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[19090] 【ネタ】僕ひとりが人間なんです。(オリジナル)
Name: ふぁいと◆19087608 ID:64f78d5b
Date: 2010/06/03 17:43
第一話 発端



 誰にだってひとつふたつはあると思う。
 あの時こうすればよかった。
 どうして自分はあんな事してしまったのか、と。
 学校にパジャマで登校するなどという小さなことから果ては殺人まで、その想いはピンきりだろうけれど。

 昔の人は言いました。
 後で悔やむと書いて後悔。
 後悔。
 そう、僕は今、切実にやり直したいと思っている。
 人生の分岐点を。

 今思い返してみると僕の人生の分岐点は二つあったんだと思う。
 勿論細かいものはもっとたくさんあったんだろうけれど、大きく僕の人生を変えたものは二つだ。
 そして僕はそのどちらかを変えたい。

 ひとつは生後間もない時点。
 といってもこの時点に戻った所で僕の人生は何にも変わらないだろう。何故なら生まれたばかりだからだ。
 自分のことなど何一つ出来やしない赤子に戻った所で何かが変わるわけがない。
 だから僕が戻りたいのはもうひとつの分岐点。高校に入学したばかりの頃だ。
 今でもはっきりと思い出せる。青天の霹靂とはまさにあの事だったのだろう。

 あの日は半日授業で、いつもよりずっと早く家路に着くことになっていた。
 公共の通学手段を使わなくても通えるほど近い高校だったから、音を立てて空腹を訴える自分のお腹を抱えてまず家に帰った。まだ通い始めだった事もあり特に部活には入ってなかったし、お昼代がもったいなかった。
 といってもそんな事をいうほど貧乏だった訳じゃない。むしろ家は豪邸というほどではないが大きいし、家政婦さんが居るほど裕福だ。
 正直いうと、この家政婦さんの作る料理がすごく美味しいから学食より暖かい作り立てが食べたかったのだ。
 その日の昼食に期待してぐーぐーと鳴るお腹を放置したまま自転車に乗って軽快に帰路についていた。

 ああ、今でも思う。
 あの時、扉を開けなければ。
 いや、せめて忠告を聞いていれば、と。







 「ただいま」といって玄関の扉を開けた時、驚いた形相でやってきた家政婦のレイカさんが僕を見て慌てて時計を確認した。綺麗な黒髪を一本にまとめた太い三つ編みが宙を舞い、肩にかかって止まる。
「今日は半日授業でしたっけ?」
 僕よりも小さなレイカさんはアイスブルーの瞳で上目遣いに見るように尋ねた。
 まるで怒られるのを待つ小学生のような姿にこちらが悪い事をしたかのようななんともいえない気分になるため、僕はあまり彼女にこういう風に見られたくない。
「うんそうだよ?」
 靴を脱ぐのをやめて顔を上げるとレイカさんは思いっきり顔を顰めた。栄養がそこに偏ったとしか思えない胸の前で手を組んでしきりに後ろを気にしながら僕の手から鞄を受け取った。僕の体を今入ってきた方へ反転させるながら申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、坊ちゃま。少し外で時間を潰していてください」
 そんな事を言われても。
 いきなりの事にとりあえずその場で足を踏ん張ると、同時にお腹がなった。
「や、でもレイカさん。お腹空いてるから、せめて何か欲しいんだけど」
「後でいっぱい作りますから、どうか今は。少しだけでいいですから。今、ちょっとややこしいお客様がいらしてて―――」
「あれ~? そんな所で何をしているんですか?」
 どこか必死に言い募るレイカさんの言葉の途中にいきなり男の声が割り込んできて、ギョッと顔を上げると、見知らぬ男が廊下に立っていた。
「な、なんでもないですよ?」
 好奇心で輝いた男の表情をチラリと確認したレイカさんがヤバイと顔にでかでかと書いて慌てて俺を隠そうと両手を広げて俺の前に立ちふさがったが、あいにく背が足りていない。レイカさんの頭頂部ごしに相手が丸見えだ。
 相手にとってもそうだろう。ぺたぺたとスリッパを響かせながら近づいてきた男はレイカさんが「ダメですっ」と言って部屋に押し戻そうとするのも気にせずに近づいてきた。背は高いだろうに背中を猫背気味に丸めた、あまりぱっとしない男だった。
 その男のお腹辺りを両手で押すようにしながらレイカさんは少し苛立ったように男を見上げた。子猫に近づく鴉を警戒する親猫のようだった。
「ダメですっ というか何の御用ですか!?」
「え~? 少しお手水を借りようかと思いまして。いやしかし、どなたですか?」
 そんなレイカさんをまったく意に介さず、男は僕を間近で見下ろしながら好奇で瞳を輝かせた。まるで観察するように見られて少し引きかけたが、先ほどレイカさんが「お客さん」と呼んだからにはお客なのだろうと特に何も考えもせずに頭を下げる。
「こんにちは。はじめまして」
「挨拶なんてしなくていいですからっ 坊ちゃま!」
 言った瞬間、レイカさんはしまったと顔を青褪めさせたのが見えた。同時に男の瞳が光ったのも。
「へえ。この家のお子さんなんですか?」
「え、あ、はい」
「坊ちゃまっ!!」
 レイカさんが悲鳴のような声を出し、直後に慌てて自分の口元を押さえる。
(一体なんなんだろうか)
 あまりにも必死なレイカさんの慌てぶりがよくわからずにボーッとしていたらいきなり痛いほど腕を握られた。小さく痛みを訴えて見下ろすと男がしっかりと握り締めていた。
 声に反応したレイカさんが即座に横から手刀で叩き落とす。
「なんですか、一体」
 握られた手形がくっきりと浮かび上がった手首をすりつつ男を見上げると男は興奮したように僕とレイカさんを交互に見ていた。
「まさか次男さんがいらっしゃるとは思わなかったですよ! いや~大スクープだっ!! ぜひとも取材を!」
「そんな事受け付けられませんっ! 奥様や旦那様がなんとおっしゃるか!! そもそも今回の趣旨とは違っているでしょうっ!?」
「いやいや、これは相続争いに十分関係していますって! というよりさらに度合いが深まると言うか・・・っ」
「坊ちゃまはそんな事には一切関係いたしませんっ! そもそも旦那様ももうすでに放棄していらっしゃるのにっ いつまで引きずるつもりなんですかっ!」
 怒りも露わに睨み付けるレイカさんに対して男は興奮しながらもどこか飄々とした表情で笑みを浮かべる。
 僕はと言えばいきなり始まった舌戦に置いていかれ、二人の間で視線を彷徨わせていた。
「・・・・・・レイカさん? これ一体なに?」
「あ、坊ちゃま、これは別になんでも・・・っ」
 それにしては挙動不審だ。
 わたわたと無意味に手を振るレイカさんの隣をすり抜け、すかさず男が近づく。
「取材よろしいですかっ?!」
 取材?
「・・・そもそも何の話ですか?」
「って、なにしてるんですかーっ! ダメったらダメですっ!!」
 勢いに押されるように少し後ずさるとすぐに気付いたレイカさんが僕と男の間に割ってはいる。
 そうやって玄関で三人ごちゃごちゃと争っていると、怒鳴り合いが部屋まで届いていたのだろう。両親が奥から現れた。
 その時の二人の顔。なんといえばいいだろうか・・・。一番近いのはたぶん「しまった」という表情なのだろうが。
 その二人に続いて現れたのは背の低い男だった。小太り気味の男で唇も目も横に伸びて潰れているというか、なんというか・・・ヒキガエル?・・・のようだ。
「これ、何をやっとるか出雲(いずも)。行儀よくせんか」
「あ、先輩っ 凄いんですよ、大スクープです」
 つかつかと近づいてきた蛙男を猫背の男はにんまりと笑いながら見下ろした。不愉快そうに見上げた蛙男に気付いている様子はなく、いきなり腕を動かして僕の方を見るように促す。
「なんとこちらっ! この家の次男坊さんだそうで!」
「なんだとっ!?」
 凄い形相でぎょろりと見られ、思いっきりびびった。突進してきそうなその勢いに無意識に後ずさるが、その前にレイカさんが立ちふさがって両手を広げる。
「だからダメなものはダメですっ 聞き分けてください!」
「むうう・・・っ」
 レイカさんは今度は悔しげに唸る蛙男とにらみ合う事になった。
 わけがわからない。
 何をそんなに驚くのか。両親の知り合いではないのか。不思議に思って両親の方を向くと母は大変困ったというような、先ほどのレイカさんと同じような表情をし、父は珍しく厳しい表情をしていた。
(――――僕は何か悪い事をしてしまったのだろうか?)
 ここに至ってふいに罪悪感のようなものが湧き上がってきた。どう考えても父も母もレイカさんも僕がいる事を歓迎していない。
 困惑してその場に縮こまっているとふいに父が近づいてきた。僕の肩に手を当てて上がるように促す。さすがにこの家の当主の前で争う事は出来ないのか三人が脇に避けた隙に靴を脱いで上がりこむとそのまま背中を押された。
「――――(じん)。少し部屋に入っていなさい」
「・・・・・・はい」
 いつもの優しい雰囲気が一切なく、固い口調で言われた言葉に愕然とした。やはり何か大変な事をしてしまったのだろうと思ったが、それがなんなのかよくわからない。
 とにかく言われたとおり部屋へ行く為に階段をのぼっていく途中、少しだけ後ろを振り返ると父に詰め寄る蛙男の姿が見えた。







 何故レイカさんの忠告を聞かなかったのだろう。
 思い出すたびにそう後悔する。
 僕はまったく予想もしていなかった。これからの出来事など。







 それからしばらくして、部屋で悄然と事が済むのを待っていた僕をレイカさんが呼びにきた。どこか挙動不審に僕を案内する姿に落ち着きなくついていくと、リビングに到着した。すでに中には父母の他に兄までもいて、全員、どこか暗い雰囲気で頭を悩ますように俯いている。
「あの、お連れしました」
 レイカさんがかけた声に顔を上げた母はにっこりと笑った。もう四十はいっているはずなのに妙に若々しい、可愛らしい笑みだ。
「ありがとう、レイカちゃん。レイカちゃんも一緒に座ってね」
「でも奥様、私はお仕えしている身ですから」
「あら何を言ってるの。レイカちゃんももうとっくにうちの家族よ」
 それでも少し逡巡しているようなレイカさんを見ていたら、パンパンと何かを叩くような音が聞こえた。視線を向けるとソファーに座っていた兄が自分の隣を手で叩いていた。
「ほら、ジンもさっさと座って。今から大事な話をするから」
「あ、うん」
 とりあえず促されるままに座ると向かい合うようになった両親が少し視線を彷徨わせた。真ん中にあるガラスのテーブルを囲むように左隣に座ったレイカさんもまだ挙動不審だ。
 一体これから何を言われるのだろう。
 とりあえず僕の中も不安でいっぱいだった。
「さて、人・・・・・・」
 少し口を開いただけですぐに父は言葉に詰まったように隣の母を見た。「どのように言えばいいだろうか」と訪ねる姿に余計不安を掻き立てられる。
「ねえ兄さん。一体何の話?」
 隣の兄を見ると、兄も困ったように顔を顰めた。嘆息して父に視線を投げる。
「父さん、とりあえずショックの少ない方から言った方がいいと思いますよ」
「そ、そうだな。じゃあ―――」
 ひとつ咳払いをして父は重々しく口を開いた。
「実はな、人」
「はい」
「お前は私たちの子供じゃないんだ」
「・・・・・・・・・・・・はい?」
 一瞬、なんと言われたのかよくわからなかった。
「・・・え? だって・・・え?」
 理解した後もなかなか思考が先に進まない。
 確かに、親とは似ていないとは思っていた。父にしろ母にしろどちらも美人だし、兄に至っては超がついてもおかしくないくらいの美形だ。そこら辺のモデルなんて目じゃないぜ、と言わんばかりだ。
 それに比べて僕はなんというか・・・・・・まああまりにもかけ離れているという事は自覚していた。
 していた、が。
「だって・・・あれ? じゃあなんで?」
「落ち着いて、ジン」
 隣で兄――と思っていた人が背中を撫でてきたが、落ち着けるわけがない。混乱した頭の所為で何故か視界までぐるぐる回り今にも吐きそうだ。
 今まで疑問にさえ思わずに暮らしてきた。顔立ちは多少の差だと思っていた。
「どうぞ、坊ちゃま」
 いつの間にか席を立ったレイカさんに冷たい水の入ったコップを差し出され、受け取った時に額の汗をハンカチで拭かれた。同じく冷たく冷やされていたそれがとても気持ちいい。
 少しだけ気力を取り戻して水を含む。緊張で乾いた喉に冷たく沁みた。
「お前は、クリスマスに玄関の前に置いていかれていたんだ。『よろしくお願いします』というような内容の手紙と一緒に」
「この家大きいでしょ? おそらくそれで・・・どうにかしてもらおうと思ったんだと思うだけど」
 顔が上げれない。今まで親だと思ってきていた人に、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
(それで先ほどの人達はあんなに驚いていたのか)
 どうにか動き始めた頭の隅でようやく合点がいった。一人っ子だと思っていたのだろう。事実そうなのだし。
 ふいに視界が滲んで泣きそうになった。何が哀しいのかもよくわからなかったが。
「でも、お前の事を本当に弟だと思ってるよ。大事な家族だ」
コップを握り締めたまま涙を耐えているとふいに頭を撫でられた。兄の手は労わるように優しく動く。
「そうだよ、人」
「当たり前でしょう。私がミルクから何からお世話したんですものっ とっても可愛かったのよ? 今でも可愛いけど」
「ええ、とても愛らしかったですよっ」
 重なるように言われた言葉にますます顔を上げられなくなった。もう顔面がくしゃくしゃに歪んでいる事だろう。
 哀しいのか嬉しいのか、わけわからないままひとしきり泣いて、真っ赤な目を上げた時は少し恥ずかしかった。
 それでも父も母も兄もレイカさんも優しい顔をして見守っていてくれていた。
 手に持っていたコップの中身を全部一気に飲み干してテーブルに置くと顔を袖で拭って顔を真っ直ぐに上げる。血の繋がりがまったくない事に関してはショック過ぎてどこか麻痺してしまったような感じだが、家族だと言ってもらえて純粋に嬉しかった。
 僕が落ち着いてきたのに気付いたのか、ホッとした雰囲気が辺りを覆った。ぐずぐずする鼻をかんでため息を吐いた僕を見ていた兄の目が父の方へと向かうと、またどこかキョドるような空気が流れる。
「?」
 わけがわからないまま隣の兄を見ると兄は苦い笑みを浮かべて両親の方を向いた。何故か全員どこか挙動不審だ。
「・・・・・・何? まだ何かあったりするの?」
 不安になって左右を確認する。誰も視線を合わせてくれない。
 そういえばさっきショックの軽い方からとかなんとか言っていたような気がするが。
(・・・・・・アレよりもショックって、何だろう・・・)
 脳の限界なのか、まったく思いつかない。
 不安ばかりが募る状況で、唐突に兄が肩に手を置いてきた。少し痛いくらいに力が込められる。
「・・・・・・ジン。僕等は本当にジンの事を大切な家族だと思っている」
「―――うん」
「そこの所はけっして疑わないで欲しい」
「うん」
「その事を踏まえて言っておきたい事がある」
「・・・・・・うん」
「その・・・・真面目な話だから、疑われたり、怖がられたりするとすごく・・・その、困る」
「・・・・・・うん?」
 言いたい事がよくわからなくなってきた。眉目秀麗、成績優秀、運動神経抜群で小さい頃からどこぞの専属の学校に通っているほどの兄が理解しづらい言い方をしたことなど今まで一度もなかったのに。
 眉を潜めた僕に兄は苦悩したように顔を歪めて、やがて覚悟を決めたように真っ直ぐに瞳を覗きこんできた。美形は得だ。こんな顔をしているとこういう時、思いっきり注意を引ける。
「僕達はね、ジン」
「うん」
「人間じゃないんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・は?
 言われた意味がよくわからなかった。この、ケチの付け所のない兄は一体何を言っているのだろう。
 それが兄にも伝わったのだろう、少し苦しそうに、けれどきっぱりと言い切った。
「ジン。ジン、本当なんだ。僕達は人間じゃない」
「人間って・・・え? だって・・・僕は――」
「ジンは勿論人間だよ。当たり前じゃないか」
「そ、そうだよね。え? じゃあ兄さん達は?」
 僕の混乱のあまりの問いにふっと小さく笑った後、兄はまた元の硬い表情に戻った。
「でも僕達は違う」
 あまりにも真剣に言われるが、正直、何が違うのかよくわからなかった。
「僕達って? 兄さんと父さんや母さん?」
「それとレイカさんも」
 兄は肩を痛いくらいに掴んだまま、視線も逸らさない。鼻で笑い飛ばす雰囲気でもない。
(なんだろう、これ)
 頭がクラクラしてきた。
「父さんも母さんも、レイカさんもこっちの世界の人間じゃないんだ。元々住んでいた世界でややこしい問題が起こって、こっちの世界に駆け落ちしてきたんだ」
「こっちの世界? 駆け落ち?」
 頭がパンクしそうになりながらも何とか気になったことを尋ねると、兄はゆっくりと頷いた。切れ長の涼やかな黒目はどこまでも真剣だ。
「その世界では父も母も有名な人でね、どちらも家柄から結婚を反対されていたんだ。だからわざわざこっちの世界まで駆け落ちした」
「若かったからね」
「でも今も後悔はしてないの。向こうには悪いけれど」
 父も母も本気の目でこちらを見ている。
 どうしよう。話についていけない。
 とりあえず、家柄うんぬん、駆け落ちうんぬんは本当の事として―――人間じゃない発言は何だろう。向こうの世界って何。
 助けを求めるようにレイカさんを見るが、レイカさんも真剣な目で僕を見ていた。全員、同じ事を突き通している。
「僕も向こうの学校に通ってるんだ」
「専門学校ってそうなの?!」
「そうだよ。どう、少しは信じた?」
 思わず返した反応に兄は嬉しそうに笑って少し空気が緩んだ。いや、それは違うとは言いがたい。僕は迷うように視線を彷徨わせた。どう切り出せばいいだろう。
「・・・それで・・人間じゃないって、何か違うの?」
「違うよ。かなり違う。種族にも寄るけど」
 なんだ種族って。
「僕や父さんは寿命自体違う。人間よりずっと長いんだ」
(・・・・・・)
「・・・・・・・・ええっと? 僕が覚えている限り兄さんはずっと年をとっていたように思うんだけど?」
「勿論そう見せてたからね。母さんは短命だから人間と同じくらいしか生きられないから、僕等が外見を合わせてたんだよ」

 
(・・・・・・どうしよう)


 それが正直な感想だった。
 なんだか家族の見てはいけないものを見てしまったような気分だ。
 その感情そのまま、少し怯え気味になったのか兄の顔が曇った。慌てて顔を笑顔に保ちなおす。
 ええい毒を喰らわば皿まで。大好きな家族が、自分を育ててくれた大事な家族が言うのだからどんな戯言でもとりあえず最後まで聞くべきだ。
「ええと、じゃあなんで今そんな事言うの? こんないっぺんに言われてもよく理解できないんだけど」
 そういうと兄の表情が翳った。あれ? 今度は特に変なそぶりはしてないはずだけど。
「・・・それは、あいつ等にジンの事がばれたからね」
 憂うように視線を父の方へと向けた兄につられて父の方を見ると、父も気難しい顔をしていた。
 え、何?
「・・・・・・実は今のジンはかなり厳しい立場に居るんだ」
「は? 立場って? そういえばさっきのお客さん達はなんだったの?」
 純粋に疑問に思って口に出すと父の渋面がますます深くなった。隣に座っていた母がその腕を取って励ますように握る。
 水をくれた時から隣に控えていたレイカさんも何故か兄が掴んでいるのとは反対の肩に優しく手を置いてきた。
(え? 何? なんでそんなに深刻そうなの?!)
 凄く怖くなる。
「彼等はね、向こうの世界の記者なのよ。あちらでは今パパの国が継承問題で揺れているの。パパは王位継承権を放棄してこちらの世界へと逃げてきたから、と思っていたのに、その子供である(せつ)に王位継承権があるとかなんとか騒ぎ立てているの。
 そんな時に今まで隠していた次男がいた、なんて事になったら・・・」
「・・・・・・・え? 継承権って、何?」
「パパはそこの長男だったから」
「・・・・・・」
 あまりに真剣なその目に「そういう設定なの?」とは流石に聞けなかった。代わりに曖昧に頷いてもう一度考える。王位継承権。兄にあると言う事は・・・。
「・・・・・・もしかして、僕にも・・?」
「・・・・・・・そういう事になる・・・」
 重々しく、ため息を吐くように父は頷いた。それでバレただなんだと言っていたのか。
(・・・・・・僕はどこまで付き合えばいいのだろうか・・・)
 なんだか少し虚しくなってきた気もするが、とりあえず話を合わせる。
「でも、僕は向こうの世界とはなんの関わりも持っていないし、そもそも本当になんの関わりもないんだよね?」
「ない。ない、が・・・向こうがそれで終わらせてくれるとは思えない」
 どんな身内だ。あまりに厄介そうで、もう半分やけくそで父から兄の方へと視線を移す。
「じゃあもう兄さんがなってしまえばいいのでは?」
「僕はそれを望んでいない。向こうだって僕を望んでいない者の方が多い」
少しムッとしたように言った兄に続いて母もため息をついた。
「それにそれをするには私の身内が絶対うるさくいってくるに決まってるわ」
(どれだけ複雑なんだ、この話)
 もう許容量を越してしまった話を咀嚼もせずに半ば強引に脳内に詰め込む。理解なんてとっくに諦めていた。
「それになぁ・・・さらに大変な事になりそうなんだ」
「・・・まだ何か?」
 諦め気味に尋ねると父は何故か罪悪感いっぱいの顔を僕の方へと向けてきた。嫌な予感がする。
「実は・・・昔の事なんだが、友と約束してしまって」
「何を?」
「ともに子供が生まれたらその子を結婚させないか、と」
(来たよ、許婚フラグ)
 色々あり過ぎてもうなんの感情もわかなくなってきた。とりあえず熱が出そうな頭に手を当てて支えながら父を見る。
「えっと。それは兄さんの話じゃないの? なんで僕?」
「雪は長男だから家の跡継ぎとして婿には出せない。けれど人は次男だからねぇ。婿に取れると向こうも思うだろう?」
「・・・・・・向こうには男は居ないの?」
「ああ、娘だけだ。国の跡継ぎだから嫁に出すという訳にもいかないだろうしね」
「・・・・・・」
 僕の頭から煙が出てやしないだろうか。
 心配そうに覗き込んできた兄に笑顔を返すどころか声を返す事さえも出来そうにない。詰め込みすぎた頭が痛い。むしろここまで持った事を凄いといいたい。
「坊ちゃま。頭が痛いんですか?」
「・・・・・・ちょっと・・・」
 兄の反対、左側から心配そうに覗き込んできたレイカさんに、それでも笑顔を返せない。相当ムリをしたようだ。
「失礼します」
 ふいにテーブルの上のガラスコップを手にとってレイカさんは両手で握り締めた。何故かひんやりとした空気がその手元から生まれる。

カラン

 さっきまで何もなかったコップの中で(・・・・・・・・・・・・・・・・・)氷が澄んだ音を立ててくるくると回った。それをハンカチの上に置いて包み込み、即席の氷嚢を作る。
「これをどうぞ」
 笑顔で差し出された薄桃色の布には目もくれず、ただひたすらコップの方へと視線が行く。
(今、何が起こった?)
 あまりの事に呆然とコップを見つめていると僕の代わりにハンカチを受け取った兄が僕の視線の先を見て、納得したように頷いた。
「レイカさんはこっちの世界で言う『雪女』みたいなものだよ」
(え?)
 驚いて視線を上げると同時にクラリと頭が揺れる。慌てたような家族の顔が視界に映った。
(は・・・・・・嘘・・?)
 その思考を最後に僕の意識はそこで途切れた。







 今思い返してみると僕の人生の分岐点は二つあったんだと思う。
 ひとつは生後間もない時点。
 僕を生んだ本当の親がある家の前に僕を捨てた時点だ。
 彼女、あるいは彼が一体何を考えてそんな事をしたのか知らないが、確かにアレで僕の人生は変わった。

 そしてもうひとつの時点。
 高校に入学したばかりの頃だ。僕は家に続く扉を開けた。
 あの時。
 そうあの時、僕がどうにかしていれば。
 これから先歩む苦難の道筋を回避する事が出来たはずだ。

 今でもそう、悔やんでいる。



[19090] 第二話 再会
Name: ふぁいと◆19087608 ID:64f78d5b
Date: 2010/06/03 17:51
第二話 再会



 夢だったらいいのに――。
 そう思いながら目を開けると本当にベッドの中だった。
 その時の、目を開けた時の歓喜は今でも忘れられない。






ぐうぅぅ~~~っ

 成長期にはよく聞く音がはっきりと耳に届き、同時に空腹を感じた。意識がはっきりとしてくるにつれてよく今まで平気だったよなと思えるほど気になり始める。
「・・・・・・・・・・お腹すいた・・・」
 お腹に右手を当て、空腹を物理的に押さえつけるように力を込めて押しながら体を起こす。カーテン越しに枕元近くまで伸びていた日の光が目に入り、反射的に目を細くしながら光の当たらない所まで体をずらした。
 自分の部屋。いつものベッドの上、いつもの光景だった。
(良かった。あれは悪い夢だったんだ)
 流れてもいない感覚的な額の汗を拭い、ひとつ息を吐いて床に足を下ろすと、まるでそれを確認したかのような絶妙なタイミングで扉が控えめに叩かれた。ビクリと跳ねた心臓の鼓動を聞きながら部屋の入り口に目をやると閉ざされた扉から聞き慣れたレイカさんの声が漏れる。
「あの・・・・坊ちゃま。起きてらっしゃいますか?」
「あ、レイカさん? うん、起きてるよ」
「そうですか。朝食の準備が出来たので呼びにきました。昨日、結局あの後何も召し上がってないのでお腹空いてらっしゃるでしょう?」
「え? ・・・・・・・・・・・・うん・・・?」
 なにやら思い出してはいけない単語が含まれていた気がする台詞に、思わず疑問形になった。昨日・・・・・・いや、きっと夢だ。
 思考が昨日の出来事に移る前に頭を振って余計な考えを追い出し、ベッドから完全に抜け出す。私服を着たまま眠っていた現状から目を逸らしつつ服についたシワを出来るだけ手で伸ばした。
「おはよう、レイカさん」
「おはようございます、坊ちゃま」
 部屋の扉を開けて廊下に出ると真正面に立っていたレイカさんがニッコリと笑みを浮かべた。どう見ても小学生――よくて中学生にしか見えないレイカさんの満面の笑顔は親のお手伝いをして褒められた子供を連想させる。この笑顔は僕が小さい頃から本当に変わらない。
「坊ちゃま。今日は朝ごはんをいっぱい作ったのでたくさん食べてくださいね」
 にこにこと楽しそうに笑いながら一歩先を歩くレイカさんにつられて笑みを浮かべる。お腹が空いている時にその台詞は嬉しい限りだ。
「勿論。すっごくお腹が空いてるからたくさん食べるよ」
「いっぱい食べたら坊ちゃまはもっともっと大きくなれますねっ」
「そんな簡単にいくかどうかわからないけどね。ただ太るだけかも」
 レイカさんの単純な言葉に苦笑いしながら階段を下りていると本当にビックリしたのかレイカさんは大きな目をさらに大きくして僕を振り返った。近過ぎて体に当たりかけた三つ編みを避けつつ驚いた顔のレイカさんを見下ろす。
「え? 何?」
「何って・・・だって坊ちゃま。人間って食べれば食べただけ大きくなれるんですよね?」
 なんだそのデマは。
 今初めて知るレイカさんの知識に、こっちの方が驚いた。
「なんでそう思うの? 痩せた人や太った人がいるいっぱいいるのに」
「個体差だと思ってました」
 えへ。と可愛らしく笑うレイカさんに「そうなんだぁ」としか返せない。自分のこめかみを流れる汗は無視しよう。
(というか、人間とか、個体差って・・・)
 綺麗なアイスブルーの瞳から目を逸らしながら思考も何とか逸らそうと頑張ってみる。けれどその努力も虚しく一階に降り立った時、完全に僕の方を向いたレイカさんがじーーーっと僕の顔面を見上げてきた。う・・・っ
「・・・・・・坊ちゃま」
「・・・はい」
 静かに呼ばれて観念して目を合わせると、まるで氷のような透き通った瞳が朝日の中できらめいていた。
「昨日の事、覚えてますよね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい・・・」
 忘れたいけど、覚えてます。






 我が家の朝は全員揃ってが基本だ。一続きのリビングダイニングに入るとすでに席に座っていた両親と兄がこちらに顔を向けてきた。美形の笑顔は朝日に映えて凄く眩しい。
「やあ、起きてきたね」
「おはよう人」
「おはよう、ジン」
「・・・おはよう」
 レイカさんの後に続きながらなるべく何も考えないように席に着く。すぐさまレイカさんが卓上のコップに水差しで水を注いだ。
 流れる水を視界の隅に収めながら卓上に目をやってすぐに目を疑った。おにぎり、サンドウィッチにクロワッサン、フランスパン、スコッチエッグにウインナー、生ハム、カリカリベーコン、目玉焼き、鮭のムニエル、アジのみりん干し、メザシ、ジャーマンポテト、野菜サラダにポテトサラダ、ポタージュスープにビシソワーズ、ロールキャベツ、デザートのオレンジやリンゴからチーズケーキやムース、ヨーグルトなどなど、和洋折衷というか混沌とした品がずらりとそんなに小さくないテーブルを埋め尽くしていた。
「・・・・・・何かのお祝い?」
「まさか! 坊ちゃまが昨日のお昼から何も召し上がってないので気合を入れてつくっただけですよ」
(・・・・・・いれすぎだよ)
 どう考えても食べきれない品を見ながら乾いた笑いを浮かべ、コップの水で口を湿らす。コップを置いて真正面に座る両親と右隣に座る兄を見た後全員で一斉に手を合わせ、とりあえずサンドウィッチを手に取った。



「・・・人。昨日の話なんだが・・・」
 食事が終わりかけた頃、穏やかに始まった時間を唐突に終わらせたのは父だった。避けては通れない話題に吐きそうになったため息を押し殺して手に持っていたスプーンを置いて背筋を伸ばす。
「どうにかしようとしてみたんだが、どうにもなりそうにないんだ」
「・・・・・・・・・・・・なんの話ですか?」
 苦悩の表情を浮かべた父にしばらく思考を巡らせて、結局放棄した。色々ありすぎていまだに何がなにやら整理できておらず、父が言う事にちっとも思いつけない。僕と違って兄や母はわかっているのか、苦悩と言うよりは苦笑している。――何?
「・・・――――許婚の事だけど・・・」
 そ れ か。
 一番意外で、出来れば忘れていたかった事柄に力が抜けそうになる。継承うんぬんよりはマシかもしれないが、正直勘弁して欲しい。
 そんな内面が顔に表れていたのか、父が申し訳なさそうに眉を下げ、母がそんな父を慰めるようにその腕にそっと手をかけた。慌てて顔を笑顔に戻す。
「えっと・・・・・許婚ってあの、父さんの友達の娘とかいう?」
「そうだ」
「断れなかったの? 友達なのに?」
 純粋な疑問からそう言うと、父は親しいものに対する親愛を含んだ苦笑を零した。父がこんな顔をするとは珍しい。たいていはどんな時でも穏やかに微笑んでいるような人なのに。
「あいつはなんていうか――――まあ、親ばかでなぁ・・・。こちらから断ろうものなら「うちの娘のドコが気に入らないんだっ!!」と激怒しそうなヤツで・・・娘が関連する時だけ周りが見えなくなるから下手な事をすると戦争になりかねない」

(どれだけ物騒な人なんだっ!!??)

 予想外の言葉に表情が笑顔で凍る。ふと右肩に暖かさを感じて横を向くと隣に座っていた兄が慰めるように肩に手を置いていた。
(これ、冗談だよね?)
 すがるような視線を向けると兄は沈痛な顔で首をひとつ振り、父の通りだといわんばかりに重々しく頷いた。疑いようもない肯定。
「せ、戦争って、なに?」
 よろめきそうになった体を何とかテーブルに手を着くことで立て直し、父を見る。父は困ったようにさらに眉を寄せ、髭など生えていない若々しい口元を緩めた。
「向こうは一国の王だ。僕も王位を放棄したとはいえ王族ではあるし、いまだ本国ではごちゃごちゃと言い合っている身分だ。この事が国交問題にでも発展したら大変だからね」
 まったく困ったヤツだと言いたげな茶色い瞳にこっちが困る。それはもはや苦笑レベルの問題ではないような気がするんだけど。
 喉が詰まったような感覚がする。カラカラに乾いた喉を潤すようにコップの水をあおり、空になったコップを脇に置いた。すぐにレイカさんが隣に来て御代わりを注いでくれるのをちらりと見た後、父に視線を戻す。
「それで・・・・ええと、僕は結局どうすればいいの? まさか結婚しろとはいわないよね?」
 どこぞの国の継承問題どころの話ではない。それでは確実に王様になってしまう。人間なのに!
 そこの所を僕よりよくわかっているだろう父に向かって首を傾げると、父は歯切れが悪そうに唸った。
「それなんだけどね。・・・つまり、こちらからは断れない。そして相手を怒らせるわけにもいかないという事だ」
「うん」
「だから相手を怒らせないように断られてくれないかな?」
「どういう風に!?」
 あんまりな言葉に語尾が少し悲鳴じみた。なんだその答えは。
 思わずテーブルを叩いて立ち上がった僕に、隣の兄と反対側にたったレイカさんが宥めるように肩に手を置いて椅子に座るように促す。自棄になったまま座るとまあまあと母が宥めるように微笑んだ。父の腕を取ったまま夫婦仲良く顔を見合わせる。
「そこは私達もよく考えてみるから。ね? ごめんなさいね、人」
「・・・・・・」
 母にそう言われるとと何もいえない。小さくため息を吐いてヒートしかけた頭を冷やした。
(ん? というか)
「・・・・・・そもそも僕が養い子の人間だっていう訳にはいかないの?」
 純粋な疑問を口にすると何故かその場の空気が凍りついた。
(え? 何?!)
 意味がわからずその場を見回すと皆何故か僕から視線を逸らして床に向ける。
「・・・・・・・・・そういうわけにはいかない・・・かな」
「そうね・・・・・・ちょっと・・・ムリね」
「さすがにそれは・・・」
「坊ちゃま! 恐ろしい事を言わないでくださいっ! 命が惜しくないんですか!?」
「なに事!?」
 歯切れの悪い家族の言葉よりも物騒なレイカさんの言葉の方が気になる。何がどうなればそうなる?!
 余計不安になって兄の方を向くと少し躊躇ったような顔をした後、兄は整った唇からため息を零した。
「・・・・・・昨日、確認の為に少し向こうの世界に言ってみたんだけど・・・凄かったよ。もうジンの話題でもちきりだった。僕も囲まれそうになったからね」
「・・・・あの二人の所為?」
「まあそうだけど。あの分だと確実にお祖父さんの元に届いてる。―――それが問題なんだよ」
「そこは問題じゃないわ。むしろ私の一族よ」
 形のいい指で額を押さえるようにして零した兄に脇から母がむくれたように唇を尖らせる。なんだろうその嫌な被せは。
 兄から母に視線を移すと母はさらさらの黒髪を指に巻きつけていじりながらいつになく不機嫌そうに目を据わらせた。
「私の一族は純血主義なの。よその部族の血なんて絶対に入れないってバカみたいに頑固で身内でのみで血統を繋いできたの」
「それ大丈夫なの?」
「大丈夫なわけないでしょ。だんだん数が減ってくるし生まれてもなんかおかしな子ばっかりだもの。でも止めないのよ。あったまくるじゃない! そんな事で結婚反対なんてっ!!」
 当時を思い出したのか最後の方にいくにつれ憤慨しだした母に少しだけ駆け落ちした背景が見えた。確かに腹が立つかもしれない。
 そこまで叫んで一旦言葉を切り、呼吸と自分を落ち着けた後、母は憂うようにため息を零した。
「だから雪の事も全然よく思ってないし、むしろ隙あれば・・・みたいな感じ? まあ雪は結局王族に連なるし、そもそも実力的に雪をどうこう出来るわけないんだけど」
「ちょっと待ってっ!!」
 母の口から零れた物騒な言葉に思わず待ったをかける。そんな事聞いてない、というかどこまで大変なんだこれ!
「兄さんが・・・って、じゃあ僕も!?」
「・・・・・・そうなる、わね」
 ふい、と視線を逸らした母に頭がクラリと揺れた。慌てたように体を支えてきた兄の手を押さえて辞退し、何とか自力で立ち直る。
「そ、それで、その一族から何か言われる、と?」
「ある意味雪の事は力の観点からは認めてる節があるの。一族内の誰よりも強いんだもの、何も言えないんでしょ。でも、次男の人が人間だなんてばれたらそれこそどんな反応するか―――」
 怖くて考えたくないです。
 手を前に出してそれ以上の言葉を遮ると、頭を抱える。
(最初はなんの話をしてたっけ・・・?)
 どれもこれも自分にはいっぱいいっぱい過ぎてもはや訳がわからない。理解しようとする方が悪いのだろうか。
 ごちゃごちゃの頭のままテーブルの上を見てももはや食欲はわいてこない。食べる事を完全に諦めて体を椅子に深く預けると父の方を向いた。
「何?」
「許婚って・・・会ってからどうにかっていう話だよね?」
「そうだね」
「それってドコで? 僕が向こうの世界(?)とかいうのに行く事になるの?」
 明らかに身の危険を感じそうな世界に? しかもなんかまたスクープになりそうだ。
 言外に想いを込めて言い放つと父はゆっくりと首を横に振った。流石にそこまではさせないか。
「流石にね。そこら辺はなんとかこの家で会えるようにするよ」
 それもどうかと思うが、まあその方が助かる。ほっと息と吐き、けれどすぐにまた緊張を取り戻して視線を鋭くする。問題はそこだけじゃない。
「それで実際会ってみて、僕が人間だと思われないの? 父さん達・・・ええと・・・人間じゃないんだよね? 何かが違うんでしょ?」
 途端に父は困ったように母を見た。母もどうしようかといわんばかりの困り顔だ。
「基本的には人間かどうかはわからないと思う・・・けど・・・」
「何があるかわからないものね・・・。
 私達は人間と違ってそれぞれ特殊な力というか、身体能力というか、とにかく種族によって違う特色を持ってるからなんとも言いがたいんだけど――力は体の一部なの。だからそれを使うのも普通の内なのよ。王族なら力も相当強いと思うから、無意識に使われると大変ね。人間にはとっても危険よ」
「どうしろと!?」
「そこら辺もなんとか考えてみるよ。例えばなんとか雪を同行させるとか」
 コーヒーカップを片手に苦笑した父に一瞬眉を顰めるが、すぐに同意する。保護者同伴の見合いもちょっとどうかと思うが命には代えられない。それに家族離れできていない坊やに向こうが愛想を尽かしてくれるかもしれないし。
「わかった。とにかくそんな事が起こる前にどうにか対策を立ててくれるんだよね?」
「そうだね。頑張るよ」
 「だから安心して」と微笑んだ父にようやく体の力を抜く。横から取り分けたヨーグルトを運んできたレイカさんにお礼を言って受け取った後、つめたいそれを口に運ぶ。昨日から無理させすぎている頭を冷やすようにゆっくりと咀嚼しながらその冷たさを味わった。
「とにかく・・・。今日は日曜日だし、しばらく頭を整理してみるから・・・」
 疲れた声で呟くと家族が優しく頷いた。優しい。そんな家族にむしろ泣きそうになる。
 どうして人間じゃないんだ。






「・・・・・・どうしよう」
 家族にああ言ったのはいいが、それ以上思考が進まず、机に突っ伏すようにして頭を抱えた。部屋に戻っても何かが変わるわけではない。情報が少ないというか、もたらされた情報が濃ゆすぎたというか。いっそ兄にでも向こうの世界の事を聞くべきなのかもしれない。
(でも、聞いたら最後のような気がするんだよなぁ・・・)
 そこから一歩踏み出す勇気がない。第一、聞いたところで絶望するだけでどうなるわけでもないだろう。
(まあ、許婚の問題以外はこっちで暮らしてる僕には関係ないだろうし)
 いきなり見ず知らずの子供を王位につけようとか、わざわざ殺しにこようとする輩などは居ないだろう。目の前をうろちょろしなければ問題ないはずだ。多分。
 問題は許婚。下手を打つと命に危険があるか、訳のわからない所の王様になるか。
(そんなのどっちも選択肢にないよっ!)
 ありえない二択に口から零れるのはため息ばかりだ。
「・・・・・・ハアァ~・・」


「―――困ってるね」


「そうなんだよぉ」
 絶妙なタイミングで飛び込んできた声にそこまで答えてふっと我に返った。聞き覚えのない声に慌てて背後を振り返るとベッドの脇の窓枠の桟に腰掛けるようにして女性が笑みを浮かべていた。
「誰!?」
 物騒な話を聞いたばかりなので嫌な想像しか浮かばない。警戒心を露わに女性をにらみつけると、女性は何故かニッコリと笑った。何歳くらいだろう。若そうだがいまいち年齢がわからない。ふわふわと波打つ肩口までの黒髪、アーモンド形の黒目、浅黒い肌を黒い不思議な光沢を放つ生地で包み、笑みを浮かべた口元に指を押し当てるようにして悪戯っぽく「黙れ」の合図を送ってくる。
「しーーーっ 静かに。大丈夫。ボクは君の敵じゃないよ」
 言われて反射的に口を紡ぐが、すぐに喘ぐように口を開いた。そもそも先ほどまで誰も居なかった室内に居る時点ですでにおかしい。声をかけてこちらに気付かせるぐらいだから危害を加えるつもりはないのかもしれないが、安穏と話していていい人物じゃないかもしれない。
 見知らぬ女性を見ながらそんな風にしばらく何を言おうか考えて、結局最初の言葉に戻った。
「ほんと、誰?」
「あ、ひどいなぁ。ボクの事忘れたの? まああの頃とは随分変わっちゃったけど」
(あれ? ほんとに僕が忘れてるだけ?)
 何故か親しげに笑いかけてくる女性にだんだん自信が持てなくなってきて、自分の記憶を覗いてみる。どこを探ってもこの女性に該当する人物が出てこない。
「・・・・・・誰?」
 再度、自信なさげに尋ねると肩をすくめた女性がトントンと自分の足元を指差した。つられて視線を窓の下にずらすとその足元にわだかまっていた女性の影が視線を感じたようにグニャリと動いた。
「!!」
 思わずあげそうになった悲鳴をどうにか自分の手で押さえ込む。同時に頭の片隅で遠い昔の出来事がゆっくりと浮かび上がってきた。―――影。確かに覚えがある。
「・・・・・・・・・夢だと思ってた・・・」
 頭を垂れながら呻くように呟くと黒い女性は楽しそうに笑いながら「夢じゃないよ」と返した。
「夢じゃないよ。ボクは君に救われたんだから」



 昔昔の話だ。といっても本当に遠い昔ではない。ただ僕という人間の人生の中ではかなり昔の部類に入る。
 僕がまだウルトラマンや仮面ライダーに夢見る子供だった頃。つまりは童話を寝物語に語ってもらうような子供だった頃。―――僕は人影に出会った。
 人影といっても比喩じゃない。本当に見たまんま影だった。影だけだった・・・・・・

 その日は別に普段どおりの一日だった。母親に絵本を読んでもらって、僕はそのまま自分の部屋で眠る―――そこまでは。
 別にその当時は珍しい事ではなかったが夜中に尿意で一人目が覚めた僕は、子供ならではの闇に対する恐怖ですごく気が進まない思いをしながらもベッドとの別れを決意した。おしっこは待ってはくれなかったので。
 豆電球の薄明かりの中、床に足を下ろして部屋を横切ろうとした時、視界の隅に動く何かを見つけた。怖さよりも好奇心でそちらを窺うとすぐにそれがなんなのかわかった。
 影だ・・
 部屋の壁を人の形をした影がするすると滑るように移動していたのだ。
 すぐさまこれは夢だとベッドに戻らなかったのはまだ子供だったからだろう。それを見た瞬間、僕は数日前に読んでもらった『ピーターパン』を思い出した。そして思った。ピーターパンに会えるかもしれない、と。
 子供ならではの浅知恵でコルクボードから押しピンを持ち出し、そっと影に近づき、恐れも知らずに何をしているのか部屋の壁際でゆらゆらと揺らいでいた影に「えいっ」とばかりに突き刺した。驚いた影は身震いし、逃げようと動き始めたがピンが引っかかっているのかどう動いてもそこから離れられないようだった。
 「やった」と小さくガッツポーズをした後、尿意を思い出した僕は急いでトイレに駆け込んだ。ダッシュで部屋に戻ってきても相変わらず影がそこでもがいていて、夢じゃない事にその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。

 それからしばらく僕はその影を観察していた。誰かが部屋に入ろうとするとその影の前にクッションだのぬいぐるみだの毛布だのをかけて隠し、掃除しようと退かそうとしたレイカさんに向かって「ダメー!」といいながら足にすがり付いて思いっきり邪魔をしていた。
 そこに影がある事に満足していた。
 ピーターパンはいつ来るだろう、とわくわくしながら影を見つめていた毎日だったが、ある日、影の動きが鈍くなって来たのに気付いた。最初は何とかその場から抜け出ようともがいていたのに、まるで瀕死の虫のようにたまにピクリと動く程度になってしまったのだ。
 その姿に怖くなった。
 結局その恐怖に耐え切れずに僕は「死んじゃうーーーっ」と叫びながら兄に泣きついた。
 いきなりそんな事を言いながら部屋に飛び込んできた僕に兄は酷く驚いた顔をしながら僕を見下ろし「どうしたの?」と優しく聞いてくれた。
 そんな兄に不明瞭な説明をしながら部屋まで引っ張り込んで影を見せた。今まで隠していた事を怒られるかと思ったが影を見た兄はすごく驚いてそのまましばらく黙り込んで壁を凝視していた。
 しばらくして「これは・・・あれかな? 珍しい。実物は始めて見る」とか呟きながら僕を見下ろした兄は「大丈夫」と請け負ってくれた。これは何とかするから。
 その頃から兄の事をスーパーマンか何かだと思っていた僕はその言葉に凄く安心した。ああ、兄がそういうならこの影は死なないんだと確信した。

 それから数日たったある日、部屋の中が急に翳った。なんだろうと思っているといつの間にか間近に僕より少し年上くらいの子供が立っていた。
 ビックリしている僕の前で真っ黒なフードつきのマントを羽織ったその子は半透明な手を伸ばして影に触った。そしてフルフル震えたかと思うと僕の方を向いて「ありがとう」と呟いた。目深に被ったフードの所為で顔はまったくわからなかったけれど、泣いているようだった。
 レゴブロックを片手に座り込んだまま呆然とその子を見上げていると、まさに目の前で子供はするりと影の中に潜り込んだ。その子が潜り込んだ部分を中心にだんだん影の範囲が小さくなり、気がついた時にはその影さえも綺麗さっぱり消えてしまっていた。
 はっとなって興奮気味に兄の部屋に飛び込むと兄は「ああ、迎えに来たんだ」とまるでわかっていたかのようにあっさりと言い放った。その姿にすごく腹が立った。
 「どうして逃がしたの!?」と理不尽に言い立てて泣き喚いた僕に困ったような顔をした兄は次の日に仮面ライダーの変身セットを買ってくれた。
 それを貰った僕はころっと機嫌を直し、そのままその出来事を忘れさった。



(・・・・・・)
 とりあえず過去を思い出してみたがロクな事じゃなかった。いっそ夢の方が良かった。なんて子供だ。すごく突っ込み所がある。
「・・・・・・ええと・・・・・・・。今、ちょっと過去を思い出してみたんだけど・・・・・・・・・僕は助けたというより、殺しかけてるような気がするんだけど・・・」
 いくら過去の記憶は改ざんされるとはいえ、そこまで大幅に変わる事はないだろう。助けたと殺しかけたじゃあまりにも幅がありすぎる。
 なんとか詳細に思い出そうと腕を組んで唸っていると女性はくすりと笑って組んでいた足をほどいて床につけた。音もなくするりと体が影に飲み込まれ、次の瞬間、耳元に吐息を感じる。
「それは違うよ」
「うわあっ!?」
 あまりの出来事に反射的に反対方向に飛び退きながら立ち上がり、その拍子に足に椅子を絡めて蹴倒した。机の影から出てきた女性はクスクス笑いながらそのまままた影に潜り込む。次に箪笥の影からスッと全身を現した女性に、この部屋にどうやってやってきのたか納得した。
影を渡っているのか・・・・・・・・・
 雪女が居るくらいだからそういう人間も居るかもしれない。
 疑問がひとつ解決されたのでとりあえず影が出来ていない部屋の中央へと向かい、黒い瞳を悪戯っぽく笑わせたままその場を動かない女性から視線を逸らさないように真正面に捕らえる。
「・・・・・・違うって、何が?」
「殺しかけたって所だよ。君はボクを救ってくれたんだよ」
「・・・?」
 自分の記憶がおかしいのだろうか。どうやったらアレが救った事になるんだろう。
 顎に手を当てるようにしてもう一度思い出してみるが、やはり変わりない。むしろ思い出すたびにだんだんあやふやになっているような気がする。
 女性はそんな僕を見てひょうきんな動作で肩を上下に動かした。どうやらおかしかったらしい。
「あれは別に君の所為で死にかけてたんじゃないよ。ただ単に時間がなかったんだ」
「時間?」
「そう。成人の儀が近かったんだ」
 成人の儀。何だろう。成人式とは違うのだろうか。
「重要な儀式?」
「そうだよ。パスできないと死ぬからね」
 重要というより問答無用だ。顔がヒクリと引きつったのがわかる。箪笥の方を向くと女性は箪笥に寄りかかるように立ちながらくるくると指を回し、当時を回想するように瞳を上に向けた。
「ボク達の一族は影が力なんだ。力こそが影、といってもいい。力の塊が影として存在している、影の一族。
 けど生まれた時にはその影がない。誰一人例外なく。生まれた瞬間に力である影が逃げ出すんだ」
 そこでふっと肩の力を抜いて投げやりに視線を落とす。指の力も抜けて地面に向かって垂れ下がった。
「その、世界のどこかにはある自分の影をね、ボク達は成人の儀までに見つけださないといけないんだ。そうじゃないと大人になれない。間に合わなかったら例外なく影は消滅し、本体も、死ぬ」
「えっと、じゃああの影って・・・っ」
 押しピンに留められ、びちびちと動いていた人影を思い出す。
「そ。逃げ出したボクの影。あと少しで成人の儀だったからすっごく焦ったよ。
 君が繋ぎとめておいてくれたおかげで逃げていなかったし、ボクを探してくれたおかげでボクはボクの影に辿り着けたんだ」
(・・・・・・)
 探したのはおそらく兄だろう。心当たりを当たってくれたのか。
(・・・・・・あああああぁぁ)
 自己嫌悪にうな垂れる僕の元へ女性が滑るように歩いてきた。僕よりも背が高い彼女は少し屈むようにして僕を覗き込んだ。
「どの世界にいるかわからない影を見つける確立は大体十分の一。ボク達は一割しか生き残らないんだよ」
 目の前にあるのは光を吸い込み、なんの反射も写さない漆黒の瞳だった。
「君のおかげで、助かった。ありがとう」
「いえ・・・・・・」
 それ以上言葉が続かず、困ったように顔をそらせば女性はふわりと笑って僕から一歩距離をとる。
「いつか恩返しをしようと思ってたんだ。君の事が向こうの世界で噂になってたからこうやって来てみたんだけど。
 ――今、君、困ってるよね?」
「え? あ・・・・・・うん?」
 意味がわからず問い返すと「さっき困ったっていってたじゃないか」と言われた。・・・確かに言ったけど。一体何がしたいのか。心情とリンクするように眉根を寄せると女性はくすくすと笑いを零した。よく見ると笑う振動に合わせて体を覆う黒い布も不規則に黒の濃度を変えている。
「ボクの力をわけてあげるよ。きっと役に立つと思う」
「――――はえ?」
(力? 力とはつまり・・・影?)
「や、影を貰っても・・・?」
 よくわからずとりあえず断ると女性はわかってないなぁと言わんばかりに眉を寄せた。
「断言してもいいよ。これから君はさらに大変な事になるだろうって。
 とりあえず貰っておきなよ。別に害になるモノでもないんだし」
 軽い口調でそう言いながらドコからともなく取り出した大きな裁ちバサミを自分の影に当てる。ジャキンジャキンと歯切れのいい音がして影が一直線に切られていった。
「えええぇ!?」
 常識ではありえない光景に女性の手元を凝視していると、裁ち終わった影を片手に持ってそれを僕の影に押し当てる。懐から取り出した糸の通ってない大きな針でチクチクと双方を縫い合わせていった。
「・・・・・・どうなってるの? これ」
 あまりに不思議な光景にしゃがみ込んで近くで見ていると、最後のひと針を縫い終わった女性が見えない糸を切るような仕草をして懐に針を突っ込む。恐る恐る手を伸ばしてみても手に触れるのは床だけだった。
「――――よしっ これで完成!」
 ぽんっと影を叩いて満足そうに頷いた後、女性は笑みを浮かべて間近くにある僕の顔を覗き込んだ。いつの間にかその足元の影は元に戻っていた。
「後はこれを力を使う要領で使えばいいよ」
(・・・・・・)
「・・・・・・・・・・・・ええと、すみません。力を使う要領も何も、僕は人間なんで」
 力なんて使えません。
 唐突な無茶ぶりに少し考え込んでそう答えると女性はきょとんとしたように目を瞬かせた。
「・・・・・・そうだったね」
 根本的な問題に気付いて小さく首を傾げ、そのまま言葉を探すように腕を組んで自分の影を見つめる。
「・・・ああ、そうだ。んーー、血を動かすような感じ? 影に向かって血管を伸ばすような、血を流すような、そんな感じでやってみて」
「・・・・・・・・・・・・それもちょっと・・・」
 やり方がまったくわからない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 沈黙がその場に落ちた。二人して影を見つめて次の一手を探す。話が噛みあわないと大変な事になるという、まさに見本だ。今理解した。この分だと許婚と会う時にボロを出さないとはとても思えない。
「・・・――――仕方ない。じゃあこうしようか」
 ため息を吐いて頭をかいた女性は指先で僕の影を叩いて様子を見た後、どういう原理か片手で床から引き剥がした。僕の足元まで引き剥がされた僕の影はいやいやをするように身をくねらせたが、力が篭ってるようには見えない細腕からは逃れられないようでしばらくすると観念したようにおとなしくなった。
「この影に―――」
 もう片方の手も添えて、まるで粘土を捏ねるように丸める。ぐっぐっと何度か力を込めると見る見るうちに小さく濃ゆくなっていった。
「―――人格を与える。その分力が落ちるけど、影そのものがサポートしてくれるから」
 女性の手の中で自由自在に形を変える影というのはあまりにも現実離れしすぎている。なんだかわけもわからず見ているうちに作業が終わった。スッと立ち上がった女性は先ほどとは少し色が違う、赤みがかった影を見つめて満足そうに頷いた。
「これでよし。何が出るかはお楽しみ――ってね」
「・・・どういう事?」
「ん? そもそもボク、こんな事したの初めてだからどうなるかボクにもわかんない」
( な ん だ よ そ れ は っ ! )
 何とか出来ないかと色のおかしな影を叩いてみるが、勿論影そのものに触れるわけではない。
「大丈夫大丈夫! 悪いようにはならないって、多分」
「大丈夫と多分は一緒になっちゃ駄目な単語だよっ」
「でももうやっちゃったし。うん、危害を加えてくる事はないよ」
「これ以上厄介ごとを抱え込みたくないんだよっ!」
 半泣きで見上げても女性はカラカラと笑うのみ。僕の見ている前で足を一歩前に出して自分の影の中に飲み込ませる。
「これから大変だろうけど、頑張ってね。滅多に人前に現れない影のボクを君は見つけたんだ。本当に凄いんだよ?」
 階段を下りるようにその姿が徐々に影に飲み込まれていく。肩から上だけになった時、ふいに影の中から手が伸びてきて僕の後頭部をわし掴んだ。ぐいっと凄い力で引き寄せられ、顔が数ミリの間近に迫る。
「大丈夫。これからだってやっていけるさ」
 小さなリップ音とともに目尻に暖かい感触が当たった。直後、とぷんっと重い液体に物が沈むようにその頭が消える。
「・・・・・・」
 まるで嵐のただ中に放り出された人間のようにその場に座り込んで放心したまま、先ほどまでの騒動を思い出す。朝起きてから今まで。一連を思い出してもどれもこれも訳がわからない。
 昨日の疲労も取れていないのに今日でさらに疲れ果てた脳みそは長々としたため息を吐き出した後、全てを投げ出す。
「・・・・・・・・・寝よう」
 とりあえず使いすぎで痛みを訴える頭を静めるためにベッドへと潜り込んだ。






 夢だったらいいのに――。
 そう思いながら目を開けると影の色が普通だった。本当に嬉しかった。
 ――――数日後、その影が語りかけてくるまでは。



[19090] 第三話 影人
Name: ふぁいと◆19087608 ID:64f78d5b
Date: 2010/06/20 22:36
第三話 影人



 夢じゃありません。
 確かにそう、理解しました。
 理解したから。だから――――。
「お願いします、覚めてください」
【それは矛盾してますよ】
 口に出して呟いた途端、即効で突っ込まれた。






 暦の上ではまだ春なのに何故か暑い一日だった。
 机上に頬杖をついて全開に開けられた窓を見ながら今日一日を思い出す。少し動くだけで汗ばんできたし、早く夏服に衣替えしたい。ついでに風の通りがわかるようにもう風鈴を吊るしておこうか。それだけでも気の持ちようが変わるだろうし。
 そうしよう、とぼんやり考えながら頷いた僕の左袖がクイッと下に引っ張られた。
(・・・・・・)
 その動きにつられないように必死に、いや半ば意地になったように窓の外を眺めているとその動きはだんだん大きく激しくなり、やがて頭が連動してがくがくと揺さぶられるほどになる。
【いい加減相手してくださぁい】
 どこからともなく聞こえてきた可愛らしい、けれどどこか曖昧な声音に思わず顔が引きつった。酔いそうになった頭を起こして反対側の手で目頭を押さえながら震源地である左手を見ると机に落ちた僕の影から・・・・・ひょっこりと生えた白い手首が僕の袖口を引っ張っていた。どう見てもホラー映画の一コマだ。
「・・・・・・」
 薄気味の悪い光景に言いかけた言葉が喉元で止まる。餌を待つ鯉のように数度口の開閉を繰り返してようやく我に変えった。意識して大きく息を吐き、目の前の光景をとりあえずなかったことだと視線から外して気を取り直す。
「・・・・・・少し黙っていてといったはずだけど・・・」
 いきなり影に話しかけられた心の平常を保とうと、思考を逸らすために窓に視線を向けたその時に。―――つまりついさっきだ。
【はい、だから黙りましたっ】
 五秒がかっ!
 驚きの時間感覚に思わず視線を机の上の影に戻すがそこにはもう何もなかった。白い手首などどこにも見当たらず、ただ普通に光を受けた僕の影だけが存在していた。どこに視線を定めればいいのかわからずうろうろとうろつかせた後、結局手元の影へと戻す。
「・・・あーーー。あんまり確認したくないんだけど・・・・・・」
【はいっ】
 乗り気じゃないまま唸るように声を出すと何故かノリノリの声を返された。目の錯覚じゃなければなにやら影がほんのりと朱い気がするし、ゆらりと揺らいだ気もする。気がするだけかもしれないけれど。
 躊躇いのために何度か口の中で不明瞭な言葉を転がすが短く息を吐く事でなんとか踏ん切りをつけた。
「・・・―――――僕の、影?」
【はいっ!】
 弾むような返答に額を押さえる。うん、その答え聴きたくなかった。
(うっわぁ、ほんとに喋ったよ・・・・・・。・・・・・・どうしよう
 実際に頭を抱えたくなるが、何とかそれをこらえて影を見つめる。僕の感情とは裏腹にわくわくと何かを期待するような空気とともにどこからともなくプレッシャーが飛んできた。目の錯覚でもなんでもない、ざわざわと蠢く影を見ていたらどこかなんてすぐにわかるけれど、あえてそれを無視する。
【お返事くださぁい】
 そんな沈黙に耐え切れなくなったのかまた影から声が漏れた。先ほどと同じ声。女の子っぽく聞こえるんだけど、影に性別なんてあるんだろうか。
 考えてもよくわからない事だと即座に考えるのを止め、両手で机を叩くように勢いをつけて椅子から立ち上がる。手の下で影がなにやら驚いたようにバッと散ったが気にせずベッド脇の窓際まで移動する。太陽という光源に近づくにつれ床に映る僕の影がはっきりとしてきた。窓に寄りかかり、人の上半身の形に伸びた影に照準を合わせながら腕を組む。
「・・・・・・ひとつ確認したいんだけど、最初に話しかけてきたとき、お前とは違う、なんか別の声がしてなかったか?」
【しまし―――
【――私の事ですか?】
【あっ! ひどいっ かぶったぁ~っ】
 何か答えようとした声にかぶさる様にいきなり別の声が響いた。それに抗議するように先ほどまでの声が尖る。
【もうっ もぉほんとにっ なんでそういう事するの!?】
「・・・・・・」
 唐突に始まった影同士の口喧嘩、というより一方的なまくし立てについていけずにコメカミを押さえて首を傾げると影もまた同じようにまるで悩んだような姿になった。まあ影だから当たり前だけど。
「・・・・・・もしかして何人もいる?」
 一人二役で遊んでいるとも思いがたく、恐る恐る呟いてみると口喧嘩が止まった。小さな呻き声のようなものが聞こえたと言うことはどうやら片方が物理的に止めたようだ。どうすることも出来ずに争っているらしい影を見つめているとやがて影の色がさぁっと全体的に深い紺の色味を帯びる。
【・・・“人”というのは少しおかしいですね。けれど、まあそうなりますか】
 影から響いてきたのは先ほどから聞こえていた声とは違う、落ち着いた感じの声だった。やはり記憶に残りにくい曖昧さで、先ほどの声を女の子っぽいというならば今度は男性のような若干の低さがある。―――まあ問題はそこではないけど。
「・・・・・・・・・・・・あとどれだけいるわけ?」
(僕の影の中に)
 なんともいえない奇妙な気分に腕を押さえた方の手に力を込めながら尋ねるとその影は瞬きをするようにゆっくりと影の濃度を変化させた。
【・・・それは――】
【わたし達だけでぇすっ】
 サッと朱い色が混じり、一部が紫色に変わって渦巻く。どうやら個別に色があるようだ。二つの色は交じり合うのを拒絶するように僕の形の影の中で反発し、分離する。
【・・・・・・お前ちょっと黙ってろ】
【ええ~なんでぇ? わたしだって新しいマスターとお話したいぃ!】
(・・・・・・・・・もしかして仲悪い?)
 まるで喧嘩しているかのようなその様子に首を傾げながらどこで視線を固定すればいいのかわからず蠢く影の上で視線を彷徨わせていると、すぐにその様子に気がついたらしい青い色がピタリと止まった。
【見にくいですか?】
「・・・まあ、どこに視線を向ければいいかわからないし」
 正直に告げると床の上に落ちた僕の影がいきなりフルフルと震え、頭部の辺りに亀裂が入って左右に分裂した。突然の現象に呆けて眺めていると見る見るうちに二つに別れたそれぞれが人の形を作っていく。
 背中合わせになった二つの人影。ひとつは髪が長く柔らかな曲線を描く体の胸部が少し出ており、もうひとつはそれよりも頭ひとつぶん程背が高く体つきもしっかりとしていた。
「え、これ・・・?」
【仮の姿です】
【こっちの方が見やすいんでしょぉ?】
 地面から起き上がるなんていうことはなかったが、言葉とともに少女らしき薄っすら朱い影の方が僕の方に向かってひらひらとピースサインを振る。一瞬動きの止まった青年らしき影がそれを諌めるように振り向きざまに頭を叩いた。音はしなかったが少女の影が痛そうに頭を押さえて蹲り、窓枠の影に混じって消えていく。・・・・・・うん、とりあえずなかった事にしよう。
「・・・・・・ええと、まあありがとう。確かに見やすくなった」
【いえ、当然です】
 真っ直ぐに僕を見ているらしい青年の影に向かってそういうと青年は少し頭を下げるように優雅にお辞儀した。昔テレビで見た執事のような仕草に呑まれ、少し身を引く。
「うん・・・えっと、その、僕の影、なんだよね?」
【はい】
「あの、貰った影なんだよね?」
【そうですね】
「なんで二人居るの? そういうもの?」
【いえ、元々はひとつでしたが、二つに割りました。力を落としてでもそうした方が良いかと思いまして】
「? どういう事?」
 疲れてきた足の重心をずらしながら窓枠に座り込む。多少動いても影に問題はないようだ。青年の影はまったく微動だにしなかった。
【私達は本来の持ち主であるマスターから切り離され、今のマスターであるあなたの影と融合する際、それまでの人生も全て把握しました。私達自身があなたの影でもあるからです】
「全部って・・・全部!?」
【はい。前のマスターである影の一族とは違って本来生き物の影とは生まれたときからずっと一緒に居るものですから】
 それはつまり、恥ずかしい失敗談や間抜な出来事も筒抜け。
(何が哀しくて他人にそんなことを知られなければいけないんだっ!)
【・・・・・・あの】
 出来るならば忘れてしまいたい過去の失敗談を思い出して頭を抱え悶える僕に遠慮がちな声がそっと割り込んだ。視線を影に投げかけると薄い紺色が遠慮がちにさざめく。
【ですから、勿論生まれた時の記憶もありますよ】
「!!」
 生まれた時。つまりは捨てられる前。
 考えた事もなかった。本当の親の事なんて。
 僕を捨てた親。
【知りたいですか?】
 絶妙なタイミングで尋ねてくる影に特に何も考えずに頷きかけ、我に返って慌てて首を横に振った。本当にいいのか?とどこからか尋ねてくる自分の中の小さな声に視線を落とす。
「いいよ、親なんて。考えたこともないし。―――今、僕のそばにいるのが、僕の家族だから」
【そう―――】
【そうですよぉっ! 過去なんて何ぼのもんですっ! マスターには輝く未来とわたし達がついていますっ!!】
 青年の声を遮るようにいきなり少女の声が響き、ひょこりと青年の影の隣に現れた少女の影が両手で握り拳をつくって元気よく振り上げた。これは励ましているのか、それとも素なのか。どちらにしろ現状を考えると輝く未来は待っていない気がするんだが。
【・・・・・・】
【うぎゃっ!?】
 少女に対してどう答えるべきか迷っている内に話を遮られた青年の方が何も言わずに目にも止まらぬ速さで少女を蹴り倒し、窓の外側に場外退場させた。どうやら話の腰を折られて怒っていたらしい。
 影の少女の行方を追っていた横顔が再びこちらを向いたのに気付いて思わず肩を跳ね上げたが影はそれについて特には気にしなかったようだ。何事もなかったように再び姿勢を正す。
【それで、二つに別れたわけでしたね】
「あ、ああ」
【前のマスターと今のマスター。両方の記憶を持って現状を把握しています。その上で言わせていただくと――――どうもマスターは色々と足りないものがあるようです。知識や自分の立場なども把握出来ていないようですし。いえ、こちらの世界で暮らしていたのですから仕様がないことだとわかっておりますが】
 なんだか馬鹿だといわれた気がする。というか丁寧口調だけど実際言ってるよな?
 口元が引きつりそうになるのを何とか押さえて腕を組みなおし、続きを待つ。ここで話をぶった切っても先には進まない。
【勿論、知識の面でも防衛の面でも出来ることは精一杯サポートさせていただくつもりですが、それでも不測の事態というものが御座います。双方同時に行えるかと問われれば、完璧とは言い難く・・・・・・例えばパーティ会場などでその足りない知識をサポートさせていただいている時にいきなり後ろから狙われても咄嗟に反応できないかもしれません】
「どんな状況を思い描いてるわけっ!? そもそもパーティって何!?」
 そんなものに出るつもりはない。というか向こうの世界に行くつもりは一切、ない!
 決意を滲ませて力強く言い切っても影はフルフルと小さく首を振った。
【いえ、マスターが向こうの世界にいかない事ですむ、という事はおそらくないでしょう。お父上をどんな人物だと思っているんですか】
「どんなって・・・」
 問われて父を思い浮かべる。柔らかな茶髪と同じような柔和な笑みを浮かべた―――あれ? 父は兄や母と違って小さい頃から一切外見が変わってない気がするんだが・・・。
 今、はたと気付いた事実に首を傾げながら思い浮かんだ事をポツリポツリとあげてみる。
「えっと・・・優しくって穏やかで、授業参観日なんかにやってきたら他所のママさん達のテンションが上がるくらい整った顔立ちで、たいていいつも笑ってて、まったく老けてない」
 我ながら酷い答えに影は何も答えずにただため息を吐いた。
(・・・そんな事まで出来るんだ・・・)
 暗に出された駄目だしと視線が突き刺さっているような感覚になんだか居心地が悪くて身を揺すると影の方も少しだけ身じろぎする。
【・・・―――それではただの感想ですよ。立場です、立場】
「え? ・・・・・・考えたこと、ない」
 王族だ何だと言われていたが、正直パッと来ない。どこぞの国を治めていると言われても「ああそうですか」という感じだ。物語の中のようにどこか遠い感じがして実感が持てないからだろう。
【それではいけませんよ。事実はどうあれマスターも王族の一人に連なってしまったのですから】
「そうはいっても・・・」
 困惑して顔を顰めると影はもう一度ため息を吐いた。ゆらりと人影が蠢き、腰に手を当てるような仕草をしてから形を失う。色は薄っすらと紺色を帯びていたが元の僕の形に戻っていた。
(??)
 どうしたのかわからず思わず身を屈めた僕の前に何の前触れもなくニュッと白い指が浮かび上がる。
「ぎ―――っ!?」
 咄嗟にあげそうになった悲鳴を抑えるようにその手が僕の口を塞いだ。衝撃で言葉ごと固まる。しばらくしてひんやりとしたその感触は離れていったが、体温を感じさせない手は死体のようで正直気持ち悪い。
【まずはそこから説明しましょうか】
 先ほどと同じ声とともに影の中から現れたその手が目の前で人差し指を立てて動いた。動くものを反射的に目で追いかけ、それに追随するように思考が働き始める。
「え・・・・・・じゃ、これ、お前の腕? そんなものあるの?」
(さっきも見た気がするけど)
 腕から目を離さず、けれどなるべく距離をとろうと後退りながら尋ねるとその手が頷く代わりのように縦に動いた。一度影の中に潜って紙と鉛筆を持って現れる。
【私達は一応それぞれの形を持っています。二つに別れて力が小さくなったので外に出せるのはここまでですけど】
「その道具は?」
【私達の出来る事の一つです。後で説明いたしますので、まずは立場を理解してください】
 床にその二つを置いた手が手招きをするので恐る恐る近づいた。自分の影を踏んでいいものか少し迷って指で突いてみたが床の感触しかしない。完全に影だ。
【大丈夫ですよ。別に乗ってもどうという事はありません。私達は影ですから】
 なんともないように言うのでその場に膝を下ろす。傍から見ると床に正座して自分の影から生えた白い手と向かい合っているという、なんともシュールな絵面だろう。
 手は僕の目の前に紙を置き、そのまま鉛筆を拾い上げてサラサラと何かを描き始めた。その白い手の中で上下に動く鉛筆にどことなく見覚えがあるような気がしてよくよく見てみると僕がいつも使っている便箋と机の上の鉛筆立てに立ててあった鉛筆だった。
(・・・?)
 似たものなのかと思って机の上の鉛筆立てに視線を向けてみるとその鉛筆がなかった。便箋は鞄の中だから確かめようがないけれど、もしかしてそこから持ち出したのだろうか。
(でもどうやって?)
 今日学校から帰ってきて机の上のものに触った覚えなど一度もない。窓の外を見たときか、影の少女と話していた時だろうか。
【マスター、これが向こうの世界です】
 思考を破るように声をかけられハッとして目を向けると、紙の上に地図を描き終えた手が鉛筆の先で紙の端をトントンと叩いていた。
「・・・・・・見覚えあるんだけど」
 線だけで構成された白黒の地図だったが流石に見てわからないわけがない。これでも高校生なのだから。特徴的な細長い島国を指差しながら紙から手へと視線を移す。
「これ、世界地図だよね?」
【そうですよ。向こうの世界の】
「おんなじ形してるの?」
【描いてみれば形は同じですね、確かに。しかし仕方ありませんよ。別に向こうが真似をしたわけではありません。世界として同じなんです。パラレルワールドとでもいいますか。マスターは漫画やアニメなども嗜んでいますからわかりますよね?】
「・・・うん、まあ」
(現実でその単語を聴くハメになるとは思わなかったけど)
 わかりやすい例えにひとつ頷くと腕はその中の太平洋を指差した。
【それで、ここに国がひとつ――】
「待った。どうして海に国があるの? 人魚とかなんかそういう種族?」
【いえ、向こうの世界――――そうですね、こちらの世界を人間界とするならば、あやかし界とでもいいましょうか。この人間界とその妖界は重なるように存在しているんです。他にも色々と重なっている世界はありますが、世界そのものがまったく一致するように重なっているのはこの二つだけですね】
「・・・まるで見てきたかのように」
【見てますから、前のマスターが色々な世界を】
「・・・・・・ああ、そういえば自分の影を探して彷徨ってたんだっけ」
 そこまで大変な旅だとは思わなかった。世界のどこかにある影、といっていたが、その世界自体もいくつもある内のどこかの世界・・・・・・だなんて、死ねといっているようなものだろう。
「それで?」
【その為なのかどうなのかは知りませんが、人間界と妖界は地形が瓜二つなんです。ただひとつだけ、海と陸が逆になっている・・・・・・・・・・・事を除けば】
「海と陸が?」
【ええ、ですから、こちらの世界では海や湖など、水で覆われている部分が陸地で、逆に陸地の部分が全部海や湖になっているんです】
「へえぇ」
 覚えやすいような、覚えにくいような。白黒の地図ではいまひとつピンと来ず、首を傾げるように眺める。その間に影はくるくると大きな丸を太平洋、インド洋、ロシアとアメリカの辺りにつけた。・・・・・・さっきの論法じゃロシアやアメリカは海じゃないっけ?
【この辺りが大国と呼ばれる国が支配する場所で、それぞれ地の一族、空の一族、海の一族が治めています】
 ふむふむと頷きながら動く鉛筆の先を眺める。確かに相当大きい。
【そしてマスターのお父上はその中のひとつ、地の一族の第一王位継承者でした】
「・・・・・・は?
 思わず聞き返した僕を無視して影は鉛筆の先で【ココですね】とインド洋を指し示した。
「ままま、待った待った待ったっ!」
【はい?】
「おっきくない!?」
【ええ、ですから大国です、と、そう申したではないですか】
 わずかに呆れを滲ませたような声音に少しカチンとしながら地図を睨む。いつの間にやら地図の中には、インド洋上に「地」、太平洋上に「空」、ロシアとアメリカの所に「海」という文字が書き込まれていた。
「なんでその大きな国が継承問題に揺れてるのさ。だって父さんは継承権を放棄したんだよね? その後に子供が生まれてるんだからそれまでは放置してたって事じゃないの?」
 「地」と書かれた場所に指を這わせながら手を見ると、影の手は鉛筆を持ったまま少し戸惑うように鉛筆を左右に動かした。やがて諦めたように動きを止める。
【そこは色々と裏事情と申しますか・・・・・マスターの兄上のせいと申しますか・・・】
「兄さんの?」
(何故そこで出てくる)
 尊敬する兄の所為と言われ若干声が尖ったが影は気にする様子もなく鉛筆を置いて紙を裏返し、再び鉛筆を持って紙の上にA、B、C、D、Eと少しずつ離して書いた。
【仮に妖界に住む一般的な妖達の強さのランクを“C”と致しましょう。マスター達人間は“D”です】
「一般人に勝てないと?」
【まあ肉体的にはまず無理でしょうね】
 “D”の下に“人間”と書きながらあっさりと肯定され気分が沈む。そんな世界に行ったら人間なんて簡単に死ねそうだ。
【その中でも強い者達がその上のランクになります。王族や貴族達は確実に“B”よりは上、下手をすると“A”のさらに上“S”ランクに属するものもいます】
 言いながら影は“A”の隣に“S”という文字を付け足す。
「ねえ、このランクって一体何のランク?」
【身のうちに宿る総合的な力のランキングです。体が頑丈なもの、特殊な何らかの力を持つもの、向こうには色々と居ますが、例えばどんなに頑丈な体でも“B”ランクの体に“A”ランクの攻撃を食らわせればどうやっても防ぐことは出来ません。勿論それも絶対ではなくそれを覆すような相性の問題もありますが。
 このランキングはゲームで例えると、上にいけばいくほど攻撃力か体力の優れた者、という事ですね。つまりは倒しにくいんです】
「・・・うん。わかったような、わからないような・・・。それが兄さんとどう関係するの?」
 文字を眺め、おぼろげに何とか理解しながら顔を上げると影は自分の書いた“S”の隣に“SS”という文字を付け足した。その文字の上をトントンと鉛筆の先で叩く。
【兄上のランクはココです】
「は!?」
 いきなり飛びぬけたランクに思わず間抜な声が口から漏れた。兄さんってほんとにスーパーマンだったの!?
 開いた口が塞がらず、間抜け面のまま影を見ると影も感嘆のようなため息を小さく吐いた。
【強いんです、とにかく。ずば抜けて。
 今、地の一族のトップに立っているのはマスターのお父上のお父上、つまりはマスターのおじい様になるんですが、その現王様が後継者に欲しがっているんですよ。駆け落ちされたお父上に離縁まがいの事まで宣言しておきながら生まれた子供があまりにも優秀すぎるので取り込もうとしているんです】
「・・・・・・ああ、うん、なんかドロドロとしてそうだというのはわかった」
 そこはかとなくきな臭そうな話に視線を逸らしながらそう答えると、視界の隅で白い手がやれやれというように手首をブラブラと左右に振った。呆れた、といわんばかりの仕草だった。
【そのドロドロに確実にマスターも巻き込まれているんですよ?】
「なんで!?」
 ほんとに驚いて勢いよく視線を戻すと、手はびしっと僕の顔を鉛筆で真っ直ぐに指してきた。
【あなたも二人の間の子供だと認識されているからですよ】
「・・・・・・」
【二人の間に生まれた長男は誰よりも飛びぬけた才能の持ち主。ならば今まで隠されていた次男はどうだろう。普通そう思うと思いませんか? 直接会いたいと思いますよね? 「孫の顔がぜひ見たい」と招待されたらどうするんですか?】
「―――ぎゃああああぁぁぁっ!?」
 数秒してその事実に思い当たり、思わず悲鳴を上げた。なにそれ!? なんか命狙われてるっぽいのに向こうの世界に行け!? 死ねってかっ!!
「というか、そんな人間が軽く死ねそうなところに行きたくなんかないよっ!」
【それで断れればいいんですけどね。流石にお父上達でも出来ることと出来ないことはあると思いますよ】
【だからわたし達がついてるんですぅ~っ!!】
 唐突に響いた声とともに影の一部が赤みをさし、そこからひょこりと白い腕が現れた。先ほどから出ている手と違い、なだらかで丸みを帯びたその線は成長途中の少女のものだ。呆然と二本に増えた手を見ているといきなり現れた少女の手が僕の手を握り締め、勢いよく上下に振り始めた。その手も体温など一切ない、ひんやりとした手だった。
【わたし達が絶対マスターを守りますっ! そのためにいるんですからっ!】
 状況に頭が追いつかず、勝手に振られる手とともに上半身を動かしていると、少女の手と僕の手の間に影の手刀が割って入った。バシンッという音ともにいささか強引に引き剥がされる。そのまま青年の手はしっしっと犬を追い払うように少女の手に向かって手の平を振った。
【話の邪魔だ、能無しの体力馬鹿はどこか行ってろ】
【どうしてそう、――~~~~っ!!】
 悔しそうに身もだえした少女の手が男の手を叩く。男の手がすぐさま少女の手を叩き返した。部屋に鳴り響くバシバシという叩きあいの音。目の前で繰り広げられる影から生えた手同士の喧嘩に思考停止していた脳みそが動き始めた。
「話はまだ終わってないだろ! ―――!?」
 喧嘩を物理的に止めようと二つの手を上から押さえつけると、二つの手達はずぶずぶと影の中に沈んでいった。ついでにその上から押さえつけていた僕の手も。ぐちゃり。冷たい泥水に手を突っ込んだかのような感触に慌てて手首まで埋まった自分の手を引き抜く。自分の手を呆然と見つめてみても先ほどと何一つ変わっていなかったけれど、手の平に思いっきり不気味な感触だけが残っていた。
「・・・・・・なに? 今の」
【影の中に入ったんですよ。私達の能力のひとつです】
わたし達かげの中にモノをいれられまぁす! マスターだって入りますよ! 四次元ポケットですねっ】
「あ、知ってるんだそんな事」
 あっけらかんと告げる少女に肩に入っていた余分な力が抜けた。とりあえず彼らに害意がない事だけはわかっているので緊張する必要もないだろう。
「で? 他にどんな事出来るの?」
【後は、影渡りですね。影から影へと移動することが出来ます。ただし距離は短いですよ。前のマスターの時だったならともかく、別けられた力がさらに別れていますから】
「どの位?」
【そうですね、運ぶものにもよりますが・・・大体数ミリから二百メートルくらいでしょうか】
「ふぅん」
 いまいちパッと来ないが、先日あの女性がしていたようなモノだろう。
 顎に右手を当てて思い出すように視線を巡らせ、影に目を向ける。紺と朱に別れ、再びそれぞれの形をとった影は視線を感じて濃淡を変えるようにさざめいた。
「それで? 他に何が出来る?」
【以上です】
「ん?」
【それ以上、わたし達なんにも出来ませ~ん!】
「え? マジで?」
 他に何かないかと一縷の望みをかけて尋ねなおすが、人影は気まずそうに頭を左右に動かして視線を逸らす。
【本来ならば影を具現化させる、などという事も出来るんですが、別れたゆえにそのような事をするには少し力が足りなくて・・・】
 残念そうに首を振った後、青年の影が僕の方を向いた。
【もうひとつ。私達の中に入るものの事ですが。―――意識のない物体ならばいくらでも入りますが、私達よりランクが上のものは取り込めません】
「ランクってさっきの?」
【はい。私達はそれぞれ“B”ランクくらいでしょう。つまりは“A”以上には能力的に手を出せないと言う事です】
(・・・・・・)
 落ち着いて考えてみよう。今もたらされた情報を頭の中で整理してみる。
「・・・・・・王族、貴族は“B”以上なんだよね?」
【ええ。大国となると王族はまず間違いなく“A”ランクでしょうね】
「確実に手を出せなくない!? 僕、命狙われてるらしいんだけど! 相手が殺そうとしてきた時、僕はどうやって対抗すればいいわけ!?」
【手を出せないだけです。守るだけならば何とでもなります】
【だぁいじょおぶっ!! マスターは絶対わたしが守ります!】
 僕の焦りなどものともせずに青年は言い返し、少女は明るく宣言した。何を根拠に言っているのかよくわからない。特に少女の方!
 交互の影の顔の辺りで視線を彷徨わせていると落ち着けと言うように青年の方が手をゆっくりと動かした。
【それにマスターには頼もしい家族が居るでしょう? 特に“SS”ランクの兄上。マスターの存在が知れ渡った時、あちらの世界にいち早く釘を刺しにいったようですからね。兄上が敵に回るとわかっているのに迂闊な事をする輩はそうそういませんよ。表立っては。
 それに攻撃は当たらなければ意味がありません。私達は影。影の一族以外、誰も触れる事など出来ません】
【攻撃なんてひとつだってマスターに当てさせないんだからっ!】
「そう・・・頼もしいな」
 力強く言い切られ、ようやく少しだけ安心する。息を吐くように呟くと少女の声が嬉しそうに笑い、自分の胸を叩くような仕草をしてみせた。
【マスターはわたしがちゃんと守るもんっ】
【知識面などでもきちんとサポートさせていただきます。わからない事はどうぞ何なりとお尋ね下さい】
「うん、ありがとう。で、君達の名前は?」
【【名前?】】
 安堵で零れた笑みのまま尋ねると影達は不思議な言葉を聞いたというように声をハモらせた。「何か変な事言っただろうか?」と困惑に眉を寄せると青年の影が困ったように腕を組んだ。少女の方も小首を傾げる。
【わたし達に名前なんかありませぇん。影ですからっ】
【元々力であり、影です。生きているように見えても、実際に生きてはいません】
「影には名前はないの?」
【ありません。そもそも影の一族の方々は自分の力である影に人格なんてつくりません。そんな事をして力のランクを落とすぐらいなら自分で操った方が早いですからね】
 まあわかる気はするが。
「でも名前がないと不便だよ。どう呼べばいいのかわからない」
 折り曲げた膝の上に手を置いて、その上に顎を乗せるようにして影を覗き込めば少女の方がピョンッと跳ねた。その影の中から手が伸びて僕のズボンの裾を引っ張る。
【マスターがつけてくださいっ わたし達の名前!】
「へ?」
 嬉しそうに弾んだ声に思わず影を身を近づければ、青年の影も組んだ腕を解いて姿勢を正した。
【そうですね。そうしていただければよろしいのですが】
「え? 僕? えっと・・・・・・センスないよ?」
 青年の方にもすすめられ、戸惑いながら呟くと二つの人影は大きく頷く。
【承知しております】
【マスターのつけた名前ならどんなのでもいいですよぉ!】
 確実に貶している青年の言葉と、褒めているのかどうかよくわからない少女の言葉を聞きながら影を見つめた。今までの話を思い出しながら唸り、しばらく考え込む。
「・・・・・・ほんとにどんな名前でもいいんだよね?」
【【はい】】
「じゃあ―――」
 一旦言葉を切って少女と青年を順に指差して言った。
「ハジメとツクモ」
【わたしがハジメ?】
【私がツクモですね】
「うん。僕の影全体を百とするなら、それを二つに割った数だよ。一と九十九。割合は・・・勘だけど」
 ぷっと小さく吹き出した青年――ツクモの隣で話をよく聞いていなかったらしい少女――ハジメが嬉しそうに自分の名前を連呼する。・・・あ、なんか少し罪悪感が湧いてきた。
 心の奥から湧き上がってきた感情を押し隠すように脇を向いてひとつ咳払いし、影に向き合う。
「うんまあとにかく、これからよろしくね、ハジメ、ツクモ」
【はいっ】
【よろしくお願いします】
 ズボンの裾を握っていたハジメの手が僕の手を掴み、反対側の手もツクモの影から伸びてきた手に掴まれた。三回上下に振って手を離す。ツクモの手はそのまま反転して鉛筆を持ち、手首で便箋を押さえつけるように固定した。
【さて、では話の続きですが】
「・・・もういっぱいいっぱいなんだけど?」
 せっかく穏やかにおさまった感情の余韻を打ち消すような行動にげっそりと呟くとツクモの手がしばらく考えこむように鉛筆をくるくると回した。やがてピタリと止める。
【――――そうですか。では重要な事だけをお知らせしておきます】
「うん」
【妖界で戦争が起きればこちらの世界、人間界でも多数の死者が出るので行動には気をつけてください】

「ちょっと待ってっ!!!」

 思わぬ発言に衝動的に両手でツクモの手首を掴んで揺すった。衝撃で手から零れ落ちた鉛筆がコロコロと床を転がる。僕にされるがままに揺すられていたツクモの隣で慌てたようにハジメの手が右往左往した。
【まままマスターぁっ 落ち着いてくださいぃ!】
「いやいやいや僕は落ち着いてるともっ 落ち着きたいんだよっ! 落ち着かせてくれよ!! 心臓止める気かっ!!!」
【マスター落ち着いて! ちっとも落ち着いてません~っ! っていうかもうすっごく混乱してますよぉ!】


「・・・―――何やってるの? ジン?」


 不意に滑り込んできた声にスッと頭が冷えた。聞き覚えのある低めの美声に視線を上げると、いつの間に開けたのか部屋の扉のノブを握ったまま入り口に立っていた兄が困惑したようにこちらを見ていた。
 数瞬呆けてからハッと自分の状況を思い出す。影から生えた手首を鷲掴みにして揺する僕。その近くを動き回る白い手。即座に手を引いて立ち上がりながら体ごと兄の方へと向き直った。
「に、兄さんこれはその・・・っ」
 どうにかしようと口を開いてみたが上手い言い訳も思い浮かばず焦りばかりが先行する。隠して飼っていた動物を見られた子供のように体を使って何とか影を隠そうとしてみたが、光源が後ろにある為にどうしても影は前に伸びてしまう。廊下に立ったまま様子を見ていた兄は肩の力を抜くように小さく笑って部屋の中へと入ってきた。
「いや、少し前から何か気配がおかしいなとは思ってたんだけど・・・・・・随分面白い事になってるね?」
 「あ、咎めてるんじゃないんだよ?」と言いながら僕の影まで近づき、僕が伸ばした手の間からのぞく二本の手をしげしげと見つめる。そんな兄を警戒するように片方は少し身を引き、もう片方は恥らうように指をくねらせた。っておいハジメ!
 咄嗟に突っ込むように少女の手を叩くとふえ~んというような声がか細く響き、兄の目が手から影へと移る。
「これは・・・・・・影だよね?」
「わかるの?」
 いきなり言い当てられ、ビックリして顔を上げると兄も顔を上げて僕の目を見つめた。長い睫毛に覆われた切れ長の瞳は吸い込まれそうなほど深い黒色だ。
「昔一度だけ会ったからね。彼女に貰ったの?」
「うん」
「へえ、太っ腹だね。この調子だと大分力を減らしただろうに」
「え? そうなの!?」
 予想外の言葉に影を見つめると薄紺色にさざめいた影が指を二本立てた。
【はい。ランクで言うなら二つほど―――“SS”から“A+”くらいには落ちたでしょうか】
「SS!?」
【ええ、影の一族は基本的に“SS”クラスの力の持ち主です。ですが住んでいる場所は妖界でも人間界でもないので理由がない限りそれぞれの世界に手出しはしませんよ】
「そうだよね。影の一族なんて僕達だって幻だと思ってたから。ジンの部屋で見た時は驚いたなぁ」
 懐かしむかのように目を細めた兄は昔影が止めてあった壁際を見つめて頬を緩め、柔らかい眼差しのまま僕の方を向いて「それで?」と言葉を紡ぐ。意味がわからず首を傾げると兄も同じ方向に少しだけ小首を傾げた。
「さっきから何か騒いでただろ? 流石にレイカさんに心配される前に止めようと思ってきたんだけど」
「・・・・・・ああっ! そうだ! なんだよ行動に気をつけろって!!」
 途端に先ほどまでのやり取りを思い出してまたツクモの手を引っ掴んだが、状況をよくわかっていない兄が宥めるようにその上から僕の手を掴む。それだけで気持ちが静まり、勢いが萎えた。ツクモから手を離しながら兄を見るとその涼しげな目が僕を覗き込んでいた。
「ジン。落ち着いた? さっきから何の話をしてるんだ?」
「ええっと・・・・・・なんか・・・向こうで戦争が起こったら人間も死ぬとかなんとか・・・」
 よくはわからない事柄に眉を寄せながらも何とか言うと兄が「ああ」と頷いた。白い影の手に視線をやりながら苦笑する。
「それは向こうの世界では一部の王族しか知らない事だから軽々しく口に出されたら困るな。確かにジンには関係する事かも知れないけど」
「!?」
(何が僕に関係すると!?)
 思わず口を開いたが声は続かず、何度か動かすだけで終わった。不整になった呼吸を落ち着かせるように兄の手が僕の肩をゆっくりと叩く。
「影が言ってるのはおそらく許婚の事だね。確かに下手な対応をしたら本当に戦争になりかねないから、あの人だと」
「・・・っ に、兄さんも知ってる相手なの!?」
「知ってるよ? 僕が一人息子なのをしきりと残念がっていたからね。ジンが居ると知ったら途端に大喜びしていたよ。あれはとてもじゃないが断れない」
 苦笑を深める兄に目の前が真っ暗になるような気がした。舐めていたつもりはないが舐めていたのかもしれない。一体どのルートを辿れば平穏無事にたどり着けるのだろうか。
 そのまま暗闇に放棄しそうになった思考回路をなんとか正常に取り戻し、頭をひとつ振る。この頃現実逃避をする事が多くなってきた気がするが、いつまでもそうしている場合じゃない。とりあえず許婚は横に置いておいて、その前に気になった事を口に出した。
「・・・・・・そ、それで、人間が死ぬとかいうのは何?」
【向こうの世界とこちらの世界は繋がっているんです。それも今は変な風に】
「意味がわからない」
 きっぱりと言い切ると兄は床を叩いて座るように促した。自分も隣の腰を下ろしながら「少し長くなるかもしれない」と零した。
「昔話だからね。といっても人間にとってはそうでも僕たちにとっては数代前の話だけど」
 兄の言葉に追随するようにツクモの手も僕の目の前でひとつ上下する。そのさまは頷いているように見えた。
【ええ、昔の話になります。あれは人間の年号で言って、そう・・・平安期あたりの事ですね。
 その頃日本のあちこちに出入り口となる、時空の歪みのようなものが出来、今と違って向こうの世界とこちらの世界は自由に行き来が可能に―――いえ、正確には力のある者のみ・・・・・・・、行き来が可能になったのです】
「力のある者のみ?」
【ええ、向こうの世界では一般的な住人。人間界ではいわゆる「陰陽師」などと呼ばれる人たちです】
「人間側にもいたの? 力がある人間って」
【居ました。全体に比べるとごく小数ですが、存在しました。しかし、やはり力の差というものは埋めがたいものでしたが。せいぜいが“C”ランクほどでしたね。
 そんな状況の中、平穏が保たれるはずがありません。向こうは自由に出入りできるのにこちらはそうでもない。行けたとしても力の差がありすぎる。向こうの世界の住人は「鬼」や「化け物」「妖」と呼ばれながら好き勝手な行いをしました。人、食べ物、文化―――人間界は一方的に搾取される側にあったんです】
「・・・・・・歴史の教科書にはそんな事書いてないけどね」
【物語としてすりかえられたんですよ。忌々しい搾取の時代をなかった事にしたんです】
 へえ、と呟きながら話半分に受け流す。本当に御伽噺を聞かされているようでまったく実感が持てない。
「それで? 日本はなんでまた平和になったの? そんな都合のいい世界、そうそう手放さないよね、普通」
【それはある陰陽師が出てきたからです】
「ある陰陽師?」
【すっごい美人さんなんですよっ!?】
 人間がどうにかしたのか、と思わず聞き返すとそれまでもじもじしていたハジメがやけに高いテンションで叫んだ。途端にツクモに殴られて影に沈む。呆気にとられたようにその一部始終を見ていた兄はしばらくしてクスリと笑みを零した。
「向こうでも御伽噺のように語られてるよ、その話。人間と言う種族が住む世界からやって来た美しい一人の娘が三大王国の王様達に見初められながら自分の世界へと帰り、その道を閉ざした、とね。誰もが知ってる昔話で、少女達が好きな悲恋モノだ」
「へえぇ、――って道を閉ざしたら兄さん達はココにいないんじゃないの?」
「完全には閉じてないからね。道はまだいくつか開いてるんだよ」
(それはヤバイだろう!)
 話が本当だとしたら人間にとってはただの脅威だ。僕がよっぽど焦った顔をしたのか兄は小さく首を振って「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「その道はきちんと管理しているし、もう昔のような事は出来ないよ」
「なんで?」
【だからその陰陽師の仕業です】
 絶妙なタイミングで割り込んでツクモはひとつ咳払いをする。注目を向けられ、白い手が真っ直ぐに姿勢を正した。
【向こうでは先ほど言われたようなお話が語り継がれていますが、事実は少し違います。向こうの世界に乗り込んだその陰陽師、確かに絶世の美女でしたが、そのまま王様達と甘い恋愛に陥ったわけではありません。ボコったんです】
「・・・は?」
【ボコボコにしたんです。王様達を。
 いい加減頭にきてたんでしょうね。それほど向こうの世界のやる事は行き過ぎていましたから。王様達が何かをしたわけではないんですが、自国民達が何をしていても無関心でしたから彼女にしてみたら同罪――いえむしろ罪が重かったんでしょう。直接向こうの世界に乗り込んで護衛もろともフルボッコにしたんですよ】
「だって王様でしょ!? 人間ってよくて“C”レベルだって・・・っ!」
【ええ。けれど彼女だけは格別でした。あれは誰よりも強かった】
 しみじみと懐古するかのような口調にふと違和感を覚えた。隣の兄も不思議そうに眉を潜める。
「ねえ、さっきから妙に言い方がおかしいんだけど。見た事あるの?」
【ありますよ、前のマスターが。丁度あの時期向こうの世界にいましたから】
「マジで!?」
(一体何歳だったんだ!? 彼女?!)
 開いた口が塞がらない。感心したように頷く兄を視界の隅におさめながら黒尽くめだった女性を思い出す。寿命といい力の強さといい影の一族、一体何者!?
 そのまま思考の海に陥りそうになったところで影から咳払いが聞こえてきてハッと口を閉じる。聞く姿勢を見せるとツクモはひらりと白い手を翻して注目を集めた。
【それで話の続きですが・・・代表である王様達をボコるだけボコった後、彼女は力の強い者達の代表を集めて二度と人間を襲わない事、開いた道を閉じる事の二つを約束をさせたんです。何かの拍子で歪んで繋がった時空を二つの世界、双方から力で強引に締めようとしたんですよ】
「それで閉じた、と」
【結果を言えば、完全に閉じたわけではありません。ストローを捻っても隙間から水は通るでしょう? いまだに出入り口は存在します。前よりマシになったという程度です】
 捻る、の部分で一度捻った手首を再びひらりと翻した手を目で追いながら腕を組む。どう考えても安心できない。
「それ安全じゃないよね? その陰陽師はもう居ないんだし約束が反故にされたってどうしようもなくない?」
「それがそうじゃないんだ」
「?」
 兄の方に視線を向けると兄はなんとも言いがたい表情を浮かべて頬を掻いた。なにやら汗をかいているように見える。
「ご先祖様達もそう思っていたから数百年位してからその出入り口の管理を放置しだしたんだ。まだ人間界に行った事のある世代が生きている時代だったから途端に向こうに行く連中が現れ始めたけど、一向に返ってこない。特に気にせずにいたらしばらくたったある日その死体が各居城に届けられたんだ。「約束はどうしたんだゴラぁ」という文字を彫られて」
【平民だけじゃなくその中には王族の出も混じってたんですが、どれも即死クラスでした】
「さっきから薄々思ってたけど、その陰陽師、人間じゃないよね!?」
「そういう結論に達した」
 僕の叫びに兄もうんうんと頷く。どう考えても人間業じゃない。でもならば何故人間に味方してくれたのか。
「それで、彼女は結局何なの?」
「そこはわからない。ただその死体には綺麗な薄紅色の和紙があって、死体の血で「次同じ事したら殺すから」と言う文字が添えられていたんだ。死体に添えてあったんだよ? 確実にお前達を・・・・殺すという脅迫文にしか見えないよね。もう慌てたご先祖様達は出入り口を厳重な管理下に置いて存在その物を闇に隠した。向こうの世界では人間界はお話の中の国みたいな扱いになってるんだ。そこを守る者達以外にとってはね」
「王族って事?」
「以外にもいるけど、まあそうだね」
 言いながら兄はふぅっと遠くへ視線を流した。
「今もその陰陽師が生きているのかどうかは知らないが自分達の命がかかっているからね、誰も下手な事が出来ないんだよ」
 ため息とともに肩をすくめた兄を眺めながらふと違和感を感じる。足元にある影を見て、兄を見て思わず「あっ」と呟いた。
「どうして父さん達この世界にいるの!? 殺されるでしょ!?」
「それがまったく何もないんだ。死んでいるのか見逃されているのか・・・」
 兄が不思議そうに首を傾げるとそれに答えるようにツクモが人差し指を立てて、小刻みに左右に振った。
【陰陽師は人間に悪さをしないものは見逃していますよ。平安時代の辺りでも人間を伴侶にこの世界に根を下ろした妖達には何もしませんでしたから】
「やっぱりそうか。まあ父さん達は特にそれを知っていたわけではないけどね。親の反対を押し切るためには別の世界まで逃げた方がいいと思ったらしい」
「だからって命までかけなくてもいいじゃん! 下手すれば一瞬で死んでるよ、その行動!!」
 普段から二人のラブラブぶりは見慣れているが、いつものおっとり具合を見ているとそれだけ情熱的だなんて信じられない。どうも駆け落ちなどという単語が似合わない両親なのだ。えーーー?と頭を捻る僕にツクモから【そこではないでしょう】というツッコミが入った。
【向こうで戦争が起きたらこちらの世界にも影響があるという話のはずですが?】
 そうでした。
 影から漏れた少し呆れ気味の声に視線を逸らす。馬鹿にされるのもなんだか癪なので生徒は黙って教師の話を聞くことにした。
【そういうわけで世界は別々に分断されたんですが、それが少し強引過ぎたようなんですよね。変に力を加えたことで風に運命共同体になったとでもいいましょうか・・・・・・こちらの世界で大規模な戦争があれば向こうの世界で自然災害が、向こうの世界で大規模な戦争があればこちらの世界で自然災害が発生するようになったんです】
「・・・・・・つまり?」
【マスターの許婚ですが、空の一族のお姫様です。あの大国のひとつの。
 つまりマスターが万一見合いに失敗して向こうの世界で戦争なんて事になったら、こちらの世界で大規模な自然災害が発生します。向こうの世界の住人だけはなく、こちらの世界の住人も大勢巻き込まれますね】
「・・・ぎゃーーーーーーっ!!??」
 きっぱりとしたツクモの断言に両頬を手で押さえたまま悲鳴を上げる。
 ようやく理解した。何て事だ。


(逃げ道が、ないっ!)


「なんで見合いで!?」
【本当ですよね。ここまで大事に出来るなんてある意味才能だと思いますけど】
「僕の所為じゃないじゃんどう考えたって!!」
 うわ、どうしよう。なんだか涙が滲んできた。慌てて手で目頭を押さえると隣から兄が焦ったように肩を抱いてきた。
「ジンっ フォローする! ちゃんとフォローするからっ!」
【わたし達もがんばりますからぁっ!!】
 膝に引っ付いた冷たい手がわたわたと揺するのも感じる。
 でも答えられない。
 なんだってこう・・・あっちに行ってもこっちに行っても命の危機しかないのか!



「もうやだああぁぁぁーーっ!!」



 知らず知らず噛み締めていた唇から子供のような声が迸った。






 ――――僕の肩に世界の命運がかかりました。
 ・・・・・・・。
 ・・・・・・夢じゃなくても思いますっ

 お願いします、覚めてください!



[19090] 第四話 奇縁
Name: ふぁいと◆19087608 ID:840f094a
Date: 2011/03/17 12:50
第四話 奇縁



 それは果たして偶然だったのか、必然だったのか。

 人は生きていく中で、思い返してみると「ああ、あれは必要だったんだ」という出来事が時々ある。
 その時はぜんぜんわからないのに、後になってよかったと思うこと。
 もちろん僕にも、それはあった。






 朝は清々しいほど青かった空を薄灰色の雲が覆いはじめていた。降水確率30%という微妙な天気予報は嫌な感じに当たりそうだ。
 慣れた小道に自転車を走らせながら空に目を走らせて少しだけ眉を寄せると手元の影がさざめいた。薄っすらと紺色に染まる。
【どうかしましたか?】
「いや・・・・・・雨降るのかな、と。傘とか持ってきてなかったし」
【大っ丈夫でぇ~すっ! 傘も合羽もわたし達持ってますからっ】
「・・・・・・そう」
 途端に紺色に混じるように朱色味も帯びた影のなんとも用意周到な回答に、一体いつそんな事をしたのか聞く気にもならずペダルを漕ぐ足に力を加えた。立ちこぎするほどではないが微かに上り坂になっているため、力を抜くとハンドルが横にそれそうだ。
 木々が重なって鳴る葉音を聞きながら頭上に広がり始めた梢を見上げた。あまり人通りのないこの辺りはまだ自然が残っていて、ポツポツと建っている家や店よりも田畑の方が多い。
(・・・・・・)
 こうして静かにいつも通りの風景を見ていると何事もなかったかのような気がしてくるが、実際家に帰ってみるとそうではない現実が待っている。話しかけてくる影に慣れてしまった自分に少々物悲しいものを感じながら思わずため息を零すと、途端にハンドルに落ちていた自分の影がぐにゃりと不自然に歪んだ。
【マスター? どうかしましたぁ?】
 心配そうな音色の可愛らしい少女の声が内耳で響いた。影を通して耳の奥に直接送り込まれる音は他の人間には聞こえないらしい。つまり僕が独り言を言う怪しい人間に見えるわけだ。
 ・・・・・・まあ変なモノにとり憑かれた等と噂されるよりはマシかもしれない。くれぐれも家の外では怪しまれる行動はしない様にといっているので不意ににょきっと『手』を出してきたりしないのはせめてもの救い、だ。
(・・・・・・。どちらにしろ結局変人扱いされるのは僕か・・・)
 うまく誤魔化せなかった時の自分の未来を身震いとともに振り払いながら視線を前方へと投げた。このまま道沿いに真っ直ぐ進めば僕が育った我が家がある。同時にこの頃気にかかる事象が頭をよぎり、思わず眉が寄った。
「なんかさぁ・・・・・・この頃父が頻繁にどこかへ行っているのが怖いんだけど・・・・・・。今日あらたまって話があるとか言ってたし」
【ああ・・・。マスターの婚約者の事について話し合いに向こうの世界へ行ってますね】
(うん、なんとなくわかってた・・・・・・わかってたけど聞きたくなかったよっ!)
 予想を肯定するようなツクモの返事に垂れた頭がハンドルにくっつく。慣れた道、車が通っていないからこそ出来る芸当だったけれど、この日は運が悪かったとしか言いようがない。突然はっと息を呑むような音が耳に響いた。
【マスター危ないっ!】
 直接耳に送り込まれた鼓膜を刺すようなハジメの叫びとともにいきなり真横から飛び出してきた柔らかな手に左の脇腹をどつかれた。
「!?」
【マスター・・ッ!】
 わけもわからず自転車ごと傾いた僕の耳朶にツクモの焦ったような声が飛び込む。同時に完全にバランスを崩して転ぶ前に左手首を強い力で引っ張られた。ツクモだと理解する間もなく柔らかさのない骨ばったその手に勢いよく左にひかれ、咄嗟に地面についた左足が二、三度たたらを踏む。その間もスピードが落ちず右に傾いていく自転車が股から右足にかけてガスガスと当たって痛い。引っ張られた体のほうは勢いのまま手の生えている・・・・・・・電柱にぶち当たってストンとお尻から地面に落ちた。
「ッて・・・っ」
 呆然と座り込んでいる間に足からすっぽ抜けていった自転車は派手な音をたてて横滑りし、数メートル先で止まる。直後、その真上に段ボール箱が落ちて大量の紙を辺り一帯にばら撒いた。
【大丈夫ですか? マスター】
「な、なに!? 何!?」
 落ち着いたツクモの囁きにようやく我に返ったが、何が起こったのかまったくわからない。そっと離された左手にも気付かず状況を把握しようと前方に視線を向けた。自転車の音と急な運動で起こった耳鳴りと、その合間を縫って聞こえるバシバシと音が煩わしく、なるべく意識しないようにしながら道に転がる自分の自転車を凝視する。
 雑草がまばらに生えるアスファルトの上、丁度神社の石段の手前に滑り込んだ自転車は一抱えはありそうな段ボール箱に乗っかられ、その中に入っていたらしい大量の紙に埋まっていた。同じくその箱からこぼれたのだろう幾枚もの紙が追いかけるようにひらひらと空を舞いながら時間差で道路へと落ちてくる。
(・・・―――段ボール箱が、上から落ちてきた・・・? )
 どうにかこうにかそこまで考え付いたが、驚きで思考停止した脳みそはなかなか働かない。・・・・・・ええと、つまりは・・・・・・どういう事だ・・・?
「なあ、ハジ・・・・・メ・・・?」
 手っ取り早く事情を知っていそうな、この惨事を引き起こした張本人達へと視線を向けてみたら何故か修羅場が始まっていた。いや、修羅場というより一方的にツクモがハジメをぶっ叩いている。・・・さっきからビシバシ聞こえていた音はこの音だったのか・・・。
 ツクモの左手がハジメの右手首を握り、右手は手首のスナップを利かせて往復ビンタのようにその掌を左右に張り飛ばしていた。ハジメはハジメで左手でなんとか被害を減らそうとツクモのその右手首にすがり付くように邪魔している。
【・・・・・・】
【やッ】
【・・・・・・】
【ぃったっ!】
【・・・・・・】
【ごめんなさいぃ~】
 叩いているツクモは無言だが、ハジメからは痛みによる泣き言と謝罪の言葉がランダムに流れてくる。どうやらハジメはツクモに勝てないようだ。あるいは逆らえないのか。・・・―――まぁ見てて大体の力関係はわかってたけど。
「・・・・・・なにやってるの? お前たち・・・」
 電柱の中途から生えるように水平に現れた四本の白い腕のやり取りに思わず問いかけると、ようやく気が済んだのかツクモがハジメの腕を捨てるように手放した。その手から逃れるように慌てて影に潜り込んだハジメの手を見送り、忌々しそうに拳を握り締める。
【・・・この単細胞が・・・っ】
 低い怒気を含んだ九十九の声が鼓膜に突き刺さって痛い。人の耳奥で悪意を垂れ流さないで欲しい。
 耳を押さえてもどうしようもない直接の言葉にうんざりしながらその場に残ったツクモの両手を見ると、まだ言い足りないのか、その拳にぐっと力が込められた。さらに何ごとか文句を続けるかと思ったが、ふと動作を停止させた後いきなり影の中へと潜り込む。
(・・・・・・な、んだったんだ??)
 何もなくなった電柱に首を傾げ、数秒して自分の影以外から手が生えていたという事実に気が付いた。影なら何処だろうと出てこれるのだろうか。一応確かめるようにぺたぺたと触ってみるが、やはりただの電柱だった。・・・だよなぁ・・・。

「――やっばっ!」

「!?」
 電柱のざらざらした表面を撫でながら首をかしげていると不意に聞いたことのない声が耳に飛び込んできた。慌てて顔を上げ、周囲を見回してみたが何処にも人影など見当たらない。
「??」
 腰を浮かせつつよくよく耳を澄ませているとカッカッと一定のリズムを刻む音が聞こえてくる。・・・――上?
 飛び降りたときの衝撃で痺れる足を補助するように電柱に寄りかかりながら体を起こして視線を道から上にあげると、神社の石段を一人の女性が駆け下りてきていた。白衣びゃくえに緋袴。街中では見かけない印象的な服装のその女性は、女性にあるまじき歩幅で百段は軽く越えていそうな長い石段を何段か飛ばすように真っ直ぐ降りてきてダンボール箱の手前で急停止した。自転車の周囲に散らばった紙に額を手で押さえるようにして天を仰いだがすぐに手を外して左右を見回し、石段の脇に立てられた電柱の影に立つ僕を見つける。
 視線が合った瞬間女性は居心地悪そうに眉を潜めて笑顔を作った。あ、うん、この人が犯人だ。僕には探偵的な技能はないけれど直感でわかった。
「わっるい悪い!! これ、あんたの自転車だろ? ダンボール落としたのあたしなんだ。わざとじゃないんだけど、ちょっとバランス崩しちゃってさ」
 案の定、女性は顔の前辺りで手を合わせながらの謝罪してきた。僕の直感は見事当たったようだが、からりとした笑みを含みながらの言葉ではあまり反省しているようには見えない。白衣に映える赤い髪を揺らしながら近づいてきた女性は足元に散らばった大小さまざまな紙を気にする事もなく踏みつけて目の前までやってくると僕の全身を確認するようにざっと視線を走らせた。
 年のころは二十代半ばくらいか、ツリ上がり気味の細い黒目に薄い唇。全体的にシャープな顔立ちのその女性はどう見ても白と赤で構成された巫女の姿だったが、草履ではなく底の厚い黒革のブーツを履いていたし、鋭い瞳を強調するようにバッチリと化粧を施し、綺麗に染め上げたボリュームの多い茜色の髪の毛を頭頂部付近で白い紙紐でひとまとめに括っている。
 ・・・・・・巫女さんにしては違和感があるよね・・・。
 確かにいまどきストレートな黒髪で竹箒を片手に持っているような清楚な少女なんていないだろうけど、なんだか少し夢が壊れたような気分だ。
 そうやってまじまじと相手を見つめていると女性のほうも一通り観察が終わったらしく、特にどうという怪我も追っていない僕の様子に安堵したように軽く肩を落とし、肩先から前方に垂れ下がってきた髪を邪魔そうに後ろに跳ね上げた。
「特に何てことなさそうね。や、あのダンボールに巻き込まれなくてほんと良かったわ。紙がぎっしり詰まってたから当たったらただじゃ済まなかったと思うし」
 苦笑とともにそういう女性にようやく実感が追いついて血の気が引いてくる。笑えない事故一歩手前だったらしい。確かに頚椎くらい簡単に折れそうなブツだ。
(ナイスだ、ボディーガードっ! でももう少し考えて行動して、ハジメっ!!)
 おそらく落ちてくる段ボール箱に気付いたハジメが段ボール箱の軌道から外そうと突き飛ばしたのだろう。そこは評価できる気はするが、滑った自転車を見ているとツクモが手を出してくれなかったらそれはそれで大変な結果になっていたような気がする!
「・・・あ~ぁ、大変だ、こりゃ。・・・・・・蔵の整理なんてしなきゃ良かった・・・」
 女性は女性で憂鬱そうに周りを見渡し、小さく舌打ちして自転車の方へと戻っていった。ひっくり返った段ボール箱を裏返して脇によけ、ばさばさと自転車の上に乗っかった紙を落として発掘する。――あ、自転車。
 足元を確認し、紙を踏まないようにとそろそろ近づいていくと、僕と違いまったく気にした様子のない女性は足元の紙を踏んづけながら僕の方を向いた。
「あ、散らばってる紙は別に踏んづけてもいいわよ。このまま放置しててもいいような代物だから」
 その言葉通り起こした自転車のタイヤで堂々と紙の上に車輪の跡を残しながら近づいてきて、自転車のストッパーを降ろした。ばつが悪そうに眉を寄せてサドルを叩く。
「悪い、結構な傷が入ったみたい。なんなら弁償するから」
 言われて視線を落とすと深緑のボディの一部に見事な擦り傷が入っていた。嫌な音がしただけの事はある、かなり目立つ代物だ。黒いハンドルとペダルも端が結構削られていて指でなぞってみるとデコボコがより一層自分の存在を主張した。
「いえ別に・・・その、動くなら構いませんよ」
 特に気にするタイプではないので動くのならば問題はない。致命的な歪みがないか外見を一通り見た後ペダルに片足をかけて動作を確認してみる。パンクもしていないようだし、きちんと動く。
「これなら大丈夫です」
「ほんとに? 別に遠慮とかしなくてもいいよ?」
「はい、本当に構いませんから」
 納得していないような女性に肩を竦めながら自転車を押して紙が落ちていない端っこまで運び、その場に止めて少し歪んだ籠の中へと鞄を放り込む。あらためて辺りを見渡すとかなりの散らかり具合だった。この時間帯、あまり車が通るような道ではないがこれだけ紙が散らばっていたら迷惑だろう。
「・・・・・・あの、片付けるの、手伝いましょうか?」
 さすがにこのまま帰るのは憚られ、思わずそう申し出ると女性は数回瞬きした後辺りを見回して「ああ」と小さく呟いた。
「そう? 悪いね、ほんと。そうしてくれると助かる。こんな紙切れほんといらないんだけどこれでこの辺を通った車がスリップなんてしたらしゃれにならないしね」
 ふわりと明るく笑いながら片目を閉じて片手で拝むような仕草をした女性はめんどくさそうに段ボール箱の所まで戻りながら白衣の袖口に手を突っ込んだ。そこから取り出した紐で邪魔になりそうな袖をささっと襷掛けして足元に落ちた紙束を適当に掴んで段ボール箱の中に放り込む。その紙にはまるで判子で押したように落ちそうもないブーツの足跡がくっきりと残っていた。
「・・・・・・」
 本当に気にしてないようなので遠慮なく踏みながらとりあえず足元の紙を拾ってみる。周りに落ちているのは細長い大小様々な紙だったが、持ち上げたものもトランプ二、三枚を縦に足したような大きさだった。ひっくり返してみると墨で描かれた達筆っぽい文字が描かれている。・・・――というか、コレ、文字かな?
【【! マスターそれッ!】】
 ぐはっ!

 瞬間、仲良く耳の奥で弾けたハジメとツクモの声に思わず手の中の紙を取り落とした。突き刺すような痛みとともに襲ってきた激しい耳鳴りに両手で耳を押さえ込んでうずくまると視界の隅で影の方も慌てたようにざわつく。
【マ、マスターごめんなさいっ】
【申し訳ありません、マスター】
 ハジメは焦ったようにわたわたと、ツクモも少し恥じたらしく柔らかくトーンダウンしながら謝罪を繰りかえした。声だけでもわかる罪悪感に怒る気も失せ、わかったわかったと頷きながらこちらに背を向けて段ボール箱へと紙を詰める女性に背中を向ける。細く息を吐きながら正常に戻った耳から手を退かして足元にわだかまった影に視線を落とした。
「・・・・何? もう喧嘩終わったの・・・?」
【はい、ボコられましたぁっ! あ、じゃなくってっ】
【先ほどの紙です。まさかと思って今少し調べてみたんですが――】
 僕の体に隠れるように明るい声とともにポコンと出てきたハジメの右手がすぐにふるふると左右に動くのを押さえつけるように出てきたツクモの右手が影の中から一枚の紙切れを取り出した。僕が握っていた物と同じ紙だ。
「・・・その紙が、どうかした?」
【はい。これはお札です】
「お札?」
【そう、お札なんですっ】
 ツクモの言葉に続くようにハジメも一旦影の中に潜り込みパラパラと影の中から紙切れを幾つか持ち出してその場にばら撒く。足元に集められた物を順に見比べてみて頷いた。ああ、うん。そういわれれば確かにそんな感じだ。文字というか、紋様というか、グニャグニャと黒と朱色の墨で何がしかが描かれている様は心霊特番のホテルの壁などに貼ってあってもおかしくない。
 とりあえずツクモの手から札を受け取って見つめているとツクモが何もなくなった白い指を組むように絡めて手首を折り曲げた。コツコツと人差し指の先で地面に置かれた札の端を叩く。
【内容はお粗末なモノですが力は篭っています。陰陽師のような、力を持つ者が作ったものです】
「マジで!?」
 思わず声を上げた瞬間、背後で女性が動いたのを感じた。両手で足元の白い手を影に押し込みながら振り返るとしゃがみこんだまま同じくこちらを振り返っていた女性とばっちり眼が合う。視線で何?と問いかけられ、引きつりながら愛想笑いを零した。
「あ、あははははっ あ、あのですね・・・。その・・・・・・このお札、あなたが作ったのかなぁって」
「ああこれ? あたしじゃないわよ」
 女性はつまらなそうに手に持っていた紙切れをひらひらと振った後、ポイッと段ボール箱の中へと放り込む。女性の周りの紙がほとんど見られなくなっていることに気付いて慌てて周りの紙をかき集め、女性のところまで抱えていって段ボール箱へと放り込んだ。そのまま中を覗き込むと六割ほど溜まった紙は大きさは異なるが皆同じような物だった。
【これは皆同じ人間の作品のようですね。それも人間にしては上位クラス―――込められている力がかなり強いです】
 へぇ。
 こそりと囁かれるツクモの言葉に声に出さずに頷いてお札を眺めていると女性が緋色の袴のシワを叩き伸ばしながら左手を箱に置いて立ち上がった。ダンボールの縁にかかった爪に塗られた淡いオレンジのマニキュアの中でライトストーンが小さく光を反射して存在を主張する。顔を覗き込むように隣に立った女性に思わず後ずさると女性はカラカラと笑い声をあげた。
「なんか気持ち悪いでしょ、これ。ひいた?」
「あ、いえ。・・・・・・これだけの量、よく作れたなぁ、と」
 イタズラっぽいその笑みから箱の中に視線を移しながらそう言うと、女性は大きく肩を竦めて中の紙を掬い取った。
「これね、ダチのなの。そいつ、上の神社の子なんだけど、すっごい怖がりでよくこんなモン作るのよ。色々本とか読んで勉強してるみたい。馬鹿よね」
 口調はまるで馬鹿にしたような感じだったが切れ長の瞳は親しみを込めて伏せられ、唇が微妙な弧を描く。数瞬して物思いからかえったように瞳を瞬かせ、まだ地面に広がる紙を見てため息をついた。
「そもそもみこのヤツがこんな邪魔くさいもの置いてったりするから大変な事になったんじゃない」
「みこ?」
「ああ、これ作ったヤツの事。この神社の仕事もね、もともとはそいつがやるはずだったのに、みこのヤツ、ここら辺には化け物が現れるから近寄りたくないってあたしに押し付けてトンずらこいたのよ。ちっちゃい頃よく遊んでた神社なのに次々とお札作っては社内にばら撒いて逃げてんの。アホみたいでしょ、ってかアホなんだけど。
 ま、あたしはそんなの信じてないしいいバイトになるから代わりやってんだけど」
(あー・・・この人やっぱり本物の巫女さんじゃなかったのか)
【どうやらその人物が力を持っているようですね。神社の子供ならば遺伝的なものでしょう。昔は神職につくものはそういう者達でしたからあるいは隔世遺伝かもしれません】
 最後の言葉にほっと肩を落とした僕にツクモがそっと囁く。あ、そうなんだ。・・・・・・力があるなんて凄くうらやましい・・・。
 憂鬱な気分で何の力もない自分の両手を見た後視線を女性へと戻すと、女性は手に持っていたお札を手放して段ボール箱の縁に両手をかけていた。そのまま引きずるように階段の前まで移動させると石段に足をかけて僕を振り返る。
「このまま拾っててもなんか時間かかりそうだし、あたし、ちょっと箒とチリトリ取ってくるわ」
「あ、はい」
 人差し指で指されて咄嗟に頷いた僕に満足そうに頷き返すと女性はカツカツと足音高らかに長い階段を上り始めた。上りなれているのだろう、意外に早く上っていく姿を途中まで見送ってから周りを見渡す。確かにかなり広範囲にまばらに散らばっていて一つ一つ拾っていくのは骨が折れそうだ。よく見ると近くの樹木にも引っかかっている。
「・・・・・・うわ~~~あ・・」
 力ない声とともにしゃがみ込んで足元の紙を拾おうと手を伸ばした先で、白い紙にポツリと水滴が落ちた。即座に吸い込まれ広がった水滴の跡に嫌な予感を感じながら空を見上げると、直後、ポツンと目元に水の感触を感じる。間違いなく雨だ。
「げっ」
 あんまりな事態に呻いた瞬間、もこっと胸元から冷たい感触が盛り上がった。そこから首筋を撫でるように耳元を通り過ぎた冷たいモノに「ひゃわっ」と変な声が出る。唐突な感触に思わず竦めた耳元でバッと大きな音が鳴り、視界が灰色の空からライトブルーの布に切り替わった。見覚えのある自分の傘に、そこから徐々に視線を落としていくとその柄を握る白い少女の腕が現れる。二の腕辺りまで出現したその腕は胸元から右肩にかけて伸び、雨が当たらないようにと空へ向かって傘を差し掛けていた。
「・・・・・・ハ、ハジメ?」
【はいっ そうですよぉ! マスターが風邪を引いたら大変ですからっ!】
「ああ、ありがとう・・・。でも自分で差すから手を離して? ついでに引っ込めてくれると嬉しいな」
 引きつりつつも笑顔でハジメの手から傘を受け取り、そのまま胸元へお帰りいただく。
(・・・・・・服の隙間の影から出てくるとか、ホント予想外だよ・・・)
 胸元の小さな影から腕とともに傘を引っ張り出すという物理法則を無視したような光景に一瞬心臓が止まるかと思ったが、コレに慣れなければこの先は暗そうだ。心を強く持て、と自分を励ましつつ胸を左手で撫でる。ホラー映画のワンシーンのような光景から開放されてほっと息をつく頃には雨は本降りの兆しを見せ始め、足元は濡れてアスファルトや紙の色を濃ゆく変えていた。これでは拾うことはもとより、掃く事も難しそうだ。
【マスターマスターっ 早く帰りましょうよぉ。このままここにいたら風邪を引いちゃいますよ?】
「・・・・・・うん、仕事が終わればね・・・。ここまでして放置して帰れないよ」
 今まで何を聞いていたんだというようなハジメの言葉に少し力を抜かれながらそう返すと、足元の影からひょいっと出てきたハジメの手が、指先でちょんちょんと一枚の紙を突いた。掌を上にして伺うように手首を傾げる。
【えっとぉ、つまりこの紙を集めればいいんですよね?】
「そうだけど――・・・」
 何?と言い終わる前に目の前の紙束たちがふっと掻き消えた。一瞬でアスファルトだけになった地面から呆然と顔を上げると視界の中で次々に紙が消えてゆく。
「へ? あれ?」
 まるで手品のように次々と消えてゆく紙に困惑しながら上下左右に顔を動かしていると足元で一の手がワキワキと得意そうに掌を開閉した。
【えっへへぇ 影を使えばこのくらいちょちょいのちょいですよっ!】
「なにやったの!?」
 しゃがみ込んで見下ろしたハジメの手の隣にツクモの手も生えてくる。その手にくっ付くように腕の周りから少し汚れた紙が湧き出てきて、ぴたりと肘の辺りで止まったときには周囲にちょっとした紙の山が出来ていた。
【影渡りです。前もご説明したように、私達は影から影へ物体を運べます。ですから紙を影の中に引き込んだのです。地面に落ちた影から段ボール箱の中の影へ、など何という事もありません】
 言われて段ボール箱へと眼を移すと、まるでビデオの早回しを見ているかのように紙の量が膨れ上がっていた。足元の紙も凄い勢いでなくなっていく。
 凄い、これ凄い! なんだこれっ!? 案外使えるな、影っ!!
「コレって何にでも使えるとか!? 条件あるのっ!?」
【え、条件って・・・ねぇ、つくもぉ】
【それは・・・残念ながら何でもということではありませんが・・・】
 眼を輝かせて二つの手に視線を向けると、ハジメは困惑したように左右に手首を振り、ツクモは少し身を引くように手を引っ込ませた。少ししてぐっと握りこぶしを作ったツクモが人差し指を立てて注意を引くように一度左右に振った。
【そうですね、そもそも影というものは光がある限りどんな物質にも必ずついています。影さえあれば使える技ですから、力の及ぶ範囲の無機物や意識のないものにはすべて適用できます。
「力の及ぶ範囲?」
【ええ、中心であるマスターの影から最大二百メートル以内・・・といった辺りでしょうか。その中にある影にはすべて干渉できます】
「おおっ」
【けれど、・・・・・・ここは覚えていてください。いいですか?】
 ぐっと顔に近づけてきたツクモの人差し指の先端に思わず息を呑むと、くるりと指だけ回してツクモはもう一度先端を僕に突きつけた。
【意識があるものは別です】
「意識のあるもの? ああ・・・ええと、“B”ランクだから、自分の能力以上の者には効かないだとかなんだとか・・・?」
 なんかそんな不吉なことを言っていた気がする。パニくった記憶の方が鮮明でおぼろげになっていた説明を思い出しながらそう呟くとこくんと二つの手が頷いた。
【はい、そのことですぅ】
【正確に言うならば取り込めはするんですが、抵抗されるとどうしようもありません。力で押さえつけても相手の力のほうが強ければ押さえつけたままというのは無理でしょう?】
「うん、まあそうだね」
【無機物は抵抗する、という事はありません。意思というものがないからです。ですから無機物や意識のないものならばまったく問題はありません。けれど、意思のあるもので、力が上のものではどうしようもないのです】
「そっか・・・。うん、ありがと、わかった」
 視線を上に逃しながら言われた言葉を刻むように頷く。便利そうだが過剰な期待はしない方向でいこう。
 ―――しかし、そうなるとひとつ気になることがあるんだが・・・。
「・・・・・・・・・なあ、ちょっといい?」
【はい?】
【なんですかぁ?】
「さっきさ、ハジメとツクモが助けてくれたけど、そもそも僕の上に落っこちてきた段ボール箱を影に取り込むとかそういう事は出来なかったの?」
【・・・・・・】
【・・・・・・】
 なぜ黙る。
 単純な疑問を呈した途端にいきなり降りた沈黙に思わず眼を細める。数秒の沈黙の後にうな垂れるように指先を地面に落としたツクモのため息が聞こえた。
【・・・ええ、ですからシバき倒していたんですよ、さっき】
【は、反省したもんっ ちゃんと次からは考えて行動するよぉ!】
 ・・・・・・ああ、なるほど。やっぱり考えて行動してなかったのか。
 やれやれとお辞儀したまま左右にゆったりと手を振るツクモの隣でハジメが拳を握って心外そうに上下に動かす。漫才のような二人のやり取りを聞きながら傷ついた己の自転車に視線を移し、もう一度足元の二つの手を見下ろす。フッ。
「―――わかった。もうちょっとシバいといて、ツクモ」
【ぅええぇっ!?】
【了解しました】
 慌てたように掌を開閉させるハジメの隣でツクモが優雅に手首を翻してハジメの手首をひっ掴んだ。きゃわきゃわとうるさいハジメを捻じ込むように影へともぐっていく。時折聞こえてくる悲鳴にちょっと可哀想な気もしたが、本番でそんな感じの失敗でもされようものなら即死コースに突入するという事を思えば、やはりもう少し考えて行動するようにして欲しい。傘の骨を肩と首に挟みながら合掌する事で気持ちにケジメをつけて立ち上がると、雨音に混じってカツンカツンと規則的な足音が上から降ってきた。同時に不思議そうな声も。
「あれ!?」
 傘の隙間から仰ぐように石段の上の方を見ると十段ほど上のほうで古風な赤い番傘を差して竹箒とチリトリを持った女性がせわしなく左右を見渡していた。そのまま僕の真横まで降りてきて視線を一周めぐらせ、段ボール箱から僕の方へと戻す。
「まさかコレ全部君が拾ったの?」
「あ、はい、まぁ」
 僕の影が。
 語尾を濁すように不明瞭に頷くと女性は上機嫌そうにもう一度周りを確認して左手に持っている箒とチリトリに視線を落とした。
「凄いじゃない! 箒とか要らなかったわね」
「ああそれは・・・ええっと、すみません」
「いいのいいの謝らなくて。逆にこっちは感謝したいくらいなんだし」
 なんと言っていいのかわからずに眉を寄せると女性は手に持っている箒とチリトリを段ボール箱に放り込んで僕のほうを向いて笑った。笑うとかすかに八重歯が覗いて鋭い雰囲気が崩れる。
 そのまま右手に傘を持って左手を段ボール箱にかけた女性はそこでふと行動を止めた。雨に濡れてふやけ始めた縁にかかったままの手がためらうように何度か場所を変える。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・あの、上まで運ぶの手伝いましょうか?」
「あ、ホント? いやぁ助かるわ!」
 どう考えても片手で持ち上げられそうもない物に視線を向けたままそっと申し出ると待ってましたといわんばかりの笑顔を向けられた。・・・・・・いや、まぁいいけど。乗りかかった船だし。
 女性の笑顔に促されるように反対側に廻って右手で持っていた傘を左手に持ち替える。そのまま空いた右手で縁を掴んでみると予想以上の重量が肩にのしかかってきた。ウッ 重・・っ!
 女性の手前、意地でも落とすまいと右手に力を込めて体勢を立て直す。重量で傾いた体の一部が傘から出て雨に濡れたがいまさら気にすることもない。二人同時に持ち上げるとどうにかこうにか段ボール箱を水平に保てたが、果たしてこれが頂上まで持つのか怪しいところだ。
「っはっ ちょっと、キツイわね・・・っ」
 女性の方も体勢にだいぶ無理があるのか眉根を寄せて切れ切れに言葉をつむいだ。箱には指を入れる持ち手の穴もないため、底ではなく縁を掴んだ手は階段を十数段上がっただけで血の気が引いて白く変色し、フルフルと震えてくる。痛いというか、重いというか、変なところに力が入るために後で筋肉痛を起こしそうだ。脳内を後悔に似た何かが通り過ぎる。
 ・・・・・・ああ、ほんと、僕、なんでこんな事になってんだろ・・・・・・ただ家に帰ってただけなのに。
 途中何度か休みながら試行錯誤を繰り返した挙句、結局二人ともきちんと傘を差すのを諦めて柄の部分を頭で押さえ込むように肩口に引っ掛け、箱を両手で掴みなおした。そのまま横歩きに近いような不安定な格好で石段を一歩一歩確かめるようにあがっていく。悠長に話していられる体力など当然ない。僕も女性も無言のまま、幾つか連なるように立つ丹色の禿げかけた鳥居をくぐって最上段にあがる頃には息も大きく切れていた。半ばまでふやけて危なげな気配をかもし出していたダンボール箱を石畳に下ろした瞬間、どっと溜まっていた汗がふき出してブルリと一瞬体を震わせる。
(お、終わった・・・・・・)
 安堵のあまり少々脱力しながら上げた目にひときわ大きな鳥居とその奥に鎮座する古めかしい神社の本殿が飛び込んできた。
(うわぁ・・・古そう・・・)
 ここら辺は通学路ではあるけれど今までこの階段を上ろうなどと思ったことはなかった。年末年始も特にお宮参りをしたいと思うような性分ではなかったし、目的もないのに上ろうと思えるほど短い石段ではなかったから。
 今、初めて目にする神社はなかなか歴史がありそうだ。雲間が切れてきたのか光の筋がのびてまるでスポットライトのように照らしだした為、なおさら霊験あらたかに見えてきた。黒瓦にのった雨粒がキラキラと光を弾き、さらに荘厳な雰囲気を醸ししだす。未だに止まない天気雨さえもなんだか不思議な事象に思えてきた。
「ねぇ、君――」
 ぼうっとしていたところで不意に横手から声をかけられ、ハッと視線を横に移すと僕の方を見ていた女性がふっと綺麗なアーチを作っていた眉を顰めた。竹で出来た傘の柄を握り直しながら視線を泳がせる。
「・・・―――アレ? 今気付いたんだけどさ、自己紹介まだだっけ?」
「へ? あ、はい。まだです、けど・・・」
(今気付いたんだ・・・)
 ふっと思い浮かんだ言葉は胸の中に仕舞い込んで頷くと女性は「悪い悪い」と八重歯をさらして笑った。そのまま手馴れた様子で襷掛けていた白い紐を解き、水を吸って重くなった袖を邪魔そうに払う。
「んじゃいまさらだけど自己紹介しとくわ。あたしは平澤(ひらさわ) きみこ。一応大学の院生なんだけど、この神社で巫女さんもやってるわ。
 君は?」
「あ・・・僕は、渡来わたらい じんといいます。この通り高校生になったばかりです」
 僕も慌てて名乗り返すと女性は「ふぅん、ジン君か・・・」と口の中で転がすように呟いた後、どこか面白がるようにつり上がり気味の目をさらに細めた。狐が笑うとこんな感じになるのかもしれない。
「あたしの事はミコでいいわよ。そう呼ばれてんの」
「―――へ? みこ?」
「そう、ミコよ」
 咄嗟に問い返した僕に女性はにんまりと笑みを深めて繰り返した。ボツボツと音を立てて傘に落ちる雨粒のせいで何か聴き間違いを起こしたかと思ったが、どうやら聞き間違いではないようだ。
「・・・・・・ええと・・・? あの、さっき友達の事だって――」
「そいつも『みこ』よ」
 同 じ 呼 び 名 か っ
 予想外の言葉によほど変な顔したのか、僕の顔を見ていた女性はぶふっと噴き出して慌てたように横を向いた。失礼なっ
「ごっめんごめんっ 気にしないでっ! 大抵皆そんな顔するからっ」
「そりゃそうでしょう。第一めんどくさくないですか?」
「大体わかるわよ、どっちを呼んでるか。今まで特に困ったことなんてないし。
 ―――ま、そもそもアイツの事みこって呼んでるの、あたしの他数人しかいないんだけど」
「・・・そうでしょうね・・・」
 何を考えてそんな呼び名になったのか知らないが、まあ特に他人が突っ込むところではないだろう。弱く笑みを浮かべてそう呟くにとどめる。
「うっわぁ、本降りになってきたよ・・・」
 話の間じゅうずっとダンボール箱の縁を握っていた女性――ミコさんは嫌そうに徐々に音を強めてくる雨に空を見上げた。晴れているのに段々と雨脚は強くなっているようだ。
 ミコさんは空を見上げたままきゅっと眉を顰め、とりあえずという様にズリズリと中央を通る石畳から段ボール箱を引きずり出してようやく手を離した。最後の仕上げとばかりに一蹴りしてふやけた側面にブーツの先端で穴を開けながら端へと追いやる。
 ・・・・・・う~ん、女性なのに足癖が悪い・・・。レイカさんがここにいたら「ちょっといいですか?」という前置きの後、滔々と説教されそうだ。・・・――あれは「ちょっと」じゃなかった。ものすごく長かった・・・。
 昔、自分の部屋の扉を足で閉めてしまった時の事を思い出して思わず遠い目をしてしまう。
 生ぬるい視線に気付いたわけではないだろうがミコさんは箱から無造作に箒とチリトリを取り出しながら僕の方へと視線を向けた。赤い傘の下で赤い髪が揺れる。
「ね、雨も強くなってきたし、ちょっと雨宿りがてら寄ってかない? お詫びになんか出すわよ。そのまんまじゃ風邪ひきそうだし」
 僕の右側が半分ほど濡れているのが気になるのだろう。確かにまだ夏というわけではないので少々肌寒いし、申し出としてはありがたいのだが、脳裏に話があるといっていた父が浮かび上がる。たぶん自分からそう言ってきたからにはもう家にいるだろう。これ以上時間を浪費するのもどうかと思うし、家がそんなに遠いわけじゃないから風邪をひくという事もない・・・だろう。
「あ、その・・・これから用事があるんです」
「そうだったの? 悪いね、こんなトコで足止めしちゃって」
「いえ、身内話ですから。―――ではこれで」
 申し訳なさそうに眉根を寄せたミコさんに小さく首を振って否定してから軽く頭を下げると、ミコさんの方も肩を竦めるように笑った。もう一度頭を下げ、鮮やかな紅色に背を向けて鳥居を抜ける。改めて眺め下ろすとかなり急な階段だ。万が一でも滑り落ちたりしたら大変そうでとても駆け下りる気にはならない。

「あ、そうだっ! 今度暇な時にでも寄ってっ!! なんかお詫びしないとさすがにこっちも据わりが悪いしさっ」

 階段も半ばまで来た頃、ざぁっと細やかに音を立てる雨に紛れるように聞こえてきた声に思わず足を止めて振り仰ぐと、日の光を浴びて煌く雨の中、すでに敷地内は見えない急斜面の先に赤い番傘とひらりと降られた左腕の白い袖だけが見えた。返事はなくても構わないのかそれもすぐに引っ込んでしまう。
 しばらくその場で待ってみたがその後はなんの音沙汰もない。
「・・・・・・狐に化かされたら、こんな気分かなぁ・・・」
 なんともいえない気分で首を傾げながら下の道に到着した僕には、座席までびしょ濡れになった傷だらけの自転車という現実が待っていた。
「・・・・・・。
 ・・・・・・なんか今日は散々だったな」
【マスターはこの頃よくそうおっしゃってますが?】
「うるさい」
 座席下の影から飛び出してきたツクモの手を睨みながらその手が持っていたタオルを受け取ってサドルを拭く。その間に一度影に戻ったツクモは何処からか引っ張り出した僕の鞄を少々歪みが生じた籠の中に突っ込み、影の中へと消えた。どこかに吹っ飛んでたらしい籠の中の鞄を拾っておいてくれたようだ。
 もう一度濡れないうちに水滴を拭き取った椅子に座って鞄にタオルを被せると片手だけハンドルに添えながらペダルを踏む。片手で差した傘に風の抵抗を受けながらスピードを上げていくと早速ハジメの弾んだような声が聞こえてきた。
【マスター、マスターっ 傘、お持ちしましょうか!?】
「いい。誰かが通ったら大変だし」
 瞬時に却下したら、むぅ・・・と不満そうな呻きが漏れる。それも無視して漕いでいると、【あ・・っ】という何かに気付いたような声が小さく聞こえてきた。
【ねぇ、マスターマスターぁ】
「何?」
【そういえば合羽もありますよ?】
(・・・・・・)
「・・・・・・・・・ハジ――いや、ツクモ。そういう事は先に言ってくれ」
【承知しました】
【マスター、わたしはぁ!?】
 左右の耳に響くそれぞれの返事を聞きながら本当にこれでうまくやっていけるのか、凄くこの先が不安になってきた。







 自転車を漕いで十分ほどしただろうか、ようやく着いた家の駐輪スペースで自転車を止めるときにはもとより濡れていた右半身に加え、ペダルを漕いでいた足元もすっかり濡れてまだら模様を描いていた。動くたびに肌に張り付く制服に、大きな玄関扉に手をかけながらため息をつく。明日、休みでよかった。
「ただい―――」
「きゃあっ!? 坊ちゃまずぶ濡れじゃないですか!?」
 玄関を開けた瞬間、悲鳴で出迎えられた。
 丁度洗濯物を運んでいたらしいレイカさんはそれらのものを廊下に放り出してパタパタと僕の所まで駆け寄り、ひとつだけ掴んでいたタオルを僕の頭に乗せた。すでに乾いていたらしく柔らかなタオルからは花のような香りが漂う。
「あああっ 今すぐお風呂の用意をしますから、まずここで水滴を拭ってくださいっ」
 玄関前の段差を利用し、少し背伸びしながら小さな手が真正面からわしゃわしゃと頭を拭ってきた。外見からは想像出来ない強い力で引かれ、危うくその大きな胸に顔をうずめそうになって慌てて体勢を立て直す。自分でタオルの一端を掴むとその手もすぐに離れた。
「お湯を入れてきますから部屋に上がって濡れたものを脱いでくださいっ 風邪を引いてしまいますっ! いいですねっ」
 僕の目を見つめながら言い聞かせるように人差し指を立て、すぐにくるりときびすを返す。黒い三つ編みが宙に描く軌跡を思わず目で追った後、慌ててお風呂場へと行こうとするその手を掴んだ。
「いや、いいから! シャワーだけでいいから!!」
「でも・・・」
「別に今、冬ってワケじゃないしシャワーで十分だよっ」
 重ねて言うとレイカさんはあまり納得していなさそうな顔でしぶしぶ頷き、僕の手から鞄と傘を取り上げた。傘を傘立てへと戻すレイカさんとすれ違うように水が染み込んだ靴下を脱ぎながら玄関を上がり、湿ったタオルを握り締めたまま点々と放り出された洗濯物を避けて脱衣所へと向かう。扉を閉めるとき、放り出した洗濯物にようやく気付いたらしいレイカさんの叫び声が聞こえてきた。



「おかえり、人」
「おかえりなさい」
「おかえり。今日は少し遅かったね」
「・・・・・・ただいま」
 着替えと一緒に置かれていたフェイスタオルで頭を拭きながらリビングの扉を開けるとすでにそこには家族全員が集合していた。美形の煌びやかな笑顔とともに一斉にかけられた言葉に反応がワンテンポ遅れる。・・・・・・・・・・・・兄までいるとは予想外だ。大ごとの予感がしてきた。
「傘を持っていたのにずぶ濡れで帰ってきたんだって? またどうして」
「別にずぶ濡れってワケじゃ・・・まぁちょっと、いろいろアリマシテ―」
 不思議そうに見上げてきた父に曖昧に語尾を濁しながらその真正面のソファーに座る。すでに横に座っていた兄が髪の乾き具合を確かめるように触れてくるのがくすぐったくて首を竦めた。
「もうちょっと乾かさないと・・・」
「うん、それは後でちゃんとするよ」
 このくらいならばそのうち自然乾燥すると思うが、どうも気になるらしい兄の言葉にとりあえず素直に頷いておく。妙に過保護な一面を持つ家族の態度は、今にして思えば僕一人だけ人間だちがうからなのだろうか。
「それで? 父さん。お話って?」
「あ、ああ・・・」
 視線を前に戻しながら尋ねると父は若々しい顔を寄り添うように座る母の方へと向けた。母はそれにしょうがないわねといわんばかりの微苦笑を浮かべ、僕の方を向いた。
「相手方との話し合いでね、一応決着がついたというか・・・・・・明日、この家で『お見合い』をすることになったの」
「・・・・・・はい?」
 カーーーンッ!と頭の中で鐘がなったような気がして一瞬、真っ白になった。あ、明日?
「明日は人、お休みでしょう? ちょうどいいと思って」
「・・・・・・・・・」
「最初はね、あちら側も、この世界は危険だとか言ってなかなか首を縦に振ってくれなっかったのだけれど・・・でも、最後は納得してくれたわ」
「・・・・・・・・・・・・」
「名案でしょう?」
「・・・・・・あ・・・・・・・・う、うん・・・・・そ、う・・か・・・な・・・」
 すでに決定事項っぽい。そういうことはもう少し猶予を持って言って欲しかった・・・っ
 口元で詰まった言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。たとえ猶予があったとしても同じ事態になった気はするけれど。
「え、えと、えと、えと・・・っ」
 何を訪ねればいいのか、真っ白になった頭を必死に捻りながらしばらく無意味に口を動かした後、ようやく口から言葉がこぼれた。
「ぼ、・・・僕は、なにすればいいっ?」
「普通でいいよ」
「そうよ、影ちゃん達がちゃんとフォローしてくれるでしょ?」
【勿論です】
【まっかせってくださぁいっ!】
 間に挟んだガラステーブルに手をついて身を乗り出すようになんとか尋ねるとにこやかに笑った父と母が僕の背後を見た。その視線を受けたように二種類の声とともにワイシャツの裾から左右に分かれて腕が一本ずつ、にょきりと生えてくる。
「変なトコから生えてくんな・・・っ!」
 唐突なハジメとツクモの行動に裾を両手でずり下ろして強引に腕を引っ込ませながらソファーに座りなおす。荒く息を吐く肩を宥めるように撫でてきた兄の手に呼吸が少しおさまった。ついでに少し頭も冷えた。
「あ、のさ・・・。つまりその、何か必要な事とかって、ある?」
「特に何もないよ。勿論失礼があっちゃいけないけど、人はいい子だからそのままでも十分に気に入られるよ」
(気に入られちゃ駄目だろうこの親馬鹿・・・っ!)
 見当違いな父の言葉にメラッと心に何かが灯りそうになった。そういう事が聞きたいんじゃないだよという心境が顔に出たのか視線を脇に逸らした父のフォローをするように母が少し身を乗り出す。
「作法とかはやっぱり必要だとは思うけど、堅苦しい場じゃなくてこの家で行う事だし、そんなに心配しなくてもいいのよ。正直、言葉のほうが気がかりだったんだけど―――それもどうにかなりそうで良かったわ」
「言葉?」
「そうよ。日本語とは違う言語だもの」
「・・・―――え゛?」
(なんだって? この英語さえもまともに話せない僕になんて?)
 驚きのあまり母の安堵したような笑みの浮かぶ顔を凝視する。そうやってしばらく見つめあった後、母は長い黒髪をさらりと流しながら不思議そうに首をかしげた。
「なあに?」
「・・・。・・・・・・・。・・・日本語じゃ、駄目なの?」
「駄目よ。ぜんぜん通じないから」
「じゃ、僕、どう意思の疎通を図ればいいの? 嫌われるとか好かれるとか以前の問題だよね? なに?ナニソレ? どうすんの!? そこもみんな“影”だより!?!」
 ぐるりとその場にいる家族を見回しながら尋ねると、何故だか一様に怪訝そうな顔をされる。両親の斜め後ろに立っていたレイカさんまで小首を傾げていた。
 アレ? なにこの変な反応・・・?
「何言ってるんですか? 坊ちゃま」
「え?」
「本当に、いまさら・・・。さっきからちゃんと話せてるじゃない。ちょっと堅苦しいけど」
「は?」
 母に心底不思議そうに言われて無意識に口に手を当てながら家族との会話を反芻してみる。・・・・・・そういえば・・・意識してなかったけど、日本語じゃなかったような気がする。母達の言葉も。
(アッルェ―――っ!!??)
 軽く混乱して前傾姿勢のまま固まっている僕をおいて家族は問題は解決したとばかりに良かった良かったと微笑みあっている。いや、良かっ・・・良かない、よね・・・? 主役が置いていかれてるよ!?
 新たに増えた自分に対する謎に頭を抱える僕を見かねてか、足元に落ちた影が紺色を帯びてさざめいた。するりと影から出てきた白い腕がズボンの裾を控えめに引っ張る。
【マスター。マスターは幼少の頃、あちらの言葉を使っていましたので、それで覚えていらっしゃるんですよ】
「へ? どういうこと?」
 ツクモのフォローにもすぐにはぴんとこなくて足元の影を覗き込んだ僕の視界の端で、両親がばつが悪そうに顔を見合わせた。頭を上げて二人に視線を戻すと二人ともヤバイとでもいいたげに兄の方へと視線を逸らす。兄は兄で視線を明後日の方向へと逸らしていた。
 この嫌な空気。重要な話があるといわれた家族会議を思い起こさせる。
「・・・・・・なに?」
 両親に習って隣に座る兄に視線を向け、重ねて問うと兄は観念したように僕に視線を戻した。目が合った瞬間、綺麗な漆黒の瞳が困ったように微笑む。
「ああ、いや・・・。ちょっと昔ね、ジンに向こうの言葉を教えていた時期があってね・・・」
「んん?」
 記憶にない言葉に額に手を当てて過去を反芻してみたが、幼い頃の思い出はパッと思い出せるほど鮮明ではなかった。なんだか嫌な事が一緒に思い出されそうですぐに記憶をたどるのを中断する。
「そんな時期、あったっけ?」
「うん、まぁ・・・・・・・・・昔っていっても、家に来てから幼稚園にあがったあたりまでなんだけどね」
「・・・・・・幼稚、園・・・」
【マスターがハブられてた時期ですねっ!】
 いきおいよく聞こえたハジメの声とともに忌避していた過去が完全に思い返されて思わず視線が遠のいた。
 ああ、あったなぁそんな時期。なぜか友達が出来なかった幼稚園年少時代。だって皆なんでか僕のこと避けるんだもんよっ!
 当時はホントに馬鹿だったから気にしてなかったけれど、僕の周りに出来ていたクレーターは、今思い返すと泣ける事態だ。
「それは・・・・・・ごめん、僕達の責任だ」
 ハジメの言葉にへこんだのか、苦しそうに眉根を寄せた父がしょんぼりと肩を落としながら僕を上目遣いに見上げた。隣に座っていた母も悲しげに瞳を伏せる。
「私達、ちょっと・・・人間の子に慣れてなくって・・・勘違いしてたの・・・」
「あ・・・っ あ、い、いや、えっと・・・・何を・・?」
 父の後に続いた哀しげな母の声に焦るがフォローしようにも適当な言葉が見つからず、結局話題を蒸し返す羽目になった。正直、あの頃の僕がなんであんなに嫌われれてるのか凄く気になるし。
 頭だけ動かし、似たような顔をして斜め後ろに控えるレイカさん、兄に視線を滑らせた後二人の所で止めると二人は一瞬互いの目を見つめあい、申し訳なさそうに眉を寄せたまま同時に僕の方を向いて声をそろえた。
「「言葉」」
「言葉?」
「そう、言葉」
 隣から兄が苦笑するように言い足す。長い睫毛が申し訳なさそうに伏せられた。
「さっき言ったよね、ジンに向こうの言葉を教えてたって。あの頃ジンは日本語喋れなくてね、わけわからない言葉で喋るから子供達に本能的に避けられたんだよ」
「それ、は・・・・・・また・・・・・・・・その、向こうの言葉で生活していたから、とか?」
 あまりといえばあまりな回答だったが、冷静に考えると外ではともかく家の中でまで日本語で会話する必要はないのだ。向こうで生まれ育ったのならばむしろそれが当たり前かもしれない。
 それならしようがないとため息を吐いた僕に、両親はますますばつが悪そうに肩身を狭めた。アレ? なんで?
「あ、あの、ね。違うのよ、それは・・・」
 慎重に言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、母は唇に手を当てて困ったように微笑んだ。
「私達、向こうに住む種族はね、だいたい生まれたときにはもう喋れるの。だから私達もてっきり人は日本語を喋れると思ってて・・・」
「僕達の言葉に答えられないのは言語が違うからだと・・・その、向こうの言葉しか教えてなかったんだ・・・」
 引き継ぐ父も困ったように小さな笑みを浮かべる。
「言葉が最初拙かったのは慣れない発音のせいかなぁ、と」
 「あはははは」と誤魔化すように空笑いを発した父に深く肩が落ちた。種族の違いって、本当に厳しい。
「でも、良かったよ。言葉、忘れてないみたいで。いざというとき、役に立ちそうだね」
 とりなすように穏やかに言った兄の言葉に僕の口からも「あはははは」と虚ろな笑いが零れ落ちる。
 一生来ないで欲しい“いざ”だった。






 人は生きていく中で、思い返してみると「ああ、あれは必要だったんだ」という出来事が時々ある。
 その時はぜんぜんわからないのに、後になってよかったと思うこと。
 もちろん僕にも、それはあった。

 それが必要となる事態が、僕自身の望んでいるものかどうかは別だったけれど。


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