全ては唐突に始まり、唐突に終わる。 恋も、夢も、人生も、ね。
日野筆人『或る殺人者』より
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12月某日 深夜 F県K市 港湾区
暗い暗い星無き夜の闇の中に林立する、建設途中のまま放置されたビルの群れ。
そのいずれにも灯りは無く、墓標のごとき静寂を湛えながら、ひっそりと海辺の一角に佇んでいる。
『黄金期の残骸』
あの時代を知る人達の中には、そんな風に呼び表す者もいた。
異常な地価の高騰を巻き起こした空前の好景気。その狂気の中で濫造された人間のあさましさの具現。
バブルの崩壊と共に呆気無くその意義と価値を失い、今もこうして無様に屍を晒している。
忘却された時代の墓場。ある種の狂熱、その残滓。
並び立つ墓標のような廃ビル群。その中のひとつ、打ち棄てられたとあるビルの屋上。
そこは今、過去の狂気の墓場ではなく、今まさに狂気で満ち溢れた現世の地獄と化していた。
そこには夜の潮風を打ち消す、酷い臭いを放つナニカがあった。
そこには墓所の静謐さを打ち破る、荒い息を吐くナニカが居た。
――空ろな眸の犬の首、長く鋭い鉤爪の備わった黒い手足。
それらは人では無かった。
――淑女のような白い乳房、逞しい男性の下腹。
それらは獣ですら無かった。
――獣のような声音に、人間のような嘆きを滲ませる。
それらは異形の怪物だった。
人の胴体に獣の頭足を縫いつけたツギハギだらけの哀れな怪物。
あえて表す言葉を捜すのならば、『パッチワーク・ワーウルフ』とでも形容すべきか。
五十を超える数の化物が仕留めた獲物を持ち寄り、ひしめき合いながらそこで『食事』を摂っていた。
泣き顔で事切れた少女の骸。その胎に頭を突っ込み臓を貪るもの。
呆けた顔で事切れた老人の骸。その頭蓋を徒割り髄を啜り上げるもの。
人間≪ヒト≫に似た怪物が、人間≪ヒト≫の成れの果てを喰らうその様子は、正しく地獄のような光景だった。
そんな怪物の群れの中で子供の脚を齧っていた一匹が、ふと何かに気付いたように顔を上げて唸りを上げる。
それを皮切りに、全ての怪物たちがぴたりと食事を中断する。
怪物達は一様にその姿勢を低くしては咽喉を鳴らし、屋上のある一角を睨み付け其処から距離をとった。
怪物達の視線の先に在るモノ。赤く錆びついた、建物内部と屋上を繋ぐ階段へと続く扉だ。
鍵など既に無いその扉が、ギィギィと鈍く軋みを上げて開かれていく。扉より現れたもの。
それは、夜闇の中にあってなお、一際暗いひとつの人影だった。
コツリ。
踏み出した踵から響く足音。一歩。陰より影が零れ出す。
偶然か。必然か。
その歩みに合わせたかのように、月を遮っていた厚い雲が途切れて地獄の只中に僅かな光が差し込んだ。
人影は更に足を進める。怪物は警戒を強めるも動かない。動けない。
コツリ。
コツリ。
コツリ。
硬い靴音が埃の積もったコンクリートの上を響き渡る。
コツリ。
コツリ。
コツリ。
異形が満ちる高層ビルの屋上で、その人影は暗闇から月光の下へゆっくりと歩み出た。
月の光に照らし出されたその格好は酷く場違いなものだった。
光を還さぬ黒いアリススタイルの礼装。
剣十字をあしらった銀縁のカメオを襟元に添え、右手の中指には猫目石を据えた銀の指環が填められている。
まるで何処かの夜宴から抜け出してきた良家の子女のような装いだ。
だがしかし、少女が発する気配はさながら融けぬ氷のように冷たく重い。
蜂蜜色の髪が月光を映して揺れている。薄い唇を硬く引き結び、少女はその翡翠の瞳で一匹の怪物を捉えた。
「ッぎ、我ァ、るああ嗚呼アアアアアアアッ!!」
途端に上がる絶叫。それは恐怖か、それとも激情か。
少女に視線を向けられた異形の咆哮だった。
何かを振り払うように、何かに追いすがるように。
怪物は少女を引き裂かんと襲い掛かる。
僅かな疾走で怪物は少女の許へ辿り着く。そして勢いのままに鋭利な鉤爪の生えた右腕を振りかぶる。
後は本能のままにその右腕を振り下ろすだけで、少女は柔らかく新鮮な『食餌』に成り果ててしまうことだろう。
……もっとも、『振り下ろせれば』の話だが。
掲げられた腕が振り下ろされる直前。僅かばかりの硬直時間。
刹那に満たぬ一瞬の間隙に少女の右手が翻り、銀色の光が夜の闇に弧を描く。
振り上げられていた異形の右腕。その肘から先が光の軌跡に沿って消失する。
少女の右手が反されて、ついでとばかりに異形の首から上も消えて失せた。
欠けた異形の五体と入れ代わり、現れたものが二つある。
少女の右手に握られた鍔元に梟の意匠を彫りこんだ銀の細剣。
少女が左手で玩ぶ金環を備えた大きく黒い三角帽子。
少女はその帽子を手元でくるりと廻して被る。
ふわり、と少女の髪を覆うと同時にその鍔に通された三連の金環が揺れて、しゃらりと鳴った。
その澄んだ音色を合図に、断面を曝す怪物の頸から盛大に血が吹き上がる。
出血の勢いで頭と右腕を斬り刎ねられたその身体がぐらりと傾き、コンクリートの上に崩れ落ちた。
なみなみと注がれたコップを落とした時のように足元に中身が広がる。溢れ出す死の匂い。
『嗚呼呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ア嗚呼あぁ!!!!』
絶叫。咆哮。連鎖。少女を囲む異形たちが一斉に怨嗟の聲≪こえ≫を唱和する。
そんな怨嗟の中心に在ってなお、揺らがず変わらぬ氷の瞳。
大きく歪な三角帽子を被った、夜より昏い黒のアリス。
空を飛ぶ箒は無い。
呪いを纏うローブも無い。
使い魔の一匹すらも連れてはいない。
それでも、黒い血沼に佇むその姿は紛れも無い『魔女』のモノだった。
右手を持ち上げ、その冷めた眼差しと細剣の切先を異形の怪物達に向け少女は静かに告げる。
「殺してあげます」と。
少女の容姿からは想像もつかない、流暢な日本語で告げられたその言葉を挑発と捉えたのか。
はたまた、斬り捨てられた仲間の血に中てられたか。
『愚ゥ嗚嗚呼ァル嗚ああ嗚嗚嗚嗚呼アアア嗚嗚呼ああァ嗚呼ぁッ!!!!!!』
怪物の群れは地鳴りに似た咆哮を上げ少女へ向かって襲い掛かった。
だが、黒い少女はその場を一歩も動かない。細剣の切っ先を微かに上げるのみ。
怪物達の何匹かが少女の元へと辿り着き、その牙を剥く。
獣の爪牙が掠める寸前、少女の右手が陽炎の様に揺らめく。
その度に、怪物達は奔る銀の刃に五体を切り分けられて物言わぬ骸にその身を変える。
前後同時攻撃、緩急をつけた左右の挟撃に仲間の死体を盾にしての奇襲。
怪物どもは狩猟者の本能に従い、様々な形で少女へ迫る。
しかし、その全ては翻る銀の光に遮られ、少女に毛筋ほどの傷を負わせることも出来なかった。
夜闇に舞うは怪物の血肉と断末魔の叫び、そしてソレを生み出す銀光のみ。
ならば、と残った怪物の一匹が足元に転がる、内臓を喰い散らかされた童女の骸を掴み上げ少女に向かって投げつける。
中身を溢しながら飛来するソレを少女は片手で受け止め抱き上げる。初めて少女の体勢が崩れた。
その隙を突き、残った全ての怪物が絶叫を上げて少女に向かい跳び掛かる。
前後左右。全方位、逃げ場無し。
両手では足りぬ数の怪物達による怒涛と見紛うような突撃だ。
優に百を超える爪と牙の濁流。
さしもの魔女もこの数全てを切り伏せることは不可能に思われた。
されど、魔女とは現世の条理を覆す者。
『私は――壊れた秒針』
呟きの刹那、少女は亡骸を受け止めたことで崩れた体勢から更にその身を捻り、その場で小さく回転する。
その動きに追従し、真円を描くように翻された右の銀剣が月光の下で弧を描いた。『無数』に。
一閃が十閃に、十閃は百閃に。
まるで斬撃の一瞬だけを幾度もやり直したかのように、刃の軌跡が縦横無尽に分岐する。
瞬く間に少女を囲う剣閃の檻が完成する。檻とは内と外を隔てるもの。
この場合、襲い来る怪物とその内に収めた少女と亡骸を隔て護る為のモノだ。
だが斬撃で編まれたこの檻は内外を隔てる境界であると同時に、触れるもの全てを斬殺せんとする殺意の具現でもある。
故に、ソレに向かって突撃した哀れな怪物どもは、悲鳴を残す暇も与えられずに賽の目状に裁断されて絶命することとなる。
……さながら巨大な挽肉製造機≪ミンチミンサー≫の様相を呈したこの殺戮は、ものの数分で終わりを告げた。
残ったものは屋上一面に広がる死体の浮かぶ血溜りと、その中心に立つ黒アリスの少女。
そして少女を囲むように幾つとなく組みあがった細切れの怪物だったモノ。
しばしの沈黙。
残心。
少女は剣を構えたまま微動だにせず、ゆっくりと白い息を吐きだす。
異形の気配が無いことを確認したのか少女は右手の細剣を一振りして血掃う。
現れた時と同じように、何時の間にか剣は手の内から虚空へと消えていた。
その手で少女は胸に抱えた亡骸の瞼を優しく閉じる。
冷たい光を宿す瞳に僅かな哀悼の光を湛え、少女は猫目石の指環に触れながら目を瞑る。
少女の唇が微かに呪≪まじない≫を紡ぐ。
『私は――贖罪の青き炎』
告げると同時、少女は周りに散らばる犠牲者と怪物達の亡骸に視線を巡らせた。
ごう、と少女の身体から青い炎が噴きあがり瞬く間にそれらを包み込む。
それは奇跡のように。
まるで奇術のように。
死体など始めから存在していなかったかのように、炎はそれらを焼き尽くしていく。
少女の掌に一握の灰だけを残し、その全てが燃え尽きた。
燃え尽きるまでの短い時間、黙祷を奉げて少女は更に言葉を続ける。
『私は――海鳥運ぶ西風』
海からの強い風が吹く。
炎は消えた。灰も風に舞って散った。少女の姿は、海風と共に消えていた。
こうして夜の奥底で邪悪な寓話の幕は上がる。
密やかに、人知れず、そして唐突に。
夜空に浮かぶ青白い月はその全てを見届けて、また厚い雲の瞼を閉じるのだった。
.01
過日 何時かの何処か
夢だ。夢を見ている。
単色の視界。それは薄暗い路地裏の情景。
それはまるで古ぼけた無声映画。
夢の中の俺は空を見ていた。両脇をビルの陰に切り取られた灰色の空を。
ポツ、ポツ、と泣き出した曇り空。
雨が頬を伝う。それでも俺はじっと空を見上げていた。
雨は足元を浸す濁った水溜まりに無数の波紋となって消えていく。
頬を流れる温かい雨の感触が消えない。違う。ああ、これは多分――。
ざざざ、と唐突に大きなノイズが視界に雑じる。
ノイズが収まると、目の前の光景が変化していた。
暗色の視界。それは酷く暗い何処かの情景。
其処に俺は立っていた。
俺の前にはナニカが、否、誰かが横たわっている。
何処とも知れぬ場所で倒れ伏すその人影を中心に、じわじわと黒が拡がる。
横たわる誰かは夢の中の俺に何かを語り続けている。
俺は、じっとその誰かに目を向けたまま拳を握り締めている。
その言葉を聞き逃さないように。あの人が残す、■■の言葉を。
そうだこれは。
――負けぬように、俯かぬように。
唐突に甦る、誰かの言葉。きっと、横たわる誰かの言葉。
大切な記憶の筈なのに、肝心な部分を思い出せない。
夢の中の俺が何かを口にした。
もう動かなくなったその人影に■■の言葉を。
ノイズ。そしてまた切り替わる視界。灰色の路地裏。
目を開き、空いた右手を空にかざす。
そう。
これは。
あの日見たあの人の■■。
かざした右手を無意識に握り締めながら、俺は――。
(ふに)
……ん?ふに?
なんか急に柔ら気持ちいい(ふに)感触が手のひらに(ふにふに)発生したんですけど。
なに、コレ?(ふにふにふにふに)
さっきまでの意味深な厨ニ発言は既に忘却の彼方。
疑問解消のために感触を確かめ続ける俺。
ぞわり、と冷たい気配が背筋を抜けて、俺の意識は急速に覚醒していく。
手のひらの感触を(ふに)もう一度確かめながら。
目が覚めて最初に見た光景は、窓から差し込む清々しい朝の陽射しでも見慣れた自室の素っ気無い様子でも無く。
「おはよう章吾。そして永遠にお休み、だ」
コロス笑みを浮かべながら怒り狂う幼馴染みの顔と、
「あ、はい。おはようございま――す?」
アイアンクローよろしく彼女のムネを鷲掴みにしている俺の右手だった。
あー、さっきのはコレ(おっぱい)かー。おーきくなったね~。
「んで、アンタは何時までウチの胸を鷲掴んでらっしゃるのかしら?」
漏れ出す殺気で、現実逃避から一瞬で引き戻される。
「ま、待った!ストップ!しゃ、釈明を」
慌てて言い訳を開始する俺。しかし、
「問答無用。豚 の よ う な 悲 鳴 を あ げ ろ 」
どっかの吸血鬼宜しく、高笑いを上げながら彼女は拳を握り締める。
「ちょ、まっ」
待ってください。そんな言葉を口にする間もなく僕へと迫る鉄拳。
遠のく意識の中で、襲い掛かる少女≪ケモノ≫の姿を幻視した。
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…少女撲殺中…
――しばらくお待ちください――
「と言う訳でしたとさー」
で。
30分後。
そこには朝の陽射しも眩しい学園までの道のりを、必死の形相で駆け抜ける俺達の姿が!
「ほら章吾!あさっての方向向いて喋る暇があるならサクサク走るッ!!ウチら遅刻寸前なのよ!?
……てゆうかさ、あんた誰に向かって喋ってんのよ?」
隣を走る撲殺天使……もとい、幼馴染みが明後日のほうを向いて解説していた俺にそんな言葉を投げかける。
「いや、ちょっとモニターの前の皆様に状況説明を」
「…………」
あ、なんか凄い哀れなモノを見るような目で見られてる。……きゅん。
刹那、耳元に奔る閃光のような左ストレート。一拍遅れてふわりと風が届く。
「変なこと考えてんなら、もう一発逝っとくわよ?」
そんな台詞とともにフリッカーの要領で軽く拳を振るう少女の姿が。
「超スンマセンでしたぁ!!」
dogetherする勢いで謝っておく。目が本気だったし。
「って、やば。これ本格的に間に合わないかも。……それと、
朝のことはボコったのでチャラ。OK?」
「OK。あー、朝はホントゴメン!寝ぼけてた」
パシンと両手を合わせて頭を下げる。
「いいわよ、もう。ウチもやり過ぎたし。つか、思い出させないで。お願い」
言うが早いかリンゴみたいに赤くなった。こういう顔見てると何だか少し安心する。
あの後、一撃で意識を刈り取った上でマウントでボコボコにしてくれたこいつは『桜葉佳織』≪さくらばかおり≫
お隣さん家の一人娘だ。
まぁ、俗に言う『幼馴染み』ってやつだったりする。
するんだが、何でこんな武闘派になっちゃったんだろう、この子。
こう、アレじゃね?
違くね?
幼馴染みってさ、料理が上手だったり朝はやさしく起こしてくれたりするもんだよね?
↑※それはあくまで2次元のお約束です。
「ほら章吾!ボーっとしてないで足動かす!!」
「イェッサー、ボス!」
だれがボスかー!?との佳織の怒声をBGMに、俺たちは学校への道をひた走るのだった。
……うう、まだ奥歯がグラグラする。
――そんなこんなで。
始業のベルが鳴る5分前。
ヘトヘトになりながらも俺達は学園に辿り着いていた。
「な、なんとか、間に、合っ、たぁ」
「はーっ。はーっ。……や、やればできるもんね、人間」
ああ、諦めないって素晴らしい。
とか考えながら歩いていたら、何時の間にか自分たちのクラスに到着していた。
とりあえず鞄を置いて、俺は机に突っ伏した。今朝のダッシュは予想以上に堪えた。
回復するまでグダグダしてよう。ぐだーりぐだーり。
「おはよう、章ちゃん」
うつ伏せてグダグダしていた俺の頭に不意に掛けられる柔らかい声。
んむ、この声は。
のっそり、と首を持ち上げる。
視線の先には、ゆるい笑顔を浮かべてこちらに向かってくる少女がいる。
声の主に顔を向けて俺は答えた。
「智か。はよ~……」
コイツの名前は『三友智』≪みともとも≫。
小学生の頃からのダチで、俺と佳織とコイツ、そしえここには居ないもう一人を加えた四人でつるんでいたりする。
しかし、思ったよりもチカラ無い声が出てしまった。朝からどんだけ疲れてんだよ。
「ん~?章ちゃん、いつも以上に元気ないねぇ」
いつも以上って何だ。いつも以上って。
まるで俺が常日頃から元気じゃないみたいじゃないか。
つーか、俺ってそんなキャラで認識されてる?……まあ、いいか。
「まあな。実は、カクカクシカジカ」
メンドくさいんで、説明をハショる俺。
「ふむふむ。トラトラウマウマという訳か~」
華麗にカウンター……しようとして失敗する智。
「なにその心的外傷。微妙に惜しいけど違ぇ」
「ようするに、寝ぼけて佳織ちゃんのオッパイ揉んじゃって、タコ殴りにされて、気絶して、目が覚めたら遅刻寸前だった。
んでここまで全力疾走してきたからグダグダしてたと」
ウン。上のやり取りでなんで其処まで詳しくわかんだよ。あれか、エスパーか。
「ノンノンノン。初歩的な推理だよ、ホームズ君」
気取った仕草で指を振りつつ、大変に残念な胸をふんすと張る智。
誰がホームズか。そこはワトソンだろ。つーか、
「他人のモノローグを読むな」
「ハッハッハッ。ん~なワケないじゃん。あ、章ちゃん、後で屋上な?」
くいっと親指を立て、『ちょっと来いよ!』のジェスチャーと共に朗らかな声で答える智。
が、眼が笑ってない。全然笑ってない。
「Oh……」
どう考えても心を読まれている気がする……。
「いいや、もう。ツッこまねーからな」
この件については思考放棄することにした俺。
そんな俺の返答が不満なのか智が上目遣いで可愛らしく睨みつける。
「ええ~? 章ちゃんにツッコんで欲しいのにぃ~クスン」
なぜエロく言うし。
な ぜ エ ロ く 言 う し !!
大切なことなので2回言いました。
と、グダグダの会話を二人で続けていると、回復したのか佳織がやって来た。
「アンタらは、朝っぱらから何アッタマ悪い会話してんのよ」
多分に呆れを含んだ声である。
「佳織ちゃん、おはよ~。」
「復活するの早いな。流石、女子剣道部期待の星」
掛けられた声にそれぞれの反応をかえす。
「うん。おはよ、智。それと章吾、アンタも部活くらい入んなさいよ」
「いやぁ、俺は帰宅部に骨を埋めるつもりだし」
俺の答えにほんの少しだけ佳織の表情が翳る。
「ねえ、章吾。章吾が剣道部入らないのって、その、やっぱりウチの……」
よろしくない方向に話が転がりそうなので強制的に停止させるか。
「チョップ」
「あいた」
軽く額に一当て。
「オマエはまーだそんなこと言ってんのかよ。ないない。ほら、秋頃から母さんが単身赴任中だろ?
なんでまぁ、折角の一人暮らしを満喫したいなぁ、とね。最大の誤算は母さんがオマエと婆さんに合鍵渡してたことだけどな」
「そりゃ、章吾一人だとねぇ。ウチが居なかったら遅刻の回数が倍くらいに増えるんじゃない?」
佳織が苦笑いをしながらこちらに答える。ん、はぐらかせたかな。
「う~、何という放置プレイ。こーなったら実力行使しかないよね! おりゃー」
「ひゃあ!? ちょ、ちょっと智、どこ触っ――」
「うしゃしゃしゃしゃ!」
「オッサンか、アンタは!!」
どうやら智に気を使われたらしい。今度マッ○でも奢るかな。ランランルー。
「おーい。二人ともボチボチ席戻れー。そろそろササセン来んぞー」
「うぃー」
「ちょ、それより智を止めてー!? 」
うん。それ無理。
時計の針が9時を指す。
始業のチャイムが鳴り響く。
いつもと同じ、変わらない日常。
いつもと同じように始まり、いつもと同じように終わる筈だった一日。
もう二度と出会う筈の無かった非日常の住人と出会うことを、このときの俺は知る由も無かった。