねぇ。細くなってるところにストライプ入れたらそのものだわ」
「なんのことか分かんないぞ」
 ジュンは口を尖らせる。水銀燈はなおも暫く笑ってから、ジュンに向かって人差し指を立てて説明を始めた。
「電子基盤なんかで使われてる抵抗器のことよ。大きさは全然違うけど、形がね──」
「お待たせしました。カーボンパーツ担当です」
 後ろ斜め上から声が降ってくる。振り返ると、ツナギ姿で書類ファイルを脇に抱えた長身の男が立っていて、こちらを見てお辞儀をした。ジュンは慌てたように頭を下げ返し、男はもう一度軽く頭を下げて、どうぞと二人を事務所の隅のテーブルに案内した。

「バイクやクルマのパーツじゃないって事務員から聞いたんですけれども、まず現物を見せて頂いていいですか」
 ジュンははいと頷き、少し苦労しながら鞄をテーブルの上に置くと、そこから白い紙粘土製の原型を取り出した。
「……こりゃまた、凄いですね。フィギュアのヘソんとこみたいな」
 男は原型を手に取り、ざっくばらんな口調になった。形式ばった言い回しは苦手なのだろう。それでもお客相手という意識があるのか、丁寧語だけは使っている。
「フィギュア、というか……」
 ジュンは口ごもってしまう。改めてこうして他人の目に触れさせると、どうにも恥ずかしさが先に立ってしまう。姉や親しい人に作った服を見せたときとは違う感覚だった。
「ご名答。球体関節人形の胴体部よ」
 水銀燈がぼそりと補足した。男は、おや、というような表情をして水銀燈をちらりと見たが、なるほどねぇ、と頷いてまた原型をくるくると回した。
「他の部分はどうなってるんです? これから作成とか……」
「もう、できてます」
 ジュンは少し詰ったような言い方で、なんとか答えた。水銀燈は少し眉根を寄せてそちらを見る。
「それも全部FRPで作るんですか?」
 男は当然の疑問を口にする。まさか、と言わなかったところは商売人と言うべきかもしれない。
「いえ、もう……」
「そのパーツ以外は、完成してるの。ゲルコートも」
 しどろもどろになりかけたジュンの言葉を水銀燈が引き取る。
 真紅が見たら失望の溜息を漏らしたかもしれない。あまり行儀のいいやり方ではないし、ジュンの心を思えばさっさと口を挟むべきところではなかろう。
 ただ、水銀燈には水銀燈の事情があった。野球帽と眼鏡のせいもあって外見にはそう見えないかもしれないが、彼女もまた少なからず緊張しているのだった。
 もっとも、そういう事情がなかったとしても彼女の場合、焦れて口を挟む可能性が無いわけではない。最近変わりつつあるとはいえ、お世辞にも気が長い方ではないのだ。
 そんな二人の事情には気付かないように、ほう、と男は一オクターブ高い声を上げた。
「もしかして全部カーボン……とか?」
「はい」
「そりゃ凄い、いや、これって完成したら全長、全高って言うのかな? 多分一メーターくらいありますよね。それを全部……」
 見てみたいな、と男は子供のような素直な声を出した。ジュンは開いたままの鞄をくるりと回し、男から中身が見えるようにした。
「こりゃ……」
 男は目を見開いて絶句した。人形の出来に目を奪われてしまっているようだった。
「失礼、いや、なんというか」
 暫くして男はやっと口を開いた。視線はまだ人形に注がれている。
「最近はハンドレイアップ……ええと、ウェットカーボンって言った方が通りが良いかな、ホームセンターで売ってる手作りFRPセットのガラス繊維をカーボン繊維に代えたやつ、って言いますかね。そういうのをカーボンって言ってる場合もあるもんで。いやしかし凄いな、これは。物凄く綺麗だ」
 取って付けたように人形の美しさにも言い及んだものの、男の視線は専ら胸部と腰部の内部──塗装されていないために素材が剥き出しになっている部分に注がれているようだった。案外、綺麗だというのもそこの曲面の貼りこみやら仕上げ具合を指したのかもしれない。
 暫くどうしても買って欲しいが買ってもらえない玩具を見る子供のように熱い視線を注いでいたが、やがて嘆息と共に目を上げ、はっとして赤くなり、ありがとうございますと二人に向き直る。
「失礼しました。人形としての形も素晴らしいと思うんですが、仕上がりが美しいですね。つい魅入ってしまいました」
 二人は頷いた。何処の仕上がりかは、言われなくても分かる気がした。

 そこから後暫くは、事務的なつまらない話だった。仕上がりまで一週間以上は必要なこと、雌型が必要になること、肉抜きが上手く出来ない形状なので分割後結合することになること、分割ラインについては一任すること──但し、極力目立たないように分割するし、結合面の強度については責任を持てると彼は言った。
「もちろんばらばらの分割パーツでなく、一つに結合済みの完成品としてお渡しします。それと──」
 男は開いたままの鞄にまた目を遣り、原型の上下を指差した。
「球体関節なんですね、この上下の半球が」
「はい」
 組み合わせてもらっていいですか、とは彼は言わなかった。ただ、ちらちらと鞄の中を見ながら考え込むような素振りをしているのは、頭の中でそれを実行してみているのだろう。
 ジュンは手を伸ばし、水銀燈を促して二人がかりで人形を鞄から取り出し、テーブルの上に寝かせた。原型を胴のところに組み入れると、そこだけ色違いではあるものの人形はどうやら人間の形になった。
「こんな風になるんですけど……」
 背中部分に手を回し、上下の胴部の関節を軽く動かす。首がかくんと後ろに仰け反るのを見て、男は自分も立ち上がって人形の頭を支えた。
「かなり自由に動くんですねえ」
 人形の髪を自然に整えながら、ほうほう、と男は何度か頷いた。
「この原型の状態で、パーツの擦り合わせは出来てるってことですね。分かりました。それを確認したかったもんで」
 ここまで擦り合わせができていれば、後は完成品でどうしても微妙に発生するヒケ、歪みを取ってやる程度でいい、と男は感心したように言った。
「上下のパーツを預かって宜しければ、こちらで擦り合わせをした状態で塗装までやっておきますが」
 どうしますか、と尋ねる男に、ジュンは咄嗟に返事が出来なかった。男はパーツ工場の関係者らしく上下パーツという言い方をしたが、それは要するに人形を預けるということと同義だった。
 確かにパーツ原型の製作者は自分ということになるのだが、その依頼者は水銀燈なのだ。人形を丸ごと預けてしまってよいものなのか。
 だがジュンが視線を向けると、水銀燈はあっさりと頷いた。ジュンは男に頭を下げた。
「お願いします」
 分かりました、お預かりしますと男も頭を下げた。

 さきほどの女性が三人分のコーヒーを持ってきた。テーブルの上の人形を見てまあと口に手を当てる。
「凄いですねぇ。お客さんが作ったんですか?」
「……違います」
 男と女性がジュンに視線を向け、ジュンはちらりと水銀燈を見遣る。水銀燈はポーションタイプのミルクを律儀に垂れ残しのないようにコーヒーに溶かし込み、その表面が微妙な模様を描くのを観察してからジュンを見、そして視線を男に移した。
「原型もパーツ本体も、どこかのパーツ屋に居た人が作ったの」
 水銀燈は子供の声色や喋り方を真似ることもなく、普段どおりの発音で言った。
「でも、今年の冬亡くなったわ。胴部だけ作り残して。中途半端ったらないでしょう」
「そう……それは惜しいなあ。良い仕上がりなのに」
 男はコーヒーを啜り、遺作ってことかぁ、と天井を見上げた。高い天井には大きな換気扇がゆっくりと回っている。
「しかし、そういうこととなれば気合入れて作らないとね」
 正直、まさかカーボン製とは思わなかったんですよ、とジュンを見て苦笑する。
「でもこれなら納得だな。どっかのメーカーで鉄腕アトムのフルカーボン人形作って展示してたけど、あれは非可動フィギュアだった。わざわざ可動人形で、しかも外見に判らないように作るなんて自分の技術の限界に挑戦してみましたって感じで、その、言い方は悪いけど──」
「──バカっぽくて良いでしょう?」
 水銀燈がふっと笑うと、男は何度も頷き、楽しそうに笑った。
「そうそう! 技術と設備持ってる人にしかできない、まさに道楽。これは是非とも完成させないと」
 発注を受けた愛想も幾分かは含まれているかもしれないが、本気でそう思っているらしいことは伝わってくる。

──それにしてもよく喋って笑う人だな。

 男にはドールの話をしているときのみつと同じ雰囲気が何処かにあった。話し好きというのもあるだろうが、専門バカと言うのだろうか、趣味と仕事を一緒にしてしまった人特有の何かだった。
 ジュンはややうんざりしながら男を眺め、コーヒーを啜った。この手の人の相手はあまり得意ではない。
 あまり飲みなれないせいか、それとも豆のせいなのか、コーヒーは少しばかり苦っぽいような味がした。どうにか顔に出さずに水銀燈を見遣る。あまり居心地が良くないんだけど、という気分を視線に込めてみたつもりだった。
 彼女はコーヒーを啜りながら男の顔を見詰めていたが、ジュンの視線に気付くとこちらを横目でちらりと眺めた。その眼にどこか照れのようなものが見えるのは何故だろうとジュンは訝しく思った。


8

「お疲れ様!」
 待ち合わせ場所の駐車場には、既にみつのレンタカーが待っていた。
「どうだった? 首尾よく無償でご提供いただけそう?」
「それはいくらなんでも無理だろ……」
 ジュンが憮然とした表情で言うと、みつはわざと大きく舌打ちの真似をして見せ、まあいいわ、と何度か首を縦に振った。
「アテはあるもの。取り敢えずは第一関門はクリアしたってところね?」
 ジュンを見て片目を瞑ってみせ、彼が頷くのを確かめると、さあ乗って、とドアを開ける。
「水銀燈──」
 ジュンは斜め後ろを振り返った。来た時と同じ順序なら先に乗るはずの水銀燈は、一歩下がったところで軽くかぶりを振った。
「帰りは寂しがりの誰かを抱いて上げたらどうかしら。もう道案内は要らないでしょう?」
 やや意地の悪い、しかし厭味のない笑顔で水銀燈は後部座席の窓にかじりついてこちらを見ている姉妹達を眺めた。姉妹達は顔を見合わせ、次いでジュンに視線を集める。
 なんてこと言うんだよ、とジュンは水銀燈を睨み、水銀燈は素知らぬ風で肩を竦める。ジュンは一つ溜息をついた。
「──抱いてやるのは一人だけだぞ。もう一人は僕とみっちゃんの間な」
 歓声こそ上がらなかったが、彼女達の表情はぱっと明るくなる。水銀燈は皮肉な笑顔になり、大変ね保父さん、とジュンを肘でつついた。

 短いが白熱したジャンケンの結果、ジュンの膝上のポジションは翠星石の、隣は雛苺の勝ち取るところとなった。雛苺は歓声を上げて座席に座り、翠星石は何か無闇に怒ったような赤い顔で、そのくせしどろもどろな言い訳をしながらジュンに抱かれた。
「そういえば、初めてかもしれないわ」
 後部座席で金糸雀と水銀燈に挟まれるように座った真紅は、幾分眠そうな眼をして呟いた。
「貴女と並んで座るのは1078950時間37分ぶりだけど、初めてではないわよ」
 水銀燈はドアの内張りに寄り掛かり、窓外の景色を眺めたまま否定する。真紅はふっと息をついた。
「それは覚えているわ。あれで喧嘩別れをしてから、食事のときもお茶のときも貴女は私の隣に座ろうとしなかった……」
 でもそのことではないのよ、と真紅はぼうっと微笑む。
「翠星石がジュンの膝の上に座るのは……多分初めて……」
 ふあ、と可愛らしく欠伸をすると、それを待っていたように金糸雀が真紅の肩にこてんと頭を載せる。彼女はもう眠っていた。
「じどうしゃというのは、どうしてこんなに眠くなるの」
 真紅はいつものようにすげなく振り払うこともなく、かと言って慈しむような顔になるわけでもなく、とろんとした眼で誰にともなく呟くとゆっくりと目を閉じた。じきにその頭が金糸雀に寄り掛かる。二人は絵のように可愛らしく寝息を立て始めた。
 水銀燈はちらりと二人の妹を見遣り、素っ気無く呟いた。
「……それは貴女達もそれなりに緊張していたからよ。お疲れ様、真紅」
 そのまま、また窓外に視線を向ける。流れていく景色をぼんやり眺めながら、彼女はさきほどのことを思い出していた。


 ショップからの去り際、建物の外で男は水銀燈を呼び止めた。ジュンは振り向いたが、水銀燈が目顔で頷くと先にその場を歩み去った。二人とも、何処となく男の用件が分かっていたのかもしれない。
「済まないね、君に聞いた方が良いような気がしたもんだから」
 男は照れたように笑った。
「言い難くなかったらでいいんだが、あの人形を作った人の事を教えてくれないかな。ああ、原型じゃなくて……パーツの実物の方を」
 水銀燈は帽子の下で薄く微笑んだが、突き放したような言葉を口にした。
「訊いてどうするの? さっきも言ったけど、もうその人はこの世界の何処にも居ないのよ」
 正確にはそうではないとも言える。だが、少なくとも今現在は、あの人形を作り育てた男は、僅か数人の記憶の中にしか存在していない。前世の記憶こそが彼の本体だとするなら、彼は自分で自分を殺し、自分が宿っていた少年を捨て、その上彼女に文字通り全てを押し付けて去って行ってしまった。
 いっそのこと出来の悪い小説のように自分の中で一つの人格として生きていてくれれば文句の一つも言ってやれるのに、と水銀燈は口惜しく思う。実際に彼女が得たのは、一人の人間が平均寿命よりだいぶ短い時間を生きただけの記憶と知識でしかない。
 有益な情報を含んではいるが、そこに生命は宿っていなかった。膨大ではあるがただの知識だった。
 そんな事情を知るはずもない目の前の男は、何処にも居ないからさ、と両手を広げてみせた。
「生きてれば会うこともあるかもしれない。名前を聞くことがあるかもしれない。なにせ同業者だからね。だがもう会えないってことになれば、ここで聞いとかないとその人のことは謎のままなんだ、俺の中で」
 たった一つのパーツのことで大袈裟かも知れないが、最後の一ピースを組み上げる仕事を任されたからには多少は知っておきたいんだ、と男は真面目な顔で言った。
 水銀燈は少しだけ躊躇い、残念だけど、と男を見上げた。
「名前や住所、会社の名前はちょっと教えられないわ。もっともそんなことは些細なことよね?」
 少し意地の悪い顔になって口の端を持ち上げる。男は腕を組んで苦笑した。
「まあ、そうかな……うん」
「そういうことにしておいて」
 水銀燈は今度ははっきりと微笑んだ。
「そうね……臆病で、死ぬ間際まで好きな人に告白できないような人だったわ」
 そう来るか、と男は首を少し傾げる。その反応を無視して水銀燈は続けた。
「漫画好きでアニメ好きで、ある作品に物凄く入れ込んでたわ。オタクって言うのかもね」
 思わず笑いがこみ上げてくる。
「その思いの丈を籠めたのがあの人形よ。ドールフェチでもあったってことかしら」
「なるほどねぇ」
 男は少し食い足りないような顔で返事を返した。
「──それから」
 言うつもりは無かったのだが、水銀燈はつい口走ってしまった。
「水銀燈を愛していた……」
「え」
 男は何か途轍もない言葉を聞いたかのように固まった。
「えっと……まあフェティシストってのはいろいろあるらしいが……その、水銀灯ってあの水銀灯かい、道路とかにある──」
「──そう、その水銀灯よ」
 視線を下に向け、男の言葉に被せるように水銀燈は言った。
「水銀灯が一番のお気に入りだったわ。愛の告白までしたことがあるのよ」
 可笑しいでしょう、とにやりと笑って男を見上げる。男はなんとも言えない顔になって水銀燈の顔を見詰めた。

「えーとそれは……『愛している、水銀灯、君をこの世の他の誰よりも』……とか?」

 水銀燈の笑顔は仮面のように凍りついた。
 数秒間、どちらもそのまま動きを止めていた。
 男が何かおかしなことを言ってしまったかと焦り始めた頃、水銀燈は表情の消えた顔で呟くように言った。
「もう一度、言ってみて」
 男は問い返さなかった。ごく生真面目な顔になって、少し顎を引いて同じ台詞を言った。
「もう一度……」
 子供がものをせがむような口調で水銀燈が言うと、男は何かを了解したようにそっとかがみこみ、視線の高さを彼女に合わせた。

「君の事を愛している、水銀燈。どの世界の誰よりも」

 水銀燈は何度か瞬いた。そして、物も言わずに彼の首に両腕を回してしがみついた。
 二人がそうしていた時間は大して長くなかった。最初に男が台詞を口にしたときと同じ、精々数秒間だっただろう。男が子供をあやすつもりで彼女の背中に手をやろうとしたときには、水銀燈はもう離れていた。
「ありがとう」
 素直な声音で彼女は頭を下げた。
 男は何かを言いかけて口を閉じ、こちらこそありがとう、と微笑んだ。
 男はそれ以上何も訊かず、水銀燈の方も何も言うこともなく、そのまま踵を返してジュンの待つ街路に向かった。


 車は郊外から彼女達の住む街に戻っていた。水銀燈は空を見上げ、一つ息をついた。
 助手席では翠星石がなにやらジュンと雛苺を罵っている。二人が軽く聞き流しているのを横目で見たみつがくすくすと笑っていた。
 飽きないわねぇ、と水銀燈は呟き、欠伸をして目の端に溜まった涙を指で拭いた。自分にも眠気が忍び寄っている。元々このくらいの時間は寝ているのが彼女の生活リズムだから、当たり前といえば当たり前だった。

──今日くらいは媒介の夢に行かずに寝ておこう。

 もっともその前に桜田宅に寄って着替えなくてはいけなかった。それが面倒だと感じるのも、多分眠気のせいだ。
 特に何か事態が出来しない限り、家に戻ったら明日の夜まで寝てしまおうと水銀燈は思った。媒介は心配するかもしれないが、勝手に心配させておけばいい。


9

 工房の中では、赤い人形が最後の仕上げの工程に差し掛っていた。
 水銀燈はいつものように足を組み、肘を突いた手に顎を乗せるようにしてそれを見守っていた。
「虚しい作業だ」
 手を動かしながら男は呟いた。
「この上もなく虚しく、そして背徳的な作業だ」
「貴方が言うとちっともおかしくないような気がするから不思議ね。でも、その子に聞かせていい台詞じゃないでしょう」
 水銀燈が言うのは、男が今は髪を梳いている金髪の人形そのもののことだった。
「自覚しているかどうか知らないけど、もうその子に確り意識はあるわよ。多分動力源を入れるまでは口を開いたり手足を動かすことはできないのでしょうけど」
「知っていたさ」
 だから尚更虚しいのだ、と男は言った。
「私達の世界は閉じているのだ。他の世界と交わる、交わらないではなくて、時間が閉じている。だから私はどこの時間にも存在するし、どの時間にも存在していない。全ては虚しい作業に過ぎない」
 言いながらも男は手を止めようとはしない。水銀燈はその見事な手捌きを半ばうっとりと眺めながら、ぽつりと補足した。
「貴方達の物語は終わってしまったものね。貴方が弟子の人形に壊された娘達を修復したところで」
 男は頷き、カールを掛けていた部分を整える。
「私についてはそれで良かった。娘達が究極の少女になれる道筋の見込みがついたのだから。だが、そこから先はない。彼女達が踏み出し掛けで止まってしまった時間に、次の一歩を踏み出す機会は永遠に訪れないのだ」
「誰だって最期の瞬間はあるわ。それが分かり易い形で一斉に来ただけのことよ」
 水銀燈は目を閉じた。
「終わりのない人生をこれからも生きていくはずだった貴方には却って理解できないかもしれない。でも人の生き死になんてそんなものじゃなくて? 誰の時間だって、何処かで終わって閉じるのよ。それも大概は望まない時点で、しばしば唐突にね」
 人形だって似たようなものよ、と水銀燈は息をつく。
「人形は死なない、魂が何処か遠くに行くだけ、とは言うけど。要は壊れて捨てられればそこで御仕舞い。形が無くなってしまえば呼び戻してくれる人はいなくなり、二度と生き返ることはできなくなる。ありようが違うとはいえ確実に終わりはあるのよ」
「一種の極論だな、それは。全くもって慰めにならん」
 男は静かに櫛を置き、以前作業台の上の人形に被せてみせた赤いボンネット調のヘッドドレスを取り上げる。しかし、思い直したようにそれを置くと、凝った意匠のブローチを取り上げてそれを見詰めた。
「だが、実に君らしい意見だ。どういう訳か安心できる」
「お褒め頂いて恐縮ですわ、人形師様」
 水銀燈は目を開いて皮肉に口の端を歪めたが、男はちらりと彼女に視線を遣っただけで作業を続ける。暫くは衣擦れの音と時折仕事道具が立てる僅かな音のみがその場を支配していた。

──真紅のときもこうだったわね。

 工房の様子は全く違う。しかし、目の前で最後の化粧と衣装を整えられていくのがよく似た姿の人形であるだけに、思い出はこの場の光景と混ざり合っていくようだった。
「しかし違いはあるだろう」
 男がぽつりと言う。水銀燈は眉を顰めた。
「貴方がこちらの考えを読めることを今更どうこう言う気はないけど、わざわざ回想を邪魔しなくてもいいでしょう」
「懐かしき日々、か。それほど素晴らしかったのかね? むしろ忘れたい部類の記憶ではないのかね」
 男の声の揶揄するような響きに、水銀燈は苦笑する。短い付き合いだが、彼が偽悪的になるのは本心を隠したいときだと分かっていた。
「手元が疎かになるわよ。大事な最後の仕上げでしょうに」
「なに、大した作業ではないさ。ほぼ終わっているようなものだ」
 男は軽く答え、机の上からその人形を丁寧に抱き上げると背凭れのついた椅子に注意深く腰掛けさせ、息をついて一歩脇に退いた。
「見事な出来ね」
 水銀燈はお世辞でなくそう言った。
「可愛らしい顔。切れ長の瞳というのは現代的だけど、丸顔なのがアンバランスでいいわね」
 男は黙って微笑み、人形にヘッドドレスを被せると顎の下で結んだ。
「完成だ、私の娘。何者よりも気高く、力強く、慈しみ深い、私の五番目の娘」
 男が囁くように語り掛けると、人形は蒼い目を薄らと開けて彼を見詰める。彼は微笑んだまま人形を抱き上げ、椅子の脇に置いてあった鞄を取り上げた。
「呆れた。作り上げたと思ったらもう行くの?」
「行かないで欲しいのかね?」
 男は含み笑いのような表情で水銀燈を振り返った。
「残念ながらご希望には添いかねる。先方は既に待ちかねているのだ」
「あっさりしたものだこと」
 水銀燈は肩を竦め、にやりとした。
「引き留めてまで貴方と喋っていたいとは思わないけど、先方とやらにその人形を預ける場面には興味があるわ。許されるならご同道したいところだけど、どうかしら?」
 男は無言で、彼女と同じように肩を竦めてみせた。二人ともそれが無理な注文だというのはよく分かっていた。
「行って来るよ、生意気な黒人形さん」
「行ってらっしゃい、きちがい人形師さん」
 男は軽く一礼して、扉を開けて出ていった。垣間見た扉の向こうの青い空と緑の木々が皮肉だと思えてしまったのは、水銀燈が作業台の上の人形に感情移入してしまっているからかもしれない。

 水銀燈は椅子の上で背中を丸め、膝を抱いた。何か変化があるものと思っていたが、男が出ていってからも工房の風景に変わりはなかった。
 自分の夢の中だというのに奇妙な寂寥感を感じているのも、放置されたままの人形のせいかもしれない。
 その人形は何故か動き出さず、どこか諦観を感じさせる瞳で彼の去った後を見詰めている。いや、それもまた水銀燈の感傷がそう見せているのかもしれない。人形の表情など、見る角度だけで様々に様子を変えるのだから。
 気分を変えるためというわけではないが、そのままの姿勢でぐるりを見渡してみる。飾り気とゴミのない工房の中で仕事机と作業台とがらくたの山だけが目立っていた。
 一通り見回した後、水銀燈の視線は仕事机の上に向けられた。綺麗に揃えて置かれた仕事道具の間に、白い紙のようなものがあることに気付いたのだ。
 椅子から机の上に飛び乗って手に取ると、紙は短い手紙か書置きのようなものだった。宛名は書かれていないが、それが自分に宛てたものであることは文面を見れば確実だった。
「右の三段目……ねぇ」
 手紙を持ったまま机から降り、やや苦労しながら抽斗を引き開ける。有り難いことね、と呟いたのは、抽斗の中身が水銀燈の視点からでもよく見える高さだったからだ。
 抽斗の中を覗き込み、水銀燈は息を呑んだ。
 男の様子から仕事道具が詰まっているとばかり思っていた抽斗の中身はほとんど空だった。ただ、実に無造作に指輪のケースが二つ収まっているだけだった。
「──まさかね」
 そう言いながら、恐らくこれだろうという予感はあった。一つのケースを取り、胸元で開けてみる。
 予想は当たっていたが、溜息が出るのを抑えられなかった。
 中に入っていたのは淡紅色に光り輝く結晶と薔薇の意匠の指輪だった。
 元通り閉じて、もう一つも同じように開けてみる。結晶の形が若干異なることを除けば、全く同じものが収められていた。
「……どうしろって言うのよ、こんなモノを」
 そう言ってみるものの、それも思い当たる用途はある。水銀燈はケースを閉じて手に持った紙を裏返し、そこに書かれていた予想通りの文章を眺めてやれやれと肩を竦めた。
「つまるところ、貴方は出来損ないの第一ドールを他のどの娘よりも愛していたってことじゃない。全く、素直じゃないったら」


10

「えっ、立て替えるってどういうことですか」
 事務員は目を瞬いた。男は歯切れ悪く、やや照れたような表情で答える。
「ああ、まあ、タダっていうか、こっち持ち……俺持ちでね。これは俺の腕試しみたいなもんだから」
「それにしても、経費くらいは取ったっていいんじゃないですか? これ工賃だけでも相当な額ですよ」
 少し怒ったような顔で事務員の女性は男を見た。男は肩を竦める。
「会社に迷惑はかけない。俺の給料から天引きでも、直に払ってもいいが、兎に角これは俺の持ちにしたいんだ」
 ごめん、と男は長身を曲げて片手で拝むような姿勢になった。
「あの人形、作ったのはあの野球帽の女の子の親父さんじゃないかと思うんだ。あれは多分、形見みたいなものじゃないかな」
 妄想ですか、と事務員は首を振る。
「前から思ってましたけど、子供にはとことん弱いんですね。それともロリータ野郎って言った方がいいですか?」
 膨れっ面になる事務員を、まあまあと男は手で制した。
「それに、実際凄いものだった。俺の作った部分が依頼者から金取れるほどいい出来になったかどうか自信がないんだ」
 言いながら、男はパーツ製作の依頼書を眺める。
 依頼者欄には桜田ジュンという、あの中学生ほどの男の子の名前が書かれていた。ただ、もう一つその隣に別の名前も連署されている。

──水銀燈、ね。

 最初気付いたときには、子供にしては……いや、子供だからわざわざ難しい字を選んだのか、と吹き出しそうになったものの、自分の名前をそんな風に書いてまで「愛している」と言わせたかったのか、と思うと可笑しいというよりも切なさの方が先に立つように思えた。
 男の想像では、人形を作ったのはあの子供の父親だった。人形は彼女に何処となく似ていたし、立たせてみると背丈も殆ど同じだった。
 どうして胴体を最後回しにしたのかは分からないが、兎も角最後のパーツだけを残して、大好きな父親は死んでしまった。そこで彼女は知り合いの少年に頼んで残りのパーツの原型を作って貰った。咄嗟に自分を水銀燈という名前に偽り、男に愛していると言わせたのも死んだ父親への愛情がさせたことだろう──そんなストーリーが男の中には完成していた。
 何もかも知っている視点では、それは酷く大きく間違ったストーリーかもしれない、と男は思う。実際そのとおりなのだが、そのことは男の知るところではない。
 しかし、男が費用を自分で持つと言い出したのはそういったストーリーに酔っ払っただけではなかった。彼の視点からは凄腕としか言えない職人の遺作なのだ。あまり褒められた形ではないかもしれないが、その男に対する手向けというか敬意を表したかった、というのが本当のところだった。
「まあなんだ、CBRはもう一月我慢するよ」
「大馬鹿ですね。専門バカっていうか、無駄に職人気質っていうか」
「褒め言葉と取っていいのかな、それ」
 男が腕を組むと、事務員はべーっと舌を出した。
「生憎と貶してます」
 男は苦笑した。
「そりゃ、どうも。そっちじゃないかとは思ってたけどさ」
 言いながら、男は依頼書を書類入れに仕舞いなおし、まだ何か言いたそうにしている事務員に片手をひらひらと振って事務所から出ていった。



[19752] 第五章 起動
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 03:57
1

 今日も蒼星石は庭に出る。持っていくのは自分の得物──庭師の鋏──ではなく、柄がアルミ製の両手鋏だった。
 庭師の鋏は手に馴染んでいるものの、実用品というには装飾過多だった。やはり取り回しでは味も素っ気も無いこちらの方がやり易い。保守的とか頑固とか姉に文句を言われる彼女だが、その点について拘りは無かった。
 薔薇屋敷と言われる彼女の契約者の家の庭は、広大でしかも荒れ放題だった。薔薇園だけは蒼星石の手でどうにか形になってきたものの、他は依然として荒涼たる有様だ。
 もっとも外回りは梅雨になる前に結菱老人が雇った職人が見た目を繕ってくれたようだが、門から足を踏み入れてしまえば、壁の中はちょっとした荒地の体を為してしまっているのがよく分かる。毎日手を入れていても仕事の終わりは一向に見えてこなかった。
 作業が進まないのは彼女にも問題があった。それは主に体格の面で、分かっていてもどうしようもないことだった。大人の体格なら簡単に手が届く場所でも、彼女は踏み台を使い、あるいは脚立を引き摺って来てよじ上らなければならない。物を運ぶにしても、何かをするにしても、小さな彼女にはいちいち面倒なことが多すぎた。
 薔薇の剪定ならそれでもどうにかなった。それは比較的近年まで薔薇だけは手入れされていたからかもしれないし、彼女の意気込みもあったからかもしれない。
 ただ、池の跡らしい湿地に生えている灌木ともなると、視点が低いせいもあってそれが伐っていいものかどうか彼女には判然としない。わざわざ植えたようにも、偶々そこに根付いてしまっただけにも見えてしまう。また伐るにしてもその周囲に蔓延っている──彼女の背丈を超えるものもある──イネ科の草をどう先に片付けるか、先ずそこから考え、計画を立てなくてはならなかった。
 冬が来るまでに目処はつくだろうか、とふと蒼星石は思う。
 年末に近づけば、今度はいよいよ薔薇の剪定の時期になってしまう。薔薇園だけはどうにか綺麗に整えておきたいと思う反面、他の部分があまりにも酷いのも考え物だった。
 もっともこの土地は雪は殆ど降らないというから、あまり神経質にならなくても良いかもしれない。少し寒いのを我慢すれば、剪定と平行して庭の整理もできるだろう。

──気長に行けばいい、か。

 蔦のたぐいが絡まってしまった庭木を見て、蒼星石は微笑した。昨日の土曜日、翠星石がふざけ半分に鎌を振るってその木まで「道」を付けたのだ。
 昨日珍しく尋ねてきた姉は、殆ど手伝いにはならなかったが明るさと楽しさを振り撒いて帰って行った。まだ結菱老人には素直に接することはできないようで、あまり顔を合わせようともしなかったが、その分も蒼星石の近くで賑やかにお喋りをしていった。
 鋏を置いて「道」に足を踏み入れ、左右を見る。繁り放題に繁っている草は彼女の背よりも高く育ってしまっていて、恐らく十数メートルと離れていない道路側の壁も、反対側に目を転じても家の壁もよく見えない。
 まるで草原の真ん中に隔離されているようだ、と苦笑する。青臭い臭いと虫の音に包まれ、これを全部刈るにはどれだけ掛るのだろうと現実的なことを思いながら、同時にどこか幻想的な部分も感じていた。

──マスターは、ずっとこうしていたのだろうか。

 足が弱る前、結菱老人はよく庭に出ていたと言っていた。かといって薔薇園以外は手入れをするわけでもなく、ただ茫然と庭を見回すのが常だったという。
 結菱老人の見ていた風景と、蒼星石の見ているこの無限にも似た草の中の風景は当然違うはずだ。いくら荒れ放題といっても彼の視線まで妨げるほどの丈の草というのはあまりないだろうし、薮蚊も刺しに来るから長いこと立ちっぱなしでいるわけにもいくまい。
 それでも、何処となく分かる気がする。
 何かをすっかり諦めてしまい、静かで緩慢な終末を迎えるだけになっていた老人の孤独が、心を触れ合っているから、というだけでなく、この風景から滲み出てくるような気がするのだ。
 それは多分、彼女自身──
「見つけたっ」
 はっとして振り向いたときには、伸びてきた手が彼女を腋の下でひょいと掴んでいた。そのまま、視点がすっと上に移動する。たちまち草の海は眼下に広がるちょっとした草叢に戻り、庭を囲む壁と建物は本来の存在を主張し始めた。
「こんち、蒼星石」
 斜め下から朗らかというよりは能天気に近い声がした。
「……こんにちは」
 蒼星石は声の主を見下ろして瞬いた。高い高いの要領で彼女を持ち上げたのは、水銀燈の媒介の少年だった。
「い、いきなり蒼星石に何しやがるですかこのノータリン!」
 少年の後ろから翠星石が駈けて来て、思うさま少年の脛を蹴り上げる。辛うじて向う脛でないのは敢えて避けたのか、位置的に蹴りやすいのが脛だったからかは微妙なところだった。
「いててててっ! いて、マジ痛えからそれ」
「何日ぶりだか知らねえですが、他人様に会っていきなり抱き上げるヤツが何処の世界にいるですか! 水銀燈の教育方針は全くもってなってねえです!」
 言いながら更に何発か蹴りを入れる。力の乗ったものではないが、今度は向う脛にも当たりだした。
「てててて、わかった、わかったから止めてくれって」
 少年は翠星石の前に蒼星石を降ろし、数歩後ろに下がって脛をさすった。
「ってー……手加減ってもんがあるだろ、翠星石さんよぉ」
「お前なんかに言われたかねーですよ。他人の契約したドールに手ェ出すヤツはサイテーです」
 ふん、と翠星石はそっぽを向く。スキンシップのつもりだったんだけどなぁ、と少年は腕を組んで首を傾げた。
「んー、じゃ自分のマスターなら良いのな。蒼星石なら結菱さん、翠星石なら桜田ってことか」
 ふむ、と素で頷いてみせ、やっと思いついたというように片方の掌をもう片方の拳でぽんと叩く。
「そういや、この間雛苺も言ってたっけ……」
「チビ苺はベタベタですからね。ジュンやのりだけならいざ知らず、前のマスターにまでデレデレです。誇り高き薔薇乙女にあるまじき媚びの売りっぷりですぅ」
「いやそうじゃなくて、翠星石がさ。桜田に抱っこされて凄く喜んでたって──」
「──ち、違います! まったき誤解でありますです! あれはその、ジャンケンの結果で致し方なく……」
 怒っているのか照れているのか、真っ赤になりながら少年に抗議する翠星石と、天然なのか故意犯なのか分からないがとぼけた調子でのらりくらりと躱す少年を見ながら、蒼星石はふと目を伏せ、幽かな微笑を浮かべた。

──貴方は僕に感傷に浸る暇も与えてくれないんだね。

 それは愚痴のような思いだったが、重くなりかけていた心は不思議なほどに晴れていた。

 俯いて長く息をつくと共にひとつ首を振り、顔を上げて気持ちを切り替えて二人を見直す。奇妙なことに、二人は動きを止めてこちらを窺っていた。
「そ、蒼星石?」
「俺なんかヤバいことやっちまった? ご、ごめんな」
「やっちまった? じゃねーです! お前が要らんことするから蒼星石が悲しんでしまってるじゃねーですか! どう責任取るつもりですかこのどあほうのコンコンチキ」
「違うよ」
 蒼星石は苦笑に近いものを浮かべ、翠星石を見遣る。彼女がぱちぱちと瞬いて見返してくるのを見届けてから、今度は少年を見上げた。翠星石の契約者よりだいぶ背の高い少年は、彼女と同じように瞬いて蒼星石を見返した。
「この草を見て、少し憂鬱になってしまっていたんだ。なにしろ、ほら──」
 翠星石の視線の高さに指を伸ばし、左右を指し示す。翠星石は改めて気付いたように声を上げる。
「──うわ、なんですかこれは。全然壁も家も見えねーです」
 昨日も刈っている最中に見ていた風景のはずだが、あるいは彼女のことだから前だけを見て闇雲に鎌を振るっていたのかもしれない。
「どうら……お、ホントだ。すげえ、ジャングルみたいじゃん」
 少年も屈み込み、半ば感嘆の声を上げた。視点の高さの違いが面白いのか、無闇にきょろきょろとあちこち見回してみている。
「でも、抱き上げてもらって下を見てちょっと安心したんだ」
 蒼星石は爪先立ちになったりちょっと飛び上がったりして左右を見ている翠星石の肩に手をぽんと置いた。
「君も抱き上げてもらったら?」
 翠星石は形ばかりの抗議をしたが、幾分かは興味もあったのか、蒼星石が言うなら、とすぐに折れた。少年は翠星石の腋の下に手を入れ、精一杯上に差し上げた。
「うわ、結構な高さですね……って、上見やがったら承知せんですよアホ人間」
「見ねえって。どうせ中身かぼちゃ半ズボンだし……っていてて! 顔蹴んなって!」
「ドロワーズですぅ! ったくもう」
 もうひとつ、力の乗っていない蹴りを入れて、翠星石は下を見回した。
「あれ? 意外に大したことねーじゃねーですか、これ」
「うん」
 蒼星石はにこりとしてみせた。
「確かに物凄い草ぼうぼうの場所だけど、生えてるのは無限大の広さじゃない。昨日君がやってくれたように少しずつでも刈っていけば、そのうち綺麗にできる。改めてそのことが実感できたんだ」
 だからありがとう、と蒼星石は少年に頭を下げた。
「少し視点をずらしてみるだけで、全貌が理解できるようになる。それに改めて気付けたのは貴方のお陰だ」
「い、いやそれほど大したことじゃーないけどさ、へへ」
 少年は照れたように笑い、そして何かに気付いたように上を見ようとして、すんでのところで思い留まった。蹴りの動作に入っていた翠星石は、やり場をなくした足をぶらぶらさせて口を尖らせる。
「……いいかげん下ろしやがれです」
「おうさ」
 してやったりという表情で少年は頷いた。

 翠星石をそっと地面に降ろすと、少年はもう一度、今度は自分の視線で周囲を見回した。
「結構育っちゃってるけど、まあ行けるんじゃないかなぁ」
「やってやれないことは無い、です。まあ、じゃなくてやるんです」
「へいへい」
 翠星石にひらひらと手を振ってみせ、少年は蒼星石を見た。
「この辺なんだけどさ、俺が刈っちゃってもいいよな?」
 え、と言葉に詰まった蒼星石に、翠星石が得意そうに胸を張ってみせる。
「今日は日曜日、暇面こいてるアホ人間に機械の下僕になるチャンスを与えてやったのです」
「おいおい……」
 少年は肩を竦めてみせた。まだ何のことか分かっていない蒼星石に、にっこりしながら説明する。
「このうちの倉庫? 物置かな、どっちでもいいけど、あそこでいいもの見つけたんだ」
 翠星石はあくまで得意気だった。
「見つけた日は昨日で、見つけたのは翠星石ですけどね。……まあ、機械がデカブツ過ぎて翠星石には扱えそうもなかったんで、こうしてアホ人間を召集したわけです」
 翠星石の言葉が終わるのを合図にしたように少年は元来た方に走っていき、暫くして蒼星石が何処かで嗅いだ記憶のある臭いと共に戻ってきた。
「あれですよ、堤防道路とかで一日中暴れまわってるブンブン機械です」
 少年が片手に持っているのは、自分の背丈ほども長く見える金属製の丸棒の先端に丸い円盤がつき、逆側の先端に四角いエンジンのついた機械だった。それには蒼星石は見覚えがなかった。
「ジャジャーン! 草刈機だぜ。おじさんちの畑でやらされたことがあるんだ」
 少年は得意そうに機械を置き、翠星石は偉そうに頷く。
「翠星石の眼に狂いはねーです。柔弱ヒッキーのジュンと違って、アホ人間には力仕事くらいは任せられるって寸法です。ま、その代わり頭脳労働は到底無理ですがね」
「あ、ひでぇ」
 はっはっは、と二人は蒼星石の目の前で笑い合った。なんやかやで、気は合っているようだった。

──君に感謝しているよ、水銀燈。

 蒼星石は強引に自分に時間を与えた黒衣の長姉に、面と向かっては到底言えそうもない言葉を心の中で告げた。
 命を助けられたようなものではあるが、それが姉妹愛の発露だと考えるほど、蒼星石は事情を知らないわけではなかった。不完全ながらも水銀燈の媒介の記憶は幾らか得ている。自分を救い、今までの遣り方を放棄して姉妹達と距離を置かなくなったのは恐らく水銀燈の状況判断、もっとはっきり言ってしまえば今後の計画と利害が絡んでのことだろうと理解していた。
 だから蒼星石は未だに水銀燈を好きになれない。その点では、第七ドールを除いた全ての姉妹や媒介達より、彼女は確実に醒めた視点で水銀燈を見ている。水銀燈が何か目論んでいるのならば、手放しでそれに賛同することは恐らく出来ないだろう。

──でも、僕に機会を与えてくれた君に、僕は感謝したい。

 仮初めの時間かもしれないが、前だけを向いていた自分にこうやって周囲を見回すだけの余裕をくれた者。それが水銀燈なのは事実だった。
 そして、自分にとって双子の姉と契約者の次に近しい存在──まだまだ思慮に欠け、智恵も回らず、そして関心は殆ど自分ではない誰かに向いているけれども──を、こうして見出すことができたのも、彼女のお陰だった。
 それが他ならぬ彼女の媒介というのは、些かならず皮肉だけれども。

 笑い終わった少年は蒼星石を、若干自信の無さそうな顔で見詰めた。
「いいかな? 蒼星石の仕事取っちゃうことになるけど……」
 蒼星石はにっこりと笑った。
「ありがとう。嬉しいよ」
 できたらこことあそこと、それからあの辺りも……と言い出した蒼星石に、結構ちゃっかりしてますね、と翠星石は眼を見張り、少年は一体何時間掛るんだろうと帰りの心配をし始める。そうそう、刈り取った草の始末は翠星石と僕でやるからね、と蒼星石はにっこりと、厚かましい笑顔を作った。
「大丈夫、夕食は僕が腕を振るうから」
 そう言って、端から丸一日かける予定なのだと知って急にテンションが下がったらしい二人の反応をそ知らぬ顔で受け流し、丈の高い草の間から空を見上げる。まだ太陽ははっきりと東の空にある時刻だった。
「昼メシも頼むぜ。がっつり食うぜー」
 少年は覚悟を決めたらしく、開き直ったように言ってみせる。翠星石は容赦ない言葉で追い討ちをかけた。
「他人に奢って貰うくせに卑しいヤツです。野良猫並みです」
「肉体労働はカロリーを消費するんだってば」
 もっとしっかり朝飯食って来れば良かったなぁ、とぼやきながら、少年は刈払機のリコイルスターターを勢い良く引いた。短い排気管から白い煙が短く噴き出し、小排気量の2ストロークガソリンエンジン特有の耳障りな音が響き渡る。

──ああ、そうか。

 翠星石に手を引かれて少し離れたところに歩き出しながら、蒼星石は思わず頷いていた。
 どうしたんです、と翠星石が顔を覗き込んできたが、蒼星石は微笑んで首を振った。その音は、それほど以前に聞いたものではなかったが、何故かとても懐かしい音だった。

──やはり、貴方は貴方だね。

 いつか見た心の木を伐る男の背中を少年の後ろ姿と重ね合わせながら、蒼星石は暫く微笑を浮かべたままその場を動かなかった。


2

「はいもしもし、って、ええ? 珍しいじゃん、てか初めてだよな。どしたの」
 少年は受話器を持ったままふんふんと頷いている。人間はどうして電話越しの相手にも頷いたり頭を下げるのだろう、と水銀燈が今更のことを疑問に思っていると、少年は受話器を顔から離し、送話部を手で覆った。
「水銀燈、真紅から。話があるってさ」
「電話で?」
 水銀燈は苦笑したが、少年が頷いてみせると眺めていた小箱の蓋を閉じ、それを持ったまま少年のところに歩み寄って受話器を受け取った。
「もしもし」
『水銀燈? 随分変調してしまうものなのね』
 電話越しの真紅の声は幾分遠かった。
「電話だもの仕方ないでしょう。それで、用件は何?」
『相変わらず短気ね』
 あっさりと返答されたことが物足りないのか、不満そうに溜息をついてから、パーツが出来上がったそうよ、と真紅は言った。
『今日電話があったの。水曜日以外の午前十時から午後七時までの間においでください、と言っていたらしいわ』
「そう」
 水銀燈は目を閉じた。

 意外に話好きで、人生を楽しく送っているようだった男のことを思い出す。
 どういう理解をしたかは兎も角、いきなり抱きついた彼女に途惑うこともなく受け入れたところを見るとそれなりに包容力と余裕のようなものも持っているのかもしれない。それが生まれ変わってどこか虚無的な態度に変化したのは何故だろうか。
 彼の記憶の前世の部分についてはほぼ完全に──恐らく本人が普通に思い出せていたそれよりも整然として緻密で深く──一群の知識として把握できている彼女だが、彼がこちらの世界に生まれてからの記憶についてはそうではない。流れを追える程度に知っているに過ぎない。
 中途半端な話だったが、彼の前世の記憶そのものがこの世界にとってイレギュラーな存在なのだから致し方ない、と彼女は自分にそんな納得のさせ方をしていた。
 いずれにせよ、彼女にとって彼の変質の原因は謎と言えば謎のままだった。

 ただ、ひとつ思い当たるフシはある。

 少年のパソコンは記憶を失う前から同じもののままだ。その丁寧に階層化されたブックマークの中に、あのショップのサイトもあった。
 少年──その頃はあの男の記憶を持っていた──が、初めてパソコンに触る機会が与えられたとき、まず検索したのがあのショップのサイトだった。
 それなりに技術に自信のあるショップなのだろうか、サイトの中にはスタッフ紹介というページもあり、そこには男の名前と顔写真もあった。まだ肉体的にひどく幼い頃だったとはいえ、それを彼が見逃したはずはなかった。

 妙な話だが、彼女の契約者は薔薇乙女とアリスゲームの行く末だけでなく、この世界の自分に対しても臆病だったのかもしれない。
 生まれ変わった年代が、本来向こうの世界で生まれた年代とずれてしまったこともあるが、彼はこちらの世界にも「自分」が生きていることを知り、改めて思い知ったのだろう。もう、今一度同じ人生を歩むことは出来ない、と。
 以前の知り合いは皆、彼と十数年の年齢差をもって、こちらの世界の「彼」と共に暮している。
 彼自身が自分の素性を隠してそこに割り込むことは容易くないとはいえ、不可能ではない。彼はそれを目指して生きても良かったはずだ。
 しかし、そこには「彼」が居る。更に十数年という時間の開きまでも存在する。それは致命的な相違でありズレだ。再び生まれ変わって時間遡行でもしない限り、同じ立ち位置を確保することは永遠に不可能だった。
 所詮この世界では、自分という人間は外から入り込んだ異物に過ぎない。
 その認識が、彼の心を内向きに閉ざしてしまったのではないだろうか。
 確証は何もないし、そもそも今となってはそんな推測に殆ど意味もない。しかし、水銀燈はそんな風に思えているのだった。

 電話の向こうでは真紅が、みつには既に連絡を取っており、次の日曜日に人形を受け取りに行くことに決めたこと、自分達は同行することなどを説明している。ところどころ声が遠くなったりしているのは、翠星石辺りがいちいち注意しているのかもしれない。
 それもまた彼女達らしい、とちらりと考え、話の切れ目で用意していた台詞を告げる。
「私は行かないわよ。請求書は取りに行くから暫く預かっていて頂戴。渡したいものもあるし」
 言いながら、大分世間ずれしたものだ、と思う。自分で用意した台詞とはいえおよそ至高の少女云々などとは懸け離れた内容だった。
 電話の向こうで真紅が長い息をついたようだった。だが、彼女はそれ以上踏み込もうとはせず、わかったわ、と答えた。
「なぁに? 仲良く一緒に行って欲しかったわけ?」
 水銀燈はにやりと、やや意地の悪いからかい言葉を放ってみた。
『そういう意味ではないの』
 躊躇うような間の後、真紅は少しトーンの低い声で続けた。
『パーツを製作してくれた男性が、貴女に逢いたがっているらしいの。電話を受けたジュンがそう言っていたのよ』
 そういうことか、と水銀燈は納得した。
「それなら、尚更行くわけにはいかないわね。生半可に興味を持たれて人形だと知れたら厄介だもの。そうでしょう?」
 真紅はまた少し間を置いた。電話に慣れていないせいで間の取り方を必要以上に気にしているのかもしれない。
『……それで貴女が良いのならば、私からは強く誘わないわ』
 本当にいいのね? と念を押す真紅に、水銀燈は目を閉じ、ええ、と短く答えた。
「用件はそれだけ?」
『ええ、これだけよ。……こういうときは、ごきげんよう、でいいのかしら?』
「この国では『そろそろ失礼します』でも良いのよ。そうね、この時刻だから貴女達には『おやすみなさい』でもいいかもね」
『そうね。それではおやすみなさい、水銀燈』
「おやすみなさい、真紅。良い夢を」
 電話を切ると水銀燈は笑い出した。どうしてわざわざ電話という手段を選んだのかまでは分からないが、最後まで真紅の声の調子が固いままだったのがどうにも可笑しくてならなかった。
 シャワーを浴びてきた媒介の少年がどうしたんだと言いたげに彼女を見たが、彼女は何でもないと手を振りながら暫く笑い続けた。笑い過ぎて薄らと涙が滲むほど笑って、それから彼女は夜の空にふらりと飛び出して行った。


 電話を掛け終えてからも真紅は暫くその場に立ち尽くしていた。やがてぶるっと身体を震わせると、ふっと息をついて漸く受話器を元に戻し、乗っていた踏み台から降りた。
 人形のことを伝えている間付き添っていてくれたジュンと翠星石は、それが済んだところで部屋に引き上げていた。水銀燈との会話ということで真紅に気を遣ってくれたのかもしれない。
「真紅ー、お電話終わったの?」
 廊下の端から真紅を見ていた雛苺が、とてとてと彼女の許に駆け寄る。
「──ええ、終わったわ。水銀燈ったら用件以外ほとんど喋らないのだもの。あの子はもう少し愛想というものを学ぶべきだわ」
 むくれたような顔を作り、真紅は強がってみせた。ほえー、と雛苺は目を瞬いた。

 彼女が水銀燈を苦手にしているのを雛苺は知っている。
 あの薔薇屋敷の一件以来、水銀燈がそれまでと殆ど正反対とも言える行動をするようになってからは、落ち着いて正論を述べる真紅と自己の美学に従って直線的に生きる水銀燈という構図は逆転していた。水銀燈は──多分全部でないことくらいは雛苺にも分かっていたが──自分の知り得たことを姉妹達に語り、真紅はそれを受け入れて今後のことを考え始めている。
 思慮深く優しいとはいえプライドも高い真紅にとっては、それはあまり面白い図式とは言えないだろう。加えて今までの関係が反対になったことで、これまでは時折論破することで辛うじて苦手意識を克服してきた水銀燈に対して、何やら手も足も出せないような気分になりつつあるのかもれしない。
 無論、雛苺はそんな小難しい言葉を並べて考えてみたわけではない。彼女は直感的に「そんな雰囲気」を感じ取り、真紅を気の毒に思っているだけだ。

 そして、雛苺は少しだけ真紅の気分を変えてあげたくて無邪気な笑顔を見せてみる。
「ねーねー、真紅」
 真紅はいつものように、やれやれといった表情でこちらを見る。雛苺はぴょんと飛び跳ねて、大好きな一番下の姉のドレスにしがみついた。
「今日もね、ヒナとっても楽しかったのよ。カナもトモエも来てくれて、翠星石とケーキ作って……怒られちゃったけど」
 えへへ、と少し舌を出す。真紅は一つ二つかぶりを振った。
「あれは翠星石に怒られても仕方なくてよ。生地にカルピスを混ぜるのは一度やって懲りているのではなかったの?」
 以前、真紅がジュンの部屋で読書に耽っている間に、翠星石と雛苺が階下で掃除機を迷走させて窓ガラスに突っ込ませた上、昼食を作ると称して何やら得体の知れない食材のなれの果てを作ったり、電子レンジの中で卵を爆発させたりしてしまったことがあった。
 二人は「のりのお手伝いをしたかった」と言っていたが、実のところは真紅ばかり相手にしていて自分に構ってくれないジュンに対して点数稼ぎをしたかった翠星石が雛苺を唆して家事をやろうとしてみた、というのが正しい。
 結果は無惨なもので、自分達が割ってしまった窓ガラスの破片の掃除以外は何一つ満足にできたことはなかったが、帰宅したのりは言い訳を聞いても怒る素振りを見せずに微笑んだだけだった。
 今日のケーキはそこまで酷くはないものの、食べられない物を作ってしまったという点では何等変わりはない。あれから翠星石の家事の腕は目に見えて上がっているが、雛苺の方はその点で進歩していると言えるかどうかはまだ微妙だった。
「うー、美味しいと思ったんだもん」
 雛苺は口を尖らせたが、すぐにまた笑顔に戻る。
「でも、次は頑張るから。うにゅーに負けないくらい美味しいケーキ、ヒナが作るのよ」
 その意気は買いたいところだけれど、と真紅は微笑んだ。
「間違っても苺大福を入れたケーキ生地を作ったりしては駄目よ」
「どうしてわかったのー!?」
 まだまだ前途は多難そうだった。

 暫くの間、真紅はいつものようにくどくどとお菓子や紅茶のあれこれについて説明し、雛苺はこれもまたいつものように半分聞き流しながら、それでも決して口を挟まずにそれを聞き終えた。
 話が終わると、雛苺はにっこりと笑って真紅を見上げた。
 くどい説明そのものには辟易することが多いが、真紅の話を聞くことは嫌いではない。それに、そういう話をしているときの真紅は何故か楽しそうなのだ。今も、話し終えた真紅は電話を切ったときの少し陰のある雰囲気を何処かに追いやれたようだった。
 もっとも雛苺はそれを、良かったね、と殊更に口には出さず、態度に表すこともしなかった。それは彼女がこの家で暮すようになってから得た最大の変化かもしれないが、本人さえもそれには気付いていなかった。
「ね、真紅」
 代わりに、雛苺は別の言葉を口にする。
「ヒナはずーっとずーっと、泣き虫の独りぼっちだった。独りになるのがいやで意地悪もしちゃったわ。でも今は違うの。ずーっとみんなで仲良く楽しく過ごしていきたいの」
 真紅が瞬いてこちらを見る。雛苺はまたにっこりした。
「水銀燈も仲良くなってくれるし、いつか……」
 真紅は雛苺の頬に手を伸ばした。漸く彼女が何を言いたいのか分かったような気がした。
「そうね、いつか」
 雪華綺晶、名前だけを伝えられてまだ見ぬ第七ドールのことも、いつか良い方に向く。雛苺が望むように仲良く楽しく過ごせるようになるのかは分からないけれども。

「──私達みんなで、アリスゲームを終わらせるのだわ」

 そう言う真紅の表情が静かな決意に満ちているのを、雛苺は頼もしく思う反面、少しばかり残念にも思う。真紅に重いことばかり考えさせたくなくて話を変えたつもりが、同じところに戻ってしまったからだ。
 優しい姉に微笑みを返しながら、失敗しちゃった、と雛苺は内心でちょっぴり後悔する。
 あるいはこの面でも、まだまだ彼女は成長の途上にあると言えるかもしれない。それでも、彼女は愚図ったりせず、次は頑張ろうとあくまで前向きに思うのだった。


3

 日曜日の午後の桜田家の客間は、あまり例がないほど満員御礼だった。
 今しがた人形を受け取ってきた面々に結菱邸の草刈をやっている最中に呼び出されて来た水銀燈の媒介の少年と蒼星石も加わって、二桁に届こうかという人数があまり広くない部屋に詰め込まれている。
 部屋の中央では人形がキッチンから持ってきた椅子の上に座らされている。あまり艶はないがしっかりしてやや多目の灰白色の髪は綺麗に梳かれ、既に真紅と翠星石の手で下着が着せられていた。
 そこに、ジュンが殆ど黒に近い濃紺のドレスを慎重に着せていく。こういった作業にはある意味彼よりも慣れているみつと金糸雀が手伝っていたが、ジュンはまるで作業を何度となくやってきたような手捌きで、決して手早くはないが丁寧に仕事を進め、彼女達の出番はそれほど多くないようだった。
「……すげぇナイスバディってか、エロいな」
 人形を直接見たことがなかった少年は、後から駆け付けたのと背が高いという理由で後ろの方から覗き込むように作業を見ていたが、少し背を伸ばすと相変わらずの直截な表現をした。
「記憶を失う前の貴方の妄想の塊だからよ」
 素材まで含めてね、と行儀悪く家具の上に腰掛けた水銀燈は口の端を吊り上げてみせた。
「何処のモデルよりも美形、というよりは妄想でしか有り得ないプロポーションではあるわね」
「そうねー、いかにも男の子の作ったお人形って感じがするわ」
 でもこういうのもいいわね、とみつは半ばうっとりと呟く。
「みっちゃん、次はドルフィードリームなんて言わないで……ね──」
「ああ、それよ! それいい! ナイスアイディアよカナ! 大人っぽい子、欲しくなっちゃったぁー」
 薮蛇かしら、と金糸雀は引きつり気味の顔に乾いた笑いを浮かべる。既にぎゅう詰めの人形棚に、近日中に新たなラインナップが加わることはほぼ確実な情勢だった。
「自分の妄想が具現化したからって、劣情を催したら承知せんですよ」
 翠星石が振り向き、上目遣いにじろりと少年を睨む。
「催さねえってば。だいじょーぶ」
 少年は顔の前で扇ぐように手を振る。それを創り出したのは記憶を失う前の自分であり、今の自分とは違うのだと指摘することはなかった。
 代わりに、少年は厭味のない賞賛の言葉を口にした。
「でもさ。そーゆーのとは別でさ、なんかすげーよ。ちょっと感動する」
 同じく一歩離れたところから作業を見ていた蒼星石は、何気なく少年の視線を追ってみる。それは人形そのものでなく、服を着せて行くジュンの手つきに向けられていた。
「……うん。凄い」
 そこにはとても繊細で美しい世界があった。蒼星石はもう一度素直に魅入っている少年の顔を見、それから自分達の着ている服についた草の匂いを意識する。とにかく早くと急かされ、庭仕事の後片付けもそこそこに、それこそ着替える暇もなく少年の自転車でやって来たのだ。
 今日の蒼星石は、結菱老人に頼まれて少年が買ってきた子供用のブルーのツナギ服姿だった。
 老人が、遅れ馳せながらドレスのまま庭仕事をさせることの愚に気付いたと言うべきだろうか。あるいは、彼女の態度に何かを感じて、少年とお揃いの服にしてやろうと考えたのかもしれない。何にせよ、今は関係ないことだった。
 自分の服と同じように、泥や草の切れ端は払い落として拭いたものの草の匂いと染みのついたままの少年の服に視線を移し、蒼星石はふっと微笑む。
 塵一つない新品の人形に、繊細なマエストロの手で着せられる新品のドレス。今さっきまで庭の池の跡の湿った土の上で灌木の根掘りに汗を流していた服装そのままの少年とは、ある意味で正反対の世界だ。
 確かに、彼はジュンのような異能を持ってはいない。取るに足る才能も持ち合わせていないかもしれない。前世の記憶も言わば水銀燈に譲り渡してしまい、恐らく彼の中には幾許かの残滓しか残っていまい。
 それでも、彼には──
「……完成ね」
「ああ」
 ジュンは溜息のような声を上げ、真紅に頷いた。真紅がゆっくりと微笑み、何かを言おうとしたとき、二つの影が二人の間に割って入った。
「ジューン! お疲れ様なのー!」
「ジュン! やっと完成させやがったですコンニャロー!」
 雛苺はぴょんと飛び上がって横合いからジュンに抱きつき、翠星石は逆側からジュンにしがみついた。
「こっこら! 放せ重たいだろっ!」
 中腰だったジュンは焦ったように言ったが、二人がそれと気付いて離れようとする前にバランスを崩して尻餅をついた。
「ってぇ……」
「ドール二人くらい余裕で支えやがれですぅ、ジュンは筋力なさ過ぎです」
 翠星石は開き直って口を尖らせ、大体お前等が、とジュンは当然の抗議の声を上げる。出遅れてしまった真紅は腹立ち紛れなのか、翠星石と雛苺を叱り付けてジュンから引き離した。
「いい雰囲気ねえ……」
 ほぅ、とみつは至福の息をつき、金糸雀はこくこくと頷いて彼女の言葉にだけ同意する。既にすっかりマニアの色に染まってしまっただろうみつの頭の中についてはあまり深く考えないことにした。彼女が構えている一眼レフにも。

 少年はその一場の寸劇のような遣り取りの間もじっと人形を見詰めていたが、やがて水銀燈に視線を向けた。水銀燈はまるでそれを待っていたかのように少年を見返し、ふっと笑みを浮かべると小さな箱を持って人形の正面に舞い降りた。
 下を向いた人形の顎を持ち上げ、咽喉もとの辺りを触れてみる。人間で言えば鎖骨の合わせ目の辺りに、思ったとおりの感触があった。
 流石はあの男の妄想の産物ね、と独りごちる。彼女の契約者はディテールに無駄に拘っていたらしい。
「水銀燈……」
 何をするつもり、と言いたそうな真紅に、水銀燈は手に持った箱を見せた。
「誰かからの力の付与無しに人形が自律して動くには、何等かの動力源が必要。もっとも、この人形のモデルになった存在のように勝手に動き出す個体も存在するけど。まあ、それは何処までも例外。ハプニングと言ってもいいわね」
 全員の視線が自分の方に向いたことを確認して続ける。
「動力源になるかどうかは保証の限りじゃないけど、ここにこんなものがあるわ」
 全員に見えるように人形を背にしてかちりと箱を開けると、薄紅色の目映い光が溢れ出た。
「何の結晶だ……?」
 ジュンが息を呑み、少年は眉間に皺を寄せた。
「LED入りのビーズ? クリスタルかい?」
「それはみっちゃんが人形棚の夜間照明に使ってるのよ……青色LEDだからもう毎晩怖くて……」
 金糸雀はぶるっと身体を震わせてから、そうじゃなくて、と手を一振りする。
「ローザミスティカ……?」
 真紅は蒼い眼を見開いていた。
「そんな……貴女、もしかして自分の」
「そういう趣味はないって言ったはずよ、お優しい真紅ちゃん」
 水銀燈は肩を竦め、自分の胸元に手をかざす。淡い光がそこに生まれ、彼女の中に本人のそれがあることを示した。
「私は貴女ほどこの人形に思い入れを持っているわけじゃない。これはこの人形に思い入れたっぷりのきちがい人形師が私に寄越したモノよ。彼女のために、ってね」
 光の加減のせいかどこか寂しそうにも見える笑いを浮かべると、水銀燈は箱の中に入っていたもう一つのものを摘んで取り出した。
「見てのとおり、契約の指輪らしきものもある。準備は万端ということになるわね」
「きちがい人形師って誰?」
 雛苺は小首を傾げる。金糸雀も疑問符を浮かべたような表情になった。
「ローザミスティカはお父様が生成したモノ。他に二つと無い物を、七つに割って作られたのが私達のローザミスティカかしら。それが他にもあったということ?」
 少し違うわね、と水銀燈は首を振った。
「この世界には無かった。私達が知覚して移動できる範囲のどの世界にも、と言い換えてもいい。ただ、私の媒介やらこの人形がそうであったように、訳の分からない歪み、ひずみが、ある繋がらないはずの世界を繋げたってわけ。
 その世界は、人形師にとっては理不尽なことに、殺し合いをしていた彼の娘達にそれ以外の方法でも目的は達成できると漸く伝えることができた直後に、時間が閉じてしまった」
「そこから先の時間は無くなってしまった……?」
 何時の間にかまたジュンの傍に来ていた翠星石が独り言のように尋ね、ジュンの服の裾をきゅっと握り締める。水銀燈は、私は専門家ではないから、と前置きした。
「無くなってしまったというのか、ある時点から先の未来に進めなくなったというのが正しいのか分からないけど、そういう理解でいいはずよ。彼は『時間が閉じた』と言っていたけどね」
 箱に元どおり指輪を戻し、蓋を閉める。溢れていた光が収まり、部屋の中は僅かに暗くなった。

 そこにこちらの世界が──より正確には水銀燈の夢の世界が──繋がった。何者のせいなのか、それとも偶然なのかは不明だが、どちらにしても閉じた世界の側から見ればこちらの世界は可能性に満ちていたことは間違いない。
 当然のことだった。こちらの世界はまだ明確な終わりに達していないのだから。
 そこで彼は、ある時点で手元に残していた二つのかけらを水銀燈に託すことを思いついた。娘達そのものとは行かないまでも、自分の作り上げた何かを閉じてしまった世界の外で生かしたいと思ったのだろう。
 あるいは最初から自分にこの小さな箱を渡すために、彼の能力で強引にこの世界とあの世界を繋げていたのかもしれない。水銀燈はあの日以来夢に出てこなくなった人形師とその工房に、そんな理解をしていた。それならば、あの世界と繋がったのが自分の夢の世界だった理由も分かる。
 それにしても、とその場の皆に分かるようにかみくだいた説明をしながら彼女は別のことを思う。

──行って来るよ、が別れの言葉になるとは皮肉なものね。

 もっとも彼は、水銀燈に宛てた置手紙と同じようにその言葉も予め用意していたのだろう。
 自分の世界では時間の超越者になってしまった彼にとって水銀燈は久しぶりの、あるいは初めての、ある程度対等に話せる相手だったのではないか。その彼女にまた逢いたいという感情を込めて、さらばではなく行って来るという表現を使った。
 ステレオタイプで俗な想像過ぎるかもしれない。だが、超越者でありながら奇妙に人間臭く虚弱な内心を抱えていた彼には、そういう未練がましい別れ言葉が似合うような気がするのだ。

「羨ましいな」
 水銀燈の短い話を聞き終えた蒼星石はぼそりと言った。
「僕も逢いたかった。逢ったら言いたいことが沢山あるのに」
 全員の視線が集まる。その口調が真剣だったから、というよりはその場の薔薇乙女達の願望を代弁したものでもあったからだろう。父親に逢いたいというのは彼女達に強固に刷り込まれた本能のようなものだった。
 たとえそれが別の世界の住人で、直接彼女達を作った人物でなくても逢いたかったと思うのは当然だった。
「特に、最後に『僕』が復活しなかった理由とかね」
 しかし、にこりと笑ってそう続ける蒼星石の口調は明るかった。
 ただ、意図が周囲に伝わるには少しばかり間の取り方が悪かった。言葉の意味自体も正確に理解できるのは水銀燈だけだった。そのせいでそれが冗談のようなものだと全員が理解するまでには暫くの時間が必要だった。
 やがて、蒼星石が冗談を口にしたという事実に気付いた者がそれぞれに驚きを示し始める。逆に言えばそれほど彼女がその手の言葉を口にすることは珍しかったとも言えるかもしれない。
 周囲の反応を置いてきぼりにして、蒼星石は少年を見上げる。
「その小箱を託したのは、記憶を失う前の貴方が見ていたアニメーションに近い世界の存在。……そうじゃないのかい、水銀燈」
 ええ、と肯定を返しながら水銀燈は他の者とは別の意味で少しばかり驚いていた。
「そこまで知識を受け取っていたのね、貴女」
「たまたま知ってるだけさ」
 蒼星石はいつか水銀燈の媒介が言った台詞を彼女に返した。もっとも、それはユーモアではなかった。掛け値なしの事実でしかない。
「あの場で僕が得てしまったごく僅かの知識の中に紛れ込んでいた。それだけのことなんだ」

──だから君は僕のことは気にしなくていい、好きなようにやればいい。

 蒼星石は流石にそこまで口には出せずに水銀燈を見遣る。彼女が近いうちに、あるいはここから何かを始めようとしているのは明らかだったが、それがどういうことであれ自分はそれに対抗できるほどの知識を得たわけではないし、止める手立ても持っていない。

 視線の意味を正確に理解したかどうかは分からないが、水銀燈は軽く頷いた。異世界の人形師の話をするのを打ち切りたかったのかもしれない。
「まあ、そういう出所の怪しい品物よ。これはね」
 あっさりと言い切って、もう一度箱を開ける。今度は目映い光の源を取り出し、ジュンの手にそれを握らせた。
「ちょっ……お前」
「神の手、と言ったら大袈裟かもしれないけど、多分世界でただ一人の技術を持つ者。そしてその人形の仕上げをした者。最後の仕上げにこれを入れるのは、貴方がもっとも相応しいからよ」
 それに、と少しばかり皮肉な顔になる。
「貴方と貴方のパートナーに、その人形ははっきりと敵対したことがある。本当に動き出させていいのかどうか、その判断も任せるわ。私の依頼した協力の最後の一つと思ってもらってもいいわよ」
「そんな、急に」
 抗議しかけるジュンを水銀燈は手で制した。
「最初にこの人形のボディの製作を依頼したときから貴方にも分かっていたはずよ。もし敵対したときにどれだけ厄介な相手になるか、そして実際に敵に回る可能性が有り得るということも」
 ジュンは言葉に詰まった。それは考えたくないから後回しにしていた事柄でもあった。目の前の魅惑的な作業に没頭するあまり忘れていたというよりは、判断を後送りして、できれば他人に委ねたかった選択だった。
「……お前はどうなんだよ。動かしたいのか、この子を」
 辛うじてそう反撃してみるが、水銀燈はあっさりと頷いてみせた。
「動かしたいと思っているわよ。例えば私が動力を与えた時点でその人形に屠られるとしても。もっとも、そうなったら必死で抵抗はするし、ただで勝たせてやる気なんてさらさらないけどね」
 その言葉もまたあっさりとしたものだったが、表情には最近あまり見せなくなった獰猛さが表れていた。
「私自身はその人形が自律して動くことにその程度の価値はあると思っているということ。ただ、貴方には貴方の価値観があるでしょう。私の意向は置いておいて、それを尊重してくれればいい。これでいいかしら?」
 ジュンは頷いた。
「……わかった」
 手の中のかけらを見遣る。一旦それを軽く握り締めて顔を上げ、ぐるりを見回した。
 翠星石は不安そうに、雛苺はにっこりと、真紅は励ますようにやや固い微笑で彼に視線を返した。金糸雀は成り行きを見守る表情になっており、みつはにっと笑って頷いた。
 視線を斜め後ろに遣る。彼を注視している蒼星石の顔は生真面目だったが、それ以上の感情は読み取れなかった。水銀燈の媒介の少年がにやりと笑い、まるで庇うように半歩蒼星石の方に動き、ジュンに片手の拳を突き出して親指を立ててみせた。
 ジュンは少年に同じように親指を立ててみせる。ドール達にとっては不本意かもしれないが、ジュンには少年とみつの態度が背中を押してくれたように思えた。

「この子に、このクリスタルを入れる」

 改めて水銀燈を見詰め、ジュンは宣言するように言った。彼女の言葉に怯えたわけでも、気圧されまいと意地を張ってみたわけでもない。自分自身に気合いを入れるためだった。
 もっとも、クリスタルが真にローザミスティカに相当するものだったとしても、それを埋め込んだからといって直ぐにどうなるというものでないことは分かっている。
 もし人形の動く原理までが薔薇乙女と同じならば、発条に該当するものを巻いてやることで初めて人形は動き出す。そして永続的に動き続けるためには契約が必要──いや、もし人形が見たまま水銀燈に近い存在であれば、契約は直接必要ないのかもしれないが、どちらにしても動力源を埋め込んだだけでは動き出しはしない。
 それでも、ジュンは自分に気合を入れたい気分だった。

 改めて人形の横顔を見る。これが動き出すかもしれないという想像は、水銀燈の指摘したような危険性とはまた違った何かをジュンに感じさせた。
 画龍点睛という言葉があるが、ある意味ではまさにこれがそうなのだろう。動かないはずの人形に最後の一ピースを付け加えて、自律して動くようにしようというのだから。
 掌をそっと開くと、また光が溢れ出す。妙に輝きの強いそれはやはり何処となく作り物めいていて、少年の言ったようにLEDを仕込んだアクリルの小物にも思えた。
 だが、ジュンにとって今はそれはどうでもいいことだった。人形が薔薇乙女のイミテーションであるなら、これは間違いなく龍の目玉の点一つ、最後の一ピースと言っていい。
 危険は当然のようにあるかもしれない。薔薇乙女六人を相手取って全く退かなかった凶暴な力はジュンの記憶にも新しい。だが、同じく水銀燈が言っていたように、この人形を完成させることにはそのリスク以上の「何か」があるような気がした。
 何より、自分の手でこの人形を完成させることを了解し、胴部の原型を作ったのはジュン自身なのだ。
 彼は意を決したように掌を人形の喉元に持っていく。光源が移動し、動かない人形の顔に微妙な表情をつけた。
「この辺で……いいんだよな」
「そうですぅ」
 小さく肯定の返事をしたのは意外な声だった。
 翠星石はジュンの服にしがみついたまま、彼と一緒に動いていた。
「ここ……です」
 小さな手が僅かに下、鎖骨の合わせ目の辺りを指す。ジュンはその指し示すとおりにクリスタルを置いた。
 一瞬、クリスタルは目映く光ったかと思うと、そのまま溶け込むように人形のボディの中に消えていった。
「これで、いいのか?」
「……です」
 翠星石は腕を回し、ジュンの服に顔をうずめて彼を抱き締めるような姿勢になった。
「よくやりやがったです、ジュン」
「お前が素直に他人を褒めるなんて珍しいな」
「失礼なこと言いやがるんじゃねーです! 翠星石はいつでも率直で素直ですよっ」
 くぐもった声は何故か涙声のようにも聞こえた。
「ははぁ、お前感動して泣いてるな。それで僕の服に顔を押し当ててるんだろ?」
「ばっ、バカ言うなです。泣いてなんかねーです!」
 ジュンのからかいに、服にうりうりと顔を擦り付けながら、翠星石はあくまでそう言い張った。

「これで、後は」
 真紅はまた行儀の良くない位置に舞い戻っている水銀燈を見上げた。
「ええ。キーを入れて回すだけよ」
 水銀燈はまるで自動車を始動させるときのような言い方をした。
「薇ではないのかしら」
 金糸雀が訝しげに首を傾げる。雛苺は急に訳知り顔になり、金糸雀をつついて人形の背面に移動した。
「キーなのよ……ほら」
 少し伸び上がるようにして指差したそこには、薔薇乙女達のような丸穴ではなく、細い縦長のスリットがやや斜めに開いていた。
「み、妙に近代的かしら」
「設計した男の趣味の一環ね。全く何を考えていたんだか」
 言いながら、水銀燈は例の小箱にいくらか古びた小さな両面キーを入れた。つまんない品物、と呟いて口の端を歪める。
 それは彼が一番長く乗りつづけ、死んだときにもまだガレージに置いてあったバイクのキーだったが、それについてはいま敢えて語るまでのこともないだろうと彼女は思う。あまりにありきたり過ぎて気が向いた者は何も言わなくてもそれと類推できるだろうし、興味のない者には言う必要もないたぐいの話だった。
「誰が巻いてあげるのかなー?」
 みつは軽い調子で、興味津々という顔で尋ねたが、しかしその眼は笑っていなかった。先程の水銀燈の言葉がまだ耳に残っている。人形がいきなり大暴れを始めないとは限らないのだ。
「それは私が──」

「──私が巻くわ」
 ゆっくり口を開こうとした水銀燈を制するように、真紅はやや早口に、しかしはっきりとした口調で言った。
「リスクは分かって言っているのでしょうね? 真紅」
 水銀燈は肩を竦め、十分に分かっているわ、と真紅は頷いた。
「この子の胴部を戦いに堪えられるほど強い素材で作ってと頼んだのは私だもの。目覚めたこの子がまた私を狙うとしても、私がこの子のゼンマイを巻く。それくらいはしても良いでしょう、水銀燈」
「ええ」
 水銀燈はにやりとして床に降り立った。
「貴女がもしバラバラに砕け散っても、ローザミスティカくらいは拾ってあげるわよ」
「生憎だけれど、貴女に託すつもりはないわ。もしものときは……」
 振り向いて、ジュンに縋り付いたままの翠星石に微笑む。
「下僕を共にする貴女に受け取ってもらうわ、翠星石。雛苺との契約も貴女に委ねるけれど、立場が変わっても雛苺を苛めたりしてはだめよ」
「真……紅?」
 翠星石は意外な言葉に戸惑うように瞬いたが、ぶんぶんと首を振る。
「駄目です! そ、そんなのダメなんです! す、翠星石は絶対そんなモン受け取らねーですよ。だから変なこと言わないで……」
「もしものとき、よ。早とちりしてはいけないわ」
 真紅は微笑み、水銀燈から小箱を受け取ろうと歩み寄った。
「ジュンを一番想っている貴女に託すのが、私の──」
 小箱に伸ばした手は、しかし空を掴んだ。横合い、というよりは斜め上から、まだ染みついたままの草いきれの匂いが水銀燈の手の中のものを攫って行った。
「はいはい、誰か忘れてやしませんかっと」
 少年は雑な手付きで箱を開けてキーを取り出し、箱の方は蓋を閉めようともせずにジュンの手にぽんと押し付けた。
「俺にも多少はお鉢回してくれてもいいんじゃね? 元々俺の妄想が作ったもんらしいし、俺がネジ巻いたって構わないよな?」
 呆気に取られたり、出遅れた抗議の声を上げたりするその場の面々を、いっそ呆れたような顔で彼は見回す。
「大体そんな深刻な話じゃないだろ? なんかあったら俺が抑え付けてやるよ」
 それは特段恰好を付けてみたというわけではなく、明らかに、単に事情を知らない人間の発言だった。蒼星石は息を呑む。

──そうだ。この中で、彼と金糸雀のマスターだけは知らない。

 水銀燈のそれとは全く段違いとも言える、無限の羽をまさに自在に操る人形の能力や、少なくとも一度は覚醒した瞬間から圧倒的な憎悪をもって彼等に敵対した事実を。
 あるいはみつは金糸雀から人形の恐るべき力を聞かされていたかもしれない。だが、少年は何も知らされていないようだった。
 蒼星石は警告の声を上げようとしたが、少年の方が先に口を開いた。
「それに、早いとこ動けるようにしてやんないと可哀想じゃん。大体、みんなこの子に失礼だぜ。動けないだけでみんなの話し声は聞こえてるんだろ?」
 蒼星石は言いかけた言葉を飲み込んだ。それはこの場で多分少年──と、敢えてもう一人挙げればみつ──だけが持つことのできる視点だった。
 無論、事情を知らないから、周囲の反応から類推できるほど頭が回っていないから、と切り捨ててしまえばそこまでの話ではある。だが、それでいいのだろうか。
 椅子に座っているのは危険な存在かもしれないとはいえ、ここまで何人もの手を経て漸く完成した人形だ。
 薔薇乙女とは違うベクトルの上に存在するとはいえ、同じように自律して動き、コミュニケーションを取り、考える存在なのだとしたら、それをただの危険物として扱ってよいのだろうか。それは人形だけでなく、この場にいない製作者達、その想いをも踏みにじるものではないのか。
 少年は蒼星石のそんな逡巡に気付くはずもなく、単純に納得できないと言いたげな表情のまま、人形の後ろに回り込む。
「こいつ、俺の夢ん中でずっと独りだったんだろ? ……ごめんな、今、動けるようにしてやっから」
 後ろからわしわしと折角整えた髪を乱暴に撫で、翼の意匠が刻印された小さなキーを差し込んで無造作に捻り──

 水銀燈は思わずびくりと身体を震わせた。
 丁度いいところだというのに、それを狙い澄ましたようなタイミングですぐ外から矢鱈に金属的で喧しい2ストロークエンジンの吹け上がる音が聞こえたからだ。

──何処の馬鹿野郎よ、一体。

 いつもなら聞き流してしまう音だが、流石にこのタイミングは酷すぎる。かっとなり、窓から羽根でも飛ばしてやろうかと身体を捻って身構えた。
 だが、騒音を振り撒いた相手を探そうとした彼女の目には意外なものが飛び込んできた。
 そこに「窓の外」はなかった。後ろを向いた彼女の視界には小奇麗に整頓された家具類と良く掃除された壁紙しか存在していなかった。
 状況はすぐに飲み込めた。いつものように、繁華街の裏手の安アパートの二階で開いた窓を背にして立っていたわけではなかったのだ。
 ここは閑静な住宅地にある桜田家の、廊下と壁に囲まれて窓のない客間で、彼女は室内で壁を背にして立っている。あまりに近かったエンジンの音に、それをつい忘れてしまっただけの話だった。
 しかし、それは無理もないことだった。仮にこの家のほんの近くで誰かが無闇にスロットルを開けて始動したのだとしても、塀とガラスと壁越しということになる。普通に考えれば、戸外のエンジン音があれほど喧しく聞こえるはずはなかった。

 彼女は一瞬ウロがきたようにぽかんとしたが、はっと気付いて人形の方を見遣った。
 人形の背後で少年がゆっくり息をつくのと同時に、人形は薄っすらと切れ長の瞳を開け始めていた。


4

「──お目覚めね」
 水銀燈は一つ頭を振り、にやりと、しかしやや固い笑いを浮かべて人形に近づいた。
「初めての実体の気分はどう?」
 人形はゆっくり瞬き、薄紅色の瞳を半眼にしてやや斜め下の水銀燈を見詰め、憎々しささえ感じさせる声音で答えた。
「……最悪」
 言い終わると同時に人形は椅子に手をつき、勢い良く飛び出そうとして──後ろから伸びてきた腕に腋の下を抱えられ、そのままひょいと持ち上げられて椅子から引き離された。
「何っ?」
「窮屈だと思うけど勘弁な。ここで暴れるのは無しってことでさ」
 少年は自分の言葉どおり、身体で抑え込もうとするように人形を後ろから抱きすくめてみせた。
「これでいいだろ?」
「そうね、貴方にしては上出来だわ。初めて役に立ったんじゃない?」
 もっとも肝心なのはその姿勢から羽根を飛ばされたときに圧力に耐えられるかどうかってところね、と水銀燈は乾いた笑い声を立てた。そうなれば少年は到底耐えられまい。
「ま、貴女もこんな大勢を纏めて相手にするつもりはないでしょうけど」
「……ええ、そのとおりよ。ドール六体にミーディアム三人。これ以上の不利はないもの」
 人形は怒りを抑えているような声で言った。薄紅色の瞳は怒りを湛えて紫がかっている。
「忌々しい女。何かといえば数を恃んで威圧するしか能がないの? 見下げ果てたカスだわ」
「挑発しているつもりなら意味がなくてよ、お馬鹿さん。単独では到底貴女を止められないんだもの、何等かの方策を取るのは当たり前でしょうに」
 水銀燈は椅子の上に飛び乗り、人形と視線の高さを合わせた。目が合うと人形の瞳は一層鋭く光ったが、水銀燈は醒めた目でそれを見返した。
「確かに私が貴女をnのフィールドに置いておきたくなかったのは事実。それに同情や憐憫なんてものを絡めたつもりはないわ。まだ自我の定まっていない、記憶も曖昧なところを残している貴女は、私にとってあの場所に置いておくのは危険過ぎた。それが、私が貴女をこちらに引き摺り出した理由よ」
 それに、と水銀燈は怒りに燃えるように小さく揺れる人形の瞳を見詰め返した。
「こちらに出て来たい、というのは貴女の願望でもあったはずじゃないかしら。利害が一致したから私は貴女を現実世界に連れ出し、貴女も敢えてそれを受け入れた。それを忘れてもらっては困るわね」
「……っ」
 人形はぎりっと歯を食いしばる音が聞こえてきそうな表情になった。
 いっそ相手が余裕綽々の、あるいは憐憫たっぷりの態度を取っていれば安易に激発できたかもしれないが、目の前の水銀燈は感情の篭らない言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰したような顔をしている。それが人形の気勢を後僅かのところで殺いでしまっていた。
 そして、そのことが人形には酷くもどかしく腹立たしい。
「感謝しろって言いたいわけ? アンタに」
「まさか」
 水銀燈は苦笑した。
「もし誰かに感謝したいなんて殊勝な気分になってるなら、私以外の誰かにすべきね。俗な言い方だけど、誰も見返りを求めずに貴女の完成に手を貸したのだから」
 水銀燈は周りの面々を示すように片手を振り、その手を胸のところに当てた。
「私達を作ったのは一人の人形師。何処までも追っていけば、それは無数の人の手が関わっていると言えば言えるかもしれないけどね。でも、積極的に私達を作ろうとして関わったのは、あくまでその人形師個人に過ぎない」
 唐突に何を言い出すのか、と人形は虚を突かれたような表情になった。水銀燈は視線を逸らさずに続ける。

「でも貴女は違う。
 少なくともそこの人間──桜田ジュンは、貴女の欠けていた部分を補うために何日も掛けて試行錯誤した末にパーツを完成させた。
 翠星石はパーツが仕上がるまで貴女のために鞄を提供した。
 二人とも本来の貴女のボディを作った男とは直接の関わりさえ持たないのにね」

 実際にパーツを作った男のことには、水銀燈は言及しなかった。他の名前を出すだけで人形が思い出すには充分のはずだった。何しろ丸々二週間は男の許に居たのだから。
「何人もの思いが込められてる、と言ったら大袈裟かしらね。ただ、その結果として貴女のそのボディはある。それは間違いないことよ」
 水銀燈は目を伏せ、面倒な話よね、と独り言のように呟いてから、また真っ直ぐに人形を見詰めた。
「係累もいなければ目的も見失っている状態の貴女を現実世界に引っ張ってきたのは酷だったかもしれない。それを恨みたいのなら幾らでも恨んで貰って構わないわよ」
 肩を竦めてふっと息をつき、一拍置いて続ける。
「ただ、貴女に多少なりとも矜持やら誇りというものがあるのなら、恨む相手は私以外に求めないことね。このお人好しの集団は全くの好意だけで貴女の完成に手を貸したに過ぎないのだから」
 それだけよ、と放り出すようなあっさりした口調で水銀燈は話を終え、そのまま人形の顔を眺めた。
「見縊らないで。そんなことくらい分かってる」
 人形は険悪な表情のまま目を細めた。
「分かってるからムカつくのよ。こいつらみんな、結局手前勝手な思い込みを押し付けてきただけじゃない」
「そうね。なまじ思惑も何もなく、貴女への同情と共感と幾らかの楽しい妄想だけで出来上がったのが貴女の胴部と衣装と言えるかもね」
 水銀燈はその場に誰もいないかのようにあっさりと人形の発言を認めた。
「それに、貴女の記憶の中にある『水銀燈』らしくもなく、こうして群れて馴れ合っている──」
「──そうよ! アンタが一番滑稽で汚らしくて気分が悪くなるわ。反吐が出るくらいにね!」
 あはははは、と人形はやや金属的なヒステリックな声で笑った。

「何でも知っています、って澄まし顔してるくせに、やってることは数を恃んで馴れ合ってるだけ!
 逆十字を標された最凶のドールが聞いて呆れるわ! 結局独りじゃ何もできないんじゃない、至高の存在を目指してます、なんて口で言ってるだけ。
 呆れるのを通り越して笑えるわ。おぞましいったらありゃしない」

 翠星石は首を振った。
「そ、それは違いま──」
 そうではないのだ。妙に挑発的な態度を取っているが、水銀燈は恐らく──

「──ええ、そのとおりよ」
 何かを言いかけたのが誰なのかまで気に留めようともせずに水銀燈はその言葉を遮った。

「私は予定調和を壊したい」

 貴女には直接関係のないことだけどね、と人形を見上げる瞳には先程見せた獰猛な光が戻っていた。
「至高の少女となってお父様の愛を得ること。そこは変えようとしても変えられない。当然ね。それは私達薔薇乙女の宿命であり本能のようなものなのだから。
 ただ、自分の経験とあの男の記憶を合わせ持ったことで、私には幾つか見えてきたからくりがある。まだおぼろげに見えているだけではあるけどね」
 最近の新しい視点には自分の夢の中での人形師との会話もヒントになっているのだが、そこまでは彼女は言及しなかった。蛇足に過ぎないし、そのことで大きく視点が変化したわけではない。
「姉妹七人が揃ったこの時代のうちに、それをぶち壊してやる。それが今の私の目的。そのために必要なら姉妹で群れたり馴れ合ったりなんて幾らでもやってやるわ。たとえ私のやってることが蟷螂の斧に過ぎないとしてもね」

──やはり、そうなのか。

 周囲が凝固したように静まり返っている中で、蒼星石は顎を僅かに引いて水銀燈の横顔を見遣った。
 何かを彼女が目論んでいるのは分かっていた。それが造物主である父に牙を剥くものである可能性もあるとは思っていた。
 だが今彼女が口に出したのは、流石に予想できなかった言葉だった。それはアリスゲーム自体を壊すということと同義ではないのか。
 急に自分の体内のローザミスティカの脈動をはっきりと意識する。人間であれば心臓の鼓動がはっきりと聞こえるというところだろうか。まるでなにかと共鳴しているようにさえ感じられるほど、それは大きくなっていた。

──この場でそれを明かすということは……

 自分も凝固したように身体を強張らせ、脈動に耐えながら、蒼星石は考える。
 結論はすぐに出た。

──始めるつもりなのか。ここで、このときから。

 数歩下がった位置から成り行きを見守っていた真紅も、殆ど同じ結論に達していた。
 彼女は蒼星石ほど水銀燈に近い立場にない。水銀燈の媒介の記憶も全く受け取ってはいない。他の姉妹と同じように、ほんの僅かな断片を水銀燈の口から聞いているだけだ。それは水銀燈の状況説明に都合のいい部分だけを取り出したものだろうということも分かっていた。
 それでも、彼女には今まで蓄積してきた知識と積み重ねてきた思索がある。自分なりの展望も持っている。それは水銀燈のように激烈なものではなかったが、広い意味では造物主の意図に沿えないかもしれないと危惧してもいた。

──馴れ合いのときは終わりが近いというの、水銀燈。

 それはいずれ来ると覚悟していたこととはいえ、真紅にとっては哀しい認識だった。
 真紅が、自分の右腕をもいだ相手にも関わらず、契約者であるジュンの不信を諌めてまで苦手な水銀燈と友好的に接してきたのは、もしかしたら水銀燈が自分と似た構想を持ち始めているのではないか、あるいは暫く友好的に過ごしていればこちらに考えが傾いてくれるのではないかという願望も込めてのことだった。実際、水銀燈は次第に軟化してきているようにさえ思えたのだ。
 だが、現実はそれほど甘くはなかったようだった。いつか水銀燈が言っていたように、自分はとんだ甘ちゃんなのかもしれない。
 真紅は唇を噛んだ。哀しみと敗北感と自責の思いで打ちのめされそうになりながら、それでもどうにか真っ直ぐに立っていた。彼女が弱みを見せていいのは、ジュンと二人きりのときだけなのだ。

「……下らない」
 凍りついたようなその場の面々の中で最初に動いたのは、少年の腕の中の人形だった。
「それがアナタの願いなら、わたしは──」
 どっ、と音を立て、人形の背中から黒い羽が噴出する。少年は声にならない呻きを上げ、それでも堪えてみせたが、僅かに腕を緩めた隙を突いて人形は空中に飛び出した。胸板を派手に蹴られた少年はバランスを崩して倒れる。
「──アナタの願いをぶっ壊してやるわ。……レンピカ!」
 青く光る人工精霊がふっと現れ、客間と隣の部屋をつなぐ戸のガラス部分が瞬時に暗黒に変わり、狭い水面に小石を投げたように波立ち始める。
「な、何するつもりですかっ」
 搾り出すような声で翠星石は、どうにかそれだけは口に出した。
 人形は初めて水銀燈以外に薄紅色の視線を向け、翠星石のぎくりとした表情に対して何故か少しばかりの笑みを浮かべる。それは、どういうわけかとても素直で、何処か寂しげな表情だった。
「……アナタ達が仲良しごっこをする分には関係のない事よ」
 そして言い終わらないうちに身を翻し、強引にドアに開けた入り口からnのフィールドへと消えた。
「メイメイ!」
「追って、ピチカート! 2号も!」
 水銀燈と金糸雀が辛うじて人工精霊を呼ぶ。メイメイはいつものような調子付いた動きではなく、珍しく真っ直ぐに入り口をくぐった。小さな人形を投げつけられたピチカートは一瞬たじろぐような動きをしたが、それでもどうにかそれを引っ張るようにしてnのフィールドに消えていき、その背後で暗黒の扉は閉じてしまった。


5

 二つの人工精霊が消えてしまうと、客間には凝固したような静寂だけが残った。
 人形の残した黒い羽根がひらりと舞い、ジュンの目の前を横切る。なんと表現していいのか分からない、ただ何処となく後味の悪さと空虚さだけが支配する中で、ジュンはそれを手に取った。
 軸を指で挟み、くるくると回す。羽根はあのときと同じ、水銀燈のそれと全く見分けが付かないものだった。
 この場で一番根拠のない楽しい妄想をしていたのはジュンだったかもしれない。もう少し穏やかな、暖かな、祝福された目覚めになるものと漠然と思っていたのだ。
 だが、蓋を開けてみれば人形をnのフィールドから引き出した水銀燈本人は至ってドライに人形の脅威を指摘し、そして、残念なことにそれはほぼ当っていた。怪我人が出なくて良かったと思ったほうが良さそうなほどの険悪な一幕だった。
 羽根を回すのをやめてふっと息をつく。この一月という時間は何のためにあったのだろう、という徒労感がじわじわと湧いてくるようだった。
 服の裾を引かれる感触があって下を見ると、彼の契約した二人の薔薇乙女がこちらを見上げていた。真紅はジュンを心配するような表情で何処かすまなそうに、翠星石は今にも泣き出しそうな顔で助けを求めるように、並んで彼の顔を仰いでいる。
 ジュンは微笑むように顔を歪めて二人を抱き寄せた。真紅は安堵したように長い息をつき、翠星石はまた涙を誤魔化そうとするように彼の服に顔をうずめた。

 静寂を破ったのは、雛苺の声だった。
「ほんとに痛いとこないの?」
 殆ど誰も気が付かないうちに、彼女は蒼星石よりも水銀燈よりも早く、多分人形が飛び出してすぐに少年のもとに駆け寄っていた。
「うん」
 頭ぶつけてねーし大したことねーよ、と少年はにっこりして雛苺の頭をうりうりと撫で、いてて、と言いながら立ち上がった。蒼星石が心配そうな顔で歩み寄ると、少年はやや丁寧にその頭も撫でた。少年の手は少しばかり草の匂いがした。
「ごめん。逃がしちゃった」
 今までの話をどう聴いていたのか、少年は緊張感のない、悪びれない表情で片手で拝むような仕種をしてみせる。そこここで溜息が洩れ、全員の間にどこか弛緩したような空気が流れた。
「痛いのは大口を叩いた罰ってところかしらね」
 水銀燈は先程の自分の言葉などどうとも思っていないと言いたげな、普段と変わらない態度でにやりと笑う。
「あれを喰らってたじろがない方がおかしいけど。現実世界でも健在だったわね、あの無茶な力は」
「ありゃひでーよ。せいぜい刺すんだろうな、くらいしか思ってなかった……」
 少年は上半身いたるところに刺さった黒い羽根を抜き始めた。
「刺されるのは大丈夫なの?」
 雛苺は目をぱちぱちと瞬いて少年を見上げる。そっちは慣れてるぜー、と肩の辺りの羽根を抜きながら少年はちらりと自分の契約した黒衣のドールを見遣り、それから漸く思い出したように全員を視野に入れて頭を下げた。
「ホントごめん。特に桜田と真紅……」
「全くです。でかい口叩いて暴走するなんて、お前は全くのアホ人間ですぅ」
 翠星石がジュンの服から顔を上げ、眼の端に涙の溜まったまま口を尖らせる横で、真紅は少年の傷だらけの顔を見上げた。
「でも、誰がやってもあの子は止められなかったでしょう」
 まだ顔の強張りが残って、やや固い表情になってしまったが、それでもぎこちなく微笑む。
「ありがとう。私が巻いていたら、本当に壊されていたかもしれない」
 少年は照れたような少しばかり困った顔になり、口の中でもごもごと謝罪なのか感謝なのかよく分からない言葉を呟く。水銀燈は面白そうにそれを眺めた。
「真紅が自分のナイト以外に素直に感謝の言葉を言うなんて殆どないことよ。一生ものだからよく記憶しておきなさい」
 真紅は一瞬意味を掴みかねたような表情になったが、その顔はすぐに真っ赤に染まった。
「……貴女の感謝の言葉なら、翌日は香港で大雪が降るのでしょうね、きっと」
 苦し紛れの言葉に水銀燈はひらひらと手を振って応える。
「あらぁ。そんな素晴らしい効果付きなら、誰かに雇ってもらおうかしら。世界経済に大打撃を与えられるものねぇ」
「物の喩えに決まってるじゃないの」
「分かってるわよ、お利巧さんの真紅ちゃん」
 水銀燈はにやりと笑い、そこまでで真紅をあしらうのを切り上げて床に散乱した黒い羽根を眺めた。椅子の上からその周囲に、まるで烏をまるまる一羽毟ったような量が落ちている。
 ほんの一瞬のことなのに、凄まじい量を放出したものだと思う。人形の怒りがそこに凝縮されているようにも見えた。

──不安と嫉妬、と言うべきかもね。

 やや目を伏せ、飛び去った人形に思いを馳せる。似た姿だから、あくまで知識としてだが同じ記憶をほぼそっくり持っているから、という理由だけではなく、水銀燈には人形の心情がある程度理解できた。
 要するに人形は、ジュンの部屋の雰囲気が堪らなく辛く、自分に向けられる無償の好意が酷く鬱陶しかったのだ。
 自分にはどうやっても戻れない和気藹々とした場所を髣髴とさせる、部屋の中の雰囲気。自分には絶対に占められない位置。その人々から向けられる、「自分たちとは違う可哀相なお人形」に対する同情と憐憫と身勝手な期待のようなもの。
 それらは『水銀燈』が『真紅』から受け、完全にトラウマと化し、最後まで克服できなかった仕打ちと全く同一の種類の、そして恐らくは更に苦しい経験だったはずだ。
 だがプライドの高い『水銀燈』の性格──それは当然ながら水銀燈にもとても近い──と記憶を持たされた人形は、自分がまたもや同じことをされて同じように苦しんだことは直接表に出せなかった。
 それがまた苛立ちと憎悪に拍車をかけ、結局それら諸々は、水銀燈への憎悪という形で収斂したのだろう。
 そして、それは確かに水銀燈の不手際、あるいは見込み違いによるものだったのも事実だ。

 彼女に幾つかの誤算というか見積もり違いがなければ、もう少し友好的な始まりがあったかもしれない。
 例えばジュンの手を経ずに、原型製作から全て誰かに──パーツそのものを作った、こちらの世界のあの男にでも──頼んでしまえばよかったのだろう。
 彼は恐らく相当の時間をかけてパーツを作り、見事なバランスで組み上げ、しかも代金すら全く受け取ろうとしなかったという。普通なら恐らく何万円かにはなるはずの、経費も馬鹿にならない仕事だというのに。
 彼が御伽噺に出てくるような全き善意の塊というわけではないだろう。彼なりに何か感じるものがあったに違いない。それは勘違いに起因するものかもしれないが、それで彼の心が満たされたのなら、好意として受けておいていいのだと彼女は思う。
 胴部のパーツを原型どおりに作るだけでさえそういう思いを持った彼のことだ。確証はないけれども、仮に向こうの世界の彼と同じ立場と技術を持っていると仮定するなら、稚拙な出来になったかもしれないがフィギュアを参考にして胴体部の原型まで自分で作ってしまっただろう。
 衣装についてもどうにかして調達してしまったに違いない。注文するか伝を辿るか、どちらしてもそのくらいの実行力は持っているはずだ。
 そうすれば、人形の心があそこまでこじれることはなかっただろう。むしろ、静かな場所で彼に全てを委ねられたら、酷く穏やかで素直な──夢の世界の中で、二人きりで旅をしていたときのような──心で居られただろう。
 もしかしたら動き出した人形が彼に自分の知り得る全てを明かし、彼とずっと生きていくような道を選ぶことさえ有り得たかもしれない。
 しかし、あれこれと想像の翼を広げたところで今となっては繰言に過ぎない。人形は怒りと新たな傷を抱えて飛び去ってしまった。

──今度会ったときは殺されても仕方がないわね。

 あっさりとそういう考えが浮かび、水銀燈はそのことに納得してしまっている自分が少しばかり可笑しくなった。予定調和を壊したいなどと派手なことを言い放った割には、だいぶ達観してしまっているものだ。

「──水銀燈」
 黙り込んだ水銀燈に最初の一声を掛けたのは金糸雀だった。
「幾つか質問してもいいかしら。私達、貴女から聞いて少しは事情を知っているけど、まだ分からないことが多すぎると思うの」
 水銀燈は視線を上げ、腕を組んだ。
「いいわ。答えられることは答えてあげる。私も無限の知識を持っているわけじゃないけどね」
 あまり力のない笑いが口許に浮かぶ。だがその諧謔を金糸雀は受け取らず、軽く頷いて真剣な表情になった。
「まず、一つ目ね。貴女の言ったこと……からくり、とはどういうことなのかしら」
 いきなり本題に切り込んできたか、と水銀燈は内心苦笑した。
 金糸雀にはそういうところがある。普段は可愛らしく少しばかりそそっかしい少女だが、それだけにこういうところでずばりと本質を突いても許される雰囲気があるし、本人も知っていてそれを利用しているフシもあった。
 真っ直ぐ切り込むことを避け、幾つか得やすいヒントを得てそれを組み合わせることで事実を類推する癖のある真紅、逆に直感に頼って平押しに真っ直ぐな質問を繰り返すことしかしない翠星石と雛苺、一度自分の中でストーリーを組み立ててしまってから確認を取る蒼星石……それら姉妹達にはない手強さが、金糸雀には確実にある。
 そして、ここで仮に水銀燈が説明を拒んでも、彼女は精々不満げに口を尖らせるだけで、けろりとして次の質問に移るだろう。そういう強かさも彼女にはあった。
「まだ正しいかどうかは分からない。ただの見込み違いの可能性もあるけど」
 前置きして、水銀燈は金糸雀の瞳を見詰めた。
「アリスゲームは単純な小石の欠片の奪い合いじゃない。戦いはそれと分からないように何処かで制御され、恐らく姉妹全員が揃ったときでなければ決着は着かないようにできている。その一端が垣間見えたというわけ」
「それが、からくりなのかしら」
 水銀燈は頷く。
「例えば力ずくで奪ったとしても、ローザミスティカは即座にそのドールの力になるわけじゃない。あるいは、力は使えても副作用が残る」
 真紅に視線を移すと、彼女は他愛のない怒りをもう何処かに追い遣り、生真面目な顔でこちらを見詰めていた。
「貴女が雛苺からローザミスティカを奪わずに下僕としたことは、リスクを回避する方策として正しかったようね」
 真紅がそんな意図はないと抗議するのを、知っているわ、そういう側面もあるということよ、と水銀燈は受け流した。
 その遣り取りを見詰めながら、蒼星石はぎゅっと拳を握り締める。

──そして君も、リスク回避のために僕を生かした。そういうことだね。

 予想していたこととはいえ、あまり認めたくない話だった。ローザミスティカの脈動は治まっていたが、逆にその分、冷たいものが体の中を駆け巡っているような気がした。
 あの場で自分が倒れていれば、自分は確実に翠星石にローザミスティカを託していた。漫画の成り行きもそうだったようだが、あの時点で自分に他の選択肢は無かったように思う。
 それは水銀燈にとって嬉しくない展開だったのだろう。一人で二つのローザミスティカを持った翠星石が水銀燈の脅威となるのは確実だし、だからといって横取りしても蒼星石のローザミスティカが水銀燈に副作用をもたらさないとは限らない。
 最も確実で構想を練りやすいのは、蒼星石に恩を売って生かし続けることだ。

──そして僕は、分かっているくせに君の提案に乗った。

 いや、分かっていたからだ。どういう展開が待っているか断片的とはいえ知っていたからこそ、一度はそれを選んだのに、幾つかの短い説得の言葉だけでその選択肢を捨てた。
 そこに、例えば野心などという大層なものはなかった。契約者と双子の姉を悲しませるのが辛く、そして何よりも自分自身が長いこと孤独に彷徨い苦しむという未来図に耐えられなかっただけだ。全ては自分の臆病さが原因だった。
 結局はそこだ、と蒼星石は臍を噛むような思いで自分を責める。水銀燈はあくまで自分に対して、水銀燈の媒介が垣間見せた選択肢を再提示したに過ぎない。やり方は狡猾と言っていいかもしれないが、選んだのは蒼星石自身だった。
 拳に力が篭り、かすかに震える。
 知識を得て、水銀燈は美学という名の直線的なやり方を捨て、形振り構わぬ強さを身に着けたのだろう。人形が表面だけを見て嘲笑したのとは逆に、水銀燈のアリスゲームへの熱意はそこまで高くなっているとも言える。
 対照的に自分は弱くなってしまった、と蒼星石は考える。それは何故なのだろう。あるいはこれが持って生まれた、いや、「持たされた」資質の違い、ということなのだろうか──
 すっと、広い手が彼女の肩に乗せられる。
「──大丈夫か?」
 ひそひそ声は少年のものだった。ごく単純に自分のことを心配しているらしいその顔を振り仰いで、蒼星石は表情を少しだけ弛緩させる。

──もしかしたら。

 自分が弱くなったのはこの少年のせいなのかもしれない、と蒼星石は漠然と思う。
 それでも彼の掌は暖かかった。体の中を暴れまわっていた冷たい塊を溶かし、どこか暖かいものを胸の奥に感じ取れるほどに。
 その暖かさに全てを忘れることができるほど蒼星石は器用ではなかったが、彼の手と態度に敢えて作為のようなものを無理矢理に見付け出すほど猜疑心に溢れているわけでもなかった。
 つまるところ、契約者に全てを託していたときには現れなかったそうした隠れた中庸さが、蒼星石の思う「弱さ」の原因なのかもしれない。だが、彼女がはっきりとそれを意識するのはもう少し後になってからのことだった。


 水銀燈はそちらをちらりと見遣ったが、何も気付かないような素振りでまた金糸雀に向き直った。
「私達姉妹、特に貴女と私は積極的にローザミスティカを集めることを考えてきた。私は力ずくで、貴女は計略で、という手段の違いはあったけどね」
 もっとも貴女はすぐに情に流されてしまうところはあるのだけど、と水銀燈は薄く笑い、金糸雀は少しばかり怒ったような顔になったが、何も言わずに水銀燈を見詰め返した。
「でも、それではゲームには勝てない。もし片っ端から全てのローザミスティカを奪取してその副作用に耐え切ったとしても、恐らくそれだけでは至高の少女としては認められない……」
 加えて、そもそも自分のもの以外の六つものローザミスティカの反応に耐えられるのかと言われれば、それは微妙な話だ。
 水銀燈が媒介の記憶から得た知識の中では、彼女は蒼星石のローザミスティカ一つですら持て余してしまっていた。恐らく二つ三つと増えれば、その分だけ反応は激烈なものになるのだろう。
 彼女に二つのクリスタルの欠片を渡して姿を消した──と表現してもいいだろう──人形師の世界なら良かったのに、と水銀燈はつい思ってしまう。彼等の世界ではローザミスティカは集めれば集めるだけ強くなれるパワーの源で、ご丁寧に各個の技まで使えるようになる。話が幾分単純で、素直なのだ。
「じゃあ、どうすればいいってことかしら」
 金糸雀は小首を傾げた。
「競い合い、奪い合いで決着が付けられないとしたら、何をもって決着がついたと判定されるのかしら。それも難解ね」
 取りようによっては揶揄に近い言葉だったが、金糸雀の口から出ると厭味のない感想に聞こえるのは不思議だった。恐らく揶揄なのだろうとは思っても、金糸雀が真実素朴にそう考えていないとも言い切れないのだ。
 全く厄介な相手だこと、と水銀燈は口には出さずに考える。
 なまじお互いをよく知っている上に技の相性の悪さもあり、彼女はこの次女をあまり得手としてはいない。それは金糸雀にとっても同じかもしれないが、いずれにしても水銀燈がこの時代で真っ先に真紅を標的とした理由にはそういった側面もあったのだ。
 溜息をつきたい気分で水銀燈は答える。
「恐らく、競い合うのは是、しかし奪い合いは非、といったところでしょうね」
 そこでまた真紅に視線を戻す。真紅は何かを掴めたような表情になっていた。
「真紅、貴女の構想を話して頂戴。貴女のアリスゲームの構想をね」
 どうして、とは真紅は尋ねなかった。ただ、彼女はすぐには口を開かず、慎重に水銀燈の次の言葉を待っているようだった。
 もう一押しがなければ話すつもりはないのだろう。水銀燈は肩を竦めたい気分だった。金糸雀も手強いが、真紅は真紅で、これだから御しがたい。
「多分それがゲームクリアの方法に最も近いはずよ」
 それは、分かっていてもあまり言いたくない台詞だった。知識を得るまでの自分の行動を全否定し、真紅が正しかったと認めているようなものだからだ。
 しかし、言い切ってしまうと何故か肩の荷が下りたような気分になったのも事実だった。
「話してくれるわね」
 念を押されて、真紅はすっと息を呑み、蒼い瞳を閉じた。

 二人の姉の視線を感じる。
 姉妹の中で自分だけが行使できる大きなエネルギーを持て余すように襲撃者として生きてきた水銀燈は当然として、金糸雀も好戦的でこそないものの、父親から言われたことをストレートに受け取り、忠実にそれを履行しようとしてきたことを今更のように思い知らされる。
 対して、自分は最初から捻くれていた。それは正攻法に疑問を持ったというよりは、正攻法では勝てないから、という言わば弱者の論理でもあった。
 真紅には力が足りなかった。思索に耽る能力、冷静に物事を考えられる能力は、却ってゲームに臨む前から彼女に自分の限界を思い知らせていた。
 水銀燈の自在に空中を飛び回り変幻自在の羽を操る力、金糸雀の傘とヴァイオリン、双子の庭師の心を操る鋏と如雨露。それらに相当する技能は自分の中にはないか、似たようなものではあっても決定的に劣っている。正面から戦いを挑まれれば、どうにか負けないことはできても勝つことはできない。
 力押しでは自分は勝てないゲームだから、彼女はそれ以外の方法を模索した。
 暫くして辿り着いたそれは水銀燈から見れば美しくなく、金糸雀から見れば馴れ合いの皮を被っているだけかもしれない、搦め手というよりは姑息かもしれない方法だった。しかし、彼女には他の方法は見出せなかった。
 父が知ったら失望するか怒りを感じるかもしれない。それでも真紅は、自分が遂行するアリスゲームとはこれなのだ、と自分自身に言い聞かせてゲームに臨んだ。
 幾つかの出会いと別れ、戦いと休息、不和と和解を経て彼女の考えは幾らかずつ変化してきた。いつしかそれは単にゲームの遂行ではなく、ゲームを終わらせるために自分が採るべき手段として彼女に認識されるようになっていた。
 それを今、ゲームを遂行するための正しい方法に近いものだから開陳しろ、と、これまで真紅の思惑など鼻にも引っ掛けなかった長姉が言っているのだ。
 なんという皮肉だろう、と彼女の中の悲観的な部分が嘆く。だが別の部分は、これが好機かもしれないと沸き立っていた。姉妹殆ど全員の前で、偏っているかもしれないと恐れ、理解されるはずがないと諦めて仄めかす程度に終始してきた自分の展望を堂々と表明することができるのだ。今までは望むべくもなかった好機だった。

「──ええ」
 逡巡していたのは数秒間ほどだったろうか。真紅は眼を開いて水銀燈の顔を見返した。
「私は……誰か独りがアリスゲームに勝ち残ることよりも、私達みんなでアリスゲームを終わらせたい。そう思っているわ。これから話すことは、その前提で聞いてほしいの」
 真紅は振り返り、その場の全員を視野に入れられる位置に移動した。

「アリスゲームは七つに砕かれた魂の欠片を一つにするための闘い……そう認識していることは私もみんなと変わらないわ。
 優れた者が劣った者を倒し、その欠片を取り込んで行けばローザミスティカはいずれ一つになる。確かにそれは直接的で分かりやすい方法でしょう。
 でも、それだけでいいのかしら。
 腕力や策謀勝負なら、確かにより強いものが淘汰されて生き残るでしょう。でも、勝ち残ったそれは至高の少女なのかしら。
 薔薇乙女の宿命とは、幾つもの世代を越えてだらだらと続く最強決定戦ではないと私は思うの。
 私達が生きてきた時間と記憶、想いと絆……それらが全て揃った、其処にアリスは生まれる」
 そう信じたい、と真紅は斜め下を向いて小さな声で言った。ややあって、前を向いてしっかりした発音で続ける。
「主義や主張が違えば、戦いになることもあるでしょう。それを避けようとは思わない。私の言葉はいつも足りないから……時間をかけずに誰かを説得することができないから、最後はきっと戦わなくてはならない。
 それが私のアリスゲーム、私の制すべき戦いということになるかしら。
 ただ、そうして打ち勝ったとしても、負けた相手を物言わぬ人形にすべきではないと思っているわ。最後はみんなが揃って、全員同意の下でアリスを……」
 そこで真紅は珍しい表情をした。少し照れくさそうな顔になったのだ。
「アリスを『生む』の。誰かが『成る』のではなくて、みんなで七分の一のものを一つに還し、アリスを孵すのだわ」

 水銀燈は可笑しいような、感銘を受けたような、何とも言えない表情で真紅の言葉を受け止めた。
 もっとも述べている本人も、それが甘い願望だということは分かっているのだろう。時によれば戦って相手を打ち負かし、不本意に自分に従わせる必要もあるかもしれない。
 それはまだ許容できるとしても、自分の手にかけるのであればまだしも、何処か手の届かぬ場所で姉妹が消えてしまうこともあるだろう。人形に動物のような死はないとはいえ、ボディまで消滅してしまったら普通の方法では魂を呼び戻すことはできない。
 七人が揃っている時代であっても、誰かの意図に同意し、その言葉に従って協力し合うということでさえ、他の姉妹が奪い合いを標榜している中では酷く難しいことなのだ。
 ただ、彼女は粘り強い。あるいはそんな都合のいい夢物語も、偶然と幸運に頼るのではなく時間と労力をかけて現実のものにしてしまうかもしれない雰囲気が、真紅には確かにあった。

──今というタイミングならある程度のところまでは可能ではあるかもね。いえ、既に相当のところまで実現していると言うべきかしら。

 自分がお膳立てしたようなものだが、雪華綺晶を除く六人の姉妹はその契約者も含めて今までになく親しくなっている。総合的に見て良いことなのかどうかは判断が難しいとは思うが、少なくとも真紅の構想を実現させるためにはプラスに働くだろう。
 ただ、それの実現には一つ大きな問題が横たわっているように、水銀燈には思えた。

「──真紅はお父様に逢えなくてもいいの?」
 きょとんとした顔で言ったのは、雛苺だった。
「お父様はアリスにしか会ってくださらないのよ。だからみんな、アリスになるために戦ってるんでしょう? ヒナはもう負けちゃったからダメだけど……」
 できることなら、機会があるのなら、自分だって逢いたい。そう言う代わりに雛苺は手近にいた少年の後ろに隠れてしまった。
「いいもん、ヒナにはパパとママがいるんだから。ねっ、そうよね?」
 ぐいぐいと少年の、まだ少し汚れの残っているツナギ服の脚の部分を引っ張る。少年はなんだっけと一瞬考え込んだが、ぽんと手を叩いてうんうんと頷いた。
「そうそういるいる。ちょっと可愛い系だけど決めるときは決めるかっこいいパパいるもんな」
 誰なんだよ、と言いかけて、ジュンは少年が自分のほうを、いかにも申し訳なさそうな顔をして片手で拝むような姿勢で見ていることに気付いた。
「ちょっ……まさか……」
「えへへっ、パパ大好きなのーっ」
 雛苺はとてとてとジュンに駆け寄り、真後ろから足にしがみついた。みつがふんふんと頷く。
「ジュンジュンと雛苺ちゃん……そういう関係だったのねぇ……」
「ご、誤解だって! ない、ないから!」
 にんまりと笑うみつにジュンは慌ててぶんぶんと手を振った。
「いいのよいいの、ドール好きなら誰でもそうなの。ドールはみんな可愛い子供。もうみんなホント目の中に入れても痛くないくらい可愛いんですもの。うふふふ。
 でもそうなるとママが誰なのか気になるわー、……ねっヒナちゃん、ママは誰なの?」
「もっちろん、ママはトゥ──うぷ」
「わーっ、わーっ」
 ジュンは真っ赤になって雛苺の口を手で塞いだ。
「だ、脱線終わり! 本題に戻って戻って!」
 そこここでくすりと笑いが漏れ、ぎこちなかった空間に僅かに緩みが出たようだった。
 ジュンは赤い顔のまま、まあいいか、と呟く。いきなりのパパ扱いは衝撃的だったが、多少でも雰囲気を明るくできたのなら歓迎すべきなのかもしれない。

「パパ、ママのいる子はいいとして……」
 金糸雀はまだ可笑しいのか、くすりと笑ってから真剣な目で真紅を見る。
「ヒナの言ったことは核心を突いているわ。真紅のプランでは、結局誰もお父様には会えない。それじゃ、みんな認めようにも認められないんじゃないかしら。結局真紅が他の姉妹を従わせて、自分のプランを遂行するだけになってしまわない?」
「……そうね、そのとおりだわ」
 真紅は微かに寂しそうな表情になった。彼女もそれを疾うの昔に分かっていたからこそ、公言することは避けてきたのだ。金糸雀はごく当たり前のことを指摘したに過ぎない。
「私が勝たなくてはゲームが終わらない、という点では私の戦いは何処までも私だけの戦いに過ぎないかもしれない……。誰も賛同はしないでしょうね」
 やや伏目がちになり、一つ息をついて水銀燈を見遣る。
「こんなところでいいのかしら」
「ええ」
 充分よ、と水銀燈は軽く頷いた。
「大体考えていたとおり。実現の道が困難なのかどうかは置いておくとして、真紅のやり方自体は恐らく正解に近いはずよ」
 そこで、何かを決意するような間を置いた。

「──結局、戦って相手を屠り、強引にローザミスティカを奪うことはマイナスにしかならず、全員を納得ずくで味方に付けるか、従わせるか、アリスゲームの完遂にはどちらかが必要だという点でね」

 言い切って水銀燈は周囲を見回し、少しばかり意外な顔になり、それから小さく肩を竦めた。
 思ったよりも反応が薄いことに気が付いたのだ。ローザミスティカに対する執着は水銀燈に次ぐはずの金糸雀も、いかにもその指摘を覚悟していたというような表情で頷いている。翠星石と蒼星石に至っては、ただ真剣な顔で聞き入っているようにさえ見えた。

──なるほどね。

 結局のところ、アリスゲームと言ってもこんなものなのだ、と思う。一人は既に脱落し、二人は最初からゲーム自体への興味が薄く、一人はいざとなれば最も有力かもしれないが、興味そのものはあってもその折々の情や姉妹との関係に流されやすいために些か影が薄い。
 つまるところ、アリスゲームを連呼しているだけでなく、自己の課題として取り組んでいるのは自分と真紅、二人だけだった。
 その点で自分はやはり悪役、またはライバルとして設定されているのだと改めて思う。あの人形師は盛んに否定するようなことを言っていたが、それは所詮外部からの視点に過ぎない。
 内心であまり愉快でない思いを巡らしながら、水銀燈は真紅に視線を向けた。彼女は何故か居づらいような雰囲気で、一人離れたところに立ったままだ。自分の表明した構想が、改めて口に出してみると他者には到底受け入れがたいもののようにでも思えているのだろうか。

──お生憎様。結局のところ、貴女の構想は既にほぼ実現しているのにね。

 水銀燈はなかなか肯定できない自分の荒々しい部分に言い聞かせるように考えを進める。
 真紅がアリスゲームから脱落した雛苺を「家来」として従え、翠星石がそこに舞い込み、金糸雀は中に潜む計算高さと冷徹さを何処かに置き忘れてその輪に入り込んでいる。
 蒼星石は最終的には真紅に協力するだろうし、自分もこうして馴れ合いの輪に入っている。
 後は雪華綺晶に出会い、説得するか従わせることに成功すれば──

 但し、そこから始まる予定調和を許す気は、今の水銀燈には更々ないのだが。

「ただ、納得ずくであれば、恐らく姉妹が揃っている必要はないわ」
 水銀燈は瞬いた。
 蒼星石が翠星石に恐らくそうしようとしていたように、あるいは媒介が読んでいた漫画の世界の中で雛苺が真紅に己を託したように、自発的な意思があれば。
「望まない相手に取り込まれたローザミスティカは副作用として拒絶反応を起こす。しかし、相手に全てを委ねることを望んでいるなら、ローザミスティカは相手の身体にも馴染む。それは真紅の言う時間と記憶は不完全な形でしか提供できないでしょうけど、想いや絆といったものはきっちりと伝わって行くはずよ」

 真紅の言う、全ての姉妹が揃ってアリスを「生む」という、どこか牧歌的なものを感じさせる結末の姿は、水銀燈の考えるところとは違っていた。
 とは言っても、知識を得てしまった彼女は以前のように単純な潰し合いこそが正しく美しいとは到底言えなかった。
 また、例えば、雪華綺晶の思う至高の少女──いつでも個性を着替えられ、どの姉妹にも変化できる存在。それは思いの外アリスに近いのかもしれない。
 だが、それだけでは足りないのもまた分かっている。自在に着替えられるだけでは、単に何人もの少女が入れ替わり立ち代わり出現するのと変わらない。そこに何かを足さなければ、彼女達の造物主が望んだ高みには届かない。
 恐らく至高の少女に必要なのは様々な──恐らく姉妹に分け与えられた全ての──個性を併せ持つだけでなく、姉妹全てを纏め上げるか姉妹全てに慕われる、もっと言ってしまえば自分を委ねてもいいと認められる資質なのだろう。力ずくで屈服させるのでなく、様々な個性から等しく仰がれる──カリスマ性と言ってもいいかもしれない。
 そして、それは彼女達が最初から与えられた特質ではなく、後から獲得して行くべきものだった。
 それを最も強く持った姉妹をベースとして、残りの姉妹達のローザミスティカ──経験と心、知識、個性──を付加されてアリスは「作られる」。
 それが孵化したとき、恐らく役目を終えた薔薇乙女達は皆物言わぬ人形に戻り、魂そのものも消えてなくなるか、もしまだ残滓が何処かに残っていたとしても「どこか遠く」へ散逸してしまうのだろう。
 そのこと自体を理不尽だとは、水銀燈は思わない。生物が生きて子を成し、役目を終えて死ぬように、薔薇乙女はアリスを作るための土台となって動き、役目を終えれば止まるのだ。どちらもそういう風に作られたのだから仕方がない。

 だが、そこに至るまでの過程を彼女は気に入らなかった。

 自分のここまでの経緯にはまだ納得できる。最初の契約者で躓いたことも含め、概ね納得の行く出会いと別れを続けてこれた。
 いい思い出も、思い出したくもない経験もある。それは他の姉妹達のこれまでの年月に比べて遥かに汚く、醜いものばかり内包しているはずだ。その反動もあって、彼女は美学に拘り、怠惰な生を否定してきた。
 それは今となっては却って彼女に「生きてきた」という実感さえ与えているような気がする。本来生きていくには綺麗事では済まないことの方が多いはずなのだ。
 だが、偏った弱い心のよりどころとして契約者が必要という制約をかけられた他の姉妹はどうなのか。
 契約者を愛し、愛され、そして愛した事実さえ一見綺麗に思い出という名前で整頓され、記憶の隅に整然と保存させられていく。後を振り返ることはない。いや、できない。
 性格付けと言ってしまえばそこまでだが、要はそういう風に後腐れないよう最初から作られているのだ。

 契約者まで含めて徹頭徹尾、全てはアリスゲームのためのからくりでしかない。

 雪華綺晶に至っては、もはや存在のありよう自体がゲームのために利用されている。それは異世界の人形師が皮肉たっぷりに評したとおり、まさに他の姉妹の後始末のためにあるようなものだった。
 彼女は最初から最後まで、孤独と渇望と不安に苛まれながら、最後の最後に舞台に立つまで誰にも知られることなく逼塞するほかなかったのだ。

──その哀れな存在に無慈悲にも最初の躓きを与えたのもまた私、というわけか。

 今更ながらそんなことを考え、何処まで悪役として作られているんだか、と改めて可笑しくなる。
 全てはアリスの基礎となるべきドールに成長のきっかけを与えるためだけに、彼女は精一杯生きてきたわけだ。全くそれと知らされず、自分こそがアリスになるのだと叶わない幻想を抱いて。
 この場に誰もいなければ乾いた笑いの一つも浮かべてやりたい気分だった。ここまで思索を進めるといつもそうしているように。

 考えを巡らせていたのは僅かな間に過ぎなかった。
 しかし周囲はそんな水銀燈の内心とは無関係に、途切れた彼女の言葉の続きを待っていた。
「……つまり、お互い恨みっこ無しの正々堂々の勝負に勝って託されたローザミスティカならば拒絶反応も起きないしアリスとなるための条件にもなる、ということかしら」
 なかなか次の言葉が出てこないのに幾分焦れたのか、金糸雀は自分で水銀燈の言葉を纏め、小首を傾げる。
「勝負に勝ったときよりも誰かがアクシデントに見舞われたときの方がありそうだけど。どっちにしてもカナには不利な条件かしら……」
 残念だわ、と言う顔は言葉どおりの残念さを見せていたが、すぐに彼女は気持ちを切り替えたように次の質問に移った。
「ローザミスティカのことは大体分かったけど、からくりはまだ他にもあるんでしょ?」
 金糸雀は水銀燈に一歩近づいて彼女の顔を見詰める。二人の背の高さの関係で、そうすると金糸雀はやや上目遣いになり、何かを訴えたいような表情にも見えた。
「それは、第七──雪華綺晶のことも含んでいるのではないかしら」
 金糸雀はそのまま小首を傾げてみせる。内心に何かを抱えているのかもしれないが、可愛らしさがそれを上手く覆い隠してしまっていた。
「何故そう思うの?」
 尋ねたのは水銀燈ではなく、真紅だった。彼女は小走りに金糸雀に近づき、金糸雀は顎の先に指を当ててそちらを振り向くとにこりと笑う。
「雪華綺晶という名前しか知らない末妹が、仮に水銀燈の言ったとおりの存在なら……貴女もそう考えてるんじゃないかしら、真紅」
 真紅は瞬き、立ち止まる。僅かに躊躇したようにも見えたが、しっかりと頷いた。
「……ええ。実体を持たないアストラルの彼女には、アリスゲームを遂行する上で何等かの特別な役割が求められるはず。そうでなければ──」
「──そうなの、他の姉妹に比べて不利な立場かしら」
 金糸雀は真紅の台詞の後半を引き取り、水銀燈に向き直った。
「幾ら行使できる力が大きくても、雪華綺晶は本質的に受身の立場。しかも自分の糧を確保していくためには、七人全員が揃った時代でないと迂闊に仕掛けられないのよ。
 もしアリスゲームに何の仕掛けも無ければ、私達他の姉妹は全員揃わなくても少しずつ相手を減らせるし、そしたら雪華綺晶は何もしなくてもますます不利になるから、普通に考えたら雪華綺晶のハンデは大きすぎる……あれ? 前にも言ったかしら」
 うんうんと雛苺が頷く。金糸雀はばつの悪そうな顔になったが、とにかく、と言葉を続けた。
「こう言っちゃ失礼かもだけど、真紅とヒナ、それからカナもね。三人が今まで無事で来れたのも、多分誰かがバランスを取っていたお陰かしら。翠星石と蒼星石はいつも二人一緒だったから手出しされにくいけど、私達はばらばらだったから──」
「──こわぁいお姉さんにいつジャンクにされても可笑しくなかった?」
「そう。バトルホリックの漆黒の堕天使に──って、あ」
 金糸雀ははっと口に手を当てた。それは流石に目の前に本人が居るところで言っていい言葉ではなかった。
 しかし、出た言葉は返って来ない。
「……ごめんなさい」
 金糸雀は素直にぴょこんと頭を下げ、水銀燈は肩を竦めて息をついた。
「いいわ。続けて頂戴」
「え、ええ」
 顔を強張らせながら、金糸雀は推論を再開させた。
「とにかく、アリスゲームが水銀燈の言うように何処かでコントロールされてるのは間違いないかしら。それは多分、誰も負けないように誰も勝たないように……という方向だと思うのね。そうでなければ、特に……」
 金糸雀は少し言い辛そうに真紅の顔を見た。真紅はこくりと頷いた。
「私は多分、本当は何度も負けていたわ」
 この時代だけでも、と真紅は目を伏せた。
「最初は何の疑問も感じなかった。でも」
 いや、この時代で彼女は実際に何度も負けていたはずだ。
 水銀燈との再会のときはまるで水銀燈の退場まで切れるのを待っていたかのようなタイミングで薇が切れ、雛苺との戦いのときには雛苺の契約者は既にまともに力を与えられるような状態とは言えず──それでも雛苺は瞬間的には本来の力を放ってみせたが──、次の戦いでは媒介がついていた上に数の有利がありながら遂に片腕をもがれてしまった。
 そこで何故か水銀燈が取って付けたように仲間として引き込んだはずの蒼星石まで標的にし始め、逆に水銀燈が全員から攻撃を受けかけて不利になりかけると今度は戦いの場としていた夢の世界が壊れた。薔薇乙女五人と契約者一人を巻き込んでいたのに、あのときでさえ勝敗は結局着かずに終わった。
 そして、片腕を失った彼女が酷く不利になったその後はまるでそれを補うかのようなタイミングで水銀燈の態度が軟化し、彼女に腕が戻った後はローザミスティカを巡る戦いそのものが有耶無耶のうちに休戦状態に入って今に至っている。

──これでは、まるで……

 考えを巡らしかけて、止める。それは真紅の自尊心というより潔癖な部分、大袈裟に言ってしまえば倫理観が看過できそうもない想像だった。
 真紅は目を伏せたままかぶりを振って溜息をつき、呟くように続ける。
「……いえ、多分そうね。誰もが脱落しないように、誰も欠けないように。そんな風に何処かで制御されていたのだわ。一番弱かった私が生き延びてこれたのは、多分そういうこと。
 私は生き延びてきたのではなくて、ずっと生かされてきた……」
 考えが到達しそうな事柄は、敢えて口には出さなかった。それでも自嘲気味の言葉になるのは避けられなかった。
 水銀燈が羨ましかった。彼女なら多分、自分自身を含めて全てを突き放した視点から、割り切った口調で斬り捨てるのだろう。みんな所詮哀れな操り人形に過ぎないのだと。
「真紅だけじゃないわ」
 金糸雀はぶんぶんと首を振って笑顔を見せた。
「カナも何度も何度も危ない橋は渡ってきたかしら。アリスゲームだけではないけどね。多分ヒナもだし、他の三人だってきっとそうよ。でもここまで誰もゲームから脱落しなかった。中の要因だけではなくて外部からの干渉からも守られてきたんじゃないかしら。
 薔薇乙女は姉妹全員、戦い合いはしても全てお父様の大きな手の中にいるってことかしら。多分……ね」
 その言葉が潔癖すぎる真紅への慰めになっていないのは承知だったが、何故か言わずには居られなかった。

 それがどちらかと言えば自分自身への言葉になっていることには、金糸雀は気付いていない。
 姉妹は皆同じだから特定の誰かだけが優遇されたり冷遇されているわけではない、と信じたいという気持ち、それに気付いてしまったこと自体を認めたくなかったのかもしれない。
 大きな手の中に守られて居るということは、大きな手の中に囚われていると言い換えることもできる。だが今はまだ、そのことに気付かない振りをしていたかった。
 そうでなければ、これまで懸命に生きてきたことがあまりにも虚しいような気がするのだ。

「話を戻しましょう」
 水銀燈はぱんぱんと手を叩いた。その仕種は誰かに似ていなくもなかったが、その場で気付いたのは雛苺だけだったかもしれない。
「金糸雀の言うとおり、恐らく最初から何処かで戦いは制御されている。それと同じように、雪華綺晶の役割も最初から規定されている。それもからくりの一端でしょうね」
 見ている、というよりは人形師との会話で辿り着いた結論だったが、彼女はそこまでは言わなかった。
 金糸雀に視線を向け、貴女の推測どおりよ、と目顔で伝える。金糸雀は予測が当たって嬉しいというよりは困惑したような、聞きたくなかった言葉を聞かされたというような表情になった。
 そんな顔をするなら賢しらに推測などぶち上げず、真紅のように沈黙の裏で考えを巡らせるだけで済ませておけばいいようなものだが、そこで言葉にしてしまうのが金糸雀の性格なのだろう。

「そして、彼女の役割は──」

 喋り始めてみると、今度の話はどうにも長くなりそうな気がした。
 考えてみれば、媒介の記憶を受け取ってからこの方、何かといえば長口上ばかり言わされているような気がする。

──悪役だけでは足りずに延々と解説役もやらされるわけね。

 皮肉な思考が頭を過ぎり、水銀燈はどうしても苦笑を抑えることができずに口の端を吊り上げるような表情になる。話を聞いている姉妹達には冷笑に見えたかもしれないが、そのことを指摘したり厭な顔をする者はいなかった。
 水銀燈には彼女達の反応が相変わらず薄いようにも思えた。
 それは姉妹それぞれが各々の考えを巡らせているからだったが、水銀燈にもそこまで気を回すだけの余裕はなかった。彼女はただ、何処となく不安と不満と悲しさと苛立ちのない交ぜになった姉妹達の放つ感情の流れだけを感じ取り、それが自分に対しての反感から出たものだろうと考えて多少残念に思っただけだった。
 ついそちらの方に類推が行ってしまう辺りが、あるいは彼女の哀しい限界なのかもしれない。


6

 人形は漂うように虚空を飛んでいた。
 薄紅色の瞳は閉じられ、黒い翼は畳まれている。脇に寄り添う青い光は途惑うように点滅を繰り返しているが、人形は反応を返そうともせずにただ流れていた。
 彼女は疲労していた。そして、ローゼンメイデン達の鞄のような回復装置を持っていない彼女は、疲労をただじっと動かずに眠ることでしか和らげることはできない。
 今まではここまで疲労したことはなかった。動ける時間より眠らされている時間の方が遥かに長い暮しを続けてきたのだから当然だと彼女は思った。
 今までと同じように眠ればいい。眠れば、いずれ疲労は回復するだろう。

──そうすればまた──

 はっとして人形は目を開き、自分の漂い飛んできた方角を見詰めた。
 銀色の光点が接近してくる。かなりの速度だった。自分を追跡してきたのは間違いなかった。
「っ!」
 反応が遅れたのを彼女は苛立たしく思う。『レンピカ』が点滅を繰り返していたのはこのためだったのか、と舌打ちする。
 もっとも、その光点に対して逃げ戦をするつもりはない。苛立たしく思ったのは対応時間が短くなったからで、それ以上の理由はなかった。
「何か知らないけど良い度胸じゃない。粉々にしてやる……」
 一瞬、苛立たしさが凶暴な衝動となって人形を駆り立てる。彼女は接近してくる銀色の光に交錯するような軌道を取った。
 すれ違いざまに羽根の一群をお見舞いすれば、相手が何であれただでは済むまい、とにやりと笑う。人形は自分の攻撃能力には自信を持っていた。
 しかし、意気込みは肩透かしを食らった。銀色の光は既に光点ではなく光球と言うべき大きさになっていたが、彼女の羽根の有効射程ぎりぎりで直角に近い急ターンを行って、彼女と等距離を保つような軌道に乗った。
「……監視するつもり、わたしを」
 猪口才な、と人形は下唇を噛み締める。
 そのときには相手が何者であるかについても分かっていた。あの女──水銀燈の人工精霊だ。

 別れ際に見た厭なイメージが頭の中を過る。人を小馬鹿にしたような口振りで話をしているくせに表情は硬く、まるで嫌々ながらもやむを得ず何かをさせられているといった風情だった。
 人形が水銀燈の内心まで読むことができていたら、あるいはまた別の別れ際があったかもしれない。だが人形は少なからず狭量で、しかも自分のことで切羽詰っており、更に心を読むといった特殊な力も持ち合わせていなかった。

 人形は鼻を鳴らした。どれだけの力を持っているか知らないが、人工精霊如きに何ができるというのか。
 人工精霊は監視を続けたいようだが、その意図を挫いてやるのは簡単なのだ。あちらは一つきりだが、こちらは一体ではないのだから。
「『レンピカ』」
 青い光は二三度瞬いて、彼女の右手に移動してきた。
「追跡してこっちに追い込むのよ」
 了承の合図はなかったが、青い光は大きな弧を描いて銀色の光へと近づいていった。

 人形は一つ思い違いをしていた。
 それは些細なものだったが、この局面では無視できないほどの誤認でもあった。
 彼女が知る世界──水銀燈の媒介が以前生きていたところで視聴していたアニメーションの中の世界──では、人工精霊はさほど重要な位置を担っていたわけではない。自律判断ができる万能の召使ではあったが、ローゼンメイデンとの間には、いざとなれば手放して相手に与えることができるほどの繋がりしか持っていなかった。
 しかし水銀燈が放ったメイメイは、水銀燈の内にあるローザミスティカそのものに繋がり、そこにきつく縛りつけられている。それは、仮にローザミスティカが元の主人の意に沿わぬ相手の許に回収されてしまったとしても、そこに否応無しに付随させられてしまう程の強固な拘束力だった。
 それでいながら、自己の判断力や個性も持っている。それは人工精霊自体がひとつの心を持った生命だと言い換えても良いほどの完成されたものだった。
 そしてメイメイは仕事や役割というよりはあくまで主人を第一に考える個性を持っている。これまでも、時によれば主人の表面的な言葉に逆らっても、自分が主人のためと思うことは躊躇無く実行してきたほどだ。
 主人から与えられた役目は、果たさなければならない。それが人工精霊の誇り、などと言ったら大袈裟だろうし、メイメイには誇りやら矜持といったものは無縁だったが、義務感や使命感は確実に存在していた。
 メイメイは至近で飛び回る青い人工精霊の牽制を半ば無視して、時機を窺い続ける。そこには紛れも無くメイメイ自身の強い意思があった。

 一方の『レンピカ』は言われたことを字義通り忠実に履行しようとしていた。追跡し、相手の軌道を人形の方に変えさせるのがその任務だった。
 威嚇の動きを暫く続けた後、効果がないと理解した『レンピカ』は実力行使に出る。銀色の光球を弾いて軌道を変えさせようとしたのだ。
 だが、その試みは虚しかった。弾こうとして加速して接近してきた『レンピカ』の目前で、メイメイは突然意外なものを召喚してみせたのだ。
 急停止しようとする『レンピカ』を、それは横合いから強かに叩いた。『レンピカ』は為す術もなく弾き飛ばされ、間遠な点滅をしながら漂い遠ざかっていった。

「剣を……勝手に?」
 人形は瞬いた。メイメイが召喚したのは、彼女が少なくとも一度は──幻影が破れ、雪華綺晶が現れたとき──実際に使った両手剣だった。
 形が同じだけの別物ではない。何故か、それが人形には分かってしまった。
 メイメイは剣の腹で『レンピカ』を弾き飛ばした後、剣を脇に従えたまま、茫然としている人形にゆっくりと接近した。
「……何故お前がそれを?」
 主人のいないところで召喚し、行使できるのか。そもそも、何故持っているのか──。
 メイメイはチカチカと点滅し、人形に短い思念を送り付ける。人形の表情は唖然としたものから驚愕に変わった。
「まさか、そんな」
 薄紅色の瞳が大きく見開かれ、視線は剣に固定される。メイメイはそれをそっと押し出すように人形の方へ送った。
 人形の手が剣の柄を掴む。そこまで確認すると、メイメイはまるで手を叩いてでもいるかのように小刻みに数回上下に動き、いつものような調子付いた動きで人形の周りを一周すると、もと来た方向に飛び去っていった。



[19752] 第六章 白い人形
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 03:59
1

 既に日は沈んでいた。西の空にはまだ薄紅色の夕焼けの残滓が残っているが、暫くすればそれも闇に呑まれていくだろう。
 午後早くから始まった一連の騒動は、あまり後味が良くないものを残しながらだらだらと長く続いて、この時刻になって漸く一応の終わりをみた。
「結局一日まるごとレンタルさせちゃって……ごめん」
 ジュンは肩を落として頭を下げた。みつは一瞬何のことか分からずに金糸雀と顔を見合わせる。
「その……レンタカー」
 みつが例のパーツショップに車を走らせたのは午前中だったから、彼女と金糸雀、そしてジュンにとってはほぼ丸一日が潰れた勘定になる。ジュンはそのことを気にしていた。
「なぁんだ。いいのいいの、そんなの別に。好きでやってるんだし」
 みつは朗らかに笑う。
「今日はねぇ、みんなの真剣な顔が沢山見れてみっちゃん大興奮だったわよ。あのカーボンちゃんの凛々しいお目覚ってのも凄かったわねー。黒い羽根ばさーって。今までこういうシチュってなかったもの。一大スペクタクルって感じ? ほんと感動したわー」
 少しドールマニアのスイッチが入りかかっているのか、みつの目は爛々と輝き始める。だが、ジュンが今一つはっきりしない表情をしているのを見て取ると、さっと生真面目な顔に変わり、その肩にぽんと手を置いた。
「ま、アリスゲームのことはアリス候補生達に任せましょ」
 ジュンは顔を上げ、何度か瞬いた。
「あの子達が真剣に悩んでるときは、マスターはゆったり構えて適当に悩みに応えてあげれば良いの。一緒になって悩んじゃったら、あの子達は本当に頼るものがなくなっちゃうわよ?」
 みつはちらりと後ろを振り返り、助手席の窓にしがみついてこちらを見ている金糸雀ににっこりと笑いかけた。金糸雀は少し難しい顔をしていたが、いつもの笑顔になってこくこくと頷いてみせる。
 みつはジュンに視線を戻し、ジュンジュンにはまだ大変かもしれないけど、と微妙に苦笑のようなものを浮かべた。
「そうねぇ……栃沢くんって言ったっけ、水銀燈ちゃんのマスター。あの子みたいに天然入ってた方がいいとは言わないけど、少し肩の力抜こうか、ジュンジュン」
「……うん」
 それは分かっている、と言いたげにジュンがまた視線を落とすと、みつはばんばんとジュンの肩を二度ほどはたいて、おやすみと言って車に乗り込んでいった。ライトの光条が薄青い辺りの風景を貫き、車はすぐに角を曲がって見えなくなった。
 ふう、と息をついてジュンは肩を押さえる。
「痛って……」
 全く、手加減しろよな、と呟きながら家に入ろうとすると、今度は脇の方から声が掛った。
「桜田」
 今しがた話に出た少年が、青い作業着のまま、同じように青い作業着を着た蒼星石を自転車の前籠に乗せて自転車に跨っていた。
「おやす!」
 別れの挨拶以外の言葉を言わないばかりか、おやすみの「み」まで省略して、少年は大きく手を振って薔薇屋敷の方に自転車を漕ぎ出した。しっかり掴まってろよ、と言う声に蒼星石が律儀にうんと頷いて籠にしがみつくのは見て取れたが、そこから先は薄暗がりの中に紛れ、頼りない自転車の前照灯だけが暫くゆらゆらと見えていた。
 確かに、彼くらいお気楽に振舞えたら楽なのだろう。だが、ごく普通に中学生生活を送っている彼と、そこから追い立てられるようにして弾き出されてしまったジュンでは、内心に抱えている鬱屈の量自体が違っている。
 もっと分かりやすく劣等感と言ってしまってもいいかもしれない。ジュンは誰もが通っている義務教育の場から爪弾きされてしまったことで、他の様々な事柄に対しても余裕を失くしている。
 少なくともジュン自身は自分の内心をそう感じ取っていたし、事実が何処にあれ、そう感じているうちは鬱屈としたものが消えて行くことはないのだった。


2

「なあ、蒼星石」
 自転車を漕ぎながら少年はぽつりと言う。
「結局のところ、みんな何やってんだろうな」
 蒼星石は少年を振り仰いだ。少年は進路を見詰めながら、先程は全く見せなかった──多分、記憶を失ってからこの方殆ど見せたことのない──生真面目な表情になっていた。
「まぁ今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけどさぁ」
 蒼星石は長い睫毛をやや伏せる。それが誰に対してなのかは言うまでもない、とかすかな寂しさと共に考える。彼は水銀燈の契約者なのだから。
「媒介って結局……契約が終わるまで、契約した子のコンディションを整えてあげて、また新しい契約まで安心して眠っていられるようにするのが仕事なんだと思ってたんだ」
「……そんなことは」
 むしろあべこべだ、と蒼星石は思う。
 記憶を失う前の彼が読んだ漫画の世界で、真紅が何度か言っていたように、薔薇乙女の契約者は言わば束の間の人形遊びを楽しむだけなのだ。薔薇乙女達は彼等に形にならない何かを与え、その代わりに自らの庇護と媒介としての役割を果たしてもらう。
 そして、役目を果たして契約が終われば、薔薇乙女達はまた新たな眠りに就くのだ。契約者達に見送られて。
「それは、うーん」
 蒼星石の説明を聞いても、少年は今ひとつ納得できないようだった。
「俺に『巻いた』ときと同じ記憶がないから、ダメなのかなぁ」
 少し照れたような、困ったときのような表情で蒼星石の顔をちらっと見遣り、また前に視線を向ける。車が一台脇を過ぎていった。
 前籠が少し揺れ、蒼星石も前に向き直って籠を掴む手に力を込めた。
「貴方の義務感は分かるけれど、契約はそこまで一方的なものじゃない。薔薇乙女はマスターのことを愛して、マスターの記憶に何かを残していく……」
 蒼星石はそこで口をつぐんだ。それは水銀燈がさきほど別の言葉で説明したことの焼き直しに過ぎない、と思っただけではない。何か別の理解を見つけたような気がしたからだ。
 残していく。記憶に。

──僕達が確かに居た、僕達に愛されて過したという消せない記憶を。

 それが契約者の心の糧になる場合もあれば、癒えずに心に残った傷となり、負担になる場合もある。
 その負担になってしまう場合──多くは、もっとずっと長く、永遠に一緒に居たいと望んでしまった場合──雪華綺晶が、その元契約者の心を糧として終わらない夢を見させることになる。そういう説明を、今しがた水銀燈から聞いたばかりだった。

「──結局、雪華綺晶もアリスゲームの駒の一つに過ぎない。その意味では私達は少し立ち位置が違うだけのマリオネット同士、哀れな人形姉妹よ」
 水銀燈は雪華綺晶の「からくり」との関係についてそう締め括っていた。
「ただ、彼女にはまだ秘められた力がある。具体的なことは見えてこないし、最初から持っていたのか、ゲームの開始を睨んで付け加えられたものかも分からないけど。それを見極めない限り、雪華綺晶の力量を早計に判断はできないし、警戒を怠ることもできない」
 それが今の状況と言ったところね、と水銀燈は溜息をついてみせたのだった。

 馴れ合うように見せていながら、そしてアリスゲーム自体への不審と不満を抱えながら、水銀燈は結局自分のゲーム進行に全力を注いでいたのだ、と蒼星石は思う。
 蒼星石を生かしておいたのも、媒介の夢をチェックしていたのも、自分の得た情報を問われるままばら撒いて見せたのも、今日の午後、あの人形を放ったのさえ計算ずくだったのかもしれない。
 それらは殆ど全て、未だ彼女しか実物に接触したことのない雪華綺晶の行動を間接的に阻害し、弱らせるものだった。
 それを水銀燈の口から明かされたとき、真紅は哀しそうな表情をし、翠星石はつい不用意な一言を水銀燈に浴びせてしまった。なるほどと頷いてみせたのは金糸雀だけだった。
 ただ、断片的にではあるが雪華綺晶についての知識のある蒼星石には水銀燈の意図が分からないでもなかった。
 もし雪華綺晶が彼女の知るままの力を持っているのなら、どれだけ警戒しようと警戒し過ぎることはないはずだ。直接的な力そのものだけでなく、その性質も異質で厄介な相手なのだから。
 蒼星石を生かしておいた理由の一つは、彼女を失った結菱老人の心を糧とさせず、蒼星石のボディを与えないためだろう。もちろんローザミスティカを自分の中に取り込むリスクの回避という側面もあるはずだが、いずれにしてもメリットの方が大きいと判断したのだろう。
 他の姉妹とも和解し、早くから少しずつではあるが雪華綺晶のことについて明かしてきたのも、今になれば雛苺を狙わせないためと解釈できる。
 そして、彼の夢の中に頻繁に出入りしていたことには、水銀燈自身が言っていたような「夢を捻じ曲げる」ような意図はやはりなかったのだ。彼の夢の中に居たあの人形だけでなく、まだ記憶が穴だらけで不安定な彼自身を渡さないためでもあったのだろう。
 そうやって、水銀燈は確実に雪華綺晶の取れる選択肢を奪っていった。いや、もしかしたら今後も選択肢を切り取り続け、最終的には一つに絞らせてしまうつもりなのかもしれない。

 割り切った言い方をしてしまえば、あの廃教会で三人が顔を揃え、そして彼が記憶を失った日がターニングポイントだった。恐らくその晩から水銀燈の主標的は真紅から雪華綺晶に変更されたのだ。
 以来水銀燈は、不利と見れば出てこない相手に対して罠を掛けるといった積極的な方法でなく、相手の選択肢を減らして行く作業を丁寧かつ周到に続けてきた。その努力には並大抵ではないものがあるはずだ。
 そのやり方は水銀燈らしいとは到底言えない。彼女は常に襲撃する側だった。むしろ周到な策を立てて実行していくような地味なやり方は金糸雀や真紅、そして今それを実行されている方の雪華綺晶にこそ相応しい。
 しかし、何故──

 赤信号で少年はブレーキを掛け、籠がゆさりと揺れる。蒼星石のとりとめのない思いはそこで一旦途切れた。
「ごめん、ちょい急ブレーキだった」
「大丈夫」
 蒼星石は固い表情のまま、少年の顔に視線を向けた。怒らせちゃったかー、と少年は額をぱちんと右手ではたく。芝居じみた動作だったが、彼がやってみせる分にはあまり違和感がなかった。
「怒ってないよ」
 ぎこちなく笑みを浮かべて、でも次はもう少しゆっくり停まってくれると嬉しいな、と注文を付けると、了解しましたと少年は敬礼の真似事をしてみせた。
 信号が青に変わり、蒼星石は改めて籠にしがみつく。動き出すときが一番不安定なのだ、と今日の行き返りの行程で学習していた。

──貴方は、ずっと覚えていてくれるだろうか。自分の契約したドールですらない僕を、こんな風に運んでくれたことを。

 忘れられても仕方がない。自分はあくまで結菱一葉と契約したドールで、彼の契約したドールは水銀燈なのだから。だが、じきに埋もれていってしまう記憶であっても、たまには思い出してほしかった。
 そして、もし覚えていてくれるならば、それは楽しい思い出の端に連なるものとしてであってほしい。契約者の心が雪華綺晶の糧になるというような話は置いておくとしても、寂しく思い出すようなことにはなってほしくなかった。
 我侭だな、と自分の考えに苦笑しながら、今まではそんなことを考えたこともなかった、とふと気付く。
 彼女はずっとマスターと翠星石、それから自分だけを見て生きてきた。アリスゲームに関わることよりも、その時点での契約者の方が優先だった。
 以前の契約者のことを振り返ることもなかった。目覚めてしまえばそこには将来の契約者がいたし、契約してしまえばその相手のために一所懸命に尽くすのが蒼星石だった。
 翠星石は、どうだったのだろう。
 彼女はいつも契約者よりも自分を見ていたように思う。何を置いても双子の妹が心配で、甘えたくて、甘えさせたくて、そして一旦心を開いてしまえば契約者にも大いに甘えていた。

──前の契約者のことを思い出すような素振りを見せたことは無かった。

 それは蒼星石に昔のことを思い出させてしんみりさせることがないように、という配慮だったのかもしれない。だが、仮にそんな話を切り出されても、蒼星石にはそのとき目の前にいる契約者の方が大事だった。
 それを感じ取っていたから、敢えてそういう話を避けていたのだろうか。

──だが、そうでないとしたら。

 先程は別の考えに彷徨い込んでしまった思いを、蒼星石はもう一度、今度ははっきりと意識する。

──僕も翠星石も「昔の契約者のことを過度に思い出さないように」制御されているとしたら。

 ぶるっ、と蒼星石は身を震わせる。背筋が冷たくなるような、薄ら寒いものを感じたからだ。
 戦いは何処かで制御されている。それは、多分もう疑う必要も無いほど明白だった。
 そうであれば、自分達の記憶システムに、前後の経緯に齟齬が出ない形で何等かの枷が嵌められていても全く不思議はない。

 水銀燈が何等かの手段でこのときの蒼星石の考えを読むことができたら、そうねと小さく肯定した後で、貴女がそこまで思いつくとはね、とやや意外そうな顔をしたかもしれない。
 頑固で一途、且つその折々の契約者をマスターと呼んでその命令には絶対服従を貫いてきた蒼星石が、幾つもの示唆があったとはいえ自分でその結論に達するとは水銀燈は思っていない。水銀燈自身ですら、以前から疑問には思いながら夢の中で人形師と会話するまでは確固たるイメージを持てなかった話なのだ。
 時代を越える間に記憶が弄られているかもしれない、いやその可能性の方が高い、という仮説だけは、水銀燈は故意に披露していない。
 それは姉妹達にとって余りにも辛い話であり、それによって激烈な反応が呼び起こされるのも、単純に悲嘆にくれさせてしまうのも水銀燈の本意ではなかったからだ。

 だが、蒼星石は水銀燈とは全く別の思考の道筋を辿ってそこに到達してしまった。
 激しい感情に揺さぶられることもなかった。ただ、戦慄と共に限りなく冷たい何かがごとりと音を立てて胸の奥に転がり、それが果てしなく下に落ち続けていくような感覚を味わっただけだった。
 自分の知識の中で繰り返し真紅が言っていた言葉。それは、こんなものだったように思う。

 「人は成長する。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。やがては老いて土に眠るけれど、人形は人形のまま朽ちて塵へと還るの」

──あべこべだったのは、それの方だ。

 契約者が全てそうであるわけではない。中には納得の行く別れ方をした者も居るはずだ。
 だが、雪華綺晶が糧とするような者については、こう言い換えてしまった方が正しい。

 薔薇乙女は在りし日の契約者達を忘れていく。契約を終えれば鞄に眠るけれども、契約者は取り残されたまま、心はしゃぶり尽くされるまで弄ばれ、動かなくなったその身は朽ちて塵へと還る。

 いや、違う。
 なんのことはない。もっと、シンプルな話だ。
 人形とは契約者のことで、それを使って遊び、満足すれば人形を棄てて眠りに就いてしまう子供が薔薇乙女なのだ。
 彼女達は皆これまで、契約者という名前の人形を幾つも飽きて捨て、あるいは壊れるまで丁寧に遊び相手とし、そうやって打ち捨てた人形達のことなど一顧だにせず、眠りと目覚めを繰り返してきた。まるで移り気な子供が常に新しい玩具に興味を示し、昨日まで遊んでいた古い玩具をすぐに忘れてしまうように。
 それだけのことだった。

 自転車は空走して行き、やがて門の前でゆっくりと停まった。
「着いたぜ。いやーお疲れ様!」
 少年は注意深く後輪スタンドを立て、身を硬くしている蒼星石を籠から抱き上げる。
 今までは、そういったことに注意を逸らされ、思考を中断させられていた。だが、今の彼女は胴部の関節を丸め、手足を強張らせ、胎児のような姿勢のままゆっくりと彼を見上げる。頭の中では負の思考の渦が止まらなかった。
「どした? ご、ごめん、今のブレーキでもそんな怖かった?」
 記憶を失くす前の彼なら、無駄のない仕組みだ、とただ頷いてくれただろうか。それとも、そんなことはない、と一時の励ましをくれただろうか。
 いや、今の彼に話してもいい。彼はきっと彼女の思いの斜め上の、しかしどこか安堵できる答えと、とても月並な気休めをくれるだろう。
「……いや、そんなことはないよ」
 がちがちに強張った首をどうにか横に振る。どうにか微笑みに近いものを浮かべることもできた。
 ただ、臆病な彼女は、結局自分の思考の到達した結果についての話を少年にすることはできなかった。
「だいぶ揺れてたもんな。ホントごめんな」
 蒼星石の態度をどう誤解したのか、彼は照れたような顔つきで言う。
「やっぱサス付きの自転車にするわ。ブレーキももうちょい良いのにする」
 それは、蒼星石をまた乗せるという意思表示のようなものだった。
 ほら、やっぱり。彼のそんな他愛ない一言は、彼女の心のほんの僅かな一部分にではあるけれど、温もりをくれる。
「ありがとう」
 多分、少しだけ赤みの差した顔で、蒼星石は彼に微笑んだ。今度は少しだけ、上手に笑えたように彼女には思えた。


3

 少年が結菱老人に蒼星石を送り届け、ついでにちゃっかりと遅目の夕食のご相伴に与っていた頃、ジュンの家の古びた大鏡の前では真紅が水銀燈と対峙していた。
 いや、対峙しているというのは真紅の気構えに過ぎないかもしれない。水銀燈は鏡の近くにあった箪笥に背を凭せて腕を組んでおり、真紅の言葉を待っているだけだ。真紅はそんな、ごく自然体に見える水銀燈に話を切り出すのに躊躇しているのだった。
 ただ、真紅にとっては、これからする質問は気構えしなくてはならない程度に辛いものだった。
「雪華綺晶の糧は乙女達と契約していた者の心、そのもの……」
「確かにそう言ったわよ。わざわざ確認するほどの事でもないでしょうに」
 真紅の声が微かに震えているのに気付いているのかいないのか、水銀燈は彼女の消え入りそうな語尾に被せるようにして答えた。水銀燈は水銀燈で、真紅には話してもいい部分というものがあるようだった。
「全く厄介な相手よ。ここだけの話、私が知ってる範囲だけでも今現在も以前の契約者達は何人か生きてる。その全員について糧にしている可能性が捨てきれない。
 相当に意思堅固な人物でも、年月が過ぎて老い衰えれば薔薇乙女にもう一度逢いたいと思ってしまう気持ちが芽生えてこないとは限らない。悪いことに、生きてさえいれば生命力そのものの大小は雪華綺晶が糧とする分には関係がないわけ」
 意外にそういうケースで糧を得ることも多いのかもしれないわね、あの末妹は、と水銀燈は視線を斜め下に向けて忌々しそうに舌打ちした。その言葉を聞いて真紅が息を呑み、更に表情を険しくしたのには気付いていないようだった。
「とにかく、今契約している媒介達だけでも渡さないように──」
「──水銀燈」
 水銀燈は訝しげに視線を上げて真紅を見遣り、眉根を寄せた。真紅は今度はもう少しはっきりと声を震わせていた。
「私は、覚えているのに思い出していなかったわ」
 真紅は脅えてはいない。ただ、目を伏せ、自分を責めるような口調になっていた。
「いいえ、思い出そうとすれば思い出せる。今までの契約者達の顔も、名前も、印象的な出来事も。彼等から私はとても多くのことを受け取り、学んできた。それなのに……彼等のことを思い出そうとしていなかった」
「……そう」
 やはり来たか、と水銀燈は軽く頷く。姉妹の中で最も思索を好み、外から見る分には常に凛と背を伸ばして傲然と構えているようだが、内面では常に周囲を気にかけている。そんな真紅なら今日の自分の言葉だけでそこに考えが到達するだろう、というのは計算の上だった。
「忘れようとしたわけではないの。いいえ、忘れようとさえ思わなかった。ごく自然に、まるで──」
「──何処かに整頓されて収まってしまっているように……?」
 水銀燈は部屋の入り口に視線を向けた。声の主は、表情こそ逆光になってよく分からないが、言葉の響きだけでどういう顔をしているか想像がついた。
「盗み聞きとは感心しないわね、翠星石。その分だと雛苺もいるんでしょう」
 びくり、とする気配がこちらまで伝わってくる。出てきなさいと言うまでもなく、怒られるのを覚悟しているようなシルエットが翠星石と並んだ。
「うゆ……ごめんなさい」
「ま、貴女達は三人一組みたいなものだものね。媒介も共通だし」
 水銀燈は怒る気も失せたと言うように苦笑した。
「そっちが構わないなら、私は二人増えようが増えまいが同じことだけど」
 どうするの、と真紅に尋ねる。真紅は諦めたように何か一言呟いて視線を上げた。
「……分かったわ。ここにいるみんなで話し合いましょう。ただし、ジュンやのりには伝えないで。これ以上余分な心配を掛けたくないから」
 はい、と二つの返事が返って来る。
「相変わらずの秘密主義ねぇ」
 水銀燈は自分のことを棚に上げてくすくす笑ってみせたが、真紅はそれに応じる余裕はなかった。場所は、と訊かれて鏡の向こうを指す。
 水銀燈は笑いを収めずに頷いてみせた。
「それなら、お誂え向きの世界を見つけてあるわよ」


 nのフィールド。
 水銀燈が選んだのは、ひとつの小さな世界だった。
「ここは誰かの家ですか? なんか懐かしい感じです」
 翠星石は欧風の石造りの高い天井を振り仰いだ。現代日本の家屋にはない広さと、暗さと、生命感のかけらのようなものがある。
 様々な国、時代を過ぎてきた彼女達にとっては、ある意味でごく普通に懐かしさを感じ取れる場所のはずだ。それこそ、敢えて今更言葉にする必要もないほど。
「第32768世界。全てが反転する数の一つ。ゼロに一番遠く、ある意味で一番近い数でもあるわね」
 もっともここを選んだのは数字合わせじゃなくて偶然に過ぎないけど、と水銀燈は言い、部屋の扉を開いた。
「大きな人形工房……」
「ドールのパーツがいっぱいなの」
 雛苺は仕事机の方に駆けて行き、そこに吊られて仕上げを待っているアンティークドールの手足を興味深そうに眺めた。
「こっちはちょっと不気味です……」
 翠星石が指差す一方の壁際にはずらりと顔部分のパーツが並んでいた。既に顔の造作から耳まで作られているが、ドールアイの無い眼窩はうつろで髪も睫毛もなく、塗装もされていない。
 部屋の隅に不自然に積まれたジャンクパーツの山や作りかけで放棄されたドールまでは存在しないものの、そこは水銀燈が夢で見た例の人形工房の様相にとても近かった。一昨日の晩発見したときには似すぎていると首を捻ったほどだ。
 案外ここの風景を基にして特徴的な記号を幾つか散らしたのがあの人形工房の姿なのかもしれない、と水銀燈は思っていた。それならば、きちんと整頓された工房の中に唐突にジャンクの山があったことも説明が付く。
 いずれにしても、今はあまり関係がない。ただ一点を除けば。
「適当に狭いし、話をするには悪くないでしょう。我ながら趣味がいい場所とは言えないけどね」
 言いながら水銀燈は持っていた小箱を机の上に置いた。精々数日前の出来事ではあるが、こう一つ物を置いただけで懐かしさが滲んで来るような気がする。
 いつも座っていた椅子ではなく、男が居た仕事机の椅子に水銀燈は陣取り、手を広げてみせた。
「適当に座って頂戴。どうせ誰も来ないわ、……多分」
 つい語尾に一抹の期待のようなものを乗せてしまったが、その意味に気付いた者は本人以外には居なかった。三人は薦められるまま、それぞれ部屋の中の思い思いの場所に落ち着いた。

「それで、忘れようともせず、かといって思い出しもしなかった、ということがどうかした?」
 水銀燈は真紅に視線を向け、少し意地の悪い言い方で話し出すよう促してみる。彼女は机の近くの──丁度、水銀燈がずっと座っていた辺りの椅子に腰を下ろしていた。
 真紅は何かに耐えるような表情になった。
「……契約が解けて鞄に入るとき、私はいつもそれまで契約していた人物のことを考えていたわ」
 貴女達はどうなの? と言いたげに真紅は雛苺と翠星石を順番に見る。雛苺は少し難しい顔をして俯いたが否定はせず、翠星石は自分も同じだと肯定した。
「そして、長い眠りの間にその想いが新たな契約の指輪を少しずつ作って行く……そのことに何の疑いも持っていなかった」
 言いながら、真紅は伏目がちになってしまった。彼女が自分の前でこういう表情になるのは珍しい、と水銀燈は妙なところが気になった。真紅が視線を逸らしたり隠すのは、よほど内面で感情が動いているときなのだ。
「眠りから目覚めてしまえば、前の契約者のことは心の中で整理がついていて、新たな契約者のことだけを考えていた。それが自然なことだと疑いもしなかった。でも、それ自体が私達の意志でなかったとしたら……?」
 問い掛けるような視線が水銀燈を見る。
「元契約者の方にも同じことが言えるわ。でも、そちらは……貴女の言ったとおり、私達との再会を強く願ってしまえば雪華綺晶の糧となってしまうのね。けれど私達は、いいえ、だからこそ私達も、不自然な何かを施されているのではなくて?」

──不自然な何か、か。

 それはとても皮肉な言葉であり、考え方だ。そう考えること自体が不自然だとは、どうして考えないのか。
 本来彼女達はアンティークドールだ。動物のような生命は持たない。自律して動くこともない。それを無理矢理人間のような知識と知恵と性格付けを与えられ、動力源を入れられて動かされているに過ぎない。
 元来がヒトの手でヒトの思いを体現したものなのだから、作り上げたヒトの都合のいいように作られていて当たり前なのだ。むしろ、究極に都合のいい存在を創り出すための前段階、それが薔薇乙女だった。
 だが、自分がその究極に都合のいい存在を創り出す過程をどうしても気に入ることができないように、真紅は自分が精神や記憶に作り手の便利な細工を施されて作り出されたとは思いたくないのだろう。どちらも自律した存在だから致し方ないとはいえ、作り手側にしてみれば有り難くなさそうな話だった。
 アリスゲームそのものだけでなく、時間、記憶、契約者といったものに真紅は潔癖な傾向がある。思索や心理学を好むから、却ってそこに絶対的なものや理想を求めるのかもしれない。
 そんな彼女だからこそ「からくり」らしきものが介在していることに気付けばそれを看過できないだろう、ということは、水銀燈は当然のように想定していた。あまりそちらに素養があるとはいえない自分さえ辿り着いたのだから、ヒントさえ与えれば真紅が気付くのは時間の問題だった。
 意外だったのは真紅にとってそれが自制を大量に必要とするほどの事柄らしいということだ。水銀燈が推測していたよりも、真紅は更に潔癖なのかもしれない。
 あるいは、それさえも過度に考えが進まないよう制御されているのか。真紅のようなタイプはともすれば思索の中に沈んでしまう可能性もあるから、真紅がそれなりの積極性も有している事情の裏には、そういった制御の存在も有り得ることだった。

──やはりこうした話は……

 真紅達とではなく金糸雀とする方が良かったのだろう。もっとも、水銀燈としてはどちらが情緒に流れるかをもう少し見極めてから決めるつもりだったのだが、帰宅する前に真紅から呼び出されてしまったという側面もあるにはあった。
 ただ、そこで先に雪華綺晶の糧のことを喋ってしまったのは早計だったかもしれない。真紅の状況を見極めてからの方が得策だった。いくら姉妹の中で最も思索が深いとはいえ、あまり動揺が激しくては共に策を練る相手としては不都合だ。
 まだまだ自分は他人を巻き込んで何かをすることを苦手としている、と水銀燈は苦々しく思う。じっくり観察して得られた情報を考察する余裕もないし、つい行動が先走ってしまう傾向もあるのだろう。この辺りは、当の真紅の方が数段優っている。
 だからこそ期待もしていたわけだが、と思い、そこで水銀燈は自分の思考が円環状に固着し始めていることを感じた。愚痴しか生み出さない、良くない傾向だ。

 気持ちを切り替えて真っ直ぐ真紅に向き直る。
 たちまち破れる詭弁に過ぎないかもしれないという危惧はあるが、真紅の提起した疑問自体には、まともに自分の推論をぶつける以外の回答も用意してあった。
「私達が目指すのは至高の少女。確かにその資質には私達が誰も持っていなかった部分はあるはず。でも元を辿れば、個別の薔薇乙女は、各々そのときのお父様が至高の少女を目指して造られたもの。複数の姉妹に共通する資質が全くないということはむしろ有り得ない」
 むしろ根底に一つくらいは一貫した物があるはずよ、と水銀燈は机の周辺にある完成間近のドール達を手で示す。残念なことにそれらはほぼ同じ型を使って作られたパーツを組み上げた量産品に過ぎないが、この文脈で使う分には別に構わないだろうと水銀燈は思った。
「この工房の中のドールに共通する、この工房だけのデザインの特徴があるように、私達を作った人形師にも至高の少女に対する変わらないイメージがあって然るべき。恐らくその一つに、過去に囚われずに現在と未来を見続けることがあるのよ」
 真紅は大きな背凭れの付いた椅子に座ったまま黙っていた。伏目がちのままで、表情は上手く読めない。こう見るとやけに小さく見えるものね、と妙なところにふと気付きながら、水銀燈は続けた。
「過去のしがらみに拘泥せず現在と未来に生きる。それが至高の少女の資質の一つだというイメージが何処かの時点で湧いたとすれば、過去を振り返らず前を向いて歩いていく性格が薔薇乙女に共通に織り込まれていても不思議はないわ」
 それは水銀燈自身の仮説に対する弱い否定でもある。確かに、常に前向きであれ、というのは彼やゲームの都合の良し悪しに関わらず、最初から与えられていてもおかしくはない性格付けだった。
 ただ、この説明は全ての薔薇乙女に適用するには口先だけの気休めに過ぎないことは水銀燈自身にも分かっていたし、少し考えれば理解できることだった。
「……ヒナは……やっぱりダメな子なの?」
 恐る恐る、といった声がした。男が人形を座らせ、最後の仕上げをしていた椅子の上で、雛苺はそのことを確認するのが怖いというよりは発言して良いのかどうかを迷っているような声で真紅と水銀燈を交互に見ていた。
「違います、今のは水銀燈の考えで」
「違うわ雛苺、これは──」
「──どうしてそう思うのか、言って御覧なさいな」
 慌てたように口を開きかけた二人に被せるように水銀燈は雛苺を促した。
「アリスゲームから脱落してしまった貴女の視点は、ゲームの中にいて常に引っ掻き回されている私達には重要かもしれない。離れているからこそ見えてくるものはあるはずよ」
 雛苺は、恐らく真紅が予想していなかった表情をした。とても嬉しそうに、そして懐かしそうに笑ったのだ。
「ヒナはね、よく思い出すのよ。コリンヌの手。ヒナの、前のマスターの……。
 ジュンもトモエもノリも、おっきくてあったかい手でヒナを抱き締めたり撫でたりしてくれるの。でも、コリンヌの手は細くて、とっても柔らかくてすべすべしてたのよ。その手で、そおっとドールを持つの……」
 雛苺は最近持ち歩くようになった、彼女には大きめに見える肩掛けポーチを開け、ジュンが手を入れて彼女に似せた小さな人形を取りだした。
「──こんな風に、宝物みたいに」
 まるで壊れ物を扱うような手付きで、ゆっくりと雛苺は人形の足を曲げ、自分の脇に座らせた。
「コリンヌは沢山お人形を持っていたわ。でも、どのお人形もみんなそうやって大事に扱っていたの。ヒナはあんまり持つのが上手じゃなかったから、棚から床に落として瀬戸物のお顔や手足を壊してしまったりしたわ。そうすると、コリンヌはとっても哀しそうな顔をするの。
 しまいにはコリンヌはヒナと遊ぶときはセルロイドの小さなお人形しか使わなくなっちゃったの。でも、小さなお人形にはおうちのセットがあったから、小さなお人形を使うのも楽しかった」
 ドールハウスのことね、と水銀燈は頷いた。屋根裏部屋で沢山の人形に囲まれた幼い少女二人。何やら微笑ましい光景のような気もする。
「みんなの手も大好きなのよ。でも、コリンヌの手も思い出すの。ひとりでに思い出してしまうの。手も、声も、表情も、胸に抱いてくれたときの心臓の音も……」
 そこで、雛苺は少し照れたような、それでいて寂しげな、曖昧な微笑を浮かべた。
「ヒナはコリンヌのことを憶えているから、お別れを忘れることができなかったから、トモエと出会ったときもトモエにコリンヌの代わりを押し付けてしまったの。一緒に遊んで、一緒に居て、もう独りにしないで、って……。
 優しいトモエは、指輪に引き込まれそうになってもヒナを大事にしてくれたし、今もヒナのことを可愛がってくれる。大好きなのよ。
 でも、ヒナはコリンヌも忘れることができないの。そういうダメな子だから、きっとアリスになれなかったのね」
 雛苺は微笑を浮かべたまま、その視線を床に落とした。
 泣いてはいない。うつろでもない。それは、敢えて言えば限界に到達したことを知ってしまったり、もう自分ではどう変えようもない事柄があることを悟ってしまった表情だった。
 真紅は、何か耐えられないものに突き動かされるようにして椅子を飛び降り、雛苺の座っている椅子によじ登った。
「優しい雛苺」
 雛苺の頬に手を触れる。何か励ますような言葉を言ってやろうとしたとき、雛苺は視線を上げ、逆に真紅に微笑んだ。真紅は口をつぐみ、恐らく言おうとしていた言葉とは別のことを口にした。
「私達みんなでアリスゲームを終わらせる。その約束を破るつもりはなくてよ」
 水銀燈は金髪の姉妹が向き合う様を眺め、なるほど、と思う。

 真紅の意図が通り、彼女がゲームを制することがあれば、誰もアリスにはならない。真紅本人も、アリスを作るための一人にしか過ぎなくなる。そのことがもし誰かの救いになるとしたら、それは既にアリスになることを否定されている雛苺なのかもしれなかった。
 ただ、そういう形にはならないだろう、と水銀燈は醒めた思いが心の底に蠢くのを感じてもいる。恐らく真紅がゲームを制すれば、彼女が拒否しようとしまいと、彼女を基にしてアリスは作られる。
 もっとも、どちらであろうと大して変わりはないとも言える。そうなってしまえば全ては終わっているのだ。
 殆どの人間が百年後の世界を見ることができないように、アリスゲームが正常に終わってしまえば彼女達もその後を知覚することはないだろう。
 アリスゲームを彼女達の生とするなら、その終わりは全員の死を意味する。彼女達のローザミスティカは、そのボディが残っていようといまいと一つに還元され、アリスの生命となるのだから。
 もちろん、何処かに各々の魂は残り、何処か遠くへと当てのない永遠の旅に出て行くのかもしれない。その意味では、アリスゲームの終わりは新しい始まりでもある。だが、それは現実世界とは繋がりを持たない、観念の世界に過ぎない。
 現実から見れば彼女達は停止し、物言わぬ人形となる。水銀燈の想定している通りならばそこに魂が残っているかどうかも怪しい。人間的な判断基準で考えれば、それは死んだと言ってしまって構わないだろう。

「真紅、ヒナはね、こんな風に思ってるの」
 雛苺は微笑んだまま、真紅の手に手を重ねる。
「多分、お父様はヒナを作られるときに、ちょっとだけ背伸びをしちゃったのよ。水銀燈から真紅までのみんなは、とっても強くてお利巧さんに作られてたの。でも、それでもアリスにはなれなかった。だから、お父様はヒナで、ちょっとだけ背伸びをして、後ろ向きなダメな子を作っちゃったの。アリスにはちょっとダメな子のほうがいいんじゃないか、ってつい思っちゃったのよ。
 だから、だからね、水銀燈が言ってること、ヒナは分かるのよ。みんな凛々しくて、前のことなんか振り返らないように、ってお父様が願いを込めて作ったのよ」

 残念だがそれはニュアンスが違うだろう、と水銀燈は目を伏せた。
 雛苺に後ろを振り向かない制約が課せられていないのは、恐らく彼女が精神的に大きく成長するように考えられて製作されたからだ。経験を積み、成長していくためには、過去を振っ切る強さを自分で獲得しなければならない。ただ、それもやはり彼女達の父親が考えるアリスではなかった。
 その意味では、まだまだ雛苺は成長の途上にあるのかもしれない。だが、彼女は既にゲームに負けてしまい、その将来はなくなった。
 成長段階を省略して完成された姉妹達の中に一人だけ成長前の存在を放り込んだのだから、雛苺が敗北するのは当たり前といえば当たり前だった。むしろ、この時代まで脱落せずに過してきた方に、何等かの操作があったと見るべきなのだろう。
 単独でアリスを製作することを諦め、ゲームによって作り出すべく方向転換を行った時点で、雛苺に後付けで過去を振り返らない操作を施さなかったのは、アリスゲームにおいて彼女は最初から負けるべく配置されていたからだ、とも言えるかもしれない。確かに成長に全てを賭けたドールという投機的で異質な存在の雛苺は、その路線を信じて最終的にアリスになるようにゲームを調整するか、最初に脱落させて誰かの補強材料に使うのが妥当な「用途」というものなのだろう。
 そして、彼女の敗北した相手が真紅というのもまた既定の路線と見て間違いない。最後の最後に来て本格的なぶつかり合いが起きたときに、真紅単独では最後まで生き残るには脆弱なのだから。
 事実、真紅は雛苺がいなければ、もっとあからさまな介入がなければ水銀燈に敗北していたはずだ。

 視線を上げて雛苺の椅子を見遣ると、真紅はそこから降りて、律儀に元の椅子に戻っていた。
「雛苺」
 水銀燈は少しばかり迷ったが、言っておくことにした。どうせ、いずれは言わなければならないことの一つなのだ。
「後ろを振り返っているのは貴女だけじゃない。私も似たようなものよ。特に、最初が酷かったわね。
 それからは、後から過去に縛られるのが厭で契約を結ばず、媒介としただけで過した時代の方が多かった。それでも、そんな媒介達のことでもふっと思い出すことはあるわ。懐かしいことばかりじゃなくて、思いだしたくもないのについ思いだす厭な思い出も腐るほどあるけどね」
 それでも、それなりに納得の行く別れ方はしてきたように思う。最初に躓いたこと以外は。
「案外、私の失敗を見て、お父様はその後のドール達には強くあれと願ったのかもしれないわね」
 どうにか中間地点に軟着陸させられただろうか、と水銀燈は真紅を眺めた。こういう話術は不得手もいいところだ。結果は保証の限りではない。
 真紅は何か納得していないような顔をしていたが、彼女が何か言う前に、水銀燈に対する反論が別のところから発せられた。
「でも、それじゃ説明がつかないです。チビ苺はどうして前のマスターのことをこんなに思い出してしまうですか」
 どういうわけか、翠星石は泣きそうな顔をしていた。
「翠星石は、いつでもマスターより蒼星石のほうが大事でした。今は別々のマスターになっちゃいましたけど、いつもいつも蒼星石と一緒だったことを思い出すんです。
 でもマスターのことは、思い出そうとしない限り浮かんでこないですよ……。
 強くあれ、前むいて歩けって願われて作られたんなら、翠星石はぶっ壊れてます。だって蒼星石と一緒だったことも、蒼星石が笑ってくれたことも、怒らせてしまったことも、悲しませてしまったことも、ほんとにしょっちゅう思い出してるんですよ。
 翠星石はいつも後ろ向きなんです。昔と、今のことが大事なんです。
 でも──前のマスターのそういうことは、思い出そうとしないと、思い出さないんです。変ですよ。だって、翠星石は蒼星石が大好きですけど、一番心が近いのは契約したマスターのはずなんですから」
 おかしくないですか、と翠星石は水銀燈を半ば睨むような強い視線で見詰めた。
「それは貴女が常に何よりもまず蒼星石を見ていたからじゃないの? より強い執着対象のことばかりよく覚えていたって別段不思議はないわよ」
 言いながら、大分白々しい言い草だと思う。
「それに貴女達は双子。記憶も一部分共有しているのかもしれない。現に夢の世界は共有しているでしょうに。そんな貴女達なら、後ろを振り返るというよりはお互いの記憶がフラッシュバックすることもありえるんじゃなくて?」
「そ、それは屁理屈ってやつで──」
「──水銀燈」
 真紅が静かに口を開いた。
「翠星石も、もういいわ。二人ともありがとう」
 もう震えていない、しっかりした口調だった。
「私達は人形。強く性格付けされている。それを呪わしく思おうと当然だと受け容れようと、結果は変わらないのね」
 そうなのでしょう、と真紅は水銀燈を見た。思考を連ねた末に全て理解したような、いつもの顔に戻っていた。水銀燈と翠星石の遣り取りの間に、気持ちを整理できたということなのかもしれない。
「アリスゲームのためのからくりだとしても、至高の少女として作られた故の性格付けであったとしても、それを拒むことはできない」
 また後戻りか、と水銀燈は僅かに警戒した。否定的な言葉を連ねているのは、下向きの螺旋に囚われているようにも見えた。
 だが、それは杞憂のようだった。
「出来ることを、出来る範囲で変えて行くしかないのね。私達は。その積み重ねが何処かで実を結び、新たな選択肢を提示してくれるよう願って」
 結局真紅は自分の路線を再確認したのか、と水銀燈は頷いた。それは自分の性格付けを認識したことで随分希望の小さなものになってしまったかもしれないが、それでも未来を見ているのは変わりがない。

──やはり、真紅はアリスたるべく条件付けされているのね。

 全ての果てに絶望と虚無しか見えていない自分と比べて、彼女の描く未来像には救いがある。それが、毒の蒸気で周囲を照らす物の名前を冠され、闇を示すドレスに反逆者を示す印を標された自分と、人間にとって生命の色である名前を冠された彼女の、最も大きな違いなのかもしれない。
「話したかったのは、それだけ?」
 水銀燈は仕事机の丸椅子の上で大きく伸びをしてみせた。実際、今日は昼過ぎ起床という彼女にしてはひどく「早起き」をしたせいで若干眠くなりかけていた。
「いいえ、もう一つあるわ」
 真紅は少しばかり申し訳なさそうに首を振り、水銀燈をじっと見詰めた。
「貴女が目指していることを知りたいの」
 珍しく直球で真紅は水銀燈に切り込んできた。
「貴女は……何を、壊そうとしているの」


4

 雪華綺晶は、見ていた。
 彼女の最も大きな力は、nのフィールドに居ながらにして姉妹やそれに関わる契約者達を即座に探し当て、監視できる能力なのかもしれない。同時に複数の相手を追跡することもできたし、よほど相手が警戒していない限り勘付かれることも殆どない。
 ただ、今まではその能力を十全に活用できたことはなかった。新たな素養を持つ者を探索し、選定する力は、人工精霊を持たない彼女には備わっていなかったからだ。
 一度でも姉妹達と契約を交わした者か精々その縁者でもなければ、彼女はシュプールを追うことができない。糧としてはどこまでもお下がりを受け容れるしかなく、糧を確保するためには現状を打破することも侭ならなかった。
 それを一挙に解決できそうな事件も起きるには起きていた。現実時間でつい二ヶ月ほど前、水銀燈の契約者が自分で自分の心の木を伐り倒したときだ。
 それは彼女が待ちに待っていた始動のときでもあった。しかし、彼女は無惨にも失敗してしまった。
 雪華綺晶は待つのには慣れている。孤独に心が歪みかけ、糧の夢を操るのにうんざりしていても、待つこと自体は苦にならなかった。
 ただ、襲い掛かるのはやはり得手ではなかったのかもしれない。初めてということで冒険を避け、手慣れている糧を捕獲する方法を拡大したやり方を使ってさえ、完全に失敗してしまった。獲物には全て逃げられ、自分の存在も暴露し、手許には敗北感しか残らなかった。
 彼女は姉妹達のように鞄で寝ていない。この百数十年間はずっと一続きの時間だった。それだけに、待ちに待った初手での躓きは大きかった。彼女は萎縮し、暫くは何も行動を起こす気力さえ湧いて来なかった。
 若干彼女に有利なのは、自分から行動を起こさない限りは他の姉妹に存在を掴ませず、安全圏に逼塞していられることだろう。彼女は白茨を引き寄せ、水晶の檻の中で自分の心が癒えるのを待った。
 孤独な待機の中で、彼女の思いは少しずつ変わっていった。少しずつというのは語弊があるかもしれない。彼女にとって二ヶ月間というのは、今までの孤独な時間と比べればほんの短い間に過ぎない。
 その短い時間の中で、彼女は今までにない感情を育てていた。

──逢いたい。

 自分が初めて捕獲できなかった相手。そして、自分が知り得る範囲の探索の結果とその後の水銀燈の振る舞いなどから見て、もう現実世界の何処にも存在しない人。
 最初は恐怖と、おぞましさのようなものだけがあった。根本的に異質で強大な力の片鱗を見せ付けられたのだから、当たり前だった。
 しかし彼は、nのフィールドにしか存在できない亡霊のような雪華綺晶を、自分と自分の契約した相手を取り込もうとした彼女を、倒そうとはしなかった。

  ──ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない。

 雪華綺晶は自分が誰にでも受け容れられる存在だとは思っていない。姉妹達のような体も持たず、糧の種類から存在のありようまで全てが異質。そこは長い時間の間によく把握している。
 それでも、彼はそんな彼女を、敵対したにも関わらず赦した。一つ何かが噛み違えば、自分は糧にされ、水銀燈はボディを奪われて永遠に何処か遠くを彷徨することになっていたかもしれないのに。
 考えてみれば、彼女を彼女と認識して声を掛けた人間は、彼が最初でもあったのだ。彼女を作り上げた主と、ゲームの検分役である兎頭の紳士を除けば。

──逢いたい。好意なんてなくてもいい、憎まれても、忘れられていても構わない。もう一度だけ、言葉を交わしたい。

 できることなら、今度はもう少し友好的な形で。
 だが、彼女の追跡能力でも、彼の痕跡はもう掴めなかった。水銀燈の媒介は今も確かに存在しているが、中身はまるで別人だった。その中にはもう雪華綺晶の逢いたい彼は確認できないのだ。
 彼に逢う方法は、今の自分では到底見つかりそうにない。
 見つけられるとしたら、それは──

 思索はそこで打ち切られた。
「……なんということ」
 雪華綺晶は呆然として呟く。思索に囚われて見失ってしまったのか、いきなり姉妹のうち四人が集まっている世界が見えなくなってしまっていた。
 思いはたちまち甘酸っぱい何かから現実に引き戻される。監視を気付かれたのか、と考えてみるが、もしそうであっても、世界を移動するなりしなければ彼女の目から逃れることはできないはずだ。
 その場に居ながら彼女の目を晦ます、そんな芸当ができるのはただ一人しかいない。少なくとも彼女の知る限りでは。
「でも、貴方は何故こんなことをなさるの? これは貴方の権限から逸脱しているのではありませんか……」
 呟きながら、彼女はその意味について忙しく考えを巡らし始める。無論、他の場所を監視するのはその間も怠っていない。彼のことは既に頭の隅に追い遣っていた。
 雪華綺晶は見続けている。機を窺いつづけている。だが、彼女は一つ二つ大きな見落としをしていた。


「ただいまー……」
 声を掛けてみたものの、部屋の中には気配はない。
「まだ帰って来てないみたいだな」
 少年は玄関先の蛍光灯を点けながら、後ろに続く小さな影に、どうする? と振り返った。
「マスターに許可を貰ったから……迷惑でなかったら、待たせて貰っても良いかな」
 蒼星石はいつもの服装に着替えているものの、硬いままの表情で少年を見上げる。少年はいいよと笑って、手に持った蒼星石の鞄を下駄箱の上に置いた。
 少年もご相伴に預かった夕食の後、どうしても水銀燈に確認したいことがあるから、と蒼星石は結菱老人に頼み込んで少年と一緒に彼の家に行く了解を取り付けた。老人は意外そうな顔をしたが、微笑を浮かべて頷いた。
「お前が私に頼みごとをするのは初めてだ。よほど大切なことなのだね」
 その事実に気が付いた蒼星石がびくりとして顔を上げると、老人は若干照れくさそうな顔をしながら彼女の頬を手で触れた。
「行ってきなさい、後は私一人で問題はない。少し時間を潰して、眠るだけだ」
 そして少年を何か言いたそうな目で見詰め、少年が訝しげな顔をすると、苦笑して自分から視線を逸らした。
「蒼星石をお願いする」
 少年はその言葉の大仰さに違和感を持つこともなく、真面目な顔になってはいと大きく頷いた。蒼星石も──普段なら言葉の裏まで読んでしまったかもしれないが──許可が下りたという安堵だけを感じて、ありがとうございますと頭を下げた。
 そんな大袈裟な遣り取りまでして来たのに、まだ水銀燈は帰っていない。いささか拍子抜けするような展開だった。
 取り敢えず洗濯物を洗濯機に放り込んで、少年はコーヒーとお茶菓子の用意をすることにした。小さな台所から窺うと、蒼星石は椅子に座ったまま、何かをじっと考えながら小さなテーブルの上に視線を落としていた。


「二号、お疲れ様」
 マンションの一室に鎮座している大きな鏡を抜けて来た小さな人形を、金糸雀は両手で受け止め、僅かに力を補充してやった。小さな人形は金糸雀の与えた力を使いきり、まさに止まりかける寸前までnのフィールドに留まっていたのだ。
「メイメイの行方は知れたかしら」
 人形はこくこくと頷いてみせた。口は動かないし本物の人工精霊ほど高い知性を持っているわけでもないが、金糸雀に簡単な内容を伝えることはできる。日頃の猛訓練の賜物だった。
 金糸雀がピチカートと小さな人形に追えと命じたのは、黒衣の人形ではなくメイメイの方だった。人形だけを伝令に遣してピチカートはまだメイメイを追い続けているのだろう。
「ふーん、やっぱりそうなのね……」
 みつの大量のコレクションの手入れを手伝っているお陰で、もはやほとんど習い性になっているとでも言うべきか、ごく自然に人形の服の乱れを直したり髪を整えたりしながら金糸雀はふんふんと頷いてみせた。
「あの剣……大分デンジャラスな感じの代物だったけど、持ち主に返しちゃったのね」
 自分のことを殺してくれと言わんばかりじゃない、と金糸雀は呆れた。
「危険物を自分で持ってるよりは安全だと思ったのかしら。どっちにしても水銀燈らしくない弱気ね」
 これから恐らくアリスゲームも大詰めに入って来るのだろうに、使えそうな物を手許に置いておかないというのは不思議といえば不思議、弱気の現われと言えばそうとも言えそうだった。
「ゲームを諦めたわけでもなさそうなのに、……よくわかんない心理かしら」
 金糸雀は一つ息をついて、人形を人形棚の端に座らせた。なるべく視線は横に動かさないようにする。青色LEDに斜め下から照らし出されている大小さまざまなドールの姿は、怪奇物が苦手な真紅でなくとも目が冴えて眠れなくなる程度には不気味なのだった。


「貴女が壊したい予定調和というものが、私が守りたいものの一つだとしたら」
 真紅は言い辛そうに続ける。
「私は貴女と戦わなければならないかもしれない」
「貴女が考えを変えない限りは、そうなるわね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「そうなれば少し不利だけど、負けてあげるつもりはないわよ」
「私も、戦うことになれば負けるつもりはないわ」
 そう言いながら辛そうにしてしまうところが真紅の気持ちをよく表していた。本来戦いたくないのだ、と言わなくても表情でそれと知れてしまう。
「でも、貴女の壊したいものが私の戦わなければならないものと同じだとしたら、私達はこれまでのように協力できる。そうでしょう、水銀燈」
 だから教えて欲しい、と真紅は視線を逸らさずに言いきった。
「いいでしょう。ただ、その前に」
 水銀燈は振り返り、奥のドアの方に声を掛ける。
「居るのなら出てきてくれないかしら。盗み聞きと監視は貴方の得意技だけど、たまには真紅とマエストロ以外にも姿を見せても撥は当らないわよ、ラプラス」
 ドアはあまりよく手入れされていない蝶番特有の軋み音を立てて開き、兎の剥製の顔を持った紳士は長身を屈めるようにして部屋に姿を現した。
「これはこれは、このような一大転機となるやも知れぬ会合の場にご招待に与り光栄ですな」
 紳士はシルクハットを取り、慇懃に一礼した。
「合従連衡は戦の常。孤独な戦いは美しいとは言え、それだけでは中々に勝ち進めぬもの。孤高の誇りを捨てても逸早く他に先んじてそれを為そうというわけですかな、黒薔薇の御嬢様。おっと、紅薔薇の御嬢様も同じことをお考えでしたか」
「相変わらず口の減らない兎ね」
 やや憮然とした顔で真紅は文句を付ける。水銀燈は肩を竦めた。
「仕方がないでしょう。大事を為すには多少の我慢は必要というものよ」
「そこにお気付きになるとは、いやはや流石に御目が高い」
「お褒め頂き汗顔の至りですわ」
 水銀燈はわざとらしく笑い、仕事机の椅子から作業台の上──あの作りかけの人形が置かれていた場所に飛び乗った。
「私の席で良かったら座って頂戴、貴方にはお似合いの場所かもしれないわよ」
「おお、これは勿体無いお言葉。では、老兎は有難く座らせていただくことと致しましょう」
 紳士はゆっくりとその椅子に腰を下ろした。長身の彼がそこに座ると、服装こそ場違いなものの、まるでこれから人形作りに取り掛かるような姿にも見える。
「流石、昔取った杵柄というやつかしらね。中々堂に入ってるわよ」
「はてさて、何を仰いますやら」
 紳士は全く意味が分からないと言いたげな素振りをしてみせた。
「ささ、これ以上うすのろ兎にお構いなく。本題を御続けくださいませ、御嬢様方」

 部屋に入ってくる際にラプラスの魔が何かをしたのは水銀燈にも分かっていた。むしろ彼がこの世界に顔を出した目的はそこにあって、部屋に入るかどうかはどちらでも良かったのだろう、とも思っていた。
 ただ、彼女としては、偶にはラプラスの魔の前で喋っても良かろうという思いもあった。
 顔を合わせるのを拒否したところで、彼はどうせその気になれば全てを見聞きできる立場なのだ。ならば、この時代で一度くらいは堂々と彼の前で自説を開陳してやろう、と彼女は考えていた。
「私に情報をくれた媒介も、今後の成り行きを全て把握していたわけじゃない。むしろ今の時点になってしまえば、あいつが知っていたことで役に立ちそうなことは精々、雪華綺晶の最初の暗躍の顛末くらいなもの。その話はしたわね」
 三人は頷いた。それはあの人形と接触した日、彼女の契約者の夢の中で聞いていた。
「チビチビが危ないって話だから、翠星石も真紅もチビチビを独りにしなかったですよ。やばそうなときはジュンや泣きぼくろ女に頼んだりもしたです」
 実際のところは束縛を我慢できずに雛苺が脱走して巴に抱かれて戻って来たこともあった。食事の手伝いを一緒にしてみたものの雛苺がどうしても遊び半分のままで、怒った翠星石が雛苺を部屋の外につまみ出したりもした。
 しかし、ジュンやのりも加えた桜田家の一同が、それまでよりずっと雛苺のことを気に掛けているのは事実だった。
「陰険おじじのところにも、たまには顔出ししてやってるんですよ。もっともおじじには蒼星石がずっと張り付いてますけどね」
 蒼星石もあんなおじじに尽くしてるなんて可哀想です、と翠星石は少し不満そうに口を尖らせた。
 そうだろうか、と水銀燈はふと考える。蒼星石に居場所を与え続けているのは結菱老人の方ではないのか。
 融通が利かず、どちらかと言えば付き合いにくい蒼星石を、老人はそれなりに自然に手許に置いてやっているように見える。自分の我侭で命じたことは通らず、蒼星石が壊そうとして結局壊すことができなかった心の影は恐らく今でも度々彼を悩ましている筈なのに、そういった過去を責めることもなく静かに蒼星石と暮している。
 彼女がいることは老人の精神の安定にも役立ってはいるのだろうが、彼をマスターと呼んで諸々の事柄を託している蒼星石こそ、彼が契約を解除せずに以前のままを維持してくれたお陰で安定を得ているのだ。
「……で、それがどうしたって言うですか」
 翠星石はラプラスの魔が居ることで少し緊張気味なのかもしれない。先程までは黙っていたのに、少し口数が多くなってしまっている。
 せっかちねえ、と水銀燈は笑ってみせた。
「だから、ここからは私の推測ということ。当たり外れや足りないところは当然あるから、よく考えて聞いて」
 三人は頷いた。どういうわけか兎頭の紳士も茶々を入れず、帽子を机に置いたまま、兎そのものの目で水銀燈を凝視している。
 水銀燈は小さく息を吸い込み、目を閉じた。たかが自分個人の意見ではあるし、以前から仄めかしてもいる。姉妹達の反応は今までのように薄いだろう。それでもその一言を言うには多少の気構えを必要とした。

「アリスゲームは、最後の形が確定している。勝利するべき姉妹も、最後の組み合わせも確定している。一種の出来レースなのよ」


 結菱老人は就寝前のワインを飲み終わり、若干苦労して車椅子からベッドに体を移した。いつもは蒼星石が子供ほどの力で、介助と言うには足りないまでも手伝ってくれていることを強く意識する。
 時間を潰して寝る、と言ってはみたものの、実のところ寝るまでにすることも特になかった。改めて思えば最近は蒼星石がそこにいて生真面目な顔で何かをしているのを見守っているのが楽しくて、彼女が鞄に入る午後九時まで起きていたようなものだった。
 思い詰めているような蒼星石の顔と、それとはほとんど正反対に近い、楽天的で何かといえばチェシャ猫のようににやにや笑っている少年の顔が目に浮かんだ。
 彼が加わり、蒼星石の双子の姉が時折そこに花を添えれば、随分賑やかな暮しになるのだろうな、と考える。それは実現不可能な遠い幻想ではなく、老人にとってはささやかだが現実的な未来像の一つだった。今でも、毎週末にはほとんど実現してもいるのだ。
 少年は気付いていないようだが、蒼星石は確実に彼に好感を抱いている。老人としては自分の契約した人形が勝手に他人に恋をしたような形だが、不思議と怒りや嫉妬を感じることはなかった。少なくとも双子の弟に最愛の人を取られたと感じたときのような心の動きはない。
 それは、蒼星石の心が自分と深く繋がっているからという安心感から来ている安易な感情かもしれない。だが、少なくとも表面的には、老人は自分の死後に少年に彼女を託すことも考え始めていたし、蒼星石が少年を選びたいのなら契約を解くことも考えのうちに入っている。
 そうだ、まだ寝るには早い。あまり品が良いとは言えないが、時間潰しには悪くないことがあるではないか。

 老人がまた少し苦労しながら車椅子に戻り、LEDライトを持って屋敷の廊下をゆっくりと移動し始めた頃、彼の寝室の鏡からは、細い白茨が助けを求めるように弱々しく伸び始めていた。
 蒼星石か老人が部屋に居れば異常に気付いたかもしれない。だが、それは暫くすると諦めたようにするりと鏡の中に戻ってしまい、後には何の痕跡も残しては行かなかった。


5

「遅いな、水銀燈」
 ちびちびと口を付けていたコーヒーは二人ともとうに飲み干してしまい、暇潰しに点けたテレビからは午後九時代のドラマが流れ始めていたが、水銀燈はまだ帰宅しなかった。
 もっとも、彼女がこの時間帯に留守なのは珍しいことではない。むしろ寝ているとき以外は必ずと言っていいほど何処かに出掛けていた。
 それが何処なのかは少年は知らない。だが遊びに出ているのでないことは、少々雨が降っても風が吹き荒れていても外出していることから流石に分かっていた。
 一度などは何処でぶつけたのか翼を折って帰ってきたことさえあった。彼女はよろめきながら窓際に帰り着くと物も言わずにいきなり彼から力を奪い取り、へなへなと座り込む彼の前でゆっくりと翼を広げ、体力だけはあるのねぇと少し感心した風に苦笑してみせた。
 折れたと見えたのが見間違いだったのか、それとも彼の与えた力が治癒によほど役立ったのか、翼はそれだけで治ってしまったようだった。翌日こそまだ痛みが残っているのか外出は控えていたが、その次の日からはまた出て行くようになっている。
 そのときばかりは、こんなことが何度か続くようなら水銀燈の出向いている場所やら目的を教えて貰わなければ、と流石の彼も気を揉んだ。だが幸いと言うべきか、彼女が目に見えるような怪我をして帰って来たことはその一度だけで、それからも特に変わった風もなく過ごしてきてはいる。
「でもさ」
 これといった話題もなくなって、そんな日常のあらましを蒼星石に語って聞かせた少年は、先程と同じ言葉を口にした。
「確かに今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけど」
 それだけで良かったのかな、と少年は蒼星石をじっと見詰めた。
「俺は……多分みっちゃんさんもそうだけど、まず自分の生活があって、そんで、水銀燈が居るんだよ。でもさぁ」
「……うん」
 蒼星石には彼の言いたいことが分かるような気がした。水銀燈は、記憶を失ってからの彼には多くの時間と力を割いている。
 それは見方を変えれば要らないお節介でもあろうし、水銀燈からすれば自分自身の思惑のためにしている行動でもある。しかし、結果として彼の欠けた記憶と足りない心を水銀燈が「手で」補ってくれていることは事実なのだ。
 彼とすれば、そこに退け目を感じると言うほどではないにしても、お返しをしてやりたいという気持ちは当然生まれるだろう。
「せめて桜田や結菱さんみたく、一日中ずうっと傍に居てあげられたらいいんだろうなぁ」
 あんな風に真剣にいろいろ悩んだり、みんなに頼られるようには成れそうもないけどさ、と少年は頭を掻く。
「……確かに」
 くすり、と蒼星石は笑ってしまう。雛苺と二人で真紅や水銀燈のお説教を受けている彼をつい想像してしまったからだ。
 周囲に何人もの薔薇乙女が群れて、それを彼が上手いことあしらっている様は想像できなかった。むしろ真紅や翠星石にはずっと頭が上がらず、怒られ通しになってしまいそうだ。
 実のところはジュンも日常ではしょっちゅう真紅や翠星石に叱られたり怒鳴られたりしているのだが、そこまでは蒼星石は知らない。彼女の認識では、ジュンは雛苺と翠星石のマスターで真紅のパートナーであり、恐らく翠星石の好意が向いている相手でもあった。
「さっきも少し話したけど、契約というのはそこまで一方的なものじゃない。水銀燈だって、付かず離れずの距離に貴方が居るからこそ実行できている事柄も多いはずだ」

 蒼星石はふと、彼の記憶の中にあった世界での水銀燈の契約者のことを思った。
 柿崎めぐと言ったか、水銀燈は文字通りあの少女のために戦っていた。蒼星石の断片的な知識では、まるで柿崎めぐが水銀燈の全てだったようにさえ思える。
 もちろん境遇の類似や、めぐの心が水銀燈自身の心の琴線に触れたということもあるだろう。二人はとても似通っていた。
 だが、あまりに似過ぎていた契約者は水銀燈の心を虜にし、彼女は病弱で消えてしまいそうなめぐのために戦ううちに余裕を失って行き、しまいには雪華綺晶にその点をつけこまれてしまった。

 それに比べたら、現実の水銀燈は彼というしっかりとした基盤を持って行動できている。知識を受け取ったことは置いておくとしても、今の彼であっても少なくとも帰る場所と安定した力の供給源にはなっている。
 それは、まるで空気のように見えないけれども、空気のように大切なものだった。水銀燈が一貫して大きな余裕を持ったまま行動できているのは、紛れもなく、柿崎めぐでなく彼と契約したからだ。
 最終的に水銀燈にとってどちらのような契約者が良いのかは分からない。病弱で不幸な契約者のために全力を尽くすというのも、至高の少女として成り立つための条件の一つなのかもしれない。ただ、今のような大胆な行動は、少なくとも彼の存在が確立してあってこそ可能なことだった。
「水銀燈も分かっているはずだ。貴方と契約したからこそ、今の環境があるということが」
 そして、巡り巡って自分が今ここに居るのも、元を辿れば水銀燈の契約者が少年だったからでもある。
「今のままでも、貴方は充分に水銀燈のマスターとして成り立っている。自信を持って」
 蒼星石はうっすらと微笑んでみせた。


「出来レース……とは、いささか通俗的かつ野卑な表現ですな」
 兎頭の紳士は小首を傾げてみせた。
「仮に勝敗が決まったゲームだとしても、少なくとも其処に参加する貴女方御嬢様達はゲームの先行きを御存知ない。所謂八百長の加担者達とはその点が全く異なりますな」
 彼等は分かった上でゲームに細工をするわけですから、と紳士は慇懃な態度を崩さずに言う。水銀燈はそれを予期していたと言いたげににやりと笑った。
「いいえ。私達は所詮プレイヤーではない。プレイヤーに好きなように動かされる駒に過ぎないのよ。動きはサイコロの出目で決められてしまうし、僅かばかり座りが悪くて、ときどきはみ出したり盤から零れ落ちそうになったりするけどね」
 そして、私達を動かしているプレイヤーは、と水銀燈は部屋の天井を見上げる。
「たった一人。お父様だけ。彼の指先だけで私達はあっちへ動かされたり、こっちに飛ばされたり。そして、最後まで手順は決まっているのよ。
 出来レースと言って語弊があるなら、一人遊びのゲームと言ったところね。ただ、中途でそれぞれの駒の動きをサイコロに委ねているだけの」
 紳士はなるほどと顎に手を遣り、それ以上の追求をせずに水銀燈の言葉を待つ態勢に戻った。
「散々サイコロを振り続けて、それぞれの駒の取った得点がある程度以上貯まったら、プレイヤーはゲームを次の局面に移す。駒同士を上手く組み合わせて戦わせ、ある駒に他の全ての駒の得点を集める。そして、得点が最終的にある基準を超えたら、アリスが誕生するかどうかサイコロを振って、誕生すればゲームはプレイヤーの勝利になる」
「もし、誕生しなかったら……?」
「ゲーム自体が失敗だったことになるわね。目的を達成できなかったのだから。お父様はまた別の方法を考え始めるのでしょうよ。多分、今度は二度も失敗した私達のような質の悪い駒に頼らない方法をね」
 真紅は頷いたのか俯いたのか微妙な角度に顔を下げた。質の良くない駒、というのは耳が痛いが、反論しようのない事実だった。
 彼女達は皆、一度はアリスとなることに失敗しているのだ。作られたときにアリスたれと望まれ、生まれ出てすぐに失望させたのだから。
 造物主たる人形師が薔薇乙女をゲームに臨ませたのは、言わば廃物利用のようなものだった。個々の資質ではアリスたり得ないと分かっているモノを、掛け合わせるか競わせることで何かの資質が生まれるのではないかと考えたのだから。
「話を戻すわ」
 ぱんぱんと水銀燈は手を叩いた。真紅ははっと顔を上げる。手を叩いたときの水銀燈が誰に似ていたか、漸く思い出したのだ。
 それは、恐らく偶然の一致だろうが、ラプラスの魔の仕草にそっくりだった。

「勝ち残る姉妹は、最も思慮深く、最も慈愛に満ち、最も高潔で、そして姉妹から最も慕われていなければならない。つまり、真紅。貴女がそれよ」

 聴衆に驚きの反応は見受けられなかった。そうだろう、と水銀燈も予期していた。
 これまでアリスゲームを主導してきたのは、悪役であり敵役でもある自分だった。だが、最も自分に狙われ、敗北も経験し、唯一他の姉妹を従え、常に受け身ではあるがアリスゲームについて最も思索を巡らしている真紅は主役に相応しい。
 更に彼女はマエストロたる桜田ジュンと最初に契約してもいる。現状ではそれがどう今後のゲームに反映されるのかまでは分からないが、桜田ジュンと真紅の関係が特異なのは間違いのないところだった。
 少なくとも彼は一度、真紅の戻らないはずの腕を取り戻し、そして元通りに繋げている。天賦の才を持った者が偶々契約者としての繋がりを持ったわけでもなければ、真紅のことを熱烈に愛しているただの契約者というわけでもないのは明白だ。
 そうした数々の要素を備えた彼女以外に勝ち残る者が居るとしたら、それは常に真紅を襲撃する側である水銀燈しかいない。だが見えない手でゲームが制御されている以上、水銀燈がアリスになるという可能性は無いだろう。
 そのことに気付いたとき、水銀燈は自分が冷静にその考えを受け容れていることをやや意外に思った。本来、激昂してあまりにも理不尽だと叫び出し、あるいは何処か暗い場所に引き篭って膝を抱えて全てを呪っても良いような話だった。
 しかし彼女はどちらの行動も取らなかった。
 忍耐が感情を上回ったわけではなかった。ただ、一抹の寂しさと虚しさが吹き抜けていっただけだった。
 あるいはずっと以前から、彼女は知っていたのかもしれない。それこそ媒介の記憶を知識として得たり、そもそもこの時代で真紅と何度も戦ったりする前から、そんな気配があったようにも感じている。
 詰まるところ、それもゲームの進行者による制御の一環ということなのかもしれない。何をやってみようと、その行為までもが適当に処理されてしまうのかもしれない。
 だが、彼女はそれでも抗ってみたいという気持ちを抑えようとは思わなかった。それもまた、制御された結果の思考なのかもしれないけれども。

 今更のことに思いを馳せていた時間は、恐らく数秒にも満たなかっただろう。周りにはまた勿体ぶっていると見えただけかもしれない。水銀燈はふっと息をつき、気持ちを切り替えて言葉を継いだ。
「そして、それに対抗する者も決まっている。それは雪華綺晶」
 どういう経緯を辿ることになるかは未だ見えてこない。ただ、最後に残る駒──真紅の思惑通りに進めば真紅に従う姉妹達も残ってはいるのだろうが、それはもう真紅という駒の付属物に過ぎない──は、真紅と雪華綺晶でしか有り得ない。
「これも当然ね。雪華綺晶の力は私達の基準からすれば異様に強い。今は躓きのせいで消極的になっているようだけど。勝者の力量を試す最終的な障害、としては文句の付けようがない存在よ」
 一旦自分の手番になってしまえば雪華綺晶の能力は他の姉妹達のそれとは比較にならないほど強大で、姉妹を攻撃するのに都合が良い。だが以前金糸雀が指摘したように、いかに姉妹と戦うには有利であっても、彼女は自分の糧を得るために他人のお下がりを拝借するしかない立場でもある。
 そこに水銀燈が付け入った隙が存在しているわけだが、それが上手く行くかどうかは別として、本来最後の敵として設定されているのは雪華綺晶なのだろう。強大な力を持ちながら最後の最後まで行動を起こせないというのは、逆に見れば最後の敵として設定されているからだとも言える。
「最後は……どっちが勝つんですか」
 翠星石は真紅と水銀燈とを交互に見ながら、縋るような声音で尋ねた。彼女としては真紅が勝つと言い切って欲しいのだろうが、水銀燈はそこで優しい嘘をつく気はなかった。

「どちらが勝つかは、正直どちらでも良いのかもしれないわね。真紅が勝てば雪華綺晶の力を真紅が取り込み、雪華綺晶が勝てば真紅を捕食して……。
 ああ、他の姉妹がまだそこにいても、もちろん全員、全部をね。
 恐らく、どちらの場合も全部のローザミスティカが集まれば雪華綺晶の隠された能力が発揮されて、成功すればアリスが形成される。または、失敗して全てが無に帰す。
 どちらにしても長きに亙ったアリスゲームの終わり、予定調和というわけ」

 それでも、最後に勝利するのは真紅だろうという漠然とした予想が水銀燈にはあった。それは真紅が付き合いが長い、若しくは自分に近しい存在だから勝ち残って欲しいというような意味合いではない。
 彼女達を作り上げた造物主が、いかにも雪華綺晶を可愛がっていないように思えるからだ。そうでなければ、雪華綺晶だけを孤独な場所に独りで半ば放置するような仕打ちをする理由が分からない。
 尤もあの人形師は「勝手に動き出した」自分の第一ドールを畏れ、本来最も愛していたそれを最後の最後まで不完全な姿のまま戦わせていた。同じように、彼女達の造物主も表面上は雪華綺晶を冷遇していながら内心は最も愛しているのかもしれない。
 だが、今のところそれはどちらであっても無関係な話だ。
 水銀燈が気に入らないのは、造物主の内心の機微ではなく、その思惑がゲームとして表出している部分なのだから。

「だから、私はその構図をぶち壊してやりたいのよ」

 そんな重いはずの言葉を、水銀燈は軽く肩を竦めながら口にしてしまった。
 すぐに自分の仕草に気付いて苦笑する。意外に気楽に言い切れたことに自分自身途惑ってしまったのだ。

 暫くの間、誰も口を開かなかった。
 水銀燈には少し想像しにくいことだったが、このときの三人は黙ってそれぞれの思いに沈んでいた。表立って何の反応も返していなくとも内心では考えを纏めていることもあるのだ。
 沈黙を破ったのは翠星石だった。
「それは……」
 翠星石はまた泣きそうな表情になっていた。彼女の感受性が強いのは知っているが、何故泣く必要があるのだろう、と水銀燈は訝しく思う。全てが終わると告げられたからか。真紅の言う「みんなでアリスを生む」という結末を否定するような言い回しにならないように注意してみたのだが。
 言葉に詰まったようになりながら、翠星石は続く言葉を搾り出すように口にした。
「雪華綺晶と戦う前に、真紅を倒してやる、ってことですか……?」
 否定を引き出すための確認か、と水銀燈は軽く納得した。泣き出しそうな理由はまだ明確には分からないが、真紅が戦いに巻き込まれれば翠星石も無関係ではいられない、恐らくその辺りだろう。
 彼女はここ二月ばかりの平穏な日常を、多分どの姉妹よりも謳歌している。だが、それだけにアリスゲームというものから逃れられないことも了解してはいるのだろう。
 その日常が壊れるかもしれない。それは翠星石にしてみれば半ば恐怖に近い感覚かもしれなかった。
「それも考えたけど」
 水銀燈は真紅を見詰め、にやりと笑った。真紅は表情を引き締め、じっとこちらを見ている。
「もし仮に番狂わせが起きたとして、私が全員を手懐けるか屈服させたとしても、雪華綺晶が残っている限りは結果は同じになる。ただ、雪華綺晶と対決するのが真紅になるか私になるかの違いでしかない」
 単純に勝てそうもなかった、というのもあるけどね、と水銀燈は笑ってみせる。

 ただ、真紅から見ればそれは少しばかり見え透いたリップサービスだった。
 媒介から知識を得た時点で、水銀燈が真紅に勝つ方法は幾通りもあったはずだ。なんとなれば全てを見越していることをもっと大っぴらにアピールして真紅を心理的に降伏させ、それこそ真紅が雛苺にしたように従えてしまっても良かっただろう。
 先程は何かがあればローザミスティカを翠星石に渡すと表明してみせたが、今の水銀燈と直接戦って敗北すれば彼女のローザミスティカは素直に水銀燈の元に行くだろう。恐らく蒼星石や金糸雀もある程度納得して水銀燈の一部になるのではないか、と真紅は思う。
 実際、真紅は今現在でも心理的には水銀燈にほぼ負けてしまっている。アリスゲームの先行きに対する見通しの深さは兎も角として、その結末に対するドライな予測が真紅にはできなかった。どこかになけなしの希望を求めてしまっているのだ。
 永遠に近い、ドールとしての成長のない生に絶望しながら、恐らく目前に迫ったアリスを生むゲームのタイムリミットからは救われたいと何処かで思っている。そこが彼女の自覚していない二律背反なのかもしれない。

「じゃあ……水銀燈はゲームを止めちゃうの? 壊しちゃうの?」
 雛苺は何かに脅えているような声で呟くように言った。
「ゲームが止まらなければ、最後は全部同じになっちゃうんでしょう?」
 水銀燈は軽く首を横に振った。
「アリスゲームを完遂させる。アリスに成る。それは私の本能みたいなものよ。正面からそれに背くことはできない」
 たとえそれが不可能だと規定されていても、という言葉だけは水銀燈は口に出さなかった。少しばかりナルシスト過ぎる台詞のように思えたからだ。
「ただ、その過程を弄ってやる。最後の組み合わせが最初から決まってるゲームなんて、面白くないでしょう? プレイヤーさんの面白さのツボは知らないけど、駒であり、同時に一番ゲーム盤に近い観衆でもある私は出来レースなんて見ていて面白くないのよ。だから、そこを壊してやるの」
「その標的が、雪華綺晶……」
 真紅は少し眉を寄せる。複雑な気分だった。
「そういうことになるわね」
 水銀燈は口の端を吊り上げた。
「案外、私のこの行動も予め仕組まれている流れの一つかもしれないけどね」
 そこまで制御されてるならどう足掻きようもないわ、とにやりとする。紅い瞳には獰猛な光が宿っていた。
「仕組まれて制御された考えでも構わない。雪華綺晶をこっちの土俵に引き摺り出して倒す。それが今の私の目標ってことになるかしら。
 末妹を先に倒したことでゲーム全体が止まろうと、壊れようと知ったことじゃない。
 それが私の望んで挑むアリスゲームなんだもの、貫かせて貰うわ」

 ぱち、ぱちと間隔の出鱈目な拍手が響いた。
「断片的な知識がおありとはいえ、そこまでお考えになっているとは。やはり長姉たる方の御考察ゆえの鋭さと言えましょうか」
 兎頭の紳士は興が乗ったのか、喋りながらも暫く手を打っていた。
「しかしながら、それとても最終的に同じ結末を生み出すという意味では、少々不徹底の気味があるのではありますまいか」
 紳士はそこで漸く手を机の上に置き、表情と視線の行き先の今ひとつ分からない真ん丸な目で真紅と水銀燈を交互に見遣った。
「どのような証明、どのような定理を使ったところで、用意された定数と最終的な回答が同じでは畢竟式の優劣を競うだけに他なりません。それも大切ではありましょうが、予定調和を壊すと言うには聊か足りてはおりません。新公式を以て旧公式の不備を糺す、予定調和という言葉で言い換えれば予定調和を乱す。その程度でありましょう」
 水銀燈は感心したような顔になって頷き、真紅は目を瞬いた。
「貴方がどの口でそんなことを言うの、ラプラス。自分をゲームの審判者と言っていたのは貴方自身ではなくて?」
 それ故に彼はどの姉妹とも付かず離れず、に徹していたはずだ、と真紅は思っていた。
「審判がゲームに口出しをしては、ゲームが成り立たない。そう言いたいの?」
 水銀燈はくすりと笑ってみせた。
 真紅は知らないのか、知ることのないようにされているのだ。ラプラスの魔こそ、一番目につきやすい「からくり」の体現者だった。

 彼が現れるのは、決まって真紅かジュンが窮地に陥ったとき、またはジュンに真紅のために決断を迫るときだった。
 二人には飄げた振舞いと持って回った口調で対しているために──彼等の潔癖な視点からは、どうしても好きになれないタイプの性格に見えることもあって──嫌われているが、彼がいなければジュンが最初にnのフィールドに入った折に無事に戻ることもなかったかもしれないし、真紅の腕がジュンの手元に戻ることはほぼ確実になかっただろう。
 彼がここまでの立場を変えない限り、恐らく真紅以外の姉妹がアリスゲームに勝利することは有り得ない。本人達がそれに気付いていないだけの話だった。
 皮肉なことに、最近になって彼が目立って活動しなくなっているのは水銀燈と彼女の契約者のせいでもあった。
 漫画の世界のとおりに事態が進んでいれば、彼は雪華綺晶についての情報を真紅と翠星石に与え、囚われた彼女達の元にジュンを導き、ほぼ勝利を確定させていた雪華綺晶の手から姉妹の過半を救い出すヒントまでも与えたはずだ。それが必要ない状況になってしまっているのは、水銀燈が契約者から得た知識を活用して極力雪華綺晶に手番を回さないように立ち回ったからだ。
 逆の見方をすれば、水銀燈はラプラスの魔の仕事を肩代わりし、または手伝っただけと言えるのかもしれない。少なくともこれまではそのとおりだった。
 とはいえ、ここから彼がどういう立ち位置でどう行動するのかまでは分からない。
 水銀燈は自分の今後の計画を考えるときは彼の影響を考慮しないことにしていた。最大限の影響力を行使するだろうと想定すると、薔薇乙女達がどんな意思を持って行動するとしても、ゲームはそれとは無関係に彼の手の上で進んでしまうことになるからだ。
 それは悪い意味で思考停止であり、ある意味で自ら負けを認めているようなものでもあった。だが彼の真の意図が読めない以上、一方的に当てにしたり、敵に回ると決め付けておかしな作戦を立てるのは好ましいとは言えまい。

「残念だけど、どうやら私達のゲームの検分役は役目に忠実とは言えないようよ。適当な代わりが居るなら解雇した方が良さそうね」
 水銀燈は口の端を吊り上げながら、そんな言い方をしてみた。直接には今の発言を指しているが、遠回しにラプラスの魔の行動全般を示してもいる。真紅が後で冷静になったときに思い出せば、何等かのヒントになるかもしれない。
 真紅がラプラスの意図に気付かないのならそれはそれでいい。下手に頼ってしまったり、逆に頑なに拒絶したりするよりは、正体不明の謎紳士としておく方がまだ良いのだろう。
 誰にも頼らずに自分の力で道を切り開いていくのはアリスの基になる真紅には必要な資質なのだろうし、彼の言葉を一々拒絶していては、苦境に落ちたときに敗れてしまいかねない。雪華綺晶や、そして水銀燈に。
「これは失敬、言葉足らずでしたかな」
 水銀燈の意図など気付かない風に、ラプラスの魔は小首を傾げてみせた。
「不肖この兎、御嬢様達のゲームの遂行を阻害するようなことは致しません」
 なるほど、と水銀燈はにやりとする。彼は特定の誰かに荷担することまでは否定しないのだ。
「ただ、聊か腑に落ちないのでして。予定調和を壊す、という言葉は激越なもの。そこには白薔薇の御嬢様を主敵とするという方針だけではない、隠された意図を篭めていらっしゃるようにも思えまして」
 ラプラスの魔は兎の目で水銀燈を見詰める。それは彼女の採りたい行動を概ね理解した上で、ここでそれを吐き出してしまえと言っている視線だった。
 水銀燈は真っ直ぐに視線を返した。ラプラスの魔の顔が兎の剥製でなく、元々の人間の顔に戻ればいいのにと思う。こういうときくらい、少しは表情を作ってもいいのではないか。
 今となってはそれこそ繰言か、と息をつく。案外、自分もあの媒介と同じくらい、いや、時間の長さから言えばもっと見苦しく昔を引き摺っているのかもしれない。

──メイメイの見立ては間違っていなかったということね。

 その意味では、水銀燈が彼に抱いていた苛立ちは同属嫌悪のようなものだったのかもしれない。
「隠れた意図、ってほどじゃないけど」
 水銀燈は真紅、翠星石、雛苺と順に視線の先を移した。
「雪華綺晶が居ないアリスゲームは、時代を越えて継続できると思う?」


6

 テレビの画面の異常に気付いたのは、眠そうな眼つきで手持ち無沙汰にそれを眺めていた蒼星石ではなく、その隣でテーブルの上に課題を広げながらちらちらとそちらを見ていた少年だった。
「あれ? アンテナおかしくなったかな」
「え?」
 蒼星石がぱちぱちと瞬いて少年の顔を見、その視線の先に注意を戻したときには、既に画面はブラックアウトし、音声も途切れていた。
「ああーっ全く、夜中だってのに……」
 少年は額に手をやって立ち上がり、なにやら文句を言いながらテレビに歩み寄る。
「待って」
「え?」
 少年は思わず振り向く。その背後で、テレビ画面は池に小石を投げ入れたように波打ち始めた。
「離れて! 入り口が開く。nのフィールドの」
 蒼星石は椅子から飛び降り、彼とテレビの間に走り寄りながら人工精霊を呼んだ。間髪入れずに青い光球が、半ば開いていた彼女の鞄から飛び出して脇に控える。
 少年は事態を把握したというよりも蒼星石の剣幕に押されるようにして、テーブルまで戻った。戻った、と言っても僅か数歩の距離に過ぎないが、兎も角も彼女は少年とテレビの間に割って入る形になった。
 画面は激しく波打ち、すぐに銀色の光の球がそこから飛び出した。
 蒼星石は一瞬だけ唖然とし、詰めていた息を吐いて苦笑する。それはよく見慣れた相手だった。
「……なんだ、メイメイじゃんか」
 脅かしやがって、と少年は銀色の球を突付く真似をした。
 二人の周りをメイメイはいつもの調子でぐるりと一周し、少年の面前に停止すると何かを訴えるようにチカチカと瞬く。頻りに何かを伝えたがっているような按配だったが、生憎と少年は人工精霊とは会話できなかった。
「ごめん、何言いたいのかわかんない」
 少年はいつものとおり、片手で拝むような仕草でとても申し訳なさそうに謝る。メイメイは困ったようにぐるぐると回ってみせ、蒼星石の前で止まった。
 案外いいコンビなのかもしれない、と蒼星石は頬を緩めかける。だが、メイメイからの念話を受け取るとその表情は硬くなった。
「──分かった。僕が行こう」
 脱いでいた帽子を被り直し、蒼星石は少年を振り向く。二つの人工精霊も彼女の動きに合わせてくるりとこちらを向いた。
「nのフィールドに入らなくてはならなくなったんだ。お風呂場の鏡を使わせて貰っていいかな」
 少年はこくりと頷いたが、続けてにっと笑った。
「何だかわかんないけどさ、俺も行くよ」
 眉を顰める蒼星石に、少年は屈んでひょいと手を伸ばす。彼女が何気なく手を握ろうとすると、彼はそれを素早く躱して両手を彼女の腋の下に差し入れ、上体を起こしざまひょいと一挙動で彼女を肩に担ぎ上げてしまった。
「これで一人じゃ行けなくなっただろー」
 まるで若い父親が小さな子供にするような按配に右肩に後ろ向きに蒼星石を担いで、してやったりといった顔で彼はにやりとした。ただそこで、実は水銀燈に一回やって怒られたんだ、と情けなさそうに付け加える辺りが彼らしい。
 蒼星石は不意打ちされた気分の悪さを隠そうとせず、仏頂面を作った。もっとも、彼からはどんな表情をしていても見えない位置でもある。
「乱暴すぎるよ。何処か関節が抜けたら貴方のせいだ」
「そうなったら桜田に頼むって」
 少年は朗らかに答える。言った相手と状況によっては気分が沈みかけそうな言葉だったが、蒼星石は何故か軽い言葉で返すことができた。
「人形だと思って気楽に言ってくれるね」
 それは、少年の次の言葉が予期できたからかもしれない。
「人間だったらお医者に頼むだけの違いだよ、おんなじおんなじ」
 彼女の思っていたとおりの台詞を言いながら、彼は彼女を担ぎ上げたまま、調子付いた動作でくるくるとその場で一回転してみせた。
「行ってもいいだろ? どんな用件か知らないけど、メイメイは元々俺に頼みに来たんだしさ」
 いいだろ? と少年はぽんぽんと蒼星石の背中を軽く叩く。まるきり子供扱いだね、と蒼星石は苦笑した。
「僕は媒介なしだから向こうに長くは居られない。何かあったら貴方の身の安全が保証できない」
「そんなもんなのかぁ」
 水銀燈は一日中でも入ってられるらしいけど、と少年は少し意外そうな声で言い、軽い調子で尋ねる。
「なんか物騒な話なのかい」
 蒼星石は一瞬躊躇してからメイメイを見詰め、小さく頷いて口を開いた。
「大した事じゃないといいんだけどね。とにかく、少し急いだ方がいいようだ」


「雪華綺晶の役割は、直接操作しづらい媒介達のうち、特にゲームの遂行上危険な──薔薇乙女にもう一度逢いたいと願い、ともすればそれを実行しかねない者を選別し、その意識を自分のフィールドに取り込んで糧とすること。糧になった危険分子は衰弱して果てるまで現実世界で一切行動できなくなる。視点を変えればそんな言い方もできるわね」
 水銀燈はにやりと口許を歪めた。
「さっきも言ったけど、別れてすぐにはさして問題がない媒介達でも、年を取れば心は弱り、昔を懐かしんで薔薇乙女を求めることもあるでしょう。それらが暴発し、おおっぴらに捜索を始めたら、ローゼンメイデンはこれまでのような『幻のアンティークドール』という地味な存在ではなく『謎の生きた人形』として様々な方面から狙われる。
 例えばこの時代なら、サブカルチャー好きの連中や売り上げ第一の番組企画会社や雑誌がまず放っておかないわね。ローザミスティカを無限機関と考えて国家レベルで捕獲に乗り出すところもあるかもしれない。もう、アリスゲームなんてちゃちなお芝居どころの話じゃなくなってしまう」
 真紅は厳しい表情のまま、じっと水銀燈を見詰めている。それは彼女が漠然と考えていたことでもあった。
「薔薇乙女は、間違っても自分からはそういう行動を取らない。でも媒介達の行動までは信用できないし、制御することもできない。
 それを補うためにお父様が掛けた保険の一つが雪華綺晶の立場というわけ。もしかしたら末妹自体が最初からそのために作られたのかもしれないけど、流石にそれは考えたくないわね」
 真紅は目を見開き、翠星石はぶんぶんと首を振った。
「その保険を除いてしまって、次の時代にゲームを持ち越させたらどうなるかを確かめたいというのが貴女の考えだと言うの?」
「無茶苦茶です! 最近少し優しくなったから見直してやったところでしたのに、今度は姉妹全員を危険に晒したいなんてとんだテロリストもいいとこです」
 水銀燈はわざとらしく溜息をつき、話を聞きなさいと肩を竦めた。
「どっちが無茶苦茶なんだか。……いい? そういう保険が切れてしまったら、いい加減長い時間をかけて続けてきたゲームの主宰者はどうするのか。彼の目から見てゴールは目前、後は最終ステージを残すだけなのよ。一番簡単で確実な方法は何だと思う?」
「そりゃ、保険を使わなくてもいい方法でゲームを終わらせてしまえばいい、ですけど……」
 翠星石はもごもごと答える。水銀燈は軽く頷いた。
「そう。ゲームのルールを変えて続行に支障が出なくするか、ゲームをこの時代、もっと言ってしまえば今いる契約者の最初の一人が死ぬ前に確実に終わらせるように仕向けるか。そのどちらかになるわ」
 そして、前者はこの段階では殆ど意味がない。契約者に頼らなくてもいいように姉妹達を変えるのは無理だし、新たな契約者回収のシステムを組むのも大変過ぎるだろう。
 そこまでするなら負けを認めて薔薇乙女とアリスゲームという仕組み自体をすっかり廃棄し、全く新たなアリスの生成方法を模索する方が生産的かもしれない。
「いざとなったときに彼がどう仕組むのかは知らない。でも、彼はそこで予定調和として描いていたシナリオを一旦捨てざるを得なくなる。
 雪華綺晶を先に倒すことに、私はその程度の影響力はあると見ているということよ」
 それだけよ、と水銀燈はラプラスの魔に視線を投げた。兎顔の紳士は珍しく軽口も叩かず、ふむ、と短い毛に覆われた白い顎に白い手袋を嵌めた手を当てた。


7

「何度来ても薄気味悪い感じがするな、ここ」
 そんなに何度も来ている訳でもなかろうに、少年はそんな言い方で周囲を表現した。
「碌に何も見えないし、何も聞こえて来ないなんてさぁ。風は吹いてるのに風切り音も無しとか……」
「それでも、ここには無数のイメージが交錯している。無意識の海の底……」
 漫画の世界では蒼星石自身が長いこと彷徨っていた場所。そこに、他の姉妹の契約者が来たこともあったらしい。それが誰なのかは詳しく知らないけれども、漫画の主人公は桜田ジュンだったから、多分彼なのだろう。少なくともこの少年ではない。
「何も視えないし聴こえないのは、恐らく貴方の防衛本能のようなものがシャットアウトしているからだ。記憶を失っても、貴方の根底には自分を守ろうとする強い力が働いているのだろう」
 いや、と蒼星石はふと思う。記憶を失くしてしまった今の方が、彼は自己をはっきりとした形で捉えることができているのではないか。
 あの日、水銀燈のボディを現実世界に連れ戻しながら、蒼星石はちらりと彼の存在を感じ取っていた。世界樹の上から姿を消した彼が、無意識の海の底で奔騰する記憶の濁流に揉まれるイメージがあった。
 恐らくそこで彼は雪華綺晶に捕獲され、彼女によって自分の昔の記憶の世界に引き込まれたのだろう。
 そのときの彼は明確に助けを求めていた。流れに揉まれ、呑まれ、押し流されていた。
 同じ無意識の海にいながら、今の彼はそれをただの風としか感じていない。感受性が鈍い、と考えれば残念なことだが、個として確立できていると考えれば水銀燈の苦労の甲斐があったと言うべきかもしれない。
 どちらが良いとは言えない。蒼星石は気分を切り替え、二人を連れて来た依頼主に声を掛けた。
「さあ、導いておくれ、メイメイ」
 メイメイは合点承知とばかり、くるくると二度ばかり回ってから長い弧を描いて飛び出した。蒼星石は少年を促してそれに続こうとしたが、彼が逆に蒼星石の左手を取った。
「よっしゃ、こっちも行っくぜええ」
 先程、碌に何も無いと言った場所で、彼はどういうわけか勢いを付けてメイメイの方に向かって飛び出した。ぐいと引っ張られた腕に痛みを感じるほどだった。もちろん錯覚に過ぎないが、観念の世界であるここでは、腕がもげたと思えばそれは現実になってしまうかもしれない。
「凄い勢いだね」
 そのことは咎めず、蒼星石は少年を見る。ちらりと振り向いた彼は無邪気で得意気な顔になっていた。
「そりゃ、あったりまえ。全身のバネ使ったもん。このままメイメイに追いついてやるぜ」
「ふふ……」
 上下が無いとかそもそも足懸りが無いとかいう細かいことは考えていなかったらしい。この場合はそれで正解なのだが、蒼星石にはそれがなんとなく可笑しかった。
 彼には恐らく、そよ風が吹き抜けているだけの空間なのだろう。だが、蒼星石にはあらゆる方向から押し寄せる奔流の中を、それを押しのけて進んでいるように見える。
 握り合った手──と言っても蒼星石は彼の人差し指と中指を握っているだけだが──に、力を込める。道案内が居るというのに、ここで手を放したら彼に置いて行かれそうな気がする。それほど彼の前進は、いや彼女の目から見るそれは突進だったが、力強く、速かった。
「しっかり掴まっててくれよ。あいつぅ、またスピード上げやがって」
「うん」
 片手で彼の指を握り締め、もう片手でシルクハットを押さえながら、蒼星石は微笑んだ。メイメイの判断は正しかったかもしれない。彼女よりも彼の方が、メイメイの依頼を遂行するには合っているのかもしれなかった。


 兎頭の紳士は暫く考え込んでいた。
 本気で考え込んでいるなら彼にしては珍しいことだったが、考え込んでいるポーズを取っているだけなのかもしれない。それならばいつもの彼以外の何者でもなかった。
 やがて、彼はひとつ頷いて水銀燈に視線を向けた。
「なるほど、そういうことですか」
「ええ」
 水銀燈は軽い調子で肯定する。何か言いたいなら好きに言え、と思った。どうせ、彼は水銀燈の本心などお見通しなのだろう。
「だから、今は他の姉妹にかかずらわってる暇はないの。向こうから出て来ない以上、あの末妹が取れる手段を減らしていって、いずれはこちらの有利な場所に引き摺り出して叩く」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣る。さあ言ったわよ、と言ってやりたい気分だった。
 自分が示した方針が彼女の求めるアリスゲームに──彼女が守っていたい何かに抵触するのであれば、この場で即座に戦いになるかもしれない。
 いや、それはあり得ないことか。ここは媒介のいない真紅達にとって不利な場所だし、自分は今のところ真紅と戦う気分にはなれない。
 真紅はまた目を伏せ、何かを一心に考えている。考えているというよりは悩んでいるのかもしれない。
 ややあって、その視線が水銀燈に向き、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「今は」
 考えを纏めたときの彼女らしい、声こそやや小さいがはっきりした口調だった。
「貴女と敵対するつもりはないわ。少なくとも貴女から仕掛けて来なければ、私には貴女と戦う理由がないのだもの。それはずっと前から同じだけれど」
 最後の一言に若干の非難を込めてみせ、でも、と真紅は僅かに間を置いた。
「貴女の企てに協力することもできない。雪華綺晶から攻撃されるまでは、私は雪華綺晶とも戦う理由がないのだから──」
「──白薔薇の御嬢様は現実世界に出ることを願っていらっしゃる。それは皆様既にご存知でしたかな」
 ラプラスの魔は妙なところで口を挟んだ。
 他の四人の視線が兎そのものの顔に集まり、それぞれが思い思いに肯定の意思を伝える。ラプラスはほうほうと感心して見せ、右手の人差し指を立てた。
「しかし、そのためには器が必要となります。何故なら彼女は幻。実体を持たず、nのフィールドにしか存在し得ない」
 水銀燈は腕を組んだ。確かにそのために雪華綺晶は姉妹のボディを狙っている。もっとも、今のところ実際に不意を衝かれ、身体を奪われかけたのは水銀燈だけだが。
「五番目のお嬢さん」
 ラプラスは少し間を置き、珍しい呼び方で真紅に声を掛けた。
「慈悲深い貴女は、妹の切なる願いを叶えて上げたいと思いませんかな」
「……どういう意味かしら」
 真紅はあからさまに不快感を示した。
「ごく普通の人形では器として不適格なのでしょう? どうしろと言いたいの」
 アリスゲームに既に敗北している雛苺は雪華綺晶の標的にされやすいだろう、という話は水銀燈から聞いている。漫画の世界では実際に雛苺が彼女の最初の犠牲者になる展開になったことも知らされていた。
 だから、雛苺が不平不満を漏らしているのを知っていても、nのフィールドに入るときは必ず誰かと一緒にさせ、現実空間でさえ出来る限り目の届く範囲内に居させている。ただ、少しばかり行き過ぎているのか、それとも雛苺の我慢が続かないのか、現実世界ではしばしば脱走されているところはあまり褒められたものではないけれども。
 そんな彼女には、ラプラスの魔の言葉が雛苺を差し出してやれという意味にも聞こえてしまうのだ。
 しかし、兎顔の紳士の話は彼女の予想の斜め上を行っていた。
「なるほど、確かに既製の人形ではいけません。如何に彼女が強い力を持っているとはいえ、既に魂のあるものに宿ることはできない。ですが、最初から彼女のものとして作られた体なら如何です」
 紳士は立てた指を左右に振った。
「御嬢様方。貴女達はそれを可能にする力を持つ人物に心当たりがおありのはず。もっとも今はその力、この老兎の眼から見ましても、お世辞にも開花しているとは申せませんが」


8

 メイメイは濁流の中を突っ切っていく。いつもの道化た振る舞いを見慣れている蒼星石には、意外なほど力強い動きだった。

──メイメイも彼も、水銀燈とは似ても似つかないのに。

 記憶を失くして性格も変わってしまった彼は兎も角、水銀燈が教育した人工精霊が、何故いつもはあんな風に楽しそうに振舞うのだろう。それを見ていて水銀燈は苛ついたりしないのだろうか。
 蒼星石の教育したレンピカは、主人である彼女よりも更に生真面目だった。一度だけだが、彼女が気弱になったときは叱咤してくれたこともあった。
 薔薇乙女と人工精霊が似た者同士になるとは限らないのだろうか。ああ見えて、水銀燈は気楽な相棒を欲しがっていたのだろうか。
「──分からないな」
「ん? どした?」
 かすかな呟きを、彼は耳聡く聞きつけたようだった。蒼星石は苦笑するしかなかった。
「なんでもないよ。独り言だ」
「そっか」
 彼は前に向き直り、唐突に減速しながら引っ張っていた蒼星石をぐいっと抱え寄せる。乱暴な動作だったが、今度は痛みは感じなかった。
 胸に抱きかかえられる形になって、今日は不意打ちばかりだ、と蒼星石の内心の素直な部分が思う。ずるいよ、とも。
「急に何が……」
「あいつ、なんか見付けたっぽい」
 顔を上げ、もぞもぞと前を向くと、メイメイが何かを示すように回っていた。その先に何かが見える。
「あそこに連れて行きたかったのか?」
 先程まともに話の内容を聞けなかった少年は、その何かを指差してメイメイに尋ねた。メイメイは頷くように上下に小刻みに動いた。
 なるほど、と蒼星石は軽く頷く。あれがメイメイの依頼の対象物というわけだ。
「見付けた物を放っておけないから、回収して欲しい。メイメイはそう言っていたんだ」
「落し物拾いか……俺でもやれそうなお仕事じゃん」
「気を付けて」
 自分でもできそうだということに俄然やる気が出た様子の少年に、蒼星石は釘を刺すことを忘れない。
「何が起きるか分からない。……レンピカ、周囲を警戒するんだ」
 蒼い人工精霊は了解の思念を蒼星石に送りつけると、大きな楕円軌道を描いて二人とメイメイから離れていった。
「行こう」
 蒼星石は彼を見上げ、頭を巡らしてメイメイに頷いた。
「よっしゃ。ラストスパート行くぜ」
 少年の言葉を合図にメイメイは加速し、前方に飛び出して行く。少年は蒼星石を抱いたままそれに続いた。
 彼の腕の中で、蒼星石は身じろぎする。確かにこの方が片手で指二本を掴んでいるより確実だ。しかし、この体勢は少しばかり恥ずかしい気がするのも事実だった。
 少し赤くなった顔を見られたくなくて、彼女は帽子を直す振りをして少し目深に被りなおした。もっとも、こんな場所では彼以外に誰かが見ているという訳でもないのだろうが。


「ジュンに雪華綺晶のボディを作らせろ、ってことですか……」
 翠星石は絶句し、真紅は首を振った。
「ジュンはまだドールを作ったことはないわ。パーツの原型を一つ手がけたことがあるだけで、それもフィギュアを参考にしながら苦心した末のことよ」
 水銀燈は何かを言いかけて、止めた。できるだけこの場に相応しい身振りで、ラプラスの魔の方を見る。他の姉妹達が彼女の仕種を気に留めることはなかった。
 兎顔の紳士はちらりと水銀燈に視線を投げ、水銀燈は他に分からないほどの目の動きでそれに応えた。紳士は二度ほど瞬いて真紅を見遣った。了解した、という意思表示だった。
「左様、今の段階では彼に満足なドールを創ることを求めても空しいでありましょう。ですが将来的には、彼は偉大な人形師となる才能を秘めています。それもまた事実」
「少なくとも雪華綺晶に対する交渉材料にはなる、ってことかしら。随分と迂遠な話ね」
 水銀燈は少し大仰に溜息をついてみせる。ここはそうすべきだった。
「雪華綺晶が欲しいのは『今、随意に動かせる器』ではなくて? それにはそぐわないでしょう、桜田ジュンの成長に期待するという話は」
「さて、そう悲観的になるべきでありましょうか?」
 紳士は頬を僅かに持ち上げるような顔になった。見ただけではどういう感情を表したいのか分からなかったが、機嫌が悪くなるということは有り得なかった。そういう人物なのだ。
「人間の成長は速いもの。士別れて三日即ち更に刮目して相待すべし、等々名言も御座いますな。そしてそれは特に子供において然り。かの少年が全てを傾けて精進すれば、恐らく数年後には薔薇乙女の形骸を作るなど造作もないこととなるでしょう。そう、彼であれば数年でしょうな」
「数年ね」
 水銀燈は鼻で笑った。
「目の前に果実がぶら下がっているというのに、果たして末妹はその不確定な数年を待てるのかしらね」
「彼女が待つことに信が置けないのであれば」
 白兎の顔は、はっきりとある形に歪んだ。
「待つしかないようにさせれば良いのですよ。御嬢様方」
 彼は、声を立てずに笑っていた。それが少しばかり寂しそうな笑いのように思えるのは、水銀燈が彼の思いをおぼろげながら掴んでいるせいかもしれない。
 恐らくそれは正しい理解なのだろう。その証拠に、他の姉妹は彼の笑いをそのようには受け取らなかった。
「──ラプラス」
 真紅は温度を感じさせない口調で言った。
「それは、彼女を屈服させて従わせればいいという意味かしら」
「ええ」
 紳士は笑いを引っ込め、いつもの道化た声と仕種に戻った。だが、その言葉にはいつにない、あからさまで痛烈な皮肉が込められていた。
「守りだけではゲームを制することはできますまい。もっとも、積極的または消極的に関わらずゲームそのものを忌避されるのであればまだ、守りに徹するのも良かれと申せます。紅薔薇の御嬢様、貴女のお望みはゲームを忌避し、水入りさせて時代から時代へと安穏と過して行かれることでしたか」
 真紅は息を呑み、水銀燈は苦笑した。中途で妙なことからおかしな展開になったものだ、と思う。

──もっとも、こっちがラプラスの誘導したかった話なのかもしれないけど。

 どちらにしても、と彼女は貴重な示唆を与えてくれた兎頭の紳士に内心で感謝した。態度に出せないのが少しばかり残念だった。
 水銀燈自身は雪華綺晶そのものにさして含むところはない。確かに一度はボディを乗っ取られかけたが、彼女が雪華綺晶を狙うことにはその意趣返しという意味合いはない。
 できれば戦いたくない相手とかいう湿っぽい事情はないが、いつ仕掛けてくるか分からない潜在的な危険だという感触と、自分の目的のために戦わざるを得ない相手という認識の方が遥かに大きかった。
 雪華綺晶の方でもそれを分かっているはずだ。だからこそ、二度目に遭遇したとき、弱った姿を見せることで水銀燈にその場で仕掛けられる危険を無視してまで、彼女に一言泣き言を呟いてみせたのだろう。
 なるほど、外堀を埋め、相手に出戦を強いて叩く以外にも攻略の方法はあるものだ。但しそれが安易に進められるかどうかは別の話だし、契約者とはいえ他人の、しかも今は隠れている能力に依存することは投機的で危険でもある。

 真紅とラプラスの魔を交互に見遣りながら頭の中では自分の考えを巡らせ、結局今のところは自分の方針のままで行く方が良いのだろう、と水銀燈は結論付けた。
 考えを改めるのは何か変化が起きてからでも遅くはないだろう。今のところ、いずれの方策を採るにせよ現実世界での時間経過は雪華綺晶に味方しない。そうなるように、水銀燈が手を打ってきたからだ。
 もっとも、だからこそ時機は意外に早く訪れるのではないかと水銀燈は踏んでいる。
 大きなところでは、水銀燈とその媒介も、「活きのいい」契約者達も、姉妹達のボディも渡さずにきた。如何に待つのに慣れているとはいえ、そろそろ雪華綺晶も限界のはずだ。このまま我慢を続ければ、糧を全く得られずに干上がりかねない。
 そして、彼女が唯一妨害無しに獲得できる手懸りだけは、水銀燈はそれと知りながら放置している。泳がせている、というのとは違うが、似たようなものではあった。
 後は、果たして雪華綺晶がリスクを承知でそれに喰いついてくるほど進退窮まっているかどうか。問題はそこだけだと思える。

 少なくとも今、この時点では。

 そんな水銀燈の内心などに思いを巡らす余裕もなく、真紅は暫くそのまま固着したように動きを止めていた。
 先程の言葉は一見真摯な意見にも聞こえるが、相手はラプラスの魔だ。こういった言葉遊びに近い煽りや止め立てなどはお手のものなのだろう。
 彼としてはその方が楽しい、理由はそれだけなのかもしれない。ゲームが停滞して一番つまらない思いをするのはラプラスなのだろう。
 そんな風に否定的に忖度しながら、それでも真紅は兎顔の紳士の言ったことを全て戯言だと片付けてしまうつもりはなかった。彼の言葉は大抵いつも、一面の真実は突いている。今回も例に洩れないのだろう。少々癪ではあるがそこは認めざるを得ないのだ。
「……それはできないわ」
 ややあって、真紅は毅然と胸を張った。何があってもそこは曲げられない、という意思表示だった。
「他に方法がないとは思えない。それに、たとえ迂遠だったとしても、話し合いの余地があるのなら私は自分から仕掛けることはしない。それが私のやり方」
 目的を明かしたときの水銀燈の言葉に対抗するような言い方で続ける。
「確かに時間は掛るでしょう。でも、そのために不利になっていったとしても、途中で負けて何処かを欠損することがあっても、敗北してしまうとしても、私は私のやり方を貫くわ」
 王道ね、と水銀燈はちらりと考える。地道にこつこつと、不器用でも自分の道を行く。その粘り強さは姉妹の中でも真紅にしかないものなのだろう。
 それが影からの支援があってこそ成立するものだとしても、やはり泥水を啜りながら歩くような道そのものは、歩む者にとって長く険しいはずだ。真紅にはそれを実行していくだけの強さが確かにあるのだ。


9

 近づいて行くと、それは一点に静止しているわけではなく、周囲の流れに揉まれ、漂い流されていることが見て取れた。
 少年としてはかなりのスピードで接近しているはずなのだが、何かがあるのを認識してから形がはっきりしてくるまでが異様に長いように感じられた。距離感自体が現実世界の視界とはだいぶ異なるようだった。
 目は悪くないはずの少年が自分よりもその形を認識するのがかなり遅れても、蒼星石は特に不思議には思わなかった。
 観念の世界のようなものだから、そういった感覚には視覚以外のものが働いてくる。当然、個人差もそこにはあった。
 彼は周囲で奔騰している流れ自体を碌に認識していない。それだけを蒼星石と同じほど確実に認識できるとしたら、その方が不思議だっただろう。
「人形……?」
「そうだね。大きなドールだ……多分、僕達ほどの大きさだろう」
 言いながら、蒼星石は少年の腕の中から出たいと身振りで示す。彼は頷き、減速しながら慎重に彼女を体から離し、手を放した。
「メイメイ、間違いないんだね」
 今はもう並んで飛んでいるメイメイは、こくこくと肯定の動きをしてみせる。
「服は違うけどまた白い髪、かぁ」
 漸く少年にもはっきりと見えてきたらしい。さっきの子と同じか白黒違いってやつか、となにやら感心したように頷いている。
「じゃ、ちゃちゃっと回収して行きますか」
 な、と蒼星石を振り向いて、少年は訝しげな顔になった。彼女は何かを思い出そうとしているような視線を人形に向けていた。
「どしたのさ」
「……いや。見覚えがあるような気がしたんだけど……そんなはずはないね」
 蒼星石は人形に視線を向けたまま苦笑し、やや強く首を振った。
 白い編み上げ靴。露出の多い、左右非対称のごく薄いピンクの凝った衣装。さきほど飛び立って行った人形によく似た、しかし細くツーサイドアップにされている白いストレートの髪……

──確かに、見たことはない。だが、なんだろうこの既視感は。

 蒼星石は大きく息をついた。呼吸というのもここでは──そして薔薇乙女には現実世界であっても──観念的な行為だが、何故かそうしないと息が詰まって苦しかった。
「注意しよう。メイメイ、君も警戒してくれないか」
 遠くを巡回するレンピカを指して声を掛けると、メイメイはOKと動きで示してレンピカとは別の軌道を描いて二人を中心に周回し始める。蒼星石はよしと頷いて少年の顔を仰いだ。
「行こう」
 応、と元気良く返事をしてから、少年は心配そうな顔になった。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。何かがあれば僕と人工精霊達が貴方を守る」
「そうじゃなくってさぁ」
 少年はややオーバーな身振りをしてみせた。
「蒼星石、さっきから嫌に周りを気にしてるじゃん。いつもそうってわけじゃないんだろ?」
 蒼星石は一瞬目を見開いた。言われてみればそのとおりだった。はっきり自覚してはいなかったが、何かきな臭いものを感じていたのかもしれない。
「なんかよく分かんないけどさ、リラックス、リラックスってやつで行こー。あ、そうだ」
 彼女の反応に気付いたかどうかは定かでないが、少年はごそごそとポケットを漁り、黒っぽい平たい箱を取り出して、そこからキャンディを一つ彼女に差し出した。
「オトナならタバコでも一服やるとこなんだろうけど、お互いまだ未成年だから飴玉ってことで勘弁な」
「……うん」
 ふふ、と微笑みながら蒼星石はそれを受け取った。

──貴方は知ってて言ってるのかな?

 確かに、蒼星石が「起きて」生きて来た時間は、合計するとこの国では成年に到達する年数よりはやや短い。圧倒的に長い時間、彼女は鞄の中で、双子の姉と夢を共有しながら──そうして新たな指輪を作りながら過してきた。
 ただしそれも眠りの一種と考えれば、彼女の年齢は既に人間の寿命など軽く超えている。幾つもの時代、幾人もの契約者の手を経てここまで来た古い古い人形。それが彼女達薔薇乙女だった。
「……酸っぱい」
「あ、苦手だった?」
「いや、美味しいよ」
「そっか。良かった」
 自分は何をやっているんだろう、と思わないでもない。長く居られない、危険だと彼に警告しておきながら、いざ目標を目の前にして呑気に貰ったキャンディを頬張っている。なにやら順番が逆のような気がした。
 それでも、こうしていると気付かない内に張りつめていた心が口の中のキャンディのようにごく僅かずつ溶けて行くような気がするのも事実だ。そして、それは決して悪い気分ではなかった。


「ふむ」
 兎頭の紳士は、今度は他にも分かるようにはっきりと水銀燈に視線を寄越した。一瞬どういう反応を返せばいいのか分からず、取り敢えず彼女は肩を竦めてみせた。
「どうやら我がアリス候補筆頭は、焦らしプレイが殊の外お好きなようよ」
「左様ですな」
 ラプラスの魔は水銀燈の言葉を否定しなかった。

 今日のラプラスの魔は過剰なほどサービス精神旺盛だった。但し、それを理解した者にとっては、という注釈付きだったが。
 今も何気ない一言だったが、その意味は実は大きい。
 水銀燈は名指しを避けたものの、明らかに真紅を指して発言した。それを彼はあっさりと認めた。
 ということは、自分から真紅が最もアリスに近い位置に居ると言ったのも同然だった。彼がゲームの審判とか検分役という肩書きを冠せられていることを考え合わせれば、それは決定的な一言だった。
 ただ、当の真紅本人を含めたこの場の姉妹がその意味に気付いているかは甚だ怪しい、と水銀燈は思う。むしろ、彼は水銀燈に仮説の証明を与えるためにちらちらと口を挟んでいるのではないかとさえ錯覚してしまいそうになる。
 それほど今日の彼の言葉や態度は何の前提知識も持たない者には難解なもののように水銀燈には思えた。

 水銀燈の思いを裏付けるように、彼はまた微妙な言葉を口にした。
「流石は紅薔薇の御嬢様、と申すべきでしょうか。その心掛けの高潔さは確かに素晴らしいもの」
 しかし、と彼は若干意地の悪い声音になった。
「残念ながら、こちらの御嬢様や──」
 と水銀燈を手で示し、もう片方の手で窓外を指した。
「──あちらの御嬢様は待つことがお嫌いのようですぞ」
「それは知っているわ。何が言いたいの」
「お分かりになりませんかな、聡明な貴女が」
 やや苛ついた真紅の態度を見たせいか、兎頭の紳士の声に微かに寂しさか哀れみのようなものが混じる。
「御嬢様と直接の繋がりがない方を白薔薇の御嬢様が目標としたとき、果たして貴女はどう行動されるのか。そのときも、ただ手をこまねいて待っていらっしゃるだけで本当に宜しいのですかな」
「まさか」
 真紅ははっとして翠星石を見る。翠星石はラプラスの魔から真紅に向き直り、慌てたようにまた彼の方を向いた。
「蒼星石を、雪華綺晶が?」
「いいえ」
 兎の頭がゆっくりと左右に振られる。
「いまや、蒼薔薇の御嬢様ほど狙い難い相手もそうそうないでしょう。彼女には強いお味方がついておられる。マスターも心に傷を抱えながらも、彼女と寄り添っていらっしゃる。割り込み、引き裂く隙が御座いません」
 紳士は、今度は水銀燈を見ることさえしなかった。それほど当然だと考えているのか。
「彼女が標的とできるのは、姉妹とその契約者。更に敢えて付け加えるなら、以前の契約者と、それらに例外的に近くなってしまった人物。その程度ですが──」
 紳士は机の上に手を伸ばし、水銀燈が置きっぱなしにしていた例の小箱を手に取った。
「ときに、これは素晴らしい細工物ですな」
「中身も素晴らしいわよ。どうぞ御覧になって」
 突然話を脇に逸らした紳士に姉妹達が非難の視線を向ける中、作業台の上で水銀燈はにやりとしてみせた。紳士は慇懃に礼をし、かちりと小箱の蓋を開けた。
 蓋を開けただけで、暗くないはずの室内に目映い薄紅色の色彩が溢れる。異界のローザミスティカは、先程の桜田宅の客間で見たよりも更に強い光を放っているようだった。
「素晴らしい輝きですな」
 言葉とは裏腹の無感動な言い方だった。水銀燈も笑いを立てずにあっさりと頷く。
「中に電球でも仕込んでありそうな輝きよね。金糸雀はLED入りのクリスタルとか表現してたけど」
「品物の真価は兎も角、見た目としては的確な評価ではありますまいか」
 紳士はひくひくと兎の鼻先をうごめかせ、ぱちりと蓋を閉じた。光の洪水は止んだ。
 紳士は水銀燈に一礼し、小箱を元通りに置いて、机に片肘を突くというラフな恰好を取った。常に慇懃無礼な彼としては珍しいことかもしれない。
「あまり好ましいことではありませんが、本来観測すらできないはずの、そもそも存在すら未知の世界との扉が開いてしまいました。これがその証左の一つですな」
 空いている方の手で小箱を指し示す。水銀燈は苦笑するしかなかった。
「ローゼンメイデンは無数の並行世界にただ一体ずつしか存在し得ない。ローザミスティカも然り。その法則をいとも簡単に破ってくれたってわけね」
「あちらから見ればこちらの御嬢様方はローゼンメイデンではなく異界の自動人形ということになるのでしょうな。そして逆もまた然り。我々から見てそれらは外見が酷似した不思議な人形達に過ぎません。世界自体がそれで納得でき、共存することを受け容れているのであれば問題はないことです」
 と言ってみせるものの、紳士があまり良い気分でないのは明らかだった。まだローザミスティカが二つ出現しただけとはいえ、彼から見れば──終盤とは言えなくても恐らく後半には差し掛かっているはずの──アリスゲームに影響を齎すファクターに成り得るはずだ。
 これでもしドール本体がやって来ようものなら、影響どころか厄災をもたらす、まさに闖入者と言える存在になるだろう。
 彼等の物理的な力はこちらの姉妹たちの誰よりも強い。いざ敵対するとなれば対抗できるのは自分のフィールドに引き込んだときの雪華綺晶くらいではないのか。
 一体では無理でも、数体が協力すればアリスゲームを完全に破壊することができる存在だ。能力が十全に発揮できるのであれば、それぞれがあの人形と同じ程度の力を持っているのだから。

──まさか。

 そこまで考えて、水銀燈はびくりとした。
 彼女等のうちの誰かが、既に世界を飛び越えてやって来ているのではないのか。それを雪華綺晶が発見したら……?
 いや、それだけでは駄目だ。雪華綺晶は既に魂のある器には宿れないから、直接の目標にはしにくい。
 単純に誰かと手を組むにしても、それならば水銀燈の方がまだ有利だ。なにしろ、彼女は『お父様』と親しくしていて、彼から、彼の娘達の動力源の欠片二つを預かっているほどの立場なのだから。

──では、なんだというの。

 水銀燈は改めて兎頭の紳士を見詰めた。紳士は瞳だけを動かしてこちらを見、素知らぬ顔で一つ二つ瞬いてみせる。本人としては茶目っ気たっぷりのウィンクでもしてみせたつもりなのかもしれないが、生憎横顔しか見えない水銀燈には瞬いたようにしか見えなかった。
 先程までの思いあがっていた自分に溜息をつきたい気分だった。旧知の道化師は、彼女にもまだまだ全てを明かしてくれるつもりはないらしい。


10

「よっしゃ、始めよか」
「そうだね」
 キャンディを舐め終わるのは殆ど一緒だったようだ。少年は気合を入れるようにぱんぱんと手を叩き、蒼星石は頷いた。
 何分という程の時間が経過したわけでもないが、蒼星石は念のために周囲を回っている二つの人工精霊に思念を送り、異常は見当たらないことの確認を取ってみた。どちらも何もなしという思念を返して寄越した。

──あんなことの後だから過敏になっているのだろうか。

 自分自身で首を傾げてしまいたくなるほど、蒼星石は慎重だった。
 しかし、取り越し苦労だとしても安易に行動するのは慎むべきだった。この場で襲ってくる可能性があるのはあの人形だけではない。未だに水銀燈以外に姿を見せたことのない末妹、雪華綺晶もまたnのフィールドでは恐るべき襲撃者に成り得るのだから。
 むしろ、雪華綺晶の方が脅威としては大きいだろう。姉妹達は取り敢えず一度はあの水銀燈に似た人形とは戦っている。単独では正面から太刀打ちできない相手であることはどうやら認めざるを得ないが、少なくともどういう技を使ってどう攻撃してくるかは分かっていた。
 しかし、水銀燈以外の姉妹で雪華綺晶に相対したことのある者はいない。外観と能力の概略だけは知らされているが、口頭の説明だけでは理解に限りがあった。
 自分が彼から受け取った知識が完全なものでないことが残念だった。雪華綺晶については、殆ど知らない状態と言っていい。

 少年はそんな蒼星石の内心には気付いた様子もなく、白い人形に手が届くところまで近づいた。蒼星石はもう一度異常がないことを人工精霊達に確認してから彼と並んだ。何かが起きても、ここなら彼を守れる。
「……おーい」
 少年は人形の頬を指でつんつんと触れてみたが、すぐに、まるで熱い物に触ったように手を引っ込めた。
「どうなってんだっ」
「何か異常が?」
 蒼星石はひやりとして自分も人形の体に触れてみる。しかし、これといって変わったところは感じられなかった。
 アンティークドールというよりは現代風の創作人形に近いスタイルと服装をしているが、その他は大きさと全体的な作りこみの豪華さ、精緻さ以外は特別なところはない。素体が露出している部分も、塗装を兼ねて上薬は丁寧に重ねてあるようだがごく普通の焼き物の地肌に思える。
「そこじゃない。ここ触ってみて」
 少年は蒼星石の手を取って、人形の顔を触らせた。
「柔らかいだろ?」
「それは、そうだけど……」
 一瞬、からかっているのかと思って蒼星石は少年の顔を見上げてしまった。確かに触感は陶器ではない。人肌のように柔らかい。
 しかしそれの何処が異常なのだ、と考え、一拍置いて彼女は自分の思考の方が異常だと気が付いた。
 つい自分達姉妹の視点でものを見てしまっていた。薔薇乙女達なら確かにそれで普通だ。だが、ただの陶器の人形の顔が、柔らかいはずがなかった。
 彼女は慌てて人形の手に触れてみる。そこも樹脂や陶器の感触ではなかった。
 柔らかく関節も露出していないそれは、まるで。
「こりゃホントにさっきの子のペアかなんかじゃないのか……」
 少年はメイメイを探すつもりなのか、視線を周囲に向け始める。

──違う。

 蒼星石はまた、何か冷たいものが体の中を果てしなく落ちていくような感覚を味わった。
 あの黒翼の人形にペアは存在し得ない。水銀燈の説明を聞くまでもなく、それは明らかだった。
 彼の夢の中にぽつんと置き去りにされていた人形にもし対となる存在や姉妹が存在していたとしても、それは既に消えているはずだ。元々あの人形も含めて雪華綺晶が彼に見せた幻影のごく一部に過ぎない物なのだ。
 そして、あの人形だけが例外と成り得たのは、元を辿れば雪華綺晶がそれを特に作り込んで配置し、彼が多大な体感時間をそれと二人きりで過ごしたことが原因なのだろう。
 同じ条件のモノは存在していない。他の全ては夢と共に消え去っている。だからこそ、あの人形は何もない場所で孤独に存在していたのだ。

──では、これは。

 自問するまでもなかった。
 精緻な陶器の体に生きているように柔らかな手と顔。薄いピンクのドレスとはいえ、白を基調としたデザイン。ドールとしては大きく、バランスが人間に近いそのボディ。
 それは、情報だけを先に知らされているが未だ実際には出逢ったことのなかったローゼンメイデン以外の何者でもないではないか。

「メイメイーっ、あーあ、あんな遠くかよ」
 少年は斜め上を見上げて残念そうな声を上げる。メイメイの周回軌道はかなり遠かった。
「しょうがない奴だなぁ。こっちは聞きたいことがあるってのに」
 頭上を前から後ろに過って行く銀色の光に、少年は些か見当違いな評価をする。蒼星石はまた硬くなった表情を僅かに緩ませながら、彼の裾を引いた。
「とにかく、今はこのドールを回収しよう。詳しいことは後からでも調査できる」
 少年は蒼星石の顔を見下ろし、白い人形に視線を巡らせてから、応、と頷いた。
 仰向けのまま流れている人形の背中と膝下に手を回し、そっと横抱きに抱え上げる。細い首がかくんと後ろに仰け反り、蒼星石はそっとそれを彼の胸に凭せ掛けるように整えた。
「右目、アイパッチなんだな」
 少年が漸く気付いたように声を上げる。服と同色の薄いパッチが人形の右目を覆っていた。
「眼、どうなっちゃったんだろうな」
「ファッションかもしれない。服も左右非対称だし、球体関節をできるだけ意識させない範囲で肌の露出も多くされている。作った人の感性で、美観を損なわない程度に左右の違いにアクセントを持たせたのだろうね」
 少年は感心したように、なるほどねぇ、と呟いて人形の全身を改めて見回した。
「かぼちゃパンツとかズボンじゃない子って初めて見たかも。フィギュアみたいだな」
 それは実に素直な感想だった。蒼星石はこんな状況なのについ、くすりと笑いを零してしまう。
 二週間ばかり前に少年に見せてもらった──ジュンがパーツを作るときに参考にした──フィギュアの服装や形を思い出す。なるほど、確かに彼女達姉妹に比べれば、この人形の造形は現代風で市販のキャラクターフィギュアに近いかもしれない。
「さあ、行こう」
 蒼星石は笑いを引っ込めて少年を見上げた。
「急いだほうがいいと思う。この子は多分──」
 言葉を言い終える前に、彼女はびくりと体を震わせた。レンピカとメイメイが揃って短い思念を送りつけて来たからだ。
「下がって。来る」
「な、何が?」
「単独のときは一番相対したくなかった相手、かな」
 蒼星石は帽子を少し目深に被り直した。
「多分初めて会う相手だけど、よく知ってる。僕の一番下の妹さ」
 そして、多分それは、少年の腕の中のドールと同一人物なのだろう。


「世界が納得して共存を許そうとも、御嬢様方からすればそれらは異世界における御自分達そのもの。それは実体を持たぬ白薔薇の御嬢様においてもまた然り。つまり、彼等は白薔薇の御嬢様にとって追跡でき、標的として見定められ、そしてボディの提供者にも成り得るのです」
 提供者というよりこの場合は捕食の対象と言うべきですかな、と兎頭の紳士は空いている方の手をぱくぱくと鳥の嘴のように動かしてみせた。
「もちろん、彼等には魂もあります。依然として正面から乗っ取り難いものではあるでしょう。しかしながら、ここに既に二つの動力源が本来の持ち主から抜き取られて存在しております。これはつまり」
 紳士は小箱を指で突付いた。
「少なくとも二体の『ローゼンメイデンの空のボディ』が何処かに存在していることをも示しております。更に──」
「──あの人形師が作ったドールも七体。つまり、最後の一体は雪華綺晶に対応している」
 水銀燈は紳士の冗長な言葉を引き取った。
「雪華綺晶にとっては自分自身。仮に相手が弱っていれば乗っ取りは他に比べて容易いかもしれないわね」
「まさしくそのとおり」
 紳士は得たりと頷いた。
「かてて加えてそのボディは、紛れもなく『七番目のお嬢さんのために』作られたもの。異界の産とはいえ、他のボディの比ではありますまい」

 何が比較にならないかは、水銀燈にとっては言われるまでもなかった。
 水銀燈が奪うはずだった蒼星石のローザミスティカ。それを失った後のボディ。それらは、どちらも最終的に新たな所持者を拒絶した。
 蒼星石が特別だった、ということではない。所詮は他者のために作られ、長いことそちらに馴染んで来た物なのだ。それを強引に入手しても、ぴったりと収まってはくれない。
 異世界とはいえ同一人物のボディであれば、そういう心配は少ない、と言いたいのだろう。妥当な意見にも思えた。
 しかし、詭弁であるような気配もないではない。
 異世界の同一人物とは言うが、名前と姿が同じというだけで、それぞれ人格も別なら辿って来た道も全く別なのだ。水銀燈自身、『水銀燈』と同一人物だと言われても納得ができない。それならばまだ『真紅』の方が共感できる気がする。少なくとも、ある時点までは。
 ボディにしても同じなのではないか。特に、あの世界のローゼンメイデンは等身やプロポーションもドール的ではなくフィギュア的な作りで、手足は長く胴は細く、眼は切れ長で顔は丸顔といった按配だった。
 雪華綺晶とはさほど長く会話をしたり、何度も戦いを繰り返したりしたわけではない。だが、見た限り衣装などには凝っているものの体型は他の姉妹と大差なく、顔の造作もよく似ていた。
 いくら同一人物というアドバンテージがあっても、作りの違いによる違和感などは拭えないのではないか、と思うのが素朴過ぎる感想だということはあるまい。

 それに、もう一つ問題がある。
「あちらの世界での七番目が実体を持っているとは限らない。むしろ雪華綺晶と同じくnのフィールドの中でしか存在し得ない幻である可能性も高いでしょうに。そこは無視するということ?」
 兎顔の紳士は頭を横に振った。
「残念ながら」
 その声には多少のからかいと言うか、面白がっているような響きがあった。
「あちらの第七ドールはボディを持ちます。それは確認済みなのですよ」
 その言葉がどういう意味を持つか、水銀燈にはよく分かってしまった。彼女は作業台の上で腕を組み、難しい顔になってじっとラプラスの魔を見詰める。兎の剥製の顔は、表情を消して彼女を見返した。


11

 雪華綺晶は遠目からは渦のようにも見える白い茨の群れと共に現れた。
「ご機嫌よう、そして初めまして、青薔薇のお姉様。私はローゼンメイデン第七ドール雪華綺晶──」
 白い、あくまで純白の衣装と髪の彼女は、そこで少しだけ哀しげな表情になった。
「──お久しぶりです、黒薔薇のお姉様のマスター」
「ごめん、覚えてないんだ」
 少年はドールを抱いているせいでいつもの拝むようなポーズが取れず、代わりにできる限り深々と頭を下げた。雪華綺晶は隻眼をやや伏目がちに細めた。右目の眼窩から直接生えた白い薔薇の花が微かに揺れた。
 彼女がそうした余裕のない仕草をしたのはほんの一呼吸の間だけだった。
「承知しておりますわ、お気になさらないで」
 すぐに柔らかな表情になってそう応え、蒼星石に視線を向けて艶然と微笑む。
「お姉様……良い方を選ばれましたね」
「何のことか分からないよ」
 蒼星石は周回を終えたレンピカを脇に控えさせた。
「具体的に説明してくれないか」
 雪華綺晶は少し面食らったような顔になった。
「あら、お分かりにならない筈はないと思いましたのに」
 くすくすと微笑する。見るからにポーズだと分かる演技だった。
「蒼薔薇のお姉様の殿方のお見立ては流石としか申せませんわ。
 ご自分のマスターを差し置いて、他のドールのマスターとこんなところまで逢引にお出でになっているのに、貴女のマスターは寛大にもそれを許されていらっしゃいます。
 それに、こちらの方はご自分の契約されたドールとは別のドールに異空間に誘われても、にべもなく断りもせずにこうして自然に親しく振る舞われていらっしゃる。
 契約者の方々は数多いらっしゃいました。でも、これほど独占欲が薄い方や契約に縛られない方は見たことがありませんわ」
 それを選ばれるとはやはり慧眼と言うべきでしょう、と雪華綺晶は笑う。その笑みは少しばかり意地が悪く、蒼星石の心をささくれ立たせた。
「随分余裕がないんだね」
 真紅や水銀燈の言い方を真似て皮肉を飛ばしてみる。
「ここは君の庭のようなものなのに、君が慣れない嫌味の言葉まで使って僕を苛立たせようとしているのは何故なのかな。ひょっとして、この──」
 蒼星石は少年の腕の中のドールを指差した。
「──異世界の君が実体を持っているらしいことに嫉妬しているのかい」
 あまり慣れない、安っぽい挑発だった。果たして、雪華綺晶は艶然と微笑を浮かべただけだった。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
 雪華綺晶は微笑を浮かべたまま、僅かに距離を詰める。
「だってそれは、これから私のおうちになるのですもの」
「おうち……?」
 少年は首を傾げる。
「そりゃ、この子に乗り移るって意味かい」
 雪華綺晶は少年に視線を向けて無邪気そうな顔になり、左目を二三度瞬いた。
「ええ。そのとおりですわ。何故ならそれもまたローゼンメイデン第七ドール。私のおうちに最も相応しい身体でしょう?」
 理解の良くない子供に物を教えるときのような、優しい微笑みを浮かべる。声には一点の曇りも無かった。
「神秘の魂を半永久的な無機の器に宿し、摩訶不思議な動力源を入れられた生きたお人形……それがローゼンメイデン。でも、それでは至高の少女として不足だった。
 無機の器に縛られたのが、その限界を決めているのではないか──六体を作られた末に、お父様はそう結論付けられた。だから、私は無機の器を……実体を持たないのです」

──だが、結局のところそれでも足りなかった。

 皮肉な思いが胸の中に渦巻くのを蒼星石は感じた。
 彼女達の末妹、それはドールと呼んでいいのかどうかさえ微妙な存在だが、もし「人形師」としてのローゼンがそちらの方向を目指していたなら雪華綺晶は究極の人形だったろう。素材や技法の限界を超えてその造作に人形製作者の理想を体現化できるという点では、まさに夢のドールとは呼べるのかもしれない。
 しかし彼が欲しかったのは至高の少女であり、人形としてのドールのボディそのものはあくまでその器に過ぎなかった。素材や技法は水銀燈の時点で既に完成されており、無理にそれ以上を目指す必要はなかった。
 どこかのお話のように、人形師が精魂込めて作った人形がその思いと愛情を一身に受けて独りでに動き出すような幸せなありようとは、自分達は根本的に異なっている。まず先に実現したいモノがあり、それに沿って緻密に設計製作され、そして結果的には当初の目的を達成させることができなかった不完全な作品だ。
 人形としての体はその実現したかったモノのごく一部分に過ぎない。まして、その造作などは些細な枝葉もいいところだった。
 だから雪華綺晶は一種の理想の人形であるのにも関わらず、その「実体に縛られない」という最大の特長であるはずの部分さえ、薔薇乙女として見た場合には単に他の姉妹達との相違点といったところに落ち着いてしまっている。
 いや、雪華綺晶本人から見たそれはむしろ、分かり易い、忌まわしい欠損に過ぎないのだろう。そうでなければ、彼女が他のドールのボディを奪ってまで実体を得たいと思うはずがない。

「えっと」
 少年は首を傾げ、腕の中の人形を確かめるように抱き直した。
 折角の雪華綺晶の説明も、少年の理解を深めることには繋がらなかったらしい。彼は納得できないときによくする表情で暫く考えていたが、結局素直に雪華綺晶に謝った。
「ごめん。よく分かんないんだけど、要するにキラキ……はボディが無いから、よく似てるこの子を自分のボディにしたいってことかな」
「ええ。間違っていませんわ」
 雪華綺晶は落胆した様子こそ見せなかったが、やはり少しばかり寂しそうな表情をした。少年はじっとその顔を見詰め、何かを言いかけてから口を閉じた。
 再び彼が口を開いたときには、言葉は恐らく最初に言おうとしていたこととは別のものに変わっていた。
「それは協力できないかなぁ」
「何故……?」
 雪華綺晶は意外そうな顔をした。表情を作っているのか、本心から意外に思っているのかは外見からは分からない。
「これはアリスゲームとは無関係なこと。私の個人的な望みなのですから。黒薔薇のお姉様にも青薔薇のお姉様にも、ご自分の不利益になることは何一つありませんわ」
「そぉんなことはないだろー」
 やや間延びした言い方で、しかし間髪をいれずに少年は言った。
「もしこの子がローザミスティカ持ってたら、キラキィはそれ使えるようになるんだろ。んで、どんな力か知らないけど、この子達が持ってるローザミスティカは凄いパワーがあるって話じゃんか。それって、俺達にしてみりゃ不利だろ、アリスゲーム的にさ」
 相手の名前を半分以下に略して、少年は聞きようによってはひどく失礼な物言いをした。
 蒼星石は彼の言葉を制止しようとして口を開きかけ、思い直した。少年の意見は水銀燈から聞きかじった知識を繋ぎ合わせた不完全な理解を基にした稚拙なものに過ぎなかったが、それは一面の真実でもあった。
 少年は一拍置いて続ける。視線は真っ直ぐに雪華綺晶に向いている。何故か、雪華綺晶もごく真面目な面持ちでその視線を受け止めていた。
「それに、大事なのはそんなことじゃない。
 キラキィは体を乗っ取ってめでたしめでたしかもしんないけどさ、この子にも魂があるんだろ? それはどうなっちゃうんだい」
「ああ……そのことを気に病んでいらっしゃったのね」
 雪華綺晶は納得したような表情になり、また微笑みを浮かべた顔に戻った。
「ご心配には及びませんわ。動力源とボディを失ってしまったドールの魂は無力となり、何処か遠くに旅立ってしまいます。それが次のボディを求めて、貴方の大事な想い人──お姉様達を襲うことはありません。お約束できますわ」
 へえ、と少年は軽く頷いた。左胸に凭せ掛けられた白い小さな頭を眺め、それから雪華綺晶に視線を戻す。
「それだけ?」
「そのドールの中にある『ローザミスティカのようなもの』がご所望でしたら、それも差し上げます。いくら素晴らしい力を秘めていても、所詮は異界の品物。私には扱えるかどうかも分からない物なのですから」
「なるほど……じゃ、そっちも別に心配しなくてもいいってわけなんだ」
「ええ」
 雪華綺晶は微笑んだまま、ゆっくりと少年に滑り寄り、すっと手を伸ばす。少年は人形を抱いていた右腕を、人形の膝下に通したままそちらに伸ばした。
「お分かりいただけてとても嬉しいですわ。──記憶を失っていても、やはり貴方は思ったとおりの方。貴方は私を受け容れてくださいますのね」
 雪華綺晶の微笑みは、感動を含んだものに変わっているようにも見えた。小さな手が、少年の手に触れる。

──どうして。

 蒼星石は半ば呆然とその様を見詰めていた。
 いくら知識が失われ、思慮よりも行動に性格が傾いているとはいえ、少年が簡単に雪華綺晶に手を伸ばすのが信じられない。この隻眼の末妹は口約束を簡単に反古に出来る性格だ、と水銀燈は彼には言っていなかったのか。
 それとも、ここで彼女に恩を売っておくのが有利だと思ったのか。あるいは、彼女に威圧感を覚え、怯えてしまったとでもいうのか。
 いずれにしても、彼女にそのドールのボディを渡すことが他の姉妹に有利に働くことは有り得ないことくらいは、少年でも分かりそうなものだ。それも判断できないほど平常心を保てないでいるのか。

──どちらにしても、それだけはいけない。させてはいけない。

 理屈ではない内心の何かが蒼星石にそう言っていた。
 蒼星石が遅まきながら制止の声を上げようとしたとき、乾いた音が辺りに響いた。


「七番目の子が既に出現しているというの」
 それを声に出したのは水銀燈でなく真紅だった。
「それは……二つの意味で危険だわ」
 短い言葉だが、却ってそれがその場の全員に彼女の考えをよく報せている。真紅はラプラスの魔が示唆したような可能性だけでなく、二人が結託してしまうこともあるのではないかと恐れていた。
 水銀燈は腕を組んで難しい顔をしたまま、真紅に軽く頷いてみせる。

「第七ドールの能力は私も知らない。そういえば名前も聞いてないわね。
 情報を握り込んで時機を窺ってる雪華綺晶が敢えてそんな得体の知れないモノと手を組むかどうかは疑問だけど、仮に似たような能力で更に物理的な力を強化された──真紅に対する『真紅』や蒼星石に対する『蒼星石』のようなものだとしたら。
 二人で結託されて、実体持ちで自由に現実世界に出て来られたらもう私達の手には負えないわね。永きに亙ったアリスゲームの終焉ってところねぇ」

 他人事のように言ってしまうのは最近の水銀燈の癖のようなものだが、今回に限ってはいつもの突き放した物言いとはまた別のニュアンスを含んでいた。仮にそうであれば策を弄する余地のあるような相手ではないと感じてしまっているのだ。
 ただ、もはや手も足も出ない、と絶望しているわけでもない。それには理由があった。
「まあ、雪華綺晶には手を組むメリットがあっても、相手には大して意味がない連携でしょうね。逆に言えば、雪華綺晶からすれば精々上手いこと使い捨てにされるのが落ちの提携関係でもある。その辺は末妹の理性に期待するしかないわね」
「……そうかしら」
 真紅は首を傾げる代わりに僅かに目を伏せた。水銀燈に対して言いにくいことでもあった。
「貴女はドライに割り切れるのかもしれないけれど、私は自分の目の前に『真紅』が現れたら、彼女に手を貸してしまうと思うわ。どちらも同じ自分だもの」
 真紅らしい言葉ではあった。過剰に情に流されると言ってしまえばそれまでなのだが、ある意味ではそれも人間らしい心の動きとも言えるかもしれない。
 そして、彼女が未だ見ぬドールのことを自分に過剰に引き付けて話しているわけではないことも事実だ。真紅はむしろ最悪の状況の一つとしてそれを提示しているに過ぎない。
 そうねぇ、と水銀燈は腕を組んだまま頭を一つ振る。ストレートの髪がさらりと流れた。
「向こうの第七ドールが貴女のような慈悲深い存在でないことを祈ったほうがいいのかもね」
 あっさりと言ってラプラスの魔に視線を移す。兎頭の紳士は相変わらず表情を見せずに真紅を見ていた。
 水銀燈はにやりと口の端を持ち上げる。自分の考えが概ね正しいことを確認できたような気がした。
「どちらにしても、そこの腹黒兎さんがどっしり構えている間は、そう心配する必要はないような気がするのだけど。何か情報は掴んでいるんでしょう」
 紳士は水銀燈を見上げた。初めからそういう風に話が回ってくることを予期していたような仕草だった。
「その点の御買い被りは平にご容赦願いたいところですが……」
 私はゲームの進行者でも、まして支配者でもなく、一介の検分役に過ぎませんから、と慇懃な口調で前口上のような言い訳をしてから、紳士は真紅に視線を戻した。
「ご考察は興味深く承りましたが、紅薔薇の御嬢様の御懸念は無用のものかもしれませんぞ。かの第七ドールは恐らく、ご懸念されているような形では御嬢様達と関わろうとはしないはず」
 何故なら、と紳士は水銀燈に視線を移す。
「そのドールは白薔薇の御嬢様とは似て非なる能力を持っております。そして、扉を抜けたばかりの今は未だ動くことさえ侭なりません。誰かがゼンマイを巻くまでは」
 紳士はひくひくと兎の鼻をうごめかせた。見ようによっては、それはそこに居並ぶ面々を笑っているようにも見えなくもなかった。
「白薔薇の御嬢様にとっては、気の置けぬ仲間や信の置けぬ同盟者というよりは、今そこにある恰好のボディ、といったところでしょうか」
 その言葉が終わらないうちに、窓のところでがたんと音がした。部屋の中の視線がそこに集まり、翠星石が声を張り上げる。
「チビチビ、人が真面目な話してるときに何やってやがるです!」
 雛苺は必死に窓に取り付いていた。
「メイメイが、お外にいるのっ」
 小さな閂を開けると全身の力を込めて窓を開ける。バランスを崩して落ちそうになるのを、横合いから部屋を横断して滑空してきた水銀燈が抱きとめた。
 二人の目の前を銀色に光る球体がすっと過ぎり、ぐるりと回って部屋の真ん中で停止すると、その場の全員に思念を送りつける。水銀燈は思わず笑ってしまった。
「……なるほどね。何時まで経っても帰って来ないと思ったら、そういうこと」
 水銀燈は雛苺を床に下ろすと、仕事机の上に飛び乗り、掻っ攫うように小箱を回収して全員を見渡した。まだ口許には不謹慎な笑いを浮かべている。
「悪いけど、先に失礼させてもらうわ。蒼星石が私を出し抜いて、媒介を連れてとんでもないモノを拾いに行ってるんじゃ、一人だけ知らぬ存ぜぬを通すわけにもいかないものね」


12

 ぱちん、と音が響く。
 右手を大きく体の左側に弾かれ、雪華綺晶はぐらりと体勢を崩し、ゆったりと滑って近づいていたその速度のまま、左側にゆらりと流れた。
 雪華綺晶の伸ばした手は、少年の手の甲で手荒く払われていた。
 動きを止めた雪華綺晶の前から、少年は後ろに跳躍して間を取り、人形を抱えなおした。
「うん、分かった。だから、駄目だ」
 少年は何故か辛そうに言った。

「キラキィが凄くこの子の体を欲しいのは分かった。でもキラキィが言ってんのは全部俺達の都合だろ。俺の聞きたかったのはそういう話じゃなかったんだ。体をなくしたこの子はどうなるか、そっちの方なんだ。
 俺にはアリスゲームの難しいことは分かんない。誰が勝って誰が死んじゃうにしても、どう終わるにしても、悔しいけどそれがみんなの宿命ならしょうがないと思ってる。
 でもさ、この子がほんとに他の世界のローゼンメイデンでも、俺達のアリスゲームはこの子には関係ないだろ」

 蒼星石は彼へと伸ばしかけていた手を胸元に引き付け、何か冷たいものを胸元に突き刺されたような気分で彼を見た。
 雪華綺晶だけではない。蒼星石もまた、その視点を忘れていた。単純に自分達の利害だけを考え、その結果として彼を制止しようとしていた。
 だが、結菱老人の愛した女性の心の木を伐り倒すのを翠星石が必死に止めたように、彼もまたゲームの外側に居る者を巻き込むのを嫌っている。それは本来、さほど精密にアリスゲームを理解していない彼よりも、誇り高くあるはずの薔薇乙女達自身が持っていて然るべき視点のはずだった。
「関係ない子をゲームに引き擦り込むのがキラキィのルールなら、俺だって俺ルールを使わせて貰うぜ。この子を最初に見付けたのがメイメイかキラキィかは知らないけど、先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない」
 言葉は稚拙で激しかったが、彼は激昂しているわけではない。水銀燈があの人形に向けて話していたときのような──苦虫を噛み潰したような顔で、駄々をこねる子供のように、言わなくても構わないような言葉を口にしていた。
 しかし、蒼星石の目から見る限り、その子供じみた屁理屈を向けられた方が何処までまともにそれを聞き取っているかは疑問だった。
 雪華綺晶は微笑を顔に貼り付けたまま、凝固したように唇ひとつ動かさずに、蒼星石から見て右側にゆっくりと漂っていく。隻眼も彼に手を払われたときのまま、前に視線を固定し、底知れぬ虚空を見ていた。

──まるで叩かれたはずみに動力が切れた自動人形のようだ。

 ふとそんなことを考える。もちろん雪華綺晶がその程度で活力を失うことは有り得ない。彼の態度に手酷いショックを受けただけの話だろう。
 その場に流されやすい自分の心の動きを蒼星石は感じていた。ついさっきまで考えていたことは棚に上げて、些かならず哀れさが忍び寄って来ている。随分都合のいい話だった。
 しかし、かと言って目の前の末妹に手を差し伸べる気にも、少年を詰る気分にもなれない。敢えて言えば、それは無責任な同情に近い感情だった。
 感受性の高い他の姉妹──真紅や翠星石なら、もっと別の感傷が心に湧くのかもしれない。もしかしたら、普段の自分であっても。
 だが、何故か彼女は雪華綺晶にそこから先まで踏み込んだ共感を持てなかった。何か別の昏い感情が、それを押し留めている。

 彼女は一つ頭を振り、感傷を振り払う。昏い感情が具体的に何なのかは、敢えて考えないことにした。
 無言で二体の人工精霊に思念を飛ばし、雪華綺晶を目視で警戒しながら少年の脇に移動する。レンピカは短い応答をすると雪華綺晶と二人の間で素早く警戒の軌道を取ったが、メイメイからの返答はなかった。
 メイメイは状況を見て水銀燈を呼びに行ったのかもしれない。そういえば、何故メイメイは水銀燈でなく少年を頼ってきたのだろうか、と今更の疑問が心の隅に湧いたが、取り敢えず今はどうでもいいことではあった。
 少年は口をへの字に結んで、見た目にも分かりやすく何かに耐えていたが、蒼星石を見てふっと鼻から息をつき、漸く口を開いた。
「……帰ろうぜ。あんま長くは居られないんだろ」
「そうだね」
 蒼星石が頷いたのと、彼女が注視している先で、白髪の末妹がぎりぎりと軋み音を立てるような動きでこちらに顔を向けたのはほぼ同時だった。蒼星石は咄嗟に彼を庇うように一歩前に出た。
「……何故ですの」
 平板な、抑揚にも大小にも欠けた声だった。今までの何処かお道化た口調とは正反対の、感情の篭っていない声音だったが、それは確かに雪華綺晶の声だった。
 少年がびくりとして雪華綺晶を見詰める。雪華綺晶も彼を見詰めていた。視線が絡んだ。
「私のモノはいつも、どうしてお下がりばかりなのですか。私が自分だけの何かを望んで手に入れることは、そんなに悪いことなのですか」
 ウェーブのかかった白い髪が、どっと脇に流れていく。まるで彼女が抑え込んでいる激情のように、凪いでいた無意識の海の急流が、いきなり横合いから襲ってきたのだ。
 雪華綺晶はその流れに逆らって立ち尽くしている。服が靡き、髪も流れに揉まれていたが、彼女自身は微動だにせず、隻眼の視線を少年に固定して、呪文のように言葉を紡ぎ始めた。

「貴方なら判ってくださると思っていましたのに。……いいえ違う、貴方はもう貴方ではないのですものね。貴方はここでない何処かに流れて行ってしまい、ここに在る人間は貴方の残した形骸に過ぎない。そういうことですものね。私のお会いしたい貴方が私をこんなに苛める訳がありませんもの。嗚呼……それならば、私はその其処に在る形骸を私の姿をした形骸諸共手に入れなくては。貴方と私の宿るおうち。宿を失くした貴方を私は探しに行かなくては。その前に貴方のおうちを今、手元の安全な処に匿わなくてはいけません。そうでなくては、おうちはすぐに流れて行って、他の猫がすぐに住み着いてしまいますもの。そう、其処で此方を見ている薄汚いシルクハットを被った泥棒猫がッ」

 雪華綺晶は鋭く右手を振り、それに合わせたように一群の白茨が二人を目掛けて突き進んできた。
 蒼星石は彼を後ろに突き飛ばそうとしたが、流石に無理があった。体重の差がありすぎるのだ。逆に自分が前に飛び出すような恰好になってしまったが、それはこの際どちらでも良かった。
「先に逃げて! ……レンピカ、鋏を!」
 レンピカは蒼星石の得物を召喚し、蒼星石は白茨をぎりぎりのところで避けながら鋏を振るった。
 剪定鋏としては最低の使い方だが、先端まで鋭く刃の付いた鋏は挟んで切るだけでなく、突くことや斬ることもできなくはない。気を抜くと絡み付いてくる茨を、蒼星石は殆ど反射的に、そうした邪道な遣い方まで駆使してどうにか防ぎ切った。
 だが、漸く開けた視界を見詰めなおした彼女は愕然とした。
 縄のように纏まった白茨の太い束が、彼女のすぐ脇をかすめて後方に向かっている。その先に何があったかは確かめるまでもなかった。
 彼女に向かってきたものとは量と密度が全く違っていたのだろう。彼が居たであろう辺りには人間よりも遥かに巨大な白い薔薇の蕾が禍々しく、あからさまに何かを飲み込んだ形に膨れ上がっていた。
「……っ!」
 蒼星石は声にならない声を上げ、白茨の束に斬りつける。到底挟んで切れるほどの太さではなかった。
 蕾そのものに鋏を向けなかっただけ、まだ彼女は冷静な部分を残していたと言えるかもしれない。しかし、鋏で傷が付けられるとはいっても、束になった白茨に対しては虚しい努力だった。相手の量が多過ぎるのだ。
 二度、三度と鋏を振るうごとに、意気込みが失望と無力感に置き換えられていく。蒼星石は鋏を持ち直し、茨を操る白い姿に向き直った。
「やっとお分かりになりました? 無駄でしょう」
 雪華綺晶はまた、艶然とした微笑を浮かべていた。
「ふふ、怖いお顔。貴女のことを気に入られている方には、凛々しいとか健気に見えるのでしょうけれど」
「……無駄話は好きじゃない」
 蒼星石は鋏を構え、雪華綺晶に向かって突進した。雪華綺晶は笑顔のまま、茨をまた一群送り出す。
 それは先程彼女に向かってきた茨の群より大分少なかったが、それでも彼女の足を止めてしまうには充分だった。

──これじゃ埒が明かない。

 絡み付いてくる白茨と格闘しながら、どうにかしなければ、と蒼星石は考える。しかし、彼女にはどうにかできるだけの余裕も時間もなかった。
 茨を切り続けているうちに、いずれタイムリミットはやってきてしまう。それまでにどうにかしなければ、ここで皆この隻眼の白髪鬼の監獄に囚われてしまうだろう。
 だが、生憎と有効な思案は浮かんでこなかった。絶望がじわじわと滲んでくる中で、彼女は目の前の脅威に対して空しい作業を繰り返し続けるほかなかった。


13

 むせるような薔薇の花の匂いに包まれながら、少年はざまぁねぇやと呟いた。
 蒼星石が最初の茨の群れに飛び込んでいったのを見て、少年は彼女の言葉に従った。理解力に難がある、と詰られることが多い彼だが、雪華綺晶の目標が蒼星石ではなく、自分と自分の抱いている人形だということについては流石に理解していた。
 愚図愚図している暇はない、と彼は思い切り良く身を翻して逃げ出した。不人情と謗られるかもしれない行動だったが、その判断は多分間違っていなかったと少年は思う。
 ただ、相手の実力は少年と蒼星石が想定していたよりも遥かに上だった。
 精一杯ダッシュしたはずなのに、何か巨大なものが凄まじい勢いで背後に迫ったかと思うと、次の瞬間には少年は抱いていた人形諸共、入り組んだ形の白い小部屋に囚われていた。
 多分、いきなり逆上させてしまったのが悪かったのだろう。何か上手い言葉で間を繋いでいれば、穏便に済ませることはできなくても、そのうちに隙を衝いて逃げおおせる機会が見出せたかもしれない。
 しかし、それは語彙の多くない少年と、言葉を弄するのが不得手な蒼星石の二人には荷が重過ぎる選択肢だった。彼等は彼等らしく、正直に雪華綺晶を否定して、強烈なしっぺ返しをされたのだった。
 それは仕方がないことだと彼は思う。実力の差というものを見せ付けられただけだ。ただ、メイメイの──水銀燈の期待に応えられなかったことと、結局腕の中の人形を雪華綺晶に渡してしまうことになるのは残念だったし、何より蒼星石のことが気懸りだった。
 雪華綺晶はどういうわけか、蒼星石のことを目の仇にしていたようだった。理詰めで行けば彼女が恨んで敵視するのはいろいろと彼女の可能性を潰して回っている水銀燈のはずで、蒼星石は無関係もいいところなのに。

 他ならぬ「今現在の」自分自身が二人の争点になっていることには、少年は気付いていなかった。
 彼が単純にそういった心理に致命的に疎いだけであるとか、正確に理解しているのに敢えて気付かない振りをしていたいとかいう恋愛小説的な状態であればまだ上等なのだろうが、生憎とそういう高度な事情は彼にはない。
 彼の認識では、彼の周囲の薔薇乙女達──といっても水銀燈と蒼星石の二人だけだ──が好意を向けているのは、専ら過去の自分だった。今の自分はその延長線上、言い換えれば過去の自分の選択の結果として存在しているから受け容れられているだけで、それ以上でも以下でもない。
 もっと端的に言ってしまえば、自分が捨ててしまったという、生まれる前から持っていた知識と経験と人格の方を彼女達は愛しているように見える。
 そして、少なくとも水銀燈に対してはそれは正しい認識だった。ただそこに、記憶を失う前の彼が既に想い出として美化され始めているという側面があることを少年は知らない。
 先程雪華綺晶が呟いていたように、今の自分は残り滓に過ぎない、というのが少年の現状認識だった。何の役にも立たないし、むしろ何かと水銀燈の手を煩わせているだけだ。
 ただ、無力感に自棄を起こしたり鬱屈していってしまうような繊細さも彼にはなかった。今のところ見放されていないのだから頑張ってできることを見付けて行けばよいという、前向きというよりは楽天的な考えが彼を動かしている。
 蒼星石がむしろそんな彼だからこそ密かな好意を向け始めていることには、向けられている当人は気付いていない。
 まして、雪華綺晶が無自覚だが深い嫉妬を向けているのが、腕の中で眠っているドールでも蒼星石本人でもなく、蒼星石が抱いているささやかな恋心──稀代の錬金術師にして人形師の創り上げた最高傑作の一つというよりは、むしろ平凡な年頃の少女のような──だということなど、考えも及ばないことだった。

 お手上げと言いたいところだったが、少年はどうにか気を取り直すことに成功した。
「なんとかしなくちゃな」
 腕に抱いたままの白い人形に視線を落とす。生きているように愛らしい、というよりは大きくて精巧なフィギュアのような顔だが、美醜はこの際関係がなかった。とにかく、メイメイがわざわざ自分を見込んで頼んできたのだし、何より相手の前で二人で意地を張ってみせたのだから、なんとしても二人でこの人形を回収して現実世界に帰らなければいけない。
 ごめんなと一応謝ってから人形を片手で抱き直し、空いた手で閉じている白い花弁を押してみる。いくらか撓む手応えはあったが、異様に重かった。
 殴りつけ、力任せに蹴飛ばしてみても同じだった。体育館のマットを相手にしているような感覚で、硬くはないがその重量と柔らかさが少々の打撃など吸収してしまうように思える。
「掌底で衝撃を与えるとか……」
 口に出してみると改めて無理だということが分かってしまう。そもそも少年はそういう拳法やら空手のようなものを扱えるわけではなかった。
「──くそ」
 腹いせに思い切り蹴飛ばしてみる。しかし、結果には取り立てて変わったところはなかった。少しばかり余分に靴の先がめり込み、花弁がやや強めに揺れただけだ。

──なんか鎌とか剪定鋏とか……なんかあれば……。

 午後まで庭仕事をしていたせいか、ついそういうものを想像してしまう。包丁やら果物ナイフの方が恐らくこの場では有効なのだろうが、少年の連想はそちらの方向には向かなかった。
 ともかく、見回してみたところで何かが出てくるわけもない、と空いている方の手でごそごそとポケットを漁ってみる。桜田宅に行ったときに着ていたツナギならともかく、普段着に着替えた後では便利なものは出てくるはずもなかった。ハンカチと飴玉程度、後は帰宅したときからそのままになっている財布くらいなものだ。
「小銭とカードか……意味ねえっ」
 言いながらも、人形を抱いた姿勢のまま不器用に財布を取り出し、本屋のレンタル会員券を抜いてそれを手に持ってみる。
「これで切れれば御の字!」
 もしかしたら花びらには歯が立つのではないか、という計算というよりは願望に近い思いで精一杯切り込んでみる。結果は虚しいものだった。
 花弁の表面にはごく浅い傷がついただけで、どういうわけかそれもすぐに回復してしまう。掌に押し当てた爪の跡が瞬時に元通りになるようなものだった。
「なんだよこりゃ……」
 それでも二度、三度とカードで切りつけて、少年はそれが無駄だと悟らされた。形こそ巨大な薔薇の花弁だが、それはどちらかと言えば動物の皮膚に近い、それも回復の異常に早い、異質な何かだった。

──こりゃ、ほんとに草刈機でも持って来なくちゃ駄目だ。

 それも、専用のチップソーが付いたものでないと無理だろう。
 少年は午前中に使った刈払機を思い出していた。沼のようになった池の跡に生えていた灌木を伐るのにはいつものナイロンコードや普通のチップソーでは無理で、彼は初めて「山林下刈専用」という何やら玄人っぽい名前の付いた、刃の数の異様に多いチップソーを刈払機に付けて使ったのだった。
 確か100枚刃だったっけ、と余計なことまで思い出してしまう。小さめの肉抜き穴がびっしり開いた、いかにも普通とは違いますよとアピールしているような品物だった。そして、謳っているとおりかどうかは分からないが、少なくとも灌木はどれも根元近いところですっぱりと切断できたのだ。

──あれがここにあればなぁ。

 あのくらい切れ味が良ければ、多分こんな柔らかいモノなら苦もなく切断して、大穴を開けてやれるはずだ、と少年は思う。有り得ない妄想に逃げるのは一種の逃避行動なのだが、本人はそれに気付いてはいなかった。

「……しいの……?」

 かすかな声がした。少年は思わず花弁の向こうに聞き耳を立てる。雪華綺晶か蒼星石がすぐ外で何かを言ったのではないかと考えてしまったのだ。
 しかし、声はもっと近いところから発せられていた。
「……が、あれば……あなた……出られるの?」
「目ぇ覚めたのか?」
 慌てて視線を人形の顔に戻す。雪華綺晶とよく似た人形は、目を閉じたまま、唇だけを僅かに動かしていた。
「……強く、イメージして」
「なんだって?」
「それを……はっきりと、具体的に」
 途切れ途切れだったが、何を言いたいのかは伝わってきた。少なくとも少年は理解した気分になった。
 彼がもう少し疑い深い性格なら、これは罠ではないかと疑ったかもしれない。思慮分別に富んでいれば、追い込まれたが故の幻想だと悲観してしまったかもしれない。
 だが、彼は良くも悪くも彼に過ぎなかった。いつも薔薇乙女達にそうしているように、特に裏を読まずに素直に彼なりにドールの言葉を理解した。
 よし、と一つ頷いて、少年は自分の考えを纏めるために口に出してみる。
「欲しいのはチップソーじゃないんだ。ああっと、それももちろん必要なんだけど、草刈機全部が揃ってないと駄目だ。燃料も満タンで、すぐ使える状態になってないと」
 顎を引き、目を閉じて眉を寄せながらいつもの工程を思い出す。
 薔薇屋敷の裏手の倉庫の壁に掛けてある刈払機。Uハンドルで、右手側にスロットルレバーが付いている。肩掛け紐はすぐに裏返しになってしまうから、使うときはちゃんと捩れていないか確認してから肩に掛けないといけない。
 混合ガソリンも必要だ。使い終わって壁に掛けてある状態ではガソリンは抜いてあるから、使う前に混合燃料を燃料タンクに八分目になるまで注いでやる。
 給油を終えて現場に持って行ったら、キャブレターの下面にあるゴムのポンプを押してやって、最初の燃料をエンジンに入れ──
「──!」
 急に周囲が暗くなったような気がして、少年ははっと目を開けた。正面には何の異常もない。だが、花で言えば中心に近い方を振り向くと、そこにあったはずの複雑な形をしたものは跡形もなく消え、虚無がぽっかりと口を開けていた。
 抱いていた人形の髪が、風もないのにそちらに靡いていく。人形の身体そのものもそちらに動き出そうとしている。いや、そうではない。人形が、虚無へと引き込まれようとしているのだった。
「なんだよこいつは!」
「焦らないで……集中して、イメージを作って」
 かすれたような声で、人形は懸命に呟いていた。
「だってお前、んな悠長なことやってたら持ってかれちまうんじゃ」
「……余裕があるうちに……早く」
 少年はもう一言言いかけ、そこで漸く理解した。
「畜生、一方通行の会話かよ。分かってたけどさ!」
 彼の声は多分届いていない。人形は彼の感情の流れのようなものだけを感じ取り、自分の意思を伝えるだけで精一杯なのだろう。
 目を閉じていても引き込まれて行かないように両手で人形をきつく抱き直す。額に汗をかきながらぎゅっと目を閉じ、中断してしまった刈払機のイメージをもう一度はっきりさせようと努力した。
 気ばかり焦って、中々それは具体的になってこない。それでも少年は必死で刈払機をイメージした。
 幾つもの意味で時間が切迫してきている。そのくらいは彼でも理解しているのだ。


「ふふ……強情な方」
 先程一瞬だけとはいえ寂しそうな顔を見せたことや、能面のように無表情で呪詛のような言葉を呟いていたことが信じられないほどのにこやかな笑顔で、雪華綺晶は蒼星石に呟いた。
「今なら貴女だけは逃がして差し上げても良いのですよ、青薔薇のお姉様。私の欲しいものは二つとも手に入ったのですから」
「それはもう、二度も聞いた」
 蒼星石は言いながら、レンピカと連携して何度目かの白茨の突進を防いだ。
 白茨の攻撃には一定のパターン、もしくはリズムのようなものがあった。レンピカとの連携が上手くなってきたことも影響しているのか、蒼星石が白茨の群を切り抜けるまでの時間は次第に短くなり、結果として雪華綺晶との間は狭くなってきている。
 それは見て分かっているだろうに攻撃方法を全く変えないのは雪華綺晶の余裕の現われなのか、それとも変えられない理由でもあるのだろうか、とふと蒼星石は考える。
 雪華綺晶が白茨を放ったタイミングで即逃走にかかれば、間隔が少しばかり詰まろうが関係のないことなのだが、雪華綺晶は一向に退こうとしない。恐らく彼と人形を飲み込んだ巨大な白薔薇は雪華綺晶と共に逃走することができないのだろう、と彼女は推測していた。
 しかし、それでも追い詰められているのは蒼星石の方だった。時間というファクターは、今のところ雪華綺晶に有利に働いている。

──あとどの程度なのだろう。五分か、十分か。

 あるいはそれほども残っていないかもしれない。
 nのフィールドの中で、味方に媒介のいない戦いをするのは、考えてみれば水銀燈が真紅の腕をもぎ取って以来だった。
 あのときでさえ、自分はマスター不在だったとはいえ、当初は媒介の必要ない水銀燈がこちら側についていた。有利不利は別にして、少なくとも時間制限を気にするほど長引くような戦いではなかった。
 今は全く事情が違っている。彼女は独りで雪華綺晶を倒すか退却させなくてはならない。それなのに、まだその本体に指一本触れることができていないばかりか、自分に残された時間は刻々と短くなっていく。
 それでも、その刻限が来るまでは鋏を振るい続けよう、と彼女は覚悟を決めていた。
 何かハプニングが雪華綺晶側に起きないとは限らないし、自分の突進が相手に届くこともあるかもしれない。可能性が全くなくなるまでは諦めたくなかった。

 彼女は自分の一番大きな変容に気付いていない。
 以前の彼女なら、そこにもう一言足してしまっていたはずだ。それが僕なのだから、と。
 今の彼女にはそういった理由付けは必要なかった。契約も誇りも意地も、アリスゲームさえも関係なく、敢えて言えば自分の勝手で戦っている。
 それは薔薇乙女として、ひいては至高の少女を目指す者としては大きな退歩かもしれない。至高というよりは俗物的な、夢の少女というモノの反対側、その辺りに転がっている現実の人間に大きく近付いてしまったことと同義だった。
 知識を得て精神的に弱くなった、強くなったなどというのは、それに比べたら些細なことに過ぎない。いや、俗な方向に動いたことを彼女は漠然と「弱くなった」と受け止めているのかもしれない。
 蒼星石が求めてやまなかった「自分」は、彼女自身気付かないうちに獲得できてしまっている。ただ、その衝動が至高の少女の一部となるための動機付けとして用意されたものであるなら、随分と皮肉な形と言うしかなかった。

 いずれにせよ、蒼星石はそういったことを考える間もなく、雪華綺晶に突進しては彼女の繰り出す白茨に阻まれるという行動を続けている。それが次第に雪華綺晶の近辺まで押して来ているのは、雪華綺晶側の圧力不足というよりは、蒼星石の執念の表れのようなものだった。
「何度も何度も同じことばかり……退屈におなりにならないのが不思議ですわ、お姉様」
 雪華綺晶は白茨を放つ合間に揶揄するような笑みを蒼星石に向けた。
 ただ、その瞳は笑っていない。隻眼は先程泥棒猫呼ばわりしたときよりもずっと昏い色で蒼星石を睨み付けている。恐らく蒼星石が白茨を処理している間も、そのまま睨み続けているのだろう。
 その理由は何なのだろうか。自分への嫉妬や嫌悪だけだとしたら、もっと憎しみをはっきりと押し出してもおかしくないはずだ。少なくとも一度は本心を露わにしたのだし、それを今更隠す理由はない。
「僅かずつでも目標に近付いているからね」
 蒼星石はにやりとしてみせた。雪華綺晶は無言で微笑し、新たな白茨を放ってそれに応える。


 少年のイメージは徐々に、刈払機を動かす工程から機械本体の細部に及んでいった。黒いプラスティックのエアクリーナーカバー、赤いチョークレバー、燃料タンクから伸びる給油管と復油管、いつもグリスのチェックが必要なギアボックス。刈刃押えは逆ナットだから注意して扱わないといけない。
 漫画風に描けば滑稽極まりない光景かもしれない。白い薔薇の蕾に飲まれ、背後には暗い虚無がぽっかりと口を開けている場所で、少年は大きな人形を胸に抱き締め、額に脂汗まで滲ませながら、一心に冴えない安物の農業機械を思い浮かべている。
 しかし、それは彼にとっては唯一の、現状を打破できそうなアイテムだった。
「……それの、名前……は?」
「名前なんてついてないぞ。ただの草刈機だって」
「……」
 人形の頭がかすかに、頷くように動いたような気がした。
「私と同じ……」
「えっ?」
 少年は思わず目を開け、まじまじと人形の顔を見詰める。人形は金色の瞳を開き、彼を見上げていた。
「名前は個体の識別に必要なもの。それはとても大切なもの。でも、対象の本質を表してはいない、仮の言葉」
 小さいが、はっきりした声だった。人形は視線だけを動かし、白い薔薇の花弁以外何も見えない「上」を眺めた。
「それはただの理屈ではなかったのですね、お父様。現にこうして、名前もない機械をこの人はイメージできた──」
 一瞬だけ人形の体が光ったように少年には思えた。それが収まると、人形はまた目を閉じ、もう声を上げることもなかった。
「おい、大丈夫か、おいっ」
 少年は二、三度人形を揺すってみて、それが再び言葉を喋ろうとしないことをやっと確認した。
 自発的に動かなくなっても、まだ虚無が人形を引き込んで行こうとしていることに変わりはない。現に腕の中から人形が流れて行きそうになっていた。一つ悪態をついて抱き直すと、狭い中だったせいで体勢が崩れた。
「っと……」
 手を突いた先を見ると、よく見慣れた、しかしここにあるはずのない物体がそこに出現していた。
「……すげえ」
 狭い中では取り回すだけで苦労しそうな長い竿の先に小さなエンジン、逆の先に丸鋸によく似た円盤が付いている。気付けば周囲に混合燃料の独特な匂いまで漂っていた。
「やったぜ。すげえじゃんお前! よぉし、これでどうにかしてやれるぜ」
 人形を落ちないように注意して片腕に抱え、その手で刈払機の竿を押えて、少年は空いている方の手でリコイルスターターを勢いよく引いた。小さなエンジンはまるでついさっきまで動いていたように、ぐずりもせず一発で始動した。


 レンピカが蒼星石の指示なしで螺旋を描くような軌道を取り、茨を幾つか切断した。蒼星石は後ろに下がりながら軌道を見定め、右下に沈み込んで直撃を避けながら残りを鋏で切り飛ばす。
 そのまま雪華綺晶の目前まで迫ったとき、微笑みと共に次の一陣が放たれる。圧力に押されながらそれを同じようにして切り落とす。我ながら、まるで同じ映画のシーンを見続けているようだと蒼星石は思った。

──しかし、流石にワンパターン過ぎないか。

 ここまで繰り返されると、その裏を考えざるを得ない。ただ時間を稼いでいるだけではなく、積極的にこれ以上の行動が取れない理由があるのではないか。
 夢中で戦い続けていたから気が回らなかったが、巨大な白薔薇の花も最初の位置から微動だにしないでいる。まるでその状態から動かそうにも動かせないようにさえ見えてしまう。
 自分に向かってくる茨を避ける。雪華綺晶に何が起きているというのかと考えていたせいで一瞬回避が遅れ、彼女は咄嗟に左下に動いて鋏を振るうことになった。半ば機械的に繰り返していた動きとは別の行動になってしまったせいか、それとも鋏の向きが逆手になってしまったためか、茨の処理が遅れた。大分余分に時間が掛ってしまう。
 向きが変わっただけでこうも違うのか、と体勢を立て直しながら考える。パターンに慣れて来たからこそ攻め込めていたものの、もともと間断なく飛んで来る白茨だけでも自分には十二分に脅威だ。それを忘れていただけだった。
 現に今回は前回までより若干距離が遠くなってしまっている。自分の行動こそパターン化しているのもいいところで、白茨の対処だけで殆ど飽和してしまっているではないか──
 彼女はびくりとする。遅まきながら、何かに気付いたような気がした。

──異変が起きて行動が取れないのではない。向こうも最初から飽和しているのだ。

 今の自分がそうであるように、雪華綺晶もまたこの場の維持で手一杯なのだ。そして、自分に常に同じルーチンで対応しているということは、主な注意はこちらに向いていないことを示している。
 必要以上に睨んでいたのはそれを隠すためか、あるいは一番注力している方の進捗がはかばかしくないことの焦りが表れているのだろう。
 それならば、と彼女は賭けに出ることに決めた。
 雪華綺晶の行動全体が罠である可能性も否定はできない。だが、罠を掛けて誘っているということは、逆に余裕がごく少ないことの表れでもある。
 それにどちらにしても、時間は自分に味方しない。仕掛けて損はないはずだ。
 もう数えるのを止めてしまった白茨の攻撃に対してレンピカが同じように力を殺ぎ、蒼星石は再びルーティンに戻り、右下への移動で残った茨をやり過ごし、一直線に伸びているそれらを鋏で切断する。
「残り時間はごく僅か……それなのにまだその動きを繰り返すのですか? お姉様」
 最後の白茨を切り飛ばしている最中に、雪華綺晶はからかい気味にそんな言葉を投げて寄越した。蒼星石は厳しい表情のまま、口周りだけを歪める。
「じゃあ、お望みのとおりに違う動きをさせて貰うよ」
 言いながら、それまでと同じように鋏を構えて真一文字に突進する。
「強気ですこと」
 雪華綺晶は能面のように微笑を貼り付けていた。
「でも違った動きをするのがお口だけでは、相手がただの可愛いお人形でも騙せませんわ。お姉様──」
 雪華綺晶の手が優雅に動き、蒼星石目掛けて白茨を放とうとした瞬間、その作り付けられていない右目の眼窩から生えた白薔薇が蒼い光を受けて一瞬煌き、次いで隻眼に強い蒼い光が届いた。
「──ッ!」
 雪華綺晶は思わず顔を背けて目を閉じ、空いている方の手で顔を覆う。白茨は放ったものの、体勢は大きく崩れていた。

 蒼星石が使ったのは散々使い古された、むしろ古来から定番になっている目晦ましだった。ただ、普通は太陽と鏡を使うそれを、人工精霊が強く瞬いたときの光と鍍金仕立ての鋏の刃で代用しただけのことだ。
 人工精霊は実体のある物には直接触れることができない。自分達の主人たる姉妹達を直接攻撃することも禁じられている。だが、自分の判断で行き場を決めることはできた。
 そして、少なくとも主人との呼吸の合い方と命令を無駄なくこなす能力に限れば、レンピカは六体の人工精霊のうちで最も優秀だった。
 レンピカは螺旋状の軌道で白茨を切断した後、元の位置には戻らず蒼星石と平行して飛び、彼女が鋏を動かしたときに自分の放つ光が雪華綺晶の顔に当たるような位置を取った。微調整は蒼星石が鋏を動かして行うという粗っぽい遣り方だった。
 しかし、その原始的で雑な仕掛けは結果的には大成功だった。偶然なのか何等かの作為が働いていたかは兎も角、光は雪華綺晶の太陽を未だに見たことのない隻眼を直撃したのだった。

 雪華綺晶が再び正面を向くまでにはほんの一拍ほどの間があっただけだった。
 時間的にはごく僅かな隙だったが、タイミングが最悪だった。放たれた白茨は目標を大きく外れ、圧力を失くして途惑うようにゆらゆらと蒼星石を指向する。その間に蒼星石は雪華綺晶に肉薄していた。
「──ごめん」
 先端の尖った鋏の刃を、蒼星石は容赦なく雪華綺晶に突き立てた。
 絶叫が響き渡った。


 何かがあったのは、少年にも伝わっていた。だが、それは彼にとって良い方向に事態が動いたとは決して言えない形だった。
 機械が首尾よく動いたにも関わらず、爆音の割に作業は捗っていなかった。片手に人形を抱えながら、空いている方の腕一本で長物を操作しているから思うように力が入らないのだ。
 それでも、どうにか横に二本の切れ目は入れられた。刈払機を持ち替え、今度は縦に切れ目を入れ始めたところで、魂消るような悲鳴が聞こえてきた。
「蒼星石!?」
 誰の声なのかはよく分からないが、悲鳴はごく細く開いた花弁の隙間からだけでなく、背後に開いた虚無の彼方からも同時に聞こえて来た。エンジンの爆音が響いているのに、まるで別の感覚が感じ取っているかのように明瞭に聴き取れた。
 が、問題はそこではなかった。声が収まらないうちに、虚無への口の縁が崩壊を始めた。白い花弁は茶色に萎び始め、腐って虚無へと落ちて行く。

──やべえ。

 この中に居たら、花弁が全部腐り落ちた時点で虚無に呑まれる。いつものように理屈でなく直感で、気取った言い方をするなら感性で、いつもの彼には似つかわしくなく瞬時に少年はそれを理解した。
 ホラー映画張りの恐怖展開だった。違っているのは、自分が観客の位置に居るのではなく、まさにその中に存在していることだ。
 兎も角もやれることは一つしかない。それにしがみつくように、少年は再び誰かが見ていたら滑稽だと笑い出しそうな作業に集中し直した。


 僅かに先端が開かれた庭師の鋏は深々と雪華綺晶の胸に突き立った。
 人間であれば動脈を切断するか内臓に深刻な損傷を負わせ、致命傷となったことだろう。彼女達薔薇乙女にとってもまた、そこはローザミスティカのある場所だった。
 鋏の先端は充分その場所に到達しているはずなのに、ローザミスティカの手応えのようなものは感じられない。蒼星石の一撃は単に大きなダメージを与えただけに留まっていた。もっとも、彼女の方も最初から致命傷を与えられるとは思っていない。胸に突き立てられただけでも僥倖と言うべきだった。
 蒼星石は痙攣している雪華綺晶の身体を思い切り蹴り飛ばし、その反動でどうにか突き刺さった刃を抜き取った。
 ボディがない相手のはずなのに、突き立てたときも抜くときにも蒼星石は妙な手応えを感じていた。少なくとも陶器や木材の手応えではなかったが、その具体的な材質について思い巡らす暇もなく彼女は雪華綺晶から離れた。
 その間も雪華綺晶の悲鳴は続いていた。
 だが、魂消るような絶叫を上げつつも雪華綺晶は今までになく大量の白茨を放ち、蒼星石を追わせた。それは痛みや憎悪に任せた苦し紛れの一撃に過ぎないのかもしれなかったが、先程放たれた茨と丁度呼応するような形になり、蒼星石を包み込むように迫って来た。
 かなりのダメージを与えたはずなのにまだこんなに余裕が残っているのか、と蒼星石は思い、すぐに自分の考えを訂正する。

──あの巨大な薔薇を手放したからだ。

 彼女の脇を通って少年がいたはずの地点まで真っ直ぐに伸びていた茨の束は、まるで高速度撮影を見るように醜く朽ち始めていた。枯れる、というような形ではない。まるで樹木ではなく湿地の草のように、不恰好に萎びて腐っていく。
 雪華綺晶のコントロールを外れ、力も供給されなくなったことの証明のようなものだった。茨の先端にある花自体はまだ形を保っているが、早晩同じ状態になるに違いない。
 あれに呑まれるとどうなるか、そこまでは分からない。だが、雪華綺晶があちらをどうにかするためにずっと注意と力そのものの大半を振り向けていたのだろう、ということは理解できた。
 大薔薇を捨てたのは本来の力が出せないほど手酷くダメージを受けたことを示しているのかもしれないが、蒼星石に割り当てる白茨の量は本命を捨ててしまった分多くできる。考えてみれば単純な話だった。

 思いを巡らしながらも、蒼星石は休みなく迫り来る茨の一部を切り飛ばして飛び抜け、その包囲網を免れた。幸い第二陣は飛来しなかった。
 愚図愚図してはいられなかった。雪華綺晶が痛みに苦しんだり心理的な衝撃に苦しんでいなければ、時間と共に体勢を立て直し、茨のコントロールにも余裕が生まれてくるだろう。
 それまでに腐ってゆく白薔薇から彼を救い出し、今度こそ二人揃って首尾よく退却しなければならない。
 開けた視界で雪華綺晶を一瞥する。純白の末妹は苦痛に呻吟しながら、もがくように大薔薇の方に向かって移動を始めていた。
 もう一撃を加えて意思を挫くべきか、という考えが過ぎる。だが彼女はそれを採らなかった。
 今は時間がない。大薔薇の花が朽ちて腐り落ちてしまう前に囚われた少年を助け出さなければ、恐らく彼は雪華綺晶のフィールドか、もしくはそこですらない容易に追えない何処かに引き込まれてしまうのだろう。
 自分の時間の方こそ余裕がなくなってきていることは、いつしか頭から抜け落ちていた。
 彼女は雪華綺晶に先んじて大薔薇に到達するために精一杯加速する。ちらりと相手の方を見遣ってみたが、雪華綺晶の動きは鈍く、周囲の流れに押されて軌道も安定していなかった。
 莫大な力を持っているらしい彼女も、苦痛には耐えられないらしい。それとも流石にダメージを受けた上に派手な一撃を放てば消耗してしまうということか。いずれにしても、蒼星石には好機だった。

 花に近付くにつれて聞き慣れた音が耳に届き始める。それはここでは有り得ない物が立てる音だったが、蒼星石は軽い驚きを感じる程度でそれを受け容れた。
「貴方はまだ……」
 力を失っていなかったんだね、と、こんな状況にも関わらず微笑みが浮かんでしまう。
 心の木のときはチェーンソーを、この場では刈払機を出現させ、彼女には伐れないものを伐ってくれている。それは相手によっては口惜しい事柄かもしれなかったが、何故か嬉しさが湧いて来るような気がした。
 彼女はすぐに微笑を引っ込め、甲高いエンジン音の響く場所に向かう。後ろから追ってきている相手のことを考えれば──
「──ぁ」
 小さく声が漏れてしまう。かくん、と力が抜け、それまで無視して強引に突き進んでいた身体を流れが翻弄し始めるのが分かった。

──意外に早かったな。

 自嘲気味に考える。nのフィールドでの時間制限よりも早く来てしまうとは思ってもみなかった。
 彼女達のもう一つの限界──媒介なしで行動しているときの、力の限度を超えてしまったのだ。雪華綺晶との戦いで常に全力を振り絞っていたのが原因なのは考えるまでもなかった。
 少年の操る刈払機のチップソーが不恰好な四角い切れ目を花弁に開けつつあることを確認して、蒼星石は後ろを振り向いた。流れに上手く乗ったのか、雪華綺晶は思ったよりもごく近くに迫っていた。
 ゆっくりと鋏を構え直しながら、蒼星石は雪華綺晶の顔を睨めつける。純白に包まれた蒼白の少女の顔は柔らかく微笑んでいた。そして、その目はもう彼女など見てはいなかった。
 白茨でなく雪華綺晶自身の手で、蒼星石は脇に突き飛ばされた。苦し紛れに鋏を動かしてみたものの、力が篭らない得物は流れに押されて狙いを外れ、白い髪を僅かに切り落としただけに終わった。

──ここまで来ているのに、何もできないのか。

 川面を流されていくセルロイドの人形のように激流の中を漂いながら、蒼星石は無力さを噛み締める。花弁は徐々に遠ざかっていく。
 レンピカがぴったりと彼女に寄り添ったが、忠実な人工精霊にもそれ以上のことはできなかった。
 今は次にレンピカに何を命じるか、それを考えるのが最良の選択肢なのだろうと彼女の冷静な部分が思う。他にできることはないし、手遅れにならないうちに命じなければ、今度は時間制限がやってくる。
 そうなれば彼女の魂と身体はローザミスティカと離れ、身体は雪華綺晶の手に落ちてしまうだろう。自分がどうなるかは兎も角、雪華綺晶に身体を渡すことだけは避けなければならない。
 一瞬だけ唇を噛み締める。理屈では分かっていても、もはやその程度しか為せる事がないという認識は雪華綺晶に力負けしたことよりも遥かに悔しいものだった。
 彼女は息をつき、力を抜いて目を閉じ、体力の消耗をできるだけ抑える体勢を取ってから、レンピカに与える指示を考え始める。時間のあるうちに、有能だが少しばかり頑固で融通の利かない人工精霊に、遺漏なく実行できるように指示を与えなくてはならなかった。


14

 雪華綺晶は微笑んでいた。彼が朽ち果てていく花から出て来ようとしているのは分かっていた。
 彼を先ず花に閉じ籠めることにしたのは雪華綺晶自身だったが、こうなってしまえば出て来て貰って一向に構わなかった。出て来たところを改めて捕獲すれば良いだけの話だ。むしろその時のために彼女は巨大な薔薇の花に向かっていた。
 邪魔をしていた蒼星石は、彼女に深い一撃を加えはしたもののその代償は大きかった。力を使い過ぎ、限界を超えてしまったのだ。
 電池切れの浅墓な姉を手で押し退け、彼女は大薔薇に取り付く。
 長いウェーブした髪の端が庭師の鋏に切られる感覚があったが、それは無視した。もう、彼女にとって蒼星石は脅威ではない。何ならもう暫くもがき回らせておいて、後から魂とローザミスティカの離れたボディを回収してもいい。それは彼女にとって二つ目の「家」になるだろう。
 痛む胸を薔薇の花弁にぴたりと付けたのは、彼女がそれだけ消耗していることの証だった。無力となった蒼星石に止めを刺さなかったのも同じ理由だ。刺さないのではなく、刺せなかったのだ。

 それもこれも、と雪華綺晶は微笑をいっそう無邪気なものに変える。彼かあの白い人形──多分、彼の方だろうが──の恐ろしいまでの抵抗力のせいだった。
 白薔薇は本来、彼等を呑み込んだところで即座に中身を雪華綺晶の世界に転送し、雪華綺晶はそれと共に退却するか、全力で蒼星石を倒してしまえるはずだった。単独で遣り合えば時間にも力にも制限つきの蒼星石に雪華綺晶の相手が務まるはずもない。
 しかし、彼はそれに苦もなく抵抗してしまった。雪華綺晶は致し方なく、白薔薇そのものに彼女の世界への扉を開け、彼等を吸引しようと試みた。
 それは非常に大きなリソースを必要とした上、継続して力を振り向けてやる必要があった。彼はそれすらも耐え切ってしまった。まるでそういった転送を無効化できる何かが備わっているようでさえあった。
 そして、彼は如何なる魔法を使ったものか、雪華綺晶の力の分配を失って腐り落ちていく薔薇の花弁から、けたたましい音を立てつつ飛び出ようとしてさえいる。
 痛い、力が出せないと言っている場合ではなかった。飛び出してきた厄介な彼を不意打ちで捕獲し、今度は外部からの干渉には弱いが確実な白茨で捕縛して自分のフィールドに連れ帰る好機だった。
 出て来なければ少年はnのフィールドの何処か深部に落ちるだろう。彼女にとってそれもまた悪くない展開だった。nのフィールドの中なら何処であっても彼女は回収に赴ける。ただし、他の姉妹に先に回収されてしまう可能性もないとは言えなかった。
 こちらに出てきたならばここで捕獲してしまいたい。敢えて大仰に言えばその気持ちが彼女を苦しみながらも大薔薇の花へと向かわせたのだった。

 少年には蒼星石の直面している事態に気付いたり、雪華綺晶が自分の間近に迫ってきていることまで思慮を巡らせる余裕はなかった。
 ゆっくりとではあるが、薔薇の花弁は確実に崩壊している。頼みの綱の刈払機は、狭い中、しかも片手で扱っているせいで思うように動かせず、作業は思うように進まない。
 それでも、流石に専用の機械に専用の刃を付けているだけのことはあった。どうにか、足元まで崩壊が迫る前に花弁に大きく四角く切れ目を入れることには成功した。
「ざまぁ見やがれ! 文明の利器の力ぁ思い知ったか化け物花め。我々の科学力の勝利だ、ってやつだぜ」
 少年は笑い声を上げたが、問題はそこからだった。
 どん、と刈払機の先で切り取った部分を突いてみたものの、切り離せているはずのそこが花弁本体から離れないのだ。二度、三度と繰り返してみたが、ぐらぐらと動くことは動くのに、彼から見て下側の辺にあたる部分が引っかかっているように外れない。
 機械を止めている時間はない。少年は危険を承知で長身を窮屈そうに屈め、視点をどうにかその辺りにもっていく。切断面は暗い線のように見えるのだが、その中央辺りに花弁の色と同色の部分が残っていた。
「ちっくしょう、切り残しかよっ」
 焦っていてそこだけ残してしまったのかもしれない。いや、それしか考えられなかった。
「くっそぉぉぉぉぉぉ」
 崩壊は足元に迫っていた。少年は大声を上げることで恐慌に駆られそうになる自分をどうにか抑え、チップソーを切断面に差し入れる。

 思ったよりも消耗は激しかった。大薔薇のコントロールを切り捨てる踏ん切りを間違えたかもしれない、と薔薇の花に抱きつくように体を押し当てながら雪華綺晶は思う。もっと早期でも良かった。
 ただ、あの時点では蒼星石がどの程度まで戦えるか不明だったし、彼が何やら妙な形のものを持ち出して花を内側から切り刻み始めるのも予想できなかった。仕方のないことなのだ。
 仕方なくはあるが、残念でもある。自分の意識の上で仮に形成しているものとはいえ、ボディにダメージを負ってしまったのも、それがかなり重大なものだったことも残念だった。暫くは回復に専念しなければならないかもしれない。
 しかし、と荒い息をつき、考える。彼が出て来そうなのはとても良いことだ。
 変なものを扱えるらしいことは知っているが、それでも彼は契約者に過ぎない。実体のある薔薇乙女達ほどの能力も持ってはいない。出て来たら確実に捕獲はできる、と彼女は確信していた。
 彼女は歪な四角形に筋の入ったところで花弁に取り付いていた。その裏側に彼が居る。何か異様な音を立て、謎の魔法で筋を作ったらしいけれども。
 内側からどんどんと叩く音がしても、彼女の確信は揺らいでいなかった。
 ただ、それには自分に少しだけ時間が必要だということも分かって来ていた。薔薇を維持していたことによる消耗は思ったよりもずっと激しかったらしい。いや、蒼星石に受けたダメージのせいかもしれない。
 彼女は花弁に、現実世界の良く似た行動で言い表すならば「体重を掛けて」歪な四角形を抑え込んだ。
 花弁が崩壊するまでに少し回復したかった。回復しきれなかったら、このまま花弁が消滅するまで抑え込み続けてもいい。また脱出されてしまうかもしれないことを考えれば、nのフィールドの何処かに漂う彼を回収することなど大した手間ではない。自分は彼が何処に居ても追跡できるのだから。
 ちらりと確保している糧のことを考える。大分、彼女が糧として本来求めているものとは違う部分の力を使ってしまった。数少ない糧だから大事にしなければいけないのに。
 彼を捕獲したら、糧として使ってしまおうか、とまで考える。
「貴方のおうち。元気でなければいけないおうち。でも……」
 少しくらいはいいでしょう? だって、おうちになってしまえばすぐに回復できるのですもの。私のために少しくらい使っても許してくださいますよね──
 彼女が妄想に心からの微笑をしてみせたとき、左足に激痛が走った。

 どういうわけか花弁はそこだけ硬かった。少年は舌打ちをしながら、硬かったせいで切り残したのかもしれない、と瞬間的に考える。
 少年はスロットルを最大に開いた。爆音は異様に高まり、刃の辺りのスキール音も酷くなる。そこに別の音も混じっているのが分かったが、彼にはそれが何かということまで気を回すほどの余裕も残されていなかった。
 抵抗が酷く強いせいで暴れそうになる機械を必死で抑え付ける。ますます酷くなる音と、何かを焦がすような厭な匂いは無視して少年は刈払機を右から左にじりじりと動かした。
 手応えがなくなった、と感じたところで機械をそのまま勢い良く突き出す。ギアケースが壊れるかもしれないやり方だったが、彼はそんなことは一向に頓着しなかった。
 花弁の壁に不恰好な四角の窓が開いた。少年は躊躇なく、全身のバネを使ってそこから飛び出した。
 回転している機械を持ったままなのも、突き飛ばした花弁がどうなったかも気にならなかった。彼にとっては殆ど無風状態の空間に戻ると少年は声を限りに叫んだ。
「蒼星石ッ、大丈夫かあっ」
 辺りを見回すまでもなく、蒼い光が視界の隅にあった。少し遠いが、すぐに辿り着ける位置だ。
 彼は刈払機のキルスイッチを押し、一瞬のうちに静寂を取り戻した世界の中を、その光に向けて飛び出した。後ろを振り返る余裕はなかった。

 雪華綺晶は再び絶叫を上げた。そこから飛び退こうとしたが、どういうわけかどんなに力を振り絞っても体が言うことを利かなくなっていた。
 痛みと恐怖に叫びを上げ続けながら、彼女は悟った。回復する、しないといった次元の問題ではない。自分の力が何かに吸われているのだ。
 意識が徐々に薄くなっていく。それは今、仮のボディを切り刻まれているからというよりも、力そのものを吸われているのが原因だった。

──まさか。どうして。

 思い当たる原因は二つほどある。しかし、どちらであっても有り得ないことだとしか思えない。いや、思いたくなかった。
 彼女が薄れていく意識の中で考えている間にも、刈払機のチップソーは無慈悲に彼女の左の脛を左下から右上へとじりじりと切断して行き、最後に膝の下で切り飛ばした。
 意識がなくなる寸前、彼女は敗北感の中でローザミスティカと魂を自分の世界へと転移させることだけは成功した。それ以上の行動は時間的な余裕は兎も角、残された僅かな力の中では不可能だった。
 止めとばかり、歪な四角形がどんと一際勢い良く内側から突き飛ばされる。雪華綺晶の体はマネキンのように弾き飛ばされ、ゆっくりと漂いながらこの空間から消え失せていった。
 意識が途絶え、本体が自分の世界に帰還したために仮のボディが維持できなくなっただけの話ではあるが、彼女にとって無惨な撤退であることは間違いがなかった。


15

 黄色い光に先導された一人の少女と、銀色の光に先導された四人の少女が濁流の中で鉢合わせた。
 それはどちらにとっても予期しない邂逅であり、少なくとも金糸雀にとってはできるだけ避けたかった事柄だった。
「あら、金糸雀じゃない」
「す、水銀燈……奇遇かしら」
 軽く声を掛けられて金糸雀は若干ばつの悪そうな顔をした。

──ばれちゃったかしら……。

 金糸雀はピチカートからの報せを受けて、メイメイと蒼星石が雪華綺晶と戦っていた場所に急いでいたところだった。
 ピチカートはメイメイが白い人形を見付けて水銀燈の媒介の少年を連れに帰った時点では金糸雀の許に戻らずにその場で潜伏を続けていた。メイメイが人形をどうするのか、その行方を見届けるつもりだった。しかし蒼星石と少年を連れたメイメイがその場に戻り、雪華綺晶と戦端を開いてしまうと、流石に帰還して報告の要ありと判断せざるを得なかった。
 ピチカートの行動には問題はなかった。ただ、そちらを追い駆けていたことはできれば知られたくなかった。
 人工精霊に小さな人形まで放って追わせたのがあの黒い人形でなくメイメイだったことは、取りも直さず金糸雀が水銀燈を信用していないということを意味する。それは水銀燈本人にはあまり明かしたくない事柄だった。

 水銀燈の言葉を無条件に信用してはいない、という点では蒼星石も金糸雀と同じだろう。しかし、彼女にはこれといってアリスゲームに関する展望はないようだった。
 恐らく彼女はゲームに勝つことよりも今の契約者に負担を掛けないことを優先するだろう。この時代に限ったことではなく、今までもそうだったし、ゲームが次の時代に持ち越されたとしても変わるまい、と金糸雀は見ている。それが蒼星石の持って生まれた性格なのだ。
 金糸雀は少し違っている。もちろん過度な負担を掛け、契約者を指輪に取り込んでしまうほどの暴走をするつもりはない。だが、ゲームのために必要ならみつの力を借りても構わない、それは迷惑を掛けることとは少し違うのだと思っている。
 薔薇の契約は、一方的なものではないはずなのだ。どちらも恩恵を受け、お互いに助け合う。
 みつにとっては金糸雀の存在そのものが──彼女がドールマニアであることを除いても──救いになっていることは事実だし、金糸雀も出来る範囲で彼女の趣味や風呂敷残業の手伝いはしている。ただの可愛い居候ではないという自負はあった。
 もし、ゲームを遂行する上でみつの力を借りなければならないときが来れば、金糸雀は躊躇なくそうするだろう。むしろそれが薔薇乙女だという認識がある。
 金糸雀が折々に水銀燈のしてきた長話を全て信用しているわけではないのも、半分はそこに理由があった。
 水銀燈はゲームに利用できるものなら何でも──ただし彼女の美的感覚に照らして使うことに躊躇いを抱かないものに限られるのだろうが──利用するだろう。それは彼女の立場とアリスゲームに対する姿勢からはむしろ当然だ、と金糸雀は考えているし、否定するつもりはない。
 ただ、そうした彼女が長年貫いてきた襲撃者というスタイルでなく扇動者のような振る舞いをしているときに、その言葉の裏を読まずに受け容れるのは危険だった。たとえ全く嘘をついていなくても、都合の悪いことについて語らないで済ませることはできる。
 そういう駆け引きを汚いやり方だとか卑怯だとして忌み嫌っていないからこそ、金糸雀は現在も水銀燈に対して過度に近くなり過ぎず、付かず離れずという表現に近い距離を保っている。ある意味で彼女は、姉妹の中で水銀燈を最も良く理解しているとも言えた。
 だが、そう考えて行動することと、それを水銀燈本人にあからさまに示すのは、少しばかり話が別だった。

「確かに奇遇ね。ところで、蒼星石か私の媒介を見てない?」
 水銀燈はあっさりした言葉で、金糸雀がピチカートに追わせていたのがメイメイだと気付いていないということを表明した。ただ、余りに要領よく言われたお陰で、それは額面どおりに取った振りをしろという合図のようにも思えてしまう。
「見てないかしら」
 金糸雀は事実だけを答えた。水銀燈は、そう、と薄く笑った。折悪しく横殴りの流れがやってきて髪をどっと横に払ったお陰で、彼女の笑いに含むところがあるのかどうかは金糸雀には判然としなかった。
「メイメイが何か気になる物を見付けて、あのコンビに回収を依頼したらしいのよ。全く人選が悪過ぎるったら」
 水銀燈は髪を整えながらにやりとする。先を飛んでいたメイメイは抗議するようにチカチカと瞬き、ぐるりと彼等の周りを回って元の位置に戻った。
「水銀燈っ、道草食ってんなです」
 メイメイをぴったりと追尾していた翠星石が、緊張感がないように見えたのか、姉二人を振り向いて非難の声を上げた。
「アンタと違って蒼星石はマスター無しでは長いことここに居られないのです。早く見付けないと大変なことに……」
 自分の言葉が終わらないうちに、翠星石はくるりと反転して、今度はメイメイを急かす。
「さあ、早いとこ蒼星石の居場所に連れて行くです!」
 まるで自分の人工精霊に命令するような態度にメイメイは驚いたような動きをしたが、水銀燈が一つ頷くと承知とばかり加速して先導を再開した。
「妹想いなのは構わないけど、それより雪華綺晶と出会って無事で済んでいるかどうかが問題でしょうに」
 姉妹三人がメイメイに続くのを見て、水銀燈はやや大仰に肩を竦めてみせる。もう一度金糸雀に向き直ると、そういうわけだから、と手を上げて立ち去ろうとした。
 金糸雀はふるふると首を横に振った。
「待って。カナもご一緒させて貰うかしら」
「貴女は貴女の探し物を続けなさい。こっちは人数が余ってるのよ。もっとも──」
 水銀燈はすっと金糸雀に近付いた。
「──貴女があの人形を追ってるなら、だけどね」
 金糸雀は一瞬返事に詰まったが、すぐに水銀燈の手に手を重ね、自分からずいと顔を近づける。水銀燈が僅かに顔を引くほどの勢いだった。
「姉妹の大ピンチかもしれないときなのにカナだけ自分の探し物をするなんて薄情なことはできないかしら。みんながついて来るなって言っても一緒に行かせて貰うわ。それに、雪華綺晶と戦っているのなら手が多いほうが有利でしょう?」
 水銀燈は苦笑した。
「まあ、好きになさい」
 ひらひらと手を振ってみせ、振り向いて先に行ってしまった他の姉妹の後を追いながら、わざと金糸雀に聞こえるように独り言を残していった。
「なるほど、戦いになってたとはね……急ぐ必要が出てきたわね」
 メイメイに追いつこうとしているのか、急激に加速して小さくなっていく姉の後姿を見ながら、金糸雀はもう一度、今度は声に出して呟く。
「……ばれちゃってたかしら」
 ピチカートは同意の点滅をする。金糸雀は非常にばつの悪そうな顔になりながら、それでも懸命に前を追い始めた。


「蒼星石、どこだぁっ」
 少年が呼ぶ声は、蒼星石にも聞こえていた。ただ、彼女は大声を立てたり大きな身振りをして力を無駄に消耗したくなかった。
 よくある指針式の燃料計で言えば疾うに針はEのマークを過ぎている状態といったところだった。少しでも長く力を保たせるためには意識を保つぎりぎりのところまで消耗を抑える必要がある。
 とはいえ、急ぐ必要はあった。刻限が来てしまえばどれほど消耗を抑えようと意味がなくなってしまう。
 レンピカは素早く彼女の意を汲み、改めて命令を与えられるまでもなく代わりに行動に移った。
 焦ってきょろきょろと辺りを見回している少年に近付く。明るい青い光は少年の鈍い感覚でも流石に発見しやすかったのか、それとも視界の中に偶々入っていたのか、彼は先程白い人形を見付けた時とは違ってすぐにレンピカを確認した。
「蒼星石は?」
 レンピカは時間を無駄にしなかった。少年に必要以上に近寄ろうとはせず、綺麗なUターンを行うと一直線に蒼星石の方に向かう。少年はまたダッシュでそれに続いた。
 流されてはいたものの、元々の相対速度がそれほど速かったわけではない。少年の感覚でも、蒼星石を確認するまでにはそれほどの時間は掛らなかった。
「──いた」
 蒼星石は胎児のように丸くなり、帽子を抱え込んで膝を抱いている。眠っているようだったが、ごく間近まで近付くと、薄目を開けて微笑んだように見えた。
 少年は片手で持っていた刈払機を放し、蒼星石に手を伸ばす。くるりと回って流されそうになるのを慌てて押さえ、膝を抱えたままの彼女を片手で強く胸に抱き寄せた。
「キラキィに勝ったんだなぁ、蒼星石」
 顎の辺りに素直な髪の感触を感じながら、答えを待ってみる。蒼星石は表情を動かさず、目を開けることもなかったが、ほんの僅かに頷くような気配が伝わってきた、と少年には思えた。
「ありがとな。蒼星石がいてくれなきゃ、俺完全にアウトだった。あいつが勝ってたら、化け物花から出たとこでやられてたもんな」
 言いながらもぞもぞと彼女を抱え直す。片手なので上手く行かなかったが、それでもどうやら指先で彼女の髪に触れることができた。
 改めて見直すと、彼女の髪は乱れ、服には無数のほつれができている。雪華綺晶の白茨と何度も格闘した証のようなものだった。
 激戦だったんだろうな、と思うと自分の一言が悔やまれる。もう少し相手を大人しくさせておくような言い方ができれば、蒼星石をこんなに酷い姿にすることも、これほどに疲れさせることもなかったかもしれない。
 栗色の、思ったより長めの髪を指先だけで撫でながら、ありがとう、ごめんな、ともう一度少年は囁き、頭を巡らしてレンピカに尋ねる。
「時間があんまりないんだっけか……」
 レンピカは肯定するように瞬いた。
「帰るのを先導してもらっていいかい? 俺、来た道もよく分かんないから」
 レンピカが肯定の印にまた二度ほど瞬いたとき、斜め前の辺りで別の光が点滅するのが見えた。少年はぎくりとする。あまり嬉しくない想像が頭をもたげたからだ。
「キラキィが戻って来た……とか? はは、まさかなぁ」
 レンピカは忙しく瞬いてみせる。しかし、生憎少年にはそれが肯定なのか否定なのかの判別がつかなかった。
 一旦白い人形から手を放し、自分の唯一の得物を手探りする。それは流されもせずに放した場所にあった。肩掛けベルトを引っ掛け、白い人形を苦労して抱え直す。どうにも無理矢理に思える体勢だったが、もし相手が雪華綺晶だったら、何もできずに居るよりはこの方がましだと思えた。
 レンピカはそんな必要はないと強く瞬いたが、相変わらず少年には通じなかった。どうすれば話ができるようになるんだろうな、と彼が考えている間に、一つに見えていた光は二つになり、程なく何人もの姿が見え始めた。
「なんか大勢お出迎えが来ちゃったぜ」
 時間がないってのにな、と少年は苦笑いしてレンピカに視線を戻した。
 堅物で真面目な人工精霊は途惑ったように明滅すると、取り敢えず彼等と合流する方向に彼を先導するように動き始める。彼等が主人の姉妹であることは分かっていたし、そちらがこの場所から抜け出す扉の方角でもあったからだ。
 弁慶宜しく両手にドールを抱いた上に肩にまで長物を引っ掛けた少年は、腕の中の蒼星石を気にしながらそれに続く。レンピカの飛び方は気侭なメイメイとは違い、無駄はないものの彼のことを置いてスパートを掛けるようなこともなく、一定のペースを保ってくれていた。


16

 彼等と他の姉妹達が合流するまでには、殆ど時間は掛からなかった。
 まず、メイメイを追い越して先頭を切っていた翠星石が挨拶も言わずに蒼星石を少年から奪い取った。彼女が動こうとしないのを見て取ると人工精霊二体を連れて脱兎の勢いでもと来た路を戻って行く。
 水銀燈はメイメイと少年を連れて翠星石の後を追いながら、彼等にお小言を垂れ始める。少年はなんとなく刈払機を持ったまま移動していたが、口答えもせず素直にごめんと頭を下げた。
 雛苺は自分より背の大きな白い人形を少年から受け取り、水銀燈の脇に並びながら、何故かとても上機嫌に笑いながら人形を抱き締める。無表情なフィギュアに見える人形の顔も、何処となく微笑を浮かべたようにも見えた。
 金糸雀は少し下がったところで皆の後を追いながら、思ったより穏やかな展開にほっと息をつく。ピチカートも安心したように瞬いた。

 それらの騒ぎを横目で一通り眺めた後、真紅は振り向いて虚空の奥に視線を向けた。

──また、姿を見ることができなかった。

 真紅はまだ雪華綺晶を直接見てもいない。
 彼女にとって雪華綺晶は、アリスゲームに関する水銀燈の説は兎も角としても、一度はまともに相対して話をしてみたい相手だった。
 まともな会話が成立しないほど狂ってしまっているのかもしれない。好戦的らしいから、会えば会話をする暇もなく攻撃されるかもしれない。
 それでも自分の末の妹であり、アリスゲームの参加者でもある。一度は、少なくとも会話する努力をしてみたかった。
 暫く何処ともない虚空を見詰めた後、真紅は何かを振り払うように一つ首を振った。
「見ているのだったら覚えておいて。この真紅はまたここに来るわ」
 一旦言葉を切り、言葉を探すような間を置いてから視線を上げる。
「そのときは落ち着いて話をしましょう、雪華綺晶」
 返事の代わりに、流れが彼女に吹き付けた。真紅はボンネット調のヘッドドレスを手で押さえてそれをやり過ごした後、髪をざっと撫で付け、再びもと来た方角へと振り向いて姉妹達を追った。


 雪華綺晶にとっては無惨な敗北だったが、結果的には早期に撤退できたことがむしろ幸いだったと言えるかもしれない。
 愚図愚図と時間を引き延ばしていれば、媒介なしの蒼星石やまともにノウハウを持たず戦意もあるのかないのか疑わしい少年などとは比較にならない、士気の高い手強い相手と戦う破目になっていただろう。
 彼女がそれを知るのは自分のテリトリーとして借用している世界に帰還してからのことだった。ただし、その事実は彼女にとって幾許かの慰めにしかならなかった。
 自分の能力についての疑問と、千載一遇の好機だと思っていた機会が実は二度とも恐るべき罠ではなかったかという疑念を抱いてしまったからだ。
 それは彼女が、それこそ永い時間を掛けて機会を待っていたことそのものを否定されたようなものだった。
 更に、疑問と疑念はやがて大きな、考えたくないからこそ考えてしまう疑惑に変わっていく気配さえ見せていた。

 皮肉なことに、彼女がそれを相談する相手として適当な人物は、執拗なまでに間接的に彼女を弱らせてきた黒衣の長姉と、彼女とは殆ど会話をしたことのない白兎の顔をした紳士しかいない。
 そして抱いている疑念が正しければ、水銀燈だけでなくラプラスの魔も、彼女にとって中立よりは遥かに向こう側に跨ぎ越してしまっている人物のはずだった。この話を共に語ることなど到底できるはずもなかった。
 いずれにしても、今は休息するしかなかった。他の姉妹のような鞄を持たず、健全な糧も持っていない今の彼女は、時間を掛けて回復するしか選択肢がない。
 眠ろう、と思った。
 鞄の中で夢を紡ぐような上等なものではなくても、人間が毎日そうするように、殆どの外部入出力を遮断して回復に専念しよう。上手く眠れるかどうかは別として、回復時間を短縮するためにはそれが必要だった。
 水晶の棺に入った糧達の中で彼女はいっときの眠りに就いた。案外すんなりと眠れたのだが、彼女にとってその辺りはよく分からないことだった。
 眠りながら、彼女は夢を見る。
 逢いたいと思っている相手は夢の中でますます美化され、現実の彼──既に存在しない者を指すのにその言葉が適切かどうかは置いておいて──とは懸け離れていったが、そのことを彼女に指摘する者はいない。
 ここにいるのは、彼女が幸せな夢の世界に「遊ばせて」いる者と、そのまま既に生命を失ってしまった者だけだ。彼等は、雪華綺晶の存在さえ知らずに都合の良いお仕着せの夢の中に遊んでいる。

 彼女の傍らの水晶は、白い服を着た金髪の少女を映し出している。少女は何かに取り憑かれたようにふらりふらりと昼の住宅街を歩いていた。
 その少女に誰かが気遣わしげな声を掛けた。竹刀袋を肩に掛けた、泣きぼくろが特徴の少女だった。
 後のことを考えれば、雪華綺晶はその状況を確認しているべきだったかもしれない。しかし、既に彼女はしばしの眠りに就いた後だった。
 誰かがその様を見ることがあれば、ケースに入れられた沢山の人形に囲まれた眠り姫のように見えたに違いない。
 彼女は自分が夢の世界に遊ばせている者達と同じように、ひどく幸せそうに微笑みながら眠っている。しかしその眠りは、もう夢から覚める必要のない彼等とは反対の、これから独りで立ち向かわなければならない現実のための休息だった。



[19752] 第七章 ナナ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2012/08/02 04:00
1

 外は静かな雨が降っていた。すこしばかり通勤通学が億劫になりそうな月曜日の朝だった。
 水の音で目を覚ました少年は緩慢な動作でカーテンを閉めていない窓を見遣り、窓閉めといて貰って良かったなぁと呟く。御多聞に漏れず雨の中の登校を考え、少し厭そうな顔をしてから狭い部屋の中を見渡した。
 見慣れた大きな鞄が三つになっていた。
「……あれ?」
 誰の分だったっけ、と一瞬考えてから、ぽんと手を叩く。
 昨日の晩、水銀燈に話があると言って彼の家にやってきた蒼星石は、長い話になるからと鞄を持参していた。もう一つは、なんだかんだがあってnのフィールドから帰還した後、蒼星石の双子の姉が開けっ放しになっていた窓から押しかけて来たときに乗って来た物だった。
 そして、最初から置いてある鞄の中身は──
「今朝は珍しく早いじゃない」
 ユニットバスの扉から水銀燈がひょいと顔を出してこちらを見た。ヘッドドレスは取っている。ストレートの銀髪がさらりと揺れた。
 綺麗だなぁ、と少年が惚けたようにそれを見ていると、枕許で目覚まし時計の電子音が鳴り始める。少年は慌ててスイッチを押してそれを止めた。
「結局同じになっちまった……せっかく誉められたのに」
 少年は頭を掻く。水銀燈は、お馬鹿さん、と笑いながら決り文句を言って顔を引っ込めた。
「あ、水銀燈」
「なに?」
「窓ありがと。助かった」
 少年は片手で拝むようにしてみせたが、水銀燈はもう顔も出さなかった。お礼は構わないわよ、と言うのも面倒臭いというように、片手だけを扉のこちら側に出してひらひらと振ってみせる。
 少年は眠い目をこすりながら布団を押入れに仕舞った。無造作にハンガーに掛けてある制服を取り、欠伸をしながらそれに着替える。
 水銀燈がユニットバスを使っている間は歯磨きやら朝食の支度は後回し、というのは二人の間の不文律のようなものだった。以前、気付かずに食事の支度をしようと台所に行っただけで酷い目に遭わされたこともあって、少年もそれだけは確実に守っている。
 ひとつ大きく伸びをして、テレビの側に置いてある二つの鞄がまだ開いていないのを一瞥してから、元々の位置にある鞄に手を伸ばす。鍵が掛かっていないのは知っていた。
 音を立てないように注意しながら、そっと開けてみる。蝶番がかすかに鳴って、中身が視界に入った。
 白い人形は昨晩横たえたままの姿でそこにあった。
 ほっと息をついて鞄を閉じかけたところで、少年はこちらを見上げている視線に気付いた。鞄の一つが開いて中からオッドアイの少女がじっと少年を見詰めている。
「よ、おはよ」
 少年は自然な動作でかちりと鞄を閉じ、片手を上げて挨拶してみせた。
「おはようですぅ」
 翠星石は何故かあまり機嫌の良くない声で少年に応えると、気を取り直したように鞄を威勢良く開けて飛び出すようにそこから出、自分の傍らのもう一つの鞄を気遣わしげに見遣った。
「まだ起きて来てないみたいだけど」
 言わずもがなのことを少年が言うと、翠星石は分かっていると言いたいような若干非難の混じった視線でそれに応え、膝をついて自分の双子の妹が眠っている鞄の前に屈み込んだ。少年もなんとなくそれに並んだが、翠星石はちらりとこちらを見ただけで何も言わず、開けようと手を伸ばすこともなくただじっと視線を鞄に向けていた。
「疲れてんだろうな、よっぽど」
「当たり前です。時間も力も使い果たす寸前だったんですよ」
 翠星石は視線を動かそうともせず、ぴしゃりと言った。
「あんなにぼろぼろになった蒼星石を見たのは、翠星石だって初めてです。ほんとに、ぎりぎりのところだったんですから」
 それは二つの要素を意図的に混ぜた、やや誇張した言い方ではあった。
 実際には、帰り着いてみると時間の方には未だ若干の余裕があった。もっとも主観時間が現実時間と食い違うことの多いnのフィールドの中で、しかも「だいたい三十分」という大雑把な制限なのだから、実際のところ余裕がどの程度だったかまではよく分からない。
 力を使い過ぎた蒼星石の薇が切れる寸前だったことの方は間違いのない事実だった。少年が僅かに遅れて現実世界の彼の部屋に帰還して見たものは、涙を浮かべながら必死に蒼星石の薇を巻いている翠星石の姿だった。
 幸い、意識して極力活動を抑え込んでいた蒼星石は薇を巻かれるとすぐに覚醒し、翠星石は安堵で今度こそ本当に泣き出しながら、苦笑を浮かべる双子の妹を力一杯に抱き締めることができたのだが。
「ごめんな」
 何度目かになる謝罪の言葉を少年は口にした。
「全くです。御し難い大馬鹿ヤローですよ。もっと薔薇乙女のことを理解して、ちっとは大切にしやがれです」
 そう言う間も蒼星石と丁度反対の色のオッドアイで、鞄の中を透かして見ようとするように視線を固定していたが、暫くして彼を見上げた。
「──もう少ししっかりしないと、安心して見てられないですよ」
 ぼそりと言い、少年に考える間を与えまいとするかのようにくるりと背を向けて大仰に溜息をついてみせる。
「はーやれやれ、この家は客人に朝飯も出さねーんですか。仕方がないから翠星石が有り物でなんか作ってやるですよ」
 少年はぽんと手を叩いた。
「おおっ、そりゃー有り難いや」
「普通は別の反応をするもんでしょうが! 全く、水銀燈は媒介の躾がなってねえです」
 翠星石は無闇に怒りながら、さあどの道具が何処にあるか教えるです、と少年を狭い台所へと急かす。丁度ユニットバスの扉を開けて出てきた水銀燈は二人を見て肩を竦めたが、何も言わずに部屋に向かい、電話の受話器を持ち上げた。

「──そうかね、分かった。いや、ゆっくりさせてやってくれないか」
 老人は穏やかな顔で電話越しの声に答え、窓外を見遣った。明け方からの細い雨が降っていた。
「今日の天気では庭仕事もできないだろう。あの子にも休養は必要だ、たまには姉妹揃ってのんびり──ああ、すまない」
 つい口に出してしまった言葉を老人は苦笑して謝罪する。彼は蒼星石と翠星石の二人だけを常に姉妹として意識していた。電話の向こうの少女も含めて七人姉妹だということがどうしても今ひとつ実感できないのは、他の五人とは殆ど面識がないに近いことが原因かもしれない。
「あの……ヒッキーくんだったか、ああ、ジュン君。その子の家でのんびりするのもいい。晩までに帰って来ればいい、たまには双子の姉さんと遊んで来なさいと言っていたと伝えてくれないか」
 肯定の返事を聞いてから、ありがとうと言って老人は電話を置いた。
 部屋を見回し、車椅子を動かして書き物机に近寄ると、昨晩から机の上に広げたままになっている書類に手を伸ばす。少々乱雑に置かれたそれらを整理している間に彼の表情は次第に何かを考え込んでいるようなものに変わっていったが、その間も手は止めなかった。
 書類が全て古びた幾つかの封筒の中に収まってしまうのには、大して時間は掛からなかった。老人はそれを膝の上に置くと、かすかな軋み音を立てながら廊下に出て行った。
 部屋の中の姿見は、窓外の雨を映している。いつもよりも少しばかり静かな朝だった。

 有り合わせの物では凝った料理はできないと翠星石は盛んに嘆いてみせたが、どの道食事を少年の登校時間に合わせるにはあまり長い時間を掛けて凝った食事を作っているわけにもいかなかった。結局少年が手伝いをすることになり、果ては水銀燈までも動員してみたものの、出来上がったものはあまり代わり映えのしない朝食になってしまった。
 ただ、ここのところ毎日のりの手伝いをしていた甲斐はあったらしく、翠星石の作った朝食はそれなりに美味だった。少年は終始美味い美味いを繰り返して食べ終えた。
「ご馳走さん」
 少年は両手を顔の前で合わせ、深々と頭を下げる。最後にもう一度、美味かったぁ、と付け加えた。
「毎日こんな美味いメシだったら最高だなー」
「褒めたって何も出て来やしないですよ」
 翠星石は少しばかり大袈裟に鼻を鳴らした。
「ついでに言うと
『た、たまには作りに来てあげるわよ。アンタのこと好きとかそういうんじゃないから。哀れで見てらんないから作ってやるだけなんだから、か、勘違いしないでよね!』
 とかいうツンデレにフラグ立っちゃいました的展開もないですよ」
「なによそれ」
 ゆっくりと食べ終わって口の周りを拭いていた水銀燈が苦笑する。
「先週、くんくんの次にやってる学園ドラマでヒロインが言ってたんですよ」
「ドラマの台詞ぅ? ああ、あれね」
「あー、あれか……そういや先週は見逃したんだっけ。録っとけば良かったなぁ」
 水銀燈の苦笑は失笑に変わり、少年は少し悔しそうに頷いた。
 番組名も碌に覚えていないドラマを引き合いに出した翠星石は、実に得意そうに胸を張った。
「そうです。あれはお夕飯でしたけどね」
「夕食ね。朝食と弁当も必要そうね、あの彼氏の貧窮振りだと」
「朝メシは買い置きのパンの耳食ってるからいいんじゃね?」
「貴方毎朝パンの耳で我慢できるわけぇ? なんなら、明日から貴方だけやってみなさい、止めないから」
「一週間くらいならやれそうな気がするけどなぁ」
「流石は悪食です。翠星石は絶対に耐えられないですよ」

 暫くそのドラマの話題で盛り上がってから、翠星石は話を元に戻した。
「翠星石は誇り高き薔薇乙女ですから、マスターでもない人間に多少褒められたくらいではびくともしないのです。ましてやさっきのアホ人間の発言は、精々実力を正当に評価しただけってところです。お上手言っただけで見返りを得ようとか思ってるなら救いようのない甘ちゃんってやつです」
 水銀燈は壁の時計を眺め、両の掌を上に向けるとやれやれと首を振った。
「お説ごもっともと言いたい所だけど、前置きが長過ぎたようね。お陰でもう時間ぎりぎりになってるわ」
 何の時間ですか、と翠星石が聞くまでもなかった。少年はがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、慌てた様子で通学鞄を手に取った。
「やべ、急がないと遅刻だ」
 空いた食器を手早く集め、流し台に持って行く。水道の蛇口を捻ろうとしてふと気付いたように腕時計を眺め、渋い表情になった。
「ごめん、洗い物は帰ってきてからにする」
 部屋の方に向き直っていつもの顔になり、間に合いそうもないや、と舌を出してみせる。翠星石は椅子から飛び降りて台所の方に踏み出した。
「しょうがない奴ですね。そのくらいやっておいてやるから心配すんなです」
 翠星石は口では強いことを言いながらも少しばかり済まなそうな顔になっていた。三人で無駄話をしていて遅くなったのだから彼女だけが原因とは言い切れないのだが、自分の責任を感じてしまうところに彼女の素直な部分が現れているのかもしれない。
 少年はそんなところに気を回す余裕もなく、いつもの片手で拝むような仕草で、悪いな頼む、と頭を下げる。生死に関わるわけではないが、時間は切迫してきていた。
 忙しく靴を履き、玄関に置いてあるビニール傘を掴んで無粋なデザインの鉄の扉を開けると、彼はもう一度部屋の中を振り返る。アルミ製の脚立型の踏み台に上った翠星石が水道の蛇口に手を伸ばしたところだった。
「言い忘れてた」
 翠星石はびくりと動きを止め、何か流しを使うのに注意事項でもあるのかと少年の方を見遣った。
「蒼星石によろしく。起きたら、俺が昨日はありがとうって言ってたって伝えてくれ」
 なんだそのことか、と翠星石はほっとして息をつき、水銀燈が部屋の中から返事をした。
「伝えとくから、急ぎなさい。本当に遅刻するわよ」
「ありがと。そいじゃ、行って来る」
 自分の言葉が終わらない内に少年は駆け出していく。いってらっしゃいという言葉を掛ける間もないような急ぎ方に翠星石は呆気に取られて目を丸くし、扉がばたんと閉まるまでそちらを眺めていた。
 部屋の中で水銀燈が苦笑していたが、彼女はそれにも気付かず、蛇口に手を伸ばしたまま暫く固まっていた。


2

 相変わらず、雨は静かに降り続いている。
 蒼星石が目を覚ましたのは大分遅く、午前九時を過ぎてからだった。
 鞄を開けて周囲を眺め、立ち上がってふっと息をついたところで翠星石に飛びつかれ、ぎゅっと抱き締められる。
「おはよう、随分寝坊してしまった」
「おはようですぅ」
 言いながら、翠星石は上機嫌で蒼星石の胸に頬ずりする。蒼星石は微笑んで翠星石の背中をとんとんと叩く。昨晩、蒼星石が薇を巻かれて目覚めたときと同じ光景だった。
「今日は一日、ずーっと一緒ですよ」
 翠星石は嬉しそうに蒼星石を見上げる。蒼星石が何か言おうとしたが、翠星石はその唇に人差し指を当てた。
「陰険おじじが言ったんですよ。今日はお休みにするから、のんびりしろって」
 電話をしたのは水銀燈なのだが、翠星石は自分が直に聞いたような言い方をした。その方が蒼星石にするには話が早いと思ったのか、自分のささやかな手柄にするつもりなのかは分からない。
 どちらにしても、蒼星石は頷いてその言葉を信用した。
「マスターが……そう」
 ゆっくり微笑みを浮かべる。それは翠星石と一緒に居られるからというよりは契約者が自分に気を遣ってくれたことの嬉しさから来たものだったが、翠星石はそんなことには頓着せず改めて蒼星石に抱きついた。
「そうですよ。だから今日は一杯遊ぶです」
 お互いに相手の肩の上に顎を乗せるような姿勢で、二人はお互いを抱き締める。ロングスカートとタイツ、対照的だが統一感のある衣装が良いコントラストを作って、無粋な安アパートの空間がそこだけ華やいでいるようにさえ見えた。

「何時見ても本当にベタベタなのね、貴女達」
 水銀燈はテーブルに肘を突いて二人を眺めていたが、あまり興味なさそうにそう言うと欠伸をしながら一つ伸びをする。二人は同時に水銀燈の顔を見詰め、抱き合っていた腕を解いて顔を見合わせた。
「好きな相手にもそのくらい素直にベタベタすればいいのに」
 対照的なドレスを着た双子の反応はやはり対照的だった。翠星石は分かり易く顔を赤く染めてしどろもどろに口の中で何事かを呟き、蒼星石は頬を僅かに染めたものの複雑な表情になって視線を逸らす。
 それぞれの表情を人の悪い笑いを浮かべて観察してから、水銀燈は椅子を飛び降りた。そのまま双子の方には向かわず、少し離れたところに置いてある自分の鞄に歩み寄る。
「蒼星石。起き抜けで悪いけど、貴女達の意見が聞きたいの」
 鞄の前で屈み込み、かちりと開ける。白い人形は先程少年が開けたときと全く変わらない状態で、微動だにせずその中に収まっていた。
「これの事でね」
 振り向いて二人を見ながら、後ろ手に人形を指し示す。蒼星石が軽く頷くのを確認して、また鞄に向き直った。
「貴女に知識があるかどうかは知らないけど、これは私の知っているローゼンメイデン第七ドールの姿に近い。ただし雪華綺晶ではなく、異世界のね」
 蒼星石は自分の手を握っていた翠星石の手を優しく解いて鞄の方に歩み寄り、水銀燈の隣に屈み込んだ。翠星石も一歩遅れてそれに続く。二人とも先程の表情は消え、かすかに緊張感を含んだ顔になっていた。
「君が持っていたあの小箱と同一の世界から来た、と考えていいのかな」
 蒼星石が言ったのはローザミスティカらしきクリスタルと指輪の入っていた小箱のことだった。どういうわけか、ローザミスティカと同一の世界から、と言うのはなんとなく憚られるような気がした。
 鞄の縁に手を添え、覗き込むような姿勢になる。昨晩nのフィールドで間近に見てはいるのだが、照明の関係か、そのときの姿よりも人形らしさが強く出ているように蒼星石には思えた。
 彼女達とほぼ同じ背丈、同じように丁寧に作られた衣装。だが、顔の作りはいかにも別人の手によるものだということを感じさせる。
 手足のデザインも、すらりとし過ぎて彼女達姉妹とは別物という印象を強くしていた。初見で少年が言っていたように、どちらかと言えば自分達姉妹よりもあの黒い翼の人形と共通項が多いようにも思える。
「多分ね。確実なことは言えないけど」
 水銀燈は白い人形に触れる。デザインは異なっているものの、顔と手の質感も、その他の部分の陶器らしい冷たさも薔薇乙女達のそれと全く同じだ、と彼女は感じていた。
「並行世界の原則──無数の世界が並行している中で、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在し得ない、というやつね──を超越されてしまった以上、最早何処から来たモノだとしても不思議はないわ」
 やはりこれはあの人形師の手による作品──本来感知も行き来もできないはずの別の時間軸で存在しているべき、また別のローゼンメイデンなのだ、と水銀燈は思う。

 最後に抱き上げられて部屋を出て行ったあの第五ドールも、他の五体も同じく、自分達の観測できる範囲の世界に彷徨い出て来てしまっているのだろうか。
 もし、更に他の世界にまで行き来が可能になってしまっているのだとすれば、呑気にアリスゲームなどやっている場合ではないのかもしれない。同じ領域に何十人となく自分が蠢くという想像はおぞまし過ぎるし、因果律の外との行き来を世界自体が認めてしまっているのだすれば、それは世界そのものが変容してしまう前触れなのかもしれない。
 だが、そういったあれこれは、薔薇乙女達の手には余る事柄だった。むしろそうであれば彼女達の創造主やあの人形師の方こそ大汗をかいて奔走すべき事態であり、彼女達は今までどおりに日々を過ごし、目標に向かっていくしかない。
 無責任な考え方かもしれないが、それが現実だった。

 そんなことをちらりと思いながら、水銀燈は言葉を続ける。
「ただ、ほぼ確実にあれと同じ世界か、それにごく近い世界だとは言える。その髪型、衣装の色、特徴的な右目を隠すアイパッチ。全て見覚えがあるもの」
 僅かな違いもあるにはあった。アイパッチには確か白い薔薇の花が貼り付けられていたか生えていたはずだが、それがなくなっている。
 但し、この人形の出番はアイパッチから白薔薇が離れて流れて行くところで終わっていた。この人形の姿がその状態を引き継いでいるのだとすれば、これはこれで妥当とも言えなくはない。
「なるほど……」
 蒼星石は先を促すように水銀燈の顔を見遣る。水銀燈は頷き、ひとつ息をついて昨晩のことを簡単に説明した。
 蒼星石が少年と彼女を待っている間、真紅に請われて自分の意図を話していたこと。そこにラプラスの魔が現れ、異世界の第七ドールが出現し、雪華綺晶がその体を狙って行動を起こしていることを報せたこと。
 ラプラスの言うところでは第七ドールの能力は雪華綺晶と「似て非なるもの」であり、彼の見解では雪華綺晶と手を組む可能性について否定的だったこと。
 更に踏み込んだ話に移る前にメイメイがやってきて、それ以上の情報は得られず仕舞いに終わったことまで語ると、水銀燈は肩を竦めた。
「能力の詳細については、直にこの人形から訊き出すつもりだけど──」
 考えを纏めるように、あるいは何か引っ掛かっている部分があるようにゆっくりと言葉を続ける。彼女らしくないことだった。
 自分の思うところに自信が持てないのか、と蒼星石はつい邪推してしまう。性格がこの時代で目覚めてから──特に、媒介が心の木を伐り倒してから──目に見えて変化しているとはいえ、水銀燈がこういう態度を取ることは珍しかった。
「貴女は何かこの人形の能力を見ていて?」
 蒼星石はゆっくり首を横に振った。
「いや、僕はまだその子が覚醒したところさえも見ていない」
 彼女が見ていた範囲では人形は終始無言で、動く気配もなかった。その分まで雪華綺晶と蒼星石は激しく戦っていた、と言うと大袈裟かもしれないが、人形と一緒に居たのは少年の方で、彼女ではなかった。
 ふむ、と水銀燈は顎に手を当てた。
「では、相対した雪華綺晶の能力についてはどう? 何か異質なものは垣間見えたかしら」
 そうか、と蒼星石は内心で頷く。水銀燈が人形の能力を知りたいのは、それが雪華綺晶の能力の全貌を掴む手懸りになる可能性があるからなのだろう。直接相対した蒼星石が何か気付いていれば、それも手懸りになるという訳だ。
 ただ、それは少しばかり期待し過ぎのように彼女には思えた。
「それも、これといったものは感じられなかった」
 彼女に向かって来たのは専ら白茨だけで、この人形と彼を捕獲しかけたのは白薔薇の大輪だった。どちらも水銀燈から事前に聞かされていた、言わば雪華綺晶の「得物」で、目新しいことはなかったように思う。
「ただ、あのとき雪華綺晶は幻影を使わなかった」
 使えれば使った方が有利な状況だったはずなのに、と呟きながら蒼星石は雪華綺晶に似た人形の顔を見詰める。そこに解答があるという訳でないのは分かっているが、考えを纏めたかった。
「フェイクを作るのはお手の物のはずだけど」
 水銀燈は顎に手を当てたまま、考えをそのまま口にするような言い方をする。
「焦っていたのかもしれない。時間が切迫していたとか、何かに力を振り向けていたとか」
 当たらずと言えど遠からず、といった考察だった。少なくとも蒼星石にはそう思えた。

 例えば幻影の白茨の蔓を無数に作り、同時に自分に殺到させる。そんな方法を採っても良かったのではないか。
 自分は前方、しかも雪華綺晶の間近の一点からワンパターンに仕掛けてくる一群に対処することさえ手一杯だった。多少手数が減り、攻撃の間隔が開いてしまったとしても、その方が確実に自分を捕え、拘束するには便利だったはずだ。
 しかし何故か雪華綺晶はそれをしなかった。
 いや、何故か、ではない。そこには理由があるはずだ。
 直接的には、それはあの大薔薇を維持しておくためだろう。だが、それだけでは説明できない部分もありそうだ、と蒼星石は思う。
 そもそも、それほど維持に力を割く必要があるものを、自分という邪魔者が目の前にいるにもかかわらず最初から使ってみせた意図がよく分からない。幻影を使わなかったように見えたことも含め、何か齟齬が生じていたと考える方が適当かもしれない。
 準備不足で戦いに臨んでいたのはこちらだけではなかった、と総括してしまえばそれまでだが、その齟齬が雪華綺晶の能力の──特に水銀燈が知りたがっている、今まで見せてこなかった部分の一端を示しているのではないか。

 それまで黙っていた翠星石が口を開く。
「偽物をでっち上げるには集中力か下準備が必要ってことですか? そうじゃなければ場所や相手を選ぶ、とか……」
「そういう見方もできそうね」
 ただ、案外こんなところかもしれないわよ、と何故かそこで水銀燈はにやりと笑ってみせた。
「貴女がずっと切り続けていた白茨、それそのものがフェイクだった、っていうのはどう? 同じパターンを繰り返していたのは、同じものなら作り出し易いから──幻影では定番の理由の一つでしょう」
 蒼星石は目を見開き、それから力なく苦笑を浮かべた。
「確かにね」
 改めて指摘されると、至極妥当な推測に思える。大量の白茨を放ったように見せて時間を稼ぐのは、大薔薇を維持するのに殆どのリソースを振り向けているならむしろ普通の遣り方なのかもしれない。
 しかし、そうはいっても大量の偽物の中に紛れ込んだ数本かそこらの本物の白茨、もしくは完全に全て虚像のそれらと必死に戦っていた自分を想像するのは、あまり気分のいいものではなかった。
 無意識の海の濁流の中で必死に不恰好な独りきりのダンスを踊っているドール。雪華綺晶が揶揄するような笑みをこちらに向けていた理由が分かるような気がする。さぞかし滑稽な眺めだったろう。
「nのフィールドの中ですから、幻だって実体があるのと変わりませんよ」
 妹の内心を読んでフォローしてみせたのか、水銀燈に対する反論なのか分からなかったが、翠星石はそんな言い方をした。
「体ごとnのフィールドに入ってる翠星石達はなんとなく幻イコール偽物、ハリボテの虚像って考えちまいますけど、あの中では力を持ってる、中身の詰まってる幻影だってアリでしょう。大体雪華綺晶自身が幻みたいなもんじゃないですか」
 だから白薔薇のヤツが使う蔓なんて結局は全部幻影なんです、と翠星石は水銀燈に視線を向ける。水銀燈は軽く頷いてみせた。
「そういう見方もあるでしょうね」
 とはいえ、翠星石の考えは蒼星石が戦って切り落とし続けた白茨が殆ど全て虚像だという仮定とは矛盾しない。それは、戦っていた本人が一番よく分かっていた。
 恐らく「中身の詰まって」いたのは最初に放たれた白茨と、大薔薇を手放した後の最後の一撃だけだ。それ以外は最初の白茨の一部を複製したものか何かだったのだろう、と蒼星石は苦い思いを胸に抱きながら考える。

──本気で相手をされていたら、間違いなく敗北していた。

 虚像だけで相手をしなければならなかったのは雪華綺晶にとっても不本意で、ぎりぎりの選択ではあっただろう。だが、それにまんまと乗って最後まで気付かなかった自分の間抜けさ、あるいは弱さは否めない。
「──次はもう少し上手くやるさ」
 拳を握り締めて呟いたのは、雪華綺晶に対する敵愾心や戦意を奮い起こした結果と言うよりも、自分の不甲斐無さに怒りが湧いたからだった。
 ただ、翠星石はそうは取らなかったらしい。気が付くと彼女はそっと蒼星石の手に手を重ね、少し怯えたような目で顔を覗き込んでいた。
「大丈夫だよ」
 蒼星石は握った手を開き、双子の姉にぎこちなく微笑む。その手で微笑み返しながらもまだ心配そうな翠星石の頬を撫でると、彼女は蒼星石を確かめるようにぎゅっと抱き締めた。

「ま、どっちにしても目新しいところは無かった、ってことか……」
 水銀燈はあっさりと言った。双子の相思相愛振りについてはコメントする気をなくしたらしい。
「やはり訊き出すのが手っ取り早そうね」
 言いながら、白い人形に手を伸ばす。二人はまた身体を離し、立ったまま彼女のすることを覗き込んだ。
 水銀燈は両手で、膝を畳んで腕を組んだ姿勢の人形の身体を触り始める。それはまるで領収した品物の瑕疵を確かめるような手つきで、蒼星石にはそれが少し寂しく思えた。
 何故そんな感慨を抱いたのかは、よく分からない。ただどういうわけか、昨晩少年が雪華綺晶に放った、その場面では見当外れもいいところだった言葉が心の中に浮かんで消えたような気がした。

──結局水銀燈も、この子をゲームを進める上の便利な道具として見ることしかできていないのか。

 それは自分に都合のいい形骸とそれに付随する邪魔な魂、という見方で人形を見ていた雪華綺晶と大して変わらない視点なのではないか。いや、彼女の方がゲームに拠らない自己の欲求にも正直であっただけ、まだマシと言えるかもしれない。
 昨日の黒い人形に対して見せた水銀燈の態度は違っていた。あれは、単に自分に似た容姿だったから情が湧いたということなのだろうか。
 媒介である少年が終始白い人形を「この子」と言っていたことを思い合わせると、皮肉に過ぎる気がする。もっとも彼は、雪華綺晶は嘘をついていて、実際は人形をアリスゲームに利用するつもりだと思っていたのかもしれないが──

 水銀燈はそんな蒼星石の感傷めいた内心に気付く様子もなく、服の上から陶製のボディを点検するように触っている。それが背中の一点に届いたところで軽く頷き、手を引いた。
「ゼンマイの螺子穴はあるわ」
 翠星石は上体を屈めて見入っていたが、その言葉で背中を伸ばした。
「巻いてやれば動き出すって、あの兎の言ってたことは本当みたいですね」
「問題は合う螺子巻きがあるか、そして誰が巻くかってこと」
 水銀燈は人形を見詰めたまま大きく息をつく。翠星石は、むう、と口を尖らせた。
「例の箱には螺子巻きは入ってなかったんですか?」
「生憎、クリスタルと指輪だけ」
 水銀燈に小箱を託した者の目的を達するためにはそれだけで充分だったから、当然といえば当然だった。もっとも、小箱の中のクリスタルに対応するボディ用の螺子巻きが入っていたとしても、それがこの人形に合うとは限らない。
「ポケットに入ってるとか……」
「そういうデザインには見えないわよ?」
 言いながらも水銀燈はもう一度確かめるように人形のボディと服を改め直す。胴の前面を見ているうちに、ふと胸の前で折り畳まれている腕に視線を向け、にやりと笑った。
「翠星石、半分当たりよ」
 どういうことですか、と翠星石がまた覗き込むと、水銀燈は握りこぶしを作っている人形の手を指差し、それからゆっくりとその指を伸ばしていった。
「──ここでしたか」
 人形の手の中に現れたのは、随所に薔薇の模様をあしらった、見覚えのある意匠の金の螺子巻きだった。
「握り込んでいたとはね」
 起こして貰う気満々ってところかしら、と水銀燈は肩を竦める。
「鞄も人工精霊も無いのに、どうするつもりだったんだか……」
 螺子巻きをつまみ上げ、蛍光灯の光にかざしてみる。それは目映く輝いた。
 少々目映く輝き過ぎている、と思ったのは水銀燈だけではなかった。
「新し過ぎないですか?」
 翠星石は不審そうに眉を寄せる。螺子巻きは何人もの手を経てきた彼女達の持ち物とは違い、まるで作られたばかりのように輝いていた。
「まるで一度も使われたことがないみたいです……」
「実際、使われてないかもしれない」
 水銀燈は立ち上がり、螺子巻きを掌の上に置いて見詰めた。鍍金でなく金であれば錆がないのは当然としても、汚れも傷もなければ模様の摩滅も見当たらない。
「あの人形師の世界で、第七ドールは名前も出てこなかった。誰も存在を知らず、ゲームにも全く参加していなかった。雪華綺晶と同じような特殊な立場でなければ、契約をしたことがなくても辻褄は合うわ」
 そんな存在だから、ボディは持っていても──いや、持っているからこそ推測できるのだが──作られてから未だ世に出ず、一度も契約を交わしていないという可能性もあり得る。新品の螺子巻きはそれを表しているようにも水銀燈には思えた。
「ま、それこそ訊いてみれば済むことね」
 あっさりと自分から想像を止めてしまう言葉を口にして、螺子巻きを人形の脇に置く。
「これで、後は巻くだけ。謎解きはそれからじっくりやればいいわ」
「そうですけど」
 翠星石が小首を傾げる。
「誰がこの子のゼンマイを巻くんですか?」
 それが問題だった。翠星石は水銀燈を見詰め、水銀燈は顎に手を遣って視線を下げた。

 ややあって、暫く黙っていた蒼星石が口を開いた。
「君のマスターが巻くべきだと思う」
 彼女の視線は水銀燈に向けられていた。
「雪華綺晶にその子を渡さなかったのは、彼の意思だ」
 少しばかり誇張した表現をしてみる。但し、彼が自分の判断で雪華綺晶に人形を渡さなかったのは事実だった。
 彼の言い分を聞いた限りでは、それは思い込みか誤解に基づく判断だった可能性もある。しかしそれがあって今この人形がここにあるのもまた事実だった。
「それに、自分のものだと言ってもいたよ」
 思わずくすりと笑みが浮かんでしまう。まるで屁理屈にしかなっていない彼の言い分と、その台詞を放ったときの表情の真面目さのコントラストを思い出してしまったからだ。

 ──先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない。

 あのときは緊張感が勝っていてよく吟味する余裕もなかったが、改めて思い返すと酷く子供っぽい上に、雪華綺晶のそれに負けず劣らずの身勝手な言い分だった。彼の様子から見て、恐らく言いたいことは別にあるのに、咄嗟に言葉にできなかったのだろう。
 大事な場面でそんな台詞しか言えなかった彼に、蒼星石は他の感情でなく可愛らしさのようなものを感じてしまう。笑みが浮かんでしまうのはそのせいだった。
 その拙い台詞が蒼星石を窮地に陥れた、と彼が少しばかり見当違いの反省をしている