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[19477] 【習作】バイオハザードjpn【完結】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/09/20 09:35
※この小説は、バイオハザードが日本で発生した場合を妄想したものです。

【17時】

布団から気だるい身体を起こす。
壁にかかった時計を見ると、寝込んでから四日経っていた。

「四日も寝てたのかよ…」

四畳半のぼろいマンションの一室で呟く。
最後の記憶は四日前に大学から帰った時だった。
その日の午後から身体が熱っぽかった。授業を途中で抜け出して部屋に戻ると、激しいめまいに襲われてそのまま布団に倒れこんだ。
そして――たった今、起きた。
大学を休んでいる間に重要な講義がなかったことが不幸中の幸いだった。
携帯を見ると、バイト先や友人からの履歴がずらりと並んでいる。
めんどくさい事になりそうで、俺は盛大に溜息をついた。

とりあえず面倒ごとは後回しにして、トイレで四日分の排泄物を出し、備え付けの小さな冷蔵庫からカロリーメイトとウィダーインゼリーを取り出した。
四日もまともに食事をしていなかったから、ひどく腹が減っていた。
布団に胡坐をかいて座るとウィダーインゼリーを一気に流し込んだ。
それからカロリーメイトを齧りながら携帯を操作してメールボックスを開く。

未読【102件】

「は?」

あまりの数に、思わず声が出た。
俺は彼女もいないし、友人もそう多くはいない。
平均するとせいぜい一日一件程度しかメールは来ない。
四日で102件は、ありえない。

そして、不審に思いながら最新のメールを開けようとした瞬間――何の前触れもなく激しい爆発音が轟いた。
強い地震が起こったみたいに部屋が震え、窓ガラスが甲高い悲鳴を上げて割れた。

「―――ッ!」

咄嗟に、傍らにあった布団を掴んで身体を守る。
その直後、布団に窓ガラスが降ってきた。
俺は必死になって布団に包まる。
ガラスが布団を叩き、爆風が室内を荒らし回る。
僅か数秒で、あたりは元の静けさを取り戻した。

危なかった――。
心臓が早鐘を打っていた。
激しい運動を終えた後のように呼吸が荒い。
恐る恐る、布団から顔を上げると、ガラスの破片が室内に散らばっていた。
割れた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らし、その隙間から差し込んだ夕焼けが部屋を茜色に染めている。

風が、室内に微かな異臭を運んでくる。
不快な臭いが鼻の奥を刺激する。
この臭いは――腐臭?
なぜこんな臭いが?
震える足で立ち上がり、カーテンを開けて外を見ると、そこはいつもの見慣れた街ではなかった。
いたるところに瓦礫が散乱し、車が道路上で燃え上がっている。
一台や二台ではなく、何十台も。
先ほどの爆発は、恐らくその中の一台が爆発したのだろう。
部屋を染めていたのは、夕焼だけではなく、炎だった。
三階のこの部屋から見渡せる限り、街は全て荒れ果てていた。
所々に車や廃材を集めた簡素なバリケードのようなものも見える。

いったいどうしてこんなことになったのか俺にはわからない。
戦争が始まったのだろうか?
クーデター?
自然災害?
何が起こっているのか全く理解できなくて、俺は荒れ果てた町を呆然と見ていた。

…………。

あまりに非現実的な出来事に、現実逃避をはじめた頭を振る。

冷静になれ。

深く息を吸って、十秒数える。
そしてゆっくりと吐き出す。
落ち着くための儀式みたいなもので、自分を失いそうになったときはいつもこうするようにしている。
習慣にすることで、脳が正常な状態を記憶し、すぐに正常に戻れるようになる。
精神状態をセーブ・ロードするみたいに。

俺はまず警察に通報することにした。
もう誰かが通報しているだろうが(この状況ではしていない方がおかしいだろうが)とにかくどうすればいいか訊かなくてはならない。
一人で勝手に行動するより、ずっとマシなはずだ。

電話は二度のコール音の後に繋がった。

『アンブレラ製薬生物災害対策コールセンター、担当の霧島と申します。どのようなご用件でしょうか』

電話には落ち着いた声の女性が出た。

「あ、すいません間違えました」

俺はそう言って電話を切った。

おかしい。

警察にかけたはずなのに、アンブレラ製薬に繋がった。
110番だ。
こんな簡単な番号を間違えるはずがない。
現に、履歴には110番の記録が残っている。
もう一度、確実に、110とボタンを押す。

今度も二度のコール音の後に繋がる。

『アンブレラ製薬生物災害対策コールセンター、担当の霧島と申します。どのようなご用件でしょうか』

先ほどと同じ女性が、全く同じ言葉を言った。
俺は仕方なく事情を説明する。

「警察に電話したはずが、ここに繋がってしまったんですが」

『この市では現在、生物災害が起こっており、無用な混乱を避けるため市全体が情報統制されています。市内にいる限り、どこにおかけになっても、このコールセンターに繋がります』

生物災害――バイオハザード。
少し前に、アメリカの――確かラクーンシティで事故があった。
そしてその結果、ラクーンシティは地上から消滅した。

心臓の鼓動が徐々に早くなるのを感じる。
俺はその鼓動を抑えるようにゆっくりと呼吸する。
その間に彼女は言葉を続ける。

『現在、当社の私兵で住民の救出を進めています。失礼ですが、お名前と、現在地を教えていただけますか』

俺は名前と現在地を答えた。

『佐藤悠太さんですね。確認致しました。最寄りの避難所は第一小学校です。18時に救助のヘリが到着しますので、それまでに第一小学校にいらしてください。場所はご存知でしょうか』

「はい、よく知ってます」

そこは大学に行くまでの通り道にある。ここからだいたい1kmぐらいだった。

『それでは案内は省略させていただきます。現在、17時15分です。出来るだけ早く準備を済ませて出発してください。それと荷物は最低限のものにしてください。救助ヘリに乗せることができる量は限られていますので、ご協力お願いします』

彼女は落ち着いた美しい声で話すが、彼女の声はどこか作業的で、その声色から感情のようなものは読み取ることができない。

「えっと、霧島さんでしたっけ。質問していいですか」

『はい』

「警察や自衛隊の出動は――」

『問題解決は全て当社が行っています』

彼女は即答する。
あらかじめ決められていたマニュアルを読むみたいに。
俺は彼女の答えに疑問を持つ。
これだけの災害が起これば、普通は警察と自衛隊、それに、消防署や、色々な機関が救助に入るはずだ。
それをアンブレラ製薬の私兵だけで災害対策を行うというのだ。
これは介入して欲しくない問題がある、ということだろうか。

先のラクーンシティの事件で、アンブレラ製薬は世間の信頼を失った。
以前では一笑されたようなアンブレラ製薬の裏側も明るみに出てきている。
もちろん俺も、アンブレラ製薬に対してあまりいい感情は抱いていない。
霧島さんを、アンブレラ製薬を、どこまで信頼していいのか俺にはわからない。
だが現在、俺が頼れるのは霧島さんしかいない。

俺は質問を続ける。

「そうですか、じゃあ――生物災害、というのは具体的にどのようなものなんですか?」

『市全域に感染力の強いウィルスが流出しました。ウィルスは人だけでなくほぼ全ての生物に感染します。
ウィルスに感染した生物は、発熱や痒み、意識レベルの低下等の初期症状を経た後発症します。
発症すると知能が低下し新陳代謝も加速し、そして新陳代謝の加速からくる飢餓のため、食欲を中心とした本能的行動をとるようになります。俗な言葉ですが、わかりやすく言うとゾンビ化します。
ゾンビ化した市民の襲撃と、ゾンビから逃れる混乱した市民によって市は壊滅状態になりました。
現在は市の周囲にバリケードを設置し、ゾンビの市外への進行を阻止しています。地上からの脱出は絶望的な状況ですので、空からの救出活動を続けて――』

「ちょ、ちょっと待ってください!」

俺は淡々と説明する霧島さんの声を遮って言う。

「発熱や意識レベルの低下って――俺、四日前に熱が出て、意識が朦朧として、気がついたら四日経っていました。もしかして、俺は――」

『今もその症状は続いていますか? それと、身体の痒みはありますか?』

「いえ、今は大丈夫です。痒みもありません」

『でしたら問題ありません。佐藤様とお話しする限り知能の低下は感じられませんし、仮にウィルスに感染しているとしたら、佐藤様は知能を維持したままゾンビになっているということです。通常、そのような事はまず起こりません』

「そうですか、よかった……」

俺はほっとして息を吐く。

『ご質問は、以上でよろしいですか』

「はい、えっと――」

俺はふと、重要なことに気づく。
ゾンビがいったいどんなものかはわからないが(ラクーンシティの事件の噂が流れなければゾンビなんてまず信じなかっただろう)ゾンビのいる街を歩いて1km先の小学校に行く事は危険ではないのだろうか。

「学校にはどうやって行けばいいんですか。道路は車が使える状況じゃないし、ゾンビがいるのに歩いて行くんですか?」

『はい』

彼女は簡潔に答えた。

「はい、って……」

『道路は車はもちろんバイクや自転車の通行も厳しいでしょう。移動手段は歩くしかありません。しかしゾンビは現在、生肉を求めて市を囲んでいるバリケードに集まっています。市内に生存者はほとんど残っていませんから。ですので第一小学校周辺は、比較的安全といってもいいです。移動する際には、動きやすく厚手の服装を心がけてください。ゾンビに噛まれるとウィルスに感染します』

アンブレラ製薬の私兵が小学校まで護衛に着くとか、ヘリがアパートの前に梯子を垂らしてくれるとか、どうやらそういったサービスは行っていないようだった。
でも、これはしょうがない。
きっと多くの住民が救助を求めているはずだから。
だけど、自衛隊が救助に参加していれば、もう少しサービスがよかったに違いない。
そう思わずにはいられなかった。

『ご質問は、以上でよろしいですか』

「はい――ありがとうございました」

俺は電話を切った。
他にも聞きたい事は沢山あったが、今は時間がない。
必要最低限の情報で素早く行動する必要があった。
それにあまり深く訊いても、おそらく彼女は答えてくれないだろう。
彼女はマニュアル以上の事は答えない。
そんな気がする。

時計を見ると17時20分だった。
あと40分で、準備を終え、ゾンビがたむろする街を1km歩き、小学校にたどり着かなければならない。

俺は押入れを開けて服を選ぶ。
霧島さんは動きやすく厚手の服装をしろと言ったが、動きやすい服装は大抵薄手だし、厚手の服装は大抵動きにくい。
悩んだ末、ミリタリー系のブランドの黒のフライトジャケットと、カーキのカーゴパンツを選んだ。
本格的なレプリカではなくファッションブランドのものだったが、厚手で動きやすく機能性はまずまずだ。
インナーは機能性が高く身体にフィットするスポーツインナーにした。
腕にはいつも使っているGショックをはめる。
靴はグレーのニューバランスにした。
これが一番歩きやすい。

次は持っていくものを考える。
大量の荷物は持てない。
ヘリに乗せることが出来ないし、動きが鈍ってしまう。
多分それは危険だし、もしかすると18時に間に合わなくなるかもしれない。
18時に間に合わなかったらどうなるか、俺にはわからない。
次の19時の便があるのだろうか。
それとも翌日まで待たなければならいのか。
どちらにせよ、碌な事にはならないだろう。
実家に帰省するときに使っている、少し大きめのリュックを使うことにした。
アウトドアブランドのリュックだから機能性は問題ない。
これに入る分だけ持っていくことにする。
印鑑と、通帳と、マンションの契約とか、保険とかの書類。
財布と携帯の充電器と、A4サイズのノートパソコン。
もうすぐ暗くなる時間帯だし、懐中電灯も持っていくことにした。
あと余っていたウィダーインゼリー2本も入れておく。

これ以上、とくに持っていきたいものはなかった。
もともと、モノをあまり持たない主義だし、四畳半の小さな部屋における量は限られていた。
着替えも持っていく必要はない。
荷物は帰省するときより、ずっと軽いものになっていた。

最後に、携帯をポケットに入れようとした時、メールが来ていたことを思い出した。
携帯を操作してメールボックスを開く。


送信者:母
件名:大丈夫ですか?
本文:事故があったみたいですが、大丈夫ですか?
   無事なら返信してください。


母からのメールは三十件近くあった。
父からも二十件。
後は学校や、バイト先や、友人達から。
内容はどれも同じで、みんな俺のことを心配してくれていた。
最後のメールは三日前だった。
おそらくその日に情報統制されたんだろう。
全部を見る時間はなかったから、かいつまんで読んだ後、メールボックスを閉じて携帯をポケットにしまった。
身体の緊張がほぐれて、少し軽くなったような気がした。

リュックを背負って、部屋を出ようと扉に手をかけたとき、扉の脇に立てかけてあったそれが目に留まった。
実家から持ってきた金属バット。
小学校、中学校、高校と野球をしていた。
本気で甲子園を目指していた時期もあった。
結局、俺は夢破れたわけだが、このバットは当時から使っていて、大学の野球サークルに参加するために持ってきたものだった。
しかしそのサークルは野球サークルとは名ばかりの飲みサーで、俺は入って早々幽霊部員になったのだが。
以来、一度も触れることなく埃を被っていた。

動きは少し鈍くなるが、武器は持っていったほうがいいかもしれない。
金属バットがゾンビにどれほど効果があるかはわからないが、武器があるかないかで精神的な余裕はずいぶん違う。
何より、十年来付き合った相棒だ。
持っているだけで落ち着くし、こいつをここに置いていくのは薄情な気がした。
片手が塞がるのは痛いが、持って行くことにする。
バットの傍らに置いてあった黒のバッティング手袋をはめ、金属バットを片手に持つ。
バットは長い間放って置いたのに、手に吸い付くように馴染んだ。
時間を確認すると17時30分だった。
あと30分で学校に着かなくてはいけない。

俺は深く息を吐いて扉を開けた。



[19477] 【17時30分】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/06/21 23:11
【17時30分】

部屋から通路に出る。
11月の冷たい風が吹きさらしの通路を通り抜けていく。
通路には錆びた金属の扉と、鉄格子をはめた明り取りの窓が並んでいて、突き当りに階段がある。
築三十年の寂れたマンションだ。
ゾンビは見当たらない。
通路から下を覗くと駐車場がある。
駐車場の電柱に中型トラックが衝突して、電柱が半分に折れていた。
そこにもゾンビは見当たらない。
霧島さんが言った「ゾンビが市外を目指している」というのが本当なら、市の中心部にあるここは一番ゾンビの少ない地域なのかもしれない。

俺はリュックの肩ベルトを調節して走りやすい長さにする。
腰ベルトも締めて安定させる。
30分で1km移動しなくてはならない。
野球をやっていたころは1kmを3分30秒で走ることができた。
しかしそのタイムは障害物のないグラウンドを一定のペースで走った場合で、今は当てにできない。
俺は走り出した。

数歩も走らないうちに、リュックが何かに引っかかってバランスを崩し、冷たいコンクリートの床に尻餅をつく。
振り返ると、リュックの端を土気色の腕が掴んでいた。

「うわっ!」

腕は、鉄格子をはめ込んだ窓の隙間から伸びている。
それは明らかに生きた人間の腕じゃない。
俺は身体をひねって振り払う。

「くそっ、離せ!」

力が強く、なかなか振り払うことが出来ない。
俺はリュックを掴んでいる腕に、バットを振り下ろす。
体勢が崩れいて、あまり力が乗らない。
それでもかまわず、何度も叩きつける。
鈍い音を立てながら、次第に腕が折れ曲がっていく。
執拗に叩き続けると、ついに腕が千切れた。
千切れた腕は、未だにリュックの端をつかんでいる。

荒い息を吐いて、後ずさる。
窓からは2本目の腕が、俺を捜し求めるように伸びている。
窓の隙間から人の顔のようなものが見えた。
土気色の肌が所々腐って崩れ落ち、目は白く濁っている。
口はだらしなく開き、腹の底から響いてくるような低いうめき声を上げている。
そこには人間らしさや、生物らしさは見当たらない。

俺は踵を返して、走る。
早く走ろうと意識しすぎて、手と足の動きがちぐはぐになる。
通路を駆け抜け、階段を転がるように降りる。
駐車場に出て、中型トラックの影に駆け込み、ようやく一息ついた。
荒い息を整えながら、リュックにぶら下がった腕を見る。
腕は肘のあたりで千切れていて、傷口からの出血はほとんどない。
すでに血液が凝固していた。
腕を引っ張ってリュックから外そうとするが、なかなか外れない。
リュックを置いて、指を一本一本こじ開けるように外していく。
千切れた腕に力入れると、皮膚がめくれ、肉が露出した。
悪臭が鼻腔を刺激し、あまりの臭いに息を止める。
腐っていた。
そうでなければバットで叩いて腕が千切れるはずがない。
俺はリュックから外した腕を投げ捨て、止めていた息を吐き出す。
そしてゆっくり息を吸い、また吐き出す。
暴れていた心臓が静かになっていく。
俺は落ち着くことができる。

窓の隙間から見た、人の顔のようなものを思い出す。
人の顔をしていたが、明らかに人間じゃなかった。
あれがゾンビなんだろう。
最初に遭遇したのが鉄柵越しのゾンビでよかったと思う。
自由に動き回れるゾンビだったら、今頃は喰われていたかもしれない。
俺はゲームのチュートリアルみたいなステージに遭遇したのだ。
そう思うことにした。

ゆっくりしている時間はない。
はやく小学校に行かなくてはならないし、もしかしたらあのゾンビが扉を開けて追ってくるかもしれない。
霧島さんはゾンビの知能は低下していると言ったが、扉を開ける程度の知能があるのかどうか、俺にはわからない。
俺はリュックを背負って立ち上がる。
めちゃくちゃな動きをしたのに、身体は少しも疲れていなかった。
むしろ普段よりも軽い気さえする。
これが火事場の馬鹿力なのかもしれない。
違うかもしれないが、似たようなものだと思う。
なんにしろ好都合だ。

中型トラックの影から道路に出て、辺りを見回す。
幅4mぐらいの道路の脇には、民家や商店が並んでいる。
建物の一階のガラスはほとんど割れている。
道路には車や瓦礫が散乱しているが、人間が通る分には問題なさそうだ。
俺はゾンビがいないことを確認して走り出した。



障害物を避けながら走る。
道路には何体もの死体が無造作に転がっている。
道路の脇の建物は、所々、廃材で補強されている。
その中にはゾンビが閉じ込められていて、俺を捕まえようと手を伸ばす。
廃材がその度に軋みを上げて、今にも破れてしまいそうだ。
俺はそれを避けながら走る。
しばらく走ると、バリケードが見えてきた。
二台の車が道を完全に塞いでいて、その車に大きな看板や、トタン板が立てかけられている。
バリケードの前には二対のゾンビがいるが、まだ俺のことに気付いていない。
俺はゾンビの手前にあるワゴン車まで走り、身を隠す。
ゾンビまでの距離は10mぐらいだ。
ワゴン車の下に潜ってゾンビを覗く。
音を立てて気付かれないように、注意する。
二対のゾンビはどちらも中年の男で、地面に跪いて死体を喰っていた。
肉を喰らう咀嚼音がここまで聞こえてくる。
喰われている死体は若い女性だ。
彼女の腹からは内臓が、破裂したみたいに道路にぶちまけられている。
もう息はない。

小学校へ行くには、バリケードを越えてこの道を直進するのが一番早い。
迂回するのにはひどく時間がかかるし、迂回した先に今みたいなトラブルがあったら18時に間に合わないかもしれない。
しかしゾンビを無視してバリケードを乗り越えるのは難しそうだ。
ゾンビがどんなに鈍くても、バリケードを上っている途中で気付くだろうし、気付かれたら引き摺り下ろされてしまうだろう。
俺はリュックを掴んだゾンビの、力の強さを思い出す。
引き摺り下ろされたらまずい。
車を使ってひき殺してしまおうと思ったが、このワゴン車は頭が半分民家に突っ込んでいて動きそうになかったし、周りを見渡してもまともに使えそうな車はなかった。

覚悟を決めて、右手に握った金属バットを見る。
俺はこれでゾンビの腕を千切った。
体勢が崩れていて、まともに力が入れられなかったにもかかわらず、千切ることができた。
ゾンビの身体は腐っていて、生身の人間よりずっと脆い。
万全の体勢でフルスイングすれば、いけるんじゃないかと思う。
それに、今日は身体の調子がすこぶるいい。
きっとできる。

俺はワゴン車の下から、這い出る。
そして慎重に、ゆっくりと、歩く。
ゾンビまであと5mぐらいにの距離に近づいても、ゾンビは気付かない。
この距離なら、一息で詰める事が出来る。
俺はアスファルトを強く蹴り、駆け出す。
バットを両手で握り締め、振りかぶる。
ゾンビがようやくこちらに気付いて顔を上げるが、俺はその顔に、バットを振り下ろした。
バットに鈍い手応えが伝わり、ゾンビの頭が地面に転がる。
頭をなくした首から、凝固しかけの血液が滴り落ちる。
俺は振り切ったバットを引き、もう一体のゾンビに向き直る。
ゾンビは立ち上がり、両手で掴みかかってくるが、その動きは決して素早いとはいえない。
俺は落ち着いて、ゾンビの腹にバットを叩き込む。
バットは、ゾンビの腹に半分程、埋まった。
ゾンビは少しよろめいたが、腹にバットが埋まったまま、倒れこむように掴みかかってきた。

「嘘だろっ!」

咄嗟に転がって、避ける。
地面を何度も転がり、距離を離して立ち上がる。
ゾンビはうつ伏せに倒れこみ、起き上がろうともぞもぞと動いている。
バットはゾンビの腹に埋まったままだ。
武器がない。
ゾンビが立ち上がる前に、どうにかしなくてはならない。
俺は駆け出す。
ゾンビの腹にバットを半分埋め込んでも、仕留められなかった。
腹ではダメだ。
俺は跪いた格好のゾンビの頭を、蹴り飛ばした。
ゾンビの首が折れ曲がり、起き上がりかけていた身体が、アスファルトに沈む。

やったか……?

ゾンビの頭を、足先で軽く小突いてみる。
その足を、掴まれた。

「――っ!」

ゾンビが脹脛に噛み付こうとする。
しかし、首が折れ曲がっていて上手く噛みつけない。
俺は脚を振って、足首を掴むゾンビの手を払おうとするが、ゾンビの握力が強く、払えない。
ゾンビが折れ曲がった首を捻り、噛み付いてくる。
俺は振り払うことを諦め、掴まれていない方の足で、ゾンビの頭を踏みつける。
やわらかい感触が足の裏に伝わり、ゾンビの頭が半分ほど潰れる。
もう一度、踏みつける。
今度はゾンビの頭を貫き、足の裏にアスファルトの硬い感触が伝る。
潰れたトマトみたいに、脳髄がアスファルトに飛び散る。
カーゴパンツにも、少なくない量の血と脳髄が付着する。
ゾンビの全身が、電気を流されたカエルの足みたいに痙攣した。
もう動き出す事はなさそうだった。
深く息を吐いてから足を放し、ゾンビの腹からバットを引き抜く。
赤黒い血と肉片が、バットにこびり付いている。
ゾンビの服に擦り付けて拭おうとしたが、どうせすぐに汚れるだろうからやめておいた。

俺は頭のない二対の死体に目を馳せる。
腹を抉った程度では、ゾンビは問題なく行動できるようだ。
完全に両断すればどうなるかわからないが、そんな手間をかけるより頭を潰した方が早そうだ。
少なくとも、頭を潰せば噛み付くことは出来ない。


俺は、凄惨な殺人現場を作り出したのに、それを冷静に観察していた。
感覚が麻痺しているのかもしれないと思う。
部屋を出てからたったの数分で、沢山の死体を見た。
多分それは、普通の人が一生のうちに見る死体の数より、ずっと多い。
人間は環境に適応する生き物らしい。
俺はたった数分で、死体が動き回るこの環境に、適応してきていた。

息を整えて、バリケードを登る。
上まで登ったところで、背後に物音がして振り返った。
さっきまでゾンビに腹を喰われていた女性が、ゾンビになって起き上がり、バリケードをよじ登ろうとしていた。
だけど上手く登れないみたいだ。
どうやら彼女はあまり複雑な動きが出来ないようだった。
俺は彼女を無視して、バリケードの反対側に飛び降り、駆け出す。



俺はほとんど全速力で走り続けている。
ずいぶん走ったのに、身体は少しも疲れる気配がない。
途中、何体ものゾンビにあったが、ほとんどは無視して通り抜けることができた。
ゾンビの動きには個体差があったが、せいぜい早歩きぐらいの早さだ。
障害物が邪魔して無視できないゾンビは、バットで頭を飛ばした。
一対一なら問題なく対処できた。

小さな商店の角を曲がると、小学校が見えた。
小学校は高いフェンスに囲まれていて、見る限りグラウンドにはゾンビがいない。
フェンス沿いに走って、正門を目指す。
フェンスの外には、沢山の死体があって走りにくい。
俺は少しスピードを落として走る。
道路に横たわった死体を飛び越えようとした瞬間、急に死体が動いた。
俺はその死体に引っかかって、アスファルトに転ぶ。
身体を起こして振り返ると、死体が起き上がっていた。
釣られるように、周囲の死体も動き出す。
俺は踵を返すが、後ろの死体も起き上がっていた。
俺が死体だと思っていたものは、全てゾンビだった。
完全に囲まれている。
ゾンビがゆっくりと迫ってくる。
俺はゆっくりと後ずさる。
ざっとみて、二十体以上いる。
この群れを金属バット一本で切り抜けるのはどう考えても無理だ。
背中にフェンスが当り、音が鳴る。
ゾンビが後一歩のところまで迫り、口を大きく開け、噛み付こうとする。
俺は身体を反転させ、バットをフェンスの向こう側に放り投げる。
もう間に合わないかもしれないが、これしか方法がない。
ゾンビの腕を振り切って、両足に力を入れて跳び、フェンスに摑まる。
ゾンビが、俺の足を掴もうと、手を伸ばす。
俺はゾンビの手を避けて、フェンスをよじ登る。
上まで登って、グラウンドに飛び降りた。
振り返ると、ゾンビは呻き声をあげながらフェンスを揺らしていた。
フェンスはかなり丈夫な作りで、この数のゾンビが相手でも耐えることができそうだった。

「は……はは」

自分でも、驚くほど上手くいって自然と笑みがこぼれる。
俺は放り投げたバットを拾ってから、もう一度フェンスを見上げる。
フェンスは5m以上の高さがあった。
さっき俺は一跳びでフェンスの中腹に摑まった。
単純に考えて、助走なしで2m近い高さまで跳んだということだ。
垂直跳びの世界記録がいくつだかはわからないが、成人男性の平均は60cm程度だったはずだ。
俺は三倍以上跳んだことになる。
明らかに普通じゃなかった。
思えば、1km走って動き回ったはずなのに身体が全く疲れていない。
それどころか、動けば動くほど、俊敏に、力強くなっていくような気がした。
まるで自分の身体に、何かが馴染んでくるみたいに。
もう一度跳んだら、今度は2m以上飛べるような気がする。

「ははっ」

あまりにもバカバカしくて、笑ってしまう。
垂直跳びで2m以上跳べるわけがないじゃないか。
たまたま火事場の馬鹿力が出ただけだ。
もしかすると一跳びじゃなくて、途中でフェンスに足をかけていたかもしれない。
それにいったい、何が馴染んでくるというんだ。
四日も寝ていたから最初が最悪だっただけで、徐々に調子を取り戻してきたから勘違いしただけだ。
俺は馬鹿な考えをやめて、ゾンビに背を向けた。

時計を見ると17時42分だった。
余裕を持って到着することができて、胸をなでおろす。
小学校は静まり返っていた。
もうこの地域の人は全員避難したのか、俺以外は誰もいない。
ゾンビもいない。
その代わりにグラウンドのいたるところに荷物が散乱している。
リュックやキャリーバックや大きな衣装ケースまである。
きっとヘリに乗り切らなかった荷物だろう。
こんな大きな荷物を準備して持ってくるより、さっさと逃げてしまったほうがよかっただろうにと思う。
グラウンドを見渡すと、ミステリーサークルみたいに荷物が置かれていない部分を見つけた。
多分そこでヘリが発着したんだろう。
俺はそこに歩き出す。
ミステリーサークルの近くまで来た時、俺は朝礼台の影に少女が座っていることに気づいた。
俺は少女に声をかける。

「どうも」

少女は返事をしない。
聞こえなかったのかと思って、少女に近づく。
少女はセーラー服を着ている。
顔は陰になっていてよく見えない。

「どうも」

俺はもう一度声をかけるが、やはり少女は返事をしない。
それどころか身じろぎひとつしない。
俺が近づいてきていることに気付いているはずなのに、全く俺に注意を払わない。
目の前に立っても、彼女は何の反応もみせない。
不審に思って、少女の顔を覗き込む。

「――っ!」

少女の顔は、血で真っ赤に染まっていた。
驚いて一歩後ずさる。
そこで、少女の顔だけじゃなく、全身が血で染まっていることに気付く。
もとは白かったであろうセーラー服は、白い場所を見つけるのが難しかった。
血の雨でも降ったかのように、少女の全身は濡れていた。
俺は奇妙なことに気づく。
少女の髪も、真っ赤に染まっているのだ。
髪の色が黒だとしたら、たとえどれだけ血で濡れても、黒のままのはずだ。
真っ赤に染まるには、元の色が相当薄くなくてはならない。
少女の髪を観察していると、血に濡れていない一房を見つけた。
色は白だった。
少女の鈍い反応――血で濡れた身体――白髪――俺の頭にひとつの仮説が浮かび上がる。

彼女の心はとまってしまっている。

精神的なショックを受けると、一晩で髪の色が抜けて、白髪になるという。
おそらく彼女にとって衝撃的な出来事があって、彼女は自分自身を守るために、心をとめてしまった。
何が起こったかは、血で染まった彼女を見れば大体想像できる。

俺は少女から離れて、周囲に転がった荷物を漁る。
着替えやゲーム機やノートパソコンやプラズマテレビ、中には逃げるために持ち出そうとはおよそ思えないものまで入っている。
その中からバスタオルを見つけて、水のみ場で濡らす。
そして少女の傍らに戻って顔を拭いてやる。
少女の大きな目が俺を見る。
綺麗な黒い瞳の中に、彼女の意思のようなものは感じられない。
本当に、俺を見ているのかわからない。
まるで俺の中にある別の何かを見ているように思える。
焦点は間違いなく俺に合っているのに、彼女は俺のことを見ていない。
そんな気がした。
俺が危害を加えないことがわかると、彼女は目を元の位置に戻す。
少女の目は、中空をあてもなくさまよっている。

少女の顔についた血は、乾き始めていて落とすのに少してこずった。
血を落とした少女の肌はきめ細かく真っ白だった。
少女の髪も拭いてやる。
肩甲骨辺りまで伸びた彼女の髪を拭うのは大変で、俺は何度か水飲み場を往復してタオルを洗う。
少女の髪は、驚くほど白かった。
白い肌に、白い髪、そして大きな瞳。
白ウサギみたいだと思った。
彼女は笑えば愛嬌があって、さぞかしかわいいだろうと思う。
今のままでも十分整っているけど、表情があったらきっともっとかわいいだろう。
だから表情がないのがとても残念だった。

血で濡れたセーラー服も着替えさせたほうがいいと思ったけど、やめておく。
着替えならそこらへんに沢山転がっているけど、俺が少女を着替えさせるのはなんだか悪い気がしたし、犯罪じみていた。
それに少女を着替えさせている間にヘリが到着したら、まずいことになりそうだ。
荷物の中にあった毛布を少女の肩にかけてやる。
十一月の風は冷たいから、風邪をひかないように。
血に濡れた制服は気持ち悪いかもしれないけれど、この街から脱出するまでは我慢してもらうしかない。
でも彼女は多分、血で濡れた制服を気持ち悪いとは思っていない。
十一月の風を冷たいとは思っていない。
髪についた血も、顔についた血も、気持ち悪いとは思っていない。
多分、何も思っていない。

俺は少女の隣に腰を降ろし、少女と同じように中空を見る。
すでに日は沈んでいて、残照がまだらに浮かぶ雲を茜色に染めている。
茜色の雲を見ていると妙に懐かしくなる。
何で懐かしいのかはわからないけど、懐かしくなる。
死んだ街の中の、荷物の散らばったグラウンドから見上げると、いつもよりずっと懐かしい。

ぼんやりと空を見ながら、少女がこれからどうなるのだろうかと考える。
彼女の両親は生きているのだろうか。
兄弟は?
親戚は?
友達は?
少女は心を取り戻すことができるのだろうか。
多分これは俺が考えてもしょうがないことだと思う。
だけど考えずにはいられない。
家族も親戚も失わなかった俺は、多分運がいいんだと思う。
こんな事件に巻き込まれてしまったけれど、ケガもないし後数分で何事もなく脱出できる。
友達はどうなったかわからないけれど、あいつらはしぶといし、きっと大丈夫だ。
だけど彼女は、もしかしたら命以外の全てを失ってしまったのかもしれない。

そんなことを考えていたら、緊張が解けたのか腹が減ってきた。
俺はリュックからウィダーインゼリーを取り出して飲む。
一気に飲まずに、ゆっくり、味わって飲む。
普段ならおいしいとは思えないけど、今は素直においしいと思った。
視線を感じて少女を見ると、彼女はじっとウィダーインゼリーを見つめていた。
俺はリュックからもう一本ウィダーインゼリーを取り出す。

「飲む?」

そう言って彼女に手渡す。
多分彼女は受け取らないんじゃないかと思ったけど、しばらくウィダーインゼリーを見つめたあと、受け取った。
彼女は手に持ったウィダーインゼリーをじっと見つめる。
俺はそんな彼女をじっと見つめる。
ふたの開け方がわからないのかもしれないと思って、俺はふたを開けてやる。
彼女はそれでもじっと見つめていた。
俺は彼女の前で、自分のウィダーインゼリーを飲む。
彼女は俺を真似るみたいに飲み出した。
彼女は淡々と飲んでいて、美味しいとか、そんな感情の変化は読み取れない。
やがて彼女は淡々と飲み干した。
飲み干してもずっと吸い続けていたので、俺は彼女の口からウィダーインゼリーを引き抜いた。
彼女は引き抜かれたウィダーインゼリーを目で追っていたが、取り返そうとするそぶりは見せない。

「俺の飲みかけだけど、いる?」

俺は飲みかけのウィダーインゼリーを差し出す。
彼女はそれを受け取って、飲みだす。
しばらくして飲み干したが、今度は飲み干した後すぐに口を離して、俺に差し出した。
俺はそれを受け取って、リュックにしまう。
荷物が散乱しているんだから捨てていっても大差ないだろうと思ったけど、少女の前でそんなことをする気にはなれなかった。

俺は少女の前に腰を下ろす。
少女は中空ではなく、俺を見つめる。
俺の中にある別の何かでもなく、俺を見つめる。

「俺は佐藤悠太」

俺は彼女に話しかける。

「おれは……さとうゆーた」

彼女は鸚鵡返しに言う。
掠れてしまいそうなぐらいか細い声だった。

「えっと――佐藤悠太って言うのは俺の名前だ。ゆうた、俺の名前はゆうた」

「……ゆーた」

「うん、そう、ゆーただ。君の名前は?」

「……」

彼女は答えない。
だけど彼女は無関心ではない。
彼女は必死で俺の言ったことの意味を理解しようとしていた。
俺はもう一度尋ねる。

「君の名前は」

「……わからない」

彼女は暫らく考えたあと、言った。
彼女が質問の意味がわからないのか、名前がわからないのか、俺にはわからない。
けどそこを問い詰めても、多分話が先に進まないと思った。

「えっと、まあいいや。名前はわからない、と。意味がわからないのか、名前がわからないのか、わからないけど、とにかくわからない。けど、名前無しで会話を進めるのは不便だから、便宜上の名前を決めてもいいかな?」

「……」

彼女は答えない。
やっぱり、俺の言っていることの意味がよく理解できないようだった。

「うん」

と俺は言って、首を縦に振る。

「……うん」

彼女も俺の真似をして首を縦に振る。

「OK、じゃあ決めるよ」

といっても、すぐに名前が思いつくほど、俺のボキャブラリーも想像力も豊かではなかった。
彼女の顔を見て考える。
彼女も俺の顔をじっと見る。
ウサギっぽいからウサギにしようかと思ったけど、それはあまりにも安直で、失礼に思えた。
ふと彼女の胸元に金属板がぶら下がっていることに気付いた。
俺はそれを手に取る。
金属板は首飾りになっていて、板には英数字が彫ってある。
それはドッグタグだった。
彼女のファッションなのだろうか。
少し前にドッグタグが流行った時期はあったが、いささか流行遅れだし、ドッグタグの持つ無骨な雰囲気は彼女にはあまり似合っていなかった。
俺はドッグタグに彫られた英数字を読み上げる。

「T-204」

ドッグタグは普通自分の名前を彫るものだが、これはどう見ても名前じゃなかった。
もしかしたら、誕生日とか、ラッキーナンバーとかそういった類のものかもしれない。
なんにしろ、これは彼女に関連する記号だから、これをもとにして名前をつけるのが正しいように思えた。

「うーん……ティー……ティーでいいんじゃないかな、わかりやすいし、呼びやすいし、ドッグタグに彫るぐらいだからきっと大切な意味があるんだろう。ティーでいいかな?」

「……うん」

彼女は首を縦に振る。

「OK、君の名前はティーだ。ティー」

「……てぃー」

「そう、それが君の名前だ」

そう言って俺は微笑む。
彼女はやはりよくわかっていないようだったけど、しっかりと俺を見ていた。

それから俺たちは話をした。
ほとんど俺が一方的に話しかけているだけだったがそれでもよかった。
彼女はしっかりと俺の話を聞いて、理解しようとしていたから。
彼女がこの街から脱出して、普通の生活に戻ったとき――いや、彼女の場合はおそらくリハビリ生活だろう――少しでも俺との会話が役に立ってくれればいいと思った。

遠くの空からヘリのプロペラ音が聞こえてくる。
空を見上げると、残照をバックにして大型のヘリがゆっくり近づいてきた。
実際は結構な速さで飛んでいるんだろうけど、今の俺にはすごくゆっくりに見える。
時計を見ると17時57分だった。
俺はティーの手をとって立ち上がり、大きく腕を振る。
彼女も真似して、腕を振る。
ヘリの姿が大きくなってくるにつれて、俺は違和感に気付く。
ヘリの飛行が安定しないのだ。
上下左右にフラフラと飛んでいる。
まるで何かを振り払おうとしているみたいに。
目を凝らすとヘリの周りを黒い点がまとわり付いていた。
カラスだ。
三十羽近いカラスの大群がヘリにまとわり付いて飛んでいる。
カラスはヘリのガラスに体当たりをしてヒビを入れている。
正面のガラスが真っ白で、ほとんど視界がないようにみえる。
何羽かのカラスが、メインローターに巻き込まれて地上に落下していく。
ヘリは蛇行しながら俺たちの方へ、飛んでくる。
いや、墜ちてくる。
ヘリの姿が大きくなるにつれて、急激に速度を増しているように感じる。

「くそっ!」

俺はティーを抱え上げて走り出す。
彼女は何が起こっているのかわからないようだったが、全く抵抗しなかった。
走り出した俺を追うように、ヘリが軌道を変える。
ヘリの操縦者も必死で、悪気はないだろうが、追いかけられる俺たちはたまらない。
ティーを強く抱きしめて、全力で走る。
足が千切れるんじゃないかと思うほど、必死に動かす。
ヘリが真後ろまで迫って、地面に衝突する瞬間、俺は地面を蹴って跳んだ。
そしてティーを庇うように、身体を捻って包み込む。
数メートル後ろに、ヘリが墜落した。
土砂を撒き散らしながら、地面にめり込み、潰れていく。
メインローターが地面を削り、半ばで折れて、地面に倒れた俺の鼻先を掠めて飛んでいく。
墜落したヘリに、カラスが群がっていった。
俺はティーを抱えて、背中を地面で擦りながらヘリから離れる。
10メートルほど離れたとき、ヘリが爆発した。
カラスも爆発に巻き込まれて燃え上がる。

俺は呆然とそれを見上げる。
このヘリは多分、俺たちの救助に来たヘリだと思う。
それ以外には考えられない。
ヘリの運転手は災難だったと思う。
だけど俺たちはどうなるんだろう。
次の救助はいったいいつになるんだろうか。
代わりのヘリはあるんだろうか。

俺の胸に抱えていたティーが少し身じろぎした。
そこで俺は、現実に引き戻される。

「あ、ごめん」

俺はティーを抱えていた腕をとく。
だけど彼女は、俺の胸に乗ったまま動こうとしない。
彼女は俺の顔をじっと見つめる。
俺も彼女の顔をじっと見つめる。
悪態でもつきたい気分だったが、そうもいかなかった。
少なくとも、彼女の前でそんなことはできない。
今この世界で、彼女を守れるのは俺しかいないんだと思う。
俺がしっかりしなくてはいけない。
俺はゆっくり息を吸う。
ティーも真似してゆっくり息を吸う。
十秒数えてから、ゆっくりと吐き出す。
ティーも真似してゆっくりと吐き出す。
俺は落ち着くことができる。

俺は立ち上がってティーを隣に下ろす。
俺を見上げる彼女の頭を、そっと撫でる。
まずは霧島さんに電話をかけなければいけないと思う。
これからどうすればいいのか尋ねないといけない。
携帯を取り出して、電話をかけようとすると、携帯が震えた。
非通知着信だ。

俺は少し迷ってから、電話をとる。




[19477] 【18時】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/06/23 10:04
【18時】

『アンブレラ製薬生物災害対策コールセンターの霧島です』

電話の相手は霧島さんだった。
彼女は相変わらず、落ち着いた感情のこもらない声で話す。

「ちょうどよかった、今小学校にいるんですが、ヘリが墜落してしまったんです」

『はい、救助ヘリが墜落した事はこちらでも確認しております。そのことでお電話させていただきました』

「それで、どうなるんですか?」

『大変申し上げにくいのですが、現在、市のウィルス汚染状態が予定より悪化しています。その結果、ウィルスで凶暴化したカラスによって、大型ヘリが墜落させられる事態にまでなりました。残念ですが、アンブレラ製薬生物災害対策チームは、これ以上のヘリでの救出活動は、犠牲者を増やすだけだと判断しました』

「……つまり、どういうことですか?」

『救出活動自体を断念したと判断していただいてかまいません。アンブレラ製薬が、佐藤様の脱出を手伝う事はできません』

彼女は、淡々と告げる。
死刑宣告にもとれる言葉を、平然と、何の揺らぎもなく。

「ちょっと待ってください、じゃあどうやって脱出すればいいんですか?」

『佐藤様ご自身で、脱出されるしかありません』

「そんな……そうだ、自衛隊の救助はないんですか? アンブレラが駄目でも、自衛隊なら――」

『自衛隊の救助活動が開始される見込みはありません』

「そんな……」

『大変残念な結果になりましたが、アンブレラ製薬一同、佐藤様の無事を心よりお祈り申し上げます』

彼女はマニュアルを読み上げる。
その声の中には、仕事としての義務感しか感じられない。
彼女はきわめて忠実に、任務を遂行していた。

「無事を心よりお祈り申し上げる? この事故自体、アンブレラ製薬が原因じゃないですか、なのに何で、そんな他人事みたいなことを言うんですかっ!」

俺の中で押さえ切れなくなった感情があふれ出る。
こんなことに意味がないとわかっていても、抑えることができない。

『私どもも、大変心苦しく感じ――』

「こんな事故を起こしておいて、何でそんなに無責任なんですか!これは俺一人の問題じゃないんです、俺の隣には、中学生ぐらいの少女もいます」

俺は隣にいるティーを見る。
彼女はじっと、俺を見つめていた。
あふれ出ていた感情が、波が引くみたいに俺の中に戻ってくる。
俺がしっかりしないといけなかった。

「彼女は精神的なショックで髪が真っ白になってしまっています。自分の意思で動くことも、考えることも、ほとんどできません。そんな少女に、あなた達は自力で脱出しろというんですか」

『白髪の少女がいるのですか? 佐藤様の隣に?』

「ええ、中学生ぐらいの華奢な少女です」

そこで霧島さんは沈黙した。
電話の奥から、キーボードを打つ音がかすかに聞こえる。

「霧島さん?」

俺は不審に思って声をかける。

『はい、失礼致しました。実を言いますと、佐藤様がそこから脱出する方法がひとつだけあります』

「ちょっと待ってください、脱出方法を教えてくれるのはありがたいですが、俺には全く話が見えません。どうして教えてくれるんですか?」

彼女は再び、沈黙した。
その沈黙が何を意味するのか、俺にはわからない。
考えているのだろうか、迷っているのだろうか、それ以外だろうか。
沈黙は10秒ぐらいだった。

『私には妹がいました――もう何年も前に、病気で亡くしました。佐藤さんが話す少女の特徴が、妹とよく似ていたので……。私には、その少女を見捨てることが出来ません』

「亡くなった妹さんも、白髪だったんですか?」

『はい……病気で色が抜け落ちてしまっていました』

亡くなった妹。
いかにも、取ってつけた様な理由に思える。
それをそのまま信じていいのか、俺にはわからない。
だけど彼女は、完全に自らのマニュアルの外に出ている。
それだけはわかる。

「……わかりました。とりあえず脱出方法を教えてください」

『その前に、佐藤様に知っておいてもらわなければいけないことがあります』

「何ですか?」

『先にも申し上げましたが、ウィルス汚染が予定より悪化しています。アンブレラ製薬はウィルス感染が市外にまで及ぶ可能性が非常に高いとみて、本日22時にウィルス滅菌作戦を敢行し、市を爆破します。あと4時間で佐藤様は脱出しなければなりません』

「そういう大切なことを、なんで最初に――!いや、これは霧島さんのせいじゃないですね……。取り乱してすいません」

俺は再度あふれ出しそうになった感情を押さえ込む。
アンブレラ製薬に対する不信感が、これ以上ないぐらいに高まっていた。

『こちらこそ、黙っていて申し訳ありませんでした』

「いえ、俺は気にしてませんから。説明を続けてください」

『それでは説明させていただき――』

霧島さんがそこまで言ったとき、電話口から電子音が響いた。
アラームのような甲高い音だ。

『佐藤さん、今から市全域が完全に情報統制されます!この通話もあと数秒で切断されます!』

彼女は慌てた声で言う。
その声には、確かな感情がある。

『今から駅に向かってください!19時に必ず電話します!詳しい事はその時に説明するので、それまでに駅長室に――私を信じて――』

そこで電話は切れた。
最後はノイズ混じりで、あまり聞き取れなかった。

「19時に駅長室」

俺はそれを忘れないように呟いて、携帯をポケットにしまう。

時計を見ると18時05分だった。
小学校から駅までの距離は、マンションから小学校まできた距離より少し長いくらいだから、何事もなければ19時までに到着できるだろう。

――しかし、霧島さんを信じていいのだろうか。
亡くなった妹に似ているから見捨てることができない、という理由で俺たちを逃がそうとするのだろうか。
俺は彼女と妹の関係がどんなものだったのかわからない。
その絆がどれほど深いものだったのかわからない。
それを知らない俺は、彼女を素直に信じることができない。

仮に、彼女が嘘をついているとするなら、彼女はなぜ、ティーの話を聞いて態度を急変させたのだろう。

「君が、アンブレラ幹部の娘とか?」

俺はティーに問いかける。
ティーは首を傾げ、俺の顔を見つめる。

「ありえないよな」

俺はその考えを否定する。

もし、ティーがアンブレラ幹部の娘だとすれば、たとえ危険でもアンブレラが迎えにくるはずだ。
俺にティーを託すとは考えにくいし、アンブレラ幹部の娘だということを隠さずに告げたほうが話は上手く進んだだろう。
それに電話が途中で切れたことを考えると、霧島さんの行動は恐らく独断。
少なくともアンブレラ製薬は関与していない可能性が高い。
絶対ではないが、そう考えるのが自然だ。

――いや、電話の途中でキーボードを打つ音が聞こえたことを考えると、独断と言い切ることはできない。
彼女は電話中、誰かに連絡を取っていたのかもしれない。
何かを調べていた可能性もある。
だとすれば、誰に、なんと連絡を取っていたのだろうか。
いったい、何を調べていたのだろうか。

「ふう……」

俺は大きく息を吐いて、腰を下ろす。
これは二人の命がかかった問題だから、よく考えたほうがよさそうだ。
ティーも俺の隣に腰を下ろす。
身体が密着するぐらい近くだ。
ティーの体温が伝わって、温かい。
もしかして、彼女は寒かったのかもしれないと思って、まだ燃えているヘリに少し近づく。
彼女も同じように少し近づく。
身体は密着したままだった。

俺は考える。
霧島さんの目的が俺たちの脱出だとすれば、彼女の真意が何であれ、俺たちにとって不利益にはならないはずだ。
では、もし彼女の目的が俺たちの脱出以外だとしたら?
何らかの理由で、俺たちを罠にはめようとしているのだとしたら?
――おそらく、あまり好ましくない事態になるに違いない。
だけど、具体的にどんな目的があって、どんな罠にはめて、どう好ましくない事態になるのか、俺にはわからない。
今ある情報では、わからない事だらけだ。

仮に、霧島さんが俺たちを罠にはめようとしているとするなら、どうすれば安全に脱出できるのだろうか。
俺はいくつかの案を考える。

まずは、単純にバリケードを乗り越える案。
市外まで一番近くて、ここからだいたい6kmだ。
単純に歩いたとすれば2時間もかからないが、単純に歩けるような状況ではないだろうと思う。
この付近のゾンビの少なさを考えれば、バリケード周辺のゾンビの密度は相当なものになるはずだ。
多分、この小学校付近は台風の目みたいなものだろう。
無策でバリケードに突っ込むのはあまりに無謀だし、俺だけでなくティーも連れて行かなければならないことを考えると、かなり難しいだろう。
バスやトラックのような大型車を使ってバリケードを突破する方法も思いつくが、道路がほとんど使えないこの状況を考えると、これも難しい。
そもそも、AT限定免許しかないペーパードライバーの俺に大型車を動かすことができるのかわからない。
この案はあまり採用したくない。

次は、地上が駄目なら地下という案。
つまり、下水道を通って市外へ脱出する。
この案にはひとつメリットがあって、22時までに脱出できずに市が爆破されても、下水道にいれば生き残れるかもしれないのだ。
しかしこの案には大きな問題があって、下水道が安全ではない可能性が高いのだ。
ウィルスに感染したカラスがヘリを襲うような状況だ。
ねずみが感染してもおかしくないし、ゴキブリや、水中の生物が感染していても全くおかしくない。
それに下水道は都市の汚れが集中する場所だから、ウィルスによる汚染は下水道が一番酷いと考えていいだろう。
最悪の場合、下水道に入っただけで人体に感染するかもしれない。
この案はどう考えても下策だった。

他にもいくつかの案を考えるが、どれも一か八かの博打要素の高い案で、現実的とはいえなかった。
霧島さんの案がどんなものかは知らないが、少なくとも俺が考えたものよりはマシだろうと思う。
俺は所詮、ただの大学生だ。
サバイバル経験もないし、従軍経験もない、全くの素人だ。
そんな素人がちょっと考えた程度で、まともな案が浮かんでくるとは思えない。
霧島さんがサバイバル経験があるかどうかは知らないが、少なくともウィルスに関しては俺よりよっぽど詳しいし、現在の感染状況や危険な場所とかも知っているはずだ。
もしかしたら、もっと有益な情報も知っているかもしれない。
その情報を基に考えれば、それなりに信頼できる脱出方法を考えられるはずだ。
どうせまともな手段がないのなら、たとえ罠だという可能性があったとしても、霧島さんに従うのは悪くない選択かもしれない。

「とりあえず駅に行ってみよう。そこで霧島さんの連絡を待って、それからどうするか考える。駅に着くまでにいい案が浮かんでくるかもしれないし。どうかな?」

俺はティーに尋ねる。

「……うん」

彼女は頷く。
多分よくわかっていないだろうけど、彼女は少しずつ、意味を理解していっているように
思える。
もしかしたら、俺が想像するよりずっと理解しているのかもしれない。

「よし、じゃあ着替えないとな。いくらなんでもその格好じゃまずい」

血に濡れたセーラー服では寒いだろうし、身体にへばりついて動き辛そうだ。
それに薄手だからゾンビに噛まれたらすぐに破れてしまう。
時計を見ると、18時14分だった。
19時までに駅に着くために、遅くても18時30分には学校を出たい。
途中で何かトラブルがあるかもしれないし、今はティーがいるから学校まで来た時と同じように移動することはできない。

「着替えはできる?」

俺が尋ねると、ティーは頷いた。
ほっとしたような、残念なような、少し複雑な気持ちになる。

「よし、じゃあちょっと待ってて。適当に見繕うから」

俺はそう言って、辺りに散らかる荷物から女物の服をいくつか見繕い、ティーの前に置く。

「この中から好きなのを選んでて」

ティーが頷くのを確認して、俺は再び荷物を漁る。
荷物の中からフェイスタオルと陶器の器を見つけて、水のみ場で器に水を汲んでくる。
陶器の器は結構大きくて、かなり高級な代物のようだ。
陶器のことはよくわからないが、ここまでわざわざ持ってきたんだから、一万、二万で買えるものじゃないだろう。
俺はそれをヘリの火にくべて、水を温める。

「着替えは決まった?」

俺はティーに聞く。

「……うん」

彼女は頷く。
ティーが選んだのは、この付近の私立中学校の制服だった。
グレーのブレザーに、白いブラウスに、赤いネクタイに、チェックのスカート。
冬服でそれなりに厚手だが、それでも少し薄いような気がする。

「制服、好きなの?」

「……わからない」

彼女はしばらく考えてから、そう言った。
自分がなぜそれを選んだのか、全くわからないみたいだった。

「まあいいか、でもそれだと少し薄いから、ブレザーはやめてこれにしよう」

俺はそう言って、着替えの山から黒いレザーブルゾンを引っ張り出す。

「それと、スカートの下にはこれ」

同じく、黒いタイツを出す。

「どうかな?」

と俺は訊く。

「うん」

と彼女は頷く。

「じゃあ着替える前に血を落とそう」

髪と顔の血は拭ったけれど、彼女の身体にはまだ血が付いている。

「うん」

彼女は頷く。

「服を脱いでから、このタオル身体を拭くんだ。ヘリの火で水を温めているから使うといい。俺はその間、後ろを向いて見ないようにしている。できるね?」

彼女は頷く。
俺はフェイスタオルを渡してから、少し離れて後ろを向き目を閉じる。

後ろで、彼女が服を脱ぐ音がする。
かなりよく聞こえる。
周囲が静かだから服を脱ぐ音が特別よく聞こえるのか、それとも俺のやましい心がそれを聞き取ろうとしているのか。
もしかしたらそれ以外かもしれない。
だけど、それ以外が何なのか、俺にはわからない。

彼女は制服を脱ぎ終わった。
ブラもショーツも脱いで、一糸纏わぬ姿だ。
俺は後ろを向いて目を閉じている。
それでも、彼女が今何をしているのかわかってしまう。
とてもリアルに『みえて』しまう。

彼女は陶器の器でフェイスタオルを濡らして、身体を拭く。
首筋から肩へ、腕から手へ、拭いていく。
彼女の身体は、華奢でほっそりとしている。
胸は僅かに膨らみ、彼女の腕が動くと主張するみたいに僅かに震える。
彼女はフェイスタオルをもう一度濡らす。
脇から胸へ、腹から背中へ、拭いていく。
彼女が身体を拭く度に揺れる膨らみと、小さな突起に目が奪われる。
やがて、彼女は下半身を拭きはじめる。
小さなお尻を撫でるように拭いていく。
その度に柔らかく形を変えて、俺の目を誘う。
そして彼女は、まだ生え揃っていない、産毛みたいなそこに手を伸ばして――。

これ以上は、まずい。
これがたとえ、俺の妄想が生み出した産物だとしても、これ以上考えてはいけない。
少なくとも今は、それを避けなければいけない。
妄想なら脱出してから思う存分やるべきだ。
俺はゆっくり息を吸う。
十秒数えてから、ゆっくりと吐き出す。
俺は落ち着くことができる。

俺は空を見上げた。
日は完全に沈んでいて、明るい月が夜空に浮かんでいた。
月は、こんなに明るかっただろうかと思う。
以前見た月よりずっと明るくて、まるで昼間のようだとは言わないけれど、雨の日ぐらいの明るさはあった。
最後に見た月がいつだったかは覚えていないけど、それはここまで明るくなかったはずだ。
俺は、今日は月が特別明るい日なのかもしれないと思う。

ティーは身体を拭き終わって着替えていた。
ショーツをはいて、ブラをつけようとしている。

「ゆーた」

ティーが俺を呼んだ。

「どうした?」

俺は振り返らずに答える。

「ゆーた」

彼女はそう言って、近寄ってきた。
俺の前に背中を向けて立つ。

「うしろ」

彼女はブラのホックを指す。
どうやら上手く締められないようだった。

「あー、えっと、目開けていいか?」

さすがにホックの位置までは、妄想じゃ補いきれない。
彼女は頷く。

俺は目を開けて、彼女を見る。
彼女の身体は妄想の中の姿と変わらずに、そこにある。
白いショーツに、白いブラに、白い肌に、白い髪。
全身が真っ白だった。
ブラのホックが外れていて、雪原のような背中をさらしている。

俺はホックに手を伸ばして、締めてやる。
一瞬背中に触れた感触が、指にいつまでも残っているような気がした。
彼女はホックが締められたのを確かめると、着替えのところまで戻って、着替えを再開した。

着替えを終えたティーが戻ってきて、ぴったりと密着して隣に座った。
彼女の体温を感じる。
ついさっきまで、やましいことを妄想していたから、とても居心地が悪い。
だからといって、離れるわけにもいかない。
彼女はもしかして、人肌が恋しいのかもしれない。
心の奥では、寂しくて泣いているのかもしれないから、居心地が悪いからという理由だけで、彼女を離すことは出来ない。
時計を見ると、18時25分だった。
そろそろ出発しなければいけない。
俺は左手でティーの手を取って立ち上がり、右手にバットを持つ。
ティーの服装は、適当に見繕ったにしてはサイズも合っていたし、似合っていた。
俺はティーの手を握って歩き出した。
彼女も握り返して、歩き出した。

小学校の裏門に登って辺りを見回す。
周囲はゾンビがいない。
正門はゾンビが何体かいたたからやめておいた。
俺一人なら突破できそうだったが、ティーも一緒にいることを考えると、避けたほうがいい。
俺は門の上から、ティーに手を差し出す。
彼女はその手を――とらない。
彼女は俺の手を見て、迷っていた。
手をとりたそうで、とろうとしない。

「どうした? ほら、いくよ」

彼女は黙っている。
彼女の瞳が、俺の顔と手の間を往復する。

俺は門から降りて彼女の手をとり、また門に登った。
俺が手を引いても、彼女は登ろうとしない。

「どうしたんだ? はやくしないと――」

「――待ってる」

俺の言葉を遮って、ティーが言う。

「待ってるって、いったい何を?」

「……わからない」

彼女はそう言って俯く。
彼女がいったい何を待っているのか。
その答えはそれほど難しいものじゃないと思う。
そして、彼女が待っているものが、ここに彼女を迎えに来る事は、恐らくない。
俺の想像通りなら、それはいくら待っても、彼女の前に現れない。

「えっと……」

俺は、どうするべきか悩む。
彼女に、待ち人は来ないことを伝えるべきなのか、それとも、適当なことをいってごまかしたほうがいいか。
彼女をここに置いて行くと言う選択肢はない。

俺が悩んでいると、彼女は意外と軽い身のこなしで、門を登った。

「え、いいの?」

「……いい」

彼女はそう言って、俺を見つめる。
俺は彼女を抱えて門を飛び降り、左手に彼女の手を、右手にバットを握って、ジョギングぐらいの速さで走りだした。



[19477] 【18時30分】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/06/24 22:10
【18時30分】

ゾンビを避けながら走る。
ティーがいるためあまり速く走ることはできないが、駅までの道は幅の広い国道だからゾンビを避けるのは簡単だ。
道路には自動車や瓦礫やゴミが散乱している。

俺は後ろを向いて立っていたゾンビの頭を、バットで殴り飛ばす。
ゾンビの胴体がアスファルトに倒れこみ、首から血が吹き出すのを尻目に、道を塞いでいた自動車を越えて先を急ぐ。
ゾンビの感覚器官の優劣には個体差があるのか、すぐ後ろまで近寄っても気付かないやつもいれば、少し物音を立てただけで気付くやつもいる。
おそらくゾンビの能力は、生前の身体能力や腐敗状況によって決まっているのだろうと思う。

燃える自動車を避け、瓦礫を飛び越え、道を塞ぐゾンビをバットで殴る。
炎の明かりが道路を茜色に染める。
街灯の明かりよりも、月の明かりよりも、炎の明かりのほうがずっと強い。
炎はゆらゆらと揺れて街を照らし、それにあわせて影も形を変える。
動きには、人の注意をひきつける力がある。
それは動物的な本能によるものだろうけど、今日の俺は炎の揺れに異常なほど敏感に反応してしまう。
研ぎ澄まされた感覚が、危険を察知しようとアンテナを張り巡らせている。

しばらく走った後、道路に横転していたバスに登り、周囲を見渡す。
遠くに線路が見える。
線路の手前で左折して少し進むと駅で、今は道程の中程だ。
時計を見ると18時38分だった。
周囲にゾンビがいないことを確かめて、ティーをバスの上に引き上げる。
ゾンビは複雑な動きは出来ないものが多く、こうして高い場所に登っていれば比較的安全だ。

「少し休憩しよう、疲れただろ?」

俺はそう言って、腰を下ろす。
少しも疲れていなかったけど、ティーは違うだろう。

「……」

ティーは無言で首を横に振った。

「疲れてないの?」

「うん」

彼女は頷く。

「意外と体力あるんだな――でも、疲れてなくても休んでおいたほうがいい。駅に着いて、それで終わりとは限らない。まだ続くかもしれない。計画的に休んでいこう」

彼女は頷いて俺の隣に腰を下ろす。
体温が伝わる位、すぐ近くだ。
こうしてみると、彼女はずいぶん俺に懐いているみたいだった。
相変わらず感情は薄くて、何を思っているのか良くわからないけれど、それでも彼女には確かな感情がある。
出会った当時の、意志の感じられない瞳はもうない。
彼女は必死に、俺のことを理解しようとしている。
雛が親鳥に学ぶみたいに、俺を観察して、真似して、近づこうとする。
もしかするとこれは、インプリンティングみたいなものかもしれない。
でも、それでもいいと思う。
これは、彼女が立ち直る切っ掛けに過ぎないのだから。

俺たちは仲のいい兄妹みたいに身体を寄せ合って座る。
ティーがそっと俺の手を握ってくる。
彼女は、自分の行動が正しいかどうか確かめるように、おそるおそる俺の反応を伺う。
俺は微笑んで、彼女の手を握り返す。
彼女も俺を真似して、不器用に微笑む。
左右非対称のぎこちない笑みだけれど、彼女の精一杯の笑みだった。
俺は彼女の頭をそっと撫でてやる。

しばらく無言で、ぼんやりと街を眺める。
後数時間後に、この街は消えてしまう。
大学に通うために数年間暮らしただけの街だけど、それなりに思い入れがある。
この街がなくなってしまうのは、少し寂しかった。
最後になるであろうこの町の景色を、俺はしっかりと目に焼き付けた。

研ぎ澄まされた感覚が、僅かな違和感を伝える。
思考を止めて、辺りを警戒する。
それは平穏な水面の上に落ちた一滴の水滴のように、波紋を広げ、大きくなっていく。
立ち上がって周囲を見渡すが、それらしきものは見当たらない。
――耳が、異音を捉えた。
何かが地を蹴り、駆ける音が聞こえる。
少しずつ大きくなって、こちらに近づいてきている。
速い!

「何か来る、逃げるぞ!」

俺は叫んで、ティーを抱え上げてバスから飛び降り、駆け出す。
足音の主が何かはわからないが、この速さはゾンビではなさそうだ。
足音は向きを変えて俺たちを追ってくる。
風を切る音が耳を震わせ、周囲の景色が高速で流れていく。
俺は人一人抱えているというのに、高速で走っている。
だというのに、追いかける足音は俺よりも幾分か速い。
少しずつ、確実に、距離が縮まってくる。
俺は歯を食いしばって走る。
今はまだこれ以上速く走れない。

――今はまだ?

いや、いまはこんなことを考えている場合じゃない。
ノイズを頭の中から消し去り、優先すべき事柄に向き直る。

足音は、明確に聞き取れる距離まで近づいていた。
数は複数。
いくつかはわからないが、聞き分けられる数よりは多い。
意識を集中して、背後に迫る足音の主を探る。
今の俺にはそれができる。

距離は――9m後方。
数は――3つ。
足音の正体は――犬だ。

三匹の大型犬が、俺を追いかけている。
それを確認したのと同時に、辺りに獣の咆哮が響き渡る。

「――っ!」

思わず悲鳴を上げそうになった喉を、強引に塞ぐ。
どう考えても、犬が人間にじゃれ付くような雰囲気ではない。
辺りを見回して逃げられそうな場所を探すが、そんなものはどこにもない。
犬はすぐ後ろに迫っていた。
もう戦闘は避けられない。
駅にたどり着く前に追いつかれるのは明白だ。
俺は覚悟を決めてもう一度辺りを見回す。
今度は身を隠せる場所ではなく、少しでも有利に戦える場所を探す。
視線の先に古びた歩道橋を見つけた。
階段の上に陣取れば有利な状況で迎え撃つことができそうだ。
俺は歩道橋に駆け寄り、階段を数歩で飛び越える。
そして急いでティーを降ろし、振り返る。
目前に、鋭い牙と、赤黒い口腔が飛び込んできた。
咄嗟にバットを刺し込んで防ぐが、地面に押し倒され、背中をしたたかに打つ。

「カハッ――!」

叩きつけられた肺の空気が、行き場を求めて吐き出される。
犬が――いや、ゾンビ犬が俺に覆いかぶさって、バットを咥え込み、噛み砕こうとしている。
首筋に、そいつの口から滴った涎が垂れる。
強力な顎に噛締められたバットが軋みを上げる。
くそっ、なんて力だ。
俺は身体を捻り、足を引き付けて、ゾンビ犬の腹を思い切り蹴り飛ばした。
キャンと甲高い声で鳴いて、そいつは階段の下に落ちていく。
それを見届ける前に、俺は素早く体制を整えて、バットを構えた。
一匹目がしくじったのを見て、即座に二匹目が飛び掛ってくる。
待ち構えていた俺は、牙を剥き出しにした頭に、容赦なくバットを振り下ろした。
頭が砕け、肉と血と脳髄を撒き散らしながら、そいつは転げ落ちていく。

俺は油断なく構えて、異形の犬を見据える。
一匹はこちらを警戒するように、踊り場で身構えていた。
階段の下では、蹴り飛ばした犬が起き上がっている。
どちらも大型犬だったが、犬種の判別がつかないほど、外見が崩れていた。
口元が腐り墜ちて鋭い牙がむき出しになっており、身体を覆っていた毛皮が剥がれ落ちて赤い筋肉を晒している。
目は白く濁って、薄気味悪い外見をいっそう引き立てている。
実家で犬を飼っていた俺としては、その姿はいささか堪える。

大仰な唸り声を上げて、階段の下で立ち上がったゾンビ犬が一気に駆け上がってくる。
俺は階段の上で、ただ待つ。
最後の数段を大きく跳躍して飛び掛ってきたそいつの頭に、タイミングを計ってバットを振り下ろした。
目前で無残に頭を潰され、血肉を飛散らして重力に従いゆるやかに落下していく。
その死角から、赤黒い影が飛び出す。
だが――俺はそれを知っている。
見えなくても、見えている。
俺はバットから手を離して、死体の影から飛び掛ってきたゾンビ犬に、逆に飛び掛る。
目前にあったそいつの首を両手で掴み、空中に身を投げ出す。
俺は空中で体勢を整え、ゾンビ犬をクッションにして、地面に着地した。
衝撃で、ゾンビ犬の首が折れ、鈍い感触が両手に伝わる。
俺は首を掴んだ左手はそのままに、右の拳を振り下ろす。
思いのほか簡単に頭が潰れ、衝撃で右拳が軽く痺れる。
真っ赤な花が咲いたように、アスファルトに体液が飛び散る。
深く息を吐いて、立ち上がる。
バッティング手袋をはめた手に、粘着質の体液がこびり付いていた。
服も返り血で汚れている。
胃液が喉元までこみ上げてくるが、喉を絞めて飲み込む。
小学校に転がっていた荷物から、タオルを持って来るべきだったと思った。

しかし――自分でも驚くほど感覚が鋭い。
ほんの僅かな違和感を、即座に見つけることができる。
どこから何が来るのか、見えなくてもわかる。
身体は、思い描いた動きを、寸分違わず実行できる。
はたしてこれは、火事場の馬鹿力で説明できるものなのだろうか。
何よりも大きな違和感を、自分の身に感じていた。

「ゆーた」

ティーに呼ばれて、振り返る。
彼女は俺が手放したバットを持ってきてくれていた。
俺はそれを受け取って、頭を撫でてやろうと思ったが――血のついた手を見てやめる。

「ありがとう」

俺はそう言って、微笑む。
彼女もぎこちなく、微笑む。

俺はカーゴパンツで手を拭いて、ティーの手を取り、走り出した。



18時51分に駅に着く。
大きくもなく、小さくもない、どこにでもある普通の駅だったが、どこか懐かしい雰囲気が漂っていて好きだった。
今はもう、その雰囲気はない。
橋上駅舎に取り付けられた水平連続窓は全て割れていて、駅舎に続く階段の入り口には机やロッカーを積み上げたバリケードが築かれていた。
踏み切りは、自動車で塞がれていて、電車で脱出というわけにはいかないようだ。
そもそも、電車の動かし方を俺は知らない。
俺はバリケード前にいたゾンビ2体を始末し、バリケードの一部を崩して中へ入る。

明かりがついていて、中はそれなりに明るかった。
俺はティーの手を握って、慎重に階段を上がる。
感覚が――何かがいることを伝えていた。
階段を上るとすぐに改札口が見える。
改札口のすぐ脇に事務室があるが、そこにもバリケードが築かれている。
バリケードには3対のゾンビがしがみ付いていた。
安心して、大きく息を吐いた。
今更、ゾンビ程度に臆することもない。

ティーに待っているよう言って、俺はバリケードを叩くゾンビの一体に素早く近づき、バットで頭を潰す。
こちらに気付いて、振り返ったゾンビの頭にも一撃。
足が折れているのか、地面を這いずるゾンビの頭は踏み潰す。
簡単に処理できるようになっていた。

「ティー、終わったよ」

俺の言葉に、ティーは駆け足で隣にくる。

事務室は堅牢なバリケードに覆われていて、簡単には入れそうになかった。
おそらく、駅長室はこの中だ。
中にはまだ人がいるかもしれないと思って、俺は声をかける。

「誰かいますか? いたら中に入れてください」

しばらく待つが、返事がない。

「誰かいませんか? いないならバリケードを崩しますよ」

もう一度声をかけるが、やはり返事がない。
仕方なく、積み上げられたバリケードに手をかけようとしたとき、中から声が聞こえた。

「こっちだ、入れ」

低い男の声だ。
その力ない声の響きは、注意しなければ聞きとれないぐらい弱弱しく、周囲に溶けていった。
鍵を開ける音が聞こえ、改札脇の扉が少し開く。

中に入ると、狭い室内にはほとんど何もなく殺風景だった。
使えそうなものは全て、バリケードに使っているようだ。
中年の男が一人、椅子に腰掛けている。
肉体労働の仕事をしているのだろうか、日に焼けた肌に、がっしりとした体格だ。
男の全身は血塗れだった。
肩、左腕、右足、身体中のいたるところから出血していて、男が歩いた後の床には血の足跡がついている。
男の脇には20歳前後の青年が青白い肌をして仰向けに倒れている。
もう息はない。
こちらも血塗れだったが、胸からの出血がひどい。
多分、それが致命傷だ。

「息子だ」

男が言った。
そこには押さえ切れない複雑な感情が込められている。
悲憤――悲哀――苦悩――後悔――絶望。
それらが複雑に混ざり合い、残響となって狭い室内にいつまでも響き渡る。
そんな錯覚に襲われる。
俺は何を言えばいいのかわからず、黙っている。
いや――おそらくこの男は、答えを求めていない。
押さえ切れない感情が、行き場を求めて溢れているだけだ。

「俺が殺した」

男はそう言って、腰から黒い塊を取り出す。
――銃だ。

「死んだ警官から拝借した。これで殺った」

さっきは気付かなかったが、仰向きに倒れた青年の胸には銃創がある。

「こうするしかなかった――」

男は青年をじっと見つめる。

「じき、俺もこうなる。天国で、ちゃんと謝るさ――」

男はシャツの袖をめくって、腕を見せる。
腕には、歯型が刻み込まれていた。

「――それで、何しに来た? ここに助けは来ないぞ」

男は俺に向けて言った。

「待ち合わせ――みたいなものです。19時に駅長室にいろ、と。もしかしたら脱出方法があかるかもしれません」

「脱出方法か……。まあ、俺には関係ないこった」

男は頬を吊り上げて、自嘲気味に笑った。

「あなたも一緒に――いえ、なんでもありません」

俺は言いかけた言葉を飲み込む。

「……駅長室はそっちだ」

男は少し微笑んで、部屋の隅にある扉を指す。

「ありがとうございます」

俺は部屋を横切って、駅長室のドアノブに手をかける。

「ちょっと待て」

呼び止める声に振り向くと、男が銃を投げた。
俺はそれを受け取って、男を見返す。

「とっとけ。生憎、弾は後1発だが、ないよりましだろ。最後の一発は、自分用だったんだけどな。俺よりあんたが使ったほうがよさそうだ。嬢ちゃんを守ってやれ」

男はそう言って、ティーに向けて不器用なウィンクをする。
まったく似合っていなかった。
俺は、手元の銃に視線を落として――男に投げ返した。

「気持ちはありがたいですが、俺には必要ありません」

俺は右手に持ったバットを掲げる。

「それは、あなたが使ってください。あなたが使うべきです」

「そうか――欲しくなったら、俺が使う前に言えよ」

と男は言って、弱弱しく笑った。



駅長室は三畳程の広さに、机と、椅子と、書類棚が詰め込まれた窮屈な空間だった。

「ここに一体、何があるんだ」

思わずつぶやく。
どうみても、脱出の手がかりがありそうには見えなかった。
俺の声に、ティーが顔を上げるが、俺はなんでもないと言って首を振る。

「疲れたろ、座ってな」

ティーを椅子に座らせて、俺も机の上に腰掛ける。
あまり行儀がいいとはいえなかったが、今は気にしないことにする。
時計を見ると18時55分だった。
後5分、ここでゆっくり待つのもよかったが、走り回って少し喉が渇いていた。

「ちょっと飲み物買って来る。ここで待ってて」

俺は部屋を出ようとするが、ティーが席を立ってついてこようとする。

「だめだ、ここの方が安全だから、ここで待ってるんだ」

ティーは少し不満そうだったが、頷いて席に戻った。

「いい子だ」

俺は部屋を出て、ホームの自販機で飲み物を適当に何本か買ってくる。
ホームにはゾンビはいなかった。
こんな状況だというのに、自販機は律儀に稼動していた。

駅長室に戻ると、ティーは席を立って扉のすぐ前で待っていた。
俺は彼女の頭を撫でてやる。

「好きなのを選ぶといいよ」

俺は机の上に、飲み物を転がした。
ティーはしばらく迷っていたが、俺がポカリを選ぶのをみると、彼女も同じものを選んだ。
ポカリは好きってわけじゃなかったけど、点滴とほとんど同じ成分らしいし、今はこれを選ぶのが一番よさそうだ。
二人一緒に、ポカリを飲む。
冷たい飲料が、少し火照った身体を冷やしていく。
とても、おいしかった。

俺はこれからのことを考える。
結局、ここまできても、俺はまともな脱出方法を考えることができなかった。
俺たちに残された脱出方法は、霧島さんの案か、一か八かの博打だ。
もし、霧島さんの案に乗れなかったら俺たちは博打に出るしかなくなる。
あまり、想像したくない未来だった。

隣の部屋にいる男のことも考える。
彼は、ゾンビに噛まれている。
恐らく感染しているが、今すぐに彼がどうこうなるわけじゃない。
彼はまだ生きているし、もしかしたらワクチンみたいなもので、発症前なら治すことができるかもしれない。
彼をここに置いていってもいいのだろうか。
彼自身は、ここで死ぬことを望んでいるけど、それは人として止めるべきじゃないのだろうか。

わからない。

結局、彼が望んでいない以上、俺の自己満足で終わりそうだった。
それに、もし彼と一緒に脱出できたとして、ワクチンがなかったとしたら、俺は責任を取ることができない。
それは『ワクチンがありませんでした、ごめんなさい』で済む問題じゃない。
今は自分とティーの身を守ることで、精一杯だ。
怪我をした彼まで守れるとは思えなかった。
彼が望んでいない以上、俺は彼を助けることはできない。
できるような状況じゃない。



そして、しばらくして――携帯が震える。
俺はポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押す。



[19477] 【19時】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/06/27 15:25
【19時】

『霧島です。セキュリティの隙を突いて電話していますので、この通話は120秒しか繋がりません。ですので、必要な事柄から順次説明していきます。一時間後の20時に再度電話しますので、そのときにもまた必要な説明をしていきます』

電話に出るなり、霧島さんは早口に捲し立てた。

「あ、はい」

俺は驚いて、間抜けな返事をしてしまう。

『現在、佐藤様は駅長室にいますか?』

「はい」

『そこに書類棚がありますか?』

俺は狭い室内の隅に配置された、何の変哲もない書類棚を見る。

「はい、あります」

『その書類棚を移動させてください』

「移動? 移動ってどこに――あっ」

書類棚の脇の床には、何かが擦ったような傷があった。
それに沿って動かすと、書類棚は簡単に動いた。

「なんだこれ――?」

書類棚の下にはマンホールの蓋のようなものがあった。
蓋の中心にはキーパットが取り付けられていて、その両脇に取っ手がある。
俺は試しに取っ手を引いてみるが、びくともしない。

『それは地下搬入路への非常用出入口の扉です。地下搬入路は本来、アンブレラ製薬への搬入を地下路線を使って秘密裏に行うためのものですが、緊急時には脱出用の通路になります』

「それを利用して脱出する、と」

『はい。地下に降りたら左へ進んでください。アンブレラの車両基地に着くはずです。そこから電車で脱出します。とりあえず、20時までに車両基地に到着していてください。詳しい事はまたそこで説明します』

「はい、わかりました」

『では、扉のキーパットに今から言う数字6桁のパスワードを入力してください。ロックを解除します』

「はい」

『数字は******です。繰り返します******です』

俺はその数字を入力し、取っ手を引く。
扉は堅く閉ざされていて動かない。
間違えたのかと思って、入力し直してみるが、動かない。

「すいません、もう一度パスワードをお願いします」

『******です』

俺はその通りにパスワードを入力するが、扉は動かない。

「だめです、開きません」

『え、そんな……、******ですよ?』

俺は再度入力する。
やはり駄目だ。

「駄目です」

『まさか、パスワードが変更された……? そんなはずが』

霧島さんの声から彼女の動揺が伝わってくる。
電話の奥でキーボードを叩く音が聞こえる。

『……パスワードが変更されたのかもしれません。その場合、駅長に伝えられているはずなので、駅長室の中にパスワードが分かる物があると思います。それを探してください。私の方でも調べてみますが、それを伝えられるのは早くても一時間後の通話です』

「そうですか――わかりました、何とか探してみます」

『申し訳ありま――』

そこで通話は切れた。
俺は室内を見回す。
資料棚と事務机ぐらいしか、調べられそうな場所はない。
駅長室にあるとすれば、案外すぐに見つかるかもしれない。

まずは資料棚から手をつけることにする。
資料棚には数多くの資料が並べられているが、パスワードが記されていそうな資料はそれほど多くない。
おそらくパスワードが変更されたのは最近のことだろうから、古い資料は除外して探していく。

ふと視線を感じて振り返ると、ティーが俺を見ていた。

「どうかした?」

俺は尋ねるが、彼女は答えない。
その顔は少し不満そうにも見える。

「もしかして暇?」

少し考えて、彼女は頷く。

「えっと、じゃあパスワード探しを手伝って欲しいんだけど。文字は読める?」

俺は手に持っている資料を開けて見せる。
彼女は首を横に振る。

「資料が読めないとなると――そうだな、このキーパットに数字を適当に入力して、ロックが開いたら教えてほしいんだけど、できる?」

俺はキーパットにでたらめな数値を入力してみせる。
彼女は頷く。

「よし、じゃあ頼んだよ」

そっと彼女の頭を撫でると、彼女は少し微笑んだ。

六桁という事は0から999999までの100万通りの可能性があるということだ。
だいたい3秒間に1通り入力できると考えて、一分間に20通り。
一時間で1200通りだ。
それを100万で割り、一時間でたらめな数値を入力し続けて正解を引き当てる確率を出すと0.12%。
やらないよりはマシといったところだ。
だけどティーを見ると、どこか楽しそうに入力しているように見えなくもないから、まあいいんじゃないかと思う。
俺は資料棚から新しい資料を取り出して、作業を再開する。



一通り資料棚を調べたがパスワードらしい数字は見つからなかった。
もう一度資料棚を調べなおすか机を調べるか迷ったが、机を調べることにする。
机はよくある事務机で、使い古されてボロボロだ。
机の上には筆記用具と小さな鉢植えが置いてあるだけだ。
机には引き出しが三つあったが、一番上の引き出しには鍵がかかっていたから後回しにして、他の引き出しから調べる。
一番下の引き出しにはいくつかのファイルがあったが、どれも資料棚にあったものと似通っていて目新しいものはない。
真ん中の引き出しにはコップや歯ブラシや電卓が入っていて、資料らしい資料はない。
俺は一番上の引き出しに手をかける。
ここにないとしたら、もう一度室内を調べなおさなくてはいけない。
少し強く引いてみると鍵が傷んでいるのか、がたついた。
思いっきり力を入れれば壊すことができるかもしれない。
両手で取っ手を掴み渾身の力で引くと、少し軋んだあと鍵が壊れた。
飛び出した引き出しから中身が床に散らばる。

驚いてこっちを振り向いたティーに、なんでもないと笑いかけて、散らばったものを調べる。
その中にコミック本ぐらいの大きさの手帳があった。
革張りの上等な手帳で、使い込まれた黒皮の光沢が蛍光灯の光を柔らかく写している。
俺はそれを手にとって、パラパラと捲ってみる。

「これは――日記帳?」

そこには仕事場にあるには相応しくない、プライベートな内容が記されていた。
最近のページを開いて読んでいく。

10月22日
最近どうも地下搬出路が慌ただしい。
ラクーンシティで事故ってから急に何か始めやがった。
いったい何をやらかす気だ。

10月24日
アンブレラ研究所所長の塚本に何をやっているのか問い合わせてみたが、どうやら答える気はないらしい。
そのかわり金をもらった。
まあ、しばらくは好きにやるといいさ。
金を払ってるうちは、文句は言わねえよ。

10月30日
霧島玲子とかいう女が訪ねてきた。
なんでも、白い髪の少女を探しているらしい。
そんなガキ知らねえって言ったら、札束を出しやがった。
調べといてやると言って追い返したが、どうしたもんかね。
俺に聞いてくるってことはつまり、アンブレラに関係あるってことだろう。
あまり気が乗らない。


「霧島……玲子?」

白い髪の少女を探しているという女。
それは、俺が知っている霧島さんなのか?
だとしたら、なぜ彼女は白い髪の少女を探している?
彼女の妹は死んだはずだ。
死んだ少女を探そうというのか?

それに――白い髪の少女。
その少女はティーなのか?
だとしたら、ティーはアンブレラに関係のある人間ということだ。
彼女はアンブレラとどのような関係があるというのだろうか。

わからない。
俺は日記の続きを読み進める。

11月2日
塚本の野郎が地下搬入路のパスワードを変えてほしいと言ってきた。
しかも内密に、だそうだ。
あの野郎、アンブレラに秘密で何かやる気か?
まあ、相応の金さえ払ってくれればいいけどな。
忘れないようにメモしておく。
パスワード:******


とりあえず、パスワードを見つけた。
パスワードをティーに伝えて入力してもらう。
ロックの外れる音がして、扉が開く。
ティーの頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

俺は地下への扉はそのままにして、日記の続きを読み進める。

11月6日
あの野郎、やりやがった。
ここを第二のラクーンシティにするつもりか。
ふざけるんじゃねえ。
くそっ、身体がかゆい。


日記はここで終わっていた。

「ふぅ――」

俺は深く息を吐き出す。
時計を見ると、19時19分だった。
爆発まであと2時間41分。
そろそろ、これからどうするか決断しないといけない。
地下に行ってから、やっぱり別の方法で脱出しようと思っても、もう遅いだろう。
他もまた然り。
どのような手段をとるにせよ、ここらが選択のタイムリミットだ。

俺は情報を整理する。
ここで重要なのは霧島さんの目的が何なのかだ。
彼女の提案した脱出方法については全く不安がない。
俺の考えた案よりよっぽどいい。

俺は駅長に日記に記されていた、霧島玲子=霧島さん、白い髪の少女=ティー、という仮定で考えていくことにする。
とりあえず、いま考えうる最悪の仮定がこれだからだ。
こうすると、霧島さんはティーを必要としているということになる。
なぜ、彼女はティ-を必要としているのだろうかは分からないが、彼女がティーを殺そうとしているといったような可能性はないだろう。
学校で放っておけば、まず間違いなくティーは死んでしまったのだから。
おそらく、霧島さんが俺たちを脱出させようとしているのは本当だ。
少なくとも、ティーは脱出させるはずだ。
問題は脱出した後、霧島さんがティーをどうするつもりかだ。
ティーがアンブレラの関係者だとするなら、誘拐して身代金を要求するとかだろうか。
いまいちぴんとこない。
いずれにせよ、俺が注意してティーについていれば何とかなるような気がする。
霧島さんを信用するわけではないが、脱出させてくれるという部分は信用していいはずだ。

なんにせよ、まずは脱出することだ。
脱出できずに死ぬよりは、何倍もマシだ。
俺は霧島さんの案に乗ることにする。



「君はいったい、何者なんだ?」

俺はティーに問いかける。
彼女は困ったように首を傾げる。

「俺は君が何者だってかまわない。だけど、中にはそうじゃない人もいる。そういう人たちにとって君は、もしかするとお金になる存在なのかもしれない。それが問題なんだ」

彼女は真剣に、俺を見つめる。

「ごめん、ただの愚痴だよ」

俺はため息を吐いて、目を逸らす。
こんなことを彼女に話してもしょうがなかった。

俺は地下への扉を見る。
鉄製の簡素な梯子が奥深くまで続いている。
下は真っ暗でずいぶん深そうだ。
梯子の一段目に足をかけようとして、思いとどまる。
ここから脱出できることを事務室にいる男にも教えようと思った。
彼がどのような選択を取るにせよ、教えたほうがいい。

「ちょっと待ってて」

俺はティーに言う。
彼女が頷くのを確認して、隣の部屋に移る。



男は椅子に座って俯いていた。
少し肌が青白くなっていて、生気がない。

「すいません」

声をかけるが、男は俯いたまま動かない。
男の肩を叩いて、もう一度呼びかける。

「あの、すいません」

肩を叩く俺の手を、男が掴んだ。
強い力で引かれ、俺は体勢を崩す。
そして、額に銃が突きつけられた。

「待ってください、俺です!」

男ははっと我に返ったように俺を見て、銃を降ろす。

「すまねえ、ゾンビかと思っちまった」

男は罰が悪そうに謝った。

「いえ、こちらこそ起こしてしまってすいません」

「気にするな。それで、何の用だ? 待ち合わせは済んだのか」

「ええ、そのことで話があります」

男は言ってみろという風に、顎をしゃくる。

「駅長室から地下に降りて脱出することができます。あなたも一緒に脱出しませんか?」

男は少し、呆れたように笑った。

「おいおい、これが見えねえのか? 俺は感染してるんだぜ」

男はゾンビに噛まれた傷跡を晒す。

「ですが――」

「いいんだ」

何か言わなくてはと絞り出した俺の言葉は、男の声に遮られる。
この事態を傍観しているかのような、そんな声だ。

「もういいんだ。俺にはもう何もねえ。これ以上生きたいとは思わねえよ。それに、俺は傷だらけで満足に歩けねえ。あんたの迷惑にはなりたくねえよ」

「……わかりました」

「なに、気にするな。気持ちは嬉しいぜ。元気でな」

「はい、それじゃあ――」

俺はそれに続く言葉を探すが、見つからない。
元気で、と続けるのは問題外だし、また、と続けるのは無神経な気がしたし、さようなら、と続けるのも寂しい気がした。
結局、俺は何も言わずに背を向ける。

駅長室の扉を開けようとして、違和感に気付く。
すぐ近くに、いるはずのない何かが存在するような、強烈な違和感。

「おい、どうした?」

扉に手をかけて固まっていた俺に、不思議そうに男が声をかけてくる。
俺は何かを探そうとするが、それが何なのか上手くつかめない。
それをよく知っているような気がするが、全く知らないような、そんな気もする。
俺はため息を吐いて、探るのを諦める。

「いえ、なんでもありませ――」

そう言って振り返った先に、俺は、それを見つけた。
男の後ろに、床に倒れて死んでいた青年が佇んでいる。
男はそれに気付いていない。

「危ない!」

俺が叫んだ瞬間に、青年は男の首筋に噛み付いた。

男は声にならない叫びを上げて、振り払おうとする。
俺は即座に近づいて、青年の背にバットを振り下ろす。
頭はだめだ、手元が狂うと男に当たる。
バットを叩きつけても、青年はひるまない。

「くそっ!」

再度叩きつけようと振り下ろしたバットを、青年の手が振り払う。
バットが後方へ飛んでいく。
すさまじい衝撃に手が痺れる。
青年が男の首から顔を離し、振り向く。
青年の顔は真っ赤に染まっていた。
血が口元についているが、それだけじゃない。
ついていない部分も赤く染まっていた。
全身の肌が赤い。
爪も鋭く伸びている。
息が荒い。
これは、俺が知っているゾンビとは、根本的に違う存在だ。
そう理解した。

俺は後ろに跳んで、バットを探す。
同時に青年も動く。
ゾンビとは比べ物にならない速さで、俺に迫る。
俺はバットを探して、視線をさまよわせる。
あった――出入り口のすぐ横だ。
すぐさま駆け出そうとすると、頭の中に警報が鳴り響いた。
俺は咄嗟に頭を下げる。
髪を数本切り裂いて、爪が頭のあった空間を薙いだ。
驚くべき速度と威力に、背筋が冷たくなる。
俺は転がるように身を投げ出してバットに飛びつき、勘だけを頼りにして後ろに振り向きざまにバットを振り払う。
バットに鈍い手ごたえが伝わると同時に、鋭い爪がフライトジャケットを切り裂いた。

「くそっ!」

横に跳んで、青年から離れる。
青年は壁にもたれかかる様に体勢を崩していて、すぐには追ってこない。
俺は傷を確認する。
爪は厚手のフライトジャケットを切り裂いただけで、身体には届いていない。
よかった、感染はしていない。

俺はバットを構えて青年に向き直る。
青年は身体を前傾させて、迫る。
やはり、速い。
俺は後ろに跳んで間合いを離し、タイミングを合わせて青年の頭にバットを振り下ろす。
直前に、青年の身体が沈み込んだ。
バットは狙いがずれて肩口を叩く。
青年は沈み込んだ体制から、バネのように勢いをつけて飛び掛ってきた。

「ガハッ――!」

衝撃が、全身を貫く。
背中を壁に叩きつけられて、息が詰まる。
後頭部を強打したのか、視界が揺れる。
力が抜けて、膝が崩れ落ちる。

――まずい。

目前に青年の顔が迫る。
俺の首を掴んで、大きく顎を開ける。

まずい。

乾いた音が、響いた。
青年の身体が僅かに傾く。
俺はいうことをきかない膝に力を入れて、青年の懐から抜け出す。
青年は俺に背を向けて、何かを見ていた。
俺はその頭に、バットを、全体重を乗せて振り下ろした。
バットは青年の頭を潰し、脳髄をぶちまける。
青年の身体が沈んでいく。

俺もそのまま崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。

青年は床に伏せたまま動かない。
どうにか、倒したようだった。

俺は床に這い蹲って身体を回復させる。
視界が歪み、身体に力が入らない。

青年の後ろでは椅子に座った男が首から血を流しながら、銃を掲げていた。
銃身からは硝煙が僅かに立ち昇っている。
彼のおかげで助かったのだと、俺は悟る。
男はニヤリと笑って、ぐっと親指を立てる。
俺も笑って、右手の親指をぐっと立てた。



身体が動くようになったことを確かめて、俺は立ち上がる。

「いってえ……」

頭に鋭い痛みが走り、思わず膝をつく。
後頭部に触ると鈍く痛んで、手に血がついた。
大量の出血ではなかったのが幸いだ。
それにしても、さっきの青年はいったいなんだったのだろう。
あの動きは、ただのゾンビとは思えなかった。
もしかしたら、ウィルスの突然変異のようなものがあるのかもしれない。
なんにせよ、ただのゾンビだと思って侮るのはよしたほうがいいだろう。
赤い奴は、要注意だ。

俺は椅子に座った男の傍らに立つ。
彼はすでに死んでいた。
首から流れ出した血が床に血溜りを作っている。
虚空に向けて見開いた目を、俺はそっと閉じてやる。
そのまま立ち去ろうとして――それに気付く。
男の身体が、微かに動いた。
俺はバットを振りかぶる。
男の目が徐々に開いてゆく。
白く濁ったその目はもう、何も写さない。
俺は心の中で感謝の言葉を呟いて、バットを振り下ろした。



駅長室に戻ると、ティーが心配そうに待っていた。

「もしかして、俺がここで待ってろって言ったから、ずっと待ってた?」

彼女は頷く。

「いや、まあ今回はその判断は間違っていないけど、時と場合によっては臨機応変に行動していこう」

彼女は頷く。

「いい子だ」

俺は彼女の頭を撫でてから、地下へ続く梯子を降りていく。



[19477] 【19時30分】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/07/01 20:07
【19時30分】

梯子を降りた先は、真っ暗なトンネルだった。
いや、真っ暗なはずのトンネルだった。
光源はどこにもない。
空に浮かぶ月も、地中のトンネルまでは照らさない。
だというのに、俺はこの空間を把握することができる。

トンネルは緩やかなカーブを描きながら地中を貫いている。
幅は3m程度。
地面には2本のレールと、コンクリートの枕木が規則的に並んでいて、カーブの奥まで続いている。
壁面には数本のパイプが、これも奥まで続いている。
地下鉄の線路とほとんど同じだ。
少し狭いかもしれないが、実際に地下鉄の線路に降りたことがない俺には、どの程度違うのかわからない。

次第に、暗闇に目が慣れてきた。
より鮮明に、この空間を見通すことができる。
壁面に浮かぶ黒ずんだ染みも、ひび割れから染み出す水滴も、レールの映し出す僅かな光沢も、全てを把握することができる。

「どうして、こんなに見えるんだ?」

思わず呟く。
トンネル内を声が反響して、予想外に大きく響いていく。
傍らにいるティーが不思議そうに俺を見る。

俺を見る?

「君は見えているのか? 俺が見える?」

彼女は頷く。
それが当たり前みたいに。

「なんだ、ティーにも見えるのか」

彼女にも見えるのだとしたら、俺が特別おかしいというわけではないかもしれない。
どこかから光が反射して入り込んできたりしている可能性もある。
それに、よく見えるにこしたことはないのだ。
そのほうがずっと都合がいい。
実害がない以上、深く考える必要はない。
とりあえず、今は。
リュックの中の懐中電灯は、どうやら使うことがなさそうだ。

俺は霧島さんに言われた通りに、左へ進む。
線路にはゾンビやゾンビ犬はいないようだ。
それはそうだろうと思う。
線路には普通、生き物はいない。
線路に人間や犬がいたら驚きだった。
トンネルは湾曲していて先まで見通すことができないが、一本道だし、それほど危険はなさそうだ。
俺はティーと手を繋いで、早歩きぐらいのスピードで歩く。
枕木が邪魔して足場が悪く、走らないほうがよさそうだ。
俺はあまり邪魔だとは思わないけど、ティーには辛いだろう。

ティーは俺の手をしっかりと握って、危なげなくついてくる。
枕木に躓いて転んだりしそうな気配はない。

「霧島玲子って知ってる?」

ティーは知っているかもしれないと思って訊いてみる。

「……わからない」

彼女はしばらく考えた後言って、少し申し訳なさそうに目を伏せる。

「そっか、気にしないで。きいてみただけだから」

彼女は頷く。

線路はどこまで続いているのかわからない。
霧島さんはどれぐらい歩けば車両基地に着くのか言わなかった。
彼女が言わなかったという事は、とりたてて言う必要はなかったということだろうから、それほど長い距離ではないと思う。
しかしいくら歩いても変化のない風景は、終わりの存在を想像させず、俺を不安にする。
こんな状況では特に。
俺は不安をごまかすように、脱出した後のことを考える。
そして、ティーは脱出したらどうするんだろうと思う。

「君は――ここから脱出できたらどうする?」

「……わからない」

「そっか、そうだよな。脱出した後、何か困ったことがあったら俺に教えて。必ず力になるから」

「うん」

彼女は少し嬉しそうに頷く。

「俺はとりあえずゆっくり休もうと思うんだ。すごく疲れた。大学もしばらくは休みだろうし。もしかしたら、なくなってしまうかもしれないけど、でも、まあ何とかなるさ」

彼女は黙って聞いている。

「温泉に行こうと思うんだ。今まで親孝行とかしたことなかったし、バイトした金もそこそこたまったし、親孝行はいつでもできるってわけじゃないから。人間なんて、案外あっけなく死んでしまう。雷が落ちてくるとか、隕石が落ちてくるとか、ばかばかしい話だけど、そんな自分ではどうしようもないようなことが世の中には意外と沢山あるのかもしれない。そう思った。今日は色々なことがあったら……」

彼女は難しそうな顔で考えている。
どうやら、あまりよくわかっていないみたいだった。

「あー、えっと、愚痴みたいなものだから、あまり深く考えなくていいよ。俺は、その旅行に君も一緒に来ないかって聞きたかったんだ。父さんも母さんも、むさくるしい男じゃなくって、娘がほしかったっていつも言ってたし、隔てがない人たちだから心配いらない。どうかな?」

彼女は少し微笑んで、嬉しそうに頷いた。



トンネルは依然として緩いカーブを描きながら続いている。
奥から吹き込んでくる僅かな風の流れを感じる。
もしかしたら車両基地が近いのかもしれない。
不意に、俺は風の流れから何かを感じ取る。
それは空気の自然な流れではなく、不自然で、不揃いで、明確な違和感を伝えてくる。
進むにつれて、それは次第に大きくなっていく。
この先に――何かがいる。

「ちょっと待ってて。先を見てくる」

俺は彼女が頷くのを確認して、一人で先に進む。
微小な変化を感じ取るべく意識を集中して歩く。
不明瞭でぼやけていた存在が、徐々にアウトラインが形成され、質量を持った確かな存在としてイメージされていく。

それは大きい。
そして長細い。
多分、10mぐらいの長さだ。
幅はトンネルの半分ぐらい。

それが何なのか、俺にはわからない。
俺の知識の中に、それを表すべき名称がない。
大きくて、長細い何かが、トンネルの中にいる。
そうとしか言えない。

あと少しで目視できる距離で立ち止まる。
それはつまり、相手からも見られる距離だ。
俺は覚悟を決めて、前に踏み出し、身を乗り出して、カーブの先にいる何かを見る。

そこに――黒光りする甲殻がいくつも連なって、レールの上を我が物顔で這っていた。
頭にある一対の触手が動き、周囲を探っている。
体節から伸び、犇めく数多の脚。
嫌悪感を抱かせる醜悪な外見。
それは――巨大なムカデだった。

「こんなのありかよ……」

俺は驚愕して、小さく呟く。
人間、カラス、犬――ウィルスに感染した生物をいくつも見てきたが、このムカデは、それらとは全く異なった変異をしていた。
おそらくはウィルスに感染した後、巨大化という選択をしたのだ。
先程の異常に強いゾンビと同じように、ウィルスの突然変異のようなものかもしれない。

俺はゆっくりと身を引いて、それから離れる。
一息ついて、知らずに早くなっていた動悸を押さえ込む。

トンネルは一本道だ。
先に進むのであれば、こいつを倒すか、横を通り抜けるしかない。

しかし、10mのムカデを、果たしてバットで倒すことができるのだろうか?
何をどうすれば倒すことができるのか、俺には全く想像がつかない。
ライオンとか熊の方がまだましだ。
どちらも人間がバット一本では勝てそうにない相手だが、少なくともそれらは現実の生き物で、俺は弱点も知っている。
実際に倒せるかどうかは別として、倒す方法をイメージすることはできる。
だけど、10mのムカデはどうだ。
現実にはそんなものまず存在しない。
それはドラゴンを倒すにはどうすればいいかと聞かれるくらい、リアリティのない問いだった。

なら横を通り抜ける?
それこそ無理だ。
トンネルの幅半分近くを占める巨躯の、どこを通り抜けろというんだ。
トンネルの幅が倍ぐらいあれば試してみる価値はあっただろうが、この状況では捕まりに行くようなものだ。

なら引き返す?
時計を見ると19時49分だった。
爆発まで2時間11分。
今から引き返して別の方法で脱出する時間はもうないだろう。
この選択は、時間切れだ。

俺は深呼吸をして心を落ち着かせる。
とりあえず、戦ってみることにする。
あれがどれほどの動きができるのか確かめてみないことには、具体的な対処法も思い浮かばない。
それに、もしかしたら巨大化したせいでひどく鈍重で、横を通り抜けることができるかもしれない。

俺は震えだしそうになる手でしっかりとバットを握り締め、駆け出す。
先制で、加速をつけた一撃を叩き込むことにする。
俺の動きを感じ取った巨大なムカデが、頭を持ち上げる。
鋭い牙のような顎肢の先から毒液が滴り落ち、コンクリートに不気味な泡を立てる。
身が竦みそうになるのを必死に抑え、ただ走ることに集中する。
最大限に加速をつけた一撃を叩き込むことだけを考える。
風を切り、身体が加速していく。
まだ、もっと速くなる。
枕木を蹴る脚を、レールの上へ移動させる。
細いレールの上を、甲高い金属音を立てながら足先が跳ねる。
俺は加速する。
巨大なムカデが、顎肢を大きく広げて襲い掛かってくる。
巨躯のから繰り出される意外に素早い一撃は、しかし俺の動きを捉え切れていない。
俺は僅かに身体を屈めただけで、それを避ける。
頭上を巨大な質量の塊が通り過ぎ、空気が震える。
俺は目前に迫った腹に、全ての速度と質量を込めた一撃叩き込んだ。

ガキィンッ!

生物を叩いて出とは到底思えない音が反響した。
渾身のスイングに、手が酷く痺れる。
甲殻を一寸も傷つけることなくバットは止まっていた。

「マジかよ……」

呆然と、呟く。
今の俺が繰り出すことができる最大の威力の一撃でこれだ。
どうしろというんだ。

頭上で動く気配を察知し、咄嗟に飛び退く。
俺がいた床面に、巨大な顎が喰らいついた。
顎肢から出た毒液が、レールを泡立たせて溶かしていく。
鼻につく刺激臭が辺りに充満する。

俺は後ずさる。
本当に、どうしろというんだ。
雷が落ちてくるとか、隕石が落ちてくるとか、そんな自分ではどうしようもないようなことが世の中には意外と沢山あるのかもしれない。
まさしくこれがそうじゃないか。
バット一本の人間にはどうしようもないだろう。

巨大なムカデは頭を上げ、構える。
俺はそれを見て、踵を返して逃げ出した。
奴は存外に素早い動きで追ってくるが、ゾンビ犬より遅い。
このまま行けば、逃げ切れる。
奴との距離が開いていく。
それにつれて、俺は冷静さを取り戻してくる。

俺はいったい、どこまで逃げるつもりなんだ。
奴はいったい、どこまで追ってくるつもりなんだ。
このまま逃げていくと、いずれティーの所に辿り着いてしまう。
そこからは彼女を抱えて逃げなくてはならない。
そうなれば速度が落ちる。
スタミナが切れるのも俺のほうが早いだろう。
いずれ必ず追いつかれる。
その時は――ティーも一緒だ。

「くそっ!」

俺は身体を反転させる。
どうにもならなくても、どうにかするしかなかった。

奴はカーブの向こうから、数多の脚を不気味に動かして迫ってくる。
脚が擦れる度に、不快な音が轟く。
奴は俺の目前で止まり、トンネルいっぱいまで頭を持ち上げて、大きく顎肢を広げる。
そのまま、奴は獲物を観察する。
俺を効率的に狩る方法を考える。

俺は、ほんの少し後ずさる。
それは意図的にした行動ではなく、怯んだ心が本能的にとった行動だった。
その瞬間、襲い掛かってきた。
俺は大きく飛び退いてそれを避ける。
間髪入れずに、もう一度襲い掛かってくる。
今度は斜め後ろに跳んで避け、奴の側面にバットを叩き込んだ。
鈍い手ごたえと、痺れが襲う。
奴は平然と、再度襲い掛かってきた。

「くそっ」

悪態をついて飛びずさる。
顎肢がフライトジャケットを掠め、切り裂く。
化学繊維のフライトジャケットが、泡立ちながら溶けていく。

「うわっ!」

俺は急いでフライトジャケットを脱ぎ捨てる。
地面に落ちたフライトジャケットはドロドロに溶けていった。
続けて頭上から迫る気配を、俺は転がるようにして避ける。
が、避けた先に再度、顎が振ってくる。
立ち上がる時間はない。
俺はレールの窪みに嵌るように身を縮めて、それを避ける。
目前まで顎肢が迫り、大きく開かれた口が、空を切って閉じる。

大きく開かれた口?
それは、唯一甲殻に守られていない部分。
狙うなら其処しかない。

顎が過ぎ去ったのを見て立ち上がり、間合いを開ける。
奴は頭を上げて、再び観察するように俺を見る。
今度は、俺も奴を観察する。
鋭い顎肢の間にある口を狙うしか奴を倒す方法はない。
しかし現在、口は堅く閉ざされている。
奴が攻撃してきて、口を開けた瞬間に狙うしかない。
だがどうやって狙う。
バットをねじ込むにはいささか長さが足りないし、鋭さも足りない。
先端の面積が少ないほうが、力は集中するのだ。
バットは不向きだ。
俺は周囲をそっと見渡す。
コンクリート、レール、枕木、パイプ。

――パイプ。

俺は慎重に壁面に架かったパイプまで移動する。
奴を見据えたまま、隙を見せないように。
パイプを片手で引っ張ってみる。
ちょうど持ちやすい太さのそれは、留め具が少し軋んだ。
全力で引っ張ってみれば取れるかもしれないが、そんな時間を与えてくれるとは思えなかった。

どうやってパイプを取ろうと考えたていると、不意に奴は俺から注意を逸らせた。
俺はその瞬間バットを放り投げ、鉄パイプを両手で握り、壁に足を掛け、渾身の力でそれを引く。
ギリギリと軋み、撓んだ後、留め具が外れて飛んだ。
勢い余って、俺は地面に転がる。

まずい、隙だらけだ。

俺は即座に立ち上がり、身長と同程度はある鉄パイプを構える。
奴は襲ってこなかった。
それどころか、俺を無視して通り過ぎていく。
俺はその行き先を見る。
白い髪の少女がそこにいた。

「ティー!!逃げろっ!!」

絶叫して、駆け出す。
必死で地を蹴る。
しかし、彼女は逃げない。
巨大なムカデを見据えて、悠然と佇んでいる。
ムカデが彼女に迫る。
それを俺が追う。
ムカデはついにティーの目前まで迫り、顎肢を大きく広げ、彼女に飛び掛った。
彼女は僅かに膝に溜めを作り、構える。
そして――小さな少女と巨大な蟲が接触する瞬間に、俺が割り込んだ。
ティーを突き飛ばし、鉄パイプを枕木で支えて構える。
大きく開いた醜悪な口に、狙いを定める。

黒い塊が降ってきた。
膨大な質量のそれを鉄パイプの先端が捕らえる。
重さは力に変わり、口を貫き、頭を貫通する。
しかしそれでも止まらない。
目前に、大きく開いた鋭い顎肢が迫る。
俺は咄嗟に鉄パイプを離して、地面に転がった。
顎肢が空を切って閉じられ、毒液が撒かれる。
俺はそれを避けて、更に転がる。
奴はそのまま、地面をのた打ち回った。
細長い全身が波打ち、うねり、暴れまわる。
貫かれた頭から、紫色の粘着質の体液が噴出す。
耳をつんざく奇声が、トンネルを貫いていく。
それは次第に弱っていき、やがて力尽きた。



俺は地面にうずくまるティーに近づく。

「ティー、大丈夫?」

俺は彼女の怪我を確かめる。
どうやら、無事のようだった。
彼女は悲しそうな目で、俺を見る。

「えっと、もしかして俺を助けようとしてくれた?」

彼女は頷く。
俺は何も言えなくなる。
なんだか俺が悪いことをしたような、後ろめたい気分になってくる。

「気持ちはすごく嬉しいよ。それに、ほら、ティーが来てくれなかったら、俺は鉄パイプを取ることができなかった」

彼女は俺を見つめる。

「ほら、立って」

俺は手を差し出す。
彼女はそっと、手を重ねる。

「だけど、自分の身は大切にするんだ。危険だと思ったら、今度からはすぐに逃げるんだ。いいね?」

彼女は頷く。
俺が手を引くと、彼女は立ち上がる。

「今回は助かったよ、ありがとう」

俺は彼女の頭をそっと撫でてやる。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。



バットを拾って、しばらく歩くと車両基地に着いた。
車両基地には沢山のコンテナが並んでいた。
その割に、電車は一つだけだ。
でもそれは当たり前か、線路は一車線しかないのだから。
俺はその内の一つのコンテナを背にして座る。
ティーも俺の隣に寄り添って座る。
ここは地下鉄のホームを広くしたような空間だった。
そこにコンテナがびっしりと敷き詰められていて、車両基地というよりコンテナ基地といったほうがしっくりくる。
コンクリート打ちっ放しの床と壁に、剥き出しになった鉄骨トラス。
飾り気のない空間だ。
時計を見ると19時58分だった。
かなり際どい時間だった。
途中であんなものに出くわすとは思わなかった。
それにしても、自分でもよく勝てたものだと思う。
正直言って今でも信じられない。
ここから出たら10mのムカデを倒したことを自慢しよう。
しまった写メを撮っておくべきだった。
多分誰も信じないだろうな。
そんなくだらない事を考えながら、しばらく身体を休める。
ティーは俺の肩に頭を預けて眠り出す。

しばらくして、携帯が震える。
俺はポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押した。



[19477] 【20時】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/07/06 19:36
【20時】

『霧島です。パスワードは見つかりましたか?』

電話に出ると、霧島さんは早口に言った。

「ええ、なんとか。今は車両基地にいます」

と俺は言う。

『そうですか、よかった。それでは電車の発車準備の説明をします』

「お願いします」

『現在、車両基地のあるアンブレラ製薬地下エリアは予備電力に切り替わっています。予備電力では電車を動かすことができませんので、主電力に切り替えなくてはいけません』

俺は辺りを見回す。
車両基地の広い空間を非常灯の淡い光が照らしている。
トンネル内部よりは幾分か明るいが、それでも暗いことに変わりない。
当然、電車は沈黙している。

『佐藤様には電力供給室まで行って、主電力に切り替えてほしいのです。主電力に切り替われば後の準備はほとんどこちらで行えます――が、ひとつ問題があります』

「というと?」

『当研究所は今回のような事故が起こった際に、被害を最小限に抑えられるよう、三つのブロックに分かれ設計されています。一つは、現在私がいる地上部です。ここをAエリアと言います。このエリアはウィルスに汚染されておらず、安全です。二つ目は現在佐藤様がいる車両基地のあるBエリアです。このエリア絶対安全とは言い切れませんが、汚染は軽微です。問題は三つ目のCエリアにあります。このエリアでは危険な実験が行われていました。今回のウィルス流出も、ここで起こった事故が原因です。そしてウィルスによる汚染が最も深刻なエリアでもあります』

「そのCエリアに、電力供給室があるんですね?」

『ええ、その通りです』

「そこでウィルスに感染する心配はないんですか?」

『空気感染の心配はありません。空気感染はウィルスが拡散した初期の段階でしか起こらないのです。しかし問題は、Cエリアにはウィルスに感染した生物が閉じ込められていることです。その生物から傷を負った場合には、おそらく感染します』

「そうですか……。空気感染しないだけでもマシですね」

俺はそっとため息をつく。
また大変な目に会いそうだった。

『ええ。Cエリアに入ったら、入り口正面にある警備室に寄ってください。そこにCエリアの図面があります。それを見て電力供給室に行ってください。電力供給の操作は電力供給室にあるマニュアルを読めばできるはずです』

「わかりました、なんとかやってみます。あの、ひとつ聞いても良いですか」

『はい、なんでしょうか』

「霧島さんはまだ、研究所にいるんですよね。Aエリアでしたっけ。どうやって脱出するんですか? 他のオペレーターは?」

『所員は市の爆破が決定してすぐに脱出しました。現在残っているのはおそらく私だけでしょう。私も佐藤様と一緒に脱出しますので、電車の準備が完了したら合流する予定です――あ、そろそろ時間です。Cエリアのロックを解除しますので、気をつけてください』

「はい」

そして電話が切れた。
霧島さんも現在この研究所にいる。
彼女も命をかけているということだった。
何が彼女をそこまでさせるのだろうか。

「ティー、起きて」

俺の肩に頭を預けて眠っている彼女をゆすって起こす。
彼女は目をぱしぱしさせて起きる。

「行くよ」

手を引いて、車両基地を歩く。
車両基地にはいくつかの扉があった。
その中に、とりわけ頑丈そうな扉が二つある。
二つの扉には大きく『A』と『C』と書かれている。
俺は『C』と書かれた扉を開ける。


扉を開けた瞬間、濃厚な死臭が鼻腔を刺した。
思わず顔をしかめる。
鼻が潰れそうだ。
中には、白衣の研究員が死屍累々と横たわっていた。
白衣がどす黒く染まって、趣味の悪い柄物になっている。

俺はティーを待たせて、そこに足を踏み入れる。
何体かの死体が、動き出す。
俺はその頭を、潰していく。
バットを振り上げ、振り下ろす。
ほとんどのゾンビは起き上がることができないほど腐敗していて、体力的には楽な作業だった。
動き出さなかった死体も含めて、念のため全ての頭を潰した。
後には地獄絵図が残った。

床に重なる頭のない死体。
喰われて原型がなくなった死体。
飛び散った脳髄。
崩れ落ちた肉片。
その全てが腐敗していた。
扉には血の手形と、血の文字。
血の手形に、血の文字が重なり、また手形、また文字。
黒板消しのない黒板みたいに、それらは何度も何度も重なって、何が書かれているのか読み取れない。
しかしそれを読み取るまでもなく、ここで何が起こったのか大体のことは想像できた。

俺は込み上げてきた嘔吐物を吐き出した。
我慢することができなかった。
それは血のプールに混ざって、一瞬で赤く染まってしまう。
それを見て、また吐き出す。
何度も繰り返す。

ぴちゃり、ぴちゃり、と音を立てて血が跳ねた。
それから、俺の背中に暖かい何かが触れる。
見ると、ティーの手が背中を撫でていた。
小さな手がゆっくりと、背中を摩る。
俺は平常心を取り戻す。
俺がしっかりしないといけなかった。

「ありがとう」

俺は立ち上がって言う。
ティーは心配そうに俺を見る。

「ありがとう、もう大丈夫だ」

もう一度、笑顔で言う。
彼女は微笑んで頷いた。

非常灯が血生臭い空間を薄暗く照らす。
ここは少し広めの廊下で、突き当りがT字路になっていた。
廊下の途中に金属探知機があり、その脇に警備室がある。
俺はなるべく入り口付近を見ないようにして、警備室に入り、図面を持ち出す。
それから図面を見て廊下を進む。
T字路を左へ曲がって扉を開け、十字路を右、それからまたT字路を左。
途中にいたゾンビを何体か処理して進み、頑丈そうな鉄製の扉の前で止まる。
この先が、機械室や電力供給室等、建物を動かす心臓部が集まった区画だ。
しかし、扉は溶接されていた。
全力で押しても、びくともしない。

「勘弁してくれ……」

俺は呟いて、ため息を吐く。
真似して扉を押そうとするティーを止めて、図面を見る。
この扉の他にもうひとつ別のルートがあったが、少し遠回りだ。
それに、そのルートが通る区画は図面が曖昧で気になる。
そこは大まかな部屋割りしか記されていない。
柱の位置も記されていない。
そして部屋名が記されていない。
改装中なのだろうか。
それとも記されてはならない何かがあるのか。
どちらにせよ、ここを通れない以上しかたがない。
俺は諦めて別ルートをとることにする。



その区画に入ってすぐに、図面との明らかな差異に気付く。

「全く違うな……」

図面通りに行けば通路だったここは、多くの機材が並ぶ実験室だった。
棚には見たことも無い薬品が並んでいる。
何に使うのかも分からない機材の隙間を進むと、円柱状のガラス容器が並ぶ空間に出る。
容器の中には何かの臓器のようなものが入っていた。

「なんだよこれ……」

俺は一つ一つ覗き込んでいく。
それは学校の理科準備室にあったホルマリン漬けの標本みたいだった。
しかし、中に入っているのが何なのか分からない。
何かの生物の一部だという事は分かるが、心臓のようなものに目がついていたり、腕から触手のようなものが出ていたりで、およそ具体的な名称をあげることができない。
それは生々しく現実に存在しているというのに、同時にどこか空想的なリアリティの無さを混在していた。

奥に、ひと際目立つ容器があった。
中に人間が入れるほどの大きさのそれは、ギリシア建築のオーダーのように空間を支配している。
俺はそれに張られたプレートの文字を読む。

「T―002」

中は黄色く濁った液体で満たされていてよく見えない。
俺は目を凝らして、中を見る。
視線を遮るものを取り払っていくかのように、視界が澄んでいく。

「――ッ!」

驚いて、思わず引きつった声がでた。
中には巨大な人型の何かが入っていた。
身長は軽く2mを超えるだろう。
体毛の無い灰色の肌に赤紫の血管が這い、筋肉が肥大し赤黒く変色した左腕には、鋭い爪が伸びている。
そして、右胸に巨大な心臓が剥き出しになって動いていた。

「生きて――いるのか?」

それは確かに鼓動し、脈打っていた。
動くのだろうか。
こんなものが、動き出すのだろうか。

「行こう」

俺はティーの手を引いて、足早に立ち去る。
触らぬ神になんとやら、だ。



部屋を出た先は通路だった。
一本道の通路に扉が並んでいる。
図面をと見比べてみるが、似ても似つかない間取りだった。
俺は諦めて、一つずつ扉を開けて調べていくことにする。
実験室、資料室、更衣室、談話室、給湯室。
何対かいたゾンビを倒しながら進んでいく。

いくつもの扉を調べ、残り少なくなる。
もしかしたら、この区画から電力供給室にいくことができないかもしれないと、思い始める。
俺は時間を気にしながら、手早く調べていく。
分厚い鉄製の扉を開けようとした時、ティーが俺の腕を引いた。

「どうかした?」

俺が尋ねると、彼女は首を横に振った。
そして言葉を探すみたいに、口を開いては閉じ、何か言おうとしては、口ごもる。
俺は彼女が感情を言葉にするのを待つ。
しばらくしてようやく、彼女は声を出した。

「……あぶない」

そう言って、真剣な目で俺を見つめる。

「心配してくれるのか? 大丈夫、ちょっと見てくるだけだ」

彼女は首を振る。

「大丈夫だって、ここまで無事これたんだ」

そう言って扉を開けようとする俺を、彼女は強い力で引く。
驚いて、少しバランスを崩す。

「いったい、どうしたんだ?」

「あぶない」

彼女は再度そう言って首を横に振る。

「わかった。本当に注意するし、すぐ戻ってくるから」

彼女は黙っている。
何か言いたそうに口を開くが、言葉が出ることなく口を閉じる。

「ここで待ってて、大丈夫だから」

俺は扉を開けて中に入る。
彼女は心配そうに俺を見ていた。

入った瞬間にピッと小さな電子音が聞こえた。

「え?」

見ると、扉の脇に小さなセンサーが取り付けられていた。
嫌な予感がして、踵を返した瞬間、入り口の扉が音を立てて閉まる。
それから、カチリと錠が閉まる音がする。
俺は扉を引いてみるが、全く動かない。

「ティー、閉じ込められた!そっちから開けられないか!?」

叫んで扉を叩くが、反応が無い。
相当分厚い扉だった。

俺は周囲を見渡して、別の出口を探す。
ここは一辺10mぐらいの正方形の部屋だった。
窓も扉も、入り口以外にはない。
ただ、壁の一部が小さく切り取られている。
人が屈めば入れる程度の大きさのそこは、シャッターが下りて閉まっていた。
人が出入りするような場所ではないのは確かだ。

「何のための部屋なんだ?」

この部屋の用途が分からなかったが、あまり良い予感がしない。
ここには濃厚な死臭が漂っていた。
壁や床に付いた、黒い染み。
何かに引っかかれたような傷跡。
おそらく、長い年月をかけて膨大な死がこの部屋で生まれた。

「――っ!」

突然、明かりがついた。
急激な明度の変化に思わず目を細める。

「おいおい、予備電力じゃないのかよ」

悪態をついてごまかすが、あまり歓迎すべき展開じゃなさそうだった。
緊張で、筋肉が強張っていくのが分かる。

『ドアをロックしました。バトルシミュレーションを開始します』

室内に合成音声が響き、壁のシャッターが開く。
どうせこんな展開だろうとは思っていた。
俺は舌打ちして、壁の奥から聞こえる足音に耳をすます。

一体だ。

俺はバットを構えて、それを待つ。
そして、それの姿が見えようとする瞬間、緑の影が飛び出した。
一直線に飛び掛ってきたそれを、後ろに跳んで避ける。
目前を、鋭い何かが切り裂く。
俺はそれにバットを振り下ろすが、俊敏な動きで避けられた。
間合いが開き、見合う。

それは爬虫類のような何かだった。
体表を緑の鱗が覆い、鋭いトカゲ目が光る。
太い両腕の爪は鋭く伸び、口には尖った牙が並んでいる。
一見して爬虫類の特徴を持っているが、二本足で構える姿は、どこか人間のようにも見える。
こいつが何なのかは分からないが、こいつを倒さないことにはこの部屋から出られそうに無かった。

俺はじっと待つ。
これまでの戦いから俺は学んでいた。
こいつらは知能があまり高くない。
身体能力は優れているかもしれないが、その動きは単調だ。
無闇に仕掛けるよりも、相手の攻撃を見て対応した方がいい。
どうせ凝った攻撃はしてこない。

異形の爬虫類が動く。
予想通り、一直線に向かってくる。
動きは速いがそれだけだ。
俺はタイミングを計る。
地面を蹴る緑の脚を見る。
その脚がひときわ深く沈んだ瞬間に、俺はバットを振り下ろした。
寸前で、異形が消えた。
金属音を響かせて、バットが床面を叩く。

やばい!

一瞬で、冷や汗が噴出した。
心臓の鼓動が、高く鳴り響く。

「おあああああっ!!」

わけの分からない叫びを上げて、右に跳ぶ。
根拠は無い。
そこが一番安全な気がした。

一瞬遅れて、緑の豪腕が凪ぐ。
首筋を掠める爪先を、必死に首を傾けて、避ける。
そして無様に、床面を転がる。
転がって、転がって、転がって、起き上がる。
異形は、さっきまで俺がいた場所で構えていた。

俺は異形を見据えながら、そっと首筋を撫でる。
血はついていない。
――危なかった。
心臓が馬鹿みたいに暴れまわっていた。
あいつは一直線に向かってくると見せかけて、直前で横へ跳んだのだ。
明らかに、俺の動きを見てから対応していた。

俺は後ずさる。
心を落ち着ける時間がほしかった。
異形がゆっくりと距離を詰める。
緩急をつけていた。
おそらくこの異形にはある程度の知能がある。
それが分かった。

やがて、部屋の角に追い詰められた。
異形が前傾姿勢で構えて甲高い雄叫びで威嚇するが、俺は落ち着いて構える。
暴れまわっていた心臓が落ち着き、冷静になれていた。
くるなら、こい。

異形がひと際高く鳴いて地を蹴る。
俺はタイミングを計る。
地を蹴る緑の脚を見る。
そして、それが深く曲がった瞬間に、バットを振りかぶった。
――が、振り下ろさない。

一瞬遅れて、異形が横に跳ねる。
俺はそれをしっかりと見て、着地する瞬間に振り下ろした。
バットが生々しい音を立てて異形の頭をへこませる。

奇声を上げて、異形が床面を転がる。
俺はその上から更にバットを振り下ろす。
動きが止まるまで、何度も。
異形は脳髄を垂れ流して、ようやく沈黙した。

『バトルシミュレーション終了』

合成音声のアナウンスが響いた。
俺はほっとして、息を吐く。

『バトルシミュレーションLv2を開始します』

「ちょっと待て!!」

思わず叫ぶ。
Lv2って何だ。
いままでのはLv1で、更にやばいのがこれから始まるって事か。
冗談じゃない。

「くそっ」

悪態をついて、構える。
とにかく、敵を倒すしかなさそうだ。
シャッターが開かれ、奥から足音が聞こえてくる。

一体、二体、三体。

「嘘だろ……」

いくらなんでも三体は無理だ。
せめて段階を踏んで、二体にしてほしかった。

萎えそうになる心を奮い立たせてバットの握りを確かめていると、不意に大きな音が響いた。
何かを殴りつけるような音だ。
シャッターの奥からではない。

俺は音源を探って、意識を集中する。
その瞬間、凄まじい勢いで入り口の扉が吹き飛んだ。
吹き飛んだ扉が壁に激突して室内を震わせる。

そして、入り口にはティーが悠然と立っていた。

『エラーが発生しました。バトルシミュレーションを終了します』

アナウンスが響き、壁のシャッターが閉まる。
異形はシャッターの寸前まで迫っていた。

俺は呆然と、目の前の光景を見る。
凸凹になって吹き飛んだ扉、扉が無くなって開いた入り口、入り口に佇むティー。
どうしても、それらが上手く結びつかない。

彼女は立ちすくむ俺の前まで来て、心配そうに見上げる。
俺は彼女の腕を見る。
細い、綺麗な腕だ。
何かを殴ったような傷は見えない。
彼女の足を見る。
細い足だ。
傷があるかどうかは分からないが、分厚い鉄の扉を蹴り破れる様には見えない。

「君が――やったのか?」

彼女は不思議そうに首を傾げる。

「君が、扉を破ったのか?」

俺は言い直す。
彼女は微笑んで、頷く。

俺は一歩後ずさる。
彼女は不思議そうに首を傾げる。
もう一歩、下がろうとして、止める。
俺はゆっくりと深呼吸する。
ゆっくりと、ゆっくりと、今日一番深い深呼吸をする。

「ありがとう、助かった」

俺は笑って、彼女の頭を撫でる。
自分では上手く笑ったつもりだったけど、もしかしたら引きつっていたかもしれない。
そんな俺を見ても、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

どうでもいいと思う。
彼女がどんな方法で扉を破ったのかは分からないが、そんなものはどうだっていい。
大切なのは彼女が俺を助けてくれたということだ。
それだけで十分だ。

「行こう」

俺は笑顔で言った。
それから彼女の手を引いて、扉が吹き飛んだ入り口をくぐり、通路に戻る。

それから慎重に、隣の部屋の扉を開ける。
さっきみたいなことにならないように、よく確かめる。
空けた瞬間に、死臭がした。
先の部屋よりも何倍も濃い匂いだ。
俺は室内に入らず、扉の外から中を見渡す。
室内は二つの空間に分かれていた。
まずは機械が置かれた空間。
そして、その奥の空間。
二つの空間は壁で仕切られていたが、ガラスの小さな窓から僅かに奥の空間がみえた。
壁の脇にある扉から奥の部屋に入れそうだ。
俺は危険が無いことを確かめて中に入り、扉を開けて奥の空間に入る。
そこには何も無かったが、濃厚な死臭がした。
何なんだここは。
俺は機械の置かれた部屋に戻り、机の上に置かれた資料を手に取る。

『死体焼却の手順』

それを流し読みする。
どうやら実験で出た死体を焼却する部屋のようだ。
ここには何もなさそうだった。

俺は通路に戻って、次の扉を開ける。
この部屋も二つの空間に仕切られていた。
手前の空間は、機材や資料が置かれた空間。
奥の空間は、ベットとトイレが置かれただけの、刑務所の独房のような空間だった。
二つの空間は壁で仕切られていたが、大きなガラス窓が奥を丸見えにしていた。
まるで奥を監視するための部屋のようだ。
ここも、脇にある扉から奥に入れそうだ。
俺は危険が無いことを確かめて室内に入り、奥の扉を開ける。
そこは、本当に独房のような部屋だった。
室内にはベットとトイレ以外何も無い。
ガラス窓はマジックミラーになっていて、ここから手前の空間を見ることはできないようになっていた。
この部屋にも何もなさそうで、俺は出ようとする。
そこで、机に置かれたひとつの資料が目に留まった。

『T-204計画』

と書かれている。
その文字を最近どこかで見た覚えがあった。
それがどこだったのかは忘れたが、とにかく、どこかで見たような気がする。
俺はそれを手にとって読み進めていく。



[19477] 【20時30分】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/07/19 05:20
【20時30分】

3月
原因不明の体調不良に悩まされていた少女が市内の病院に来院した。
しかし病院の検査では原因が分からず、病院は我々に精密検査を依頼してきた。
我々は何度もの精密検査を行ったが依然として原因が分からず、結果は思わしいものではなかった。
しかし所長の塚本は、その検査結果から少女の奇妙な細胞を検出。
そして彼の独断によった行われたT―ウィルスの抗体実験の結果、少女の体に潜む特異性を発見した。
まずひとつに、少女はタイラントに適応する人間である。
次に、少女はウィルスによる外見の変異がほとんど生じない。
少女の体調不良の原因は、ある種の成長障害に近いものであると我々は判断した。
そして我々は、少女の身体に潜む可能性に注目した。
少女のタイラント化に成功すれば、これ以上ないほど人間に擬態した究極の生体兵器を作り上げることができるのだ。
我々は人間への擬態にある程度成功した『タイラントT―103』を全ての点で上回る『タイラントT-204』を製作することを決意。
『T-204計画』を発動。

4月
入院中の少女に少しずつ薬物を投与していく。
経過は順調だったが、薬の副作用により少女の髪が白髪化する。
計画には支障なしと判断し、薬物の投与を続行。
少女の姉には病気によるものだと説明。
一応は納得したようだが、こちらをあまり信頼していない様子。
警戒が必要と判断する。

5月
経過は順調。
少女は次第に弱ってきた。
数日間寝たきりの状態が続く。
姉が病院を移ると言い出す。
説得に成功したが、姉の我々に対する不信は明らかだ。

6月
少女が仮死状態になる。
少女の姉には、少女が死亡し病気の原因解明のため当研究所に少女を移送する
と説明。
しかし姉は断固として拒否。
少女の仮死状態も長くは続かない為、我々は強硬手段をとる。
姉は不幸にも事故死。

7月
場所を研究所地下実験室に移し、本格的に計画を進めていく。
失敗は許されないため慎重に行う。
少女にT-ウィルスを投与。
同時に、徐々に少女の記憶を消していく。

8月
ウィルスの定着化に成功する。
それに伴い少女の肉体の内部が変化。
体内組織の再構築が行われ、筋力、回復力が強化される。
外見的変化は予定通り、見られない。
記憶の完全消去にも成功。
この時点で一定の成果は確定した。
以降はバトルシミュレータでデータを取りつつ、経過を観察していく。

9月
戦闘では概ね優秀な動きを見せ、戦闘能力、生命力ともに高い数値を示す。
極めて高い知能の維持にも成功したが、同時に人間的な性質も併せ持つ。
兵器としてこの人間性は弊害にしかならないと判断。
T-204には必要最低限の事だけを覚えさせ、人間的なものには触れさせないように注意する。
極めて高度な知能を持っているというのに、その一部しか使うことができないとは、全く嘆かわしいことだ。

10月
経過は順調。
これ以上実験を行う必要はないと判断。
後は実戦データを取るだけだが、最近はアンブレラに対する風当たりが強い。
これは当分先になりそうだ。



資料はそこで終わっていた。

俺は資料を机に置き、その隣に置かれていたノートに手を伸ばす。
ノートにはかわいい文字で名前が書かれていた。
『坂崎沙耶』
俺はノートのページを繰っていく。



7月3日
目が覚めたら見たことのない部屋だった。
伝染病だからかくりされたってお医者様が言った。
本当に良くなるのかわからなくて、すごく不安になる。
お姉ちゃんに会えなくて寂しい。

7月7日
今日も注射を打たれた。
栄養剤のはずなのに、頭がくらくらする。
なんだか怖い。

多分7月
何日ねてたのかわからない。
お医者さまにきいてもおしえてくれない。
ちゅうしゃを打たれるとねむくなる。
次にねたらいつ目がさめるんだろう。
あたまがボーっとする。
いろんなことをわすれているような気がする。

多分7月
ずっとねているみたい。
よくわからない。
きもちわるい。

(日付が書かれていない)
わたしの なまえは さかざき さや
おねえちゃんの なまえは さかざき れいこ

(日付が書かれていない)
わたしの なまえは さかざき さや
おねえちゃんの なまえは 

(日付が書かれていない)
わたしの なまえは

(日付が書かれていない)
こわい

日記はそこで終わっていた。

俺は深く息を吐いて、天を仰ぐ。
でも、視界に入るのは灰色のコンクリート打ちっ放しの天井だった。
自分の中で、色々なことを整理できないでいた。

不意に、腕を引かれる。
いつの間にか隣にティーが来ていた。
俺は黙ってティーを見る。
ティーは俺の脇を通り抜けて、ベッドに腰掛けた。
それから、彼女は傍らを手でぽんぽんと叩く。
俺に、隣に座るよう促す。
そして、ここが彼女の部屋なんだ、と俺は理解する。
俺は彼女の隣に座る。
安物のパイプベットが、ぎしりと軋んだ。

「ペンダント、見せてくれないか?」

と俺は尋ねる。
彼女は頷いて、首に下げている金属板の首飾りを俺に見せる。
そこには『T-204』と書いてあった。
そっか、そうだったんだ。

「ごめんな、ティーなんて名前をつけて」

彼女は首を振る。
気にしないで、と言うみたいに。
彼女は賢い。

「君の名前は坂崎沙耶だ」

「さかざきさや」

彼女は繰り返す。

「そう、君は坂崎沙耶以外の、何者でもない」

彼女はそれ以外の、何者でもない。
それは俺にとっても。

彼女は俺を見つめる。
俺は彼女の手をとって、立ち上がる。

「行こう、沙耶。ここから抜け出そう」

彼女は微笑んで、頷いた。



通路に戻って、扉を調べていく。
そして、俺の中で、少しずつ物事が整理されていく。
ばらばらだったパズルのピースが、ひとつの絵を描いていく。
だけど、後ほんの少しのピースが足りない。
そのピースは、もう少ししたら埋まる。
多分、きっと。

少し奥まったところにある扉を開けると、その先に通路が続いていた。
俺は図面を確認する。
大丈夫、ここから先は図面通りだ。
さっきまでの区画は、どこか病院のような雰囲気がした。
ここから先の区画は、工場のような雰囲気がする。
天井にぶら下がった大小のパイプや、剥き出しの蛍光灯、そして無造作に置かれた消火器が、そんな雰囲気を醸し出す。
ここにはゾンビがほとんどいなかった。
喰い荒らされ、腐り落ちた死体が、ただそこに横たわっているだけだ。
それは何年も昔からここにあったように、ごく当たり前に、この空間に溶け込んでいる。
もちろんそれは錯覚だけど、そう感じた。

俺は図面と見比べて進み、ひとつの扉を開ける。
扉には『電力供給室』と書かれていた。
室内は広い。
学校の教室を四つぐらい繋げた広さだ。
その中に大きなロッカーみたいな箱が、これまたロッカールームみたいに等間隔で並んでいる。
これが多分、電力供給する機械なんだろうが、俺には操作方法が全く分からない。
時々、思い出したようにランプを点滅させる機械の間を通り、俺は奥に進む。
それから部屋の隅にあった扉のノブに手をかけるが、扉は開かない。
中から鍵がかかっているようだ。
扉は鉄製で、頑丈そうだ。
俺は扉の上に取り付けられた小さな窓に注目する。
そこは、俺には入れそうになかったが、沙耶なら入れそうだった。
彼女に鍵を開けてもらおう。

「沙耶、頼みがあるんだけど」

彼女は頷く。

「この中に入りたいんだけど、鍵がかかっていて入れないんだ。上の窓から入って、鍵を開けてくれないか?」

彼女は少し嬉しそうに頷いた。
役に立てることが、嬉しいのかもしれない。
彼女は、扉の前で立ち止まって、扉と上の窓との間で視線を往復させる。

「沙耶?」

俺は不審に思って声をかける。
彼女は俺を見て頷く。
大丈夫だ、と言うみたいに。
それから、彼女は少し膝を曲げて構え、腰を回転し、右足を振り上げる。
そして、黒タイツに包まれた細い脚が、鞭みたいにしなやかな軌跡を描いて扉を蹴り飛ばした。
鈍く、激しい音が響く。
扉が巨大なハンマーで殴りつけられたように凹んで、吹き飛ぶ。
彼女は振り返って俺を見た。
すごく、褒めてほしそうに見える。

「あ、ありがとう。そっか、そのほうがはやいよな、ははは」

俺は乾いた笑いを上げて、彼女の頭を撫でる。
多分、顔は引きつっている。
自分の存在価値みたいなものが、揺らいでいるような気がする。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。

室内は8畳ぐらいの、機械室に比べれば小さな部屋だった。
それでも、俺の部屋の倍近くの広さがあるのだが。
室内には大きなパネル(多分、電気の流れを示すものだと思う)、様々な資料が並ぶ棚、長い机と椅子、机の上に沢山のスイッチとモニターが並んでいた。
そして、4体の死体があった。
強烈な腐臭がしているのだろうが、鼻が馬鹿になっていてよくわからない。
俺は死体の頭を潰して、棚からマニュアルを取り、椅子に座る。
沙耶も隣の椅子に座る。

それからマニュアルをみて機械を操作していく。
電源を入れて、いくつかのスイッチを操作する。
正直言ってよく分からないところが多かったが、誰に迷惑をかけるわけでもないだろうし、スイッチを点けたり消したり試しながら進めていく。
その度に、大きなパネルの沢山の電球が、点いたり消えたりする。
やがて室内に電気が灯り、外から機械が動く音がする。
世界が一変したみたいに、辺りが明るくなる。

「これでいいんだよな、多分」

俺は呟く。
沙耶は辺りをきょろきょろと辺りを見回している。

俺はこれからどうすればいいんだろうかと思う。
ここから先の指示は聞いていない。
時計を見ると20時44分だった。
あと16分ここで待って、次の電話がかかってくるのを待てばいいのだろうか。
少し考えるが、それしかなさそうだった。
俺は椅子の背もたれにもたれて、伸びをする。
沙耶も真似して「う~ん」と声を出して伸びをする。
それから緊張がほぐれてあくびが出る。
よくもまあ、死体が横たわる空間でリラックスできるものだと、自分でも思う。
俺の感覚は完全に狂っていた。

しばらくして、機械が動く静かな音が、室内に大きく響く。
それからノイズのような電子音が流れる。

『霧島です、聞こえますか? マイクの電源を入れてください』

室内のスピーカーから、霧島さんの落ち着いた声が響いた。
俺は机の上にあるマイクの電源を入れて、言う。

「俺です、聞こえます」

『主電力への切り替えを確認しました。現在電車の準備をしています。佐藤様にはまだやってもらいたいことがあるので、もうしばらくそこで待っていてもらえませんか?』

「ええ、大丈夫です。むしろ待つだけなら望むところですよ」

『そうですか。実は私のほうもほとんど機械任せで、待つだけのようなものです』

彼女はそう言って、くすりと笑った。

『そうですね――カメラとモニターの電源を入れてもらえませんか? 多分机上にあるはずです』

言われたとおりに電源を入れると、モニターに映像が映し出された。
黒いスーツを着こなした女性が、モニター越しに俺を見ている。
彼女はヘッドセットをつけて、艶のある黒い髪を頭の後ろで束ねている。
切れ長の目、すっと通った鼻筋、薄い唇。
綺麗な人だったが、作り物めいた冷たさがある。
多分二十台前半ぐらい。
だけど、あまり自信はない。
美人の年齢はよくわからないものだ。
年齢を知ってびっくりすることは少なくない。
彼女の整った形の唇が開き、言葉を発する。

『はじめまして、霧島玲子です』

彼女はそう言って柔らかく微笑む。
作り物めいた冷たさが一気に崩れる。
微笑んだだけなのに、ずいぶん表情がある人だなと思う。
彼女の顔と、彼女の表情が、ひどく不釣合いに見える。
だけど、そこは注目すべき場所じゃない。
注目すべきは、彼女の名前が霧島玲子だというところだ。

「はじめまして、佐藤悠太です」

俺はそう言って、軽く頭を下げる。
モニターの向こうで彼女も頭を下げる。

『少し、話しをませんか』

「喜んで。俺も一度ゆっくりと話したいと思っていました」

それから、沈黙が降りた。
どうやって話を切り出そうか、俺は悩む。
多分彼女も、悩んでいる。
お互いに話しの主導権を譲り合うように様子を伺う。

『白髪の少女は、そこにいますか?』

恐る恐る、彼女は口を開いた。

「ええ、います」

俺は隣に座る沙耶を見る。
彼女はつまらなさそうに、椅子を回転させて遊んでいた。

『彼女の顔を、見せてもらえませんか?』

俺は頷いて、沙耶を抱き上げて、俺の膝の上に座らせる。
彼女は嬉しそうに微笑む。

それを見て、霧島さんの顔が泣き出しそうに歪んだ。
しかしほんの一瞬で、それは元に戻る。
そして、俺の頭の中で、パズルのピ-スがカチリと音をたててはまる。

「坂崎玲子さん」

俺は呟く。
霧島さんの顔から、表情が失われる。

「坂崎玲子さん」

俺はもう一度呟き、霧島さんの顔を見つめる。
彼女は目を閉じ、深く息を吐き出す。
それから目を開けて、口を開く。

『知ってしまったんですね』

彼女は悲しそうに、笑った。

「ええ」

『そうです。坂崎玲子が私の、本当の名前です』

「そして、坂崎沙耶の姉」

『はい』

「でも、どうして――?」

『それは、どうして嘘をついたのかという意味ですか? それとも、どうしてこんなことをしているのか? それとも、それ以外?』

「多分その全てだと思います。自分でもよくわかりません」

彼女はくすりと笑った。
彼女は笑うと目じりが下がって、優しい顔になる。

『わかりました、その全てにお答えします。多分、私にはそれに答える義務があるんですよね』

俺は黙っている。

『まずはじめに、本当にありがとうございました』

彼女はそう言って深々と頭を下げる。

『ここまで無事に、沙耶を連れてきていただいて、ありがとうございました。そして、本当にごめんなさい』

彼女は頭を深々と下げたままだ。

「気にしないでください。それに、俺はあなたの行動を責める事はできないし、多分その必要もない。そもそも俺は、あなたがいないと、脱出できない」

『ありがとうございます。少し――長い話になるかもしれません』

彼女は頭を上げて言った。

「構いません」

彼女は頷いて、話し始める。

『まずは最初の質問にお答えします。どうして嘘をついたのか。理由はいくつかあります。まずは、アンブレラ製薬の裏に深く関わる話なので、知らないほうがいいからです。次に、話しても信じてもらえるかわからなかった。最後に、そもそも入り組んだ話しをするには時間が足りなかったからです』

俺は頷く。

「続けてください」

『二つ目の質問、どうしてこんなことをしているのか。それは、沙耶を救うため、そして、私自身のためです』

彼女はそこで一度言葉を切る。
それからゆっくりと告げる。

『私は一度、アンブレラに殺されました』

彼女は俺の顔を見つめる。

『知っているんですね』

彼女はそう言って、悲しそうに笑う。

「はい」

『紆余曲折あって、私は奇跡的に助かりました。そして、私はアンブレラに対する復讐を誓いました。当時はまだ沙耶が死んだと思い込んでいたのです。私は社会的に死んだことになっていましたし、個人で出来ることなど限られていたので、アンブレラの敵対組織に助けを求めました。知っていますか? アンブレラをよく思っていない組織は、思っているよりずっと多いんですよ。そんな組織にとって、社会的に死んだことになっていた私は、使い勝手がいいものでした』

彼女は自嘲気味に笑う。
それから少しだけ、キーボードを操作する。
たぶん電車の準備をしている。

『私は組織のつてで、顔を変え、名前を変えて、この研究所にオペレーターとして潜入しました。オペレーターにできることなど限られていましたから、重要度の低い情報を組織に流す程度しかできませんでしたが、当時の私は満足していました。私にとっては、何か行動しているということが大切だったのです。内容の大小は関係ありませんでした。ですが、ある日、組織から情報が入りました。沙耶は生きていて、アンブレラ製薬の実験体になっているかもしれない、と。いてもたってもいられませんでした。だけど、私に出来る事は相変わらず意味もない情報を組織に流すだけ。組織からの指示は現状維持。同じ研究所内に沙耶がいるかもしれないというのに、私には何も出来ませんでした。それから、私は組織の指示を無視して、独自行動を始めました。ずいぶん危険なこともしましたが、結果は思わしくありませんでした。そして何も進展がないまま、今回の事故が起こりました。チャンスだと思いました。セキュリティーが甘くなれば、沙耶がいるかもしれない地下研究所に、Cエリアに潜入できるかもしれない、と。しかし実際には、Cエリアの扉はいっそう硬く閉ざされました。そして、Cエリアは全滅した、と告げられました。そこで私の希望は絶たれたのです。それから私は機械的にオペレーター業務をこなしました。身体が自動で動いているような、そんな状態です。ですが、私がオペレーターとしての最後の業務を終える間際に、最後の希望を見つけました』

「俺との電話ですね」

彼女は深く頷く。

『可能性は低いものでした。少女が沙耶だという確証は持てませんでしたし、無事脱出するには非常に難しい状況でした。ですが、あなたに賭けてみようと思いました。それが、最後の希望だったのです。だから、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、私と沙耶は救われました』

彼女は深く頭を下げる。

「いえ、こちらこそありがとうございました。」

俺も、深く頭を下げた。
しばらくして、どちらともなく顔を上げて笑った。

『これは、あなたにしかできないことだった。あなたで本当によかった』

彼女は真剣な顔で言う。

「俺にしかできない?」

『あとのことは、脱出してから話しましょう。そろそろ準備が完了します』

彼女はそう言って、少し困ったように笑った。
その笑顔も様になっている。
本当に、笑顔がよく似合う人だと思う。

『私のほうでできる事は全て終わりました。後は佐藤様のほうで、線路に電力を供給してもらえば終わります』

俺はマニュアルを読んで、線路に電力を供給する。

「多分できたと思います」

彼女は画面の向こうで、キーボードを操作する。

『はい、できています。では、今から車両基地に向かってください。私もすぐに行きます』

「はい、わかりました」

彼女は微笑んで、ヘッドセットを外す。
そして、彼女が席を立とうとした瞬間に、彼女の首筋に銃のようなものが押し付けられた。
トリガーが引かれる。
彼女は糸が切れた操り人形みたいに、椅子にもたれかかった。

「え?」

俺は何が起きたのかわからずに、呆然とその光景を見る。
映画のワンシーンを見ているように、リアリティが欠如している。
画面の中に男が現れた。
白衣を着た、細長い男だ。
腕に銃のようなものをもっているが、多分あれは銃じゃない。
銃身の先に、針のようなものがついている。
男は坂崎さんが置いたヘッドセットをつけて話す。

『安心したまえ、睡眠薬を打っただけだ』

「おまえは、いったい――」

『次は、睡眠薬ではないがね』

男は俺を無視して話す。
銃のようなものから、親指ぐらいの大きさのカプセルのようなものを取り出す。
それを足元に捨てて、ポケットから同じくカプセルのようなものを取り出し、銃のようなものに装填する。
カプセルの色は赤い。
何か入っている。

『これは実験で偶然にできたウィルスだ。もっとも、使い物にならなかったがね。これを投与したマウスは数時間ともたなかった。そして、人体実験が行われないまま、廃棄処分になったものだ』

男は坂崎さんの首筋に、銃のようなものを押し付けて言う。
男の血の気が無いカサカサに乾いた唇が、不気味に歪む。
脂ぎった長髪が顔に垂れていて、表情がよく読み取れないが、笑っているように見える。
少なくとも、男の声色からは、愉快さが伝わってくる。

『しかしね、やはり一度人間に投与してみないことにはわからないこともある。マウスにつかえなかったからといって、必ずしも人間にも使えないというわけではない。物事にはデータではかれないものがある。そう思わないか?』

男は唇の端を吊り上げて笑った。
ひどく、歪んだ笑みだった。

「何が言いたい?」

『ただ君の考えを聞きたかっただけだ。深い意味はない。まあでも、君のこれからの対応次第で、これをこの女に投与する可能性があることを頭の隅に置いてくれ』

男は口の端を一層歪めて言った。

「それで、俺はどんな対応をすればいい」

『なに、僕は君と話がしたいんだ。直接会って、ね』

「話なら、いましているだろ。なぜ直接会う必要がある」

『アンブレラの敵対組織は、思っているよりずっと多いものだ。この女から聞いただろう? そういう連中に聞かれたくない話だということだよ。僕にとっても、君にとっても、それは不利益にしかならない。僕のほうでもネズミの数はある程度把握しているがね。とても全てを把握することはできないんだ。――しかしまあ、およがせておいたネズミが、こんな大物を釣ってくるとは、ね。この女には感謝してもし足りないよ』

そう言って、男は坂崎さんの頭を撫でる。
爪の伸びた細い指が、艶のある頭髪を乱す。
俺の中に、言いようのない不快感が込み上げてくる。

『君にはひとつ理解してほしい。僕は君を怒らせるつもりはないということだ。これはあくまで保険だ。僕は君の敵ではない』

「よく言う」

俺は吐き出すように言う。
男は心外だ、とでも言うように、首を振った。

『君はひとつ勘違いをしているかもしれない。この女が、坂崎玲子が、君を無事脱出させるとでも思っているとしたら、それは間違いだ。いや、脱出は無事できるかもしれないが、その後待っているのは悲惨なものだ。この女はこれまでも、そして、これからも、君を利用するつもりだ。その点、僕は違う。僕は全てを説明した上で、君との対等な協力関係を目指している』

男は大仰に腕を広げて語る。

「全く信じられないな。お前の話には、信用に足る説明が不足している。なぜ、という理由が全く語られていない」

『そうだろうね。うん、そうだとも。しかし、ここではそれを話せない。それは直接話したほうがいいことだ。そこで全てを説明しよう。そして、僕は君に不利益をもたらそうとしているのではないのだよ。これは、君にとっても利のある話だ。もちろん、僕にとっても、ね』

男はそこまで言って、髪を掻き揚げる。
一瞬、ヘビのような細い目が見えるが、油まみれの重たい髪はすぐに垂れて、男の顔を隠す。
それから、男は思い出したように付け加える。

『ああ、そうそう、そこにいるT-204も一緒に連れてきてほしい。全く、小学校で待っていろといったのに、勝手に動き出すとはいけない子だ。しかし、今回は特別に許そう。この僥倖はT-204のおかげでもあるのだからね』

男は心底楽しそうに嗤った。

「お前――お前が沙耶を――」

『沙耶――? ああ、T-204か。そうだよ、僕が彼女を造ったのだよ。おっと、そうだった、自己紹介がまだだったね。これは失礼した。僕はこの研究所の所長をやっている――いや、やっていたかな? まあいい、どちらでも大差ない。塚本だ。どうもはじめまして。君の事はよく知っているよ。失礼だが、調べさせてもらった。だから紹介はいらない』

男は身振り手振りをつけて、得意げに語る。
それから、坂崎さんの頬を撫でる。

『僕はね、この女には感謝しているんだよ。だってそうだろう、僕にこんなにも尽くしてくれているのだから。もちろん、この女にはそんなつもりはないだろうがね。でももしかしたら、心の底では僕のことが好きなのかもしれない。だってそうだろ、一度死にそうになってもなお、僕に幸福をもたらしてくれるんだから。まったく、心底健気な犬だ。それにしても――この女は美しいとは思わないか?』

男は坂崎さんの顎に手をかけ、持ち上げる。
それから、彼女の唇を撫でる。

『だがね、この美しさは造られたものだ。この女は本当に健気だよ。顔を変えてまで、研究所に潜入してアンブレラに復讐しようとしたのだ。最も、この女にできたことなど、たかが知れているがね。まあしかし、この女の頭が空っぽな事は別にして、美しさは素晴らしい。僕はこの女の前の顔も知っているがね、現在の方が好きだ。いやなに、前の顔も素晴らしかったさ。顔を変えるといっても、全てを変えられるわけではない。そこではやはり、元の素材が重要になってくる。その点、この女は素材も素晴らしかったよ。そして、それを更に弄ることで、完璧なものへと昇華したと僕は思っている。だからね、僕は造られたものとか関係なく、この顔が好きなんだ。美しいと思う。もっとも、僕は造り物が大好物なんだがね』

男は引きつった声で嗤った。
男の手が首を絞めるように、坂崎さんの首筋を撫でまわる。

「彼女に――触るな」

俺は、震える声を絞り出す。
今すぐに、この男を殺してやりたい。

『心配しなくてもいい。僕は基本的に、生身の人間には性的な興味がない。しかし、この女がこれから生身でなくなることを想像すると、両方味わっておいたほうがいいような気分にさせられるのも事実だ』

生身の人間には、興味がない?
それは、それの意味する事は――

「お前、もしかして沙耶に――!」

男は一瞬驚いて、それから深く溜息を吐いた。

『たしかに、生身でないという点において言えば、T-204は僕の性的趣向を満たしているといえるだろうが――まあ、しかし、T-204は僕にとっていささか幼い。それに、T-204は原形を保ちすぎている。人間としての、ね。それは僕にとって歓迎すべきことではない』

男はやれやれ、という風に首を振る。

『腕のないミロのヴィーナスが美しいように、人間は多少崩れたほうが美しい。もちろん、僕にとってミロのヴィーナスの腕があろうがなかろうが関係がない。そんなものに興味はない。あくまで、一般的な例を挙げただけだ。つまり、僕が言いたい事は、僕にとってT-204は性的趣向外ということだよ。安心したまえ』

俺は少しほっとする。
男は話を続ける。
まるで自分の考えを話したくてたまらないみたいだ。

『しかしね、形が崩れるといっても、限度がある。ある程度の原形をとどめている必要がある。誰も粉末になったミロのヴィーナスを美しいとは思わない。そこには、一定の秩序が必要だ。その点で、僕は坂崎玲子には期待している。この女の外見的な素質は申し分ないし、歩んできた人間的なドラマもすばらしい。頭も力もない健気な犬が、一生懸命がんばる姿は涙を誘うものがある。あとは、この女がどれほどの秩序を見せてくれるのか。ただ、それだけだ。それを想像しただけで、僕はどうにかなってしましそうだよ』

男は唾を飛ばしながら語り、愛おしそうに坂崎さんを撫で回す。
俺の全身に、不快な鳥肌が立つ。
この男は常軌を逸していた。

『話がそれてしまったね。後の事は直接会って話そう。それと、できるだけ早く来たほうがいい。僕は理性ある人間だが、現在は時間が切迫しているから、ね』

それを最後に、通信は切れた。



[19477] 【21時】
Name: da◆3db75450 ID:72179912
Date: 2010/07/21 10:27
【21時】

通信が切れるとすぐにモニターが切り替わり、建物の図面が映し出される。
その図面の部屋のひとつが赤く塗りつぶされている。
Aエリアの11Fだ。

「ここに来いってことか」

無視する、という選択もある。
電車はもう準備できている。
無視すれば俺と沙耶は確実に助かることができる――いや、俺は首を振ってその考えを振り払う。
それは、坂崎さんを見捨てるということで、沙耶の姉を見捨てるということで、俺を助けてくれた人を見捨てるということだ。
それはできない。

「沙耶、行くよ」

彼女はこくりと頷く。



俺は沙耶の手を引いて、来た道を引き返し、車両基地まで戻る。
それから『A』と書かれた扉を開けて、近くにあったエレベーターに乗り、11Fのボタンを押す。
少し大きなそのエレベーターは緩やかに上昇し、やがて扉を開ける。
Aエリアは白を基調とした清潔感を与える内装で、少し眩しい。
いかにも製薬会社といった風だが、それを除けば普通のオフィスビルだ。
荒らされた形跡は一切ない。
ただ、人がいないだけ。

白い綺麗な大理石の床を歩く。
俺のスニーカーが、キュッキュッと音を立てる。
沙耶のローファーが、コツコツと音を立てる。
真っ白な空間に赤黒い足跡を残しながら進み、白い扉の前で立ち止まる。
部屋名は記されていないが、ここで間違いないはずだ。
扉の横にはキーパットと小さなモニターが取り付けられていて、そこには『OPEN』の文字が浮かんでいた。
俺はひとつ息を吐いてからその扉を開ける。


十畳程の薄暗い部屋だ。
正面の壁一面に大小のモニターが並んでいて、その僅かな明かりが室内を照らしている。
モニターには様々な映像が映し出されている。
多分監視カメラの映像だ。
Aエリア、Bエリア、Cエリア、いままで通ってきた通路や部屋が映し出される。
それだけじゃない。
地下搬入路の映像、駅舎の映像、小学校の映像もある。
市内の防犯カメラの映像が、全てここに映し出されているのかもしれない。
それらの映像が数秒おきに切り替わり、その度に室内の明暗が変化する。

モニターの前にある椅子に、しわくちゃの白衣を着た男が腰掛けていた。
男は椅子をくるり回転させ、俺たちの方へ振り返る。
男の膝には坂崎さんが横抱きになっている。
彼女の首筋に銃のような注射器が当てられている。
彼女はぐったりとして動かない。

「ようこそ、佐藤悠太君。早かったね」

男はちらりと時計を見てから、俺の隣にいる沙耶へと視線を移す。

「それとT-204――次はないぞ」

男が声を低くして言うと、沙耶の身体がびくりと震える。
俺は沙耶を庇うように一歩前に出る。

「それで、何の用なんだ。俺としてはさっさと脱出したいんだけどな」

「うん、それは僕もだ。誰だってこんなところに長居はしたくないさ。僕も計画通りだったら、もうとっくに脱出している予定だ。しかし予定外の、幸運なことが起こってね。こんなところに長居しているんだ。幸運なことが起こったというのに、こんなところに長居しているんだ。まいったね」

「さっさと本題を話してくれ」

俺は小さく吐息して言う。

「すまない、まともに人と話すのは久しぶりでね。ついつい話しすぎてしまう。うん、注意するよ。僕らには時間がないからね。――それでだ、本題に入ろう。実はね、君に僕の研究を手伝ってもらいたいんだ」

「俺に? どうして?」

「順を追って話そう。僕は生物兵器の研究をしている。例を挙げればゾンビとか、君の隣にいるT-204とか、僕が持っているこれとかね」

男は銃のような注射器を振る。
針の先から赤い液体が飛んで、宙に弧を描く。

「その生物兵器の研究に、俺がどう手伝えるんだ? 生憎俺は文型でね。そっちの話はさっぱりだ」

「順を追って話すと言ったろ。僕は君の頭脳なんかに期待しちゃいない。いや、こんな言い方は君に失礼か。僕は君が馬鹿だと言いたいわけじゃない。僕の頭脳以外、必要ないと言いたいんだよ。僕以外の頭脳に、何も期待しちゃいないんだ。わかるかな?」

男は愉悦に顔を歪めて語る。
声のトーンが徐々に上がって、甲高く室内に響いた。

「……お前のナルシストぶりがわかるよ」

俺は辟易して言う。

「ナルシスト、か。まあしょうがないか。君は僕の事を知らないからね。僕がどれほど素晴らしいことをしているのか、君は全く理解していない。それを一から説明してあげてもいいんだが、今は時間がない」

男は心底残念そうに、やれやれ、と溜息を吐く。
俺は黙っている。

「それで、だ。話は変わるけど、現在アンブレラがあまりよくない状態だってことは知っているだろ? ほら、ラクーンシティの事件とかあったから、風当たりが強い」

俺は頷く。

「それのせいで困ったことになってね。満足に実験もできないんだ。多分、これから風当たりはもっと強くなる。もしかしたら、アンブレラが吹き飛ばされるほど強くなってしまうかもしれない。だから、そろそろ潮時だろうと思った。
僕は別の研究機関に移ることにしたよ。僕をほしがる研究機関は山ほどある。だけどね、移ってすぐ、自由に研究をはじめられるかと言えば、そうじゃない。やはり、しがらみがあって、ある程度の成果が必要だ。だから僕は、T-204を完成させる必要があった」

「完成?」

俺は怪訝に思って鸚鵡返しに問いかける。

「そうだよ、完成だ。実験だけでなく、実戦で使えることを証明する必要があった」

俺の中で、男の言葉と今回の事故が繋がって、恐ろしい仮説が浮かび上がった。

「お前、もしかして――」

男の口角が糸で引いたように釣り上がり、そこから誇らしげな声が溢れ出す。

「僕が意図的に起こしたんだよ! 今回の事件はね、T-204の実戦データを取るためのものだった」

「お前――! そんなことのために……」

俺は飛び出そうとする足を押さえつけ、歯を食いしばる。
頭が沸騰したみたいに熱くなっていた。
バットがギリギリと音を立てて震える。

「実験は大成功だった。満足のいくデータも取れて、そろそろ撤退しようとした時――君が現れた。僕は驚いたよ。T-204が君に関心を示し、君の命令を聞き、君に懐いた。普通じゃあ、考えられない。T-204は僕以外の命令は聞かない。そういうことになっている。ということは――普通じゃないんだよ、君が」

「普通じゃ――ない? 俺が?」

男の言葉は俺の心に波紋を残す。
それは次第に広がって、激しく俺の心を揺さぶる。
俺は何かに怯えていた。
怒りが――波のように引いて、かわりに不安が押し寄せる。

「そうだ。T-204は君の中に、似通った存在を発見したんだろうと、僕は推測した。ある種の、仲間意識のようなものが働いた。そして、T-204は君が格上の存在であるということを認め、君に従った」

「……似通った存在? 仲間意識?」

鼓動が少しずつ早くなる。
トクン、トクンと頭の中にこだまする。

「そろそろ、わかってきたんじゃないかな。君には心当たりがあるだろう? 君が普通でない、心当たりがあるだろう?」

そう――俺は心当たりがあった。
あえて触れようとせずに避けてきたものがあった。
頭の中で、ひとつの筋道が通っていく。
俺はそれを通さないように最後の抵抗を試みるが、しかしそれは自然に通っていく。
あまりにも自然で、逆らいようがない。

「君はなぜここまで来れた? どうして、突然変異のゾンビも、ムカデも、ハンターも、バット一本で倒すことができたんだ? なぜ明かりのない地下道で、不自由なく行動することができたんだ? なぜだ? そんなことが、普通の人間にできるのか?」

男はそこまで話すと、歪んだ笑みを顔に貼り付け、沈黙した。
男は俺が答えるのを待っている。

「……俺は――感染しているのか?」

掠れた声で搾り出すと、男は満足そうに頷く。

「模範解答ではないが正解だ。より正確に言うなら、君は感染しているというより、適応しているのだがね。
――通常、ウィルスに感染した人間はゾンビになる。しかし、君はゾンビになっていない。身体は腐っていないし、知能もある。それどころかゾンビを上回る身体能力まである。これはまだ成長途中といった感じだがね。とにかく、君はウィルスに適応し、人間を超えた存在に進化を遂げたのだよ。これは非常に珍しいケースでね、だいたい1000万人に一人という微小な確率だ」

男の言葉は俺の胸の内にすっと降りてくる。
俺はもう、それに抵抗しない。
ありのまま、受け入れる。
俺はそれをどこかで覚悟していたのかもしれない。
とりあえずゾンビにならないだけましだと思った。
今はそれだけで十分だ。

男は愉しそうに続ける。

「君の潜在能力は素晴らしいものがある。僕はね、君に被験者として研究を手伝ってもらいたいんだよ。
もちろん君にも利益はある。手伝ってくれれば、金は遊んで暮らせるほどあげよう。君を連れて行けば、僕の足場は確固たるものになるはずだ。だから大抵の事はどうにかなる。女も用意する。T-204に手をつけてくれてもいいよ。坂崎玲子も君のものだ。基本的に自由にしていい。
たまに僕の研究を手伝ってくれれば、それだけでいいんだ。君は幸せに暮らすことができる。悪い話じゃないだろう?」

俺はゆっくりと深呼吸をする。
自分の中でまだうまく整理がついていない。
だけどそこに迷いはない。
俺が何であろうと、俺のすべきことは決まっている。
俺は沙耶を見て、坂崎さんを見て、告げる。

「……俺の幸せを、お前が決めるなよ」

「失礼した、それはそうだね。幸せは人それぞれだ。なら、君の幸せを教えてくれないか?」

男は苦笑して言った。

「さあ――自分でもよくわからない。でもな、俺の幸せは、人の命を踏みにじるような奴に手を貸すことじゃない。それだけは確かだ」

「……君は勘違いをしている。僕は人の命を踏みにじっているわけじゃない。彼らの犠牲を元に、人類は大きな進歩を遂げるのだよ。彼らの命は決して無駄じゃない。長い目で見れば、確実に人類の発展に貢献するのだ。
人道とか、道徳とか、そんなくだらない観念は人類の発展を妨げるだけだ。それは人類にとって不利益でしかない――なぜそれがわからない? 君は人間を超越した存在になったのだ。もう人間ではないのだよ。人間のくだらない観念に縛られるのはやめたまえ。それは君を不幸にする」

「だから――俺の不幸を、お前が決めるなよ」

と俺は告げる。
男は首を振って溜息を吐いた。
男の吐息が坂崎さんの髪を揺らし、彼女の眉間に不快そうな皺がよる。

――彼女は起きていた。

彼女は薄く目を開いて俺を見る。
俺はそっと頷く。

「……話をするだけ無駄みたいだね。まったく、くだらない。
完全適応者とは敵対したくはなかったのだが――君がそういう態度を取るなら仕方がない」

男はそう言って注射器のトリガーに指をかける。
坂崎さんの首筋に針の先端が当たる。

そして、男の唇が開き、声を発する。

「T-20――」

――その瞬間、坂崎さんが動いた。
彼女は素早く腕を振って注射器を跳ね上げ、男の膝から転がり落ちる。
注射器は高く宙を舞い、それから落下して、何の抵抗もなく男の太ももに突き刺さった。

「あ――?」

男は間の抜けた声をあげて、呆然とそれを見つめる。
坂崎さんが身体を起こし、注射器に手を添える。

「くたばれ」

彼女は冷ややかに笑って、告げる。
声量の抑えられたその声は、にもかかわらず力強く室内に響いた。
そして乾いた音を立ててトリガーが押し込まれる。

「あ、あ、あああああ――! こ、こ、こここ、この犬がああああああああっ!」

男が絶叫を上げて坂崎さんに殴りかかる――が、俺は既に彼女の傍らに駆け寄っていた。
男の拳を受け止めて、押し返す。
男が椅子から転げ落ちるのを尻目に、坂崎さんを抱えて部屋の隅まで助け出す。

「あ、ありがとうございます」

抱え上げていた彼女を降ろすと、少し照れ臭そうに笑った。

「いえいえ、どういたしまして」

俺も軽く笑って、男に向き直る。
男は太ももを押さえて床に倒れこみ、甲高い悲鳴を上げていた。

「お、お、おおおああああああああ! お前ら何をしたか、わかっているのか! な、何てことをっ、ころ、ころすっ、ころす、ころして――!」

こんな人間のせいで、どれだけの命が失われたんだろうか。
聞くに堪えない。
俺はバットを握り締めて、駆け出す。
この一撃で、全てを終わらせる。
沙耶も、坂崎さんも、これで解放される。
俺は全身で振りかぶり、渾身の力を乗せて男の後頭部にバットを振り下ろす。

寸前で――視界の端を白い影が遮った。

そして、俺は腹を抉られるような凄まじい衝撃に襲われた。

「がひゅ――!」

骨が砕け散るような音が脳内に響き、肺の中の空気が全て吐き出される。
両脚が床面から離れて遠ざかっていく。

走馬灯のように、時間が緩やかに流れる。

俺は宙を飛んでいた。
重力が逆転したみたいに俺は浮かび上がる。
眼下には倒れこんだ男と、そして――脚を振り上げた沙耶が見える。
背中に何かが当たる。
多分、天井。
それから思い出したように重力が仕事をはじめて、俺は落ちる。
沙耶が呆然と、俺を見ている。
何で沙耶が――

「がっ!」

そして、床に叩きつけられた。
全身を激しい痛みが襲い、脳を焼けるような灼熱感が貫く。

「あ、あああ、ごほっごぼっ、げほっ!」

耐え切れずに叫びを上げようと開いた口腔から、大量の血液が噴出す。

「佐藤さんっ!」

坂崎さんの悲鳴が聞こえる。

「お、おお、おおおっよくやった! ははは、そうだ、そうだったなっ! くひひ、ひひ、さあ、T-204あいつらを殺せ、殺すんだああああああああああ!」

男の咆哮が頭に響く。
俺は坂崎さんに助け起こされて、揺れる視界で沙耶を見上げる。
彼女は泣き出しそう顔で俺を見つめていた。

「なにをしている、はやく殺せえええええええ!」

彼女は動かない。
彼女の瞳から、涙がひとつ零れ落ちる。

「さっさと殺せえええええええええ!」

彼女は何度も千切れそうなほど首を振る。
涙が宙を舞う。

「ふざけるなあああああ! 僕を、僕の命令を無視するなあああっ!」

男は一度立ち上がるが、すぐに脚を抱えてうずくまる。
男の脚は肥大して、ズボンが裂けそうなほどに膨らんでいた。
ズボンの下で不気味に何かが蠢く。

「くそっくそっ、こんな、くそがあああっ! くそっ、時間がない、行くぞ、着いて来い!」

男が脚を引きずりながら、部屋を出る。

「何をしている、はやく来い!」

男が入り口で振り返って言う。
沙耶は涙に濡れた顔で俺を見つめる。

「がひゅっ――」

俺は何か言わなければと声を出すが、出てきたのは血飛沫だった。
血が、ごぼごぼと口から溢れ出す。
沙耶は顔を歪めて目を逸らし、男の後について部屋を出て行く。
細い脚がコツコツと悲しい音を立てて遠ざかっていく。

――追わないと。

立ち上がろうと身体を起こすが、すぐに滑って倒れこむ。
床に、真っ赤な血溜りが広がっていた。
必死で身体を動かそうともがいても、全身が氷になったように重くて、硬くて、冷たくて、思い通りに動こうとしない。

「駄目――動かな――で――さい!」

遠くで、悲鳴のような声が聞こえる。
視界が薄く、ぼやけていく。
誰かが俺を抱きしめる。
そして何も見えなくなる。



[19477] 【21時30分】
Name: da◆3db75450 ID:e510d119
Date: 2010/08/28 07:42
【21時30分】

 意識はある――おそらく、あると思う。
 しかし、身体は少しも動かない。氷漬けにされてしまったみたいに、何をしても動こうとしない。
 目も見えない。冷たい暗闇が広がっている。
 音は聞こえる。細胞が蠢く音が身体の内から響いてくる。外からはなにも聞こえない。
 自分の意思でできることは何一つなかった。
 やがて、冷たく固まっていた身体に体温が戻ってくる。細胞が動き、熱を発する。肉体が再構築され、心臓が再起動する。体内を血液が駆け巡る音が聞こえる。忘れていたものを取り戻すように、身体の感覚が戻ってくる。
 口に何かが触れた。それは柔らかく、温かい。そこから肺に空気が流れ込み、そして――。

「ガハッ、ゲホッ、ゲホッ」

 俺は肺に溜まっていた何かを吐き出した。鉄臭い味が口内に広がる。

「よかった……」

 まぶたを開けると、坂崎さんが目に涙を浮かべて俺の顔を覗き込んでいた。彼女の唇が瑞々しい赤で染まっている。

「あ――俺は――」

「だめです、動かないでください!」

 起き上がろうとした俺を、彼女は鋭い声で制した。思わず動きを止めて状況を確認しようとするが、靄がかかったように思考が曖昧で考えが上手くまとまらない。

「今――何時ですか?」

「21時31分です。まだ時間はありますから、大丈夫です」

 あれから、あまり時間はたっていなかった。あれから――そうだ――

「――沙耶は!?」

「地下にいます。モニターが見えますか?」

 言われるがまま首を傾けてモニターを見ると、そこには地下研究室の映像が映し出されていた。円柱状の容器が不気味に並んでいた、あの部屋だ。

「あっ!」

 画面の端に白衣の男が映った。傍らには沙耶がいる。男は一心不乱に棚を漁って薬品を取り出し、それを片っ端から自らに注射していた。

「あいつが部屋を出てから追えば間に合いますから。だから、今は身体を休めましょう。それから、沙耶を助けに行きましょう」

「……わかりました」

 不承不承、同意した。
 身体は少しずつ動くようになっていたが、動かす度に肉が千切れるような鋭い痛みが走る。これでは床を這いずるぐらいしかできそうになかった。
 俺が身体を休めていると、坂崎さんがそっと俺の頭を持ち上げて、その下に膝を差し込んだ。膝枕だ。薄い布越しに彼女の体温が伝わってきて、俺をやさしく温める。

「あ……ありがとうございます」

 彼女は少し微笑んだ。この体勢でいると、俺の顔を覗き込む彼女と自然に目が合う。なんだか照れ臭くて視線をそらすと、彼女は小さく笑った。
 拙い照れ隠しを見破られたのだろうか。なんだか余計に照れ臭くなってくるが、いまさら視線を戻すわけにもいかず、そのまま視線をさまよわせる。

「あ――」

 その先が、血で染まっていた。大量の血液が床を覆っていた。まず間違いなく、俺の身体から流れ出したものだろう。

「俺は――どうなるんだ……」

 誰に言うでもなく自然に呟いていた。これだけの血を流して、まだ生きていることが信じられない。自分が得体の知れない入れ物に入っていみたいで、ひどく気味が悪い。

「大丈夫です」

 頭上から坂崎さんの落ち着いた声が降りてくる。

「あなたの身体はもう普通の人とは違います――でも、大丈夫です」

 彼女はそっと俺の頬を撫でて、幼い子供に言い聞かせるように優しく話す。

「私は不安でした。あなたが信用できる人なのか、力を得たあなたがどうなるのか、色んなことを考えました――本当に、色んなことを考えたんです」

 彼女はそこで言葉を切って、俺を見つめる。切れ長の美しい目から、どこか詫びるような感情が見え隠れする。

「でも今は――私はあなたを知っています。あなたは私を助けてくれました。そして沙耶を助けようとしています。あなたは人であろうとしています。だからもう不安はありません――きっと大丈夫です」

 彼女の言葉には論理的な根拠はどこにもなくて、ともすればただの感情論かもしれない。だけどそこからは、どこか懐かしい暖かさが伝わってきて、俺をやさしく包み込む。

「少し――気が楽になりました。ありがとうございます」

「私にはこれぐらいしかできませんから――ごめんなさい。私には何も出来なくて、あなたを利用してばかりで……」

 彼女は首を振って、潤んだ声で言った。目の端に溜まった涙が、溢れて零れ落ちてくる。

「いいんです。俺は俺のやりたいことをやっていますから」

 彼女は口の端に笑みを浮かべようとして、だけど上手く笑えなかった。それから小さく、

「ありがとうございます」

 と言った。



 身体の内から細胞が蠢く音が響いてくる。24時間稼動の生産工場みたく、驚くべき勢いで身体が作り上げられていく。俺には工場長のような権限はなくて、ああしろ、こうしろ、と指示することはできない。勝手に設計された身体が、勝手に出来上がってくるのを待つだけだ。しばらくの間その音に身を任せながら、俺は沙耶のことを考えていた。

「沙耶は――どうして俺を、その……」

「攻撃したのか?」

 曖昧な俺の言葉を、坂崎さんが引き継いだ。

「……はい」

「おそらく、あの男を守るように教え込まれていたのでしょう」

 彼女は眉をひそめて言った。
 俺は少し迷ってから言う。

「それなら沙耶を助け出そうとしても、彼女と争うことになるんじゃないですか?」

「そうかもしれません。ですが、あなたが変わらないように、沙耶もきっと変わっていません。肉体が変わっても、記憶をなくしても、沙耶のままでいると私は信じています。沙耶は強い子ですから。だから、沙耶を信じてあげてください。そして、どうか嫌わないであげてください」

 彼女が真っ直ぐに俺を見つめてくる。その真摯な瞳に見据えられて、俺は深く頷いた。

「……よかった。沙耶にとってあなたは、大切な存在ですから」

「そうなんですか?」

「きっとそうです。私はあの子の姉ですから、わかるんです」

 そう言って、彼女は目を細めて柔らかく微笑んだ。やはり笑顔の似合う人だと思った。短い付き合いの中でも、一見すると鋭利で冷たい顔をしている彼女が、実は表情豊かで優しい人だということがわかってきた。
 少しの間その笑顔に見惚れて、それから恥ずかしくなって目を閉じた。俺は坂崎さんの鼓動を感じながら身体が出来上がるのを待ち、彼女は子供を寝かしつけるように俺の髪を撫でる。
 逼迫した状況下ではあるけれど、少しずつ心に余裕が生まれてくる。余裕を持つ事は大切だ。余裕がないと視野が狭くなって思いがけないミスを犯してしまう。多分これから先は一切のミスが許されないだろう。

 やがて、身体が出来上がったことを伝えてくる。「しょうがねえから前より頑丈にしといたぜ」とでもいうように、すこぶる調子がいい。以前のような嫌悪感はもう忘れていて、それを自然に受け入れることができた。

「そろそろ、いきましょう」

 俺は身体を起こして言った。

「もう、大丈夫なんですか?」

「ええ。それに時間がありませんから」

 時計の針は21時37分を指していた。
 立ち上がって、部屋の隅に転がっていたバットを拾い上げる。バットは様々な体液がこびりついて変色し、でこぼこになっていた。こいつにはずいぶん世話になった。あと少しだけ、がんばってほしい。確かめるように右手で何度か握り締め、それから俺はごく自然に左手を差し出す。

「あ――」

 沙耶がいないことを忘れて、何もないところに左手を差し出していた。慌てて引っ込めようとすると、その手を坂崎さんが握った。

「いきましょう」

 彼女は悪戯っぽく笑った。

 

 部屋を出る寸前で、坂崎さんの歩みが止まった。繋いだ手が引っ張られて、俺は部屋の中に戻される。

「どうしたんですか?」

 問いかけると、彼女は壁のモニターのひとつを指差した。
 そこに、巨大な人影が映っていた。巨大な人影は地下研究所の廊下を悠然と歩いている。隆起した筋肉に、鋭く伸びた左手の爪、そして剥き出しの巨大な心臓――あれはたしか、円柱状の容器に入っていた怪物だ。

「タイラントT-002型……」

 坂崎さんが呟いた。その呟きは、多分俺に向けられたものではなくて、本来なら誰にも聞きとめられることなく空気に溶けていく類のものだった。そうと知りながら、俺は訊いた。

「それはなんですか?」

 彼女は振り返って俺を見た。

「あ――えっと、高い戦闘力と任務を遂行する知能を持った非常に強力な生物兵器です」

「ということは、あいつの任務は――」

「おそらく、私達の抹殺……」

 画面の中をタイラントが進んでいく。
視線をずらしてその横のモニターを見ると、円柱状の容器が並んでいた部屋が映る。その中の一番大きな容器が空だった。容器の傍らに男が横たわり、引きつった笑みを浮かべて画面の先にいる俺たちを嘲っている。

「時間がありません、いきましょう」

 と言って、坂崎さんの手を軽く引く。

「そうですね……」

 彼女は不安をごまかすように笑みを浮かべた。



 足早に車両基地の前まで戻ると、扉の奥から届く濃厚な気配が俺の足を止めた。

「ここで、待っていてください」

 坂崎さんはそれだけで悟ったようだ。

「気をつけて……」

 彼女は深く頷いた後、言った。
 俺も頷いて、重い鉄の扉を開けた。



 規則的に並んだコンテナの一番高い場所で、この空間全てを支配するように、そいつは待っていた。研究室で見たままの姿のそれが動いている。
 これが――タイラント。非常灯の儚い光が、その姿に柔らかな陰影をつけて、薄暗い闇から浮かび上がらせる。非現実的でグロテスクなその外貌に、少しだけ目を奪われる。不思議と恐怖は感じず、それどころか親近感のようなものが胸のうちに湧いてきた。だけど俺と奴は明確に敵対していて、そこに、何かに置き去りにされたようなもの悲しさを感じる。
 奴は白濁した瞳で俺を見据えると、力強く跳躍し、重い振動を響かせてコンクリートの床に降りた。
 素早く時計を見る。21時41分。あまり時間がない。
 俺は時間に急かされて、駆け出す。
 いまさら戦闘を避けるという選択肢はない。例え避けて通れたとしても、挟み撃ちにあうのは火を見るより明らかだ。俺にできるのは、一秒でも早く、こいつを無力化すること。ただそれだけ。
 コンクリートを蹴る足が急激に加速し、一瞬で間合いを詰める。明らかに、俺は以前より早くなっていた。
 鋭く突き出された奴の左爪が俺のわき腹を掠めて虚しく過ぎる。俺はその攻撃に合わせてバットを振り、勢いのついた一撃を顔面に叩きつけ、確かな手ごたえを感じながらそのまま脇を駆け抜ける。一瞬遅れて、俺の背後を何かが掠め、恐ろしく暴力的な音が辺りに轟いた。
 間合いをとって振り返る。
 奴は左爪をコンクリートの床に叩きつけた姿勢で佇んでいた。コンクリートがガラスのようにひび割れている。
 なんて威力だ。あんなもの、一度でも喰らえば動けなくなる。
 いまさらになって恐怖が襲ってきた。暗く冷たい死の影が胸の内に降りてくる。
 コンクリートの欠片を払って立ち上がった奴が大股で歩いてくる。2mを越える巨躯の歩みは、常人の駆け足程度はあるが、決して速くない。そして、どうやら奴は走れないようだ。逃げようと思えば、逃げられる。もちろんそんなことをするつもりはないが、俺は奴との距離を一定に保ちながら後ずさった。
 少しだけ、考える時間がほしかった。
 俺は奴に渾身の力を込めた一撃を浴びせたが、奴は顔面から少し血がにじんだぐらいだ。まるで効いていない。それは間違いなく今日最高の一撃で、驚くほど重い感触がバットから伝わって来たのだが――そのバットが大きくへこんでいた。むやみに攻撃しても時間と武器を消耗するだけだろう。
 俺は積み重なったコンテナの合間を抜けていく。その後から、奴は一定の歩幅、一定の速さで追ってくる。はたして見えているのかわからないほど白濁した生気のない瞳は、しかし確かに俺の姿を追ってくる。
 生物であるのに、その動きは機械的な作業のようで、生物らしさがまるで感じられない。ただ一点――剥き出しになって鼓動する、大きな心臓を除いて。
 狙うならそこしかないだろう。そこが弱点であることは誰の目から見ても明らかで、だから何かあるのかもしれないと、そこを狙うのを躊躇っていた。しかしいつまでもこんな変化のない追いかけっこを続けるわけにもいかない。

 俺は覚悟を決めて駆け出すと、バットを身体の前に突き出すように構えた。駆ける勢いをそのままにバットを心臓に向けて突く――が、待ち構えていたかのように、正面から鋭い爪の先端が迫ってきてた。俺は攻撃を中断すると、身体を屈めてぎりぎりのところで爪をやり過ごし、脇をすり抜ける――瞬間、俺は何かに引っ張られて、速度が一瞬でゼロまで戻った。肺の空気だけがそのまま駆けていくように吐き出される。足が虚しく空を蹴る。
 首だけで振り返ってみると、奴の右腕がリュックの端を掴んでいた。
 俺はクレーンゲームの景品みたいに、奴の目前まで持ち上げられる。生気のない顔が冷めたく俺を見上げてくる。抜け出そうともがいても、リュックの安全ベルトがしっかりと身体に固定されていて抜け出せない。
 そして身動きの取れない俺に向けて、鈍く輝く爪が突き出された。
 明確な死の予感に、全身が総毛立つ。
 空気を貫いて迫るそれを、俺は半ば反射的に蹴り飛ばしていた。僅かに軌道がずれる。そして、右肩を抉られ、リュックの右ベルトを切り裂かれた。鋭い痛みが走るが、大丈夫、きっと浅い。そう自分に言い聞かせる。
 片方のベルトが切れた不安定な体勢で宙に吊り上げられた俺は、激しく身体をゆすって、次の一撃が来る前にリュックからすり抜けるように落ちた。
 それと同時に、奴の爪がリュックを貫いた。リュックの中に入れていたノートパソコンが、プラスチックの割れる耳障りな音を立てる。
 この隙を逃す手はない。俺は体勢を整えて、巨大な心臓をバットで突いた。バットは正確に心臓を突いたが、しかし貫くことはなかった。やはり先端が太すぎる。
だが、奴は心臓を押さえてよろめくように数歩後退した。間違いなく効いていた。深読みするまでもなく、心臓が弱点だったのだ。
 俺は奴に連撃を浴びせて畳み掛ける。そのほとんどは頑強な腕に阻まれたが、残りは巨大な心臓を激しく打った。攻撃の合間を縫って繰り出される奴の左爪を、俺は半ば勘だけで避け、巨大な心臓を繰り返し殴る。次第に奴の反撃に力がなくなってくる。そして、ついに奴は片膝をついた。
 俺はそのまま止めを刺そうと、踏み込む。
 しかし、身体の内から湧き上がった何かが、それを止めた。それは、踏み込んではいけないと伝えてきた。
 全身の筋肉を締め付けて踏みとどまる。コンクリートの上を嫌な音を立ててスニーカーが滑る。
 そして目前を、鋭い爪が薙ぎ払った。
 切り裂かれた空気が唸りを上げ、目前に構えたバットにやたら重い衝撃が走る。まるで目前の空間が巨大な斧で根こそぎ奪われたかのようだ。あと一歩踏み込んでいたら、俺の首が飛んでいた。
 ぞっとしない思いで奴を見ると、最後の力を振り絞ったように、左爪を振り払ったまま静止していた。奴の白濁した瞳が俺を見上げる。それはどこか苦しそうにも見える。
 今度こそ止めを刺すべく、俺はバットを振りかぶる。そこで――バットの半ばから先が消えてなくなっていることに気付いた。さっきの一撃だろうか、背筋が冷たくなる――しかしちょうどいい、これで鋭くなった。
 バットを逆手に持ち直して、俺はそれを巨大な心臓目掛けて振り下ろした。
 肉を貫く鈍い感触が伝わり、バットが根元まで、巨大な心臓に飲み込まれる。鼓動にあわせて何度か血液が噴出すと、奴は俺を見据えたまま静かに倒れ付した。断末魔のただの一声も上げなかった。



 荒い息を整えながら、扉まで戻る。
 リュックは中身がぐちゃぐちゃになっていて諦めて捨てた。
 バットも捨てた。頼りになる相棒をなくして手元が寂しいが、奴の心臓に刺さったバットを抜こうとは思わなかった。半分になったバットなどあってもなくても似たようなものだし、抜いてしまうと奴が蘇って来るような気がした。いや、さすがにそれはホラー映画の見すぎか。
 扉を開けると坂崎さんが目の前にいた。彼女は俺を見るなり、
 
「大丈夫ですか! ケガは?」

 と訊いてきた。

「ちょっとかすり傷を負いましたが、大丈夫です」

 軽く右肩を押さえながら言うと、彼女はその手を押しのけて傷口を調べる。

「かすり傷とはいえませんが――今のあなたなら大丈夫でしょう」

 彼女は安心したように微笑んだ。



 コンテナの間を通り抜けて、Cエリアの扉の前で立ち止まる。扉には鍵がかかっていた。

「つまらない時間稼ぎです。すぐに解除します」

 坂崎さんは苛立たしげに言うと、スーツの懐から手のひらサイズのデバイスを取り出し、USBケーブルで扉の脇に取り付けられたキーパットとそれを繋いで慣れた手つきで操作しはじめた。
 俺にできる事は何もなさそうだった。ここは彼女に任せて、俺は武器になりそうなものを探す。この身体なら武器がなくても何とかなりそうだったが、格闘技経験などない俺には、やはり無手は心細い。何かを振り回すほうが性に合っている。
 まず目に付いたのは壁際に置かれた消火器。持ち上げて振ってみるが、太くて振りにくい。持ち手の部分は直ぐに折れてしまいそうだ。それに確か消火器が破裂して近くにいた人が重傷を負った事故があった。振り回した拍子に爆発して、それで死んでしまったら笑えない。消火器は鈍器にはむいていないだろう。
 それ以外に目に付くものと言えば、コンテナ、コンテナ、コンテナ……。気がめいるぐらいにコンテナばかりだ。俺はコンテナを調べてみるが、しかしコンテナには鍵がかかっていた。キーパットが取り付けられているから、坂崎さんに頼めば開けてもらえるだろうが、何が入っているかもわからないコンテナを開けるために時間を費やことはできない。
 結局何の収穫もないまま、俺は坂崎さんがいる場所まで引き返そうとした。しかしその途中で立ち止まった。というより立ち止まらざるをえなかった。身体の内から何かが「おい、やばいことになったぜ」伝えてきたのだ。何がやばいことになったのか俺にはわからなかった。だから立ち止まって感覚を研ぎ澄ませてあたりを探った。
 原因はすぐにわかった。現在この車両基地には、三人の人間がいたのだ。正確には、一人の人間と、俺を含む人間もどきが二人。人間もどきが一人多い。そしてその人間もどきは奴を殺した場所にいた。まさか奴がまだ生きているのだろうか。
 なんともいえない嫌な感じをおぼえて、急いで坂崎さんがいる扉の前まで戻り、

「今すぐに、隠れてください」
 
 と言った。
 彼女は驚いて作業を止めると、俺の顔を見つめた。

「……わかりました、どうか気をつけて」

 俺の表情からただならぬ何かを感じ取ったのだろうか、彼女は理由を聞かずにそれだけ言うと、コンテナの陰に隠れた。

 俺はコンテナの合間をぬって奴を殺した場所まで進んだ。時間が迫っているこの状況で、待つという選択肢は無かった。
 しかしそこには血溜まりだけが広がっていた。奴の死体は大量の血液を残して姿を消していた。だけど――近くにいる。そう伝えてくる。どうしてだかわからないが、奴は蘇ったのだ。
 その場で周囲を見回してみる。何段にも積み上げられたコンテナばかりだ。濃い血の臭いに邪魔されて、奴の居場所が曖昧だ。
 不意を突かれれば、一瞬で終わってしまう。奴は俺を一撃で殺す術を持っている。
 俺は周囲に漂う薄暗い闇の全てから見られているような錯覚に襲われた。
 知らないうちに手が汗ばんでいた。坂道を転がり落ちるように鼓動が早くなっていく。武器を持っていないこともそれに拍車をかける。消火器でもいいから持って来るべきだった。
 意識して深く呼吸し、自分を落ち着かせる。確かめるように両拳を握り締める。
 そして薄闇の中――傍らのコンクリートの床に、ひと際暗い影が落ちた。しかし影の主が見当たらない。影は急速に大きく、濃くなっていく。
 頭上から風を切る音が聞こえた――上!?
 見上げた俺の視界を、闇を切り裂いて迫る強大な爪が覆い尽くした。



[19477] 【21時30分〔2〕】
Name: da◆3db75450 ID:fbc51df9
Date: 2010/09/20 09:36
 避けきれない!
 そう感じたときには俺はすさまじい衝撃に襲われて宙を舞っていた。景色がめまぐるしく回転し、何度も上下左右が入れ替わった末、何かに激しくぶつかってようやく止まる。
 ぶつかったのはコンテナだった。

「あ――がっ」

 両腕がひどく痛んだ。咄嗟に頭を庇ったせいで切り裂かれた。しかし、深くはない。まだ動く。
 おぼつかない身体を起こして立ち上がり、奴を見据えて身構える。ゆらゆらと揺れて安定しない視界の先で、奴はゆるやかに振り返り、俺を見た。奴の身体がひとまわり大きくなっているように見えた。あるいはそれは気のせいだったかもしれない。しかしそこに溢れんばかりの生命力を感じた。それから一拍おいて、奴は俺に向かって全身で咆哮した。それは空気を震わし、空間を震わし、そして俺の心を震わした。
 俺は萎縮した。本能的に生物としての格の違いを見せられたような気がした。あまりにも暴力的だった。機械的な以前の印象はもうどこにもなく、それはまるで枷から開放された人型の獣だ。まさに、思うがまま暴力を振り撒く――暴君。
 俺は身動きが取れずに、咆哮が終わるのを何もすることなくただ見ていた。
咆哮を終えた奴は、身体を沈めて溜めをつくると、凄まじい速さで駆けて来た。俺の目前まで迫った奴が左爪を振りかぶる。死の影がすぐそこまで降ってきて、ようやく俺は身体を動かすことができた。
 俺は左に身を投げ出し、それを避ける。コンクリートの床を転がって起き上がると、奴は追ってきていた。続けて繰り出された左爪を、今度は身を屈めて避ける。頭上の空間が恐ろしい音を立てて薙ぎ払われる。
 俺はそこで反撃を試みるが、振りきった奴の左爪が裏拳のように戻ってきて、慌てて避ける。しかし避けたところに、間髪いれず左爪が降ってきた。
 俺はたまらず、大きく後ろに跳んで距離を離した。しかし奴は吸い付くように追ってくる。
 だめだ、間合いを外すことができない。
 奴はそのまま爪を薙ぎ払う。俺はそれをかろうじて避けるが、すぐに次の攻撃が追ってくる。それを避けると、すぐにまた次が迫る。
 強大な爪が嵐のごとく縦横無尽に暴れまわる。
 とても避けきれない。
 奴の爪が俺の身体を掠めて、浅い傷をつくっていく。俺は奴の爪を避けることだけに集中し、かろうじてそれを避けるが、しかし次第に身体の動きが鈍くなっていく。気付けば、全身が血で塗れていた。血を吸った服が、重く身体にまとわりつく。血が足りない。少しずつ傷が深く、大きくなっていく。奴の爪が、とても浅いとはいえない傷をつくっていく。
 このままではジリ貧だ。
 時間もない。
 しかし、奴の攻撃の合間をぬって反撃を仕掛けるには計り知れない勇気が必要だった。反撃するには奴の爪の間合いの更に内側に入らなければならない。それを考えると身が竦み、背筋が凍った。
 だけど、それでも俺は反撃しなければならない。諦める事はできない。
 空間を貫いて迫る奴の左爪を、俺は半身になって避ける。そして覚悟を決めて一歩踏み出す。今まで踏み込んだことのない間合いへ。
 思っていたよりもずっと簡単に、俺は奴の間合いの内側に潜り込んでいた。既に拳は振りかぶっている。後はそれを、奴の心臓目掛けて突き出すだけだ。
 俺は全身の力を振り絞って、拳を突き出した――鋼のように鈍い色の巨大な心臓目掛けて。
 鋼のように鈍い色――?
 拳に伝わったのは、とても心臓を殴ったとは思えない硬い感触だった。金属質の音があたりに響く。
 奴の心臓は、金属のように硬かった。心臓が、金属質の何かで覆われている。
 まさかこれは――バット?
 バットが溶け出したように、奴の心臓を覆っているのだ。

「嘘だろ……」

 その時、感覚が危険を伝えてきた。今まで何度もこの感覚に助けられた。咄嗟に身体を捻るが、しかしもう避けられないところまで、奴の爪が迫っていた。
 そして鋭い爪が俺の胸を切り裂き、身体を弾き飛ばした。

「がっ――!」

 俺は何度も床を転がり、コンテナにぶつかって止まった。
 胸が、燃え上がるように熱い。切り裂かれた胸から、血が流れ出している。傷は心臓には達していない。それは幸いだったが、しかし血が足りない。胸だけがやたらと熱く、ほかは氷のように冷たい。
 奴が止めを刺すべく迫ってくる。奴の左爪が数瞬後に俺の身体を貫くことを、やけにリアルに想像することができた。
 奴が爪を振りかぶり、突き出してくる。
 身体が重い。仮にこの一撃を避けても、わずか数秒、寿命を延ばすだけだ。だけど――。
 身体が勝手に動いていた。俺は床を転がって奴の脇を抜け、突き出された爪をかろうじて避けた。しかしただ避けただけだ。もう次はない。
 奴の爪はコンテナを引き裂き、貫いていた。爪を引き抜くのに少し手間取っているようだ。これでまた数秒、寿命が延びた。
 この隙に、何とか両手で身体を起こす。
 そのまま這いずって奴から少しずつ遠ざかる。
 遅い。
 動きが鈍い。
 背後でコンテナから爪を引き抜く音がした。
 もう、終わりだ。
 そう思った瞬間、全身から力が抜けて床に倒れこんだ。
 俺の目前を大量のガラス瓶が嘲るように転がっていく。
 コンテナから零れ落ちてきたのだろう。その瓶にはこう書かれている。

『希硫酸』

 気付くと、俺はその瓶を掴んで背後に振り返り、奴に投げつけていた。
 奴は宙に舞った瓶を爪で叩き割った。そこからこぼれた希硫酸が、雨のように奴の身体に降りかかる。
 ――それだけだった。肌を焼いたり、肉を溶かしたりする事などなかった。何も起こらなかったのだ。シャワーのように奴の身体に降りかかっただけだ。

「は、はは……」

 引きつった笑いがこぼれた。
 奴が煩わしそうに、身体に付いた希硫酸を振り払う。
 もうひとつ、近くに希硫酸の瓶が転がってきた。俺は無駄だと知りながら、自動的にそれを拾い上げ、投げつけた。
 奴は再度、それを叩き割った。希硫酸が奴の肌にかかるが、たいして問題ではないのだろう、奴はそのまま迫ってくる。
 希硫酸がいくら降りかかっても、奴の肌は何の変化もなかった。映画やゲームのようにはいかなかった。希硫酸ではなく濃硫酸だったら結果は違ったのだろうか。そんな意味のない事を考えながら、俺は迫り来る奴を見上げた。奴は白濁した瞳で俺を見下ろし、左爪を大きく振りかぶった。硫酸にぬれた灰色の肌が、不気味に光を反射する。奴の心臓が奇妙に泡立っている。
 心臓が泡立っている――?
 奴の心臓を覆う金属の一部が、激しく泡立っていた。
 もしかして――希硫酸が金属と反応しているのか?
 そう気づいた時、左爪が振り降ろされた。
 俺は残力を振り絞って床に転がり、寸前で避けた。そしてそのまま這いずって、床に転がる希硫酸の瓶を掴むと、奴の心臓目掛けて投げつける。
 しかし瓶は左爪に割られて、奴の心臓まで届かなかった。数滴が心臓に降りかかって泡立てるが、それだけだ。

「くそっ」

 俺はもうひとつ瓶を拾い上げて、投げつけようとするが、その時には奴の爪が高らかに振り上げられていた。
 だめだ、間に合わない。

「目を閉じてください――!」

 その時、背後から声が届いて、俺は反射的に目を閉じていた。
 スプレーから何か吹き出るような音が聞こえ、薬品の不快な臭いが鼻を刺激し、そして奴の太い絶叫が響き渡った。
 奴の攻撃は来なかった。
 目を開けると、薄暗い闇が白く染まっていた。白い粉のようなものが空中に漂って、それが視界を薄く遮っている。
 俺の隣にはいつの間にか坂崎さんがいた。彼女の手には消火器。そこから白い消化剤を、奴に向けて吹き付けている。
 奴は消化剤から逃げるように、後ずさりながら闇雲に爪を振り回していた。消化剤で目を潰されたようだ。
 それを見て、俺は手に持った瓶を投げつけた。しかし奴が暴れまわって狙いが逸れ、肩の辺りに当たる。奴がこちらに振り向く。
 もう一度、足元を転がる瓶を拾い上げ、投げつける。今度は奴の腹に当たった。奴がこちらに向け、駆け出す。
 もう一度、瓶を拾い上げる。奴はすぐそこまで迫っている。奴が左爪を振りかぶる。
 くそっ、だめか!
 そして、左爪が薙ぎ払われた。
 しかしそれは俺に届かなかった。左爪と俺の間に、坂崎さんが割り込んで、彼女が俺の視界を、右から左に弾き飛ばされていく。
 叫びそうになった。しかしその衝動を必死に押さえ込む。
 爪を振り払ってほんの一瞬停止した奴に、俺は瓶を投げつけた。それは吸い込まれるように奴の心臓に命中し、甲高い音を立てて割れた。
 奴の心臓に希硫酸が降りかかる。心臓を覆う金属が白い泡を立てて溶け出していく。遅れて、奴の絶叫が轟いた。奴は胸をかきむしりもがく。驚くべき勢いで金属が溶けていく。そして心臓から血液が噴出した。
 俺は震える足で立ち上がり、一歩踏み込む。それだけで間合いに入った。腕を伸ばせば届く距離だ。そして、奴の心臓目掛けて右腕を繰り出す。拳は握らない。鋭く指を伸ばす。
 右腕がまるで槍のようになった気がした。右腕は奴の心臓を貫いていた。腕の根元まで心臓に埋まり、完全に貫通した。右腕から暖かい熱が伝わってくる。奴の血が、俺の右腕をつたって流れ落ちる。白濁した瞳が、俺を探して宙をさまよう。そして静かに、奴の身体から鼓動が消えた。
 右腕を引き抜くと、奴はゆっくりと倒れた。胸には大穴が開いている。これはさすがに塞ぐことはできないだろう。もう蘇る事はない。
 そして、奴に続けて俺も倒れそうになった。全身から力が抜けていくようだ。しかし、倒れる事はできない。
 俺は辺りを見回してコンテナに寄りかかるようにして倒れている坂崎さんを見つけた。

「坂崎さん! 大丈夫ですか」

 呼びかけて近づくと、彼女は小さく呻いた。よかった――生きている。

「坂崎さん!」

 肩を揺さぶると、彼女は薄く目を開けて俺を見た。

「大丈夫ですか?」

「あ――私――ええ、どうにか」

「ケガは?」

 彼女は軽く身体を動かしてケガの具合を確かめるが、少し動かすと苦しそうに顔を歪めた。

「大丈夫ですか!?」

「……少し痛みますが、大丈夫です。どうにか動きそうです」

「そうですか――とにかく、無事でよかった。まともに攻撃を受けたように見えたので心配しました」

「まともじゃありませんよ」

 彼女は薄く笑って、傍らに転がった消火器を見た。消火器には大きな爪跡が刻まれている。

「消火器で受けたからこの程度で済んだんです。だから私は大丈夫です」

 そう言って、彼女はコンテナを支えに立ち上がった。そしてそのまま歩き出そうとするが、すぐに膝から崩れるようにして体勢を崩した。
 俺は咄嗟に彼女を支える。

「大丈夫ですか!」

「うっ――あ、ありがとうございます」

 彼女は苦しそうに呻いた。彼女の荒い息が俺の首筋に吹きかけられる。とても無事には見えない。

「ケガ、ひどいんじゃないですか?」

 彼女はその質問には答えなかった。

「不思議ですね、見かけだけならあなたのほうがよっぽどひどい傷なのに、あなたは動いて、私は動かない……」

 彼女は悔しそうに言った。

「俺はこんな身体ですから。一秒毎に回復しているのがわかるくらいです。本当に、この回復力には頭が下がりますよ」

「沙耶を――お願いします」

 彼女は俺の肩に顔を埋めて、震える声で言った。

「私は足手まといです。だから――お願いします」

 俺は深く頷いた。


 彼女を抱えてCエリアの扉まで移動して、鍵を開けてもらった。その間俺は身体を休めていた。扉はすぐに解除された。

「ごめんなさい、本当に最後まであなたに頼りっきりで。沙耶は私の妹なんです、だから、最後ぐらいは私が助けてあげたかった。でも、沙耶はきっとあなたに助けてほしいんです。私じゃないんです……」

 そう言って、坂崎さんは寂しい笑い方をした。

「必ず助け出します」

 言うべき言葉は他にも沢山あるような気がしたが、俺はそれだけ言って駆け出した。



 研究室の扉の前で立ち止まり、最後に時間を確認しようとした瞬間、甲高いサイレンと共にアナウンスが響いた。

『緊急警報発令。爆破10分前です。総員速やかに退避してください。緊急警報発令――』

 赤い非常ランプが点滅し、空間を鮮やかに染め上げる。
 21時50分。泣いても笑っても、あと10分だ。
 俺は深呼吸して、研究室の扉を開けた。



[19477] 【21時50分】
Name: da◆3db75450 ID:674b7bca
Date: 2011/01/21 18:51
【21時50分】
 
 中に入ると、そこには沙耶が一人でいた。男は奥にいるようだった。薄暗い奥から苦しげな呻き声が小さく届いてくる。

「沙耶」

 呼びかけても沙耶はうつむいてこちらを見ようとしない。

「ここから抜け出そう」

 一歩近づく。沙耶はうつむいたまま首を左右に振ると、一歩下がった。

「さっきの事は気にしてない。幸い馬鹿みたいに頑丈になってるから、あれぐらいなんともない」

 もう一歩近づく。すると沙耶はまた一歩下がる。うつむいていて表情が読み取れないのがもどかしい。

「坂崎さんも――君のお姉さんも待ってる。だからみんな一緒に抜け出そう」

 もう一歩近づく。沙耶も一歩下がるが、彼女の踵が薬品棚につかえる。彼女はもう下がれない。
 俺は沙耶を刺激しないようにゆっくりと近づいて呼びかけていった。しかし彼女は俺を拒むように俯いたまま、小さく震えるだけで何の返事もしない。
 手を伸ばせば届く距離まで近づいて、俺は沙耶の肩に手を置いた。彼女と向き合って話をしたかった。
 しかしその瞬間、耐え切れなくなったように沙耶の脚が振り上げられた。
 俺は反射的に避けようとする自分の身体を抑えて、唸りを上げて迫るそれをただ見据えた。なぜか当たる気がしなかった。
 脚が弧を描いて迫る。はじめ勢いのよかったそれは、近づくにつれて目に見えて勢いをなくしていき、頭を蹴り飛ばす寸前で力なく止まった。俺の目前で細い脚が、何かに抗うかのように震えている。しばらくそのままでいたが、震えが徐々に収まってくると、ぎこちなく脚が下ろされた。
 俯いたままの沙耶の顔から涙が落ちるのが見えた。多分彼女には男の命令を振り切って、あと一歩踏み出すだけの力がないのだ。
 俺は沙耶の肩を引いて細い身体を抱き寄せた。彼女の柔らかな身体が強張った。

「大丈夫だ」

 沙耶の背を撫でる。

「何があっても君を見捨てない。必ず助け出す。だから何も恐れなくていい」

 沙耶は何も答えない。

「一緒に抜け出そう」

 しばらく沈黙があった。その間俺は沙耶の背を撫で続けて返事を待った。
 それから沙耶は小さく頷くと、恐る恐る俺の背に腕を回して震える声で謝った。

「……ごめんなさい」

「もういいんだ」

「ごめんなさい」

 沙耶は首を振って、何度も繰り返し謝った。それ以外の言葉を忘れてしまったみたいに執拗に。次第にその言葉は潤んできて、嗚咽で聞き取れなくなった。
 俺は彼女のぬくもりを感じながら安堵のため息を吐いた。

「もう行こう。あまり時間がない」

 沙耶は涙で赤く腫れた顔を上げて頷いた。
 それから急いで研究室を出ようとしたが、研究室を出る前で沙耶の脚が止まった。

「どうかした?」

 手を引いても彼女は動かない。

「もしかして、動けないのか?」

 彼女はばつが悪そうに頷いた。
 強く引いても、持ち上げようとしても、研究室の敷居を跨ぐ事ができない。そこには明らかに彼女の意思ではないものが働いていた。

「あの男か。あいつが君を縛り付けるんだな」

「ごめんなさい……」

 俺の顔色を伺って沙耶が謝った。知らずに険悪な表情になっていたのかもしれない。

「君のせいじゃない。ここで待っていて。すぐ戻るから」

 時間は21時53分。55分にはここを出ないと、おそらく間に合わないだろう。
 俺を不安そうに見送る沙耶を残して足早に研究室の奥へ進んだ。
 そこには、円柱状の容器が並ぶ中に白衣の男が倒れて、苦しげにもがいていた。

「T―204はどうした……。殺したのか?」

 男は顔を上げて苦痛に歪んだ目で俺を見上げた。

「殺すはずがない」

「ならなぜ、お前は生きている」

 俺はその問いに答えずに、ただ肩をすくめた。それだけで男は悟ったようだった。

「なぜ……なぜだっ! なぜ僕の命令を聞かない。なぜ僕の邪魔をする。なぜなんだ……」

 地の底から続いてくるような暗い感情のこもった声で男は呟いた。答えてやる義理などどこにもなくて、俺はそれを聞き流した。

「沙耶を解放しろ」

「絶対に……するものか。あれは僕のものだ――!」

「彼女はお前のものじゃない。それにわかっているだろ、お前はもう終わりだ」

 荒い息で床を蠢く男の身体は、いたるところから骨とも筋肉とも判別できない固まりが隆起し、既に人間のシルエットを留めていなかった。特にひどいのは脚だ。両脚から数多くの黒光りする触手が突き出して不気味にくねらせている。

「僕が――僕が終わるものか! なぜ僕の邪魔をする、僕は人類の未来に繋がる研究をしているのだ、うまくいけば人が死なない社会をつくることだって出来る、なぜそれを……」

「お前がどれほど高尚な研究をしていたのか、俺にはわからない。だけど、俺たちは――この街の人たちは、お前の研究のモルモットにされた。だったら抵抗する権利ぐらいあるだろ?」

「そのせいで、台無しになったのだ! 全てが無駄になったのだ! それがどれほど愚かなことかわからないのか!」

「あいにく文型でね、理系の事はよくわからない」

「ふざけるなああああああああああああああああああああああ!」

 男は唾液を飛ばして汚く咆哮した。憎悪に染まった瞳が俺を睨み上げる。
 俺はそれを無視して男に近づく。まじめに問答する気などはじめからなかった。時間もない。

「どうあっても、沙耶を解放する気はないみたいだな。だったら――」

 男の胸倉を掴みあげて、右腕を振りかぶる。

「俺が解放する」

「ひっ――バカ、やめろっ!」

 不思議と躊躇はなかった。引きつった悲鳴を上げて恐怖に顔を強張らせる男に向けて、俺は拳を振り下ろした。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!」

 しかし拳が男に届く前に、俺は何かに引かれて転ばされた。
 
「いっつ――!」

 見ると、男の脚から伸びた触手が俺の足首に絡み付いていた。こいつに引き倒されたようだ。
 俺は絡みつく触手を引き剥がして立ち上がった。触手にはたいして力はなく、不意を突かれなければ恐れる必要はないだろう。
 顔を上げると男は手で這いずりながら逃げ出していた。

「諦めろ」

 俺は行く手を遮る触手を飛び越えて、男の進路に先回りする。

「くるなあ!」

 しかし着地した俺に向けて、大量の触手が一挙に繰り出された。

「くそっ」

 一本一本に力はないが数が多くて鬱陶しい。身体に纏わり付き、絡み付いてくる触手を、引き剥がしつつ、引き千切りつつ処理していくが、どうにも時間がかかる。
 その間にも男は這いずりながら逃げていく。こんなことで時間を失いたくなかった。
 俺は触手をまとめて掴み取り、ハンマー投げのハンマーのように男を振り回して、渾身の力で投げ飛ばした。
 男は情けない悲鳴を上げて宙を舞い、入り口近くに落ちて仰向けに倒れた。すぐ近くに沙耶がいた。

「ぼ、ぼぼ、ぼくを助けるんだ」

 男が沙耶に向けて手を伸ばし、助けを請う。
 沙耶はその手に引き寄せられるように、震える手を伸ばした。
 まずい!
 自分の犯した失態に心臓が凍りついて、俺は即座に駆け出した。

「そ、それでいい、T―204……いや沙耶だったか、そうだたしかティーか――え?」

 男がそれを口にした瞬間、沙耶の手が拳に変わった。そして俺が止める間もなく男に振り下ろされた。拳は正確に男の頭を潰し、あっけなく命を断ち切った。

「あ……沙耶……」

 男は頭を完全に潰されて断続的な痙攣を繰り返している。沙耶はそれをはじめて会ったときのような感情のこもらない瞳で見下ろしていた。
 俺は急に言いようのない不安に駆られて沙耶に駆け寄った。

「沙耶……」

 彼女は振り返って俺を見ると悲しそうに笑った。悲しそうではあるけれど笑ったのだ。それだけで不安は影を潜めた。

「……行こう」

 他に掛ける言葉は見つからず、見つかったとしてもそれを言う時間おそらくなくて、俺はそれだけ言って沙耶に手を差出した。
 彼女は手を重ねるとしっかりと頷いた。

 沙耶の手を引いて研究室を出た瞬間、背後から肉が引き裂かれるような生々しい音が聞こえてきた。
 思わず振り返って室内を見ると、頭をなくした男の死体から、太く強大な触手が新たに伸びていた。

「嘘だろ……」

 男は明らかに死んでいるというのに、ウィルスが男の身体を乗っ取ったかのように、触手が溢れ出しているのだ。
 俺は踵を返して駆け出した。時間は21時55分を少し過ぎている。正直言ってかなり際どい。
 数歩と走らない内に背後から肉の擦れる音が背後から届いて、触手が追って来るのを感じた。
 駆けながら首だけで振り返ると、太く長い触手が廊下を埋め尽くして、驚くべき勢いで増殖し、迫ってきていた。触手はみるからに強靭だ。捕まったら簡単には抜け出せないだろう。緊張で鼓動が加速していく。
 俺は顔を前に戻して走ることだけに意識を集中し、必死に脚を動かす。沙耶も俺の隣を凄まじい速さで駆ける。
 しかし触手はさらに速い。脚を持たない触手は宙を駆って、俺たちを嘲笑うように追ってくる。
 隣を走る沙耶が不安そうな視線を投げかけてくる。
 俺にはそれに答えるだけの余裕がなかった。
 俺は脚を動かすだけで精一杯だ。対して沙耶には余裕がある。俺よりも沙耶のほうが速いのだ。沙耶が隣で走っているのは、ただ俺の速さに合わせているだけで、彼女は本来なら触手に負けない速さで走ることができるはずだ。
 先に行くように視線で合図をしても、彼女は首を振って答えない。俺もそれ以上続けるだけの余裕がなくて、なし崩し的にそのまま走り続けた。
 角を曲がって車両基地へと続く長い直線を迎えたとき、ついに追いつかれた。
 背後から繰り出される触手を、俺たちは身を傾けたり、飛び跳ねたりして避ける。しかしそうすると自然に速度が落ちて、大量の触手が俺たちを包み込むように迫ってきた。
 俺は耐え切れなくなって、ついに叫んだ。

「先にいけ!」

 彼女は首を振る。

「先にいくんだ!」
 
 強く怒鳴るっても、彼女は首を振った。
 くそっ、どうすればいい!
 俺のせいで彼女を危険に巻き込むのは耐えられない。しかし彼女は応えてくれない。
 俺は地面に這う触手を飛んで避け、前から迫る触手を半身になって避ける。既に数本の触手が俺たちを追い越していた。もう持たない。
 その時、俺は触手の隙間から、車両基地に続く扉が閉まっているのを見た。

「沙耶、先にいって扉を開けてくれ!」

 彼女は一瞬の迷いを見せたが、しかし俺の言葉が理に適っているのを悟ったのか渋々頷いた。
 沙耶は急速に走る速さを増して、たった数歩で俺と触手を引き離した。彼女はそのまま留まることを知らずに勢いを増し、扉に辿り着くと素早くそれを開ける。
そして沙耶が振り返った瞬間、俺は周り全てを触手に囲まれて、彼女の姿を見失った。
 触手が体中に絡みつき、万力のような力で締め上げて押しつぶす。身体の自由がまるで利かない。ギリギリと骨のきしむ音が身体の内から響き、肺の空気が締め出される。
 ここで死ぬつもりなど毛頭なかった。
 しかしその思いとは裏腹に状況は最悪で、視界全てを触手に埋め尽くされて、俺にできる事など何もなかった。体中に纏わりついた触手は、俺に指一本動かすことも許さない。肺が締め上げられて収縮し、呼吸ができない。痛みと酸欠で意識が曖昧になっていく。
 死にたくない。それは確かだったが、けれどもうどうすることもできず、俺の死は決まっているように見えた。
 しかし俺はその代わりに一人の少女を救えた。自己犠牲のような尊い精神は俺にはないが、生きるか死ぬかの状況の中で、俺は俺の思う正しい行動を貫くことができた。それだけは誇らしかった。

 触手が仕上げに入るかのように、力強く締め上げてきた。本格的に身体が砕けていく乾いた音がやけに大きく響き、激痛が身体の芯を走った。
 その中に異音が混じっていた。身体の内からではなく外からだ。よく聞くと叫び声のようなそれは、次第に音を大きくしていく。何かが近づいてきていた。

「ユウタ!」

 声は俺の名前を呼んでいた。沙耶の声だった。
 なぜ――!
 驚愕に自分の耳を疑ったが、声はもうすぐそこまで近づいていた。聞き間違えるはずもなく、沙耶の声だ。
 そして俺の目前の触手を白い手が掻き分けて、沙耶の必死な顔がそこに現れた。

「沙耶、どうして――!」

 彼女はそれに答えないで、ただ一心に触手を掻き分けると、俺の身体を抱きしめて、触手の中から引き出そうとする。
 しかしそうする間にも触手が沙耶の身体にも絡みついて動きを封じていく。俺も必死でもがき、触手を引き剥がそうとするが、触手は力強く絡んでいて、どうにもできなかった。
 触手はいくら掻き分けても増殖し絡み付いてくる。細い手で必死に触手を掻き分けていた沙耶も、ついに捕らえられその動きを止めた。
 俺と沙耶は二人一緒に巻かれて締め上げられた。
身体を絞られる苦しみの中で、俺は目前にいる沙耶に問い掛けた。

「どうして、戻ってきた」

 彼女は目を伏せて「ごめんなさい」と謝った。

「責めてる、わけじゃない、ごめん」

 彼女は気にしないでというように微笑んだ。
 触手が勢いを増して締め上げてきて、俺は言葉を出すこともできなくなった。
 悔しかった。俺は結局一人の少女を助けることができなかったのだ。ただ悔しかった。
 沙耶も苦痛に呻いていた。大きな瞳からはとめどない涙が溢れ出している。しかしどういうわけか、彼女はとても満足そうに微笑んでいた。

 俺には彼女の微笑みの意味がわからなかった。
 沙耶はこれで満足なのだろうか。俺たち二人の前にあるのは死だけなのに彼女はそれでいいのだろうか。
 そう思ったとき不意に、俺は坂崎さんの言葉を思い出した。
『沙耶にとってあなたは、大切な存在ですから』
 あの時は深く考えずに軽く聞き流していた。しかし今、沙耶の表情を見て、その意味がようやく理解できたような気がする。
 記憶をなくした沙耶にはほんの短い記憶しかなくて、その中で彼女にとって大切な人は俺しかいなかった。彼女は彼女を心の底から大切に思う姉の存在すら忘れている。
 俺には沢山の大切な人がいる。両親や友人、親戚、世話になった先生、それから実家の犬、他にも色々。程度の差こそあるが皆が皆大切な人だ。
 しかし沙耶にはそれがない。彼女にとって俺は世界でたった一人の大切な人で、彼女の世界は俺と彼女のたった二人だけで完結していた。彼女はそこから外に出ることを知らないのだ。だから彼女は、俺と一緒に死ぬことに意味を見出している。
 俺は沙耶をこんな狭い世界で終わらせたくはなかった。彼女にはもっと広い世界があって、俺よりずっと彼女を大切に思っている人がいる。それを知らせてあげたかった。
 しかしそれを知らせる術はもうどこにもなかった。悔しくて涙が溢れた。

「ち……く……しょう……」

 渾身の力で振り絞った声も、掠れて消えていくような情けないものだった。また涙が溢れた。
 沙耶は不思議そうに俺を見た。そこには穏やかな微笑が浮かんでいて、それがまた悔しかった。
 時間は淡々と過ぎていて、もう触手に殺されるのが早いか、爆発に巻き込まれて死ぬのが早いかもわからない。俺にはただそれを待つだけしかできないし、例えどちらであっても大差のない死が待っている。
 目の前に色濃く映る死の影をながめ、その向こうにあったはずの未来を思った。本当にあと少しだった。あと少しで俺たちは皆揃って脱出できたはずだ。なのになぜ、どうしてこんな結末を迎えることになったのだろう。しかし考えるまでもなくその答えは明らかで、俺が最後の最後でどうしようもなく役立たずだったからだ。それ以外なかった。
 脳が燃え上がりそうなほど熱かった。身体はまるで動かない俺は、ただの考えることしかできず、破裂しそうなほど強烈な感情に脳を焼かれていた。怒りと、後悔と、苦悩と、無念と、言葉に言い表せないほどの感情の数々。しかしそれらの感情の行き場は、ただ涙となって流れ落ちるだけで、結局何も変わる事はなかった。それがまた脳を熱く燃やした。
 気付けば脳だけじゃなく身体も灼熱感に包まれていた。熱い、どうしようもなく熱い。

「あ、あああ、ああああああ!」

 出ないはずの叫びが、口から吐き出された。
 死は、こんなにも熱いものなのだろうか。
 わからない、熱が思考まで奪っていく。
 身体の内から、音が鳴り響く。
 何の音だ? 燃える音? 砕ける音?
 わからない。
 そして、微笑を浮かべたまま瞼を閉じた沙耶の顔が瞳に焼き付いて、意識が真っ白に燃え上がった。



 気がつくとコンクリートの床に倒れていた。
 絡み付いていた触手は、なぜか無残に切り裂かれあたりに転がっている。
 しかしすぐに、新たな触手が俺に絡み付こうと迫ってきた。

「くっ!」

 それを転がって避けると、俺は同じように床に転がっていた沙耶を抱きかかえて、立ち上がった。彼女はぐったりとして力がない。
 彼女の安否を確かめる間もなく、四方から大量の触手が迫る。
 くそっ!
 俺は迫り来る触手に向けて、ただ右腕を振って無駄としか思えない抵抗した。もう一度捕らえられて、情けなく締め上げられる事は疑う余地もない。
 その予想は裏切られた。
 振り払った右腕に確かな手ごたえがあった。
 触手は半ばで切り落とされて床に落ち、粘着質の液体を吹きながら跳ね回る。

「なんだ、これ……」

 右腕が肥大し、指先から巨大な爪が伸びていた。これが触手を切り払ったのだ。
 変化があるのは右腕だけで、それ以外はどこも変わりない。右腕だけがまるで――タイラントの腕のように変化している。
 しかし思考に浸る暇もなくすぐに次の触手が迫り、俺は反射的に右腕を振った。触手が無残に宙を舞う。あれほど力強かった触手は、この腕の前にたやすく切り裂かれていった。
 なにがどうしてこんな腕になったかは知らない。だが――これなら抜け出せる。
 俺は左腕で沙耶をしっかりと抱えなおすと、行く手を阻む触手の海に駆け出した。
 一瞬視線を腕時計に落として時間を確認する。21時58分。Gショックはひび割れ、ボロボロになっていたが、それでも正確に時を刻んでいた。
 強靭な右腕を降りながら触手を切り払い、進む。触手はもう脅威ではなく、ただ五月蝿いだけの障害だった。
 問題は時間だ。これだけは平等に刻まれて平等に訪れる。22時を迎えることからは逃れられない。
 間に合え!
 圧倒的な物量をもって時間を奪っていく触手を切り払う。
 しかしいくら切り払っても触手の海は続き、永遠に抜け出せないような錯覚に陥っていく。
 時計を見る。時間は21時59分を迎えようとしていた。
 
「くそっ!」

 頭の片隅に諦めの色が浮かんで、俺はそれを振り払うために目前の触手を大きく薙ぎ払った。
 その瞬間、触手の隙間から微かな光がこぼれてきた。光は瞳に眩しく映り、触手の海を抜け出す確かな予感が漂った。
 
「あああああああああ!」

 絶叫して、光を遮る触手を切り払い、触手の海を渾身の力で駆け抜けた。
 光が溢れた。
 蛍光灯の光が、広大な車両基地を照らし出す。
 俺はコンテナの間を抜け、執拗に追ってくる触手を引き離していく。 景色が驚くべき速さで流れて、何もかもすべてを置き去りにしていく。風を切る音が暴風のように耳元で鳴る。
 そして、コンテナを抜けて開けた視界の先に列車が現れた。

「こっちです! 早く!」

 車両から身を乗り出した坂崎さんが、手を振って呼んでいた。
 待っていてくれた。彼女はこんなギリギリまで待っていてくれた。
 俺は一気に駆け抜けて、走り出した列車に飛び乗った。
 すぐに坂崎さんが隣に駆け寄ってきた。彼女は列車を追ってくる触手に見ると呆気に取られた。

「あれは――いったい」

 坂崎さんの呟きには応えずに、俺は問い掛けた。

「もっと早くなりませんか!?」

「これで限界です!!」

 列車は徐々に加速していくが、呆れるほど遅く感じた。
 コンテナを抜けた触手が線路に迫る。
 列車はようやく車両基地を抜けて、トンネルに入った。
 線路いっぱいに触手が広がって迫ってくる。
 列車は速くなっていたが、しかしまだ触手のほうが速い。
 追いつかれる!
 俺は沙耶を床に降ろすと、列車の後尾に駆け寄った。

「何を!?」

 坂崎さんの問いに、右腕を振って答える。俺の腕にようやく気付いたのか、彼女は言葉を失った。
 触手はすぐそこまで迫っていた。
 俺は窓を破り、列車に絡み付こうとする触手を切り裂いた。その触手は力を無くして去っていくが、すぐ次の触手が迫り、列車に巻きつく。俺はそれを繰り返し切り払う。
 やがて触手の勢いが衰えていった。いや違う。列車の速さが、触手のそれを越えたのだ。
 列車はどんどん触手を引き離していき、暗いトンネルの向こうへ消し去った。
 俺は安堵のため息を吐いて、背後へ振り返った。
 その時、腕時計のアラームが鳴った。22時だ。
 坂崎さんが不安そうな顔で俺を見る。おそらく俺も似たような顔をしている。
 そして次の瞬間、鈍い振動が轟いた。トンネルが、空気が、当たり全てが揺れている。
 同時に風を切るような音が、列車の後ろ、トンネルの奥から聞こえてきた。
 見ると暗かったはずのトンネルの奥が、赤い光で染まっていた。赤はどんどん強く大きく広がっていき、そしてトンネルの奥から奔流のような炎が押し寄せてきた。

「嘘だろ……」

 炎は速い。触手よりも、列車よりも、ずっと早い。
 熱さに汗が滲んだ。
 迫る炎を呆然と見ていた俺は、しかしその熱さのおかげで我に返った。

「前へ!」

 振り返って坂崎さんに向かって叫んだ。同じように呆然と炎を見ていた彼女も、我に帰って前に駆け出した。
 俺も沙耶を拾い上げて前に駆けるが、しかしこの列車は一両しかない。すぐに行き止まりに着いた。
 壁を背に、後ろを振り返ってみると、炎は車両の後尾に辿り着いていた。
 飲み込まれる!

「伏せて!」

 俺は坂崎さんに向かって絶叫した。瞬時に彼女は床に伏せる。俺は彼女の脇に沙耶を降ろすと、二人に覆いかぶさった。
 そして炎の奔流に飲み込まれた。





【22時】

 気が付くと、列車は止まっていた。
 身体が激しい疲労を訴えていたが、俺はまだ生きていた。右腕はいつのまにかもとの人間の腕に戻っていた。
 ゆっくりと身体を起こして下にいる二人に呼びかけると、二人とも小さく身じろぎした。目立った外傷もない。呼吸も正常。皆無事だった。
 俺は大きく深呼吸して立ち上がり、焦げた座席に腰を下ろした。焼けどになった背中が少し痛んだ。
 腕時計は22時で止まっていた。あれからどれほどの時間がたったのだろうか。あたりは深い闇に包まれている。闇の向こうを見通すと、鬱蒼と茂る森だった。
 ここはどこなのか、これからどうするのか、考えなくちゃならないのはわかっていたが、しかし肉体と精神の疲労で頭が回らず、俺は目を閉じて身体を休めた。
 しばらくして座席が少し揺れた。見るといつの間にか目を覚ました坂崎さんが隣に座っていた。彼女は膝の上に沙耶を抱いてそっと撫でている。
 坂崎さんは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。しかし沈黙は無愛想なものではなくて、どこか心地よかった。

「どうですか?」

 俺は沈黙をごく自然に破った。
 坂崎さんは俺の問いの意味がわからなかったようで、不思議そうに首をかしげた。しかし俺が沙耶に視線を向けると、理解したふうに笑った。

「眠っているだけで、無事ですよ。骨の二、三本は折れてるみたいですが、でも大した怪我じゃないんです、多分沙耶にとっては」

 坂崎さんは寂しそうに言った。彼女は沙耶が昔のままでないのを、ゆっくりと理解しているように見えた。そしてそれは、彼女にとって残酷なことで、俺は掛ける言葉を失った。

「お願いがあります」
 
 坂崎さんは突然言った。

「なんですか?」

「もうすぐ、ここに組織の迎えが来ます。あなたにも一緒に来てほしいんです」

「組織って言うのは坂崎さんが所属している?」

「ええ」

「少しならいいですよ」

 俺には帰る手段も見つからないし、迎えに乗せていって貰えるなら、それは楽だと思った。そのついでに沙耶のことも気になるから、少しぐらい付き合ってもいいという気持ちもあった。
 しかし坂崎さんは悲しそうに、

「少しじゃないんですよ」

 と言った。

「少しじゃない?」

 うまく意味を飲み込めずに、俺は問い返した。

「あなたはもう、普通の人間じゃないんです」

 変わらず悲しい顔で、坂崎さんは元に戻った俺の右腕を見た。

「それはよく理解してますよ、自分のことですから」

「理解してません。あなたはその意味を、少しも理解していないんです」

 坂崎さんの言葉には切実な響きがあった。彼女は真摯な瞳で俺を真っ直ぐ見て続けた。

「あなたはもう、普通の生活には戻れないんです。完全適応者というのはとても貴重な存在で、その価値は計り知れません。どんな手段を用いても手に入れたいという組織も沢山あります。今はまだあなたが完全適応者だと知っている者は少ないですが、しかし情報はいずれかならず漏れます。その時はあなただけじゃなく、あなたの周りの人までも不幸に巻き込まれるんです」

「俺は……それほど貴重なんですか?」

「はい」

「警察や国の保護は?」

「警察や国が、どれほど信用できますか?」

 坂崎さんはそう言って、遠くのほうを見た。それはずっと遠くの過去を振り返っているように見えた。
 俺は警察や国がどれほど信用できるものか知らなかったし、またどれほど信用できないものかも知らなかった。しかし彼女の言葉には、確かな実感がこもっているように思えた。
 だから俺は問い返した。

「じゃあ、その組織というのは信用できるんですか?」

「信用できませんよ」

 坂崎さんは間髪いれずに断言した。

「え?」

「信用できないんです。全くどうしようもなく。だけど私達の居場所はそこしかないんです。私達はもう死んだ人間ですから。探せば他にもあるでしょうが、どれもまともな組織じゃありません」

「そんなところに、俺を?」

「そんなところだからこそ、あなたに来て欲しいんです」

 坂崎さんの言葉は明らかな懇願だった。

「組織に戻ったら、私も沙耶も利用されるでしょう。もちろんできる限り抵抗はするつもりです。だけど二人じゃ限界です。だからあなたに来て欲しいんです」

 それから彼女は寂しそうな瞳をして、静かに付け足した。

「それに、沙耶にはあなたが必要なんです……」

 ようやく俺は坂崎さんの意図が飲み込めた。そして元の生活に戻れないだろう事を実感した。

「もう、戻れないのか」

 それは問いかけではなく、自分に対する言い聞かせのようなものだった。

「一緒に来てくれませんか?」

 即答できなかった。
 例え戻れないことがわかっていても、今の生活を捨てるという事は決断できなかった。
 思い浮かべるのは、父と母と、友人と、大切な人たちのことだった。
 俺はポケットに入れたままだった携帯を思い出した。
 もう壊れているかもしれないと思ったそれは、液晶が少し割れていたが、しかしまだ動いていた。
 メールボックスを開いて順に読んでいく。
 一人一人の思い出が頭の中に浮かび上がっては消えていった。
 そして、あのメールにたどり着いた。

 送信者:母
 件名:大丈夫ですか?
 本文:事故があったみたいですが、大丈夫ですか?
    無事なら返信してください。

 山の中にもかかわらず電波は三本立っていた。返信することができる。
 しかしどう返せばいい。無事だがもう戻れないことを伝えるのか。だけど坂崎さんの言葉を信じれば、その返信で家族を巻き込む可能性だって出てくる。
 今回の事故で俺は死んだ。そうするのが、おそらく一番都合がいい。
 俺はもう戻れないのだ。
 掌に軽く力を入れた。ほんの少しの力で、携帯は悲痛な叫びをあげて液晶の文字が小さく割れていった。そして容易く粉々になって、掌から砕けた残骸が零れ落ちた。

「よかったんですか?」

「いいんです。俺はそんなに強くないから、ないほうがいいんです」

 坂崎さんがそっと身を寄せて俺を抱きしめた。涙が一筋流れた。それをきっかけに、もう抑えることができなくなって、とめどなく溢れてきた。

「家族になりましょう。私達は世界のどこにも居場所がないんです。だからお互い身を寄せ合って、大切なものを守りましょう。はじめは傷のなめ合いかもしれません。でもそれでもいいんです。それで居場所ができるなら。そして、いつかきっと本当の家族に……」

 坂崎さんの温もりと、沙耶の穏やかな寝息を近くに感じながら、遠くに無機質なヘリの音を聞いた。





―終―





【あとがき】
 最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。同時に、本当に申し訳ありません。途中からとんでもなく牛歩な更新ペースになってしまいました。それでも待っていてくださった皆様に、心の底からの感謝と謝罪をさせていただきます。最後のほうは感想を返すことができませんでしたが、感想をくださった皆様には更なる感謝を。皆様のおかげでこの作品が完結できたといっても過言ではありません。


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