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[18231] (習作・完結)  東方龍導入  (東方project × ギルティギア)
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:04123f78
Date: 2012/06/17 13:37
 
 このSSは、上海アリス弦楽団様の「東方project」と、アークシステムワークス様の「ギルティギア」の
クロスオーバーものになります。捏造設定や独自解釈、ネタバレ、また東方キャラクターの二次創作設定など
を含みます。故に、キャラクターの性格、口調などに違和感を覚えられる方も居られると思いますが、ご了承下さい。
 
 また、グロテスクな表現を含む話も在りますので、苦手な方は御注意をお願い致します。
 
 それらに耐えられない嫌悪感を抱く方は、ブラウザの戻るクリックをお願い致します。

 未熟故のご都合主義、稚拙な文章や表現も多数あると思います。ご指摘、またご指導頂ければ幸いです。
 少しずつでも、文章力を上達させていければと思います。
 
 登場キャラクターについては、「東方地霊殿」までの予定です。
 秘封倶楽部や、月の都に関する設定にも少し触れると思います。
 
 よちよち歩きですが、宜しくお願い致します。



[18231] 一話 
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:04123f78
Date: 2012/09/15 21:32
 次元牢。
 其処は未来永劫、罪人を封じる為に作られた空間。

 それは無限遠の闇だった。
 無音、無明。暗闇ですら無い。何も無い。
 上も下も、前後左右も、入り口も出口も無い。
 ただひたすらの闇。

 地平線、という表現が正しいかどうかは定かではない。
 だが、広大な空と海がつくり出す地平線、そんな光景を、真っ黒に塗り潰せばこの世界に近いものになるだろう。

 一縷の希望も、暖かな安らぎも、救済も無い。
 圧倒的な絶望と、虚無感に支配された漆黒の檻。


 だからこそ、法術の楔によって括られた剣の存在感は、闇の中で太陽の如く輝いていた。
 
 括られた剣には、装飾らしいものは無い。無骨な鉄塊。
 だが、それは見る者に安っぽいという印象を決して与えることは無い。
 肉厚の刀身は白磁色で、ごつ過ぎる赤い鍔。直線的なフォルム。金属の持つ、特有の重厚感。
 そのどれもが威圧感に溢れ、戦闘の素人であっても、この剣がとてつもない威力をその身に宿していることを感じる筈だ。

 そして、炎。

普通の炎では無い。
 濁った赤橙色の炎が、剣を包むようにして燻り、時に燃え上がっている。
 まるで心臓が脈打つように、濁った赤色が脈動する。太陽のプロミネンス、或いはコロナを思わせる脈動は、正に小さな太陽の如き激烈な熱波を放ち、この闇を焦がしていた。

 その暴力的過ぎる脈動を、無理矢理に押さえ込もうとしているのだろう。
 剣は術陣で括られているだけでなく、幾重にも拘束制御の法術が掛けられている。
 法術によって編まれたリングが、青白く輝きながら剣を包み、幾条もの鎖が剣に巻きついていた。鎖自体も青く輝き、法力が施されたものだと分かる。
 極めつけが、その剣を中心として巨大な法力陣が浮かび上がっている。
 法力陣は、剣を拘束しているリング、鎖を包むようにして何重にも張られていた。

 恐らく、この世界の法力技術の粋を集めたであろう結界の束。


「随分と時間が掛かってしまった。すまない。本当に」

 その仰々しい施術を前に、酷く幼い声が闇の中に吸い込まれた。
 ただ、その声には、無邪気さは無い。まるで悟りきった聖人のような、落ち着き払った声音だった。
 声の主は、小柄な少年だった。少年は、黒と白を基調とした法衣を纏っていた。
法衣のフードを目深く被っている為、その貌は見えない。
 見上げるようにしてその剣の前に佇む少年は、懐かしむように一つ深い息を吐いた。
 剣の放つ破壊的な脈動を浴びながらも、子供は平然と佇んでいる。
いや、脈動は感じているのだろうが、その熱波が子供には届いていない。薄い緑色の結界が、少年を包んでいるからだ。

 「しかし、これだけの拘束法術を用いて、抑え付けるのがやっととは…。奴の自我は残っているのでしょうか?」

 闇の中から、その少年に、男の声が掛かった。
 ダークグリーンのマントを纏い、拘束具のような仮面を被った男だった。
仮面の左目だけに嵌ったコインが、炎の揺らぎを映している。
 生気の無い白髪を後ろに流し、細身ではあるが引き締まった身体を黒いボディスーツで包んでいる。
額と仮面を貫く“針”が、その男の異様さを引き立たせていた。

 その男の声は低く、歪んでいる。

 「勿論だ。そうでなければ、この律動は存在しない。
彼が彼で居ようと足掻いているから、この脈動は存在する…。
これらの拘束は、彼の孤独な戦いを助ける為のものだ…」

 歪んだ声に、少年は微笑むような柔らかな声で答える。
 仮面の男は少年に倣い、剣を見遣った。
 仮面の男もまた、その炎に燻されるような状態にあるが、まるで熱さをかんじていないのか。
 熱波には全く動じることなく、静かに剣を見詰めた。

 「侵食を抑え込むには、途轍もない苦痛を伴うはず…。まさか今まで正気を保っているとは…」

 「彼は強い。昔からね…」


 少年は言って、緩やかな動作で左手を剣に翳した。
 すると、剣を拘束していたリングと鎖の輝きが鈍り、軋み始めた。

 「この苦しみからの解放は、君に新たな苦しみを与えることになるかもしれない」

 すまなさそうに呟き、少年は顔を俯かせる。
 
 「君には、苦しみを背負わせてばかりだ…」

 男は黙ったまま、その様子を見守っている。
 剣は少年の声に答えるかのように、一際強く脈動した。
少年は剣を見つめ、まるで祈りを捧げるかのように両の手の平を剣へとかざす。
少年の口からは、法術をつむぐ詠唱が漏れ、その声は聖歌にも、呪詛にも聞こえる。

 歌声のような詠唱に呼応したのか。剣を拘束していたリングや鎖が千切れ始めた。
 拘束が緩まったせいか、剣が纏う炎が爆発的に膨れ上がり、脈動は次元牢を揺さぶる程強くなった。

 放たれる熱波は、もはや爆風だった。

 大掛かり過ぎる拘束術がどれだけ強大な力を抑え込んでいたのか、それをまざまざと見せ付けながら、剣は脈動を繰り返す。 これが次元牢でなく外の世界だったなら、街一つが焼け野原になっている程の熱量だった。

 流石に、仮面の男の方は、結界を纏う。だが、その熱波に押され、顔を覆った。
 それに対し、少年は平然としたまま詠唱を続けている。

 並の法術使いならば手も足も出ないような高度な拘束術が、馬鹿馬鹿しいほど容易く破られる様を見ながら、男は思った。
かつての神話の神とは、この御方のような存在だったのかもしれない、と。

 「赦して欲しい、とは思っていない。勝手な願いだが、僕には君の力が必要なんだ…」

 言い聞かせるように言葉を紡いだ少年の両手が、山吹色に輝き始める。
神々しくも禍々しいその輝きは、剣を包み込んだ。抱きしめるかのように、或いは子守唄を歌うかのように優しく。
剣はその光に抗おうとしたのかもしれない。
脈動はさらに強まり、次元牢の空間に亀裂が入る。

 「ドラゴンインストール…封炎剣から漏れる余波だけで、これ程とは…!」

 男は吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。そして、顔を覆いながら少年と剣を交互に見た。
だが、少年はまるでそよ風に身を晒すような優雅さで、変わらず詠唱を続けている。
その少年に向けて、剣は吼えるかのように脈動をぶつけていた。

 しかし、その咆哮は少年には届いていない。
 次第に、その脈動が勢いを緩め始めた。纏う炎は燻るように小さくなっていく。
まるで泣き止むように、剣はその脈動を沈めていく。

 「君がどれだけ苦しんだか、僕には想像も出来ない。けれど、今の“叫び”は聞こえた。胸が潰れそうな“叫び”だったね」

 少年の両手の山吹色の輝きが緩む頃には、剣は静寂を取り戻していた。

 「すまない。すまないことをしたね。苦しめてしまったね…」
 
 少年は、漂う剣に手を伸ばした。
 まるで壊れ物を扱うような、慎重な手つきだった。

 「君は君だ。ギアでもあり、僕の友だ。フレデリック。良く耐えてくれた。有り難う」

 泣き疲れた赤子のようでもあり、眠っている竜のような威圧感を漂わせた剣は、少年の腕に抱かれた。
剣は少年の身の丈を越える程もある。抱えられた、といった方が正しいかもしれない。

 レイヴン。少年は顔を上げずに、男を呼んだ。

 「イノと協力して…彼らのことを宜しく頼む。フレデリックだけでは…恐らく厳しい戦いになるだろうからね」


 レイヴンと呼ばれた男は少しの間沈黙してから、一つ頷いた。

 「…御意に」


 恭しく頭を垂れ、男は闇の中に溶けるかのように姿を消した。
 少年は剣を大事そうに抱え、振り返る。

 そこにはもう誰も居ない。
 広大な闇が広がるだけだった。

 頼んだよ。少年は小さく呟き、剣を強く抱きしめた。
 しばらくの間、少年は剣を抱えたまま、その場を動かなかった。



[18231] ニ話  
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:04123f78
Date: 2012/09/15 21:33
 
 「何なの、これ? …剣?」

 博麗神社の巫女、博麗霊夢は少し困惑していた。
 昼寝から起きてみたら、神社の境内の石畳の上、そこに何か赤いモノが突き刺さっていたからだ。
これが木の枝や氷の柱だったなら、妖精の悪戯か何かだろう、と楽観もできるのだが。

赤いモノは巨大という程大きくは無いが、それでも両手で抱えるほどの大きさはゆうにある。
それにかなりの衝撃を伴って地に突き立ったのか、石畳を砕け、地面が少し陥没している。

  まぁ何か金属っぽいし、お金にならないかな~、なんて思っていると

 「よっ! 何だか面白そうな事になってるな」

 後ろから声をかけられた。
正確には後ろ斜め上からだ。振り返りながら見上げると、嬉しそうな笑顔を浮かべている白黒の魔法使いが居た。
魔理沙が箒に跨って、こちらに降りてくるところだった。
 地に立つ赤い塊は、蒐集家としての彼女の興味を刺激したのか。
魔理沙は降下しながら、しげしげと地面に刺さったモノを眺める。
  
首を傾げながら地面に降り立つ魔理沙に、霊夢は溜息を付いた。

 「コレあんたの仕業じゃないでしょうね?」

 「違う違う。今来たとこだって」

 箒を担ぎながら言うと、魔理沙は再び興味深そうに突き刺さっている赤い何かを見つめた。
赤い塊を突いてみたり、下から覗き込むようにしている魔理沙に、霊夢はやや疲れた声を掛ける。

 「…それが何なのか分かる?」

 「いんや、あたしも初めて見るよ。んん~、やっぱ剣…いや、杖かな?」

  赤い塊は、霊夢も見た事もないような形だ。だが、魔理沙の言う通り、刀剣の類に見えないことも無い。
ただ、日本刀などとはまるで雰囲気が違う。
何よりもゴツイ。柄の太さや、刀身の厚さなど、およそ斬るということを念頭に置いていないように見える。
その重厚感は、むしろ打撃用の武器のような印象を受ける程だ。



 「まぁ確かに剣っぽくはあるけど…杖、ねぇ。なるほど、そういう見方もあるか」

 剣でも杖でも何でも良いが、神社の真ん中にぶっ刺さっている理由が分からない。

もう面倒臭いから剣と呼ぼう、と思いながら、、霊夢は神社の方と、剣を見比べた。
 もしこれが境内ではなく神社にぶち当たっていたらと思うと、霊夢の頬に冷や汗が伝う。
昼寝から覚めたら神社が半分壊れていた、なんていうのは、正直許して欲しい。

 「でも、マジでこれ何なんだろうな。取り合えず引っこ抜いてみようぜ!」

 「私もそう思ったんだけど、中々抜けないのよね。それ…」

 すでに柄に手をかけていた魔理沙は、霊夢の言葉には耳を貸さず腕まくりをしている。
やる気満々である。 よし! と気合一発、体ごと引っ張って引き抜こうとするが、突き刺さっている剣はビクともしない。

 「うおお!ぬ、抜けねぇええ!」

 「だから言ったじゃない」

 涼しい顔をしながら、霊夢はそんな魔理沙の様子を眺める。
 魔理沙もしばらく頑張ってはいたものの、ビクともしない剣を前にペタンと尻餅をついた。

 「だ、駄目だこりゃ…コレ自体が重いのか、深く刺さり過ぎてんのかはわからんけど…」

 「紫辺りに頼んでみましょうか。この石畳も直さないといけないし…」

 霊夢が面倒そうに顔を顰め、息を吐いたときだった。

パキン…ッ、と。 何かに亀裂が入り、砕け散る音が聞こえた。
 それは、繊細な硝子細工をゆっくりと押しつぶしていくような音だった。
 小さく澄んだ音だったが、何か決定的にやばいものが壊れたような、不気味な音だった。
 その音は、おかしな話だが、霊夢達の眼の前にある剣の内部から聞こえた。


 霊夢と魔理沙は咄嗟に剣から飛びのき、臨戦態勢を取る。
 ただ微かな音だったにも関わらず、その音と同時に剣が放ち始めた不穏な空気は、二人を身構えさせるのには十分だった。
 ただの剣では無い。飛び退いた二人は目を合わせた。

 「ちょっとやば気な音だったな。鳥肌がたったぜ」

 魔理沙はペロリと唇を舐めてから、懐から八卦炉を取り出す。
それから、もう片手で愛用の箒を肩に担いで、すっと重心を落とした。
 霊夢も、持っていた箒を放り、札を指に何枚か挟みこんで、静かに剣を見詰める。

 少しの沈黙。

 緊張から、押しつぶしたような息を吐いたのは魔理沙だった。
 その表情はわくわく、どきどきしているかのように笑顔の形をしている。
 霊夢は凪いだ瞳で、やはりただ剣を見詰めている。

 その二人の目前でそれは起こった。
 剣の柄が、錆付いたような不快な金属音を立てて、開いた。
 小さな動きではあったが、霊夢と魔理沙は警戒を強める。

 そして、開いた柄は、まるで周りの空気を飲み込むかのように軋み始めた。
 霊夢は腰を落とし、すぐに動ける体勢になる。
断続的に、低く、鈍い音が聞こえてくることに、二人は気付いた。

それは、まるで鼓動だ。巨大な心臓が脈打つような、低い音の脈動が、二人の耳に届く。
 二人は、その脈動の音は、緊張している自身のものかと思ったが、違う。
 脈動は剣から聞こえる。いや、届いている。脈動はゆっくりとしたものだったが、明らかに大過ぎる。
大気を震わせるような深い音だ。 それから、脈動を始めた剣は、まるで堪えていたものを吐き出すように、炎を吹き上げた。
 空気が爆ぜる音が境内に響く。

あっちぃ!? と魔理沙は声を上げて、顔を腕で庇う。
霊夢も、腕で顔を庇いながら、眼を細める。何だアレは。

 剣から吹き上がる火柱、それは次第に炎の塊へと姿を変えていく。
 まるで小さな太陽のような炎塊は、どろりとした炎を無理矢理に丸めたように濁っていた。
更に、明るい赤橙色の炎が纏わり付くようにして燃え盛っている。
 
 剣の真上に佇む炎の塊が、不気味に脈動する。
それに合わせ、剣を中心とした地面に、真っ赤な術陣が浮かび上がり、炎塊を包むように、斜め十時に炎が吹き上がった。

 「な、何だありゃ!?」
 「次か次へと…!」
 熱波を腕で庇いながら、その炎を睨む霊夢と魔理沙。
 以前見た事のある妹紅の炎よりも、小さく、弱く、卑しく、濁った赤燈色の炎塊 は、人間に似たシルエットを宙に象っていく。
吹き上がる炎に遮られる形で、そのシルエットはぼやけ、黒く染まった。

 シルエットは、炎の中で人型に近い形を保っていたが、その背中部分から、翼のようなものが生えた。
その翼のシルエットは鳥のものとは違っていた。それは、鋭利なフォルムであり、羽毛を湛えた柔らかな印象をまるで与えない。
蝙蝠の羽に近いが、あのシルエットはもっと獰猛で、破壊的だ。竜の翼。そんな表現が似合うだろう。

 その竜に似た翼らしきものを雄雄しく広げたシルエットは、炎の中で大きく身体を反り返らせて、空を仰ぎ、

 GGGGGUUuuuuuuuuuuuuuuooooooooAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH――――-!!!!

 聞く者の心をへし折るような、圧倒的な咆哮をあげた。
 それは、下手な暴力など及びもつかない程、攻撃的で威圧的だった。
 空気が震える、というよりも軋んで、砕けていく。周りに在るものを薙ぎ倒すかのような、大音声。
 恐怖というよりも畏怖を抱かせる咆哮を前に、霊夢と魔理沙は後ずさり掛けて、その威圧感に耐える為、一歩前に出た。
 前に出たは良いが、ヤバイ、と魔理沙は思った。 多分、霊夢も同じだ。 
凄い威圧感だ。正直、怯んでいる。
神社の境内が、濁った赤燈の炎と、術陣から溢れる光で、茜色に染まりまくっている。
此処だけ夕暮れになったみたいだ。
竜翼を広げた人影は、炎の海の中で空を仰いだあとに、ゆっくり霊夢達に向き直った。

今度こそ、魔理沙は一歩下がってしまった。 霊夢が息を呑むのが分かった。

来るか。
やる気か。
来るなら来いよ。
やってやるさ。魔理沙さんが相手になってやるぜ。
まぁ、出来るなら―――来ないでくれよ。


其処まで思って、魔理沙は、というか、二人は拍子抜けすることになる。
 
あの咆哮は、断末魔だったのか。吹き荒れていた赤燈の炎も静まっていく。
その炎が薄れていくにつれ、シルエットとなっていた人型の全体像が露になった。

 長い茶色の髪、赤い鉢金。 幅のある、ゆったりとした白い袴のようなジーンズと、ゴツいブーツ。
 上半身は、黒いインナーが逞しい肉体を浮き上がらせている。
 旅装束を纏った人影は、男だった。
 形成された輪郭は大柄であり、次第に瞳を閉じた男の姿が浮き上がってくる。
 
だが、先程生えていた竜のような猛々しい翼は見当たらない。
それに、先程見えていたシルエットよりも大分小さい気がする。
 男は苦しそうに瞳を閉じたまま、何かに吊り上げられるようにして宙を浮いていた。
 そして、男の姿が完全に現れた時、燃え盛っていた炎も掻き消え、男は操り人形の糸が切れたかのように、そのまま地面へと落ちた。

 その様子を眺めていた二人は、男が倒れ伏す音で我に返った。

 「お、おい。どうするんだ、アレ…」

 アレとは、あの炎から出てきた男の事だろう。魔理沙の表情も、若干強張っているように見える。

 「ええ、境内の修理なんてしてる場合じゃないわね…」

 倦怠感と疲労感を感じながら、霊夢は臨戦態勢を解き、倒れる男に目を向ける。

「お賽銭は集まらないのに…変なお客ばっかり集まるわね…!」




[18231] 三話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:04123f78
Date: 2010/04/19 16:51
 人や妖怪が混ざって、大きな宴会が開かれる境内も、今は無人だった。夜の帳が落ちた神社は、静寂に包まれている。不気味な静けさ、というよりは神聖な静謐さを湛えている。
 月の輝く空には、雲もまばら。
 虫の声と、微かな風の声だけが鳴っていた。

 昨日の宴会の馬鹿騒ぎが嘘みたい。
 霊夢は神社の母屋に寝かせた男を見ながら、溜息交じりに思う。そして、手拭いを桶に入った水に浸し、絞って、男の額にそっと乗せた。

 男は目を覚まさない。
 息はあるのだが、かなり衰弱しているようだ。男の身体は逞しいのだが、血色が悪く、顔も真っ青である。加えて、呼吸も浅い。その寝顔もかなり苦しげだった。

 「そう難しい顔をしなくても大丈夫よ」

 男を心配そうに見詰める霊夢に、艶のある声が掛けられた。
 その声の主、八意永淋は眼鏡を掛け、霊夢の隣で男に注射を打っている。

 「…だといいんだけどね」

 霊夢の表情は曇っており、いつもの鈴の鳴るような声も、やはりくすんでいる。
 その霊夢に微笑んで見せてから注射器を直すと、永淋が男の胸に手を当てた。そこに、薄く輝く光が漏れ、小さな魔方陣が浮かび始める。永淋の人外用のオペレーションズ。肉体の破壊から治療の施術までをこなす永淋の手が、男の身体の具合を精査していく。
 
 この光景も、今日で何度目だろうか。永淋の精査と、簡単な治療術は恐らく片手では数え切れない。
 


 男が剣から現れてからすぐ、霊夢は母屋へと男を運び、魔理沙は永淋を捕まえに空へ飛び立った。

 今でこそ、苦しそうではあるが、ある程度落ち着いて眠っている男も、霊夢が母屋に運んだ当初は、かなり危険な状態だった。苦しげな呻きと荒い呼吸を付きながら、吐血を繰り返す様は凄絶と言うより無かった。看病しようとした霊夢も、そんな状態の男を前にどうして良いか分からず、ほとんど涙目になりながら、とりあえず男の血や汗を拭いたりしていた。
 魔理沙は速かったし、早かった。すぐに永淋を呼んできてくれた。霊夢は魔理沙に心底感謝した。だが、そこで困ったことが起きた。

 永淋が患者である男を診たのだが、手の施しようが無い、と言ったからだ。
 霊夢は暴れだしそうになったが、永淋曰く、彼は自身の肉体の細胞と戦っている状態で、痛みを和らげる程度しか手が無いらしい。それに加えて、彼は人でも妖怪でも無いという。どちらかというと、蓬莱人に近い。そう言った永淋の表情は、苦々しく歪められていた。
 
 確かに、剣から出てくる辺り、普通の人間では無いということは理解出来る。
 しかし、蓬莱人に近い、とはどういうことなのか。

 霊夢は釈然としないまま、永淋から男へと視線を戻した。
 男の血色は相変わらず良くないが、呼吸の方はわずかだが落ちついて来ている。
 その様子を見ながら、永淋も溜息を吐く。
 オペレーションの光が、薄暗い母屋の中に暖かな光を照らしている




 「鎮痛剤を打つくらいしか出来ないなんて、こんな無力感も久しぶりだわ」


 「それだけ、この人の再生能力が高いってこと?」

 霊夢の言葉に、永淋はしばらく考え込んだあと、唸るようにして頷いた。

 「再生、というより、修復、と言った方が正しいと思うわ」

 「それって、どういう…」

修 復。それは、まるで男を「人」ではなく「物」として見ているかのような言い方だった。普段は心優しい医者として活動している永淋らしく無い言葉に、霊夢は眉を顰めながら向き直る。
 永淋もどう表現してら良いのか迷っているようで、一度目を閉じたあと、軽く息を吐いた。薄暗い室内に、その吐息が溶けていく。

 「そうね。言い方が悪かったわね。でも、それ以外にどう表現していいのか分からないのよ」

 どこか戸惑うような声で、永淋は男に視線を戻す。その視線は、何処か哀れむような視だった。その声音も、やはり同情したような声音だ。霊夢も男に視線を落とす。

 「彼も、大分長いこと生きてきたんじゃないかしら…」

 「その終着点が幻想郷だったとしたら…救いになるかどうかは、微妙なところね」
 

 霊夢の言葉には答えず、永淋はその手に宿る光を消した。そして眼鏡を外し、霊夢に向き直る。永淋の治療術の御蔭か、男の血色も幾分マシになっている。

 「もう大丈夫ね。脈、呼吸の乱れも収まったし、血色もすぐに良くなるはずよ。…とは言え、ほとんど彼の身体の回復力を補助したみたいなものだけど


 それでも、永淋の助けの有無とでは、きっと天と地程も違うだろう。永淋の診察が無ければ、男はもっと長い間苦しんでいたはずだ。霊夢は首を緩く振った。

 「少なくとも、私は助かったわよ。ホント、永淋が捕まらなかったらどうしようかと思ったわ。忙しい所、すまなかったわね


 苦笑のような、ほっとしたような笑顔で、霊夢は永淋に頭を下げた。

 「博麗の巫女の頼みだもの。断ったら後が怖いわ」

 冗談めかして言って、永淋はゆっくりと立ち上がった。

 「それじゃあ、また何かあったら声を掛けて。すぐに診に来るわ」

 「ええ。その時はまたお願い」

 「まぁ、もう私が診れる所なんて無いでしょうけどね」

 永淋が、男を見ながら小さな声で呟いたのが、嫌に印象に残った。


 
 

 夜も更けた頃。
 あれから、霊夢はしばらく男の傍に座っていた。
 時折、男の額に乗っている手拭を桶に浸し、冷たくしてから、その額に戻したりしながら、霊夢は男を眺めていた。

 永淋が帰った後、男は見る見るうちに血色を取り戻していった。
 何度か瞼が微かに動いたりもした。
 もうじき、男は目を覚ますだろう。

 母屋は静か、というよりも沈んでいるようだ。

 まったく、倒れるんなら他所で倒れて欲しいもんだわ。境内なんかで倒れられたら、無視しようにも出来ないし。面倒なことにならなきゃ良いんだけどな。

 そんな事を考えながらも、献身的に看病らしきことを続けている自分に溜息を吐き、霊夢は桶の水を取り替えようと、腰を浮かしかけた。
 その時だった。

「 オイーーーーっす! 霊夢、起きてるかぁーー」

 霊夢は危く、桶に入った水を零しそうになった。
 どかどかと上がり込んでくる足音を聞きながら、霊夢は背後を振り返った。
 そこで、白黒の衣装に身を包み、彼女は笑って居た。両手に籠を下げ、そこには山盛りのキノコ。ついでに大きな風呂敷を背中に背負っている。

 「悪ぃ、遅くなった! 滋養強壮に利くキノコの詰め合わせ、差し入れに持って来たぜ!」

 霊夢はげんなりしながら男に視線を戻した。
 滋養に利くキノコなどと言っているが、かなり怪しい。

 「魔理沙さんの差し入れを無視するとは、連れないじゃないか霊夢さん?」

 魔理沙さんは笑いながら霊夢さんの隣に腰掛ける。ついでに風呂敷を後方へボスンと放り投げる。そして、男に視線を落とし、ほっとしたような息を出した。

 「流石は永淋。大分落ち着いたみたいだな。一応男物の着替えも用意しといたぜ。こーりんから“借りた”もんだが」


 言いながら、魔理沙は懐に手を突っ込み、何やら草の束を持ち出した。
 霊夢には、それが薬草の類であることが分かった。魔理沙は薬草を畳みの上に置くと、今度はポケットから、中身がびっしりと書かれたアンチョコを持ち出した。

 「一応、回復魔法的な呪文は紅魔館でメモって来たんだが、こりゃ必要なさそうだな」

 ちょっと家の「鍵」をかけてくるぜ。妖怪か何かに荒らされちゃかなわん。
 永淋が神社に訪れ、男の治療が一段落した頃だ。魔理沙はそう言って博麗神社を後にしていた。また後で来るぜ、というニュアンスはあったが、此処まで色々と用意をして帰ってくるとは、霊夢も正直思っていなかった。

 「お人好しねぇ、あんたも」

 霊夢は呆れるように言うと、魔理沙は笑った。

 「いやいや、付きっ切りで看病してる霊夢にゃかなわんさ」

 ふん、と霊夢は鼻を鳴らして視線を逸らした。
 沈んでいた空気が、魔理沙の御蔭で明るくなった、というか暖かくなった。
 
 「疲れたろ? 茶でも淹れようか?」

 魔理沙は立ち上がりながら、霊夢に声を掛ける。
 勝手知ったる我が家のような口ぶりだが、これもいつものことだ。
 実際、今日は慣れない事が多く、疲れた。
 魔理沙の心遣いが心地よい。

 「ええ。お願いするわ」

 霊夢が魔理沙に向き直った時だった。

 「ぬ…ぅ…」

 男が呻き声を上げた。
 低く、重い声だった。

 霊夢と魔理沙は、咄嗟に視線を男へと向ける。
ついでに、立ち上がっていた魔理沙は座りなおし、男の顔を覗き込むように前のめりになった。霊夢も似たような状態だ。

 男の瞼が、ゆっくりと持ち上げられた。
 霊夢と魔理沙は息を呑んだ。

 黄金色の瞳だった。まるで、夕日に燃える、黄昏の海を結晶させたような。どこまでも深い、宝石のような瞳だった。その瞳の瞳孔は縦に裂け、海溝のような昏さを湛えている。

 その瞳に、霊夢と、魔理沙が映っている。二人は瞳に映る自分達に気付き、そこではっと我に返った。見惚れる。というよりも、目を奪われる。そんな瞳が、億劫そうに細められた。

 男は黙ったまま、霊夢と魔理沙を見詰めていた。
 それから一度瞳を閉じて、今度は天井へと視線を向けた。

 霊夢達が声を掛けるよりも先に、男が口を開いた。

 「…此処は…」

 男は再び瞳を閉じた。混乱を抑え、落ち着こうとしているようでもある。

 「此処は幻想郷。博麗神社よ。…そんなことより、具合はどう?」

 霊夢は取り合えず、という感じで男の質問に答え、その身体の調子を尋ねる。
 此処が何処かなどは、後でいくらでも問答出来る。魔理沙も、男の億劫そうな様子に、若干心配そうだ。

 「まだ何か痛む場所でもあるか? 剣みたいなのから出てすぐは大分魘されてたからな」

 剣。
 その言葉に反応したのだろう。
 男は低い声で、剣…、と呟くと、やおら起き上がろうとした。
 だが出来なかった。

 「ぐ…っ…!」

 男は胸を押さえるようにして、その上半身が再び布団の上に落ちた。
 ついでに、額に乗せた手拭もだ。その男の額に、どっと冷や汗が噴出す。

 「おいおい、大人しく寝てろって! まだぴっちぴちの病み上がりなんだぜ」

 魔理沙の声など聞こえていないのか、男は歯を噛み締めながら、顔を覆うように額に手を当てた。くそが…。男は低い声で呟くと、まず魔理沙に視線を向けた。爛々と輝く金色の瞳に見詰められ、魔理沙は怯みそうになった。

 「剣は…何処だ…?」

 だが、怯む前に、男が低い声が響いた。
 剣呑、というよりも、必死な声音だった。

 「あ、あぁ。あれ、やっぱ剣なのか…。アレなら、表に突き立ったまんまだぜ?」

 魔理沙の言葉の後に、霊夢が続く。

 「安心しなさい。あんたが出てきた剣なら、取り合えず魔理沙が見張っててくれるから」

 ええ、私かよ!? そんな魔理沙の声も無視して、霊夢は溜息を吐いて見せた。

 「だから、あんたは自分の身体を休めときなさい。話はその後よ」

 男は霊夢の言葉に納得しかねるようで、眉間に深い縦ジワを刻んでいる。
 そして、何かに気付いたかのように瞳を見開き、顔を引きつらせた。

 「侵食が…止まっているのか…」

 何がどうなってやがる。男の声に、感情らしきものが浮かんだ。
 それは苛立ちだろうか。その低い声に混じる感情を紛らわせるように、男は一つ 息を吐いた。そして、考えることを観念したかのように瞳を閉じ、顔を手で覆った。
 
 男の体格はかなり良く、鍛え抜かれていた肉体、という言葉が似合う。そんな男が、こんな仕草を見せる、ということは、相当に体力を消耗しているようだ。
 母屋に運ばれた当初の苦しみようを見れば、無理もない。
 霊夢はそう思いながら、落ちた手拭いを桶に漬けて冷やし、良く絞ってから、男の額に乗せてやった。

 男は驚いたように微かに瞳を開いてから、無言でその手拭いを手で押さえた。


 「…俺は、何故…此処に…」

 一人ごとを呟くように、男は低い声で零した。

 搾り出すような声だった。恐らく、男が万全だったなら、霊夢達に掴み掛かって来たかもしれない。そう思わせる程、男の声には混乱が見えた。

 ただ、その声に答える術は、霊夢と魔理沙には無かった。

「此処は、外の世界で幻想になったものが流れ着く場所なの」

 ただ、その返答になりそうな代わりの言葉を、霊夢はゆっくりと紡いだ。
 あんたが此処に居るのは、『あんたの世界』で、あんたが忘れ去られた存在になったから、此処の結界に引き寄せられたのかもね。

 霊夢の言葉を聞いた男は、思考の為か、黙ったまま瞳を閉じる。
 男はそのままでいた。しばらくして、横たわったままゆるゆると首を振った。

 「…俺以外に…誰か、他の奴が居たか…?」

 霊夢と魔理沙は顔を見合わせる。
 そして二人とも顔を横に振った。

 男は、そうか…、と低く呟いてから、歯を噛み締めた。  
 そして、ゆっくりと上半身を起こし、重々しく頭を垂れた。
 礼を言う。低い声で、男は霊夢と魔理沙に礼を述べた。
 

 疲れ果てたような様子にしては、男の声はしっかりとしていたし、その所作にも力強さが宿っているように見える。
その声を聞いた霊夢と魔理沙も、安堵の溜息を吐いた。永淋も「もう問題無い」と言っていたことを改めて思い出す。

 「まぁ、何はともあれ。回復したようで何よりだぜ」

 魔理沙は言って立ち上がる。
 茶でも飲むか。魔理沙は神社の台所へと足を向け、笑顔を浮かべて振り返った。

 「お前も飲むだろ?」

 むしろ飲もうぜ。魔理沙の視線は男に向けられており、霊夢の視線も同じだ。

「…ああ…」

 男はゆっくりと顔を上げると、小さく頷いた。
 おっし、と魔理沙は笑顔で頷いた。

 「そういや、名前まだ聞いてなかったな。私は霧雨魔理沙」

 「博麗霊夢よ。この神社の巫女をしているわ」

 魔理沙の自己紹介に、霊夢も続く。
 男は「博麗、霧雨…」と確かめるように呟く。
 そして、その二人の顔を見ながら、低い声で名乗った。

 「…ソルだ」



[18231] 四話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:04123f78
Date: 2011/10/05 15:12
 其処はある宗教団体が拵えた寺院の廃墟だった。
 石造りの広大なホールに、装飾がほどこされた祭壇。荒れる前はそれなりに立派な寺院であったのだろう。
 礼拝の床や裁断には埃が積もっており、随分長い間放置されていたようだ。
手入れされている様子は全くない。

この寺院は、街道からかなり遠くに離れた集落跡に建っていた。
 イリュリアの城下街からも遠く、よほどのことが無い限り誰も近くを通らない。 
陸の孤島。そんな表現が良く似合う、辺鄙で閑散とした土地だった。
廃村と化した集落に、人の気配は皆無だった。
 
誰も近寄らないこの集落は、だが、犯罪者や浮浪者が吹き溜まる場所でもあった。

その日、ある犯罪集団が、寺院の廃墟を塒にしていた。
彼らは快楽殺人と追い剥ぎ、恐喝を続けながら、各地を転々としていた。
凶悪な集団だった。
もちろん、賞金首にもなっているが、追ってくる賞金稼ぎ達から巧みに逃げ、ある時は返り討ちにして、今に至る。
 彼らは手ぶらでは無かった。女ばかりを、3人攫って来ていた。 

埃と砂塵で染まった今の寺院内の礼拝堂には、酒瓶が散乱している。
以前使われていたであろう長椅子に腰掛けているのは、皆、刺青やピアスをした、いかつい男達だ。
下卑た男達の笑い声と、甘ったるい匂いが充満している。薬でも炊いているのだろう。
男達の笑い声の中には、正気を失ったような哄笑が時折混じった。
埃臭い礼拝堂は、その笑い声を普通よりも響かせる。

そんな男達に捕らえられた女は皆、手に枷を付けられ、首輪を嵌められ、猿轡を噛まされていた。
手首の枷は、礼拝堂の柱に鎖で括られ、頑丈に鍵がされている。
彼女達はまだ無事だったが、その運命は、正に絶望的だった。
こんな辺鄙なところまで、誰かが来て暮れる筈も無い。
それに、男達はずる賢く、数も多い。仮に助けが来ても、逆に男達の餌食になるかもしれない。
彼女達のうち、一人は猿轡をされたまま、身体を震わせてむせび泣いている。
もう一人は、もう思考する事を放棄したように、項垂れ、濁った眼を石造りの床に向けていた。
あとの一人だけは、何とか逃げられないかと考えていた。だが、その心も、もう折れそうだった。

誰も来やしねぇよ。 言いながら、男達のうち一人が、酒瓶を片手に彼女達に向き直ったからだ。
「なぁ、さっさとやっちまおうぜ!」 「お、俺もそろそろヤリたくなって来たとこなんだよなぁ」
 今日は彼らにとって、久々の宴会の日だった。攫って来た女を、思う存分犯し、楽しむ日だった。

やおら長椅子から立ち上がった男達が、彼女達を囲むようにして群がった。

地面を見詰めている女は、もう反応を返さない。
むせび泣いていた方は、失禁しながら、さらに泣き叫んだ。だが、その泣き声も猿轡に阻まれ、外には届かない。
最後まで逃げようとしていた女も、もう諦めるしかなかった。 その筈だった。

 「ちょっと待てよ」

 だから、宴会場でもある廃墟の寺院内、その奥殿へと侵入してきた青年を見た時は、男達の間にどよめきが起こった。
 青年はゴツイ眼帯を掛け、旗付の棍棒を担ぎながら悠然と現れた。
 白ジーンズに、素肌に白と青を基調とした、半袖のコートのようなものを着ている。
 インナーらしいものは見つけておらず、腹巻のような白い帯をしているだけだ。
 ジーンズ生地らしい旗には“OATH”の文字が刻まれていた。


 誰だこいつ?
 新入りか? 
 いきなりお楽しみに参加かよ。生意気な野郎だね。
 いや、違うんじゃねぇ? 新入りの話なんて聞いてねぇしよ。
 ひょっとしてコイツ、賞金稼ぎじゃねぇ?
 ぎゃはっ! マジか!
 一人で来るとか、ファンキー過ぎるYO!
 しかも何それ、旗? マジ受けるぜ!

 男達は手にナイフや鉈、ダガーを煌かせながら、下卑た笑いを浮かべ、青年に詰め寄った。すぐに青年は男達に囲まれた。
 数は20人程。全員、連れて来ていた女達から離れ、青年へと群がって来た。
 女達も、驚きの余り、呆然としたように青年に眼を奪われている。

 「一応聞いといてやるけどよ…。 テメェら、此処で何してんだ…」
 青年は群がって来た男達の顔を見回しながら聞いた。
 その貌は、何かを無理に堪えているかのような無表情だった。
 
青年の言葉に男達が大笑いした。

 何だこいつ、馬鹿か。
 見てわかんねぇのかよ。
 あそこに繋いであるオネエチャン達と良いことするのよ。
 混ざりたい訳? 駄目駄目。お前先にバラすから。
 見られちまったしな。ヒヒヒヒヒ。

 一人の男が、手にしたナイフを翻しながら青年に近寄って来た。
 笑いに肩を揺らしながら、のそのそとした動きだった。相当酔っているのか。それとも薬でもやっているのか。
眼の焦点が怪しい男だった。バカそーだけど、綺麗な顔してるじゃねぇか。そう言った声も、どろんと濁っていた。
男はふにゃふにゃとした足取りで青年の前に立つとナイフを突きつけながら、顔を青年の目の前に持っていって、下卑た笑顔を浮かべた。

 「俺は男でもいける口だから、命乞いするなら今の内だぜぇ? まぁ、ぐちゃぐちゃになった死体でも俺は全然イケ――――」

 男の言葉が途中で途切れ、代わりに肉が潰れるような音が響いた。
 次に、青年を囲っていた男達の表情が凍りついた。 青年が、目の前の男の顔面を、無造作に殴り飛ばしたのだ。
 男はトラックに轢かれたみたいに吹き飛び、寺院に放置されたままだった長椅子を巻き込みながら、ゴミ屑みたいに転がっていった。
 ヤバイ吹っ飛び方だった。女達も唖然とした。
 男達はばっと武器を構えたが、明らかに今ので何人かが逃げ腰になった。

 男達は青年を舐めていた。
 こんなガキに、俺達が負ける筈が無い。
 この数の差だ。もしかしたら、こいつは自殺願望者なのか。
 そんな風に男達は思っていた。
 結果、青年の周りに全員が集まって来ている状態だ。
 不味い。此処は青年の間合いだ。
 逃げないと。
 男達は後ずさった。
 青年は殴り飛ばした男を一瞥して、担いでいた棍棒で肩を叩いた。

 「息がクセェんだよ…。取り合えず、黙って捕まれよ、お前ら。さもねぇと――」

 赤黒い電流が青年の周囲に奔り、薄暗い寺院内を閃光が染め上げる。
 法力が発生させた黒稲妻は、渦を巻くように青年を覆う。バリバリ、バッチバチと火花が散った。
怒りを無理矢理押さえ込むような声で、青年は男達に言った。
 「――――黒焦げにしちまうぞ…?」 首を傾げながら眼を細め、青年は凄んで見せた。
 男達は震え上がり、何人かは尻餅をついた。
 捕まっていた女達も息を呑んだ。

 かつて経験したことのない威圧感と恐怖の前に錯乱したのか。
怒声を張り上げながら、ヤケクソになった男が三人ほど青年に雪崩掛かった。
 青年はその場から動くことなく、腕だけで持っていた旗付き棍棒を横一文字に凪いだ。
 それだけで、男達は三人まとめて殴り跳ばされた。三人の男は急な放物線を描きながら飛んで行き、そのまま落下した。
 何かが潰れるような鈍い音がした。

更に、二人の男が、青年に襲い掛かった。 男達の手には、ナイフと短剣が握られていた。
 青年はその場から動くことなく前蹴りを繰り出して、二人のうち、一方の男の方を蹴飛ばした。
冗談みたいに吹っ飛んで、男は石の床をゴロゴロと転がった。
「このガキィ…!!」もう一人の男は、ナイフを青年の首目掛けて振るった。だが、空振る。
首を逸らすようにして、最小限の動きでナイフを避けた青年は、まず、男の手首を捕まえた。
ナイフを持った方の手だ。男は抵抗しようとしたが、無理だった。
すぐに青年が、片手で男の腕を掴んだまま、ブオンと壁目掛けて放り投げたのだ。
ふわっと、まるで人形のように放り投げられた男は、壁に激突し、ぐしゃっと地面に落下した。

誰もが言葉を失っていた。
 青年は舌打ちをして、他の男達へと一歩足を踏み出す。
 それを見た男達は悲鳴を上げて、今度こそ逃げ出した。
 ある者は女を人質にしようと、何人かの女達のほうへと走った。
 女達も悲鳴を上げた。

 「そりゃいかんねぇ…。今更何に縋ろうってんだぃ?」

 だが、その悲鳴の中でも、やけに通る渋い声が響く。
 澄んだ、鈴の音が鳴った。次の瞬間には、女達の下へと駆けていた男達が突然、ばたばたと倒れた。
女達は呆けたような表情でその様子を見て、気付いた。いつの間にか、白い着流しを着た男が立っている。
いや、白い着流しを着ているだけじゃない。さらさらとした髪も、肌も白い。
肌に赤い紋様も在るし、何より、頭に狐耳が生えている。
狐耳を生やした男は、女達を安心させるように、朗らかな笑みを浮かべた。
それから、手にした刀を担ぐようにして、顎を撫でる。

 「奴らが逃げるねぇ…。オイが行こうか?」

 「いや、イズナは此処で居ててくれ。俺が行く」

 青年は出口の方へと逃げていった男達のあとを追いながら、もう一度舌打ちをした。













 空が青い。

 馬鹿馬鹿しいほど青い。

 突き抜けるような青空を眺めながら、シンは深呼吸をした。
 その背後で、イズナは腕を組み、先程まで自分達が居た寺院の廃墟に目をやっていた。
 そこでは、女達が泣きながら生を喜び合い、ゴロツキ共は縄で縛り上げられ、王立騎士団に連行されていくところだった。
 ゴロツキ共の中に無事な奴は一人も居ない。
 皆、腕や脚があらぬ方向へ曲がっていたり、泡を吹いて気絶しているもの、血塗れのものも居る。
シンが逃げ出そうとした奴らに軽く一撃見舞ったからだ。

 「ぶん殴り足りねぇな。胸糞悪ぃ…」
 シンは唾を吐いて、手に持っていた手配書の束をぐしゃぐしゃに丸めた。

 「…金なんかあったって、どうにもなんねぇ事も多いよな」

 賞金首を捕まえ、その懸賞金は、その被害者に渡す。
 ただの自己満足でしかないが、これまでシンはそうしてきた。少しでも、被害者の心の傷が軽くなるようと思ってだ。
 今回も懸賞金は全てあのゴロツキ共の被害者達に配るように、王立騎士団の者達に話は付けてある。
 シンが丸めた手配書には、「ハムメイカーの元メンバー」とデカデカと打ち出されていた。
先程捕まえた男達の中に、手配書に載っている顔は全てあった。
ハムメイカーの残党に掛けられていた金額は非常に高く、今回はかなりの額が出ることになる。

 だが、それがどうした。

 失ったものは帰って来ないし、死んだ人は生き返らない。
 そう思うと、シンは自分のことを無力に感じずには居られなかった。
 
 「まぁね。でも、金でどうにかなることも在るのも、また事実やさけに。
それに、オイ達が背負い込んだって、どうにもならんことさ。 オイ達の仕事は、悪い奴を捕まえることだかんねぇ…。
そっから先のことは、どうにも出来んよ」

 励ますように言ったイズナはシンの肩を叩いてから、緩い足取りで歩きだした。
 シンは、それもそうだな、と小さく呟いて、イズナの背中を追いかけた。

 そういや、オヤジはどんな気持ちで賞金稼ぎやってたのかな。
 ふと思う。
 オヤジはかなり長いこと賞金稼ぎをやっていたようだし、捕まえた奴の数も相当なもんだろう。
オヤジの稼いだ懸賞額も並じゃなかった。でも、オヤジはその金のほとんどを被害者に渡しながら旅を続けていた。
被害者が全員死んでる場合なんかは遺族に懸賞金を残したり、あるいは寄付したり。
  
 何でそんなことをするのかを聞いたら、「…持っていても邪魔になる…」と答えられた。
 それを聞いて笑ったのを覚えてる。

 オヤジ。
 
 背中がやたらでかくて、おっかなくて、ぶっきらぼうで、ちょっと優しいオヤジが大好きだった。
 
 オヤジは偉大だった。
 多分、この世界の誰より。
 間違いなく英雄だった。

 オヤジの活躍により、イリュリアを襲った戦団“ヴィズエル”と、人類種を飲み込もうとする“慈悲無き啓示”は退けられた。
だが、“あの男”って奴との決着は付かなかった。

 いや、付けられなかった。

 オヤジは戦い過ぎて、オヤジでいられなくなっちまった。

 ――――…侵食が激しすぎる。…俺が俺でなくなる…。…そうなってからじゃ遅い――――。

 そう言って、オヤジは自分を神器である封炎剣に自身を封じ込めた。
 今では連王国が管理している次元牢に隔離され、さらに厳重な封印が施されている。

 死んだ訳じゃ無い。
 生きてる。
 でも、もう会えない。

 「オヤジも…」

 シンの前を歩いていたイズナが、足を止めて振り返った。

 「多分、そんな風に言っただろうな」

 シンはへっと笑い、イズナは「そうかもねぇ」と言って、緩い笑みを浮かべて見せ、またゆっくりと歩きだした。
 イズナの背中もデケェな。小さく呟き、旗付きの棍棒で肩をトントンと叩く。

 でも、あいつの背中もデカイよな。俺の周り、すげぇ奴ばっかだ。
 青と白を基調とした、王衣を纏う実父の背中が、今度は脳裏に浮かんだ。
 
 あいつは俺に言った。
 これからどうしたい、と。
 オヤジみたいになりたい。そう迷わず答えた。
 母さんは笑って、あいつは苦笑しながら、「そう言うだろうと思っていた」と呆れたように言った。

 あいつは王だ。王様。偉い奴だ。

 だから、その息子である俺がそんなことを言えば、勿論猛反対されると思っていたし、許されなくても出て行くつもりだった。
 俺が王様とか。冗談きついぜ。なれる訳ねぇし、そもそも向いてない。
脳みそ筋肉だしな。考えるのとか苦手だし。王様なんかより、俺はオヤジみたいになりたかった。

 オヤジみたいになる。
 それは、途方も無く漠然としたものだったし、オヤジに聞かれたらぶん殴られそうでもある。
でも、それが俺の憧れだった。だから譲るつもりは無かった。
実父のあいつが何か言って来ても、トンズラするつもりだった。母さんに反対されたら、ちょっと考えたかもしれないが。

 だが、以外にもあいつは渋々と言った表情で、俺の言葉に頷いた。

 必ず帰ってくるんですよ。それが条件です。
 そう言って、あいつと母さんが、笑顔で俺を見た。

 わかってるよ、んな事。
 俺はそう言って、笑顔を返した。



 それから、俺の旅は始まった。
 あいつに頼まれたらしく、イズナも付いてきた。
 最初は納得行かなかったが
 「旅は道連れ、って言うでしょ? それに、あんまし無茶せんように見張っとかねぇとね」
 そう言って笑うイズナが、心強かったのは確かだった。


 イリュリアを飛び出し、その日暮らしのような旅を続けて、早一年。
 荷物はズタ袋一つに、愛用の旗付きの棍棒。
 あっという間だった。
 賞金稼ぎの真似事も、それなりに板について来たと思う。
傍目から見たらヒーローごっこみたいに映るかもしれないが、それでも良かった。
懸賞金を寄付したりすんのも、偽善者っぽく見えたって構わない。
それでちょっとでも助かる人がいるなら、やる価値はあると思った。イズナも快く手伝ってくれてる。

 そのうち、見えてくるものもあるんじゃねぇかな。そんな風に思ってる。

 ただ、オヤジのデカイ背中にはまだまだ追いつけそうにない。
 今は、前を歩くイズナ背中を追いかけるだけで精一杯だ。

 シン達が歩いている粗末な廃墟の集落に、緩やかな風が吹いた。暖かなそよ風だった。

 集落から街道に抜ける道は一本であり、ハムメイカーを捕らえた騎士団が大分前を行っているのが見える。

そこから少し視線を上げると、青空が広がっていた。
 廃集落と青空のコントラストは、笑えるくらい清清しかった。
青空を眺めながら、これからどうすっかなぁ、イリュリアの近くまで来たし、ちょっと顔でも出してくるかなぁ、などとのんびりとした思考に耽りかけた。



 だから、気付くのが遅れた。

 そいつはかなり前を行っている騎士団とシン達の間に、いつの間にか居た。

 見覚えがある。
 ダークグリーンのマントと、ボディスーツ。
 片目に嵌めこまれたコインが不吉な仮面と、その仮面ごと頭を貫いている“針”。

 異様だった。
 青空にそよ風。緑が多い集落。
 暖かい風が梢を揺らし、枝葉の揺れる心地よい音が聞こえた。
 澄んだ空気に、緑の匂いも混じっている。
そんな長閑ですらある風景なのに、奴がいるだけで冗談のように濁って見える。
 まるで、そいつの周りの空気が澱み、腐っているかのようだ。
 
 「久しいな…」

 そいつは低く、歪んだ声で嗤うように言った。

 不死の病、レイヴン。
 時代の裏で暗躍する怪人である「あの男」、その側近の一人。
 何で奴がこんな所に。
 
 「テメェ…」
 先程捕らえた快楽殺人者等とは比べ物にならない威圧感を感じ、シンは左眼を細めて、すっと身体の重心を落とした。
イズナも、腰に下げた太刀の柄に手を掛ける。
イリュリア城でのオヤジとの戦闘を思い出せば、このレイヴンという男がどれほど異様で厄介な存在なのか、嫌でも再認識させられる。

この男は、死なない。例え塵になっても蘇る、塵芥と土塊の王だ。
加えて、時間や空間を捻じ曲げる法術を得意としているせいで、厄介さも倍増だ。
こいつ程敵対したくない奴も珍しいだろう。

 「オイ達に何か用かい?」
 イズナは特に表情も変えず、飄々とした声音で問う。
 もったいぶっている訳では無いのだろうが、レイヴンはその問いには答えず、しばらくシン達を値踏みするように眺めていた。
仮面越しのその視線は、まるで心の中身まで覗き込んで来るかのような、実に気持ちの悪い視線だった。

 「ああ。我が主がな…」

 粘つく視線をこちらに向けながら、奴は言った。

 「貴様らにも手を貸して欲しい、とのことだ…。背徳の炎だけでは奴らを抑えられん…。単純に、数の問題だ」

 シンは一瞬、レイヴンが何を言っているのか分からなかった。
 背徳の炎。聞いたことのある名だった。そう。オヤジだ。奴は以前オヤジのことをそう呼んでいた。
意味が分からない。何でオヤジの名前が出てくる。
 
そうだ。
 オヤジは。

 「ソルは次元牢の中だで。しかも、連王とドクターの施術で封炎剣に封印されとる筈じゃ…。何でソルの名前ば出てくると?」

 イズナはシンより先にレイヴンに聞いていた。レイヴンは溜息を吐いたようだった。

 「下らんことを聞くな。貴様達の施術など、我が主の障害にもならん。
…不本意ではあるが、奴の力が必要なのだ。人手不足が深刻でな。我が主と我々だけでは、最早手に負えん」

シンは黒稲妻を纏いながら、一歩前に出る。
 「訳わかんねぇ事言ってんじゃねぇぞマゾ仮面。何が手に負えねぇんだよ」

 「阿呆に説明する必要は無い。ただ黙っていろ」

 「…ぶっ飛ばす」

 野郎、舐め腐りやがって。丁度良いぜ。ぶっちめて、「あの男」って奴の居所に案内させてやる。
シンは舌なめずりしながらレイヴンに突進していった。

 「あっ!? こら、シン!」
 背後でイズナの声が聞こえたが、もう止まれない。
 レイヴンは動かなかった。彼我の距離は、約10メートル程。
 すぐ其処だ。一瞬でその間合いを詰める。
 シンは突進した勢いをそのままに、棍棒を横薙ぎに振るった。
居合いのような神速で放たれた棍棒の一閃は、しかし空を斬る。

 消えた。
 消えやがった。
 明らかに間合いに捕らえていたはずのレイヴンが、一瞬のうちに消えた。
 棍を振るうまでは確かに居た。
 何処だ。前後左右。居ない。
 
 いや、居る。
 正確にはレイヴンではないが、レイヴンが放ったであろう“針”が、シンの周囲に浮かんでいた。
“針”に囲まれている。“針”の大きさは大体人間の腕位だ。デカイ。
 このままじゃハリネズミだ。でも残念だったな。
 シンはへっと唇を歪めた。
 その瞬間、“針”が全て真っ二つになり、地面に落ちた。あるいは、弾かれた。

「突っ走るのは良えけど、見てるこっちは心臓に悪いねぇ」

 イズナだった。 シンの背後にゆらりと現れたイズナは、太刀を鞘に収めながら、にへらっと笑う。

「悪ぃ。けど、イズナが居るからな。俺も突っ込める」

 シンは息を鋭く吐いて、背後へと振り返る。そして、その振り向きざまに、雷を纏った棍で突きを繰り出した。
イズナの真横へと。
放たれた雷撃の突きを涼しい顔で見ながら、イズナも太刀の柄に手を掛け、身を捻る。
 轟音が響いた。
 イズナの脇をそれたシンの突きが、

 「ぬ…」

 いつの間にか現れていたレイヴンの、黒いボディースーツを穿っていた。
飛びやがれ。シンは呟いて、棍棒に法力を込める。電撃にコンバートされた法力が暴れ狂い、棍を伝ってレイヴンへと流し込まれた。
赤黒い電流が奔り、レイヴンの身体を焼き、横方向に吹っ飛ばす。

 「まだ終わりじゃあなかよ…!」
イズナは、吹っ飛んで空中を移動するレイブンに追いつき、太刀を峰打ちで二回振るった。
縦に一閃し、さらに横に一閃。確実に捉えた。シンにはそう見えた。
だが、そうはならなかった。
 レイヴンの身体が無数の鴉の羽へと変わり、再び姿が消えたからだ。
 イズナの峰打ちは鴉の羽を薙いだだけに終わる。
 
 「成る程。悪くは無い…」

 レイヴンはマントを翻しながら、シン達から少し離れた位置に現れた。
そして、やや緩慢な動きで、シン達を指差した。不気味な程静かに、レイヴンの周囲に無数の“針”が浮かび上がる。
シンは舌打ちして、棍棒を構える。

 「テメェらは親父をどうするつもりだよ! 親父は――」

 そこまで言った時だった。来た。“針”が押し寄せて来た。
 空気を切り裂いて迫って来る“針”の群れを棍棒で叩き落としながら、シンは吼えた。
 イズナも“針”を刀で弾きながら、レイヴンの動きを注視している。

 “針”の雨の中、反撃の機会を見つけようとしていた二人は、だが意表をつかれた。
 突然、攻撃が止んだ。

 「ドラゴンインストールの侵食は、既に我が主が止めた。奴は奴のまま、再び世に出ることが出来る。それに、もう奴は向こうだ」

 攻撃が止んだタイミングだった為、シンはレイヴンの言葉に「あ?」と聞き返してしまった。
イズナも訝しむような表情で、レイヴンを凝視した。

 ドラゴンインストールの侵食を止めた?
 向こう?

 何を言っているのかさっぱり分からないが、考えてる時間も無いし、じっくり聞き返す暇も無かった。
だから、お前達も大人しくしていろ…。
よく通る低い声でレイヴンが言った後、その身体からダークグリーンのオーラが立ち上り始めたからだ。
詠唱か。

 させねぇ。
 シンとイズナはレイヴンに迫ろうとしたが、出来なかった。
 錠が落ちるような音が聞こえた。
 奴の狙いは、最初からこれだったのだろう。
 並んだシンとイズナの足元に、レイヴンのオーラと同じダークグリーンの色をした法術陣が浮かび上がる。
 ただ、その術陣のサイズが半端じゃ無い。
 シン達を中心にして、半径20メートルはある。
 こりゃあ、転移法陣け!? デカ過ぎだがや!
 イズナの声が、シンの耳に届いた。

 転移法術陣はすでに光を放ち始め、発動する寸前だ。
この術陣のサークルから出ようにも、レイヴンはさらに法術を発動させていた。 
黒緑色をした鴉のエンブレムが、巨大な転移魔法陣に重なるように浮かび上がる。

 「愚図っているといい。すぐに終わる」

 シンとイズナは片膝を着く格好で、地面に縫い付けられた。
 スロウフィールド。その効果範囲内の時間の流れを鈍らせる法術だ。
 おかげで、シン達の身体はうまく動かない。ひたすらに鈍い。
 というか、動かない。スロウ効果が強すぎる。
 シンもイズナも、力を込めて歩を進めようとするが、ブルブルと震えるだけで一歩も前進出来ない。

 畜生。
 シンは呟き、レイヴンを睨みつけた。

 そして、唇をひん曲げた。
 奴は既にシン達に背中を向けていた。
 
奴はもうシン達に背を向けていた。

 シンは唇を少し噛み千切った。
 
 「何処に行く気だこのスーパーMマスク…!」

 もう用は済んだ。そう言わんばかりの余裕ぶった態度が、シンの頭の血管を切れさせた。

 「まだ終わってねぇっ…!!」

 ミシミシと肉が軋む音が、シンの身体から鳴った。
ついでに、赤黒い電流が奔り、法術陣の中で暴れ狂った。
その様子を冷静に見詰めるイズナは、刀の柄に手を掛けたままだ。

 「おおおぉぉぉぉらぁぁぁぁ!!」

 シンは赤黒い電流を纏わせた棍棒で、地面をぶっ叩いた。スロウ効果を越える速度で、棍棒を振り下ろしたのだ。
勿論、シンの身体も無事では済まなかった。身体中の筋肉が悲鳴を上げ、シンの目や耳からから血が流れ出てきた。
 シンが放った一撃は、それだけ強烈だったということだ。
 とんでも無い衝撃が地面に伝わり、地盤が波打った。

 「な…!」

 地鳴りがして、地面にクレーターが出来上がる。
 その為か、法術陣にズレが生じた。鴉型のエンブレムも歪み、スロウ効果が薄れた。
レイヴンが振り返り、若干焦ったような声を出した。術陣から漏れるダークグリーンの光が、ヤバイ感じに明滅しだした。

 「大人しくしていれば良いものを…!」

 レイヴンは腕を鋭く振るった。
 とんでもない速さで何かが放たれたことは分かった。
だが、地面を叩く為に無茶に力んでいたせいか、シンは反応しきれなかった。

 それは、“針”というよりも槍に近い。
 
糞デカイ棘だった。二本。飛んでくる。
 シンは咄嗟に一本を棍棒で弾いたが、もう一本は捌ききれなかった。

 鈍い音が鳴る。
 棘はシンの肩に突き刺さり、衝撃でシンは後方へと吹き飛ばされる。
 レイヴンはそれで済ます気はないらしい。それを追うように、さらに棘を二本放った。
 だが、その棘はシンには届かなかった。

 「させねぇって…!」

 白い風が吹いた。
 吹っ飛ぶシンと入れ替えにイズナが前に出て、棘を弾き、レイヴンの元へと踏み込もうとした刹那だった。

 地面から、やたら濃い緑色の光が溢れ出した。
 時間切れだ。転移法術が発動したのだ。
 その気持ちの悪い光は、まるで溶かすように、シン達を飲み込んでいく。
 レイヴンは舌打ちをして、焦ったように姿を消した。

 「待ちやがれ…!」

 吹っ飛ばされたシンは、イズナの後方の少し離れた所で、肩に刺さった棘を引き抜きながら叫んだ。
 その瞬間だった。 強烈な浮遊感が、シンとイズナの身体を包む。

 「シン…!」 イズナの声が聞こえた。
 シンは返事をしようとしたが出来なかった。

 突然、真っ暗になったのだ。
 
 暗すぎる。
 
 何も見えなくなった。
 
 音も聞こえない。

 さっきまであった青空は何処にも無い。

 地面すらない。

 上も下分からない。

 ただ、内臓が押しあげられるような感覚があった。

 落下。
 自分は落下しているのか。

 何処へ。
 何処だ。

 クソッタレ。
 焦りから、シンがそう呟いた瞬間だった。

 突然、視界が開けた。


 ふざけんな。思わず言葉に出た。

 シンは空中に居た。
 字の如く、空の中だ。やはり地面は無い。
 
下を見た。
 かなり高度がある。
 真っ逆様だ。

 だが、眼下に広がる光景にシンは感嘆の声を漏らした。

 綺麗だ。

 最初に思った感想はそれだった。
 シンの眼科に広がっていたのは、やたらと広い建物だ。
何回か行った事のあるジャパニーズのコロニーや、イズナの住んでいた黄泉平坂の建物に雰囲気は似ている。
塀に囲まれた敷地内の広大な庭には、白い玉砂利が敷き詰められ、多くの桜の木が植えられていた。
庭園というのだろう。俯瞰ではあったが、その庭の美しさに、シンは目を奪われた。
 その美しい風景の中にやたらと巨大な桜の木が目に入ったが、そんな事よりもっと気になるモノが目に入った。
 
 嘘だろ。
 シンが多分落ちるだろう場所に小柄な少女がいた。
 薄い緑の服に、白い髪。ちょっとおかっぱっぽい髪型をした少女だった。背中に二振りの刀を背負っている。

 落下中だというのに、余計に深刻な状況になった。

 シン1人が着地して、はい終了、とはいかなくなった。
シンは多分大丈夫だが、下にいた人が無事で済むかと言えば、流石にそうは思わない。
 勘弁してくれよ。



[18231] 五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:01
 
 白い玉砂利がひかれた、白玉楼の美しい庭園の隅。
よく手入れされた枯山水の庭園、そこで、普段では聞かないような、切羽詰まった声が響いていた。
 
「ご、誤解だ!事故なんだ!!」
 シンは冷や汗を流しながら、目の前にいる小柄な少女に叫んだ。
 「こ、この狼藉者めっ!覚悟っ!!」
 ぐすっ、と鼻をすすって、少女は涙声でシンの言葉を一蹴した。
 少女の左手には、その小柄は身体には不釣合いな大刀が握られている。
 右手には、更に小太刀。二刀流だ。
 その刀が共に大層な業物であり、並大抵の代物では無いことは、刀に関して無知であるシンでも、一目で分かる。
 冷たい空気を宿す刃と、緩やかに反った刀身は非常に美しい。
 だが、それを向けられるとなると、大分印象が変わる。
 怖い、というか危ない。
 少々間抜けな感想だったが、その刀を持っている少女の小柄さと可愛らしさのせいか、どうも物騒さに欠ける。
だが、実際に刃を突きつけられているシンにとっては、暢気なことを考えている場合でも無かった。

 

 少女との出会いはついさっきのことだ。
 
 シンは気付けば、この建物の真上に居た。
 真上。いや、上空と言っていい高さだった。
 シンにとっては、死ぬような高さでも無かった。それでも大分高い。百メートル位だったろうか。
結構痛いだろうが、着地する事は出来る。
 ただ落下するだけならまだ良かった。その時はかなり高い所から落ちてる事は分かった。
 その時だった。シンは落下しながら、その少女を見つけたのだ。
 落下地点には運悪く桜の木があり、少女はその桜の周りを掃除していたのだろう、箒を持って鼻歌なんて歌ってた。
 とにかくこのまま落ちるとぶつかるので、大声で叫んだ。
 退いてくれ! 危ねぇ!
 その大声に少女はびっくりした様子で周りをキョロキョロと見回した。
 そっちじゃねぇよ、上だ、上! 
 シンがそう叫んだが、間に合わなかった。
 もっと早く気づいてれば、とも思うが仕方無い。
 誰だって油断はするし、シンは庭に見惚れてたし、普通は空から人が降ってくるなんて思わない。
結局、シンは桜の枝をぶち折りながら、少女に激突した。

 少女がこちらを見上げた時の表情は、心底驚いた顔だった。
 不謹慎だが可愛かった。
 
 想像していたような衝撃は無かった。
 勿論、まともに衝突した訳じゃない。
 ぶつかる瞬間には右手で棍棒を地面に突き刺してスピードを殺したし、何か白い靄のようなものがクッションとして俺と少女の衝撃を和らげてくれた。

 棍棒を地面に突き刺して無理矢理止まろうとしたせいか、右腕が痺れて痛覚以外の感覚が無かった。
それに、レイヴンのデカイ棘の御蔭で、右肩には大穴が空いていたせいもある。
傷からの出血はもう止まっているし、皮膚の再生も始まっているが、中身はまだ完治していなかったようだ。
 肩に響いた衝撃が激痛に変わり、一瞬だがシンの頭が真っ白になった。
だが、腕を痛めるだけの価値はあった。
おかげで、少女にぶつかった時に感じた衝撃はせいぜい小走りの人が、歩いて来た人とぶつかった程度だった。
衝撃は強かったが、柔らかかった。怪我をするほどじゃない。そう思いたい。
 ただ、勢い自体はかなりあったので、ぶつかった時に前のめりに倒れてしまった。

 「いってぇ…」

 パラパラと砂埃が舞う中で、シンは呻きながら身体を起こした。

 「そうだ! お、おい大丈夫か!?」
 当然、心配すべきはわが身より、巻き込んでしまった少女の方だ。
 今度はシンがあたりをキョロキョロと見回す番だった。しかし、周りを見ても少女がいない。
 あるのは地面に突き立った旗付きの棍棒。そして、多分シンと一緒に落下してきたのだろう、シンから見て右前あたりの地面にあるズタ袋だけだった。

 そこで気付いた。

 シンは両膝と両手を地面についた状態で身体を起こしているので、地面とシンの身体の間にはスペースがある。
 
 シンは自分の顔が引き攣るのが分かった。
 ゆっくりと視線をおろすと、居た。
 両手を胸の前に置いて、真っ赤な顔をして涙ぐんでいるあの少女が、そこに居た。
 体を震わせて、怯えているようだった。
 少女の顔立ちは幼いながらもかなりの器量良だった。
 有り体に言えば、無茶苦茶可愛かった。

 シンの頭は沸騰した。
 これは。その。まずい。だって。
 押し倒すような体勢だし、顔は近いし、何だかいい臭いがして頭がくらくらする。
 ついでにこっちまで顔が火照ってきた。
 とにかく、退かないと。
 大慌てで少女の上から退こうとして、さらに最悪な事に気付いた。
 シンの右手。そう。感覚のない右腕、その先にある右手だ。
 シンは呻き声を上げそうになった。 右手が、少女の左胸の上に乗っている。
 感覚ないのに右手が、何だか暖かいものに触れているような感じがして、シンの心臓がドキィーンと痙攣した。

 誤解だ。
 そう叫びたかったが、何故か喉がカラカラでうまく喋れない。
 不幸な事故なんだ。わざとじゃない。
 言い訳みたいな言葉が心から湧き出して来るが、どれもこれも声にならなかった。
 口をパクパクさせるだけで硬直していると、シンの視界に更に飛んでもないものが飛び込んできた。
スカートだ。しかも、ただのスカートじゃない。
 捲れ上がっていた。そう、捲れ上がっていた。
 何か、とてつもなく綺麗な布が、ちょっと覗いていた。
 シンの顔が青くなった。
 鼻血が噴出しそうになったので慌てて左手で鼻を押さえた。
 ただでさえ馬鹿な頭が完全に煮だって沸いていたので、シンはそのままの体勢で謝ろうとした。
 だが出来なかった。
 左手で鼻を押さえたせいで、右手一本に体重が乗った。少女の左胸に触れている右手に。
涙ぐんでいた少女は、ひっ、と短い悲鳴を漏らして硬直した。

 シンは参った。誤解なんだ。
事実をどう伝えれば、これが不幸な事故だったと伝えられるのかを必死に考えながら、少女の上から飛び退いた。

 「わ、悪ぃ! 本当にこれは…っ!?」

 ちゃんと頭を下げて謝罪しようとしたが、無理だった。
 少女も、シンが起き上がった時にはすでに飛び起き、背に吊った二振りの刀を抜き放っていたからだ。


 「ご、誤解だ!事故なんだ!!」

 シンは冷や汗を流しながら、目の前にいる少女に叫んだ。

「こ、この狼藉者めっ!覚悟っ!!」





 これがついさっきの出来事だった。

 待ってくれ。そうシンが言おうとした時だった。少女の姿がぶれた。
 おぅっ…!? シンは間抜けな声を上げた。純粋な驚きだった。
 一瞬で、シンの背後に移動していた少女は、鋭く踏み込んできた。それは峰打ちだった。
 少女はまず小太刀を振り下ろし、体を横に回転させ大太刀を振るい、回転の終わり際にまた踏み込んで、大太刀を逆袈裟に切り上げた。

 シンは背後からの振り下ろされた小太刀を、振り向きざまに身を捻って避けながら、地面に突き立っていた棍棒を抜き取った。
 そして、上半身を反らせるようにして大太刀をかわし、逆袈裟の一撃は鋭いバック転で距離を稼ぎつつ、少女の間合いから離脱した。
 
 駄目だ。
 話が出来るような状況じゃない。
 もう攻撃されている。
 俺を殺す気かよ。

 少女の攻撃は峰打ちであったが、食らえばただではすまない事は、素人が見ても明らかだろう。
 そんな殺気を漲らせた少女は、今度は正面から踏み込んできた。
 速い。一息で距離を詰められた。
 左だ。袈裟斬りだった。
 シンはこれを身を屈めることで避けたが、返す刀で振るわれた横凪ぎの一撃が迫る。

 「ぃ…!」

 棍棒でそれを弾き返し、少女の右側へと体を捌いて、再び距離を取る。

 「は、話を聞いてくれよ、頼む!」

 シンは泣きそうになりながら、少女に懇願した。
 断じて、やましい気持ちは無かった。信じてくれ。お願いだ。
 その熱い想いが通じたのか、刀を構えていた少女の動きがピタリと止まった。
 助かった、と思った。
 でも違った。

 「じ、事故であることは理解できます。でも…」

 顔を赤く染めながら、少女はシンを睨みつけてきた。

 「納得いかない!一回殴らせなさい!この変態!」

 勘弁してくれ。
 はいどうぞ、と殴らせてあげられるような一撃じゃない。
 あと、ちょっと待て。誰が変態だ。

 「俺は変態じゃ無ぇ! しかも、峰打ちって…明らかに撲殺レベルだろ!?」

 「つべこべ言うな! 変態め!」

 「変態じゃねぇ! 事故の被害者だ!!」

 「どう考えても加害者だぁーー!!」

 叫びながら、少女はその場で大刀を縦に振り下ろした。
 何でそんな所で刀振ってんだ? という、シンの疑問はすぐに解決された。
 少女が振り下ろした刀、その太刀筋から、薄青色の弾幕が放たれたからだ。
 
 「ぅおっ!?」

 素でビビったシンは、素っ頓狂な声を上げた。
 迫り来る無数の光弾。
 シンは後退しつつ棍棒を横八の字に振るい、光弾を弾き、かわす。
 だが、シンが弾幕に気を取られている間に、少女はさらに刀を振るい、弾幕を放ってくる。

 なんて弾の数だ。
 弾幕を弾きながら、シンがそう思った時だった。
 ある事に気付いた。
 少女が居ない。

 またかよ。
 ヒュ、と音が聞こえた。頭上からだ。
 上を見上げると、少女が刀を振り降ろそうとしている所だった。
 ついでに、横殴りの弾幕も同時に迫ってきている。
 いくら峰打ちでも、限度があるぜ。
 シンは呟きながら、棍棒を振り上げた。
 甲高い音が鳴って、火花が散った。
 少女の斬撃を棍棒で受け止めながら、迫っていた弾幕に向け、シンは左手を突き出した。

 ヴォルテックアイ。放たれた電撃の塊は、弾幕の嵐を遮る壁となる。
弾幕の一部を相殺させることで、そこにシンの周りには弾幕の空白ができた。
受け止めた少女の刀を弾いて、シンは棍棒を担ぐようにして立ち、少女を見据えた。
 峰打ちを弾かれた少女は既に着地しており、以前として、親の仇を見るような目で、シンを睨んでいる。
ちょっと涙目で、顔も赤い。

 その顔を見て、シンは罪悪感に駆られた。
 いや、本当に悪いと思ってるんだぜ。
 加害者か。そうだよな。悪気は無かったとしても、こんな事になってる原因は俺だ。
 いきなり男に押し倒されて、覆い被さられたら、怒るよな。下手すりゃトラウマだ。
 「納得いきません!一回殴らせなさい!この変態!」とか言われてもしょうがねぇよ。
 あいつは女の子で、俺は男だ。それで気が済むなら、俺が折れるべきだろうな。
 シンは一度大きく息を吐いた。
 それから、少女の視線を正面から受け止めながら、シンは棍棒を地面に放って、深々と頭を下げた。

 「…本当に悪かった。どこでも好きなところ、ぶん殴ってくれ」

 言いながら、シンはその場に正座するように座った。
 
 「な、何だ…いきなり…」

 突然の申し出に、少女の方も面喰らったようだ。
 驚きの表情のまま、シンを見つめている。

 「いや、いくら不可抗力っつっても…その、押し倒しちまったし…何か色々触っちまったような、見ちまったようなだし」
 訝しげな少女の声にも、シンは真剣な表情を変えずに答える。ただ、視線は若干泳いでいるが、それも仕方無かった。
 あまりに刺激が強すぎた。
 口に出してみてシンは思ったが、切りかかられても文句言えねぇよこれ。
いや、ビビって応戦しちまったけどよ。やっぱり、俺が素直に謝るべきなんだよな。

 根が真っ直ぐなシンのその言葉には、やはり真摯しさがあった。
 自分が悪いと思うなら、誠意を込めて謝る。母からの教えだった。
 今回は事故みたいなものだったので、若干納得はしかねるが。

 シンの言葉に、少女はぽかんとしていた。
 だが、次第に落ち着きを取り戻したのか、「はぁぁ~」と長い溜め息を吐いて、構えを解いた。
 少女は何か言いたそうに唇を動かしたが、結局少女は何も言わず、額に手の甲を当ててうな垂れた。

 それが、どこをぶっ叩こうかと悩んでいるようにシンには見えた。
 シンは少しだけ懇願するような顔で、少女に視線を向ける。

 「あ、殴るのは顔面とか頭とか、あと、チ○ポとかキン○マとかは勘弁してくれると嬉しいんだけど…」

 「ぶっ!!ち、チン…!?」
 
 顔を真っ赤にして、少女は噴き出した。

 「だ、黙りなさい! …はぁ、もう…調子が狂いますね」

 やりきれない。少女の声はそんな感じだった。
 それから少女は空を見上げて、何かを探すように瞳を細めたあと、シンへと視線を落とした。

 少女の表情は真剣だった。

 「賊、という訳では無さそうですが…。何が目的で此処へ?」

 その声も、堅い。
 
 「目的も何も…。気付いたら、此処の上に居たんだよ」

 空を指差すシンを見ながら、少女はまた為息をついた。
 外来の者か。厄介なことだ。少女は小さな声で呟き、シンへと向き直る。
 そこで、少女は少し意外そうな表情になった。
 シンは、まるで叱られる前の子供のようだった。
 反省している。そう顔に書いてある。
 そう思えるくらい子供っぽい雰囲気で、シンは少女を見上げていた。

 少女はそんなシンを見ながら、微苦笑を浮かべた。

 「…もういいですよ。あれは…あなたが故意にした事では無いのは理解しています。犬に噛まれたとでも思っておきますよ」

 「…でも」

 「以後気を付けることです。私じゃなくて、他の人だったら殺されても文句は言えません。分かりましたか…?」

 「あ、ああ…」

 先ほどとは打って変わり、丁寧な口調で注意してくる少女に、シンは妙な気恥ずかしさを覚えた。
なんだか、年上のお姉さんに注意されているようで、くすぐったい。
 鼻の頭をポリポリと掻きながら、シンは少女から目を逸らした。

 「何故此処に居るのか、どうやって冥界に来たのかは後でお聞きしますが…少し待っていて下さい」
 
 少女の声が、悲しそうに、微かに沈んだ。少女は、辛そうな表情で何かを見ていた。
 きっと、突然の訪問者であるシンよりも、少女にとっては重大、というか気掛かりなことだったのだろう。
 少女の視線の先には、シンが落ちてきた時に派手に折ってしまった桜の木だった。

 シンも、少女の見ている桜の木を見て顔を歪めた。
 
 上空から見ても、この建物の庭園は見事なものだった。
 それは、今こうして実際に降り立って眺めても、変わらない。
 この世の景色とは思えない程美しい。よく手入れされた、見る者の心に残る、 白い和の風景だった。
 
 だからこそ、その中にある傷ついた桜の木は、酷く痛々しく見えた。

 根の部分は無事みたいだけど…。
 木の下に歩み寄った少女は、悲しそうな声で呟き、その木の根元へと手を添えた。

 シンもその隣まで歩み寄り、桜の木を見上げた。
 枝や幹が折れた痛々しい桜の木。
 その下で、悲しげな表情で木に手を添える少女を見て、シンの心も痛んだ。

 なんか傷付けてばっかりだな。
 だから馬鹿なんだよ、俺は。
 シンは眉を曲げて、低く唸った。
 じゃあ、馬鹿の俺でもできそうなこと無ぇかな。
 シンは桜の木の下へと歩み寄り、目茶目茶に折ってしまった枝、幹を拾い上げた。

「試してみるか…」

 そう呟いて、拾い上げた幹を、桜の木の折れた箇所へと添わせて、シンは力を込めた。
 赤黒い電流のようなものが、シンの手から桜の木へと伝っていく。

 「え、こ、これは…!?」

 少女の驚きの声が聞こえて来るが、とにかくシンは集中した。

 治癒を司る法術、パテカトルステイン。
 腕に流れる法力を、桜の木の折れた部分へとじんわりと、しかし大量に流し込んでいく。
 
 この法術の性質上、木を傷付けることは無いだろうが、効果はあるのだろうか。
 植物にも利くのかどうかは、シンも試したことは無かった。
 ぶっつけ本番だったが、これ以外に方法が思いつかなかった。
 馬鹿な頭の自分が恨めしかった。
だが、うまくいったようだ。折れた部分が見る見るうちに繋がり、シンが揺すってみてもびくともしない。

 「おっし!」

 「あ、あなたの能力…ですか?」

 シンが直した、というより、治した幹の部分を見つめながら、少女は呟いた。
 ボッキリと折れていたのが、嘘のようにしっかりと治っている。心なしか、さっきよりもみずみずしくさえ見えるほどだ。

 「能力っつーか…法術だよ。知ってるだろ?」
 少女に答えながら、シンは桜の木に忙しく手を伸ばし、次々と折れた枝や傷ついた部分を治していく。
 だが、決して楽な作業では無かった。むしろ、かなりの重労働だった。
 木に注ぐ法力を微調整するには馬鹿みたいに集中力がいるし、パテカトルステイン連発自体にかなり無理があった。
 そもそも連発するような法術でも無い。
 慣れない使い方と法力の酷使に息が上がり、心臓がバクッ、ドクン、と不規則に痙攣する。
 少女の攻撃を捌いていても汗なんてかかなかったのに、今は汗が滝のように流れてくる。
 でもやめない。せめて、この木くらいは元通りにして帰らないと。

 「知ってるだろ、って言われても…法術なんて、聞いたことが無いですよ」

 「ぜぇ…えっ?…ぜぇ…マジで?」

 汗を拭って、シンが少女を向き直った。法術知らないのか。そんな馬鹿な。生活の中にあるだろう。水とか明かりとか色々。
 そんな事を考えながらも、慎重に法力を注いでいく。そして、桜の木の最後の傷を治し終え、シンは数歩離れた。
シンが左腕を突き出し、桜の木へと向ける。

 「ふぅ…こいつで、仕上げだな」

 シンが突き出した腕に赤黒い電流が奔り走り、その電流が桜の木に向かって放たれた。
「ちょ、ちょっと…何を!」と言う、少女の声が聞こえた。
 桜の木は薄い赤色の光を纏っていた。 おし、この木、元気になったんじゃね?
 花の事などまるで解らないシンが、桜の木が元気かどうかなど理解出来るはずもないが、目の前で桜が咲き誇っていれば話は別だ。

 「花が…!」

 少女が息を呑む音が聞こえた。季節外れの桜吹雪が、シンと少女を包んだ。
 元気にしすぎただろうか。
 少しだけ不安になったシンが横を見ると、少女と目が合った。
 少女の瞳には純粋は驚きが浮かんでいる。

 「まさか花を咲かせるなんて…幽香さんの親戚か何かですか?」

 「ユーカ? …誰それ?」
 もう一度汗を拭って、シンは首を傾げる。

 「い、いえ、何でもありません、忘れて下さい…」

 ユーカ。
 シンの知り合いにそんな名前の者は居ない。
 花を咲かせる、って、変わった法術だ。
 シンは再び桜を見上げてから、すまなさそうに眼を伏せた。
 悪かったな。シンは小さく呟いた。その言葉は桜に向けて言ったのか、少女に 向けて言ったのか。
 シンはそれから少女に向き直り、叱られた子供みたいな表情で、迷惑かけたな、と頭を下げた。
少女は柔らかく微笑みかけて、恥ずかしそうに顔を伏せた。さっきの出来事を思い出したのだろうか。

 シンはその様子には気付かないまま、ふと疑問に思ったことを少女に聞いてみることにした。

 「なぁ、一つ聞きたいんだけど…」

 聞きながらシンは思い出す。
 今の状況は分からないことだらけだ。そう言えば、目の前の少女は法力の事も知らないようだった。
普通、法力ぐらい知っている。子供以外、知らない者などいないだろう。シンはそう思い、少々不審に感じた。
 それを知らないとは、どういう事だ。
 あれ、何だろう。自分が迷子になったような、そんな気分になってきた。
 そうだ、まずは聞かなければならないことがある。

 「? 何でしょう?」

 「ここ、何処なんだ?」

 そう来ると思いました、みたいな笑顔で答えた少女の言葉に、シンは唖然とした。

 幻想郷。外の世界から隔離された世界。冥界。白玉楼。
 聞いたことの無い単語の連発だった。

 シンのあまりよろしく無い頭でも、ある程度は理解出来た。
 だからこそ、余計に混乱しそうになった。

 自分は今、幻想郷という世界に居るらしい。
 幻想郷は結界によって包まれており、『外』から入ることは難しいという。
 だが、たまに迷い込んでくる者が居るらしく、それを外来人、と呼ぶのだそうだ。
 少女が先程、シンを見ながら「外来の者」と言っていたが、これは同じ意味だろう。
 そして此処、白玉楼は、冥界の幽霊を管理する要所であり、自分は其処の真上に出たらしい。

 シンは頭を抱えるようにして首を捻った。
 決定的にやばいワードが混ざっている。
 冥界と幽霊だ。
 そんな馬鹿な。
 そう言い掛けて、シンは言葉を失った。
 今更気付いた。
 少女の周りをふよふよと浮いている白い靄、というか、空気の塊みたいだ。

 何だこれ?

 シンが、少女の傍に漂う白い塊を凝視していると、少女は苦笑した。

 「そういえば、まだ自己紹介がまだでしたね。私は魂魄妖夢。ここ白玉楼の庭師をしている者です。半人半霊ですので、これは…」

 少女は、その薄白い塊を一瞥してから、シンに向き直った。

 「私の半身、といえば正しいでしょうか。私は半分、霊なんですよ」

 少女の自己紹介に、シンは固まった。
 
 違う。
 俺の知っている世界と違う。
 そんな気がしてくる自分に、いやいやと頭を振る。
 しかし、だ。
 目前の愛らしい少女の存在が、現実感を奪う。
 半霊ってなんだ。
 異世界なんて、手の込んだ冗談だろ。
 空元気でそう笑い飛ばそうとした。
 でも出来なかった。後ろから声が聞こえてきたからだ。

 「門を閉めてるはずなのに騒がしいと思ったら…見ない顔ね? お客さん?」

 背筋が凍りつくような、色っぽい声だった。
 鼻の下が伸びるというよりも、息が止まるような声だ。
 いつの間に近づいて来たのだろうか。建物に背を向ける形で話しをしていたので、全く気付かなかった。
それに、足音などまるでしなかったし、気配も全く感じなかった。

 シンが振り向くと、薄い光を放つ美しい蝶が数匹、ひらひらと舞っていた。
 その中に佇むように、青白い着物を着たとんでもない美女が佇んでいた。
 いや、浮いていた。シンのすぐ後ろで。

 幻想的で、儚げな雰囲気を纏わせて、彼女は微笑んでいる。
 綺麗過ぎて、現実感が無い。むしろ、生気が感じられない。
 この世のものとは思えない。そんな表現が似合いすぎる。
 死者。そう、死だ。
 この美しさが与える印象は、それだった。
 シンの身体に鳥肌が立つ。足が竦みかけた。

 だが、その女性が柔らかな笑みを浮かべたおかげで、何とかそうはならなかった。
 ふよふよと浮いていた女性は、柔らかそうな桃色の髪を揺らしてシンの前に回りこむと、シンの顔を覗き込んできた。
 その仕草は、その女性の見た目とは裏腹に、とても可愛らしい仕草だった。
 美麗でありながら、可憐。
 そんな女性に見つめられ、シンは頬を染め、眼を逸らした。
 こっち見んな。そんなシンの様子を見て、彼女はクスクスと笑う。

 「ふふ、可愛い子ね。…妖夢のお友達?」

 着物、いや死装束というのだろうか。女性はその装束の袖をゆっくりと翻しながら振り返り、妖夢へと尋ねた

 「いえ、違いますよ…」

 妖夢は困ったような表情で溜息をつく。
 ところで、何でこの桜だけ花が咲いてるの?彼が咲かせたんですよ。  え、ホントに?。
そんな短いやりとりを聞きながら、シンは頭を抱えたくなった。
 彼女達の見慣れぬ格好に、聞きなれぬ名前。
 此処は本当で異世界かもしれない。どうしよう。

 「私の名は、西行寺幽々子。ここの主人と言えばいいかしら」

 くりくりとした瞳を笑顔の形に細めてから、西行寺幽々子と名乗った女性は、シンに向き直った。
桜の花びらが舞う中の彼女の笑顔は、まるで絵画のようだ。
 似合い過ぎて、綺麗過ぎて、逆に寒気がする。
 そうかと思えば、「貴方、お名前は?」と、可愛らしい笑顔がずい、と近づいてきた。
 
 シンはドギマギしたが、何とか動揺を隠すために視線を逸らした。
 
 「ぉ、俺は、シン。シンだ。…ところで、聞きたいことあんだけどよ」

 シンは自分の名を名乗ってから、視線を彷徨わせて頬を掻いた。
 
 「此処は、ゲンソーキョーって所にあるハクギョクローなんだよな…」
 
 妖夢は頷き、幽々子は、ええと答える。
それからシンは、ちょっとだけ考えるような仕草を見せてから、うんと頷いた。
 どうやったら帰れるんだ。そう聞こうとしたが、それよりも先に聞くことがあった。
 
 イズナ。

 あいつも、この世界に跳ばされている可能性がある。というか、かなり高いだろう。
 シンの方は無事だったが、イズナの方はどうか分からない。
 帰る前に合流する必要がある。探さなきゃあな。


 「じゃあ、此処のハクギョクローの近くで、俺以外の…えっと、そのガイライジンって他には居たか? 
こう、白い肌で、白い着流し着てて、頭に狐の耳を生やしたオッサンなんだけど…」

 妖夢と幽々子は、顔を見合わせて、首を横に降った。
 シンは、そっか…、と呟き、思案顔になる。
 
 「それは、お連れさんですか?」

 「ああ。俺と一緒に、あの糞野郎に跳ばされたと思うんだけど…どうやら別々の場所に出ちまったみたいだな」

 シンの言葉に、眉を顰めたのは幽々子だった。
 すぅ、と瞳を細めた彼女は、射竦めるようにシンを見た。
 うぇっ!? な、何、幽々姉? と言いながら、シンはたじろいだ。
 幽々姉って…。妖夢はシンに微苦笑を向けた。

 「シン君は、誰かに此処へ…幻想郷へ送られて来たの?」

 幽々子の声は、可憐で澄んだ声だったが、底冷えするような威圧感があった。
 その声音に何かを感じたのか、シンの表情が真顔になる。
 
 「ああ。レイヴンって言ってな。変態なんだが、超強ぇ奴でさ。そいつの術に掛かって、此処に出たんだ」

 連れの名前はイズナっていうだけどよ。シンは言葉を続ける。

「イズナと一緒に、奴の術に掛かったんだ。だから、多分イズナもこの幻想郷の何処かに居ると思うん…だけ、ど…」

 シンの言葉を遮ったのは、幽々子の周囲を凍りつかせるような微笑だった
 いや、微笑みとうよりは、苦笑だろうか。
良かったわね。先に私達の元に来れて。幽々子は呟いて、妖夢に向き直った。

 「シン君を博麗の神社に送って上げなさい。序に、マヨヒガの紫の屋敷に立ち寄って、今のシン君の話を伝えてあげて。
一応、文も用意するから…それも渡しておいて」
 
 儚げな雰囲気からは想像も付かないような威厳のある声に、妖夢は恭しく頭を垂れてから、「分かりました」と堅い声で答えた。

 若干の置いてけぼり感を感じながら、シンはそのやり取りを見ていた。
 何か、大事になりそうな感じだった。そんな風に暢気に思っていると、幽々子と目が合った。
その時には、場を凍りつかせるような雰囲気は無く、優しいお姉さんのような柔らかな笑顔を浮かべていた。
 
 「文を書く間、しばらく中に上がってゆっくりしていて」

 「いや、でもよ…」

 「心配しないで。貴方のお連れさんを探す前に、寄っておいた方が言い場所があるのよ。
博麗神社、と言ってね。大抵の外来の者はそこから帰れるの」

だから、と幽々子は続ける。

「貴方のお連れさんが、この幻想郷の住人に接触していたとしたら、神社の話を聞いて、其処へ向かうでしょうし。
すれ違いには一番なり難い場所だと思うわ」

 「仮に、そのイズナという方が神社に居られずとも、博麗の巫女に話を通しておくことは、決して無駄にはらない筈ですよ。
何より、この幻想郷の管理者、八雲紫様との繋がりがあります」

 妖夢の声が、真剣味を増した。

 「そこで一度、巫女から紫様へ話を通しておいて貰えれば、紫様も、シンさん、及び、そのイズナと言う方へも、無体なことはなさらないでしょう」

「シン君が『外の者』でなく、『異界の者』であって、そのシン君をこの幻想郷に送った第三者が居る…。
紫がそれを看過することなんて無いと思うものねぇ」

 最後の方の言葉は、シンでは無く妖夢に向けられていた。真剣な顔で、妖夢は幽々子の話に頷いた。

 「紫様に目を付けられたら、恐ろしいですからね。シンさんを幻想郷に送った者を知る為に、紫様がシンさんに接触してくるとなれば…」

 友好的に、とは行かない可能性もあります。
 妖夢は言って、険しい表情を浮かべて見せた。
 
 「紫も、普段は泰然としているのに、幻想郷のことになると、急に余裕が無くなるから」

 シンは、自分そっちのけで話が進んでいることに、不満、というよりは不安が募った。
 割と自分は、危ない立場にいる。
シンには二人の会話を聞いている限り、そんな風に思えてならない。
 なぁ。シンは思わず、二人に声を掛けた。
 
 「そのユカリって奴は、何者なんだ?」

 幻想郷の母親、と言えばいいかしら。
 幽々子は言って、簡単に説明してくれた。

 要するに。
 レイヴンは、他人の敷地に俺とイズナを放り込んだ。
 無許可で。勝手に。何を考えているのかも伺わせないまま。
 そしてその敷地には、管理者が居た。
 なら管理者は、まず俺やイズナに、何者か、何が目的なのか、そんな事を聞き 出そうとするだろうし、レイヴンの居所も聞き出そうとするだろう。
 それが、問答無用の力づくで来る可能性も十分にある。
レイヴンが危険な存在ということに同意出来る以上、仮にそうなっても、シンとしても何とも言えない。

 「でも、心配しないで。妖夢に神社まで案内させるし、文も持たせるから。流石にこれなら、紫も手荒な真似もしないでしょう」

 「何でそんな自信満々なんだよ、幽々姉」

 だって私、紫と友達だもの。
 そう言ってウィンクする幽々子が、情けない話だが、シンにはやたら頼もしく見えた。

 シン達は危険視されても仕方無い。
 その結果として戦うのは、なんだか釈然としないし、納得いかない。
 勿論、シン達は幻想郷に対する害意など微塵も抱いていない。
 悪意などあろうはずもない。
 しかし、それを自身だけで証明する術が無い。
 此処の住人から見れば、シン達は余所者。
 しかも、人為的にこの幻想郷に送られて来ている身。
 レイヴンの真意が分からない以上、何故此処に送られたのかはシン達自身も分からないのだ。
 そのシンに、幽々子は妖夢と文を持たせてくれるという。

 「俺が言うのも変だけど…。何で俺やイズナが無害な奴だって信じてくれるんだ…?」

「 信じている、というよりは、こちらの方が余計ないざこざにならないと思ってね。
もし紫が絡んで来るようなことがあれば、閻魔様か、地下に住まうサトリ妖怪にでも協力して貰えば良いんじゃないかしら」

 意外と妙案じゃない、と、幽々子はころころと笑う。それから、妖夢へと視線を向けてから、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「少し話しが長くなっちゃたわね…。それじゃ、文を書いてくるから。お茶とお茶菓子の用意、お願いするわね。妖夢」

 墨と筆と紙で足りるでしょう、と微妙な表情で妖夢は呟いてから、シンに向き直った。
 では、後ほど神社へご案内しますね。
 妖夢のその言葉に頷きながら、シンは「おう、頼む」と答えた。

 シンの脳裏に、イズナの背中が浮かぶ。
 デカイ背中だった。
 心配いらねぇとは、思うんだがな。



[18231] 六話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:13
 長距離を跳ぶ法術や、或いは次元を跨ぐような法術は、本来非常に難度の高いものであり、人類が発達させてきた法力技術においても、まだまだ確立されていない。
 しかし、それは人類に限った話である。
 人類とは干渉しないまま、法術に関して独自に研究、または開発、発見を行っていた者達もいた。
 その内の一人であるパラダイムは、本来ならば侵入することなど不可能とされていたバ ックヤード内部に、人工物が構築されていることを発見した。
また、イズナは長距離の転移、また、バックヤード内に存在する擬似的居住空間、“黄泉平坂”へと次元を渡る力を持っている。
 
 そんな高度な法術を行使出来る筈のイズナは、疲労の色を滲ませた溜息を吐いていた。
 参ったねぇ、こりゃあどうも。
 イズナは薄暗い竹林の中を駆けながら、ぼりぼりと頭を掻いて呟いた。
 その疲れたような声は、駆けるイズナに置き去りにされ、月の照らす薄暗い竹林の中に消えていく。
 背の高い竹の葉がさわさわと揺れ、月明かりに濡れる様は風情があるかもしれないが、生憎、イズナにはそんな景色を楽しむ余裕が無かった。
 
 平衡感覚が狂うような感覚と共に、焦りがイズナの疲労を加速させる。
 
 レイヴンの転移法術に飲まれ、気付いた時には、イズナはこの竹林に居た。
 しかも、シンが見当たらない。人気もまるで無い。
 気味が悪い程静かな竹林だった。

 さっさと此処から出ちまおう。そう思ったところで、不味いことが分かった。
 早くこの竹林を抜けて、状況を確認したいのだが、距離を跳ぼうにもゲートが開かないのだ。
 何かこの竹林に特殊な結界でもあるのか、或いは他に理由があるのかは定かでは無いが、面倒なことになったのには変わりない。

 自分の足で行くしかない。
 オッサンにはきついねぇ。
 嫌そうに顔を歪めてから、イズナは渋い声で呟いた。

 そうして、イズナは竹林を抜けるべく、この薄暗い竹林の中を駆けていたのだが。
 おっかしぃねぇ。
 イズナは不審に思っていた。違和感と言ってもいいかもしれない。
 かなりの距離を走ったはずだが、一向に竹林から抜けられないのだ。
 むしろ、竹林の奥深くに来てしまったような感じすらする。
 いくらなんでも広すぎでは無いだろうか。

 迷ったのか。
 イズナの頭にそんな考えが浮かんだ。

 ふぅむ、と息を吐いてから、駆けていた足を止め、イズナは後ろを振り返った。

 「…此処の竹林の出口ば、こっちで良いのかねぇ?」

 随分前から、イズナは気付いていた。
 竹林を駆けている間に向けられる獰猛な視線と、湿った吐息。
 そして、自身を追ってくる、いや、纏わりつくように付いて来る者の気配に。

 イズナの飄々とした声に答える代わりに、竹林の闇の中からそいつは姿を現した。
 発達した後ろ足二本で立ち上がり、前足は人間の腕のように長い。獣人、そう表現するのが一番しっくりくる。
 獣人の体格は、三メートル程。かなりの巨体だ。上半身が筋骨隆々のせいで、横幅もかなりある。
 顔は獰猛な狼そのものだった。その癖、妙に人間くさい表情を浮かべている。
 笑みだ。見ている者に嫌悪感しか与えない、下卑た笑みを器用に浮かべている。
 歯を剥くようにして、その口の端を持ち上げながら、そいつは、ぐ、ぐ、ぐ、とくぐもった声で笑いながら、肩を揺らした。
 その左の方の肩には、白い着物を着た若い女性が担がれていた。
 気を失っているのか、或いは、もう息がないのか。
 それはイズナからは分からなかった。

 「出口…無い…お前…も…喰う…」

 獣人は言ってから、またぐ、ぐ、ぐ、と笑った。次の瞬間にはイズナに飛び掛って来た。
 獣らしいとんでも無い速度で、イズナを押し潰すような勢いだった。
 鈴の音が鳴った。
 イズナはヒラリとその突進を右側へとかわしつつ、バックステップを踏んで獣人から距離を離した。
獣人の方もすぐにイズナの方を向き直って、ぐ、ぐ、と笑い、涎を滴らせた。
 獣人の肩に乗っている女性が苦しげな声を漏らした。
 どうやら生きているようだ。
 イズナはすっと腰を落とし、刀の柄に手を掛けた。

 「その担いどる娘さんも、食べる気かい?」

 げ、げ、げ、と獣人は笑って、担いだ女性を左肩の上で揺らして見せた。
 
 「…ぐ、ぐ…喰う、喰う」

 獣人の動きは俊敏だった。
 肩の女性を左腕で押さえるなり、右腕を地面につける低姿勢の格好になった。
 後ろ足の二本で立ち上がるような人間に近い体型の癖に、その瞬間は狼のように三本足で地を蹴って、飛び掛ってきた。

 イズナは腰に下げた刀の柄に手を掛けたまま、少しだけ前傾姿勢を作る。
 そして、飛び掛って来た獣人の下に潜り込むようにして素早く踏み込んだ。
 かなりの低姿勢だったが、イズナは難なく抜刀し、獣人にその刃を一閃させた。
 何の音もしなかった。
 無音だった。
 獣人と交差するようにして脇をそれながら、更に刃もう一閃させる。

 ストン、と。
 何かが地面に落ちた。
 獣人はそのことに気付かないまま、脇を抜けていったイズナを振り返ろうとして、バランスを崩した。
地面に倒れこみながらイズナを睨み、そして眼を見開いた。
 イズナの腕の中に、白い着物を着た女性が居た。
 大事そうに抱えられている。

 そこで、獣人は初めて自分の身体の状態に気付いたようだ。
 まず左腕が肩から無い。綺麗に切断されている。どばどばと派手に血が出ている。
 見れば、地面に転がっている毛むくじゃらのごつい棒みたいなものは、獣人の左腕だ。
 ついでに、獣人の右脚にも、鋭い斬り傷があった。

 獣人はイズナを見上げる格好で、唸ろうとした。だが、出来なかった。
 イズナが笑みを浮かべながら、こちらを眺めていた。
 その眼が、尋常では無い物騒さを宿していたからだ。
 獣人は一瞬で飲まれた。圧倒された。視線だけで、押さえ込まれた。

 イズナはその眼をすっと細めてみせた。
 まだやるかい?
 相変わらず飄々としたのんびりとした声だったが、それだけに獣人には恐ろしく響いたことだろう。
 獣人は弾かれたようにイズナに背を向け、転がるようにして、いや実際には無様に転びながら、竹林の闇の中へと消えていった。


 人喰いの化生とは、物騒だねぇ…。
 呟きながら、獣人の背中が見えなくなるのを待ってから、腕の中にいる女性へと視線を落とした。
そこでイズナの表情に、今まで以上の焦りが浮かんだ。
 女性の顔色は、悪いどころか真っ青だった。
 呼吸に乱れは無いが、酷く浅い。苦しそうに顔を歪めている。

 こりゃあ不味いっちゃ。

 イズナはその場に女性を寝かし、その前で印を結ぶ。
 黄色い光が漏れ、その女性の身体を包んだ。
 肉体を活性化させる法術だ。
 応急処ではあるが、無いよりはマシだろう。
 女性の苦しそうな表情が、微かに柔らいだ。

 イズナは辺りを見回して、顔を顰めた。
 
 「しつこいねぇ。今は忙しいけん…。後にしてくれると、助かるんだけどねぇ…」

 竹林の闇から、そいつらはぞろぞろ出て来た。
 さっきの獣人と同じような、獣人間みたいなのが、10匹程。
 急激に辺りに生臭い匂いが立ち込める。血の匂いだった。
 獣人達はそれぞれ、鶏だの豚だのを担ぎながら、ときおりそれに噛り付きながら、イズナ達を取り囲んだ。
 その中に、先程左腕を切り落とされた獣人も居た。
 恐らく仲間を呼んできたのだろう。
 喰う。喰う。ぐ、ぐ、ぐ。喰う。
 獣人達は皆、涎を垂らしながら肩を揺らしている。
 すぐにでも飛び掛って来そうだ。竹林の中に吹いた緩やかな風が、血と獣の息遣いに染まる。
 
 イズナが横たえた女性が、苦しそうに呻いた。
 
 「…悪いねぇ。急ぐんで、ちょいと加減をしかねるっちゃよ…」

 イズナの瞳が窄められ、その手を刀の柄に掛けた。
 無益な殺生はしたくないが、襲ってくるなら仕方ない。痛い目見て貰うことになるが、勘弁してもらおう。
イズナは柄を握る手に、僅かに力を込める。

 イズナとの睨みあいに痺れをきらしたのか。
 獣人達が、一斉に踊りかかってきた。

 早いところ、この娘さんを医者に診せにでもしねぇとねぇ。
 そう思いながら、イズナが刀を抜こうとした時だった。

 赤い光が、獣人達を襲った。
 それは、ビームと言っていい。太いビームがなぎ払うように獣人達を薙いだのだ。
 三匹程がそのビームに焼かれ、地面をのたうち回った。
 明らかに、獣人達が浮き足だった。その隙に、イズナは女性を抱えてその場から離れる。
 獣人達はイズナ達を追おうとしたが、それを、今度は赤い光を纏った白い弾丸の束が阻んだ。
弾丸の束、というよりは、弾幕という表現が正しいだろうか。

 「最近、竹林で悪さをしてる妖怪っていうのは、貴方達ね!」

 その弾幕が飛んできた方から聞こえてきたのは、凛とした声。
 若い娘の声だった。イズナがそちらに視線を向けると、彼女はちらりとこちらを向け、間に合ったみたいですね、と呟いた。
 ブレザーの制服のような服装に、兎の耳が特徴的な美しい少女だった。
 少女は左手をピストルのような形に構え、それを獣人達に向けている。
ただ、指先を向けているだけのようにも見えるが、先程の弾幕とビームをこの少女が放ったと考えるなら、あのピストル型に握った手も、何か意味があるのだろう。
 獣人達は、今度はあの兎耳の少女に眼をつけたようだ。
 今度は奴らも警戒したのか。
 無事だった七匹の獣人のうち三匹が、ジグザグな動きで兎耳の少女に突進していった。残りの四匹は、二匹ずつに分かれて、左右から兎耳の少女に襲い掛かった。

 兎耳の少女が大きく後ろに跳び退った。獣人達はその動きを追った。
 獣人達の動きは速い。すぐに少女は捕まった。一匹の獣人の爪が、兎耳の少女の胴を切り裂いたかに見えた。違った。幻影だった。
 獣人達は混乱し、キョロキョロと辺りを見回した。その時間が致命的だった。
 そこでイズナは見た。
 本物の兎耳の少女は、獣人達の上だった。兎耳の少女は、既にピストルを撃つように手を構えている。
幻影を創り出した瞬間には、上へと跳んでいたのだ。
 獣人達は、少女を見失い、完全に混乱している。そこへ、少女は指先を向けた。
 その少女のピストル――指の先から、巨大な白い弾丸が放たれた。
 赤い光を纏ったそれは、獣人達が集まるその中心辺りの地面に打ち込まれ、真っ赤な光の爆発が起こった。

 強い風が起こり、ざわざわと竹を揺らす。竹林の闇の中を、赤い光が染める。
 ついでに、獣人共は爆風で散り散りに吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられ、竹をへし折りながら転がっていた。

 「新参者か何か知らないけど、これに懲りたら二度とするんじゃないわよ!」

 兎耳の少女は、獣人達に怒鳴りつけた。
 先程の閃光の爆発が利いたのだろう。獣人達は慌てて起き上がって、竹林の奥へと逃げ帰って行った。
 まったく、と不機嫌そうに呟いて、兎耳の少女はイズナに向き直った。そして、心配そうな表情で、こちらに駆け寄ってきた。

 「大丈夫でしたか? お怪我は?」

 「いんや、オイは大丈夫さね。それより、この娘さんの方が大事っちゃ!」

 兎耳の少女は、イズナに抱き上げられている女性に眼を向けると、真剣な表情で一つ頷いた。

 「私の住む所に診察所がありますので、こちらに!」

 「こ、こんな竹林の中に?」

 イズナは素っ頓狂な声を上げてしまったが、兎耳の少女の少女はイズナに背を向け、走り出した。

 「話は後です! 付いて来て下さい!」

 イズナは兎耳の少女の気迫に押される形で、頷き、女性を抱え上げながらその後ろ姿を追った。








 その建物は、竹林の奥深くに隠れるように建っていた。
 屋敷、と言って良いだろう。
 日本風のその屋敷は、新しく建てられた、という様子でも無いが、古びた様子もまるでしない。まるで時が止まっているかのような、不思議な感覚をイズナに与えた。

 その兎耳の少女は屋敷につくなり、その屋敷の中にどかどかと駆け込んで行った。
 それからすぐに戻ってきて、こちらへ! と言われ、その屋敷の中へと招かれたのだった。


 イズナは今、その屋敷の客間であろう、上品な雰囲気が漂う四畳半の和室に居た。
 畳みの香り。そして静寂。
 その和室にあるのは、高級そうな壷と掛け軸、そして柔らかいな紫色の座布団のみ。
 飾り気のまるで無い質素な空間だったが、不思議と心地よい。

 先程、女性の診察が終わるまで、此方で待っていて下さい、と兎耳の少女の少女に言われ、断る間もなく、この客間へと案内されてしまったのだ。
 イズナは座布団に胡坐を描いて座り、腕を組みながら、むぅと唸った。
 
 まず、此処は何処なのか?
 あの少女の耳は一体?
 それに、先程少女が言っていた『妖怪』、という言葉も気になる。
 イズナ自身も、妖怪というものには縁のある存在だ。
だが、先程見た獣人達は、どうも自分の知る『妖怪』とは、何処か違うように思えてならない。
 
それに、この建物。
 まるで、日本人のコロニー。或いは、黄泉平坂そっくりの雰囲気だ。
 そして、シンだ。別々の場所に跳ばされてしまったのだろう。
 シンは何処なのか。
 此処は何処なのか。
 疑問は、結局はそこに行き着く。


 まぁしかし。イズナは顔を渋そうに歪める。
 あの娘さん、大丈夫かね。大分苦しそうだったし、何か病気だったのかもしれん。
 怪我は無かった筈なんだどもねぇ。

 「失礼します」
 イズナが頭の中で呟いた時、その背後ですっと襖が開かれた。
 イズナは刀の柄に手を掛けそうになり、思い留まり、それからゆっくりと振り向いた。

 「彼女、もう大丈夫ですよ」
 
 そう言って、客間に入って来たのは、先程の兎耳の少女の少女。
 そして、赤と青の看護服を纏った、銀髪の美女だった。
二人の美女が突然現れ、花が咲いたようにその和室が華やかな雰囲気に包まれ、イズナは少々居心地が悪くなった。
 イズナは居住まいを正しながら、振り向きながら立ち上がる。
 
 「そりゃあ、何よりだ。オイも助けて貰ったし、すまんねぇ」

 イズナの言葉に、「いえ、大したことはしていません」とはにかむように言って、兎耳の少女は、「お掛けになって下さい」と続けた。
 言葉に甘え、イズナは再び座布団に腰を下ろす。次いで、二人もイズナの前に正座した。

 「彼女の意識もすぐに回復されるでしょう。今日はもう夜も深いですし、この部屋に泊まっていかれてはどうでしょうか?」

 そう言ったのは赤と青の看護服を纏った女性だった。
 どうやら、イズナのことをあの女性の連れだと思っているようだ。
 イズナはううん、と唸って、首を振った。

 「あいや、オイはあの娘さんの連れじゃあないんよ。なんちゅうか、成り行きで…」
 
 イズナは説明した。
 気付けば、この竹林にいたこと。
 さ迷っているうちに、獣人達に出会い、その獣人達から娘を助けたこと。
 そして、そこで兎耳の少女に出会ったことを。
 その話を聞いていた赤と青の看護服の女性と、兎耳の女性は、なんとも微妙な表情で溜息を付いた。

 「外来の方でしたか。私はてっきり、麓の妖怪の方が、竹林の案内の手伝いを始めたのかと思いましたよ。
妖怪達からあの女の人を守ろうとしてたので、てっきり…」

 兎耳の少女は言って、苦笑を浮かべる。
 それから二人は、イズナに自己紹介を兼ねて、この世界のことを簡単に説明してくれた。

 イズナの事を『外来の者』と呼んだ兎耳の少女の方の名は、鈴仙・優曇華院・イナバ。
 赤と青の看護服の女性の名は八意永淋という。

 そして、此処は幻想郷という、結界で隔離された世界なのだそうだ。さらに、この幻想郷の結界の外は、『日本』であるという。
それが本当ならば、つまり此処は、今までイズナ達が居た世界では無い。平行世界、異世界、そんな類の場所だ。
 イズナの知る世界では、既に日本――ジャパンは消滅しているのだから。

 イズナは再び渋い顔で唸る。
 シンもこの世界に来ているとしたら、探すのはかなり骨が折れそうだ。シンには落ち着きが無い。
そこらじゅうを歩き回り、余計に迷子になっていくタイプだ。長い間、シンと一緒に旅をしてきたイズナは、参ったねぇ、と呟いた。
 この呟きのも何度目だろうか。

 永淋が思案顔のまま、左手で自分の唇を触れながら、ふむ、と頷いた。

 「最近は外来の者が多いわね…」

 呟いた永淋の表情は、曇っている。

「何か…気になることでもあるんですか、師匠…?」

 鈴仙はその永淋の言葉に、どこか不安そうに尋ねた。イズナも、永淋へと視線を向ける。
 永淋の表情は、不安というよりも、どちらかというと疲れだろうか。
 いえ、なんでも無いわ。ただ、イズナさんが外来の者なら、まずは神社に送って差し上げた方がいいでしょう。
 そう言って、永淋はふぅ、と一息吐いた。

 「『異界』に帰るなら、妖怪の賢者の協力も必要でしょうしね」

 永淋の言葉に頷き、イズナは「そりゃあ助かります」と頭を下げた。

 「『外』に出るだけじゃ駄目なんですね。イズナさん場合は」

 鈴仙と目が合い、すんまそん、とイズナはふにゃっ、と笑う。
 鈴仙も、そのイズナの表情を見て、可笑しそうにくすりと笑った。
 「『異界』からの外来人に関して言えば、今日の昼間もね…神社で一騒ぎあったのよ。
何でも、炎を吹き出す剣から、男が出て来た、なんて言いながら、魔理沙が診療所に飛んでくるんだもの」

 まったく、と首を緩く振って、永淋は鈴仙に答える。
 
 「私が神社に行った時には、もう私が出来ることなんて無かったけど…。彼も『異界』の住人みたいだったわ。
少なくとも、『外の世界』の住人では無かったわね。一応明日の朝、彼の様子を見に私も神社に行くつもりだったから…
その時に、一緒に神社に参りましょう」


 途中から、永淋は鈴仙ではなくイズナへと視線を向けながら言葉を紡いだ。
 
 だが、イズナは途中から話を聞くどころでは無かった。
 
 剣。炎。男。
 イズナは、眼をきつく閉じて腕を組み、レイヴンの言葉を思い出す。

 封印は解いた。
 奴はもう向こうだ。

 そしてもう一度永淋の言葉を反芻する。

 炎を吹き出す剣から、男が出て来た。

 イズナは、永淋にガバっと向き直り、その肩を両手で掴んだ。
 永淋はびっくりしたような表情を浮かべて、身体を硬直させた。
  真剣そのものの顔で、イズナが「そ、その男…」と言った瞬間、横合いから強烈なビンタが飛んできて、「ぶっ!?」イズナは畳みの上に転がった。
 
 「し、師匠にいきなり何するんですか!?」

 見れば鈴仙が顔を赤くして、掌を振りぬいていた。
 イズナは頬をしきりにさすりながら起き上がる。おお、いてぇ。
永淋の方は、「何もビンタすること無いじゃない」と鈴仙を宥めてから、イズナに向き直った。
先程、イズナが言いかけた言葉を待っているのだろう。
 ごめんねぇ、変な気を起こした訳じゃないんよ。ちと答えを焦っちまって。
 イズナはそう言って、鈴仙に謝ってから、永淋へと向き直った。
鈴仙の方は、「ごめんなさい。わたしもびっくりしちゃって…」と小さくなって、俯いていた。

 「さっきの話なんだけども、その男…。目付きが悪くて、茶髪で、ついでに大柄で…」
 そこでイズナは言葉を切って、宙に指で五本の線を書いた。
 縦に長く一本。
 その線の両横に斜め45度に、一本ずつ。
 そしてその三本線を支えるように、短く二本。
 
 ギアの刻印。

 「こーんな、刻印が額にあったりして…」

 鈴仙が、?マークを頭に浮かべながら、イズナの話を聞いている。
 しかし、イズナは永淋が頷くのを見て、再び参ったねぇ、と呟いた。



[18231] 七話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:14
 もうどれだけ時間を跳んで、どれだけの時間を戻っただろうか。
 ある時は海の上、ある時は聖戦の戦場の真っ只中、またある時は誰も居ない絶海の孤島。
 もうどこに出ても驚かない。
 そう思っていたし、実際、何処に出てもビビることは無かった。
 恐竜時代に跳んだ時に比べれば、どんな時代でも屁の河童だ。
 もう怖いものなんて無い。
 どこに“跳んで”も、笑い飛ばしてやるさ。
 そう思っていた。

 だが、今回“跳んだ”場所は、今まで経験したことのない異様さを感じさせた。
 
 「何だ、此処…」
 思わず心細い声が漏れた。
 アクセルは呆然としながら、赤い色をしたやたらと広い廊下に座り込んでいた。


 おぼろげな記憶を辿ってみる。
 アクセルは辺りを見回して、顔を顰めた。
 確か自分は、久しぶりに大物の賞金首を捕まえて、多額の懸賞金を手にした筈だ。
 そして、いつ“跳んで”も良いようにその懸賞金を宝石、金などの貴金属に換えた。その後は、残った金を使ってバーで酒をしこたま飲んで、黴臭い安宿のベッドで寝ていたはずだ。

 それがどうだ。
 この広い廊下には、そんな安宿のボロさなど微塵も無い。
 高級感漂う調度品が並ぶ様は、一種美術館のようでもある。

 明らかに、“跳んで”いる。
 アクセルは自分の体質に舌打ちしながら立ち上がる。
 寝てる間にタイムスリップとか…笑えねぇっつーの。
 呟いて、アクセルは頭のバンダナをぎゅっと締めた。
 出来る限り、アクセルは愛用の鎖鎌を手放さない。
常に手の届く場所に置いておく癖が自然とついた。丸腰のままタイムスリップすることになれば、出る場所、時代によっては危険どころの話ではなくなるからだ。

 アクセルは酔っていても、いつも棍棒状態の鎖鎌を握ったまま寝る。
 今回は、その癖の御蔭で助かった。
 傍らに転がっている、己の命綱。
そして、半身であり、相棒でもあるその愛用の鎖鎌を拾い上げて、アクセルはため息を吐く。
棍棒状態の鎖鎌を、感触を確かめるように握り直した。

 さっきの時代は微妙に進んでるっぽかったけど…今度はどの時代よ?
 洋館か何かの建物の中に自分は居るらしい。
 そこまで思い、アクセルの背中に微かな悪寒が走った。
 眼が悪くなりそうな程に真っ赤な壁紙と廊下の絨毯。
 天井も赤で統一され、廊下に設置されている古めかしいランプがなければ、まるで血管の中にいるような錯覚を覚える事だろう。

 何か…変なトコに出ちまったな、おい…。
 流石に心細げに呟き、アクセルは取り敢えずその広い廊下を進んでみる。
 建物の中に跳ぶなんて、マジでツイてないぜ。壁にめり込んでたりしたら洒落になんねぇんだから。やだなぁ、もう。
 
 怖さを紛らわせるようにぶつぶつと言いながら、アクセルは足早に廊下を進む。
 薄暗い廊下はやはり不気味であり、建物の内部に無断で侵入しているのだから、ここの住人と鉢合わせになることも避けたい所である。
 足音を立てないように、忍び足で長い廊下を歩きながらアクセルは嫌な汗が出てくるのを押さえられなかった。
 建造物の中に跳ばされた経験は今までも何度かあったが、この屋敷の雰囲気は澄んでいるのに怖気を誘うような、一種異様な空気を漂わせている。
 その異様な空気の一つの要素として、窓が見えてこない事にアクセルは気づいた。
 廊下を結構な距離を歩いているにも関わらず、窓が見当たらない。
これだけ立派な廊下なのだから、日光を取るために窓位あってもおかしくない筈だ。
おかげで、今が夜なのか昼あのかもわからない。

 窓の一つでもありゃ、そこからオサラバ出来んだけどな。まさかホントにお化け屋敷か…。
 キョロキョロしながら、さらに、しばらく廊下を進んでいくと、開けたフロアに出た。
 そこは玄関ホールのようで、フロアの中央には二階に続く大階段があり、正面には立派な両開きの扉があった。
 豪奢なシャンデリア、そして調度品も飾られており、その両方に精巧な意匠が凝らされ、アクセルにも一目でこの建物が高貴なものであると分かった。
 正面扉の上には光取りの為か、小ぶりな窓が二つ並んでいる。その窓から日光が射していない所を見ると、現在はどうやら夜らしい。

 この赤色一色なのは、ここの人の趣味なのかねぇ。

 小声で呟きながら、アクセルは扉へと歩み寄っていく。
 まずは外に出て、此処が何処なのか、何時の時代なのかを知りたい。
 というよりも、何よりこの異様な館から早く立ち去りたい。
 足早にその扉へと向かう。

 「外に出たら、いきなりフランケンシュタインとか、ゴーストが出てくるってのは無しにてくれよ~…」
 此処が玄関ホールなら、此処から外に出られる筈だ。
 長居は無用。お邪魔しました。

 「そういうあなたは、一体どちら様で?」
 そう思った時、底冷えするような冷たい声がアクセルの耳に届いた。
 ビックゥ、と背中を伸ばし、アクセルは硬直する。
 恐る恐る振り返り、アクセルはぎこち無い笑顔を浮かべた。

 アクセルから10メートル程離れた大理石の床、そこに一人のメイドが居た。

 蒼色のメイド服に、フリルの付いたエプロンを纏い、肩の辺りで切りそろえられた、銀髪が眩しい美少女であった。

 今まで、全く気配を感じなかった。
 いつの間に。

 状況が状況でなければ、間違いなく声を掛けただろう美少女の刺し殺すような視線に、アクセルはたらたらと冷や汗を流す。
 普通、不審者を見た女性といえば「キャア!」とか、「だ、誰ですか!?」とか、か弱そうな悲鳴を上げるものだろう。
しかし、アクセルの目の前に居るメイドにはそんな空気が一切無い。
逆にアクセルが悲鳴を上げたくなるくらい、その視線が恐ろしい。
 恐らく、このメイドは「普通」ではない。不審者など歯牙にもかけない程度には。
 
 アクセルは顔を引き攣らせながら、愛想笑いを浮かべる。

 「えぇと、俺はその…あ、怪しい者じゃ無くてですね…」

 「ほう…手に鉄棍を持って、夜中に他人の屋敷の中を徘徊する男が怪しくないと?」

 顔を強張らせながら目の前のメイドに説明を試みたが、無駄だったようだ。
 腕を組みながらアクセルを睨みつけるメイドは、その視線をアクセルの持つ棍棒にむけて、一層冷たい言葉を紡ぐ。
 しかし、実際、アクセル自身も好き好んでこんな場所に居るわけではない。
 何とか弁明しようと、アクセルは再び、身振り手振りで説得を試みる。

 「あいや、でも、俺様ってばホントに気づいたらこの建物の中にいたんだよ! 
盗人なんかじゃ無いって! その証拠に何にも盗んだりもしてないし、出口を探してただけなんだ!」

 両手でバタバタとジャケットを大げさに揺すり、何も盗んだりしていない事をアピールして身の潔白を証明しようとするが、メイドの視線は以前鋭いまま。
 そこで、最悪の事態が起こった。
 アクセルのジャケットから、カランカラン、と金属音を上げて、何かが地面に零れ落ちた。
アクセルは笑いそうになった。それは、宝石、というか指輪だった。
賞金首を捕まえた時の懸賞金で換えた、飛び切り高価なダイヤの指輪だ。
それを見たメイドの眼が、刃物みたいに細められた。

 「そ、そうだ! 俺様、きゅ、急用があったんだ。ど、どうもお邪魔し――」
 不味いと思ったアクセルは、指輪には気付かないふりをして、ゆっくりと扉に手をかけた。メイドに背を向けた時だった。
 何かが風を切る鋭い音が聞こえ、アクセルは咄嗟に振り向くと同時に、バックステップで飛び退りながら、手にした棍で飛んできた何かを弾いた。

 金属同士がぶつかった甲高い音が聞こえ、バラバラと何かが床へと落ちる。
 何が飛んできたのかを確認するため、チラリと足元とその周りに視線を落とすと、そこには銀色に輝くナイフが落ちており、鈍い光を放っていた。
 ただ、どのナイフも刃の部分は潰されており、柄の部分には「御仕置用」と刻まれていた。
 だが、今はそんなことはどうでも良かった。

 「まさか全て弾くとは。ただの不審者というわけでは無さそうですね」

 その声に視線を戻すと、そこには両手の指一杯にナイフを挟み、仮面のような無表情を浮かべてこちらを睨みつける銀髪のメイド。
 その瞳は、ひたすらに冷たい。
 感情を凍らせたような視線だった。
 冷酷。そんな印象を与える瞳。
 
 「ご安心を。生憎、手持ちのナイフは御仕置き用しかありませんので、刃がついておりません…」
 メイドは氷の瞳で呟き、指に挟んだナイフを揺らした。
 御仕置き用のナイフ、とはどういう意味なのかわからない。
だが、刃がついてなくともまともに食らえば相当やばそうではある。安心など出来るわけが無い。
 
「待って! 話せば解る!!」
 アクセルのそんな言葉が、あの氷の瞳を前に何の意味があるだろう。
叫びもむなしく、メイドは後方に飛び退り、しなやかに腕を振るい数十本のナイフを放った。
涙目のアクセルにふり注ぐナイフの雨。
 銀色の帯を引くナイフの刃は、アクセルに強烈な死の予感を呼び起こす。

 「うひぃ!?」
 アクセルは手にした棍でナイフを弾きながら、数回バックステップを刻んでナイフ弾幕をかわす。視線をメイドに向けるとさらに腕を振るい、ナイフ弾幕をこちらに向けて放っていた。
 ナイフ弾幕が濃く、広くなり、アクセルに迫る。

 「くっそ! しょうがねぇ!」
 アクセルは手にした棍を横一文字に構え、両腕で棍を引き伸ばすように腕を広げる。
その動きに応えるかのように棍が中心で割れ、二つに分かれた棍の間に鎖が現れる。そして、其々二つの棍の先には鎌状の刃。
 一瞬で棍を鎖鎌へと変化させたアクセルは、壁を作るかのように鎖鎌を目の前で回転させる。
 旋鎖撃。
 金属がぶつかり合う高い音と、火花が散りまくった。
 高速で回転する鎖でナイフ弾幕を弾きながら、アクセルは視線を辺りに巡らせる。

 どうにかして逃げられねぇかな…。
 相手は女性であるため、自称紳士であるアクセルとしては余り戦いたくない。
 戦う理由も無い。逃げるが勝ちだ。だが、如何せん相手が強すぎる。
 普通なら背を向けて全力疾走で逃げ出せば終わりだ。
 普通ならばだ。
 ただ、そんな隙がこのメイドにはまるで無い。

 下手をすれば殺されそうだ。
 それに、ここは屋内。
 再び扉から逃げ出そう背を向ければ、たちまちナイフで針鼠のようにされてしまうだろう。

 どうするかね…。
 アクセルがそんな葛藤をしながらナイフ弾幕を捌いていると、メイドの攻撃が不意に止んだ。静寂。いや、キチリ、とメイドがナイフを握りこむ音だげ微かに響いた。メイドのその眼には好奇心の色が濃く浮かび、腕を組みながらこちらの出方を伺っている。

 アクセルは鎖鎌を手の中で揺らし、苦い笑みを浮かべる。
 
 「棍を用いた棒術と、鎖鎌を用いた鉄鎖術。
その二つを瞬時に使い分ける為の超高速の錬金術、と言った所ですか…中々の腕前ですね」

 指にナイフを挟み、それを揺らしながらメイドはアクセルの持つ鎖鎌へと視線を向ける。

 「お姉さんのナイフ捌きも相当なもんだよ。惚れちゃいそうだ」

 アクセルもメイドの持つナイフに視線を向け、引きつった笑顔を浮かべる。

 そのアクセルの様子に、フッと微かに息を吐くように笑い、メイドは両腕を広げた。
 手には大量のナイフ。薄暗がり中でなお銀色に輝くナイフが、静かに揺れる。

 では…こんなのは如何でしょう…。
 メイドの少女は、冷気そのもののような声で呟いた。
 
 アクセルは鎖鎌を構えざるを得なかった。
 身の危険というか、命の危険を感じさせる声だった。
 メイドが一際大きく腕を振るうと、再び大量のナイフが放たれ、アクセルに牙を剥く。
だが、先ほどとは違いナイフ一本一本の軌道がバラバラであり、まるで出鱈目な方に放たれたナイフもある。

 「ただナイフをばら撒いても、俺様にゃあ…って、おわっ!?」

 飛んでくる刃無しナイフを鎖鎌で弾き、軽口を叩いていたアクセルの頬を、背後から飛んできた一本のナイフが掠めて行く。
 
 峰打ちです。
 冷たい声がした。
 ナイフをかわした瞬間、メイドの少女の姿がすぐそこにあった。
 アクセルの右隣だ。
 刃無しのナイフを振るおうとしている。
 
 アクセルは鎖鎌の柄でそのナイフを弾き、跳び退る。
 だが、メイドの追撃は速かった。すぐさま追いつかれた。
 両手にナイフを握ったメイドは、僅かに体勢を縮めた。
 
 傷魂、ソウルスカルプチュア。
 その声に、アクセルは、やべぇ、と呟いた。
 次に瞬間には、斬撃の弾幕がアクセルを襲った。
 いや、メイドの言葉を借りるならば、峰打ちの弾幕だろうか。

 赤い閃光を残すような、ナイフによる連撃。
 速すぎて、メイドの両手が霞んでいる。というか、ぶれまくって見えない。
 消えているようにすら見える。
 メイドはナイフを振って、振って、振りまくった。
 しかし、アクセルも負けていなかった。

 鎖鎌の柄、鎖を用いて、メイドの斬撃を捌き、かわし、弾き、受け止め、絡めとり、逆に、メイドの手からナイフを奪い取った。
 
 メイドは舌打ちをしてからバックステップを踏みながら、腕を振るった。
 ナイフ弾幕が放たれる。アクセルは唇を舐めて、奪ったナイフ地面に落とし、その弾幕を弾き、かわす。

 その瞬間だった。
 強烈な感覚だった。
 まるでタイムスリップする寸前のような、自分が世界から切り離されるような感覚が、 アクセルを襲った。
 時間から切り離され、世界に自分だけが取り残されたような。
 世界が色を失うような。
 違う時間に迷い込んだような。

 違和感。

 「…ぇ」

 間抜けな声が出た。
 アクセルがはっと我に返った瞬間。
 ナイフの檻が、アクセルを囲っていた。
 何も無い空間に、突然ナイフが現れた。
 そう表現するしかない。

 アクセルは舌打ちをしながら、鎖鎌を構え直す。

 キン、キン、キン、キン、キン、キン、キン、キン…!

 ナイフ同士が反射し合う不気味な音と、軌道を変える刃の雨。
 アクセルの周囲の空気を切り裂きながら、金属がぶつかる音と同時だった。
 ナイフが360度全てから襲い掛かってきた。

 アクセルもただ針鼠にされるわけにはいかない。
 刃の無いナイフとはいえ、これだけの数を食らえばただでは済まない。
 アクセルは鋭く息を吐いて、鎖鎌を舞わせた。
 反射し合い、非常に予測し辛い軌道で飛んでくるナイフ全てを、鎖鎌をヌンチャクのように振り回し、その悉くを弾き、捌いていく。

 だが、アクセルが飛び道具を捌いている間にもメイドの攻撃は止まない。
 メイドがさらに六度、大きく両腕を振るった。
 そこから放たれた大量のナイフは、軌道のバリエーションと弾幕の密度を一気に増やしていく。

 何だこのナイフの数…!。

 今更だが、アクセルは呟く。
 いや、数もやばいけど、飛び方がやばい。
 なんであんなゆっくり飛んでんだよ。極めつけはナイフが空中で止ってる。

 アクセルは驚愕しながら、弾幕を捌く。
 そこで気付いた。

 アクセルが捌いているナイフ弾幕の他に、まだ在る。
 弾幕を弾幕で包んでいる。そう表現した方が正しいだろうか。
 まるで時を緩めたようにゆっくりと迫るもの、回転しながらその場に停滞するもの、そして先ほどのように反射し合い飛来するものなど、軽く200本を上回るナイフの網。

 それが、ナイフを弾いているアクセルの周囲に張り巡らされている。

 終わりです。メイドの少女の声が、冷たく響いた。
その言葉が合図だったのか、ナイフの網が不気味に脈打ち、不揃いな波状攻撃がアクセルを襲う。
周囲すべてをナイフで囲ったこの包囲弾幕に逃げ場は無い。

 アクセルは逃げなかった。
 変わりに、大きく腕を振るい、鎖鎌を展開させた。
微かな炎を纏った鎖鎌は、まるで生き物のように広がり、アクセルを包むように奔った。

「手加減してくれよ…!」

 メイドは眼を疑った。
 アクセルに放たれたナイフは鎖鎌、正確には有り得ない程に伸びた鎖部分で、全て受け止められていた。鎖鎌の鎖部分が伸び、その鎖がまるでアクセルを包むようにドーム状に幾重にも張り巡らされていたからだ。
 それはまるで鎖の結界。その鎖の一つ一つの穴にナイフが受け止められており、アクセル自身には傷一つ無い。

 アクセルは、とてつもない長さに伸びた鎖鎌をヌンチャクのように軽々と振るい、受け止めたナイフを一気に払い飛ばす。

 メイドは素直に驚いたらしく、若干の賞賛を込めた冷たい瞳でその光景に見入った。

 「これほどの使い手だったとは…驚きです」

 「ふ~…そっくりそのまま返すよ、その言葉」

 苦笑を浮かべながら言葉を返すアクセルに、メイドの表情の瞳がすっと細められた。
 アクセルの「焦っているようで、どこか余裕がある」、そんな雰囲気が気に入らないのか、メイドは細めた瞳を、さらに窄めてみせ、今度はナイフではなく何か札のようなものを懐から取り出した。

 メイドの纏う空気が、さらに温度を下げていく。
 鎖鎌を構えなおすアクセルに視線を向けながら、メイドは面白くなさそうに口を開く。

 「では、お褒めいただいたお礼に…これを使わせて貰います」

 ドライアイスの煙のように冷たいその言葉に答えるように、メイドの周り、その何もない空間に数え切れぬ程のナイフが現れ、その切っ先が全てアクセルに向けられる。
 メイドはさらに片手にナイフを構えながら、もう片手にある札らしきものに視線を移した。
メイドが何か、呪文を唱えるように呟いた次の瞬間だった。

 「…うあ!!?」

 突然だった。
 急過ぎる。

 いつの間にかアクセルの目の前にナイフの弾幕が迫っていた。
 まったく認識できない内に、眼前に突然現れたナイフの壁。
 鉄鎖による防御が間に合わない。

 死んだ。
 アクセルは本気でそう思った。
 だが、そう思うよりも先に、人間離れした反射神経がアクセルの身体を突き動かした。 
 鎖鎌を身体に巻きつけるように回転させながら、上へと飛び上がる。
鎖鎌の柄と、鉄鎖の部分で何とかナイフを弾くことで致命傷は免れたものの、何本かのナイフはアクセルの身体を強かに打ち据えた。

 刃が潰されているおかげで切り裂かれることは無かったが、かなり強烈だった。
 空中で体制を整える事も出来ず、そのままアクセルは床に叩きつけられた。
 その無様な姿を見ながら、メイドは再びナイフを構える。

 「イテテテ…くそ、かっこ悪ぃな」

 アクセルが視線を上げると、メイドの周りに浮かぶ大量のナイフが眼に入った。
 まるで装填されたミサイルのように、こちらを静かに睨んでいるナイフを見て、アクセルは力無く笑う。

 だって、ナイフが空中に浮かんでる。
 さっきもそうだったけどさ。
 今度は目に見えるナイフ全部だ。
 しかも凄い数だ。

 そのどれもが切っ先を自分に向けているのだから、笑うか、ちびるしかない。
 ちびるのは流石にどうかと思ったので、取り敢えず笑っておいたが、メイドの顔は怖いままだ。 

 「びっくりしたぜ。お姉さん、何かマジックでも嗜んでんのかい?」

 「それに答える必要はありません。それより、何故…いえ、まぁいいでしょう」

 メイドの冷たい表情が、微かに曇った。不審。不可解。そんな感じに、唇を微かに歪めたのだ。
その表情に少しの違和感を覚えながら、アクセルは鎖鎌を構えながら立ち上がり、メイドに対峙する。

 しっかし、トンでもねぇ攻撃方法だ。
 何も無いところからナイフ攻撃を仕掛けられた。その事を思い出し、空間か何かを弄るような手品が使えるんだろう、とアクセルは当りをつける。

 「…こんなヤバイ所に迷い込んじまうなんて、ツイて無ぇな俺も…」

 小さく呟いたつもりだったが、メイドには聞こえたようだ。

 「まったくですね」

 メイドは事務的な口調でアクセルに告げると、さらに構えたナイフを空中にばら撒いた。

 殺人ドール。冷たい声が紡がれた。
 再びナイフの弾幕網が張られ、アクセルの逃げ場は完全に防がれる。
 この状態で、先ほどの様に妙な攻撃をされれば、間違いなくかわしきれない。
 メイドの方も、さらに追撃用にナイフを手の指に携えている。
 次の一手で狩るつもりなのだろう。
 鎖鎌を構えるアクセル。その目の前でメイドがふわりと宙に浮き上がり、アクセルは驚きの表情を作ったが、すぐに困ったような笑顔で後頭部をかいた。

 「ちょっと…ど~んだけハイスペックなのよ、お姉さん。まぁ、空飛ぶメイドさん、ってのも中々オツなもんだとは思うけど…」

 アクセルを囲むナイフの群れに、刺すような視線を巡らせてから、メイドは初めて笑みを浮かべた。いや、笑み、というよりも嘲笑か。

 「それほどでも…。刃は潰してありますので、運が良ければ死にはしないでしょう。後ほど、聞かなければならないこともありますし」

 軽口を叩くアクセルを囲んでいたナイフが、渦を巻く。

 アクセルはメイドのその言葉に、眼を鋭く細めた。

 「運が良ければ死にはしない、ねぇ…」
  
 見下ろすメイドの視線を受け止めながら、アクセルは深呼吸と共に腕を交差させ、深く腰を落とした。
それだけで、アクセルの持つ雰囲気が、ガラリと変わった。
まるで、鞘から刃が微かに覗いたような、冷たいプレッシャーだった。

 「そんな冗談は流石の俺様も…」

 妙な能力に加え、このナイフの量。回避は不可能だろう。
 ならば受け止め、捌くしかない。
 アクセルの眼が据わる。

 「…笑えねぇな」

 アクセルが不敵に笑った。
 トーンが一気に3つは下がっただろう、静かだがドスの聞いた声と眼光に、メイドの表情が強張った。
それからすぐに、メイドの表情からも余裕が消え、アクセルを睨む眼差しも匹敵する相手に向けるそれへと変わる。

 「では、さようなら…!」

 そう聞こえたかと思った次の瞬間、何も無い空間から、アクセルの周囲にあと少し進めば刺さる距離にナイフが現れる。
 いや、この場合は刃が潰れているため、峰打ちの滅多打ちだろうか。

 周囲の空間から超至近距離で迫る檻。
 認識不可能の全方向からの攻撃。
 その自らを包む白刃の檻の中で、交差させたアクセルの両腕に炎が点る。
 恐らくメイドには、アクセルの身体が発火したかのように映っただろう。
 ナイフが身体に届く寸前に、吹き上がる炎と爆風が至近のナイフを吹き飛ばした。

 隠し技だぜ…!
 交差させた腕を開放するかのように腕を円状に振るい、炎を巻きつけた鎖鎌の鉄鎖と柄で、続くナイフ弾幕を薙ぎ払い、アクセルは駆ける。

 「なっ!?」
 炎の渦から弾丸のように踏み込んでくる男を見て、焦ったようにメイドは再びナイフを放つ。
対して、炎の法力を使用する為、アクセルは既に顔を庇うように腕を交差させている。
今度はアクセルが先手を打つ。いつでも法術を使えるように備えた両腕に、力を込める。

 その時だった。
 まただ。
 世界から、色が消えていくような感覚。
 世界からずれていくような感覚。
 アクセルが感じたそれらは、しかし今ではどうでもいい。

 手品のタネはわかんねぇけど、今度は見えるな。

 その一瞬の後、アクセルの眼前にナイフの嵐が吹き荒れる。だが、先ほどの包囲攻撃に比べれば温い。
それに、今度はメイドがナイフを放つのが見えたからだ。

 そう、今度は見える。
 動ける。
 メイドの動き。
 放ったナイフ。
 飛んでくる軌道。
 認知できる。

 どうやら、俺様のターンだぜ。

 メイドの方はさっきの冷静、冷酷そうな表情とは一変して、焦りと驚きがその表情に表ている。
どうして動けるの!? そう苦しそうに小さく呟きながら、ナイフを放ってくる。 
アクセルの接近を拒むためにナイフをばら撒くが、アクセルはそれらを難なくかわし、弾く。

 相変わらず、世界からずれているような感覚はあったが、それでもアクセルにとっては些細な問題だった。若干、身体の動きに違和感を感じる程度だ。

 まるで、この空間の中を“滑っている”ような、そんな感覚。

 ナイフがアクセルに迫るが、もう怖くない。

 「いただきっ!」

 目前に迫ったナイフを纏った炎で振り払い、さらに迫るナイフの雨を飛び越えるように恐ろしい速度で跳躍し、宙に陣取るメイドを飛び越える。

 その背後である斜め上へ。
 アクセルは頭を逆さまにした状態で回り込んだ。
 疾…っ!? メイドは咄嗟に振り返ろうとしたが出来なかった。
 メイドが振り向きながらナイフを取り出すよりも先に、その視界が黒く染まったからだ。
  
 アクセルはすれ違いざまに被っていたバンダナをメイドの顔へと被せ、その視界を奪っていた。
背後を取ったのは、被せたバンダナの後ろ側を結ぶ為。

 頭と顔全体を布で包まれたメイドはバンダナを外そうともがく。だが、外れない。
 メイドは苦し紛れにナイフをばら撒きながら着地すると、館の扉の少し前方に陣取った。
 どうやら、あの状態でも通せんぼするつもりらしい。

 「油断大敵だぜ?」

 アクセルは猫のように空中で体制を整え着地すると、トーンの下がったままの声で静かに告げた。

 攻守逆転。

 アクセルは今まで、攻撃らしい攻撃をほとんどしていない。
 つまり、メイドにとっては目隠しの状態で、初見の攻撃に備えることになる。
 上か、下か、右か、左か、前か、後ろか。
 鎖鎌による攻撃か、あるいは鎖か、鉄棍での打撃か。
 メイドが微かに息を呑んだのが分かった。
 集中しているのだろう。顔のバンダナを外そうとしながらも、片手にナイフを握りながら、すっと腰を落としている。

 「“運が良ければ死なないとは思う”がよ…覚悟しな」

 アクセルは低い声で言うと、鎖鎌を構える。
 必殺の間合いにメイドを捉え、体を深く沈める。
視界を奪われたメイドの動きが、ジャラリという鎖鎌の不気味な音と、その声に若干怯んだ。

 その隙をアクセルは見逃さなかった。
 神速で踏み込み、

 「どっかーん!!」

 耳元で大声で叫んでやった。

 「ひゃあっ!!?」

 そして、アクセルはメイドの脇を抜け、そのまま扉へと走り出した。
 身構えようとしていたメイドも、相当驚いたのか。
 裏返った可愛らしい声を出して、肩をギクリと跳ねさせたのが見えたが、ドッキリ成功という事で満足しておくとしよう。

 欲しかったのは逃げる時間。ここから逃げ切れれば、戦う理由も無い。

 「げっ!やっぱりかチクショウ!」

 だが残念な事に、扉はアクセルが引いても押してもビクともしない。

 「くそ、館の人ごめんなさい!!」

 扉を蹴破り、アクセルは外へと転がり出る。そこには、中世の大邸宅を彷彿とさせる、よく整えられた庭が広がっていた。

 正面には巨大な門が見える。
 だが安心するのはまだ早いようだ。
なぜなら、走り去るアクセルの背後で風を切る音と 物騒なナイフの雨が、アクセルを追うように続いている。

 「ま、待ちなさいっ!!」

 アクセルが振り返ると、メイドはまだバンダナと片手で格闘していた。かなりきつく結んだせいか、なかなか外れないようだ。無力化しているわけでは無いのは、雨のように飛んでくるナイフで一目瞭然だった。
 外見的にも真っ赤なバンダナを顔、というか頭全体に巻き付けられ、ナイフを投げてくるメイドなんて怖すぎて夢に出そうである。

 とにかく、逃げるのが先決だ。

 (でも、この調子なら何とか逃げ切れそおぴょっ!?)

 今思えばアクセルは馬鹿だった。
 後ろにばっかり気を取られて、気配を消して近づいてくる人影に気づかなかったなんて。
いや、正確にはアクセルの方から近づいて行っていたのだが。

 突然のズドンという重く鈍い音と共に、暢気に後ろを振り返っていたアクセルの身体が宙に浮き上がり、走ってきた方向である館の入り口へと吹き飛ばされた。

 全く予期していなかった強烈な衝撃に、アクセルの意識が白む。
 アクセルは霞む視界の中で緑色のチャイナ服を来た女の子と、その子が自分のわき腹あたりに拳を叩き込んでいるシーンが見えただけだった。

 「油断大敵だぜ?」。ついさっき誰かがカッコつけて言った言葉である。

 俺、だっせぇ。

 アクセルは気絶しながら、自分の間抜けさを呪った。


 


 その翌日。

 豪奢な応接室のソファに、奇抜な格好をしたあの青年が、緊張した面持ちで座っていた。
 たまに咲夜と目が会うと、ぎこち無い笑顔を浮かべて来る。
 そんな卑屈な笑顔を向けられても、咲夜の表情は無論、揺るがない。

 青年の正面、背の低い机越しのソファには、お嬢様が座っている。
 咲夜はその背後に控えながら、青年の動向に注視している。

 侵入者であるこの青年に、何が目的で、何処から来たのか。
 色々と問い詰めなければならない。
 その筈だったのだが。

 気が付けば、この応接室で、紅茶を飲みながら話をしている状況だ。
 納得がいかない。
 咲夜は無表情のまま、眉間に微かに皺を刻む。
 応接室の空気は気まずいどころか、話に花が咲いている。

 「へぇ…じゃあ、貴方は気付いたら此処に飛ばされていた、と」

 「そうなんです、はい」

 彼の名前は、アクセル=ロウ、と言うらしい。
 彼は幻想郷や結界についてもまるで知らなかったようで、ここが何処で、どういう場所なのかを聞いた時も、彼は驚きっぱなしだった。
 お嬢様は、彼に大層興味があるらしい。
 先ほどから、さまざまな質問をしては、面白そうに彼の答えを聞いている。
 咲夜にとっては、非常に不愉快でもあった。
 だが、彼の冒険話は奇天烈で、聞いているこちらも興味を引かれるのだから、
 お嬢様の興味が湧くのはわからなくも無い。

 彼はタイムスリッパーという体質らしく、今まで様々な時代に跳ばされた事があるらしい。
そして、今回跳んできた場所が、この紅魔館だったという。
 迷惑な話だ。それに、止まった時間の中でも、動いていた彼の秘密も、どうやらその体質に秘密がありそうだ。



 昨晩、美鈴の攻撃をまともに喰らった彼は気絶したまま、館の中に吹っ飛んできた。
いや、帰って来たと言った方が正しいかもしれない。
 美鈴が「侵入者ですか!?」と聞いてきたが、見てわかりなさい。
 というか、すぐに応援に来なかった所を見ると、居眠りでもしていたのだろう。
 お仕置き決定だが、今はそんなことはどうでもいい。

 この青年をどうすべきかだ。
 眼を覚ますまで、地下につないでおく方が良いだろうか。
 何者なのか、何が目的なのか。
 聞かなくてはならないことも多い。

 そう考えていた時だった。

 「咲夜」
 心を振るわせるような甘く、残酷で、怖気が走るような可憐な声で、名を呼ばれた。
 咄嗟に振り返ると、そこには紅の吸血鬼が、艶美な笑みを湛えながらこちらを見下ろしていた。
 明らかに、このホールの空気が変わった。
 紅く、染め上げられた。
 レミリア・スカーレット。
 咲夜の主である彼女が、視線をゆっくりと下ろし、青年を見詰めていた。

 「随分と騒がしかったけれど…。成る程、侵入者だったのね」

 咎めるでもなく、彼女は幼くも艶のある声で言って、唇を笑みの形に歪めた。

 「あれ~? そこに倒れてるのって、ニンゲン?」

 次に響いた声は、酷く幼い、無邪気な声だった。
 悪魔の妹。フランドール・スカーレット。
 二人の吸血鬼は興味深そうに、倒れ伏す青年のもとに歩み寄った。
 白目を向いて倒れている青年は、ここから見れば、皿に載ったメインデッシュでしか無かった。
フランドールは、その青年の傍にしゃがみ、つんつんと突いている。
 その青年を見下ろしながら、ふむ、と零して、レミリアは咲夜を見上げた。

 レミリアの紅い眼は、楽しそうに輝いていた。

 「ふふ、随分と梃子摺ったみたいね」

 その声も、幾分弾んでいるようにも聞こえる。
 一瞬、言葉に詰まりかけたが、平静を装うのは慣れている。

 「いえ、そのような事は…」

 忠誠という冷徹さを声に込め、咲夜はレミリアに答える。
 美鈴も、その咲夜の言葉に続き、ぐっと拳を握る。

 「そ、そうですよ! こうちゃちゃっと…」

 「隠しても無駄よ。美鈴まで居て、その上、扉まで破られているし…」
 レミリアは、楽しそうに言いながらフロアを見回して、最後に青年に目を落とした。
 咲夜と美鈴は俯くしか無かった。フランは、まだ青年をつんつんする事に夢中だ。

 「彼はそれなりに傷を負っているのに、あなた達二人は無傷…。
にも関わらす、扉は蹴破られてるし…もしかして、逃げられる一歩手前だったんじゃないかしら」

 レミリアの言葉に、美鈴が息を飲んだ。
 蹴破られた扉から差し込む月の光を浴びながら、レミリアはクスリと笑った。
 最初から全て見ていたのだろうか。その妖しい笑みは、咲夜にそう思わせる。

 「それで…結局、こいつは何者なんだい?」

 フランも、レミリアを見上げた。
 恐らく、と咲夜は言葉は紡いだ。

 「盗っ人の類では無いかと…。先程、この青年の上着からこれが…」

 そう言って、咲夜は、先程青年が落としたダイヤの指輪を手渡した。
 かなり高級そうな品だったが、レミリアはそれを手に持った瞬間、顔を顰めた。
 そして、咲夜の顔を見ながら溜息を吐く。

 「違うわね…」

 違う。それはどういうことなのか。
 一瞬、咲夜にはその言葉の意味が分からなかった。
 だが、レミリアがすっと視線を青年に向けたおかげで、分かった。
 この指輪は、本当に。

 「私はこんな安っぽい宝石なんて持っていないわ。間違い無く、これは彼のものよ」

 勘違いだったのか。
 ならば、青年が言っていたことは。
 気付けば此処に居た、という言葉は真実なのだろうか。
 そんな馬鹿な。

 「まぁ、いいわ」

 つい、と咲夜に背中を向けると、レミリアは肩越しに咲夜を見ながら、笑みを浮かべた。

 「咲夜、彼の手当てをして、ベッドを一つ用意しなさい。色々と、聞きたい話もあるからね」





 それが昨晩の事だった。
 青年を客室まで運び、そこでパチュリー様の治癒魔法を受けた彼は、すぐに間抜けな寝息を立て始めた。
神経が太いのか、或いは、このような状況に慣れているのか。
 美鈴の打撃を受けたにも関わらず、朝起きた彼は嫌味な程元気だった。
 部屋まで起こしに行った咲夜の方が驚いたくらいだった。
 パチュリー様の治癒が効いたのか、彼の回復力が高かったのか。
 咲夜の中では、恐らく両方が作用したのだと勝手に思っている。
 それから、彼を応接室へと案内して今に至る。

 彼の本性がわからない以上、油断は禁物だ。
 お気楽そうな彼の振る舞いも、お嬢様を前にしては随分大人しくなっているものの、やはりどこかフランクである。

 「――そんじゃ、この幻想郷から、『外の世界』に帰る方法もある、って訳ね」

 ひとしきりお嬢様からの質問に答えたあと、今度は青年がお嬢様に質問を繰り返す番となった。
青年はお嬢様の話を聞きながら、何かを考える仕草をしたり、質問したりと、必死に今の状況を把握しようとしている。

 彼の体質は、時間を跳ぶものであって、違う世界に飛ぶことではないらしい。
時間を跳んだ所で、この幻想郷の結界を越えて来れるものなのだろうか。
 彼自身も困惑しているようだった。

 「まぁ、外に帰るには、神社に行く必要がある。…それに、ひょっとしたら、そう簡単にはいかないかもしれないわよ。
『異界』への道を開ける者は、随分曲者だから…」

 お嬢様は意地悪そうな微笑を湛えながら、私に振り返った。
 支度しなさい。
 そう言ったお嬢様の顔は、酷く楽しそうだった。
 私は恭しく頭を下げてから、青年をチラリと見た。

 彼は、何かを思案するように、顔を俯かせている。
 真剣な顔だった。不思議な青年だと思う。
 
彼は咲夜を攻撃しなかった。
 それ故、お嬢様も、青年の質問にも答えているし、敵視もしていない。
 最も簡単な方法を採らず、自分以外の誰かを傷つけない方法を採ろうとした彼を評価してのことだろう。

 アクセル=ロウ。
 悔しいが、彼が悪人だとはやはり思い辛い。

 そこまで考えて、時を操る為に集中する。
 さて、神社に行く準備をしなくては。



[18231] 八話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/04/27 17:39
 目を覚ましてからのソルは、難しい顔のまま、あらゆる質問を霊夢達にぶつけて来た。
 布団から身体を起こせるようになったソルの眼は、質問の答えを聞く度に――不安や焦りなどは浮かんでいなかったが――諦観、憔悴に近い色が次第に浮かんで来ていた。

 幻想郷とは、地図上で何処に存在するのか。
 幻想郷の外の世界とは、どんな世界なのか。
 今は何年なのか。
 自分が剣から開放された時、どんな様子だったか。
 目深く法衣を被った男、或いは、少年を見なかったか。
 剣以外に変わったモノは無かったか。
  
 その質問への応答は、朝まで続いた。
 どれもこれも、霊夢や魔理沙にとって答えることが難しい問題では無かった。
 幻想郷のことについては難なく答えられるし、ソル以外に外来の者は見ていない。
 あの剣以外に変わったモノも神社には見当たらなかった。

 ソルは霊夢達の答えを聞いて、そうか…、と呟いただけだった。
 ひどく疲れたような声だった。そして、額に手を当てながら、嘆息した。
 少しずつ明るくなってきた母屋。男の深い息は、澄んだ空気に混じり消える。

 幻想郷についても、ある程度の話を聞いたソルは、妖怪、妖精、亡霊などの話を聞いても、疑うどころか真剣な顔で頷いてみせた。それだけ、現状を把握することに必死なのか。或いは、ソル自身の元の世界にも、それらに似た者達が存在していたのか。
 その点は霊夢達には分からなかったが、説明する側にとっては、一々驚かれたりしなかった分、助かったりもしたのだが。

 「此処は…やはり…異世界、という訳か…」

 その時のソルの表情は、かなり参っていたように見える。
 霊夢達も薄々と思っていたが、ソルはやはり『外』の者では無い。
 異世界。平行世界。そういった世界から、この幻想郷に迷い込むことになったようだ。
 外来人の類は、さして珍しいことでは無い。
 しかし異世界からの外来人となると話は変わって来る。
 
 面倒なことになったな~、などと霊夢は思いながらいると、魔理沙が腕組をしながら呟いた。ひょっとしたら、紫が剣を引っ張って来たのかもな。魔理沙のその言葉に、ソルは反応した。

 「…ユカリ…?」

 魔理沙はソルに、ああ、と答える。

 「境界を操る妖怪でな。妖怪の賢者で、色んな世界に行ったり来たりも出来るそうだぜ。…まぁ聞いた話だけどな」

 魔理沙の言葉は微妙に自身なさ気だった。
ふわぁ、と欠伸を漏らす魔理沙を横目で見ながら、霊夢の方も、ふむ、と呟いたあと、首を振った。

 「紫の可能性もあるけど、それならそろそろ此処に現れてもいい筈だと思うんだけどね」

 まぁ、一度聞いてみるのも悪くないかもね。霊夢は言って、小さく溜息を吐いた。
 そういやあいつの姿見てないな、と呟いてから、魔理沙は思案するように顎に手を当てる。

 「他所から変なもの引っ張って来るなんて芸当、あいつしか出来ないからなぁ。それに、『外の世界』じゃなくて『他所の世界』に帰るんなら、紫に協力して貰った方がいいだろ?」

 霊夢と魔理沙の言葉を聞いていたソルは、瞳を微かに細めた。
 
 「…そいつは、結界などの扱いに長けているのか…?」

 此処じゃ一番じゃないかしら。
 だな、結界関係に関しちゃ、あいつは相当なモンだと思うぜ。
 そう言って、霊夢と魔理沙は頷いた。
 ソルは、また「そうか…」とだけ低く呟き、何かを思案するかのように視線を伏せた。
 そんなソルを見て、魔理沙は少しだけ笑う。

 「さっきから『そうか…』って言ってばっかだけど、何か分からないことがあったら何でも聞けよな。それなりになら力になるぜ?」

 霊夢も無言で頷き、ソルへと視線を向けた。
 母屋の空気も、朝のものへとかわりつつある。
 その中で、ソルは憂い顔を微かに歪めた。

 「…紫、という奴は何者なんだ…?」

  ソルの低い声に頷き、簡単に言えば、と言ったのは霊夢だった。

 「此処の管理者よ。幻想郷を包む結界の修復、管理を行っている妖怪…。まぁ、胡散臭い奴だけど、強大な力を持っていることは間違い無いわね」

 「強い、というか、訳が分からん、というか…。そんな奴だぜ」

 二人の話を聞いて、何を考えたのか。
 奴と繋がりがあるなら、或いは…。ソルは視線を微かに落としてから小さく呟いて、重い息を吐いた。

 そんなソルを見ながら、霊夢と魔理沙は少しだけ心配になった。
 何かを深刻に考えているようなのは分かるのだが、ソルにはどうも覇気が無さ過ぎる気がする。有体に言えば、元気が無いのだ。
 今のソルは紳士的というよりも、物静か過ぎるような印象を受ける。
 寡黙であり、何かを考え込んでいる。頭の中で整理しようとしている。そんな風に見える。目を覚まして、話をしてからはずっとそんな感じだ。

 必死に現状を理解しようとして、焦りを無理に殺しているのだろうか。
 
 
 
 
 
 まぁ、無理も無いんでしょうけど。 

 朝の境内の澄んだ空気を吸いながら、霊夢は思う。
 晴れた空を見上げながら、清々しい朝の空気を吸い込んでから、視線を下げる。
 その霊夢の視線の先ではソルと魔理沙が、あの赤い剣の前で何やら話しをしていた。

 興味深げな魔理沙と、相変わらず無表情なソル。

 しかし変わった剣だな。斬れんのか、これ?
 …それなりにな…。

 それを少し離れた所から眺めながら、霊夢はふぅ、と息を吐いた。
 目を覚ました時に何の脈絡も無く異世界に居たら、誰だって焦るし、不安にもなる。
 それがどういう理由で起こった現象なのかも分からないのなら余計だ。
 それに、ソルは剣に封印されていた。
 ソルの様子から見るに、並々ならぬ事情があってのことだろう。
 結局、その理由については話してくれなかったが。
 その剣が異世界に跳ばされ、封印までも解かれたとなれば、尚更。

 ソルは何故、剣に封印されていたのか。
 そこに、この幻想郷へ迷い込んだ理由があるのではないか。
 境内に突き刺さった剣に手を掛けるソルを見ながら、霊夢は思った。

 ソルの格好は、昨日まで着ていた旅装束では無い。

 魔理沙が風呂敷に入れて持って来た、黒い袴と、黒いドテラ。ゴツい赤ブーツを履いているが、その中には足袋を履いている。
 素肌の上からドテラを羽織り、長い茶髪を後ろで束ねたその姿は、どこか風流人の趣がある。また、ドテラから覗く逞しい身体が、一種独特の気を放っているため、武人の趣もまた同時にあった。
 その服装をチョイスした魔理沙も、「おお、似合ってるじゃないか」と嬉しそうに笑っていた。ソルは面倒そうだったが、汗と吐血に汚れた旅装束はやはり気持ち悪かったのだろう。渋々、と言った感じで、今の服装に着替えたのだった。

 旅装束の方は朝一番で霊夢が洗濯し、もう既に乾かしてある。
 それを聞いたソルは難しそうに顔を歪めると、世話になる…、と相変わらず低い声で霊夢に礼を述べた。
 表情を表すのが下手というか、どこか人間臭かった。
 ソルがそんな表情を浮かべるのは、何処か可笑しくて笑ってしまった。
 

 ただ、今ではすっかり無表情に戻っている。
剣の前に立っているソルの表情からは、何の感情も読み取れない。
 ソルはその無表情のまま剣を引き抜いた。無造作に。片手で。
 それを、隣で眺めていた魔理沙は「おお!」と驚嘆の声を上げた。
 魔理沙がいくら頑張っても抜けなかった剣を、片手で抜いたことに対してだろう。
 霊夢も、気付かず、へぇ、と声を漏らしていた。
 そこで霊夢は見た。
 一瞬だけ。
 剣を見詰めるソルの表情が、苦々しく歪められるのを。

 魔理沙はソルの右斜め後ろに居る為、その表情は見えなかったようだ。
 よく片手で持てるな、と面白そうに言っている。
魔 理沙の明るい声の影で、ソルはもう無表情に戻っていた。
 
 霊夢は眉を顰める。
 あの一瞬のソルの表情。
 忌まわしいものを思い出したかのような。
 眼を背けようとして、それに耐えたような。
 一瞬だったからこそ、余計に印象に残った。

 あの剣は、ソルにとって一体何なのか。
 

 「あんた、何で剣なんかに封印されてたの?」

 気付いたら、霊夢はソルに聞いていた。
 声音はいつも通りで、不自然では無かったように思う。
 霊夢はソルに目を合わせようとして、うまく出来なかった。
 別段、変なことを聞いたわけでもないはずだ。境内の石畳を壊した剣、その中からソルは出てきたのだ。何故、剣の中に居たのか位、聞いたって問題は無いはず。

 「…俺は…」

 ソルは低い声で、霊夢の方を見ないで呟いた。
 呻くような声だった。

 「俺が俺で居る為に…この剣に、自身を封じた」

 ソルの声が更に低くなり、表情も微かに歪む。魔理沙も黙って、その声を聞いている。それだけ、ソルの声には重い何かが含まれていた。

 「…だが、それが解かれ、今は此処に居る…。何故だかは分からんが…」

 俺が俺で無くなる。どういうことなのか。
 ソルは剣を担ぐようにして振り返ると、自らの額を手で擦った。
 その額には五本の線からなる、どこか禍々しい刻印がある。
 刻印を擦っている間、ソルは唇を噛んでいた。

 ソルはそれきり黙り込むと、また黙考し始める。

 霊夢は少しだけむっとした。
 俺が俺でいる為とか。全然答えになってないし。
 また一人で考え込んでるし。まぁ別に良いけど。
 話したくないことだってあるだろうし。
 私に関係無いし。お腹減ったし。眠いし。

 「まぁ、秘密の一つや二つ、誰にだってあるだろ」

 霊夢の心中を察してか、魔理沙は明るい声で言った。
 ソルは、「……まだ整理がつかん…」と言って、無表情なのに何処かすまなさそうな顔を霊夢に向けている。っていうか、そんなカオされたら、こっちがすまない気分になるんですけど。

 霊夢が何も言えないでいると、魔理沙はソルの持つ剣を指差して、何かを思い出したかのように笑みを浮かべた。憎めない、悪戯っぽい笑みだった。

 「剣から出て来たソルの様子を見りゃ、訳ありなのは一発で分かるしな。やばかったぜ? 実際。無茶苦茶に炎を撒き散らしながら『ぐううおおおああああ』とか雄叫びあげてよ。流石の魔理沙さんもチビリそうになったからな」
 
 へっへっへ、と笑う魔理沙に釣られて、霊夢も微かに笑った。

 笑ったせいだろうか。
 朝の境内の、澄んだ空気が余計に心地良く感じられた。
 霊夢はその中でソルに向き直り、肩を竦めてみせた。

 「気になることがあったら何でも話してくれればいいわよ。紫に会えば、何か分かるかもしれないし」

 それまで、ちょっとの間ゆっくりしていったら。
 霊夢がそう言おうとした時だった。

 境内の空気が、一瞬で変わった。
 塗り潰されたと言っていいかもしれない。
 それは濃密な害意と、威嚇、警戒。

 「そうねぇ。私としても、放っておく訳にもいかないもの」
 
 艶美でありながら、聞く者を絶望させるような、甘い声が響いた。

 ソルは反応していた。
 いや、ソルだけが反応出来ていた。
 ソルは傍に居た魔理沙の腰辺りを抱えるようにして、少し離れた所に居る霊夢のもとへと放り投げた。魔理沙は「ひゃわぁ!?」と声を上げて、霊夢の胸に飛び込んでいき、二人共後ろに倒れこんだ。
 
 その直後だった。
 タイミング的に、ソルが魔理沙を突き放すのを予測していたのだろう。
 ソルの周りの空間に、真っ黒な亀裂が幾条も走った。
 亀裂の端には赤いリボン。
 魔理沙と共に起き上がった霊夢が見たそれは、見慣れたものだった。
 スキマ。中から無数の眼が覗く、空間の裂け目。
 紫。霊夢がその名を呼ぼうとした時だった。

 自身を囲むスキマの檻を睨むソルを目掛けて、何かが溢れ出した。
 それは腕だった。太いものもあるし、細いものもある。ただ、その腕一本一本に、明らかな殺意が篭っているのは十分過ぎる程分かった。
 気色悪い、というよりは見てはならないモノ。そんな気分にさせる腕の群れだった。
 地獄の亡者達が、生者を引き摺り込もうとするかのような、魔手。
 スキマの中身と同じ真っ黒な魔手の束が、ソルに押し寄せ、殺到した。
 
 霊夢が制止の声を掛ける間もなく放たれたそれは、明らかに攻撃だった。
 無表情のままだったソルが、鬱陶しそうに微かに唇を歪めた。

 ほとんど棒立ちのまま、ソルが逆手に持った剣を乱暴に一閃させると、その黒い腕の群れは爆発したかのような炎に包まれながら、吹き飛んだ。
 何かが爆発的に燃え上がる音。
 境内が赤橙の色の明かりに染まり、熱波が霊夢達の頬をなぶる。
 炎が暴れる中、おおおお、おおおお、と呻きを上げるようにしてスキマが閉じ、再び朝の静寂が戻ってくる。
 
 ソルが剣を血振るいするように振って、鼻を鳴らした。
 それらは、ほんの一瞬の出来事だった。

 魔理沙は未だに状況を掴みきれて居ないのか、呆然とその様子を見ている。
 霊夢の方も、半ば混乱気味だった。
 
 赤橙色の炎が、ソルの持つ剣に宿った。
その剣を逆手に持ったまま、すっと腰を落としたソルは、金色の瞳を細めた。
 
 「…何のつもりかは知らんが…そこから出てきたらどうだ」
 
 ソルの前方の空間に、再び亀裂が入った。
 この世の淵に続くような、深い闇を覗かせるその亀裂が、不気味に揺らいでいる。
 亀裂の端には、やはり赤いリボン。亀裂からは不気味な眼が覗いている御蔭で、似合わないどころか、禍々しくさえある。
 ソルの声に応えるかのように、その亀裂は嘲笑うかのように広がり、そこに大きな口を開けた。
 
 「この程度では触れることも出来ない…か。余計に放置できないわねぇ」

 暗い空間が覗くその亀裂から、一人の女性が歩み出て来た。
 手には扇子と、日傘。
 嫌味な程優雅で、ゆったりとした仕草だった。
 霊夢と魔理沙も、その仕草に見蕩れていた。
 そんな場合でもないのだが、そうさせるだけの美貌と、魔性のようなものが彼女にはあった。
 その存在感は、とてつもなく崇高で、犯しがたく、人が触れることなど叶わないような、そんな印象を無理矢理に抱かせる。

 女神。

 そう表現するのが、似合うだろう。
 境界を操る力を持つ妖怪の賢者は、ゆっくりとソルの前に姿を現した。
 この境内を塗り潰す圧迫感が、滅茶苦茶に増した。

 「初めまして…ソル、と呼ばせて貰って宜しいかしら?」

 見る者を金縛りにさせるような声と笑顔で言って、ゆっくりとした仕草で手にした扇子を振るった。その緩やかな動作は優雅であり、見惚れるほど艶やかであった。

「急な用件で悪いのだけれど、少しお時間を頂くわね」
 
 故に、紫の言葉の意味に、霊夢達の反応が再び遅れた。
 ソルが紫の言葉に眉を顰めた時だった。
 
 ばっくりと。
 スキマが地面に大口を開けていた。
 ソルの真下の地面だ。
 ソルが舌打ちをしたのが聞こえたが、気付いたときには遅かった。
 バクン、と。スキマがソルを飲み込んだ。

 状況を理解するのに、一秒程掛かった。
 霊夢は弾かれたように紫に向き直る。

 「ちょっと紫! 彼はまだ…!」
 
 その霊夢の声すら最後まで聞かず、紫は笑みを浮かべたまま、自分もスキマに身を沈めていく。その途中で、大丈夫よ、無茶なことはしないわ、と呟いた。
 その声は笑っていなかった。紫がスキマに沈み始めてから、押しつぶすような威圧感が消えていく。

 「待てって言ってるんだぜ…!」

 魔理沙は自分もそのスキマに飛び込もうと飛び出したが、間に合わない。
 すう、と朝靄に溶けるようにスキマは閉じ、消えていく。
 
 「くそ…! 駄目か!」

 魔理沙はつんのめりながら、霊夢に振り返る。
 その眼は、どうすんだ、と問うていた。
 境内の静寂さが、霊夢の苛立ちを募らせる。
 どうするもなにも。
 暢気な青空が憎い。
 霊夢は境内から空へと飛び上がり、その少しあとに、魔理沙も箒に跨り、空へと浮かび上がった。



[18231] 九話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:16

乱暴にスキマから吐き出されたソルは、地面に叩きつけられながらも、すぐに起き上がり、辺りを見回した。
 鬱蒼としげる木々が目に入った。
 湿気の多い空気が纏わりついてくる。
 森か、…いや…。 ソルは呟いて、空を仰いだ。
 そして、鼻を鳴らした。 其処は確かに、森の中だった。
 辺りは薄暗く、異様に静まり返っていた。鬱蒼と茂る木々に、緑の匂いが充満している。
緩い風に枝葉がゆれ、澄んだ葉擦れの音が聞こえて来る。
茫漠な自然の中に放り込まれたようで、どこか非現実的な印象を抱かせる。
 それに、空気が何処か澱んでいて、まるで、黴墓に居るような不快感が在る。
背の高い木々の葉が、風も無いのに揺れた。
 生物の気配もしない。鏡の中に居るような居心地の悪さを感じた。
 まるで絵画の中に迷い込んだような違和感。

 その原因は、すぐに分かった。

 空が紫色だった。
 ついでに言えば、森の景色そのものが、微かに紫掛かっている。
 異様な光景だったが、それこそが自然だと言わんばかりの傲慢な紫色は、淫靡であり、高貴さを湛えている。
 結界か…。ソルは無表情のまま、舌打ちをした。

 「…此処は既に貴様の腹の中、という訳か…」

 低い声で言うソルの背後。そこに、いつの間にか、八雲紫が優雅に浮かびながら、ソルを見下ろしていた。
別次元の存在。そう思わせるだけの美貌と威圧感を振りまきながら、静かな笑みを浮かべている。

 「此処が結界だと、よく分かったわね」

 紫の声は冷たい。冷たい、というよりも、既に凍り付いている。
その目に浮かんでいるのは、警戒だろうか。ソルは片方の眉を微かに顰めてから、紫に向き直り、その姿を見上げた。

 「…俺をこの世界に召んだのは…貴様か…?」

 その声音にあるものは、微かな期待だろう。
安易な答えを求めるようなソルの問いに、紫はきょとんとした顔になり、まさか、と笑った。
ソルの顔が微かに歪んだ。

 「…多次元を行き来し…結界にも強い…そう聞いたが…」

 紫の答えに、ソルは瞳を伏せた。微かにだが期待はしていた。
 何故、自身がこの世界に居るのか。“侵食”が収まっているのか。
 妖怪の賢者と呼ばれる者が、何かしらの力を以ってして己が此処に居るのなら、幾らか納得は出来る。
ソルにとっては、それが何よりも重大でもあった。

 何故だ。
 誰の仕業だ。
“侵食”を抑える為に、自身の身体を剣に封じた己の意思。
 今の状況は、それを嘲笑うかのようだ。

 眼が覚めてからソルの脳裏には、その疑問が張りついたままだ。
 ソルにとっては、それが鬱陶しくて仕方無かった。
 ヘッドギアをしていないソルの髪が、僅かに揺れる。

 「なら…何のつもりだ。これは…」

 「話がしたい、と思ってね」

 艶美な笑みを浮かべ、紫は右手に持った日傘を優雅に傾ける。

 「自己紹介がまだでしたわね…。私は八雲紫。しがないスキマの妖怪です」

 更に左手に持った扇子で口元を隠しながら、紫は瞳を窄めて見せた。

 「貴方に聞きたいことがあるの」

 それは、幻想郷の管理者としての言葉だった。
 まるで散歩に誘うような柔らかな声音だが、その言葉が漂わせる雰囲気は、限りなく物騒だった。
紫は唇を笑顔の形に歪めて見せているが、その眼は全く笑っていない。
その表情は、普通の人間ならば金縛りに会う程の迫力があった。
 
ソルはその笑顔を前に、戦慄も恐怖もしない。
 ただ無表情で紫を見据えている。

 霊夢から話しを聞き、ソルも半ば予想していたのかもしれない。
 幻想郷に管理者が存在し、尚且つ、今のソル自身の状況を作ったのがその管理者で無かった場合。
恐らく、自身の存在を捨て置くことは無いだろうと。

 ならば誰だ?
 そんなソルの疑問もすぐに吹っ飛んだ。

 「白と黒の法衣を纏った少年と貴方は、どういう関係かしら?」

 紫の言葉に、ソルは金色の瞳を物騒に細め、頬を引き攣らせた。
 木々の、ざわざわと葉の擦れる音がいやに大きく響く。
 紫はそんなソルの様子に気付いていないのか。変わらぬ口調で続ける。

 「昨晩のことよ。結界を越えて、『あの子』は幻想郷に現れたの。不思議な現れ方だったわ。
まるで、そこに映し出されたみたいにね。『あの子』の手には」

 紫はそこまで言って、ゆっくりとした動きで、その手にしていた扇子でソルの持っている剣を示した。
ソルの貌が、凶悪に歪んだ。…野郎が…。とんでもなく恐ろしい声で、ソルは呟いた。

 「その剣があったのよ。大事そうに抱えていたわ。私から逃げている間も、随分必死にその剣を守っていたわ。
結局逃してしまったけれど…。でも、今…私の前には『あの子』」の抱えていた剣を持った、貴方が居る…」

 ねぇ。紫は、唇を裂くようにして薄く笑う。

 「貴方は『あの子』のお仲間なのかしら? もしそうなら――」

 「……もう一度言ってみろ…」

 だが、その薄ら寒い笑みを浮かべていた紫は、微かに息を呑んだ。
 ソルの遠雷のように低い呟きには、凄まじい威圧感があった。
 暴風が吹いた。紫はそんな感覚に襲われた。
 実際は風など吹いていないが、その低い声に押された。
 怒気を孕んだ声。獰猛な金色の瞳が、紫を映している。
 ソルは逆手に持った剣を担ぐようにして、紫を見据えた。
 
 「…奴は俺が殺す。仲間などと…二度と抜かすな」

 ソルの声に滲み、溢れかえっている感情は、明らかに憎悪だった。
 途方も無い憎しみだった。
 紫も、ここまで強烈な憎悪を感じたことが無かった。
 今までのソルの声が、まるで無感情な響きを持っていたからこそ、余計にその暗い感情が浮き彫りになっている。
激情が滲むソルの声が、微かに震えている。

 ソルは「クソが…」と呟いて、歯軋りをした。
 あの男にとって、ソルは立ち塞がる脅威でもあり、切り札でもあった。
 しかし、“ヴィズエル”と“啓示”を退けた今となっては、切り札としての効力を失ったジョーカーは、ただの脅威でしかない。
 わざわざ、復讐されるとわかっていて、ソルを復活させるだろうか。
 ソル自身、その可能性に関しては、無意識的に避けていたのかもしれない。
 もしかしたら。その程度の認識だった。
 だが、腐りきった縁は、途切れていなかった、ということだろう。


 また…貴様か。
 これも、奴の筋書きの上か…。
 
 聞こえない程の、ソルの小さな呟き。
 微かに漏れたソルのその呟きには、身が竦み上がるような殺意が篭っていた。
 呪詛を紡ぐように、低い、低すぎる微かな声で呟きながら、ソルは眼を伏せる。
 …今度は何を躍らせる気だ…。
 これで、頭に張り付いていた疑問の大半が消えた。
 ソルの気分は最悪だった。冷静でいられる限界が近い程に。


 そのソルの様子に、紫は微かにだが意外そうな表情を浮かべた。
 そして、すぐにまた笑顔を貼り付けて、ソルを見下ろす。その紫の視線の先で、ソルはきつく歯を噛み締めたままだ。

 「そう…。…なら、彼は何者で、この幻想郷で何をしようとしているのかしら? 何よりも、それが聞きたいわ」

 私もあれから随分探したのだけれど、まだ見つけられないでいるのよ。
 紫の言葉を聞きながら、ソルはゆっくりと顔を上げた。

 その金色の瞳が憎悪と殺意で、濁っていた。
 
 「…それを聞いてどうするつもりだ」

 「別にどうもしないわ。『あの子』にも色々と聞きたいことがあるだけよ…」

 まぁ、少し手荒になってしまうかもしれないけれどね。
 そこまで言って、紫は怖気が走るような笑みを湛えた。だが、ソルは眉を顰めたまま鼻を鳴らす。

 「…奴は渡さん…」

 「ならこうしましょう」

 紫は宙を漂いながら、ソルからさらに距離を取った。
それを見たソルは、剣を担ぐようにしたまま、半身立ちになる。くすくす。紫の微かな笑い声が響いた。

 「私と貴方、勝った方が『あの子』をとる。負けた方は、知っている情報を勝った方に与える…。どうかしら?」

 ソルが微かに貌を顰めたのを見て、紫は扇子で口元を隠しながら、流し眼を送った。

 「私は『あの子』についての知っている事はほとんど無いから…貴方が勝ったなら、私の能力を持って協力するわ。
貴方は私を使って好きにすればいい。悪くない条件のはずよ」


 紫は余裕の表情を崩さない。
 ソルの憎悪を利用するつもりなのだろう。
 境界を操る能力は、ソルにとっても事実有用であった。
 それが、『人探し』なら尚更だ。

 一度しか接触していないが、紫には確信があった。『あの子』は、私に近い存在だと。
 だからこそ、分かる。
広域どころか多次元を行き来する存在を相手に、地を這うような捜索などどれほどの意味があるだろう。
仮に次元を渡る技術を持っていたとしても、骨が折れることは違い無い。
紫の力を目の当たりにしたのなら、その能力の有用さはソルならば十分に理解出来ているはずだ。

 あれだけの憎悪を向ける相手に近づける可能性があるなら、この取引は悪く無い。
 紫は笑みを浮かべたままだ。
 そして、紫は笑みを湛えたまま、切り札を切った。
 私なら、『あの子』を追えるわ。
 ソルの表情が、その言葉で明らかに変わった。

 しかし。

 悪く無い条件だが…。ソルは低い声で呟いた。

「…貴様の助けは必要無い。だが、貴様が奴を狙うのであれば…放ってはおけん」

 ソルは紫を睨むでもなく、抑揚の無い声で言う。
 まるで、無理に冷静になろうとしているかのような声だった。

 「俺が勝ったなら、貴様には手を引いて貰う…」

 その言葉を聞いて、紫は簡単な計算問題を外したような顔になった。
 それから、紫は若干不機嫌そうに形の良い眉を歪めたが、すぐに瞳を閉じて、そう、と呟いた。
 少し何かを思案するかのように、口元に扇子を当て沈黙し、ふふ、と微かに笑った。
 いいことを思いついた。
 微かにだったが、そんな笑い声だった。
 ソルは眉を顰めた。
 何がおかしい…。
 半身立ちのまま、ソルは訝しむように瞳を細めた。

 「手を引く、とは言っても…。向こうからこちらに干渉して来ているのだから、無視する訳にもいかないでしょう? 
私にとっては、貴方も『あの子』も、危険視すべき存在なのよ」

 紫はまるで笑みを堪えるような、胡散臭い真面目な表情を浮かべている。
 ソルは紫の表情に不審なものを覚えながらも、その言葉に耳を傾ける。

 「管理者としての立場もあるもの。貴方と『あの子』を無視する、という選択は出来ないわ。…その条件は飲めないわね」

 紫は、考え込むように細い顎に手を添えた。
 その姿に、やはりソルは何処か胡散臭さを感じる。
まるで、あらかじめ用意していた台詞を喋っているかのような違和感が、かすかにだが感じられたのだ。
 気のせいと言ってしまえる程微かな違和感だったが、次の紫の台詞で、それが間違いで無かったことを知ることになる。

 なら、貴方に幻想郷の用心棒にでもなって貰う、というのはどうかしら。

 紫の表情は、嫌味なほど柔らかな笑みだった。
ソルは眉を吊り上げる。何処か間抜けな沈黙が二人を包んだ。
 用心棒。その響きに、やはり何処か胡散臭いものを感じ、ソルは鼻を鳴らした。
 そもそも、先に勝負事で決めよう、と言い出したのは紫の方だ。そして、その条件も。
 
 誘導されたか。
 ソルは舌打ちをする。
 
 「…下らん事を抜かすな…そんな面倒な事に付き合ってられん…」

 「別にずっと、という訳では無いわ。
向こうから来てくれる確立が高いなら、『あの子』を此処で待つ方が、貴方にとっても効率は良いと思うのだけれど。
戦って私を隷属させるのは、今じゃなくても出来るでしょう?」
 
 紫側のメリットは簡単な話だ。
 戦える駒が手に入り、その駒が死んでも紫は困らない。
 
 ソルは手にした剣に視線を落とした。
 封炎剣。これを『あの男』がこの世界に持ち込んだとしたならば、何か目的があるはずだ。
ソルは思い出す。封炎剣に封じられた際、出来る限り厳重な封印を要請したことを。
 
 次元牢。
 そして、パラダイム達の力を借りた、強固な封印法術。
 それらを破ってまで、『あの男』はソルを封印から解放した。
 恐らくは、“侵食”を止めたのも『あの男』だろう。

 そんな手間まで掛けて、ソルを幻想郷まで送ったのだ。

 『あの男』は紫の言う通り、再び幻想郷に現れる可能性は高い。
そう思える。

 「それに、幻想郷には妖怪だけでは無く、人間の暮らす里もあるのよ。人助けだと思って、手を貸して下さらない?」

 クソが…。
 ソルは小さく呟いて、紫に向き直った。
 
 「…貴様は手を出すな、という訳にも…いかんようだな…」
 
 「ええ。でも、引き受けてくれるなら、『あの子』への対処は、ある程度は貴方にお任せするわ。
まぁその分、私としても情報が欲しいところだけれど」
 
 紫は、美しい貌に艶やかな笑みを刻んだ。
 ソルはその笑みを見て、観念したように息を吐いた。
 
 あの男を追う為に、自身を犠牲にするならば問題無い。
 しかし、無関係なこの幻想郷に住まう人々を巻き込みかけている。
 それならば、この紫、という者と協力し、あの男を退けるのが先決だろう。
 ソル自身が、あの男の手によって、幻想郷に送られてきたのなら尚更。

 面倒くせぇな。ソルは瞳を閉じながら呟き、紫に視線を向ける。

 「…良いだろう。…俺の知っている情報ならくれてやる…。代わりに…奴の始末は、出来る限り俺に付けさせて貰う」
 
 話が分かる男は嫌いじゃないわ。 
 紫がそう言って指を鳴らすと、周囲の景色が砕け散った。
 そして一瞬の静寂の後。まるで画面が切り替わるかのように、森に生気が戻った。
 いや、生気が戻った、というよりも、今まで眼に掛かっていたフィルターが外されたような感じだった。
 
 今までソル達が居た結界が消えたのだ。

 「…大した力だな…」

 結界の外の景色。
 森の中の木々を見回してから、ソルは紫に向き直る。
 その瞬間だった。威圧感と違和感。
 ずずず。まるで、空気を引き摺り込むような音と共に、紫の背後に巨大なスキマが開かれる。
ついでに、辺りの空間を侵食していくように、森の景色、その全体を今までよりも 濃い紫が染め抜いていった。

 紫が再び結界を張ったのだ。
 何のつもりだ。ソルは紫にそう聞こうとしたが、出来なかった。
 
 それは、弾幕、という表現がぴったりだった。
 苦無を模したような形状の飛び道具が、津波のようにソルに押し寄せて来ていた。
反応した、というよりも、ソルの身体は勝手に動いていた。半身に立っていた身体を捻るようにして、剣を逆手に持ちかえた。舌打ちをしながら、ソルは剣を地面へと突き立てた。いや、叩き込んだ。

 苦無の嵐目掛けて、地面から炎が上がった。
 それは噴火だった。マグマと言って良いかもしれない。
 ガンフレイム。轟音と共に火柱を上げたそれは、苦無の弾幕を飲み込む。
 紫がかった森の中を、炎の赤橙が塗り潰した。
 弾幕と相殺した炎は、霧散するように薄れ、熱波を撒き散らす。

 「…何の真似だ…」

 ソルは剣を逆手に持ち、再び半身立ちになる。
炎が霧散するその先で、微かな笑みを浮かべる紫は、チロリとその唇の端を舐めた。
妖艶な仕草だった。

 「それは勿論、用心棒さんの御力を少しだけ拝見させて貰おうと思って」

 紫は、しれっと言って、扇子を口元の近くで揺らす。
 その艶美な振る舞いも、ソルには胡散臭く映った。

 「…効率云々と…抜かしていたのは貴様だろう…」

 ソルの声は苛立っているというよりも、面倒そうである。

 「効率も大事だけど、そればかりを追っていると…大切なものを見過ごしてしまうんじゃないかしら?
或いは、見落とした事にも気付かないかもね」

 その言葉に、ソルは何か思うことがあったのだろうか。
 微かに、だが苦々しく表情を歪めた。
 ストレスの溜まる野郎だ…。
 そう呟くソルを見ながら、紫は続ける。

 「用心棒さんが弱いんじゃ、邪魔になるだけでそもそもお話にならないし…」

 ソルの事を測るかのように。
 調べるかのように。
 見透かそうとするように。
 暴こうとするように。

 紫の視線は情熱的であり、どこまでも冷静だ。
 その視線は、この紫色に染まった森の景色だけでなく、ソルの心象すらも掌握しようとしている。

 その視線が気に入らないのか。
 ソルは片方の眼だけを物騒に細めて見せた。

 「…何が言いたい…」

 ちょっとだけ遊びましょう。紫は言って、日傘を揺らして見せた。
 いつの間にか、紫の手には砂時計が合った。白い砂が入った、小さな砂時計だった。
 紫はそれをソルに向かって放って寄越した。
 緩い放物線を描く砂時計。ソルは紫から眼を離すことなく、その砂時計を受け取る。
 そんなに警戒しなくても大丈夫よ。紫は笑う。
 紫の背後に開いているスキアから覗く目が、一斉にソルを見た。

 「その砂時計の砂が落ちきるまでに、貴方が私の身体に一度でも触れることが出来たら、貴方の勝ち。
出来なければ、私の勝ちよ」

 「……」

 ソルは無言のまま、砂時計と紫を見比べた。
 お触り一回で貴方の勝ちよ。ふふ。余裕でしょう。それに…。
 紫はそこまで言って、今までとは何処か種類の違う、微かだが無邪気な笑みを浮かべた。

 「『協力しろ』では無く、『手を引け』だなんて言った貴方に、私も興味を惹かれたの。
これは単純な好奇心…、気になる子程、苛めたくなるし、構いたくなるじゃない?」

 まぁ、最終的には協力してくれる所も可愛いけれどね。
 紫は少女のような笑みを浮かべ、開いたスキマに凭れかかった。
 その紫に視線を向けながら、ソルは眉を顰める。

 「…始末に負えんな…」

 「遊んでくれないと、此処から出してあげないわよ」

 「…訳の分からん奴だ…」

 悪戯っぽく言う紫に、ソルは面倒そうに眉を顰めた。
 
 「…最初は殺しに掛かって来て、次には勝ち負けで条件を出した挙句…
用心棒になれとほざき…今度は遊ぼうなどと…。付き合いきれん…」
 
 ソルの言葉を聞いていた紫は、私もね、と続いた。

 「最初こそ、知っている事を吐きたくなる程、貴方を苛めてあげようと思っていたけれど…。
話をしている内に、貴方が『あの子』とグルでは無いことは嫌でも分かったから。
…ふふ。貴方の『奴は俺が殺す』って言った時の声、素敵だったわよ」

 紫は思う。
 あの声に篭る憎悪は、強すぎる。激烈だ。
 圧倒的な負の感情。
 紫を欺く為に虚言を弄している風には全く見えなかった。

 私だって、無軌道な思考をしている訳じゃ無いのよ。
 …どうだかな。 そう言って、ソルは手の中で砂時計を弄りながら、鼻を鳴らす。

 「…それで…興味が出てきたから、用心棒の試験代わりに…貴様と遊べ…と」

 「ええ。見極めたい、と言った方が正しいかしらね…。私が勝ったら、貴方には私の式にでもなってもらおうかしら」

 安心して。ずっとスキマに隠れてるなんて真似はしないから。
 紫は言って、くすくすと笑う。それじゃあ、貴方の事も分からないしね。
 その艶のある声を聞きながら、ソルは少しだけ息を吐いた。

 「…良いだろう…」

 えっ、と紫は声を上げた。
 見れば、ソルは身体を屈め、砂時計を地面に置こうとしていた。

 「…こんな調子で、貴様に付き纏われちゃかなわんからな…」

 ソルは呟きながら、砂時計を地面に置いた。
 サラサラと砂が落ち始める。
 あら、ありがとう。
 紫がそう言った時だった。砂時計が、スキマに吸い込まれた。
 同時だった。
 ソルの視界が苦無弾幕で埋め尽くされた。
 派手な奴だ…。苦無弾幕の濃さは先程とは比べ物にならない。
 それは最早弾幕というよりも、壁だ。
 広く、厚い苦無の壁だった。
 飛んでくる、というより迫って来る。

 逆手に持った剣を、ソルは無造作に下から上へ振り上げた。
 轟音が響いた。炎の塊が、剣から生まれた。その炎は、苦無弾幕の層に穴を開ける。
 ソルはその弾幕に開いた穴に目掛けて、ゆっくりと一歩踏み出し、二歩目で身体を極端に前傾姿勢に倒し、三歩目でトップスピードに達した。
 速い。真っ直ぐに紫に向かっていく。邪魔になる苦無弾幕を叩き落とし、掻き消しながら。その中で、ソルは気付いた。
 リボン付きの空間の亀裂。
 スキマ。それが、目の前に現れた。
 いや、目の前だけじゃない。左右にもだ。
 亀裂の大きさはソルの身長と同じ程。
 その亀裂の中に無数にある、ギョロギョロとした目と、ソルの目が合った瞬間だった。
 亀裂からも弾幕が放たれた。
 無茶苦茶だった。
 ソルは、自身の身体を爆発させるかのように炎を巻き起こし、弾幕を防いだ。いや、防いだ、というよりも、焼き尽くした、といった方が正しい。
 実際、開いていた亀裂すら炎に飲み込まれ、弾幕の嵐の中に空隙が出来上がる程だった。

 その炎が揺らめく中で、ソルは視線を巡らせる。
 何処だ。紫の気配が消えている。
 静かだった。無音だった。スキマが開いた。
 今度はソルの背後だった。

 紫の攻撃は鋭く、また疾かった。
 ソルが振り返った頃には、日傘をまるで剣のように構え、突き攻撃を繰り出してきていた。
 しかし、ソルの反応の方が早かった。
 振り返り様に身を捻り、最小限の動きで傘の突きをかわしたソルは、その日傘を引っつかみ、スキマから紫を引き摺りだそうとした。
 出来なった。
 恐らく、紫はこの日傘攻撃は反応されると呼んでいたのだろう。
 ソルが日傘を掴んだ瞬間、紫は笑った。そして、場違いなほど優雅に、もう片方の手に持った扇子を振るった。ソル目掛けて。

 ゼロ距離。
 弾幕。

 しかし、ソルはこれにも反応して見せた。
 紫が扇子を振るったように、ソルは身幅の厚い剣を盾のように構え、薄緑色のバリアを張っていたのだ。

 かなりの至近距離だ。
 紫は日傘から手を離した。
 ソルが舌打ちをした。

 岩を削るような不快な轟音と共に、弾幕に押され後方へと押し飛ばされたソルは、しかしすぐに体勢を整え、スキマに突進しようとした。
 しかし、止めた。いつの間にかスキマが閉じ、ソルと共に飛ばされ、地面に転がっていた筈の日傘までもが消えていた。

 やりづれぇ…。ソルは面倒そうに呟いた時、上から何かが降ってきた。
 ソルはそれを見上げて、驚愕するよりも先に顔を顰めた。
 墓石だ。
 高級そうな墓石だった。
 しかも、一つでは無い。多い。数え切れない。
 墓石弾幕。罰当たりな弾幕のその上で、ソルを見下ろす紫が見えた。
 興味深そうにソルを見下ろしている。

 ソルが舌打ちをした時だった。

 一斉に降って来た。
 墓石が落ちてくる。ついでに弾幕もだ。
 ドスン、ドスン、と、重い音が辺りに響く。
 石の塊と苦無弾幕の雨を、どこか緩慢な動きでかわしながら、ソルは紫を見上げる。
 いくつかの墓石を殴り壊し、苦無弾幕は剣で弾く。
 そんなソルの上に降りかかろうとしているのは、次は墓石では無かった。
 
 質量で言えば、墓石などとは比べ物にならない。
 
 まずソルの目に映ったのは、巨大なスキマだった。
 あそこまで大きいと、亀裂とうよりも、門だ。

 その暗い門から、何か巨大なものが降って来た。
 黄色い大型のショベルカーだった。三台あった。
 他にも、ダンプが五台、ロードローラーが二台、ついでにタンクローリーも二台降ってきていた。
 凄まじい物量だ。
 ソルは貌を歪めるどころか、微かに笑いそうになった。

 右足と、何も持っていない右手を前に出す半身立ちのまま、ソルは笑う代わりにぐっと腰を落とした。
左手で逆手に持った剣に、濁った赤橙色の炎が灯る。
 
 試してみるか…。
 ソルはそう呟いてから、押し寄せる重機の群れ目掛けて、飛び上がった。

 凄まじい跳躍だった。
 一瞬で、重機がソルに迫る。

 ソルはまず、目の前に迫ったダンプを殴りつけ、逆に上へと吹っ飛ばした。
 吹っ飛ばされたダンプは半分ひしゃげながら、明らかに落下速度を上回る凶悪なスピードで、ボーリングの球のように他のダンプに衝突した。
 金属がひしゃげ、飛び散り、一瞬で三台のダンプがスクラップになった。

 紫は楽しそうに笑っていながら、苦無弾幕の雨を降らせた。

 ソルは弾幕を剣で弾きつつ、更に上昇する。
 続けて、迫って来ていた残りのダンプ二台を、一台を横へ殴り飛ばし、もう一台を剣で叩き割りながら、空中のタンクローリーに着地した。
ダンプの残骸が宙を舞う。
 その瞬間だった。そのソルを囲むようにスキマが現れ、苦無弾幕を吐き出して来た。
 苦無弾幕はタンクローリーを蜂の巣にし、爆発させる。大爆発だった。
 しかし、ソルは止まらない。タンクローリーが爆発する前には、もう既にもう一台のタンクローリーに飛び移っていた。
さらにソルは無言のまま、足場にしたタンクローリーを蹴って、上へと跳ぶ。紫目掛けて。上昇速度をさらに加速させる。

 紫は日傘をさしたまま、優雅にその様を見下ろしている。
 まるで、自分のペットに、「ここまでおいで」と言ってるような風情だ。

 ソルはその姿を見て、微かに鼻を鳴らした。
 そして、今度は空中でロードローラーを引っつかむやいなや、それを紫目掛けて投げつけた。
ついでに、まだまだ上昇中だったソルは、もう一台のロードローラーも掴んで、紫目掛けて殴り飛ばした。
ソルの握力と腕力を用いた、単純極まりなくも、強烈な攻撃だ。

 それはもう大事故だった。
 空中でロードローラーの一台が、ショベルカー一台に激突しバラバラになった。
 もう一台のロードローラーは紫の目前まで迫っていたが、届かなかった。結界だ。
 紫の目の前に浮かぶ魔方陣。それに激突し、ロードローラーがひしゃげ、ぺちゃんこになっている。
 それだけ、ソルが出鱈目な力で紫にぶつけに掛かったからだろう。

 ソルはもうすぐ紫を間合いに捉える。
 上昇するソルは、最後に残ったショベルカー二台のシャベル部分を、両手で一台ずつ掴み、そのまま上昇。
 そして、とうとう紫の頭上まで、達した。

 紫は笑みを崩さない。余裕の笑みだ。
 扇子で口元を隠してはいるが、目元が完全に笑っている。

 その紫目掛けて、人知を超えた力で、ソルはショベルカーを紫目掛けて叩き付けた。
 まずは左腕で掴んだ方を横殴りに、そして、右腕に掴んだ方を振り下ろすように。
 
 魔法陣のようなものが輝いた。紫の前面と側面。結界だった。
 五段階評価なら、二…ってところかしらね。結界を構築した紫は、少し冷めたような貌で呟いた。
 …そうか。 お互いが呟いた瞬間だった。
 ショベルカーはソルの腕力と、紫の結界に押しつぶされバラバラのグシャグシャになった。
 紫の周囲に、金属片と残骸が舞う。
 その中で、ソルは残骸を蹴って、更に紫に飛び掛って行った。
 封炎剣に炎が灯る。

 無駄よ。紫は言って、扇子をソル目掛けて翳した。
 ソルは、その翳された扇子目掛けて、逆手に持った剣を叩き込んだ。
 世界が割れるような音がした。
 衝撃。地面の木がざわつき、きしみ、何本かの弱い木が押し倒された。
 ソルの封炎剣は、紫の翳した扇子では無く、結界に阻まれている。
 鍔競りあうように、炎と閃光が溢れ、暴れ狂う。

 ソルと紫は空中でにらみ合う。
 それから、紫はソルに向けて、少し残念そうな表情を浮かべた。

 「…途中までは良かったけど…。所詮、こんなものなのね」

 紫は扇子に力を込め、ソルの剣を押し返す。
 何かが軋むような音が響く。ソルは舌打ちをした。

「…堕ちなさい」

 紫が呟いた瞬間だった。
 封炎剣を阻んでいた結界が膨れ上がり、ソルを弾き飛ばそうとした。
 破壊の脈動を響かせながら、結界が弾け、ソルを飲み込もうとした時だった。

 …Shut up…。
 重く低い声が、紫の耳に届いた。
 見れば、ソルも、紫に目掛けて掌を翳していた。
 そして、ソルがそれを握りこんだ瞬間だった。

 紫の顔から余裕が消し飛んだ。

 今すぐにもソルを吹き飛ばそうとしていた結界が、突然霧散したのだ。
 その結界だけではない。
 紫掛かった、この空間を司る結界にも、大きな亀裂が走った。

 だが、そんなことを気にしている場合でもなかった。
 ソルだ。
 身を引き絞るようにして拳を構えている。
 剣を持っている左腕とは反対の右腕に、炎が宿っている。
 距離は、すでにソルの間合い。
 不味い。
 
 紫は咄嗟に、スキマでの離脱を試みた。しかし。
 これは…っ!? 紫は絶句した。スキマが開かない。
 驚いている暇も無かった。目前でソルが拳を構え、身を捻っているのだ。
 紫は日傘を盾にするように構えた。ソルは、紫が傘を構えるのを待っていたのか。
 紫にはソルの動きがやたら緩慢に見えた。次の瞬間には、打ち下ろしの右ストレートが、その傘にぶち込まれた。

 あまりの衝撃に、紫の呼吸が一瞬止まった。
 鈍すぎる音が鳴って、紫は地面に向かって吹っ飛ばされた。
 ソルはそのまま重力にしたがって落下していく。

 落下中に素早く体勢を立て直し、紫が先に地面に着地。
 ソルが後に着地した。
 両者の間合いは、近くも無く遠くも無い。


 「…変わった力を持っているのね、貴方」

 「…貴様程じゃない」
 
 ほんの数秒睨み合って、紫が先に動き、それに合わせてソルも動いた。
 紫は距離をとる為に苦無弾幕を放ちながら後ろへ。
 ソルは距離を詰めるために、弾幕を掻き分けながら前へ。
 
 紫はスキマを開き、弾幕の中に突っ込んでいくソルを更に包囲しようとした。
 今度はスキマが開いた。
 苦無弾幕を突っ切ってくるソルを囲むように。
 しかし、それだけでは済まなかった。
 弾幕を吐き出すスキマの檻は拡がり続け、弾幕を捌くソルを飲み込もうとした。

 ソルと紫の眼が合った。
 次の瞬間には、バクン、とスキマが弾幕ごとソルが居た一帯を齧った。
 いや、空間ごと丸呑みにした。

 紫は舌打ちをしそうになり、それどころで無いことにも気付いた。
 下だ。
 何かが凄まじい速度で、地面を這うようにして、それはすぐそこまで来ていた。
 まるで、蛇のようだった。炎の大蛇だった。
 弾幕の壁の下、スキマの微かな縫い目、その僅かな空間を潜ってきていたのだ。
 その赤橙色の大蛇は疾かった。すぐに紫に追いついた。
 紫は上空に逃げようとしたが、その蛇が首を擡げ、襲い掛かる方が速かった。
 炎の蛇は、ソルだった。
 地面を抉るような低姿勢から身を捻り、手に持った剣の柄を叩き付けるようにして繰り出して来た。

 周囲の空間を打ち抜くような、強烈なアッパーだった。
 紫がその場で体勢を整え、傘で防御出来たのは、ほとんどぎりぎりだった。
 
 傘と柄が激突する瞬間。
 
 紫は不味いと思った。
 ソルが突き出した柄は、紫が防御に構えた傘に軽く触れただけだった。

 フェイント。
 紫はソルの攻撃を受ける為に、宙に浮きながらも、動きを止めている。
 ソルの手が伸びてくるのが見えた。
 紫には、その動作がやけに緩慢に見えた。
 その癖、絶対に反応出来ないタイミングだった。
 何とか紫が反応した時には、ソルの大きな手が、傘を持つ紫の手を握っていた。
 紫は少し驚いたような表情のまま固まった。
 ソルは無表情のままだった。

 「…これで文句は無いだろう」

 紫はほんの数秒、握られた手を見詰めてから、ソルの瞳を見詰め返した。
 頷こうとして失敗したように、紫は視線だけで頷いた。
 それから、微かにだが紫の頬に朱が刺して、すぐにソルのその手を払いのけた。
 その様子には気付かず、ソルは自らの首元に手を当てる。

 「…しかし…出鱈目な力だな…」

 やり難くてかなわん…。
 ソルは面倒そうに言いって、ゴキゴキと首を鳴らした。
 多くの人ならざる者と戦ってきたソルにとっても、やはり紫の力には驚いている、というか、その出鱈目さに呆れているようだ。

 「…時間は……?」

 え、ええ…。紫の方は、少し小さい声で言って頷いてから、自らを落ち着かせるように一つ息を吐いた。
 そして、小さなスキマを一つ開き、中から砂時計を取り出す。あと数十秒で、砂が落ちきる所だった。

 紫は砂時計から、ソルへと視線を移し、眼を細めて見せた。
 合格ね…。そう言った紫の表情は、警戒か、或いは期待だろうか。

 「さっき…貴方は何をしたの? いきなり力が使い難くなって、ちょっとびっくりしたわ」

 紫は笑うように瞳を細めてはいるが、声に少し緊張がある。
 その視線を受けとめながら、ソルは自分の額を掌で擦った。
 ふわりと浮き上がり、紫はスキマに凭れかかるようにして、ソルを見据える。

 「…特殊な術を使った…余り期待していなかったが」

 そこまで言って、ソルは無表情のまま紫に向き直る。

 「…その様子だと…ある程度の効果はあったらしいな」

 「ええ…。評価は3に上げてあげる」

 ソルは表情を変えず、微かに鼻を鳴らした。
 紫がそう言って、ソルが使った術の詳細を聞こうとした時だった。
 巨大な硝子窓が割れるような、派手な音が響き渡った。
 それと同時に、紫掛かった、森の風景が崩れ落ち、薄れ、消えていく。

 其処に自然の息吹と、風の音が帰ってくる。
 紫が張った結界が砕かれたということに気付いた二人は、上空を見上げた。
 そこには、紅白の巫女と、黒白の魔法使いが、こちらに向かって飛んできているところだった。
霊夢と魔理沙だった。恐らく、今の結界を砕いたのも、あの二人だろう。

 話は神社に戻ってからかしらね。
 そう言って小さく溜息を吐いた紫を見てから、ソルは緩慢な動きで剣を肩に担いだ。



[18231] 十話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/05/11 22:59
 神社へと帰って来た霊夢と魔理沙は、若干の緊張を和らげるように湯のみを傾ける。
 神社の母屋のちゃぶ台にはせんべいが置かれ、それを囲むように四つの座布団が置かれている。
 それぞれに、霊夢、魔理沙、紫、そしてソルが腰掛けている。

 なんとも言えない空気である。
 本来なら、畳みの香りと、緑茶の香りが心を和ませ、昼間の気だるさと陽気が、眠気を誘い、絶好の昼寝日和である。まだ午前中だが。日向ぼっこもいいかもしれない。
 普段なら縁側で一服でもしているだろう霊夢は、溜息交じりに眼を細めた。

 重い空気に、沈黙。
 普段は口数の多い魔理沙の表情も硬く、今は誰かの言葉を待っているのか、黙したままだ。
 その視線の先には、胡散臭い妖怪の賢者が、ずず、とお茶を啜っている。
 ちゃぶ台を挟んで霊夢の正面に座っているスキマ妖怪は、お茶を啜ってから、ふぅと一つ息をついた。

 「お茶菓子は無いのかしら?」

 その暢気な紫の声に、霊夢の顔が引き攣った。

 「そんな話はしてないでしょ」



 
 朝の境内で、ソルが紫にスキマ送りにされた件に関して、あの時は霊夢にとっても、魔理沙にとっても急過ぎることだったので反応できなかった。
 
 しかし、今はその主犯である紫本人が居る。
 霊夢と魔理沙が、紫の張った結界を破壊した頃には、もうドンパチは終わっていたようだった。その時の、紫の微妙に納得いかなさそうな顔と、ソルの微かに曇った表情が印象に残っている。
 霊夢が紫に詰め寄っても「もう彼との話は済んだわ」というだけで、要領を得なかった。
 かと思えば、スキマを通り神社に帰って来た霊夢達に、今度は話があると言って集め、 「ソルにはしばらくの間、幻想郷の用心棒になって貰う」と言い出したのだ。

 霊夢と魔理沙も、最初は訳が分からなかった。
 だが、その後の紫の話を聞いて、紫の行動もある程度納得できた。
 
 紫は昨晩、幻想郷へと侵入してきた不審な人物を見ているのだという。

 その人物の姿は、法衣を目深く被った子供であったらしい。
 忌々しそうに、且つ不機嫌そうに細めたその瞳を若干和らげてから、紫はソルに視線を向けた。霊夢、魔理沙も、釣られてソルへと顔を向ける。ソルは居心地悪そうに顔を歪めただけで、何も言わなかった。
 
 それを見た紫は、どこか満足そうに唇を笑みの形に歪めてから、また言葉を紡ぎ始めた。
 
 紫は、幻想郷へ侵入したその人物を追ったが、捕らえ損なった。だが、紫は見ていた。
 その人物は剣を持っていたのだ。
 赤く、重厚感のある分厚い剣を。
 大事そうに。まるで、赤ん坊を抱くかのように。

 そして、それと同じものを持っていた人物が居た。

 それがソルだった。
 
 当然、紫はソルが『あの子』と無関係だとは思わなかった。
 故に、ソルに目を付け、尋問しようとした、とのことだった。

 そこまで話を聞いていた魔理沙が、首を捻った。
 なんで、そこでソルが用心棒になるんだぜ?
 そう言った魔理沙と同じ疑問を抱いていた霊夢も、黙って紫の言葉も待っていた。
 
 それなのにこのスキマ妖怪ときたら、無駄に重い空気を醸し出した上に、お茶を啜ってもったいぶった挙句「お茶菓子は無いのかしら」など言うので、霊夢の顔も引き攣ろうというものだった。

 そんな話はしてないでしょ。
 そう。そんな話はしていない。
 
 
 「…奴は…」

 紫を睨む霊夢に声を掛けたのは、ソルだった。
 いや、霊夢に声を掛けたと言うよりは、呟くように言葉を零しただけなのかもしれない。だが、ソルの低い声は良く通った。
 霊夢と同じく、胡坐を掻きながら紫に注視していた魔理沙も、ソルのほうへと視線を向けた。

 …俺が潰す。
 
 そう言ったソルの声は、憎悪で濁りすぎて、無茶苦茶な声だった。
 聞いたことも無いような恐ろしい声だった。
 篭る感情の昏さと、深さと、激しさと、大きさ。
 霊夢は息を呑み、魔理沙は僅かに身を引いた。
 人間である二人には、余計に敏感に感じたのかもしれない。
 その様子を見ていた紫が、優雅で、何処か嫌味でもある美しい笑みを浮かべた。

 「利害の一致、と言えばいいのかしら。ソルは『あの子』が憎い。私も『あの子』を放っておくつもりもないわ」
 
 優雅な笑みを浮かべる紫に、少しだけ挑むような視線を向けたのは魔理沙だった。

 「随分危険視してるんだな、その『あの子』って奴のこと。こりゃ、ひと波乱ありそうだな」

 その言った魔理沙の声音は、珍しく真面目だった。
 腕を組みながら、首を傾げ目を閉じている。何かを思い出そうとしているようだ。
 まぁ、何も言わなくて首を突っ込んでくるのでしょうけど。その魔理沙の様子を見ながら言って、紫はくすりと笑う。
 
 「これは限りなく異変に近いわ。一応、貴方もすぐに動けるようにしておいてね」
 
 「おう。…でもよ、ちょっと前にもこんな事無かったか? 幻想郷に厄介な奴が入り込んで来たとか何とか言って。…結局、アレは紫と霊夢が片付けちまったんだろ?」

 魔理沙の言葉を聞いた霊夢は、何かを思い出すかのように顎に手を当てた。
 霊夢と魔理沙の様子を見てから、ソルは静かに視線を紫に向ける。

 その視線に気付いたのだろう。
 何かしら、と紫は胡散臭い笑みをソルに返してくる。
 いや…、と低く言って、ソルは瞳をゆっくりと閉じた。

 「…他所者が此処に流れ着く事は…そう珍しいことでも無いようだと思ってな…」

 「外来の者は、それなりにね」

 意味深な笑みを刻んだ紫が、ソルの言葉に答えるでもなく言葉を紡ぐ。
 異界の者、となると流石に少ないわよ。紫がそうソルに答えた時だった。
 霊夢が、ああ、と頷いた。

 「鉄で出来た人形みたいな奴らと戦った時のことでしょ? 確かに、あの時もあんたってば割と深刻そうな感じだったわね」

 あなたが暢気過ぎるのよ。紫はそう答えてから、ふん、と鼻を鳴らした。
 悪戯っぽく笑ったのは魔理沙だった。
 紫は幻想郷の事になると、途端に余裕がなくなるな。
 ただ、その言葉は決して、紫を貶す言葉では無かった。
 信頼。或いは、労い。その言葉を聞いていたソルも、微かに息を吐いた。
 
 「……俺は異物でしかないからな…。…攻撃されても文句は言えん…」

 自覚している、と言わんばかりのソルの言葉には、自嘲というよりも諦めの色が強い。
 胡坐をかいていたソルは、左足を立て、そこに左腕を乗せるような格好で項垂れた。長い茶色の髪が揺れる。
 
 その酷くだるそうで、思い詰めたような様子のソルを見ながら、霊夢はふと思う。
 ソルがスキマ送りに会ったのも、紫が幻想郷を想うが故の行動。

 こうやって四人でせんべいを囲んでいる状況は、ある意味貴重なのかもしれない。
 下手をすれば、ソルと紫は、どちらも無事では無かったかもしれないのだ。

 紫は妖怪だ。
 賢者であり、大妖怪だ。
 そして、幻想郷を誰よりも愛している。
 迷い込んだのならまだしも、無断で侵入してくる者に対して、紫が容赦するだろうか。

 霊夢は以前の事を思い出し、首を軽く振った。
 かつて、幻想郷に入り込んで来た鉄人形達と戦った紫は、容赦無かった。
 鉄人形達も妙な力を持っており、弱くは無かったが、それでも、紫には叶わなかった。 霊夢も手伝いはしたが、ほとんどは紫一人で片付けてしまった。

 思い出して、霊夢は少し寒気がした。

 あの時の紫は、本当に恐ろしかった。
 加減をしないスキマ妖怪は、無慈悲で、美しく、圧倒的ですらあった。
 殺す為の弾幕。ひき潰す為のスキマ。どれもこれもが殺意の塊だった。

 あの時の紫の苛烈さを思えば、拷問を掛けるつもりでソルに攻撃を仕掛けて来ても不思議では無い。
 恐らく、スキマでソルを攫った紫は、ソルと一戦交えたはずだ。
 無茶なことはしない、と紫は言っていたが、それでも紫は十分過ぎる程強いはず。
 その紫を相手に渡り合い、「用心棒として幻想郷に置く」とまで言わせるソルとは、一体何者なのか。

 霊夢はソルをちらりと見た。
 そして、先程の憎悪そのもののようなソルの声を思い出す。微かに体が震えた。
 あの声。あれは、呪詛だ。殺意そのものだった。
 人間の霊夢ですらそう感じるのだ。
 存在としての意義に、精神に重きを置くのが妖怪。
 それが賢者と呼ばれる紫ならば、あの声に篭る激情をもっと明確に感じただろう。

 ソルが見せた憎悪と敵意が、幻想郷に向いていなかった。
 対峙しようとしている紫にすら向けられていなかった。
 だからこそ、紫はソルに協力を提案したのだろう。
 
 勿論、そこには紫自身の興味や、単純な戦力強化などの打算もあってのことだろうが。
 
 それに、紫が『あの子』と呼び、危惧する存在。
 ソルとは一体どういう関係なのか。


 霊夢は一口お茶を啜って、一つ息を吐いた。まぁ、今詮索しても仕方ないか。
 そう思いながら、チラリとソルを見た。
 ソルは黙ったまま、瞳を閉じている。険しい貌で。何かを押さえ込むように、きつく瞳を閉じていた。

 「のんびり昼寝や日向ぼっこも良いけれど、有事の際はしっかりしてね」

 その紫の声が自分に向けられているものと気付き、霊夢は面倒そうに、だがしっかりと頷いて見せた。

「要は、また飛び回ることになりそうってことよね…。まぁ、それなりに気をつけておくわ。何だか胸騒ぎがするし」

 霊夢はソルから視線を外し、紫に頷いて見せた。
 魔理沙も、私も色々と準備しといた方が良さそうだな、と座布団から立ち上がった。そして、真面目な顔で、紫、霊夢の顔を見回した。

 「今此処で聞いた話は、他言しても構わないよな? 他の奴らも、ある程度は知っておいた方が良いだろう事だろ?」
 
 「別に構わないけれど、それを真剣に捉える者が少ない、というのが現状でしょうけどね。外来からの脅威は、幻想郷の者達にとっては娯楽でしか無い場合の方が多いから」

 力在る者が居すぎる、というのも、また問題ね。紫は溜息交じりに呟いて、お茶を啜った。そして、ついと神社の境内のある方へと視線を流した。
 ソルも同じタイミングで顔を上げ、紫と同じ方向へと視線だけを向ける。
 
 「…お客さんが来たみたいよ、霊夢」

 「分かってるわよ」

 霊夢は座布団から立ち上がり、そのまま母屋から出て行く。
 それを追うように、魔理沙も「じゃあまたな」と気持ちの良い笑顔をソルと紫に向けて、母屋を後にした。

 母屋に残されたソルと紫の間に、沈黙が降りる。
重苦しい沈黙、という訳では無いが、どこか不穏だった。

 ソルは片膝を立てたまま項垂れ、黙したまま。
 紫も静かに瞳を閉じ、ずず、とお茶を啜った。それから、ソルの方へと向き直り、ねぇ、と声を掛けた。
 ソルは黙ったまま僅かに顔を上げ、金色の瞳を紫へと向けた。

 「一つ聞いていいかしら…?」

 「…何だ…」

 ソルを見据える紫の表情は笑みでは無く、真剣な顔だった。

「『あの子』と貴方の関係について、詳しく聞きたいわ」

 その言葉を聞いたソルは、一度項垂れ、微かに鼻を鳴らした。
 日光に暖められた母屋の長閑な空気が、一瞬で殺伐としたものになった。
 
 「…まぁ、そうだろうな…」

 しかし、ソルの声には今までのような憎悪や、殺意は篭っていなかった。不思議と凪いだ、落ち着いた声音だ。
 ソルが何かを思案するかのように、一度ゆっくりと瞳を閉じる。
 
 
 「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 境内の方から、神社を震わせるような大声が聞こえて来たのはその時だった。
 茶を飲もうとしていた紫は湯吞みを落としかけ、ソルは訝し気に眉を顰めた。
 
 うるっさいのよ、と言う霊夢の怒鳴り声。
 こりゃすげぇ事になってるな、という魔理沙の明るい声。
 そして、ソルにとっては聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 親父が居るってマジかよ!!!  
 
 クソ喧しく、落ち着きの無い、しかし場違いな、聞き慣れた声。

 …何でアイツの声が…。ソルは呟き、立ち上がり、母屋から足早に出て行った。
 その後ろ姿を見送りながら、紫は溜息を吐く。厄介なことになりそうね…。そう呟いて、茶を啜った。








 境内に居たのは、男が二人。霊夢や魔理沙を含めて女が四人だった。

 何ぃ!!? 剣が降って来たのか!? どんな格好だった!!? 
 
 ソルが境内に着いた頃には、その大声の主である眼帯をした青年が、霊夢や魔理沙に掴み掛かる勢いで質問をぶつけていた。
 まぁまぁ落ち着きぃや、シン。
 そう言って青年を宥めようとしている白い着流しを着た狐耳の男。
 そうですよ、シンさん! 一旦落ち着きましょう!
 そして、薄緑色の服を着た銀髪の少女も、青年を宥めるようにあたふたしている。
 その様子を少し離れた場所から眺めている女性がいた。赤と青の看護師服を纏い、困ったわねぇ、といった表情で、事の成り行きを見守っているようだった。

 薄緑色の服を着た少女と、赤と青の看護師服を着ている女性に、ソルは見覚えが無い。
 だが、大声を上げている青年と、白い着流しの男には、嫌という程見覚えがあった。
 知っている顔だ。
 だが、何故此処に居る。
 
 …いや…これも奴の筋書きか…

 呟いて、ソルは顔を歪めた。

 位置的に、ソルは賽銭箱の横に立っており、青年達よりも若干高い位置に居る為、霊夢達を見下ろす形になっている。
 
 顔を俯かせるようにして、ソルは重い息を吐いた。

 「…相変わらず…喧しい奴だ…」
 
 その低いソルの呟きに気付いたのか。
 青年が黙り、ガバっと顔をソルへと向けた。
 ソルへと視線を向けたのは、青年だけでは無かった。全員だった。
 それ位、ゆっくりと賽銭箱前の階段を下りているソルには、静かだか存在感があった。

 お…オヤジ…! 
 そう呟いて、青年の眼帯をしていない方の瞳が盛大に潤んだ。声も震えていた。

 こりゃ…、嬉しい再開だねぇ。白い着流しの男の方は、驚いた表情をしたあとに、本当に嬉しそうに、優しげな微笑みを浮かべて見せた。

 薄緑色の服を着た少女と、赤と青の看護師服を着ている女性は、そのソルの存在に何かを感じたのか。
 薄緑色の服を着た少女の手が、背に吊った刀に伸びかけた。
 赤と青の看護師服を着ている女性も、すっと重心を落とし、身構える寸前のような体勢になっている。
 ソルはその二人に視線を巡らせて「…騒がせて悪かった…」と謝罪の言葉を述べ、敵対の意思が無いことを示した。

 薄緑色の服を着た少女と、赤と青の看護師服を着ている女性の警戒が解けたと同時だった。
 青年が、ソルの元へと駆け出した。
 途中で潤んだ眼を腕で拭い、満面の笑顔を浮かべて。
 全員が眼を瞠った。青年が一気に加速し、ソルへと踏み込んだからだ。
 とんでもなく鋭い踏み込みだった。そして体を撓らせ、手にした旗付きの棍棒で突きを繰り出した。
 
 ソル目掛けて。

 しかし、ソルは胸前でこれを片手で掴み止め、微かに唇を歪めて見せた。
 
 …突きの軽さも変わらんな…。
 ちぇ…やっぱ本物のオヤジだな…。
 
 そんな短い言葉を交わした後、青年は目元に再び涙を溜めながら、笑顔を浮かべて見せた。そして、ボロボロと泣き出した。オヤジ。オヤジ。何度もそう呼びながら、ソルの腕を掴んで、顔を俯かせた。

 霊夢と魔理沙は顔を見合わせ、微かな笑みを浮かべて肩を竦める。
 何で妖夢まで泣いてるのよ。
 いや、何か貰い泣きしてしまって…。
 霊夢に声を掛けられた銀髪の少女は、目元を拭ってから、苦笑を浮かべた。

 どうやら、貴方の言った通り、彼は知り合いだったみたいね。
 看護師服の女性に声を掛けられた着流しの男は、年寄りのように顎を摩るような仕草をしながら、頷きを返した。

 「感動の再会に水を差すようで悪いのだけれど…」

 その微笑ましい空気を、妖しさで塗り固めるかのような、胡散臭くも、美しい声音が、ソルの耳元で響いた。
 
 ソルは微かに鼻を鳴らし、青年の方は「うおぅっ!?」と、身を仰け反らせる程驚いていた。
 賽銭箱の前の階段を下りてすぐの所。
 ソルと青年が居るすぐ後ろに、それは開いていた。
 スキマ。そこから、紫が上半身だけを覗かせている。

 紫は扇子で顔の下半分を隠しながら、境内に視線を巡らせた。 
 そして、瞳を細めてから、スキマに凭れかかるようにして鳥居の方へと体を向ける。

 貴方もそう思うでしょ。
 そうだね。私もそう思うよ。

 紫の言葉に答えたのは、幼くも威厳に溢れた、紅く甘い声。
 境内に居た全員が、鳥居の方へと顔を向けた。

 その視線の先には、銀髪のメイドに日傘を持たせた、小柄な少女が佇んでいた。
 宴会以外でこんない人が集まるなんて、珍しいじゃないか。そう言う少女の声と纏う雰囲気が告げている。
 
 彼女が人の則を超えた存在であることを。
 少女は非常に愛らしい顔に似合わぬ、酷薄そうな薄笑いを浮かべている。見た目と存在感のちぐはぐさも相まって異様な迫力を漂わせてもいる。
 その背後に控えているメイドも、冷たい刃のような眼をして、全く隙が無い。
 

 ソルは顔を再び歪めた。その二人に対してでは無い。
 その少女と、メイドの背後に見覚えのある赤いバンダナ野郎が居たからだ。
 バンダナ野郎は手でひさしを作り境内を見回し、ソルで視線を止めた。その表情が、喜色に染まる。

 「旦那じゃねぇか! こんな所で会えるたぁ!」

 こいつぁ、ツイてるぜ。喜ぶバンダナ野郎とソルを交互に見比べる小柄な少女は、ふん、と鼻を鳴らし、霊夢に向き直る。
 
 「話をするにしても、此処じゃあ日差しが強いわ。…霊夢」

 どこか高圧的な声音だが、それこそが自然というような傲慢さも、この紅い少女が言うと不思議と不自然では無い。
 しかし、そんな迫力のある言葉にも全く動じず、霊夢はヒラヒラと手を振って見せる。
 はいはい。とり合えず、中に入りましょう。嫌そうに顔を顰めて、霊夢は親指で神社の母屋を指した。



[18231] 十一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:18
 神社の座敷は、混沌としていた。
 霊夢や紫から、ソル達は彼女達の紹介を受けたが、今一現実感が湧かない。

 吸血鬼、レミリア・スカーレット。
 その吸血鬼の従者である十六夜咲夜。
 半人半霊の少女、魂魄妖夢。
 そして、永遠亭の薬師、八意永琳。

 妖怪や怪物の類はともかく、まさか幽霊の類まで居るとは。
 そんなメンツが座敷の広さ一杯に車座になって、ちゃぶ台を囲む様は、異様を通り越して滑稽ですらある。

 レミリアは座布団に腰を下ろし、興味深げにソルやシン、イズナの視線を巡らせている。
 淡い赤色のドレスと座布団というミスマッチさが何とも言えないが、その背後で立ったまま佇む咲夜の存在感も相当なものだった。
何せ、屋内なのに未だに日傘を差している。日当たりが良い座敷だからだろう。
 レミリアの隣の座布団に腰掛けているアクセルは、居心地の悪そうな顔をしている。
 妖夢は、チラチラとイズナやアクセル、ソルに視線を飛ばしてはいるが、姿勢良く正座し、これから始まるであろう話合いを静かに待っている。
 吸血鬼かぁ、初めて見たぜ。あの姉ちゃんのいきなり現れる技とかも凄ぇな。
 それに対し、シンはキョロキョロと落ち着き無く辺りを見回し、妖夢に窘められていたりする。
 どうやら、もう体の方は問題無いようですね。そう言って、永淋はソルへと微かな笑みを向けている。
ちゃあんと、お礼は言っときぃや。顎をわしわしと擦り、何処か年寄り臭い仕草で、イズナもソルに笑みを向ける。
…世話になったようだな……礼を言う…。永淋は、いえいえ、と落ち着いた雰囲気で、ソルに笑みを返した。
 ソルは低く、真摯な声で永淋に礼を述べてから、紫の視線に気付いた。
 紫はソルに細めた瞳を向けながら、何処か気だるげな色っぽい仕草でちゃぶ台の煎餅へと手を伸ばす。

 「さて、お互い紹介が終わったところで、この状況について意見が聞きたいわ」
 
 「そうね。アンタの知り合いばっかり三人も来てるんだから」

 ポリポリと煎餅をかじりながら、紫が切り出した。
口元には薄い笑みを浮かべている。霊夢の方は面倒臭そうな表情で茶を啜っている。
 その隣で、帰るタイミングを逃した魔理沙がからからと笑った。

 「まぁそんな面倒そうな顔すんなよ、霊夢」

 「異界の者が此処に四人…。加えて、紫の言う『あの子』。…面倒そうな顔をするな、っていう方が無理あるわよ」

 霊夢は魔理沙に答え、茶の入った湯吞みをちゃぶ台へと置く。
 そしてざっと集まった面々に視線を巡らせ、隣に座るソルで眼を止めた。

 「あんたから見て、紫の言う『あの子』の目的って何か、見当とか付く?」

 「…いや……悪いが…」

 霊夢の問いに、ソルは微かに苦く表情を歪めて、首を振った。
 その様子を見ていたシンが、何かを思い出すように、腕を組んで呻る。
 あの鴉野郎、オヤジだけじゃキツイ戦いになる、とか言ってたぜ。
 イズナもその言葉に頷き、言ってたねぇそんなこと、と続いた。

 不機嫌そうに鼻を鳴らし、紫は一度瞳を閉じてから、シン、イズナへと交互に視線を向けた。

 「要は、貴方達二人は『あの子』のお仲間に此処へ送られて来た訳よねぇ…」

 舐められたものねぇ、私も。鳥肌が立つような艶のある声で呟いて、紫はくすりと笑う。
 その怖気の走る笑みに、微かに体を強張らせた妖夢は、不安げに顔を俯かせた。

 「しかし、そのレイヴンという者の言い様では、まるでこれから幻想郷に何かが起ころうとしているかのようです…」

 そうね…。永淋も、口元に手を当て、思案するように瞳を閉じる。

 「そして、その何かを止める為、…或いは、その何かを未然に防ぐ為に、彼らを此処に送ったような言い草よね」

 シンとイズナが幻想郷に送られてくる切っ掛けとなった男、レイヴン。
 そのレイヴンが語った言葉。
 それは、此処に集まった面々に、妖夢、永淋と同じような感想を抱かせた。
 ただ、その何かが、見今はまだ見えて来ない。

 舐められたものだわ。
 レミリアは不機嫌そうに言ってから、不敵に唇を歪めて見せた。

 「咲夜の話を聞く限りでは、アクセルは確かに腕は立つのでしょうね。でも、その『何か』に向けての助っ人のつもりで、紅魔館に彼が送られて来たというなら…、それは大きなお世話、という奴だわ」

 「お嬢様の仰るとおりです。その『あの子』とやらは、少々、紅魔館を低く見過ぎです」
 
 主である吸血鬼の言葉の強気な言葉に、咲夜は微かにだか、満足そうに頷いてみせる。
 咲夜もそう思うわよねぇ。
 その幼い声に不釣合いな威圧感を込め、レミリアはアクセルを一瞥する。
 いやいやいや。俺は無関係だってば。アクセルは焦ったように、違う違うと手を振って見せる。

 「さっきも言ったけど、俺はタイムスリップ体質で、紅魔館に“跳んじまった”だけだって! …どういう訳かわからんけどね」
 まあ、レミリアちゃんの言う事もわからんでも無いけどねぇ…。タイミングが良すぎる、とは、俺も思わなくも無いからさ。
 アクセルは言ってから、参ったな、と言った感じで後ろ頭を掻いた。
 

 その様子を見ていたソルが、胡坐から左膝を立て、そこに腕を乗せながら瞳を閉じた。
 静かで面倒そうな仕草。
 だが、ソルがそれをすると、周りの者を身構えさせるような異様な存在感がある。

 「…奴が…」
 
 ソルの低いその声は、厳かささえ感じさせた。

 「…わざわざこいつ等を送って来る程、危惧する「何か」なら…」

 一同の視線がソルに集まる。

「…ある程度、備えはしておいた方が良いかもしれん…」

 ソルは瞳を物騒に窄めながら、誰に言うでもなく言葉を紡いだ。
 神社の座敷が静まり返るような、重い声だった。微かに歯軋りの音がした。
 それは、瞳を閉じたソルからだった。
 霊夢はそのソルの表情を見て、眉を顰めた。
 ソルは眼を瞑ったまま、頬を引き攣らせるようにして歪めている。
 憎悪に歪みかけた貌を、必死に堪えているような。

 なんて貌するんだろう。
 霊夢は思う。
 あの憎悪に歪みかけた貌が、やたらソルに似合っている。
 馴染んでいる、と言った方がいいかもしれない。
 それが、酷く悲しい。
 霊夢は隣に座るソルから視線を逸らしながら、「…そうね」と呟いた。
 レミリアは不貞腐れたように鼻を鳴らした。
 永淋は何かを考えるかのように、ふむ、と頷き、妖夢は真剣な顔で頷いて見せた。

 「ねぇ、ソル」
 場違いな程、艶ある声だった。
 その癖、有無を言わさぬ迫力がある。
 紫は顔の下半分を扇子で隠しながら、その瞳を薄く細めた。

 「さっきの質問に答えて貰ってもいいかしら…?」

 再び、ぎりり、と歯軋りの音が鳴った。
 ソルの表情が、一層歪んだ。霊夢にはそう見えた。

 「何だよ、さっきの質問って?」

 霊夢よりも先に、紫に聞いたのは魔理沙だった。
 脱いだ帽子を足元に置いた魔理沙の表情は、訝し気に曇っている。
 シン、イズナは顔を見合わせ、ソルに視線を向けた。
 永淋と妖夢は黙ったまま、ソルの言葉を待っている。
 つまらなさそうに鼻を鳴らしたレミリアは、茶を啜った。

「ええ、さっき貴女達が境内で大騒ぎしていた頃に、ソルに聞いたのよ」

 紫は視線をソルから魔理沙へと移し、顔半分を隠していた扇子を閉じた。
 そして優雅な仕草でそれを口元にあて、再びソルへと視線を戻す。

 「『あの子』とは、一体どんな関係なのかしら…、って」

 だって気になるでしょう。紫は言って、不意に真剣な顔になる。

 「ソル自身についてもそうだけど、私達は、彼らの世界のことをあまり知らない。
でも、『あの子』は幻想郷を知っているだけでなく、結界まで越えて来ている…」

 そういや、その辺はまだ詳しくは聞いてないな。魔理沙は紫の言葉を聞いて、呟いた。
 そんな暇も無かった、ていう感じだけどね…。霊夢も言って、一度瞳を閉じてから、視線をソルへと向ける。
 私はアクセルから聞いたから、彼らの世界について少しは知っているけどね。
 ふふん、と得意気に言ったのはレミリアだった。
 そんなレミリアを一瞥してから、紫は言葉を続ける。

 「少なくとも、私としては『あの子』が送ってきた貴方達のこと、そして、ソル…貴方と『あの子』の関係は知っておきたいのだけれど…」

 幻想郷の管理者としての言葉。
 それに対しソルは、…長くなるぞ…、と呟いて、紫に視線を返した。

 オヤジの過去…。呟いて、シンは思わず前のめりになった。
 イズナは無言のまま、瞳を細める。
 アクセルはどこか気まずそうな顔をした。

 「…奴は………」

 ソルのその声は低く、苦しげだった。

 ギア計画。
 最初の三人。
 ジャスティス。
 聖戦。
 バックヤード。
 キューブ。
 今までソルが経験し、知っていること、知ったことを、言葉少なではあるが幻想郷の面々に話した。

 “あの男”の手によって、人間で無くなったことから、『ソル』の全てが始まった。
 法力技術によって生み出された生体兵器、ギア。その完成型、ジャスティス。
 ギアによる日本列島の消滅と、それを機に始まった聖戦。
 その聖戦に参加し、ジャスティスを破壊したこと。
 慈悲無き啓示たる“ヴィズエル”のキューブへの侵入を阻止したこと。

 その場にいた誰もが、ソルの話を御伽噺のような感覚で聞いていた。

 しかし、その一連の話の発端となる「ギア」のプロトタイプ、それがソル自身であるが故に、語られる言葉には真実味があった。
 冗談などとは無縁のソルが語る為、言葉も余計に重い。

 「…こんな所か…」

 ソルは淡々と話し、全てを語り終えると、だるそうに一つ息を吐いた。

 「親父…」

 ソルの言葉を聞いていたシンは悲しそうな声で呟き、アクセルとイズナは少しだけ眼を伏せた。座敷に居る皆が同じような状態だ。
 …くだらねぇ昔話だ…。
シンに答えるように、自身に言い聞かせるように、本当に下らなさそうにソルは呟き、ゴキリと首を鳴らした。
それから紫に視線を向ける。

 「…満足したか…」

 ええ、少し聞きたいところもあるけれどね。
 そう答えた紫は、思案顔でソルの言葉を咀嚼している。永淋も同じだ。
 そこで、紫と永淋の眼が合った。
 永淋は頷くように瞳を閉じ、それを見た紫は微かに唇を歪めて見せた。

 「“バックヤード”とやらについて、もう一度…序にもう少し詳しく聞きたいわ」

 紫の言葉に、永淋も頷き、妖夢、レミリア、咲夜も、ソルへと視線を向ける。
 私も聞こうと思ってたところだぜ。魔理沙は顔を顰めながら、こめかみに指を当てている。
 霊夢が隣を見ると、ソルは無表情のまま瞳を閉じていた。
 それからソルは言葉を捜すように眉間に皺を刻んでから、口を開いた。

 バックヤード。
 この世全ての法則を司る上位次元。だが、それは高尚な次元がこの世を管理し、
 支配している、という訳ではない。

 バックヤードを文字だけの世界と考えると、その文字は正に無限にあり、ある揺らぎを持って存在している。
 その揺らぎによって、ただの文字の羅列が一定の文章になった時、この世に意味のある事象として現れる。
 広大な宇宙の中で太陽という惑星の衛星として地球が生まれ、まったくの偶然として地球上に海が出来、その海がすべての生物の温床となった事が正に縮図と言える。


 …仮説だが…。ソルは説明の中で、視線を紫に移した。

 「…この文字の羅列に限定的ではあるが直接的に干渉し…恣意的に法則を捻じ曲げる能力が…貴様の持つあの出鱈目な力なんだろうな…」

 「私がこの世界の境界を操ろうとする時は、同時にバックヤードの文字列も操っている、という事かしら?」

 「…逆だろうな…まずバックヤードの文字列を並び替えている…その結果が…リアルタイムでこの世界に反映されているんだろう…」

 そこまで話を聞いていた紫が、何かを思い出すように眼を閉じる。

 「貴方が私の能力を封じたカラクリも、そこにある訳ね…」

 …そういう事だ…。
 紫の質問に一通り答えるソルを見ていたシンが、フ…、と似合わないニヒルな笑みを浮かべた。

 「相変わらず、俺には何の話かさっぱりだが」

 阿呆なことをのたまうシン。
 その隣に座っている妖夢も、難しそうな顔で、むむむ、と呻っている。
 興味深そうにソルと紫の話を聞いている永淋。
 その隣に居るイズナが、ふむ、と頷き、要するに、と渋い声で言った。

 「バックヤードっちゅうモンは、この世のルールや法則が書いてある図書館みたいなモンかねぇ。
万有引力、質量保存…その他諸々ね」

 霊夢は何となく分かったようだが、魔理沙の方は頭を捻っている。
 アクセルはポリポリと頬を掻きながら、じゃあさ、とイズナに向き直る。

 「法力を使えんのも、俺がタイムスリップしちまうのも、そのバックヤードが決めてる…ってことかい?」

 イズナはアクセルに頷いて見せた。

 「それだけじゃあ無かよ。寧ろ、存在するもの、感じるもの、起こる事象…それらは皆、バックヤード齎すモンだで」

 下手すっと、人の意識や決意、感情すらも、バックヤードが定義してるかもしんねぇね。
 イズナはそこまで言って、茶をずずっと啜った。

 その話を聞いていた妖夢が、そんな…、と悲しそうな声で呟いた。
 
 「人の想いまで定められているなんて…。そんなの、何だか嫌ですね」

 だよなぁ。シンも妖夢の言葉に頷いた。
 最初から全てが決められてるってのが、特に気に入らないぜ。魔理沙も鼻を鳴らす。

 そうだねぇ…オイもそう思うっちゃよ。説明したイズナも、どこか虚しそうに眉尻を下げて見せた。

 「不老不死や、咲夜の時間操作なんてのも、バックヤードへ干渉している能力になりそうね。う~ん…」

 難しい顔で唸りながら、レミリアも何やら考えこんでいる。
 多分、そうなんでしょうね。紫はソルに視線を向けながら、レミリアの言葉に頷いた。
んん? レミリアは訝し気な表情で、紫とソルを交互に見比べた。

 「何が“そうでしょう”なんだ?」

 「私達の能力が、そのバックヤードから齎されたモノ、ということよ。…いえ、図書館という言葉を借りるなら、能力という本を“借りている”…と言った方が正しいかもしれないわね」

 …成る程…そういう解釈の仕方も出来るな…。

 紫の言葉を聞いていたソルが、低い声で呟いた。
 何が言いたいわけなのよ? レミリアは不満げに唇を尖らせた。

 「私はソルと手合わせをしてね。その時に、能力を封じられたのよ」

 ほう…、とレミリアが興味深げに声を漏らした。
 妖夢は瞠目し、永淋は警戒するかのように瞳を細めて見せた。

 「境界を操る能力は封じられたけど、弾幕攻撃を含む妖怪としての能力は封じられなかった」

 紫はそこまで言って、ソルから視線を外し、集まった面々に視線を巡らせた。それから、ソルに視線を戻す。

 「つまり、私が妖怪として持っている力は、既に“所持している本”。
境界を操る能力は、バックヤードという図書館から“借りている本”、と考えることは出来ないかしら?」

 イズナはふぅむ、と呻った後、成る程ねぇ、と頷いて見せた。シンは欠伸をしながら尻をボリボリと掻いている。

 ソルは黙ったまま眼を閉じたまま、…仮説としては…正しいかもしれんな…、と呟き、そして、掌の上に炎を燈した。

 「…俺達の使う法力は、すでにフォーマットが作られていた…」

 …八雲の言葉を借りるなら…。ソルは掌の炎を握りつぶす。

 「…俺達にとって法力は“所持している本”になるな…」

 「能力が封じられた…となると、バックヤードから借りられる能力という“本”は、その個体、個人によって決められている、というわけね」

 レミリアは言って、納得したように笑みを浮かべた。
 面倒な図書館だぜ。魔理沙は苦笑いを浮かべる。
 能力=特定の個人にのみ貸し出される本。
 そして、ソルが使える術は、バックヤードからの力を遮断する。
 平たく言えば、図書館からの“貸し出し”を無理矢理に禁止するということに他ならない。
 結果として、ソルの能力は、相手の能力を沈黙させることになる。

 紫はソルに視線を向けながら、溜息を吐いた。

 「『相手を黙らせる程度の能力』…と言ったところかしら」

 はははっ、随分傲慢な能力だわ。レミリアは無邪気に笑う。
 しかし…、と重い声でその笑い声を遮ったのは、永淋だった。

 「我々の能力や、この世に起こる事象を司る情報世界…、
そこに人工物を作ってしまえる程の者が危惧する事となると…やはり軽く見ているのは危険でしょう」

 永淋の言葉に、霊夢も頷く。

 「これからどうするの、紫? とり合えずソルが用心棒になるのは分かったけど…」

 彼らが異界の者であるならば、ただ結界の外に出せばいいという訳では無い。
 紫は眼を閉じてから、一つ息を吐いた。
 次元と座標、タイムスリップした時にずれた時間軸。それらを特定する事は、容易では無いわね。
 そう言って、紫は指先で自身の豪奢な金髪を弄りながら言って、悪戯っぽく笑顔を浮かべる。

 「それらが解るまで、結局彼らはこの幻想郷に留まることなる、と?」

 永琳が呟くように紫に問うと、レミリアはニヤリと笑みを浮かべた。

 「要するに、結局は様子を見るしかない、って事でしょう?」

 主人の言葉に、メイドはあまり面白くなさそうな表情を浮かべている。

「理解が早くて助かるわ」

 紫はソルをちらりと見て、それから、妖夢、レミリア、永琳を順に見回す。
 
 「幻想郷でも十指に入る貴女達に、彼らの身を預かって貰う…。というのは、どうかしら? 
聞いたところによると、彼らも皆それなりに腕は立つのでしょう?」

 今度はシン、イズナ、アクセルを順に見回し、紫は艶美な笑みを浮かべて見せる。
 ソル達を一つのところに集めて、新たな勢力を作りたくないのか。
或いは、彼らの監視役として、レミリアや永淋、妖夢の主ある幽々子を付けたいのかもしれない。
 もしくは、ソルと同じように、有事の際の戦力として、シン達を幻想郷のパワーバランスの一角である紅魔館や、永遠亭に配置したいのか。

 しかし、そうした意図も、紫が幻想郷を案じてのこと。
 それを知っている面々は--シン達に、害意や悪意が無いからこそだろうが--とくに迷うことも無く頷いて見せた。
 


 「紫様のお言葉なら、幽々子様も聞いて下さると思います」

 「薬の配達、薬草の調達、蒔割りなんかを手伝ってくれるなら、私の方では問題無いわ」

 「館の仕事…いえ、咲夜と美鈴の仕事を手伝ってくれれば助かるわね」

 妖夢、永琳、レミリアの順で、答えが返って来て、紫は満足そうに笑みを浮かべる。
 結界の強化に、閻魔様への報告に…。忙しくなりそうね。そう言って、紫はふぅ、と息を漏らした。

 シン、イズナ、アクセルはお互いに顔を見合わせた。
 ついでに三人はソルへと視線を向ける。
 その視線に気付いたソルは、喉を鳴らすようにして重い息を吐いた。




[18231] 十二話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:19
 それは、まさに幻想的な風景だった。

 巨大な茣蓙のような敷物を一面に敷いた境内は、祭りのような高揚感と、微かな熱気が支配している。
 神社の境内に集まった、多くの人為らざる者達の宴。
 魔法、或いは妖術の類なのだろう。
 薄い明かりのついた光の玉がそこかしこで漂い、妖怪達の姿を浮かび上がらせている。
 いや、妖怪達、というよりも、彼女達、と言った方が正しい。
 境内で酒を飲みながら盛り上がる面々には、ソル達を除けば男はほとんど居ない。
 酒で顔を赤らめた彼女達の中には、背中に翼が生えた者、角が生えている者、頭に耳が生えている者もいた。
 彼女達は美しく、可憐でありながら、また妖怪としての存在感を十分以上に発揮している。

 そんな彼女達の声を聞きながら、ソルは神社の賽銭箱に凭れるように腰掛け、その光景を肴に酒を飲んでいた。
 左手にはお猪口、右手に徳利。
 ソルの格好は昼間と同じく、黒の袴に、黒のドテラ。
 そのせいか、ソルがお猪口を口に運ぶ姿は、異様に様になっている。

 …やる事ってのは…これのことか…。
 ソルの金色に凪いだ瞳が、彼女達の中にこの宴の提案者を見つけた。
 恒例の神社での宴会。その賑やかな喧騒の中に、明るい少女の声が混じっている。

 いやいや、魔法は火力だぜ。発動に時間が掛かるからこそ、そのパフォーマンスが重要じゃないか? 
 発動が前提条件ならね。でも、時間が掛かるからこそ、コントロール性と速さを追求すべきよ。

 その声の主は、アリス・マーガトロイドと共に魔法について熱く語り合っている。
 ソルの視線に気付いた少女は、おっ、という表情を浮かべた。
 そして、この宴会の言いだしっぺである少女、魔理沙は、少年のような笑顔を浮かべ、ソルに手を振って見せた。




 神社の座敷での話し合いが終わり、魔理沙が提案したのが、この宴会だった。
「そうと決まれば、やる事は一つだな!」。そう言った魔理沙は満面の笑みを浮かべ、霊夢や紫、その他の面々を見回していた。

 霊夢は「またぁ…?」と微妙な表情だったが、紫や他の面々はそれなりに乗り気だったようだ。
 紫は「面通しついでにいいかもしれないわね」と呟き、スキマに消えた。
 レミリアは、テーブルや椅子を持ってくるように咲夜に指示し、妖夢も、「幽々子様を呼びに言って参ります」と、空へと飛び立っていった。
 言い出した魔理沙も、「ちょっくら行ってくるぜ!」と、箒に跨り、とんでもないスピードで彼方へと飛び去って行った。

 誰が後片付けすると思ってんのよ…。
 恨めしそうに、しかし、しょうがないわねぇ、みたいな笑みで、溜息を付いた霊夢が、ソルの印象に残っていた。


 ソルは眼だけを動かし、宴の中にその姿を見つける。
 今回の異変…、それなりに真剣に取り組んでね、霊夢。
 分かってるわよ。アンタこそ、その『あの子』とやらを早く捕まえて、裏で何してんのか聞いて来てよね。

 紅白の巫女、霊夢は、難しい顔で紫と話し込んでいた。
 その様子を見てからソルは手酌で酒を注ぎ、一度瞳を閉じる。

 (博麗霊夢…。空を飛ぶ程度の能力、か…)
 騒がしい宴会の様子を眺めながら、ソルはお猪口を口へと運んだ。

 先程集まった面々からは、名前だけでなく、各々が持つ能力についても話を聞いた。
 時間を操り、運命を弄り、剣術を操り、薬を作り、魔法を扱う。
 彼女達が持つ、特別な能力だ。

 …そんな重要なことを、俺達にバラしていいのか…。
 ソルは不審げに彼女達に聞いたが、もう本幻想郷縁起っていう本に載っているぐらいだから、隠すようなモノでも無い、と軽く言われたのだった。
 それに、と紫が笑った。

貴方達は敵でも無いしね。
 そう言った紫の笑みには、余裕があった。力ある者の笑みだった。
 そんな彼女達の暮らす幻想郷のバランサー。
 ソルが気になったのが、そのバランサーたる霊夢の能力だった。

 空を飛ぶ。
 それは紫曰く、何者にも縛られぬということ。
 理の外。
 法則の枠外。
 それが、空を飛ぶ、ということの真意だという。

 それはつまり。

 (…博麗は…バックヤードから独立した存在なのか…)
 いや…、とソルは唸るようにして息を吐く。
 そんな存在はありえない。
 神や悪魔、宇宙、次元すらもバックヤードの情報によって定義され、生み出される事象である。
 そのバックヤードから『浮いた存在』など、この世に顕現出来る筈が無い。
 バックヤードから『浮く』という事は、存在の否定と同義。
 文字を使わずに文章を作ることと同じだ。

 (…或いは、無意識のうちに、自分の都合の良いようにバックヤードの情報を弄っているのか…)
 勝手気侭に法則を無視し、自由奔放に理を書き換える。
 そうして、強制的にバックヤードからも『浮いて』いるのかもしれない。

 …どいつもこいつも…出鱈目なモンだ…。
 独り言のように呟いてから、ソルは再び手酌で酒をお猪口に注ごうとした。

 そこで気付いた。ソルのすぐ前だ。
 ソルのものとは別の、お猪口を持った白い手が在った。
 その白い手は、不気味な目が覗く空間の裂け目から、ぬぅと伸びている。

 ソルはそれを見て、眉をかすかに顰めた。
 そして、肩越し背後を振り返る。
 丁度その時だ。
 ソルの背後の空間に亀裂が入り、一人の美しい妖がそこから上半身を覗かせた。

 「ショベルカーを棒切れみたいに振り回す貴方も、大概出鱈目だと思うけれど…」

 ふふ、っと笑みを零しながら、紫はスキマの縁に右腕で頬杖をついた。
 左腕をスキマの中に隠したままの紫の眼は、楽しげに細められている。
 ソルは黙ったまま、前へと視線を戻した。

「私にも注いでくれないかしら」

 紫の艶のある声が、ソルの背後から響く。
 ソルの前にある、お猪口を持った紫の左手が微かに揺れた。
 注げ、ということだろう。
 目の前のスキマから伸びるその手に視線を落としながら、ソルは面倒そうに微かに息を吐いた。

 …自分で注げ…。

 そう言いながらも、ソルは紫の持つお猪口に徳利を傾けた。
 透明な液体が、お猪口に満ちる。
 酒を注がれると、伸びていた左手はスキマに飲まれていった。
 そして、ソルの背後から、お猪口を持った紫が、色っぽい仕草でスキマから這い出してきた。
 世の男が見れば、誰もが骨抜きにされてしまうような妖艶な仕草だ。
 だが、ソルはそんな紫の仕草には見向きもしない。
 ただ黙ったまま、お猪口を口に運ぶだけだ。

 紫はそんなソルの隣に腰を下ろし、素敵でしょう?、とまるで自慢するかのように呟いた。

 ……居心地が悪いくらいだ…。
 ソルはお猪口に注がれた酒に視線を落としてから、低い声で答えた。
 紫はくすくすと笑ってから、ソルの顔を覗き込むように視線を向ける。

 「そう感じるのは、貴方が自分を責めているからかしら?」

 「…知るか…」

 ソルは紫の方を見ずに答えた。瞼を閉じて、僅かに顔を顰めている。
 紫は、そう…、と呟いてから注がれた酒を飲んだ。


 境内の方で、わっ、と歓声が上がった。
 青い髪の少女が立ち上がり、胸を反らせるようにして杯を傾け、一気飲みをしている。
 それに対抗しているのか。
 その少女の前に立って、飲めもしないくせに同じく杯を一気に傾けるシン。
 次の瞬間には、シンが盛大に酒を噴出して、歓声の変わりに悲鳴が上がった。


 紫はそんな様子を見て、あらあら、と楽しそうな笑みを浮かべる。
 そして、その笑みのまま、ソルへと視線を向けた。
 ソルはニコリともせず、シン達の様子を眺めているだけだ。
 ただ、どこか眩しそうに金色の瞳が細められているのを見て、紫は、ねぇ…、と声を掛けた。

 「貴方は『あの子』に復讐をして、その後は…どうするつもりなの?」

 その紫の言葉に、ソルはどんな感情を抱いたのか。
 ソルは、一瞬だけ微かに驚いたような顔になってから、俯くようにして顔を曇らせる。
 そして、しばらく無言のまま、地面を見詰めていた。
 周りの喧騒が虚しく感じられるような、重い沈黙だった。
 紫は黙ったまま、ソルの言葉を待つ。
 そんな、ソルと紫を置き去りにして、宴はさらに盛り上がりを見せている。


 ほうほう、では、イズナさんは“異界の怪”、ということですね。
 メモとペンを片手にインタビューを行う射命丸の前には、飄々とした笑みで質問に答えるイズナの姿がある。
 イズナは茣蓙の上に腰掛けて、年寄りのように顎を手で摩りながら、質問に応じている。
 そのイズナの右隣には、蓬莱山輝夜が腰を下ろしており、そのインタビューの様子を興味深げに眺めていた。
 輝夜の傍に腰を下ろしている永淋は、もっぱら輝夜の酌をしているような感じだ。
 鈴仙と因幡も、酒と料理の乗った小皿を手に、イズナの傍に腰を下ろし、そのインタビューに耳を傾けている。
 
 
 ソルは一度顔を上げ、その様子を見ながら、疲れたような溜息を吐いた。
 
 「……どうでも良いことだ……」

 「あら…、じゃあ何もあては無いのかしら?」

 ソルは答えず、無表情のまま酒を飲む。
 その無言を肯定と受け取った紫は、ふぅん…、と不満げに唇を尖らせて、ソルへとお猪口を差し出した。

 「つまらない答えねぇ…」

 ソルは差し出されたお猪口と紫の顔を交互に見た。
 そして、お猪口に酒を注ぎながら鼻を鳴らした。

 「…下らん事を聞いたのは…貴様の方だろう…」

 「それは違うわ。ソル」

 紫の艶のある声は、喧騒の中に埋もれず、不思議なほど甘く響く。
 寒気が走るような美貌。
そこに微かな笑みを滲ませながら、紫はお猪口を口に運び、喉を鳴らす。

「 私にとって、其れは決して下らない事では無いわ。非常に興味深い事よ。
百年以上も憎悪に身を焦がした者が、その復讐を果たした時、どんな貌をするのか…」

どんな感情を抱くのか。その次に何を望むのか。
それを見てみたいし、知りたいと思うわ。
紫は静かに、しかし情熱的に語る。

「此処にも、復讐に生きた不死者が居たけれど…。
 その感情も、永過ぎる時の流れと馴れ合いの末に、摩耗してしまったようだし…」

 それから、輝夜の傍でむっつりとした表情で酒を飲んでいる妹紅に視線を向けてから、ソルへと視線を戻した。
 ソルは黙したまま、金色の瞳を微かに細めて見せた。

「貴方は違うわ。剝き出しの憎悪と怒りを感じさせてくれる。
 とても素敵よ。私はその激情を、客観的に“理解”したいの」

 憎悪。憤怒。そういった感情は、容易く“力”に変わる。
 巨大な負の力、その根源だ。

 「…そんな事を知ってどうなる…」

 「精神は妖怪という存在の核となるものよ。
  憎悪という激情を“理解”することは、大きな力となる…」

 そこまで言って紫は、悪戯っぽく笑った。

「かもしれないでしょう? 単純に、憎悪から開放された者が、何を望むのか…。
 単純に知りたいと思っただけよ」

 ソルは細めた瞳を、更に細めた。
 …悪趣味な奴だ…。呟いたソルは、視線を境内に戻す。

 その視線が、レミリアとその妹、フランドールの世話に追われているアクセルに止まった。
 彼女達の注文を捌くため、アクセルはしゃかしゃかと宴会会場を行き来している。
 肉が食べたいわ。
 はいはい~!只今行ってきま…。
 ワインや血もいいけど、たまには日本酒もいいわね…。
 はいはい! お酒ですね、ちょっと待って…。
 ね~、アクセル遊ぼ~!
 ちょ、ちょっとタンマ!
 最もしっちゃかめっちゃかになっているのはアクセルだろう。
 へとへとになりながら動き回るアクセルとは対照的に、素早く、無駄の無い動きでレミリア達の注文に答えている咲夜は、涼しい顔だ。



 「面白いわよね。彼。…いえ、貴方達は皆、興味深いわ」

 アクセルを見ながらくすくすと笑ってから、紫はスキマを開き、その中に右腕を突っ込んだ。
 すぐに右手をスキマから取り出すと、そこには徳利が握られていた。
 紫はソルへと向き直ってから、そっと徳利をソルの方へと向ける。
 その徳利を不審そうに見てから、ソルは億劫そうにお猪口を差し出した。

 「あんたが誰かに酌をしてるところを見るなんて、珍しいわね」

 またソルの背後から、声が聞こえて来た。可憐な声だった。
 そうかしら…、とその声に答えた紫は、声の主に視線を向ける。

 「珍しいわよ。いつもだったら、藍に酌させてばっかりじゃない」
 声の主は、紅白の巫女服を揺らしながら、ソルの隣に腰掛けた。
 その顔は赤く、瞼がとろんと下がりはじめている。
 
 「ん」
 そして、ソルの傍に腰掛けるやいなや、ずいと杯をソルの前に突き出して来た。
 ソルは霊夢の表情を見て、顔を顰める。

 「…もう止めておけ…。相当赤いぞ…」

 「んん~ぅ?」
 霊夢は不満げに呻ると、ソルの手から徳利を引ったくり、どばどばと自分の杯に注ぎ始めた。
 
 「紫には注いであげる癖に、私には注いでくれないなんて不公平よ」

 ぐびぐびと杯を傾け、霊夢は一気に酒を飲み干す。
 凄い飲みっぷりだ。

 「お~、すげぇな霊夢」
 今度は楽しそうな声で言いながら、境内の方から魔理沙が歩いてきた。
 手には徳利と杯。ソルと眼が合った魔理沙は、へへっと笑い、ソルが腰掛ける段の、二段ほど下に腰を下ろした。
 杯を空けた霊夢が、ぷはぁ、と息を吐いたのと、ほぼ同時だった。

 「飲んでるか?」
 魔理沙はソルに聞きながら、自分の杯に酒を注いだ。
 ソルは、…ああ…、と低い声で答えてから、紫に視線を戻す。
 ちょっと飲み過ぎじゃない? 霊夢。
 大丈夫よ、これくらい。
 ほとんど素面のまま苦笑を浮かべる紫に対して、霊夢はかなり良い感じに酔いが回っているようだ。ふらふらと体が揺れている。
 
 …大丈夫なのか…。
 霊夢が潰れるのはいつものことさ。

 ソルの呟きに答え、境内の方を眺めていた魔理沙は、おっ、と声を漏らした。
 何か面白いものを見つけたようなその声に、ソルも境内の方へと眼を向ける。
 紫、霊夢もだ。その時だった。
 ソルは境内の熱気の中に、刺すような視線と威圧感を感じた。
 
 がやがやとした賑わいが、一瞬だけ静まった。
 それくらい、彼女の纏っている雰囲気が凶暴で、凶悪だったからだ。
おかげで、ソルも、彼女をすぐに見つけることが出来た。
 間違いない。 赤いチェック柄のカーディガンとレディースシャツを纏い、日傘を差した女だった。
 深緑色の柔らかそうな髪はセミロングで、その顔に浮かぶ笑顔は優雅で、優しげですらある。
その癖、穏やかな印象を与えない。見る者によっては、恐怖すら覚えるだろう。
 細められた瞳の毒々しい赤さのせいか。

 風見幽香。
 誰かがその名前を呼んだ。境内の歓声が、また若干小さくなった。
 幽香と呼ばれた女性は、その中をゆっくりとした歩みで、ソル達の方へと歩んでくる。
人垣が割れるようにして、彼女の進む道が出来上がる。
幽香が賽銭箱前で立ち止まるのを見て、宴会に参加していた者達の間に、安堵の空気が広がった。
特に彼女に暴れるような気配が無いのを察知したのか。

周りの者達は、また再び酒盛りへと興じ始める。
賑やかで陽気な喧騒は、しかし、ソル達には少し遠くに聞こえた。

 「幽香が宴会に来るなんて、結構久しぶりじゃないか?」
  
 「そうね。この騒がしさも久しぶりだわ」
 魔理沙に答えながら、幽香は賽銭箱前の階段の手前で立ち止まってから、ソルに視線を向けた。
 そして、赤い瞳を窄めて、笑みを刻んで見せた。

 「初めまして。ソル。紫から話は聞いたわ。風見幽香。それが私の名前」
 よろしくね。
 にこやかに言う幽香の言葉には、独特の迫力があった。
 ソルは、…ああ…、と短く答えた。霊夢は赤い顔のまま不審そうな表情を浮かべ、幽香へと向き直る。
 
 「紫から聞いたって…。何をよ…?」

 「楽しめそうな者達が幻想郷に迷い込んで来た、と…そう聞いたのよ」
 喧嘩を売るのは勝手だけど、あまり派手にやらないでね、とも言われたわ。
 そう言って幽香はふふ、と上品に笑った。霊夢は紫を見て、それから溜息を吐いた。

 「人には真面目にしろって言っておきながら、幽香は遊んでなさい、ってのはどういうことよ」

 異変解決に動くように話を付けるならともかく、と霊夢は思う。
 フラワーマスター・幽香と言えば、幻想郷でも屈指の戦闘力を誇る妖怪だ。
 間違い無く戦力になる筈。
 だと言うのに。

 「そのままの意味よ」
 紫は笑って言う。霊夢は眉を顰めた。
 魔理沙は、ああ~…と、何となく察しが付いた、みたいな相槌を打った。
 ソルも、視線を紫に向ける。
 
 「幽香が遊ぶ、ということは、見敵必殺、ということよ」
 ソル達がそれに巻き込まれたりしたら不味いでしょう? 薄ら笑いを浮かべながら、紫は霊夢に言った。
 その表情を見て、霊夢は一瞬だけたじろいだ。

 今回、紫が異変と捉えているものは、異界から齎されたモノ。
 此処に幽香が居る。それは、「異界の者達と戦うことになるが、間違ってソル達を殺さないように、顔を見ておけ」ということなのだろう。
 幽香も、一度ソルへと視線を向けてから、紫の言葉に愉しそうに笑って見せた。
 
 「ソルの方は及第点なんでしょう?」

 「ええ。邪魔にはならない筈よ」

 「ズルイわねぇ…。私も、誰かの味見がしたいのだけれど…」

 舌なめずりしながら、幽香は境内に視線を這わせた。
 幽香は戦闘を好む。戦うことを楽しむ妖怪だ。
 霊夢は、「今日は諦めなさい…。宴会の最中なんだし」と諫めるように言う。
続いて、魔理沙も苦笑を浮かべた。 「幽香が言うと、ちょいと洒落にならねぇな」
 魔理沙は言いながら、幽香が視線を巡らせる様を見ている。
だが、幽香は二人の言葉など聞いていないかのように、濡れた唇をもう一度舐めて、紫に向き直った。

 「…いいでしょう? 一人だけでいいの」

 女の魔理沙ですら息を飲むような色気を滲ませた声で、紫に聞く幽香。
 霊夢は顔を顰めながら、駄目よ、と言おうとしたが出来なかった。
 それよりも先に紫が、今なら別に良いんじゃないかしら、と言ったからだ。
 ソルは顔を苦く歪めて、紫に向き直った。
 
 「そんな面倒そうな貌をしなくても大丈夫よ、ソル。幽香は他の子に興味が在るみたい

 紫は言って、視線を境内の方へと向けている。
 幽香もだ。同じ方を見ている。
 霊夢と魔理沙も、紫達が見ている方へと視線を向けた。
 
 彼女達の視線の先を眼で追って、ソルは更に顔を歪めた。

 シンだ。
 幽香の視線の先には、幽々子と妖夢、そして、天子と談笑しているシンが居る。
 いや、談笑している、というのも少し違うかもしれない。
 シンと天子は何かを言い合い、妖夢が二人を宥め、それを見ている幽々子があらあらと笑みを浮かべている、といった風情だ。
 先程の酒の一気飲みも、どうやら天子が仕掛けたらしい。
 天子は衣玖に酌をさせながら、ほんとお子様ね。お酒も飲めないの? と、挑発するようにシンに言って、杯を傾けている。
 シンは悔しそうにお猪口を睨み付け、うるせー、と呟きながら舐めるように酒を飲んでいる。

 
 幽香の表情が喜悦に歪むのを、霊夢は見た。
 紫は、ふーん…、と意味深な視線をシンと幽香に交互に向ける。

 「シンがどうかしたのか?」

 ソルは魔理沙の問いを聞きながら、幽香へと視線を戻した。

 「ええ。あの子からは、私と同じような力を感じるわ」

 魔理沙は不可解そうな顔になって、首を傾げた。
 「シンがか…? いや、花を咲かせるような奴には見えねぇけどな」

 「“花を咲かせる”ということは、自然の一部と、花の生命を司るということよ」
 魔理沙の言葉に答えたのは紫だった。霊夢は黙ったまま、その言葉に耳を傾ける。
 
 「彼…シンも、白玉楼の桜の折れた枝を治し、花を咲かせたと聞いたわ」
 幽香は、へぇ…、と唇を歪め、興味深げに相槌を打つ。

「恐らく、幽香が感じた通り…。シンにも、自然や生命に関わる能力があるのでしょうね」
 紫のその言葉を聞いた幽香は、ふふふふ、と愉快そうに笑った。
 霊夢と魔理沙は驚いた。幽香のその笑い声が、怖いぐらいに柔らかだったからだ。
 
 「…シンの使う法術は、例外的なものが多い…。お前が言うなら、恐らくそうなんだろうな…」

 対照的に、ソルの声は重い。

 「私、あの子が良いわ」

 美しい顔に凶悪な笑みを刻んで、幽香はソルに向き直った。
 あの子が良い。どういう意味なのか。幽香の貌を見て、すぐにソルは分かった。
 襲ってもいいかしら。 幽香の赤い眼はそう言っていた。
 笑みすら浮かべている。
恐らく、止めても無駄だろうと思ったのか。ソルは微かに鼻を鳴らした。
 …好きにしろ…。 ソルの言葉を聞いた幽香は、笑みを堪えるように肩を揺らした。
 
 「ちょ、良いのかよ!?」
 「まぁ、酒の肴には丁度良いんじゃないかしら?」
 焦ったような魔理沙に、紫は茶化すように言う。

 「もしも、って時には、助けに入るわ。…あんたもそのつもりなんでしょ?」
 霊夢はソルを見ながら、やれやれ、といった風に肩を竦めてみせた。
 紫が幽香を止めないのも、恐らくは、霊夢と同じように考えているからだろう。
 
 「盛り上がりすぎるだろ…」
 やべぇなぁ、と宴会の言いだしっぺの魔理沙は、困ったような顔でボリボリと頭を掻いて、幽香の背中を見送る。
 ゆったりとした足取りでシンに近づいていく幽香からは、既に殺人オーラが迸り始めている。魔理沙はもう一度、やべぇなぁと呟いた。



 身の危険が迫っているにも関わらず、シンの方は何やら天子と言い合っていた。
 二人共、大分顔が赤い。表情も半分くらい酒に溶けてきている。

 「誰がピーチぺちゃパイですって!? もう一回言ってみなさいよ!」

 「テメェが先に馬鹿馬鹿言って来たんじゃねぇか! 何も殴ることねぇだろうが!」

 天子の手には拳大の要石が握られており、シンの頭にはたんこぶがあった。
 シンは頭を摩りながら、いってぇ~…、と呟いてから、天子を指差した。

 「確かに俺はな、物覚えはあんまりよくねぇけど、馬鹿じゃねぇ。分かったか。このケツケツボーシ」

 け、ケツケ…!? と言って、天子の表情が強張る。周りから忍び笑いが漏れ始めた。
 困ったような顔だった魔理沙も、思わず笑いを堪えるように、くっ、と喉を鳴らし、霊夢は飲んでいた酒で咽た。
 紫は少しだけ頬を染めて、苦笑いを浮かべようとしたようだった。

 「ケツじゃないわよ馬鹿! これは桃よ!」

 「桃でもケツでもどっちでも良いけど、馬鹿って言うなっつの!」

 「よくないっ! 何よ! この短小!」

 天子の言葉に、酒を噴出すものが多数出た。
 紫は、や、やだ…、と頬を恥ずかしそうに染め、顔の半分を扇子で隠す。
 霊夢、魔理沙の顔も若干赤い。
 ソルは我関せずの顔で、酒をちびちびと飲んでいる。
 幽香はと言えば、びくりと肩を震わせ、足を止めて紫達を振り返った。
 あの空気の中に入って行けないのだろう。
 どうしよう。そんな顔になっている。その幽香の顔も赤い。



 シンは天子の言葉の意味がイマイチ理解出来なかったようで、眉をハの字に曲げた。

 「ああ? タン塩? 何言ってんだテメェ」

 「タン塩なんて言ってないわよ! 短くて! 小さいって言ったのよ!」

 胸の大きさを言われた仕返しとばかりに、天子はシンの股間をビシリと指差した。

 「総領娘様!あ、あまりそのようなはしたない言葉は…」

 天子の傍に控えていた衣玖の焦った声を掻き消すように、黄色い悲鳴が辺りから上がった。
 シンは一瞬呆気に取られたような顔になってから、すぐに子供っぽい、不敵な笑みを浮かべた。

 「見たことねぇ癖に何言ってやがる。俺のはオヤジのマンモスマグナムとサイズはあんまり変わらねぇんだよ。なぁ、オヤジ!」

 シンは同意を求めるように、自信満々な顔でソルへと顔を向けた。
 さらにボリュームの上がった黄色い悲鳴があがり、境内のボルテージが上がっていく。
 アクセルは「うほっ」と言って奇妙に笑い、顔を赤くしたレミリアの視線がソルに向いた。
 レミリアだけじゃない。輝夜や永淋、イズナも、ソルとシンを見比べている。

 流石にヤバイ方に盛り上がろうとしているのを察したのだろう。
 妖夢がシンの傍に駆け寄り、水の入った杯を差し出した。

 「ほ、ほら、シンさん! これ飲んで落ち着いてください!」

 おう、と勢い良く渡された杯の水を一気飲みするシンに、天子はふん、と鼻を鳴らして見せた。
 衣玖は嫌な予感がした。その通りになった。

 「口では何とでも言えるわ!」
 証拠を見せてみなさいよ。その天子の言葉に、境内に響く黄色い悲鳴が最高潮に達した。
 酒って怖いねぇ…、と笑いながら呟いたのはイズナだ。
 こ、これは盛り上がり過ぎじゃ…、と焦ったように周りをキョロキョロする鈴仙。
 輝夜、永淋は若干の苦笑と共に、その様子を眺めている。
 宴会に男が参加すること自体、かなり稀だからねぇ…。盛り上がるのも仕方無いじゃない。てゐは肩を竦めて鈴仙と眼を合わせた。

 「はっ! 言ってろよ! 今証拠を見せてやる」
 シンは自分のベルトをかちゃかちゃとやり出した。
 妖夢はひゃぁあ!、と悲鳴を上げて逃げ出し、衣玖は顔を両手で覆いながらも、指の隙間かその様子をちら見している。
 流石に本当にするとは思っていなかったのか。
 煽った天子の方は逃げるに逃げれず、オロオロとしだした。
 そして、シンに手合わせを願い出ようとしていた幽香は、もっとオロオロとしていた。
 無理も無い。
 手合わせしようとしている相手が、今からズボンを脱ごうとしているのだ。
 そんな展開の中に進むに進めず、困り果てた顔で紫達の方を何度も振り返り、その場で右往左往している。

 爆笑しながらシン達の様子を見ていたアクセルの隣では、フランドールが姉のレミリアの服の裾をくいくいと引っ張っていた。

 ねぇねぇ、お姉様。まんもすまぐなむ、ってなぁに?
 妹の質問に、姉の紅い瞳が恥ずかしそうに伏せられた。
 さ、さぁ…、な、何かしら…。
 じゃあ、まんもすふぁいやーは?
 え、と…。そ、そうね。ぞ…象さんの一種…かしら。
 象さん?
 く、詳しいことは…そうね、あ、アクセルに聞きなさい。
 お、俺!?

 アクセルが素っ頓狂な声を上げた時だった。
 シンがふと何かに気付いたように手を止め、ソルへと振り返った。

 「証拠っつーんだったら…やっぱオヤジもいねぇとな…。
オヤジ! 俺と一緒に、ちょっとこいつに一発マグナムキャノンをお見舞いしてやってくれよ!」

 シンの大声に、境内に居る全員の視線がソルへと向いた。
 それと同時だった。ソルがゆっくりと立ち上がった。
 まじかよ…。 呟いた魔理沙がソルを見上げながら息を呑み、紫は真っ赤な顔で俯いてしまった。
 霊夢は挙動不審な動きで、何故かソルの持っていたお猪口に酒を注いだ。

 ソルは賽銭箱前の階段を下りながら注がれた酒を飲み干し、シンの隣へと歩み寄った。
 その間、境内は水を打ったように静まり返っていた。
 文は真剣な顔でカメラを構え、咲夜は困惑したような表情で、レミリアとフランドールに目隠しをした。

 はわわわ…。
 声を震わせる天子の前、シンの隣でソルは立ち止まった。
 シンはニヤリと笑った。

 「へっ!吼えズラかくなよ! よっしゃ親父、同時に行くぜ! マグナムファイャ――」

 ソルは足を上げると、ブーツの底をシンの腰あたり押し付け

 「――アアァァァァアァァァン!?」

 そのまま押し出すように蹴り飛ばした。
 いや、押し飛ばしたといった方が正しいかもしれない。
 もの凄い勢いでシンは吹っ飛び、そのまま鳥居を抜け、神社の階段の下へと消えていった。

 「…騒がせて悪かったな…続けてくれ…」

 静まり返った宴の席に、ソルの低い声が響いた。
 幽香はほっとしたような表情を浮かべてから、そのソルの傍へと歩み寄る。
 ずどどどど、という音と共に、シンが階段を駆け上がってきた。
 その顔には、焦りと怒りが同時に浮かんでいる。

 「やりやがったなオヤジィィィ…! 俺のエレフェントがパオーンしなくなったらどうすんだよ!」

 「…お前と手合わせをしたいそうだ…」
 ソルはシンの言葉には答えずに言って、幽香へと視線を向けた。
 幽香は溜息を吐いてから、苦笑を浮かべた。

 「ほんと…。面白い子ねぇ」

 さっきまでオロオロしていたとは思えない優雅な足取りで、幽香はシンの前へと歩み出た。

 「初めまして、シン。少し私と遊びましょう?」




[18231] 十三話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:20

シンはゴキッと首を鳴らしてから、右手に持った棍棒で肩をトントンと叩いた。

「得物を手放したら負け…、つまり、その日傘を取り上げたら俺の勝ち、って訳だな」

「ええ、そうよ。逆に、私が貴方の棍を取り上げれば」

 私の勝ち。
 春風のように柔らかで、それでいて底冷えするような声で言って、幽香は微笑む。
 その強者の笑みを前に、シンも楽しげにニッと笑う。
 神社の境内の熱気は、かなり高まって来ているようで、がやがやと賑やかな声が聞こえる。
 その境内の真ん中で、対峙するシンと幽香。

 それを遠巻きに眺めながら、他の妖怪達は酒を片手に観戦モードだ。
 喧嘩は祭りの華。それが、フラワーマスター・幽香と、異界の者とがぶつかるものならば、尚更。

 だが、盛り上がり過ぎには注意すべきでもある。

 故に、霊夢は勝利条件を提案した。
 得物が手から離れたら負け、これでどう?
 その霊夢の言葉に、幽香の方は若干納得いかなそうだったが、シンの方は、別に良いぜ、と笑って了承した。
 ただ殺し合うよりも、エンターテイメント性はあるかもしれないわね。
 紫も、霊夢の提案には悪い顔はしなかった。
 …そうね。今日は味見だけ…。我慢しておくわ。
 そう残念そうに言って、幽香も仕方なく従った。

 それを確認し合う二人を見ながら、霊夢は少し硬い表情のまま。
 魔理沙の方も、箒を片手にいつでも飛び出せる体勢だ。
 紫は瞳を細めたまま、スキマに身を沈めるようにして凭れ掛かっている。
 三人は賽銭箱前の階段に腰掛けながら、周囲の熱気と緊張感が高まってきている事を感じていた。

 「なぁ、シンって実際の所、どれくらい強いんだ?」

 その熱気に浮かされたのか。
 楽しそうな魔理沙の声に、ソルは無表情のまま視線を魔理沙へと向ける。
 ソルは先程と同じく、賽銭箱に凭れ、お猪口を片手に持ったまま。

 「…奴は…」

 ソルのその低い声に、紫と霊夢もソルへと視線を向ける。

 「…頭は悪いが、勘の良い奴だ……戦闘に関して言えばだが…」

 へぇ、そりゃ面白くなりそうだ。
 魔理沙は笑顔を浮かべて、境内の方へと視線を戻した。

 「ふふ、親馬鹿なのね」

 紫が小さく笑い、ソルは鼻を鳴らした。
 
 「…俺に餓鬼はおらん…」

 「でも、シンはソルの事を親父って言って…、ああ、育て親ってこと?」

 「…ああ…」

 霊夢の言葉に短く答え、ソルはお猪口を傾けた。
 紫は、笑みを湛えたまま、スキマを開いて腕を飲み込ませた。
 杯を持ったその手は、またソルの前へと現れる。
 ソルは黙ったまま、スキマから伸びるその杯に酒を注ぐ。
 紫は、有り難う、とソルに言ってから、境内へと視線を戻した。

「確かに、彼からは得体の知れないモノを感じるわ」

 幽香が興味を惹かれるのも分かる気がするもの。
 紫はそう言って、杯を口へと運んだ。
 シン達を見ていた霊夢の眼が、微かに細められた。
 それとほぼ同時だったろうか。
 空気を振るわせ、腹の底に響くような、鈍い音が数回した。
 始まったか…。
 そう思ったソルが境内へと視線を向けると、シンの棍と幽香の傘が、ぶつかり合っている瞬間だった。

 幽香は剣を振るうように、手にした日傘を振るっている。
 優雅で、繊細で、それでいて苛烈だった。
 振るわれた傘がシンの棍とぶつかる度、低く、鈍く、また重い音が響いている。
 
 二人の間合いは至近だ。
 明らかにシンの棍棒の間合いでは無い。
 長柄の得物では不利であろう間合いだ。
 だが、シンは不敵な笑みで、真っ向から幽香の攻撃を捌いている。
 シンは棍を持つ右手と左手の間隔を広くさせ、矢継ぎ早に打撃と防御を繰り出す。

 やるじゃない。幽香は愉しそうに、優雅な笑みを浮かべた。
 そっちこそ。シンは邪気の無い笑みで答える。だが、その笑みは一瞬で消えた。
 幽香が左手に持った傘を右脇から、左へ一文字に振るった。
 その振るわれた傘をシンが捌いた瞬間。
 幽香がシン目掛けて、右の回し蹴りを繰りだしたのだ。
 あぶねっ!? シンは身体を仰け反らせるようにしてそれをかわし、バック転で距離を取る。
 幽香は笑ったまま、そのシンへ追撃をかける。
 バック転の着地。その瞬間を狙い、幽香はシン目掛けて一瞬で肉薄する。
 だが、バック転の着地と同時に動いたのは、シンも同じだった。
 着地したシンは顔を上げ、惜しいな、と呟いた。
 そして棍を盾のように前に出し、その棍棒に赤黒い雷を纏わせる。
 その一連の動作は一瞬。
 肉薄してきた幽香が傘を上段から振り下ろすよりも、僅かに速かった。
 何かが歪むような、不吉な音が鳴った。

 シンが幽香の傘を受け止めたのだ。
 ただ受け止めただけではない。
 シンは棍棒を持ち上げるようにして、受け止めた幽香の傘を跳ね上げた。
 傘を持った左腕ごと跳ね上げられ、幽香の脇腹ががら空きになる。
 幽香が舌打ちをした。
 シンはすっと身体を沈めて、棍棒での足払いを繰り出した。
 刈り取るような鋭い振り。
 幽香がふっ、と笑った。

 そりゃねぇよ…!シンは顔を引き攣らせた。
 払いに行った棍。それを、幽香は足で踏みつけるようにして止めて見せたのだ。
 足で止めただけでは無く、そのまま踏んづけている。

 得物から手を離したら負けだ。 しかし、この状態がヤバイ。
 シンは踏みつけられている棍棒を引っこ抜こうとしたが、びくともしない。
 何て脚力だ。そうシンが思った瞬間だった。
 風を切る音が聞こえた。シンは咄嗟に地面を這うように身体を沈めた。
 その頭上を、振るわれた殺人傘が通り過ぎて行った。

 シンは視線を上げて、幽香の顔を見た。
 幽香の顔は相変わらず優雅な笑みだった。
 寒気がした。何て良い笑顔で攻撃してくるんだ。
 シンが思った時には、幽香はその笑みのまま、傘を振り上げていた。

 流石に、シンの顔からも余裕が消えた。
 棍棒から手を離したいが、離せば負け。
 しかし、このままではサンドバック。
 喰らっても耐えられるだろうが、相当きついのは間違い無い。
 今まで捌いていた傘攻撃を喰らうのは、出来れば避けたい。
 それに、体勢的にもかなりやばい。
 踏んづけられている棍を持っている為、シンは幽香の前に跪くような状態だ。
 圧倒的に不利だ。幽香はそんなシンに、笑いながら傘をぶち込もうとしている。

 冗談じゃねぇ。
 何てサディスティックな奴だ。
 一瞬で良い。
 ちょっとで良い。
 一瞬で良いから、幽香の足が浮けば。
 シンがそう思った瞬間、幽香のロングスカートが目に入った。
 柔らかそうに揺れるチェック柄のスカートだ。

 シンはある事を思いついた。
 これをすれば、恐らく幽香も多少の動揺を見せるだろう。
 いや、ひょっとしたらまるで動じないかもしれない。
 だが、ただ傘で滅多打ちにされるなら、試した方がマシだ。

 そこまで一瞬で頭を回転させ、屈んだ体勢のままシンは手を伸ばした。
 幽香のスカートに。

 今度は幽香の表情から余裕が消えた。
 幽香は凄まじい速度で飛び退ると、自分のスカートを押さえた。
 んえっ、とシンが間抜けな声を出す位、その動きは疾かった。

 「 あ、貴方…! 今、す、スカートを…!」

 幽香はシンを睨みつけながら、頬を赤く染めた。
 どうやら、シンが想像していたよりも遥かに効果があったようだ。
 シンは無邪気な笑みを浮かべて見せた。

「おう。捲ろうとした」
 幽香の頬がさらに赤く染まる。
 周りに居たギャラリーからブーイングが巻き起こった。
 このスケベ! 変態! 女の敵! 
 もう大顰蹙の嵐だった。

 いいぞー! 思いっきり捲ってくれー!
 その中に、アクセルの声援が混じっている。
 霊夢とイズナは苦笑を浮かべ、魔理沙は、わははと笑った。

 至近距離で幽香と打ち合う時点で、相当なものねぇ。
 紫は瞳を窄めながら呟きながら、杯を傾けた。
 ソルも同じように、黙ったままお猪口を傾けている。

「全く…。戦いの最中にスカートに手が伸びてくるなんて、想定外も良いところだわ」

 自分を落ち着かせるように言って、幽香はシンに向き直る。

「俺からしたら、そこまで過剰に反応されてちょっと焦ったぜ…。まさか…」

 そこまで言って、シンは糞真面目な顔になった。

「穿いてない…のか…?」 声まで糞真面目だった。
 シンの言葉にギャラリーが静まり返り、その視線が一斉に幽香に集まった。
 幽香の顔が真っ赤になった。

 「は、穿いてるに決まってるでしょう!」
 
 「そうか…。なら良いんだけどよ」

 ほっとしたように言って、シンも棍棒を構え直す。
 残念そうに溜息を吐いたのは、恐らくアクセルだ。
 幽香は「何の心配をしてるのよ…」と低く呟きながら、重心を落とした。
 そして、薄く笑って見せた。

 ギャラリーの誰かが、危ない、と言った。
 
来るか。
 シンがそう思った時だった。
 途轍もない衝撃を感じた。
 かろうじて棍棒での防御が間に合っていたが、上方向にシンは吹っ飛ばされていた。

 何だ。
 何をされた。
 シンは視線を下に向けた。
 幽香が傘を振り上げたような体勢で、こちらを見ていた。
 そうか。
 傘で打ち上げられたのか。
 鳥居が下に見える。

 何て疾い踏み込みだ。
 明らかに、先程までとは違う。
 攻撃のスピードも、パワーも。
 シンは空中で体勢を整えようとして、再び気付いた。

 幽香が地面に居ない。
 頭上から殺気を感じた。
 気配。俺の上だ。
 シンは空中で振り返りながら、棍棒を身体の前へと持って行った。

 そこで、幽香と眼が合った。
 幽香は笑みの形に赤い眼を細め、傘を振り上げていた。
 ちゃんと防ぎなさいね。鳥肌の立つような声の後、それはやってきた。
 殺人傘だ。
 それを受け止めたシンの身体が軋み、神社へと上がる石段目掛けて叩き落された。

 「ぐっ…!」

 何とか体勢を整え、石段に着地したシンは、くそっ、と呟いた。
 着地したシンの目前。その石段の上。
 幽香が浮いたまま、もう傘を振るって来ていた。
 追撃か。疾ぇ。
 シンはバック転で幽香の傘を避け、そのまま石段も飛び降りる。
 そして、石段の下に着地したシンを待っていたのは、弾幕。

 降って来る。光の雨だ。
 かわせない。

 その弾幕の向こうでは、幽香が宙に浮かんだまま笑みを浮かべている。
 観察するようにこちらを見ている。

 いきなりやる気出してきやがって。
 シンは弾幕目掛けて右手を突き出し、ニヤリと笑った。

 「負けねぇぜ」

 シンが呟いた瞬間だった。
 突き出されたシンの右手から、赤黒い雷の束が迸った。
 ビカビカと光りながら激流と化した雷は、まるで黒い大蛇の群れだった。
 のたうち、うねりながら、弾幕へと突っ込んでいった。
 大蛇達は獰猛で、凶暴だった。
 幽香が放った弾幕をぐちゃぐちゃに食い荒らし、そのまま幽香に殺到した。
 幽香は雪崩れかかってくる大蛇達を見ながら、ふふ、と笑って見せた。
 そして手にした傘で、大蛇を一匹一匹殴り殺し、掻き消し、弾いてから、再びシンに肉薄した。

 それを迎え撃とうとしたシンだったが、うまく出来なかった。

 シンの足だ。蔦、というか、あれは根だろうか。
 絡み付いている。

 「な、何だこりゃあ!?」

 それは瞬く間に、シンの身体に巻きついて行った。
 足だけでは無い。腕や棍にもだ。雁字搦めになっている。
 シンがその気になれば、一瞬で蔦など引き千切り脱出できる筈だが、幽香はそんな暇を与えない。
 良い様ね。
 幽香は笑い、傘を袈裟懸けにシンへと叩き込んだ。
 シンの右の肩口だ。
 やばい音が鳴った

「ぐあ…!」

 傘での一撃が強烈過ぎたせいだろう。
 縛っていた蔦や根が千切れ飛んで、シンは吹っ飛ばされた。
 ぐ、とか、が、とか短い声を漏らしながらゴロゴロと転がって、シンは地面から跳ねるように起き上る。
 いってぇな、くそ…。
 呟くシンは、肩をボキボキと鳴らして、再び棍棒を構える。
 幽香は、ふむ、と何かを考えるような仕草をしてから、シンに向き直った。

「…思ったより頑丈ね」

「そっちこそ、すげぇパワーだな」

 軽口を言い合うシンと幽香は、境内から石段を下りた場所で再び対峙する。
 博麗神社の参道でもある其処は、周りには木々が茂ってはいるものの、
 ある程度開けており、神社の境内から見下ろす事も出来る。
 観戦するには中々適した場所。
 神社の境内から移動してきていたギャラリー達は、鳥居の上や石段に腰掛け、シンと幽香の攻防に見入っている。

 対峙するシンと幽香の緊張が伝わってきているのか。
 そのギャラリーの中から、溜息が漏れたり、息を呑んだりする音も聞こえた。
 

「そろそろ決めましょうか…」

 双方の間にある間合いは約20歩程。
 まず動いたのは、そう呟いた幽香だった。

 弾幕では無かった。
 幽香は一瞬で距離を詰めて、左手に持った傘を逆袈裟に振り上げた。
 迅い。とてつもなく迅い振りだ。
 シンはそれを棍棒で受け止め、そして、受け止めたついでに体を回転させて、横凪に棍を放った。
 流れるような反撃。だが空振る。幽香が軽く跳躍していたからだ。
 見下ろすような体勢の幽香の顔に、笑みが浮かんだ。

 シンの反応は速かった。即座に持っていた棍棒を体の防御へと運んだ。
 ふわりとした優雅な跳躍から放たれた、幽香の強烈な回し蹴り。
 それを棍棒で受けたのだ。

「ぐぉっ…!」

 シンは、その力を殺しきれず吹き飛ばされる。
 幽香の蹴りの威力勝ちだった。幽香はそのまま追撃に出る。
 それを阻む為、吹っ飛ばされながらもシンは掌を突き出し、雷の塊を壁としてつくり出した。

 体勢を整える為、その刹那の時間を稼ぐための壁だったはずだ。
 だが、幽香には通じなかった。幽香はその雷の壁の中に自ら踏み込んでいった。

 バリバリバチバチという音と共に、空気が焦げる。
 感電などお構いなしで、幽香は雷の塊を突きぬけて来た。

 シンの顔に驚愕の表情が浮かんだ。
 境内から見下ろしているギャラリーからも歓声が上がる。

 稼げるはずの一瞬の時間を奪われ、逆に驚愕による隙を与えてしまったシンに、幽香が迫った。
 無茶苦茶な速度で猛襲した。

 その幽香を迎撃しようとしたのだろう。
 シンは棍棒を突き出した。
 体を撓らせるようにして放たれたそれは、凄まじい鋭さだった。

 それは恐らく幽香の太股、あるいは脛辺りを狙ったものだろう。
 打ち出された突きの角度が嫌に低い。
 だが、それがまずかった。
 幽香が笑ったのだ。どこまでも加虐的な笑みだ。

 シンは、やっちまったと思った。
 幽香は完全に読んでいたのだろう。シンの棍棒が傘で横に弾かれたのだ。
 いや、弾いたというよりはいなされた。或いは、流された、と言った方が正しい。
 すぅ、と滑るように踏み込んだ幽香は、シンを間合いに捕らえて、くすっ、と笑う。
 おかげで、シンの正面はがら空きの隙だらけになった。

 幽香のカウンターは見事だった。
 シンがやべぇ、と思った時には遅かった。
 ガキュッ、という恐ろしい音をギャラリーは聞いたことだろう。クリーンヒットだった。
 傘で棍棒をいなした幽香は、突き上げるような後ろ回し蹴りを放っていた。
 それが、シンの顎と喉の中間辺りに突き立ったのだ。
 血が舞って、シンの身体が折れ曲がった。


 霊夢は札を持ち、魔理沙は箒に跨った。
 そろそろ潮時かと思った二人だったが、紫がその二人を手で制した。


 シンの体が鞠のように蹴飛ばされたが、幽香は追撃の手を休めなかった。

 霊夢と魔理沙は戦慄した。

 シンはゴツイ鎖で出来た十字架の首飾りをしている。
 幽香は蹴りを喰らって空中を移動するシンに追いつき、その首飾りを引っ掴んだのだ。
 ガクン、とシンの首がヤバイ感じに揺れた。
 幽香はそのまま首飾りを強引に引っ張り、シンを引き寄せた。
 そして、今度は膝蹴りを叩き込んだのだ。 先程蹴りを喰らった箇所と同じところに。
 ドゴキュッ、という音が聞こえた。
 巨大なハンマーで殴り上げられたように、シンの体が大きく仰け反った。
 しかし、首飾りを掴まれている為、シンは吹き飛ぶことが出来なかった。

 鎖を首に食い込ませながら、幽香は鎖を持ち上げ、崩れ落ちそうなシンの体を起き上がらせる。
 手にした棍は手放していないが、既に意識も無いのか。
 シンは両膝を突いている首吊り死体のような状態だ。
 死んだかもしれない。
 いつの間にかギャラリーが静まり返っていた。

 おい! そろそろ止めねぇと…!
 魔理沙が抗議するように紫に言った時だった。
 ズドン、という背筋が凍るような鈍い音が鳴った。
 霊夢は其処から眼を背けた。

 幽香がシンの腹部に、つま先でもう一撃蹴りを入れたのだ。
 殺人トーキックだった。
 シンはもう白目を剥いていた。
 口と鼻からも血が流れ出ている。

 「ちょっと…遣り過ぎたかしら…」

 幽香はつまらなさそうに言って、手に掴んでいた鎖を放した。
 シンの体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
 その無防備なシンの前で、幽香は微妙な表情を浮かべていた。

 この程度なの?
 つまらない。
 つまらないわ。
 とてもつまらない。
 期待外れね。
 そんな残念そうな表情だ。
 だが、それもすぐにサディスティックな笑みに変わる。

 幽香はあろうことか、崩れ落ちるシンの前で傘を振り下ろそうとしたのだ。
 それは、いたぶる為のものでは無い。
 殺気。止めを刺す為の一撃。それを、無防備なシンに叩き込もうとしている。


 これ以上の攻撃は必要ないはず。
 止めなくては。
 間に合うか。
 間に合え。
 少しの怒りと共に飛び出そうとして、霊夢と魔理沙は気付いた。
 紫は、流石は貴方の育てた子ねぇ、と呟いた。

 一片の容赦無く叩き込まれようとしている傘の前。
 シンの眼が生き返っていた。
 完全に死んでいた筈なのに。
 幽香も気付いたようだが、少し遅かった。
 何の警戒もせずに放った幽香の大振りの一撃。

 シンは崩れ落ち掛けた身体を一瞬で持ち上げ、顔面でその一撃を受けに行った。
 ギャラリー達には、そう見えたことだろう。
 しかし、違う。

 幽香の顔が驚愕で歪む。
 幽香だけでは無い。ギャラリー全員が度肝を抜かれた。
 霊夢は、うそ…、と呟き、魔理沙はうおおっ、と声を上げた。
 アクセルはひゅう、と口笛を吹き、イズナは無茶するねぇ、と呟き、やれやれと首を振った。

 シンは振り下ろされた傘。
 その圧倒的な破壊の力を秘めた傘目掛けて、シンは大口を空けて喰らい付きに掛かったのだ。
 傘とシンの顎がぶつかったのは一瞬。だが、それで十分だった。
 シンは、傘を口にガッチリ捕らえた次の瞬間には、そのまま噛み砕き、へし折り、喰いちぎっていた。
 バキバキバキ、ブチィッ、と金属音が鳴る。それだけでは終わらなかった。
 シンの馬鹿馬鹿しくも凶暴な行動。 それは、先程のシンと同じく、幽香に驚愕という隙を作っていた。
 幽香は呆然とした顔で、食い千切られた自分の傘を見詰めてしまっていた。
 だから気付かなかった。
 いつの間にか。
 シンの棍棒の先端が、幽香の脇腹に接触している。
 そこで、幽香の表情が変わった。
 焦りだ。飛び退ろうとした幽香だったが、シンの方が速かった。

 棍棒に赤黒い電流が疾る。

 電撃を直接体内に叩き込まれたのだろう。
 次の瞬間、ビクンと幽香の体が大きく痙攣した。
 幽香は崩れかけたが踏みとどまった。

「良い事教えてやるぜ。俺の歯は超頑丈なんだよ」
 それを見て、口に噛み込んでいた日傘の破片を吐き出しながら、今度はシンが笑みを浮かべた。
 悪戯を思いついた子供のような、不敵で無邪気な笑みだ。
 「どうだ? 結構効くだろ?」  そのシンの笑みに、幽香は戸惑う。
 あれだけ喰らって平然としているなんて。
 間違いなく、ダメージは負っている筈なのに。
 それなのに。

「ええ…! 中々刺激的ね…!」

 幽香は体勢を整えながら、靴底の踵部分を叩き付けるような蹴りを放った。
 電撃を喰らったとは思えないような疾さで繰り出された蹴りは、しかし当たらない。
 バックステップを踏んで距離を取ったシンが、難なく避けたからだ。
 再び睨み合う形になったが、それは一瞬だけだった。
 その間合いはまだまだ近い。
 幽香は食い千切られた傘を握り込み、ドン、と地を蹴った。
 地面が凹み、岩盤が捲れ上がる。

 それと同時に、再びシンの足に蔦が絡みつき、その身体の自由を奪う。
 地面から生える蔦と根は、シンの足を固定するどころか、地面に引き摺り込もうとしている。
 ずぶずぶ、とシンの身体が沈んでいるのだ。

 またかよ…!
 シンは鬱陶しそうに呟いたが、今度は幽香から眼を逸らさなかった。
 幽香の放つ殺気が、さっきとは桁違いだったせいだ。
 身体を振り回すようにして、幽香は傘を握った拳を振りぬいてきている。

 喰らえば、多分、下らないことになる。
 シンは静かに息を吐いて、咄嗟に棍棒を縦に構えた。
 その瞬間はすぐに来た。
 幽香の顔には笑みは浮かんでいない。
 正面から叩き潰すつもりだ。
 何の捻りも無い。ただのパンチだ。
 いや、ただのパンチじゃない。
 必殺だ。  喰らえば終わる。

 シンはニッと唇を歪めて見せた。
 来いよ。

 幽香の拳と、シンが縦に構えた棍が激突した。
 衝撃波が生まれ、辺りの木々がざわつき、細い気等はへし折れた。
 ついでに、シンの足元の地面はクレーターのように凹み、亀裂が幾条も走った。

 幽香は苦々しく顔を歪めた。
 届いていない。
 私の拳が、棍棒に届いていない。

 拳と棍棒が接触している間には、魔方陣のような文様が浮かび上がっていたのだ。
 そして、シンの持つ棍棒が赤黒く光り、幽香の腕を弾き上げた。

 しまった。
 幽香はまさにそんな顔をした。
 だが、もう遅い。
 シンは体を捻りながら前に踏み込み、禍々しい雷を宿した棍棒で幽香を打ち据えた。

 おお、とギャラリーから歓声が沸いた。
 恐らくかなり珍しい光景だ。 あの風見幽香が膝をついたのだ。
 滅多に見られる光景じゃない。
 だが、当の本人は唇を裂いたような笑みを浮かべている。
 幽香自身が途轍もない美人である為、その凶相が一層引き立っている。       
 その表情を見て、シンも少年のような笑顔を刻んで見せた。

「やるじゃない。…その黒い雷、結構効くわ」

「そっちこそ。しこたま蹴りくれやがってよ」

 へへへ、とシンは笑い、喉の辺りを摩った。
 そうして、口と鼻の血を拭い、手にした棍で肩を叩いた。

「そう。嬉しいわ…。ふふ、こんな高揚感も久しぶり…。もっと楽しみましょう」

 幽香はゆっくりと立ち上がって、少女のような笑みを浮かべた。
 何処か儚げで、可憐な笑顔だった。
 そして、先の無くなった傘を、まるで銃を構えるようにシンに向ける。
「お、おい幽香! そりゃヤバイ! こんなトコでぶっ放すな!」
 その動作に、流石に魔理沙が、声を上げた。
 幽香は、お得意の魔砲を放つつもりなのだろう。
魔光が渦を巻いて、幽香の足元と折れた傘の先端に、魔法陣が浮かび上がった。

シンは唇を舐めてから、棍を構え直し、ぐっと重心を沈めた。
そのシンも、黒稲妻を纏って、法術による防壁を展開しようとしている。正面から受け止める気か。
ギャラリー達も、そろそろ危険を感じ始めた時だ。

  はいはい、そこまでよ。
 胡散臭くも、艶のある声が二人の間に響いたのはその時だった。
 ずずず、とシンと幽香の間の空間に亀裂が入り、そこから紫が上半身を覗かせたのだ。
 幽香にとっては、これから、という時に邪魔が入ったせいだろう。
 幽香の表情が不機嫌そうに曇り、赤い瞳が物騒に細められる。

「余興はこれから面白くなる所なのよ。…邪魔しないでくれるかしら?」

「もう十分盛り上がったわ。それに、貴方の得物…、半分壊れてるでしょう」

 紫は手にした扇子で、幽香の持っている壊れた傘を指した。
 幽香の顔が、苦く歪む。

 「今回は引き分けで良いじゃない。暫くは彼も幻想郷に居るのだし、またの機会に遊べば良いでしょう」

 不満そうに顔を顰めていた幽香と眼が合ったシンは、肩を竦めて見せた。
 幽香の方はそれを見て、わかったわ、と小さく呟いた。その声はやはり不満そうだ。

 くれぐれも場所は考えてね…。
 紫はそう言って、今度はシンに向き直った。

 「シンもそれで良いでしょう?」

 「おう。まぁ、また遊ぼうぜ。幽香」
 「ええ。また遊びましょう。今度はもっと激しく、もっと熱烈な闘争が欲しいわ」
 「へっ、望む所だぜ! パンツ洗って待ってろよ」
 「ぱ、パンツ洗ってどうすんのよ!」
 あれ、違ったっけ? と、頭を捻るシンを他所に、ギャラリーから歓声が沸いた。
 馬鹿っぽいけど、強いねぇ。馬鹿っぽいけど。
 頭の方はともかく、今回の外来の方は腕が立ちますね。
 シンさーん! 大丈夫ですかー!?
 そんな声援が届く中で、紫はスキマに身を沈ませ、シンは「馬鹿って言うんじゃねぇ!」と言い返し、幽香に向き直る。

 「俺達も戻るか?」
 今まで殴られ、蹴飛ばされ、あまつさえ半殺しの目に合わされた相手を前に、シンは屈託の無い笑顔で言う。
いい意味で、子供の腕白さのようなものを感じた。 幽香はその無邪気さに、思わず笑ってしまった。
 何が面白いんだよ。むっとした表情で、シンは幽香に半眼で視線を向ける。

 「…そうね。戻りましょうか。私も久しぶりに飲みたくなって来たし」

 東の国の幻想の宴。
 その余興の熱も冷めぬまま、さらに盛り上がりを見せている。
 酌でもして貰おうかしら。
 酒を注げ、ってことだよな。いいぜ。どうせ俺飲めねぇしな。

 二人を待つかのように、宴の喧騒はさらに大きくなる。
 面白くなりそうね。 呟いた幽香の瞳には、シンが映っている。
 そしてその声は、宴と、これから起こるであろう何かに期待するかのように弾んでいた。



[18231] 十三・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/06/14 23:31
神社で行われた宴会は、幽香とシンの余興もあり、大盛況だった。
 酒の匂いで満たされた境内は、本当に祭りの様相を呈していた。
 陽気な喧騒に彩られた神社。
その宴の中に、夜雀の見事な歌声と共にヤツメウナギの屋台が現れ、商いを始めた。
飛ぶ様にヤツメウナギの串が売れ、それに対抗するかのように、妹紅の焼き鳥屋の屋台まで現れた。
境内まで屋台を上げて来る辺り、本当に非常識な世界だ。
妖怪達の宴に、常識などどこまで意味があるのかは定かでは無いのだが。

シンは焼き鳥に齧りつきながら、ヤツメウナギの串を夜雀から受け取り、「うめぇ」と満面の笑みを浮かべていた。
アクセルは宴に参加した妖怪達を手当たり次第に口説いて回り、咲夜に尻を蹴飛ばされていた。
イズナは、紫の式である八雲藍を遠くから見詰めながら「幻想郷万歳…。来て良かった…」と鼻の下を伸ばしていた。

酒の席、ということで、幽々子が戯れに舞いを披露した時には、幻想的に淡く輝く蝶達で、境内で溢れ帰った。

薄い青色の蝶が、花びらのように舞う。
またその中で優雅に舞う幽々子の姿は、背筋が凍るような雅さと儚さがあった。
そのこの世ならざる美しさに、集まった者達は皆溜息を吐き、しばし見惚れた。

酒の席での戯れで見るには、余りに勿体無いと思わせる見事な眺めだった。
美しき蝶と幽々子の舞には、ソルも微か眼を細める。
ほぅ、という溜息が何処からか漏れた。
そして、次の瞬間にはその溜息が悲鳴に変わる。

此処は酒の席。
その幽玄な空間をぶち壊す者が現れたのだ。
幽々子の傍に居た天子が、私も負けないわよ、と酔った赤い顔を綻ばせながら、
緋想の剣を地面にぶち込んだのだった。
突き上げるように、激しく地面が揺れた。
大地震だった。
茣蓙の上に置かれた料理や酒が宙を舞い、二つの屋台が傾き、神社も軋んで悲鳴を上げる。
静かで、雅な空間は、阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。

うわー! 酒塗れだ!
なんてこった! 私の屋台が!?
目に酒が入ったぁー!
ひーー!?
バカヤローー!

もう酷い有様だった。
 しかし、そんな有様にも関わらず、不思議と盛り下がらない。
 それどころか、更に宴の温度は上がっていく。
集まった妖怪達も酔っ払ってきていたのだろう。
 天子を非難する声など僅かで、すぐに誰かお笑い声があがり始めた。
それが飛び火し、そこかしこで怒号と笑い声が混じりあい、弾幕と悲鳴と歓声が上がり出した。
  
まるで花火を見上げるようにして、賽銭箱前からその様子を静かに眺めるソルの隣で、
魔理沙は、こりゃ、マジ盛り上がり過ぎだな、と参ったように呟いた。
 
 そんな馬鹿騒ぎのお祭り状態は一晩中続いた。
自由奔放過ぎる彼女達が楽しんだ弊害というべきか。

祭りの後の静けさは物寂しいものだが、目の前にはそんな余韻など吹き飛ばす光景が広がっているからだ。

かつてないほどに盛り上がりを見せた宴会で、散らかりに散らかった境内の様は、もはや悲惨の一言だった。
酒瓶はほったらかし、溢した料理も吐瀉物もそのままで、茣蓙すら敷かれたままだ。
 もはや散らかっている、というよりも、荒らされている、といった風情である。

そろそろ空が白み始める頃になって、彼女達はぞろぞろと波が引くように帰り出した。
中には飲みすぎて顔の青い者や、石段から転げ落ちる者などが出ている。
楽しむだけ楽しんだし、そろそろ帰ろう。
 長居は無用さ。

そうぼやく彼女達の姿はまるで、そそくさと逃げるようでもあった。
最後まで境内に残ったのは、酔い潰れかけてうたた寝をしていた霊夢、宴会の言い出しっぺである魔理沙、そして最後の最後まで静かに酒を飲んでいたソルだけだった。

 境内に広がる惨状は、確かにそそくさと帰りたくなるものだった。
酷い酒臭さも手伝って、逆にもうこのままでも良いんじゃないか、と思わせる程だ。

こりゃ酷ぇな…、と魔理沙も引き攣った顔で呟いていた。
片付けをする身である霊夢に至っては、半泣きだった。

「こりゃ一人じゃキツイだろ。手伝うぜ、霊夢」

 恐らく、魔理沙はこうなることを予想していたのだろう。
だからこそ、最後まで残ったのだ。
 魔理沙の言葉に、霊夢が「やっぱり、持つべきは友達ね…」としみじみと呟いていた。

面倒臭いを通り越して、見るに耐えない状況だったのでソルも手伝ったのだが、
散らかり方のレベルが違う。
 終わらない。というより、あり得ない。
 鳥居の上にまで散乱した杯と徳利、酔った勢いで誰かが空けたのだろう石畳の穴。
 凹んだ地面。散らばる食いカス。
鬼が酔っ払って瓢箪をひっくり返し、零れた酒でできたアルコールの池。

そんなゴミ屋敷と化した神社の境内も、霊夢と魔理沙、そしてソルの必死な清掃作業の末、今では神聖な静謐さを取り戻し、朝の冷たい空気が支配している。


 
 
 
 そんな朝の冷たい空気を胸一杯に吸い込んで、魔理沙は大きく伸びをした。

「ぐあーー…。つ、疲れた…」

 賽銭箱横の廊下まで上がり、そこで大の字になって寝転んで、魔理沙は心底疲れたような声で呻いた。
 ソルは無言のまま、賽銭箱に凭れかかり、同じく疲れたように溜息を吐いた。
 霊夢の方は飲み過ぎに加え貫徹で片付けを慣行したせいか、起きたまま二日酔いになる、という新境地に達したようで、少し前から座敷で寝込んでいる
 
 …女ばかりで集まって…何故あそこまで散らかるんだ…。
 
 誰に向けるでもなく、ソルは疲れた低い声で、問うようにして呟いた。
 
 「そりゃあ…、此処が幻想郷だからさ…」

 魔理沙は寝転がったまま、ソルの方へと顔を向け、すげぇだろ、と笑った。
 魔理沙の声も若干疲れ気味だった。だが、その笑顔は十分過ぎるほど可愛らしかった。
 
白んだ空に、光が差した。
 朝だ。
 結局、徹夜になっちまったなぁ…。
 欠伸交じりに言って、魔理沙は廊下に寝転がったまま大きく伸びをした。
 そして、むくりと起き上がり、神社の座敷の方へと足を向ける。
 
 「ソルも寝るか?」
 
 魔理沙は眠そうにもう一度欠伸をしてから、鼻を啜る。
 少年のような仕草に、ソルは視線だけを向け、…いや、構わねぇ…、と答えた。
 それから、ソルは日が差して来た空を睨むように見上げながら、眼を細めた。
 
 「そうか…。んじゃあ、私はちょっくら霊夢の隣で横になって来る」

 流石に眠いんだぜ…。と呟き、魔理沙は眠そうな笑みを浮かべた。

 「魔理沙さんが魅力的だからって、襲いに来るなよ~…ふわあぁ…」

 普段はエネルギッシュな魔理沙も、貫徹に加え、境内の片付けは体力的、と言うよりも、精神的に堪えたのだろう。
冗談を欠伸まじりに言って、魔理沙は座敷の方へと歩いていった。
 
 

 
そして、魔理沙の代わりに訪れたのは、静寂。
 ソル以外は、この世界に誰も居ないかのような静けさだ。
 馬鹿騒ぎのあとだから余計だろう。
 その宴の熱気も、もう残っては居ない。
その薄ら寒さも、ソルには好ましく思えた。
 誰にも関わらず、誰も目に付かない。
 
 慣れ親しんだ状況だった。
孤独。
 一人。
 
一人だ。
 ソルはふと思う。
これからもそうなのだろう。
 
時間に埋もれることなく、ただ生きる。
 
無為に。
 無駄に。
彷徨うだけ。

それは果たして生きるというのか。
 死んでいるのと同義か。
 死ねないから、ただ生きるだけか。


それがどうした。

ソルは無言のまま、小さな吐息を漏らした。

どうでもいい。
下らないことだ。
 今更なことで、無益な思考だ。
 
睨むようにして空を見上げていたソルは、舌打ちをする。
 そして、誰も居なくなった筈の境内に、視線だけを向けた。
 
 「…貴様が手伝っていたら、もっと早く終わっていた筈だがな…」

 「面倒は嫌いなのよ」

 貴方と同じでね。
 悪戯っぽい声音が響き、ズズズ、とソルの少し前の空間が歪む。
 縦に裂けたスキマだ。其処から、眠そうに目を擦りながら、紫が上半身だけを覗かせた。
そして、ソルに視線を向けてから、不思議そうに首をかしげて見せた。

 「何をそんなに思い詰めた顔をしているの?」

 「……」

 ソルは答えず、瞳をゆっくりと閉じた。
 眼を逸らすかのようなその仕草に、紫は薄く笑う。
 
 「悩みごとなら、相談に乗ってあげましょうか?」

 紫は眠たげな声を軽く弾ませた。
 ソルはやはり答えない。
 朝日が差して来て、微かに白く境内を染めた。
 沈黙を照らす淡い光も、また静かだ。
 
 紫はその朝日に眼を細めながら振り返り、スキマから歩み出る。
 その手には扇子も傘も持っていない。手ぶらだ。
 ゆっくりとした足取りでソルの隣まで歩み寄り、その隣に腰掛けた。
 そして、膝の上に頬杖をついて、紫はソルの反応を待つ。
 
ソルはダルそうに息を吐いてから、視線だけを紫に向けた。

 「…貴様は…どれ位の時間を生きてきたんだ…」

 その低い声は、相変わらず抑揚が無い。
 紫はソルの問いに意外そうな顔をして、それからくすりと笑う。

 「ふふ…。女性に年齢を聞くなんて、デリカシーが無いのねぇ」

ソルは紫から視線を外し、地に落とす。

 「…貴様は…何を考えて生きているんだ…」

 「あら、私に興味があるの」

 冗談めかして言う紫に、ソルは微かに鼻を鳴らす。
 
 「…お前のような…道理の檻を越えた奴らは…生きることに倦んでは来ないのか…」
 
ソルの脳裏に、吸血鬼の老紳士の姿が浮かんだ。
 あの好々爺然とした笑顔に、不釣合いな戦闘力。
 出鱈目な力を振るう、老いた鬼。
 
スレイヤー。
 
 物騒な名前を名乗るあの吸血鬼と、ソルの目に映る紫は、どこか似ているように思えた。
 ソルの瞳が、何処か遠くを見るように細められたのを見て、紫は頷く。

 「ええ。倦むことは無いわね。やるべき事もあるし、守りたいものもあるもの」
 
 柔らかな声で答える紫に、ソルは「…そうか…」とだけ呟き、また瞳を閉じた。
 
少しだけ冷たい風が吹いて、ソルと紫の髪を揺らす。
 地面を見詰めるその金色の瞳は、どこか虚ろで普段の迫力は無い。

 「復讐の後、どうするのか…。それを悩んでいるのかしら?」

 「……だったら何だ…」

 そのソルの沈んだ声を聞いて、紫は思う。
 ソルは本当に、復讐のことしか考えていなかったのだろう。
 その後の事など、まるで意識の外だったに違い無い。
奴は俺が殺す。
そう言ったソルの激情を以前に感じた紫は、先程のソルの問いに妙に納得してしまった。
貴様のような存在は、何を考え生きるのか?
ソルのその問いは、そのままソル自身にも向けられているように思える。
 
「宴会の最中、終始むっつりしていると思ったら…ずっとその事を考えていたの?」
 
 紫の問いに、ソルはやはり黙り込む。
 この沈黙は肯定だと捉え、紫はふむ、と頷いた。

そして、紫はますます見てみたくなった。
 ソルという、この寡黙な男が復讐の果てに、どんな貌をするのか。
そして、何をしようとするのか。
 激情である憎悪と憤怒の“客観的な理解”も面白そうだが、ソルの歩む先を純粋に見てみたい。
最初は興味本位でしかなかったが、今はそれが大きな魅力に感じられた。

紫は笑みが零れそうになるのを堪える。

見てみると良い。
このソルの考え込む顔を。
復讐が済んで、その後どうするのか。
人で無くなった者が、その問いに難しく貌を歪めるのを見るのは、やはり面白く、興味深い。

そこまで思ってから、紫は欠伸をかみ殺し、座ったままスキマを一つ開く。
 ソルが紫を見た。

 「精々、悩むと良いわ。そちらの方が、私も楽しみが増えるから。…じゃあね、おやすみなさい」
 
 紫の言葉は、嫌味では無く、期待が込められたものだった。
眠そうに、しかし艶美な声で言った紫は、そのままスキマに身を沈めていく。

…悪趣味な奴だ…。

低い声で言うソルに答える者はもう居なくなっていた。
ソルは鼻を鳴らして、今度こそ訪れた静寂に、深い吐息を漏らした。
…指を銜えて見ていろ…。奴は、俺が潰す…。
 昇り始めた陽を睨みつけ、誰に言うでもなく、ソルは低い声で小さく呟いた。
 

 暫くの間、ソルはそうして空を睨みつけていたが、ふと何かを思いだしたのか。
 無言のまま立ち上がり、座敷の方へと足を向けた。
 
 




神社の座敷に置かれている物は、箪笥に座布団、ちゃぶ台のみ。
そんな殺風景ですらある座敷にも、朝の白く柔らかな光が満ちてきている。
 
水を汲んだ桶と手拭を片手に、ソルはその光景に片方の眉をひん曲げた。
微かな酒の匂いが、畳の香りと混じっている。

ぐぉぉ~…という暢気な鼾。
う~ん…う~ん…という苦しげな呻き。
その二つが見事なハーモニーを奏で、二人の少女の寝姿を演出していた。
酒に潰されたあられもないその姿は、艶美と言うには少々ベクトルが違った。
どちらかというと、そのベクトルは二人の少女の可憐さをぶち壊す方へと向いている。

二人は並んで横になっているのだが、霊夢は頭を東に向け、魔理沙は頭を西に向けている。
そのせいで、魔理沙の投げ出した足が、霊夢の頬を蹴飛ばしている状態だ。
魔理沙は大口を空けて大の字になり、完全に爆睡している。
その隣では、霊夢が頬に魔理沙の足を乗っけながら、右手の甲を額に乗せて、呻き声を漏らしていた。

二人の少女が可憐であれば可憐であるほど、今の惨状が際立っている。
霊夢の方はまだアルコールが身体に濃く残っているせいか、眠りに落ちるまで至っていない。

霊夢の右手の甲が微かに動き、ソルの方へと視線だけを向けたのだ。
そして、霊夢は顔を顰める。

「う~…ごめん…。片付け…させちゃったわね」

普段は鈴が鳴るような声も、今は流石に辛そうだ。

「…構わん…」

ソルは無表情のまま、その霊夢の隣へと腰を下ろす。
そして、汲んできた桶に手拭を漬け、それを絞ってから、霊夢の額に置いてやった。
霊夢は驚いたような顔をしてから、ごめん…、と力無く言って、霊夢はその手拭を右手で押さえた。

「…あ~…死にそう」

「…自業自得だろう…」

「う~…そうかも…」

霊夢は微かに笑った。
ぐぉぉ…、と鼾を響かせて、魔理沙が寝返りをうち、その足が霊夢から離れる。
もう飲めないぜ…、と寝言を呟き、魔理沙は口をむにゃむにゃと動かした。

これから何が起こるのか。
それを警戒すべき時だというのに、魔理沙の寝顔は幸せそうで微笑ましい。

…暢気な奴だ…。ソルの呟きに、霊夢もまた微かに笑う。

「此処の連中は、皆そうよ…」

あの宴会の馬鹿騒ぎっぷりから見るに、霊夢の言う通りなのだろう。
ソルから見ても、緊張感という言葉からは縁遠そうな者達だったふうに思える。
だが、それは裏を返せば、それだけの実力者揃いということだ。
此処の連中は、皆そう。その霊夢の言葉には、妙な深みがあった。
ソルは鼾をかく魔理沙に視線を向け、…頼もしい事だ…、と呟いた。
…ほんとね、と微笑むような声で、霊夢も力なく呟いた。

肌寒い空気を照らす朝の光が、少し強くなった。
ねぇ、ソル。
霊夢がソルを呼んだ。
か細い声だった。

胡坐をかいたソルは、霊夢へと視線を戻した。
魔理沙の鼾がさらに大きくなって、間抜けな感じに響く。
霊夢は苦笑を浮かべてから、もう一度、ねぇ、と言った。

「宴会…あんまり楽しくなかった?」

霊夢の問いに、ソルは微かに怪訝そうに眉を顰めた。
…何故そんな事を聞く…。
ソルは呟くように言う。

「いや、だって…。宴会の間、ずっとムスっとした顔で居たから…」

「……もともと、こういう顔だ…」

「そっか…」

霊夢は、はぁ~、と大きな息を吐いてから、苦しそうに顔を歪めた。
気分が悪いようだ。顔色もあまり良くない。

「…まずは…自分の身体の心配をすべきだな…」

霊夢の昨晩の飲みっぷりを思い出し、ソルも顔を歪める。

「…その年であんな飲み方を続けていたら…体を潰すぞ…」

昨晩の霊夢は、およそ十代の少女とは思えない豪快な飲みっぷりだった。
少し説教臭いソルの言葉に、霊夢はさらに顔を顰める。

「そういうあんただって、大分飲んでたじゃない…」

量で言えば、一番飲んでるわよ。多分…。
霊夢はそこまで言って、その酒量を思い浮かべたのだろう。
うえぇ~、と言って顔を更に顰める。
二日酔いの頭で考えるには、よろしくない内容だ。

「何でそんな平気な顔してられるのよ…」

「…そういう身体だ…」

 ソルは静かに呟いて、霊夢の額から手拭を取ると、それを桶に漬ける。
 霊夢はまた、…そっか、と呟いて、ソルから眼を逸らした。
 相変わらず、魔理沙の鼾が大きく響く座敷に、水の揺れる音が混じる。
 漬けた手拭を良く絞り、ソルは霊夢の額へと、手拭を乗せてやった。

 「何か、変な感じね…。昨日は私があんたの看病してたのに…」

 霊夢は力無く笑って、また大きく息を吐いた。
 …お前と霧雨には…世話になったな…。それに…。
 ソルは低く言って、胡坐をかいたまま、霊夢に向かって少し頭を垂れた。

 「…これから…暫く厄介になる…」

 「ん…。よろしくね」

 霊夢は顔色が悪いながらも、いつも通りの可憐な笑顔を浮かべて見せた。
 額の手拭を手で押さえたまま、霊夢は魔理沙の方にも顔を向ける。

 「こいつも悪い奴じゃないから、仲良くしてやって」

 「…ああ…」

 ソルは短く答え、魔理沙に視線を向ける。
 霊夢…それは喰いモンじゃないんだぜ…。
寝言を溢しながら、魔理沙は苦しそうに顔を歪ませていた。
暢気に鼾をかく姿が、やけに大物に見えて、霊夢は微か笑う。

ソルは黙ったまま一度瞳を閉じてから、音も無くすっと立ち上がり、霊夢に背を向けた。

「…表に居る…」

「…うん。あんがと」

ソルの背中が、まるで父親のように大きく見えて、霊夢は不思議な安堵感を覚えた。
…今は寝ていろ。そう背中で言われているようだった。

「もうちょっとだけ…横にならせて貰うわ…」

あ~…お酒はもういいわ…。
霊夢の参ったような小さな声を背中で聞きながら、ソルは座敷を後にした。








星も見えぬ暗い空と、その暗がりを包む静寂。
闇に支配された森。
木の葉を揺らすぬるい風。
黒塗りの景色の中には、虫の声が混じり、湿った空気が漂っている。
木々すら眠るこの真っ暗な世界の中、薄い明かりが灯っていた。
その光はこの幻想郷にはそぐわない、とても無機質で電子的な光であった。

どろりとした夜の空気に埋もれるような淡い光は、三人分の人影を下から照らしている。
明滅を繰り返す不吉な光の中に、罅割れた音が一瞬だけ鳴る。

「で、今の状況はどう?」

合成音のような音。
いや、声が響いたのは、そのすぐ後だった。
それは男の声だった。軽薄そうな、人を嗤うような声。
低い声の中に妙な抑揚があり、聞く者を不快にさせる声音だった。


「無駄ニ順調ダ」

「ばっちぐーダ」

「モウ絶好調ダ」

そんな男の声に答えた声は、三人分あった。
その三つの声は機会音のようで、生き物の発する声では無かった。
鳴っている、という表現の方が正しいかもしれない。

カタコトのように鳴った言葉に、男の声で溜息が聞こえてきた。

「…連絡が無いと思ってみれば、案の定、道草喰ってた訳かい?」

男の声は呆れたような口調だった。

「…無駄ニ順調ダ」

「……ばっちぐーダ」

「………モウ絶好調ダ」

「前の時もそう言って失敗したよね? 
別部隊は道草喰うのに全力だったし…。まあ、御蔭で有用な情報と、
それに対策を打つことも出来たわけだけど…」

男の溜息をつく声が響く。

「そっちでの目的…まさか忘れてるとは言わないよね?」

「勿論ダ」

「無論ダ」

「当然ダ」

やけに自身ありげに、三つの合成音声が答える。

「我々ノたーげっとハ八雲紫ノ捕獲」

「フランドール・スカーレット及ビ、レミリア・スカーレットノ捕獲」

「又、ソノ他サンプルノ回収」

温い風が吹いて、虫の声が止んだ。
 不気味な静けさが、その人影を包む。
 く、と微かに笑ったのは、男の声だった。
 それから、男の声はふぅ、と安堵するような溜息をついた。

「ああ…そうだ。取り合えず、“今回の”、だけどね」

 合成音声の後、男の声に不意に低くなる。

「分かっているならいい…。君達以外にも、旧型を何体か送ってあるから…。
まぁ、うまいこと協力しあってね」

どこまでも不穏な響きを含む男の声は、しかしどこかのんびりしたような余裕があった。

再び、ぬるい風が吹く。
その風に吹き消されるように薄い光も消え、
男の声も闇に溶けるように聞こえなくなった。



[18231] 十四話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:25
 スキマの中に漂い、思考に耽る。
 紫にとってその時間は、暇潰しと娯楽を兼ね、怠惰を貪ることの出来る時間だった。
 持ち前の頭脳で、暇を暇で潰すこともある。 
 ただ眠るだけの時もある。 
 悪戯を考えるときもある。
 幻想郷の未来について考えることもある。

 賢者である者だけが過ごすことを許された、知識と叡智と超越の時間。

 だが、今はそのどれもが違う。
 紫の表情は、リラックスとは程遠い。
 スキマの中。
 波打つような暗い紫色の空間に開いた、無数の目、目、目。
 それらの視線の向く方向は出鱈目だ。

 いくつかの目が、ぎょろりと動き、静かに佇む紫に向いた。
 
 紫の表情は、微かに曇っている。
 
 紫は思いだしていた。

 機械人形との戦った時のこと。
 そして、そこで聞いた男の声を。

 試作機を大幅に改良したんだけどねぇ…。でも、収穫の多い敗北だったよ。

 男の声は低く、そのくせ、人を嗤うような抑揚のある声だった。
 紫に破壊された機械人形の内側から、鳴るようにして響いている。
 その声はただ不快だった。何処かで、紫と機械人形との戦いを見ていたのだろう。
 不快でありながら冷静なその声は、まるでゲームにでも負けたような余裕さも含んでいる。

 紫が激しい戦闘の末破壊した大柄な機械人形は、地面に倒れ伏し、バチバチ、と火花を散らしていた。
 こほー…。かはー…。
 壊れかけの機械人形の喉あたりから、呼吸か漏れるような音がしている。
 紫色に染め抜かれた空の下。結界の中で、紫はその機械人形を見下ろしていた。

 機械人形は人型だった。
 鋭利なフォルムを持ったその身体は、どこか女性的でもある。
 白を基調としたボディカラーに、やや明るい赤色の長い髪が目を引くせいだろうか。
 両肩の部分は大きく盛り上がっており、その内部に仕込まれたレンズが、紫との戦闘で壊されて割れていた。
 
 機械人形に、無事な場所はほとんど無かった。
 バーニアなども装備されていた肩部分は破壊され、両腕は千切り取られている。
 右脚が在らぬ方向を向いて、左脚は黒こげだ。
 腹部、胸部には、無残に凹んだ箇所、装甲が抉られたような痕がいくつも見られた。
 白いボディカラーも黒く煤けており、倒れている身体から細く白い煙が立ち上っている有様だった。

 その機械人形の壊れ方に勝るとも劣らぬ程、結界内の森林もまた戦闘で破壊されていた。
 なぎ倒された木々に、穴だらけの地面。焦げ臭い匂い。未だ煙を上げる炎。
 まるで、爆撃にあったかのような有様を見せる結界内。

 大規模な破壊の傷跡を横目で見てから、紫は顔を顰め、呻くように声を漏らした。
 それは良かったわね…。
 掠れた声で言いながら、その機械人形を宙から見下ろす紫自身も、決して無事とは言えない状態だった。
 紫の左脇腹から胸にかけて、深く鋭い傷を負わされていた。
 紫の纏う紫色のドレスも、脇腹部分が裂け、流れる血がどす黒く染めている。

 その紫の様子も見えているのだろう。
 男のノイズ混じりの声が、小さく笑った。

 いやぁ、良いね。君…。…その不思議なチカラ、欲しくなったよ…。

 男の声に、陶酔したような気色の悪い抑揚が混じる。
 紫は嫌悪に顔を歪めた。
 
 また会おう、境界の女神様。次はもう少し楽しんで頂けるよう、こちらも努力するよ。

 そう言ったのを最後に、機械人形から漏れていた男の音声は途絶えてしまった。
 消えたのは男の声だけでは無かった。
 次の瞬間、青い光で出来た輪が機械人形を包み、忽然と姿を消したのだった。




 境界の女神、ねぇ…。
 紫はそこまで思い出してから、不機嫌そうに息を吐いた。
 そして、愛用の日傘を持つ手に、知らず力が入っていたことに気付く。
 記憶に残るあの男の声は、酷く紫の神経を逆撫でする。
 忌々しい存在だ。紫は眉間に皺を寄せる。

 霊夢達を巻き込むのは避けたいところだったけれど…。
 今度はそうもいかないかもしれないわね。

 思い出していた男の声を振り払うように、紫は軽く頭を振った。

 あの巨躯の機械人形は相当な強さだった。
 他にも居た人型人形とは、全てが違った。

 あの機械人形とも、霊夢と共闘すればもっと楽に事は運んだだろうが、
 そうもいかなかった。理由は簡単だった。

 霊夢は人間だ。

 強大な力を持っていても、物理的に、妖怪である紫よりも遥かに壊れやすい。
 もしも、霊夢が私と同じ傷を負っていたら。
 助からない。
 紫は自分の左脇腹と、左胸を腕で抑えるようにして、思う。
 紫自身も、次に戦っても負けはしないが、無傷で済むとも思えない。

 止めを刺すことも出来ず、逃がしてしまったのが悔やまれる。
 尻尾も未だに掴めていない。
 奴らはまた幻想郷に土足で入り込んで来るだろう。

 幻想郷は全てを受け入れる。
 受け入れすぎる。
 だから、私が認めない。

 そして、奴らの存在を否定するその為に、「バックヤード」を知る必要がある。

 バックヤード。
 今まで得た知識の中でも、これほど興味をそそったものは無かった。
 この世の全て。いや、全ての次元を定義付けする高次元。

 謂わば、それは神。
 人間がそう呼ぶ存在だった。

 しかし、この神は慈悲や無慈悲といった意識を持って、遍く世界に事象を起こしているのでは無いという。
 この神には意識というものは存在していない。
 ある一定の“揺らぎ”を持って存在している。
 バックヤードではありとあらゆる情報が粒子として存在し、それは同時に『文字』として例えられる。

 この文字がこの揺らぎによって『文章』となった時、意味のある事象として世界に現れる。
 例え、『文章』になる確率が極めて少なくとも、その次元自体が無限遠のページを持つ本であり、図書館である。

 故に、一瞬のうちに起こる事象の数は、正に星の数。

 五感で感じる全てがバックヤードの齎す事象。
 地球が回るのも、太陽が昇るのも、月が欠けるのも、風が吹くのも。

 そして、世界の理、法則を定義しているこのバックヤードに干渉している存在。

 それが私だと言う。
 あくまで限定的、しかし、恣意的に境界を操る力。

 ならば、こちらからバックヤードに入ることは出来ないのだろうか。
 その問いに、…入り方まではわからん…、と彼は答えた。
 紫はもう一人の男の低い声を思い出し、今度は微かに笑みを浮かべた。

 バックヤードはともかく…。今回の騒動は、用心棒さんに頑張って貰いましょうか…。

 紫は小さく呟いてから、くすくすと笑う。
 そして、スキマ空間に漂う己の前に、更に無数のスキマを開き、並ばせた。
 数は、百以上。
 十重二十重に開いていく亀裂。
 それらのスキマの黒い亀裂の中には、幻想郷の各地の様子が映し出されていた。

 特に異常は無いわねぇ…。
 呟く紫の前にスキマが並んでいる様は、まるで監視カメラのモニターが並んでいるかのようだ。
 紫は、目前に並ばせたスキマの映像に視線を滑らせていく。
 膨大な視覚情報をたったそれだけで完璧に把握しながら、紫は眉を顰めた。

 もしかすると…、探知結界も既に対策されているのかしら…。

 紫は、ふむ…、と頷いて、無数に開くスキマのうちの一つに向き直る。
 そして、聞こえているかしら、と声を掛けた。すぐに反応が帰って来た。
 
 「はい。聞こえております。如何なされました、紫様」
  
 凛とした女性の声が、スキマ空間に響いた。
 八雲藍の声だ。紫が向き直ったスキマには、マヨヒガに在る八雲の屋敷に繋がっているようだ。
 猫の鳴き声も微かに聞こえ、そこに混じって橙の声も聞こえてくる。
 紫は優しげでありながら、それでいて何処か胡散臭い笑みを浮かべて見せた。
 
 「これから結界を張り直してくるから、帰りがちょっと遅くなるわ」

 その間、博麗結界の管理、お願いしとくわね。
 日傘を軽く揺らしながら言った紫の言葉に、藍は「御意に」と静かに答えた。
 
 「頼んだわ」

 自らの式の言葉に頷き、紫はそのスキマをゆっくりと閉じた。
 今のところ、異常は無し…。あまり静かなのも気味が良くないわねぇ…。

 思案顔で自らの唇に指を這わせ、紫は瞳を閉じる。
 紫は得意の境界操作術で、侵入者探知用の結界を、幻想郷の至る所に張り巡らせてある。
 だが、探知結界に未だ反応は無い。
 もしも、奴らがその結界を潜り抜けて来ていたとしたら、やはり静か過ぎた。
 いつも通りの幻想郷の風景が、平穏と同時に不穏を感じさせる。

 探知結界の張り直しと、新しく結界を張る必要がるわねぇ…。

 呟いて、紫は思いついた。
 そうだ。

 ソル。

 彼にも結界を張るのを手伝って貰おう。
 法術、という彼の世界の力を加えて、より強固な結界を築くのも悪く無い。
 敵と同じ世界の住人である彼ならば、紫では気付けないことにも気付けるかもしれない。
 幻想郷を共に巡ることで、何か解ることが御の字だ。

 そこまで考えてから、紫は無数に開いたスキマに視線を走らせ、その姿を探す。
 彼の姿はすぐに見つけることが出来た。

 ある一つのスキマに、彼の姿が映し出されていた。
 
 彼は博麗神社の賽銭箱に身体を預け、瞳を閉じている。
 相変わらずの黒ずくめ。
 そよ風が、彼の結んだ髪を揺らしている。
 柔らかな日差しに包まれた彼は、動かない。
 規則的な呼吸に合わせて、その逞しい胸が微かに上下しているのが分かる。

 寝ているのだろうか。

 紫の唇から、ふふ、っと笑みが零れた。
 悪戯を思いついた、少女のような笑みだった。

 起こす序に、貴方の深層心理を覗いてみるのも面白いわねぇ…。
 紫は唇の端をチロリと舐めながら言って、彼が映る神社へのスキマへと身を潜らせながら、ある境界を越えていく。

 その境界とは、彼の夢と現の境界。
 
 彼はどんな夢を見ているのか。
 彼は夢の中で、何をしようとするのか。
 
 もしも寝ているならば、そして、夢を見ているのならば。
 それを覗きこんでみよう。
 寝ていないならそれでいい。
 夢を見ていないなら、それも良い。
 どの道起こす序なのだ。
 少しの期待と共に、夢への境界に亀裂を空けた紫は、そこで一度笑みを浮かべかけて、表情を強張らせた。
 
 ソルは、やはり夢を見ていた。
紫が入り込んだ境界の先に、一つの世界があることがその証拠だった。
 その世界とは、精神と言っていい。
 今のソルの心象風景を映す、感情と意識が作り出す、精神世界。
 夢という幻想。
 その世界に入り込んで、紫は言葉を失ったまま、辺りを見回した。


 雨だった。
 豪雨というほどではないが、しとしとと空が泣き出したような雨。
 緩くもなく、激しくもない。冷たい雨。
 精神世界である為、紫自身は雨に濡れることなく、また濡れることも無い。
 だが、酷く寒く感じた。悪寒だ。紫の目の前に広がる光景は、生ける者が避けるべき場所だった。

 其処は、廃墟と化した巨大な駅のホームのようだった。
 スクラップとなった巨大な貨物列車には、夥しい返り血が飛び散っている。
 崩壊しかけた巨大列車の車庫。瓦礫の山。見渡す限りの焼け野原と、崩壊した建物の跡。
 まだパチパチと何かが燃えている音と、肉が焦げる匂い。
 そして、雨にも係わらずそこかしこで未だに上がる濃い煙。
 まるで、集中爆撃を受けたような無残な姿を晒すその一帯。
 大破壊の跡の地。 その地肌を覆っているのは、何か巨大な生き物の死骸の山だった。
 更に地面には死骸だけでなく、血の海が波を作っている。
 
 紫は吐き気を覚えた。
 死骸となっている生き物の臓物、或いは骨。
 それらを浮かべた、錆びを溶かしたような黒く濁った血の海。
地獄というよりも、此処は深淵だった。

 紫は宙を漂いながら、歪む顔を扇子で隠す。

 そしてこの陰惨な景色の中、更に異様なものが、紫の眼に映った。
 廃墟と化した駅のホームの中、その生き物達の死骸がうずたかく積まれている場所があった。
 いや、積まれていた、というよりは、「そこ」で破壊された生き物達が折り重なっていった結果、死体の山が出来上がった、という感じだ。

 その屍の山の麓。 其処に、この精神世界の主が居た。
 彼は項垂れるようにして、一際大きい生き物の屍骸に腰掛け、その身を雨に晒している。
 彼の服装は、まるで騎士のようだ。かっちりとした白と赤の服装だった。
 額には赤くごつい鉢金。
 雨のせいでその服もずぶ濡れであり、長い茶髪も濡れ、頬に張り付いている。

 彼が腰掛けている死骸には、長大な石包丁が突き立っていた。
 彼は項垂れたまま、顔を上げない。
 数え切れぬ死と、途方も無い破壊の主は、まるで消えかけた蝋燭の火のよう。
 その儚い姿に誘われるように。紫は血の海と、鉄と肉、瓦礫と臓物を見下ろしながら、彼の少し前へと宙を漂い移動する。
 
 紫の姿は、この世界では酷く浮いている。
 紫は他者の精神に、自分の意識を潜り込ませているだけ。
 しかし、確かに意識として、其処に存在している。
 だからこそ、余計に、違和感が浮き彫りになる。
 雨が少し強くなったような気がした。
 
 ソル。紫が彼の名前を呼ぼうとした時だった。
 彼がゆっくりと顔を上げた。
そして無表情のまま、鉢金の奥で輝く金色の瞳を細めて見せた。
 
 …貴様か…。
 憔悴、困憊、消沈。それらを憎悪に混ぜ込んだような声だった。
 その言葉に紫は掛ける言葉を失いかけて、表情を強張らせた。
 死骸と瓦礫の山の中。 黒く濁り、血飛沫と煙を染み込ませた雨に打たれる彼の姿は、余りにも救いが無い。
 
 見る者の胸を抉る姿だった。
 夢を覗いてみよう、という悪戯な心で踏み込んで良い場所ではなかった。
 その事を、紫は彼の姿を見て悟った。
 
 自分は、踏み込んではならない場所に踏み込んでいる。
 彼の声と、この死に塗れた景色が、紫をそんな気にさせる。

 聖戦。
 その言葉が、紫の頭に過ぎった。
 恐らく、この精神世界は、彼の話した聖戦という巨大な戦いの一コマなのだろう。
 ならば、この肉塊と臓物に成り果てた生き物達は、ギア、という生物兵器なのか。

 見渡す限りの死骸と、血の海。
 汚濁で濁った、黒い雨。
 この惨状が世界の其処彼処で起きている。

 これが、彼の生きてきた世界。
 
 紫は、戦慄と畏怖を同時に感じた。彼の力にだけではない。
 この景色を見据え続ける、彼の心に対するものだった。
 
 彼は。
 ソルは。
 もう一度顔を上げて、…何故…此処に居る…、と呟いた。
 乾燥しきった声だった。
 金色の瞳が、硝子球のように無機質な光を湛えている。
 
 「私は…」
 紫はうまく答えられなかった。
 ソルは鼻を鳴らして、ゆっくりと死骸の山から立ち上がった。
 酷く疲れたような仕草だった。
 そして、死骸に突き立てていた長大な石包丁に手を掛ける。

 辺りの気温が、恐らく十度は一気に上がった。
 紫はそう感じた。
 それから、紫は、唇を噛んで宙を後退した。
 
 …失せろ…。
 その言葉と同時に、紫は更に後退した。
 ソルが腰掛けていた巨大なギアの死体が、一瞬で燃えて、消えた。
 それだけでは無かった。
 膨大な炎が渦を巻き、巨大な火柱を上げ、死骸の山を食い尽くした。
 いや、飲み込んだ。一飲みだった。
 とぐろを巻く赤橙色の濁った炎の柱から、ソルが歩み出て来る様は恐ろしい、というよりも、畏ろしい。
 

 ソルはもう何も言わず、顔を不味そうに歪めた。
 瞳は何処か虚ろで、悲しげだった。
 紫に背を向けたソルは、死骸を噛み砕く炎の中へと歩んでいく。
 まるで、何もかもに背を向け、拒絶するかのように。
 
 待って。
 紫はソルを呼び止めようとした。
 その時だった。
 
 雨の音が薄れ、精神世界の境界が曖昧になり始めた。
 景色の中にある全てがぼやけ、霧散していく。
 夢の消滅。そしてそれは、目覚めを意味する。
 光の粒になっていく世界の中に、背を向けたまま霧散するソルの姿が見えた。

 赤橙色の炎も、死骸も、血の海も、黒い雨も。
 その全部を抱えるようにして消えるソルの背中は、まるで聖者のようでもある。
 


 
 夢の世界が消え、あとに残った虚無の暗闇の中で、紫は唇を軽く噛んだ。
 紫は最後まで、ソルに何も声を掛けることは出来なかった。
 心臓が早鐘を打っているのを感じ、紫は深い溜息を吐いた。
 
 彼は、復讐者。
 英雄。罪人。咎人。
 その全て。

 ソル。
 紫はその名を呼んで、はぁ…、とまた溜息を吐いた。

 興味深いけれど…、次に会うのは気まずいわねぇ…。

 呟いて、紫は扇子をすぅ、と振るう。
 その軌跡をなぞるようにして、一つの紫色の亀裂が、宙に走る。
 暗闇の空間は其処から次第に淫靡な紫色に染まっていく。
 同時に、紫が開いた亀裂と共に、その虚無は次元の隙間へと変わる。
 スキマ空間に意識を戻した紫は、漂う無数の眼を瞑らせて、その世界を閉じる為に、再び扇子を振るった。





 あの馬鹿馬鹿しい程に騒ぎまくった宴会から数日が経ち、幻想郷には普段の長閑さと、暢気さが戻ってきていた。

 それを象徴するかのように、博麗神社の境内は暖かな空気に満たされ、
 昼寝でもしようか、という気分にさせる程、長閑だった。
 緩く、暖かな風が吹く。その風にそよぐ梢の音。
 優しい静寂の中、境内を照らす陽の光も柔らかい。
 
 「ぅあー…今日も良い天気だぜ」

 ぐぐっと伸びをして、神社の本殿前の階段に腰掛けていた魔理沙が、空を見上げる。
 そこには、快晴ではないが、良い天気には違い無い青空が広がっていた。
 疎らにある綿雲が、のんびりと漂っている。ぼんやりと眺めていたくなるような空だった。
 
 そんな空の下。
 
 魔理沙の隣に腰掛けているソルは、無言のまま片目を瞑り、空を見上げている。
 相変わらずの黒ずくめの袴とドテラを纏い、ごついブーツを履いた姿は、
 厳つさ、というよりも貫禄がある。
 神社にそぐわない姿のソルは、空から地面へと視線を落としてから、眼を閉じた。
 そんなソルの静かな態度に、魔理沙は何がおかしいのか笑顔を浮かべる。
 
 「なぁ、ソル。こんな良い天気なのに、だんまりで座りっぱなしとは、勿体無いと思わないか?」
 
 魔理沙は立てかけてある愛用の箒をチラリと見てから、ソルに言う。
 ソルの方は表情を変えず、緩慢な動きで魔理沙の方へ顔を向けた。
 
 「…そうか…」
 
 そうか、じゃねーよ。魔理沙は苦笑いを浮かべて見せた。
 
 「弾幕で遊ばないか、って誘ってるんだぜ」
 
 「…暇なら…博麗とすれば良いだろう…」

 ソルは即答し、魔理沙から視線を外す。
 それはここ数日で、何度か繰り返されたやりとりだった。
 魔理沙はつまらなさそうに唇を尖らせる。

 「ノリが悪い奴だぜ」

 そういう魔理沙の顔は、もう笑顔に変わっていた。

 魔理沙自身、弾幕ごっこに付き合ってもらえるとは思っていない。
 しかし、魔理沙はこの数日で気付いたことがあった。

 ソルの態度が、霊夢と魔理沙に対しては、微かにだが柔らかくなっている。
 無愛想で無口だが、声を掛ければそれなりに真摯に応答してくれる。
 だから、用が無くても声を掛けてみたくなる。
 今までは霊夢に会いに神社へと訪れていたが、ソルに会うのも、魔理沙の一つの楽しみになっていた。

 「ソルは暇じゃないのか? 朝から晩まで、此処で座りっぱなしだろ」

 というか、そこまで神経張って見張ってたら、そろそろ参っちまうぜ。
 魔理沙は言って、苦笑しながらソルを見遣る。
 賽銭箱前に腰掛けたソルは、まるで本殿を守る番人のようでもある。
 ソルは表情を浮かべず、呻るようにして瞳を閉じた。

 「…暇というよりは…じれったくて仕方ない…」

 …こちらから動けんのはな…。
 呟くソルの声は低く、眉間に皺が刻まれた。
 その顔を見た魔理沙は少し俯いてから、少年のような笑顔を浮かべる。
 
 そして、バシバシと隣に腰掛けるソルの背中を叩いた。

 「復讐も良いけどよ…。あ~、いや、良くはねぇけども…。
 なぁソル。もっと面白いこと考えようぜ~」

 遊びに誘うように、魔理沙は言う。
 理由はどうあれ、せっかく幻想郷に来たんだ。楽しくいこうぜ。
 それは、魔理沙なりの励ましの言葉なのだろう。
 悪意や嫌味の無い魔理沙の言葉に、ソルは何を思ったのか。
 
 ソルは金色の瞳を、眩しそうに細めて、魔理沙の笑顔に視線を向ける。
 そのソルの眼にも、警戒するような不穏な輝きは無い。

 「…前のような宴会は…遠慮するがな…」

 「そりゃあ無理な相談だぜ。言ったろ? 此処は幻想郷だぜ」

 今度はもっと盛り上がるんじゃないか。
 へへへ、と笑い、魔理沙はすっと立ち上がり、また伸びをした。

 「んぉー…次の宴会はいつにすっかな」
 
 「いや、もう暫く宴会は良いわ…。ソル達が居ると盛り上がり過ぎるから」

 その魔理沙の背中に声を掛けた人物は、三人分の湯吞みと煎餅を盆に乗せて現れた。
 ソルが振り返ると、霊夢は煎餅を口に銜えながら、じと目で魔理沙を見つめていた。
 そりゃないぜ霊夢さん。魔理沙は残念そうに言いながら、霊夢の持つ盆から湯吞みを受け取った。
 あちっ、という魔理沙を見てから、霊夢はソルにも盆を差し出した。
 そして、魔理沙とは反対のソルの隣へと腰かける。
 
 「はい。掃除ご苦労様」

 「…ああ…」

 ソルは短く言って、霊夢の盆から湯吞みを受け取った。
 掃除を居候にさせる巫女か。新しいぜ。魔理沙は笑って、湯吞みを傾ける。
 居候じゃないわ。用心棒よ。霊夢はしれっと言って、煎餅を噛み砕いた。
 
 …危機感の無い世界だ…。
 ソルは湯吞みを傾けてから呟き、虚空へと視線を向ける。
 其処には青空と雲。

 そして、そこに奔る黒く、細い、細いスキマ。

 ソルは眼を細める。
 そこから覗く、女の眼。
 ソルの金色の瞳と、その眼が合う。

 …見てのとおりだ…異常は無い…。
 
 ソルのその呟きが聞こえたのか。
 スキマから覗く女は、眼を逸らした。
 そして、すぐにスキマが閉じ、そこには青空と雲だけが残された。

 青空が酷く不穏に見えてきて、ソルは空を睨みながら眉間に皺を刻む。
 
 「どうしたの?」

 ソルは霊夢に呼ばれ、…いや…、と首を振った。
 深刻な顔で黙り込んでいたせいだろう。霊夢の表情は、何処と無く心配そうだ。
 魔理沙も、ソルの顔を覗き込んできている。

 「…八雲のスキマが在っただけだ…」

 だが、虚空を指差すソルの言葉に、霊夢は、ああ、と呟いた。
 紫も心配性だな。魔理沙は湯吞みを傾け、ずず、と茶を啜る。
 それから、にかっと笑って見せた。
 
 「異変解決の専門家、この魔理沙さんに任せておけば、バビっと解決してやるってのに」

 「あんたが絡むと、バビっとややこしくなりそうよね」

 そりゃあ、何事も楽しくないとな。
 魔理沙は言って、なぁ、とソルに視線を向ける。

 「だからよ、あんま一人で背負い込むなよ。ソル。霊夢と私が居れば、どんな事だって笑って解決だぜ」
 
 「笑ってかどうかは微妙だけど…。紫も眼を光らせてるから、何かあったらすぐに分かると思うわ」

 それまでに神経質になりすぎて、参っちゃわないようにね。
 ソルは「……分かっている…」と、短く答え、湯吞みを傾けた。

 ならいいんだぜ。魔理沙は笑う。
 
 「今は見の時さ。この魔理沙さんも色々と準備中だからな。どんな奴が来たって、やっつけてやるさ」

 魔理沙の努力家である一面を知っている霊夢は、その言葉に頷く。
 そして、ソルに向き直り、じゃあ、と言葉を紡いだ。

 「一度、ソルに手合わせして貰ったら? 良い経験になるんじゃない」

 霊夢はソルの方を見ながら、片目を瞑って見せた。
 ソルは困ったように、…む…、と呻り、魔理沙に視線を向ける。
 その視線の先では、魔理沙が満面の笑みを浮かべていた。

 「どうするよソル。愛しの霊夢ちゃんがこう言ってるぜ」

 だれが霊夢ちゃんよ。
 魔理沙に言う霊夢に一度視線を向けてから、ソルは思う。

 面倒だと感じながらも、何処か安堵している。
 シンと旅を続けていたせいか。
 傍に誰かが居る、という事に、安心しているのか。
 何れ邪魔になる感覚だ。しかし、この穏やかな気分は何だ。
 
 短かったが、夢を見るほど眠るのも相当に久しい。
 何年ぶりだったろうか。
 先ほど見ていた夢を思い出す。
 雨。錆。煙。血。死。骸。屍。
 その中に、自分はどっぷりと浸かっていたはずだ。

 …まさか…夢の中にまで入り込んで来れるとはな…。

 ソルは紫が夢の中に現れたことを思い出し、顔を歪めた。
 あまり見られて気持ちの良いものでもない。
 夢の内容も、この幻想郷には酷く似合わない内容だった。
 
 地獄の親戚のようなあの光景は、今でもソルの瞼に焼き付いている。

 魔理沙の笑顔を見て、ソルは自分が戸惑うのを感じた。
 自分のこの凪いだ心が、酷く不思議に思える。

 自分は変わったのだろうか。
 切っ掛けがシンとの旅であれ何であれ。

 自分の心が曖昧になる。

 罪を犯した。
 救いを望んでいた訳では無かった。
 ただ、復讐の為に生きた。

 それで別に良かった。
 ぬくもりも要らなかった。
 自分に出来るのは壊すだけだ。
 その筈だ。
 だからだろうか。

 今が歯痒いと思うのは。
 何も壊せぬこの時間を。
 待っているしかない、この時間を。
 
 そんな思考の泥に足を取られていると、不意に、ぐいと腕を引っ張られた。
 まるで、底なしの沼から引き上げるかのように。

 顔を上げると、魔理沙が可憐で快活な笑顔を向けながら、ソルの腕を掴んでいた。
 そして、片方の手の親指で境内を指差す。

 「まぁいいから、ちょっと付き合えって」

 霊夢は、怪我しないように気をつけなさいよ、魔理沙、と暢気に茶を啜っている。
 それから、ソルもね。そう言って、霊夢は微かに笑顔を作って見せた。
 ソルの様子を見ていた霊夢の、やはり悪意の無い笑み。
 今は考えこんでも仕方ないでしょ、と言っているようでもある。
 
 ソルは霊夢の笑みに、再び、…む…、と呻き、魔理沙に視線を向けた。
 取り合えず、身体動かしてすっきりしようぜ。
 魔理沙は快活な笑みのまま、さらにからからと笑う。
 
 ソルは微かに唇を歪め、夢の中と同じようにゆっくりと立ち上がった。
 そして、魔理沙の笑みに吊られるように。
 ソルも低い声で…しゃあねぇな…、と呟いた。



[18231] 十四・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/07/14 22:52
夜の境内に出た霊夢は、溜息を吐きながら賽銭箱前で歩みを止めた。

月も星も無い、曇った夜だ。
その夜の世界に溶け込むようにして、彼は賽銭箱の前に腰を下ろしている。
前屈みに座っている彼は、無言のまま霊夢に視線を向けた。
金色の瞳が、暗がりでも鈍い光を放っている。

「そろそろ中に入らない? ご飯も睡眠も、ずっと碌にとってないでしょ?」

霊夢の口調は少し怒ったようでもある。
ソルは此処に来てから、ほとんど睡眠と食事を摂っていない。
霊夢も、そのまま放っておくのは気が引けるし、納得出来ずに居た。
ソルに声を掛けてはいるのだが、食事に呼んでも、「…いや、構わん…」というだけで、口にしようとしないのだ。

むぅ~…。少しだけ不機嫌そうに唇を尖らせながら、霊夢はソルの隣に腰掛ける。
ソルは霊夢に視線を向けると、…寝なくて良いのか…、と呟いた。
霊夢は溜息をこれ見よがしに、はぁ~~、と吐く。

この男は自分に事を棚に上げ、何を言っているのか。

「あんたねぇ…。その台詞、そのまま返すわよ」

霊夢の声も、若干不機嫌だった。
しかし、ソルはまるで気にしたふうでもなく、無言で視線だけを霊夢に向けている。
暗闇に沈んだ境内に、霊夢の声だけが溶けていく。
ソルは無言で、黒ずくめ。その呼吸も静かなせいで、まるで暗闇に話しかけているようだ。
虫の声が聞こえる。ソルは霊夢から視線を外して、境内の闇を睨みつけた。

「…前にも言ったが…そういう身体だ…」

だから気にするな…。そう言って、ソルは瞳を閉じる。
その仕草は、だからお前はもう寝ておけ、と言っているようだった。
霊夢はむっすぅ~、とした顔になってから、勢い良く立ち上がり、母屋の方へと帰って行った。

その背中を見送りながら、ソルは溜息を吐く。
心配させているのだろうが、気を張っていないと、どうも落ち着かない。
ソルも霊夢には悪いと思っているが、この態度は仕方無い。

“あの男”が絡んでいる。

その一点が、どうしようもなくソルの精神を刻む。
逃がすものか。潰す。奴の企みごと、炎の中に引きすり落としてやる。
安寧を求めるよりも、憎悪が心を焼いていた。
だから、休息を取る気も起きず、ただこうして、事が起きるのを待っている。
いや、待つしか出来ないでいる。

…下らん…。
ソルは小さく呟く。

無力。己はなんと無力で、無能なことか。
ただ、“あの男”が用意したレールに乗り、ただ待っているだけ。
レールを走る乗り物に乗っているだけだ。

“あの男”にも虫唾が走る。
だが、それを座して待っている今の己にも反吐が出た。
昼間の魔理沙の言葉を思い出し、ソルは顔を不味く歪める。
 
一人で背負い込むなよ。
魔理沙は笑っていた。屈託の無い、眩しい笑顔だった。

背負い込んでいる訳では無い。
ソルは思う。

これ以上、奴の常軌を逸した、壊滅的な独善の犠牲を出したくなかった。
必死なだけだ。
復讐で手一杯だというのに。
今では用心棒などと言う、戯けた立場にいる。
ソルは溜息を吐いた。

「随分と重い溜息ね…」

 暗闇から声がした。女の声だった。
 酷く甘く、妖艶な声。
 
 ソルは顔を上げ、境内の闇に再び視線を戻した。
 そこには、暗がりを更に昏く引き裂いた、空間の亀裂があった。
禍々しさに似合わない赤いリボンが目を引くスキマだ。
 声の主はそこから漂うようにして、音も無くソルの目の前に現れた。

八雲紫。
変わらぬ胡散臭さを纏い闇の中に浮かぶ姿は、怖気が走るほど妖しく、また美しい。
 いつもの日傘は持っておらず、手には扇子のみ。
 闇を塗り潰す存在感は、妖怪の賢者と呼ばれるに相応しいものだった。
 
 
 「…何か動きがあったのか…」

 しかし、ソルはその美貌を見ても微かに眼を細めるだけ。
 余計なことを聞かず、ただ自分の聞きたいことだけを聞くだけだった。
 
その態度に、紫は苦笑を浮かべて見せた。
 
 「いいえ…。今の所、探知結界にも反応は無いわね」

今日も幻想郷は平和よ。不穏なくらいにね。
 そう言って紫は、少しだけすまなさそうに俯いた。
 
 「…なら何の用だ…霊夢なら中だぞ…」

 そう言って、ソルは一つ息を吐いて、瞳を閉じた。
 もう聞きたいことは無いと言わんばかりに。
 
貴方はいつも不機嫌そうね…。紫は苦笑と溜息を漏らす。
 
 「今朝は悪いことをしたわね。…ごめんなさい」

 紫の声は、ひどく落ち着いていた。
 闇を纏うソルが、ゆっくりと顔を上げる。
 そして、「…何の話だ…」と、怪訝そうに眉を顰めた。
 
 そして、すぐに思い出したのか。
 バツが悪そうに紫から視線を逸らして、…ああ…、と声を漏らした。
 
…貴様が謝ることなど無いだろう…。低く、重い声だった。

「あの夢は、貴方の過去…。聖戦の姿なのかしら…?」

その問いは、ソルの傷を抉ることになるかもしれない。
だが、紫は聞かずには居られなかった。

以前、紫達が聞いた、ソルの世界の話とは、ただの歴史に過ぎない。
この時に、こういう事があった。こういう事をした。
ただ、その事実の羅列を聞いただけだった。
其処には、ソルが歩んだ道も、見てきた光景も、何も含まれていなかった。

ソルの歩んできた来た景色の一端を垣間見た紫は、ソルの持つ憎悪などよりも、
ソル自身に多大な興味が沸いてきていた。

 ソルは沈黙を返しながら、眉間に皺を深く刻んでいる。
 ややあってから、…ああ…、と再びソルは頷いた。
何かを思い出すかのような、何処か遠い声だった。

そのソルの声に、紫は、そう…、とだけ返す。
二人の間に漂う沈黙と闇を、雲から漏れる月明かりが照らした。
 淡い光に濡れた闇に、ソルの溜息が溶ける。

 「…しかし…夢の中にまで入って来れるとは…」

 …本当の化け物だな…
 呆れたように言って、ソルは鼻を鳴らした。
 
 「あら…女性に対して、その言い草は酷いわね」
 
 紫はソルの言葉に、ふふ、と笑う。
 
 「…貴様には…女という表現も、微妙にそぐわん気がするがな…」

流石に紫の表情が、むっ、としたものになった。
しかし、紫はまたすぐに、くすくすと笑う。
そして、ソルの目の前から、その隣へとゆったりとした足取りで移動する。
優雅に歩みながらスキマを一つ開き扇子をしまう。それから、徳利を一つ、お猪口を二つ取り出した。
左手に徳利、右手にお猪口を持って、ソルの隣に腰掛けた紫は、闇夜の空を見上げた。

「ちょっとだけ、晴れてきたわね…」

ソルも、その暗い空へと眼を向ける。

見れば、暗い曇天に亀裂が入っていた。
雲に大きな亀裂が入り、月だけでなく、瞬く星がそこから覗いている。

闇に沈む境内。
その纏わりつくようだった闇が、優しい暗がりに変わる。

紫はソルにお猪口を一つ差し出した。
付き合ってくれないかしら。
ソルは黙ったまま、そのお猪口を受け取る。

ふふ、有り難う。はぁ…今日は疲れたわ…。
色っぽい声で言って、紫はソルのお猪口に酒を注いだ。
微かなアルコールの香り。
ソルはやはり黙ったまま紫から徳利を受け取ると、紫に返杯する。

…貰うぞ…。
ええ、どうぞ。

お詫びの印、という訳ではないのだろうが、紫から振舞われた酒を口に含み、ソルは一つ息を吐く。
 
 「貴方も疲れたでしょう? ずっと神経を張りっぱなしで…その上、魔理沙の相手をして…」
 
 まぁでも…用心棒としては、良く働いてくれている、というべきかしら。
 紫は苦笑を浮かべながら言って、お猪口を傾け、喉を鳴らす。
 ソルは答えず、紫に視線を向けた。そして、疲れたように息を吐く。

 「…用心棒など…俺には向かん…」

 「でも、貴方が此処に居てくれている御蔭で、私も心強いわ」

 霊夢は人間…。万が一、ということが起こる可能性が、私達よりも高いから。
 わが子を想う母のような柔らかで慈愛に満ちた声で言って、紫はまた、ふふ、と笑う。
 
 その紫の、底を見せない笑みに被せるように。
 

 「私は人間だけど、そこまで心配されるほど年食ってる訳でも、子供な訳でもないわよ」

 鈴の鳴るような可憐な声が、ソル達の背後から聞こえたのはその時だった。
ソルが振り返ると、盆を持った霊夢が、憮然とした表情で奥の間から歩いて来ていた。

 盆の上には、皿に載った拳大のお握りが二つ。
 そして、湯気を上げる湯のみ。
 
 あら、と紫は胡散臭い笑みを浮かべて、霊夢に視線を送る。
 聞こえてたかしら?
 筒抜けよ、っていうか、わざとでしょ。
 ジト目で紫に言いながら、霊夢はソルに盆を渡した。
 
 「…これは…」

 ソルは盆と霊夢を見比べ、困ったような顔をした。
 食べろ、ということだろうか。
 ソルの視線に気付いた霊夢が、腰に手を当てて、びしりと指をソルに突きつけた。

「あんたの晩御飯よ。食べ終わるまで、私も此処にいるから」
 
 そう言うと、霊夢は紫の手からお猪口と徳利を引ったっくった。
 
今日は飲みすぎちゃ駄目よ、霊夢。
分かってるわよ。

そんな二人の声を聞きながら、ソルは、…むぅ…、と呻って、お握りを一つ手に取る。
 紫と霊夢の視線が、ソルに集まった。
 
 ゆっくりと。
ソルがお握りを口に運ぶ。

しばしの沈黙。

表情を変えず、静かに咀嚼し、嚥下したソルは霊夢と目が合った。
霊夢は、何処か緊張した面持ちで、ど、どう…、と言い、その様子に紫は微かに笑った。

「…ああ…美味い…」

そのソルの言葉に、霊夢は何処かほっとしたような表情を浮かべ、またお猪口に酒を注いだ。

「お握りを食べるのに、そんな無駄に重い空気出さないでよ…」

何か緊張しちゃったわ。霊夢は言って、紫に向き直る。

「で、何かあったの?」

「いいえ。特に何も…。ただ、ソルに用があって来ただけだから」

そう…。なら良いんだけど。言って、霊夢は、夜空を見上げた。
月が出ている。

三日月だった。

それを覆い隠すように、再び分厚い雲が空に立ちこみ始めている。

これは一雨来るかしらね。

霊夢の呟きに、紫はそうね…、と答えた。
ソルが夜空を見上げた時には、雲が月を半分ほど隠していた。

そして、すぐに月は曇天に飲まれ、星も見えなくなった。






力強く翻る薄いスカイブルーの旗付きの棍棒。そして、その棍棒が弾いたのは、二本の木刀。木が硬いものに当たった乾いた音と、鋭い息遣い。

シンは愛用の棍を構え、こちらに踏み込んで来る妖夢に対峙する。

妖夢の手には長、短の二本の木刀が握られており、妖夢は踏み込みながら長刀で正面から兜割りを繰り出す。

それに続き、すかさず短刀で突きを、更にその後、身体を横に回転させ長刀を真横に薙ぐ。

シンは兜割りを半身でかわし、続く短刀での突きもバックステップでかわす。

これを刈りに来た横薙ぎの一撃は棍棒で防いだ。そしてそのまま棍棒で長刀を打ち上げるようにして、妖夢の木刀を押し返す。

「うっ!?」

押し返された妖夢は力に押され後ろに身体が泳ぐ。シンは棍棒を打ち上げた体勢から身体を捻り、お返しとばかりに横薙ぎに棍棒を振るう。

妖夢は飛び退ることでこれをかわす。それを待っていたのか。シンは振るった棍棒を素早く持ち直すと、そのまま突き攻撃を妖夢目掛けて放つ。

空気に渦が生まれる程の鋭さ。疾い。だが、妖夢は何とか半身をずらすことでかわし、距離を取る。シンも今のはかわされるとは思っていなかったらしい。

顔には驚いたような表情が浮かんでいる。

「今のはポイント取ったと思ったんだけどな」

「ふぅ…そう簡単に有効打を貰う訳には行きませんからね」

妖夢は二本の木刀を構えなおし、再び二人は睨み合う。

白玉楼の庭の少し開けたスペースで、シンと妖夢は互いに試合形式での鍛錬を行っていた。これは弾幕を用いない、純粋な接近戦の稽古である。
シンと幽香との戦いを見て、何か思う所があったのだろう。
この稽古は妖夢が提案したもので、付き合って欲しい、とシンは頼まれたのだった。

シン達がこの幻想郷に来てから、しばらく経つ。
この世界での生活のサイクルは、放浪の旅を続けていたシンにとって新鮮なものであった。
現在は、妖夢が冥界から抜け出てしまった霊たちを連れてかえる仕事の間は、シンは白玉楼の警護を任されている。
妖夢が霊達を連れ帰る仕事が無いとき、又、庭師として白玉楼の庭の手入れをする間は人里に出かけ、アルバイト代わりの農家の手伝いをしに出かけていた。

そして、シンと妖夢の時間が空いている時は、こうして稽古を行っている。



そんな二人の姿を、白玉楼の広間から眺める二人の少女が居た。

まるで、何処かの寺の大広間と見間違う程の静けさと厳かさを湛えたその空間。

普段ならもの寂しい程度の雰囲気しか無いこの広間も、一人の少女の存在がその場の空気を堅くさせていた。。

「ここから見る限り、やはり彼が危険な人物とは思えませんね」

やはり、どこか堅い声で言いながら、小柄な少女は不可解そうな表情で妖夢と得物を交える青年を見つめる。

「今回の外来の方々に関しては、何者かの関与があっての事と聞いて少々不安でしたが…」

特に大きな問題は無さそうですね。
威厳すら漂う声で言って、少女は深いエメラルド色の瞳を細めて見せた。
少女の手には複雑な文様が描かれた板があり、それで口元を隠している。
思案するように細められた瞳は、ひたすらに深い。

「私もそう思うわ…。ふふ…他の人達にも会ったけど、皆面白い人たちだったわ」

答えたのはその少女に並んで立つ、この白玉楼の主、西行寺幽々子。
堅い声の少女とは対照的に、幽々子の声は柔らかく、広間の空気を穏やかにしている。

かん。かん。かん。
木刀と棍がぶつかる音が、遠く、だが心地良く響く。


「しかし、油断は出来ません。彼ら外来人たちが齎すものは、娯楽と騒動だけでは無いですからね」

「そうね。なればこそ、彼らの力を借りることは、悪い事ではない筈よ」


少女は静かに瞳を閉じ、ふむ、と頷いて見せた。
幽々子は、違うかしら?、と微笑む。


「…そうですね…。最悪を想定するならば、彼らに助力を仰ぐのは正解なのでしょう…」


危険は直ぐ其処にあるとして。尚且つ、その正体が見えないならば。
それが、彼らを幻想郷に送った者の、予想通りだったとしても。

少女は深い溜息と共に、眉間に皺を刻む。


「それに、シン君が此処に居るのも、紫が幻想郷の為を思ってのこと。
前みたいな事がいつまた訪れるか分からないし、紫もあれで苦労してるのよ」

そんな少女に柔らかな声で答えて、幽々子は口元を扇子で隠す。
小柄な少女は眉を顰めたまま、無言を返した。


おらおらぁ! 本気ださねぇと、俺から有効打は取れないぜぇ!
それは此方の台詞ですよ

庭からは、変わらず、木刀と棍が打ち合う音と、快活な声が響いている。
元気ねぇ、二人共。幽々子はくすくすと笑いながら言って、隣にいる少女に向き直る。


「それで結局、彼を此処に置いておく許可は頂けるのかしら?」

幽々子はのんびりとした笑顔を少女に向ける。
笑顔を向けられた少女は不服そうな表情で、ゆっくりと頷いた。

「生者が冥界に入り浸るというのも考え物ですが…今回は仕方ありませんね。
 では、他の外来の方二人は、それぞれ紅魔館、永遠亭に身を寄せているのですね?」

「ええ。余程のことが無い限り善行は積めても、彼らが幻想郷に悪事を働けることは無いはずよ」

「…なら良いのですが。…貴方も、十分に身の安全には気をつけてください」

「それなら大丈夫よ。妖夢も居るし、シン君が此処に居る許可も出たもの」


幽々子がのんびりとした声を少女に返した時、木と金属がぶつかる乾いた音が、一際大きく木霊した。



 
二刀を同時に打ち込んだ妖夢に押され、シンが後方へと押される。その隙を逃さず、妖夢は矢継ぎ早に斬撃を打ち込んでいく。

シンは後ろに下がりながら妖夢の攻撃を受け止め、受け流し、捌いていく。

だが、攻めの主導権を握られ、防戦一方になる。

妖夢は目にも留まらぬ迅さで両腕を振るい、シンを更に追い詰めていく。

二人の目にも、妖夢の優勢は明らかなものだった。妖夢はこの攻めの流れを決定的にするため、一際強力な斬撃を放つ。
短刀を斬り上げ、更に長刀を逆袈裟に振りぬく。

そして、振り上げた両刀を頭上で揃え、同時に唐竹割りを繰り出したのだ。
連続的な攻撃から、意表を突く一撃。通常ならば、これで決まるか、防がれても相手の心に動揺を生むだろう。
しかし、シンは妖夢の動きに反応していた。

シンは短刀での斬上げを頭を逸らすことでかわしたが、長刀での逆袈裟により棍棒を弾かれ、体勢を崩していたにも関わらずだ。
そして、シンの行動は逆に妖夢の意表を突いた。

「ひえ!?」

シンは棍棒での防御を諦め、その棍棒から手を放した。そして、妖夢の腰辺りにタックルをかましにかかったのだ。
振り下ろされる二本の木刀を、敢えて妖夢に突っ込むことで避けたシンは、だが、さすがに妖夢相手にマウントポジションを取るのはどうかと思ったのか、

シンの動きがほんの一瞬止まる。

そして、何を思ったのか、そのまま妖夢の身体を片手で抱え上げた。
ついでに妖夢の脚の後ろにも手を廻していたので、お姫さま抱っこのような体勢になっている。

自然と視線が絡む二人。

シンは青空のような笑顔、対して、妖夢は身構えるような表情で顔を赤くしている。


「こりゃ俺の勝ちだなぶぼ!?」

シンはさわやかな笑顔を浮かべたが、妖夢に木刀で横っ面をぶん殴られた。

「お、降ろしてください!!」

「ちょ、暴れべひょ!? 痛っ! ま、待った!タンマタンマ!! げへぇ!?」


ボカボカと木刀で顔を殴られまくり、シンは堪らず叫ぶ。

「くっ!」

妖夢は猫のようにシンの腕から飛び出すと、空中で体勢を整え、少し離れた所に着地する。
そして、顔を赤くしたまま早口でまくしたてる。

「今のは無効です! 有効打も何も無かったじゃないですか!」


「こっちはマジクソ痛ぇんだけど…」

情けなく表情を歪めて顔を摩りながら、シンは鼻血を啜った。




そんな騒がしくも、和やかな二人のやり取りを見ていた幽々子は、クスクスと笑った。

つられて、小柄な少女の頬も緩む。外見からは想像も出来ない程、大人びた微笑だった。

「彼が此処に来てからは妖夢も楽しそうだし、此処も賑やかになって良いわ」

小柄な少女は、楽しそうに笑う幽々子に視線を向け苦笑を零す。

「奏霊の演奏会ですら此処で開かれることもあるというのに…これ以上冥界を騒がしくされては困りますね」

「気を付けるわ、と言いたい所だけど…」

鈴の鳴るような声で言い、幽々子は再び得物を構え対峙する二人に目を向ける。

いや、その対峙する二人のすぐ傍だ。

小柄な少女は、歯切れの悪い幽々子の言葉に怪訝そうに眉を寄せる。
そして、幽々子の視線を追うように、シン達へと顔を向けた。少女の表情が引きつった。


「うをぁっ、出たぁ!?」

二人は稽古に集中していたせいか、若干気付くのが遅れたようだった。

「その存在」に気付いたシンは素っ頓狂な声を出した。

「えっ!?…あ、ゆ、幽香さん!?」

妖夢はシンの様子にびっくりしたようだが、その理由が自分達のすぐそばにいる事に気付き、納得したようだ。

「ねぇ、シン。貴方のその反応はとても失礼だと思うわ」

聞くものを恐怖のどん底に叩き落すような低い声で言って、その存在――風見幽香は笑顔を浮かべていた。
額に青筋が浮かんでいるように見えるのは、多分、シン達の気のせいでは無い。
いつの間に此処に来ていたのか。
恐らくは気配を殺しながら近づいて来ていたのだろう。
趣味が悪すぎる。


「もう遅かったみたい」

そして、これから起こるであろうドンパチ騒ぎを前に、幽々子は暢気な様子だ。

だが、小柄な少女の方は、引きつらせていた表情を苦々しく歪め、目を閉じた。

「あのですね。言うまでもありませんが、此処は彼岸の地です。境界が薄くなった現在、彼を人里に手伝い、奉公に彼を向かわせるぐらいなら、反対する理由は何もありません。

酒に酔った乱痴気騒ぎも、まだ許せます。しかしですね、戦場になるような物騒な騒ぎは極力控えて頂かなければ困ります。だいたい貴方は―」

長い長い説教が始まりそうになったが、少女はそこで話を切った。
そして。何かを諦めるかのように、俯き、片手の指で眉を揉みながら、鉛のような重い息を吐いたのだった。








[18231] 十五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/07/06 22:50
「今日も人里の皆、元気だったねぇ」
 
 「ふふ、そうですね。薬を配りに行ったのに、帰りの方が荷物増えてますもんね」

置き薬の販売、配布を終えた帰り道。
イズナと鈴仙は、竹林の中を並んで歩いていた。
白い着流しを着た男と、ブレザー姿の美少女の組み合わせは、中々にシュールではある。

鈴仙は肩から大きな救急箱を掛け、イズナの方は更に大きな救急鞄を背に背負っている。
更に、イズナの両手には、野菜や干し肉が大盛りに入った籠が下げられていた。
 この籠は、普段から薬を配ってくれる永遠亭への、里の人々からのお礼だった。
 
 「こ、こんなに貰えません!」と鈴仙は里の者達に断ったのだが、気さくな里の人々は強引だった。
「いいからいいから」、「そうだ、持ってけ持ってけ」と、半ば無理矢理持たされたのだ。
 
 その光景を思い出し、イズナは人懐っこい、柔らかな笑みを浮かべる。
 
 「いやぁ、里に住む人達は皆優しくていいねぇ…」

 何処か懐かしそうな、深みのある声。そのイズナの言葉に、鈴仙も笑顔で頷いてみせる。
  
 「その皆が元気で居られるのも、永淋先生と鈴仙嬢ちゃんの御蔭だあね」

 「ええ、師匠の御蔭です」

 私は何もしていませんよ。笑いながら言う鈴仙の声は若干弾んでいた。
鈴仙の耳がぴこぴこと動く。
やはり、自らが師匠と仰ぐ永淋の薬を褒められた事が誇らしく、また嬉しいのだろう。
師匠は薬も作れるし、オペも出来るし、本当に凄いんですよ。
そう言いながら胸を張って、鈴仙は得意げだ。

イズナも素直に頷き、そうだねぇ、としみじみと呟く。

どんな人にも優しく接し、適切な処置と治療で、患者を快復へと導く。
その永淋の姿は、正に医の女神。
診療所でも、小さな子供からお年寄りにも慕われているのも納得出来る。

そんな永淋を心から尊敬しているのだろう。
 
 「師匠の能力と、医の“術”があれば、治せぬ病なんて無いんですから」

永淋の事を語る鈴仙の言葉には、やはり熱が篭った。
 そしてその赤い瞳にも、熱意に満ちている。
 
 さわさわと優しく、静かに揺れる竹の音と香りの中を歩いているせいだろう。
イズナは、鈴仙の熱い意志を余計に強く感じた。
立派な人だよねぇ、ほんと。
言ってイズナは鈴仙に頷いてみせる。

「はい! 私も早く師匠の役に立てるように頑張らなきゃ…」

むん、と握り拳を作って、鈴仙は一度強く頷いた。
鈴仙が、永淋の下で医療の知識を学んでいることを知っているイズナは、その意気だで、と笑顔を返す。

二人の歩く速度が、少し落ちる。ゆったりと。のんびりと。

竹林の心地よく、さわやかな静けさを味わいながら、二人は他愛も無い話に花を咲かす。
 
 ねぇ、鈴仙ちゃん。どうすれば藍様と御近づきになれるかねぇ?
む、難しい質問ですね…。
女性の視点から見て、オイってどんなもん?
う~ん…。イズナさんは、そのおじさん臭い仕草を無くせば、カッコいいと思いますよ。
 およ、嬉しいこと言ってくれるねぇ。
 
のんびりとした感じでイズナが言った時だった。
 
 竹林の竹を押し倒すかのような、強烈な突風が吹いた。
 それは炎混じりの、巨大な息吹だった。
 熱波。熱い風が、竹林の空気を焼き、イズナ達を激しく嬲った。

「熱っ…!?」
「こりゃあ…!」

鈴仙は顔を腕で庇い、イズナは鈴仙を庇うようにその前に立つ。
熱風に煽られ、竹林が悲鳴を上げている。
まるで、波が砕けるような音だ。

その熱き風が過ぎ去り、今度は静寂と不穏が訪れた。
イズナは背に鈴仙を庇いながら、その熱波が押し寄せて来た方向へと鋭い視線を向ける。
やや薄暗い竹林の向こう。
鈴仙もイズナと同じ方を睨みがら、冷や汗を流している。

「この熱の感じ…。でも、何で…」

鈴仙は瞳孔開きながら、戸惑いの声を上げた。
この熱波の波長。知っている。よく知る炎の熱だ。

イズナは、何かこっちに来るねぇ…、と呟いた。
そして、そのまま視線は動かさず、手に持った籠と鞄を鈴仙に渡して、すっと腰を落とした。
 イズナの手が腰の刀の柄に触れる。
 
 それだけで、イズナの雰囲気ががらりと変わる。
まるで別人だった。その癖、鈴仙が感じるイズナの波長は変わらない。
 
その事に若干の薄ら寒さを感じたが、どうやらそれどころでは無いようだ。
また来た。熱風だ。
いや、熱風だけでは無い。
竹林を赤く染めながら、それは苦しげに羽ばたきながら姿を現した。

火の鳥だ。
絢爛さすら感じさせる、美しき炎を纏った不死鳥。
巨大過ぎる浄火の灯火。

それが、のたうつかのように炎をばら撒きながら、イズナ達の目の前に現れたのだ。

妹紅さん!? ど、どうしたんですか!?

鈴仙は、おその火の鳥に向かって叫んだ。
だが、返答は無い。代わりに、苦しげに一声鳴いた火の鳥は地面に堕ちる。
そして、絶叫するように炎を撒き散らした。

周りの竹が焼け、燃え上がる。

地面に堕ちてのたうつ不死鳥は、まるで自らの炎で身を焼いているようですらある。

ばら撒かれた炎は弾幕と化し、イズナ達に降り注ぐ。
火の雨の中、イズナは鈴仙の前に立ち、降りかかる炎を切り伏せ、切り払った。

「妹紅さん!」

イズナの背後。
悲痛な声で、鈴仙が叫ぶ。しかし、やはり不死鳥は苦しげに叫び、自らの炎で周りにあるものを焼くだけだ。
 
 炎の弾幕が激しくなる。

こりゃ不味いねぇ…!
 言いながらイズナは迫る炎の弾幕を、再び刀を振るい、弾く。
 鈴仙も、持っていた荷物を咄嗟に地面に放ってから、指をピストル型に構え、弾幕を張る。

 その鈴仙の指先に、赤い光が集まる。
 
 「下がりましょう! この距離は危険です!」
 
 緊迫した声。それと同時に、鈴仙の放った白い弾丸型の弾幕が、炎の弾幕と相殺した。
その隙に、二人は飛び退り、火の鳥から距離を取る。

「こりゃあ、どうなっとるんじゃ…?」

イズナは眼を細め、刀を鞘に戻しながら言う。
そして、居合いの構えのように、柄に手を添えながら、腰を落とした。

「私も分かりませんが…でも、凄く苦しそうです」

鈴仙はピストル型に握った手を構えて唇を噛みながら、火の鳥を見詰める。
その表情は、困惑と焦燥が浮かんでいた。
イズナはちらりと横目でそんな鈴仙を見てから、鈴仙ちゃん、と声を掛けた。

「永淋先生を呼んで来てくれんかねぇ…。こりゃ、放っとくと…どうなるか分からんよ」

低い声で言うイズナの視線の先。
火の鳥が苦しげに一声鳴いて、更に激しくのたうった。
 
竹林が爆風でざわめき、竹薮を焼く。
 しかし、不思議なことに、その炎は燃え広がらない。
 竹に燃え移っても、微かに焦がすだけで、すぐに消えて霧散していく。
 
 それは不気味な光景だった。
 熱さはあるのに、炎はすぐに消える。
 惑乱する炎は、竹林を嬲りながらも、何かを焼くことを拒もうとしているようだ。
 その炎の中で、火の鳥は未だ苦しげに鳴きながら、さらに炎を吹き上げている。

ぐ…ぅ…ぅぅ…。

炎の熱のと、暴風に晒される竹薮のざわめきの中に、少女の苦悶の声が混ざった。
その声が聞こえたのだろう。

「で、でも…」

切羽詰った声を出す鈴仙は焦った顔で、イズナと火の鳥を見比べる。
その鈴仙に、イズナはいつも通りの、ほにゃっとした笑みを浮かべて見せた。

「大丈夫さね。これでも、おじちゃんは逃げ足は速いんだで」

それに、鈴仙ちゃんなら、オイが竹林の何処に居たって、すぐに見つけられるしねぇ。
イズナはそう言ってから、鈴仙から視線を外し、火の鳥へと向き直る。

ぐぅ…ぅう…が…ぁあああああああ!!!

苦悶の絶叫と、炎を上げる火の鳥が、その翼をはためかせた。
竹をなぎ倒し、舞い上がった火の鳥も、イズナ達へと向き直った。
途轍もないプレッシャーに、鈴仙は自分の身体が凍りつくような感覚に襲われた。
不死を宿す爆炎の塊が、こちらを向いているのだ。いや、睨んでいる。
 鈴仙は足が竦んだ。

そんじゃ、頼んだよ。

だが、その強張った鈴仙に、柔らかな声が掛かった。はっと鈴仙は我に返る。
イズナの白い着流しの背中が、視界に入った。
歩いていく。あの火の鳥に向かって。
そんな無茶苦茶な。
何でそんな、緊張感の無い足取りで。

「ぃ、イズナさ――!!」

イズナの暢気な背中に、慌てた声を掛けようとした鈴仙だったが、その声はしかし、言葉にならなかった。

 炎の弾幕が鈴仙の言葉を掻き消し、その爆風が言葉を押し流したからだ。
 その圧力に押され、鈴仙は尻餅を着きかけて、何とか踏ん張る。
 顔を腕で覆った鈴仙の視線の先。

 イズナは全く怯むことなく、あの火の鳥に対峙している。
 抜き放った刀で、弾幕を弾き、切り伏せていた。
 
普段の、のほほん、とした姿からは想像も出来ないほど、その太刀筋は鋭く、また速い。
けっぱりますかぁ。
呟いたイズナの声は、深く、低い。
 
 鈴仙は、唇を噛んで、イズナに背を向けた。
 すぐに戻って来ます! 必ず無事でいて下さいよ!
正に脱兎の如く駆け出しながら鈴仙は言って、永遠亭へと向かう。
その背を肩越しに見送り、イズナはふぃ~、と息を吐く。鈴の音が鳴った。
イズナは重心を更に落とし、火の鳥の炎を睨む。
そのイズナの視線の先で、今までのたうっていた火の鳥のその炎が、僅かずつだが黒く染まっていった。

まるで、何か得体の知れないものが、その炎を蝕んでいくように。

ぐ…ぅぅう…う…ぐ、くふ…ふふふ…ぁはははぁ…。

それと同時に、苦しげな呻きは、緩い笑い声に変わっていく。
燃え盛る炎は笑い声と共に更に激しさを増し、火の鳥が一回り大きくなった。
その笑い声に呼応するように、どんどん大きくなる。

やばい感じだねぇ、どうも…。

イズナは表情を苦く歪め、呟く。
その呟きは、炎の熱に溶かされ、不気味な静けさを纏う竹林に吸い込まれていく。
もはやイズナの周囲にあるのは熱気と殺気のみ。
獣の気配一つしない。
無理も無い。この炎と威圧感を感じれば、野生の動物など一目散に逃げ出すだろう。

黒ずんだ紅蓮の炎を纏う、巨大な不死鳥。
今まで苦しみ悶えていたのが嘘のように、堂々たる姿をイズナに見せ付けている。

いい気分だぁぁ…。久振りだなぁぁ…。こんな清々しい気分はぁぁ…。

恍惚とした、それでいて、何処か破滅的な声音だった。
その不死鳥は、纏う炎の形を変え、それは次第に人の形へと変わる。
どす黒い翼の炎はそのまま。胴体部分は一人の少女へと。

藤原妹紅。
蓬莱の人の形である少女が、唇を裂くような笑みを浮かべていた。

しかし、普段の彼女とは、様子が明らかに違う。
まず、髪だ。
美しい白銀の髪までもが黒ずみ、くすんだ灰色に変わっている。
そして、赤かった瞳は、紫色の水晶のよう。
その瞳を細めながら、妹紅は黒ずんだ炎の翼を揺らして見せた。

「よぉお、イズナぁぁ…」

それは危険な笑みだった。
妹紅は左眼を細めて、右眼を見開いた。

「何だぁ…。何でそんな物騒なモン構えてんだよぉ…怖ぇなぁぁ…」

言葉とは違い、その声音は酷く楽しそうだ。
イズナは無言のまま。そして、構えたまま、妹紅を見据える。
そのイズナの様子を見て、妹紅は、くっくっく、と肩を揺らして笑う。
背中の黒い炎も、同時に燃え上がり、火の粉を散らした。

まぁぁ…良いかぁ…。今は気分が良いんだぁぁ…。

灰色にくすんだ髪を揺らして、妹紅はひっひっひ、と笑う。
普段の彼女には到底似合わない、品の無い笑い方だった。
そして恍惚した表情で、はぁぁぁぁ~~、と空気の塊を吐き出して、唇を歪めて見せた。

「今なら、永淋でも輝夜でも…何でも燃やしちまえそうだぁぁ。なぁぁイズナぁ」

「何だい、妹紅ちゃん?」

イズナは低い平板な声で答え、瞳を細めた。
退いてくれないかぁ…、じゃなきゃあ…お前まで真っ黒焦げにしちまうなぁ…。
焼きたくて焼きたくて仕方無い。そんな声だ。

「…争いごとは嫌いだっちゅうのに」

イズナは言いながら息を一つ吐いて、刀を握る手に僅かに力を込めた。
それを見た妹紅の顔が、笑みの形に歪んだ。
しょうがない奴だなぁ…。お望み通り、先に燃やしてやるぜぇ…。
妹紅の周囲に炎が沸き立ち、無数の蛇のようにとぐろを巻く。

準備運動ぐらいにはなれよぉ…。
とぐろを巻いた炎が妹紅の前で凝縮されていき、それは巨大な炎の玉となった。

炎の暴風を巻き起こしながら、妹紅は身体をぐぐっと仰け反らせた。
そして、両手投げのようなモーションで、

そらぁっ…!!

その炎の塊をイズナ目掛けて打ち出した。
 
 炎の塊は、冗談のような速度だった。
しかも徐々に大きく膨れ上がっていく。
そして次第にそれは鳥の形へと姿を変える。
イズナを襲う頃には、その炎の塊は一匹の巨大な火の鳥となっていた。
猛禽類が獲物に襲いかかる動きそのもので、火の鳥はイズナに迫る。

「殺されんようにけっぱりますか」

イズナは言って、腰に下げた鞘から抜刀する。
そしてそのまま居合い斬りの要領で、身を微かに沈めつつ、その火の鳥に刃を滑らせた。
火の鳥は真っ二つになり、イズナの両脇を掠めて飛んで行き、その後方の竹林に着弾。

イズナの背後から爆音が響き、その爆風と砂塵がイズナの姿を隠す。
竹林の静けさを吹き飛ばす轟音。
妹紅は唇を歪めて、自身の周りを炎の渦で包む。
逃げるのかぁ…。つまらんなぁ…。
言葉と同時に、渦巻いた炎が弾け飛んだ。
それは、炎の弾幕だった。灼熱と陽炎が空気を焦がす。

イズナが姿を眩ませたその砂塵の中へと、無数の炎弾が叩き込まれていく。
炎弾が打ち込まれる度に吹き上がる火柱。そして、地響き。
絨毯爆撃のような炎の雨は、しかし肝心のイズナには命中していなかった。

妹紅がそれに気付いたのは炎弾を放っている最中だった。

 背後。いや、右斜め後方。

 妹紅の耳に、鞘と鍔が擦れる音が僅かに聞こえた。

「そこか…!」

妹紅は両腕を炎で包み、笑いながらバックナックルを放つ。
その一撃は強烈、且つ、疾風の如き疾さだった。

「およっ!?」

 その炎の拳を、妹紅の背後に居たイズナは刀身で受け止める。
 轟音が響き、衝撃波で火の粉が舞い上がった。

 両者の拳と刀は鍔迫り合い状態になる。だが、その状態は長くは続かなかった。

バックナックルを放った姿勢のまま、妹紅は背中の翼を爆発させるように羽ばたかせた。
燃え盛る黒ずんだ炎の翼で、イズナを打ち据えようとしたのだ。
炎の波がイズナに覆いかぶさるように迫る。

 「くぅ…!」

咄嗟にバックステップを踏み、イズナは迫る炎の波を、刀で横一文字に凪ぐ。
空間が振動するような音と共に、炎は掻き消された。
だが、そのイズナ目掛けて身を翻した妹紅が突っ込んできた。疾い。

炎を払うため、イズナは大きく刀を横に振りぬいてしまっている。

イズナは防御の為に鞘に手を伸ばそうとしたが、間に合わない。
やべっちゃ…! 
イズナがそう思った時だった。

ドムンッ、と嫌な音がした。

 突っ込んできた妹紅の拳がイズナの腹に突き刺さった。
ぐぇ、とイズナは声に成らぬ呻き声を上げる。だが、まだ終わらなかった。

イズナがそのまま吹っ飛ぶ前に、妹紅は足を振り上げた。

 「ぶがっ!!?」

強烈なサマーソルトキックをイズナの顎にブチかましたのだ。
イズナの首が跳ね上げられ、序に身体が宙高く浮きあがる。
サマーソルトのバック転から着地した妹紅は、あははぁ、と笑ってから、炎の翼をはためかせた。
そして、イズナ目掛けて飛翔する。
火の粉を振りまきながら一気に上昇してイズナを追い越し、拳を組んで振り下ろした。
それは、巨大なエネルギーを殺気に変え、それを詰め込んだ炎の槌だった。
 
 「んが…!」

イズナは何とか身体を捻り、振り下ろされた妹紅のハンマーナックルを刀の鍔でいなす。
こりゃきついねぇ…! 炎がイズナの腕や手を炙った。
攻撃をいなされた妹紅は、ならばと翼を大きく広げた。
そして、その炎の翼が凄まじい速度でイズナを襲う。

激しく燃え上がりながら振りぬかれた翼は、爆発すら伴っていた。
炎熱の妖力と、不死鳥の翼が、イズナを飲みこまんと再び迫る。

イズナは刀を盾に防御法術を展開するがその爆風に吹っ飛ばされ、竹を巻き込みながら地面に叩き落とされた。
イズナは、こなくそっ…! と呟き、何とか着地する。

だが、追撃とばかりに、其処に流星が飛んできた。
いや、飛び蹴りの格好をした妹紅が降ってきたのだ。

イズナは咄嗟に刀の鞘を構え、その流星キックを受け止めた。
その重い衝撃にイズナの身体が再び吹き飛ぶ。

イズナを蹴り飛ばした体勢のまま、妹紅は更に炎弾による追撃をかける。
吹っ飛ぶイズナに迫るいくつもの炎の塊。

容赦無いねぇ。イズナは顔を苦しげに歪める。
その次の瞬間だった。全弾がイズナへと命中した。

一点に集まった炎弾は互いに爆発し合い、その場に巨大な火柱を上げる。

轟音と共に、爆風と熱風が竹林を焼いた。

もう少し…弱火の方が良かったかぁ…。
巨大な翼を休ませるように妹紅は地面に降り立つと、燃え立つ火柱を眺めた。
妹紅はくっくっ、と笑い、可笑しそうに顔を片手で覆った。

ああ。ああ。身体が軽い。今なら本当に何でも出来そうだ。
久ぶりに、輝夜を焼きに行こう。永淋もだ。
焼いて、焼いて、焼き尽くして、煙にして、それすら炎で飲み込んでやる。
妹紅は、はははは、と乾いた笑い声を溢しながら、イズナの墓標となった火柱に背を向けようとした。

「あ…?」

妹紅の笑みが凍りついた。
今まで揺らめいていた火柱の炎が突然静止したのだ。
まるで、時間が止まったかのような。
竹が焼け爆ぜる音も、立ち上る陽炎も消えている。

代わりにひんやりとした冷気が、妹紅の肌を撫でた。 
放たれた炎を閉じ込める青白く巨大な、それは氷塊。

そう。氷の中に、火柱が封じ込められている。
 
 「――――…お前、何モンなんだ?」

 チリィ…ン。
 澄んだ鈴の音とともに、イズナはその氷塊を背を預けながら静かに立っていた。
 やはりダメージが大きかったのか。
 その表情には痛みとダルさ、疲労感が浮かんでいる。
 
 「ふぃ~…。何者、って言われてもねぇ」
 
 イズナは流れる鼻血を拭いながら、疲れたように言う。
 
「しがない狐のおっさんさね」

妹紅はそんなイズナの姿を見て、背中の翼を脈動させ、宿る黒ずんだ炎をさらに猛らせた。
その翼の背後で爆発が起きた。
ジェット噴射のように加速していく妹紅は、弾幕と肉弾戦に備え、両腕に炎を宿す。

イズナは後方に跳躍し、その巨大な氷塊の影へと身を隠した。

「それで隠れたつもりか」

妹紅の声から余裕が無くなった。
代わりに、妹紅は低い声で言葉を紡ぐ。
蓬莱――“凱風快晴、フジヤマヴォルケイノ”
紅の身体から発せられる炎。それが大きく膨れ上がり、その爆炎はのたうつ大蛇のように暴れまわる。

そして、弾幕と共にその大蛇の無数の牙がイズナの隠れる氷の山へと迸る。群生している竹を蒸発させながら飛来する灼熱の雨。

お茶一杯も啜る暇が無いねぇ、こりゃ。

妹紅の耳に、場違いな暢気な声が小さく聞こえた。
イズナは刀を居合いのように一閃させた後、刃を返し、さらに無数の突きを一瞬のうちに氷塊に打ち込んだ。

派手な音を上げて、氷の山が砕け散った。
そして、その破片が飛礫となり、氷晶の弾幕と化す。

ぶつかり合う、氷と炎。
だが文字通り火力、又、弾幕の量では妹紅の放ったフジヤマヴォルケイノの方が遥かに上であった。

ボジュウゥウゥ、と氷が一瞬で気化する。
凄まじい水蒸気を発しながら、氷の飛礫は炎に掻き消されていく。

「勇気凛々だなぁ…!」

妹紅は言いながら両腕に纏わせた炎をされに燃え上がらせる。
氷と相殺した分、やはり妹紅の弾幕も薄くなっていた。
よって、イズナは正面から弾幕を抜け、最短距離で妹紅に肉薄していたのだ。

疾い。イズナは刀の峰で左から右への横一文字を描き、妹紅の胴へと打ち込む。
妹紅はこれを飛翔することでかわし、イズナに飛び掛るような状態になった。

回避から反撃へ移る為だろう。妹紅はすでに拳を振り上げられている。
全部お見通しだといわんばかりに、妹紅は唇を歪める。
そして、炎を纏った拳、それを振り下ろすようにしてイズナ目掛けて放った。

だが、イズナの攻撃は終わっていなかった。
イズナは妹紅の炎の拳をかわして、さらに懐に妹紅の懐に潜り込んで行く。
滑るかのような足捌き。そして、体裁き。
イズナは踏み込みつつ、横に薙いだ刀を返し、そのまま切り上げるようにして峰を振り上げる。

 ドッ、と鈍く、低い音が響く。

妹紅の拳は空を切った。
だが、イズナの放った峰打ちは妹紅の脇腹へと吸い込まれていったのだ。

「っぐ―――!」

妹紅は苦しげに表情を歪ませた。
しかし、すぐにその苦悶の表情を引き締め、炎を纏ったストレートを放つ。
その妹紅の表情が、再び凍りつく。

飄々としたイズナの貌。そこに浮かぶ穏やかな表情と、鋭すぎる眼光のギャップに。

「遅いねぇ」

イズナはゆっくりと歩むように、近距離の妹紅へと居合い斬りの構えを取りつつ踏み込んだ。
至近距離で。妹紅の拳はすでに目前。
鼻先に迫る火炎の拳骨が、イズナに当たる瞬間だった。

居合い斬りの構えのイズナの身体が、その拳をすり抜けた。いや、拳だけでは無かった。妹紅の身体までもすり抜けた。少なくとも、妹紅にはそう見えた。
いや、感じたというべきだろうか。
妹紅の拳が再び空を切った。
その瞬間には、もうイズナは妹紅の背後で背を向けたまま、刀を鞘に戻している所だった。

ドグッ――!

「ご…はっ―――!!」

妹紅がイズナを振り返ろうとした瞬間、その妹紅の身体に×印の溝が奔った。
その溝に沿って服が破け、妹紅の白い肌が露になる。

それはイズナが刀を納めきったのとほぼ同時だった。
居合いでの神速の峰打ちをまともに浴び、妹紅の炎の翼が揺らぎ、霧散していく。
ついでに、ぐらりと妹紅の身体も地に落ちる。

「堪えてつかぁさいよ」

手応えは確かにあった。
流石に立ってはいないだろう、イズナはそう思いながらすまなそう言って振り返る。
そして、今度はイズナが驚愕に頬を引き攣らせた。

ドゴン、と空気を破壊するような轟音とともに、妹紅の身体を黒ずんだ炎が包む。
その炎は再び巨大な翼を成し、妹紅の身体をふわりと宙に浮かべたのだ。

爆炎を揺らめかせながら羽ばたくその様は、正に不死鳥。
イズナは刀の柄に手を掛けたまま、ゆっくりと腰を落とした。
失礼かもしんねぇけど、こりゃあ、マジに化けモンだわ。
破れた白いシャツから覗く妹紅の身体には、すでに先ほどの峰打ち跡がすっかり消えてしまっている。
もう跡がねぇ。治ってやがらぁ。
なるほどねぇ、そういうチカラを持っとるわけか…。強いねぇ…。

冷たい汗が流れるのを感じ、イズナは気合を入れ直す為に、妹紅に視線を合わせたまま深呼吸をする。

妹紅の方は、舌打ちをしながら、両手に炎を握りこんだ。
浮き上がる彼女の身体は、すでに浄火に包まれ、傷一つ無い。

そろそろ焼けちまえ…。

竹林の中に無数の小さな太陽の如き、超火力の火炎弾の群れが浮かび上がった。
その熱気は周囲の竹を炭化させ、揺らめく陽炎がその熱量が半端ではないことを現している。

「あっつ!?」

イズナが間抜けな声を上げた、その時だった。
インペリシャブルシューティング。
一斉に火炎弾が降り注いで来た。ドバーっと来た。
しかし、イズナは火炎弾に身を翻すのでは無く、再び居合い斬りのように刀を抜き放った。

その一閃で、まず三発の炎弾が真っ二つになる。
次にイズナは、抜き放った刀を構え、迫る炎弾に対峙する。

斬! 斬! 斬! 斬! 斬!

袈裟斬り、逆袈裟、刺突、斬上、兜割り。
そのすべてを繰り出し、イズナは火炎弾を斬り落とし、斬り飛ばしていった。
火の粉の嵐が舞い上がり、まるで真っ赤な花が咲き乱れ、また散り乱れたようになる。

そんな幻想的な景色の中。

妹紅の姿が消えていた。
イズナはハッとして上を見上げる。居た。
そこには、弾幕をバリアのように展開しながら突っ込んで来る妹紅の姿。

今回の弾幕の張り方は今までと決定的に違う。

今までの弾幕はイズナ目掛けて放たれるものばかりだったが、今回はイズナを狙うのではなく、妹紅の周囲360度全てにばら撒かれるものだった。
しかも威力も半端では無い。
その数と威力に押され、次第にイズナにも限界が訪れる。

迫る炎弾を斬り伏せながら、冷や汗が頬を伝う。捌ききれなくなってきたのだ。
さらに追い討ちをかけるように迫る妹紅。
その両手には炎の塊。直接イズナに叩き込むつもりか。

イズナは少し息を切らしつつも、弾幕を斬り飛ばしながら向かってくる妹紅に対峙する。

まず一発目。

妹紅はこちらに突進しながら何かを投げつけるようなモーションを取った。その何かは、手にある火炎弾と見て違いない。

というか、それしかない。だが、そのモーション中だった。妹紅が投げようとしているだろう左手の火炎弾が膨れ上がった。

デカイ。直径は6メートルはある。それを、妹紅はぶん投げて来た。
ついでに、右手にある火炎弾も膨れ上がるのが見えた。冗談じゃねぇずら。
弾幕のバリアを縫うように捌きながら、イズナは舌打ちをする。
そして、切っ先を妹紅に向けたまま刃を返し、顔の横に構える。迫る巨大な火炎弾。

イズナは構えたまま、それを待ち受ける。その火炎弾と共に、弾幕もイズナに迫る。

「七部咲きかな…」

イズナの身体に青白い法力の波紋が浮かぶ。

一瞬、音が消えた。

その次の瞬間。

斜め上にイズナは刀を切り上げた。何かが歪むような音が鳴った。
刃の軌跡を追うように空気が歪む。その歪みが弾幕を冗談のように掻き消していく。
刀を引き戻したイズナは、さらに迫る巨大火炎弾目掛けて突きを繰り出す。

「征―――」

イズナは震脚のように力強く踏み込みながら、その法力を解放する。

突き出された刀を中心に現れたそれは、巨大な青白い「歪み」の渦だった。
吹雪のようでもあり、霧のようでもあった。
その渦が紅蓮の火炎弾に穴を空け、抉り、砕いた。
不気味な程静かに、だが、凄まじい量の火の粉と炎の欠片が辺りに飛び散る。

「足掻くなよ!」

妹紅の手に膨れ上がった火炎弾が、更に膨張した。
その大きさは家くらいなら軽く飲み込む程。
もはや炎と言うのも生温い、業火の雫を手に、妹紅はイズナに迫る。

だが、今度は投げつけるのではなく、

「おおお…!」

地面に叩きつけた。
竹林の中に、赤い光が吹き荒れる。
その光の中、炎弾は地面に沈みながら周りの竹林を焼き、地を溶かしながら業火を吹き上げる。
だが、あの規模の火炎弾を打ち込んだにしては爆発などは起きず、炎がのたうつその光景はまるで何かが胎動しているようでもあった。

イズナは目を細め、警戒する。

やっこさん、何をする気かねぇ。
それはすぐに解った。
その地獄さながらの光景の中から巨大な蛇が飛び出して来たからだ。
でか過ぎる。胴の太さで10メートルは下らない。

だがそれは、正確には蛇ではない。
溶岩と弾幕、炎を混ぜ込んだ土石流だ。
局所的な噴火が起きるほどの火力と、それに指向性を待たせる程の爆発力。
それが、凄まじい勢いでイズナを飲み込まんと迫る。

壮絶な力押し。
イズナは表情を歪め、諦めたように構えを解いた。
腕相撲じゃ分が悪いねぇ、やっぱ…。
そんな呟きを漏らすイズナを、炎の渦が飲み込んでいった。

破壊の轟音が響き、灰と塵が巻き上がる。

死んだ。殺ったはずだ。もう燃えカスすら残っていないはずだ。
その壊滅の中。妹紅は聞いた。

チリィィ――――……ィィン…

轟音の中に混ざる、澄んだ鈴の音。
妹紅の呼吸が一瞬止まった。

馬鹿な。
妹紅は宙に浮き上がったまま、炎の翼を爆発させる。

「しつ…っこい野郎だ…!」

苛立たしげに叫び、その翼を羽ばたかせた。
立ち込める白煙が一瞬で吹き飛び、妹紅の視界に灰で白く染められた竹林の残骸が広がる。

だが

「どこだ…」

居ない。姿が見えない。
上下左右に視界を向けるか、妹紅はイズナの姿を認めることが出来ない。

リリィィ――…ィィン…

再び鈴の音が妹紅の耳を擽る。
鳥肌が立った。鈴の音が近い。
その辺にいやがる。だが、姿が見えない。足音もしない。
何だ。何処だ。何処にいる。

妹紅は両腕と翼を広げ、無茶苦茶に辺りに弾幕を放った。
放たれた弾幕が地を抉り、灰を巻き上げ、再び辺りに炎が灯る。
しかし、やはりその気配は消えない。

いる。すぐそこに。

「全ては御霊に還る」

不意に。
低い声がすぐ近くで聞こえた。
背後だ。

真っ白な光に包まれた。
何かが抜けていくような感覚を覚えたが、すぐに妹紅は振り向きながら爆炎を纏った回し蹴りを放った。
足を何かが撫でたような感触が残る。

リィィ―…ィィン…

だが、そこには鈴の音が残るのみだった。
妹紅は歯噛みする。遊んでやがる。出て来い。
そう言おうとして、先ほど回し蹴りを放った足が濡れていることに気付いた。
血だ。斬られている。妹紅はゾッとした。

「何だ…これ…」

傷が塞がらない。治癒しない。痛みは残り、血が流れ続ける。
五センチ程の小さな切り傷程度だったが、鋭い痛みが走る。

不死性の消失。馬鹿な。

どうやら、そのトンでもねぇ回復能力はやっぱり外的な要因みたいだねぇ。
のんびりとした声が聞こえた。
妹紅は混乱する。
何をされたんだ。何だこれは。

「そういうのをちょっとの間だけ消し去るチカラがあんのよ。オイにはね」

此処の皆みたいにねぇ。
バックヤードの縁の者であるイズナは、特殊な法術を幾つか習得している。
その一つに、術を解除、或いは、解呪する術がある。
柘榴もぎ。それが、イズナが使った法術の名。

イズナは刀を鞘に納め、再び居合いの構えを取る。
その威圧感に、今度は妹紅が怯んだ。
宙に浮き上がろうとした妹紅だったが、そこで異変が起きた。

「な…あ、あれ…」

妹紅の纏う炎から、黒い影が抜けていく。
煤が堕ちるように。洗い流されていくように。
妹紅の髪も、くすんだ灰色から、元の白銀へと戻っていく。

「は…く…、くそ」

元の姿を取り戻しつつある妹紅の眼が、霞み始めた。
ぐらりと。妹紅の身体が、力なく揺れた。
そして、炎の翼がすぅ、と消えていく。
それと同時に、再び妹紅の身体が地に堕ちる。
「おっと…!」

イズナはその身体を、地面に落下する前に抱きとめた。気を失ったようだ。
少々ぐったりした様子で、妹紅はイズナの腕の中で浅い呼吸をしている。

柘榴もぎが、何かの術を消したのか。
或いは、妹紅の体力に限界だったのか。
どちらかは分からないが、とにかく永遠亭に妹紅を運ばなくては。

イズナは妹紅を抱え、灰と煤、黒こげとなった竹林を見回して、助かるねぇ、と呟いた。
その視線の向こう。まだ無事な竹林の奥の方に、ブレザーを纏った少女と、赤と青の看護服を纏った女性が見えたからだ。

 イズナは腕の中で気を失っている妹紅に視線を落として、ふぅと息を吐いた。
 まずは、先生に診て貰うのが一番だぁね。

 呟いたイズナは、少女達の方へと駆け出した。



[18231] 十五・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/07/14 22:51
竹の葉が擦れる音だけが、微かに聞こえる。
畳六畳の広さを持つ永遠亭の客間は、屋敷の縁側にあり、中庭に面している。
縁側からはよく手入れされた庭園が眺められ、旅館の一室のような風情があった。
この小さくも、静かで上品な和の空間。

そこで、妹紅は寝込んだイズナの傍に腰を下ろし、不安げに表情を曇らせていた。

 畜生…。
 
これで何度目だろうか。
 妹紅は唇を噛んで、悔しげな呟きを漏らす。
 その視線の先では、イズナが少しだけ苦しげな表情で眠っている。
 
 妹紅の聞いた話では、永淋の診療所へと妹紅を担ぎ込んですぐに、イズナも倒れたのだそうだ。
妹紅の身体に傷が残らず、また命に別状も無いことを知ったイズナは、「あ~…えがったよぉ…」と一つ微笑み、糸が切れるようにその場に倒れてしまったらしい。

やはり、妹紅との戦闘でのダメージが効いたのだろう。
寝込んでいるイズナの身体には火傷痕も多くあり、上半身は包帯でぐるぐる巻きの状態だ。
 イズナの意識が戻らない今の状態が、既にまる一日。
永淋のオペレーションを受けたイズナの方も、命に別状は無いが、回復には少々時間が掛かるとのことだった。


妹紅の方は、その身に宿る蓬莱の薬、不死の力が、既に傷も疲労も癒してしまっている。

風の音が聞こえ、それに合わせて、竹林が鳴いた。
溜息を吐いた妹紅は、項垂れる。

イズナと戦った記憶は、かなり曖昧だ。うっすらとしか覚えていない。
ただ、自分が何か得体の知れない力に抑えられ、イズナを襲った。
それだけは分かった。

畜生…。
 妹紅は再び呟いて、自身の美しい白銀の髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
 項垂れたまま髪を引っ張ったり、片手で顔を擦ったり。
その表情は思い悩み、自らを責めるように歪んでいる。
 
だから妹紅は、客間の襖が開いたことに気付いていたが、無視した。
 静かな足音が近づいてくる。
 
 「無理しすぎで、貴方までまた倒れないでね…」

 客間の静寂に飲み込まれそうな、その妹紅の背中に、一つ声が掛けられた。
 この和の空間に馴染む、上品な声だった。
 
 「倒れるかよ…。んな事、お前が一番知ってるだろう」

 妹紅の声に答えず、声の主である蓬莱山輝夜は、妹紅の隣に腰を下ろした。
 普段なら憎まれ口の一つでも叩くだろう妹紅も、イズナに視線を落としたまま。
 それどころか、悪いな…手間掛けた…、と謝り、微かに頭を下げて見せた。
 
 妹紅のその様子に、輝夜は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。
 手間を掛けた、とは、広い範囲に渡って焼いてしまった竹林の修復と、自身とイズナの手当てについてだろう。
 竹林の修復については、もう輝夜にとっては慣れっこだった。
 何せ、随分永い間、妹紅の炎とぶつかってきた。
 その度に、竹林を無限の時で包み、焦土に竹を芽吹かせてきたのだから。
 
 「別に構わないわよ。…寧ろ、私よりも永淋に、その言葉を言ってあげて」

 「ああ…。もう謝ったけど、また謝っとく…。詫びもしないとな」

 イズナにも、お前達にも…。
 憔悴した様子で、溜息のように言葉を吐き出した妹紅は、相当に参っているようだ。
 自分を責めて責めて、責めまくっている。
 項垂れた妹紅の目じりに微かに涙が溜まって、ぐす、という鼻を啜る音がした。
 
 輝夜は、その妹紅の肩に手を回し、ぽんぽんと優しく叩いた。
 そして、妹紅と同じように、寝ているイズナへと視線を落とす。
 
 「永淋が診て、治療したのよ…。大丈夫…」
 
 そう言う輝夜の言葉は、自身に言い聞かせるようでもあった。
 うん…、と心細げに言って、妹紅は小さく頷く。
 
 イズナを見守る二人の沈黙に、二人分の静かな足音が聞こえた。
 二人の背後で、襖が静かに開いた。
妹紅は視線をイズナに落としたまま。
輝夜は振り返りながら、お疲れ様、と声を掛けた。

 輝夜の労いの言葉に頭を垂れたのは、永淋と鈴仙。
 永淋は火傷に塗る軟膏の入った瓶を。
鈴仙は包帯などの入った薬箱を、それぞれ抱えていた。
イズナの包帯を替えに来たのだろう。
二人は静かに入室して、心配そうな面持ちで、輝夜の少し後ろに控える。
 
 「まだ…。イズナさん、眼を覚まされないんですか?」

 輝夜の背後から、寝ているイズナを覗き込むようにして視線を向ける鈴仙。
その声は、不安に曇っていた。
 
 「もう大丈夫のはずですが…」

永淋も表情を難しそうに歪める。
彼の使う法術と呼ばれる術が、彼の精神と身体に、負担を掛けたのかもしれません。

永淋のその言葉に、妹紅がぎゅっと唇を噛んだ。
 
 ああ。
私のせいだ。
私が傷つけた。
自責の念に押し潰され、消えてしまいたい。
蓬莱人になれ過ぎた。
輝夜なら、どんなに焼いてもケロッとしてるから。
 普通は違うんだ。
 怪我をするし、治るのも時間が掛かる。
 いや。治らないかもしれない。
 後遺症が残る時だってある。
 イズナ。ごめん。


 うぅ…。
妹紅の口から、泣き出す一歩手前みたいな声が漏れたときだった。
 
 「…んぉぉ…」

 少しだけ気だるげな、それでいて何処か暢気そうな声が微かに聞こえた。
 小さく、くぐもってはいたが、確かに聞こえた。

 妹紅はガバッとイズナの顔を覗きこんだ。
 輝夜も永淋も、そして鈴仙も。

 その視線の集まる先で、イズナは億劫そうに瞬きをしてから、はぁ、と小さく息を吐いた。
 
 「…此処は…」 イズナは布団に入ったまま、視線を辺りに巡らせた。

 そして、白い狐耳をぴくぴくと動かした。
 竹林の囀りか聞こえる。
そして、輝夜や永淋、イズナの顔を見て、ああぁ、と頷いた。
 
 イズナはそれから、何かを思い出すように眼を閉じて、少しバツが悪そうな笑顔を浮かべた。
 
「この様子だと…皆に心配かけちゃったみたいだねぇ」
 
 「ええ、ほんと…。頑張りすぎよ」
 
 輝夜は、安心したように一つ息を吐いて、笑顔を浮かべた。
 永淋も同じような仕草をしてから、「何処か痛むところとかは無い?」と、優しげな声を掛ける。
 イズナは、どっこいしょ、とおっさん臭い動きで、布団から身を起こした。
 ゆっくりと。身体の感覚を確かめるように。
 ああ、まだ寝てないと…! 慌てたように言う鈴仙に、大丈夫だぁよ、とイズナは笑顔を返す。
 しかしすぐに、あだだ、と腰の辺りを摩った。
 
 それから、イズナは妹紅に視線を向けた。
 イズナの、少しだけ赤み掛かった黒い瞳が、妹紅を映す。

 イズナの表情は怒っている風でもなく、どちらかと言えば少し気まずそうな感じだ。
 
しかし、自責の念に囚われている妹紅は、その視線にビクリと肩を震わせた。
ぅ…。と小さく呻いて、妹紅は視線を畳みに落とす。

謝らないと。そう思った妹紅が、顔を上げようとした時だった。

ごめんねぇ、妹紅ちゃん。と、本当にすまなさそうなイズナの声が聞こえて来た。

え…、と妹紅が顔を上げるとイズナが、しょんぼりと顔を俯かせていた。
耳までしょんぼりと下を向いている。

嫁入り前の娘さんに、峰打ちやら何やら…。申し訳無いねぇ…いやほんと、この通り…。

イズナは布団に座った身体を折り曲げるようにして、更に妹紅に頭を下げた。
その声も仕草も、そして表情も、真摯そのものだった。
呆気にとられたのは妹紅だけでなく、輝夜達もポカン、とした表情だ。
だが、妹紅としては、謝られては立場が無い。

「いや、そんな…頭を上げてくれよ! 謝るのはこっちの方だ!」

イズナの肩を持ち、その身体を起こした妹紅の表情も、かなり申し訳無さそうだった。

「こっちこそ、お前に大火傷させちまって…。しかも、私が襲い掛かったみたいなモンだしな…」

すまなかった…許してくれ。
妹紅の声も、イズナに負けず劣らずの誠実さを含んでいた。

そんな、頭を下げあう二人を見て、輝夜はふふ、と笑う。
可笑しくて笑ったのでは無い。
喜ばしくて笑ったのだろう。
その笑みは優しげで、柔らかだった。

「私たちにとっては、どっちが悪いかよりも、どっちも大事無かった事の方が大切だけどね」

輝夜はそう言って、座ったまま「ねぇ」と、永淋と鈴仙を振り返る。
永淋も優しい笑みで、はい、と答え、鈴仙は嬉しそうな笑顔で、強く頷いた。

「でも、それじゃ…私の気が済まない。せめて今度、酒でも奢らせてくれ」

妹紅がイズナに言った時、輝夜も何かを思いついたように、ぽんと手を打った。
そうよ、それを忘れる所だったわ。
輝夜はそう言って振り返り、永淋と鈴仙の顔を順番に見て、楽しげに笑う。

そして、永淋と鈴仙も、何かに気付いたのか。
二人とも小さく頷いて見せる。

では、私は残った仕事を片付けて来ます。永淋はイズナ達に軽く会釈して。
私はてゐ達と一緒に、準備をしてきますね。鈴仙は耳を弾ませながら客間を後にした。

その様子に、今度はイズナと妹紅が呆気に取られた。
輝夜は、すっと立ち上がり、さて…、と呟いた。

お、おい…。何だ? 何をするつもりなんだ?

妹紅は座ったまま輝夜を見上げ、怪訝そうな顔をする。
イズナも同じだ。

訝しげな表情を浮かべる二人に、輝夜は品のある笑みを浮かべて見せた。

「それは勿論、イズナの快復祝いよ」





薄暗い実験室の中で、痩せぎすな男は、モニターの光に眼鏡を濡らしながら、不機嫌そうに息を吐いた。
用途不明の大型の機械が所狭しと並んだ其処は、生物兵器培養の為のプラント。
青白い光を放つ淡い証明が、いくつも並んだ大型の試験管を照らしている。
試験管の中には、形容しがたい、グロテスクな生き物達が納められていた。
いや、生き物というよりは、生かされている物。
それは幾度に渡る実験と研究の中で生みだされた、失敗作。

男の居る其処は祭壇だった。
命を創造し、破棄し、解明し、作り替える場所。
ブラックテック。
あらゆる犠牲を是をとし、なしくずし的に進化してきた人類の杖。

此処は、倫理と道徳の壁に穴を開けて到達した、その究極の形だった。
その犠牲の儀式を行う実験室で、男は妙な抑揚のある声で、うぅむ…、と呻った。
モニターに映し出された映像には、黒ずんだ不死鳥と、白い狐の妖怪が戦っている様子が映し出されている。

炎の光がモニターを明滅させ、男の眼鏡に炎を映している。
そのモニターの画面上には、幾つもの数値が表示され、点滅している。

男はその表示された数値を見ながら、溜息を吐いた。

「思ったより…随分高レベルな戦闘データを採って来てくれたのは嬉しいけど…」

肝心の洗脳術が失敗してるじゃないか…。
そこまで言って、男は、不機嫌そうに舌打ちをした。
 
 「新技術ニ失敗ハ付キ物ダ。オカゲデ、コピー共ガ灰ニナッタゾ」

その舌打ちを聞いたのか。
 機械音を合成したような、少し間抜けな声が、実験室に響いた。
 わかってるさ。このプログラムも、まだまだ見直しが必要だなぁ。
男は頭を抱えるようにしてから、面倒そうに返事を返す。

 「抵抗されたのかい?」

 「イヤ、違ウ。洗脳ヲ施シテスグノ話ダ。洗脳ニ抗オウトシタ♀が、苦シ紛レニ放ッタ炎ニ焼カレタ」

「ああ…。確かに、見た感じだと効果が現れるまでに時間が掛かったみたいだねぇ」

しかし、苦し紛れでこの火力か。…今回は君にも、ご苦労さん、と言うべきかねぇ。
男はモニターを見ながら、響く機械音に答える。
 それから、視線を不死鳥から、白い着流しを着た妖怪へと移す。
 
「この白い方も、大分強いな…。候補に入れるか…」

ごぽごぽ。試験管の中に満たされた薄青い液体の中を、気泡が登っていく。

「任務ヲ失敗シタ我輩ハ、コレカラドウスレバ良イ」

「そうだな…。捕獲任務にあたってる機体も何体か居るからねぇ」

少しの間。
ごぽごぽ、と、水音が不気味に響いた。

「君は一度帰還してくれるかい? 洗脳術に関するプログラムを修正するよ」

「我輩ト同ジプログラムヲ搭載シテイルナラバ、全機体ヲ帰還サスベキデハ…」

「出来るならそうしたいけど、まともに通信が繋がるのが君だけなんだよ」

男の声に、苛立ちよりも、疲れと呆れが混じり、一種の諦観を感じさせる。
洗脳術に関するプログラムよりも、人格プログラムに問題があるなぁ。

はぁ~、と溜息を吐いて、男はモニターに表示された数値を睨んでから、ぼりぼりと頭を掻いた。

アレは無駄遣いしたくないし、やっぱり今はKシリーズで様子見かな…。

呟いて、男は一つの大型試験管の前に移動する。
そして、その中に佇む、彼の最高傑作を眺めて、唇を歪めた。

「君は割りと素直だね。気に入ったよ。早く帰ってくると良い。序に、メンテナンスもしたげるからさ」

男はそう言って、通信を切った。
戦闘データの収集は、少しずつで良い。
Kシリーズなど、いくら壊れても問題無い。
プランは前途多難だが、急いでも仕方無い。
新たな技術を使いこなすには、やはり失敗と時間が必要だ。

バックヤードへの侵攻は停滞、新次元での捕獲任務も芳しく無い…か。

呟いた男は、楽しそうな笑みを浮かべた。
 そう。これで良い。これで良いんだ。
 寧ろ順調だ。緩慢ではあるが、確実に事態は進行している。

 こういうのは、じっくりといかないとねぇ。
 試験管の中に語りかけるかのように呟いた男の声は、酷く楽しげだった。
その貌も、これから楽しみにしていたパズルに挑戦するかのような、そんな表情だった。
ごぽごぽ。
その男に答えるかのように、試験管の中に満たされた液体が微かに震えた。








「こんなつもりじゃあ、無かったんだがな…」

永遠亭の広間に並べられた数え切れぬ膳と、その上に載せられたツマミと酒。
それらを前にして座り、妹紅は呟く。

これじゃ、侘びにならない。それに、私は此処に居ない方が良いんじゃないか。
声に出そうになる何度目かになる自問。

周りを見渡せば、飲み屋での打ち上げ状態。
今の永遠亭の広間には普段の静かな趣は既に無く、最早、何処ぞの宴会会場のような有様になっている。
縦長の□の字状に並んだ膳の上座に座り、輝夜は鈴仙に酌をさせ、永琳はその傍でゆっくりと杯を傾けている。

てゐの方の姿は見えないが、どうせまた碌でもないことを企んでいるのだろう。
その他の兎達はと言えば、せわしく動き回り料理や酒を運ぶ者、また宴会に混ざり、酔っ払っている者など、様々である。

ただ、イズナの姿も見えない。
さっきまで兎達に絡まれてたのにな。
イズナは永遠亭の兎達に慕われているようで、イズナが無事だったことに、皆飛び跳ねて喜んでいた。

 良い奴そうだもんな、あいつ。
 妹紅は先程のイズナの真摯な態度を思い出し、小さく呟いた。

そして、もう一度周りを見渡してみても、やはりイズナの姿は見えない。
キョロキョロしていると、酒か何かを探しているのかと勘違いされたようで、徳利を運んでいた兎がこちらに寄って来た。

「いや酒じゃないんだが、せっかくだ…貰うよ、すまないね」

妹紅は徳利とお猪口を受け取ったが、飲む気にはなればかった。
 イズナの快復祝いならば、尚更だ。
怪我をさせた張本人が、のうのうと酒を飲んでいるなど間違っている。

ただ、事情を知っている兎達は、妹紅のことを気にしている風では無い。
寧ろ兎達にとっては、錯乱状態になった妹紅を静めたイズナに対する関心の方が、かなり強かった。
それに、何だかんだで永遠亭と付き合いの長い妹紅のことも、兎達は気に掛けていたようだ。

妹紅さんも、大丈夫でしたか。
妹紅さん、もう具合の悪いところはありまさんか。

などと、兎達も気遣いの言葉を掛けてくれるほど。
 その言葉は、妹紅にとっては、とても暖かく感じられた。

 だが、居心地があまり良くないのも確かだった。
 宴の喧騒が、酷く遠い。
もう十分だ。そろそろ帰ろう。そう思い、妹紅が腰を浮かしかけた時。

「そんなしかめっ面じゃ、せっかくの別嬪が台無しだで」

妹紅のすぐ後ろから、緊張感の無い男の声が掛けられた。
妹紅が振り返ると、奇妙な訛り方をしたその声の主が、白い狐耳を揺らしながら笑顔を浮かべていた。

その両手には、徳利が一つずつ。

「今ちょっとびっくりしたぞ…零すかと思った」

少しだけ恨みがましそうに眼を細めて、妹紅は唇を歪める。
そして、その両手に持った徳利に視線を移した。

「酒でも貰ってきてたのか? 兎達に頼めばいいじゃないか」

「そりゃそうなんだけども…。まぁ、ついでに裏方の手伝いもちょいとね」

イズナは言って、妹紅の横に腰を下ろす。
そして、どっこいしょ、と年寄り臭い仕草で胡坐をかいてから、持っていたお猪口に酒を注いだ。

その様子を傍から見ていた妹紅は、可笑しそうに笑う。

「ホント、傍から見てたらただのおっさんだな」

「そりゃあ、おっさんだもの」

イズナはとぼけたように言うと、お猪口を口に運ぶ。
平和ボケしたような今の顔と、戦っているときの鋭い眼。
曖昧な記憶でしかないが、あのイズナの眼は、流石に覚えている

直接刃を交えたことのある妹紅だからこそ、その落差の大きさに薄ら寒いもの感じた。

「それは昼行灯の振りかい?」

「こっちがオイの地だで。喧嘩は趣味じゃないんよねぇ」

「妹紅と渡り合う癖に、よく言うわ」

イズナと妹紅の背後から、更に声が聞こえた。
二人はゆっくりと振り返る。イズナはのほほんとした顔で、妹紅は少しだけ不味そうな顔で。

そこにいるだろう人物を思えば、妹紅の表情が曇るのも無理は無かった。
凛とした声を響かせて、その声の主は艶やかな笑みを浮かべていた。

「楽しそうね。私も混ぜて頂戴」

その妖艶な微笑を、少女のような笑みに変えて、輝夜はイズナの隣に腰掛けた。
高貴な者が纏う品格と、酒で赤らんだ頬とのミスマッチが、色っぽさを醸し出している。
今まで酌をさせていた永琳も連れて来ており、輝夜のすぐ傍で酒瓶を持った永琳が困ったような笑顔でこちらを見ていた。

あの酒瓶の意味する所は、此処で飲む気満々ということだろう。

「そりゃ構わないさ。永遠亭の宴だ。私が断る権利は無い」

「ふふ」

つっけんどんな妹紅の返答にも嬉しそうに笑って、輝夜は永琳から酒瓶を受け取る。
そして、イズナと妹紅の杯に酒を注いだ。

妹紅は少しだけ表情を曇らせたが、輝夜は「良いから飲みなさい」と無理矢理にお猪口を持たせた。

輝夜の杯には永琳が酌をする。
それを見ていたイズナは、一人の兎を呼び止めると一つお猪口を貰い、それを永琳に手渡した。

「先生、今日もお疲れさん」

そのついでに永琳の手から酒瓶を受け取り、永琳に酌をする為に酒瓶を傾けた。
永琳は断ろうとしたようだが、それよりも先に輝夜が頷いた。
あなたも飲みなさい、というサインだろう。
永琳は輝夜に頷いてから、両手でお猪口を受け取る。

「ありがとう。頂くわ」

全員の杯に酒が注がれ、四人は小さく乾杯をする。
正面から見て、永琳、輝夜、イズナ、妹紅の順で並んでいる。
美女の間におっさんがいるという配置は、イズナ自身、微妙に落ちつかない。

こりゃ傍から見たら、浮きまくってるんじゃなかねぇ。

そんな風に、若干の居心地の悪さを感じつつ、イズナが杯を傾けていると強い視線を感じた。

イズナがその視線を感じた方へ顔を向けると、鈴仙が酒瓶や徳利を運びながら、微妙な表情でこちらを見ていた。

「場違いなのは、自分でもよくわかっとるよい」

小声で呟いたイズナに、くすくすと笑ったのは輝夜だった。

「ほんと、あなたは色んな顔を持ってるのね」

輝夜は、微笑みを浮かべたままイズナの顔を覗きこむ。

妹紅もその様子を横目で見ながら、頷いた。

「飄々としてる、っつーのかね」

「それ、胡散臭い、ってこと?」

イズナは以外そうな顔で輝夜と妹紅の顔を順に見た。

「掴み所がない、ということよ。まぁでも、のほほんとした感じが素のように見えるけれど」

永琳はイズナの反応を楽しむように、ゆっくりと杯を傾けながらこちらを眺めている。

「私にもそう見えるわ。兎達の相手をしている時なんて、特にね」

「そういや宴会が始まる前まで、『イズナのおいちゃん』とか呼ばれて、随分懐かれてるみたいだったな」

輝夜の言葉に小さく笑ってから、妹紅は瞳を閉じる。

「人の良さそうで、闘争なんかとは無縁そうに見えるクセに…
いざ刀を抜いたら、途端に眼つきが変わりやがる。まったく、猫を被ってるつもりなら大分質が悪い」

「本当ね…。不死すら取り除くなんて、不思議な力を持っているなら…早く言ってくれれば良いのに」

そう呟いた輝夜の声音は、疲れたようでいて、嬉しそうでもある。

その言葉には、どんな思いが込められているのか。
永琳は労わるような眼になり、輝夜の杯に酒を注いだ。

妹紅の不死とは、つまりは「変化の拒絶」である。蓬莱人の超再生や治癒、不老不死とは、身体が傷つき、老い、壊れるという変化を拒絶した結果だ。
故に、その「変化」に該当しない「疲労」や「痛み」は通常の人間同様に、蓬莱人も感じるものである。
そして、「変化の拒絶」とは、生物の能力としての再生、治癒の力では無い。
この「拒絶」が無くなれば、蓬莱人もただの人間と変わりない。
蓬莱の薬、その効能である「拒絶」の消滅。
それを聞いた輝夜は、遠くを見るような眼と静かな声で「そう…」と答えただけだった。


妹紅は、少しだけ顔を顰める。
イズナが見せたあの力の事を、輝夜に話してしまったことが今になって失敗したと思った。
今の輝夜の表情が、あのときと同じ表情だったからだ。


それが嫌だった。
何でそんな。
やっと死ねるみたいな。
そんなカオしてるんだよ。

「下らないことは考えるなよ。輝夜。
生き疲れたからって、そんなドロップアウトは許さないからな」

自分は今、どんな表情をしているのだろう。
妹紅は杯に目を落としたまま、ぼそりと言う。
イズナが訝しそうな顔でこちらを見ているのが分かった。
少し離れているので、永琳と輝夜がどんな顔をしているのかは見えなかった。

「…分かっているわよ」

輝夜の声は、少し沈んでいた。永琳も伏目がちで黙ったままだ。

騒がしい宴会の中で、そこだけ切り取られたような沈黙が続き、妹紅はボリボリと頭を掻いた。

「っと、妙な空気にしちまったな。悪い」

「んにゃ、そんなこと無かよ。大事なことなんでしょ?」

イズナは柔らかく言い、輝夜と妹紅の杯に順に酒を注いだ。

「まぁ、なんとなくオイが関係してるみたいだから言うけど、オイは臆病者さ。
戦って勝ち誇るより、逃げ回って遣り過ごして、隠れてたいんよ」

それから、少し腕を伸ばして、イズナは永琳の杯にも酒を注ぐ。

「でも、友達の為なら戦うし、見捨てたりなんか絶対せんよ。
無茶なお願いされても聞いちゃうかもしんねぇね」

 今日みたいな事になっても、そりゃ頑張るさ。
そこまで言って、イズナは自分の杯にも酒を注いだ。

「皆で『良かったね』を共有できんなら、ね」

ゆっくりと言ってから、イズナは輝夜に片目を瞑って見せた。
それは器用なウィンクでは無かったが、不思議な魅力があった。
それを向けられていた輝夜は、意表を突かれたような顔で頬を染めた。
そして、溜息をつくようにして笑みを浮かべ杯に視線を落としてから、まだ未練がある、というような視線をイズナに向けて、「あ~ぁ」と天井を仰いだ。

「鈍いように見えて、鋭いのね。…素直に聞いてくれるとも思ってないけど、そう言われると凄くお願いし辛いわ」
 
やっぱりそのつもりだったのか。妹紅は寂しそうに目を伏せる。
永遠を生きるということ。それは、地獄の親戚だ。
だが、その中にあっても、妹紅は孤独では無かった。

輝夜という存在があった。

永琳という存在があった。

それが例え、殺しあうような仲であったとしても、妹紅の心の支えになっていなかったと言えば嘘になる。

だからこそ、輝夜が、「死ぬ」手段としてイズナの力に眼をつけていたであろう事が、やるせない。妹紅は項垂れたまま、瞳を伏せた。

「まったく。我侭なお姫様だ。自分勝手な考え…!?」

ふわりと。
心地よい重みと温もりが、妹紅の肩に乗ってきた。
振り返ると、輝夜が後ろから抱きつき、伸し掛かって来ていた。

「おま…! 離れろよ気色悪ぃ!」

「くすくす。照れなくても良いでしょ」

輝夜は色っぽい表情で、ふぅー、と暴れようとする妹紅の耳たぶに息を吹きかける。

「ふぁ…!? や、やめろ!」

「顔が真っ赤よぉ。ふふ、愛い奴よのぉ」

じゃれあう二人を横目でみながら、イズナは娘を見守る父親のような表情で杯を傾ける。

「…悪いわね。姫様が変なこと言っちゃって」

「何も言われてにゃあよ。ただ『オイは、皆が良ければそれで良い』って言っただけでさぁ」

「ふふ、じゃあそういう事にしておくわ」

永琳はイズナの傍に移動して、その隣に腰掛ける。逆に、イズナはびっくりしたように腰を浮かしかけた。

「…そんな反応されると、少し傷付くわ」

「いや、すんまそん…。永琳先生みたいな美人に急に近くに来られると、どうもねぇ」

どうだか、と笑いながら、永琳は笑う。

「こんな年寄りに世辞を言っても、出来るのは酌くらいのものよ」

年寄り、というその言葉に、深いニュアンスがあるように感じた。
永淋は僅かに顔を伏せながら、小さく笑う。
その笑顔は沈んでいて、泣き顔みたいだった。

「まぁ…長いこと生きてると、そんな気分になることもあるさね」

イズナは気にした風もなく、永淋に笑ってみせる。
その笑顔はいつも通りの、優しく、人の良さそうな笑みだった。
永淋はふっ、と息をつくと妹紅とじゃれあう輝夜へと視線を向ける。

「そうね。…そんな気分になる時も…あるものよね」

永淋は小さく零した。悲しそうな瞳と、笑顔の形に歪んだ唇。

だが、瞳は全然笑えていない。
イズナはそんな永淋の表情を見守りながら、杯を傾ける。

「姫様達を、「友」と呼んでくれる貴方にお願いするわ。元の世界に帰ったとしても、一度でもいいから…また遊びに来て頂戴」

周りが喧騒の中での小さな声だったが、その永淋の声はよく通った。
その悲しそうな瞳は、以前として輝夜と妹紅に向いている。

そして、何かを決意すかのように小さく、ゆっくりと頷いた。

「…姫様と私、そして妹紅も…時の外を生きる者なの。
永い時間を生きなければならない…。今までも、これからもね」
 
大切な何かを思い出すように瞳を細めてから、永淋は瞳を閉じる。

「何時かは…この永遠亭も、私と姫様だけになってしまう時が来る。だから」

そこまで言って、永淋はイズナへと微笑みを浮かべる。

「姫様の良き友として、また顔を見せに来て貰えるかしら」

わが子を想う母親のようなその表情と、真摯なその言葉にイズナは少々驚いたようだったが、すぐににんまりと笑うと、永淋の杯に酒を注いだ。

「そりゃ願っても無いお誘いだねぇ。いいのかい、先生? そんな事言っちまって。 
オイは甲斐性無しだぎゃあ、入り浸っちまうかもだすよ」

 
「ふふ…それは困ったわね。せめて、此処の手伝い位はしてもらわないと」

イズナの冗談めかした言葉に、永淋も笑みを零しながら杯を傾ける。

「まぁ、オイもまだまだ長生きしそうな感じだし、一度といわず、何度も遊びに来さして貰うきに。そうなると、こりゃ帰り際に紫ちゃんに話付けとかないといかんねぇ」

もしも紫がイズナ達の元の世界を見つけたならば、彼女の持つ境界を操る能力を用いて、元の世界から幻想郷への行き来は可能だろう。

なら、行き来が出来る人物である紫に、元の世界でも会えるようにアポを取っておけば、幻想郷へ連れて来て貰うことも可能なはず。
 
イズナが年寄りのように顎を手でわしわしと撫でていると、視界の端で何かがピカッと光った。その光は赤く、炎に似ていた。

「ぬあちっ!?」

というか、炎だった。一瞬だけだったが、ぼう、と炎が燃え上がったのだ。

イズナは反射的に飛び上がり、後ろに身を引いた。「いだっ!?」そして、柱に頭をぶつけた。
永淋はというと、ひらりと身をかわしながら飛び退り、既にイズナの隣に立っていた。

妹紅の方を見ると、背中の方から火の粉が舞っていた。 
輝夜はその火の粉を間近くで浴びながら、楽しそうに笑っている。いや、違う。

火の粉が輝夜にだけ降りかかっていない。
火の粉がまるで輝夜を避けるようにして降っている。
ただ、その様子に驚いているのはイズナだけのようで、他の面々は、やれやれまたか、といったような表情である。

「い、いい、いい加減にしろよ輝夜! 女同士だからって、やって良い事と、わ、悪い事があるだろうが!?」

顔を真っ赤にしながら妹紅は立ち上がると、輝夜を睨みつける。
だが、恥ずかしがっているせいか、その眼光にもイマイチ迫力がない。

「赤くなっちゃって…妹紅ったら凄く可愛いわねぇ」

輝夜の方は色っぽい表情で、くすくすと笑う。妹をからかうような、そんな風情だ。

妹紅はくっそ、と呟いて、何かを諦めるように脱力すると、どっかりと座り込む。
舞い上がっていた火の粉もパタリと止み、その代わりに妹紅は徳利を引っつかみ、そのままラッパ飲みを始めた。

「ちょ、ちょいとモコやん。そんな飲み方したら体に毒だで」

屋内での弾幕戦が未然に終わり、ほっとしながらイズナは妹紅に声を掛ける。
だが、妹紅の方はイズナを一瞥すると、また徳利の中身を浴びるように傾けた。

「酔っ払いには何を言っても無駄だからな…。こっちも酔わなきゃ対抗できない」

輝夜をジト目で見ながら、妹紅は鼻を鳴らす。

「誰が酔っ払いよぉ? 私は全然…」

「はいはい姫様…絡み酒はその辺りで止めておきましょう。また永遠亭が半壊する騒ぎになったのは、お酒が入った姫様だったのをお忘れですか?」

見かねた永淋が輝夜の肩にそっとふれた。

輝夜は唇を尖らせると、何かに気づいたように周りを見回した。

「あら…? そういえば鈴仙は? さっきまでは居たのに…」

「てゐの姿も見えませんから、恐らく探しに行ったのでしょう。妙な悪戯をされては構いませんし…」

悪戯の標的になるのは、大抵は鈴仙である。
そのことをよく知っている輝夜は、ああ、と頷いた。

「悪戯の一つや二つ、宴会の時くらい甘んじて受けてあげればいいのに」

「姫様、前にてゐの落とし穴に引っかかった時、相当お怒りでしたよね」

自分のことを棚にあげ、調子の良いことを言う輝夜に、永淋はため息を吐く。そのため息にも、輝夜は少女のようにあどけない笑みを返した。

永淋も大変だな。
呟いた妹紅は空になった徳利を膳の上に置き、新しい徳利を掴んでいた。どうやらこのまま突っ走る気らしい。

そんな妹紅を見詰めながら輝夜は、また、ふふ、と笑う。
なんだよ…。妹紅は、その視線に気付き、不機嫌そうに言う。

「やっと貴女もいつも通りになったわね。沈んだ顔は、貴女の可愛い顔に似合わないわよ」

「…うるせー」

その二人のやり取りを見ながら、イズナと永淋は微笑み合う。

 その日の永遠亭の宴は、結局、朝まで続くことになる。
 
永遠の中のほんの一瞬。
しかし、その時間は、楽しく、また掛け替えの無い大切な思い出として、輝夜達の記憶に、深く刻まれた時間だった。




[18231] 十六話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:31
疲れた。
多分、今日は24時間以上働いた。勿論、体感時間ではあるが。

紅魔館で用意された自室で、アクセルはスーツを着たままベッドに倒れこんだ。
どこの部屋も高級そうな家具が揃っているので、アクセルとしては落ちつく雰囲気の部屋では無かったのだが、疲労しているのならば話は別だ。
落ち着こうが落ち着かまいが、身体が休息を求めてくることに変わりは無い。

何せ、今日は一日中、咲夜がしている仕事の手伝いだった。
時間が止まった中で掃除、洗濯、炊事、etc。
ドリンク剤でも欲しい気分で、アクセルは、ぐぁああ~…と、寝転がったまま呻いた。

今日のように、紅魔館での仕事を手伝う、というのはアクセルから言い出したことだった。

レミリアとしては客としてアクセルを迎えるつもりだったのだろう。
だが、アクセルにしても、ただじっとしているというのも、居心地の悪いものである。
それ故に、手伝いを始めたアクセルだったのだが、これが想像以上にきつかった。

止まってる時間の中で働くのって、労働基準法上どうなんだろうね。
そんな下らないことを考えながら、アクセルは寝返りを打ち、身体を仰向けにさせる。

そして、瞳を閉じながら、ふぅ、と一息吐く。
屋敷の管理している咲夜さんには頭が上がんないね。ほんと。

呟いたアクセルは、黙々と仕事をこなすメイドのスレンダーな後ろ姿を思い出す。

この紅魔館で、咲夜の手伝いをして分かったことも多い。
紅魔館には咲夜以外にも妖精のメイド達がそれなりにいる。
だが、それでも仕事の量が多すぎて追いついていない。
何せ、この屋敷は広い。
おまけに、物が良く壊れる。
そして、主であるお嬢様も我が侭。加えて、その妹もやんちゃ盛り。

そんな中で、家事に建築物の修繕、メイド教育などを行う咲夜には、アクセルも尊敬の念を抱かざるを得ない。

しかし、働き者で、出来る女でもある咲夜にも、当然疲労は溜まる。
彼女にしてみても、仕事が捗るにこしたことは無い。

だからだろう。
頻繁にアクセルに「手伝い」という名の停止時間内労働を要求するようになりつつあった。
最初の頃のアクセルの仕事と言えば、美鈴と共に門番をしたり、庭の花壇の手入れ、お嬢様達の遊び相手など、かなり穏やかなものだった。
だが、咲夜さんの手伝いをするようになってからは、いつナイフが飛んで来るかに怯える毎日である。

まぁ、サボったら飯抜き、って言われたら…頑張るしか無いんだけどねぇ。

そんなことを考えながら、アクセルは瞳を閉じる。
今日もお疲れ、俺。
心地良いベッドの柔らかさと、一仕事終えた満足感とで、眠気がアクセル瞼を重くさせる。

睡眠に入る一歩手前のまどろみの中で、元の時代に残して来た仲間達と、ある女性の後姿が脳裏に浮かんだ。

会いてぇなぁ。
皆にも。アイツにも。

紫の姉御、早く俺達の世界を見つけてくれねぇかな。
 まぁ、今の騒ぎが収まってからになるだろうけど。
 
紅魔館が嫌い、という訳では勿論無い。
アクセルにとっては、見慣れぬ地で過ごすことなど苦にはならない。
今までだってそうだったからだ。
野宿に徹夜は当たり前、休まることも無い時もあった。
ただ、流石に“異世界”というのは、郷愁の念を起こすに十分な要素である。
ホームシック。
久しぶりにブルーだぜ。
 豪奢な部屋と、其処に一人で寝転んでいるせいで、余計だろうか。
 
 駄目だ。考えてもしょうがない。
 落ち込んだところで、どうしようもないことだ。
 アクセルは気持ちを切り替えようと、寝ていた体を起こそうとした時だった。
 
どこか不穏な空気が、部屋を包んだ。

ギシ。
ベッドが軋む。
アクセルは寝転がったまま片目を瞑り、もう片方の眼を細めドアへと向けた。 
世界が色を失っていくような感覚が、アクセルを包む。
 その感覚は、既に慣れた感覚だった。
 
部屋の外で、微かな足音が鳴った。
忍ばせるような、音を殺すかのような静かな靴音。
 それは聞こえた、というよりは、アクセルにとっては感じた、と言った方が正しい。

「ま~だ起きてますよ」

間延びした声で言いながら、アクセルは身体をベッドから起こした。
そして、寝転んだ時に付いたスーツの皺や乱れを正す。
そのタイミングを計ったかのように、部屋のドアが開かれた。
 アクセルは苦笑を浮かべながら、立ち上がる。

「普通に来てくれると嬉しいんだけどなぁ。暗殺しに来たんじゃ無いんだから」

 ドアを開けた人物は、蒼色のメイド衣装を纏い、冷たい瞳をアクセルに向けていた。

「ノックの代わりです。そのように身構えれると、こちらとしても心外です」

物騒な冗談にくすりともせず、咲夜はドアを静かに閉める。
それと同時に、世界に色が帰ってくる。
 
身構えるって、そりゃ。
時間を停めてから、部屋へ入ってくるなんて。
 恐ろしいノックもあったものだ。
アクセルはポリポリと人差し指で頬を掻いて、参ったように笑う。
 そこで気付いた。

ん? 咲夜さんの持ってるアレは、もしや…。

咲夜の片手には大きめの盆。
その上に乗っているのは湯気を上げるピラフとポット、そしてカップが二つ。鼻腔を擽るいい香りがアクセルに届く。

「今日はお疲れ様です。…こちらが、アクセル様の夕飯となります」

流石に、お嬢様と同じものをお持ちするわけには行きませんので。
そう言って、部屋に備え付けらている、質素だが上品な木製の丸テーブルに盆を置いてくれた。
お嬢様と同じもの。恐らくそれは、血液など用いた吸血鬼用のメニューなのだろう。

アクセルとしても、いくら豪勢であっても、そんなものは御免である。
そんなことよりもだ。
アクセルは、一人用であろう小さなテーブルの上に視線を落とす。
其処には、輝く晩飯。

すげぇ良い匂いだ。
ぐぅぅ、とアクセルの腹が鳴った。
そして、まるで吸い寄せられるかのようにテーブルまで移動し、ピラフの前に座る。
 
「こりゃありがてぇ! 頂きます!」

アクセルは拝むように手を合わせると、スプーンを手に取り、ガツガツとピラフを貪った。
旨い。
旨すぎる。
 もっしゃもっしゃと口一杯に頬張り、味わう。
 
 「そんなに慌てなくても、夕食は逃げませんよ」
 
 その様子を見ていた咲夜は、微かに口元に笑みを浮かべた。
 気持ちの良い食べっぷりに、冷たい瞳がふっと柔らかく細められた。

 殿方に何か食事を作ったりするのは、彼が初めてね…。
 
咲夜は、ふと思いながら、アクセルが食べる様子を眺める。
 凄く美味しそうに、夢中になって食べる様はまるで少年のようでもある。
 余りに美味しそうに食べるので、咲夜も、何だか嬉しくなってきた。不思議な気分だった。

おかわり、御作りしましょうか?
 咲夜が、アクセルにそう聞こうとした時だった。
 うめぇ、と呟いたアクセルは、突然、ぼろぼろと涙を流し始めた。

「えっ!? 何故泣いて…!? お口に合いませんでしたか!?」

びっくりした表情で、慌てた咲夜がアクセルを覗き込んだ。
アクセルは涙を流しながら、無言で首を振った。

「ち、違うんだ咲夜さん…このピラフが美味すぎて…。
俺、今日の昼飯、お嬢様特製オムライスだったから…つい、感動しちゃって…」

 咲夜の顔が引き攣った。
 それから、視線を彷徨わせてから、どこかぎこちない動きで、ポットを手に取った。

「ぉ――…お茶を…お入れします」

言葉に出来ない何かを飲み込むようにして、咲夜は代わりの言葉を紡ぐ。
気まずそうに視線をそらすと、カップにポットの中身を注いでくれた。

ちなみに、お嬢様特製オムライスというのは、炒めすぎて炭と化したご飯、そこに、生野菜を刻んで混ぜ、最後に生卵をかき混ぜたものをかけて出来上がった至高の一品だった。

 アクセルはその味を思い出して、胸が焼けるのを感じた。
あれを食べろと言われた時は『レミリアちゃんは俺のことが嫌いなのかもしれない』、とアクセルは本気で思った。
だが、いざレミリアの期待を込めた瞳で見上げられたら、食べざるを得ないし、美味しいと言わざるを得なかった。

今日の特性オムライスは、フランがレミリアに、「お姉さまって料理出来るの?」と、聞いた事が始まりだった。
 顔を強張らせながら、「よ、余裕よ、そんなもの。簡単じゃない?」と強がるレミリアの姿が印象に残っている。
それ位なら、妹に背伸びしている姉、みたいな感じで微笑ましくもあるのだが、その為の味見役がアクセルだったのだ。
味の追求の前に、レシピと手順と火加減を覚えるべきだと思う。
あれは料理じゃない。
味覚の暴力だった。

泣きながらピラフを食べつつそんなことを考えていると、咲夜がアクセルの向かいの椅子に座った。
 
「ま、まぁ、お嬢様の料理は独創的ですから…」

必死にフォローする辺り、流石は従者。
しかし、その表情は相変わらず気まずそうだった。
そりゃあ、あの料理達は独創的って言葉でカバー出来る範囲を軽くK点越えしてるのだから仕方無い。

咲夜は自身のカップにもポットの中身を注ぎ、溜息をついた。
ポットの中身は紅茶のようだ。薄く紅い液体が、湯気を立てている。
アクセルでは馴染まない、この高級感漂うこの部屋の雰囲気も、咲夜にはとてもよく似合う。

銀糸のような髪に、白い肌。
冷たい瞳も、近寄りがたい高貴さを湛えているからだろうか。
椅子に静かに腰掛け、アクセルに視線を向けた咲夜は、…ご苦労様です、と呟いた。
その表情は苦笑とも、疲れともとれない、微妙な表情だった。

「アクセル様のおかげで、お嬢様達も退屈を凌げていますし、私達の仕事もスムーズになりました」

家事を任せられるアクセルが居る為、その分の時間をメイドの教育や買い物に割くことが出来るのは大きい。 
 確かに妖精メイド達だけでは、家事は心元無い。
 下手をすれば、仕事がふえかねない。
咲夜さんは、ほっと一息つくように瞳を閉じる。
 
「そう言ってくれたら、頑張った甲斐もあるってもんさ」

ピラフの最後の一口をスプーンで掻きこみ、アクセルは紅茶の揺れるカップへと手を伸ばす。
 紅茶を一口飲んで、アクセルも、ふぅ…、と溜息を吐く。
 そして、座ったまま、ぐいっと伸びをして、シャツの首元のボタンを外し、緩める。
 その仕草に、咲夜はドキリとした。
 男性に目の前でリラックスされる、というのも、咲夜にとっては初めてだった。
アクセルのはだけた首元からは、逞しくもしなやかな胸筋が微かに覗いている。

 男性の色気、というのだろうか。
 健康的で男らしい魅力に、咲夜はほんの数秒、アクセルの胸元を見詰めてしまう。
 
 「ん…?」そしてアクセルと眼が合った。
 はっとして、慌てて咲夜は紅茶へと視線を落とした。
 咲夜の頬が、微かに朱に染まる。
 「どうしたんだい?」と、少し心配そうな声。
 今度はアクセルが、咲夜の顔を覗き込んだ。
 
 ひゅん、と音がした。
 おほっ!? と、アクセルは奇妙な声を上げ、仰け反った。
 咲夜がナイフを振るったからだ。
 勿論、刃を潰したお仕置き用のナイフだ。
 だが、それで打たれれば相当痛いのは間違いない。

 何でも…ありません。
 視線を逸らしながら答える咲夜を見ながら、アクセルは顔を顰める。

 何でも無いなら、何でナイフで攻撃されたのよ、俺。
 呟いたアクセルは、カップを手に取り、少しだけ笑って見せた。

「疲れてるんなら、時間止めて休憩してったらどうだい?」

 そのアクセルの笑顔に、咲夜も微かに笑みを浮かべた。
 普段、咲夜の瞳に宿っている冷たさが、純粋な美しさに変わる。
 
 「では、お言葉に甘えて…。とはいえ、もう既に、休ませて貰っていますが」

 咲夜は言って、手に持ったカップを揺らして見せた。
 アクセルは、そっか、なら良いんだ、と笑う。
 
 不思議な人だ。咲夜はそのアクセルの笑顔を見ながら思う。
 
 美鈴と共に門番をしていたときには、チルノ達の良い遊び相手のお兄さん。
大図書館では、パチュリーの時間に関する魔法研究の為の協力者。
お嬢様達の前では、ある程度の礼節を持った、“時を廻る者”。

咲夜は、紅魔館に来てからのアクセルしか知らない。
 それでも、このアクセルという人物が、様々な顔を持っていることは分かった。

そして、初めて会った時に見せた、只ならぬ威圧感。

 今、咲夜の前で紅茶を飲みつつ、にっしっしと笑うアクセルは、三枚目のお調子者だ。
 それが自然で、よく似合っている。
 だがその癖、酷く嘘っぽく見える時がある。
 仮面を被っているような、演じているような、そんな不自然さを感じる時があった。
 
 一つお聞きしても宜しいでしょうか?
 咲夜の言葉に、アクセルは、なんだい、と軽い調子で答えた。
 好きな女の子のタイプかい? そりゃ勿論、ぼん、きゅっ、ぼん、な…。
 聞いていないことを答え出したアクセルに、違いますよ、と若干冷たい声で言って、一口紅茶を啜る。

「アクセル様は、どれ程の時間を過ごされて来たのですか?」

 私も、『時間』というものには浅からぬ縁がありますので、気になりまして。
咲夜の言葉が予想外だったのか。
アクセルの表情から、お調子者っぽい感じが抜け、一瞬だけ眼が据わった。
それから、苦笑するように肩を揺らして、「いやぁ、覚えて無いな…」とアクセルは呟いた。
タイムスリップしてると、その辺が曖昧でさ。
少しだけ顔を顰めたアクセルは、紅茶を飲むことでごまかすようにして答える。

 「覚えていない、という事は、随分長い時間を彷徨われたのですか?」

 「まぁ、ね。多分、結構な時間…漂流してんじゃないかなぁ」

タイムスリップしてるから、長い時間、ていうのも、正しい表現かどうかはわからないけどねぇ。

何かを思い出すように表情を苦く歪ませて、アクセルは紅茶を一気に飲み干した。
 アクセルの向かいに座る咲夜もまた、紅茶を飲み終わったようだ。
 ことりと静かにカップを置いて、彷徨った時間が、アクセル様を鍛え上げた訳ですね、と、咲夜は瞳を閉じて言葉を紡ぐ。
 
アクセルは、レミリアやフランに面白い話をせがまれることが多い。
そこで話をするのは、やはり自身が経験してきた事だ。
事実は小説よりも奇なり。
アクセルの話は面白く、また可笑しく、そして本人にとっては笑えない内容だった。

「まぁ、ね。会う奴皆強かったから…勝手に鍛えられたよ」

肩をすくめながら言うアクセルに、咲夜はくすりと笑う。

「では、昨日お嬢様にお話になられていたスレイヤー、という方も、その“皆”に入るのですね」

「スレイヤーの旦那は…強いねぇ、ありゃ」

アクセルは昨日、レミリア達にせがまれ、彼女達と吸血鬼であるスレイヤーの話をしたのだった。

素手で岩を砕き、次元を渡り、夜の空を往く者。
 ソルと戦い、決着が着かない怪物。
 貴なる異種。

 その他世界の同族の話に、レミリアは興味津々だった。
 刺激に飢え、アクセルを傍に置いたレミリアにとっても、この話は良い退屈凌ぎを思いつかせた。
 
 なら、私がソルを倒せば、そのスレイヤーという吸血鬼よりも強い、という事が同時に証明される訳ね。
 
 レミリアは幼くも威厳のある声で、楽しそうにアクセルにそう言った。
 そしてかなり急なことに、明日、ソルを招くパーティーを開く、というのだ。
 我慢をすることを嫌うレミリアは、今日一日でその準備をしておくように、咲夜に命じた。 
今日のアクセルの激疲れ、その原因でもある。
 しかし、咲夜にとっては、レミリアのそんな突飛な我が侭も、慣れたものなのだろう。
 かしこまりました、と恭しく頭を下げる咲夜に、マジで!? と驚いたのをアクセルは思い出す。
 そして、レミリアの我が侭を思いつかせたのが自分であることも同時に思い出した。
 
 咲夜さんに任せっきりってのも、後味が悪ぃよな。
アクセルは一つ息を吐くと、おし、と気合を入れて立ち上がった。
 怪訝そうに、どうしたんですか…? と呟く咲夜に視線を向け、アクセルは歯を覗かせて笑う。

 「いや、一息つくってことは、まだ仕事残ってるんでしょ? 手伝うよ」

 美味い晩飯も食わせてもらったしねぇ。
 そう言って、嫌味の無い笑みを浮かべて言うアクセルに、咲夜は瞳を軽く閉じて呟いた。

 「では…お願いできますか」
 
 冷たくも、しかし柔らかな声音で言って、咲夜は椅子から立ち上がる。
 
 「了解。ん、それにしても…」

 アクセルは、皿やポット、カップを盆に乗せる咲夜を見ながら、うぅん、と呻る。
 何ですか、人の身体をじろじろと見て…。
いや、咲夜さん、笑うと可愛いねぇ。
 咲夜は、危うく盆に乗せたカップを落としそうになって、慌てて時を止めた。
 何を…い、言い出すかと思えば…止めてください。
小さな声で言いながらも、照れる咲夜に、アクセルはにっしっし、と笑う。
此処に来てすぐの頃は、俺を見る咲夜さんの眼、カメムシでも見るみたいな眼だったのにねぇ。
 そんな事は…。咲夜は言葉に詰まる。

澄ましてるより、そうやってあたふたしてる方がやっぱりかわアーーッ!?
 
 夜の紅魔館に、アクセルの悲鳴が響いた。
 
 
 

 



 ええ。ええ…。はい。いや、それにはもう少々時間が掛かるかと…。
 薄暗い研究で、男はモニターを眺めながら、通信機から届く声に答えていた。
 
 モニターには、黒ずんだ炎で竹林を焼きながら、白い狐耳の妖怪と対峙する不死鳥が映っている。
 そして、そのモニター上には、幾つもの数値も表示されていた。
不死鳥と白い妖怪が動く度、その数値が激しく変動している。
 
 バックヤードへの侵攻は、現段階ではあれが精一杯です。
やはり、彼もそれ相応の戦力を置いているのでしょう。
ジャスティスのコピーでも、突破できていません。
 ええ。いえ…。
彼本人がバックヤードに留まり、我々の侵攻を阻止している可能性があります。
 はい…。難しいでしょうね。オリジナルを創り出した人物ですから。
 まぁ、逆に言えば、これで彼の動きは大きく制限出来ている、とは思うのですが…。
 
 
モニターが激しく明滅した。
白い狐の妖怪が、不死鳥の炎を砕いたのだ。
 その様子を見ながら、男の口元に笑みが浮かぶ。
 
 彼の動きが止まっている今なら、彼の地でのサンプル回収に力を注げます。
 ええ…。Kシリーズの破棄は前々から予定していた事なので、今の消耗戦には丁度良いかと…。
 何体かは、優秀な個体もあるのですが、どうも人格プログラムに難があるので…。
 はい…。はい、そうです。
バックヤードの力は、どうも運用が難しいですねぇ…。
 新技術として確立するまでには、こちらも少々時間が掛かりそうです。
 彼の地では洗脳術として用いましたが、失敗しました。
 
 申し訳ありません…。
 しかし、収穫もありました。
新技術の洗脳術は、一度対象を分解し、再度構成し直す、というものですので…。
 はい。つまり、別人として作り変える、或いは、人格を豹変させる、と言った感じですねぇ。
 いえ…。これが重要なんです。
 分解、再構成を行う過程で、元の人格は失われません。
 つまり、対象の個体の力を殺すことが無いのです。
 そして、再構成された人格は凶暴かつ、好戦的…。

 ええ。ええ、そうです。
其処に、廃棄ついでにKシリーズをぶつけてやれば、相手の手札を見る事が出来ますから。
 ええ。コピーを無駄遣いする必要も無いですし、戦闘データも取れるので…。
 相手の手札を知れば、対策も出来ますしねぇ。
 こちらも準備が整い次第、Kシリーズ達に動いて貰うつもりです。
 
 幻想郷の者たちは…、はい? ああ、失礼しました。
 彼の地の事です。はい。幻想郷、と呼ばれているようです。
 ええ。いい名前ですよねぇ。私もそう思いますよ。
 正に、新たなフロンティアですからね。
 ターゲットが多いので、長期戦になるかもしれませんが、彼が動けぬなら問題は無いでしょう。
 切り札ならこちらにも何枚かはあります…。
ですが、幻想郷の者達は我々の常識の範疇を越えた者達ばかりですからね。
 
 実際、一対一で、ジャスティスのコピーを倒す個体も居ますので…。
 ええ。勿論、回収はしますよ。その為の研究ですからねぇ。
 一応、現地のKシリーズとは連絡は繋がりました。
 いつでも動けますので…。ええ。
 分かりました。
 では、指示通り、まずはデータの収集に尽力しますので…。
 
 ええ…。分かりました。
 では、また何かあれば報告します…。
 

 


眼を覚ますと、時計の針は午後六時を指している。

そうだ。今日はパーティーだ。皆が来る。遊べる。
わくわくする。
うきうきする。
どきどきする。

ベッドからのそのそと起きて、パジャマを脱ぐ。
今日はいつもの服じゃなくて、少しお洒落なドレスを着よう。

シャツも脱いで、ドロワーズのみになる。
そこで思いついた。そうだ。今日はお姉様の服を借りよう。
私よりも大人っぽいものを持っているかもしれない。
ふわふわとした気分で、そのまま扉をガチャリと開ける。

薄暗い地下室と違い、此処はすぐに外の空気が分かる。
感じる。
部屋の外の空気は、既に夜だった。
吸血鬼の時間だ。
陽が沈み、命在る者が惑う時間だ。


「お、フランちゃんおはよぉおおおおおおおおおおおおおおっ!?!?」


廊下の掃除をしていたのだろう。
箒とちりとりを持ったアクセルが扉の外に居た。
ついでに、それらを放り出して、凄い勢いで被っていたバンダナを自分の顔に巻き付け出した。

どうしたんだろう? 

「ちょ、あのねフランちゃん、部屋の外に出るときにドロワーズ一丁てのは男前過ぎるって!」

「え…あぁ!」

アクセルに言われ、はっとした。慌てて部屋の中に戻る。

「見た!? 見えた!?」

手の中にアクセルの“目”を持ってきて、いつでも爆破出来るように準備する。
しょぼしょぼとした眼が一瞬で覚めて、顔が熱くなった。

「神に誓う。何も見てない」

アクセルの声は、何だか嫌に真剣で、逆に嘘くさかった。

「ほんと…?」

「俺は…見てません」

口調がちょっとおかしいけど、見られてないなら良い。
手の中の“目”を放して、急いで服を着る。
ドレスなんかを借りるのは、後でいいや。
着替えて扉を開けると、アクセルが若干げっそりした感じで溜息を吐いていた。

「ほんと頼むよフランちゃん。今咲夜さんが通ってたら、比喩でも何でもなく俺死んでるからね」

心底ほっとしたようなアクセルの声がおかしくて、くすくすと笑ってしまった。

「大丈夫だよ。アクセルは強いから」

「大丈夫なわけねーって。ナイフで針鼠みたいにされちまう」

そうかな。アクセルは十分強いと思う。
私やお姉様ほどでは無いけれど。
だから、美鈴と一緒に門番もしてるし、咲夜の手伝いも出来ている。
人間なのに。
弱くて、脆くて、すぐに壊れて、死んじゃうのに。

そんなことを考えていると、アクセルが笑った。
にっしっし、とお調子者っぽい感じで。

「今日のパーティー、ソルの旦那も来てくれると良いね」

「来てくれるよ! だって約束したもん」

「えっ? マジで?」

「昨日の夜、神社に遊びに行って来たの。その時にソルと約束したよ」

よく旦那がそんな約束したなぁ、と呟いて、アクセルは難しい顔になった。
旦那、ちっちゃい子が好きな人なのかな…。いやまさか…。
呟くアクセルの顔がどんどん難しく歪んでいく。

「ついでにちょびっとだけ遊んできた。強いね、ソルも」

アクセルは歪ませていた表情のままフランに視線を向け、それからへっと笑って、肩を竦めて見せた。

「まぁ、旦那も強いけど…。その様子だとフランちゃんも大概強そうだねぇ」

 「だって、私はお姉さまの妹だもん」
 
 「なるほど、そりゃ強い訳だ」
 
そう言って、アクセルと笑い合った。
もうすぐ、パーティーが始まる。



[18231] 十六・五話 前編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/07/29 19:00
今回、紅魔館のパーティー会場となった湖の畔は大盛況だった。
パーティー用の椅子やら机やらを運び出し、会場をセッティングする肉体労働は、アクセルと美鈴、そして妖精メイド達が受け持った。
 料理を用意したのは咲夜であり、停止時間内でアクセルもそれを手伝う形で、何とか間に合わせたのだった。
 
 レミリア、フラン、パチュリーの三人は、全く手伝おうともしなかった。
 あのお三方は、紅魔館の主と、そしてその友人ですから。それだけで理由は十分なのだろう。
そう言った美鈴の笑顔には、嫌悪や顰蹙といった感じが全く無かった。

お嬢様だねぇ、ほんと。アクセルは呟いて、会場を見渡す。
立食パーティーのような形で行われた今回のパーティーは、以前、博麗神社で行われた宴会と並ぶ規模で盛り上がりを見せていた。
参加している者の数も多く、アクセルの知らぬ者も多い。
只、皆が陽気で、勝手気侭に酒を飲み、美味な料理に舌鼓を打つ彼女達の雰囲気は、既に上品なパーティー、という感じでは無い。
此処の者達の気質なのだろう。
やんややんやと言いながら、其処彼処で好き勝手に煌く弾幕の光。
上品ぶったパーティーなどより、少々おっさん臭い宴会の色が強く、またそれが、彼女達に似合っていた。
無論、悪い意味では無い。
生き生きとした彼女達の表情は、アクセルの疲労を、心地よい達成感に変えてくれる。
 
 もうちょいしたら、咲夜さんの手伝いに戻りますか…。
 紅魔館で仕事をしている時にはスーツ姿だが、今回はオフということで、アクセルは普段のユニオンジャック柄の服装である。
 バンダナを締めなおしながら呟くアクセルの視線の先。
ライヴステージとして設置された壇上では、夜雀がその歌声を披露し、騒霊達も音楽を奏でていた。
 それを聞いている者達も、歓声を上げたり、また手拍子をしたり。
このパーティーの陽気な喧騒に拍車をかけている。
夜雀の歌と騒霊の演奏をBGMに、また一つ、派手な音と共に、夜の空を弾幕を彩った。
 
 こりゃあ、確かに館内で催す訳にはいかないねぇ。
アクセルは思いながら、その美しい弾幕を見上げる。
 流石に、今回の規模だと屋敷内で開催するのは、少々、考えものかと…。
 そう言っていた咲夜の言葉を思い出しながら、視線を会場に巡らせたアクセルの眼に、

「おや…、遅い到着だな」

見覚えのある姿が映った。
 
白くて幅のあるジーンズと、赤の旅装束に身を包んだソルが、喧騒の中を黙々と足を進めていた。
仏頂面のせいで、かなり近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
だが、不思議と喧騒に溶け込んでいるのは、ソルの前を歩く、霊夢、そして魔理沙の御蔭だろう。
霊夢と魔理沙が並んで歩き、その少し後ろをソルが歩いているので、二人の保護者に見えなくも無い。
 
 魔理沙は、陽気なこの喧騒を楽しみつつ、視線を辺りに巡らせている。
 ただ、霊夢の方は、少しむすっとした表情だ。
 
なぁ霊夢、機嫌直せって。フランも別に悪気があったわけじゃ無いだしよ。
それは分かってるけど…。

魔理沙は、苦笑を浮かべながら、そんな霊夢を宥めている。
 二人の会話には混じらず、黙したままのソルも、アクセルに気付いたようだ。
 
 「お~い! 霊夢ちゃん、魔理沙ちゃん、ついでに旦那~! こっちこっち」
 
 アクセルは喧騒の中を掻き分けつつ、三人の元へと歩み寄った。
その声に、霊夢と魔理沙もアクセルに気付いた。

 「よぉ、来てやったぜ」

 魔理沙は腰に手をあてながら、楽しげに笑う。
 
 「お邪魔してるわ。随分盛り上がってるじゃない」

 霊夢も、機嫌の悪そうな表情を緩めて、アクセルに向き直る。
 
 「まぁ、こんだけ集まればねぇ。さっきから酒とツマミと弾幕が空を舞ってるよ」

 冗談めかして言ってから、アクセルはソルに視線を向ける。
それから、にっしっし、と笑った。

 「旦那も災難だねぇ。レミリアちゃんに目を付けられるとは」

 「…原因は貴様の様だがな…」

 無表情のまま、低い声でソルはアクセルに呟く。
 全く楽しそうでも何でもないソルは、懐から一枚の紙を取り出した。
 
 「…こいつを持って来たフランドールが言っていた…」

…あの爺の話をしたそうだな…。
 ソルは言いながら、手に持った紙に視線を落とした。
それは高級な洋紙の招待状だった。
 フランが、神社でソルと少し遊んだ、と言っていたのを思い出し、アクセルは苦笑を浮かべる。
 
 いやぁ、メンゴメンゴ、と手を合わせるアクセルに、今度は霊夢が溜息を吐いた。
 
 「ただ、その招待状を持ってくるだけなら良かったんだけどね…」
 
 霊夢のその言葉に、アクセルは少し嫌な予感がした。
何処かで、歓声が上がり、また弾幕が咲いた。
 それを眺めつつ、おー、やってるなぁ、と呟いていた魔理沙も、アクセルに向き直る。
 
 「フランの奴、ソルと遊びたいって駄々をこねてな。そのせいで、神社の賽銭箱前の階段、半分ぶっ壊れたんだよ」

 お蔭で霊夢ちゃんもご機嫌斜めって訳さ。
 苦笑しながら言う魔理沙に、霊夢は、はぁぁ~、と溜息を吐いた。
 
 「修理するのに半日掛かったわよ。ソルが手伝ってくれた御蔭で助かったけど」
 
 どんな駄々をこねたんだと、アクセルは顔が引き攣る。
 フランと一緒に来ていたレミリアが制止したおかげで、神社倒壊は免れた、とのことだった。
 そして、レミリアは去り際、「招待に応じない場合、日を改めてまた来る」と告げたのだそうだ。
 
 アクセルは来客用に用意されたテーブルにソル達を招きつつ、「そりゃまた…」と何とも言えない表情で呟いた。

「旦那が来ないパターンは…良くないねぇ。こっちにしても、面倒事が増えそうだ」

歩きながら、アクセルはポリポリと頬を掻いた。
霊夢としては、神社でのドンパチ騒ぎは当然、勘弁願いたいところだ。
 故に、ソルをこのパーティーまで連れて来たのだった。
ソルの面倒そうというよりも、もはや疲れ顔だ。
 
 魔理沙は、そのソルと霊夢の顔を見比べて、少しだけ羨ましそうな表情になる。
 そして、やれやれと肩を竦めて見せた。
 
 「ソルも霊夢には優しいんだぜ。こんな仏頂面の癖に、霊夢のお願いなら聞いてくれるんだからな」
 
 「優しい、っていうか…。ソルも、単純に面倒ごとを先延ばしにしたくないだけよ」
 
 「それでも、聞いてくれてる事に変わりないさ」
 
 魔理沙と霊夢の声を掻き消すかのように、酔っ払い達の声が響く。
 四人を包む高揚した空気が、より一層強くなる。

 それを肌で感じながら、魔理沙は背後を振り返った。
 私とは、勝負してくれないのにな。
 
少しだけ期待を込めた瞳でソルを見上げる魔理沙だったが、肝心のソルは周りの喧騒に視線だけを静かに巡らせていた。
 そして、「…む…」と、魔理沙の視線に気付いたソルは、無表情のまま「…何だ…?」と呟く。
 もういい。ぷいっとそっぽを向く魔理沙。
 
 「へぇ。俺なんてお願いごとなんてしたら、返事の代わりに炎が飛んでくるってのに」

 アクセルは笑ってから、「ま、座ってよ」と、会場に設置されたテーブルから椅子を引き、三人を座らせた。
 
それから、ちょっと待ってて、とグラスとワインを取りに走った。
 
ソル達が着いた大きめの木製の丸テーブルには、白い上品なクロスが掛けられており、その上には、また精巧な意匠が凝らされた燭台が置かれている。
 そんな席がいくつも用意されており、他の者達も、こうした席に着いて談笑している者が数多く居た。
 壇上で歌う夜雀と騒霊達の演奏に盛り上がる者達から、一斉に歓声と拍手が巻き起こった。
 その喝采の中で、夜雀が嬉しそうにペコリと頭を下げ、騒霊達もそれに倣っていた。
 
 このパーティーに招かれた者も、招かれておらす勝手に参加してきた者。
皆の歓声が、混ざり合い、アルコールが場のテンションを加速させていく。
 
 そのテンションの中から、アクセルがするりと滑り出して来た。
グラスを三つを片手に、そして、もう片手にワインのボトル二本を器用に掴んでいる。
 ソル達の前にそれらをでん、と置いて、お待たせ、と笑って見せた。
 そして、席には座ろうとはせず、立ったまま三人に視線を巡らせる。
 
 「そんじゃ、皆楽しんでいってよ。盛り上がって来たし、俺は咲夜さんの手伝いに戻るとするよ」
 
 おっと、その前に一杯だけ貰ってくかな。
 へへっと笑い、アクセルはワインのボトルをグラスへと傾ける。
 
 丁度その時だった。
 
 素晴らしい演奏と歌声を有り難う。感謝するわ。
 
辺りに渦巻く熱気を紅く染め抜く、甘い声が会場に響いた。
それは、喧騒や怒号すらひれ伏させる、貴なる声音。

だが、アクセルにとっては、聞き慣れたもの。
どんな我が侭が飛び出すのかびくびくさせられる声だ。


お、吸血鬼のお出ましか。ソルの表情が微かに歪んだ。
魔理沙は言ってグラスを手に取ると、手酌でワインを注いだ。
燭台の蝋燭の炎が、紫色の液体を微かに照らしている。
霊夢もグラスを手に取り、其処へ魔理沙がボトルを傾けた。

ソルは、無言のまま壇上に視線を向ける。
ミスティアとプリズムリバー三姉妹が互いに顔を見合わせてから、ぺこりとお辞儀をしていた。

この館の主、レミリアと、その妹、フランドールに。

 壇上に上がったレミリアは鷹揚に頷き、集まった客達を睥睨する。
その傲慢な視線に拍手は弱まり、注意がレミリアに集まった。
 
 真紅の瞳は、傲慢さを一つのアクセサリーに変えている。
ニヤリと唇を歪めてから、レミリアは口を開いた。
 
「パーティーだと思って、やりたい放題ね。貴方達…。弾幕の流れ弾で、紅魔館の壁が傷だらけよ」

でも、それも此処まで。
有無を言わさぬ声で言って、レミリアは紅い閃光を身体から迸らせた。

「メインイベントをこれから始めるわ…」

くっくっく、と酷薄そうに唇を歪めたレミリアは、翼をばさりと広げて見せた。
 その黒い翼と、紅い閃光を纏う姿は、正に紅い悪魔。

「そう…今夜、貴女達は証人になる。私が異界の吸血鬼よりも優れていることを証明す…」

「もーーー! お姉さまったら、そんなのはどうでも良いの!」

 だが、そんな威厳ある悪魔的カリスマボイスを、フランドールの可愛らしい声が掻き消した。
 
 「ちょ、フラ――!?」

 レミリアは相当焦った様子で、フランに向き直る。
 闇を染める紅い閃光と、禍々しい黒い翼が、一瞬でその威厳を失った。
 咲夜も、慌てた様子で、ふ、フランドール様…!? と声を掛けたが、聞こえていないようだ。

「私達スカーレット姉妹対、外来人であるソルとアクセルのタッグマッチを開催するよ!」
 
 「え、ええっ!?」っと、レミリアは焦った声を出し、
 「ぶっ!?」アクセルは飲んでいたワインを盛大に吹きだしていた。

そして、フランの嬉しそうな声に、会場に集まった客達の歓声が爆発した。
元々上がり過ぎのテンションが更に加速、収拾がつくかどうかが心配になるかのような盛り上がりだ。
 
 美味しいところを持っていかれたレミリアは、うーーっ!、っと涙目になっている。
 咲夜はそのレミリアを宥めつつ、満面の笑顔でその歓声を受け止めるフランを見て、苦笑いを浮かべていた。
  
 「うはは、これは楽しくなって来たな!」

 「大丈夫なの…これ」

 わくわくしてしょうがない、といった魔理沙と、少しだけ不味そうに辺りを眺める霊夢。
 
 「聞いてねぇって、こんなの!」
 
  「…面倒な事だ…」

 
アクセルの悲痛な叫びを聞きながら、ソルは鼻を鳴らした。


 
 あ、パチュリー様。そろそろ始まるみたいですよ。私達も準備しましょう!
 しこたま会場の料理を食べていた美鈴が、弾んだ声を上げた。
会場に設置されたテーブルに着いて、分厚い本に視線を滑らせていたパチュリーは、緩慢な動きで顔を上げ、壇上のレミリアへと視線を移す。
 このざわめきと熱気の中、美鈴に越声を掛けられるまで、表情一つ変えず読書に耽っていたのは流石である。
 
パチュリーと美鈴は、会場のテーブルの一つに腰掛け、いつでも動けるようにスタンバイ中だった。
 それは、観客達の行き過ぎた弾幕ごっこや、無体を働こうとする輩が居ないかを監視する為。
 また、このパーティーのメインイベントの準備の為。
 
 「そうみたいね…。それじゃ、結界は私が張るから…。美鈴は観客達の誘導を…」

 「了解です!」

 口の端にソースをつけた美鈴は、笑顔で元気よく敬礼してみせる。
 そして、すぅ、と宙へと浮かび上がった。
パチュリーは、その美鈴を見ながら、小さな声でボソッと呪文を紡ぐ。
 それは、音声拡張の為の魔法だった。
パチュリーは美鈴に頷き、それを見た美鈴は、有り難うございます、と笑う。

そして、一つ大きく息を吸い込み、
皆さ~ん! 注目してくださ~い!、と大声で会場に呼びかけた。
会場全体に響き渡るような大声だった。
 
 会場の其処彼処で、「うわっ!?」、「ひぇっ!?」っと、驚きの声が上がる。
 それくらい、音声拡張の魔法の効果は絶大だった。
 
 観客のほぼ全員が、美鈴に視線を向け、何だ何だ、と視線を向けている。
 その結果に満足したのか。パチュリーは無表情のまま、更に呪文をボソボソと唱える。
 
 「これから始まるメインイベントは、流れ弾、流れスペルが飛んでくる危険がありますので、皆さんには少し移動して頂きます~」
 
美鈴の声に、会場がざわめいた。

 移動って、何処に行くんだ?
 此処で戦うんじゃないのか?
 
 会場の高揚が、微かな戸惑いに変わり、どよめきが起こる。
 手間は取らせませんよ。皆さんはあちらで観戦して下さい~。

そんな観客達に言いながら、美鈴は湖畔の会場から少し離れた場所を指差した。
観客たちのほぼ全員がその指差す方向へと顔を向ける。
それとほぼ同時だった。パチュリーが詠唱を完了させた。

ブンッ…、っと、空気が振動するような音がなった。
突如として、草木だけが茂った湖畔の地面が、ぼこぼこっと盛り上がった。
かなり広い範囲に渡って、まるで地面が波打つかのように揺れる。
草木が飲み込まれ、バキバキ、ベキ…、という音が木霊する。
砕土というに相応しい光景だった。
そして、それは次第に土の山となり、山は見えざる手に捏ね繰り回されるように、ぐにゃぐにゃと形を変える。

観客達から、おお!、っと歓声が上がった。
 土山は徐々に形を整え、階段状の観客席へと姿を変えたのだ。
 茂っていた草木は席のシート代わりになり、座り心地も良さそうである。
まるで映画館の観客席のようになった湖畔の一部を見ながら、パチュリーは一つ息を吐いた。

大地を司る土魔法。その御業に、観客から拍手が起こる。
高等魔術を無表情のまま行使した七曜の魔女は、夜の空へと視線を向けた。

協力してくれるなら、助かる…。
呟くパチュリーの声は、やはり小さく、観客達には全く聞こえていない。
だが、パチュリーの視線の先。夜を裂いた亀裂。スキマの主である妖怪の賢者は微かな笑みに欠伸を混ぜて、頷いて見せた。

恐らく、寝坊をかましたのだろう。
八雲紫は、グラスを片手に持ってはいるが、眼は酷く眠そうだ。
豪奢な金髪にも、寝癖が見える。
その癖、境界操作は完璧。
 紫は、扇子を振るい、それに合わせて、パチュリーは更に呪文を紡ぐ。
その間に、美鈴が何処か誇らしげに胸を逸らしつつ、新しく出来上がった観客席へと皆を案内し始める。

それを横目で見て、パチュリーはレミリアにも視線を向ける。
ぐすっ、と鼻を啜った紅魔館の主は、パチュリーの視線に気付き、慌てて表情を不敵に歪めて見せた。
その様子を見て、パチュリーは詠唱をしながら、ふふっと笑う。

そして、次の瞬間には、それは完成していた。
闇夜が一瞬、紫色に染まる。
パチュリーの詠唱がつくり出したのは、否定の壁。
観客席を守るように、ドーム状に展開された強固な結界だった。
結界は、更に紫によって強化され、もはやそれは次元の断層。
招いた客、また招かれざる客も守る盾だ。

詠唱を終えたパチュリーの傍に、一つスキマが開き、眠そうな顔の紫が、半身を覗かせた。
パチュリーは、「ありがとう…。これで、安心…」と、紫に向かって、コクリと頷くようにして礼を言う。

「この程度ならお安い御用よ。…それにしても、贅沢な土地利用ねぇ」

紫は出来上がった観客席に視線を向ける。
美鈴に案内された者達は、もう完全にレミリア達の行うイベントを楽しむ体勢に入っている。
酒を片手に、早く始めろと喚く者。
席に寝転び、寛ぎまくっている者。
今か今かと待ちわびるように、ソル達の方を見ている者。
その中には、霊夢と魔理沙の姿も見える。
霊夢はワインではなく徳利を片手に持ち、魔理沙の方は落ち着きなくそわそわとしている。


パチュリーも観客席に眼を向けて、あそこは元々、手を入れる予定だった…、と呟いた。

「あの観客席の場所は…後で土魔法を掛けて、花壇にする…。今回は、そのついで…」

とんでもない大きさの花壇ね。
紫は笑ってから、悩ましい仕草で一つ伸びをした。
でも…、これで、一応の準備は整ったみたいね。
その紫の呟きに、パチュリーはまたコクリと頷いて、視線を再びレミリア達に移した。


 私が演説をしている時は、黙っていると約束したでしょう、フラン。
 だって、お姉さまのお話、長いんだもん。
 それに…。私がスレイヤーと言う吸血鬼よりも強いことが、証明出来なくなっちゃったじゃない。
 
レミリアとフランは壇上から降りて、緊張感の無い会話をしている。
ソルとアクセルの方は、不味そうな表情で顔を見合わせていた。

後は向こうの準備が整い次第、始まることだろう。

 
 
 
 
 
 


アクセルは特大の溜息を吐いた。
多分、今まで吐いた溜息の中でもベスト3に間違い無く入るデカさだった。
何が悲しくて吸血鬼と戦わなければならないのか。

馬鹿じゃねーの。
アクセルは自分の不運に胸中で悪態をつく。
「帰りてぇ…」

切実な思いが零れる。

アクセル達と距離を置いて、観客席にはパチュリーと紫が張った結界が観客席を守っている。
その結界を張った二人も、その結界内で観客席に腰掛け、こちらをのんびりと眺めて居る。
パチュリーは本を閉じ、興味深そうに。
紫の方は、胡散臭い笑みを浮かべながら。
いつでも時間を止められるように咲夜もスタンバイ中。

悪い冗談も、ここまで来ると笑えてくる。

「さて、準備はいいかしら?」

レミリアのカリスマボイスが、この状況が冗談じゃ無いことを証明してくれた。
フランはうずうずした様子でこっちを見ている。

ソルは封炎剣の柄を両手で包み込むようにして逆手に持ち、体の正面で地面に突き立てたままだ。
もう表情を変えることも面倒なのか、ソルは無表情のまま返事をしない。

まぁ、準備完了ってことだろう。
アクセルは愛用の鎖鎌は棍棒の状態だ。
それを、両手で首の後ろに引っ掛けるようにして溜息をついた。

「まぁ、準備は良いけど…これも勝利条件つけようぜ、レミリアちゃん」

アクセルの言葉に、きょとん、とするレミリア。
そこまでは考えていなかったらしい。

「そう…ね。条件ね…」

レミリアは顎に手を当て、ふむ…、と頷く。
そんなの何でも良いよ。死んじゃったら負けで良いんじゃない?
 勘弁してよフランちゃん…。
 
 フランの恐ろしい発言に冷や汗を流しつつ、アクセルは、ソルに視線を向ける。
 
「旦那はどう? どんな条件が良い?」

「…制限時間だ…」

…ダラダラとするのは…面倒でかなわんからな…。
そのソルの低い声に、フランは、え~~、と不服そうに唇を尖らせた。

「じゃあ、五時間くらいで…」

…神社に帰って良いか…。
レミリアの提案に、ソルの表情が歪んだ。
アクセルは、じょ、冗談じゃねぇ! と、焦った声を出した。

「そんなにスタミナ持たねぇって! せめて15分で」

「かなり短いけど、それくらいが妥当なのかしら…」

レミリアは殺し合いでもするつもりだったのか。
15分など長過ぎるくらいだ。アクセルは思いながら、後ろ頭をぼりぼりと掻いて、思いついた。

 「勝利条件、俺のバンダナにしない? 
レミリアちゃん達が、俺からバンダナ取れたら勝ち。俺が逃げ切ったら、俺達の勝ち」
 
 どう? と、アクセルはレミリアに首をかしげて見せる。
 
 「分かりやすいわね。まぁ、今回はそれで良いわ…」
 
 早く始めないと、外野がうるさいしね。
 観客席の方へと視線を向けると、早く始めろと怒号と野次が飛んでいる。
 待つことを知らない連中ねぇ。
自分のことを棚にあげて、レミリアはため息をついて見せた。
 
 「ついでに、ハンデを上げるわ。私達もこの帽子取られたら負けにしてあげる」
 
 レミリアは、被った薄い赤色の頭巾を摘んで、八重歯を覗かせた。
 フランは、もう待ちきれないのか。宝石を吊るした朽木のような翼を、撓らせて、きゃはは、と笑う。
 
 「まぁ、アクセルは人間だもんね。それにそっちの方が面白そう!」
 
ソルは、時間制限さえあれば何でも良いのか。
もう眼を閉じて黙ったまま、話に入って来ない。
 そんなソルに、レミリアはふふん、と不敵に笑って見せる。
 
 「ソル、適当に流して終わらせようなんて考えないことね。くくく、負けたら過酷な罰ゲームが待ってるわよ」
 
 …そうか…。
 ソルは心底面倒そうに言って、剣を肩に担ぐ。
 それを見たアクセルも、「ハンデ序に、手加減してくれよ」棍棒を中ほどで折って、鎖鎌へと変形させる。
 
 レミリアとフランは、ふわりと浮き上がる。
 くくく…、と似合わない不敵笑みで、レミリアは左手に紅い光を纏わせる。
 その紅の光は次第に形を変え、一つの棒状の光の塊になった。
 先端が鋭く尖っている。あれは、槍だ。大きい。
 レミリアの等身の倍は余裕である。
 そんな不釣合いな紅い槍を構えたレミリアの隣。
フランが奇妙な形の黒い棒を両手で持って、翼を羽ばたかせている。
黒い棒の両先端はスペード型に尖っていて、序に、燻る紅い炎が灯っていた。

ソルは、すっと腰を落とす。
アクセルは片足に重心を乗せて、まるでリズムを取るように鎖鎌を揺らす。

「観客席に伝えなくていいのかい? 制限時間と勝利条件」

「私達の会話は、パチュリーの音声拡張の魔法が拾っているわ。既に向こうにも伝わっている筈よ」

ちらりとレミリアが観客席へと紅い眼を向ける。
観客席が、いつの間にか静寂に包まれていた。

その中で、咲夜は懐中時計を取り出し、其処へと視線を落としている。
パチュリーの方は、こくり、と頷きをレミリアに返す。
どうやら、ちゃんと伝わっているようだ。

あとは、私達が始めるだけだよ。じゃあ、私がソルをやっつけるね!
ちょ、ちょっと待ちなさいフラ――。

レミリアが何かを言おうとした時だった。
紅い風になったフランは、そのまま黒い棒を振り上げながら、ソルへと飛び掛った。
振り上げられた黒い棒が爆発した。
ソルにはそう見えた。
そして、その爆発は、とんでもない大きさの炎の剣へと、一瞬で姿を変える。

禁忌「レーヴァテイン」。
山すら凪ぐ炎の剣が、上段からまっすぐソル目掛けて振り下ろされた。
 本当に真っ直ぐに。
 叩き潰すというよりも、ただ破壊するためだけに。
 
 アクセルは咄嗟に飛び退った。
 レミリアはそのアクセルの姿を眼で追った。
 
 ソルは避けなかった。
 それどころか、一歩踏み込んだ。

 正面から、その禁忌を迎え撃つ。
 迫る炎の壁に目掛けて、肩に担いだままの状態から、片手で封炎剣を叩き込んだ。
 インパクトの瞬間。ソルの腕から法力が流し込まれ、封炎剣が呻りを上げる。

夜の湖畔が、真っ赤に染まった。
 
 
 地鳴りと爆音が轟き、会場にあったテーブルやステージ、あらゆるものが紙屑のように吹き飛んだ。
 
 その熱波を法術の結界で防ぎつつ、爆風に煽られる形で吹っ飛ばされたアクセルは、猫のように空中で体勢を整え、音も立てずに着地してみせる。
 
 いきなりすげぇな…。
 呟いたアクセルに、血の結晶のような弾幕が背後から迫った。
 アクセルは手に持った鎖鎌から余計な力を抜き、振り向きざまに鉄鎖を舞わせる。
 
 火花が散らせまくって、アクセルは弾幕の全てを捌いた。
 その瞬間だった。
アクセルの横合いで、紅い何かが風を切った。レミリアだ。
 手にした槍。それを、横一文字に振るったのだ。
 
 アクセルはすっと身体を屈めて、それを避けつつバックステップを踏む。
 だが、宙を浮いているレミリアは、槍を空振った次の瞬間には、距離を詰めていた。
 疾い。
だが、アクセルも負けていない。
 レミリアが距離を詰めてきた頃には、もう鎖鎌を棒状に変形させている。
 
 打ち合う気かしら。無謀ね。
 レミリアは唇を歪め、左手に持った槍を無茶苦茶に振るおうとした。
出来なかった。
何が起こったのか、レミリアは理解出来なかった。
一撃目。
凪いだ槍を、アクセルに完全に受け流された。縦に構えた棍棒で。
レミリアは、宙にいるにも関わらず体が泳いだ。
その横合い。アクセルと眼が合った。
こんな馬鹿な。そう思う間すら無かった。
アクセルの手が、レミリアの頭巾に伸びる。
 だが、届かない。

「おわっ!?」
 
 レミリアの体が、一瞬で無数の蝙蝠に変わったからだ。
 その蝙蝠たちはアクセルの手をひらりとかわすと、今度は空間を抉り取るかのようにアクセルを猛襲した。
 黒い翼の洪水だった。
 
 アクセルは流石にやばいと思った。いきなりすぎて反応が遅れた。
 咄嗟だった。横っ飛びに転がる。
 アクセルが居た場所を、蝙蝠たちの群れが蹂躙しながら通り過ぎ、すぐにその群れは集まり、レミリアへと姿を変える。
 
地面から起き上がるまでの間が不味かった。
 起き上がろうとしたアクセルに、何かがぶつかってきた。
 
 「ほげっ!?」
 
 「ぐっ…!」

 ソルだった。
 回転するアクセルの視界に、フランがレーヴァテインを振りぬいている姿が映った。
 どうやら、ソルはフランに吹っ飛ばされたらしい。
 
ソルとアクセルは地面を無茶苦茶に転がって行った。


途中までは良かったけれど。そこからは駄目ね。詰めが甘いわ。
ソル、どうしちゃったの? 何だか動きが鈍いよ? お腹でも痛いの?

レミリアとフランの二人は余裕の表情だ。

「いててて…。旦那、勘弁してよ」

「…喧しい…」

ソルとアクセルはのっそりと起き上がる。

「こりゃ、やばいね。強いぜ、二人共」

「…見れば分かる…」

「罰ゲームも御免だからねぇ。頼むよ、旦那」

残り時間は、まだ残っている。
逃げるか。帽子をとるか。

どっちでもいいや。
考える間もない。
夜の吸血鬼二人が、笑っている。

アクセルはニっと笑うと、鎖鎌を構えた。
ソルは溜息をはきながら、封炎剣で肩を叩いた。

旦那との久しぶりのコンビなんだし、ちょっとだけ頑張っちゃうぜ?



[18231] 十六・五話 後編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/08/03 23:21
制限時間はあと10分程だろう
その短くも長い時間の中。
強大無比な吸血鬼姉妹に相対するソルとアクセルは、自身の操る法力の炎で、夜を照らし、引き裂いていた。
 
「流石に速ぇな…!」

アクセルは悪態をつきながら、濃くなってきた弾幕を捌く。
レミリアの次の攻撃に備えた。

レミリアはアクセルの周りを素早く飛び回りながら血氷柱状の弾幕を放ち、隙を伺っている。
それだけで、もうアクセルにとってはかなり窮屈な戦いだった。
長く伸ばした鎖鎌の鎖部分でも弾幕を弾きながら、迎撃からのカウンターを狙うアクセルの今のスタイルはジリ貧だ。

アクセルは付け入る隙を見せていない。
 見せてはならない。

このままタイムアップさせるつもりは、レミリアにも無い。
 頑張るわね。…このまま凌ぎきるつもり?
レミリアは何かを期待するような口ぶりで、弾幕を捌くアクセルに言う。
 夜に染み込む、甘く幼い声だった。

 アクセルは鎖鎌を縦横無尽に振るい、弾幕を一気に掻き消した。
 硝子が砕けるような音とともに、血の結晶のような弾幕が粉々になって、夜の闇に撒かれた。

さぁ、どうだろうね…。アクセルの声音は、嫌に落ち着いている。
紅い影となって、闇夜を疾駆するレミリアも、ふふっ、と楽しそうに笑った。
声が聞こえた時には、弾幕がアクセルを包囲していた。

錐のような、血の結晶の群れ。弾幕。
アクセルは左手に持った鎖鎌の柄を右肩の前へ。
右手に持った柄を、左肩の前へ持って行って、深く腰を落とした。

澱みの無い、流れるような動作でその体勢をとったアクセルは法力を両腕に込める。
ソルの濁った赤橙色の炎とは違う。
明るく、くすんだ赤色の炎が、アクセルの両腕を覆う
炎を纏った両腕と鎖鎌の柄。

アクセルは両手を大きく振るった。円を描くように。
たったそれだけで、弾幕が蒸発した。

それを見たレミリアの表情に喜色が浮かぶ。
そう来なくては。
そんな表情を見せたレミリアは弾幕を張りつつ、自身の周囲に赤い魔方陣を展開する。

 展開された赤い魔方陣は、それほど大きくは無い。
 数も、さして多くは無い。五つ、六つ程だ。
 
だが、十分以上な危険さを、アクセルは感じた。

時間差攻撃。
弾幕が殺到する中、アクセルは赤い魔法陣から、さらに紅い蝙蝠型の弾幕が多数発射されるのを見た。
ついで、それを盾に肉薄してくるレミリアもだ。
三段構えだ。

あえて、カウンター狙いのアクセルに突っ込んでいく選択をしたレミリアだったが、その攻撃はかなり精密で凶悪だった。

アクセルの頬を冷たい汗が一筋流れる。負けねぇぜ。
呟き、アクセルは鎖鎌を大きく振り回した。
回避では無く、迎撃の為、鎖鎌に灯った爆炎が唸りを上げる。
その巨大な炎塊に飲まれ、レミリアが放った弾幕の壁に穴が空いた。

「へぇ…!」

その光景に、レミリアは驚きを更なる期待に変えながら、その手に莫大な魔力を凝縮させ“槍”を生成する。
 
 それも片手だけでは無い。両手だ。

蝙蝠型のボリュームのある弾幕=サーヴァントフライヤーを盾にしたレミリアは、その“槍”を両手に握り締め、アクセルに向かって行く。

強力過ぎる接近への布石。
迎撃する気ならば、それごとねじ伏せてあげるわ。
炎ごとアクセル本体を貫くことが出来る。
レミリアにはその自信があった。

咲夜から逃げおおせる事の出来るアクセルだが、単純な闘争において、吸血鬼である自分が負けるはずが無い。
そんな慢心と自負、としてそれを支える実力。
アクセルが回避では無く、迎撃という行動を選択した時点で、レミリアは己の勝利を確信していた。
だが、アクセルはレミリアの攻撃第一波である弾幕を炎で相殺し、その鎖鎌の柄を胸前に引き寄せた。
そして、左手で柄を握り締め、更に法力を込めた。
 
体を捻り、柄を投げ放つ為、ぐっと体を沈める。
 
ついでに、鎖鎌の鎌部分を閉じた。
レミリアに刃を向けるのは躊躇われたのか。

鎖鎌がヌンチャクに早変わりした。
 その瞬間だった。
 
「しっかり防ぎなよ」

アクセルは大きく腕を振るい、左手に持った鎖鎌の柄をレミリアと蝙蝠弾幕目掛けて投擲した。

劫火と言っていい炎を纏い、繰り出された一撃にレミリアは目を瞠る。
正面にいたレミリアには、その投擲された柄が爆発しながら向かってくるようにすら見えた。
長く伸びる、巨大な炎の塊だった。

防ぐまでも無いわ…!
レミリアは“槍”を握り、体を反らせた。
その小さな手に万力の如き力を込めて、体を撓らせる。

魔力の余波で、空気に穴が空いた。
 レミリアがその炎の塊目掛けて 片方の“槍”を投げつけたのだ。

次の瞬間には、赤い炎と紅い蝙蝠の群れは互いに喰らい合った。
爆音と共に、アクセルの放った爆炎の柄が蝙蝠達を爆砕し、そして、その炎は“槍”によって砕かれる。

“槍”はアクセルの炎を消し飛ばすかのように貫通し、鎖鎌の主たるアクセルに風穴を開けんと迫る。
仮にこの“槍”を捌いても、トドメとばかりに本体のレミリアが肉薄してきている。

終わった。
ギャラリーの誰もが思った。
だが、レミリアだけは見た。
バンダナの奥に翳ったアクセルの眼光が、一気に鋭くなった。
 
アクセルは鋭く息を吐いて、レミリアに視線を向けたまま、“槍”へと踏み込んだ。
そして、左腕に込めた法力を解放しながら、握った柄を“槍”の切っ先目掛けて、突き出すようにして繰り出した。
そのアクセルの腕には巨大な炎の渦が発生している。
 
 上半身を捻り、一気に腕を突き込む。
向かってくる魔槍に、握った鎖鎌の柄を叩き込んだ。

 レミリアにとって、その光景は予想外だった。

強大な魔力が収束された槍。
それが、槍先からガラス細工のように砕け散った。
アクセルの腕を覆う螺旋の炎が、魔槍を砕いたのだ。

 魔槍の破片。その紅い硝子塵のような微かな煌きが舞う中、アクセルの纏う炎が揺らいだ。

もう肉薄するレミリアを遮る壁は無い。
 閃光。そして、対峙する青年と吸血鬼。
アクセルの貌には、余裕も恐怖も無い。
 ただ、鎖鎌を構え、じっとレミリアを見据え、待ち構える。
 普通ならば、人間に勝ち目は無い。
 だが、それは普通の人間に限った話であり、アクセル=ロウには当て嵌まらなかった。
 
 
 
ソルの耳に何か硬いものが砕け散る音が聞こえたのは、対峙するフランの持った禁忌「レーヴァテイン」がさらに巨大に膨れ上がった時だった。
 
状況は五分五分。
ソルはフランの頭巾を奪えず、又、フランもソルに決定打を与えることが出来ずに居た。
 フランがレミリアに加われば、アクセルがバンダナを守るのは厳しくなる。
 恐らく、長くは持たない。

 だが、それはレミリアにしても同じ。
 ソルとアクセルが同時に掛かれば、レミリアの頭巾を奪うことも出来るだろう。
 
 ただ、フランにとってはそんな事はどうでもいいことだった。
 瑣末なことだった。

今だ。
今の楽しさこそが、最優先される。
 
だから、フランはアクセルを襲わない。
 ソルをレミリアの元に行かせない。

 少しでも長く遊ぶ為だ。
 
 「10分なんて短すぎるよ」

 「…いや…長過ぎる…」

ソルは頬を膨らませたフランに言いながら、レーヴァテインに目を向ける。
その長大過ぎるフォルムは、フランが持つには余りにもアンバランスだった。
いや、アンバランスというよりも、非常識で馬鹿馬鹿しい。

赤い閃光とうねる炎を纏わり付けたその剣はまさに禁忌。
長さで言えば恐らくソルの封炎剣の十倍はある。
その威力も、先ほどよりも遥かに上がっていることは明白だった。

 レーヴァテインの炎が、微かに揺れ、少しだけ激しくなる。

「もうすぐ終わっちゃうから、もっと楽しまないと…」

 フランがポツリと小さな声で言った瞬間だった。

禁忌がソルを襲った。
フランがレーヴァテインを、腕だけで横に凪いだのだ。
斬撃の軌跡が、闇夜に鮮やかに残る。

その無造作で無慈悲な一撃を封炎剣で受け止めたソルは、その力のまま横殴りに吹き飛ばされた。

行くよ、ソル。
その言葉の後、フランの姿が消えた。
ギャラリーの目にはそう映った。
だが、ソルはフランの姿を目で追っていた。

背後だ。吹っ飛ばされながら、ソルは身体を捻る。
ソルの視界には、今まさにレーヴァテインを斬り上げようとするフランの姿が映った。
地面が砕けるような、恐ろしい音がした。

「ぐ…!」

防御は間に合ったものの、ソルはフランの切り上げ攻撃により、上空に打ち上げられた。
凄まじい衝撃に、ソルの身体が軋む。
ソルの視界の隅にギャラリー達がこちらを見上げているのが見えた。

フランは、あはっ、と笑った。
狂気に近い笑顔と、無邪気な笑顔を綯い交ぜにした表情で、フランは掌を吹っ飛ぶソルにかざした。

禁弾“スターボウブレイク”
ソルは打ち上げられながら、空中でフランのその姿を確認し小さく舌を鳴らす。
フランの手に集まる魔力。それが、明らかに今までの弾幕のそれとは桁が違う。
次の瞬間、フランの手の平から赤い光が放射状に溢れた。
放たれた弾幕。だが、それは今までの散弾銃のような弾幕では無かった。

膨大な光の嵐。それは、ショットガンでは無く、七色に輝くミサイルの群れだった。
そのミサイルの束が、上空のソル目掛けて殺到する。

ギャラリーに混じるパチュリー、咲夜、美鈴は、フランの放った「ごっこ遊び」の規模を超えたその火力に目を瞠る。
紫は何かを見極めるように目を細めた。
 霊夢は酒を零し、魔理沙は思わず席から立ち上がっていた。

ソルは、向かってくるスターボウブレイクを見つめながら、封炎剣を握る手に力を込める。

…加減を知らん奴だ…。
ソルはその拳を殺到するスターボウブレイク目掛けて繰り出した。
拳から解放された大容量の法力は炎へと変わり、その炎は巨大な法術陣を夜空に象る。
虹色のミサイルを遮断するかのように、法術陣は燃え盛る壁として、ソルの前に佇立する。
 
 禁弾が、法術の炎壁と接触し、空中で大爆発を引き起こした。
轟音と激震が、夜空を砕き、闇に染み込んでいく。

スターボウブレイクを相殺し、ソルの炎壁もまた霧散する。


その爆風が観客席に押し寄せるが、結界に守られたそのギャラリー達にはそよ風程度のものだった。
その風が、薄く笑う紫の金髪を揺らす。

ふふっ…なかなかやるわねぇ。優雅にグラスを傾ける紫。
すげぇな…。わくわくとした様子で、魔理沙は夜空を見上げている。

派手好きな魔理沙は、今にも「私も混ぜろ!」と飛び出していきそうだ。

底が見えないわね、彼…。いえ、それは向こうも同じかしら…。
呟いた霊夢の視界の先では、アクセルとレミリアが切り結んでいる。
 


金属の削れるような音を響かせ、火花が散る。
レミリアの右手にはグングニル、左手には魔力の赤い鎖、チェーンギャング。
かなり本気モードだ。

そのレミリアと対峙するアクセルの牽制能力と捌き技の数々は正に神業だった。何せ、吸血鬼であるレミリアと渡り合っている。
しかも、それが弾幕の打ち合いではなくレミリアの得意分野であるはずの直接戦闘においてだ。
 
「うお!?」

 レミリアの攻撃を捌きながら、アクセルは素っ頓狂な声を上げる。
アクセルの操るものとは違う、先端に鏃のような刃が付いた赤く、太い鎖。
それが突如レミリアの手首から蛇のように伸びて来たからだ。
チェーンギャング。その刃がアクセルに迫る。

 咄嗟に鎖の柄を下から振り上げるようにして叩き込み、チェーンギャングを掻き消す。
その隙を突かれた。其処へ、レミリアが更に肉薄する。 
レミリアは飛来しながら片手に持つ“槍”を構え、アクセル目掛けて驟雨のような突きの雨を降らせた。
 それは横なぐりの刃の雨だった。
 アクセルは飛び退るしかなかった。
だが、バックステップを数回踏みながら、その刃の雨を正面から捌いて見せる。
捌いて、捌いて、捌きまくった。

 観客席から歓声がわっ、と上がった。

やるじゃない…!
 呟いたレミリアは、突き攻撃を止め、距離を取った。
 助かった。アクセルは思った。
大間違いだった。
 
 レミリアの持つ“槍”が、更に大きく膨れ上がった。
 ただでさえ長大な魔槍が、赤い魔力の渦を纏わせて、レミリアの手の中で脈動する。
 とんでもないプレッシャー。
 轟音が聞こえるのは、恐らくアクセルの気のせいでは無い。
 
 唸っている。槍が。吼えている。
 レミリアはぐぐっと体を仰け反らせ、槍を投げるモーションを取った。
 ゴォォォォ、という、まるで風が渦を巻きながら、槍に飲み込まれていくような音が聞こえた。
 馬鹿馬鹿しい程の予備動作の大きさだったが、避けれられる気が微塵もしなかった。
 
あれは、本物の“神槍”だ。
 放たれれば、必ず届く。そういう類の攻撃だ。
 アクセルは意味も無くそんな風に思った。

しっかり防ぎなさい…!
 
 レミリアの声をともに、放たれた“槍”は、もうそれこそレーザー光線だった。
 鋭利で、禍々しい、赤い光の塊だ。
 やべぇ、と言う間さえ無かった。
だが、その代わりに鎖鎌の柄に法力を込めた。

避けられないなら、何とかしねぇと…!

一瞬のうちに棍棒へと変化させたアクセルは、“槍”を棍でギリギリの所で受け止める。
 衝突の瞬間、アクセルは、自分の体から感覚が吹っ飛びそうになるのを感じた。

 「ぐ、おぉおぉぉぉぉっ…!」
 
 ズ、ズズ、ガギギギギギ…、という不気味な音が響く。
 
 無理。駄目だ。駄目駄目。これは不味い…!

アクセルの身体が空中に浮き上がり始めた。
“槍”の力に押しまくられている。
 法力の瞬間的な爆発力はアクセルにも在るが、それを持続させるとなると話は変わる。
レミリアの放った“槍”を相殺出来るても、受け止め切るとなると、やはり吸血鬼であるレミリアに軍配が上がる。

その好機を逃さず、レミリアは猛突進する。
身体を“槍”に文字通り持っていかれているアクセルは、無防備も良いところだった。
これならば容易く首を縊れる。いや、バンダナを奪える。
ソルとの戦いは、またの機会でも良い。楽しかったわ。

レミリアは思いながら、更にもう一本の“槍”を手の中に作り出す。
その“槍”の間合いにアクセルを捉える。
八重歯を覗かせながら、レミリアは凶悪な笑みを浮かべた。
私の勝ちだと。

だが、アクセルの目は諦めていなかった。

レミリアは咄嗟に空中で静止した。正解だった。
アクセルは猛進してくるレミリアを見据えながら、“槍”を受け止めていた棍棒に法力を充溢させ、一気に解き放ったからだ。

「秘密兵器さ…!」

法力を纏ったアクセルの棍棒は中ほどから折れ、炎を吹き上げながら再び鎖鎌へと姿を変えた。

そして、その炎は受け止めていた“槍”を砕き飛ばし、消滅させる。

 だが、それで終わりでは無かった。
 練成されたアクセルの鎖鎌の鎖。
それが、有り得ない長さまで伸び、まるで蜘蛛の巣のようにアクセルの足元に張り巡らされる。

レミリアは瞠目する。

違う。あれは蜘蛛の巣では無い。
あれは、魔術的なものだ。鎖で描かれた魔法陣だ。

アクセルが鉄鎖で刻んだ魔法陣から、数え切れぬ程の燃え立つ鎖鎌の柄が現れた。
その光景は、“召還”或いは、“練成”。そんな言葉を連想させる。
白い波ような焔を灯した鎖鎌の群れが、首を擡げた。

さながら、獲物を狙う蛇のように。
 アクセルは唇をチロリと舐めた。
 その瞬間だった。まるでアクセルの壁となるかのように、鎌がレミリア目掛けて吹き荒れた。

練成された鎖鎌の柄は、刃こそしまわれているが纏う炎は本物だ。

レミリアはその鎖鎌の嵐を前に、手にした“槍”を握り潰す。
その表情には満足感と焦燥感が浮かんでいる。

レミリアは大きな間違いに気付いたのだ。
アクセルが咲夜を凌いだのは、彼の持つタイムスリップ体質との相性と、咲夜の油断があったから。

そうレミリアは考えていた。
だが、実際に戦ってみて解った。
認識違いだった。
アクセルは種族こそ人間にカテゴライズされるが、その戦闘力は並の化物を遥かに凌駕する。
下手をすれば爵位持ちの悪魔すら刈ってしまうだろう。

聖戦という暗黒時代を生き、異界の王・イヌスの化身であるジャッジメント、果ては破壊神ジャスティスと対峙した経験はやはり伊達では無い。

 レミリアは、一つの結論を出す。

片手で足る相手では無い。

レミリアは握り潰した槍の代わりに、両手から赤い魔力の光を溢れさせた。

“運命”ミゼラブルフェイト。
レミリアは大きく腕を振るい、己の魔力をオーラとして一気に放出する。
暴力的なまでに吐き出された魔力のオーラは幾束もの太く赤い鎖を形作り、それらが暴れ狂いながらアクセルの鎖鎌の嵐とぶつかり合う。
鳥肌が立つような金属音が、辺りに響いた。
互いの鎖が激しく喰らい合い、火花と炎を撒き散らす。



(やはり、私は随分手加減されていたようね…)

夜空を赤く濁らせるその光景を見ながら、咲夜は眉間に皺を寄せた。
以前咲夜が戦ったときは、アクセルは攻撃らしい攻撃を仕掛けて来なかった。
手を抜いていた。それが、今のアクセルの戦闘ではっきりとわかった。
アクセルの戦いぶりは、青年らしくない、独特の老練さを感じさせる。
古強者。そんな表現が、戦うアクセルには似合う。

流石、強いですね…。
眩しそうに、何処か悔しそうに呟き、咲夜は眼を細めた。

咲夜が、アクセルの戦闘を見つめていると、凄まじい爆音が響いた。

ソルの封炎剣と、フランの極大レーヴァテインが空中でぶつかり合ったからだ。
どうやらフランのボルテージもかなり上がっているようだ。
握るレーヴァテインの激しい炎が、それを物語っている。

フランがそれを振るう度、禍々しい赤色の帯が夜空を彩る。
禁忌が、赤く夜空を裂く。

「あははははは!」

フランはレーヴァテインを振り回し、真上からソルを打ち据えた。

「…ちっ…」

それを封炎剣で受け止めはしたものの、余りの威力にソルは上空から今度は下に叩き落される。
落下していくソルを追って、フランもまた急降下していく。
序に、落下していくソル目掛けて、フランはレーヴァテインを容赦無く打ち込んだ。

一撃目は斜め上から、二撃目は水平に。
大地を穿つその禁忌の力を、落下しながら封炎剣でいなすソルは、次の三撃目。
振り下ろされたレーヴァテインに合わせ、封炎剣を叩き込んだ。

空間が軋むほどの衝撃。ぶつかり合った神器と禁忌。
結果、ソルはそのまま更に下向きにぶっ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

その衝撃に濛々と土煙が上がり、ソルが落下した場所は岩盤がめくれ上がっている。

「やっぱり、調子が悪いみたいだね…ソル」

それを見下ろす真っ赤な瞳。
漆黒の闇の空を赤く染め抜いて、その赤い瞳には失望が浮かんでいた。
期待はずれだ。つまんない。
フランは興味を失ったおもちゃを見るような目で、眼下を見下ろしていた。
そこにはこちらを見上げ、面倒そうに息を吐くソル。
フランは視線をずらし、切り結ぶレミリアとアクセルを漫然と見つめた。
これなら、アクセルと遊んだほうが面白そうかな。残念だな。

だが、そこまでつらつらと考えていたフランは、ある違和感を覚えた。

あれ? 

無い。

ソルの封炎剣とぶつかりあった箇所、レーヴァテインの中ほどから先が消滅している。

フランはハッとして眼下のソルに視線を戻す。そして気付いた。
そのソルの持つ封炎剣が一回り長くなり、さらに形状も直線的なフォルムに変化している。
封炎剣に法力を宿し一段階強化されたその形状は、肉厚の刀身と長い刃渡り、そして凹凸のある刃のせいで、巨大な鍵にも見える。

打ち負けた?
私のレーヴァテインが?

あはっ、と、フランの表情が狂喜に染まった。

やっぱり。
ソルと遊ぶのは楽しい。面白い。
時間が無いのが凄く惜しいよ。
唇が裂けそうな笑顔を浮かべたまま、フランは肩を揺らした。
その姿がブレた。霞むように歪んで、その残像はもう一人のフランとなった。
そしてまた一人。もう一人。
音も無く、彼女達は夜空に現れた。

一人のフランから、染み出すようにして現れた彼女達は、皆、楽しそうに笑っている。
フランが全部で四人になった。

フォーオブアカインド。
謳うように紡がれたフランの言葉は、恐らくソルの耳には届かなかったのだろう。
だが、ソルの表情は、面倒そうに歪んでいる。

悪夢。
ソルの瞳に写った光景は、そう言い表すしかない光景だった。
笑いながら突っ込んでくる、四人の悪魔。

…付き合いきれん…。
ソルが見上げるその先で、四人のフランは同時に弾幕を張った。
破滅のシャワーが降り注いでくる。

ソルは地面を削るように、下から上へと封炎剣を振り上げた。
地を抉った剣は、その地面を溶岩の高津波と変える。
序に、剣の切っ先からは巨大な炎弾が打ち出された。

巨大な灼熱の炎弾が、弾幕の層を穿つ。
吹き上がったマグマの津波が、悪魔を飲み込まんと迫る。

だが、それをかわすように飛び、四人のフランは各々がばらばらの方向に飛行。
炎の弾と溶岩の隙間を縫うようにして、彼女達はソルへと猛襲する。

その最中。
ソルの視界からフラン達が消えた。
吸血鬼の筋力を利用した爆発的な超加速。

 どぱぁ、と溶岩の津波が砕け散る音が、辺りに響いた。

次の瞬間、風を切る、というより抉るような音がソルの耳に聞こえた。
ソルは素早く背を守るように封炎剣を担ぐ。それとほぼ同時。
瞬間移動のようにソルの背後に一人のフランが現れ、腕を振り上げた。

ゴギャッ、と、金属が軋む音が鳴った。
封炎剣にフランの繰り出した鋭い爪がぶつかり、激しく火花を散らした。

続いて、ソルは首を捻る。右だ。飛んでくる。
風を切り裂く音が鳴る。
飛来してきたフランのとび蹴りを間一髪でかわす。

殺気。
今度は上だった。

ソルは身をかわしながら、爪を振り下ろしてきたフランの首を

「うっ…!」

封炎剣を持っていない右手で掴む。

「…テメェが本体か…」

「そうだよ」

フランの首を捕まえたまま、ソルは正面を見据える。
そこには今、正に弾幕を放とうとしているフランが居た。
ソルの動きを止めているフラン達ごと蜂の巣にするつもりなのだろう。
掴んでいた分身体であるフランの、その細い頚を放し、ソルは面倒そうに視線を巡らせる。
けほっ、と小さな咳を漏らして、ソルに捕まっていたフランは、夜空へと逃れた。

ソルを見下ろす、八つの紅い瞳。
夜空に浮かぶその瞳を、ゆっくりと見回し、ソルは鼻を鳴らす。

「なら…」

ソルは表情を変えずに、低い声で呟く。
封炎剣を逆手に持ち、半身立ちになる。そして、すっと腰を落とした。

「…“こいつら”は消し炭にしても構わんな…」

低いその声に、ソルの周りにいたフラン達の表情が強張った。
フランの分身、というべきか。
本体のフランは、嬉しそうに顔を歪めた。

 「やってみて…!」

その愛らしい顔に浮かびかけた恐怖を、更なる狂気に塗り替えて、フランは狂喜を滲ませた声で叫ぶ。
そして、先ほどのスターボウブレイクに匹敵するほどの弾幕をソル目掛けて放った。
同時に、ソルの周りに居た二人のフラン達も一斉にソルに飛び掛る。

それを見たソルは封炎剣を再び地に叩きつけ抉り、法力を流し込む。

 「…燃えろ…」

法力が炎へと変わり、ソルを中心に業火の顎が顕現する。
サーベイジファング。天をすら焼き焦がすその巨大な火柱の群れは、フランの放った弾幕を喰らい尽くした。
 
火柱が食い尽くしたのは、弾幕だけでは無かった。
 
「うあ…」「あ…」「ひっ…」

そしてその無慈悲なる業火の牙は、3人のフラン達の小さな悲鳴をも飲み込んでいく。 
フランは息を飲む。妹紅の炎を凌ぎかねないその火力。
その炎の揺らめきの中から、ソルが飛び出して来たからだ。

フランは飛び上がって逃げようとしたが、ソルはそれを許さなかった。

「あっ!?」

ソルは、飛び上がろうとするフランの足を引っつかんだのだ。

「…頭巾は貰う…」

流石にこの状況は予想外だったのか。
狂気の表情は引っ込み、代わりにサッとフランの頬に朱が刺す。

「あ、あっ、見えちゃう! ソルのえっち!」

フランは必死にスカートを押さえるが、ソルは顔色一つ変えない。
下着など一顧だにしない。ソルが見ているのは、フランの頭巾のみ。

「あ~っ! バカバカッ、見ないでっ、見ないでよぉ~!」

パタパタと翼を必死にはためかせ、ソルから逃れようとするフランだったが、そんな事でソルが動じるはずもなく。
弾幕を放つなりすれば良いのだが、かなり焦っているのだろう。
フランが半泣きになった時だった。

 ドン! ドドン! パラパラパラパラ…。
 やたら軽い感じのする破裂音が響いた。

短い花火が観客席から上がったのだ。
見れば、パチュリーが手のひらを上に上げたまま、懐中時計に目を落としている。
どうやら時間切れのようである。

ソルはフランの脚を放し、溜息を吐く。
フランはスカートを押さえながらソルから少し離れた所に着地した。


「うー! うーー!!」

ソルがアクセル達の方を見ると、可愛い唸り声を上げながら、レミリアはアクセルを睨んでいた。
 
睨まれているアクセルの手には、棍棒とレミリアの被っていた頭巾。

「そ、そんな怒らないでよ、レミリアちゃん。ただのフェイントじゃん? ね?」

 どうやら、アクセルの方は一応“勝ち”のようだ。
ソルはやれやれと溜息をつく。
 
「よくわからないから、私達だけでもう一回しようよっ!」

「…断る…」

「え~~~!」




結果から言うと、アクセル達の弾幕ごっこショーは大好評のまま御開きとなった。
出し物以外にも美味な料理と酒を味わうことも出来たのだから、観客達が満足するのも当然と言えば当然と言える。
パーティーの後片付けの方は、妖精のメイド達が咲夜の指示の下で頑張っていた。
こんな大規模なパーティーを何度も開けてこれたのも、咲夜の御蔭なんだろう。

ある意味、紅魔館って咲夜さんで回ってるとこあるよなぁ。
アクセルはぼんやりと考えながら紅茶の入ったカップを口に運んだ。

アクセルと、レミリア、フラン、そして咲夜は、紅魔館の客間――アクセルの自室で集まって居た。
パチュリー、美鈴も居る。
すごい人口密度だった。
アクセルはその光景に苦笑いを浮かべる。
 
 咲夜は、アクセルに紅茶とお茶菓子持って来てくれた。
「ソルは何時の間にか帰ってるし、罰ゲームはどうするのよ」と言って、レミリアとフランもアクセルの部屋へと訪れていた。
  
パーティー参加者は、とっくに帰路に付いている。客として残っている者は、もう居ない。
ソルも、タッグ戦が終わったら、さっさと帰ってしまった。
 それからは、もう幻想郷ののんべぇ達の祭り。
高まったテンションの行き場は、アルコールと弾幕。
もう、湖の畔は光の洪水だった。
片付けが終わりかけている今ですら、弾幕の光が瞬いている状態だ。
 此処の皆が常識外れの者揃いだということは、アクセルも既に知っているので、特に気にはしなかった。
 恐らくは、今もまだ酒のアルコールが脳を蕩かせている連中は、湖の畔で馬鹿騒ぎを続けていることだろう。
 
 そんなことよりもだ。
 
 
「機嫌直してってレミリアちゃん! ほらほら、スマイルスマイル!」

「うー…(ジロリ)」

タッグ戦が終わってから、レミリアの機嫌が中々直らない。
赤色の1人掛けソファに体育座りしながら紅茶を啜る姿は年相応に可愛らしいのだが、
半泣き寸前の表情で睨まれてたら流石に居心地が悪い。

原因はさっきの弾幕ごっこの終盤まで遡る。

レミリアの「ミゼラブルフェイト」の鎖の嵐を、アクセルが相殺した後のことだ。
続けて始まった接近戦。
その最中に、ソルが馬鹿でかい法術―サーベイジファング-を放った。
位置的にはレミリアの背後。
かなり距離はあったが、その爆熱は十分すぎるくらいに伝わって来た。
アーチーチーアーチーだった。
そのタイミングを、アクセルは利用した。

「今だぜ旦那!」と、レミリアの背後を見ながら叫んだのだ。
フランを抑えたソルが、今正にレミリアの背後に居る。
正にそんな感じで。

その咄嗟の演技は、レミリアの虚を完全に突いた。

レミリアはびっくりして「ほっ…!?」と、声を漏らして振り返った。
振り返ってしまった。

そこはもうアクセルの間合いだった。
レミリアちゃんは後ろを見ている。
それが一瞬でも十分だった。
頭巾目掛けて鎖を伸ばせば一丁上がり。
結果、アクセルのフェイントの見事に引っ掛かったレミリアは、頭巾を取られ、敗北。
ソファに三角座りをするレミリアは拗ねた子供のようだ。
普段のカリスマは何処へやら。
見た目通りと言えば見た目通りなのだが、そんな事を言えば明日から野宿が確定しそうなので黙っておく。

「仲直りしようぜ、レミリアちゃん。罰ゲームは無しってことで、許してよ…」

駄目かなぁ…?
アクセルは手を合わせてレミリアに頭を下げる。
しかし、レミリアの方は、その申し出に顔を顰めた。
サクサク、とフランがクッキーを齧る音が、部屋に響く。
咲夜はレミリアの後ろに控え、瞳を閉じて微動だにしない。瀟洒だ。

そんな三者三様の様子にアクセルは、再び苦笑を漏らしそうになって、堪える。
レミリアの紅い眼が、アクセルに向いたからだ。

「それじゃ、まるで私が施しを受けるみたいで嫌だわ。罰ゲームは受けるわよ」

闘いでの約束を違えるような真似はしないわ。
レミリアは言って、鼻を鳴らす。
流石です。お嬢様。 咲夜は、満足そうに、微かに頷いた。

腕を折るか、目を潰すか、舌を刻むか…何でも良いわ。
そう言ったレミリアは、ふん…、と鼻を鳴らし、唇を微かに歪めて見せる。

アクセルは、参ったな、と頬を掻いた。

どうにかしてご機嫌を取らないと。
そう思いながら、視線をレミリアから逸らした時だった。
 
 「ほむ…?」
 
クッキーにぱくつくフランと眼が合って、アクセルは思い付いた。

「それじゃ、罰ゲームは…レミリアちゃんが、フランちゃんの言うことを一つだけ聞く、ってのは…どうかな?」

アクセルはフランとレミリアの顔を交互に見てから、肩を竦めて見せる。
旦那も、さっさと帰っちゃって、罰ゲーム自体を放棄してるしさ。
レミリアは、それはそうだけど…でも…、と呟き、少し納得出来なさそうだった。
だが、フランの方は急いでクッキーを噛み砕き飲み込んで、瞳を輝かせた。

「いいの!? 私がお姉さまに何かお願いしても!?」

フランは立ち上がり、レミリアの傍へ、しゅばっ!っと移動すると、アクセルとレミリアを見比べた。

「まぁ、あんまり無茶じゃない範囲でね」

アクセルはフランに言って、紅茶の入ったカップを口へと運んだ。
いい香りが鼻腔を擽る。
美味いなぁ、とアクセルが呟く。

それから、今度は咲夜と目が合った。
咲夜がアクセルに、静かで冷たくも、しかし柔らかな視線を向けていたからだ。
レミリアの後ろに控えていた咲夜は、レミリアに気付かれないように、微かに唇を動かした。

ありがとう。
咲夜の唇が、そう動いた。
それから、微かに笑みを浮かべて見せた。
それはレミリアを気遣ったアクセルの言動に対してだろう。
普段はクールビューティーな彼女の、珍しくも美しい表情に、アクセルは一瞬驚いた表情を浮かべてから、ウィンクを返した。

 そんな二人のやり取りにも気付かず、レミリアの方は、ふふん…、と妹相手に胸を張っていた。
遠慮は要らないわよ。何でも言いなさい。フラン。
苦痛など恐れていない。そう言わんばかりに、傲然と言い放ち、レミリアは唇を歪ませる。

じゃあ、えぇと、えぇと…。
フランは必死で考えた。勿論、それはレミリアを痛みつける為ではない。
レミリアにお願いを利いて貰う、という事実が重要なのだ。

フランも、姉であるレミリアに苦痛を与えたいなどとは思っていない。
少しで良い。優しくしてくれるなら、何でも良い。

そうだ!
フランは何かを思い付いた顔で、ばっとレミリアに向き直った。

「まんもすふぁいやーって何か教えて! お姉さま!」

レミリアの不敵な笑みが盛大に引き攣った。
アクセルは紅茶を噴き出し、咲夜は顔を隠すように俯いた。
その質問は、最悪の罰ゲームとなってレミリアを襲う。

「象さんの種類なんでしょ? 何なのまんもすふぁいやーって?」

ねぇねぇ、お姉さま。
妹の無邪気な視線に、レミリアは頬を真っ赤にして後ずさった。

「そ、そうよ…。象さんの、な、仲間…みたいな、ものよ?」

紅い眼を泳がせて、レミリアは歯切れ悪く答える。
その姉の様子に、フランは首を傾げた。

お姉様も、詳しくは知らないの?
く、詳しく、というか…。
 見たこと無いの、お姉様?
 見…! そんなこと無いっ…わよ。
 じゃあ、何処に居るの? 象さん。
 何処って…、それは…。
 
 もうレミリアは、前を向いていられなくなった。
 助けを求めるように、咲夜に視線を向けた。
 
 フランが、そのレミリアの視線を追った。
 咲夜は、持っていた銀の盆で顔半分を隠した。
 しかし、逃げられなかった。
 
 咲夜は、知ってるの? 象さんの居場所。
 い、居場所…、とは、その、ぞ、象さん…の、ことでしょうか?
 うん。

 フランは無邪気故に、容赦が無かった。
 
 えぇ、と…、その、象さんは、殿方に付…、殿方が飼っておられるもので…。
へぇぇ、そうなんだ。それって、大きいの、小さいの?
大きさは…、人、それぞれで…、お、大きさよりも、誰の象さんなのかが…重要なのであって…。
もう無茶苦茶に顔を赤くした咲夜が、ぽそぽそと呟いた。
 頑張るなぁ、と感心しながら、アクセルは紅茶を啜る。
 
 奥が深いんだね、象さん。 まんもすふぁいやーは、ソルが飼ってるの?
 そ、そう、なのでしょうね…。
 どうやったら飼えるの?

咲夜は、とうとう黙り込んでしまった。

 またとんでもないことを…。
アクセルは貌の筋肉が引き攣りそうになった。
 レミリアはさっきから俯いて黙ったままだ。
 
 二人の様子がおかしいことに気付き、フランは首を傾げる。
 どうしたの? お姉様も咲夜も、顔が真っ赤だよ?
 
 「フランちゃん」
 
 もう見ていられない、と助け舟をアクセルが出した。
 
 「象さんについては、また今度ってことで…」

そこまで言った時だった。
 フランが、口を開いた。

 「アクセルも象さんを飼ってるの?」
 
 「お、俺かい…まぁ、そうだな、飼ってるよ」

 「何処に居るの? さっきから何だか回りくどい言い回しばっかりだし…」

 象さんって、結局何なの?
 フランは、アクセルの頭からつま先まで視線を這わせて、怪訝そうな表情を浮かべる。
 レミリアは、被っていた頭巾を両手で下に引っ張り、顔の上半分を隠した。
 咲夜も顔を俯かせて、唇をきゅっと噛んでいる。

 その様子を見て、アクセルはこりゃやべぇな、と思った。
 フランに罰ゲームを振ったのが、こんな大惨事になるとは。
 アクセルは、えぇと…、と呻いてから、フランに笑顔を見せた。

「男の大事なもんさ。一般的には、おちんちぼほっ!?」

おちんち…? と首を傾げるフランの目の前。
アクセルは、レミリアのとび蹴りを喰らって吹っ飛んだ。

最後の最後まで、騒がしい一日だった。



[18231] 十七話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:37
冥界の景色は独特だ。
白玉楼の眼下に広がる自然は、荘厳であり、神秘的でもある。

だが、圧倒的に違和感を抱かせる要素があった。
それは、「色」が無いのだ。

勿論、木の色である緑が見て取れる。
だが、それは単なる「色」であって、生きた「緑」という色では無い。

緑色に見えるだけ。
自然の中にある「緑」にあるはずの生命力が、冥界の自然の景観からは、見る者に全く伝わって来ないのだ。

生気を全く感じさせない景色は、まるで水墨画のようでもある。
鳥の囀り一つしない。
獣の伊吹もしない。
風の音も無ければ、暖かな陽光も無く、当然、それに揺れる影すら全く無い。

空僻の地。
死んだ景色。

その静か過ぎる景色をぼんやり眺めながら、白玉楼の豪勢な門の屋根の上に腰掛け、シンは妖夢が握ったオニギリにぱく付いていた。

白玉楼の主である幽々子の用心棒として居候する身となり、今は警備の最中。

その差し入れを妖夢が持ってきてくれたのだった。

拳大のお握りの数は20個。
常人ならば到底食べきれないような量のそれを、半ばまでペロリと平らげ、シンは一つ伸びをする。
 
 昨日の夜に開かれた紅魔館のパーティーには、シンは参加していない。
 白玉楼の警護をしつつ、手合わせを願い出た妖夢に付き合っていた。

 シンも、紅魔館のパーティには興味はあった。馬鹿騒ぎも嫌いではない。
タッグ戦を観戦するのも楽しいだろう。

だが、観ているよりも、自身の体を動かしている方が楽しく、また充実した時間を送れる。
 手合わせの相手である妖夢も強い。文句無しだ。
 妖夢の方も、シンとの手合わせを楽しみにしているようだ。
シンと対峙し、木刀を構えた時の妖夢の眼は、真剣でありながら、活き活きとしている。
 
 差し入れを持って来た妖夢はが「今日は負けませんよ」と言っていた。
恐らく、今日も手合わせをすることになるだろう。
 
 俺だって負けないぜ。
 
 そう思いつつ、シンはお握りを口へと放り込む。
それから何かに気づいたかのように瞳を細め、もぐもぐと租借しながら視線を門の背後へと向け、そのまま視線を下に下ろした。
 
 其処には、蝶が舞っていた。
青白く、淡い光を放つ、蝶だ。
いや、青色だけでは無い。
白に、紅に、黄に。
ゆらゆらと揺れている。
冥界の薄暗さを、儚く彩る、微かな光。

その光のゆらめきを纏うようにして、彼女はシンを眺めながら佇んでいた。

いや、佇んでいる、という訳ではない。
ゆっくりと。
本当にゆっくりではあるが、こちらに向かって来ている。

漂って来ている、と言った方が正しいかもしれない。
何せ彼女は地に足を着いていない。
浮いている。
それ故に、存在感が非常に希薄であり、纏わせる蝶と同じく、見ている者に途方も無い儚さを感じさせる。

ただ、儚さも、彼女の美しさを際立たせる一つの要素となっていた。
 
非現実的。
そんな言葉が似合うだろう。

亡霊はシンの視線に驚いたように目を丸くし、それから、その儚さに似つかわしくないような天真爛漫な笑顔を浮かべた。

「良く気づいたわねぇ、シン君。せっかく驚かせようと思って、足音もしないようにゆっくりと浮いて来たのに…」

亡霊―――西行寺幽々子は鈴のように笑いながらふわりと浮き上がり、門の屋根に座るシンの隣に腰掛ける。
悪戯好きな亡霊を前に、シンは少し困った顔になった。

「いや、俺をびっくりさせる意味がわかん…ちょ、ユユ姉! それ俺の!」

シンの言葉など聞かず、幽々子はシンの傍に置いてある盆から、お握りをひょいと掴んだ。

「良いじゃない、こんなに一杯あるんだし一個位…。うん、美味しい」
 
お握りを頬張る幽々子の幸せそうな笑顔に、シンもつられて笑った。

現在、妖夢は幻想郷に彷徨っている魂を連れ帰る仕事に出ている為、シンはその留守を預かっている。
相当に信頼されているのか、或いは、幽々子が強すぎる為に警護自体にそこまで深い意味は無いのか、シンには判断出来ない。
 自由気ままにふらふらと漂っている亡霊嬢を見ている限りでは、シンの護衛など留守番程度のものなのかもしれない。

 妖夢は言っていた。
 幽々子様は幻想郷でも、十指に入るであろう御方です、と。
 ただ、今の柔らかそうな笑顔を浮かべ、お握りを頬張る姿からは、そんな威厳や脅威を感じることは出来ない
 
 シンは「しょがねぇなぁ」みたいな笑顔になって、それから、門屋根に座りなおした。
 
 「こんなトコでユユ姉と御握り喰ってたなんてばれたら、妖夢にぶった切られそうだ」
 
 「あら、そんな事はないと思うけれど…。まぁ、あの子も真面目だから」
 
 言って、幽々子は、ふふ、と笑う。
 その笑みは柔らかく、シンは、この冥界の薄ら寒さが少し暖かくなったように感じた。
 
 「流石に、私が門の上で寛いでいる、というのは不味いかもしれないわねぇ」
 
 しかも、御握りまで食べながら、なんて。確かに、妖夢に怒られちゃいそう。
 
 くすくすと笑いを零しながら、幽々子は口元を着物の袖で隠す。

 「俺の場合、怒られるだけじゃすまなそうだけどな…」

美人は怒ると怖い。
 妖夢はどこまでも誠実であるが故、余計だ。
 
「じゃあ、何か面白い話を聞かせてくれないかしら。そしたら、私も大人しく戻るわ」

 じっと中で居るのも、退屈なんだもの。今日のお仕事も終わっちゃったし。
にこにこ顔で幽々子は言って、シンに期待を込めた瞳を向ける。
つまりは、退屈凌ぎの相手をして欲しい、ということだろう。

まぁそれぐらいならと、シンはポリポリと頭を掻く。

「面白い話って言われてもな…。此処の奴らが既に超面白いから、俺の話なんて下らないと思うぜ?」

 幽々子はすすっ、とシンの傍へと腰を寄せる。

「そんなことは無いわ。幻想郷の住民は確かに面白いけれど、
外の、またその外の世界の話は貴重だし、何より興味深いし新鮮だもの。
シン君が、今まで見てきたものを聞きたいわ」
 
 シンを見上げる幽々子の瞳は、好奇心豊かな少女そのもの。
 大人っぽい雰囲気とのミスマッチが、とんでもなく魅力的だ。
どこか艶美で、可憐で、妖しく、儚い。 
シンは幽々子に見詰められ、ドキリとして、すぐに眼を逸らした。
 
 
「ん、まぁ、別に話をする位なら…全然良いけどよ」
 
シンはソルと過ごした数年間の旅のことを、話すことにした。
 
親父と呼び慕うソルとの出会い。

実父が王であること。

賞金稼ぎとしての生活。

母を救う為に戦ったこと。
 

幽々子は実に真剣にシンの話を聞いていた。
シンの話の内容に合わせ、驚いた表情になったり、息を呑んだり、笑ったり、涙ぐんだり。
そのうち、シンも話をするのが楽しくなってきた。
 
そして、話をしているうちに、ふと思った。 

そういや俺、ユユ姉のこと、あんまり知らねぇな。
目の前にいる儚く、それでいて天真爛漫な亡霊嬢が、どんな過去を持っているのか。
ころころと変わる幽々子の表情を見ていると、聞いてみたくなった。
 
「なぁ、ユユ姉。ユユ姉ってさ…」

そこまで言って、シンは、「…まぁ、いいや」と言葉を止めた。

何となく、それは聞いてはいけない気がした。
亡霊である幽々子の過去は、生と死を跨ぐことになるだろう。
やはり、聞くのは躊躇われた。

「むむ、私がなぁに? 気になるわねぇ」

しかし、すぐに幽々子は人懐っこそうな、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべ、シンの顔を覗き込んだ。
世の男が昇天してしまうような、可愛すぎる表情だった。
幽々子のそんな表情を向けられ、シンは門の上から転げ落ちそうになった。
 
「い、いや、何にもねぇって…」

慌てて顔を逸らし、シンは冷静を装う。
しかし、幽々子はそれでは納得しなかった。

「駄~目。ちゃんと言いなさい」

さらにシンに身体を近づけ、顔をもう一度覗き込んできた。
やばい、とシンは思った。
真近くでみる美人過ぎるお姉さん―幽々子―の可愛らしい仕草に、シンの脳は茹で上がりそうだった。

何か言わないと幽々子は納得しない。

そうだ、何か言わないと。

「いや、だから! えぇと、ユユ姉ってさ」
 
沸いた頭で、シンは必死に無難な言葉を探す。

挙動不審な動きで幽々子と距離を取りながら、鶏のように声を震わせる。
頭をぼりぼりと掻きながら、シンは明後日の方へと視線を向けたまま必死に考えた。

何か言え。
ごまかさねぇと。

「き、綺麗、だよな…」

シンの顔が、赤から青色に変わった
何を口走ってんだ、俺は。
シンは視線を明後日の方に向けたまま、冷や汗が頬に伝うのを感じた。

ゆっくりと幽々子へと視線を戻すと、きょとんとした表情の幽々子の頬に、朱がさした。
そして、幽々子は左手を自分の頬に当て、少し照れたように微笑む。
 
「ふふ、ありがとう…お世辞でも嬉しいわ」

「いや、お世辞とかじゃねぇんだけど…。まぁ、いいや」

シンは言いながら、誤魔化せたことに一安心。
そして、お握りを引っつかんで口の中に放り込んだ。

「さて、俺はいろいろと話をしたぜ。約束通り、妖夢が帰ってくるまでは、中で大人しくしててくれよ」

え~…、と不満そうに幽々子は頬を少し膨らませた。

「大丈夫よ。シン君が警護してくれてるんだもの。実際、気配を消した私にも気付くくらいなら、例え誰が来ても見逃さない筈よ」

「俺の場合は…何となく気付いただけなんだけどな」

「それで十分よ。私が気配を消したら、長いこと一緒に居る妖夢でも気付かないわ。
…貴方のその鋭敏な感覚は、生まれつきなのかしら?」
 
生まれつき。
その言葉を含む質問に、シンは一瞬だけ眼を逸らし、それから逡巡するように視線をさ迷わせた。

シンらしくないその仕草。

言っても良いのか。
どう言えば良いのか。
その答えに迷っているように幽々子には見えた。
少しの間、何かに悩むように視線を泳がせていたシンは、まぁいっか、みたいに軽く息を吐いて、お握りを手に取った。

「生まれつき…といば、生まれつきかな。親父に稽古つけて貰ったのもあると思うけど…。俺、普通の奴とは、ちょっと違うんだよ…」

 そして掴んだ御握りを口に放り込んでから、シンは言葉を選ぶようにして一つ唸る。

「俺って無茶苦茶成長が早いっつーか、身体が頑丈というか… 
こういう感覚とかも、多分…生まれつきだろうな」

そう言って、シンが顔を引き攣らせるようにして笑った。
 ぎこちない笑みだった。
 幽々子は其処に、「怯え」を感じた。
 それは、自身を異物として見られる事に対する怯えなのか。
 他と違う自分自身に対してなのか。或いは、もっと違う何かなのか。
 シンは眼帯を右手でなぞって、左眼を眼下の冥界へと向けている。
 幽々子から眼を逸らすように。
 
 少しだけ沈黙があった。
 幽々子が、シンに声を掛けようとした時だった。
 
 大地が目覚めるような、そんな脈動を聞いた気がした。
 
冥界には酷く似合わない、乱暴な命の息吹。
 陽の光の無い冥界に、無理矢理に温もりをぶつけるような暴力的な気配だ。

「随分、シンと仲が良さそうね」

 その気配をそのまま音にしたような声だった。
 それでいて、柔らかくも、艶のある女性の声がした。
 
白玉楼の門の向こう。
シンと幽々子の視界の下方。
そこから続く永い階段の少し下から。
 彼女はゆっくりと、その姿を現した。
 
 まず、日傘だ。
そして、鮮やかな緑色の髪に、鋭く赤い瞳。赤いチェックのカーディガン。
 歩みはやたら優雅で、穏やかだった。
冥界の薄暗く静かな空気を、凶暴さで塗り潰しながら、彼女は白玉楼の門の前で立ち止まった。
 
 「ごきげんよう、西行寺幽々子。またシンと“遊び”に来たのだけれど」

 お邪魔して構わないかしら。
それは、断る、という選択肢を与えないような声音だった。
幽香は体を幽々子の方へと向け、眼だけをシンへと向ける。
彼女は笑顔のまま。
含みの無い、純粋な笑顔だ。
それが、余計に彼女の威圧感を倍増させている。

だが、そんな威圧感にも、幽々子は、あらあらと微笑んで見せる。

「わざわざ遠い所から、よく来てくれたわね」

「ええ、全くね…」

ふぅん…。
微妙な表情を浮かべているシンとを見ながら、幽香は自身の唇をゆっくりと撫でる。
私もしばらく此処で過ごそうかしら…。
その幽香の言葉に、「嘘だろ…」とシンは呟く。
幽香という強者との手合わせは、シンにとっても胸が躍る。
だが、その幽香の戦闘マニアっぷりは、少々恐ろしいものがある。
以前、幽香が白玉楼に来た時には、酷いものだった。

妖夢との手合わせ中に、割り込むような形で乱入してきた幽香は執拗で、情熱的だった。
シンはへろへろになるまで、幽香との手合わせに付き合わされた。
もう降参、勘弁してくれ。
そうシンが頼んでも、幽香は良い笑顔で「もう一回しましょう」と言うだけだった。
もう半分イジメだった。
妖夢の方は、手合わせの相手であるシンを取られ、少々不満そうな顔でその様子を眺めていた。

そして、今。
幽香がしばらく白玉楼に留まることになれば、どうなるか。
それを想像して、門の上から幽香を見下ろすシンの顔が青くなる。
シンの表情を見上げていた幽香は、薄笑いを浮かべた。
そして、門の上に音も無く飛び上がり、シンの隣側へと着地。
シンは咄嗟に身を引こうとして、今度こそ門の上から転げ落ちた。

その様子に、幽々子は噴き出した。
べちゃっ、と地面落ち、シンは頭をぶつけたようだ。
 シンの棍棒も一緒に門屋根から落ち、乾いた音を立てた。

いってぇ…! と言いながら棍棒を引っつかみ、慌てて起き上がろうとした時だった。
幽香の傘の先端が目の前にあった。

傘の先端を突きつけられている。
既に幽香は、門の上から飛び降り、シンへと迫って来ていたのだ。
シンは幽香の眼を見て、顔を顰める。
幽香の表情が、嫌に嬉しそうで、楽しそうだったからだ。
さぁ、遊びましょう。シン。
やはり、その声音は有無を言わさない。
幽香は、傘の先端を、シンの眼前で軽く揺らして見せた。
シンは何かを諦めるかのように、息を一つ吐いた。

 「わかったよ…。でも、妖夢が帰ってくるまで待ってくれ。
  これでも、一応、白玉楼の警護任されてるからよ」

「そんなものは形だけでしょう? そもそも必要なのかしら、警護なんて…」

幽香は視線を、門屋根に腰掛ける幽々子に移してから、呟く。
シンも釣られて、幽々子へと顔を向ける。

ほわほわとした笑みを浮かべて、幽々子はシンに手を振って見せた。
頑張ってね、という意味だろうか。ええぇ…、とシンは嫌そうに呻く。
幽香は薄い笑みを浮かべたまま、シンに視線を戻した。

「どうやら…此処の主から、お許しが出たみたいね」

シンは、突きつけられた傘の先端を一瞥する。
そしてゆっくりと立ち上がり、ゴキッと首を鳴らした。
満足そうに笑みを浮かべる幽香とは対照的に、シンの眼が徐々に据わって行く。
そして、視線を周囲に巡らせ、舌打ちをする。
来やがったな。シンは呟いて、幽香に向き直った。

「残念だけどよ、幽香…。それどこじゃねぇ」

なんですって…。
そう言って、一気に不機嫌そうに顔を歪めた幽香の迫力は、もう相当なものだった。
常人なら、足が竦むどころか、気を失うぐらいのプレッシャーを感じることだろう。

だが、そんな脅威を前にしても、シンはもう幽香を見ていない。
門の外。
その外に続く、白色の階段へと、シンは歩みだす。

幽々子も何かに気付いたのか。ほわほわとした雰囲気が一変する。

お客さんかしら…。団体さんねぇ…。

死の蝶を舞わせ、幽々子は呟く。
門屋根の上から、ふわりと降り立ち、その階下へと視線を向ける。
不思議な気配ね…。生きてもいないし、死んでもいない…。

今までの柔らかな表情からは想像も出来ない程、その声には暗さがあった。
呟いた幽々子は、薄く瞳を細める。

そして、ぐるりと視線を白玉楼の周囲へと巡らせた。

「囲まれているわねぇ…」
 
幽々子の言葉に、幽香も視線だけを巡らせ、鼻を鳴らした。

「わざわざ冥界くんだりまで来る暇な者も、私以外にも居のね」

気配が余りに矮小で、気付かなかったわ。
シンとの手合わせを邪魔されたせいか。幽香の声音は、酷く攻撃的だ。
ついでに言えば、相当な愚か者よねぇ。亡霊嬢に楯突こうなんて…。
闘争の匂いを嗅ぎ取ったのか。
幽香の声が、微かに弾んだ。


白玉楼を包み込む不穏な空気。
風も無いのに、西行妖が微かに揺れた。
ああ…、やっぱり、そっちが目的なのかしら…。

少し離れた所に見える西行妖を眺め、幽々子がそう呟いた時だった。
幽香は、何かが爆発する音を聞いた。
甲高い金属音も聞こえた。

がしょん、がしょん、という、何処か間抜けな機械音。
 
幽香がつまらなさそうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
幽々子は、シンに頷いて見せた。

シンは階段の下へと駆け下りた。
いや、もうほとんど滑空と言っていい速度で、飛び降りた。
景色が凄まじい速度で、シンの横を過ぎて後ろに流れていく。

バチバチ、と体に赤黒い稲妻を纏い、シンは疾駆する。
少し降りて行ったところで、すぐに見えて来た。

妖夢と。

何だ、ありゃあ。

妖夢は階段を駆け上がりながら、そいつらの攻撃を捌き、往なしていた。
いや、逃げつつ捌いている。むしろ、押されている。

はぁ、はぁ…っ!

妖夢の方は、かなりきつそうだった。
宙へ飛び上がろうにも、奴らの連携攻撃がそれを許さない。

何だ、あいつらは。
奴らは、人間と同じ形をしている。
頭、首、胴体、足に腕。全部ある。
だが、奴らの顔は、馬鹿馬鹿しいほど簡略化されていて、間抜けな感じだ。

四角い窓みたいな目は、淡い黄色の光を灯している。
鼻は無い。肌は、少し暗い緑色。メタリックな緑だ。
口はクルミ割り人形のような簡単なつくりで、パカパカと安っぽく動いている。
平たい顔は、もう鉄火面そのものだ。
その癖、頭髪はちゃんとある。金髪だ。

奴等の動きは珍妙奇天烈だった。
脚や腕にはスプリングのようなものが仕込まれているのか。
ビヨーンと伸びたり縮んだりして、パンチやキックを繰り出している。
持っている得物も、蒼と白の剣の形をしている。
だが、形をしているだけだ。
鉄火面がそれを振るう度、巨大なハンマーに形を変えたりしている。
その出鱈目というか、ふざけているようですらある動きに、妖夢もかなり対処しずらそうだ。


そして、服装。

あれは。
聖騎士団の騎士服じゃねぇのか。
そんな馬鹿な。

まぁ。
どうでもいい。
そんな事はどうでも。

シンは歯をかみ締めた。
妖夢の腕や、足、或いは頬。
その白い肌に、赤色が滲んでいる。

妖夢。
怪我してんじゃねぇか。

シンは棍棒を持つ手に、軽く力を込める。
余計な力を抜いて、ぐんと身を低く倒し、更に加速する。

妖夢に纏わり付いている奴等の数は、全部で五人。
シンは眼を細め、妖夢と奴らの間へと、すっと素早く割り込んで見せる。

妖夢が驚きの声を上げるよりも先に、シンの棍棒と体が動いていた。
シンは、割り込んですぐに鉄火面の一人をなぎ払い、もう一人の顔面に蹴りをぶち込んだ。
妖夢は、シンの動きにいち早く反応した。
残った三人の内、一人を長刀の峰で打ちすえ、一人の腕を掴み、階下へと投げ飛ばす。
一瞬で、四人の鉄火面が階段を転げ落ちて、残った一人は、シンが殴り飛ばした。

妖夢は、その最後の一人が吹っ飛ぶの見てから、シンに向き直った。

「はぁ、はぁ…、っぐ! す、助太刀、感謝します、シンさん」

息を切らせ、妖夢は軽く礼をする。
それから、すぐに白玉楼を見上げて駆け上がろうとして、少しだけ体がふらついた。

「おい! ちょっと待てって! 怪我してんだろ!」

シンがその体を咄嗟に支える。
だが、その支えを振り切り、妖夢は「この程度、怪我の内に入りません!」と言い、駆け出す。
お、おい! 待てよ!
シンも、その妖夢の隣に並び、階段を駆け上がる。
大丈夫なのかよ! シンはそう聞こうとしたが、出来なかった。
「幽々子様は御無事なのですか!?」、と、妖夢に切羽詰まった声で聞かれたからだ。

「ああ! ユユ姉なら、怪我一つしてねぇよ! 序に、幽香も居る!」

シンの言葉に、妖夢は微かに頷き、無言のまま階段を駆け上がる。
がしょん、がしょん、がしょん、がしょん…!
間抜けな機械音が追ってくる。これは、足音か。

シンは振り返り、舌打ちをした。
妖夢も振り返り、顔を歪めた。
増えてる。

明らかに、五人じゃない。
ぱっと見、数え切れない。

ぞろぞろ、わらわらと。
がしょんがしょん、と脚を鳴らし、奴等も駆け上がって来ている。
更に、白玉楼の方でも派手な音が鳴って、鉄火面が数体降って来た。
シンと妖夢は、鉄屑に成り果てたそれらを、駆け上がりながらかわす。
背後に迫って来ていた鉄火面共が、その鉄屑に激突し、更に何体かが転げ落ちていった。

はやく…! はやく、幽々子様の元へ…!

妖夢の必死な呟きは、間抜けな金属音に掻き消され、シンには聞こえなかった。


その代わり。





「寄り道喰うのも全力だねぇ…。お蔭で、今までコソコソしてたのが台無しだよ」

妙に抑揚のある、気味の悪い男の声が聞こえた。

「まぁ良い。…是が非でも、此処の高エネルギーのサンプルをとって来てよ」
何かしら封印が掛けられてるみたいだけど、解呪系の法術も組み込んであるから。
 
 
 その男の言葉に頷いたのか。
 ギギ…、と、鉄火面共は、硬い物を擦り合わせるような音を出した。
 
 「任セテオケ、駄目博士。劣化たいぷトハ言エ、コレダケノコピー体ガ居レバ、容易イ」
 
 暢気な響きのある合成音声が、男に答えた。
 
 だといいけどねぇ…。男の声に、期待感は無い。

 「別働隊も動いてる。そっちと合わせて、僕は此処からオペレーターとして情報を――」
 
「駄目博士ノサポートナド要ラン。幽々子・西行寺ノバッチリボディハ、我輩ガ必ズ手ニ入レル」

「おい。違うぞ。ターゲットは、そっちに生えてる巨大な桜の木だ。
 異常な高エネルギー反応が出てるだろう」

「ム。ソウダッタ。ジャア両方デ」

 頼むよ…。男の声に疲労が滲む。
 魂の篭らぬ電子音と合成音声が、冥界の暗がりに響く。
 
鉄と科学が、死の世界を行進する。
不遜に、傲慢に。
その様を嘲笑ったのか。或いは、警告しようとしたのか。

西行妖が、また、微かに揺れた。
 



[18231] 十七・五話 前編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/12/14 22:48
 鉄とオイルの匂いが、冥界の薄暗さに混ざる。
死の世の静寂は、金属音と機械音が掻き乱す。

魂無き者達の行軍には、鬨の声も掛け声も無い。

ただ、進む。
彼らの鉄の面には感情も、表情も無い。
ギギギ。ギギギ。ギギギ。
何か、硬い物を擦り合わせるような音を零すだけだ。
がしょん、がしょん、がしょん。
間抜けな機械音と共に、鉄火面共は白玉楼に押し寄せて来た。

数は、分からない。
とにかく多い。十や二十では利かない。
次から次へと、門へと殺到してくる。

「くっそ、なんなんだ、こいつ等…!」

シンは妖夢と共に、白玉楼の門前に陣取り、登ってくる鉄化面達を蹴落とし、殴り飛ばし、切り伏せている。
 いや、陣取っている、というよりは、囲まれて、動けないでいる。
 ギギギ。ギギギ。と呻くような音を漏らしながら、鉄化面達は、シン達に迫る。
 
 三人の鉄化面が妖夢に、五人の鉄火面がシンに飛び掛った。
 飛び掛る瞬間だった。
 鉄火面達の何人かは、手にした剣状の得物を、ピコピコハンマーのような形状に変えた。
 形はふざけているが、その重厚感は冗談では済まない。殺戮用の槌だ。
 残りの何人かは、肩や脇腹から腕をビヨーンと生やして見せた。
六本腕になったその鉄化面共は、パンチの雨を降らせて来た。
 
鉄仮面共は、正面、そして左右から妖夢に襲い掛かった。
まず、正面の鉄化面が、ハンマーを妖夢目掛けて振り下ろした。
妖夢は半身をずらして、最低限の動きでこれをかわす。ハンマーの空振った風が、妖夢の前髪を揺らした。
 次の瞬間には、妖夢は腰を落とし踏み込みつつ、手にした楼観剣を一閃させた。
 鋭く斬り上げられた刃は、鉄仮面の両腕をスッパリと断ち切る。
 ギギギ、と、鉄仮面が呻く間も与えず、妖夢は白楼剣と楼観剣を舞わせた。
 両腕を落とされた鉄化面が、縦に真っ二つになる。
一瞬の間の出来事だった。
妖夢は、鋭く息を吐いた。

次の一瞬の内には、妖夢は左右から襲い掛かる鉄化面達へと視線を走らせる。
左から来ていた鉄化面のハンマーは、横殴り。
右から来ているのは、鉄拳の雨。
 
妖夢は、ハンマーを刀の鍔で受け流し、左から迫って来ていた鉄仮面の体勢を崩した。
 鉄仮面がつんのめる。その隙に、妖夢は刀身を煌かせた。
縦横に一瞬で斬り裂かれた鉄仮面が崩れ落ちるのには目もくれず、妖夢はそのままニ刀を返す。

 そして、右から迫る鉄拳の連打を、斬撃の連打で迎え撃った。
 六度。甲高い音が響き、鉄仮面に腕がスッパリ斬り飛ばされた。
 腕を失った鉄仮面は、それでも妖夢にぶつかって来ようとした。無駄だった。
 妖夢はすっと、身を引くようにして距離を取りつつ、自身の半霊に霊力を込め、打ち出したからだ。
 
 半霊は砲弾の如く呻りを上げ、鉄化面に激突。
ガ…、と間抜けな声、というか音が聞こえた。
鉄火面が吹っ飛び、ついでに周りに居た他の鉄仮面にも撃突し、派手な破砕音が鳴り響く。 
 
 一秒にも満たない間に、妖夢は三人の鉄仮面を捌き、視線を周囲に巡らせる。
 その視界の中、体をぐしゃっ、とひしゃげさせながら宙を飛んでいく、鉄仮面が目に入った。
五人だ。
ついでに、妖夢は背中に、誰かの体温を感じた。
シンだった。背中合わせになっている。
 
 「キリがねぇ…」
 
 呟いてから舌打ちをしたシンも、妖夢と同じく、一瞬で五人の鉄火面を捌いていた。
 いや、一瞬、というよりも、一撃。
 妖夢が三体の鉄仮面を捌いている間。
シンは体ごと一回転させた棍棒で、踊りかかって来た鉄仮面達を、紙くずのようにぶっ飛していたのだ。
 
妖夢は、二刀を構えながら、集中するように一つ息を吐く。
ギギギ。ギギギ。ギギギギ。
耳障りな硬い音が、シンと妖夢を包む。
ジリジリと、鉄化面達が包囲を狭めてくる。

シンは舌打ちをした。

「足止めか…こいつらは」

 「何にせよ、数が多過ぎます…早く幽々子様と合流せねば…!」 
 
妖夢の頬に、一筋の汗が流れる。
 もう既に白玉楼内部にも、この鉄火面達が侵入していることは明らかだ。
 その証拠に、地鳴りのような破裂音が西行妖の方から聞こえて来た。
 
 恐らく、幽々子、幽香が応戦しているのだろう。
 びりびりと空気が軋むような、強烈なプレッシャーをシンは感じる。
 西行妖の方では、かなり激しい戦闘が行われているのだろう。
 
 こんな所でもたついている訳には行かない。
 妖夢も気がせって来ているのだろう。
唇を噛み、今にも鉄化面達に飛び掛りそうになっている。
 
 それを背中越しに感じ、シンは、なぁ…、と妖夢へと静かな声を掛けた。
 
 「突っ込むのは不味くねぇか…。数が多すぎるぜ」
 
 「それでも、此処で足止めされ続ける訳には行きません…!」
 
 妖夢はちらりと肩越しにシンを見てから、再び正面、そして周囲の鉄化面達を見据える。
 ぎゅう、と刀を握り込み、妖夢はもう一度肩越しにシンへと視線を向けた。

 「何故、私の元に駆け下りて来たのです。シンさんには白玉楼…いえ、幽々子様の警護を任せていたはずです」
 
 「襲われてる友達を放っとけるかよ。それに、幽々姉の指示でもあるしな」

 妖夢を孤立させたくなかったんだろ。幽香もいるしな。
 視線を油断無く巡らせつつ言って、シンも肩越しに妖夢に視線を返す。
妖夢と目が合い、シンは微かに唇を歪めて見せた。
 妖夢は視線を逸らすと、…ありがとうございます、と小さく呟いた。
 
その妖夢の呟きのすぐ後に、再び、轟音が西行妖の方から響く。
 
序に、シンの正面に居た鉄仮面が二人、突っ込んできた。
 
 シンは構えた棍棒の先端を、すっと降ろしつつ、その場で体を沈める。
 背中を預かる妖夢は動かない。
妖夢の正面、つまり、シンの背後の敵に切っ先を向ける。そして、視線を左右へと巡らせた。
前後、そして左右に隙は無い。
 
 動いたのは、鉄火面二人のみ。
ギギギ、という鉄仮面達の金属音を、バリバリ、という派手な音が掻き消した。
 赤黒い稲妻が、シンの棍棒に宿る。
 
 シンは、体を更に沈めるようにして、突きを繰り出した。
 放たれた突きは二発だった。
だが、その突きが、二人の鉄化面の顔面を砕き抜いたのはほぼ同時。

神速の突きを繰り出したシンは、鼻を鳴らした。
再び、その棍棒から赤黒い稲妻が奔り、火花が散る。
その火花に照らされながら、頭を砕かれた鉄仮面は、ハンマーを振り上げた体勢のまま前のめりに倒れこんだ。

妖夢は微かに息を呑んだ。背中越しでも分かる。
シンの纏う空気が、普段の馬鹿さや、優しさなどとは違う。
冷たく、険しい。それでいて、とんでもない迫力がある。

「俺が奴等の壁に穴を開ける。その隙に、妖夢は幽々姉のとこへ行ってくれ」

今度は逆だ。俺が奴等を足止めするからよ。
シンはそう言って、ぐっと腰を落とす。棍棒だけでなく、体にも稲妻を纏わせた。
 妖夢はシンの言葉に、思わず振り返りかけて、踏みとどまった。
 
「でも、この数を相手にするのは…」

じゃり…、と鉄仮面達が玉砂利を踏みしめる音を聞きつつ、妖夢はシンへと言葉を紡ぐ。
 冥界の薄暗さの中、揺れる鉄仮面の目の光は、酷く不気味だ。
淡い黄色の光が、シン達を見ている。いや、向けられている。
シン達を囲む、鉄化面達の包囲が、更に狭まる。
ギギギ。ギギギ。不快な金属音が、やたら近くに聞こえる。

「心配要らねぇさ。すぐに追いつくからよ」

やんちゃで、その癖、妙に頼りになりそうな声音だった。
シンは構えを解き、左手で棍棒を持つと、棒立ちになる。
そして、空いた右手を開きつつ、天へと突き出した。

「俺のマジ…。ちょっとだけ見せてやるぜ」

その言葉に応えるように、赤黒く澱んだ炎が、シンの右手に宿った。
禍々しい色の炎は、薄暗がりを赤く濁らせる。
序に、何か熱いものが、シンの体から溢れ出して来ている。
魂。或いは、命の波動。恐らく、それに近いものだ。
シンの足元の地面が、ビキビキと悲鳴を上げる。

鉄化面達は、そのシンの姿に何かを感じたのか。
包囲が、少し広がり、隊列が乱れた。
妖夢も、今度は思わず振り返り、後ずさる。
そして見た。

赤い雷が、シンの体に、いや、右手の黒炎へと落ちる瞬間を。
 シンは雷を右手に落とすと、そのまま右手を握り込むようにして、胸前へと一気に引き寄せる。

赤黒い稲妻をシンの右手が飲み込み、そのまま体へと蓄えこんだのだ。

エキサイター。

シンの持つ法術の中でも、特に強力なものの一つだ。
それは、肉体強化というよりも、己の身に潜む力を呼び起こす。

赤黒い雷光を纏ったシンは、右脚だけに体重を乗せるように棒立ちになる。
左脚でリズムを取るように地面を叩き、左手で棍棒を持ち、肩に担ぐ。
空いた右手はだらりと下げた。
そのまま右半身を前に出す、半身立ちの構えを取ると、妖夢へと視線を向ける。
バリバリッ、とシンの体に電流が奔り、妖夢は怯みそうになった。

それは、鉄化面達も同じだった。
稲妻と化したシンの様子に、明らかに鉄化面達の包囲が緩んだ。

その隙を、シンと妖夢は見逃さなかった。
妖夢はシンの隣に並び、ぐっと重心を落とす。
行くぜ。シンは妖夢へと呟く。
頷きを返し、妖夢は刀の柄を握り直し、構える。

「すいませんが、此処は…お願いします」

「おう。任せとって」

シンが妖夢に答えた時だった。
鉄仮面達が、とうとう一気に押し寄せてきた。
 それは、鉄と暴力の雪崩だった。
 押し潰す気だ。
 
 シンは唇を微かに歪めて、飛び出した。
 それに続き、妖夢が疾駆する。シンの背後に追従する形だ。
 
 シン達の正面に陣取っていた鉄仮面達が、一斉にハンマーへと変形した剣を振り上げた。
 だが、鉄化面達はハンマーを振り上げることは出来ても、振り下ろすことは出来なかった。
 
 シンが、一条の巨大な稲妻と化し、一瞬で距離を詰めてきたからだ。
そして、棍棒を横薙ぎに振るった。黒稲妻の殴打は、鉄化面達を一瞬で屑鉄に変えた。
それだけでは、シンは止まらなかった。
電束放射のように棍棒を思う様に振りまくり、辺りにいた鉄仮面達に襲い掛かったのだ。
妖夢へと迫っていた鉄仮面などは、いの一番にぶち壊された。
妖夢も二刀を振るい、行く手を阻む鉄仮面を切り伏せ、主の元へと駆ける。

再び、地鳴りがした。西行妖の方からだ。
妖夢は、右斜め前から飛び掛って来た鉄火面のハンマーをかわしつつ、その胴を真っ二つに斬り飛ばしてから、西行妖の方角へと視線を向けた。

駆ける脚が止まりそうになった。
冥界の暗い空に、轟音と共に一本の太い光が吸い込まれて行ったのだ。
 それは破壊の光。光線だった。
 
どごん、と鈍い音がした。
すぐ其処まで来ていた鉄化面が、ハンマーを振り下ろしたのだ。
咄嗟に体をずらして避けた妖夢は、戦わず、駆ける。
その妖夢を追おうとした鉄仮面の胴体を、赤黒い稲妻の槍が貫いた。
シンだった。

妖夢は、一瞬だけ振り返った。

シンの足元、周囲には、夥しい量の鉄火面達の破片が転がっている。
白い玉砂利を、オイルと鍍金が汚していた。
その中で、シンは鉄化面達を殴り、蹴飛ばし、踏み潰している。
 鉄仮面達も、妖夢を追うどころではない。背中を見せた瞬間、稲妻に焼かれるのだ。
 
 「余所見してんじゃねぇ、てめぇ達の相手は俺だ…!」
 
 閃光と共に、十人程の鉄化面を棍棒の一凪ぎで砕き飛ばしてから、シンは妖夢へと視線を向けた。
 
妖夢と目が合ったシンは、ニッと笑って見せた。妖夢は頷いて、再び駆け出す。
すいません。妖夢は呟き、前を見る。
丁度その時、再び、太い光線が空へと吸い込まれて行った。
妖夢は、その光線を睨みつける。
今行きます。幽々子様…!
その妖夢の呟きは、背後から鳴り響いた雷鳴が掻き消した。









妖怪桜、西行妖。
幽々子はその前に佇み、死の蝶を纏っている。
 淡い光の中、佇む幽々子の姿は、幽玄であり、忌まわしくもある。
生きる者には決して無い、「死」だけが持つ、ある種の美しさは、生きる者を魅了する。
いや、惹き付け、引き寄せる。
暗い蒼色の蝶が羽ばたく様は、酷く不吉だが、それすら、装飾に過ぎない。
もしも生きる者が、今の幽々子の姿を見れば、間違いなく、死への憧れを抱くだろう。
死の世界に佇む、幽々子に近づこうと思う筈だ。
この光景は、見る者の命を錆び付かせる。

死を操る程度の能力。
冥界の管理者に相応しい、理不尽で、呪わしい力。
その力の片鱗が、死に誘うこの光景そのものだった。

「確かにこれは…冥界じゃなければ、大惨事になるわねぇ…」

そんな美しくも残酷な光景を目の前にしても、風見幽香は揺るがない。
畳んだ日傘を片手に、迫力と艶のある声で呟くだけだ。

「…だからこそ、此処に封印されているのよ」

幽々子は、視線を西行妖へと視線を向けてから、その幹にそっと手を触れた。
そして、ゆっくりと幽香と、その周囲の惨状を見回した。

よく手入れされた墓所のような風情があったこの場所も、今では穴と鉄屑だらけだった。
幽香が、西行妖に殺到してきた鉄仮面達を、手当たり次第に破壊していったその名残だった。

幽々子は西行妖の前にただ佇み、その様子を眺めていただけだった。
それで十分だった。
幽香と鉄仮面達との戦いは、それ程までに一方的だった。

おかげで西行妖の周りは、鉄火面達の腕や脚やらが転がっている。

ついでに言えば、幽香の手には、鉄火面の首が握られていた。
鉄火面の首は無残な状態だ。
目の窓は罅割れ、下顎部分は砕け散り、頚骨の代わりに、赤や青のコードがぶら下がっている。

その首を手の中で転がしながら、幽香は鼻を鳴らす。

 「それを狙って現れたのが、この変な人形達…という訳ね」
 
 つまらなさそうに言って、幽香はその首を地面に落とし、踏みつける。
 そして、退屈そうに息を吐いて、幽々子に視線を返した。

「紫も、少し心配性過ぎるんじゃないかしら。この程度の連中が相手なら、何も身構える必要もないでしょうに…」

言いながら、幽香は鉄仮面の首を踏み潰した。
バキュバキュ、バキッ、とまるでプレス機にかけられたような、不気味な音が鳴り響いた。
首は完全にぺしゃんこに潰され、鮮血代わりの黒いオイルが、幽香の足下から流れ出る。

その様子を無感動に眺めながら、幽々子は、そうだといいけれどね…、と呟く。
そして、周囲に再び視線を巡らせる。

がしょん。がしょん。

数だけは居るのねぇ…。幽香は溜息を吐いた。

「この様子だと、屋敷の方にもかなりの数が襲って来てるんじゃない?」

「大丈夫よ。その為に、シン君に妖夢を頼んだんだから」

微かに笑みを浮かべて、幽々子は幽香に答える。
西行妖の下で、そんな笑みを浮かべる幽々子の姿は、儚さよりも、むしろ不敵さを感じさせる。
その笑みが、にたぁ、というか、にまぁ、という感じの笑みだったかもしれない。
感情の篭っていないような笑みは、ただの威嚇だ。
力在る者のその貌は、見る者を凍りつかせる。
時々、自分もこんな表情をしているのかと思うと、幽香は何だかおかしくなった。

「貴女には似合わないわね、その貌…。いつものふわふわした笑顔の方が可愛いわ」

その幽香の言葉に、幽々子が何か言い返すよりも先に、不快な金属音が響いた。

ギギギ。ギギギ。ギギギ。
がしょん。がしょん。がしょん。

わらわらと沸いて出てくるように、鉄化面達は四方八方から現れた。
相変わらず、鉄化面達は生気の感じられない動きで、幽香達を取り囲む。
第二波にしては、相当な数だった。

今度は、流石に見ているだけでは済みそうにないわねぇ…。
呟いた幽々子は、すっと眼を細め、ふわりと浮き上がる。
纏う蝶達の光が、不気味に明滅する。

雑魚の群れ程、気分が萎えるものは無いわね…。
面倒そうに溜息をついて、幽香は日傘を握り直した。

西行寺幽々子、そして、風見幽香。
この二人を相手にすれば、鉄化面達は、ものの数分足らずで全機体が廃棄物になる。
持つはずが無い。
時間稼ぎにもならない。
その筈だった。

ワッハッハッハ。
場違い過ぎる、ふざけた調子の合成音声が聞こえて来たのだ。

今にも弾幕を放とうと、日傘をまるで銃のように構えた幽香は、空を見上げ眉を顰めた。
幽々子は、静かな表情で、そいつを見詰めた。

西行妖の周囲を旋回するように飛行しながら、そいつはやってきた。
一人の鉄仮面だった。
ただ、他の者達と決定的に違う要素があった。

頭にプロペラを生やしている。
ついでに、体からは車輪と自転車のようなペダルを生やし、それを高速で漕いでいる。
あれで飛んでいるのか。

そのふざけた外見の鉄仮面は、ワッハッハ、と笑いながら、四角い目を幽々子に向けた。

「嫁、発見!」
 
幽々子は、きょとんとした表情になり、
幽香は、日傘の先端を鉄火面に向け、レーザーと弾幕を放った。

「ムホッ!?」

合成音声で妙な声を出して、咄嗟に幽香の弾幕を空中で避けようとする鉄火面。
しかし、その拍子に漕いでいたペダルから足を滑らせ、ガクンと高度が落ちる。
その不規則過ぎる動きで、結果的に弾幕を避けた鉄化面は、空中でそのプロペラやペダルを体内へと収納。
他の鉄火面達と全く同じ外見の癖に、気持ち悪い程に動きにキレがある。
そのまま落下し、下にいた鉄火面達を巻きながら何とか着地すると、幽香目掛けてビシッと指を指した。

「危ナイデハナイカ、コノ戯ケメ」

その鉄仮面の声は妙に人間臭く、感情らしきものすら感じられる。
鉄仮面は周囲を見回し、フン、と鼻を鳴らすように合成音を鳴らした。

「全ク、役ニ立タン奴ラダ。モウイイ。合図スルマデ、貴様ラハ下ガッテイロ」

そして、自分の近くにいた他の鉄火面達に悪態を吐き始めた。
また変なのが出てきたわねぇ…。
幽香はくすくすと笑いながら呟いた。

その小馬鹿にしたような笑みに気付いたのだろう。
鉄火面は、「ム…」と呻り、幽香に振り返った。

「ヤイ、ソコノメロンバスト。サッキハヨクモヤッテクレタナ」

 鉄仮面の目は、幽香の胸をロックオン。
 ピピピピ、と何かを解析しているかのような音が、鉄火面の頭から聞こえてくる。

「鉄の器に、作り物の精神…。凄いわね…」

明らかに、今までに鉄火面達と違うその言動。
幽々子は興味深そうに、その様子を眺める。
逆に、幽香は自分の胸を両手で隠し、気持ち悪いものを見る目になった。

スキャン完了。スリーサイズ判明。ヌードデータ保存。ウホ。
鉄火面は呟いてから、幽香に向き直った。
胸元ノ黒子ガ、中々ないす。
その鉄火面の呟きに、「な、何で知っ…!!」っと幽香が焦った声を出した。

幽々子は、辺りに配置された他の鉄仮面に視線を巡らせた。
ギギギ、ギギギ、と音を漏らしながら、その包囲が少しずつ引いていく。
先程までの襲撃が嘘のようだ。
能動的に動く気配がまるで無い。まるで置物だ。
貴様らは下がっていろ、とあの鉄火面は言った。
その言葉を忠実に守っている。
つまり、この鉄火面達に命令権を持っている個体こそが、あのふざけた言動をしている鉄火面なのだろう。
ならば、戦いを長引かせず、一気に仕留める方が良い。
何せこの数だ。
連携を取られては面倒なことになる。

幽々子は眼を細めつつ、視線を幽香達に戻す。
だが、その時にはもう幽香は飛び出していた。

「ワシ的ニハ、モットせくしーナ下着ガ好ミダ。Tばっくデ願イシマス」
 
その言葉に、幽香は顔を真っ赤にして、鉄化面に飛び掛ったのだ。
 幽々子にしてみれば、これで良かった。
 幽香なら、一撃で仕留めるだろう。
そう思っていた。
 だが、違った。
 
 鉄仮面は、幽香が袈裟懸けに振り下ろした日傘を、手に持った剣で受け止めて見せたのだ。
 幽香は驚くというよりも、意外そうな表情を浮かべる。
幽々子は掌を翳し、暗い桜色の光線の束を放った。
 
 幽香は鉄仮面から飛び退る。
 鉄仮面は幽香へと追撃しようとしたが、桜色の光線がそれを許さない。
 横合いから押し寄せる桜色の波動を、薄緑色の結界で防ぎ、鉄仮面はぐっと体を沈めた。
 
 飛び退った幽香は、その光景に舌打ちをした。
 鉄仮面の下半身が変形したのだ。
あれは、馬か。
脚の無い軍馬だ。浮いている。

 一瞬で、騎兵と化した鉄仮面は、幽香目掛けて突撃をかました。
 とんでも無い速度だった。
幽香は弾幕を放って牽制しようとしたが、間に合わない。
鉄化面の剣の切っ先が、幽香が防御の為に構えた日傘に激突する。
 
 「――くぁ…!!」

 その勢いと力に負け、幽香が跳ね飛ばされた。
 だが、吹っ飛ぶ最中に体勢を立て直し、地面を滑るように着地したのは流石だった。
 騎兵と化した鉄仮面の変形が解け、元の二本脚に戻った瞬間。
 
幽々子の弾幕、いや、蝶の群れが鉄仮面を囲んでいた。
 肉体を滅ぼす死蝶の群れを見て、鉄化面は、体を丸めるようにしてしゃがみ込んだ。
 諦めたのか。そう思ったが、違った。
 幽香と幽々子も、意表を突かれた。
 
鉄仮面の体が爆発した。いや、爆発させたのだろう。
自らの体を熱暴走により爆発させ、その爆風で蝶達を吹き飛ばしたのだ。
ゴハー、と口から盛大に黒煙を吐き出しながら、鉄仮面はその爆風の中から飛び出して来た。
 その行く先は、幽々子。
 嫁メ、ナカナカニ厄介ナ真似ヲシテクレル…!
 鉄仮面は滑空するかのような速度で距離を詰めてくる。
 
 余所見するとは良い度胸ね。
 幽香も、その鉄仮面に横撃をかけるべく突進する。
 
 その二人の様子を視界に納めながら、幽々子はすぅ、と掌を差し出す。
 幽々子の足元に、文様が刻まれた陣が浮かび上がり、暗い桜色をした閃光が迸る。
 風ならぬものに、幽々子の着物が激しく靡く。

明らかな脅威を前に、幽香は微かに怯んだ。
だが鉄仮面は一切怯まなかった。寧ろ、突っ込んでいく速度をさらに上げる。

死ぬ気か。いや、壊れる気か。
幽々子の両の掌から、光が溢れた。
その光は、弾幕。
鉄仮面目掛けて、桜の花びら、そして蝶を象った弾幕の嵐が吹き荒れた。

幽香は舌打ちをして、飛び退る。
なんて規模の弾幕だ。
周囲に引いていた木偶の鉄化面達も、半分程が弾幕の嵐に巻き込まれ鉄屑になる。

「ムハハ! ワシニハ当ラン!」

だが、幽々子に迫る鉄仮面は、見事に弾幕をかわし、捌いてみせる。
ジグザグに地を蹴りながら、鉄仮面は幽々子との距離を更に詰めていく。
幽香は、日傘を銃のように構え、鉄仮面の背中目掛けてその先端を向けた時だった。

ぐるん、と、鉄仮面の首が180度回転し、幽香の方を向いたのだ。
鉄仮面の窓のような目が、カッ、と白い光を放ったのが見えた。

咄嗟に体をずらすようにして、幽香はそれを何とか避けた。
それは、白く細い光線だった。
魔理沙のマスタースパークに比べれば、糸のように細いビームだったが、そのヤバさは十分だった。
剃刀のようなその光線を避けた幽香だったが、そのせいで反撃が遅れる。

鉄仮面は、その隙に幽々子へと辿りついた。
辿り着いて見せた。この二人を相手に。
鉄仮面はギギギ、と音を零した。あれは笑ったのか。

どうでも良いが、幽香のフォローは間に合いそうに無かった。
だが、その必要も無かった。

鉄仮面が無造作に幽々子に手を伸ばしたが、その手は結界に防がれ、焼け焦げる。

「ゲアァ!?」

鉄仮面は、まるで人間が火傷をしたみたいに手をブンブン振って、幽々子から飛び退った。
幽々子はその様子を見て、くすりと笑う。
優雅に。まるで、鉄仮面の奮闘など無為であるかのように。
気付けば幽香も、「流石ねぇ…」と呟いていた。

鉄仮面が、幽々子に向き直ろうとした時だった。
何か白い靄のようなものが、呻りを上げて、鉄仮面目掛けて飛んできた。
鉄仮面は、幽々子と対峙しようとしていたせいか、完全に反応が遅れていた。

「Bu…!」

白い靄は、霊力を込めた巨大な弾丸だった。
鉄が軋む音と共に、それが鉄仮面の胴体にめり込み、吹き飛ばした。
ボールみたいに派手に転がって、鉄仮面は地面に倒れ伏す。

幽香はその白い靄が飛んできた方へと視線を向け、「あら…」と呟いた。

薄い緑色に服装に、黒いリボン。
その小柄な体に振り合いな、二振りの刀。
白玉楼の庭師、魂魄妖夢が、必死の形相でこちらに向かってきていた。




おいおい。随分、派手にやられてるじゃないか。
ヤカマシイゾ。駄目博士。コレカラ本気ヲ出ス。
何でも良いけど、ターゲットはあの桜の木だ。いい加減、口が酸っぱくなって来たよ。
ワカッテイル。
序に言えば…、これで三対一か…。この戦力差じゃ、コピー達は数に入らないねぇ…。
問題無イ。ワシニ掛カレバ、一捻リダ。
良く言うよ。…まぁ、こちらの準備も整った。サポートしようか。
フン。ドウシテモト言ウナラ、ヤラセテヤランデモ無イ。
はいはい。…それじゃ、頑張ろうか。

貴重なサンプルには変わりないからねぇ。
男の声は、幽々子達には聞こえていない。
だが、鉄仮面は、男の声に耳を傾けながら、のっそりと置き上がる。
 
イツデモ、最後ニ勝ツノハ科学ナノダ。




[18231] 十七・五話  中編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/09/01 00:01
半分以上はぶっ壊したか。
数が多すぎる。やたら硬いくせに、動きは遅くない。
鉄仮面達は、雑魚にしては少々面倒臭い連中だった。
シンは舌打ちしてから額の汗を拭う。

耳障りな金属音は、随分少なくなった。
そう感じられた。

視線を左右に巡らせてみれば、生気の無い鉄の面がこちらを向いている。
数は、二十から三十程か。
玉砂利を踏みしめる音と、ギギギ、という金属音が混じる。
うぜぇ、と呟いたシンは、埃っぽい空気と、鉄の匂いを大きく吸い込んで、また吐いた。

一体たりとも妖夢の後を追わせてはいない。
見逃してはいないはずだ。
それは間違い無い。
シンは、自分に向かってくる鉄化面よりも、この場を離れようとする鉄仮面を優先的に叩き潰した。
何体かは逃がしかけて、執拗に追いかけた。
そして、徹底的に壊した。

向こうも、逃げても無駄だと理解したのか。
鉄仮面共も、もうシンから離れようとしない。
逆だ。張り付いてくるようになった。好都合だった。

シンを囲む鉄仮面が動いた。

正面から一体、飛び掛って来た。それに続く形で、更に二体が踏み込んできた。
次の瞬間には、背後から更に四体が地面を這うように突っ込んで来る。
鉄仮面、合計七体からの突撃。

シンはもう一度舌打ちをしてから、両脚を開き、重心を落とす。
一歩で正面に大きく、鋭く踏み込みつつ、棍棒を持つ手の間隔を広くさせる。

鉄仮面共がハンマーを振り上げようとした時には、もう遅かった。
雷光が煌き、飛び掛って来た鉄化面のうち最初の一体の胴体を貫いて、串刺しにした。
雷光の正体は、突き出されたシンの棍だった。

それだけでは終わらなかった。
シンは鉄火面を串刺しにしたままで、棍棒を横薙ぎに大きくぶん回した。

棍棒に刺さった鉄仮面は、凶器そのものになった。

踏み込んで来ていた二体を、シンはそれで横殴りに叩き潰す。
鉄の塊同士が激突しあい、ひしゃげ、何かが砕け散る派手な音が響いた。

ビシャビシャッ、と、血飛沫のように、オイルが白い玉砂利に派手に撒き散らされる。

ぐしゃぐしゃに潰れ、部品をばら撒きながら吹っ飛んでいく二体の鉄仮面。
そんなものには目もくれず、シンは振り向き様に、無造作に棍棒を振るった。
棒切れのように軽々と振るわれた棍棒の先には、潰れかけの案山子みたいになった鉄化面が刺さったままだ。

串刺しにされた鉄仮面がギギギ…、と呻きのような音を漏らした瞬間。
今度は背後から迫ってきていた四体のうち、一気に三体が棍棒の餌食になった。
シンは鉄仮面で、鉄仮面を砕き壊した。

破片が飛び散り、塵屑みたいに鉄仮面を蹴散らしながら、シンは体を沈めるようにして残った最後の一体へと踏み込んだ。

鉄仮面は手にしたハンマーを振り回したが、シンにはかすりもしなかった。
すり抜けるかのように鉄仮面の右脇へと潜り込みつつ、シンは右手で鉄仮面の頭をがっちり掴む。
そして、手に持った鉄仮面の頭を地面に叩きつけ、粉々に砕いた。
火花が散って、赤黒い電流がシンの腕を奔る。

瞬く間に七体の鉄仮面を破壊して、シンはゴキッ、と頚を鳴らす。
コードとオイルを片手に絡ませ、視線を巡らせる。

鉄仮面の数は減った。
だが、この鉄仮面達には別働隊が居る。その方が重要だ。

少々時間を食い過ぎた。
自分も、早く妖夢に追いつき、幽々子の元へと向かうべきだ。

シンは纏う稲妻を猛らせ、棍棒を構え直した。
とっとと全部ぶっ壊す。
それだけだ。





幽々子と幽香、そして鉄仮面との戦闘の傷跡は深い。
手入れの行き届いた墓所は、荒廃した鉄屑置き場に変わり果てている。
独特のマシンオイルと、鉄の匂い。撒き散らされた鉄片。

魂無き器の残骸の山。
死の世界の中に在るそれらは、機械故の無機質さを強く感じさせる。

妖夢は西行妖の前に広がる惨状を見回しつつ、刀を構える。
半霊の突撃を受けた鉄仮面は、ゆっくりと起き上がり、なにやらぶつぶつと言っている。
まともに喰らった筈なのに、すぐに起き上がってくるその頑丈さに妖夢は驚かされた。
今まで相手にしてきた鉄化面とは大きく違う。
油断は出来ない。

「不意打チトハ卑怯ナ奴メ」

その鉄の屍が転がる景色の中、鉄仮面は騎士服のマントを靡かせ、妖夢へと向き直った。
そして、ぐっと腰を落とし、手にした剣を構える。
ギギギ、と音を漏らした鉄仮面は、その窓の様な目を巡らせた。

鉄仮面と対峙しているのは、妖夢、幽香、そして幽々子の三人だ。
そして、鉄仮面と妖夢達を囲むようにして、木偶の鉄仮面達が配置されている。
いや、妖夢達を包囲しているというよりは、西行妖を包囲しているのか。
木偶の鉄仮面達の窓の目は、視線の先を追わせない。酷く虚ろだ。

「貴方達の目的は、やはり…西行妖なのよねぇ」

人を死に誘うような、柔らかくも残酷な声が響いた。
妖夢は二刀を構えたまま、自分の隣に佇む幽々子へと視線を向ける。
そして、微かに背筋が冷たくなった。

薄い笑みを浮かべて、幽々子は着物の裾で口元を隠していた。
幽々子の眼は、細められは居るが、笑ってはいない。
威嚇するでもなく、嗤うでもない。ただ、見据えている。

鉄仮面は、ギギギ、と言うだけで、幽々子の問いには答えない。
だが、幽々子は構わず言葉を続ける。

「何の為に、この妖怪桜が欲しいのかしら…興味深いわね」

「ソンナ事ハ、ワシモ知ラン。ワシハ、ソノぼでぃニ興味深々ダ」

とぼけたことを…。
妖夢は鉄仮面を睨みながら、零す。
鉄仮面の声に、機械的な無感情さが無く、妙に人間臭い。
その癖、平面な顔は表情を表さない。
動揺も焦りも顔に出ないせいか、鉄仮面が何を考えているのかさっぱり予想出来ない。

妖夢は、鉄仮面に後方に佇む幽香に視線を向ける。
その幽香は、視線を周囲に巡らしつつ、唇をチロリと舐めた。
幽香の唇が、微かに笑みに歪んだ時だった。

ギギギと。
周りに配置された木偶の鉄仮面達が、再び動き出したのだ。
鉄仮面達は、祈りを捧げるかのように、剣を顔の前で持ち、その切っ先を天へと向ける。
一斉に同じ動きをする様は、酷く不気味だ。

どの鉄仮面も、機械音を響かせ、不協和音を奏で始めた。
それは魂の篭らぬ聖歌。鼓膜をがりがりと削られるような、不快極まりない合成音声の渦だった。
だが、非常に危険な感じだ。

妖夢が顔を顰め、鉄仮面に飛び掛ろうとした時だった。

「こ、これは…!?」

妖夢は、驚愕で脚に踏み出す足を止められた。
鉄仮面の不協和音の元、西行妖を囲む鉄仮面達を線で結ぶように、巨大な法術陣が浮かび上がったのだ。

そこから漏れる光は、澱んだ、不吉な青色。
濁った青色の光を漏らし、法術陣は冥界の暗がりの中に、西行妖の姿を浮かび上がらせた。
幽玄な死蝶の舞う世界を、青く濁らせて、詠うように鉄仮面達は不協和音を奏で続ける。
それは、解呪用の大型法術の為の、集団での詠唱。
その青色の光に、自らが纏う暗い桜色の灯りを混ぜ、幽々子は瞳を細めつつ西行妖を見上げた。

「そう…。貴方達は、西行妖では無く、此処に眠っているものが欲しいのね」

鉄仮面は答えず、ギギギ、と呻くだけだ。

まず動いたのは幽香だった。
幽香は一度視線を周囲に巡らせ、瞳を細める。
そして地面を蹴り、手にした日傘を突き出しながら、鉄仮面の背後から襲い掛かった。

鉄仮面は妖夢から視線を外し、体の軸をずらすようにして幽香へと振り返る。
幽香の傘の突きが、鉄仮面の騎士服の右肩部分を抉った。貫通させ、砕いた。
その衝撃に、鉄仮面の体勢が崩れる。
幽香は、舌なめずりするように唇を舐めてから、鉄仮面目掛けて脚を振り上げた。
右肩を砕かれ、碌な防御も出来ないまま、鉄仮面はその蹴り上げをまともに喰らった。

サッカーボールのように蹴り上げられた鉄仮面は、しかし、驚くほどの頑強さだった。
蹴り上げられた空中で、体勢を整えつつ、反撃に移ってきたのだ。

鉄仮面は空中で体勢を整え、何も持っていない方の腕を幽香に翳す。
その腕が中ほどからパカッ、と折れ曲がり、二の腕から筒状の物が飛び出した。
小型のミサイルだ。一発だけではなかった。五発。
その全てが途中で分裂し、さらに細かい弾幕となって、幽香に迫る。

だが、小型ミサイルの礫などまるで意に介さず、幽香は傘の先端を空中の鉄火面に向ける。

「頑丈ね…。これはどう?」

幽香のその声に、妖夢は鳥肌が立つのを感じた。
容赦や慈悲を全く感じさせない癖に、声だけが笑っている。
殺戮者の声だった。

幽香は唇の端を微かに歪めた。
その時だった。

鉄仮面に向けられている日傘のその先端から、破壊の渦が生まれた。
それは光の奔流。魔理沙のマスタースパークの雛形。
冥界の空に、再び光の柱が聳え立った。
幽香にとってはただの魔力放射にしか過ぎないそれは、鉄仮面にとっては消滅の危機。
鉄仮面の反撃だったミサイルの礫は、その光の光線の中に飲まれて、消えた。

だが、鉄仮面は一瞬でその体を変形させ、その光線から逃れる。
鉄仮面は胴体に自転車のような輪を生やし、そこに連結されているペダルを激しく濃いだ。
あれが、あの鉄仮面の飛行形態なのだろう。
鉄仮面は、空中で横に大きくずれて、光線をかわしたのだ。

若干、間抜けな姿ではあるが、幽香は嘲りも笑いもしない。
鉄仮面の方は、光線を避けるとすぐに飛行形態を解除。
ズッシーン、と重い音と共に着地した鉄仮面は、ギギギ、と合成音を漏らす。

「何トイウ馬鹿パワー…。メロンバスト。奴ヲスポイルスルノガ先決ダナ」

追撃の為に、鉄仮面へと迫ろうとしていた幽香は、そうだねぇ、と低く、妙な抑揚のある男の声が聞こえた気がした。
 
 空間が激しく振動するような音が鳴った。
 巨木である西行妖を包み込むように、薄暗い冥界の空に、澱んだ青の光が昇る。
 
幽々子と妖夢は、幽香と鉄仮面が対峙するのを横目で見つつ、詠唱を続ける木偶の鉄仮面達を破壊しに掛かっていた。
 
 あのやたら喧しい鉄仮面は、幽香が足止めをしてくれている。
 その間に、この鍍金で塗り固められた歌声を止めねばならない。
 この木偶の鉄仮面達は明らかに、西行妖に何かを仕掛ける気だ。
 当然、鉄仮面達も、ただ詠唱を続けるだけではなかった。
 
 幽々子と妖夢が、動き出したと見た木偶の鉄仮面達は、すぐさま臨戦態勢を取った。
 器用なことに、詠唱を続けながらだ。
 朗々と。紡ぐ、というよりは、録音した詠唱を垂れ流しているような状態だ。
そんないい加減な詠唱の癖に、西行妖を包む青い光は、さらに濁り、澱み、空気を腐らせていく。
 
 危険だ。早く対処せねば。
 妖夢は斜め十字に二刀を振るい、弾幕を放つ。
 それを壁にして、木偶達に斬りかかって行く。
 歪んだスピーカーみたいな音を零しながら、木偶達も妖夢に飛び掛った。
 
 
「此処まで強行的なお客さんは、初めてだわ…」
 
 幽々子は、西行妖の前で、その幹に手を添えた。
その手から幹に伝わる暗い桜色の光が、青い光を少しだけ浄化する。
だが、それだけだ。
青い光は、桜色の光をゆっくりと蝕み始める。
その蝕みは徐々に広がり、幹に手を添えている幽々子の片手を、青黒く腐らせた。
幽々子はその手を眺めてから、木偶達へと視線をめぐらせる。
そして、微かな溜息を漏らした。

「解呪の術…。私みたいな者には、随分と厄介ねぇ」

そう言った幽々子は、腐り落ちそうな自らの手を淡い光を灯し、瞳を閉じた。
桜色の死が、幽々子の手を覆い始める。
その光を掲げるようにして、幽々子はその手を掲げる。
次の瞬間には、その桜色の死は、色とりどりの蝶の形を成し、それは弾幕となる。

 赤に、緑に。
白に、黄色に。
金色に、銀色に。
そして、薄い黒色に。
鱗粉の代わりに光の粒を零しながら、死が象った蝶達が、木偶達の周囲を飛び交い始める。
その数は、数千、数万ともつかない。
衰弱と死を振りまく蝶の群れは、淡い光を纏った弾幕。
蝶の群れは墓所に溢れ返り、木偶達に襲い掛かった。


 
 幽々子と妖夢が木偶達を駆逐する様をちらりと見て、幽香は笑う。
 もう大局は決した。木偶の掃除など、あの二人に掛かれば、ものの数分で終わるだろう。
 そうすれば、この薄気味の悪い詠唱も消え、後に残るのは冥界の薄暗さを静寂だけだ。
 
呆気ない。 
宙に浮かびつつ幽香は眼を細め、弾幕から逃げ回る鉄仮面へと視線を返す。
その時だった。

「ホゲェ!?」

鉄仮面が、辺りに散らばった破片に蹴躓き、すっ転んだ。
それを見た幽香は、鼻を鳴らす。
隙だらけになった鉄化面は、もうただの鉄の塊に過ぎない。
手にした日傘を振り上げつつ、幽香は一気に肉薄する。
そして、その間抜けな姿を晒す鉄仮面目掛けて、日傘を容赦なく振り下ろした。

「待ッ――」

鉄仮面は何か言おうとしたようだが、そんな間もなかった。
 だが、立ち上がり掛けるような体勢だった鉄仮面も、咄嗟に動いていた。
両手で剣を構えるようにして何とか幽香の日傘攻撃を受け止めたのだ。
 
轟音がして、その後に、ミシミシと金属がひしゃげて軋む音が、鉄仮面の脚から響いた。
 
ついでに、その足裏が地面にめり込む。
 
 「ムォォ…!」

 若干苦しげな音を漏らし、鉄仮面は何とか堪える。
 
 打ち込んだ日傘で、体勢の整わない鉄仮面を、日傘で押し潰そうとする幽香。
 それを、何とか堪える鉄仮面。
 
 潰れなさい。
幽香は唇の形を歪めつつ、日傘を持つ手に力を込めた。
 そして、すっと日傘を持ち上げる。
 
 鉄仮面はその隙に立ち上がって、構えを取ったが関係なかった。
幽香は日傘の柄を両手で握りこむと、無造作に鉄仮面にぶち込んだのだ。
 
 鉄仮面は、再び剣で防ごうとしたが無駄だった。
 日傘が剣と接触した瞬間、鉄仮面の剣はその力に負け、砕け散った。
 ついでに、日傘はそのまま鉄仮面の腕と胴体を打ち据える。
 
鉄仮面の剣を持っていた腕が、まるごとぺしゃんこになった。
 
何かが破裂するような音が響き、幽香の手には破壊の手ごたえが伝わる。
 
 幽香は鼻腔から息を吸い込み、大きく吐いた。

これだ。
この感触だ。
戦闘の末に、敵対するものを叩き伏せ、潰す。
その甘美な破砕の感触。
 
幽香はその感触が好きだった。

相手が抵抗すれば抵抗するだけ良い。
 強さは関係無い。相手の抵抗ごと、暴力でねじ伏せる。
 それこそが重要だ。
 戦闘自体も幽香は好きだが、それはプロセスに過ぎない。

 無様に這いつくばって、命乞いでもされれば、幽香はある種の快感に酔うだろう。
 体と心を砕いて、相手の人格すらも破壊して、別の何かになってしまう様を眺めるのも、また楽しみの一つだ。
 
 だが、今回の相手は、その幽香の嗜虐的な欲求を満たすことは無かった。
サディスティックな笑みに変わりかけた幽香の表情が、微かに曇る。

鉄仮面は、左腕を潰され、胴体を無様に凹まされも、それでも尚立っている。
 痛がりもしないし、泣きもしない。
 
何とつまらない反応か。

壊された腕からオイルを零しながら、鉄仮面は、ギギギ…、と音を漏らす。
 幽香の日傘でのぶちかましを踏ん張った鉄仮面は、幽香の日傘を右腕で掴んだ。
 まるで、吹っ飛ぶ代わりに、崩れ落ちるのを堪えるように。
 前屈みになって、つかまるように。
 
 もう一度、鉄仮面は、ギギギギ…、と音を零した。
 その時だった。

幽香は危険を感じた。
 
 「もうそろそろ良いだろう」
 
 幽香はその時、間違いなく男の声を聞いた。低いくせに、妙に抑揚のある声だ。
 その瞬間だった。
 
 一瞬、幽香は何が起きたのか分からなかった。
 幽香は、自分の顎辺りに衝撃を感じ、次に浮遊感を感じた。
 視界が一瞬だけ真っ暗になって、すぐに冥界の空が見えた。
 何かが砕け、破裂するような音を聞いた気がする。
 
 幽香は明滅する視界を下にずらして、胸中で舌打ちをした。
 鉄仮面の肩や脇腹の部分がパカッと開き、鉄パイプにジョイントを付けたような簡素な腕が伸びていた。
 肩と脇腹から一本ずつだ。
ついでに、背中からも二本の腕が生えていた。
 こちらの腕は、先端に巨大なグローブをはめ込んだふざけた外見だ。
 だが、そのグローブを嵌めたおもちゃのような腕が、まるで槍のように突きだされているのが、幽香の視界に入ったのだ。

あのグローブ付きの腕で、顎を突き上げられた。
その事を理解するのに、少しだけ時間が掛かった。

 大した力だった。
 幽香は体を仰け反らせるようにして、後方へと殴り飛ばされる。
 だが、幽香が吹っ飛ぶその前に、鉄化面がその体を、四本腕で捕まえた。
 いや、拘束した、と言った方が正しいだろうか。
 
鉄仮面の簡素な腕は、伸縮が可能なようだ。
 肩から生えた腕で幽香の両腕を。
脇腹から生えた両腕で幽香の足首を掴み、掲げるように固定する。
ガクン、と体が激しく揺さぶられ、幽香は「ぐ…!」と声を漏らした。
鉄仮面の前に体を晒す状態だ。

幽香は睨みつけるように鉄仮面を見て、そこで気付いた。
鉄仮面の窓のような眼。それが、今までの淡い黄色でなく、赤色に染まっている。
ビカビカと赤く明滅している。
変化したのは、鉄仮面の体と眼の色だけではなかった。

力だ。
幽香は、自らを拘束している鉄の腕を千切り飛ばしてやろうともがくが、軋むような音がなるだけだ。
今の今まで、こんなパワーは持っていなかったはず。
 
 「梃子摺ラセオッテ」

 そう言って鉄化面は、無事だった右手を幽香の首元へと持っていく。
 その途中で、機械の右手はガシャリと音を立て、何かを生やした。
 それを見た幽香はぎょっとした。
鉄仮面の右手から生えたそれは、緑色のクスリを入れた注射器だった。
いや、注射銃と言った方が良いかもしれない。
鉄仮面は手早く幽香の首筋に注射銃をあてる。
バシュン、というくぐもった音とともに、クスリは一瞬で幽香へと打ち込まれた
 
 「あぐ…!」
 
 幽香は一瞬だけ苦しげに呻いたが、すぐに凄絶な笑みを浮かべて見せた。
 そして、全身に力を込めつつ、深く息を吐き出した。
 私は注射が嫌いなのよ。その幽香の言葉のすぐ後。
 
 突然、鉄仮面の横合いに何かが現れた。
そいつは鉄仮面の腕を縦にへし折り、砕き、破壊した。
 一撃だった。
あまりの衝撃に、鉄の破片が宙を舞う。
 
 「ォォ!?」

 鉄仮面は間抜けな声を出して、そちらへと視線を向ける。
 そこには、縦に振り下ろした日傘を優雅に構え直す、もう一人の幽香の姿。
 鉄仮面は一瞬だけ、動きを止めた。
 
驚愕したのか。或いは、呆然としたのか。
 ただそれは大き過ぎる隙だった。
 
 もう一人の幽香は、すでに傘を振りぬいていた。
 序に、拘束の解けた幽香も、拳を振り上げ鉄仮面に飛び掛かる。
 正面と、横合いからの致命的であろう攻撃。
 拳が呻りを上げ、殺人日傘が風を斬る。
 
だが鉄仮面は、動こうとしない。
 
 「オーバークロック解除だ」

 代わりに、抑揚のある男の声が聞こえた。
恐らく男の声は、スイッチだったのだろう。
 その声に応えるように、鉄仮面に仕込まれたギミックが起動する。
 
 鉄仮面の窓の眼が真っ赤に染まるのを、正面に居た幽香は見た。
 次の瞬間。鉄仮面を中心として、電磁波の嵐が吹き荒れる。
 二人の幽香は、その電磁波の嵐に飲み込まれかけて、咄嗟に後方へと飛び退った。

 青白い高圧電の塊を放出しつつ、鉄仮面は自身も後方へ吹き飛ばされた。
 二人の幽香は舌打ちをする。
巧いこと逃げるわねぇ。
 ぶすぶすと煙を上げながらも、起き上がる鉄仮面を見ながら幽香は呟く。
 
しぶとい奴だ。それに、あの気味の悪い男の声。
コソコソとこの戦場を盗み見ている者がいるようだ。
気に入らないわね…。
 
 幽香は、自らの分身を消して、傘の先端を鉄仮面へと向けた。
 その日傘の先に、太陽の光のような、明るいオレンジ色の光が集まる。
 マスタースパークの原型である光の奔流を再び放つつもりだ。
 
 「え…ぁ」
 
 だが、そこで幽香の体に異変が起きた。
 ぐらりと。
 幽香の体がよろめき、日傘を構えていられなくなった。
 視界がぼやけ、揺れて、焦点が定まらない。
 吐き気と眩暈。寒い。暑い。
 
 幽香は先程打ち込まれたクスリを思い出し、舌打ちする。
 だが、もうそれだけで限界だった。
 
 駄目だ。
 
幽香は胸と腹を押さえて、膝を着いた。
 体が崩れていくような感覚。
 五感が狂いに狂って、酷く寒く感じるのに、体は火照って仕方が無い。

 「ぐぅぅ…ぁ!」
 
 動けない。それどころか、立っていられない。
体を起こしていることが、とんでもない苦痛だった。

幽香は意識を手放しかけ、何とか掴み止めた。
だが、体は別だった。ごとん、と頭をぶつけるようにして、横に倒れた。

幽香は何とか視線を鉄仮面の方に向ける。
霞む視界の中、鉄仮面は幽香を見下ろしながら、「ジットシテイロ」と呟いた。
そして、マントをバサリと翻し、妖夢達の方へと体を向き直らせた。

待ちなさい。まだ終わっていないわ。
そう言おうとしたが、幽香の声は言葉にならなかった。
ひゅー、ひゅー、と危険な呼吸音が鳴るだけだった。





青く澱んだ光は、既に西行妖の半分程を飲み込んでいる。
朗々と流れる詠唱の声、いや音は、不愉快極まりない。
鉄仮面の数が多いせいか、その詠唱は時にブレて、重なり合い、不気味に響く。

妖夢は二刀を振るい、一体の鉄仮面を五つの鉄塊に変え、返す刃で、もう更に一人の鉄化面を縦に割る。

数は減っているはずだが、青い光の蝕みは止まらない。
それどころか、その汚染は西行妖だけでなく、この墓所すべてに広がりつつある。
空気が濁り、腐る。

その腐敗に当てられたのか。妖夢は、体がふらつくのを感じた。
だが、脚に力を込め、踏みとどまる。
そして、背後から飛び掛って来た鉄化面を、振り向き様に斜めに切り飛ばした。


まだ、こんなに居るのか。
視線を巡らせる妖夢の額と頬には、珠の汗が浮かんでいる。
だが、そんな疲労を吹き飛ばす光景が目に入った。

幽香が倒れている。
序に、あのやかましい鉄仮面が、こちらに向かってきている。
しかも、それだけではない。
妖夢の主である幽々子も、この青い光に蝕まれ苦しげに胸を押さえ、膝を着いていた。
その幽々子にも、木偶の鉄仮面達が踊りかかろうとしている。

妖夢は頭が真っ白になった。
気付いたときには、駆け出していた。
もう何も感じなかった。

妖夢は、駆けつつ己の半霊を打ち出し、行く手を遮ろうとした木偶の鉄仮面を吹き飛ばす。
そして、両手の刀を握り直し、風のように幽々子の元へと滑り込む。
幽々子に迫っていた鉄仮面は三体。

妖夢は弾幕を放ち、一体を蜂の巣にしつつ、楼観剣で更に一体の胴を凪ぐ。
続いて、妖夢は残った鉄化面の懐に滑り込むと、断迷剣をそのこめかみに埋め込み、首を切り飛ばした。

「大丈夫ですか!? 幽々子様!!」

返り血代わりにオイルを浴びて、妖夢は幽々子へと向き直り、その体を支える。
幽々子はぐったりとした様子で、倒れこむようにその体を妖夢へと預けて来た。
顔は青ざめ、微かに体が震えている。

澱んだ青い光が幽々子の体を蝕んでいるのか。
妖夢が焦ったように顔を上げた時だった。

はらり。はらりと。
桜の花びらが舞っていた。

妖夢は息を飲んで、西行妖を見上げる。
そんな…花が。妖夢の呟きは声にならない。
青い光に照らされ、舞う桜の花びらは酷く不吉だ。

「ギギギ。解呪ノシーケンスハ60%程ガ終了カ」

妖夢達の下へと、あの喧しい鉄仮面が歩み寄ってくる。
木偶達は妖夢と幽々子を包囲するように、ハンマーを構え、陣取っている。

「法術支援機が、思ったよりも良い囮になってくれたねぇ」

「マァ、カナリ数ハ減ラサレタ様ダガナ」

「流石に三対一を同時にやったら、いくらサポートしたって勝ち目なんて無いからね」

「メロンバストモスポイル完了。後ハコノ木ノデータト嫁ヲ連レ帰レバ、任務完了ダ」

鉄仮面はぶつぶつと言いながら、妖夢の前で立ち止まった。

「ソウイウ訳デ。貴様モ嫁ニ来ルカ」

黙れ…。
妖夢は、鉄仮面を睨みながら、幽々子の体を抱き上げ、後ずさる。
この状態の幽々子を庇いながら、この数を相手にするのは無理だ。
それに、幽香を放っておく訳にもいかない。
さりとて、打つ手も無い。

木偶達が、じりじりと距離を詰めてくる。
鉄仮面はギギギ、と音を漏らした。

「無駄ナ抵抗ハ止メロ。痛イダケダゾ」

妖夢は唇を噛む。
どうすれば良い。
どうすれば…。

その妖夢の思考を、赤黒い稲妻と、轟音が引き裂いた。

「ムッ!?」

鉄仮面は咄嗟に飛び退り、その雷光をすんでの所でかわした。
彼は、棍棒を振るい、妖夢達を囲んでいた木偶達をなぎ払いながら、一瞬で駆け込んで来た。

そして、妖夢と幽々子を庇うように立ちふさがる。
妖夢は、彼のその背中が凄く大きく見えた。

「悪ぃ。遅れちまった」





[18231] 十七・五話  後編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2011/10/05 15:44
木偶の鉄仮面達を全て破壊して、西行妖の元に駆け付けたシンがまず見たもの。

それは、西行妖を侵食する、青く澱んだ光の渦。
倒れこむようにして妖夢に体を預ける、幽々子の姿。
そして、妖夢と幽々子に迫る、鉄仮面の群れだった。

すんでの所で、鉄仮面と妖夢の間に割って入ったシンは、バリッと奥歯を噛んで、その体に赤黒い稲妻を纏わせる。
調子に乗りやがって。
目の前に居る間抜けな面をした鉄化面を睨みつけ、棍棒を突きつけた。

「シンさん…!!」

妖夢の声は、少し震えていた。
その声を背中で聞いて、シンは視線を巡らせる。

正面には、左腕を潰された鉄化面。
周囲にも、他の鉄化面達が詠唱を垂れ流しながら、シン達を囲んでいる。
だが、幽香の姿が見えない。何処だ。
シンは舌打ちをして、正面の鉄化面を睨む。

「テメェ達、一体何モンだ…」

シンのその言葉に、鉄仮面はバサリとマントを揺らして見せた。
オイルを右腕から零しながらのその動きは、負傷した英雄のようでもある。

「ギギギ。ワシハ名ハ、ロボカイ。すーぱーえれがんとましんダ」

「ロボ、…カイ?」

シンは顔を顰めるようにして眼を細め、その鉄仮面を睨む。
騎士服に、金髪。
シルエットだけを見れば、シンの実父の若い頃に見えなくも無い。
だが共通点はそれ位だ。
或いは、「カイ」というのも、別の何かの名称なのか。

いや、名前などどうでもいい。
シンは再び舌打ちをして、肩越しに妖夢の腕の中の幽々子へと視線を向けた。
幽々子の体は、既に青く濁る光に包まれつつあった。そしてその体から、青い光の粒が、霞むように漏れている。
幽々子は苦しげに呻きつつ、その瞳を開き、シンへと向けた。
そらから、今にも消えてしまいそうな、苦しげで、儚い微笑みを浮かべて見せた。
妖夢も、ぎゅっと幽々子を抱えて、シンを見詰めている。

とにかく、幽々姉達を此処から離さねぇと。
出来損ないのスピーカーから漏れるノイズのような詠唱は、この空間を確実に蝕みつつある。

そして、更にこの詠唱に混じって、おおおん、おおおん…、という不気味な鳴動が響いている。
魂の奥底にまで入り込んでくるような、低い鳴動だ。
いや、声というべきか。
それは、何かが泣くような声でもあり、地獄の亡者達の呻き声のようでもある。

澱んだ青い光に晒され、ざわざわと西行妖の枝が揺れていた。

やば気な感じだ。

「妖夢…」

シンは、棍棒を握る手に力を込めつつ、背後に居る妖夢へと声を掛ける。

「幽々姉を連れて、此処から一旦離れてくれ」

「で、ですが…!」

「幽々姉を此処に留めとくのはやべぇ。この法術、相当厄介だぜ」

じりじりと、鉄仮面達が寄ってくる。
相変わらず詠唱を垂れ流しながら、表情も浮かべず。
濁った青い光が更に強くなり、幽々子が苦しげに呻いた。

妖夢は、その幽々子の様子を見て、唇を噛む。

「必ず戻って来ます!」

そう言って、妖夢が走り出そうとした時だった。

「その必要は無いわ…。…私は大丈夫…」

ぎゅっと、幽々子が妖夢の服を掴み、ふらふらとした足取りで立ち上がった。
かなり苦しげな様子だが、その口元には微かな笑み。

「幽々子様!!」

妖夢はすかさず立ち上がり、幽々子の体を支えるようとした。
だが、それよりも早く幽々子は蝶を纏い、体を微かに浮かせる。
言ったでしょう、妖夢。私は大丈夫だから…。それよりも…。
幽々子は西行妖を見上げ、ああ…、と呟いた。

西行妖は、今は七部咲き程だろうか。

暗い青色の光に照らされ、桜の花びらが舞う。
機械の詠唱と合わさったその光景は、酷く歪だ。
雅さなどとは程遠い桜吹雪。
その中を、木偶の鉄仮面が踏み込んできた。

四体。シンの背後の妖夢達目掛けて、雪崩かかって来た。
ぶわっと、桜の花びらと、蝶が舞い上がる。

幽々子は手を翳し、妖夢が剣を滑らせた。

シンは振り返り、棍棒を撃ち出そうとしたが、その必要も無かった。

幽々子の掌から放たれた蝶の群れ。
それに押し流された二体の鉄仮面は、グシャグシャに空中分解されながら吹っ飛ばされた。

妖夢は残りの二体を破壊していた。
舞っていた桜の花びらが数枚、二つに斬られ、落ちる。
鉄仮面達もその花びらと同じく、胴を二つに、頭を二つに割られ、その場に崩れ落ちた。

幽々子が、はぁぁぁ…、と深い吐息を吐いた。
その表情は辛そうだ。妖夢も心配そうに視線を向ける。
だが、幽々子は、「…そんな顔しないの、二人共」と、やはり微笑むだけだ。
お客さんの相手をするのに、白玉楼の主人が寝ている訳にはいかないでしょう。
そう言って、幽々子は両の掌に儚い光を灯す。

西行妖を包む、澱み切った青い光。
それに呼応するように、その光は幽々子の体を侵食していく。

「多分、逃げても無意味よ…。私を蝕むこの光、こびりついて取れそうにないわ」

幽玄を通り越して、もう消えかけの体を推して、幽々子は笑う。
シンと妖夢に笑って見せる。
妖夢は泣きそうな顔になりつつも、ぐっと堪える。
そして、刀を構え、視線を巡らせた。

シンも、もう何も言わなかった。
逃げるにしても、この数。既に包囲されている。
闘うことが賢明な選択なのかは、シンにはわからなかった。
だが、幽々子が感じた「逃げても無駄」という感覚が正しいのなら、それはベターな選択に思えた。

やばくなったら言ってくれ、幽々姉。
シンはそう言いながら、正面の鉄化面の元に飛び込みながら、棍棒を繰り出した。
空間そのものを抉るような突きだった。
黒い稲光が、辺りを染める。
赤黒い稲妻を纏わせたシンの棍棒での突きは、もはや只の突きでは無かった。
ほとんど破城鎚だった。

シンの鉄仮面の間に、二体、木偶達が割り込んで来たが、関係無かった。
二体共、紙屑のように体の大部分を一瞬ではつられて、砕け飛んだ。
まるで、巨大なドリルを喰らったみたいな吹っ飛び方だった。

一撃でぶっ壊す。
シンはそのつもりだった。
だが、正面に居た鉄仮面は、「ウオ!?」と驚いたような声を上げたが、反応して見せた。
地面を這うように体を屈め、突きをかわしたのだ。
騎士服のマントを稲妻が掠めた。
マントがズタボロになって引き裂かれ、宙に舞う。

シンは舌打ちしながら、さらに一歩踏み込む。
鉄仮面を踏み潰そうとした。出来なかった。
鉄仮面は、右腕一本で体を起こした序に、びょん、とシンに飛び込んで来た。
頭突きだった。

やべぇ…!
シンは咄嗟に棍棒を引き寄せ、盾の様に構え、鉄仮面の頭突きを受け止める。

鉄仮面の頭とシンの棍棒がぶつかった時、とんでもない音だした。

シンは、鉄仮面の力に負けて棍棒を手放しはしなかったが、跳ね上げられた。
それ位、鉄仮面の頭突きは強烈だった。
がら空きなったシンの胴目掛けて、鉄仮面は滑るように踏み込み、右腕を突き込んできた。
がしゃこん、という音が鳴った。
手首辺りから、再び注射銃を生やしている。

シンは飛び退ろうとしたが、間に合わない。
鉄仮面の方が早い。

くそったれ。
そうシンが思った時だった。

ひゅっ、と鋭い音がした。

「はぁぁぁ…!」

そして裂帛の気合。
バックステップを踏むシンの脇を、妖夢が鉄仮面に斬り込んで来たのだ。
シンの懐に踏み込む為、鉄仮面は前に倒していた体を、一気にぐぃぃーと仰け反らせた。
人間には不可能そうな、不自然極まりない動きだった。
だが、妖夢の初撃を、その動作で何とかかわして見せた。

シンの隙をカバーしに入った妖夢は、更に追撃をかける。
二刀をびゅんびゅん振るいながら、鉄仮面を追う。

鉄仮面はもうシンを追う所では無くなった。
何度か、妖夢の刀が鉄仮面の騎士服を切り裂いた。

妖夢は、確実に鉄仮面を追い詰めていく。
途中、木偶達が妖夢に飛び掛った。
左右から、そして後方から。
流石に、これには妖夢も対処しきれない。

だが、妖夢は恐れなかった。
そんなものには眼もくれない。

妖夢の両脇へと、今度はシンと幽々子がカバーに入ったからだ。
シンは棍棒で鉄仮面を薙ぎ払い、突き砕く。
幽々子は蝶の群れで、鉄仮面達を鉄屑に変えながら押し流す。

妖夢の前進を阻むものは、もう何も無かった。
相手は幽香にやられ、手負いだ。
仕留める。
仕留めてみせる。

妖夢は、四肢に力を込め、更に刀を振るう速度を上げる。

行け。
倒せ。
切り伏せろ。

妖夢は自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。
こんなに早く刀を振れる。
こんなに深く踏み込める。

両脇、その少し後ろで、破砕音がした。
金属がひしゃげるような音も聞こえた。
だが、それらは特に気にならなった。
シンと幽々子は、負けない。

だから、私だ。
私が、こいつを倒せば良い。
届け。届け。


妖夢は、冷静では無かった。
焦っていた。焦れていたという方が正しいのか。

くそ…!
妖夢は歯噛みする。
捕まえられない。
妖夢の振るう剣は、鉄仮面を捉えられない。
掠るだけ。掠めるだけだ。
或いは、弾かれる。
防がれる。

この鉄仮面の装甲は特別製なのか。
右腕一本の癖に、妖夢の連撃を防いでくる。
弾いて、捌いてくる。

断ち切れない。
刃が、届かない。

「はあああ…!」

楼観剣を袈裟斬りに振るいながら踏み込み、更に白楼剣を横に凪ぐ。
鉄仮面は、ギギギと音を漏らしながら、身を深く沈める。
そして、体の軸をずらすようにして袈裟斬りをかわすと、横薙ぎに振るわれた白楼剣を右手で払いのけた。

火花が散って、金属同士がぶつかる甲高い音が響く。
妖夢はその瞬間、半霊を鉄仮面目掛けて打ち込もうとした。
だが、鉄仮面は既に動いていた。

鉄火面はずざざっ、と這うように下がってから棒立ちになって、パカッと口を開いた。
妖夢は一瞬、呆気に取られた。
それが不味かった。

次の瞬間だった。
鉄仮面の胸部分の騎士服がバコンと開き、そこから熱せられた黒煙が噴き出されたのだ。
ゴハァァー!!、と、物凄い勢いだった。
排煙というよりも、それは火炎放射に近い。

妖夢は思わず腕で顔を覆い、眼を閉じた。
全身火傷を覚悟した。
だが、感じたのは熱では無く、衝撃。
何かに抱きすくめられるような感覚。

「ぐぁぁ…!!」

聞こえたのは苦悶の声。シンの声だった。
じゅううう、と何かが焼け焦げるような音も聞こえた。
寒気がするような不気味な音だった。

眼を開けた妖夢は、自分がシンに抱きすくめられているのに気付き、そして高温を感じた。
黒煙を浴びたシンは、妖夢を抱きかかえたまま、その黒煙の勢いに吹き飛ばされた。

吹けば飛ぶ紙切れみたいに。
それぐらい、とんでもない排気量だった。
鉄仮面はすかさず追撃に出ようとしたが、幽々子の蝶がそれを許さない。

なかりの距離を吹っ飛ぶシンと、鉄仮面との間。
今度は幽々子が死蝶を纏いつつ、割って入る。
淡い光を零す蝶達も、濁った青色に蝕まれつつある。

だが、幽々子はうっすらと笑みすら湛えて佇み、鉄仮面の行く手を阻んだ。

「貴方は私に用があるのではなくて…?」

「ギギ…。嫁メ…」

鉄仮面も焦っているのか。
合成音声の声にも、今までのような余裕が感じられない。
だが、余裕が無いのは幽々子も同じだった

桜の花びらが、蝶と共に舞う。
西行妖が、おおおん…、おおおん…、と鳴いている。
今は、もう八部咲き程だろうか。
西行妖を囲む法術陣も一層強く輝き、青い光が脈動を始める。

まずい感じねぇ…。
幽々子は呟き、ちらりと自分の掌へと視線を落とす。
その掌は透け、地面が見えている。

「時間稼ぎも…、楽じゃないわ…」

でも、私も頑張らないとねぇ…。
少し辛そうな、掠れた声で言って、幽々子は鉄仮面へと向き直る。
蝶達が幽々子の掌から溢れ、青い光の中を舞い上がった。
その蝶達が、一斉に黒く染まった。

墨を被ったように、蝶達は不気味に色を失っていく。
蝶達の群れは、蠢く黒い影となり、幽々子の周囲をも黒く染めていく。

黒死蝶の群れは、死体を欲していた。
新鮮な死体を。骸を。屍を。死骸を。

幽々子は吐息を漏らしながら、ゆっくりと視線を巡らせる。
木偶達は、その黒死蝶を前に、やはり怯えもしなければ、恐れもしない。
ただ、向かってくる。
哀れねぇ…。
幽々子の呟きのすぐあと。
宙を舞うというよりも、蠢き回る黒い死の染みが、鉄仮面達に雪崩れかかって言った。




妖夢はその様子を、シンの腕の中に居ることも、手にした刀の感触も忘れ、見入っていた。
半霊である妖夢にとって、死というものは身近にあるものだった。

だが、幽々子の操る黒い死の蝶の群れには、怖気が走った。
忌まわしさよりも、恐ろしさを感じさせる。
走って逃げ出したくなる。

実際、鉄化面と木偶達の相手をしている今の幽々子は、脅威そのものだった。
木偶達は、黒い蝶に包まれ、瞬く間に鉄屑に分解されていった。
黒死の蝶は、死を齎すだけだはない。
得物に齧り付き、破壊し、喰い散らかしていった。

鉄仮面は逃げ惑いながらも、黒煙を吐き出して、蝶を追い払っている。
防戦一方だ。

「すげぇな、幽々姉…。ぐ! くそ…痛ぇ」

その様子を少し離れた所から見つつ、シンは妖夢を放して立ち上がろうとして、呻いた。
背中、左腕に走る、強烈な痛み。

シンの呻きを聞いた妖夢は、今更ながら、シンが自分を庇ってくれたことを思い出した。

「大丈夫ですか!? シンさ――!」

シンの腕の中に居た妖夢は、慌てて起き上がり、そして見た。

息を呑んだ。
酷い火傷だった。
シンの背中から左腕にかけて、真っ黒になっている。
所々が炭みたいになっていた。
焼いた木の表面みたいだ。
妖夢は震える声で、ああ…、と呟いた。
そんな事しか出来ない自分が、酷く惨めに思えた。
心が折れそうだ。

折れる寸前だった。

怪我、無さそうだな…。
そう言って振り返ったシンが、笑った。

「で、でも…、シンさん…、背中が…」

「気にすんな…。どうせ逃げねぇからな…怪我なんざ関係ねぇ」

シンの笑みには、曇りも嫌味も無い。
そこに在るのは純粋な安堵だった。お蔭で、妖夢の心が折れずに済んだ。
涙が出そうになって、妖夢はぐいっと目元を拭った。
妖夢はシンに声を掛けようとしたが、出来なかった。

「あー…痛ぇ…」

シンはぼやくように言って、のろのろと起き上がったからだ。
そして、視線を幽々子と鉄仮面に向けて、舌打ちをする。

「あの野郎、いくつ武器仕込んでんだ…」

シンの視線の先。
鉄仮面は、破壊された左腕をパージしていた。
ついでに、其処からバズーカ砲を生やし、幽々子目掛けてぶっ放している。
バズーカから放たれる弾は、巨大なトーテムポールの様なふざけた形状だ。

故に、とにかく弾がデカイ。
幽々子はひらりひらりと舞うようにその弾をかわし、着弾時の爆風は蝶の群れが遮断している。

黒死蝶の群れは、爆風を遮るだけでなく、確実に鉄仮面の体を削っている。
見れば、鉄仮面の着ている騎士服は、黒死蝶の群れに啄ばまれ、もうボロボロだ。


一見して、鉄仮面は押されているように見える。

だが、幽々子の表情も、酷く苦しげだ。
眼の下にも、隈があるように見える。
幽々子自身の美貌のせいで、その疲弊の色が異様に目立つ。
更に不味いことに、鉄仮面達が描いた法術陣から漏れる青い光が、一際強くなってきた。
西行妖も、もうほとんどその青く澱んだ光に飲み込まれつつある。

おおおん…。
おおおおん…。

呻き声、或いは泣き声なのか。
どちらでも良いが、この腹の底に響くような唸り声も、先程よりも更に大きくなっている。

もたついてる場合じゃねぇな。
呟いたシンは、炭と化した背中の皮膚に手を掛け、べりべりと引き剥がしにかかった。
がぁあぁあぁ…!!、と獣じみた声を上げて、痛みに耐える。
びしゃびしゃと、血と膿が地面に飛び散った。

妖夢は思わず眼を瞑る。
シンの背中の左半分程が、ピンク色の筋肉組織が剝き出しになっている。
だが、シンは自身のそんな痛々しい姿などお構いなしに、棍棒を拾い上げて、握り直す。

鉄仮面共の狙いは、幽々子と西行妖だろう。
なら、あの法術陣の意味は何だ。
解析。解呪。何の為に。
それに、西行妖の呻き声も、かなり危険な感じだ。
澱んだ青い光を放つ法術陣。早くあの法術をディスペルしねぇと。
シンは痛みに堪えて、駆け出す。妖夢がその後に続く。

これ以上、時間稼がれて堪るかよ。






肉体が分解されていく感触は、新鮮だった。
今まで味わったことの無い感覚だった。

意識が戻りつつあることは分かった。
だが、思考がうまく働かない。
体もだ。

動かない。
いや、動かない、というよりは動かせない。

重い。重すぎる。
瞼を上げるのも億劫だ。

睡魔や倦怠感とは違う。
命が漏れ出しているかのような虚脱感。

おおおん…。おおおおん…。

呻き声が聞こえてくる。
さっきよりも良く聞こえた。
単純に呻き声の方が大きくなっているか。

どうでも良かった。

吐き気がした。
胸に溶かした鉛を流し込まれたように重く、苦い。

心が冷えていくのを感じた。
タールの海から、ゆっくりと引き上げられるように、意識が浮き上がってくる。

上下の揺れを感じた。

ああ。
私は。
何かを射込まれ、倒れたのか。

そこまで思い出して、それがどうしたと思った。
意識が浮上しつつあるせいで、体の重さがより鮮明になった。
何もかもがどうでも良くなる程、体が重い。
寒くて、熱くて、苦しい。
死ぬ。死ぬの。私が。そうか。それがどうした。

うっすらと瞼を開いて、首を巡らせた。
それだけのことが、酷い重労働だった。

ぼやけて霞んだ視界の中、少し遠くに黒い靄が見えた。
それは宙を蠢いていた。
眼を凝らした。それは蝶だった。黒い蝶の群れだ。
黒い蝶の群れは、白い騎士服を着た鉄仮面に襲い掛かっている。

ああ。何をしているの。
私の。私の獲物よ。

それを見た時、一気に眼が覚めた。

未だ意識のあるうちに、背を向けられた。

思い出した。
思い出したわ。

その屈辱は、体の重さと苦しさを吹き飛ばした。

そして気付いた。
今、自分は木偶の鉄化面に、荷物のように担がれ、運ばれている。

先程感じた上下の揺れの正体は、これだった。

バリバリと奥歯を噛み締めて、四肢に力を込める。

まだだ。
まだ終わっていないと言った。
なのに、勝手に余所見をして。
蝶達に襲われて。

あなたを壊すのは私よ。
私でなければならない。

担がれた体勢のまま、片手で鉄仮面の頭を握りこんだ。
ギ…、と、鉄仮面も気付いたようだが、もう遅い。
そのまま、握りつぶしてやった。
崩れかけた身体に力を入れたせいか、一瞬、気を失いそうになった。
バキュバキュッ、という音がして、木偶の首からオイルが噴き出す。

頭部を一瞬で失った木偶は、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

その木偶と一緒に地面に崩れ落ちて、その衝撃で身体が悲鳴を上げた。
あまりの苦悶に、声も出なかった。

土の匂いがした。
体に力を込めるが、うまく動かない。
ああ。忌々しい。

唇を噛み千切ると、口腔内に血が溢れかえった。
温い血を口に溜めて、日傘を杖のようにして、何とか立ち上がる。

体が笑っている。
ガクガクと揺れている。

本当に、笑いがこみ上げてきた。
ふふ…。くふふ…。
おかしいでしょう。
全然、私らしくないでしょう。
杖をついて、まるで老婆のように震えて。
本当に笑う奴が居たら、細切れにして肥料にしてやるけれど。

震える手で、懐に入れてあった向日葵の種を取り出し、それを口に含む。
口を開けたとき、血が少し零れた。
喉元を赤い液体が伝う。
血と一緒に種を飲み込んだ。

嚥下すると、それは私の中ですぐに芽吹く。

種は、小さな命の塊だ。

それは、芽吹く場所さえあれば、力強く活力を漲らせる。

メキメキと音を立てて、分解されて、朽ちかけた肉体に、根が通っていく。
再生と乱動を繰り返し、細胞が滾る。力が漲る。
原初の力は私を奮い起こし、生命の息吹は、私の力そのものへと変わっていく。
巨大な力のうねりが、私の体を貫いていく。

眼を開くと、濁りに濁った青い光と、そこに飲み込まれつつある西行妖が見えた。
桜吹雪は悲鳴のようだ。
金属音の詠唱は、随分小さくなった。
だが、まだ聞こえる。

気付けば、笑っていた。
屈辱は返すわ。
受け止め方に気を付けなさい。






「シーケンスハ90%ヲ終了…。封印解呪マデ、後10%」

ロボカイは呟いて、幽々子へとバズーカ砲を向け、乱射する。
トーテムポール型の弾は巨大で、威力も十分だった。
幽々子は、黒死蝶で爆風を遮りつつ、距離を取る。

爆風は、桜の花びらを吹き上げ、燃やす。
火の粉となった花びらは、更なる爆圧に砕かれ、蝶の群れに混ざり、消えていく。
舞う黒死蝶の数は、爆風に散らされ、炎に飲まれてその数を減らしている。
だが、ロボカイに対峙している幽々子には傷一つ無い。
微かに火の粉を含む熱い風が、幽々子の着物の裾を揺らす。

静謐だったはずの墓所は、今では瓦礫と煤と、鉄屑の山だ。
冥界の空に、あちこちで細く立ち上る黒煙が吸い込まれていく。

「蝶の数も随分減ったねぇ…。いや、良く頑張ってくれたよ」

その酷い景色の中に、妙に抑揚のある、低い男の声が響く。
ロボカイの首辺りから、その声は漏れていた。

「ギギギ…。コピー達モ殆ドヤラレタゾ」

「必要なコストさ。…しかし、妙だな。本来なら、もっと早く処理は終わる筈なんだが…」

「シーケンス速度ノ低下ハ、詠唱用ノコピー達ヲ失ッタセイダロウ」

「…それなら良いだけどねぇ。嫌な感じだ…」

残っている木偶の鉄仮面――ロボカイのコピー達の数は、せいぜい十数体。
だが、その十数体に囲まれている幽々子の表情には、もう余裕は無い。

ロボカイはバズーカ砲の構えを解きながら、幽々子へと向き直った。

「ソロソロ限界ダロウ、嫁ヨ。解呪法術ガ終ワルマデ、大人シクシテイロ」

幽々子自身に傷は無い。
だが、青い光の蝕み、そして西行妖の呻き声が、幽々子の精神をズタズタにしていく。
幽々子の眼の下には隈ができ、呼吸も浅い。
何とか宙に浮き上がり、蝶達を纏ってはいるが、それも恐らく長くは続かない。

ぽたり。ぽたりと。
羽ばたくのを諦めたかのように、何匹かの蝶達が地に落ちた。

それでも幽々子の眼は死んではいなかった。
微かに、唇を笑みの形に歪んだ。

「私も、そろそろ眠ってしまいたいけれど…そうもいかないのよ」

貴方達のせいでね…。
そう言って幽々子は、苦しげに表情を歪めたあと、両の掌に淡い光を灯す。
いや、光、というよりも、それは影、というべきか。
その光の色は、薄い黒。

「死に誘えない、というのは…本当に面倒で、哀れねぇ」

薄暮の揺らめきの中、幽々子は眼を細め、ロボカイを見据える。
ロボカイもまた、幽々子へとその窓のような眼を向け、「フム…」と声を漏らした。
何かを思案するかのような、曖昧な頷きのような声音だった。

「確カニ、死トイウ概念ハ我々ニハ無イ」

ロボカイは、破壊された左腕から生やしたバズーカ砲を構えつつ、言葉を紡いだ。
そのすぐ後だった。
幽々子の掌から、再び黒死蝶があふれ出した。

弾幕、というよりは、それはもはや蒸気だった。
魂と肉体を溶かし尽くし、飲み込む、死の暴風だ。
だが、その弾幕は、明らかに先程よりも薄い。
弱弱しい。

その突風をまともに浴び、後方に押し流されながらも、ロボカイはバズーカ砲の標準を幽々子に合わせる。

「人間ノ死トハ、肉体ノ終止ダ。シカシ、死ンデ尚、人間ノ魂ト精神ハ残ル」

呟き、ロボカイはバズーカを構えた体勢のまま、胸部に仕込まれたギミックを作動させる。
それは、先程シンを焼いた、排熱用の気口。
黒い突風の中を、黒死蝶達がロボカイ目掛けて襲い掛かっていく。
ロボカイは、上体を逸らすようにして、その気口を蝶達に向けた。

「ダガ、肉体ト魂ヲ精神デ繋ガネバ、人間ハ自我ト意識ヲ持テヌ。
 魂ト精神ダケデハ、意識ハ保テヌ」

ロボカイは、其処まで言って、排気口から黒煙を吹き上げた。
凄まじい勢いと、熱量だった。
ゴハーーッ、と吐き出された黒煙は、みるみるうちに黒死蝶達を飲み込んだ。
そして、その熱で、焼き、溶かし、燃えカスにしていく。
バラバラ、ぼとぼと、と燃やされた蝶達が地に落ち、黒い光の粒へと帰っていく。
黒煙は、幽々子の視界を遮り、ロボカイの姿を隠した。
煙幕のつもりかしら…。
幽々子は眉を顰めようとしたが、それすらも億劫だった。
それに、そんな場合でもなかった。
びゅん、と風を切る音が聞こえた。

ロボカイだった。
バズーカの重厚さをまるで感じさせない非常識な速度で、幽々子に迫っていた。
黒煙の中を身を屈め、突っ走ってきたのだ。

幽々子は反応は出来てはいたが、体は思うように動かなかった。
だが、ロボカイは攻撃しては来なかった。
至近距離まで肉薄していたロボカイは、バズーカ砲を幽々子に向けただけだった。
事実、それで十分だった。
恐らく、ロボカイは、幽々子の体の状態を理解していたのだろう。
幽々子は、もう限界だった。その場に崩れ落ちるように、膝を着いた。

「我々トテ同ジダ。ぼでぃガ失ワレテモ、データ、記憶、プログラム…ソレラハ残ル。
 ダガ、ソノデータヲ読込ム為ノ媒体ガ無ケレバ、タダノ電子信号ニ過ギヌ」

ロボカイは膝を着いた幽々子の前に立ち、ギギギ…、と音を零す。
バズーカ砲は幽々子に向けられてはいるが、ロボカイにはもう攻撃する意思は無いのか。
ほとんど棒立ちのまま、幽々子を見下ろしている。

「故ニ、哀レナドト言ッテクレルナ、嫁ヨ。
ワシカラ見レバ、亡霊ナドトイウ、曖昧ナ思念体ノママ意識ヲ持ッテイル嫁ノ方ガ、余程哀レダ」

幽々子は、ロボカイの顔を見上げる。
けほっ、と、苦しげに咳をしてから、幽々子はふふ、と笑った。
疲れ切ったような笑顔だった。

「人形にしては、面白いことを言うのねぇ…」

「ギギ…」

ロボカイはすっと右手を幽々子に指し出した。
不思議と優しげな仕草だった。

おい…! 何かが急接近中だよ、気を付――-ぶつっ。

何かくぐもった男の声が聞こえたが、ロボカイが喉元辺りを押さえると、すぐに聞こえなくなった。

幽々子は驚いたような表情で、その鉄の右手と、鉄の面を見比べた。
西行妖の呻き声が、遠く感じた。
少し黒い桜の花びらが舞う。

九部咲きの西行妖の桜の花は、見事というよりも他無い。
青い光に犯されながらも、その美しさを誇示している。
桜吹雪を身に浴びながら、ロボカイはじっと幽々子を見詰めていた。

「ワシト共ニ来イ。体ナラ、駄目博士ニ言ッテ用意サセル」

青く濁った光が、西行妖を飲み込もうとしていた。

「ダカラ、コレカラズット、ワシノパンツヲ洗ッテ下サ――」

ロボカイがそこまで言った時だった。
幽々子は見た。

突風のように突っ込んできた妖夢と、肉食獣のように飛びこんで来たシンだ。
妖夢はロボカイの横っ面に飛び蹴りを叩き込み、シンは横っ腹に棍棒をぶち込んでいた。

「フベェ!!!?」

横くの字に折れ曲げながら、ロボカイは吹っ飛んで行った。
墨染めの桜の花びらが、渦を巻くように吹き上がる。

大丈夫でしたか!? 幽々子様!!
無事…じゃねぇな…。顔色ヤバイぜ。幽々姉。

体を支えてくれる妖夢と、その妖夢と幽々子の盾になるように立つシン。
幽々子は、安堵から、深い吐息を吐く。
すぐ其処まで来ていたのに、この二人の気配に気付けなかった。
それほど消耗している自分が、何だかおかしかった。

だが、そろそろ良いだろう。
妖夢に体を預けながら、幽々子は思う。
もう終わりだ。
私の役目は。
だって、空が、世界が、紫色に染まっている。

「な、何だ!?」「これは…!」

シンと妖夢も驚きの声を上げた。
西行妖を包む法術陣から漏れる光が、紫色に変わったのだ。
淫靡で、妖しく、美しい、深い紫色だった。
墨染めの桜吹雪を、紫色が染め抜いていく。
捻じ曲がられつつある世界の色だった。

「後…任せるわね、紫…。ちょっと疲れたわ…」

幽々子は眠るよう瞳を閉じながら、虚空へと声を掛ける。

「ええ…よく頑張ってくれたわ、幽々子」

この切羽詰まった状況に似つかわしくない、艶美な声が響いた。
それ金属音の詠唱の中であっても、凄絶な艶を放つ、妖の声。
シンは、「流石だな…。頼りになるぜ」と呟き、妖夢は安堵から腰が抜けそうになった。

彼女は、シンの背後、妖夢の隣に、空間を裂いて現れた。
豪奢な金髪に、紫を基調とした派手な服装に、手には日傘と扇子。
射竦めるように眼を鋭く細めた彼女は、ぬぅ、と空間の亀裂からその身を表した。
そして、妖夢の腕の中に居る幽々子へと視線を向け、その頬へとそっと触れた。

それと同時だったろうか。
辺りを囲んでいた木偶達の数体が崩れ落ちた。
スキマだ。
口を開いたスキマが、木偶達に噛みつき、砕いたのだ。
木偶達は、抵抗らしい抵抗も出来ぬまま、バキバキ、グシャグシャとひき潰されていった。

その無慈悲な音を聞きながら、幽々子は紫を見詰める。

「貴女にはしては、随分手間取ったみたいね…」

幽々子の声は、少し掠れていた。
シンと妖夢は、幽々子の言葉が理解できなかった。
その様子に、ごめんなさいね…、と紫はすまなさそうに言葉を漏らした。
そして、視線を妖夢へと向ける。

「幽香と幽々子、そして妖夢…貴女が、あの鉄仮面達を引き付けてくれている間、私も近くに居たのよ」

西行妖に干渉している、この術を抑えるためにね…。
紫は言いながら立ち上がり、西行妖を見上げた。

「解析も停止も…規模も大きかったから時間を喰ってしまったわ…。でも、もう問題無い。後は…」

この解呪の術を解いて、西行妖を封印しなければね。

その冷酷そうな声に続くように、次々と木偶達が噛み砕かれる破砕音が響く。
人食いの空間を操る妖怪の賢者、八雲紫は、睨むように鉄仮面へと向き直った。



やられたな…。
妙な抑揚のある低い声が、鉄仮面の首元辺りから漏れる。

「ギギギ。新手カ…。ソロソロコノぼでぃノ耐久限界値ダト言ウノニ…」

「詰んだよ。これは…。法術の解呪処置が96%で停止してる。時間稼ぎが無駄になった…」

最初から解呪法術に干渉を受けていたのか…。道理で処理速度が落ちる訳だ…。
その男の声は苛立っているというよりも、残念そうだ。

「駄目博士。アノないすばでぃナ♀ハ何者ダ」

「道理の宿敵さ…。戦って勝つのは無理だ」

立ち上がったロボカイは、何も言い返さない。
ワシハ、ドウスレバ良イ。
そう言ったロボカイは、バズーカ砲をパージする。ずしん、と重そうな音を立てて、砲身が地に落ちた。

「モウ壊レカケダガ、マダ動ケル…。戦闘データモ送信済ミダ」

「へぇ、殊勝な心掛けだねぇ…」

「今ノぼでぃデハ、捨テ駒ニモナラン。何デモ言エ」

「…OK。君の人格AI、任務に成功有無に関係無ければ、好きになれそうだよ」

男の声は、微かに笑っていた。









オーバークロック。
無機質な呟きと共に、ロボカイは片膝立ちになった。
その立てた膝が服ごと開き、硝子で覆われたスイッチが、にょきっと生えてきた。

シンはその動きに警戒し、さっと棍棒を構える。
紫は手にした扇子を胸の前へと持っていく。
妖夢は幽々子を抱え、後ずさる。

ロボカイの動きに迷いは無かった。
残った右腕で、硝子ごとスイッチを叩き潰すように押し込んだ。
ガキン、と。何かが嵌まり込むような音がした。

ソレト無ク行クゾ。
その呟きは、もはや声というよりも金属の擦れる音そのものみたいに歪んでいた。

ロボカイの様子は一変した。
眼の窓が、真っ赤に染まって、体のあちこちからシューシュー煙を噴き出し始めた。
体勢も、異常な程猫背になり、前のめりだ。
まるで、機械のゾンビだった。

だが、その動きの速さは半端では無かった。
オイルを撒き散らしながら、紫達に向かって来た。
無策で、無謀だった。
だが、無力ではなかった。

紫は扇子を振るい、スキマでロボカイを食い殺そうとした。
四方八方から現れる、黒い次元の牙を這うようにしてかわし、ロボカイは迫ってくる。
その動きは、ほとんど獣だった。
脚で地面を蹴り、残った右手で地を搔くその速度は、更に上がる。

前の時の木偶達とは、まるで違うわね…。
冷静な紫の呟きと共に、再びスキマがロボカイに襲い掛かる。

地面を這うロボカイの正面に、それは口を開いた。
一際巨大なスキマだった。黒いスキマの中に覗く眼が、一斉にロボカイを見た。

ロボカイは飛び上がって、スキマをかわそうとしたが出来なかった。
右腕がスキマに食い千切られた。
空中でバランスを崩し、ロボカイはドシャッ、と地面に落ちた。
だが、それも一瞬だった。
両腕を失いつつも、ロボカイは芋虫みたいに体を丸めて起き上がり、また向かってくる。

紫は微かに眼を見張った。更にスピードが上がったのだ。
今度はシンも飛び出した。

「しつけぇんだよ…!」

シンは体を捻りながら大きく踏み込んで、超速の黒稲妻の突きを放つ。
一閃だった。シンの棍棒は、見事にロボカイの胴体を砕きぬいた。

破片とオイルが飛び散り、ガクン、とロボカイの動きが一瞬止まる。
だが、次の瞬間、ロボカイはギギギギギギ、と硬い物を激しく擦りあわせるような音を漏らした。

紫には、それが笑い声に聞こえた。
多分、ロボカイは笑ったのだ。
シンはその不気味な声に、下がろうとしたが遅かった。

「こいつ…!」

ロボカイの破壊された腹、肩の部分から、コードの束がうねうねと伸びてきて、シンに絡みついてきたのだ。
コードはまるで別の生き物みたいに蠢いて、シンを雁字搦めにしつつ、ロボカイの体に巻き込んで行く。

「シンさん!!」

妖夢の声が聞こえた。
シンは足掻こうとしたが、コードの力が弱くない上に、固い。千切れないのだ。
しかも、それだけでは終わらなかった。
ロボカイは腹に棍棒を突き刺したまま、更にコードでシンを体に縛りつけ、そのまま走って来た。

「有効…範囲…内ニ…侵入…成…功…解呪…プログ…ラム…起動…」

口と窓の眼から、黒いオイルが流れ出ている。
それが走る振動と共に飛び散った。

「厄介なことを思いつくわねぇ…」

紫は舌打ちしそうになった。
だが、その必要も無くなった。
シンの身体に黒稲妻が渦巻き、それが召び水になり、雷鳴が響いたのだ。
「がぁあぁぁぁぁ…ッ!!!」 地を揺るがすようなシンの咆哮。
それに答えるように、巨大な雷が落ちた。
シンとロボカイの元に。

その雷は赤黒く、容赦が無かった。
ビカァッ!!、と激しく光を撒き散らして、轟音を響かせた。
地面が揺れ、衝撃が墓所をぐらつかせた。
稲妻が地を穿ち、大穴が空いて土煙が上がている。
その煙る視界に中。
雷に打たれ、倒れたロボカイから棍棒を引き抜く、シンの姿が見えた。

シンは引き抜いた棍棒を、倒れ付すロボカイに突きつけ、構える。

だが、シンに見下ろされるロボカイは、もう起き上がってこない。
起き上がれないのか。
その体はもうボロボロだった。
両手、両足を失い、雷に打たれた体からは、細く白い煙が幾条も上がっている。

終わった。
そう紫と妖夢は思った。
シンも同じだった。

だが、それだけでは無かった。
ロボカイの体から、何かの音が漏れ出した。
それは壊れたラジオの不協和音のようでもある。
紫が掌握した筈の法力陣に、微かに青い光が混じった。

解…呪…シー…ケンス…9…8%…。

蚊の泣くような、微かな音声。小さすぎて、シン達には聞こえなかった。
だが、その声に応えるものは、居た。
そいつは待ち焦がれたように、ざわざわと桜の花を咲かせ、散らした。

紫は気付いて、青ざめた。
停止していた法術が、ほんの僅かずつだが、作動している。
それは、濁流を堰き止めていた結界に、亀裂を入れた。

「処理…9、9%…終…」

紫は咄嗟に扇子を振るい、ロボカイの残骸をスキマの中に飲み込んだ。
だが、遅かった。
ロボカイの狙いは、特攻などでは無かった。
特攻に見せかけた、解呪法術の最後の一押しだった。

そして、それはほぼ成功していた。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――。

それは死の絶叫、或いは、号泣だった。
紫色に支配されていたはずの墓所を、命をもぎ取るような波動が襲った。
近距離でそれを浴びたシンと妖夢、紫は、意識を失いかけて、何とか踏みとどまった。

死を齎すその木霊は、生あるものから命を搾り取る。
久方の命の味が気に入ったのか。
波紋のように、生命を吸い上げる脈動が広がっていく。

西行妖。
あまりに多くの人の生と血を喰らった妖怪桜が、目覚めようとしていた。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

漣のように枝を揺らし、黒い桜吹雪を舞わせ、西行妖は再び声を上げる。

魂を直接抉り取るような、暴力的な脈動が再び紫達を襲う。
紫は、自分の視界が真っ暗になって、次に、体から何かが抜け落ちていくのを感じた。
シンは、息をしていられなくなり、蹲った。
妖夢は、げほっ、と咳き込み、血を吐いた。

幽々子は気を失っているのか。
妖夢の腕の中で、瞳を閉じたまま動かない。
しかし、その表情は酷く苦しげだ。

紫は、西行妖を睨むようにして見上げる。
まだ、封印は解けていないはず。
紫の結界術はまだ解けていない。

だというのに、この力。

封印されている間に力を蓄えていたのか。
それとも、解呪法術が作用したのかは定かでは無い。
ただ、黒い桜吹雪は、嘲笑うかのように紫達に降りかかってくる。

このままではいけない。
封印を。
法術の解除を。
このままでは、幽々子が。
友が。輪廻に飲まれてしまう。
それだけでは無い。
放っておけば、幻想郷にも、大きな影響を及ぼすだろう。

この生命吸収の波動は強烈だ。
術を扱う為の精神力など、根こそぎ持っていかれてしまう。
沈めなければならない。
だが、その為の力を振るうのが、既に至難。

空間を支配していたはずの紫色は、既に薄まり、冥界の薄暮が辺りを包む。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

再び死と衰弱、消耗と疲弊の風が吹いて、紫の魂が悲鳴を上げた。
紫は、膝が、かくんと折れるのを感じた。

駄目だ。
この距離は。
此処は、西行妖の口の中だ。
租借されている。

命を。
魂を。
心を。

死ぬ。
喰われる。
このままでは。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

また、西行妖が鳴いた。
この泣き声は、死の叫びだ。
魂を引き裂く声だ。

耳鳴りがする。
紫はよろめきながらも何とか立ち上がり、扇子で印を結び、結界を張った。
西行妖を覆う棺のように、半透明の壁が出来上がる。
流石というべきか。
まるで紫水晶のモノリスのような結界は、瞬間的に張られたにしては、頑強すぎる結界だった。

ああああああああああああああああああ…あああああああああああああああああ―――。

苦しげな呻きが、響くというよりも、辺りに轟き渡った。
生命吸収を押さえ込む紫の結界を拒むように、黒ずんだ桜吹雪が、更に激しくなる。

これでは…、まだ弱いわね…!

妖夢は、その紫の苦しげな声を聞きながら、立ち上がる。
気を失うように眼を閉じる幽々子を抱え、妖夢は紫の名前を呼んだ。
シンも、何だよコレ…!、と呟きながら、身を起こす。

シンと妖夢に視線を向けた紫は、この場から離れるように二人に言おうとした。
その時だった。シンと妖夢の貌に、驚愕の表情が浮かんだ。
バキバキ、ビシィッ、という何かが砕ける音が聞こえたのも同時だった。

紫は西行妖に振り返り、驚愕するよりも先に舌打ちをした。
根だ。やたら太い根が、地面から首を擡げ、結界をぶち抜きつつ、紫に迫っていた。
西行妖のその根は、もうほとんど触手だった。

紫は手にした扇子を振るい、迫る触手根を切断し、もう一度結界を張ろうとした時。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああ――――!

西行妖が吼えた。
一瞬、何が起きたのか分からなかったが、シンは見た。
紫水晶のモノリスのような結界が、粉々に砕け散るのを。

ついでに、意識を数秒失った。

体の中身を吸い出されていくような感覚に襲われ、倒れる前に何とか踏ん張る。

シンは霞みまくる視界に、紫と妖夢の姿を見た。
紫も、シンと同じように、何とか立っているような状態だった。
妖夢は膝を着いて、相当きつそうだ。

実際、シンもやばいと思った。
この西行妖の鳴動は、衰弱そのものだ。
魂が干からびていく感触。

これで、まだ覚醒状態じゃねぇのか。
寝惚けていて、このふざけた力なのか。

やってられねぇ。
シンは呟いて、棍棒を構えたときだった。
それと同時に、ボコボコ、ボゴボゴと、不気味に地面が蠕動した。
根の束が地面を蠢いている。

そして、その根達は、養分を吸い上げる代わりに、地面へと噴き出した。
凄い数だった。砕けた結界を掻き分けて、触手のように根の束が紫に迫った。

「紫姉!!」

シンは叫び、紫と西行妖の間へと飛び込んだ。
多分、シンが動かなくとも、紫は根などに傷を負わされたりはしなかった筈だ。
実際、扇子をすっと持ち上げている紫には、全く隙は無い。
西行妖の根など、弾幕とスキマが細切れにして、木屑にしてしまうことだろう。

だが、西行妖の“叫び声”は別だ。
防ぎようが無い。
ただ此処に居るだけで、命を吸い上げられていく。
命に直接響き、ズタズタに引き裂いていくこの“叫び声”を止めなければならない。

ならば、その封印が可能な紫の代わりに、誰かが西行妖の相手をする必要がある。
紫が封印する為の術式を完成させる為の時間を、稼がなければならない。
或いは、西行妖を抑え込まねばならない。

なら、誰がそれを引き受けるのか。
紫は封印術を唱えねばならない。
妖夢は、幽々子を抱えている。

俺しかいねぇだろ。

紫に迫っていた根の束を棍棒で凪ぎ、打ち払い、千切り飛ばし、シンは肩越しに紫へと視線を向ける。
 
 「この西行妖って、幽々姉と何か…関係あるのか…?」
 
 その言葉に、紫の眼が微かに見開かれた。
 妖夢は、不審な表情になって、西行妖と、抱えた幽々子を交互に見た。
 シンは、何も言わず、吼える西行妖へと向き直る。
  
 「俺、頭悪ぃけど…そういうの、割と解かるんだ…。命の色、っつーか、波、っつーのかな」

 シンは迫る触手根を叩き落し、払う。
 命を喰らう西行妖の呻きに体を晒しながら、シンは棍棒を構え直した。

 「幽々姉に似た命の波を感じるんだよ、この“声”から…。ぶっ潰すのは不味いんだろ」

 紫が、手っ取り早い破壊では無く、封印をしようとしていた。
 つまりそれは、その封印という行為に、何かしらの意味があるということだろう。
 

「俺はこいつと遊んでるから、紫姉は妖夢達と封印を頼む…」

時間なら稼げるぜ。
シンは唇の端を微かに吊り上げた。

「では、私も…!」

妖夢も立ち上がろうとしたが、体がふら付き、すぐに膝を着いてしまった。
ぐぅ、くそ…。妖夢は悔しげに呟き、歯を食いしばった。
幽々子を抱えて立ち上がることが出来ない。
それほど消耗している自分に、歯噛みしながら、妖夢は顔を上げた。
シンと眼が合った。

シンは、微かに唇の端を持ち上げた。
悪いな、妖夢。任せとけよ…。
不思議な程、深い声でシンは言って、迫っていた触手根を棍棒で殴りつけ、千切り飛ばした。

もう、妖夢は何も言わなかった。
悔しげに唇を噛んで、顔を俯かせる。
お願いして…ばかりですね…。
妖夢の声は、自分の不甲斐なさに震えていた。

紫は少し迷ったように、微かに視線をさ迷わせたが、すぐに頷いた。
 頼んだわ。そう言った紫の声には、余裕が無かった。
 西行妖と戦う事と、その乱動を沈め、封印する事では、難度は大きく違う。
 ただ潰せば良い、という訳では無い為、封印する方が遥かに困難。
 加えて、この死の号泣の中、術を扱う為の精神の集中すら至難だった。
 
 ならば、この死の領域からまず脱出すべきだ。
封印を施す結界出術を使う為に、紫はスキマを開き、自身と、幽々子を抱える妖夢を飲み込ませた。
 
 租借していた口の中のものが、不穏な動きを見せたせいか。
 西行妖は、更に吼え猛った。
 桜の花びらは狂ったように吹雪き、死を撒き散らす。
 それに当てられて、シンは、目の前が真っ白になった。
 
死ぬ。喰われようとしている。
西行妖は味わっている。
 シンの命を。見えない舌で、舐られている。
 
 気色悪いんだよ。
 寝惚けて、散々喰い散らかしやがって。
 ふざけんじゃねぇ。
 ふざけんじゃねぇぞ。
 
 シンはゲホっと血を吐き出して、眼を覚ます。
 揺らいでいた体に力を入れ、一歩踏み出す。
 西行妖は、シン目掛けて触手根を噴出させた。
 シンに覆い被さるように、その触手根は殺到した。

 怒涛だった。
 シンは、真っ向から突っ込んだ。

 「行儀の悪ぃ奴だな…!」

 棍棒に赤黒い稲妻が走り、最初に迫っていた触手根を黒焦げにした。
 そのままシンは、雷と化した棍棒をぶおんぶおん振り回し、触手根を手当たり次第に焼き潰した。
 
 それでも、西行妖は懲りなかった。
 まただ。
 西行妖の根元から、再び触手根が吹き上がった。
 ついでに、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!、という呻りも。


 その呻り声に意識を蝕まれつつも、シンは触手根を捌き続ける。
 捌きながら、西行妖のもとへ踏み込んでいく。
 
喰い方を教えてやるよ…!
 
 シンは棍棒に纏う稲妻を更に凶悪に滾らせ、体ごと棍棒を大きく振り回した。
一回、二回、三回転と、もう無茶苦茶に振り回し、迫っていた触手根を木っ端微塵にした。
舞っている桜の花びらも、稲妻に焼かれ、細かい炭になって、吹き上がる。

その中をシンは、駆けた。
触手根の再生は追いついていない。
西行妖は慌てたように、根元から触手根を伸ばすが、その数は数本だった。

「大人しくしてろ…!」

棍棒をぶん回し、一撃で触手根の全てをなぎ払ったシンは、西行妖の幹にがっぷりとしがみついた。

西行妖も、シンに触手根を絡みつかせ、縛り、締め上げたが、シンは止まらなかった。
シンの体に巻きついた触手根の力は万力だった。
ミシミシ、ぎちぎちと、シンの体が、激痛と共に軋む。

がはっ、と、シンは血の塊を吐き出しつつも、西行妖を掴む腕に力を込めた。
地に降り積もった墨染めの桜が、シンの血で赤く染まる。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!!

至近距離での西行妖の絶叫は、生命の圧搾だった。
シンはもう一度、血の塊を吐き出した。

「耳元で…うるせぇ…!!」

シンは言って、吹っ飛びそうな意識を奮い立たせる為、頭突きを西行妖にぶち込んだ。
大砲を撃ったみたな音とともに、西行妖がぐらりと揺れて、軋む。
桜が散り、降り注ぐ。
シンの額はばっくりと裂け、夥しい血がその顔を染めた。

おおおおおおおお…! おおおおおお…!

西行妖は苦しげに泣いた。

痛ぇだろ。
呟いたシンは、軋む体に稲妻を纏わせ、鼻梁を伝って顔を染める血を舐めた。
そして、瞳を閉じ、深く息を吐いた。
痛みを殺して、集中しろ。
意識を握り締めろ。
シンは自分に言い聞かせ、両腕に更に力を込めた。

「父病める時、母、その涙…」

それは詠唱だった。
朗々と響くシンの声に答えるかのように、赤黒い稲妻が、周囲を暴れ狂った。

「母病める時、子、その涙…」

黒稲妻は西行妖の根元に魔法輪を描き出し、稲光を放ち始める。
魔法輪は一つでは無かった。
拘束するように、魔法輪が西行妖の幹、枝と言わず、いくつも絡みついた。
それは、西行妖を縛り付ける。
再び稲光がして、枝に付いていた桜の蕾が、ぽとぽとと落ち始めた。
桜吹雪の勢いも弱まっていく。

「冥暗に、銀の流線は哀…」

シンがそこまで唱えたときだった。
西行妖も黙っているわけでは無かった。

ずどん、と。シンは腹部に鈍い衝撃を感じた。
視線だけを腹へとずらし、シンは顔を顰める。
枝が生えたのだ。
太く、強い枝が、勢いよく伸びて、シンの腹部を貫いていた。

「が…ぁ…!!」

シンは呻きかけて、しかし歯を食いしばる。

「悲哀、に…伏せ、し…背に…添えし…手、は…愛……!」

血と共に言葉を零しながら、シンは詠唱を続ける。

おおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

更に西行妖は、そんなシンを本格的に喰らいにかかった。
地面から伸びた触手根を再生させた西行妖は、ドスドスドスドス、とシンの体にそれを撃ち込みまくった。
シンの首の、腹に、腕に、脚に。
シンは一瞬で血達磨になって、崩れ落ちかけた。
だが、倒れない。
腹を貫く枝が支えになったおかげで、シンは倒れずに済んだ。

西行妖は、止めとばかりに再び吼えた。
シンは、自分の体の中から、何か大切なものが吹っ飛んでいくような感覚を覚えた。

くそ。
腕に力が入らねぇ。
前も見えねぇ
痛ぇ。

体が痙攣して、口から血が溢れ出て来た。
シンは視線だけで、西行妖を見上げた。

「欲…心に、…慎ま、しく…」

シンは血を吐き出してから、左眼を窄めた。
喉から血が溢れ、うまく声が出せなかった。

「世…俗に、心…理あ、れば、寛…容に」

そこまで言って、だがシンは限界だった。
シンがつくり出した魔法輪が、光を失いつつあった。

もう、そろそろ良いだろう。
時間は、ある程度は稼いだ筈だ。

西行妖は、シンを喰い、しゃぶりつくそうとしている。
シンの体に埋め込まれた触手根は不気味に蠢き、その生命を吸い上げていた。
中身が無くなる。
全部喰うつもりだ。

腹でも壊しやがれ。

シンが意識を失いかけた、その時だった。
まただ、体に触手根を撃ち込まれるような感触があった。
もうシンの体は穴だらけだった。
体が揺れて、腹に刺さった杭みたいな枝で、内臓が悲鳴を上げた。

「あの変な鉄仮面が見えないんだけど…。何処に行ったのかしら」

その声と共に、シンの体に活力が漲った。
魂を喰われ、無限の闇に落下していくシンは、命の暴風に吹き上げられた。
体を蠢く何かが脈動し、シンに、生命を与えている。

体が、一気に熱くなった。
マグマが噴火するように、力が湧き上がってくる。
血が、肉が、踊る。沸騰する。
まるで生まれ変わっていくような、力の脈動を感じた。

それだけでは無い。
新しくシンの体に侵入した何かは、凶暴だった。
シンを貪っていた触手根を、体の中で駆逐していく。

シンの体がガクガクと揺れた。
ぶつぶつ、ぶちぶち、と何かが千切れる音が、シンの体の中で響いた。

まぁ、良いわ。
その声を聞いた直後だった。
後ろから、シンは抱きすくめられた。

「手伝ってあげる…。私に任せなさい…」

西行妖に腕を回しているシンは、首と視線だけを動かして、振り返った。

幽香だった。
熱い吐息を吐きながら、幽香はシンの体に腕を絡めつかせている。
いや、腕と言うのも違う。
日傘を持っていない幽香の右腕が、ほとんど蔦の集合体みたいになっている。
その蔦は幽香の肩、腕、掌から生えだしていた。
幽香は右腕と化した蔦をシンの体に刺し込んでいる。

シンはすぐに理解した。

この漲る力は、幽香が与えてくれたものだ。
フラワーマスターの操る原始の力は、シンを目覚めさせる。
細胞を、意識を、肉体を、精神を。

シンは舌なめずりして、口の周りの血を舐めとった。
背中の、左半分に、ぬくもりを感じた。
シンを貫いている枝を避けるようにして、幽香はシンに密着している。
左腕をシンの肩に回し、蔦の集まりとなった右腕をシンの体に差し入れて。

「さっさと抑え込んでしまいなさい…」

耳元で聞こえた幽香の声には、余裕は無かった。
シンは頷いて、サンキュー…、と呟いた。
西行妖を縛る魔法輪は、その赤黒い光を取り戻す。
西行妖も、焦ったのか。
再び、地面を蠢かせ、触手根を噴出させた。
シンと幽香を喰いに掛かろうとした。
だが、遅かった。

「健やかに心育む時、四海はその涙…!」

ディバインゲイズ。
詠唱が完成した。

シンのそれは、父親から学んだ治癒法術。
だが、シンの扱うそれは、父の法術とは効果が反対だった。
つまり、治癒では無く、衰退。

青く、壮麗な稲妻の変わりに、赤黒く、凶暴な稲妻が、西行妖に奔る。
今度はシンが、西行妖を喰らいに掛かった。

あああああああああああああああああああああああああ――!!!

西行妖が悲鳴を上げた。

「がぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ…!!」

シンは吼える。
黒稲妻が猛り狂い、西行妖の泣き声を掻き消した。
その咆哮に震わされ、西行妖の桜が一気に散り、朽ち始める。
圧倒的な生命のもぎ取り。
桜の花びらが、まるで暴雨のように降り注いだ。

その様を見上げながら、幽香は瞳を細める。
シンの力の本質、それを垣間見た。
貪食、或いは、暴食。
生命を喰う。そして、それを力に治癒や破壊の力へと変える。

幽香は、微かに笑う。
似ているわ。
力に向きは逆だけれども、似てる。
私に。

幽香はシンに抱きつく、腕に力を込める。
蔦と化した右腕に感じる、シンの生命力が心地良い。
幽香はシンの肩口を濡らす血を、少しだけ舐めて、灼熱の吐息を吐いた。

桜の暴雨が弱まり、西行妖の呻き声も弱まりつつある。
シンは、西行妖を殺さない程度に、食い潰した。
その弱りきるタイミングを、妖怪の賢者は逃さなかった。

おおおお…。おおおおお…。おおおおお…。

その呻き声すら封じるかのように、紫色の結界が西行妖を包んだ。
シンのつくった魔法輪の更に上から、絡みつくようにして紫色の結界輪が西行妖を縛る。
結界には、複雑な文字列や、奇怪な文様が描かれていた。
それが非常に高度な結界術だということは、シンにも解かった。

振り返り、視線を巡らせると、紫と妖夢が、西行妖を見下ろす場所に居た。
紫は詠唱を続け、妖夢は腕に抱えた幽々子と、封印されつつある西行妖を交互に見ている。
紫色の光が放たれる結界輪は、容赦無く、西行妖を抑え、封印していく。

おおおおお…。おおお…。おお…―――。

苦しげな呻きを木霊させながら、西行妖は沈黙する。
吹き上がり、今にもシン達に襲い掛かろうといしていた触手根はぼとぼとぼと、と地面に落ちた。
シンの腹部を貫いていた杭のような枝も、するすると西行妖の幹へと吸い込まれるように、引いていった。

「ぅお――…」

シンの体を貫きつつ、しかし支えていた枝が無くなり、シンは崩れおちそうになった。
だが、ぎゅっと抱きとめられた。
幽香だった。

「ふふ…私も貴女も、酷い有様ねぇ…」

幽香の顔には、疲労の色が強く出ている。
シンは何か言おうとして、何も言えなかった。
舌、というか、体がうまく動かない。

眠い。
痛みよりも、強烈に眠い。

霞む視界の中に、スキマが開くのが見えた。
其処から、紫と妖夢が、出てくるのが見えた。
妖夢の腕の中に居る幽々子の顔色も、ずいぶん良くなっている。

封印は、無事に終わったのか。

安堵から、シンは、微かに笑う。
それで精一杯だった。
目の前は、すぐに真っ暗になった。
感覚が無くなり、指一本動かせなくなった。

誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、返事も出来ない。
焦ったような声だった。
大丈夫。俺は。眠いだけだ。

悪い。
幽香。紫姉。それから、妖夢。

少し寝させてくれ。




[18231] 十八話 前編
Name: 鉛筆男◆c930cba3 ID:91cabc16
Date: 2010/09/24 23:42
…これが目覚めたら…確かに洒落にならんな…。
低い声で言って、ソルは西行妖を見上げ、金色の瞳を細めた。
墓所を吹き抜ける風が、微かなオイルの匂いを運んでいる。
周囲に未だ散らばる金属片と、コードの束、屑鉄の塊。
静謐な墓所は、ちょっとしたスクラップ置き場のような有様になっている。

再び風が吹き、オイルの匂いがした。胸に溜まるような、重い匂いだった。
その独特の匂いに眉を顰めながら、ソルの隣に立つ紫も、西行妖を見上げる。

「ええ…。本当にね…」

完全に覚醒したら、幻想郷に住まう全ての魂の意味が変わってしまうわ。
真剣な顔で西行妖を見上げる紫を横目で見て、ソルは「…だろうな…」と呟いた。

「…法術の規模は…相当な大きさだな…」

視線を西行妖の周囲に巡らせつつ、ソルは呟く。
西行妖をすっぽりと包み込んだ解呪法術は、とてつもない規模で、墓所に残留法力を残していた。
いや、刻んでいた、という方が正しい。
ここまで濃い残留法力は、もはや汚染だ。
環境倫理を無視した法術の行使に、ソルは眉間に皺を寄せる。
そして、地面に封炎剣を突き立て、ねじ込むように柄を持つ手を捻った。
濁った赤橙色の光を放ちながら、ソルの足元から法術陣が浮かび上がる。

ソルは低い声で、何事かを呟いた。
低い声は、墓所の風に攫われ、紫にはよく聞こえなかった。
だが恐らく、あの呟きは詠唱だろう。
そのソルの小さくも、朗々とした声に、法術陣はゆっくりと、その大きさを広げていく。

紫は眼を細めて、微かに溜息をついた。
結界術に長け、境界を操る術を持った紫には、それが解かった。
ソルが行使している法術が、いかに難解で複雑なものなのか。
そして、それを顔色一つ変えず、完全に扱いきるソルが、何処か異様な存在に見えた。

ソルは紫の視線には気付かず、そのまま詠唱を続ける。
まるで炎がゆっくりと燃え広がるように、赤橙色の光は、西行妖の周囲を染めていく。
墓所は、暮れなずむ夕日に照らされたようだ。
赤橙と薄暮が交わり、黄昏色に染まる墓所の中で、錠が落ちるような音が聞こえた。
いや、聞こえた、というよりは、感じた。

紫の張った結界の上に、更にソルの法術により、封印が施されたのだ。

紫は、ソルから視線を外し、西行妖を見上げる。
妖怪桜は墓所を見下ろしているままだ。

ソルも詠唱を止め、西行妖をもう一度見上げて、封炎剣を地面から引き抜いた。
静寂が墓所を包む。


「…貴様の要望通り…結界は張った…」

…剥がすのにも…大分骨が折れるぞ…。
ソルのその呟きに、「それでも、まだ弱い位だわ」と答え、紫は西行妖を見上げる瞳を細めた。

墓所に満ちた黄昏色の光から、赤橙色が抜けていく。
次第に、薄暗くなっていく墓所に視線を巡らせつつ、ソルは軽く息を吐いた。

「…これ以上封印を施したら…この木自体に悪影響を及ぼすぞ…」

「ええ。…分かっているわ。…手間を掛けさせたわね」

紫は呟くように言って、西行妖から視線を外し、ソルへと向ける。
そして、いつも通りの胡散臭い笑顔を浮かべようとして失敗したみたいに、唇を微かに歪めた。

その仕草は、酷く疲れているように見えた。
消耗している、と言うべきだろうか。
ソルは紫のその様子を見て、眉を顰める。

「……大丈夫なのか…?」

紫はそのソルの言葉に、少し驚いたような表情を浮かべたあと、ええ、と小さく呟いた。
ソルも、…そうか…、と言っただけで、それ以上は何も言わない。

「何だか、変な感じねぇ…。貴方に大丈夫か、なんて聞かれると…」

「…此れとやりあったシンが…あの様だったからな…」

…肉体の傷は癒えるが…体に力が戻るには時間が掛かる…。
呟いたソルは、紫に視線を向けた。

金色の瞳に見据えられ、紫は微かに息を呑む。
普段よりも、ソルの眼は静かで、それでいて残酷そうな光を湛えている。
その眼に宿るものが、苛立ちか、怒りなのか、紫には分からなかった。

「…貴様が大丈夫だと言うなら…大丈夫なんだろうがな…」

墓所はもう薄暗く、辺りを染めていた赤橙色の揺らめきは、もう消えている。
その中で、再び西行妖に向けられるソルの瞳が、少しだけ細められていた。

「ええ、私は大丈夫よ…。幽々子も、妖夢も、幽香も…
 シンが、頑張ってくれたから」

紫の言葉に、ソルは細めていた眼を更に細めて、鼻を鳴らした。


西行妖を封印してすぐ、シンは意識を失った。
紫はすぐにスキマで永淋を呼び、治療を願った。

シンを眼の前にした永淋が、絶句していたことを思い出す。

永淋が呼ばれた時、既にシンの心臓と呼吸は停止していた。
体の至る所に穴を空けられ、治癒の限界を超えた肉体の破損状態。
膨大な出血。
加えて、西行妖に喰われ、生命そのものにダメージを負っていた。

私だけでは無理だ。治療にあたった永淋は言った。
幽香に生命力を分け与えて貰っても、シンを治療するには足りなかった。
そもそも、幽香自身が既に手負いで、十分な力を出せずに居たので、余計だった。

そこで、紫はソルを呼んだ。
神社に居たソルは、紫の突然の訪問に眉を顰めていた。
だが、紫の話を聞いたソルは、何も言わず、紫のスキマへと身を潜らせた。


シンを眼にした時、ソルは舌打ちをして、すぐに法術を用いた治療に取り掛かった。
いや、治療というのも少し違う。
あれは、抑制だった。
ソルは、シンの眼帯を外した。
そして、シンの右の瞼の上に、左手の掌を乗せた。
治療にあたっていた永淋も、シンの生命を維持しようとしていた幽香も、呆然とソルの行動を見守っていた。

それからソルは、何事かを呟き、法術陣でシンの体を包んだ。
その法術は、明らかに封印系統だった。
法術により、ソルはシンの体に宿る何かを押さえ込んでいた。

そこで、永淋、幽香は息を呑み、紫も驚愕した。

眼帯を外されたシンの体は、嘘のように再生を始めたのだ。
体中の細胞が生まれ変わっていくように、傷が塞がり、治癒されていった。
その時だった。シンの体が、ビクン、と強く跳ねた。
死に掛けだった筈のシンは、自分の右眼を抑えるソルの腕を両手で掴んだ。
その時のシンの眼は、普段の優しい緑色では無く、獰猛な血色だった。
すぐ横で治療にあたっていた永淋は、その変貌に微かに身を引き、幽香は眼を細めていた。

シンは、傷だらけの体から血を吹かせて、無理矢理に上体を起こそうとした。
だが、ソルはそれを許さなかった。
…大人しくしていろ…。
低い声で呟いたソルに応えるように、シンを抑える法術陣に、更に強い光が走った。
シンはその光と陣に体を縛られ、血を吐きながら布団の上に体を落とす。

シンはそれから、もう動くことは無かった。
眠ったように気を失って、その体だけが、生命を嘲笑うかのような再生を繰り返すだけだった。
更に、永淋と幽香の治療の助けもあり、シンの体はもうかなりのところまで回復している。
だが、シンは未だ眼を覚まさない。


ソルは、眼を閉じながら俯き、小さく息を吐いた。
溜息のようでもあった。墓所の風が、その息を攫っていく。
ぬるい風だった。

「…西行寺の方はどうなってる…?」

「無事と言ったでしょう、大事無いわ…。ただ、少し力が弱っているみたい」

「…解呪の影響か…」

「恐らくね。…封印を磨り潰していたあの術に、幽々子も当てられたみたい」

「…そうか…」

ソルはそれだけ言って、黙り込んだ。
何かを思案するように眉間に皺を寄せて、鼻を鳴らす。
…他の奴らには、伝えなくても良いのか…。
ソルの言葉に、紫は頷いた。

「勿論、伝えるわ…」









境内へと開いたスキマを見つけて、魔理沙は「おっ!?」っと、声を漏らす。
その魔理沙の視線の先。
スキマからソルが降り立ち、紫が、ふわりと漂い出て来た。
霊夢は少し不機嫌そうな顔で、ソルと紫の顔を見比べた。

「……」

境内に降りたソルは、無言のままその視線を受け止めながら、視線を巡らせる。
参拝者などは一人も居ないのは、いつものことだ。
だが、その参拝者の代わりに、白黒の魔法使い、魔理沙と目が合った。
魔理沙は賽銭箱前の階段に腰掛けていて、ニヤニヤと笑って居た。

「霊夢ちゃんがご機嫌斜めだぜ、ソル」

霊夢も魔理沙の隣に腰掛けていて、溜息を吐きながら立ち上がった。

「黙って居なくなったら心配するでしょ。…何かあったの?」

霊夢は、ソルと紫の様子に何かを感じたのか。
表情を引き締めながら、霊夢は紫へと問う。
魔理沙も立ち上がり、ニヤニヤ笑いを引っ込めて、真剣な貌になった。

「冥界に賊が入ったの。…前と同じ、あの鉄人形達だったわ」

その紫の言葉に、霊夢は眉を顰め、魔理沙は、へぇ…、と呟いた。
ソルは黙ったまま、眼を閉じる。

「今回の異変は…大きな規模になりそうよ、霊夢」

紫の声は、凍て付いていた。その冷気は殺気と言っていいだろう。
梢の揺れる、暖かな陽気の中にあった境内の空気は、一瞬で凍りついた。

「それで、ソルと一緒に冥界に行っていた訳ね…」

そうよ…、と紫は答え、魔理沙と霊夢を見比べた。

「貴女達まで連れて行ったら、“こっち”で起こった異変に向かう者が少なくなるでしょう」

「まぁ、それは…不味いかもな」

魔理沙は紫に言ってから、ぼりぼりと頭を搔いた。
そして、ソルに向き直る。

「冥界に行って、何か分かった事とかあるか、ソル?」

魔理沙もこの異変に対し、解決の為に動こうとしているのだろう。
その為の情報が欲しい。魔理沙は、真剣な顔でソルを見詰めた。
霊夢も、ソルへと視線を向ける。

「…冥界に押し入った機械の連中は…俺達の世界の奴らだ…」

終戦管理局。
それはソル達の世界の闇の部分。聖戦の黒幕。
いつ設立されたのか、誰が頭なのか、何が目的なのかすら不明な組織だった。
ただ、聖戦が終わってからは、強力な軍事力、或いは戦力を必要としていたのだろう。
生態兵器の研究、開発や、その為のサンプルの収集に力を入れていたようだ。
その方法は非合法は勿論のこと、道徳を一切無視した人体実験など、かなり派手に動き回っていた。

その為、社会の表、裏においても勘付かれ、敵が増えていくのはそう時間は掛からなかった。
ソル自身も潰しに掛かり、またカイやスレイヤー、果てはアサシン組織、ツェップにまで目を付けられた組織でもある。
この面子を相手に、生き残れる訳も無い。
ソルも、ジャスティスのコピーを破壊し、支部を潰して回り、多大な被害を与えたはずだ。

だが、終戦管理局は未だ生きている。
そして、その組織の亡霊が、この幻想郷を嗅ぎ付けている。

「…恐らく…俺が此処に送られて来た理由も…奴らが関係している…」

舌打ちをしながら、ソルは言う。

「…奴らの目的は…お前達のような存在そのものだろう…」

…研究対象としてな…。
低い声で言ったソルの声には、嫌悪感が滲んでいた。

「西行妖の封印を解こうとしていた所を見れば、多分そうなのでしょうね」

紫は冷たい声で言って、霊夢と魔理沙を交互に見た。
貴女たちも気を付けなさい。
その声に続いて、ズズズ…、と空間が引き裂かれるような不気味な音がした。

スキマだった。
真っ黒な空間の裂け目が紫のすぐ背後で開いた。
霊夢は、そのスキマに身を沈めていく紫を見ながら、軽く息を吐く。

「言いたいことだけ言って消えるのは、こんな時も変わらないのね」

いや、こんな時だからこそなのか。
霊夢の視線を受けとめながら、紫は微かに笑う。

「やる事も多いもの。…結界の管理というのも、楽じゃないのよ」

紫の声には、迫力の中にも、微かな疲労が見て取れた。

「まぁ、他の奴らにも、気を付けるよう声は掛けておくぜ」

「ええ、お願い。私も、守矢や地霊殿へ寄るつもりだから…異変の事は伝えておくわ」

魔理沙も、その紫を気遣ってか、不敵な笑みを作って見せる。
心配すんな、任せとけ。そんな感じの笑顔だった。
霊夢も、しょうがないわねぇ、と言った感じで、微かに笑顔を浮かべた。

「こっちは私達も気をつけておくわ。…結界の方、お願いするわね」

紫は、ええ…、と頷いて、ソルへと視線を向けた。

「これから、何が起きるのか検討もつかないわ。
もしもの時は、霊夢と魔理沙の力になってあげて…」

体の半分以上をスキマに飲み込ませた紫の姿は、正に妖怪の賢者に相応しい歪さと、凶悪さがある。
だが、法則を捻じ曲げるその力を振るいつつも、紫の声は酷く不安そうだった。
ソルは、無表情のまま首を微かに動かして、紫へと視線を向けた。

「…ああ…」

乾燥した低い声だったが、紫はそれで幾分安心したのか。
お願いするわね…、と言った紫の声からは、不安が微かに和らいだように感じられた。
その言葉を残して、紫はスキマに完全に身を沈め、次元の隙間へと消えて行った。

ソルは面倒そうに首を鳴らして、顔を俯かせ、眼を窄めた。
細められた金の瞳に、霊夢と魔理沙は、体が竦むのを感じた。
それくらい、ソルの雰囲気は危険だった。
普段、もの静かなせいで余計だ。

…これも、喰わねばならん道草か…。
ソルは呟いて、封炎剣を握りこんだ。
慣れ親しみ、手に馴染む感触だった。

…潰す…。

その感触を確かめながら、ソルはもう一度呟いた。





喰えよ。

そう声がした。
笑っているような声だった。

旨かっただろう。
命は。
魂は。
生命は。
もっと喰おうぜ。
なあ。もう、我慢するな。
無理すんなよ。
喰え。


黙れ、と思った。


黙れ? 何でだ? 
お前は俺だ。俺の声は、お前の声だ。
意思も思考も感情も、俺はお前と共有してるんだ。
黙るのはお前の方だよ。
何を耐えているんだ?
もっと喰えよ。
いい加減気付け。
お前は普通じゃねぇ。
理性なんて糞喰らえだ。
現実は、既にお前を見放してるじゃねぇか。
縛られる必要なんてあるのか?
思わないな。俺は。
そうは思わないぜ。
なぁ、俺。
馬鹿馬鹿しい理性なんて捨てろよ。
それか、俺に貸せよ。その体。
教えてやるよ。

囁き声は、確かに自分の声に似ている気がした。
止めろ、と思う。黙ってくれ。


その思考に、囁き声は酷薄そうに笑った。

だから死に掛けるんだよ。
寄越せよ。
代われ。
俺と。

断る。そう強く思う。
母さんから貰った、大切な体だ。
誰にもやらねぇ。


囁き声は、苛立ったように舌打ちをした。
それから、嘲るように鼻を鳴らした。

まぁ、良いさ。
好きにしろ。
お行儀良く、人の振りでもしてれば良い。
いつまで続くか見物だな。
でも、忘れるなよ?
お前は、俺だ。
何時かお前も、喰いたいと思う時が来るだろうよ。
もしそうなったら、教えてくれよ?


黙れ。
黙れよ。
囁き声は、嘲笑うように徐々に遠くなっていく。
右眼が酷く疼いた。

痛みを伴う疼きは、曖昧だった意識を覚醒させる。
囁き声は聞こえなくなった。
代わりに、とんでもない体の重さを覚えた。

吐き気がした。
体が重過ぎて、もう自分の体では無いような感覚だった。
内臓の変わりに泥水でも詰まっているようだ。

ずきん、と、再び右眼が疼いた。
右眼以外は、痛みはあまり無かった。
だが、眼を開けることも億劫な程、体が重い。

微かな明かりを瞼の裏に感じる。

腹部に微かな違和感を感じたが、それが何かを考えるのは面倒だった。

重い体に力を込め、寝たまま左手を握った。
動く。何か柔らかく、暖かな重みも感じた。
掛け布団だ。

眼をゆっくりと開けると、天井が見えた。
畳みの香りがする。

一つ大きく息を吐いて、体を起こす。
そこで、鈍い痛みが腹部と背中と左腕に走った。
慣れた痛みだった。

視線を自分の体に落とすと、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
頭がやけに重い。
右手で自分の顔に触れると、包帯の上に眼帯を掛けていた。

其処は見覚えのある座敷だった。
静謐な和の空間。
障子から漏れてくる光は、薄暮。
冥界の色だ。

その淡い明かりをぼんやりと眺めながら、思う。

自分は何故寝ているのか。
うまく回らない頭を必死に働かせる。
考えて、そして、思い出した。

不気味な鉄仮面な群れ。
吼え猛り、呻りを上げる西行妖。
法術陣の濁った青い光。

それを止める為に、戦ったのだ。
紫。幽々子。幽香。妖夢。
皆の顔が浮かぶ。





「…そうか…俺…」

そう言って、シンは腹に左手を当てながら、一つ大きく息を吐いた。

生きてんだな…。
呟くと、安堵というよりも、意外な気分だった。

西行妖の魂、いや、生命、と言った方がいいかもしれない。
それを食い荒らしに掛かったあの時、正直、シンはやばいとも思っていた。
自分の中から何かが抜け落ちていく感覚が蘇り、寒気がした。

俺は俺だ。
本当にそうなのか。
何故か自信が持てなかった。

思考の泥沼に嵌りそうになり、シンは頭をゆるゆると振った。

あの囁き声は、夢だ。
悪い夢だ。
喰え、と囁き声は言った。
命を。魂を。

げほっ、とシンは咳き込み、歯軋りをする。
命に対して食欲を覚えることは、駄目だ。
許されないことだと思う。
その思考を嘲笑うかのように、強い食欲が湧き上がってくるのを感じた。
シンは、もう一度咳き込んだ。
血の味がした。

口の周りを腕で拭うと、血が付いていた。
舌打ちをして、シンは布団の上で上半身を丸める。
丸められた背を、障子から漏れる淡い明かりが照らしていた。
シンは、また大きく息を吐いた。
薄暗い和室に、吐息が溶けていく。
顔を掴むようにして、シンは頭を抱えた。

命を喰え。
その囁き声が、頭に反響する。

くそ…。

力なくシンが呟いた時だった。

障子が静かに開いた。
障子を開けた人物が、息を呑むのが分かった。
シンは緩慢な動きで、顔をそちらに向ける。

妖夢だった。
水桶と、手拭を手に、シンを呆然と見詰めていた。
シンは気付いた。妖夢のその眼は、泣き腫らしたみたいに、赤い。
妖夢は何かを言おうとして、上手く言えないようだった。

「…世話掛けちまったな」

そう言って、シンは微かに笑って見せた。
妖夢の眼に、みるみるうちに透明な雫が溜まった。
ばしゃっ、と。妖夢が持っていた水桶が、畳に落ちる。
おい、水が…。零れる水に視線を落としながら言って、シンは胸と左肩に緩い衝撃を感じた。
妖夢だった。
シンの肩に額を預け、その体にしがみつくようにして、抱きついて来たのだ。
「な…!?」

「心配…したん、ですよ…!」

シンは焦りそうになったが、それよりも先に、妖夢の声が胸に響いた。
ぎゅうと腕を掴み、顔を俯かせたままの妖夢の表情はシンからは見えない。
だが、漏れる嗚咽は聞こえた。
しゃっくりみたいに、妖夢の肩が震えている。

「私を庇って大火傷して…! お腹に穴を開けて…! 三日も、…眼を覚まさないで…!」

ぽたぽたと、布団の上に何かの雫が落ちる音が聞こえた。
涙か。震える妖夢の声が、和室の静寂に響く。
シンは何も言えず、驚いたような表情で妖夢の言葉を聞いていた。
腕を掴む妖夢の腕に、更に力が入った。
シンの存在を確かめるように、引き止めるように。

「無茶ばっかりして…! 何考えてるんですか…!」

妖夢の声は、もう言葉にならなかった。
涙と嗚咽に変わり、シンを掴む手に力が入る。
妖夢の手から、確かなぬくもりを感じた。

「悪かった…。ごめん…」

もう大丈夫だからよ…。
そう言って、シンは左手で妖夢の肩へと手を置いた。
大きなシンの手の感触に安心したのか。
強張っていた妖夢の体から力が抜け、更に大粒の涙が、布団に染みをつくった。
妖夢のぬくもりと声に、シンも、自身が生きているという事を改めて実感した。

喰えよ。
いずれもお前も、喰いたくなるときが来るだろう。
そう、囁き声は言っていた。

だが、妖夢のぬくもりを感じている今、そんな事は微塵も思わない。
喰いたいなどと、思いもしない。
俺は俺だ。俺のまま、生きている。
それを確かめるように。
シンは、優しい手つきで泣いている妖夢の頭を撫でた。

心配掛けたな…。
シンの言葉に、妖夢は小さく頷いた。













夜の帳が下りた森の深部は、魑魅魍魎の巣窟だった。

人ならざる者達が跋扈し、そこかしこで唸り声、鳴き声、何かを咀嚼するような、ぐちゃぐちゃという音が聞こえて来る。

もしも此処に人間が迷い込んでいたならば、異形の者達に襲われ半刻も生きてはいられないだろう。

闇夜から聞こえる獣じみた息使いが、不気味に湿り気を帯びて響く。
息使いが新たな獲物を見つけ、喜色に染まったのだ。 
人外達はよだれを零しながら、見つけた獲物との距離をつめる。

ただ、人外達の目に映るその獲物は、あまりにも場違いな存在だった。
人間の子供だ。ゆっくりと歩いている。この暗い森の中を。
小柄だった。その子供は装飾のついた、白と黒を基調とした法衣を纏っている。

目深に被った法衣のせいで顔は見えない。
人外達の腹が鳴る。余程旨そうに見えたのか、腹を空かせていたのか。
だが、人外達はすぐに襲い掛からずに、遠巻きに獲物の観察を続けた。

数日前、人外達の群れは人の形をしたもの達に襲い掛かった。
彼らは鉄仮面をした白い服の者達だった。数は3人だった。
人間如き、敵ではない。
彼らは人外達の久々の人肉の餌として、ミンチにされ喰われる存在の筈だった。

人外達もそうだと思っていた。

だが、現実は違った。

人外達は逆に返り討ちに合い、何匹もの人外達がバラバラにされたからだ。
その経験があってか、人外達はすぐには襲い掛からなかった。

じっくりと様子を見る。警戒する。
だが、見るからに弱そうで、格好の餌食であった。今回の獲物は矮躯だ。明らかに成熟していない。

前の奴らとは違う。囲む必要もない。喰える。喰える。
ただの人間の子供に何を警戒しているのか。
人外達はそう考え、油断した。いや、安心した。
闇夜と草むらに潜む多数の影が、その包囲を狭めながら、少年の後をつけていく。
法衣を纏った子供は、数日前に鉄火面達が集まっていた場所で立ち止まった。

その地面に視線を落としている。
少年の動きが止まった。
獲物が動きを止めた。
久しぶりの人間だ。骨まで喰ってやる。

俺が喰う。
私が喰う。
我が喰う。

人外達の群れが色めき立ち、獲物目掛けて飛びかかろうとした瞬間だった。
 
恐ろしい程の殺気と威圧感が、辺りを包んだ。
人外達は震え上がった。
景色が歪む。
胃液が逆流し、身体は竦みあがる。
人外達は見た。

闇夜の空間に亀裂が入るのを。

法衣を纏った子供の両の掌に、淡い光がともったのだ。

左手には、仄暗い蒼色。
右手には、薄く明るい碧色。

それを見た人外達は驚愕と共に、恐れ慄いた。
対峙しなくても分かる。

死ぬ。ここにいれば死ぬ。
人外達は一目散に逃げ出そうした。だが、間に合わなかった。
その人外達一匹一匹の目の前に、無数のスキマが開いたのだ。

そこから覗く無数の眼。それらが一斉に笑みの形に歪んだ。
そして、そのスキマから真っ黒な腕がにゅう、と伸びてきた。
それも一本では無い。数え切れない。まさに無数だった。
伸びてきた腕は凄まじい力で人外達を引きちぎり、握りつぶし、捻じ切っていった。

獣じみた断末魔を上げ、人外達は解体され、スキマに飲み込まれていく。

何とか逃げようとする者もいたが、すぐに伸びてきた腕に追いつかれ、バラバラに分解され、その悲鳴ごとスキマに飲み込まれた。

結局、法衣を纏った子供の周りに居た人外達は一匹残らずスキマに消え、辺りは不穏な静寂に包まれた。

少し遠くの方で、草木が激しく揺れる音がした。

遠巻きに観察していたほかの人外達が慌てて逃げ出したらしい。

「気付かれないと思っていたんだけどね」

周囲の惨劇になど眼もくれず、その音を聞きながら法衣を纏った子供は微笑むような声で言う。

柔らかな声には少年独特の腕白さは全く無い。
代わりに聖人のような、悟りきったような声音だった。
それが、その少年の異様さを際立たせている。
その少年の声を掻き消すかのように、辺りの血の匂いに混じり、強烈な殺気が。辺りを包んだ。

「それは楽観が過ぎるわねぇ…」

声がした。妖艶な声だった。
夜の空間に罅を入れながら、それは口を開いた。
スキマ。
その次元の穴から、妖怪の賢者は姿を現した。





[18231] 十八話 中編
Name: 鉛筆男◆c930cba3 ID:91cabc16
Date: 2010/09/28 22:43

虫の鳴く音すらしない、静寂の森の中。
夜の暗がりだけが、周囲を包んでいる。
赤黒く濡れた地と、草木。
咽るような血の臭いが漂っている。
臓物と血の海が、暗い森を、死の雨林へと様相を変えている。
煙る血の霧は、闇に紛れ、木々の表皮に纏わりつく。

「何も殺すことは無かった筈だ…可哀相なことをする」

波すらつくる血溜まりの中に立つ少年の存在感は、希薄で、居様だった。
法衣から僅かに覗くのは、顔の下半分のみ。眼は、紫からは見えない。
白い肌に、柔らかそうな唇は、少女のようだ。
ただ、その声音は幼い割に、とてつもない深みがある。
その声は聞こえる、というよりも、心に染み込んでくるような声だった。
血の匂いを浄化するかのような、清らかで、それでいて何処か虚しい声だ。

この世ならざるもの。
背くもの。

そんな歪んだ風格を漂わせている。
紫は無表情のまま微かに眼を細め、少年を見詰める。

「…優しいのね。でも、あの手の化生達には言葉は無意味よ」

どうせ、あのまま放っておいたら、貴方に襲い掛かっていたでしょうね…。
紫の言葉に、少年は少しだけ唇を笑みの形に歪めた。
柔らかそうな唇は、少女のようでもある。

「君は僕を助けてくれたのか?」

「まさか。…邪魔だったから消えてもらっただけよ」

細められた紫の瞳。
恐らく、並の人間が見たら金縛りに会う程の迫力があった。
少年の声は、落ち着き払ったまま。

「そうか…話し合いだけじゃ済みそうに無いな」

「笑わせるわ…追いかけっこは終わり。貴方は鬼に捕まったのよ」

「そのようだね…」

境界の女神を相手に逃げ回るのは、やはり少々無理があったようだ。
少年の声に、微笑むような響きが混じる。
紫は不愉快そうに表情を歪めた。
境界の女神。紫の能力を知らなければ、その言葉は出てこない。

「そう…私のことも知っているのね」

少年は、ああ…、と静かに頷いて見せた。

「勿論だ。幻想郷という世界を知れば、自ずと君のことも知ることになる」

少年がそう言い終わった瞬間。
紫は、手にしていた扇子を斜めに振り上げた。
その軌跡を追いようにして、真っ黒な亀裂が空間に奔る。
スキマ。次元の亀裂が、口を開いた。
少年の視界一杯に開いた黒い亀裂の中、無数の眼が少年を捉える。

少年はすぅ、と浮き上がり、両手に蒼と碧の光を灯す。
それは、防御、或いは迎撃の為の法術の光だった。
地に広がる血の海に、漣が立つ。

「性急なことだね…」

その少年の声に答えたのは、紫では無く、スキマだった。
視界を埋め尽くすような苦無弾幕が、少年を襲ったのだ。

少年はその弾幕に身を晒しながら、ゆっくりと後退する。
緩慢で、避ける気すら無いかのような動きだ。
紫は舌打ちをする。少年に苦無弾幕が当たることは無かった。
弾幕が少年を押し潰すその刹那、少年を中心に半ドーム状の結界が展開されたからだ。
硝子が砕け散るような音と共に、苦無弾幕は弾かれ、少年には届かない。
強固な結界だった。
「苛立っているのよ。…久々にね」

紫はその結界を睨み、表情を殺したような無表情のまま冷たい声を紡ぐ。
紫にとって、『奴ら』は当然のことながら、この少年も野放しにするには危険な存在だ。
幻想郷の存在を知り、尚且つ、結界を越えて侵入してくる。
それに、ソル達を幻想郷へと送った人物であるならば、この異変の背後で、何が起きているのか、それも知っている筈だ。


「ソルを幻想郷に送って来た目的は何…?」

「君達の力になって貰う為だよ」

「…何が起きているの?」

その紫の問いに、少年は少しの間、口を閉ざした。

「『彼ら』は…理を破壊する力を求め…この幻想郷に侵攻を続けている。それを止めて貰いたいんだ」

選ぶようにして、少年は言葉を紡ぐ。

「事態は悪いほうへと進んでいる。僕達だけでは…手が周り切らない」

「貴方にとって、終戦管理局とやらの行動は随分都合が悪いことのようね…」

紫は扇子で口元を隠しながら、眼を細める。
少年は、あっさりと首を微かに頷かせた。

「ああ。…とても。放置しておけば、危険なことになる」

「なら、貴方自身が動けば良いでしょう。
…何故、復讐されることを知りながら、彼を覚醒させたの? 随分と酔狂ね」

「僕が動き、それで静まるなら、もうしているよ。…『彼ら』は想像よりも、遥かに強大な力を得ている」

少年の声には、焦りは無い。ただ真剣だった。

「気を付けて…。『彼ら』は間違い無く、君も狙って動いているだろうからね」

紫は眉間に皺を寄せ、少年を睨む。

「…まだ、何か知っていることがありそうね」

少年の言葉は、肝心なことを避けるようにして紡がれている。
そんな気がしてならなかった。

「終戦管理局の目的は何なのかしら…?」

幻想郷の者を研究することで、何をするつもりなのか。
紫の問いに、少年は顔を僅かに俯かせ、唇を引き結んだ。
血の漣が、静寂を濡らす。

互いの視線はぶつかり合っているようで、全く交わっていない。
法衣を目深く被る少年の視線は、紫を見ていないからだ。
何処か遠くを見ている。
それは遥か遠くだった。
果てしない、彼方を見ている。
そして、少年はゆっくりと首を振った。

「それは…君が知る必要の無いことだよ」

少年の声が、微かに強張った。
微かに、揺れた。

「…なら、話したくなるようにしてあげるわ…」

それは、ある種の死刑宣告だった。
紫は口元を扇子で隠したまま、紫は宙に浮き上がりながら、スキマを開いていく。
夜の森の空間が細切れにしながら、その次元の裂け目は辺りを侵食する。
スキマは世界を紫色に染めていく。

結界というよりも、それは牢獄だった。

妖怪の賢者が作り出した、殺戮の庭だ。
賢者は、完全な無表情で、少年を見据え、見下ろす。

「僕も…君と同じなんだ」

この牢獄の中に囚われた少年は、落ち着いた声音で呟く。
手には蒼と碧の光。
それが明滅し、周囲を支配する紫色を、僅かに薄めていた。

この世界を守る為ならば、君は何でもするだろう。
僕も同じ。同じなんだ。
君が、僕のような者に、幻想郷という存在を知られたくないように。
僕も同じだ。

少年の言葉は、静かで、抑揚が無い。

君に『僕達の世界』の事を、あまり知られたくは無い。
法術。法力。それらの技術を蓄えた僕達の世界は、多次元から見れば、宝の山だ。
その深奥にある秘儀は、隠しておきたい。
勝手なことを言って申し訳ないが、僕も譲れないんだ。

少年は言葉を紡ぎながら、両手に宿す光を強める。
紫は何も言わず、無数のスキマを従え、少年を包囲した。

少年と紫は、対立する。

譲れないのは私も同じよ。
これ以上、後手に回るのは、もうたくさんだわ…。

紫の声は、殺意と怒気に潰されて、妖艶でありながらも、平らな声だった。
言い終わるのと同時だった。
ズグズグズグ…、と不気味な音が辺りに響き、周囲を閃光が染め抜いた。
スキマが蠢き、弾幕の嵐を吐き出したのだ。

それは、弾幕というよりも、壁だった。
スキマから吐き出された苦無弾幕は、光の波となって、少年に押し寄せる。
辺りの木々がなぎ倒され、派手な破砕音が木霊した。

「流石だな…」

迫る弾幕を前に、少年はそう言いながら緩やかに両手を翻す。
青白い閃光が少年の掌から疾った。
放たれたそれは、弾幕だった。
光の尾を引きながら、少年の弾幕は紫の放った苦無弾幕を相殺する。

森の木々を粉微塵にしながら、二人の弾幕は掻き消し合い、激しい火花を辺りに散らした。
相手が弾幕を用いて来たことを見た紫は、次々とスキマを開き、空間をボロボロに引き裂きながら弾幕の層を展開する。

少年も両腕を大きく振るい、その弾幕に対抗する。

圧倒的な密度を誇る紫の弾幕に対し、少年の弾幕は貫通力が高く、弾幕を突き抜けながら紫に迫る。

しかし、弾幕としての層の厚さ、そしてその絶対的な弾幕量は紫の方が上だった。
結果、二人の放った弾幕は、相殺では無く、互いに回避、防御を強制する結果となる。

つまり、貫通した少年の弾幕が紫に迫り、数で勝る紫の弾幕も少年に押し寄せたのだ。
少年の方は横殴りの雨のような苦無弾幕を、宙に飛び上がりながら回避していく。

一方、紫に迫る弾幕の数は、威力は高くともそう多くは無かった。
故に、回避と攻撃を同時に行う猶予もある。
紫の方が有利だ。その証拠に、紫は弾幕をかわしつつ、手に持った扇子を振るう。
その瞬間、宙へと逃げた少年の周囲の空間に、夜空よりも暗い亀裂が幾条も奔った。

少年を囲むように現れたスキマからは、先ほど人外達を飲み込んだ時のように、無数の眼が少年を見つめている。

少年が自分の周りを見回そうとしたその時だった。
人外達を解体した真っ黒な腕が、周囲のスキマから一斉に少年に殺到した。
全方位から迫る魔手。
黒い手は、少年の体を肉塊と化す為に、上下左右前後から襲い掛かった。
殺到した。
だが、その忌まわしい黒い手は、少年には届かない。
その魔手が届くすぐ手前で、少年が展開した結界に阻まれたのだ。
だが、紫が召び出した魔手の勢いと力までは殺せていなかった。
まるでガラスに真っ黒な掌を押し付けるような形で、無数の手がその結界を叩き、押し、軋ませていく。

ビキ。ピシ。

その余りの圧力に少年の結界にヒビが入る。

「これは…」

それは想定外だったのか。
少年の声に、驚きが浮かぶ。
宙に浮かぶ少年を守る結界は、スキマから伸びた腕に囲まれ、すでに真っ黒だ。

ビキビキビキビキ。ビシ。バキ。バキン。

何か硬いものに亀裂が入るような音と共に、少年の結界のヒビが広がっていく。

その様子を眺めていた紫は、無表情のまま、さらに扇子をゆっくりと振るった。
その扇子の動きを追うようにして、一際大きなスキマが紫の前に口を空ける。

そこから現れたのは巨大過ぎる真っ黒な腕だった。
掌の大きさは、車なら指で摘めるくらいの大きさだった。
腕は、更にスキマからぬぅぅ、と伸び、ゆっくりと掌を握り締めた。
ミシミシと、肉が締まる音が響く。

それは、巨大な拳骨だった。
少年の結界を砕くつもりなのだろう。
振りかぶるように、黒い腕はゆっくりと振りかぶられた。

砕いてしまいなさい。
その紫の言葉と共に、拳骨が凄まじい速度で伸びて、少年を包む結界に殴りかかって行った。
既に亀裂が入る程のダメージを受けた結界が、この一撃に耐えられるはずが無い。
それに、その必要も無かった。
その拳骨が届く前に、少年の結界は音を立てて砕け落ちた。
少年は無数の魔手に捕まり、その姿はもう見えない。
そこへ、巨大拳骨が叩き込まれようとした。

だが、その時だった。

魔手の群れが、一瞬だけ青い光に包まれた。
次の瞬間には、少年を捕まえていた腕達が消し飛び、霧散した。
ついでに、巨大拳骨は殴りかかる動きをピタリと止められた。
何が起こったのか、理解するのに少し時間が掛かった。
その腕全体が空中で氷漬けにされている。

それを見た紫の頬に、冷たい汗が伝った。

「時間凍結…こんな一瞬で…」

氷漬けにされた真っ黒な腕は空中でバラバラに砕け散り、消滅していく。
その破片が舞う中で、少年は静かに佇んでいた。

余裕を持てる相手では無いようね。
紫は呟くと、苦無弾幕を放ちながら、スキマに潜り込もうとした。
だが、そのスキマを開くよりも早く、少年は動いていた。
それは、ほとんど瞬間移動だった。

紫のすぐ目の前。
そこに、両手に蒼と碧の光を蓄えた少年の姿があった。

「く――!」

紫は咄嗟に片手で日傘を袈裟懸けに振るった。
ついでに、もう片方の手で扇子も振るう。
其処から放たれたのは、四つに重なった、深紫の結界陣の壁。
空間に断絶と遮断を齎す、破壊の為の結界だった。
風が泣き喚き、空気が軋んだ。

少年は振るわれた日傘を、光を蓄えた素手で受け止めた。
そして至近距離からの四重の結界に対しては、紫と同じような姿勢で片手を翳し、結界を展開する。

瞬間、音が消えた。

至近距離で激突する、結界と結界。
光が溢れ、夜空を昼間のように明るく染め上げる。
轟音を響かせながら二つの結界は砕け散り、両者は互いの結界に押され、後方へと弾き飛ばされた。

「強いな。流石だ」
 
 少年は後方へと飛ばされながら、呟く。
 
 「貴方もね…」

 同じく後方へと飛ばされながら呟く紫の背後に、スキマが開いた。
そのスキマに身を潜らせ、次の瞬間には再びスキマから姿を現す。

少年の背後、その少し右斜め方向に。

少年の背中は無防備で、小さな背中だった。
容易く潰せそうな弱弱しい背中が、紫の目の前に飛んでくる。
手加減はしない。
その背中目掛けて、紫は傘を振り下ろした。

傘は少年の背中に吸い込まれ、少年が呼吸を漏らす音が聞こえた。
内臓か何かが潰れたような、嫌に鈍い音も、同時に聞こえた。
紫の手に、衝撃が伝わる。
確かな手ごたえだった。

少年は声すら上げず、そのまま地面へと叩き落され、凄まじい速度で落下していく。

だが、少年が地面に叩きつけられることは無かった。

紫は目を疑った。
少年が地面に叩きつけられるその瞬間だった。

黒い鏡のようなものが地面に現れたのだ。
それは、タールのように重そうな液状の表面で、薄い膜のように地面に広がっている。
黒い水溜り、と言えばいいのだろうか。

少年はその水溜りに飲み込まれ、水溜り自体もすぐに消えて無くなった。

その一連の動きはまるで――
 
 「っ…あ…!」
 
 反応が遅れた。
紫は、ほとんど無意識のうちに結界を張っていた。
だが、何かが砕けるような音が聞こえた。
それが、今自身の張った結界に穴が空く音と気付いた時には、吹き飛ばされていた。
背中に走った衝撃に、一瞬、紫の意識が白む。

紫が吹き飛ばされながら、何とか背後に視線を向けると少年が掌をこちらに翳すようにして佇んでいた。
紫は空中で体勢を立て直し、再び対峙する。
少年は掌をゆっくりと下ろしながら、こちらを見据えている。
鈍い痛みが背中から広がるのを感じながら、紫は忌々しそうに表情を歪めた。

先ほど見た、あの黒い水溜り。

あれは間違い無く、紫のスキマと同じ類のもの。
あらゆる空間を支配する能力だ。

少年の姿が、まるで溶けるようにして歪み、消える。
その足元には黒い水溜りのようなスキマがあった。

「同じような能力ならば、対策のしようはあるものよ」

紫は扇子と掌を振るい、呟きながらいくつもの小結界を作り出す。
その小結界の群れは、薄い紫色の波紋を広げながら、紫の周囲を包む。
永久機関である小結界は、自動探知と攻撃能力を兼ねた、術式のビットだ。
結界は宙に固定されること無く、紫の周囲を漂う。
弾幕を放つ永久機関である結界は、紫の盾となりつつ、相手の行動を探知する為の網の役目を果たす。
仮に、相手のスキマを用いた神出鬼没の攻撃に紫自身の反応が遅れたとしても、この小結界が相手を捉える。

紫は、空間に現れる境界のかすかな歪みを感じる。
二つ、三つ、いや…四つ。

その四つ全ての歪みに、小結界の弾幕が殺到する。
光線と苦無弾幕の嵐が、空間が滲み出すように現れた、黒い水の雫を木っ端微塵に砕いていく。

だが、その小結界達は反応出来ていなかった。
紫の背後に現れた歪み。
それは黒い水面として広がる。

小結界は反応出来ていなくとも、紫は気付いていた。
相手の本体の動きを捉えられぬ程、紫も耄碌してはいない。

「…私もそうするでしょうね」

呟いた紫は振り向きざまに、その黒い水面目掛けて扇子を力強く振るった。
振るわれた扇子の軌跡をなぞるように、空間に黒い亀裂が入り、さらに結界が押し寄せる。

次元を刻む結界の束と、スキマの牙が、宙に浮かぶ黒い水面に押し寄せた。
それは、途方も無い破壊の波動だった。
もしこれが、結界内でなければ、この周囲一体の土地に、深刻なダメージを与えかねない一撃だった。

眼下に広がる森が悲鳴を上げ、朽木は吹っ飛び、細い木は根ごと掘り起こされ、へし折れた。

「くっ…」

黒い水面の向こうでは、少年の姿が揺れており、焦ったような声が聞こえた。
それもそのはずだ。
明るい紫色の光が押し寄せ、その黒い水面を突き破り、染め上げる。
境界を操る能力を用いた戦闘においては、やはり紫の方が上手だ。
水面の向こうで少年は何とか抵抗していたが、結果は呆気無かった。
重なり合った巨大な結界が、空間に現れた黒い水面ごと少年を押しつぶし、消し飛ばした。
飲み込み、消滅させる。

木々のざわめきが弱まり、荒れた森をが眼下に広がっていた。
光と暴風が止み、荒廃の中、夜の静けさが訪れる。
どこまでも不穏だ。

「…く、…はぁ…!」

紫としては、かなり力を出したはずだった。
実際、紫の息は上がり、額には汗が浮かんでいる。
尋常では無い程の隈が、その眼の下を覆っていた。

無理も無かった。
西行妖を封印するのに使った力に加え、幻想郷を包む結界の修復。
加えて、西行妖に喰われた生命へのダメージもまだ回復しきっていないのだ。
紫の疲労は、危険なところまで蓄積していた。

「境界を操る能力というのは、扱い難いものだね。
それを、こうまで使いこなして戦うとは…。妖怪の賢者という名は、伊達では無いな」

だから、その背後から聞こえて来た声が信じられなかった。
悪夢のように聞こえた。

「貴方は…本当に人間なのかしら?」

紫は振り返りながら後退し、振り向きざまに苦無弾幕とレーザーの束を放つ。
咄嗟に放った牽制用弾幕とは思えない程の質量と密度だった

「ああ、少なくとも『僕』は人間だよ」

少年は嘲るような、どこかもの寂しさを感じさせる声音で返した。
すると、薄い山吹色の魔法陣が二つ浮かび上がった。
そこで紫は見た。

少年側から放たれた弾幕が、紫の放った弾幕を相殺するのを。
その弾幕は奇しくも、紫の苦無弾幕に似た形状だった。

ただ、弾幕を放ったのは少年では無い。

二機の巨大なビットが、其々の魔法陣の上に浮遊していた。
そのビットが弾幕を放ったのだ。
弾幕が着弾する数瞬の間に召還されたのだろう。

ビットの大きさは丁度紫が三人分程の大きさで、白い銃から銃身を取り外し、グリップの後方にパラボラ状の輪を取り付けたような感じだった。
傍から見れば、銃のグリップが浮いているような感じにも見える。

だが、銃と呼ぶには、グリップの部分が細すぎるし、そのビットにはあまりに不自然なものが装填されていた。

巨大過ぎる本だ。
まるで、赤い画板を表紙にしたようなゴツく大きな本が、ビットの銃身としてセットされている。
セットされた本は豪奢な薔薇を象った金属でビット本体にロックされ、ついでにマガジンのようなものまで装填されている。

その異形のビットを従えた少年の姿は神々しくも、どこか禍々しい。
それはとても「人間」と呼べるような存在には見えなかった。

 「怪物ね…」

紫は扇子を振るう。
その動きに合わせ、その紫の背後に数え切れぬほどのスキマが開く。

それはまるで蜘蛛の巣のようだった。

そのスキマから一斉に弾幕が掃射され、弾幕は面として少年とビットに迫る。
弾幕を盾にしつつ、紫はスキマに潜りこんだ。
その弾幕を前に、少年は動かなかった。
代わりに、二基のビットが反応していた。

二基のうち、一基が少年の盾となるように移動し、巨大な結界を展開させた。

黄金色の光が漏れ出す。
その光を掻き消すかの如く、紫の苦無弾幕が降り注いだ。
弾幕の豪雨に打たれ、
炸裂音と、硬いものがぶつかり合うような音が響きわたる。

しかし、紫の弾幕がその結界を抜けることは無かった。

ビットの結界は完全に弾幕を遮断している。
その影で、少年は結界に弾幕が降り注ぐ音を聞きながら、視線をその弾幕の雨の中に巡らせる。

その少年の意識に追従しているのか。
残りの一基は、宙空のあらぬ場所――少年が視線を止めた先――目掛けて法術を発動させる。

魔法陣がそこに浮かび上がり、次第にその魔法陣が何十かのリングのように変形し、すぐにそれは球状になった。
その魔法陣の中の空間に、真っ黒な水の球が現れた。
大きさは二メートル程。巨大な水滴と言った方がしっくりくるかもしれない。
その水球の中には。

「ごほ――っ!?」

紫が閉じ込められていた。
紫は顔を歪めて、その黒い水の中から、少年を睨んだ。

「境界を操る能力は、既に僕も研究済みだ…」

君と対峙した時のためにね…。
その少年の言葉を遮るようにざばん、と水が弾ける派手な音がした。

黒い水が夜空に派手にまき散らされ、地に降り注ぐ。
紫が水球の境界を弄り、破裂させ、脱出したのだ。

ずぶ濡れになった身体から水滴を滴らせながら、紫は疲労に貌を歪める。
だが、すぐに睨み据えるような表情を浮かべ、扇子で身体を大きく一度扇ぐ。
すると、濡れていた髪や服が、一瞬にして乾いていた。

まるで…。
そう言った紫の声は、掠れていた。

「魔人ね…。元人間とは思えないわ」

「魔人か…。大袈裟だな」

少年は朗らかな声で言って、少しだけ顔を伏せる。
ビットがゆっくりと浮遊したまま移動し、紫を包囲するように移動を始める。
未だ呼吸が整わないことに苛立ちながら、紫は少年を睨むようにして歯噛みした。

宙に浮かび対峙する少年と紫の間に、長い沈黙が落ちる。
少年とビットは一定の間合いを保ったまま、こちらの動きを待っている。
仕掛けてくる気が無いのか。
或いは、舐めているのか。
少年は何も言わず、夜空に静かに佇んでいるだけだが、それが余計に不気味だった。

「貴方を形容するのにピッタリだと思うけれど」

紫は小さく息を吐き、両腕を広げるようにして振るった。
その時、完全に音という音が消えた。
光という光も薄れ、色という色が飲み込まれた。
夜空から星が消えた。
真っ暗になった。
それは、ありえない光景だった。

「これが、『境界を操る程度の能力』…」

少年が感嘆するように呟き、その黒く染め抜かれた夜空を見上げる。
いや、正確には少年の周囲一帯を包み込む程の巨大なスキマが口を広げたのだ。
空に浮かぶ星の代わりに、形の歪んだ無数の眼が少年を凝視している。

そのスキマは、ビットと少年を飲み込むつもりのようだ。
結界で防ぐには余りに巨大すぎるそのスキマ。
もはや一つの隔離された空間と化したその漆黒の口に、出口は無い。

スキマ送り。
それは次元の狭間への放逐。別次元への流刑。
その無慈悲な処刑に遭いながら、少年は以前、平静を保ったままだ。
スキマを開いた紫本人は、見る者を凍りつかせるような眼で少年と対峙している。

しかし、紫と同じく、境界を操ることの出来る少年に対して、この処刑方法はあまり意味を成さないはずだった。

だが、それはスキマ空間に閉じ込めるだけの話ならばだ。

「直裁、貴方を叩くにはこちらの方が効率的でしょう?」

紫の言葉が終わるより先にその真っ暗な空から、或いは、周囲のスキマから、先ほどのような魔手が少年を捕まえんと伸びて行く。
その数は膨大過ぎて、もはや空間そのものが少年に押し寄せている。

この紫色の暗がり全てが、紫の意思そのものだった。
スキマ空間は、法廷であり、処刑場でもあり、また紫の狩場と化していた。

紫は傘を構え突っ込んでいく。
相当に本気なのか。
スキマにも潜らず、スペルカードも構えず、紫は真っ直ぐに少年に向かって行く。

一基のビットが少年の盾として、結界を展開し立ちふさがる。

だが、その結界も魔手の群れの猛攻に耐え切れず、殺到したその魔手達に押し潰された。
山吹色の光と破砕音が、スキマの闇に飲み込まれていく。
ビットはすぐに弾幕を放ち、牽制しようとしていたが、それは完全な無駄だった。
結界を数で押しつぶす程なのだ。
弾幕で止まるはずがなかった。魔手達はバラバラにされながらも、それでも止まらない。

一基のビットが魔手達に飲み込まれ、ひしゃげ、押しつぶされた。
残る一基はその後背部から山吹色の光を噴出しながら、少年へと迫る紫に照準を合わせるように向き直る。

「ゲインを上げるよ」

自身を包む結界で魔手達を防ぎながら、少年が呟いた瞬間、その闇色の空間に一条の光が挿した。
いや、貫いた。
その一条の光は山吹色で、極太で、それはビットから紫目掛けて放たれていた。
それは光の塊。光線。レーザーだった。

紫はその光線を避けなかった。
それどころか、正面からぶつかって行った。

「邪魔よ…」

紫は光線を前に、扇子を振り上げるようにして振るう。
すると、その光線が歪んだ。
ぐにゃりと。非常識な光景だった。
蛇のようにのたうつその光線は、標的としていた紫をそれて、辺りを包むスキマ空間の彼方に吸い込まれていった。

紫は光線を縫うように飛行し、ビットの背後へ回り込む。
そして、そのビットの前で扇子を振り下ろした。

「なるほど…、強い」

呟く少年が見ている前で、ビットは縦に真っ二つになり、さらにそのビット目掛けて、魔手が殺到した。
ビットの残骸は、魔手達によって砕かれながらスキマの彼方へと消えて行った。

これで、余計な邪魔者は消えた。
向き直った紫の冷たい瞳が、少年の姿を映す。

「遊びは終わりよ」

この空間全てから伸びる魔手達に包まれても、平然としている少年は、小さく頷いた。

「ああ。そうしよう」

疲労を混ぜ返したような貌の紫は、呼吸を整えるため、大きく息を吸い込んだ。
結界に包まれたままの少年は、その紫を前に、微笑みを滲ませた声で言う。
少年の周りには、未だに少年を破壊しようと殺到する魔手が、その結界を叩いているというのに。

少年を包む結界が、悲鳴を上げ始めた。

「少し強めに張ったつもりだったけれど…流石に、この空間では、君に軍配が上がるな…」


少年は結界の中で、ゆっくりと腕を広げた。
その両の掌に宿る仄暗い蒼と、薄く白い碧が渦を巻いた。
蒼と碧の渦は、少年の胸の前で交じり合い、大きな力へと変わって行く。
その深い青色の光は、少年の顔の下半分を照らしていた。
法術の余波に、少年の法衣が大きくはためく。

法衣に刻まれた銘は、PROTEUS。
ギリシャ神話に於ける、海神の名。

紫はふらつく体に力を込め、このスキマ空間を保つため、精神を集中させる。
今、場を支配する重要な要因は精神力だ。疲労を殺し、息を吐いた。

「彼が太陽で、貴方は海…面白い趣向ね」

捩れながら、膨大な法力へと変わって行く蒼と碧の光を見ながら、紫は呟く。

「僕の場合は水溜りだ。海などではないよ」

「海も、大きな水溜りみたいなものでしょう」

「母なる海に対する冒涜だよ、それは」

少年が可笑しそうに笑う。
紫も毒気を抜かれそうになるほど、無邪気な声だった。
その声が、静かに沈む。
対峙する二人の間の空気が、歪んだ。


少年は動かない。
未だに結界に籠もったまま、動きを見せない。
紫が動くのを待っているのか。
少年はじっと、紫を見据えていた。

少なくとも、紫にはそう見えた。
見えていた。
だから、全く反応出来なかった。

気付けば、紫は顔を両の掌で優しく包み込まれていた。
少年が、眼の前に居た。

「な…っ…!?」

どうやってここまで近づいたのか。
いやそれよりも、どうやってあの魔手の包囲から抜け出したのか。
あまりに突然のことに、理解が追いつかない。
体が上手く動かなかった。
此処は。この世界は。スキマの中は、紫の手中にあった筈だ。
スキマ空間から伸びる黒い腕達も、少年を見失い、行き場を失っている。

「『彼ら』は君も狙っている。
君が『彼ら』の手に堕ちれば、もう手に負えなくなる」

フードで隠れた少年の顔半分が見えた。
少年の柔らかそうな唇は、まるで少女のようだ。

「くっ!」

紫は抵抗しようとするが、今度は本当に身体が動かない。
ガクン、という揺れを感じた。
スキマを開こうとしたが、開かない。境界に干渉出来ていないのだ。
紫は視線だけを自身の身体へと落として、愕然とした。

宙に浮かぶ紫の両腕、両足に、魔法陣のリングが嵌っている。
それは、まるで拘束具のように紫を空間に固定し、動きと、そして恐らくは能力を封じていた。

「…いい機会かもしれないな…」

少年がそう言うと、紫の頬を包む掌が、微かに山吹色の光に染まる。

紫と少年の足元に巨大な魔法陣が一つ現れ、それと同時に辺りを包んでいた暗い世界にヒビが入った。硬いガラスを叩いたようなヒビの入り方だ。

 そのヒビを追うように、次々と細かなヒビが入り、それは空間を埋め尽くした。そして、そのヒビが入るままにスキマ空間が砕け散る。

少年がスキマ空間を無理矢理にこじ開けたのだ。

闇色の世界に、星の瞬きと、風の音が蘇る。

 戻ってきた夜空は変わらずに静寂であり、その宙空にいる紫達だけが、魔法陣から漏れる山吹色の光を受け、浮き上がっていた。
 
 「その力、少し解析させて貰うよ」

 少年は優しく、紫の頬を撫でる。
 青白い光を、少年の掌から感じた。
 
「何を…!」

言い終わる前に、紫は身体をビクンと跳ねさせた。

「ぅああああああああ――――…っ!!!」

紫はその美貌を歪めながら、悲鳴を上げる。
まるで、太い錐で脳細胞を直に抉られるような頭痛に、紫の目の前が真っ白になる。
青白い光の渦は、紫の魂と精神を漁り回り、記憶、知識、妖術、結界術、それらの秘儀を読み取っていく。

「少し痛むが、我慢して。すぐに終わるから」

少年と紫の足元に浮かび上がった山吹色の魔法陣の光が、淡く脈打つ。
それは、紫から少年へと何かが流れ込んでいくかのような、光の揺らめきだった。

「ああああ!、っぐ…ぅ、ああああああああ!」

 がくがくと紫の身体が痙攣するが、四肢を魔法陣で固定されているため、暴れることも出来ない。
ただ、その神経を磨り潰すような頭の痛みに、紫は翻弄される。
 疲労した体、刻まれる精神。
その様を目の前で眺めながらも、少年はただ静かに、柔らかく紫の頬を両手で包んでいるだけだった。

「…あともう少しだ…」

少年が呟くと、さらに巨大な魔法陣が二重に足元に浮かび上がる。
そして、淡く脈打つ山吹色の光は、力強く脈動し始める。
魔法陣に描かれた、複雑怪奇な紋章。それらに、まるで回路のように光が流れ出す。
 
 「……あ…ぁ…―――」

その光に飲まれるかのように、紫の声が聞こえなくなっていく。
紫の眼の焦点は、もはや定まっていない。
目の前にいる少年の言葉も聞こえていないだろう。
その身体から力が抜けていく。

「すまない…僕が力不足なばかりに。だが、出来る範囲で力を貸すよ」

少年は労わるような手つきで、包んでいる紫の頬を、もう一度優しく撫でる。


朦朧とする中、紫はその掌の柔らかな感触のお蔭で、意識を手放さずに済んだ。
紫は、完全には抑えられてはいなかった。

凄まじい精神力だな…。恐れ居るよ…。
少年の言葉には、純粋な驚きがあった。

気安く…触らないで、くれる…かしら…。
その紫の声は、掠れに掠れて、何を言っているのかも聞き取りづらい声だった。

だから、容易く飲み込まれた。

すぐそこまで迫っていた炎の塊、それが燃え盛る轟音に。

炎の色は、濁った赤橙。
殺意そのもののように燃え盛る炎塊は、紫の眼の前に居た少年に直撃。
少年は、後方へと大きく吹き飛ばされるが、すぐに体勢を立て直し、ゆっくりとこちらへと向き直る。
無傷だった。見れば、少年の前面には結界が展開されている。
一瞬であれだけ強固な結界を張れるものなのか。
だが、それよりもだ。

紫と少年の間に割り込んで来た炎の正体は、白く分厚い刃に、重厚な刀身を持つ、神器。
それを振るった男は、旅装束の上着を腰に巻き、黒のインナーに、幅広のジーンズ。
背中には、濁った赤橙色の炎が燻る、翼があった。
雄雄しく、猛々しい、竜の翼だった。羽ばたくたび、大気を凪ぐ音が聞こえる。
その翼を紫の盾にするように、男は少年に空中で半身を向ける構えを取った。

紫は、男の背中を、呆然と眺めていた。
何故。どうして此処に。そんな疑問を口にする前に、男は紫に振り返った。
そして、僅かに貌を顰めた。それから、その掌を紫に翳し、低い声で文言を唱えた。
淡い赤橙の法術陣が、紫を包む。

舌打ちをした男は、翳した掌を握り込み、紫を縛っていた拘束をディスペルする。
薄い硝子が折れるような音とともに、拘束法術が砕け、魔法輪が霧散した。
夜の空に、青と山吹色の法術陣が、光の粒となって撒かれていく。

体を開放された紫は、空中でぐらついた。
意識が飛びかけて、夜空と星が視界から消える。

「紫様っ!!」

聞き慣れた声と共に、誰かに抱き止められた。
八雲藍。
その焦った声が、自らの式の声だということに気付き、紫は体から力が抜けた。
…これじゃあ、主としてのメンツが丸つぶれねぇ。
疲れ果てた溜息をついて、紫は視線を男へと向ける。

それを確認した男は、「…無事か…?」と、仏頂面で紫に聞いて来た。
ええ…、何とか。もうそれだけ答えるのが精一杯だった。
男も、「…そうか…」と言うだけで、すぐに視線を少年へと向ける。
その視線は、殺意と憎悪そのものみたいに濁りに濁っていた。
対峙する男と少年。その緊迫の中。

「随分派手にやられたみたいね…」

「こっからは任せとけよ、紫!」

其処へさらに、二人の少女が舞い込んできた。
一人は紅白の巫女。もう一人は、古風な白黒の魔女。
紫は微かに表情を歪ませた。
苦笑とも、しかめっ面ともとれる、微妙な表情だった。

「貴女達まで来たのね…」

霊夢。魔理沙。そして、ソル。
 藍に肩を貸してもらいながら、紫は視線を巡らせる。
 
 霊夢は、片方の手に札を挟み、もう片方の手に紙垂を構える。
 魔理沙は、箒に跨りながら、肩から引っ掛けた大きな鞄をごそごそとやっている。
 そして、ソルは、半身立ちの状態で翼をゆっくりと羽ばたかせ、少年を睨んでいた。
 
 ソルの背に生えた翼に対しては、紫は驚くに値しなかった。
 霊夢も魔理沙も、同じような様子だった。
恐らく、ギアという存在を知っていたからだろう。
 だが、ソルの放つ威圧感には、息を呑まざるを得ない。
 
 「……貴様……」
 
 「久しいね…。フレデリック」
 
少年は夜空に静かに佇み、微かな笑みすら浮かべていた。
 
巫女、魔法使い、そして、ギア。
 その三人に対峙する、理の解体者。
 
 
異変に、大きな流れが出来ようとしていた。



[18231] 十八話 後編
Name: 鉛筆男◆c930cba3 ID:91cabc16
Date: 2010/10/08 22:57
藍は、結界に微かな、しかし不自然な揺らぎを感じた。
幻想郷を包む結界は強固ではあるが、綻び、揺らぎは存在する。
それを修繕、修復、そして、管理するのが、幻想郷の管理者である紫と、その式である藍だ。

藍の主である賢者、紫は、眠ることが多い。
それは、紫の持つ境界操作という出鱈目な力が、精神と肉体に負担をかけるからか。
或いは、単に自堕落なだけか。それは藍にも伺い知ることは出来ない。

ただ、超常の存在である妖怪の賢者ならば、その睡眠自体にも何か理由や目的があってもおかしくは無い。
スキマの妖怪は、夢の中でさえ入り込み、うろつくことが出来る。
境界で仕切られた全ては、八雲紫の庭だ。
スキマ妖怪に睨まれた者は、夢の中へすら逃げ込めない。
それだけでなく、夢を読み取り、精神世界を掌握し、隷属させる。

長時間の睡眠は、そんな超越者にとってどんな意味を持つのか。

興味深いことではあるが、藍はそれを無理に知ろうとは思わなかった。
スキマ空間とは、次元に創り出された聖域だ。
その聖域を創り出し、其処に佇む賢者の思考など、知っても理解出来る気がしない。
それに、主の時間を邪魔するつもりもない。

だからこそ、主である紫が、睡眠という想像の及ばぬ領域に居る時には、結界の管理はもっぱら藍の仕事であった。

紫の式となり、結界に関する妖術、魔術、霊術の類は、山程学んだ。
そして、身に付けた。
本来の妖弧としての力に加え、多くの術を会得した藍は「八雲」の名を得て、更に多くの術を自らのものとしていった。
結界の綻び、また揺らぎの修復は、既に藍の得意分野にすらなりつつある。


だが、その日感じた揺らぎは、少々異様でもあった。
幻想郷と、その外の世界を隔てている結界の揺らぎには、何者かの干渉を受けた痕跡があった。
当然、看過出来るものでは無い。
幻想郷に侵入している、不届きな輩はそう多くは無いが、今回は別だった。
既に白玉楼が襲われ、シンが重傷を負ったと聞いた。

終戦管理局。

それが、白玉楼を襲ったもの達の所属する組織名らしい。
好き勝手にやらせはせん。藍は呟き、その揺らぎを修復する為、夜空を飛ぶ。
恐らく、もう既に主人である紫は、その場に向かっていることだろう。
誰よりも早くこの揺らぎに気付いているはずだ。
この揺らぎが、終戦管理局の者達によるものだとすれば、既に戦闘が行われている可能性もある。

急がねばならない。
藍は夜空を睨んで、更に飛行速度を上げた。




神社に居たソルも、幻想郷内に“あの男”独特の匂い、気配、法術を微かにだが感じた。
境内の賽銭箱前に腰掛け、境内を睨んでいたソルは、「…来たか…」、と低い声で呟く。

ゆっくりと立ち上がり、首をゴキゴキと鳴らした。
旅装束の上着を脱ぎ、歯を軋ませ、額の刻印に指で触れた。
微かな熱を感じる。

忌々しいくも、この疼きは心の支えだ。
月明かりに照らされた境内の中心へと、歩を進める。
ソルは何かを堪えるかのように、大きく、深く、静かに息を吐いた。
吐き出されたのは、灼熱の吐息だけではなかった。
体に収まりきらないほどに高まった法力の余波が、神社の周囲の林を揺らす。
夜の闇に浮かぶ木々の枝がざわざわと激しく揺れ、微かな赤橙が暗がりを染めた。
ごう、と、境内の地に炎が奔る。

この胸を焼く感覚は何だ。

ソルは、自分の胸を掴むようにして、拳を握る。
飢餓感。憎悪。喜悦。
どの表現もそぐわない強烈な渇望が、ソルの胸を焦がす。
もう一度息を吐くと、更に膨大な法力の余波が溢れだし、今度は辺りで木々がへし折れるような音が聞こえた。
見えない力の暴風を起こしながら、ソルは夜空へと顔を上げる。
金色の瞳が、夜空を射抜く。

星と月が見えた。
満点の星空だった。
星屑の優しい光が、黒い空に鏤められ、彩っている。

ただ、それだけだ。

ソルの心は、そんな美しい景色にも、微塵も震えなかった。
ただ、憎悪を突き抜けた激し過ぎる渇望に、ソルは顔を掴むようにして手で覆った。
そして、そのまま深く礼をするように体を折り曲げていく。
それに合わせて、法力の暴風が更に激しく吹き荒れた。

それは、ソルにとっては久ぶりの感覚だった。
肉体が生まれ変わっていくような、それでいて、壊死し、滅んでいくような。
別の何かになっていくような感覚。
体に巣食うギア細胞が、叫び、うねり、歓喜の声をあげ、目覚めていく。
常人なら恐怖に泣き叫び、のた打ち回るような苦痛を伴うそれは、ソルにとっては慣れ親しんだ肉体の活性だ。

懐かしくさえ思う。
この渇望が、そう思わせるのか。

どうでもいい。

今感じる、“あの男”の気配と、法術。
感知している限りでは、以前戦ったままの術式を用いている
…殺す…。神社が軋み、境内の闇を赤橙の光が焼いていく。

「ちょっ――、何なの!? ソル!」

「こりゃ何の騒ぎなんだ!?」

神社の中から、霊夢と魔理沙が境内に走りこんで来たのはその時だった。
霊夢の手には紙垂、魔理沙の手には箒と肩掛けの大きめの鞄。
霊夢達も、結界の異常を感じたのだろう。
いつでも、飛び立てる格好だった。事実、そのつもりだった。

だが、其処で二人は見た。
境内に浮かび上がる、巨大な法術陣。
その陣をなぞるように奔る、濁りに濁った炎。
そして、その法術陣の中心。
体を深く折り曲げ、その背中をバキバキ、メキメキと鳴らせて、炎を燻らせる竜翼を生やしていく、ソルの姿。

その竜翼には、上っ面の気品などまるで無い。
どこまでも暴力的で、破壊的な翼だ。
折り曲げていた体を起こし、仰け反らせながら、ソルはその翼を大きく広げ天を仰いだ。
それと同時に、法力の炎がソルの周囲に吹き上がり、爆音を轟かせる。
その熱波と迫力に、霊夢は一歩後ずさり、魔理沙は尻餅をついた。

ソルは、二人には気付いていない。
気付かぬまま空を睨みつけ、翼をはためかせる。
額の刻印は血色に輝き、金色の瞳の瞳孔は更に深く縦に裂けていく。
その表情は、感情を潰したように微かに歪んでいるだけだった。

――ちょっ、と…! 待ちなさい!
おい! ソル! 

霊夢と魔理沙のその声は、吹き上がった炎に遮られ、ソルには届かない。
ソルはその炎を連れ、夜空へと飛翔する。

ごう、と熱い突風が吹いて、霊夢と魔理沙の体を打った。
思わず顔を覆った霊夢達を置いて、法術陣は輝きを鈍らせ、奔る炎も消えていく。

見れば、一瞬で空へと舞い上がったソルは、既にかなりの高度へと達していた。
本当に置き去りにされたような気分になって、呆然と仕掛け魔理沙は、はっと我に帰った。
そして、ソルの姿を見上げながら、魔理沙は慌てて箒に跨った。
ちょっとは待ちなさいっての…! 
霊夢は呟き、体を宙へと浮かせ、空へと飛び上がっていく。
魔理沙もそれを追う。夜空には、嘲笑うかのような三日月。

「くっそ…! ソルの奴、落ち着いてるようで、一番落ち着いてないぜ!」







相変わらず、君は自分のスペックを超えた戦い方が好きだねぇ…
男の低いくせに抑揚のある声は、薄暗い研究室の中に響いた。
其処は、研究室というよりは、工場、と言う方が似合うかもしれない。
巨大な機材や、コンピューター、ハイテクな工具に囲まれた空間に、一台の寝台があった。
寝台にはマットなどは無く、固く冷たい機械仕掛けだ。
チューブの束が伸び、更には工具台、備え付けの溶接装置も設置されており、機械修理の為の手術台だった。

その手術台に横たわる、金属で出来た頭、腕、胴、脚が、標本のように並べられている。
それは、機械の体を組み立てる為のパーツだ。
頭と胴はケーブルで繋がれ、胴から伸びるケーブルは其々、両腕、両脚のパーツへと繋がっている。
すぺっく以上ノ力ガ必要ナ相手ナラバ、ソウセザルヲ得ンダロウ。駄目博士。
ケーブルで繋がれた腕。その先端の手の指が、キチキチと金属音を立てて微かに動いた。
それを見た男は、微かに唇を歪めて、そうだねぇ、と呟いた。
溜息みたいな声音だった。
男は、機械の寝台に並べられた其々のパーツを工具で弄くりながら、その体を組み立てていく。
 手馴れた手つきだった。
 機械を蘇らせる精密作業を、軽口を叩きながら行っていく男は、口をへの字に曲げる。
 
 「人格プログラムを搭載してる個体は、特別仕様にはしてるんだけどねぇ」
 
 相手が悪いよ。向こうの相手は常識に囚われて無さ過ぎる。
 溜息のように言葉を紡ぎながら、男は金属の体に命を吹き込んでいく。
 
 「確カニ、妖怪トイウ生物ハ、アラユル面デはいすっぺっくダナ。
オマケニ、訳ノ分カラン能力マデ使ウ。参ッタネ」
 
 「だからこそ、研究する価値があるんだ。彼女達の力を解析し、実用するまでに至れば…」

 充分、鍵になりうるよ。
 男は言いながら、機械の両腕と両脚を胴へと接続した。
 そして、その手に法術の光を灯す。
その光の色は、濁った、暗い青色。鉄の冷たさによく似た光の色だ。
男は掌に灯した光を、寝台に横たわる機械の体へ翳し、注いでいく。
血流のように脈動しながら、光はパーツすべてに行き渡り、包み込んだ。

 「簡単ニ言ッテクレル。ソノ研究ノ為ノ素体ヲ捕獲スルノガ、ドレ程困難カ…」

 「それが君達の仕事だろう。僕は引き篭もって、君達をサポートするのが仕事だ」
 
 「楽ナ仕事ダナ」
 
 「言ってくれるじゃないか。君達が寄り道しまくるせいで、上から催促の通信が、散々入って来てるんだよ」

 「……スンマセン」
 
 「ホントにね…。まぁ今回は、有益なデータも手に入ったから、それを報告するさ」

 男は濁った青い光を灯しながら、更に工具でパーツの細部を弄っていく。
 法力を用いた機術と科学の複合は、機会の生と死を取り替える。
 器さえあれば、電子信号という偽りの精神は、再び機能を取り戻す。
 
 「トコロデ、でーたデ思イ出シタンダガ…。ワシガ送信シタでーたハ、マダ残ッテイルノダロウナ?」

 「ん? あぁ、一応はね」
 
 男の声が、微かに曇った。
 それには気付かず、機械の声は、ムフフ…、と人間臭い、笑みを零した。
 コウシテ体ガ組ミ上ガルノヲ、タダ待ッテイルトイウノモ退屈ダナ。ウン。
 何処かワザとらしい口調で言って、機械の体は器用に貧乏ゆすりを始めた。
 ちょ、動かないくれよ。まだ途中なんだ。
 男は迷惑そうに言って、貧乏ゆすりを始めたパーツを押さえる。
 ソウダナ。ウン。ダカラ、アレダ。待ッテイル間、でーたヲ鑑賞シタインダナ。ウン。
 …此処は床屋じゃないんだよ。
 工具を動かし、法術の光を灯したまま、男は視線を動かさずに溜息を吐いた。
 
 「…戦闘データは残ってるけど、其処に付随してた余計なデータは全部消しちゃったよ」
 
 「……ウン?」
 
 理解出来きてなさそうな声で、機械音声は答えた。
 それから、…エ、とか、…マサカ…、とかやけに真剣な声音になってきた。
 がたがたとパーツが震えだした。
 
「オ、オイ…、駄目博士…」
 
 「だから動かさないくれって…、何だい?」
 
 男は、工具を動かす手を止めない。
 
 「戦闘データ以外ニモアッタダロウ? 貴重データガ」

 「だから、それは消去したよ」
 
 まったく…、と呟いて、男は掌に灯した光を消し、眼鏡のブリッジを上げる。
 もう作業は終了したのか。男は工具を置いて、一つ息を吐いた。
吐息の音が、やけに響く。
鉄で囲まれた冷たい空間に冷やされ、微かにその吐息は曇った。

「だいたいだよ。君から送られて来たデータ、八割以上が女性の裸の映像だったろう」

戦闘データを探すのに、どれだけ苦労したか…。
もう一度男は溜息を吐いて、法術の光を灯し、パーツ一つ一つを確認していく。
寝台の上に寝ていた機械の体が、ガタガタ、というよりも、ぷるぷると震え出した。
何かを堪えるかのような震え方だった。

「ジャ、ジャア…ワ、ワシノ、めろんばすと☆あるばむハ…」

「いや、だから消去したって…」

「ナンジャトオオオォォ―――!!!?!?」

ポピーーーーーーーーー! 、と、機械の体から湯気が噴き出した。

「熱っ!?」男は仰け反って、寝台から飛びのいた。
慌てたせいか、置かれていた工具の山が、どんがらがっしゃんと、盛大に崩れ落ちる。
ついでに脚をもつれさせ、男はひっくり返った。
ポピーーー! ポピーーー! と湯気を噴き出しながら、機械の体は無理矢理起き上がった。
熱っ、熱い! ちょっ、落ち着いてくれ!
湯気が狭い空間を白く染め、その熱気で男を苦しめた。

「コレガ落チ着イテイラレルカ阿呆ォォ!!! ワシガ何ノ為ニ、保存用ニ人格でーたマデ送ッタト…!」

機械音声は途中から、もうやりきれない、みたいな感じになって行った。

「戦闘シナガラ透視シテ、必死ノ思イデ集メタ画像ヲ…ナンテコトヨ…」

ぷしゅううぅぅぅん…、という気が抜けるような音と共に、機械の体は寝台の上に倒れこんだ。
死体みたいに四肢のパーツを投げ出して、「ハァァァ……」と溜息を吐いている。

「ワシ、モウ駄目…ホラ…ホラ、モウ駄目…」

「馬鹿なこと言ってないで、しゃきっとしてくれよ。」

組み立ては自体は終了してる。…そのボディで、多分最後になるだろうしねぇ…。
 男は腰を摩りながら立ち上がり、最後の仕上げとばかりに、掌に灯す青の光を強く輝かせた。
 いや、輝かせた、とうよりは、より一層濁らせた、という方が正しいかもしれない。
 青の光は、機械の体を再び包み、染み込んでいく。
 
 次の行動には、ある程度の戦力を投入するよう支持が入ってる。上も、そろそろ成果が欲しいみたいだねぇ…。

男の声に答えるように、パーツとパーツを繋ぐコードが蠢き、機械の体は自己修復を始める。
 
 金属と金属の継ぎ目が、まるで生きているかのように互いに溶接しあっていく。
 パーツをつなぐコードも伸縮を繰り返し、次第にその体の中に納まる。
 あー、肩が凝るな…。相変わらずこの作業は。
その光景を見ながら、男は右手で自分の肩を揉んだ。
 ギギギ、と、金属が擦れるような音が響く。
 寝台の上に寝ていた機械の体の上半身が起き上がり、その顔を男に向けていた。
 金髪に、メタリックな薄緑の肌、そして、窓のような眼が、男を映す。
 機械の体の主、ロボカイは無言でその視線を新たな体へと落とした。
 
 「…どうだい、調子は? 取り合えず、パーツ自体は良い物を使ったつもりだけど」

ロボカイは、ウム…、と頷いて、男へと再び視線を向けた。
そして、首、肩をぐりぐりと回してから、またギギギと漏らした。
問題無イ。でーたヲ失ッタ以外ハ…。
 ロボカイの声には、心無しか元気が無かった。
 
 「必要なデータは残ってるさ」
 
 男は眼鏡のブリッジを押さえながら、言葉を紡ぐ。
戦闘データと一緒に、君が人格データを送信してくれたのは、嬉しい誤算だった。
ロボカイは黙ったまま、男の言葉を聞いている。
すこし沈黙があって、ロボカイが俯き、自分の掌に視線を落とした。
金属で出来た指を、確かめるようにゆっくりと動かす。

「人間風ニ言ウナラバ、ワシハ一度死ンダ訳カ」

「人格AIを積んでいないコピー達では、出来ない表現だね。それは」

「ワシノ様ナ人格AIを搭載シタ個体ハ、何機残ッテイル?」

「そう多くは無いな。“向こう”に居るのも数体だけさ。コピー達は多いけどねぇ」

寝台の周りに散らばった工具を拾いながら、言葉を紡ぐ。
その表情は、やや疲れているようにも見える。

「次はこちらも大きな戦力をぶつけろ、とのお達しだ」

簡単に言ってくれるよ。
男はこめかみを押さえて、軽く呻った。
単純な力押しが、あの幻想郷の者達相手に何処まで通用するのか。
ロボカイを投入した白玉楼戦で、既に敗北を喫しているというのに。
つまりは、それ以上の戦力を用いて、作戦に臨め、ということか。
簡単に言ってくれる。もう一度男は呟く。
ロボカイも寝台から降りながら、首を捻った。

「…ワシノデータガ役ニ立ツノカ? 疑問ナンダガ…?」

「役立てるさ…。アプローチの仕方を、少し変えていくよ。アレを使う良い機会だ」

消耗戦になれば、ロボカイを始めとしたストックを多く持っている終戦管理局に分がある。
しかし、長引き過ぎるのも不味い。
次元を渡る者に此処の場所を見つけられれば、それで詰みだ。
早めに戦場のコントロールを得たい。

ロボカイが持ち帰った、八雲紫との戦闘データは貴重だ。
以前のものと合わせて、これでより「スキマ妖怪」という存在を解析出来る。
その解析から、「スキマ妖怪」と同じ類の力を持つ存在を、更に見つけることが出来れば。
戦場のコントロールを得る前に、それ以外のコントロールを得るべきか。
幻想郷への侵攻と、解析と探索を同時に行う必要がある。
先手を打てれば、儲けものだけどねぇ…。また忙しくなりそうだ。









藍の感じた揺らぎ。ソルが嗅ぎ付けた、“あの男”の気配。
それらを肯定するように、ソル達が結界の揺らぎの地へと赴いた時には、夜空に法術陣が幾重にも浮かびあがっていた。
法術陣から漏れる光は、仄暗い蒼と、碧。
そして、明るい山吹色。

それら強大な法術陣は、黒い空に法力の光を刻みつけ、紫を捕らえていた。

その光景に、藍は驚愕し、言葉を失った。
信じられなった。
次に、体中が熱くなって、冷静でいられなくなった。

許さん。
離せ。
紫様を。

藍の九尾がざわざわと不穏に蠢いた。
妖術の陣を無数に展開し、藍は空を駆ける速度を上げる。
ガトリング砲の如き術式の群れは、藍色の光を溢れさせ、今にも発射されそうだ。
轟々と風を斬る音が聞こえる。
もっと疾く。主の下へ駆けろ。

こちらに向かってくる霊夢達にも気付いていたが、待っていられない。
視線を一瞬だけ霊夢達に向けた。

霊夢は瞳を細め、飛行する速度を一気に上げた所だった。
魔理沙も「何だありゃあ…!」と声を漏らし、風で飛ばないよう帽子を押さえ、加速する。

「……野郎……」

ソルは、貌を凶悪に歪め、濁った炎を宿す竜翼を一層強く羽ばたかせた。
ごぅ、と何かが燃えるような音と共に、ソルの姿がブレた。

な…!、という霊夢の声と、「うおっ!?」という魔理沙の声を、ソルの竜翼は置き去りにした。

その羽ばたきは爆発を伴い、ソルの飛行速度に馬鹿げた加速を齎す。
辺りに撒き散らされる熱波は、火山に吹く突風そのものだった。

藍は驚く間も無かった。
瞬く間に、濁った風が通り過ぎて行った。
熱かった。灼熱だった。
濁った赤橙の光が夜空に走り、ソルは前を飛行していた藍をすら追い抜く。


ソルの視界は狭まっていた。
追い抜き様、藍が何かを言っていたが、ソルにはもう聞こえていなかった。
封炎剣を握る手に、炎が宿る。濁った炎は、一瞬で封炎剣を覆った。
禍々しく、卑しく燃える。消えない炎。

鼓動は激しくなる。
胸を焦がす渇望。
息をするのがもどかしい。
粘つき、食い尽くす炎を纏わせた剣を握り締め、ぎりり、と歯を噛み締めた。
ソルは竜翼で風を叩き潰しながら、紫を拘束する法術陣目掛けて、凄まじい速度で突っ込んでいく。


そこに、奴の姿があった。
青と山吹色の法術陣の光を浴びて、夜空にその姿を浮かび上がらせている。
奴は、まだソルに気付いていない。
いや、そんな訳がない。そう思える。

奴は法術陣と魔法輪で拘束された紫の頬を、掌で包んでいる。

紫に、何かの術を掛けているのか。
或いは、何らかの情報を吸い出しているのか。
紫の眼の焦点は合っておらず、その目の下には尋常では無い隈が出来ている。

ソルは舌打ちするのも忘れ、飛行速度を更に上げた。
上げた、というよりも突き抜けた。
ドゴン、と、ソルの背後で空気が爆発して、その次の瞬間にはソルは剣を振り上げ、奴を間合いに捕らえた。

奴は、微かに顔をこちらに傾けた。
法衣を目深く被っているので、表情は見えない。
見たくもない。…クタバレ…。自然と呟いていた。
ソルは少年目掛け、封炎剣を叩き込んだ。



剣の軌道を赤橙が彩り、炎が盛大に散った。
それは、禍々しい花火みたいだった。
だが、無音だ。音がしなかった。
ソルがぶち込んだ剣の力が、エネルギーが、全部どこかに行ったみたいに静かだった。
ただ、炎の燃え盛る音だけが、夜空に染み込んでいく。

不吉で、不穏な光景だった。

少年はソルの剣を、結界で防いでいた。
一瞬で結界を展開し、防御しただけではなく、その力の全てを受け流していた。
ソルの攻撃で後方へと下げられた少年は、だが涼しげな様子で夜空に佇んでいる。

少年と紫の間に割って入ったソルは、射殺すような視線で少年を睨む。
ソルの金色の眼の瞳孔は、縦に鋭く裂けきり、獰猛で残酷で、冷酷な眼だった。
とんでもなくおっかない眼だった。

空中で半身の構えを取ったソルは、紫に視線を向けてから、手を翳す。
そして、少年を警戒しつつ掛けられた法術をディスペルした。

魔理沙は、霊夢、藍より、少し遅れてその場に踊りこむ。
藍はふらついた紫を支え、霊夢は札を取り出し、紙垂を構えた。
魔理沙もその霊夢に並び、肩にかけた鞄に手を突っ込む。

ソルの燃え盛る竜翼に眼が行った。
暴力的で、荒廃的なその翼に隠れて、ソルの表情は見えない。
魔理沙は呼吸が上手く出来なくなるのを感じた。
今のソルの雰囲気は、相当ヤバイ。

食物連鎖、という言葉が、魔理沙の頭を過ぎった。
ソルの背中は、その連鎖の頂点そのものに見える。
出会ったら喰われる。逃げるしかない。
竜。捕食者の背中だ。

だが、ソルに勝るとも劣らない危険な感じが、少年からも感じる。
久ぶりだね、と少年は言った。
場違いなくらい穏やかな声で、余計に恐ろしく感じる。

この空は、海だ。深海だった。
光の届かぬ水の底に居るような錯覚を覚える。
肌に触れる空気は、圧力を持った水だ。
吹き抜けていく風は、重く冷たい潮。
月も蒼褪め、星も碧に澱む。
こんな息が詰まるような空を、魔理沙は今まで飛んだことが無かった。

夜空を海に変える少年の存在感は、異質というよりも神々しくさえある。
それでいて、禍々しく、酷く尊い存在に見える。
夜の暗さはその深さを増し、目の前に居る少年の纏う、神秘的な青い光を際立たせていた。
少年の纏う青は、昏い水底を思わせると同時に、深い知識を感じさせる。

プレッシャーという強烈な水圧の中、魔理沙は頬に汗を伝わせ、視線を隣に居る霊夢へと向ける。

霊夢は、睨むように少年を見据えている。
その貌からは、特に感情を読み取ることが出来ない。
手にした札と紙垂を微かに揺らして、赤い霊力をその身体から、ゆらゆらと立ち上らせている。
この深海の如きプレッシャーの中でも、霊夢は揺るがない。
そう見える。だが、霊夢の額にも微かに汗が浮かんでいる。

負けてられねぇなぁ、こりゃあ…。
魔理沙は呟いて、ペロリと唇を舐める。

そして、肩から吊ってあった鞄から、一冊の魔法書を取り出した。
魔法書には、付箋がびっしりと貼られている。
カバーもボロボロで、かなりの年代もののようだ。
魔理沙の手の中で、魔法書は触れられてもいないのにバラバラとひとりでに捲れ、魔力の波紋を夜の空へと広げる。

霊夢と魔理沙の戦闘準備は、とうに出来ていた。
藍も、自らの主に肩を貸すようにして、霊夢達の後ろに佇み、少年を睨みつけている。
主を傷つけられた藍の眼には、激しい憤怒と敵意が浮かんでいた。
その藍に、「駄目よ…、藍。あなたの仕事は、此処で戦うことでは無いわ」と呟き、紫は霊夢達の背中を見守る。

結界を張りなさい。幻想郷に傷を付けては駄目よ…。
掠れた紫の言葉に、藍は悔しげ唇を噛んだ。
そして、御意に…、と呟く。
いい子ね…。紫は呟いてから、緩く扇子を振るい、夜空にスキマを開いた。
それは細く、人一人が何とかくぐれる程度だった。
そのスキマを開くにのが限界だったのか。紫は呻いて、藍に寄りかかった。
任せたぞ…!
切羽詰った声で言って、藍は紫を連れ、その場から離脱する。
そのすぐ後、夜空が微かな藍色に染まった。

風が止んだ。
空からは星が消え、押さえ込むような圧迫感を与えてくる。
空気が停滞する。

結界が張られたのだ。

流石は、紫の式神ね…。
感心するように呟き、霊夢は手にした札を宙へとばら撒き、それを展開させる。
淡く澄んだ緋色の光が無数の札を覆い、それが霊夢に周囲に整然と並んでいく。

美しくも破壊的な弾幕を纏い、霊夢は紙垂を持つ手が震えるのを感じた。
今まで感じたことの無い感覚だった。
戦慄。恐怖。それらに近い感覚か。
よくわからないが、それどころではない。

耐え難い。
この静寂。
緊張感。閉塞感。
動きたいが、動けない。
ソルと少年が、無言でにらみ合ったまま動かないからだ。

この二人の沈黙は、世界を停止させている。
それ位、二人の圧力は、互いにぶつかり合い、空気を歪ませていた。

眩暈と吐き気を覚えるような緊迫感の中。
霊夢と魔理沙は、すぐにソルのフォローに入れるように、目を合わせ頷き合う。
だが不意を突かれた。少年が口を開いた。

「元気そうだね…。体の調子はどうかな? 不具合は無い?」

「………」

少年の清らかな声に、ソルは左眼を窄め、頬を引き攣らせた。
憎悪に歪みに歪んだ貌は、一回りして完全な無表情に変わる。

「会いたかったよ、フレデリック」

…俺もだ…。
呪詛のように紡がれた低い声に、霊夢は背筋が凍るような気がした。
魔理沙は息を呑んでから、微かに後ろに下がった。

竜翼に燻る炎が、更に激しく燃え盛る。
ソルは今にも飛び掛るように、半身構えのまま、ぐっと体を前に倒した。
霊夢と魔理沙もそれに倣う。

霊夢は展開する札をさらに広く展開する。
魔理沙は、魔道書を読み上げ、スペルを完成させていく。

少年は霊夢と魔理沙に視線を向け、それから再びソルへと視線を向ける。
緩やかな動き。法衣のフードから覗く唇が、柔らかく歪められた。

「君に頼みたいことがある。…彼女達を宜しく頼むよ」

「……何が目的だ…」

「幻想郷を守って欲しい」

その少年の言葉に、霊夢は訝しげな表情になり、魔理沙は詠唱中に舌を噛んだ。
ソルは、凶暴に煌く眼を細め、少年を睨む。

「…八雲をあのザマにした貴様が…何をほざく…」

「彼女は万全では無かった。逃げるのでは無く、敢えて戦ったのは、だからだ」

おかげで、気付かねばならない事に気付くことが出来た。
そう呟く少年は、すぅ、と両腕を広げた。

「…答えろ……貴様の目的は何だ…」

それに、終戦管理局の影。
ソルは舌打ちをして、…そうか…、と呟いた。

「…また、貴様の作ったキューブが関わっているのか…」

少年は答えない。

「…終戦管理局の目的は…キューブか…」

ソルの問いに、少年は何かを考え込むように顔を俯かせた。
言葉を捜し、選んでいる。

キューブ。
聞いたことのある言葉だった。
魔理沙は、魔道書から顔を上げ、ソルへと視線を向ける。

「キューブって…確か、バックヤードの中にある、ソル達の世界の情報体だろ?」

「この場合、ソル達の次元の、っていう方が正しいのかしら…」

霊夢も魔理沙の言葉に続き、視線をソルと少年に交互に向ける。
少年は何かを諦めたように、一つ息を吐いた。

「…もう幾度となく、襲撃に逢っている。何とか防衛してはいるが、このままでは不味い」

「…キューブと貴様を落とす為の力を…奴らは此処の連中から持って行く気か…」

「そうだろうね。…だから、君を此処に送ったんだ。彼女達を守ってもらう為に…」

少年は霊夢と魔理沙を見て、微かに微笑んだ。
柔らかな笑みだった。
クソが…。ソルは貌を歪め、封炎剣の炎を解く。

「…貴様……まさか…」

「そうだよ。そのまさかだ…」

シンは言っていた。
レイヴンは、「我々では数が足りない」と言っていたと。
それにも関わらず、キューブが襲撃される危機にありながら、わざわざ幻想郷にこの男が居る。
一つの可能性がソルの頭を過ぎり、少年の笑顔がその可能性を肯定した。

「…ホムンクルスか……胸糞の悪いものを…」

ソルは心底嫌悪するような表情で、少年に眼を向ける。
ほむ…何?、と魔理沙はソルと少年を交互に見比べた。霊夢も、静かに少年を見据える。
人手が足りなくてね…。少年は言って、手に法術の光を灯す。

「終戦管理局の用いた転移法術、その軌跡を探しに来たんだけれどね…。何も掴めず仕舞いだ」

ソルはもう最後まで、少年の言葉を聞いていなかった。
まるで興味を失ったかのように、その金色の瞳は冷たくなっていく。
目の前の少年は、“あの男”の影だ。
それに、やるべきことが出来た。
キューブの破壊は、ソルの世界の崩壊に繋がる。
終戦管理局を放置するわけにはいかない。

「…終戦管理局は潰す……その次は、貴様達だ…」

少年は、ソルの言葉に答えなかった。
代わりに、頼んだよ、フレデリック…、と呟くだけだ。
少年の両の掌に蒼と碧の光が灯る。
それと同時に、少年の姿が薄れ始めた。

逃げる気か。
霊夢は弾幕としての札を放ち、魔理沙もスペルを唱え、星屑の弾幕を展開する。
だが、少年にはやはり届かない。少年は掌を翳し、結界を張っていたからだ。
金属を削るような音と共に、弾幕が弾かれる。
だが、次の瞬間だった。
ドン、とソルの竜翼が爆発し、一気に少年へとソルが肉薄していた。
少年は微笑んだ。ソルは、無言のまま結界目掛けて、封炎剣の切っ先を突きこんだ。
呆気なかった。
結界を砕く、というよりは、突き破って、封炎剣は、少年を串刺しにした。
ソルは少年を突き刺したままの封炎剣を引き寄せ、その細い首を掴み、剣を引き抜いた。
少年は口の端から血を零しながらも、笑みを浮かべていた。

紫との戦闘で得た知識。そして、終戦管理局の残留法力の探査。
それが終わったことで、もう自分の存在価値は無い。
そう言わんばかりの、穏やかな笑みだった。

ソルは掴み上げた少年に、無機質な瞳を向けた。
霊夢と魔理沙は、固唾を呑んで、その様子を見守っている。
気を…付け、て、…。フレ、デリ…ック。頼、ん、だ…よ。す、まな…い、ね。

そう言い残し、少年は法衣の中で、さらさらと光の粒へと変わっていく。
夜空に、蒼と碧、そして山吹色の光の粒が撒かれていった。
な、なんだよ、コレ…。光の粒を見ながら、魔理沙は呟く。
霊夢も、驚いたような様子で、空に流れる光の粒を見送っていた。

ソルはやはり無表情のまま鼻を鳴らし、…糞が…、と呟いた。

掴んでいたその手の中に残ったのは、法衣のみだった。






[18231] 十八話 終編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/10/31 22:23
 
 治療すべき負傷は、既に治癒もしている。
妖怪に肉体は人間に比べ、遥かに頑丈で、強い。
再生力も高く、例え重大なダメージを負ってもすぐに回復してしまう。
強靭な生命力と肉体は、妖怪の大きな武器だ。

それは当然、妖怪の賢者にも当て嵌まる。
賢者はその単純な強さに加え、魔法、外法、妖術、霊術など、あらゆる術を用いる。
破壊。創造。隔絶。漏出。腐敗。再生。そして、境界。
その膨大な知識の中には、当然、治癒に関する術もある。
簡単な傷の回復から、精神を治療する高度なものも含め、数多だ。
 永淋には及ばないものの、紫もそうした医療に関する術は心得ている。
解呪に関する術に関して言えば、紫に並ぶものは幻想郷にはほとんど居ないだろう。


だが、そんな紫でも「あの少年」に何をされたのか、それは分からなかった。

君の力、少し調べさせて貰うよ。
あの少年の澄み切った言葉と声は、未だに耳に残っている。
思い出すとあの激痛が頭に蘇り、胸が悪くなる。

何かの術を掛けられた。
それは分かる。だが。
自身の中に在る、違和感。
 その正体が分からない。
 
掛けられた法術がいかに複雑で、難解なものなのかが分かるだけだった。

 
 

「法術、か…」
 
 布団の上に上半身を起こしたまま呟いて、紫は物憂げな溜息を吐いた。
 
「やはり、優れませんか…、お体の具合は…」
 
白い着物に似た被術衣を纏った紫の傍ら。
其処に正座で佇む藍は、心配そうな表情を向けてくる。
大丈夫よ。紫は小さく微笑む。

少し肌寒い。障子から差し込む淡い光が、今が早朝だと教えてくれる。 
体を起こした紫の掛け布団の上には、橙が顔を埋めるようにして眠っていた。
 藍と共に、徹夜で紫の傍に控えていたせいか。
橙の寝顔にも、微かに疲労の色が見えた。
紫はその橙の頭を優しく撫でて、もう一度、小さく息を吐いた。
 
 「掛けられた術が気になるのは分かりますが…。少しお休み下さい」

 言って、藍は心配そうに表情を曇らせる。
 朝の風が吹き、紫達の肌を冷やす。
藍の言う通りよ…。その風のように澄んでいて、それでいて鈴のなるような声がした。
呆れたように言う声は、背後から聞こえた。
少しだけ紫は顔を振り向かせて、…そうね、私も疲れたわ、と呟く。
紫の視線の先には、昨晩の巫女装束のままの霊夢が居た。

 欠伸をかみ殺しながら、霊夢は紫にじとっとした視線を向けている。
静謐な朝の空気を纏った巫女には、少々似合わない表情でもあり、それが可愛くもあった。

「今は大人しく寝ときなさいよ…」

 色々と頑張りすぎ。…タダでさえ、西行妖の封印の後だったんだから。
霊夢のその言葉に、「全くです…」と、藍も頷く。
 
 「あの少年」との戦闘の後、紫は霊夢に連れられ、博麗神社へと運ばれていた。
永遠亭に運ぼうともしたが、紫の身体自体には傷は少なかった。
また、霊夢の巫術を用いた回復を施す為にも、神社の方が近かった事もある。

戦闘での傷よりも、精神的な消耗が大きかった。
徹夜で紫の回復を行った霊夢と、警護を続けていた藍は、やはりまだ心配そうな表情だ。

此処は、神社の座敷。
 その見慣れた空間に、紫は視線を巡らせる。
そして、霊夢に振り返った。
 
 
 
 「…ソルは、まだ戻っていないの?」

「ええ…。“あの子”が姿を消したすぐ後から、『…転移法術の痕跡を探す…』って言って聞かなくてね…」

紫様の回復に、ソル殿は「己は無用」だと判断したようです…。
藍が霊夢の言葉の後に続いた。

「魔理沙もソル殿を追って行きました…」

藍は表情を曇らせる。

「あの状態のソル殿を、一人にしておくのも…少々危険だと思ったのでしょう」

「まぁ…もうそろそろ帰ってくると思うけど…」

霊夢は少しだけむすっとした顔で言って、腕を組む。

あんなに余裕の無いソルを見たのは、霊夢も初めてだった。
それ位、ソルは「あの少年」を憎んでいるのだろう。

憎悪に濁りきったの声と、眼。
炎を纏う竜翼。
凶暴で凶悪な雰囲気を纏いながらも、感情を潰したような貌。
破滅的で、荒廃的で、また退廃的な後姿。

そのソルの姿は、今も霊夢の目に焼きついている。
前に、食事を取らなくても良いのかと聞いた時。
「…そういう体だ…」と言っていた、ソルの言葉を思い出す。
そして、何処か悲しげな、仏頂面の横顔が浮かんだ。

視野が狭まるのは分かるが、ソルは一人で突っ込み過ぎだとも思う。
仕方が無い。仕方が無いことだ。そうも思う。
やりきれないように息を吐いて、霊夢は髪を搔いた。

「ソル殿の様子…尋常ではありませんでしたな」

藍は紫に向ける表情を、一段と曇らせる。何かを言おうとして、迷っているようだ。
視線を微かにさ迷わせてから、藍は主人である紫に向き直る。
その藍の仕草を見ながら、霊夢は腕を組んだ。

「正直申し上げて、ソル殿を含む今回の外来の者達の存在は…」

そこで言葉を切り、藍は少し俯いて、紫から視線を逸らした。
紫は言葉を促すように、黙ったままだ。
藍は少しの沈黙を作ってから、顔を上げる。
幻想郷にとって、あまり良きものとは…思えません。 
 従者のその言葉に、紫は「…どうでしょうね」と、小さく呟く。
 霊夢は、むすっとした顔を更に、むっとさせた。
 
良い、悪いで言えば、確かにソルは「善」というものからは遠いかもしれない。
 ソルの過去や、復讐の為に生きた永い時間を思えば、寧ろ血塗れだ。
だが、「悪」であるかと言われれば、それは違うと、霊夢は思う。

傍でソルを見てきた霊夢は、藍の言葉を聞いて、ゆるゆると首を振った。
 
 「確かに、昨晩のソルの変わりようには驚いたけど…。幻想郷に害を与えるような奴じゃないわ」

藍に言いながら、霊夢は紫に向き直る。
 …そうね。私もそう思うわ。
霊夢のその様子に、ふふ、と小さく笑って、紫は呟いた。

「それに今は、もっと有害な者達が幻想郷に侵入してきているものねぇ…」
 
確かに、ソルの存在も異質ではあるけれど、今はすべきことがあるわ。
 その紫の言葉に、藍は少しの溜息を吐いてから、頷いた。
 
 「結界に異常が無いか、もう一度見て参ります」
 
 凛とした声で言った藍は、疲れて眠ったしまった橙を抱き上げる。
 橙はまだ起きない。んぅ~…、と寝息を立て、すっぽりと藍の腕の中に納まっている。
 「その状態の橙も連れて行くの?」霊夢は橙を指差す。
マヨヒガの屋敷に帰すんだ。其処で橙にも猫達を使って、探知結界に異常が無いかを調べて貰うよ。

 藍は霊夢に苦笑を浮かべて答え、紫に恭しく頭を垂れた。
 気をつけるのよ。
その紫の言葉に、顔を上げた藍は困ったような表情になった。
 心から心配している表情だった。
 
 「それはこちらの言葉です。…後で、永遠亭にも寄って、お体を診て貰って下さい」
 
 優しげで、心配そうな声で言ってから、藍はもう一度頭を下げ、霊夢に向き直った。
 紫様のこと、少しの間頼んだぞ。
分かってるわよ。…あんたも気をつけなさい。
その真剣な声に、霊夢も真摯な表情で頷きを帰した。

博麗の巫女のその答えに満足したのか。
藍は、ああ、と力強く頷いてから、すっ、と座敷の障子を開けた。
障子の向こうは縁側であり、開け放たれたことによって、外の光が座敷を強く照らした。
澄んだ空気が心地よい。

淡く白い朝の光は、次第に日の光の色に染まってきていた。
空には僅かな雲。緩い風が座敷に吹き込む。
緑の匂いがした。今の幻想郷の不穏さを笑うようだ。

ぐらつく平穏。
それを崩さぬよう、八雲の式神は空を見上げる。

では、行って参ります。
藍は頭を下げながら言ってから、縁側からすぅっ、と身を浮かせ、青空へと上っていった。

その背中を見送りながら、紫は眼を物騒に細めた。
瞬間、ぐにゃり、と。剣呑な空気が、静かな座敷を包み込んだ。
今にもスキマを開いて、何処かに行こうとしている。
開くスキマの座標を計算し、その目的地までの距離を測っている。
そんな眼だった。

あんたねぇ…。まだ暫くは休んでなさいよ。
すかさず、霊夢は声を掛けた。
霊夢は紫の少し後ろに居る。表情など見ずとも、その不穏な空気を感じることは出来た。
紫の持つ神秘と魔性は、朝の静寂の中に居るせいで余計に際立っているせいか。

梢の揺れる音が聞こえた。
心地よい、自然の調べだった。
…分かったわ。風の音に乗せるように、紫は艶のある声で呟き、肩を竦めて見せた。
 霊夢は唇をへの字に曲げて、「ならいいのよ」と返す。

 沈黙が降りた。
朝の神社の境内には、誰も居ない。
霊夢は眼を閉じ、思案するように自分の唇を触った。
 
 終戦管理局の狙いは、バックヤード内にある『キューブ』。
 ソル達の世界の情報が内包された『キューブ』は、以前の戦いで鍵を掛け直したと聞いた。
 
キューブの解錠を自在に行え、尚且つ、その深部に干渉出来る者が存在することになれば。
ちょっと…洒落にならないわよね。呟き、霊夢は呻る。
 
それはソル達の世界にとって、未曾有の危機だ。
 ソルが前に話していた「ヴィズエル」の再来になりかねない。 
 終戦管理局は『キューブ』を解錠し、ソル達の世界を思うように作り換えるつもりなのか。
 
 スケールの大きな話だ。
 霊夢は、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、体に寒気が走るのを感じた。
 事態は、既に笑えない状況だ。悪い方、悪い方へと動いている。そんな気がしてならない。

『キューブ』と“あの少年”を退ける為の力を得る為、終戦管理局は幻想郷を狙っている。
いや、正確に言えば、幻想郷に住まう者達を。

外界から持ち込まれた今回の異変は、相当大きな規模だ。
そのことを改めて感じ、霊夢はむぅ、と呻る。
ふと、霊夢が顔を上げると、振り返っていた紫を目が合った。
貴女も、無理しては駄目よ…。紫は疲れたように微笑みながら言う。

あんたに言われたく無いわよ。
霊夢が、唇を尖らせてそう言おうとした時だった。

縁側から、びゅおうと、一際強い風が吹き込んで来た。
舞い込んで来た風は、霊夢と紫の髪を揺らす。
そして、軽やかな足音が響いた。
霊夢は、その足音がした方に向き直り、お疲れさま…、と呟く。
紫も、風で乱れた自分の髪を撫でながら、遅かったわね、と声を掛けた。

二人の視線の先。
白黒の衣装に、魔女帽子が揺れている。
風を運んで来た魔理沙は、眠そうな顔で、霊夢と紫を見比べた。

「こっちは大丈夫そうだな、紫。流石霊夢ちゃんだぜ」

魔理沙は、安心したような柔らかな笑みを浮かべ、紫と霊夢を見比べた。
そして、安心したことによって、緊張の糸が切れたのか。
こっちは手がかり零か…草臥れ損だなー、と欠伸混じりに呟いた。
ああ~…、と呻きながら、首を回し、今度は欠伸を漏らす。

その魔理沙に、黒く、大きな影が差した。

力強い、いや、強過ぎる羽ばたきの音が数回した。
まるで、とてつもなく巨大な生き物が、縁側の外を飛んでいるような音だった。
そして、威圧感。いや、圧迫感というべきか。
霊夢、紫からは、障子が切り取った景色しか見れないせいで、余計に強く感じる。

「うぉ!」

押し潰すような風を受け、魔理沙は慌てて帽子を押さえた。
眠気まで吹っ飛んだのか、「私まで吹き飛ばす気か!」と魔理沙は空を見上げながら抗議の声を上げる。

その声に答えるように、すぐにその音は消え、黒い影も消えた。
まるで、今までの威圧感も嘘のように霧散し、風の熱も冷える。

変わりに、足音も立てず、旅装束のソルが魔理沙の隣に降り立った。
ソルの握る封炎剣のせいか、のどかな縁側の風景が酷く物騒になる。

「………」

ソルは無言のまま、霊夢と紫に視線を巡らせ、一つ息を吐いた。
何とも言えない表情だった。
おかえり…。どうだった…?
霊夢の言葉に、ソルは「…いや…何も掴めんままだ…」と答え、もう一度深く息を吐いた。

「…ご苦労様、用心棒さん」

紫は、労うようにソルへと声を掛けた。
ソルは答えず、視線だけを紫に向ける。何だかんだで、ソルも紫を心配していたのか。
鼻を鳴らしたソルは、紫の無事な様子に何だか安堵しているようでもある。

「……む…」

ソルは何かを言いたげに眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げた。
何と言っていいのか分からないのか。
優しさに不器用な奴だな。魔理沙が笑った。

「………ぬぅ…」

何かを言い返そうとして、ソルは口ごもる。
そして、苦虫を噛み潰す、というよりも、糞転がしを丸呑みしたみたいな表情になった。

霊夢も思わず笑みを零した。
そう。ソルは、悪い奴じゃない。
内に秘めた激情と、昏い過去が、ソルを濁らせているだけだ。
本当の悪人ならば、あんな表情はしない筈だ。
霊夢はそう思った。
思いたかった。


くすくすと笑いながら、紫は舌打ちをするソルに向き直る。
そして、被術衣を纏った己の胸に手を当て、微笑んだ。

「痕跡なら、…一応、此処にも在るけれど…」

霊夢と魔理沙は訝しげな表情を浮かべ、顔を見合わせる。
ソルは視線を紫に向け、眼を細めた。

…そうだったな…。
呟いたソルの金色の瞳に、冷酷で、冷徹な光が宿った。
そして、ソルはブーツを脱ぎ、縁側から座敷へとゆっくりと上がった。

「ぉ―――」

魔理沙はソルに声を掛けかけて、うまく声が出せなくなった。
霊夢は、微かに腰を浮かした。それはほとんど無意識だった。
ソルが紫に向かって歩を進める動作は、自然体で威圧的では無かった。
だが、眼を離せない迫力があった。
ソルを見上げる紫の頬にも、冷たい汗が伝った。

「…精神制御に関する法術か…」

呟いたソルは、紫を見下ろしながらその背後に回り、腰を下ろした。
そして、紫の背中に左の掌を添える。
多分、そうだと思うわ…。
紫は答えながら顔を傾けて、肩越しにソルに眼を向ける。

魔理沙もブーツも脱ぎ捨て、どたどたと座敷に上がりこんできた。
何だ何だ? 魔理沙は帽子を脱ぎながら、ソルの横に移動し、紫の背中に眼を向けた。
ソルの掌に、赤橙の法術陣が展開され、複雑な文様が明滅する。
霊夢も同じく、ソルの隣まで歩み寄り、法術が起動する様を注意深く見ていた。

赤橙の光は紫の背を照らし、被術衣で隔てられたその肉体に浸透していく。
ズズズ…、という不気味な音がした。紫が苦しげに呻いた。
その瞬間だった。ソルの掌に浮かんだ法術陣の光が、赤橙から、蒼へと変わった。

いや、塗り潰された。
侵食する蒼は、ソルの法術を否定し、対抗する。

ソルは舌打ちをして、紫の着ていた被術衣の襟を掴み、下にずり下げた。

霊夢と魔理沙は、そのソルの行動にぎょっとした。
ちょ――、と! 紫は慌てて、はだけ掛けた被術衣の胸元を腕で押さえる。
そして顔を真っ赤にして、抗議するようにソルへと顔だけを振り返らせた。

「い、い、いきなり…着物を剥ぐなん、て…! 」

若干涙目の紫の声は、羞恥にか細く掠れて、普段の迫力はまるで無かった。
だがソルは、もう紫の声を聞いていなかった。
…野郎…。呟いて、紫の背中を睨みつけるだけだ。

霊夢と魔理沙も、息を呑んで、紫の背中を見詰めた。
シミ一つ無い白磁のような肌と、細く、しなやかな背中。
女性の持つ美貌と、艶やかさを究極まで凝縮させたような色気を放つ背だった。

だが、その背の中心。
蒼で象られた、複雑な法術文様が浮かび上がっていた。
ソルの法術に対抗しているのか。
仄暗い蒼色の光を放つその文様は、ソルの法術の赤橙を侵食し、塗り潰している。

何だこりゃ…。対抗術式みたいなもんか…。
魔理沙は顎を撫でながら、眉を寄せる。

この様子からすると…そうみたいね。
霊夢も、自分の唇に触れながら、眼を細めた。
ソルは、忌々しげに息を吐いて、その蒼の文様をゆっくりと指でなぞった。

ひぅっ――!? 紫は小さな悲鳴を上げて、ぴくくっ、と背中を伸ばした。
白く、艶やかな背が、微かに震える。
紅潮しかけた肌を隠したいのか。
身を縮こまらせるようにして、紫は何とかソルを振り返る。

「しょっ――、ソル…! 何をして…!」

「…動くな…」

舌が上手く回らない程恥ずかしそうな紫だったが、ソルは気付かない。
ただ、真剣な表情で再び法術の光を掌に灯す。

しかし、無駄だった。やはり、仄暗い蒼の光に飲まれ、ソルの解析法術が機能しない。

「……厄介なモンを…」

ソルは紫の背中から掌を離し、自らの掌へと視線を落とす。
掌の上では、蒼の光がソルの手を蝕んでいた。ソルは、その光を握りつぶし、舌打ちを零す。
それと同時だった。紫の白い背中に浮かび上がっていた、蒼の文様がすぅ、と薄れ、消えて行った。
いや、消えた、というよりは、紫の背中に染み込んでいくような感じだった。

ソルはこの法術の感触に、覚えがあった。
封印法術と、制御法術、さらに結界法術を組み合わせた施錠だ。
それは、精神と意識に鍵を掛ける為の、強固な鍵。
外部からの魂への干渉を遮断、妨害、破壊する法術。
「八雲紫」という存在に関する、精神情報の漏洩を防ぐ為のものだった。

ソルは、鼻を鳴らす。
…万が一…八雲が奴らの手に落ちた場合を想定してのことか…。
この精神施錠を施しておけば、「境界操作」という能力の情報を、紫から直接吸い出すのは難しくなる。

“あの男”にしては、お粗末な保険ではあるが、それだけ必死だということか。
既に『キューブ』にも侵攻が始まっているとも言っていた。
…面倒な話だ…。ソルが思考していると、不意に、紫と眼が合った。
紫は肌を晒した肩越しに、ソルへと視線を向けている。
恥ずかしそうに一度ソルから眼を逸らして、胸元を隠す手に力を込める。
白い背中が、微かに震えた。

ね、ねぇ…ソル…。もう、い、良いかしら…? 
紫の声は、蚊の無くようなか細い声だった。
見れば、耳まで赤い。首筋もだ。
肩越しにソルに向ける眼には、うっすらと涙すら浮かんでいる。

肌が白く、美しいせいで、その紅潮が目立つ。
それを見たソルが、…む…、と呻いた。

「……おい…大丈夫なのか…?」

馬鹿馬鹿しい程真剣な声で、ソルは今更な言葉を紡いだ。
紫はもうソルには答えず、そそくさと被術衣を着直す。
魔理沙がその様子を見て笑った。

「何恥ずかしがってんだよ、紫。似合わないぜ」

「…肌を晒す羞恥なんて、慣れてる訳無いでしょう…」

紫は、魔理沙をじとっ、と睨む。霊夢もくすくすと笑った。
ふんと鼻を鳴らし、紫はソルへと向き直る。まだ少し頬が赤い。

「それで…何か分かったのかしら?」。紫の言葉には、少しだけ責めるような口調だった。

座敷の畳の上に、片膝を立てて座ったソルは、「…ああ…」と曖昧に頷いた。
それから、言葉を捜すように微かに視線をさ迷わせた。
少しの沈黙の後、ソルはまた面倒そうに息を吐く。
霊夢と魔理沙もソルへと視線を向け、その言葉を待つように畳の上に腰を下ろした。

「…他者からの魂への干渉…それを防ぐ術が掛かってる…」

ソルの言葉に、紫は眼を細めた。
霊夢は不可解そうな顔になり、魔理沙は「んん…?」と首を捻った。

「それは、私の魂を守る為の…結界みたいなものかしら?」

「…それに近いな…正確に言えば…」

ソルは思案するように一度眼を閉じた。

「…魂という『存在の情報』を守る為のものか…」

何が違うんだ? 魔理沙は腕を組んで、更に首を捻った。
「魂を守る、っていうのは、えーと…不死身になる、って事か?」

「…いや…、…魂と精神の違いだ…」

ソルの言葉に、霊夢はふむ、と頷く。

「“あの子”が守りたいのは、紫の魂では無く、精神に宿る「境界操作」の力、という事?」

ソルは緩慢な動きで頷いた。紫は一つ溜息を吐く。

「道理で違和感が在る筈だわ…」

呟いた紫は、すぅー、と虚空を指でなぞる。
その指先に沿って、空間に黒い線が走った。
黒く細い線は、まるで紙を鋏で切ったように捲れ、開く。
スキマだった。
暗い口を開ける亀裂は、朝の座敷の静かな空気を、一気に不穏にした。
スキマから覗く眼が、ソル、霊夢、魔理沙を見回す。

紫はそのスキマに手を差し込み、中から扇子を取り出した。
そして、再びスキマをなぞるように、扇子を振るう。
次の瞬間には、スキマは閉じ、消えていた。

…力の行使自体には…問題無い様だな…。
ソルは鼻を鳴らした。紫は、ええ、と頷いた。

「紫の精神…というか、能力を守って、何の得があるんだ?」

「…八雲が終戦管理局に捉えられる事があっても…リスクを抑えられる…」

ソルは顔を微かに歪め、魔理沙に答える。
…法術による精神分解…加えて、其処からの境界操作能力の複製も…出来んようになるからな…。

霊夢も微かに顔を顰めた。「一つの保険、という訳ね…」

「まぁ…私達に敵対してる訳じゃ無いのが救いだな」

魔理沙はソルへと視線を寄越した。
ソルは眼を伏せ、魔理沙の言葉には答え無い。

「…全くね。今の状況で、更に“あの子”まで相手にするのは…現実的では無いわ」

代わりに、艶のある声が魔理沙に答えた。紫だった。
それから紫は、意味深な視線をソルに向ける。

「…お願いがあるの、ソル」

その声は、真摯であり、また余裕が無かった。
霊夢と魔理沙も、紫とソルを見比べる。
妖怪の賢者らしく無いその様子に、ソルは訝しげに紫に視線を返す。

「……何だ…」

表情の無い貌だったが、その無表情は今までと違う。
その「何だ」、という響きには、何処か包容力があった。
気のせいかもしれないが、霊夢はそう思った。
魔理沙も、ソルの言葉の響きに、少し驚いた表情を浮かべた。

紫は、少しだけ眼を伏せた。いや、頭を下げたのか。
どちらか分からない。だが、酷く真剣な様子だった。

「力を貸してくれないかしら…」

紫が紡いだ言葉に、ソルは眼を細める。

利害の一致からの打算的な協力では無く、本当の意味で、力を貸して欲しいの。
紫は言ってから、…出来る限りの謝礼はするわ、と付け足した。

………。

沈黙。ソルが返したのは、重い沈黙だった。
魔理沙は何か言おうとして、口を動かしたが、言葉が見つからなかった。
霊夢は、ソルを見詰める。

その視線を受け止めながら、ソルは一度眼を閉じる。
そして開かれた金色の眼は、冷酷でも、冷徹でも、残酷でもなかった。
ただ綺麗だった。

「…貴様の言葉に…首を縦には振れん…」

…俺は…。
ソルは呟いて、静かな金色の瞳で紫を見詰めた。
相変わらず、その貌にも、瞳にも表情は無い。

「…潰す事しか出来ん…。…何かを守るなど、無理な話だ…」

静かに、ソルは紫の願いを拒絶した。
紫は、「……そう」と、残念そう、というよりも傷付いような声で呟いた。
霊夢は唇を少し噛んだ。
なんでだよ、と魔理沙が立ち上がろうとした時だった。
ソルが掌に、濁った炎を灯した。
そして再び「…俺は…」と、低い声で呟いた。
炎は濁り、渦を巻いた。
“あの少年”の蒼と碧の対の色をした炎が、ソルの貌を照らす。

「……ただ…終戦管理局を潰す…。…此処を守るのは、貴様のすべきことだろう…」

奴らはギアを生む。理由はそれで十分に過ぎる。
ソルは言って、掌に灯した炎を握り込み、消し、潰した。
静寂の中、濁った赤橙の火の粉が舞う。
…俺は…ただ潰すだけだ…。
火の粉が消える様を視線で追いながら、ソルは低く、虚しそうな声で呟いた。

それって…つまり、えーと、じゃあ…。
魔理沙はソルを見ながら、呆けたような声を漏らす。
霊夢は、何よ…、まったく、と少しだけ笑顔を浮かべた。

ソルは、紫の願いを拒絶した。
だがその代わり。
謝礼など求めず、幻想郷を蝕む者を斃す為、戦う事を選んだ。

紫はもう一度、眼を伏せた。
…ありがとう。紫の言葉に、ソルは何も答え無かった。

「なら…もう暫くは、此処に居ることになる訳ね」

少しだけ嬉しそうに言いながら霊夢は立ち上がり、腰を叩いた。
やることも多いけど…取り合えず、お茶でも入れてくるわ。
言い残し、霊夢は台所の方へと足を向ける。

お、手伝うぜ、霊夢。神社生活が飽きたら、私の家に来いよ、ソル。
魔理沙はにっしっし、と笑い、「素直じゃ無い奴め、この、この」と、肘でソルを小突いてから、霊夢の後に続いた。

「…む…何の事だ…?」

怪訝そうな顔で魔理沙を見送り、ソルは呟いた。

日の光が、暖かくなってきた。
座敷は太陽の光に色づき、心地よい風が吹いた。

ねぇ、ソル…。紫は顔を上げ、ソルを見詰めた。
ソルは答えず、視線だけを紫に向ける。

「…私を責めているかしら。“あの子”が現れた時、単独で行動したこと…」

紫は言って、ソルから視線を逸らした。
ソルは言っていた。“奴”の始末は、出来る限り俺がつける、と。
それを無視するつもりは、紫にもなかった。

結界の修復。探知結界の再構成。
それを行う過程で、偶然、“あの少年”を見つけたのだ。

そのめぐり合わせは、冷静さや平静を吹き飛ばすに、十分な衝撃だった。

情報を得る為。
また、“あの少年”の目的を知る為。
気が急いた紫は一人で“あの少年”に挑んだ。
挑んでしまった。
そして、今に至る。

ソルの憎悪は、本物だ。時間で風化しない激烈な感情を抱えている。
そのソルが、紫の行動をどう思うか。
少なくとも好意的には見ていないだろう。
紫はそう思っていた。

…貴様を責めても…どうにもならん…。

だが、違った。
ソルは鼻を鳴らして、「…仕方無かったことだろう…」と呟いた。
それから、額の刻印を指で擦り、ソルは顔を微かに歪める。

「……俺を呼びに戻る位なら…“奴”を捕らえる方が優先されるだろう…」

ソルは金色の瞳を紫に向けた。
何故か、紫はソルと眼を合わすことが出来なかった。

「…此処は貴様の世界だ…。…貴様が判断すれば良い…」

ソルは呟き、額の刻印をもう一度擦る。
微かにざらついた感触が、頭の隅に響いた。



[18231] 十九話
Name: 鉛筆男◆c930cba3 ID:91cabc16
Date: 2010/10/31 22:22

 大抵、生在る者は死ぬ。

日が出て、沈む。そして、月が昇る。
それと同じ位、当然で、当たり前のことだ。

普通、肉体は滅びる。
精神と魂はどうなるのかは、死んだ者による。

生まれ変わる秘儀を持つ者ならば、記憶を持ったまま転生することもあるだろう。
屍術などを扱う者ならば、朽ちる肉体を捨て、新たな体を用意するかもしれない。
または、魂と精神だけの不安定な存在として、輪廻から外れることもある。

だが、これらは例外だ。
ほんの一握り者達の、更に其処からの一部に過ぎない。

基本的に、多くの人間は時間に殺される。
誰かに殺されたり、事件に巻き込まれたりもする。
戦渦の時代など、そもそも長く生きていけない環境に生まれたりすれば、時間が殺す必要も無くなるが。

どんな長生きな人間も、最終的には時間流され続け、老い、衰え、活力を失い、死ぬ。

普通だ。当たり前のことだ。
時間は無慈悲で、誰も彼もその縛りからは抜け出すことは出来ない。
止め処なく流れる時は、人の記憶や感情すらも磨耗させる。
その中で、人は泣いたり笑ったりして、人生を過ごし、死ぬ。

死んでいく。

その筈だ。

アクセルはそう思っている。

いや、思っていた。

時間に殺されるなら、仕方無い。
それなら、誰も恨まなくて良い。しょうがねぇ。そう言える。
タイムスリップを繰り返す自分も、歳を取り、動けなくなって、くたばる。
それまでに、何とかして元の時代に戻ろう。
会いたい。仲間に。“アイツ”に。

必死だった。

死にかけた事も何度もある。
聖戦時代では聖騎士団に助太刀して、ギアの群れから村を一つ守ったこともある。
海の真上に放り出されたこともある。
恐竜とも戦ったし、原始人の群れから逃げたこともある。

生きてる方が不思議な位、スパイスの効いた最低な人生だった。
勘弁してくれ。タイムスリップなんざ、糞喰らえだ。
そう思いながら、毎日を過ごしたこともある。


そんな時間の漂流者としての生活を続けるうちに、アクセルは気付いたことがあった。
だが、眼を背けていた。
気付かない振りをしていた、と言った方がいい。

時間は人を殺す。
衰弱と、老衰を齎す。

だが、アクセルの体は何故か老いて来ない。不変だった。
もう既に随分永いこと時間の中を漂流しているが、歳を喰っている感覚が無い。

正直、薄気味が悪かった。

気のせいだ。
そんな訳あるか。
自分に言い聞かせた。
誤魔化して、眼を逸らして、更に永い時間を漂った。

アクセルの不安を他所に、アクセルの体は、不思議と衰えなかった。

おいおい。…なんだコレ。どうなってんだ。畜生。

流石に、アクセルは笑えなくなった。

歳を取らない。不老。
いや、自分の過ごす時間が、止まっているような感じだった。
世界から拒否されているような。
時間に無視されているかのような感覚を覚えるようになった。
とてつもない孤独感と、絶望を感じた。
恐ろしくなった。

だが、どうしようも無かった。
泣き喚き、叫んだところで、どうにもならないことだった。

一時、アクセルは自暴自棄になりかけた時があった。
跳んだ時代は、聖戦の後。
おおよそ平和になった世界にも、悪事を働く集団は存在した。
彼らには懸賞金が掛けられており、それが、アクセルの飯の種になった。

アクセルはその時代の賞金首という賞金首を狩って、狩って、狩りまくった。
勿論、一人の死者も出さずに。
生死を問わないような札付きの悪党、賞金首も、捕まえられる奴は全部捕まえた。

懸賞金は、そのほとんどが酒に変わった。
今のように、次に跳んだ時のことを考えて、貴金属に換金することも無かった。
ただひたすら、現実から逃げたかった。

アクセルは安宿に引き篭もり、酒を飲んで呑んで、飲んだ暮れた。
眼が覚めれば、死ぬような二日酔い。それを忘れる為に、また大量の酒を飲んで、寝る。
酔い潰れては寝て、起きてはまた呑んで、動けなくなって、眠る。
それを繰り返し、金が尽きれば、また賞金首を捕まえに出かけた。

酷い生活だった。
いや、生活というものにすらなっていない。
ただ、酒に逃げて、逃げて、逃げ続けていただけだ。
だが、それも無駄だった。

分かっていた。

酒に逃げても、結局、現実はやってくる。
時間は、明日を持ってくる。
明確な時間の流れを、間の前に突きつけてくる。

死にてぇ…。
呟いて、アクセルは賞金首を捜し、彷徨って、時間の中に迷い込んで行った。


ソルと会ったのは、丁度その頃だった。
アクセルが眼を付けていた賞金首を、先に狩られたのだ。
賞金首は大きな組織の頭で、今まで何度も賞金稼ぎを返り討ちにしている手練れだった。
にも関わらず、ソルはたった一人で組織ごと潰してしまった。
何事にも執着しなくなりつつあったアクセルも、興味を惹かれた。
賞金稼ぎのギルドで、たまたま見掛け声を掛けた時は、視線だけで射竦められたのを覚えている。

それぐらい、あの頃のソルの殺気は普通じゃなかった。
あの金色の眼で睨み付けられ、アクセルの眼も覚めた。
腐りかけた心に、再び火が灯った。



それから、また永い時間を漂流した。
跳んだ時代の先々で、顔見知りに出会うようになった。
当たり前のことだが、彼らは、その時その時で、やはり様相が違う。

過去に跳べば、彼らは若く、また幼い。
未来に跳べば、彼らは老い、また死んでいた。
当たり前のことだった。

その当たり前の中に、自分が居ない。
気が狂いそうだった。
それでも、何とか正気を保っていられたのは、元の時代に残した仲間と“アイツ”。
か細い希望だった。
元の時代に帰れば、きっと何もかもが元通りだ。
そんな都合の良い希望を抱いたりもした。

時代を飛び越えていく中で、アクセルはやはり老いなかった。
だが、漂流した永い時間は、アクセルを鍛え上げた。
間違いなく、強くなった。
そして、時間を彷徨うことで、確信したこともある。

ソル。ソル=バッドガイ。
何年、何十年経とうと、変わらぬ姿で、彼は居た。
間違い無く、常識の外に居る者だった。

アクセルは以前会った時とはまるで違う場所、違う時代、違うギルドで、再びソルに声を掛けた。

久ぶりだね、旦那。

……テメェは…。

そのアクセルの言葉に、ソルは流石に驚いていた。
記憶力の良いソルだったから、余計だろう。

それもそうだ。無理も無い。
初めて会った時から、もう数十年経っていた。
だが、アクセルも、ソルと同じく外見はまるで変わっていないのだ。

一緒に酒でも飲まねぇ? …色々、聞きたいこともあるんだ。
………。

あからさまに警戒した様子で、ソルはアクセルの言葉に頷きもせず、ただ眼を細めるだけだった。
 
此処から、アクセルとソルの交流、というか腐れ縁が始まった。
 時間の中で、迷子になりかけていたアクセルに、希望が見えた気がした。
 
懐かしい思い出だ。
 
アクセルは、紅魔館の門前で伸びをしながら、空を見上げた。
 旦那に声を掛けたあの日も、確かこんな晴れた空だったっけなぁ…。
 やることが無いと、思い出に浸ってしまう。悪い癖だ。
 いや、覚えているかどうかを確認する、と言った方が正しいのかもしれない。
 
 アクセルが、アクセルである為に、記憶というファクターは重要だ。
 永すぎる時間を彷徨うことで、欠落していくことは避けたい。
 自分が自分で無くなるような気がして、不安だった。
 
 いや。もしかすると。
 知らないうちに、何か大切なものを落っことしてるかもしれない。
 ただ、それに気付いていないだけで、何か取り返しのつかない事になっているような。
 意味の無い、漠然とした不安に狩られることもある。
 
そんな思考は無意味で、無益だ。分かってはいるが、やめられない。
 不安。不安。不安。はまり込むと、中々抜け出せない。
 
 らしくねぇな…。
 小さく呟いて、アクセルは思う。らしくない。本当にそうだったか。
 自分は、本当に考え込むのが似合わない人間だったか。
 分からない。思い出せない。
無意識に過ごした時間は、記憶には残っていない。
大切な時間程、ろくすっぽ覚えていない。
覚えとけよ。畜生。
アクセルは後頭部を搔いて、鼻から息を吐いた。
 
どうか…しましたか? アクセルさん…。
 再び、思考の泥沼に嵌りそうになったとき、隣から声を掛けられた。
 心配そうな声音だった。アクセルは俯き加減だった頭を上げ、声がした方に眼を向ける。
 美鈴だった。気遣わしげな表情で、こちらを見ていた。
ん…、何でも無いさ。ただ、ちょっと眠くてね。アクセルは言って、唇の端に笑みを浮かべる。
 
 
 今日、アクセルは美鈴の手伝いとして、紅魔館の門前で過ごしていた。
 紅魔館の豪奢な門、向かって左に美鈴、右にアクセルが立っている。
 門を挟み込むようにして立っている二人の間には、しばらくの間、沈黙が降りていた。

 アクセルは手にした鉄棍を肩に引っ掛けながら、溜息を吐く。
 
 「此処にも来るのかねぇ…。管理局の奴ら…」

 呟いたアクセルに声に、美鈴が表情を引き締めた。
 
 「紫さんも仰っていましたね…。気を付けるようにと」

 「だねぇ…。俺達の世界でも、随分派手に動いてたみたいだけど…」

まさか、別世界にまで入り込んで来るとはねぇ…。
 やれやれ、と言った感じで、アクセルは呟く。
 そして、終戦管理局の事を伝えに来た紫の様子を思い出し、身震いした。
 
 お邪魔するわよ。レミリアは居るかしら…?
そう言って紅魔館に来た紫は、相当に怖かった。
 浮かべる笑みや纏う空気が、既に次元の違う存在であることを証明していた。
 狭間の妖怪。その迫力は本物だった。
 
 アクセルは鉄棍で肩を叩きながら、はぁ…、と息を吐いた。
それ位、頭に来るのも分かる。
 幻想郷に住まう者達を、研究対象としてしか見ていない連中の存在は、やはり腹に据えかねるだろう。

アクセルもそうだったからだ。
 
 「まぁ、紅魔館に来るようなら…懲らしめてやらねぇとね」

 多分、アクセルは今、微妙な表情をしているだろう。
 半分は笑顔。半分は真剣な顔。
そんなアクセルの器用な表情を見ながら、美鈴はぐっと拳を握った。
 そして、「…はい」と低い声で頷いた。
 
 アクセルと美鈴は眼を合わせた。
俺も門番として、がんばらねぇとな。居眠りしちゃ駄目だぜ?
 むむ…、分かっています。意地悪な事は言いっこ無しです。
 
 美鈴は少しだけむっとした顔になって、「メンゴメンゴ」と、アクセルはにっひっひ、と笑う。
 
 その時だった。
 やけに晴れた空には似合わない、冷たい風がひゅう、と吹いた。
 その風は冷たくも澄んでいて、微量ではあったが、小さな雪の結晶が混ざっていた。
 
 「メーリーン! アークーセールー!」
 
 その冷たい風に乗って、腕白で、元気な声がした。少女の声だった。
 アクセルは、おっ、と声を上げて、声がした方へと向き直る。
 美鈴も、「すっかり懐かれちゃいましたねー、アクセルさん」と優しげな苦笑を浮かべた。

 吹き込む冷たい風が少しだけ強まり、すぐに止んだ。
 代わりに、一人の少女が、アクセルと美鈴の前に舞い込んできた。
 青と白色の涼しげなワンピースに、薄青の髪。
 少年みたいな笑顔を浮かべる笑顔は、可憐さと可愛らしさが同居している。
 
「遊びに来てやったぞー!」
 
少女はアクセル達の前にふわりと浮き上がり、その背中の氷柱の翼を羽ばたかせた。
 湖上の妖精、チルノは、冷気と元気を一杯に振りまきながら、拳大の氷の塊をアクセルに投げつけた。
 
アクセルは、ぅおっ!? っと、顔を逸らして氷塊を避ける。
 割と強い力で投げられた氷塊は、紅魔館を囲む高い壁にぶつかり砕けた。
 
 「あっぶねぇ…! 何すんのよチルノちゃ――」

 アクセルがチルノに振り返った時だった。
肩辺りに、柔らかく、また冷たい感触があった。くすくすと美鈴が笑う声が聞こえる。
 まだまだしゅぎょーが足りないなー、アクセルは。
 そう言って笑うチルノが、アクセルの肩に乗っかっていた。丁度、肩車するような姿勢だ。
 
 アクセルは肩を竦めようとしたが止めて、「チルノちゃんには敵わねぇな」と呟いた。
 
「おやぶんと呼べ、こぶん一号」

チルノは嬉しそうに笑い、ぺしぺしとアクセルの頭を叩いた。
 へいへい、親分。アクセルは言って、肩車するチルノをゆさゆさと揺すってやった。
うわわわ、と慌てたような声を上げて、チルノはアクセルの肩から飛び降りた。
ふふ、と美鈴が可笑しそうに笑みを零す。
 
 びゅう、と、また冷たい風を吹かせて、チルノはアクセルの前に着地。
やったなー、と、アクセルを見上げ、両手に氷を纏わせた。
 パキパキ、と薄氷が割れるような音が鳴る。
冷やされた空気が、風をひいてくしゃみをするような音だ。
冷気がチルノの両手に集まっていく。
 
 アクセルは、だって親分の脚、めちゃんこ冷てぇし…、と言いながら、少しだけ後ずさる。
 ごめんって、親分。ほら、このとーり。
 それから、顔の前で手を合わせ、ごめんなさいのポーズを取った。
 それを見たチルノは、むぅう、と呻ってから、両手に纏っていた冷気を解く。
 
 「仕方ないな。今回は、氷のぱんちは許してやろう」
 
 すんませんでした、親分。
 うむ!
 
 その微笑ましい光景を見て、美鈴はまた笑みを零す。
 
 ちなみに、氷のぱんち、とは、アクセルがチルノを親分と呼ぶ切っ掛けになった技である。

 前に紅魔館で門番をしていた時のことだ。
ふらっと遊びに来たチルノに、アクセルは弾幕勝負を仕掛けられた。
 チルノと初対面だったアクセルは、氷の妖精という存在に驚きながらも、笑顔で相手をしてやった。
 
だが、油断すべきでは無かった。
アクセルは完全に、完璧なまでに油断していた。
それが非常に不味かった。

なにせ、弾幕勝負はいきなり始まった。
 いや、始まっていた、と言うべきだろうか。

 門前で、チルノに勝負を仕掛けられたアクセルは、いいぜ、と快諾した。
 元々、子供が嫌いでは無いアクセルは、チルノの頭を撫でながら余裕の返事を返した。
 その時だった。
 
 チルノが背後の紅魔館を指差して、「あ、はだかのメイドが飛んでる」と指差したのだ。
 情けない事に、アクセルは見事に引っ掛かった。
 凄い勢いで振り返ってしまった。

 勿論、裸のメイドが空など飛んでいるはずが無い。
 
すきありー!

やばいと思った次の瞬間、眼が覚めるような衝撃がアクセルの股間を襲った。
 霞む視界の中。アクセルは見た。たまに夢に出る。
 氷をグローブのように拳に纏い、アクセルの股間にパンチを叩き込むチルノの姿。
 ぅ、お、…俺の、象さんが…。蹲り、そう呻くのがやっとだった。
 だい、大丈夫ですかっ!? という、慌てたような、恥ずかしそうな美鈴の声が記憶に残っている。
 
 ま、まさか、こんな威力がでるとは…。
チルノは、自分の拳を不思議そうに見詰めながら、呟いていた。
それは、アクセルがチルノの子分になった瞬間だった。
 
 
 以来、アクセルはチルノを親分と呼び、氷のパンチを貰わないように気をつけている。
 悪戯しようとするチルノには、悪意も無ければ敵意も無い。
おかげで、予想しにくくて敵わないのだ。
 またパンチを股間に食らうなど、勿論ごめんだった。

 それに、今は終戦管理局に備えての門番手伝いの最中だ。
 ある程度は緊張感を持っていたから、何とか気付いた。
 
 重く、低い足音だ。微かに聞こえる。
 そして、静かだが、強大なプレッシャー。
 何時の間に、とは思わなかった。
 
 アクセルは、へへー、と下げた頭を上げながら、視線をチルノの背後へと向けた。
 美鈴も、表情を引き締め、人影に向き直った。
 

 ゆったりとした足取りで近づいてくる人影。
 赤と黒の旅装束に、白袴のようなジーンズを纏っている。
 ズシッ…、という、重い足音が聞こえた。
 
 「…パチュリーとやらは…居るか…」
 
 続いて、遠雷のように低い声。
 チルノはびくっ、と肩を震わせ、振り返った。
 そして、眼が合った。
瞳孔が酷薄そうに縦に裂けた、金色の眼と。
 チルノは慌ててアクセルの背後に隠れ、ぎゅっと、アクセルの腰辺りにしがみついた。
 
 それ位、その低い声には迫力があった。
 
 「珍しいねぇ、旦那が一人で来るなんて」
 
 アクセルはチルノの頭を撫でながら、その金色の眼を見詰め返した。
 ついさっきまで、記憶をなぞるように思い出に浸っていたせいか。
何故か、アクセルは懐かしいような気分になった。
冷酷そうで、それでいて、知的な輝きを宿す眼。
年老いた竜のような眼は、初めて会った時から変わらない。
 相変わらずだ。
 
 「…法術について聞きたいことがあると…手紙が来た…」
 
 …パチュリー、とか言う奴は…中に居るのか…
 その低い声は、面倒そうに歪んでいた。
 
 「パチュリーちゃんなら、図書館に居ると思うぜ。…この場合は」
 
 アクセルは隣に居る美鈴に視線を向ける。
お客人、ということならば、私が門を守る理由はありません。
 美鈴は言って、「どうぞ…」と道を譲るように、門の脇へと下がり、礼をした。
 
 アクセルはチルノの頭を優しく撫で、その貌を覗き込んだ。
 悪いね、親分。ちょっと用事が出来ちまった。遊ぶのは、また今度ってことで許してよ。
 笑顔で言うアクセルと、人影を見比べて、チルノは頷いた。
 そして、アクセルにしがみついていた腕を解き、「また、来る」と言って少し離れた。
 
 「ん、ごめんね、親分」
 
 もう一度、アクセルはチルノの頭を撫でてから、金色の瞳に向き直った。
 そんじゃ、まずはレミリアちゃんに報告しますか。旦那が到着したってね。
 そのアクセルの言葉に、金色の瞳が面倒そうに細められた。











紅茶の良い香りが、紅魔館の応接室を彩っている。

紅に塗り潰された調度品に内装、敷かれた絨毯。
いかにも高級な家具が配置された応接室は、しかし、嫌味では全く無かった。
内装も、そこに在る空気も、自然体だ。
気品、というのだろうか。
そういったものが、この応接室に染み込んでいる。

 「紅魔館に訪れたにも関わらず、私に顔すら見せないつもりだったようね…ソル」
 
  応接室の赤いソファに腰掛けたレミリアは、正面に座るソルへと声を掛ける。
  むすっとしたその声にも、何処か気品があった。
  紅く、甘く、幼く、邪悪な声だった。それでいて、妙に色艶の在る声音だ。

アクセルは視線をざっと見回し、目の前に置かれた紅茶を一口飲んだ。とんでもなく美味かった。
  
 ただ、のんびりと味わうような余裕も、あまり無いようだ。
 ソファに腰掛けたレミリアの背後に控える咲夜は、ナイフみたいに鋭い視でソルを見ている。
その眼に浮かんでいるのは、警戒だろうか。
 
 アクセルは溜息を吐いた。
 位置的には、ソルの隣にアクセルが腰掛け、その正面にレミリアが腰掛けている。
 だから、分かる。
 ソルの纏う空気が、かなり怖い。 
咲夜が警戒するのも無理もない。
 慣れてないと、ほんとに怖い。実際、咲夜の手が微かに震えている。

 「だから言ったじゃん旦那ぁ。レミリアちゃんに会わないのは不味いって…」
  
 この空気を変えるべく、アクセルは肩を竦め、隣にいるソルに声を掛ける。
 
 「やっぱりさ、此処はレミリアちゃんの城な訳だし、挨拶くらいはしないと」
 
 ソルは無表情のまま、ゆっくりとアクセルに眼を向けた。怖いんですけど。
 というか、この状況になったの、俺のせいじゃないし。旦那のせいだし。紅茶飲むしかねぇし。
 
 ソルは本当に図書館にまっすぐ向かうつもりだったらしく、レミリアへの挨拶などする気は全くなかったようだ。
 寧ろ、レミリアと会うことを避けていた。
 
 アクセルに案内され、館に入ったソルは、真っ先に「…図書館というのは…何処だ…」と切り出してきた。
 いや、まずレミリアちゃんに顔通しとこうぜ、旦那。
 そう言ったのだが、ソルは面倒そうに顔を歪めるだけで、「…要らんだろう…」と言うだけだった。
 
 勿論、そんな訳が無かった。嫌な予感はしていた。
 貴方は良くても…客人に、何の持て成しもしないようでは、私の沽券に関わるわね。
 紅魔館のホールで、その紅さと禍々しさに眼を細めていたソルは、その声に顔を更に歪めた。
 アクセルは、…ほらね、とソルに肩を竦めて見せた。
 
 
 それがついさっきの出来事だ。
 そのソルの態度が気に入らなかったのか、レミリアは機嫌があまり良くないらしい。
 
 「咲夜に手紙を持って行かせたのは私よ。貴方が来ることも当然知っていたわ」

 折角、紅茶とお菓子の準備までしてあげたと言うのに、挨拶にすら来ないつもりだったなんてね。
 責めるような口調で、レミリアは言う。
 
 「…貴様と会うと…碌なことにならん気がしてな…」
 
 「それはどういう意味かしら」

 「…前の会食のことを忘れたのか…」

 「手合わせして貰うくらいなら、問題ないでしょう」

 「…面倒事は好かん…」

 アクセルは苦笑を浮かべながら、そのやり取りを聞いていた。
 どうも、ソルはレミリアに絡まれるのを嫌がっているようだ。
 むぅ、と唇を尖らせるレミリアに対して、ソルも顔を顰めている。
 だが、この場での言い合いは無益だと思ったのだろう。
 
 レミリアは、ソファに片肘をついて、脚を組み替えた。
そして、凄絶な笑みを刻んだ。
 幼い顔立ちに似合わない、とんでもなく邪悪な笑みだった。
 

 「終戦管理局とかいう連中に関して、パチュリーも聞きたいことがあるみたい」
 
 ソルはレミリアの言葉に、眼を物騒に細めた。
 紫が訪ねて来たあと、屋敷の周囲を調べてみたのよ。
 その眼を見据えながら、レミリアは興味なさそうに言葉を紡ぐ。
 
 「見慣れない術跡が見つかったわ。
ついでに、その術を起動させようとしていた機械の人形とね…」

 
 紅魔館に居たアクセルにとっても、レミリアの言葉は初耳だった。
 思わず、「…マジ?」と呟いてしまった。
 レミリアはそんなアクセルを一瞥して、肩を竦めて見せる。
…随分間抜けな話よね。紫が危険視するような相手じゃ無いような気がして仕方無いわ。
詰まらなさそうに言葉を紡いで、レミリアはカップを傾けた。

「どうやら、機械人形は紅魔館へ侵攻する為の準備を進めていたようです」

咲夜が、レミリアの言葉に続く。
かなり大規模な術を用意していたようで、見つけるのはかなり容易でした。
 
 咲夜の言葉には、特に感情らしきものは無い。
 事務的に、冷たい声で告げるだけだ。

機械人形の抵抗も微弱なもので、正直に申し上げて…幻想郷の脅威となる相手ではないと…。

そこまで言って、咲夜はレミリアへと視線を向ける。
まぁ…、とゆっくりと首を回しながら、レミリアは鼻を鳴らした。

「見つける切っ掛けが、紫の忠告…、というのが癪だけどね」

 レミリアは首を傾け、八重歯を覗かせた。
 余裕、というよりも、まるで余興でも楽しむかのような笑みだった。
アクセルは何も言わず、紅茶を啜りつつソルへと視線を向ける。
 ソルは眼を窄めながら、「…その人形とやらは…何処に在る…」と低い声で呟いた。
 
 「パチュリーが調べているわ。…どうも、貴方に聞きたいことがあるみたい」
 
だから咲夜に手紙を送らせたのよ。
 レミリアは言って、紅い眼を鋭く細めた。
 
 「私は終戦管理局自体に興味は無いし、その目的もどうでもいいわ。でもね…」
 
 レミリアの唇が、薄く歪められた。
 
 「紅魔館に攻め入ってくるようなら、欠片も残さず滅してやるわ」
 
 憎悪でも、悪意でも無い。少しだけ楽しそうに紡がれた言葉には、ただ殺気があった。
 もし何か奴らから情報を得るつもりなら、紅魔館で得られる事はこれで最後だと思っておきなさいな。
 
 咲夜も、主のその言葉に軽く頷く。
 ソルは「…ああ…」と短く答えるだけだ。
 
 「…分かってくれたなら良いわ。あと…。次からは、私にまず顔を見せなさい」

 二度目の無礼は、許さないわよ。
 その言葉にも、有無を言わさぬ迫力があった。
 とてつもない威圧感だった。
 応接室を紅く染める主の声に、アクセルと咲夜は軽く息を呑んだ。
 無表情のままレミリアを見ていたソルは、「…分かった…」と抑揚の無い声で答えた。
 
 「パチュリーなら…図書館でしょうね。アクセル、案内して差し上げなさい」
 
 アクセルに紅い眼を向けながら、優雅な仕草で紅茶の入ったカップを傾けるレミリア。
 悪魔の命令だった。
 従わない訳には行かない声だった。
 
 アクセルは「ん、了解」と答え、紅茶の最後の一口を口に運んだ。
多分、それと同時だった。
 応接室の扉が、ばこーん、と開かれた。
 
 「箪笥から、お姉様の熊さんパンツ出て来たーーー!」
 
 アクセルは鼻から紅茶を噴き出し、咳き込んだ。
 フランドールだった。
 三角形の小さな白い布を両手で広げながら、応接室に走りこんで来た。
 凄い笑顔だった。
 
 応接室を支配する紅い悪魔。
そのレミリアの放つ、禍々しくも高貴なオーラが、粉々に消し飛んだ。

レミリアはソファから立ち上がってから何かを言い掛けて、また座った。
そして、視線をソルとアクセルに向けた。
アクセルは、さっと眼を逸らす。
ソルは、何事だ、みたいな顔で、フランの方へと眼を向けている。

フランは手に持った熊さんパンツを広げたまま、ソルに向き直った。

「あ、ソル! 遊びに来てくれたの!?」

嬉しそうに笑うフラン。びよん、と伸びた、熊さんの刺繍も笑っている。

 ソルは答えに困ったようで、無言のままレミリアに視線を向けた。
 アクセルもそれに倣った。
 
 「の、のっ…、ノックくらい、しなさい、フラン。客人を…ぅお、驚かせて、し、しまうでしょう?」
 
 レミリアの貌には、不敵な笑みが浮かんでいる。 
ただ、頬は引き攣っているし、顔も赤い。
紅茶を持つ指も震えている。かなり無理をしているようにも見える。
そんな必死な姉の様子には気付かず、フランはレミリアに向き直った。

 「はい、お姉様」

 そう言って、フランはレミリアに熊さんパンツを渡そうとした。
レミリアはもう一度立ち上がりかけて、咳払いをしつつ、ゆっくりと腰を下ろした。
 咲夜はかなり不安げな様子で、フランとレミリアに視線を行ったり来たりさせている。
 
 アクセルもハラハラしながら、その成り行きを見守った。
 不意に肩を叩かれた。心臓が口から飛び出すかと思った。
ソルだった。
 
 「……図書館は何処だ…」

 面倒そうな表情のまま、ソルは顎をしゃくって応接室の扉を指した。
 空気読めない人なのかな、旦那。
 アクセルが呆然としそうになった時、事態は動いた。
 
 「それは、私の…じゃない、わ」

 上擦った声で、レミリアがフランに言った。
 
「え~、でも、私こんなの持ってな――」
 
 「その下着は…さ、咲夜のモノよ」
 
 ね…、と振り向いたレミリアに、咲夜はえっ!?、と答えた。
 そうなの? と、フランは手にした熊さんパンツと咲夜を見比べた。
 
 アクセルは笑いを堪えるのに必死だった。
 どう見てもサイズオーバーです。本当にありがとう御座いました。
 だが、咲夜は流石だった。瀟洒で完全だった。
 消え入りそうな声で、は、はい…、と答えた。顔も真っ赤だ。
 アクセルは立ち上がり、拍手を送りそうになった。

 そうだったんだー。
 フランは笑顔を浮かべて、咲夜に熊さんパンツを手渡した。
 咲夜は、顔を俯かせながら、両手でそれを受け取る。
 レミリアは、安堵するように一つ息を零した。
 
 それが間違いだった。
 あれー、でも、これ、お姉様の名前が入ってるよ?
 フランの言葉に、今度こそアクセルは噴き出してしまった。
 
 一瞬でレミリアの顔が真っ赤になり、アクセルを睨みつけた。
 いや、睨みつけようとしたが、遅かった。
 
 「それじゃ、旦那を案内してくるねぇ…!」
 
 レミリアが顔をアクセルに向けた時には、アクセルはソルを残したまま、応接室を飛び出していた。
 電光石火だった。
 
 「…おい…待て…!」
 
ソルは、舌打ちをして立ち上がり、応接室から出ていく。
 
 終止笑顔だったのは、熊さんだけだった。
 




「…建物の中とは思えんな…」

 呟きながら、ソルはその空間に視線を巡らせた。
 広大な石造りの空間は、静謐であり、また閉塞的だった。
図書館、というよりは、本の森、と言った方がしっくり来る程の巨大な本棚の数。
ビル並みの高さを誇る本棚の数々と、そこにすら収まりきっていない分厚いハードカバーの本の山。
そのどれもが年代モノのようで、色が禿げていたりカバーが破れてあって、それが逆に、その本の重厚さや、威圧感らしきものさえ漂わせている。
埃っぽい空気と、薄暗い空間のせいか、気味の悪さもジャングル級だ。

その知識の海、叡智の神殿の中を、ソルとアクセルは並んで歩いている。

「…魔法か…便利なもんだな…」

「限度ってもんがあるさ。俺、一回遭難仕掛けたからねぇ」

方向感覚とか、たまに吹っ飛ぶからね。此処。
アクセルは言いながら、本棚の迷宮を進む。

こつこつ。ゴツゴツ。と、音質の異なった足音が、薄暗い空間に木霊する。
軽い足音はアクセルのもの。重い足音はソルのものだ。

まるで、俺が軽い人間みてぇだ。アクセルは足音を聞きながら、ふと思った。
中身が薄れて無くなったみたいに、自分の足音が軽く感じた。
対して、ソルの足音は、何かを背負って、引き摺ってるみたいに、重く聞こえる。

いや。
軽いも重いもねぇな。
事実か。それとも、気のせいか。
どっちでもいいさ。
俺は俺。旦那は旦那だ。

下らないことを考えていると、両手一杯に本を運んでいる女の子が見えて来た。
赤紫のロングの髪に、女性ものの黒のスーツ。
ネクタイもきっちり締まっており、真面目そうな印象を与える。
 
「お~い、小悪魔ちゃん!」

アクセルは片手を上げ、女の子へと声を掛ける。

女の子の方は「ひっ!」としゃっくりみたいな声を上げて、ビクっと肩を震わせてから、こちらに振り向いた。

「ア、 アクセルさんでしたか…。びっくりさせないで下さいよ」

眉尻を下げて、苦笑するみたいに笑った。
小悪魔と呼ばれた少女はアクセルの元へと歩み寄る。
そこで、小悪魔は顔を強張らせた。ソルと眼が合ったからだ。
薄暗い中、金色に輝く眼はなかなかの迫力だろう。
ほら旦那。小悪魔ちゃん、怖がってるから。笑顔笑顔。
アクセルはソルを肘で小突いた。

「…邪魔をする…」

無表情のまま、ソルは子悪魔に向き直った。
小悪魔は言葉に詰まってから、「い、いえ…」と何とか言葉を返した。
愛想の欠片も無いソルを横目で見ながら、アクセルは溜息を吐く。
まぁ、旦那に愛想を求めるのは無理か…。

「ところで、パチュリーちゃん居るかな?」

「あ、はい。パチュリー様なら、あちらに」

小悪魔は手を差し出し、“あちら”を指してくれるのだが、暗過ぎてまるで向こうが見えない。
やべぇ。これは下手するとまた遭難するかもしれない。

「まっすぐ行けば明かりが見えてきますから、迷う心配は無いと思いますよ」

行きは良いけど、帰りはキツイな。
ニコリと笑う小悪魔を見て、アクセルは引きつった笑みを返した。





思考。解析。実践。模倣。失敗。成功。
何千、何万と、その行程を繰り返す作業は、決して嫌いでは無かった。
寧ろ、その作業に没頭している時間は、読書に匹敵するほどの充実感があった。

その作業をしている間は、静かであればある程良い。
集中に、静寂は必要不可欠だった。

此処は、良い。
静かで、静かで、何処までも静かだ。
紙の匂い。閉塞感。微かに澱んだ空気。
そのどれもが、外界との隔絶を証明してくれる。
心地よかった。

この図書館は、知の檻だった。
降り積もる埃は、税金みたいなものだった。
喘息持ちにとっては、あまりよろしく無い環境だろう。

どうでも良いことだ。

所詮肉体は、精神を入れる器に過ぎない。
魔法使いにとって、肉体などは拘束の一種だ。
不便なものだ。

パチュリーはそう思っていた。
だから、機械の体、というものは、少し興味を引いた。

本棚が乱立する図書館の中で、少し開けた場所があった。
其処には、大きめの机と椅子が、無造作に置かれている。
まるで、この広大すぎる図書館全てが、書斎だと言わんばかりだ。

その机の傍に、巨大な魔方陣が描かれていた。
澄んだ紫色の光が、薄暗い空間を照らし、舞う埃を焼いている。
その魔方陣の中心には、四角を三つ並べただけのような、不細工な顔をした人形が横たわっていた。
紫色の光は、その人形を包み、脈動する。
明滅する魔力光に眼を細めながら、パチュリーは一つ息を吐いた。

足音が聞こえる。
二人分だ。

「…やっと、来た」

その呟きに答えるように。
聳え立つ本棚と本棚の間、その通路の闇から。
その足音の主二人の姿が、うっすらと見えてきた。

「…いらっしゃい」

パチュリーは独り言を呟くように、言葉を紡いだ。
小さな声だったが、図書館の静寂のせいか、その声は良く通った。

アクセルは「や、パチュリーちゃん」と片手を挙げて見せる。
ソルは、無言のまま、魔方陣へと視線を向けていた。
機械人形って、やっぱコイツか…。
紫色の光の中に眼を向けながら、アクセルは不味そうに顔を歪めながら、パチュリーの隣に立つ。
ソルは眉間に皺を刻んで、鼻を鳴らした。
懐かしくさえ思う、見慣れた騎士服。
メタリックな緑色の肌。金髪
クルミ割り人形のような口に、四角い目。
ふざけたような顔の人形が仰向けに置かれ、微動だにしないでいた。
ロボカイ。その残骸だ。

「…何で居るの?」

パチュリーは隣に立つアクセルに向かって、首を傾げた。


「ひ、酷くねぇ? パチュリーちゃん。俺だって、パチュリーちゃんに会いたいわけよ」

「…だったら、帰って」

冗談に付き合う気は無いようで、パチュリーはアクセルに眼も合わせずに言う。
アクセルは顔を情けなく歪ませて、ご、ごめんなさい…、と呟いた。

薄暗がりの中に浮かび上がる魔法陣に眼を細めてから、ソルはパチュリーに向き直る。

「…この陣は…何をする為のものだ…?」

ソルの言葉に、パチュリーは視線をソルに向けて、次に、魔法陣へと眼を向けた。
澄んだ紫色の光が、パチュリーの顔を照らす。
これは…命を持たないものに、命を与える術…。
その呟きに反応するかのように、魔法陣の光が明滅を繰り返す。

「…でも、生き物で無いものに…命を与えるのは、とても難しい」

自然物では無く、機械で出来たものならば、尚更…。
そこまで言って、パチュリーはもう一度ソルに視線を向けた。
ソルと同じように、感情を伺わせない無表情な瞳だった。

「だから、貴方の持つ法術の力を借りたい…」

アクセルはパチュリーとロボカイを見比べる。
つまりは、ロボカイの原動力となる法術が必要だったのだろう。

「…コイツを起き上がらせて…何をするつもりだ…」

「記憶を貰う…」

パチュリーは再びロボカイへと視線を向けた。

「この人形に宿る記憶を辿れば…敵に通じる方法が分かる、かもしれない」

「…メモリを抜く、ということか…」

ソルも、ロボカイへと視線を向け、呟く。
でも、中身なんて残ってるのかねぇ…? アクセルは茶化すでもなく、疑問を口にする。
終戦管理局の尖兵ならば、記憶消去、或いは、自動でデータが除去されるような処置があってもおかしくない。
それに、相手は機械だ。仮に息を吹き返したところで、拷問も効果が薄そうではある。

「モノに宿る記憶は、そう簡単には消えない…」

人工物は、特に読み取り難いだけ…。
パチュリーは呟いて、何かの呪文を唱えた。
ぼう、と、魔法陣から漏れる澄んだ紫色の光が強くなる。

「今回は、特にやり難い…。ちっとも成功しない…。だから、手紙を送った」

それを聞いたソルは、神社での霊夢の言葉を思い出す。

いくら紅魔館の連中でも、非常時にまで無軌道な行動はしないでしょ。
溜息混じりに、霊夢は言っていた。そして、少しだけ表情を引き締めていた。
それに、アンタの力を借りたい、っていうなら、今回の異変に関係しそうだし…。顔だけ出して来たら。

そう霊夢に言われ、ソルは紅魔館まで足を運んだのだ。
そして、霊夢の予想は見事に当たっていた。

ソルは眼を細めて、パチュリーに視線を向ける。
そして、難しげに貌を歪めて、「…悪いが…」と呟いた。
パチュリーは無表情だったが、アクセルには、その無表情が微かに曇ったように見えた。

ソルは呟いてから、ごつごつと、重い足音を鳴らして、仰向けに転がるロボカイの傍まで歩み寄った。
 無機質な金色の瞳が、ロボカイの残骸を見下ろす。
 
 「貴方でも…、無理なの?」
 
 やはり、パチュリーの声は残念そうだ。
 ソルはロボカイを見下ろしながら、その胴体に、持っていた封炎剣を突き立てた。
 ズドン、という、鈍く、重い音が図書館内に木霊した。
 突き立てられた衝撃で、ロボカイの体が大きく跳ねた。
周りの本棚がビリビリと震え、空気が軋む。
 
 パチュリーは驚いたように眼を開いた。
 アクセルは片目を瞑って、もう片方の眼で、ソルを見据えた。

 「やっぱ、法力を用いた機術や工術ってのは…ブラックテック寄りなワケ?」

ブラックテック。
その聞きなれぬ言葉に、パチュリーは眉を顰める。
 
 ソルは微かに貌を歪め、「…ああ…」と頷いた。
 
 「…機術の類は大抵がそうだな…」

 低い声で言って、ソルは封炎剣を引き抜いた。
 そして、ロボカイが動かないことを確認したソルは、鼻を鳴らす。
 
「…俺の持つ法術で、コイツを動かすのは無理だ…」

「じゃあ…そのブラックテック、という術と併用すれば、…可能なの?」

パチュリーはソルに視線を向けながら、指先で何かのルーンを刻んだ。
紫色に輝く文様が、中空に刻まれ、すぅっと消えた。
それに合わせて、ロボカイを包んでいた紫色の魔法陣も消える。

「……悪いが出来んな…コイツを動かすには、大分特殊な術が必要になる…」

「完全に軍事技術みてぇなもんじゃねぇの。…ギアの親戚みてぇなもんかね」

「……だろうな…」

ソルは貌を更に歪め、鼻を鳴らす。

「…機術の究極形は…人体と機械の融合だ…」

「胸糞の悪い話だねぇ…」アクセルも嫌悪感を隠さない声音で言う。

ソルはパチュリーに向き直り、封炎剣を肩に担いだ。
それから、足元に転がるロボカイを一瞥する。

「…悪いが…俺は役に立てん…」

「貴方が無理なら…仕方無い」

パチュリーはゆるゆると首を振って、微かに笑みを浮かべた。
来てくれてありがとう…。意外だった…。

「まぁ、旦那は悪い奴じゃねぇからね」

にっしっし、とアクセルは笑う。
ソルが、そのアクセルに舌打ちをした。
その時だった。

アクセルは一瞬、自分の体が宙に浮いたのを感じた。
胃液が逆流するような感覚がした。
視界が上下に揺れまくった。

何だ。何が。
一瞬経ってから、分かった。

大地震だ。
突き上げるような縦揺れだ。

アクセルは翻弄された。揺さぶられまくった。
立ってられねぇ。
地面に這い蹲って、顔を上げた。

この揺れに翻弄されているのは、アクセルだけでは無かった。
パチュリーもだ。
その背後。
どっしんどっしん、ばっこんばっこんと轟音が響いている。
周りにあった本棚が、揺れに煽られて、中身の本をぶちまけながら激しいダンスを踊っていた。

降って来る。
ごつい本。薄い本。降って来る途中でバラバラになる本。
ついでに、本棚そのものも。

やべぇ、とは思ったが、焦りはしなかった。
パチュリーへと倒れてきた糞デカイ本棚を、ソルが片手で、がしっと掴み止めたからだ。
この揺れの中、ソルは何とか立っていた。

腰を落として、眼を天井に向けている。

その眼が獰猛に細められた。

「…これは…!」

ソルの呟きと同時に、アクセルも感じた。
世界から隔離されていくような感覚だった。
咲夜の時間停止とは、また違った感覚。

強いて言うならば、時間跳躍の瞬間に近い。
突然、時間も場所も違う場所に跳ばされたような感じがする。

…くそったれ…。
ソルの声が聞こえた時だった。

冗談みたいに揺れが止んだ。

ぱらぱらと埃が落ちてきた。
けほけほっ、とパチュリーが咳をした。

どうなった。
何が起こった。

アクセルはがばっと立ち上がって、ソルへと向き直った。
ソルは片手に掴んでいた本棚を押し飛ばして、ゴキゴキと首を鳴らした。
その顔は、完全な無表情なのに、歪んでいた。
……来やがったな…。
呟いたソルは、金色の瞳を窄める。
その瞳の凶暴さは、アクセルの記憶の中に見つけることが出来た。

久ぶりに見た。旦那のあの眼。
多分、何か厄介なことが起こった。
相当やばい感じの何かが。

それだけは分かった。




[18231] 十九・一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/11/18 23:10
 
運命を操る。
それは、好き勝手に未来を弄り、望むままの世界を作り出す、という訳ではない。

未来予知。又は、予感。確信。
それらに近いものを、感じ、未来を覗く力。
それこそが、レミリアの持つ能力――「運命操作」の軸だった。

その力が齎すものは、果てしなく茫漠としたものだ。
何もかもを、自らの思うままに操る力とは違う。

レミリアの紅い瞳は、在りし世界の時の流れ、それが齎す結果を見通す。
そして、未来において起こる事象を捻じ曲げる。

だが、この捻じ曲げる規模には、限界があった。
法則の存在する世界であるが故、それを極端に逸脱することは不可能だ。
既に百年生きた者の寿命を十歳にするなど、過去に干渉することも当然無理である。

この運命操作の制限は、運命に干渉する個体にもよる。
死ぬ運命だった人間の寿命を延ばすことは出来ても、死んだ人間を生き返らせることは出来ない。
また、人間よりの遥かに強力な個体である八雲紫や、理から浮いた霊夢など、超常の者達の運命などは、非常に操りづらい。
彼女達の運命は、複雑に過ぎ、また見え難いからだ。

其処に干渉する為には、膨大な時間と、凄まじい精神力が必要だ。
運命操作とは、在るべき世界を変える行為に他ならない。
故に、加減も制御も非常に難しく、下手をすれば、逆に精神が壊れる。
いや、薄れ、溶かされていくと言った方がいいかもしれない。

世界。宇宙。次元。それらを手の内に持つという行為。
その精神負荷は、例え吸血鬼であっても耐え切れるものではない。
それほど、運命操作とは強大で、また比類の無い力だった。
扱いを誤れば、自我と共に世界までもが融解するだろう。

レミリアも、そんなリスクを侵してまで、巨大な運命を操ろうとは思わない。

前に、紫も言っていた。
自らに宿る、「運命操作」の力は、この次元が抱える爆弾の一つだと。
幸い、起爆には意思が必要であり、また時間も必要だった。
レミリアが平和な日常を送れるのも、そのおかげだ。

レミリアは、自身の能力を悲観しては居ないが、好ましくも思っていなかった。
運命の繰り手であっても、其処に関わらなくて良いならば、越したことは無い。
強大過ぎて、運命を操った結果が、まったく予想していないものになることも少なくないのだ。

五百余年生きて、レミリアは運命を操ることの危険性を学んだ。

切っ掛けも、あった。
無い方が良かった。


昔のことだ。
レミリアがまだ自身の「運命を操る程度の能力」を理解していない頃。
吸血鬼である自分には、この世界に居場所など無いと思っていた頃。
その影で、幾度と無く追い立ててくる人々に怯え、逃げ、陽の光に迫害されていた頃。

レミリアは妹を守る為に、人々から逃れ、夜の闇から闇へと渡り歩いていた。

町から町へ。
村から村へ。
廃墟から廃墟へ。
荒野から荒野へ。
林から林へ。

永き命には、常に飢えと渇きが付き纏った。安らぎも無かった。
一週間に一度の間隔で、血液を手に入れる為に、村や町へと訪れた。
そして、闇に紛れて人を襲った。
生き血を下さい、などと愛想良く言ったところで、応じてくれる者など皆無だ。
居るはずが無い。
当たり前だ。
血を得る為には必要な手段だった。ただ、殺しはしなかった。

レミリアは小瓶に少し溜まる程度の血液を、少しずつ集めて周った。
そして、外で待つ妹の下へと帰る。
一週間に一度だけ飲む血の味は、酷く不味かった。

それに、上手くいかない時も多々あった。
吸血鬼や、その他の人ならざるものを斃す為の集団も存在した。
レミリアも何度も殺されかけて、逃げ延びて、絶望した。
朝日に身を焦がされかけたこともあった。

その時のレミリアは酷く疲れていた。
心が衰弱していった。
追ってくる人々は容赦が無かった。
彼らの眼には、敵意と殺意しか浮かんでいなかった。

悪魔。

何度そう呼ばれたことか。
別に構わなかった。
それに、そう呼ばれるだけの力が、自分には宿っていることも知っていた。

朽ちぬ体に、血を欲する渇き。
素手で岩を砕く膂力に、縦に裂けた紅い瞳。

私は悪魔だ。吸血鬼だ。
だが、その悪鬼を寄って集って駆逐しようとする人間達の貌の方が、余程悪魔じみていた。
吸血鬼の中には、嬉々として人々を殺して周り、恐怖を振りまくことを楽しむような輩も居る。
暴力の味など知らぬレミリア達にとって、向けられる殺意の眼差しは、恐ろしかった。
寧ろ、レミリア達のようにひっそりと隠れ暮らす吸血鬼など、圧倒的に少数だろう。
それを思えば、追い掛け回され、殺されかけるのも仕方無いのか。

理不尽だ、とは思わなかった。
そんな風に思う気力も無かったし、余裕も無かった。
それは、妹であるフランも同じだった。

レミリアは、常に願っていた。

自分よりも、妹の幸せを。
いつか、フランが笑顔で過ごせる日々が訪れてくれるようにと。
今のように、逃げ惑い、怯え、隠れ、疎まれ、忌避されるのは、嫌だ。

神様。
我が侭は言いません。
どうか、妹だけには手を差し伸べてください。
妹を見捨てないで下さい。
どうか。
私はどうなってもいいです。
だからせめて、妹を。
妹が、幸せになれるよう、どうか祝福を。
加護を。

レミリアは願った。
強く願っていた。

しかし、悪魔の祈りを神が聞き届ける筈が無かった。

惰性のまま時間は過ぎたが、状況は残酷なほど何も変わらなかった。
幾度と無く、朝と夜は交互に繰り返されていった。
陽に追われ、夜に逃げ込んで、姉妹は生き延びようとしていた。

だが、ある夜。
とうとう神は気まぐれに、姉妹に加護を与えた。
即ち、それは、悪魔にとっての天誅であり災厄だった。


姉妹は、夜の野を、山を、隠れるようにひた歩き、訪れたのは山奥の寒村。
その外れにある廃屋に忍び込み、久しく血を飲んでいない姉妹は、飢えと渇きに震えていた。
生き血が必要だ。少しで良い。いつもより少し多ければ良い。
忍び込んだ廃屋は黴臭く、蜘蛛の巣だらけで、埃も積もっていた。

レミリアはフランを座らせて抱きしめ、「大丈夫…?」と、声を掛けた。
フランは、何とか頷いてみせたが、返事はしなかった。
夜の空気は冷たく、二人とも体が冷え込んでいる。
寒い。濁った空気が、廃屋内に満ちている。
屋根を見上げると、其処には大きな穴が幾つも開き、夜空の星が覗いていた。
レミリアは忌々しげに、貌を歪め、溜息を吐いた。
漏れてくる月明かりと、夜目が利くおかげで、この暗い廃屋の中でも困ることは無い。
だが、漏れてくるのが月光では無く、日光だったならば、話は変わる。

此処に身を潜めるには、何か日光を遮る屋根が必要だ。
そこまで思った時、フランがぐずるように声を漏らした。
レミリアはフランの頭を撫でてから、体を摩ってやる。
それから、「血を採って来るわ。大人しく待ってなさい」と声を掛けた。
フランは、うん…、とか細い声で頷く。
屋根も必要だが、まずは血液だ。活力となるものが要る。
寒村も近い。夜は深いが、まだ出歩いているものが居るかもしれない。

レミリアがそう言って、フランから離れた時だった。
埃っぽい暗闇に中から、足音が聞こえてきた。

鳥肌が立った。
咄嗟に、レミリアはフランを庇うようにして立つ。
フランもレミリアの背中の向こう、その視線の先を見詰めて、息を呑んだ。

誰か、来た。
人間だろうか。
やけにゆったりとした足音だ。
数は、一人分。

木の床を叩く靴音が近づいてくる。
こっちに。

足音は何かを探すような感じでは無い。
明らかに、姉妹のもとに向かって来ている。

レミリアは舌打ちをした。

普通、人間が吸血鬼と戦うときに一人で向かってくることなど、まずあり得ない。
しかも、今は夜だ。
夜の吸血鬼に単身で挑んでくるものなど、今までレミリアは見たことが無かった。
怪物を狩ることを専門している者たちですら、普通は集団で動く。

その筈だ。
その筈なのに、聞こえる足音は一つ。
途轍もなく、嫌な予感がした。

フランも何かを感じたのだろう。
お姉様…、と震える声を零して、レミリアの服の裾をぎゅうと掴んだ。
それと多分、同時だった。

「妙な気配を感じて来てみれば…」

足音の主の顔は、月明かりに照らされておらず、はっきりとは見えなかった。
だが、その声は男のものだった。妙に生ぬるくて、湿気のある声だ。

男の身なりはかなり良い。
赤色の宝石で飾られた、黒のコート。
カフスも豪華なそのコートは膝丈で、廃屋の闇色に馴染んでいる。
胸元には赤の派手なスカーフ。

男は、喉を鳴らすように笑いながら、またゆっくりと姉妹に近づいた。
レミリアとフランは、男が歩を出すのにあわせて後ずさった。

固い足音のする靴は、光沢のある黒の革靴だ。
短めのズボンも黒で、ソックスも黒。
黒ずくめの中に、不吉な赤色を混ぜた衣装は、古い貴族を思わせる姿だった。

月明かりが照らし出した男の顔は、整った青年の顔だった。

ただ、眼の瞳孔部分だけが赤く、白目部分がどす黒い。
明らかに、人間ではなかった。

「ふぅむ…、なかなか…」

そう言った青年貴族は、整った顔をいやらしく歪めて見せた。
黒い目。その視線が、舐めるようにレミリアとフランを這い回る。
小汚い格好の割には、綺麗な顔をしている。気に入ったぞ…。
青年貴族は、舌なめずりをしながら更に歩を進めてくる。

ひっ…!、と、フランが短い悲鳴を上げた。
レミリアは寒気がした。悪寒だった。

更に後ずさろうとしたが、無理だった。
背中に、固く、冷たい感触。壁だ。
部屋の隅に追い詰められている。

凄い威圧感だった。
対峙している時点で、もう負けだ。
逃げられない。

青年貴族は、怯えるレミリア達の反応が気に入ったのか。
じゅるり、と、もう一度大きく舌なめずりをして、笑みを浮かべた。
鋭い八重歯、いや、牙がその口から覗いている。
レミリアは、フランを庇いながら、青年貴族をにらみつけた。

「…貴方も、吸血鬼なのね」

青年貴族は、ぴたりと止まり、レミリアを見下ろすように顔を傾ける。
それから、若い見た目に似合わない尊大な態度で、そうだ…、と答えた。

「此処ら一帯は、私の庭だ。普段なら、こんな辺鄙など所になど来ないのだが…」

気紛れも、たまにはしてみるものだな。
言いながら、青年貴族はレミリアの目の前にすぅ、と踏み込んできた。
まるで、影が伸びてくるみたいな静かで、捉え難い動きだった。

全く反応出来なかった。
気付いたときには、レミリアは顎を右手の指で摘まれ、顔を覗きこまれていた。
目の前に迫った青年貴族の黒い眼は、卑しく歪み、それが、余計に恐怖を煽る。

レミリアは、自分の脚ががくがくと笑っていのが分かった。
怖い。初めて思った。
何だ、震えているじゃないか…。
青年貴族は満足そうな声で呟いて顔を近づけてきて、レミリアの頬をゆっくりと舐った。
ビクッ、とレミリアは肩を震わせる。
怖がることは無い。…私の愛玩人形になれば、命までは取りはしないぞ。
その声は、実に楽しそうで、残酷だった。
温い唾液を頬に感じ、本格的に体が凍りついた。

動けない。
怖い。体が竦んで、動かない。
涙と悲鳴を堪えるので精一杯だった。

青年貴族は、喉を鳴らすように笑って、空いた左手をレミリアの身体に這わせた。
脚から腰へ、そして、腹から胸へと、掌をレミリアの身体に塗りつけていく。
まるで、哀れな子供を慈しむかのような愛撫だった。

だが、青年貴族の纏う空気と、歪んだ笑みのせいか。
レミリアは蛇が身体の上を這いずり回っているような悪寒だけを感じた。
悲鳴も出なかった。

冷えているな。可哀想に。
そう言った青年貴族は、レミリアの着ている服に手を掛けた。

…いやだ。
思わず、涙と一緒に、か細い声が零れた。
その時だった。

レミリアの顎を摘んでいる、青年貴族の腕に、小さな手が掛かった。
その手はカタカタと震えていだが、決して、青年貴族の腕を離そうとはしなかった。
青年貴族は黒い眼を細め、その手の主に視線を向ける。
フランだった。怯えているのか、黒い眼を見ないように顔を俯かせたままだ。
見れば、手だけでは無く身体全体を震わせている。

「や、めて…。お姉様に、ひ…酷いことしないで…お願い…おねが…」

フランは勇気を振り絞って、言葉を紡ぐ。
青年貴族は、更に顔を喜悦に歪ませて、ぬぅ、と左手をフランに伸ばした。
月明かりに照らされた黒い腕の動きは、淫猥な蛇を思わせる動きだった。

その掌に撫でられ、フランは顔を俯かせたまま身体を硬直させた。

順番はすぐに来る、と言いたいが…そうだな。
青年貴族は言って、右手の指でレミリアの唇と歯を撫で、左手でフランの首筋を撫でる。

続きは、帰ってからにするか…。
その呟きは、姉妹の未来を真っ黒に塗り潰す言葉だった。
このままでは駄目だ。

レミリアは、顔を青年貴族を睨む。

「私は…どうなってもいいから、妹には…フランには手を出さないで」

今度は、レミリアが勇気を振り絞った。
その言葉に驚いたフランが何か言おうとしたようだが、出来なかった。
青年貴族の親指が、フランの口をこじ開け、口腔内で舌を押さえたからだ。

レミリアの言葉は、廃屋の中に虚しく木霊した。
しばらく、青年貴族は黙ったまま、レミリアを見詰めていた。
レミリアも、眼を逸らさなかった。
その無残な残響を楽しむように、青年貴族は唇を愉しげに歪める。
逃げることも出来ない姉妹を、慈しむかのように、黒い眼は笑う。

「お前達は、私の所有物だ」

勝手に口を利くな。
その低い声の呟きは、威圧と威嚇の塊だった。
レミリアはぞっとした。
もしもこのまま連れて行かれたら、どうなるのか。

多分、この酷薄そうな吸血鬼の玩具にされて、壊され、飽きれば、捨てられる。
仮に捨てられなくとも、死んだほうがマシな目に逢うのは間違い無いだろう。
今まで、ずっとひっそりと隠れて生きてきたのに、こんなのはあんまりだ。
怯えと飢えと、悲しさだけを味わうだけ味わって、それで終わりなんて。
レミリアは自分の無力と、残酷な運命を憎んだ。
そして諦めて、覚悟した。


フランは賢い子だ。
私が居なくても大丈夫だ。
きっと上手くやっていける。
ただの観測的な希望でしか無かったが、必要だった。

縋るものが。
自分を奮い立たせる何かが。

神様。

レミリアは、もう一度、心の中で祈った。

何も要りません。
ただ、立ち向かう勇気を下さい。

どうか、妹だけには手を差し伸べてください。
妹を見捨てないで下さい。
妹を助けて下さい。
守ってください。
どうか。
私はどうなってもいいです。
だからせめて、妹を。
妹が、幸せになれるよう、どうか祝福を。
加護を。

レミリアは眼を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
そして、黒い眼を睨み返した。
未だに脚はがくがくと震えているし、滲みかけた涙で視界も歪んでいた。

でも。
私はお姉ちゃんだ。
私は姉で、フランは妹だから。

フランの視線を感じる。

ごめんね。
何にもしてあげられなくて、ごめんね。
一緒に生きていこうって約束したけど、無理みたい。
でも、頑張るから。
最後に頑張るから。

「フラン。逃げて」

今の今まで、手の中で震えるだけだった獲物が、急に笑顔を浮かべたせいで、青年貴族は黒い眼を丸くして驚いていた。

フランも同じだった。
言いたいことは一杯あるけど、今はこれで十分だ。

レミリアは、左手を握り固めた。
青年貴族は、まだ間抜け面のままだ。
そして、再びレミリアの顔を覗き込んできた。

「何を―――」

黙れ。
するどく息を吐いて、身を沈めながら呟いた。
目の前に浮かぶ怪訝そうな表情を浮かべた顔。

その鼻面目掛けて、レミリアは左拳を叩き込んだ。

青年貴族は派手に吹っ飛び、廃屋の部屋の壁を破壊して、隣の部屋まで突っ込んでいった。
鈍く、重い音と衝撃が廃屋を激しく揺らす。
視線を戻すと、フランが腰を抜かしていた。

レミリアはもう一度、逃げて…! と言って、青年貴族の下へ迫ろうとした。
しかし、その必要は無かった。出来なくなった。
悪餓鬼は要らんな。お仕置きしてやろう。
言いながら、埃と瓦礫を押しのけて、青年貴族がレミリアの目の前に滑り込んで来たからだ。

とんでもない疾さだった。
青年貴族は右の拳を振り上げていたので、咄嗟にレミリアは腕を上げて、その拳を防ごうとした。

それが不味かった。
だが、先に来たのは拳では無く、蹴りだった。
身体を捻った右脚の蹴りは、ガードを上げたレミリアのボディーに突き刺さった。

青年貴族はレミリアをサッカーボールみたいに蹴飛ばした。
何かが破裂して、潰れるような恐ろしい音がした。

意識が飛ばなかったのは多分、青年貴族が手加減したからだろう。
レミリアは蹴飛ばされて、壁に激突して、崩れ落ちた。
血反吐を吐きながら、レミリアは顔を上げる。
青年貴族の愉しげな貌が見えた次の瞬間、腹部に強烈な衝撃を感じた。
レミリアの身体が浮いて、大量の血の塊が口から逆流した。

青年貴族は、いたぶることを楽しんでいる。
突き刺すようなトーキックを、崩れ落ちたレミリアに執拗に叩き込んだ。
蹴られる度、レミリアは「うぶっ!」、「ぐっ…!」、「ぁぎ…!」と短い悲鳴を漏らした。
レミリアはそれでも、明滅する視界の中に、フランの姿を捉えた。

フランは、怯えきったような顔で、こっちを見ていた。
身体と唇をガチガチと震わせ、眼を見開いて、その場にへたり込もうとしていた。

逃げて。フラン。駄目。逃げるのよ。
此処から。早く。早く。逃げて。逃げて。
レミリアはそう呟いたが、その声は言葉になっていなかった。
青年貴族の爪先が、容赦なくレミリアの腹、首、顔を打ち据えていたからだ。

だが、レミリアもやられてばかりでは無かった。
腹を蹴飛ばされた瞬間、その足を両腕でガッチリと掴み、そのまま無茶苦茶に引っ張ってやった。

反撃されるとは思っていなかったのか、或いは、嗜虐的な愉悦に浸っていたせいか。
青年貴族は無様に尻餅を付いた。
その隙に、少し離れた所に立ち尽くしているフランに向き直る。

「逃げなさい!! フラン!!」

必死の形相で、レミリアがそう叫んだ瞬間だった。
ドゴン、という鈍い音と共に、レミリアの意識が半分吹っ飛んだ。
見れば、目の前に、靴底があった。
青年貴族が尻餅を付いたまま、掴まれた足とは反対の足で、レミリアの顔を蹴飛ばしたのだ。

レミリアは蹴られたあと、背後に壁に再び激突して、今度こそ立ち上がれなくなった。
廃屋が揺れ、軋む音が闇に木霊し、濛々と埃が舞い上がる。

違いすぎる。
同じ吸血鬼でも、こんなに力が違うものなのか。
やっぱり、頑張っても駄目なのか。
でも、フランだけは。
レミリアは挫けそうな心を奮い起こそうとした。
だが、食道を凄まじい勢いで逆流してくる血を吐き出して、倒れた身体を丸めるのが精一杯だった。

守るんだ。
レミリアは、朦朧とし意識の中、思う。
私がお姉ちゃんだから。妹を、守るんだ。
その想いだけが、レミリアの意識を繋ぎとめていた。
だが、そんなレミリアの意思も、無駄な抵抗にしかなっていなかった。

青年貴族はレミリアを見下ろしながら立ち上がり、パンパンと、服に付いた埃をはたいた。
そして鼻を鳴らしてから、行儀の悪い餓鬼め、と吐き捨てて、レミリアの頭を踏みつけた。
靴底と頭、頭と床がぶつかる音が、暗い廃屋に響く。
寒気がするような、生々しい音だった。


それを見ているフランも、逃げるとか逃げないとか、そんな状況でもなかった。
逃げろと言われて、すぐに逃げ出せるような精神状態でも無い。
その場にへたれ込まず、立っているのが不思議な程、混乱と恐怖に支配されている。
フランは、お姉様、と掠れた声で呼ぼうとした。
青年貴族が、レミリアの頭をもう一度踏みつけた。

動悸がする。吐き気もする。眩暈もする。
ひきつけを起こしたように、上手く呼吸が出来ない。
暗闇の廃屋の中、姉であるレミリアは、もう動かなくなった。

嫌に現実感の薄い光景だった。
青年貴族は、ぐりぐりとレミリアの頭を踏みにじった。

やめ…、やめて…。やめてぇ…。
フランに出来るのは、ただ懇願するだけだ。
怖くて、足が竦んで。動けない。見ているだけだ。
どうしよう。どうしたらいいの。誰か。
やめて…、やめてよぉ…。お姉ちゃんが、し、…死んじゃうよぉ…。
フランの涙声は、青年貴族に届いたのだろう。
暗闇の中でもやけにぎらつく貴族の赤い眼が、フランを振り返った。
困った姉だな。やんちゃなものだから、少し手元が狂ってしまった。
そう言った青年貴族は、参ったな、みたいな顔で、青年貴族はフランに笑みを浮かべて見せた。

そして、ごりっと、最後にレミリアの頭を靴底で嬲り、青年貴族はフランへと歩み寄った。
暗闇の中なのに、まるで影が伸びて来て、覆い尽くされるかのような感覚。
廃屋に差し込む澄んだ月光も、ただ禍々しさを引き立たせるだけだ。

ゆっくり。ゆっくりと。
足が竦んで動けないフランへと、青年貴族は近づいて行った。
怯えるフランの顔を見ながら、愉しげに笑って、肩を揺らしている。

フランは頭を抱えて蹲ろうとした。
怖い。怖いよ。逃げられないよ。
ごめんなさい。お姉様。お姉ちゃん。ごめんなさい。

眼を瞑ってしまいそうになった時。

…げて。

声が聞こえた。
本当に微かな声が、闇から染み込んできた。

フラ、ン。に。げ。て。は。やく…。
逃、げる。のよ…。
は。や、く…。

その千切れたボロ雑巾みたいな声と共に、レミリアは身体をぐっと、起こして見せた。
そし、青年貴族を睨みつける。
可憐な顔は傷と痣だらけ。服もボロボロだった。
それでも、その紅い眼には、確かな意思と力が宿っていた。
青年貴族は驚いたと言うより、僅かながら気圧されたように顔を歪めた。

立ち上がったレミリアはふらふらだった。
その足元には、夥しい量の血溜まり。月明かりを受け、闇の中でどす黒くぬめった光を返している。

「お、お姉ちゃ…!」

フランはレミリアに声を掛けた。
だがレミリアは、返事をすることが出来なかった。
青年貴族が、一歩でレミリアの下まで踏み込んで、下段の回し蹴りをぶち込んだからだ。
肉と骨がひしゃげ、潰れるような、くぐもった音が、闇に中に響いた。
だが、レミリアは蹴飛ばされただけでは無かった。
渾身の力を振り絞って、その脚にしがみ付いた。

いや、違う。
縋りついたのだ。
レミリアは、血の咳を零しながら、その脚に縋り、青年貴族を見上げる。

「…お、願。い。…、フ、ラ、ンだ。けは。…いも、う。と。だ、け。は…」

その眼に宿る意思の強さとは裏腹に、レミリアの声は哀願のそれだった。
青年貴族は一瞬だけ驚いたような顔を浮かべたが、すぐに満足そうに唇を歪めてみせた。
邪悪な笑みだった。

「そうだな。見逃してやろう。お前は」

レミリアの貌が、今までにないほどの絶望に歪んだ。
「や…だ、駄。目…。嫌…!」とその脚に縋るが、青年貴族は、くふふ、と笑う。
そして、脚に取り付くレミリアの首を片腕で掴み上げ、宙吊りにした。
軽々とレミリアの身体を持ち上げた青年貴族は、そのまま無造作に床にレミリアを叩き付けた。
轟音と共に、埃が積もり、腐りかけだった廃屋の床が、めちゃくちゃになった。
暗がりの中に、再び濛々と埃が舞う。

「お姉ちゃん…!!」

フランは思わず飛び出した。
青年貴族の傍に寄るのも構わず、その足元に出来た大穴。
床の破片の中に、埋もれるようにして倒れる姉の姿を見つけた。
その傍に駆け寄り、姉の身体を必死に破片の中から掘り出し、その名を呼ぶ。

逃げ、て、フ。ラ、ン。
レミリアは苦しげにうめきながらも、名を呼んでくれた。

フランはぼろぼろと泣き出しそうになったが、ぐっと堪えた。
優しい手つきで、レミリアを横たえてから、立ち上がり、すぐ背後に居る青年貴族に振り返った。
そのフランの眼には、怯えの中にも、覚悟があった。
青年貴族は、いやらしい笑みをつくった。

「私は、大人しい子供が好きでな。あまり元気の過ぎる餓鬼は要らん」

フランは震える身体を叱咤し、青年貴族の黒い眼を見詰めた。
その健気な様子に、青年貴族は、くっくっく、と可笑しげに笑った。
その笑い声の邪悪さに、フランは呼吸が止まりかけたが、それでも、負けなかった。

何でも…貴方の言うことを、聞きます。だ、だから…。

フランは震える声で言って、埃臭い床へと両手をついた。

「お願い、です…。もう、お姉様には、ひ…酷いこと、しないで…ください」

青年貴族はもう一度、満足そうにくっくっくと笑い、すぅとフランの頬を撫でた。

「約束しよう。お前は姉の分まで、私に奉仕するが良い」

フランの服従の態度が、余程気に入ったのか。
青年貴族の声は、愉しげで、嬉しそうだ。
そして、フランの頬を撫でながら、レミリアを見下ろした。

多分、青年貴族は気付いていたのだろう。
レミリアが、顔をぐじゃぐじゃにして涙を流しているのを。
それを知った上で、フランが忠誠の言葉を言うのを待っていたのだ。

妹を失う喪失感。
妹を守れなかった無力感。
その両方を味あわせつつ、青年貴族は見下ろしたレミリアに声を掛ける。
穏やかな笑みさえ浮かべて見せながら。
悪意の笑みだった

「機会があれば、また妹に逢わせてやろう」

そこめで言って、青年貴族は身体を屈め、レミリアにだけ聞こえるような小声で耳打ちした。
まぁ、調教の過程で壊れなければの話だがな、と。

「まぁ、朝日が昇る前には身体も回復するだろう。達者でな。弱き同族よ」

喉を鳴らして立ち上がり、青年貴族はフランの肩に手をやった。
そして、行くぞ…、と有無を言わさぬ声で、フランに声を掛けた。

レミリアは必死に起き上がろうとしたが、上体を起こすだけで精一杯だった。
待って。お願い。妹を。フランを返して。
そう言おうとしたが、言葉も出ない。

月明かりに照らされた廃屋。
レミリアだけが、置き去りにされようとしている。
大切なものを失おうとしている。

青年貴族に肩を押される、フランの背中が見えた。
その背中が、遠い。

果てしなく。
遠い。
遠過ぎる。
遠ざかっていく。

震える手を伸ばした。

届くはずも無い。

廃屋の空気が、ひどく冷たい。
暗い。真っ暗だ。
その虚しく空を掴む掌の向こうで、フランドールがこちらを振り返った。
眼に涙を溜めたまま、だが、微かに笑顔を浮かべていた。

今まで、ありがとう。
お姉ちゃん。
ごめんね。
だい好き。

フランドールの声は、鼓膜を切なく揺らした。
闇に木霊する幼い声は、レミリアの心を深く抉った。
涙が滂沱と流れてきた。

喪失感と無力感は、絶望に変わり、次に、怒りに変わった。
その感情が憎悪へと姿を変え、レミリアの“力”を呼び起こした。

レミリアは、神を、運命を憎んだ。
無力な自分を憎んだ。
そして、心の底から望んだ。

フランドールが、この場から逃げられる力を。
未来を。
運命を。

私はどうでもいい。
どうなっても良い。
このまま朝に焼けれ、塵に帰っても構わない。

願いながら、レミリアは自身の中に在る何かが、眼を覚ますのを感じた。
まるで世界に、耳を傾けられているかのような。

レミリアが、どうか…、と、呟いた時だった。
夜の空気が、紅に爆ぜた。

覚醒の領域となった廃屋を中心に、それは魔力の大渦となり、紅い風を巻き起こす。
廃屋を取り巻く夜の森は、その脈動に泣き喚く。
眠りについていた獣達は、一斉に逃げ出した。
空に浮かぶ月は、いつの間にか紅く染まり、夜空に穴を穿っていた。

自らの身体から奔る魔力光。
それは、紅い十字架を象り、廃屋に突き立つ。

「な、なんだ…これは…」

何が起こっているんだ…。
吸血鬼の青年貴族は、荒れ狂う魔力から顔を腕で覆いながら、絶句してそれを見上げた。
フランドールは、驚愕以上に恐怖を感じた。
姉から奔る、この尋常ならざる空気の震え。
レミリアが、どうにかなってしまうのではないか。
お姉ちゃん、と叫んだが、紅の大渦に飲まれ、その声は届かない。


仰向けに倒れたまま、己の魔力で聳える塔を虚ろな眼を向ける。
そして、レミリアは更に願う。

妹に、力を。
フランには、力を。
生き抜く力を。
立ち塞がる脅威を、退ける力を。
夜を征く力を。
他者に踏みにじられることの無い力を。
全てを壊す力を。

廃屋に聳えた紅十字が、その輝きを増した。
レミリアは、自分の命が削れるような感覚を覚えた。
意識が遠のく。
命の燃焼を感じる。

それでも、願うのをやめなかった。
もう、動かぬ自分では。
無力な自分では。
願うことしか出来ない。
私が、最後まで私である為に、祈り、願う。

廃屋の屋根は、その魔力の大渦にとうとう吹き飛ばされた。
仰向けに倒れたレミリアの眼に、血染めの月が映った。

その瞬間。
紅の薄明が、一瞬だけ空を覆いつくした。
聳える紅十時は、無数の光の粒子となり、霧散した。
大渦は次第に収束し、静まり、夜の暗さに塗り潰されていく。

屋根の無くなった廃屋の暗がり。
紅い月はその空間の沈黙を照らし、不穏をかんじさせる。
明らかに、何かが起こった。
青年貴族は、禍々しい紅い月を見上げ、息を呑む。

何だ、あの紅い月は…。
怯えるような震えた声で言いながら、青年貴族は呼吸を乱す。
夜空は紅から、元の暗黒へと変わっているが、月だけはまだ紅い。

自分の知っている夜と、今の夜は違う。
決定的に何かが変わったのだ。
月の色もそうだが、それだけでは無い。
そう感じた。
それは、何だ。
この現象を起こした張本人であろう幼い吸血鬼は、眼を閉じて、仰向けに倒れたままだ。
青年貴族は倒れるレミリアへと近づこうとして、脚を止めた。

突然だった。
青年貴族の隣にいたフランが頭を抱え、その場に蹲り苦しみ出したからだ。

「あ、あああっ! はっ…あああぁあぁ、ぐ、ぐっ…」

青年貴族はフランの手を乱暴に掴み、おい、と声を掛けた。
だが、フランはそれどころでは無かった。
反応を返す余裕も無いほどの、苦しみようだった。
しかし、その異常は、端から見ていた青年貴族も気付いた。

「「いぎぎぎぎ…う、う、…ぐぅぅうぅっ…!」」

声だ。
呻き声。
声が、二重に聞こえるのだ。
まるで、二人の同一人物が、同時に呻いているような。
奇妙で、歪んだ共鳴だった。

青年貴族は後ずさった。

何だ。
何が起こっているんだ。
自分だけが、この変異の中で蚊帳の外だった。
このまま此処に居ては、不味い気がした。
青年貴族は月明かりの照らす、もはや廃屋とすらいえないような廃墟に視線を巡らせる。
特に、周囲に変わった事は無い。
夜。夜だ。

気色の悪い餓鬼め。
悪態を吐いてから、青年貴族は苦しむフランの手首を掴んだ。
そうだ。玩具は一つで良い。十分だ。
これだけ可憐な少女を手に入れたのは初めてだ。
今日のこの不気味な出来事も忘れるほど、甘美な時間を与えてくれるだろう。

この少女を連れて、逃げよう。
そう思った時には遅かった。


「「ぎ…ぎっ! ううぅ…あああああああああっ!!」」

悲鳴のような苦悶の声を上げながら、身体を痙攣させながら仰け反らせた。
ガクガクと身体を震わせ、空に浮かぶ紅い月を見詰め、その眼に刻んだ。
そして、ズグズグ、ずぶ、ぞぶ、と、不気味な音を立て、フランの背中に翼が生えた。
いや、翼というよりは、枯れ木の枝のような、節くれだった太い枝のようだ。
その枝を覆うように、七色の光が滲みだした。
其々の光は、宝石のような面晶体を象り始める。
七つの、七色の面晶体。
枯れ木の翼はそれを纏い、淡い光を漏らし始めた。
酷く歪で、不自然で、不気味な翼だ。


「…あはぁははは」

急に、声が二重では無く、一つになった。
底抜けに明るい、笑い声だった。
何をわらっている。
そう聞こうとした時だった。
風を感じた。
青年貴族が、妹の手首を握っていたはずの腕。
その肘から先がなくなったことに気付くには、数秒掛かった。
数瞬してから、青年貴族の千切れた腕の断面から血が噴き出した。

その光景を見て、ぎゃはっ!、と、フランは顔全体を歪めるようにして笑った。
青年貴族が悲鳴を上げるよりも早く、フランは一歩で踏み込んで、更に半円を描いて、背後を取った。
背後に回りこむついでに、残っていたもう一本の腕を引き千切った。
両腕を失った青年貴族は、今更な悲鳴を上げて、フランを振り返る。
その貌は恐怖に歪みきっていた。
フランは哄笑を漏らしながら、振り返った青年貴族の両膝を掴みに掛かった。
ひぃ!、と情けない声を上げて、青年貴族はすっころびそうになったが、出来なかった。
フランの小さな腕が、ガッチリとその膝を掴んだからだ。

両腕を失った青年貴族は、抵抗らしい抵抗も出来ず、今度は両膝を握りつぶされた。
ばきゅばきゅ、という、間抜けな音が、天井の無くなった廃屋に響く。

暗がりに浮かぶ、狂気に彩られた紅い眼。
それが、今度は青年貴族を見下ろしていた。
ひぃ、ひぃ、ひぃ、と、生まれたばかりの子牛のように鳴きながら、青年貴族はフランを見上げる。

紅の光は三つ見えた。
紅い眼が二つ。赤い月が一つ。
見下ろしていた。
埃塗れになりながら、青年貴族は、恐怖に顔を歪めた。
そして、芋虫みたいに身体をうごめかして、逃げようとした。
フランはその様子を、本当に、昆虫の観察をするかのような目付きで見ていた。

「こ、こんな…! 誰か…!お、おい…! おい!」

青年貴族は、そこで見つけた。
ゆっくりと身体を起こす、呆然とした姉の姿を。
こちらの様子には気付いていなかった。
ただ、虚脱したかのように、中空に視線を彷徨わせている。

止めてくれ。止めさせてくれ。助けてくれ。
青年貴族はレミリアに叫んだ。
滑稽な程悲痛な声が、廃墟を越えて、夜の森に木霊した。

レミリアは、虚ろな表情のまま青年貴族に視線を向ける。
そして、その背後に視線をずらして、顔を凍りつかせた。
其処には、土砂降りの血の雨を被ったような、真っ赤な妹の姿。

「フラ――」

怪我でもしたのか。そう思ったが、違う。
明らかに、違う。
フランは怪我などしていない。
寧ろ、重傷なのは、青年貴族の方だ。
両手、両脚を失い、顔を恐怖に歪み、引き攣っていた。
傷口からは血が溢れ、土ぼこりだらけの床に、温い血溜まりを作っている。

何が起こったのか、レミリアは理解出来なかった。
だが、眼を見開き、血を浴び、唇を裂くようにして笑うフランを見て、身体が震えた。
信じられなかった。
この青年貴族の傷は、フランの仕業なのか。
いや、そんな。
レミリアが、呆然と仕掛けた時だった。

這い蹲った青年貴族の右肩が爆発した。それは、爆発としか言い様が無かった。
ポン、というか、ボン、とうか、妙に軽い破裂音だった。
続いて、悲鳴。絶叫。
青年貴族はのたうち回った。
その様子を見て、フランは、あははは、と朗らかに笑った。楽しそうな声だった。
血飛沫が上がり、フランの狂気を滲ませた笑みに、赤い斑点を作った。
そのフランの小さな手は、軽く握られている。

レミリアは、理解が追いつかない。
その間に、フランは、自分の掌に視線を移して、「私、こんな事が出来たんだ」と呟いた。
そして、何度もグーとパーを繰り返すように、掌を握ったり、開いたりした。
小さな炸裂音と絶叫が、五、六回、断続的に続いた。

夜の廃墟を、明るい火花が数回散り、照らした。
血の匂いが充満し、辺りは血飛沫で、赤の斑点だらけになった。

青年貴族は、もう人間の形をしていなかった。
それでも息があるのは、吸血鬼だからだろう。
彼に残されたのは。首と僅かな胴体部分と、其処から零れる澱んだ血だけだ。

哀れな姿に成り果てた青年貴族は、惨めに顔を歪めて、嫌だ…、と呟いた。
フランは、にっこりと笑って、死んじゃえ、と言った。
レミリアは、待って、と言ったが、遅かった。その言葉は、先程よりも少し大きめの炸裂音に掻き消された。

青年貴族は、ただ肉塊になって、そこら中に撒き散らされた。
フランは、再び哄笑を漏らした。
あはは、あは、あはははは――!
身体全体をガクンガクン揺らすように笑って、フランはレミリアに向き直った。

レミリアは、立ち上がり、よろめいた。
身体に力が入らない。
駄目だ。
今見ている光景を、受け入れられない。
夜の空に木霊するフランの哄笑は、狂気そのものだった。




あの光景は、今でもはっきりと覚えている。
未だに、夢に見る。

自分の力が、運命操作であることを知ったとき、其処でレミリアは、自分の願いを思い出した。

フランドールに、“力”を願ったのは誰か。
脅威を退ける“力”を。
他者に踏みにじられること無い“力”を。
全てを壊す“力”を。
レミリアは、絶望と共に、理解した。

一時の激情の願いは、呪いのようにフランを縛り付けた。
狂気という“力”に。
運命は、レミリアの願いを聞き入れた。
聞き入れられてしまった。

レミリアは、妹に“力”を願い、それを抑える心の強さを願い損ねた。

レミリアにとっての運命とは常に残酷で、無慈悲なものだった。




今回の異変でも、大きな運命の捩れを感じる。
嫌な感じだ。

運命は切り拓くもの…、か。
応接室のソファに座り、脚を組みなおしつつ、レミリアは呟いた。
その視線の先では、お茶菓子にぱくつきながら、咲夜と談笑するフランの姿。

後で、ソルと遊んで貰おうっと!
しかし、フランドール様、ソル様はお忙しい方ですので、今日は無理かと思われますが…。
ちぇー…。

無邪気に談笑するフランからは、今は狂気の片鱗は見えない。
レミリアは、その健気さに胸が痛んだ。

“全てを破壊する程度の能力”という、強大な力の精神負荷。
それによって狂った心を、フランは少しずつ克服していった。
パチュリーの精神魔法の助けもあり、今ではその狂気は日常ではほとんど表に出てくることは無くなった。

また、狂気に歪んだ笑顔では無く、優しげな笑顔を向けてくれるまでになった。
レミリアは運命操作に縋ったが、フランは歪んだ運命を克服しつつある。

強い子だ。
レミリアは、誇らしげな顔でフランを見詰めた。
そして、決意する。
あの子の笑顔を曇らせるような連中の存在は許さない。
もしも、フランの“力”を目的に、紅魔館に攻めてくるならば。
ソルにも言ったように、欠片も残さず滅する。

レミリアは、紅茶の入ったカップを置いて、一つ息を吐いた。
咲夜が、レミリアに向き直り、眼を鋭く細める。
フランが「あれ、どうしたの?」とレミリアと咲夜を見比べた。

その時だった。

紅魔館全体が軋むほどの強烈な揺れ。
そして、気色の悪い浮遊感を感じた。
応接間の家具や燭台、カップにポット、装飾品が、バラバラと床に落ちる。
地鳴りのような低い轟音。
沈む船の中に居るような感覚だ。

レミリアはその揺れに干渉されないよう、脚を組んだまま微かに浮く。
来たわね…。
呟いて、そして、鼻を鳴らした。

一方のフランと言えば、その揺れに翻弄されていた。
いや、その揺れを楽しむように、あははははと笑って、揺られるがままのソファに座って、身を任せている。

咲夜は、もう居ない。
異変を察知し、既に動いている。
向かったのは、門か。
玄関ホールか。
それとも、ソル達を呼びに、図書館へと向かったのか。
まぁ、咲夜なら、より良い選択をしていく筈だ。
心配は無いだろう。

揺れで倒れていく家具を見て、レミリアは溜息を吐いた。
片付けが大変ね…。

「あれ…」

フランがそう呟いた時、不意に揺れが、ぴたりと収まった。

続いて、外の方で轟音が響いた。
あれは、門の方だ。
ビリビリとした、空気の振動も伝わってくる。
気功の鳴動、衝撃が、壁越しにも感じた。

美鈴も頑張ってくれているようね。レミリアは眼を細めながら、呟く。
まったく、今日は無礼な客人の多いことだ。




[18231] 十九・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/11/18 23:08

 モニター前で、男は眼鏡のブリッジを押し上げ、おーい…、と呼びかけた。
低いのに、妙に抑揚のある声だった。

男は多数のモニターとコンピューターの群れにぐるっと囲まれ、その中に埋もれるようにして複数のコンソールを操作している。

 薄暗い研究室の中を、モニターの光が照らし、時に点滅し、男の影を揺らしていた。
 膨大な量の情報を把握しつつ、男は中空に展開された幾つものモニターに眼を流していく。
モニターには幾重にもウィンドウが開かれ、男が画面に触れる度、その画像が切り替わる。
そして、何度が画面に触れる操作をしたところで、モニターに映し出される映像が、固定化された。
モニターには、多数のグラフ、バー、数値などが表示されている。

男はその数値に視線を滑らせながら、もう一度、おーい…。と声を掛けた。
…聞こえてるんだろ?
疲れたように言って男は、モニター前のパネルを高速で操作する。

五月蝿イゾ、駄目博士。

やけに冷たい合成音声が返ってきて、男は溜息を吐いた。
ごめんごめん。…いや、ちゃんと繋がってるようで何よりだよ。
男も、モニターとコンソールを操作しながら、いい加減な返事を返す。
空間隔離は成功だねぇ…。後は、君達次第なワケだけど…。
ふむ、と思案するように呻って、男は「いけそうかい?」と声を掛けた。

戦力、機術兵器、共ニ万全ダ。ダガ、アノ屋敷ノ防衛しすてむガ作動シテイル。

薄暗い研究室のモニターから響く合成音声が、忌々しそうに歪んだ。
男はコンソールを操作しつつ、モニターに触れ、更に幾つかのウィンドウを展開する。
それらに視線を滑らせて、男は眼鏡の奥の眼を細めて、「また厄介ものを…」と呟いた。

「随分強力な結界だね…。建物全部を箱状に覆ってるのか…」

「ソノヨウダ。上空カラノ侵入モ、恐ラク不可能ダナ」

結界表層ニ触レタコピー共ハ、一瞬デ蒸発シタカラナ。
合成音声は、冷静過ぎる声音で呟いてから、ダガ…、と続けた。

「屋敷の外壁から空までをカバーしてるけど…。この結界、一つ穴が在るね…」

合成音声よりも、先に男がコンソールを操作しつつ、呟いた。

「位置的には…丁度、屋敷の門の所か…。 その様子だと、“門番”でも居るみたいだね?」

男の質問に合成音声は答えなかった。その返事代わりに、現状の報告に入る。

ヤハリ人格AIヲ搭載シテイナイ劣化コピー共ハ、戦闘ニハ向カンナ。
…“門番”一人ニ、既ニ十体以上ガ破壊サレタ。

「まぁ、戦闘力では、君みたいな人格AI搭載型には及ばないからね。…うまく使ってよ」

「言ワレルマデモナイ」

「頼もしいね…」

男は言って、中空に並ぶモニターに再び視線を巡らせる。
そして、これは情報を把握するだけで一苦労だな…、と呟いた。

「取り合えず、手筈どおりに頼むよ…。サポートはするから」

男の声に、もう合成音声はもう返っては来なかった。
通信自体は繋がっている為、聞こえていない、という事は無い筈だ。
無視されているのか。
男は、額を押さえて重い息を吐いた。
今度のは、随分捻くれた…というか、ストイックな人格AIだな…。

呟いてから、思う。
ロボカイの人格AIは、もう一度研究し直す価値があるかもしれない。

今回出撃したロボカイは、以前白玉楼に向かった個体ではない。
別の個体。だが、搭載している人格AIは同じだ。
その同じ筈なのに、その性格は大きく違う。

今回のロボカイは、悪い意味で機械的だ。
徹底的に任務に忠実。
それ以外の事には執着しないそのAIは、旧シリーズのロボカイに近い。

興味深い現象だ。
男は、顎を摘んで、思案するように眼を伏せる。
偽りの意識であるAIでも、『自我』を持てば、個々に『精神』が生まれるのか。

ならば、其処には『精神力』という概念も、同時に生まれる。

『精神力』とは、読んで字の如く、精神の力だ。
金属の体に、自我と意識、そして精神を兼ねた機械兵器。
そこに、実験段階にあるギア細胞を加えると、どうなるのか。
聖戦の破壊神、ジャスティスに並びうる個体を創り出せるかもしれない。
更に、幻想郷に存在する未知なる能力を付加する事が出来れば。

GEAR MAKER。

“彼”の居る場所に、届くかもしれない。

“彼”の見ている世界を、見ることが出来るかもしれない。

心が躍りだしそうになったが、軽く鼻を鳴らして、落ち着ける。
組織の人間に過ぎない男には、やるべき事があった。
それは、すでに始まりつつある。

「紅魔館か…。全く、上も厄介な指示をくれたものだよ…」












激しい揺れの後、紅魔館の魔法図書館は、酷い有様になっていた。
聳え立っていた無数の巨大な本棚は、倒れに倒れ、其処に詰まっていた本も無残に散らばっている。

いや、散らばっているというか、積もっている。
本が敷き詰め詰められた床、或いは、無数の本で出来た床のような状態だった
あっちにもこっちにも、というか、見渡す限りに本が散乱し、足の踏み場などまるで無い。
貴重な魔道書、魔法書も、床にぶちまけられ、其処に込められた魔力の光が、所々で点々と灯っている。

カバーの弱っている本や古い本などは、バラバラに解け、紙の束となって散乱していた。
紙と文字の海と化した、魔法図書館。

埃が舞い上がるその中、アクセルは体を起こして辺りを見回して、
パチュリーとソルに視線を向けた。

二人共、怪我は無いようだ。
ソルは天井を睨みつけ、その眼を危険な感じに細めている。
パチュリーは、何処か悲しげな様子で、今の図書館を見回していた。
本を大切にするパチュリーのことだ。
見渡す限りに本棚が倒れ、本が散らばり、ぐちゃぐちゃになったこの光景はショックに違い無い。

だが、パチュリーはすぐに表情を引き締めた。
そして、呪文を呟きつつ、宙に指でルーンを刻んだ。
刻まれたルーンは澄んだ紫色に淡く輝き、明滅する。
薄暗く埃臭い空間を、澄んだ淡い紫色の光が、仄かに照らし出す。
パチュリーの朗々とした詠唱の響きと共に、その紫色の光は図書館内に染み渡るように広がっていく。

其処で、アクセルは思わず、すげぇ…、と呟いた。
刻まれたルーンの明滅に答えるかのように、床に散らばっていた本達が浮き上がりだしたからだ。

いや、本だけでは無い。
巨大と言っていい本棚の群れも、ゆっくりと浮き上がり始めている。
パチュリーは詠唱を続けながら、更にルーンを指で刻んでいく。

一つルーンが刻まれる度に、図書館全体の空気が、ブン…、と振動するような音がする。
それと同時に、更に多くの本棚と本が紫色の光に包まれ、宙へと浮き上がった。

パチュリーは、浮きあがらせた無数の本棚と、本を見上げる。
そして、浮かび上がった本達に視線を巡らせながら、何かを巻き直すように、指で小さく、ゆっくりと円を描く。

一度、二度、三度、四度―――。

パチュリーが円を描くたび、今度は本棚が整然と並びながら配置されていく。
とてつもない重量を誇るであろう本棚の群れが、まるで音も立てずに並んでいく様は、一種異様な迫力があった。
更に、浮かび上がった無数の本の群れも、その本棚へと吸い込まれるようにして戻っていく。

まるで巻き戻しの映像を見るかのようなその光景に、ソルは眼を細めつつ、パチュリーに向き直る。

「…予め、念動術の為の処置の施していたのか…」

「普段から…、騒ぎが絶えないから…。片付けの準備は、必須…」

パチュリーはソルの低い言葉に頷きを返してから、ざっと周りを見回した。

地を埋め尽くしていた本の山は、大方その本棚へと戻りつつある。
だが、全て、という訳ではない。
まばらではあるが、未だ地面に落ちたままの本もある。

パチュリーはそのうちの大き目の本を一冊拾い上げ、それを脇に抱えた。
ルーン文字が刻まれたそのゴツイ表紙の本は、一目見ただけで、それが魔術的なものだと分かる。

パチュリーは、その本を捲りつつ、再び短く呪文を唱えた。
捲られた本のページから淡い紫色の光が漏れ、今度はその光が、立体的な映像を浮かび上がらせた。

それは、まるで3D映像の地図。 
かなり細かに作られた精巧な模型が、光を纏って浮いているようでもある。

これは…紅魔館の周囲かい…
呟いて、アクセルはその映像に鋭い視線を向ける。
パチュリーはそのアクセルに頷いて見せた。
そして、表情を難しげに歪める。

「外壁に刻印されていた結界が起動してる…」

立体的に映し出された映像は、紅魔館とその周囲を映し出している。
だから、一目で分かった。
紅魔館の外壁から、空に真っ直ぐ伸びる紫色の障壁。この障壁は、紅魔館を囲んでいる。
更に、紅魔館の囲む障壁の上に蓋をするように、魔法陣の刻まれた結界が、空に浮かび上がっている。

アクセルはその様を見ながら、うへぇ、感嘆の声を上げた。

「こんなデカイ結界を何時の間に…」

「有事の際には、自動で起動するよう…以前から用意していた…」

驚くアクセルに淡々と答え、パチュリーは映し出された映像を眺める。
そして、紫水晶のような瞳を、訝しげに細めた。

結界で守られた紅魔館を更に包むように、薄い膜が半球状に張られているのが映像では見て取れたからだ。

膜の色は、濁った青色。
不吉な、濃い青だ。

「…結界を…更に結界で隔離しに来たか…」

…糞面倒な事だ…。立体映像を見ながら、ソルは吐き捨て、ゴキッと首を鳴らす。
ソルの低い声を聞きながら、アクセルは気付いた。

その結界で包まれた紅魔館の門前。
3D表示されている映像の中に見覚えの在るシルエットが多数映りこんでいる。
白と青の騎士服に、四角を三つ並べただけのような不細工な顔の機械兵士。

ロボカイ。
その群れが、門に押し寄せてきている。
そして、その群れに一人で立ちふさがる、美鈴の姿。

ソルも気付き、顔を顰めるどころか表情を殺すような無表情になった。
アクセルは、「俺達もぐずぐずしてられねぇな、こりゃ」と呟いた。
そして、先に行ってるぜ…!、と言い残し、パチュリーに背を向け、駆け出す。

ソルも、その背中を追おうとしたが、何かに気付いたように足を止める。
パチュリーの魔術によって構成された立体映像に再び眼をやり、「…パチュリー…」と声を掛けた。

その低い声は、薄暗い空間に良く通った。
パチュリーは無言のままソルへと向き直る。

「…結界の穴は…屋敷の門だけか…」

パチュリーは頷き、パチュリーも立体映像に映る、紅魔館の門へと眼を向ける。

「今発動している結界は…かなり強力…。内からも…出入りは難しくなるから」

強固な結界とは、融通が利かない。
結界で紅魔館を覆い尽くしてしまうと、今度は完全な篭城戦を強いられることになる。
その為、現在紅魔館を守る防御結界にも、一つだけ穴があった。
それは門。
レミリア・スカーレットの城である紅魔館を守りつつ、敵を迎撃する為の砲門だ。

箱状に展開された結界は、門以外からの侵入者を遮断する。
外壁が全て結界となる為、紅魔館への侵入口は正面の門のみとなる。
故に、この紅魔館の門番は、有事の際にこそ、その真価を発揮する。

パチュリーの言葉を聞いたソルは、「…そうか…」と呟き、手にした封炎剣を肩に担ぐ。
その重量が肩に掛かったことで、ソルの足元の床がミシミシと悲鳴を上げた。
大振りの剣を片手で軽々と扱うソルを見ながら、パチュリーは頷きを返す。

「私も出る…」

パチュリーが呟きながら、本のページを捲り、短く呪文を唱えた。
すると、薄い紫色の光を放っていた立体映像は消え、図書館の中に薄暗がりが戻ってくる。

「今回は、嫌な感じがする…」

呟いたパチュリーは、ソルを見上げた。その時だった。
舞い上がっていた埃も薄れていく中、ぱたぱたと小悪魔がパチュリーの元へと走りよって来た。

「パチュリー様! お怪我、お怪我はありませんか!? 」

小悪魔は酷く心配そうな様子で、オロオロしながらパチュリーの身体へと視線を走らせている。
その様子に、パチュリーは微かに笑みを浮かべ「大丈夫…」と答え、その頭を撫でてやった。
使い魔である小悪魔の方がパチュリーよりも上背があるので、パチュリーが少し背伸びをしている。
微笑ましい光景だが、のんびりしている訳にもいかない。

ソルは、「…先に行く…」と低い声で言って、図書館の出口へと向かう。

背伸びしつつ、パチュリーは小悪魔の頭を撫でてから、周囲を見回した。
まだ散乱している本もあるし、バラバラになってしまった本も散らばっている。
薄暗いと図書館には、長い間に随分埃も溜まった。
パチュリーは「丁度良い…」と呟き、それから、小悪魔の顔を見詰め、表情を引き締めた。

「あなたは、此処の掃除をしておく事…」

そのパチュリーの言葉に、小悪魔は、ええっ!? と声を上げる。

「そ、そんな事してる場合じゃ…!」

反論しかけた小悪魔の頭を、パチュリーは背伸びをしてもう一度撫でた。
優しい手つきだった。

「あなたを外に出すのは危ない…。私が帰ってくるまでに…綺麗にしておくこと…」

小悪魔は何かを言いかけてから、悔しそうに唇を噛んで、俯いた。
良い子…。呟いて、パチュリーは頭を撫でてやりながら、すぅと、微かに宙へと浮く。
そして、図書館の出口へと向かうソルの背中を追う。

無事で帰って来て下さいね…! 小悪魔の、何処か必死そうな声が聞こえた。
パチュリーは肩越しに微かな笑みを返し、ええ…、と答えた。

答えてから、パチュリーはすぐに思考を切り替え、巡らせる。

もう既に美鈴が門番として交戦中。
咲夜、そしてアクセルも、すぐに其処に合流するだろう。
レミリアとフランはどう出るのか。
高み見物か。
或いは、前に出るのか。

まぁ、後者でしょうね…。パチュリーは思いながら、脇に抱えた魔道書を抱え直した。

敵の狙いは、恐らくはスカーレット姉妹。
正確に言えば、その“能力”。
紅魔館を攻めてくる者の欲しがるものは、大抵は“運命”と“破壊”の力だ。

“運命”。
そんな重荷を背負った姉妹の友として、パチュリーは此処に居る。

ふと、視線を上げて、ソルの背中を見て、思う。
薄暗がりの中、歩を進めるソルの寡黙な背中は、平和ボケしかけた頭を覚まさせる。

今、ソルが此処に居るのも、何かの“運命”なのか。
レミリアの持つ力が、何かを引き寄せつつあるのか。
それはパチュリーにも分からなかった。








重く、深く息を吐き出し、体の重心を下げつつ、ゆったりと構えを取る。
緩慢な動きだが、隙は無い。その掌には、淡い極光が揺らめいていた。

「恐れも何も感じないのか…、こいつ等は」

門を背にし、中国拳法の構えを取った美鈴は、気味悪そうに呟く。
その足元には、既に二十体程のロボカイの残骸が地肌を覆っていた。

立ち込める、マシンオイルの匂い。
ギギギ。ギギギ。ギギギ。
意識を持たないロボカイの群れは、美鈴と門を囲むようにして並んで、気味の悪い金属音を鳴らしている。
胸が悪くなるような、不快な音だ。
美鈴は微かに表情を歪めながら、視線を巡らせる。

生気が無く、それでいて無駄の無い動きで、門を取り囲むロボカイの山。
恐らく、と美鈴は思う。もっと居る筈だ。
今、この門に攻め込んできているだけでは無い。
気配と、その独特の足音が、屋敷を囲むように響いているのが聞こえるからだ。
美鈴の五感、特に、視覚や聴覚は、人間とは比べ物にならない程良い。
気配を察知する力も、“気を使う”という自身の能力上、かなり高い。

だから、分かる。感じる。
敵は相当な数だ。
それに…、とチラリと空を見上げた。
空の色がやたら濃い青に濁り、日光すら気味の悪い青白に歪んでいる。
黒と青を混ぜた絵の具をぶちまけた様な空だ。

いや、空自体が濁っているのではない。そう見えるのだ。
紅魔館を覆った、青く濁った光のドームが、外界の景色をぐちゃぐちゃに捻じ曲げている。
ついさっきまでは、暖かな日差しが照らす、平穏で牧歌的な風景だったというのに。
その面影は微塵もない。
今は、青黒いドームが外の日光を染めて、奇妙な陰影をつくりながら紅魔館を照らしている。

絶えず変化する、澱んだ青に染まった陰と陽の中。

「全ク…役ニ立タン鉄屑共メ…」

冷たくも歪んだ合成音声が響いた。
美鈴は構えを解かず、視線だけをその合成音声がした方へと向ける。

ざざっと、ロボカイの山が二つに割れ、道が出来た。
そいつは、やけに人間臭い仕草で、首をダルそうに揺らして、歩み出て来た。

傀儡のロボカイ達は、“封雷剣”のレプリカを握っている。

そいつも同じだった。
姿形も、まるで一緒だ。

白と青の騎士服に、四角い眼。
簡素な口に、耳には螺子巻き。くすんだ金髪。
粗末そうな鉄仮面は、周囲の木偶達と同じだ。

だが、纏う雰囲気が明らかに違う。
相変わらず生気の無い合成音声だが、其処には妙な存在感がる。
そいつは、美鈴の少し前で立ち止まった。
そして、美鈴の背後にある門と、紅魔館に視線を向けて、器用に鼻を鳴らした。

「コノ結界ノ唯一ノ侵入口ハ、ソノ門シカ無イ…トイウ訳カ」

抉ジ開ケロ。
もう一度、紅魔館と門を見比べ、そのロボカイは顎をしゃくって、木偶のロボカイ達に指示を出した。

木偶のロボカイ達の反応は早かった。
合成音声を放つロボカイを中心として、左右に割れた木偶のロボカイの大軍。
それが、堰を切ったように、美鈴になだれ込んできた。

木偶達はひたすら前のめりだ。
死ぬとか、壊れるとか、そんなものはおかまいなしだった。
木偶達は鉄の濁流となって、紅魔館の門に殺到しようとした。
もはや、剣など構えていない。

ただ、突っ込んで、突進して、突き破ろうとしている。

地が震えるような、激しい振動。
圧倒的な物量とパワーで、門番ごと門を砕き抜くが為に、木偶達は巨大な槌と化していた。
いや、鉄屑で出来た濁流だ。

その途轍もない迫力に、だが美鈴は、顔色一つ変えない。
両腕に纏っていた極光の揺らめきを、更に強くさせ、ゆっくりと、静かに息を吸い込む。
眼を細め、拳を軽く握る。
そして、ダンッと脚で地面を鳴らし、更に重心を落とす。
踏み抜かれた地面が大きく凹み、その周囲の地盤までもが砕かれ、岩滓が舞った。

気が練られ、美鈴の体の中に渦を巻く。
空気が張り詰め、時間の流れが酷く遅く感じられた。

鉄の濁流が向かってくる速度が、いやにゆっくりに思える。
それだけ、自分は冷静で、集中しているということか。
美鈴は、体の内に気を練りながら、すっ、と体重を前に乗せた。

見渡せる限りに、この木偶達は配置されているだろう。
ならば、その全てを倒し、壊すまで。

ぐぐっと腰を落とした美鈴の体からも、極光の揺らぎが立ち上る。
美鈴は、吸い込んでいた息を止め、鋭く吐いた。

それと同時に、鉄の濁流へと正面から突っ込む。
鉄化面の雪崩が、視界一杯に広がった。

圧倒的質量の鉄の濁流と化した木偶達は、しかし、結局は木偶でしかなかった。
美鈴は体を沈めこませながら、濁流を押し返すかのように両手で掌打を打ち込んだ。

掌を打ち込む瞬間。
美鈴の体が極光に輝き、その掌からも、極光に波動が放たれた。
一瞬、音が消えてから美鈴の足元の地面が更に凹み、それに遅れて轟音が鳴り響く。

呆気なかった。
美鈴が放った掌打は、巨大な破壊の波と化して、濁流を崩し、押し戻した。
まず、掌打を受けた濁流の先端だった木偶達は、粉々のバラバラに消し飛んだ。
次に、それに続いていた後ろの木偶達も、美鈴が触れてもいないのに、ぐちゃぐちゃにひしゃげて、吹き飛ばされた。

その見えない力は、木偶達の列を、最後尾まで砕き続け、砕き抜いた。
更にその力は、突き抜けるだけでなく、また拡散していった。
広い範囲に渡って押し寄せて来ていた木偶達も、同時に半壊状態に追い込まれた。

宙に舞う鉄破片の霰が、その破壊のすさまじさを物語っている。
破壊されることを免れた木偶達も、その衝撃になぎ倒され、或いは跳ね飛ばされ、地面を転がって行った。

数瞬の沈黙の後。
バラバラと、破壊された木偶達の金属片が降り注いだ。
それらは地面に突き立ち、また、残骸と成り果てた木偶の上に積もった。

美鈴はふぅ…、と一つ息を吐いてから再び構えを取る。
そして、一度、指をゴキリと鳴らした。
その美鈴の視線の先。

金屑が降り注ぐ様を見上げながら、ロボカイは無感動に佇んでいる。
絶望しているようには見えない。ただ、事実を事実として受け止めているようだ。

ロボカイは黙ったまま視線を下ろし、美鈴と向き直った。
その簡略化されすぎた間抜けな顔も、無言になると気味が悪いものがある。
黙したまま佇むロボカイの傍に、一際大きい残骸が落下し、地を穿つ。
半壊状態になったまま吹き飛ばされた木偶達も、のろのろと起き上がろうといている。
青黒い空の下、人の形をした鉄塊が蠢く光景は、あまり気持ちの良いものでは無い。

「結束は大きな力となりますが…其処に意思が無ければ、脆いものです」

顔を顰めながら、美鈴は周囲に眼を配った。
今の一撃でそれなりの数は減らしたと思ったが、どうも違うようだ。
ギギギ。ギギギ。ギギギギギ―――。

ぱっと見では、数え切れない。
うぞうぞ、もぞもぞ、と肩を揺らすようにして、猫背な木偶達が、再び門に迫ろうと蠢いていた。

一体何処から沸いてくるのか、とも思ったが、地を濡らすこの青黒い陰影が答えな気がした。

「意思ナド関係無イ。兵器ニ、自我モ意思モ在ルモノカ」

冷たい合成音声を響かせて、ロボカイは右手に持った封雷剣のレプリカを逆手に持ちかえた。
そして、何も持っていない左腕に、青黒い光を纏わせた。
いや、それは光、というよりも、靄のようにも見える。酷く不気味だ。

「任務遂行。ソレダケダ」

ロボカイの左腕を包んでいた青黒い靄が、その機械の掌に凝縮していく。
淡かった光が、ぎらつく程にその明度を上げる。眩しい位だ。
その光の雫を、ロボカイは地面に滴らせた。

「破壊サレル事ハ、再生ノ一歩ニ過ギン」

地面に零れ、波紋のように広がる、青と黒の光。
暗がりの中に滲むようにして広がるその波は、地に散乱していた金屑に宿り始める。
美鈴は驚きはしたが、その気味の悪さに顔を顰めた。

そこらじゅうに散らばった、金属の残骸。大きいものもあれば、小さいものも在る。
それらが、ロボカイの元に集いつつあるのだ。
地面を転がるように、吸い寄せられるかのように。
見れば、無数の残骸の、その一つ一つが、青と黒の細い稲妻の線で結ばれている。

ロボカイは、再び掌に青と黒の光を灯した。今度は、地には零さなかった。
機械の掌に輝く青黒い光は、ゆっくりとロボカイの手から離れ、中空に漂う。
球状に固まった光は、空中でぴたりと停止した。

その様子をのんびりと見ている場合ではない。
木偶達は門に向かって進んで来ているし、その数も多い。
見るよりも、先に集中すべきだ。
だが、美鈴は其処から視線を離すことが出来なかった。

宙に漂う光球が、一際強く輝き、稲妻の束を辺りに撒き散らし始めた。
バチバチ、バリバリ、ビリビリと、派手な音と強烈なストロボを繰り返し、放たれる稲妻の放射。

だが、それは無闇やたら電気を吐き出しているだけでは無かった。
集まっていく。木偶の残骸が、その光の球を中心として。
細い稲妻で纏められた鉄屑は、次第に集積し、それは更に巨大な鉄屑の塊となる。
金属がひん曲がり、擦れ、ひしゃげ、不快極まりない金属音が盛大に響く。
鉄屑が集まり、その鉄塊は、更に、何かに形を変えようと蠢いている。

厄介な相手ですね…。
美鈴は、呟きながら再び体に気を溜める。
その視線の先で、鉄屑の構築物は、その姿を徐々に変えつつ、起き上がった。


見上げたソレはかなりの大きさだった。
二十メートルは在るだろうか。歪な形をした、鉄の巨人だ。

シルエットとしては、腕が長く、脚が短く太い。
身体は、破壊された木偶達のパーツで出来ている為か。
まるで無数の傷を負っているかのように体中から血の代わりにオイルを流し、動くたびに、金属が擦れあう甲高い音が響いている。

金屑で出来たゴーレムから一瞬だけ眼を離し、美鈴は自身の前方に向き直った。

そして、ふっ…!、と鋭く息を吐く。
それと同時。蹴り上げるようにして、極光に彩られたリング状の波動を放つ。

木偶が二体、美鈴の正面から襲い掛かってきていたからだ。
馬鹿正直に突っ込んできた木偶達は、波動を避けれなかった。

金属がひしゃげ、押し流される音がした。
極光を浴びて砕かれた二体の木偶は、後方へ吹き飛ばされ、その途中で、稲妻に打たれた。

眩いフラッシュが瞬く中、美鈴はゴーレムに向き直り、顔を顰める。
木偶達が、その稲妻に引っ張られるようにして、鉄屑のゴーレムの体に飲み込まれていったのだ。
いや、体の一部となった、といった方が正しいかもしれない。

美鈴が舌打ちをした時だった。
今度は一気に来た。また、木偶達だ。ぐわっ、と飛び掛って来た。
木偶達の数はかなり多い。十体程か。

しかも、今度は、ゴーレムも動いた。
ゆっくりとした動作で、両手を組んだまま振り上げて、こちらに振り下ろそうとしている。
力付くで、美鈴を門から退かせるつもりだろう。
というか、叩き潰すつもりか。

門に迫って来る木偶と、ゴーレム。
ロボカイは、少し放たれたところで、美鈴の行動を見ている。
美鈴がどう動くか。
恐らく、それによって、ロボカイも動くだろう。

美鈴は構えた状態から、さらに重心を落とした。
そして、一瞬の間で、ロボカイと、木偶と、ゴーレムを見て、拳を握る。

その拳に、極光が集まり、一撃必殺の威力を蓄積させていく。
今、美鈴が見ているのは、鉄屑のゴーレムだけだ。
青と黒が交じり合う空をバックに見るゴーレムの姿は、化け物そのものだった。

木偶達は、もう美鈴を間合いに捕らえた。
だが、美鈴は、木偶達を迎撃する構えを取らない。眼を向けない。
只管に、ゴーレムの一撃に備えている。
それで十分だった。

迫っていた木偶達は、完全に無防備だった。
暢気に、美鈴目掛けて、ハンマーに変形した封雷剣のレプリカを叩き込もうとしている。
だが、振り上げられたハンマーが、振り下ろされることは無かった。

少しだけ冷たい風が吹いた。構えを取る美鈴のすぐ傍。
其処に突然現れた蒼いメイド――咲夜が、ナイフの弾幕で木偶達を滅多刺しにしつつ、吹き飛ばしたからだ。

来てくれると思っていました。
ゴーレムを睨みつつ嬉しそうに言って、美鈴は拳を握る手に、更に力を込めた。
ミシミシ、メキメキと握り固められた拳から、極光のオーラが立ち昇る。

居眠りをされては困るもの。
咲夜は腕を組みながら、ゴーレムを見上げ、指に挟んだナイフを揺らす。
そして、銀色の眼を細め、軽く息を吐いた。

「私とは相性が悪いわね…。任せるわ」

――uoooOOOOOOOOOOOO――

ゴーレムが、体中を軋ませるような音を鳴らし、腕を振り下ろしてきたのはその時だった。
組まれ、握り固められた両の拳が、呻りを上げて降って来る。巨大で、超重量の鉄の塊。
美鈴は、はぁぁぁ――…、と深く深く息を吐いて、その巨大過ぎる拳を引きつける。
両手が組まれたゴーレムの拳に比べれば、美鈴の拳など豆粒程の大きさだ。
だが、美鈴は退かない。避けない。
正面から挑む。

気付けば、咲夜はもう傍に居ない。
瞬間移動のように移動して、周囲の木偶達にナイフ弾幕を放っているのが、視界の隅に見えた。

それらは一瞬の出来事だった。
落下してくる鉄の拳から、風を感じる。圧力も感じた。
青と黒の空から指す、気色の悪い陰影。
その中に居る美鈴にも、更に濃い影が降りた。
ゴーレムの拳の作る影だった。

その影が、大きくなる。
美鈴を染める影が、目の前に広がる。

大地を穿つ、巨大過ぎる鉄の拳目掛けて、美鈴は、フンッ…!! と、息を詰まらせた。
そして、強く地を踏み砕き、拳を突き上げた。

極光の光が、その拳と共に奔る。
鉄塊と、美鈴の拳が激突した瞬間。

美鈴の拳から溢れた極光の奔流が、ゴーレムの拳を押し上げ、砕き、弾き返した。

だが、ゴーレムのハンマーパンチの衝撃も相当なものだった。
美鈴は、自分の脚が地面に沈むのを感じた。
途轍もない衝撃と重量だった。
眼が眩む。
美鈴の足元の地面から、亀裂が周囲に向かってバキバキと奔った。
体が軋む音も聞こえた。だが、手ごたえはあった。

美鈴は、気を奮い立たせて視線を上げ、鋭く息を吐く。

ゴーレムは美鈴の突きに押し負け、僅かに体を仰け反らせていた。
鉄屑で出来た両手が、砕け散っている。
飛び散る金属片と、残骸。

――ooooOOOOOOOO…――。
錆び付いた金属を擦り合わせるみたいな、不快極まりない音が、辺りに響いた。

行ける。
美鈴はそう思い、仰け反るゴーレムに迫ろうとした時だった。

奴は動いていた。
ギギギ、という寒気がするような音が横合いから聞こえた。
美鈴は両腕で頭を防御しながら、咄嗟にバックステップを踏んだ。
だが、少し遅かった。右腕と頭に、衝撃を感じた。

ブレる視界。
其処に、ハンマーを振りぬくロボカイの姿が見えた。

吹っ飛ばされ、地面に倒れかけた美鈴は、何とか手を突いて即座に起き上がる。
寝ている場合でも無い。
ハンマーに変形した剣を振り上げつつ、直ぐ其処にロボカイが迫ってくる。
既に敵の間合いだ。

ロボカイは袈裟懸けに剣を振り下ろすように、ハンマーを振り抜く。
美鈴も負けていない。
一瞬で気を練り、極光を纏う拳で、そのハンマーを弾き返した。

その衝合の力は、空気を震わせた。

ロボカイと美鈴は、互いに後方へと吹き飛ぶ。

「くあっ…!」

美鈴は苦悶に顔を歪めた。
ハンマーを殴り返した拳が痺れた。
十分に気を練れなかったとは言え、何て力だ。
パワーだけなら、あのゴーレムに匹敵するんじゃないか。
そう思った時だった。

ふっ、と影が指した。
そこで、気付いた。ゴーレム。
しまった、と思う間も無かった。
見上げれば、鉄屑で出来た足の底が、すぐ真上に来ていた。
踏み潰す気だ。

だが、防御に備え、腕を頭上で交差させた美鈴は気付かなかった。
其処に、空白の一瞬が出来上がった事に。

「ひゅぅ~…間一髪だねぇ…」

何が起こったのか、本当に分からなくなって、混乱しかけた。
間延びした声はすぐ近く。

ゴーレムが地面を踏み砕く轟音を、背後で聞いた。
気付いた時には、美鈴はアクセルに抱き上げられ、ゴーレムの背後に回っていた。
鎖鎌を首に引っ掛けて吊るしたアクセルは、ニッと笑って見せる。

「え!? あ、あれ!? アクセルさ――!?」

美鈴はアクセルに抱えられたまま、眼を白黒させて、視線を行ったり来たりさせた。

おっと、舌噛むぜ?
だが、その間にも、アクセルは、周囲に迫っていた木偶達を相手にしてみせた。
アクセルは美鈴を両手で抱き上げたまま、両脚を巧みに使い、迫ってくる木偶を捌いていく。
まるで、ダンスでも踊るみたいに脚を振り回し、なだれ込んで来る木偶達を蹴って蹴って、蹴ったくった。

てめぇで最後だぜ。
迫って来ていた最後の一体に脚払いを掛けて、倒したその木偶を踏み砕いた後。
アクセルは、美鈴を下ろしつつ、咲夜に視線を向けた。
そのアクセルの視線を追うと、今度は咲夜がロボカイと切り結んでいる。

咲夜はナイフを投げつつ牽制、更に時間停止を駆使し、ロボカイの接近を許さない。
その咲夜の戦う姿を見て、ああ、そうか、と美鈴は理解した。

咲夜の時間停止に合わせて、アクセルが美鈴をカバーしてくれたのだ。

「しっかし…こりゃちょっと洒落になってねぇ感じだな…」

この青と黒の不気味な空を見上げながら、アクセルは顔を歪めている。
いや、アクセルが見上げているのは、歪んで、濁った空だけじゃなかった。
鉄屑のゴーレムが、のっそりとこちらを振り返ったのだ。

―――uoooOOOOOOOOOOOO―――。
ゴーレムの呻きは、やはり凄まじい迫力だ。突風を感じる。
アクセルは、だが、特に気負うような表情も浮かべない。
寧ろ、ゴーレムよりも、周囲に展開された木偶たちに視線を巡らせている。

「全部リサイクルされたら、こいつが育ってしょうがねぇな…」

アクセルは肩に掛けた鎖鎌を握りつつ、ゴーレムに向き直る。
美鈴も、周囲の木偶達に注意を向けつつ、アクセルに倣おうとした。
その時だった。
無数の炎の球が、ゴーレムの背に直撃し、爆発音が響いた。
金屑が飛び散り、その背中が無残に凹んでいる。

炎の球が飛んできた方を見るまでも無かった。
彼女は本を小脇に抱え、紅魔館の門を少し出たところに、浮いていた。

パチュリーだ。
眠そうな眼に剣呑な光を湛えて、呪文を詠唱している。
魔法陣が幾つもパチュリーの周囲に浮かび上がり、魔力光が青黒い空間を焼く。
パチュリーは詠唱をしながら、指でルーンを刻む。
すると、ゴーレムの足元にも、小型の魔法陣が無数に浮かび上がった。
ゴーレムの体から滴るオイルが、魔法陣に零れ、蒸発する。

ゴーレムはよろめいた。
その巨体が傾き、地鳴りを轟かせながら肩膝を着く。

その様を横目で見つつ、まぁ、こいつは任せるかな…、と呟き、アクセルはゴーレムから視線を外した。

そして、手にした鎖鎌を、感触を確かめるように手の中で揺らす。
美鈴も、アクセルと並び、構えを取る。

再び、わらわらと寄ってくる木偶達。

「俺達も、パチュリーちゃん達に合流しようかね」

此処じゃ流石に、前に出過ぎだからねぇ…。門番はやっぱり、門の前に居ないと。
アクセルは言って、唇の端に笑顔を浮かべた。
美鈴は、はい、と頷き、拳を固め、極光のオーラを纏う。

アクセルと美鈴が踏み出したのは、ほぼ同時だった。
それに合わせて、木偶達も追ってくる。
雪崩かかってくる。

美鈴は、突き、掌打、肘打ち、蹴りなどの体術を駆使し、一撃必殺で木偶達を砕いて進んだ。
その美鈴の横合いから、三体の木偶が突っ込んできた。
美鈴は、すっと歩を進め、ジャブのように掌底を繰り出し、一体の頭部を破壊。
その間に、別の木偶が、美鈴の頭を狙ってハンマーを水平に振っていた。
だが、遅い。美鈴はハンマーを潜るようにして身を沈めて踏み込み、別の一体の腹部へとフックを放つ。
それを喰らった木偶は、胴体を真っ二つに割られ、無残に吹っ飛んだ。
ハンマーを振りぬいた木偶は、そのハンマーを構え直そうとしたようだが、無駄だ。
極光を纏った裏拳が、その木偶の上半身を吹き飛ばしたからだ。

一瞬の間に三体の木偶を破壊して、美鈴はちらりと視線をアクセルに向ける。
本当に人間なのかを疑う動きだった。

アクセルは音も無く木偶の懐に踏み込んでは、鎖鎌を思う様に舞わせて、解体していく。
その動作の一つ一つが、異常な程速く、無駄が無い。
鎌を振るう疾さは、美鈴でも目を瞠る。
というよりも、どうやったらあの鉄の体を、あんなふうにスッパリと斬れるのか。
スパスパと冗談みたいに木偶達を解体しながら、アクセルは進んでいく。
本当に疾い。
美鈴は一撃で木偶を仕留めている筈なのに、アクセルが解体した木偶の方が多いのではないか。

それに、息切れなどもまるでしていない。
アクセルの表情は、凪いだままだ。

美鈴は、木偶達に拳を叩き込みながら、アクセルの鎖鎌の舞う様に見とれかけた。
だが、不意にアクセルが鎖鎌を振るう手を止めた。
そして顔を上げ「やるなぁ、パチュリーちゃん…」と感嘆したような声で呟いた。

美鈴も、その視線を追って、今度こそ見入ってしまった。



門の前で、パチュリーは魔道書を開きながら、詠唱を完成させていた。
浮かび上がっていた無数の魔法陣。
それが、白い光で構成された剣へと姿を変え、澱んだ空に佇んでいる。
白色の清らかな光が、青黒い空の澱みを薄めていた。

更に、その白剣の群れの中に、真っ赤に燃え盛る炎の塊があった。
糞デカイ炎の塊だ。
しかも、それだけじゃない。
ゴーレムの足元の魔法陣から、薄紫色の泡が大量に発生した。
泡は、膝を着いたゴーレムに纏わり付き、断続的に破裂する。

―――oooooooOOOOOOOOOOO―――!

ゴーレムは苦しげな呻きを上げた。
あの泡がただの泡で無いことは明白だった。
泡の破裂に巻き込まれ、ゴーレムの表面の金属が、爆発したように爆ぜているのだ。

パチュリーは、だが、一切容赦しなかった。
完成させた呪文を、全て、一斉にゴーレムに叩き込みに掛かった。
一瞬だけ、青黒く染まった空が、真っ白になった。

まず、白剣の群れが、鉄屑のゴーレムを猛襲した。
降り注ぐ白剣の驟雨は、ザックザックとゴーレムの体にぶっ刺さり、その体を大きく削った。

ついでに、纏わりついていた薄紫色の泡が一斉に弾けて、爆発が爆発を呼んだ。
ゴーレムの体の表面の鉄屑が飛び散り、爆発に抉られ、穴だらけになっていく。
その小爆発の中に、パチュリーは炎の塊をぶち込んだ。
大爆発が起こった。

やりすぎだろ…! と焦った声を出して、アクセルは駆け出した。
美鈴も、うわわわ…! とその後を追った。

爆風が、木偶達を飲み込みながら、アクセル達にも迫ってきたからだ。

駆ける最中。
アクセルは視界の隅に、咲夜とロボカイが戦っているのが見えた。
こっちも流石だな…。アクセルは駆けながら、思わず呟きを漏らす。

ロボカイの体には、既に無数のナイフが刺さっており、明らかに苦戦している。
一方、咲夜の方は、ロボカイだけでなく、周囲の木偶達までも同時に相手をして、立ち回って見せている。

一方的だ。
そう思った瞬間だった。

咲夜と戦っていたロボカイの左腕。
其処に、青黒い光が灯った。
ギギギ。
ロボカイは金属音を漏らしながら、咲夜のナイフをかわしつつ、周囲にその光を放射した。
いや、光というよりは、細い稲妻だった。
咲夜はその光を警戒して飛び退る。
そして、距離を取りながら、宙にナイフを舞わせて設置し、弾幕を展開する。

ロボカイを包囲するナイフの群れ。
止めとばかりに咲夜が時を止めようとした時、周囲に散らばる金属片が蠢いた。
左腕から放たれた、細い稲妻は電結の鎖と化し、咲夜によって破壊された木偶のパーツに伝わっていく。

それが、まるで鞭のように長く細く繋がっていった。
青黒い稲妻によって電結されたそれは、ロボカイの左腕に接合されていく。
それは鞭だった。
青黒い電気を纏わせた、鉄鞭だ。

そしてそれらの変化は、とんでもない速度で行われた。
瞬きする間に左手を鉄鞭に変え、ロボカイは「…行動予測開始」と呟く。
咲夜が弾幕を展開し終わる頃には、ロボカイは、もう咲夜へと襲い掛かっていた。

「面倒なことを…!」

咲夜は、ナイフ弾幕を放ち、更に距離を取ろうとする。
だが、鉄屑を鞭へと変えたロボカイは、それを縦横無尽に振るい、一気にナイフ弾幕を払い除けた。

紫電が奔り、薄暗がりを焼いた。
その中を、今度はロボカイが攻める。
鈍重な足音には似つかない、鋭い踏み込み。
ロボカイの右手には、封雷剣のレプリカ、それを変形させたハンマーがある。
バックステップを踏む咲夜目掛けて、そのハンマーを振るのでは無く、突き出した。
短く、コンパクトな動きだ。
それを、踏み込みながら矢継ぎ早に繰り出していった。

咲夜は、その突き攻撃をナイフで捌き、弾き、かわしていく。
火花が何度も散った。
しかし、咲夜にロボカイの攻撃は届かない。咲夜の方が速い。
ロボカイが、その咲夜へと更に踏み込もうとした時。

そのロボカイの背後で、ナイフが煌いた。
同時に、鉄にナイフが埋まる、鈍い音。
停止した時間内を移動した咲夜が、ロボカイの背中にナイフを数本突き立てたのだ。
ギギ…。苦しげな呻きを上げたロボカイは、しかし、倒れない。
それどころか、次の瞬間、ぎゅるんと上半身を百八十度回転させ、背後に居る咲夜へと向き直った。

流石に、咲夜も意表を突かれたのか。
な…っ、と、ほんの僅かだが、咲夜の動きが固まった。
それが不味かった。
ロボカイは上半身を回転させる序に、鉄鞭と化した腕も振り回していたのだ。
ギュオンッ、と、鋭すぎる音を立てて、鉄鞭が咲夜に迫る。

不味い。近すぎて、時間停止の為の精神集中が間に合わない。
咄嗟に、咲夜は両手に握ったナイフを構えた。
だが、呻る鉄鞭が咲夜に届く直前。

炎が、咲夜とロボカイの間に割って入って来た。
いや、炎を纏ったソルだ。

「…引き受ける…門前の奴らと…合流しろ…」

…直に…レミリア達も、出てくるだろうからな…。
ソルは、ロボカイの振るった鉄鞭を素手で受け止め、咲夜に視線だけを向け、告げる。
咲夜は一瞬だけ驚いた表情になった。
だが、すぐに「感謝します…」と、場違いな程恭しく頭を垂れ、姿を消した。
時間停止による移動だ。
それを見送ってから、ソルはゆっくりとロボカイに向き直る。
バリバリバリバリと、鉄鞭の纏う電流がソルの体に流れるが、まるで効いていないのか。
ソルは、掴んだ鉄鞭を力任せに引っ張り、ロボカイを引き摺り寄せた。

「グ…!」流石に危険を感じたのか。
ロボカイは咄嗟に左腕の鉄鞭をパージし、一気にソルから飛び退り、距離を取った。

ソルはゴキゴキと首を鳴らし、封炎剣を肩に担ぐ。
そして、金色の眼を細め、首を傾けた。

…丁度、情報が欲しかった所だ…。
そのソルの声には、慈悲も、慈しみも何も無い。
ただ無機質で、乾燥していた。
ソルは、無表情のまま、眼を更に窄めた。
それは、酷薄そうな笑みに似た表情だった。

「…お前なら…首だけになっても大丈夫そうだな…」



[18231] 二十話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/12/14 22:44
 「…西行妖の次は…紅魔館、という訳か…」

青と黒が混じりあい、空に異様な文様を滲ませ、日光を澱ませている。
その空に一瞥をくれて、ソルは対峙するロボカイに向き直った。

ソルは封炎剣を左手で逆手に持ち、右半身を前に出す。
半身立ちだ。しかし、特に構えを取っている、という風でも無い。
鉄屑と、腐った日光が交じり合うこの異様極まりない光景の中でも、ソルの構えは自然体だ。

対して、ロボカイは手にした剣を片手で構え、半歩下がった。
その構えの姿勢は、オリジナルのカイ=キスクに酷似している。
ソルの視線を受け止めながら、ロボカイはギギ…、と金属音を零した。

「芋面…貴様、何故此処ニ居ル…?」

澱んだ青黒の空と同じくらい、ロボカイの合成音声も濁っていた。

「…下らん事を聞くな…」

ソルは鼻を鳴らして、ゆったりとした足取りで一歩踏み出した。
そして、次の二歩目で一気にロボカイの懐に飛び込む。
とんでもない踏み込みの疾さだ。
ソルは流れるような動作で、そのまま叩きつけるように封炎剣を下から上へと斬り上げた。
封炎剣が炎を吐き出し、赤橙が弧を描く。

ロボカイはソルの最初の一歩に合わせ、二歩下がろうとしていた。
しかし、ソルの第一歩があまりにも悠然としていて、ロボカイは反応が遅れた。
距離を取るどころか、逆に目前まで接近され、ロボカイは咄嗟に剣を体の前へと引き寄せる。
その防御の為の行動は、ギリギリで間に合った。
だが、間に合っただけだ。
防御されることなど関係無しに、問答無用で叩き込まれた封炎剣は、ロボカイを後方へと押し飛ばした。

「ギ……ッ!」

苦しげに呻く合成音声と、軋む金属の音。
ロボカイの体が悲鳴を上げる。

その不快な音を聞きながら、ソルは振り上げた封炎剣を握り直し、地面に突き立てる。
いや、沈ませた、と言った方がいいかもしれない。
バターに熱したナイフを刺すみたいに、ずぶぶ、と封炎剣が地面に埋め込まれた。
その剣から膨大な法力が流し込まれ、地面は一瞬で融解。そして、噴火。
猛火と溶岩の津波となって、爆風と共にロボカイに迫る。

吹っ飛ばされたロボカイは空中で姿勢を崩し、尻餅をつくみたいに地面に叩きつけられた。
そして、そのまま数メートルを転がって、何とか跳ね起きた。
其処に、溶岩津波が重なる。
押し寄せる。

ロボカイは咄嗟に後方へ更に飛び退り、空中で正座をするように両膝を折り曲げた。
その両膝の間接部分が、パカッと開き、円筒形の物体が発射された。
ごついミサイルだ。二発。
ミサイルは溶岩津波と、ロボカイの間の空間で爆発を引き起こす。
その爆風は溶岩の波を一瞬だけ押しとどめ、ロボカイを後方へと更に吹き飛ばした。

「グヌゥ!」

ミサイルの爆風を用いて一気に距離を取ったロボカイは、剣を構えつつ、ソルへと向き直る。
だが、やはり前には踏み込めない。
じりじりと後退する。
ロボカイのくすんだ金髪を、熱い風が嬲った。

その視線の先では、津波と化した溶岩が地に伸びながら、その勢いを弱めていく。
鈍い赤色の光が、地を焼きながら、ゆっくりと広がる。

「化ケ物メ…」

その溶岩の海の上。
焼尽の暴風を纏いながら悠然と歩み来るソルの姿は、業火の化身そのものだ。
その一歩ごとに、地面が揺れているような気さえする。
ロボカイに向けられたソルの金色の眼は、鈍い赤色に照らされ、美しい緋色に染まっていた。

「…足掻くな……」

低く、それでいて灼熱の声と共にソルは眼を細めた。
餌食を前にした竜のような眼だ。
ロボカイは剣を持っていない方の腕をソルに向け、ギミックを作動させる。
両膝と同じように、肘関節の部分がバクンと開き、ミサイルランチャーが顔を出す。

ザザザ――、というノイズ音が微かに響いたのは、それと同時だったろうか。
調子の悪いスピーカーから漏れるような音だ。
ソルは訝しげに眼を更に細め、溶岩の赤光に照らされたまま立ち止まる。

これは驚いたな…。…久ぶりだね、ミスター・バッドガイ。

低く、しかし奇妙な抑揚のある声が、ロボカイの喉元あたりから発せられた。
ロボカイも、ミサイルランチャーに変形させた腕をソルに向けたまま、動きを止める。
聞こえて来たその声に、ソルは鼻を鳴らした。

「……まだ生きてやがったのか…」

ソルはロボカイでは無く、その声に主に低い言葉を返す。
それと同時に、再び熱風が吹き荒れた。
ロボカイは一歩後ずさる。

「まぁ、色々あったけどねぇ…。何とかやってるさ。…そっちも元気そうだね」


男は懐かしむように呟いてから、まるで旧友に話しかけるように言う。
勿論、そこに親愛の情など無い。
在るのは、皮肉か、それとも嘲りか。
そのどちらともつかない。

「しかし…この巡り合わせは、やっぱり“彼”の仕業かな。…だとしたら、これは先手を取られてるなぁ」

男は、不味いなぁ…、と呟いてから、溜息を吐いたようだ。
微かに、息を吐く音声が聞こえた。
歪んだ機械音声が、濁った空間に解ける。
ソルは立ち止まったまま、首をゆっくりと傾けた。

「…キューブに接触して、何をするつもりだ……」

「君らしくない質問だね。 …それに、その質問には僕じゃ答えられないな。
僕はただ、上の指示通りに動いているだけだよ」

上が何を考えているのかなんて…正直な所、どうでもいいしねぇ。

そう言った男の声は、笑っていた。
ソルは無言のまま、忌々しげに貌を歪める。

「ただ…僕としては、君や“彼”の見てきた景色を見てみたいね。
…聖戦に至るまでの君達の軌跡には、大いに興味がある」

「…下らんな…」

「下らなくなんてないさ。それに、キューブに至るまでの過程こそが…歯車の種父である君達に、追い付ける道だろうしねぇ」

だから、僕にとってのバックヤード攻略は、大きな意味を持っているのさ…。

その男の声に、僅かな情熱が宿る。

「……糞戯けた事を…」

低く呟き、ソルは眼を窄めながら、溶岩の上を再び踏み出す。
そのソルの体から、昏い赤橙の脈動が溢れる。
鈍い赤光が揺らめき、同時に陽炎が周囲に立ち上った。
とてつもない熱波が、対峙するロボカイに押し寄せる。

「悪いけど、ふざけてる訳でもない…。君達の視て来た世界こそが、今の僕が求めるものだからね」

気圧されたようにロボカイがじりじりと後退する中、その喉元から漏れる声も、陽炎に揺れる。
だが、その奇妙な抑揚のある声には、冷静さが伺えた。

「しかし、…君も割と焦ってるんじゃないかい? 何だか、余裕が無さそうに見えるよ」

ソルは男の声には答えず、一歩一歩を刻みながらロボカイへの距離を詰める。
緋に染まった金色の瞳が、すっと細められた。
いまだ後退するロボカイの行動を見極めているのか。
恐らく、ロボカイが動けば、ソルは一気に踏み込んでくるだろう。

ぶつかってくる熱風が、ロボカイのくすんだ金髪を僅かに焦がした。

ソルとロボカイが対峙する中。
金属がぶつかり合い、ひしゃげる甲高い音が盛大に辺りに響いた。

視線だけを動かし、ソルは少し離れた紅魔館の門へと向ける。

見れば、鉄屑のゴーレムの右半身が吹き飛び、屑鉄が宙を舞っていた。
その右半身を貫くように、尾を引いて奔る紅の魔力光。
赤の閃光は、ゴーレムの半身を砕き抜き、空に掛かった青黒い膜に吸い込まれた。
つぎの瞬間には、ゴーレムの左半身が爆発を引き起こした。
まるで、体の内側に爆弾でも仕掛けられていたかのように、内側から爆ぜた。
不自然な、それでいて強烈な爆発だった。
ソルが眼を向けた一瞬の間に、ゴーレムは両腕を失い、体の半分を吹き飛ばされた。
OOOOOOOOOooooooooooooooooooooooooooooooo―――…。
呻きながら、ゴーレムは立っていられず後方へと倒れこんだ。


土ぼこりと鉄屑が舞い上がる中、彼女達は居た。
アクセル、咲夜、美鈴、パチュリーも、彼女達を見上げていた。

彼女達の纏う魔光は、紅。
青黒い空を染め抜いて、彼女達は倒れるゴーレムを悠然と見下ろしていた。

「図体が大きくても、此処まで脆いと意味が無いんじゃないかしら…」

「つまんないなぁ~」

スカーレット姉妹だ。
挨拶代わりに、レミリアは魔槍を放ち、フランがゴーレムの身体に宿る「目」を潰したのだ。
魔槍の跡であろう、上空へと奔った紅い閃光は、未だに濁った空間に微かな線を刻んでいた。
フランが引き起こした爆発の余韻は、振り散ってくる鉄屑が奏でている。

相変わらず、とんでもない姉妹だ。

…出鱈目な奴らだ…。

地面の揺れと轟音を感じながらソルは呟き、再びロボカイへと視線を返す。
その光景を、男も見ていたのだろう。

いやぁ…、流石は紅魔館、と言うべきだな…。並の戦力じゃ、太刀打ちできないね。
微かな溜息のような合成音声が、熱波の中に響いた。

「でもまぁ、こっちも今回はある程度の成果が要るんだよ…。その為にも、AIを積んだKシリーズが必要なんだ」

熱波の中。男の声に呼応するように、青黒い法術陣の文様が地に浮かび上がった。
それも、対峙する、ロボカイと、ソルの間に。

不吉な光を地に刻みながら、空気を捻じ曲げ、其処だけ世界が変わる。
法術陣の周囲は、既にこの世界の空間にあらず。
ソルは踏み出そうとした足を止め、剣を握り直した。

陣の大きさは、直径で二メートル程。
青黒の光が溢れ、ソルの放つ熱波を濁らせる。
代わりの相手を用意させて貰うよ。そっちで我慢してくれ。
その男の声と同時だった。
法術陣は世界に穴を空けつつ、一体のギアを召び出した。

奴は、ゆっくりと地面から浮かび上がるように姿を現した。

奴の全身は、外骨格のような装甲に覆われていた。
その造形美は、機械というよりも、一種の生き物という印象を与える。
鋭利なフォルムを持つ頭部。そこから伸びる、女性を思わせる長い髪。
次に見えたのは、何かを仕込んでいるのだろう、肥大化した肩。
胸部から腹部にかけては細くくびれているが、脆さよりも強靭さを感じさせる。
外骨格に覆われた身体、その腰辺りには、長い尾を持っていた。

その姿を見たソルは無表情のまま、舌打ちをした。

「以前の個体に、改良を加えたタイプだ。…前よりは、楽しんで貰えると思うよ」

男の声に答えるように、そいつは、法術陣から一歩踏み出して来た。
そいつを召び出した法術陣は、次第に薄れ、青黒の光の明滅だけを残していく。
不気味な明滅に照らし出されたその姿は、ソルの記憶を抉り、心を刻む。

ジャスティス。
聖戦の破壊神を模した、生物兵器。

軽い眩暈のようなものを、ソルは感じた。
だがそれを、静かな激情で押し潰し、ゴキッと首を鳴らした。

「…うぜぇ真似を…」

ソルは呟き、ぐっと腰を落とす。
ジャスティスは、ロボカイの盾となるように聳え、無機質な金色の瞳をソルに向けている。
再び、金属質の轟音が響いた。
だが、ソルはもうゴーレムの方を見ない。

「それじゃ、頼んだよジャスティス。…Kシリーズの君は、紅魔館メンバーを抑えてくれ」

青黒の空の下、睨み合うソルとジャスティスの背後。男の声が響く。
その男の言葉に答えるように、ロボカイは、背後とソルを一度だけ見比べた。
そして、ジャスティスから離れるように一気に後方へと距離を取り、その場を離脱する。
ソルと対峙している最中では、離脱すること自体が至難だったはずだ。
その行動も、ジャスティスという盾があればこそ。

これで、ロボカイは紅魔館メンバーとゴーレムとの戦いに参加するだろう。
しかも、あのロボカイは奇妙な法術を扱う。放置しておけば、厄介なことになる。
だが、そのロボカイを追えない。
目の前に居る、正義という名を冠した生物兵器の存在が、ソルをその場に縫いとめる。

ソルの世界の者達が、このコピーの姿を前にすれば、震え上がり、恐れ戦くだろう。
聖戦を味わった者ならば、悲鳴を上げ、一目散に逃げ出すだろう。

だが、ソルは恐ろしいとは思わない。
形はジャスティスだが、中身は別物だ。
それをもっとも良く知っているからこそ、ソルの心に憎悪とはまた違う激情が渦を巻く。
これは怒りか。苛立ちか。恐らく、その両方だ。
感情を殺す為、ソルはごりっと奥歯を噛んでから、鼻を鳴らした。

そのソルの目の前。
ジャスティスはゆっくりと姿勢を低く落とし、臨戦態勢を取った。
モード変換。戦闘モード、起動。
そう呟いたジャスティスの声は、機械音じみているのに、妙に生々しい声だった。
女の声を機械で弄り、歪ませたような声だ。

ソルは貌を歪めかけて、「…潰す…」と呟くことで、冷静さを保とうとした。
だが、その時だった。


SYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHH!!!


ソルの背後から。位置的には、紅魔館の門に近い場所だ。
其処から、女の声を歪ませたような、大音声が聞こえたのだ。
耳を劈く、金属の声だ。

一瞬、ソルは理解が追いつかなかった。

目前にジャスティスのコピーと対峙しているにも関わらず、舌打ちをして、今度は振り返らざるを得なかった。

そのソルの視界を、青白い閃光が焼く。
紅魔館の周囲を染める青黒い空間が、その閃光に飲まれた。

その光は、巨大な、巨大過ぎる剣閃だった。
ザァァァーーと、巨大な光の剣が、紅魔館目掛けて袈裟懸けに振るわれていた。
その光の剣は結界に阻まれ、紅魔館に届く事は無かった。
だが、その結界に盛大に傷跡を残した。

振動と爆音が押し寄せ、ソルの身体を煽る。

もう一体、居るのか。

この胸糞の悪い造物が。

しかも、門付近。


「…糞ったれ…!」

ソルは吐き捨て、紅魔館へと駆け出そうとしたが出来なかった。

ビュオン、という風斬音がした。
同時に、ソルは咄嗟に振り返り、左手に握った封炎剣を盾のように構える。
其処に、今しがた見たのと同じ、青白い光の剣閃が瞬いた。

ジャスティスが一瞬の間にソルとの間合いを詰め、左手の黒い掌を剣へと変えていた。
そして、黒剣に変形した掌を、ソル目掛け水平に振るっていたのだ。
しなるようにして振るわれた黒剣は、青稲妻を纏って呻る。

斬撃を受けとめた封炎剣が軋みを上げる。
バギバギ、バチバチと電撃と火花と炎が散った。

「…邪魔だ…!」

だが、ソルはお構いなしに、そのまま封炎剣を押し返ししつつ踏み込む。
封炎剣と黒剣の間に、赤橙と薄青の火花と閃光が瞬く。

身体を沈みこませつつ強引に懐に潜り込んだソルは、その拳に赤橙の炎を宿らせた。
押し込んだ剣を引き込むようにして身を捻りながら、今度は右拳を短く、コンパクトに突き上げる。

放たれたショートアッパー。既にソルの必殺の間合いだ。
ジャスティスは反応していた。
押し返された黒剣の左手を素早く引き込みつつ、右腕でアッパーを防いで見せた。
だが、その威力までは殺しきれなかった。
ソルの繰り出した拳は、そのガード毎、ジャスティスのボディーに衝撃を叩き込んだ。
鈍く、低い音が響き、ジャスティスの外骨格が悲鳴を上げた。
ジャスティスの巨体が、その一撃で持ち上がる。
そのまま、ソルは封炎剣を握った左拳を、爆炎にコンバートされた法力と共に突き出した。

「KUAAAHHHHHッ!!」

ジャスティスは肩に仕込まれたバーニアを僅かに噴射させていた。
緊急離脱の為の行動だろうが、もう遅い。
ソルの方が圧倒的に疾い。だが、ジャスティスは対応する。
浮き上がった身体を撓らせ、引き込んだ左手――黒剣を、ソルの目掛けて水平に振り抜いた。
黒剣は再び青白い稲妻を纏い、閃光を残しながらソルの炎にぶつかる。

「…ぐっ…!」

「GI――!」

ソルとジャスティスは、互いに後方へと押され、大きく間合いが広がる。
だが、負ったダメージはソルの方が大きかった。
封炎剣を握る手から腕にかけて、鋭く、また深い裂傷が奔っている。

溢れた血がその腕を伝い、封炎剣を赤く濡らしていた。

ソルは舌打ちをして、再び視線だけを門へと向ける。
ゴーレムに、ロボカイ。更には、ジャスティスのコピー。
敵は多い。

この目の前に居るジャスティスだけで、十分に厄介だと言うのに。

「…糞面倒な……」

ソルの呟きと共に、封炎剣の刀身が赤熱を帯びた。
白い刀身は紅く発行し、剣を濡らしていたソルの血を蒸発させる。

それと同時に、ソルの腕を伝っていた血が燃え上がった。
血が炎に変わった。
炎血を纏ったソルの片腕、その肘から先が、次第に血色に肌の色を変えていく。

足元にも法術陣が浮かび上がり、赤橙の炎が揺らめいている。
陽炎の中でソルの姿は黒いシルエットとなり、額の刻印が血色の光を帯びた。
体勢を整えたジャスティスは、ソルに飛び掛ろうとしていたようだが、その尋常ならざる様子に踏みとどまった。

その一瞬の隙。
ソルは法術陣から身を屈めて飛び出し、地を這うようにして突進していた。
凄まじい速度で突っ込んで来るソルに、ジャスティスも真っ向から踏み込む。

そのソルの左手からは、赤橙の炎が漏れ、地に炎の線を刻んでいる。
だが左手が纏っているのは、炎だけではなかった。
封炎剣を持つソルの左腕、その肘から先が血色の装甲を纏ったように変質している。
ジャスティスはそれに気付いてはいたが、特に警戒はしていなかった。

一瞬の後。
ソルとジャスティスは互いを間合いに捕らえた。

ソルは左腕で握った封炎剣、その柄を突き上げるようなアッパーを。
ジャスティスは、両手を黒剣へと変え、青稲妻を纏わせたまま、斜め十時を刻むように振り下ろした。

両者の一撃は、拮抗しなかった。
ジャスティスの両手の黒剣が、封炎剣の柄に激突した瞬間、砕け散ったからだ。
変質したソルの腕が纏う炎は、燃やす、と言うよりも、滅殺し、破壊する。
濁った赤橙の炎が、赤錆色に変わった。

ソルはジャスティスの両腕を砕いた勢いのまま、強引に封炎剣の柄を突き込む。
ジャスティスは防御することも出来ず、まともにどてっぱらに喰らった。
べっこりとそのボディーの外骨格が凹み、装甲が千切れ、得体の知れない黒い液体が飛び散る。

「Guaahhh――…」

そのソルの打撃を追うように、赤錆色の業火が、変質したソルの腕から迸った。
それは殆ど爆発の奔流だった。
ジャスティスはその炎に飲まれ、吹き飛ばされた。
咄嗟に身を捻って何とか直撃は避けたようだが、それでも致命傷だろう。
胴体の右半分が、砕け飛ぶ。
焼かれた炎と黒い体液を撒き散らせ、ジャスティスは放物線を描いてひっくり返った。
ズシャア、と重い金属が地面に落ちる音が鳴る。
何処か生々しい音だった。

ソルは止めとばかりに、地面を蹴って踏み込んで、逆手に持った封炎剣を振りかぶった。

「Guu…aaahhhh!!!」

ジャスティスは失った右半身から、大量の黒い体液を零しつつも、身体を起こして見せた。
そして、残った左半身を、ソルに向ける。
いや、正確には、残った左肩を。ソルが舌打ちをした瞬間だった。
ジャスティスの左肩が、バクンと開き、其処に巨大なレンズが覗いた。
一瞬、青白い光が其処に収束するのが見えた。

だが、ソルは構わず封炎剣を、そのレンズ目掛けて振り下ろす。
ジャスティスの肩のレンズから、光の奔流がソルを襲ったのはその時だ。
一瞬、青黒い周囲の空間が、白く染まる。

ソル目掛けて放たれたそれは、太いレーザーだった。

明らかに対人用の装備では無い。
十分なチャージ無しでも広範囲を焦土にするだろう法術兵器だ。
一対一で扱うには、過ぎた代物である。

それが、至近距離で放たれた。
ソルの振り下ろした封炎剣と、レーザーが激突する。

「…ぐ…!」

ソルは、そのレーザーに押され、後方へと吹き飛ばされた。
地面に落下すると同時に手を突き、即座に起き上がる。

だが、其処へさらにレーザーが射ち込まれた。
ソルは飛び退って、それをかわす。
レーザーは地面をズバァーーー、と薙いで、溶解させていく。

そのレーザーを放ちながら、ジャスティスは身体をぐらつかせながら立ち上がった。
そして、牽制か、苦し紛れか。そこら中にレーザーを撃ちまくった。
青白い光の嵐に阻まれ、近づけない。

ソルは距離を取ってから、苦く表情を歪めた。

ソルの視線の先では、レーザーを振り巻くジャスティス。
その破壊された半身からは、未だ夥しい量の黒い体液が流れ出ている。
だが、その黒い体液が、まるで塗膜のようにジャスティスの身体に広がっていく。
液体金属のようにうねうねと蠢く黒い塗膜は、次第にジャスティスの右半身を象り始める。

「…自己修復か…つくづく面倒な…」

ソルは、手にした封炎剣の刀身に手を沿える。
そして、柄から切っ先にかけて、掌をなぞらせていく。
その動きに封炎剣が呼応し、剣のフォルムが変わる。

無骨だった剣の刀身は、更に長く、厚くなる。
刃の部分は凸凹に波打ち、斬る、というよりも叩き割る為の武器へと姿を変える。
幅も広くなった封炎剣は、神器という名にはふさわしからぬ造形だ。
直線的でもあり、何処か歪で、複雑なフォルムに変わった封炎剣を握り直し、ソルは鼻を鳴らした。

修復しきる前に、叩き潰す。
ソルは踏み込む。レーザーの弾幕の中を、突っ切る。
迫るレーザーを、剣を盾のように翳して押し返し、ずらし、かわしていく。

何度かレーザーがソルの身体を削った。
血が焦げる匂いがする。
関係無い。
見ろ。奴はすぐ其処だ。
ジャスティスも気付いていた。
ソルとジャスティスの眼が合う。

刹那。
ジャスティスは、肩のレンズをソルに向けた。
ソルは、再び封炎剣を振りかぶった。

「…砕けろ…!」

「SYAAAAAAHHHHHHHHHHHH!!」


光線と、封炎剣の拮抗は一瞬だった。
ソルの封炎剣が、ジャスティスの放ったレーザーを切り裂いたのだ。
まるで、ホースで放たれた水に、熱した刀剣を正面からぶつけたみたいだった。
レーザーはたたっ斬られ、爆発するかわりに飛び散って霧散した。
そして、ソルの封炎剣は、吸い込まれるみたいにジャスティスの肩のレンズにぶち込まれた。

凄い音がした。
砕かれたのはレンズだけじゃない。
振りぬかれた封炎剣は、肩と腕をまるごと持って行った。
破片の舞う中、ソルは唇の端を舐めて、剣を引き寄せ握り直す。
ジャスティスは攻撃を喰らった反動で、ヨロヨロと後ずさっている。

やれる。
ソルは、もう一撃を叩き込む為、変質した腕に炎を滾らせた。
赤錆色の炎が、封炎剣を覆う。

滅殺の炎だ。
ソルが止めの一撃を放つ為、踏み込んだとき、それは作動した。

短い空気の振動音。
それと同時に、浮かび上がる巨大な法術陣。
陣から漏れる光は、やはり濁った深い青。
その陣の中心は、目の前に居るジャスティス。

「…こいつ…!」

ソルは咄嗟にサークルから飛び出そうとしたが、間に合わなかった。

激痛がソルの身体中に走った。
頭にも、胸にも、腹にも。まるで体中の神経を離断され、すり潰されていくような感覚。
一瞬で身体が動かなくなった。
身体の中のギア細胞が悲鳴を上げ、のた打ち回っている。
意識が飛びかけて、ソルは膝を着いた。
歯をかみ締め、何とか体を起こそうとする。
だが、無理だった。

「……糞……が…!」

だが、そう毒づくのがやっとだった。
見える景色が歪んで、霞む。
その歪な視界の中。
ジャスティスが、自己修復を終え、こちらに向き直るのが見えた。

「どうだい。対ギア用の結界の効果は」

そして、低く、妙に抑揚のある男の声が聞こえた。
何処からか見ているのか。
見ているのだろう。
この戦場の情報を全て掌握するように。
膝を着いたままのソルは、舌打ちすることも出来ずに、ジャスティスを見上げる。
そのソルの首辺りに、ジャスティスの蹴りが突き刺さった。

「…ごはッ…!」

ソルは血反吐を吐いて、地面を派手に転がった。
そして仰向けに倒れた所に、猛追してきたジャスティスの足が踏み下ろされた。
狙いは、ソルの胸と腹の中心辺り。
岩盤が砕けるような音がした。
踏まれたソルの身体は地面に陥没し、地盤が割れてべっこりと凹み、亀裂が走った。
ジャスティスは容赦しなかった。
何度も何度も、ソルの胸を踏みつけた。
その度にソルが血を吐き、身体が埋まり、地面の亀裂が広がり、また凹んで、轟音が響く。
だが、ソルの眼は死んでいない。
金色の眼は凪いだまま、ジャスティスを見据えている。
ごふっ、と一度血を吐いてから、ソルは胸に乗っているジャスティスの脚に手を掛けた。

「…改良型、か……成る程な…」

「そうだ。ギアでありながら、対ギア用の法術を使えるのは大きなメリットだよ」

何せ、相手のギアだけを一方的に無力化出切るからねぇ…。
男の声は、ロボカイの時と同じく、ジャスティスの喉辺りから響いてくる。

「君が此処に居ることは、完全に想定外だが…。君への対策は、随分昔に出来てるんだ」

「…何……」

「管理局内での君の危険度はSに認定されていてね…。僕達も、君の襲撃に備える必要があったからねぇ」

ソルは身体を持ち上げようとしたが、上手く動かない。
頭痛がして、眼が霞む。
動こうとしたソルの胸部を、ジャスティスは更に踏みつけた。
ぐはっ…、と血を吐くソルに、男は冷静な声音で続ける。

「対ギア用のこの法術も、ほとんど君を意識して開発したものだ」

血の塊を吐き出すソルの姿も見えているのだろう。

「君の存在は規格外故に、研究する機会も多かったからね…。成果が出ているだろう?」

男の声には、微かな優越感と達成感があった。
ジャスティスが体重を掛けて、ソルを押し潰しに掛かる。
だが、ソルもじっとしている訳では無かった。
自由の利かない身体を、意思の力で無理矢理に起こしながら、ジャスティスの脚を引っ掴む。

「君の身体にギア細胞が宿っていることは知っているし、それがかなり特殊なものであることもね」

「…それが…どうした…」

ソルは血と一緒に吐き捨てる。
そして、ジャスティスの脚を掴んで持ち上げるように、ぐぐっ、と身体を起こしていく。

「さぁ…。色々と意味は在るからね…。どういう事だろうね、ミスター・バッドガイ」

「…黙れよ…」

男の揶揄するような声。
それに答える代わりに、封炎剣を握るソルの手の中に爆発が起こった。
その爆発は封炎剣を一瞬で包み、巨大な火柱へと変貌させる。
ソルは踏みつけられた体勢から身体を持ち上げつつ、その封炎剣をジャスティス目掛けて振り上げた。

姿を変えた封炎剣に、流石に危険を感じたのか。
ジャスティスはもう一度踏み下ろそうとしていた脚を引っ込め、バーニアを前へと噴射。
すんでの所で、封炎剣の間合いの外へと離脱した。
空を斬った剣の軌跡を、赤錆色の炎が奔る。
ジャスティスは法術でソルを縛りながら、両の掌を黒剣へと変形させた。
…糞が…、と呟いて、ソルは何とか立ち上がり、ジャスティスに対峙する。

再び、鉄の砕ける音が辺りに木霊した。
そして、紅い魔力の奔流が、青黒い空を更に濁らせ、掻き混ぜる。
ゴーレムの呻き。
木偶の鳴らす、不快な金属音。
そして、目の前に佇む、破壊神の模造品。

「…チマチマやってる場合じゃねぇな…」

鬱陶しそうに貌を歪めながら、ソルは旅装束の上着を脱ぎ、腰に巻きつけた。
そして、変質していない掌で顔を掴むようにして覆い、ソルは背を丸めた。
まるで、何かを身体から放出するみたいに、大きく息を吐く。
その瞬間だった。

ソルの身体から、膨大な力の脈動が溢れ、辺りの空気を焼く。
爆発的に膨れ上がったソルの法力の余波に、ジャスティスが後方へと吹き飛びかけた。
ジャスティスは荒れ狂う炎熱の法力の中、眼を細める。

「…凄いな、君は…。この結界の中で、まだ動けるのかい…」

男の声は、驚愕に震えていた。
そのジャスティスの前で、ソルは自らの身体を更に変質させていく。
ジャスティスの纏う結界に罅が奔り、青い光の破片が舞う。
だが、その破片も、すぐにソルの炎熱の法力に焼かれ、消え失せる。

ソルはもう一度深く息を吐いて、身体を折りたたんでいく。
その左手に纏った赤錆色の外骨格は、左腕全てを覆い尽くした。
バキバキ、ゴキゴキと音を鳴らしながら背中からは竜翼が伸び、暴力的なシルエットを浮かび上がらせる。

「…余計な手間を掛けさせやがって…」
その低い声は、荒れ狂う赤錆色の波動と共にジャスティスに届いた。
ソルの眼が緋色に燃え、冷徹で残酷な光を宿す。
灼熱の息を唇から漏らしながら、ソルは一歩を踏み出した。
…すぐに塵屑に返してやる…。







おいおい。冗談じゃねぇぞ。
マジかよ。やべぇな。
レミリアちゃんとフランちゃんも来て、割と何とかなるかも。
そんな風に思ってたら、この有様だ。

ジャスティス。複製だろうが何だろうが、十分過ぎる脅威であることに変わりない。
それが、目の前に突然現れ、いきなり大技をぶっ放しやがった。
あれは剣だった。
掌を糞デカイ剣に変えて、奴は振り下ろしてきやがったのだ。
地面がバターみたいに斬り裂かれて、縦線が深く刻まれている。

紅魔館に傷は無い。
だが、紅魔館を守る結界は、相当やばい感じに罅が入っている。
剣が凪いだ痕に、強烈な一本の亀裂が入り、そこから細かな罅が広がっている感じだ。
もう一撃ぶっ放されたら、多分結界が持たない。

「喰らったら終わりだな、こりゃあ…」

その剣の縦一閃を横っ飛びに避けたアクセルは、素早く立ち上がりジャスティスに向き直った。

ジャスティスは空中からゆっくりと降下してきている。
どうやら、紅魔館を潰す前に、アクセル達をひき潰すつもりなのだろう。
こちらを見下ろすジャスティスの金色の眼は、無機質だがとんでもなく攻撃的だ。

「その前に、倒す…」

「無論です」

降りてくるジャスティスに正面から対峙しているのは、アクセルだけではない。
美鈴、パチュリーも、アクセルに並ぶようにして立っている。

「やってくれるじゃない…」

「凄かったねぇ、今の!」

レミリアは忌々しそうに貌を歪めながら、ジャスティスの左手方向に陣取る。
フランは楽しそうに笑いながら、ジャスティスの右手方向に。

「これ以上の狼藉を許す訳にもいきません」

感情の起伏を全く感じさせない冷たい音で言って、咲夜はジャスティスの後方を取る。

紅魔館メンバーによる完全包囲だった。

これは、もうチェックメイトだろう。
余裕だ。勝てる。
ちょちょいのちょいだ。
普通の相手だったら、アクセルもそう思っただろう。

だが、今は違う。
そんなお気楽な思考の変わりに、冷や汗がアクセルに頬を伝った。

ジャスティスは周囲に視線を巡らせつつ、剣へと変わった掌をしゅるしゅると解く。
剣から元の形に戻った黒い掌を、軽く何度か握っている。
そして、嫌味なくらいゆっくりと地面に降り立った。
その巨体からは想像出来ないほどの柔らかな着地音だった。

尾を揺らしながら、ジャスティスは自身を包囲する紅魔館メンバーを見回す。
そして、「shiiiiiyyyyy――…」と低く吐息を吐いた。
やる気満々のようだ。

畜生。勘弁してくれ。
そう呟いたアクセルの隣で、美鈴はスゥゥゥーー…、と呼吸を整えつつ気を練り、ジャスティスに視線を向けている。
その身体からは極光のオーラが立ち上り、重心を落とした構えに、一切隙は無い。

パチュリーは紫色の魔力光を漏らしながら、左手でルーンを刻み、右手の上に魔道書を開く。
独りでに捲れる魔道書。其処から溢れる光の渦は、偉大な知識の力を感じさせる。

レミリアとフランは、その翼を羽ばたかせながら、降り立ったジャスティスを見下ろすようにして空中に佇む。
レミリアの手には、魔力が象った紅い魔槍。
フランの手には、炎を燻らせた、先端がスペード型に尖った黒い棒が、其々握られている。
二人の得物も、鮮やかなく紅の魔力のオーラを纏っていて、其処に宿る強大な力を誇示している。

背後を取った咲夜は、ナイフを指一杯に挟みながら、眼を細めつつジャスティスの隙を伺っている。
時間停止の為に集中しているのだろう。
すぐにでも時間を停止させ、弾幕を展開出来る状態で、咲夜はジャスティスの動きを待つ。


アクセルは鎖鎌を構えつつ、やるしかねぇな…、と呟いた。

ジャスティスの放つ威圧感のせいだろうか。
青黒い空が、何だか近く感じる。やけに息苦しい。
紅魔館の壁面にも、見ていると気持ちが悪くなるような陰影を作っているしで、気分も最悪だ。

だが、やるしかない。
最初に動いたのは、美鈴だった。


「はぁぁぁぁっ――…!」

極光の波動を身に纏わせたまま、ダダン!、と地面を蹴って、美鈴は真っ直ぐにジャスティスに踏み込んだ。
捻りも何も無い突進だったが、それ故、ジャスティスはその極光の脅威を強く感じただろう。
だが、ジャスティスは全く怯まなかった。
その巨体を少しだけ猫背に丸めて、既に拳を突き出そうとしている美鈴に向き直る。
小細工無しの打撃戦で、正面から美鈴を相手にする気だ。

美鈴は踏み込みつつ更に重心を落とし、縦に構えた拳をジャスティスに叩き込もうとした。
その美鈴の動きに合わせて、レミリア、フランもジャスティスに飛び掛かる。

寄って集ってというのは、あまり好きじゃないけど…!
レミリアは左手に握り込んだ紅い槍を更に巨大に膨れ上がらせ、身体を撓らせる。

キャハハッ!
寒気がする程無邪気な声で笑い、フランは握った黒い棒を爆炎で象り、レーヴァテインを振り上げる。

だが、誰よりも疾かったのは咲夜だ。
いや、速いも遅いも無い。
時間停止の中で動ける咲夜にとっては、美鈴の踏み込む一瞬だけで十分だった。
ジャスティスの周囲に、突然ナイフ弾幕が現れた。
美鈴に向き直ったジャスティスをぐるっと囲む、刃の檻。

ナイフ弾幕を盾にしながら、美鈴は更に深くジャスティスに踏み込もうとする。
美鈴の纏う極光のオーラが更に強く輝く。

パチュリーは呪文を詠唱しつつ、その様子を眠たげな眼で見据えている。
アクセルは、美鈴の後ろにつくようにして駆ける。

ジャスティスは、しかし、突然現れたナイフ弾幕にさして驚いた風でも無かった。
背を丸め、美鈴を見据えたままの体勢まま、ジャスティスは「seeeee…―!」と鋭く息を吐いた。
ジャスティスは馬鹿げた方法で、ナイフ弾幕と、踏み込んでくる美鈴に対処した。
それは、ほとんど体当たりだった。
猫背に丸めた体勢のまま、ジャスティスは一歩踏み出しながら肩のバーニアを爆発的に噴射。
一気に前方に加速することで、振り下ろされたフランのレーヴァテインを潜り、レミリアの槍の刺突をギリギリのところですり抜けた。

「あれっ!?」「このっ!」

フランとレミリアが、驚きと悔しげな声を漏らすが、ジャスティスは一顧だにしない。
その巨体に青稲妻を纏いつつ、ナイフ弾幕を喰らいながら美鈴に突進をかましに掛かった。
ドスドスドスとナイフが突き刺さりまくっているが、ジャスティスはお構いなしだ。
美鈴は一瞬だけ驚いた表情になったが、声を上げる代わりに、拳を突き出す。

極光の光が溢れ、ジャスティスに激突。
僅かに突進のスピードが落ちた。それも、だが一瞬だ。

木偶達の津波を砕き、押し返した一撃は、ジャスティスには通じなかった。
ふざけた推進力を得たジャスティスの巨体は、美鈴の一撃でも止まらない。
メキメキ、と嫌な音が美鈴の拳から聞こえた。

激痛と共に、美鈴は不味いと思った。
この突進をまともに喰らうのは不味い。だが、ガードは間に合いそうも無い。

それは一瞬の出来事だった。
視界の隅に、ジャスティスの背後で、ナイフを弾幕が広がるのが見えた。
次に、美鈴の斜め後ろ上空から、渦を巻いた炎の塊が、ジャスティス目掛けてぶつかって来た。

「ナイス咲夜さん!」

アクセルだ。
炎を右腕に宿らせ、身体を逆さまに向けるみたいにして、美鈴の後ろ上空から飛び込んできた。
咲夜の時間停止に合わせて、アクセルは美鈴のフォローに入っていたのだ。
美鈴がすっと半歩さがると同時に、アクセルは炎渦を纏う腕で、鎖鎌の柄をジャスティスに叩き込む。
凄まじい激突音がした。
甲高く、それでいて、腹の底に響くような重低音でもあった。
美鈴の一撃で微かに鈍った突進を、今度はアクセルの一撃が押し返して見せた。
いや、押し返すというよりも、弾き返した。
続けざまに、アクセルは後方に吹っ飛ぶジャスティスに肉薄する。

「kuu…!」

ジャスティスは呻いたのだろう。その背中に、再びナイフが刺さりまくった。
金属質の声を漏らしながら、ジャスティスはアクセルに視線を向ける。
だが、ジャスティスの相手は勿論、アクセルだけでは無い。

澄んだ紫色の光が、周囲に溢れた。パチュリーの詠唱が完成したのだ。

地に浮かび上がる魔法陣の上に佇み、七曜の魔女は指先をジャスティスに向けている。
ジャスティスは眼だけでそれを視認し、すっと身体を縮めながら、その尾をしならせた。
ビュオッ、と居合いのように振るわれた金属の尾は、狙い違わずアクセルを襲う。
それは鞭、というよりも、槌だった。
「ぶっ!?」防御は間に合ったものの、今度はアクセルが横殴りに吹っ飛ばされた。
そのフォローに今度は美鈴が入る。
アクセル目掛けて再び振るわれた尾を、拳と掌打を駆使して払いのけていく。
其処に、さらに強い紫色の光が押し寄せた。咄嗟に、アクセルと美鈴は後ろへと飛び退る。
それを追おうとしたジャスティスの首の後ろ辺りに、再びナイフが埋め込まれた。

「guuaaahh…!」

ジャスティスはうざったそうに首を振り、ギョロっと咲夜に眼を向けた。
金色の眼が、再びナイフ弾幕を展開しようとしていた咲夜を捉える。
一瞬だけ眼が合っただけだが、咲夜は怯んだ。

息が詰まる。
無機質でありながら、明確な殺意と威嚇を込めた眼差しは、咲夜の心臓を摘んだ。
ナイフ弾幕を放とうとした咲夜の手が止まる。
ジャスティスが動こうとした瞬間。
その巨体目掛けて、氷河に吹く風のように、凍てついた風が吹き荒れた。
それは、この世ならざる力が起こした御業だった。

「余所見は…良くない」

ボソッと紡がれた言葉と共に、吹き荒ぶ風がさらに強まる。
それと同時に、パチュリーの周囲に巨大な氷の柱が群れを成して現れた。
氷の柱はどれも先が鋭く尖っており、一本一本が長大な凶器だった。
一旦下がって正解だったな…。
アクセルは美鈴と共にジャスティスから少し距離を取って、その光景に見入った。

氷柱はどれもこれもが美しく、巨大で、とにかく、とんでもない数だ。
それらが澄んだ紫色の光に照らされ、光を反射する様は幻想的で、ひどく現実感に欠ける光景でもある。
だが、ジャスティスにとってそれは眼に見える脅威そのものだった。
咲夜から視線を戻したジャスティスは、両の掌を再び黒剣へと変え、パチュリー向き直る。
バッチバチと青稲妻を迸らせ、ジャスティスは剣となった両手を振り上げた。
青白く、巨大な剣が現れ、青黒い空を貫く。

「これはっ…!」「うひ、やべぇ…!」

美鈴はバックステップを踏んで距離を取る。
アクセルもそれに続く。
見れば、咲夜もジャスティスから距離を取ろうとしている
そりゃそうだ。
此処に突っ立ってたら、巻き込まれる。
そんなのは御免だ。

だが、アクセル達とは違い、逆に突っ込んでいこうとしている姉妹がいた。
レミリアとフランだ。
二人とも、得物を握り締めながら笑ってる。
何て姉妹だ。
呆れと感心を半々で抱きながら、半ば呆然とその姿を見送っていると、その瞬間は訪れた。

いや、想像いていたよりも、もっと凄まじい光景が広がった。
パチュリーだ。

嘘だろ。
あの氷の柱だけで、とんでもない物量なのに。
まだ、何かあるのか。

パチュリーの足元。
澄んだ紫色に彩られていた魔法陣が、今度は白い光に染まった。
それに呼応して、氷柱の群れの中に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
馬鹿馬鹿しい程デカイ。

アクセルは顔が引き攣るのが分かった。

待てよ。
何もかもを吹っ飛ばす気か。

しかし、この場を離れようとしているのはアクセル、美鈴、咲夜だけだ。
あの光景の中に突っ込んでいこうとしているスカーレット姉妹は、多分、馬鹿だ。
頭がおかしいんじゃねぇのか。

「SYAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH!!!!」

ジャスティスはもう、馬鹿丸出しだ。
雄叫びを上げて、剣を振りかぶって、パチュリーの練り上げた魔法の群れに立ち向かおうとしている。

何だこりゃ。
悪夢か。
手が届かない場所で、何もかもが終わろうとしてるんじゃねぇのか。
笑えねぇ。
そんな悪態を吐く余裕も無い。
吹き荒れる冷気と、青稲妻と、それに突っ込んでいく姉妹の紅の魔力光。
その全てが交じり合って、もう視界はめちゃくちゃだ。


月符「サイレントセレナ」。
パチュリーが呟いた瞬間、それは起こった。

視界が真っ白になって、美鈴とアクセルはひっくり返った。
咲夜がどうなったのかは、アクセルからは見えなかったが、多分同じような状況だと思う。
こんな無茶苦茶な中、立ってられるか。

パチュリーの頭上に浮かび上がった魔法陣から、白い光の束が放射された。
恐ろしく静かに放たれたその白い光は、とにかくとんでもない威力を秘めていた。

「AAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH!!!」

空気が蒸発する音が聞こえる。
魔法陣を象るように放たれた白い光に向かって、ジャスティスは巨大な黒剣を振り下ろした。

真っ向から激突する、白光と青稲妻の剣閃。
ズバアアアアアアアーーー、と剣閃は白光を引き裂く。
だが、切り裂いただけだ。
ジャスティスは威力に負け、押し返される。
その装甲からは煙が上がり、外骨格も悲鳴を上げ始めた。
詠唱に徹した魔法使いが一体どれほどの脅威となるのか。
それをまざまざと見せ付けながら、パチュリーは眼を細めた。
何とか剣を押し込みながら踏ん張っているが、パチュリーの放った魔法はそれだけではない。
パチュリーは無言のまま、ボソボソっと何事かを呟いて、指でルーンを刻んだ。
ずらっと並んだ氷柱が、ゆっくりとジャスティスに向けられたのはそれと同時。
ジャスティスはその光景見ながら、苦しげに眼を細める。
そして、その視線の先。

一斉だった。
数え切れない程並んだ氷柱の群れが、白光に押され、身動きの取れないジャスティスに殺到した。

「Giiiiiyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy――――ッ!!」

ジャスティスは絶叫をだけを残して、氷柱の嵐に飲み込まれた。
バキバキドカドカグシャグシャと、凄まじい音と共に、氷の破片が当たり一面に降り注いだ。
冷気が地面に霜を張り、尖った氷の破片が無数に地面に突き刺さった。
冷めた静寂が辺りを包みかけた。

「何てこった…!」

その降り注ぐ凶器を払いながら、アクセルは見た。
信じられなかった。
眼を疑った。

ジャスティスだ。

生きてる、というか、ほとんど無傷だ。
信じたくない光景だ。
だが、何故、とは思わなかった。
ジャスティスを包む、あの薄緑色の結界が、多分、その答えだ。

「頑丈…過ぎる…」

パチュリーは舌打ちをする代わりに、貌を歪めて眉間に皺を刻んだ。
その息は、微かに荒い。こほこほっ、と咳を零した。
ジャスティスはパチュリーに向き直りかけて、しかし、すぐに出来なくなった。

レミリアとフランだ。
一瞬でパチュリーのフォローに入る。
ジャスティスの背後から一気に距離を詰めた姉妹は、仲良く同時に得物を叩き込む。
レミリアは魔槍を突き込むように振りぬき、フランは両手で真っ直ぐにレーヴァテインを振り下ろした。

紅い魔力光を纏う姉妹の一撃は、パチュリーの魔法並みに危険な感じだった。
流石に、ジャスティスもこれを喰らうのは不味いと思ったのか。

結界を纏ったまま、黒剣と化した両手に青稲妻を宿らせて、これを向かえ撃つ。
左手の黒剣でレミリアの槍を払って流し、右手の黒剣でフランのレーヴァテインを叩き返した。

稲妻と魔光がぶつかり合った。
閃光が瞬き、空気が激しく震えた。

「いい加減、壊れなさい…!」

一旦ジャスティスから距離を取りつつ、槍を構え直して、レミリアはその手に魔力を込める。
ズグズグと音を鳴らして槍が肥大化し、アンバランスを通り越して非常識な大きさへと育っていく。

レミリアが魔槍を創り上げるその間、ジャスティスを攻め込んだのはフランだった。
ブォンブォン振り回されるレーヴァテインは、何度も何度もジャスティスの黒剣と火花を散らす。
威力では互角なのか。
ジャスティスはフランの斬撃を受け止めながらも、反撃に移れないでいる。

「どう!? 私のoooooo! レーヴァテインの威力uuuuu! AHaaaaaahhh!!」

フランもかなりの興奮状態で、その紅い眼に狂気が見え隠れしている。
ザックンザックン地面を抉りながら、振り回される禁忌は、ジャスティスですら手を焼いている。
レーヴァテインを弾くたび、ジャスティスの身体が軋む。
フランの純粋なパワーで、押し切られようとしている。

アクセルはその光景を見て、駆け出す。美鈴もそれに続く。
咲夜はナイフで弾幕を展開しながら、空から迫る。

これは、多分チャンスだ。
ジャスティスがフランに押さえつけられている今の状況は、間違いなく好機だ。
そんな風に思ったが、違った。

ギャハハ、と笑いながら、とんでもない力で振るわれた禁忌の力。
それを、今度は弾き返すのではなく、そっと押すようにして受け流したのだ。

「あはははは――あ…?」

フランの哄笑が止んだ。
当たり前だ。
力いっぱいにぶち込んだ攻撃を受け流されて身体が泳ぎまくっている。
其処にジャスティスが迫っているのだ。
一瞬だけフランの顔が怯えたように歪んだが、ジャスティスの手がフランに届くことは無かった。
レミリアの放った巨大な魔槍が、ジャスティスを直撃したからだ。
しかし、その装甲に穴を空けるには至らない。
薄緑の結界が、槍を何とか防いでいた。

だが、その威力は本物だった。
紅く歪んだ空気の渦を作りながら、魔槍はジャスティスを地面に叩き付けた。
レミリアは舌打ちをしながら、フランを庇うように前に出る。

ジャスティスは地面に半分埋まりこみながら、レミリアを見上げた。
そして、すぅっと金色の眼を細める。

「呆れるぐらい頑丈ね…。やってられないわ」

その視線を受け止めながら、レミリアは忌々しそうに呟く。

そりゃあ…そう簡単に壊れられたら、困るからねぇ…。
レミリアの呟きに答えたのは、低く、妙に抑揚のある声だった。

突如響いた声に、フランがびくっと背を震わせた。
レミリアは眉を顰め、魔槍を手に作りだす。

「いや、しかし…此処まで激しい抵抗に会うとは、思ってなかったよ」

「紅魔館を甘く見過ぎね…。そんな風に影でこそこそとしているから、見誤るのよ」

侮蔑を込めたレミリアの言葉に、「いや、違い無いな…」と、男の声が答えた。
嫌に落ち着いた声音だ。

「お嬢様!!」
「相変わらずタフなこった…!」

アクセルと美鈴が、その場に踊りこむ。

「お怪我は…」

次に、咲夜がレミリアの隣に控えるように現れる。
その咲夜に、問題無いわ…、と答えて、レミリアは鼻を鳴らした。

ずずっと、ジャスティスは地面から埋まっていた身体を引き抜き、「shiiiiiyyyyyy…」と鋭く息を吐き出す。

そのジャスティスの背後から、澄んだ紫色の波動が届いた。
彼女は全身に魔力光を纏わせながら、ゆっくりと歩んでくる。

「どんな素材で出来てるのか…興味深い…」

ぼそっと言って、パチュリーは眠そうな眼をジャスティスに向けながら、魔道書を開く。
紡がれる詠唱に合わせて、その眠そうな眼に尋常では無い迫力が宿る。

再び包囲される形になったジャスティスは、先程と同じようにゆっくりと視線を巡らせる。

「ジャスティス…。もう少しだけ出力を上げるよ。…このままじゃ押し負けそうだ」

その男の言葉に、ジャスティスの額に刻まれたギアの刻印が赤く、鈍く輝き始める。
メキメキと、ジャスティスの外骨格が軋むような音を立てる。
何かが引き締まり、力を凝縮させていくような音だ。

「uuuuUUUUUGGOOOOOOOOAAAaaa―――」

「取りあえず…スカーレット姉妹は、余り傷を付けないでくれよ」

響く男の声は、ひどく低く冷たかった。アクセルは「糞野郎…」と呟いていた。
ジャスティスはもともと巨体だが、その身体が更に大きくなったような気がした。

「Grrrrrrruuuuu…」

ジャスティスは猛獣みたいに呻り声を上げ、視線を巡らせた。
アクセル、美鈴には一瞥をくれただけで、パチュリーを見て眼を細めた。
レミリア、フランには眼もくれず、その隣に居る咲夜に眼を止めた。

恐らく、得体の知れない力を持つ咲夜を、まずは排除しようと考えたのだろう。
先程からナイフ攻撃を随分受けていた所を見ると、ジャスティスであっても咲夜の力には対処しずらいようだ。

アクセルも、すぐにフォローに入れるように鎖鎌を構え、美鈴も構えを取った。
咲夜はナイフを指に挟み、ジャスティスの眼を睨み返す。
レミリアは槍を握り直し、フランは掌をジャスティスに向けた。
パチュリーは詠唱を続けている。

静寂は一瞬だった。
ジャスティスが吼えた。
それと同時に、レミリアの隣に控えた咲夜へと飛び掛ったのだ。
肉食獣が可愛く見える程、獰猛で凶悪な速度だった。

勿論咲夜は反応していた。
だが、ジャスティスの速度が疾過ぎて時間を停止させる間が無かった。
代わりに、吸血鬼であるレミリアとフランは、完全にジャスティスの動きを捉えていた。
レミリアは身体を捻りながら、魔槍をジャスティスに突き入れた。
フランはレーヴァテインを振るう代わりに、掌を握りこんだ。
咲夜は咄嗟にナイフ弾幕を展開する。

だが、そのどれもが無駄だった。
ジャスティスはまず、突き入れられた深紅の魔槍を身体に生やしたまま、蹴りをレミリアにお返しした。

まともに喰らった。
「うぐっ…!」鈍い音と共に玩具みたいに吹っ飛ぶレミリアには眼もくれず、今度はフランに尻尾を振るった。
「あれ…?」フランが握りこんだ掌は、しかし、ジャスティスを爆発させることは無かった。
驚いた表情のまま掌を見詰めるフランを、横薙ぎに尾が払った。
ビシィ!、と固い音が鳴った。息が詰まるような音だった。
妹様っ!!、と美鈴が叫んで、飛んできたフランを間一髪キャッチする。

美鈴の腕の中で、フランは貌を苦悶に歪めながら、何で…、と呟いた。
フランの右腕には大きな裂傷が入り、赤い血が美鈴のチャイナ服を汚した。
だが、その間にも、事態は悪い方へと一気に進もうとしていた。

一瞬で、レミリアとフランを蹴散らしたジャスティスは、そのままの勢いで真っ直ぐに咲夜に向かった。

ナイフ弾幕も張られてはいたが、ジャスティスは尾を振りたくってそれを全て弾く。
鞭のようにしなり、また眼にも留まらぬ速さで振りぬかれた尾は、そのまま咲夜を襲う。

「うぁ…!」

咲夜は後方へと素早く飛び退りながら、何とか尾をナイフで捌く。
だが、その行動はジャスティスも予想していたのだろう。
必死に尾を捌く咲夜めがけて、バーニアを噴射。
再び突進をかましに掛かったのだ。
咲夜はこれをかわせなかった。かなりやばい感じに喰らった。

アクセルもフォローに入る為に駆けていたが、何もかもが一瞬で起こりすぎた。
全然間に合わなかった。

畜生、とアクセルは呟いた。
衝撃を殺す為に、インパクトの瞬間、咲夜が後ろに飛んだようにアクセルには見えた。
そうであって欲しい。
でなければ、冗談みたいにくるくると回って地面に叩きつけられた咲夜は、もう起き上がれないだろう。

だが、ジャスティスは容赦しない。
倒れた咲夜に目掛けて、再びバーニアを噴射しようとした。
止めを刺すつもりか。ふざけんな。
そう思ったのは、アクセルだけでは無かった。

怒りを滲ませたぼそぼそ声が、背後から聞こえた。パチュリーだ。
ジャスティスの脚に、見る見るうちに土と氷が纏わりつき、その動きを止めた。
だが、それも一瞬だけだ。

「SHYYYYYYYAAAAAA!!」

ジャスティスは地面を両手でぶったたいて、土と氷を粉々にして、再び咲夜に向き直ろうとした。

アクセルは胸が潰れそうになった。

咲夜だ。
ふらふらのまま起き上がって、ナイフを構えようとして、だがすぐに膝を着いた。
その姿にジャスティスも気付いて、たった一歩で、一気に咲夜へと迫った。

「させっかよぉ…!」

だが、パチュリーが作った一瞬の時間で、何とかアクセルが間に合った。
鎖鎌を振り回しながら跳躍し、ジャスティスの肩に着地する。
そして、その肩の上で宙返りをしつつ、両手に握った鎖鎌を縦横無尽に舞わせた。
アクセルの鎖鎌は、しかし、届かない。
ジャスティスも咄嗟にバックステップを踏みつつ、鎖鎌を弾いたからだ。

だが、位置取りは上手くいった。
アクセルが着地したのは、咲夜とジャスティスの間。
調子に乗りすぎだぜ、テメェら。





咲夜はふらつく体に力を込め、何とか立ち上がろうとするが、やはり無理だった。
眩暈がして、吐き気もする。うまく身体に力が入らない。

甲高い音が聞こえる。
リズミカルで、澄んだ音だった。
誰かが戦っている音だということは分かった。
だが、酷く距離を感じる。
何だか、眠い。

しかし、このまま寝ている訳にもいかない。
お嬢様を、フラン様を、お助けせねばならない。
自分も闘わねばならない。

気力を振り絞って顔を上げた。
息を呑んだ。

ジャスティスと一騎打ちを繰り広げている。
咲夜に背を向けたアクセルが。
まるで、あの凶暴な巨体を堰き止めようとするかのようだ。

ひょっとして。
守ろうとしているのだろうか。私を。
多分、そうなのだろう。
一歩も退かず、正面からジャスティスと切り結ぶアクセルの背中が、大きく見える。

明らかに、アクセルは体格で負けている。
それでも、鎖鎌を棍棒へと変形させつつ、敵の攻撃を巧みに捌き、往なし、全身を駆使して、互角以上に渡り合っている。

今も、振り下ろされたジャスティスの黒剣を避けるのでは無く受け流し、その攻撃が決して咲夜に届かぬように立ち回っていた。

アクセルは強かった。
ジャスティスが突きこんで来た黒剣を、身体を独楽みたいに回転させて捌いた。
そして、その回転のまま、炎の法力を纏った蹴りをジャスティスの頭部に見舞った。
まともに入った。

「Gu…!」

信じられないことに、ジャスティスがよろめいた。
その隙をアクセルは見逃さなかった。
すすっと、踏み込みつつ鎖鎌を鉄棍に変形させた。
その鉄棍で再び頭部をダンダダンと打ち据えた。
ジャスティスは後ずさりかけたが、すぐに反撃に転じてきた。
アクセルの鉄棍を掴んで、そのまま引っ張ったのだ。

しかし、アクセルは動じなかった。
鉄棍がまるで解けるようにして鎖鎌へと姿を変えたのだ。
ジャスティスが握っているのは、片方の柄となった。
アクセルはもう片方の柄を握り込みながら、引っ張られた力を利用した。
そのままジャスティスに踏み込んだ。

「KUAHHH!!」

ジャスティスは吼えて、掌の黒剣を横薙ぎに振るう。完全に間合いだ。
だが、アクセルは、これを潜り込むようにしてかわして見せた。
そして、かなり短い距離だったが、何度か踏み込む速さを変化させた。
速く、遅く、そして速く。ジャスティスは翻弄された。
反応が遅れた。
その腹部に、炎の渦を纏ったアクセルのボディーブローが突き刺さった。

ジャスティスは後ずさり、鎖鎌の柄を取り落とした。
それを見たアクセルは、即座にそれを引き寄せて掴み、追撃を掛ける。
ジャスティスは咄嗟に前蹴りを放った。
その脚が変形し、三又の矛みたいな凶悪な形状になった。
喰らえば一溜まりも無いだろう。

危ない。咲夜は叫びそうになったが、その必要は無かった。
アクセルはすっと脚を引き寄せるみたいなコンパクトな跳躍で、その矛の上に着地。
そして、ジャスティスの脚の上を猛然と駆けた。
アクセルがジャスティスの上半身に辿り着くまでは、一瞬だった。
その刹那。
アクセルは、炎渦をジャスティスの顔面に叩き込んだ。

「GUAAHHH!!」

ジャスティスは顔を抑えて、よろよろと後退した。
アクセルは宙返りを決めて着地して、再び咲夜の前に陣取る。

行かせねぇぞ。
アクセルは低い声で、ジャスティスに告げる。

強い。
素直にそう思った。
其処で、最悪な事態が起こった。

「パチュリーちゃん! 後ろだ!!」

アクセルの叫びは、ひどく虚しく木霊した。
パチュリーの背後。其処に、あのロボカイが現れた。
いや、降って来たという方が正しい。最低な登場シーンだった。

パチュリーがそう簡単にやられる訳が無い。アクセルはそう思った。
だが、ロボカイは戦闘に頼らず、パチュリーという厄介極まりない存在を無力化する術を持っていたようだ。

ジャスティスが悠然と肩越しにパチュリー達の方を見た。
アクセルがその油断を付けないぐらい、その光景はショッキングというか、現実味が無かった。

まず、パチュリーはアクセルの声に即座に反応して、結界を張りつつ振り返った。
それがどれ程強固な結界かは分からないが、多分相当なものだったはずだ。
だが、対峙したロボカイは、パチュリーの目の前の地面に剣を突き刺し、法術陣を展開した。

恐らく、対魔法使い用の術か何かだったのだろう。
法術陣に取り込まれたパチュリーの結界は、するすると解けるようにして霧散しだしたのだ。
パチュリーは冷静だった。
即座に別の呪文を唱えようとしたが、ロボカイの方が速かった。
ロボカイは攻撃では無く、法術を展開することだけを目的にしていた。
奴は、剣をハンマーに変形させ振り上げた。フェイントだった。
その動きを眼で追ったパチュリーに一気に踏み込んで、その首筋に鉄の指を押し当てた。
まるで、焼き鏝か何かを押し付けるみたいな感じだ。
とても攻撃とは呼べない行動だったが、その効果は絶大だった。

パチュリーが突然、激しく咳き込み始めたのだ。
その首筋に、親指大の、濁った青色の複雑な文様が浮かんでいた。
文様からは、澄んだ紫色の光も漏れ出している。

ジャスティスが視線を向けた一瞬の間に、それらは起こっていた。

「魔力漏洩の刻印だよ。ジャミング用の法術を強化改良することで開発したんだけど…」

ジャスティスの喉元から、男の声が聞こえた。

「どうやら、効果は高いみたいだねぇ…。しかし…」

アクセルは、畜生…! と呟いて、唇を噛む。
フランと美鈴が、パチュリーの元に飛び出したが、間に合わない。

しかし、最悪な事態は、どうやらこれが底だったようだ。

何か得体の知れない鉄の塊が、途轍もない勢いで吹っ飛んできて、パチュリーにハンマーを振り下ろそうとしていたロボカイに激突したのだ。

その鉄塊の正体は、グシャグシャに破壊されたジャスティスの身体だった。

「…流石は、ミスター・バッドガイ」男の声は、若干引き攣っていた。

こひゅー、こひゅー、と危険な音を零すパチュリーの隣。
そのパチュリーを庇うように、彼は竜翼を羽ばたかせて降り立った。

「助かったわ…。大丈夫、パチュリー」

彼の腕の中には、不本意そうな、しかし、すまなさそうな顔のレミリアが抱えられていた。
そのレミリアに頷いて、パチュリーは苦しげな笑みを浮かべて見せた。

「何とか…皆、生きてる…」

そのパチュリーの言葉に、彼は頷き、アクセルと対峙しているジャスティスに向き直った。

「…あと一匹か…」

そのソルの低い言葉と共に、運命が動き始める。



[18231] 二十・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:3701a0d8
Date: 2010/12/14 22:40

 前時代的な幻想郷の風景の中では、湖の傍に立つ紅魔館の姿は、やはり何処か浮いている。
豊かな緑と、その鮮やか過ぎる紅が反発しあっているせいかもしれない。
或いは、小さな城のようでもある、その館の纏う独特の雰囲気のせいか。
辺りを包む自然を足蹴にして、踏ん反り返るような傲慢さ。それでいて高貴さを失わない。
普段の紅魔館は、その主である吸血鬼の気質をそのまま反映しているかのようでもある。


だが、今は大きくその様相が違っていた。
古い日本の景色の中でその存在を強烈に主張している紅魔館も、今は青黒い半球状の結界に覆われ、非常に息苦しそうだ。
いや、覆われている、と言うよりも、閉じ込められていると言った方が良いかもしれない。
不吉な青黒いドームは、絵の具をぶちまけ、混ざり合う寸前のような複雑で奇妙な陰影を作っている。

その紅魔館とドーム状の結界を、上空から見下ろす二つの人影。

一つは、白と黒の法衣を目深く被った少年。
もう一つは、ダークグリーンのマントを纏い、仮面を被った痩身の男だった。

少年の方は無言のまま、紅魔館の姿を見下ろしている。
その表情は、目深く被った法衣に隠れて、窺い知ることは出来ない。
其処から覗いた唇は引き結ばれており、余裕のようなものは浮かんでいない。

「奴ら、かなり大規模な法術結界を用いて紅魔館を攻めていますね…如何成されます…?」

腐った水みたいに澱んで、どろっとした声で、傍に控えていた男は少年に告げた。
“運命”は既に決まっているからね…。
呟いて、少年は僅かに顔を傾け、男にゆるゆると首を振って見せる。

「既に定められた“運命”に沿って、事態は進行している…」

僕達に出来ることなど、もうほとんど無いだろうね…。
少年は無念そうな声で言って、唇は少しだけ噛んだ。

「“運命”…フランドール・スカーレットの消滅、ですか…」

男の問いに、少年は微かに頷きを返し、青黒いドームへと視線を向ける。
此処からでは、あのドーム状の結界の中がどうなっているのかは見えない。
時折、轟音が聞こえて地が振るえ、ドーム内で眩い閃光が明滅している。

「その“運命”の結果が、どんな事態を引き起こすのか…。それは観測することが出来ないままだ」

悔しいが…僕達に出来ることは、零れる血を掬うことくらいだろうね。
少年はそこまで言って、その法衣に隠れた顔を、傍らに佇む仮面の男に静かに向ける。

「フレデリックを頼むよ、レイヴン…。僕は、この結界の呪破に掛かる」

澄んだ声に、微かに熱が通る。そして、その片手に蒼色の光を灯した。
深い蒼は、その掌から溢れ、少年の全身を包むように広がる。
目深く被った法衣が、仄暗い蒼の法力に揺らめく。
少年の眼下では、再びドーム内で眩い光が奔り、地鳴りのような低い轟音が響いた。
戦いの音だ。
それを聞きながら、男は少年に向き直る。

「この結界を、ですか…」

「ああ…完全に後手だが、指を咥えて見ているよりは、ずっと良い」

「しかし…“運命”の結果を覆すことは不可能なのでは…」

男の声は、少しの戸惑いがあった。
少年は、その男の様子に、くすりと微かに笑い、唇を柔らかく歪めた。
あの中には、フレデリックも居るからね。
信頼と期待を僅かに滲ませた声で言って、少年は眼下の結界に両手を翳す。

「…ひょっとしたら、彼が“運命”を黙らせてくれるかもしれない」

「奴の力が、バックヤードの揺らぎに抗い得る、と…」

「ほんの少し、揺らぎにズレを起こせれば…だけれどね」

それが一体どれほど困難なのか、男には想像もつかない。
少年の言葉は、何か成算があってのものなのだろうか。
理解に苦しむ。
だがそれこそが、男と少年とでは、見ている世界が違うという事の証明だ。

「それに、今はその好機だ。フレデリックが居るおかげで、僕も呪破に専念出来る」

少年の纏う仄暗い蒼の揺らめきに、明るい碧が混じり始める。
蒼と碧が、少年の両手の間で渦を巻き、煌く輪を描いた。
超越した知識と力が融合していく。

少年の傍らに立つ男は、その姿に畏怖に、途方も無い畏怖を抱いた。
そして、少年に倣い、その眼下に重く広がる結界に視線を向ける。

その視線の先。
青黒いドームの中で、遠雷のように低く、身体を揺さぶるような轟音が再び木霊した。
男は、澱んだ声で呻ってから、少年に向き直る。

「では…その沈黙させるべき“運命”を伝えには、私が行きましょう」

結界の中も、少々騒がしい模様…御身に何かあれば、それこそ事です。

男は恭しく頭を垂れ、懇願するようにして少年に言う。
真摯でありながらも、何処か納得しかねるような声音だった。
しかし、少年は、やはり微かに微笑むだけだ。

「『僕』が死んだところで、何も問題は無いけれどね」

「…我が主であることに、代わりありません」

「そうか。…すまないね。…フレデリックに、宜しく頼むよ」

仮面の男は僅かに頭を垂れ、「…御意に」と低く、澱んだ声で呟いた。




 アクセルはひゅー、と口笛を吹き、頬を伝う汗を拭った。
間違いなく、場の空気が一変した。
それを肌で感じる。

破壊されたジャスティスの残骸に吹き飛ばされたロボカイは、その残骸を叩き上げるようにして起き上がり、すぐさまソルに向き直った。
その残骸の破片が、周囲に飛び散る。

「相変ワラズノ戦闘力ダナ…。忌々シイ事ダ」

起き上がったロボカイは、パチュリーとレミリアにちらりと視線を向けた。
だが、弱っているだろう二人に攻撃を加えられない。
億劫そうに眼を細めたソルが、ロボカイ、そして、ジャスティスを見比べ、すっと腰を落としているせいだ。

そのソルの威圧感は尋常では無く、傍に居たパチュリーは息を微かに呑む。
抱えられていたレミリアも同じだ。瞠目しつつ、その腕の中からソルを見上げる。

ロボカイはじっとソルを見据えたまま、半歩下がる。
その様子を眺めながら、ソルは竜翼を畳みつつ、抱えていたレミリアを地に降ろした。

…行けるか…。
低い声でレミリアに聞いたソルに、「この程度、問題無いわ…」レミリアは微かに唇を歪めて見せる。

その声には、やはり強い意志が感じられ、闘志もまだまだ折れてはいない。
レミリアはパチュリーに一度視線を向け、今度はソルの前へと踏み出した。
ただ、やはりダメージは残っているのか。
その歩みは、少々ぎこちない。
しかし、地を踏みしめる脚には、力強さがあった。

ソルとパチュリーの二人を、ロボカイから遮る形で立ち、レミリアはふぅ、と一つ息を吐いた。

 「パチェの掛けられた術を解いてあげて。…時間は稼ぐわ」

ソルに視線だけを向け、レミリアは再び手の中に巨大な魔槍を作り出して握り、構えを取る。
左手に握られた魔槍は先程よりも小振りだが、それでも十分過ぎる威力を秘めているだろう。
青黒い空気の中に、魔槍の紅い魔力が渦を巻いた。
それはレミリアの足元に魔法陣を刻む。
立ち上る紅のオーラを纏わせながら、レミリアは僅かに宙に浮きあがらせた。

「パチェを連れて一度離れて…」

レミリアのその余裕の無い言葉に、ソルは何も答えず、パチュリーに向き直る。
恐らく、相当厄介な術をかけられたのだろう。
こひゅー、ひゅー、こひゅー、と浅く、か細い呼吸音を漏らしながら、パチュリーは膝を着いている。
完全にグロッキーという訳では無いが、かなり辛そうだ。
魔法を駆使して戦うのは、とてもでは無いが無理そうである。
パチュリーはレミリアの背を見詰めながら、何かを言いたげに唇を動かした。
だが、その途中で咳込み、言葉にならない。
 
 「…パワーリーク系の術式か…」

ソルはレミリアから視線を外し、膝を着くパチュリーの首筋に眼を向ける。
首筋浮かんだ複雑な青の文様。
それが不気味に明滅し、パチュリーの持つ魔力を漏洩させていた。
 罅割れた容器から、中身が漏れ出すのと同じだ。
 パチュリーの身体から、薄く、それでいて澄んだ紫色の波紋が広がりつつある。
だが、その魔力漏洩の中にあっても尚、魔法を行使しようとする精神力は流石と言うべきだろう。
パチュリーの足元に、おぼろげながら、魔法陣が浮かび上がったのだ。

「私は、けほっ…けほっ…大丈、夫…」

ソルの視線に気付いたパチュリーは、ロボカイ、そしてジャスティスに眼を巡らせた。
そして、立ち上がり魔道書を開き、呼吸を乱しながらも、詠唱を始める。
呼吸は乱れ、珠の汗を額に浮かべながらも、パチュリーは闘う意思を示す。

 「皆、けほ…闘ってる…」
 
 その友の言葉に、レミリアは何も言えず、唇を噛んだ。
 
 じり、と、土が削れるような音がした。
 ロボカイが更に半歩下がったのだ。
まだ何かを企んでいるのか。
 これ以上、余計な真似をされては厄介だ。
 逃がさない。

 「ソル…。パチェをお願い…」
 
 その言葉には、逃げろ、というニュアンスが僅かにあった。
 パチュリーの詠唱のカバーを頼む。そういう意味だろう。
 前のめりな声音だった。
 
 ロボカイとジャスティスは、ソルの参戦によってやや劣勢だ。
だが、紅魔館組の状況も、ギリギリに近い。
 誰も失いたくない。
 レミリアは敵を倒すことよりも、パチュリーを守ることを優先した。
その為にソルにバックを頼んだのだろう。
 
 レミリアの意思を読み取ったのかどうかはわからないが、ソルは「…ああ…」と低い声で呟いた。
 そして、パチュリーの傍らに立ち、変質した左腕をゴキゴキと鳴らした。
 陽炎が、澱んだ空を焼く。
 
 「…解呪は後だ……突っ込み過ぎるなよ…」

 ソルは低い声で言いながら、パチュリーの盾となるべく剣を構える。
 
 
レミリアは、ロボカイ目掛けて翼をはためかせた。
 魔槍を握る手に万力を込め、身を撓らせ、飛び出す。
今度は半歩では無く、大きく二歩下がり、ロボカイはレミリアの突進に備えた。
左手に握った剣をふりあげつつ、ミサイルランチャーと化した右腕を即座に構えた。
 だが、ロボカイはすぐには発射しなかった。
それどころか、突っ込んで来たのだ。
突進するレミリア目掛けて。
両者が激突するまでは、一瞬だった。
 
 
 

「guurrrrrr……」

ソルという乱入者を認識して、ジャスティスは今まで闘っていたアクセルから視線を外した。
身体はアクセルに向けたまま、ジャスティスはゆっくりと後ずさっていく。
予想外の強敵だったアクセルよりも、更に脅威となるソルに備えての行動だろう。

勿論、其処に隙はあった。
だが、対峙していたアクセルは、その隙を攻めなかった。
懐に踏み込んで鎖鎌を振るう代わりに、握っていた鎖鎌を素早く首に引っ掛けた。
そして、アクセルは咲夜にばっと振り返って、ひょいとその身体を抱き上げた。
あっ、と咲夜が驚いたような声を上げたのが聞こえたが、今はそれどころじゃない。

ジャスティスの注意がソルに向いている間に、其処から素早く離脱しなければ。

アクセルはジャスティスに眼を向けたまま、「ちょっと揺れるけど、我慢してね」と呟いた。

咲夜は何も言わず、ぎゅっと、アクセルの服の胸元を縋るように掴んだ。
アクセルは咲夜を抱えたまま、庇うようにジャスティスに背を向ける。
そのまま地を蹴って一気に駆け、一目散にジャスティスから離れる。
一歩で凄まじい距離を稼ぐ。

走れ。離脱しろ。
旦那、ナイスタイミングだぜ。

微かにだが、ジャスティスの視線を背中に感じた時は、少しヒヤッとした。
だが、逃げるアクセルよりも、ジャスティスはソルへの警戒を取った。
ジャスティスとしても、ソルの脅威を前に、アクセルに粘着されるのは不味かったのか。

「咲夜さん!」
「咲夜、大丈夫!? 生きてる!?」

飛び込んで来た美鈴とフランが、アクセルの背中をフォローしてくれた。
アクセルは其処でやっと立ち止まって振り返り、安堵の溜息を堪えた。
緊張の糸が僅かに緩み、どっと汗が出て来た。
動悸がして、呼吸がしにくく感じる。
フランと美鈴の背中が、やけに大きく見えた。
女の子の背中が、こんなに頼もしく見えるなんてなぁ。
苦笑を浮かべる代わりに、アクセルは抱き上げた咲夜へと視線を落とす。

私は大丈夫です、フラン様。…気をつけて、美鈴。
咲夜はアクセルの腕の中から、二人に答えていた。
表情や声音は、苦しそうではあったものの、フラン達に頷きを返して見せた。
その咲夜の様子に、フランは安堵の溜息を吐き、美鈴は静かな怒りを湛えた眼で、ジャスティスを睨む。

その時だった。
紅の魔力光の煌きと、爆風が押し寄せてきた。
アクセルは咄嗟に咲夜を身体で庇う。


見れば、レミリアとロボカイが切り結んでいる。
其処から少し離れた場所で、パチュリーが魔法を詠唱。
その傍らに立ったソルが、まるで盾のように剣を構え、ジャスティスとロボカイの動きに眼を向けている。


 排除すべき対象の優先順位が変わったのだろう。
いや、それとも、咲夜に与えた一撃で十分だと判断したのか。
ジャスティスはもう美鈴達を見ていない。
あの無機質な金色の眼が映しているのはソルと、そして、パチュリーだ。

例え、ソルであっても、パチュリーを守りながらジャスティスと戦うのは困難だろう。
黙って見ているわけにもいかない。
美鈴とフランは、ジャスティスを背後から襲撃する為、重心を落とす。
其処に。

「ちょい待ち、お二人さん。此処は俺に任せてくれって」

咲夜さんを頼むよ。美鈴ちゃん。
アクセルは、美鈴とフランの背に、普段の間延びした声を掛けた。
先端がスペード型に尖った黒棒を爆発させ、レーヴァテインを顕現させようとしていたフランは、「えっ!?」と振り返る。
美鈴も、「何を仰るのです!?」と声を上げ、アクセルに向き直った。

何か…成算があってのお言葉ですか…
紡がれた美鈴の声の中には、戸惑いが見えた。
アクセルの腕の中に居る咲夜も、驚いた表情のまま、アクセルを見上げている。
なぁに、力仕事は野郎に任せてくれってだけさ
アクセルは唇の端に笑顔を浮かべ、美鈴、フラン、そして、咲夜へと視線を落とした。

「しかし…! くっ…ぁ!」
声を荒げかけた咲夜は、胸と脇腹を押さえ、苦悶に顔を歪めた。
流石に、ジャスティスの突進を喰らったダメージはそう簡単には抜けないだろう。
 
 咲夜さんは明日も仕事で忙しいでしょ? 後は、俺がやるさ…。
アクセルの言葉に咲夜は答えず眼を伏せ、もう一度ぎゅっと服の胸倉を握った。
こんな時まで、貴方は道化の仮面を被るのですか…。
咲夜の弱々しく掠れ、震えるその声に、アクセルは困ったように少し笑った。
アクセルは困惑するような表情の美鈴に歩み寄り、優しく咲夜をその腕に預ける。
そして、ソルとパチュリーの元へと向かおうとしているジャスティスに向き直った。

視線を上げれば、青黒の空の色は一段と濃く曇り、まるで落ちてきそうな程重々しい。
何かが起ころうとしているような、そんな予感がする。
嫌な予感だ。
いや。この状況で、予感もクソも無い。

「じゃあ、私もアクセルと一緒に…」

フランは言い掛けたが、わしゃわしゃとアクセルに頭を撫でられ、言葉を遮られた。

「フランちゃんは、美鈴ちゃんと咲夜さんを頼むよ…」

見上げてくるフランの紅い眼を見詰め、アクセルはニッと笑って見せる。
フランちゃん、俺よりマジ強いんだから…頼りにしてるぜ。
その明るいアクセルの言葉の中には、確かな真摯さがあった。
私が…二人を…? フランは少しだけ不安そうな貌になったが、すぐに力強く頷いた。

「わかった…。でも、皆が危なくなったら、私も行く」

そうならねぇよう、俺も頑張るさ。
その言葉に頷いて、アクセルは美鈴と眼が合った。
真剣な貌で、美鈴は頷きを返す。
どうか、お嬢様をお願いします。咲夜は美鈴の腕の中で、か細い声を漏らした。
泣きそうな貌だった。
 アクセルは「了解、メイド長」と答える。
そして、咲夜の太もものナイフのホルダーから、銀のナイフを一本抜き取った。

一つ借りるよ。
アクセルはそのナイフを口に咥えてから、首に引っ掛けた鎖鎌を両手で握り、駆け出す。
 
 敵は、ジャスティスとロボカイ。
 味方は、ソルとパチュリー、そしてレミリアだ。
 
 ソルはパチュリーの援護に回っている。
 レミリアはロボカイを抑え、美鈴とフランは咲夜を守ってくれている。
 後は、俺だ。
 俺と、ジャスティスだ。

肝心のジャスティスは、もうアクセルを見ていない。
咲夜を戦闘不能して、満足しているのか。
ジャスティスは背中をアクセル達に向けたまま、ソル達に襲い掛かろうとしている。
ソル、パチュリーとジャスティスの間合いは、既に15メートル程。
近い。

アクセルの視線の先。
苦しげに急きこむパチュリーは、もうしばらくの間は戦闘に復帰するのは難しいだろう。
あの漏れ出している薄く澄んだ紫色の光は、何だか血が流れ出しているみたいに見える。
辛そうなパチュリーの表情も相まって、結構ヤバイ感じだ。
そのパチュリーを庇うように立つソルは、ジャスティスに向き直り、ボキボキと首を鳴らしている。
 壁役がソルならば、これ以上は望めない。
駆ける脚に力を込め、アクセルもジャスティスを猛追する。
此処でさらにジャスティスを落とせば、流れは一機に傾くはずだ。
アクセルはすぅっと眼を細め、ナイフの柄を噛み締める。
やったろうじゃないの。
 
 
 
 
 ……無理をするなよ…。
 そのソルの低い声に頷き、パチュリーは一つ咳いて、手にした魔道書を開く。
 ひゅー、ひゅー、と、風が鳴るような音が聞こえる。
 それが自分の呼吸音という事は気付いていた。
 
 澱んだ青黒い空のせいか。
 空気までもが腐っているように感じる。
 喉がひりつく。
パチュリーは貌を苦しげに歪め、咳き込みつつも詠唱を行うが、上手くいかない。
 身体に集まる筈の魔力を、練る事が出来ていないのだ。

苦しい。頭まで痛くなってきた。
視界が僅かにぼやけ、意識が朦朧としてきた。
魔力が、喉の刻印から漏れ出しているのを感じる。
 
倒れるのは…駄目…。
ジャスティスが、こちらに迫って来ている。
パチュリーは唇を噛んで、身体を奮い立たせた。
 
魔力漏洩の術は、思っていたよりも遥かに厄介な代物だった。
 対象となった者の魔力を常にガス欠の状態にさせ、力を持つ『詠唱』を、ただの『言葉』に変えてしまう。
 口先だけの詠唱など、何の意味もない。
 其処に、魔力が篭らなければ。
 
 これは…不味い…。
 パチュリーが呟きかけた時だった。
 
 直ぐ隣で、ズドン、という重く鈍い音が響いた。
 いや、音だけじゃない。 短くも強烈な振動が伝わってきた。
 一瞬、パチュリーは自分の体が浮いたのを感じた。
 
 お蔭で、目が少し覚めた。
 はっとして隣に視線を向けると、ソルが封炎剣を地面に深く突き立てていた。
 巨大化した剣の刀身の半分以上が、地面に埋め込まれている。
 柄が、丁度パチュリーの胸位の高さだ。
 
 ソルは封炎剣を地面に突き立てた後、右手でパチュリーの手を取り、その柄を握らせた。
 そしてそのまま、パチュリーの小さな手と重ねるようにして、ソルも封炎剣の柄を握る。

パチュリーは左手に魔道書を持っている為、右手で剣の柄を握る状態だ。
業火を纏っていた筈の剣の柄は、全く熱くなかった。
長大で歪なフォルムの封炎剣からは、温もりの無い人工物特有の冷たさがあった。
無骨な鉄の感触が、パチュリーの掌に伝わる。
 そして、そこに重ねられたソルの体温も、かなり冷たい。
パチュリーは驚いたような顔でソルを見上げる。
だが、眼が合うことは無かった。
ソルは封炎剣へと視線を落としたまま、低い声で、聞きなれない言葉で、何事かを唱えた。
 
 「あ…」
 
 パチュリーは、自分の身体が一気に熱くなるのを感じた。
 いや、熱いというよりも、燃えているかのような感覚だ。
 煮えたぎる力が、剣から流れ込んでくる。
 いや、剣からだけではない。
 触れ合ったソルの手からも、剣が突き刺さっている大地からも、熱い脈動を感じる。
 
地面からも力を吸い上げているのだろう。
剣から吹き上がる赤錆色の光は、まるで地面が出血しているようだ。
その血色の脈動が、青黒い空気を照らし、焼いた。
 脈動の波に煽られ、パチュリーのドレスや長く美しい髪が激しく靡く。
 
剣が地面から吸い上げ、またソルから受け取りコンバートした巨大なマナ。
 それが、パチュリーの漏洩した魔力を補う。
いや、補うどころか、溢れされる。
 低い声での詠唱に合わせ、ソルの身体から剣へ、剣からパチュリーへと、法力が流れていく。
 

 低い声で朗々と詠唱を続けるソルは、眼を細めてジャスティスに向き直る。
 其処で、パチュリーも気付いた。
ジャスティスとの間合いも、かなり距離が詰まっている。
赤錆色の甲冑を着込んだように変質した、ソル左腕に、炎が宿った。
 
ソルはパチュリーを一瞥して、その手を離し、数歩前に出る。
 Gurrrrrr…、という、金属で出来た獣のような唸り声がした。
ジャスティスの声だ。
 掌を剣へと変形させながら、こちらへと歩み来ている。
 ジャスティスの姿勢は極端な前傾姿勢で、いつでも飛び出せるような体勢だ。
 バーニアを用いて、一気に突っ込んで来ないところを見ると、やはり警戒しているのか。
 その足取りは、やけに慎重に見える。
 注意深く距離を測っているような感じだ。
 
 「…剣を握っていれば…気休めにはなるだろう…」
 
 ソルは肩越しにパチュリーへと視線を向け、低い声で言う。
 その両手には、何も握られてはいない。徒手だ。
 蓄積されたマナを放出する封炎剣は、パチュリーの傍に突き立てたまま。
 
 でも…、とパチュリーは言いかけて、口を噤む。
その声を聞く前に、ソルがすぐに視線をジャスティスに向き直ってしまったからだ。
 そのソルの背に、小さな声で「有り難う…」と呟き、パチュリーは息を整える。
パチュリーから漏れる薄紫色の魔力光に、赤錆色の法術の揺らめきが混じった。
封炎剣に宿った凶暴な程のビックマナを、自身の魔力へと変換し、魔術へと昇華させていく。

左手の上に魔道書浮かび上がり、独りでにページがバラバラと捲られていく。
剣の柄を握り、パチュリーもジャスティスへ、そして、レミリア達に視線を向ける。
 レミリアは、もう既にロボカイと切り結んでいた。
 紅の閃光と、濁り青の靄が瞬いている。

劣勢では無い。
だが、長引かせるのは不味い。
 蠢くように揺らぐ空に、嫌な予感がした。
 青黒い空は、一段と濁り始め、のしかかって来るような圧迫感を見るものに与える。

ソルが分けてくれた法力の脈動を右の掌に感じながら、パチュリーは再び詠唱を始めた。
 呼吸は未だにヒューヒュー言っているが、多少は落ち着いた。
 澄んだ紫色とは違う、赤紫色の魔力光がパチュリーを包む。
 紡がれる呪文が術を成し、魔法として顕現し始める。
 魔力は未だに漏洩しているが、その速度を遥かに凌ぐマナ供給のお蔭だ。
 手の中に伝わる法力を感じながら、パチュリーは表情を引き締める。
 これ以上、好き勝手にはさせない。
 
 
 
 
 

 
 じりじりと慎重な様子で間合いを詰めてきていた時とは一変し、踏み込んでくるのは一瞬だった。

ドゴンと地面を蹴る音がした。
ジャスティスは地を蹴る前には、もう既に掌を剣へと変形させていた。
青稲妻の閃光が、水平な線となって空間に刻まれる。
突っ込んできたジャスティスが振るった右手の黒剣は、居合いのように振りぬかれた。
 ソルの変質した左腕と、その黒剣が激突したのは、地を蹴る音と同時に近かった。
 
 それ位、猛スピードでジャスティスが距離を詰めて来た。
 ソルが丸腰になったのを見て、強気の攻めに出たのか。
 Siiiiyy…と鋭く息を吐くように金属の音声を漏らす。

 鍔競り合う竜腕と黒剣からは、青稲妻と赤錆の炎が飛び散っていた。
ソルは空いた右腕に炎を纏わせ、右半身を捻じ込むように踏み込んだ。
ついでに、鍔競り合っていた左腕を、逆に引き込んでやった。
青稲妻とぶつかっていた炎が、すぅと退いた。
その代わり、ソルが割って入る。

叩き潰すかのように黒剣を押し込もうとしていたせいだろう。
押し合う力のベクトが急に変わり、ジャスティスはつんのめりかけた。
体勢が僅かに崩れる。

其処へ、ソルは右のストレートを叩き込んだ。
至近距離で、爆発に近い炎の奔流が撃ちだされる。
ジャスティスの胸甲へと叩き込まれた拳と炎は、だがダメージを与えることは無かった。
地すら砕く鉄拳と、炎の塊は、薄い膜のように広がった緑色の結界に寸での所で防がれていた。

結界に阻まれた拳は軋み、堰き止められた炎は爆発するように燃え上がる。

ジャスティスは後方へと押される形で、ソルから少し距離を取る。
赤錆色の炎が猛り狂う中で、ソルとジャスティスの間には一瞬の空隙が出来た。
結界で守られたジャスティスは、その一瞬の間に崩れた姿勢を直し、序に空いた左手を黒剣に変えていく。

 ソルは撃ちこんだ右拳に痛みを覚えた。
 見れば、拳が潰れ、歪み、血で染まっている。ソルは鼻を鳴らした。
そして、うぜぇ、と呟いてから、その右腕に炎を纏わせた。
拳を濡らす血も燃え上がり、右腕を包む炎と交じり合う。

「それが、ギアの種父の力、という訳かい…。凄まじいね。ミスター・バッドガイ」

炎血の中、ソルの右腕が再生し、変質が始まる。
その様子を睨むジャスティスの喉元から、低い男の声が響く。
男の声音は、驚きというよりも、感嘆に近い。
ソルはその声には答えず、ゴキゴキと左腕を鳴らした。

「……知るか…」

炎が剥がれ落ちるように散った後。
ソルの右腕は赤錆色の外骨格に覆われていた。
黒のインナーの上から、両腕だけ甲冑を纏ったような姿だ。
竜翼を生やす背、そして肩から首にかけても、赤錆色の外骨格が包み込んでいる。
額のギアの刻印も、血色の輝きを増していく。
足元に浮かび上がる法術陣は、炎を吹き出すことは無かった。
だが代わりに、日を封じ込めるような強い輝きを宿している。
燃え立つだけの安っぽい炎は消えうせた。

ソルは首を鳴らしながら傾け、眼を細める。そして、踏み出す。
炎と力の化身となったソルが、青黒い空間を進む。
その迫力に押されたのか、ジャスティスは僅かに怯んだ。

「guaahh!!」

ジャスティスはその巨体を撓らせて、両手を振り上げる。
 その途中で、両手の黒剣がしゅるしゅると解けて、十本の指へと戻った。
 しかし、ただ戻ったわけでは無い。
その指一本一本がぐんぐん伸びて、更に解けて、ブワァーーと宙に広がったのだ。
 一瞬で、両手を数え切れない程の鞭、というか刃の鉄線へと変えたジャスティスは、その両腕を勢い良く振り下ろした。
 青稲妻を纏った電結の鞭の群れは、四方八方からソルへと襲い掛かる。
 
 ソルはすっと姿勢を低く落として、短く詠唱を唱える。
自身を守るように、血錆色の法術陣を目の前に展開させたのだ。
 その陣は決して大きくは無いが、強度は半端では無かった。
 マシンガンを撃つみたいな音と、地面を削りまくる振動が、青黒い空間に響く。

押し寄せてきた電結の鞭は、全て阻まれた。
それ所か、法術陣に触れた鞭は、溶けたり燃えたりして、ズタボロになった。
 
 それでも、ジャスティスはめったくそに両腕を振りまくった。
 打ち下ろされる度、その鞭の数が減っていく。
 地面はざっくざくと削られ、抉られて、破壊された。
 しかし、ソルには届かない。
 血錆色の法術陣が、微かに明滅した。
 
 男は「駄目だジャスティス、離れろ!」と咄嗟に命令を下したが、遅すぎた。
 それに、タイミングも悪かった。
 ジャスティスは両腕を振り下ろそうとして、動きを止めた。
 その瞬間だった。
派手な音はしなかったが、辺りに滅殺の陽炎が揺れた。
 
ジャスティスは呻くことも出来なかった。
法術陣を展開したまま、ソルが突撃してきたのだ。
 凄まじい速度だった。
ソルが通り過ぎただけで、地面が融解して、陥没していた。
ジャスティスが咄嗟に展開した薄緑の結界は、しかしダメージを軽減仕切れなかった。
 
ソルの赤錆色の法術陣と、ジャスティスの結界の激突の瞬間。
赤と青の光が交じり合ってから、辺りを真っ白に塗り潰した。
音が消える、というか、飽和状態になった。
 代わりに、衝撃波が地面をへこませ、やばい感じに地鳴りが轟いた。

「gah…ッ!!」

その歪んだ静寂の中を、玩具みたいにジャスティスが吹っ飛んだ。
撥ね飛ばされたのだ。
 ぽーんと、重さを感じさせない位の勢いで吹っ飛ぶジャスティスのボディは、全体的にひしゃげ、歪んでいた。
 身体中の装甲と装甲の間から、黒い液体が漏れ出している。
 びしゃびしゃとそれを撒き散らしながら、ジャスティスは地面を転がった。
 
 突然だった。
 其処に、明るい赤色の光が差した。
 Gu…ga…、と呻くジャスティスを照らすその光は、ソルの背後からだった。
ジャスティスは顔を上げて、一瞬硬直した。
驚愕したのか。それとも絶望したのか。
どちらかは分からないが、ジャスティスを凍りつかせる光景が其処には広がっていた。
 
ジャスティスを見下ろすように佇むソルの背後に、火の球が浮かんでいる。
それは、爆発する魔力を内包した、小さな太陽の模造品だった。
 少し離れた所にあって距離があるせいか。
 実物よりもかなり小さく見えるが、その脅威は十分過ぎる程に感じられる。
 
 彼女は、澄んだ薄紫と赤錆色の魔力光を纏い、それを練り上げたのだ。
太陽の模造品を造り出したパチュリーは、眠たげな眼でソルとジャスティスを見ていた。
 援護射撃にしては余りに過ぎた代物だが、それだけパチュリーも本気ということか。


ジャスティスは尻尾で地面をぶったいて、その反動で跳ね起きる。
身体から漏れる黒い体液が、辺りに飛び散り、地面に黒い花を咲かせた。

ソルはジャスティスに向き直り、その背に赤光を浴びながら両手に炎を宿らせる。
ジャスティスは後ずさりかけたが、出来なくなった。
もう一人。その背後から此処に乱入する者が現れたからだ。

アクセルだった。ナイフを咥えている。
ジャラっと鉄鎖の音が響かせて、一気に駆け込んで来た。

焦ったのだろう。
ジャスティスは振り向きざまに尾を振りたくる。
続けて、両手を電結の鞭へと変え、苦し紛れに振るった。
だが、それで十分だった。
尾の動きも、打ち込まれる鞭の数も速さも尋常ではなかった。
凶器の波だった。駆けるアクセル目掛けて、押し寄せる。
刃付きの鞭の群れが、のたうち回って地面を削りまくった。

その暴力の波の中、アクセルは突っ込んでいく。
がちがちとナイフを噛んだ。

向かってくる電結の鞭を、捌きまくる。
弾き、かわし、駆ける。
駆けながら、全部弾き返す。受け流す。
足元を見ろ。距離は。あと10メートル程。
近い。

ジャスティスの背後には、ソルの姿が見えた。
アクセルはナイフを咥えたまま、ナイス旦那、と呟いた。

次の瞬間だった。轟音と閃光を感じた。
ジャスティスの腹に穴が開いた。ソルだ。
炎を纏った拳が、その装甲を貫いていた。

ジャスティスはぐらついたが、倒れはしなかった。
苦しげに呻いて、ソルに尾を振り抜いて、ぶち込んだ。

ソルは即座に腕をジャスティスから引き抜き、ガードする。
強かに打ち据えられたが、後方へと吹っ飛んだだけでダメージは無いようだった。
鼻を鳴らして、ソルはアクセルと眼を合わせた。
そのソルの眼は「…さっさとやれ…」と言っていた。

言われなくても。
注意がソルに向いた間に、アクセルはジャスティスの懐に飛び込んだ。
目の前に、黒い体液を流す金属の巨体がある。
そのボディは傷だらけで、身体全体がひしゃげ、歪んでいた。
痛々しい姿ではあるが、可哀相だとは思わなかった。
アクセルはすっと腰を落としながら、鎖鎌を軽く手の中で揺らした。

ジャスティスはアクセルに気付いて、何かをしようとした。
腕を振り上げたまでは良かったが、全部時間切れだった。
アクセルはもう既に、両手に握った鎖鎌を、眼にも留まらぬ速さで振るっていた。
鎖鎌の刃を巧みに使い、ジャスティスの外骨格を剥ぎ取り、貫き、切り裂き、解体する。

まず、アクセルはジャスティスの腹部を狙っていた。
シュパパパパ、という感じで、アクセルが鎖鎌を振るうと、ばっかりと装甲が剥がれた。
黒い体液と共に、その内側にあった筋肉組織がむき出しになる。
アクセルはすかさず、其処に鎖鎌をぶっさし、切り裂いて、抉り、破壊した。

余りにもあっという間に行われた解体ショーは、ジャスティスですら反応しきれていなかった。
気付いたら、致命傷を負っていた。
そんな感じだろう。
ジャスティスは「go…a…」と言うだけで、状況を理解できていない。
腹部から噴き出す黒い体液はかなりの量だった。

「syiiiiiiiaaaaaaaaaahhhhhhh!!」

断末魔に近い咆哮を上げて、ジャスティスはようやくアクセルに飛び掛かった。
だが、その動きは明らかに遅くなっている。
覆いかぶさるように両腕が振り下ろされたが、壊されたのは地面だけだ。
その腕の合間をすり抜けるように跳躍したアクセルには、かすりもしない。
地面が砕ける轟音が虚しく響いた。

アクセルは跳んで、ジャスティスの肩に座り込むように静かに着地する。
そして、視線を下に向けつつ鎖鎌を首に引っ掛けた。
咥えていたナイフを手に握り込み、振り上げる。

「咲夜さんの借り、返すぜ…」

ジャスティスは両腕を振り下ろしている為、頭上ががら空きだった。
低い声で言ったアクセルは、その隙だらけの頭上にナイフを振り下ろす。

結果は呆気無かった。
ズグッ、とくぐもった音と共に、ナイフの刃がジャスティスの額に埋め込まれた。
ナイフはギアの刻印を貫き、青稲妻が其処から漏れ出した。

「gyaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!」

ジャスティスは絶叫した。
そして、アクセルを追い払うように、腕を頭上に向けて振るう。
だが、当たらない。
それよりも先にアクセルは動いていた。
ナイフの柄を靴底で蹴って、飛び下がっていたのだ。
その衝撃でさらにナイフが深く埋め込まれ、その傷口から火花が散る。
額にナイフを生やしたまま、ジャスティスがよろめいた。

宙返りを決めつつ着地したアクセルは、追撃を掛ける代わりに、低い声で、羅鐘旋、と呟いた。
そのアクセルの低い声に答えるように、ジャスティスの額に刺さったナイフにバリッとくすんだ赤色の光が宿った。

Gi…!?、とジャスティスは呻いた。
次の瞬間だった。

ピカッとナイフが光った。
ただ光っただけでは無かった。
光と共に、くすんだ明るい赤色の炎が膨れ上がり、破裂する。
ボゥン、という、くぐもった破裂音が響いた。

爆発を巻き起こしたのだ。

「Yes…!」

アクセルは言って、首に引っ掛けた鎖鎌を手に持ち無し、鉄棍へと変形させた。
視線を向ければ、ジャスティスの首元から上が吹っ飛んでいた。
コードの束やら金属のパーツ、油染みた黒い体液、更に透明なジェル状のものも溢れ出ている。
それでも、ジャスティスは倒れなかった。よろよろと動いた。

アクセルは驚愕した。マジかよ。
溢れる黒い液体が、まるでスライムのようにどろどろっと蠢き、ジャスティスの首元の破砕痕に纏わり付いた。
ぎらつく光沢のある黒い液体は、液状の金属のようにも見える。
ボコボコ、ボゴボゴと蠢いて、ジャスティスの頭部を象ろうとしている。
まだ自己修復出来るのか。
相手にしてられねぇな、こりゃ。
まぁ、とりあえず…離れた方が良さそうだ…!

アクセルはジャスティスに背を向け、一目散に駆け出した。
その視線の先では、既にパチュリーの造り出した火の玉が、良い感じに膨張していた。

撃つ気だ。
此処にいたら巻き込まれそう。
そんなのは御免だ。
見れば、ソルもジャスティスから距離を取る為に、翼をはためかせ後退している。
それだけ、パチュリーの魔法はヤバイということだろう。

「…止めを頼む…」

そのソルの低い声が届いたのか。
青黒い空を染めあげる赤光を放ちながら、パチュリーは頷いて見せた。
パチュリーの掌に浮かぶ魔道書。
更にその上に佇む火の球が、微かに揺れる。

っていうか、ちょっと待って。
まだ俺が安全圏まで離れてねぇ。
そう言おうとしたら、やりやがった。
アクセルは鼻水を吹いた。
ブウォオオオオオオオ、と何かが燃え盛るような音と共に、その巨大な火の球がアクセルの傍を通り過ぎて行った。

熱っつ。
やばい。振り返える余裕もない。
とにかく走れ。
そう思った時だった。
躓いた。
オウ、シット。
背後で、何かが光ったのは分かった。
ふわっと、身体が浮き上がる感覚がした。
次に、炸裂音。気付けば、爆風に煽られ、空中を移動していた。
いや正確には、多分、吹っ飛んでいる。
何てことよ。




途轍もない閃光と爆音を意識の端で聞いて、レミリアは少しの安堵を覚える。

向こうは片付いたか。
なら、後はこの鉄人形だけだ。

 レミリアとロボカイの戦闘には、やはりレミリアに軍配上がろうとしていた。
今も、レミリアが放った神速の魔槍の突きが、ロボカイの武器腕を捕らえた瞬間だった。
ミサイルランチャーと化していた右腕は、ざっくりと抉り壊され、オイルと鉄片が飛び散る。
ロボカイはその攻撃の威力に押され、十メートルほどを吹っ飛び、何度も地面を転がった。
その様を見ながら、レミリアは小柄な身体を弓のように引き絞った。

紅の風が鳴いた。
ビュォオオオオオオ、とも、グゥオオオオオオオ、とも聞こえる轟音と共に、レミリアはぐぐっと魔槍を掴む手に力を込める。
魔力のオーラを渦のように纏わせ、魔槍は膨れ上がり、肥大化して、育ちに育った。
巨大過ぎる、真っ赤な光の錐みたいになった魔槍は、紅い風を巻き付けながら呻りを上げる。

ロボカイは立ち上がり、咄嗟に封雷剣のレプリカをハンマーに変えて、構えた。
だが、あんなものが一体どこまで役に立つのか。
それに、ロボカイの右腕からはやはりオイルがあふれ出て、火花がバリバリと散っている。
コードとオイルが垂れる断面を一瞥して、ロボカイはギギギ…と呻いた。
 人間なら既に半死半生の状態のロボカイは、だが、その眼に淡い黄色の光を灯している。
 苦痛を感じないその機械の身体も傾いで、今にも倒れそうだが、武器を放さない。
 
 レミリアは身体を引き絞ったまま紅い眼を細め、僅かに息を吐いた。
もう勝負が付こうとしているのは、間違い無い。
これで決める。
レミリアはそう思っていた。


ギギギギギギ…。
苦しげな金属音と共に、ロボカイは何かを呟いた。

いや、違う。
それは、呟き、というよりも、音だ。
喉元から、壊れたスピーカーから流れる不協和音のような合成音声が流れ始めたのだ。
不気味で不快な金属音は、ノイズ混じりの詠唱を謡う。
共鳴するかのように、青黒い空の模様がぐねぐね、うねうねと蠢いた。
まるで、何かを租借するかのような、グロテスクな動きだった。
気色悪く蠢いて、歪んでいく空。
それを一度だけ見上げ、ロボカイは窓のような眼に宿る光を、赤色に変化させた。
ソロソロ時間ダナ…。

起きた変化はそれだけでは無かった。
金属声の詠唱に合わせ、破壊されたロボカイの右腕に変化が現れ始めた。
澱んだ青い光が、破壊された断面から零れるように溢れたのだ。
そしてその光はまるで靄のように広がり、その腕の断面を覆い、包み込む。
 濁り青の靄は、ロボカイの傷跡だけでなく全身に広がり、脚を伝い、地面にまで流れ込んだ。
 
余計な真似はさせないわ…!
危険を感じたレミリアは呟いて、ロボカイ目掛け、巨大に膨れ上がった魔槍を投擲した。
射出、というべきだろうか。
紅の尾が引く。槍の纏う魔力光が風を巻きこみ、空気が震える。
魔槍は一直線にロボカイに迫る。
巨大な鉄屑のゴーレムを砕いた魔槍だ。
半壊状態のボロ人形などには勿体無い程に威力は、間違いなく込められていた。
 だが、ロボカイは避けようとすらしない。
 レミリアは「ぁあ―――?」と、一瞬呆然としてしまった。
 今まで距離を取ろうとするだけだったロボカイは、迫る魔槍に突っ込んで行ったからだ。

直撃した。
しかし、砕けたのは、魔槍だった。
いや、砕けたというよりも、溶けた。
ロボカイの纏う青の光に触れた途端、溶け、分解され、霧散し、消散した。
魔力で固められた槍が砂みたいに分解され、その破片が真っ赤な霧となり、ぶわっと広がった。

霧は周囲に広がり、レミリアの所まで押し寄せてきた。
咄嗟に下がろうとして、気付く。
その霧にぼっかりと穴を開けて、ロボカイが迫って来ていた。
近い。もうハンマーを振り下ろす体勢だ。
それに、ロボカイが纏う濁り青の光は、もっとやばそうだった。

まだ迎撃は間に合う。だが、回避だ。
逃げろ。何処へ。後ろか。いや、横だ。
レミリアはぐいっと身体を右横へ傾けながら身を沈め、地を這うみたいにしてハンマーをかわす。
そして地面を蹴って、距離を取る。
その動きを読んでいたのか。或いは、反応したのか。

ロボカイは、地面をぶっ叩いたハンマーをもう一度振り上げるついでに、上半身だけをグルンと一回転させた。
機械にしか不可能な動きだった。
その回転を利用して、ロボカイは残った片腕を撓らせ、ハンマーをぶん投げたのだ。

咄嗟だった。
レミリアはガードせざるを得なかった。
ハンマーだ。飛んでくる。ブォンブォン回転して。凄い速度で。
レミリアは腕でガードの姿勢を作り、更に翼で身を守る。

「ぐぅっ…―――!」

衝撃との後に、少し眩暈がした。ハンマーの直撃は、予想以上に利いた。
自分が地面を転がっているのを理解するのに、一瞬だけ遅れた。
レミリアは、転がりつつも地面を翼で打った。
反動を利用して身体を宙へと持ち上げて、そのまま飛び上がる。
そして、上昇しながら両手の指に魔槍を四本ずつ作り出し、挟む。
視線を下に向け、レミリアは息を呑んだ。

レミリアを見上げるロボカイは、片腕を失ったままレミリアを見上げ佇んでいる。
破壊された傷跡からは、未だ濁り青の光が漏れている。
その光が地面に零れ、その足元に巨大な法術陣を刻んでいた。
ロボカイは窓のような眼を赤色に明滅させながら、シューシューと蒸気を身体のあちこちから噴き出させている。

あんまり派手にその法術を使っちゃ駄目だよ…。オーバーヒート寸前じゃないか。
レミリアを見上げるロボカイの喉元から、低い男の声が漏れる。
その男の声は、僅かにレミリアにも届いた。

ロボカイは、男の声には答えず、じっとレミリアを見上げている。
レミリアは上空から視線だけを周囲に巡らせつつ、手に握った合計八本の槍を握りこむ。

やはり、残るはレミリアの眼の前に居る鉄人形だけのようだ。
 視線をざっと流しただけだったが、多くのことが確認できた。
 
 妙な術を掛けられたパチュリーも、ソルの援護のお蔭で無事だ。
 アクセルの乱入で、残りのジャスティスも片付いたようだ。
 地面が抉れ、蒸発し、大穴が空いているところみても、多分間違い無いだろう。

 美鈴、フランも、何とか無事そうだ。
ただ、咲夜の怪我の具合は気になる。早く治癒魔術での治療を受けさせたい。

レミリアは両手を振るって、指に挟み込んだ八本の槍を一気に投擲した。
序に、弾幕の雨も降らせてやる。
しかし、振り来る弾幕と魔槍の雨を前に、ロボカイはその身をさらしたままだ。
特に防御するような素振りも見せない。
ただ、その濁り青の靄だけを明滅させ、纏うだけだ。

レミリアは舌打ちをする。
やはり濁り青の外套は、弾幕と魔槍では貫くことは出来なかった。
ロボカイに届く前に、その悉くが、霧散し、無効化されてしまう。
厄介な相手だ。
だが、状況は圧倒的に有利だ。
レミリアは未だ健在であり、アクセルにソルも居る。

「そろそろ降参したらどう…? もう大局は決したと思うけれどね」

「まさか。…此処からが、僕にとっては本番だからね」

ロボカイの喉元から響く男の声に、レミリアは眉を顰める。
 
此処から?
本番?

どういう意味だ?
気にはなるが、暢気にそんな事を考えている場合では無くなったようだ。
空だ。いや、空と言うよりも、この紅魔館の周囲を包む結界が、不気味に蠕動し始めたのだ。

「準備は完了したよ。…発動させてくれ」

「了解ダ」

ロボカイの言葉と共に、纏った濁り青の靄が、一層激しく明滅した。
それに合わせ、歪んだ青黒い模様を描き出す空も、不気味に明滅し始めた。

ズズズズズズ…。
ブグブグブグブグ…。
ジュグジュグジュグジュグ…。

気色の悪い湿った音も聞こえる。
あちこちから響いて、身体に纏わり付いてくるみたいな音だ。

何が起ころうとしているか。わからない。
視線を周囲に巡らせ、レミリアはロボカイに向き直り、身構える。
油断しては駄目だ。
行動を見逃してはならない。
レミリアが再び魔槍を手の中に作り出そうとした時だった。
 
ごぼっ、と一際大きい湿った音が、空から降って来た。
余りにも不吉で、鳥肌が立つようなおぞましい音だった。
思わずレミリアは振り返り、空を見上げた。絶句した。
ロボカイはその隙に大きくバックステップを踏んで、レミリアから離れ、空を見上げる。

レミリアがロボカイと対峙している事を、一瞬、忘れてしまうほどに、その光景は衝撃的だった。

腕だ。腐ったみたいな青黒い腕だった。
青黒い空の不気味な文様を纏わせた巨大な腕が、ドームから下へと伸びてきていた。
その腕は巨大だった。
表面は雲で出来たみたいにモコモコしていて、其処から更に小さな腕が伸び、蠢いている。
その気色悪すぎる腕が、下に伸びに伸びて、何かを掴もうとしてる。
グォオオオ、と凄い勢いで下へ下へと向かっている。
ソルやアクセル、パチュリーも、その腕を見上げ、驚愕していた。
狙いは何か、すぐに気付いた。
 その腕を追い払うように、紅い爆炎が象った、巨大な剣が振るわれるが見えたからだ。
 
 
 
 









フランは「美鈴は咲夜と離れて!」と叫んだ。
迫ってくる巨大な青黒い腕は明らかにフランを狙っていたからだ。
ドームというか、空が降ってくるみたいな迫力だ。
その迫力に一歩後ずさりながらも、フランは握った手にレーヴァテインを作り出し、構える。
咲夜を抱えたまま、何か言おうとしていた美鈴を突き飛ばして、フランは空へと飛び上がった。

すぐに、腕は反応した。
降ってくるコースをぐいっと上向きに変えて、フランを追ってくる。
ぐんぐん伸びてくる。降ってくる。押し寄せてくる。
凄い速さだ。
暴風を感じる。

フランは空中で留まり、その腕に向き直る。
すると、もう目の前に青黒い掌があった。
歪な掌の大きさは、余裕で10メートル以上ある。
フランを握り込もうとしているのだろう。
ぐわっと広がった掌の表面は、不気味に脈打ち、蠢いていた。
その指が、握りこまれる瞬間だった。

フランの手の中に燃え盛るレーヴァテインが、一層猛り狂い、爆発し、大きくなった。
空に、鮮烈な朱色が刺す。
熱波が、澱んだ空気を焼いて、爆ぜる。

「はぁ――…っ!」

迫る腕に負けないぐらい巨大になった禁忌を、フランは一本背負いのように振りぬいた。
豪快にレーヴァテインを斬り込む。斬撃の軌跡を炎が描く。
その軌跡は、青黒い掌を叩き割り、引き裂いた。真っ二つだった。
フランに迫っていた掌は、爆音と共に、割砕され、爆散した。

黒い掌は燃えて、苦しげにのたうった。
其処に、フランはすかさず横に凪いだレーヴァテインをぶち込んだ。
ズグシャアアア、と今度は横に炎が走り、のたうつ腕をぶった切った。
禁忌の炎が、空を彩る。
その中で、掌というより、手首周辺を全部吹っ飛ばされた青黒い腕が、がくがくと震えていた。
頭を潰された蛇みたいに、のたくった。
叩き割られた掌は、黒い靄のようになって、そこら中に立ち込める。

その黒い霧の中で、フランは唇を舐めて、もう一撃を叩き込もうとした。
レーヴァテインを握り締め、再び振りかぶった時だった。

「え…」

フランの視界が、ぐるんとひっくり返った。
意識が飛んで、手の中にあったレーヴァテインが揺らめき、炎の塵となって、散り始める。

耳鳴りがして、呼吸が詰まった。苦しい。
何も考えられなくなって、上も下も右も左もわからなくなった。
何が起こったのかわからないが、とにかく危険だ。
それだけは分かった。感じた。
妹様。フラン様。
美鈴と咲夜の声が、耳鳴りに混じった。

「は…ぁあっ!」

歯を噛み締めて、フランはふらつく体を精神力で支える。
気付けば、先程よりも自身の高度が下がっていた。落下しかけていたようだ。
だが、どうでも良い。
来てる。目の前。腕だ。
掌を失って、モコモコの棒みたいになった腕が、フランに押し寄せてきている。

フランは咄嗟に、右掌を突き出した。
弾幕が放たれ、近距離にあったその腕を蜂の巣にした。ズタボロにした。
破壊されまくった腕は、もう腕の形をしていない。
青黒い靄の塊みたいだ。

だが、止まらない。来る。
押し寄せてくる。

突き出した掌に力を込め、フランは自身の能力を使おうとした。
しかし、先程と同じで、掌に『目』をつくりだせない。
爆破できない。

『悪いね…。君の能力は、既に僕のコントロール下だ』

何故、と思うよりも先、頭の中に声が響いた。
低く、それでいて抑揚のある声だった。

「何が――-」

その声に何かを言い返そうとした時だった。
ズタズタになった青黒い腕の表面が不気味に泡立ち、其処から数え切れない触手が飛び出した。
触手の先には、赤ん坊の手みたいな、やたら丸みを帯びた青黒い手がある。

「ぅ…!!」

フランは弾幕を放って追い払おうとしたが、それももう遅かった。
突き出されたフランの右の掌に、何本もの触手が絡みついた。
その触手の先にある青黒い小さな手も、がっちりとフランの皮膚を掴みにくる。

フランはその触手を引き剥がそうとした。
べりべりと剥がす最中に、別の触手がフランの右足首にも絡みついた。
左脚、その足首にも。
首にも。

どんどんと絡み付いてくる。
フランはそれを振り払おうとして、身をよじった。
何本かの触手は千切れたが、全然無駄だった。
そんなことをしている間にも、次から次へと触手はフランに絡みつき、雁字搦めにしていく。

「ぅあああ……っ!!」

最後は、フランの顔目掛け、まるで燻し殺すかのように黒い靄が殺到した。
くぐもったか細い悲鳴も、触手に巻き込まれ、ほとんど外にも漏れなかった。
あっという間だった。フランは触手にぐるぐる巻きにされ、黒い靄に包み込まれてしまった。
グジュグジュと蠢く靄と触手は、次第に蕩けるようにして空に球状の物体を象った。
それは、ほとんど青黒い繭だった。
破壊されかけのぼろぼろの巨大な腕の方は、その繭の部分を残して青黒い霧みたいになって、ぶわっと空に広がった。
その霧は、しかし、すぐに繭の周りに集まり、澱んで、凝り固まって、繭を飲み込んだ。
最高に気色の悪い光景だった。
繭の中に居るフランが暴れているのだろう。
繭はしばらくの間、ぼっこんぼっこんと凹んだり膨らんだりしながら、ぶるぶると震えていた。
薄く紅い光が灯ったりもした。
だが、次第にその動きが弱まり、すぐに繭の震えも収まってしまった。
ズブズブ…、ズグズグ…、と気味の悪い湿った音が、濁る空に響くだけだ。



 それらは、かなりの短時間で行われた。
その光景の異様さに眼を奪われ、硬直している間に、フランが飲み込まれてしまった。
ソルやアクセル、レミリアは、半ば呆然としながら、空に佇む不気味な繭を見上げる。

「フラン…っ!!」

叫んで、空へと飛び立とうとしたが、その背中に強烈過ぎる衝撃が伝わった。
爆音と閃光。一瞬遅れて、熱さと痛みがやってきた。
ガクン、と空中でレミリアの体勢が前のめりに崩れた。
小型のミサイルだった。
ロボカイが膝に仕込んでいたミサイルを、背を向けて飛び立とうとするレミリアの背中目掛けて撃ちこんだのだ。

「が――ぁ…!?」

レミリアはぐるぐると回って、肩から地面に墜落した。
だが、すぐに起き上がって、もう一度フランの元に飛び立とうとした。
其処に、再びミサイルが撃ち込まれる。
横っ飛びに転がりつつ、ミサイルとその爆風を避け、すぐさま起き上がり、翼を広げた。
痛みはあったが、すぐに再生するだろう。気にはならない。
 「邪魔するな――っ!!」視界をロボカイに向け、レミリアは歯を剥いた。
それと同時に、掌の中に魔槍を作り出し、ロボカイに投擲する。

 一瞬で作り出されたとは思えない程、投擲された槍は巨大で、禍々しい紅い光を帯びていた。
 破壊力も申し分無いはずだ。
しかし、ロボカイは自らを貫きに来る紅い槍には、ほとんど身構えない。
かわすような素振りも見せず、ただギギギ…、と金属音を漏らし呻いた。
その金属音に混じって、「無駄だよ…」という男の声が混じった。

 ロボカイは、再びその身にすぅと青黒い靄を纏う。
 霞の外套のように、その靄は青黒い光を漏らしながら揺れ、ロボカイの身体を包む。
 其処に、深紅の魔槍が突き刺さる。激突する。
 紅い光が拡散して、砕ける。
 
 レミリアは貌を歪めて、後ずさった。
 ロボカイの纏う靄は、レミリアの魔槍を払拭するかのように消し去ってしまう。
 かなり特殊な術式なのだろうが、全く笑えない。
 レミリアの心を、焦燥が焼く。フランのもとへ行かねば。
 
 「心配しなくとも、君の妹は無事だよ」
 
 そのレミリアの心情を察したという訳では無いだろうが、聞こえきた男の声は妙に落ち着いていた。
 
 「フランに…何をしたの」

 レミリアは腰を落とし、すぐに動ける体勢を取り、その手に再び魔槍を構えた。
 周囲に魔法陣を展開し、ロボカイを睨みつける。
 
 ロボカイは、何も答えず、空に浮かぶ青黒い繭へと視線を向けた。
 まずレミリアに答えたのは、男の溜息だった。
 
「彼女の精神と自我に、手綱を掛けたんだよ…」

洗脳術を施した、と言えば、分かりやすいかな。
そう言った男の声は、慎重そうだった。

洗脳ですって…。 レミリアはぎりりと歯を噛み締める。

「ああ。まぁ、洗脳というか、意識の掌握というか…。そんな感じだね」

男の声を漏らしながら、ロボカイは空へと視線を抜けたまま、ギギ…と金属音を漏らす。

「精神ナド、弱点ニシカナラヌ」

そのロボカイの呟きに答えるように、宙に浮かんでいた青黒い繭が胎動する。
同時に、濁った空も、波打つように蠕動する。
腐った肉の塊みたいに蠢き、繭は、少しずつ萎んでいく。
いや、凝縮されていくという感じだ。
周囲に漂う青黒い靄を大量に吸い込み、今度は薄く黒い光を放つ法術陣が繭を囲んだ。

見れば、ソルでさえも、その光景を忌々しそうに顔を歪め、睨んでいるだけだ。
アクセル、パチュリーはただただ、その光景に眼を奪われていた。
美鈴、咲夜も、同じだ。

動けない。眼を離せない。
このドームで包まれた空間自体が、繭を包む、もう一つの繭のようだ。
澱んだ空気の流れが、フランを飲み込んだ繭へと流れ込んでいる。

何が起ころうとしているのか。
レミリアは息を呑んで、空を見上げた。
法術陣に包まれ、胎動し、徐々にしぼみつつある黒い繭。
 動け。そう思うが、レミリアは身体が凍り付いて、思うように動かなかった。
 
 流石は、ミスター・バッドガイ…。無茶な干渉の危険性は、十分に理解してくれているみたいだね。
 
 男の声が、酷く遠くに聞こえた。
 
 レミリアはただ見ていた。
 その繭が、ゆっくりと解け、破れ、散り散りになっていく様を。
青黒い繭の中から、フランが吐き出される様を。
 黒い霞の中、フランは水死体みたいに漂い出て、ゆっくりと体勢を整えた。
 生気の無い仕草。紅かった眼も、今は濁った青に染まっている。
 金色の髪は煤けたみたいに黒ずんでいた。
 それに、翼が纏う七色の面正体も、その輝きを失っていた。
 炭みたいな灰色になっている。其処に、普段の淡く美しい輝きは無い。
 誰かが息を呑んだ。
それが自分だと気付くのに、時間が必要だった。
 
魂の抜け殻みたいになった表情で、フランはロボカイのほうへと貌を向けた。
 そのフランの貌を見て、レミリアは今度こそ呼吸が止まった。
 
 フランは、レミリアを見ていない。
 ロボカイもだ。何も、何処も見ていない。
 濁った青に染まった眼は、全く意思の光を宿していない。
 死んだ眼だった。
 その能面のような表情のまま、ゆっくりとフランがロボカイの方へと降りてくる。
 
 時間が止まったのを感じた。
 何もかもが、遠くに感じられた。
 現実感が希薄になって、目と耳をふさいでしまいたくなった。
 レミリアが現実逃避しかけた数瞬の間。
 
 こっちへ来るんだ、フランドール…。
 
 男の低い声と、ひゅん、と風の鳴る音を聞いた。
気付けば、空中で加速したフランが、ロボカイの傍らに着地していた。
 その吸血鬼としての出鱈目な速度に、フランの足元に旋風が巻く。
 フランはゆっくりと顔を上げ、レミリアへと向き直った。
 
 「フラン…っ!!」
 
 情けないくらい震えた声で、レミリアはその名を呼んだ。
 しかし、フランは表情一つ変えない。
無言のまま、視線すら返さない。
 
 「言っただろう。無駄だよ…。精神の手綱は、完全に嵌った…」
 
 男の声は、酷く落ちついていて、冷静だった。
 まるで、実験の過程を観察しているかのような声音だ。
 
「コノ法術ノ時間稼ギノ為ニ、ジャスティス二体ニ加エ、コピー共マデ消費シタカラナ」

その男の声に続いて、ロボカイが一歩前に出る。
 
 「成功シテイナケレバ、割ニ合ワンゾ」
 
 踏み出してくるロボカイを前にしながらも、レミリアは闘う構えを取れなかった。
 ガチガチと歯の根が合わない。
 一歩。二歩と後ずさりしてしまう。
 
 レミリアはもう一度フランの名前を呼んだ。
 しかし、やはり届いていない。フランの眼は、何も見ていない。
 声は、ただ青黒い空へと消えるだけだ。
 
 レミリアとフランの間。
 澱んだ空気に、濁り青の靄を纏わせ、ロボカイが迫る。
 
 「後ハ貴様ダケダ。れみりあ・すかーれっと」
 
 感情を感じさせない機械音声と共に、ロボカイがレミリアに踏み込んでくる。
 腑抜けかけていたレミリアは反応出来てなかった。
 その目の前に、飲み込みにくる蛇か蚯蚓みたいに、濁り青の靄が広がった。
 フランを飲み込んだ、あの腕と同じようなヤバさだ。
 
 レミリアは後ろに転んで、尻餅をついた。
 悔しさも、惨めさも、何も感じない。
 何も分からなくなりかけた。
もう一度、フラン、と呼んだのだと思う。

 「…ボケッとするな…!」

 だが、そのか細い声は、炎と低い声に掻き消された。
 ついで、誰かに引っ張り起こされ、抱えられた。息が止まった。
 レミリアを抱えた腕は、まるで甲冑のようだった。
 血錆色で、熱く、強大な生命力を感じる、外骨格だ。
 
 ソルだった。
 間一髪の所で割り込んだソルが、レミリアを抱えて、後ろに飛んだのだ。
 今までレミリアが居た場所に、濁り青の靄が殺到し、地面すら抉るように凝り固まった。
 レミリアは捕まえ損なったロボカイは追いかけてこない。
 ゆっくりと身体を起こしながら、ソルを見据えるだけだ。
 



 「…この洗脳法術……厄介な真似を…」
 
 ソルは、ロボカイ達から距離を取ってからレミリアを下ろし、舌打ちをする。
 下ろされたレミリアは、唇を震わせながら、フランを見詰める。

「大丈夫かい!? レミリアちゃん!?」
「レミィ…!」

アクセルとパチュリーが、ソル達に合流する。
 かなり危険な雰囲気を感じたのか、アクセルはすぐさま鎖鎌を構え、ロボカイに向き直る。
パチュリーはレミリアを支えるようにして、その傍に立つ。
支えられたレミリアの肩は、小刻みに震えていた。
レミリアは振り返り、泣きそうに貌を歪めた。「フランが…」、そう言うのがやっとだった。

 「お嬢様!!」

 「フラン様が…」

其処に、咲夜に肩を貸した美鈴も合流してきた。
美鈴の声は切羽詰って、咲夜の声は潰れ掛けみたいに小さかった。
それに、咲夜の顔色も相当危険だ。血の気を失ったみたいに蒼白で、呼吸も浅い。
やはり、ジャスティスの突進で喰らったダメージは、小さくないようだ。

パチュリーは眉を顰めて、フランへと眼を向ける。
そして、そのフランの姿に、心が折れる寸前のようなレミリアの様子にも納得がいった。

無言のまま、何処にも眼の焦点を合わせず、フランは幽鬼のように佇んでいた。
ロボカイの直ぐ隣だ。其処に居る、というよりも、漂っているような風情がある。
吹き消える寸前の、蝋燭の炎のようだ。
 生気を失った眼は、青色に濁るどころか染め抜かれている。

どうしたらいい。

パチュリーは、ソルに封炎剣を返してある。
掛けられた魔力漏洩の刻印もそのままだが、体を浮かせて移動出来る程度には、徐々に回復してきていた。
 だが、属性魔法を駆使して戦うことはまだ無理だ。
 レミリアも、フランと対峙することになれば大きく戦意を挫かれるだろう。
美鈴ではフランの相手はキツイだろうし、負傷した咲夜も庇って貰わねばならない。
 
 どうすれば…。
 
 「梃子摺っているようじゃないか…。背徳の炎」
 
そう呟きかけたパチュリーよりも先に、どろっとした男の声が響いた。
パチュリーは息を呑み、レミリアも瞠目した。
咲夜も驚愕しているようだし、美鈴は咲夜に肩を貸したまま、さっと下がった。


つい今まで、全く気配すらしなかったというのに。
その男はレミリア達と、ロボカイとフラン達との間合いの中に現れた。
男は痩身で、ダークグリーンのマントを纏っていた。
コインを片目部分に嵌めこんだ、不吉な仮面を被っている。
顔全てを覆い隠すその仮面は、一種の拘束具のようでもある。
生気も無く、色素が抜けたような白い髪は、老人か、或いは死人のようだ。
それに咥えて、映りこんだみたいに、その男には気配が無い。
眼の前に居るというのに、存在感がまるで無いのだ。

その男からレミリア達を庇うように、すっとソルが前に出る。
「久ぶりだねぇ…」、と低い声で呟き、アクセルもソルの隣に並ぶ。

「…貴様…何をしに現れた…」

ソルの声は、潰れて平らになったような声だったが、其処には確かに殺気があった。
アクセルの視線も、今までに無いくらい剣呑だ。

だが、その二人を前にしても、仮面の男は涼しい顔のまま、喉を鳴らして笑った。
いや嗤ったのか。

「無頼な振る舞いも良いが…今はこの状況を打破すべきだろう」
 
 その低い声に、明らかに、この場の空気が変わった。
今まで濁っていた空気が搔き混ざられ、腐り、澱んでいく。
それくらい、現れた男の存在感は異質で、異常だった。

それに、ソル達異常に警戒の色を顕わにしたのは、ロボカイだった。

仮面の男の登場により、ロボカイはレミリア達を攻めあぐねた。
 いや、動けなかった、と言った方が正しいだろう。
 それくらい、この仮面の男の放つ気配は普通じゃない。
 
「これはこれは…GEAR MAKERに縁ある御仁と見て、良いのかな」

臨戦態勢を取るロボカイの喉元から、男の声が漏れる。
その抑揚のある男の声は、やはり冷静だった。

「答える義理は無い」

仮面の男は、掛けられた言葉を一蹴し、ソル達に向き直る。
その背後で、「やはり、嗅ぎ付けられてたみたいだねぇ…」と抑揚のある声が響いた。

仮面の男は、その澱んだ声で短く詠唱を唱えた。
周囲に濁った濃い緑色の法力の光が漏れ出し、青黒と混じりあい、毒々しいコントラストを作った。
その詠唱に、ソルとアクセルは身構える。
パチュリーとレミリア、美鈴と咲夜は距離を取った。

その瞬間だった。
次に動いたのは、ロボカイとフランだった。

ロボカイは仮面の男に飛び掛り、フランはその手の中に黒いレーヴァテインを造り出した。

仮面の男は、ふん…、と鼻を鳴らす。
邪魔をするなよ…木偶め。言って、踏み込んでくるロボカイ目掛けて、すぅっと差し出した。
だったそれだけの動作にも関わらず、呼び起こされた現象は多大だった。

無数の針。いや、あの大きさなら、槍と言った方が良い。
緑がかった光を纏う無数の槍が、男の周囲に突然現れ、その槍の群れが、ロボカイに襲いかかったのだ。
横殴りの槍の雨。
何発かをかわし、何発かを身体に受け、ロボカイは後方へと推し戻される。

ソルは前に踏み込み、アクセルはパチュリー達を庇うように、ソルとレイヴンの背後に咄嗟に下がる。

フランのレーヴァテインを受け止めたのはソルだ。
黒い炎を纏うレーヴァテインの威力は、やはり強大だった。
しかし、正面からソルはそれを押し返し、弾き飛ばした。
 フランはやはり生気の無い感情のまま、後方へ押しと飛ばされた体勢を整え、着地する。
 劣勢になったのは、明らかにロボカイ達の方の筈だ。

 「いや、これは厄介なことになったねぇ…」

 だが、妙に抑揚のある男の声は、少し楽しそうでもある。

 「よく言う。…既にバウンスの準備を始めている者の台詞とは思えんな」

仮面の男は鼻を鳴らして、パチュリー達に背を向けたまま再び詠唱を始めた。
今度こそ、仮面の男の法術が完成する。

ぶわっと、パチュリー達の足元から法術の光が溢れた。
見れば、レミリア、パチュリー、美鈴、咲夜の足元に、澱んだ緑色の法術陣が浮かび上がっている。

…何をするつもりだ…。ソルが、仮面の男に向き直る。

「このままでは、フランドール・スカーレットは消滅する」

皆が驚愕する間もなく、仮面の男は告げた。

「我が主が、奇跡的にバックヤードの揺らぎを観測することに成功した」

仮面の男は、ロボカイ達に向き直りながら言う。
ロボカイ達は、踏み込んでこない。仮面の男を警戒しているのだろう。
フランも動かないままだ。

「“運命”という奴だ。…背徳の炎」

仮面の男は、ロボカイ達に向き直りながら、言う。

「奴らの扱う洗脳法術、貴様も見たことがある筈だ」

ソルは貌を歪め、舌打ちをする。そして、「…奴ら……」、と呟いた。

「そうだ。…不完全ではあるが、ヴィズエルの技術を手に入れている」

その洗脳に掛かったフランドール・スカーレットは、分解と再構築により、精神を支配されている状態だ。それに…

男は言って、レミリアへと視線を向けた。

「それに過去に於いて、運命という形で、フランドール・スカーレットに強大無比な力と、狂気を齎した者が居る」

…なぁ…レミリア・スカーレット…。
びくっと、レミリアはその言葉に肩を震わせた。
何で、それを…。とレミリアは震える声で呟いたが、仮面の男は黙ったまま首をフランに巡らせた。

相変わらず、フランの眼に生気は全く無い。
硝子球みたいな眼をしたまま、ロボカイの傍に控えている。

「…何が言いたい…」

ソルもそのフランに眼を向け、うざそうに貌を歪めた。
アクセルやパチュリー、美鈴、咲夜も男の言葉を待った。

「“運命”によって齎された、全てを破壊する能力…」

その力の暴走から始まるフランドールの消滅によって、“運命”は今日結実する、という事だ…。

男の声に、レミリアは眩暈がした。
姉の過去の願いは、強大な力の下で“運命”となり、妹に願った『力』は、妹自身を破壊しようとしている。

“運命”は過去を刻み、加速していく。



[18231] 二十一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/02/01 22:55
 
  
 薄暗く、また金属で囲まれた空間の中。
男は自身を囲むように配置した多数のモニターに視線を走らせてから、眼鏡のブリッジに人差し指で触れた。

君達を回収する準備に入るから…、何とか持ちこたえてくれ。
そう呟いた男の眼鏡のレンズが、モニターの光の明滅を映している。
コンソールとモニターを操作しながら、男は自らの両の手に濁った青色の光を灯した。
濁り青の光は、機器類に囲まれた窮屈な空間を淡く照らす。

男の視線が、一つのモニターに向けられ、止まった。
そのモニターには、紅魔館を包む法術結界の状態が幾つもの数値で表示され、緩い変動を繰り返していた。

時間サエ稼ゲバ良イノダナ。
宙に浮かぶ無数のモニターのうちの一つから、冷たい機械音声が帰って来る。
感情の篭っていないようで、しかし、意思を感じさせる声音だった。
真面目というか、冷静過ぎるというか…。
男は呟いてから肩を竦めそうになって、代わりに鼻腔から息を吐いた。

人格AIを積んだ個体は、僕の子供みたいなものだからね…。無事に帰ってくるなら、越した事は無いよ。

その男の言葉に、何かを感じたのか。
不意に、機械音声が声を詰まらせた。
 男は返事を待たず、さらにコンソールとモニターを操作する手を早める。
 手に宿る濁り青の光が、その明度を増した。

 バウンス用の法術は割りと手間が掛かるから…、頼んだよ。
 その男の声に、…了解シタ、とモニターからの機械音声が答える。
男はその返事に満足しつつ、眼を鋭く細め、別のモニターへと視線を向けた。
そして唇の端に、微かな笑みを浮かべる。

…さぁ、どうでる。 ミスター・バッドガイ。それに…。
男が見詰めるモニターには、まるで拘束具のような仮面を付けた男が映りこんでいる。
ダークグリーンのマントに、ボディスーツ。
額から後頭部にかけてを貫き、仮面ごと貫通している太過ぎる針。
青白いというよりも、土気色の肌。
そして、その身体から僅かに漏れる、暗い緑色の法力。

GEAR MAKERの仲間か、或いは、部下か。
どちらにせよ、この仮面の男の出現の意味は、非常に大きい。

まさか、此処まで直接的に干渉してくるとはねぇ…。
男は言って、口元に浮かべた笑みを深める。

向こうも余裕が無くなって来た、という事かな…。
その呟きが、暗い研究室に微かに響く。
男は、宙に並ぶ幾つものモニターに掌を翳し、触れ、操作しつつ、鼻を鳴らす。
そのモニターの一つに、レミリアの姿が映し出された。
男の手が、そのモニター前で止まる。
映し出されたレミリアの表情は、驚愕というよりも虚脱しているかのようだ。
だが、その動揺を突くとなると、恐らくそう上手くはいかないだろう。
レミリアの周囲には、紅魔館のメンバーにソル、更にはアクセルまでが居る。
これはかなり強大な戦力だ。
事実として、ジャスティスのコピー二体は破壊された。
木偶の群れも、ほぼ壊滅。
被害の規模は小さくは無い。

しかし、此方もコントロール下にフランドールを取り込む事に成功。
結果、ロボカイとフランドールは、レミリア達と睨み合う状況になっている。
悪く無い。
後は、転移法術を完成させるための時間が必要だ。

アクセル=ロウ君まで居るのは、嬉しい誤算か。…いや…そうでも無いか。
 男は眼を細めつつ思考し、法力を用いた術式をリモートで展開させていく。
 それに合わせ、モニターに映し出された映像に、青黒い光が漏れ始める。
男が掌に纏う濁った青と、良く似た色だった。
 容赦の無い法術の力。それを用いて、遠く離れた地に干渉すべく、男は詠唱を始めた。
 
 









紅魔館の周辺をドーム状に包んだ青黒い結界は、まるで生き物の内臓のように蠕動している。
青と黒が不気味に交じり合う空は、日の光を腐らせ、地に複雑な陰影を落としていた。
その光景は、まるで土地そのものが呪われたかのようだ。
紅の屋敷も、今では青黒い影が覆われている。

仮面の男の声は酷く歪んでいて、腐った水みたいな声だった。
鼓膜を震わせるというよりも、侵食し、腐らせていくかのような澱んだ声音だ。
その癖、良く通る。
言葉の一つ一つが、やけにはっきりと聞こえる。
耳元で囁かれ、直接鼓膜を撫でにくるような嫌悪感もあった。

だが、レミリアは男の話す内容が上手く理解できない。
頭の中に入ってこない。
ただ眼の前の光景と状況を、把握しようとすることで精一杯だった。
上手く呼吸が出来ない。
息を吸って、吐く。そんなことすら、ぎこちない。

フラン…、と。
掠れる吐息混じりに、その名前を呼んだ。
その声は震えていたが、他人事のように感じられた。
か細いレミリアの声は、眼を青く濁らせたフランドールには届かない。

仮面の男を挟み、対峙するレミリア達とロボカイ、そしてフランドール。

ズブズブズブ…と、湿った音がこの濁った空間に響いた。
耳障りなくらい大きい。
まるで、底なし沼に何かが沈んでいくような不気味な音だった。

仮面の男は青黒いドームを一度だけ見上げてから、鼻を鳴らす。
ソルも舌打ちして眼を細め、空を睨みつけた。

「…奴ら…正気か…」

その低い声に、アクセルが鎖鎌を構えつつ、ソルに視線を向ける。

「やばい感じだけど、何が起ころうとしてんの? …これ」

アクセルの表情は鋭いというよりも、やたら凪いでいて、無表情に近い。
声音も平板で、感情を伺わせない。
それでいて、妙な迫力がある。
 
 そのアクセルの声が届いたのかどうかはわからないが、対峙するロボカイが半歩下がった。
 そして、フランドールが半歩前に出る。

…クソが…、と呟いて、ソルも一歩前に。
逆手に持った剣を握りこんで、ぐっと腰を落とした。
ソルは構えを取りつつ、ロボカイ、フランドールに向き直る。
視線は二人から動かさず、ソルは変質した両腕をゴキゴキと鳴らした。

「…大規模な転移法術だ…」

…恐らく、このドーム内全てを取り込むつもりだろう…。
低い声を忌々しそうに歪ませて、ソルは呟いた。

「この中を…全部…」
息を呑んだのは、恐らくパチュリーだ。
美鈴と咲夜も、絶句しているようである。
レミリアは、反応を返さない。ただ、呆然とフランを見詰めるだけだ。

そりゃ、また…。アクセルは凪いだ表情のまま言って前に出て、ソルに並ぶ。
ジャラッ、と鎖鎌を鳴らし、唇の端を舐めた。

その視線の先。
ロボカイはフランの斜め後ろに立つようにして、再び濁り青の靄を展開する。
靄は捕獲するようにフランの手足に薄く纏わり付いた。
そして、その靄はゆっくりとフランに染み込んでいく。
フランの握る黒いレーヴァテインに、濁った濃い青が混じる。
朽木のような翼が纏う面晶体も、灰色から、澱んだ青黒へと変化していく。
黒ずんだ金髪にも、青味がかかる。

レミリアは呻き声を上げそうになった。
まるで、フランという存在が、別の何かに作り変えられているかのような光景だ。
ぞっとするような光景だった。

ソルは奥歯を噛んだ。下手には動けない。
存在の分解と再構成によって、対象の意識を掌握する洗脳術。
その処理を下手に妨害すれば、フランの自我を崩しかねない。
ならば、洗脳されたフランを無力化し、その後、解呪するしかない。
手間が掛かり、問題も多い方法しか残されていない。

ズブズブズブ…。
ズグズグズグ…。

空間が沈み込むような音が、辺りに響いた。
転移法術が展開されつつあるのだ。

「あれは…!?」

何かに気付いたのだろう。
美鈴が空を見上げ声を漏らした。咲夜も眼を見開いている。
こんな規模で…、と、言葉を零したのはパチュリーだった。
レミリアも其処でようやく視線を上げ、呼吸が止まった。

現実感の無い光景だった。

それは、空というよりも、正確に言えば、紅魔館周辺を包むドームの天井部分だ。
其処に、途轍もなく巨大な法術陣が現れている。
青色の文様が濁りながら脈動し、刻まれ、ソル達を見下ろしていた。
まるでケーキを切り分けるみたいに、幻想郷からこの空間を抉るつもりだ。
とんでもない規模の転移法術が起動しつつある。

それを見上げつつ、仮面の男は掌に暗い緑色の光を灯した。
 腐敗と死滅を連想させるような、不吉な緑色の光。
 それを手に灯しながら、仮面の男は低く歪んだ声で、短く詠唱を始めた。
詠唱に呼応し、レミリア達の足元に浮かび上がった黒緑色の法術陣が、その輝きを増す。
 
 何をするつもりなのか。
 レミリア達が仮面の男に問う前に、ソルが「…貴様……」と呟いた。
 
 仮面の男の不穏な空気に気付いたのは、やはりソル達だけでは無かった。
 其処にフランが飛び込んで来たのは、それと同時か、その直後。
この黒緑色の法術陣に危険を感じ、ロボカイがフランを突っ込ませたのだ。
 
 フランドールは真っ直ぐ突っ込んできた。
抜け殻のような貌のまま、手にした青黒いレーヴァテインを振り上げる。
狙いは、仮面の男。
だが、仮面の男は動かない。熱い風が吹いた。
 そのフランの前に、ソルとアクセルが立ち塞がったからだ。
 
 大上段から、無造作に振り下ろされる青黒い禁忌の炎剣。
 ソルは身幅のある封炎剣を盾のように構えた。
 レーヴァテインを受け止める気だ。
 
 激突の瞬間。
青と黒の炎が吹き荒れ、暴風と衝撃波を撒き散らす。
炎混じりの突風に煽られ、ソル達の背後に居たレミリア達は後方へ飛ばされそうになったが、何とか堪える。
それ位、フランは何の容赦も無かった。ソルの足元の地が割れ、沈み、凹んだ。
だが、ソルはレーヴァテインをがっちりと受け止めていた。
 ガリガリ、バキバキ…、と、禁忌が神器を削る音が聞こえてくる。
 仮面の男はその様子を見詰めながら、詠唱を続ける。
 
 フランは蝋人形のような貌で、レーヴァテインをぐぐっと押し込んでいく。
 押し潰す気だ。
青黒い炎が猛り、ソルを圧殺する為に呻りを上げる。
 ソルの脚が、そのとんでもない力に押され、地面へと埋まっていく。
その僅かな拮抗の間。
アクセルはフランの背後にするりと回っていた。
 大人しくしててくれよ…! アクセルは言いながら、鎖鎌の刃を一瞬で畳む。
鎖鎌をヌンチャク状へと変化させ、その鉄鎖でフランを捉えようとしたのだろう。
 アクセルは鉄鎖で輪を作り、フランにかけようとしたが、出来なかった。
 
 ドン、と何かが爆発する音がした。
 レーヴァテインだ。
ジェット噴射のように右向きに炎を吹き出している。
その勢いに任せて、フランが身体ごとレーヴァテインをぐぉおおおん、と一回転させたのだ。

 無茶苦茶だった。
まず、レーヴァテインを受け止めていたソルが、その力に押され横向きに吹っ飛ばされた。
やべ…!、とアクセルはその場に這うようにして身を屈めた。
 その頭上を青黒い炎が、横殴りに奔った。
 だが、安心するのは早い。フランはその勢いのまま、もう一回転する気だ。
 今度は横じゃない。斜めだ。嘘だろ。
 地面すれすれに居るアクセルをぶった切るつもりだ。
 咄嗟に起き上がろうとしたが、間に合わなさそうだった。
 
 来てる。直ぐ其処だ。青黒の炎。
死ぬ。そう思った。
 だが、そうはならなかった。
 
世界が色を失った。
時間停止だ。
身体を空中で捻った体勢のまま、フランの動きが止まっている。
アクセルの眼の前で、レーヴァテインの炎も静止していた。

助かった。
アクセルは即座に其処から飛び退き、咲夜に視線を向ける。
かなり苦しげな表情だったが、咲夜はアクセルに頷きを返してくれた。
すぐに、世界に色が戻ってきた。
瞬間、爆音が響く。
フランのレーヴァテインが、アクセルが居た地面を叩き壊し、抉り、ざっくりと切り裂いたのだ。
砕け散る岩滓が焼け、青黒い炎と共に舞い上がる。
フランは虚ろな表情のまま、ゆっくりと視線を巡らせた。

既に起き上がり、ソルは再び仮面の男の前に陣取っている。
飛び退ったアクセルも、その隣に立つ。

「悪いな、背徳の炎…」
「…黙ってろ…」

仮面の男の声に、ソルは感情の篭もらぬ声で返す。
その様子を見ながら、ロボカイはギギ…、と呻いた。
そして、濁り青の靄を、操り人形の糸を繰るみたいに、手繰った。
ロボカイの手の動きに合わせ、フランがロボカイの元へと後退する。

周囲に響く湿った音は、次第にくぐもり、その音量を増していく。
微かにだが、地の揺れも感じる。
空間が圧縮されていくような感じだ。
空にフィルターを掛けるドームの濁りも増し、その蠕動も活発になりつつある。
風と呼べるものは全くという程無い。
空気も澱み、停滞している。
幻想郷にありながら、この空間だけが幻想郷にあらず。
腐った死滅地のような風情に変わりつつある。

その退廃と腐敗の光景の中、仮面の男の詠唱が完成する。
黒緑の波紋を揺らめかせ、レミリア達の足元に法術陣が刻まれる。
男は、レミリア達に視線を巡らせ、それから、ソルとアクセルへと向き直った。
 
 「我が主が、このドームの呪破に掛かっておられるが…間に合うかどうかは五分五分だ…」
 
 「……役に立たんな…」
 
 仮面の男の言葉に、ソルは一度眼を細めてから鼻を鳴らす。
 
 「主がバックヤードの観測に成功していなければ、今の状況はより最悪なものになっていただろう…」
 
 この状況より下が在るってのは驚きだぜ…。
フランとロボカイに向けていた視線を、仮面の男にちらりと向けてから、アクセルは呟く。
 
 私が動くのも、遅れていただろうしな…。
 仮面の男は低い声で言って、レミリア達へと手を翳した。
 地に刻まれた法術陣から、黒緑の光が漏れ、揺らめく。
 青黒い空間に滲むようにしてその光は広がり、レミリア達をその足元から照らし出す。
 かなり不気味に明滅するその光に、レミリアと美鈴、パチュリーが身構える。
 美鈴に肩を貸して貰い、動けない咲夜は仮面の男を睨みつけた。
 
 「…安心しろ。その陣は、転移用のものだ」

 仮面の男はレミリア達に背を向け、今度はロボカイ達に向き直った。
 対峙する気だろう。その掌にも、黒緑に濁った光が灯っている。
 
「館に居た他の妖精やら悪魔などは、既に結界の外に送ってある…」

 背を向ける仮面の男の言葉に、パチュリーが眼を細め、咲夜が「では…」と声を漏らした。
 
 「あぁ…。今では、館の中には鼠一匹おらんぞ」

これ以上、奴らに収穫を与えるのは不味いからな…。
仮面の男は鼻を鳴らすように呟いた。
ドーム内全てを転移させるこの法術に飲み込まれないよう、先に手を打っておいた、という事だろう。

アクセルは、「良いトコあるじゃん…。助かるぜ」と、唇の端を微かに笑みの形に歪めた。
ソルも、「……成る程な…」と呟き、鼻を鳴らす。
仮面の男は何も答えず、肩越しにレミリア達を振り返った。

「…まぁ、後は貴様達だけ、という事だ」

その足元に浮かぶ黒緑の法術陣が起動しつつある。

ロボカイ達としても、この転移法術を妨害したいのか。
じりじりと間合いを詰めてこようとしている。
だが、それに対処する為に、ソル、アクセル、そして、仮面の男が対峙している。
この状況では、流石に攻めあぐねているようだ。
フランドールを従えるようにして佇むロボカイも、窓のような眼を明滅させるだけで、大きく動けないでいる。

「貴様達は先にこのドームから出ていろ…。でなければ、足止め役の我々が出られんからな」

その声に呼応するように、足元から噴き出す黒緑の輝きが増す。
仮面の男は、終戦管理局の欲しがる者達を、この転移法術の領域外へ出してしまうつもりだ。

「しかし、それでは…!」美鈴は声を荒げ、仮面の男を睨む。
パチュリーも魔道書をぎゅっと握り締めながら、その眼に剣呑な光を湛えている。
咲夜も無言で、仮面の男を見据える。
レミリアは微かに身体が震えるのを感じた。

男が言っている内容は。
フランドールを見捨てる、ということだ。
そんなのは駄目だ。許しちゃいけない。
でも、どうすれば良い。

「“運命”の分担を変えることは出来ても、その為の時間が無さ過ぎる…」

仮面の男は平然と言って、レミリア達に視線を巡らせた。
その低い声にも、有無を言わさぬ力があった。

「思っていた以上に、奴らの洗脳法術が厄介だ。…解呪するにしても、今からでは遅い」

主の呪破法術の成功を祈るが良い…。
仮面の男の冷酷な声は、しかし、この状況を冷静に分析しての言葉だろう。

フランが居なくなる。
フランが、フランでは無くなってしまう。
もうすでに、そうなりかけている。

それに…、と仮面の男は続けた。

「…あの洗脳術は、本来一つの精神にしか作用しない。
だが、フランドール・スカーレットの精神には、正気と狂気が混在している…」

狂気が生み出す力こそ、全てを破壊する程度の能力の根源だ。
仮面の男の声に、レミリアは身体に悪寒が走る。
足元がふらついた。

「今、制御された精神が、『正気』だけだったとすれば…」

残った『狂気』は理性の箍を失い、暴走する。
レミリアその言葉を聞いて、魂が揺さぶられるのを感じた。

「奴らの法術が起動する前に、フランドール・スカーレットが消滅してくれるなら…有難いんだがな…」

それなれば、仮面の男達にとっては、万々歳だろう。
対策が遅れ、フランドールという強力な個体を奪われたとしても、その失敗を無かったことに出来るのだ。

アクセルも貌を顰め、睨むように仮面の男に眼を向けていた。
だが、何も言い返せない。
仮面の男は、この切羽詰まった状況で、最善に近い方法を取ろうとしている。
事実として、紅魔館に隠れ潜んでいた妖精メイドや、図書館に居た小悪魔を、このドームの外へと隔離してくれていたのだ。
もしも、この仮面の男が居なければ、大惨事となっていただろう。

どうする。
もうどうすることも出来無いのか。
誰もが、何も言えなくなった。
主の意に背く訳では無いが…バックヤードの揺らぎに抗うことなど、やはり無理なのだろうな…。

仮面の男が呟いた時だった。
ソルが鼻を鳴らし、一歩前に出た。

「……レイヴン…」

低い声で仮面の男へ呼びかけ、視線をフランとロボカイから外し、空へと向ける。

「…そいつらを連れて…先に出ていろ…」

そのソルの言葉に、皆が呆気に取られた。
何をする気なのか。
もう、どうしようも無いような状況だと言うのに。
仮面の男も、「何ぃ…」と、歪んだ声を更に歪めて、ソルへと視線を寄越す。

「転移法術に加え、フランドール・スカーレットの暴走も時間の問題だ…。主の前で犬死する気か…」

「…野郎の結界呪破と平行して…フランドールに掛けられた洗脳術の解呪に掛かる……」

「現実的な話をしろ」

男が不機嫌そうに言った時、また来た。
今度はロボカイ、そしてフランが同時に迫る。

ロボカイは、腕に濁り青の渦を纏わせ、体を変形させていく。
破壊された右腕。其処からコードの束が伸び、地に散らばった鉄屑を絡めている。
木偶達のパーツだ。
右腕から零れる濁り青の光が鉄屑に伝い、集積させ、形を変えて行く。
その右腕に集められた無数の屑鉄は、銀色の触手腕のように分解、再構築され、ロボカイの新たな武器となる。
 電結の鞭を多数生やしたその右腕は、金属で出来た巨大なイソギンチャクのようだ。

フランは、やはり生気の無い貌で、レーヴァテインを振り抜こうとしている。
何の工夫も変化もない行動だが、それ故に、途轍もない破壊力をこめた一撃だ。

ロボカイとフランは同時にソル達に襲い掛かった。
ソルとレイヴンがフランの前に出て、アクセルは一歩で飛び退り、咲夜達の前に陣取る。
刹那、レミリアも前へ出て、アクセルと並ぶ。

フランは虚ろな眼のままソルとレイヴンを捉え、一文字にレーヴァテインを凪ぐ。
まともに通せば、ソルどころか、背後に居るレミリア達まで飲み込むような巨大な炎剣。
それが横殴りに来る。
だが、やはりソルは封炎剣を盾のように構え、その禁忌の一撃を受け止めるだけだ。
戦闘の最中。無表情のままのソルの眼は、フランを見据え、何かを思案している。
それを感じたのだろう。
レイヴンは、隣に立つソルへとフランを任せ、短い詠唱を行う。
その低い声は、禁忌と神器が互いに削り合う音に掻き消されつつあるが、確かに、それは起ころうとしている。
黒緑の光が、鍔競り合うソルとフランの視界の端に輝いた。
レイヴンは同時に、左掌をフランへと翳し、法術を展開しようとした。
だが、ロボカイがその妨害に入った。
ロボカイはそれと同時に、幻想郷の住人である咲夜達をも同時に狙った。
ソルとフラン、そしてレイヴンを飛び越えながら、ロボカイは右腕として作り上げた触手腕をめちゃくちゃに振り回した。
バリバリバチバチと青稲妻を纏わせ、振るわれる電結の鞭の束。
無差別に近いその攻撃は、フランをも飲み込もうと猛り狂う。
レイヴンは舌打ちをしつつ、しかし、素早く対応した。

瞬間移動のように横にずれて、消えて、ロボカイの真上に現れた。

アクセル、レミリアは、降り注ぐ電結の鞭を弾き返しつつ、美鈴やパチュリーを守る。
ソルも、フランと鍔競り合ったままぐっと腰を落とし、レーヴァテインを押し返した。
そしてそのまま、フランを地面へと押し倒す。
序に、フランの傘となるように、その背を鞭の嵐に晒す。

美鈴は、肩を貸す咲夜を庇うように抱きしめる。
パチュリーは、残り少ない力を奮い、何とか結界を張る。
そんなパチュリー達を守るべく、アクセルとレミリアが得物を振るう。

時間にしてみれば、数秒無い。
本当に束の間。
だが、その極めて短い時間の中でも、地を穿ち削る金属の時雨は、固く乾いた音を無数に響かせ、暴れ回った。

アクセルの鎖鎌とレミリアの魔槍が、炎と魔力光を散らしながらその悉くを防ぐ。
叩き落とす。斬り飛ばす。
フランを庇うソルの背を、何度も電結の鞭が叩いた。
ソルの背の外骨格が削れ散り、炎血が噴き出す。
僅かに貌を顰めたソルを見上げながら、仰向けに倒れたフランはすっと掌をソルの胸へと当てた。
 魂の抜け殻のような貌と、虚脱した眼は、何も映してはいない。
 フランのビー玉みたいな眼を見て、…くそったれ…、とソルが呟いたのと同時だ。

金属が破れるような、甲高く不快極まりない音が響いた。

レイヴンだ。
空中で召び出した無数の針で、ロボカイの胴体を滅多刺しにしていた。
位置的には、触手腕を振るうロボカイの背後。
そのロボカイの首辺りに着地したレイヴンが、両手に針を持ち、宙にも針を引き連れていたのだ。
それを、ロボカイの後頭部、首、背中、腕、脚に、次々と刺し込んでいったのだ。
金屑が散って、ロボカイの眼と口から、黒いオイルが溢れた。
そのまま、レイヴンはぐるんと身体を縦に回転させ、空中でロボカイの頭部を蹴飛ばした。
踵を顔面に叩き込んだのだ。
鈍い音と、何かが砕けるような軽い音が鳴った。
眼の窓が砕け、首が半分もげそうになりながら、ロボカイは来た方へと吹き飛ばされた。

ロボカイが地面に落ちた時。
ズ…、と鳥肌が立つような音を、アクセルは聞いた。
そして見た。ソル。その下に居る、フラン。
腕を突っ張って、フランを鞭の雨から守ったソルの胸。
そこに埋め込まれた、フランの小さな手。
小さく白いその手はズグズグ、と更に深くソルの胸へと埋まっていく。

「…ぐ……っ!」

一瞬の静寂に、ソルの苦悶の声が混じる。
レミリアも気付いたようだ。はっとして、ソル達を見た時だった。
ソルの胸に埋め込まれたフランの手が、微かにだが、青黒い光を放った。
ヤバイ、とアクセルは思ったし、動こうともした。

美鈴が息を呑んだ。咲夜もだ。
パチュリーはソルの名前を呼んだ。
何の意味も無かった。

次の瞬間だった。
カッと、何かが光った。その光は青と黒、そして、微かに赤が混じった光だった。
ソルは咄嗟に身を起こしつつ捩ったのだろう。
その漏れる光が、微かに増した。
次いで、炸裂音。
ソルの脇腹あたりがはつられ、消し飛んだ。
人形のように吹き飛び、地面を転がるソルは、血を撒き散らした。
炎血の斑点をその貌に作りながら、フランがむくりと起き上がる。
レイヴンは着地すると同時に、今度はフラン目掛け、澱んだ風になった。

「そのまま寝ていろ…」

レイヴンは起き上がろうとするフラン目掛け、身体をしならせながら踏み込む。
そして、その勢いのまま、蹴りをフランに叩き込もうとした。
針を用いた攻撃では無い。気絶させるつもりか。

“あの男”は、幻想郷と敵対することを避けている。
避けようとしている。
その意思に背かなかったレイヴンの攻撃は、信じられない程容易くフランに受け止められた。
恐らく最も驚愕したのは、レイヴン本人だろう。
ぐ、とも、う、ともつかない声を上げた。
蹴飛ばしに掛かった脚を、レーヴァテインを握っていない手で、フランが掴み止めたのだ。
飛んできたボールをキャッチするみたいな、まるで力みの無い動作だった。
次の瞬間、レイヴンの身体がびゅん、とブレた。そして、鈍い激突音。
フランが、綿の詰まったぬいぐるみを振り回すみたいに、片手でレイヴンを持ち上げ、地面に叩きつけて、投げ捨てたのだ。

座り込んだような体勢から、フランはゆっくりと身体を起こす。
立ち上がる。
その手に握られた青黒い炎のレーヴァテインが、更に火力を増し、燃え盛った。
反して、フランの眼は何も見ていない。
翼に吊られた面晶体も、青黒い光を漏らしながら微かに揺れた。

すぅ、っと宙に浮き上がり、フランはゆっくりと後退する。
スクラップ寸前にされたロボカイの下へと。

ドームの蠕動が激しくなり、ズズズズ…、ゾブゾブゾブ…、と水音が聞こえる。

気味の悪い音に、アクセルはぶるっと、身体を震わせた。
腐り、朽ちた井戸の底に居るようだ。
 フランがロボカイを守るように佇む隙。

 「レミリアちゃん、此処頼むっ!」

寒気と悪寒を殺しながら言って、アクセルはソルの元へと駆ける。

「大丈夫か、旦那…っ!?」

ソルは、右の脇腹を右手で押さえ、何とか体を起こそうとしている。
その姿を見て、アクセルは悔しげに顔を歪めた。
ヤバイかもしれない。
そう思った。ソルの脇腹の辺りが無くなっている。

そのソルの姿を遠目に見て、レミリアは何も言えず表情を凍りつかせた。
その手に握る魔槍が、頼り無く揺れる。
何か言おうとしたが唇が震えるだけで、上手く動かない。


「…ぐ…。…酔いが…醒めた気分だ…」

ソルは握った封炎剣を杖代わりにして起き上がり、ゲホッ…と血の塊を吐き出した。
びしゃびしゃと、地面にどす黒い血の跡が出来る。
息を荒くさせ、ソルは視線を巡らせる。
 
億劫そうに金色に瞳を細めてから、…さっさと起動しろ…、と呟いた。
 
 言われるまでも無い。
 濁った声が聞こえた気がした。
その声が誰に向けての言葉なのか、アクセルとレミリアは一瞬分からなかった。
 だが、すぐに分かった。
ソルの視線の先、黒緑色の光が溢れた。
いや、咲いた、という方が正しいかもしれない。
 法術陣から溢れた光は、それくらい、毒々しく、禍々しい光の広がり方を見せた。
 
 その法術陣と、其処に咲いた黒緑色の光の中。
 美鈴、パチュリー、咲夜は、相当に驚いただろう。
あれだけ派手にやられて、全くダメージを負った風でもない。
 何時の間にか、としか言い様が無い。
レイヴンが、パチュリー達を守るように、その隣に佇んでいたのだ。
 その仮面に嵌めこまれたコインが、ソル達に向いた。
 
「貴様達もさっさと来い。…この隙を逃すな」

 レイヴンは、ロボカイのカバーに入り、動かないフランを見ながら言う。
黒緑の光は、無慈悲そうに歪んだ声に呼応する。
レミリア達の足元に揺らめく緑色の法術陣が、更に強く光を放つ。
転移法術を起動させるつもりのようだ。

レミリアはフランへと向き直り、その名を呼ぶ。

だが、フランドールは動かない。
フランはレミリアに答える代わりに、ちらりとロボカイを振り返り、見下ろした。

ロボカイの状態は深刻だった。
頭部の損傷が激しく、さらに体中にゴツイ針をうちこまれている。
バチバチと火花を散らせ、その身体からも黒いオイルが流れ出していた。
もうスクラップ寸前だが、まだ完全には壊れてはいないようだ。
ギギギ…、と零れる音が、それを物語っていた。
濁り青の靄も、まだ微かにその身体から漏れ出している
油断は出来ない。

それに、フランドールがロボカイを守るように立つことは、其処に洗脳術を解く鍵があるようにも思える。
観測的な希望だ。
だが、このまま時間を潰し、終戦管理局の転移法術に飲まれるのは避けねばならない。

やはり、フランドールは、其処から動かない。
 レミリアがもう一度フランの名を呼ぼうとした時だった。
 
「…先に行ってろ…」

低い声でレイヴンに告げ、ソルはその身体に赤錆色の炎を纏わせた。
ソルの身体から未だ大量に流れ出る血。
それは足元に池を作るが、それすらも燃え上がる。
ギチギチ…、ビキ、バキバキ…、と、硬い音がした。
見れば、ソルの上半身に炎が奔り、それが変質した腕と同じく、外骨格を形成し始める。
黒のインナーも血錆色の装甲に覆われ、ソルの姿が変わっていく。
いや、生まれ変わっていく、という感じだ。
別物になろうとしている。

 その様子に、レミリア達は眼を奪われた。
 アクセルも同じだ。
 レイヴンだけは、鼻を鳴らして首を傾けた。
 
 「…“運命”は、必ず辻褄を合わせに来るだろう。それでも残るのか」
 
 レイヴンの声は、さほど大きくは無い。
 だが、この青黒く澱んだ空間の中に、いやに良く通った。
 上半身と首の上、顎の下辺りまでを外骨格で包んだソルは、深く吐息を吐いた。
 
ソルのその姿は、竜と人を合わせたような印象を与える。
 獰猛で凶悪な力と、冷静な思考と意思の融合だった。
 身に眠るギアとしての本質を覗かせながら、ソルは首をゆっくりと回してゴキゴキと鳴らした。
 
 「…“運命”など…言葉遊びに過ぎん…」
 
 ソルは呟いて、一歩踏み出す。
 その身体から、血錆色の炎と法力のオーラが立ち上り、その揺らぎが巨大な竜の髑髏を象った。
 膨大過ぎる法力が作り出すその陰影は、戦慄と狡知、捕食と殺戮の化身だ。
 その竜髑髏の陰影を纏い、ソルは視線だけをレイヴンへと向ける。
 
「…俺は…そんなものに頭は下げん…」

 ソルの言葉と同時に竜髑髏が呻り、揺らめいた。
 
 レミリアは息を呑む。
 レイヴンの鼻を鳴らす音が聞こえた。
 
 「そうか…。無頼な振る舞いも、其処までいくと賞賛に値するな…」
 
 それが無益にならぬよう、こちらも手を尽くすとしよう…。
レイヴンは付けたし、レミリアとアクセルへと交互に視線を向けた。
 その視線を受け止め、アクセルは肩を竦め、へっと笑った。
 肩からの余計な力が抜けたような、自然な笑みだった。
 
 「旦那に賛成だなぁ、俺も。…そんな食えもしねぇモンに縛られるのは御免だね」
 
 アクセルの眼が、一瞬だけ普段通りの間抜けなお調子者に戻った。
 
美鈴に肩を貸してもらっている咲夜は、何かを言おうとした。
 だが、それよりも先に、アクセルは笑みを浮かべ、親指を立てて見せた。
 それを見た咲夜は何もいえなくなった。ただ、唇を噛むだけだ。
 美鈴ちゃん、咲夜さんの事、頼むぜー。 
アクセルは普段通りの笑みで、美鈴に言う。
 美鈴は顔を悔しげに歪め、何かを言いたげに唇を動かした。
だが、それは言葉にならなかった。
妹様を頼みます…、と、無念そうな呟きだけが、美鈴の唇から漏れた。
 
 パチュリーは、ソルとアクセル、それからレミリアとフランドールを見比べる。
 そして、「今の状態だと…私は足手纏いになる…。ごめんなさい…」と呟いた。
 ソルからマナの供給があったとは言え、魔力漏洩の状態で大技を使った結果だろう。
そのパチュリーの顔色は蒼白で、呼吸も浅い。
けほっ、と咳き込み、すまなさそうに眼を伏せた。

任せといてよ、パチュリーちゃん。
アクセルは間延びしつつも、何処か深みのある声音で答えた。
…分の悪い賭けだがな…。
ソルは呟きながら、フランドールに向き直る。
 フランドールは、まだ動かない。
 ロボカイの前に佇み、ただ立ち尽くしている。
 
ソルは、かつてシンが洗脳された時のことを思い出し、舌打ちをした。
 ヴィズエルの洗脳術は、バックヤードに干渉し、対象を分解、再構成する。
そして、存在の性質を変えて、精神を抑える。
相当に強力だが、十分な時間が無ければ、成功は難しい筈の法術だ。
 その為の時間を、ジャスティスのコピー達に稼がれたのは不味かった。
 洗脳法術。転移法術。この二つを起動するロボカイを潰せなかったのも痛手だった。
 もう法術が起動してしまっている。
 妨害せねば、後はこのドーム毎、終戦管理局の手に落ちるのみだ。
 
 ……厄介な話だな…。
 旦那と俺のコンビなら、何とかなるさ。
 無表情のまま、低い声で呟くソルの隣にアクセルが並び、鎖鎌を構える。
 
 
 その二人の背中を見ながら、レミリアも咲夜達の前から一歩踏み出し、レイヴンの法術陣の外へと出た。
黒緑の光を背に受けながら、レミリアは翼をすっと広げる。
 
フランを取り戻して来るわ…。
言いながら、咲夜達とレイヴンに向き直り、レミリアは紅い眼を細める。
 咲夜達が何かを言う前に、「あなた達は、先に外に出てなさい」と、有無を言わさぬ声で言い放った。
 優しい命令だった。
 
何かを言い返そうとしている美鈴と、咲夜。
そして、すまなさそうに視線を落とすパチュリー達には眼を向けず、レミリアはレイヴンに視線を向けた。

 レイヴンは無言のまま、レミリアを見詰めていた。
 僅かな間、静寂が降りる。

ズグズグ、ズブズブ、ズルズル。
ドーム内に、腐水が満ちてくるような湿った音が木霊する。
 青黒いこの空間自体が、巨大な転移法術陣になろうとしている。
 ソルの纏う竜髑髏の呻きが聞こえた。
 鎖鎌の鉄鎖の音も、微かに混じっている。

 レミリアは、レイヴンから視線を外し、その二人に並ぶため、更に踏み出す。
 
 「納得いかないかしら…」
 
 「貴様が飲まれれば、我々にとってはより深刻な状況になるが…」
 
 レイヴンは歯切れ悪く言って、青黒いドームを見上げつつ息を吐いた。
 その濁った吐息は、澱んだ青黒いこの空間に混じり、消える。
 それと同時に、咲夜達を包む法術陣が一気に輝きを増した。
 黒緑の光が溢れ、咲夜達を飲み込んでいく。
 
 「我が主と、背徳の炎を信じるとしよう…」
 
 運命を変えて来い…。レミリア・スカーレット。
 その黒緑の揺らぎの中、レイヴンの低い声が聞こえた。
 同時に、転移法術が起動する。黒緑の光が視界一杯に広がった。
 「お嬢様…どうかご無事で…!」咲夜の悲痛な声が聞こえた。
 「ご武運を…!」美鈴の力強い声が聞こえた。
 「レミィなら…大丈夫」パチュリーの、信頼の込められた声が聞こえた。
 
 レミリアは、紅魔館の主として頷いた。
 黒緑の光が薄れていく。
その揺らめきの中には、もう誰も居なかった。

無事、このドーム状の結界の外に出られた、という事だろう。
レミリアは、ソル達に並ぶべく、宙へと身体を浮かせた。
視線の先では、血錆色の竜髑髏がフランドールと対峙している。
その傍らには、鎖鎌を携えたアクセルがすっと腰を落とし、フランドールとソルの動きに集中している。

紅魔館を包むドーム状の結界に対しては、レイヴンの「主」が既に呪破に取り掛かっていると言った。
後は、フランドールの洗を解き、この内側からも呪破に掛かるだけだ。
レミリアは飛翔し、竜髑髏の陰影を纏ったソルの隣へと降り立つ。

ソルの傍に居たアクセルが、少し驚いたような顔になった。
だが、すぐに「頼りになるねぇ…」と呟いて、フランドールへと向き直った。


「……外に出なかったのか…」

ソルは無表情のまま、レミリアへと視線だけを寄越した。

「ええ…」

レミリアは答えながら、手に魔槍を作り出し、構える。
心強いね、こいつは。アクセルの凪いだ声が聞こえた。

「……気を付けろ…」

何かを感じたのか。
ソルは鼻を鳴らし、レミリアから視線を外した。
凶暴な金色の瞳が窄められ、フランドールとロボカイを睨む。
アクセルが前を見てから舌打ちをした。


ひひひひひ。


突然笑い声がした。
かなり危険な感じの笑い声だ。
それは、楽しい、嬉しい、と言った感情から来る笑い声では無かった。
まるで、何かが軋み、罅割れ、削られていくような笑い声だった。

レミリアは怯みそうになった。
その視線の先。フランドールが顔を伏せて、ガクガクと身体を震わせていた。
その震えに合わせ、ひひひひひひ、と硝子を引っ掻く様な声がする。
目元は髪に隠れて見えないが、フランの唇は裂けた様に笑みの形を作っている。
羽が纏う面晶体は濁った深い青色から、更にその暗さを増し、黒に近づいていく。

見れば、ロボカイから漏れ出た濁り青の靄が、フランに纏わり付き始めている。
それだけじゃない。
靄がフランの身体を蝕み、浸食している。
ゆっくりと浸透していくみたいに、靄がフランに吸い込まれていく。
それに合わせ、フランの身体の震えが大きくなる。

あひひひひひひ。
笑い声とも悲鳴ともつかない声で笑った後。
ピタリとその震えが止まった。
フランはゆっくりと身体を仰け反らせるようにして天を仰ぎ、ハァァァァ――…、と息を吐き出した。
 
対象…ノ、りみったー、ヲ。解、除…。
そのフランの背後で、ノイズ混じりの合成音声が響いた。
もはや何を言っているのかも聞き取れないくらいに、その声はひび割れ、崩れていた。
鉄屑になりかけ、地面に転がるロボカイの声だ。
スクラップ同然の身体でも青色の法力の光を漏らし、フランの洗脳術に干渉しようとしている。
 
戦闘不能に陥ったロボカイは、フランドールの力を引き出すことで、転移法術展開の為の時間を稼ごうとしたのだ。

だが、それが不味かった。

フランドールは洗脳法術により、正気という精神が抑えられたままだ。
だが、まだ狂気という二つ目の精神をその魂に宿している。
全てを破壊する程度の能力とは、狂気が作りだす捻子くれた理外の力だ。
狂気を抑えていた「理性」が正気と共に抑圧されたまま、狂気だけが増幅すればどうなるか。

箍を失った狂気は増殖し、フランドールの自我を危機に晒す。
結果として、抑制していた理性の殻を食い破り、狂気が表に出てくることになる。

 破壊的な意識に突き動かされ、フランドールは天を仰いだままガクンガクンと肩を揺らした。
 笑いを堪えているのか。
 その唇からは、しひひひひひ、という、横隔膜を痙攣させるような声が漏れている。
体を震わせながら、フランドールはゆっくりとソル達へと顔を向けた。
青く濁った右眼を窄め、左眼を見開いた。
顔全体を歪ませるようにして、唇を笑みの形に裂く。
そして、アハッ、と喉を震わせて、ソルとアクセル、レミリアへと順番に視線を巡らせた。
狂気混じりのその笑みは、無邪気で、無慈悲だった。

フランドールの狂気の声に合わせ、ゴウン…、と、鈍い音が空から響く。
ドーム天井に刻まれた法術陣から、青い光が漏れ、その雫を地に降らせた。
転移法術の起動準備が整いつつあるのか。
世界がずれ込んでいくような感覚に襲われる。
いや、まるでこの空間が落下しているような、気味の悪い浮遊感を感じる。

「何か考えがあるんでしょ、旦那。…俺はどう動けばいい」

アクセルは唾を飲んで、視線をフランから話さずに言う。
レミリアも言葉を待つように、ちらりとソルへと視線を向ける。

「…まずは…フランドールの動きを止める…」

…解呪が成功すれば…レイヴンの言う「フランドールの消滅」は防げるはずだ…。
ソルは低い声で呟きながら、鼻を鳴らした。
…簡単には行かんだろうがな…。

そのソルの言葉に答えるように、フランは更に大きく肩を震わせて笑う。
そして笑いながら、背後の地面に転がるロボカイへと、半身をずらして振り返った。
フランの手に握る青黒いレーヴァテインが、チェーンソーの刃のように小刻みに波打つ。

「あぁaaahhhh…aaaぁぁ、ぁひ、ひひひひ」

記憶や思考を伺わせない笑顔で、フランは手にしたレーヴァテインを振り上げた。
轟々と音を上げて聳え立つ、青色に燃え盛る禁忌の剣。
ロボカイは地面に転がったまま見上げ、博…、士…と呟いた。
何とか起き上がろうとしたようだったが、遅かった。
それよりも先に、そのロボカイの上にレーヴァテインが振り下ろされたのだ。
破砕音の変わりに、ザブン…、と泥濘に重いものを落としたような音がした。
無造作に振り下ろされたレーヴァテインは、ロボカイの体を消滅させ、その刀身の半分程を地面に埋めていた。
その地に刻まれた傷跡からは青黒い炎が上がり、フランの姿を照らし出している。

とてつもない火力だ。アクセルは息を呑む。動きを止めるって…、マジかよ。
レミリアも、表情を強張らせている。

「何だろうコレ…、凄くいい気分…」

フランドールはロボカイを消滅させて、あはっ、と笑って、振り向いた。

ソルは眼を細める。
フランの今の姿が、ヴィズエルに洗脳されたシンの姿が重なる。
忌々しい事だ。
呟きかけた時だった。フランの姿がぶれた。

ソル達は咄嗟に構えを取る。
 前髪で貌を隠すように俯いたフランの体から、濁り青の靄が漂い出て来のだ。
 靄は集まり、凝り固まって、すぐにそれは人の形へと代わっていく。
 その人型は、次第に少女の姿へと変わり、その背に朽ち枝の翼を生やしていく。
 青黒の空間から、三人のフランドールが染み出して来て、その姿を象ったのだ。
 
 フォーオブアカインド。
 
 四人となったフランは、やはり四人とも体を痙攣させるような笑みを浮かべている。
 いひひひ。きひひひ。しひひひ。くひひひ。 歪な笑みが重なる。
 フラン達の翼の面晶体は薄黒く濁り、その眼も濃い青に濁っていた。
 
 「フラン…!」レミリアは焦りと戸惑いと絶望をない交ぜにしたような表情で、フランを見詰める。
 その手に作り出された魔槍が、小刻みに震えていた。
 「動きを抑えろって…、無茶言ってくれるよ旦那」アクセルは、唇を舐めて湿らせ、構えた姿勢のまま眼を鋭く細める。
 「…今の状況がどう転ぶかわからん…」ソルは半身立ちになり、逆手に持った剣を握り直す。

 ソルが呟いた時だった。 
ひひひひと笑いながら、フラン達が一斉に翼を広げて見せた。
 翼の纏う黒い面晶体が揺れ、破壊の脈動を響かせる。
 レーヴァテインを持つフランは、肩を揺らしてソル達を見ている。
それ以外のフラン達は僅かに宙へと浮き上がって停滞し、両腕を広げた。
紅と青が交じり合う魔法陣を、各々のフラン達が展開していく。
紅と、青黒の稲妻を奔らせ、魔力の暴風が吹き荒ぶ。
作り出された四つの魔法陣が、その歪んだ輝きを増していく。
 
 弾幕か。

 躊躇いは無かった。
 ソルは地を蹴って踏み込んだ。
アクセルもそれに続く。
 レミリアは飛翔し、前を行くソル達に並ぶ。
 
 肉薄する三人目掛けて暗い虹色に染まった弾幕が放たれ、ソル達の視界を埋め尽くした。
 圧倒するその弾幕の量は、回避することがほとんど不可能とさえ思える程の密度だった。
だが、ソル達はその弾幕を正面から割っていく。突っ切っていく。
濁った七色のストロボの中。
先頭を行くソルの纏う竜髑髏の陰影が吼え猛り、弾幕を打ち消し、燃やし、押し返す。
アクセルは其処から漏れた弾幕を往なし、捌き、前へ。
レミリアは魔槍を握りながら、最低限の回避行動でその弾幕の中を抜けていく。

フラン達の方は、弾幕を放ちながら宙へと散開する。
レーヴァテインを握ったフランだけが、ソル達めがけ飛び込んできた。
ソル達を一気になぎ払うつもりか。
フランはレーヴァテインを振り上げるのではなく、体を横向きにぐるんと回転させたのだ。
濁った青黒の炎が横薙ぎに振るわれる。爆風に近い斬撃を受け止めたのは、ソルだ。
無造作に封炎剣を叩き込んだのだ。竜髑髏の陰影が吼える。
封炎剣とレーヴァテインが鍔競り合い、炎と法力が噴出し、周囲を青と赤の炎に染める。

フランは、ぎゃははっ!、と貌を歪ませて笑った。
其処に、散開していたフラン達もソルへと襲いかかろうとした。
これには、アクセルとレミリアが対処に入る。


一人のフランは弾幕を放つ為に魔法陣を展開していた。
残りの二人は、ソルへと飛び掛かろうとしている。

そうはいかねぇな。
呟いて、アクセルは鎖鎌の刃を畳み、ヌンチャク状へと変形させた。
踏み込みながら、更に鉄鎖部分を長大に練成する。
ソルに飛び掛ろうとしていたフラン二人のうち一人が、そのアクセルに気付いた。
それと同時。
レミリアは魔槍を投擲し、弾幕を展開しようとしていたフランを牽制する。
まだ終わらない。レミリアはそのまま、投げた槍を追うように肉薄する為に飛翔。

「Ahaaaaaaahhh…!!」

狂乱の哄笑を上げたのは、ソルと打ち合うフランだ。
フランは両手でレーヴァテインを握り込み、ブォンブォンビュオンビュオンと振るった。
矢継ぎ早というよりも、神速の滅多打ちだ。
斬撃の軌跡に合わせ、青い炎が吹き荒れた。うねる炎の壁だ。
禁忌の連打に、地面が陥没し、削られ、破壊される。
だが、ソルは真っ向から打ち合う。
封炎剣でその全てを受け止め、押し返す。前に出る。

アクセルも負けていない。一瞬だった。
長大になった鉄鎖を蜘蛛の巣のように縫い絡ませ、鉄鎖の網を造り出した。

フランの分身の内、一人はアクセルへ。
もう一人はソルへと襲い掛かる。
 
旦那! 一人そっちに行ったよ! 
そのアクセルの声に、風が切り裂かれる音が混じる。
ソルへと声を掛けつつ身を沈めて、アクセルは跳びかかって来たフランの爪攻撃をかわす。
だが、ただかわしただけじゃない。
フランとのすれ違い様に、鎖鎌の鉄鎖で編んだ網をフランに被せて見せた。
 すっぽりと網に嵌り、フランは地に墜落。
 だがすぐに、ギチギチバキバキ、と鉄鎖が擦り切れるような音が響く。
捕まえられたフランは、いひひひ、と笑った。

嘘だろ。
アクセルは呟くよりも先に動いた。
来た。フランだ。
自身を捕らえる鉄鎖ごと、アクセルに突っ込んできたのだ。
鉄の網を括りつけたフランの体は、それだけで十分過ぎる武器だ。
兵器といって良い。
それが、猛スピードで迫ってくる。
ぶつかってくる。
やべぇ。

咄嗟だった。
握っていた鉄鎖網の手綱を、片方だけ手放した。
そして、もう片方に握った手から法力を流し、鉄鎖網を分解する。
超高速の錬金法術だ。
ジャラララララ…! と金属音がして、フランの被った鉄鎖網が解けて行く。
鉄鎖を纏い、ハンマーと化していたフランの突進は、その嵩を一気に減らした。
だが、それでも脅威であることに変わりは無い。
アクセルは鉄鎖網をほどきつつ、身を捩ってかわそうとした。
それでも、反応が僅かに遅れていたのが失敗だった。
完全にはかわしきれなかった。

痛みよりも衝撃を感じた。
右肩だ。次に、浮遊感。吹っ飛ばされてる。
自分が回転しているという事を理解した次の瞬間には、また衝撃。
地面に叩きつけられたようだ。
手をついて、即座に起き上がる。

その途中で、しひひひ、という笑い声が聞こえた。
背後。いや、首の後ろ辺りだ。風が吹いた。
ブオォ、とも、ビュホォ、ともつかない音がした。
爪だ。
振りぬかれたフランの爪が、アクセルの首元を微かに裂いた。
アクセルは呻きつつも何とかかわして、体を捻ってバックステップを踏む。
後方へと跳びつつ、握り放さなかった柄を引っ張り込み、鉄鎖を両手に引き寄せる。
そして構え直しながら、アクセルは右肩をちらりと見た。
皮膚が破れ、出血はしているが、ちゃんと動く。大丈夫だ。

フランは楽しそうに笑って、アクセルを見詰めていた。
こっちは一杯一杯だってのに、フランの方は息切れ一つしていない。
それどころか、殺してあげるuuuuuuuうふふふ…、と歪んだ笑みすら浮かべている。

動きを止めるなんざ、無理なんじゃねぇのか。
アクセルは思いながら、冷や汗を拭う。
そして、ソルの方を一瞥して、感嘆の溜息が漏れそうになった。
フランと戦っていたので気付かなかったが、ソルから少し離れた位置までアクセルは来ていた。

だから、一目で分かった。「マジかよ…」とアクセルは呟いた。

ソルが相手をしているのは二人だ。
一人のフランが振りまわすレーヴァテインと打ち合う。
同時に、その死角から襲ってくるもう一人のフランの爪や牙や弾幕を同時に捌いている。
ソルの動きは俊敏には見えないが、余計な動作が無い。

竜髑髏を囲むように、フラン達はソルの周囲を旋回し、攻撃し、執拗に襲い掛かる。
一撃一撃がとんでもない破壊力を秘めているのは間違いない。
空気の振動と共に、地面に大穴が空き、砕け、岩滓が舞う。

フラン達は、明らかにソルを殺しに掛かっている。
その苛烈で大規模な攻撃の中にあっても、ソルは反撃をしていない。
防戦一方に見えないのは、ソルの表情が冷静過ぎるせいか。
只管に攻撃を捌きながら、何かを狙っているようだ。
フラン二人の大規模過ぎる攻撃を、無表情で受け止めつつ、ソルは朗々と何かを詠唱している。

法術起動の為の文言を唱えているだろう。
 血錆色の法力の余波が、外骨格で覆われたソルの上半身から漏れ始めた。
その余波は、封炎剣とレーヴァテインがぶつかり合う震動と衝撃に揺らぎ、立ち上る。

任せるしかねぇな、こりゃ。
アクセルは呟き、鋭く息を吐いた。
手伝いでも出来れば良いが、解呪等の高度な法術はアクセルの得意分野では無いし、それどころでもない。 
 
弾幕が押し寄せて来たからだ。
 アクセルは鎖鎌を振るって弾幕を弾き、またステップを刻みながら回避する。
フランの分身の一人は、完全にアクセルを狙っているようだ。
濃い青色の狂気をその瞳に宿して、哄笑と共に光弾が降り注いでくる。
眼がチカチカするような雨だ。
サイケデリックな弾幕のシャワーを潜りながら、アクセルは唇の端を舐めた。

これで良い。
フランの分身一人を引き付ける事が出来れば、御の字だ、
稼げ。時間を。
避けろ。逃げ回って、フランを楽しませろ。
ソルの下に行かせるな。


Kihihihi…hyahahahaaahhhh…!! 
 金属を鋸で削り切るような声が聞こえた。
続いて、大砲を撃ったような鈍い衝撃音。
空からだ。
それが笑い声と打撃音だと気付いた時、流星みたいにレミリアが降って来た。
いや、下方向に吹っ飛ばされた、と言った方が正しい。
腹を押さえ、ゲホッと血を吐くレミリアの貌は、苦悶に歪んでいた。
どうやら、フランの打撃を喰らったようだ。ドレスもかなりボロボロになっている。


そのレミリアの落下地点は、丁度、ソルとアクセルの中間辺り。
かなりの勢いで落下してきたレミリアは、地面に叩きつけられる瞬間に翼で空を打った。
そうして、地面すれすれで急ブレーキを掛けながら着地。
地に脚が着くと同時に鋭くバックステップを踏んだ。
落下のベクトルを一瞬で横へと変えてみせる。
着地した地盤が砕け散った。
其処から弾き出されるみたいに、レミリアは滑空する。
その表情は、焦りと迷いが混じり、切羽詰った貌をしていた。
ぎゅん、と風を巻き込んで抉るみたいな音が、レミリアの降って来た方から聞こえた。
直後だった。
レミリアを追って、紅と青と黒を混ぜ込んだ光の塊みたいなものが、猛スピードで飛来した。
Ihihyahaha! お姉様AAAAAAAAAAAAAAAAAA!!
底抜けに明るい声と共に、その光の塊はレミリアに迫る。
フランだ。

空中を獣みたいに疾駆して、あっという間にフランはレミリアに追いついた。
青黒く澱んだ空気が掻き混ぜられ、突風が吹く。
勢いを味方につけたフランの襲撃は、レミリアを逃がさない。

フランとレミリアの距離は、もう1メートルも無い。
至近距離だ。
フランの左手が、ぬぅっ、と滑空するレミリアの背に伸びた。
右手は首に迫った。
破壊という生々しい感触の予感に、アハァaaaa…、と歪んだ笑みをフランが漏らした時だった。
高速で滑空しながらも、レミリアはすぐ後ろに迫る危機を察知していた。
ぐるん、と空中で体を反転させ、レミリアは背に伸びてきたフランの両腕を掴んで止めた。
フランの笑みが一瞬だけ曇った。
レミリアはがっちりと掴んだ両腕を引き込む。
滑空の勢いそのままに、巴投げの要領で後方宙返りを決めて、フランを地面に投げ飛ばした。

フランは凄まじい速度で地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がった。
あひひひひ。フランは笑っていた。
レミリアは空中で身を引いて、距離を取ろうとした。
遅かった。
フランは転がりながら地面をぶん殴って起き上がり、再びレミリアに襲い掛かった。
その左の掌には青黒い炎が燃え、すぐにそれは爆発を伴う炎剣へと姿を変える。
炎破を撒き散らして、フランは禁忌を振り上げながらレミリアに突っ込んでいく。
 躊躇も容赦も無く、哄笑と共に上から下へとレーヴァテインが振り抜かれる。

レミリアも、そのレーヴァテインを受け止める為、掌の中に紅い魔槍を作り出す。
そのまま魔槍を両手で握り、降り来るレーヴァテインを受け止める。
拮抗はしなかった。その一合で、レミリアの魔槍が砕け散った。
炎剣の直撃は免れたがその威力に押され、今度はレミリアが地面に叩き落される。

「ぐっ…!!」

空中で体勢を整え、レミリアは地面に何とか着地。
そのまま横っ飛びに転がった。
レミリアが一瞬前まで居た場所に、土煙と一緒に炎が上がり、青黒い爆発と噴火が起こる。
レーヴァテインが地面にぶっ刺さっていた。
追撃に入ったフランが、レーヴァテインを投擲したのだ。
だが、まだ終わらない。
きひひひ。フランは空中をジグザグに飛行しながら、高速でレミリアに迫る。
余りに速すぎて、消えたり現れたりしながら接近してくるようだ。
とにかく疾い。加えて、その手に再びレーヴァテインが生み出されている。
レミリアはまだ起き上がる途中だ。体勢を整え切れていない。

そのレミリアとフランの間。

ソルが割り込んで、振り下ろされた禁忌を受け止めていなければ、レミリアは大きなダメージを負っていただろう。
それ位、封炎剣と激突したレーヴァテインのパワーは凄まじかった。
明らかに、先程よりも威力が上がっている。
ソルが打ち込んだ封炎剣が軋む。
レミリアは、ソルの背を見上げて、すぐに周囲に視線を巡らせる。
今までソルが相手をしていたフランが二人、レミリアとソルを狙っていた。
二つの哄笑が重なり、離れて、近づいてくる。

ソルは、フランのレーヴァテインを押し返してから貌を不味そうに歪めた。
詠唱は続けたまま金色の瞳を細め、肩越しにレミリアを振り返る。

その眼は、「…無事か…」と問うているようだ。
レミリアはソルの眼を見てから、「悪いわね…」と答えた。
そして、レミリアはソルに背を預け、再び魔槍を造り、構える。

いひひひ。きひひひ。あひひひ。
ソルとレミリアの周囲を巡る哄笑は、まるで悲鳴か、泣き声だ。
破壊衝動と殺戮への欲求に突き動かされ、フランの眼は更に濁っていく。
 
 

ソル達がフランに囲まれているのを見て、アクセルは焦った。
上手くいかねぇもんだな。やってられねぇ。

ソルとアクセルですら、フランを相手にして心を削られるのだ。
妹であるフランと対峙するレミリアの精神的な負担は、アクセルには想像も出来ない。
 
思考の間に、弾幕が目の前に迫っていた。
光の弾をかわしながら、アクセルは唇を噛む。
今、最も辛いのは、レミリアと、そしてフランだ。

何とかしたい。
何とかしてくれ。
旦那。

呼吸が乱れてくるのを感じる。
ジャスティスと戦う時よりも、体力の消費が激しい。

疲労感と焦燥感に蝕まれ、飛び込んで来たフランの蹴りを捌き損ねた。
防御は間に合ったが、衝撃で吹っ飛ばされ、地面を転がる。
回転する視界の中。
自分に迫るフランの歪んだ笑顔が見えた。

やべぇ…! アクセルは転がりながら即座に起き上がる。
飛び掛って来たフランの爪を、鎖鎌の柄を交差させて受け止めた。
火花が散って、アクセルの体がガクンと沈む。
舌打ちをする余裕も無い。このまま力勝負を続ければ終わる。
潰される。
いひひひ。アクセルぅぅuuuuuuuu…!
狂気と共にじゃれ付いて来るフランの貌は、楽しげに歪んでいた。
その爪と腕に込められた力が増し、アクセルの体が更に沈み、ミシミシと悲鳴を上げた。
不味い。これはやばいですよ。
付き合ってられねぇ。

「秘密兵器だ…!」

アクセルは両腕に炎を灯す。
それと同時に、足元にもくすんだ赤色の法術陣が浮かび上がる。
フランが訝しげな表情で、その法術陣に眼を落とした。
その瞬間。
法術陣から漏れる光が一気に増す。
赤色の光を下から浴びながら、アクセルは眼を細め、唇の端を舐めた。
両腕に纏う炎も、その火力を増していく。
狂気の中にあっても、何か危険を感じたのか。
フランは僅かに身を引いた。
アクセルを押さえ込む腕。その小さな豪腕に宿る万力が、微かに緩む。
チャンスだ。
それを感じたアクセルは、なんちゃってな…! と呟く。
押さえ込まれる力が緩んだ隙に、すすっと体重を後方へと移動させる。
同時に、自身を押さえ込み、引き裂きに来るフランの爪を鎖鎌の柄で押し返し、弾く。
その場で軽く跳躍し、縄跳びのように後ろから前へと鎖を降り抜いた。
 
 だが、その反撃は余りに微力だった。
AHaaahh…、とフランが笑みを浮かべ、迫る鎖を両手で引っ掴んだのだ。
そして、ぐいっと無造作に引っ張った。
アクセルはブルドーザーに引き摺られるみたいな感覚に襲われた。
無理だ。
腕相撲で勝てる相手じゃない。

だから、アクセルは鎖鎌から手を離した。

本当に僅かな隙だったが、それで十分だった。
鎖鎌を手放し、アクセルの両手は自由だ。
だが、フランは鎖鎌を掴んで止めた為、両腕が塞がっている。
アクセルはすっと距離を詰めながらバンダナを解き、それをフランの顔に被せた。
流石にフランの哄笑が止まった。
フランが鎖鎌を手放して、バンダナを解こうとした。
その時には、既にアクセルはフランの背後を取っていた。

ちょっとの間、我慢してくれよ。
フランが手放して落下しようとしてる鎖鎌を、アクセルはその背後から掴んだ。
そして、鎖鎌に法力を流しつつ、フランの体に鎖を巻きつけた。
フランの両腕を後ろに固め、前屈みに正座させるような体勢で拘束する。
一瞬の早業だった。

「あぎっ…!?」

バンダナの下から、くぐもったフランの声が聞こえてくる。
その声は苦しげだった。
ガッチガチに鎖で拘束されているのだ。窮屈で無いはずが無い。
鎖には、くすんだ赤色の光が奔っている。アクセルの法力だ。
それは法術を用いた、物理的なバインドだった。

「あぎぃいひひひHihihihiihi…!!」

ガチガチ、バキバキと金属音を鳴らし、フランは暴れるが、鎖は外れない。
アクセルは流す法力を強め、拘束力を高める。
フランを縛る鎖が、更に強い輝きを帯びた。
それに抗うように、フランが一際激しく暴れ始める。
とてつもない力だった。
法力を込めた鉄鎖が悲鳴を上げ、今にも引き千切れそうになっている。
フランの悲痛な哄笑が、金属音と共に青黒い空へ響く。
やばいな、こりゃ。
アクセルは疲労した身体に渇を入れた。
立ち上がり、再び暴れ出そうとするフランの背中をそっと抑える。
常に法力を流し込まなければ、フランを拘束し続けることは不可能だろう。
法力が底をついたら終わりだ。
それまでに、ソルの法術の完成を祈るしかない。
大人しくしててくれって…。 アクセルはフランに呟いて、縋るようにソル達へと視線を向けた。

ソルとレミリアは、三人のフランを相手に見事に立ち回っていた。
 降り頻る弾幕と、迫り来る爪牙と、振舞わされる禁忌を捌いている。
 
 砂塵と岩滓が舞い上がり、ソルの炎とレミリアの魔力が地面に亀裂を刻む。
 その中を、フラン達は縦横無尽に飛び回り、執拗な攻撃をしかけている。
 哄笑が混じり、重なり、不気味に響く。
 フラン達はじゃれつく子犬ように楽しげで、戦うことを楽しんでいる。
 
 その様相は、やはりレミリアの精神を刻む。
どうしても動きが硬くなり、心が萎縮しそうになる。
レミリアの貌は、酷く苦しげだ。
身体と心を同時に攻められ、フランの猛攻に押されそうになる。
何度か、フランの爪が身体を薄く裂いた。
禁忌の炎が、肌を僅かに焼いた。
弾幕が、肉を抉った。
 
ソルは朗々と詠唱を続けたまま、レミリアの背後を守るように移動しながらフラン達と切り結ぶ。
 
 「フラン…!」
 
 もう何度目だろう。
 レミリアは再び名を呼んだ。
 返事の変わりに、フラン達はばっと一旦ソル達から飛び下がった。
 一人のフランがレーヴァテインを担ぎ直した。
もう一人のフランが、弾幕を展開する為に魔法陣を浮かび上がらせた。
 青黒い魔法陣の群れは、周囲の澱んだ空間と溶け合い、淡い光を拡散させる。
残りの一人は、いひひひ、と肩を揺すって笑い、すぅっと掌をソルへと向けた。
 全てを破壊する能力。それを行使するつもりだ。
 
ソルも動く。詠唱が完成したのだろう。
封炎剣を地に突き立てる。
同時に、血錆色の法術陣が地に広がり、周囲に法力の光が広がった。
レミリアは眼を眩しげに細め、顔を腕で庇う。
それくらい、凄まじい光の量だった。

フラン達もその光に眼を焼かれ、動きを止める。
そのフラン達の周囲に、法術陣と同じ血錆色の光の帯が現れ、渦を巻いた。
一本だけじゃない。束だ。数え切れない。
その光の帯が、腕と言わず脚と言わず身体と言わず、フラン達に絡みつき、動きを徹底的に封じ込めた。

フラン達はもがいたが、ソルの発動させた強固なバインドは全く緩まない。
 複数の対象を取れる高度な拘引法術は、ソルが行うことにより、一層頑強で脱出困難な空間の枷となる。
 
レミリアは視線を巡らせ、思う。
 いける。このまま行けば、フランを助けられるかもしれない。
見れば、アクセルが拘束したフランにも、ソルの法術によるバインドが掛かっている。
時間的にもギリギリだったようだ。
 そのフランの傍に居るアクセルも、膝に手を付いて、立っているのいがやっとという風情だった。
 眼の下には隈が出来、明らかに呼吸が荒い。
 それでも、ソルとレミリアに向かって、親指を立てて見せた。
 

 だが、安堵するにはまだ早かった。
レミリアが何かに気付き、ソルの名前を背後から叫んだ。

直後、ソルの左胸辺りが爆発した。
いや、内側から破裂した。

外骨格が破れ、吹き飛び、ソルの胸に大穴が空いている。
炎血が噴き出し、燃え上がった。
恐らく、心臓が破壊されている。
苦し紛れに、一人のフランがソルの『目』を握ったのだ。

レミリアはソルを庇うように前に出ようとして、息を呑んだ。

身体に穴が空いているにも関わらず、ソルは僅かに顔を顰めただけで、フラン達に向け掌を翳したのだ。
その様子は奇しくも、フランが『目』を握り潰す時と同じだった。
ソルは少し離れた位置にいるアクセルにも向けて、ゴホッ、と咳き込んだ。
口の端からは血が溢れ、外骨格を濡らして伝い、すぐに炎と混じり合う。
 
…Enough…。
 ソルの低い声は、青黒い空間にやけに良く通った。
 竜髑髏の陰影が喉を鳴らし、何かが砕け散るような音がした。
繊細で、小さな響きだったが、確かにそれは聞こえた。

フラン達は、もう一度ソルを爆発させようと各々が掌を突き出し、握りこんだ。
しかし、何も起こらない。
能力が起動しない。沈黙している。
フラン達は驚くよりも先に、笑い出した。

『相手を黙らせる程度の能力』を行使し、
ソルは翼を広げ、封炎剣を地面から引き抜く。
そして、レミリアへと視線を向け、眼を細めた。
 
 「…洗脳を解呪する…」
 
 ソルの声に頷き、レミリアはフラン達に向き直った。
 濁った空は振るえ、刻まれた転移法術陣が明滅し、地上を照らしている。
 再び、ゴウゥン…、と鈍く、重い音が鳴り、浮遊感を感じた。
 この世界が、何処かへ落下している。
そんな不気味な感覚を覚える。
 その揺れと震動の中、フラン達は空中で法術の光帯に捕縛され、掌握されている。
 
 「…その後…フランドールの魂情報を取り出すが…」

ソルはそこまで言って、レミリアから視線を外し、フラン達を見詰めた。

その表情が険しくなる。

 ぎひひいひひいひ。狂気の哄笑が響く。
 いぎぎぎいぃい…!。その中に、苦悶の呻きが混じっているのにレミリアは気付いた。
 
 …とうとう始まったか…。
 
 忌々しそうに言うソルの視線の先。
 一人のフランドールが、拘束されたままの状態で頭を抱え、血走った眼を見開いていた。
 その身体はガクガクと震え、纏う魔力のオーラも幾条もの細い煙のように立ち上り出している。

 その苦悶が感染していくように、二人目、三人目と、狂気の哄笑が、呻きに変わり始める。
 
 一人は、頭の激痛を堪えるように叫び声を上げた。
 もう一人は白目を剥いて、血の泡を吹き始めた。
 
 それだけじゃない。
一人フラン達の身体が、青黒い霧となって霧散し、崩壊し始める。
 まるで、空気に溶け出すみたいに、フラン達の身体が粒子に変わっていく。
それを加速させるかのように、フラン達の朽木翼が纏う面晶体に七色の光が戻ってきた。
狂気に染まった七色の面晶体は、激しく明滅を繰り返す。
 
 その光の嵐の中、朽木翼の面晶体がガチガチと音を立て、開いた。
そして、膨大な魔力の渦を発生させ、ソルの造り出した法力の光帯を消し飛ばした。
消し飛んだのは光帯だけじゃなかった。
 青黒の光と、七色の光が混じり合う中。
三人だったフランドールが、一人になっていた。
 
 フランドールの分身が、消滅していた。
 変わりに、本物のフランが宙に佇み、頭を抱え、泣いていた。
嗚咽の中に笑い声が混じり、泣き声が奇妙に途切れる。
フランは、苦悶の涙に濡れた青い瞳を、レミリアに向けた。
 
 お姉ちゃん…、と呟いた声は、掠れて、ほとんどレミリアには聞こえなかった。
その身体は粒子となって溶け出し、消散を続けている。
 怯えきったような貌と声が、再び一変。
狂乱の笑みへと変わる。
 七色の狂気が、フランを完全に支配し、塗り潰し、消し去ろうとしていた。
 
 レミリアがフランに望んだ力の、成れの果て。
 それは肉体と精神の滅びそのものとなって、結実しようとしている。
 
 レミリアは足が竦みかけた。
 だが、ここで立ち止るのは駄目だ。
 絶対に駄目だ。
 ギリリと歯を噛み締め、砕けそうな心を縛り、縫い留める。
 
 「私は、何をしたらいい…?」
 
 レミリアはソルに向き直り、叫び出しそうになるのを押し殺し、静かに問う。
 
 「……フランドールの自我を呼び戻せ…」
 
 ソルは其処まで言ってから貌を顰め、咳き込んだ。
 ゴホッ、と血の塊を吐き出して、胸辺りに手をやった。
 そこで気付いて、寒気がした。
ソルの胸の傷が、ほとんど再生していない。
 その傷口からは未だ血が溢れ、それが燻る炎へと変わっている。
 
 …修復に時間が掛かかるな…。
 ソルは胸に空いた穴を見下ろしてから、口の周りの血を腕で拭った。
 そして、宙に佇むフランへと視線を向け、封炎剣を握り直す。
 
 フランはゆっくりと地面に降り立ち、泣きながら笑った。
 消散していく身体を痙攣させて、フランはその両手に、再び禁忌の炎を灯す。
 青と紅の炎が燃え上がり、それは巨大過ぎる炎剣へと姿を変えていく。

笑い声が木霊して、其処に啜り泣く声が重なる。

声が二重になっているのだ。
フランの眼は、片方は紅に戻り、もう片方は青黒く更に澱んでいた。
 血の涙が、その頬を伝う。
七色の狂気は、フランの精神と自我に大出血を齎す。
 フランの貌も、左右非対称に歪んで、血涙に濡れて、もう無茶苦茶だった。
 
 ソルとレミリアの背後で、ジャラリ…、と鎖の鳴る音がした。
 まだ時間切れ…って訳じゃねぇよな、旦那。
低い声と共に、合流したアクセルがソル達に並ぶ。

ソルは視線だけをアクセルに向けてから、すぐにフランに戻した。
ゆっくりと、フランが歩み寄ってくる。
まるで、ゾンビのような足取りだった。
ふらふら、よろよろと左右に揺れて、今にも倒れそうだ。
だが、決して非力な訳では無い。
その両手に握られたレーヴァテインの大きさは、今までのサイズを明らかにオーバーしている。

地面を削るどころじゃない。
融解させて、陥没させ、溶かしながら、その禁忌の炎は剣の形を保っている。
今、フランが握っているレーヴァテインは、「全てを破壊する程度の能力」そのものだ。
 恐らく、終戦管理局もこの事態を想定してはいないだろう。
 
 
ソルはぐっと腰を落とし、封炎剣を逆手に持って構える。

「…チマチマやってる暇は無ぇな…」

アクセルは鎖鎌を手の中で揺らして、前屈みの姿勢を取った。

「拘束術無しで、お互い怪我覚悟って訳か…」

レミリアは眼をフランから逸らさず、翼をはためかせる。

「私が囮になる…。身体なんて惜しく無いわ」

死に急ぐような貌のレミリアは、今すぐにもフランに突っ込んで行きそうだ。
というか、既に身体を宙に持ち上げ、突撃する姿勢を見せている。
その前のめりな肩を後ろから掴んで、特攻を止めたのはソルだ。
振り返ったレミリアは、今にも泣き出しそうな悲痛な貌をしていた。

「時間が無いのよ…! 邪魔しないで…!」

肩を掴んだソルの手を払って、静かに叫んだ。
その声は、ただ悲痛だった。
アクセルは「まぁ、待ちなって」と言って、リズムを取るように靴の爪先で地面を叩いた。

ソルはレミリアの視線を受け止めながら、「…時間が無いなら余計だ…」と呟き、前に出る。

「…洗脳術を解呪した所で、狂気が解ける訳じゃねぇ…」

封炎剣が炎を纏った。
ソルの胸に空いた大穴からも炎血が流れ出し、その燻る炎と混じり合う。

「…狂気を抑える『自我』を呼び戻さなければ…消滅は免れん…」

さらに一歩、ソルは踏み出す。
青く濁った空が吼え、転移法術が起動し始めた。

 「…俺がフランドールの魂情報を抜き出す…その中から、お前は『自我』を確かめろ…」
 
 …姉であるお前の声なら…魂の底まで届くだろう…。
 ソルの言葉に、レミリアは何を言い返せばいいのか分からなくなった。
 
 何故、と思った。
 ソルの身体も、正直相当にボロボロだ。
 近くに居て気付く。
 ギシギシと、ソルの身体の外骨格が悲鳴を上げているのだ。
 ソルは踏み出しながら、何かを飲み込むように喉を鳴らした。
 多分、食道を逆流してきた吐血を堪え、飲み込んだのだ。
 
 不味そうに貌を歪めるソルを見詰めて、どうして、と思う。
 アクセルにしてもそうだ。
 
 何故、此処まで戦ってくれるのか。

 その問いは、だが、今すべきでは無い。
 
 レミリアは感謝を込め、ソルに頷きを返し、決意する。
 必ず、フランを救う。

 息を静かに吐き、ソルの背に続く。
その手には、スピア・ザ・グングニルが魔力によって象られ、禍々しい紅い渦を纏っている。
 
 アクセルも鎖鎌をダラン、と下げたまま踏み出した。
 そして、気負いも緊張も感じさせない笑みを浮かべ、ソルとレミリアを見比べる。
 
 「直接、解呪法術を行うのは…やっぱキツイでしょ。…足止め役は俺がやるさ」
 
 自然体な声音で言って、アクセルは首を左右に曲げて骨を鳴らした。
 フランと、ソル達の距離が近づく。
 
覚束無い滅びの足音が聞こえてくる。
 フランの持つ、レーヴァテインの間合いに入った。
 
青黒い空に刻まれた法術陣が、より強く明滅する。
 空間を揺らす震動が、ソル達の身体を揺さぶった。
 
 レミリアは、もう恐れなかった。
 アクセルもだ。
 ソルは黙ったまま、フランを見据え、歩を進める。
フランは顔の半分で泣いて、顔の半分で笑みを浮かべていた。
何かに怯えるような泣き声と、喜悦に歪んだ笑い声が二重に響く。

勝負は一瞬だ。
暴走状態である今のレーヴァテインを喰らえば、無事ではすまない。
受け止めることも難しいだろう。
長引かない。
初手でしくじったら、下らない事になる。

まず動いたのは、アクセルだった。
くっと、背を猫のように丸めたアクセルは、地を滑るようにフランへと肉薄する。
それを追う形で、ソルは封炎剣を担ぎながら駆ける。
レミリアは、そのソルの隣を飛翔。
グングニルと、竜髑髏の陰影が同時に呻る。

フランはその全てに反応していた。
だが、消散しつつある身体が、その意識について来なかった。
若干、動きが遅れていた。
それでも、フランの持つ、狂ったように燃え盛る紅と青のレーヴァテインは脅威以外の何者でも無い。

ぐぐっと、身体を引き絞るようにして、フランは右手のレーヴァテインを横に振り抜いた。
狙いは、先頭を来るアクセルだ。
駆けながら、アクセルは跳躍してこれをかわす。
そして、着地と同時に今度はフランの右側へと回り込むように駆ける。
続けて左のレーヴァテインを振るおうとしたが、今度は狙いを変えたようだ。
真っ直ぐ突っ込んでくる、ソル達へと、フランは顔を向ける。

泣き声と哄笑が、同時に響いた。
それを掻き消しながら、フランは大きく一歩踏み込んできた。
左のレーヴァテインをソル達へと振り下ろす。
振り上げた腕から力を抜いて、落とすみたいに弱々しい仕草だった。
だが、それで十分過ぎた。
審判の槌と化した炎の禁忌。

それ目掛けて、ソルは重心を一気に落としながら踏み込む。
…くれてやる…。
呟きと共に、ソルは封炎剣を持っていない右手を、レーヴァテインに叩き込んだ。
ソルの腕が、バゴキャ、という感じの鈍い音と共に爆ぜる。
外骨格が軋み、血が噴き出す。
だが、信じられないことに、超巨大レーヴァテインが止まった。
寧ろ、僅かに押し返している。
ソルは、バラバラになってしまいそうな右腕を左腕に添える。
その瞬間。封炎剣が脈打つのを、レミリアは聞いた。

ソルは止まらない。
只管、前へ出る。レミリアの進む道をこじ開ける。
その為に、ソルはレーヴァテイン目掛け、封炎剣に宿る法力を開放しつつ、振り上げた。
刹那、血錆色の法術陣が吐き出され、それは炎を吹き出す陽車となる。
次の瞬間、レーヴァテインが粉々になった。

フランは残った右手のレーヴァテインも、ソル目掛けて降り抜こうとした。
だが、その身体がガクンと一瞬止まった。

鎖だ。背後から伸びている。
地面を蜘蛛の巣の様に奔る鎖鎌が、フランの腕や脚に絡みつき、その動きを縛ったのだ。
アクセルは鎖鎌の柄を引きながら、拘束を強めようとした。
無理だった。
次の瞬間、フランは力任せにレーヴァテインを横に振り抜いた。
バキバキ、ブッチブチと硬い音を響かせ、鎖が千切れ跳ぶ。
序に、フラン背が淡く輝いた。
朽木翼の面晶体が、背後のアクセル目掛けて弾幕を放ったのだ。

凄い量だった。
流石に、アクセルも捌ききれなかった。
腕や腹を掠め、肩と太ももを撃ち抜かれた。

悪ぃ、旦那!
アクセルは苦悶と、不甲斐なさに歪んだ声で詫びて、後方へと吹き飛ばされ、地面を転がった。

…十分だ…。
最早真っ向からフランの禁忌に立ち向かう者は、ソルだけだ。
アクセルが稼いだ一瞬の時間で、ソルの破壊された右腕に法力が宿る。

真横から迫る糞デカイ炎の壁。
ソルが腰を落とすと同時に、動いたのはレミリアだった。

もう少しの辛抱よ、フラン…!
グングニルが紅の光を放ち、深紅の稲妻と共に撃ち出された。
極大の魔光の槍は、魔力オーラの渦を纏い迫るレーヴァテインを穿つ。
疲労状態から撃ち出されたとは思えない威力だった。
一瞬、レーヴァテインの勢いが弱まる。
だが、やはり狂気の力は、凄まじかった。
その滅びの力は、グングニルを破砕しながら再び動き出す。

ソル、お願い…!

竜髑髏の陰影が吼え猛り、ソルの魂の燃焼を促す。
砕け散るグングニルの破片の中を踏み込みながら、ソルはレミリアに「…ああ…」と短く答える。

レーヴァテインが、滅びの壁が、ソルの目の前に広がる。
音が消える。何もかもが息を潜めた。

ソルは、砕かれて壊死寸前の右腕で、強烈なストレートをレーヴァテインに叩き込んだ。
法力を込めた拳は、しかし、余りの破壊力にひしゃげ、潰れ、壊れた。
だが、宿った炎熱の力を吐き出し、レーヴァテインを押し返す。
地盤が割れ、凹み、罅が奔る。
グングニルに穿たれたレーヴァテインの炎にも、亀裂が入った。

…砕けろ…!

低い呟きに答えたのは、ソルの纏う竜髑髏だった。
GOOOOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHHH!!
 捕食の咆哮を上げて、竜髑髏の陰影がレーヴァテインに襲い掛かった。
 
陰影は血錆色の炎の波となり、業火の脈動を刻む力線と化した。
その中をソルは踏み込む。
 封炎剣は力線の炎脈を飲み込みながら、破壊の起源の力を蘇らせる。
 
 人類の狼藉。
また、滅びに向かう人類の憤慨。
強圧。
アウトレイジ。
その断片の力だった。
ソルは握りこんだ剣ごと、今度は左のストレートを放った。

レーヴァテインは、そのソルの拳に砕かれた。
そして、剣から放たれた炎という捕食者に食い破られ、飲み込まれた。
熱気と静穏が支配し、青黒い空は黒煙で溢れる。

弐振りのレーヴァテインを失ったフランは呆然としながら、その場にへたり込んだ。
消散し続ける身体を自分で抱きしめ、すすり泣いて、笑い出した。
ソルは崩れそうな身体に渇を入れ、霞む視界の中を大股で駆ける

そして、フランの肩を左手で掴んで、法術を起動する。

詠唱を必要としない大規模な法術、ORGAN。
錬金術から、サーヴァントの召還までを行う高度な術式だ。

 ソルはORGANを通じて、フランの魂への干渉を試みる。
 肉体を分解され、再構成されたなら、その意識は必ず内に眠っている筈だ。
 正気と狂気の、意識の絆を信じるしかない。
 
 ソルとフランを囲むように、太陽と歯車を思わせる法術陣が展開され、赤銅色の光が立ち上る。
 
 レミリアは祈るような気持ちでソルの隣に立ち、フランの名前を呼ぶ。
 
 そのレミリアの声が届きつつあるのか。
 フランの青く濁った片目に、理性の光が微かに灯る。
 だが、フランの肉体の消散は止まらない。
 やはり、“運命”は覆らないのか。

 …クソが…。
呟いたソルは、一度血を吐いてガクンと膝を着いた。
 空に稲妻が奔り、法術陣が本格的に歪み始める。
 時間切れが近い。
 
 ソルは唇を噛み千切って、顔を上げる。
 
茫然自失となっているフランと目が合った。
 …気にいらねぇな…。
 ソルは、今のフランの姿が、かつてギア細胞に飲まれかけた自分とダブって見えた。
 最悪の気分だった。
 おかげで、身体に渇が入った。
 
 ソルは再びORGANを開き、精神手術に近いオペを再開する。
ORGAN経由でフランの魂を掌握し、それを具現化させる。
 レミリアが息を呑むのが分かった。
 フランは何が起こっているのか分からないだろう。
 
 そのフランの背後。
膝を抱えたような格好の、裸身の少女の像が現れた。
 少女の像には、朽木翼が生えており、七色の面晶体を纏っている。
 その翼で更に自らの身体を包むような体勢を取っていた。
 
 その像は、清純と狂気が綯い交ぜになったような独特な異様さと共に、幼さと純粋さを感じさせる。
 
 フランドールのマスターゴーストだ。
 ソルはもう一度血を吐き出して、そのマスターゴーストに触れる。
 酷く冷たい感触があった。
 そして、壊れた右腕で、傍にいたフランとレミリアを抱きすくめた。
 フランは朦朧とした眼をソルに向け、レミリアはかなり驚いたようだった。
 だが、そんな事には構っていられない。
 ソルの意識も限界が近い。
 
 「…俺が出来るのは…此処までだ…」
 
 苦しげに言って、ソルはレミリアに視線を向け、マスターゴーストへと顎をしゃくった。
 …呼び戻せ…お前の妹だろう…。
その低い声に頷き、レミリアはフランの手を取り、マスターゴーストへと腕を伸ばす。
そして、ソルの掌に重ねるように、レミリアは自身の手と、フランの手を合わせた。
魂に直接触れる感触に、レミリアは吐息が漏らす

「俺も手伝うって…。…皆でフランちゃんを迎えに行こうぜ」

その時だった。
脚を引き摺るような音と共に、間延びした声が聞こえたのは。
アクセルだ。痛みを堪えているのか。
その額には珠の汗が浮かんでいる。

アクセルはイテテ、と言いながら脚を引き摺り、ソルに背中を預けるようにして座った。
そして、ゆっくりとフランのマスターゴーストに手を伸ばす。

三人の手の温もりが、フランの魂に伝わる。
ソルの腕の中に居るフランの眼に、確かな生気が戻り始める。

レミリアも感じる。
掌から伝わる、フランの魂の鼓動。
記憶。感情。意識。自我。
その中に居る、理性を呼び戻すんだ。

フラン、帰ってきて…! 
大丈夫さ。フランちゃんなら出来るって!
…さっさと戻って来い…。

三人の声が聞こえた筈だ。

レミリアの掌に、確かな鼓動を感じた。
恐らく、ソルも、アクセルも感じただろう。
ソルの腕の中に居るフランの身体の消散も止まった。
マスターゴーストは淡い光と共に、薄れ、消えていく。
光の粒を残しながら、次第にその感触が無くなっていった。
名残惜しいと、少しだけ思った。
だが、確かめなければならないことがある。

「フラン…! 私が分かる!?」

ソルの腕の中で、レミリアはフランを見詰め、その名を呼んだ。
あ、お姉様…。私、どうして…。
帰って来たのは、戸惑うような、怯えたようなフランの声と、確かな視線だった。
動揺しているのだろうが、そんな事はどうでも良かった。

戻ってきたのだ。
フランが。
運命が覆った。
過去のレミリアの願いが齎した危機は免れたのだ。

レミリアはフランの抱きしめ、それから、ソルへと顔を向けた。
礼を言わなければ。
だが、その眼が合うことは無かった。
ソルの腕から力が抜けていくのが分かった。
旦那…! おいっ!
アクセルの切羽詰まった声が、やけに遠い。
ソルは黙ったまま、ゆっくりと倒れた。

ソル…。
そう呼んでも、ソルは返事を返さない。

ソル…!
フランが、不安そうにレミリアの腕にしがみついた。

ソル!!

叫びに近い声で叫んで、レミリアがソルを抱き起こそうとした時だった。
青黒い空に刻まれた法術陣が音を立てて崩れ、紅魔館の周囲を囲むドームが薄れていく。
それだけなく、仄暗い蒼と、薄白い碧の亀裂が入り、ドームは割れて破片となり、塵に還っていく。

転移法術の呪破にも成功したのか。
結界が無くなったせいだろう。
空に溢れた黒煙を貫いて、今度は夕日が差して来る。
レミリアは咄嗟にフランを抱き締め、日の光からフランを守ろうとした。

だが、その必要は無かったようだ。
突然、レミリアの傍の空間に黒い水面が現れた。
その水の膜から現れた人物が白い日傘をさして、夕日を遮ったからだ。
レミリアはその人物の纏う雰囲気に、呑まれかけた。

それは、白と黒の法衣を目深く被った少年だった。




[18231] 二十一・一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/02/01 22:52

 
未だ身体に残るダメージのせいで、歩む動作は緩く、僅かにぎこちない。
紅魔館の廊下に響く足音も重く、また、そのリズムも遅く、不規則だった。
身を引き摺るような歩みを続けながら、レミリアは息を一つ吐いて、眼を閉じる。
やはり、その小さな溜息の中には、疲労の色が強く滲んでいた。
ゆっくりと足元へと視線を落としながら、レミリアは歩む速度を更に落とした。

もう時刻は深夜。
窓の無い紅魔館の廊下は、夜の空気に満たされ、冷え込んでいた。
揺れる燭台の明かりが、薄く壁紙の紅を照らしている。
身体の節々が痛み、歩く度に傷に響いた。
レミリアは貌を顰めて、鼻を鳴らす。
まったく、派手にやられたものね…。
淡い光に照らされて、伸びた足元の影を見下ろしながら、レミリアは呟いた。





終戦管理局による紅魔館への襲撃。
それを引き金とした、フランドールの消滅という“運命”の結実は、未然に免れた。
また、フランドールを含む紅魔館メンバーも、戦闘による負傷者こそ出たものの、誰一人欠けていない。
あの激しい戦いの中にあって、何も失わずに済んだことは不幸中の幸いというべきだろう。

それに、とレミリアは思う。
法衣を纏った“あの少年”にも助けられた。
運命は退けられた…。有り難う…。
夕日に染められた景色の中。日傘を傾けながら呟いた、あの少年の姿を思い出す。
法衣を目深く被った少年の声は、酷く幼かったが妙な深みがあり、得体の知れない迫力があった。

ソルが倒れ、レミリアがそれを抱き起こそうとしたあの時。
空間に黒い水面を開き、其処から現れた少年を前にして、レミリアは僅かに身が強張るのを感じた。
それ位、あの少年の纏う雰囲気は超然であり、尋常では無かった。
聖人、或いは、魔人。
悪魔であるレミリアにすらそんな印象を与える程、少年の存在感は異質で異様だった。
この世に属さない何かだった。

超越者。
いや、超越というよりも、到達者、と言うべきだろうか。

世の理を超えるだけでは至れぬ処に、あの少年は居るのだろう。

其処まで思い、レミリアは息を静かに吐いた。
ボロボロになって倒れたソルの姿が、レミリアの脳裏に浮かんだ。
その姿を見て、ソルの名を叫ぶようにして呼んだのを覚えている。

良く頑張ってくれたね…フレデリック。
白い日傘で、レミリアとフランを夕日から守った少年は、穏やかな声でそう言っていた。
倒れたソルは、全く反応を返さなかった。
目深く被った法衣の中で、少年の唇が引き結ばれる。
少年は日傘をレミリアに預けて、ソルを抱き起こした。

変質したソルの身体から流れる血は灼熱で、炎を燻らせている。
抱き起こした少年の手が焼け爛れ、肉の焦げる匂いがした。
それでも、少年は呻き声一つ漏らさない。
苦悶の声の変わりに、すぐに法術の為の詠唱を始めた。

差し込む夕焼けを霞ませて、少年の掌に灯った蒼と碧の光が法術陣を刻む。
そして、浮かび上がった陣は少年と、その腕の中のソルを包んだ。
変質させた身体を傷だらけにして、死んだように眼を閉じるソルを見て、フランも何かを予感したのか。
レミリアに抱かれたまま、フランは震える声でソルを呼んだ。
温い風が吹いて、その声を攫う。
旦那は…! 旦那は大丈夫なんだろうな…っ!?
アクセルは切羽詰った声で言いながら、傷ついた脚を引き摺るようにして少年に詰め寄ろうとした。


ああ。勿論だ…。
そう呟いて、手を炎熱の血で焼かれながらも、少年は法衣の下で微笑んで見せた。
直後だった。蒼と碧の光の渦が、少年を中心に巻き起こった。
淡く、また神秘的で、神聖さすら感じさせるその光の螺旋が、ソルと少年を包む。

感嘆の声を漏らし、アクセルは後ずさりしながらその光景に見入っていた。
レミリアとフランも、恐らく同じような状態だっただろう。

凄い…、と呟いたのは、レミリア達に駆け寄ろうとしていたパチュリーだった。
そのパチュリーの周囲にいた妖精メイドや、子悪魔、咲夜や美鈴達も、その光景に眼を奪われた。

春風のような暖かな風が巻き起こり、レミリアの頬を撫で、フランの髪を揺らす。
再生と増殖、成長を促す波紋が、強い風となって吹き渡っていく。
蒼と碧の光と風の中に、薄く明るい緑が混じった。
吹き荒ぶ再生の風の中で、焼け爛れた少年の掌が、まるで発作を起こしたように凄まじい速度で治癒されていく。

ソルの傷ついた身体も同じだった。
目に見える速度で外骨格に刻まれた傷が塞がっていく。
折れ曲がり、ひしゃげ、潰れ、壊死しかけていた右腕の装甲腕も、元の形を取り戻しつつある。
ゴキゴキ…、ボキ、バキ…。ギチギチギチ…。
何か硬い物が千切れ、擦れあうような音がソルの身体の内から聞こえる。
圧倒的な治癒は、ぬいぐるみを裁縫するかのようにソルの肉体を冗談のように復元させて行った。
復活という方が正しいかもしれない。

だが、それは完治という訳では無かった。
余りに重大な損傷を受けた右腕から胸部を包む外骨格は、そのままだ。
だが、それ以外の部位を覆う装甲は、淡い炎と変わって行った。

レミリアは眼を疑うよりも先に、ソルの無事を祈った。
旦那…、起きてくれよ…! 聞こえて来たアクセルの声は震えていた。
フランはレミリアの腕の中で、何も言えず、ソルを見詰めていた。

その三人の視線の先。
少年は唇の端に優しげな笑みを浮かべた。
光と風が強さを増す。
暖かな風の波動は、鼓動を打つように震える。
まるでソルの身体を覆うように燻った炎は、直ぐに濁った火の粉となって、光の風の中に散華する。
吹き上がる蒼と碧に、血錆色の炎が混じり合い、夕暮れの橙色を飲み込んだ。

その幻想的ですらある景色の中。
ソルの肉体と精神が修復され、構築されていく様は、今でもレミリアの眼に焼き付いている。



レミリアはゆっくりと瞬きをして、ひとつ息を吐いた。
疲れたように紅い眼を伏せる。
そう言えば、まだ、あの少年達の名前を知らない事に気付く。
そんなどうでも良いことに思い至り、レミリアは前髪をくしゃりと握った。


少年だけでは無く、あの仮面の男にも感謝すべきだろう。
「紅魔館の者達は、既に結界の外に送った」。
レイヴンと呼ばれていた男のその言葉通りだった。
紅魔館の妖精メイド達や、図書館でパチュリーを待っていた子悪魔も、無事に結界の外に送られていた。

青黒いドーム状結界から、夕日の照らす空の下に戻って来たレミリア達を迎えてくれた。
彼女達は、目に涙を浮かべ、紅魔館の主、そしてその妹であるフランの帰還を喜んだ。
皆の無事な姿に、磨耗したレミリアの心も救われた。

無事を喜び合うそのレミリア達を見て、少年は何を思ったのか。
僅かだったが、少年の纏っていた超然とした空気が和らいだのを感じた。
いや、薄くなった。
少年が感じたのは、或いは、罪悪感だったのかもしれない。
危険な目に合わせてしまって、すまない事をした…。
少年はそう言って、紅魔館の者達一人一人に治療法術を施してくれたからだ。



負傷した咲夜も、この少年の治癒法術のお蔭で順調に回復しつつあり、今では自室で療養中だ。
美鈴も治療を受けた後、このような時だからこそ、と、すぐに門番の仕事に戻った。
その眼には、意思の力が覗いていた。
パチュリーは、掛けられた魔力漏洩の法術を何とか自力で解呪。
今は治癒魔術を用いて、咲夜を看てくれている。

正気を取り戻したフランにも、意識と記憶の混濁、また精神の衰弱が見られた。
狂気に犯されていた時の記憶は曖昧で、自分が何をしていたのかなど殆ど覚えていない状態だった。
それでも、何となくではあるが、皆の状況に自分が関係している事を感じ取ったのだろう。
ベッドに横たわり、少年の精神治癒の法術を受けている時も、酷く不安そうで、何かに怯えたような貌をしていた。

今はゆっくりと休みなさい。…何も心配は要らないわ。
レミリアはそう言ってフランを宥め、今は安静にしているように言った。
フランはやはり不安そうな表情を浮かべたが、大人しく頷いてくれた。
今は、フランもベッドの中で眠りに落ちていることだろう。



そう。
フランは何も悪くない。
責めを負うべきは、フランの自我を抑え、操り、取り込もうとした終戦管理局。
そして、知らなかったとはいえ、“運命を操る程度の力”で、フランに強大な力を願ってしまった自分だ。

レミリアは、軽い眩暈と吐き気、震えと後悔を覚えた。
視界が僅かに歪んで、薄暗い廊下の床に沈んでいくような、気味の悪い感覚に襲われる。

一歩間違っていれば。
過去の自分の『願い』のせいで、家族を失っていたかもしれない。
それを思うと、呼吸が震え、寒いものが背を伝う。
危機を退けた安堵感もあってか、余計にその悪寒を強く感じた。
失う事の予感は、それだけで十分に恐怖だった。

気付けば、拳を握りこんでいた。
同時に、強い憎悪と敵意が心の中に渦を巻く。
それが、過去の弱い自分に対するものなのか、それとも終戦管理局に対するものなのか。
曖昧で、それ故に、行き場の無くなった感情は余計に猛った。

紅魔館の紅い廊下を動きで歩きながら、レミリアはその拳を解き、もう一度握る。
ギリギリと奥歯が鳴った。
感情の昂ぶりに反応したのだろう。
紅色の魔力のオーラがその身体から漏れ、薄暗い紅魔館の廊下に渦を巻いた。
風ならぬその波動は、紅魔館の廊下を波のように渡る。
飾られた調度品が微かに震え、足元を照らす燭台の炎が揺れた。
血色の微光を纏いながら、レミリアは歩を進める。
ドレスと髪が靡き、パチッと紅い稲妻と火花が散った。
鮮やかな紅色の微光は霧のように広がり、廊下に広がっていく。

レミリアの中で、更に膨れ上がり、滾ろうとする激情と魔力。

「―――ぅ、くっ…、は――ぁ…」

だが、それは微かな苦悶の声と共に、膨張を止める。
一瞬、レミリアの眼の前が真っ暗になってから、真っ白になった。
鈍い痛みが体に広がり、カクンと脚から力が抜けかける。

レミリアは唇を噛んだ。
視界は戻ったが、ぼやけ、揺れている。
身体が震えた。反応が鈍い。

少年の治癒法術を受けたにも関わらず、まだ回復しきっていないようだ。
僅かに魔力を込めただけで、身体が悲鳴を上げている。
眼の前に映る館の廊下が、ぐにゃぐにゃと歪んでいた。
ふらつく体に力を込め、舌打ちをした。

自身の魔力にも耐えられない程、この肉体は消耗している。
相当に弱っているようだ。
その事実が忌々しい。

「くそ…」。呟いた声は、薄暗く、紅色の廊下に小さく木霊した。

レミリアは胸を押さえて立ち止まり、壁に寄りかかった。
そのまま、薄暗い廊下に蹲り掛ける。
冷えた空気を強く感じた。
内に沸き立つ憎悪と敵意が、次第に収まっていく。
それと同時。
レミリアの体から溢れ、周囲を染めていた魔力のオーラも、激情と共に引いて行った
無音の暗がりの中に、微かに乱れた呼吸音が響いた。

燭台の薄明かりだけが淡く揺れ、悔しげに呻くレミリアの姿を照らす。
まだ、魔力を行使して普段のように活動することは無理のようだ。
ゆっくりと身体を壁から離し、歩こうとして、足がもつれた。

咄嗟に体に力を入れようとしたら、頭と、首の後ろ辺りにズキンと痛みが走った。
意識にノイズが混じる。廊下の上下が反転したように感じた。

反応が遅れ、力が抜ける。

前のめりに倒れかけた。

その時だった。

ぐっと、誰かに支えられた。
左脇に腕を差し入れられるようにして、身体を持ち上げられている。
優しい手つきでは無かったが、乱暴でもなかった。

あ…、と声が漏れた。
レミリアは自分の左脇に眼を落とし、其処に大きな掌を見つけた。
それから、右斜め後ろを振り返った。
バランスを崩していたせいで、見上げるような格好になった。
レミリアを支えた人物の背が高かったせいで余計だ。
見上げた薄暗がりの中。
凪ぎ過ぎて無機質ですらある金色の眼が、レミリアを静かに見下ろしていた。
縦に裂けた瞳孔は昏く、感情を伺わせないその眼が、微かに細められる。

…大丈夫か…。
その低い声に、レミリアの鼓動が早まった。
何かを言おうとしたが、上手く喋れなかった。
頷きだけを返す。
そして、身体を支えてくれている腕に捕まるようにして、起き上がる。

貴方こそ…、もう大丈夫なの?
レミリアは背後に向き直って男を見上げ、少しだけ苦しそうに貌を歪めた。
そして、緩くその男の腕を掴み、俯く。

掴んだ男の手は、酷く冷たい。
これが、炎核の力を振るう者の手なのか。
それに、血色も良くないようだ。
薄暗いせいで分かりにくいが、燭台の明かりに照らされたその顔色は、やけに白く見える。
男の手が、僅かに強張ったのが分かった。

「起きなかったら…どうしようかと思ったわ」

今日は、無茶をさせてしまったわね。…ごめんなさい。
そう呟いたレミリアの声には安堵が滲み、また震えていた。
今にも涙声に変わりそうな、湿った声音だった。

レミリアの後ろに佇んでいた男は無言のまま、そっとレミリアの手を解いた。

「……頑丈さだけが、取り柄の身体だ…」

…気に病む必要は無い…。
薄暗い廊下に、男の低い声が響く。

「でも、大きな借りを作ってしまった事に変わりは無いわ…」

いえ…恩、と言った方が良いわね…。レミリアは答え、少しだけ笑みを浮かべた。

男は難しそうに唇を曲げた。
正面から礼を言われる事が苦手なのか。
…む…、と一つ呻ってから、バツが悪そうに視線を逸らした。
照れ臭いという訳では無く、単にどんな反応をすれば良いのか困っているようだ。
その朴訥さに、レミリアはくすっ、と笑う。
廊下の暗がりが、少し柔らかくなったような気がした。

ソル。
名前を呼ばれ、男はゆっくりと金色の瞳を、再びレミリアへと向ける。
その顔は、もう無表情に戻っていた。

「……フランドールは…どうなった…」

「貴方と“あの子”の御蔭で、今はフランの意識も安定しているわ」

「……そうか…」

安堵からだろうか。ソルはゆっくりと息を吐いた。
…野郎が法術治癒を施したなら…もう大丈夫だろう…。
呟いたソルは、ゆっくりとその場で踵を返そうとした。

「待って、ソル」

その背に、レミリアは咄嗟に声を掛けた。
ソルは無言のまま、視線を返す。

「…フランに、会ってあげて。貴方の事、凄く気にしてたから…」

「……この程度の損傷なら…問題無い…」

…気にするな、と…言っておいてくれ…。
そのソルの言葉に、レミリアは何も言えなくなった。
損傷という言葉と、今のソルの姿に、呼吸が少しだけ詰まる。

ソルは今、完全に人の姿をしている訳ではない。

上半身に身に付けた黒のインナーの上。
胸から右腕にかけてを覆う、包帯の変わりの血錆色の外骨格。
それが、廊下の薄暗がりの中に凶暴なフォルムを象っている。
燭台の明かりに照らされている右腕は、アンバランスで歪で、異様だった。
外骨格の隙間からは、燻る炎を思わせる鈍い赤光が漏れている。
その光は、薄暗い廊下に作るソルの影を、余計に歪ませていた。

ズグズグ…、と何かが蠢くような音も聞こえる。

ソルも、今の消耗したレミリアと同じだった。
損傷状態が深刻だった右腕は、まだ人の姿を保てるまでに回復してはいない。
外骨格を纏うことで、修復された肉体を更に強靭に蘇らせようとしている。
この廊下に響く不気味な音は、ソルの身体に宿るギア細胞が、肉体を再構築する音なのだろう。

少年の治癒法術を受けたソルは、だが、すぐには眼を覚まさなかった。
咲夜やフランが少年の治療法術を受けている時には、まだ意識の戻らないソルは紅魔館の客室で安静にしていた筈だ。
という事は、ソルも、意識を取り戻したのはつい先程なのだろう。
廊下の僅かな明かりに照らされたソルの貌は、無表情だが、何処かだるそうでもある。
少年の治癒法術でも完治しなかった胸と腕の損傷と、ソルの静かな貌の差に、レミリアは何か寒いものを感じた。

たとえ身体の状態が問題無くとも、苦痛は感じるはずだ。

メキメキ…、ズグズグジュグ…。
その不気味な音と共に、ソルのだるそうな貌が、また少し歪んだ。
心臓と右腕を破壊されて尚、ソルの身体は復活を目指し、途方も無い活性の中にある。
恐らくソルは今、途轍もない激痛を抱えている筈だ。
だが、ソルはその苦しみの中でも、まず自分よりもフランドールの状態を心配してくれていた。

本当に、御人好しだ。

レミリアは今まで感じた事の無い感情が、自分の中に芽生えるのを感じた。
何かを口走りそうになり、口を一度噤んで、眼を逸らす。

「フランに一度会って、あの子を安心させて上げてくれないかしら…」

レミリアの言葉に、ソルは眼を伏せる。
そのまま息を吐きながらゆっくりと瞬きをした。
……フランドールには、無茶な施術をしたからな…。
呟きながら、ソルはレミリアに向き直る。
金色に眼の輝きが、少しだけ柔らかくなったような気がした。

「…会うついでに…解析法術でのオペレーションだけ…念の為にさせて貰うぞ…」

レミリアは、小さく頷く。
「ええ、お願い…。案内するわ、着いてきて」

再び緩やかで、ぎこちない足取りで歩き出す。

息を吐く音が、背後から聞こえた。
溜息だろうか。
重く、だが奇妙な程静かな足音が続く。
レミリアの斜め後ろだ。
ちらりと肩越しに振り返ると、渋々と言った様子で、ソルが後に着いて来ていた。

「…ありがとう」

薄暗い廊下を歩む二人分の足音に、レミリアのか細い声が混じった。
だが、何の返事も帰っては来ない。
ソルはただ黙って、レミリアの斜め後ろを歩いている。
まるでレミリアの影となったように、ソルはレミリアの歩む速度に合わせ、歩を刻む。
ごついブーツが鳴らすにしては、かなり静かな足音だった。
レミリアもそれ以上は何も言わず、もう一度肩越しにソルを振り返ろうとして、止めた。

ギア。
かつて、博霊神社で聞いたその言葉が、脳裏を過ぎる。

フレデリック。
少年がソルを呼んだ、その名の事も気になった。

いや、それよりも。
“あの少年”は。
“あの少年”こそが。


「…レイヴン共は…どうした…」

それらをどう聞こうかと迷っていると、先に背に声を掛けられた。
低い声は硬く、機械的だった。しかし、僅かに暗い感情が覗く声だった。
壁に並んだ燭台の明かりが、一際強く揺れる。

レイヴン。
あの仮面の男の事だ。
レミリアは廊下を少し歩いてから、ソルの方を見ずにゆるゆると首を振った。

「貴方や、紅魔館の者達に治療を施してくれた後…すぐに消えてしまったわ」

レミリアのその言葉に、…そうか…、と静かに呟いて、ソルはまた黙ってしまった。
そして、何かを思案するように眼を伏せる。
だが、すぐに鼻を鳴らして、首を回して骨を鳴らした。

……潰し損ねたか…。
呟いて、ソルは無表情な貌を僅かに歪めた。
鳥肌が立つようなその低い声に、薄暗い廊下の寒さが増した。
実際はそんな事は無いのだが、レミリアはそんな気がした。

思わず、背後を振り返った。
疲れたような貌をしたソルと、眼が合う。

「……何だ…?」

低く、恐ろしい程平べったいその声に、少し戸惑う。
レミリアは何を言うか一瞬迷ってから、歩きながら口を開いた。

「どうやら…終戦管理局の襲撃は、この紅魔館だけでは無かったみたいよ…」

ソルの貌が、また少し歪んだ。いや、強張ったのか。
どちらともつかない表情だった。
不意に、ソルのブーツが鳴らす重い足音が消えた。
…それは…何処からの情報だ…。
低い声が、薄暗がりに吸い込まれていく。
それを聞きながら、レミリアも脚を止め、ゆっくりと振り返る。
「八雲紫よ…」

「…八雲が…此処に来たのか…」レミリアの答えに、ソルは眉間に皺を刻む。

「ええ、少し前にね…。私達が無事かどうか…確かめに来たようだったわ」

あんなに焦燥した八雲紫を、私は初めて見たわね。
レミリアは何かを思い出すように、微かに息を漏らして、小さく笑った。
悪意も嫌味も、力も篭らない、優しげな苦笑だった、

「…終戦管理局の奴らは…此処の他に、何処に現れたと言っていた…」

「人里の付近に、妖怪の山、それに、地霊殿…。この三つだと言っていたわ」

ソルは物騒に眼を細めた。

「私達が戦っている間、紫も人里の防衛に心血を注いでいたようよ…」

「……陽動か…」

あの巨大な規模の転移法術が起動しつつある中、ソルは疑問に思っていた。
紅魔館の周囲を空間ごと隔離し、それを飲み込む程の法術の展開に、紫が気付かないはずが無い。

だというのに。
何故、紫の姿が無いのか。

その疑問の答えが出た。
紫が紅魔館へと向かうことが出来なかった理由。
終戦管理局の尖兵達が現れたのが、妖怪の山や地霊殿なら、紫としても其々の戦力を頼ることも出来るだろう。
だが、人里付近に奴らが現れたとなれば、話は変わってくる。
妖怪達の住まう地を守るのと、人間の集落を守るのとでは訳が違う。
紫も、加勢するならば紅魔館や地霊殿、妖怪の山よりも、人里を優先するだろう。

結果として、終戦管理局にとって厄介極まりない八雲紫という存在を、縛ることが出来る。
これは大きなアドバンテージだ。
紅魔館で襲う際に用いた、今回のような大規模な法術は、必ず紫に探知され、妨害されてしまう。
故に、終戦管理局は、紅魔館と同時に、他の要所を襲う事で「探知されても、妨害されない」状況を作って来た。

レミリアはソルの言葉に軽く頷き、…そうでしょうね、と答え、再び歩き出した。
廊下を照らす、燭台の明かりが少し揺れた。
その淡い明暗の中。
ソルは少しの間、レミリアの背を見詰めてから、その後に続く。

「今頃紫は、結界の修復と被害状況の把握に、あちこち飛び回っている事でしょうね」

静かな声でそう言ってから、レミリアは肩越しにソルへと視線を向けて、一つ頷く。
話を聞いているソルの貌は無表情だったが、その眼がやけに真剣だった。
そんな深刻そうな貌をしなくても大丈夫よ…。
レミリアは静かな声で言って、ふっと笑みを浮かべる。

「霊夢や魔理沙、それにシンやイズナの協力もあったみたいだから。
人里も、妖怪の山も、そして地霊殿も…大事無いと言っていたわ」


それに…この紅魔館もね。
 言葉の最後にそう付け加えたレミリアは、眼を逸らすように前を向いた。
 歩く速さが僅かに落ちて、ソルはそれに歩幅を合わせる。

「貴方の御蔭で、私は…誰も失わずに済んだわ…」

レミリアはもう一度、ありがとう…と呟いた。
顔を俯かせ、囁くような小声で紡がれた言葉は、やはり廊下に響く足音に紛れた。
だが、ソルは聞き取っていたのだろう。
緩く息を吐いて、…礼なら…結界を呪破した“野郎”に言うんだな…、と呟いた。
 不意に、レミリアの歩む足が止まる。

 「…“あの子”も、貴方と同じ事を言ったわね」
 
 微かに笑みを浮かべて、レミリアはソルに振り返った。
 ソルは、嫌そうに眉間に皺を刻んでいた。
 …そうか…、と呟いた声も、やたら低くて不機嫌そうだ。
 
 “あの少年”とソルの関係が、以前博麗神社で聞いた通りの内容ならば、その反応も無理は無い。
 だが、ソルは復讐よりも、紅魔館を守る為に戦った。
 フランを助けた。
 ソルに何か考えや理由があり、それが打算的であったにしろ。
満身創痍になって、力を尽くしてくれたことに変わりは無い。
 
 「…紫も、眼を覚まさない貴方を見て…酷く心配していたわよ」
 
 紫“も”。
 そう言ったレミリアは、少しだけ潤んだ紅い眼で、ソルを見上げた。
 
 「それから…。夜明けには、貴方を迎えに此処に来ると、そうも言っていたわね…」
 
 ソルはやはり…そうか…、とだけ答える。
 何を考えているのか分からない、と言うより、底のまるで見えない金色の眼も、凪いだままだ。
 レミリアに一度だけ目を向けて、ソルはその横へ視線をずらした。
そのレミリアの横の壁には、豪奢な両開きの扉。
扉の隙間からは明かりが漏れ、薄暗い廊下に一条の光の筋を作っている。
 
無感動なそのソルの仕草に、レミリアは少しだけ笑って見せた。
 紫が来るまでは、まだ時間も在るわ…。まずはフランに、無事な姿を見せてあげて。
 苦笑のようでもあり、溜息のような声で言って、レミリアは扉へと向き直った。
 
…着いたわ、此処よ。
そのレミリアの言葉は背後。違う人物の声が聞こえた。
啜り泣くような、か細い声だ。
扉の中から聞こえる。
レミリアは少しだけ辛そうな顔で、一度ソルを見上げた。

その視線が意味するものは何のか。
ソルがそれを考える間もなく、レミリアは扉へと向き直った。
 そしてゆっくりとノックする。
 
 扉の中から、息を呑む気配がした。
それから、鼻を啜る音。
 まるで、慌てて泣き止もうとしているかのようだ。 
 返事は無かった。

 少し待ってから、レミリアはもう一度扉をノックした。
 また、少しの沈黙。
 ソルも何も言わず、反応を待った。
ややあって、開いてるよ…、と、か細い声が聞こえて来た。
その声を聞いたレミリアは微笑んで、扉へと手を掛けた。

「入るわね…フラン」
 
レミリアに続き、ソルもその扉を潜る。

其処は、広い部屋だった。
高級そうな家具が並んではいたが、決して嫌味でない。
絢爛、というよりも、落ち着きがある。
壁紙や家具は、紅の中に微かに桃色が混じり、少女然とした雰囲気だ。
部屋のあちこちに熊や兎、猫を模したぬいぐるみが並べられていても、不思議と余り違和感を感じないのはそのせいだろうか。
天蓋つきの大きなベッドの枕元にも、いくつかぬいぐるみが置かれていた。
そのベッドの上に、上半身だけを起こしたフランが居た。
先程の啜り無く声は、やはりフランのものだ。
顔を上げ、扉へと向けられたフランの紅い眼は潤んでいて、頬にも微かに涙の跡があった。

「ぁ――…」

其処で、ソルと眼が合ったせいだろうか。
フランは、部屋に入って来たレミリアに何か声を掛けようとしたようだが、息を詰まらせた。
潤んでいた眼は、怯えたように揺れている。
ベッドの上で身体を強張らせたフランは、ソルの無表情な貌に怯んだようだった。
そして、変質したままの右腕と胸部分を見比べ、また泣く寸前のように貌を歪めた。
 ソルの姿を見た、今のフランの胸中にあるのは、やはり自責の念だろうか。
何かに押し潰されるみたいに、フランは頭を抱えて俯いた。 

「ソルも眼を覚ましたわ…。もう皆、大丈夫よ」

そして、フランの心が完全に押し潰されてしまわないように。
ベッドの傍まで歩み寄ったレミリアが、フランの頭をそっと撫でる。
そのレミリアの貌も、罪悪感と悔恨で苦しげに歪んでいた。

過去に願った“力”が、かつて無い程、フランを苦しめる嵌めになってしまった。
 レミリアはベッドへと腰掛け、震えるフランの身体を抱きしめる。

「ぅぅ…ぅ、ごめ…、ソル…ごめんなさ――わた、し…」

 ぽろぽろと涙を零して、フランは謝罪の言葉を紡ごうとする。
だが、嗚咽が混じり、それは言葉の形にならない。
その涙声を聞きながら、レミリアはフランを抱きしめる腕に力を込める。

違う。
悪いのは、私だ。
あの時、私が願ったせいだ。
フランは悪く無い。
責められるべきは、私だ。

そう言おうとした時だった。
 ソルの履いたごついブーツが床を叩いた。
硬く、重く、落ち着いた足音。
 
 「…その様子なら…もう心配は要らんな…」
 
 低い声だが、不思議と柔らかい声だ。
 包容力のある、何かを見守るような声だった。
 
 レミリアは思わず顔を上げた。
 ベッドのすぐ隣に立ったソルが、凪いだ金色の眼で見下ろしていた。
今のソルからは、威圧感も迫力も何も感じない。
 無表情で佇んでいるだけだ。

 泣いていたフランも、涙の溜まった眼でゆっくりとソルを見上げる。
 フランは嗚咽を堪え、何かを言おうとした。
その頬を、また涙が伝う。

「…少し、じっとしていろ…」

フランが何かを言うよりも先に、ソルはベッドの縁へと腰掛ける。
そして、左手の人差し指と中指を、フランの首と胸元に中間辺りに翳した。
ソルの指とフランの首元の間に、小さな法術陣が浮き上がり、淡い赤橙の光が漏れる。
微光の揺らぎがフランを包み、緩い波紋が部屋に広がった。

フランは少し戸惑ったように、ソルと胸元に象られた法術陣を見比べた。
その様子を傍で見ていたレミリアも、少し驚いているようだ。

「ソル、これは…?」

「…さっき言っただろう…解析精査の法術だ…」

……身体に害は無い…。
レミリアのやや不安そうな声に、ソルは眼を細めつつ答える。
そのソルの真剣な貌を見詰めながら、フランは鼻を啜った。
レミリアはそっとフランの背中を摩ってやる。
 その感触に、少し落ち着いたのか。
泣きそうな表情のままではあったが、フランがソルの名を呼んだ。
そして、どうして…、と呟いた。
呟いてから、また声に涙が混じる。

「ソルは…何で、私の事を…怒らないの…」
私…ソルに怪我させて…痛い思い、させて…。

怯えるような声だった。
自分を責め抜いたフランは、大怪我をさせたソルに嫌われていると思っていたのだろう。
フランは視線を彷徨わせてから俯いて、涙声のまま、また言葉を紡ぐ。

「ソル…だけじゃない…。お姉様にも…アクセルにも…皆にも…」

それ、なのに…。
震える声で、フランが其処まで言った時だった。
その眼から、また滂沱と涙が溢れた。
流れる涙がフランの頬から零れ、ソルの指を濡らす。

 「何で、み…んな…わた、しに…優しく、してくれるの…?」

 ソルは答えない。
黙ったまま、法術での精査を続ける。
 血を吐くように言葉を紡ぐフランを、レミリアも泣きそうな貌で後ろから抱きしめた。
 フランが悪いんじゃないわ。フランは、何も悪く無いのよ。
そのレミリアの声に、フランはいやいやをするように首を振った。

「わた、し…嫌だ…自分、が…嫌い…大嫌い…」

ソルの法術陣が漏らす赤橙の微光が、微かに揺れて、乱れた。

「それに…怖い…凄く、怖い…また…自分、が…分からなく、なったら…」

死んじゃいたい…。消えちゃいたいよ…。
そう呟くフランをレミリアは、また強く抱きしめる。

そんな事を言っては駄目…、駄目よ、フラン。
慰めようとするレミリアの視界も、涙で歪んで来た。
フランの苦しむ姿が、胸を抉る。
心を突き刺す。

その時だった。

不意に、フランを包む赤燈色の微光が薄れ、音も無く消えて行った。
法術での精査が終わったのだろう。
見れば、ソルが無表情のまま、フランを見ていた。
感情を伺わせない貌のまま、ソルは変質した自分の右腕と胸に視線を落とす。
それから、少しだけ眼を細めた。

……フランドール…。低い声で、ソルが呼んだ。
フランは、両手で涙を拭いながらゆっくりと顔を上げる。
 ひっく、ひっく、としゃくり上げる声が、広い部屋に響いた。
 涙が、ベッドのシーツに落ちていく。
ソルを見上げたフランの瞳には、多くの感情が渦を巻いていた。
自己嫌悪。怒り。自責。
それらの感情に濁り掛けている紅い瞳を、ソルは見据える。

…諦めるのは…まだ早い…。
そう言ったソルの眼は、何処か遠い所を見るような眼だった。
ソルの言葉に、フランは何を感じたのか。
ぎゅっとシーツを掴んだ。そして、強く眼を閉じて、唇を噛む。

「そうよ、フラン…」
フランを背後から抱くレミリアの声も、かなり震えていた。

でも…、わた、し…。皆に…。
擦れた声で言って、フランはレミリアの手を掴み、ソルへと視線を向けた。
 洗脳され、また狂気に支配されてしまった自分のことが許せないのだろう。
口汚く罵られ、嫌われ、見捨てられることを覚悟していたに違い無い。
だからこそ、フランにとっては、今のレミリアやソルの態度は、自分を責める材料になってしまう。
己を心配してくれる心優しい皆を、傷つけてしまった。
そんな風に考え、どんどん自分が許せなくなる。

 今の状態では、フランに何を言っても無駄なのか。
自責の念を和らげてやることは出来ないのか。
ソルは変わらず、静かな眼でフランの視線を受け止める。
その無表情は、どんな言葉を掛けるべきかを悩んでいるようでもあった。

「あなたを責める者なんて、紅魔館には居ないわ…」

フラン…。私はね、あなたが無事だった事に本当に安心しているのよ…。
言い聞かせるようにそう言ったのはレミリアだった。
その言葉には確かな真摯さがあり、フランは泣くのを堪えるように俯いた。
 
「……洗脳を解呪したのは俺だが…」

 ソルは、腰掛けたベッドの縁を軽く握り、視線をフランから逸らした。
 頭の中で言葉を選んでいるような、そんな仕草だった。

「…レミリアの声に応え…正気と自我を取り戻したのは……お前自身だ…」

ギチギチ…グチュ…。ソルの右腕と胸の外骨格が、再活性の軋みを上げた。
 自身の身体を見下ろすように目線下げてから、ソルはフランに向き直る。
その貌は、何かに耐えるように強張っているように見えた。
…今も狂気を抑え、理性を保てている…それは、お前にしか出来んことだ…。
ただ、そう零した声は微塵も震えておらず、低く、重い。

…いずれ…克服する事も出来るだろう……。
ソルは静かな声で言って、ベッドから立ち上がる。
細められた金色の眼。
その目許が、本当に微かにだが、緩んだ。
微笑んだようにも、鬱陶しそうに眼を細めたようにも見える。

フランは、そんな貌のソルを見上げ、言葉を待つように、その眼を見詰めた。

「…今は、その狂気も…自分の内に仕舞っておくといい…」
 
…何時か…必要になる時が来るかもしれん…。
 フランを落ち着かせるように言ったソルの声には、やはり低い。
だが、ぬくみが在り、穏やかな声だった。

…その時に…無力を嘆くよりは…マシだろう…。
何時もよりも饒舌なソルの眼は、やはり何処か遠い眼をしていた。
フランの姿に、何か思う所があるのか。
 言い聞かせるというよりも、独り言を呟くみたいに、言葉を紡ぐ。

「…怯えても良いが…諦めんことだ…」

ソルは言ってから、見上げてくるフランの頭に、そっと左の掌を乗せた。 
撫でるでもなく、優しく髪をすく訳でも無い。
 ただ、触れるだけ。
フランは、少し驚いたような表情を浮かべた。
涙がまた一粒、その頬を伝う。
そしてすぐに、フランはその綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
 乗せられたソルの掌を、縋るように両手で掴む。
ソルの手を自分の額へと当てるようにして、俯き、ぅぁぁ…、と声を漏らした。
 搾り出すような、苦しげな声だった。
 そして、堪えていた何かを吐き出すように、フランは声を上げて泣き出した。
 号泣だった。だが、悲痛なだけの泣き声では無かった。
ソルは、痛い程握りこんで来るフランの手を、ほんの少しだけ握り返す。
 フランの泣き声が、少し強くなった。
ごめんなさいと言おうとしたのか。それとも、ありがとうと言おうとしたのか。
フランの泣き声の中に、言葉らしきものが混じる。
 だが、それは嗚咽としゃっくりと鼻を啜る音に紛れ、聞き取れなかった。
 あやすようにフランの抱きしめるレミリアも、声を殺して泣いているようだった。
 その姉妹の姿を見下ろしながら、ソルは溜息を吐きかけて、止めた。
 

法術での解析を行っても、もうフランに異常のある箇所は見受けられなかった。
正常だ。つまり、あの強烈過ぎる狂気を、フランは意思の力で抑えているという事を意味する。
無意識であろうと、意識的であろうと、強靭な精神力が無くては不可能な芸当だ。
それを、フランは自力で完璧に行っているのだ。
加えて、紅魔館にはフランの心の支えとなる者も、多く居る。
もう大丈夫だろう。
そう思いながら、安心している自分に気付き、ソルは立ち尽くす。

…違う…。
否定の言葉が、唇から零れた。
……そんな訳があるか…。
疲れたようにそう呟いたソルの声は、蚊が鳴くような声で、笑える程小さかった。
その声は広い部屋に溶けるよりも先に、フラン達の鳴き声に押され、消えてしまった。













意識の覚醒に伴い、まず感じたのは痛みよりも疲労だった。
それは強烈な倦怠感を齎し、息をすることも面倒に感じるほどだった。
身体の痛みも、まるで他人事のように感じられた。

だが、その痛みは、自分が生きている証だ。
痛くなくなってしまえば、終わりだ。
感じるのは、痛みだけでは無い。

何かを手探りで探すかのように、身体にゆっくりと力を込めた。
 五感を覚ます。
 まどろみの外套を、少しずつ脱いでいく。

そして、感じる。
微かな、温度。これは、自分の体温だろうか。
寒気は無かった。むしろ、少し暑いくらいだ。
柔らかな重みと、沈み込むような僅かな浮遊感。
ベッドの感触だ。

うっすらと眼を開くと、見慣れた天井があった。
緩く息を吐きながら、ぼんやりと思い返す。
 
 お嬢様。妹様。
 唇を動かしたが、声は出なかった。
 ただ、無事な二人の姿を思い出し、せっかく起き掛けた体から力が抜けていく。
 もう起き上がれないと思う程の安堵感だった。

 ズキッ、と胸と腹の中間辺りが痛んだが、気にならなかった。
 
 そう。
 お嬢様と、妹様だけではない。
 パチュリー様も、美鈴も、子悪魔も。
皆、無事だったのだ。

青みがかった黒い空。
其処に浮かび上がる巨大な法術陣。
ドーム状の結界によって、幻想郷から隔離されつつある紅魔館。
レイヴンと呼ばれていた男の助力により、ドーム状の結界から脱出して見たその光景は、恐らく一生忘れられないだろう。

思い出し、気分が悪くなるほどの悪寒を覚えた。

それを紛らわせるように、深く息を吐く。
自分の体が、まるで風船みたいに萎んでいくように錯覚するほど、深い溜息が出た。
ゆっくりと瞬きをして、身体を起こそうとした。
 
起きれるかい…。
そう声を掛けられ、心臓が跳ね上がるのを感じた。
うっ、と声を漏らしてしまったような気もする。
重かった瞼も、一瞬で全開だ。
飛び起きそうになった。

何故、と思った。
無理矢理に覚醒させた意識は、記憶を辿り、鮮明な記憶を提示してくる。

ベッドのすぐ隣には、椅子が置かれてある。
自分が寝付く前に、其処にいたのは彼ではない。
パチュリー様だった筈だ。
まだ回復しきっていないけれど…痛みを和らげる位なら、出来るから…。
そう言って、ベッド脇の椅子に腰掛け、看てくれていた。
…申し訳ありません。そう礼を述べたのも覚えている。
いや。
何故も何も無い。
眠り落ちた自分を、そっとしておく為に、パチュリー様は部屋を出られたのだろう。
其処に、彼が私の様子を見に来てくれた、そんな所だろうか。
或いは、パチュリー様に何か用が出来て、私を看ておくのを、代わりに彼に頼んだのか。

どちらにせよ。
急に力んだのは失敗だった。
胸に杭を打たれたような衝撃が走る。
息が詰まった。
起こし掛けた身体をベッドへと落とし、胸を押さえる。
痛…。 貌が苦悶に歪むのを何とか堪え、押し出すようにゆっくりと息を吐いた。
その間に、ちょ…、大丈夫かい!?、と焦ったような声が聞こえた。
ベッドに受け止められる衝撃が、身体に鈍い痛みを走らせる。

 身体を起こす代わりに、芋虫みたいに身を捩る。
そして、その声の方へと顔を向けようとして、思いとどまった。
弱っている自分を見られたくない。
今の自分を、見せたくない。
何故かそんな思考が頭を過ぎった。

…もう、大丈夫です。
自分でも驚く程か細い声が出た。
ベッドに横たわったまま、掛けられた毛布で顔を半分隠し、眼を伏せた。

暑い。
ベッドの中が暑くなったような気がした。
ちらりと視線だけを毛布から向ける。
彼は心配そうな貌に、微かな笑みを浮かべていた。
安堵の笑みだった。
その彼の顔には、何枚もの絆創膏が張られている。
鼻の頭。頬。眉尻。額。首元には包帯が巻かれていた。
多分、彼が来ているユニオンジャック柄の服の下も、包帯でぐるぐる巻きなのだろう。
此方を覗き込んでくる動作が、酷く窮屈そうだった。
思わず眼を逸らしてしまう。
彼は、また笑みを零した。

その笑顔に、戦いでの彼の姿が脳裏にフラッシュバックする。
自分を庇うように、鉄巨人と切り結ぶ彼の後姿。
声。抱え上げられた感触。

紅魔館の為に、最後まで戦い抜いた彼等には、感謝してもしきれない。

ソル。
そして、アクセル。

何故か、顔が熱い。目頭もだ。
安堵と感謝がいっぺんに来て、何かが溢れそうになるのを、何とか堪えた。 
 それに、聞かねばならないこともある。
 まだ、安心に浸かってしまうのは早い。
 唇を噛んで、彼へと視線を向ける。
 アクセル様…。
そう呼んだ声は少しくぐもっていたが、彼は聞き取ってくれた。

「何だい…?」
 
 「私は大丈夫ですが…ソル様は…」

「旦那なら大丈夫…。もう起きてたよ」

 流石に、ちょっとしんどそうだったけどね…。
安心させるように言って、アクセルはほっとした顔で頷いて見せた。

「だから安心して、咲夜さんはゆっくり寝ときなって」

「しかし、礼も述べずに寝ている訳にも…」

ぐっと身体を起こそうとすると、やはり胸に鈍い痛みが走る。
忌々しい痛みだった。

 「旦那はそんな事、気にするタマじゃないよ」

アクセルは唇の端に笑みを浮かべる。

「それに、パチュリーちゃんも旦那に会いに行ってるし…」

パチュリーちゃんが咲夜さんの分まで、旦那に礼を言ってくれるさ。
その言葉を聞いて、身体の力がふっと抜けてしまう。
申し訳無いが、パチュリー様に任せよう。
そう思ってしまう程、いざ起きようとした時の倦怠感と痛みは、酷く重い。
正直、今動くのは少々辛かった。
 この身体のだるさを抱えたまま目覚め、その時に独りだったなら、やはり心細い。
そうならぬよう、パチュリー様は、アクセルに此処に居ることを頼んだのだろう。
瞳を閉じて、つらつらとそんな事を考えていると、身体が少し軽くなった気がした。
 紅魔館の皆に加え、ソルやアクセルも回復に向かっていることも分かったせいか。
 安堵感が胸の痛みを和らげ、ベッドの温もりが意識を薄めていくのを感じる。

「俺が来た時よりかは、大分顔色も良くなってるけど…まだ安静にしとかないと」

アクセルはそう言って、椅子から立ち上がろうとして、アダダっ…と腰を曲げた。
立ち上がれなかったようで、呻きながら再び椅子へと腰をおろした。
やっべぇ…、腰抜けそう…。
情けなく顔を歪めたアクセルの様子がおかしくて、少し笑ってしまった。

そして、気付いた。
アクセルは、部屋から出て行こうとしているのだ。
何故か、急に心細くなった。

 「ぁ…」

腰を摩り、ドアへと視線を向けているアクセルに何か声を掛けようとした。
だが、何を言えばいいのか分からなかった。
だから。

「咲夜さん、ごめん…。うるさくしないから、もうちょっと此処に居ていいかな…」

腰が痛くて立てねぇ…。
アクセルが困ったように笑ったのを見て、ほっとした。
傍にいて欲しい、とも思った。
思って、顔がまた熱くなった。

「主の法術治療を受けたのだ…。すぐに治るだろう」

油断していたわけでは無いと思うが、全く気付かなかった。
アクセルは、溜息を吐いて、ゆっくりと首を回した。
御蔭さんでね…。腰痛だけで済んでるのは…感謝してるさ。
いつも通りの口調で言ってから、苦笑を零した。

「まぁ、ノック位はすべきじゃねぇ? 此処、女の子の部屋だぜ」

そのアクセルの視線の先には、仮面の男が立っていた。
後頭部から額にかけてを、仮面ごと貫くごつい針。
ダークグリーンのボディスーツに、マント。
色素を抜いたような、生気の無い白髪。
土気色の肌。

改めてその姿を見て、咲夜は鳥肌が立つのを感じた。
戦闘中には気にならなかった。

だが、今は別だ。
仮面の男の纏う空気は、余りにも不吉な印象を与えてくる。
屍。病。死。
そんな言葉が頭に浮かんでくるせいか。
ベッドから起きようとしたが、ウィンクするアクセルに手で制された。
俺に用があるんでしょ…。取り合えず、場所変えようぜ。…レイヴン。
アクセルは、あー、痛ぇ…と腰を摩りながら立ち上がり、仮面の男に向き直った。

咲夜はベッドの中でナイフを握りこんだ。
僅かに身体を起こす。時を止めるため、呼吸を整え、集中する。
身体のだるさが邪魔で仕方無い。喉がカラカラだ。

アクセルと、仮面の男との距離。
十歩あるか無いか。近い。
先手を打つべきか。

「その必要は無い…」

仮面の男は、アクセルと咲夜を見比べて、低い声で呟く。
そして、肩を竦めるようにして両手を広げて見せた。
戦う意思は無い、という事だろうか。
信じて良いのか。
ナイフを握る手に力を込める。

「貴様に伝えておくべきことがあってな…」

「話を聞くくらいなら歓迎だぜ…。何せアンタは、“あの男”の側近だ。それに…」

そこまで言って、アクセルは言い淀んだ。
ちらりと咲夜に視線を向けてから、何かを決めるみたいに息を吐いた。
俺も聞きたいことがあるんだよね…。
そのアクセルの声は、何処か悲痛で、何もかもを諦める覚悟したみたいな声だった。

「その様子だと、貴様も薄々気付いているようだな…」

「まぁね…。というか、アンタと俺が…こうやって普通に話しをしてる時点で、
随分面倒くせぇ事になってるのは、何となく分かるよ」

「なら、話が早い」

仮面の男は咲夜へと顔を向けた。
咲夜は身構えたが、仮面の男は鼻を鳴らしただけだった。
で、話って何な訳…?
仮面の男と、咲夜の間に立つように、アクセルが一歩進んだ。
声の調子もいつも通りだ。
おまけに包帯塗れの癖に、アクセルの姿には確かな迫力があった。
そう重大な用でも無いが、伝えておいてやろうと思ってな…。
だが、仮面の男は怯みもしない。

「貴様は、我々の世界から外れた。…追放されたのだ」

「…どういう意味だい、それは」

ただ、淡々と言葉を紡ぐだけだ。
アクセルの声が、僅かに揺れた。

「我が主が言っていただろう。…『私』と『お前』は、同時に存在出来ない」

だが、それが今出来ている。
私の存在は不変だ。決して変わらぬ。
だが、お前は違う。
まだ人間の域に居る以上、どんな変化も起きうる。
それが起きたのだ。
何が切っ掛けなのかは分からんが、貴様は我々の次元から見放され…別の存在へと生まれ変わったのだ。


咲夜は、仮面の男が何を言っているのか分からなかった。
アクセルの背中が、震えているのに気付いた。血が出るくらい、右拳を握りこんでいる。
深呼吸をして、アクセルは左手で頭を抱えた。
…証拠は、今の状況ってことか。
血を吐くようにして紡がれたアクセルの声に、咲夜は何も言えなくなった。
仮面の男は、そうだ、と言って静かに頷いた。


数え切れぬ程の時間跳躍を繰り返してきた貴様にとっては、今の状況程…信じられるものもあるまい。
念のため、我々の世界の歴史の中に、貴様の存在を探してきたが…。


アクセルは、止めてくれ…、と呟いた。


貴様の痕跡が、全て払拭されていた。
…もう、お前の事を知っているものは、未来にも過去にも存在しない。
ああ…、ソル=バッドガイなど、ごく少数の例外は居るがな…。
恐らく、度重なる時間跳躍が影響しているのだろう。
言い方を変えるなら、貴様は進化した、というべきか…。
結果、我々の世界から放逐され、この世界に流れ着いた。
『幻想』となった者達が流れ着く、この世界にな…。
我が主は、そうお考えになっておられるようだ…。

アクセルは、何かを諦めるみたいに溜息を吐いた。
マジかよ…。身体をよろめかせたが、何とか踏ん張ってみせた。
アクセル様…! 思わず咲夜は叫んでしまった。
仮面の男は無視して言葉を続けながら、アクセルに背を向ける。
本当に、伝えることだけを伝えて、この場を去るつもりらしい。

仮面の男の周囲の空間が、不気味に歪む。
終戦管理局が貴様のデータを集めていた事も、何か関係があるかもしれんな…。
そう言った仮面の男の声は、哀れむような声だった。

「淡い希望と、自分自身を捨てる事だ」

不死者の先達としての言葉に、アクセルは顔を上げる。
咲夜は眼を疑った。
仮面の男の姿が、無数の鴉の羽へと変わり始めたのだ。
それと共に、淀んだ空気が薄れ、男の存在感も希薄になっていく。

「そうすれば…絶望と悲哀の狭間でも、新たに生きる意味を…芽吹かせることも出来るだろう」

同類を憐れんだのか。
その時の男の声は、不思議と澄んでいて、穏やかですらあった。
男が消えていく間際に放った、薄暮の光が部屋を舐め、鴉の羽が舞い散る。
その鴉の羽すらも、細かな黒い粒子となって、空間に薄れ、溶けていく。

冗談のように、男は姿を消した。
しばらく、咲夜は呆然としてしまった。
だが、アクセルの身に、何か良くないことが起こった、という事は理解できた。

「彼の言葉は、一体…どういう意味なのですか…?」

咲夜の混乱するような震える声に、アクセルは弱々しく首を振り、再び頭を抱えた。
ただ、それだけだった。





[18231] 二十一・二話 
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/02/15 22:28

 終戦管理局による大規模な襲撃から一夜明けて、幻想郷は疲弊の色を濃く残したまま、朝を迎えていた。

豊かな緑に覆われた、幻想郷の山々。
その稜線から出ずる太陽が、冷えた空に光を差していく。
薄明の空に浮かぶ疎らな雲に陽光の朱が混じり、白む空に彩りを添えている。
森林の木々は夜の暗がりから明るさを取り戻し、瑞々しさとぬくもりを帯びた。
吹き行く風は透き通り、緑の匂いを運ぶ。
大地が目覚めていく。

だが、この自然の美も、大きな争いの中にあっては、無抵抗のまま踏み躙られ、崩れていくものなのだろう。
守ろうとする意思の及ばぬ所で、多くのものが犠牲となり、消えていく。
それだけは、何としても食い止めたい。

美しく、また雄大なこの景観も、今は酷く儚く見える。
大地も、森も、湖も、空も、そして結界で括られたこの世界も。
戦いが激化すれば、幻想郷の自然にも多くの影響を与えるだろう。

 守らないとね…。
呟いた声はか細く、朝の澄んだ風に攫われて、冷気に混じり消えて行った。

紫は朝焼けの空の中にスキマを開き腰掛け、其処からこの幻想郷の全景を眺めながら、溜息を零した。

普段の紫からは想像もつかない程その溜息は重く、また、疲労の色が滲んでいた。
それに顔色も少々悪い。肌の白さのせいで、蒼白さが余計に目立つ。
朝の冷えた風に豪奢な金髪を靡かせながら、紫は眼を細め、昇る朝日を見詰める。

長い夜だった。

人里付近での終戦管理局の尖兵の出現に加え、妖怪の山、更には地霊殿への攻撃。
極めつけは、途轍もない規模の法術と戦力を投入した、紅魔館への襲撃。
かつてない程の広範囲に渡って、同時に攻め込まれた。

だが、既に先手を打っていた為に、何とか対応することは出来た。
藍、橙によって、事前に展開していた探知結界の御蔭で、すぐに人里への防衛戦線を張ることが出来たのは大きかった。
それに、上白沢慧音の能力によって、人里を隠せたことも大きくプラスに働いた。
終戦管理局が投入してきた尖兵は、数こそ多かったものの、単調な戦闘しか行えない傀儡の鉄人形ばかりだった。

木偶達は、慧音の歴史隠蔽によって阻まれ、人里へと辿り着けず右往左往するばかりだった。
その間に、騒ぎを聞いて駆けつけた霊夢、魔理沙、アリス、更にはシンやイズナ、妖夢も防戦戦に加わってくれた。

守りながらの戦闘ということで、紫は、人里への被害は覚悟していた。
恐らく、この襲撃で受けるであろう打撃は、小さくは無いだろうとも考えていた。
だが、これらの実力者の活躍により、人里への被害は最小限に食い止められたと言っていい。
里人達の間にも、何人かの負傷者が出たが、死者は出なかったのは不幸中の幸いだった。


妖怪の山はと言えば、流石は、幻想郷のパワーバランスの一つだった。
終戦管理局の尖兵達はほぼ一方的に返り討ちに合い、一匹残らず鉄屑にされたようだった。
 戦闘後の状況を確認する為に紫が赴いた時には、妖怪達が戦勝ムードで酒を飲み交わしていたくらいだ。
山にはマシンオイルの匂いが充満し、そこら中に鉄片が散らばってはいたが、激戦地といった印象は不思議と受けなかった。
それだけ、団結した妖怪達の力が強力だった、という事だろう。

「この程度の連中ならどれだけ束になってかかって来ようとも、我々天狗の敵ではありませんよ」 

妖怪の山の状態を心配して訪れた紫を見て、射命丸が力強い笑みを浮かべていたのを思い出す。
攻め込んだ尖兵達も傀儡の木偶人形ばかりだったのだろうが、射命丸の言葉が心強いことに変わりは無かった。
それに、守矢神社の二柱、また現人神である東風谷早苗も、健在だった。
生半可な戦力では、妖怪の山はビクともしないだろう。
非常に頼もしい限りだった。

また地霊殿に関しても、やはり大きな被害は無かった。
鬼達の存在と、あの地獄鴉は、地霊殿に害するものに対する強大な矛であり、また盾だ。
当然、木偶と傀儡だけで構成された鉄人形の群れなど、敵にならなかった事だろう。
実力者の揃う地霊の者達も、終戦管理局の尖兵達を容易く退けたことを、地霊殿の主から聞き、肩の力が大きく抜けたのを覚えている。

「過去、貴女方が地霊殿へと訪れた時に比べれば…遥かに微力な襲撃でしたよ」

眠たげな地霊殿の主のその言葉には、余裕よりも紫に対する労いの響きがあった。
地霊殿に住まう者達を、良く理解しているからこその言葉だった。
他者の心を読む姉に、無意識を操る妹。
核の力を用いる鴉に、死霊を操るう火焔猫。
また語られる怪力乱心の鬼。他にも、病を操り、嫉妬心を操る者も居る。
妖怪の山に比肩しうる実力者揃いだ。
そんな者達に、なんの工夫もへったくれもなく正面から突っ込んできた木偶人形達は、正直哀れだったと言っていいかもしれない。

地霊殿の主、古明地さとりは言っていた。
心の無い者は、恐れも躊躇も無い。しかし、結束することも出来ず、ただ群れるだけ…
あの程度の者達ならば助力が無くとも、地霊殿の者たちだけで対処できます。
…此処の心配はせずとも大丈夫ですよ。
貴女は地上の妖怪や人々を守り、安心させる為…いつもの胡散臭い笑みを浮かべながら策略を用い、狡猾に立ち回れば良いのです。

そう言われ、紫は疲れたような溜息と同時に、笑みを漏らしてしまった。
古明地さとりの言葉は少々辛辣ではあったが、それは彼女なりの気遣いなのだろう。
 紫は、「ええ…。では、お言葉に甘えさせて貰うとするわ」、と答え、紫は地霊殿を後にしていた。
その地霊殿からの去り際。
近々、博麗神社で会合を開くつもりなのだけれど…貴女も来て頂けるかしら。
紫が、古明地さとりにそう問うた所、
「構いませんよ…。以前、貴女から聞いた終戦管理局とやらについては…まだまだ詳しく聞きたいと思いますので…」
あの鉄人形達が、再び地霊殿へ攻め込んで来る可能性もありますからね…。
 地霊殿の主としても、大きな実害が出る前に対策は取りたいし、その為の情報も欲しいのだろう。
 簡単に了承を得ることも出来た。
 迫害されて尚、幻想郷のために結束しようとしてくれるさとりの姿勢には、正直救われた思いだった。
 

 
それが、つい先程までの話だ。
 あちことへとスキマを用いて飛び回り、被害状況を確認し終えた時には、既に空は白んで来ていた。
 
 風を感じた。冷えた風だ。
 幻想郷を覆う巨森が朝の風に揺れ、木の葉の擦れる音が聞こえる。
 眼下に聞く雄大な自然の調べに、疲れが微かに和らぐのを感じた。
 差し込む日の光は少しずつ暖かくなり、其処に混ざる緑の匂いも心地よい。
 
靡く金髪に手を沿え、紫は深呼吸をする。
幻想となりつつある外界の自然も、此処では新たに芽吹き、朝の光に目覚めていく。
  
本当に、長い夜だった。

もう一度深呼吸して、紫は思う。
 私も目覚めなければ。
いつまでも休止を取り、安堵に身を委ねている訳にはいかない。
 
 スキマに腰掛けたまま、紫は視線をある方向へと向ける。
 結界で囲まれた箱庭の世界とは言え、幻想郷は広大である。
 その全景を眺める紫の視線の先。其処には、淡い霧に包まれた湖が見えた。
 そして、そのすぐ傍に立つ、紅の屋敷。紅魔館。
 前時代的な自然の中にある幻想郷の景色の中では、一際異彩を放つ存在である。
 だがそのミスマッチさも、紫にとっては見慣れたものだ。
寧ろ愛着すら湧いている。
 だからこそ、こうして幻想郷の全景の中に、紅魔館が在る事に安心感を覚えた。
 そして同時に、僅かな寒気が紫の背を伝う。

 今回、最も激戦の戦域となったのは、間違いなく紅魔館だ。
探知結界無しでも感じられるほどの、馬鹿げた規模の術式の展開。
 木偶の人形では無く、以前紫が戦って深手を負わされた鉄巨人が、二体。
 加えて、木偶達を指揮する鉄人形の上位個体。

 以前の白玉楼戦を、遥かに上回る戦力だ。
 あの無茶苦茶な規模の転移術式が起動していれば、幻想郷に穴が空いていただろう。
 下手をすれば、幻想郷を包む結界に深刻な解れが生じていたかもしれない。
 それに、スカーレット姉妹が終戦管理局の手に渡っていれば、最早取り返しようが無い程のアドバンテージを与えてしまうことになる。
幻想郷と終戦管理局とのこの拮抗状態は、間違いなく崩れていたはずだ。
ただでさえ後手後手だというのに、そうなってからでは最早取り返しがつかない。


遠方にあり、霞の掛かった紅魔館の光景を見詰めながら、紫は眼を細める。
今回は幸運にも、ソルが紅魔館へ訪れてくれていた。
加えて、アクセルも紅魔館に滞在していた為、他の戦力を人里の防衛に割くことも出来た。
それに…、とも思う。
あの空間ごと隔離された時の紅魔館に応援へ向かったところで、役に立つ人物など数える程しかいないだろう。
“あの少年”が直接出向き、苦戦しながら呪破したという話を聞けば、どれ程強固な隔離結界だったのかは、推して知るべきだ。
 だが、その苦戦の中でも。
ソルとアクセルは、あのスカーレット姉妹の為に戦い、終戦管理局を退けてみせた。


その状況を確かめに紅魔館へと赴いた紫は、ベッドに横たわるソルの姿を見て、息を呑んだ。

血の気を失った青白い肌。
その蒼白さとは対照的に、胸から右腕を覆う血色の外骨格。
ソルの纏う外骨格の装甲と装甲の間には、浅い溝が走っており、その溝を鈍い赤光が脈打っていた。
 いつものソルが纏っていた、濁った赤燈の焔とは違う色だ。
 血錆色の明滅は不気味で、それは再生よりも壊死を思わせる。
たまに、ソルは呻き、身を捩り、苦悶の声を漏らしていた。
その度に、外骨格に覆われた装甲腕が痙攣して軋み、肉が捩れ、潰れ、捏ね繰り廻されるような音が響いていた。
まるでソルの身体の内から、別の何かが顔を覗かせて、笑っているような錯覚を覚えた。
意識を失ったまま、荒い息を漏らすソルの表情は険しく、ひどく辛そうだった。
 紫はソルの名を呼んだが、返事は無かった。当たり前だった。


 アクセルも、無傷とは言い難い状態だったが、彼は紫に笑って見せた。
なぁに、旦那と比べりゃ…こんなもん、擦り傷みてぇなもんさ。
アクセルは自分の傷よりも、人里や妖怪の山がどうなったのかが気になるようで、紫に色々と質問をぶつけて来た。
 紫は、その真剣さが嬉しかった。
皆のおかげで、今回は何処も大事無かったわ…。
 その紫の言葉を聞いたアクセルは、心底ほっとしたような顔で、安堵の溜息を吐いていた。

それらを思い出し、紫は一度大きく息を吸う。

幻想郷の澄んだ空気は、まだ穢されてはいない。
ゆっくりと吸い込んだ空気を吐き出しながら、大空に開いたスキマへと身体を滑りこませる。
そろそろ、ソルも眼を覚ましているだろうか。迎えに行かねば。

いつもの無愛想な横顔が見たい。
低く、深みのある声が聞きたい。
そう思っている自分に気付き、それと同時に大きな感謝の念を覚えた。

もう、随分借りを作ってしまっているわね…。
呟いて、紫はスキマへと身を沈めていく。
 
 
 
 
 ほぼ大半の人間は、何処かでほっと一息つける場所が欲しいものだ。
 それはだいたい、日々の暮らしの中にあり、それに縋らないと人は生きていくこともままならない。
 老若男女問わず、自分の居場所が無ければ、安らぎなどもあろう筈がない。
 富裕層の暮らす、豪華で綺麗な建物の並ぶ住宅地だろうが、治安も悪く、法の手が届き難いスラム街でも同じだ。

 安らげる場所は、ピンからキリだろう。
 人其々だ。
 
 悪徳の下、毎日遊んで暮らす者も。
 汗水流して、一生懸命働く者も。
窃盗や強盗などの犯罪を犯さなければ生きていけない者も。
 異常者も。
病んだ者も。

 誰も彼も。
 自分の居場所が必要だ。
 帰る場所が必要だ。
 待っていてくれる人が必要だ。

 それら全部を見失った喪失感は、精神に異常をきたしかねない程に大きかった。
魂が砕けそうだ。
まだ、ギリギリで自我が崩壊せずに残っているのは、その喪失感に、現実感が追いついていないせいだろう。
未だに、アクセルの意識が、事実を消化しきれていない御蔭だ。
だが、想像すると寒気がする。
もしも今、元の時代の顔見知りに会い、「誰だ、アンタ?」なんて言われたら。
多分、もう立ち上がれない。その瞬間、自分の中で「己の存在の意味」が崩れる。

参ったぜ…。
紅魔館に用意された自室で、椅子に座り込んだまま頭を抱えて、アクセルは呟いた。
もうどれくらい時間がたったのか。
分からない。どうでもいい。
レイヴンの話を聞いてから、茫然自失のまま咲夜の部屋を出たまでは覚えている。
だが、其処からの記憶は曖昧だ。
どうやってこの部屋まで戻って来たのかも覚えていない。
思い出そうとすると、随分昔の記憶ばかりが浮かんで来て、息が詰まった。
心に浮かぶ仲間達の笑顔が、胸に突き刺さる。
頭がくらくらして、苦しい。

レイヴンの言葉通りなのならば。
思い出の中に居る仲間達は、アクセルの事を覚えていない。

そんな馬鹿な。
悪い冗談だろ。
嘘だよな。
そうに決まってる。
笑かすなよ。
 ちっとも面白くねぇよ。
 だからよ。
頼む。

頼むよ。

嘘って言ってくれよ。

マジかよ。
じゃあ、俺は何だ。
もう俺しか、俺の事を知らないのか。
俺は誰だ。
何処だ。
何だ。

教えてくれ。
どうすりゃいい。

アクセルは重過ぎる溜息をついてから、頭を抱えたまま髪の毛を引っ張った。
 もう、自分が何を考えているのかすら分からなくなりつつある。
意識の暗がりに湿った溜息が溶けていき、重い静寂がアクセルの肩に更に圧し掛かる。

レイヴンという男の事は、良く知らない。
と言うより、何かを知るほど親しい訳でも無い。
せいぜい昔、“あの男”の御前で少し話しをしたぐらいだ。
それすら、訳が分かるような分からないような話をして、すぐにタイムスリップに飲み込まれた。
だが、アクセルとレイヴンが同位体であり、同じ時間に存在出来ない、というルールを身を持って知った瞬間でもあった。

そのせいだろうか。
あんな奴の言う事なんて信じない。皆が俺を忘れる訳が無い。認めねぇ。
空元気でも、そう言い張ることも出来ない。
レイヴンの言葉には気味が悪い程に真実味がり、また否定し難く感じた。
何より、そんな嘘の情報をアクセルに提供する必要が無い。
それもわざわざ、紅魔館まで再び出向いてまでだ。
 今までもそうしてきたように、この事態も受け入れるしかないのか。

流れに流れされ、落ちるとこまで落ちて、行くトコまで行っちまった。
そんな気分だってのに。
勘弁してくれ…。

もう一度溜息を吐いて、気付いた。
アクセルの掌が濡れていた。顔もだ。
椅子に座り、前屈みになるようにして頭を抱えていたせいか。
足元に視線をやると、床にも雫の跡がいくつもあった。
 それが自分の涙だと理解するのに、少し時間が掛かった。

何泣いてんだよ。

そう笑おうとしたが、上手く行かなかった。
余計に悲しくなるだけだ。

流石の俺様も、お困りの様だぜ…。

コンコン、と。扉をノックする音がした。

何処か弱々しい感じすらするノック音だと言うのに、やけに大きく聞こえた。
アクセルは返事をしかけて、止めた。
駄目だ。出れねぇ。この顔じゃ。
ゴシゴシと慌てて顔を擦って、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

それから、一度深呼吸する。
現在進行形で泣いている訳では無いが、自分は今、相当参った顔をしているのだろう。

再び、扉がノックされた。
 重い足取りで、アクセルは扉の方へと向かう。
 暗い部屋に響く靴音は、酷く虚ろだった。
 
 「…ん。今開けるよ…」

 アクセルは扉の向こうに居る人物に声を掛けつつ、ゆっくりと扉を開いた。
 淡い光が、その扉の隙間から室内へと差し込む。
廊下の方が部屋より明るいことに気付いた。
そして、扉をノックした人物と眼が合う。

あ…、と声を漏らしたのは咲夜だった。
やたら心配そうな顔をしている。

「お、もう動いても平気なのかい?」

咲夜が何かを言いかけたが、先にアクセルの言葉がそれを塞いだ。
ほんの一瞬だけ、沈黙があった。
咲夜は軽く頷き、アクセルは安心したように弱々しい笑みを浮かべた。
 
 「そっか…。でも、まだ無理しちゃ駄目だよ」
 
 腫れぼったい眼を細めて、優しげに言うアクセルを見上げ、咲夜の貌が曇る。
 あの…、とか細い呟きが漏れた。
咲夜は悲しげに目を伏せてから、アクセルを見詰め返す。

 「アクセル様こそ…その、大丈夫ですか…?」

顔色がよろしくありません…。
 咲夜のその言葉に、アクセルはだろうねぇ…、と肩を竦めた。
 弱々しい笑みが、今度こそ消えた。視線を咲夜から逸らし、アクセルは一度俯く。
 ゆっくりと息を吐いて、こめかみを押さえた。
それから、扉を少し大きく開けて、室内へと一度視線を向ける。
 
 「立ちっぱなしは堪えるでしょ…、中に入るかい?」

「…はい」

咲夜は促されて室内に入り、アクセルを振り返った。
大分参っているのか。
アクセルは咲夜とは眼を合わせないまま扉を閉め、そのまま室内のベッドへと歩を進める。

咲夜さんも座ってね…。
そう言って、片手で頭を抱えながら、アクセルはベッドの縁へと腰掛けた。
ベッドから少し横の位置に、木製の丸テーブルと椅子がある。
…失礼します。咲夜はその椅子に腰掛け、アクセルへと向き直った。

空気が重い。
今までアクセルと一緒に居る時には、ほとんど感じたことの無い種類の空気だった。
それほどまでに、今のアクセルは参っているということだろう。
椅子の腰掛けた咲夜の位置からは、ベッドに腰掛けるアクセルの横顔が見える。
酷く憔悴している。
眼にも力が無く、頬の雫跡が痛々しい。

 不意に。

「…何か、俺に用だったのかな」

アクセルが顔を上げ、咲夜へと視線を向けて来た。
いつものように、お調子者っぽい笑顔を浮かべようとして、失敗したみたいな顔だった。
 
 「いえ…、お部屋から出てこられないので、少々心配になりまして…」

「ちょっと考え事しててね…。そういや、旦那は?」

「はい…ソル様でしたら、もう随分前に、妖怪の賢者と共に紅魔館を去られましたよ」

え、マジ…。と、アクセルは驚くというよりも、意外そうな顔になった。
咲夜の貌が、心配そうに更に曇る。

「昨晩、あのレイヴンという者と話をしたあと、アクセル様が部屋に戻られてから…もう随分経ちます」

もう時間は昼前ですよ…。朝もお食事も取られて居ないだろうと思い、此方に伺ったのですが…。
咲夜のその言葉を聞いて、アクセルは無言のまま、ふぅ、と息を吐いた。
そんなに時間が経っていたのか。
全く気付かなかった。
 レイヴンの言葉を受け止め、自分の中で消化するので一杯一杯だったせいだろう。
何とか自分を落ち着かせるのに、相当時間が掛かったようだ。
おかげで、咲夜さんを心配させちまったなぁ。

「わざわざごめんね…」

アクセルは、また弱々しい笑みを浮かべて見せた。

「いえ…」

その笑顔を見て、咲夜は膝の上に置いた手をぎゅっと握る。何か言おうとして、眼を逸らした。
アクセルの笑顔が健気で、酷く危うい印象を受けたからだ。
 何とか、ギリギリの所で踏みとどまっている。だが、それは呆気なく崩れ、壊れる。
 そんな感じの笑顔だった。
 
咲夜はそんなアクセルを見詰め、距離を感じた。
アクセルの存在が、もの凄く遠くに感じるのだ。
椅子に腰掛ける咲夜と、ベッドの縁に腰掛けるアクセルには、少々距離がある。
だが咲夜には、それがとても遠くに感じられた。
 

「あの、アクセル様…」

「…何だい?」

ベッドに座ったままのアクセルは、両膝の上に肘を置くようにして、片手で頭を抱えた。
そしてその体勢のまま、視線を咲夜へと上げる。

「先程の、レイヴンという者の話は…」

アクセルは、参ったな、みたいな笑みを浮かべてから息を吐いて、項垂れた。

「まぁ…事実なんだろうねぇ。俺が此処に居る理由も、そっちの方が道理に合うよ」

本来、アクセルのタイムスリップとは、過去と未来を行き来するものだ。
別次元の世界に飛び出すことなど出来ない。
ならば何故、アクセルがこの幻想郷に辿り着いたのか。
その答えこそが、レイヴン言葉なのだろう。

度重なる時間跳躍と、永い時間漂流が「アクセル=ロウ」という存在を変質させた。
レイヴンは「進化」と言っていたが、恐らく、その表現もあながち間違いではないのかもしれない。

時間の流れの中。
その流れに逆らい、飛び行く夜鷲。「アクセル=ロウ」は、とうとう世界から追放された。
 そして、この幻想郷で目覚めたのだ。

つまりは、幻想入り。
忘れさられ、幻想となったのだ。やってらんねぇよな、ホント。
アクセルは笑おうとしたようだが、顔が少し引き攣っただけだった。
元の世界、元の時代に戻っても…誰も俺の事を覚えないし、知りもしねぇなんて。
…あんまりだぜ。

ぐすっと、鼻を啜る音がした。
そうして頭を抱え込むアクセルの姿に、咲夜の胸は酷く痛んだ。
瞼に焼きついた、戦うアクセルの姿のせいで余計だった。
弱りきった姿には、普段のお調子者然とした雰囲気は微塵も無い。
いつものおちゃらけた振る舞いも、アクセルが自身を保つ為の仮面の一つなのだろうが、今はそんな仮面を被る余裕すらないのだろう。

死よりも恐ろしいのは、誰からも忘れ去られ、無くなることだ。
其処には、何の痕跡も残らない。
アクセルは過去を失い、そして、絆や友情、思い出と居場所を一度に失った。
余りにも特殊な形で、何もかもを失い掛けている。

ここで失意の余り、アクセルが自分自身までを見失ったら。
心が壊れてしまう。
気付けば咲夜は椅子から立ち上がり、ゆっくりとベッドの縁に座るアクセルへと歩み寄っていた。
その静かな足音に気付き、アクセルはきまずそうに貌を上げようとして、やめた。
咲夜は構わず、そっと両手を伸ばした。
アクセルの右手。その涙で湿った指先を、握るのでは無く、優しく包む。
暖めるようにして触れた咲夜の掌の感触に、アクセルは「え…」と呆然としたように見上げた。

「アクセル様の悲しみは、私には想像も出来ません…」

まだ腫れぼったいアクセルの眼が、咲夜と合う。
咲夜も、どんな貌をして、その視線を受け止めていいのかわからない。
だが、真摯に、想いを伝える。

「ですが紅魔館の皆も、私も…決して、アクセル様の事を忘れません」

アクセル様は、此処に居ます…。
言って、咲夜は両の掌で、アクセルの右手を強く握った。
確かなぬくもりを感じる。
私達を守ってくれたこの手を、今度は少しでも支えたいと、咲夜は思った。

「ですから…どうか、ご自身を見失わないで下さい」

アクセルは呆然としたような貌で、咲夜の言葉を聞いていたが、すぐに何も言わずに俯いた。
下を向いたまま、大きく、ゆっくりと息を吐いてから、咲夜の掌をそっと握り返す。
そうだよな…。俺が俺を無くしたら、それこそお終いだよなぁ…。
俯いたまま呟いたアクセルは、ふぅ、と一つ息を吐いてから、笑顔を浮かべて咲夜を見上げた。
もうちょっと頑張るよ…俺。
その笑顔は、肩の力の抜けた自然な笑みだった。
頼りなさ気でもあり、優しげな笑顔だ。

「あんがとね…」

アクセルは目線を少しだけ下げて、ゆっくりと瞬きをした。
 そうだ。俺を知ってくれている人は、この幻想郷にはまだ居るじゃねぇか。
 紅魔館の皆もそうだし、宴会で出会った妖怪の少女達。
 それに、シン、イズナ、そして、旦那。
 考えを変えれば、レイヴンも、「あの男」もそうだ。
 何か方法があるかもしれない。
 レイヴンは希望と、自分を捨てろと言っていた。

 そうした方が良いんだろう。
 下手な希望なんて、きっと余計な絶望を連れて来る。
 でも今は、立ち上がる為の杖が要るんだ。
 そんな倒れそうなアクセルを引っ張り上げてくれた手は、しなやかで、美しかった。
 ありがたかった。
 
咲夜さんの手、暖かいねぇ…。

その言葉を聞いて、咲夜は正気に戻るというか、我に帰った。

手。
そうだ。
手だ。握ってる。
 ああ。
 何て事を。
 
其処で、咲夜は顔に血が上るのを感じた。
アクセルの言葉に安心したせいか。
或いは、何とか立ち直れそうな姿に安堵したせいか。

一瞬でいつもの冷静さが戻って来て、すぐにまた何処かに飛んで行ってしまった。
だが、その一瞬が不味かった。
今更に、自分がアクセルの右手を両手で握っていることに気付き、軽くパニックになりかけた。
身体が硬直して、上手く動かない。
じっとりと掌が汗ばんでいるかもしれない。
そんな事を考えている場合でもないのに。

「ぁ…いぇ、しょの…」

舌が上手く動かない。
咳払いをして、何とか自分を落ち着ける。

ゆっくりではあるが、何とかアクセルの掌を放そうとした。
しかし、上手くいかず、中途半端に解かれた掌は、アクセルの指先を摘んだままだ。
さっきまでは、悲哀に暮れるアクセルを何とか支えて上げようとしていたが、それ所では無くなってきた。
今になって、早鐘を打つ鼓動。
汗を搔いているのが自分でも分かる。
動悸。眩暈。
絡む指先の感触が、やけに生々しくて、甘美で、嬉しくて、恥ずかしい。
アクセル様の手って、大きいけどスベスベしていて…。
そんな風にぼぅっと考えかけていたせいで、ベッドが軋む音に、ギクッとした。

ゆっくりと、アクセルが立ち上がったのだ。
その右手は依然、咲夜に摘ままれたまま。
アクセルは、摘まれた手右へと視線を落としてから、もう一度「あんがと…」と呟いた。
小さな声だったが、それは部屋に重く響いた。
決意。覚悟。そういったものが滲む声だったからだろう。
次の瞬間には、ぐぅ~…、と間抜けな音が、アクセルの腹から鳴った。


アクセルと咲夜は、お互いに顔見合わせた。
先に笑ったのは、アクセルだった。

「いや、励まされてちょっと前向きになれたからかな…。急に腹減ってきたよ」

やや元気が無いが、いつもの軽い調子で笑うアクセルに助けられた。
咲夜もふっと微笑む。
そして、掌の暖かさを惜しむようにゆっくりと、摘んでいた手を放した。
もう少し、その手に触れていたかった。
そう思う前に、咲夜はアクセルから半歩離れ、小さく頷いた。

「では、お食事をご用意致します…。何か、召し上がりたいものなどありますか?」

「いや、俺も手伝うよ。…俺だけ、のんびりしてる訳にもいかないしねぇ」

余り、無理をなさらないでくださいね…。
そう言って咲夜はアクセルに背を向け、部屋の扉へと歩を進める。
姿勢良く、優雅ですらある後ろ姿を見ながら、アクセルは気付かれないように溜息を吐く。


背負うべき記憶と過去の重さ。
それを無理矢理に奪われた喪失感は、やはり胸に穴を空けんばかりに吹き荒んでいる。
この寒さを埋める為にはどうすればいい。
艱難辛苦の生を続ければいいのか。
彷徨い続ければいいのか。
考え出すとキリが無い。

全部無くして、ヤケクソになって、手ぶらのまま戦って死ぬ。
それは、案外簡単なことなのかもしれない。
だが、その死の間際に、誰かを想うことも、想われる事も無いのは哀しすぎる。

だから、元の世界に、俺の存在を思い出させてやる。
そう出来ると信じたい。

アクセルは咲夜の後ろに続きながら、天井を仰いで眼を閉じた。

そうさ。
嘆くのは時間が出来た時でいい。
落ち込んでる場合じゃねぇ。
今は戦わなきゃな。














[18231] 二十二話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/04/19 21:38
幻想郷、というよりも…これじゃパンデモニウムだなぁ…。
薄暗い研究室の冷えた空気の中に、男の呟きが混じる。
それは鉄の匂いと交じり合って、すぐに溶けて、消えた。
大型の機械類に囲まれた男の目の前。
其処には巨大なモニターが在り、幻想郷の地図を映し出している。

男はモニターへと右手を翳し、空間を撫でるように振るう。
その手の動きに合わせ、モニター上に更に細かなウィンドウが、いくつか開かれていく。
緩い明滅が、薄暗い研究室を照らした。
眼を細め、男は左手を自分の体の横に翳し、其処に更にモニターを開く。
身体の右横。その空中に表示、展開されたモニターと、眼の前の巨大モニターを見比べて、男は、「う~ん…」と呻る。
その溜息と重なるように、一際激しい明滅が、薄暗がりを焼いた。
巨大モニターに展開された細かなウィンドウ其々が、映像を映し出したからだ。

それは幻想郷の住人達と、終戦管理局の木偶達との戦闘の様子だった。
男は眼を細めて、それらの映像を睨む。
強いねぇ…、皆…。呟きながら、男は額に指を当てた。

どのウィンドウに映し出される映像も、展開は似たり寄ったりだ。
終戦管理局の木偶達が、良いように蹂躙され、破壊されている。

モニターからは、金属がひしゃげ、砕かれる、甲高く不快な音が断続的に響く。
それに弾幕の閃光が混じり、怒号も聞こえた。
妖怪の山。地霊殿。人里。
それらの場所で行われた戦闘は、終戦管理局の惨敗。
モニターに展開されたウィンドウが示す内容は、ただそれだけだ。

木偶だけでは、全く歯が立っていない。
幻想郷に住まう者の力は、確かに大小有るだろうが、それでも木偶達を退けるには十分だったようだ。
それに、展開された終戦管理局の木偶達に対応する早さも、相当なものだった。
探知、捜索系統の結界か…。張られて当然だけど、此処まで高性能とはねぇ…。
男は呟き、顎に手を添え、唇を舐めた。
そして、微かに口元に笑みを浮かべる。
少しの間、男はモニターを眺めてから、ゆっくりとモニターに右手を伸ばした。
その右掌に濁った青色の法術の光を纏わせ、男はモニターに触れ、操作する。
同時に左手でも、空中に展開されたウィンドウを叩き、操作していく。

男の手の動きは繊細で、まるで鍵盤を叩き、ピアノを演奏するかのようだ。
それでいて、男の眼は冷静に、モニター、ウィンドウが示すデータを読み取っている。
光の揺らぎと明滅が奏でられ、情報を吸出し、記録し、解析していく。
掌に灯った、法術の光が揺れる。


「ケチョンケチョンニヤラレタ様ダナ」

やけに人間臭い合成音声が、男の背中に掛けられた。
がしょん、がしょん、という、何処か間抜けな足音もする。
金属と機術器具に埋め尽くされた空間には、酷く馴染まない。
ロボカイだった。以前の白玉楼戦に参加した、人格AIを搭載した個体である。
マントを脱いだ騎士服姿は、何故かやけ人間臭い。
それは、首を傾げる仕草や、歩き方、向けてくる視線などに奇妙な生気が宿っているせいか。
まるで、その金属の皮膚の下に生身の人間が入っているかのようだ。

男は肩越に視線を向けて、少しだけ笑って見せた。

「まぁね…かなり一方的にやられたよ」

削られた戦力も、小さくないしね…。頭が痛いよ。
言ってから、男はまたモニターへと顔を向け、両手でウィンドウの操作を始める。
その後ろ姿を見詰めながら、ロボカイは器用に無い鼻を鳴らした。

“上”ノ連中ハ数サエ在レバ征服ハ可能ダト、未ダニ考エテイルヨウダナ…。
ロボカイは言いながら、男の隣まで歩み寄り、モニターを見上げた。
窓のように四角い両目が、表示されたデータ、戦闘の様子を映す。
丁度その時、一つのウィンドウに表示された映像から、轟音が漏れた。

一人の天狗が、暴風を巻き起こし、木偶達を木の葉のように吹き飛ばしたのだ。
続いて、さらに別のウィンドウでは、核爆発を思わせる程の大火球が、木偶の群れを飲み込んだ。
また、別のウィンドウでは、澄んだ朱光の札と、星屑の流弾が溢れ、木偶達を押し流す。


ロボカイはその様子を、無言のまま静かに見詰めていた。
ギチリ、と、金属の擦れる、硬い音がした。ロボカイが拳を軽く握ったのだ。
モニターを操作しながら、男はそんな様子のロボカイを横目でチラリと見て、すぐに視線を外す。

男もロボカイも何も言葉を発しなかったが、漏れる戦闘音のせいで静寂にはならなかった。

弾幕が地を削る音。閃光の明滅。暴風の轟き。
それらは暫く続いていたが、やがて、少しずつ収束に向かうように、徐々に小さくなっていった。
木偶達の襲撃が鎮圧され、駆逐され、沈静化されていく。

…ヤハリ吾輩ノ様ナ指揮個体ガ無ケレバ、幻想郷ノ者達ニハ歯ガタタンナ。
そう言ったロボカイの声は、やけに低く、真剣味のある声だった。

「“上”の人達は、過程なんてどうでも良くて…結果だけを求めるからね」

まぁ、今回の大敗で、考えを改めてくれると思うけど…。
男はモニターを操作する手を止めて、ロボカイに視線を向けてから肩を竦めて見せた。
そして、凝った肩をほぐすみたいに左手で右肩を揉みながら、疲れたように息を吐く。

「コーヒーでも持ってきてくれれば、嬉しかったんだけどね」

冗談めかして言った男の眼は、しかし冷静だった。
次の一手。またその次の一手を考え、頭の中で検討している。
そんな眼だった。
ロボカイは、「今度カラ持ッテ来テヤロウ…」と、生意気なんだか殊勝なんだか分からない返答をして、もう一度モニターへと視線を向けた。
表示された幾つもの数値と、ウィンドウに映し出される戦闘状況を見比べる。
ただ無機質な四角い眼は、何も変化を示さない。

「まぁ、コピー達を失った分、戦闘データは得られたし…収穫はゼロじゃないよ」

傍にあった金属の丸椅子に腰掛け、ロボカイに倣い、男もモニターへと視線を上げる。

「フランドール・スカーレットに施した洗脳術もほぼ成功していたしね…」

「以前、アノ竹林ノ♀ニ施シテ失敗シタ洗脳術ノ事カ?」

ロボカイはモニターから視線を外し、椅子に腰掛ける男に向き直った。
男は軽く頷いて、右手に濁り青の光を灯す。

「ああ、そうだよ…。確かあの時は…君達のコピーが焼かれて、遁走したんだっけ…」

男の脳裏に、火の鳥を象った浄火を纏う、白銀の髪の少女が浮かぶ。
かつて竹林に居たあの少女は、中途半端に掛かった洗脳のせいで、戦闘欲に突き動かされ半狂乱となった。
その時の少女は、手に負えない焔力の塊だった。
不死の浄火の輝きは黒ずんで、擦れたような灰色に変わり、より凶暴に猛り狂っていた。
改めて幻想郷に住まう者達の力を、認識させられたのを覚えている。

そして、それを鎮めた、あの白い狐耳の妖怪も気になる。
日本刀と、法力に極めて近い術を駆使し、黒い火の鳥と渡り合っていた。

出来れば、両者ともサンプルとして手に入れたい。
そこまで考えてから、男は右手に灯した法力の揺らめきに眼を落とし、唇を歪めた。
灯る濁り青の光は、何処か邪悪で、不吉だった。

「失敗を重ねてはいるけれど、確実に技術は進歩してる…」

ロボカイは、男の手に宿る光へと視線を落としてから、「フム…」と声を漏らした。

「モウ次ノ作戦ハ立テテアルノカ、駄目博士…」

ある程度はね…、と答え、男は手に宿った光を消して、モニターへと再び視線を向けた。
それから、また自身の前に手を翳し、モニターを宙に展開。それを操作する。
今回、広域に渡って戦力を投入したけど…。幻想郷側のレスポンスは、結構興味深くてね…。

男が言いながら表示したウィンドウ。
其処からは、電子的な光とは少し違う、自然の明るさを思わせる光が漏れている。
声も聞こえる。人の声。複数だ。
其々の声には、活気のある生活の暖かみがあった。

展開されたウィンドウには、人の暮らす里が映し出されていた。

ロボカイはその映像に眼を向けながら、首を捻る。
変わったところも無ければ、別に注視すべき光景でもない。
幻想郷には人里が存在し、其処には「人間」が暮らしている。
それ位の情報は、ロボカイも既に印インプットされているし、今更確認する事でもない。
だが、男の方はウィンドウに映し出された映像を一瞥してから、唇を歪めて見せた。
コピー機体を人里に向かわせたのは、賢者の行動を抑える為だったんだけどね…。
男は言いながら、再びウィンドウに手で触れて操作する。

ところが、だ…。
コピー機体がこのポイントに辿り着いた時には、この人里が丸々消えていたんだよ。

操作され、男の言葉と同時に展開した別のウィンドウ。
其処には、広漠とした森林の茂みが広がっているだけで、人々の暮らしの痕跡など微塵も無い。
未開の如く自然が地を覆い、人はおろか動物の姿さえ見えない。
不自然な程に静まり、またワザとらしさすら感じる「自然の風景」。
まるで、存在していた時間そのものが、切り取られ、隠されたようである。
二つのウィンドウを見比べてから、男はロボカイに視線を向ける。
それから椅子の上で脚を組んで、軽く肩を竦めて見せた。

「この二つのウィンドウに映し出されている場所が、同じ場所だって信じられるかい?」

ロボカイはモニターを見上げたまま、ムゥ…、と呻る。

「隠蔽用ノ結界カ。ソレニシテモ…」

「巧妙に隠されてるよねぇ…」

男の言葉に続くようにして、木々を掻き分け、背の低い木々の枝をへし折る音が響いた。
ウィンドウに映された森林の中を、大量のロボカイのコピー機体達が行軍しているのだ。
ギギギ。ギギギ。ギギギ。
金属の声が葉擦れの音に混じりあい、ギミックの軋みがそれを上塗りし、酷い不協和音を奏でている。
生気の無いコピー達は、攻めるべき目標地点である人間の里を見失っている。
人格AIを搭載していないコピー達は、同じ所を行ったり来たりするだけだ。
戸惑い、途方に暮れるというよりも、作業のように歩を進め、のろのろと目的地を探している。。

其処に、突如として弾幕の雨が降り注いだ。

澄んだ朱色の光を纏う札に、星屑を模した魔弾の雨。
コピー達は反応こそしていたものの、それらの弾幕を捌き、かわし切ることは出来なかった。
何体ものコピー達が鉄屑に変わり、また身体の一部を破損状態に追い込まれた。
更にそのロボカイ達を畳み掛けるべく、空間を引き裂くようにして割れた黒い亀裂の群れが、空に口を開いていた。

無数の眼が覗く、黒い亀裂。

そのうちの一つから、妖怪の賢者がずるりと姿を現した。
左手に持った扇子で口元を隠し、右手に携えた日傘で目元も隠している。
表情は見えない。
賢者の背後では、黒い亀裂が蠢いて広がり、引き伸ばされて、不気味なうねりを見せている。
亀裂の内から覗く無数の眼は、ギョロつきながら眼下を見下ろし、まるで空間そのものが生きているかのようだ。

境界を操りつつ、周囲の空間を歪ませるその賢者の両脇に、二人の少女が並んだ。

一人は巫女装束に身を包んだ、黒髪の少女。
凪いだ表情のまま、紙垂れと札を構え、眼下のコピー達を睨んでいる。

もう一人は、白黒の古風な魔法使いの格好をした少女。
箒に跨ったまま不敵そうな笑みを浮かべ、手にした八角形の炉に光を灯していた。



「回答の一つとしては多分、この三人かな…。
特に“境界操作”の力が関係してるんだろうけど…」

ここまで綺麗に存在を隠せるものなのかねぇ…。
男はウィンドウを見詰めながら呟いて、何とも言えない溜息を吐いた。
もう、溜息でも吐くしかない、と言った感じだ。
無理も無いかもしれない。

ウィンドウに映し出される戦闘では、コピー達は押されに押されている。
それ位、この三人の力は凄まじかった。

巫女装束の少女は、紙垂を振るい、札を放ち、付け入る隙を与えない。
札が描く結界が、コピー達を追い散らす。
押し潰すかのよう殺到する木偶達を、体術と紙垂を巧みに操り、受け流し、捌いていく。
またその一連の攻防の中で、指で印を結んで防御結界を張り、周囲全ての木偶達を押し返し、吹き飛ばして見せる。
吹き飛ばされた木偶達がそこらの木々にぶつかり、また地面にひっくり返って、まるで相手になっていない。
その隙に、巫女の少女は更に印を結び、弾幕を展開する。
清廉であり、余りにも穢れの無い朱と緋。
その二色が織り成す弾幕の札は、幾重にも結界を刻み、コピー達の戦列を打ち砕いていく。


魔法使いの少女は、詠唱を続けながら空を駆け巡って星屑の弾幕をばら撒き、手に光を集める。
振り来る弾幕は、木偶のコピー機達の群れを上空から猛襲した。
金属を穿つ流弾に、多くの木偶達が蜂の巣にされ、崩れ落ちる。
だが、魔法使いの少女の攻撃は終わらない。
掌に集まったその光は、少女が手にした八角形の炉に収束。
そして光は次第に虹色に変わり、七色の帯を空に描く。
不敵であり、また挑戦的な笑みを浮かべた少女は、その光を、炉を、地上の木偶達に向け、放った。
それは、巨大な光の奔流だった。
一気に、生き残った木偶の群れを押し流し、破壊した。


妖怪の賢者は、宙に佇んだまま視線を周囲に巡らせつつ、扇子を振るう。
ただそれだけで、空間に亀裂が奔り、割れて、人喰いのスキマが無数に開かれていく。
木偶達の逃げ場など、最早何処にも無かった。
抵抗らしい抵抗も出来ていない。
ただ無為に、噛み砕かれ、飲み込まれ、捻じ切られ、潰されていった。
相手にならない。いや、戦いにすらなっていない。
作業のように単調に進められたその駆逐は、賢者の絶対的な力を物語っていた。
この世から隔絶された存在。
生命が宿った超常であり、その意思一つ。八雲紫。

しかし、その妖怪の賢者の貌は、険しい。
圧倒的な優位に立ちながら、其処に余裕らしきものは一切無い。
美しいその顔に浮かぶ表情は、焦燥か。



「まぁ、何にせよ…」
男はモニターから視線を外し、一つ息を吐いた。
そして脚を組み換えて、その膝の上で手を組む。
他の二箇所に比べて、此処にはかなりの戦力が集められていたからね…。
男は言いながら、視線をモニター上に滑らせた。

此処まで大きな反応が返ってくると、ちょっと気になるよ。
もしかしたら、幻想郷の背骨は…案外、この人里なのかもしれないなぁ…。
ぶつくさ言いながら、男は首を回した。そして、一つ息を吐き出す。


「今の拮抗状態を保てているし…何より、相手の手札も大分開けたからねぇ」

「こぴー達ヲコレダケ大量ニ失ウダケノ成果ガ在ッタノカ…。ドウモソウハ見エンガナ」

ロボカイの言葉に、男は少しだけ唇を歪めた。
このロスを生かすには、それ位プラス思考にならないと…、と冗談めかして言う。
だがその言葉には、何処か狡猾で、不穏な響きが混じっていた。

「楽観する訳じゃないけど…。どんな切り札を出されても、対策を用意出来れば抑える事は可能だろうからね…」

手札を晒させる。
それは相手に、強さと弱さを同時に開示させる事を意味する。

今回の襲撃では、終戦管理局が受けた損害は小さくは無い。
だが、幻想郷の持つ手札を開示させ、ロスを補うだけの多種多様なデータを手に入れた。

幻想郷を攻略するに当たり、何処を攻め、何処を避け、何処を崩し、何処を捨てるか。
得られた貴重なデータは、それらの選択肢をより広げ、効率化し、確実性を持たせる。
そして、戦闘においても、「情報」は強力な武器となる。
法力機術の細工士である男にとって、それは設計図であり、羅針盤だ。
男は、モニターに映し出された幻想郷の地図を見上げ、眼を細める。


「現段階で、此処まで拮抗出来ていれば上出来だよ。被害も、まだ僕の想定の範囲内だ」

もっとも、“上”の人達にとっては…幻想郷に対する甘い認識を、改めざるを得ない被害なんだけどね。
男は言いながら苦笑してから、椅子の背もたれに身体を預けて眼を閉じた。
休むみたいにゆっくりと息を吐いて、一つ欠伸を漏らす。
疲れが溜まっているのか。
男は掛けていた眼鏡を外し、瞼を指で揉み解す。

「少シ休ンダラドウダ? 駄目博士。頑張リスギテ、脳味噌マデ駄目ニナッテハ、本当ノ駄目博士ニナッテシマウゾ」

「違い無いね…。僕から研究を取ったら、残るのは骨と皮だけだ」

くっく、と男は可笑しそうに笑い、座ったままコキコキと肩を鳴らした。
モニターから漏れる電子の光が、また一際強く明滅し、鉄器の空間を染める。
だが、男は特にモニターには視線を向けず、代わりに眼鏡を掛け直し、ロボカイを見上げた。

「君の方はどうだい? その身体の調子は…」

その眼には、もう疲れは浮かんでいない。
冷静で、やけに鋭い光を帯びている。

「如何モ何モアルカ。みさいるらんちゃーハオロカ、ばずーかニぷろぺらマデ、殆ドノ武装ヲ外シオッテ」

無闇矢鱈ニ軽クテ、逆ニ落チ着カンゾ。
ロボカイは、自分の両手を見比べ、それから自身の体を見下ろした。
外見上は、大きな変化は無い。
だが、騎士服のインナー姿のロボカイの声は、不満というよりも戸惑ったような声だった。
黄色の窓眼の光が、椅子に座る男に向けられ、淡く明滅した。
その様子を見て、男はそうだろうね…、と頷く。

「ギミックの多くを削ってあるからね…。変わりに、新しい型の法力エンジンを搭載したんだよ」

「…ソレハ、武装ヲ引キ剥ガスダケノ性能ガ在ル代物ナノカ?」

強化サレタ実感ガ、全ク無インダガ…。
ロボカイの声は、やはり不審そうだ。
掌を握ったり開いたりして、その感触を確かめている。
まだ調整中だからね…。
男はロボカイを見上げながら、何かを思案するように口元に手を当てる。

「それに…そのボディは、君の人格AI専用にチューニングしてあるんだよ」

「吾輩専用…?」

「そうだよ。“君”専用だ」

男の言葉に、ロボカイは首を傾げながら、ンンンゥゥン…?、と呻った。
奇妙な程人間臭くて、その電子音声にも生気らしきものすら感じる声音だ。
気持ち悪い位に生々しい。

そして、何かを思い付いたのか。
ウホッ…!と変な声を出して、はバッと貌を男に向けた。
そして、ビコーーーン、という間抜けな音がロボカイの頭から鳴った。
次の瞬間だった。
ピカァッ!!、っとロボカイの窓眼が光り輝いた。
凄い光の量だった。何と言うか、大型の照明器具さながらの光の照射だった。
薄暗かった研究室が、一瞬で光で埋め尽くされる。
モニターから漏れる光など、最早消し飛ばされ、真っ白だ。
その正面に居た男にとっては溜まったものでは無いだろう。

うおす!? 眩しいっ! っていうか熱…ッ!?
事実、男は椅子から転げ落ちて、顔を腕で庇いながら後ずさった。
だが、そんな男の様子などどうでもいいのか。
ロボカイは自分の顎を撫でながら、ムッホッホ、と嫌らしい笑い声を漏らして、ついでに窓眼の光はしきりにビカビカさせた。

「うおっ!?、眼が…眼がチカチカする…! おい、そのライトを消してくれ!」

男の方は顔を腕で覆いながら、しきりに瞬きをしたり、眼を擦ったりしている。
疲れも眠気も吹き飛ぶほどに、そのロボカイの照明効果は激烈だったようだ。
ロボカイの頭の中で、チーン…、と電子レンジのようなやたら軽い鐘音が鳴った。
そして、ぶぅぅぅん、という低い機械音と共に、強烈な窓眼の光が薄まっていく。
「スマンナ! 駄目博士! ツイ! 興奮! シテシマッテナ!!」
嬉しそうに声を弾ませるロボカイには、まるで悪びれた風でも無い。
相変わらず態度が悪いが、これも今に始まったことでもない。

酷い目に会ったよ…。
眼をしぱしぱさせながら、溜息を吐く男に、ずいっとロボカイは迫った。

「サァ、吾輩専用ノちゅーにんぐトハ、ドンナ素敵仕様ナノカ、詳シク聞コウ!」

「どんなって…」

詰め寄られ、男はどんな表情をしていのか困った。
このロボカイの異常なまでのテンションの上がり方。かなり嫌な予感がした。

「全テノ衣服ヲ透視出来ルSUPER☆NOZOKI☆EYEモ、勿論強化サレテ続投完備シテイルンダロウナ!」

その通りになった。
呆れながらも、ロボカイの物凄い剣幕に押され、男は一歩下がる。
特大の溜息でも吐いてやろうかと思ったが、その溜息をつかせる気も無いのか。
ロボカイはずんずん寄ってくる。
興奮しすぎて、ロボカイの頭の後ろからぷしゅー、ぷしゅー、と湯気が出ていた。
吾輩ノ中ニ宿ル、鋼ノえろすえんじんガ、熱暴走寸前ダ! へらくれすぱおーんダ!
文字通り、期待にその窓眼をビッカビカ光らせるロボカイを見ながら、男は「あのね…」と落ち着かせるように言う。
落ち着いた男の声は、やけに虚しく研究室内に木霊した。

「ンンンンン…?」

「無いよ、そんな機能は…」

しばしの沈黙の後。ロボカイはゆっくりと首を右に傾げた。
暫く、ロボカイはそのまま動かなかった。

そして、何かを拒むかのように、今度は左へと首を傾けた。
研究室に、もとの薄暗がりが戻りつつある。

確かに、新しい武装と機能を入力してあるけれど…。
研究室に漂う金属独特の匂いと冷たさを感じながら、男は呟いて一度頷いた。

「言っただろう? ギミックの多くを削ったってね」

ビシィ…、と何か硬い物に亀裂が入るような音が聞こえた。
その何処か切なげな音は、ロボカイの胸辺りからだった。

「君の言う、女性の衣服を透けさせたりする機能は搭載してないよ…。
というか、その機能も君が勝手に開発して、自分で組み込んだ機能でしょ…」

ついでに言えば、もう余計なプログラムを積める容量の余裕も無いからね…。
男のその言葉に、ロボカイはその場にへたり込んだ。
いや、崩れ落ちた。

がしゃっ…、という金属音は、やけに哀愁の漂う音だった。
吾輩ハ…。吾輩ハ…。生キル希望ヲ…失ッタ…。
もう怒るような気力も無いのか。
音の擦れた、壊れたラジオをみたいな声でロボカイは呟いた。

「めろんばすとヲ覗ケヌ体ナド、錆ビ朽チタ小便小僧ヨリモ無価値ナリィ…」

ゥオオオオ……オオオ……。
そして、とうとう今度は泣き出した。
かと思えば、「めろんばすと…めろんばすと…めろんばすと…」と呟きながら腹筋を始めた。

本格的にバグって来ているようだ。

「忙しい奴だな、君は…」
男は苦笑するみたいに言って、その右手の上に濁った青黒の光を灯した。

それは法力機術の灯火。
金属と機械、あらゆる造形物に命を与える、細工師の魂の光だ。
男の手に宿った青黒い光は、決して強い光では無い。
だが纏わりつくかのような、粘着性のある微光の揺らぎだった。
科学と魔法が灯した、新たな可能性への法の光。
男はそれをロボカイに宿すように、右手をゆっくりと翳す。

その瞬間。
研究室の薄暗がりを、青黒い微光が照らした。
その光源から、緩い波紋が渡っていく。
脈動が響いた。
法力が鋼に宿り、それが金属の血となり巡る鼓動だった。

「ムォ…!?」

青黒い光の揺らぎは、土が水を吸うようにロボカイに浸透していく。
金属で出来た体が、喜びに軋みをあげ、熱を帯びた。
金色の火花が散り、それが電脈となって、ロボカイを覆うように奔った。
その様子は、金属の強靭さと、堅牢さ。そして、柔軟さを感じさせる。
それは、男の法力機術の灯火と、今のロボカイの体の親和性の高さを物語っていた。

ロボカイも、自身の変化に驚いている。
ガバッと立ち上がり、男と自分の体を見比べ、男は唇を少し歪めて見せた。

「もう気付いたと思うけど…その身体は、法術を用いた戦闘に徹底特化してあるんだよ」
僕達の場合でもそうだけど、法力を行使するのは精神だ…。
男の方は、手に灯した法力の灯火を消して、微かに唇を歪めて見せた。

「だから、そのボディは、君の人格AIとの親和性を極限まで高めてるんだ。
強度も申し分無い筈だよ。機術の粋を集めて造ったんだ」

ロボカイの纏う金色の電脈は、電気というよりも、霊的なものを感じさせる。
神聖さとはまた違う。厳かさ、というべきだろうか。
徹底的に鍛え上げられた金属の持つ、重厚感。
それが、男の手によって灯された法力により、ロボカイの身体に宿っていた。
安い金属の怠惰さは、其処には微塵も無い。
ロボカイの纏う雰囲気が、大きく変わった。
その様子を満足げに眺めて、男は「馴染むまで、少し時間が掛かるかもしれないね」と笑った。

「何故ワザワザ、吾輩一体ノ為ノぼでぃヲ用意シタノダ…。
コンナモノヲ製作スル暇ガ在ルナラバ、じゃすてぃすノこぴーデモ用意シタ方ガ効率的ダロウ」

ロボカイの音声は、明らかに不審そうだった。
それでいて、やはり戸惑っている。責めている訳では無い。
ただ、男の真意を測りかねている。そんな声音だ。

対して、男の方は、笑みのまま眼を伏せた。

「少し話しは変わるけど…君の人格AIは、他のKシリーズにいくらコピーしても、君と同じ性格にはならないんだ」

男はモニター前まで移動して、そのウィンドウに触れ、画面を切り替える。
今まで映し出されていた幻想郷の地図が消え、代わりに、ロボカイ達が並べられた格納庫の映像が映し出される。

ロボカイはその映像に眼を奪われた。
暗い空間の中、僅かな照明に照らされて、整然と並べられたロボカイ達。
彼らには、今この場に居るロボカイの持つ人間臭さや、生気は全く無い。
完全な造物であり、意思を持たない機械の兵士。木偶。

不思議だよねぇ…。男もそのモニターを見詰めて、小さく呟いた。
君と同じパーツ。君と同じ構造。君と同じ人格AI。それらを全て揃えても、君と同じ個体は出来上がらないんだ。

感情らしきものを持つロボカイにとって、その言葉はどんな響きに聞こえるのか。
ロボカイはモニターから窓眼を離し、俯く。そして、再び金属の掌を握って、開いた。
自身の存在を確かめるかのように、それを繰り返す。
しばらくそうして、それからロボカイは男に向き直った。

「何ガ言イタイノカ、イマイチ分カランナ」

男は眼鏡越しの視線を少し鋭くして、モニターとロボカイを見比べた。
AIを搭載した他の個体では、君と同じように…その精神を成長させ、自我を持つまでには中々至らない、という話だよ。
大抵の個体は、AIの導入により無条件の忠誠を誓ってくれる。
ある意味では、それは確かに完成型ではあるんだけどね…。

そこまで言った男は、モニターを再び操作し、画面を切り替えた。
其処に、今度はロボカイでは無く、ジャスティスのコピー体達が映し出される。
ジャスティスにコピー達は、薄緑色の液体で満たされた巨大なシリンダーに保管され、出撃の命令を待っている状態だ。
巨大シリンダーは、まるでリボルバーの銃に込められた弾丸のように束になって並べられている。
薄緑色の液体に浸されたジャスティスのコピー達の眼は緩く閉じられ、シリンダーを照らす緩い照明が波状に歪む様は、胎内という言葉を連想させた。

殺戮兵器にしては、寝顔は中々可愛いものだよねぇ…。

男はモニターを見詰める眼を細めてから、ロボカイに向き直って肩竦めて見せた。

あれだけの戦闘能力を持つジャスティスのコピーですら、人格AIを発展させ、自我を得るまでに至った固体は、今までに居ないんだよ…。
全て、意思らしいものを持たない「兵器」としての完成型だ…。
分かるかい? 君のその“自我”が、どれだけ貴重なものなのか…

冷静だった男の声に、僅かに熱が篭った。
今までとは違う響きが、鉄器の空間に響く。

「君の精神は、君だけしか持ち得ない。さっきも言ったけど…、
身体と精神の親和性は、法力を放出する性能に大きく関わる事だからね」

今まで静かに話しを聞いていたロボカイが、不意に鼻を鳴らした。
「吾輩ノAI…、イヤ、“自我”ニ合ワセタ身体ヲ…在リ合ワセデハ無ク、別ニ用意スル必要ガ在ッタノカ」

「ああ…。それに、だ。君をチューンする事自体が、既存の法力機術を大きく前進させる可能性が在るんだよ」


ふと、ロボカイは思い出す。
かつて、自分は死んだ。白玉楼戦で身体を破壊されたのだ。
戦闘データと人格データを終戦管理局へと送ってはいたが、紛れも無く、一度死んでいる。
人格AIを発展させ、自我を持つに至った過去の自分は、もう破壊されたのだ。
だが破壊される前に、その人格データは戦闘データと共に、終戦管理局へと送信していた。

そこまで思い出して、気付く。
先程、男は「AIはコピーしても、オリジナルと同じにはならない」。
そう言っていた。

ならば、送られた人格AIのデータを入力された、吾輩は何だ。
今の“自我”とは何だ。“吾輩”は何者だ。
自身は、模造品の模造品なのか。
ロボカイは知らず、自分の足元を見詰めていた。


「気付いたみたいだね…。そう、厳密には、君は“過去の君”とは違う…」

男はモニターに背に凭れながら腕を組んで、ロボカイに向き直った。
そして、右手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。

「だが、それは大した問題じゃない。重要なのは、君が“自我”という精神を持っている事だ」

さっきも言ったけど、法力の大きさは、肉体と精神の親和率に比例する…。
そう呟いた男の眼には、妖しくも冷静な光が灯っていた。


造物の体と、造物の心の親和率は、本来限りなくゼロに近いんだよ…。
精神や自我と言ったものが存在しないからね。
Kシリーズやジャスティスのコピー達が扱う法術は単なるプログラムであって、精神から編まれ、紡がれた力じゃない。
そこには最初から限界が在り、その限界を絶対に超えられないんだ。
でも、君は違う…。
一度死んで尚、人格データから再び蘇った。
蘇ってくれた。
今思えば、これは本当に大きな収穫だったよ。
…僕も、此処最近の研究の中で考えが少しずつ変わりつつあってね…。
本当に価値あるものは、多分…記憶や思考、そして心だ。
君は、それを取り戻した。
君は過去の君とは違うかもしれない。
でも、そう考える事の出来る“自我”は、金属とAIには存在しない筈の『親和率』を発生させる。
今更気付く僕が間抜けだったんだ。…これは偉大な発現だよ。
機械の体と、プログラムという精神の親和率は、兵器の意味を変える。


そこまで言ってから、男は一度深呼吸をした。
少し興奮しているようだ。鼻息が少し荒い。
それを落ち着かせるように、男はもう一度鼻から大きく息を吸い、口から吐いた。
凭れたモニターを肩越しに見て、何かを思い出すみたいに眼を細める。
その眼鏡のレンズには、シリンダーの中で眠るジャスティスが映っていた。
ロボカイもモニターを見詰め、男の言葉を待った。

ロボカイ自身も、知りたかった。
肉の身体には宿れないこの“自我”が、どんな可能性を秘めているのかを。
何が、この男を其処までに惹き付けるのか、
不意に、男は、穏やかですらある笑みを浮かべた。
そして、凪いだその表情のまま、再び話しだした。


100%の親和率は、オリジナルの肉体と精神でしか達成出来ない。
だが、100%を上回ることも出来ない…。
しかし、だ。
機械の身体と、AIという精神が生み出した僅かな親和率は、法力機術によって増幅させる事が可能だ…。
生物の限界でもある、親和率100%を超える事も出来るだろう…。
そうなれば…法術を扱う戦闘に於いて、生物の限界を遥かに超えた力を発揮できる筈だ。


その男の言葉に、ロボカイの手が震えた。
100%を超える、肉体と精神の融合。それは進化であり、未知の領域だ。
戦闘の為に生まれたAIが、機術を根底から覆しかねない、大きな進化の第一歩になりつつある。

「それに…」

男は冷静でありながら、包容力のある声で呟いた。
その表情も何処か柔らかい。

「金属の身体と造物の精神の狭間で…、君がどんな心を見つけて、どんな魂を育むのか…
 非常に楽しみでもあるんだけどね」

まぁ、親心…という奴かな…。
男は冗談めかして言って、少しだけ笑う。
その表情に、ロボカイは何を言おうとしたのか分からなくなった。

人間とは不思議なものだ。
機械ばかり弄くる陰気な研究者。
そうかと思えば、優れた工匠の持つ、魂を込める情熱や真剣さも持っている。
反面で、幻想郷を侵略する際は、冷静で冷酷な指揮官となる。
そして今、ロボカイが今まで見ている男の表情は、そのどれとも違った。
多分それは男の中で、ロボカイに対する考え方が変わったせいだろう。

「フン…。…悪趣味ダナ」
ロボカイは鼻を鳴らして腕を組み、視線を男から逸らした。
そうかもしれないね…。微かに笑う男の声が聞こえる。

「でも…君のように、独立した自我を持っていた生物兵器こそが…“ジャスティス”だった訳だしね」

“敵意”を持ち得る精神は、強力な武器だよ。
男はモニターに振り返り、その画面に軽く触れる。
その操作によって切り替わった画面は、更に細かなウィンドウに分かれ、それぞれに違う映像を映し出す。
それらに視線を巡らせながら、男は鼻から深く息を吐き出す。

…彼だってそうだ…。
その男の呟きと溜息を掻き消すように、ウィンドウから赤燈色の光が溢れた。

ウィンドウに映し出された映像には、どれもこれも、一人の男を映し出していた。
時代も場所もバラバラだったが、それだけは同じだった。
男は額に赤いヘッドギアを装着し、その下からは金色の眼が覗いている。
手には、直線的なフォルムを持った、大振りな剣。そして、炎。

炎を纏う男は、それぞれのウィンドウの映像の中で、黙々と破壊を繰り返していた。
消し炭の野で、ギアの残党の群れを焼き潰していた。
鉄鋼が軋む廃墟で、犯罪者を狩り尽くしていた。
血溜まりの湿地で、終戦管理局の尖兵であるロボカイを叩き潰していた。
だが、また違うウィンドウでは、彼は竜髑髏の陰影を纏っていた。
死を撒き散らすだけの力を、どうにかして、何かを守る為に振るおうとしていた。
その表情は、徹底的に冷静で、無表情で、感情らしきものは全く浮かんでいない。
ただ、凪いだ金色の眼は、何処か苦しげだ。

ソル=バッドガイ。
彼は、人間の精神と、ギア細胞の完全な親和の形だった。
意思を持ち得るプロトタイプギアは、未だ進化を続けている。
種としては、呆れる程に強靭で、喜ばしい反応でもある。
男は眼を鋭く細め、眼鏡のブリッジを右手でそっと触れた。
だが、動かしはしなかった。

ジャスティスとソルの共通の分母。
それは、強烈な“敵意”。或いは“憎悪”と、ギア細胞だ

この二つの代わりを用意出来るなら、終戦管理局はもう一枚の切り札を生み出すことが出来る。

ギア細胞の代わりに、可能性を鋳造する法力機術を。
そして、“敵意”の変わりに、“機械の意思”を。

男は振り返りってロボカイを見詰め、ふっ…、と笑った。

「何ヲ笑ッテイル…。キモイゾ」

当の本人には、緊張感のまるで無いようだ。それでいい。
従うことしか出来ない機術兵器の中で、ロボカイの持つこの“反抗心”は、鍵だ。
これからの進化の為の一歩であり、祝福でもある。

変人である事は、理解しているつもりだよ。
男は苦笑しながら、肩を竦めて見せた。

「次はどう動くかを考えていてね…。こうも発見が多いと、楽しくて良い」

侵攻は失敗続きだ。
だが喜ばしい事に、研究は驚く程に進んでいる。
上の指示通りに動いても、全く退屈しない。
アクションを取る度に好奇心が刺激される。
最終目標でもあるGEAR MAKERを抑え、キューブを解錠するには、まだまだ遠い。
だが、其処に至るまでの行程の中で、更に多くの発見が在ることだろう。
男はモニターの画面を切り替え、再び幻想郷の地図を表示した。


映像が切り替わる瞬間、画面に映るソルと、男の眼が合った。そんな気がした。
赤燈色の炎の揺らぎが、モニターから消える。

対策は出来る。
厄介な場札も多いが、対処は可能だろう。
ソル=バッドガイに有効な回答も、既に用意してある。
それが正解か不正解かは、関係無い。
必要なのは、キューブに至るまでの鍵だ。


「また上から指示くる前に、僕達からアクションを取るとしようか…」

男は幻想郷の地図を眺めてから、ロボカイに視線を向ける。
それから、唇の端に笑みを浮かべて見せた。

「僕自身が、幻想郷に行ってみるのも悪く無いかもしれないね」

「正気カ…。此処ノ管理ハ如何スルツモリダ」

「勿論、長期滞在なんてしないさ…。行って、少ししたらすぐに帰るよ」

それに…、と言葉を続けて、男は欠伸をかみ殺した。
眼に涙が浮かぶほどの特大の欠伸を飲み下してから、男はぽりぽりと頭を搔いて、指で天井を指差した。
ロボカイはそれに吊られて、天井を見上げた。勿論、其処には何も無い。

「どうせ僕が死んでも、“上”からの指示で、誰かが此処に派遣される筈だ」

そう言った男は、だが、少しもそうなるとは思っていないようだった。
何か確信があるのか。確かな勝算があっての発言なのか。
それとも、危険を冒してまで、何かアドバンテージが欲しいのか。

ロボカイには分からなかった。
男はまた少しだけ笑って、モニターを見詰めた。

「僕みたいなちっぽけな存在の方が、見つかり難くて良いよ…。
 それに、僕も戦えないわけじゃないしね。いざという時は…何とかするさ」

何気ないその言葉に、ロボカイは後ずさった。
不健康そうですらある男の声に、恐ろしいまでの迫力が宿っていたからだ。
機術の影響を大きく受けるロボカイだからこそ、男の脅威をより鋭敏に感じたのかもしれない。

モニターを見据える男の眼には、静かな狂気が見え隠れしている。
冷静さに隠されたそれは、探究心という名の飢餓だ。
飢えに狂う思考は研ぎ澄まされ、それは男にどんな閃きを与えたのか。

男は何も語らず、もう一度欠伸をかみ殺した。



[18231] ニ十ニ・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/03/31 21:50
 
 霊夢は、ソル達がこの幻想郷に来てすぐの頃の事を思い出していた。
そんな昔の事でも無いが、随分前の事のような気がする。

続く異変の中で、緊張した日々を過ごしているからかもしれない。

幻想郷に流れる時間も、前回の大きな襲撃でかなり変わって来ている。
それを、博霊の巫女である霊夢は強く感じていた。

終戦管理局が狙うのは、「能力」を持つ者。そう考えていたし、実際に白玉楼が襲われた時はそうだった。
紅魔館や、妖怪の山、地霊殿に対しての襲撃も、幻想郷に住まう「能力」を持つ者達を狙ってのことだろう。

ただ、その中での人里への攻撃は、その意図から外れている。
陽動であろう事も、すぐに分かった。
だが、無視することも出来なかった。見逃すことなど出来る筈が無い。
終戦管理局が送り込んできた尖兵達の数は相当なものだった。
慧音の歴史隠蔽のおかげで被害は最小限に抑えられたものの、人里に暮らす者達が感じた不安は大きかった筈だ。
紫の話によれば、恐慌状態に陥いるまでには至っていないという事だったが、それもいつまで保つかは分からない。

霊夢達の大規模の防衛戦で、終戦管理局も気付いた筈だ。
いや、再確認した、と言った方がいかもしれない。
幻想郷にとって、人里は攻められたく無い場所であるという事を。
再び終戦管理局の尖兵が攻め込んできたとしても、人里を守りきることは出来る。
だが、また同時に他の場所を襲撃されるとなると、大きな消耗を強いられる事になるだろう。
終戦管理局が徹底的に効率を重視して動くならば、間違いなく、人里は再び狙われる。
気を抜けない。


溜息を吐いてから、霊夢は母屋の座敷を、視線だけで見回した。

時刻は昼過ぎ。
普段なら、お茶の一杯でも啜りながら、半分寝ているような意識でぼんやりと過ごす時間だ。
何事も無い時ならば、煎餅を齧りながら日向ぼっこでもして。
ついでに其処に魔理沙がやってきて、他愛の無い話をしたりしていた事だろう。

だが、今の母屋にはそんな穏やかな空気は微塵も無かった。
日の光に程よく暖められ、眠気を誘う陽気も、今はちっとも心地よく感じない。
風に混じる梢の音も、ただ不穏さを煽り立てるだけだった。

「探知結界は、より広範囲に渡り施術して参りました。…精度も十分ではありますが、安心は出来ません」

「鉄人形達が送られて来た転移術の痕跡も、まだ見つかってないです…。猫達にも協力して貰っているのですが…」

その重苦しくさえある静穏の中、藍と橙の報告だけが響いている。
内容を聞いている限りでは、成果はあまり無かったようだ。
藍の鋭い眼は、何処か悔しげで、橙は少しだけ申し訳無さそうに俯いている。

終戦管理局は狡猾だった。
あれだけ大きく動いたにも関わらず、尻尾を掴ませない。
無茶苦茶に攻めて来る癖に、幻想郷に上陸した痕跡だけは完全に消して行く。
それも、藍と橙の捜索を空振りさせる程の徹底振りだ。

「相手の居場所さえ分かれば、此処まで窮屈な戦いにはならないのにね…」
霊夢は呟きながら、もう一度溜息を吐きかけて、やめた。
視線をちらりと横にずらすと、緊張した様子の早苗が真剣な顔で、藍達の報告を聞いていた。

母屋に居るのは、藍と橙、霊夢と早苗だけでは、勿論無い。
座敷に置かれたちゃぶ台を囲むようにして、八雲紫、西行寺幽々子、蓬莱山輝夜、古明地さとり、レミリア・スカーレットが座布団の上に腰を下ろしていた。
皆黙って報告を聞き、其々の思考を巡らせている。

それだけならば、霊夢も此処まで狭苦しく感じない。
空気が緊張と沈黙で凝り固まるような、気まずい圧迫感を感じることも無いだろう。

まだ他にも居るのだ。

幽々子の後方には妖夢が刀を携えて控えていた。
レミリアの背後にも咲夜が控えており、眼を閉じたまま、正座して微動だにしない。
ただ、輝夜は、従者として永淋も鈴仙も従えては居ない。理由は在った。
妖怪の山、地霊殿、それに人里が襲撃を受けた際、その時に出た怪我人の治療を引き受けたのが永遠亭だったからだ。
例え、終戦管理局の襲撃を容易く退けることが出来ても、完全な無傷という訳では無い。
当然、少数であれ負傷する者も、妖怪、人間問わず少なからず居た。
そんな者達の治療を一手に引き受けたのが永遠亭であり、永淋であり、鈴仙であった。
永遠亭の診療所に入院している者も居る為、永淋達はこの会合には出席していない。
竹林の案内役を買って出た妹紅も、今は護衛を兼ねて、イズナと一緒に永遠亭に詰めている状態だ。

地霊殿の主であるさとりにも、付き従う者を連れては居ない。
これは単純に、「会合に出席するのは、自分一人で十分である」という、さとり自身の意思であった。
其処には、少々癖の強いペット達を連れて来て、余計な騒動を引き起こしたく無い、という考えもあったのだろう。

そして、普段の野次馬精神からではなく、これからの行動を考える為、魔理沙も座敷に腰を下ろし、胡坐をかいていた。
何時になく真剣な様子で、魔理沙は顎に手を当てて、何やら考えこんでいる。

加えて、ちゃぶ台を挟んで、霊夢の正面に座っている閻魔・四季映季も、険しい表情のまま眼を閉じ、藍と橙の報告を聞いていた。

外見は、畳に正座した小柄な少女。
だが彼女の纏う厳か過ぎる雰囲気が、場の空気を一層重くしていた。
映季も、黙したまま何も話そうとしない。
いや、魔理沙と同じく、何事かを考え込んでいるのか。

誰も、口を開かない。
藍と橙の報告の後、沈黙が続く。
終戦管理局を相手に、何か効果的な方策は無いか。
幻想郷の者達だけでは、中々その有効な回答を用意出来ずに居るのが現状であり、この沈黙の意味だった。

霊夢は眼を閉じて、渋面を作って俯く。
このまま専守防衛に徹するのも、限界があるわよね…。
その霊夢の呟きに、紫は疲れたように「そうね…」と難しい貌で答えた。

「でも、動かない訳にも行かないわ。…常に眼は開いておかないとね」

終戦管理局も、簡単に後の先を取らせてくれる相手では無い。
幻想郷を守る防衛戦ならば、尚更だろう。
紫は霊夢に答えてから、藍と橙に振り返る。
申し訳無さげに俯く二人に「ご苦労だったわね、二人共…」と声を掛け、紫は微笑んだ。
それ以上は何も言わない。ただ、純粋な労いの言葉だった。
優しい主の言葉に、藍と橙は弾かれたように顔を上げて、何とも言えない表情に歪めた。

「引き続き、幻想郷の結界と、探知結界の管理を頼むわね…藍。
橙にはもう一度、戦域となった周囲の探索をお願いするわ…」

打てる手は、全て打っておきましょう…。
二人が何かを言う前に、紫は先に言葉を紡ぎ、指示を与えた。
紫の声には微かに疲労が見えたが、それ以上に強い決意が滲んでいた。
藍と橙も、それを感じたのだろう。
「御意に…」「分かりました!」と、二人は力強く頷き、主の声に応える。

幽々子も紫の隣で、柔らかい笑みを浮かべ、藍と橙を見比べた。
「張り切るのはいいけれど、無理をしては駄目よ、二人共」。
主の親友の優しいその言葉に、藍と橙は素直に頷き、母屋に集まった面々に向き直る。
そして深く一礼した後、二人は背を向け、この場を後にした。

「助かるわね…。索敵と結界管理をケア出来るだけの人材は、そうは居ないでしょう…」

二人が母屋から去り、入れ替わりに聞こえたのは、品のあるしなやかな声。
それは称賛の言葉だった。
式神として、あの二人以上の妖は望めないわ…。
そう答えてから、紫は一つ息を零して、言葉の主に向き直る。

黙って成り行きを見ていた輝夜が、眼を細めていた。

「見えない所で、随分助けられていることを実感したわ…」
輝夜の言葉に、またレミリアも呟きながら深く頷く。

こうして会合を開いていられるのも、紫の代わりに幻想郷を見渡す“眼”があってこそ。
“眼”の役割として、如何に藍達が重要な存在なのかを、早苗と魔理沙も再認識していた。

「二人が頑張ってくれている内に、私達も何か打てる手を考えないとね」
霊夢は下唇を指で触れながら、呟く。

「旧地獄街の者達は…」
霊夢の声に続いたさとりの声は、母屋の重い空気に押し潰されそうなほどか細かった。
だが、それでいて、耳の中に染み込んでくるような声だった。
じっとりとした視線で、さとりは集まった面々を見回してから、首をゆるゆると振った。

「幻想郷の為に戦うという意思に…少々乏しいのが現状です…」
言いづらそうに言って、さとりは自身の第三の眼にそっと触れた。

「しかし、彼らにとって…地底での暮らしは、永い時間の中で故郷になりつつあります…」

其処まで言ったさとりの薄桃色の瞳に、強い光が宿っていた。
その眼に灯る感情は、怒りだろう。
第三の眼に触れた掌が、微かに震えている。
語る声は、静かだ。だが、途轍もないほどの熱を帯びた声音だった。

「故郷となった地底を守る為、戦うことを望む者も少なくありません…」

霊夢は黙ってさとりの言葉を聞き、魔理沙はその迫力に息を呑む。
妖夢と咲夜も、座敷に正座したまま、視線だけをさとりに向け、少し貌を強張らせている。
レミリアは腕を組みながら眼を細め、幽々子は袖で口元を隠すようにして、さとりの姿を見据えている。

「特に、勇儀さん、萃香さんを含め…鬼の方々は、今回の襲撃で、機嫌が宜しくありませんから…彼女達も、大きな力となってくれるでしょう」

迫害された者達にとっては、地上の者達と共に戦う事は、少々抵抗があるかもしれない。
だが、地底も既に襲撃を受けている。最早、地上も地底も無く、他人事でも無い。
それに、旧地獄の鬼達は、もともと地上に嫌気が差し、地底に移り住んだのだ。
其処に無遠慮に攻め込んでくる終戦管理局を、そのまま捨て置くつもりもないだろう。

さとりは紫の眼を見詰めながら、ゆっくりと瞬きをして見せた。

「それに私としても、大事な家族を守る為、戦うことを決めています…」

言葉を切ったさとりの貌は、無表情というよりも真摯だった。
普段のじとりとした視線にも、強い意志が伺える。

「我々の力が必要になった時は、いつでも声を掛けて下さい…」

それまでは…私達も旧地獄街を守る為、相応の準備をしておきます…。
呟くように言ってから、さとりはほんの少しだけ笑みを浮かべて見せた。
小柄で、可憐というよりも綺麗な少女の外見に相応しい、柔らかな笑みだった。
紫は「ええ…、頼りにしているわ」と、か細い声で答え、頷きを返す。
さとりは、その紫の言葉に満足したのか。
すぐにいつもの無表情に戻って、じとりとした眼で集まった面々に視線を巡らせた。
だが、そのジト眼には、敵対する者に向けるような不穏さは無い。
寧ろ、信頼しているような感じだ。

「私は地霊殿の主という立場故、長い間、地底の灼熱地獄を留守に出来ません…。
今回も…地上の事を任せてしまうような形で、申し訳ありませんが…」

さとりは少し眼を伏せて、すまなさそうに呟いた。

気にすんなって。笑顔を浮かべてそう言ったのは魔理沙だった。
霊夢も軽く息を吐きながら、肩を竦めて見せる。
「それを言うなら、私達も同じよ。地底の事は、貴女に任せっきりだしね…」

地霊殿も既に襲撃を受けている。もう地底も安全な場所では無い。
とは言え、憤怒に任せたまま、地底に住まう妖怪が大挙として地上に噴出してくるのは流石にうまく無い。
余計な混乱を避ける為にも、地底を管理出来るさとりの存在の意味は大きい。
霊夢の言葉に頷いた幽々子は、背後に控えた妖夢に視線を向けてから、さとりに向き直った。

「魔理沙の言うように、気にすることは無いわ…。
貴女にとって、大切な者達の住まう地なのでしょうし…それは私達も同じだもの」

「今の状態では、大きく動ける者も少ないでしょうしね…」

幽々子の言葉に続いた紫は、左手の指先を滑らせるように空間をなぞった。
其処に、ズズズ…、と小さなスキマが開く。紫は其処に手を差し込み、扇子を取り出した。
そして、その扇子で口元を隠しながら、母屋に集まった面々に視線を巡らせる。

まず紫と眼が合ったのが、レミリアだった。
だが、そう長く視線はぶつからなかった。
レミリアが微かに下唇を噛んで、紫から視線を逸らしたからだ。
その表情は、何処か悔しげだ。咲夜の無表情も、少し険しい。
それも仕方無いだろう。
現在の状況では、紅魔館のメンバーは戦闘よりも、寧ろ休息が必要なのだ。
それだけの苦戦を強いられた事が、口惜しいのか。

「動けなくとも、…また来るならば返り討ちにするまでよ」

鼻を鳴らして、レミリアは紫に視線をぶつけ返す。
その紅の眼は、敵意と殺意に満ちていた。
咲夜も、その主の言葉にすっと眼を細めてから、紫に視線を向け、頷く。
ズズ…、と空気が震動するような音と共に、座敷の暖かな空気が、僅かに朱に染まった。
レミリアの身体から漏れた魔力光が、日の光を染め抜いたからだ。
だが、それも束の間。
レミリアは自分を落ち着かせるように息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
それと同時に、座敷を染めた朱色が薄れて、陽光のぬくみが戻ってくる。

その様子を見て、紫は安堵を覚えた。
紅魔館のメンバーは、傷を負って尚、その闘志は折れていない。頼もしいことだ。
薄く笑みを浮かべて、紫もレミリアに頷きだけを返す。
誇り高い吸血鬼の言葉を信じよう。

「私は無理かもしれないけど…妖夢やシン君なら、色々と動けると思うわ」

レミリアの紅の眼を見ていると、その横合いから声を掛けられた。
幽々子だった。
その貌には、微苦笑が浮かんでいる。
ただ、その背後に控えていた妖夢は、かなり驚いたような、焦ったような貌だ。

「な、何を仰います! 私は白玉楼の庭師ですよ!? 私には幽々様をお守りする義務があります!」

妖夢は腰を浮かせ、幽々子の背に詰め寄りそうな勢いだ。
だが、幽々子は肩越しに妖夢を振り返り、「妖夢…」と小さく呟いた。
その瞬間だけ間違いなく、この母屋の空気の温度がぐっと下がった。
今にも消えそうな程の儚げな声だったが、そこに宿る迫力は途轍も無かった。
妖夢は貌を凍りつかせ、座布団の上にへたり込むようにして腰を落とす。

たった一言放っただけで、この迫力。
魔理沙はぶるっと体を震わせ、早苗も座ったまま微かに身を引く。
霊夢と紫も、自分の表情が引き締まるのを感じた。
レミリアも、少し驚いた表情のまま固まっているし、咲夜も同じような状態だ。
輝夜は眼を細めて、無言のまま幽々子の言葉を待っている。

そんな皆の様子を知ってか知らずか。
幽々子は、妖夢に視線を向けたまま、ふっと笑みを浮かべた。

「私を守ってくれるのは在り難いけれど…。それ以上に守るべきものも在るのよ」
今回の人里の防衛戦のようなことになれば、妖夢達に動いて貰わねばならなくなるわ…。
其処まで言って、幽々子は妖夢の肩に手を置く。

「西行妖にも、強固な結界が幾重にも張り直されたし…そこまで心配しなくても大丈夫よ」

ねぇ、紫?。
幽々子の同意を求める声に、紫はゆっくりと頷いて見せた。

「ええ…。西行妖に関して言えば、そう簡単に結界が解呪される心配は無い筈よ。
 ソルの法術結界も掛けられているもの。それに、…仮に干渉されることがあったとしても、直ぐ迎撃出来る態勢は整えてあるわ」

後手に回るしかない無い以上、出来るだけ柔軟な対応が出来るようにしたい。
万全な準備は勿論だが、その為には、どうしても人手が必要になってくる。
だからこそ、人里の防衛戦では、妖夢もシンも戦線に加わったのだ。

「西行妖は私が守るし、紫も眼も光らせてくれているわ…。
貴女はいつでも動けるよう、準備だけはしておいて欲しいのよ」

やはり何処か納得しかねるのか。
妖夢はその主の言葉に、渋々と言った感じで頷いた。

その直ぐ後。
今まで様子を静観していた映季が、ふむ…、と声を漏らした。
そして幽々子と妖夢を見比べてから、一つ頷く。

「そうして頂けると、助かります…。
妖夢さん、シンさんが動いてくれるとなれば、大きく戦況も変わるでしょう」

眉間に深い皺を刻んだ映季は、ゆるゆると首を振って見せた。

「守る為の戦いは、ただの闘争よりも遥かに難しいものです…」

休息が必要なのは、終戦管理局の襲撃を受けた紅魔館のメンバーにとっては勿論だ。
永遠亭でも負傷した者も治療を行っている。
人里も守らねばならない。
先手も取れない今の状況は、順調に追い詰められていると考えた方が良い。

取り合えず…永淋と鈴仙を動かすのは無理ね。…まだ患者が居るもの。
そう言葉を挟んだのは、輝夜だった。永遠亭の主としての言葉は、やたら重く響いた。
凪いだ表情と、美しい顔のせいで余計だ。
集まった面々の視線を受け止めながら、輝夜は自分の黒髪を指で梳いた。
その指を頬に当てて、すっと眼を細める姿は、姫と呼ぶに相応しい貫禄がある。

「霊夢や魔理沙のように、幻想郷を飛び回れる者は…永遠亭じゃ数人よ」

永淋と鈴仙は、患者達の治療の為、診療所からは動けない。
自由に動けるとすれば、イズナか、妹紅か、或いは、輝夜本人か。
 何にせよ、永遠亭を守る為に誰かが残ることを考えれば、多くて二人かそこらだ。
 
「妖怪の山の方々も、少々排他的な所がありますから…」

 輝夜の話しを聞いていた早苗も、少し気まずそうに眼を伏せる。

「妖怪の山以外の場所にも迅速に駆けつけ、手を貸してくれる方ばかりでは無いかもしれません…」

ふと霊夢の脳裏に、射命丸の姿が思い浮かんだが、彼女もまた天狗の社会に生きる者だ。
こういった非常事態だからこそ、身軽に動けない事もあるだろう。
早苗の言葉に、魔理沙も唇を尖らせながら、頭の後ろで組んで「そうなんだよなぁ~…」と漏らした。
妖怪の山に住まう天狗を筆頭に、白狼天狗などは、厳しい縦社会であり、独自のコミュニティが築かれている。
故に、余所者を排除し、組織としての動きに重きを置く。
霊夢や魔理沙のように、有事の際には臨機応変に動き、救援に向かってくれるかと言えば、やはり少々疑問が残る。
それに、妖怪の山も一度襲撃されている以上、妖怪達も自らの住処を守ることを優先するだろう。
 
 白玉楼にしても…魂の管理を放っておく訳にもいかないしね。
霊夢はそう呟いて、こめかみを押さえた。
妖夢と、白玉楼に滞在しているシンは、数少ない「動かせる戦力」だ。
 ただ流石に、白玉楼を完全に留守にする訳にもいかない。
厳重な封印が施されたとはいえ、西行妖の放置もまだ危険だ。
その為、貴重な戦力であるシンも、今は白玉楼で留守番中である。

 「厳しい状況ね…」
 そう零した紫は、眼を閉じながら一つ息を吐いた。

 母屋に、再び沈黙が落ちる。 

守らねばならないものが多い。
 それは同時に、守ろうとする者に、多大な消耗を強いることを意味している。
時間が経つにつれ、消耗は大きくなり、やがては立っていられなくなる。
戦えなくなる。
そうなれば、もう終わりだ。
 襲撃に備える幻想郷にとって、休まる時間もほとんど無い。

何とか状況を打破したいが、今の段階では難しいだろう。
映季は咳払いを一つして、正面に座る霊夢達に視線を向けた。

「今の状況で攻勢に出ることの出来る者は、かなり限られつつあります。
守らねばならないものを背負う皆にとって、柔軟に動ける戦力に頼らねばなりません…」

それは妖怪の賢者である紫とて同じだった。
例え、「境界操作」という超越的な能力を持っていたとしても、幻想郷全土に眼を光らせながら、終戦管理局を捌き続けるのは厳しいだろう。
この防衛線で、紫は既に途轍もない負担を背負っている。
映季は神妙な貌で、霊夢、魔理沙の顔を順に見比べた。

「今回も貴女達二人に、柔軟な戦力として動いて貰いたいと思っています…」

霊夢はその映季の視線に真剣な貌で頷きを返し、魔理沙は不敵な笑みを浮かべて見せる。

「…私はそのつもりよ。というか、今までだってそれに似たようなものだったし…」
「だな。助っ人なら、魔理沙さんに任せとけって」

二人のこの言葉が、どれ程得難い言葉なのか。無表情だった映季の目許が、微かに緩められた。
紫も、僅かに眼を伏せてほっとしたような、安堵したようなか細い吐息を吐く。
「頼りにしていますよ」、と零した映季の貌には、確かな信頼があった。
おう、と答えた魔理沙は腕を組みなおして、「でも、やっぱり受けに回ると辛いよなぁ…」と零した。

「どうにかして先手を打てねぇかな…。このままじゃジリ貧だぜ」

何か良い方法、思いつかねぇか? …なぁ、ソル。
ならばと、魔理沙自身で積極的に動こうとしても、有効な行動が分からないまま。
いつになく真剣な顔の魔理沙は、俯き加減で畳みを睨んでいたが、不意に顔を上げる。

魔理沙のその視線を、霊夢と早苗も追った。
霊夢だけでは無い。レミリアや、輝夜、紫に幽々子も、それに倣う。
沈黙の重みが増す中、向けられた皆の視線の先。

この会合には混じらず、話だけを聞いていたのだろう。
ソルが一人、ちゃぶ台を囲むように座る面々から外れ、縁側の柱に立ったまま凭れ掛かり、腕を組んでいた。
黒のドテラと黒袴姿のソルは、何かを思案するように眼を閉じている。
その無表情も、今は何処か険しい。
複数の視線を感じたからだろう。ソルはゆっくりと瞼を開く。
そしてその昏い金色の眼を、魔理沙に向けた。
それから、他の皆にも視線を巡らせ、ソルは喉の辺りを摩りながら低く呻った。
会合には積極的に加わるつもりは無いようだが、完全な不参加を決め込むつもりでも無いようだ。

ソルは緩慢な動きで、首を緩く振って見せた。
「…難しいだろうな……」
低い声で短く言ってから、ソルは少しだけ体を魔理沙達に向ける。

「…博麗も言った事だが…奴らが何処に居るか分からん…」

ソルは忌々しそうに貌を少しだけ歪めて、魔理沙から視線を逸らした。
そして、また何かを思案するように、眼を伏せる。
…後手に回る事は、避けられんだろう…。
そう呟いたソルの声は、酷く重かった。
魔理沙も、「やっぱキツイか…」と言って、難しそうに貌を顰める。

相手の居場所さえ分かれば。
霊夢もそう思うが、紫が梃子摺っているところを見るに、容易では無いはずだ。
だが逆に言えば、終戦管理局側も、自分たちの居場所を知られないよう、転移術の痕跡を消しているのだろう。
尻尾さえ掴めば、大きく戦況を変えることも出来そうだが、今の状況では現実的では無い。

今は守ることに専念すべきだからだろうか。
まるで、断崖絶壁にじりじりと追い詰められているかのような錯覚を覚える。
今回の襲撃から、のんびりとした幻想郷の空気が、一気に強張った。
惰性の平穏が、崩れ去ろうとしている。
だが、疲れた、とも言っていられない。
神社に留まったソルも、賽銭箱前に座り込み、今まで以上に気を張って警戒してくれている。

霊夢はもう一度、ちらりとソルの横顔を横目で見た。
眉間に皺を刻んだソルは、腕を組んだまま、軽く息を吐いている。
柱に凭れ、俯き加減に伏せた金色の眼は、凪いでいる癖にやたら不穏だ。

…序に言えば…俺も何処まで戦力になれるか分からん…。
低い声で言ってから、少しだけ苦々しく貌を歪めて、ソルは組んでいた腕を解いた。
そうして、視線を畳に落とすように僅かに俯いて、額を右手の人差し指と中指で摩る。
頭痛を堪えるような仕種だった。
再び、皆の視線がソルに集まる。

「それは…どういう意味なの?」
最初にソルに聞いたのはレミリアだった。
レミリアの声音はやけに心配そうで、いつもの傲慢さや、高圧的な響きはまるで無い。
その紅い瞳も、何処と無く心配そうに揺れている。
気遣わしげというか、少し潤んでいるように見えるのは霊夢の気のせいだろうか。

「…恐らくだが…奴らは…俺を潰す為の手を既に持っている…」
ソルは眼を伏せたまま、額を擦る手を止めて、鼻から息を深く吐いた。
溜息とは違う。覚悟を決めるような、重い吐息だ。
貌を上げたソルの眼は、やはり凪いだままだった。
ただ、金色に混じる昏さが増していた。

「ふぅん…、貴方と終戦管理局とやらとは、結構な悪縁のようね…」

何かを察したような表情を浮かべて呟いたのは、輝夜だった。
紫や幽々子、霊夢や魔理沙も似たような貌だ。
早苗と妖夢は神妙な顔でソルに視線を向けているし、咲夜も静かにソルを見据えている。

「…此処で…終わりにしてやる……」
短く、だがとんでも無く低く、恐ろしい声でソルは答えた。
息を呑んだのは、多分輝夜だけでは無いだろう。
実際、霊夢も自分の顔が僅かに引き攣るのを感じた。
唾を飲み込む音が聞こえた。早苗だろうか。
霊夢は自分の二の腕を摩った。
座敷に満ちた空気は、日の光に暖められ、十分に暖かい筈なのに。
何だろうか。この寒気は。縁側から風が吹いて、暖気と梢の揺れる音を運んで来た。
余計に寒くなった気がする。
いや、これは怖れか。
それとも畏れなのか。

ソルはちらりと座敷から外に一度だけ眼を向けた。
そして誰とも眼を合わせないまま、また俯き加減になって眼を細める。
…紅魔館での戦いでも…奴らは対ギア用の法術を実践レベルで使用していた…。
呟きながら、ソルは自分の掌に視線を落とした。

「…俺も…プロトタイプとは言え…ギアだ…」

…完全にギア対策を打たれれば…俺は案山子にしかならんだろう…。
紡がれたその低い声は、何処か苦しげだった。
だが、ソルの貌は冷静過ぎるほどの無表情に戻っている。
憎悪も、怒りも、焦りも、忌々しさも、何も浮かんでいない。
霊夢は何か声を掛けようとして、出来なかった。
感情を伺わせない、無機質ですらある眼の奥で、ソルは一体何を考えているのか。

「それは、こっちからは妨害出来ないモンなのか?」

魔理沙の声だった。
ソルがギアであることなど、まるで気にしていないのだろう。
それはただ単に、共に戦う仲間としての言葉だった。
真剣な眼差しで、魔理沙は思考を巡らしながら、ソルを見据えている。
その眼は、どうなんだ?、言外に問うている。
信頼。友情。それらに近い感情の込められた視線に、ソルは眼を逸らすようにして視線を下ろした。

その仕種を見て、霊夢は、少しだけ笑みが零れそうになり、堪えた。
ソルが、まるで魔理沙の視線に怯んだように感じたからだ。

以前、ソルは霊夢達の前で己の過去を語り、自身が生物兵器であることを明かした。
法術という技術を用いて、“ギア”という進化の道を提示した彼の罪は、永劫、彼を苦しめ続けるだろう。

その罪の意識からか。
ソルは自身を省みないし、執着しない。
それに、他者と深い干渉をしようとしない。
今でもそうだが、ソルは常に、一歩離れた場所に居る。
それは立ち位置だけでなく、心の距離でもそうだ。
他者と一線を引いて、立ち入らず、立ち入らせない。
だが、魔理沙の純粋な仲間意識は、そんなソルの意識を軽がると飛び越えていく。

多分、ソルが怯んだように見えたのは、そのせいだろう。

「紫の境界操作とかでなら…何とか出来ない?」
霊夢もそう言って頷き、魔理沙の言葉に続く。

幻想郷を守る為では無く、ただ敵を斃す為だけに戦う。
ソルは以前そう言っていた。
その癖、紅魔館での戦いでは、自分の身を犠牲にして、ボロボロになって帰って来た。
最後の最後まで、馬鹿みたいに傷だらけになっても、フランを助けようとしたらしい。
今も、ソルは無愛想な仏頂面のまま、一人で勝手に戦うつもりなのだろう。
そんな事はさせてあげない。そう思いつつ、霊夢はもう一度ソルの貌を横目で見た。
霊夢の言葉に、今度こそソルは無表情の中に戸惑いを滲ませていた。

多分、ソルの様子に気付いたのは、霊夢だけでは無いだろう。

「試す価値は十分に在る筈よ…。ねぇ、ソル」

戦う為にも、必要な錯誤でしょう?
そう言いながら、紫がソルに向ける微笑みは、普段の人を食ったような笑みとは、やはり違う。

「“共闘”してくれる貴方を放っとく程、私達も薄情じゃないし…。出来る協力は…惜しまないわ」
幽々子も優しげに目許を緩めて頷いて見せ、妖夢も力強い視線をソルに向けたまま頷く。

どう反応すればいいのかが分からないのか。
ソルは、「…む…」と呻って、口をへの字に曲げた。
困ったような顔になりかけたソルを見て、くすくすと笑ったのは輝夜だ。
「ふふ…。見た目とは違って、意外と可愛いひとね」
少し意地悪そうな笑みだったが、悪意の無い、寧ろ、少しの好感を滲ませた声だった。

其処に、「…同意出来ます」と、じとりとした眼を微笑に細めて呟いたのはさとりだ。
それから、ギョロつく第三の眼に右手でそっと触れた。
そして、ゆっくりと眼を閉じて、深呼吸をした。第三の眼のその瞳は、無表情を微かに歪めたソルの貌を映している。

「どうにかして、自分一人で解決出来ないか…。
 そう考えるのは、かなり非効率で、確実性に欠けます…。
時間も掛かり、その間に…幻想郷への被害も広がるかもしれません」

思考を読み取る、さとりの能力。その力を初めて見せられ、警戒したのだろう。
困惑しかけたソルの眼が、僅かに細められた。
それは別に凄んでいる訳でも、睨んでいる訳でも無い。
ただ眼を細めただけだったが、かなり迫力のある視線だ。
恐ろしいと言っていい。

だが、さとりは眼を閉じたまま、事も無げにソルの視線を受け止めて、口の端に笑みを浮かべて見せた。
…そう睨まないで下さい。これ以上、貴方に心に踏み込むことはしませんので…。
小さな声で言いながら、さとりは第三の眼をゆっくりと閉じる。
それから、今度は両目の瞼を重そうに持ち上げた。
そのさとりの薄桃色の瞳に、微かにだが鋭さが宿っていたのを霊夢は見逃さなかった。

「それに、貴方の心には…何か、不穏なものが潜んでいるようですね…」

ソルとはまた違う、感情に乏しい表情と声で、さとりは呟いた。
さとりは、一体何を見たのか。感じたのか。
ただ、そんな事は置いとけと言わんばかりに、ソルに食いついた者が居た。

「ていうか、ソル。やっぱりまた一人で突っ走ろうとしてたんだな」
魔理沙だ。不満そうに唇を尖らせて、ぶすっとした貌で、ソルを睨んでいる。
霊夢も、自分も似たような貌になっているだろう事に気付いて、苦笑しそうになった。
ついでに言えば、ソルが不味そうに唇をひん曲げているのが面白くて、霊夢は結局少し笑ってしまった。
困っていると言うよりも、言い訳を考えているように「…む……」と呻るソルの姿は新鮮で、何だか親近感を覚える。

「貴方の心は酷く冷たい。しかし、その思考は常に自己犠牲に向かっているようですね…」
見れば、この状況の元凶であるさとりも、もう微かな笑みを浮かべていた。

「ただ、それ故に…この防衛戦に於いては、貴方が信頼に出来る人物であることも、よく分かりました…」

さとりは眼を開いて、それから、映季へと意味深な視線を送った。
そして、映季にゆっくりと、深く頷いてみせる。
さとりの第三の眼が、ソルの心から一体何を読み取ったのか。
それは、やはり分からない。

だが、ソルの思考が、幻想郷の為のものだったからこそ、さとりは「信頼に出来る」と言ったのだろう。
加えて、ソルの憎悪と敵意の向かう先が、幻想郷を蝕む終戦管理局だった事もある筈だ。

「ソルは、十分以上に信頼に足るわ。私達のため、身を挺して戦ってくれたもの…」
そう言って、ふん…、と鼻を鳴らしたのはレミリアだ。
「アクセル様も、紅魔館の皆の為に戦ってくださいました」
咲夜も、レミリアの言葉に続いて、静かに頷いてみせる。

幻想郷の為に戦ってくれたのは、ソルとアクセルだけでは無い。
シンは白玉楼戦で西行妖を鎮める為に奮闘したし、イズナは半洗脳状態の妹紅を正気に戻した。
それに今回も、人里の防衛戦に加わり、幻想郷の者達と共に戦ってくれた。

「イズナも頼りになるわ…。彼も悪いひとじゃ無い筈よ」
輝夜も頷き、神妙な貌に薄い笑みを滲ませて、映季へと視線を向ける。

「シン君も、私達の為に頑張ってくれたし…。とても良い子なのは知ってるでしょう?」
幽々子は柔らかな表情を浮かべて輝夜に倣い、映季を見詰めた。
妖夢も主の言葉に強く頷いて、閻魔と主を見比べる。

少しの沈黙。
映季は、集まった面々の視線を受け止めながら、眼を閉じ、何かを思案している。
手にした懺悔の棒で口元を隠している。
「幻想郷の者達に、此処まで信頼される外来の者というのは…珍しいものですね」
重苦しい雰囲気を纏いつつも、その口元に微かな笑みが浮かんでいた。
霊夢と魔理沙、紫も、映季の言葉の続きを待つ。

皆の眼には、真摯さが在った。
レミリアも、咲夜も、輝夜も、幽々子も、妖夢も同じだ。
集まった面々、一人の顔に視線を巡らせ、映季は一つ頷く。

「その信頼は、大きな救いです。
今、幻想郷の中でいがみ合うような状態になれば…どうしようもありませんからね」

内にも敵が居るような状況では、とてもでは無いが終戦管理局を退けることは出来ないだろう。

力を合わせなければならない時に、手を取り合えている。

幻想郷は一枚岩だ…そんな心配は要らないぜ。
魔理沙が不敵に笑った。
「私は動けるように動いて、終戦管理局をぶっとばすだけさ」

単純明快な言葉だったが、それで十分だ。
霊夢も頷いて、肩を竦めた。出来る事は、多分そんなものだ。
誰も彼も救おうとか、そんな事を思っているよりも、やりやすい。

そんな風に思えるのも、藍や橙、紫が幻想郷全体を見てくれているからだ。
いや、紫だけでは無い。
此処に居る、幽々子達も西行妖を守っている。
さとりも、地底の者達を良い方向へと導いてくれるだろう。
人里には慧音も居る。結界も張ってあるし、何かあれば、またすぐに駆けつける。
守らなければならないものは、守る。戦う時は、戦う。
結局、それしかない。
行き詰っている訳では無い。ただ、選択肢もそう多くは無い。
霊夢や魔理沙は、今までと同じスタンスだ。敵に合わせて、その行動を潰しに行く。
此処に早苗も加われば、かなりの戦力になるだろう。
紅魔館はまず傷を癒し、永遠亭は怪我人を治療しながらの戦いとなる。
アクセルとイズナなら積極的に動けるが、他の者だと大きなアクションを取りにくい。
幽々子は白玉楼の西行妖を守らなければならない。その分は、妖夢とシンが動けば良い。
地底の妖怪達もすぐに動けるよう、さとりが体勢を整えてくれるだろう。
紫は、幻想郷の眼だ。全体を見渡せるその視界は、命綱と言っていい。

妖怪の山も、持っている潜在的なアドバンテージは大きい筈だ。
さらに、守矢神社の二柱も居る。
不良天人に、フラワーマスター。それに、友人である人形使い。

霊夢の脳裏に、何人もの顔が浮かんでくる。
皆、力持つ強い者達ばかりだ。


それに、ソルも居る。
霊夢はもう一度、ソルへと視線を向けた。
仏頂面のまま口をへの字に曲げているソルには、怖さよりも親しみ易さを感じる。
それは多分、無愛想で無表情なソルが、寡黙で朴訥なだけだという事を知ったからだ。
以前は、幻想郷を守る為に戦ことは出来ない、とソルは言っていた。
でも、ソルはあの仏頂面を面倒そうに歪めて、黙ったまま幻想郷の為に戦ってくれるのだろう。
霊夢は少しだけ笑みを零しそうになったが、丁度その時、ソルと眼が合う。
何か言おうとしたが、良い言葉が見つからなかった。
ただ、すぐにソルは鼻を鳴らして霊夢から眼を逸らしてしまったので、それで丁度良かったのかもしれない。


終戦管理局に対抗する力は、今の幻想郷にはまだ在るはずだ。
一致団結出来るか。否か。それだけだ。
答えは出ている。
映季は頷いた。

「幻想郷を…皆で守りましょう」

集まった面々は、真摯な貌でその言葉に頷いた。



[18231] 二十三話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/05 15:54
実に空気が良い。
ただ呼吸をするだけで、こんなにも癒された経験は無い。
息を吸い込めば、まるで身体の中から浄化されていくかのような気さえする。
澄み切っていて、それでも微かに緑の香りがあり、清涼感に溢れている。
自然とは、いいものだ。改めて思った。
透明で、少しだけひんやりとした風が吹き抜けていく。
周囲一体を覆い尽くしたこの巨森は、その吹き抜ける風に葉擦れの音色で答えていた。

その中で、男は大きく息を吸い込み、吐いた。
厚手の黒コートで、痩せぎすの体を包んだ男だった。

狡猾そうな細い眼を眼鏡の奥で更に窄めて、男は額の汗を拭いた。
心地よい自然の調べを聞きながら、山道を行く。
いや、獣道というべきか。
鬱蒼と茂る木々、苔むした地肌、差し込む木漏れ日。
空を見上げながら、もう一度、息を吸って、吐いた。
そのまま一歩踏みしめると、小枝を踏み折る乾いた音がした。
もう一歩踏み出すと、積もった葉が土に沈み込む感触が、足の裏から伝わってくる。
金属質の研究室に篭っていては、決して感じることの無い感触だ。
獣道には少し傾斜があり、茂みの深い山道のような風情もある。
五感に直接感じる、この自然の息吹は、何とも言い難く心地よい。
心が弾むほどでは無い。だが、妙な充実感と共に足取りも軽くなってくる。

身体も軽い。
鼻歌でも歌おうか。
そんな気分になる。
良い予感と、悪い予感がした。
鼻歌よりも先に笑いがこみ上げてきて、口元が笑みに歪むのを感じる。

このフィールドワークは、中々楽しくなりそうだ。

「そろそろ、かな…」

巨木の立ち並ぶ合間を、まるで縫うように続く獣道を歩きながら、腕時計に眼を落とす。
もうそれなりの距離を歩いた筈。
周囲に広がる景色自体に大きな変化は無いが、それは間違い無い。
目的地が見えてきても良い頃だ。

「マダ着カンノカ、駄目博士…」

「もうじきだと思うよ。…まぁ、僕が迷ってなければの話だけど」

苦笑と共に視線だけを肩越しに返すと、ロボカイが面倒そうに首を傾げていた。
ロボカイの顔には、四角の窓眼と簡素な口しかない。その為、当たり前の事だが表情には変化は見られない。
だが、声音は相当ダルそうで、今にも溜息が聞こえて来そうだった。
よくも此処まで感情の篭った電子音声が発声出来るものだ。

「面倒そうにしないでくれよ。一応、君は僕の護衛機なんだからね」

「…コノ任務自体、博士ガ自分デ“上”ニ申シ出タモノダロウ。良ク言ウ…」

「遅かれ速かれ、どうせまた無茶な指示が来てたさ…」

以前の大きな作戦で、終戦管理局は巨大なロスを負った。
組織の存亡に関わる程では無かったが、「キューブ」、「GEAR MAKER」二つの攻略
からは、更に遠のいたのは間違いない。
ロボカイのコピーの達の大量消費に加え、量産型ジャスティスも二体失った。
そろそろ、無視出来ない規模のロスだ。
“上”の持つ、幻想郷に対する認識も、かなり改善された。
だが、まだ甘いと言わざるを得ない。

“上”は未だに、チェスゲームでもしているつもりなのだ。
幻想郷の地図を広げ、それを眺めながら熱心にあーだこーだと言っているだけ。
そしてその通りに、下の者達が動くと思い込み、期待した結果を出すことを待っている。
圧倒的に戦力で優位に立っている自分達が、負けるなどとは思っていないからだ。
現場を知らぬ者は気楽で良い。
終戦管理局の持つ戦力を考えれば、多少の慢心も理解出来る。
だが、結局、それは「量」であって、「質」では無い。
ロボカイのコピー機体が幾らいても、幻想郷の者達には敵わない。
その現実を見ないまま、奇手を打ちたがる老人達は、無茶な注文をまたしてくるだろう。

「賢そうな一手を提示しとけば、満足してくれる分…やりやすいものさ」

「ソノ一手ガ、博士自身ヲ危険ニ晒ス内容デアッテモカ…」

「ポーンの命を大事にするチェスなんて無いさ。
…僕みたいなのは、幾らでも代替が利くからねぇ…」

他人事ノ様ニ言ウ事カ。
そう言ったロボカイの声は、なんとも言えず不味そうに歪んだ声だった。
とは言え、事実だから仕方無い。
苦笑して肩を竦めて見せると、ロボカイは無い鼻を器用に鳴らして、そっぽを向いた。

「僕が自分の命を惜しいと思うような人間なら、このまま失踪してるよ」

「ツクヅク救エン駄目博士ダ」

自分でもそう思う。

只管に研究を続けることが、自分にとっての生きるという意味になっていた。
終戦管理局の中で更に研究を続けるうちに、自分の生命というものに執着しなくなっていった。
切っ掛けは多分、「法術」というものを介して、法則の外に触れた感触だった。
法力の齎すその御業に触れてから、健康も寿命も後回しになった。
何時からだろう。
いや、どうでも良い事か。

「ポイントに到着だよ」

木々の隙間から、それはとうとう見えて来た。
獣道を少し逸れて、茂みを掻き分けて進むと、その全景が見渡せた。
傾斜を上がってきたせいだろう。少し見下ろすような視界の、少し遠い処。
ロボカイもその景色を見下ろし、「成程ナ、アレガ件ノ…」と、低い機械音声を漏らしている。

「平時は、ちゃんと存在してるんだよねぇ…」

其処には田園が広がり、木造の家屋が立ち並んでいた。
それも、疎らにでは無い。建物同士が作る路地には、人の姿も多く見える。
大通りが走り、それを挟むようにして古風な木造建築の建物が並んでいた。
その通りから外れた土地には、住宅地であろう家々が立ち並び、村と言うよりも、「町」という言葉を連想させる。
山々に囲まれ、自然の中に抱かれていながらも、其処に広がるのは明らかに人々の暮らす地であり、生活の場だった。
通りを行き交う人々の数。それに、建築物の並んでいる範囲。
それに田園の広さも相当なもので、見渡す限りとまでは言わないが、大きな集落だ。

青空の下、山々に囲まれた緑の中。
古き良き日本の風景が其処に在り、緑豊かで長閑な人の里が在った。
平穏という言葉が、ここまで似合う景観もそうは無いだろう。
良い処だねぇ…。
自然とそんな言葉が口から漏れてしまい、思わず苦笑してしまった。
本音だった。

妙な懐かしさを覚える。
優しげな風景には、やはり心惹かれた。
だが、それも僅かだ。ただぼんやりと景色に見惚れているわけにも行かない。

気付く。気付いて、また苦笑が漏れた。
ロボカイも気付いたようだ。横で「ウゥム…」と呻っている。
その気持ちも分かる。

厳重過ぎる結界の網が、人里を包むように縦横無尽に奔っているのだ。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた結界の力線は、高度な索敵機能を持ったレーダーだ。
集団で攻め込めばたちまち見つかり、以前の襲撃の二の舞になることだろう。
つまりは、あの巨大な人里の隠蔽、消失による、終戦管理局の攻撃の無効化。
その二の轍を踏まない為にも、人里全ての痕跡を消し去る隠蔽術のタネは知っておきたいところだ。
触れられず、また干渉出来ないという事実は、どんな強固な城壁よりも遥かに厄介な防御になる。

だが、強力な分、どうやらある程度の制約もあるのか。

「あれだけの規模の区域を隠し切れるような特異な結界は…やっぱり常在型じゃ無いみたいだね…」

常に隠し続けることは不可能なのか。
何にせよ、今現在、人里は“消失”の防壁を張ることなく、確かに眼の前の景観の中に在る。
これは一つの事実であり、解釈の仕方次第では綻びの一つになりうる。


「ソノヨウダ。
或イハ、隠蔽術ニ長ケタ“能力”ヲ持ツ者ガ、アノ集落ニ居ルノカモシレンナ」

「その可能性は…低く無いだろうね。あれだけ完璧に人里を隠してみせるんだ。
 もし常在型なら、わざわざ探知結界を張り巡らせる必要が無いからねぇ…」

「モウ少シ近ヅイテミルカ?」

「いや、これ以上の接近は止めよう…。
もしも探知結界に引っ掛かったら、コソコソと歩いて此処まで来た意味が無くなるよ」

見つかりでもすれば、「境界を操る妖怪」が飛んでくる。
いやそれどころか、次元を引き裂いて現れるだろう。
それは勘弁願いたい。
戦闘になれば、逃走するのも困難だろう。相手は本物の「怪物」であり「賢者」だ。
逃げ切れたとしても恐らく、転移先も捕捉探知されてしまう。
そうなれば、詰みだ。

それに、今回の目的はあの八雲紫という妖怪との接触では無い。

これは実験だ。

必要な「器具」を、取り出す為、極めて小さな転移法術陣を手の中に象る。
探知結界に気取られぬよう、注意を払いつつ、詠唱する。
その声に合わせ、茂る緑を陣から漏れる不吉な青黒い光が照らした。
自然のものでは無い風に揺れ、木の葉が泣いて、ざわめく。
同時に、キチキチキチ…、という、金属が擦れあう、甲高い音が響いた。

あんまり数が多過ぎると、潜伏させる前に気付かれそうだな…。
その呟き声に答えるように、キチキチ…、という金属音は、ガリガリガリ…、キチギチギチ…、と更に大きく、歪み始めた。

掌の上に刻まれた術陣の大きさは、直径で5センチ程の大きさだ。
見た目で言えば、掌の少し上に、青黒い紋様で縁取られた円盤が浮かんでいるような感じだ。
だが、その紋様が象る円盤の中身は空で、完全な穴だった。
底が見えない。いや、向こう側が見えない暗過ぎる空洞だ。
その空洞の出口である法術陣から、何かが這い出してきている。
キチキチキチ、という不気味な音と共に、それはずるりとそれは身体を這い出させ、男の掌からぼとりと地面に落ちた。

一言で言えば、それは黒い蜘蛛。
金属で出来た、機械の蜘蛛だった。
大きさは、法術陣よりも少し大きい。男の掌の大きさ程だ。
蜘蛛は体が金属で出来ている以外にも、かなり特徴的な外見をしている。

頭に眼は無く、代わりに、注射器のような針を内蔵した、大きな口がある。
最早、頭と言うよりも、顎と言った方が正しいかもしれない。
腹の部分は、金属の皮膜に覆われたフラスコのようになっており、その中に薄緑色の液体が内包されているのが見える。
脚もかなり特徴的だ。脚の先端が、まるで鉤爪のように曲がり、鋭い刃が仕込まれてる。
それは這うよりも、何かにしがみつき、食い込ませるのに適した形状だ。
蜘蛛という虫のフォルムを持っていせいで、その異様さや不気味さが引き立っている。
土の上に落ちたそのフラスコ蜘蛛は、ひっくり返ったままわしゃわしゃと長い脚をしきりに動かした。
そうして直ぐに体を持ち直す仕種は、本当に生きた蜘蛛のように生々しい動きだった。
フラスコ蜘蛛はキリキリキチキチ…、と音を立てながら人里の方角へと這い進み、森の茂みの中へと潜り込んで行った。

その一匹の後を追うように、男の掌に浮かぶ陣から、またボトリ…、ゴトリ…、とくぐもった音を立てて、蜘蛛達が次々と溢れ出て来た。
いや、蜘蛛だけでは無い。
中には百足の姿をしたものから、ゲジゲジのようなものも居る。
ただどの虫の体も、試験管を金属皮膚で覆ったような構造で、中にはやはり薄い緑色の液体が見える。
地面に零れ落ちた虫の数は、全部で十数匹。大きさは男の掌程だ。
さして巨大という訳でも無い。
だが、その虫達が一斉に這いずり回って人里の方角へと消えていく様は、余りに不気味だった。

「大丈夫ナノカ…。アノ虫共モ探知結界ニ引ッ掛カルゾ」

「かなり入念にステルス処置を施してあるから、大丈夫だと思うけど…」

それに…、と言ったところで、男は言葉を切った。
眼鏡の奥の瞳を細めながら人里を一度見渡す。

「こういうのはイタチゴッコさ。現にこうして、僕達は此処に居るんだしねぇ」

索敵機能に特化した結界術に対して、終戦管理局が用意した回答は実に単純だ。
それは、隠蔽結界に近づく為に、隠蔽用の法術を用いるというもの。
とは言え、流石に境界操作の賢者の編み出した探知結界から、大量のコピー達の存在を完璧に隠し通すのは不可能だ。
大きなアクションを取れば、間違いなく気取られる。
だが、男とロボカイの二人だけならば、隠蔽法術で存在を隠し切ることは可能のようだ。

種としての男が、ただの人間であることも大きくプラスに働いている。
純粋に生物としての格が違う妖怪達にとって、男など取るに足らない矮弱な存在だ。
ロボカイにしても、法術との親和性の高い体の御蔭で、隠蔽法術の効果が上がっている。
たった二人だけだが、こうして動き回れるという行動は強い。

「カウンターを構えられてるのは間違い無いだろうし…。
次に動くまでに、どれだけこちらの手札が充実しているか、だねぇ」

「ソウイウ意味デハ、幻想郷ノ手札ノ数ハ相当ナ物ダナ。加エテ、一枚一枚ガ強イ…。
 …ヨク此処マデ拮抗状態ヲ保テテイルモノダナ」

僕もそう思うよ。ロボカイの言葉に、男は可笑しそうに笑った。
幾重にも張られた結界は、幻想郷側の動きをかなり遅くしているように見える。
ただ、それは終戦管理局側にとってもメリットにはならない。
コントロールを重視したいが為に、終戦管理局の動きも遅いからだ。
この睨み合いの時間の内に、幾つの手を仕込めるか。
どうすれば、この幻想郷の防衛線を破綻させることが出来るのか。
どんな行動が刺さるのか。
先出しでも後出しでも、強い手札を揃えておきたいところだ。

それに加えて、可能ならば相手の手札を砕きに行く。

「さて、次は…」

何処へ行ってみようか…。
男はもう一度視線を人里に向けてから、くるりと踵を返した。
口許だけを楽しげに歪めて、男は獣道へと消えていく。
その姿と存在感は薄弱で、妖精も妖怪も人間も、まだ誰も男には気付けていない。
ただ、ロボカイだけが、その男の細い背中の後に続いた。






太陽が薄黒く染まり、紫色と黒を混ぜ込んだような色の積雲の立ち込める空の下。
煤けて黒ずんだ汚物の雨が降り、地を濡らしていた。
其処に吹く風は無かった。
ただ、黒い雨が降っていた。

赤い聖騎士は、その雨に打たれながら、体を引き摺るようにして歩いていた。
騎士の額にはごつい鉢金。その下から覗く金色の眼は、空虚な昏い光を宿している。
慰労困憊した様子だった。
微かに息が荒い。少し苦しげですらある。
ずぶ濡れになった白の騎士服は、黒い雨で染まり、薄黒く変色していた。
いや、薄黒いだけでは無い。
赤黒い。血の色が混じっている。

赤い騎士は、一人の若い騎士を背負っていた。
ただ、背負われている若い騎士には、下半身が無かった。
胴体からは破損した内臓が覗いており、それらの臓器も途中から千切れている。
それでも出血してないのは、若い騎士を包む赤燈色の微光の御蔭だろう。
赤い騎士は、低い声で何かを唱えた。法術だ。
それに応えて、若い騎士を包む微光が揺れる。
止血と痛覚麻痺の為の法術だったが、それも、ただ血と痛みを止めるだけだ。
若い騎士の体を再生させる事は叶わない。

黒い雨と澱んだ空の下、明かりらしい灯火は、その延命の為の赤燈だけ。


其処は戦場だった。

聖戦。その中でも、かなり激しく、また凄惨な戦いの後。

戦場となったのは、重厚な歴史を持つ、大きな街の一つだった。

この街がギアの群れに襲われたのは、ほんの数時間前。
瞬く間に住人は殺され、街は破壊された。あまりに呆気なかった。
聖騎士団の一部隊が到着した頃には、生存者は絶望的な状況だった。
街は瓦礫の山と化していた。
肉と血とそれ以外の液体を混ぜ込んだ湖は溢れ、その崩れた街を水浸しにした。

ただ、そんな光景を見ても、聖騎士団の中に絶望する者は居なかった。
希望など、最初から無かったからだ。
絶望のしようが無かった。
それほど、ギアの群れは巨大で、圧倒的だった。
聖騎士団は選ばなければならなかった。

逃げ延び、このギアの群れの犠牲者を増えていくのを見ているか。
或いは、武器を握り締め、微力ながらも戦い、死ぬか。
聖騎士達は、誰も何も言わなかった。

ただ法術を唱え、武器を構え、ギアに向けた。
ギア達も、聖騎士団を見逃そうとはしなかった。

ただ、人類の正義と、ギアを動かす“正義”の意思がぶつかるだけだった。

結果。
瓦礫と化した街は、廃墟を通り越し、半ば荒野と化した。
聖騎士団の一部隊は、ほぼ全滅。そして、ギア達も全て破壊された。
相討ちでは無い。
余りにも多くの犠牲が払われたが、それは間違いなく勝利だった。

聖騎士の足元には、血の海の浅瀬が漣を作っている。
見渡す限りの血の海だった。深さも、騎士の膝下ほどまである。
騎士が歩を進めるたびに、ざぶざぶと音がした。
血と鉄の臭いが充満している。
騎士は、ゆっくりと周囲を見回しながら、重い足取りで歩く。
生存者を探しているのだろう。
だが、それが無駄な事だという事は、騎士自が最も理解している筈だった。

この戦場は、もう見渡す限りの墓場だ。
人もギアも、街も土地も、未来も希望も全て死んだ。

赤い海は、その温い潮の中に無数の死骸を飲み込んでいた。いや、残骸というべきか。
血溜まりの中を歩く騎士の足元にも、何かが絡みついた。
人間の内臓だった。
心臓。肺。腸。脳。眼球。
他にも、腕や脚や首などが、血の海から突き出したまま漣に揺られている。

酷い有様だ。

其処に加えて、人間以外の臓物や、肉の破片が混じっている。
騎士は横目で、一つの巨大な死体を一瞥した。
その視線の先には、有毒な体液を撒き散らしながら、痙攣を起こす巨大な死骸が横たわっていた。
糞デカイ体をした、大型のギアだ。勿論、一体だけでは無い。
血の海の中にポツポツと島のようになっている肉塊は、ほとんどが大型ギアの死骸だ。
あれだけの巨体は、もはや生物兵器というよりも、構築物か建築物の類だろう。
だが、幾ら巨大でも、既に屍肉の塊だ。
それに、街の建物の名残、瓦礫と土くれの山。
ぱっと見では何か分からないような肉塊は、数え切れない。

波の音と雨の音が混じり合う中。
死骸と血と膿を掻き分けて、赤い騎士は生存者を探し、ただ歩く。

遠雷が響いた。
赤い騎士が背負っていた、下半身の無い若い騎士が、苦しげに咳きこんだ。
咳いた吐息は、若い騎士を包む赤燈色の微光を揺らす。
そして、擦れて罅割れ、今にも消えてしまいそうな声で、何かを呟いた。

…喋るな…。
赤い騎士は低い声でそう言ったが、若い騎士はもう一度咳き込み、血を吐きながら笑った。

わた、し…た、ち。は…。か。ち。ま。し…た、よ。ね…。

ぶつ切りになった砕けた声は、雨音に掻き消されて、ただの呻き声のような有様だった。

…ああ…。…そうだ…。
若い騎士は、虫の息のまま。その言葉を聞いて笑って、血を吐いて咳き込み、また笑った。

…黙ってろ…。

ほ、か。…。の。だ…ん。い、ん。た…ち。は…。

………残らず死んだ…。

……そ…う…で、す。か…。

……お前も…じきに死ぬ…。

赤い騎士は、この若い騎士とは別段親しい訳では無かった。
だが、顔ぐらいは知っていた。
若い騎士は、赤い騎士に懐いていた数少ない聖騎士の一人だった。
稽古をつけてくれだの、法術を教えてくれだのと、絡まれたことも何度もあった。
その度に適当にあしらい、まるで相手にしてやらなかった。
それでも、若い騎士は、赤い騎士の背中を追いかけていた。鬱陶しいと思うこともあった。
だが、ギアから人々を守る為に、若い騎士は強くなりたかったのだろう。
若い騎士はいつも必死で鍛錬を行い、法術を研究し、第一線で戦うまでになった。
同じ戦場で戦ったことも、少なくは無かった。
若い騎士は、多くの人々を助け、守り、ギアを退けてきた。
戦ってきた。

そして今日、襤褸雑巾のようになって、無残に死ぬ。
若い騎士は、参ったな…、みたいに笑った。
出血多量で青白い顔の癖に、何処か満足そうな笑みだった。
黒い雨に打たれ、髪の毛を額と頬にべっとりと張り付かせたまま、若い騎士は空を見上げた。

若い騎士の眼は、有毒な汚物の雨に汚染されて、白く濁っていた。
もう何も見えてはいないだろう。それでも、眩しそうに眼を細めている。
赤い騎士は、出来るだけ体を揺らさないように抱えなおしてやった。
上半身だけになった若い騎士は、何かを諦めるみたいにか細い息を吐いて、また笑った。

さ、い…ご、に…。……に。じ…。が……。…み、た。い…で、す。…。

若い騎士は遠い眼をして、途切れ途切れの弱々しい声で呟く。
濁り始めた瞳孔は、黒く煤けた空へと向けられていた。
降り注ぐ雨は容赦無く、その弱った眼を黒く濡らしている。

若い騎士の体から力が抜けていくのを、赤い騎士は背中で感じた。
咄嗟に詠唱を重ね、延命の為の法術で若い騎士の生命維持を試みる。
だが、下半身損失に、出血多量。
加えて、臓器破損、汚染された身体。
赤い騎士の法術を持ってしても、命を縫い留めるのはそろそろ限界だった。

…もう喋るな…。

そ、る…さ……、ん。………。…ぁ……。

…黙れ……。

…………………………。

若い騎士はそれっきり、何も話さなくなった。
ただ、赤い騎士の言うことを聞いた訳では無いようだ。
少しして、心音も停止し、呼吸も止まった。

完全に沈黙した。
ずるずる…、と赤い騎士の背中から、若い騎士の上半身がずり落ち出した。
赤い騎士はそれでも法術による生命維持を続けようとしたが、無駄だった。
もう死んでいた。

雨が更に強くなって、赤い騎士の体を打った。

………糞が…。

力の篭らない乾いた声で呟いて、赤い騎士も空を睨みつけた。

雨は止みそうに無い。
黒く濁り果てて、腐り落ちそうな色の空を暫く見上げ、無表情のまま歯を噛み締め、俯く。
そのままの姿勢で眼も向けず、背負った若い騎士の亡骸を、血の海の中へとゆっくりと下ろしてやった。
ばしゃっ…、という音共に飛沫が上がり、若い騎士の亡骸はすぐに血の海の中に沈んで行った。

赤い騎士は全身を濡らしながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


見渡す限りに広がる血の海は、まるで出汁の濃いシチューのようだ。
飲み込まれた死骸は大きめの具で、戦場は鍋だろうか。

この鍋を煮込む為の火は、人間の正義と、ギアにとっての正義だった。
人類は生き残る為に正義を掲げ、ギアは存在する理由の為に、正義に従った。

「聖戦」という台所で作られたこの糞不味いシチューは、この一杯だけでは無い。
大量に在る。在り過ぎる。
それこそ、腐る程だ。
材料になる人間とギアは、お互いに殺しあって、どんどん死んでいく。
人間もギアも、文明も歴史も、全てをごっちゃ煮にしてしまうこの戦争は、そこら中で起こっている。

このペースで行けば、いずれ、地上はこのシチューで溢れかえるんじゃないか。

そうなったら、一体誰が喰うんだ。

赤い騎士は大きく息を吐いて、両手に赤燈色の炎を灯した。

黒い雨の中でもその炎は鮮烈で、悲しげだった。
失うものは全部消えて、守らなければならないものは、もう全部の血の海の中だ。

騎士の纏う法力が、両手に燃える炎に流れ込み、脈動する。
立ち上る陽炎と炎は、此処で死んだ全ての者への送り火だった。
揺れる炎は次第に大きくなり、血の海が沸き立ち、雨を蒸発させていく。

赤い騎士は両手だけでは無く、全身に業火を纏い、周囲一体を炎の渦で包みこんだ。
奔る炎は雨を消し飛ばし、血の海を蒸発させながら巨大な法術陣を描き出し始める。
幾重にも。幾重にも。
広がり、燃えて、刻んで、描き出していく。

赤い騎士は額の鉢金を右手で外して握り締め、左手を胸の前で握りこんだ。
鉢金を外した瞬間。赤燈色の炎は血錆色に変化し、燃え盛ると言うよりも、空間に灼き付いた。
焼尽の風が陽炎と共に昇り、うねり、血の海の中にとぐろを巻く。
脈打ち、広がっていく炎輪と術陣は、戦場を焼き尽くし、貪っていく。
凄まじい熱量だ。血の海が蒸発し、赤い霧となって気化し始める。

赤い騎士は法術の詠唱を重ねながら、再び空を見上げた。
降り来る雨は、もう騎士には届いて居ない。
雨粒が全て空中で蒸発し、黒い靄が立ち込めているような状態だ。
おかげで、薄暗くさえあった戦場が更に暗くなった。日の光など、まるで届いて居ない。
いや、届いたところでどうなる。
汚物の雨は既に大地に染み込み、死ねる者は皆死んだ。
太陽の光が差し込んだところで、この悲惨な街の姿が顕わになるだけだ。

騎士は空を見上げたまま、眼を細める。
黒すぎる積乱雲と濁った靄に隠れた空は、やけに近くに見えた。

……こんな濁り腐った雨の後に……虹など架かるか…。
吐き捨てるように言った騎士は、纏う業火を陰影に変えて、その身に宿した。
騎士の声に応えたのは、幾重にも張り巡らされた焼灼の法術陣と、ギア細胞だった。
一瞬後。
騎士を中心とした法術陣から血錆色の炎が奔り、戦場全てを飲み込んだ。
それは爆発と言っていいかもしれない。途轍もない規模の殲滅法術だった。
天まで吹き上がる無数の火柱は巨竜の顎であり、炎に包まれた戦場は、その口の中だ。
業火が象った竜の牙は、人間もギアも死骸も廃墟も関係無く、戦場に存在する全てを跡形も無く塵へと返していく。

赤い騎士はこの地で死んだ者達全てを弔うべく、大音声で咆哮を上げて、炎で戦場を喰らい尽くした。
血編みの雨と炎と共に、悲しげなその咆哮は暫くの間、戦場に木霊し続けた。



赤い騎士は、それからも数え切れない程の戦場の前線に赴き、ただ只管に戦った。


その度に、死んだ聖騎士達を炎で弔い、血の海を飲み干して行った。
それは孤独な巡礼であり、想像を絶する苦行だった。
だが赤い騎士は、凄惨を極める聖戦の中で、日々上る太陽のように戦い続けた。
戦って、戦って、戦い抜いた。
そしてまた、多くの命を救った。

他の聖騎士達は、恐れを知らない赤い騎士を讃えた。

しかし、赤い騎士は称賛の声など聞きはしなかった。

彼は、正義の為に戦っている訳では無かった。

ただ、正義を破壊する為に、戦場で巨大な石包丁を振るい続けた。



それは、ソルの過去だった。

映季は、手にした鏡を見詰めながら、言葉を失っている。

彼の生きてきた時間を映す鏡からは、炎の揺らめく光が漏れていた。
その鏡を持つ映季の手は、僅かに震えていた。
息を呑んでから、ゆっくりと押し出すように吐き出す。

今、博麗神社の母屋に居るのは、映季とソルだけだ。

会合が終わり、既に日が傾き始めている。
飴色になりかけた日の光。夕暮れが近づいている。
それが障子越しに淡い暖かさを運び、畳の香と混じり合う。

正座したまま静かに深呼吸して、映季は鏡を伏せて、顔を上げた。
その映季の正面には、ソルが胡坐をかいて座っている。
寡黙な金色の眼と合って、映季はやはり眼を逸らしてしまう。

茜色に染まりかけた陽光に照らされた黒袴のソルの姿は、何処か浮いていた。
存在感が希薄に感じる。いや、弱々しいというべきだろうか。
そう感じるのは、鏡で見たソルの過去の姿が、あまりにも強烈過ぎたせいだろう。

ただ、ソルは自分の過去を知られること自体には余り抵抗は無いのか。

「…その鏡で…俺の過去の何を見たのかは知らんが…」

……説教など…するだけ無駄だ…。
抑揚の無い低い声で言って、ソルは無表情のまま映季の反応を待っている。
自分がどんな判決を言い渡されるのかなど、分かり切っているからだろう。
それは反抗心からでは無く、諦観からの言葉だった。
どんな判決も量刑も受け入れる覚悟。
それを既にしているからこそ、ソルは閻魔の前でも全く怯まない。

開き直っているのでは無く、自らの罪を自覚しているのだ。
そうして、徹底した苦行主義のもと、彼は百年以上を生きてきた。

そんな者に今更、一体何を言えばいいのか。

映季はゆるゆると首を振った。

「私も、今まで多くの罪人の過去を見てきました。
 しかし…、貴方のような者は見たことがありません…」

ソルは何も言わず、何処か空虚な目で映季を見つめ返した。
其処に感情を伺うことは出来なかったし、実際に、何の感情も抱いてはいないのだろう。
母屋の明るさが、少し落ちた気がする。
代わりに、茜色が強くなった。
…そうか…、とソルが無感動な声で呟くのが聞こえた。
映季はやはり何も言えず、小さく頷くだけだった。

以前、紫は映季に言っていた。
ソルは、大きな罪を背負っていると。
そして、復讐の為に生きている。

そんな後ろ向きな彼に、善行への道を説いてやって欲しいと、紫から頼まれた。

その為に、こうして話し合う場を、会合の後に作ったのだった。

だが、ソルの心情に何か良い変化を齎すことは、無理そうだった。

閻魔は、死んだ者の魂を裁き、判決を言い渡す。
過去を映し出す浄瑠璃の鏡の前では、嘘は無意味だ。
判決の時、被告は自分の生を偽ることは出来ない。
善行も悪事も、全てが白日の下に晒される。
罪の意識を感じるものは良心の呵責に苦しみ、そうでない者は無駄な虚言を弄する。
必死に言い訳を始める者。泣き出す者。或いは、開き直る者。
その時の反応は、裁かれる者によって実に様々だ。
映季は今まで、無数の魂を裁いて来た。
白と黒をはっきりとつける映季の判決は絶対で、決して覆ることも無い。
冷酷、残虐な大罪人には、地獄行きを言い渡すことも躊躇しない。
それが閻魔だからだ。

だが、限定条件が存在する。裁判の対象は、「死んだ者の魂」だ。
生きているものを裁くことは出来ない。
だからこそ、生きている者に対して、閻魔は善行への道を説く。
悪行と罪を重ね続けぬように。
映季は説教という形で、悪行を重ねるものに自らの罪を自覚させ、善行へと向かわせる。
正しい道へと還り、死ぬ前にその罪が重くならないよう諭すのだ。

今まで、ずっとそうしてきた。
今回も同じだった。

背負う「過去」を見極めて、ソルに善行への道を説こうとした。
そして、彼の生きてきた足跡の一端を垣間見てしまった。


沈黙する映季を見詰めていたソルは、溜息を吐いた。

「…断罪したいなら…好きにすると良い…」

……地獄にでも何処へでも…大人しく堕ちてやる…。
そんな事を言われたのも初めてだ。
映季は思わずソルの眼を見詰め返してしまった。
一体どれだけ己を責めれば、自分のことを此処まで無感動に吐き捨てられるのか。

「…だが今は…潰さねばならん奴を…放っておく訳にはいかん…」

「それは、今の異変と…貴方自身の復讐の事ですか…?」

今度はソルが黙った。言葉に詰まった訳では無い。
ソルに過去をしった映季には、もう答える必要までも無いと判断したのか。
その金色の眼が物騒に細められた。
映季は怯みそうになったが、ぐっとソルを睨み返した。

「貴方の助力には感謝しています。…ですが、貴方の復讐を良しとする訳にはいきません」

「……そうだろうな…」

「素直ですね…」

「……許されようとは思わん…」

やはりソルの声には抑揚が無く、何を考えているのかも伺わせない。
無機質ですらある声音とその眼が、今は酷く排他的に見えた。
このソルという男は、安らぎや休息では無く、苦痛と苦悩を望んでいるかのように思える。
実際、そうなのだろう。
映季は、浄瑠璃の鏡越しに見たソルの過去を思い出す。
何の希望も持たないからこそ、あそこまで救いや安らぎ等とは無縁に戦えるのだろう。
或いは、自分が赦せないからか。

「貴方のように、徹底した苦行主義の下に生きてきた者にとっては…。
どんな判決も量刑も、咎としての意味を成さないでしょう…」

「…何が言いたい…」

「貴方は、苦しめと言われれば…際限なく苦痛を受け入れ続ける」

ソルの顔が僅かに歪んだ。

「地獄ですら、貴方にとっては気休めにしか過ぎないのかもしれません。
既に…貴方は地獄以上の苦行を、自らに課し続けていたのですから…」

今度は、ソルが映季から視線を逸らした。
静か過ぎる程に落ち着いていたソルの呼吸が、僅かに乱れている。
何かを言おうとして、言葉に詰まったようだ。
映季の言っていることが、当らずしも遠からずだからか。
自分の過去を知る者の言葉は、ソルの精神を揺さぶっていた。

「貴方が最も苦しみ、絶望の淵に立たされるのは恐らく…、自分を赦せと、言い渡されることでしょう」

ごりっ、という鈍い音が、母屋に響いた。歯軋りの音か。
ソルは映季と眼を合わせないまま、自らの額を右手で掴んだ。
其処には、ギアの刻印がある。
……赦せる訳があるか…。
閻魔としての映季の言葉は、やはりソルの心を抉っていた。
凄惨、陰惨を極めるあの戦場の中でも眉一つ動かさなかった男が、微かにだが顔を苦しげに歪めている。

「貴方にとっての善行とは、己の心身を苦行で刻むことでは無く…赦していくことかもしれません」

ソルは何かを言おうとしたようだったが、それは言葉にならなかった。

すすっと、静かに障子が開いたからだ。

霊夢だった。
映季とソルを見比べる表情はいつも通りだったが、少し硬いような気もする。

何とも微妙な空気が、母屋を包む。
だが、霊夢はその静寂の中でも、唇の端に僅かに笑みを浮かべて見せた。

それは、バツが悪そうにソルが霊夢から視線を逸らしたからかもしれない。
 

「取り込み中の所悪いんだけど…ソル、お客さんよ」

 客。誰だ。
ソルは無言のまま訝しむように眼をすぼめた。
そして、胡坐をかいたまま、もう一度霊夢へと向き直った。 
 
 「今はソルさんとの、大切な話の最中なのですが…」

 映季は、少し責めるような視線を霊夢に向ける。
彼女の配下の死神などなら、震え上がるほどの迫力のある視線だった。
だが、霊夢はまるで気圧されることなく、霊夢は映季に肩を竦めて見せた。
そして、夕焼け前の、赤みがかった陽光を障子越しに一度振り返り、意味深な笑みを浮かべる。

「待っててって言っても、すぐ会いたいって言って聞かないんだもの」

また神社が壊されちゃ、私だってかなわないわ…。
霊夢がそう言い切るよりも前に、とつとつと、小さな足音が聞こえた。
縁側に伸びる影が、霊夢の足元に掛かる。小さな影だった。

ソルと映季からは、それが誰なのかは見えない。
障子に隠れ、その姿がシルエットになっているのが見えるだけだ。

かなり小柄だ。
日傘を差している。
 ただ、小柄な影は、障子から姿を表そうとしない。
 何処かもじもじとしている。
 
「ほら、何してんの。言いたいこと、あるんでしょ…?」

霊夢は優しく言って、その影に手招きした。
小柄な影は、うん…、小さな声で応えて、そっと日傘を畳んで一つ息を吐き出した。
それから、恐る恐るといった感じで、障子の影から顔を出した。

金髪が見えて、その次に朽木翼と、七色の面晶体が見えた。
次に、少し怯えたような紅い眼が、ソルを映した。

 「あ…ぅ、…こ、こんにちは」

ソルと眼が合って、慌ててペコッとお辞儀をしたのはフランドールだった。

「もうすぐ“こんばんは”だけどね。っていうか、急に大人しくなったわね」

フランドールのその様子に、霊夢は苦笑する。

ソルも少しの違和感を感じた。こんなに大人し気な少女だったろうか。
以前紅魔館で会った時は、もっと快活で、活発な感じの少女ではなかったか。
今のフランは何処かもじもじしていて、せわしなく視線を泳がせている。
そうかと思えば、ソルの様子を伺うように上目遣いで視線を向けてくるが、すぐに逸らしてしまう。

 やはり、前とは様子が違う。
少なくとも今のフランは、姉の熊さんパンツを広げながら、応接室の扉を撥ね開けるような少女には見えない。
 元気が無いという訳では無いようだが、やはり妙に思う。

「………」

胡坐をかいた姿勢から、片膝を立てるように座り直し、ソルはフランへと向き直った。
無言のまま見据えられ、フランは微かに息を呑んだ。
そして首を竦めて、ソルから眼を逸らした。
え、えと…、その…、と呟きながら、手の指をいじいじと動かすフランは、叱られた子供のようだった。

「……体の具合はどうだ…」

先に口を開いたのはソルだったが、別に焦れた訳では無いのだろう。
そう言ったソルの声は相変わらず低かったが、面倒そうな感じでは無かった。

「え、う、うん…! へ、平気だよ」

不意に声を掛けられ、フランはびくっと肩と翼を震わせて、顔を上げた。
それから、少しぎこちなく笑みを浮かべる。

「……そうか…」
 
短く答えるソルに、フランは何か言おうとして、俯いた。
そして、また顔を上げて、何かを言いたそうに唇を動かしたが、やはりまた俯いてしまった。

映季はフランの態度に何かを感じたのか。
ソルとの話に割って入られたにも関わらず、黙って成り行きを見守っている。
 霊夢も同じだ。ソルはと言えば、怪訝そうな貌で、フランの言葉を持っている。


「何をしているの、フラン…。黙っていては意味が無いわよ」

凛とした声が聞こえた。
同時に、二人分の足音が近づいてくる。

「わ、分かってるよ…!」

フランが障子の方を振り返る。
丁度、それと同じタイミングだった。
待ってるんじゃなかったの、と、霊夢は、可笑しそうに笑った。
やっぱり少し心配になってね。…様子を見に来たのよ。
そう答えながら、レミリアがゆっくりと母屋へと入って来た。
ただ、背後にはやはり咲夜が控えている。

まだ紅魔館へと帰っていなかったようだ。
レミリア達も、何かソルに用があったのだろうか。
座敷の中で日傘を畳むレミリアには、いつもの高圧的で高慢そうな態度は無い。
ただ、映季へと一度視線を向けて、「ごめんなさいね…」と呟いた。

「貴女とソルの話の…いえ、簡易裁判の邪魔をするつもりは無かったのだけれど…」

レミリアは目許を優しげに緩めながら、フランとソルを交互に見て、それからもう一度映季へと向き直った。
何処か含みのある視線だった。口許も、少し笑みに緩んでいる。
映季は、構いませんよ…、と静かに言って、眼を閉じた。
余計な事は言わないつもりのようだ。

フランは、少し焦ったように眼を泳がせて、ぅぅ…、と小さい声を漏らした。
眉もハの字になっているし、このまま放っておくと泣き出しそうでもある。
一杯一杯のようだ。
そんなフランに、優しげに目許を緩めた咲夜が声を掛けようとした時だった。

「……何か…俺に用か…」

以外にも、フランに助け舟を出したのはソルだった。
咲夜は、微かにソルに頭を下げた。
霊夢もフランの肩を小さく叩いて、頑張んなさい、と笑う。
映季も静かに頷いた。

座っているソルよりも、立っているフランの方が目線が高い。
ソルはフランを僅かに見上げている。つまり、目線の高さが普通よりも近い。
ぁぅ…と、呻いて、フランは唾を飲み込んだ。
それから、「ご…、ご」と、何かを必死に言おうとしているフランの視線は、ソルと自分の足元の畳を言ったり来たりしている。

レミリアが溜息を吐いた。
それが聞こえたのかどうかは分からないが、フランはぎゅっと手を握って、ぐっとソルを見詰めた。

ソルが僅かに顔を引いた。それ位、フランの表情は真剣だった。
そのまま、フランは「この前は、本当にごめんなさい!」と、深く頭を下げた。

少しの沈黙の後。

ソルは、呆気にとられたような表情を浮かべている。
映季は満足そうに頷き、霊夢はよしよしとフランの頭を撫でてやった。
レミリアも、しょうがない子ね…、みたいな感じで笑みを浮かべていた。

置いてけぼりを食らっているのは、どうやらソルだけのようだ。
「………む…」、と低い声を漏らしたソルの貌は、やはり冴えない。
 かなり反応に困っているソルを上目遣いで見てから、フランはまた俯いた。
 
 「その、この前は、私…ずっと泣いてばっかりで…。
  ちゃんと、“ごめんなさい”も、“ありがとう”も言えなかったから…」

フランは其処まで言ってから、少し恥ずかしそうに頬を染めて、眼を逸らした。
またもじもじと自分の指を絡めて、俯く。

「諦めるな、って言ってくれて…その、んと…あ、“ありがとう”…」

そう言ったフランの声は小さく、尻すぼみだった。
だが、確かにソルに届いたようだ。
ソルは何度か瞬きをして、渋い顔になった。

「……それを言いに…わざわざ神社に来たのか…」

こくりと、フランは小さく頷いた。
俯いていて表情は見えないが、その頬には朱がさしている。

「フランったら、『私も神社に行く!』って言って、大変だったのよ」。レミリアがくすくすと笑う。

フランは何かを言い返そうとしたようだが、何も言わなかった。
代わりに、不貞腐れたみたいに唇を尖らせて、映季をちらりと見た。

「だって…皆の話、すごく長いんだもん…」

どうやらフランは会合の間も、神社の外で待っていたらしい。
ただ、会合が終わってすぐに、映季がソルを呼び止めたせいで、更に待つことになった。
流石にこれには我慢仕切れなかったようだ。
もういい加減待ちきれずに、映季とソルの話に割って入って来たのだ。
 ただ、謝罪と礼を述べる為に。
そうして、今に至る。

 「……律儀な奴だ…」
 
困ったように呟いたソルを見て、映季は思わず笑みを零しかけた。

このソルという者は、こんな貌も出来るのか。
その映季の視線に気付いて、ソルは唇をへの字にひん曲げて、貌を顰めた。
今度こそ、映季はくすくすと笑ってしまった。

「あ、あのね…、ソル…」

何だか居心地の悪そうなソルに、今度はフランが止めを刺しに入った。
相変わらずもじもじとしたフランの顔は、かなり赤い。
 
「その、…私、ソルに一杯怪我させちゃったけど…」
 勇気を振り絞るようにして、フランは言葉を紡ぐ。
 顔の赤さが増して、耳や首元まで朱に染まっている。
ソルはそのフランの様子に、「これ以上、何を言う気だ」みたいな貌だ。

しかし、他の面々は何かを予感したのか。

レミリアは何とも言えない貌で、何かを言いたげに口を動かした。
その頬はやはり赤い。何だか、焦っているようでもある。
咲夜も何処かオロオロしているし、霊夢も、落ち着き無く自分の唇を摘んで引っ張ったり、放したりしている。
映季も、かなりドキドキした様子で、髪の毛を弄りながらフランとソルを見比べていた。

「あの、あのね…その、良かったら…」

フランはぐっと息を飲み込んで、潤んだ瞳でソルを見詰める。
多分、今までに無いほどの緊張が、博麗神社の座敷に走った瞬間だった。 
ただ、其処でフランが黙り込んだから、堪らない。

ぎゅうと強く下唇を噛むフランは、もう本当に真っ赤だ。
良かったら…。消え入りそうな声でフランは呟くが、其処から言葉が続かない。
レミリアも頬を染めて、やはり何か言いたそうに唇をもにょもにょ動かしている。
霊夢もそうだ。フランとソルの方に、視線を言ったり来たりさせている。


フランの言葉を待つソルだけが、無表情のままだ。
ソルに見詰められ、フランの貌が更に赤さを増した。
よ、良かったらで…良い、んだけど…。フランの声が、少し涙声になり始めた。
そこで、更に沈黙が続いた。
映季の眼がぐるぐると回りだした。
「良かったら…」何なのだろうか。
分からない。だから早く。
続きを。続きを言ってください。
そろそろ限界です。
「よ、良かったら…」フランがぎゅっと眼を閉じて、手をソルに差し出した。
きゃあ。映季は思わず両手で頬を押さえて、俯いてしまった。

その一瞬後、

「これからも、…仲良くしてくれる、かな…?」

フランが何とか最後まで言い切った。
この場の緊張の糸が一気に揺るんだ。
危うく映季は、拍子抜けの余り、溜息を吐きそうになった。
霊夢達も似たり寄ったりの様子だ。

ただソルだけが、不安そうなフランの視線を受け止め、緩く息を吐いていた。
差し出された小さな掌を見詰めながらも、ソルは動かない。
無表情のままだ。
だが、凪いでいた金色の眼に、僅かに迷いのようなものが見えた。
 
 反応の無いソルの態度を拒絶と受け取ったのか。
フランは、「や、やっぱり…イヤ、だよね…」と、物凄くしょんぼりした声で呟いて、手を引っ込めようとした。
しかし、それよりも先に、ソルがすっと掌をフランに差し出した。
あ…、とフランが声を漏らした。

「…仲良く、というのは…よく分からんが…」
ソルは何だか難しい貌で、フランを見上げている。

「……もう暫くは…宜しく頼む…」それから視線を一度伏せて、逸らす。
 ただ、そんな複雑な表情をしているのはソルだけだった。

そのソルの掌を両手で握って、フランは満面の笑みを浮かべている。
レミリアは、そんなフランを何処か羨ましそうに見ているし、霊夢も少し唇を尖らせている。
 咲夜は、ソルとフランの微笑ましい光景に、ほっとしているような感じだ。
 
 
 映季はふと思う。
どうもこのソルという男は、変な所で鈍く、また不器用なのだろう。
 それでも、今のソルの纏う雰囲気は優しげでは無いものの、柔らかく、接しやすい印象を持てる。

 やはり幻想郷とは不思議なところだ。
あの聖戦の中にあった赤い騎士が、こんな貌をするようになるのか。
そう思うと、何故か胸が苦しくなった。

 ソルに善行を解いて欲しいと言った紫の気持ちが、分かったような気がした。

 彼の復讐を見逃す訳にはいかないし、許す訳にもいかない。
 浄瑠璃の鏡で見たソルの過去と、今のソルの姿が不意に重なり、そう強く思う。
しかし、疲れ果て、磨耗しきった彼の魂が、幻想郷に住まう者たちと触れ合うことで癒されるのならば。

今のこの暖かな世界が、少しでも、彼にとっての救いになることを願うばかりだった。



[18231] 二十四話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/05/17 23:17
  診察室の机の上に詰まれたカルテの山を一瞥して、永淋は疲れたように溜息を吐いた。
 腰掛けた椅子の背凭れに身体を預けて、一つ伸びをする。
ポキポキ、と首と肩の辺りで骨が鳴った
 何とか一段落ね…。そう呟いた永淋は、ゆっくりと息を吐きながら瞼を揉み解した。

そして、カルテの束をもう一度見て、今の永遠亭が抱える患者の数を改めて認識する。
 
陽も暮れ始めている。
夕暮れに染まり、診察室も薄暗くなりつつあった。
薬品の匂いのする独特の空気も、今は少しひんやりしているように感じる。

体も、やはり重い。
ただ疲労というよりも、集中力が落ちてきていると言うべきかもしれない。

今までに無い数の患者を永遠亭で抱え、治癒術による治療を行っているせいだろう。
飲み薬、塗り薬だけでどうにか出来るレベルでは無い患者も居た。
出来る範囲で、外科的な処置も必要だった。
薬の処方や治癒術によるオペレーションに加え、外科手術という膨大な量の精密作業を完璧にこなした。
尽力した。
その甲斐もあってか、患者達はもう一命を取り留めていた。
それでも、安静は必要だ。経過を見守る必要も、同時にある。
 
 永淋はもう一度、今度は小さく溜息を吐いた。
肉体的というよりは、精神的な疲労の方が大きい。若干、眼がしぱしぱする。
眠気よりも先に脱力感が全身を覆い、気持ちの悪いだるさが体に溜まっていた。
もう一度伸びをしようとしたが、それも億劫に感じた。
カルテの上に突っ伏してしまおうか。
 ふっと、永淋が眼を閉じて、俯いた。
 だが、俯いただけで、寝てしまうまではいかなかった。
 
「お疲れ様です、師匠」
 
 「あなたもね…。よく頑張ってくれたわ」
 永淋は視線だけを診察室の扉の方へと向けて、労うように微笑む。
 
其処には、暖かいお茶の入った湯吞みを盆に乗せた鈴仙が居た。
少し心配そうな表情を浮かべた鈴仙は、失礼します、と小さな声で言って、永淋の傍へと歩み寄る。
湯吞みから上がる湯気が、冷えた空気を少し和らげてくれた。
微かにお茶のいい香りがする。
永淋は微笑んだまま体を起こして鈴仙に向き直り、差し出された湯吞みを受け取った。
掌に伝わるあたたかさが心地よい。

「在り難く頂くわ…。あなたも疲れてない?」

湯吞みに一度視線を落として、永淋は隣に立つ鈴仙を見上げる。
 盆を両手で持った鈴仙は、少しだけ笑った。

「いえ、私はちょっとお手伝いしただけですし…」

「そんな事は無いわよ。…鈴仙が居てくれて助かったわ」

 お役に立てたなら良かったです、と鈴仙は頷いて、嬉しそうに眼を細めた。
 可愛らしい弟子だ。永淋はお茶を啜りながら思う。
それに、可愛らしいだけでは無い。鈴仙は有能でもある。
事実、永淋が教えた医術、治癒術に関しては、鈴仙自身の努力もあり、かなり高度に仕上がっている。
波長を弄り、戦闘もこなす鈴仙だが、もうそれだけでは無い。
今では、永淋の補助を問題無く勤めて見せる。
鈴仙が居たおかげで、オペレーションでの永淋の負担がかなり軽減された。
それに薬品の知識もあり調合もこなせるので、鈴仙に任せられる患者も少なくなかった。
正直、かなり鈴仙には助けられたのは事実だ。
 
 
 「まだ、これから患者が増えていくかもしれませんね…」
 
 鈴仙は表情を曇らせ、俯いた。
 表情を険しくさせて、永淋も「そうね…」と、湯吞みに視線を落として呟く。
 終戦管理局との拮抗が続けば続く程、戦闘も多くなる。
 無傷で退け続けるのは、ほぼ不可能だろう。
 それにだ。
 西行妖が狙われた白玉楼戦や、スカーレット姉妹を標的とした紅魔館戦のように、事態を収められるかどうかも確実では無い。
終戦管理局の持つ技術は侮れない。何を仕掛けてくるのかも予測できない。
戦いが更に激化すれば、この永遠亭も戦場になりかねない。

 此処に篭り続けるのも、難しくなるかもしれないわ…。
低く呟いてから、永淋は湯吞みを机の上に置いて、座ったまま鈴仙に向き直る。

「鈴仙。一応、貴女も戦う為の心の準備をしておきなさい」
 
 その永淋の言葉に、鈴仙は僅かに息を飲んだ。
 だが、すぐに神妙な面持ちで頷いて見せた。
このまま戦いが続けば、治療に専念し続けることも難しくなるかもしれない。
恐らく、鈴仙もそれを薄々感じていたのだろう。
少しだけ唇の端を緩めて、永淋も頷きを返した。

「頼むわね…」

「はい。…とは言っても、イズナさんも妹紅さんも居られますから…。
私が何処まで役に立てるか、それこそ疑問ですけど」

苦笑を浮かべる鈴仙の眼には、恐れは無い。だが、決意のような、強い意思が伺えた。
それでいて、肩に余計な力が入っていない。
既に、戦う心構えが出来ているということか。

「貴女の医術、治癒術はきっと皆の助けになる筈よ…。自分を卑下することは無いわ」

強くなったものだと、永淋は微笑みながら鈴仙を見詰める。
「今はイズナが薬を配りに廻ってくれているけれど…状況が変われば、それも難しくなるしょうしね…」

永淋の言葉に、鈴仙も頷く。
患者を診る為に動けない永淋と鈴仙の代わりに、今ではイズナが薬の配布に出てくれている。

おかげで、永遠亭での人手不足をカバー出来ていた。
だが、永淋が言うように、状況が変わり―――悪い方へと転び、患者が増えた場合。
加えて、永淋達皆が戦う必要に迫られた場合。
流石にそうなっては、他所に薬を配布できる余裕は無くなるだろう。

 それに…、と永淋は軽く息を吐いた。

「今回は姫まで動きたがっているし…。突っ走り過ぎないよう、カバーをお願いね」

鈴仙が、その永淋の言葉に苦笑しながら頷いた時だった。
汚水の中に飛び込んだような、悪寒と吐き気を感じた。
永遠亭を包む空気が澱んで、腐り、そのまま押し包んでくるような、強烈な悪寒だった。
その次の瞬間には診察室の温度が一気に上がった。熱を感じた。

次に、爆発音と破砕音。震動。

机の上にあったカルテの山が崩れ、床に散乱する。
薬品棚に置かれた薬瓶の何本かは倒れて零れ、何本かが床に落ちて割れた。

 だが、鈴仙と永淋は冷静だった。
 
咄嗟に椅子から立ち上がった永淋は、机の直ぐ傍に立てかけてあった弓と矢筒を手に取る。
鈴仙も、矢筒を背負う永淋に一度頷いて見せて、すぐに診察室から駆け出して行った。
 
 
終戦管理局の襲撃ならば、何てタイミングだ。
鈴仙のその背中を追いながら、永淋は舌打ちをしかけて、止めた。
愚痴りたい気分だったが、そんな場合でも無い。

 鈴仙と永淋は気配を探り、永遠亭の中庭に向かっている。
 その途中で、この空気が腐っていくような、不気味な威圧感が増していくのだ。
恐ろしさよりも、おぞましさを感じる。足が泥沼に取られたような錯覚すら覚えた。

だが、妙だった。この気色の悪いプレッシャーには殺意や敵意を感じ無い。
それがかえって不気味だ。

だが、すぐにその薄気味の悪い感覚は、熱気と共に払拭された。
首の後ろの辺りがチリチリする。
 永淋にとっては、感じ慣れた感覚。
 久しく思う。馴染み深くすらあるこの感覚は、殺気だ。
 
妹紅の放つ浄火の殺意が、濁った空気を熱していくのを感じる。

何が起きているのか。戦闘か。
それにしては静かだ。静か過ぎる。
廊下を駆けている途中で、眼の前を行く鈴仙が一匹の兎とすれ違った。

てゐだった。
永淋達が向かおうとしている方向から、逆にこちらに走ってきていたのだ。
ただ、様子がいつもと違う。
鈴仙とのすれ違いざまに、やたら深刻そうな貌でアイコンタクトを取っていた。
その顔は蒼褪めているし、唇も震えていた。
 一体何を見たのか。ちらりとそんな思考が頭を過ぎった。
 すぐに永淋も、てゐとすれ違う。
 
 「患者と皆を逃がす準備だけしとくね… ありゃ、ヤバイ…!」
 
 すれ違う一瞬の間。声が聞こえて、永淋はてゐと眼が合った。
 今までに無い程、てゐの眼は真剣だった。それに、僅かな怯えが見え隠れしていた。
戦闘に向かないてゐが、今自分に出来る最良の選択肢を取ろうとしている。
 
 「ええ、頼むわね…!」
 
 永淋は短く答えて、駆けながら視線だけでその背中を見送った。
 てゐは機転も利く。馬鹿では無い。
 他の兎達とうまく連携を取り、患者達を逃がしてくれるだろう。
 そう思いたい。
 今は、信じるしかない。
 
永淋は、駆けながら頭を軽く振った。
余計な思考を頭から追い出して、鈴仙の後を追うことに集中する。

長い永遠亭の廊下を走り、座敷から縁側に抜け、そのまま中庭へと出る。
 
 凄まじい熱気が、鈴仙と永淋を包む。思わず、二人は顔を腕で庇った。
 普段は静謐で、趣のある永遠亭の中庭は、すっかり様相を変えていた。
薄暗くなりつつある竹林の清風に火の粉が混じり、笹の揺れる音と共に陽炎が立ち上っている。
  
 輝夜が戯れに集めた高級そうな盆栽や、それを載せた棚は消し炭となって砕け散って散乱していた。
 永遠亭を囲む塀にも大穴が一つ。
 未だ火のついた瓦礫が其処彼処で小さく細い煙を上げている。
 そして、盆栽の棚から塀の大穴にかけて、地面が大きく抉れ、陥没していた。
 最早、趣もへったくれも無い。
 
 先の爆音の原因はこれだろう。
何度も攻撃を繰り返した破壊の跡では無い。
一撃の跡だ。

永い付き合いだからこそ、永淋にはすぐ分かった。
相変わらず派手なものね…。
呟いた永淋の視線の先には、妹紅と輝夜が、その破壊の跡を見詰めながら佇んでいた。
 
「永遠亭の中で、余りに派手に暴れないでくれると助かるのだけれど…」
 
 軽口を言う輝夜は、だが視線を動かしていない。
 表情にも余裕が無い。
炎混じりの煙霧を睨んだままだ。
 
「悪い。…ただ、素通りさせる方が不味そうだったんでな」
 
 輝夜に物騒な声で答えて、妹紅は左手をポケットに手を突っ込んだまま、右手に炎を灯した。
夜の竹林の熱さが、更に増す。
 だが、妹紅の頬には冷たい汗が伝っている。
 
少々危険な雰囲気を纏わせた妹紅に倣い、その視線の先へと、永淋も弓を構える。
鈴仙は、手を拳銃の形に握り、構えた。だが、すぐにその貌が凍りついた。
 
 「そう身構えなくても良い。…敵対する意思は無い」
その低く歪んだ声と共に、燻る炎の揺らめきが突如として止まった。
停止した。いや。違う。極端にスローになった。
まるでコマ送りの映像を見るかの様に、炎の動きが、揺れが、遅い。
舞い上がる粉塵と煙霧も同じような状態だった。
その一帯だけが、腐敗していく。
まるで時間の流れが突然遅くなったような、余りに不自然な光景。
其処に、ダークグリーンの淡い光が地面を奔り、そこに鴉を意匠したエンブレムが浮き上がる。
法術陣。スロウフィールド。
サークル内に在る景色と炎と煙霧が、ぐにゃぐにゃ、ぐにょぐにょと歪んだ。

「話をしに来ただけだ。余り手間を掛けさせるな」

 舌打ちをした妹紅が一歩後ずさって、輝夜も半歩身を引いた。
 澱んだ空間を更に歪ませて、痩身の男が歩み出て来たからだ。
 
 ダークグリーンのボディスーツに、同色のマント。
呼吸口すら無い、拘束具のような仮面を被っている。
長い髪は生気の全く無い白色で、まるで衰弱死した老人のようでもある。
それに、仮面ごと頭を貫く“針”。仮面の片目に嵌めこまれたコイン。
 何もかもが、その男の異様さと不吉さを際立たせている。

 男の右上半身は消滅していた。
 傷口は黒焦げで、煤けて真っ黒だ。炭化している。
 常人なら即死の傷だ。
だが、男は平然と、何事も無かったかのように歩み出てくる。
死人。そんな言葉が似合いすぎる。
 てゐが顔を青くする相手であることが理解できた。
 あの男は、危険というよりも、途轍もなくおぞましい。
 幻想の中に在り、眼の前に居てさえ、この違和感。
 

 鈴仙が息を呑んだ。
永淋は眼を細め、弓を構えたまま一歩前に出る。出ようとした。
其処で、眼を見張った。
妹紅が呻き声のようなものを漏らしたのが聞こえた。


炭化した男の半身が、再生されていくのだ。
骨。神経。筋肉組織。皮膚。黒緑色の微光の粒子が凝り固まり、肉体を象っていく。
灰色の肉が蠢き、微光の粒子を接合し、胸、腕、手となり始める。
出血は全く無い。
そのせいで、まるで泥が人の形を成していくような印象を受ける。
肉の粒子は法術と混ざり合い、ボディースーツをすら再構築し、男の体を覆わせる。

ただ、その肉体再生の様子は、輝夜や妹紅、永淋達のものと酷似していた。
塵となっても蘇る、蓬莱人のリザレクション。その超越の御業に似すぎていた。

「貴方…」

低い声で呟いたのは、輝夜だった。その声は僅かに震えていた。
風が吹いて、笹が鳴いた。
月明かりが黒緑の微光に遮られ、夕焼けの暗がりが不吉さを増す。
虫の鳴く声はしない。

男は、再生した自分の右半身を見下ろしてから、輝夜へと視線を向ける。
そして、ゆっくりと首を右に傾けて見せた。
微かに息を吐く音が、その仮面の下で聞こえた。くぐもった微かな声も。
笑ったのか。いや。自嘲したのか。

「そう驚くことも無いだろう…。
少なくとも、“蓬莱の薬”とやらを飲んだ者にとってはな」

男は言いながら、輝夜、妹紅、永淋、鈴仙へと、ゆっくりと首を巡らせた。
仮面のせいで、男の視線を伺い知ることは出来無い。
だが、男の纏う異様さは、ただ顔を向けるだけで相対するものを怯ませる。
それは威圧感のようなものとは違う。
恐怖や、忌避に近い。

鈴仙は動けなかった。指一本動かせない。
手を拳銃型に握り、男に向けて構えているものの、男に攻撃を加えられる気がしない。
男の纏う空気に飲まれてしまっている。

駄目だ。このままでは。
鈴仙は唇を強く噛んで、深呼吸をする。体が小刻みに震えているのを感じた。
震えるな。抑えろ。止まれ。
そう念じて、拳銃型に握った手の指先に力を込める。

キリリ…、と弓の弦がしなる音が隣から聞こえた。
鈴仙はチラリと隣を見て、心強さと、少しの安堵を覚える。

「…私達の事も、良く知っているようね」

永淋は言いながら、眼を窄める。その表情にも動揺が無い。
静かに男を見据えている。
再び、張り詰めた弓の弦がキリキリ…、と鳴った。

永淋は、鈴仙とは違う。
恐らく、この状況で最も冷静なのは輝夜でもなく、妹紅でもなく永淋だ。
躊躇いも無ければ、迷いも、恐れも無い。
男が妙な動きを見せれば、永淋は矢を放つだろう。
そうなれば、輝夜も、妹紅も動く筈だ。
 蓬莱人のこの三人を相手にして、無事で済む者など居ない。
 
 居ないと思いたい。

「少し調べれば解かることだ…」

瘴気のような声で言って、男は微かに喉を鳴らすようにして笑った。
相変わらず、男の周囲には黒緑の光が下から染み出すように揺らめいている。
法術陣の光が、男の声に応えて少しだけ揺れた。

妹紅が黙ったまま鼻を鳴らして、今度は両手に炎を灯した。
恐れ入るわ…。輝夜はそう呟いて、はぁ…、と息を吐いてから、すっと半歩下がった。
 永淋は矢を、鈴仙は弾幕を放つ為、集中する。
 
 風が止んだ。ほんの僅かに、静寂のようなものがあった。
 その一瞬の間が、酷く長くに感じられた。

てゐは上手くやってくれるだろう。
とは言え、患者達に加えて、他の兎達までを皆逃がす余裕は流石に無い筈だ。
時間を稼ぎ、被害を抑え、男を退ける。
出来る。鈴仙は唇を噛む。痛みを感じながら、念じる。
恐れるな。狂わせろ。撃て。撃て。

 そんな必死な鈴仙を尻目に、男は無言のまま首を傾げた。
 臨戦態勢を取る輝夜達を見回し、このままでは埒が明かないと判断したのか。
 …用件だけ伝える。いや、警告と言っても良いかもしれんが…。
 男は、自らに戦う意思が無いことを証明するかのように、ゆっくりと半歩下がった。
 
 
 「何かしら…?」
答えた輝夜は男を見据えたままだが、追おうとはしていない。
 それを見て、男は更に半歩下がる。妹紅が無言のまま男と輝夜を見比べた。
「姫。彼の言葉に引き込まれ過ぎぬよう、気を付けて下さい…」永淋は弓を構えたまま微動だにしない。
 鈴仙は押し出すように息を吐いて、集中と緊張を切らさない。
 
 夕焼けが更に薄暗くなって、男の纏うダークグリーンの光と混じり合う。
 竹林の澄んでいた筈の空気が、重く、また、澱んでいく、
その不気味な光景の中。男は一度空を見上げた。
男の視線の先には、白の薄明を帯びた淡い月が浮かんでいた。

 夕闇と夕焼けの溶け合う低い空。
其処に浮かぶ月は、何処か虚ろに見える。
 
 「『“月”と連絡を取り合うような真似は止めて欲しい』。…これが主からの伝言だ」

 男は言って、再び月を見上げた。
 鈴仙は、誰かが息を呑んだような気がした。永淋か。輝夜か。
 妹紅は「どういう意味だよ」と、訝しげな表情で男を睨む。
 
 「そのままの意味だ」
 
 「…馬鹿にしてんのか、コイツ」
 舌打ちをして、妹紅はぐっと体を前に出した、両手に灯した炎が一際強く燃える。
 
 「待ちなさい、妹紅」
 妹紅の背に声を掛け、その突進を制止したのは輝夜だった。
 すっと前に出たのは永淋だ。
 
 鈴仙は鳥肌が立つのを感じた。
 師匠と仰ぐ永淋の雰囲気が、今までに無いくらい剣呑で、物騒になったからだ。
位置的に、鈴仙は永淋の背中しか見えない。
ただ、それで十分過ぎるくらいに恐ろしい。
師匠。そう声を掛けようとしたが、到底無理そうだった。
拳銃型に握った手を構えて、立っているので精一杯だ。
でも、それで良い。ただ、この状況に何か動きがあればすぐに対応しさえすれば。

「…あなた達にとって何か不都合が在るのかしら」

状況は変わりつつある。輝夜は眼を細めながら、男に問う。

「終戦管理局は、まだ“月の都”の存在に気付いていない」

好都合な事にな…。言いながら男は、更に一歩下がる。

「だが、お前達の行動次第で奴らも気付くだろう」

つまりは、終戦管理局に、月の都の存在を気取られるような事はするな。
男はそう言いたいのだ。
何故だ。何の為に。何の不都合があるのか。
すぐに男は言葉を紡いだ。

「奴らが月の都の存在に気付けば、必ず月にまで手を伸ばし始めるだろう。
 これ以上奴らの行動範囲が広がれば、対処はより困難になる…」

輝夜は鼻で笑う。いや笑おうとした。
 月になど届くものか。
そう言おうとしたが、男のぬるく湿った声が嫌に真剣で、言えなかった。

「何処まで月の事を知っているのか…、良ければ聞かせてくれないかしら?」
黙り込んだ輝夜の代わりに、弓の弦を張り詰めさせた永淋が、低い声で言う。
ざぁぁ…、と風が吹いて、夕暮れの竹林が揺れた。
いや、風だけじゃない。殺気。
永淋のその波長を感じた鈴仙は、腰を抜かしかけた。
妹紅でさえ、僅かに身を引いていた。
 
確かに、今更…ではあるわよね…。
ただ、そう言った輝夜だけは、永淋の放つ殺気を感じながらも、涼しい顔だ。
輝夜は空を見上げ、月をその眼に映した。

「そんな警告は、もっと早くにすべきでは無いかしら。
 今の貴方、なんだか凄く間抜けよ…」
 
 輝夜は月を見上げたままだ。そのまま唇を微かに歪めて、くすくすと笑った。
その鈴の鳴るような声と共に、ず、ず、ず、と、空気が凝り固まっていくような音がした。
 
「状況が更に煮詰まれば、私達が月に助けを求める、と…そう考えているのかしら。
 だとしたら、追い詰められているのは私達では無く、貴方の主とやらの方ね…」
 
「我々にも余裕が無いのは事実だ。…主も、月の存在を隠蔽する為に動いて居られる。
 終戦管理局を侮っていた訳では無いが、奴らの進化は我々の想定よりも遥かに早い…」
 
 輝夜の言葉に、男は少し黙って、緩く首を振った。
微かにだが、くぐもった吐息の音がその仮面の下でも漏れた。
 忍び笑いをするような、喉を鳴らすような声もした。
 輝夜と永淋の視線を真っ向から受けて尚、男は全く動じていない。
 それどころか、何処か恍惚の滲む溜息を吐いて見せた。
 「心地よい殺気だ…」と、変態的な言葉を漏らしたのを、鈴仙は聞き逃さなかった。
 小声だったが、間違いなく、男は快感を感じた声で呟いた。
 
 ああ、一応言っておくが。 男は、すっとマントを翻し、輝夜達に背を向けた。
 
 「我等が月に手を出した処で、何の益も無い。ただ時間の無駄だ。
それに、此処の患者を襲うつもりも毛頭無い。…安心しろ」
 
 男は肩越しに視線を巡らせて、永遠亭へと顔を向けた。
 恐らく、患者を逃がそうとしているてゐの動きにも気付いている。
 気付かれている。出し抜けない。
もしもこの男と敵対していたら。
そう思うと、鈴仙は自分の背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 「信用しかねるわね…」
 
 「好きにすると良い。だが、忘れるな」
 
 其処まで言った男の後ろ姿が、突然消え始める。
いや、正確には、透けて、薄れて、夕暮れの中に溶け出した。
 まるで最初から何も無かったかのように、その存在感が消えていく。
 
「我が主は、『キューブ』に加え、幻想郷の内外をも守ろうとして居られる。
 …その手間を増やすような真似は、許さん…」

男の有無を言わさぬ口調は、やはり真剣だった。
腐ったような粘着質な声音だというのに、芯が通っていて、確かな意思を感じさせる声だった。

永淋は、構えていた弓をすっと静かに下ろした。
そして、眉間に皺を寄せて、男を睨む。「もしも、月の都の存在が表に出れば…貴方達はどう動くつもり…?」

「そうなれば仕方あるまい。…主は月の都をも、守ろうと為さるだろう」

ご苦労なこったぜ…。
妹紅がそう呟いた時には、既に男の体は黒ずんだ薄緑色の光に包まれ消えかけていた。
透けたボディースーツ越しに、向こう側にある竹林の景色が見えている。
鈴仙は波長を感じた。ごく微細な揺れだ。
結界で仕切られた幻想郷から、男の波長までもが薄れ、消えていく。
男の姿が完全に消え去る間際。やはり真摯な声で「頼んだぞ…」と言って見せた。
その声音の中には、僅かな信頼のようなものすら伺えた。
一体、何者なのか。この男は。
鈴仙の捕らえた男の波長には、狂気や害意と言った負の捩れを感じることが出来なかった。
腐敗と瘴気の塊のような存在感の中に、理知と信念が同居しているに見える。

炎を握り潰して火の粉に変え、妹紅はふん…、と軽く鼻を鳴らした。
そうして、両手をポケットに突っ込みながら、男から眼を逸らす。
悪かったな…。一応謝っとくぜ…。妹紅はぼそっと呟いた。

消えかけた男は喉の奥で笑った。
「気にするな。…なかなか甘美な痛みだった。また味わいたいくらいだ」

うげ…、と妹紅は身を引いた。間違いない。男は変態だった。

「だが寧ろ、それ位の警戒心を持っていて貰わねばこちらとしても困る。
…私は裏方だ。…舞台に居る者が腑抜けでは、話にならんからな」

何を考えているのかさっぱり理解させない癖に、やはりその声音は真剣だ。
「真面目なのね。…主さんとやらに、宜しく言っておいて」輝夜は肩を竦めて、消えていく男を見送る。
永淋も、静かに男の背中を見据えた。鈴仙も、それに倣う。

主には伝えておく。…お前達を信じるとしよう。
もう男の姿はほとんど見えない。だが、その声だけは、やたらはっきりと聞こえた。








幻想郷に張り巡らされた結界は、空に、地に、縦横無尽に奔っていた。
それは幻想の中にある境界であり、触れるもの全てを識別し、判別する。
動物も、妖怪も、妖精も、人も。全てだ。
妖怪の賢者が編み出した結界術は、捉えたものを逃さない。
強力で、厄介なものだ。
八雲紫の構築した術式は、極めて困難な暗号であり、パズルであり、変幻する言語の渦だ。
理解や解読、模倣も解析も許さない、『八雲紫』という存在だけが扱える神秘だった。

しかし、男はその術式を解き解しつつあった。
対立する者の理論を破綻させることは、男の生業だった。
強力な結界術であるが故に、その術式の解明には時間を要したが、男はその神秘に触れつつある。

ただ、その感触は酷く虚ろだった。
触れた気がしない。まったくだ。
煙を掴んだような、そんな感触だった。
つまりは、「境界を操る」という御業の核心には、まるで届いていないのだろう。
遥か彼方に在る、超常の理論であり、存在だ。
そして同時に、幻想でもあり、夢であり、幻でもある。

感触が無いのも当然か…。
獣道を歩きながら、男は少しぼぅっとした頭のまま呟いた。
自分の声を聞いて、思考に耽っていた事に気付く。
同時に、地面に出張った木の根に躓いて、転びそうになった。

「大丈夫カ、ト言ウカ…何カ言ッタカ、駄目博士?」

男の背後を歩くロボカイの声がした。
背の高い雑草を掻き分ける音に混じり、その合成音声は少々聞こえづらい。
いや、別に…何も言ってないよ。
そう短く返して、男は更に歩を進める。

空気は湿り気を増しているのに、少し肌寒い。
木漏れ日は既に飴色に染まり、木々の陰はその暗さを増してきている。
夕暮れ時。逢う魔が時。男とロボカイは獣道を行く。
苔と草に覆われた地面の傾斜が、徐々に強くなりつつある。

男は木々の隙間から細く差し込む夕日に眼を細め、視線を上げる。
黒々とした峰が、葉と枝と影の合間から見えた。

「山の麓から、少し上がっちゃったかな…」

データからすると、この付近だと思うんだけど…。
呟いて、男は周囲を見回した。そして、何かに気付いたように、「…お」と声を上げた。
そうして獣道を逸れて少し進むと、少し開けた場所に出た。
微かな酒の匂いもした。焚き火の跡もある。地面にも、踏んで均されたような痕跡が見られた。
それに何より、この開けた場所だけ木々が切り倒されている。
強い夕陽が照りつけているが、それを遮る木々の枝が無い。
空が、急に広くなったように見えた。明らかに、此処ら周辺には手が入っている。
そのせいか、自然の中に造られた、広場のような風情だった。
焚き火跡を囲むように並んでいる切り株は、椅子というか、ベンチ代わりだろう。

「何ダ、此処ハ…」
ロボカイも周囲を見回し、訝むように呟いた。

「アルコールっぽい匂いがするし…。誰かが酒盛りでもしてたのかもねぇ…」

「フム…。妖怪、カ」

「まぁ、流石に此処まで山奥だと、“人”は居ないと思うよ。
 多分、妖怪達の憩いの場所なんだろうね…此処は」

そこまで男が言った時だった。少し濁った風を感じて、男は唇を歪めた。
木々の枝が揺れ、ざぁぁ…、とまるで波が引いていくような音が辺りに木霊した。
夕暮れに染まりかけた深緑の景色と相まって、その葉擦れの音はやけに不気味だった。

もう一度風が吹いた。強い風。吹く、というよりは、押し上げるような風だ。
吹き抜けていく、清々しい風とはまた違う。
やたら湿っていて、まるで洞窟を這い回った空気が、上へ上へ、外へ外へと抜けていくような感じの風だった。

「こっちで正解だったみたいだな」。少しほっとしたように言って、男は歩き出した。
「人里カラ、モウカナリ離レテシマッテイルゾ。良イノカ?」。ロボカイも、言いながら男の後に続いた。

ざざざ…、という、葉擦れの音を聞きながら、夕日の差し込む茂みを進む。

「ああ。構わないよ。…無事に里に潜り込んでくれれば、後は蟲達が連絡をくれるさ」

せっかく幻想郷に居るんだ。それまでの時間は、有効活用しないと。
男は言いながら、肩越しにロボカイへと視線を返した。
ただ、ロボカイは少し納得しかねるのか。無言のまま男から視線を逸らした。

「ハシャギ過ギテハ、引キ際ヲ誤ルゾ」

「君が言うと、凄く説得力が在るね…。何だか、重みすら感じるよ」
低く笑って、男は肩を揺らした。

「放ッテオケ! ト言ウカ駄目博士。吾輩達ハ何処ニ向カッテオルノダ?」

「何処、と言うか…。まぁ、地下…いや、地底と言うべきかな」

「地底…? 幻想郷ニハ、地底世界マデモガ存在スルノカ?」

「まぁ、観測したデータではね。まだまだ不明な点の多い領域なんだよ。
もしも後詰の戦力が控えているんなら、ある程度は把握しておきたいしねぇ…」

男は歩を進めながら、ロボカイの方を振り返らず、ぶつぶつと呟くように言った。
土と草、枝と落ち葉を踏む音が微かに響く。男とロボカイは、その広場を突っ切る形だ。
その広場の中心にある焚き火の跡は、比較的新しいものように見えた。
まだ近くに妖怪が居るかもしれないなぁ…。そんな風に暢気に思いながら、男が周囲に視線を巡らせる。

「地底カ…。マァ、嫁探シノ範囲ガ広ガルノハ、吾輩トシテモ好都合ダガ」

「君はホントにそればっかりだな…」

「マァナ…」。ロボカイは、ぱさっと前髪を手で払って、気障ったらしく首を傾げた。
男は何も言わず、溜息を堪えるように、鼻から軽く息を吐いた。

「…幻想郷は、地底だけじゃなくて、天界まで在るみたいだよ。嫁探しも大変だね…。
まぁ、無理だと思うけど…」

最後の方は、聞こえない程の小声で、男はボソッと呟いた。

「天界ダト…!」だが、ロボカイの方はかなりテンションが上がったらしい。
ガバッと顔を上げたロボカイは、橙色の陽光に染まりかけた空を見詰めた。

「上カラ下マデ嫁ダラケトハ、流石ハ幻想郷! 割トぱらだいす!」

決定☆吾輩ノ物。
そう言いながら、何故かガッツポーズをし出したロボカイを横目で見てから、男も空を見上げる。

空には、薄明の月が浮かんでいた。
そうして男は其処から視線をずらし、夕陽になりかけた太陽へと向けた。
見比べ、眼を細めた。「天界…。月のことかな…。いや、まさかねぇ…」
竹取物語じゃあるまいし…。
男は呟き、見上げていた顔を下ろして、一歩踏み出そうとした。
だが、踏み留まる。
おっと…見つかったか…。黒の手袋を嵌めた左手で、男は額に触れながら呟いた。

力強い羽音が、背後から聞こえたからだ。しかも、複数。
鳥のサイズの羽音では無かった。明らかに、もっと大きな生き物のものだ。
それに、押し寄せてくるプレッシャーが、野生動物のそれでは無い。
再び、茂みがざざざ、と不穏にざわめいた。風がうねり、唸っている。

「まだ鉄人形の残党が居たのか」。
「もう片方は…人間か…?」。
「ハッ、ひょろひょろな奴だな。弱そうだ」
「あやや…。しかし、どうも怪しげですねぇ」
「…油断するなよ」

男は振り向く途中、そんな話し声を聞いた。ロボカイも、ンン…?、と振り返った。
天狗か…。実物を見るのは初めてだな。頭の隅で思いながら、男は頬を右手の人差し指で搔く。
男の視線の先。浅い夕焼けの光を浴びて、佇む五つの人影があった。

四人は男。一人は少女の外見をしている。
彼らの服装は、和風の戦装束というべきか。腕や胸などを覆う甲冑に、刀を佩いた軽装だ。
手には、大振りな扇を手にしている者も居る。
陣羽織こそしていないものの、彼らの軽く装飾を施された装束には気品があった。
下等な生物、妖怪では無いことなど、一目で解かる
そして背中では、黒い羽毛を讃えた翼がその存在を主張している。

天狗。その中でも、鴉天狗と呼ばれる者達だ。
男は眼鏡のブリッジを押し上げて、ちらりと空に視線を向ける。
この五人以外にも、まだ他にも天狗達が居るのかどうか。それを確認したかった。

「…結界ニ捕捉サレル前ニ、物理的ニ見付カッテシマッタゾ。駄目博士」

ロボカイはすっと男の斜め前へと出て、封雷剣のレプリカを構える。
「まぁ仕方無いさ。…その為の隠蔽法術だよ」そう答えて、男はコートの懐に手を突っ込んだ。

「貴様達…、此処で何をしている」

一人の鴉天狗が訊きながら、一歩こちらへ踏み込んできた。
男の鴉天狗だ。表情は真剣だが、切迫しているような様子では無い。
それに続くように、残りの鴉天狗達も距離を詰めてくる。
彼らは、やはり男を危険視しながらも、警戒し切ってはいないようだった。
不審者を捕らえる手柄に、ニヤニヤ笑いを浮かべる鴉天狗も居る。
前の戦いで、正面から一方的にロボカイの木偶達を追い散らし、叩き潰したせいか。
鴉天狗の達の心理に、僅かな隙、油断、そして緩みが在った。

男はそれを見逃さなかった。
鴉天狗達は、自分達の不用意な一歩が、危険な失敗だとはまだ気付いていない。

「いや、地底への入り口を探しているだけだよ。迷惑は掛けない。
 見逃してくれないかな…」

男は後ずさりながら、困ったような表情を浮かべた。それに合わせて、ロボカイも下がる。
男の眼に怯えは無い。冷静さだけだ。

しかし、その言葉が命乞いに聞こえたのか。
「こりゃ良い。見た目も雑魚だが、性根まで腐ってやがるな」
ニヤニヤと笑って居た若い鴉天狗が、酷薄そうに更に唇を歪めて見せた。
下劣ではないものの粗暴そうな笑みで、他人に安心感を与えるような要素は皆無の笑みだった。

「地底だと…」
「見逃すものか。貴様達からは聞きたい事も有る」

ただ、不審そうな貌をする者も居たし、怪訝そうな貌をする者も居た。
少女の姿をした鴉天狗だけは、一際強い警戒の色を眼に浮かべている。
男と鴉天狗達との距離が詰まる。
互いの距離が10メートルを切った。

風が止んだ。枝葉の揺れる音も消える。
土と草と、茂みを踏み分ける音だけが虚しく響く。
其処に、「まぁ、そうだろうねぇ…」と、男の低く呟く声が混じった。
ロボカイがすっと腰を落とした。


「面白ぇ、やる気かよ」
若い鴉天狗は、妖怪の本性を既に表しつつある。
装飾の施された戦装束を着ていても、その獰猛さが隠れていない。
風も無いのに、ざわざわと辺りの木々が揺れた。
それは本物の脅威であり、剥き出しの害意だった。
常人ならば腰を抜かす程の威圧感と迫力だが、男は少しだけ眼を細めただけだった。

「いや、積極的に戦おうとは思わないよ」

そっちこそ、止めておいた方が良いんじゃないかな…。
怯むどころか、男は微苦笑を浮かべて見せた。それは、嘲笑の類だった。
退くことを知らない者を、嗤う笑みだった。

若い鴉天狗の顔が、ビキビキと引き攣った。
餌食に嘲笑される。侮られる。
出会い頭に人間を襲うには、彼には十分過ぎる理由だった。
今まで味わった事の無い屈辱に、若い鴉天狗の笑みは、一瞬で憤怒の形相に変わった。
…人間の分際でほざくなよ。歯軋りと一緒に若い男は呟いた。

少女の姿をした鴉天狗が、若い鴉天狗に「待って!」と叫んだ。
他の鴉天狗達も、何かを言おうとした。恐らく、制止しようとしたのだろう。

間に合わなかった。
若い鴉天狗は止まらなかった。
殺して、喰って、糞にして蒔いてやる。そう言いながら、一瞬でぐっと身を沈めていた。
彼を止めようとする鴉天狗達の中から、彼は風となって飛び出した。
刀を抜き放ち、歯を剥いてロボカイと男に襲い掛かる。


嘲笑は罠だったのか。それとも、本心からの言葉だったのか
どちらにせよ。
男の反応、と言うよりも、対策はもっと早く、的確で、無駄が無かった。
男は懐から黒い球状の物体を取り出していた。
その球体の表面には無数の溝が走っており、その溝を青黒い光が脈動している。
大きさは、男が片手で握り込める程の大きさしかない。丁度、卵くらいの大きさだ。
外見からは、物体というよりも『装置』と言った方がしっくりくる。
「暴れたがり屋だねぇ…」と、男は呟いた。
それと同時だった。男の左手の掌上で、その球状の装置が鈍く明滅する。
ズ…。という、空気が砕けるというか、溶け出すような音がした。
空間そのものがズレて、歪んでしまうような感覚を、鴉天狗達は感じた。

だが、既に飛び出していた若い鴉天狗は、そんなものを感じる余裕は無かった。
もっと驚くべき現象が、眼の前で起こっていたからだ。
男の足元の地面が、暗銀色の泥濘に変わっている。
泥濘は青黒い光を讃えており、まるで生き物のように表面を脈打たせていた。
しかも、それだけでは無い。男は何かを呟いた。唱えた。
すると、男の足元の暗銀色の泥濘から、何かが飛び出した。
凄い勢いと速度だった。それに、大きい。
一つでも無い。二つ。二本だ。
飛び出した何かは、迫ってくる若い鴉天狗を、両脇から挟み込むようにして捕らえた。
瞬間。骨と肉がつぶれる音がした。
「ぐぇ…ぁっ!?」。若い鴉天狗は血を吐いて、自分の体を見てから、男を見た。

男は肩を竦めて見せた。
ロボカイは構えたまま動かない。

他の鴉天狗達は、驚愕に眼を見開いていた。

「な、んだ…、こりゃあ…」。若い鴉天狗は絶句した。

男の足元の泥濘から伸びたそれは、昆虫の持つ、節足状の脚だった。
ギチギチ、ギチギチギチギチ…と、不快で、不気味な金切り音が鳴った。
金属で象られた節足状の二本の脚には、銀色の光沢と、青黒い微光が反射している。
「隠蔽用結界法術ノ起動ヲ確認シタ。問題ハ無イ」。
ロボカイは機械的に呟いて、視線を僅かに上に向けた。
其処には、先程まであった夕暮れ前の日差しが消えている。

青黒いドーム状の結界がその周囲を覆っていた。
自然の息吹全てが消え失せ、幻想の中に虚空が鋳込まれた。
隔絶と遮断の為の法力結界が、男達の居る一帯を幻想郷から切り取ったのだ。

腕力にモノを言わせるタイプじゃないんでね。僕は…。
特に感情の篭っていない低い声で言いながら、男は捕らえられた鴉天狗を見上げた。
鴉天狗も、何とか逃れようともがいている。しかし、頑強な節足はビクともしない。

「申し訳無いけど、暴れるのは他所でやってくれないかな」
男は、何も持っていない右の掌を、すっと前方に翳した。
すると、節足がその動きに応える。捕らえた鴉天狗をゆっくりと男の前へと持っていく。
まるで悪夢のような光景だった。
若い天狗は悲鳴を上げた。
その仲間の悲鳴に、鴉天狗達は驚愕から我に帰った。
助けるぞ!。誰かが叫んだ。
だが其処に、ロボカイが立ち塞がる。

もう手遅れだった。

「君の直情的な感情を取り除いて、別の思考をあげるよ」

ただ、男の声だけが無常に響いた。

「ついでに、“暴れる目的”も与えようか…。そうすれば、君の自我はもう不要だろう」



[18231] 二十四・ニ話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/06/07 22:48

 
「わざわざごめんね、おいちゃん。助かるよ!」

にとりは人懐っこい朗らかな笑みを浮かべて、イズナから薬包を受け取った。
その白い大きめの薬包には『八意』の文字が入っている。中身は主に傷薬に痛み止め、麻酔の類だ。
永淋が妖怪向けに調合したそれらの薬を渡したイズナは、優しげに笑みを浮かべた。
それから「礼を言われるような事はしとらんよ」と言って、背負っていた薄茶色の鞄をどっこらしょと背負い直した。


永淋が調合した薬を配り歩き、イズナは妖怪の山を訪れていた。
今は、出会う妖怪達に薬を渡しつつ、ぐるりと山を廻っている最中だ。

山に入って暫くした時は、巡回にあたっていた鴉天狗達に見つかり、「何か用か」と問質されもした。
五人組の鴉天狗達だった。
彼らも哨戒任務中だったらしく、戦装束に身を包んだ彼らは皆、妙にピリピリとしていた。
下手な事を言えば、出て行けと言われるどころか、戦闘になりかねない剣幕だった。

妖怪の山も既に一度、終戦管理局の尖兵であるロボカイの襲撃を受けている。
警戒態勢が強くなっているのも無理も無いことだろう。
とは言え、イズナも其処まで血気盛んという訳でも無いし、喧嘩腰になる理由も無い。
何より、無益だ。事情を説明し、永淋の薬が本物であることを確認して貰えば済む。

イズナは特に身構えることも無く、背負った鞄の中身を見せてから、事情を手短に話した。

永遠亭までもが狙われるようになれば、治療だけでなく薬の類の用意は困難になる。
今のうちに備えて置けるものは、備えておいた方が良い。
余計な事は勿論しない。薬を配り終えれば、すぐに下山する。

そういった旨を伝えるイズナの落ち着いた様子に、天狗達も黙って話しを聞いてくれた。
鴉天狗達からも、「そういうことであれば…」と山に入る許可を貰う事も出来た。
狗達の中に、射命丸の姿があった御蔭かもしれない。
別れ際に、軽くウィンクをしてくれた姿を思い出す。頑張ってくださいね、というメッセージだったのだろう。
出来る範囲で頑張るさね。イズナも唇の端に少し笑みを浮かべ、片目を閉じて返した。
それが伝わったのかどうかは分からない。
だが、出来る事をするしかない。背負った鞄の重みが、それをイズナに教えてくれる。

ちなみに、イズナの背負っている鞄はかなり大きい。
見た目では、白い着物を着たバックパッカーのような風情だ。
そんな奇妙な姿なのに、腰に吊った刀が不思議と馴染んでいて、何処か滑稽でもある。
ただ、イズナ自身は、自分の妙な格好自体にはまるで気にしていないようだ。
あくまで自然体で、眩しそうに眼を細めながら周囲を見渡した。

「綺麗な場所だねぇ~…」

イズナと、にとりの居る場所。其処は丁度、にとりの工房の入り口前だ。
山道を挟む形で、にとりの工房の向かいは少し低い土地になっている。
其処には、夕陽を揺らしながら反射する小川が流れ、澄んだせせらぎの音が聞こえている。
涼やかな風は、水と緑のコントラストに微かな振幅を与えていた。
その風の音は深緑の静寂の中に、漣に似た音を奏でる。
枝葉が緩やかに揺れる様と、水の流れる音。
ただそれだけの音色だったが、聞く者の心に染み入るような深みがあった。

イズナは眼を閉じて、すぅっと息を吸い込んだ。
頭に生えた狐耳をすまして、その旋律に聞き入る。

そのイズナ様子に、にとりは少し嬉しげに微笑んでから、一度深呼吸した。
ゆっくりと息を吐いたにとりは、手を腰に当てて、視線を巡らせる。
良い場所だろ~?、と言ったにとりの声は、自慢気と言うよりも、誇らしげだった。
イズナは「んだねぇ…」と呟いて頷く。

イズナの暮らして来た『黄泉平坂』にも、荘厳な和の美景は存在する。
特に、イズナが慣れ親しんだ光景には、美しいものが多かった。

澄み切った湖の上に架かる、緋色の鳥居が並ぶ巨大な橋。
白い石畳が紅葉で染める社もあれば、古びた灯篭の並ぶ古道も通っている。
並ぶ建築物も、和風の木造建築であり、風情や趣に溢れた世界だった。

だが、それらとはまた違った美しさが、此処には間違いなく在った。
それは非常に得難いもので、既に現世からは追い立てられた風景だった。

故に、こうまでも幻想的なのだろう。いや、『幻想的』だからこそ、此処に在るのか。
イズナの眼の前に広がる自然美は、幻想郷のこの場所に、儚く、ひっそりと佇んでいる。

にとりの工房の前ということもあってか、見慣れない機械類の部品も散見出来る。
ガラクタと言ってしまえばそれまでだが、それでも、この風景を壊す要因にはなっていない。
不思議と景色の中に溶け込んでいて、非現実の中に、少しの現実を匂わせている。
それは此処が、微かな退廃の欠片が、河童の手によって新しい機能へと生まれ変わる場所だからかもしれない。

幻想郷という場所の不思議さを、イズナは改めて感じた。

「工房を構えるなら、やっぱり自分のお気に入りの場所にしたかったからね…」
帽子の鍔を少し持ち上げながら、にとりは独り言を呟くみたいに言った。
ただ、その声のトーンはやや落ちて、まるで何かを決心するみたいな声だった。

にとりは背負っていた水色のリュックに、薬包を突っ込む。
それからリュックを背負い直しながら、隣に立つイズナを見上げた。

「これから、おいちゃんはどうするんだい?」

にとりの表情は、少し硬い。
視線を真っ直ぐ受け止めながら、「オイかい?」と、イズナは自分を指差した。
その仕種を見て、「うん」と、にとりは頷く。

「まずは先生から預かった薬を、順繰りに渡しに行かねぇと。
そっからは…オイも、永遠亭か人里に留まることになるかもしれんね」

まぁ、余所者のオイの方が、姫様達よりも身軽だからねぇ。
 言って、イズナは頬を人差し指で搔きながら、少しだけ笑みを浮かべた。
 
 外来の者であるイズナは、柔軟な戦力だ。
 診療所を守る為、永遠亭に置くか。
それとも、終戦管理局の襲撃に備え、人里に置くか。
或いは、もっと違う目的の為に動く事になるかもしれない。
それらは状況にもよる。いずれにせよ、その判断は、八雲紫が下すことだろう。

イズナは一つ息を吐いて、もう一度、夕焼けの日差しを揺らす河川へと視線を向けた。
水面が照り返す、茜色の陽の光。眼を細めながら、イズナは手で顎を摩る。
 
「招いても無い客に、これ以上好き勝手されるのは御免でしょ?」
 「良いひとだね、おいちゃん」。にとりは強く頷いて、少しだけ笑みを浮かべた。
 
 「私も、何か手伝えること無いかな…。
おいちゃん達も頑張ってくれてるし、何かじっとしてられないや」

にとりの眼には、少しの不安が覗いていた。
妖怪の山にも、ロボカイの大群が投入された事を考えれば、落ち着かないのも無理も無い。
戦闘自体は、山に住まう妖怪達の力によって呆気なく勝利した。
まるで苦戦などしていない。一方的ですらあった。簡単にロボカイ達は退けられた。
だが、多分そのせいかもしれないが、今の静けさが余計に不気味だ。
水面下で何かが動いているのを感じつつも、こちらからは手を打てない状況のせいもある。

それでも、やはり出来ることをしていくしかない。
にとりも、そのつもりなのだろう。一度空を見上げて、リュックを背負い直す。

「文達も空を巡回して廻ってくれてるし、河童も頑張らないと」

 かなり重そうなリュックを軽々と背負う姿と、健気な表情が何とも愛らしい。
にとりが、鴉天狗の射命丸文と仲が良い事はイズナも知っていた。
 だから、親友や他の妖怪達の役に立とうとするにとりのその姿は、とても眩しく見えた。
 
人間も妖怪も、根っこの部分じゃ同じなんだろうねぇ…。ふと、そんな風な事を思う。
 思慕や友愛と言った感情は、何も人間だけのものでは無い。
 ただ純粋に、仲間の助けになりたいという想いを、イズナは尊重したかった。
顎を摩っていた手を止めて、イズナは柔らかく笑みを浮かべる。
そんじゃあ、薬、配んの手伝ってくれるかい。
イズナがそう言おうとした時だった。
 

ザザザザザザザザザザ…、と言う、不気味な音が遠くから響いた。
硬い何かが擦れ合うような、無数の蟲が這いずり廻るような音だった。
 耳の奥に残る、気持ちの悪い音だ。

寒気がした。
イズナは、音のした方へと向き直り、空を見上げた。
な、何だよぅ…、と、にとりも、びっくりしたような、少し怯えたような貌でイズナに倣う。
 
 
 黒い影の落ちた山と、茜空の境界。
その薄暮に染まった山裾の木々から、一斉に鴉達が飛び立っていた。
耳障りな泣き声が其処にいくつも混じり、趣のある静寂は一瞬で塗り潰された。
山の空気が変わった。
「…何か、あったんかねぇ」。イズナは眼を細めて呟く。
音の正体は、鴉達の羽音だったようだが、どうも様子がおかしい。
 漠然としたものだったが、イズナはそう感じた。
鴉達の騒ぎ方に対して、山の方が静か過ぎるせいかもしれない。
イズナは顎を片手で摩りながら、片眼を瞑った。
気のせいか。気にしすぎだろうか。
終戦管理局の脅威に備える余りに、疑心暗鬼に成り過ぎているのかもしれない。
それなら、それで良い。
何も無いに越した事は無い。

だが、やはり違和感を拭えない。
 低く、それでいて罅割れた鴉の鳴き声が、再び重なって響いた。
鴉達は脅威から逃げようとしている。空を見上げるイズナには、そう見えた。
胸騒ぎがする。

イズナは、鴉達が飛び去った辺りに視線を向けてから、にとりに笑みを返した。

「…ちょいと、向こうの方を見てくるよ」
その言葉に続いて、緩い風が吹いた。生温い風だった。
イズナは貌を引き締める。

血の匂い。
本当に微かにだが、血のような匂いが風に混じっている気がした。
いや、血とは何処か違う。
鉄の匂いだ。

にとりも、すんすんと鼻を鳴らしていた。
金属の匂いに敏感なのか。
帽子の鍔を少し持ち上げながら表情を引き締め、にとりも山へと視線を向けた。
そうして暫く無言で山を見上げてから、すぐにイズナに向き直った。
私も行くよ、おいちゃん。
そう言ったにとりの声は真剣だった。

 「嫌な感じがするんだ…。私も放っとけ無いよ」

真っ直ぐに見詰められ、イズナは何か言おうとして止めた。
にとりを止めようとしたのだろうが、その眼差しの真摯さに負けたのだろう。
自分達の大切な場所だもんねぇ、この山は…。思いつつ、イズナは鼻から息を吐いた。
そしてぽりぽりと耳の後ろ辺りを搔きながら、渋い顔のまま唇を笑みに浮かべる。

「もし何かあっても、無茶しちゃ駄目だよ」

にとりは強く頷いてから、おいちゃんもだよ、と返して、少し深めに帽子を被り直す。
違いねぇ…気を付けるよ。
イズナは少しの笑みと共に頷いてから、山へと駆け出した。





それなりに長い時間を生きてきた射命丸だったが、こんな光景は見た事が無かった。
眼を疑うよりも先に、身の危険を感じる。
 
 男の足元は、ついさっきまでは間違いなく普通の地面だった。
 土の上に葉が重なり、折れて落ちてきた枝葉などが積もっていた筈だ。
それが、今では暗銀色の泥濘と化している。
 枝葉や土など、自然物は全て銀白に覆われ、徐々に融解し、溶け出していく。
 そして、青黒い微光を纏う金属の泥濘へと飲み込まれ、土地をゆっくりと侵食している。
 深緑と薄暮の景観が、暗銀の光沢に染まっていく。

金属によって支配されつつあるその光景。
それはまさに無機の神秘であり、人工の奇跡だった。

男の足元は、液体金属の水溜りのような有様だ。

 
男が何をしているのか。何が起こっているのか。
 理解出来ないが、この光景を見れば危険な状況になりつつあるのは嫌でも理解出来る。

液状の金属は脈打ち、まるである種の病原菌のようだ。
暗銀色の液体金属は蠢き、男の周囲にある木々を塗膜の如く覆い、金属のオベリスクへと変質させていく。
薄暗いドーム状の結界のせいで、青黒の微光がひどく澱んで見せるせいか。
汚染という言葉が、射命丸の脳裏に浮かんだ。
 男が造り出したドームの大きさは、周囲を一帯を難なく飲み込める程。
 青黒いドームは、幻想郷からこの広場を隔絶している。
男は自分自身と、この場で起ころうとしている事を隠そうとしている。
感覚的なものだが、そう感じた。

射命丸は法術に関してはほとんど理解出来ていない。
しかし、結界術に関して言えば、ある程度の知識は持っていし、使われた経験も在る。
だからこそ、このドーム状の結界がどういった性質のものなのかの察し位は付いた。
外からこのドームを見れば、どう見えるのか。
或いは、何も無いように、何も起こっていない様に見えるのかもしれない。
 そうで無ければ、こうも大胆に液鋼で周囲の自然を造り替えるなど出来ないだろう。
 ものの数秒。呆然としている間にそんな事が頭を過ぎった。

「君の直情的な感情を取り除いて、別の思考をあげるよ」

すぐに悲鳴と、男の低い声が聞こえて来た。
仲間の「助けるぞ」という声に我に帰り、唇を噛む。
動こうとした射命丸達の前に、すっとロボカイが立ち塞がったからだ。

 「大人シクシテイロ」。
言ったロボカイは、手にした封雷剣のレプリカに、バリリッと、稲妻を奔らせた。
 そのロボカイの背後で、「止めろ! や、止めてくれ!」と、捕まった若い鴉天狗が血を吐きながら、また叫び声を上げた。
 
 射命丸は、はっとして眼を向けて、息を呑む。
 鳥肌が立った。
 
男の足元に広がる、脈動する液鋼溜まり。
其処から伸びた蜘蛛の脚のような長大な節足は、完全に若い鴉天狗を捕らえている。
 節足は捕らえた鴉天狗を、両手両脚を器用に拘束したまま、掲げた。
 まるで、実験体の標本を提示するかのような動きだった。
  
「ついでに、“暴れる目的”も与えようか…。そうすれば、君の自我はもう不要だろう」

 呟いた男は、鴉天狗に向けて掲げた掌に、青黒い光を灯す。法術の光だ。
男の掌に法術陣が象られ、その中に、直系10センチ程の空洞のような穴を造り出した。
「な、何を…!?」と、若い鴉天狗は顔を引き攣らせ、声を漏らした。
だが、その全てを言い切ることが出来なかった。
節足が、不意に形を失いながら、ズグズグ…、ブルブル…と、蠕動したからだ。
まるで、蝋燭の蝋のように節足が溶けていく。
若い鴉天狗は、両手足を液鋼に半分飲み込まれた状態で拘束されたままだ。
その顔は滑稽な程、恐怖に歪んでいた。

だが、そんな貌を見ても、男は嘲りも笑いもしない。
 沈着な表情のまま、眼鏡の奥で目を細めて詠唱を始める。
男が声に応え、その足元から青黒い光の微光が立ち上った。
液化した節足の表面は不気味に蠢き、その微光を取り込み、別の何かに姿を変えつつある。

金属に、命が宿ろうとしている。変化の為の鼓動を打ち始める。
その光景に、射命丸達は言葉を失った。
融解しかけた二本の節足の表面が、板金の鎧のように硬化していく。
ギチュギチュギチュ…と、生理的な嫌悪を催す甲高い音が響く。
その音と共に管のように絞られ、うねり、無数の節を持った体を象った。
いや、胴と言った方が正しい。節だらけの胴体だ。
胴体からは数え切れない程の脚がズグズグと生えて、一つの蟲の姿を成した。

それは、巨大な二匹の土百足だった。

硬い鱗のような外骨格は、暗い青が混じった銀色。
眼は無い。だが、普通の百足の頭部には無い筈の、横に大きく裂けた口が在る。
鴉天狗を拘束していた液鋼は、その口に生えた獰猛な牙へと変わった。
土百足の口の中はぬらぬらと光っていて、粘り気のある液体が其処から滴り落ちている。
二本の節足が変質した事で、若い鴉天狗は拘束されているだけでなく、二匹の土百足に咥えられた餌食のような状態だ。

 「まぁ、こんな所かな…」
男はその百足達を交互に見比べてから呟いて、口元を僅かに緩めた。
syiiiiiiiiiiiiiiiieeeeeeeeeeeee…と、蛇のようなシューシュー声を上げた二匹の土百足は、ずるる、とその長い胴体を蠢かせた。
そして男を守る為か、鴉天狗を掲げたまま、男を囲うようにして胴体でとぐろを巻いた。
土百足の持つ無数の脚が蠢き擦れ合い、ガチャガチャ、ギチギチと耳障りな音が響き渡る。

 幻想的という言葉が恐ろしくそぐわない光景だった。
 百足に咥えられて、男の前に掲げられた鴉天狗も、顔を引き攣らせて震えていた。

「ぅ、ぁぁああ――」

せめて、鴉天狗は叫び声を上げようとしたのだろうが、出来なかった。
鴉天狗の眼の前。
男の掌に象られた法術陣から、何かが飛び出して、鴉天狗の顔に張り付いたからだ。
それも、機械で造られた蟲だった。フラスコを金属膜で包んだような、異形の蜘蛛だ。
 受け取ると良い。そう呟いた男の口元が、笑みに歪む。

鴉天狗達は、ロボカイを押しのけて前へ出ようとしたが、間に合わなかった。
ぐずっ、とも、ぐじゅ、とも付かない嫌な音がした。
 若い鴉天狗の顔に張り付いたフラスコ蜘蛛は、刃の仕込まれた脚をガッチリとその喉首や後頭部、頬や耳に埋め込んでいた。

血飛沫が上がり、絶叫が響いた。
フラスコ蜘蛛は構わず、そのまま口を開け、巨大な針を剥きだしにした。
いや、針というよりも、巨大なプラグのようでもある。
蜘蛛の口から伸びた太い針状のプラグは、黒い粘液に塗れている。
それが、若い鴉天狗のこめかみ辺りに一気に差し込まれた。

再び絶叫。
同時に、肉が引き裂かれ、頭蓋に穴が空く音した。
 背筋が凍りつくような音だった。
若い鴉天狗は、体を痙攣させるだけ。
「意外と脆いな…」。男が顔を僅かに顰めた。
 
「うぉぉぉぉおおおお!!」
「よくも!」
「退けぇっ!!」
「許しません…!!」

仲間の鴉天狗達は背の翼を羽ばたかせ、立ち塞がるロボカイを押し潰そうと迫った。
全員が手にした刀を抜き放ち、風を渦巻かせ、その身に纏っている。
風は刃となって地を削り、金属化した森の木々の表面を切り刻んだ。
細かな金屑が舞い散る。その凶暴な旋風の中。

ロボカイは天狗達を見据えたまま、風雷剣の切っ先をすっと下げた。
重心を少しだけ落として、脚を肩幅よりもやや大きく開き、半身に構えている。
暴風と化した鴉天狗を相手に、正面から当たる気か。
避ける気配は全く無い。

「木偶は私が片付けます!」

叩き伏せてやる。射命丸は怒鳴るように言って、ぎりっと奥歯を噛んだ。
 射命丸の視界の中。立ち塞がるロボカイの背後。
拘束されたまま吊られた状態の鴉天狗は、だらんと手と脚を垂らした。
まったく力が入っていない。
痙攣を起こしてはいるが、意思のある動きを見せない。

死んだのか。
まだだ。
助けろ。

手にした扇を右肩の前、顔の右横へと構え、其処に風を集める。
間合いを詰めるその一瞬間。風は空気の塊と化して、破壊的な圧力を生み出す。
 轟々と渦巻く風が、射命丸の身体ごと扇を包むようにして乱動する。
 
 男の鴉天狗三人は、射命丸の声に応えていた。
彼らは離散し、ロボカイを飛び越え、男に迫ろうとした。
 
射命丸は扇を降り抜く為に、ぐぐっと身を絞りつつも、飛翔する速度を上げる。
しかしそれは、数秒にも満たない時間での加速だ。
視界が狭まり、音が消えつつある。
 
一瞬の攻防になる。

男の鴉天狗達を迎撃する為にロボカイが動けば、即座にカウンターを狙う。
射命丸はそのつもりだった。
多分、男の鴉天狗達達もそうだった筈だ。
瞬きの間の判断と連携だったが、それは有効な一手。
 そう思えた。しかし、ロボカイは男の鴉天狗達には眼もくれなかった。

構えたまま、じっと動かない。
暴風を纏い迫る射命丸を見据えたままだ。

君はまだそれ以上出力を上げたら駄目だよ。
分カッテイル。法力機術ノ御手並拝見ダ…。

そんな声が聞こえた。

刹那。
ロボカイは構えを解きながら、すっと一歩退いて見せた。
 射命丸は驚くよりも先に戸惑った。焦りにも似た何かを感じた。
だが、それの正体を探る間は無い。
間合いは、もう完全に詰まりつつある。

ロボカイがすっと重心を沈め、後ろに大きく下がった。
鋭いバックステップだ。
距離を離す気か。
逃がさない。
射命丸はロボカイを猛襲しつつ、扇を降り抜いた。
 
 轟々と鳴いていた風が。射命丸の纏っていた風が。
空気が。妖気が。それら全て織り込まれ、突風が巨大な槌と化した。
圧倒的な密度と圧力を持った、大気の塊が打ち出されたのだ。
渦を巻く風の塊は、すぐに周囲の空気を巻き込み、さらに巨大に膨れ上がる。
バキバキ、メキメキメキッ…と、辺りの木々が軋むほどの暴風。
その中を、射命丸は更に速度上げて駆ける。
撃ち出した風の壁を追うようにして、ロボカイに肉薄する。
射命丸は眼を凶暴に窄めて、ロボカイを睨みすえた。

如何出る。
受けるか。避けるか。或いは、喰らってバラバラになるか。
刀を握る手に力を込める。

眼を疑った。そんな馬鹿な。

ロボカイは受ける事も、避ける事も、喰らいもしなかった。

ただ、バックステップの着地を同時。
ロボカイの足元の地面に、暗銀色の膜が広がったのが見えた。
次の瞬間、それは急激に上へと伸び上がり、拡がり、何層にも重なった液状金属の壁となった。
 
ロボカイの盾として生成された分厚い水銀の壁は、暴風の塊をまともに受けた。
巨大な波が砕けるような、途轍もない音が響き渡った。衝撃波が広がり、銀幕のジオラマを盛大に軋ませる。
同時に、巨大な水銀の壁が周囲に飛び散る。液状金属の壁が爆散霧消した。
凄まじい爆音と、衝撃。

ロボカイを飛び越えて行った鴉天狗達も、驚きの表情で振り返り、動きを止めていた。
それはほんの一瞬だった。だが、致命的だった。
Syyyyyyyyyyyyyiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii。
金属の管から空気を吐き出すような鋭い鳴き声と、同時に金床を鋸で激しく削るような音がした。
その直後か、同時。どさっ…、と、拘束されていた若い鴉天狗の体が地面に落ちた。

不味いと思う間すら無かった。
ニ匹の土百足が、咥えていた天狗を口から離し、信じられない瞬発力で襲い掛かったのだ。
その動きは見た目の重厚感に反し、やけに軽やかで、重力を感じさせない速度だった。
這って、獲物に飛びつくというよりも、海中の人喰い鮫が餌食に齧り付くような動きだ。
 
 
一瞬で、三人の鴉天狗の内の一人が、一匹の百足に上半身を喰いちぎられた。
残った下半身も、もう一匹の百足が丸呑みにした。
夥しい量の血が飛び散って、周囲の金属膜の景色を、紅く染める。

射命丸は、何か言おうとしたが、駄目だった。
残りの二人の鴉天狗の内一人は、何とか空中で刀を構え、風を纏い、応戦した。
 もう一人は、背を向けて逃げようとして、鮮血で口の周りを真っ赤にした百足のうち一匹に噛み砕かれた。
 
 「うおおおおおおっ…!!」生き残った鴉天狗は、吼えた。
空気と風を凝り固めた弾幕を放ちながら、もう一匹の百足に斬りかかった。
 百足は弾幕を避けない。真っ直ぐに向かっていく。
薄い青の光沢を持つ、銀色の甲殻は傷だらけになったが、すぐにズグズグと再生していく。
 弾幕を喰らいながら、そして再生しながら、土百足は突っ込んでくる。
土百足の口が、牙が、鴉天狗に迫った。

 射命丸も飛び出す。飛翔する。
 
 
だが、射命丸と対峙する形に居たロボカイは、妨害に出ない。
 神器のレプリカを持ちながらも、やはり動かない。
完全な傍観者として、ロボカイは成り行きを見守っている。
 銀皮の世界に静かに佇み、射命丸達と男をただ観ていた。
 
 そのロボカイの視線の先で、ガチンッ!、と、いう音がした。
百足がその歯をかみ合わせたのだ。
 身の毛がよだつような音だった。だが、射命丸は安堵する。
百足のその口には何も捕らえていなかったからだ。
 鴉天狗は踊りかかって来た百足をかわして、その脇へと潜り込んでいた。

その手に構えられた、刀に風が宿る。
鴉天狗は咆哮と共に、隙だらけの土百足の首目掛けて刀を一閃させた。

おお、流石は天狗…、と言ったところかな。
男の声が聞こえた。

同時に、土百足の首が地面にずるっ、と落ちた。
首と胴体の断面からは水銀に似た液体が溢れ、その巨体が揺らぐ。
 
鴉天狗は確かな手応えを感じた。
落ち着いて対処すれば、斃せる。
鴉天狗は刀を一度血振るいして、もう一匹の土百足に向き直った。
殺せ。斃せ。
仲間の仇をとれ。
黒い羽毛を湛えた翼を広げ、刀を構える。

「な―――っ!?」
其処で、鴉天狗は貌を凍りつかせた。
仕留めた筈の土百足が、また動き出したからだ。
 いや、実際は止まってすらいない。
首を失った土百足の断面から、先端が尖った管のような触手が溢れた。
ぶわぁぁぁぁっ、と来た。それは、ほとんど濁流だった。
 まだ近い間合いだったこともあり、鴉天狗は反応仕切れなかった。
 
 させません…っ!
凛とした声。同時に、鴉天狗の眼の前に、竜巻が起こった。
ギャリギャリギャリと、金属のチューブをミキサーに入れたような甲高い音が響く。
金屑になった触手は微塵になって撒き散らされ、青黒い光を反射しながら飛び散る。
Syiiiiiiiisiisisiissisisisigigigigigigigisiisisigisgis…。
首なしの土百足は苦しげに悶えて、後退した。

咄嗟に鴉天狗は後ろに飛び、距離を取る。其処に、もう一匹の土百足が突進してきた。
だが、踊りこんで来たのは土百足だけでは無い。
鴉天狗と土百足の間に、射命丸が飛び込んだ。

 疾いな…、という、感服したような男の声と共に、土百足が金切り声を上げた。
 狙いを、射命丸に変えたのだろう。
 土百足は首をグルンと回して、横から抉るようにして射命丸に喰らいつきにかかった。
 
 しかし、土百足の大口は空を噛む。
其処に居た射命丸は上へと飛翔し、その脚へと風を集めていた。
密度の上がった風と空気のうねりは、破壊的な力を持った小さな渦へと変わる。
マクロバースト。それを脚に纏ったまま、射命丸は土百足の頭上に急降下する。
 
 「沈め…!」
Gyiiiiiiiiii! 土百足が絶叫した。直撃だった。
ミサイルのような蹴りと風の塊を喰らい、土百足は地面にめり込みながら頭部を破壊された。
頭部どころか、頭から胴体の半分くらいまで、ぐしゃぐしゃのめちゃくちゃになった。

Syiiiiiiiisiisisiissisisisigiyyyyyyyyyyyyyyy!
頭を触手の束へと変えた百足も、体勢を立て直し、射命丸を襲おうとした。
今の射命丸は隙だらけだ。土百足を地面に蹴り込んだままの姿勢。
しかし、土百足の触手は射命丸には届かない。

「させんっ!」
 射命丸に降り注ごうとした鉄触手の豪雨を、弾幕が凪いだ。
 そして、風を纏わせた刀の刃が、次々に切り飛ばした。
男の鴉天狗がカバーに入ったのだ。

何本かの触手が、男の鴉天狗の頬や腕や脚を削った。
だが、鴉天狗は全く怯まない。
触手を斬って斬って斬りまくり、弾幕をばら撒いて押し返す。
風が、弾幕の光が、周囲を包む銀箔に反射している。
万華鏡のように金属の微粉が燃えて、巻き上げられた。
止めとばかりに、鴉天狗は十字に刀を振るって、横と縦に土百足を寸断した。
 綺麗な十字では無かった。やや歪んでいる。
 斜め十時だ。
 Gyiiiiiiiiiiiiiigigigiigigigigiigiigiigi!!
土百足の断末魔と共に、水銀に似た液体が飛び散って、びしゃびしゃと銀世界を濡らす。
 その胴体が地面に落ちる。
 
 これで、壁は無くなった。
 黒コートの男は、土百足が崩れ落ちる様を見ながら、何かを思考するような貌で腕を組んでいる。
 冷静なのか。或いは、正常な感覚が狂っているのか。
それとも、自身の護衛機として、ロボカイが居るから安心しているのか。
 どちらにせよ、どの道壁は消えた。
 
仲間の仇を討る。
射命丸は、黒コートの男を睨み、翼で空気を打とうとした。
 その時だった。


 鳥肌が立つのを感じた。

男の鴉天狗も、はっとして息を呑んだ。
 

 心臓が止まるような、威圧感を感じる。
殺気などとはまた違う。
抗い難い、余りに純粋で、巨大過ぎる力の存在を感じた。
 立ち向かおうと思うことすら出来ない、圧倒的過ぎる脅威。
 暴力というよりも、それは災害に近い。
 黒いコートの男も、それを感じたのか。眼鏡のブリッジにそっと触れて、眼を細めた。
 ロボカイはその男の傍らに歩み寄り、剣は構えずに周囲を見渡した。
 
 辺りが静まり返った。
 
次の瞬間だった。
凄まじい轟音と、山鳴りが辺りを包んだ。

視界がブレた。
地面が揺れまくって、木々が軋む。
金属の塗膜で覆われた森の茂みに、無数の亀裂が奔った。
青黒いドームの空に、罅が入る。
うぉ…!、と声を漏らして、男がひっくり返った。
ロボカイは僅かに前のめりになって、この激震に耐えている。
射命丸達は、地面に片膝を着く格好だ。

立っていられない。
強烈な揺れは耐えられる。だが、この威圧感に畏れを抱いてしまう。
体が竦む。
脚が震える。
呼吸が乱れる。

バキバキ、メキメキと、硬い物に亀裂が入る大きな音が聞こえた。
射命丸が顔を上げて、再び息を呑む。
金属の塗膜に覆われた地面や木々に、罅が奔ったのだ。

だが、それだけでは終わらなかった。

すぐに、巨大な硝子細工をハンマーで叩き割るような音が轟き渡った。
耳鳴りがした。
意味も無く、逃げたいと思った。
頭を振って空を見上げて、絶句した。

空が。
青黒いドームに覆われていた空が。
戻っている。青黒のドームが砕け散っている。
薄暮と夕暮れが混じり合う、自然に愛された幻想郷の空へと戻っていた。
呆然と仕掛けた射命丸達の髪を、風が揺らした。

風が戻ってきた。澄んだ風の中に、僅かな緑の匂いを感じる。


「これは…!?」
ひっくり返っていた男が、ずれた眼鏡の位置を直しながら、空を見上げた。
射命丸達は、ドーム状の結界には干渉出来ていない。
土百足の相手をしていたからだ。
という事は、この隠蔽結界は、外部からの干渉で砕かれたという事だ。
ロボカイも黙ったまま空を見上げてから、周囲へと視線を巡らせた。
 
だが、その必要も無かったようだ。

「山裾の方が騒がしいと思って来てみれば、
件のなんたら管理局のまわし者が居るとはねぇ…」

すぐに、艶のある女性の声がした。
鼓膜というよりも、魂をゆさぶるような声だ。
ズシ…。という、重い足音が聞こえた。序に、僅かな酒の匂い。
そして、突如として出て来た、白い霧。
 金属の塗膜は周囲の自然を覆っている。未だ、此処は黒コートの男の領域だ。
だが、その足音と霧は、傲然と、しかしゆっくりと迫ってくる。

射命丸は戦慄と安堵の両方を感じた。
男の鴉天狗も冷や汗を流しながら、眼を彷徨わせている。

「いい機会だ。いっぺん潰しといた方が良い…」

次に聞こえて来た声は、酷く幼い声だった。
しかし、其処に滲む怒気と殺気に、射命丸は正直ちびりそうになった。
怖すぎる。
銀幕で彩られた周囲の景色が、僅かに涙で滲みそうだった。

射命丸達の視線の先で、白い霧は靄のように凝り固まり、それは次第に少女の姿へと変わっていく。
側頭部から伸びた、二本長い角。
鎖で繋がれた、球状、三角錐、正方形の三つのアクセサリー。
飴色の長い髪。そして、酒の入った大きな瓢箪。
小さな百鬼夜行。伊吹萃香。
その姿を認めて、射命丸は畏怖で体が震える。

以前会った時は、酒に酔って、ふにゃふにゃの幼女といった風情だった。
その大きな角が印象的だったので、良く覚えている。
外見も可愛らしいせいで、鬼という事を忘れてしまいそうな程、その姿は無防備だった。
だが、今は、そんな柔らかな雰囲気は微塵も無い。
無表情のまま眼を細めて、黒コートの男を睨みつけていた。
ただ、睨むだけでこの迫力と威圧感。
もはや重力すら感じる。
 息苦しい。

ズシ…、という足音も、すぐ後ろから聞こえてきた。
いや、それは足音というよりも地鳴りだ。腹の底に響いてくる。
後は任せな…。その言葉と同時に、隣から肩をぽんと叩かれた。
優しげで、それでいて何処か男らしい。
 不思議と安心してしまうような、頼りにしてしまうような声音だった。
 
射命丸が見上げると、長い金髪と、額から伸びた赤い角が眼に入った。
角には、山吹色の星が刻まれていた。

怪力乱神。星熊勇儀だ。
射命丸は半ば呆然としながら、その後ろ姿を見送る。
 もうそれくらいしか出来ない。
 他に出来ることと言えば、二人の鬼が、黒コートの男と対峙するのを、少し離れたところで見守っているくらいだ。
ただそれだけでも、かなり神経が弱りそうだ。
一杯一杯になりつつある。射命丸の隣に居る男の鴉天狗も、似たような状況だ。

しかし、黒コートの男の様子は、至って沈着だ。
「鬼との遭遇か…。実にラッキーだ」
眼鏡を人差し指で上げながら呟いた男は、唇の端に僅かに笑みすら浮かべ居ている。
並みの人間なら、いや、例えかなりの強者であったとしても、勇儀と萃香に睨まれて、普通で居られる人間など居るものか。

そう思っていた。
鬼二人の纏う雰囲気に、射命丸は既にかなり戦慄しているし、慄然としている。
だが、男は違った。
恐怖。畏怖。怯え。怯み。そんな感情が全く伺えない。
あの冷静さは、明らかに異様だ。
「しかも、一人ではなく二人とは。…良いデータが採れそうだ」
呟くように言った男の眼には、やはり静かな狂気が見え隠れしている。
それは好奇心、探究心の名を借りた狂気だ。
 
 「暢気ナ事ヲ言ットル場合カ…」
しかし、ロボカイの合成音声の方には、明らかに焦りの色が浮かんでいる。
眼に見える脅威に対しては、身構えるしかない。
「状況ガ大キク変ワッタ…。コレ以上、無駄ニ遊ブノハ危険ダ」
男の隣に控えていたロボカイの体が、バリバリ、バチッ…、と不穏に帯電し始める。

「分かっているさ。でも、僕の命よりも実験結果とデータが優先だ」
剣を構えようとするロボカイを、男は手で制した。
男の貌に大きな変化は無いものの、その声は楽しげで、残酷だった。

その声を遮るように、pipipipipipi、と、短く電子音が鳴った。
この緊迫した場には似合わない、軽い音。しかし、だからこそ余計に不吉だった。
男は萃香と勇儀、そして射命丸と男の鴉天狗を一瞥してから、コートの懐へと手を入れた。

萃香と勇儀は、すっと重心を下げて身構えた。
射命丸達も、無意識のうちに身を引いていた。
だが、強烈な警戒の視線を一身に浴びながらも、黒コートの男は涼しい貌のままだ。

「そう睨まないでくれよ。おっかないねぇ」
呟きながらも眉一つ動かさず、男はコートから何かの端末を取り出した。
それは、薄い板のようなモノだった。
表面にはディスプレイがあり、その画面以外はつるっとしていて、特にボタンのようなものも無い。
大きさは、男の掌よりも少し小さいくらいだ。

「地底に行くのは、また今度だね…。準備も整ったようだ。丁度良い」
男が取り出した端末のディスプレイには、幻想郷の地図が映し出されている。
さらにその地図の上、人里の場所にあたる区域が、薄い赤色で表示されていた。
再び、pipipipi、と、軽い音がした。男は喉を鳴らすように、小さく笑う。
里の区域を表す薄い赤色の領域の中に、青黒い点滅が十数個灯っている。

それを確認した男は、萃香、勇儀達を見ながら、端末をコートの内側へとしまった。

同時に、水が凍り付いていくような音が、周囲に響いた。
ぐねぐね、うねうねと蠢く、辺り一面を染め上げる暗銀色の膜。

金床と化した地面奔った亀裂はゆっくりと塞がっていく。
木々の幹や枝葉、茂る草木を覆う塗膜にも罅が入っていたが、新しく上塗りされるように、その罅も消えていく。
砕かれつつあった金属塗膜で侵食された景色が、再び蘇ろうとしている。
塗膜の纏う青黒の微光は、夕焼けの強い茜色をも飲み込み、全く反射していない。
その歪みきった光景の中で、男は静かに佇んだまま、一度空を見上げた。
隠蔽用の法術結界は其処には無い。ただ、夕焼け空があるだけだ。


「嬉しい誤算だ…。上手い事ピースが揃った」
男のその声は、反響しながら四方八方から響いた。

「…私達は、お前のような奴の慰み者じゃない」
低い声で言ったのは、勇儀だった。

「隠れ蓑のつもりだったんだろうが、あの妙な結界も既に割った。
…すぐに他の妖怪達も此処に雪崩れ込んでくる。お前さんは此処でお終いだ」

まぁ、それをのんびり待ってる程、私も気長じゃない。
勇儀は言いながら、いつでも飛び出せるように、重心を更に沈めた。
ただそれだけで、その足元は陥没し、激震し、空気が震える。
 
 萃香も、その勇儀の姿を横目で見てから、男を睨む。
 「そういう訳だ。悪いが此処で大人しく潰されて貰うよ」
 ぞっとするほど恐ろしい声で呟いて、萃香は自分に体を『疎』の力によって霧散させていく。
 夕焼けの茜と、澱んだ青黒の微光の境界線に、萃香の白い霧が立ち込める。
  
 男は全く恐れていない。寧ろ、その眼の光が一層強くなりつつある。
 
 「君も、出力を上げてみてくれ。
その身体が、何処まで鬼達に通用するのかどうか、試して見るとしよう」
 
 「…隠蔽結界ハ、既ニ破壊サレテイルンダゾ」
 
 「いや、もう実験の準備は出来てる。探知されても構わないよ。
  寧ろ、探知された方が都合が良い。…良いデータが採れそうだ」
 
 「実験大好キ駄目博士メ…」
 何とも言えないうらめしそうな電子音声を漏らしたのは、ロボカイだ。
「何ヲ閃イタノカハ知ランガ、付キ合ウ吾輩ノ身ニモナレ」
自らの原型、カイ=キスクと同じ構えを取りながら、封雷剣のレプリカに法力を宿す。

薄暮の雨林の中。
鬼達の放つその暴力的な殺気と怒気の中。

 射命丸は唇を噛み締めて、この場を離れるかどうか悩んだ。
 仲間の仇を前に戦線離脱はしたくない。
 だが、山の四天王である鬼二人が、既に男と対峙している状況だ。
 何が出来る。冷静に考えようとしても、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
何がベターな解答なのか分からない。
 一度離れ、体勢を立て直そう。隣に立った男の鴉天狗は、そう言って来た。
 それが正しい事のようにも思えるし、そうで無いような気もする。
 
 一触即発のこの状況で、何をグダグダと考えているのか。
 しきりに口の中を噛んで、射命丸は男をにらみつけた。
 
 其処で気付いた。
 黒コートの男の、すぐ背後。其処に倒れている、若い鴉天狗の身体がぴくりと動いた。
 うつ伏せに倒れたその顔には、未だにフラスコ蜘蛛が張り付いたままだ。
喉首に、側頭部に、顔に、蜘蛛の鉤爪が食い込んでいるし、流血も止まっていない。

だが、まだ生きている。不覚にも涙が出そうだった。
射命丸の隣で、勇儀達の状況を固唾を呑んで見ていた男の鴉天狗も、「おお…っ」と声を漏らした。
二人は若い鴉天狗の名前を呼ぼうとして、はっと息を呑んだ。
 
 むくり、と。
 まったく生気を感じさせない動きで、若い鴉天狗が起き上がったのだ。
 ゆらり。ゆらり、と、身体は左右に揺れている。
加えて、極端な猫背のせいで、身体に全く芯が入っていないような姿勢だ。
 痛々しく、悲しい姿だった。

 明らかに様子がおかしい。
その異常な様子に、勇儀達も気付いたようだ。
しかし、すぐにそんな暢気なことを考えていられなくなった。

グルン、と。
若い鴉天狗は顔にフラスコ蜘蛛を張り付けたまま。
その頭に、巨大なプラグを差し込まれたまま。
血と涙と涎と、それ以外の黄ばんだ液体に塗れた顔を射命丸達に向けた。

勇儀達が息を呑むのが分かった。
射命丸は、自分の中で何かが砕け散るような音を聞いた気がした。

若い鴉天狗の顔は、だらしなく士官しきっていて、唇は半開きだ。
其処から、舌がだらんと垂れ下がっていて、唾液がぼとぼとと零れ落ちている。
眼は、もう何処も見ていない。
白目を向く寸前のように、瞳はあらぬ方向を向いて痙攣している。

惨たらしいその姿に振り返り、黒コートの男は、ふむ…、と僅かに声を漏らしただけ。
それから、青黒い法術の光を宿した掌で、若い鴉天狗の顔にそっと触れた。
此処まで自我を取り除くと、流石にポテンシャルを食い潰しかねないなぁ…。
呟いた男の掌から、法力の光が若い鴉天狗の身体へと流れ込み始める。


勇儀も、萃香も、射命丸達も、その光景を前に動けなった。

 
妖怪の身体が。天狗の身体が。
有機組織と言える身体の細胞が。
硬質化し、変質し、ある部分は腐り落ちていく。
血液は、どす黒くぎらつく油のような液体へと代わり、その傷口からあふれ出した。
眼や、鼻や、耳からも流れ出てきた。
黒い羽毛を湛えた雄雄しい翼も、まるで錆びた針金を寄せ集めたような翼へと再構築されていく。

それは、天狗という妖怪の姿を、徹底的に冒涜した姿だった。
矜持や誇りなどを、全て叩き壊された姿だ。

射命丸は、身体が震えるのを感じた。
恐怖からでは無い。自分でも分かる。これは、強い怒りだ。
今まで感じたことの無い、凄まじい怒りだ。憎悪と言っていい。

「天狗、っていう種族と、法力機術の相性はあんまり良くないみたいだねぇ」
肩を震わせる射命丸を見て、男は困ったな、みたいな笑みを浮かべて見せた。


 腐れ外道め…!
そう言ったのは、萃香だったのか。それとも勇儀だったのか。
どっちでも良い。許さない。
ばりっと、歯をかみ締める音がした。
怒りで壊れかけた思考回路が、黒コートの男を殺せと叫んでいる。

だが、出来なかった。
更なる変化が、男を中心とした金属の箱庭の中で起こりつつあったからだ。

男が両手の掌に宿した法力の灯火は、一つの“火”だった。
変化、変質という火を着けるだけでなく、その火によって、あらゆるものに形を取らせる。

この幻想世界に、“金属”を媒介として、現実を構築する。
それだけでは無い。
青黒の微光は、幻想の中に新たな創造と、金属の造形を招き入れる。
そして、男は其処に“意思”を鋳込む。
頑強な成長と、縫合、接合を行う法力機術は、あらゆるものを対象に取る。
金属化、金屑化、という段階を得れば、全ては等しく資源になる。
それは妖怪にしても、この景観にしても、例外では無い。
九十九神…。いや、付喪神、と言うべきかな。不意に、男が口を開いた。

「君達の世界では、あらゆるものには命が宿る、と考えられているんだろう?」
男は其処まで言って、「若い鴉天狗だった何か」から視線を外し、勇儀と萃香を見比べる。
そして、ゆっくりと視線を巡らせ、射命丸達にも、その冷静、冷徹な眼を向けた。
 
 男の足元に広がる液鋼の海から、何かが生まれ始める。
 いや、芽を出していた。それは、明らかに、植物を模した金属の造形だ。
 青黒の微光の揺れる中、次々と液鋼は芽を象り、成長していく。
 次第に、その芽は育ち、蕾になり、板金花弁の花を咲かせた。
 
 それは、クロームの水蓮だった。
男の足元に、次々と金属の蓮が咲き誇っていく。
液鋼海に揺れる蓮の群れは、幻想郷に於ける『幻想』とは、また違うベクトルで幻想的だった。
同時に退廃的で、荒廃的でもある。
水蓮の花からは、瘴気のように青黒い微光が漏れ、辺りを穢し、汚染し始めた。
 
 「僕は、それをほんの少しだけ、分かり易くしているに過ぎない」
 
悪疫と病毒を撒き散らす蓮の花。
 その瘴気の中に佇みながらも、男は唇の端を僅かに歪めてみせる。
 男の余りに冷静な狂気の眼は、勇儀と萃香を僅かに怯ませた。
 
 
 
 「君達『鬼』という強大な種族の肉体が、一体どれ程の感謝を持って法力機術の祝福に応えてくれるのか…。
 気になって仕方が無い。さぁ、実験を始めよう…」
 










[18231] 二十四・三話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/06/14 23:43

  黒コートの男が見せた、法力機術による自然への干渉は、余りにも無機的で、凄絶だった。
 
 「培養槽も試験管も必要無い実験というのは、中々無いからねぇ。
…少しわくわくしてきたよ」
 
 法力鋼で鋳造された水連の群生は、瘴気を吐き出し続けている。
 青と黒の交じり合った靄のような、煙のような瘴気は、拡がり続けるのではなく、その場に留まっている。
 
 黒コートの男は、一歩踏み出して、ゆっくりと瞬きをして見せた。
 
 
 
白い霧と青黒い煙霧が立ち込める中、呟いた男の声は、薄暮の森林に吸い込まれていく。
 そして、すぐに奇妙な程周囲に響いた。男自身が造り出した金属塗膜で覆われた世界が、その声を反射しているのだ。
 頭の芯に響いてくる。ひどく不快で、不気味だ。
 低いくせに、妙な抑揚のある声には、実験結果に対する期待だけが伺える。
 眼鏡の奥の男の眼は、緩むことなくもなく、浮かれてもいない。
ただ冷静なだけだ。

 男の傍らに立つロボカイも、剣を構えたまま動かない。
それに、やけに静かだ。その四角い窓眼は、じっと勇儀と萃香を見据えている。
 鬼という存在の強大さを明確に感じ、また分析しての行動だろう。
 ロボカイの構えには、全く隙が無い。
その法力鋼の身体に奔るのは、少しくすんだ青白い稲妻。
稲光のストロボが夕陽を白く染め、周囲の銀幕に反射している。
その構えに纏う稲妻は、まるで曇り鏡に映ったカイ=キスクの輪郭だった。
 例えレプリカであっても、手にした剣は封雷剣。アウトレイジの断片。神器の模造品。
 それを扱えるロボカイが脅威で無い筈が無い。
同時に、その模造品を作り出せる男の存在も脅威となる。
 
 加えて、奇妙な洗脳術も使えるようだ。
 勇儀と萃香は、視線だけで、男の傍に幽鬼のように立っている鴉天狗を見て、歯軋りを堪えた。
 
 「…そいつに何をしたんだ?」そう聞いたのは勇儀だった。
 怒りに震えるというよりも、怒りを通り越して、逆に冷静になっているかのような声だ。
 勇儀の表情に特に変化も無い。だが、怖い位に静かな声だった。

男は答えず、両手に青黒い法力の光を灯しながら、肩を竦めて見せる。
互いの間合いは、其処まで離れている訳では無い。
 寧ろ、勇儀、萃香ならば、一歩で詰められる間合いだ。
 勇儀は拳を握る手に、ぐっと力を込めた。
 瞬きの間に肉薄して、男にこの拳を叩き込むのは容易い。
 逃がすものか。この間合いだ。男にとっては、全く安全でも何でも無い距離。その筈だ。

 だというのに、この男は、全く危機感を感じていない。
男の、肩をすくめる仕種がそれを物語っていた。
怯みや恐怖はおろか、警戒もまるでしていないように見える。
 何かを企んでいるのか。分からない。
 
「答える気は無し、か…」
萃香は言いながら、ゆっくりと首を回してから、ゴキゴキと拳を鳴らした。
 それから軽く息を吐いて、肩越しに射命丸と、男の鴉天狗を振り返った。
悪いね…。あいつを助けるのは無理かもしれない。
そう呟いた萃香の眼は、悲しげで、すまなさそうだった。
射命丸は何か言おうとしたが、結局それは言葉にならなかった。

助ける。あの若い鴉天狗を、助ける。
それは多分、無理だ。
射命丸は視線を上げ、勇儀と萃香の背の向こうを睨んだ。
 そして、眩暈がする程の怒りを覚えた。
 
 鴉天狗は、もはや、『天狗』でも、『妖怪』でもない姿になっていた。
全身の皮膚は爛れ、その下から覗く筋組織は、錆び混じりの金属に変質している。
金属化が不完全な箇所も多く見られた。
半端に変質させられた筋繊維は、肉と共に腐食し、ドロドロに溶けて、その身体から滴り落ちていた。

汚染された若い鴉天狗は、眼や耳や鼻、口からも赤黒くぎらついた液状のものを零している。
血とも、油とも、液鋼といえない液体だった。
頭に穴を空けたフラスコ蜘蛛にも、若い鴉天狗の喉首や頭部に喰いこませた鉤爪を外す気配は無い。
それどころか、ジュルルルル…、ジュルル…、と、蜘蛛の口からは何かを吸い出すような音すら聞こえる。
その度に、若い鴉天狗の身体は、びくっ、びくっ、と引き攣り、痙攣を繰り返していた。
あらぬ方向を向いた眼は、もはや何も映していない。
混濁した瞳には、生気や意識の光が完全に消えてしまっている。
死んでいる、と言っても、多分間違いでは無いだろう。

助けられるような状態には見えない。

針金で編まれたように変質した翼には、鴉の羽毛が襤褸布のように纏わり付いているだけだ。
だが、それが辛うじて、彼がかつて鴉天狗であったことを物語っている。
何て酷い姿だ。その羽毛も、赤黒くぎらつく液体に濡れそぼっていた。
僅かに残った面影が、その姿の無残さを余計に際立たせている。
直視するのも耐え難い。
 
射命丸の隣で、剣を構えようとしていた男の鴉天狗は、何かを押し出すような深い息を吐いた。
その眼は血走っていて、肩が震えている。
激情を押さえ込み、何とか冷静になろうとしているのだろう。

やけに冷たい風が吹いたのは、その時だ。
今はもう隠蔽用の法術結界が砕かれているので、空気は停滞していない。
澄んだ夕風が、木々の枝葉を揺らしながら、この場の緊張と沈黙を撫でている。

 だがその風も、黒コートの男が造り出した金属質の箱庭に触れた途端、濁り、煙霧と化していく。
煙霧の正体は、細かい金属の微粉だ。
黒コートの男は、両手に宿る青黒の法力を金属微粉に灯すことで、その身を包むようにして纏わせる。

 「厄介な奴だな…」勇儀は眼をすぼめて、鼻を鳴らす。
 同時に、その足元に奔っていた亀裂が、バキバキと音を立てて更に広がる。
 勇儀の纏う妖気と力の鼓動に、地面が耐え切れていない。
 地を震わせながら、その身体が沈んでいく。だが、それは予備動作に過ぎない。
 
「これ以上、好きにはさせないよ」萃香は呟いて、身につけている鎖を両手で握る。
擦れて、薄れつつある姿のままだが、余りに凶暴な雰囲気を漂わせている。
萃香が手にした鎖は『攫う』為では無く、『壊す』為に振るわれようとしていた。
 あんたみたいなのが居ると、女、子供まで傍観者で居られなくなりそうだ…。
 低い声で言いながら、萃香もすっと重心を落とした。
 
 
 黒コートの男は、青黒い金屑の煙霧を纏いながら、勇儀、萃香を見比べている。
 いや、或いは、動くのを待っているのか。
 水蓮の群生する液鋼の泥濘は、明らかに男の領域だ。其処から動こうとしない。
 それは、ロボカイも同じだ。
 
 だが、一人だけが、全く別の行動に出ようとしていた。
 
 射命丸は思わず呻いた。
 法力機術によって汚染された若い鴉天狗が、頭と上半身をぐらぐらと揺らしながら、その翼を広げたからだ。
 その針金編みの翼に一瞥を向けながら、「じゃあ、頼んだよ」と、お使いでも任せるみたいに男は言った。
 鴉天狗は何も答え無かったが、代わりに、その頭部に張り付いたままのフラスコ蜘蛛がキリキリキチキチと、身体を鳴らした
 そして、勇儀、萃香の方へと、ぐにゃりと身体を向けた。
 
 来るか。
勇儀と萃香が、迎撃の為に体重を僅かに前に掛けた時。
 次の瞬間だった。
 
 汚染された鴉天狗は空へと飛び上がり、凄まじい速度でこの場から離脱して行った。
 ぐんぐん離れていく。
一瞬、勇儀と萃香だけでなく、射命丸達も呆然とした。
 だが、混乱しかけてすぐに気付く。
 あの方角は。駄目だ。
 行かせてはならない。
 
勇儀、萃香も気付いたようだ。
 
「今の奴を頼む…!」珍しくかなり焦った表情で、萃香は射命丸を振り返った。
「最初から、それが目的かい…」勇儀は歯を剥いて男を睨む。

 射命丸と鴉天狗の男は即座に頷いて、翼を広げて飛翔する。
 空へと上昇する途中で、黒コートの男と眼が合い、射命丸は寒気を感じた。
 男の眼は、どうせ行くんでしょ?、と言っている。
まるで、これからの自分の行動が、男のシナリオ通りに進んでいるような、気持ちの悪さを覚える。
しかし、止めなくては。
だが、その悪寒を振り払い、男から視線を外した。
射命丸は顔を上げて、若い鴉天狗を追う為、更に高度と速度を上げて、夕空へと羽ばたく。

 汚染された若い鴉天狗は、ぎらつく体液を零しながら、針金編みの翼を翻している。
 その向かう先。方角は、間違いなく人里に向いていた。
 
 
 
 
 後は、向こうのレスポンスを待つだけだな 。
 呟いた黒コートの男は、口許を僅かに歪める。
飄々とした貌のまま夕空を見上げて、射命丸達の背中を見送った。
 

「さて、これで天狗の二人は居なくなったな…」

場に残ったのは、勇儀と萃香の二人の鬼。
そして、黒コートの男に、ロボカイの二人だ。

青黒の煙霧を纏いながら、男は何かを唱えた。
法術だ。青黒の微光は、特別な装置や機械類を何も使わずに、金属を刻む。
男の足元に揺れる液鋼の泥濘から、再び巨大な土百足がずるずるずる、と、這い出して来た。

いや、這い出している、と言う表現は、微妙に合わない。
地に広がる液鋼溜まりが男の法術によって、その場で造形と命を与えられて居るのだ。

土百足はやはり一匹では無い。ニ匹でも無い。
といよりも、数え切れない。見る見るうちに、男の周囲は土百足で溢れ返った。
凄い数だ。金属が擦れる、甲高く、不快な摩擦音が響く。
だが、男の低い声の唱歌は、未だ続く。


「これ以上は黙ってな…!」
勇儀だった。男の詠唱を止めるべく、曙光にも似た山吹色の妖気を纏う。
勇儀は、銀甲殻の土百足の群れにも、全く怯えた様子も見せない。
 
「二手目は任せろ」
萃香は言いながら、身体をほぼ完全に霧のように変えて、一陣の風になった。
同時に、轟音。
 
勇儀が脚で蹴った地面は粉々に砕け陥没し、山全体が揺れたかのような震動が周囲を包んだ。
 山鳴りと地鳴りを響かせて、力の勇儀が踏み込んだのだ。
 とんでもなく鋭い踏み込みだった。
 
握りこまれたその拳は、まるで隕石。
拳だけでなく、全身に纏う妖気は炎熱と圧力に変わり、陽炎の如く揺らめいている。

Gyiiiiiiitititiitititititititititi…。Syigigigigigigigigigiggihihiigi…。

その勇儀と、男の間に割り込むようにして、土百足の群れが殺到して来た。
それは、明らかに黒コートの男を守ろうとする動きだった。
眼の前に雪崩込んできた、銀鋼甲殻の波。
土百足は折り重なり、固まり、勇儀を妨害しようとしている。
事実、擡げられた百足の首の数は、十を既に超えようとしていた。

だが、勇儀は止まらない。向かっていく。
鎌首を擡げた蛇のように、土百足達も口を開き、群れで勇儀へと飛び掛かろうとしている。

だが、それよりも先に、黒コートの男が数歩下がっていた。後退したのだ。
距離を取るつもりか。
無駄だ。もう逃がさない

勇儀は踏み込みながら、身体を一気に前へ傾けた。
其処へ、銀甲殻の百足の群れが殺到した。

それは、ほとんど銀色土の石流だった。
圧倒的な質量を持った土百足の群れは、食い殺すというよりも、轢殺する為に勇儀に迫る。
上から覆いかぶさるように、押し潰すかのように、銀色巨体が猛スピードで降って来た。
 
 その時、ロボカイは気付いた。鋭く息を吐く声も聞こえた。
何時の間にか、勇儀の身体には白い霧が薄く纏わりついている。
 
 「博士、口ヲ閉ジロ!」
 舌ヲ噛ムゾ!、と、咄嗟にだが、危険を感じたロボカイは、隣に居た黒コートの男を素早く肩に担いだ。
 男の方は「ぉっ!?」と声を漏らして、その詠唱を完成させるまでには至らなかった。
 軽々と黒コートの男を担いだロボカイは、その場から更に大きくバックステップを踏む。
だが、このロボカイの行動は正解だった。
 
 直後だった。
 
勇儀は右脚を前に出す半身のまま、身を沈め、ぐぐっと前傾姿勢になっていた。
迫る土百足の群れ、銀甲殻の濁流目掛けて、勇儀が、身を起こしながら拳を振り上げた。
其処から、上半身全体を一気に持ち上げるようにして、右拳のアッパーを繰り出したのだ。
 ぶぉぉぉ、と、下から上へと突風が吹き、触れてもいない地面が僅かに抉れる。
 そして、鬼の拳と、百足の群れが激突した。
 かなり派手な音がした。金属がひしゃげる音と、断末魔の機械音声。
 
 勝負にすらなっていなかった。
鬼の拳は、一撃で百足の群れを押し返し、持ち上げた。
次の瞬間には鉄屑に変えて、粉砕し、爆散させる。
 
 夕暮れの中、飛散する金屑の欠片が、茜色の陽光を反射し合い、キラキラと輝いていた。
 勇儀は拳を振り抜いた姿勢のまま、眼だけでロボカイ達の動きを追う。
 その視線に応えたのか。
金屑の煌きをすり抜けるように、勇儀の纏っていた白い霧が、すぅぅ、と流れた。
霧はロボカイに達を追う。包み込もうとする。

逃がさないよ。
幼くも、貫禄のある声がした。萃香だ。
 
ロボカイ達を包むようにして立ち込めた霧は、一部だけ凝り固まり始める。
 それも、かなりの近接距離だ。
ロボカイは「ヌゥ…!」と、呻いた。
 そして、肩に担いだ男を庇うようにして、片手で剣を構えた。
 攻撃のためでは無く、それは完全な防御姿勢だった。

 時間にしてみれば、白い霧が完全に固まり、その姿を完成させるのは一秒にも満たなかった。
 霧が象ったのは、左腕をぐるぐると回す萃香だった。
 腕の回転に合わせて、炎にも似た赤光の揺らめきが渦を巻いている。
萃香の拳が呻っている。純粋な力の脈動が、微光となって薄暮に混じる。
その脈動と共に、萃香は身体を振り回すようにして左拳をぶち込んだ。

ぶち込もうとした。
 
 ロボカイは既に防御の姿勢を取っていたとは言え、流石に鬼の力を正面から受け止めるのは容易な事では無い。
 
 しかし、其処に補助があれば話は代わる。
今まで肩に担がれていた男は、そのままの姿勢のまま法術を詠唱していた。
 薄緑色をした球状の防御結界が、ロボカイと男を包んだのだ。
 
 周囲を薙いだのは、腹の底に響くような轟音と震動だった。
 
萃香の繰り出した拳は結界に阻まれ、ロボカイには届いていない。
だが、薄緑色の球状結界にも、亀裂が奔っていた。

 その様子に、萃香は少し面倒そうな貌をして、今度は右拳を握り固めた。
至近距離で、さらに萃香は前へ出ようとする。
もう一撃を叩き込むつもりだ。再び、炎に似た光の揺らぎが、その拳と身に宿る。
静かな表情の萃香とは対象的に、黒コートの男は瞠目していた。
 フォルトレスに亀裂とは、無茶苦茶だな…。
呆れたような、感心したような声で呟いて、男は気付いた。
 
 左拳で結界を押さえ込みながら、右拳を引き込み構えている萃香の隣。
 其処に、勇儀が音も無く踏み込んで来ていたのだ。近い。
 萃香も、勇儀が来ていることには気付いている筈だ。
力と妖気の脈動が共鳴している

それだけじゃない。阿吽の呼吸と言う奴か。
勇儀は右脚を前に出して、左の拳を振り被っている。
萃香が右拳を繰り出す瞬間には、勇儀も身体ごと拳を突き出した。
そのタイミングは、まるで打ち合わせでもされているかのようにぴったりだった。

嘘だろう…。男の驚いた声が虚しく響く。
二つの拳は、まるで卵の殻を割るみたいに球状結界を砕いてしまった。
 防御補助を失ったロボカイは、勇儀と萃香が放った拳の余波に身体を押され、よろめいた。
 その隙を、勇儀も萃香も逃さない。
距離も詰まっている。二人は更に踏み込む。

だが、ロボカイはそれ以上下がろうとはしなかった。
観念したのか。
結界を砕かれ、戦意を喪失したのか。

違う。
黒コートの男が何かを呟いている事に気付いたのは、勇儀と萃香、どちらが先だったか。
男の声に応えて、ロボカイの身体に、くすんだ青白い稲妻が奔った。
 先程よりも、更に激しく、鮮烈な稲妻の光だった。
 
 勇儀と萃香は、しかし構わず畳みかけようといた。
 間合いも完全に詰めている。鬼の間合いだ
 捻じ伏せる。まごつけば、余計に時間を与える。
何をしてこようと、強引に叩き潰す。
魔術や巫術、霊術に妖術。『鬼』はそれら全てを、自身の力のみで踏み超えられる。
 勇儀と萃香には、それが出来るだけの力があった。
その筈だった。
 
突然としか言い様が無かった。
 
耳障りなほど、何かが激しく振動するような音が、無数に重なって響いた。
至近距離には、男を担いだロボカイが居るにも関わらず、勇儀と萃香は、思わず脚を止めてしまった。

その一瞬の隙を突き、ロボカイは大きくバックステップを踏む。
ぐぇ…、という担がれたままの男の、少し苦しげな声も聞こえた。
ロボカイの動きが、明らかに変わった。疾くなっている。
バックステップの軌跡に、細い稲妻が青白い尾を引いていた。

そのロボカイを、二人は追撃できなかった。
攻撃の好機よりも、危険さを強く感じたからだ。
二人は素早く視線だけを周囲に巡らせて、舌打ちをした。
 膨大な数の羽虫が、勇儀と萃香の周りを取り囲んでいた。 
 大きさは、人間に握り拳大。その癖、羽虫達は皆一様に銀色で、全く生気を感じさせない。
加えて、一匹一匹の造形が微妙に違う。
蚊のような姿のものもいれば、蜂のような姿のものもいる。
他にも、蛾や、虻、蜻蛉の姿を模したものも居た。
どれもこれも気持ち悪いくらいに精巧に造られており、青黒い微光を纏う様子は、かなり気色の悪い光景だ。
 羽の音も耳にこびり付くほどに不快で、生理的な嫌悪感を与えてくる。 
 
「そんな事も出来んのかい…。本当に厄介だねぇ」
 
 勇儀は呟きながら、男を睨んだ。
羽虫の羽音に掻き消され、勇儀の声は男には届いていない。

「どのタイミングで、これだけの数を召び出したんだ…」
 
 萃香は言いながら、身につけた鎖をじゃらっ、と鳴らした。
 それから、あぁ、成程な…、と呟いた。
「こいつ等…、さっき勇儀が爆散させた、あの百足モドキの破片か」
 
 だろうね…、と勇儀も低い声を漏らした。
 飛び散った金屑にさえ、干渉して、形を造り替え、命を宿らせる事が出来るのか。
 それも、戦闘の最中。防御結界を張りながら、これだけの数、量の蟲へと変形させた、という事だ。
 何者なんだ、この男は…。
 
 忌々しそうに言った萃香の言葉は、どうやら聞きとれたらしい。
 「げほ…せ、正解だよ」と、低い男の声が返って来た。
勇儀と萃香が、顔を上げ視線を向ける。ぐっと重心を落とした二人の足元では、地面がミシミシと悲鳴を上げていた。

其処から少し距離を取った位置。ロボカイが、担いでいた黒コートの男を地面に下ろしていた。
 担がれたまま、急速でバックステップを踏まれたせいだろう。
男は暫く苦しげに咳き込んでいたが、その手に灯る青黒の法力の光は全く薄れていない。
 胸と腹の辺りを摩りながら、男は一つ息を吐いて、勇儀と萃香に向き直った。

「結界法術が割られた場合の保険のつもりだったけど…。
 君達みたいな『鬼』が相手だと、やっぱり必要になったねぇ」
 
実験を始める、と、黒コートの男は先程言っていた。
 この戦いも、先程犠牲になった鴉天狗達も、男にとっては全て実験の過程に過ぎないのだろう。
 男の眼は、試験管に薬品を注いで混ぜ、その反応を観察するみたいに無感動だ。
 それに、幻想郷のこの領域は、男の干渉を多大に受けている。
 男の行使する法術は、土草や石、生い茂る木々を、金属質の物体へと変質させる。
 或いは、男の足元に広がる液鋼の泥濘で覆い、地面を、空気を侵食していく。
 そうして造り替えられた妖怪の山の一部は、銀箔の箱庭と化して、茜色の太陽の光を反射させあっている。
 
 「戦闘力ノ高サデ言エバ、間違イ無ク、今マデノでーた内デハとっぷくらすダナ」
 バチバチッ、バリバリ、と体に、くすんだ青白い稲妻を奔らせてロボカイが呟いた。
 そして、男の隣で剣を再び構えて見せる。
 
 睨み合うこの状況は、不味い。
 黒コートの男は、絶え間なくその掌に青黒の微光を灯し、この土地に干渉し続けている。
 それだけじゃない。地面を覆う液鋼から、次々と羽虫が産まれ、宙へと羽ばたき始める。
 まるで、液鋼溜まりの下に無数の卵があって、それらが一斉に孵化しているかのようだ。
 
 黙って見ていれば、アドバンテージに差は広がるばかりだ。
 これ以上、有利な手を打たせるのはうまくない。
 
勇儀と萃香は前に出る。其処に、羽虫の大群が殺到してきた。
 羽と外骨格を持った弾幕に見えなくも無いが、羽虫の羽の音が凄まじく五月蝿い。
ガリガリと思考を削ってくる。
いや、考える必要は無い。
勇儀と萃香は、羽虫の群れを突っ切っていく。
 
 萃香は自分の体を白い霧へと変えながら、蟲達をすり抜け、男とロボカイに迫る。
 勇儀は平然とした貌で、バッツバツと蟲の噛み付きや針刺しを喰らいながら、そのまま猛進していく。
 
 Pipipipipi。場違いな軽い音が聞こえたのは、多分その時だった。
 男はコートの懐に手を入れようとして、止めた。
 流石に迫ってくる鬼二人を前に、余所見をする余裕は無いのだろうが、焦った様子でも無い。
 
鬼の足音に応えて、地面が揺れている。砕けて、悲鳴を上げている。
 この状況で正面突破とは、無茶苦茶だな…。
 男は少しだけ楽しげに呟いて、すっと人指し指を勇儀に向けた。
その動きに応え、男の周囲を飛ぶ羽虫も、一斉に勇儀へと飛び掛る。
 
 「ぬぅぁぁ…!」
 勇儀は、それでも蟲の群れの正面を割っていく。 
 顔を腕で庇ってはいるが、腕や腹、脚には傷が無数に出来ていく。
 しかし、それだけだ。全く勢いは衰えない。
 
 凄いな…、と呟いて、男が更に羽虫を製造しようとした時だった。
 轟音。耳がおかしくなるような、凄まじい大音響が響き渡った。
 
 「我亞亞亞亞ッ…!」
 勇儀が地面を踏み鳴らし、体から山吹色の波動を爆発させたのだ。
 羽虫の群れは一瞬で鉄屑になり、夕暮れの空に巻き上げられた。
 クレーターが出来上がり、周囲の木々はおろか、液鋼で作りかえられた地面すら抉り砕いた。

 撒き上がる岩滓と鉄屑が、夕陽を遮り、勇儀の周囲に闇を落とした。
 凄まじい質量の金属と岩石が、塵となって吹き上がっている。
 それだけじゃない。
勇儀の咆哮と共に、鬼火混じりの山吹色の暴風は、周囲に立っている全て悉くを薙ぎ倒した。
 
 「うわっ!?」
黒コートの男は、紙屑みたいに後方へ吹き飛ばされた。
 「何タルぱわーダ。純粋ナ『力』ダケデ、コレ程トハ…!」

それをロボカイが受け止める。
重い足音と共に着地して、黒コートの男とロボカイは顔上げて、言葉を詰まらせた。
パワーで勝つのは、無理っぽいね…。男は呟いて、その眼を細めた。
 ロボカイも余計な事は無いも言わず、剣を握ったまま、空を見上げる。
 
 夕陽に掛かる、白い霧。
 それが凝り固まり、岩屑と岩滓、木屑、鉄片の微粉が撒き上がる空の中に、萃香の姿を成して行く。
 そして、それと同時。霧から姿を戻した萃香は、左腕をぐるぐると回し始めた。
鬼の力は、その空域全てに及んだ。
男は気付いた。空に鳥が飛んでいない。その理由が分かった気がした。
空に巻き上げられた全ての物が、萃香の廻す腕に、手に、集まっていく。

萃香は口許に牙を覗かせて、男を見下ろしていた。
その眼は窄められているものの爛々と輝き、強烈な畏怖を覚えさせる。
覚悟しろ…。萃香の低い声は、不思議と良く通った。
 
 それもそうだろう。
 もう、空に巻き上がっていた物は、全て一つに集められ、固められて、巨大な塊となって、萃香の手の上に鎮座している。
 
 馬鹿馬鹿しい程巨大なその塊は、萃香の能力によって更に密度を増していく。
 無理矢理に押し固められた塊は、神話クラスの武器であり、災害だった。
 
 「これだけの力を持つ『鬼』が、二体か…。ちょっと欲張り過ぎたかな」

ロボカイは、萃香から眼を離さない。
だが、男は僅かに苦笑を漏らし、視線を下ろした。
良く言うよ…。艶やかで、それでいて力強い声がした。
ズシン…、ズシン…、という地響きが、足音だということにはすぐに気付いた。

「萃香と二人掛かりで、ここまで梃子摺るとはねぇ…」
勇儀は首を鳴らしながら、男を見下ろすように首を傾ける。
そして、すっと腰を落として構えを取った。

「良いのかい。
…あんなものを落っことしたら、この辺の土地被害も大きいんじゃないかな?」

「お前さんを潰す為に…必要なことなら仕方無いだろうよ」

男は一度、萃香とその手に乗せられた巨大過ぎる塊に眼を向けた。
そして、微かに笑みを浮かべて見せる。

「出来るかな。無理だと思うよ」

「潰されちまいな」。勇儀が呟いたのと、ほぼ同時だった。

上空に居た萃香が、育ちに育って膨れ上がった塊を投げつけて来たのだ。
ただ落とすだけで十分過ぎるであろう大質量の塊を、鬼の力でぶん投げたらどうなるか。
想像も付かない。
だが、結果がどうなるか位は、誰だって分かるだろう。
男も既に理解している。かなりピンチだ。
だが同時に、これで『鬼』という、幻想郷側の手札を開けることも出来た。
 戦闘データも手に入った。臨床実験にも持ち込みたいところだが、まずは今の状況を打破すべきだろう。
 
 ロボカイの稲妻が、男の思考を遮った。
 封雷剣のレプリカは、もうハンマーには変形していない。
 今のロボカイが持っているレプリカは、本当の意味でレプリカだった。
 神器の機能を有した、純粋な、それでいて高度な模造品だ。
 加えて、余計なギミックを徹底的に排除したその身体は、法力との親和率を極限まで高めている。
 その結果として、より強力で複雑な、高次の法術を唱えることが可能になった。
 同時に、その戦闘方法も、洗練されたものに変わった。
 
 ロボカイは、くすんだ青白い稲妻を体に纏わせたまま、ぐっと体を沈ませた。
 そっちはお願いするよ。男はロボカイに呟いて、勇儀に向き直る。
 この危機の中でも、男の眼は只管に冷静だ。
了解シタ、と答え、ロボカイは迫り来る巨塊目掛けて飛び上がった。
 
 

 勇儀も地盤を砕くほどの力で蹴って、男に肉薄した。
 突っ立ったままの男は、動かない。いや、動けなかったのか。
 だが、すっと掌を勇儀に向けた。その動作も、勇儀にはひどくゆっくりに見えた。
 遅すぎる。
 
まともに肉弾戦も出来無いというのに、鬼の間合いで一対一に持ち込むなど自殺行為だ。
 男の掌には、相変わらず青黒の微光が灯っている。
何か考えがあってのことだろうが、勇儀の動きに反応出来ないのならば無意味。
 その企みごと砕いてやる。体ごと振り回すようにして、拳を打ち下ろした。
 ずぶずぶずぶ…、という不気味な水音が聞こえた。
 構わず、勇儀は拳を振り抜く。
 
 やはり、男は全く反応できて居なかったようだ。
一瞬遅れて、驚いたような表情を浮かべていた。
しかし、別の何かが勇儀の動きに反応して、その拳を受け止めていた。
 今度は、勇儀が驚く番だった。
 
 「なっ―――!?」
 思わず絶句した。そして、さっきの水音の正体を理解した。
 音は、勇儀達の足元の液鋼が、凝り固まり、鋳造される音だったのだ。
 
勇儀の拳を受け止めたのは、勇儀だった。
いや、違う。勇儀の姿を象った、法力鋼で出来た人形だった。
本当に一瞬の間だったが、男は一体の液鋼人形を作り出していた。
 男は科学者であり、また職工であり、工匠だった。

 「データがあればそれを元に、だいたいの姿と力は鋳造出来るものさ」
 液鋼で象られた勇儀の背後で、男は言いながら、唇を歪めて見せる。
そして、青黒の微光を勇儀の人形へと灯した。
 勇儀は咄嗟に飛び退ろうとしたが、その隙を突かれた。
 腹に鈍い衝撃。勇儀の人形が、前蹴りを叩き込んで来たのだ。
 
 「ぐぅ――っ!」
 後方へ蹴飛ばされたものの、勇儀は着地してすぐさま顔を上げた。
 其処で見た。
 
ロボカイが纏う稲妻が、その剣に宿っていた。
 聖戦を知る者が今のロボカイの姿を見れば、聖騎士団の団長の戦姿を思い出す事だろう。
 稲妻のストロボは、機械的であっても壮麗さを持っていた。
今のロボカイの動きは、姿は、「カイ=キスク」を正確に映し出している。
 
萃香は、何かの脅威を感じたのか。焦ったようにその体を、一気に巨大化させた。
幼い少女の姿のままだが、その全長は遥か上に見上げる程だ。
ミッシングパワー。萃香の持つ、鬼の力だ。
しかし、巨大化した萃香は、攻撃を行わなかった。
多分、萃香も咄嗟だった。腕を交差させて、ガードの体勢を取ったのだ。
 それが、ギリギリで間に合った。
赤い閃光と稲妻が奔り、ストロボが萃香を焼いた。
巨大な塊目掛けて上昇してくるロボカイが、既に封雷剣を十字に振るっていたからだ。
 
 振るわれた封雷剣の軌跡に沿って現れたのは、稲妻が象った巨大な十字架だった。
 十字架の青白い閃光は、夕焼け空を真っ白に染めて焼き尽くした。
 それと同時。鬼の力によって圧縮された、降り来る巨塊までも、十字に断絶し、崩壊させた。
 稲光が再び煌いて、空中で瓦解する塊を焼き尽くす。
破砕音などはほとんどしなかった。
ただ、十字の稲妻が、その空間にすら焼き付き、青白い軌跡を残している。

勇儀は、鳥肌が立つのを感じた。
黒コートの男は勇儀の人形を盾にしながら、ロボカイの攻防を見上げている。
それらは、一瞬の出来事だった。
ツヴァイボルテージ。聖騎士団時代の、カイ=キスクの奥義だ。
 コピーと言えども、その威力は本物だった。
 『ぐぁあ…っ!!』萃香が顔を歪めた。
 防御の為に交差させていた腕に、ざっくりと十字に斬られていた。
 萃香はよろめいたが、ただでは終わらなかった。
 傷ついた腕で、未だ空中に居るロボカイを殴り飛ばしたのだ。
 直撃だ。だが、ダメージは与えれていない。
 ロボカイは恐ろしく落ち着いた動きで、剣を防御姿勢に構え、その上に結界を張って防いだのだ。
 
 かなりの距離を殴り飛ばされたが、ロボカイは空中で宙返りを決めて着地。
すぐに機会音声での詠唱を開始し、剣を持っていない手で法術陣を描く。
セイクリッドエッジ。幾重にも描かれた法術陣から、巨大な雷撃の刃が萃香目掛けて放たれた。 
 それは、正に稲妻の塊だった。
刃の速度が凄まじく、萃香は体を霧にして逃げることも、避けることも出来なった。
再び腕を交差させて雷撃を防いだが、その傷口からは、派手に血が噴きだした。
 巨大化した萃香の体を、あれだけ深く斬り裂くことが出来るものなのか。
勇儀は眼を疑ったが、それどころでは無かった。
 
 萃香の血の雨が降る中。
その銀色の体を濡らしながら、勇儀の人形が踊りかかって来たからだ。
同胞の血を浴びながら、勇儀は歯噛みして両拳を万力の如き力で握り込む。
山吹色の鬼火をその体に灯して、勇儀は自分を模した人形を迎え撃とうとした。
 
 
 
 「やっと見つけたわ」 
 その声は、一体何処から聞こえたのか分からなかった。
 しかし、次の瞬間。勇儀の姿を模した銀人形が、黒い空間の亀裂に飲み込まれた。
 全く抵抗を許さない、その圧倒的な空間の制圧。スキマ。
 
 「やっと来たか…」 勇儀はほっとしている自分に気付いて、鼻を鳴らした。
視線の先では、妖怪の賢者が、スキマから歩み出てきていた。
 その美しい貌は、冷徹さを感じさせる無表情が張り付いている。
周りの空気の温度が、間違いなく数度下がった。
痛みを堪えていた萃香も、その存在に気付いたようだ。
 「悪いね…。ちょっと梃子摺ってる…」
 巨大化したままで、腕を押さえながら少しすまさそうに唇を噛んだ。

「いえ、謝らないで…。こちらこそ、遅くなってごめんなさい…」
普段の胡散臭さはほとんど無い。声音には、怪我を負った仲間を気遣う優しさがあった。
だが、男に向けられたその眼に宿っているのは、周囲の者を凍りつかせる威圧感のみだ。
 
しかし、黒コートの男は全く怯んでいない。
それどころか、今までの冷静な眼を、楽しげに細めてすらいる。
こうして顔を見せるのは初めてだな…。初めまして、になるのかな…。八雲紫さん…。






[18231] 二十四・四話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/06/28 23:25

 
 妖怪の山。その山裾に広がる森林は、もう夕暮れの中に完全に沈みつつある。
沈む太陽の光と山の稜線が描き出す、黒と茜の境界も曖昧になっていく。
森林の茂みの中は、より一層深い影が落ちた。
枝葉から差し込む夕陽は、その暗がりに幾条もの境界を作り出している。

魑魅魍魎の跋扈する妖怪の領域の、正に逢魔時。
昼と夜が入れ替わろうとしている。
陽の住人達の時間が終わり、暗がりに住まう者達の時間が始まる。
それは幻想郷という世界に於ける、自然の生態系であり、正常な循環だった。

ただ、今日だけは少しだけ違った。

勇儀、萃香という山の四天王の二人が、杯も持たずに並び立っている。
それは酒を酌み交わすための宴の為では無い。戦う為に、肩を並べ、拳を構えている。
二人の周囲。かなりの広範囲に渡って、金屑と岩屑を固めたような塊が散乱している。
地を穿ち、木々をへし折っている巨大なものも多数あるし、地面にめり込んだ拳大のもの無数にある。
地面には亀裂が入っている箇所もあれば、大穴が空いている場所も多数あった。
粉々に砕かれた木屑も散乱している上に、周りに生えていた木々も、枝や幹が折れ飛んで、薙ぎ倒されているものもある。
其処彼処で煙のような薄い煙霧も上がり、土埃も舞っていて、酷い光景だった。

それに、充満する血の匂い。
人間の血の匂いでは無い。
鬼の血。萃香の血だった。
埃と煙霧に擦れているものの、金属の皮膜に覆われた木々や土草を赤く濡らしていた。
暗銀の光沢に、薄青の微光と血の深紅が混じり合い、それを更に暮れなずむ夕陽が染め上げていた。

 その光景は、まるで爛れた傷口のようだ。
大規模な戦闘の痕跡は、血と傷跡を土地に刻んでいる。
逢魔時の妖怪の山の中、木々の茂みの開けたその場所の、丁度中心の辺り。

黒いコートを着た一人の男が、機械人形を従えて佇んでいた。
しかも、ただ佇んで居るだけではない。二人の鬼と対峙している。


其処に加えて、更に妖怪の賢者がこの場に現れた。
スキマを用いた神出鬼没は何時も通りだが、その眼に浮かぶ敵意や、纏っている雰囲気は尋常では無かった。

賢者である以前に、八雲紫は妖怪だ。精神や思考の前に、感情が在る。
紫の眼は、敵意、殺意、嫌悪、忌避、警戒、それら全てを混ぜ込んだような眼だった。
その恐ろしい眼を細めつつ、顔の下半分を扇子で隠しながら、スキマを更に広げる。
勇儀と萃香の傍に開いたスキマからは、やはり無数の眼がギョロつき、黒コートの男を見ていた。
空間に入った亀裂のような、黒々としたそのスキマからゆっくりと歩み出た紫は、勇儀と萃香を交互に見比べた。

「今、人里に向かっている天狗には、霊夢と魔理沙が向かってくれているわ…」
 
 紫は言って、僅かに目許を緩めて見せた。

「人里も既に隠し終えた…貴女達の御蔭で、間に合ったわ。
…手間を取らせてしまったわね」

「守りは万全か…。流石だな…」
構えを取ったままの勇儀は、と、少しだけ安堵したように言葉を漏らして、すぐに表情を引き締めた。
「まぁ、礼を言われるのも安心するのまだ早いさ…」
萃香も同じく、構えを解かないまま、コキコキと指を鳴らして呟く。
 
 紫、勇儀、萃香の三人を前にして、黒コートの男は不思議と静かな表情のままだ。
 冷笑を浮かべるでもなく、余裕を見せるでも無い。
 かと言って、焦っているようでもなければ、紫達に恐れを抱いているようにも見えない。
眼鏡の奥に在る男の瞳は、薄く黒味掛かった青色だ。
無表情に近いが、その眼は紫達を観察し、観測している。

気味悪さ以上に、脅威を感じさせる。

 鬼を二人、スキマ妖怪一人を同時に前にすれば、人間の命など風前の灯だ。
端から見れば、黒コートの男は絶体絶命。
いや、もう終わりだ。
終わっている。終了している。
足掻くだけ無駄。完全な詰み。
その筈だ。

「実際に会うことが出来て感激だな」
だが、男は右手に青黒色の法術の灯火を揺らめかせたまま、軽く会釈して見せた。
その穏やかな口振りからは、全く感激しているようには感じられない。
寧ろ、この状況を予想していたようですらある。

紫は、自分の眉間に皺が寄るのを抑えることが出来なかった。
男の声を聞くのは初めてではない。だが、生で聞くのは今回が初めてだった。
得体の知れなさだけが強調されるような、独特な抑揚のある低い声だ。
暗くなり始めた夕焼けを反射する暗銀の塗膜に、男の声も反射し合い、奇妙な残響を残した。
暗銀の塗膜は地面に、木々に、枝葉に広がり、泥濘を成して土地を侵食し続けている。
陰鬱な暗がりに、金属の煌きが無数に反射し合い、液鋼の海の中心に立つ男の姿を淡く照らし出していた。
 
人間とは、こんなにも澱み、歪んだ雰囲気を纏うことが出来るのか。
 男は痩身で、屈強さなどとは無縁な上に、顔色も優れない。肩幅や胸の厚みにしても、かなり細身だ。
 しかし、その存在感や“危険さ”のようなものは、紫達と拮抗しつつある。
勇儀と萃香は眼を細め、僅かに息を呑んだ。
紫は男を睨みつけ、顔を隠す扇子の下で唇を噛む。

長い時間の中で、妖怪と人間を見続けて来た紫達にとって、人間とは、ごく一部を除いて、妖怪よりも遥かに劣るものだ。
肉体、精神的な強さも、蓄えられる知識の量も、思考速度も、生きられる時間も。
多くの場合、人間は妖怪に劣る。
紫達は、霊夢や魔理沙、咲夜などの、「妖怪を凌駕する人間」が、いかに稀少なものなのかを、良く知っている。

だが、眼の前の男は、明らかに霊夢達とはベクトルが違う。
むしろ「人間」というカテゴリーに分類することに抵抗を覚える。
それは、男の纏う金屑の煙霧と、それを反射する液鋼で塗り替えられた景色のせいか。
 
男の傍らに居たロボカイも、剣を構えては居ない。
ただ、その体にはまだ細い稲妻が奔っているままだ。
何かあれば直ぐに動けるのは間違い無いだろう。


 「やはり、実物は美しいね…。映像で見るのとは全然違うな」
 
不意に黒コートの男が笑みを浮かべて見せた。
ただ、眼は笑っていない。変わらない。相手を観察する眼だ。
これからの変化を観測しようとしている眼だった。
 
 「黙りなさい…」
 勇儀と萃香に並び立った紫は、恐ろしい程低い声で言いながら、眼を鋭く細めて男を見据えた。
 同時に、ズズズズズ…、と、空間そのものが捻じ切れるような、歪んで亀裂が入るような音がした。
 
 スキマが開いていく。
 紫の周囲、背後に、無数のスキマが口を開き、その暗い穴からは無数の眼が覗いている。
夕暮れの森林。そろそろ夕闇へと変わりつつその景色に、黒い隙間が生まれていく。
其処に暗銀色と薄青色の光沢が混じりあい、異様な空気が周囲を包んでいる。
 
 勇儀と萃香も、ジリジリと前へ出る。手を伸ばせば。踏み込めば、拳が届く。
 しかし、二人はこの男を仕留められる気がしなかった。
 何故かは分からない。
だが、そんな風に感じたのは、長い間生きてきて、初めての感じた感覚だった。
 
 嫌な感じだ。
 この男は、紫を前に顔色一つ変えない。そのせいだ。
 焦れ。驚けよ。何で其処まで冷静なんだ。
これは、闘っている時の感覚じゃない。
 何だ。分からない。この違和感。虚無感。まるで、蜃気楼を相手にしているようだ。
 男は眼の前に居る。しかし、まるで同じ土俵に立っていないような気がして仕方が無い。
 何故だ。向こうが、まるで相手にしてこないからか。何故。何故。
 圧倒的に追い詰められているのは、男の方のはずだ。
 
いや。
 違うのか。
 気付いていないだけで。
 もう、絡め取られているのか。
 そんな気がして仕方が無い。 
嫌な汗が萃香の頬を伝う。
勇儀はしきりにゴリゴリと歯を噛み締めている。
 
 
 「嫌われたものだな…。これじゃ話も出来ない」
 黒コートの男は、言いながら落ち着いた様子で視線を巡らせる。
勇儀と萃香を見比べて、それから周囲に展開された無数のスキマを見回した。
そして最後に、紫の眼を見詰めた。
見詰めながら、一歩下がる。傍らに居たロボカイが、一歩前に出た。

「“境界を操る”力っていうのは、やっぱり凶悪だねぇ。空間全てを武器に変えられる…。
まるで、喉元に刃物を突き付けられている気分だ」

それに…、と、男は低く呟いて、息を静かに吸い込んだ。
ゆっくりと胸を逸らしながら、眼を閉じる。
耳を澄ましているのか。

勇儀と萃香も気付いた。
聞こえる。地鳴りのような、鈍く、低い音。
僅かに足元にも揺れを感じる。
それが徐々に大きくなっているのが分かる。
これは、足音だ。大人数が、脚を踏み鳴らす音だ。
だが、明らかに人間達のものでは無い。

響きが大き過ぎるし、此処は妖怪の山だ。
答えはすぐに分かった。
男も、もう理解しているようだ。

時間切れか…、と零して、ため息のように息を吐いた。
そうして男は片目だけを開けて、すっと細めて見せる。
「こっちは二人だけだっていうのに…」

この遠雷とも地鳴りとも付かない響きの正体。
それは大挙として此処へ押し寄せてきている、妖怪達の群れだ。
 しかも、この地鳴りの規模からして生半可な数では無い。
 此方に近づいて来る、というよりも、まるで男を包囲するように地鳴りが詰まってくる。
ビリビリと木々が震え、金床と化した床が軋みを上げている。
 
 勇儀は隣に現れた紫を見てから、周囲を見渡し、一つ息を吐く。
 そして前に出る脚を止め、ボリボリと後ろ頭を搔いた。
「多勢に無勢ってのは好きじゃ無いが…今回は、そんな事言ってる場合でも無いな」
 
 「喧嘩じゃないんだ。…潰してなんぼだよ」
 腕を組み、顔を顰めかけた勇儀を横目に、萃香は低い声で言う。
 萃香の貌も不味そうに歪んでいるが、それは勝負を邪魔されたから、という訳では無い。
不審。或いは、猜疑。そういった感情によるものだ。
 勇儀も男を睨みながらも、不可解そうに眼を細め、眉間に皺を寄せている。
 紫も同じような表情だ。
 
 
「オイ駄目博士、コレハ流石ニ不味イノデハナイカ…」
少し焦ったように言ったのは、紫達と対峙したままロボカイだ。

「数は重要じゃないさ…。とは言え、この量は想定外だよ」
男の方は、今度こそ懐から掌サイズの板状の携帯端末を取り出し、其処に視線を落とす。
その携帯端末のディスプレイの画面には、男の居る場所の周囲が映し出されている。

グリッド状のレーダーのように表示された画面には、青い点が二つ。
それと向かい合う形で、大きめの赤い点が三つ。
そして、その青い点と赤い点を包むように、無数の細かな赤い点が画面を埋め尽くしている。
青い点が表示しているのは恐らく、男とロボカイだろう。
赤い点が示しているのは、妖怪か。
凄まじい数だ
男は唇の端を少しだけ歪めて、端末のディスプレイを指で操作する。
「まぁ、望外の展開ではあるけどねぇ…」
言いながら男は周囲を見回しつつ、顛末を持っていない方の手で、ゆっくりと法術陣を宙に刻む。
 
 紫は従えたスキマを駆使し、男をひき潰そうとした。

だが、男の仕種一つ一つに不思議と隙が無い。
端末を操作する掌にも、常に法力の灯火が灯っているからだろう。
男はまだ動かない。傍に居るロボカイも、その男の真意を測りかねているようだ。
紫達と男を見比べながら、その成り行きを見守っている。

「鬼の身体を用いた臨床実験は間に合わなかったのが、少々残念ではあるけど…。
 仕方無いな。またの楽しみに取っておくよ」

男は眼鏡の奥の眼を細め、勇儀と萃香へと視線をふっと向けた。
その瞬間、明らかに男の纏う雰囲気が一気に歪んだ。

狂気に捩じくれ、探求と渇望が入り混じった沈着の眼が、鬼を見た。

多分、勇儀と萃香は初めて、人間の視線だけで怯んだ。
紫も思わず息を呑んだ。
男が視ているのは、正確には勇儀と萃香の「肉体」だ。
その視線に宿るものが、色欲や劣情から来る下劣なものなら、どれ程マシだっただろう。
しかし、男の眼には好色さなど微塵も無い。

あれは、何かの部品を見る眼だ。
どう使えるか。何で出来ているのか。強度はどれ程なのか。
何処まで改造できるのか。機術による強化に何処まで耐えられるのか。
そういった無慈悲な好奇心で満ちている。
青味のある昏い眼は、「生物」として鬼を見ていない。

「さてと…」
男は勇儀達から視線を外すと、端末を手にしたまま、宙に浮かんだ法術陣を一瞥する。
そして、空いている方の手で、今度はコートから球状の端末を取り出した。
それに応えるように、金床と化した地面がボコボコと蠢き、盛り上がり始めた。

勇儀と萃香は、飛び退る。

変化し始めたのは、男の周囲だけでは無かった。
未だ侵食されていない地面までもが、かなりの速度で昏い暗銀色へと変わってく。
鋼液の膜が地に広がる中で、紫はふわりと浮かび上がり、扇子を振るう。

ギギギギギギギギ…、と、何か硬い物が擦れ、引き千切られるような音が響いた。
同時に、周囲に奔っていた幾条ものスキマが長く長く引き伸ばされ、男に迫ったのだ。
地と木々は液鋼によって染め上げられたが、中空はスキマが引き裂き、一瞬で黒く塗り潰した。

開かれたスキマは、口であり、刃であり、断層だ。
飲み込まれれば異次元への流刑。挟み込まれれば、断頭台にもなる。
抗い難い超常の力だ。それが、男目掛けて無数に伸び、襲い掛かる。
逃げ場は無い。それは間違い無い。
伸びまくるスキマの亀裂は、夕焼けの薄暮すら真っ黒の簾みたいに引き裂いて、男に迫っている。
それは、巨大な網だったし、檻だった。
「ヌゥ…!」
ロボカイは剣に青稲妻を纏わせ、何かをしようとしたが間に合いそうに無かった。

逃げられるものか。
勇儀と萃香がそう思ったのは一瞬だけだった。すぐに唖然とする嵌めになった。
紫の顔が引き攣った。妖怪の群れが地を踏み鳴らす音がやけに遠い。耳鳴りがした。

「君から逃げることが難しい以上、対抗策だけはしっかりと用意してきたつもりなんでね…。
 脅威には違い無いけど、見えてる切り札には…まだ対応のしようがある」
 
 その男の低い声は、やたら良く通った。
男は両手に端末を持って居る。動いていない。
何をした。分からない。
ロボカイも、男の隣で剣を握ったまま、その光景に眼を奪われている。


スキマ。幾条にも奔り、空間に黒々とした線を刻む亀裂が。
その動きを止めていた。いや、止められていた。
かなり巨大だった筈のスキマの群れに、何かが絡み付いている。
暗銀色の茨。違う。あれは有刺鉄線だ。
棘だらけの膨大な量の有刺鉄線が、幾重にもスキマに絡みつき、その膨張を押さえ込んでいる。
有刺鉄線には青黒の微光が宿っており、それが普通の金属で無いことも明らかだ。
これも、男の持つ法力の一端なのか。

驚愕で動きを止めた勇儀達を尻目に、男は更に法術を唱える。
男の足元。塗膜で覆われた地がのたくり、スライムのように蠢く。
液状金属の泥濘は、今までよりも遥かに大きな規模で祈りを鋳込まれつつある。
法力の光を産声にして、命を芽吹かせる。

 その足元へ、男は手にしていた球状の端末を落とす。
 やけにゆっくりと落下したその端末は、トプン…、と池に石が放り込まれたような音と共に、塗膜に覆われた地面へと沈んで行った。
途端に、塗膜で覆われた景色の表面全体がズザザズザザザザザ、と波打ち細かく蠕動した。
夕陽を乱反射しながらのその光景は、吐き気を催すほど気味が悪い。

「一体何ヲスルツモリダ!
此レダケノ範囲ノ土地ヲ侵食シテ、コントロール仕切レル訳ガ…!」

はっと我に帰ったように、ロボカイが男の肩を掴んだ。
しかし、男はロボカイには視線を向けず、スキマを捕縛した有刺鉄線の束を見据えながら、法術を唱えている。

すぐに紫も次の手を打とうとした。

丁度その時だ。
男と紫達の間合いの中間辺りに、何かが降って来た。
ズッシィィィイィィィン、と轟音と共に、風圧が紫の体を押した。

顔を腕で庇いながら、紫は何かを言おうとした。
勇儀と萃香も、何かを叫んだ。しかし、それは誰にも届かなかった。
塗膜で覆われた地面を踏み砕いたそいつが、グワァハハハハ…ッ!、と大声で笑ったからだ。

それは一人の入道だった。
麻か何かで出来た着物を着ては居るものの、それは下半身だけで、上半身は裸だ。
浅黒い肌をした身体は、筋骨隆々を通り越して、まるで一つの岩山のような巨体だ。
身長は、15メートルは余裕である。
貌も特徴的で、牙の覗く大きな口と、一つ眼。蓄えられた白い髭。
手には、巨木を引っこ抜いただけのような棍棒が握られている。

「騒がしいと思って来てみれば、こんなチンケな奴が山を荒らして廻っていたのか!」
 
グァハハ…! と、入道は大声で笑い声を響かせながら、黒コートの男を見下ろした。
その声もやたらデカい。山中に轟き渡るだろう声だ。
ひとしきり笑ってから、入道は掌を棍棒で叩きながら、紫や勇儀、そして萃香を振り返る。

「こんな奴を相手に、賢者様に加えて、鬼の四天王殿が二人掛とは…。
少々慎重過ぎでございましょう」

言った入道は、少しだけ表情を苦く歪めた。苦笑とも、ただの笑みとも付かない表情だ。
しかし、その声音に嫌味は無い。
入道はただ純粋に、紫達と男の間に割って入ったようだ。

地面を踏み鳴らす音が何時の間にか消えていた。それからすぐだった。
入道の言葉に続くように、次々と妖怪達が木々の合間からその姿を現した。
紫達と囲う様にして集まった妖怪の数は、やはり相当な数だった。
河童も居れば、天狗も居る。化け狼も居れば、化け猫も居る。
人の形をしているものもいれば、そうで無い者も居る。
とにかく凄い数だ。次から次へと、湧いてくる。
 集まってくる妖怪達は皆、入道と対峙する形になった男へと視線を向けていた。
 
 この黒コートの男の異様さや、異常さ、
そして危険さに気付かないまま、妖怪達は入道に続いて不用意に迫っていこうとしている。
 
「駄目だ! そいつから離れろ!」。勇儀が周囲を見渡しながら叫んだ。
「ソイツは…!」。萃香が途中まで言いかけた時には、入道は既に黒コートの男に振り返り、棍棒を振り被っていた。

紫は、妖怪達を何とか止めようとしたが、無理だった。
スキマを用いて、力づくで入道を動かそうともした。
だが、そのスキマを開いた瞬間、地面を覆う鋼液から、有刺鉄線の蔦が凄まじい勢いで伸びて来た。
射出された、と言っても良いかもしれない。
弾丸のように吐き出されたその蔦は、紫が開こうとしていたスキマに絡みつき、拡張を止めてしまう。
それだけでは無い。今度は紫自身にも、その有刺鉄線が伸びて来た。
スキマを開く為に振るっていた左手が、鉄線に噛み付かれかけた。
咄嗟に宙で身を引き、それをかわす。しかし、かわしきれなかった。
紫は左腕に冷たさを感じた。次に、熱さ。少しだけ腕の肉を削られたようだ。
裂き傷が紫の左腕に何条も奔った。鉄線に鮮血が伝う。
 
 有刺鉄線が襲ったのは、紫だけでは無かった。
駆け出そうとしていた勇儀や萃香にまで伸びて、その脚を止めていた。
 萃香は身体を霧状にして鉄線をかわし、勇儀は地面を叩き割り、その破砕片ごと鉄線を吹き飛ばす。
 
 その異常な光景に、周囲を集まって居た妖怪達が脚を止めた。
 短いどよめきが起こった。悲鳴も聞こえた。
続いて、肉が引き千切れる音と、噴水が上がるような水音。
湧き出した有刺鉄線は、少なくない数の妖怪達を挽肉にしていた。
入道に続いて、今にも男とロボカイに飛び掛ろうとしていた者はつんのめり、ひっくり返る者も居た。
 しかしこの数のせいか、妖怪達の群れの前進は止まらない。

入道は背を向けているせいで気付かない。
男の矮躯と、雑魚の木偶と変わらないロボカイの姿が、入道から危機感を奪ってしまった。
それは慢心や油断では無く、錯覚に近い。
入道は、以前の襲撃で、ロボカイの木偶達の多くを叩き潰していた。
だから余計だ。

黒コートの男は全く驚いた様子も無く、入道を見上げながら詠唱を続けている。
其処に巨大な棍棒が、容赦無く振り下ろされた。






 空を駆けながら、射命丸は血が出る程唇を噛み締める。
扇を握る手は、力み過ぎて色が変わっている。
頬に感じる強い風は、今日はひどく重く感じた。
髪に絡んで来る空気が、風が、べたつく。

 風が濁っている。
 地平線を横目で見れば、夕陽が半分ほど山の稜線に沈んでいる。
 疎らな雲は、薄い青と朱色に染まり、不自然なくらいにいつも通りだ。
 日が暮れることを、こんなにも不穏に感じたことが無い。
 思考の隅で、少しだけ冷静な自分がそんな意味の無い事を考える。
 それ位、射命丸は焦り、急いでいた。
 
 超高速で流れていく景色の、その先。
 視線を前に向けると、もう何度目か分からない嘔吐感と、意味不明な涙が出て来た。

 射命丸の視線先では、汚染された若い鴉天狗が、空を駆けていた。
若い鴉天狗の身体は、もはや泥袋のような状態だ。
皮膚は爛れ、筋肉組織の金屑化が進み、残った有機細胞の壊死が始まっていた。
それでも完全に崩壊しないのは、法力機術とやらの効果のおかげだろうか。
 肉はジェル状になって蕩け、露出した骨や爪や歯などの硬い部分には、錆が浮いている。
その崩れかけた身体を縫合するように、頭に張り付いたフラスコ蜘蛛の口から、金属の細い繊維が、菌糸のように張り巡らされている。
 
 あんな状態になっても、まだ動けるのか。
右の方の眼球は飛び出し、神経で繋がったまま眼窩からぶら下がっているし、腹筋も破れて内臓がはみ出している。
それでも、赤黒い光沢のある体液を零しながら、針金編みの翼をはためかせる姿には、胸を抉られる。
 
 ついさっきまで、同じ任務にあたっていた同僚の姿とは、未だに信じられない。
 射命丸の隣を飛行する男の鴉天狗も、「畜生…! 畜生!」と、何度も悔しげに呻いていた。
 
 しかし、悲しんでばかりもいられない。
悲嘆する間を、汚染された若い鴉天狗自身が与えてくれない。
 射命丸は涙を堪え、前方を睨みつけた。そして、歯噛みする。
 
あんなにボロボロなのに、此処まで飛行速度が出せるのか。
駆け抜けるだけで、空中分解しそうな程に解れまみれの身体だというのに、若い鴉天狗の飛行速度は相当なものだ。
事実として、追うだけでギリギリだ。
射命丸達も、此処まで追いつくにもかなり無理をしている。
翼の付け根が軋みを上げていているのを感じながらも、速度は落とせない。

しかし、追いつこうとする射命丸達を嘲笑うかのように、若い鴉天狗の頭に張り付いたフラスコ蜘蛛は、キチキチキチと細かい音を立てている。
頭部に差し込んだプラグを介して、体内に仕込まれている薄緑色の薬品を注入しているようだ。
ドーピングが。
更に、前を行く天狗の速度が上がった。


「追いつけん…! このままでは不味いぞ!」

隣で、男の鴉天狗が無念そうに呻いた。
射命丸も「分かっています!」と返すのがやっとだ。
汚染されているにも関わらず、その飛行速度がとにかく速い。
幻想郷最速と豪語する射命丸も、まだ追いつけずに居る。

しかし、其処に一筋の光が差した。
希望や、可能性を秘めたその光は、確かに一縷の望みだった。
一直線の伸びたそれは、虹色の微光を放ち、星屑を纏う光線だ。
細くも、強力な貫通力を備えたその光の線は、若い鴉天狗の肩辺りを貫通した。
赤黒い液体が飛び散り、ガクンとその飛行速度が落ちた。

射命丸は思わず気が緩み、失速しそうになって、慌てて体勢を立て直した。
そうだ。射命丸の様に、追う者達だけでは無い。
待ち受ける者も居る。立ち塞がってくれる者が居る。
射命丸が見詰めた前方。汚染された鴉天狗のその向こう側。
紅白の巫女装束の少女と、箒に跨る白黒の魔女が、夕焼け空に浮かんでいた。
 霊夢と魔理沙だ。
 
 「ちょっと離れてろよ!」
 既に八卦炉を構え、光線を照射していた魔理沙が叫んだ。
霊夢も札を取り出して、弾幕として周囲に展開する。
澄んだ朱色と紅色の織り成す弾幕の壁は、もはや結界と言う壁と表すべきか。
射命丸と男の鴉天狗は、飛行しながら咄嗟に離散した。

次の瞬間。
夕焼け空を切り取っていた光線が、一気にその太さを増した。
爆発したと言って良い。
星屑の濁流と共に、極光の奔流が汚染された鴉天狗を襲った。
空に吸い込まれる虹色の極太レーザーに飲み込まれた。そう見えた。
 マジかよ!?、と戸惑う魔理沙の声が聞こえた。
実際、射命丸もそう思った。

 何処にそんな判断力が在るのか。
 汚染された鴉天狗は肩を貫かれ、大きく失速していた筈だが、それを利用して見せた。
 光線が押し寄せてくる直前に、速度と同時にガクンと一気に高度を下げたのだ
いや、意図的に墜落したのだ。
それでも、完全にはかわしきれていなかったようで、顔の三分の一辺りが消滅している。
とは言え、その飛行は完全に止まった。其処へ、今度は霊夢が弾幕を放つ。
形成された弾幕の壁は、容赦なく汚染された鴉天狗の元へと迫る。
 
 「…そう来るとはね」
 しかし、弾幕を放った霊夢の方が意表を突かれた。
汚染された鴉天狗は、重力に従って真っ逆様に落下していたが、突然、ぐるんと軌道を変えた。
針金編みの翼で空を打って、身体を持ち上げた。
そしてあろうことか、澄んだ光を纏う、横殴りの札の嵐へと飛び込んだのだ。

「無茶苦茶しやがる…!」掌に魔光を纏わせながら、魔理沙は顔を歪める。
汚染された鴉天狗は真っ直ぐに霊夢達に向かってくる。
 いや、微妙に軌道が逸れている。霊夢と魔理沙の脇を通り抜けていくつもりか。
凄い速度で弾幕の嵐の中を突っ切って行く。
弾幕の中に飛び込んだ鴉天狗は、何発も札をその身体に受けて、肉片を飛び散らせている。

その様子に、霊夢は僅かに顔を顰めながらも更に札を取り出して、紙垂を振るい、弾幕を展開する。
「コイツでどうだ!」と其処に、魔理沙も加わる。
魔理沙は跨っていた箒の上に飛び乗って仁王立ちになり、八卦炉を首に引っ掛けた。
そして、魔光を纏った両掌を鴉天狗目掛けて突き出す。
霊夢と魔理沙が、お互いに一度だけ眼配らせした。次の瞬間だった。
朱と紅の澄んだ光の雨の中に、七色の星屑が混じり合い、降り注いだ。

勿論、射命丸も黙って二人の動きを眺めていた訳では無い。
男の鴉天狗と、弾幕を挟み込むような形で迂回し、霊夢達と並ぼうとした。
汚染された鴉天狗の行く手を阻む為だ。
 
 しかし、そう上手くは行かなさそうだった。

 ィィIiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiィィィ―――。
金属を擦り合わせて、引っ掻くような奇声だった。
超音波のような、耳障りと言うよりも神経を削ってくるような声を発しながら、汚染された鴉天狗は、被弾しながら弾幕を飛び抜けて行く。
身体中を穴だらけにしながらでも、お構い無し。弾幕をかわす気などは、やはり全く無いようだ。
 
 突然だった。
 汚染された鴉天狗が、また軌道を少し変えた。
 
霊夢達の方へと向く軌道だ。 
 一瞬、「自爆」という言葉が、射命丸の脳裏に浮かぶ。
 そのすぐ後、汚染された鴉天狗が、札と星屑の弾幕の層を飛び抜けて行くのが見えた。
 霊夢と魔理沙は構えつつも、僅かに後退した。
両者の距離は、至近になろうとしている。
 紙垂と札を手にして構える霊夢の表情は、冷静ではあるが、冷たい汗が頬を伝う。
ふっと鋭く息を吐いて、澄み切った朱色の光を薄く纏った。
その隣で、八卦炉を握り込みながら、もう片方の手を吊った鞄に突っ込んだまま、魔理沙が「悪ぃ!」と呟いた。

「ぬぅぁ!」
その両者の間に、割って入ったのは、弾幕を迂回していた男の鴉天狗だ。
抜き放った太刀を袈裟懸けに振るいながら、汚染された若い鴉天狗の前に陣取る。
一拍遅れて、射命丸が風を纏いつつ、横合いから突撃を掛けた。
霊夢と魔理沙も、刹那の間に完全に体制を整えている。
すぐにでも次の攻撃に出れる体勢だ。

射命丸達の動きが、守勢から一気に攻勢へと変わる。

多分その筈だった。

袈裟懸けに振るわれた太刀。
それは汚染された鴉天狗の右の肩口から腹までを叩き割った。
ぎらつく赤黒い液体や、内臓や骨の破片が飛び散って、夕焼け空に雨を降らせる。
しかし、汚染された若い鴉天狗は止まらない。
身体に刀身を埋め込んだまま、組み付きに掛かったのだ。
男の鴉天狗は、前のめりに刀を振り抜いて居たために、身を引くことも出来なかった。
それを引き剥がすために、既に突撃をかましていた射命丸が距離を詰めようとした。


 
心臓が凍りつくかと思った。
 
 
思わず動きを止めてしまった。

 

汚染された鴉天狗が組み付いた瞬間だった。
バキバキ、パリパリ、ピキピキピキ、と何か、何かの殻が破れるような音がした。
霊夢が口を押さえ、魔理沙は悲鳴を上げかけた。
二人も動けなかった。

汚染された若い鴉天狗の背中と首の、丁度中間辺りから、何かが出て来た。
見間違えるはずが無い。あれは、骨だ。いや、骨格と言って良い。
脱皮するみたいに、その背中から脊柱がせり上がって来たのだ。
刀でぶった切られた箇所は、既に再生して接合されていた。
黒く変色した背骨が、身体から出てくる。脊柱だけじゃない。
あばら骨、骨盤、肩甲骨、そして肉のズボンを脱ぐみたいに、脚の骨が顕わになる。
そして最後に、ヘルメットを外すように頭皮から頭蓋骨が出て来た。

とうとう全部出てきてしまった。
まるで着ぐるみを脱ぐように、あまりに呆気なく骨格全てが露出した。
「肉」と「骨」に分かれて、一人の鴉天狗が、二人になったような感じだ。

骨格には、その骨と骨、関節を繋ぐ最低限の肉がへばりついている。
あばら骨の内側では、心臓が鼓動を打っていたが、それ以外の臓器は無い。
残りの臓器は、血袋みたいになった「肉」の方に残っているようだ。

瞬く間に行われたその脱皮は、戦況を大きく変えた。

「肉」の方の身体に組み付かれた鴉天狗は、呆然とその光景を見上げていた。
 
「骨」の方の身体が、ガクガク震えながら射命丸の方へと向き直った。
 青黒い明滅がちらついた。
暗銀と青錆び色の金属繊維で編まれていく翼。
それが「骨」の身体に生えていくのは、其処から一秒も掛からなかった。
 頭蓋骨の中には、脳が見えている。
その頭蓋骨にはフラスコ蜘蛛がへばりついたままだ。
 フラスコ蜘蛛が青黒い灯火を纏い、ブルブルと震えている。
それに呼応して、ぼぅ、とその骨の隙間に青黒い光が灯った。
 

 離れろ、と叫んだのは、我に帰った男の鴉天狗だ。
 それが、射命丸に向けられたものなのか、場に居る全員に向けられたものなのかは、判断出来なかった。

だが、多分後者だ。
「肉」の方の体も、男の鴉天狗を拘束したまま、変質しつつある。
 いや、もう始まっていた。

 あの残り滓みたいな身体の、何処にそんな機能を残していたのか。
 「肉」の体の背中に出来た亀裂。その中から、赤黒い肉の管が無数に伸びて来たのだ。
 十や二十ではきかない。百か二百かでも無い。
千とか万とか、そんなレベルの数だ。いや、それで済むかどうかも微妙だ。
どんどん生えまくって、あっという間に「肉」の体は赤黒い毛むくじゃらの塊みたいになった。

其処に捕まっていた鴉天狗は、当然無事では済まなかった。
 男の鴉天狗の顔に、その肉の管が殺到した。くぐもった絶叫が夕焼けの空に響いた。

思わず霊夢と魔理沙は眼を背けてしまった。
その際だ。絶叫出来た事が不思議なくらい、口や鼻や耳や眼の中に管が侵入していくのが見えた。
これからどうなるのか。想像もしたくないが、その結果はすぐに分かる事になった。
激しく痙攣する男の鴉天狗の身体から、肉の管が伸びだしたのだ。
身体中の皮膚を突き破って、爆発するように周囲に飛び出した。
いや伸びる、というよりも、溢れ出して、うねりながら霊夢達に襲い掛かった。
肉の管の先端はやはりプラグのようになっていて、透明なジェル状の液体に覆われている。
 
 「う、ぁぁぁああああああっ!!」
射命丸は一瞬怯みかけたが、しかしそれよりも先に前に出た。
 知らずに、叫んでいた。
 苦しい。胸が。張り裂けそうだ。
 変わり果てた仲間の姿が、心の内に激情を起こしてくる。
 こんな無残な死に方をしなければならないのか。
 あまりに悲惨すぎて、逆に現実感が鈍る程、眼の前の同僚の亡骸は変わり果てている。
そして、敵として存在している。
惨過ぎるじゃないか。
悲しみと怒りがごちゃ混ぜになって、何も考えられなくなった。
 凄まじい勢いで伸びてくる肉の管が、視界一杯に広がる。
 自分がどうなるのかなんて、どうでも良くなった。
 助けられない。見る間に状況は変わって、一緒に居た同僚は皆死んでしまった。
 別の何かになってしまった。
 どうしろっていうのよ
思考が壊れかけた時、ガクンと首を掴まれた。
 息が止まって、気付いた。
腕だ。
腕で、首を抱えられるようにして掴まれている。
 バッカ野郎…ッ、突っ込んでいく奴があるかよ!
 声が、首の後ろで聞こえた。
 ついでに、ミシミシと腕の骨が軋むような音も聞こえた。

魔理沙だった。箒に跨るのでは無く、乗っている 
その状態で、左腕で八卦炉を構え、右腕で射命丸を捕まえていた。
 近いんだよクソ…!、と言った魔理沙の顔は、痛みに歪んでいる。
 突っ込もうとしていた射命丸を、無理矢理掴み止めたせいか。
 
 「こいつ等を“助ける”方法は一個しかねぇけど、ヤケクソになるのは駄目だ…!」
言いながら、魔理沙は射命丸を抱えて、すぐに回避の為に動いた。
 肉の管の群れが、本当に直ぐ其処まで来ている。
 その束目掛けて、八卦炉から極太のレーザーをぶっ放したのだ。
 虹色の光の帯が、一気に肉の管をなぎ払った。生物が焼け焦げる匂いがする。
 薄い煙が立ち込めた。その煙を裂いて、更に新しい肉の管が次から次へと迫ってくる。
魔理沙はそのまま急降下し、追いすがってくる肉の管を何とかまこうとしたが、肉管も其処まで遅い訳じゃ無い。
このままでは不味い。捕まる。

幻想郷最速タッグなんだ。…はやいとこ、あいつ等を止めてやろうぜ。
しかし、魔理沙は焦っていない。
高速で落下し、また螺旋状に回避飛行をしながら、いやに落ち着いた声で言う。
…ええ、と射命丸は頷いた。その表情は見えなかった。
だが、風が鳴る音に混じり、「手を貸してください…」と聞こえた。
強い意思の篭った言葉だった。
「頼りにしてるぜ」と返し、魔理沙は八卦炉を握り込み、右腕から力を抜いていく。
魔理沙は射命丸を離す序に、八卦炉を後方へと向けて、またレーザーをぶっ放した。




その様子を見てほっとする間も無い。
霊夢の方には、肉の管以外にも厄介な相手が居た。
フラスコ蜘蛛を頭に埋め込んだままの、骨格と臓器だけのゾンビだ。
 脊柱から生やされた暗銀と青錆色の翼は、十分な飛行速度を持っているようだ。
紙垂と弾幕で肉管を悉く払う霊夢も、かなり高速で空中を移動しているが、それについてくる。

骨格の身体は、特に武器らしいものを持ってはいない。
だが、執拗に霊夢を追ってくる。
捕まれば、多分、霊夢は霊夢で無くなるだろう。
頭に張り付いているフラスコ蜘蛛が、ジュルルルル…と、頭蓋骨の中に薬品を注入する不気味な音が聞こえた。

霊夢は歯噛みする。相手が普通の妖怪ならば、こんな苦戦はしない。
例え、もっと強い妖怪相手でも、まだ楽に戦えるだろう。
今まで味方だった者を、こうまで容赦無く変貌させられ、敵対することなど無かった。
調伏することも無かった。
射命丸の激昂ぶりも理解出来る気がした。

もしも、変貌させられたのが、魔理沙だったら。

肉管を紙垂で払い、弾幕を放ちながらではあったが、思考の隅にそんな考えが浮かんだ。
そして、唇を強く噛んで、フラスコ蜘蛛を睨み据える。
赦す訳に行かないわね…。
霊夢は紙垂を横一文字に薙いで、更に多数の札を展開する。
文言を唱え、その身に澄んだ朱色の光を纏う。
光は渦となって、紙垂を持っていない方の霊夢の掌の中に集まる。

それは界を結ぶ、朱の力線。
展開された札はその力に呼応し、結界を織り成し、肉の管全てを阻んだ。
 びしゃびしゃ、と結界に肉管がぶつかり、千切れ、潰れる音がした。

霊夢は様を冷静に見詰めながら、更に文言を唱え、片手で印を結ぶ。
陰陽図が模された無数の札は、それぞれが界を結び合い、解れの無い霊力の壁となる。
夕陽が刻まれた結界の帳を空に落とし、霊夢は一度瞬きをして、紙垂を振るった。

その結界の遥か向こう。
沈む陽が、ただ不吉に燃えていた。




[18231] 二十五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/07/12 23:04

 

沈みかけた夕陽が、里の町並みを茜色に染めている。
木造建築の並ぶ町並みには風情があり、その光景が夕焼けに染まる様は、思わず見入ってしまうほどに美しい。
人々の生活の息吹や、そこに宿る温もりが、自然と溶け合う瞬間だからこそだろう。
繰り返す日々の中で、もう数え切れないほど見てきた光景だ。
だが、見慣れ、見飽きるという事は決して無い。
ただ、美しいだけではない。愛おしい。

町並みを一度見回してから、自分を落ち着かせるように、上白沢慧音は緩く息を吐いた。

普段ならこの夕陽に燃える町並みを心行くまで満喫するのだが、今はそんな気分にはなれない。

それに、そんな場合でも無い。

冷静にならねばならない。心を乱してはいけない。
いつもと変わらない、茜色に染まる空。街道の景色。
まだ『日常』の面影を残す風景は、冷静さを強要してくれる。
有り難いと思うと同時に、いや、とも思う。
自分は落ち着いている。冷静だ。

そう思ってしまうほどに、胸中に燻る不安は、焦れったさと共に全身に廻っている。
もどかしい。

何が起こっているのか。
その全貌が見えて来ない。
だというのに、その輪郭だけは浮かび上がりつつある。それが何より不気味だ。
慧音は腕を組んで自分を抱くように、両の掌で、ぎゅっと自分の肘を掴む。
そうして、視線を再び町並みに巡らせた。

寺小屋の前の街道は、それなりに大きな通りで、並ぶ家屋の数もそれなりに多い。
家屋だけでなく、八百屋や米屋、それに酒屋なども見える。
それらの店も家屋は、もう戸を閉めてあった。
鴉の声がした。それがやけに虚しく、広く響いた。
普段ならば、買い物客や、遊び疲れた子供達の賑やかな声が聞こえている時間だ。
人通りも、いつもはそれなり在る頃の筈。

だが、今は大分様相が違う。
閑散としている。

街道に、子供の姿も買い物客の姿も全く無い。
その代わり、ぬるい夕風が、緊張り詰めた空気の中を吹き抜けていく。
慧音の視線の先では、少数の里の男達が、嫌に警戒した様子でうろついているのが見えた。
男達の手には、其々、鍬やら鋤やらが握られているし、ある者はドスを握っている。
刀を手にしている者も居るし、草刈り用の鎌を携えている者も居た。
男達の顔は、皆一様に不安そうで、せわしなく空を見上げたり、周囲の山に眼を凝らしたりしている。

慧音も、一度空へと視線を向けてから、眼を細めた。


男達も、今の慧音と同じような精神状態なのだろう。

じっとしているのが、辛いのだ。
慧音が自分の持つ力で、里の歴史を隠してから、それほど時間は経っていない。
それでも、もう随分長い時間に感じる。
緊張しているせいかもしれない。息苦しさを覚える。
追い詰められているような焦燥感は、拭えない。増すばかりだ。
当たり前か。




寺小屋の自室に、スキマを介して紫が現れた時。

慧音は、驚きはしなかった。
その神出鬼没は有名な話であったし、最近も、紫がこうして寺小屋へと訪れた事があったからだ。

だが、嫌な予感はしていた。
前の時は、確か大勢の機械人形達がこの里を襲おうとしていた時だ。
慧音の予感は的中した。

「暫くの間、また里を隠して頂戴…」
かなり真剣な声音でそう頼んで来た紫の貌は、酷く憔悴した様子だった。

顔色も悪く見えたが、それを悟られまいとするように、顔の下半分を扇子で隠していた。
幻想郷を守る為、かなり無理をしているのだろう事は、すぐに分かった。
慧音は、何か声を掛けようとしたが、余計な詮索をさせないように、紫は言葉を被せて来た。

また里に向かって、何かが近づいてきている事。
霊夢と魔理沙がその対処にあたって貰う事。
妖怪の山で、戦闘が行われつつある事。
戦闘は、大規模になるであろう事。
今起きている事態は、里の者達も傍観出来なくなりつつある事。

慧音は「自分も戦おう」と言った。
しかし、駄目よ、と首を横に振られてしまった。
「貴女以外、里の全てを隠し切れるひとは居ないのよ…。
でも、その気持ちは在り難く頂いておくわ」と、やけに優しい声で返された。
その時の紫の眼が、とても嬉しそうだったのが印象に残っている。


慧音は、その時の事を思い返し、軽く頭を振った。





戦いは、里の中に持ち込ませてはならない。

その為の歴史隠蔽だ。
だから、慧音は此処を離れられない。
戦いは、常に里の外でなければならない。

里の中まで入り込ませてしまえば、里に住まう者全てを守る事はかなり難しくなる。
というより、不可能に近い。
里に住まう人間の数は、決して少なくない。
逃がすだけでもそう簡単な話では無いし、それを守り切るとなると現実的では無いだろう。

慧音は、紫から話を聞いた後、里中を走って廻った。
里に、また何者かが迫っている。危険だから、決して家の外に出るな。

そう伝えて廻ったのだ。

一体、何が起ころうとしているのか。
今度は、何が里に来ようとしているのか。
これから、どうなるのか。

里の者達は一様に、怯えたような眼で、また、不安そうな貌で、慧音にそう問うて来た。
無理も無い。何が起こっているのかを知らなければ、心の準備すら出来ない。
それは慧音も同じだった。

慧音は紫から聞いた話の内容を、混乱を与えない範囲で里の者達に話した。

『外来の者が幻想郷に入り込み、暴れ回っているらしい。
 その外来の者が、此処へ向かっていると、妖怪の賢者が先程教えてくれたのだ。
だから、今は家に隠れているんだ』

慧音も必死だったので、はっきりとは覚えていない。
多分、そんな内容の話をしたのだと思う。
だが結果として、里の者達は、素直に慧音の言葉を信じて、従ってくれた。
いや、慧音の言葉だったからこそ、直ぐに信じて、動いてくれたのだろう。
普段からの慧音の人望、人徳の成せるわざだ。
それに、話の中に織り交ぜた『妖怪の賢者』という言葉も、大きく作用したのも間違い無い。
人里を、そして、幻想郷を守ろうとする紫の意思は、やはり里の者達にも伝わっている。
少なくとも、慧音にはそう思えた。

ただ、里を守ろうとしているのは、紫や慧音だけでは無い。
今、街道をうろついている男達もそうだ。
武器らしい武器を持っていないなりに、彼らは何か在れば戦うつもりでいる。
家族と故郷を守る為に、彼らは恐れながらも、有事の際に備えてくれている。

だからこそ、と、慧音は強く思う。
有事など、在ってはならない。
認めない。認められない。

唇を噛んで、紫の言葉を思い出す。
起きる全てに対処しようとして、紫は今、次元を裂いて奔走している。
幻想郷全土を守る為、紫は心血を注いでいる。
途方も無い労力を自らの「境界を操る程度の能力」で補い、強靭な精神力をすり減らしながら、この世界を見守り、戦っている。

誰も、紫の代わりなど務まらない。

ならば、と慧音は思う。私は里を守る。
そうして、紫が、今の事態に集中出来るようにするだけだ。
用心していて欲しい、と。紫は去り際にそう言っていた。

それは、十分に理解しているつもりだ。
歴史は完全に隠した筈だ。
油断はしていない。そう思っていた。
……顔色が悪いな…。
不意に。横合いから低い声を掛けられ、ビクリと肩を震わせてしまった。
うっ、と声を漏らしてしまったかもしれない。
全く気付かなかった。

隣に眼を向け、見上げると、凪いだ金色の眼に見下ろされていた。

ソル=バッドガイ。
寡黙な男だが、纏う雰囲気が独特で、不思議な貫禄というか、存在感がある。

少し前に幻想郷に現れ、今では博麗の神社に身を寄せているらしい。
その格好も、やはり幻想郷では珍しいものだ。
焦げ茶色の長めの髪を後ろで束ね、ゆったりとした赤と白の旅装束に身を包んでいる。
インナーには黒の肌着。腕全体を覆うような、黒のグローブ。
手には直線的なフォルムも持つ、無骨で、何処か歪な大剣。
かなりゴツめのブーツが鳴らす足音は、奇妙な程静かだ。
沈思黙考していた為に、寺小屋の中から出てくるソルに気付かなかったようだ。
ソルの足音も、その呼吸音も小さいせいで余計だ。
慧音は、そうかもしれんな…、と答えてから、ソルから視線を外した。

「神経過敏になっているからかもしれん…。
里全体もそうだが、この状況では気も休まらないからな」

難しい貌のまま言って、慧音は街道を見回した。

「……」
ソルは何も言わず、慧音の横顔をしばらく見詰めた。
それから、夕焼けに染まる山々へと視線を向けて、その金色の凪いだ眼を細める。

慧音は、横目でチラリとソルの様子を伺った。
不思議な男だ、と思う。







ソルを連れて来たのは、先程寺小屋に現れた紫だった。

慧音に、里を歴史隠蔽で隠すよう頼み終えた紫は「頼りにしているわ」と僅かに微笑んだ。
手にした扇子を緩く振るって、寺子屋に在る慧音の自室から、妖怪の山へとスキマを開いた。
その狭間へと消えて行こうとする紫と入れ違う形だった。

「彼にも、里に居て貰うわ。…仲良くしてね」。
そんな言葉が、聞こえた。紫のその言葉を理解する間も無かった。

無数の眼が覗くスキマから、無表情だが、何処か不機嫌そうな貌をして出て来たのが、ソルだった。

寺小屋に在る慧音の自室は、勿論のことだが土足は駄目だ。
だからだろう。ソルはブーツを履かず、手に持ったままスキマから出て来た。
その何処か不味そうな表情も相まって、思い出してみれば妙に滑稽な状況だったように思う。
ただ、それは思い出してみればの話だ。

実際は、かなり焦った。

戦える者を里に置くという事は、それだけ今の状況が危険だと言うことだ。
つまりそれは、「襲撃に備え、誰かを控えさせておきたい」という紫の意思表示。
其処まで事態は悪化しつつあるのか。
愕然と仕掛けた慧音の前で、スキマから慧音の自室へと踏み入れたソルが「…邪魔をする…」と頭を下げて来た。

慧音も、軽く自己紹介をしてから、すぐに紫に、というか、スキマの中へと声を掛けようとした。

「不安を煽るような真似をしてごめんなさいね…。
 でもこれはあくまで、念の為だから…。そこまで気を張らなくても大丈夫よ」

だがそれよりも先に、スキマから声を掛けられた。
その言葉を聞いた時、ソルの貌が僅かに歪んだのを、慧音は確かに見た。
それに、紫の声音は、何だか自分に言い聞かせているようでもある。
普段には在る、芯のようなものが感じられない声音だった。
慧音は結局、その違和感の正体に気付けなかったし、紫に声を掛けることも出来なかった。

ただ、去り際の紫は、スキマから顔を半分だけ覗かせて、目許を緩めて見せた。
疲れたような笑みだった。

……気を付けろよ…。
低い声で、ソルはスキマへと言葉を掛けていた。

ええ…、貴方もね。彼女をお願いするわ…。
スキマを閉じながら応えた紫の声は、もう真剣なものへと戻っていた。





あの短い遣り取りの中に、紫がソルへと向ける信頼のようなものも感じた。
それだけ、このソルという男が信用出来る者なのだろう。
でなければ、里に置こうなどとは紫も考えない筈だ。
ふと先程までのことを思い返していると、もう一度、緩い夕風が街道に吹いた。
寺小屋の前に立つ慧音の髪を、少しだけ揺らした。

ソルは黙したまま。慧音の隣で、沈む夕陽と黒々とした山の稜線を睨んでいる。
無感情な金の瞳には、冷静さと凶暴さが同居していて、沈思する姿にまで妙な迫力があった。
その眼差しに、不安を煽られなかったと言えば嘘になる。

「…里の歴史は隠した。問題は無い筈だ」
髪を押さえ、やや俯きながら、慧音は呟いた。

「以前も、無事に凌いだ…。紫だけでなく、霊夢や魔理沙も動いてくれている」
だから大丈夫だ。そう信じたい。

「今、私達に出来る事は…やはり、戦いが終わることを待つしかないのか…」
視線を地面に落として、確かめるように、言葉を紡ぐ。
何か出来ることがあれば、とも思うが、欲張っても碌な事にはならない。
独り言のように呟いた慧音の問いに、ソルは「…楽観的だな…」と低い声を漏らした。


「…此処が安全だと思う事は…致命的な欠陥になる…」
不意に聞こえた低い声に、慧音は僅かに息を呑む。
見れば、ソルが視線だけで、隣に立つ慧音を見ていた。

「…この里を隠す結界は…確かに強力だ…。…だが、何が起こるか分からん…」

ソルは低い声で言いながら、ゴキリ、と指を鳴らす。
熱風が吹いたような気がした。

ああ。…分かっている。答えながら、慧音は唾を飲み込んで、息を吐いた。

「だからこそ…万全を期す為に、紫自身が前線へと赴いた訳だしな…」

そして。
前線に赴いた紫の代わりに、ソルが人里で慧音を護っているのが、今の状況だ。

慧音の言葉には答えず、ソルは視線を外した。
その貌は、僅かだが不服そうだ。
ソルは眉間にも少し皺を寄せて、鼻から息を吐いた。

「…俺以外に…動かせる奴が居なかったからな…」

「じっとしているよりも、前に出て戦いたかったのか?」
ソルの声音は不満そうだったが、面倒臭がっている様子では無い。
戦えないから、不貞腐れている訳でも無い。
寧ろ、其処に見え隠れしている感情は、不安だろうか。
それも、慧音と同じの類のものに思えた。

慧音の問いに、ソルは首を緩く振った。
……向き不向きの話だ…。額に手をあてながら、ソルは呟く。

「…八雲に…お前を護れと謂われた…」

ぶっきらぼうなその言葉に、慧音は思わず、ほんの少しだけだが笑ってしまった。

「賢者に言われたから、仕方無しに私を護るような言い草だな」

ソルは答えない。
代わりに、逡巡するように視線を一度伏せた。
数秒の沈黙の後。ソルは、慧音へと向き直った。

「……俺は……戦う事しか能が無い…。
 …何かを護れなどと言われても…俺に出来る事など…高が知れている…」

金色の眼は、険しく細められている。

「……万が一の時…」
そこで言葉を切ったソルは、街道と、町並みに視線を巡らせた。

「…お前を護る為に…里の者達を、見殺しにする事になるかもしれん…」
そう言ったソルの声には、まるで感情を押し殺したかのように、全く抑揚が無かった。
冷徹なその言葉に、慧音は鳥肌が立つのを感じた。

つまりは、慧音一人を護るので、精一杯だと言いたいのか。

一瞬、慧音はそう思った。だが、多分違う。
ソルの声音には、抑揚こそ無いものの、薄情そうでは無かったからだ。
無表情な貌も、少し強張っているようにも見える。
無理に冷酷になろうとしているような、感情を理屈で押さえ込んでいるような貌だ。
普通の者なら見落としてしまうような、微かな表情の揺れだった。
だが、慧音は見過ごさなかった。

ソルという男の本心が、垣間見えた気がした。

「本気で言っているのか…」

だから、聞いた。
聞かれたソルは、息を吐きながら眼を閉じた。
二秒程してから、ゆっくりと開かれた金色の眼は、恐ろしい程無機質だった。
夕陽をそのまま閉じ込めたような黄昏色の瞳は、ただただ無慈悲だ。

「…八雲から聞いたが…お前は…
状況さえ揃えば、歴史を喰い…また創り出す事も出来るんだろう…」

「だったら…どうだと言うんだ」
慧音の声は震えていた。
ソルの眼が、余りにも恐ろしかったからだ。
しかし、眼は逸らさない。睨むように見据える。

「…観測する者が居なくなれば…歴史は…歴史で無くなる…」

慧音は黙って、ソルの言葉の先を待つ。
ゆっくりと瞬きをして、ソルは一呼吸置いて、それから、縦に裂けた瞳孔を更に細めて見せた。
流石に、慧音も怯んだ。

「…人里の歴史が…幻想郷の中で、更に『幻想』になれば…里が存在した事実が消える…」

だが、ソルは慧音の様子には気付かず、ただ、淡々と言葉を続ける。

「…お前が死ねば…もう『歴史』を掬い上げることは出来なくなる…。
 …だが、お前が生きていれば…」

ソルは手にした剣で、軽く地面を突き刺した。
それでも、微かに揺れを感じるような重い音がした。
慧音は少し驚いたような貌で、視線を落とす。
剣が差し込まれた地面では、土が抉れ、石と土屑が盛り上がっている。
ソルはその小山を、そっと剣の切っ先で掬った。
夕風に攫われたその土屑は、剣の切っ先からサラサラと零れて、落ちる。
その様子を見ながら、ソルは何かを堪えるよう、小さく息を漏らした。

「……この砂粒一つからでも…歴史を汲み上げていく事が出来る…」


知らず、慧音は拳を握り締めていた。
「その為なら、里の者を犠牲にしても良いと…お前は、そう言うのか」

慧音はソルの眼を見据えながら、唇を噛んだ。
これ以上話をしていると、自分が何を言い出すか分からない。
今も、ソルを怒鳴りつけようとして、何とかそれを飲み込んだ。

しかし、頭の中の冷静な部分で、ソルが言っている事を理解しているのも事実だった。

冷酷な言葉を紡いだソル自身も、僅かに貌を顰める。
……そうじゃない…。首を少しだけ横に振って、ソルは視線を落とした。
その仕種は、まるで慧音の視線から逃げるようでもあった。

「……必要な犠牲は…払う覚悟をしておいた方が良い…。…そう言っているんだ…」

慧音は、すぐには頷けなかった。必要な犠牲。その言葉に、胸が軋む。
ソルの声音にも、本当に微かにだが、憐れむような響きが混じった気がした。
そのせいかもしれない。
今度は慧音もソルから眼を逸らした。

「…この里全てを…歴史ごと納墓するよりは…幾らかマシだろう…」

反論しようとしても、何も言葉が出なかった。
心の何処かで、ソルの言葉を認めてしまっている。

違う。
認めない。認めたくない。
そんな事を考えてしまう自分が、ひどく間抜けに思えた。
だが、それでも。躊躇ってしまう。
足し算引き算で、里の人間達の命を測るような事は慧音には出来そうになかった。

だから。

このソルという男を、紫は此処に置いたのか。


ふと、そんな思考が頭を過ぎった。


幻想郷を守る為に、非情な決断が必要になった時。
慧音には出来ない黒い選択肢を、迷い無く、躊躇わず選べる者が必要になった時。
その時の為に。

いよいよとなれば、ソルは人里に流血を強いるだろう。

慧音は、ついさっき初めて会ったソルに会ったばかりだ。
彼がどんな思考をして、どんな行動を取る人間なのか。それは分からない。
しかし、ソルの凪いだ金色の眼は、強い意思よりも先に冷酷さを感じた。
それは今でも変わらない。

冗談や悪ふざけと言ったものとは無縁の瞳は、状況次第で迷わず里の者達を見捨てる。
その結果、生き残った里の者達の憎悪を、ソルは負うことになるだろう。
いや、死んだ者達からも、呪われるかもしれない。

だがそれは結局、誰かが負わねばならない負の感情と罪悪だ。
少を殺し、多くを生かす。もしも其処まで追い詰められた時。
慧音の代わりに里人を見捨て、憎悪を全部背負い込む為に。
生きている者、死んだ者の両方の怨恨が、慧音に降り懸らぬように。


紫が其処まで考えていたのかは定かでは無いが、そんな風に思えた。
…それに…そうならないように…八雲達が前線で戦っている…。
不意に聞こえたその低い声は、自身の無力さを思い知らされて来たかのような声だった。
自分自身を呪うかのようだ。慧音は思わず振り返った。

「……“最善”は尽くす……」

見れば、ソルは掌に視線を落としたまま。
その掌を握り締めて、ソルは眼を閉じた。そしてゆっくりと開いて、慧音を見た。
…終戦管理局の目的が何であれ…止めねばならん事に…変わりはない…。
気のせいかもしれないが、ほんの少しだけ、その険しい目許が緩んだように見えた。
悲しい眼だった。金色の眼が、今まで無機質だったせいで余計だ。

「…俺は…口が上手くない…。
…余計な不安を煽ったようなら…詫びる…」

ソルの纏う雰囲気が急に穏やかになって、慧音は少し驚いた。
眩しそうに眼を細めて、ソルは街道へと視線を向ける。
その眼は、積極的に里の者を見殺しにするような者の眼には見えなかった。
取り繕ったり、演技をしているようにも見えない。
何だか、無理矢理に冷酷非情になろうとして、失敗したような、そんな感じだ。

払わねばならない犠牲は払う。
だが、最善は尽くす、と、そう言ってくれている。
最初から里の者達を見捨てている訳では、決して無い。

慧音は、少しバツが悪そうに眼を伏せた。

「私も感情的になり過ぎたかもしれん…。すまない」

「……む……何故謝る…」
街道から慧音へと視線を戻したソルは、少し困ったような貌になった。
少しの驚きと、困惑のようなものが、その低い声音に滲んでいる。

「いや、私も早とちりしてしまったからな。非情な男かと思ってしまったが…」

慧音は、唇の端に少しだけ笑みを浮かべた。

「違ったようで安心したよ。私も最善を尽くす。
 だから…一人で何でもやろうとするのは無しだ。
 最善と言うなら…一人より二人で協力すべきだろう」

違うか?、と慧音は隣に立っているソルに向き直る。
眉間に皺を寄せて、ソルは言葉に困ったように「……そうだな…」とだけ呟いた。
それから、視線を慧音から外して、地面を見てから、また慧音を見て「…む…」と低く呻った。

それは、反応に困ったから呻ったのか。
それとも、背後から近づいて来る足音に気付いて、低い声を漏らしたのか。
どちらともつかない。

慧音も聞いた。
里の中では余り聴くことの無い、革ブーツの足音だ。

だから、慧音には、その足音の主が誰なのか、すぐに分かった。
纏う気配も、里に住まう者のそれとは少し違っているから、良く分かる。
それに、此処数日で顔を合わせる回数も多かったせいもあるだろう。

「あら、貴方も此処で待機、という訳かしら…。奇遇ね」

夕焼けに染まる街道には、人影はほとんど無い。
聞き慣れた声だった。ソルの背後からだ。
ソルは困ったような貌を更に困らせて、「……」無言まま、背後を振り返った。
慧音も身体を横にずらして、ソルの背後を覗き込むようにして視線を向ける。

其処に居たのは、良く知った顔だ。
人形使い。アリス・マーガトロイド。
そしてその隣には、稗田阿求の姿があった。

アリスは大きなトランクを右手に下げて、左腕にゴツイ画板のような本を抱えていた。
大の男でも重そうな代物だ。
涼しい貌でそれを抱えているアリスは、やはり魔術でその重量を弄っているだろう。
良く見れば、本自体が微かに微光を帯びている。

阿求の方は、ソルの風貌に僅かに怯んだのか。
「お、お初に御眼に掛かります…。稗田阿求と申します」と、小さな声で挨拶しながら会釈をした。

その時、ソルの眼がすっと細められた。
金色の瞳が、阿求の小さな身体を見据える。

「………稗田、というのは…お前か…」

静かに見据えられ、うっ…、と阿求は息を呑んだ。
そして、少し身を引いてしまった。
敵意や害意は宿っていなくても、ソルの眼には十分過ぎる迫力があるせいだ。

「え…あ、は、はい。そうですが、な、何か…」
阿求は少し上目遣いになって聞き返したが、ソルは暫く無言のままだった。
だが、すぐに首を横に降り、「…いや……」と呟いた。

「その様子だと“稗田の御阿礼”についての事も、既に知ってるみたいね…」
アリスはそのソルの様子を眺めながら、軽く息を吐いて見せた。

「…ああ…八雲から聞いた…」


“稗田の御阿礼”。
記憶を持ったまま転生し、この幻想郷の歴史を見守り、記し続けて来た者。
何世代にも渡り、記憶を受け渡しながら時の移り変りを観測してきた者。
儚い命と、その内に半永久の自我と意識を持つ者。

ソルの前に居る阿求という少女が、そうだった。

「やっぱり貴方も、紫の采配で此処に?」
ソルと慧音を交互に見てから、アリスは少しだけ肩を竦めて見せた。
だが、その表情は何処か真剣で、蒼い眼に宿る光も鋭い。

「…ああ…」

「その言い草からすると、そちらも…」

低い声で答えたソルと、得心が行ったような貌の慧音。
その二人に、ええ…、と答えて、アリスは緩く頷いた。

「少し前からね。里には結構顔を出してるわ。
…里の戦力増強の為らしいけど、私よりも適任な者なんて、いくらでもいそうだけどね」

苦笑を浮かべ、アリスは再び空の彼方へと視線向ける。
霊夢と魔理沙も出てるみたいだし…。
そう呟いたアリスは、ソルと慧音に向き直った。

「でも、ちょっとだけホッとしたわ…。
 戦闘になることを考えるなら、当然、私一人より慧音と一緒の方が良いしね。
 …ソルも居るなら、より心強いわ」

ふぅ、とアリスは息を吐いて、隣に居る阿求に視線を移した。
「やっぱり、此処に来て正解だったわね…」、と零したアリスの表情には、真剣さと緊張以外の何かが浮かんでいた。
多分、それは安堵だ。きっと、アリスも気を張り詰めていたのだろう。
持っていたトランクを地面に置いて、空いた手で首と肩の付け根辺りを揉んでいる。
「しかし、随分な念の入れ様よね…」
アリスは、ついと視線を彼方へと向けて、夕空と山の稜線を見遣った。

里から見える景色は、隠蔽結界の中にあっても大きな変化は無い。
慧音の歴史隠蔽は、あくまで隠すだけだ。
次元を歪めたりして、里を隔離している訳ではない。
夕陽は、昨日と変わらず街道を染めている。
隠蔽は、不穏と静穏を混ぜ込んで、街道に残響する日常の余韻は、不気味さを増していく。

その様子を見回してから、阿求は思案するように自分の顎に触れた。
外見の幼さには似つかわしくない、大人びたその表情だ。
阿求は俯けていた視線を上げて、慧音とソルを見比べる。

「慧音さんは、この隠蔽結界の楔そのものですし…。
状況もどう転ぶかわかりません。
紫さんも、慧音さんを孤立無援の状態に立たせたくなかったのでしょう」

アリスは、でしょうね…、と頷いた。
ふぅむ…、と不満そうに息を漏らしたのは慧音だ。
腕を組み、眉に皺を寄せて、口をへの字に曲げている。

「私はそんなに頼り無いか…」

「そうじゃなくて、無茶するな、って事」
その普段の慧音らしくない表情を見て、アリスは肩を竦めて見せた。
阿求も微苦笑を浮かべて、頷いている。

「放って置くと、慧音さんは頑張り過ぎちゃう人ですから…。
 だから、私達も慧音さんの様子を見に来たんです」

でも、その心配は無かったようですね。
そう阿求は呟いてから、ソルに視線を向け、僅かに笑みを浮かべた。

「……ぬ…」
ソルはやはり反応に困ったようで、短く呻っただけで、何も言わなかった。
阿求から視線を逸らし、ソルも口をへの字に曲げる。

その仕種を見て、アリスは少しだけ笑って、しかし、すぐに真剣な光を眼に宿した。

「私は“稗田の御阿礼”を護衛して、貴方は慧音を護る…。
 そして、迎撃に出るのは霊夢と魔理沙…。
今回は紫も、相当に護りを固めたいみたいね」

言ったアリスの視線は、また夕空の彼方へと向けられていた。

今現在。大規模な戦闘が行われているのは妖怪の山だ。
紫は、もう既に其処に向かい、事態を沈静化すべく動いていることだろう。
心配は無い。いや、そう思いたいだけかもしれない。
実際には、鬼と天狗との戦闘を掻い潜り、里に向かう何かが居るのも事実。

紫の対応は完全だ。
だが、相手はその完全に穴を開けてくる。
欠陥の無い処に、欠陥を造って来る。

保険としては、アリスとソル、そして慧音が人里に控えている。
隠蔽結界も張ってはいるが、実質の最終防衛ラインは、霊夢と魔理沙だ。
もしも、里が戦場になることになれば、里の者が皆無事で居られる事はまず無いだろう。

「それでは…、私は寺小屋の中に隠れているとします。
戦えぬ者が表に居たままでは、流石に、その…お邪魔でしょうし」

申し訳な無さそうに阿求は言って、しかし、すぐに唇の端に笑みを浮かべた。
そして、隣に立つアリスを見上げ、それから、ソルと慧音を順に視線を巡らせる。
きっと歴史は途絶えません…。
阿求のその言葉には、不思議な重みがあった。
それは、アリスや慧音や、此処には紫や霊夢、魔理沙を信頼しているからだろう。

「勿論だ…」
「私も、出来る努力を惜しむつもりは無いわ」

慧音とアリスも、目許を緩めて阿求に頷いて見せた。
ソルは何も言えないまま、阿求から眼を逸らした。









舞い上がる土埃の中、巨木の棍を力の限り振り下ろした入道は、その妙な手応えを感じた。
根は、間違い無く黒コートの男を捕らえた筈だ。しかし、手に残る感触は異様に硬い。
腕が痺れている事に気付くのに、少し時間が掛かった。
次に、血の匂い。足元に散らばる、仲間の妖怪達の死体。いや、残骸というべきか。
ちゃぷ…、と、血の波の音が微かに聞こえる。

土埃が薄れ、視界が明確になっていく。
「な―――…」その時、入道が何を言おうとしたのか。それは分からない。
だが、驚愕で言葉を失ったのは間違いない。

「悪いけど、僕もキミの事は眼中に無いんだ」

独特な抑揚のある低い声は、まったく動じていない。
嫌味なくらいに落ち着いている。黒コートの男は無傷だ。
振り下ろされた筈の巨木の棍棒が、届いていない。
何かに受け止められていたからだ。ギチギチギチギチ、と、金属の軋む音が響き渡った。
周囲の妖怪達の何人かが悲鳴を上げたのが聞こえた。

それは、蛇だった。
暗銀と青錆色の鱗と、装甲。胴の太さは入道と同じ位はある。
頭の部分も、普通の蛇とは違っていた。
眼は無く、口だけしかない。
その口も、上顎と下顎を噛み合わせるような口では無い。
頭自体がイソギンチャクのように筒状の口で、その周りには触手代わりの鋭い爪が並んでいる。
円形の口に並んだ歯は黄ばんでいて、粘液に塗れていた。
その口が、振り下ろされた棍棒を咥え込んで、受け止めていたのだ。
バキバキ、バキャッ…、と巨木の棍を少しずつ噛み砕きながら、蛇はその棍棒を押し返していく。

逃げろ。駆け出し、叫ぶ勇儀の声がした。
萃香も、すぐにそれに続いた。
紫はスキマを開こうとした。しかし、無理だった。
地面から新しく有刺鉄線が伸びて伸びて伸びまくって、スキマが拡がるのを許さない。
次から次へと絡み付いてくる。忌々しさよりも、強い焦りを紫は感じた。

青黒の微光の煙霧は、黒コートの男の周囲に広まり、浸透していく。
そうして出来上がりつつある暗銀色の土地は、明らかに紫を標的にしている。
紫を押さえ込む為に用意された処だ。

黒コートの男は、液体金属の塗膜で汚染することで、土地を武器にしつつある。
いや、武器というよりも、巨大な鋳造炉だ。
土地自体が、造形と命を与えられた機械生物を生み出している。
その命令を行うのは、男の法術だ。
『現実』を帯びた液鋼は、『幻想』の土地を病ませるだけではない。
この周囲一体は、既に黒コートの男がオーナーになりつつある。

それに、男が地面に沈み込ませた、先程の球状の端末が気に掛かる。
あれは何だ。この汚染された土地に、まだ何か手を加えようとしているのか。

紫が睨む視線の先で、黒コートの男はロボカイに何かを耳打ちした。
ロボカイは、驚いたように男から身を引いたが、すぐに頷いて、何かを唱え始めた。

何をする気なのかは分からない。
だが、させるものか。
紫も手にした傘で有刺鉄線を薙ぎ払い、弾幕で押し返して、前に出ようとした。

だが、この土地の意思はそれを簡単には許さない。
それに、紫だけを狙っている訳でも無い。
そこらじゅうに伸びまくった有刺鉄線は、入道や紫達の周囲に居た妖怪達をも襲う。
多分、それと同時か、直後だった。黒コートの男が何かを唱えた。
入道は、押し返される棍棒に力を込め、何とか踏ん張ろうとしたが無駄だった。
脈動する金属の泥濘から、別の大蛇の首が擡げられたからだ。
数は、ぱっと見では数え切れない。その蛇の群れが溢れ返り、入道に殺到した。

「ぐぅ、ぉ…おおおおおおお!!」
入道は絡みついてくる蛇を引き剥がそうとしてもがいたが、余りにも数が多い。
それに、姿を現してから襲って来るまでが速過ぎて、全く体勢を整えていなかった。
入道はもがきながら後ろに倒れこむ。
肉が引き裂かれ、骨が噛み砕かれる音が響く。
金属の蛇は、刺々しい装甲鱗で身を包んでいる。
そのせいで、ただ這い回るだけで、入道の身体をガリガリと削り、血を噴出させた。

まるで血の噴水のようになった入道の脇からも、蛇が湧き出してくる。
有刺鉄線の束と共に、迫る蛇の群れは、集まった妖怪達を怯ませた。
量の多さよりも、金属で象られた生命の異質さが、恐怖を煽る。

刃と棘と、装甲と鋼の津波と化して、蛇達は地を滑り、手当たり次第に襲い掛かった。
妖怪達の抵抗は、一瞬遅れた。怯みのせいだ。
その一瞬のせいで、多くの妖怪が瞬く間に肉塊に変えられ、血煙が暗銀の世界を染める。
蛇は妖怪を飲み込み、また装甲鱗で蹂躙し、尻尾で叩き潰していく。
有刺鉄線も、逃げようとする妖怪達に絡みつき、動きを奪うだけでなく、その四肢を刻む。

悲鳴。怒号。断末魔。
それらを聞きながらも、紫はまだ何とか冷静だった。
怒りで思考回路が焼き切れそうだが、我を失う訳にはいかない。

今、出来る事は何だ。紫は宙に浮きながら、視線を巡らせる。
すぐ近くだった。有刺鉄線が、逃げようとする妖怪達に迫ろうとしていた。
次いで、蛇も追って来ている。

妖怪達の退路を確保する為に、紫は弾幕を放つ。
苦無弾幕は有刺鉄線を押し返すが、蛇の装甲鱗には弾かれた。
何て頑丈な装甲だ。だが、破れない訳では無い。
紫はトン…と静かに着地すると同時に、鋭く息を吐いた。
そして、蛇と、逃げる妖怪達の間に一気に踏み込む。

丁度、鎌首を擡げた蛇が、その口だけの頭を振り下ろした時だった。
紫は下から上へと傘を振り上げつつ境界を操る。
操作された傘の軌跡は空間の刃を化して、蛇の頭と胴体の上半分を縦に真っ二つにした。
スキマが無くとも、紫は戦える。無音の斬撃。その威力は本物だ。
万能さや出鱈目さは失われても、境界操作の強力さは変わらない。

ズズゥン…、と蛇の巨体が地に落ちる。
それと同時に、また別の蛇が三匹、正面から、そして左右から来た。

傘を握る手に力を込めた。
紫はすっと前に出て、傘を上から下へ振り抜いた。
傘は蛇に触れていない。境界だ。
スキマまでも大きくない、細い空間の断層が、傘の軌跡に合わせて奔った。

断層は正面から来た蛇を縦に割断した。ビシャビシャッ、と蛇の体液が撒き散らされた。
その飛沫の中を、紫は傘を構え直し、左の蛇を斜めに、右の蛇を横に切り裂いた。
まるで、焼いたナイフでバターの塊を切ったみたいに、呆気無く蛇達は切り捨てられた。

紫は振り返り、「早く逃げなさいッ!」と叫んだ。
妖怪達は驚きの余りすっ転んで居たが、飛び上がった頷き、一目散に逃げ出した。



金床と化した地盤を踏み砕く音が轟き渡ったのは、多分その時だ。

「雄雄雄雄雄雄雄雄雄ォォ――――ッ!!!」

勇儀は吼えて、その蛇達の群れの中に飛び込んでいく。
曙光の如き鬼火を両拳に纏い、真っ直ぐに突っ込む。

蛇達はすぐさま反応した。ニ匹の蛇が勇儀に襲い掛かった。
だが、勇儀よりも先に、そのニ匹の蛇に肉薄する者が居た。

萃香だ。
身体を白い霧に変え、前へ前へと広がり、萃まる。
「邪魔するんじゃないよ…!」
それは一瞬の間だった。
ニ匹の蛇のうち、一匹の頭の横合いに姿を現した萃香は、蛇の胴へと手を伸ばす。
バキバキバキ、と硬い物が破られる音がした。
伸ばされた萃香の小さな腕が、蛇の装甲鱗をぶち破り、中身を引っ掴んだのだ。
そして、空中に陣取った萃香は、軽々と蛇を持ち上げて、グォンと振り被った。
襤褸布みたいに振り被られる蛇の巨体は、ミシミシ軋んで、今にも千切れ飛びそうだ。

だが、そうなる前に、萃香は自身の身体を巨大化させた。
地鳴りと地響きが同時に起こる。
先程の入道を遥かに凌ぐ巨大さになって、もう一匹の蛇をすかさず蹴飛ばした。
装甲の鱗が砕け散って、拉げて、飛散する。
降り注ぐ鉄片は地面を跳ねて硬い音を響かせた。
蹴り飛ばされた蛇は違う蛇を巻き込んで、塗膜に覆われた森の茂みをへし折りながら転がっていく。
乱戦にすらなっていなかった周囲の状況が、より一層混乱を極める。
だが、それで良い。一方的な虐殺になるよりは遥かにマシだ。
この隙に逃げる事の出来る妖怪も居るだろう。
逃げろ。
逃げてくれ。
鬼に金棒では無く、鬼に鉄鞭のような状態になった萃香は、吼えた。
戦況を見下ろして、今度は手に握ったままの蛇を棒切れみたいに振り回した。
有刺鉄線ごと、他の蛇を叩き潰し、薙ぎ払う。

勇儀が踏み込む際に、邪魔になる蛇や鉄線を無理矢理に退かして見せる。
鉄屑が舞い散る。轟音。金属の擦れる、甲高い音。
勇儀はその中を更に踏み込む。

二歩目。

その歩が指す方には、黒コートの男が佇んでいる。
何処まで冷静なのか。男は眉一つ動かさず、今の状況を観察していた。
異常だ。明らかに普通じゃない。
ロボカイの朗々とした詠唱が、微かにだが聞こえる。
電子音声で紡がれる文言は、空々しくも精緻で、奇妙な威圧感さえ感じさせた。

其処で、勇儀と男の眼が合った。
勇儀は歯を剥いて睨もうとしたが、出来なかった。

男が眼を逸らしたからだ。
いや、手元に視線を落とした、と言った方が正しい。
手には、掌大の板状の端末、そのディスプレイに親指を這わせ、何か操作している。
まるで、勇儀の行動を確認しただけのような、視線の動き。
その存在を問題にしていないかのような、予定調和を見る眼だった。


駄目だ。勇儀は思った。
コイツを生かして返すのは、駄目だ。
勇儀の拳に纏う、曙光にも似た鬼火が、その輝きを増して、更に燃え上がる。
ただ燃えるだけでなく、地を揺らすほどの力の脈動が響いた。
力は力を生む。その純粋な理論を叩きつける為に、勇儀は最後の三歩目を踏み出す。


萃香が、最後のダメ押しとばかりに、片腕で振り回していた大蛇を男目掛けて投げつけた。
序に、反対側の腕で、身に着けていた鎖をぶん回した。
だが、萃香の妖力も息切れしつつあるのか。其処で、萃香の身体が縮み始めたのだ。
そいでもギリギリ、何とか間に合った。
勇儀の眼の前に茂ろうとしていた有刺鉄線を、まだ巨大化していた鎖が払いのけた。
凄まじい音と、振動だった。鉄の粉塵が立ち込め、視界が灰色に染まる。
だが、関係無い。
勇儀はもう踏み込む寸前だ。

視界が悪くとも関係あるか。
ガキン、と勇儀が歯を噛み締めた瞬間だった。

危うく力が抜けそうになった。
濃い灰色をした鉄の煙霧に、すぅっと切れ目が入り、道が出来たのだ。

粉塵の中を貫く、一本のトンネルが出来上がっている。

「お願いするわ…!」

紫の、艶の在る凛とした声が聞こえた。
妖怪の賢者の境界操作は、まだ死んでいない。
傘を振るい、弾幕を放ち、蛇達を抑えながら、紫が叫んだのだ。
行動と能力を制御されて尚、有効な回答を用意して見せる辺りは、流石というべきだろう。
煙霧の層に開いたトンネルは、一種のスキマだ。

そのトンネルの先。
再び、勇儀と男の眼があった。
今度は、流石に男も、驚くというよりも、怪訝そうな貌を浮かべた。

其処を動くなよ。ぶん殴ってやる。

勇儀は歯を噛み締めたまま、地を蹴った。

間違いなく、その瞬間、山全体が揺れた。
最後の一歩で、勇儀は煙霧のトンネルを抜け、一気に男の眼前まで踏み込んだ。

拳に宿った鬼火が、黄金色の帯を引いている。

右脚を前に出しているが、地面の感触が妙に柔らかい。
理由はすぐに分かった。バッキバキに踏み砕いてしまっているからだ。
地盤は凹む、というよりも、そこだけ穴を掘り起こしたみたいに盛大に陥没している。

黒コートの男は、流石に驚いたようだ。
勇儀を凝視しながら、陥没した足場にバランスを崩している。

だが、ロボカイは膝を曲げ、前屈みになるだけで体勢を崩しては居ない。
手にした剣に、青稲妻が奔った。未だ漏れる、機械音声の詠唱。
ロボカイは勇儀を迎撃する気だ。

間に合うものか。
動こうとするロボカイを尻目に、勇儀は身体ごとぶつけるみたいにして、左拳を突き出す。

全身全霊を掛けた、三歩必殺だった。
ロボカイの迎撃など、全く間に合っていない。
体勢を崩しかけている男の顔面に、拳を叩き込んだ。
その筈だった。

だが、勇儀の拳は空振っていた。
驚愕と一緒に動揺が来て、今度は勇儀が体勢を崩しかけた。
その光景を見守っていた萃香や紫も、呆気に取られている。

何が起こったのか、理解が追いつかない。
放心状態になりかけて、気が遠くなりそうだった。
何だ。何をされた。拳が届く一瞬前までは、確かに男は居た。
それが、忽然と姿を消した。
転移術。そんな単語がチラッと脳裏を過ぎった。

だが、ボケッとしている間は無い。
ロボカイの纏う青稲妻のストロボが、勇儀に呆然とすること許さない。
もう眼の前だ。剣の刃を水平になるように構えている。
バリバリ、バッチバチと火花と電流が奔った。

勇儀は、未だ拳に燃える鬼火をそのままに、体勢を立て直す。
ついでに、身体を持ち上げるようにして、右拳で強烈なアッパーを繰り出した。
それと同時だ。
ロボカイも、剣を横一文字に振るい、巨大な雷撃の塊を勇儀目掛けて放散した。

拮抗は一瞬、在るか無いかだった。
鬼火を纏わせた勇儀の拳は、何の容赦も無く、雷と稲妻を捻じ伏せる。
視界が真っ白に焼きついて、靄が掛かったみたいになった。
爆音に近い音と、閃光も一瞬だった。

勇儀の拳が、雷の塊を爆散させた。
だが、まだ終わりじゃない。
ロボカイはバックステップで距離を離し、即座に剣を引き込むようにして構え、切っ先を勇儀に向けていた。
其処に、霧消しつつあった稲妻の束が収束し、長大な雷の刃を形成する。
とてつもない光の量だ。
くすんだ青白い閃光が、金属に染まった土地を染め上げる。

ロボカイはぐっと踏み込んで来て、稲妻を纏わせた雷の刃を突き出した。
それは刺突というよりも、ビームとかレーザー光線に近い。
エネルギーを凝縮させたチャージドライヴだった。

勇儀はしかし、退かない。動かない。
ロボカイと同じように、左拳を引き込み、“力”を溜める。
怪力乱心が、その左拳に宿る。
ふぅ、と静かに息を吐いて、勇儀はぐっと腰を落とし、拳を繰り出す。
それは、ただの正拳突き。
だが、その重みや破壊力は、激烈だった。

烈日の如き鬼火が燃え、雷の刃を正面から粉々に砕いたのだ。
稲妻混じりの暴風が吹き、鉄粉塵を巻き上げ、焼いていく。燃え上がる。
勇儀の拳と腕にも、裂傷が奔ってはいたが、そんなものはダメージにはならない。

血振るいするみたいに腕を振ってから、勇儀は再び両手の拳を握り固めた。

対峙するロボカイは、更にバックステップを踏んだ。
ギリギリで避けようとしたのだろう。
陽炎と影が差した。
萃香だ。勇儀を援護する形で、ロボカイの横合いから巨大な炎の塊を投げつけたのだ。

着弾した場所は、今までロボカイが立っていた処だ。
炎の塊は地面を覆う塗膜を溶かしながら、沸騰させ、噴火させた。
物凄い熱波を放ちながら、地に大穴を開けていく。
鉄が溶け、周囲の温度が一気に上がった。
焼けるように熱い風は、ロボカイの騎士服を嬲り、少しだけ焦がしている。

ひゅう、と、その熱風が切り裂かれるような音がした。
ロボカイのバックステップの着地を狙ったのは、紫だった。
苦無弾幕に合わせて、傘を振るう。
ロボカイは剣で弾幕を捌くことは出来たが、斬撃代わりの境界操作をかわし損ねた。

「ムゥゥ…!」ロボカイは呻き声を上げた。
硬い音を鳴らして、何かが地面に落ちる。それは、ロボカイの右腕だった。
剣を握った左腕は無事のようだが、これで勝負は付いた。
紫のコンビネーションを湛えるように、パチパチと拍手が聞こえたのはその時だった。

「これはお見事。…今の出力のロボを、此処まで抑えられるとは」

紫は眼を細めて、勇儀は歯を噛み締めた。
萃香は鼻を鳴らして、腕を組んだ。
その低い男の声は、ロボカイの首元から発せられている。
マイクから漏れるような罅割れた音は、熱せられた風に攫われて、かなり聞き取りづらい。
だが、周囲の静寂さが手伝って、何とか聞こえる。

湧き出してきた蛇は、もう全て破壊し尽くした。
妖怪達も、大方逃げ出しただろう。
とにかく、不気味な程静まり返っている。
「でも、残念だったね。今回は僕の勝ちだ」
その中に、男の低い声が再び響いた。

「突然逃げ出した腰抜けの台詞とは思えないね…」
勇儀は構えを解かないままロボカイをねめつけ、ボキボキと指を鳴らした。
その視線の先では、ロボカイも稲妻を纏い、剣を構えている。

「…再生か。つくづく厄介だねぇ…」
萃香は、ロボカイの切断された右腕を見詰めながら、顔を不味そうに顰めた。

既に、それは始まっていた。

ロボカイの腕の切断面から、細い繊維の束のようなものが生えて、地面に転がっている腕に伸びていた。
地面に転がっている方の腕の切断面からも、繊維状のものが伸びている。
それは互いに結び合って、重なり、折合わさって、縫われ、接合されていく。
のたうち、くねり、金属の皮膜で覆われ、細い稲妻を纏わせ、元通りになるのに、ものの数秒だった。

再生を止めようにも、ロボカイは左腕で未だに剣を構えている。
それだけじゃない。ロボカイの纏う電と稲妻が、より強大に膨れ上がっていく。
閃光を纏う様は、曇り鏡に映し出された、カイ=キスクの姿を思わせる。

法術を扱いこなす、生きた金属の身体は、明らかにまだ全力では無い。
まだまだ、纏う稲妻を猛狂わせようとしている。

「いや、もう良いよ。…そろそろ、こっちも準備が整う。切り上げよう」

だが。男の声が、踏み出そうとしたロボカイを止める。

「吾輩ハ足止メシナクテモ良イノカ…」

「構わないよ。それじゃ、こっちに召ぶよ」
その落ち着いた男の声に応え、ロボカイの姿が薄れ始める。


逃がすものか。
紫は傘を握る手に力を込め、そして、気付き、血の気が引いていくのを感じた。
強烈な悪寒。震えが、紫の身体を襲う。
気付けば「まさか…」と声を漏らしていた。

紫の代わりに、勇儀と萃香がロボカイに踊り掛かろうとした。
だが、ロボカイと紫達の間合いの中間辺りに、巨大な雷が落ちたのだ。
その一瞬前には、ロボカイが再生した右腕を、上から下へと振り下ろしていた。
身体が浮き上がるのを感じ、紫達は一歩後ずさった。
網膜を焼く閃光と、雷鳴。
明らかにそれは自然のものでは無く、法術が編み出したものだった。
その証拠に、落雷は、ロボカイの腕の動きに応えて落ちて来た。

そうだよ…。今までのは全部パフォーマンスさ。賢者様に出てきて貰う為のね…。
聞こえてきた男の声は、嗤っている訳でも、からかっている訳でもない。
ただ、事実を述べている。淡々とした口調だ。
それが余計に、紫の不安を煽った。

「この行動を思い付いたのは、本当に偶然だったけど…。
 コンバットトリックは常に仕込んでおくものだね。何とか上手く行ったよ」

「何言ってんだい…。尻尾巻いて逃げただけじゃ…」

苛立ったように、勇儀が舌を打った。
だが、勇儀も何かに気付いたようで、其処まで言ったところで表情を強張らせた。
汚染された鴉天狗が飛び立った方角へと向き直った萃香も、同様だった。
その表情が僅かに引き攣っている。


「僕が今、何処に居ると思う?」
男の言葉を聞いて、紫は咄嗟にスキマを開こうとした。
だが、出来ない。やはり、紫のスキマには、塗膜で汚染された土地が反応してくる。
青黒の微光を纏った有刺鉄線が、スキマを雁字搦めにしてしまう。
それどころか、スキマを縫い合わせてくる。


何故、あの黒コートの男は、コソコソと動きまわっていたのか。
探知結界に引っ掛かり、紫に見つからない為だ。
その為には、長距離を跳ぶ様な転移法術は使えない。
探知結界に間違いなく引っ掛かるからだ。
それに、一度紫が見つけてしまえば、何処に逃げようとスキマで追うことも出来る。
仮に、紫の前で元の次元に逃げ戻ろうとしたとしたならば、それは捕捉探知の対象だ。
終戦管理局の尻尾を掴むことも出来るチャンスであり、黒コートの男にとっては、もっとも避けたい事態だ。

だから、男はわざわざ徒歩で、この妖怪の山を登っていたのだ。


だが、もしも紫がスキマを使えない状態ならば。
転移法術を用いて紫から離脱し、捕捉探知される事の無い安全な場所から逃げ帰れる。
紫の追跡を振り切る事が出来る。


そして今。
紫は、この暗銀色の塗膜に覆われた土地に、捕縛されている状態だ。
この時点で男は既に、幻想郷側の抵抗を押し流しかねない程の、膨大なアドバンテージを得ていた事になる。
あの汚染された鴉天狗も、陽動に過ぎない。
里の隠蔽結界を発動させ、霊夢と魔理沙という、二枚のカードを押さえる為のフェイク。



実はね…。
男の声に応える心理的な余裕は、紫にはもうほとんど無くなっていた。
薄れていくロボカイの姿とは裏腹に、漏れて来る男の声はやけに良く聞こえる気がした。

「あの蟲達には、取り付いた生物を再構築する以外にも機能があってね。
 急送型の転移法術…その転送先を入力する端末装置の役割も果たすんだ。
 聖戦時代に考えられた古い転移法術だけど、入力先さえ在れば、例え何処だろうと転移させられるのが長所でね」
 
 嫌な予感は、男の言葉と共に、どんどん現実味を帯びていく。
 
 「結界法術が多用された戦場から、怪我人を転移させたりしてたみたいだけどねぇ。
  それが…今では、隠蔽結界の攻略に役立つんだから、皮肉というか何と言うか…」

もう間違いない。
 
 「蟲達は、既に里の中に侵入済みだったからね…。
後は転移するだけで、隠蔽結界の中に出ることが出来たよ。
上手い具合に、里の反応ごと蟲達の反応も消えたからね。
後は、跳べる状況を造るだけだったのさ…。悪いね、騙まし討ちみたいで」
 
あの黒コートの男は、今、人里に居る。


紫は、危うくその場に崩れ落ちそうになった。
眼の前が真っ暗になるのを感じた。
身体の感覚が鈍いような気がする。


ものの数秒の間に、一気に事態は最悪の方向へ突き進もうとしていた。


いや。眼を覚ませ。まだだ。
アドバンテージの差を埋めろ。
紫が自身を鼓舞するよりも先に、勇儀は踵を返していた。
黒コートの男を追うつもりなのだろう。勇儀の貌は、悔しさで歪んでいる。
 
消え、薄れてくロボカイの姿を半ば呆然と見詰めながら、紫も、血が出る程唇を噛んだ。

あっという間に、そのロボカイの姿は掻き消えて、跡形も無くなった。
 
立ち尽くしそうになるが、呆けている訳にもいかない。
 紫が唇の血を舐め取った時、ぐっと腕を掴まれた。
 小さくて力強い、それでいて、何処か縋るような手つきだった。
 視線を下げると、萃香が焦燥した貌で、紫を見上げていた。
 必死な眼つきだった。
 
「まだ追い付ける! スキマが使える処まで、此処から離れ―――」

萃香が紫の腕を引いて、其処まで言った時だった。

uuuuuuuuuuuuuuUUUUUUUUUUUUUUUUUuuuuuguugguguuguuguguugu…
鼓膜をすり抜け耳の奥まで入り込んできて、脳に染み込んでくるような音がした。
 しかも、かなりの大音量だ。音が身体にぶつかってくる。
 
その大音響と共に、ぼぅ…、と青黒の微光が金床の地に灯った。
銀塗膜で覆われた木々や地面が、ビリビリと震えている。
 
やたら生々しく響くせいで、音というよりも、声に近い。
怨嗟と、餌食を求める獣の呻り声を混ぜ込んだような、酷く粘着質な声だ。
何処から。紫がそう思ったのは一瞬だった。すぐに分かった。
足元からだ。ぶよぶよぐねぐねと蠢き、ぐにょんぐにょんとうねっている。
「何だ、こりゃあ!?」流石に、勇儀も足を止めて地面を凝視した。
塗膜と化していた液鋼が、まるでスライムのように柔らかく変質して、波打っていた。

だが、それは、水面の表面を揺らす漣でしかなかった。
鋼液の海と化しているこの一帯土地が、眼を覚ましつつある。
 起き上がろうとしている。
 
“あらゆるものには命が宿る。それを解かり易くしているに過ぎない”
 
黒コートの男は言っていた。
その通りだった。
uuuuuuuuuuuuuuguugoooooooooOOOOOOOOOOOOOOOOOOoooooo…。
 産声を上げる金属の大地は、鋼液を吹き上げ、盛り上がり、何かを象り始める。
 その中により強く青黒の微光を漏らしながら、周囲の鋼液に干渉している球状のものがあった。
 先程、男が地面に沈めた端末だ。それは法力の脈動を放っていた。
まるで、それは心臓だった。
血液代わりに法力を供給し、循環させる為の器官になろうとしている。
脈動は更に深く、大きく刻まれ、不穏な蠕動で液鋼は応えている。
盛り上がり、蠢き、形を取ろうとする金属の大地に、青黒の法術陣を浮かび上がらせた。

突然だった。
球状の端末が、再び地面にごとりと落ちて、その法術陣の中に飲み込まれて行った。

紫や萃香、勇儀はその場から飛び離れた。途轍もなく危険な予感がしたからだ。
だが、土地が変質していく規模が巨大過ぎて、もはや間合いに危険も安全も無い。

間合い等と言う概念が、馬鹿らしくなる程広域だ。
だが、それでも離れざるを得ない危険さを、その球状端末の心臓は放っていた。
脈は更に強まり、地面が揺れて、違うものに変わっていく。

 

 
 
 液鋼の海と化した地面に法術陣が描かれ、その陣の中心から有刺鉄線が吹き荒れまくった。
 紫達は身構えたが、鉄線が襲ってくる事は無かった。
代わりに、陣の周囲の地面に突き刺さったり、銀色になった木々にどんどん絡み付いていく。

鉄線と青黒の煙霧を吐き出しながら、法術陣は更に広がる。
拡がって、更に大きくなる。そうして、その中心に黒々とした大穴を開いた。
がっちりと束になった有刺鉄線は、大穴の底の方まで続いている。
ギシギシギシギチギチと、金属繊維の軋む音が響く。
鉄線の束は、まるで何かを陣の中から引き上げようとしているかのようだった。

実際、そうだった。
距離を取った紫達の眼の前で、とうとうそれは姿を現した。

Uuuuu,uuuauauua…aaaaaAAAHHHHHHHHHHHHHHH―――。

赤ん坊だった。
 まず見えたのは、大きな頭と、丸みのある腕だった。何て大きさだ。
肌は光沢の殆ど無い、不気味な青黒の金属で、表面からはボトボトと鋼液が滴っている。
だが、それをぱっと見で『金属』と判断出来る者は、多分居ないだろう。
余りに生々し過ぎるからだ。
赤ん坊の肌は光沢がなく、その暗い色と濡れた鋼液の所為で、腐肉を思わせる。
滴る液鋼はさながら腐った血だ。
 
更に言えば、その肌には、と言うか、赤ん坊の身体中に有刺鉄線が絡みついている。
それが、ガリガリと赤ん坊の青黒い肌を削り、食い込んでいた。
底からも更に液鋼が溢れて、噴出して、地面を汚している。

耐え難い程におぞましい光景だった。

紫は眼を逸らしてしまいそうになったが、身体が上手く動かない。
 赤ん坊の顔だ。目玉も、鼻も、口も無い。
 無数の細かい穴が空いているだけだ。もはや、顔というのにも無理がある。
それでも、生きている。
生気が宿っている。

勇儀と萃香も、驚愕するよりも先に後ずさった。
 
 
 その間にも、赤ん坊は、有刺鉄線に引き摺り上げられ、法術陣の中から完全に出て来た。
UUUuuuuuuu―――aaaaaahhhuuuuu―――。
その泣き声は、やはり肉声に近い。造物の出す音とは思えない。
呆然と、紫はそんな事を思った。
引き摺り出された際に、体中に有刺鉄線が食い込んで、赤ん坊の身体はグスグスだった。
 
 下半身は、まだ完全にはその形を形成出来ていない。
 右脚はかろうじて人間の脚の形をしているが、本来左脚が生えている場所からは、無数の触手がのたうっている。
 脇腹の辺りからも、何か管のようなものがはみ出していて、ずるずる引き摺ったままだ。
有刺鉄線と擦れ合って、金属が削れる音が響いてくる。

痛みからか、赤ん坊は身を捩じらせて泣き喚く。
 泣きながら、まるで母親を探すように、ゆっくりと頭を左右に動かした。
穴だらけの顔で、赤ん坊は紫達を見た。
 
いや、正確には紫だ。不意に泣き止んだ。
そして、その顔の表面を不気味に波打たせた。

笑ったのかもしれない。
 
紫は、自分の肌が泡立つのを感じた。
 

 あの赤ん坊は、もともとはただの土だったのだ。
召還された訳でも無い。此処で誕生した、確かな生命だ。
 それが、既に感情を持ち、機嫌の良し悪しさえある。
 あの黒コートの男は、金属にただ命を鋳込むだけでなく、生命に深みを与えることも出来るのか。
 
Uuuuuu――――、aaahhhhhh――――。
 紫が、半ば唖然と見上げている間にも、赤ん坊はのしのしと動き始めていた。
 ぎこちないハイハイだったが、その体躯の巨大さは相当なものだ。
 ただ動いているだけで、十分過ぎる脅威になる。
 何せ、先程の大蛇が可愛く見える大きさだ。
 
 それが、紫に向かってくる。
身体が巨大な所為で、動き自体は遅く見えるのに、迫ってくる速度が異様に速い。

Maaaaaaannnnnnmmmmaaaahhhhhhhhh―――。

この赤ん坊の呼び声は、聞く者の精神状態を一瞬で恐慌状態に陥れるだろう。
 実際に、傘を構えようとしていた紫から、平静が吹き飛びかけた。
視界がブレて、耳鳴りと眩暈が同時に来た。

「胸糞悪いったら無いねぇ…」

しかし、何とか冷静さを維持出来たのは、隣から声がしたからだ。
勇儀だった。再び鬼火を拳に纏わせて、首と拳をゴキゴキと鳴らしている。

「ああ…。被害が広がる前に、とっととこの置き土産を叩き潰そう」
萃香も身体の半分ほどを白い霧状にさせ、赤ん坊を睨んでいる。
ただ、その貌には若干の疲労が見えた。
ミッシングパワーの連発に、ロボカイなどから受けたダメージ。
それらを考えれば、もっとも消耗しているのは萃香だろう。
だが、未だ闘志は折れていない。

それが、声に篭っていた。
赤ん坊の声は、聞く者の心を腐らせへし折る。

だが、鬼の声は、聞く者の心を燃やす。焚き付け、奮い立たせてくれる。

そうだ。立ち止まってる場合では無い。
さっさと片付けて、里に向かわねばならない。
紫は一つ息を吐いて、正面から迫って来る赤ん坊を睨みつける。

「貴方の母親になった覚えは無いわね…」
呟きながら、スキマを開けるかどうかも試してみたが、やはり無駄だ。
今度は土地では無く、あの赤ん坊自体が、境界操作を妨害する磁波のようなものを放散している。
紫の能力を阻害している有刺鉄線は、赤ん坊が近づくにつれて、より強固になりつつある。

やる事は結局、変わらない。
いま、生れ落ちたこの命を奪って、この土地の束縛から逃れる。
そうして、里へ行かねばならない。

夕闇は、更に深みを増している。
だが、恐怖に近い感情と、戸惑いは薄らいでいた。

紫、勇儀、萃香が臨戦態勢を取った時だった。


信じられなかった。

声。いや、雄叫びが、彼方から聞こえて来た。
ついでに、地を踏み鳴らす、力強い足音。何重にも重なり合っている。
地面が揺れ、空気に振るえが伝わってくる。

雪混じりの風が吹いたのも、丁度その時だ。
まるで雪原を吹き渡るような、澄み切った冷たい風だった。
澱んだこの金属塗膜の景色の中。
濁りの無い風に乗って、鈴の音が聞こえた。

「悪いねぇ…。皆の手当てしてたら、遅れちまった」


紫も、勇儀も、萃香も、意表を突かれた。

彼は銀塗膜の茂みから、音も無く駆け込んで来た。
白い着流しに、朱色の紋が刻まれた、白い肌。
白い頭髪からは狐耳が生え、九枚の札を模した髪飾りが揺れている。
稲穂の簪が、僅かに差し込む夕陽を反射していた。

リリィ――――……ン、と、鈴がまた鳴った。


戦場では、誰か一人が逃げ出すことで、風向きが変わり始める。
逆に言えば、誰か一人が勇猛に立ち向かえば、それも風向きを変え得る。
彼は、一人だけでなく、逃げ散った妖怪達を手当てし、共にこの場に来てくれた。


イズナ。
異界の付喪神は、この戦況に、大きな風向きの変化を齎そうとしていた。
 
 
 
 



[18231] 二十六話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/08/09 23:15

 
こんなに緊迫して、団結して、闘志が充溢した妖怪の群れを、今まで見たことが無い。
百鬼夜行、という言葉があるが、今のこの状況は正にそれだ。

薄暗がりになりつつある木々の茂みを掻き分ける、殺気と害意を漲らせた物の怪の波。

群集となった妖怪達の中に、無言のままの者は居ない。
ある妖怪は、自分を鼓舞するように吼え猛っている。
また、ある妖怪は、念仏のように何かを唱えながら、妖術の微光を纏わせながら歩を進めている。
仲間の名を呼ぶ者。
殺せ、殺せ、喰え、喰え、と煽る者。
行く手を遮る木々を殴ったりして、自分を奮い立たせる者。
とにかく騒がしくして、恐怖という感情を追い払い、自分達を酔わせようとしている。
低い山鳴りと共にその喊声は響き渡り、妖怪達の心を更に猛らせた。

残響するその妖怪達の声は、巨大な激情の坩堝となって、妖怪の山を包む。
激情は混じり合い、一つになる。

沈む陽と共に、妖怪達の精神は燃え上がる。
その熱は、他の妖怪達に伝播し合い、際限なく高まっていく。
半ば狂乱に近い激情にあてあれ、この百鬼夜行に加わろうとする者がどんどん出て来た。
動物的本能に従うことしか出来ないような、獣に近い下等な妖怪の姿も多数見える。

それを拒む妖怪は、一人も居ない。
ただ、暗がりの森の中、新たな異形の影が群れを成すだけだ。


他者を、此処まで振るい立たせる事が出来るものなのか…。
百鬼夜行というには、余りに熱狂的で、積極的で、破壊的な群れ。
それを見下ろしながら、藍は呟いた。

夜行に混じる彼らの多くは先程、勇儀や萃香、紫達が戦っている処から逃げ出して来た者達だった。

大怪我を追った者から、戦意喪失のあまりに忘我状態の者、恐怖から泣き喚く者。
敗残し、壊走してきた彼らの様は、もう再起不能の状態だった。その筈だ。
少なくとも、藍が妖怪の山に駆けつけた時には、そうだった。

もう戦闘は敗北色が濃厚で、妖怪達はこの住処から放逐されようとしていた。

藍は、正直言ってどうすれば良いのか分からなかった。
いや、何処から手を付ければいいのか分からなかった、と言う方が正しいかもしれない。

それに、相手は、終戦管理局とは、一体何者なのか。
藍は、逡巡して身体が強張るのを感じた
主である紫と、鬼の二人が共同で戦線を張って尚、妖怪の群れが敗走した。
眼の前に在るその事実が、終戦管理局の得体の知れ無さを物語っていた。

消耗し切った様子の妖怪達を見ても、それは窺い知ることが出来る。
怪我をした者を含め、打ちのめされ切った妖怪達は、消滅の危機にあった。
彼らの心が、死のうとしている。


妖怪の賢者の式として、藍は迷った。
妖怪の山は、半ば崩壊の中にあった。
その中で、彼らの治療を優先すべきか。
それとも、主の元へ馳せるべきか。
どちらのカバーに入れば良いのか。すぐには判断出来なかった。
主人である紫は、藍がどちらを選ぶのを望んでいるのか。

そんな事を基準にしてしまいそうな程、混乱と焦燥が藍の思考を鈍らせた。
ぐずぐずしている場合でも無いのに、迷ってしまった。

夕闇の中、妖怪達の呻きと嘆き、血の匂いに塗れて、藍は立ち尽くし掛けた。
だが、迷う時間は、ほんの僅かの間で済んだ。

彼が一人の河童と共に現れたからだ。
名は、イズナと言った筈だ。
彼は憔悴した様子の藍の貌と、周囲の惨状を見比べ、すぐに動いた。
彼は永遠亭に控えていると聞いていたが、何故此処に居るのか。
それでも、彼が此処に居てくれたことには感謝すべきだった。

「こりゃあ…、オイ! しっかりせんかいな!」
イズナは永遠亭の薬と、見慣れない術式を用いて、妖怪達をすぐに治療しに掛かった。
その必死な姿には、以前、博麗神社で見た時のような、ぬぼーっとした雰囲気は全く無い。
河童―――河城にとりも、イズナに続き、妖怪達の手当てに加わった。


藍は頭を振って、自分を叱咤する。
今、必要なのは、広い視野では無い。
死に絶えようとする妖怪の群れを癒すことだ。
藍も、紫の元に向かう前に、此処に居る妖怪達に治療を施す事を選んだ。
それは、主人である紫と、此処に居る妖怪達の命を天秤に掛けた訳では無い。

どちらかを選ぶのでは無い。出来る事は全てやるだけだ。
主人が逃がそうとした、護ろうとした者達を癒す。その上で、主人と共に戦う。
まず今出来ることが、眼の前にある。それだけだった。


藍も加わり、妖怪達への施術は、より高度なものになった。
それらは応急手当に過ぎないが、するかしないかでは、全く違う。
肉体自体が強靭な妖怪にとっては、応急手当だけで動けるまでに回復する者も多かった。
飲み薬、軟膏、湿布など、八意印の薬品は、妖怪向けに調合されていた。
御蔭でどれも効果が高く、応急であっても、十分な治療効果のあるものばかりだった。

傷が癒され、気力も戻りつつある妖怪達の中には、外来の者であるイズナの事を、悪意の篭った目で見る者も居た。

触るな余所者! 妖怪の誰かが言った。
山から出て行け! また、別の妖怪が叫んだ。
そうだ、山から下りろ! 違う妖怪が、その怒声に続いた。

つい先程まで、外来の者と対峙し、手酷くやられたからか。
八つ当たりとは言え、それらの言葉には十分な敵意が伺えた。

余所者。
その言葉に、今まで大人しく手当てを受けていた妖怪達の眼にも、猜疑の色が浮かぶ。
妖怪の群れの視線は、明らかに険しくなり、それはイズナを迫害する寸前の眼だった。
黒い感情が、夕闇の茂みに渦を巻き始める。
その様子を見守っていたにとりは、あまりの剣幕にうっ、と息を呑む。

「貴様ら…! 助けて貰ってその言い草は…!」
藍は声を荒げかけたが、不意に響いた鈴の音が、それを止めた。
まるでこの場の空気を浄化してしまうような、その澄んだ鈴の音に、誰もが視線を向けた。
イズナは全く怯んでいなかった。
刺す様な敵意の視線を平然と受け止めながら、ふぅむ…、と顎を手で擦って見せた。

他所者…ねぇ…。
呟くように言ったイズナは、腰から刀をすぅっと抜いたのだ。
妖怪達は、皆一様にその身を引いていた。
普段はのんびりした雰囲気で、周囲の空気を和ませるイズナだが、今の凪いだ貌には、見る者を圧倒する存在感がある

イズナは切っ先を地面に向け、くるりと円を描いた。
低く渋い声で朗々と法術を詠唱し、その声に合わせ、白い雪風が吹き渡っていく。
冷たくも澄んだ風に、白い着流しが揺れる。
描かれた円に法術陣が浮かび上がり、淡く優しい山吹色の光が溢れた。
イズナは柄を逆手に持ち代え、描いた陣円の中心に、すっと切っ先を沿えるようにして触れる。

その瞬間だった。山吹色の光の波が、山全体に染み渡っていくように広がったのだ。
光の漣は、木々を縫い、地表を覆い、妖怪達に体にも染み渡っていく。
生気を与える山吹の風は、敵も味方も無く、優しく包み込んで、癒し、ぬくもりをくれる、
おお…、と感嘆の声を漏らした者は、一人や二人ではなかった。

天人菊。
それは、イズナの持つ、回復と霊気を司る法術だった。

確かに、オイは他所モンかもしれんね…。
緩く優しい山吹の風の中、イズナは少し寂しげに呟きながら、抜いた刀を鞘に納めた。

「仲良しこよし、って訳じゃ無いけど…オイは幻想郷の皆の事、友達みたいに思っとるよ」

ゆっくりと周囲を見渡したイズナは、少しだけ唇を笑みの形に歪めた。
朱色にも黒にも見える眼も、柔らかく細められている。
今の追い詰められた状況で、損得も打算も無く、イズナは自然体で微笑んだ。
見る者を安心させるような笑みだった。

藍は、その微笑みに惹きつけられるのを感じた。

イズナは、まだ仲間として戦おうとしてくれている。
その事に対する、それは、ある種の希望のようなものかもしれない。
それに、イズナ自身に、紫とはまた違う種類のカリスマのようなものも感じた。

「さて…、ほいじゃ、オイも行くとしますかねぇ」

藍がイズナに声を掛けようとした時には、イズナは既に背を向け、妖怪達が逃げてきた方へと向き直っていた。

aaaaaaaaaaaaaaaAAHHHHHHHHHHHHHHhhhhhhh――――。

怖気が走るような声が聞こえて来たのは、丁度その時だった。
木々と枝葉が、ビリビリと震える程の大音声。
それでいて、聞く者の心をへし折るような、呪われそうな声音だ。
いや、もう妖怪の山は、この声そのものに飲まれてしまうのではないか。
そう思わせるだけの、危険さや忌まわしさを感じさせる声だった。

悲鳴を上げる者。耳を塞ぐ者。頭を抱える者も居た。

一体何が居るんだ。藍の頬に、冷たい汗が伝う。
にとりは、へなへなと尻餅を付きかけたが、何とか堪えていた。


「…喧嘩は下手なんだけどねぇ」
その大声がした方へ、イズナは歩み出した。
怯えも怯みも全く感じさせない、不思議と軽い足取りだった。

皆、その静かな背中を見詰めていた。

妖怪達の視線に気付いていたのかどうかは分からない。
だが、ふっとイズナは肩越しに妖怪達を振り返り、その目許を緩めて見せた。

「友達が困ってんなら、助けたいって思うでしょ…。
 余所者なりにけっぱるさけ、もうちっとだけ山に居させて貰えんかね」

場にそぐわない穏やかで、柔らかな物腰のイズナの貌は、やはり少しだけ寂しそうだった。
ただその声音はとても真摯で、それがただの軽口で無い事は、この場に居るだれもが感じただろう。

再び、静寂。地鳴り。声。

「ほいじゃあね。ちょっくら行ってくるよ」
誰に言うでも無く言って、イズナは腰に佩いた刀の柄に手を掛ける。
そうして、くるりと踵を返すと、妖怪達からの言葉も待たず、イズナは姿勢を前に傾け、静かに駆け出した。

チリリィ―――…ン、と澄んだ鈴の音が残された。

白い雪風と化したイズナは、木々の合間と夕闇の中に滑り込んでいった。
逃げ出した訳では決して無い。
イズナは一人で戦場に向かおうとしている。

鈴の音と共に残された妖怪達は、互いに顔を見合わせ、歯噛みした。
妖怪達は、未だ恐怖に囚われたままで、すぐにイズナの背を負うことが出来なかった。
先程イズナが行使した法術・天人菊の御蔭で、妖怪達の体は癒え、体力自体は大きく回復している。
しかし、それが自分達が感じる不甲斐無さに拍車を掛けていた。
暗がりに薄れていく鈴の音は、木々の枝葉の揺れる音に消され、もう聞こえなくなった。


微かな血の匂いと、静穏だけが残った森の中。
藍はふわりと宙に浮き上がり、イズナの走り去った方へと身体を向けた。
暗い森から、ごう、と風が吹いてくるのを感じた。
濁った不穏な風は、異様な威圧感を混じらせ、戦慄を誘う。
AaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHhhhhhhhh――――。
再び聞こえた大声に、藍は歯噛みする。怯んでいる場合では無い。

「妖怪の山は、私達の故郷だからね…」
不意に、少し震えた声が聞こえた。
その鈴の音を追おうとしている者が、藍以外にも一人だけ居たのだ。

にとりだった。

にとりは言いながら、緑色のキャップを深く被り、リュックを担ぎ直した。
それから深呼吸して、周囲に居る妖怪達を見渡す。

「私は…イズナのおいちゃんに続くよ。
 無理と邪魔しない程度に頑張らなきゃ、きっと後悔すると思うからね」

にとりの言葉は、やはり少し震えていた。だが、其処には強い意志が伺えた。
その決意が伝わったのか。

妖怪達の中で、呻き声のようなものが上がった。
やられたままでは終われない。
何かを決心したように頷くものも居た。
逃げてきた方角へ振り返る者も居れば、再び拳を握り固めている者もいる。

「紫様の力になってくれるのか…」

藍は、真剣な貌で、にとりに視線を向ける。だが、その声音は嬉しそうだった。
まだ危機に立ち向かおうとしてくれる者が居る。
紫を助けようとしてくれる者が居る事は、大きな救いだ。

にとりは藍の言葉に頷く。
「役に立たなかったら、その、申し訳無いけど…」と、少し気まずげに眼を逸らした。
そんな事は無い、と藍は首を振り、礼を述べた。
そして、共にイズナが走り去った方角へと向き直る。

その時だった。
uuuuuuuuUUUUUUUUUUUUUUUU―――。また声が聞こえて来た。
今度の声は先程のものよりも、より生々しい声だった。

だが、その大声を掻き消さんばかりに、妖怪達の群れの中からも、一つ咆哮が上がった。
己を振り立たせる為の、狂乱の色を帯びた咆哮だ。

それが切っ掛けだった。

顔を見合わせ、気まずそうに、或いは悔しげに唇を噛んでいた妖怪達だったが、その咆哮を聞き、また誰かが雄叫びを上げた。
負けじと、また別の妖怪が続き、それは次々と連鎖して、熱狂の渦へと変わっていく。

重なり合いながら木霊する咆哮は、藍と、にとりの心を揺さぶった。
飲み込まれるような熱気に、危うく浮かされそうになる。
傷つき、心折られた者達の眼に、再び闘志が灯った。
太陽は沈み、妖怪達の心は燃え上がる。


自らの故郷を守ろうとする意思に、人間も妖怪も無い。
憩い休む場所でもあり、守らねばならないものであることに変わりは無い。


そうして、今。
百鬼夜行と化した妖怪達は、紫達の下へと辿りつきつつある。

群れの先には、巨大な赤ん坊の姿が見える。
青黒の光沢の無い、金属の肌。肉。
血のように身体から滴る鋼液。全身から生えまくり、自身に絡みつく有刺鉄線の束。
無数の細かな穴が空いた、眼も口も鼻も無い貌。
アレを赤ん坊と呼ぶのは、言語的に無理があるかもしれない。
だが、確かにアレは生まれ、生きていて、他者を呪うかのような産声を上げている。

怯むんじゃねぇ! やれ! やっちまえ! 
血を! 血を! 殺せ! 殺せ!
もたもたすんな! 行け! 行け!

妖怪達の声は狂乱と凶暴さに彩られ、夜行の群れは、赤子の異様にも全く怯まない。


上空から赤子を目指していた藍は、その群れの遥か前方に、雪風が吹くのを見た。
夕闇の木々の中、その影を縫い渡っていく白い影は、もうその赤子の下へと辿り着いていた。









相手の打った手は通ってしまった。それを悔いても仕方無い。
 後悔出来る内は、まだ良い。
もうすぐのところで、後悔するだけでは済まなくなる所だった。
 
 Mmmmmmmmmmmmmmmmaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhh―――。
 
 青黒の微光で暗い青錆色の身体を覆った赤ん坊は、まだ巨大に成長している。
 少し前よりも、大きくなっている。
いや、膨らんでいる、と言う表現の方が似合うかもしれない。
這う赤ん坊の手が地面に触れるたび、地盤が青黒に染まり、ひずんで、汚染されている。
金属に変わった土草を掌から吸収して、その体積を急激に増していく。
土地の宿る『幻想』という命を鋼で塗り固め、それを貪り喰っていた。

膨張を続ける、肉とも金属ともいえない肌には、相変わらず有刺鉄線が無数に絡みつきまくっている。
棘が食い込んだ肌からは、鋼液が滴り、身体を濡らしていた。
甘いような、苦いような、胸が悪くなるような匂いもする。

Uuuuuuuuu―――aaaaaaahhhhhhhh―――。

赤子は、体を引き摺るようなハイハイで迫って来ている。
その間にも、金属で構成された身体は、土地から鋼液を吸い上げながら、どんどん育っている。
 
 イズナは居合いのように構えたまま、重心をすっと前に移動させた。
 ん~…、こりゃ厄介だで…。呟きながら、刀の柄に添えた手をにぎにぎと動かす。
 そのイズナに、おい…、と、隣から声を掛けたのは、勇儀だった。
 
 「お前さん、何者だい…?」
  
勇儀も重心を落とし、両拳を構えた状態のまま、視線だけをちらりとイズナに向けた。
 ズズゥゥーーーン…、と地面が鳴いた。這い来る赤子の掌が、地面を衝いたのだ。
揺れと、凄まじい威圧感が紫達を襲う。

だがその中でも、イズナは軽く片目を瞑って見せた。
 
 「オイはイズナ、っちゅうモンでさ。
  …まぁ、自己紹介しあうのは、後にした方が良さそうだぁね」
 
 紫達は、ジリジリと少しずつではあるが、後退している。
 こりゃ面倒な事になったねぇ…。
イズナは構えたままその場に留まり、赤子を見上げ、鼻から軽い息を吐いた。
 
 「あの赤さん…ありゃ、この土地の魂っすなぁ。
下手に潰しちまうと、この辺一帯が枯渇しちまうでよ…」
 
 「ええ。…どうにかして、還したいけれど、時間が掛かりすぎる」
 
 答えた紫の声は、落ち着いているようで、焦りきっているようでもあった。
 紫は冷や汗をびっしょりと掻いて、その貌色も青白い。
傘を握る手も震えていて、噛み締めた唇からは血が滲んでいた。
無理も無い。人里でも同じ状況が起こりうることを考えれば、気が気では無いだろう。

 それに、この金属で汚染され命を持った土地自体が、紫を縛る結界のようなものだ。
 境界操作の能力に掛けられた枷は、強力だった。
この場を勇儀達に任せて、紫自身は里に向かうことも出来ない。
 足止めを喰らい続ける訳にもいかない。
だが、安易に土地を殺せば、未来も死ぬ。
法力機術によって、無理矢理にたたき起こされた土地の魂こそが、あの赤子だ。
紫に、勇儀に萃香も居る。戦えば、殺してしまう事も出来るだろう。
 だが、そうすることで此処の大地は死ぬ。
鉄屑と錆滓の山になってしまう。
 
 
 「…困ったね」
 萃香も、半身を霧に変えながら、弱ったような声で呟いた。
 だが、更に困った状況になるのは、多分これからだった。
 
Aaaaaaaaaaaaaaaaahh―――ahhhhhh―――。
 『亜啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞――』

轟く産声に、更に違う産声が重なった。
その産声は、地の底から聞こえた。比喩では無く、本当に地面から聞こえてくる。
湧き出す声と同時に、赤子の周囲の地面が、痙攣を起こしたようにぶるぶると震えだした。
 液状の鋼に蝕まれた地面は泡立ち、細かい気泡が出来ては弾けていく。
 法力機術の紋様がそこら中の地表に浮かび上がり、青黒の光を溢れさせた。
 
 足止めは要らないってのは、こういう事かい…。勇儀は歯軋りしながら、低い声で呟いた。
 赤子は、勇儀の呟きには応え無かった。
だが腕振り上げ、掌で地面を叩き更に声を上げて、自分以外の土地を呼び覚ました。
 
幻想が沸騰し、金属に孵り、それは何かの形を成していく。
 いや、形だけではない。声や、感情や、表情を造り上げ、其処に歪んだ魂が宿り始める。
 紫達の遠くで、近くで、すぐ其処で。
 
 まず聞こえてきたのは羽根音だった。
かなりけたたましい音だ。
啞啞啞啞。産声は一つじゃ無い。亜啞亜啞。無数だ。

赤子の正面に陣取っていた紫、勇儀、萃香は飛び退った。
イズナも半歩だけ身を引いて、こりゃ、嫌になっちまうねぇ…、と呟いた。

産まれ出てきたのは、やはり赤子の姿をしていた。
 その身体の大きさは、既に人間の子供程度の大きさがある。
 ただ、人間の子供の姿形とは大きく異なっている。
 
 彼らは皆、人間の赤子に、同じサイズの蟲を移植したような姿だ。
 蠅のように眼が肥大化し、複眼になっているものもいれば、蜘蛛のように頭に無数の眼を持っているものも居る。
 中には、蛞蝓のように両眼窩と口から、粘液に塗れた角が突き出しているものも居る。
背中には蟲の羽根が生えていて、高速で羽ばたいていた。
濁った透明な白い羽根は、耳障りな羽音を立てて、赤子を宙に持ち上げている。

その姿はバラエティに富んでいて、まるで異種移植の標本に息を吹き込んだようだ。
 
啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。
 産声は、理解不能の言語のようにも聞こえる。
嗚咽のようにも聞こえるし、笑い声にも聞こえる。
男の声でも、女の声でも、老人の声のようでもある。
 
 銀塗膜の世界は、冒涜された誕生によって埋め尽くされていた。
 
蟲赤子の群れは、飛び退った紫を見た。
その視線は、余りに無垢で、余りに無邪気だった。
勇儀を見て、萃香を見て、イズナを見た。
紫は後ずさり、勇儀と萃香は、鳥肌が立つのを感じた。
啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。

羽音の質が変わり、蟲赤子の群れは宙に浮き上がったまま前屈みになった。
Aaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh――――。
巨大な赤子も、地面を叩くようにして、前に出てくる。
それが合図だったのか。一斉だった。
木霊する歪んだ産声と共に、蟲赤子の群れはイズナ達に突っ込んで来た。
 突進とも、突撃とも違う。それは、抱擁を求める子供のような仕種だった。
 
 傘を構え、紫は唇を更に強く噛んだ。
 急いでるのよ…! 呟いて、苦無弾幕を放とうとした。
 勇儀は拳を握り、重心を落とし、待ち構える。
 半ば霧と化した身体に、鬼火を纏わせたのは萃香だ。

 イズナは皆の動きを視線で追ってから、すっと前へ踏み込んだ。
 
 直後だった。
 
 
 「ご無事でしたか! 紫様!」
 
凛とした声と共に。
深い群青色の弾幕が、蟲赤子の群れを横合いから猛襲した。
蟲赤子の悲鳴が響く。金属が砕ける音に、粘液が飛び散る水音が聞こえた。
 暗い森と暗銀の塗膜の景色の中に、群青の火花がぱっ、ぱっと裂いて、蟲赤子の何匹かが地面に落ちた。
 啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞―――。
 金属で出来た体はゴトン、ドスン、と不気味な重い音を立てて、蟲赤子達は地面を転がる。
 
 紫達の横合いから飛び込んできたのは、藍だった。
 九尾を揺らしながら、結界術と妖術によって編まれた術陣を無数に展開させている。
次いで、すぐ其処まで来ていた、幾重にも響き合う足音と咆哮が、雪崩れ込んで来た。
数秒もしない内だった。藍が展開した術陣と弾幕の光を遮るように、無数の影が差す。

銀塗膜で塗り固められた木々を縫うようにして、今度は先程逃げ出した妖怪の群れが殺到したのだ。
 
木々をへし折り、叫び、地面を踏み鳴らして押し寄せた影の濁流は、あっという間に蟲赤子達を飲み込んで、絡み付いて、襲い掛かった。

 地の魂そのものである巨大な赤子を前に、勇儀と萃香が攻めあぐねている束の間。
紫も、どう動くかという思考の一瞬の隙間。

それ程、本当に瞬きの間だった。
妖怪と蟲赤子がそこら中で入り乱れ、取っ組み合い、押し合い、殺し合う状況が出来あがったのだ。
 
 紫は眼の前に広がる乱戦の場を見詰めて、唖然とした。時間で言えば、一秒程か。
直ぐに視線を上げる。其処には、焦ったような、心配そうな貌を浮かべた藍が、直ぐ傍で宙に浮いて居た。
 
 「お怪我は!?」
 
 「大丈夫よ…。今は私の心配より…」
 其処まで言って紫の言葉は、ズズゥーーーン…、という轟音に掻き消された。
藍も、その轟音がした方に向き直り、眼を鋭く細めた。その頬に、一筋の汗が伝う。

紫と藍の視線の先。巨大赤子は、突然の出来事に硬直しているのか。
ゆっくりとした動きで、乱戦の地となった銀林を見下ろし、戦場を眺めるだけだ。
積極的に動こうとはしていない。そう見える。
赤子の思考の中に在るのは、戸惑いなのか、驚きなのか。
何を考えているのかは分からないが、この時間は好機だ。

蟲赤子の相手は、妖怪の群れが完全に抑えた。

少なくとも、今はそうだ。めちゃくちゃな乱戦は、決して劣勢では無い。
妖怪達は皆、薄い山吹色のオーラのようなものを纏っている。
オーラは妖怪達の身体を活性化させ、恐怖を忘れさせる。そして興奮させ、奮い立たせる。
追い返せ! 叩き潰せ! 
怯むな! 行け! やっちまえ!
 喊声と怒号が上がり、妖怪の群れは更に猛り狂う。

勇儀と萃香は軽く頷きあい、その乱戦の中目掛けて同時に駆け出した。
敵と味方が入り混じる中を割って、巨大赤子に迫るつもりだ。
紫は、藍と共に宙に浮き上がりながら、数え切れない程の術陣を展開し、巨大な赤子と対峙する。

眼下に怒号を聞きながら、藍は既に赤子に迫っている者が居ることに気付いた。


イズナだ。

乱戦の中を割っていこうとしている勇儀、萃香の前を行く形だ。
イズナはするすると滑るようにして、その戦場の中を縫って行く。
いや、ただ歩を進めているだけじゃない。
白い風を纏ったイズナが通り過ぎた後には、蟲赤子だけが切り伏せられていた。
あれだけ混雑した戦場の中、味方を全く傷つけず、敵だけを切り倒していく。

今も、イズナは音も無く太刀を振るって、蟲赤子の首を飛ばした。
液鋼の血が噴出す死骸の横を、やはり無音で進む。
イズナに切伏せられた蟲赤子の死体は、空中でその身体を霧散させ、鉄塵と幻想へと還っていく。

強力な解呪法術を纏わせたイズナの太刀は、対象を斬る事で、其処に込められたものを抹消する。

黒コートの男が鋳込んだ偽りの命を、汚染された鋼の体から、幻想へと還す。
 その為に、イズナは更に太刀を一閃させる。
 白刃の線を引きながら、イズナは混戦の中を縫い行く。
 次々と蟲赤子が両断され、霧に変わった。
 
切捨て御免ねぇ…。申し訳無さそうに呟いて、イズナはひゅっと短く息を吐いた。
前傾姿勢を更に低く落とし、眼をすぼめた。

その視線の先で、一人の妖怪が押し倒され、群がろうとしていた四体の蟲赤子が居た。

にとりだった。
リュックから伸びた機械のグローブ付きアームで何とか抵抗しているが、相手の数は四人。
劣勢だ。イズナは、にとりのすぐ脇に踏み込んだ。
ついでに、一人の蟲赤子の首にすっと太刀を埋め込んだ。
そのまま手首を返し、首を刎ねる。イズナは即座に身体を返して、水平に太刀を凪ぐ。
次の瞬間には、二人の赤子の首と、胴体が飛んだ。
大丈夫かい。そう言ったイズナの声は、恐ろしく落ち着いている。
にとりに向き直る途中で、残った最後の蟲赤子の頭頂部から股下までを両断していた。
悲鳴も何も聞こえないまま、蟲赤子の左半分と右半分は地面に落ちる。

瞬く間に幻想へと還る蟲赤子を一瞥して、刀を血振るいするイズナの貌は、人畜無害そうな、人の好さそうな貌のままだ。

尻餅を付いたような姿勢になったにとりは、何かを言おうとしたが、出来なかった。
驚愕と脅威を同時に感じたような、怯えたような貌で、にとりはイズナは見上げたまま硬直してしまった。

だが、そのままへたり込んで居る訳にもいかない。
困ったような笑顔を浮かべたイズナは、にとりの手を引いて起こす。
すぐそばで、妖怪の悲鳴と、啞啞啞啞啞啞啞啞啞―――、と喜色ばんだ赤子の声がした。
誰かやられたのか。血の匂い。咆哮。殴打音。
色んな音が混じり、熱気と共に混戦の場を包んでいる。
足元の金属塗膜は、気付けば血とそれ以外の液体が交じり合って、ひどく足場が悪い。

だが、まだ劣勢では無い。このまま圧せる。

河童さんに頼みがあるでよ。
イズナは言いながら、振り向きざまに背後から迫って来ていた蟲赤子の額に刀の切っ先を埋め込んだ。
啞啞――ー…、と蟲赤子は声を漏らしながら、べろんと舌を出した。
一つしかない眼が飛び出していた。
切っ先を引き抜かれた赤子は、その場に崩れ落ち、鉄塵に変わり、熱い風に攫われた。

敢えてその様子には視線を向けず、イズナはにとりに背中を向けたまましゃがんだ。
そして、肩越しに視線を向け、口許に笑みを浮かべる。
「掴まっててくれるかい。…河童さんの治金術が頼りなんだわさ」
イズナの渋い声は、この怒号と咆哮の中でも、にとりに届いたようだ。

にとりは、緑の帽子を深く被り直し、頷く。
そして、イズナの背中に掴まり、「…闘いじゃ足を引っ張っちゃうな…ごめん」と呟いた。
イズナはにとりを片手でおんぶするようにして立ち、もう片方の手で刀を握る。

「出来る事があるなら、頑張るよ」
にとりは、強い意思の篭った声で言いながら、頷く。
そうして、背後から迫ってた蟲赤子を、リュックから伸びたグローブ付きのアームで殴り飛ばした。
イズナも、横合いから飛んできた蟲赤子を逆袈裟に切り捨てた。

「…遣り辛いねぇ、どうも」
凪いだ貌のまま呟いたイズナの声には、しかし苦渋と罪悪感が滲んでいた。
押し殺したような呼吸は、自身を無理に平静に保とうとしているようでもある。
 
イズナは何も感じず、ただ作業的に人を斬れるような人物では無い。
 だからこそ、この赤子の姿をした敵の姿は、心を追い詰めてくる。
惑わされては駄目だ。流されず、区別すべきだ。敵は敵だ。
宿った命を殺すのでは無く、元に還すのだ。
柄を握る手に、力を込めた。一瞬だけ、視線を周囲に巡らせる。
 
 AAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHH―――。
蟲赤子の親。巨大な顔なし赤子の、苦しげな声が轟く。

紫と藍だ。乱戦の外から、顔なし赤子を弾幕で牽制してくれている。
光球と光線が奔り、巨大な赤子の顔や身体を削っていた。その度に、鉄が拉げるような音が、断続的に響いている。
 顔なしの赤子は前に進もうとしているようだが、弾幕をいやがって、中々前に進めずに居た。
 
 勿論、乱戦の中に居る蟲赤子が、紫達に気付かないはずが無かった。
 啞啞啞啞。啞啞。啞啞啞啞啞啞。―啞― 啞―啞。
 蟲赤子の群れが、その蟲羽根を羽ばたかせ、飛び立つ。
そして、誘蛾灯に集まる蛾のように迫った。

しかし、数だけで押し切れ程、紫も藍も弱くは無い。
邪魔な…。藍は呟き、一枚の札を懐から取り出し、何かを唱えた。

紫が音も無く傘を振るい、数体の赤子を切り裂いたのと同時。
群青の光、弾幕と共に放たれた札は卍紋を描き、飛び来る蟲赤子を消し飛ばした。
それらは全て、巨大な赤子を牽制しつつの片手間の戦闘だ。
 視野の広い紫と藍のおかげで、乱戦は未だ優勢を保っている。
 
 
 「やるねぇ…、あんた」
 「このまま押し切れそうだね」

 二人分の声がしたのと、イズナの周囲に迫っていた七匹程の蟲赤子が粉々になったのは、ほぼ同時だった。
イズナが何かの行動を取ろうとしていることに気付いただろう。
乱戦の中を掻き分けて割りながら、白い霧と共に、鬼火が揺れて、流れて来た。
イズナの脇に飛び込んできた勇儀が、そして、霧を身体変えた萃香が、イズナのカバーに入ったのだ。
殴り飛ばされ、吹き飛ばされた蟲赤子は、他の赤子を巻き込む。
うわぁ…、と驚愕の声を上げたのは、イズナの背中に掴まったにとりだ。

「何か手があるなら、助太刀するよ」
勇儀は更に迫っていた蟲赤子を蹴り飛ばし、掴んで投げ飛ばしながら頷いた。

「やるなら今のうちだ。長引くと…」
状況が変わりかねない。
鬼火を纏った鎖を振り回しながら、萃香はそう言おうとしたのだろう。
イズナは萃香の声に被せて、あぶねぇ…!、と叫んだ。
 そのイズナの声に、一体どれほどの数の妖怪が気付いていただろうか。
 
地面が揺れた。次に、影が差した。途轍もないプレッシャー。上だ。
「逃げなさいっ!」そう叫んだ紫の声は、乱戦の怒号に圧され、掠れて聞こえた。
他の妖怪達は、反応が若干遅れた。その僅かな時間が致命的だった。
乱戦の中に、一瞬の静寂が起きた。誰もが眼を奪われた。
今まで弾幕に圧され、身体を削られていた顔なしの赤子が、跳ねたのだ。
いや、飛び上がったと行った方が正しい。
身体を縮めて、両手で地面を叩き、びょんと飛んだのだ。
それも、妖怪、蟲赤子が入り乱れた混戦の真っ只中に向かって。

ドッシィィィーーーーーーーーーーーン、と身体を持ち上げるような轟音が、暮れなずむ空に響き渡った。

心を打ち砕くような、凄絶な音だった。
妖怪の山が、この場所を基点に穴が空いて、壊れてしまうんじゃないか。
そんな錯覚を覚えさせる激震だった。

次いで、強烈な揺れと、衝撃波。
銀塗膜に覆われた地面や木々までもが砕けて、宙に舞い上がり、周囲に撒き散らされた。

イズナは吹き飛ばさそうになりながらも、刀を握る手で顔を庇い、姿勢を落として何とか堪えた。
にとりも、吹き飛ばされないように、イズナの背に必死にしがみついている。
勇儀と萃香も、重心を落として衝撃に耐えたようだが、その表情は凍り付いていた。

顔なしの赤子が落下する直前、多くの悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなものは余韻すら残っていない。
無数の妖怪を、その断末魔ごと巨体で押し潰し、顔なしの赤子は何がおかしいのか、くぐもった笑い声を上げていた。

Efuuuufuuuuufuuuufuuufuuuuu―――――。
無邪気さすら感じるその笑い声に混じり、ザァァァァ…、と、波が寄せてくる様な音がした。

畜生…、と呟いたのは、勇儀か、それとも萃香だったのか。
イズナには分からなかった。にとりは身体を震わせて、ぎゅっとイズナの着流しを掴んだ。

 咽るような、熱い匂いが押し寄せて来た。血の匂いだ。
銀と赤黒い血を混ぜた液体が、顔無し赤子の身体の下から流れ出てきたのだ。
大量の血液と鋼液が混ざったそれは、押し潰された妖怪達と、蟲赤子の血だった。
辺り一面に流れ出したそれは、あっという間に地面を赤と銀色に染め上げる。
それは、まるで膿の漣。
今までの乱戦の熱気が嘘のように静まりかえり、圧死を免れた妖怪達は暫く動けなかった。
 
弾幕を放っていた紫も、藍も、呆気に取られて攻撃の手を緩めてしまった。

その隙を、顔無しの赤子は見逃さなかったようだ。
今まで浴びせられた邪魔臭い弾幕が薄まったのを見て、更にもう一回、両手で地面を殴りつけた。
そして再び、びょんと飛び上がった。今度は、紫と、藍の方へ。
とてつもない飛距離と速度だった。巨木を見下ろすあの巨体だ。縦幅も横幅もある。

しかも、顔無しの赤子が飛び上がった直後に、その身体が更に変質し始めていた。
 
 余りの光景に、紫も藍も、回避が一瞬遅れた。
 
赤子の胸、首、顔、腹から、青黒の微光を纏った有刺鉄線の束が噴き出したのだ。
まるで一本一本の鉄線が意思を持っているかのように絡み合い、編みこまれ、それは空中で腕の形を成していく。
 それも、凄まじい速度だ。
紫達に飛び掛ろうとしてる赤子は、首やら顔やら腹から腕を生やし、あっという間に六本腕になった。
 爆発的に膨れ上がった表面積は、紫達から逃げ場を奪う。
 
 咄嗟に、紫は結界を張ろうとした。だが、間に合うか。もう眼の前だ。
能力の減衰した状況で、法力によって生み出された異形の赤子を止められるのか。
 そんな思考が過ぎった次の瞬間には、紫は誰かに突き飛ばされていた。
 かなり強い力だった。ご無礼を御赦し下さい…!、と切羽詰った声も聞こえた。

藍だ。横合いから紫を、赤子の飛んでくる軌道の外へ押し出したのだ。
 体勢を崩しながら、紫は中空から落下する。息が詰まった。
見れば、藍が結界術を唱えながら、紫を守ろうと前に出ようとしている。
 その貌に怯みや恐れは無い。主を守るという使命感が、藍の恐怖を捻じ伏せていた。
 
 紫が鋼液で凝り固まった地面に墜落したのと同時か、その直後。
 卍紋の結界が展開され、飛んで、というよりも、降って来た顔無しの赤子と激突した。
 Baaahhhhhhhhhhhhhhahahahahahhahahahaahahha――――。
 寒気がするような無邪気な笑い声と共に、顔無しの赤子はじゃれつくようにして藍の結界に掴みかかった。
 空中に浮かぶ球状結界に、しがみつくような格好だ。
新たに生えた六本腕でがっちりと結界に組み付き、其々の手の指が、結界の光壁に食い込んでいく。

「く、ぅ…ぁぁぁあ…っ!!」
藍は何とか耐えようとするが、顔無しの赤子の腕力は、半端では無かった。
亀裂と、細かな罅がバキバキビシビシと奔り始める。それだけじゃない。
顔無しの赤子の纏う、青黒の法力の微光が、煙のように藍の周囲に立ち込め出した。
明らかに危険だ。藍は、結界ごと顔無し赤子に抑えられて逃げられない。
 青黒の微光は、細かい蟲の群れのように不気味に蠢き、藍の展開する結界を侵し始めた。
 美しい群青の光彩が、黒く澱んでいく。

 「ぐ、く…! あああ…!!」
 バキバキ、ガキン、と何かが砕けていく音が、断続的に響き、藍の貌が苦悶に歪む。
 顔無し赤子の六本腕が、更にギシギシと締まっていく。
まるで獲物を咥え込み、動きを押さえ付けるようとする蛇のような動きだ。
 
 
 

こりゃいかんぜよ…! イズナは、にとりを抱えなおし、駆け出す。
うわわ!? 、と声を漏らしたにとりも、しかし、すぐにリュックから伸びたアームを構えさせた。

勇儀と萃香は、イズナに続こうとした。
だが、周囲に迫っている蟲赤子に気付き、追従する代わりに、イズナ達が踏み込むカバーに入る。

「止まるな!」
言いながら、勇儀は、左のボディブローで飛んできた蟲赤子を砕いた。
ついでに、イズナ達に追いすがろうとする赤子を蹴り飛ばしてから、下段突きで叩き潰した。

「頼むよ!」
萃香も、鎖を振り回して、何匹も蟲赤子を叩き伏せながら、息を深く吸い込んだ。
吸い込まれた空気は、吐火となって吐き出され、にとりの頭に噛み付こうとしていた赤子を火達磨にする。

降ってくる火の粉から、にとりを庇うようにして身体を捻り、イズナは重心を沈めた。
そうして「はいよゥ!」と答え、ダンっと地を蹴る。
重さをかんじさせない跳躍は、一気に藍との距離を狭めていく。
うろたえながらも、何とか踏ん張ろうとしている妖怪達を飛び越え、脇をすり抜け、駆ける。
そのイズナの前に飛び出して来た蟲赤子は三匹。
一匹をイズナが袈裟懸けに切り捨て、霧に還し、残りのニ匹をにとりのリュックから伸びたグローブ付きアームが殴り飛ばした。

とにかく、疾く。迅く。考えている間は無い。
Hyyyyyyyyyaaaaaaaaaa,a,a,a,a,a,a,a,,a,aaaahhhhhhhhhhhhh――――!!!
鼓膜を劈くような、強烈な奇声が響き渡ったのはその時だった。
いや、鼓膜というよりも脳にくる。
痛ってぇ…!。脳髄に、針を何度も刺し込まれるような鋭い痛みが走る。
イズナは呻いて、つんのめり掛ける。視界が霞んだ。
にとりも、唇を噛んで、ぎゅっと眼を閉じて痛みに耐えている。相当苦しそうだ。
生まれたばっかの癖に、とんでもねぇな…。
軽く頭を振りながら舌打ちを堪え、イズナは駆ける速度を更に上げる。


他の妖怪達も、頭を抑えて蹲る者が多数居た。というか、ほとんど全員だ。
その隙に、蟲赤子に取っ組み付かれて、押し倒される者も居た。
蟲赤子達の方は、このおぞましい奇声には全く反応を示していない。
聞こえていないか、或いは、全く影響を受けない構造なのか。

どちらにせよ、優勢だった妖怪側の立場が、確実にぐらついた。
顔無し赤子は、混戦の極みにあるこの戦場を更に引っ掻き回し始める。

Hyyyyyyeeee.r,r,r,r,r,r,r,r,,a,a,a,a,aa,a,ara,ra,ra,ra,ra,ra,ra,ra,ra,―――。

もう一発来た。奇声というよりも、今度は、唄だった。
確かな感情の篭った歌だ。
耳から入って、魂を鷲掴みにしてくるような強烈な感情が込められている。
顔無しの赤子には、顔に必要なパーツは一つも無い。当然、口も無ければ、舌も無い。
顔、というか、頭部には無数の黒い穴が空いているだけだ。
何処から声を出しているのかすら謎だというのに。

どうやったらこんなに楽しそうな声で歌えるのか。

顔無しの赤子の声は、明らかに「楽」の感情が込められていた。
だが、その「楽」の感情が余りに激烈過ぎる。
そのせいで、聞く者に与えるのは、悪意と無慈悲さと、精神の萎縮だけ。
とんでもなく攻撃的な歌声だった。

だが、苦悶の表情を浮かべながらも、全く怯まない者も居た。紫だ。

地面に墜落することで顔無しの赤子から逃れた紫は、すぐさま立ち上がりつつ、藍と同じく結界術を唱えていた。
それでも、やはり境界操作の能力を減衰させられている事が影響しているのか。
発動と結界の展開は、藍よりも若干遅かった。
だがそれでも、流石は賢者というべきだろう。
神経を削る奇声の中、結界術を完成させる集中力と、その威力は本物だった。

亀裂が入り、その群青の光を鈍らせていた卍紋の結界に、深紫色の光帯が奔る。
それは結界陣を刻み、藍を守るべく、幾重にも重なり合う結界の層が生まれた。
夕闇が書き消され、深紫と群青が辺りを染め上げる。
強固な結界術に阻まれ、顔無し赤子の腕も手も、青黒の煙霧の侵食も、押し返し、浄化していく。

落下する勢いで結界陣に組み付いていた顔無し赤子も、ぐぐぐ、と徐々に引き剥がされつつある。
IIIIIyyyyyyyyyyyyyyyyykikikikikikiiiiiiiiiiiyyyyyyyyyyy―――。
いやいやをするように顔無しの赤子は首を振るが、その六本腕が離れていく。

紫が、結界術を完成させる時間。それを稼いだ藍の勝ちだ。

「生意気なことをするようになったわね…藍。後でお仕置きよ」
紫は安堵したような緩い息を吐いて、藍を見上げる。

「…申し訳ありません」
その視線から、少し気まずそうに眼を逸らしつつ呟いた藍は、ぎょっとした。

目前に張られた重層の結界に、何かが絡み付いていた。
ぐるぐる巻きにする勢いで、それに、とんでない量だった。
有刺鉄線だ。その瞬間を見ていた者は、一体何人居ただろうか。
完全に押し返されていた顔無し赤子の身体がブルブルと痙攣した直後だった。
顔無し赤子の身体に巻きついていた有刺鉄線が、爆発的に伸びに伸びまくって、結界ごと藍をくるみこんでしまったのだ。

ギャリギャリ、ギャギャギャ、ギャガガガガ…!、と、甲高い金属音が響く。
金属繊維が擦れ、削れる音の木霊の中でも、紫と藍が造り出した結界は健在だ。
だが、顔無しの赤子は、そんなものお構い無しだった。
結界に押し返されるなら、飲み込んでしまえ、という事か。
深紫色の球状の結界は、もう有刺鉄線でぐるぐる巻きの状態だ。

「紫様…! お逃げ下さ…!」
その藍の声も、鉄線の層によって遮られ、何も聞こえなくなった。
代わりに、更に大きくなった金属質の音だけが響いてきた。


あっという間だった。
おまけに、顔無し赤子の頭部、腕、胸、腹、股間などからも、噴出すような勢いで次々と生えまくり、それらが全て結界に巻きついていく。

有刺鉄線が象ったそれは、檻であり、拘束具であり、繭だった。
青黒をしたの法力の光を纏う鉄線の束は、また卵のようでもある。
其処に、融けていくようにして、顔無し赤子の身体が解けて、繭と一つになろうとしている。

赤子は、六本の歪な腕で、鉄線編みの繭を抱きしめるように抱え込み、uuuuuuuuuu――――、と呻き声を上げた。
まるで、芋虫が蛹になろうとしているような、繭を作ろうとしているかのような光景だった。


藍は結界ごと、その羽化の為の餌になろうとしている。
 
 それを黙って見ていられるものか。
 藍の名前を叫び、鉄線編みの繭へと飛び行こうとする紫の先。

にとりを背負ったイズナが地を蹴って、繭になろうとしている赤子へと肉薄していた。
音も無く、気配も感じさせない跳躍だった。
にとりのリュックから伸びるアームも、それなりの大きさがある。だが、それすらも全く感じさない。

まるで、そよ風のように顔無し赤子の頭頂部辺りに、すっと着地して、同時に刀を振るった。
何回斬りつけたのか見えない程の早業だ。
白く淡い法力の微光が、斬撃の軌跡を彩り、帯を引いている。
AHH―――…? 顔無しの赤子は、何が起こったのか理解出来ていないようだ。
イズナは顔無し赤子の頭の上で、ぐっと腰を落とした。そうして視線を下げ、その眼をゆっくりと細める。
刀を鞘に納めつつ、イズナが居合いのような構えを取った。
 キン…、と刀の鍔と鞘が鳴ったと同時。
 
繭を抱え込み、同化しようといている顔無し赤子の六本腕。
それが全て切断され、腕と繭を編んでいた有刺鉄線の束が、サラサラと鉄屑へと還って行く。 
 金屑と鉄の微粉は雪風に攫われて、まるで金属に宿った魂、命が、浄化されていくような光景だ。
 
 雪風の吹く中、かろうじて残っていた球状結界の残滓の内側。
藍が気を失い、漂っていた。
淡い白と、群青が織り成す術光の紋は、その藍の身体を優しく包んでいる。
 
 一瞬の間に、一体何度刃を奔らせれば、あの巨体をあそこまで切り刻めるのか。
 にとりも紫も、呆気に取られたかけたが「ほんじゃあ頼むよ。にとり嬢ちゃん」という渋い声のおかげで、動きを止めずに済んだ。
イズナは居合いの構えのまま、背中にいるにとりに、肩越しに視線を向ける。
 
「コイツの核を治金して、元の土地に還してやってくだせぇ」

言いながら、ふっと目許を緩めたイズナは、刀の柄に添えた手に力を込めた。
にとりは頷いてから、緊張で乾いた唇を舐めて「…頑張ってみるよ」と少しの笑みと共にもう一度頷いた。

Gyiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii,Hyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhh――!!
何をされたのか、イマイチ理解出来ていなかった様子の顔無し赤子も、どうやら自分の状況を理解したらしい。
突然、金切り声の絶叫を上げた。

イズナを頭に乗せたままの顔無し赤子の身体は、崩れかけだ。
自身の身体を融解させつつ、藍と結界を取り込み、繭へと同化しようとしていたせいだろう。
胸や腹、顔は、どろどろと溶け始めている。
その同化の途中で腕と繭をぶった切られ、中途半端に終わったからか。
赤子の全身に巻きついている有刺鉄線も、びちびちと中空で不気味にのたくっている。
血液代わりの液鋼が、顔無し赤子の身体の断面やら傷口から溢れ、地面を叩きまくった。

其処へ、空間の亀裂が横一文字に奔った。
細い細い、空間の断層が、顔無し赤子の巨体を通り過ぎた。
特に振動や音は無かった。その直後だ。
Igihyiiiyy…――!、と短い悲鳴を漏らし、顔無し赤子の身体がブルッと震えた。
降り注ぐ液鋼の雨を、縫うようにして飛翔して来た紫が、境界と共に傘を一閃させたのだ。

それに、イズナも続く。刀を抜く刹那。紫とイズナの眼が合った。
紫は必死な貌だった。その唇が何かの言葉を紡いでいた。
藍は私が…!。そう聞こえた。
 
イズナはその刹那の間に頷きを返して、腰を落とし、刀の柄を握り締めた。
ほんじゃ、いきますか…! イズナは身体から白い法力光を発しながら、鞘から刃を走らせる。

縦だ。
イズナの居る頭頂部から股下までを、白い斬撃の軌跡線が伝う。
横一文字に奔った空間の亀裂と、丁度垂直に交わるように。
斬撃と亀裂の軌跡の交点は、顔無し赤子の胸部を貫く線上にある。

一拍の無音の後。ガゴ…ン――、と鈍い音がした。
紫の生み出した空間断裂と、イズナ斬撃の軌跡に沿って、顔無し赤子の身体が四つに離断され音だった。
Ogyaaaaaahhhhhhh―――…、という断末魔まで切り裂かれ、その声は歪に響いた。

もはや空中に留まっていることすら出来なくなったのだろう。
顔無し赤子の巨体は、バラバラになったまま落下を始める。
藍を浮かせていた球状結界も同時に解け、その身体が宙に投げ出された。

だが、飛翔してきた紫が、すかさず藍を両腕に抱き止める。
普段ならスキマを開くことで、全く苦も無くこなせる事でも、今ではかなりの労力を強いられる。
境界操作という自身の力に枷をつけられた今のままでは、平時の3割程度の実力を出せれば好い方だ。
それくらい、この土地が紫を縛る強さは強烈だった。
だが、その枷ももうすぐ外れそうだ。藍を両腕で抱えながら、一旦その場を離れる。

其処で見た。

顔無し赤子がバラバラになったその残骸の中に、青黒の法力光を放つ球状端末が埋もれていた。
あの赤子の心臓であり、汚染され、紫を縛り付けるこの土地の核だ。

イズナもそれを見つけたのだろう。手にした刀を鞘には納めず、柄を口に咥えた。
そうして残骸と化した赤子の頭頂部から、落下中の破片へと飛び移りながら、核を目指す。
両手が自由になったことで、イズナは破片を飛び移りながらも片手で印を結んだ。
そして、もう片方の手で、背中のにとりを背負い直す。
 ブン、っと空気が振動する音がした。球状端末が放つ光が脈打ったのだ。
その脈動に合わせ、ざわざわざわざわ…、と周囲の金屑の表面が不気味に波打った。


少し離れた場所に居た紫は、その光景をまともに見てしまった。
啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞。
亜亜亜亜。亜亜亜亜。亜亜亜亜亜。亜亜。亜亜亜亜。亜亜亜亜。
産まれまくってくる。落下しつつある残骸一つ一つから、数え切れない程の蟲赤子が。
大きさにはかなりバラつきがあった。
2メートル程もある者も居れば、掌に乗るような大きさの者も居る。
それらが一斉に金属から孵化し、イズナに迫る様は、鳥肌が立った。
一気にあれだけの蟲赤子を用意するあの球状の端末は、一体どれだけの力を秘めているのか。
 それに、紫の能力を縛る法力を持続させ続けても居る。


黒コートの男が去って尚、この脅威だ。
 
紫は手が震えるのを感じた。
怖気が走るような、忌まわしい蟲赤子の羽音の群れも聞こえた。

逃げて。
そう叫ぼうとしたが、間に合わない。ただ、その必要も無かった。

イズナが印を結び終え、掌を突き出す。白と、淡い山吹色の光が瞬いた。
冷気と共に羽音が聞こえなくなった。突然だった。蟲赤子達が空中で凍り付いている。
いや、氷塊の中に閉じ込められている、と言った方が正しい。
イズナの法術、鉄線印だ。
カチコチに氷漬けにされた蟲赤子達を足場にし、飛び移りながら、イズナは更に球状端末に迫る。
だが、中には氷漬けになるのを免れた蟲赤子も、何匹か居た。再び群がってくる。

咥えていた刀を、印を結び終えた手に持ち替えたイズナは、速度を落とさない。
そのままだ。いや、それどころか飛び渡る速度を上げて見せた。
次に動いたのは、にとり謹製のグローブ付きアームだ。

「おいちゃん! 上も!」

にとりは言いながら、イズナの背中に捕まったまま、素早くアームを操作して見せた。向かってくる蟲赤子をバッコンバッコン殴り飛ばすにとりに、「了解さね」と答えたイズナは視線を上に上げた。
 
もうすぐ其処まで来ていた。頭が複眼だらけの蟲赤子だ。亜亜亜亜亜。声がした。
イズナは鋭く息を吐いて、刀をコンパクトに振った。
鈍い音と同時に、赤子の首が落ちる。だが、それはすぐに金屑と鉄屑に還っていく。
「もうちょいだねぇ…!」
その中を、イズナは宙から落ちていく残骸を駆け上り、渡る。

そして辿り着いた。
青黒の脈動を放つ球状端末は、残骸に埋もれたまま落下しようとしている。
イズナは一気に駆け抜け、その脇を通り過ぎながら、刀を鞘に素早く納めた。
そして、空いた手の中に端末を掴み取った。
元々、卵程の大きさのものだ。イズナの掌にすっぽりと収まってしまう。
だが、端末が纏い、放つ青黒の法力は全く収まらない。
弱まるどころか、今まで宿っていた顔無し赤子の身体が無くなったせいか、一層強力に脈動を始め出した。

こりゃ、ホントに厄介なモンだで…。少し苦しげに呟いて、イズナは地面に着地する。
金床の地表は冷たく、まだ血に濡れてぬめっていた。咽るような血の匂いだ。
蟲赤子の群れも、かなり数を減らしている。
勇儀と萃香のおかげで、劣勢に傾きかけた妖怪側が盛り返し、蟲赤子を潰しきるのにもあと一息と言った処だろう。

だが、まだ元凶である球状端末が、イズナの手の中で健在のままだ。

「だ、大丈夫かい!? おいちゃん、手が!」

にとりはリュックから伸びたアームを引っ込めて、イズナの背から飛び降りた。
同時に悲鳴にも似た声を上げてしまった。
端末を掴んだイズナの掌に、金属の塗膜が広がっているのだ。
 イズナは「大丈夫だぁよ」と、少しだけ笑って見せたが、その笑みもやはり苦しそうだ。
 押し出すように息を吐いて、イズナは片膝を付いた。
 
 「法力を応用した機術なんて、もっと半端なモンだと思っとったんだがねぇ…」
 
言いながら貌を顰めるイズナは、膝を付いた体勢のまま、にとりに向き直る。
そして、汚染され、半ば金属と化してしまった掌を開く。
其処には、金属汚染と鋼液の源泉である端末が、未だ不気味に脈動していた。
ホンマ、手間の掛かるモン残してくれたもんだで。
イズナはぼやくように言って。小さく笑って頷いた。
 
「この金属にゃあ、『命』と『現実』を鋳込まれとる。
…河童さんの治金術で、『幻想』へ還して欲しいんだわさ」

残った『命』はオイが何とかするさけに…。
苦しみに耐えながらの言葉だったのだろう。言ったイズナの額には、汗が浮かんでいた。
「うん…!」。強く頷いたにとりは、顔を上げ、イズナの背後を見て凍りついた。

亜亜亜亜亜。声がした。
飛び掛ってきている。蜘蛛とも百足とも言えない身体を持った蟲赤子だ。
蟲の身体に、人間の赤ん坊の顔。耳まで裂けた口。
口腔内は油とも唾液とも付かない液で、てらてらと光っている。
裂けきった口の両脇から獲物を捕らえる為、クワガタのようなハサミが飛び出していた。
そのハサミが、イズナの首に掛かろうとしている。
おいちゃん。にとりはそう呼ぼうとしたが、間に合わない。

だが、イズナは気付いているようだった。
一服くらいさせてくれんかねぇ…。
冴えない声で呟きながら、イズナは膝立ちのまま即座に刀を抜いていた。
柄を握る手は逆手持ち。体勢は動かさず、刀の切っ先を、脇を通すようにして突き出す。
頭の後ろに、眼でも付いてるんじゃないか。
にとりがそう思うくらい、背後に向けて突き出された刀は、見事に蟲赤子の頭部を捕らえていた。
蟲赤子の上顎を貫いて、後頭部辺りに刃が抜けている。
亜亜亜亜蛾蛾蛾蛾解――…。くぐもった呻き声を漏らしながら、蟲赤子はその場に崩れ落ち、金屑と鉄滓に還っていく。

「援護してくれるなら、ホント助かるよ。…もう一杯一杯やさけ」
イズナの疲れたような声に答えるように、深紫色の結界が、イズナとにとりを包んだ。
それと、ほぼ同時だったろうか。
すぅっ、と周囲に白い霧が立ち込め、地面を踏み鳴らす足音が一つ。


濃い靄の中に灯ったのは、赤い鬼火。
拳に剛の炎を宿した勇儀が、蟲赤子を蹴散らしながら踏み込んできた。
「なぁに…、打てる手が在る奴は守らないとねぇ。腕っ節だけじゃ限界が在るよ」
言いながら剛毅な笑みを浮かべ、結界で守られたイズナの隣に陣取る。

その灯火に照らされながら、白い霧が凝り固まり、イズナの隣に萃香の姿を象った。
萃香の貌にも少々の疲れは見えるものの、身に纏う力強さは全く衰えていない。
ロボカイに負わされた腕の傷も、もう既に塞がり、回復しつつある。

「助太刀、感謝するよ」
萃香は嫌味の無い笑みで答えてから、飛びかかって来た他の蟲赤子を殴り飛ばした。
吹き飛ぶ蟲赤子を見送ってから、にとりは唾を飲み込んで、唇を舐めた。
そうして両膝を着く様にして座り、イズナの掌に乗った球状端末へと両手を翳す。


河童はその治金術で、幻想に落ちた造形物から、現実を奪い去る。
金属に鋳込まれた『現実』を取り除き、幻想郷に在るべき『幻想』へと還す。
 
 
ぼぅ、と、イズナの掌の中に、薄緑色の柔らかな光が灯った。
イズナの掌を包むようにして翳されたにとりの掌にも、淡い緑の微光が溢れる。
にとりは朗々と詠唱を続け、球状端末の効果を解き解していく。
それに合わせ、暗銀の塗膜で覆われた大地に、ゆっくりと淡い緑の光が広がっていった。
柔らかな光に解毒されるように、金属に汚染された一帯から、木々や地表を覆う銀塗膜が剥がれ落ちていく。
茂る草木は元の植物の持つ緑へと変わり、地表を覆っていた鋼液は、気化するように薄れ、消えていこうとしている。
その光景に、周囲で残った蟲赤子を駆り立てていた妖怪達も、「おお!?」とか「うわぁ!」と驚きの声を漏らしていた。

イズナは周囲に視線を巡らせ、軽く息を吐いた。
それから、にとりの声に重ねるようにして、イズナも法術の詠唱を始める。
萃香は、詠唱に入った二人を守る為、身体の半ばを霧状態にしつつ、鬼火を掌に灯している。

何とかなりそうだねぇ…。イズナは思いながら、詠唱をしつつ再び視線を巡らせる。

蟲赤子達を追い立てる妖怪達は、傾いた優勢のこの好機に、更に激しく攻勢に出た。
その先頭で誰よりも奮戦しているのが、勇儀だった。
群がってくる蟲赤子を殴りつけ、蹴飛ばし、踏み潰し、投げ飛ばし、もう無茶苦茶だ。
乱戦の中でも、圧倒的な強さを見せつけている。
だが、その苛烈な戦いぶりは、周囲に居る数十匹の妖怪の勇気だ。
同時に勇気は伝播し、更にその周囲の妖怪達を奮い立たせる。
 
勇儀が居るなら、向こうは心配要らない様子だねぇ…。
呟いた萃香は、詠唱を重ね合うイズナ、にとりを守るように佇み、白い霧を立ち込めさせている。

霧が揺らいだ。掻き分けて来た。亜亜亜亜亜。蟲赤子が、三匹。イズナ達に迫る。
位置的には、萃香と、イズナ、にとりの背後からだった。
「させないよ」静かな呟きと共に、萃香の姿も揺らぐ。ひゅん、と音がした。
萃香の姿が霧の中に溶ける。次の瞬間だった。
飛び掛って来た蟲赤子とイズナ達の間に、拳を脇に引き込んだ姿勢で現れた。
ひゅっ、と萃香は息を鋭く吐いて、突きを繰り出す。
ばぎゃあ。ごぉん。がぃぃん。鈍く、腹の底に響く打撃音が、ほぼ同時に三つ鳴った。
蟲赤子三匹は、原型を留めない程に拉げ、霧の彼方へと吹っ飛んでいく。
それを見送って、一度周囲に視線を巡らせた萃香は、ついっと上空へと顔を向けた。

「其処にいときなよ。本調子じゃないなら、今は式と自分を守ってくれ」
 
 イズナも居るしな。…こっちは任せときなって。
 萃香は言いながら、友に向けるような朗らかな笑みを浮かべた。

ちらりと、イズナも萃香の視線の先を見遣る。


其処には、悔しそうな表情を浮かべた紫の姿があった。
その紫の隣では、ぐったりとした様子の藍が、肩を貸されるような状態だった。
顔無しの巨大赤子に飲まれかけたせいだろう。
意識はあるようだが、藍の顔色はかなり悪い。
紫としても、境界操作能力を用いて、一刻も早く事態を収めたいところだろう。
だが、未だこの土地に残る法力、法術の効果は、紫の力に制限を駆け続けている。

唇を噛みながら、勇儀と萃香、そして、イズナ、にとりを見下ろし、しきりに視線を彷徨わせている紫の様子は、酷く辛そうだった。
能力を抑えられた今でも、幻想郷の管理者と、その式として、何か出来る事が無いかを探しているような感じだ。

「焦る気持ちは分かるけど、我慢を頼むよ…」
困ったような笑みを浮かべ、萃香は空に佇む紫へと声を掛ける。
同時に、横合いから飛び掛かって来た蟲赤子を、万力を込めた裏拳で殴り飛ばした。
一撃でぐしゃぐしゃにされた蟲赤子は、砕け散り、破片を撒きながら転がっていく。
 「も、もうちょっと…!」その破砕音に混じり、にとりの呻くような声が響いた。
拳を構え直そうとした萃香も、眼を瞠る。
にとりによって治金術を施されている球状端末が、鼓動を打ち始めたのだ。
更に強い薄緑色の脈動が響き、その微光の波紋はより大きく広がっていく。
ぬくみのある波動が、夕闇から夜へと変わりつつある木々の茂みに染み渡り、銀塗膜をどんどんと剥がしていく。

影響を受けたのは、塗膜だけでは無かった。蟲赤子達もだ。
今まで蟲羽根を羽ばたかせ、機敏に、そして獰猛に萃香達を襲っていた蟲赤子達が、ビクンと身体を痙攣させた。
今の薄緑光の波を浴びて、その動きが途端に鈍化したようだ。
寧ろ、羽ばたけずに地面に落ちているものも居る。抵抗が一気に弱まった。

畳み掛けろ! そう叫んだのは、両手で蟲赤子の頭を引っ掴んだ勇儀だ。
勇儀は掴んでいた蟲赤子の頭を、グワッシャァアアンと胸の前でかち合せるようにして叩き潰した。
それが合図になった。
妖怪達は鬼の声に鼓舞され、更に猛り狂い、蟲赤子の群れを駆逐していく。

行ける。このまま押し切れる。
勇儀達が戦う様子を見ながら、萃香は思った。
萃香の纏う霧は、にとり、イズナを守っている。
それに、と萃香は視線を上空に移す。
其処には、唇を噛みながら、祈るような貌で勇儀達を見守りっている紫の姿が在る。
その紫に肩を貸して貰っている藍も、健在とは言えないが、それでも無事だ。

また、にとりの翳した両手の中で、球状端末が一際大きく脈を打った。
端末が纏っていた青黒の法力の微光は、にとりの治金術によって、もう完全に払拭されていた。
 金属への解呪と解毒を行い、にとりの詠唱は其処で途切れる。
 施術が終わったのだ。
同時だった。
ごう、と突風が吹いて、球状端末から溢れた薄緑の微光が、暗がりを染めあげた。
 光に照らされた金屑は、細かな青黒の光の粒子へと還り、風に攫われて消えていく。
 亜亜亜。啞啞啞。亞亞亞。亜亜。亞亞。啞啞――――――――。
悲鳴とも呻きとも断末魔ともつかない声が響く。

薄緑の光に照らされ、塵に還ろうとしている蟲赤子達が。
妖怪達に狩り立てられ、バラバラに砕けた蟲赤子達の残骸が。
一斉に泣き出したのだ。

萃香は鳥肌が立ったし、勇儀も、妖怪達も、思わず身を引いていた。
しゃがんだままのにとりが、小さく悲鳴を漏らしたのが聞こえた。
イズナは貌を顰め、泣き出した蟲赤子達の群れへと視線を向ける。

 それは、まるで聖歌だった。
 勝手に産み出され、そして消えようとしている命が詠う、慈雨を求める歌だ。
 自分達を生み出した者を呪う呪詛でもあり、生きたいと願う切実な賛美。

鳥肌ものの輪唱だった。何かを求め、呼んでいるような。
無邪気で、悪意の無い赤子の声が、重なり合い、響き合う。
その声すら、薄緑の光の脈動に攫われ、弱まっていく。

誰も、その場を動く事が出来なかった。
蟲赤子の歪な歌声は、意味不明の感情を聞く者に呼び起こしていた。
それは感動なのか、悲哀なのか、寂寥なのか、好意なのか。
どれとも違うし、似ている。ただ、圧倒され、動けない。
 
 萃香の心に内に巻き起こったのは、強烈な淋しさだった。
 今まで味わった事が無いような孤独感。押し潰されそうだ。
 歌は容赦無く聞こえてくる。
ああ。一人は嫌だった。分かるよ。皆と一緒が良い。
寂しい。誰か。誰か。
 混乱と共感がいっぺんに来て、萃香は自分の能力を制御できなくなった。
気付けば、泣いていた。

耳を塞ぎたくなるような、もっと聞いていたいようなおぞましい歌声は、徐々に小さくなっていく。

掠れて、聞こえなくなっていった。
蟲赤子達の姿が光の粒に還り、影も形もなくなって、空気の中に融けていく。
後に残されたのは妖怪達だけだ。
歌声が響いていたのは、一分も無かった筈だ。
それでも、誰も彼もがその場に、呆然と立ち尽くしていた。

…―――香―――萃香――…!
呼ばれて、萃香ははっと我に帰った。すぐ隣に、紫が降りてきていた。
酷く心配そうな貌で、萃香の顔を覗き込まれている事に気付き、萃香は慌てて涙を拭う。
 
 「大丈夫!? 何処か怪我でも…!?」
 そう言った紫の表情も、かなり辛そうではある。
 紫の肩を借りている藍は、まだ意識が朦朧としているようだ。
 
 「ああ。何でも無いよ…。
あの赤子達の声の…何か妙な力にあてられただけさ」
 
 軽く頭を振って、萃香は紫に答える。
 そして、敢えて紫の顔を見ずに、周囲を見渡した。
 
地表や木々を覆っていた塗膜は、ほぼ完全に拭い去られている。
 ただ、血で濡れた草木はそのままだったが、金属の煌きはもはや何処にも見えない。
妖怪の山は、元の姿に戻っていた。
そう見える。戦いは終わった。脅威を退けたのだ。
 イズナはまだ何かを唱えているが、にとりの方はキョロキョロと視線を彷徨わせている。
 
立ち尽くしていた妖怪達も、自分達の勝利を感じたのだろう。
 我に帰った妖怪の内の一人が、勝鬨の咆哮を上げた。
 それは次々と連鎖していく。皆、自分達の勝利を喜んでいる。

 ただ、その歓喜の中に居て、勇儀だけが渋い貌をしていた。
 萃香も同じだ。
 
確かに、脅威は去った。
 妖怪達が蟲赤子を抑え、その間に、紫とイズナが顔無しの巨大赤子を仕留めた。
 藍と勇儀のフォローと、球状端末を解呪するにとりを、萃香が守りきった。
 
 結果を見れば、勝利だ。
しかし、この違和感は何だ。
 その正体が分からないまま。萃香は、周囲を見渡す事しか出来ないでいた。

 紫も、萃香と同じように、注意深く辺りを観察している。
妖怪達の勝鬨は、空々しく、やけに虚しく聞こえた。 
にとりは、その勝利のムードにほっとしたのか。
深い溜息を漏らしながら、ぺたんとその場に座りこんだ。
イズナの手の中に在る端末は、にとりによって解毒、解呪され、もう脈動も消えている。

その筈だった。
亞亞亞亞AAAAAAHHH啞啞啞啞啞啞ああああ亜亜亜亜亜――――。
 妖怪達の咆哮の中に、聞こえてはならない声が混じりだしたのは、その時だ。
薄氷が割れていくような音と共に、その声はさらに大きくなって、一帯を包み込んだ。
 
どよめきが起こるよりも先に、悲鳴が上がる。
 此処から離れろ、と叫んだのは勇儀だ。その声は、今までで一番切羽詰っていた。
勝鬨を上げていた妖怪達は、皆散り散りにその場から逃げ出すようにして踵を返した。
 逃げ散る。勇儀もだ。
  
萃香と紫は、その光景に眼を疑った。
 何で…、と消えそうな声で呟いたのは、身体を震えさせるにとりだった。
蟲赤子達の断末魔の歌声は、法術による汚染とはまた違った形で、この土地に呪いを掛けていた。
 
妖怪達が居た場所。その地面から、何かが広がっていく。
今までの様な暗銀色の鋼液では無かった。黒っぽい茶色だ。澱んだ赤茶色にも見える。
あれは錆びだ。
大地が、錆びていく。
黒コートの男は、膜のように液状の金属で森を覆っていたが、これは違う。

あの広がって来る錆びは、この土地に宿った一つの『命』だった。
存在する植物や土を、金属に変えて、即座に腐食させ、飲み込んでいく。
 塵へと還った蟲赤子の命が一つに混じり合い、のたくって、妖怪の山を蝕んでいる。
 
 紫は咄嗟にスキマを開こうとしたが、やはり駄目だった。
 有刺鉄線に縫われたスキマが現れるだけだ。その有刺鉄線も、錆でボロボロだ。
 まだ、紫を縛る法術は生きている。
この土地から孵った錆の化身が、境界操作を妨害する法術を保っているようだ。
 
亜亜亜亜ああ亜亜亜亞あああ亞亞亞啞啞啞啞啞嗚呼。
 
 地面から響く、歪んで重なり合った声に、妖怪達は更にこの場を離れ、逃げようとする。
 だが、それで正解だった。
逃げ遅れた一人の妖怪が、錆の波に飲み込まれたのだ。
狼の獣人のような、筋骨隆々の人型の妖怪だった。
妖怪の身体が、瞬く間に金屑と鉄屑に変わり、変わった途端に錆びて、ボロボロに崩れ落ちていく。
 悲鳴を上げる間もなく、獣人の妖怪は絶命した。
 錆の波は、更に餌食を求め、アメーバのように不定形に伸びて、魔の手を伸ばして来る。
 
 「こいつは手の出しようがないねぇ…くそ…!」
 萃香も、歯軋りしながら後ずさった。
 
紫も、藍に肩を貸したまま、半ば立ち尽くしかけた。
だがそれでも、自暴自棄になるほど混乱はしていない。
 もしそんな事になってしまえば事だ。
何か方法は。どうすればいい。どうすれば。
 早口で呟きながら、紫は必死に考える。だが、そう都合よく解は出てこない。
 …紫様。此処は…危険です。一度、離れましょう…。
 今までぐったりしていた藍だったが、無茶をしそうな主の空気を感じたのか。
 掠れた声で、紫に呼びかける。イズナの詠唱が終わったのは、それとほぼ同時だった。
 
 「紫姐さん、此処はオイに任せてくんなまし。
  萃香ちゃん、にとり嬢ちゃんと一緒に、ちょいと離れといてくだせぇ…」
 
 膝立ちの体勢からゆっくりと立ち上がりながら、イズナは微笑んで見せた。
 余計な力の入っていない、自然体の笑みだった。
 そのイズナの身体からは、白い靄のようなものが、ゆらゆらと立ち上っている。
 白い靄は煙のようでもあり、法力の微光を宿していて、魂の燃焼を思わせた。
 
 「何か…手が在るのかい?」
 
 紫よりも先に口を開いたのは、押し寄せてくる錆を一瞥した萃香だった。
 やはり鬼とは言え、流石に体力を消耗しているのだろう。その貌には、余裕はもう無い。
 イズナは頬を人差し指で掻きながら、一応はね、と頷いて見せた。
 萃香は、少しだけ辛そうに貌を曇らせる。それから、すまないね…、頼むよ、と呟いた。
 
その言葉に頷きを返しながら、イズナは紫の傍に歩み寄る。
そして、「ちょいとごめんねぇ…」肩を貸していた藍へと左の掌を翳した。
 掌と、藍の間。白い微光で象られた法術陣が現れ、まだぐったりした様子の藍を癒す。
魂と精神に負った傷を治して行く。
その間にも、ZUZUZUZUZUZUZUZUZUZUZU…と、錆がうなりながら押し寄せてくる。

「おいちゃん…」と、心細い声で言ったにとりは、カタカタと身体が震わせていた。
球状端末を持つ両手にも、ぎゅっと強く力が込められている。
藍を治療しながら、イズナはにとりに視線を向け、片目を瞑って見せた。

「大丈夫さ…。何とかしてみせるさけに」
 
 うん…、と小さく頷いたにとりの頭に、イズナは右手の掌をぽんと乗せた。
そして、帽子の上からわしゃわしゃと撫でてやりながら、藍の治療を終わらせる。

「これで、藍さんもちょっとは楽になったと思うけど…。
 さぁて、ほんじゃ…ちょいと派手に行ってきまさぁ」

紫に向き直ったイズナは、表情を引き締める。
「他の妖怪さん達も、安全なとこまで誘導したって上げてよ」
その声音は威圧的では無かったが、有無を言わさない迫力があった。
逡巡の様子を見せたが、紫は神妙な貌で、イズナの言葉に頷いた。

「無茶はしないで…」

「はいさ」
イズナも、紫に頷いて見せて、歩き出した。
ゆっくりと、しかし確実に押し寄せてくる錆の化身へと。
ZUZUZUZUZUZUZUZUZUZUZU…。ZYUZYUZYUZYUZYUZYU…。
妖怪の山が蝕まれる音が、更に大きくなる。近づいて来る。
そろそろ、此処も危険だ。

萃香はにとりを背負い、駆け出した。
紫も、藍に肩を貸したまま宙に身体を浮かせ、低空を飛びながら、この場を去る。

ZUGUGUGU。ZUGUZGUZGUZU…。
ZYUGUGU…、ZYUBUZYUBUZYUGUZYUGU。

豊かな自然が、錆と鉄滓になっていく音だけが聞こえる。風は無い。
もう、妖怪達の姿は見えないし、悲鳴も怒号も無い。

この場に残っているのはイズナと、赤錆と膿の集合体と成り果てた、蟲赤子達の魂だけだ。
不定形のスライム状態の塊は、貪欲だった。
 膿と鉄屑、赤錆と鋼液の濁流が、蠢き、広がってくる。
 薄暗がりの森の中には、木々がへし折れる音と、腐って崩れていく音が木霊している。
 それは、喰う、というよりも、呑み込んでいる、という表現の方が正しい。
 奴は、何もかもを錆び付かせて、取り込んでしまおうとしている。
 
 させんよ。んな事は。

 イズナは左手で持った刀を肩に担ぐようにして、すっとその場に膝を着いた。
 そして、右の掌を地面に押し付ける。汚染され、錆び付かされた掌が、ギチギチと鳴る。
 痛みは在ったが、集中力がそれを上回っていた。

 相手が悪かったねぇ…。いや、相性って言うべきかな。
 木々をへし折り、地面を飲み込んで押し寄せてくる赤錆と膿の雪崩に向かって、イズナは呟いた。
 それから、集中するように、ふぅぅ…、と息を吐く。
吐息は凍え、白く煙った。鈴の音が響き、粉雪の混じる冷風が吹き抜けた。
急激に温度が下がりつつある。
イズナの纏う白い靄が、渦となって巻き上がり、地面に巨大な陣を描き出した。
もう一度鈴が鳴った。暗がりの中に、澄み渡った音が響く。

 その鈴の音に答え、白い光がイズナの足元が溢れ、辺りを真っ白に染め上げた。
 光は飽和して、渦を巻いていた白い靄は、吹雪となって吹き荒れる。
 
 GUZUGUZUGUZUGUZGUUUUUUUUUuuuuuuuuu…――― 
 赤錆の集合体に、知覚や思考力が備わっているようにはとても見えない。
だが、それでも何かを感じたのだろう。大地を侵食する速度が明らかに落ちた。
怯んだのだ。

 朗々と唱えられる声に応え、大地に描かれた白の法術陣は、吹き荒ぶ雪風に形を与えていく。

にとりが球状端末の解毒を行うと同時に、大規模な召還術の準備をしていた。
己の魂を燃焼させ、この幻想の世界に顕現させる為、自らの身体に法術を施し、待っていた。
 蟲赤子の魂が、『命』が、大地に再び還り、宿るのを。
 そして、それは赤錆と膿の化身と成った。
同時にそれは、この大地に宿った「付喪神」と同義だ。
 
 
人も妖怪も、心を込めて作ったものには、魂が宿る。
 イズナは其処から、魂を抜き取る術を知っている。

治め、塗り替える術を知っている。
 バックヤードという情報世界に生まれたが故。
特異な術を扱う事が出来るイズナは 対付喪神に於いて、無類の強さを発揮する。
 その一つの形として、一撃で相手のマスターゴーストに致命傷を与える仲間を模して、召び出す。
 
 吹き荒ぶ雪風が、嘘みたいに止んだ。
暗がりも夕焼けもへったくれも無く、何もかもを染め上げた白い光も、眩さを無くしていく。
 代わりに、地鳴りのような轟きと、ズズゥゥゥン…、という、短くも巨大な振動。
 
 何がどうなったのか。
 召還を行使したイズナ自身も、すぐには状況を把握仕切れなかった。
 
 馬鹿馬鹿しい程すんなりと、イズナは召還を終えた。
 それも、準備あればこそであり、当然、リスクが無い訳では無かった。
 
時間が掛かりすぎるし、自身の法力の消耗も馬鹿にならない。
はっきり言って深刻だったが、良い案がこれしか浮かばなかった。
 おかげで、意識が飛びかけているし、頭がしゃっきりしない。
 立っているのか。座っているのかすら曖昧だ。
 ぐわんぐわんと景色が揺れて、吐き気がした。こりゃいかん…。
 イズナは握った刀の鍔で、額をガツンと殴った。強く瞬きをして、頭を振った。
 
次第に、視界がクリアになる。
 揺れを感じた。頬を撫でる風も。上手く行ったみたいだね。
 刀を握る手に、再び力を込める、

イズナは、夕闇に染まった森を見下ろしていた。
 座り込むような姿勢だが、身体は何とか起こしていられる。
 ふぅ、と一息吐いて、疲れたようにイズナは薄い群青の星空を仰ぐ。
 
「しっかり決めちまわないとねぇ…」
 
 NUuuuuuuuuuuunnnnnnnnnNNN―――――…!!
その呟きに応えたのは、イズナを肩に乗せた、とてつもない巨体を誇る大妖怪・でいだーらだった。
 
 その白い身体には金銀の紋様を刻み、桜花を散らせる枝を生やしている。
 舞い散る花びらは雪風に吹かれ、汚染された大地を慰めるかのようだ。
 巨木を模した二本の角と、背に並んだ鳥居、手にした大槌は神々しさを湛えている。
だが、何処か愛嬌のある尻尾、もふもふとした優しそうな顔がミスマッチだ。


赤錆と膿の化身となった付喪神にとっては、でいだーらは悪夢のような存在だった。
その巨体は、膿溜まりの裕に倍はある。
手にした大槌は、卵を割るように容易く魂の殻を叩き割る。
其処に例外は無い。
ぶっ叩かれれば、土地でも建物でも、中に宿った命など粉々だ。

UGOGOGOGOGOOUUUUUuuuOOOOooooooooooo…―――。
潮が引くように、のたくっていた赤錆と膿の塊は、逃げようとしていた。
だが、もう遅い。
イズナによって召還されたでいだーらは、桜花が吹き上がる中、吼えながら大槌を振り上げていた。

王手…。
イズナが呟いてから、間は数秒だった。
呆気なく、そして、荘厳ささえ感じさせる動作で、でいだーらは大槌を振り下ろした。
祓魔の大槌は、情け容赦無い一撃だった。
 音というよりも、衝撃だった。
幻想郷全体を揺るがすような、視界がめちゃくちゃになる様な爆音。
GYOOOOOOOOOOOOoooooooooohhhhoooooooooouuuuuuuuuuuuuuu―――。
赤錆と膿が爆散して、弾けて、声とも音ともつかない断末魔を上げた。
魂が砕かれる音が聞こえた。残酷な音だ。叩き潰された意識の悲鳴だ。
暴風と衝撃波が、周囲の木々を揺らすどころか、吹き飛ばす寸前だった。

その激烈な一撃を前に、生まれて間もない付喪神は、無力だった。
相手が悪いと、イズナは言った。その通りだった。

今度こそ、還っていく。蟲赤子達の命が、完全な無へ。
赤錆は崩れ、土となって地へ還る。
膿は気化して、薄れ、消えていった。
今までの騒乱の元凶が、降り来る斑の雪よりも儚く散っていく。

緩い雪風は、不思議と暖かった。


この土地に掛けられていた、境界操作を縛る法術も、諸共砕けたのだろう。
青黒い法力の微光が、粒子となって雪風に攫われていった。

その様をでいだーらの肩から眺めながら、イズナは眼を細める。
今度はもっと、別の形で会えるとええね…。呟きと共に漏れた吐息は、白く曇った。
無へと帰り、バックヤードへと収束する魂の名残を見詰める。
汚染された大地も、でいだーらの霊気によって浄化されていく。

ふら…、と、イズナの身体が揺れた。

限界が来たようだ。イズナはくらつく頭を手で押さえ、刀を鞘へと納めた。
汚染されていたイズナの掌も、もう元に戻っている。
痛みはもう無いが、それ以上に凄まじい疲労に襲われ、立っていられない。

BUUuuuuuoooooooooooooo…。
でいだーらも、気遣わしげな声を上げて、肩に乗るイズナへと顔を傾けた。
大丈夫だぁよ。イズナは、疲れた笑みを浮かべながら、その肩から飛び降りる。

その着地した足元。荒れた大地からは、新たな草木が芽吹き始めていた。
土地が、もう息を吹き返しつつあるようだ。

一件落着…とはいかんけど、駄目だ。ガス欠っぽいね…。
イズナは、ふらふらと覚束ない足取りで、一本の木の幹へと身体を預ける。
そして、心配そうにこちらを見詰めてくるでいだーらを見上げる格好で、腰を下ろした。

鈴の音が鳴って、粉雪が宙で砕け、消えていく。
召還法術も限界のようだ。
イズナが自身の法力で象ったでいだーらの巨体が、粉雪と共に消えていく。
少しずつ薄れて、見えなくなっていく。舞い散る桜花も一緒だ。
見る者の心を奪うのに、十分な美しさを持ったその光景を見上げながら、イズナは深く息を吸い込んだ。

 眼を閉じて、息を吐いた。
鈴の音は変わらず澄んでいたが、その吐息は、もう白く曇る事は無かった。
悪いねぇ…。ちょいと一服させて貰うよ…。
 誰に言うでもなく呟いて、イズナは眼を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「やぁ、久ぶりだね」
奴は本当に、道端で旧い知人に偶然出くわしたみたいな気軽さで、声を掛けてきた。
 顔色が悪く、肩まである艶のある髪が、やけに不吉だ。
 痩躯を包む、厚手の黒コートもそうだ。
得体の知れなさを強調していて、まったくひ弱そうには見えない。
 寧ろ、あからさまな危険人物に仕立て上げている。
 眼鏡の奥で細められた双眸には、飢餓にも似た好奇心と、無慈悲な理知が宿っていた。
 その癖、野心のようなものは全く感じられない。
 気味が悪い位に、奴は落ち着いている。
 
 纏う空気が、人間のものじゃない。
 御蔭で、不意打ちを喰らう嵌めにはならなかったが、もっと最悪な状況だ。
 どうやって此処に現れたのか。どうやって此処まで辿り着いたのか。
 いや、どうやってもへったくれも無い。
 奴は街道を真っ直ぐ突っ切って、嫌味なくらいゆったりと歩いてくる。
 街道で、農具や武器を持って自衛にあたっていた里の男達も、混乱しているようだ。
 
 何だ、アイツ…。
 何処の奴だ。見ない顔だぞ。
やばいんじゃないか。
おい、アレ…!。
 
 次第に、里の男達の間にどよめきが広がっていく。

 油断していた訳じゃない。
 此処に居る全員が、気を張り詰めさせていた。
アリスも、慧音も、ソルもだ。誰も攻められらない。
 奴は、濁った水みたいに静かに流れて来て、この里の中に紛れ込んでいた。
 
 
寺小屋の玄関前。
其処から見える日常の光景。
それらが夕陽と共に沈んで、黒く塗り潰されていくような感覚を覚え、アリスは身震いした。
後ずさらなかったのは、偶々だった。
怯みかけた自分を鼓舞する為、アリスは何かを唱えながら、トランクを地面に放る。
そして、手にした画板のように分厚い魔道書を開いた。
地面に落ちたトランクがバクンと開いて、中から無数の人形が溢れたのは同時。
展開される人形の戦列と、それを盾にしたターボスペルで、アリスは臨戦態勢を取る。

 だが、慧音は、構えることが出来なかった。
街道から歩いて来る男を見詰め、慧音は愕然とさせられた。
アリスの隣に立った慧音は、後ずさるとか以前に、動けなかった。
なんで…、そんな…。震える唇から漏れる声も、小刻みに震えている。
無理も無い。当然だった。

歩いてくる男は一人じゃなかった。

男の少し前を歩く形で、一人の少年と、少女が並んで歩いていたからだ。
慧音から見て、右が少年で、左が少女だった。
良く知った顔だ。
最悪なことに、彼女の教え子の姉弟だった。
良く勉強の出来る姉に、腕白な弟だ。

姉弟の貌は恐怖で引き攣って、泣くどころでは無いようだった。
 
逃げられないようにされている。
 姉の胸元に。そして、弟の喉首に。
金属で出来た蜘蛛が、がっちりと張り付いてた。
 蜘蛛の爪が食い込んで、皮膚からは血が流れている。姉弟の着物は、赤く濡れていた。
 だが、痛みに泣くことも出来ないほど、恐怖が勝っているようだ。
 ガチガチと歯の根を震わせて、姉弟が男の前を歩いている。 
 
 「案内ありがとう…。もう少しだけ、一緒に居てくれるかな」
男は優しげに言いながら、背後から子供達の肩に触れて、その歩みを止めた。
 短く悲鳴を漏らしたのは、姉の方だ。
弟の方も、腰を抜かす寸前だろう。脚がガクガクと震えている。

その二人の様子を知ってか知らずか。男は「ごめんね」と謝って、顔上げた。
両手は、まだ子供達の肩に乗せられたままだ。
街道に居る男達は騒然となっていたが、そんなものは全く気にも留めていない。
黒コートの男は、冷静な眼のまま、少しだけ笑みを作って見せた。

「僕が幻想郷側に居たなら…僕だって、君を此処に置きたいと思っただろうしね。
 此処に来て正解だったよ。…リスクに見合う収穫だ」

「……外道が…」
ソルは剣を肩に担ぎながら、アリスと慧音の前に出る。
金色の眼を物騒に細めたソルの凶相にも、男は全く怯む素振りを見せない。
変わってないね、君は。と、怯むどころか、懐くかしむように笑みを零した。

「変わってないな。本当に。君は不変なんだね。
辛くないかい? 誰にも望まれて無い復讐を、まだ続けてるのかい?
 可哀相に…。見てられないよ」

ソルはぐっと身を沈めた。飛び掛る肉食獣のような姿勢だ。

「駄目! 止めて!」
慧音が悲鳴を漏らした。震える声は、もう涙声だった。

「待ちなさい! ソル!」
咄嗟に叫んだアリスも、唇を噛むより他無かった。
展開した人形達を全く生かせない。戦力的には、圧倒的に優位に居るはずだ。
ただ、恐怖に震える事しか出来ない姉弟が、ソル達を動けなくしていた。

「出来ないよ。変わってない君じゃあ。この子達を斬れないだろう?
 今の君じゃ、僕まで届かないよ。君は兵器として不全だからね」
 
 男は余裕の笑みすら見せない。ただ、じっとソルを見据えて居る。
 
 「そんな様で、『GEAR MAKER』に挑むつもりなのかい。
  勝機は無いと思うよ。君が勝てる可能性は、限りなくゼロに近いんじゃないかな…」
 
ソルが、更に身を深く沈めた。濁った赤燈の炎が、封炎剣に宿る。
だが、動かない。動けない。アリスも同じだった。
 どうしようも無い。封殺されている。
 
「頼む…。その子達を、放してやってくれ…」
悲痛な声で懇願したのは、慧音だった。男は訝しげに眉を顰める。

「そうは言われてもな…。こうでもしないと、話合いにならないからねぇ」

何が話し合いよ…。アリスは男をねめつけて、吐き捨てた。
ソルは黙ったまま、金色の眼を細める。

「お願いだ…! 何でも、何でもする! だから…!」

止めてくれ。助けてくれ。その子達を。傷つけないで。お願い。
お願いします。どうか。助けてください…。
縋るような声音になっていく慧音の言葉に、子供達もとうとう泣き出した。
 男の方は心底困った顔になって、視線を彷徨わせた。
 気付けば、寺小屋の玄関を囲む形で、里の男達が取り囲んでいた。
 皆殺気立ち、今にも黒コートの男に、背後から雪崩掛かりそうだ。
 
 本当に危うい所で、この場の拮抗が保たれている。
 黒コートの男は、何かを思索するように眼を伏せてから、ソルを見た。
 次に、アリスを見て、最後に慧音で視線を止めた。

「じゃあ、手っ取り早く行こうか…」

子供達の泣き声が、まるで別の世界の事のように響いている。
 
 「ミスターバッドガイ。君が、僕と手を組んでくれるなら、男の子を返そう。
  それと、この隠蔽結界の仕組みを教えてくれれば、女の子を返すよ。
  勿論、この蜘蛛達も外すし、ちゃんと治療もする。約束するよ…」
 
 どうだい、悪く無い条件だろう。
そう言った男の声は、真剣だった。
 
 「…貴様が…約束を守る保障が無い…」
 ソルは言いながらも、封炎剣に灯していた炎を消した。
 
 「それは、僕も言えることだよ。
子供達を解放した後で、僕は君に殺されるかもしれない。
それに、隠蔽結界にしたって、嘘を教えられるかもしれないからね…」

だからまず…、と、男は、ソルの眼を見詰めながら、少しだけ笑った。

「プロトタイプである君を…ギアとして完成させて、抵抗の意思を取り除かせて貰う。
 ドラゴンは、卵から孵る前に殺してしまおうってだけの話だけどねぇ…。
君を真っ向から無力化するよりは、ずっと効率的だろう」

  それに、この約束にも強制力が生まれる。
君次第だよ。ミスターバッドガイ。
  
 



[18231] 二十七話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/09/14 21:19
さぁ、どうするんだい。…ミスター・バッドガイ。
黒コートの男の眼は、ソルの反応を観察するように細められている。
無遠慮で、冷静で、冷徹な眼だ。ソルの反応を楽しんでいる訳では無い。
分析して、理解しようとしている。
その視線は、およそ生き物を見る眼では無い。

何故、あんなに無機的な眼が出来るのか。
慧音には理解出来ない。したいとも思わない。
ああ、と、声が漏れた。自分の生徒が。教え子が。
今。眼の前で、命の危機にある。
踏み出せば。駆け出せば。手が届きそうな距離だ。
だと言うのに。遠い。なんて遠いんだ。
まるで、違う世界の光景を覗き見ているような気さえする。
悪夢を見ているような、現実感の伴わない恐怖は、慧音の動きを縛り付ける。

黒コートの男は、そんな慧音を見ていない。
ソルだけだ。ソルだけを見ている。
吐息を漏らすような小声で、何かを唱えているアリスにも、黒コートの男は眼を向けない。
淡々とした男の眼は、眼鏡の奥で更に細められていた。
余裕や嘲りなどの、余計な感情を一切を持たない眼は、何処までも冷静なままだ。
或いは、詠唱中のアリスを無視する程、ソルの反応を真剣に観察している様でもある。

アリスは既に臨戦態勢に入っている。
展開された人形達は、可愛らしい貌には不釣合いな重厚な兜鎧を着込んでいる。
手に長大な突撃槍を持つ人形も居れば、巨大な剣を両手で構える人形や、盾と片手持ちの剣で武装した人形も居る。
それは一つの部隊であり、統率のとれた戦隊だ。
風に攫われてしまいそうな程の小声で、朗々と唱えていたアリスの呪文が止んだと同時。
ガシャガシャ!、と、金属同士が強く擦れるような音がした。
かなり威圧感が在る音だったのもその筈。人形達が一斉に武器を、男目掛けて構えたのだ。
黒コートの男を囲むようにしていた里の男達も、その音に怯んだようだ。
人形達が着込んだ西洋風の重厚な鎧兜。その面頬や板金の隙間からは、アリスが込めたのであろう魔光が薄く漏れていた。

淡い青の魔光を纏うもの、薄い朱色の光を揺らめかせるもの。
仄暗い紫、やや明るめの緑色の光が漏れたりしている人形も居た。
それは、武装した人形達に命を込める、七色の魔光だった。
街道は、不気味な静寂に覆われている。
その中に、アリスの扱う魔法の光だけが、夕闇に帯を引いていた。


眼の前で隊列を組み、武器を構える人形達はやはり恐ろしく見えたのだろう。
人質となった姉弟は悲鳴を堪えて、後ろに下がろうとした。
だが、その二人の肩を、後ろから掴むようにして支える手が在った。
厚手のグローブがされていて、妙に大きく見える。

「おっと、物騒だねぇ。…もう少し、穏便に行こう。子供達の前だよ」
黒コートの男はわざとらしく驚いて見せて、それから微かに唇を歪め、首を傾けて見せた。
ついでに、両手に力を込めたのだろう。子供達二人の小さな悲鳴が聞こえた。
ビクッ、と姉弟の身体が震えて、その泣き声が途切れる。

「この子達を死なせたくないだろう? 僕も同じだ。
出来れば、無駄に命を奪うような事はしたくないからね」

戯言を…。
呻くように呟いたアリスの手の中で、分厚い魔道書が独りでにバラバラと捲れる。
魔光が漏れ、人形達を繋ぐ霊糸が、指に繋がる煌きを返していた。
人形達はまだピタリと静止しているが、アリスが少し指を動かせば全軍突撃が出来る構えだ。

ソルも、その相貌を微かに歪めて、逆手に持った封炎剣を構えられずに居る。
ただ、半身立ちの状態で、すぐに動ける姿勢のままだ。
金色の眼も、今までに無い程に物騒な光を宿している。

ただ、慧音だけは、黒コートの男と対峙出来るような精神状態では無いようだ。
切羽詰った表情のまま、左拳を握り固めて、右手で自分の胸元を掴んでいる。
体は震え、血が出る程に唇を噛んで、ただ縋るような眼で男と、子供達を見比べている。
せ、せんせい…。せんせい…。痛いよ。せんせい。助けて。助けて…。
子供達の泣き声は、慧音の心を揺さぶる。何か言おうとしたが、それは声にならない。
ただ、何かを言いたげに口が動いただけだった。
多分、言葉は無意味だ。例え何を言っても、あの黒コートの男には届かないだろう。
どんなに誠意と心を込めてお願いしても、頼み込んでも、無駄だ。
あの黒コートの男は、絶対に聞く耳を持たない。
きっと、さっきと同じ様に「君に頼まれてもなぁ…」などと言われるだけだ。

どうにも出来ないのか。
この圧倒的に不利な状況を変える術は無いのか。

だが、寺小屋の玄関を囲むようにして集まった里の男達は、そうは思っていないようだ。
黒コートの男を取り囲んだ今の状況が絶対的に有利で、まだ何とか出来ると考えている
だから、じりじりと黒コートの男に、背後から近づこうとしている者まで居る。

ソルやアリス、慧音が声を掛けて止めるよりも先だった。
黒コートの男が、肩越しに背後を振り返った。
攻撃的だなぁ…。この里の人達は、もっと温厚なものだと思っていたんだけどねぇ。
姉弟の肩を掴みながら言って、黒コートの男は唇の端に笑みを浮かべた。
緩く、温和そうな笑みだったが、だからこそ、恐ろしい笑みだった。
流石に、誰も動かなかった。

「そんな武器で、僕をどうこうしようっていうつもりなら…空気を読んだ方が良い」
それでも何かしようって言うんなら、まぁ…、出来るかどうかやってみると良いよ…。

黒コートの男はぐるりと周囲を見回して、また少しだけ笑って見せる。
それっきり、自身を囲んだ里の男達から、黒コートの男は視線を完全に外した。
里の男達に、痩身の男の背中がどれだけ無防備に見えているのか分からない。
ただ、もう距離を詰めようとしている者は居ない。
どよめきも消えて、息を呑む音だけが聞こえた。

だが、それで良い。

アリスは、詠唱をしながら蒼い眼を細める。
これ以上『人質』が増えてしまえば、もう手に負えない。

ゴツ…、と重く、低い音がした。隣からだ。
聞きなれないその音が、ソルの足音だと気付くのに、少し時間が掛かった。
ソルの歩みが、落ち着き払った、それでいて悠然とした足取りだったせいかもしれない。

慧音とアリスよりも前に歩み出てから姉弟を見比べ、ソルは鼻を鳴らした。

「…先に…餓鬼を放せ…」

「それは出来ない相談だねぇ。この状況じゃあ…」

それから、黒コートの男はわざとらしく肩を竦めて見せる。
この子達の御蔭で、僕の命が繋がってるようなものだからね…。
黒コートの男は言いながら、また両手に力をこめたようだ。
ひっ、と、悲鳴がした。

その小さな悲鳴に、慧音の胸が締めつけられた。
息が上手く出来ない。眩暈がする。気が遠くなりそうだ。
力が抜けそうな体に渇を入れる為、慧音は更に強く唇を噛んだ。
ぶちぶちと肉が千切れるような感触が、歯に伝わり、口の中に血の味が広がる。
痛みは気にならなかった。
何でもする。その覚悟は在るつもりだ。
黒コートの男の出した条件を反芻しながら、慧音は深く息を吐く。
落ち着け。そう図自分に言い聞かせる。
無理だ。心臓は不規則に、それでいて激しく鼓動を打っている。
慧音が見詰める先で、人質となった子供達と眼が合った。
姉弟の二人の貌は、涙でぐちゃぐちゃだった。

里を守る為の隠蔽結界。
その正体を黒コートの男に伝えれば、弟の方は助けよう。そう男は言っていた。
黒コートの男の言葉を信じるなど愚かな事だろう。分かっている。分かっているんだ。
それに、隠蔽結界を解かれるような事態になれば、里の防備は一気に薄くなってしまう。
“歴史”という防壁が無くなれば、里は大きな危機の中に放り込まれる。
子供達を見捨てろ。慧音の頭の、最も冷静な部分がそう呟いた。
里の者達の為ならば、子供二人の命など安いものだ。
今以上に里を危険に晒す事になれば、それこそ一人二人の犠牲などではすまなくなる。

頭の冷静な部分では理解できている。
しかし、それでも。

「条件を呑まない、っていう選択も在りだよ。
まぁ…あまり悩まれて、時間を稼がれると僕が不利になるからねぇ…」

そうなると、代わりにこの子達を貰っていく事になるけど。
男のその言葉に、周囲を囲んでいた里の男達からどよめきが起こった。
この野郎! 子供達を放せ! 人でなしめ!
口々に罵る声が上がったが、黒コートの男は涼しい貌のままだ。

「そう言う割には随分と余裕ね…。
此処から脱出する手段でも、もう用意してあるのかしら…」

アリスは黒コートの男を睨みながら言って、少しだけ指を動かして霊糸を操る。
兜鎧を着込んだ人形達が、僅かに男に距離を詰めた。
其々の人形達が構える、重厚な武器が鈍色の光を放っている。

黒コートの男は一瞬、思案するように眼を伏せる。
だが、すぐに肩を竦めて、そういう事さ…、と呟いた。

「ノーリスク、という訳にはいかなかったけれどね」
人形達の凶器の煌きを前に、黒コートの男はアリスを一瞥してから、ソルへと視線を戻した。

「急送型の転移法術を既に起動させてあるから…僕はいつでも、此処から離脱出来る。
 序に言えば、他にも蟲達を里に潜ませてあるんだ。
だから…余計な真似はしない事をお勧めするよ。ミスター・バッドガイ」

気付けば、何かが燃えるような音が、アリスの耳に聞こえた。
半身立ちのソルの右手に、濁った赤燈色の炎が宿っていたからだ。
重心もほとんど落としていないが、それでも、ソルと黒コートの男の間合いは近い。
ソルならば、一瞬で間合いを詰め、剣を薙ぐことも出来るだろう距離だ。

しかし、黒コートの男の言葉と視線に、ソルは低く呻ったようだ。
そうして、何かを諦めるように、手に宿っていた炎を消して、黒コートの男に向き直った。

「……探知結界の強力さが……裏目に出たか…」
独り言のように呟いたソルの声は、抵抗する意思が伺えない声音だった。
ソルの動向を見守っているのは、アリスも、里の男達も同じだ。
兜鎧を纏った人形達だけが、また少し包囲の輪を縮める。
黒コートの男は、相変わらず穏やかな貌のまま、自分を取り巻く者達を順番に見比べた。
そうして、ふっと笑みを口許に浮かべる。

「いや…敢えて抗うかい。引き換えに何人死んでも、君にしてみてれば無関係の人間だ…。
…人道を踏み外すいい機会だと思うよ。
そうなったらそうなったで…君にどんな変化が現れるのか、興味も在るしねぇ」

黒コートの男の声は、特にトーンが変わったりしていない。
落ち着いた声のままだ。

慧音は悪寒以上に恐怖を覚えた。
 人間を人間とも思わないような輩は、人の中にも妖怪の中にも居る事は居る。
 そんな輩は冷酷であったり、残虐であったり、度が過ぎた加虐思考の持ち主だったりする。
だが、この男は違う。
 人間を人間と見た上で、笑うことも無く、泣くことも無く、人を殺せる。
 罪の意識を持ちながら、観察の為に、冷静に殺すことが出来る。
 其処に快楽や、享楽を求める心は存在しない。
実験の過程を見極め、導かれる結果を知る為、ただ只管に無情だ。
この男は、里の人間全ての命を使って、ソルの反応を見ようとしている。
 
 
「……無駄な犠牲を強要する資格など…俺には無い…」
慧音は、ソルのその言葉を聞いて、鳥肌が立つのを感じた。
余りにも無感情な声音で、まるで他者全てを拒絶するかのような声音だった。
ソルは言っていた。必要な犠牲は払う、と。其処には決意にも似た、強い意志が伺えた。

しかし、今、ソルは“無駄な犠牲”と言った。
慧音はその意味を理解しようとしたが、感情がそれを拒む。

抵抗する為の犠牲が、必要な犠牲だとすれば。
無駄な犠牲とは、つまり――――。

「…賢明な判断と言うべきかな。
今、この人里に傍観者なんてものは存在しないからねぇ…。
 君の反応が楽しみだったけど、ちょっと追い詰め過ぎたみたいだね」

少しの間、ソルの金色の眼が黒コートの男を睨んでいた。
だが、不意に、アリスと慧音へと振り返った。怯んだように息を呑んだのはアリスだ。
涙に潤んだ慧音の眼が、ソルの金色の眼と合う。
その時、慧音はどんな貌をしているのか、自分では分からなかった。
ただ、縋るような眼差しを、表情をしていたと思う。膝が震える。寒気もする。

「………」
ソルは何かを言おうとしたようだが、結局何も言わず、また男に向き治った。
慧音も、ソルの背中を見詰めたまま何も言えなかった。

アリスが、ソルの名前を呼ぼうとした時だ。
「少し、宜しいですか?」
透き通った少女の声がした。一瞬、誰の声か分からなかった。
黒コートの男も、ソルも、一瞬呆気に取られたようだ。

「お初に御目に掛かります。稗田阿求と申します」
アリスと慧音が寺小屋の玄関へと振り返った時。里の男達の間にどよめきが起こった。
既に彼女は、アリス達のすぐ後ろまで来ていた。

慧音は何か言おうとしたようだが、阿求がそれをすっと掌で制した。
場にそぐわない、にっこりとした笑みを慧音に返し、阿求は黒コートの男に頷いて見せる。
人質なった子供達を安心させる為の笑顔だったのかもしれないが、その得体の知れなさを警戒したのだろう。
黒コートの男は半歩下がって、眼鏡の位置を直した。

「…こちらも名乗らなければ、礼を欠くかな。僕の名前はクロウだ。宜しくね」

こちらこそ、と返しながら、亜求はソルの隣まで、何の躊躇も無く、歩を進めた。
ソルは無表情のまま亜求を見下ろし、溜息を吐いた。

「……何の真似だ…」

「いえ、このままでは…人質に子供達を助けられない、と思いましてね」

「……餓鬼二人で済めば…安いもんだろう…」

「心にも無いことを言いますね。もし貴方が本当にそう思っているのなら…」

阿求は笑顔を崩さないまま、ソルを見上げた。

「こんな無用な睨み合いなどしてはいないでしょう」

「……人質は…餓鬼だけじゃない…」。

ソルは言いながら、阿求から眼を逸らした。
にゃー。不意に猫の鳴き声が聞こえた。寺小屋の屋根の上からだ。野良猫か。
ソルは寺小屋の屋根へと顔を向けようとしたが、そこで旅装束の裾を引っ張られた。
阿求はソルを見上げ、片目を瞑って見せた。
その点については、大丈夫ですよ…。ただ、もう少し時間が必要そうですが…。
ソルにだけ聞こえるような小声で言って、阿求はクロウに向き直った。

そういう事だよ。阿求さん。ソルの言葉に続いたのは、クロウだった。
陰気そうな声は、沈着そのものだ。口許に笑みを浮かべはいるが、その眼は笑っていない。
ソルと阿求の妙なやりとりを警戒しているようだ。


「それなりの数の蟲を、この里に潜り込ませたつもりだからね…」
クロウは、掌大の板状の端末を懐から取り出し、そのディスプレイへと視線を落とした。

「言ってみれば、この里全てが僕の手中に在る…。
後は、隠蔽結界のカラクリを教えて貰うだけだよ」

クロウの言葉を聞いて、慧音は一度ゆっくりと眼を閉じて、息を吐いた。
後はこの能力を奴らに曝せば、少なくとも人質となった姉の方を助ける事が出来る。
楽観的過ぎる考え方だとは自覚していたが、慧音自身も、もう限界が近かった。
上手く呼吸は出来ない。眩暈もするし、脚がふらつく。
縋るような思いで、慧音はクロウへと口を開こうとした。

「それは…出来かねますね…」だが、またしても、阿求がそれを遮った。
阿求は全く笑みを崩さないまま、クロウへとゆるゆると首を横に振った。
再びどよめきが起きた。
「…………」ソルは黙ったまま、僅かに眼を細める。
アリスも表情を変えず、キリキリと霊糸を操りながら、人形達の包囲を緩めていない。
だが、アリスも出来るのは其処までだ。
緊張が続くせいで、魔力の消費がいつもよりも早い気がする。
汗が一筋、アリスの頬を伝う。


全員の視線が、阿求へと注がれている。
人質となった子供達も、縋るような涙眼で阿求を見詰めていた。
だが、阿求は敢えて子供達には視線を向けず、能面のような笑みを浮かべたまま、ふぅ、と息を一つ吐いた。

「子供達を見捨てる訳にもいきませんが、里をこれ以上危険に晒すわけにもいきません…。
 人間達が居てこその幻想郷です…。里の崩壊は、幻想郷の大きな解れとなります」
 
 そんな事になれば…。阿求はそこまで言って、唾を飲み込んだ。
 慧音とアリスは、背後から見ていて気付いた。
阿求の手が、着物の袖の中でぎゅっと握られている。
平静を装っているが、身体も小刻みに震えていた。

「もしも、そんな事態になれば…貴方にとっても良いことでは無い筈…。
 この幻想郷の者達を捕らえ、研究しようとしているならば尚更。違いますか」

「…この女の子の方に、人質としての価値が無い、と…そう言いたいのかな」

クロウは、眼鏡の奥の眼を細めて、姉の首の後ろ辺りを片手で掴んだ。
女の子の悲鳴が上がった。
アリスは唇を噛んで、霊糸を操り、人形達に武器を構えなおさせた。
だが、それ位しか出来る事が無い。
クロウは全く動じない。寧ろ、興味深そうに阿求を見据えている。
 
「里を守る結界の秘密は教えられません…。
ですが、代わりに…私自身が貴方の人質になりましょう」
 
 クロウは片方の眼だけを細め、口許に笑みを浮かべた。

「へぇ。君がこの子達の代わりに、ねぇ…。
 そうする事によって得られる、僕のメリットは何だろうね」

「私の魂は、転生を繰り返します。生前の記憶と人格を、ほぼ保ったまま…」

阿求の言葉を聞いて、クロウの眼つきが明らかに変わった。
思案、思索をするように視線を落とし、手にした端末のディスプレイを操作する。

それからすぐに阿求へと向き直り、ゆっくりと手を差し出す。
黒いグローブが嵌められた掌の上に、円状の術陣が展開された。

「自覚的な情報なんて、幻想郷では余り役に立たないからね…。コレをつけてくれるなら、君の言葉を信じよう」

男の掌の術陣から現れた、というか這い出てきたのは、やはりフラスコ状の筒を金属皮膜で覆った蜘蛛だった。
透明な粘液で塗れた機械の蜘蛛は、それだけで生理的嫌悪感を抱かせる。
流石に怯んでしまったようで、阿求は、その機械の蜘蛛とクロウを見比べてから、おずおずと歩をすすめた。

「…これでも、身体は弱い方でしてね。出来れば、頭などは避けて頂けると嬉しいのですが…」

「…まぁ、構わないよ。接触さえしてしまえば、何処であろうと関係ないから」

慧音、アリス、ソル、そして里の男達が見守る中。
クロウの掌から産まれた機械の蜘蛛は、阿求の左腕へと飛びついた。
同時に、その脚の刃と爪が、阿求の腕の肉に食い込み、まるで留め金のように固定される。
ぅくっ…!、と短い悲鳴が漏れ、阿求はその場に蹲った。
血が、ぽたぽたと地面を赤く濡らした。
見れば、阿求の手首の関節を締め上げるような格好で、蜘蛛がへばりついていた。
蜘蛛の体は、血で濡れて、ぬらぬらと光っている。

「では、これで…そちらの女の子を離して上げてください。
 私は逃げも隠れもしませんので…」
だが、阿求は痛みを堪えて笑顔を浮かべて見せる。
冷や汗と脂汗がその額に滲んでいるせいで、にっこりとした柔らかな笑顔が酷く痛々しい。
ソルは阿求の元へ駆け寄ろうとしたが、クロウの視線がそれを許さなかった。

「ああ。…そうだったね。でも二人は駄目だよ。
 転生出来るのなら、僕にとっても人質の価値が半減するからねぇ。
 離すのは、女の子だけだ」

全く良い方向へ事態が動かない。
クロウは、この状況をコントロールしている。
悪態をつきたい気分だったが、そんな事をしても何の意味もない。

今、守らなければならないものは何だ。
子供達か。阿求なのか。歴史なのか。
慧音は分からなくなりそうだった。
というか、とっくに分からなくなっていた。
守らなければならないはずの子供達の為に、何も出来ず、ただこうして見守っている。
私だ。歴史を隠し、里を隠蔽しているのは、私なんだ。
そう叫び出しそうだ。
歯の根が合わない。寒い。肩を掴まれた。
振り返ると、アリスが苦虫を噛み潰したような顔で、ゆっくりと頷いていた。

「あんたは、私達の“キング”なんだから…暴走はご法度よ」
そう言ったアリスの声は、かなり小声だった。感情を押さえ込んでいるかのようでもある。
アリスの蒼い目には、今まで見たことのないような激情が見える。
だが、それでいて、人形達を操る指捌きは繊細だ。

「貴女にしか出来ない事と、今出来る事を見誤ったら駄目」
慧音は頷くことも出来なかったが、首をふることも出来なかった。
代わりに、唇を少しだけ噛み千切ってから、息を吐いた。

その慧音の視線の先。
ずるる、と音を立てて、女の子の胸元に張り付いていた蜘蛛が剥がれ、地面に落ちた。
地面に落ちた蜘蛛は、しかし、すぐに動き出し、クロウの脚を上っていく。
そうして、右肩辺りまで上ったところで、クロウは左手を右肩へと持っていった。
掌の中に術陣を展開させ、その中に蜘蛛を飲み込んだようだ。

傷が痛んだのか。
女の子は苦悶の声を上げて蹲ろうとしたが、その肩をクロウが左腕で掴んだ。
悲鳴のようなものを漏らしたが、恐怖の方が大きいのだろう。
女の子は眼を見開いたままで、表情らしきものは浮かべていない。

「そう慌てないでくれ。暴れられると、治療出来ないからねぇ」

クロウが言うのと同時だった。
女の子を掴んでいる掌から、青黒の法力の微光が漏れ、瞬く間に女の子を包んだ。

人間の里が、幻想郷の存亡にとって必要なもの、というのは中々興味深いねぇ。
まぁ、この話は、還ってからゆっくりと阿求さんに聞くとしようか…。
ぶつぶつと言いながら、クロウは、ソルに視線を向け、笑みを浮かべた。

「ミスター・バッドガイ。残るは君だけだよ…。
 まぁ、嫌なら嫌で、別に良いかな。
今回は、予想していたよりも遥かに収穫があったしねぇ…」

クロウは周囲へ視線を向けながら、掴んでいた女の子の肩を離した。
そしてソルの方へと、その女の子の背中をそっと押すようにして、返してきた。
ふらついた足取りの女の子は、あっさりと放されたことに半ば呆然としているようだった。
だが、ソルに受け止められ、自身の身体を見下ろして、言葉を失っていた。
傷が、全て消えていた。
機械蜘蛛の脚が食い込んでいた胸元には、血の跡は残ってはいるが、傷らしい傷は何処にもない。

ソルは、その女の子を、背後に居た慧音に預けて、鼻を鳴らした。
少しだけ。静寂が在った。

肩越しに、ソルは慧音とアリスの二人をもう一度見て、何かを呟いた。
……後は頼む…。多分、そう言った。

ソルは皆が見守る中、更に一歩、男へと近寄る。
黒コートの男は肩を竦めて見せた。君のそういう所、嫌いじゃないよ。
何処か親しげですらある声音で言って、黒コートの男は短い呪文を詠唱した。
それに合わせ、人質となっていた弟の肩を掴んでいる男の手に、青黒い法術の光が漏れる。
弟が、自分の肩に伝う法力の微光を見て、小さな悲鳴を上げた。

漏れ出した法力の光は、ゆっくりと弟を包み始める。

その光景に、慧音は叫び出しそうになるのを何とか堪えた。
だが、周囲を囲んでいた里の男達も、流石に黙って見ていられなくなったのか。
男達はクロウに詰め寄ろうとした。
アリスも一歩踏み出し、人形達を操ろうとしていた。
だが、すぐに出来なくなった。

「……動くな…!」という、威圧感の塊のような声が聞こえたからだ。
ソルの声だった。然程大きな声という訳では無かったが、それでも十分過ぎた。
心を萎縮させるどころか、木っ端微塵にして吹き飛ばしてしまうような声だった。

里の男達は、一斉に顔を引き攣らせて後ずさった。何人かは尻餅をついた。
アリスも、ビクッと肩を震わせて、人形達を操る手を止める。

ただ、そのソルの声の御蔭で、慧音は自分を冷静に保つことが出来た。
ソルは無駄に声を荒げたりするような男では無いだろう。
今は動くべき時では無い。ソルのその判断は正しかった。

見れば、男の子の身体、その喉首に張り付いていた金属の蜘蛛が、剥がれていく。
肉に食い込んでいた蜘蛛の脚が、べりべりと音を立てて外れた。
あ、っぎ…! あぁあっ!! 男の子は痛みに苦悶の声を上げて、身を捩ろうとした。
だが、青黒の光に囚われ、身動きが取れないようだ。
少しだけ我慢してくれれば、すぐに終わるよ。
そう言い聞かせる男の声は場違いな位穏やかで、鳥肌が立つほどに不気味だった。
ソルも、僅かに顔を歪めて、その様子を見守っている。
蜘蛛が完全に、男の子の身体から外れたのは、直後だ。男の声に応えるように、蜘蛛は男の子の体を肩まで這い上がる。
クロウは、今まで男の子の肩を掴んでいた手を放し、その掌の中に再び法術陣を造り出した。
金属の蜘蛛は、その法術陣の中にずぐずぐと潜り込んでいく。

その光景は、見る者に生理的な嫌悪を催す光景だった。
クロウの身体の中に、無数の金属蟲が巣食っているかのような錯覚を与えてくる。

「さぁて、これで、君達のリクエストには粗方応えたと思うけど…」

クロウは言いながら、男の子の背中を軽く押して、ソルへと再び渡した。

「……随分あっさりと…隠蔽結界については諦めるんだな…」

「意外かい?」

ソルは沈黙を返しながら、受け止めた男の子を、また背後に居た慧音に預ける。
緊張の糸が一気に緩んだからだろう、姉弟の鳴き声が聞こえて来た。
振り返らないまま、慧音達を庇うように、ソルは一歩前へ出る。

「……幻想郷が無くなれば…貴様達は余程困るようだな…」

「…ああ。困るよ。新たなフロンティアを失う訳だからねぇ」

「……これ以上…此処から何を奪うつもりだ…」

「それは僕が決めることじゃ無いよ。
『キューブ』に攻め入る為に必要な鍵は、ヴィズエル達の技術だけでは造れない。
…其処に、足りない分だけを補うつもりだ。

…ふーん…」

時間稼ぎか何かのつもりかい?。
クロウは首を傾げながら、視線をソルから、自身の隣に居る阿求へと向けた。
狂気が覗く声音で呟き、その眼を細めて見せる。射竦められ、阿求の顔が強張った。
やっぱりねぇ…。

くつくつと笑い、クロウは再びソルへと向き直った。


結局、状況は変わっていない。
人質が居なくなったわけでは無い。
里に散布しているであろう蟲の存在に、蜘蛛に張り付かれた阿求。


「それじゃあ…、君を完成型ギアへと改良しようか」

青黒の微光で両手を包みながら、クロウはソルに眼をやった。
口許には緩い笑み。僅かに細められた眼の中には、容赦の無い好奇心が宿っている。

「そうだな。まずは…封炎剣を、君の左胸に突き立ててくれ」

聞こえた言葉に、慧音は耳を疑った。アリスも、呆気に取られたような貌をしている。
だが、クロウは冗談でもなんでもなく、本気だ。
クロウの両手を包む青黒の法力が、気味の悪い鼓動を打ち始めた。
何をする気なのかは分からないが、楽観は出来ない。

ソルは、皆の視線を受け止めながら、また鼻を鳴らした。
そうして、逆手に持った封炎剣、その刀身の中ほどを掴んで持ち直す。
恐れも何も感じさせない、緩慢な、しかし澱みのない動作だった。
里の男達も、固唾を呑んでそのソルの動きを見守っていた。
その皆の眼の前。ソルは、掴んだ封炎剣の切っ先を自分の左胸にあてがう。

アリスは飛び出しそうになったが何とか堪える。
黒コートの男が、ちらりと視線を向けてきたからだ。
「―――止めといた方が良いと思うよ」。男は穏やかですらある貌で、そう呟いて見せた。
眼が合う。それだけで、嫌な汗が噴き出してくる。

黒コートの男は、躊躇しないだろう。
まばたきをしたり、息をしたり、欠伸をするのと同じ位簡単に、阿求を殺せる。
そういう状況だ。

金縛りにあってしまったかのように、慧音も動けずにいた。
呻くことすら出来ないまま。やめてくれ…、と呟いたような気がする。
それは、ソルに向かっての言葉なのか、それとクロウに向けれられた言葉なのか。
慧音は、自分でも分からなかった。

さぁ…、と、黒コートの男が呟く。

「心配しなくて良い。約束は守るよ。里には、余計な手を出さない」

ソルは黙ったまま、一気に封炎剣を己の心臓へ突き刺した。

「…ぐ……!」
いや、刺し貫いたと言った方が正しい。
やや斜めに傾いている。斜め上から、下へ抜けるように。
封炎剣の巨大な刀身が、ソルの心臓を貫き通り、背中から剣の切っ先が生えている。
常人ならば即死だろう。出血も夥しい。
あっという間にソルの足元には、血の池が出来上がった。

里の男達の間から、悲鳴のようなものが上がった。
慧音は眼を瞑った。アリスは眼を背けなかった。

ソルは立ったままだった。
ごぼっ、と血の塊を吐き出して、黒コートの男に向き直っている。
……これで…いいか…。喉を逆流してくる血のせいで、その低い声はかなり歪んでいた。
何が面白いのか。黒コートの男は、少しだけ唇を笑みの形に歪めて見せる。

「それじゃあ、次に…その剣を媒体にして、自身をバインドしてくれないかな。
 今のままだと、流石に近づくのは怖いしねぇ…。手加減無しで頼むよ」

ソルはもう一度血を吐き出してから、……くそったれ…、と呻いた。
それから、自身の心臓を貫く封炎剣に手を沿えて、ソルは詠唱を始める。
火の粉混じりの熱い風が、街道を吹き抜けた。
もう流石にこの場に居るのは危険だと思ったのだろう。
やばいぞ! 子供達を連れて離れろ! 退け! 退け!
辺りを囲んでいた里の男達は、散り散りに逃げ出した。
熱い。とてつもない熱量だ。夕闇が、赤燈に塗り潰されていく。
空気もビリビリと振るえ、周囲の建物が悲鳴を上げている。

「慧音、離れないで…!」
アリスは舌打ちをしながら、片手で霊糸を操作し、もう片手で魔道書のページを捲る。
そうして、クロウの周囲を取り囲んでいた人形達を操作し、自身と慧音を守るように配置し直す。

視界が赤燈に染まり、肌を焼く熱は更に上がっていく。
阿求は顔を覆い、その場に尻餅を付きかけたが、誰かが背中を支えてくれた。
そして突然、熱さも何も感じなくなった。クロウだ。
灼熱を孕む旋風から阿求と自身を守るように、薄緑色の球状結界を展開している。
ご覧よ…。歯車の種父が、無力に跪く様を。
独り言のように呟いたクロウは阿求の方を見ずに、ただソルが苦しむ様を見詰めていた。
その貌には、だが、達成感も優越感も何も無い。
表情の中に在るのは、冷静さだ。
代わりに、眼鏡の奥で細められた眼には、理知と飢餓だけが宿っている。


炎が上がった。何かが燃え上がった。
まるで、無色透明な巨大な竜が其処に居て、血を吐き出したような炎の揺らぎだった。
危険な炎だ。ソルは血を吐き出しながら詠唱を続けている。
濁った赤燈の炎がソルの胸の傷口から漏れ出し、流れ出る血液までもが燃え上がる。
炎血を流すソルの貌が、苦悶に歪んでいた。
額にはギアの刻印が浮かび上がり、金色の眼の瞳孔は、更に深く裂けていく。
…ぐ…ぁああああぁぁaaaaaaaAAAAAAHHHHHHH……!
咆哮とも呻き声ともつかない、魂を揺さぶる大音声。

錠が嵌るような音がした。ガシン、とも、ガキン、ともつかない、重い音だ。
見れば、ソルを貫いた封炎剣の柄と切っ先に、赤燈色の術陣が嵌っていた。
術陣はまるで、ソルの肉体ごと、空間に剣を固定しているかのようだ。

剣に貫かれている状態のソルは、当然無事では無いようだった。
ソルが自身に施術した拘束用の法術は、相当に強力なものなのだろう。
加えて、ギアを破壊する為に用いる神器の影響か。
「Guuuaahh…aah…」。ソルの身体がミシミシと軋む音を立てている。
肉が潰れ、骨が拉げるような、鳥肌が立つような音だ。
封炎剣を固定している術陣の拘束が、ソルの喉首、両手首、両腕にも嵌っている。
それがギリギリとソルを締め上げている。
傷口からは亀裂が走り、濁った炎が漏れたまま。

「流石、神器と言ったところかな…。此処までギアの肉体を拘束してくれるとは…。
 いくら君でも、やっぱり平気で居るのは無理みたいだねぇ」

クロウは唇を笑みの形に歪めたまま、眼鏡の奥で眼を細めた。
ソルは、その男に答えることも出来ずに、ガクンとその場に膝を付いた。
前のめりに倒れるような姿勢だったが、拳と額で地面を叩き、何とか倒れ伏すのを堪えた。
血の紅と、炎の赤燈の中で、ソルは視線だけでクロウを見上げた。

「……こ、れで…満、足…か……」

「ああ。上出来だよ」
クロウはゆったりと踏み出して、倒れ伏す寸前のソルの前で脚を止めた。
そして、すっと右の掌をソルの胸に突き立った封炎剣へと翳した。

誰も動けなかった。
阿求やアリス、慧音も、その光景に見惚れていた。

傷と炎に塗れ、燃え立つ枷を嵌められ、地に伏しかけて苦しみもがくソル。
対して、クロウは悠然と立ち、まるで手でも差し伸べるかのように、優雅に掌を翳している。

まるで、罪人に、救いを齎す聖人のようにも見える。
だが今の光景は、見る者に神々しさも、慈悲深さも、全く感じさせない。
それは恐らく、聖者の場に嵌っているクロウが纏う、禍々しくも無機質な狂気のせいだろう。

クロウは、左手に持った端末のディスプレイを見詰めてから、翳した掌に青黒の法力の光を灯した。

「さっき、僕は君の事を不変と言ったけど…」
呟かれた言葉と共に、青黒の法力の微光が、一度強く脈打った。
見る間に微光は術陣へと代わり、其処から細い管のようなものが次々と伸び始める。

何時の間にか熱波は弱まっていた。
多分、我に帰ったのが最も早かったのはアリスだ。
咄嗟に人形達に構えを取らせようとしたが、無理だった。
クロウが何かを呟いたと同時。
阿求の手首辺りに張り付いた蜘蛛が、更に締め付けを強めたようだ。
ぐしゅっ、と肉の潰れる音と、くぁっ…、という短い悲鳴が聞こえた。
阿求が手首の蜘蛛を押さえるようにしてその場に崩れ落ちた。
余計な真似は止めてくれないかな。今、良いところでね。
言いながら、クロウはアリスへと顔を向け、眼鏡の奥で眼を細めた。
止めろ。止めてくれ。叫んだのは慧音だ。
虚しい叫びだった。その直後だ。
クロウが召還した、法力機術によって鋳造されたチューブ達は、一気にソルへと伸び、その身体を貫いた。

「…Guu……ガハ……ッッ…!!」
血とも炎ともつかない塊を吐き出して、ソルは身体をビクンと痙攣させた。
ガスガス、ドスドスとソルの身体を貫いた法力鋼のチューブは、青黒の脈動を響かせる。
ソルは腕と膝、そして額を地面に付ける格好のまま、その身体を改造されようとしていた。
首、腕、脇腹、背中、脚。身体のそこら中にチューブが差し込まれ、苦しみもがこうにも、自身の拘束術式のせいで身動きも取れない状態だ。

「前の言葉は撤回するよ…。
君は、僕が知っている頃よりも人間らしくなったね。喜ばしい事だ。
案外、ギアと人間の共存の最後の1ピースは、君なのかもしれないねぇ」

倒れこんだせいで、封炎剣が更に深くソルに突き刺さり、その身体を抉った。
クロウの纏う青黒の法術の光が、更に強さを増した。
ソルの身体を蝕み、造り替え、精神と肉体を乖離させていく。
GGGGUUUUUUUUuuuuuuuuuuuuuuuuaaaaaAAAAAAAAAAAAAAHHHH!!
頭を抱えるようにして、ソルは咆哮を上げた。
人間の感覚を遥かに凌駕した痛覚と苦悶は、大音声となって響き渡いた。
だが、クロウはまるで表情を変えず、ソルを完成型ギアとするべく、手術を続ける。

「君は、此処で完全なギアになってしまった方が幸せだよ…。
 もっとも…人間の頃に死んでいた方が、もっと幸せだったのかもしれないけどねぇ…」
 
 さぁて…。クロウは、左手に持った端末を操作し、空間に三つのウィンドウを表示した。
 そのうちの一つにはロボカイの貌が表示されており、他の二つには、交戦中の区域を映し出している。
 
 「…手術が終わり次第、そちらに向かうよ。
どうもほかの戦域は劣勢みたいだしねぇ。寄り道もこれで最後かな」
 
 「早ク戻ッタ方ガ良イ…。直ニ囮ノ天狗共モ落トサレルゾ」
 
 「心配してくれているのかい」
 
 「下ラン事ヲ抜カシテイル場合カ…」

 ソルの絶叫が響く中。
緊張感の無いやりとりをしながら、クロウはふっ、と笑った。
 僕の優位も、そろそろ危うい感じだしねぇ。呟いて、クロウは周囲を見渡す。

ソルが放った焦熱に追い散らされ、里の男達の姿は、街道にはもう無い。
だが、それでも、クロウを逃がすまいと、この場に留まっている者達も居る。

片手で鎧兜を着込んだ人形達を操り、片手で魔道書を開くアリス。
そして、この場の“キング”であり、結界を持続させ続けている慧音。
この二人の相手は、厄介とは言わずとも、クロウにとっては面倒だった。

 ただ、人質である阿求のおかげで、直接対決までには持ち込まれていない。
 里に仕込んだ蟲達の事もある。
睨み合うことは出来る状況だが、長引けばやはり不利だ。

それに、長引かせる必要も無い。
手術が終われば、すぐにでも阿求を連れて、急送型の転移法術でこの場から離脱すれば良い。
 
 だが、此処で、クロウにとって予定外の事が起こった。
 Pipipipipipipi…。端末が鳴らした電子音は、警告音だった。
 クロウは咄嗟に端末のディスプレイに触れ、操作する。
 其処で得られた情報は、「蟲達が…全滅…」。
 
 
 
 均衡が崩れようとしていた。
 
 
 



へぇ~…あのオチビちゃん、中々やるじゃないか。
隠蔽結界の中に隠された里を上空から見下ろしながら、ギターを片手に携えた女性がやたら艶のある声で呟いた。

髑髏を模した紅い鍔広の帽子に、インナー無しの薄手の紅ジャケット。
脚の長さを強調するような紅のブーツ。
そして、角度によって色を変える、虹色の瞳。
その瞳が、里と、空と、山とに向けられた。

あっちもこっちも、そろそろ決着が着きそうだねぇ。
幻想の世界には全く馴染まない、エレキギターの弦を軽く爪弾いて、彼女は微笑んだ。




[18231] 二十八話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/05 16:00
 
夜の帳が落ち始めていた。
山々の稜線が空と溶け合い始め、その境界が曖昧になりつつある。
夜空には、薄明の星の群れ。
朧月には、仄暗い雲が掛かっていた。

何処か不吉な空だった。
空を渡る風は緩く、生ぬるい。

濃厚な血の匂いと、何かが焦げるような匂いが、その温い風に運ばれて行く。

くそ…此処からじゃ、里の中の様子が分からないぜ…。
魔理沙は額の汗を拭ってから、黒い魔女帽子を被りなおした。
箒に跨り、眼下に広がる森林の茂みを見渡すが、やはり其処には人の暮らす明かりは無い。
街並みも無ければ、人の姿も無く、声も聞こえない。
ただただ、夜に染まりかけた、茫漠な自然が在るだけだ。
隠蔽結界に隠された里は、大丈夫なんじゃないだろうか。
ふと、そんな楽観的な考えが頭を過ぎるが、魔理沙は頭を振って追い出す。
汚染された鴉天狗達を今しがた調伏したところで、魔理沙の息は少し上がっていた。

魔理沙の傍に居る射命丸も、僅かに息が乱れている。
自分の仲間が変質させられる様を見せられ、戦う事になったせいだろう。
体力よりも、精神的にかなり消耗しているようだ。
射命丸が羽ばたかせる黒い翼にも、いつものような活力は無い。
唇も蒼褪めているし、目許は涙で濡れていた。
ただ、表情らしきものは浮かんでいない。
呆然としたまま、魔理沙と同じく眼下に広がる自然を見下ろしているだけだ。

魔理沙は、その射命丸に何と声を掛ければいいのか分からなかった。
呼吸を整える為に深呼吸してから、代わりに、隣に佇む霊夢に視線を向けた。

「どうするよ、霊夢…。こりゃあ自力で結界を潜るしか無いぞ」

「そうね…。隠蔽結界を解いて貰う訳には行かないしね。…嫌な予感がするわ」

…結界を潜る為には、ちょっと時間が掛かるかもしれないけどね。
霊夢は呟いて、手に持った紙垂を肩に担ぐ。その貌は、何時に無く真剣だ。
やっぱり、やる時のコイツは凄いな…。魔理沙は思う。
汚染された鴉天狗達と戦ったすぐ後だというのに、霊夢はまるで呼吸を乱していない。
落ち着き払っていて、動揺を見せず、ただ強い。

巫女装束が温い風に揺られ、霊夢の纏う澄んだ緋色と朱色の微光が帯を引いた。
魔理沙も「…そんじゃ、さっさと準備するか」と返しながら、肩からつった鞄を掛け直す。
その時だ。妖怪の山の方から、轟音が聞こえて来た。
遠雷のような、低く、地面を震わせるような音だった。
ごう、と温い風が強さを増した。

「紫達の方も、かなりやばそうだな…」
魔理沙は帽子を押さえ、山の方へと視線を向けた。
気色の悪い風は、明らかに山の方から吹き渡ってきている。
 嫌な感じだ。

「でも、私達も此処を離れられないわ…。文、大丈夫…?」

霊夢は言いながら、射命丸に向き直った。
真剣な貌で見詰められ、放心状態だった射命丸も、眼の涙を拭いながら頷きを返した。
そうして、一度強く翼で空を打ってから、手にした天狗の扇を握り直す。

「此処はお二人の代わりに、私が山に向かいましょう…。
これ以上、故郷を汚されるのは、我慢なりませんからね」

射命丸は、微かに笑みすら浮かべて見せた。
強がりだという事はすぐに分かった。
仲間をあんな惨たらしい姿に変えられ、対峙することになったのだ。
平気な訳が無い。
見れば、射命丸の身体は僅かに震えていた。

「無理はすんなよ…」
魔理沙の心配そうなその声に、射命丸はやはり健気に笑みを浮かべて見せた。
だが、その笑みは引き攣っていて、まるで泣いているみたいな笑みだった。
魔理沙さんに心配される程、私はヤワじゃありませんよ。
そう応えた普段の憎まれ口にも、全然元気が無かった。

しかし、引き止めてどうにかなる訳でも無い。
だから魔理沙も、「知ってるさ」とだけ返した。

「山の妖怪達の方は頼んだわ。…気をつけて」

「そちらこそ…。では…!」
言いながら射命丸はふわっと身体を宙で翻し、その翼を羽ばたかせた。
暗がりの空を、鴉天狗の羽が舞う。
すぐに射命丸の後ろ姿は小さくなり、薄い夜空に紛れて見えなくなった。
温い風が少しだけ止んだ。

霊夢と魔理沙が、その空の中に残されている。
やけに静かだ。静か過ぎる。
それでいて、空気が重い。
澱んで、停滞しているような感じがした。
夜空になりかけの澱んだ墨色の夕陽は、山々の境界に裂かれ、暗い紫色をしていた。

そんな空の彼方を一瞥してから、魔理沙は「さぁて…」と呟いて、唇を舐めて濡らした。
そして、八卦炉を懐に仕舞い込む。
代わりに、肩から吊っていた鞄から一冊の魔道書を取り出した。
魔道書には付箋がびっしりと貼られていて、表紙もかなりボロボロだ。
紅魔館の大図書館から拝借した、魔理沙のお気に入りの魔道書の一冊だった。
私らも行くか…。呟いてから、魔理沙は詠唱を始める。

霊夢も、魔理沙の詠唱に続こうとした時だ。

あら、一人少なくなってるわね…。鴉天狗の子は、帰っちゃったのかしら。
その合間を見計らったかのように、艶の在る女性の声が聞こえた。
聞く者を骨抜きにしてしまう、とんでもなく甘く、艶美な声だ。
だが、同時に、冷酷さや残酷さのようなものを感じさせる。

魔理沙は咄嗟に詠唱を中断して、声のした方へと視線を向けようとした。
声が聞こえて来たのは、下からだ。
眼下の、何も無い中空から聞こえた。

その筈だが、其処にはやはり何も無い。
見えないだけで、隠蔽結界によって隠された人里が在るだけだ。
舌打ちをして、魔理沙は箒の上に飛び乗った。戦闘態勢だ。
霊夢も、札を取り出し指で挟み、紙垂を構える。

臨戦態勢を取る霊夢と魔理沙を何処からか見ているのだろう。
くすくすと笑う声がした。

「そんなに身構えないで…。私は貴女達の味方よ」

次に聞こえた声は、やたら近くから聞こえた気がした。
でも、やはり眼下から聞こえる。
出て来い。そう魔理沙が言おうとした時だった。
何か硬いものがひび割れ、砕けていくような音が聞こえてきた。

視線を下げて、魔理沙はぎょっとした。
霊夢も、「な―――っ!?」と言葉を詰まらせた。

眼下に広がる木々の茂み。
その光景を砕いていくかのように、何も無いはずの空間に亀裂が入り始めたのだ。
卵の殻のように、パリパリと割れて、里を覆う結界が剥がれ落ちている。
亀裂の中には、人里の町並みが覗いていた。
慧音の隠蔽結界が破られつつある。
何が起こっているのかは分からないが、とにかく非常事態だ。

霊夢は唇を噛んでから、地上に見えてきつつある里へと飛ぼうとした。
やべぇぞ、これ! 魔理沙も、箒に乗ったまま急降下しようとしたが、出来なかった。
とんでも無い威圧感が、その場を包んだからだ。

霊夢は、眼の前が薄い紅で染まった気がした。
それは霊夢の纏う紅とは、全く別の種類のものだった。
純潔や清純を思わせる、澄んだ紅じゃ無い。もっと凶暴で、凶悪な何かだ。

「おいでなすったぜ…」
見れば、剥がれ落ちる結界の隙間から、一人の女が、優雅にこちらへと向かってきていた。

見たことも無い格好の女だった。
髑髏を模したデザインの鍔広の帽子に、薄手のジャケット。
ブーツにグローブに、唇に至るまで、全部が凶暴な紅で染まっている。
短めの髪が、艶やかな黒髪のせいで、その紅が余計に引き立っていた。
手には水色をした、シンプルな形のエレキギターを持っている。
異様な組み合わせだ。
だが、女の七色の眼が放つ強烈な威圧感が、ちぐはぐさを無理矢理に一つの存在として纏めている様な感じだ。

遅くも無く、早くも無い速度だったが、あっという間だった。
気付けば、女は霊夢達と同じ高さまで、ふわりとその身体を浮かべて来ていた。
女は唇を笑みの形に歪めて、七色の瞳を細めて見せた。
見る角度によって、瞳の色が変わる、魔性の眼だった。

「貴女達が、あの汚染された天狗達を潰してくれたおかげで、私も動き易くなったわ」
ありがとう。女は薄い笑みを浮かべたまま、ウィンクをして見せた。
霊夢は唇を噛んで、手にした紙垂を握り込む。
それから、視線を一度眼下へと向け、それから再び女を睨んだ。

「…これ、アンタの仕業ね」 
そう言った霊夢の声は、落ち着いてはいたが、怒りが滲んでいた。
霊夢達の眼下では、人里の全景が蜃気楼のように薄暗がりの中に浮かび上がってきている。
空間が歪んで、剥がれ落ちて、結界が本格的に崩れて来ていた。

「何が味方だ! もう結界が…!」

眼下を見下ろし、今にも地面に向かって飛び出しそうな魔理沙の焦った声にも、女は動じない。
女も、一度視線を眼下に向けてから、霊夢と魔理沙を見比べた。

「あの隠蔽結界は確かに強力だけど、その分、融通が利き難いでしょう。
 外から入るのにも、中から出るにも…ね」

だから、少し通り易くしたのよ。
ふざけんな。魔理沙がそう言うよりも先に、霊夢は札を弾幕と化して放っていた。
暗い空に朱色の霊光が奔り、弾幕が女に殺到する。
札の嵐を前に、だが女は表情を変えないまま、手にしたギターの弦を、強く弾いた。
凄まじく高い音と、とんでもなく低い音が、同時に聞こえたような気がした。
だが、定かでは無い。耳鳴りがした。
同時に、霊夢の放った札の弾幕が、中空で爆ぜた。
弾けて、掻き消えていく。朱と紅の明滅が、暗がりの空に咲いた。

「情熱的ねぇ。少しくらい話をきいてくれても良いのに…」

「御託は良いのよ…。邪魔だから退いてくれないかしら」

「それはまだ無理ね…」

魔理沙が怪しむようにして眼を細め、手にした魔道書を開いた。
無理矢理でも退かせるつもりなのだろう。
既に、魔道書を持つ魔理沙の手には、星屑を散らせる魔光が宿っている。
どういう意味だよ。 
言って、魔理沙は女を睨んでみたが、やはり女は涼しい貌のままだ。

「言葉のままよ。
…私の役目は、貴女達を案内する事と、連中の逃走先を捕捉する事だから」

「それじゃあ、もう里の中に終戦管理局の奴らが入り込んでるのかよ…!」

魔理沙は里に向かって飛び出しそうになったが、すっと女が立ち塞がるようにして前に出て来た。

「慌てちゃ駄目よ。…敵は二手に分かれてる。
 里の中に一人。その外に一人。
外の居る方は、既に幻想郷の外に逃げる準備に入ってるわ…」

其処まで言って、女はペロリと唇を舐めた。

「タイミングは重要だけど、時間のロスは避けたいのよ。
だから、内と外を遮る結界を取り払ったワケ…。
 この隠蔽結界を張った本人が割れちゃうのは不味いでしょう。
だから、代わりに私が結界を解いて、貴女達を招き入れたの。…今は慎重に動くべきよ」

「信用出来ないな…。私達は急いでるんだ」

「いいから黙って言う事を聞けよ、糞餓鬼共」
突然だった。女の纏う雰囲気が、明らかに危険なものになった。
激変したと言っていい。霊夢と魔理沙も、一瞬怯んだ。
纏っていた色気も艶美さも欠片も無くなり、野蛮で獰猛な雰囲気へとがらりと変わる。
美しい貌の眉間には皺が刻まれ、不機嫌そうに唇を吊り上げていた。
こっちが下手に出てりゃあいい気になりやがって…。

「いいか。テメェらがやるべき事は一個だけだ。
幻想郷の外へ逃げようとする終戦管理局の糞野郎の脚を止めろ。
中に居る“あの生き腐れ”と一緒にな…。時間を稼ぐんだよ。
私が奴らの転移先を捕捉探知する準備の為のな。分かったか。ああ?
これ以上ピーピー喚きやがったら―――」

「誰が生き腐れですって…」
品の無い女の言葉を、霊夢の声が遮った。
霊夢の声は相変わらず凛としてはいるが、かなりの怒気が滲んでいた。
箒の上に立った魔理沙も、魔道書に魔光を宿しながら、眼を鋭く細めて女を睨む。

誰が、だぁ~? 分かねぇのかよ。
女は言いながら貌全体を歪めるようにして、酷薄そうな笑みを浮かべた。
整った顔立ちのせいで、その凶相が余計に引き立っている。

「今じゃソルとか名乗ってる、あのふざけた糞野郎の事に決まってんだろうが」

ぎゅっと下唇を噛んで、霊夢は再び札を展開し、弾幕と結界を結ぼうとした。
魔理沙も魔道書を開きながら、八卦炉を取り出して構える。
だが、女は涼しい貌でギターの弦を軽く爪弾いて、肩を竦めて見せた。

「おいおい、止めとけよ。…そんな場合でもねぇだろ。
それに…そろそろ始まるぜぇ?」

女が其処まで言った時だった。
里を包む結界が完全に崩れ、隠蔽結界が消失した。
結界の破片が宙へと融けていく中で、里の街道の中で巨大な火柱が上がった。
赤橙の光と熱が、霊夢達にも押し寄せて来た。
里の全景が、赤燈に染まっている。里全体が燃えているかのようにも見えた。
ぐにゃぐにゃと歪んで、波に揺れる水底を覗きこむような里の景色だったが、今は違う。
隠蔽結界が崩れた今、はっきりと見える。

「それじゃあ、案内するわ…。貴女達には期待してるわよ?」

女は再び、纏う雰囲気をガラリと変えた。
艶美な声音で言いながら、女は霊夢と魔理沙に流し目を送って、身を翻す。
呆気ないくらい、その無防備な背中を見せた。
霊夢は、正直に言って躊躇った。この女の言う通りに動いて良いものか。
おい…! 女の背に、そう声を掛けたのは魔理沙だった。
「私達はまだお前の言うとおりに動くなんて、一言も言ってないぜ!」

「守りたいんでしょう? この結界で包まれた幻想の世界を…」
 
女は肩越しに魔理沙を振り返り、やけに冷めた眼で見つめ返して来た。

「私達も終戦管理局の潜んでいる次元を見つけられずにいるわ…。
でも、奴らが何処の次元に隠れているのかさえ分かれば、流れを大きく変えられる。
これは私達にとってもチャンスなのよ」
 
「逃がさずに捕まえれば文句無いでしょ」

「それが出来れば、百点満点よ。…でも、そんなに簡単じゃ無いでしょうね。
 だからこそ最悪のパターンに備えて、保険を用意しておきたいの。
 その為に、私が此処に居るんだから…」

女は言いながら霊夢と魔理沙を一瞥して、人里に向かって降下し始める。
最悪のパターン。その言葉を聞いて、霊夢と魔理沙の頭に、嫌な想像が頭を過ぎる。
もし霊夢達が敗北し、終戦管理局の尖兵を逃がしてしまえば、状況は更に悪くなる一方だ。
だが、相手側の居場所を突き止めることが出来れば、それは大きな収穫になる。
今までのような不意打ちも防げるだろう。
加えて、後手後手に廻る状況も回避できるかもしれない。

おしゃべりは此処までね…。
霊夢達に言って、女は降下する速度を上げた。

「結局、やる事は一緒って事だろ。
 何にせよ、此処で止まってる訳にはいかねぇしな…!」

霊夢より先に動いたのは魔理沙だった。霊夢は軽く息を吐いて、魔理沙の後に続く。
やる事は変わらない。その通りだ。
終戦管理局の奴らを捕まえて、里を守るだけだ。
霊夢は、魔理沙女の後ろ姿を負う形で降下する。かなりの速度だった。
女が終戦管理局の手先で、先程語った内容が終戦管理局の罠かもしれない。
まだ完全に信用する訳にはいかないだろう。
事実、この女は隠蔽結界を砕いている。
だが、懐疑を抱いたところで、どうにもならない状況だ。
敵か、味方か。それを詮索している間にも、事態は悪くなる。

霊夢達は里を見下ろす格好で宙を飛び行きながら、注意深く里を見渡す。
見下ろした里の町並みには、大きな破壊の跡も無ければ、血の匂いもしなかった。
静寂さだけが、薄気味の悪い空気と共に充満していた。
里の者達の姿は見えなかった。
皆、屋内に避難してくれている事を祈るしかない。

霊夢が視線を前に戻すと、魔理沙が箒の上でバランスを崩しかけていた。
また、熱い風が横殴りに吹きつけて来たからだ。
あっちぃな、くそ…! 悪態をつきながらも、魔理沙は体勢を立て直し、帽子を押させた。
風の吹いて来た方角は丁度、魔理沙達が向かおうとしている方角だった。
寺小屋の在る、広い街道の方角からだ。
赤燈の炎の揺らぎが、街道に立ち上っている。
いや正確には、あれは炎では無い。視認できるほどに溢れ出た、膨大な量の法力の光だ。
霊夢と魔理沙にとって、その赤燈は見覚えがあった。
続いて聞こえてきたのは、凄絶な咆哮。
GuuuuuuuuuaaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHH!!!
思わず身体が竦み上がるような慟哭だった。
ソルだ。苦しげな声の主は、間違いなくソルだ。

「さて、此処から二手に分かれましょうか。
…貴女達は、街道へ。私は、里の外に控えている機械人形の元へ向かうわ」

女は飛翔しながら、自分の後ろを飛んでいる霊夢と魔理沙を交互に見た。
その貌には、薄ら笑いも無く、獰猛さや凶暴さも浮かんでいなかった。
強いて言えば、それは緊張だろうか。
声音も嫌に真剣だった。
霊夢は女を呼び止めるかどうかを迷ったが、そんな時間も勿体無く感じた。
街道から吹き流れてくる熱い風は、どう考えてもただごとじゃない。
霊夢と魔理沙も、今の状況を見逃すわけにもいかない。
急がねばならない。

この女が隠蔽結界を解いたおかげで、結界を潜る為の術を編む手間も省けた。
それ以外にも、助かった部分が無いと言えば嘘になる。
里の外に居るという機械人形に対しても、まず気付く事も出来なかった筈だ。
「二手に分かれる」という発想も、この土壇場では思いつかなかっただろう。

霊夢と魔理沙の視線を受け止めながら、女はギターを持ち直し、飛翔する速度を落とした。
「まぁ、私に下手な期待はしないでね…あくまで保険だから」
女は、霊夢達と並んでそれだけ言ってから、ぐいっと飛翔する軌道を右方向へと曲げる。


「あんた…名前は?」
その背中に、霊夢は声を掛けた。離れていく瞬間、女は霊夢達へと片目を閉じて見せた。
何のつもりかは分からない。
だが、悪意も害意も感じさない、不思議なウィンクだった。
女は唇の端の少し笑みを浮かべて、法力の微光の揺らぎを纏う。
血を零したような、紅の微光だ。イノよ…。よろしくね。
低く、艶のある声でそう言った女は、姿を掻き消すようにして、空間を転移していた。








何をしたんだい…。
手に持った黒い板状の端末のディスプレイから視線を下げて、クロウはソルを見下ろした。

「里に忍ばせた蟲達に対処したのは、やっぱり君の入れ知恵かい…?」
だが、蹲るソルは、そんなクロウの問いに答えている余裕は全く無い。
胸を貫く封炎剣。燃え上がる、夥しい量の流血。
クロウの掌の法術陣から練成された法力鋼のチューブが、ソルの肉体を蝕んでいる最中だ。
鋼のチューブは、ソルの身体のあちこちに刺し込まれ、肉体と精神を造り替え、塗り潰す。
「Guuu…aaaaaaahhhhhh!!!」 
青黒の法力の脈動がチューブを伝う度、ソルは血を吐きながら咆哮を上げた。
夕闇と薄暮の狭間。里の街道中に、慟哭にも似た大音声が響き渡っている。


アリスは無表情のまま奥歯を噛み締め、そのソルの声を聞いていた。
人形達の戦列は乱れていない。いつでも突撃出来る体制だ。
しかし、まだ動けない。
血が出る程に拳を握り固めている慧音も、同じ。
重心を落とした姿勢のままで、クロウを睨みつけるのがやっとだ。
アリスや慧音達と、完成型ギアへと改造されつつあるソルを挟んで、クロウの傍らには阿求が居る。
その左腕の手首辺りに、機械の蜘蛛が張り付いている。人質だ。

激痛と苦悶にもがくソルを見詰めながら、阿求の貌は強張っていた。
左腕を押さえた右手が、小刻みに震えている。
「隠蔽結界の他に、何かギミックが在るのかな…。いや、それとも…」

赤橙の火の粉が混じった熱い風が吹き荒れ、クロウの低い呟き声を焼き攫う。
だが、その声は阿求には届いていた。
「まだ里の中に、この場に出されていない他のカードが在った、という事か…」
ソルへの改造手術を行いながら、ゆっくりと、クロウが視線を阿求へと向けた。
やたら凪いだクロウの眼は、人間のものとは思えない冷めた光が宿っている。
阿求は思わず半歩下がってしまったが、左腕を押さえていた右手にぐっと力込めた。
そして、痛みを堪え、クロウを睨み返す。
人質は私一人で十分でしょう…。動揺を隠し、そう言うのがやっとだった。
クロウは少しの間、阿求を見下ろしていた。
だが不意に、笑みの形に唇を歪めた。

「一筋縄では行かないねぇ…」

独り言を呟くように言って、クロウは阿求から視線を外した。

多分、その直後だった。
ズ…。ズズ…、と、巨大な何かが歪んで、ずれて、崩れていくような音がした。
音、というよりも、身体に直接響いてくる。
それに合わせて、里を包む周囲の景色が、ぐにゃぐにゃと歪み始めた。
濁った水に里全体が沈んでしまって、水面の揺れに映りこんでいるかのような光景だ。
慧音は愕然とした。「結界が…!?」 そう声を漏らすのがやっとだった。

消えていく。歴史を隠すことで張られた隠蔽結界が。
何故だ。分からない。何が起こったんだ。混乱する。
身体が震えるのを、慧音は感じた。頭の中身がぐちゃぐちゃだ。
崩れ、歪んでいく結界と空を見上げながら、慧音は立ち竦みかけた。

「…これは、また…随分と派手なアクションを取ってくれるね」
クロウは、ソルへの手術を全く止めないまま、歪む景色へと視線を巡らせている。

その言葉で、慧音はふと気付いた。派手なアクションを取ってくれるね。
クロウはそう言った。つまり、この結界の解呪は、終戦管理局によるものでは無いのか。
それに、“里に忍ばせた蟲に対処した”というのは、何の事だ。
アリスやソルの他に誰かが、まだ里に残って防衛に廻ってくれているのか。
霊夢達のことだろうか。

この場に居ない第三者、或いは第四者が居ることは間違い無さそうだ。
幻想郷側か、それとも終戦管理局側の者なのか。其処まで考えた時だった。

慧音の隣で、アリスが何かを言おうとしたようだった。
重厚な鎧兜を纏った人形達の戦列は、全く乱れていない。
横隊に並び、各々の持つ武器を構えたままだ。だが、アリスの呼吸は僅かに乱れている。
アリスの視線の先を追って、慧音も息を呑んだ。
熱風の吹く街道が、一瞬、静まり返ったような気さえした。
慧音も気付いた。

阿求だ。阿求が、アリスと慧音を見ていた。
強い意思を秘めた視線だった。
血がしたたる左腕は震えているが、それを押さえている右手の震えは、もう止まっていた。
クロウはソルへの施術の為に、背後の阿求の様子には気付いていない。
ソルの咆哮は、止む気配が無い。
クロウの掌の術陣から伸び、ソルの身体に差し込まれたチューブは、まだ青黒の法力を明滅させていた。
ソルの精神を掻き回し、思考を奪う為、無慈悲な脈動を繰り返している。

阿求は、そのソル達の様子を見てから、ついと視線を隣の建物へと視線を向けた。
その仕種が、“そちらを見ろ”というメッセージだという事はすぐに分かった。
アリスと慧音は、少しだけ間を置く。焦るな。慧音は自身に言い聞かせた。

先に視線を動かしたのはアリスだ。
一度クロウを睨んでから、ゆっくりと、気取られないように視線を動かした。
街道に並ぶ家屋の屋根の上に、深い緑色の帽子と、栗色の髪が見えた。
熱い風は弱まっていない。まだまだ熱いままだ。
だが、彼女は逃げることなく、自らに出来ることをすべく、其処に居た。

橙だ。屋根の淵から、顔の半分だけを出して、様子を伺っている。
それに、数匹の野良猫も、橙と同じように、顔を覗かせていた。
いや、この熱さと強烈なプレッシャーの中、逃げないところを見ると、化け猫になりかけの猫達なのだろう。
此処からでは頭しか見えないが、普通の猫よりも大きいのは間違い無い。
橙の連れた、化け猫部隊のエリート達と言ったところだろう。
慧音も、一瞬だけ視線を向け、気付く。

GuuuuuGGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHH―――!!
ソルの慟哭が響く。クロウが、不意に慧音とアリスを見た。

「何か企んでるみたいだけど…、これ以上は余計な真似はしないでくれ」
クロウの声は、冷静だったが、どこか焦っているようでもあった。

優位が揺らいでいるからだろう。
とはい言え、大きな状況の変化は望めない。
というのも、高熱と法力の暴風を発生させているソルを手術する為、クロウは薄緑色の
結界を纏っていた。
人質となっている阿求も同じだ。完全に捕らえられている。

能動的には、やはり動けない。
だが、阿求はそう思っては居なかったようだ。

慧音は、阿求と眼が合った。
阿求は、ふっ…、と柔らかい笑みを浮かべた。
アリスも気付いた。駄目だ。慧音はそう言おうとしたが、声が出なかった。
阿求は、懐から小刀を取り出していた。クロウはまだ気付いていない。
あっという間に、阿求は小刀を抜いて、鞘を捨てた。
呻き声ひとつ上げなかった。
阿求は自分の左手首ごと、張り付いた機械の蜘蛛を切り落としていた。


その瞬間。クロウは、自身を守る盾が、その結界だけになったことに気付けなかった。
僅かに隙が出来た。クロウは不意に振り返って、驚いたような貌をした。
手首から先の無くなった左腕を押さえながら、阿求は笑っていた。
目尻には痛みに涙が浮かんで、尋常では無い脂汗が滲んでいる。
それでも、阿求は笑みを浮かべたままだ。

「この歴史は、いずれ良い方向へと修正されるでしょう…。
…その為に必要なのは、私ではありません。ふふ、…残念でしたね」

阿求がそう言った直後だ。
街道に立ち並ぶ家屋の屋根から、凄まじい速度で何かが飛び出して来た。
体格の良い猫達だ。
その先頭では既に、橙が体勢を低く落として、ソルを捕らえるチューブに迫っていた。
正に電光石火だった。一瞬の間だ。
橙に続いた猫達はクロウに踊りかかる。噛み付き、引っ掻きに掛かった。
だが当然、クロウを包むようにして展開された球状結界に阻まれた。
「な、何だ…!?」 猫たちに驚き、クロウの動きが止まった。

だが隙にも、橙は、ソルへと伸びるチューブを引き千切り、爪を振るっていた。
一秒かそこらで、滅多クソのボロクソに引き裂かれまくったチューブは、もうその機能を果てせていない。
すぐに橙は、ソルの身体の下に潜り込み、持ち上げるようにしてその場を離れる。
同時に、化け猫になりかけの野良猫たちも、クロウの結界からバラバラと離れ、逃げ散っていく。

だがまだ終わらない。
ジャギギキキ…―――。武器を構えなおす、鳥肌が立つような重厚な金属音がした。
アリスの人形達が、一斉に突撃体勢を取って、突っ込んだのだ。
それとほぼ同時だ。慧音も前へ出る。疾駆する。

クロウは少し驚いたようだが、すぐに状況を把握したらしい。
やってくれるじゃないか…。少しだけ楽しそうに言って、手にしていた端末を懐にしまう。
そして、両手を下に向けたまま広げて見せた。
その両の掌からは、法力の微光が漏れて、術陣を描いている。
蟲を呼び出すつもりだ。

慧音は、だが、怯まずに突っ込む。
その慧音の背後には、アリスの操る人形達が続いている。
クロウの掌に浮かんだ術陣が、不気味に明滅した。術陣の中心は黒い穴だ。

何をする気だ。いや、何もさせるな。
そう考えて居たのは、慧音やアリスだけではなかったようだ。
閃光が奔った。澄んだ朱色の光だった。
「え――…」 クロウは間抜けな声を上げた。
捕縛用の結界だろう。一帯の朱の霊術陣が、クロウを包み、拘束していた。
半ば呆然としているクロウの脇をすりぬけ、慧音は地に蹲りかけた阿求を抱え、クロウから離れる。

慧音が抱えた腕の中で、阿求がぎゅぅと、強く服を掴んできた。
凄い血の量だ。あっという間に、慧音に服は血塗れになった。
涙が出た。慧音は振り返らず、走る。ただ駆ける。

離れていく慧音達を見送る格好になったクロウは、動けない。
自身を拘束する朱色の霊術陣を鬱陶しそうに見て、クロウは別の何かを詠唱し始めた。
青黒の法力の光が、クロウの体が滲み出し、街道を蝕み始める。
そのタイミングを見計らったかのように、今度は星屑の流弾がクロウ目掛けて次々と降り注いだ。

何とか結界を張るには間に合ったようだが、クロウは全く動けていない。
弾幕が地面を削り、結界に弾かれる音が街道に響き渡る。
クロウの結界に、僅かに亀裂が入った。
その中を、今度はアリスの操る人形達の戦列が突っ込んでいく。
人形達の持つ剣や、突撃槍が、つぎつぎとクロウの結界に突き立てられた。
ガギャギャギャ、とも、ガギギギギギ、とも付かない、金属が拉げ、擦れる音がした。

隊列を組んだ人形達で、敵を刻みながら、アリス自身も魔法を詠唱している。
だが、アリスは攻め込まず、一旦攻める手を緩め、人形達を退かせた。
動きを完全に抑えられたクロウに目掛けて、何かが流星の如く突っ込んで行ったからだ。

白黒の色彩に、魔女帽子のシルエットが見えた。魔理沙だ。
虹色の星屑を纏い、人間ミサイルと化した魔理沙は、全くスピードを緩めない。
暴風を巻き起こしながら、斜め上から突進した。

「受けてみろよっ…!」
余りの速度に、魔理沙も殆ど箒に片腕で捕まっているような体勢だ。
もう片方の手で、魔道書を抱えている。だが、開いて詠唱をする間など無い。
一瞬の後。魔理沙の掴んでいる箒の先端が、クロウの纏う結界に激突した。
火花が散って、視界が真っ白になって、すぐに七色の星屑が辺りに鏤められた。
とんでも無い光の量だ。すぐに身体にぶつかって来るような激突音が響く。

慧音は抱えている阿求を庇うようにして、その場に伏せる。
血の匂いがした。阿求は痛みを堪え、僅かに身体を震わせている。
慧音は顔だけを上げて、眼を凝らす。そして、その光景に見入った。

魔理沙が突撃をかましたミサイル箒と、クロウの結界は拮抗していた。
硬い物を擦り合わせるような音と一緒に、バッチバチ火花が散って、光の球がボンボン破裂している。
体勢的には、斜め上から突撃をかました魔理沙が、クロウの張った結界に着地していると言った方が正しい。
魔理沙の箒は、僅かではあるがクロウの展開した結界に突き刺さっている。
その刺さったままの箒に魔理沙が捕まり、脚を結界の壁に引っ掛けているような状態だ。

咄嗟の判断だったのだろう。クロウも詠唱を止めて、すぐさま防御姿勢に入っていた。
その冷静な眼にも、微かに焦りのようなものが浮かんでいる。
だが、左腕を魔理沙へと翳し、もう右手で空間ウィンドウを操作して見せる。
なんて集中力だ。

「成程ねぇ…、隠蔽結界を解いたのは、外から戦力を招き入れる為だったのか…」
クロウは、結界にへばりついたままの魔理沙に視線を向けながら唇を歪めて見せる。
魔力と法力の光が弾け合い、激しいストロボと火花を散らす。
だが、魔理沙は怯まず、箒を更に強く握り締める。クロウを睨み、歯を剥いた。

「これ全部…お前のせいかよ…!」
魔理沙は、箒に捕まったまま、周囲に視線を巡らせた。
其処で魔理沙の目に入ったのは、橙に抱えられた血塗れのソル。
そして、手首から大量の血を流す阿求を抱き澄める慧音の姿だった。
許せねぇ。魔理沙は、もう片手で持った魔道書に更に、魔光を宿す。
それに呼応して、クロウの結界に突き立ったままの箒も、七色の光を帯びた。
流石に危険を感じたのか。
クロウは早口で法術を詠唱し、罅割れた結界を修復しようとした。
だが、魔理沙の方が早かった。轟々と風が鳴って、吹き上がり始める。

「手加減無しだ…!」

魔理沙は、握った箒を更を結界へと押し込みつつ、身体に込めた魔力を一気に放出した。
ゼロ距離で打ち込まれたそれは、魔理沙の持つ技の中でも、強烈な突貫力を誇る一撃。
“エスケープベロシティ”だった。結界に突き立った箒は、流星の槍と化した。

衝撃は、恐らく里全体に響き割ったことだろう。
地面は揺れ、街道に立ち並ぶ家屋も、びりびりと揺れていた。
それくらい、魔理沙は本気だった。
うぉおおおおおお――――!! 魔理沙は雄叫びを上げ、結界を砕きに掛かる。
箒の先端は、着実に結界を崩し、確実に穴を広げていく。
バキバキ言いながら、クロウの結界に亀裂が入り、歪む。

「こ、これは――…!」
クロウも魔理沙に対抗し、結界を再修復しようとしたが、その動きを拘束された。
さらに一条、朱色の拘束霊術陣が増えて、クロウの身体を捕らえていたのだ。
この隙に、アリスも人形達に戦列を取らせる。
道端で、ソルを抱えていた橙も、札を取り出し、臨戦態勢を取ろうとしていた。

だが、アリスと橙は、攻撃に加わらなかった。
「魔理沙、そのまま抑えといて! アリス! ソルと橙をお願い!」
上空から、凛とした声が響いたからだ。霊夢だった。

霊夢は慧音達を庇うように着地し、即座に更に手で印を結んだ。
クロウの拘束する霊術陣が、更にもう一条増える。これで、クロウの動きは相当に制限された筈だ。
事実、魔理沙を押し返す結界の強さが、明らかに弱くなっている。

「ぐぅ…! これ程、とは…!」

クロウも、片手を魔理沙へと向けているのがやっとのようだ。
先程までの空間モニターも消え、片膝を付いて、息を荒くしている。
チャンスだ。
霊夢は、阿求と、阿求を守るように抱えた慧音を担ぐようにして、その場を離れる。
慧音は何か言おうとしたようだが、大人しく霊夢に担がれるがままだった。
そうだ。慧音は“キング”だ。歴史隠蔽の結界を張れるのは慧音だけだ。
アリスは人形達を操りながら、橙からソルを抱え渡しても貰い、ソルに肩を貸すような格好で、魔理沙達から距離を取る。
橙は、野良猫達に指示を出し、皆を逃がした。
それから、周囲の建物の中に逃げ遅れた者が居ないかを確認する為、路地裏へと駆ける。

再び、ドゴン…ッ、と音がした。
全員が距離を取るくらい、魔理沙はかなり本気だった。
流星そのものと化した魔理沙の箒は、既にクロウの結界を突き破りつつある。
地鳴りのような轟音が響いている。
クロウの結界が軋みを上げ、魔理沙の箒が呻りを上げているのだ。
球状の結界は魔理沙の箒に押され、ズグズグと地面にめり込んでいる。
クロウ自身の足も、ズ、ズズ…、と土の中に沈みこんでいた。
もう限界だろう。ピシピシ…、ミシミシ…、と、クロウの結界が悲鳴を上げる。
その瞬間は呆気なく訪れた。
バリィィィンと、かなり派手な音と共に、法力が形成していた結界の壁が砕け散った。
同時に、魔理沙と、流星と化した箒が貫通する。クロウはかわせなかった。
避ける間も無く、魔理沙の箒の先端は、クロウの左肩を捉えた。

肉が潰れるような、やばい音がした。
「ぅぐ――!?」 クロウはまるで冗談のように吹っ飛んで、街道をごろごろと転がる。
魔理沙は箒を放さないまま着地し、靴裏で慣性を殺す様に地して、ザザザァァァ―――っと地面を滑った。
そして慣性を殺しきってすぐに、魔道書を開いたままクロウを睨みつける。


街道が静まり返った。
ほんの少しの間だった。

すぐにクロウは起き上がって見せた。
ただ、流石に無事という訳では無さそうだった。
黒コートは埃まみれで、左腕はだらんと垂れ下がっているような状態だ。
どうやら出血もしているようで、左手の黒のグローブからは、赤い雫が滴っていた。
やってくれるねぇ。…死ぬかと思ったよ。
ぽたぽたと血溜まりをつくる左腕を押さえたまま、クロウは困ったような笑みを浮かべた。

「まさかねぇ…。蟲は全滅させられ、此処まで追い込まれるとは…。
 計算外だったよ…」

「本格的にお前をぶっちめるのは、今からだぜ…」

ぎりっと奥歯を噛んだのは魔理沙だ。
魔理沙はかなり頭に来ていた。初めてだ。怒りの余り、クラクラする。
身体が熱い。何かが噴出しそうだ。魔道書を持つ手が震える。
「魔理沙、あんまり突っ込み過ぎないで!」
背後から聞こえたアリスのその声のおかげで、何とか頭の芯を冷やす。
冷やしながら、クロウの動きを注視する。これ以上、余計な真似はさせない。
その為に、魔理沙と対峙するクロウを挟むような位置で、霊夢も文言を唱えている。

クロウから離れる際、霊夢は慧音と阿求を抱えていた。
だが、魔理沙がクロウの結界を割る間に、既に二人は街道の裏道へと隠れるように動いて貰っておいた。

霊夢はクロウを睨みつつ、ちらりとアリスに視線を送った。
その視線に気付いたアリスも、ソルに肩を貸したまま、霊夢に頷いて見せた。
橙の姿は無い。阿求達の護衛に、アリスが橙に頼んでくれたようだ。
これで、クロウが人質に出来るような人物はもう居ない。
形成は逆転した。その筈だ。

クロウは、罅の入った眼鏡の位置を無事な右手で直してから、再び法術陣を掌の上に作りだした。

「遠慮しておこう…。僕も、もう十分にデータも採れたしねぇ…」
キチキチキチ、という、金属が擦れるような音がした。
魔理沙と霊夢は警戒を強めるが、特にクロウ自身に変化は無い。
地面から聞こえる。切り落とされた阿求の手首に張り付いていた、金属の蜘蛛だ。
蜘蛛は阿求の手首を咥えたまま、クロウの足元まで這っていき、足を昇り、右手の法術陣の中へと潜り込んで行った。
吐き気のするような光景だった。

これで、今回採取するサンプルは最後だな…。
そう呟いたクロウは右手の法術陣を展開したまま、前後の霊夢と魔理沙を見比べた。
丁度それと同じタイミングだった。
クロウの周囲に、再び朱色の霊術陣が現れ、その動きを縛りつけた。
霊夢だ。紙垂を構え、手で印を結んでいる。
魔理沙も魔道書を開いて、詠唱を始めていた。臨戦態勢だ。

広い街道には、熱風と法力の暴風の代わりに、巫術と魔術が放つ微光が渦を巻いている。
このプレッシャーだ。
橙の御蔭もあり、周囲の建物の中にも、もう人は残っていない。
霊夢達の視線をまともに受けながらも、クロウは焦るでも無く、笑うでもない。
今までとは種類の違う無表情で、アリスに肩を貸してもらっている状態のソルへと視線を移した。
ソルは項垂れ、髪で表情を見えない。微動だにしない。
その様子を見て、クロウは鼻を鳴らしたようだ。
「改造手術に失敗したのは痛いけど…、まぁ仕方無いか…」
その言葉に応えるように、クロウの傍に空間モニターが表示された。
其処にはロボカイが映し出されていた。

「オイ駄目博士! コノ馬鹿野郎! イキナリ通信ヲ切ルナ! 心配スルダロウガ!」

「あぁ、ごめんごめん。…引き際を見誤ったみたいだ」

「呑気ナ事ヲ言ットル場合カ! コノおたんちんぱれおろがす!!」

まさか、此処まで大きなアクションを取ってくるとは思ってなかったんだよ…。
クロウは霊夢と魔理沙の様子を伺いながら、モニターへと視線を向けた。

「転移準備を頼むよ。…そっちに召んでくれ」

「合点承知ノ助ダ! トイウカ、モウ殆ド出来テルワイ!」

急送型の転移法術が起動しようとしているのだろう。
青黒の微光が、クロウを包んだ。暗い光の粒子が半透明になりながら吹き上がった。
不味い。逃がすかよ。
魔理沙は詠唱を完成させ、星屑の弾幕を降り注がせる。
霊夢も、さらに霊術陣をクロウの周囲に構築し、その動きを更に強く拘束する。
七色の星の光と、朱の力線が混じり、弾幕がクロウを飲み込もうとした。

「…簡単には行かせてくれないか」

クロウは無表情のまま、右手の中に浮かんだ法術陣を一回り大きく広げた。
自然には存在しえない青黒の光は、クロウの足元の地面を浸食し、金属に変えていく。
法力機術による汚染だ。
法力鋼の塗膜がクロウの足元から広がり、あっという間に暗銀色に地面を染め上げた。

クロウは、霊夢を見てから、魔理沙を見た。それから唇を歪めた。
霊夢の拘束術を受けながらも、此処まで強力な法術を操れるものなのか。
地面を覆った法力鋼は、のたくる大量の蛇のように伸びまくって、弾幕に絡みついた。
青黒の微光を纏う、幾条にも編まれた有刺鉄線だ。
星屑が、鉄屑編みの壁に阻まれ、爆散した。激しい光の明滅は一瞬だけだった。
視界がひらけた時、有刺鉄線の群れが魔理沙目掛けて殺到していた。
霊夢の展開した結界をぶち破り、襲ってくる。
鉄線の弾幕というべきか。街道に溢れかえるほどの量だ。多過ぎるし、速過ぎる。

危ない。
そう思ったアリスは、咄嗟に片手で霊糸を操る。
人形達に戦列を取らせ、魔理沙の壁となるように割り込ませようとした。
だが、間に合いそうに無い。魔理沙。名前を呼んだ。
もう駄目だと思ったが、違った。魔理沙は対応して見せた。

「鬱陶しいぜ…!」
魔理沙は持っていた魔道書を上へと放り投げて、放り投げたその手で懐の八卦炉を取り出した。
まるで早撃ちのガンマンのようだった。
速攻だった。魔理沙の構えた八卦炉から、巨大な光の束が掃射された。
真正面では無い。
斜め上方向に目掛けて放たれたそれは、迫って来ていた有刺鉄線の群れを蒸発させた。
だが、全部では無い。蒸発を免れた有刺鉄線が、後から後から魔理沙に迫ってくる。

「カバーに入るわ!」魔理沙の背後から、アリスは声は掛け、踏み込む。
今度は、アリスが間に合う。重厚な鎧兜を纏った人形達が、押し寄せてくる鉄線を阻む。
だが、流石に量が多過ぎる。稼げたのは僅かな時間だったが、十分だった。
魔理沙は一歩も退かない。
素早く八卦炉を懐にしまい、今度は吊った鞄の中から小瓶を二つ、指に挟んで取り出した
そして、投擲するというよりも、かるく放るようにして、魔理沙は瓶を手放した。
「助かったぜ、アリス!」
魔理沙は言いながら、落下してきた魔道書をキャッチして、そのまま詠唱を完成させる。
もう片手で持っていた魔理沙の箒に、魔光が宿った。
魔理沙はその箒を、放った瓶目掛けて、ライフル銃のように片手で構える。
箒を中心にして、魔法陣が魔理沙の正面に展開された。
一連の動作を、本当に一瞬の間に完成させた魔理沙は、そのまま魔弾をぶっ放した。
その反動を利用して、魔理沙は後方へと飛び退った。
銃身となった箒から放たれた超速の魔力弾は、有刺鉄線に飲み込まれつつある瓶に命中。
瓶の中身は、魔理沙が調合した魔法薬だ。
一瞬音が消えて、爆音が轟いた。爆片が舞い、迫って来ていた鉄線の波を砕く。


ざざざっ、と靴裏で地面を擦りながら着地し、魔理沙は後方でカバーに入ってくれたアリスに並ぶ。
顔を上げてアリスに向き直ると、アリスも真剣な貌でクロウを睨んでいた。
ただ、アリスが肩を貸しているソルは、まるで死体のように動かない。
呼吸はしているようだが、酷く浅い。凄い出血の量だ。
アリスの服が紅く染まっている。
魔理沙はぎゅっと唇を噛んだ。

「人形達まで爆発に巻き込んじまったな…悪い」

「仕方無いわ。…それに、まだ謝るのは早いわよ」

苦々しい貌でアリスは言う。その通りだった。

クロウは完全に逃げる体勢を整えようとしている。
街道の地面を覆う法力鋼の塗膜も、周囲の建物までは侵食していない。
その代わり、クロウを守るように足元からは有刺鉄線が伸びまくり、不気味に蠢いている。
法力を纏う鉄線は違いに絡み付いて、凝り固まり、クロウを守る防壁の役割を果たしている。
霊夢の霊術陣が拘束しているものの、拘束対象はあくまでクロウだ。
侵食された土地までを縛ることは出来ていない。
霊出陣を持続させる為、詠唱を続ける霊夢は動けない。
だからこそ、クロウは霊夢では無く、魔理沙を狙ったのだろう。
魔理沙に距離を取らせる為に、鉄線を嗾けたのだ。

だが、クロウはミスをした。
魔理沙は囮だった。霊夢が紙垂を振るうと、空気が振動する低い音が、街道に響いた。
ブン…ッ、と言う、何処か鈍い音だ。
地面から朱の光が湧いて、それは巨大な陣を描きだしていく。
それは、拘束というよりも、封印だった。
…やってくれるじゃないか。
苦しげに呻くような声を漏らしつつも、クロウは何とか抵抗しようとする。
だが、霊夢が発動させた結界陣は、それを許さない。
封印術陣の中心に抑え込まれたクロウは、その場に膝を付いた。

朱色の光が強さを増していく。
離れるぞ! 魔理沙は言いながら、ソルの空いている方の肩へと身体を滑り込ませた。
ソルの身体に触れ、魔理沙は血の気が引いた。
まるで、本物の死体のように冷たい。やばいと思った。
胸には封炎剣が突き刺さったままで、まだ血も止まっていない。
ソルは、魔理沙とアリスの二人に、両肩を支えて貰っているような状態だ。
素早く呪文を詠唱したのはアリスだ。
淡い七色の微光が、ソルを包んで、僅かにその身体を浮かせた。
ソルの身体が軽くなった。
その隙に、魔理沙は掴んでいた箒に力を込め、飛ばそうとした。
ソルとアリスの二人を引っ張る要領で、その場を離脱しようとしたのだ。
だが出来なかった。

……駄、目…、…だ…。
ソルが、うっすらと眼を開けて、血を吐きながら呟いたからだ。
「おい! しっかりしろよソル! 大丈夫なのか!?」
魔理沙は思わずソルの貌を覗き込んだ。アリスも同じだ。
ゆっくりと顔を上げたソルは、街道を睨む。

風が鳴いている。轟々とうねって、此処にあるもの全部を押し潰そうとしているようだ。
クロウは霊夢に封印されつつあり、街道には朱の霊符が結界を結んでいる。
それを見詰めながら、ソルは一人で立とうとするが、無理だった。
「無茶よ! 貴方、身体中穴だらけなのよ!」 アリスが、そのソルを支えながら言う。
魔理沙もそう思う。しかし、ソルはお構いなしだ。
ガハ…ッ、と、血の塊を吐き出してから、アリスに貸してもらっていた肩を解く。
今度は魔理沙に肩を借りる体勢のまま、空いた手で、胸に突き立った封炎剣に手を掛けた。

そしてそのまま、乱暴にぶっこ抜いて見せる。

魔理沙とアリスが止める間も無かった。
傷口からは炎と血が噴出している。

「ば、馬鹿野郎! 何やってんだ!?」
魔理沙はソルに怒鳴るが、まるで聞いていないのか。
荒い息をつきながらも、ソルはもう一度血の塊を吐き出してから、魔理沙を見た。
金色の眼はやたら澄んでいて、寒気がした。

「…このままなら…奴らを…、逃がす事になる…」

苦しげな声だったが、ソルの眼は完全に生き返っている。
それに、肩を貸す魔理沙には、ソルの身体の鼓動が、強烈に響いてきていた。
いや、鼓動と言うよりも、胎動と言って良いかもしれない。
魔理沙が感じるその心音は、明らかに、心臓の脈動では無い。大きすぎる。
とてつもなく巨大な生き物が、ソルの身体の中で生まれつつあるような感覚だ。
魔理沙はその迫力に、足が竦みそうになった。

「……俺に……糸を通せ…」
アリスも声を失っているようだが、そのアリスに声を掛けたのはソルだった。
糸を通せ。魔理沙には、その言葉の意味が一瞬、理解出来なかった。

「ば、馬鹿な事を言わないで! 確かに私は人形使いだけど…!」

「…なら…人の形さえしてれば…問題は無ぇな…」
すぐにアリスは反対したが、ソルは表情を変えないまま、その言葉を遮る。
ようやくソルの言葉を理解し、魔理沙も反論しようとした。

だが、それと同時だった。
何かが砕けるような音がした。街道の方だ。アリスはクロウ達に向き直って言葉を失った。
「嘘だろ…」思わず魔理沙は呟いていた。

だって。
霊夢が結んだ筈の霊出陣が、その光を急激に弱め、亀裂を生じさせていた。
暗銀色をした法力鋼の塗膜と、青黒の微光に、術陣の半分以上が汚染されていたのだ。
クロウを抑えこもうとしている霊夢の方が、今ではかなり苦しそうだ。
大量の汗が額に浮かんでいるし、息も荒い。
青黒と銀、そして、弱々しい朱色の光の力線の中で、クロウはもう立ち上がっていた。

「君の封印術は強力だけど…。
どうやら今回は、僕の法力機術の方が強かったみたいだね…」

クロウの纏う青黒の微光は、触れるものを鋼の塗膜で覆い、汚染、侵食し、徴兵する。
無理矢理に命を宿し、魂を込め、使役し、コントロールを奪う。
対象は有機物も無機物も問わず、そして今、霊夢の霊術陣すらも汚染されつつある。

……足踏みしてる時間は無ぇ…。 
霊夢達の様子を見ながらソルは言って、手に握った封炎剣に炎を宿す。

「…体は動かんが…今ならまだ、法力の行使は…何とか出来る…」

アリスの眼を見ながら、ソルは低い声で言葉を紡ぐ。
魔理沙は何も言えなかった。
アリスも困惑しているような、葛藤しているような貌で、一度霊夢達の方を見た。
朱色の光が、さっきよりも更に弱まった。
代わりに、金属の塗膜が地に広がり、青黒の光が強さを増している。
多分、あまり時間は残されていない。

「…人形を操る要領で…俺を奴にぶつけろ…」
封印術すら汚染するクロウに顎をしゃくって、ソルは鼻を鳴らした。
血を吐きながらなので、流石に少し喋りづらそうだった。
アリスは、クロウと霊夢、そしてソルを見比べる。

「…近付けさえすれば…奴を…黙らせる事が出来る…」


アリスは逡巡する。
“相手を黙らせる程度の能力”。
確かに、その手は有効な回答となるだろう。
既に霊夢の封印結界が崩壊しかかっているならば、尚更だ。
ソルの肉体も、ゆっくりではあるが、再生を始めている。
肩を貸した魔理沙は、黙ったままアリスとソルの遣り取りを聞いていた。
その眼は真剣だ。
…これは…、好機だ…。
そう言ったソルの顔は血塗れだが、金色の眼が暗い光を宿していた。

「…どうせ…この体は墓石に過ぎん…遠慮は要らん…」

…頼む…。ソルは厳かささえ感じる低い声で言って、それきり黙った。
沈黙は、長く続かなかった。
「やると決めた以上、本気で行くわよ…。どうなっても知らないからね」
アリスは呆れたような、諦めたような溜息を吐いてから、頷いて見せる。

「…なら、私も全力でフォローするぜ」
魔女帽子を被りなおして、魔理沙は唇を引き結んだ。決まりだ。
霊夢達の方を見てみると、術陣の帯のかなりの部分が青黒に染まっている。

魔理沙のおかげで人形達も燃えちゃったけど…今は、出し惜しみは無用ね。
アリスは言いながら、右手で持ち直した魔道書に魔力を込め、呪文を紡ぐ。
詠唱に応え、七色の魔光がアリスの身体を、柔らかく包んだ。
淡い光はすぐに凝り固まり、女性用の甲冑へと変質していく。
アリスの腕と脚を覆う、軽装の白銀甲冑だった。
バラバラと激しく捲れる魔道書も、そのページ一枚一枚が剥がれ、舞い上がる。
それらのページは、長大な突撃槍を手にし、鎧兜で身を包んだ人形達へと姿を変えていく。
魔力を消費して作り上げた、人形達の幻影だ。
アリスの五指には金の指輪が嵌められており、其処から無数の霊糸が人形達へと伸びている。

霊糸は、魔理沙が肩を貸すソルへも伸び、その身体を操るべく神経そのものへと変わっていく。

 その瞬間、アリスは自分の体が燃えるように熱くなるのを感じた。
 足元がふらついて、視界がぼやけた。霊糸を通して、ソルの法力が流れ込んできたのだ。
 とにかく熱い。燃え上がる。怒りや、後悔のようなものも感じた。
 感情までもが流れ込んできているのか。分からない。今はどうでも良い。
 頭を振って、アリスは強く眼を閉じる。念じる。集中する。
アリスが指を動かすと、ソルは魔理沙から離れ、ぎこち無い動きで重心を落とした。
 これで、ソルはアリスの操り人形となった。後はいつも通りやれば良い。
 攻撃の瞬間や、インパクトの瞬間の法術の行使は、ソルに任せる。
後はアリス自身も魔力をフルで使い、人形達を出せるだけ出して、ソルをカバーするだけだ。
 
 「霊夢が抑えてる間に、決着つけるぜ!」
 魔理沙は魔道書を鞄の中に突っ込み、八卦炉を口に咥えた。
 代わりに、鞄の中から魔法瓶を三つ。指に挟んで取り出した。
 箒を地面と平行にふわりと浮かべ、準備を整える。
 「まず私が斬り込む。突破口をこじ開けるから、続いてくれ」
 「一点突破ね。…分かり易くていいわ」
アリスの言葉に続き、ソルも黙ったまま魔理沙に頷いて、クロウを睨む。
 それじゃ…、3、2、1、で行くぜ!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
封印結界までもが侵食され、逆に飲み込みに掛かってくるとは思いもしなかった。 
 霊夢は歯を噛み締め、クロウを何とか抑え込もうとする。
だが、まるで腐ったスライムを掌で押し潰すような感触が身体に伝わり、上手く結界を結べない。
それどころか、解れ、解けて行く。いや、違う。蝕まれている。
頬を伝うものが、冷や汗なのか脂汗なのか、どちらか分からない。
だが、かなりの消耗を強いられている。

「もう諦めたらどうだい…。今回は僕に勝ちを譲ってくれないかな」

「冗談は、そのふざけた法術だけにしときなさい」

「僕は尻尾を巻いて逃げるだけなのに、そんなに頑張る必要は無いと思うけどねぇ。
 僕は帰還して、結果的に君達は僕を退けるんだ。何が不満なんだい?」

「…うるさいわね。黙ってなさい」

クロウも重傷の筈だが、痛む素振りや、疲労している様子などが全く見えない。
恐らく身体を弄り、痛覚などの余計な感覚を潰しているのだろう。
割れた眼鏡の奥で、クロウの眼が細められている。笑っているのでは無い。
観察しているのだ。反吐が出る。
霊夢と魔理沙は、クロウを挟み撃ちにしている状態だが、優勢とは言い難い。
魔理沙も、濁流のような有刺鉄線の群れに押されていくのが、先程見えた。
有刺鉄線の群れは、封印結界を破る程の物量とパワーだった。
霊夢が展開している結界は、霊夢とクロウを隔ててこそ居るものの、もう完全では無い。
 クロウをこの場に括り付け、転移されないようにするのがやっとだ。
持久戦になれば有利かもと思っていたが、大間違いだった。
何より、拘束した筈のクロウの法術が一向に弱まる気配が無い。
それどころか強くなる一方だった。
こんな事なら、もっと真面目に修行しとけば良かったかしら…!
自身が押されている事に、霊夢は歯噛みする。
霊夢の位置から、魔理沙達がどんな状態なのか見えないのも気になった。
だが、すぐに気にする必要も無くなった。
「お前の相手は私だぜ!」 魔理沙の大声が聞こえたからだ。次に、爆音。

「まったく、諦めが悪いねぇ…」
クロウは霊夢に背を向ける格好で、魔理沙達の方向へと振り返る。
同時に、その掌に造りだされた法術陣が、一際強い光を放った。
一体、どれだけ余力があるのか。
法力鋼で覆われた地面から、馬鹿げた量の有刺鉄線の濁流が吹き上がる。
いや、今度は有刺鉄線だけじゃない。蟲だ。
大きい。人間の大人くらいの、金属で出来た蟲が溢れた。
青錆びと黒色が混じった、蜘蛛や百足の群れだった。
霊夢の方にも蟲達が押し寄せた。
だが、封印結界に阻まれ、次々にぶつかって、ぐちゃぐちゃに潰れていく。
構わず、クロウを括る事に集中する。集中しながらも、叫ぶ。
「魔理沙、気をつけて!」 咄嗟だったから、そんな事しか言えなかった。
だが、それで十分だったようだ。
霊夢の親友は、「おう! もうちょっとだけ堪えててくれ!」と返して来た。
爆音に掻き消され聞き辛かったが、そう聞こえた。

霊夢は気合を入れ直す。深呼吸し、集中力を更に高める。
今は、ただ強いだけでは駄目だ。耐え忍ぶ強さが必要だ。
余計な力を抜く。風に揺れる柳は、嵐にも耐えうる。
害悪よりも、それに耐え抜く力の方が強いことを、霊夢は知っていた。
そう信じている。全身全霊を込めて、クロウをこの場に括り、留める。
その為にもう一度、薄れ掛けた術陣に霊力を込めた。




聞こえて来た霊夢の声に答えつつ、魔理沙は箒に飛び乗ったまま、クロウに突っ込んだ。
案の定、有刺鉄線の濁流が壁となって押し寄せて来た。
ついでに、其処に紛れて、気色の悪い蟲まで湧いてきた。
相手にしてられるか。魔理沙は手に持った魔法瓶を全部ぶん投げてやった。
それから直ぐに、咥えていた八卦炉を手に持って、正面に構える。
狙い済まして、レーザー状の弾幕を魔法瓶に撃ち込んだ。
魔法瓶は有刺鉄線と蟲の群れの中に埋もれようとしているタイミングだった。
ドパパパァァン…! と、少し間抜けで、派手な音と共に、金属が飛び散る。
連鎖的に爆発した魔法瓶は、規模は小さくともなかなかの威力だ。
蟲と鉄線の雪崩の中に、解れが出来上がる。

魔理沙は吼えて、箒を更に加速させ、その中に突撃する。
巨大な蟲と有刺鉄線の群れの中に飛び込む。躊躇は無かった。
その魔理沙に応えるように、薄れ掛けた霊夢の術陣に、再び光が戻り始めた。
封印が持ち直した。蟲達の動きが、一瞬、鈍った。
長くは続かないだろうが、これは間違いなくチャンスだ。
 魔理沙は箒で蟲達をぶん殴りながら、群れの真っ只中に着地した。
そして、即座に魔法を発動させる。
魔理沙の周囲に、青、赤、黄、緑色をした、四つの魔法石が浮かび上がった。
魔法石はすぐに魔理沙に応えた。
四方八方から群がってくる蟲と鉄線を、弾幕を全方位に放って退けていく。
魔理沙の得意技、“オーレリーズサン”だ。

蟲と鉄線の分厚い壁に、魔理沙の特攻で亀裂が入る。
其処に、フル装備のアリスが攻め込む。

アリスが従える、鎧兜を纏った人形の幻影は、もうかなりの数だ。
ぱっと見では数え切れない。
 軽装の甲冑を着込んだアリスは、優雅に腕を振るい、霊糸を操る。
 人形達が、一斉に突撃槍を構えた。

Chaaaaaaaarge――――!!!

 アリスは魔理沙の後を追う様に前進しながら、振り上げた腕を前へと倒す。
 それは突撃命令だった。人形達は戦列を組み、突撃槍を構え、一斉に突進を始める。
アリス達は、魔理沙のつくった亀裂に殺到し、押し広げ、突き破っていく。
そこら中で人形達が蟲を刺し殺し、食い殺された。鉄線を薙ぎ払い、絡めとられた。
だが、勢いはアリス達の方が上だ。
どんどん前へ前へと進撃する。その推進力の一つが、ソルだった。
肉体の修復はまだまだ完全では無いが、ソルの精神力は痛みなど完全に凌駕していた。
思考を掻き混ぜられ、身体の中を改造されつつあったというのに、その戦いぶりは苛烈だ。
動き自体は俊敏では無かった。
ソルは他の人形達と同じように、単調な攻撃しか出来ない。
それでも、アリスが自身の身体を操作するのに合わせて、封炎剣に炎を宿して見せる。
それでいて余計な力は使っていない。
インパクトの瞬間だけ、最大の攻撃力を発揮出来るように立ち回っている。
単調な攻撃の繰り返し故に、無様で、だからこそ余計に凄絶だった。
ソルが封炎剣を振るうだけで、蟲も鉄線も容易く両断された。
炎が上がって、それが反撃ののろしになった。

魔理沙達の突撃は止まらない。
もうすぐ届く。クロウは、もうそぐ其処に居る。

だが、それすらクロウの予測の範疇だったのか。
多分、読まれていただろう。奴は抜け目なかった。
「僕も出し惜しみは止めにしようか…」
その低い声が聞こえるよりも先に、魔理沙は思わず動きを止めてしまった。
クロウが纏う青黒の微光が、バァァっと周辺へと伸び、一気に汚染範囲を広げた。
凄まじいスピードの侵食だ。それだけじゃ無い。
魔理沙達がぶっ潰した蟲達の残骸が、蠢いて、再生し始めてる。
液体金属のようにどろどろと溶けて、寄り集まって、更に巨大な蟲に変わっていく。

やばい。魔理沙は下がりかけたが、踏みとどまる。
下がれるかよ。前も後ろも左も右も、鉄屑と蟲だらけだ。
ついでに鉄線も生えまくって、さっきよりも壁が分厚くなりやがった。
マジでやってられねぇ。出し惜しみ無しか。上等だぜ。
魔理沙も全身に魔力光を纏う。文字通り、全身全霊だ。
これを外したら、もう動けねぇ。でも、やるしかねぇ。これしかねぇんだ。
ちらりとアリスの方を見ると、アリスもマジだった。
人形の幻影の数が更に増えた。鎧兜のせいで、見た目はもう幻影の軍隊だ。
数で負けていた筈なのに。突撃をかましながら数を減らした筈なのに。
完全に持ち直してる。というか、押しまくってる。
というか、凄ぇ。マジかよ。凄ぇな。アリス。
アリスが造り出したのは幻影の軍隊だけじゃない。
街道に並ぶ建物を守るための、防御結界を構築して見せたのだ。
薄碧の術陣が街道を覆い、光の粒子が流れ散る様は、割れた海のような光景だった。
 
魔法の壁で作られた溝と化した街道は、一本道だ。
まだ霊夢の術陣も生きている。絶対逃がさねぇ。
必要ならば、魔理沙は何度でも、死に立ち向かう勇気を振り絞れる。
幸いな事に、アリスが街道の建物に結界を張ってくれた。
遠慮はしねぇ。行くぜこの野郎。
魔理沙は飛び出した。再び流星と化した。
いや、だが先程とは威力がまるで違う。魔法陣を纏う隕石だった。
 続いて、アリスが号令を掛ける。

Chhhhhhhaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaarrrrrrge――――!!!

アリスの突撃命令の下。
人形達は、破城鎚のような突貫力で、鉄屑の壁をぶち抜く。
魔理沙に至っては、眼前に立ち塞がるものを蒸発させながら、飛びぬけていく。
突破口が出来がった瞬間だった。突き抜けた。
もう余計な事を考える必要も無かった。
気付けば、魔理沙はクロウの眼の前へと迫っていた。
「な――――っ!?」クロウは其処で初めて、本気で驚いたようだった。
「おおおっりゃああーーっ!!」
魔理沙は箒に跨ったまま体勢のまま、身体を捻るようにくるりと宙返りした。
そして空中で、野球のバットを振り抜く姿勢と作る。突っ込んだ勢いはそのままだ。
流れるような動作で箒を振りぬき、フルスィングでクロウにぶち込んだ。
クロウは咄嗟に掌を翳し、何とか結界を張ることで防御する。
魔理沙の箒が砕けるようにして折れた。
「っぐ、あっ―――!」勢いを殺しきれず、魔理沙は地面を転がった。
すぐに手を突いて立ち上がろうとしたが、無理だった。

眼が霞んだ。あ、やべぇ。
目の前が真っ暗になった。ガクンと膝を付いて、顔を上げるのがやっとだった。
畜生。そう魔理沙が思った時だった。
まだだ。追撃にアリスが入る。
魔理沙の攻撃に怯み、対応の遅れたクロウの行動を締め上げる。
人形達が、更にクロウに殺到したのだ。
霊夢の封印結界に括られたままのクロウは、ろくに動けなかった。
掌に宿る結界を強めるのがやっとだった。クロウは呻いたようだ。
「邪魔な…!」 クロウの法力機術は、まだ死んでいない。
結界に突撃槍をぶつけていた人形達が、青黒の法力の光に包まれ、錆びていく。
そのまま霊糸を伝い、アリスまでも汚染しようとしたのだろう。
砂鉄になって崩れていく人形達を無視し、クロウはアリスへと視線を向けた。
危険を感じたアリスは、人形達に繋いだ霊糸を切りつつも、退かない。
詠唱を重ね、立ち向かう。手に残った霊糸は、ソルへと繋がっている。
アリスは集中する。ソルの動こうとする意志に、自身の人形操作をシンクロさせる。

クロウの妨害は間に合わない。

其処に、ソルが止めを刺しに駆けたからだ。

ソルの額のギアの刻印は、何時の間にか血錆色の鈍い光を宿していた。
 極端な前傾姿勢のまま、ソルは鉄屑の隙間を、縫うようにして踏み込んでいく。
疾い。操られている動きじゃない。
ソルと繋がる霊糸から、アリスの体に熱過ぎる何かが流れ込んできた。
アリスは自分の体が悲鳴を上げるのを聞いた。熱い、というよりも、苦しい。
ソルの持つギアの身体に、意識を持って行かれそうだった。
だが、アリスは何とか堪えながら霊糸を操り、ソルの身体をクロウへと運ぼうとした。
途端に、景色がぐにゃぐにゃと歪んだ。前を見ている筈だが、よく分からない。 
倒れそうだ。身体に力が入らない。
歪む視界の中で、霊夢が維持する封印結界の朱色が眼に入った。
そうだ。まだ霊夢は耐えている。クロウを括る為、全力を尽くしている。
もう限界だって近い筈だ。「私も根性見せないとね…!」アリスは魔道書を放り捨てた。
そして、ソルに伸ばした霊糸に全神経を集中させる。

ソルは炎の塊みたいになって、蟲を撫で斬りにして、有刺鉄線を融解させながら進む。
アリスの戦闘センスに任せるしか無い状況でも、ソルはやはり冷静だった。
血と炎に塗れた封炎剣を振り下ろす度、何十匹もの蟲が消し飛んで、爆片が舞う。
ソルが進んで来た処は、炭屑と燃滓だけが残っていた。
最後の一押しとばかりに、ソルは地面に封炎剣を突き立て、法術を発動させる。
太陽を、或いは、巨大な歯車を思わせる法術陣が地面に浮かび上がった。
溢れる光の色は、雲に隠れつつある陽光を思わせる、濁った赤燈。
地に刻まれた歯車型の術陣は、法力機術の青黒の微光を焼き払っていく。
それに呼応して、沸いてきていた蟲達もその形を保てず、砂鉄に帰り、消え始める。
有刺鉄線で編まれた壁も、錆びて崩れおちた。
ソルの持つ、“相手を黙らせる能力”だ。

「…後は、テメェを黙らせるだけだ…」

ソルは貌を上げ、クロウを睨みながら突進する。
封炎剣をその場に突き立てたまま、何も持たない徒手空拳で、向き直った。
状況は、完全に持ち直した。法力機術の汚染は、ソルの封炎剣が楔となって、抑えられている。

クロウは、やられたなぁ…、と呟いて項垂れた。
だが、それでも諦めていない。クロウの掌には、相変わらず機術陣が構築されたままだ。
まだ何か仕掛けて来る気か。

させるかよ。ふらつきながら立ち上がった魔理沙は、肩から吊った鞄に手を突っ込んだ。
「持ってけコノヤロー…!」
そして、なけなしの力を振り絞って、倒れこむようにして最後の魔法瓶を投げつけた。
視界がぶれまくって狙いが定まっていたとは言えないが、十分だった。

クロウの注意が、一瞬、ソルから魔理沙へと向いた。
「しつこいねぇ…!」 クロウは咄嗟に防壁を展開するが、結果的に出鼻を挫いた。
ほんの僅かな時間だった。
魔理沙が投げた、魔法瓶の炸裂。
それを結界で防いだ瞬間には、踏み込んだソルとクロウの間合いは、3メートル程。
蟲達も崩壊し、クロウを守るものは、間合い中に無い。
アリスの操作は完璧だった。クロウはソルを抑えられない。

魔理沙は見た。

一瞬だった。炎が帯を引いた。ドゴン…ッ! と、重い音が響く。
それが、ソルが踏み込んだ音だと気付いた時には、既に決着がついていた。
いや、つきかけていた。ソルは、振り抜いた封炎剣をクロウに叩き込む寸前だった。
だが、届かなかった。何かが封炎剣を受け止めたのだ。
凄い音と衝撃が、周囲を括る結界を揺るがせた。

そんな馬鹿な。
魔理沙は声を失った。
だって、あれは―――。

「出来るなら、こちら側のカードは伏せておきたかったんだけどねぇ…」

クロウは、自分の目の前で受け止められた封炎剣を一瞥して、ソルに笑みを浮かべて見せる。
血塗れの貌を、疲労に歪ませたソルは、驚愕するよりも先に、…くそったれ…、と呟いていた。

封炎剣を受け止めたのは、封炎剣だった。
だが、赤色の柄に、白磁の刀身では無い。赤銅色の柄に、黒塗りの刀身だ。
ソルが振り抜いた封炎剣を止めたのは、一人の聖騎士だった。
体力と精神に限界が来たアリスも、魔理沙と同じように、膝を着いたまま、呆然とその様を眺めていた。

クロウが編んだ法力機術は、神秘を掴み、人工的に奇跡を起こしていた。
見間違う筈が無かった。空間に、大人一人分程の亀裂が入っている。
青黒の微光を纏う有刺鉄線がその縁を走り、亀裂の端には重厚な歯車が嵌っている。

あの形は、スキマだ。
有刺鉄線が象った、空間の亀裂だった。
紫が用いるスキマにはリボンが付いているが、代わりに歯車が嵌っているのは、何の嫌味か。

鉄線編みのスキマから、その騎士は飛び出し、ソルの封炎剣を受け止めたのだ。
その騎士の姿にも、魔理沙とアリスは驚かされた。

聖騎士団の騎士服を纏ってはいるが、その色は白では無い。
黒だ。ただ、安っぽい黒では無い。何処までも冷たく、重い黒だった。
長い髪を後ろで束ねた姿で、髪の色は、血染めのような赤。
騎士服と同じ、黒のヘッドギア。
肌は異様に白い。縦に裂けた瞳孔は、くすんだ金色。
その顔立ちは、ソルそのものだった。
 
 
黒いソルは、受け止めていたソルの封炎剣を、強烈な力で弾き返し、ソルを吹き飛ばした。
 墨色の炎が、黒塗りの封炎剣に宿っている。滲み、濁り、粘つくような炎だ。
 吹き飛ばされ地面を転がったソルは、立ち上がろうとしたが無理だった。
 
身体もそうだが、クロウから受けた改造手術のせいで、意識の方がはっきりとしない。
 肉体と精神が繋がっていないような感じだ。自我にノイズが混じる。
 頭がざらつく。此処まで身体が言うことを聞かないのは初めてだった。
 ソルは血を吐きながら身体を何とか起こし、顔を上げる。
 
追撃は来なかった。
 
 黒いソルは静かに佇み、墨色の炎と、灰色の法術の光を封炎剣に灯しているだけだ。
細く、黒い炎の渦を、煙のようにくゆらせ、ただクロウの指示を待っていた。
黒いソルのくすんだ金色の眼は、ソルしか見ていない。
 何か感じるものでもあったのか。睨むでも無く、見詰めている。
完全な無表情で、ソルを見ている。見下ろしている。
 
やっぱり、干渉されるか…。GEAR MAKERの眼を盗むのは、簡単じゃないな…。
…それに、そろそろ…妖怪の賢者も動き出しそうだ

黒いソルの隣で、クロウはぶつぶつ言いながら、空間モニターを開いた。
ロボに心配されるようじゃ、僕も指揮官失格だねぇ…。
言いながらモニターの画面を一瞥して、クロウは魔理沙やアリスに視線を巡らせた。
そして最後に、ソルに向き直る。
「お仕舞いにしようか…」
クロウのその言葉に、黒いソルが動いた。
ソルから視線を外し、霊夢が居る方へと向き直った。

不味い。この状況で霊夢を狙う気か。

クロウ達をこの場に括る為、霊術陣を展開する霊夢は動けない。
というよりも、霊夢もとっくに限界の筈だ。
魔理沙は立ち上がろうとしたが、途中でガクンと膝が折れた。
アリスも、呪文を詠唱するが、完全に魔力切れだ。何も発動しない。

そんな魔理沙達には眼もくれず、黒いソルは封炎剣を横一文字に構えた。
明らかに危険な雰囲気だ。周囲に散乱した金屑が、青黒の光の粒子となって消えていく。
いや、燃えあがり、灰になって、散っていく。
地面を覆った法術鋼も同じだ。剥がれ、炭屑のようになって、消滅する。
黒いソルが行使しようとしているのは、法術であって、法術では無い。

ソルと同じだ。
クロウの法術を無力化しようとした“相手を黙らせる程度の能力”。
それと同じ能力を、この黒いソルは桁外れの規模で発動させたのだ。





そん…な…。霊夢は絶句するしかなかった。
防衛の為に、クロウ達を霊術陣で括り続けた疲労も、当然ある。
というよりも、もうクタクタだ。
だがそれでも、そう簡単に、この拘束用の術陣は破れない。
その筈だった。
それが冗談のように、一瞬にして消えて、霧散した。
あれだけ大規模で、頑強な術陣が、煙のように消えてしまった。
呆気に取られた。何が起きたのか理解出来なかった。

動こうとして、吐き気がした。
視界がぐるぐると回る。眼の焦点が合わない。
身体に力を入れようとした途端に、凄まじい疲労が襲って来て、膝が折れかけた。
声がした。
魔理沙の声だった。

避けろ。そう聞こえた。
 何とか前を見ると、薄暮に混じって、熱を感じた。
黒い炎だ。凄い大きさだ。黒い太陽みたいだった。
避けなきゃ。何処へ。無理。体が。上手く動かない。
炎はもう眼の前だ。熱い。ああ、やだなぁ。
くらつく頭でそんな事を思った時だった。

Gggguuuuuuuuuoooooooooaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhh―――!!!!!!!!

今まで聞いた事の無いような、とんでもない大声が聞こえた。
耳が一瞬聞こえなくなった。
それは、咆哮だった。竜が吼えた声だ。

見れば、霊夢と黒い炎の間に、何かが割り込んだ。
いや、少し違う。
炎と霊夢の間に割り込んだと言うよりも、黒い炎に追いつき、追い抜いて、振り返ったみたいだった。
 
 霊夢はそこで見た。一瞬、誰か分からなかった。
上半身が血錆色の外骨格で覆われ、その右腕が異様に肥大化している。
腕の大きさは、人間の大人程もあるかもしれない。
その掌は更に巨大で、歪で、余りにアンバランスだ。大き過ぎる

ソルだ。
吼えながら、霊夢を守るべく、盾になろうとしていた。
竜鱗で覆われた掌は血錆色の炎に燃え、法術陣に描かれる筈の紋が刻まれていた。
まるで鉱炉のような鈍い光を帯びている。凄い熱量だ。

ソルは、使い物にならなくなった自分の体に、神器である封炎剣を取り込んだのだ。
正確には、右腕に取り込み、自身の右掌を一時的に神器と化していた。
神器とギア細胞の融合は、ソルの自我に壮絶な負担を強いる。
多分、今の状態のソルは、何かを冷静に考え、行動している訳では無い。
思考と意識を掻き混ぜられ、肉体をボロボロに弄られて尚、何かを守る為に戦おうとしている。
もはや動いているのさえ不思議な状態で、ソルは咆哮を上げる。

霊夢はソルの名前を呼んだ。魔理沙も、アリスもだ。
クロウは驚いたような貌で、その様子を見ていた。
ただ黒いソルだけは、全く表情を動かさず、ソルを見ていた。
GgggaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaAAAHHHHHHHH―――!!!!!!!!
ソルの咆哮が、霊夢達の声を掻き消す。

本当に無茶苦茶だった。
ソルは肥大化した掌を身体ごと振り抜いて、巨大な黒い炎の塊を掴んだ。掴み止めた。
迫り来る炎の塊をガッチリと掴みに行ったのだ。
ズザザザザザザァァァ――――!! 、と、ソルの身体が押される。
だが、ソルはぐっと脚を踏ん張り、黒い太陽を止めた。
ズズシィィン…、と地面が陥没する。
 其処で、ソルの眼に微かな理性が戻った。肥大化した掌に、血錆色の術陣が浮かぶ。
…喰われろ…。掠れた声でソルが呟いた瞬間だった。
ソルの掌が、黒い炎を食い破った。いや、噛み砕いて、飲み込んでしまった。
爆風と共に、黒い炎が四散して、辺りに熱波を撒き散らした。
閃光らしいものは無かった。炎が黒かったせいか。

陽炎が上がり、なにもかもがぐらぐらと歪んで見える景色の中。
霊夢はソルに駆け寄ろうとしたが、身体が上手く動かない。

ソルは肥大化した右腕を持ち上げ、クロウ達に突っ込んで行こうとしていた。

だが、時間切れだ。
クロウと黒いソルの姿が、半透明になり、消えかけている。
その足元には、転移法術陣が浮かんでいた。

良く此処まで頑張れるものだねぇ…。
乾いた拍手をしながら、クロウは唇を少しだけ歪めて見せた。

「まさか神器をそんな風に使うとは…意表を衝かれたよ」
その隣では、人形のように無表情な黒いソルが、黙ったままソルを見ていた。

ソルは前へ出ようとしたが、無理だった。膝を折り、腕を抑え、蹲るように倒れる。

だが、ぐぐっと顔だけを上げて、クロウを睨む。

君にとっては…。
クロウは、其処で一旦言葉を止めて、眼を細めた。
「どんな絶望的な激戦も…敵の死と、ドラゴンインストールで終わったし…、
君の復讐は、自分自身を呪い殺す事で終わったのに、どうしてそんなに頑張るんだい?」

この機会に、是非聞いてみたいね。良ければ、教えてくれないか。

嫌味じゃない。

クロウの眼は笑っていない。
ソルを衝き動かすものは何なのか。それを知りたいのだろう。
黒いソルの眼が、僅かに細められた。

だが、ソルは答え無かった。
ただ、静かにクロウを睨むだけだ。

静寂があった。

クロウは肩を竦め、背を向けた。
その姿は既に消え掛けている。

「気付いているかい…? 
GEAR MAKERの仲間が、僕たちを嗅ぎ回ってる…現在進行形でね」

ソルは眉を顰めた。何が言いたい。
そう言おうとしたが、上手く声が出せなかった。

「つまり、僕は正解を選んでいる、という事さ…。
 GEAR MAKERの側近が動くとなれば、これはただ事じゃない。
 僕の取るアクションは、確実にGEAR MAKERを追い詰めてる」

とは言え…、と、クロウは苦笑を零した。

「どうやら今回は、欲張って派手に遣り過ぎたよ…。
 追跡をかわして帰るのに苦労しそうだからね。此処らで失礼するよ」

クロウはそう言ってから、ふっ、とその姿を消した。
霊夢の拘束霊術陣が消えた御蔭で、急送型の転移法術は止めようが無かった。


馬鹿馬鹿しい位の静けさが、辺りを包んだ。


ソルは、悪態をつくことすら出来なかった。
霊夢の声が聞こえた気がしたが、返事をする事も億劫だった。
起き上がろうとして身体を起こすが、やはり無理だ。
仰向けに寝転がるようにして倒れ、空を見上げる。
  
夜空に鏤められた星の光が、やけに虚しく見えた。

……クソが…。
最後の力を振り絞って悪態をついたが、自身の声すら上手く聞こえなかった。

呟いたソルの視界は、すぐに真っ暗になって何も見えなくなった。











[18231] 二十八・一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/05 16:05

 聖戦時代。
赤い聖騎士は、騎士団の中でもかなり異質な存在だった。

毎日、バタバタと面白いように人が死んでいく中で、常に戦場の最前線をうろついていた。
悉くギアを殺し、手当たり次第に破壊して廻っていた。
赤い聖騎士はどの戦場でも、苛烈に戦い抜いた。

大型ギアの大群の群れにも、まったく怯まなかった。
先頭きってギアの群れに突っ込んで、群れの戦線を切り崩し、殺しまくった。
赤い聖騎士はギアの返り血を浴びて、いつも土砂降りの血の雨を引被ったような姿で戦って来た。
粛々と、淡々と、来る日も来る日も、戦いに明け暮れた。
その強さを認められ、重要な役職に任命されるような事もあったが、その悉くを固辞した。

聖騎士団は、ギアから人類を守る為にあった。
騎士達は人々と街を守り、負傷者を癒し、生存者の捜索にもあたった。
そんな中で、騎士達の中にも家族を失い、また故郷を失い、悲哀に暮れる者も居た。
戦友の死に泣く者も、当然多数居た。
そんな中でも、赤い聖騎士は悲嘆する姿を全くという程見せなかった。
無表情のまま、あらゆる戦場を渡り歩いて、次々とギアの群れを殲滅していった。

日に日に、赤い聖騎士の戦いぶりは激しさを増していった。
時に、赤い聖騎士一人だけが、生き残って帰還するような激戦もあった。
たった一人で戦い抜いて、血塗れの勝利を持ち帰って来た。
それも一回や、二回では無い。
間違いなく、赤い聖騎士は聖戦時代に於いて、最も多くの武勲を立てた騎士だった。
それと同時に、ギアと人の死を、最も目の当たりした騎士でもあった。
英雄と呼ばれても良いその武勲も、しかし、彼は全く興味を示さなかった。
称賛の声もあったし、仲間の騎士達から畏怖されていた。
だが、戦場を執拗に求めるその姿に、騎士団の中では、“奴は戦闘狂だ”と言う者も居た。
“奴は、人を救う為に戦ってるんじゃない。戦いたいから聖騎士団に居るんだ”。
そんな風に蔑むような声もあった。

無理も無かった。
休息もろくに取らず、次から次へと戦場へと向かう赤い聖騎士の姿は、常人には理解し難かった。
それに、赤い聖騎士自身も、それを理解して貰おうという姿勢を全く取らなかった。
世俗的な趣味も殆ど見せず、誰かと進んで交友を持つ事も無かった。
ただ、ギアを破壊する事だけを考えているようだった。
おかげで、赤い聖騎士と共に戦いたがる者は、片手で数える程だった。
赤い聖騎士は、しかし、それすら拒んだ。
誰も彼もを遠ざけた。

赤い聖騎士は、聖騎士団の中でも、圧倒的に異質というだけでなく、孤独だった。

その内、赤い聖騎士は、一部で“人類の剣”と称され、また一部では“狂人”として認識されるようになった。

だが、やはり赤い聖騎士はそんな評価など、全くに気にも止めなかった。
ただ、黙々と戦いに明け暮れるだけだった。
そのせいで、周囲からの畏怖や称賛、僅かな侮蔑の視線などは、全て空回りしていた。

“人類の盾”と呼ばれた蒼い聖騎士は、そんな赤い聖騎士を嫌っていた。
だが一方で、蒼い聖騎士は、赤い聖騎士を認めていた。
その正体は、赤い聖騎士の強さに対する羨望か、それとも嫉妬かもしれない。
だが、蒼い聖騎士が、彼の実力を認めていたのは事実だ。
蒼い騎士は、彼の背中を追うようにして自らを鍛え上げ、後に騎士団団長へと任命される。

二人の関係が良好になったりはしなかった。
赤い聖騎士も、蒼い聖騎士に対して好意的は無かった。
いや、赤い聖騎士の場合は、誰が相手でも素っ気無く、寡黙だった。
聖戦末期になっても、それは変わらなかった。
人類の正義が、ギア達の意思である“正義”を破壊する時まで、その関係は続いた。
赤い聖騎士は、最後まで独りの戦士としてあり続けた。

人口問題、食料問題を解決してしまう程、膨大な数の死者を出し、聖戦は終結した。
日本の消滅など、地球という惑星に傷を負わせながらも、人類は勝利した。
余りにも多くの犠牲を払った勝利だった。

聖騎士団も、ギアに対する戦闘集団では無く、警察機構の一部として生まれ変わった。
敵を殲滅するのでは無く、世界の秩序と安寧を守る為に、その姿を変えた。

赤い聖騎士は、しかし、変わらなかった。変わろうとはしなかった。
聖騎士団がその姿を変えた時、赤い聖騎士の近くから、戦いの匂いがふっと遠のいた。
まだ破壊していないギアを求め、赤い聖騎士は騎士団を抜けた。
抜ける時に、聖騎士団の保有する神器の一つを持ち出したおかげで、逃亡、という事になっている。

騎士団を抜けた赤い聖騎士は、ギアの残党を探し、刈り続ける旅に出た。
漂泊の身となり、賞金首を捕まえながら、世界中を巡り廻った。

赤い聖騎士だった彼の心の内にあるのは、贖罪と復讐だった。
百年以上も前から、そうだった。
憎悪が赤い聖騎士を衝き動かし、贖罪の為に戦った。
彼は、それ以外に、どうして良いのか分からなかった。
教えてくれる者など居るはずも無い。やはり、彼は孤独のままだった。
肉体的にも、精神的にも、極限まで自分自身を追い詰めても、狂う事は無かった。
死ぬことも叶わない。余りにも強靭な肉体と精神は、すぐに正気を取り戻す。
戻ってしまう。彼の肉体は、余りに罪深過ぎた。

だが彼は、どうすれば良い、と考える事は無かった。
贖罪の為の旅は、途中から復讐の為の旅に変わろうとしていた。
ギアを狩っている内に、色々と考えるのも面倒になった。それでも、苦悩はあった。
憎んだ。自分の体をこんな風に変えた男が、ただ憎かった。
憎みながら、彼はギアを狩り続けた。
賞金首もだ。一緒くたに叩き潰して、毎日を踏み潰して行った。
胸を焦がす憎しみで、寂しさや悲しさのようなものは、ほとんど感じなかった。
しかし、気分が言い訳では当然無かった。
まるで、血の泥濘を這い進んでいるような感覚だった。
溺れてしまえればどれだけ楽か。
そんな事も考えるようになった頃だ。
旅の途中で、とうとう、その男に会う事が出来た。

男は何のつもりか、黒い法衣でその身を包み、目深くローブを纏っていた。
もはや、男は、人間の域を超えた存在になりつつあった。
神や悪魔ではなく、魔人であり怪人だった。
貌は見えない。だが、それでも口許には、微かな笑みらしきものを浮かべていた。
久しいな…、フレデリック…。
ぬくみのある、穏やかな声で、男は彼の名前を呼んだ。
何も言わず、応えずに、彼はその男を殺しに掛かった。
躊躇は一切無かった。
渇望していた瞬間だったからだ。
恐らくあの瞬間、彼の血液は、比喩では無く、沸騰していた。
殺せる。そう思った。
しかし、現実は違った。
彼の強さを持ってしても、その男に触れる事も出来なかった。

手も足も出なかった。
まるで、子供をあしらうかのように、彼はその男の前では無力だった。

男は、彼の全てを知っていた。
少なくとも、彼の肉体がどういったものなのかを、熟知していた。
故に、男の編む法術は、赤い聖騎士だった彼の身体を沈黙させるのに、十分に過ぎた。

男は、膝を着く彼を見据えながら言っていた。
いずれ、聖戦すら霞む、この星の危機が来る、と。
…だから…どうした…。そう叫んだ彼に、男は即答した。
戦士が必要なのだと。それだけ言って、あの男は、彼の前から姿を消した。
あの男は、いつもそうだった。
まるで、何でも噛んでも見透かしたような言い草で、彼を翻弄した。
…今更……綺麗ごとを…! 彼は呻くようにして、あの男の背中を睨み付けた。
睨みつける事しか出来なかった。

しばしの別れだ。…フレデリック。
やたら温みのある、澄んだ声で、あの男は振り返らずに言った。
彼は、立ち上がり、その男を追おうとした。






其処で、眼が覚めた。
一瞬、理解が出来なかった。

夢から覚めた。
その事に気付くのに、少し時間が必要だった。

夢。夢か。懐かしい夢だ。久ぶりに見た。悪夢だ。
胸糞の悪い、奴の声が頭にこびりついている。軽い眩暈を感じた。
ぼんやりとしかけて、すぐに自分がベッドに寝かされている事に気付いた。
仰向けに、ベッドに横たえられている。柔らかく、暖かな感触に包まれている。
気付いてから、ソルは頭にざらつきを僅かに感じた。
額に右手を持って行こうとした時、右腕に激痛が走った。思わず呻きそうになる。
右腕には、痛み以外の感覚が麻痺している。感触が無い。
痛む右腕の代わりに、左腕を動かし、額を押さえるようにして深い溜息を吐いた。
眠気はもう吹っ飛んでしまったが、代わりに凄まじい倦怠感が襲ってきた。

額を押さえた掌は、少し汗ばんでいた。見上げた天上には、見覚えが無い。
……此処は……。ソルは身体を起こして、視線を周囲に彷徨わせようとした。
だが、身体が重すぎて、首を動かすだけで精一杯だった。
自分の意識に、身体の動きが付いて行ってないかのようだ。動きが鈍い。
鈍重にしか動かない。首を横に倒すだけで、酷い重労働だった。

気付くのが遅れた。
…ようやく、意識が戻りましたね。…良かった。
ベッドのすぐ右横で、幼くも、やけに綺麗な声が聞こえた。
すぐに溜息も聞こえた。胸を撫で下ろすような、安堵の吐息だった。
さとりだった。ベッドの横に置いた椅子に腰掛け、微笑んでいる。
淡い薄桃色の微光を掌に灯し、ソルの動かない右手を、さとりはそっと両手で握っていた。

ソルは驚きこそしなかったが、疲れたように眼を閉じた。
右腕の感触さえあれば、すぐにでもさとりの存在に気付いただろう。
感覚も無く、動きもしない右腕に伝わるさとりの手の感触を、認識する事が出来なった。
或いは、何かを警戒するような余力が、身体に残っていないせいかもしれない。
ソルは息を吐いてから、ゆっくりと瞼を上げる。
それから、さとりに視線を向け、室内へと視線を巡らせた。

薄暗い部屋だった。
其処は石造りの部屋だった。
部屋の隅には机と椅子が在った。その隣には姿見用の鏡も在る。
ソルが寝かされているベッドも、柔らかく、上質なものなのだろう。
こうした必要最低限の家具が置かれてあるおかげで、牢獄のような寒々しさは無い。
床にも、薄い赤色の、廟のようなものも敷かれている。
質素ではあるが、部屋自体に少し高級感のようなものも感じられた。
何処かの建物の、客間か何かだろうか。
ソルの脳裏に、紅魔館という言葉が浮かんだが、雰囲気がどうも違う。
やけに静かだ。
幻想郷の中では感じたことない、特殊な雰囲気だった。
ただ、奇妙な暖かさを感じる。少し暑いくらいだ。
「…随分、魘されていましたよ」
さとりの心配そうな声には応えず、ソルは天上を見詰めた。

「……此処は…」

呟くように言ったソルの低い声は、まだ掠れていた。
さとりは心配そうな貌のまま、ソルの右手を、少しだけ強く握る。

「地霊殿の一室です…。
…ソルさんが今此処に居る理由は、精神治療が必要だったからですよ」

さとりの第三の眼は、既にソルを見詰めていた。
そのさとりの貌は、やはり心配そうに曇っている。

「ソルさんの体は、驚くほどの速度で回復し、私が診た時には、ほぼ完治していました…」

しかし…、とさとりは表情を少し険しくして、言葉を続ける。
薄桃色の微光を灯し、ソルの右手を包む両手に、また少し力が篭っていた。

「意識が戻らなかったのです…。
…心に負荷を掛け過ぎて、精神が崩壊仕掛かっていました。
 其処で、私がソルさんの精神を直接、縫合、治癒をさせて貰う事になったのですよ…」

ソルは少しだけ黙ってから、「……そうか…」と呟いた。
そして無表情のままで、何かを思案するように一度眼を閉じる。
何かを思い出そうしているようだ。

さとりも、黙ったまま、ソルの言葉を待つ。
第三の眼は、ソルに向けられたままだ。
何故此処に居るのか。他の者達は無事なのか。人里はどうなったのか。
ソルの心に浮かび上がる疑問を捉えたさとりは、ソルの欲しい回答を用意していく。
沈黙は、重苦しいものでは無かった。

ふと、さとりに貌を向けたソルは、少しだけ眉間に皺を寄せた。
余り表情を変化は無かったが、その眼差しは不安そうだった。
……餓鬼共は…稗田は…無事だったのか……。ソルは、呟くように、さとりに聞いた。
さとりは、少し笑みを浮かべる。

「はい。子供達は無事だったそうですよ。他の里の者達も…。
…阿求さんが左腕を負傷しましたが、命に別状は無いと聞いています」

そう聞いたソルの眼には、安堵が浮かんだように見えた。
心を読むさとりには、それが間違いでは無い事が分かっていた。
…人の心配ばかりするひとですね。
更に少し深く、ソルの心を読んで、さとりは微笑む。

 「博麗の巫女、白黒の魔法使い達も健在です…。勿論、人形使いの方も。
  皆、貴方の事をとても心配されていましたよ…」

心を読まれている事に気付いている筈のソルは、しかし、無表情を崩さない。
眼をゆっくりと瞑って、天上を眺めた。…俺は…どれ位寝ていた…。
ソルは左手で貌を隠しながら呟く。低い声は、やはり掠れていた。

「…二週間程です。本当に、皆心配していたんですよ…」
目許を柔らかく緩めて見せるさとりの声には、確かな安堵があった。

「……俺が寝ている間…奴らの動きは…あったのか…」

「いいえ…。あれから…終戦管理局側の者は、幻想郷には現れていません…」

不気味ですが、今は平穏ですよ…。
その言葉を聞いたソルは、大きく息を吐いて、「……そうか…」とだけ呟いた。
貌は、掌で隠れて見えなかった。

不思議なひとだと、さとりは思う。
ソルは心を読まれても、表情はおろか、心の表層にも嫌悪感を見せない。
さとりからの話を聞いたソルの心の中には、他者に向く負の感情は全く無かった。
少しの安堵と、自身の弱さに対する憎悪だけが在った。

憎悪の理由も、さとりには少し理解出来るような気がした。
それは、さとりは精神手術の為に、ソルの心に潜り、彼の記憶を見たからだ。
意識を取り戻した今も、まだソルの精神の傷は完治したとは言い難い。
それほどまでに、ソルが負った自我への傷は深かった。
未だ流血を続ける心は、憎悪という感情を炉にくべて、ソルの身体を動かしている。
 その憎悪が生まれる場所は、記憶だ。
 何もかもを失ってしまった、彼の過去が齎すものだ。
 ソルから全てを奪って言った、一人の男が、ソルの心に灼き付けたものだった。
 
 不意に、掌を貌から退けたソルと、眼が合う。
金色の眼の瞳孔は縦に裂けていて、凶暴で、恐ろしかった。
同時に、怖いくらいに静かだ。
 年老いて、死に掛けた竜のような眼だった。
 
 そのソルの眼を見詰め返し、さとりは両の掌に少しだけ力を込めた。
第三の眼も、ソルの心を見詰めている。さとりの精神治療は、まだ続いていた。
 ソルの右手を包む、さとりの小さな掌には、その為の薄い桃色の微光が灯っている。
 
地霊殿に運ばれた時のソルの容態は、尋常では無かった。 
血塗れの肉体は生きていたが、心が死に掛けていた。
いや、もう死んでいたと言って良い。正直、さとりは、もう助からないと思った。
だが、ソルをスキマで運んで来た紫が、泣きながらさとりに懇願したのだ。
幻想郷の中でも、深刻な精神の解れ、崩壊を結び治すことが出来るのは、さとりだけだった。

助けて。お願い。ソルを。助けてあげて。このままだと。ソルが。ソルが。
あんなに取り乱した八雲紫を見た者は、果たして今まで存在するのだろうか。
そう思う位、紫に必死に頼み込まれ、さとりも全力で治療にあたった。

その甲斐あって、ソルの精神は次第に元の形を取り戻しつつある。
ソルの心が息を吹き返したのだ。奇跡だった。
今、ソルへと行っている施術も、自我への傷、或いは、崩壊しかけた精神を縫合する為の、精神治癒術だ。
 
 この二週間。
さとりは、ソルの記憶の中で、ソルの傍に居続けた。
 彼の記憶の中で、彼と共に、彼の凄絶な過去を歩んだ。
 そして、傍らで見守りながら、精神手術を行って来た。
眼を覚ます寸前にも、ソルは昔の夢を見ていた。

彼は孤独だった。
誰にも理解されなかった。それでも、戦い続けた。
この幻想郷でも、ソルは戦う事を選んだ。
そうして、ボロボロになって、今此処でさとりの治療を受けている。
何だか胸が苦しくなった。さとりは俯いて、少しだけ唇を噛む。

「…ソルさんは、自分の事も…もう少し心配すべきですよ」

ぽつりと、思わずそんな言葉が零れた。
ソルはさとりを見て瞬きをしただけで、何も言わなかった。
…謝らねば…なりませんね。
言いながら、さとりは眼を伏せるようにして、少しだけ頭を下げた。

「…すみません。治療の為とは言え…無遠慮にソルさんの記憶に触れてしまって…」

さとりの前では、誰も、何も隠す事が出来ない。
虚偽と欺瞞を生み出すのは心であり、思考だ。
そして、それを読み解くのが“さとり”だからだ。
感情も、思考も、記憶も。第三の眼の前では、偽ることが出来ない。
故に、さとりは嫌われ、恐れられ、忌避された。

恐らく、今回もそうなるだろうと思った。
誰だってそうだ。心を読まれて喜ぶ者など居ない。
だから、ソルに「……悪かった…」と言われ、思わず顔を上げてしまった。
また、眼が合った。

「……胸糞の悪いものを…見せた様だな…」
ソルは掠れた低い声で言って、さとりから眼を逸らした。
第三の眼を開いていたさとりには、分かった。その言葉は本心からのものだった。
それから、ソルは左手で自分の額を抑えて、何かを思い出すように眼を閉じた。
ソルの額。其処には、五本の線から成る、禍々しい刻印が刻まれている。
その刻印が意味するものも、さとりはソルの記憶に触れた事で知っていた。

「いえ…そんな事は…」。ありません、と言い掛けて、言葉が出なくなった。
何と言えばいいのか。さとりには分からなかった。
代わりに、ソルの右手をまた少しだけ強く掌で包んで、さとりはソルを見詰めた。
もしも…。もしもの話ですが…。さとりの声は、少しだけ震えていた。
部屋を染める、さとりの掌に灯った薄桃色の微光が、少し揺れる。

「ソルさんが…自分の過去を重荷に思う事があれば…言ってください」

さとりは真剣な眼差しで、ソルを見詰める。
その記憶を…取り除く事が出来れば…。さとりは其処で言葉を切って、気付いた。
貴方を苦しめる過去から、貴方を解放する事も出来る筈です。
そう言おうとしたが、出来なかった。
…気遣いは要らん…、と。ソルの心が、それを拒んでいたからだ。

「…記憶まで…手放す訳にはいかんからな…」
ソルは額を掌で抑えながら、ゆっくりと天井へと顔を向けた。
何もかもを失ったソルが、最後の最後まで、自分のものだと主張できるもの。
それが記憶だ。ソルに残された、唯一、失くす事の出来るものだった。
しかし、それは同時にソルを苦しめ続ける。苛んで、蝕んでいく。

だが、それで良いと、ソル自身が思っていた。

さとりも、第三の眼で視ずとも、分かっているつもりだった。

でも聞かずにはいられ無かった。
 
この異変が終わった後。
ソルが、自身の過去を全て忘れて、幻想郷で平穏に暮らせれば。
神社の縁側で茶を飲み、八雲の賢者と共に博麗結界を守り、宴会で酒を飲む。
美しい四季を感じながら、穏やかな幻想の中で、永い命を謳歌する。
彼にも、そんな未来があっても良かった。
そう思ったからだ。

さとりは、俯くように頷いて、「…わかりました」と呟いた。
施術はまだ続いている。ソルの右手が僅かに動いて、さとりの手を少しだけ握り返した。
あっ…、と、さとりは声を漏らしてしまった。握ったソルの手を見詰める。
「……世話を掛ける…」。すまなさそうに言う声は、少し弱々しく聞こえた。

ソルは、さとりの方を見ていない。
だがそれでも、ソルの心は嘘を付いていなかった。
さとりは目許を緩め、またゆるゆると首を振る。

「…いえ。早く…良くなってください」

ソルは額を抑えた状態で、頷いたようだった。
寡黙なひとだ。少しだけ、さとりは笑った。
ソルさんの意識が戻ったこと…他の方にも伝えないといけませんね…。
さとりが、微笑むようにしてそう言った時だった。

部屋の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
背の高い青年が、静かな、そっとした足取りで部屋に入った来た。
青年は、ゴツく鈍い金色の眼帯をしている。
白金色の髪は、やや艶を失っているように見えた。
泣いていたのか。顔色も悪いし、目許が少し濡れている。
入って来た青年は、疲れたような、心配したような顔で、ソルの方を見た。
そして、眼を見開いた。

 「オヤジ…」
 シンだった。その声は、ソルが今まで聞いた事の無いような声だった。
 ……何でお前まで…此処に居るんだ…。呟いたソルも、微かな眼を瞠った。
 だが、そんなソルの言葉など全く聞いていないシンは、ダダッとベッドへ駆け寄って来た。
 怒っているような、笑い出す寸前みたいな貌だった。
 
「バッカ野郎! オヤジが心配だから此処に居たんだよ! 悪いか!
  つーか、寝過ぎ! マジで心配したんだからな!」

 ソルを覗き込んで、捲くし立てるシンの声は、涙声だった。
「……相変わらず…喧しい奴だ…」。ソルは参ったように顔を手で隠した。
 うわ可愛くねぇ! 何だよその言い草! シンは笑いながら、目許を腕で拭う。
そのシンの隣で、さとりも、くすくすと笑みを零していた。



 



[18231] 二十八・二話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/12 16:39

  
医者に掛かる事も、他の人間に比べれば多い方だと思う。
 この診療所に訪れるのは久しいが、医薬品の匂いはどうも好きになれない。
医薬品の独特の匂いだけでなく、薬の味も、やはり好きにはなれなかった。

阿求自身が、弱い人間の中でも、更に身体の脆い部類の者だ。
薬の匂いと味に、その事を思い知らされるからかもしれない。
しかし、魂という面から見れば、その認識が錯誤だと言うことは、頭の中では分かっていた。

阿求には当然、寿命が在る。
だが、その命と記憶は永遠だ。
幻想郷の記憶と呼ばれる、稗田の御阿礼。
その使命を背負って、随分経ったような気もするし、あっという間だった気もする。

阿求はぼんやりと思いながら、視線を左腕に落としていた。
包帯が巻かれ、清潔な布で、首から吊られている。
手首は在る。義手だ。
 
「どうかしら…。
義手を作るなんて、初めてだったから上手く出来ていると良いのだけれど…」

阿求の正面、診察机に腰掛けた永淋が、こちらを心配そうに見ていた。

その事に気付くのに、少し時間が必要だった。
色々と思い出したり考えたりしていたせいだ。少し傷口が疼いた。
自分の肌の色と、微妙に違う色をした義手を見詰めてから、阿求は顔を上げる。
それから、少し頭を下げつつ、笑みを浮かべた、

「治療までして頂いた上に、義手まで用意して頂けるとは思って無かったもので…。
 今回は本当に、お世話になりました」

阿求の様子を見て、永淋も軽く息を吐きながら笑みを浮かべた。
少し疲れたような様子だった。阿求がそう感じるのも、無理は無かった。
机の上に置かれた、患者達に関する書類は山積みだ。
幻想郷の皆が、永淋を頼りにしている証でもある。
だが、増加していく患者達全てを治療させるのは、流石の彼女でも骨が折れるのだろう。
それでも、輝夜や鈴仙達の助けもあって、何とか診療所の治療は滞って居ない。

永淋は、机の上に山積みにされてあるカルテから一つを取り出し、視線を落とした。
 そのカルテは、阿求のものだ。
 
「私も、貴女がそんな無茶をするとは思ってなかったから、びっくりしたわ」
 
「私自身も驚きましたよ。…あんな大胆な事を思い付くとは、思いませんでした」
 
 少しだけ笑った永淋は、カルテから顔を上げて、阿求を見詰めた。
 
 「でも、それを実行出来た貴女は偉大よ。稗田の名前も、伊達じゃないわね…」
 
「窮鼠が猫を噛んだだけのような気もしますが…そう言われると悪い気はしません」
 
 
 里の被害は、寺小屋に面した街道に集中していた。
立ち並んだ建物が崩れたり、地面に穴が空いたりと、まだ生々しい傷跡が残っている。
 しかし、死傷者については、奇跡的と言ってもいいほど少なくて済んだのは事実だ。
それは、阿求の勇気ある行動だけでは無く、橙の活躍に拠る処も大きい。
 
 クロウが子供達を人質に取り、ソル達と睨み合っていた時。
その様子を、阿求も寺小屋の二階から伺っていた。

状況は完全に不利だった。
それに、人質は子供達だけでないようだった。
ソル達と睨み合う格好のクロウは言っていた。里には、まだ蟲を忍ばせてある、と。
見れば、人質になっている子供達の胸元や首には、機械で出来た蜘蛛が張り付いていた。
其処で阿求は、鉄で出来た蟲達によって、里の者達が脅かされていることを把握した。

どうすれば良いのか。
今、自分に何が出来るのか。そう自問していた時だ。
隣の建物の屋根を伝い、寺小屋の二階に橙が忍び込んで来たのだった。
 
 
これは、間違い無く好機だった。
いや、状況を把握する力に長けた、橙が造り出した一縷の希望だった。
阿求は、迷わなかった。橙に、蟲達の駆除を頼んだのだ。
出来るだけ素早く、静かに、ひっそりと。そんな難しい条件だったが、橙は頷いてくれた。

橙が蟲の駆除をする間、クロウの気を引く為に、阿求は自ら人質として表に出た。
不思議なほど、すんなりと覚悟が出来たのを覚えている。
そうして、寺小屋の屋根の方から、にゃー、と猫の声を聞いたのだ。
思えば、随分危険な橋を渡ったものだと思う。

だが橙は、阿求からの要求に、完璧に応えて見せた。
それだけで無く、ソルの救出にも一役かってくれた。
流石は、八雲の式の式だった。

 それを思い出しながら、阿求は一つ息を吐いた。
「霊夢さんや魔理沙さん、他にもアリスさんや慧音さんも居てくれましたし…。
 橙さんも、ソルさんも…。私だけでは、本当に何も出来ませんでしたよ」

 「もしも一人でも欠けていたら、結果はもっと違っていたでしょうね…」
 
 「そういう意味では、妖怪の賢者にも感謝すべきですね。
  彼女の先見は、やはり凄まじいものがあります…」
 
 …しかし、それも絶対的なものではありません。
 言いながら、阿求は俯いて、自分の義手は再び見詰めた。
 永淋は脚を組みながら、阿求の言葉に少しだけ眼を細める。

 「聞いた話では、彼女の境界操作に似た能力は、既に向こうも持っているそうよ。
  幾ら賢者と言えど、采配だけで何とかするのは…これからは難しくなるでしょうね」
 
「頼もしい事に代わりは在りませんがね…。
彼女に、そして、貴女にも…負担ばかり掛けるのは、こちらも心苦しいところです」
 
 すまなそうに言う阿求に、永淋はふっと口許を緩めた。
 
 「気にしないで。…私も、出来る事しかしていないわ。
  貴女だって、誰かが傷を負うのを、身を持って防いだ訳だし…。
  尊敬するわ…」
 
 やけに真摯な瞳で見詰められ、阿求は少し怯んでしまった。
 阿求も、永淋の纏う知的な雰囲気が嫌いではなかった。
だから、真顔でそんな事を言われると、やはり照れてしまう。
 
「…楽しそうなところ悪いけど、いつもの奴を貰えないかしら」
 
 不意に、阿求の背後から声がした。
診察室の扉が開いた音が聞こえたのと、同時だったろうか。
 不機嫌そうな、それでいて、酷くだるそうな声だった。
 だから阿求はその声に驚いて、振り返ってから、もう一度驚いた。
 「ゆ、幽香さん…」。
凄い顔色ですよ、と言葉を続けようとしたが、深紅の眼で見据えられ、言葉が詰まった。
 思わず、椅子に座ったまま、身を引きそうになる。
だが、永淋の方は溜息を零しながら、「駄目よ…」と、その深紅の眼を見詰め返していた。

診察室に入って来た幽香の足取りは、明らかにふらついていた。
それに、雰囲気もいつもと全然違う。
唇も蒼褪めているし、眼の下の隈も凄かった。
ウェーブの掛かった美しい深緑色の髪も、今は解れ、顔色は真っ青だ。
いつもの優雅さの面影が、まるで無い。
普段の幽香が、太陽の光を浴びて咲き誇る向日葵だとするなら、今の幽香は崩れる寸前の朽木のようだ。
だがそれでも、「いいから寄越しなさい…」と零した声は、震え上がる程恐ろしかった。
 覚束ない足取りの幽香は、椅子に座った阿求の隣に立った。
 
「頭痛と吐き気が酷くて、碌に眠れもしないのよ…。さっさと出しなさい…」
 
「出せないわ…。薬は今朝飲んだばかりでしょう? あれは劇薬なの。
 必要以上の服薬は、貴女の身体を蝕むわ…。それに、副作用も在るのよ」
 
永淋と幽香が睨み合う格好だ。互いに凄いプレッシャーだ。
流石に、阿求といえども居心地が悪かった。最悪と言って良い。
家に帰りたくなった。
だが、そうはいかなくなった。
幽香が、ゆっくりと阿求を見下ろしたからだ。

嫌な予感がした。
だが予感がするよりも、幽香の手が伸びてくる方が速かったかもしれない。
気付けば、阿求は幽香に首を掴まれた。
阿求は、参ったなぁ…、と思わず言いそうになった。
 喉首に伝わる、幽香の手の感触は、どこか乾燥しているような気がした。
 そんな呑気な事を考えているうちに、すぐに息苦しくなった。
 幽香が首を絞めてきているのだ。その幽香の方は、阿求の方を全く見ていない。
 永淋を睨みつけている。何処か必死な様子だ。
 
いや、そんな事はどうでも良かった。
 かなり苦しいんですけど。喉がヒューヒュー鳴ってますよ。
ちょっと、洒落になってない締め方なんですけど。
 クラクラするのは気のせいじゃないと思うんですけど。
 そんな阿求の、SOSを求める視線に気付き、永淋は苦々しい貌のまま頷いた。

 「…分かったわ。用意してあげるから…。
だから、その手を放しなさい。此処での暴力沙汰は許さないわよ…」
 
 幽香は、その永淋の言葉を聞いて、何か言おうとしたようだが、結局何も言わなかった。
 言葉を返すのも億劫なのか。
疲れたような溜息だけを吐いて、阿求の首を掴んでいた手を放した。
 そのまま、手を顔まで持って行き、額を押さえる。
 立っているのも辛そうな様子である。
阿求は、けほっ…、と咳を一つ吐いて、幽香の様子に、少し心配になった。
 素人目から見ても、幽香はかなり具合が悪そうだ。
 
 「あの…、大丈夫ですか…?」
 恐る恐る声を掛けて見ても、幽香からの返事は無い。
 ただ眼を瞑り、手で顔を覆うようにして、額を押さえている。
 永淋も、その様子を心配そうに見ながら立ち上がり、薬品の並ぶ棚へと向かう。
 
「飲んだら、大人しく眠るのよ…」
戸棚の引き出しから、ストックしてあったのだろう薬包を一つ取り出した。
「眠れなくても、横になって休むこと…。良いわね、幽香」
それから、永淋は幽香の肩を擦ってやり、子供をあやすように言う。
 一瞬だけ、鬱陶しそうな貌を浮かべた幽香だったが、やはり何も言わなかった。
 「…分かったわ」と、大人しく頷いて、永淋の手から薬包を受け取る。
 永淋も心配そうな貌で、幽香の顔を覗き込んだ。
 幽香は反応を返さない。
紅い目は変わらず爛々としているが、そのせいで貌全体の生気の無さが際立っている。
 何よ、と言いたげな表情を浮かべるだけの幽香を見て、永淋は溜息を吐いた。
 
 「一緒に、病室まで行ってあげるわ…。歩くのも辛いんでしょう」
 
 「余計なお世話よ…」
そう言った声は掠れていて、呻き声みたいだった。
 阿求でも心配になるくらい、幽香には元気が無い。
 
椅子からすっと立ち上がって、阿求は永淋に深く頭を下げて見せた。
 
 「永淋さん。今回は本当にお世話になりました。
  帰りは、イズナさんが里まで送ってくれると言ってくれましたので…。
  永淋さんは、幽香についていて上げて下さい」
 
 阿求の言葉に、幽香は少し驚いたような、気まずい様な貌になった。
 だが永淋の方は、笑みを浮かべてくれた。

「…ありがとう、お大事にね」
優しい声で阿求に返してから、永淋は幽香の肩を抱いて、診察室を出て行った。
 
その後ろ姿を見送りつつ、阿求は頭を下げて、また視線を左手に落とす。
義手の左手にはやはり違和感が在るが、其処まで気にはならなかった。
自分も診察室を出ようとして、ふと、阿求は永淋の机の上にある書類の山を見詰めた。
 
山積みになったカルテには、患者達の様子やその症状の経過が、事細かに記されている。
阿求は、頭が下がる思いがするのと同時に、寒いものが背中を伝うのを感じた。
山積みの書類は、ある意味で、永遠亭が今の幻想郷の命綱であることを物語っている。
 
薄氷の上に在る今の平穏は、鋭い山峰に置かれた岩のようだ。
いつ崩れてもおかしく無い。阿求は、左手の義手を見詰めながら思う。
 
 幻想郷は全てを受け入れる。
 ならば、私には、何が出来るのか。
 力が強い訳でも、特別な術を扱える訳でも無い。
 ただ、そういう者達が居てこそ、幻想郷のバランスは成り立つ。
 
人間である阿求は、無力感に蝕まれる事には慣れている。

ふと、脳裏に、妖怪の賢者の、余裕の無い貌が浮かんだ。
 
永淋も言っていた。
 終戦管理局は、八雲紫と同じような能力の開発に成功しているようだ。
 ならば、境界操作という出鱈目な力も、有利には働かなくなりつつある。

神出鬼没の神隠し。クロウという男の法力機術は、それすらも解析していた。
 幻想である筈の力を、現実に引き戻す事を可能にしている。
 それは、八雲紫の、能力の無力化を意味するのではないか。
 
もしそうだとすれば。
果たして、妖怪の賢者は、その“無力感”に耐えうる術を知っているのだろうか。
 精神的な存在である妖怪にとって、“無力感”がどれ程の毒になるのか、阿求には分からない。
だが、良いもので無いことは間違い無いだろう。
 八雲の賢者は、強い。超越的だと言っても良い。
境界を操る力は、それこそ神々に類す力だ。
 しかし、そう言った力を持った者達程、自身を蝕む“無力感”に対する耐性が低い。
 肉体的弱者である阿求は、長い歴史の中で、その事を知っていた。
賢者故の強さ、それが裏目に出なければ良いのですがね…。
思いながら、阿求も診察室の扉をそっと開けて、廊下へと出る。
 
 
 「およ、浮かない顔してるねぇ」
 診察室を出たところで、声を掛けられた。
 白い着流しに、白い髪に、白い顎髭。
頭の狐耳と、白い肌と、その肌に刻まれた紅い紋が特徴的だ。
 人懐っこそうな笑みには、不思議な魅力が在る。イズナだった。
 阿求は後ろ手で診察室の扉を閉め、軽く会釈を返す。
 イズナにはこれから里まで送って貰う予定だったので、待っていてくれたのだろう。
 
 「いえ、そんな事は在りませんよ。
  里も無事でいたし、イズナさんのおかげで、山の被害も抑えられましたし…。
  後は、この平穏が続いてくれれば、言うことは無いんですけどね」
 
 んだねぇ…、と、渋い貌を浮かべて見せたイズナの体にも、包帯が巻かれてある。
 妖怪の山での戦いで、イズナも随分と無茶をしたらしい。
 だが、イズナ自身の強い生命力と、永淋のおかげもあって、今では快復に向かっている。
 まだまだ養生が必要ではあるが、休んでる時間が勿体ねぇ、と、まるで休もうとしないのには、永淋も少し困った様子ではあった。
 そんなイズナも、鈴仙達の手伝いをしながら、竹林の案内に言ったり来たりと、忙しい毎日を送っているようだ。
 
 「イズナさんのように、ソルさんも、早く良くなってくれる事を祈るばかりです」
 
 そう言った阿求を少し見詰めてから、イズナは口の端に少しだけ笑みを浮かべた。
 
 「ソルの方は大丈夫さ。心配要らんよ。もう意識も戻っとるみたいだしねぇ…。
後は、さとりさんの精神治療に任せとけば、バッチグーさね」

 イズナは片目を瞑って、親指を立てて見せた。
 その口振りや仕種にも、やはり不思議な愛嬌があって、阿求もくすりと笑ってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 地霊殿でソルが意識を取り戻すまでに回復してから、さらに二日過ぎた。
 
精神治療にあたっていたさとりが驚く程、ソルの回復力は凄まじかった。
 眼を覚ましたその日には歩けるようになった。
次の日には、シンと素手で組み手をする程だった。
 さとりが、絶対安静なんですよ、と言っても、ソルは渋い貌をして見せるだけ。
 「…俺だけ…寝ている訳にもいかんだろう…」と、身体を動かそうとして聞かなかった。

外見上は、もう何の問題も無いように見える程、ソルは回復していた。
 だが、それはあくまで外見だけだ。
精神に負った傷や解れ、綻びは、完全には縫合しきれていない。
何処まで無茶をすれば、あそこまで精神がボロボロになるのか。
まだまだソルは、さとりの精神治癒が必要な状態だった。
しかしだ。自分の体のことだと言うのに、ソルはそんな事など構いもしない。

地霊殿の中庭。
石畳が敷かれ、簡単な植木だけがある殺風景な其処で、ソルとシンは組手をしていた。

シンの動きは俊敏で、時に人間離れした動きをして見せる。
対するソルは、後の先を取るような動きで、余り派手な動きは見せない。
突きや蹴り、捌き技の組手は、見た目は地味だが、非常に高度な技の応酬でもあった。
そんな二人の組手の様子を、地霊殿のテラスから眺めながら、さとりは溜息を吐いた。

どうして其処までして、ソルは戦おうとするのか。
さとりには、それが理解出来てしまうような気がして、なんとも言えない気持ちになってしまう。

ソルとシンが組み手をする様子は、本当に仲の良い親子のように見える。
いや、事実、親子以上の強い絆で結ばれている二人だ。
そう見えてもおかしくは無い。

さとりは、シンの出生の秘密に関しても、ソルの記憶に触れることで知っていた。
実父が王であることや、その母親が人間で無いことも、勿論知っている。
 複雑な環境の中で育って来たシンだが、ソルのサバイバルに偏った教育が、良い方へ働いたのだろう。
 実に真っ直ぐで、純粋な心を持った青年に、シンは育っている。
 
 ソルが昏睡状態にあった時のシンの様子は、本当に見ていられなかった。
 碌に食事も摂らず、ほとんど眠らず、ソルが眼を覚ますのを只管待っていた。
 黙って、ソルが眠る部屋の前に座ったまま、動こうとしなかった。
 何も出来ない自分を責めているかのように、しきりに唇を噛んでいた。
 何度も唇を噛み千切りながら、二週間、ソルの目覚めを待ち続けていた。

さとりもシンの事が心配だったが、ソルの治療に専念していた為、シンの事はペット達に任せていた。
 後から聞いた話だが、シンは、お空やお燐から渡された食事にも、やはり殆ど手を付けなかったらしい。

 ただ死んだように項垂れていたそうだ。
 そんなシンが、今では元気にソルと組み手を行っている。

 
 「本当に良かったですね、二人共元気になったみたいで…」
 ほっとしたような声で言いながら、さとりの隣に並んだのは、お燐だった。
 此処二週間程ではあるが、お燐も、シンの事を心配していた。
 だから、今の元気なシンの姿を見て安心したのだろう。お燐も柔らかく眼を細めている。

 ええ…、貴女もご苦労様…。さとりは、目許を緩めて、お燐の頭を撫でてやる。 
ごろごろと嬉しそうに喉を鳴らしてから、お燐は興味深そうに二人の組手を見詰めた。
 
 「しかし、腕が立つ…という話は本当のようですね。
  あの勇儀さん達と遣りあった奴を、里から追っ払った、って言うんですから…」
 
さとりも、お燐を撫でる手を止め、テラスから二人を見詰めた。
 その視線の先。中庭の広場では、ソルとシンの拳がぶつかる音が響いている。

此処から見ていても、やはりソルの方が上手のようだ。
 シンの突きや蹴りを往なしながら、ソルはシンに足払いを掛けて、ひっくり返らせた。
 くっそ…! シンは倒れると同時に、捻るようにして、腕の力だけで身体を持ち上げる。
そうして、振り回すような蹴りをソルに見舞おうとした。
 ブレイクダンスのような蹴りは、追い討ちをかけようとしていたソルを牽制する。
 ソルがすっと身を退いた。その隙に、シンは素早く立ち上がって、にっと笑う。
 「流石だなぁ、オヤジ…。病み上がりの癖にやるじゃねぇか」
 首を鳴らしながら、シンは再び重心を落とす。 
ソルは無言のまま、半身立ちの構えのままだ。
 
 そんな二人の様子を見ながら、さとりは軽く息を吐いた。
 それから、「そうね…、でも…」と呟くように言って、第三の眼に手をそっと添える。

 「余り…、ソルさん達に依存してしまうのは…、良くない事でしょうね」
 お燐も渋い表情になって、「私もそう思います…」と零した。
 
 さとりは、旧地獄の管理者として地霊殿を任されている身だ。
 だが今は、地霊殿の管理の他にも、もっと何か出来ることは無いだろうか。
 そんな風に思う。勿論、旧地獄の管理を疎かにする訳にはいかない。
 だが、地下に篭るだけでなく、何かこちらから動けることは無いだろうか。
 お燐も、そう思っているのだろう。
 
 「やっぱり、私達も地上で動きましょうか…。
  昔と違って、今じゃ地上と地下との棲み分けも、其処まで厳しくないですし…」
 
 地上の妖怪達にだけ戦わせる、っていうのも、寝覚めが悪いですもんね。
 言いながら、お燐は少しだけ笑った。悪戯っぽい笑みだった。
 だがその声には、決意のようなものが篭っていた。
 さとりもゆっくりと頷き、…そうですね、と笑みを返した。
 
 「私達も…、出来ることからやっていきましょう…」
 その言葉に頷いたお燐は、しゅるるるっ、と身を縮め、猫の姿へと変わる。
 尾が二つに分かれた黒猫だ。耳にはリボンがされている。
猫の姿になったお燐は、ぴょんとテラスの手すりに飛び乗った。
 
 「それじゃ、お空にも話をして来ます。
  他のペット達の中でも、まともに戦えるのはアイツ位だと思うんで…」
 
 ええ、お願いね…。
 さとりは言いながら、猫の姿のお燐の背中を、優しく撫でてやった。
 お燐は気持ち良さそうにひらひらと二股に分かれた尾を振ってから、テラスから飛び降りる。
 そして、一度ソル達の方を見てから、また走り去って行く。
 猫の姿となったお燐の、その小さな背中を見送って、さとりもソル達へと視線を向ける。
 
 
 今、出来る事。
 それは、余り多くは無いかもしれないが、何か在る筈だ。
 地底の妖怪達の間にも、そういう空気が流れつつある。
 だが、前の会合の時に言ったが、勢いに任せて、地底の妖怪達が地上に溢れるのは上手く無い。
 余計な混乱を招けば、八雲の賢者に要らぬ負担を与えてしまう。
 
さとりは、ふと、紫の事を思い出し、顎に手を当てる。
 ソルが眼を覚ました事は、昨日のうちにペットに文を持たせて、博麗神社に送ってある。
 もう八雲の賢者の耳にも、ソルが眼を覚ました事は伝わっている筈だ。
 それでも、まだ地霊殿には、紫は現れていない。
やはり今もまだ、戦いの後の処理に追われているのだろう。
 結界の修復に、妖怪の山に残った残留法力の調査など、やる事は山程在る筈だ。
 それは、博麗の巫女にしてみても、同じことが言える。
 幻想郷のバランサーである巫女としても、易々と神社を空ける訳にもいかないだろう。
 今の状況では、尚更だ。
 
これ以上、紫達に負担を掛けるべきでは無い。動くならば、慎重にならないといけない。
それに、終戦管理局の他にも、幻想郷に踏み込んで来る者達も居る。
ソルが追う、“あの男”も、戦況に干渉しつつある。状況は、複雑になる一方だ。
 
 さとりはまた軽く息を吐いて、中庭のソル達を見詰める。
まず、私が今すべきことは…早くソルさんの心を…完治させる事ね…。
 そう思いながら、ソルの姿を見詰めていた時だ。
 
突然、耳たぶを甘噛みされた。
「ひゃあ…っん…!」あられも無い声が出てしまった。
 ついでに、後ろから誰かに抱きすくめられた。
 気配は全くしないのに、柔らかな感触が背中に伝わる。
さとりの身体に回された手には、全く遠慮が無い。
 まさぐるように身体を触ってくる。「あ…ぁん…だ、…駄、目…」
 逃れようと身を捩るが、無理だった。
さとりの身体を巧みに抑え込んで、するすると服の中に手が入ってくる。
小さな手だ。それがかろうじて分かった時だ。
 また耳たぶを甘噛みされた。それだけじゃない。ちろちろと、耳を舐られた。
 「はぁ…ぁあ…んん…!」
 さとりは立っていられなくなり、テラスの手摺に身体を預ける。
 そうして何とか体を支え、肩越しに振り返った。
黒い帽子が眼に入った。こいしだ。「こ、こら…、こいし…! や、止め…」。
 言い掛けたが、さとり体を這い回る手は止まらない。
 テラスに手を掛けているせいで、さとりの背後はほとんど無防備だった。
スカートの中に入った手が、さとりの下着を、するするっと膝の辺りまで下ろしてしまった。
 あっという間だった。
 さとりは悲鳴を上げかけたが、ぐっと飲み込んで、抵抗しようとした。
 だが、下着を下ろした手は、服をたくし上げるように、そのまま上へ。
 
其処で、さとりは心臓が止まるかと思った。
中庭に居るシンと、眼が合ったのだ。多分、さとりの声が聞こえたのだろう。
 シンは、ソルとの組み手の最中だったが、呆然としたような貌でさとりを見ていた。
 何か、衝撃的なものを目の当たりにした貌になっていた。
 「ォ…オヤジ…あ、あれ…!」 さとりの方を指差したまま、シンは棒立ちになった。
 シンの声を震わせているのは、興奮か、それとも衝撃か。
 だがソルは、シンのその仕種がフェイントだと思ったのだろう。
「…その手は喰わん…」と言いながら、ソルはシンの顔面にパンチをぶち込んだ。
 あちょぶ…っ!? と奇妙な悲鳴を上げて、石畳の上にシンがひっくり返った。
その辺りで、さらに事態は悪化した。
 
小さな掌が、さとりの脚の付け根と、腹を撫でたからだ。
「んんぁ…!」 腰が砕けかけたさとりの耳に、また舌が這わされた。
 もうさとりは涙目だった。「こい、し…っ、止、だ、駄目よ…! ぁあ…!」
 其処で、ぴたりと、さとりの身体を這い回る手が離れた。
 「あっ、ごめ~ん、お姉ちゃん…。ちょっとやりすぎちゃった」
 くたっ、とテラスに凭れ掛かったさとりの少し後ろで、可憐な声が聞こえた。
 少し心配そうな声音だった。其処には、やはりこいしが居た。
 
黒い帽子に、黄色を基調にしたふわふわの服を着ている。
暗い青色をした第三の眼は堅く閉じられているが、しっかりとさとりの方を向いている。
「大丈夫…?」こいしは、心配そうな眼でさとりを見つめていた。

その仕種に、さとりは何だか自分が馬鹿のように思えてきた。
 
何故、実の妹に背後から襲われ、下着まで脱がされ、半泣きにされねばならないのか。
 さとりは急いで下着を穿き直し、服の乱れを正してから、こいしに向き直る。
 
 「こ、こいしっ…! 悪戯が過ぎますっ…!」
 赤面しながらだったので、その叱責にどこまで迫力があるのか定かでは無い。
 こいしの方も、えへへ、ごめんなさ~い、と笑っている。
天使のような笑顔だ。
 そして、この笑顔のまま、過度なスキンシップを強行してくるので油断できない。
「お姉ちゃん、凄く優しい眼でソルさんを見てたよ~」
 だから、ちょっとやきもち焼いちゃったの。
ペロッと舌を出して言いながら、こいしは、また笑みを浮かべて見せる。 
 さとりは、何故がこいしの眼を見れなかった。
少しだけ顔が熱くなった気がした。

 「ソルさんは客人でもあり、私の患者でもあるだけ…。それだけよ…。他意は無いわ…」
 
 さとりは言いながら、中庭の二人に視線を向ける。
 ソルの拳をまともに顔面で受けたからだろう。
シンは鼻血を手で拭いながら、さとりから気まずそうに視線を逸らした。
 その様子に、怪訝そうな貌で、ソルは、さとりとシンを見比べている。
 
 さとりは溜息を吐きかけて止めた。
 今こいしが現れてくれたのは、良いタイミングと言えば、良いタイミングだ。
 恐らく、こいしは今の幻想郷の状態を、ちゃんと理解していないだろう。
 地霊殿にしても、旧都にしても、もう安全とは言い難い。
 事実、終戦管理局の者達は、地底への入り口を探していたという話を聞いた。
此処は地底だ。逃げ場は何処にも無い。
他に行く場など、とうの昔に失くしている。

記憶まで失うわけにはいかない。
そう、ソルは言っていた。

さとりも同じだ。
妹を失う訳にはいかない。守らねばならない。
さとりは、こいしに向き直る。
こいし…、と、呼び掛けた声は、自分でも分かるくらい硬かった。

 「暫くの間は…、余りふらふらと外に遊びに行くのは控えて頂戴…」
 
 さとりの声は、真剣で、真摯だった。
命令では無く、お願いだった。懇願と言ってもいい。
心を読み、思考を紐解くさとりであっても、無意識を操る妹を、完全に制御するのは難しかった。
だが、さとりの声に滲む愛情に気付いてくれたのか。
こいしはきょとんとした顔になったが、すぐに笑みを浮かべて頷いてくれた
 さとりは、何とか一安心だと思ったが、甘かった。
 「うん。じゃあ、今日はシン君達と一緒に遊んでくるね」
 そう言って、テラスからふわりと飛び降りたこいしの手には、何やら小さな布が握られていた。
 
 見覚えがある。白い。下着だ。
あれは。何処かで。

ああ。そんな。まさか。

さとりはばっと、自身のスカートの中身を確かめた。無かった。
 無意識にも程が在る。
 「こ…こ、こ、ぃこ、いこ、いし…!! 待っ…!」
 顔が爆発するかと思った。舌が上手く回らなかった。
 慌ててこいしの後を追うが、あまりスカートをヒラヒラさせるのは危険だった。
 勤めて冷静に、慎重に動かなければならない。
 真っ赤な顔のまま、さとりはスカートを押さえ、こいしを追う為にテラスから降りる。
 
こいしの動きは速い。それは素早いというよりも、捉え所が無い。
 おかげで、全く意識しないうちに、誰かの傍に居ることがまま在る。
 こいしは、本当に何時の間にか、組手の手が止まった、シンのすぐ傍に居た。
 手には、さとりの下着が握られている。何てことだ。
「ぅほぉぅっ!!?」突然現れたとしか思えないこいしに、シンもかなり驚いた様子だ。
 鼻血を拭きながら、びくっと身を引いていた。

 「ねぇ、シン君! それが終わったら、一緒に遊ぼう!」
シンは、いきなり現れたこいしと、渋い顔のソルとを見比べ、鼻血をすすった。
ソルの方は、少し警戒した様子で、こいしを見下ろしている。

「いや、別に良いけどよ…。えっと、こいし…だっけ、名前」

「うん、初めまして…じゃないけど、よろしくね!」

 こいしの可愛らしい笑顔と、その手に握られた下着に、シンは戸惑ったような様子だ。
 そりゃあ、そうだろう。さとりだって、シンの立場だったら困惑する。
 下着を片手に握ったままの相手に、遊ぼう!と元気良く言われて、まともな反応をする方がおかしい。
 
……む…。と、ソルが、さとりの方に気付いた。逃げたくなったが、何とか踏ん張る。
 
冷静さを、平常心を保つのだ。
ゆっくりとソル達に歩み寄りながら、第三の目を開く。
ぃ…こいし…お二人の邪魔をしては…駄目でしゅよ…。
声が裏返った上に、噛んだ。
 ソルと、シン、そして、こいしの視線が、一斉にさとりに集まる。
 さとりは、ふぅ…と、自分を落ち着かせるように、一つ息を吐いた。

「…こいし、お二人の邪魔をしては…駄目ですよ…」
 何で二回言ったんだよ…。シンは不思議そうな顔で、さとりを見ている。
 無表情のソルも、同じような事を思っていた。
 石畳の中庭が、やけに広く感じた。寒々しいくらいだ。
 特に、スカートの中がスースーする。誰も悪く無い。無意識のせいだ。
 「あ、お姉ちゃんも混ざりたいんだね!」
 ただ、こいしの無意識は怒涛で、容赦が無かった。
 
 
 
 
 
 
 
 幻想郷は、疲弊していた。
 少しずつ追い詰められつつあった。
 しかしそれでも、朝日は嫌味のように、変わらずに昇ってくる。
 時間は流れていく。
 
 神社の境内で掃除をしながら、早苗は溜息を吐いた。
 朝の冷たい空気に、その吐息が溶けていく。
 小鳥の囀る声に、梢の揺れる音も聞こえる。
 さぁぁ…、と風が吹いた。澄んでいて、緩やかな風だった。
 空を見上げれば、羊雲が疎らに浮かんでいる。
 今までと変わらない、日常の景色だった。

境内を包む空気は、平穏そのもので、何も案ずる事も無いような気さえしてくる。

そんな訳が無かった。
早苗は境内を歩き、石段から山を見下ろすようにして視線を向ける。
その眼下には、広漠な木々の緑が豊かな自然を湛えている。

だが一部だけ、その緑が無い処が目に付く。終戦管理局の者達と、鬼達が戦った処だ。
金属の塗膜で覆われ、法力機術で汚染された土地は、まだ完全には回復していなかった。
それが、此処からでは良く分かる。
土壌自体は、イズナの解呪法術の御蔭で、草木を芽吹かせるまでに浄化されてはいる。
だが、金屑となって崩れてしまった木々の茂みが戻ってくる訳では無い。
この山が、元の姿に戻るには時間が必要だった。
芽吹いた命が育つまでの、長い時間が必要だ。

いや、自然だけでは無い。
 戦いに参加した妖怪達の中にも、犠牲になったものも多数居る。
ある意味では、人里よりも大きな被害を受けたのは、妖怪達の住まう山々だ。
早苗も、異変解決に向かおうとしたが、出来なかった。
山の中で紫や鬼達が戦っている間、三体の機械人形が守矢神社を襲ったからだ。

機械人形達の顔には鼻は無く、四角い目と、四角い口があるだけだった。
耳にはゼンマイのような螺子が飛び出していて、髪だけがやけに艶々した金髪だった。
騎士服のようなマント付きの服を纏い、手には剣らしき武器を持っていた。
馬鹿馬鹿しい姿だったが、その力は侮れなかった。
腕が六本になったり、馬のように変形したり見せ、おまけに法術まで使う相手だった。
頭と胴体は分離するし、テレポートのような技も使って来た。
とにかく動作が出鱈目で、動きが全く予測できない相手だった。
「巫女サン! 急ナ事デスマン! ワシノ嫁ニナランカ!」
「ジャアワシハ、ぼいんノ神様ヲ娶ルゾォ! ウォッホホ!」
「ロリッ子ハ…ワシガ育テルッ!!」
とんでも無く変則的な戦い方をする相手で、早苗も相手をするのに苦労した。
諏訪子や神奈子も、流石に戦い辛そうではあった。
とは言え、軍神と祟神、更に現人神を相手に、機械人形が押し切れる筈も無かった。

もしかしたら、あの機械人形達は早苗達を足止めする為に現れたのかもしれない。
そう考える方が自然な程、余りに中途半端な戦力だった。
早苗達は、その奇抜な動きに驚かされはしたが、負傷する事もなく機械人形達を退けた。
完全に破壊し切ることは出来ずとも、腕やら脚やらを故障した機械人形達はほうほうの体で逃げて行った。
早苗達が機械人形三人を退けた時には、既にイズナが山の敵を沈めてくれていた。

タイミングからして、やはり、あの機械人形達は、早苗達の足止めだったのだろう。
時間さえ稼げれば良かったのだ。

やはり…、と早苗は思う。
恐らく終戦管理局は、神奈子と諏訪子の事も、既に知っている。
それに、自分の事も。
そう思うと、何か背筋に寒いものが伝う。

気付けば、箒を握る手もじっとりと汗ばんでいた。
誰かに見られている気がした。
周囲を見回してみる。
神社の境内には、誰も居ない。今は、早苗だけだ。
神奈子と諏訪子は、座敷に居る筈だ。
静かだ。緩い、風が吹いた。
 早苗は息を呑んだ。

 違った。
境内に居るのは、早苗だけでは無い。
 
 最初に抱いた感想は、“子供”だ。
 それから、纏っている雰囲気が、尋常では無い事にもすぐに気付いた。
 白と黒を基調とした法衣。そのローブを目深く被った少年が、賽銭箱の前に佇んでいた。
 
何時の間にか、其処に居た。
少年の目元は、法衣の影で隠れて見えない。口許だけが覗いている。 
早苗は咄嗟に身構えた。「あ、貴方は…!」そう言った早苗の声は、掠れていた。
神社の境内の空気が、何時の間にか変わっていた。
 戦慄とも、恐怖ともつかない感情が湧き上がってくる。
 
これは、畏怖だ。
 初めて、神奈子や諏訪子の存在を知った時と、似たような感覚だった。
脚も震えているのが、自分でも分かった。
身構えたまま、動けなかった。
 
「初めまして…。東風谷早苗さん…」
 少年は覗いた口許に、微かな笑みを浮かべた。
何て澄んだ、落ち着いた声音だろうか。
心に直接染み入って来るような、暖かな声音だった。
また、緩い風が吹く。
その朝の澄んだ空気に良く馴染む、清らかな声だ。

早苗は圧倒されていた。
青空も、雲も、梢の鳴る音も、鳥の囀りも、まるで全てが別の世界のように感じられた。
 少年はゆっくりと階段を降りて、早苗に近づいて来る。
 早苗は、後退る事も出来なかった。凄い存在感だ。
そして、気付いた。いや、思い出した。紫達からも話しを聞いていたからだ。
眼の前に居る少年こそが、終戦管理局と、そしてソルが追っているという件の少年だ。
 今まで何度も幻想郷が襲われたのは、終戦管理局がこの少年を打破する手段を得る為。
 ある意味で、全ての元凶と言って良いかもしれない。
嫌な汗が噴出してくる。

 「少し、君に伝えておきたい事があってね…」
 ゆったりとした足取りで、少年は早苗の前で立ち止まった。
 そうして、見上げるようにして、早苗に顔を向ける。
 本当に穢れの無い、無垢な、それでいて含みのある笑みが、半分だけ見えた。
 少年の声には、敵意らしきものは全く無い。
 それでも、早苗は動けなかった。神社の方に視線だけを向ける。
神奈子や諏訪子は、この少年が現れた事に気付いているのか。
動きは無い。やけに静かだ、

 早苗の視線の動きを見て、少年は微笑んだようだった。
 
「軍神と祟神にも、弱点が在る…。それはね。
僕のような、取るに足りない存在には…神様は気付けない。
気付く事が出来ない…。
今は、二人だけで話がしたくてね…。こんな形で、お邪魔させて貰ったんだよ」
 
 幻想郷から、この神社の境内だけが、別の世界に飛ばされたような感覚がした。
 そんな錯覚を起こす程、この少年の姿と、落ち着き払った深い声には違和感が在る。
 
 「今回の騒動を機に、終戦管理局の考え方も大きく変わる…。
…君のような特異な力も持つ人間は、特に狙われる身になるだろう…」

「私、が…ですか?」
 
金縛りに会った様な顔のまま、困惑したような表情を浮かべる早苗に、少年は頷いた。
 
「そう…。『人間』でありながら、神秘的な力を持つ者は、特に…。
今回は僕も対応が遅れてしまって、本当に申し訳無かったと思っているよ…」
 
其処で言葉を切った少年は、ローブ越しに早苗を見詰めた。
 
 これ以上気圧されては駄目だ。
そう自分に言い聞かせ、早苗も、ぐっと見詰め返した。

「…私に伝えたい事、というのは…今まで以上に、気を付けろ…、と言う事ですか。
 そんな事を言いに、わざわざ此処まで…?」
 
 少年はひっそりと頷いた。
「僕達の世界では、日本人は高い潜在能力を秘めていた人種だったから…。
終戦管理局が人間を…いや、『日本人』を欲しがる理由も、此処に在る。
特に君は、幻想に生まれた者で無く、元はこの外の世界の生まれだからね…」

何故そんな事まで知っているのか。
そう聞こうとしたが、少年の柔らかで、存在感の在る笑みに黙らされてしまう。
早苗は、頬に汗が伝うのを感じた。

「幻想郷にも、特殊な力を持った人間は、数多く居る。
でも…、幻想で無い者で在りながら、現人神である君は、その中でも特に眼を引く…。
終戦管理局も、妖怪の賢者を出し抜く事で精一杯だったけれどね。
だが…今の彼らは、もう妖怪の賢者をへの対策を打ち尽くしていると言って良い。
今回、終戦管理局は地底への入り口を探していたそうだね…
このままなら、次に狙われるのは、地底か…、或いは…風祝である君の居る、此処…。
その可能性は十分に在る…」

口の中がカラカラに乾いて、上手く声が出せなかった。
温みのある少年の声は、やけに優しく聞こえて、余計に不気味さを感じた。
だが、気圧されてばかりでは居られない。

「此処に攻め入って来るのなら、やる事は一つです。
抗って、退治する…それは変わりません。」

早苗はぐっと拳を握って、言う。睨みつけるようにして、少年を見据える。
 少年は、また口許に少しだけ笑みを浮かべ、頷いて見せた。
 
「力に成れればと思うけれど、僕にもしなければならない事があってね…。
 言い訳ばかりで、本当にすまない…。
…謝るついでと言っては何だけれど、一つお願いをしても良いだろうか…?」
 
 「な、何ですか…」
 早苗は身構えるようにして、少年を睨む。
 
 「僕が今言ったことを、博麗の巫女や、地底に住まう者達にも伝えて欲しい…」
 
 申し訳無さそうに言った少年の声は、見た目相応の、子供っぽい声音に聞こえた。
 何処か縋るようでもあって、自身の無力を責めるようでもあった。
 
 「僕が賢者に直接会いに行けば、また戦う事になってしまうかもしれないからね…。
  博麗の巫女も、今は随分と気が立っているようだったから…会いに行くのは避けたんだ。
僕の代わりに、博麗の巫女や、地底の者達に…特にこれから気を付けるよう、伝えて欲しい…」

幼くも、真摯な声で言われ、早苗は一瞬戸惑った。
少年からは全く敵意を感じない。その事に加えて、急に頼りなく見えて来たからだ。
助けを求める声音が、やけに弱々しく聞こえたからかもしれない。
それとも、外見の幼さがそう感じさせるのか。
どちらともつかないが、さなえは一呼吸置いて、だが、すぐに頷いた。
幻想郷を思っての忠告ならば、断る理由も、特に思いつかなかったからだ。

「わかりました…。霊夢さん達には、私が伝えましょう…。
 でも、貴方が幻想郷に害悪を成すつもりなら、私は許しません」

その早苗の凛とした返事に満足したのか。
少年は、「ありがとう…」と、微笑んだ。
 顔の下半分しか見えないが、それでも少年らしい、十分に魅力的な笑みだった。
不覚にも、早苗は、その笑みに萌えてしまった。
胸がときめかなかったと言えば、嘘になる。
いや、そんな事を言っている場合では無い。
 早苗がはっ、とした時には、少年は眼の前には居なかった。

 また、早苗から少し離れた所に、瞬間移動のように移動していた。
 その姿が揺らいで、木漏れ日と、暖かな風の中に溶けていく。
 
 「あ、ま、待って下さい!」
 少年は、早苗に向き直り、何かを呟いたようだ。
 お願いするよ。すまないね。
風に吹かれながら、少年は多分、そんな事を言ったんだと思う。
枝葉の揺れる音に混じって、よく聞こえなかった。
 早苗に背を向けるようにして法衣を翻した少年の姿は、其処で掻き消えてしまっていた。
 
 
 



[18231] 二十九話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/20 15:43

 
住めば都と言う言葉が、アクセルは余り好きでは無かった。
この体質のおかげで随分色んな時代、場所を彷徨ったが、あの言葉は間違っていると思う。
原始時代や恐竜時代で、住めば都などと言えるツワモノが居たら、是非お目にかかりたい。
あんな生存競争の坩堝の中に放り込まれて、都もへったくれもあるか。
そもそも、住めない。生き残るだけで一杯一杯だった。
したくもない貴重な体験と発見を繰り返すうちに、アクセルは幻想になった。
現実の世界から弾かれたそうだ。此処ではそういうのを、幻想入りと呼ぶらしい。
ただ、現実の世界から取り除かれた末に、この幻想郷に流れ着いたのは幸運だった。
終戦管理局との戦いに巻き込まれては居るが、上等だった。
アクセル自身も、終戦管理局には襲われた事が在る。
その矛先が、今はこの幻想郷に向いている。それだけじゃない。
下手をすれば、もともとアクセルが居た世界まで崩しかねない事態だ。
傍観している訳にはいかない。
それに、ソル達と出会うことも出来たし、こうして紅魔館に身を置いて貰えてもいる。
原人や恐竜に追い掛け回されたり、賞金首を狩り続けるような生活よりは、遥かに人間らしい生活だと言えるだろう。

初めて紅魔館に来た時は、この館の紅さに戸惑ったものだ。
というか、今でも、やはり落ち着かない。
客室や応接室はそうでも無いが、一歩廊下に出ると、この館の異様さが前面に出ている。
床も天井も、壁紙まで紅い上に、薄暗い。
其処に一種の高級感が加わって、映画さながらのゴシックホラーを感じさせる。
廊下の空気は少々冷えるのは、気のせいじゃないだろう。

燭台の明かりは、薄暗い廊下の中に、更に明暗をつけて居た。
その明暗の中に影を作り、アクセルはぽりぽりと後頭部を掻きながら、紅い廊下を行く。
俺ものんびりしてらんねぇな。蝋燭の火が作る影を視界の端で見ながら、アクセルは思う。
廊下の絨毯は、アクセルの足音を吸い込んでいた。
革靴はアクセル愛用のものだが、服装はいつものユニオンジャック柄の服では無い。
黒の執事服だ。一応、紅魔館でのアクセルの仕事着、という事になっている。
咲夜の手伝いをしながら、館の警備に廻ったりする主な仕事は変わらない。
他にも、パチュリーの魔法開発や、館を守る結界の強化の手伝いにと、忙しい毎日だ。
この後も、魔法研究の手伝いの為、図書館に行く約束をしてある。

パチュリーも、法術にかなり興味があるようだ。
終戦管理局が残した残留法力の解析、研究を、自身の魔法で熱心に行っている。
もしかしたら、終戦管理局に対する有効な対策術式を編み出してくれるかもしれない。
密かにアクセルは期待していた。

美鈴の方は門前で鍛錬を行いながら、一切怠ける事なく門番をしている。
不眠不休で、極彩色のオーラを身に纏う気合の入りようだ。
ただ、流石にそのままだとぶっ倒れてしまうので、適度にアクセルが交代に入っている。

そんなこんなで、アクセルの生活自体に其処まで大きな変化は無い。
だがやはり、紅魔館が終戦管理局に襲われた後は、少し館全体の空気がピリついている。
館を覆う結界の修復も終わり、防衛体勢は整ったものの、後手であることは変わらない。
レミリアは、常に難しいそうな貌で何かを考えている。
そんな姉を見て、フランも不安そうに毎日を過ごしていた。

とは言え…俺に出来る事なんざ、マジで高が知れてるんだよな…。
鼻から息を吐いて、アクセルは眉間に皺を寄せる。揺れる影を見ながら、溜息が漏れた。

以前紅魔館が襲われた時には、終戦管理局は、レミリアとフランを狙っていた。
それに備え、防衛の為に館に篭るという今の選択が、賢明なのかどうかは分からない。
レミリアも、多分そんな事を考えているんだろうと、アクセルは思っていた。
人里が襲われたのは、そんな時だ。

終戦管理局が、幻想郷の背骨に罅を入れに来たのだ。
奴らを退けたのは良いが、ソルが瀕死になった。
それを聞いた時、アクセルの脳裏に過ぎったのは、表に出てこない“あの男”だった。


おいおい。
 ギアを造った怪人なんだろ。
 黙ってねぇで手伝えよ。
 何処かで幻想郷の様子を見てるんなら、手を貸しやがれ。
 何を企んでるのか知らねぇが、出て来い。
幻想郷が落ちたら、次に落ちんのは『キューブ』とやらなんじゃないのか。
そうしたら、俺の居た世界が、ぶっ壊れちまうかもしれないんだろう?
畜生。何も出来ない俺と違って、出鱈目な力を持ってるんだろう。
出し惜しみしてる場合じゃねぇんだぞ。
くそったれ。
手の届く範囲が狭すぎて、俺じゃ何も出来ねぇ。
気付けば、アクセルは奥歯を噛み締めていた。
少しだけ血の味がした。ごりごりっ、という音が、薄暗い廊下に微かに響く。
 タイムスリップ体質に振り回されるだけの自分が、やけに間抜けに思えた。

ああ。駄目だ。
頭冷やさねぇと。

アクセルは肩の力を抜いて、ゆっくりと眼を閉じる。

一度立ち止まって、息を吸い込む。
それから、はぁぁ~あ…、と、特大の溜息を吐いて、首をコキコキ鳴らした。
旦那も意識を取り戻したそうだし、俺達も少しクールダウンが要るんじゃねぇかな。
ずっと気を張りっぱなしなんて、実際には無理だ。
実質、ソルが眼を覚ますまでは、皆ずっとピリピリしたままだった。
紫は、まるで自分に拷問を掛けるような勢いで、幻想郷の結界の補強にあたっていると聞いた。
それに、普段は泰然自若というか、超然としている霊夢ですら意気消沈して、酷い有様だったらしい。
あんな状態が幻想郷全体で続いたら、戦う前に色々駄目になっちまう。
適度にガス抜きをしねぇと。
ストレスが溜まってしょうがねぇ。

其処まで考えた時、アクセルの脳裏に、ふと咲夜の姿に浮かんだ。

 そういや咲夜さんって、何時息抜きしてんだろうな。
 アクセルは廊下を歩きながら、今までの一日一日を思い返してみる。
 思い浮かんでくる咲夜の姿は、どれもこれも忙しそうに働いていて、表情も冷たい。
 紅魔館が襲われてからは、明らかに表情に余裕が無くなったような気もする。
 クールビューティーさが表に出ているだけで、実際は疲労困憊なんじゃないだろうか。
 今日も、朝から晩まで館の家事をこなし、警備に気を配り、妖精メイド達にも仕事を指示していた。
疲れていない筈が無い。
 だが、アクセルが「休めば」と言って、休むような咲夜でも無い。
 ちょっと冷たい眼を少し緩めて、口許にひっそりと笑みをつくるだけだろう。
その姿を思い浮かべ、アクセルは悩むように首を捻る。
体力的にも精神的にも、カツカツじゃ無いと良いんだけどねぇ。
 アクセルも疲れていた。背伸びをする。
気付けば、自室はもうすぐ其処だった。
ネクタイを緩めながら、アクセルは木製の扉に手を掛ける。
今日も一日、お疲れさん、俺。心の中で呟いて、扉を開けた。
休んでても、緊急事態には備えなきゃな…。
自室に入って、後ろ手で扉を閉めて、そう思った時だ。

緊急事態だった。
顔上げると、咲夜と眼が合った。
「んぇ…」と、アクセルの口から間抜けな声が漏れた。
あれ、部屋間違えたかな。そう思ったが、違う。
 此処は間違いなくアクセルの部屋だ。
 
 咲夜は、アクセルのベッドの前で、何かを大事そうに抱えていた。
 ぎゅっと、抱きすくめているようだった。
少し驚いた表情のまま、咲夜の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
 「ぁ…ぅ…」と、何かを言いたそうに口を動かした咲夜は、視線を彷徨わせた。
服だ。服を抱きしめるようにして、咲夜は持っている。
 見覚えがある。というか、アクセルの服だ。
いつも身に付けて居る、ユニオンジャック柄のジャケットだった。

あれ、それ俺の…。
アクセルが咲夜の持つ服に指差した時、咲夜のクールビューティーが崩壊した。
洗濯を…っ! 咲夜が、悲鳴のような声を上げたのだ。
おぅっ…!? と、アクセルも肩をビクリと跳ねさせる。
アクセルの服を持つ咲夜の手が、ぶるぶると震えていた。凄く必死な様子だった。

「洗濯ものを、頂きに来たところで…っ、その…、
やましい事など、な、何もしておりませんので…っ! ですからっ…!
違っ…、違うんです…っ! こんなつもりでは、決して…っ!」

明らかに咲夜は焦っていた。それも、凄い勢いだ。
言いながら、咲夜の眼が潤みだしている。もう泣きそうだった。
何が咲夜をそこまで追い詰めたのかわからないが、アクセルもだいぶ焦った。
状況が未だ理解出来ない。
何故に自室で、咲夜に涙声で無実を証明されねばならんのか。
まるでアクセルが咲夜を虐めているようで、何も悪い事をしていないのに心が痛い。

「ちょ、ちょっと! 咲夜さん、ストップストップ!
 ま、まず落ち着こう! ヒッヒッフー! ほら、ヒッヒッフー!」

アクセルも泣きたかった。
だが、此処でアクセルまで混乱してしまえば泥沼、底なしだ。
咲夜を宥めようとするアクセルだったが、冷静だったかと言われれば、答えは否だろう。
勿論、咲夜も冷静じゃなかった。

「ヒッヒッフーじゃないんです…! 本当なんですっ…!」
 
 「い、いや、そうじゃなくて!」
 駄目だ。多分、今は何を言っても混乱させるだけだ。
 アクセルは咄嗟に回れ右をして、両手を挙げるポーズを取った。
 咲夜に背中を向ける格好だ。アクセルの視線が無くなり、少しだけ冷静になったのか。
もしかしたら、アクセルの行動に驚いたのかもしれない。
悲鳴のような咲夜の声が止まった。
「降参! 俺、何にもしないから。取り合えず、深呼吸してみようぜ」
落ち着いた声音でアクセルが言った後、しばらく返事は無かった。
少し乱れた呼吸音が、背後から聞こえて来るだけだった。
 
静寂は、どれくらいだったろうか。
 一分か、二分くらいだった気がする。何だか気まずい沈黙だった。
 アクセルは咲夜に背を向けたまま、取り敢えず両手を下ろす。
 それと同時だった。も、申し訳ありません…、と、消え入りそうな声が聞こえた。
其処でようやくアクセルは振り返り、ぎょっとした。
 咲夜が本格的に泣きそうになっている。
 お疲れのところ、お騒がせしてしまって…。
そう呟く声も、自己嫌悪に陥っているような、酷く落ち込んだ声だ。
普段の咲夜からは考えられないような、浮き沈みの激しさだった。
冷静沈着な彼女らしくない。

アクセルはどうしようかと困ったが、取り合えず、咲夜の前まで歩み寄った。
ゆっくりとした足取りで、咲夜の前に立つ。
咲夜が俯いて、下唇を噛むのが見えた。
アクセルの服を抱える手は、まだ少し震えている。
「咲夜さん、咲夜さん」 穏やかな声で、アクセルは咲夜の名前を呼ぶ。
そして、その肩をとんとん、と緩く叩いた。

少し間があってから、ゆっくりと、咲夜が視線を上げる。
「…ふっ」其処で、咲夜が吹きだした。

ひょっとこ顔で、アクセルが変なポーズを取っていたからだ。
突然のことだったので、ツボにも入ったのか。
口許に手をやり、咲夜は顔を逸らした。
その肩は小刻みに震えているし、ふふっ…、と笑いを零す声も聞こえる。
「俺様って、睨めっこ負けたことないんだよねぇ」
言いながら、アクセルも口許に、ニッと笑みを浮かべた。

「どう、落ち着いた」
「…はい」 少しだけ笑みの名残を残した貌で、咲夜は頷いて見せる。

見れば、アクセルの服を抱えている咲夜の手の震えは、もう収まっていた。
一応は、いつもの咲夜に戻ってくれたようだ。
ただ、咲夜はアクセルと眼を合わせようとしない。それだけが気になった。
ごめんね、わざわざ洗濯物とりに来てくれて…。
刺激しないよう、そっとアクセルは少し離れた。序に、ネクタイを外す。
言いながら、アクセルは上着を脱いで、清潔感のある白シャツ姿になる。
そうして、脱いだ上着を綺麗に畳んで、ベッドの上に置く。
 
 「咲夜さん、ちょっと疲れが溜まってるんじゃない?
  根詰め過ぎ、頑張り過ぎで体壊しちゃ駄目だよ」
 
 言いながら首から胸元のボタンまでを緩め、それから、アクセルは咲夜に向き直った。

「は、はい…」

咲夜は、やはり微妙にアクセルと眼を合わせない。
視線を彷徨わせ、もじもじとしているように見える。
様子が少しおかしいのは、アクセルの気のせいじゃないだろう。
う~ん…? アクセルは首を傾げながら、咲夜を見詰めた。
「な、なんですか…、そんな、じっと見て…」
たじろいだような咲夜の頬に、さっと朱が差す。その視線が、更に泳ぎだす。

「やっぱり疲れてるんだよ、咲夜さん」
その様子を見ていたアクセルは、おもむろに部屋の隅へと歩き出した。
そうして、部屋に備え付けられていた木製の丸椅子を持って来た。
アクセルは、困惑する咲夜の前に丸椅子をでんと置いて、「ほら、座って」と促す。

「いや、あの、これは…」

「いいからいいから」
丸椅子を挟んだ位置で、アクセルは咲夜の両肩に手を置いて、回れ右をさせる。
両肩に触れた瞬間、咲夜の身体が硬直したような気がした。
手に抱えているアクセルの服を、咲夜はまたぎゅっと抱きしめた。
息を詰まらせるような気配もあったが、咲夜はすんなりと丸椅子に座ってくれた。
それからすぐに、「ぁ、ぁう…」と、切なげな声を漏らした。
「…滅茶苦茶凝ってるじゃん、肩」
アクセルが咲夜の肩を揉みだしたからだ。
また焦り出したのか。咲夜は慌てて、背後のアクセルに顔を振り向かせた。

「だ、大丈夫です! 
そんな、お客人であるアクセル様に肩を揉ませるなど…!」

「こんなに肩ガッチガチして、何言ってんの。ほら、リラックスリラックス」

咲夜は抵抗しようとしたが、アクセルのマッサージテクニックの方が上手だった。
やたら慣れた手つきで、咲夜の肩をほぐしていく。強くもなく、弱くも無い。
ただの軽薄なだけのお調子者には、絶対に出来ないような絶妙な力加減だ。
普段、三枚目の仮面を被ろうとするアクセルだが、その内に隠された繊細さが分かるような手つきだった。
咲夜は、何故か抗えなかった。事実、疲れていたという事も在る。
アクセルのマッサージは本当に心地よかった。
すぐに大人しくなって、アクセルのされるがままに、無防備な背中を晒す事になった。
思わず、ほぅ…と溜息が漏れてしまう。


咲夜は、誰かに労われることを求めたことは無い。
主であるレミリアの事を、心の底から敬愛している。
その従者であることも、紅魔館に貢献することにも、勿論誇りに思っていた。
従者として主に尽くし、その主の妹に尽くし、主の親友に尽くし、館に尽くしてきた。
その為に、ナイフの腕を磨き、時を止める術を自分のものにした。
必死だったと思う。主を喜ばせる手品の数々も、独学で身に付けたものだ。
妖精メイド達から見れば、咲夜はただ只管に奉仕に徹する、ある意味で変わり者だったのかもしれない。
だが、そんな自分を否定した事はない。今までも、これからもそうだろう。
そう信じていた。

ちらりと、肩越しに振り返ってみる。アクセルは優しい笑みを浮かべていた。
「一応、今日の仕事はそろそろ終わりでしょ? お疲れ様だねぇ」
だから、そんな風に言われても、上手く言葉を返せなかった。
咲夜は小さな声で「いえ…、アクセル様も、お疲れ様です…」と、呟いてみた。
自分でも情けなくなるような声音だった。気持ち良い。
「いやいや…俺なんて、咲夜さんの半分くらいしか仕事してないからね」
アクセルは言いながらも、咲夜の肩を解してくれている。大きな手だ。
「何処か、他に凝ってる場所無いかい?」 
咲夜は眼を閉じて、深呼吸する。手に持っていたアクセルの服は、膝の上に在る。
それを少し強めに握って、もう一度深呼吸した。
甘えてみたいと思ったのは、多分初めてだった。
でも、自制する。しようとした。丁度その時だった。
アクセルが、丹念に首筋の付け根あたりを解してくれた。

変な声が漏れそうになった。
自制のブレーキも壊れる寸前だった。
身体が、というか、いろいろ蕩けてしまいそうだ。

「あ、あれ? 咲夜さん、大丈夫?」

咲夜の様子に、少し違和感を感じたのだろう。
横顔を覗き込まれた。咲夜は咄嗟に顔を引き締める。危ないところだった。
「あ、有り難うございました」と言った声は、若干上擦っていたような気がする。
それでも、何とか冷静にならねば。
アクセルの手が止まった瞬間を見逃さず、すっと椅子から立ち上がる。
正直、名残惜しかった。
もっとしていて貰いたかったが、それは何故かいけない事のように感じた。
アクセルに振り返り、咲夜は頭を下げる。

「御蔭様で、疲れも大分とれました…。御気を遣って頂いて、申し訳ありません」

「いいっていいって。またマッサージが必要なら、何時でも言ってよ?
 肩だけじゃなくて、背中でも脚でも、何処でもお任せだぜ」
 
アクセルは笑いながら言って、両手をにぎにぎと動かした。
こういう時のアクセルには、好色そうな感じが全然しない。
実際、肩を揉んでくれている時も、妙な手つきになったりしなかった。
今もそうだ。いやらしい感じはしないし、下心のようなものも感じられない。
ある意味で、咲夜に女としての魅力が無いのかと、少し不安になる程だ。

しかし、それがアクセルという人物の本質なのだろう、とも思う。
好色で軽薄なお調子者。
その仮面の下にある、アクセルの素顔に近いものを感じた。
もっと、アクセルのことを知りたい。見せて欲しいと思った。

だが、そんな事を言える訳が無い。
代わりに咲夜は「いえ…今度は、私が御奉仕致しますので…」と言いながら、微笑んだ。
「しょぇ―――…」 一瞬で、アクセルの笑顔が凍りついた。
一体、アクセルは何を言おうとしたのか。それは全く分からない。
だが、咲夜はその引き攣った笑みを見て、自分が何を言ったのか、理解した。
顔に血が上りまくるのが、自分でも分かった。

「あ、ちっ…違います! 
アクセル様が思っているような、アダルトな奉仕では無くて…!」
自分からドツボに嵌っているような気がして、咲夜は何だか悲しくなってきた。
アクセルと居ると、いつもこうだ。
ペースを乱され、気付けば、アクセルの視線を追ったり、表情を伺ってみたり。
この非常時に、一体何を浮かれているのか。

「いや。ちょっと俺もびっくりしちゃっただけさ…。
 ていうか、俺がいやらしい事考えてるって決め付けるのは、ヒドイいと思うよ」

落ち込みそうな咲夜の貌を見て、アクセルは励ますように微苦笑を浮かべた。

「まぁ、助平なのは勘弁してよ。
 幻想郷の女の子は、可愛い子ばっかりだからねぇ」

にっしっし、とお調子者っぽく笑うアクセルの貌は、やはり何処か嘘っぽい。
咲夜は知っていた。
台所で水を飲みながら項垂れ、頭を抱えているアクセルの姿を何度か見たことが在る。
自室の椅子に座り込んで背中を震わせ、深い溜息をついている姿を、扉の隙間から見掛けたこともある。
幻想郷の者達だけじゃない。彼も、一杯一杯なのだ。
大切な者との繋がりを失って、それでも仮面を被り続けている。
咲夜の表情に、何かを感じたのか。

ふっと視線を逸らしたアクセルは、コキコキと首を鳴らした。
「そういや、図書館に行く約束してたんだっけな…」と呟いて、咲夜に背を向ける。
 急に、アクセルが遠くなったような気がした。
 
「パチュリー様のもとへ行かれるのですね。
では後ほど、紅茶を持っていかせて頂きましょうか」

「いつも御免ね。今度は俺が何か作って、ご馳走するよ」
 
「ふふ、楽しみにしています」
お世辞でもなんでもなく、本当に楽しみだった。
それじゃ、また後で。ちゃんと休憩は取ってね、咲夜さん。

アクセルは言いながら扉を開けて、部屋を出て行く。
その背中を見詰め、呼び止めようとしたが、出来なかった。
アクセルを見送ってから、咲夜は溜息を一つ吐いてから、丸椅子に座り込んだ。
やる事は、まだ少し残っている。
洗濯に、食事の用意、それから、紅茶を持っていくと約束した。
でも、少しだけ。もう少しだけ、この部屋で座り込んでいたかった。







紫に連れられ、ソルが博麗神社に戻ったのは、その次の日の事だった。


さとりによる精神治療を終えたソルは、もうほぼ完治していた。
心まで、ギアは兵器である。驚異的な回復力は肉体だけでなく、精神にも作用していた。
本来なら、快復にまだまだ時間の掛かる筈の精神の綻び、解れも、驚く速度で快復した。
心が瀕死の状態から…よく此処まで完全に治るものです…。
驚愕とも呆れともつかない貌で、さとりも言っていた。
だが、その声音には安堵があり、目許には少しの笑みが浮かんでいた。
…言っても無駄かもしれませんが、無茶ばかりしないでくださいね。
そう言ったさとりに、ソルは短く「……世話になった…」とだけ告げた。

シンの方も、短い間の滞在だったが、地霊殿のペット達と随分仲良くなったようだ。
帰り際には、犬やら猫やらに囲まれ、もみくちゃにされていた。
お燐やお空も、その様子を見て笑って居た。
特に仲良くなったこいしは、終始シンにべったりだった。
誰とも分け隔てなく接し、純粋な心の持ち主のシンも、その生い立ちから、誰かに忌避される恐怖を知っていた。
だからこそ、地霊殿の者達にも受け入れられたのだろう。


そんなソル達を地霊殿のホールまで迎えに来た紫の様子は、相当に憔悴しているようだった。

ソルを地霊殿に運びこんでから、紫は、ほぼ不眠不休で幻想郷を飛びまわっていた。
紫は、明らかに疲弊しきっていた。
顔色も真っ青で、美しい金髪にもところどころ解れがあった。
薄紫色をした魔性の眼も、疲れで濁り、焦点が怪しい程だった。

地霊殿の玄関ホールで再会したソルの方が、逆に心配になるような様子だった。
ステンドグラスから漏れる彩りの在る微光が、紫の姿を余計に際立たせている。
その様子には、流石にさとりも一瞬掛ける言葉を失う。
今回の騒動では、完全に対策を取られ、封殺された自身が許せなかったのだろう。
自分自身を追い詰め、責め抜きながら、紫は其処に居た。
第三の眼が読み取った紫の心は、深い自傷だらけで、血塗れだった。
紫は、ソルを見詰めて立ち尽くしていた。

「…相変わらず…無茶をしているようだな…」 
そう言ったソルの、少し心配そうな低い声を聞いて、紫は笑おうとしたのだろう。
或いは、いつものように、皮肉を返したり、軽口でも返そうとしたのかもしれない。
だが、その表情は、すぐに崩れてぐしゃぐしゃになった。
ソルの姿を見て、緊張の糸が切れたのだろう。
涙が溢れて、嗚咽が漏れ出す。紫は貌を両手で押さえて、肩を震わせて泣き出した。
 シンはおろおろとし出して、ソルは軽く鼻から息を吐いた。
 
「…ソルさんの治療は終わりましたが、貴女も…自分の体を大切にしてくださいね。

 私と違って…貴女は幻想郷にとって、無くてはならないひとなんですから…」
優しげな溜息をついたさとりはそう言って、少しだけ笑みを零した。
それからソル達に背を向けたさとりは、紫からの返事を待つことは無かった。
 
「地底の者達も、皆貴女の味方です。…いつでも、声をお掛けください。
  今回は地底を守って下さり、本当に有り難う御座いました…」

さとりはそう言って、紫に深く頭を下げて、玄関ホールをあとにした。
 去り際に、ソルとシンに「…それでは、また」と軽く会釈した時の静かな笑みは、何処か寂しそうでもあった。

 シンは、ソルと紫を見比べて、何か言いたげな貌をしていたが、結局何も言わなかった。
 啜り泣く声だけが、地霊殿のホールに響いていた。
 ソルも何も言わず、少しだけ罰が悪そうな貌で、黙ったままだった。



 紫がそんな調子だったから、先にシンを白玉楼に送って行ったのは正解だった。

博麗神社に帰ってからも、ソルは霊夢に少しだけ怒られた。 
 霊夢は、境内の掃除をしていた。いや、しようとしていたのか。
 空は晴れていた。緑の匂いを運ぶ、風も暖かい。
いい陽気だったから、箒を持ったままぼんやりと佇んでいた、と言った方が正しいかもしれない。
 鳥居の傍に開かれたスキマから、ソルと紫が出てくるのを見て、霊夢は「あ…」と声を漏らした。
 一瞬、霊夢は笑みを浮かべかけたようだが、すぐに不機嫌な貌を作ってみせる。
その不機嫌オーラを纏ったまま、鳥居までのしのしとやって来た。
 それから、まだ鼻を啜り、腫れぼったい眼の紫と、唇をひん曲げているソルを見比べた。
 一呼吸置いた霊夢の眼も、少し潤んでいるように見えた。

「おかえり…心配したんだからね」
不機嫌そうに言ったつもりだろうその声は、嬉しそうだった。
 だが、言われたソルの方は返事に困ったようで、なんとも言えない表情だ。
 『おかえり』などと言われて、驚いたのかもしれない。
 “ただいま”とは、ソルは言わなかった。相変わらず変化に乏しい仏張面のままだ。
少しの寂しさを感じながらも、霊夢は眼を伏せるようにして、頭を少しだけ下げる。
 
「でも、助けてくれてありがとう…。感謝してるわ」
 
 「……む…」
 困ったようなソルの呻き声に、くすっと笑ったのは、今まで黙っていた紫だった。
 礼を言われ、途端に窮屈そうになったソルの様子が、隣で見ていて面白かったのか。
まだ紫は可笑しそうに、ふふ…、と笑みを零している。
苦そうに眉間に皺を寄せて、不味そうな貌でソルも隣の紫を見た。

「……何がそんなに可笑しい…」

「だってソルったら、困った貌に一杯種類が在るんだもの」
舌打ちをしたソルの貌は、苦虫をしゃぶっているような、何とも言えない貌だ。
唇をへの字に曲げるソルの様子に、霊夢も笑ってしまった。

可笑しそうに笑みを零す霊夢と紫に、ソルはもう何かを言い返すのは諦めたようだ。
 今度は憮然とした顔になって、鼻を鳴らす。
 霊夢の腕や首元に巻かれている包帯を見詰め、金色の眼を少し細めた。
 
 「……怪我は…もう大丈夫なのか…」
 そのソルの声は、いつもより少し頼りなさ気に聞こえた。
 霊夢は目許を緩め、手にした箒を肩に担いで見せた。
 ええ。…あんたに比べたら、擦り傷みたいなものよ。
 言いながら、霊夢はソルと紫に背を向けて、神社の方へと歩いていく。
 
 「久ぶりに、三人でお茶でも飲まない?」
 肩越しにソル達を見遣った霊夢は、担いだ箒で肩をトントンと叩いて見せた。
あら、良いわね…。霊夢に応えたのは、洟を啜った紫だった。
 「此処の処、立て込んでたから…、ちょっと休憩させて貰おうかしら」
泣き止んでいた紫の足取りは軽く、ソルの隣を抜けて、神社の境内を歩いていく。

少し境内を歩いたところで、紫もソルを振り返った。
まだその貌には疲れが見えるものの、少しの笑みが浮かんでいる。
 
「探知結界の管理は、今は藍がしてくれているわ。
 …貴方も、ゆっくりしたら。せっかくの霊夢のお誘いなんだし」
 
 紫の言葉に、ソルは何故か動けなかった。
 今までに無い暖かさを感じて、ソルは少し戸惑ったような貌で、紫と霊夢を見比べる。
賽銭箱前の階段の手前で、霊夢も笑みを浮かべて、ソルを見ていた。
 
 分からなかった。
 ソルは、自分の内に在る感情が一体どういう類のものなのか、理解出来なかった。
 胸が痛かった。苦しかった。
止めてくれ。 優しくしないでくれ。
 そう言いそうになった。
地面を見詰めて、ソルは額を押さえた。
 「ソル…? どうしたの」 心配そうな紫の声が聞こえた。
 顔を上げて、…いや……、と首を振った。
 霊夢や紫の視線を感じたが、眼を合わせないようにして、ソルは歩き出した。
 
 
 
 
 それから、その日の神社には多くの者が集まった。
ソルが快復したのを機に、これからどうするのかを考える為だった。
だが、どうにもそんな話になりそうに無かった。

まずやって来たのは、魔理沙とアリスだった。
体力、魔力を共に激しく消耗した二人も、今では全快のようだった。
特に魔理沙の方は、神社の座敷でソルを見るなり、ヘッドロックをかましに掛かった。
「この野郎! 無茶ばっかで心配させやがって!」 「…ぐぉお……!?」
この不意打ちには、流石のソルも反応が遅れたようだった。
「はいはい、魔理沙。ソルが帰って来て嬉しいのは分かるけど、はしゃがない」
其処を、盆に茶と煎餅を載せて持って来た霊夢が止めに入ったのだった。
紫の方は面白そうにくすくすと笑っているだけで、止めようとはしなかった。
賑やかな空気を楽しんでいたのかもしれない。
「快復したようで何よりだわ。…最後まで無理させちゃって、ごめんなさいね」
そう言ったアリスの方も、ソルの姿を見て、安心したように息を吐いていた。
人里での戦いの後。魔理沙とアリスは二人共、少なからず自分を責めていたようだ。
もう少し自分の魔力が持てば、魔術に威力があればと、悔いていた。
そんな風に考えたのは、霊夢にしても紫にしても同じだった。
だから、ソルがこの場に帰って来た嬉しさや安堵は、自然と共有できた。
妖怪の山も、被害は在ったものの、多くの妖怪達が生き残ることが出来た。

犠牲は在った。
しかし、これ以上の犠牲を払うことを防ぐべく、レミリア達も神社に訪れた。
いや、雪崩れ込んで来た。

「ソル! もう大丈夫なのね!?」
日傘を手にしたレミリアは、縁側から座敷に上がり込むなり、ソルに詰め寄った。
かなりの速度で飛んできたのだろう。手にした日傘がひっくり返っていた。
 周りに居た霊夢達も、唖然する勢いだった。
 ソルは何か言おうとしたが、出来なかった。何かがソルにぶつかって来たのだ。
鈍い音がした。
「…ぬ――ぉっ―…」 ソルは呻きながら、後ろに飛ばされて倒れ込む嵌めになった。
飛び込んできたのはフランだった。
 ちょっ!! ぶわぁ!? きゃぁ! あらあら…。
 フランが飛び込んできた風圧で、湯吞みと煎餅が宙に舞い上がった。
 降りかかる熱い茶を、霊夢とアリスはすんでのところでかわした。
 紫は小さなスキマで防御していたが、魔理沙はもろに引被った。
 あちっ!?あちちっ!! と、わちゃわちゃやっている。
ちゃぶ台も吹っ飛んで、襖をぶち破って転がっていった。

ソル前に居たレミリアは、負圧に負けてひっくり返っていた。
座敷ののんびりとした空間は、一瞬で酷い有様になった。

ソルが身体を起こすと、フランを眼があった。
抱きつくようにして、腹の上に乗っている。
…ぉ…おい…、とソルは声を掛けたが、其処で言葉に詰まる。
見上げて来るフランの紅い眼は盛大に潤んで、泣き出す寸前みたいな貌になっていた。
 というか、泣き出した。両手の甲で眼を隠すようにして、大泣きし始めた。
 
 起き上がったレミリアは、フランとソルを見て、何かを言おうとしているようだった。
 口がむにむにと動いているが、結局、上手く言葉にできていない。
 安心したような、少し悔しそうな顔で、右往左往している。
 「失礼致します」と、この場を涼しくしてくれるような、落ち着いた声が聞こえた。
 咲夜だ。縁側でペコリと会釈をしてから、霊夢達に向き直った。
それから足音も立てずに座敷に上がる。
咲夜もソルに向き直り、お久しぶりです…と、軽く頭下げた。
 霊夢が部屋の惨状を見回して、溜息をついた時だった。
 アリスが縁側の方へと視線を向けながら「あら…」と、声を上げた。
 あっちぃな、もう…、と魔理沙も涙目で縁側を見遣る。
 
 「あぁ…すまんな、霊夢。 えらい騒ぎが聞こえてきて、こちらに廻ったんだが…」
咲夜の背後。その縁側から落ち着いたような、呆れたような声がした。
 慧音だった。隣には阿求も居る。二人共、笑みが引き攣っている。
今の座敷の惨状に、若干引いているようだ。
 それでもその惨状の中に、困り果てた様子のソルの姿が在るのを見て、慧音も阿求もほっとした様子だった。
 
 あんた達も、丁度良いところに来たわね…。
 霊夢は腰に手を当てて、眉間に皺を寄せてやおら立ち上がった。
 そうして、周りに居た魔理沙達に視線を巡らせる。凄い人口密度だ。
見下ろす霊夢の視線に、何かを感じたのだろう。
魔理沙は眉をハの字に曲げて、アリスは溜息をついた。紫はくすくすと笑っている。
慧音と阿求は顔を見合わせた。レミリアは怪訝そうな貌をしている。
片方の眉を吊り上げながら、霊夢は口許を歪めた。あれで笑っているつもりなのか。
「此処の片付け、手伝いなさい」
今まで聞いたことが無いくらい、霊夢の声は優しかった。
泣き止まないフランの頭を撫でながら、ソルも取り敢えず頷いた。
 
 
 
 
 結局、これからどうするのかを話し合う筈が、脱線を繰り返して一向に進まなかった。
診療所にまだ患者を抱えている永遠亭のメンバーは、不参加だ。
シンを送った時に、紫と幽々子との間で既に何やら話を進めていたようだ。
故に、白玉楼の面子もこの場に居ない。
中途半端に人数が掛けたせいもあるのだろうか。
 本来なら重苦しくなるであろう場の空気が、何故か妙に浮ついていた。
 
襲撃を受けてから、人里には、常に誰かが留まっている体勢だ。
 今では妹紅が、里を守る為に寺小屋に詰めているとの事だった。
 だが、それでも慧音としては、余り里を留守にしたくないのだろう。
阿求と慧音は、ソルに挨拶だけを済まして、すぐに帰っていた。
フランは泣きつかれて眠っているしで、もう会合の体を成していない。
そのうち、魔理沙が「今日は鍋でもするか!」と言いだして、レミリアが賛成して、紫が却下した。
 まぁ、お酒無しなら良いんじゃない。そう言った霊夢は、珍しく乗り気だった。
流石に、宴会を開くほど能天気じゃないでしょ。アリスもくすりと笑みを零している。
「当たり前だろ、というか、喰い過ぎにも気をつけないとな!」
 その魔理沙の言葉に頷いたのは、咲夜だった。
 「体調を崩さぬよう、節度を守ってならば…軽い会食も有りだと思います」
咲夜は目許を緩めて、紫を見た。いや、咲夜だけじゃない。ソル以外の全員だ。
後手に回らざるを得ないが故に、なかなか気が休まらない状況が続いていた。
気を張りっぱなしだったから、こんな時こそ皆で笑い合いたいのかもしれない。
 
 「分かったわ…。でも、今日は止めておきましょう。
  永淋達も一段落ついてから、今後の事もちゃんと話が出来る時に、ね」
 紫は観念したように息を吐いて、それから少しだけ笑った。

 「おっし、決まりだな!」魔理沙は言いながら、立ち上がる。
 座敷に差し込む日の光は、薄い朱色を帯び始めていた。夕暮れが近い。
 魔理沙は縁側から外の景色を見て、少し眼を細める。
少しだけ静寂があった。魔理沙は帽子を被りなおして、紫に向き直る。

「鍋会を楽しみにしつつ、そろそろ私は帰るとするぜ。
私はすぐ動けるようにしとくから、何時でも呼んでくれよ、紫!」

「ええ、頼りにしてるわ…」 
魔理沙に答えた紫の声は、本当に頼り切っているような声音だった。
 
「永遠亭に、何か精のつく差し入れでも用意してあげようかしらね…」
言いながら魔理沙に続いて立ち上がったのは、レミリアだった。
咲夜は眠ったしまったフランをおんぶして、日傘を手に持ち、縁側の外へと出ようとしている。
 レミリアはちらりとフランの寝顔を見てから、紫に視線を向けた。
 
「私達も狙われているみたいだし、余り大きく動けないかもしれない。
 でも出来ることがあれば、協力は惜しまないわ…。紅魔館は、一応、貴女の味方よ」
 
眼を逸らしながら言ったレミリアは、すぐに紫に背を向けて、縁側から外に出る。
翼と一緒に日傘を広げ、ちらりとソルを振り返った。
そして、集まった皆にも視線を巡らせた。
「それじゃあね…」と、優雅な仕種でふわりと浮き上がり、薄暮の空へと消えて行った。
 紫は、きょとんとした様子だったが、すぐにくすりと笑った。
魔理沙と霊夢も、「素直じゃないぜ」、「ほんとね…」と笑みを零している。
従者である咲夜も、紫達に静かに目礼して、レミリアの後に続く。
 
 その二人の後ろ姿を見送ってから、湯吞みをちゃぶ台に静かに置いて、アリスもゆっくりと立ち上がった。
 
「それじゃあ、私もそろそろ戻るわ…。
 もし私の人形達が必要だったら、いつでも声を掛けてくれて構わないわ。
…まぁ、何処まで力に成れるかは、状況次第だけどね」
 
 肩を竦めるようにして、アリスは紫に言う。だが、その言葉だけで十分だった。
 紫は深く頷いて、「気を遣わせて悪いわね…」と呟くようにして零した。
 すまなそうな、まるで、自分を責めるような声音だった。
 「無茶する前に声を掛けて。…皆味方なんだしね」アリスは軽い調子の声で言う。
  
 「お、そんじゃあ一緒に帰るか、アリス」

 「ええ…。それじゃ、また会いましょう」
 
 魔理沙とアリスも、霊夢達に手を振って、縁側から夕焼け前の空へ飛び立っていく。
 
座敷に残されたのは、霊夢と、ソルと紫だけだ。
 少しの寂しさを感じながら、霊夢はちゃぶ台に置かれた湯のみを盆に載せる。
 それからゆっくりと立ち上がって、ソルと紫を見比べた。
 
 「晩御飯の用意するけど、紫も食べていく?」
 …いや…俺は…。紫よりも先に、微妙な貌をしたソルが、霊夢を見上げた。
だが、何かを言い掛けたソルを一睨みして、霊夢は「あんたは食べるの!」と釘を刺した。
「…どうせ地霊殿でも碌にご飯食べて無いんでしょ?」
霊夢は盆を持ったまま唇を尖らせて、ソルを見下ろす。
こういう時の霊夢には、妙な迫力がある。
ソルも、何かを言い返そうとしたようだが、やめたようだ。

二人の様子に少しだけ笑った紫は、「せっかくだけれど…」と申し訳なさそうに呟いた。
そうして座ったまま、ズズズ…と、スキマを開いて、下半身を飲み込ませた。
上半身をスキマから出した状態で、紫は隣に居るソルの頬におもむろに手を伸ばした。
……ぬ…、と低い声を漏らしたソルは、身を引くようにしてその紫の手から逃れる。
紫は、またくすくすと笑った。

「ソルのこと、お願いね…。私は一度、藍達と合流するわ」

言いながら、紫はソルから霊夢へと視線を移した。
少し疲れも取れたのだろう。そう言った紫の顔色は、大分良くなっているように見える。
霊夢は頷いて、肩を竦めて見せた。

「ええ。…何かあったら、私もすぐに動くわ」

 それは、とても頼もしい言葉だった。
 霊夢の表情には、特に力んだ様子も無い。何処までも自然体だ。
口の端に、ほんの少し笑みが浮かんでいるぐらいだ。
この巫女の少女は面倒臭がり屋だ。だが、誰かを嫌ったり、遠ざけたりしない。
平等だ。徹底的に平等に接する。今の状況でも、全く変わらない。
変わる事無く、此処に居る。ある意味で、人間離れしていると言って良い。

紫は、霊夢とソルを交互に見た。
その視線に、何か特別な意味があったのかもしれないが、ソルには分からなかった。

安心したように、紫はまたゆっくりと頷いてから、その身体をスキマに埋めていく。
そうして、初めから其処に誰も居なかったかのように、姿を消してしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 夕飯も食べ終わり、風呂に入った後。
 ソルは神社の賽銭箱前に腰掛け、夜空と、夜の境内を眺めていた。
 空には雲は無い。鬱陶しくらいに星が瞬いている。
 暗がりの境内を吹き抜く風は湿っていて、生ぬるかった。
 その風が、ソルが着ている黒袴を揺らした。
 いつもの旅装束は、ソルの隣に畳んで置かれている。
解れや破れた箇所が多かった為、針と糸を借りて修繕したところだった。

ソルは、自分の右手を見詰めた。微かに震えていた。
指先の感覚が、まだ鈍い。開いたり握ったりする度、違和感がする。
無言のまま、その右手で額の刻印に触れた。妙な熱を感じた。
まだ、身体がガタついている。

耳を澄ませば、虫の鳴く声が聞こえる。溜息が漏れた。
 振り仰いだ夜空に浮かぶ三日月は、まるでそんなソルを嘲笑っているようだった。

 ソルは、痛感していた。
己は、惰弱だ。脆弱で、矮弱で、劣弱だった。
 少なくとも里での戦いでは、人質を取られ、手も足も出なかった。
 余りに無力だった。眼を瞑れば、人質となった子供達の怯えた顔が浮かんだ。

あの時、ソルは非情になりきれなかった。
 以前の自分ならば、子供達ごと、クロウを焼き潰しに掛かっただろうか。
 霊夢を守ったときも、意味不明な感情に駆り立てられた。
知っている誰かを失うのを、恐ろしいと思ったのかもしれない。

分からない。
自身に起きている微妙な変化を、理解しきれていないままだ。
クロウは言っていた。ソルが、人間らしくなった、と。喜ばしい事だ、と

そんな訳があるか。
人間らしさなど、このギアの身体の何処にも残っていない。
 この肉体は、フレデリックという男の魂と記憶を閉じ込めた棺だ。
 檻でもあり、罪の溺墓だった。ソルは虜囚だった。望んでそうなった。
 後悔はしなかった。そんな暇も無かった。
 何かも失ったと思ったら、すぐに聖戦が始まったからだ。
 丁度良かった。次から次へとギアを殺して廻るうちに、喪失感が薄れて行った。
 悲哀や悲嘆なんてものは、まるで感じなかった。
悲しむような資格も無かったし、何が正しい事なのかも分からなかった。
贖罪にも復讐にも懺悔にも、何もかもの行いの裏側には、憎悪という感情が在った。
 御蔭で、どんな苦痛も、苦痛とは思わなかった。
 
 だが、今はどうだ。
 “あの男”が憎いのは間違い無い。
恨んでいる。それは言い切れる。憎悪は変わらずに在る。
だが、それ以外の感情が、心の内に芽生えつつある。
 熔鉄と灼熱の炉のような心に、何か別の、暖かなものが在るような気がする。
それは、今まで自分が忘れていた、とても尊い何かのような気がした。
脳裏に、霊夢や魔理沙達の貌が過ぎった。胸が苦しくなった。
止めてくれ。ソルは、微かに震える右手で額を抑え、項垂れた。
 色んなものが心に重なってくる。今まで、こんな事は無かった。
 
ソルは息を吐いて、頭を軽く振った。
終戦管理局は、もう幻想郷を攻め込む為の駒を揃えつつある。
 自分自身の心境に困惑している場合でも無い。
 
余計なものは捨てれば良い。
感情も想い出も慈しみも、憎悪と一緒に心の炉にくべてしまえば良い。
 そうすれば、直に何も分からなくなって、何も感じなくなる。
実際、そうして来た。
 だが今は違う。躊躇してしまう。
 手放したく無いと思ってしまう。
自身の変節に戸惑うばかりだった。
 
 やっぱり此処に居た…。
 背後から声を掛けられ、ソルは息を詰まらせた。
 呼吸を整えて肩越しに振り返ると、霊夢が立っていた。
 腰に手をあてた霊夢は、不機嫌そうな、それでいて心配そうな、微妙な表情だ。
 
「気分でも悪いの…」
「…いや…何でもない…」
 
 霊夢に見詰められ、ソルは低い声で答えながら、逃げるように眼を逸らした。
 足音がした。ソルのすぐ隣だ。
畳んで置いてあったソルの旅装束を横にどけて、霊夢がソルの隣に腰掛けた。
 
「ほんとに…?」
そうして、ソルの顔を覗きこむようにして見て来る。
 やたら澄んだ眼で見据えられ、僅かにソルは怯んだようだった。
穢れの無い霊夢の双眸。其処に、ソルが映っていた。
金色の眼をした、贖罪者とも、復讐者とも、殺戮者ともつかない男が映っていた。

 無様な姿だ。
ソルは、霊夢の瞳に映った自身の姿に苦笑を浮かべようとして、出来なかった。
 
 
 「……俺は…」 
言い淀んで、ソルは難しそうに貌を歪める。

「…お前の視線が…どうも苦手だ…」

「う…悪かったわね…」
ストレートな言葉が利いたのか。
ちょっと泣きそうな声になった霊夢は、ぷいっとソルから眼を逸らした。
 
「……嫌悪している訳じゃない…」
そう言ったソルの声音の方が、霊夢の声よりもずっと沈み込んでいた。

ぬるい風が吹いた。ざわざわと、木々の枝葉が揺れている。
虫の鳴く声が不意に止んで、またすぐに鳴き出した。

境内の石畳へと眼を落としているソルの様子は、何処か思い詰めている様だった。
霊夢は暫くソルの横顔を見詰めて、なら良いんだけどね…、と呟いた。
 それから、霊夢も視線を足元に落とす。

実はね…。
視線を落としたまま、霊夢は呟いた。

「あんたが昏睡状態になってる間に、閻魔が此処を訪ねて来たの。
結界に異常が無いかどうかって言ってね。彼岸の方も大騒ぎだったみたいよ…」
 
 霊夢は、ソルを見た。

「それでその時に…あんたの過去の事、閻魔から聞いたの…」

 ソルは少し眼を細めただけで、何も言わなかった。
 しかし、その表情には少しの変化があった。本当に少しだけだが、ソルの貌が歪んだ。
 何かを堪えるような、耐えるような、苦い貌だった。
 そして、そんな貌をした自分自身に戸惑うように、右手で額を押さえて見せた。
 
霊夢も、暫く何も言わなかった。
 静寂の間に、ソルは深い溜息を吐いた。
自分を落ち着かせるような溜息だった。霊夢にはそう見えた。
 
 「…それが…どうしたんだ…」
 ソルは額を抑えたまま、低い声で呟いた。
かなり参ったような声音だ。
自虐的でもあって、自分自身に呆れているのかもしれない。
 霊夢はむっとした。
 
「別にどうもしないわ。…ただ、知りたかったから聞かせて貰ったの。
 その事を、一応あんたに言っておきたかったのよ」

序に、と、霊夢はむっとした表情のまま顔を傾けて、ソルの顔を覗きこんだ。

「その時は、魔理沙やアリスも神社に居たから。
二人も知ってるわ。後は、私達の心配をして、此処に来たレミリアもね」
むしろ、一番閻魔に食い下がってたのは、レミリアだったし。

少しの苦笑を浮かべながら霊夢は言って、暗がりの境内を見詰めた。
ソルの脳裏に、昼間の魔理沙達の顔が順に浮かんで、胸に亀裂が入りそうだった。
霊夢の言葉を聞いて、昼間の魔理沙達の騒がしさの持つ、深い意味を知った気がした。

「あんたの過去と、今回の異変が微妙に繋がってるんなら…ってことでね。
映季に無理矢理教えて貰ったから。…だから、映季を責めないであげて」

額から右手をどかして、ソルは霊夢を見た。
明るい声音だが、霊夢は真剣な顔でソルを見ていた。
 
 「……俺は…」
 ソルが言葉に詰まり、視線を彷徨わせるのを、霊夢は初めて見た。
 凄みの在る金色の眼は揺れていて、まるで怯えているようでもある。
 奥歯を噛み締めるような音も聞こえた。
 まるで、今にも泣きだしそうな貌に見える。
言葉にならない何かを、どうにかして霊夢に伝えたいのか。
 何かを言いたげに、その唇が微かに動く。 
しかし結局、それは声にならない。凄く苦しそうだった。
 何かを堪えるように、ソルはまた額を抑えた。その手は震えていた。
 
神社の暗がりと、ぬるい風の中に、呻き声のようなものが漏れる。
 
 「ソル…」 霊夢はソル名前を呼んだ。
 抑揚の無い、嫌に落ち着いた声音だった。
 少しの間、ソルは動かなかった。霊夢はもう一度、ソルの名前を呼んだ。
 ゆっくりと貌を上げながらも、ソルは霊夢の眼を見ようとはしなかった。
 視線から逃げるように、右手で額を抑えている。
だから、霊夢は横に座ったソルに向き直り、その側頭部に軽くチョップを入れてやった。
 「……む…」 
額を抑えたままのソルは驚いたような、少し困惑したような貌で、霊夢を凝視した。
 霊夢も、またむっとした貌で、ソルを見詰める。
それから、肩の力を抜くようにして、ふっと笑って見せた。
 
 「さっきも言ったでしょ。別にどうもしないって…。
  あんたの過去がどうであれ、私にとっては関係ないし。
  不器用で、朴訥で、ちょっと優しいあんたの事が、好きな事に変わりないわ」
 
 霊夢の眼は、やはり何処までも澄んでいて、穢れが無い。
其処に在るのは、母性や包容力とはまた違う。
全てを受け入れる器の大きさのようなものを感じさせられた。
そんな真っ直ぐな眼に見詰められているソルは、明らかに怯んでいた。

ソルは、また逃げるように視線を逸らした。
言葉が見つからない。何を言えば良い。分からない。
霊夢の知ったソルの過去は、どうしようもなく血塗れだ。
死と破壊と復讐だけが、憎悪で彩られている。
ギアの死骸も聖騎士の遺体も関係なく、炎で飲み込んで来た。
そんな過去を知って尚、“別にどうもしない”と、霊夢は言って見せる。

ソルは、何も言えないまま、霊夢を見た。「……俺は…」。
俺は。俺は何だ。何が言いたい。この感情は何だ。
戸惑うソルを見詰めながら、霊夢はまた少し笑った。

「異変が終わって…全部済んだら、此処で暮らさない?
 あんたって、いっつも難しそうな貌して、無茶して…見てられない、っていうか…。
何か放っとけないのよね」

助けて貰った恩もあるし、あんただったら、紫も納得してくれるでしょ。
言いながら霊夢は立ち上がって、腰を叩いた。その頬には、朱が差していた。
見下ろしてくる霊夢の表情は、言いたいことは全部言ったみたいな、清々しい貌だった。

「まぁ、あんたが復讐を取るなら、私は何も言わないわ。
 でも私は…あんたが此処に居てくれると嬉しいわね。私だけじゃないわ。
 魔理沙やアリス、レミリアにしたってそうだと思う…」

少しだけ早口になった霊夢に、ソルは何も言えなかった。
感情や思考が、上手く言葉にならない。

「まぁ、言いたいことはそれだけ…。一応、覚えておいて。
 それじゃあ、私はもう寝るわね。…あんたも早く寝なさいよ」
 
霊夢は言いながら、何処か早足で神社の座敷の方へと歩いていった。
結局ソルは、その背中を見送るだけで、何も返事をする事が出来なかった。
呆気に取られた部分も在る。だが、それ以上に困惑した。自分自身にだ。
 
 ただ、戦うだけの筈だった。
 何かを守ろうなどと、大それた事を考えている訳ではなかった筈だ。
 だが、人里での戦いで、ソルは誰かを守りたいと想った。
 慧音だけではない。霊夢や魔理沙やアリスを。里を。子供達を。
いつからだろうか。幻想郷に対して、こんな風に想うようになったのは。
分からない。ソルは頭を抱えるようにして、項垂れた。

“あの男”の姿が脳裏に浮かんだ。憎悪と炎は、未だ心の中に在る。
それは間違い無い。凄惨を極めた聖戦の戦場は、今でも鮮明に思い出せる。
死に過ぎたし、殺し過ぎた。
皆死んだ。俺が殺したようなものだ。
許されない。それで良かった。
だが今では、欠落した感情の隙間に、全く別の感情が芽生えて来ている。
長い間、忘れていた感情だ。
おかげで、思い出せない。
誰か、教えてくれ。




[18231] 二十九・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/26 21:32

 
負傷した左腕を自分で治療するのは、なかなか興味深かった。

いや、正確には改造と言った方が正しいだろう。
法力機術を用いて編みこんだ金属繊維は、擬似的な筋肉繊維と化している。
皮膚も、鋼液を塗るようにして補強して、造り変えた。
更に、液鋼は左肩から腕の芯まで浸透している。強度も、人間の腕とは比べ物にならない。
砕かれた骨も、液鋼が補強してしまっているし、傷口も完全に塞がっている。
液鋼は神経と同化、融合して、脳から信号を全く阻害しない。
腕を回したりしても痛みは無いし、特に重みも感じない。良い感じだ。
法力機術から鋳造された鋼液は、法術との親和率も高い。
法術を行使するのがかなり楽になりそうだし、まだまだ改良の余地がありそうだ。

クロウは研究室のモニター前の椅子に腰掛け、静かに自分の左掌を眺めていた。
鈍い青黒と、暗銀の光沢を持つ鋼液の皮膚は、もはや人体とは呼べない代物だ。
掌には法術の紋が刻まれ、法術をプログラムした端末が埋め込まれている。
それはもはや腕というよりも、装置であり、武器だった。
握ったり開いたりしながら、その掌に法力の微光を灯してみる。
青黒の光は、今までよりも更に深く、澱んで、濁っていた。
その微光の揺らぎを見たクロウは、満足そうに鼻を鳴らして、その光を握り潰す。

この調子で、自身の身体をどんどん改造を施していくのも面白い。
だが、自身に対する施術は、時間と労力が掛かり過ぎる。
手間に見合うだけのリターンが在るのは間違い無いが、他にすべき事も在る。
それに…、とクロウは軽く息を吐いた。

幻想郷からの帰還時。
GEAR MAKERの側近だろう者に追跡された事を思い出して、今になって冷や汗が出た。
次元を渡る間に、追っ手を撒くのに相当苦労した。
今でも、クロウは安心出来ないと考えている。
悠長に構えていたら、此処の場所まで割り出して来るかもしれない。
そうなったら事だ。今までの全てが無駄になりかねない。
今の終戦管理局の戦力では、GEAR MAKERとの直接対決は難しいだろう。

ジャスティスのコピー達に貯蔵はまだ在るが、既に二体を失っている。
これ以上無駄にしたくは無い。
バックヤードに攻め込むには、ジャスティスのコピー達は必要不可欠だ。
まだまだ準備が必要で、考える時間も欲しい。だが、のんびりも出来ない。
難しいところだねぇ…。低い声でひとりごちる。
黒い厚手のグローブを左手に嵌めて、クロウはモニターへと視線を移した。
それから、無言のまま右手で眼鏡の位置を直して、眼を細める。
眼鏡のレンズには、一人の少女の画像が映し出されていた。

不意に、研究室の扉が開くのが聞こえた。「オイ駄目博士! 珈琲ガ入ッタゾ!」
がしょんがしょんと、抜けたような足音を立てて、ロボカイが研究室に入って来たのだ。

クロウは、聞き間違いだと思った。
余りに聞き慣れない台詞に、訝むような貌でクロウは背後を振り返る。
驚く嵌めになった。ロボカイの手には木製の盆と、その上にカップが乗っていたからだ。
湯気を立てているカップの中身は、確かにコーヒーのように見える。
幻覚でも見ているのか。疲れているのかもしれない。
言葉を失っていると、もうロボカイは眼の前まで来ていた。

「オラ、アリガタク飲ムト良イゾ!」
ずいっ、乱暴と突き出された盆を前に、クロウはカップとロボカイを見比べてしまう。
それから、「あ、あぁ…有り難う」と、思わず素の反応をしてしまった。
ロボカイが、自分からコーヒーを持ってくる事など今まで無かった事だ。
前に一度コーヒーを頼んだ時は、温めた醤油を持ってきたくれた事があった。
廃棄処分を本気で考えもしたが、何とか思い留まったのはまだしっかりと覚えている。
あれ以来、飲み物の類は決してロボカイには頼まないようにしていたから、余計だ。
コーヒーが入ったぞ。この言葉がどれだけ信用できるのか、全く分からなかった。
念のため、匂いを確認した。コーヒーの良い香りがする。軽く感動してしまった。

やれば出来るじゃないか…。
感心と共に一口啜って、クロウはまた感動した。
美味しかった。

「ドウダ、ナカナカ美味イダロウ」
得意げな声のせいか、四角だけで構成されただけの貌が、ドヤ顔に見える。
その機械に篭った感情を嬉しく思いながら、クロウは頷いた。

「あぁ…、美味しいよ。拍子抜けするくらいだ」

「ドウイウ意味ダ…。折角吾輩ガ…、ンン…? アノ標本ハ…」

ロボカイは言いながら、視線を薄暗い研究室の一角へと向けた。
其処は機材などが置かれず、やや広いスペースが取られてある一角だ。
施術様の硬いベッドが照明を受けて、暗がりの中にその姿を浮かび上がらせていた。
ベッドは平面では無く、歯医者椅子のような構造だ。
周囲から無数のチューブが伸びて来ていて、ベッドに接続されていた。
冷気のような白い靄が、冷たい床に漂っている。
そのベッドの周囲には、ロボカイを改造する時に用いる機術用工具の棚も並んでいた。
簡易の実験室のような風情を持つそのスペースに眼をやりながら、ロボカイはフム…、と顎を撫でた。

クロウも、コーヒーを啜りながらロボカイの視線を追う。
二人の視線の先。少し黒ずんだベッドの横だ。
用具棚の中に、透明な筒状のカプセルが置かれてあった。
薄緑色の液体に満たされたカプセルの中には、人間の手首が保存されている。
阿求の手首だ。

「アレガ今回手ニ入レタ、不老不死ノサンプルカ…。
此処カラコウシテ見ルト、浪漫モ何モ無イナ」

「そうかもねぇ…。
でも、あれを持ち帰った御蔭で、僕もお咎め無しで済んだからね」

クロウはカップを片手に苦笑して、脚を組み直した。

「厳密に言えば、記憶とか、自我とかの半永久保存のサンプルだけど…。
 上の人達には大受けしたよ。やっぱり、記憶の不死っていうのは魅力的さ。
 老人達にとっては、特にね…。御蔭様で、僕も出世出来そうだ」

「興味モ無イ癖ニ良ク言ウ…。
研究シカ趣味ノ無イ駄目博士ニハ、トコトン似合ワナイ台詞ダナ」

ロボカイの呆れたような声に、クロウは肩を少し揺らして笑った。
出世。出世か。確かに、全く興味が無い。自分で言って笑えるくらいにどうでも良い。

「まぁ、でも…記憶の不滅っていう点では、僕も凄く興味が在るし、活用するつもりだよ」
そう言ったクロウは、自分の左手と、カプセルの中に収められた、阿求の左手を見比べた。
細められたクロウの眼には、理知と飢餓が既に宿り始めていた。

「意識と自我の保存は、GEAR MAKERと対峙するには、やっぱりしておきたいしねぇ。
 長生き出来るに越した事は無いし、これでまた攻略に一歩前進した訳さ…」

「ソレハ長生キト言ウヨリモ、記憶ト意識ノ伸長ニ過ギンダロウ」

「上の人達がそれを“不老不死”と錯覚している内は、“長生き”で正解さ…」
言いつつ、コーヒーを啜るクロウの横で、ロボカイはクロウの左手を凝視していた。
その視線に気付いたのだろう。クロウは少し笑った。

「左腕の事、心配してくれてるのかい? なら、もう大丈夫だよ。この通りさ」
カップを盆の上に置いてから、左肩を回して、左手を握ったり開いたりして見せる。
動きは滑らかで、軋みも歪みも全く感じさせない。
それを見たロボカイは、安堵を隠すように「フン…」と無い鼻を鳴らして見せた。

「法力機術ノ本領発揮ダナ。マァ、無事ナラ良イ…。
シカシ…其処マデ出来ルトナルト、吾輩カラ見レバ微妙ナ気分ダ。
人体ノ持ツ神秘トヤラモ、随分ト有難味ガ薄レテ見エ……」

其処まで言ったロボカイは、モニターに映し出されている画像に気付いたようだ。
急に黙り込んだと思ったら、いきなりだった。
モニターに顔をくっつける勢いで、ロボカイはクロウをぐいっと横にどかした。
「ぁちょっ…!?」 クロウは慌ててバランスを取って、コーヒーが零れるのを防ぐ。
ただ、ロボカイの方は、そんなクロウの様子を全く見ていない。
フム、割ト合格ダ、と、嫌に真面目くさった声音で言いながら、モニターを見詰めている。
少し様子がおかしくなったロボカイを横目で見つつ、クロウはコーヒーを啜ろうとした。
出来なかった。すっと静かにクロウに向き直ったロボカイが、モニターを指差したからだ。
見たことが無いくらいに真剣な様子だった。

「コノ画像ノ♀ハ、駄目博士ノ娘サンデスカ。御義父サン」

「……違うよ。まぁ、君の父親であることに変わり無いけど…」
ロボカイの糞真面目な声に、クロウは思わず半眼になってしまった。
それから、カップを持っていない手でモニターに触れて、画像を拡大して見せた。
他にも、同じ少女の画像が幾つか表示された。アングルの種類も様々だった。
モニターに表示された画像を見て、ロボカイは悲しげな溜息と共に、成程ナ…、と呟いた。
それから俯き加減で、クロウを見下ろす。

「駄目博士ハ駄目ナダケデナク、トウトウすとーかーニ成ッテシマッタノカ…」

「突飛なんだよ、君の発想は…。そうじゃない。この娘は、次の目標だよ…」

一応はね…、と付け足して、クロウはコーヒーを啜った。

「今までマークだけはしていたんだけどねぇ…。
妖怪の賢者への対策も済んだし…次は、彼女の力を奪いに行こうと思うんだ。
そろそろ本格的に拮抗を崩して、優位に立ちたい」

「シカシ、境界操作ノ能力ハ既ニ開発済ミナノダロウ?」

ロボカイは画像から視線を外し、クロウに向き直って首を傾げた。
僕が使えるのは粗悪な模倣に過ぎないよ…。
言いながら、クロウは鼻から息を吐いて、肩を竦めて見せる。

「僕に出来ることなんて、予め造っておいた境界を開いたり閉じたりする程度さ。
 賢者のように、元々在った境界を弄くるのは、まだ少し難しいね」

逆を言えば、境界を用意してさえおけば、いつでもスキマを開けるという事だ。
人里で黒いソルを召んだように、終戦管理局に控えてある戦力を自在に呼び出せる。
有刺鉄線で編まれ、リボンの代わりに歯車を嵌めたクロウのスキマは、十分に強力だ。
しかし、クロウはそれでは満足していない。
GEAR MAKERの居る場所に辿り着く為には、この能力をより完全にする必要がある。

「だから、もう一段階改良する為に…この娘に用が在るんだよ。
 いや…出来た、と言った方が良いかも知れないな。適合者が、彼女だけだったからね」

モニターに映し出された画像を見ながら、クロウは首を傾け、唇を歪めた。

「成程ナ…ソシテ此処デ、吾輩ノ出番ト言ウ訳ダナ、ウン?」

ロボカイの声は若干ウキウキしていた。もう答えるのも面倒臭くなったのか。
ロボカイを一瞥したクロウは、コーヒーを啜りながら右の掌をヒラヒラと振って見せる。
“全然違う”のサインだった。だが、ロボカイはそれをゴーサインと受け取ったようだ。
善ハ急ゲダナ! と、おもむろに走り出した。
口に含んだコーヒーを慌てて飲み込んで、クロウは咽返った。

「ゲッホ!? 違う! 違うよ! 君じゃない! 止まってくれ!」
クロウの必死な声は、ぎりぎりで届いたようだ。
キキィッ!と急ブレーキを掛けたロボカイは、「ナンジャトォ…」と言いながら振り返った。
その声はとんでもなく不服そうだった。
最近暴れていないから、欲求不満が溜まっているのかもしれない。
この妙な人間味は喜ばしい事なのだが、同時にクロウの頭痛の種でもある。
やる気になってくれたところ申し訳ないんだけどね…。
クロウは溜息を吐いて、傑作なんだか迷作なんだか分からくなって来たロボに向き直る。
君のAIは…いや、君のAIの流れを組むと、扱い難くて仕方ないよ…。
疲れたように息を吐きながら言って、クロウはモニターに触れる。
すると、また別の少女が映った画像が映し出された。

「君には、こっちの娘を頼もうと思ってるんだ…。
取り敢えず、機嫌を直して話を聞いてくれないかな」

ロボカイは「ヌフゥムッ!」と頭から蒸気を吐きながら帰って来た。
それからしばらくモニターを睨めっこしてから、クロウにガバッと向き直った。
「ばっちぐーダ!」と叫んだロボの眼は、ビカビカと激しく点滅していた。
単純なんだか複雑なんだか。
溜息を吐くのを堪え、「…そりゃあ良かったよ」と呟いて、クロウは更にモニター操作する。

「君には、現地に居る…というか、帰還して来ないAI搭載ロボの三人と協力して貰う。
 この巫女さんのバックには、強力な神様が二人居るみたいでね。
前の襲撃でも失敗に終わってる。…あぁ………ちなみに神様は二人共、女性だよ…」

途中まで、エェェ…、と嫌そうな声を漏らしながら、ロボカイは首を傾げていた。
だが、神様が女性と聞いて、神妙な様子ですっと背筋を伸ばした。
大丈夫かな…と不安になったが、クロウは一つ咳払いをして説明を続ける。

「修理用の大型キットと一緒に君を向こうに送るから、他のロボ達に接触して欲しい。
 現地のロボ達を修繕して、共同で任務にあたってよ」

「半端無ク面倒ダガ…、嫁三人ノ為ナラ仕方在ルマイ…」

偉そうな言い草だが、その声音にはやる気が満ちていた。
女性が絡むと、ロボカイのパラメーターに甚大な影響を及ぼす。
良い意味でも、悪い意味でもだ。
今回は、それが良い方向に働く事を期待しながら、クロウは口許を緩めた。

「頼りしてるよ。何せ、法力鋼のボディを持ってるのは、君だけだからね。
 純粋な戦闘力で見たら、君以上のロボはもう用意出来ないんだ。上手くやってよ…」

それに、ギミックとAI持ちのロボ達は、君の兄弟みたいなものだし…。
クロウは其処まで言ってから、いつもと少し違う種類の笑みを浮かべて見せた。
薄暗い研究室には似合わない、不思議と優しげな笑みだった。

「僕としては、弟達を助けるつもりで、君に頑張って来て欲しいんだけどねぇ…」

「…全ク、手ノ掛カル奴ラダナ」と言ったロボカイは、クロウの笑みから眼を逸らす。
それから、ロボカイは面白くなさそうに、無い鼻を器用に鳴らした。満更でも無さそうだ。
そしてゆっくりと腕を組んでから、モニターに映し出されている画像を見比べている。

クロウも、そのロボカイの視線を追って、モニターに視線を向けた。

「君のターゲットは、東風屋早苗さん…山の神社の巫女さんだよ。OKかい」

「了解シタ。ナカナカノないすめろんダ。シカシ…」

ロボカイは其処で言葉を切って、クロウを見た。何かを聞きたそうな眼に見えた。
それは多分、製作者のクロウだからそう思ったのだろう。
クロウは、コーヒーを飲もうとしていた手を止めた。
なんだい?、と聞いてみる。
ウム…と、妙に人間臭い仕種で、ロボカイは顎を手で撫でた。

「先程、駄目博士ハ適合者ト言ッタダロウ。一体、何ノ適合者ナノカト思ッテナ」

あぁ…、と納得したような声を漏らしながら、クロウも画像を見比べる。
それから、何て言えば良いのかな…、と呟いて少し首を捻った。

「適合者、なんて言い方が良くなかったね。そんな大それたものじゃないよ。
この画像を見比べて言うなら、共通点、というべきかな…」

「共通点? ドチラモ幻想郷ノ住人ダロウ?」

それが違うんだよ…。不思議なことにね。
そう言ったクロウの声は、少し楽しそうだった。面白がっているようでもある。
一口コーヒーを啜ってから立ち上がり、クロウはすっと左手をモニターに伸ばす。
 グローブに包まれた指が早苗の画像に触れると、そのプロフィールが横にざぁと並んだ。
 それから、もう片方の少女の画像にも触れ、同じようにプロフィールを羅列させる。
 モニターは、画像と文字の羅列で埋め尽くされた。
 凄まじい情報の量だ。顎を撫でながら、クロウをモニターに視線を走らせる。
  
 「東風屋さんの方は、幻想郷の住人だ。でもね…、こっちの彼女は違う。
  幻想郷の外で暮らしている。日本の京都で、学生としてね。
  更に言えば…東風屋さんの方も、幻想郷の外の出身なんだよ…」
 
 つまり、完全な幻想の住人では無く、実質は純粋な日本人なんだ。
其処まで言ったクロウの口許は、笑みの形に歪んでいた。
幻想郷ノ外ニマデ手ヲ広ゲテイタノカ…。ロボカイが低く呻いた。
 
 「視野は広いに越した事は無いからね。
  幻想郷の外にも、不思議な力も持った人は、ごく少数だけど居るみたいだよ。
  ただ、現人神とされる東風屋さん程の人は…残念ながら見つからなかったけどねぇ…」

「ジャア、コノ画像ノ♀ハ、一体ドンナ能力ヲ持ッテイルンダ?」
ロボカイは、早苗の画像とは違う方の少女を見ながら、首を捻った。
“境界を見る程度の能力”を持っているようだね…。
低い声で答えながら、クロウも画像を見詰め、眼を細めた。
境界。その言葉に、ロボカイが「何…」と反応した。視線を画像からクロウに向ける。
不思議だよねぇ…、と呟いたクロウは、モニターを見詰めたままだ。
その眼鏡には、やはり少女の画像が映っている。

「デハ先程言ッテイタ、賢者ノ能力ヲ奪ウトイウノハ…コノ事ダッタノカ」

「いや、これは布石みたいなものさ。…境界操作の力を剥奪する為のね」
 
 言いながら、ようやくクロウはロボカイに視線を移した。
 
「今のままじゃ、僕は妖怪の賢者とは渡り合えない。
でも、既存の境界を見えるようになれば、其処に干渉する事も出来ると思ってね…。
その為に…境界を見る彼女の“眼”が欲しい、という訳さ」

この段階になって、彼女をマークしていた意味がやっと出来たよ。
そう言ったクロウの声の調子は、いつもと変わらない。
それが、この男の奥底にある狂気を伺わせる。
肩を僅かに揺らして、クロウはモニターへと再び視線を向けた。
その貌は笑っていた。ただ純粋に楽しそうだった。

「まぁ、間違い無く妨害も入るだろうけれどね…」
GEAR MAKERが、彼女の存在に気付いていない訳が無い。
マークしている筈だ。クロウはそう考えている。
幻想郷の外へと終戦管理局が動けば、必ずGEAR MAKER達も動くだろう。
それはつまり、「正解」という事だ。
彼女が終戦管理局に渡れば、『キューブ』を守る為に都合が悪くなるという事だ。
もしも動かないのなら、それはそれで良い。
此処で更に一手、追い詰める事が出来る。
GEAR MAKERがどう動くのか、楽しみでしょうが無かった。
普段は表に出てこない歪んだ感覚が、クロウの双眸の内から画像を見詰めていた。
 







誰かに愛の告白をされたことなど、在っただろうか。
思い返してみても、そんな記憶は見つからない。
無い。どうして、と自分に聞いてみても、知るか、と答えるしかなかった。
そんな自問をしたのは、何回目だろうか。
数えていないが、数え切れない程したのは間違いない。
ぐるぐると同じような思考が巡って、結局、知るかと結論を出し続けている。
何時からだ。それははっきりと覚えている。一昨日の金曜日からだ。

大学からの帰り際、あるイケメン集団の一人から、メリーがラブレターを貰ったのだ。
その時も、メリーと一緒に蓮子も居たから、よく覚えている。

あの時も夕方で、大学の正門を少し出た処だった。
照れた貌で、今時な感じの茶髪の男子が、メリーに小奇麗な封筒を渡しに来たのだ。
渡されたメリーの方はきょとんとしていた。
蓮子の方は、貌が歪むのが自分でも分かった。
返事を貰えるなら、日曜の夕方、大学に来て下さい。時間は、手紙に書いてあります。
そう言って、早足で男の子はグループの中に戻って行った。
男の子は、同じグループの他の男の子達から、茶化されたり、冷やかされたりしていた。
蓮子は、男の子グループを見送りつつ、大きな衝撃を受けたと同時に、何故か焦った。
あれ、私は?、とかも思った。だが、現実は非常だった。
一緒に居た蓮子には、何のイベントも起きなかった。
やってられない気分になったが、メリーが可愛らしいのは素直に認めるしかない。
ただ、ほとんど顔も知らない相手からの告白に、メリーも戸惑っているようだった。

それからだ。
 メリーから「どうしよう…」と相談されて、蓮子も途方に暮れそうになった。
 どうもこうも、と思う。
 蓮子にしても、そんな経験が無いから、気の利いたアドバイスなど出来る筈も無い。
 取り敢えず、返事だけはしようと言うことで、大学まで来ているのが今の状況だ。
 
蓮子はしきりに下唇を噛んでいる。
親友のメリーに悪い虫がつくのは、絶対的によろしく無い。
 いや、まだ悪い虫と決まった訳では無いが、そんな風に思ってしまう。
 告白して来た男の子は、軽薄そうにも見えなかった。
 好青年と言って良い部類かもしれない。
 
でも、今時ラブレターなんて…。
苦々しい小声で呟いて、蓮子は何とも言えない貌になっていた。
今、蓮子が居るのは、屋外に設置された階段。その四階の踊り場だ。
其処から顔半分を出すようにして、眼下に広がる大学の中庭の一点を見据えている。
 
 大学のキャンパスの中は、がらんとしていた。
 日曜日の夕方。休日で、特別な講義もほとんど無い今日は、特に人の気配が無い。
購買も学食も全て締まっているので、広い建物は完全に静まり帰っている。
普段は多くの若者の姿が在る大学だから、余計にそう感じるのだろう。
遠くから運動部のランニングの掛け声が聞こえて来るくらいだ。
閑散とした構内には、少し肌寒い風が吹いている。
中庭の植え込みの木々は茜色の陽を浴びて、微かに揺れていた。
広々とした中庭には、軽食やおしゃべりを楽しむ為であろう木製のベンチが並んでいる。

そのベンチの一つに、メリーが少し緊張した面持ちで座っている。
手紙には、日曜日の夕方、この時間に中庭に来るよう書かれてあったと、メリーは言っていた。

蓮子は見せてもらっていないが、手紙の内容は実に真面目なものだったと聞いた。

大講義室でメリーを偶々見かける事があり、それから気になり始めたのだと言う。
名前を聞こうにも勇気が出せず、偶に見かけても、遠くから眺めたりしている毎日だったそうだ。
だが、ついに意を決し、手紙をメリーに渡したのが、一昨日の金曜日という事らしい。

これは非常に面白く無い。
何が、と言われれば答えに窮するが、何だか面白く無いのだ。
理由なんて、特に無いのかもしれない。考えたいとも、今は思わなかった。
むにむにと唇を噛みながら、蓮子は階段の踊り場から、メリーを見守っている。

それにしても、自分から呼び出しておいて、メリーを待たせるとは何事だ。
若干の苛立ちを覚えながら、そんな事を考えていた時だ。
不意に、静かにベンチに腰掛けていたメリーが立ち上がり、ある方へと向き直った。
蓮子は咄嗟に頭を下げようとして、気付く。来た。あの男の子だ。

だが、様子がおかしい。
男の子は一人じゃなかった。他にも二人の男子が居た。
見覚えがある。メリーに手紙を渡した男の子と、同じグループに居た男子たちだ。

蓮子は嫌な予感がした。笑っているからだ。
三人の男子の貌がニヤニヤと歪んで、やけに下卑た笑みを浮かべている。
四階の階段の踊り場からだったので、蓮子はさらに最悪な事に気付いた。
メリーを挟み込むような形で、また別の男子三人がメリーに近づいている。
男子の内一人が、ポケットから何かを覗かせるのが見えた。
銀色の鈍い光を照り返していた。あれは。折りたたみ式のナイフだ。

メリーは逃げようとしたようだったが、無理だった。
男子達の方は慣れた様子で、ベンチを取り囲んだからだ。
ゆっくりとその輪を縮めていき、手紙を渡した男の子がメリーの前に立った。
蓮子は咄嗟に中庭を見回すが、キャンパス内に他の人影は無い。
中庭には、夕暮れの寒々しい風が吹いているだけだ。
心臓がバクバク言い始める。気付いたら、駆け出していた。

二段飛ばして階段を駆け下りる。
頭の中は、怒りと後悔で一杯で、具体的にどうしようとかは全然思わなかった。
いや、思いつかなかったし、そんな余裕も全然無かった。
助けなきゃと、それだけしか考えて居なかった。
だから、階段を駆け下りて、メリーが囲まれている場に突っ込んでいこうとした時だ。

眼を疑った。
囲まれているメリーの隣に、何時の間にか子供が居た。
白地に黒の奇抜な紋様が描かれたパーカーに、紺色の細身のパンツ。
高そうな革靴を履いた子供は、フードを目深く被っていて、貌の下半分しか見えない。
蓮子は一瞬、走る脚を止めてしまいそうになった。
だって、おかしい。メリーの隣にあんな子供は、絶対に居なかった。

メリーの方も、囲んでいる男子達も、やはり驚いているようだ。
子供の方は、口許にひっそりと笑みを浮かべて、ゆっくりと男子達へと視線を巡らせた。
男子達の方は、その視線に一斉に後ずさった。
同時に、呟くように、子供の唇が何かの言葉を紡いだ。
蓮子の場所からは、その声は聞こえなかった。
だが、その時だ。下ろされたまま子供の左掌が、僅かに光ったような気がした。
気のせいかもしれない。そう思ったが、違う。
あんなに仄暗い蒼色の光は見たことが無い。

多分、それと同時だっただろう。
メリーが、蓮子に気付いた。こっちを見た。
蓮子がメリーの名前を呼ぼうとした時だ。不意に、その子供も蓮子の方を見た。
フードに隠れた視線は、明らかに蓮子を見た。総毛立つのを感じた。
体が震えて、走る脚がもつれそうになった。
だが、明らかな異変はもう起きていた。
メリーを囲んでいた男子達が、ガクンと首を折り曲げるようにして項垂れた。

 何が起こったのか。全く分からない。
流石に、蓮子の脚が止まった。呆然としてしまった。
メリーも同じような様子だ。

「帰ってゆっくり休むと良い…。
これからは、心を入れ替えて生きるんだ。…いいね?」

其処でようやく、子供の声が聞こえた。少年の声だった。
男子達の眼の焦点は、明らかに定まっていない。
子供に答えた「はい…」という男子達の声音も、まるで意思が篭って居ないようだった。
だが、フードを被った子供は、その返事に頷いて見せた。

今度は蓮子の見間違えではない。
下に向けられたままの子供の左掌が、微かに蒼い微光を纏った。
同時だった。男子達は一斉に回れ右をして、メリーの前から散り散りに帰って行った。
まるで、映画に出てくるゾンビの群れを見ているような気分だった
その異様な光景を目の当たりにして、どれくらい放心状態だったろうか。
多分、十数秒程度だった。
はっと我に帰った時には、メリーの傍に居た子供の姿は無かった。
まるで蜃気楼のように消えていた。

「メリー! 大丈夫だった!?」
とにかく蓮子は、まだ呆然としているメリーへと駆け寄った。
メリーの肩を揺すって、貌を覗き込む。「あ、あぁ…、蓮子…」と鈍い反応が帰って来た。
きょとんとした様子のメリーには怪我などは無いようで、ほっと胸を撫で下ろす。
 
 「あ、あれ、何で蓮子が此処に…」

「手紙の返事をしに大学に行くって、メリー言ってたでしょ。
 何か心配だったから、様子を伺ってたのよ! それよりっ…!」

少し驚いたような貌のメリーに答えつつ、蓮子はキュロキョロと辺りに視線を巡らせた。
居ない。やはり、フードを被った少年の姿は、何処にも無い。そんな馬鹿な。
見間違いか。そんな筈は無い。
ねぇ、メリー! さっき居た子供、何処に行ったか見てた!?
蓮子はメリーの両肩を掴んで、がくがくと揺らした。

「ちょっと待って蓮子、痛いってば! 私もそうよ! 
さっきの小さな男の子でしょ!? 私も気付かないうちに消えてたのよ!」

やっぱり、居たのだ。あの奇妙な少年は。
蓮子はメリーの両肩から手を放して、一つ深呼吸した。
親友の無事に一安心してから、もうい一度中庭を見渡してみる。
さっきの奇怪な現象も、見間違いでは無い。
 一体何だったのかしら…。
蓮子は顎に手をあて、先程の光景を思い返そうとする。しかし、出来なかった。
肩と頭をシェイクされたメリーが、恨めしそうに蓮子に視線を向けて来たからだ。

「というか、告白の返事をする処を見ようとしてたのね…」

蓮子はしまったと思ったが、隠しても仕方無い。
うっ…、と言葉に詰まってしまったが、これは謝るしかあるまい。
眼を伏せて、蓮子は謝罪しようとした。「ご、ごめんなし…」 噛んだ。
それが面白かったのか。
ふふっ、とメリーが可笑しそうに笑ったので、何だか急に恥ずかしくなって来た。

「で、でも、実際危なかったじゃない! 何か囲まれてたし…!」

「ええ、私もちょっと怖かったけど…。
あの男の子がいきなり現れてからは、それどころじゃなかったわ…」
 
「じゃあ…やっぱりメリーも、あの子が現れたところ、見てないんだ」

蓮子の問いに頷いたメリーも、本当に突然だったから…、と呟いて、視線を周囲に巡らせた。

夕暮れのキャンパスには、さっきと変わらず人影は無い。
メリーと蓮子が居るだけだ。運動部の掛け声と、笛の音が遠くから聞こえた。
中庭の木々が、風に揺られて枝葉を揺らしている。
妙な寒気を感じ、メリーは自分の体を抱くようにして、腕を組んだ。
蓮子の方も、体が少し震え来た。
だが、メリーの震えとは、若干質が違う震えだ。

「こんな身近にも、摩訶不思議が転がっていたとはね…」
そう言った蓮子の貌は、楽しげに笑っていた。

少し溜息を吐いて、メリーはその背中に声を掛けようとしたが、止めた。
もう蓮子は、今見た現象を解明すべく、頭の中でプランを立てているのだろう。
こうなったら、蓮子はとことんやる性質だ。
長い付き合いで、それはもう良く知っている。

それに、メリーも当然気になっていた。
あのフードを目深く被った男の子からは、やはり不思議な能力を感じた。
何より、男子達に囲まれたタイミングで現れ、その窮地からメリーを助けたのだ。
それはつまり、蓮子と同じように、メリーの行動を常に見ていたという事では無いのか。
其処まで考えて、また寒気を感じた。もう一度、周囲を見回してみる。
だが周りに居るのは、何やらぶつぶつと言っている蓮子だけだ。
視線を感じた。何処からかは分からない。
「メリー!」 不意に名前を呼ばれ、ぎくりとした。
気付けば、蓮子が貌に笑みを浮かべながら、こちらに向き直っていた。

「これは調査してみる必要が在りそうじゃない? 
大学の中にも、私達以外にあの子供を見た人が居るかもしれないわ」

降って湧いたような摩訶不思議に、蓮子の眼は輝いていた。
声音も、少し興奮している。メリーは、「え、ええ…」と答えただけだった。
普段ならもっとノリの良い反応を返しただろうが、何故か今回は嫌な予感がした。
本当になんとなくだが、いつものオカルトとは毛色の違う現象のように思えた。
だが、蓮子の方はそうは思ってないようだった。

結局それから、夕陽に染まる大学内を一廻りしてみたが、何も見つからなかった。
境界を見ることも無かったし、あの少年の姿も見つけることは出来なかった。
帰る頃には、もうかなり暗くなっていた。
「今日は家に泊まって行ってよ。あんな事も在った後だし」と、蓮子に誘われた。
男子達に囲まれたことを言っているのだろう。蓮子の貌は少し心配そうだった。

だが、メリーは男子達に囲まれた事よりも、あの少年の方が気になっていた。
一人で居る事を考えると、不安だった。それは、今まで感じた事の無い種類の不安だ。
メリーは、暗がりに落ちた大学のキャンパスに視線を巡らせる。
平日ならば、まだまだ学生が居るだろう時間だ。しかし、今は違う。
まるで、作為的なものを感じる程、人の気配が無い。
 気のせいだと言われれば、そうだと思ってしまうような、微かな違和感。
 眼を細めてみても、やはり“境界”のようなものは見えなかった。
 「…今日のところは、そろそろ切り上げましょうか」
 隣に居た蓮子に言われ、メリーは軽く息を吐いて眼を閉じた。
そうね…、と小さく答えて、蓮子に向き直る。
 蓮子は空を見上げて、こんな時間か…と呟いてから、メリーの手を掴んだ。
 
 「晩御飯、どっかでおいしいもの食べにいこうか。
  腹が減っては戦は出来ぬ! って言うし」

 「私達は別に、戦う訳じゃないけどね」

 メリーは苦笑しつつも、蓮子に連れられるようにして、大学を後にした。
 途中で一度、キャンパスを振り返ってみる。
だが、やはり其処には暗がりに沈んだ建物と、微かな違和感があるだけだ。
 胸騒ぎのようなものを感じたが、それは口には出さなかった。
 


だが、その違和感は次の日、はっきりと眼に見える形で現れた。
 

月曜日の朝一番の講義を取っていたメリーと蓮子は、早目に大学へと向かった。
多分、もうこの時から、異変は起こり初めていた。
いやもしかしたら、もっと前から起こっていたのかもしれない。
 
 正門を通り、大学へ入ろうとした時だ。
蓮子は立ち止まって息を呑んで、メリーは黙ったまま眼を細めた。
 大学の正門前。其処で、彼らは一列横隊に並んで待っていた。

間違い無い。
昨日、メリーを囲んだ男子達だ。ただ、様子が明らかにおかしい。
 服装は昨日のままだし、顔色も青く、眼が落ち窪んでいる。
視線の焦点も怪しい。全員だ。表情も、抜け落ちたように生気が無い。

其処で、蓮子は気付いた。唐突だった。静か過ぎる。
廻りを見回して、蓮子は絶句する事になった。
周囲に誰も居ないのだ。いや、正確には、消えていたと言った方が正しい。
蓮子が悲鳴を上げなかったのは、恐怖よりも驚愕が勝っていたからだろう。
在り得ない光景だった。蓮子とメリー、そして男子達だけしか存在していない。
大学の正門は、結構大きな車道が通っている為、この時間でも車の交通量も多い筈だ。
それが、一台も車が走っていない。通行人も、警備員の人も、誰も居ない。
さっきまでは絶対に違った。
車も通っていたし、何人かの学生が周りにも居た筈だった。
朝特有の、忙しげな空気が其処には在ったはずなのに。
 いきなりだ。
 
蓮子は呆然とする以外に、何も出来なかった。
 メリーは、静かに一列横隊に並んだ男子達を見据えている。
 作り物めいた空には、雲は無い。朝の日差しすら嘘くさく感じた。
鏡の中に居るような居心地の悪さを感じながら、メリーは手をきつく握る。
肩が震えた。
耳が痛くなるような静寂の中、男子の一人がメリー達の前に歩み出て来た。
見たことのある顔。手紙をメリーに渡した男子だ。
活発そうな顔立ちも、茶色に染められた髪も、今の雰囲気に全くそぐわない。
まるで死人のようだ。靴音がやけに響いて聞こえる。
思わず、蓮子は一歩下がってしまう。
 
「…まだ何か、私に御用ですか」 
メリーは何とか踏みとどまって、唾を飲み込んでから、男子に聞いた。
 男子はメリー達の前で立ち止まり、ガクンと項垂れた。頭を下げたつもりなのだろうか。
 昨日は…ご迷惑をお掛けしました…。
項垂れたままそう言った男子の声は、生気も艶も抑揚も無かった。
 見れば、頭を下げているのは、メリーの前に居る男子だけじゃない。
 横隊に立った他の男子達も、一様に頭を下げている。
異様な光景だった。

 「もう二度と…貴女には関わりませんので…御赦しを頂きたく…」
 
 メリーは言葉を失った。
御赦しを…、などと言われても意味不明だった。
いや、言っている事自体が理解出来るが、状況が明らかに普通じゃない。
無人と化したこの一帯と、男子達の異常な様子には、何か関係が在る筈だ。

「しっかりしてください! 何があったんですか!?」
メリーは、この男子達が心配になってきた。肩を掴んで、揺すってみる。
何があれば、こんな風に死んだような貌になるのか。
 揺すられるまま、男子は「どうか…御赦しを…」と呟くだけだ。
 それ以外の反応を返さない。
ちょっと、メリー!?、と蓮子の驚いたような声が、少し後ろで聞こえた。
多分、それと同時だったと思う。

心臓が凍りつく音が聞こえた気がした。
視界の隅。大学の正門の脇に、昨日の少年が見えた。
白地のパーカーには黒で複雑な紋様が描かれ、神秘的な雰囲気の中に禍々しさが在る。
紺色の細身のパンツに革靴を合わせた、やけに大人びた格好だ。
フードを目深く被り、口許には少しの笑みを湛えていた。
 少年の存在に蓮子も気付いたようだ。

息を呑む音がした。
 それが自分のものか、蓮子のものなのか、メリーには分からなかった。
男子達は相変わらずその場を動かない。項垂れたままだ。
静寂で、耳が痛い。心臓が暴れているのが分かる。
メリーは、男子の肩から手を離し、少年に向き直った。
お許しを…。すぐ傍で男子が呟いた。それが、やけに遠くに聞こえた。 

ゆっくりと。少年が歩いて来る。
メリーを連れて、咄嗟に逃げようとしたのだろう。
蓮子がメリーの腕を掴んだ。だが、動けない。メリーも蓮子も、脚が動かなかった。
 虚像の街並みは、やはり静寂に包まれている。少年は、もうすぐ其処まで来ていた。
右手をパーカーのポケットに入れ、左手を下に向けた姿勢だ。
 その左手に、やはり仄暗い蒼色の光が宿っている。

 メリーと蓮子の前で立ち止まった少年は、一度、メリー達を見上げた。
 それから、「彼らは…」と、並んだ男子達へとフード越しに視線を巡らせる。
 
 「どうやら、まだ君を襲う事を諦めてなかったみたいでね…。
  少し、彼らに罪悪感を植え付けたんだ。…心を入れ替えてくれるようにね」
 
 少年の声は、今まで聞いた事の無いような、落ち着いた声音だった。
 子供の声とは、とても思えなかった。
聞くというよりも、心に直接染み込んでくる。ずっと聞いていたくなるような声だった
 後退りそうになるのをぐっと堪え、メリーは少年に一歩近づく。
 「あんたは…」そのメリーを庇うようにして前に出た蓮子が、震える声で言う。
 あんたは何者なの、と聞きたかったのだろう。だが、言葉が出ていない。
 そんな二人と、男子達を見比べ、少年は口許に小さく笑みを浮かべた。
 
 「君が彼らを赦すなら、洗脳を解く事にしよう…。
赦さないなら、彼らは僕が処理する。殺しはしないけれどね」

 僕は、どちらでも良いんだけれど…。そう言った少年は、メリーを見ていた。
 フードに隠れて視線は伺えないが、それは明らかにメリーに対する言葉だった。
 
君が彼らを赦すなら。そう少年は言った。
それは、この横隊に並んだ男子達が、再びメリーを襲おうとしていた、という事だろう。
 メリーが赦すなら、この男子達は解放されるのだろうか。
 もしも、赦さなかったら。どうなるというのだろう。分からない。
少年は、メリーの言葉を待っている。左掌の蒼い光が揺れている。
 
 「彼らを…元に戻してあげてください」
 
メリーは軽く息を吸い込んでから、はっきりと言った。
 そのメリーの言葉を聞いて、少年は何かを考えていたか。
 黙ったまま、ちらりと男子達へと視線を向けたようだ。
 その間、メリーを庇うように立った蓮子も、少年から眼を逸らさない。

 「うん…。わかった。君の言う通りにしよう」
 
少年は、メリーに向き直りながら静かに頷いて 左掌に宿る蒼色の微光を明滅させた。
其処までは、メリーも蓮子も見えた。

だが、次の瞬間だった。
今まで在った静寂が粉々に砕け散った。
一気に戻ってきた。
 音が。活気が。車が。人が。何もかもが。
 幽霊街のようになっていた京都の一帯は、もう此処には無かった。
 
代わりに、日常という掛け替えの無い光景が広がっていた。
 クラクションの音と、学生達が歩きながらおしゃべりする声が聞こえた。
 真面目そうな警備員のおじさんが、他の学生達におはようと言っていた。
 横隊に並んでいた男子達は、他の学生から好奇の視線で見られていた。
 だが、メリー達と眼が合うと、皆気まずそうに顔を歪めて、そそくさとその場を去って行った。
メリーに肩を掴まれた男子の方も、「す、すみませんでした!!」と深々と頭を下げ、走り去ってしまった。

呼び止める間も無かった。
メリーと蓮子は一瞬、混乱しかけた。
 だが、直ぐに冷静さを取り戻した。取り乱すような暇も無かった。

「出来るなら、こんな形では会いたくなかったんだけれど…彼らもしつこくてね。
 昨日、今日と…君達の前に出てくることになるとは思わなかったよ」

まだ眼の前に。口許にひっそりとした笑みを湛えた、一人の少年が居た。

だが、妙だ。
正門前に居て、このパーカー姿の少年はかなり目立つはずなのに、誰も気付いていない。
少年を見ているのは、メリーと蓮子だけだ。皆、気付いていないのか。
いや、気付けないのか。分からない。好奇の視線で見られているのは、少年では無い。
突っ立ったまま動けないメリー達の方だった。
 
 「少し、場所を変えようか…」
 
言って、少年は何の躊躇いも無くメリー達の大学へと入っていこうとする。
 やはり、誰もその姿を見ていない。全く、誰からも気付かれていない。
 それでいて、誰かにぶつかったり、触れたりする事も無い。
 水を弾く油のように、人の波に飲まれることなく立ち止まり、少年はメリー達を振り返った。
少年は人の流れの中で立ち止まっても、決して誰とも触れ合わない。
迷惑そうな視線を受けているのは、立ち止まったままメリー達だ。

どうする、メリー…、と呟いたのは、緊張した面持ちの蓮子だ。
「…話を聞いてみましょう」メリーは深呼吸して、その少年の方へと歩み出した。
人の流れの中に、不自然に浮かび上がるようにして、少年はただじっと待っている。
「…OK。一体何者なのか。根堀り葉堀り聞かせて貰おうじゃない」
 蓮子も覚悟を決めたようだ。帽子を少し深く被りなおし、メリーの横に並ぶ。
 
少年はそんな二人を見て、また少し口許に笑みを浮かべたようだった。
 
 



[18231] 三十話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/10/31 21:18

 思い返せば、色々と疲れていたのかもしれない。
ソルが瀕死になったのを聞いて、シンは紫に頼み、白玉楼から地霊殿へと送って貰った。
とにかく必死だったのを覚えている。
頭の余り良く無い自分では、出来るような事があるとは思わなかった。
それでも、ソルの傍に居たかった。
妖夢も「ソルさんの傍に居てあげて下さい」と、言ってくれた。
幽々子も、妖夢の言葉に頷いてくれた。二人の心遣いが、本当に有り難かった。
紫もシンの気持ちを汲んでくれただろう。
何も言わず地霊殿へとシンを送り届けてくれた。

ただ、それからが大変だった。
本当に、何も出来るようなことがなかったからだ。
手伝う必要も出来ず、ソルの体は凄まじい速度で修復されて行く。
精神治療という膨大で精密な治療は、さとりにしか不可能だった。
おかげで、地霊殿で過ごした大半の時間は、ソルが起きるまで待っている時間だった。
その間、寝たり喰ったりした記憶は殆ど無い。
糞長かったようでもあるし、あっという間だったような気もする。
ただ待っているだけの自分が、惨めで、阿呆らしくて、馬鹿馬鹿しかった。
只管に苦痛だった。何もする気が起きなかった。出来る気もしなかった。
あんな気持ちになったのは、一回目じゃなかった。二回目だ。
昔、オヤジが封炎剣に封印された時も、同じような気分を味わった。

ふざけんなよ…。
地霊殿に用意されたソルの部屋。その部屋の前の廊下で、シンは頭を抱えて呟いた。
溜息を吐くと、まるで自分の体の中から、色んなものが抜け落ちて行くような感覚だった。

もしもこのままオヤジが起きてくることが無かったら。
俺はどうするだろう。どうなっちまうんだろうか。
其処から先を考えるのが怖かった。
だから、早く起きろよ。何寝てんだよ。
もしこのまま起きてこなかったら、恨むぞ、オヤジ。マジで恨むからな。
そんな事を言っても、多分オヤジなら、仏頂面のまま…勝手にしろ…って言うだろう。
勝手にしてんのはどっちだよ。
くそったれと呟くくらいしか出来る事が無くて、最悪な気分だった。
だから、オヤジが眼を覚ましたときは、本当に安心した。
心の底からホッとした。
ホッとし過ぎて涙が出た。思わず馬鹿野郎と怒鳴ってしまった。
起きたオヤジは眠そうな貌で、「…喧しい奴だ…」と言っていたが、仕方無い。
皆心配してたんだぜ、と言ってやると、不味そうな貌をして「…悪かった…」と言われた。
全くだ。無茶ばっかしやがって。おかげで、俺まで抜け殻みたいになっちまうところだ。
というか、オヤジが眼を覚まして安心したからか。
緊張が切れて、気が抜けちまったのは事実だ。

鈍った身体を慣らす為の組手でも、起き抜けの癖にオヤジは手強かった。
でも、良かった。オヤジは身体の方も問題無いみたいだった。

オヤジが眼を覚ましてからの地霊殿の数日は、短くもかなり刺激的だった。
お燐とか言う猫から始まり、お空と呼ばれていた地獄鴉との手合わせも、中々ためになった。
まだ幻想郷には、強い奴が多く居る。
そいつらと手合わせをしていく事で、まだまだ俺は強くなれる。
そんな気がしていた。だから、色んな奴と手合わせをした。
鬼の勇儀のパワーは特にやばかった。戦い関しては、俺よりずっと上手だった。
一戦一戦が勉強になった。強くなりたかった。オヤジの背中を守れるくらいには。
オヤジが眼を覚まし、さとりの精神手術を受けている間は、とにかく身体を動かしていた。

だからだろう。
紫のスキマで白玉楼に送って貰った時は、シンは自身で思っているよりもへとへとだった。
地霊殿に居た時にはそうでもなかったが、白玉楼に帰ってきて安心したのかもしれない。
緊張の糸が一気に緩んだせいもあって、眠気と疲れがいっぺんに襲って来てやばかった。
迎えてくれた妖夢は、すぐに風呂と布団を用意してくれた。

「付き添い、お疲れ様でした…。ソルさんも、人里も、無事でなによりでしたね…」
そう言った妖夢の貌は、本当にホッとしているようだった。
シンは、ソルのことも真剣に心配してくれていた事が嬉しくて、「あぁ!」と笑った。
幽々子の方は、紫と何やら話が在るらしく、その時はまだ会う事が出来なかった。

其処までは覚えている。風呂に入ってからだ。
用意してくれていた作務衣に着替えた辺りで、本格的に眠くて敵わなかった。
白玉楼の主である幽々子に、帰ってきた挨拶だけしようと思っていた。
だが、まだ紫との話が立て込んでいたようで、無理だった。
用意してくれた布団はふかふかで、横になるとすぐに寝てしまった。
だから、布団に入る辺りの記憶がやけに曖昧だ。


それだけ、俺もちょっと疲れていたのかもしれない。
ぐっすり寝て眼を覚ましてから、そんな風に思う事になったのには理由が在る。
何時の間に入って来たのか。目玉が飛び出すかと思った。
いや、半分くらいは飛び出たと思う。
ぬぉっ…!? と、思わず身を引こうとして、身動きが出来なかった。

シンが眠っている布団の中。
隣に、というか、シンを抱すくめるようにして、幽々子が寝ていたのだ。
しかも、向かい合うような格好だ。ああ、何てこった。
もの凄く安らかな寝顔だ。天使の寝顔とは、まさに今の幽々子の表情の事を言うのだろう。
緩やかな吐息をすぐ傍に感じる。だが、今はそんな事はどうでも良い。
問題なのは、肌に感じるものすごい質感だ。幽々子の身体が密着している。
シンが今着ているのは、薄手の作務衣だ。
そのせいで、幽々子の身体の感触を余計に強く感じる。
胸板に感じる何かのボリュームは凄まじく、良い匂いもして、頭がくらくらした。
着崩れた着物から覗く胸元は、強烈な色気は放っている。顔が茹で上がりそうだった。
シンは何とか布団から這い出そうとする。だが、かなりしっかりとしがみつかれている。
幽々子の太腿はシンの脚に絡まっており、身動きがほとんど取れなかった。
ぉゆっ…幽々姉っ…!? と、しゃっくりみたいな声で、シンは幽々子を起こそうした。
だが、それが逆効果だった。やっちまった。
「うぅん…」と、むずかるようにして、幽々子が更に強くしがみついてきたからだ。
むにむにと何かが、シンの胸板で潰れるように形を変えるのが分かった。
綺麗な顔をこすり付けるようにして、幽々子はシンの首もとに頬ずりして来る。
超☆エキサイティングだった。エキサイトし過ぎで、どうにかなりそうだった。
鼻血が出て来たが、布団を汚すわけにはいかないので、慌てて鼻をすする。
何か言おうとするが、柔らかな感触に思考能力が奪われ、何も言葉が出てこない。
だが、このままで居るわけにもいかない。
まずは、早いとこ幽々子に起きて貰おう。
シンは、頭の片隅に何とか残った冷静な部分で考えた。
多分、幽々姉も疲れてたんだろう。
だから寝惚けて、この布団の中に入って来たんだ。
そうだろ。じゃなきゃ、何だ。嫌がらせか。全然嫌じゃないけれど。

シンが幽々子を起こそうとした時だ。
最悪のタイミングだった。
部屋の襖が開いて、笑顔の妖夢が入ってきたのだ。
シンの顔の筋肉が硬直した。あぁ、マジかよ。
「あ、もう起きてらした、ん…で、す…ね…」
言いながら、妖夢の顔から、ゆっくりと笑顔が消えていった。
シンと、その同じ布団の中に入っている幽々子を見て、呆然とした様子だった。

嫌な沈黙が、シンの部屋である座敷を包んだ。
なぁ、オヤジ。こういう時、どうすりゃ良いんだ。教えて貰ってねぇぞ…。
取り敢えず、シンは口の端を引き攣らせるようにして、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。
ちゃんと笑えていたのか自信は無い。声が出なかった。どうにでもなれと思った。
シンの引き攣った笑みを、どういう意味として捉えたのか。

妖夢は何とも言えない微妙な貌になってから、深々と溜息を吐いた。

「…どうも幽々子様の寝相が悪いようで」
流石、長い間庭師として白玉楼に仕えている妖夢だった。
今の状況を的確に把握してくれたようだ。

「偶にあるんですよ…。
一緒の方が暖かそうだから、とか言って、幽々子様が布団に入ってくる事…」

参ったような貌のシンと、すやすやと眠っている幽々子を見比べ、妖夢は微苦笑を浮かべる。
それから、布団の傍までそっと近寄り、シンに絡み付いている幽々子の肩を揺すった。

「幽々子様、起きて下さい。お食事の用意が出来ましたよ。幽々子様」

妖夢の声にうぅぅん…、と声を漏らして、幽々子はゆっくりと眼を開いた。
緩慢な動きで視線を動かす。
寝惚け眼で妖夢を見てから、おはよぅ、と緩んだ笑みを浮かべて見せた。
その無防備な貌は、シンにも向けられた。にっこりと笑って、シンの胸に頭を預けてくる。
ぉぅっ…!と、シンは身体を硬直させた。幽々子はまだ寝惚けているのか。
甘い匂いが少し強くなったような気がした。
身体に伝わるむにむにとした感触を無視しようとしたが、無理だ。
出来るわけが無い。シンは慌てて鼻血をすする。
その様子に、妖夢は少しむっとした貌になって、少し強めに幽々子を揺すった。

「幽々子様! おはよぅ、じゃなくて、ちゃんと起きて下さい」
妖夢が幽々子を揺するせいで、密着したシンの身体に伝わる感触は、もう大事件だった。
シンは、何かが噴出しそうになるのを必死で堪える。口の中も、もうパッサパサだ。
 ようやくだ。「分かったわよ…。今起きるわ」と呟いて、幽々子が少し笑った。
 残念なような、解放されたような気分になって、シンは身体から力が抜けるのを感じた。
だが、まだ終わりじゃなかった。
眠そうに眼を擦りながら、幽々子がシンの身体を離れ、むくりと身体を起こした。
それから、微笑むみたいな緩んだ貌で、もう一度おはようと言われた。
今度こそ、シンは鼻血を抑えられなかった。
着崩れた着物から、豊満な胸が零れそうになっているし、覗いた脚は眩しくて仕方無い。
とてもじゃないが、直視出来ない。死にそうだ。
誰か。聞いてくれ。俺は何も悪く無い。悪くないんだ。そう力説したい。

「ゆ、幽々子様! お召し物が…!」
妖夢の方も、慌てて幽々子の着物の崩れを直し、じとっとした眼でシンに視線を向けた。
「シンさんも。余り、い…、イヤらしい眼で幽々子様を見るのは駄目ですよ」
何で俺が睨まれてるんだよ…。シンはやりきれない気分になって、鼻血を手で拭う。
そんなシンを他所に、幽々子の方はもう立ち上がっていた。
まだ少し眠そうに眼を擦っている。
 
 「いや、でもよ…。俺、何もしてねぇんだけどな…」

言いながら、少し恨めしそうな眼で、シンは幽々子を見上げる。
 
「幽々姉…マジびっくりするから、こういうのは次から勘弁してくれよ」
 情け無い声音で言うシンに、ごめんねぇ…、と、幽々子は少しだけ笑った。
 
何だか意味深な笑みだった。
「シン君、凄く震えて魘されてたから…暖めてあげようかなと思って」
怪訝そうな貌になるシンを見詰めながら、幽々子は目許を緩めて見せる。
 まるで母親のような優しい眼だった。 
そっか…。ごめん…。そう言うのがやっとだ。
何だか気恥ずかしくて、シンはぽりぽりと人差し指で頬を掻いて、視線を逸らした。
 そんな二人を見比べて、妖夢はまた溜息を漏らす。ちょっとだけ面白くなさそうな貌だ。
 
「ううん、良いのよ。私がしたくてしたんだもの。それに…」
不意に、幽々子の笑みに寂しさのようなものが混じったのはその時だった。
 途切れた言葉に、妖夢も幽々子へと向き直る。
天真爛漫な幽々子に似合わない、翳りの在る笑みが憂いを帯びていた。
 
 「さっき紫と話をしてね。…守矢の神社に、子供のお客さんがみえたらしいの…」
 
 子供のお客さん。
その言葉に、シンが眼を細めた。妖夢も、貌を引き締める。
 
 「オヤジの言う“あの男”が、幻想郷に来てたのか…?」
 
シンは布団から立ち上がった。
幽々子は、眼を伏せるようにして頷いた。
 隣に居る妖夢は、言葉を待つように黙ったままだ。
 少しの沈黙の後。
幽々子は妖夢とシンを見比べて、やはり寂しげな笑みを浮かべる。
 
 「そう…。それでね。守矢の巫女が、“その子”から伝言を頼まれたそうなの。
『次に狙われる可能性が高いのは、守矢の神社、それに地底だろう』って…」
 其処まで言って、幽々子はすっとシンの頬に手を伸ばした。
 少し驚いたが、シンは逃げられなかった。触れた幽々子の手は、冷たく感じた。
 澄んだ桃色の瞳が、シンのエメラルドグリーンの瞳を見詰めている。
 幽々子は、シンの頬に触れた手を放して、胸元をぎゅっと掴む。
 
「紫は、その伝言を信じることにしたみたい。それでね…。
もしかしたら、シン君には地底に行って貰う事になるかもしれないの…」

 だから、何だか寂しくなっちゃって…つい布団の中に潜り込んじゃった。
 悪戯っぽくそう言った幽々子の笑みには、やはり少し元気が無い。
 妖夢は何かを言いたそうに唇を動かしたが、何も言わず俯いた。
先程、紫と幽々子が話をしていたのは、この事だったのだろう。

 もしも旧都が襲われ、誰も住めないような状態になれば、事態は深刻だ。
地底へと追われた妖怪達は、今度こそ行き場を失ってしまう。
終戦管理局が動いてから地底に潜っていたのでは、更に後手後手になる。
“あの男”からの言葉を聞いて、紫も万全の体制を整えたい筈だ。
其処で、自由に動かせる戦力として、シンが選ばれたという事だろう。
シンは「そっか…」と呟いて、俯き加減でぽりぽりと頭を掻いた。
 それから、すぐに顔を上げニッと笑みを浮かべて手見せる。
 
 「まぁそうなったら…紫姉の信頼に答えて、誰が来ても追っ払ってやるさ」
 
 「…良いように使っちゃって、ごめんなさいね」

 幽々子は言いながら、すまなさそうに眼を伏せた。
 別に良いって、と返し、シンは布団を畳んで、幽々子と妖夢を交互に見た。
 
「幻想郷の皆に良くして貰ってるし、幽々姉にも妖夢にも世話になってるしな。
 俺に出来る事があるなら、何でもやるさ」

シンは特に気負うような様子も無く、自然体で笑う。
無邪気で素直なその言葉に、幽々子は小さく、有り難う…、と返した。
妖夢も少しだけ口許を緩めて、頷いて見せる。
 其処で、シンは何かに気付いたように、あっ…、と言って、妖夢に向き直った。
 「でも、地底に行くことになったら、妖夢の飯が食えなくなるのか…」
 シンは凄く残念そうな貌になった。声までしょんぼりしている。
 その様子がおかしくて、幽々子と妖夢はくすくすと笑う。
 
「そんな可笑しい事言ったかな、俺…」

笑みを零す二人を見比べ、シンは首を傾げる。
 
 「地底に行く時には、おにぎりでも握りましょうか」
 そうシンに聞いた妖夢の貌は、嬉しそうだ。
マジで!? と、すぐさま、シンはその言葉に食いついた。
何だか、餌付けされている猛獣みたいだ。

「ふふ…それじゃあ、そろそろ御飯にしましょうか」
 
「はい。では、先に行って居りますので、冷めない内にいらして下さいね」
 
 
 





妖夢は言ってから、二人に一度頭を下げてから、その場を後にする。
 
襖を閉め、廊下に出てから俯いた。
何だろう。胸がちくちくと痛む。
 足早にその場を去ろうとすると、余計に胸が痛んだ。
 シンが、白玉楼から地底へと移ることになると聞いたのは、妖夢もついさっきの事だ。
 
 廊下で立ち止まり、妖夢は深呼吸する。吸って、吐いた息は、微かに震えていた。
 
シンが、白玉楼から居なくなる。
 それは別に、重大なことでは無い。
 庭師として妖夢が居るし、西行妖も紫の結界に加え、ソルの法術封印も施されている。
 それに、いざとなれば紫が駆けつけてくれるだろう。白玉楼の守りは堅い。
ならば、より狙われる危険性のある地底に、シンが居た方が良い。
その強さも、以前白玉楼が狙われたときに証明済みだ。
ソルが追っていたという“少年”の言葉。それを無視するリスクは計り知れない。
 此処は、紫の先見と采配を信じるべきだろう。

ふと、瞼の裏にシンの笑顔が浮かんだ。
 妖夢は軽く唇を噛んで、また廊下を歩き出す。何だか脚が重い。
 今になって、喪失感に似た何かが妖夢の胸の中に広まって来ている。
 寂しさにも似た、よく分からない感情だ。
 今まで感じた事の無い、やけに苦しさの伴う感情だった。
 戸惑う。頭にちらつく。
 シンの笑っている顔が。困ったような顔が。安らかな寝顔が。
 美味しそうに御飯を食べる顔が。吼え猛って戦う横顔が。
ふとした時に見せる、何処か遠くを見ている顔が。
 妖夢は、シンの色んな貌を知っている事に気付く。

二人で鍛錬をしている時もそうだ。

シンは笑ったり、驚いたり、それでいて真剣だった。
 いつもシンは出鱈目な動きで、妖夢を翻弄した。
 棒術を使うと見せかけて、いきなり棒を放り投げて、接近戦を挑んで来る事もあった。
 とにかく戦い方が自由過ぎて、それに対応するのに必死だった。
 不真面目という訳では無かったが、手加減されていたんだろうとも思う。
何度も手合わせをしたが、シンがどれだけ強いか、全然わからない。
そうかと思えば、鍛錬以外の時は、驚くほど無防備な姿を晒したりもする。
信頼されている、という事なのかもしれない。
普段は、何だか手の掛かる弟みたいな癖に、いざとなったら凄く頼りになる。

以前の白玉楼での戦いで、妖夢のシンへの印象は大きく変わった。
 機械人形の吐き出した熱蒸気から、身を挺して妖夢を庇ってくれた。
 それだけで無く、幽々子を助ける為、そして西行妖封印の為、死力を尽くしてくれた。
 戦いが終わった後。
死に掛けの状態から息を吹き返したシンは、心配掛けたなと、やっぱり笑っていた。
 凄く安心して、泣いてしまったのを覚えている。
 
そのシンが、白玉楼から居なくなる。
今になって、妖夢の心が揺さぶられた。
焦りのようなものを感じた。一緒に居たい。初めてそう思った。
でも、駄目だ。我が侭を言っている場合じゃない。それは分かっている。
 私は、白玉楼を、幽々子様を、西行妖の封印を守らなければならない。
 強くならないといけない。何故か涙が出そうになった。
それをぐっと堪えて、妖夢は腕で目許を拭いながら、廊下を行く。
 
 ちくちくと胸が痛んだ。少し苦しい。
 肉体的な痛みに耐えることには慣れている。我慢する事は簡単だ。
 でも、この痛みは、少し違う。抗いようが無い。
 切なくて、どうしようも無い。
シンとは、完全に会えなくなる訳じゃない。
 また会える。その筈だ。もし白玉楼に帰って来なくなっても、また会える。 
 きっとその時は「何か久ぶりだな、妖夢!」とか言って、笑い掛けてくれるだろう。
そんな事を考えていると、不意に、シンとの間に距離を感じた。
 
 無邪気で、明るい性格のシンだが、自分自身の事は余り話したがらない。
 面白可笑しい体験談などは、偶に聞いたりしたことも在る。
だが、シン自身の話は、ほとんど聞いた事がない。
 幽々子も、シンの過去については触れようとしない。

それはシンも同じだった。
知っている限り、シンが、妖夢や幽々子の過去を聞こうとしたことは無い。
興味が無いのでは無く、無遠慮に触れてはならないと感じているのだと思う。
シンは、ああ見えて人の気持ちに機敏だ。人の心の傷に触れるような事はしない。
それ故に、幽々子や妖夢、また他の者達とシンとの間には、溝が在る。
普段は全く気にならないような小さな溝だ。だが、ふとした時に、其処に距離を感じる。
深い色をしたエメラルドグリーンの眼が、優しく拒むのだ。
無防備なまま、他者を必要以上に寄せ付け無い雰囲気の時がある。
思い出しながら、妖夢は首をゆるゆると振った。
 
 話がしたくなった。
 シンと、ゆっくりと話がしたい。
 溜息が漏れそうになって、それを飲み込んだ。
 

 
 
 
 
 食事が済んで、シンは見張りの為に、また白玉楼の門屋根の上で胡坐をかいていた。
 二週間と少し離れていただけだが、冥界の景色を見下ろすのも、随分久ぶりな気がする。
 淡い黒の濃淡が浮かび上がらせる自然の景観は、巨大過ぎる水墨画のようだ。
 そんな景色も、シンは嫌いでは無かった。
 自然の持つ、壮大かつ雄大な美しさとはまた違う。
 冥界独特の退廃と停滞の持つ、色の無い静穏な景色に、何故か惹かれるのだ。
 鼻からゆっくりと息を吐いて、眼下へと視線を巡らせる。
 幽霊のような白い靄が、色の無い木々の茂みの中に、ところどころに見えた。
人魂か。ふよふよと漂う白い魂魄に、シンは左眼を細めながら、右手で眼帯に触れる。

自分の魂も、白いんだろうか。
シンは幻想郷に来てから、そんな風に思う事があった。
今まで、眼を背けてきた。自分を誤魔化してきたが、今は無理だ。
冥界の景色は、シンの心の中から逃げ場を奪った。問い掛けて来る。
 
 人間はいつか死ぬ。
俺も死ぬのか。そう考える度、いや…、と思う。
ひょっとしたら、死ねないかもしれない。

父親は人間だが、母親は違う。その血を受け継いだ自分も、人間とは随分違う。
頑強な肉体に、凄まじい活力。強烈な成長。時折感じる、抗い難い飢餓感。
人間を完全に超える法力容量と、身体能力は、生まれつきだった。
だが、自分を生んでくれた母親を恨んだことは一度たりとも無い。
これからも無いだろう。それだけは断言出来る。心の底から感謝している。

だから、時折頭の中で聞こえる“声”が、嫌で嫌で仕方無かった。
産まれ持っていたものとは全く違う別の何かが、誰かが、自身の中に居るのを感じる。
頭の中で、誰かが囁く声が聞こえるのだ。
その誰かの姿は、俺だ。血色の眼をした、俺自身だった。
昔、ヴァレンタインの洗脳術に掛かってからだ。
 俺の心の中に、もう一人の俺が其処に居た。いや、生まれていた。
人格とか、意思と言っていいかもしれない。
 そいつは凶暴で、容赦無く、無遠慮で、凶悪だった。
眼帯の中の右眼が疼いた。シンは深く息を吐いて、眼帯を右手で抑える。
“声”がした。耳元で。頭の中で。囁くような声だ。
 
 
 お前さ。
 いつまで燻ってるつもりなんだい? 
 何を我慢してるんだ? 無理してるんじゃないか?
さっきだってそうだろう? お前の身体は反応していたじゃないか。
西行寺幽々子の身体を、無茶苦茶にしたかった筈だろう?
 あの豊満な身体を貪りたかったんだろう?
 お前には出来たよ。 西行寺幽々子の方も、それを望んでいるかもしれないよ?
 馬鹿だねぇ。何をそんなに格好付けてるんだ?
お前だって気付いてるだろう?
 とっくの昔に気付いてる筈だろう?
 お前は普通じゃないよ。
 お前の右眼を見て、笑顔で接してくれる奴なんて居ないよ。
 何処にも居ない。知ってるだろう。理解してる筈だよ。
 お前の実父は、お前の右眼を見て、どうなった? 
思い出したかい。そうだよ。
死ぬ程の罪悪感に駆られて、痩せこけるまで懺悔した。
酷いザマだったろう? あの正義と秩序が大好きな連王がだよ? 
それだけ、お前は罪深いんだ。お前はゲテモノさ。
魂魄妖夢にしたって、西行寺幽々子にしたってそうだ。
 いや、幻想郷の全員だと思った方が良い。
 お前の右眼を見たら、悲鳴を上げて、お前を遠ざけるだろうよ。
 なのに、何でそんなに良い奴ぶって、頑張ってるんだ?
 なぁ。もっと欲望のまま動けよ。暴れ足りねぇんだろ。
俺は知ってるよ。俺だけは知ってるんだよ。
地底に行くことになって、心の中では喜んでたんだろう?
 戦いの匂いがする場所に行ける事が、嬉しかったんだろう?
 お前は大好きなのさ。戦うのが。犯すのが。相手を無茶苦茶にしちまうのが。
違うかい? 我慢は身体によくないぜぇ?
 やりたくても、足が竦んで出来ないってんなら、俺が代わりにやってやるさ。
 びびってる分だけ、楽しみは逃げちまう。勿体無いとは思わねぇか。
 足踏みしてるんじゃねぇよ。いいから、寄越せ。お前の身体を。
 お前は快感だけを感じてれば良い。俺ならお前に、最高の満足感を与えてやれる。
 保障するさ。なぁ、そろそろ、眼を覚ませよ? 
 
 
うっせぇぞ糞野郎!
シンは心の中で叫んで、眼帯の上から右眼を殴りつけた。
一瞬、意識が遠のいた。かなり強めに殴ったからだろう、眼帯の隙間から血が出て来た。
眼帯の中の右眼は潰れたかもしれない。でも、すぐに治るだろう。
そういう身体なのは、自分が一番良く分かっている。
何度も何度も、この右眼を潰した。だが、すぐに治ってしまう。
血は涙のように頬を伝い、ポタポタと血がシンの穿いたジーンズに染みをつくった。
強い痛みを感じたが、御蔭で頭の中で響いていた声が止んだ。
ほっとしたと同時に、自分自身に薄ら寒いものを感じた。
この“声”は日に日に強く、よく聞こえるようになってくる。
俺の中の俺が、俺を欲望の奔流の中へ押し流そうとする。

自分に嫌気が差す。
“声”を聞く度、自分はどうしようも無く穢れているような気がしてくる。
そんな訳が無いと思ってみても、自信が持てなかった。
この“声”の事は、まだソルにもイズナにも、誰にも言っていない。
誰にも相談できなかった。
いや。もしかしたら、ソルは感付いているのかもしれない。
でも、何も言って来ない。自分で克服しろということなのだろうか。分からない。
シンは頬を濡らす血を手で拭って、西行妖へと顔だけ振り返らせた。
 門屋根から眺める西行妖には、今は花も蕾も見えない。
それでも、その迫力の在る威容は、見る者を畏怖させる。

また、“声”がした。
人を死に誘う妖怪桜。あれとお前は一緒だよ。
お前も、命や魂を喰い散らかして、これからすくすく育つのさ。
前の戦いで、お前は黒稲妻を纏って、西行妖をすら喰いに掛かっただろう。
あれがお前の本質さ。暴食。貪食。飢餓。お前に在るのはそれだけだよ。
何もかもぶっ殺して、ぶっ壊して、まとめて飲み込んじまう。
お前は、お前の纏う黒稲妻は、味わう事もせずに、ただ貪り喰うだけだ。
際限無くねぇ。いい加減、俺も腹が減って仕方がねぇよ。
 
 
違う…! シンは頭の中で囁く声を、振り払うようにして頭を振った。
黙ってろ。違う。俺は、そんなんじゃない。
傍に置いてあった旗付きの棍棒を手に持って、咄嗟に振り返って、視線を下に下げた。
かなり近くで足音がしたからだ。気付くのが遅れた。
腰を浮かし、構えを取りかけて、「あ…」とシンの口から声が漏れた。
視線の先。門屋根を見上げるようにして立っていたのは、妖夢だった。
シンが突然構えを取ろうとしていたからだろう。少し驚いた貌で立っていた。

「あ、あの…隣、良いですか」
そう言った妖夢の声は、尻すぼみだった。視線も、僅かに泳いでいる。
シンも少しバツが悪そうに視線を逸らして、手に持っていた棍棒を屋根に置く。
それから、口の端に何とか笑みを浮かべて見せて、「…ああ」と頷いた。
笑えていたと思うが、多分ぎこちない貌だったろう。
妖夢は「失礼します…」と言って、ふわりと浮き上がり、シンの隣に降り立った。

スカートを押さえて座りながらも、妖夢は微妙にシンと視線を合わせない。

二人で門屋根に並んで座ることになった。
少しの間は、シンも妖夢も何も喋らなかった。
気まずい雰囲気では無かった。

ただ、シンの方はさっきまで聞こえていた“声”のせいで、気分は余り良くなかった。
だから、何を話したら良いのか分からない。
今口を開いたら、意味も無く言い訳のような言葉しか出てこないような気がした。
あの“声”のせいだ。何かを考えるのは苦手なんだ。

「ごめんな…」
何を言ったら良いのか分からなくて、何だか自分が悪者のように思えて、そう呟いた。
呟いてから、何言ってんだ俺…、と思ったが、他に言葉が出てこなかった。
 別に警護をサボって寝てた訳でもない。謝ることなんて何も無い筈だ。
 だが、何故か、自然とそんな言葉が出た。
 隣を見ると妖夢の方も、今度は驚いたと言うよりも、不審そうな貌でシンを見ていた。
それから、可笑しそうにくすっと笑った。

「…何かつまみ食いでもしたんですか」

「いや、別に…何にもしてねぇよ」

「じゃあ何、を―――」
其処まで言って、妖夢が表情を強張らせた。

「シンさん! 血が出てるじゃないですか!?」
 
 拭った筈だったが、まだ出血していたようだ。
 右眼から出た血が眼帯の隙間から流れ、頬を伝う感触があった。
 慌てた様子で、妖夢はシンの眼帯へと手を伸ばしてきた。
 それはきっと、シンの事を心配しての事だろう。だが、シンはそれを拒んだ。
 眼帯に触れようとする妖夢の手を掴み止めて、顔を避けた。
妖夢の手を掴んだシンの方が、震えていた。
「触らないでくれ…」 深い緑色をした眼が細められ、妖夢を見据えていた。
多分、妖夢はこの時、初めてシンが怖いと思った。
シンの方は言ってから、少し泣きそうに貌を歪めてから、また「悪ぃ…」と項垂れた。

「偶にな。疼く時があんだよ。ジクジクすんだ。血もすぐに止まるからよ…」
取り繕うようにして、シンは妖夢と眼を合わせずに困ったような笑みを浮かべた。

「だから、心配要らねぇよ。悪いな、びっくりさせちまって…」

シンの言葉に妖夢は納得いかない様子だった。
それから険しい表情のまま少し俯いて、ポケットからハンカチを取り出した。
「眼帯には触れませんから…、少しじっとしていて下さい」
強めの口調で言われて、シンはうっ、と口を噤んだ。
そっと身を寄せて、妖夢はシンの頬を濡らす血を、ハンカチで拭いてくれた。
優しい手つきだった。気恥ずかしくて、シンはそっぽを向く。

「痛くないですか…」

「あ、ああ…」
シンの血を拭い終わった妖夢は、ハンカチをスカートのポケットへと畳んで仕舞った。
妖夢はシンの隣に座り直して、眼を合わせようとしないシンの横顔を見詰めた。
流石に、その視線に負けた。
な、なんだよ…、と言ったシンの声は少しどもっていた。

「シンさん。…泣いてらしたんですか?」

「なっ…泣いてねぇよ! 
ていうか…、妖夢も、俺に何か用が在って来たんじゃねぇのかよ」


 「あ、はい…。少し、お話がしたいと思って。
  シンさん、地底に行かれることになるって幽々子様が仰ってましたし…」

そう言った妖夢の声音は、何処か寂しそうだった。
ああ、言ってたな…、と、シンは視線を逸らしながら答えた。
今は余り話したく無い話題だ。
また“声”が聞こえてきそうだからだ。
だから、無理矢理に話題を変えに行こうとした。
だが、先手を打たれた。

「シンさんは、幽々子様のような方がお好みなのでしょうか…?」

唐突だったから、思わずシンは妖夢の顔を凝視してしまった。
…え? と、怪訝そうな貌になったシンから視線を逸らし、妖夢は俯き加減になる。

「そ、その、やっぱりシンさんも、殿方ですし…っ、
身体つきが良くて、物腰が柔らかな女性が好みなのかな、と思いまして…」

「そ、それは…どうだろうな。俺もよく分かんねぇっていうか…」

「食事の前に…その、
幽々子様と一緒に寝られている時も、鼻血を出しておられましたし…」

 「ぺっ…そ、あんなの見せれらたら…」

妖夢の言葉も切れが悪かったが、シンの言葉の切れの悪さも良い勝負だった。
  あ~…、そうだな…、と、ぼりぼりと頭を掻いて、シンが溜息を吐いた。
 
まるで、何かを決心するみたいな溜息だった。
片膝を立てるように座り直して、シンは妖夢に視線を向ける。
 やたら静かな眼だった。思わず、妖夢は背筋が伸びた。
 そんな妖夢を見て、シンは気の抜けたような優しげな笑みを、口の端に浮かべた。
 
 「俺さ、実は十個くらいなんだよ。歳…」
 
 今度は、妖夢がぽかんとする番だった。
 だが、シンの貌は、冗談を言っている顔では無い。
 真剣という訳でも無いが、何か吹っ切れたような貌だ。

「俺が人間じゃねぇのは、妖夢も薄々知ってたと思うけどよ。
まだまだガキなんだ、俺…。だからそういう、女の好みとか、まだ良く分からねぇ…」

其処まで言って、シンは視線を眼下に向けながら、一つ息を吐いた。
普段、ガキ扱いすんなって自分で言ってる癖にな…。呟いたシン声には、嘲りがあった。
あの“声”のせいで、少々ネガティブになっているようだ。
すっと顔を上げたシンは、妖夢に視線を向けた。
口許には、自嘲するような笑みが在った。
  
「妖夢が初めてだな。…幻想郷に来て、誰かに俺の歳の事話すの…。
 やっぱ気持ち悪いよな。こんな育ちすぎの…」

「そ、そんな事ありません!」
シンの声を遮った妖夢の声は、やけに響いた。
俯き加減の妖夢になった妖夢の表情は、前髪で隠れてシンからは見えなかった。

「私は…そんな事で、シンさんを嫌いになったりしません。
ですから、ご自身の事をそんな風に言わないで下さい…」

「そっか…。あんがとな」
そう答えながらも、シンはまだ心の奥底では、妖夢の言葉を信じきれていなかった。
だから、この際だ。この右眼を、妖夢に見せてみようか。
俺は、こんなにゲテモノなんだ。そう言って、笑いか掛けてみようか。
そうしたら、妖夢はどんな反応をするだろう。
俺の右眼を見ても、妖夢はそんな風に言ってくれるだろうか。
俺を、友人として受け入れてくれるだろうか。
無理かもしれない。拒絶されるのは怖い。

昔の話だ。悪ガキ共がふざけて俺の眼帯を取って、俺の右眼を見た時があった。
あの時の悪ガキ共の貌は、今でも覚えている。忌避させる恐怖を知ったのはあの時だ。
知っているつもりだった。だが、あの怯えた貌に、思い知らされたんだ。
俺は普通じゃない。人間じゃない。別の何かだ。
誰も悪く無いんだ。実父も、母も、オヤジも、誰も悪く無い。
でも、俺は、こんな奴なんだ。参るよな。また“声”が気こえてきそうだ。
お前は誰にも受け入れられないって、囁いて来るんだ。
負けそうになる時だって在る。
妖夢。こんな俺でも、友達で居てくれるか。

シンは右眼を覆う眼帯に手を掛けた。半分、ヤケクソだった。
歳の事も話したし、もういいだろ。見せたって。確かめてみよう。
本当にあの“声”が言うように、本当の俺は、誰にも受け入れられないのか。
だが、シンが眼帯を外すよりも先に、妖夢がシンの眼を真っ直ぐに見た。
思わず、シンの眼帯を外そうとした手が止まった。

「ちなみに、私はシンさんみたいな男の人…嫌いじゃありませんよ」
何かを決心したように言った妖夢は、それから直ぐに眼を逸らした。
妖夢は澄ました顔をして眼下の景色を眺めているが、頬から耳まで赤くなっている。
 視線も泳いでいて、まるでシンの言葉を持っているようだ。
 
シンは奥歯を噛み締めて、俯いた。
ああ…。駄目だ。出来ない。妖夢には見せられない。
見せたくない。知られたくない。
俺は、臆病だ。怖いんだ。せっかく出来た友達なんだ。
俺を見捨てないでくれ。
でも、今の俺は、此処に居ちゃいけないような気がした。
幽々子には、冥界に居る霊達の管理という重大な役職が在る。
そして、その幽々子と白玉楼を守る為に、庭師の妖夢も居る。
西行妖にしても、ソルの封印と紫の結界が厳重に括ってあって、解呪はほぼ不可能だ。
 俺なんて居なくても大丈夫じゃないか。
 
 「俺も…妖夢と会えて良かった」

そう言ったシンの声は不思議と静かで、凪いでいた。
いつものように、無邪気な少年みたいに笑うのは無理だった。
代わりに、シンは目許を少し緩めるような、泣き顔みたいな笑みを浮かべる。

「へぅっ…!?」
そのシンの言葉に驚いたのか、妖夢が門屋根から転げ落ちそうになっていた。
咄嗟に、シンは妖夢の肩をそっと掴んで、落ちないように咄嗟に支える。
肩を抱くような体勢になった。
「ぁ―――…」と、妖夢は真っ赤になって、シンの貌と、肩に廻された手を見比べた。
「おいおい、何飛び跳ねてんだよ。落ちちまうぞ」
だが、シンの方はすぐにその肩から手を離して、笑いながら少しだけ妖夢から離れた。
その時だ。シンの肩あたりに、何かが圧し掛かってきた。鳥肌が立った。
びっくりし過ぎて、今度はシンが門屋根から転げ落ちそうになった。
良い匂いがした。とんでもない柔らかさを感じて、慌てて肩越しに振り返る。

「私だけ除け者にするなんて、二人共ひどいわぁ~」
頬を膨らませた幽々子が、其処に居た。何時の間に。
流石に妖夢も驚いた様子だった。全く気配を感じなかったからだろう。
それを面白がっているところがあるから、少々質が悪い。
幽々子は二人を見比べてから、唇を尖らせて見せた。

「の、除け者にしようなどとは思っていませんよ! 
ただ、私がシンさんの隣にお邪魔しただけで…」

妖夢は顔の赤さを誤魔化すように、少し慌てて苦笑しながら言う。
シンも、自分を落ち着かせるように小さく息を吐いた。

「びっくりさせないでくれよホント…。転げ落ちるかと思ったぜ…」

幽々子は二人の様子にくすくすと笑みを零して、シンの隣に腰掛けた。
シンは、妖夢と幽々子に挟まれるような格好だ。
流石に美人二人に挟まれ、流石に居心地が悪くなったのだろう。
口がへの字曲がっている。
 取り敢えず、と言った感じで、シンは座ったまま幽々子に視線を向けた。

 すると、幽々子の方はくすくす笑いを止めて、ねぇ…、と呟いた。
 
「私もね、ただちょっかいを掛けに来ただけじゃないのよ。
シン君に話が在って、此処に来たの…」

少し切なそうな貌で見詰められ、シンは言葉が出なくなった。
桃色にも、薄い紫色にも見える幽々子の瞳が、寂しげに細められていた。
 不安そうな貌だった。
 
 「シン君は、地底に行っても…また白玉楼に帰って来てくれるかしら…?」
 
 その言葉に、シンは大きな衝撃を受けた。

「勿論、ずっと此処に…という訳では無いわ。
シン君が出て行きたくなったら、いつでも言ってくれて構わない…。
でも、そうなるまでの間だけでも…私達と一緒に居てくれないかしら…」

 その幽々子の言葉を聞いて、さっきの“声”が、また囁いた。
 
 ひひひ。お前。今、嬉しかっただろ?
 帰って来て欲しいって言われて、嬉しいんだろう?
 俺には隠せないよ。全部分かってる。知ってるんだよ。
馬鹿だねぇ、お前は。
 こんなのんびりした処に帰って来たら、お前の欲望が満たされなくなるよ?
戦えなくなって、じっとしたまま、萎えて、萎んじまうよ?
 きっとお前は耐えられないよ。
抑えられた欲望の向かう先は、きっとその二人になるよ。いいのかい? 
もしもお前自身に歯止めが利かなくなったら、その二人を滅茶苦茶にしちまうよ?
止めとけって。悪い事は言わねぇよ。
そんな事はしたくないだろ。心が痛むだろ?
此処に縋っちゃいけないよ。お前は普通じゃないんだからよ。
もっと戦いたい筈だろ。飢えてるんだ。お前は。戦う事に。
 此処じゃあ、戦えないよ。お前の欲しがってるものは此処には無いよ。
 誤魔化すんじゃねぇよ。眼を覚ませよ。
 
 
 
 シンは、囁く“声”を無視した。幽々子を見詰め返して、唇を噛む。
 それから、妖夢を一度振り返って、視線を門屋根の瓦の上へと落とした。
 
「幽々姉と妖夢が良いって言ってくれるなら…俺は、また此処に帰って来たい…」
 
 言いながら顔を上げて、シンは幽々子にはっきりと言った。
 そう…有り難う…、と言った幽々子は、嬉しそうに微笑んでくれた。

「私も、シンさんが帰ってきてくれるなら嬉しいですよ」
御飯の作り甲斐もありますし…、と妖夢も笑ってくれていた。

何故か胸が痛んだ。でも、これが俺の本心なんだ。
 白玉楼に居ると、幽々姉や妖夢と居ると、楽しいんだ。
 里の農家に手伝いに行ったり、妖夢の仕事を手伝ったりしてる間、凄く満たされていた。
 ああ、俺、此処に居ても良いんだって思った。
 頭の良くない俺でも、誰かの役に立てるんだと思った。
 戦いたくて戦うんじゃない。幻想郷を守る為に、力になりたいんだ。
何もかもをぶち壊したいなんて思ってない。絶対に違う。

そんな風に強く思っていると、視界が急にぐちゃぐちゃになった。
涙が出てきて、止まらなくなった。
 戸惑ったような妖夢の声が聞こえた気がした。だが、妖夢の方を見れない。
 咄嗟に顔を掌で隠すように押さえた。駄目だ。止まらない。
 涙はどんどん溢れてくる。自分自身でも混乱した。怖くなった。
 “声”の事は、誰にも言えない。それでいいのかどうかも分からない。
幽々子にそっと抱きしめられた。
また帰って来てね…、と言われて、更にみっともないくらい涙が出てきた。
シンは何とか頷きを返したが、声が震えて言葉が出なかった。
囁く“声”が、ひひひひ…、と笑うのが、頭の隅で聞こえた気がした。
 
 



[18231] 三十一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/11/05 22:19

 少しの間、守矢の神社に身を置いて欲しい。
紅魔館を訪れた紫にそう言われ、アクセルは了承した。
“あの男”が言うには、地底の旧都、或いは、風祝である早苗が、的に掛けられる可能性が高いらしい。
ようやくお出ましかと思ったら、“あの男”はそれを言うだけ言って帰って行ったそうだ。
一体何を考えてやがると思ったが、アクセルがそれを知ったところでどうしようも無い。
“あの男”の目的が何なのか分かったとしても、その真意までは理解出来ないだろう。
少なくとも、今のアクセルにとっては、無意味な事だ。

問題としては、自身が何処まで戦力になるか、という事だ。
ジャスティス級の奴が現れたら、ちょっと自信が無い。
巨大な魔法をぶっ放し合うような戦いも不向きだ。
もしも、周囲がしっちゃかめっちゃかになるような戦いになったら、どうするか。
良い意味で場を引っ掻き回せれば良い方か。まぁ、人間なんだからしょうがない。

守矢神社に世話になる事に関しては、レミリアも了解してくれている。

美鈴、咲夜、パチュリーを始め、フラン、レミリアも、もう完全に快復している。
紅魔館の戦力は十分だ。其処で、守矢の神社へは、アクセルが選ばれた。
地底の方へはシンが向かう事になったと聞いた。
イズナは永遠亭を守り、ソルは博麗神社で待機中だ。
来るなら来いよ、と言える程、幻想郷にも余力がある訳でも無い。
今の状態がベストな布陣かどうかは、アクセルには判断出来ない。
紫の判断に任せ、出来ることをするしか無い。

大きく息を吸い込んで、息は吐いた。緑の匂いがする。
アクセルは今、守矢神社の鳥居を抜け、参拝道へと上がる階段に腰掛けて居る。
空は晴れていて、雲も僅かしか無い。木漏れ日が境内の隅で揺れていた。
澄んだ風も吹いていて、昼寝でもすれば最高に気持ち良いだろう。
しかし、其処までアクセルの神経は太い訳でも無い。
紅魔館での戦闘を経験しているから、何とかなるだろ、と楽観も出来ないでいた。
それに、次から次へとターゲットを変えてくる終戦管理局の動きは不気味だった。
研究素体として、終戦管理局は幻想郷の住人を狙っているのは間違い無い。
だが、何度も同じ箇所、同じ人物を狙うような強い執着を見せない。
もしかしたら、と思う。
終戦管理局の今の狙いは、戦闘データの収集なのかもしれない
幻想郷の手札を全て開かした上で、隠れつつ、対抗しうる最高のカードを用意しておく。
そういう分析、研究、開発は、奴らの十八番だろう。
おまけに、終戦管理局が潜んでいる次元が、未だに分からない事が厄介だ。
既に随分な時間を稼がれているような気もする。
鬼札を引くまで、相手は動かない。
終戦管理局の手札が増えていくのを、止める術が無い。
そうして最後に、幻想郷側の場札全部を掻っ攫って行くつもりなんじゃないだろうか。

アクセルは空を振り仰いで、もう一度息を吐いた。
駄目だ。考えてもどうしようも無い。棍棒状態にした鎖鎌で、肩を叩きつつ、首を回した。
守矢神社に来て、今日で二日目だ。まだ、異変らしい異変は起きていない。
境内を包む雰囲気は、寧ろ長閑ですらある。
気を張っている自分が、何だか間抜けに思える程だ。

アクセルは腰の後ろに手を回して、ベルトに差してあった一本のナイフを取り出した。
柄にも刃にも余計な装飾の無い、片刃のナイフだ。
肉厚の刃部分は研ぎ澄まされていて、刃物特有の独特の美しさが在る。
紅魔館から守矢神社に来る事になって、咲夜がアクセルの為に用意してくれたのだ。
ジャスティスのコピーと戦った時に、アクセルがナイフを使った事を覚えていたのだろう。
もしよろしければ…、と差し出されたナイフを、アクセルは在り難く譲り受けたのだった。
女性からのプレゼントとしては少々物騒だが、咲夜らしいと言うべきか。
かなり丹念に刃を研いでくれてあるし、頑丈そうで、実用性に優れたナイフだ。
咄嗟のときには、きっと役に立ってくれるだろう。
咲夜の心遣いに感謝しつつ、足音に気付いて、アクセルは肩越しに振り返った。

「や、今日も平和だね。
とは言っても、こっちから動けない分、助っ人としては焦れて辛いだろうけど…」

苦笑を零しながらのその声は、やけに幼く聞こえた。
声の主の外見のせいかもしれない。
アクセルも「そんな事は無いっすよ…」と苦笑を返した。

守矢諏訪子はアクセルの隣に腰掛けて、空を見上げた。
諏訪子の被った帽子には目玉が着いているが、その眼はアクセルを見ていた。
ギョロっとした目玉なので、何となく身を引いてしまう。
ナイフを腰のベルトに仕舞い込むと、帽子の目玉も空を見上げた。

「雨でも降りそうだね」

「えぇっ? …でも、凄い良い天気っすよ」
思わず見上げた空には、やはり雲は少ししか見えない。
アクセルの言葉には答えず、諏訪子は少し笑った。何だか申し訳無さそうな笑みだった。
可憐な貌でそんな笑みをされると、何だかアクセルまで申し訳無い気分になってくる。
他者と接することに、アクセルはほとんど苦手意識を持たない。
だが、この諏訪子と、もう一人の神様である、八坂神奈子だけは少々違った。
『神』という概念を相手にして、戸惑うことの方が多い。

神様なのに、何故こんなにフレンドリーに接してくれるのか。
神様なのに、何故こんなに可愛いらしい少女の姿なのか。
加えて、人間と変わらず感情を持ち、価値観もかけ離れている訳でもない。
そのせいで、人間の女の子と話をしているような錯覚に陥る。距離感が掴めない。
そりゃそうだ。神様と話をするなんてことは、今まで無かったからな。
スラムに居た頃は、神様なんてものは信じて居なかった。
タイムスリップするようになってからは、余計に信じられなくなった。
だが、今は違う。目の前に居る。この可愛らしい女の子が神様だ。
そんな神様に笑い掛けられたら、何だか参っちまうよな。

「私達が狙われてるっていうなら、まだ気が楽なんだけどね…。
正直、アクセルの兄さんが来てくれて、本当に助かってるよ」

「いやいや、俺なんて役に立つかどうか…」
まぁ、役に立つような事態にならないのが最善なのは言うまでも無い。
今のような平穏無事が一番だ。何も無いに越した事は無い。当たり前だ。
だが、終戦管理局は黙ってないだろう。
今の只管に受身な状況を打破するには、どうすれば良いのか。
それが分かれば苦労はしない。
だからアクセルは、現人神である東風屋早苗を守る為に、此処に居るのだ。
眉尻を下げて、諏訪子から少し身を引いたアクセルも、困ったような笑みを浮かべた。

「そんな弱気では困るな…。助っ人としての自覚を持ってくれよ」
だから、背後から少し怖い声を掛けられても文句は言えないだろう。
背後から聞こえ来た足音には、確かな威圧感があった。
うへぇ、と思いながら、アクセルは振り返り、思わず立ち上がって居住まいを正した。
軍神、八坂神奈子が腕を組んだ仁王立ちで、こちらを見下ろしていたからだ。
流石に気圧され、アクセルは一歩後ずさるようにして、石段を一つ降りる。
それから、神奈子見上げる格好で、後頭部を掻いて視線を逸らした。

「いやぁ、すんません…。
でも、神様に頼りにされて胸張れる程、俺はでかい男じゃないんで…」

冴えない貌で情けない事を言っているような気もしたが、事実だから仕方が無い。
神奈子の方はとにかく凛としていて、それでいて堂々としている。
諏訪子とは違って『おっかねぇなぁ』というのが、神奈子に対する第一印象だった。
切れ長の鋭い眼に見詰められると、思わず背筋が伸びてしまう。
アクセルの隣で座ったままの諏訪子の方も、微苦笑を浮かべている。
だが神奈子の方は、アクセルの肩を軽く叩いて、唇の端を歪めた。

「謙遜するな」 
やたら迫力のある笑みだった。

「紫が見込んだ男だ。足手纏いになる程、弱い訳でもなかろう」

「そりゃあ…いざとなりゃ、死ぬ気で頑張りますよ」

「なら、それで良いさ…」 
満足気に言ってから、喉を鳴らすようにして、神奈子は笑った。
早苗が狙われているというのに、気負いも緊張した様子は見えない。
あくまで自然体だ。軍神であるその強さ故か。
或いは、そうやって無理に自分自身を律しているのか。
アクセルには分からなかった。だが、平気で無いのは間違いないだろう。
わざわざ社から出てきて、アクセルと諏訪子との会話に入ってくるくらいだ。
落ち着き払っているという訳では無さそうだ。
アクセルも同じだった。何とか平静を装おうとして、上手く出来ていない。
気付けば、何処かそわそわとしている自分に気付く。
いざって時は、マジで頑張らねぇとな…。
アクセルは意味も無く拳を握って、開いてみた。
身体の調子は良い。問題なく戦える筈だ。

「あっ! 居た居た! お茶が入りましたよー!」
社の方から、緊張感の無い声が聞こえたのはその時だ。
掌に視線を落とそうとしていたアクセルだが、途中で止めた。
声がした方を見ると、早苗が何故か嬉しそうな顔で、こちらを向いて手を振っている。
神奈子も少しだけ笑みを浮かべて振り返り、石段に腰掛けていた諏訪子も、声がした方へと向き直った。
一番どっしりと構えているのは、諏訪子でも神奈子でも無く、早苗だろう。
自分が狙われているというのに、早苗は全く怯えた様子を見せない。
恐れを誤魔化しているふうでも無い。かといって、ただの能天気や開き直りとも違う。
霊夢もそうだが、幻想郷の巫女は皆、奇妙な悟りの境地にでも達しているのだろうか。
不思議な娘だなぁ、と思いながら、アクセルは取り敢えず手を振り返した。

澄んだ風が吹いて、木立のざわめきが聞こえた。
ふと空を見ると、いつの間にか雲が広がり出している。あんなに晴れていたのに。
まだ蒼い部分が多いが、少しずつ滲むように出て来た雲は、少し暗く見えた。
諏訪子も立ち上がり、帽子の鍔を軽く上げて、アクセルに隣で空を見上げている。
やっぱり、雨になるかなぁ…。そう呟いた諏訪子の声も、少し曇っていた。

「まぁ、折角早苗が茶を淹れてくれたんだ。一服しようじゃないか」
神奈子の方も、空をちらりと見てから、アクセルと諏訪子を交互に見た。
それから、社の方へと歩き出した。不意に、隣に居た諏訪子に袖を掴まれた。
諏訪子も、神奈子の背中を追って歩き出していた。
だから、袖を掴まれたと言うよりも、引かれた、と言った方が正しい。
私達も行こうか。休憩も必要だよ。
アクセルにそう言った諏訪子の笑顔は、外見相応の女の子のものに見える。
それでいて、何処か神秘的だ。この少女が土着神の頂点だと、不思議と納得できてしまう。
此処には、神様が二人、そして現人神が居る。
マジで終戦管理局の奴らは此処に来るんだろうか。
やり合うつもりなのか。ふと、そんな思考が過ぎる。
アクセルは袖を引かれつつ曖昧な笑みを返しながら、空を一瞥した。
雲はまだ広がりそうだ。
















今はまだ午前10時前。そろそろ広い大学の構内が賑やかになってくる時間だ。
廊下に響く足音の数も多くなり、楽しげにおしゃべりする声も聞こえてくる。
若者達の活気が溢れ、今日と言う一日が始まろうとしている時間だ。
ただ、メリーと蓮子は、どうもそんな爽やかな気分になれない。
それどころで無かったと言った方が正しいかもしれない。
朝の大学の門前。通学という日常の光景に現れた、非現実的な現象に出くわしたからだ。
今は、その原因、というか、非日常そのもののような少年と一緒に、空き教室に居る。
朝一番の講義など、受けているような場合でも無さそうだったので、すっぽかした。
別に単位の心配は無い。それなりに勉強はしている。
だから、一回欠席した位なら、講義内容は余裕で追いつける。

そんな事よりも今は、眼の前で静かに佇んでいる少年だ。

「まずは、先に謝っておこう。…急なことで驚かせてしまったね」

顔を見られたくないのか。
フードを目深く被ったまま、ゆっくりと少年は頭を下げて見せた。
大学の空き教室の椅子にメリーは腰掛け、蓮子は机に座って、少年に向き直っている。
何だか、誰も居ない教室で男の子を虐めている、二人の年上の女の子のような状況だ。
断じて違う。
だが、もしも今誰か此処に入ってくるような事があれば、そう思われても仕方無い。
だからメリーは、慌てて少年に頭を上げてくれるように言う。
一方の蓮子は腕を組んだまま、口許の端を歪めている。笑みを堪えているような貌だ。
その眼はキラキラしているし、眼の前の少年に興味津々のようだ。

「危ないところを助けて貰ったみたいだし、それは良いんだけど…」

君さ…、魔法使いか何かなの?
誰も居ないというのに、きょろきょろと周囲を見回してから、蓮子は小声で言った。
馬鹿馬鹿しい質問かもしれないが、メリーも蓮子と同じ質問をしたいと思っていた。
自分達以外の誰もが消えて、居なくなった街の光景が脳裏に浮かぶ。
今朝起きたあの不可思議な現象は、明らかに作為的なものだ。
そして、それを起こしたであろう人物がこの少年なら、誰だってそう聞きたくなるだろう。
だが、今朝の現象を認識しているのは、メリーと蓮子の二人だけだ。
少年は蓮子の方へと顔を向け、形の良い唇を緩やかに笑みの形にして見せた。

「魔法使い、という言葉が適切かどうかは分からないけれど…」

近いかもしれないね…。
静かな声でそう答えた少年に、ぐっと蓮子は身を乗り出した。
その眼はキラキラどころかギラギラしていて、鼻息も荒い。
蓮子は机から立ち上がってから、がっしと少年の肩を掴んで、メリーに向き直る。
明らかに興奮状態だ。

「メリー! これは秘封倶楽部始まって以来の大発見よ!」

少年の方はきょとんとした様子で、蓮子を見上げている。

「大声出さないでよ、蓮子。…私も聞いて良いかしら」

メリーはすっと眼を細めて、少年を見詰める。
ノリ悪いなぁ、メリーは! 興奮しながら不満気な声を漏らしていた蓮子も、口を噤んだ。
その真剣な眼差しには、蓮子の方がたじろいだようだった。
少年は掴まれていた肩から蓮子の手をそっと外して、メリーに向き直った。
教室の外から聞こえていた賑やかな学生達の声は、もう消えていた。足音一つしない。
「何かな…」 少年の声は良く通った。
子供の声とは思えない。幼くも、やけに深みのある声音だ。不気味ですら在る。
「何故、私を助けてくれたのですか」と、思わず敬語になってしまった。
少年はすぐには答え無かった。
少し緊張した面持ちで、蓮子はメリーと少年を見比べた。
そのうち、少年の方が口許を緩めた。

「難しい質問だね。君が納得するかどうかは分からないけれど…。
 僕は君を守る為に此処に居るんだ。この世界に、と言った方がいいかな」

感情が全く篭っていないのに、不思議と柔らかく聞こえる声音に、寒いものを感じた。
メリーは唾を飲み込んだ。少年は口許を緩めたままだ。

「だから…何故と聞かれても、答えるのは難しいな」

メリーは視線を少年から逸らすように下を向き、下唇を噛んだ。
今更だ。

今になって、奈落の底へと突き落とされる寸前のような気がしてきた。
この得体の知れない少年が現れた昨日の時点で、覚悟しておくべきだったのかもしれない。
今までに無いくらい、嫌な予感がした。
聞くのが怖かった。だが、知っておくべきだろう。

「では、どうして…私を守る必要が在るのですか?」

また、少し間が在った。
どう伝えるべきなのかを考えているのだろうか。
少年は少し俯き加減になって、唇を引き結んだ。

「君の眼は、“境界”を見れる。だから、君のその“眼”を狙う人達が居てね…。
 もしも君が彼らに奪われることになれば、僕達の世界が危なくなるかもしれないんだよ」

一瞬、映画の話か何かかと思った。
境界を見る“眼”を狙う者達が居て、私が攫われたりしたら、世界が危ない。
滑稽な話だ。普通なら一笑に付されるだろう。戯けた話だ。
だが、眼の前に居る少年がそんな現実逃避を許さない。

白地に黒の紋様が描かれたパーカーのポケットから、少年が何かを取り出したのだ。
メリーはまた唾を飲み込んで、少年の掌に視線を落とす。
蓮子も覗き込んできた。それは、小さな蟲の死骸だった。ちょうど、蠅くらいの大きさだ。
というか、蠅だ。掌に蠅の死骸を乗せたまま、それを少年は握りつぶした。
パキパキ…、という音がした。其処まで聞いて、体が震えて来た。
蓮子の方もぎょっとしたようだ。
少年がゆっくりと掌を開くと、当たり前だが、潰れた蠅の死骸が在った。
でも、普通の蠅じゃない。物凄く精巧、精密に造られた機械の蠅だ。
米粒よりも小さな部品が、死骸の中から無数に覗いている。
「さっきもね。これと似た蟲が居たから、何匹か壊しておいたんだ…」
呟いた少年の掌の上の蠅の死骸は、青黒い微光に包まれた。
そして、煙のように消えてしまった。少年の掌には、もう何も乗っていない。
ちょ、ちょっと待って! と、間に割り込んで来た蓮子は、冷や汗を掻いている。

「今の何…、っていうか…」
割り込んだのは良いが、驚きで上手く言葉を見つけられずにいるようだ。
少年は蓮子を落ち着かせるように、口許をまた少し緩めて見せた。

「この蟲達は、いわば発信機であり、探知機みたいなものだよ。
 メリーさんを捕捉し続け、何処に居るのか、何をしているのかを把握する為のね…」

蓮子だけじゃなく、メリーも絶句した。
ただの盗撮や、変態的なストーカーなどとは違う。
少年の言葉からは、そんなものとは比べ物にならない危険な匂いを感じた。

「そ、それじゃ、もうメリーが住んでる場所も、大学も…」

「勿論、割れているだろうね。
僕の存在にも気付かれてしまっただろうし、少しやり難い状況だ…」

蓮子の声は、明らかに震えていた。対して、少年は微笑を絶やさない。
何故そんな穏やかな声で居られるのか。おかげで、現実感が飛びそうになる。
…一応、此処からは離れた方が良いだろうね。
言いながら、メリーと蓮子から離れ、空き教室の窓際の方へと、少年は歩いていく。
それから、窓から階下へと視線を巡らせたようだった。

「正直に言えば…僕も彼らとやっている事は同じだ。先に謝っておこう」
そして、ゆっくりと呟きながら、窓を背に少年は振り返った。

「僕もずっとメリーさんを見ていた。言葉が悪いけれど、監視に近い…。
 でも、彼らから守る為には仕方なかったんだ。…許してくれるかい」

メリーは一つ息を吐いて、身体の震えを止めるように唇を噛んだ。
 蓮子は何かを言いたそうな顔で、メリーと少年を見比べている。
少年の眼は、やはり目深く被ったフードに隠れて見えない。
 それでも、まっすぐにメリーを見ていることは分かった。
 空き教室の中に奇妙な緊張が走る。
 
「私を狙っているという…貴方の言う“彼ら”とは、何者なんですか…」

 だから、メリーも立ち上がり、少年を真正面から見据えた。
 
「終戦管理局と言う。僕達の世界の、古い亡霊だよ」

「…では、貴方はこの世界とは違う世界から、わざわざ私を守る為に、此処に来た。
 それで合っていますか…?」

「そういう事だよ。君を守る事が、同時に、僕達の世界を守る事になるんだ…。
 陳腐な台詞に聞こえるだろうけれどね…。少なくとも、僕は嘘を言っていない」

世界を守る。本当に陳腐で、安っぽい台詞だと思う。
そんな台詞は、ゲームや漫画の中だけのものだと思っていた。
だが、この少年の口から聞くと、全然そうは聞こえなかった。

「僕が幾ら言葉を飾っても、事実も、状況も変わらない。
…もしも僕を信じてくれるなら…」

少年が、其処まで言った時だった。ぬくみの在る少年の声を、爆発音が遮った。
凄い音と振動だった。耳が聞こえなくなった。
身体が突き上げられるような感じがした。空き教室が、というか、建物自体が揺れた。
激しく身体が揺さぶられる。地震の揺れ方じゃない。建物が崩れているのか。
立っていたメリーは倒れそうになり、咄嗟に机にしがみついた蓮子に支えられた。
顔を上げてから、危ないと思った。
教室に並んでいた大きめの窓が全部割れて、硝子片が少年に降り注ごうとしていたからだ。
メリーと蓮子は少年に声を掛けようとしたが、必要なかった。
少年に降り注ごうとしていた硝子の破片が、空中で静止したのだ。
時間が停まったみたいに、何もかもが音を無くして、その場に縫い付けられていた。
何かを低い声で呟きながら、少年は下に向けた左掌に、仄暗い蒼色の光を灯している。
…此処まで強硬的な手段に出てくるとは。
少年がそう呟いた次の瞬間には、メリーと蓮子のすぐ傍に、彼は居た。
瞬間移動のようだった。まだ世界は静止したままだ。声が出ない。

少し失礼するよ…。
少年の声が耳元でしたかと思ったら、メリーは身体がふわっと浮き上がるのを感じた。
視界が真っ暗になった。何も見えない。
暗くなる直前、複雑な紋様が描かれた術陣が、メリー達を包むようにして浮かび上がったのが見えた。
それから、どうなったのか。分からない。
何かが起こった。それだけは理解出来た。意識は在る。
だが状況を把握しようにも、身体の感覚が無い。腕も脚も動かないし、何も見えない。
十秒か、二十秒程。その虚無の時間が終わるのは、突然だった。腰に衝撃を感じた。
あだっ!? という蓮子の声も、すぐ近くから聞こえた。微かな土と、草の匂い。
眼を開けると、大学の中庭、その植え込みの中に居た。周囲に人の気配は無い。

メリーは腰の痛みを堪え、くらつく頭を押さえながら立ち上がろうとする。
叫び声のようなものを聞いた。男子の怒号、女子の悲鳴が木霊していた。
大変なことが起こっているのは理解しているつもりだった。
熱風が吹き付けて来て、顔を上げてから戦慄した。

中庭からでも、メリー達が今まで居た空き教室のある建物は、十分に見える。
いや、見える筈だった。だが、建物の変わりに見えたのは、燃え上がる黒い炎の柱だった。
今までメリー達が居た建物の半分が、逆巻く炎の渦に飲み込まれていた。
巨大な、余りに巨大過ぎる炎の柱だった。此処からでも十分に熱を感じる。足が竦んだ。
粉塵が巻き上がり、砂埃で地面の方はほとんど見えない。
あんな規模で炎が燃え上がるのを初めて見た。
映画でも見た事が無い。幻想的ですら在る。
だが、体に感じるこの恐怖は、耐え難いほどに現実的だった。
巨大な生き物に踏み潰されたみたいに、コンクリートの建物がぺちゃんこになって崩落していた。
夢でも見ているのかと思った。
聞こえて来る学生達の混乱と恐慌、狂乱の叫び声が、やけに遠い。
ただ立ち尽くす。それ以外に何が出来るだろう。
京都という都会。その大学の真ん中に、黒い炎の柱が現れたら、誰だってパニックになる。
学生達の逃げ惑う声が、少し大きくなった気がした。
轟音と共に、半分残っていた建物が、呆気なく崩れたのだ。地面が揺れるのを感じる。
余りの光景に、心というか、思考が何処かに飛んでしまって、何も考えられなかった。
「何よ…あれ…」 
震えた声を絞り出した蓮子の方も、メリーの隣でその光景をただ見上げているだけだった。
メリーも、誰かに聞きたかった。だが、そんな余裕は全く無かった。
ついさっきまで居た建物が、跡形も無く崩れ、黒い炎に飲み込まれ、貪られている。
私達以外の学生は。あの建物の中に居た他の人達は、どうなった。
ふと、そんなことが頭の隅を過ぎって、総毛立った。
どうなったかなど、考える必要が在るだろうか。
見れば良い。あの轟々と燃え盛る黒い炎と、崩れ落ちた建物の無残な姿を。
生きている者など居る筈が無い。
メリーは駆け出そうとしたが、身体が言うことを聞かない。
炎の柱を見上げたまま、メリーがその場にへたり込みかけた時だった。

「あの子は…何処に行ったのよ!?」
蓮子が悲鳴のような声を上げて、周囲を見渡した。
そうだ。完全に失念していた。あの少年は、何処へ行った。
メリー達を中庭へ置いて、何処へ。
中庭には、蓮子達以外に人影は無い。
他号棟の学生達も、もう逃げ散った後だからだろう。そう思いたい。
此処に居るよ…。心配させたようで、すまないね…。
透き通るような穏やかな声が隣から聞こえて、全身から力が抜けるような気がした。
メリーと蓮子が振り返ると、フードを目深く被った少年が、やはり静かに佇んでいた。
ただ、白地のフードは所々が煤けているし、紺色をした細身のパンツも同じ様な有様だ。
高そうな革靴も、表面がグズグズになっている。
仄暗い蒼色の光を灯す両掌も、酷い火傷を負っていた。
それでも、少年はフードから覗いた口許に、微笑みを浮かべて見せてくれた。

「あの建物に居た他の人達を、離れた場所に移動させて来たんだ…」
 
安心して。負傷者は居ない筈だよ…。
その言葉に、メリーと蓮子は胸を撫で下ろし掛けて、全く安心出来ない事に気付いた。
メリー達に言いながら、少年も黒い火柱を見上げようとしたのだろう。
僅かに顔を上に向けた少年の腹部から、黒く、ごつい金属板の様なものが生えたのだ。
違う。生えたのでは無い。貫かれたのだ。
「か…は…っ」 血の塊を吐き出した少年の足が、地面から離れた。
刺し貫かれたまま、持ち上げられているのだ。腹部から血が噴出している。
白地のパーカーが真っ赤に染まって、地面に血溜まりをつくった。

終戦管理局。
その言葉を思い出したメリー達の眼の前で、一人の男が少年の身体を持ち上げていた。
何時の間にとか、そんな事を考える暇は無かった。
男は、黒ずくめだった。黒いジーンズに黒のタンクトップ。黒のジャケット。
肌は嫌に白い。血で染めたような赤毛を後ろで束ねて、黒い鉢金をしている。
鉢金から覗く、くすんだ金色の眼が、メリーと蓮子を見据えていた。
片手で持っている大振りの黒塗りの剣は、少年を串刺しにしたままだ。
剣には、黒い炎が燻っている。

今度の放心状態は、先程までとは違う。
メリーと蓮子は、蛇に睨まれた蛙のように、全く動けなかった。

完全に恐怖の虜だった。
何より、剣に燻る黒い炎が、メリー達の心臓を鷲掴みにした。
建築物すら飲み込む黒い炎の渦が、この男の仕業だと物語っている。
串刺しにされた少年が、何かを言ったようだが、よく聞こえなかった。
少年の体が、剣ごと片手で乱暴に振り払われ、ゴミみたいに地面に捨てられた。
中庭の芝生の上に転がった少年は、微動だにしない。
それを見ていることしか出来なかった。
剣を血振るいして、男はメリーと蓮子に一歩踏み出して来た。

男のくすんだ金色の眼は、瞳孔が縦に裂けていて、見る者の心を萎縮させる。
その眼が、メリーと蓮子を見比べている。二人は、息が全く出来なかった。

轟々と燃え盛る黒い炎の音も、遠くから聞こえる学生達の悲鳴も、どうでも良くなる。
それどころじゃない。抵抗出来るような気もしなかった。
男の身長は高いし、幅も厚みも在る。体格だけで、完全に負けている。
いや、そんな部類の問題じゃない。
力が強いとか、背がどうとか、体格がどうとか、そんな事じゃない。
無理だ。どうしようも無い。何が出来る。

身体を硬直させている内に、黒ずくめの男は、メリーの眼の前に来ていた。
男は無言のまま眼を窄めながら、首をゆっくりと傾けて見せる。

「……マエリベリー・ハーンだな…」男の声は低く、それでいてよく通る声だ。
その言葉には、聞いているというよりも、確認しているかのようなニュアンスが在った。
思わず頷きそうになって、後ずさろうとした。
男が前屈みになって、腕をぬぅっ…、とメリーの顔に伸ばして来たのはその時だ。
 
 「メリー! 逃げて!!」
黒いグローブを嵌めた男の手が、メリーの顔に触れる寸前。
横から突き飛ばされ、倒れた。蓮子だ。
男の前に立ち塞がるようにして、蓮子が立っていた。
なけなしの勇気を振り絞り、挑みかかるような眼で、男を睨んでいる。

ああ。駄目だ。そんな。
止められる訳が無い。駄目だよ蓮子。
男は怪訝そうな貌をして見せたが、其処からは全く遠慮しなかった。

メリーが立ち上がる間もなかった。
剣を地面に突き立て、両手を空けた男は、値踏みするように蓮子を眺めて、眼を細めた。
同時に、緩慢な動きで蓮子の首を右腕で引っ掴み、人形みたい軽々と片手で持ち上げる。
蓮子の名前を呼んだ。でも、呼ぶことくらいしか出来なかった。
男はそのまま、倒れて起き上がろうとしているメリーの前まで来て、腕を伸ばしてきた。

メリーは咄嗟に顔を腕で庇った。
だが、男の力は凄まじく、呆気なくメリーの両腕をこじ開けた。
抵抗は笑える位に無意味だった。男の左手の親指が、メリーの口に捻じ込まれる。
そのまま掌で下顎を掴む要領で、メリーはぐいっと顔を上向きにされた。
とんでも無い握力だった。
この男が力を入れれば、メリーの顎は容易く砕かれてしまうだろう。

男は無言のままだ。何の感情も伺わせない。
首を絞められ、もがく蓮子の方は地面に引き倒され、すぐに喉元を踏みつけられた。
男が履いているのは黒いブーツだ。それが、蓮子の身体をがっちりと押さえつけている。
「ぁ…うぐぅっ…!!」
それでも、眼に涙を浮かべながら、蓮子は抵抗しようとしていた。
喉元を踏まれ声も出せない状態で、親友を助けようと必死になっている。
そんな死に物狂いの蓮子を静かな瞳で見下ろしてから、男はメリーに視線を移した。
メリーは声を出そうにも、出せない。
口に突き込まれた男の親指が、メリーの舌を押さえつけているからだ。
いや、舌だけじゃない。下顎が完全に鷲掴みにされている状態だ。
男の腕を掴んで引き剥がそうとしても、びくともしない。
親指を噛んでも、男は顔を顰めもしない。
ささやかな抵抗をせせら笑うでもなく、ただ黙ったままの男の右手が、メリーの左眼に伸びた。

声を出せないメリーの代わりに、くぐもった悲鳴を上げたのは蓮子だった。

親友が、暴力で踏み躙られる瞬間だった。
男の指が、メリーの左眼を摘むようにして、眼窩に入っていく。
ぅう…ぅあぁぁあぁぁっ…!!! 蓮子は、涙で滲んだ視界で見た。
見せ付けられた。眼を背けることさえ出来なった。
ひどいよ。ひど過ぎるよ。あんまりだ。
メリーの眼が。左目が。抉り出された。神経が千切れる、プチプチという音が聞こえた。

メリーは声を出せない。
でも身体はガクガクと震えて、力が抜けようとしている。
でも、メリーは倒れられない。男が、下顎を掴んで、無理矢理に立たせているからだ。
夥しい量の血が、メリーの左眼の窪みから流れ出ている。
ああ。誰か。助けて。お願い。メリーを。私の親友が。死んじゃう。死んじゃうよ。
いやだ。嫌だ。放せ。放してよ。お願いだから。止めて。

男は抉り出したメリーの眼球を、血塗れの右手で転がし、無感動な表情で眺めていた。
左手には、メリーの下顎を掴んだままだ。
それから血塗れのままの右手で、ジャケットの胸ポケットに伸ばす。
眼球を摘んだままの手で、カプセルのようなものを取り出したのだ。
そのカプセルに眼球を片手で器用に入れて、また胸ポケットにしまった。

それからだ。
男は、今度はメリーの右眼に手を伸ばした。
ぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁうぁううぁぁぁぁぁぁぁああああああぁあああっ…!!!
蓮子の呻き声は、虚しく中庭に響いた。でも、無駄だ。誰も居ない。
止めて。止めて、止めて。止めて。お願いします。何でもするから。やめてよ。
死んじゃうよ。メリーが。死んじゃう。死んじゃう。何でこんな。誰か。誰か。

「させないよ…!」
蓮子の声が届いたのか。その穏やかな声は、少々喋り難そうだった。
ぶつっ、という音が、蓮子の耳に聞こえた。
見れば、メリーの下顎を掴んでいる男の左腕が、両断されている。
いや違う。斬られたという感じでは無い。分解され、離断しているような状態だった。
消えていく。男の腕から先が。メリーを掴んでいた手が。

蓮子は眼を疑った。
フードを被った少年が、掌に蒼白の微光を灯して、男のすぐ脇に居た。
いや、踏み込んでいたと言った方がいいかもしれない。
小柄な少年は、身を沈みこませるようにして、右掌で男の左腕に触れていたのだ。
次に身体を捻るようにして、左掌で男の脇腹に掌底を叩き込んだ。
「……ぐっ…!」 男の身体が浮き上がり、蓮子に乗っていた体重が消えた。
 支えを失ったメリーの身体も、前のめりに倒れようとしている。
 
それを抱きかかえるようにして、少年はそっと受け止め、男に向き直る。
 ごぼっと少年は血を吐き出しながら、ふらつく体を何とか支えていた。
 
「…君達も、僕と変わらないな…。目的の為なら、どんな犠牲も払う…。
  挙句そんな姿で現れて、こんな強行に出るとは…」
 
 少年の腕の中でぐったりした様子のメリーは、ぴくりとも動かない。
蓮子が慌てて起き上がると、痛みと猛烈な吐き気に襲われた。
 だがそれがどうした。今はメリーだ。少年の腕の中で、身体を痙攣させている。
 視界が涙でグシャグシャになった。ひどい。あんまりだ。
 メリーの綺麗な顔が、血で真っ赤に染まっている。大事な親友が。
少年がゆっくりと、メリーの体を蓮子に抱き渡した。
嗚咽で声が出ない。こんなのって無いよ。メリー。縋るような気持ちで名前を呼んだ。
 れ。ん。こ。だ、…い。じょ。う。ぶ…?。声がした。
メリーが、薄っすらと開いた右眼で、蓮子を見た。
見てくれた。意識は在る。心配してくれている。
大丈夫じゃないよ。全然、大丈夫じゃないよ。メリー。眼が。こんな。
 この時、蓮子は初めて本当の憎悪を知った。許せない。赦せない。
メリーを抱えたまま顔を上げて、男を睨みつける。
 
吹き飛ばされた男の方は、残った右手で地面に突き刺していた剣を引き抜いていた。
男のくすんだ金色の眼には、やはり感情は無い。
離断された左腕からの流血は、墨色の炎となって燻っている。
……その様なら、捕捉探知される事も無さそうだな…。
徹底的に感情の無い声で言った男が、すぐに何かを呟くのを聞いた。
墨色の術陣が男の足元に浮かび上がり、その姿が薄れていく。
同時に、大学の真ん中に立ち上っていた黒い炎の渦も、霞むように消え始める。


何もかもが、本当にあっと言う間に起き過ぎた。


少年は荒い息を吐きながら、その場を動けずに居た。
というよりも、少年の方が限界の様だった。
何かを唱えようとして、がふっ…、とまた血の塊を吐き出した。やばい吐き方だった。
少年の身体に空いた大穴は、まだ塞がっていない。白いパーカーも、もう真っ赤だ。
だが、蓮子達を庇うようにして、何とか立っている。
纏う蒼白の微光も、もう消えてしまいそうだ。

消えかけの黒ずくめの男は、赤い髪を揺らしながら首を傾けて、眼を細めた。
窄められたくすんだ金色の眼は、だが、少年には向けられていない。

男を睨み殺すような形相の蓮子を、静かに見つめ返していた。
ぶつけられる激しい憎悪に、何か感じるものでも在ったのかもしれない。
情動が抜け落ちているような貌が、ほんの少しだけ歪んだ。
顔を顰めようとしたのか。それとも、笑みを堪えようとしたのか。
消えかけだったから、余計に判別出来なかった。

赦さないから…。でも、蓮子は気付けば声を出していた。
……あぁ…、と、低い声で男も蓮子に答えた。
 
それからすぐだった。
男が、少年と蓮子に背を向けるようにして視線を逸らすと、もうその姿は消えて居た。
まるで、何事も無かったかのようにだ。

蓮子は、怒りと憎悪で頭が沸騰しそうだった。
何が…あぁ…、だ。ふざけてる。こんなひどい仕打ちをしておいて。
だが、此処で怒っていても、何にもならない。
れ。ん。こ。そのメリーの声で、冷水を頭から被ったように感じた。
頭が冷えるどころか、全身が震えて、涙が出て来た。
ごめん。メリー。私、何も出来なくて。
そう言うと、メリーは血塗れの顔で微笑んでくれた。
 
 「じっとしていて…。今すぐ治療を始める」
 
少年は口の端から血を零しながら、蒼白の光を掌に灯している。
歯を食いしばり、激痛を堪えているのが分かる。

「あんただって、そのお腹…!」

「僕は良いんだ。死んでも良い。でも、彼女は、君は違う…!」

少年の声は必死だった。少年は叫んだ。
声に呼応して、少年の掌から蒼白の光が渦を巻いて、蓮子とメリー達を包む。
僕は、もう無意味な存在だ…。彼女を守れなかった…。
蓮子は自身の体から痛みが引いていくのを感じたが、それ以上に驚いた。
メリーの眼の傷が。血が。払拭されていく。淡い蒼色の光が、治癒していく。
“眼”を…用意しよう。そう言った少年は、左手を左眼につき込んだ。
そして、何の躊躇も無く自分の左眼を抉り出した。血が飛ぶ。
蓮子が止める間も無かった。だが、止めてどうなるとも思った。身を任せるしかない。
苦しげな声が少年の口から漏れるが、蓮子達を包む淡い蒼の光は止まない。
中庭の木々や草木が、蒼い光の風の靡き、揺れている。

「本当に…申し訳無いことをした。許して欲しい…」
少年は言いながら、抉りだした自分の左眼を握り潰す。
すると、その肉片と血が蒼い光の粒子となって、メリーの左瞼を覆った。
もう蓮子は見ているしか無い。少年を信じるしか無かった。
縋るしか無かった。蓮子の体は、もう痛みは全く感じない。
後は、メリーが眼を覚ましてくれるのを祈る。名前を呼ぶ声は涙声になっていた。
少年の詠唱が止んだ。
蒼い風は緩やかに弱まっていき、最後はそよ風になって、中庭は吹き渡って行った。
少年がガクンと両膝を着いて、腹部を両手で押さえて蹲った。
「これで…大丈夫の筈だ…」
そう言った少年の声は、虚脱しきっているように聞こえた。
かなりやばい様子だ。フードで左眼がどうなっているのかは見えない。
だが、左眼から血の涙を流したような顔は、もう真っ青だ。
 最後の力を振り絞るようにして、少年は手でルーンを描いた。

「宇佐見さんの自室へ、転移させて貰っていいだろうか…。最期に話が在るんだ…」
転移という言葉の意味が理解出来なかったが、蓮子は頷く以外に無かった。
幸いというべきか、不幸というべきか。中庭にはまだ誰も居ないままだ。
大学に居る人間のほとんどは、黒い炎が嘘のように消えた現場に眼を奪われている。
普通の日常が破壊され、木っ端微塵になって、崩れ落ちた。
その事を理解しているのは、この世界でメリーと蓮子だけだ。
少年は血色を失いつつある唇で、微かに震えた声で詠唱を始める。
次の瞬間には、三人の姿はもう何処にも無かった。










終戦管理局の強襲は、此処に来て大きな成果を上げた。
GEAR MAKERを出し抜いたのだ。

ただ、クロウにしてみても、これは想定外だった。

作戦は勿論立てていた。
まずは、GEAR MAKERとの接触と戦闘が目的だった筈だ。
それから、相手の戦力を分析して、少しずつ追い詰めて行くつもりだった。
マエリベリー・ハーンのサンプルの採集は、もっと段階を踏んでからの筈だった。
それが、いざ始まってみたらどうだ。もう作戦もへったくれも無い。
独断専行した挙句、短時間でGEAR MAKERを退け、サンプルまで回収して来る始末だ。
こうして研究室で頭を捻っているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

建物一つを叩き潰して、其処に居る者全員を巻き込むことで、GEAR MAKERの注意を逸らす。
そんな芸当を思いついて、実践に移すなど考えもしなかった。
 見事にその行動は、GEAR MAKERの思考を狂わせ、判断ミスを誘った。
GEAR MAKERが、建物内の人間を見放すような人物でない事を知っている。
だからこそ出来る強襲だった。
流石に…旧知の仲ってだけの事はあるねぇ…。
溜息混じりにクロウは呟きながら、研究室のモニターを見詰める。

モニターに映し出されているのは、生体ポッドの中で眠っている、赤毛の男だ。
薄緑色の液体が満たされた中には、チューブやコードが無数に差し込まれている。
それらが全て、中で眠る男に繋がれていた。
男の姿形は、ソル=バッドガイと全く同じと言って良い。
記憶、思考回路もそうだ。99%。ソル=バッドガイと同じだ。
客観的に見れば、同一人物に近い。
これこそが、昔にクロウが用意した回答だった。

終戦管理局がまだ幾つも支部を持っていた頃は、ソルの危険度はSランク。
超危険人物として認定されていた。
当時、クロウはジャスティス復元の為の研究、開発に携わっていた。
だからだろう。自然とその対策を思い付いていた。
『プロトタイプギアならば、ソルを完成型ギアにする事で意思を奪う』。
或いは、『同じものを造り出す』というものだった。

その頃のクロウ以外の科学者達は、皆、その逆の発想だった。
より強力な人造の生物兵器を造りだし、ソルを破壊しようと考えていた。
だから、その悉くが失敗に終わっている。

クロウは、他の科学者達が何故気付かないのか不思議だった。
ソル=バッドガイを『破壊』しようとするから、出し抜かれる。
何故、『完成』させるか『創造』する以外に対策のしようが無いことに気付かないのか。
末端の研究員だったクロウは、自身の意見を上に言うべきかどうか迷った。
そんな下っ端の話をまともに聞く程、その頃の終戦管理局は小さな組織では無かったからだ。
クロウは、だから何も言わず、ただ研究を続けていた。
結局、ソルには碌な対策を取れないまま、アサシン組織やツェップにまで眼を付けられた。
それから後は速かった。
面白いように支部がどんどん落ちて、あっという間に組織は壊滅状態になった。
終戦管理局は敵を増やしまくって、半ば自滅に近い形で、世界を追われたのだ。
最終的に残った科学者は、クロウと、残り数名。
終戦管理局の上層部は逃げ延びたものの、もはや死掛けの組織だった。
此処まで追い詰められると、クロウのような末端の者でも重い役職に就くことになった。
というか、抱えに抱えたロボカイやら、ジャスティスのコピーやらをまともに扱えるのが、クロウだけと言う有様だった。

 クロウ自身には、別に組織に愛着のようなものは無かった。
 ある意味で変態的な、そして他の追随を許さない程、クロウは清廉潔白な研究者だった。
 空腹を覚えては研究し、眠くなれば調べものをして、疲れれば開発作業に没頭した。
そんな過去も持っているから、今も組織の中では変人扱いされている。
狂気の科学者などと影で言われても、特に気にしていない。
研究に携われるから、この組織に居ただけだ。だから、今更頑張ろうとも思わなかった。
 適当に上にゴマを擦って、ペコペコしながら、好きな研究でもしようと思っていた矢先だ。
 
バックヤードの存在と、『キューブ』を知ったのは。

随分昔から研究が進められていたようだが、組織の崩壊と共に頓挫していた。
当時はクロウもその存在を知らなかった。
終戦管理局内でも秘密裏に研究が行われ、ごく一部の研究者しか知らなかったようだ。
組織の中枢に関わるような人物しか、知りえない情報の筈だった。

だが、今になってそのお鉢が廻って来たのだ。
“GEAR MAKER”と『キューブ』の攻略を聞かされた時は、上層部の正気を疑った。
そろそろ引き際かな、とも思った。

終戦管理局は、もう迷子の子供だ。
 何処に行こうとしているのか、全くわかっていない。
 泣きながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらしているに過ぎない。

GEAR MAKERが未だ存命であり、自分達の世界を影から見守っている。
 そんな怪人に挑め、と言うのだから、笑えてくる。
 こんな脆弱な組織が、太刀打ち出来る相手だと本気で思っているのか。
最初はそう思った。だが興味深かったのは確かだ。
久ぶりに生き甲斐のようなものを見つけた気分だった。
開発者としての心が擽られた。
 幸いにも、クロウが手掛けたロボカイや、ジャスティスのコピーはある程度残っていた。
 
そうして、今、モニター越しに眺めている、ソルのコピーもだ。
興味本位でソルの過去を調べつくし、その記憶をデータとして叩き込んである。
 本物ソルとの違いは、0から創るか、1から改造するかの違いでしかない。
 事実として、今回の強襲で、ソルのコピーはGEAR MAKERの人格を逆手にとっている。
ソル=バッドガイは、既に手中に在るのと同じだ。
少なくとも、クロウはそう考えている。
クロウは0からソルを創り、GEAR MAKERは1からフレデリックを改造した。
たったそれだけの違いだ。
まぁ…、その0と1に大きな差が在るのかもしれないけどねぇ…。
 知らず、クロウはモニターを見詰めながら呟いていた。
良い意味でも、悪い意味でも、99%というのは面白い数字だ。
残り1%の壁は絶対に越えられないが、この隙間にこそ価値が在る筈だ。
其処に、ロボカイと同じように自我が芽吹く可能性だってある。
完全に同じでは無い。所詮は贋作と言われればそれまでだ。
だが、クロウは自分の子供でもあるソルのコピーに、大きな期待を寄せている。
 
 サッキカラもにたーヲ見詰メテバカリデ、気色悪イゾ駄目…。
 不意に、背後から声がした。クロウのもう一人の子供。ロボカイだ。
 「ンン~?」とロボカイはモニターを見てから、ズザッとクロウから距離を取った。
 何故か怯えているようだ。クロウを指差した手が震えている。
 
「ナ、ナンジャ…全裸ノ芋面ノこぴーヲ見詰メテイタノカ…。モシヤ駄目博士…」
 
 ほ、ほもさぴえんすダッタノカ…!!
そう呟いて後ずさるロボカイに、クロウは眼鏡を一度外してから、瞼を揉み解した。

「いや、まぁ人間には違いないけど…君はそういう事には本当に敏感だね」

「ヒ、否定シナイノカ!?」

「…僕は男性が好きな訳じゃ無いから、安心してくれて良いよ」
 
クロウは苦笑を浮かべて、ヒラヒラと手を振って見せる。
 
面白い成長をしていると思う。
 ソルのコピーにしても、ロボカイにしてもそうだ。
本当に今になって、クロウの研究が実ろうとしている。
あの聖戦を引き起こしたGEAR MAKERと、本格的に対峙しようとしている。
こんな弱小組織が、クロウの匙加減一つで。笑いがこみ上げてくるような事は無かった。
高揚感も無いし、奇妙な程に醒めていた。だが、感謝はしている。
終戦管理局という組織は、こんな機会をクロウに与えてくれたのだ。
軽く溜息を吐いたクロウの手には、マエリベリー・ハーンの眼球が入ったカプセルが握られていた。







メリーは、蓮子の部屋の布団の上で眼を覚ました。

とにかく、意識がしゃっきりしない。頭が少し痛んだ。
でも、それくらいだ。軽い二日酔いのような感じだった。
おかげで、泣きじゃくる蓮子をあやすのには苦労しそうだった。

蓮子の部屋は血塗れだった。
眼を覚ましてから驚いたが、泣きじゃくる蓮子には怪我は一つも無かった。
じゃあ、誰の血だろうか。其処まで考えたところで、息が詰まった。
部屋の隅で蹲るようにして、膝を抱えている少年を見つけたからだ。

フードを目深く被った、あの少年だった。
膝を抱える手は、酷い火傷痕が残っている。
僕は…。『僕』は…。僕は…。『僕』は…。
壁に向かって、何かをぶつぶつと呟いていたようだ。
メリーは抱きついて来る蓮子を引っぺがして、少年に声を掛けた。
少年は息を詰まらせるようにして、ビクッと体を引き攣らせた。

蓮子も一旦泣き止んでくれた。
少し間があって、少年はメリーの方を見た。唇の端が微かに震えている。
何かに怯え、身を竦ませているようだった。
最初に会った神秘的な雰囲気は、もう全くと言って良い程に無い。
今は、ただ身体を震わせている、ただの子供だった。

“眼”に、違和感は無い。もう見える。見えている。
恐怖と痛みが思いだされて、胸が苦しくなった。これから何度も夢に見るだろう。
余裕でトラウマだ。いきなり目玉を抉られる経験なんて、今の日本で誰がするだろうか。
いつか笑い話に出来る日がくるだろうか。
多分、来ないだろうな。そう思いながら、メリーは視線を窓へと向けた。

蓮子の部屋の窓からは、優しい夕陽が差し込んできていた。
緩い風にカーテンが揺れていた。少年は、何か言おうとしたようだった。
でも、口を噤んで、何も言わない。
今日は、大学で誰も死傷者が出てないのは…間違い無いんですよね。
窓から空を見ながら、メリーは少年に聞いてみた。

また少し間があった。
それは…間違い無いよ。僕は、君を守れなかった…。
打ちひしがれたような声で言って、少年はまた俯いた。本当に申し訳無さそうだ。
何だか、見ているこっちが可哀想になってくるくらいだ。
僕は、君を守る為に居たのに…何も出来なった…。僕は…『僕』に…。
完全に思い詰めた様子で、少年は頭を抱えた。
何だか、今にも消えて無くなってしまいそうな雰囲気だ。
夕焼けの茜色の光も相まって、酷く儚げに見える。

「謝らないで下さい。…今日は有り難う御座いました。
 もう少しで…私が狙われたことで、沢山の人が命を落とすところでした」

笑顔を浮かべるのが、難しいと思ったのは初めてだ。
少年の口許が、泣きそうに歪んでいるのが見えた。
だから、少しだけ聞いてみたいと思った。
蓮子を一度見ると、泣き腫らした眼を擦って頷いてくれた。
秘封倶楽部に、入ってみませんか。
メリーがそう言った時だ。やけに近くで、鴉の鳴き声が聞こえた。
カーテンの向こうで黒い羽根が数枚、静かに舞っていた。




[18231] 三十ニ話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/11/24 22:16
 
マエリベリー・ハーンの護衛は、失敗したようだね…。
そう言った少年の声は、いつもと違うように聞こえた。
永年付き従ったレイヴンだからこそ、そう感じたのかもしれない。
この無限遠の赤く澱んだ空間に、生物と呼べる存在は少年とレイヴンだけだ。
バックヤードは次元牢に良く似ている。だが、全く質が異なる。
次元牢が永遠の暗がりだとすれば、此処は、赤く澱んだ水の中の様だ。
彼方の地平線を織り成すのは、情報の粒子の海と、あらゆる次元への帳となる空だった。
赤い空と、赤い海、赤い地平線。その全てがアトランダムな揺らぎの中にある。
このバックヤード深部。その外縁に構築された円形の足場には、かなりの広さが在った。
土を凝り固めたようなその足場の縁には、金属の柱が等間隔で聳え、並び立っている。
厳かささえ感じさせる金属列柱は、バックヤードの揺らぎの中に在っても微動だにしない。
それが整然と並ぶ様は、まるで祭殿か宮殿のようでも在る。
『キューブ』はその円形の足場の、丁度上空に浮かんでいた。
『キューブ』には幾何学的な紋様が幾重にも刻み込まれており、それらが複雑に絡み合っている。

列柱の並ぶ円形の中心に立ち、巨大な『キューブ』を見上げて、少年は口許を引き結んでいた。

少年は、腕を広げるような姿勢だ。
右掌には、仄暗い蒼の光。左掌には薄明の碧色の光が宿っている。
その両掌の光は渦を巻き、螺旋を描くようにして、少年の胸のまえで編み直されていた。
時折、歯車同士が噛み合い、軋むような音が『キューブ』から漏れた。
『キューブ』が、少年の灯した螺旋の調律に応えているのだ。
途方も無い話だが、『キューブ』の中に在るものは、地球そのものと言っていい。
或いは、地球を形作り、存在する為に必要な法則や現象など、その全てが内包されている。
知識や言語。時間の流れ。文明。歴史。一人一人の人間の人生。全てだ。
巨大な地球儀。いや、天球儀と言うべきだろうか。
見方や規模を変えれば、『キューブ』は宇宙儀にもなりうるだろう。
この『キューブ』を調律出来る者は、この少年だけだ。たった一人しか居ない。
「僕のホムンクルスは、まだ生きていた…と、そう言っていたね…」
その到達者である少年は、無感情な声で呟いた。

レイヴンは眼を伏せるようにして、微かに頭を下げる。

「はい…。宇佐見蓮子の自室にて、確認しました。
マエリベリー・ハーンも、まだ生きています…。ですが…」

「分かっているよ。…“眼”を奪われたのは、大きな誤算だ。
 産まれたばかりのホムンクルスでは、少々荷が重かったようだね…」

白と黒を基調にした法衣を目深く被った少年は、『キューブ』を調律する手を止めた。
少年の両の掌の灯っていた光が消えて薄れ、バックヤードの赤い揺らぎに溶けていく。
両腕を下ろした少年は「…判断を誤ったようだ…」と呟き、視線を足元に落とした。
それから、唇に右手で軽く触れ、何かを思案しているようだった。

隣に控えていたレイヴンは、少々驚いた。
そんな仕種をする少年を、初めて見たからだ。
レイヴンの知るこの少年は、本当の意味で静寂の神だった。
少年が触れれば、謎も、神秘も、奇跡も、意味を失い、ただの現象に成り下がる。
誰もこの少年に抗う術を持たず、語る言葉も消え失せ、歴史すらも沈黙させてしまう。
少年が通る処には、常に凪いだ静寂だけが在った。そうして世界を見守って来た。
バックヤードとは結局、情報や確立を内包した“単語”の集まりに過ぎない。
世界を象る最小の単位が、この“単語”だ。バックヤードは辞書であり、図書館でもある。
“単語”を繋ぎ合わせ、意味ある“文章”に出来るこの少年は、常に世界の味方だった。
“文章”とは、現象であり、歴史であり、文明であり、全ての命であり、魂だ。
少年は『キューブ』という天球儀を介して、地球と言う惑星を、今も守ろうとしている。
事実として、少年は“慈悲無き啓示”を退け、人類は守られ、済し崩し的に繁栄していた。
彼らは平和に、呑気に、自堕落に、勝手気侭に、何も知らず、栄枯盛衰に一喜一憂している。
その濁世の営みを、半永劫の時を掛けて、この少年は見守り続けて来た。
最早、神話の域すら超えた、途方も無い御業だ。
そんな偉業と成し遂げた少年が今、何かを悩み、考えに沈み込んでいる。
迷っているようでもあった。
終戦管理局は、僕以上にフレデリックの事を知っていたのか…。
自身の過ちを見詰め直すように言って、少年は再び『キューブ』を見上げた。

過ち。過ちなど、この少年に限って在り得るのだろうか。
しかし…、と。レイヴンは、低く呻りそうになってしまった。
終戦管理局がバックヤード侵攻の為に、想像以上に強力な手駒を用意していたのは事実だ。
そして、マエリベリー・ハーンの護衛は、失敗に終わっている。
少年は、ホムンクルスを一人護衛に付けるだけで、対処は可能だと考えていた。
だが違った。失敗した。それもまた事実。レイヴンは何も言えなかった。
少年は、何かを決めかねているような様子だ。
沈黙が、その証拠だろう。また、『キューブ』が僅かな軋みを上げた。
その音を聞きながら、少年は少しだけ、口の端に笑みを浮かべたようだった。
不思議な笑みだった。楽しみや、喜びとは違う。
歓喜とは程遠い、本当に微かな笑みだ。
それから、少年は肩の力を少し抜くようにして、軽く息を吐いた。

レイヴンはやっと分かった。少年は、安堵したのだ。
だが、何故。レイヴンは混乱しそうになった。戸惑いを覚えた。
この少年が、こんな人間らしい仕種をする事は滅多に無い。
普段は、全てを見透かし、悟り切った様子の少年が。微苦笑のようなものを浮かべている。
しかも、状況は劣勢に傾きつつある。だというのに、何故、安堵出来るのか。
終戦管理局に残っていた切札も、最悪の形で現れた。
ソル=バッドガイの悪質なコピーだ。
あんなものまで用意してくるとは、向こうも相当に此方を意識している。
ジャスティスのコピー共と同時に相手にするには、厄介なのは間違い無い。

「マエリベリー・ハーンに元に送ったホムンクルスには…、
そのまま彼女の護衛にあたるよう伝えてくれないか…。『僕』の失態は、僕がケアしよう」

だが、やはり少年は危機感を全く感じていないようだ。
力んでいるようでも無い。緊張している訳でない。焦ってもいない。
しかし、口許に浮かぶ微笑は、普段のものとは明らかに違う。

 「終戦管理局が、再びマエリベリー・ハーンを標的にしない…とも、言い切れないしね」
 
レイヴンは「御意に…」と頭を垂れてから、少し間を置く。
それから、「…しかし」と言葉を返した。聞かずには居られ無かった。
 どうしても聞いてみたくなった。

「マエリベリー・ハーンの護衛では無く、消滅処置を取る方が確実では…」

 以前から考えていたことだ。
幻想郷の住人が狙われるのであれば、最初から幻想郷そのものを破壊してしまえば良い。
 終戦管理局も、幻想郷というフロンティアを失う。そうすれば、奴らも標を失う。
 八雲紫の境界操作以外にも、終戦管理局に渡れば不味い能力はまだまだ存在している。
 ならば、奴らに手に入れられる前に、潰してしまった方が守るよりも簡単で確実だ。
 マエリベリー・ハーンの場合も、同じことが言えるのでは無いか。
 ホムンクルスを送り込み護衛するのでは無く、彼女を消滅、分解させていれば。
そうしていれば、今の状況は回避出来たのでは無いだろうか。
奴らの戦力増加にも、もっと早い段階でストップを掛けられただろう。
 レイヴンの言わんとしているところには、少年も気付いている筈だ。
 当然、気付いている。気付いていない筈が無い。
気付いていながら、少年は答えない。微笑みだけを返してくる。
 レイヴンの歪み濁った声は空回り、この赤く澱んだ空間に虚しく混ざり合った。
 答えを求めるように、レイヴンは少年の方へと向き直る。
 「これ以上、…無垢な血を流す必要は無い。それを強要する権利も、僕には無いよ」
 微苦笑を浮かべたまま、少年は呟くように言って、レイヴンを一瞥した。
 それからまた、ゆったりとした動きで『キューブ』を見上げる。
 
 「…イノの捕捉探知も、随分中途半端だったようだからね。まだ時間が掛かりそうだ。
  僕も、『キューブ』の調律に加え、するべき事も残したままだからね…」

 ホムンクルスの数にも、限度が在る。…今は、君が頼りだ。
 少年は『キューブ』を見上げながら、深みがあり、それでいて幼さの残る声で言う。
勿体無いお言葉です…、と、レイヴンはすっと頭を垂れる。
次の瞬間には、その姿が消えていた。
代わりに空間の僅かな歪みと、鴉の羽がハラハラと舞い散っている。
その羽も、すぐに黒い光の粒となって薄れ、消散してしまった。
バックヤードに残された少年は、何も言わず『キューブ』を見上げていた。
 君が守ろうとした世界を、僕も守りたいんだよ…。フレデリック。
 信じてもらえないだろうけれどね…。事実なんだ。嘘じゃない。僕の本心なんだ。
 少年は誰にも聞こえないような小声でそう呟いた。
 『キューブ』がまた、少し軋みを上げた。
 
 
 
 



 
 こりゃあ、強敵揃いだな…。勝てる気がしねぇ。
以前、ソルと手合わせをしたこともある地霊殿の中庭で、シンは参ったように呟いた。
でも、少し嬉しそうな、楽しそうな声音でも在った。
シンの言葉に答えたのは、中庭を埋め尽くす勢いのさとりのペット達だ。
みゃー。にゃー。みー。ワンワン。ばう。くうんくぅん。わうわう。
 鳴き声を上げながら、猫やら犬やらがシンに群がっている。
石造りの壁に凭れかかり、胡坐をかいて座っているシンは、獣塗れになっている状態だ。
 大型の四足獣の子供も居る。熊の子供だろうか。狸や鼬のようなものも居る。
他にも、鼠やら蛇やらも居て、ほとんど動物園状態だった。
 もみくちゃにされながらも、シンは笑顔でペット達を順番に、よしよしと撫でてやる。
 だが、数が数だけあって、全員を一気に相手にするには、流石のシンでも無理だった。
 撫でている間も、他のペット達が、僕も、私もと、次々にシンへと体を擦りつけて来る。
 柔らかな毛並みが織り成す、もふもふ地獄だった。
うひゃあ。シンは悲鳴を上げながら、もふもふの渦に飲みこまれた。
 シンの顔や腕をペロペロと舐めて、ペット達は遊んで欲しい事をアピールしてくる。
 というか、既にシンは遊ばれている。翻弄されている。
 うもぅぉー、と間抜けな声を上げながらも、何とかペット達の遊び相手になろうとする。
 だが、シンはもう遊び相手というよりも、遊び道具と言った風情だ。
 そのうちシンはペット達に押し倒され、余計にもみくちゃにされ始めた。
 
 「ちょっ! お前ら! タイムタイム! ジーンズが…!」
 
 大事件発生だった。
 悪戯好きな鼠が、ブーツの隙間から、シンのジーンズの中に入り込んだのだ。
 脚先から太腿へと、こちょこちょと這い上がってくる感触が在る。
 パンツの中にまで入られたら、流石にやばいと思った。
 擦り寄って群がってくるペット達を何とか往なしながら、慌ててベルトを外す。
 上に羽織っていたコートが何かに引っ張られたのは、多分それと同時だった。
 見ればペットの犬が三匹ほど、シンの白コートの裾をかぶっと咥えて、引っ張っている。
そんなに遊んで欲しいのかよ。ちょっと待ってくれよ。
 だが、頼んでみてもペット達は嬉しそうに尻尾を振りながら、群がってくるばかりだ。
シンの顔が引き攣る。
そうこうしている内に、鼠がトランクスの中にまで入り込んだのだ。
俺のタマはどんぐりじゃねーぞ! 
シンは犬達に引っ張られるコートを慌てて脱ぎ捨てた。
序にブーツとジーンズも脱ぎ捨てて、ガバッと立ち上がる。
その拍子に、シンの頭に乗っかっていた猫がバラバラと落っこちた。
群がってくるペット達を押しのける勢いで立ち上がったシンは、トランクスの中に手を突っ込んだ。
勿論、この悪戯鼠を捕まえる為だ。だが、一手遅かった。
もう鼠はポロッとシンのトランクスから零れ落ちて、コロコロと地面を転がっていた。
そしてそのまま、たたたっ、とすばしっこく走って、他のペット達の中に逃げ込んでしまった。
「こら…! 待ちやがれ!」シンは、鼠を追いかけてやろうかと思った。
だが、他のペット達がすり寄ってくるので、すぐにそれどころでは無くなった。
わんわんと犬達が吠え出しかと思えば、猫達もにゃあにゃあと鳴き出した。
全く…、元気だなお前らは…。
パンツ一丁のままで、シンは溜息を吐きながらしゃがみ込む。
目の前に居た犬達の頭を撫でながら、「ったくよ。誰が洗濯すると思ってんだ…」
犬達に引き摺られて遊び道具にされているコートを横目で見て、苦笑を浮かべた。
脱いだジーンズも、他のペット達の遊び道具になっている。
洗濯だけじゃなくて、修繕するのも大変そうだ。

騒がしくて、賑やかで、ペット達の無垢な眼で見詰められていると、何だか心が安らぐ。

とにかくこうして居る内は、何も考えないで済んだ。
余計な事を考えないで良いから、気が楽だった。
ペット達に囲まれていると、何故かあの“声”は聞こえて来なかった。
忘れていた。忘れていたかった。もう聞きたくもなかった。
もういいだろ。うっせぇよ。そんな気分になった。
俺は、白玉楼に帰る。帰りたい。守りたい。
その為に、幻想郷の力になりたいんだ。戦いたいんじゃない。
違うんだ。俺は、戦狂いなんかじゃない。荒廃を求めてなんかいない。
平穏が良い。こうして、動物達と戯れている時間は癒される。
何かを考えるのは、苦手だ。
お前は、喧嘩の才能しかねぇのか。
溜息混じりに、そうオヤジにそう言われた事も在る。
俺が、馬鹿みてぇに旗を振り回すことしか考えて無かったからだ。
ただ強くなりたかった。それだけだった。
暴力を好き好んだ訳じゃない。違う筈だ。
誰かを傷つけたいと思った事なんて無い。そう思う。
駄目だ。考えても意味無ぇな…。
ペット達の頭を順番に撫でてやりながら、シンは頭を軽く振った。
あの…お一つ伺っても良いですか…。
そんな怯えたような震えた声が聞こえて、えっ、と顔を上げた。
 ぼんやりと抜けた頭で考え事をしていたから、気付かなかった。

近くまで来て居たさとりと眼が合った。手には何かの包みを抱えていた。
それとペット達のエサを入れる皿も、何枚か重ねて持っている。
其処に居たのはさとりだけでは無かった。包みを抱え来たのは、他にお空やお燐も居た。
彼女達の様子は少しおかしかった。三人とも顔が赤い。
さとりは、シンと眼を合わせようとしない。
それに、妙にそわそわ、というか、もじもじとしている。
お空は、ぽーっとした様子で、シンの身体を見詰めているし、お燐も同じような様子だ。
見惚れているようでもある。
「ど、どうして…下着姿なんですか…」
ぽそぽそとした尻切れのさとりの言葉に、シンは自分の姿を見て、あぁ、と納得した。
ブーツまで脱ぎ散らかして、シンは見事なまでにパンツ一丁である。

さとり達が眼のやり場に困るのも仕方無いと言えた。
シンの身体には余計な脂肪はほとんど付いておらず、鍛え抜かれて引き締まっている。
 細身ではあるが筋肉にもボリュームがあって、均整の取れた身体つきだ。
 筋肉の凹凸が造る陰影には、精巧に彫られた彫刻のような肉体美が在る。
同時に、ガチガチの筋肉マンとはまた違う、しなやかな男性独特の色気が在った。
さとりは、ちらちらとシンの方を伺いながら一つ咳払いをした。

「公序良俗と言いますか…、えぇと…、とにかく服を…」

「悪ぃ…こいつらに剥ぎ取られちまってな…」
シンのコートとジーンズは、ペット達が噛み付いたり引っ張り合ったりしている有様だ。
面倒くせぇなぁ。思わず呟きそうになった。
ビリビリに破かれてはいないが、はしゃぐペット達を止めに入るのは骨が折れそうだ。
シンが苦笑を浮かべて答えて見せると、ペット達もさとり達に気付いたようだ。
わうわう。わんわん。にゃあ。みゃー。くぅんくぅん。
今までシンに群がってきていたペット達が、さとり達の方へとばらばらっと集まっていく。
後に残されたのは、埃と唾液塗れになったシンのジーンズとコートだけだ。
溜息を吐いたシンは、取り敢えずジーンズを拾い上げ、埃を払ってから脚を通す。
唾液で若干で湿っていて気持ち悪いが、パンツ一丁のままでは流石に良くない。
ペット達だけならまだしも、流石にさとり達の前でパンツ一丁のままは駄目だろう。
「べとべとじゃねぇかよ…」呟き、ベルトを締めてから、今度はコートを拾い上げる。
埃を払ってからコートを肩に引っ掛け、ブーツを履き直し、シンはさとり達に向き直った。

「こいつらもエサの時間か…。俺も腹減ったな」
羨ましそうな声になってしまったのは、自分でも分かった。

「さっき食べたばかりじゃないですか…」
可笑しそうに微笑んで、さとりは手に持った皿を地面に並べていく。
そして、手にした包みから干し肉や干し飯を盛り始めた。お空とお燐も、それに倣う。
エサを前にして、ペット達の鳴き声が一際大きくなった。
しかし、皿にエサを盛り終えたさとりが、すっと掌を下にして見せた。
それから静かな声で、「待て…」と言うと、ぴたりと泣き声が止んだ。
犬や猫達は一斉にお座りをして、鼠やら熊の子供やらも、伏せるような姿勢になった。
おぉ…、とシンは驚きの声を上げてしまう。本当に良く躾けられているようだ。
ペット達の様子を見回してから、さとりは口許に笑みを浮かべ「…よし」と呟く。
すると今までの騒がしさが嘘のように、ペット達はゆっくりと、行事良くエサを食べ始めた。

 「…お茶でも飲みますか。お菓子くらいなら在りますよ」
 ペット達から視線を外し、さとりはシンの方を見てから、すぐにまた逸らした。
 男性の上半身裸は、さとりには刺激が強いのだろう。顔の赤みが、まだ抜けていない。
お菓子かぁ、良いなぁ…、と羨ましそうな声を上げたのはお空だ。
 身体付きや顔立ちは大人びた風貌なのに、言動や仕種が少し子供っぽい印象を受ける。
「はいはい…、私達にはまだやる事あるでしょ」と、そのお空の肩を掴んだのはお燐だ。
赤毛に黒い猫耳を生やし、少し斜に構えたような苦笑を浮かべている。
 
 「少し休憩を入れましょうか…。お空も、お燐も、一緒にどう?」

そんな二人を振り返りながら、さとりは優しげに微笑んだ。
 お空は眼を輝かせ、お燐は驚いた、というか畏れ多そうな貌になった。

 「い、良いんですか!? というか、そんなのんびりしてたら…」

お燐は、エサに群がるペット達と、お空と、さとりを順に見回した。
 少々挙動不審になっている。根が真面目だからだろう。
 
 「適度な休憩も必要ですよ…。地底が狙われる事になるなら、尚更でしょう…。
  英気を養う意味でも、神経を張り詰め過ぎるのは良くありませんよ…」
 
 「そ、そうかもしれませんが…」
 
 お燐は、さとりに何か言おうとして止めたようだ。
 確かに、気ばかり張り詰めていても仕方無い。必要なのは、防備に回れるだけの戦力だ。
 その為に、今の旧都の方には、勇儀が詰めている状況だ。
 更に加えて、小さな百鬼夜行、萃香も旧都に身を置いていた。
 鬼の四天王は二人共、もう前の戦いでの疲労も傷も、すっかり癒えている。
 お燐は少し前に二人に会って話す機会があったが、戦う気満々という感じでは無かった。
というより、殺る気満々と言った感じだった。
 此処に攻めて来る可能性が高いと聞いて、勇儀は不敵に笑い、萃香は眼を窄めていた。
 その相貌に鳥肌が立ったのを覚えている。二人は本気で、相手を潰しに掛かる気だ。
それに他の鬼達も、地底に追われた妖怪達も、既に戦う準備は出来ている。
 迎え撃つことも、打って出ることも出来る体勢だ。これ以上は望めない。
此処で、神経を衰弱させるのは得策では無い。
勇儀や萃香もそう考えているようで、普段通りに酒を飲みながら、動く時を待っている。
鬼の四天王。その二人が自然体で構えているからこそ、旧都はまだ静かなままだ。
いや、いつも通りと言った方が言い。
変わらない。妖怪達は戦う覚悟していながら、普通の生活を送っている。
力を蓄え、日々を過ごしている。頼もしい限りだ。
 それに、地霊殿にはお空も居るし、今ではシンも居る。
 
 「ん? 俺の顔に何か付いてるか?」
お燐は考えていると、シンと眼が合った。気付かぬうちに、シンを凝視していたらしい。
ぺたぺたと顔を触りながら、シンが怪訝そうな貌でお燐を見ていた。
あぁ、違うよ。シンの兄さんの身体の逞しさに、見惚れてただけだよ。
冗談めかしてお燐は言って、シンに片目を瞑って見せた。

「そうだよねぇ。シンのハダカを見てると、何か…、ど、ドキドキするよね」
顔を少し赤らめたまま、お空はお燐の言葉に笑みのまま頷く。
それから、興味深そうにシンの傍へと近寄って、腕や胸の筋肉をマジマジと見詰めた。
「な、なんだよ…」と、その露骨な視線に、シンの方も少したじろいだ。
だが、そんな事はおかまい無しに、笑顔のままお空は顔を上げる。
それから、ねぇねぇ!、とシンの二の腕を指差した。
「触ってみても良いかな」。凄くウキウキした様子で言われ、シンは戸惑った。
こ、こら、お空…、と小さな声でさとりが諫めた。でも、さとりもちょっと興味が在りそうに見える。
シンは「ああ、そん位なら別に良いぜ」と頷いた。減るもんじゃねぇしな。
お空に続いてお燐も、それじゃ私も、とシンの傍に歩み寄って、照れたように笑う。
さとりの方は、どうしようかちょっと迷っている様だった。

「オヤジとかの方がもっと凄ぇけどな」
シンは言いながら、コートを持っていない方の腕にぐっと力を込めて、力こぶを作って見せた。
おおぉ…と、お空とお燐の二人が声を上げた。
腕だけで無く、厚い胸板や背筋も強調されていて、やはり男くさい格好良さが在る。
もともと顔立ちも整っているし、くすんだ金髪や、緑色の優しげな眼も魅力的だ。
それじゃ失礼して…。と、人差し指でお燐はシンの上腕二等筋を、つんつんと押して。
わ、凄く固い~! お空もドキドキした様子で、シンの胸筋を人差し指で突いている。

「何か擽ってぇ。…ん。どうした、さとり?」
 お空とお燐に腕や胸の筋肉を突かれ、こそばゆいのを我慢していると、視線を感じた。
 さとりだ。何だか、何かを言いたそうに唇を動かしているが、言葉に出来ていない。
 シンとは視線を合わせないさとりは、唾を飲み込んでから唇を少し噛んだようだった。
「わ、わた…私も…良いですか?」とだけ、喉から搾り出して黙ってしまった。
顔が真っ赤になっていた。やっぱり、言わなきゃ良かった。そんな感じだった。
だが、シンの能天気な頭では、其処まで理解出来なかった。
「よっしゃ、良いぜぇ!」だから、ニッと笑って、今度は腹筋に力を込めて見せた。
嫌味も嘲笑も全く無い。無邪気な少年のような笑みだった。

だからこそ、その心に篭る暗雲が際立つ。
さとりにだけは見えていた。第三の眼が、シンの心の影の部分を見据えていた。
シンが自分自身を恐れている事は、以前地霊殿に来た時から、さとりは薄々感じていた。
今は、その恐れがより大きくなっている。
それでもシンは、表面上はこうして明るく、気丈に振舞っている。
誰かを憎むでも無く、恨むでも無く、見下すでも無く、嘲笑う事もしない。
シンは、どこまでも真っ直ぐだ。可哀相な位に。
さとりは、ソルの過去に触れたことで、シンの生い立ちについても知っている。
誰かに恐れられ、忌避される事を恐れているのも、第三の眼が読み取って、知っている。
シンは、自分の心の中に“何か”をひた隠しにして、此処に居た。
その“何か”が、誰かを傷つけるのを恐れている。
恐れて、眼を背けようとして、でも結局、怖くて、眼を背けられない。
直視し続けるしかない。眼を離した瞬間、その“何か”がどうなるのか分からない。
恐れている。理解できないでいる。翻弄されている。苛まれている。
でも、それを表には出さない。決して出さないようにしている。
シンは純朴で純粋だ。悪く言えば、まだまだ精神が未熟な状態だ。
誰かを傷つける自分を全力で否定しようとして、必死に“何か”抑えこんでいる。
 その苦悩を、さとりは読み取って、それでも何も言わず、お空やお燐に混じって、そっとシンの傍に近寄った。
今の暖かな空気を壊さぬよう、さとりは微笑みながらシンの胸に、小さな掌でそっと触れた。
掌に伝わってくるシンの体温は、力んでいるからか、少し熱いくらいだった。
シンは、やっぱり白い歯を見せて笑って居た。
その笑顔が、ほんの少しぎこち無く見えたのは、多分さとりだけだろう。
 
「何か…心のことで悩み事が在るなら、いつでも相談に乗りますよ」
さとりは、シンの胸から掌を放し、背を向けた。
それから、肩越しに微笑みを浮かべ、シンを見詰める。
まだシンの筋肉に夢中になっているお燐とお空は、ぽかんとした様子で眼を見合わせた。
シンの方は眉尻を下げ、苦笑を浮かべようとして、失敗したみたいな貌だった。

「…あぁ。でも、まだ多分、大丈夫だ。すまねぇな」

全部見透かされていても、シンはさとりに嫌悪感を表さない。
不思議な青年だ。暢気と言うか、御人好しと言うか。
でも、誰かに忌み嫌われる辛さを知るシンには、さとりも親近感のようなものを覚えた。
心を読まれて尚、此処まで自然体で接してくれる者など、今まで殆ど居なかった。
だから、余計だろう。何となく、シンの力になってあげたくなる。

「いえ…。では、中に入りましょうか。お空、お燐も来なさい」
さとりは、それ以上のことは言わず、地霊殿の玄関ホールへと足を向けた。
その背中を追うように、お燐とお空も、シンから離れていく。
ペット達はまだ食事中だ。旨そうにエサにがっついている。

さとり達の背中を見ながら、シンは軽く鼻から息を吐いた。
やっぱり、さとりにはバレちまうか…。呟いて、また溜息が出そうになるのを堪える。
“声”は聞こえない。でも、不安は消えない。胸の中がジクジクする。
さとりが言ってくれたように、相談に乗って貰った方がいいのかもしれない。
だが、あの“声”が自身のものだと認めたくなった。肯定したくなかった。
西行妖に喰われかけた時。逆に、黒稲妻で喰らいに掛かった時。
何か、自分の大切なものが吹っ飛んでいく感覚が在った。
あの時、俺は確かに何かを失くして、その空白を埋めるように喰って、飲み込んだ。
それが何なのかは分からない。俺は歪んでいる。少しだけ眩暈がした。
シンはしゃがみ込んだ。俺は、何のために此処に居るんだ。
少し俯いたあと、一匹の犬の頭を撫でてから、さとり達の後に続いた。












幻想郷中に張り巡らせた探知結界は、完全に機能している。
他の次元からの干渉などなら、絶対に見逃さない。その筈だった。
だが、終戦管理局はその網の目を潜り抜け、忍び込んで来てみせた。
しかもたった二人で、勇儀や萃香を退けただけでなく、紫やソルをも抑え込んで見せた。
結果から見れば幻想郷はまだ無事だ。
だが、その平穏も、もうかなり危ういところまで来ている。
 永遠亭は生命線として、今ではイズナが控えているし、
人里の守りは、慧音の歴史隠蔽に加え、妹紅などの腕の立つ者が常に詰めている。
紅魔館も、既に前回の襲撃でも傷も癒えて、迎撃体勢にある。
紫は、幻想郷の空気が張り詰めているのを肌で感じていた。
後は、“あの少年”が言っていた、終戦管理局による地底と守矢神社への攻撃の可能性。
無視するにはリスクの大き過ぎる忠告を受け、紫は、アクセルとシンに動いて貰った。
それが正しい選択なのかどうかは、全く分からなかった。
何せ、終戦管理局の動きは出鱈目だ。
紅魔館を丸ごと転移させようとした次には、たった二人で乗り込んで来た。
幻想郷に傷跡を残す力を、終戦管理局は幾らでも持っている。そう考えた方が良い。
今のうちに出来る限り万全の体制にしておきたかった。
出来たかどうかは、分からない。しかし、それに近づけるべく力は尽くした。
 幻想郷を包む探知結界を張り直すのには、本当に苦労した。
博麗大結界に加え、これだけの大規模の結界を維持するとなると、本当に骨だ。
それから幻想郷の各所を廻り、注意を促した。ほとんど不眠不休で動き回っていた。
おかげで、頭がぼんやりして上手く働いている気がしない。
欠伸が出る程眠くは無いが、身体が酷くだるい。軽い吐き気もする。
多分、顔色も良く無いのだろう。
心配そうな貌をした藍から「どうか、少しお休み下さい…」と言われた。
自分の式神に心配されるようでは、まだまだだ。私は動揺している。
焦っている。恐れている。それを振り払うように、結界を張って廻った。
必死だった。ただ、今の段階ではそれくらいが精一杯だった。
妖怪の山の妖怪達も傷を癒し、その戦意もまだ衰えてはいない。
またいざとなれば、紫達の戦いに加わってくれるだろう。
 後は、紫自身がどこまで力になれるかどうかだ。

博麗神社を訪れた紫は、境内の静謐な空気を吸い込んで、眼を閉じながら息を吐いた。
結界の管理は、藍が引き受けたくれた。何かあればすぐに知らせてくれるだろう。
今の間に少し横になって休むべきなのだろうが、どうもそんな気分にはなれなかった。
眠るよりも、彼に会いたかった。
日傘を手に、相変わらず参拝客の姿の見えない博麗神社の境内を、ゆっくりと歩いていく。
今の時間は昼下がりだ。陽だまりの中の境内は暖かく、心地よい。
ただ、風は無い。梢の鳴る音も、今日は聞こえなかった。境内はやけに静かだ。
箒を手に、境内の掃除をする霊夢の姿も見えない。
でも、彼はいつもと変わらず、賽銭箱前の階段に腰掛け、剣を肩に立てかけていた。
無表情のままの彼は、顔をゆっくりと上げた。金色の眼が、紫を捉えた。
少しだけ、胸が高鳴った。自分でも不思議だった。今の感情は何と呼べば良いだろう。
「………顔色が悪いな…」凪いだ、低い声で彼は言った。
声を掛けられるとは思っていなかったから、少しだけ驚いた。
胸の内側が、少し締め付けられるような気がした。
結界修復の為に幻想郷を飛び廻っていた時も、彼の事が何度も頭の中を過ぎった。
何と言葉を返していいのか、一瞬戸惑ってしまう。
彼は。ソルは黒袴に黒のドテラを着て、紫の言葉を待つように静かに見詰めている。

「…えぇ。冬眠でもしたい気分だわ」
いつものように胡散臭い笑みを浮かべようとしたが、多分出来なかった。
境内を歩き、賽銭箱前へと歩を進め、辺りを見回した。やはり、霊夢の姿が無い。
紫が境内に視線を巡らせるのを見て、ソルは鳥居の方へと視線を移した。

「…博麗なら…里の方に行っている…今は留守だ…」

「そう…。お茶でも出して貰おうと思ったけれど…。少し待たせて貰おうかしら」
紫は言いながら日傘を畳み、どっこいしょ…と、ソルの隣に腰掛けた。
ソルの方は微妙に驚いたらしく、身を引くように少し腰を浮かしかけていた。
その様子に、紫は少しだけ笑ってから、ゆっくりと空を見上げる。

「……終戦管理局からの動きは…まだ無いようだな…」

「探知結界には、まだ何の反応も無いけれど…。
 前のように、ごく小規模の転移術で忍び込まれたら…また後手に回ることになるわ」

「…先手を打ちようがないからな…」

ソルは鼻を鳴らすように言って、視線を地面に落とした。
…奴らの居場所さえ分かればな…。
独り言のように呟いたソルは、右手を握って、開いた。
その右手は、微かに震えているようだった。まだ癒えきっていないのだろう。
感触を確かめるように、右手を握ったり開いたりしながら、横目で紫を見た。

「……“野郎”が動く事になれば…また厄介な事になりそうだがな…」

人里での戦いが終わってから、ソルは霊夢達からその話を聞いた。
赤い楽師の女が現れたと。“あの男”もこちらに干渉せざるを得なくなりつつ在る。
あの暴走思考気味のイノが出張ってくる位だ。そういう事だろう。
バックヤードの中に引き篭もって、“あの男”が何をしようとしているかはソルも分からない。
だが、追い詰められているのは、もう幻想郷だけじゃないという事か。
 微かに震える右手を見詰めて、ソルは面倒くせぇな…、と呟いた。
少しの沈黙が在った後。
その右腕…と、ソルの隣に座っていた紫が、ぽつりと零した。
 
「まだ治りきってないのね…。身体の方は大丈夫なの…」

少し心配そうな顔で、紫はソルを見詰めた。
ソルの方は、僅かに眉間に皺を刻んで、無言のまま視線を逸らした。
紫が予想した通りの反応だった。
もしかしたら、ソルは苦痛の表現の仕方が分からないのだろうか。
痛がったり、苦しがったりする方法を忘れてしまっているのかもしれない。
際限無く苦痛と苦悩を受け入れ続けて来たからだろう。
俺はこんなに苦しくて、痛いんだ。そんな事は一切言わず、思わず、粛々と戦う。
私にも、それが出来るだろうか。紫は心の中で思いながら、ソルに聞いてみたくなった。
だが、紫が何か言葉を続けるよりも先に、眉間に皺を寄せたソルが鼻を鳴らした。
 …まぁ…かなり無茶なことをしたからな…。ソルは、紫と眼を合わせない。
つまらなさそうに言ってから、右掌と、その肩に立てかけた封炎剣を一瞥した。

「……体にガタは残ってはいるが…。…直に治る…」
…俺は…、と言いかけて、ソルは口を噤んだ。
それから、紫の視線から逃げるように境内へと視線を移した。
俺はギアだからな。多分、そう言おうとしたのだろう。
自身を卑下するような、何だか悲しい声音だった。
境内に向けられたソルの金色の眼は、やけに遠くを見ている。

「地底か守矢神社には、貴方に行って貰おうかとも思ったけれど…。
やっぱり、此処に留まって貰って正解だったわね」
 
 そんな身体で無茶ばかりさせられないし…、と、紫は少し悪戯っぽく言ってみた。
 ソルは何も言わず、紫を横目で見ただけだった。チチチチ、と鳥の声がした。
境内の日向に、小鳥達が降りてきて、地面を啄ばんでいる。
緩い風が吹いて、梢が揺れた。枝葉の擦れる音が、澄んだ空気の中に響く。
 
「…気を遣わせて悪いな……。
…俺は…もう役に立てんかもしれん…」

 風の音に攫われそうな声で、ソルは低い声で呟いた。
 自分自身のギアの肉体への対策。加えて、ソルのコピーの存在。
 どう考えても、ソル自身だけの力では分が悪い。

紫はすぐに「私も同じよ…」と答えた。
特に気負うでも無く、何気無く返した。

そのつもりだった。

紫は俯いて、自分の膝上を見詰めている。
今自分がどんな貌をしているのか分からない。
眩暈のようなものを覚えた。
世界に置き去りにされたような気持ちが、一気に胸の内で膨れ上がった。
焦り。怯え。不安。寂寞。苛立ち。その全部だった。
抑えていたのに。ソルが紫の方を見た。怪訝そうな貌だった。

「私の境界操作の力は、もう解析されて、対策を打たれているわ…。
 妖怪の山での戦いじゃ…まんまと誘き出されて、足を引っ張っちゃったもの」

紫の声は途中から、微かに震えていた。唇の端も、僅かに震えている。


「自分自身の事を、此処まで調べ尽くされた事なんて、今まで無かったから。
 どうして良いのか、分からない…。何か、考えないといけないのに…何も…」

何故、ソルの前でこんな事を言っているのか、紫自身も分からなかった。
でも、一度言葉になると、もう堰き止めることが出来なかった。
紫は膝の上に置いた手をぎゅうぎゅう震える程握って、俯く視線も揺れていた。
激務に身を置くことで、思考の片隅に追いやっていた感情が溢れそうだった。

「突き詰めて考えれば考える程、取り返しが付かないの…。
私は、私を知る者に抗う術を知らない…。その事に、気付くのが遅れた。遅すぎた…。
境界操作の力を抑えられて…私は…」

終戦管理局は、八雲紫という存在を、完全に対策して見せた。
永い年月を生きた妖怪の賢者でも、それは初めての事だった。
境界を操り、神々の領域にすら足を踏み入れた紫を、終戦管理局は封殺したのだ。
月面戦争の時とは、全く種類の異なる敗北だ。今まで、こんな事は無かった。
幻想郷を守る為、紫は常に尽力して来た。異変を解決し、平穏を保って来た。
流れ着く不法者を裁き、幻想郷に害する者を駆逐していった。
ただ、その為には『境界を操る程度の能力』が在ったからこそ、出来た事だった。
妖怪としての力よりも、紫の持つ常識を覆す能力の方が圧倒的に強力だった。

妖怪とは精神に比重を置く存在だ。
では、八雲紫が自身の価値を何処に置いているか。自身のアイデンティティは何だ。
 そう考えた時は、当然『境界操作』の力が真っ先に来る。当たり前だ。
 幻想郷を守り続けるために、八雲紫が八雲紫である為に、必要なものだからだ。
 その力が解析され、分析され、研究され、開発され、剥奪されようとしている。
 妖怪の山では、封じ込まれてしまった。
その時、紫の精神を蝕んだのは、自身の不甲斐無さよりも、『無力感』だった。
強大な力を持つ者程、無力感というものに対する免疫が無い。無縁だからだ。
しかし、今の紫は違う。
クロウが開発した法術式は、紫を、ただ妖力が強いだけの存在になってしまう。
それは、今まで幻想郷の管理者として生きてきた『八雲紫』では無く、ただの妖怪だ。
妖怪の賢者から『境界を操る能力』が無くなれば、後に何が残るのか。
恐ろしくて、紫はその答えを出せずに居る。
考えるのが恐ろしくて、忘れたくて、幻想郷を飛び廻り、激務に身を置いていた。

「私は…怖いわ…。凄く怖い…。
…考えれば考える程、どうすれば良いのか分からなくなる…。
今まで、こんな事は無かったわ…。自分自身が無意味に思えてきて…。
戦う事も出来なくなったら…私は…」

瀬戸際で押さえていた何かが溢れそうだった。涙が出そうだったが、何とか堪えた。
俯き、頭を抱えるくらいしか、今はもう出来ることが無い。
疲れた。そうだ。私は疲れてるんだ。頭がぼうっとして、視界が滲んで。
馬鹿みたいだ。きっと、ソルも隣で呆れているだろう。
もしかしたら、失望しているかもしれない。
こんな時に、弱音を吐いて、頭を抱えて俯いて、涙声で、こんな事を言って。
式神の藍や橙の前で、こんな姿は見せられない。
レミリア達や、輝夜達にも見せたくない。霊夢や魔理沙にも。

誰にも見せたくなかった。見られたく無かった。

でも。ソルが。俺が役に立たないとか言うから。
悪いな、とか、いつもよりも優しい声で謝るから。
つい、言葉に出てしまった。弱い自分を曝け出してしまった。
私は、甘えようとしている。もう頼れるような場所が、此処しか無くて。
思いつかなくて。どうしようも無くて。誰かに支えて欲しくて。
……俺には…。ソルの低い声が聞こえた。
紫はソルの方を見れなかった。

「…もう…故郷と呼べるような場所は無い…」
ソルは膝を立てるように座り直して、境内を遠い眼で見詰めている。
チチチチ、とまた鳥の囀りが聞こえた。風も止んでいて、やけに静かだ。
……だが…、と言葉を続けたソルの低い声は、良く通った。
目許を手で拭い、紫は抱えていた頭を上げて、ソルの方を見た。
無機質なソルの金色の眼が、ゆっくりと紫の方を向いた。
でも、その眼には、不思議な暖かさが宿っているように思えた。

「…お前にとって…この幻想郷が…
掛け替えの無いものだという事は…分かっているつもりだ…」

其処まで言って、ソルは紫から視線を逸らして、右手で額の刻印に触れた。
それから、少し困ったような貌になって、……む…、と呻った。
 言葉を選んでいるような、迷っているような様子だ。
 
「…俺が“野郎”の手の上で踊ることで…
…幻想郷に住む奴らが助かるんなら…今は…それで良いと思ってる…」

紫は何も言えないまま、その言葉を聞いていた。
ソル自身は、言葉を選んでいる様子ではあるが、その眼に迷いのようなものは無い。
横目で紫を見る金色の眼は、落ち着き払っている。

「…だが…俺もこの様だ…。…手酷くやられた…。
…俺一人では…“野郎”の手の上で踊ろうにも踊れん…お前の助けが居る…」

…それに…お前が居なくなれば…幻想郷が立ち行かんだろう…。
ソルはそれだけ言うと、視線を境内へと戻して、黙ってしまった。
紫の様子に対して何も言わないのは、ソルなりの気遣いだろう。
何よ。言いたい事言って。文句を言おうとした紫だったが、結局言えなかった。
私は疲れてる。冷静じゃない。平静を保っていられない。
お前の助けが居る。私だって、そう。私も。ソルの助けが要る。
傍に居て欲しい。守って欲しい。皆を。幻想郷を。力を貸して欲しい。
気付けば、紫はソルの肩に額を預け、ドテラの袖をぎゅっと握り締めていた。
見ないで欲しい。弱りきっている私を。涙が出て来た。止められなかった。
霊夢が来ないのが、せめてもの救いだった。ソルは黙ったまま、境内を見詰めたままだ。
多分、何かを聞かれたり言われたりしても、声が震えて、何も答えられないだろう。
ソルの寡黙さが在り難かった。優しかった。
ドテラの袖を掴む手に力を込めると、余計に涙が出て来た。
恥ずかしいけれど、もうどうでもいいとも思った。
支えて欲しいと言えば、ソルは面倒そうな貌をしながら、力になってくれるだろう。
自分の命に無頓着なソルは、死掛けになってでも戦ってくれるだろう。
それに縋ろうとしている自分が、酷く残酷で、卑怯に思えた。
此処に居て。何処にも行かないで。でも、そう呟いた言葉は本心だった。







[18231] 三十三話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/11/24 22:15

 何かが始まるのだ。そういう予感が在った。
茫漠とした感覚だったが、確かに感じた。虫の知らせという奴だろうか。
今までの平穏無事な地底の空気は、最近になって微妙に変わって来ていた。
旧都の皆も、少し様子がおかしい。気が立っているように見える。
皆、何処か張り詰めた顔をしている。そんな気がする。
気のせいかな。思い過ごしかな。そう思うけれでも、やっぱり前とは雰囲気が違う。
違ってきている。変化してきている。ゆっくり。ゆっくりと。
気付いたら変わってしまっていて、何がどう違うのか思い出せなくなる。
端から見ていれば、分かりそうなのに。それでも止められない。
時間が。周囲の状況が。感情が。色んなものが。
全部が複雑に絡み合って変化して、結局変わっていく。

人の心もそんなもの。
だから私は、人の心なんて見たくない。
こいしは鼻歌を歌いつつ、地霊殿の玄関ホールをスキップしながら横切った。
白と黒の石畳がひかれたホールに、軽やかな足音が響く。タタン。タタン。タンッ。
広いホールにはこいしと、もう一人しか居ない。他の皆は何処だろうな。タタン。タンッ。
テラスでお茶中かな。台所でお料理かな。灼熱地獄でお仕事中かな。タタン。タタン。

ステンドグラスから漏れた光が、石畳を色鮮やかに染めている。
その上を、こいしの靴裏が軽やかに叩く。意識の上を滑るように。
無意識の中で行動するこいしの足音は、他人には聞こえていて、聞こえていない。
私は此処よ。私は何処なの。貴方も私も、誰も彼も、眼を閉じているから分からない。
タンッと地面を蹴って、こいしは玄関ホールを一人歩いていたシンの背中に飛び乗った。
正確には背中に手を掛けてから、ふわっと浮き上がって、両太腿でシンの首を挟んだ。
丁度、肩車をする格好だ。

「ずおっ!?」
玄関ホールから外に出ようとしていたシンは、奇妙な声を上げてギクッと肩を跳ねさせた。
肩に乗ったこいしも、ひゃあ、と楽しそうな声を上げた。
ただ、突然のことにシンの方はかなり焦ったのだろう。
手に持っていた旗付きの棍棒を取り落としそうになっていた。
だが、咄嗟に棍棒を持っていない方の手で、こいしを落とさないように支えて見せた。
流石の反射神経だった。

「ぉこ…こいっ、こいしかっ!?」

「えへへ、当りだよー」
嬉しそうに言いながら、こいしはシンの眼を両手で隠してみたりした。
若干、シンの身体がふらついた。あははは。シンの肩の上で揺られ、楽しそうに笑う。
もしも此処にさとりが居れば、こいしを諫めてくれただろうが、残念ながら今は居ない。

「お、おい、降りろって! 何かコレ、やべぇって!」
首筋と頬に感じる、こいしの太腿の柔らかな感触に、シンは冷静さを失いつつある。
参ったような声で言いながら、シンは上を見ようとしたが無理だ。
がっちりとこいしの太腿に挟み込まれている。
ねぇ…シンくん…。頭の上で、凄まじく艶の在る声がした。
一瞬、それがこいしの声だとは思わなかった。シンは思わず身体を硬直させてしまった。
「このまま、旧都の方に行ってみようよ…」。怖いくらい艶美な声音だ。
こいしは偶に、幼い見た目には全くそぐわない、酷く艶かしい雰囲気を醸し出す時が在る。
それは微笑む仕種だったり、流し目を送ってくる時だったり。
無意識なのかもしれないが、それが何の前触れも無いから、シンの心臓にも悪かった。
ねぇ…と、またこいしの声がした。耳朶を擽り、頭の中身を蕩けさすような甘い声だ。
シンの髪に触れてくるこいしの小さな手の動きも、何処か淫靡だ。
これが無意識だと言うなら、相当に性質が悪い。
シンは自分を落ち着けるように一度、ゆっくりと息を吐いた。
こいしのペースに巻き込まれ続けたら、何だか変な気分になってしまいそうだったからだ。

「俺は勇儀と萃香に会いに行くところだったけどよ。…良いのか。」
良いながら、シンは片手でこいしの身体を支えながら、視線だけを上に向ける。

「さとりには、外出するって伝えといた方が良いだろ。
 黙って連れ出したなんて思われたら、俺がさとりに怒られちまう」

「それなら大丈夫だよ」
嫣然とした雰囲気から一変して、こいしは無邪気に笑いながら、身体を少し前に倒した。
肩車をするシンの貌を覗き込むような姿勢だ。其処に浮かぶ笑顔には、もう妖艶さは無い。
ガラッとこいしの雰囲気が変わって、少し戸惑いそうになりながらも、シンは首を捻る。

「いや、大丈夫って…」

「お姉ちゃんには、地上にはフラフラと出て行っちゃ駄目って言われたけどね。
 旧都には行っちゃ駄目って言われて無いもの。それに、何度も旧都には出かけてるし」

「…後で怒られても、俺の所為にしないでくれよ」

うん、と頷いたこいしは、シンの肩の上が気に入ったようだ。
降りようとしない。本当にこのまま旧都まで出て行くつもりらしい。
無意識の中で行動するこいしは、周囲の者は認識できない。
別にシンがこいしを肩車していたとしても、旧都の妖怪達は気付かないだろう。
だが、それはシンにしても同じだ。
肩車をしていたと思ったら突然居なくなって、逸れてしまうなんて事も十分に在りうる。
もしそうなっても、流石にこいし自身が迷子になるような事は無いだろう。
だが、一緒に旧都まで行ってほったらかしにするのは、どうも不味い気がした。

「一緒に行くのは良いけど、離れないでくれよ…。
無意識のまま動かれたら、探すの滅茶苦茶苦労しそうだしな」

分かってる。私は此処に居るよ。
そう言ったこいしの声は、不思議な程空虚な響きを持っていた。
さっきまでの無邪気さや、妖艶さが抜け落ちたような声音だ。
聞こえるというか、脳に直接入ってくるような声音だった。
シンは何か言おうとしたが、何を言っていいのか迷う。
こいし特有の、この不安定さ。
ころころと纏う雰囲気が突然変わって、何を考えているのか伺わせないところが在る。
今の奇妙な静寂もそうだ。
おかしな話だが、肩車をしている筈なのに、まるで存在感を感じない。
感じにくい、と言った方が正しいだろうか。重みや感触が、やけに希薄だ。
こいしの方が急に黙り込んだので、シンも言葉を返すタイミングを逃したままだ。
取り敢えず、「まぁ…」と呟いて、シンは外に向かって一歩。歩き出した。
出来るだけ頭を上下させないように。肩を揺らさないようにして、歩く。
旗付きの棍棒を肩に担ごうとしたが、こいしを肩車しているから無理だった。
手首を返して、出来るだけ地面に垂直になるように棍棒を持ち直し、シンは少し笑った。
「ちょっとくらい買い食いしても、怒られねぇよな」
少しだけきょとんとした様子のこいしは、でも、すぐにくすっ、と大人びた笑みを零した。

「…私にも、何か奢ってよ。此処に居るから」

「おう。んじゃあ、行くか」




旧都の街並みは、地上に在る人の里と、大きく変わらないように見えた。
飲み屋や飯屋、酒蔵等、他にも日本家屋らしき建造物が並ぶ街道は、いつも通りの賑わいを見せている。
行き交う妖怪達が居れば、鬼も居る。永い時間の中で繰り返されてきた、普段通りの営み。
街道では客を呼ぶ威勢の良い声や、誰かが笑い合う声、他にも怒鳴るような声も聞こえる。
商いに精を出す者も居れば、飯を食い、茶屋で休息を取る者の姿も、街道には見えた。
こいしを肩車したままのシンが行く街道は広く、人並みが途切れない。
古そうなものから新しそうなものまで、街道に並んだ建物の間は、妖怪達で一杯だ。
商店街といった風情のこの街道は、かなり広めに道幅があるが、余裕はかなり少ない。
こいしくらい背が小さいと、雑踏の波に翻弄されるんじゃないだろうかと思う程である。
お燐に初めてこの旧都を案内して貰った時には、妖怪や鬼達の多さに驚いたものだ。
地底が狭いという訳では無いが、この街道が特に人口密度が高いのだろう。
この辺りは結構ごちゃごちゃしているからね、迷子にならないよう気をつけて。
お燐にもそう言われた。
そんな事を思い出しながら、シンは誰にも雑踏の中を泳ぐように歩いていく。

歩きながら、何となく感じる。街道を行く者達から聞こえる声には、少々の緊張が伺えた。
何処か空気が張り詰めている。
雑踏の中、すれ違う妖怪や鬼達の中に、シンを振り返る者が何人も居た。
旧都へ出てみれば、シンの姿が悪い意味で目立つような事は無かった。
だが、快く受け入れてくれている者ばかり、という訳でも無いようだった。
ただ振り返っただけで何も言わない者も居れば、嫌そうに舌打ちをする者も居た。
貌を露骨に顰めて見せる者や、ねめつけて来る者も居る。

シンに肩車されているこいしは、意識の外に居る。
こいしの姿は、周りに居る者には見えていない。
だから、向けられる嫌悪の視線は、全てシンを向いていた。
地霊殿の関係者とは言え、シン自身は旧都に関しては無関係な者だ。
地上からの客人ではあるが故か、シンに向かう悪意には遠慮が無い。


頑迷で強欲な人間め…。矮弱な人間め…。
何をしにきたんだか…。
のこのこと表を出歩きやがって…
目障りだな…。喰っちまうか。
止めとけよ。さとり様のお客人様だろ。
いざって時には逃げ出すに決まってらぁ。
邪魔くせぇな。
他所者め…。


鬼や妖怪達の話声が、雑踏のざわめきに混じり、聞こえて来る。
シンは溜息を吐こうとして、止めた。振り返りもしない。
余計な方に眼を向けたりもしない。表情も変えずに、黙って歩いた。
しばらくは、真っ直ぐ前を向いて歩く。
買い食いする気も食欲も、流石に今は湧いてこなかった。
もしも絡まれたりしたら面倒だし、無益な事この上ない。
酷いこと言うなぁ…。少し怒ったような声で、シンの肩の上に居たこいしが呟いた。
シンは肩を竦めそうになったが、こいしを肩車しているから出来なかった。

「まぁ、仕方ねぇだろ…。皆、ちょっと気が立ってるんだ」

「裏道から来た方が良かったかな」

「いや、遠回りになるし…人通りが少ないと、変な奴に絡まれそうだ」

…俺も一応、他所者だしな。
ちょっとだけ寂しそうに言って、シンは歩く足を少し速めた。
目的の場所までは、もうすぐだ。見えてきている。
街道に並んで立っている建物のうち、ある一つの店だ。
外装からして、酒屋なのだろう。結構大き目の酒屋だ。建物は二階建てだった。
その二階に設えた横に広い窓から、誰かが街道を行く人並みを眺めていた。
窓際に肘杖をついた彼女は、何処か気だるそうな貌をしていた。
長く、美しい金髪に、額には赤い一本角が生えている。勇儀だった。
シンは雑踏の流れから外れて、声を出すのでは無く、手を少し上げて振って見せた。

すぐに勇儀も気付いたようだ。シン達の方を見て、おっ…、という顔になった。
それから口の端に笑みを浮かべ、ちょいちょいと手招きをして見せる。
建物に入って来いという合図だろう。
シンは雑踏を縫うように歩いて渡り、二階建ての酒屋の暖簾の前で足を止めた。
それから、肩に乗せていたこいしを下ろして、暖簾を潜る。店の中は薄暗かった。
酒瓶に酒樽が並び、詰まれては居るが、店主らしき人物は見当たらない。
お、良く来たね。…此処等辺りは平和そのものさ。変わりないよ。
居ない店主の代わりにシン達に声を掛けたのは、店の奥から出て来た萃香だった。
手には酒の入った瓢箪を持っていて、それをシン達に軽く揺らして見せる。

「せっかくだ。ちょっと飲んでいくかい?」 

「いや、止めとくぜ。まだ酒の旨さが分からねぇからな」
何だい、連れないねぇ。笑いながら萃香は瓢箪を傾け、中の酒を呷った。
凄い飲みっぷりだ。
随分飲んでいるようだが、顔に赤みはほとんど無いし、けろっとしている。
酒を飲み下してから、萃香はこいしの存在に気付いたようだ。
久ぶりに見る顔だねぇ。元気そうで何よりだ。萃香はこいしに笑いかけた。
無意識から、意識の表層へと出て来たこいしも、お久しぶり~、と笑みを返す。
すぐ傍に居るシンでも、意識の外で動こうとするこいしの存在感を掴み難い。
酒を飲みながらでも、そのこいしの存在に気付く辺り、流石は鬼である。

「今日はまた珍しい組み合わせだねぇ」
酒樽が詰まれた店内の端の方から、艶の在る声がした。
声がした方を見れば、二階へと上がる階段があり、勇儀が丁度降りて来ている処だった。
二階から降りて来た勇儀は、シンとこいしを見比べて含みの在る笑みを浮かべる。

「仲が良いのは良い事だ。ふぅん…中々お似合いじゃないか」

どういう意味だよ…、と怪訝そうな貌を浮かべ、シンは隣に居るこいしと顔を見合わせた。
ただ、こいしの方は何だか嬉しそうな貌をしていた。えへへ、と口許が緩んでいる。
「何か良く分かんねぇけど…。取り敢えずこれ、渡しとくぜ」
こいしが何故嬉しそうなのか分からなかったが、取り敢えずシンは勇儀へと顔を上げる。
それからコートの内ポケットから、書状を取り出し、勇儀へと手渡した。

「さとりから預かって来たんだ。勇儀か萃香に渡して欲しいってな」

「何だ、餓鬼の使いって訳かい」 書状を広げつつ、勇儀はくっくと笑う。

「組み手しようにも、誰も相手が居なくて暇だったんだよ。
 だから、さとりの代わりに俺が持って来たんだ。…あれ、やっぱ餓鬼の使いだな」
 
 シンの言葉に、今度は萃香が笑った。それから、勇儀の方へ視線を向ける。
「何て書いてあるんだい…? 
まぁ…察しは付くような付かないような感じだけどね」

勇儀は書状に視線を落としたまま、萃香には答えない。
その顔には渋そうな表情が浮かんでいる。少しの間、沈黙が在った。
…多分、萃香の考えてる内容で当たりだよ。
言いながら、勇儀は片手で頭を掻いて、萃香に視線を返した。
それから、また難しそうな貌になり、勇儀は書状に視線を滑らせ始める。
萃香は、成る程ねぇ…と呟いて、酒樽の上に座り込んで、また一口酒を呷った。
シンとこいしには書状に何が書かれているのか、良く理解出来ていない。
だが、さとりが何か大掛かりな行動を取ろうとしているのは、何となく分かった。
他の鬼達にも話をつけるとなれば、確かに私達の方がスムーズに事が運びそうだからね。
顎を撫でながら言って、勇儀は萃香の方を見た。

「ちょいとさとりに会いに行ってくるかね…。留守番頼めるかい?」
あんたの店じゃ無いだろう。萃香は喉を鳴らすように笑ってから、あぁ…、と頷いた。

「なぁ、何が書いてあったんだ。それ」
シンは、勇儀と、勇儀の持っている書状を見比べた。
こいしも、勇儀が広げている書状を見詰めている。

「地底の防衛が終わるか、必要無くなった時の話しだよ。
旧都の奴らを連れて、地上に応援に出るかどうか話合いがしたいんだと…」

勇儀は二人を見比べて肩を竦め、書状を綺麗に畳んだ。

「旧都のって…、そりゃ、凄ぇ数になるな」
シンは思わず振り返って、暖簾の向こうに見える雑踏へと視線を移してしまった。
この街道に居る妖怪や鬼達全員を、外に連れて行くつもりなのだろうか。
何だが現実感の無い話だ。無理なんじゃねぇかな…、とシンは思う。
そりゃ、旧都の奴ら全員って訳じゃないよ…。
言いながら、勇儀も暖簾の向こうの雑踏へと視線を向けていた。

「少数精鋭、って奴さ。鬼達の中でも、腕の立つ奴をある程度集めて置こうって話だろ」
勇儀の言葉を引き継いだのは、酒樽の上に座って瓢箪を傾けた萃香だった。

「前からね、私達もそういう話をしてたんだよ…。
どうも今回の異変じゃ、地底とか地上とか言ってる場合じゃないんじゃないかってね」

旧都に住まう鬼達にならば、四天王である萃香や勇儀の顔がきく。
流石に地底の妖怪達が一気に地上に出ては、余計な混乱を招くだろう。
 昔ほど、地底の地上の棲み分けが厳しい訳では無い。
だが、妖怪達の中には地上の者達に対する負の感情を持つ者も少なくない。
ならば、勇儀と萃香が率いた鬼の精鋭団だけの方が良い。
小回りも利くし、勇儀や萃香の眼があれば、暴走する心配も無い。
こうした鬼達のまとめ役として、さとりは一度、勇儀か萃香と話がしたかったのだろう。

「さとりの方も、同じことを考えてたみたいだよ。
萃香も一度、眼を通しておいてくれ。…忙しくなるかもしれないね」

言いながら、勇儀は畳んだ書状を萃香に渡した。
萃香は「あいよ…」と片手で受け取りながら、瓢箪を傾ける。
酔い潰れんなよと言いながら肩を鳴らした勇儀は、シンとこいしに向き直ろうとした。
「…ん」 だが、代わりに眼を細め、暖簾の向こうの雑踏へと視線を向ける。
萃香も酒を飲む手を止めて、勇儀の視線を追う。妙だ。外が騒がしい。
くぐもった叫び声のようなものが聞こえた。
街道を行き交う妖怪達が、混乱している様だ。嫌な感じだった。
シンとこいしも、暖簾の方へ振り返った。外のざわめきが大きくなる。

「何かあったのか…」 
シンは暖簾を潜り外へ出ようとした。それと同時だった。
 外から大声が聞こえて来た。
 逃げろ。逃げるんだ。戦えない奴は。早く。早くしろ。逃げろ。離れろ。
 叫んでいる。必死な声が聞こえる。どよめきはどんどん大きくなっていく。
 周囲の、というか、地底の温度が上がった気がした。叫ぶ声が近くなってくる。
この声…、と呟いた勇儀が駆け出して、暖簾を潜ろうとした時だ。 
誰かが店の中へ、転がり込むようにして入って来た。二人組みだった。
片方が片方に肩を貸して、店の中に倒れ込むような勢いだった。

二人の顔を、シンは知っていた。
ヤマメとパルスィだ。前に紹介して貰った。
だが、様子や表情が尋常じゃない。ヤマメの貌は焦り切っている。
パルスィの方はぐったりしていて、顔を上げていない。
ヤマメに肩を貸して貰い寄り掛かっていて、今にも倒れそうだ。
二人とも服が煤けていて、焼け焦げた跡が所々にある。
何だ、何があったんだ。勇儀や萃香が何か言う前に、ヤマメが叫んだ。

「勇儀! やばい奴が旧都に向かって来てる! 
私とパルスィで止めようとしたんだけど…!」

ヤマメの必死な声は震えていて、眼も涙目だった。
ゴリリッ、と勇儀が奥歯を噛み締める音がした。凄い音だった。
「大丈夫か!? しっかりしろよ!」 シンは二人に治癒法術を施しに掛かる。
痛みを和らげる程度の治癒法術しか扱えないが、無いよりはマシだ。
シンの掌に赤黒い法術の微光が灯ったのが見えたのだろう。
世話掛けるわね…、と掠れたか細い声で、顔を上げないままパルスィが呟いた。
どうやら意識は在るようだ。シンは二人の前に屈んで、施術を始める。
外のざわめきは大きくなるどころか怒号が混じり始めていた。明らかにやばい感じだ。
ヤマメとパルスィ、そして外の様子を見比べながら、萃香がシンの隣に屈む。

「相手の数はどれくらいだった…?」
萃香に聞かれて、パルスィは呻き声を上げた。ヤマメの視線が揺れる。
肺から搾り出すように息を吐いてから、男が一人…、とヤマメが答えた。
炎を使う…。黒い服を着た男が…一人だけ…。
震える声で、ヤマメが言葉を続ける。
それを聞いていた萃香が眼を窄め、勇儀が顔を僅かに歪めた。
相手はたった一人で旧都に向かってきているのか。

終戦管理局は何を考えているんだ。
一人で何が出来るというんだ。油断出来ないとは言え、シンは混乱しそうになった。
白玉楼戦の時は、山程の木偶の数を揃えて来た癖に、今度は単騎で向かって来ている。
胸騒ぎがした。黒い男。前に聞いていた、オヤジのコピーかもしれない。

「分かった…。仇取りに行くよ、勇儀」
ゴキッと指を鳴らしながら立ち上がり、低い声で言ったのは萃香だ。
あぁ…、と頷いた勇儀も、両の拳を震える程握り締めていた。
「こいし。シン」 不意に、勇儀が二人の名前を呼ぶ。
呆然としていたこいしは、突然名前を呼ばれ、ビクッと肩を震わせ、勇儀を見上げた。
緊張しているような、戸惑っているような貌をしている。今の雰囲気が怖いのか。
その困惑と怯えを和らげてやるように、勇儀は口の端に少し笑みを浮かべた。

「ヤマメとパルスィを頼む。
…二人を連れて、裏道を通って此処を離れてくれ。
裏口を使えば、人通りも少ないだろう」

「俺は此処に残るぜ。…戦うしか能がねぇからな」
パルスィ達へ治癒法術を施術しながら、シンは屈んだまま勇儀を振り返る。
それから、こいしの方へと視線を向けた。こいしと眼が合う。
頼めるか…? と、シンも勇儀と同じように少しだけ笑みを浮かべた。
こいしは唇を少し噛んで、帽子を少し目深く被り直し、うんっ、と頷いてくれた。

「地霊殿まで二人を連れて行って、お空やお燐にも知らせてくるね!」

 「おう…。すまねぇ。
ちゃんとした治療は地霊殿で頼むぜ。…俺じゃこれで精一杯だ」 
 
眉間に皺を刻んで、シンはすまなさそうにヤマメとパルスィに言う。
 二人を包んでいた赤黒い法術の微光が消えた。
一応の治癒施術は完了だが、気休め程度のものでいかない。
「そんな事無いよ。有り難う」 ヤマメはパルスィを担ぐようにして立ち上がった。
 だが、ふらふらとよろけた。其処を、こいしが支える。
 「二人を守って、地霊殿まで連れて行くよ!」こいしは、シン達を見回して頷く。
 無意識を操るこいし自身の強さも相当なものだから、こういう時は頼もしい限りだ。
 
 「ああ、頼むぜ!」
シンと勇儀、萃香はその言葉に頷いて、暖簾の外へと駆け出した。
 二人ともまだ傷は浅い。それに、こいしが付いてくれるなら、安心だろう。
後は、向かって来ているという奴を止めるだけだ。
 
外に出ると、とにかく凄い熱気だった。
 妖怪や鬼達は混乱の最中に在って、街道で右往左往している。
 何だ。何が起ころうとしてるんだ。おい。どうなってんだ。何があったんだ。
 さっきのヤマメの大声を聞いても、まだ何が起こったのか理解出来ていないのだろう。
 シンが街道に居る妖怪達に何か叫ぼうとしたが、それを手で制したのは勇儀だった。
 それから、勇儀はすぅっと息を吸い込んでから一拍置いて、「聞け!! お前ら!!!」と、叫んだ。
旧都全体に響き渡るような大声で、街道にごった返していた妖怪や鬼達を怒鳴りつけたのだ。 

うわぁ、と悲鳴を上げる者も居たし、反射的に頭を抱えてしゃがみ込む者も居た。
勇儀のその声に、街道の騒乱が嘘のように静まり返った。
そして、街道に居た全員が勇儀達の方を見ていた。凝視している。
水を打ったような静けさの中、一歩前に出たのは萃香だ。
周囲に居る者達一人一人に視線を巡らせながら、ボキボキと指を鳴らして見せる。
 
「…戦いたい奴だけ残れ。家族を逃がしたい奴も居るだろう。
今は浮き足立つな。敵が其処まで来てるみたいだからね…」 
 
 今のこの静穏は、嵐の前の静けさだ。それは間違い無い。
険しい貌の萃香はそれだけ言って、旧都の街道を駆けて行く。
 街道に居た妖怪や鬼達が、萃香に道を譲るように割れて、道が出来あがった。
 誰も、何も言わない。息を呑むようにして、萃香の姿を見送っている。
 雑踏の中に出来た道を、勇儀と、シンも続く。敵は一人と言っていた。黒い服を着た男。
 シンの頭に、嫌な言葉が浮かんだ。ソルのコピー。よりにもよって、とは思わなかった。
 ソルと同じ顔をした奴が、終戦管理局に居る。それだけで吐き気がする程に胸糞が悪い。
 そいつが今、旧都に来てる。襲う為に、向かって来ている。斃す理由は十分だ。
シンは唇を舐めて湿らせてから、奥歯を噛み締めた。

余計な事を考える暇が無くなった。
街道の向こうから悲鳴が上がった。それと、炎だ。黒い炎が見える。
妖怪か。鬼か。誰かが燃えている。焼かれている。殺戮されようとしている。
墨色の炎が、蛇のようにのたくっている。怒号と混乱が、此処まで伝播してきた。
妖怪や鬼達が、逃げるように逆流してくる。逃げようとして、押し寄せてくる。
 駄目だ。人並みを割っていけない。
舌打ちをした萃香は、街道の建物の屋根の上に飛び移り、屋根の上を駆けて行く。
勇儀も苦い貌を浮かべたまま、建物の上を行く道を選んだ。そうせざるを得ない。
街道は、もうかなりやばい様相を呈している。大混乱だった。
萃香がさっき言ったように、戦いたい者が残っても、勢いを持ち直せるかどうか怪しい。
屋根に飛び乗ったシンも、こいし達が逃げた方をちらりと振り返る。
ヤマメやパルスィ、こいし達は大丈夫だろうか。
というか、地底以外にも終戦管理局の奴らが来てるのか。
やばいな。そう思った時だ。熱を感じた。熱い。熱風だ。
断末魔が混じった灼熱の暴風が吹き付けてくる。
見える。街道の入り口に、奴が見えた。もう来ている。
陽炎で、旧都の街道の景色が揺らめいて見えた。
シンは眩暈の様なものを感じた。マジかよ…。思わず呟いていた。

そいつは黒い服を着ていた。黒い騎士服だ。赤い髪を後ろで束ねている。
両手にゴツいグローブを嵌め、左手に黒塗りの刀身をした封炎剣を握っていた。
額にも、黒いヘッドギアを嵌めていた。背丈も在り、体格もがっちりしている。
其処から覗いたくすんだ金色の眼は、瞳孔が縦に裂け、無機質で空虚な光を湛えている。
他に、肌がやけに白いことを覗けば、本当にソルの姿そのものだった。
聞いた通り、黒いソルだった。

黒いソルは、嫌味なくらい悠然と街道を歩いて来ている。
 その行く手に立ち塞がるように、武器や拳を構える鬼や妖怪達も居た。
背丈も体格もかなりある鬼達だ。黒いソルを取り囲んで、包囲しようとしている状態だ。
黒いソルも身長が在る方だが、鬼達の方は二メートルを裕に超えている。
その筋骨隆々の巨体は、まるで小山みたいだ。
だが、そんな鬼達も妖怪達も、明らかに気圧されていて、逃げ腰だった。

シンだって、もう鳥肌が立っている。
此処に居ても、強烈な威圧感を感じるのだ。
真っ向に立つ鬼や妖怪達の腰が引けても、誰も責められないだろう。
黒いソルの周囲には、消し炭と炭屑になった骸が、無造作に転がっていた。
まだ墨色の炎が燻っている骸もある。数は、十か、二十か。少なくない。
肉の焼ける匂いがした。同時に、恐れを感じた。やばい奴が来た。
それでも、だ。黒いソルの前に立つ彼らは、旧都を守る為に戦おうとしている。
シィィ…、と歯の隙間から息を吐いたのは、屋根の上を駆けて行く勇儀だ。
萃香は既に身体の半分くらいを霧に変え、戦場となろうとしている街道に向かっている。

だが間に合わなかった。
二人の鬼が、黒いソルに踊り掛かった。二人共、かなりゴツイ金棒を握っていた。
一人は前から、もう一人は後ろから黒いソルに殴りかかった。前後から押し潰す勢いだ。
黒いソルは逃げも避けもしなかった。ゆっくりと前に出た。そう見えた。
だが、見えただけで、違った。何て無駄の無い体捌きだ。
まるですり抜けるように、前から突っ込んでくる鬼を往なし、背後を取っていた。
鬼達の棍棒は、街道の地面をぶっ叩いた。盛大に地面が凹んで、周囲の建物が幾つか崩れた。

地面が揺れる。だが、黒いソルの重心は全くぶれていない。
無表情のまま身体を振り返らせると同時に、手にした黒塗りの封炎剣を振り抜いた。
振り抜かれる瞬間だった。黒いソルが握っていた封炎剣に墨色の炎が灯る。
鬼達も黒いソルへと向き直ろうとしたが、もう遅かった。
封炎剣が巨大なフォルムに一瞬で姿を変え、鬼二人を逆袈裟に両断した。
二人の鬼は四つの肉片になって周囲に飛び散り、建物の壁をぶち破り突っ込んで行った。
黒いソルは、無感動にその様子を見て、振り終わった封炎剣を血振るいする。
同時に、封炎剣の巨大なフォルムは、元の形状へと戻った。
そのまま静かに周囲を睥睨する黒いソルの眼に、他の鬼達が一歩後ずさった。
悠然と、また一歩を踏みだした黒いソルに挑み掛かれる者は居なかった。
 じりじりと後ずさるのがやっとの様だった。
 
 
 ああ。何だ。身体が熱い。胸に込み上げてくるこれは、怒りか。
 いや、何でも良い。考えるな。行け。止めろ。奴を止めろ。
 シンは身体を一気に前に倒して、走る速度を爆発的に上げた。超加速した。
前を行く勇儀を追い越し、萃香も追い抜いた。
 踏み行く屋根が砕ける音が聞こえた。そのシンの疾さに勇儀も萃香も驚いたようだった。
二人が何か言ったようだったが、よく聞こえなかった。

身体は熱さでどうにかなりそうだが、シンの頭はやけに冷えていた。
黒いソルが、シン達に気付いた。視線を屋根の方へ向けてきた。
そうだ。それで良い。お前の相手は俺だ。
屋根から跳んで、旗付きの棍棒を振り廻しながら、シンは黒いソルに飛び掛った。
黒稲妻が、シンの振り回す棍棒に宿る。黒いソルはシンを見上げる格好だ。
バリバリバッチバチと、赤黒い閃光と火花が散る。
黒いソルに圧されていた鬼達も、其処でようやくシンに気付いたようだ。

「ォオオラァァアアッッ…!!!」
鬼達と黒いソル間に飛び込み、シンは渾身の力で、黒稲妻を纏う棍棒を振り下ろした。
黒いソルは避けようとしたようだが、シンの棍棒の振りの方が疾い。
咄嗟に防御を選んだようだ。封炎剣を楯のように掲げ、真っ向から棍を受け止めた。
棍と剣の激突の瞬間、墨色の炎が防御陣を象る。シンの黒稲妻がそれに阻まれた。
 
だが、黒いソルが僅かに眼を細めた。
ズズッと、その脚が圧され、黒いソルが二歩下がったのだ。
宙返りしつつ着地したシンは、すっと身を沈めて、即座に間合いを詰めに掛かった。
棍棒を持つ右手と左手の間隔を広くして、矢継ぎ早に攻撃を繰り出す。
序に棍棒での打撃だけでなく、身体を振り回すような蹴りも織り交ぜて、圧倒する。
黒稲妻を纏うシンのラッシュは怒涛だった。棍と剣がぶつかり合う度、轟音がした。

黒いソルは鬱陶しそうに眼を細めつつ、攻撃を捌きながらも、圧されて更に下がる。
連打を打ちこんでいたシンは、後退する黒いソルを仕留めようとした。
重心を沈めつつ一度棍を引き込んで、身体を詰り込みながらの強烈な突きを放つ。
棍を引き込んでから突きを放つまでは、本当に一瞬だった。
反撃の隙を与えない、必殺の突き技だ。だが、防がれた。
黒稲妻の渦を纏った突きは、封炎剣を楯に受け止めた黒いソルを吹っ飛ばしただけだ。
街道を圧し戻される形になった黒いソルには、全くダメージを与えられていない。
舌打ちするシンの視線の先。
ザザァァー…、とブーツの裏で街道の地面を削りながら、黒いソルは吹っ飛ばされた身体を止め、眼を細めて見せた。
 
 今まで圧されていた鬼や妖怪達は、唖然とした様子で、シンの背中を見ている。
 いきなり飛び込んで行ったから、彼らも相当に驚いたのだろう。
 お、おめぇ…、と、鬼の一人がシンに何かを言おうとした。
だが、シンは先に「助っ人に来た…」と、肩越しに視線だけで振り返り、頷いて見せた。
結果的に、シンは蹂躙されようとしていた妖怪や鬼達を助ける形になった。
黒い騎士服を纏ったソルは、だらんと腕を下げたままシンを見詰めて来る。
 
シンは睨み返してやった。
虫唾が走る。野郎。なんて眼をしやがるんだ。
 オヤジと同じ貌で。やけに透き通った金色の眼で。無機質な眼で。俺を見るな。
 妖夢や幽々子が傍に居ないせいか。今の俺は、やたら頭が冷えていて、心が飢えている。
 寒くて、熱い。苛立ち、震えている。怒りで、頭の芯が焼き切れそうだ。
 怒りなのか。俺が感じている怒りには、何か、違うものが混じっては居ないか。
 それを見透かすような黒いソルの眼が、酷く不快で、恐ろしい。見るな。
俺を、そんな眼で見るな。でも、俺も眼を逸らせない。許せそうに無い。
どうすりゃいい。ああ。考えるのは向いてねぇんだ。くそったれ。

シンと黒いソルが睨み合う形になったところで、勇儀と萃香が他の鬼達と合流する。
「…あんたらは離れてろ。誰も此処に近寄らせるな」
他の鬼達に視線を巡らせ、指示を出した勇儀の声には有無を言わさぬ迫力が在った。
 鬼の四天王の一人にそう言われれば、他の鬼達も頷く他無い。
 ただ、眼の前で仲間が殺されたことも在り、納得の行かない者も居るようだった。
 
「あとは、周りの建物に…そうだな、猫の子一匹残さず逃がしてくれ。
 時間は稼ぐ。頼むよ。今の所、すぐに動いてくれるのはアンタ達くらいだ」
身体の半分程を霧に変えたままの萃香は、他の鬼達を落ち着かせるように言う。
黒いソルが、またこちらにゆっくりと歩き出した。のんびりとしていられない。
早く行きな。萃香も言いながら、前へ出てシンと並ぶ。

鬼達は勇儀達に頭を下げて、それから周りの建物の裏道へと散っていく。
戦いが始まった時の騒ぎからして、もうこの区画に残っている者は居ないだろう。
だが、念の為だ。勇儀は、散っていく鬼達を見送ってから、シンの隣に並んだ。
辺りは静まり返っていて、さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
黒いソルの足音がやけに静かだから、余計にそう感じるのかもしれない。

「今回は…余計な小細工も無いみたいだね」
 萃香は、霧状になっていない方の拳を軽く握りつつ息を吐いて、黒いソルを見据えた。
静かな声音ではあったが、明らかに怒気を孕んでいた。

「何が目的かは知らないけど…此処で好き勝手はやらせないよ」
 その言った勇儀の声にも、やはり抑えきれない怒りが滲んでいる。

シンも、黒いソルを睨みつけては居るが、何だか妙だ。
奴は。何であんなに悠然として、涼しい貌をしてやがるんだ。
まるで、シン達を眼の前にしているのに、全く相手にしていないかのようだ。
鬼の怒気を孕んだ視線をまともに受けても、黒いソルの歩く速度はまったく変わらない。
そよ風の吹く、青空の広がる草原の丘でも歩いているかのようだ。
鬼達の返り血を浴びている筈の奴の貌は、穏やかとさえ言える。
それでいて、さっきよりもプレッシャーが増している。何て野郎だ。
歩いて来る。ゆっくりと。駄目だ。前に出られない。
シン達が踏み出すタイミングを、機を塗り潰すように、黒いソルは足跡を刻む。
距離は、もう10メートル程しかない。シンの頬に汗が伝った。
勇儀も、萃香も、まだ動かない。いや、動けないのか。
 焦れッてぇ。くそ。圧されてるのか。俺が。仕掛けろ。何もやらせるな。
音も無く身を沈め、シンが突進しようとした、正に時だ。

不意に、奴が足を止めた。
駄目だ。飛び出そうとしたタイミングを完全に潰された。
シンは身体が泳ぎかけた。だが、動く機は、すぐにやって来た。
黒いソルは、ただ足を止めただけでは無かったからだ。
逆手に握っていた封炎剣を、地面を抉るようにして下から上へ振り抜いたのだ。
そんな大振りな動作にも見えなかったが、放たれた一撃は強烈だった。
墨色の炎が地面を穿ち、岩石を飲み込んだ燃えさしの濁流となって、シン達に押し寄せる。

街並みごとぶっ潰す気か。させるかよ。
身体を前のめりに倒しつつ、シンは法術を唱え、炎の濁流の中に突っ込む。
突き進むシンの正面に、黒稲妻が巨大な法術陣を描き出し、炎の波を喰い散らかした。
黒稲妻と墨炎が混じり合い、爆発し、破散した。爆音と熱波が吹き乱れる。
その爆風と衝撃で、また老朽化していただろう建物の幾つかが傾いで、崩れた。
炎の濁流を、シンの法術陣が相殺する間に、勇儀と萃香は両翼から黒いソルに肉薄する。

墨色の薄い煙霧の中、まず踏み込んだのは勇儀だった。
黒いソルに、向かって右からだ。一気に懐まで入る。勇儀は左の拳を振りかぶった。
握り固めた拳を、殴ると言うよりも振り下ろすようにして、黒いソルの顔面を狙う。
捉えた。黒いソルは、まだ封炎剣を振り上げた姿勢で、隙だらけだ。その筈だった。
だが、黒いソルの視線は、勇儀を見ていた。反応していた。
やけに緩やかな動作で、黒いソルは上体を逸らした。
必要最小限の動きで、勇儀の拳をかわした。
しかも、流れるように重心を落とし、ボディーブローで反撃までして見せた。

勇儀は、半ばカウンターに近い形でボディーブローを喰らった。
頑強な勇儀の身体が浮き上がり、横くの字に折れ曲がる。
げほっ、と血を吐いた勇儀の貌は、苦悶よりも驚いているようだった。
黒いソルは、動きの止まった勇儀に止めを刺しに入る。
その手に握られた封炎剣に、再び墨色の炎が灯った。
何処見てんだい。短い声がした。
しゅるるっと霧が形を成して、鬼火を纏う拳を構えた萃香が、黒いソルの背後をとった。

止めろ…! 
黒いソルに蹴飛ばされた勇儀が叫んだ声は、ぎりぎりで萃香に届いていた。
咄嗟過ぎて、黒いソルに言ったのか、萃香に言ったのかは勇儀自身も分からなかった。
だが、勇儀の声の御蔭で、萃香は踏み込むのを躊躇って、逆に後ろに跳んだ。
次の瞬間、萃香の居た辺りの空間を、巨大化し、墨炎を纏う封炎剣が薙ぎ払って居た。
もし下がっていなかったら、萃香は振り下ろされた封炎剣に両断されていただろう。

黒いソルは、萃香の接近を認識してすぐに、至近距離に居る勇儀を蹴飛ばしていた。
それから、封炎剣を背後に叩き付けるようにして振り下ろし、萃香を狙ったのだ。

一瞬の間にも、黒いソルは背後を完璧にケアしていた。
勇儀は口の端の血を拭いながら起き上がり、重心を落としつつ距離を取った。
萃香の方も、黒いソルから少し距離を取りつつ、隙を伺う。
だが、果たして隙と呼べる様なものが在るのかどうか。
黒いソルは騎士服を靡かせて、両手をだらんと下げている体勢だ。
猫背という訳では無いが少々俯き加減で、無防備の様でさえ在った。
左手に握られた黒塗りの封炎剣も、切っ先が地面すれすれに下ろされている。
構えの様なものは全く取っていない。ただ静かに、荒れた街道の中に佇んでいるだけだ。
黒いソルのくすんだ金色の眼が、勇儀と萃香を交互に見てから、少しだけ細められた。

「このクソ野郎…。旧都ごと丸焼きにする気かよ」
シンだ。バチバチと黒稲妻を纏わせて、街道を歩いて来る。
墨色の炎は、既にシンの纏う黒稲妻が、そのほとんどを飲み込んでいた。
今は街道に散らばった木片などが、少し燻っている程度だ。
もしもシンが居なければ、この周囲一帯は大火事になっていた事だろう。
そうでなくても、もう勇儀達の居る区画の建物は、崩れたり傾いたりしている。
くそが。無茶苦茶しやがって。少し遠くから、大勢の声が聞こえる。
此処から離れろ。離れろ。一度退け。他の者にも伝えろ。退け。避難しろ。
誰かの叫ぶ声だ。そうだ。今は離れていてくれ。瓦礫の山は、まだまだ増えるだろう。
勇儀、萃香、シンは、三角形の頂点で、黒いソルを三人で囲むような格好だ。
だが、優位に立っている気がまるでしない。

黒いソルは黙ったままシンを見詰め、封炎剣を肩に担ぐようにして半身立ちになった。
ほとんど棒立ちに近いが、あれで構えているつもりなのか。
いや、構える必要を感じていないのか。ゆったりとしている癖に隙が無い。
勇儀や萃香も、攻めに出ない。出れない。

シンは軽く息を吸い込んだ。
ビビるな。隙が無いなら作れ。自分に言い聞かせつつ、ぐっと前屈みになった。
棍棒の先を下げて、余計な力を抜く。足は肩よりも広く開いて、重心を更に落とす。
待つのは苦手だ。先に行くぜ。黒稲妻が、シンの身体を覆う。
手にした棍棒を握り締め、吸い込んだ息を鋭く吐きながら、滑り込むように突進した。
負ける気はしなかったが、不思議と勝てるような気もしない。
嫌な気分だ。うぜぇ。振り払え。何も考えるな。シンは横殴りに棍と稲妻を振るう。
かなりいい感じで振りぬいたつもりだったが、駄目だ。
片手で持った剣で受け止められた。棍と剣の激突で、轟音が響いた。
黒いソルは醒めたような貌つきで、シンを見ていた。野郎。舐めやがって。
シンは身に纏う黒稲妻を更に猛り狂わせ、棍を振って振って振りまくった。
びゅんびゅんブオンブオンと振り回し、突いて、薙いで、打ち崩そうとした。
稲妻を纏った激烈な乱打だった。勇儀と萃香も、加勢に入る間が無い程に苛烈な攻めだ。
 ボンボンと雷が破裂して、ストロボの様に閃光が散る。
だが、シンの棍での攻撃は、そのどれもが黒いソルには届いていない。
黒いソルは相変わらずゆったりした体捌きと、手にした封炎剣で弾き返してくる。
糞が。届かねぇ。こいつ。遊んでやがるのか。
黒いソルはその場をほとんど動かない。いや、下がっていないと言った方が正しい。
円を描くように体を捌いて、シンの攻撃を捌いていた。完全に受け流している。
シンは棍に更に力を込め、振るう速度を上げる。黒稲妻も更に猛り狂う。
ガンガンバキバキと手応えが在るのに、全くダメージに繋がらない。
むかつくぜ。この野郎。そっくりだ。打ち合った感触が。オヤジと。吐き気がする。
棍が地面をガリガリ削り、稲妻が岩滓を塵に返していく。シンはまだ前に出る。
黒いソルも前に出た。もう棍の間合いじゃない。ボクシングのような間合いだ。
シンは身を引き損ねた。ヤバイと思った時には、瞼の裏に火花が散った。
勇儀と萃香の声が、やけに遠くで聞こえた。どうなった。
俺、何された? 痛ぇ。頭だ。そうか。カウンター気味に頭突きを喰らったのか。
視界が揺れまくってる。ぶにゃぐにゃに歪んで、霞む。
嘘だろ。たった一発で。マジかよ。何だよコイツ。やべぇな。
いや、まずしっかり立て。来る。剣が。振ってくる。顔の正面からだ。
身体ごと首を捻った。熱い風を感じた。右頬の肉が持っていかれる感触。
 衝撃はあったが、痛みは特に感じなかった。ただ熱い。
おかげで、ちょっと眼が醒めた。手に棍を握っている感覚はちゃんと在る。
でも、駄目だ。思うように振れない。どころか、まだ眼の焦点が合わない。
眼が醒めただけで、揺れてる視界の方はどうしようも無い。

黒いソルが踏み込んでくるのが分かった。
シンが体勢を整えたところに、間髪居れずにだ。
だが、全く反応出来なかった。今度は無理だ。流石に避けれそうにねぇ。
死んだなこりゃあ。冷静な頭の部分がそう考えたが、体は勝手に動いていた。
ふらついたままのシンは避けたり、すっ転んだりしなかった。
それどころか、逆に前に突っ込んだ。
どうやら、黒いソルも意表を突かれたようだ。反応が遅れていた。
至近に相手の気配を感じたシンは、自分の頭をハンマーみたいに振り下ろしてやった。
グァッツーン! と良い音がした。黒いソルが舌打ちをするのが聞こえた。
頭突きをぶちかまし返してやった。ざまぁ見ろ。
でも、やべぇな。ヒヨコの鳴き声みたいなのが聞こえる。
自分が立っているのか、座っているのか、倒れこんでいるのかどうかもわからない。
身体がふわふわしている。呻き声を上げながら頭を振って、棍を構えなおす。
大丈夫だ。何とか立ってる。若干頭がピヨってるが、行ける。
そのシンの視界が真っ赤に染まった。額がざっくり切れているようだ。
ぬるい液体が顔を伝う感触がある。口の周りを舐めると、濃い血の味がした。
黒いソルも、どうやら少しやる気になったようだ。
半身立ちのまま、すっと腰を落として見せた。
シンは息を吸って、吐いた。来いよ。この野郎。やってやる。

だが、其処に割り込んでくる者が居た。
「ちょっと離れてな、シン!」 
動いたのは萃香だった。

咄嗟に、シンは後ろにポーンっと大きくバックステップを踏んだ。
そんな怒鳴り声に近い声で言われなくても、多分シンは下がっていただろう。
黒いソルの背後を取った萃香の身体が、巨大化し始めたからだ。
凄い勢いで大きくなっていく。
というか、巨大化しながら、もう右拳を振り抜こうとしている瞬間だった。
隕石のような拳が、黒いソルを襲う。

黒いソルが、背後の萃香を肩越しに見てから防御姿勢を取るまでは、一瞬だった。
身幅の在る封炎剣を楯に、萃香の拳を受け止めて見せた。
流石に、黒いソルの脚が地面の岩盤に沈んだ。亀裂が入り、盛大に陥没する。
地底が激震する。周囲の傾いだ建物が一気に崩れた。濛々と土埃が上がった。
だが、まだ終わらない。萃香は巨大化し続けている。
シンは身の危険を感じ、更に大きく後ろに跳んだ。
小柄だった萃香の身体が、すげぇデカさになろうとしている。
しかも、今度は左拳を振り上げて、黒いソルに更に迫った。もう一撃。
さっきよりも大きくなった左拳が、振り下ろされる。

鬼のパワーに真っ向から勝負するつもりか。
陥没した地面に立っている黒いソルは、封炎剣を持っていない右拳を打ち上げた。
その場から動かないまま、腕の力だけのパンチだった筈だ。

萃香の拳と、黒いソルの拳がぶつかった。
今度は派手な音はしなかった。代わりに、肉が潰れて、骨が拉げるような鈍い音がした。
よく響いた。鳥肌ものの音だった。
ぐぅ…ぁっ!と、苦悶の声を上げたのは萃香の方だった。
黒いソルが、迫って来た萃香の巨大な拳目掛けて殴り返し、力任せに弾き返したのだ。
見れば、萃香の左拳が歪に歪んで、血が噴出していた。
中指と薬指がぐちゃぐちゃになっている。でも、萃香は止まらなかった。
弾き返された左拳を振り上げつつ、頭上で右拳とがっちりと握り合わせた。
しかも、萃香はまだ巨大化している。まだデカくなるのか。シンは呆然としかけた。
今度は逆にシンが中に割って入れない。凄まじいパワーを感じる。
黒いソルも、鬼の威圧感を前に流石に半歩下がったようだ。

いや、違う。気圧されたんじゃない。
奴は。間合いを計ってる。真っ向から打合う気だ。
萃香の両手が握り合わされた巨大な槌に、鬼火が灯る。
轟々と燃え盛る鬼火の密度は、岩を燃やすほどだ。
舞い上がる砂屑が火の粉に変わっている。周囲の温度が一気に上がった。
地底が震えている。集まる熱の密度と、萃香の纏う闘気が辺りを揺さぶる。
奥義、三歩壊廃。その最後の一歩を踏み込みつつ、萃香は叫んだ。
「ぅおおおっ!!」 そして、倒れこむように、振り上げた両拳を振り下ろした。
 止められる訳が無い。鬼の奥義だ。もう黒いソルは潰れるだけだ。
だが、黒いソルもぐっと姿勢を落とし、今度は黒塗りの封炎剣を持った拳を突き上げた。

同時だった。
墨色の炎が黒いソルの拳と剣に宿り、降り来る萃香の拳に向かって爆発的に放散されたのだ。
シンには見覚えのある技だった。タイランレイヴ。奴も出来るのかよ。
爆音と激震が同時に来た。距離を取っていたシンも、思わず顔を腕で庇った。
 墨色の炎と、鬼火を纏った隕石の如き萃香の拳が激突した衝撃は、凄まじかった。
 周囲に在った街道の建物は崩れるというか吹っ飛んで、瓦礫の山と化した。
 その中で、シンは見た。見ていた。
嘘だろ。萃香の両拳が、黒いソルの拳に押し返されていた。
 おかげで、萃香は両手が跳ね上がられる格好だ。完全に体勢を崩されている。
萃香の貌は苦悶に歪んでいた。萃香の両拳が焼け爛れ、骨まで見えていた。やばい。
 シンは駆け出す。黒いソルが、巨大化したまま無防備になった萃香に迫ろうとしている。 
駄目だ。間に合わない。黒いソルの方が遥かに疾い。
 
 軽く地面を蹴った黒いソルは、体勢を整え切れていない萃香の眼の前へ跳んだ。
 手にした黒塗りの封炎剣が、再び巨大なフォルムとなって墨色の炎を纏う。
 萃香の首を刈る気だ。シンは萃香の名前を叫んだ。
果たしてそれが何か意味のある行動なのかどうか、シンも理解していない。
ただ、呼ばずにはいられなかった。
黒いソルが、横一文字に巨大な炎剣を薙いだのは次の瞬間だった。
とんでもなく疾い振りだった。斬撃の軌跡に、墨色の炎が灼き付く。
ああ。なんてこった。シンは身体から力が抜けそうになった。
巨大化した萃香の首が刎ねられた。一瞬、そう見えた。でも違う。
萃香の身体が、一瞬の間にしゅるるるるっと霧に変わり、炎剣をすり抜けたのだ。
いきなり白い靄の塊が現れ、其処をブォォォンと封炎剣が通り過ぎたような感じだ。
黒いソルは空中で舌打ちをしながら、落下しながら萃香の本体を探し視線を巡らせた。
その黒いソルに、横合いから流星みたいな跳び蹴りをぶち込んだのは勇儀だった。
防御は間に合って無かった。そりゃあそうだ。実質、3対1だ。
シンは距離を取っていたが、勇儀は違う。虎視眈々と隙を狙っていたのだ。
勇儀と萃香のコンビネーションを、そう簡単に凌ぎ切れる筈が無い。
蹴りをまともに腹に喰らった黒いソルは、凄い勢いで瓦礫の中に突っ込んで行った。
黒いソルの落下した先では、ズッドォォン!!、と土と砕岩と瓦礫が捲れ上がった。
どうでも良いけど、死んだんじゃねぇか。あれ。
 シンは横目で黒いソルが吹っ飛ぶのを見つつ、駆け出す。
身体の霧にしていた萃香が元に戻り、空中から落下し始めていたからだ。
気を失っている訳でもなさそうだが、このままだと地面に叩きつけられる。
 足場は凸凹で、木片やら岩屑やらで最悪だ。黙って見てる訳には行かねぇ。
出来るだけ衝撃を与えないようにして、落ちてくる萃香の小さな身体を受け止めた。
萃香の小さな身体は、本当に驚く程軽かった。
まさか誰かに受け止められるとは思っていなかったのか。
お姫様だっこの状態の萃香は、驚いたような貌をしたままシンを見え上げていた。

「大丈夫かよ、その腕…!」 
シンは膝で衝撃を吸収するように着地して、萃香の腕を見下ろした。
酷い火傷だ。それに爛れまくって、骨まで見えている。
これでは、拳を使っての戦いはもう無理のように見えた。だが、萃香は軽く笑った。
こんなの、すぐに治るさ。言いながら、萃香はひょいとシンの腕の中から飛び降りる。
シンは何か言いかけたが、止めた。

萃香はもう、黒いソルが吹っ飛んで、瓦礫に埋まった箇所へと視線を向けている。
その腕は痛みからか、僅かに震えていた。痙攣していると言っていいかもしれない。
だが、その腕で身に付けた鎖を構えて息を吐き、肩越しにシンを振り返り、見上げた。

「礼は言っておくよ。…すまないね」 

「別に良いけどよ…。って、マジかよ」
シンは視線を上げながら、思わず呟いていた。
萃香の方も、シンと同じ方へ視線を向け黙りこんだ。
黒いソルが、瓦礫や砕岩をどかしながら、ゆっくりと起き上がって見せたからだ。
相変わらず無表情のまま、まるでダメージを負った風でも無い。
勇儀の渾身のとび蹴りは、まともに入った筈だ。どんだけタフなんだ。在り得ねぇ。
対峙していた勇儀も、構えこそ崩していないが不味そうに貌を歪めている。
起き上がった黒いソルは、周囲に視線を巡らせて、天井の岩盤をゆっくりと振り仰いだ。

その瞬間だった。何かの鼓動が聞こえた。やけに大きく響く音だ。
巨大な生き物の心臓が脈打つような、腹の底にまで響いてくるような重低音だった。
何処から。分かりきってる。奴からだ。あの黒いソルからだ。
明らかにヤバイ。足が竦むのを感じた。
シンの隣に居る萃香も、息を呑んでいた。
墨色の炎が、黒いソルの身体を覆った。
いや、纏ったという感じだ。だが、その墨色の炎はすぐに消えた。
だが、変化は起きていた。
黒いソルの騎士服。その喉元から覗く肌が、外骨格のように変質しているのが見えた。
顔はそのままだ。だが騎士服に包まれている腕や胸は、どうなっているのか分からない。
想像するしか無いが、どう考えても奴の存在が更に危険になったことに変わり無い。
黒いソルが、天井を振り仰ぎながら、大きく息を吐いた。
その吐息だけで、周りに居る者を圧倒する迫力があった。
雰囲気が一変した。勇儀も動けていない。シンも、萃香もだ。
飲まれている。圧倒されている。心が萎えそうになる。

黒いソルは、首を鳴らしてから、顔を勇儀達に巡らせた。
どうやら、近くに居た勇儀に眼を突けたらしい。
奴は特に力んでいる風でも無く、一歩を踏み出した。
ゆったりとした、それでいて反応し辛く、捉え難い速度で勇儀との間合いを詰めた。
勇儀も前に出た。シンと萃香も、黒いソルへと向かおうとした。
だが、間に合わなかった。奴は想像以上の強さだった。
余りにも一瞬の出来事だった。

勇儀は、黒いソルの脇腹と横っ面に拳をぶち込んだ。
それだけでは飽き足らず、喉、顎、心臓、水月へと、連打で拳を叩き込んだ。
黒いソルは僅かにぐら付いた。だが、即座に反撃に出た。
いや、反撃というよりも、ゆっくりと手を伸ばしただけだ。
半ば勇儀の攻撃を喰らいながらの行動だったが、絶対に反応出来ないタイミングだった。
「…ぉ」、と勇儀は何か言おうとして、代わりに血を吐いた。
黒いソルの手が、勇儀の胸の真ん中辺りに沈みこんでいた。違う。
まるで、豆腐か何かに腕を沈めるみたいに、簡単に突き刺さっていた。
勇儀は咄嗟に身を引こうとしたようだが、無理だった。
黒いソルが、手を勇儀の胸に抉りこんだまま、そのまま捻じり込んだからだ。
胸骨が砕け、肉が潰れる音がした。鬼の骨と筋肉を潰す腕力は、それだけで脅威だった。
「ぅぐ…っ!!」 勇儀は、それでも拳を打ち込もうと、構えを崩さなかった。
至近距離だ。この距離の打ち合いで、鬼が負ける筈が無い。その筈だった。
だが勇儀が拳を振るよりも先に、黒いソルは更に逆方向に手を捻じり込んだ。
勇儀の脚が、カクンと折れた。同時に、胸から血が噴出した。
ごふっと血の塊を吐き出した勇儀は、しかし倒れず、黒いソルの腕を掴んだ。
何か反撃に移ろうとしているようだが、黒いソルは容赦しなかった。
更に手を捻り込んで、勇儀の胸の中を掻きまわして、破壊した。

やめろ。シンは叫んだ。
萃香も叫びながら、構えた鎖を黒いソル目掛けて投擲しようとしたが、出来なかった。
黒いソルが、萃香達の方を見て、勇儀の胸の中身を握り込んだまま持ち上げたのだ。
そして、駆け寄ろうとしてくるシン達の方へと、勇儀を投げつけて来た。
手首のスナップだけで放ったくせに、綿人形を放り投げるみたいな、凄い勢いだった。
「勇儀っ!!」 叫んだ萃香の声は震えていた。
手にした鎖を放り出して、萃香は投げ飛ばされて来た勇儀を受け止めた。
勇儀と萃香の体格に差が在るから、勇儀を地面に寝かすような格好になった。
其処に、黒いソルが音も無く迫って来ていた。勇儀と萃香を同時に殺す気だ。
くすんだ金色の奴の眼には、躊躇とか容赦とか言ったものが全く無い。

本当に咄嗟だった。
勇儀と萃香を庇う格好で、黒いソルの前に割り込んだシンは棍棒で応戦しようとした。
くそが。させるかよ。てめぇ。シンは吼えた。
だが、まず打合った一合目で思い知らされた。
完全に力負けして、思いっきり棍を横に弾かれ、身体が泳いだ。
それでも吹っ飛ばなかったのは、根性とか気合とかそんなものだった。
後ろから、萃香の声がした。
逃げろ。そんな感じの事を言われた。
バッカ。逃げられるかよ。お前ら置いて。何処へ逃げろってんだよ。
俺にはよ。此処しかねぇんだよ。頭良くねぇから、戦う以外に分かんねぇんだよ。
 悪いか。いや、悪いのは俺の頭か。違うな。コイツだ。テメェだよ。
シンが構えを取り直したと思ったら、黒いソルが剣を突き込んで来た。
さっきよりも遥かに疾い。衝撃は思ったより無かった。
 封炎剣が、シンの身体の真ん中あたりをぶち抜いた。完全に貫いていた。
 くそ。痛ぇ。超痛ぇぞ。痛ぇだろうが。この野郎。死んじまうだろうが。
でも、左手に持った棍棒は放すな。自分に言い聞かせる。意識を握り締める。
シンは血を吐きながら黒稲妻を纏い、体にぶっ刺さっている封炎剣を右手で掴んだ。
捕まえたぞコラ。シンは血を吐き出してから、歯を剥いて黒いソルを睨む。
すると、黒いソルは封炎剣をグリッと抉ってきやがった。
気が遠くなるような激痛だった。でも、駄目だ。まだだ。後ろに萃香達が居る。
 死んでも守れ。遠くへ。そうだ。遠くへコイツを連れて行け。

 後ろから萃香の声が聞こえるが、もうなんだかよく聞こえない。
 無理だ。痛すぎて色々考えられねぇ。いや、元々あんまり考えたりしねぇけどよ。
 流石にこれはヤバイ感じだぜ。クソ下らねぇ。
シンは封炎剣に貫かれたまま、棍棒を黒いソルの胸にぶち込んだ。
 「ぐぅぅううううああああああああああああああああAAAAAAAAAHHHH!!!」
ついでにそのまま前へ。前へ押しながら走り出してやった。
 流石に黒いソルも意表を突かれたのか。僅かに顔が歪んでいた。
咄嗟に封炎剣をシンの身体から剣を抜こうとしたようだった。
だが封炎剣の刀身を掴むシンの右手が、それを許さない。
 シンは黒稲妻と法術陣を纏い、体ごと黒いソルにぶつかっていく。
 
覚醒技。L・T・R。
赤黒い法術陣と稲妻の嵐と化したシンが、黒いソルを巻き込んで、街道に建っていた建物の一つに突っ込んだ。
そして、次々に建物を砕き、崩し、破壊しながら突き進む。
 冗談のように、木造の建物が次々と崩壊していく。
 この区画に人が残っていないから出来る大技だった。
 バッコンバッコンドゴンドゴン言いながら、街道に破壊に傷跡を残す。
 黒稲妻が暴風と共に吹き荒れ、赤黒い明滅が旧都を覆った。
 
 萃香達はどうなった。こんだけ距離を稼げば逃げれるか。
 悪い事したな。こんな無茶苦茶にしちまって。怒られるかな。
建物をどんだけぶち抜いたか数えてない。やっちまったな。
ああ。でも。これしか思いつかなかった。逃げろ。逃げてくれ。皆。
 そう思った時だ。シンの突進の勢いが緩まった。限界だった。
 
霞む視界の眼の前では、黒いソルが涼しい貌のまま、こちらを見据えている。
 黒いソルは何処までも冷静だった。
シンの突進に合わせて、薄い結界を張って見せたのだ。
御蔭で、俺の大技も無駄に終わりそうだ。相手は平然としている。
参るぜ。くそ。やってられねぇ。というか、もう立ってられそうにねぇ。
シンの纏う黒稲妻が薄れ、法術陣も消え始める。
 
いや、萃香達が逃げられるなら無駄にならねぇ。
 喧嘩しか能がねぇのに情けねぇ。すまねぇ。オヤジ。
 
シンの突進の勢いが完全に消え、稲妻も掻き消えた。
 静まり返った周囲がどんな状況になっているのか、さっぱり分からない。
 ただ、街道この一区画は滅茶苦茶だろう。突進技なんか、ぶっ放すもんじゃねぇな。
其処まで思った時、ずるっと身体から、何かが引き抜かれる感覚が在った。
同時に、シンは瓦礫の上に倒れた。何とか立ち上がろうとして、うつ伏せに崩れ落ちた。
おい。待てよ。てめぇ。お前の相手は俺だ。何処へ行くんだ。
そう言おうとしたが、言葉が出ない。代わりに血の塊が食道からせり上がってきた。
血を吐き出すと、視界が急激に狭くなって、暗くなった。
視線を動かしても、黒いソルの背中しか見えない。
 ふっ、と意識が遠のいた時だ。“声”がした。
何だよ。こんな時に。黙ってろよ。そう思うが、思うだけで何が出来る訳もで無い。
腹に大穴を空けられたまま覚醒技まで使って、精神も肉体もヘロヘロだ。
というか、死掛けだ。もうすぐ死ぬ。そう思っていた。
だが、聞こえて来た“声”は今までに無いくらいに楽しそうだった。
“なぁ、久ぶりに選手交代と行こうぜ”。
 



[18231] 三十四話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2011/12/02 22:44

 
旧都の被害は、恐らく更に大きくなる。
地底を揺らす激震はさっきので何度目だろう。
首筋辺りが痺れるような感覚が在った。今まで、こんな規模での戦いは無かった。
眩暈のようなものを感じるが、ふらついている場合でも無い。しっかりしなくては。
さとりは唇を噛みながら、ほぼ無人街と化した旧都の区画を、お空、お燐、こいしと共に行く。

他の妖怪達の多くは、地霊殿前の区画まで避難してきていた。
その中にはこいしが連れて来た、ヤマメ、パルスィの姿も在った。
妖怪達は皆、混乱し、恐慌状態に陥り掛けていた。
ただ、陥り掛けているだけで、完全に取り乱したりする者が居なかったのが救いだった。
今も戦ってくれているであろう、勇儀や萃香、シンのおかげだ。
旧都に住まう妖怪達も皆、戦う心構えはしていたし、その準備もしていた。
しかし、余りにも敵が悪かった。想定を遥かに超えていたのだ。
鬼の四天王の勇儀や萃香達が、旧都の者達を逃がせと言った事が、それを現している。
さっきの混乱の中で負傷した者の数も少なくない。逃がさなければ。
でも何処へ? 此処は地底で、入り口の方から敵が来ている。
戦場となっている区画を迂回させれば、或いは皆を地上へ逃がせるだろうか。
それを敵が黙って見過ごしてくれるだろうか。
現実的では無い。楽観する訳にはいかない。地底の妖怪達は、今は総崩れの状態だ。
さとりが視線を上げると、旧街道の入り口の方角から、濛々と上がる煙が確認できた。
再び地面が揺れ、街道の建物がビリビリと震えるのを感じる。
巨大な黒い稲妻が吹き荒れ、建物を突き抜けていくのも見えた。

「あれ…! 萃香の姐さんと勇儀の姐さんですよ!」
火車を押しながら駆けるお燐が、街道の先を見ながら叫んだ。
さとりは一瞬、自分の心臓が止まったような気がした。予想していた最悪の部類の事態だ。
瓦礫と化した街道の一角で、萃香が勇儀の肩を抱えて、寝かせるような体勢になっている。
萃香の腕は焼け爛れ、肉も削られて、骨が見えている。
だが、より深刻なのは勇儀の方だった。
胸元に大穴が空いて、血がドクドクと流れ出ている。
勇儀の着ている白い服も真っ赤で、萃香を見上げる眼も、何処か虚ろだった。
半ば呆然としているような貌の萃香は、どう動くべきか迷っている様だ。
勇儀を連れて逃げるべきか。まだ戦うべきか。萃香の瞳は揺れていた。
さとりは萃香の名前を、大声で呼んだ。
萃香がこちらに気付いて、萃香を横たえたままの体勢で顔をこちらに向けた。
一瞬、その貌が申し訳無さそうに歪んだのが見えた。

だが、それどころじゃない。
瓦礫の向こうから、誰かが来ている。
身動きの取れない萃香と勇儀に迫ろうとしている。
黒い誰かが。剣を持った黒い誰かが。瓦礫の山を押しのけて。
墨色の炎を、薄い煙のようにくゆらせて。ゆったりと。悠然と。
その貌を見て、さとりは息を詰まらせた。お空とお燐も、こいしも、息を呑んだ。
赤い髪をした彼は。ソルだ。ソルと同じ顔をしている。まるで生き写しだ。
黒いソルが、萃香達二人に歩み寄ろうとしている。殺そうとしている。
墨色の炎が、黒塗りの封炎剣に宿っていた。

二人はまだ、黒いソルに気付いていない。
こっちを見ている。駄目だ。危ない。そう言おうとしたが、その時間も惜しい。
「お空、お願い…!」 さとりの咄嗟の指示に、お空は応えてくれた。
お空は頷くよりも先に、宇宙柄のマントを翻して核熱を纏い、鴉の大翼で空気を打った。
爆発的に加速し、さとりやお燐、こいしを置き去りにして、萃香達の元へ向かう。
向かってくるお空を見て、黒いソルがすぐ其処まで迫っている事に萃香も気付いた様だ。
萃香は瀕死の勇儀を庇うように、立ち上がろうとした。
だが、あの腕で応戦し続けるのは無理だ。
加えて勇儀を庇いながらでは、思うように戦えないだろう。
唇を噛み締めた萃香は、勇儀を背負うようにして、さとりの方へと退くことを選んだ。
その萃香の逃げる勇気が、僅かな時間を稼いだ。お空の突貫を間に合わせた。
黒いソルは萃香が背を向けるのを見て、ぐっと前屈みになっているところだった。
背後から萃香と勇儀を狩るつもりだったのだろう。
体勢を前に倒したままで、黒いソルはさとり達の方をちらりと見て、眼を細めて見せた。
それから突っ込んでくるお空へと視線を移してから、駆け出した。
黒いソルが地面を蹴ると、瓦礫と地面が陥没した。凄いプレッシャーだった。

だが、その威圧感に負けず、お空は黒いソルと萃香達の間に割り込む。
お空と萃香がすれ違い様に、萃香は何かを言った。
気をつけろ。死ぬな。多分、そんな感じの事を言われた気がした。
深く考えている暇は無かった。
黒いソルは、割り込んで来たお空に標的を変えたようだ。突っ込んでくる。
瓦礫の山を踏み抜き、踏み砕きながら、猛進してくる。

右手の装着していた制御棒を黒いソルに向け、お空は奥歯を噛み締めて、睨み付けた。
胸元に覗く深紅の眼も、黒いソルを見据え、墨色の炎を瞳に映している。
お空の貌に宿っている感情は、純粋な怒りだ。お空は怒っていた。
今までに感じた事の無い程の怒りだった。
「うぁぁあああっっ!」 眩し過ぎる黄橙色の光と熱を纏いつつ、お空は叫んだ。
そしてその全てを放散させる様に、制御棒から巨大な核熱光弾を撃ち出した。
初撃から全力全開だった。爆符『メガフレア』。地底が、明るい黄橙一色に染め上げられた。
核炎を暴風の中に塗し、その煌きが収束して、神の炎となって撃ち出される。

「加減を知らない子だねぇっ…!」
お空と一緒に駆け込んで来たお燐は、萃香から抱き受けた勇儀の身体を火車に乗せる。
同時に短く息を吐いて、指で印を結び、短い詠唱を行っていた。
流石はお空の親友であり、地底きってのネクロマンサーだ。阿吽の呼吸だった。
お燐はお空の攻撃に合わせ、青白い怨霊炎で、巨大な髑髏を模した防壁を象ったのだ。
咄嗟に構築されたお燐の防壁は、萃香やさとり、こいしを爆熱から守る。
とにかく、とんでも無い破壊力と熱量だ。
顔を庇いつつ、お燐は防壁越しに、爆熱の塊が黒いソルを襲うのが見えた。
だが、すぐに舌打ちをしたくなった。見るんじゃ無かった。冷や汗が出た。

墨色の炎が斬撃の軌跡として、空間に灼き付いている。
黒いソルは手にした剣で、メガフレアの炎の塊を袈裟懸けにぶった斬ったのだ。
斬り掛かる瞬間、封炎剣は一瞬だけ巨大で歪なフォルムに姿を変えた。
その禍々しく長大な形状の封炎剣は、振り終わる瞬間には元の姿に戻っている。
粘つくような墨色の炎だけが、まだ刀身に宿ったままだ。
何て切れ味だ。まともに相手をするのは不味い。
お空の炎弾を容易く両断するあの武器は、酷く厄介だ。
真っ二つ両断されたメガフレアの炎の弾は、踏み込んでくる黒いソルの両脇に逸れた。
瓦礫の山に着弾して、黒いソルの左右後ろで爆発して、一瞬で燃え広がった。
刹那の間に、火の海が出来上がった。熱風が吹き荒び、盛大に火の粉が舞い上がる。
お空は制御棒を構えたまま、左手の人指し指を天に翳すように掲げ、更に核熱をその身に纏う。
今度は弾幕と共に、お空はもう一撃ぶっ放す気だ。
灼熱と化した黄橙の煌きの中を、顔色一つ変えないまま、黒いソルが突っ込んでくる。
神の火を扱うお空の攻撃姿勢でも、真正面から相対しても全くお構いなしだ。

「少し退きましょう! さとり様! 勇儀の姐さんを此処から…!」
髑髏炎の防壁を、更に怨霊の火で補強しようとしたお燐は、其処で言葉を飲み込んだ。
黒いソルの姿がぶれたのが見えた。えっ…、という、お空の驚いたような声も聞こえた。
さとりもこいしも、一瞬、唖然とした。
火車に乗せられた勇儀は、重傷の様だったが反応していた。
勇儀は苦しそうに血を吐きながら、何かを言ったようだった。
だが、それが何か意味の在る事だったとしても、余りにも遅かった。
黒いソルは、踏み込んでくる速度を一気に上げて、お空の目測を見誤らせたのだ。
結果。お空はまんまと引っ掛かった。お燐が、お空に何か声を掛ける間も無かった。
制御棒を構え、人差し指を掲げたお空のすぐ傍で、黒いソルが身を沈めていた。
墨色の炎が見えた。其処まで来て、お空も気付いたようだがもう遅い。遅過ぎる。
黒いソルの手に握られた封炎剣が、再び長大なフォルムへと姿を変えているのだ。

お燐の脳裏に、真っ二つにされる親友の姿が映し出された。
もうすぐ、それが現実のものとなる。その筈だった。だが、そうはならなかった。
黒いソルは、封炎剣を振り抜く事は出来なかった。
投擲されて巨大化した鎖が、お空の脇を抜けるようにして飛んで行ったからだ。

もう一人、黒いソルの超速の踏み込みに反応出来ていた者が居てくれたおかげだ。
「まだ私は負けてないよ…!」萃香だ。腕を焼かれて尚、疎と密を操る力は衰えていない。
ぐんぐん巨大化して投げつけられた鎖は、もはや鉄塊と言っていいだろう。
黒いソルは、自らに迫ってくるその鉄塊を、巨大化した封炎剣で弾く。
金属同士がぶつかり合う甲高い音が、火の海の中に響いた。
残響する金属音の中、出来上がったその僅かな時間の間に、お燐、さとり、こいしも動く。
反撃に出る。お空も翼で宙を打って、黒いソルから一旦距離を取る。
さとりは火車に乗せられた勇儀を見て、お燐を見た。咄嗟だったが、お燐は頷いてくれた。
勇儀の姐さんを此処から離したら、すぐに戻って来ますんで…!!
そのお空の背後で、冷や汗を拭いつつお燐は呪を唱え、指で素早く印を結んだ。
お燐の呪に応え、青白い光の波紋がその足元から周囲に広がる。
死霊を操り、地獄に残る怨恨を呼び込む。命無き物へ、亡者の呻きを映し込む。
瓦礫に燻る炎と埃に、怨霊を宿らせ、それが無数の髑髏火となって起き上がった。
まるで土屑と瓦礫と炎で凝り固まった、ゾンビの群れだ。
ああ亜阿阿阿ア阿阿阿阿。怨嗟の声が、瓦礫と化した街道に響き渡る。
「時間稼ぎ位にはなっておくれよ…っ!」 ゾンビ達は黒いソルに群がろうとする。
お燐は火車を押して、その場から離脱する。
勇儀が苦しげに何か呻いているが、今は聞いている暇が無い。
どう見ても勇儀は重症だ。胸の大穴からの血は止まっていないし、戦える状態じゃない。

その勇儀の代わりに、萃香が前へ。

ゾンビ達に囲まれ、鬱陶しそうに剣を払う黒いソルを見下ろし、お空は宙に留まった。
核熱を体に宿し、更に熱を上げ、神の炎を身体の内で燃え上がらせつつ、力を溜める。

こいしは無意識の中へ潜り、ゾンビ達に紛れながら、黒いソルへと忍び寄った。
形成はこれで逆転したかのように見えた。少なくとも、さとりにはそう見えた。
第三の眼を、ゾンビ達を無表情のまま撫で斬りにしていく黒いソルへと向け、息を呑む。
まだだ。まださとりが動く時じゃない。じれったい。苦しい。見ているのが辛い。
でも、機を逃してはならない。見逃すな。

無表情のままの黒いソルは、劣勢に立たされても、全く苦戦している様に見えない。
彼のくすんだ金色の眼が、やけに凪いでいるせいか。
ゾンビの群れを容易く斬り倒しながら、黒いソルは萃香の振るう鎖と拳を捌いている。
萃香の腕はもう血だらけだ。皮膚もずる剥けで、肉もこそげ、拳の形が歪んでいた。
それでも萃香は戦う。鬼火を纏う拳を繰り出し、身に付けた鎖を振りぬく。
封炎剣と萃香の拳がぶつかる度、腹の底にまで響く鈍い音が聞こえる。
ガンガン攻めまくる萃香だが、黒いソルにその拳は届かない。触れられない。
ぅおおおおお…っ! 雄たけびと共に振り抜かれた萃香の鎖に、何体かのゾンビが巻き込まれた。
黒いソルはすっと身を沈めつつ鎖をかわしながら、背後に迫っていたゾンビ共の脚を剣で砕いた。
無意識に潜るこいしは、萃香の鎖を危うい処でかわしながら、その激戦の隙を伺っている。
黒いソルは巧みに剣を振るい、受け止め、往なしつつ、周囲のゾンビも切伏せていく。
多対一の戦いにとんでもなく手馴れているのだろう。全く動きに無駄が無い。無さ過ぎる。
それに異様なまでのスタミナだ。
対して、萃香の方は息が上がってきている。構えも崩れかけ、かなり辛そうな表情だ。
それでも尚、拳の握り硬め、連打を放つ。連打。連打。連打。連打。
黒いソルはその連打を全て見切っているかのように、やけに緩やかな動きでかわし続ける。
かわし続けながら、ゾンビをぶった斬り、殴り崩し、破壊していく。
火の粉が飛び散り、土埃が舞い、怨嗟の声が墨色の炎に焼かれる。
響いてくる打撃音がやけに虚しい。信じ難い光景だった。
萃香の攻撃が通用していない訳じゃない。
数では圧倒的に優位に立てたはずだった。だが、もう勢いを取り戻されつつある。
黒いソルが萃香を見詰め、ピタリと動きを止めた。そう見えただけで、違った。
次の瞬間だった。手にした封炎剣を巨大化させ、グォォォンと周囲を薙ぎ払ったのだ。
阿啞阿啞阿阿啞阿啞。その激烈な一撃で、周囲に群がっていた無数のゾンビが塵に帰った。
こいしは咄嗟にしゃがんで避けたようだが、被っていた帽子が墨色の炎剣の餌食になった。
萃香は逆に地を蹴って跳び上がり、払われた剣を避けた。その隙をつかれた。
流れるように重心を前に移動させた黒いソルは、その萃香目掛けて剣を突き出す。
と見せかけて、上段の回し蹴りをぶち込んだ。フェイントだった。
剣での突きが来ると思った萃香は、それを捌こうと動きを止めてしまった。
今度は避けれなかった。咄嗟に腕での防御は間に合った様だが、凄い音がした。
蹴りを喰らった萃香は、瓦礫の山の中を何十メートルも吹っ飛んで、転がっていく。
まだ残っていた建物を壊しながら、ようやく止まった。
土埃が濛々と上がる中、萃香は起き上がって来ない。
萃香が吹っ飛んで行った方へと視線を向けながら、黒いソルは眼を細めた。
その瞬間だった。黒いソルの喉首に、角材の破片が突き刺さった。
太い木材の破片が、喉の横を貫通している。流石に、黒いソルも少々驚いたのか。
ごふっと、血の塊を吐き出して、剣を持っていない右手で喉の辺りに触れている。
ずっと黒いソルが戦う姿を見ていたさとりには、すぐに分かった。こいしの仕業だ。
こいしはしゃがんで炎剣を避けた際に、角材の破片を拾い上げていたのだ。
しかし、黒いソルはあの状態でも冷静なままだった。
喉を貫く木材を引き抜きながら、視線を左右に巡らせた黒いソルは、何かを唱えた。
ディスペルだ。無意識に潜っていたこいしの姿が、意識の表層へ引きずり出される。
身の危険を感じたこいしは、黒いソルの背後を取り、其処から離れつつ弾幕を放つ。
こいしは距離を取ろうとしたのだろう。だが、もう遅かった。

黒いソルがこいし目掛けて封炎剣を、下から上へと振り抜いていた。墨色の炎が迸る。
燃えさしの濁流は、こいしの放ったハート型の弾幕を飲み込み、こいし自身も吹き飛ばした。
小さな悲鳴が聞こえた。こいしの声だった。
ゾンビ達も炎に飲み込まれ、もう殆ど残っていない。
最後の一体も、黒いソルが封炎剣で無造作に叩き斬った。
塵と埃と火の粉が舞う瓦礫の上で、萃香とこいしは倒れたまま起き上がって来ない。

振り抜いた封炎剣を下ろしながら、黒いソルは静かにさとりに向き直った。
あれだけ激しく戦った後だというのに、息切れ一つせず、汗も全く掻いていない。
だらんと両腕を下げた、無防備とさえ言える体勢で、さとりの第三の眼の前にその姿を晒した。
黒いソルの眼は余りに透明で、さとりは気圧されそうになった。
だが、怯む訳には行かなかった。黒いソルの動きが完全に止まった。
好機だった。萃香とこいし、お燐が作ってくれた、千載一遇のチャンスだ。
さとりは第三の眼を見開き、黒いソルの心の中を覗き込み、そのトラウマを想起させる。
いや、想起させるだけでは駄目だ。心を、精神を抑え込まなければ。
このまま黒いソルの精神を支配してしまえば、戦う意思を奪うことが出来る。
心を読み解き、掌握してしまう事さえ出来れば。
さとりは、黒いソルの精神世界を覗き込む。
心の中に入り、その深層心理にまで潜り込み、思考を摘み取ろうとした。












第三眼が映し出し、さとりが入り込んだ黒いソルの精神世界は、見渡す限りの黒い海だった。
何も無い。喜びや嬉しさ、悲しみや恐怖といったものを現すものが何も存在していない。
さとりは、波の無い黒い海の上に、ひとり佇み、立ち尽くしていた。
こんな精神世界は見た事が無かった。黒いソルには、記憶や感情が欠落しているのか。
ただ、タールのように冷たい水面が広がっているだけだ。
深い、深すぎる闇だった。これでは、精神を抑えるどころか、何も掴めない。
さとりは戸惑う。こんな馬鹿な。こんな精神世界は在り得ない。何も無い筈が無い。
呆然と仕掛けたが、はっとして空を見上げた。
黒く塗り潰された空が、其処に広がっていた。雲なんてものは当然無い。
代わりに、薄紫色で縁取られた、不気味で巨大な黒い太陽が浮かんでいた。
見ようによっては、太陽と言うよりも、空間に空いた大穴にも見える。
その黒い太陽の頂点の下で、さとりは気付いた。
闇で覆われたこの精神世界は、空虚なだけでは無い。広大な闇の中に、何かが在る。
さとりの眼が闇に慣れてきて、ぼんやりとした輪郭が、辺りに浮かび上がって来た。
朽ちかけた巨大なギアの死骸が、無残に砕かれた聖騎士達の骸が、街の残骸が。
浮かび上がってくる。闇の中から、その姿が徐々に鮮明になってくる。
この精神世界のずっと向こう。地平線の彼方まで、骸と残骸と屍の山だ。
臓物と骨、陶片と金屑、血と錆、死骸と死体が累々と折り重なり、哀れな姿を晒している。
死の群れだった。それを見て、さとりは嘔吐してしまった。
情動のようなものが一切無い代わりに、彼の心は、死の記憶で埋め尽くされていた。
本当に、世界の終わりのような光景だった。これが、黒いソルの精神世界なのか。
でも、何処か見覚えが在る。そうだ。これは、ソルの記憶だ。聖戦の記憶だ。
黒いソルは、ソルの記憶を受け継いでいる。さとりは気付いてから、足元を見た。
黒い海と思っていたこの水面も、よく見れば黒の中に赤が混じっている。
血だ。余りに多くの血が、この黒い海と混じり合って、この世界を濡らしている。
この余りに広大な血溜まりと腐敗と荒廃の海の中に、巨大な何かの息吹を感じた。
何かが、さとりを見ている。さとりがこの精神世界を見渡すように。
この世界の主も、さとりを見詰めている。黒い海に、波が立った。
辺りを包む闇が震えるのを感じた。鳥肌が立つのを感じた。
さとりは身の危険を感じ、この精神世界から抜け出そうと黒い海から身体を浮かせた。
その時だ。黒い海の底から、何かがさとりに向かって腕を伸ばしてきた。
ざばぁっ!!、と水面を突き抜けて出て来たのは、巨大な、巨大過ぎる掌だった。
人間のものじゃない。堅牢そうな竜鱗に覆われた手が、さとりを握り潰そうと現れたのだ。
黒い手だ。すんでのところで、さとりは宙に浮き上がる事でこれを避けた。
「ぅ…ッ!!」それでも、強風に煽られたようにさとりの身体は大きくぐらつく。
掌はさとりを捕まえ損ったが、深追いしてくる事は無かった。
ゆっくりと黒い海の中に、ずぶずぶと沈んでいった。
その様子を宙から見上げる格好で、さとりは黒い海のすぐ下に居た“それ”に気付く。
赤黒く澱んだ海の中に、薄っすらとシルエットだけが見える。とてつもなく巨大な、竜だ。
水面の下で首を擡げ、くすんだ金色の眼でさとりを見上げていた。
竜に見据えられ、さとりは金縛りに会った。そして同時に気付いた。
あの巨竜こそが、この精神世界の主だ。黒いソルの深層心理。本質であり、原形質だ。
さとりは、黒いソルの精神を支配しようとしていたが、無理だ。
あんな巨大な竜をどうこう出来る訳が無い。
心を読み解き、精神に触れる事に出来るさとりだからこそ分かる。
黒いソルの心は。心までもが彼の武器なのだ。
精神と自我を守る為、彼は心の中に巨大な竜を住まわせている。飼い慣らして居る。
常人には絶対に維持不可能な精神力を持って、心に宿る竜を従えていた。
肉体では無く精神を攻めるつもりだったが、これは完全に計算外だった。
さとりは、もう此処から逃げるしか無い。逃げられるだろうか。
だが、その心配は無かった。
黒い巨竜は少しの間さとりを見据えていたが、すぐに興味を無くしたように眼を逸らした。
それから、擡げていた首を下げ、眠るように眼を閉じた。
その隙に、さとりは黒いソルの精神世界から脱出し、自我を肉体へと回帰させる。












黒いソルは無感情のまま、未だ静かにさとりを見据えていた。
状況は先程と全く変わっていない。萃香が蹴り飛ばされ、こいしが炎に流された時のまま。
精神世界の時間と、肉体が過ごす時間には大きな差異が在る。
彼の精神世界に潜り込んで居た時間は、実際では二秒も無い。
たったそれだけの時間だったが、十分過ぎた。
黒いソルが精神面に弱点を抱えていない事を、さとりは思い知らされた。
想起させられるトラウマも無ければ、さとりの精神制御も受け付けない。
逆に、あの黒い海の広がる精神世界で、黒い巨竜の手に捕まっていれば。
さとりの自我が食い殺され、崩壊していただろう。
……俺の様な者の心は……無闇に覗き込まん方が良い…。
不意に黒いソルが、低い声で呟いた。
喉首の傷口も、もう塞がっている。
くすんだ金色の眼が、僅かに細められた。
それからゆっくりと踏み出し、封炎剣を肩に担ぐ。さとりは後ずさるしかなかった。

「…ギアは兵器だ…心さえもな…」
黒いソルがそう言いつつ、さとりに更に近づこうとした時だ。


「さとり様から離れろぉおおおおおおーーーッッ!!!」
叫び声がした。上から。お空だ。凄い熱を感じた。
足を止めた黒いソルは、眩しそうに手で顔を庇いつつ視線を上に上げた。
お空が核熱を限界まで身体に溜め込み、それを纏ったまま黒いソルへと突っ込んでいく。
爆風と暴風が吹き荒れ、小柄なさとりは立っていられなかった。
尻餅をつくようにその場に倒れこんでしまった。地底が、黄橙色の光と熱に再び染まる。

「ぅううううああああああああああーーーーッッ!!!」
お空自身でも制御不能であろう核熱ダイヴ。
それが巻き起こす熱旋風は、瓦礫と化した街道を更に荒廃させる。
身に宿す余りの力に、お空の眼からは涙の代わりに血が流れ、口や鼻からも血が出ている。
眼の焦点も怪しい。ただただ全力だ。お空は死力を尽くして、さとりを守ろうとしている。
突貫してくるお空に対して、黒いソルは墨色の炎を纏い、何の躊躇も無く飛び上がった。

……相性が悪かったな…。
その低い声に応えるように、黒いソルが纏った墨色の炎は、幾重にも巨大な法術陣を象る。
真正面から受け止める気だ。封炎剣を軽く握り、空いている右掌をお空の方へと翳した。
激突の瞬間。墨色と黄橙の光が炸裂して、衝撃が周囲の瓦礫を吹き上げた。
突撃しながら、お空は吼える。吼えて吼えて、吼え猛る。
核熱は更に熱を増し、黒いソルが象った墨色の防御術陣にバキバキと罅を入れていく。
勢いは完全にお空が勝っている。勝てる。行ける。黒いソルは圧されている。
だが、様子がおかしい。黒いソルの法術陣は今にも砕けそうなのに、全く動揺していない。
さとりはへたり込んで、見上げて居る事しか出来なかった。
黒いソルは宙に佇んだまま、お空の突撃を法術陣で止め、封炎剣を握った左手を握り硬めていた。
それが、何を意味しているのか、さとりには分からなかった。

容赦の無い黒いソルは、身をぐぐっと捻って、もう拳を振りぬこうとしている。
萃香の三歩壊廃を押し返したタイランレイヴを、より強力な力で放とうとしているのだ。

さとりは、お空に向かって叫んだ。駄目よ。お空。離れて。逃げて。
そんなさとりの声が、言葉が、この灼熱の暴風が吹き荒ぶ中、届く訳も無かった。
黒いソルは自分が作り出した法術陣ごと、封炎剣を握る拳を、突貫してくるお空目掛けて叩き込んだ。

呆気無かった。特に大きな音や衝撃も無かった。
ただ墨色の法術陣が砕ける音と、同じ墨色をした炎が燃え上がる音だけが聞こえた。
核熱ダイヴをしていたお空が、簡単にその炎の塊に飲み込まれるのが見えた。
やけに静かだった。くるくると回りながら、街道の建物の上に落下していくお空の姿。
それが、嫌にゆっくりに見える。どさっ…、という落下音が、遠くから聞こえた。
さとりは眼の前が真っ暗になって、身体から力が抜けていくのを感じた。
現実感が薄れて、上手く呼吸が出来ない。
瓦礫の山と化した街道のこの区画は、墨色の炎に焼かれ、その火の手が広がりつつある。
放っておけば、旧都の荒廃は更に広がるだろう。
少し遠くの方で、火を消して廻ろうとする妖怪達の声がする。
だが、幾ら燃え広がる炎を消した処で、墨色の炎を纏う彼を止めなければ、無意味だ。
消火作業に入る時間を、さとりの眼の前に着地した黒いソルは、与えてくれるだろうか。

…心を読む力か……サンプルとしては価値が在りそうだな…。
独り言のように呟いた黒いソルは、左手に握った封炎剣を肩に担ぎ、一歩踏み出して来た。
そう見えた瞬間には、重心を落としつつ、一瞬でさとりの眼の前まで肉薄してきた。
まるで影のように掴み処が無く、反応し難い動きだった。
弾幕を張り、距離を取ろうとしたさとりだったが、全然間に合わなかった。
「…この眼か…」 黒いソルは、さとりの首を右腕で掴み上げた。
そして、剣を持ったままの左手で、さとりの第三の眼を摘みつつ、眼を細めて見せた。
「かは…――――ッ!?」 さとりの細い首に、黒いソルの手が食い込む。
さとりは、首に廻された手を掴み、何とか抵抗しようとするが、全く歯が立たない。
肉弾戦では、さとりは敵わない。悔しさよりも、申し訳無さで涙が出そうだった。
黒いソルはそんなさとりを見据えつつ、第三の眼を摘む手に力を込めた。
眼を瞑って、さとりは覚悟した。突然だった。

瓦礫の山に燃え広がりつつあった墨色の炎が消えていく。
墨色の炎だけじゃない。火の粉や煙までが、まるで分解され、霧のように消え始めた。
お空の核熱が燃え移った黄橙色の燻る炎もだ。一緒くたに瓦礫の区画から消えていく。
いや、消えていくというよりも、何処かに吸い寄せられ、飲み込まれている。
異様な光景だった。轟々と風の鳴る音が聞こえた。
燃え広がろうとしていた膨大な量の炎が、何処かに吸い込まれるように消え始めている。
土埃と炎を飲み込む渦の中心点は、さとり達から少し離れた場所だ。
其処に誰かが立ち上がっていた。見覚えが在る。でも。あれは。


「はぁあああああああああaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHH―――――…」
さとり達の視線の先。特大の息を吐き出しながら、起き上がっていたのは、シンだ。
だが、明らかに様子がおかしい。黒稲妻を纏うシンの姿が、黒く染まっている。
白のコートに、白のジーンズを着ていた筈だ。だが、今は違う。
コートもジーンズも、黒く変色している。肌も青白くなって、血の気が無いように蒼白だ。
優しげだった緑の眼も、獰猛で凶暴な血色に変わっている。
炎が、シンの身体に吸い込まれているのか。
いや。正確には、シンの腹部に空いた傷口に吸い込まれるように、炎が飲み込まれていく。
それに呼応して、シンの身体の傷がどんどん修復され、再生し始めている。
吐き出される吐息は、空気に触れて吐火となり、細い稲妻と火花を散らす。
何かがシンの身体の中で、精神の中で起こっている。
変異しつつある。尋常じゃない威圧感だ。
黒いソルも、そちらへ視線を向けつつ、掴んでいたさとりを放り捨てる様にして放した。
どさっと地面に落とされたさとりは、喉を押さえて咳き込み、顔を上げる。
黒いソルは、もうさとりを見ていない。
さとりよりも明らかな脅威が、その視線の先に居るからだ。
茫々と音を立てながら、シンの身体は周囲の炎を全て吸い込み、飲み込んでしまった。
それからシンは、「ゲフゥuuuuuuuuuUUUUU――――…」と息を吐いた。
まるで、地面を揺るがすような特大のゲップだった。
黒く染まったシンは、血色の眼を細めつつ、棍で肩を叩きながら黒いソルに向き直った。
黒稲妻を纏うシンの貌には、凶暴そうな笑みとも怒りともつかない表情が浮かんでいた。
バリバリッと細い稲妻と火花を散らしながら、黒いシンの姿がぶれて、消えた。
一瞬、さとりはその姿を見失った。次の瞬間だった。
ドゴォォン!! と派手な打撃音と共に、黒いソルがさとりの眼の前で錐揉みに飛んだ。
瞬く間に接近して来た黒いシンが、黒いソルの横っ面を棍棒で思いっきりぶん殴ったのだ。
街道の建物に突っ込んだ黒いソルは、他の建物まで巻き込み、崩し、かなりの距離を吹っ飛んだ。

「ああAAAAAAAAAAAHHHHHhhhhh…。
良いEEEEEEEEEEeeeee感触だぁぁぁaaaaa―――…」

それは確かにシンの声だったが、何かの箍が外れたような声音だった。
黒いシンは黒いソルが吹っ飛んだ方を一瞥して、棍を担ぎ、さとりへと視線を移した。
血色の眼は笑っていた。口許も、酷薄そうに歪んでいる。普段のシンと、様子が全く違う。
さとりは後退りそうになった。
黒いシンはそんなさとりを見て、更に唇を歪めて見せた。

「何だよ、さとりん。俺が怖いのか?」

「あ、貴方は…」

俺? おいおい、しっかりしてくれよ。俺だよ。シンだよ。
まぁ、んな事ぁどうだって良いんだけどよ。ちょっとだけ離れててくんねぇ?
くっくっと、喉を鳴らすように笑って、黒いシンは瓦礫の上に倒れた萃香、こいしに視線を向けた。

「俺があのオヤジモドキをぶっ飛ばすからよ。
萃香と、こいしを頼むわ。マジ今の俺、手加減出来ない感じだからなぁaaaaAA。
下手すると巻き込んじまう。そうなると、流石にやばいだろう?」

黒いシンは、さとりに視線を戻しながら、担いだ棍で肩を叩いて見せた。
やけに明るくて残酷そうな声音だった。
さとりは、確信した。シンが心の奥底にひた隠しにしていたものが何なのか。
今、分かった。戦狂いの残忍な欲求だ。それが、表に出てきている。
眼の前に居るこの黒いシンこそが、シンが誰にも見られたくなかった部分。
ずっと隠して来たものが、この土壇場で溢れ出てきてしまったのだ。
血色の瞳は、見る者の足を竦ませる。実際、さとりも恐ろしさを感じた。

 「でも、一人では…!」

「俺以外に居ないだろ? ガチンコでやれるの。
さとりんがくたばるパターンを避けつつ、萃香とこいしも放っとけねぇだろ?
 それに、くっちゃべってる暇も無いぜ? 見てみろよ」

黒いシンは、黒いソルが吹っ飛んだほうへと顎をしゃくって見せた。
視線を向けると、黒いソルが、瓦礫を押しのけてこちらに向かって来ようとしている。
さとりは少し迷ったが、「…お願いします」と頭を下げ、こいしの元へと駆けた。
シンに任せるしかない。
それが最善なのかは、全く分からないままだが、じっとしている訳にもいかない。
幸運なことに、黒いソルは黒いシンに狙いを定めたようだ。
こいしの元へ行こうとしているさとりを見ていない。シンだけを見ている。
さとりは祈りたい様な気持ちになったが、何に祈れば良いのか分からなかった。
 とにかく今は、こいしと萃香を此処から離さなければ。
 それにお空にも治療が必要だ。どうか生きていて。
 




第二ラウンドと行こうぜeeeeeeeeEEEEEE…。
シンは唇を歪めて言いながら、黒いソルへと踏み出した。
纏う黒稲妻が更に太く、激しく明滅する。地面と瓦礫が削れ、焼ける。
足元の地面がドゴンッと凹んで、陥没した。シンの脚力が、地面の岩盤を砕く。
一歩。一歩を刻む。シンは自分自身の持つ感情を理解出来ないままだった。
胸中に在るのは、怒りなのか歓喜なのか、それとも違う何か別の感情なのか。

どうでも良いだろ。
もう、戦うしかねぇんだからよ。
俺と奴しか居ねぇじゃねぇか。
考える事なんてあるかよ。御誂え向きって奴だ。
馬鹿な俺は、喧嘩しながら死ぬんだよ。
それしか能が無ぇからな。でも、まだ死なねぇ。
俺は、今日は負けない。死なない。
そんな気がして来た。ぶちのめす。斃してやる。
綺麗事なんざ、今は必要無い。
この状況じゃ、そんなもんは虚しいだけだ。
ただ戦って、勝てば良い。ぶっ殺せ。

ああ。
どうか誰も、今の俺を見ないでくれ。

シンは笑みを刻んだまま前屈みに身体を倒し、一気にトップスピードになった。
それを見た黒いソルも、墨色の炎を纏って走り出した。凄い速度だ。
あっという間に、シンと黒いソルとの距離が無くなる。

黒いソルは逆手に持った剣を巨大化させつつ、逆袈裟に振りぬいて来た。
地面をバキバキに削りながらの一撃だった。シンは笑った。笑いを堪えきれない。
笑ったまま、迫って来た巨大な封炎剣を、右手で受け止めた。
黒い稲妻を纏った右手に、全身が痺れるような良い衝撃が来た。
掌の肉がグシャグシャに潰れて、血が吹き出した。でもそんなものは直ぐに再生する。
掴んだ。捕まえた。奴も、流石に片手で受け止められるとは思って無かったのか。
黒いソルの顔が、僅かに歪んだ。奴は剣を引こうとした。させるかよ。
シンは剣をがっちり掴んだまま、左手の棍で力任せに黒いソルをぶっ叩いた。
奴の反応は明らかに遅れていた。まともに喰らいやがった。
側頭部を思いっきり殴打してやった。
勇儀の乱打を受けてビクともしなかった奴の身体が、僅かにぐら付いた。
シンは哄笑を漏らしながら、掴んだ剣を引っ張り込んだ。
奴が体勢を崩した。其処を、稲妻を纏う棍で何度も何度も打った。
打って打って打ち据えた。バリバリゴロゴロと黒稲妻が迸り、瓦礫が舞い上がる。
シンは、黒いソルを滅多打ちにしていた。
いきなりだった。奴が、前に出て来た。至近距離だ。掴み掛かって来た。
流石に棍を振れない。間合いを潰された。
面白れぇ。来いよ。シンは重心落としつつ、右手で掴んでいた剣を放した。
でも棍は放さない。握ったままだ。来た。勇儀を潰した、あの握撃だ。
胸の真ん中に、黒いソルの手が突き刺さった。だが、シンは笑ったままだ。
「ぎゃはっ☆ 痛ぇ!」シンは胸筋を締めるだけで、黒いソルの腕力に対抗した。
指が、シンの胸筋に食い込んだだけで終わった。ミシミシと筋肉の締まる音がする。
「残念だったな。俺の身体はクソ頑丈だぜ」 余りの激痛に、笑いが込み上げて来た。
お返しとばかりに、シンは黒いソルの後頭部に手を伸ばして、思いきり引き寄せた。
そして、自分の頭をハンマーのように振り込んだ。
頭突きにしてはヤバイ音がした。 ずるっと、シンの胸から、黒いソルの指が抜ける。
何かが割れるような音も聞こえたし、「……ぬぅ…っ…」と黒いソルの呻き声も聞こえた。
奴は額を片手で押さえるようにして、フラフラとよたついていた。
見れば、奴のヘッドギアが砕けて地面に落ちている。
なんだ。俺の頭突きでぶっ壊れたのか。脆いな。でも、まだだ。まだ終わりじゃねぇ。
稲妻を纏いつつシンは、黒いソルに踏みこんだ。
奴は反応し切れてなかった。完全にくらついている。
何だ。思ったより弱ぇな。行くぞ。殺っちまうぞコラ。
俺はまだまだ行ける。力が沸いてくる。その激情に任せて、棍棒で奴を突いた。
かなり良い感じのビークドライヴだったから、手応えも在った。
奴の左胸を棍が貫通した。奴はゴホッと血の塊を吐き出して、身体を再びぐらつかせた。
それを見て、身体が震えた。俺は楽しんでいる。この戦いを。相手を傷つける事を。
楽しくて楽しくて、仕方無い。AAAAAaaaahhhhhhhhhhhh。溜息が出そうだ。
奴は胸に突き刺さった棍棒を掴もうとしたようだが、遅い。遅い遅い遅すぎる。
 とろくさいんだよ。遅すぎて話にならねぇ。
シンは棍を素早く引き抜いて、もう一発突きをお見舞いしてやった。
今度は、奴の右胸に穴が空いた。
奴の騎士服の下にあるだろう外骨格が拉げ、肉が潰れ、骨が砕ける感触。
何て甘美な感触だろう。俺は今、幸福感に似た何かを感じている。
aaaAAAAAAAHHhhhhぁぁぁあああ。やべぇ。この開放感に押し流されそうだ。
恍惚感すら感じる。生々しい破壊の手応え。
“お前が欲しがっていたのはこれだよ”。
“違うと言えるかい”。
“否定出来ないだろう?”
でも。同時に、大切な何かを失おうとしているような気もしていた。
頭の隅に、妖夢と幽々子の顔がちらついた。
妖夢は笑って居た。幽々子も笑っている。暖かく笑ってくれている。
其処に、俺の居場所は在るんだろうか。帰っても良いんだろうか。
帰りたい。でも今の俺は、その隣に居たら、いけないような気がするんだ。

「まだ終わりじゃねぇぞ! Gyahahahaaaaaahh!!」
大笑いしながら、シンは更に五発、神速の突きを黒いソルの身体にぶち込んだ。
奴は全部まともに喰らった。見てみろ。奴の身体はもう穴だらけだ。
苦し紛れに封炎剣を横薙ぎに振るって来たが、そんなものはシンに掠りもしなかった。
遅い遅い。シンは振るわれた封炎剣をひらりとかわして、棍棒の端を左手だけで握る。
右手には黒稲妻を凝縮させた、雷の鎖・ゼロファイトチェインを作り出した。
何処にも逃がさなねぇ。赤黒い閃光が激しく明滅する。稲妻が奔る。
シンは大笑いしながら、その黒稲妻の鎖を黒いソルに打ち出した。
鎖はまるで蛇のように黒いソルにしゅるしゅると巻きついて、雁字搦めにした。
「……ぐっ…」 
黒いソルは振り解こうとしているようだが、稲妻で編まれた鎖は簡単には外れない。
動きを完全に封じ込めた。黒稲妻の鎖は、シンの右手に繋がったままだ。
ゼロファイトチェインで捕らえた黒いソルを、右手を引っ張ることで無理矢理に引き寄せる。
シンは舌なめずりして、左手で握った棍を振り上げた。
危険を感じたのか。黒いソルはもがくのを止めて、顔を庇うように防御姿勢を取った。
HyaaaaaaHaaaaaaaaahhhhh!! シンは狂喜の雄叫びを上げて、棍を振るった。
稲妻を纏う左腕はぐねんぐねんぐにゃんぐにゃんとしなり、まるで鞭のようだった。
そのまま、黒いソルを棍で殴った。殴り続け、殴り抜いた。
殴って殴って、殴りまくった。

棍での乱打が相当に効いているのか。
黒いソルは棍で打たれる度、「…がっ…」とか「……ぐぅ…」と呻き声を上げている。
HihihihyahahahahahahahaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHH!!!
シンは哄笑を漏らしながら、更に殴った。今まで感じた事の無い快感が、体に奔る。
ああああAAAAAAAAA。ゾクゾクする。何か出ちまいそうだ。
俺の中から、まだまだ力が湧いてくる。だから、殴る棍に更に力を込めた。
黒稲妻の鎖で雁字搦めにされた奴は、棍で打たれるがままだった。
殴られまくった奴は、とうとう片膝を付いた。だから、もっと棍に力を込めて、殴った。
何だ。もう終わりか。このまま殴り殺すか。それも何だかつまんねeeeEEEEなあぁaaAA。
そう思った時だ。奴のくすんだ金色の眼が、俺を見ていた。
俺は、黒稲妻を纏う鞭とかした棍と腕を、即座に引いた。
ゼロファイトチェインも解いて、飛び退った。その一連の動作を一瞬で終わらせた。
少しでも迷いがあったら、俺は両断されていただろう。
稲妻の鎖で雁字搦めにされていた筈の奴は、本当に無造作に封炎剣を振るって来た。
鎖が何本か弾き飛ばされ、巨大化した封炎剣が横一文字に俺の胴体の肉を削った。
血が派手に吹き出た。もう痛みなんて感じなかった。代わりに、楽しさが湧き上がった。
そうだ。そうだよ。そう来なくちゃなぁぁaaaaaAAAhh。面白くねぇ。
奴もやる気になったようだ。バキバキ何か硬い音を立てて、奴の身体が再生されていく。
おまけに、背中から翼まで生えて来やがった。
やたら攻撃的なフォルムの、頑強そうな竜翼だった。
奴は無表情のまま上空へ浮かび上がり、手にした封炎剣を更に巨大に変形させていた。

おいおい。やる気満々じゃねぇか。良いEEEEEEEEEEEeeeeeeeねぇ。
了解だぜ。俺もちょっと本気を出すか。シンは右眼の眼帯を少し緩めた。
全部取らなかったのは、俺が、まだ吹っ切れて無いからか。
妖夢や幽々子の顔がまたちらついたからか。どっちでもいいや。今は。
瓦礫と炎と黒稲妻に支配された街道のこの区画じゃあ、そんな思考は不要だ。
戦って、勝てば良い。馬鹿な俺でも、分かり易くて良い。
俺はな。いろいろと小難しいことを考えて戦うのが苦手なんだよ。
でもな。正面からの全力突撃は何より得意だ。オヤジとだってタメを張れる。
てめぇはどうだよ。オヤジモドキ。受けれるか? 俺のマジ。
R・T・L。もう一発ぶちかます。肉体と精神を覚醒させろ。
奴も墨色の炎で巨大な術陣を形成し、突っ込んでこようと、体勢を前に倒している。
宙に浮かんだ奴は、黒太陽と化して、俺をひき潰し、焼き殺す気だ。
俺は。もう、俺じゃなくなろうとしている。
どこまでこの身体が突き進めるのか、試してやろうと思った。
uuUUUUUUUUooooooooooooOOOOOOOOOOOAAAAAAAAAAAAAAHHH――!!
吼えるシンの声に応えて、地底の中に赤黒い落雷が何発も落ちた。
 シン自身にも何十発もの太い雷が落ちて、それら全てがシンの身体の中に溜め込まれる。
エキサイター。自身を強化する法術を、何重にも掛け捲って、奴に対抗する。
 頭の血管がぶっちぎれる音がした。冷静な俺は、もう何処にも居なかった。
 必要なかった。だって、俺は、こんなにも充実している。
 街道を無茶苦茶にしながら、俺は、確かに楽しさや幸福感を感じている。
 駄目だ。俺は。壊れてる。ごめん。妖夢。幽々姉。俺、普通じゃねぇんだ。
 でも、白玉楼に帰りたいんだ。だから、俺はこうして、ゲラゲラ笑いながら、戦う。
 おかしいよな。醜いよな。穢いよな。でも、自分でも分かってる。
 誰も悪く無い。俺の頭が悪いだけだ。なぁ。そうだろ。てめぇだってそう思うだろ。
 オヤジモドキ。
あの体勢。法術式と、あの規模。タイランレイヴverαか。

「突進技で来るとは、味な真似するじゃねぇeeeEEEEEEEEかよぉooooOOOO!!!」

限界まで溜め込んだ力を解放しながら、俺は駆け出した。
俺は黒い稲妻そのものとなって、瓦礫の山を疾駆し、火花を散らしながら、跳んだ。
奴の顔が僅かに歪んでいるのが分かった。
流石に、俺のパゥワァーが此処までとは思わなかったんだろうが、もう遅い。
俺だって、もう止まれない。ちょっと遣り過ぎた感も在るが、丁度良いだろ。
ガチで正面突撃するなら。これくらい思いきった方が良い。
思いきりが良すぎて、身体中の骨が粉々になりそうだ。筋肉がぶちぶち言ってる。
あああああああAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHH―――――。
この開放感を、俺は心のどこかで求めていたんだ。認めざるを得ない。
ヴィズエル事件で洗脳され、もう一人の俺が心に内に居るようになってから。
ずっと、欲しかった。この何もかもを吹き飛ばすような、力の脈動。
黒いソルの纏う墨炎の法術陣と、シンの黒稲妻の法術陣が激突した。
完全に拮抗した。衝撃で、瓦礫と地面が捲れ上がって、嵐が巻き起こった。
墨色の炎と、黒い稲妻の嵐だった。シンの視界が真っ白に塗り潰された。
楽しくて。楽しくて。そんな自分が嫌で。どうしようも無かった。
湧き上がってくる快感と力が有余って、それを全部突撃する法力へと変える。
行け。押し潰せ、俺は。まだこんなもんじゃねぇ。
もっとだ。もっと力をだせ。解放してしまえ。IHihyahahahahahaaaaaaahh。
もう俺は、笑うくらいしか出来なくなって、そうした。
笑いながら、身体の奥から湧き上がって来る法力を全て稲妻に変え、押し込む。
墨色の炎と、同じ色をした法術陣の向こうで、オヤジモドキの顔が、また歪んだ。
良いぞ。笑え。もっとだ。見てみろ。奴の勢いが。弱まって来てる。
やっちまえ。後の事なんてどうでも良いんだよ。今だ。今の快感こそが本物だ。殺せ。

今。俺は。誰の為に戦ってるんだ。
幻想郷の為。地底を守る為。旧都に住まう者達の為。
違う。俺は今、俺の為だけに戦ってるのか。
ずっと、こうしたかったのかもしれない。
いや、認めるな。冷静になるな。
冷静になったら、お前は。俺は。どうにかなっちまう。
そんな場合じゃねぇだろう。“眼の前の相手をまずぶっ殺せ”。
「uooooOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO―――――!!!」

叫ぶ。笑いながら。纏う黒稲妻の法術陣を押し込む。
奴の墨色の炎と、法術陣が砕ける音がした。
「……ぐうっ…!?」っと、奴が苦しげに呻くのも聞こえた。
ざまぁ。呟きながら、体勢を崩しかけた奴を撥ね飛ばした。かなり良い音がした。
インパクトの瞬間。奴は翼で宙を打って、身体を退いて見せた。
衝撃を殺したのだ。この状況で。なんて野郎だ。しかも、それだけじゃない。
奴は剣を振っていた。俺は防御できなかった。顔の上半分に強烈な衝撃があった。
眼だ。眼を狙われた。潰された。くそ。何も見えない。俺も、もう限界だ。
「がぁああああああああっ!!」 悲鳴とも絶叫ともつかない声が漏れた。
同時に、身体が落下する感覚。次に、背中に衝撃を感じた。
勢いが死んで、瓦礫の上に落ちたのか。
俺は。どうなってる。起きろ。立ち上がれ。
ああ。駄目だ。左眼が完全にぶっ壊れてる。
眼帯の中の右眼まで逝っちまってる。視界が消し飛んで、マジで何も見えねぇ。
おまけに身体中がギシギシ言いまくってやがる。
畜生、奴は。奴は何処だ。真っ暗だ。くそったれ。何も見えねぇぞ。
顔の上半分がかなり酷い状態だという事は、何となく分かる。
さっきから流れ来る血が口に入り、苦くて、吐き気がする。
握っている棍棒の感触は、辛うじてある。だが、戦えるか。
どうなった。奴は。かなり良い感じで吹っ飛ばした筈だ。
でも。マジかよ。奴の気配が消えて無い。まだ生きてやがるのか。
勘弁してくれよ。そう思った時だ。「シンくんっ!!!」 背後から声がした。
こいしの声だった。何で此処に。おいおい。さとりん。逃がせって言ったろ。
だが、何かを考える様な余裕は、はっきり言って残って無かった。

「こ…いし…、何で…!」 上手く声が出ない。
全く見えないが、取り合えず、声がした方へと顔を向ける。
小さな悲鳴のような声と、こいしが息を呑むような気配がした。
俺の顔の上半分、どうなってんだ。そんなワヤクチャになっちまってんのか。
どうでも良いか。それより、こいしだ。

「奴は、まだ…生きてる…。早く逃げろ」

「で、でも、シンくん…! か…顔が、眼が…!」
こいしの必死な、泣きそうな声で言われ、シンは口許に笑みを浮かべて見せた。
はっきり言ってやせ我慢でしか無かったが、こいしを此処から離さなければと思った。

「どうって事…ねぇよ。…掠り傷だ。
それより、…マジ、早く逃げろ。奴が…来そうだ…」
 
 俺はこいしに背を向ける格好で、歩きだした。
 焦土となった街道の瓦礫を、ゆっくりと踏みしめる音が、少し遠くで聞こえる。
 明らかに、こっちに向かって来ている。奴だ。生きてやがる。何てタフネスだ。
こっちはヘロヘロだってのに。相手にしてられねぇな。全く、楽しい野郎だ。
こんな状況なのに、笑いが込み上げてきた。
どうやら俺は、さっきの衝突でどっかが完全に壊れちまったみたいだ。
楽しくて楽しくて、仕方無いんだ。俺は、イカれてる。普通じゃない。
何が可笑しいのか自分でも分からない、とんだゲス野郎だ。
だから、もうこれ以上壊れるのは、俺だけで良い。
笑いながら、最後まで行けば良い。でも、こいしは駄目だ。
守りたいんだ。助けたいんだ。力になりたいんだ。
地底の皆の為に、俺は笑って、奴と一緒にぶっ壊れるんだ。
 それで良いだろ。楽しそうじゃないか。ウキウキしてくる。俺は笑った。
 笑うしかなかった。妖夢、幽々姉、ごめんな。俺、帰れないかもしれない。
 足音が近づいて来る。あああaaaAAAAAAHHHhhh。俺は、歓喜に打ち震えてる。
 完全に。徹底的に。完膚無きまでに、自分が壊れる事に狂喜している。
俺は、もう終わってる。大笑いしながら歩いていると、足元がふらついた。
 倒れそうだったが、誰かに後ろから抱きしめられた。
小さな身体だった。
 
 「私も一緒に戦う…!」
 こいし。何言ってんだよ。駄目だ。引き返せ。
 そう言おうとしたが、こいしの声音が余りにも必死で、上手く声が出なかった。
 不意に、何かが身体に差し込まれるような感触があった。
 不思議と痛みは無かった。だが、心の奥底を覗き込まれるような恐怖を感じた。
 私が…シンくんの“眼”になるね…。
声も出せず身体を硬直させていると、優しい声が聞こえた。
次に、こいしが背中にしがみついて来るのが分かった。
 しゅるしゅると音を立てて、何か、管のようなものが俺の身体に纏わりついてくる。
 首筋を、こいしにぎゅっと抱きしめられた。
痛みの中に、暖かさや柔らかさを背中に感じた。何も言えなくなった。
すると、眼は見えないのに、心の中にぼんやりと景色が浮かんで来た。
それは瓦礫と焦土と化した旧地獄街道だった。今、シン達の居る場所だった。
一瞬、混乱した。こいしは何をしたんだ。聞こうとしたら、心の中に声がした。

「私の第三の眼を、少しだけ開いて…シンくんの心に繋げたの」
そう言ったこいしの声は、少し震えていた。
何かを怖がって、恐る恐る手を伸ばすような、儚い声音だった。

「私が思う事も、シンくんが思う事も、これで一緒に感じられるよ…。
今は私が視る世界を、シンくんの心の中に映してるの…。どう? ちゃんと見える?」

ああ。見える。見えてる。っていうか、良いのか。怖いんだろ。
繋がってるから分かるぜ。こいしが怖がってるの。今からでも遅くねぇ。逃げろよ。

「シンくんだって…」
また首筋を抱すくめられた。こいしの顔も服も、シンの血で真っ赤だ。
それでも構わず、こいしはシンの首筋に頬ずりした。

「皆を守ろうとして、自分を壊そうとして…凄く無茶してるよ。
 私だって、今なら分かるんだよ。繋がってるから…。私も、一緒に頑張らせて」

何言ってんだよ。無茶なんかしてねぇよ。
俺は、何かをぶっ壊す事が大好きな、卑しい奴だ。
それしか知らないんだ。いや、知ろうとしなかったのかもしれない。
ヴィズエル事件の時から、そうなってたんだ。
俺は最低で、最悪な奴だろう。「うぅん…。全然、そんな事無いよ」。
違うんだ。俺は、笑いながら戦ってるんだ。こんな風になりたくなかった。
でも俺は、こんななんだ。ごめんな。こいし。ごめんな。
「謝らないで…。一人で頑張り過ぎないで。私も此処に居るから…」
こいしに言われて、自分の眼の辺りから何かが流れている事に気付いた。
血に混じった透明な雫は、少ししょっぱかった。涙か。泣いてるのか。俺は。
横隔膜が痙攣する。口からは、でも笑い声しか出なかった。
やけに乾いた笑い声だった。

「………何が…そんなに可笑しい…」
低くて、それでいてやたら凄みの在る声が聞こえた。
 奴だ。シンの眼はもう見えていないが、分かる。心の中に映る風景に、奴が居る。
 黒いソルも、もうボロボロだった。騎士服は所々が焼け焦げ、破れ、煤けていた。
騎士服から覗く腕や身体の外骨格も傷だらけで、顔の半分が血に染まっている。
傷の深さや程度で言えば、シンと良い勝負だった。
ヘッドギアの無くなった額には、ギアの刻印が鈍い墨色の光を放っているのが分かる。
 何だよ。俺も死にそうだぜ。奇遇だな。シンはふらつく体に渇を入れ、棍を構え直す。
 こいしの重みが心地よくて、今はこれ以上無い位に頼もしかった。
 
 「さぁな。自分でも分からねぇよ。ただ、笑いが止まらねぇんだ」
 
 「……狂ってるな…」
 
 「言われるまでもねぇ。自覚してる…。俺は、もう壊れてる。でも…」

今は一人じゃねぇ…。
こいしの第三の眼が、黒いソルを見据える。
視界を。心を。身体を。全てを。こいしが預けてくれている。
負ける気がしねぇな。奴は舌打ちをして翼をはためかせ、こっちに飛んで来た。
疾い。でも、見える。分かる。俺は反応出来る。なぁ、こいし。
やっぱ一人より、二人の方が強いな。
シンはすっと重心を下げつつ、棍を楯にするように構えた。
多分、これが最後の攻防になりそうだ。
黒稲妻を棍に纏わせ、奴の攻撃に合わせる。
へっ。奴の顔見てみろよ。バテバテじゃねぇか。
とろくさいんだよ。そんな大振りで。
大上段から工夫も何も無い攻撃が、今の俺に通用すると思うかよ。
シンは棍に捻りの力を加えつつ、稲妻を猛らせ、振り下ろされた封炎剣を横へ流した。
タイミングはドンピシャだった。こいしが心に映してくれる世界の中で。
黒いソルは宙に浮いたまま、完全に体勢を崩していた。
その隙を、シンとこいしは見逃さなかった。
流石の奴も、…しまった…、みたいな貌を浮かべていた。
シンは、棍の間合いにすっと潜り込んで、奴の喉首に突きをお見舞いしてやった。
かなり良い感じの突きだった。ぐしゃっ、という、嫌に柔らかい手応えがあった。
棍が奴の首を貫通した。奴の顔が、明らかに苦痛に歪んだ。

横からまた来るよ! こいしの声が心の中で響いた。
ありがてぇ。シンは、棍を黒いソルの喉首から引き抜きつつ、半歩下がり、身を退いた。
其処を、苦し紛れに振るわれたであろう封炎剣が通り過ぎた。
剣を振り抜いた奴は、面白い位に隙だらけだった。
チャンスだと思って踏み込もうとしたら、身体がよたついた。
シンの身体も一杯一杯だった。だが、最後に一撃をお見舞いする方法は在る。
なぁ、こいし。ちょっとだけ命、貸してくれねぇか? 
シンは繋がった心を通して、こいしに聞いた。
“うん。良いよ!” 背中で、こいしが頷く気配がして、心の中に、力強い声がした。
シンは左手に握っていた棍を、瓦礫だらけの地面に放り、その掌を黒いソルへと向けた。
そして右手で、こいしの手を握った。こいしも握り返して来てくれた。
心に映る世界の中で、黒いソルは、焦った貌をしていた。
オヤジも、マジで焦ったらあんな貌すんのかな。ふと、そんな事を思った。
黒い稲妻が、シンとこいしを包む。術陣がシンの足元と掌に浮かび上がり、明滅する。
バリバリと火花を散らす黒稲妻が、シンの掌に収束する。
周囲から集めた生命力を、弾丸として放つ法術。ファントムバレル。
自分のなけなしの力と、こいしの生命力を借りて、シンの掌に稲妻の魔弾が出来上がる。

最後の最後まで、俺は頭悪いまんまだったな。
でも、これで良い。ぶっ壊れた俺は、一人じゃなかった。
なぁ。お前も壊れちまえ。
シンは躊躇わず、その稲妻編みの魔弾を放った。

「……クソ…がっ…!!」
赤黒い稲妻の閃光が、黒いソルの胴を貫いていく。
鮮血が噴出す代わりに、墨色の火の粉が盛大に散った。
奴は呆気なく吹っ飛んだ。
くすんだ金色の眼は、仰向けに身体が倒れるまで、シンを見つめたままだった。
黒いソルは、そのまま起き上がって来なかった。

シンも、ざまぁ、と言おうとして、代わりに血の塊を吐き出した。
心の中に映し出される映像に、ノイズが混じり始める。
ごめん、シンくん…。そろそろ、限界かも。
今にも消えそうな、か細い声が聞こえた。
ファントムバレルで生命力を吸い上げられたせいだろう。
背中にしがみついているこいしの腕から、力が抜けていくのを感じた。
ああ。クソ。見えなくなる。何も。真っ暗闇だ。
こいし。おい。こいし。呼んでみても、返事は無い。
もう一度、シンは血の塊を吐き出し、前のめりに倒れた。
身体を起こそうとするが、駄目だ。全く動かない。意識が遠のく。
 俺は完全にぶっ壊れたのか。でも、何か清々しいな。
“俺は、戦狂いだ”。もう否定する気も起きねぇよ。疲れた。
シンは倒れたまま、隣に倒れたこいしの手を握り締めて、気を失った。




[18231] 三十五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/01/21 22:04

 
強襲を受けた地底の被害は大きかった。
たった一人の戦力を送り込んで来た終戦管理局は、深い傷跡を地底に残した。
地霊殿のテラスから望む、旧地獄街道の古き良き街並。
その三分の一程が瓦礫の山と焦土と化し、復興作業に追われる日々が続いていた。
建物は全壊、全焼しているものも多くで、更地同然と化した区画も在る。

地底の妖怪達の中にも、住む場所を失ったり、自分の店を無くした者が大勢居た。
通りを行き交う妖怪達は皆、不安と疲労を溜め込んだような貌で、のろのろと歩いている。
旧都の妖怪達も、決して弱い訳では無い。迎撃の準備もしていた。
街全体が殺気立ってすら居た。地底に住まう鬼達も、戦う心構えと覚悟していた。
地霊殿を含む地底の者達は、幻想郷の中でも、指折りの戦闘力を持つ集団だった筈だ。
だが、終戦管理局が送り込んで来た黒いソルは、余りにも規格外だった。
その戦力差に地底の妖怪達は反撃する間も、余裕も、成す術も無かった。
鬼の四天王である勇儀と萃香を同時に相手にし、正面から押し退ける強さは出鱈目だった。
更にはお空、こいしを続けて退け、さとりの精神制御までを受けて尚、平然としていた。
あの黒いソルは、本物の怪物だった。
そして同時に、彼の魂はソルそのものだった。
更に気味の悪いことは、斃された筈の黒いソルの姿が、忽然と街道から消えて居たことだ。

地霊殿のテラスから、未だ薄い煙の上がる街道を見下ろしつつ、さとりは溜息を堪える。
手摺を掴む手に、力が篭った。下唇を噛んで、眼を閉じる。

「…今回は、貴女にも大変な苦労を掛けてしまいましたね」
さとりの隣に立ち、同じ様に眼下の街並を見詰めていた映姫は、申し訳無さそうに呟いた。

「私は…、何も出来ませんでした」
さとりはゆるゆると首を振りつつ映姫に応え、再び破壊された街道の風景を見遣る。
この被害状況の割りに負傷者の数は驚く程少なくて済んだのは、不幸中の幸いだった。
炎が旧都全体に燃え広がったりする事も無かったのも、大きな救いだった。
あの墨色の災火が旧都全体を覆うような事になっていれば、被害はもっと甚大だった筈だ。
助かる者は殆ど居なかっただろう。

「旧都の妖怪達が団結し、今の状態まで持ち直しているのは、貴女が居てこそです。
 …感謝しています。もしも貴女が居なければ、地底は混乱と恐慌の坩堝だったでしょう」
さとりに視線を移した映姫の面持ちは険しく、声音も酷く硬い。

少しの沈黙を映姫に返しながら、自分を落ち着かせる様に、さとりは緩く眼を閉じる。
「私は…」其処まで言って、言葉が詰まった。何も言えず、胸が苦しくなった。
さとりの瞼の裏に。黒く染まったシンの、酷薄そうな笑みが思い起こされる。
残虐で獰猛、凶暴で凶悪なシンのもう一つの貌だ。
彼がひた隠しにして、誰にも知られたくなかった筈の貌だった。
だが、シンは自分の全てを曝け出した。或いは、抑え切れなかったのかもしれない。
それでも、最後の最後まで、傷だらけになってこの地底の為に戦ってくれた。
だからこそ、さとりも無事で居られたし、まだ旧都に住まう者達も無事で居られたのだ。
“何だよ、さとりん。俺が怖いのか”。あの時。黒いシンは、唇を吊り上げてそう言った。
嗜虐的で、自嘲するような、容赦の無い、歪み切った笑みだった。
正直、怖いと思った。思ってしまった。
それは、シンを深く傷つけただろし、更に彼の心を追い詰めただろう。
恩人に対して、私は何をやっているのかと、さとりは自己嫌悪に陥りそうになる。
迫害され、忌避される怖さ。それを身を持って知っているが故に、余計だ。
「今の状況では、地底は幻想郷の戦力にはなれません。…皆の回復にも時間が要ります」
今度は溜息を堪えられなかった。

「…ええ。貴女にも、少し休息が必要でしょう」
映姫も重い吐息を吐き出しながら、テラスから街道へと視線を向ける。
余り、自分を責めては駄目ですよ…。映姫のその言葉に、さとりは下唇を強く噛んでいた。
前髪に隠れ、さとりの表情は映姫からは見えない。
ただ、手摺を掴むさとりの手は、震えていた。
それに気付かぬ振りをして、映姫は街並に眼を向ける。
「それに…、勇儀さん達の容態も、ほぼ快復しているようで安心しました」
街並を眺めながら呟いた映姫の言葉に、さとりが俯けていた顔を上げた。
緩い風が、木槌を叩く音と共に、テラスの上を吹き渡って行く。
その風に深緑色の髪を揺らし、僅かに微笑みながら、映姫はさとりの眼を見詰めた。

「先程、勇儀さん達に街道で声を掛けられましてね。“何だかじっとしていられない”と。
 そう言って萃香さんと共に、旧都の鬼達の復旧作業に混じっていましたよ」

「…はい。お空の方も、順調に快復に向かっています。
あと数日もあれば、あの子も元の生活へと戻れるでしょう…」

ただ…戦えるかどうかと問われては、首を縦に振る事は出来ませんが…。
其処まで言ったさとりは、戦いが終わってからすぐの時の事を思い返した。
自分の体を抱くように、さとりは自分の腕を掴む。
寒気と悪寒が背筋に走った。息が浅くなって、身体が震えてくる。

胸に大穴を空けられ、胸骨や胸筋を破壊されて、血塗れになった勇儀。
両腕をグズグズに焼かれた上に、黒いソルの蹴りを浴びて、起き上がって来ない萃香。
法力で編まれた炎の塊に飲まれて、墜落していくお空の姿。
吹き荒ぶ熱風と衝撃で、崩れる建物。荒廃していく街並。
黒く染まったシンの哄笑。狂喜。稲妻。
脳裏に焼き付いたあの強烈で凄惨な光景は、忘れる事など出来ないだろう。

シンくんが戦ってるなら、私も行かなきゃ!
あの時。戦いの最後の最後。さとりは、そう叫ぶこいしを引き止める事が出来なかった。
シンと黒いソルがぶつかり合う嵐の中へ向かおうとする、小さなこいしの背中。
それを、ただ呼ぶ事しか出来なかった。混乱して、取り乱す寸前だったと思う。
さとりの声は、黒稲妻と墨色の炎の爆ぜる音に掻き消され、虚しく響いただけだった。
待ちなさい。こいし。駄目よ。戻って。そう叫んでも、こいしは振り返らなかった。
さとりも、萃香に肩を貸すようにして、逃げるだけで精一杯だった。
妹を置いてその場を離れる決断に、心が粉々になってしまいそうだった。泣きたかった。
しかし、戦いに戻るこいしの勇気は、地底の脅威を退ける最後の一押しとなった。
視界を潰されたシンに、閉じられた筈のこいしの第三の眼を繋いだ。
そうして、視力と心を共有したシンとこいしは、地底から黒いソルを退けて見せた。

大きな勝利だった。だが、その代価も安く無かった。
シンが、黒いソルを退ける為に用いた法術は、周囲に居る者から生命力を吸い上げる。
そうして、吸い上げた生命力を稲妻として放出する危険な術式だった。
強力であるが故の副作用なのだろう。法術の影響で、こいしの衰弱はかなり激しかった。
今もまだ自由に歩き回れる状態まで回復していない。
加えて、シンの法術に生命力を吸い取られたせいか、体力、気力の回復も非常に遅い。
ある意味で、お空や勇儀、萃香などよりも、こいしの容態は深刻だった。
知らぬうちに、さとりは険しい貌で、テラスからの眺望を睨むようにして眺めていた。
だが、すぐに俯いて、強く眼を閉じる。
悔いても始まらないし、自分を責めてもどうにもならない。
さとりは俯いたまま、参ったように右掌で貌を覆った。

「…妹さんも、早く良くなると良いですね」
 沈んだ貌をして俯いてからだろう。さとりの方を見詰めつつ、映姫は口許を緩めていた。

 「…はい」と、さとりが短い言葉返し、隣の映姫に振り向こうとした時だった。
 少し離れたところで、テラスの床を叩く、ゆったりとした足音が聞こえた。
足音はこちら向かって来ている。
気配がしなかったから、其処で初めて彼の存在に気付いた。
周りの雰囲気が、僅かに変わる。さとりは一瞬、自分の体が強張るのを感じた。
街道から聞こえて来る、妖怪や鬼達の声がやけに遠い。身体の震えが強くなる。
恐れにも似た感覚を感じ、さとりは思わず眼を伏せてしまった。
背後からの歩み寄って来る彼の存在感が、そう感じさせるのか。
身体を振り返らせた映姫も、眉間に皺刻み、眼を僅かに細めていた。
少し驚いたようでもある。映姫も、彼の纏う独特の空気に、何かを感じたのだろう。
罪の文字を意匠化し、それを黒塗りで刻み込んだ懺悔の棒で口許を隠しつつ、映姫は無言だった。
何も言わず、まずは彼の言葉を待っているのか。
或いは、何か掛ける言葉を探しているのか。

さとりも、顔を俯かせたままで、身体を彼に向き直らせた。
気まずくもないが、何処か不穏な静寂が何秒か続いた。
その間に、さとりと映姫の、その少し離れたところまで彼は来ていた。
 其処で彼は立ち止まって、後ろ手で後頭部を掻きながら、さとりと映姫を交互に見た。
「今日は…在り難い説教くれに、閻魔様が来てくれるって聞いてたんだけどよ…」
映姫、さとりの二人の前まで歩いて来た彼は、鼻から息を吐いて眉尻を下げて見せた。
そして、少し頼り無さげな笑みを浮かべた。
普段の。いや、今までの彼らしくない貌だった。
彼は、片手で旗付きの棍棒を肩に担ぐようにして持っている。
 “OATH”のスペルが刻まれた旗印は、もう黒く染まってはいない。
 いつもの空色のジーンズ生地に戻っている。瞳の色も、優しげな薄い緑色だ。
髪色や肌色も、元通りになっている。そう見える。
黒いシンは、もう其処には居ない。
今、さとり達の前に居るのは、快活で純粋な、いつものシンだ。
シンは後頭部を掻いていた手を顎の辺りに持って行って、ちらりと、さとりに視線を向けた。
何か言いたそうにシンは唇を動かしたが、止めたようだ。
代わりに、映姫に貌を向けたシンは、気の抜けた様な緩んだ笑みを浮かべた。

「ふぅん…。見たとこ、あんたが話に聞いた閻魔様って奴か。
 思ってたより小っこくて可愛いな。俺はシン。よろしくな」

体格も背もシンの方がかなり高いので、まるで子供を見下ろすような格好だ。
ただ、それでも全く嫌味に見えない。
シンがやけに自然体で、声音にも含みが無いからだろう。
見下ろされる映姫の方も、そんな事は全く気に止めていない様に軽く会釈をして見せた。

「私の名は、四季映姫と言います。…こちらこそ、宜しくお願いします。
 それと…、今日は説教などでは無く、貴方に礼をしたいと思い、此処に来ました」

幼くも厳かさの在る声で言いながら、映姫も少しだけ口許を緩め、また少し頭を下げた。
威圧も邪悪さも無いシンの声に、警戒を解いたのだろう。
映姫の声の最後の方は、少し柔らかく、真摯さのようなものが在った。

「地底を…それに、私の友人と、その家族を助けて頂いた事、感謝しています」
いきなり下げられた頭に、シンの方は少し困惑したようだった。
「いや、礼なんて…」と言いながら、眉をハの字にして、頬を人差し指で掻いている。
何をどう言おうかと迷う様に視線を彷徨わせてから、シンは少し映姫に歩み寄った。
シンは軽く息を吐いて、頭を下げる映姫の肩に手を乗せる。
それから、顔をテラスから見える街道の光景へと向けた。

「そんな丁寧な礼なんて要らないねぇって。って言うかよ、顔上げろって。
 ついでに、見てみろよ。旧地獄街道の街。…あれ、半分くらい俺がぶっ壊したんだぜ」
 
 驚いたような顔の映姫が、シンを見上げた。
 だが、シンは映姫を見ていない。破壊の傷跡が、まだ深く残ったままの街道を見ている。
其処で、シンの貌が悲しげに歪むのを、さとりは見逃さなかった。
笑おうとして失敗して、それを自嘲しようとして、取り繕いきれていない様な貌だった。
酷く苦しそうな貌だった。

「感謝される資格なんて、俺には無ぇって。今回は寧ろ、恨まれる側かもしれねぇ。
 かなり派手に暴れたし…。途中からは俺自身、もう訳分かんなくなっちまってたしな」

その癖、あの戦いの後で真っ先に完治しちまう俺って…何か最悪じゃねぇ?
呟くように言ったシンの声は、怖いくらいに平べったかった。
シンは映姫の肩に置いた手を離してから、その手で自分の眼を覆う眼帯を押さえた。
「だからよ。…礼なんてやめてくれ」
疲れたように言ったシンは、今の表情を誤魔化すように片方の掌で顔を擦った。
息を吐き、それから不意に無表情になって、街道の景色から映姫へと視線を戻した。
 
「やりたい放題やった癖に、俺だけが…こんなムカつく位に快復してる。
 あの時、俺は…ただ暴れただけだ」

無感動な貌のままで、シンは其処で言葉を切った。
空虚なシンの眼は、真っ直ぐに映姫を見ていた。

あの戦いの中で、シンが負った傷の数々は本当に深刻だった。
 顔の上半分が壊され、両目を潰された上に、全身の筋肉と骨がズタズタになっていた。
おまけに、そんな傷だらけの状態で、ファントムバレルという大掛かりな法術まで起動させた。
戦いが終わった後のシンの身体の状態は、もう生きているのが不思議な位だった。
その余りに苛烈な戦いぶりを見て、さとりは正直、シンは助からないと思っていた。
胸に穴を空けられた勇儀や、腕を焼かれた萃香達と比べても、シンの容態は最悪だった。
旧地獄街道の者達も、もうシンはこのまま死ぬだろうと思っていた筈だ。
しかし、そうはならなかった。恐らく、シン自身も予想していなかっただろう。
出鱈目だった。シンの身体は、驚異的な再生力を持って、誰よりも早く快復に向かった。
妖怪や鬼をすら遥かに凌ぐ治癒能力の高さで、今では潰された眼球も元通りに修復されている。
現実味が湧かない程に、シンの身体は強靭だった。
今では傷も、筋肉や骨の疲労も、ほぼ完治の状態にまで快復している。
最早、あの黒いソルに負けないレベルで怪物だった。
シンも、そんな自分を隠していたかった筈だ。誰にも見せたくなかった筈だ。
だが、無理だった。地底に住まう者達全てに、曝け出してしまった。
 自分自身でも理解していない凶暴で狂猛な力を、思うままに振舞わしてしまった。
映姫から眼を逸らしたシンは、そんな自分自身を責めているようだった。
 
 「貴方が助かったことは、喜ばしい事です…。
 事実として、貴方は地底の者達を守る為に、この地霊殿に留まっている。
戦いが終わった後もこうして…此処に居てくれています」
 
映姫はシンに、緩く首を振って見せた。その映姫の言葉に、何を思ったのか。
シンは映姫の眼を見たまま何も言わなかったが、その唇が少し苦しげに歪んだ。
頬も僅かに引き攣っている。澄んだ緑の瞳が揺れていた。

第三の眼を伏せるようにして、さとりも、その二人のやりとりを静かに見守っている。

さとりも、此処数日の、妙に凪いだ貌をしたシンの事が気に掛かっていた。
旧地獄街道の復旧を手伝う為に、頻繁に街に出かけていることも知っていた。
 其処で、周囲の者達から恐れられたり、怯えられたりしていることも。
 さとり自身も、第三の眼でシンの心を読むのが恐ろしいと思うようになった。
それは、地底の為に戦ってくれた恩人であるシンに対して、残酷で、酷い仕打ちだ。
死に物狂いで守ろうとした皆から忌避されるのは、シンにとって非常に辛いことだろう。
頭では理解しているが、あの声を思い出すと、もう駄目だった。
“なぁ、さとりん”。耳に残る黒いシンの声は、それだけでさとりの心を萎縮させた。
 酷薄そうな血色の瞳と、唇を裂いた様な黒いシンの笑みは、今も脳裏に焼き付いている。
 あの黒いシンと、映姫の前で言葉を詰まらせている今のシンは、まるで別人のようだ。
 いや、もしかしたら、本当に別人だったのではないか。
そう思いたい。だが、そんな都合の良い訳は無かった。
 
「…違うさ。俺は、何かを…ぶっ壊したいだけだ。
 結局俺は、戦いたいだけさ。殺せるなら、何でも良い。豚でも猫でも鼠でもな」

無表情に戻りながら自暴自棄気味言って、シンは映姫の眼を見詰め返した。
諦めきった様な声音には、感情がまるで篭っていなかった。虚しい声だった。
さとりは、気付けば唇を噛んでいた。映姫も、少しだけ悲しそうに眉を顰めていた。
「もう隠す必要も無いだろ。…俺はクソ野郎だ」
溜息を吐くみたいにして呟いて、シンは眼を瞑って首を回した。
それから、首を傾けて映姫を見下ろし、唇の端を少しだけ歪め、担いだ棍で肩を叩く。

「…俺への用件がそれだけなら、もう行って良いか?」
力の無い自虐的な笑みを浮かべて、シンは眼の前に立つ映姫の言葉を待っている。
さとりは、映姫を見た。映姫は少し俯き、眼を閉じ、唇を引き結んでいた。
いつもの説教をしようにも、何もかもを拒むようなシンの態度に、言葉を見つけられないでいる様だった。
少しの沈黙が在って、「…はい。時間をとらせましたね」と映姫が零した。

「別に良いって。…こっちこそ悪かったな」

其処まで言った時だった。さとりは一瞬、息が詰まった。
不意に、シンがさとりの方を見たからだ。映姫も、少し驚いた様だった。
奇妙な程に凪いだ貌のまま、シンはゆっくりとさとりの方に向き直って、歩み寄って来る。
後退りそうになったさとりは何とか踏み留まり、唾を飲み込んで、視線を下げた。
「なぁ、さとり」シンの声がした。凄んでいる訳でも、大きな声だった訳でも無い。
寧ろ、不思議な程静かで、抑揚の無い、平板な声音だった。
それでも、さとりは僅かに肩を震わせてしまった。
「ちょっと聞きたかったんだけどよ。…いい機会だから、教えてくれねぇかな」
映姫も、いきなりのシンの行動に、ただ成り行きを見守っているしか無かった。
シンはさとりの前でしゃがみ込んで、顔の高さを合わせた。
「なぁ、何で俺と眼を合わせようとしねぇんだ…?」

さとりが、息を呑む音がした。
映姫は困惑したような貌で、シンとさとりを見比べている。
「そ、それは…」さとりは何とか言葉を紡ごうとしたが、出来なかった。
声が出てこなかった。出せなかった。胸が潰されるような気がした。
いきなりだった。無表情だったシンが、少年のような快活な笑みを浮かべたからだ。

「悪い。こういう聞き方は卑怯だよな…。変な事聞いちまったな。忘れてくれ」
それだけ言って、ボリボリと頭を掻きながらシンは立ち上がり、さとり達に背を向けた。
振り返らずにひらひらと手を振って、シンは歩き出す。
映姫やさとりが何か言おうとしているのが分かったが、シンは敢えて無視した。





逃げる様にテラスを後にしたシンは、何処に行くでも無く彷徨っていた。
白黒の石歩廊を、項垂れながら歩く。足取りは重く、眼も虚ろだった。
途中で、地霊殿に住まうペット達と鉢合わせる事も在った。
だが、シンを見ると、皆逃げ出して行った。近づこうとして来なかった。
低く呻り声を上げて、親の仇を見るかのように威嚇すらするペット達も少なくなかった。
完全に忌避され、嫌悪され、恐れられていた。
旧地獄の街道を荒らしてしまった罪悪感も在って、居心地は最悪だった。
出来るなら、此処から去りたい。消えてしまいたい。
でも、まだ駄目だ。

勇儀や萃香も、動けるまで回復しているとは言え、戦うのはまだ無理だ。
ヤマメやパルスィ、お空にしたってそうだ。
彼女達の命に別状は無かったものの、傷が癒えるにはまだ時間が要る。
その間は地霊殿に留まり、出来る限り地底の者達の助けとなる事を、シン自身が望んだ。
今の地底の者達だけでは、再び終戦管理局に襲われた時に対処しきれないだろう。
故に、地上に居る紫達も、シンをまだ動かさない判断を下した。

復興作業を手伝いに街道へ行った時には、勇儀や萃香と会う事は出来た。
二人共、まだ身体中に包帯を巻いた状態で、街の妖怪や鬼達を率い、指示を出していた。
旧地獄街道には、崩れた建物以外にも、傾いて、今にも倒れそうな建物も多かった。
地底に住まう者達総出で瓦礫を撤去して、建物を補強するにも、まだ時間が掛かるだろう。
ただ、其処へ手伝いに行ったシンの事を、勇儀や萃香は、少し警戒している様だった。
他の地底の者達もシンを見ると、皆が忌むべきものを見たように眼を逸らした。
怯えた様に貌を引き攣らせたりして、誰も近づいて来ようとしなかった。
「…お前さんは、地霊殿でゆっくりしてると良い」
そう言った勇儀の貌は笑っていたが、眉間には皺が寄っていた。
「そうだな。これは、私達の仕事だ。…悪いね」
萃香も、微妙な貌をしたまま、シンの眼を見ようとしなかった。
思い出して、シンはその場にしゃがみ込んでしまいそうになった。
何だよ。俺は除け者かよ。そんな事言わないでくれよ。俺も、何か出来る事が在る筈だ。

そんな事は言える訳が無かった。
とぼとぼと歩廊を歩くシンは、担いだ棍棒で肩を叩いて、力無く笑おうとした。
出来なかった。表情をつくる事も、何かを考えるのも面倒で、煩わしかった。
俺は、まだ戦える。誰よりも前に立って戦う。だから、少しで良い。許してくれ。
怖がらないでくれ。俺は味方だ。違うんだ。こんな筈じゃなかった。誰か、信じてくれ。
罪滅ぼしとまでいかないまでも、許して欲しいという気持ちが無かったと言えば嘘になる。
しかし、誰からも拒絶されるような今の状況は、流石に能天気なシンにも堪えた。
“分かってた事だろう”。“こうなる事は”。“お前は誰にも受け入れら無いよ”
“今更、落胆することなんて無いよ”。“何を期待しているんだい?”
“勘違いしちゃいけないよ”。“お前は戦う事だけ考えてれば良い”
“楽しかっただろう”。“気持ち良かっただろう”。“最高の気分だった筈だよ”
“それで良いんだよ”。“何も違わないよ”。“自分に嘘を吐くなよ”
頭に響く“声”は、シンの心を更に苛む。
俺は、嫌われたくない。仲良くしてくれ。背を向けないでくれ。
そんな眼で見ないでくれ。俺は、愛されたい。必要とされたい。大好きだと言って欲しい。
お前が居て良かったと言って欲しい。これからも此処に居てくれと言って欲しい。
その為に必死になればなる程、俺は、誰からも遠ざけられ、蔑まれる。
妖夢。幽々姉。俺は、白玉楼に帰る資格が在るんだろうか。
皆が俺を恐れて、逃げていくんだ。待ってくれ。行かないでくれ。
助けを求めるように地霊殿の歩廊を彷徨い、気付けば、こいしの部屋の扉の前に居た。
戦いが終わってから、シンは、眼を覚ましたこいしにはまだ会っていなかった。
何となく、会うのが怖かった。
ノックをしようとして、止めた。扉の前で立ち止まって眼を閉じ、息を吐いた。
何やってんだ、俺。眼帯を右手で掴んで、奥歯を噛み締めた。
まだ衰弱の激しいこいしに会って、俺は何がしたいんだ。
命を吸い上げた俺が、どんな貌をして会えば良い。
扉の前で、回れ右をしようとした時だった。

「誰か…、其処に居るの?」。
小さく、か細い声が、扉越しに聞こえた。
シンの脚が止まった。どうすれば良いのか分からなかった。
此処から走り去るべきだろうか。だが思うように身体が動かない。
逡巡するうちに、また扉の向こうから声がした。
「もしかして、シンくん…?」。名前を呼ばれて、息が詰まった。
その雰囲気が扉越しにも伝わったのだろう。中から、僅かに笑みを零す様な声が聞こえた。
「…入って来ても大丈夫だよ」。そう言われて、シンは逃げ出す事が出来なかった。
ゆっくりと扉を空けると、ベッドに横になっているこいしが、微笑んで迎えてくれた。
いつもの元気そうな笑みとは少し違う、儚げな笑みだった。
シンは後ろ手で扉を閉めて、壁に棍棒を立てかけてからも、何も言葉が出て来なかった。
こぢんまりとしたこいしの部屋には、物が余り置かれて居なかった。
黄色と黒を基調にしたベッド以外には、帽子掛けと姿見の鏡。他には化粧台くらいだ。
嫌に殺風景な部屋だった。そのせいか、こいしの衰弱した姿が強調されて見える。

「シン君に会うのも、何だか久ぶりな気がする。…会いたかったんだよ」
言いながら、こいしは嬉しそうに眼を細め、ベッドの上で身体を起こそうとした。
「おい。良いって…。横になってろよ」
それを手で制しながら、シンはベッドの直ぐ傍まで歩み寄った。
こいしは少し不満そうに唇を尖らせたが、またすぐに笑みを浮かべる。

「会いに来てくれたんだね。嬉しいな」

シンは安堵していた。こいしは、真っ直ぐに眼を見詰めてくれる。
力が抜けそうな位、嬉しかった。久ぶりに、シンの貌にも自然と笑みが浮かんだ。
だが、すぐにその笑みも消える。近くまで寄って、気付く。
やはり、こいしの顔色はまだ青白い。眼の下にも、少し隈がある。
ベッドの隣に立ち尽くしたまま、シンは頭を下げると言うよりも、悄然と項垂れた。
命を吸い上げ、吐き出す法術。ファントムバレル。
こいしの今の弱りようからも、生命力をかなり吸い上げてしまったのは間違い無い。

「俺も、こいしに謝りたくてな。力加減下手糞で、辛い思いさせちまって…」

「ううん。そんな事無いよ。シンくんの御蔭で、皆助かったんだもん」

私が謝られる事なんて、何にも無いよ。
そう言って、こいしは被っていたベッドのシーツから第三の眼を少しだけ覗かせる。
濃い青色をした、こいしの第三の目は、ほんの僅かに、薄っすらと開かれていた。
シンはその第三の眼と、こいしの貌を見比べ、唇を噛んで眼を逸らす。
こいしは何も言わないまま、悲しそうな表情を浮かべていた。
第三の眼で、今のシンの心を覗いたのだろう。
何か言おうとするが、シンの口は上手く動かなかった。
ただ立ち尽くしていると、柔らかな声で、「ねぇ…」と声を掛けられた。
衣擦れの音が聞こえる。シンは、何も言えないまま、視線を上げる。
シンの方へ向き直るように、横向きに寝返りを打ったこいしが、微笑んでいた。

「立ったままだと疲れるでしょ。此処に座って」
こいしは、ベッドの縁をぽんぽんと掌で叩いて、シンの貌を見上げる。
「いや、俺はもう…」断ろうとしたら、むぅっ、こいしが頬を膨らませた。

「いいから、私はまだシン君と一緒に居たいの」
その言葉に、シンは抵抗出来なかった。不思議な魔力のようなものを感じた。
忌避の視線に晒されて来たから、余計だ。純粋に嬉しかった。
断れそうになかった。シンは頷いて、こいしに背を向ける形で腰掛けた。
ギシッと、ベッドが少し軋む音がした。えへへ、と嬉しそうにこいしは笑っている。

「こいしは俺の事、怖いとか…気持ち悪ぃとか思わないのか?」
思わず聞いてしまって、シンはしまったと思った。
だが、こいしの方は笑みを浮かべて、寝そべったまま首を横に振って見せる。
それから、ゆっくりとシーツから右手を出して、ベッドの上のシンの右手に触れた。
こいしの手はひんやりしていて、少し驚いた。

「全然、そんな風に思わないよ。だって、私は知ってるもん」

気付けばシンは、こいしの眼をじっと見詰めていた。
自分が今、どんな間抜けな貌をしているのか分からないが、ただ呆然としてしまった。
余りにもはっきりと否定されて、鬱屈とした心の中に、光が差したような気がした。

「第三の眼を繋げて、心を共有したでしょ?
 その時にね。知ったんだ。記憶を共有したから、思い出したって言った方が正しいかな」

こいしはシンの右手を両手で包み込むようにして、微笑んでくれる。

「だから、シン君の右眼の事も知ってるし、シン君が隠していたかった事も知ってるよ」

薄っすらとだけ開かれた第三の眼が、シンを見詰めていた。
知らず、シンはこいしの手を握り返していた。
力を込めれば壊してしまいそうなほど、儚い感触だった。
もう何かを隠す必要も無いことに、心の何処かで安堵している自分に気付いた。
気付いて、シンは少しだけ口許を緩めて、溜息を漏らした。

「それ何か、ずるくねぇ? 
俺は、こいしの記憶なんて全然頭に入って来なかったのによ」

「やっぱり、私の方がお姉ちゃんだからじゃないかな」

「いや関係無いだろ。
確かに、こいし達に比べたら俺は餓鬼かもしれねぇけどよ」

「これからは私の事は、こいしお姉ちゃんて呼んでよ」
くすくすと可笑しそうに笑いながら、こいしはシンの貌を見上げる。
それから、シンの右手を自分の頬へと持って行き、そっと眼を閉じた。
いきなりのこいしの行動に、「ぉっ…」と、シンの口から奇妙な声が漏れる。

「シンくんと私って、少し似てるよね。
私は第三の眼を閉じて、シン君は右眼を閉ざしてる…」

こいしは眼を閉じ、掴んだシンの右手の甲に愛おしそうに頬ずりしながら、呟く。

「私も…嫌われたくないっていう気持ちは、分かるつもりだよ。
 今は皆、黒いシン君の事に驚いて、距離の取り方が分からないんだよ。
 皆がシン君と仲良くなるには、街を直していくのと一緒で、時間が掛かると思う…」

「仲良くなんて…もう、なれないかもしねぇしな」

シンは少しだけ辛そうに眼を細めて、苦笑した。
もしかしたら。もう二度と、地底の者達には受け入れて貰えないかもしれない。
それでも、だ。シンは地底に住まう者達が立ち直るまでの間は、地霊殿に居る事を選んだ。
「好き放題、暴れちまったしな」眼を伏せながら、シンは力無く呟いた。

「皆がシン君を遠ざけても…私はシン君の味方だよ」

「そりゃあ心強いな」
其処まで言いながら、シンはベッドに横たわったままのこいしを見詰めた。
こいしも、シンの眼を見詰めていた。眼帯の中の右眼が疼く。痛いくらいだった。
ゆっくりと、シンは左手を眼帯に伸ばした。
第三の眼を開いたこいしと同じように、シンも、自分の右眼を曝そうとした。
妖夢や幽々子には見せる事が出来なかったこの右眼を。だが、それよりも先だった。
…第三の眼で心を覗くのは、シン君だけで良い。
呟いたこいしが、シンの右手を更に強く握ってきた。
胸の苦しさを覚える。全てを委ねてしまいたくなる。いや、少し違う。
鼓動が早くなって、息が少し乱れる。欲しくなる。“奪え”。“欲しいんだろう”。
喉が渇く。ひりつく。何だか、身体が熱い。シンの眼が、少しずつ血色に変わっていく。
こいしの第三の眼は、シンの、シンだけの心の機微を捉える。
「私は、シンくんだったら…ペロペロされても、ムシャムシャされても良いよ」
か細い声で言ったこいしは、唇を舐めてから眼を閉じ、またシンの右手の甲に頬を寄せた。
シンは唾を飲み込んだ。無防備なこいしの姿が。白い柔肌が、すぐ其処に在る。
気付けば、舌なめずりをしていた。
こいしは少し頬を染めて、何かを待つように眼を閉じたままだ。
“ああ”“何て美味そうなんだ”“涎が出そうだ”“喰えよ”
心に響く声は鼓動を早める。頭の中の残った冷静な部分が、ガリガリと削り取られていく。
右手に伝わる、こいしの頬の柔らかな感触に、理性に亀裂が入っていく。
“何を耐えているんだ”“何を耐える必要が在るんだ”“我慢するな”“取り繕うな”
飢餓感のようなものを感じた。欲しい。こいしが。途轍もなく欲しい。
手を伸ばせば、届く。いや、もう触れている。“貪れる”。

駄目だ。止まれ。
シンは、口の中で舌を噛み削り、何とか自分を抑えた。
血の味が口腔内に広がった。

「…あんまり長いこと話してると、身体に障る」
流石に喋り難かったが、地底で出来た親友を汚すことにならずに済んだ。
大事な友達なんだ。俺は、もう振り回されるのは御免だ。
掴まれている右手を解き、こいしの頭を軽く撫でてやる。
こいしはびっくりしたように、「えっ…」と声を漏らしていた。
意表を突かれたような声音だった。
シンはベッドから立ち上がり、またな、と口許を緩めて見せた。
こいしは、驚いたような貌でシンを見詰めていたが、すぐに微笑んでくれた。
「うん…」少し残念そうな、それでいて嬉しそうな笑みだった。
ただ、顔の半分くらいをシーツで隠し、今になって顔を真っ赤にしている。

振り返らず、シンは壁に立てかけてあった棍棒を手に取り、こいしの部屋を後にした。
白黒模様の石畳の歩廊に出て、自分を落ち着かせるように、盛大に息を吐く。
ついでに、自分の中の下劣さに吐き気を覚えた。俺は、マジで糞野郎だ。
弱っているこいしを組み敷いて、滅茶苦茶にしたいと思った。
俺は最低な奴だ。もしも自分を殺せるなら、本当にぶっ殺してやりたい。
“出来るかよ”“出来る訳がねぇよ”“お前には無理だよ”
“分かってる筈だよ”“相変わらずお前は馬鹿だねぇ”“自分を責めるなよ”
勝手に言ってろ。俺も、もう分かりきってる。
どの道、俺に出来ることなんて、暴れるくらいしかねぇんだ。
シンは自分自身に悪態を吐きながら、歩廊を歩きだした。

次は、もっと上手くやる。それだけだ。




[18231] 三十五・五話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/03/01 20:17

 彼らは一様に聖騎士団の騎士服を着込み、マントを翻しながら歩いていた。
がしゃん。がしゃん。がしゃん。がしゃん。がしゃん。がしゃん。
間の抜けたような鉄の足音は、森の木々の暗がりに吸い込まれ、大きく響くことも無い。
日が沈んだ山裾の影を、土と落ち葉を踏みしめ、彼らは肩を並べ歩いていた。
時折、ほぅほぅと梟の鳴き声が聞こえるくらいで、辺りはやけに静かだった。
彼らの金属の身体には、既にステルス処置が施されている。
夜行性の獣にも、妖怪達にも、極めて気づかれ難くなった彼らは、闇に紛れて歩く。

騎士服に身を包んだ彼らは、服装だけでなく顔まで同じだ。
眼は四角の窓。鼻は無く、単純な開閉しか出来ない口はクルミ割り人形の様だ。
耳の代わりにはゼンマイが飛び出しているだけ。肌の色も、皆一様に青銅色。
サラサラとした金の頭髪が、その簡素極まり無い顔の造形に酷く不釣合いだ。
木々の間々を行く彼らは、四人組みだった。
がしょん。がしょん。がしょん。がしょん。がしょん。がしょん。
彼らの足音はくぐもり、夜霧に濡らされ、やはり静かだった。
見上げれば、黒い木々の隙間から見える空に、疎らな雲と星々が瞬いている。
涼やかな夜風に揺れる木々の枝葉の音が、僅かに頭上から聞こえて来る程度だ。
淡い月明かりが、静寂に沈んだ獣道を僅かに照らしている。

黙したまま、彼らは獣道を歩いていく。
彼らはその顔の造形から、表情らしきものを浮かべることは出来ない。
だが、彼らの纏う空気はやけに気だるそうで、面倒そうだった。
猫背気味な姿勢からも、今にも溜息が出そうな程に、やる気の無さが滲み出ていた。
だらしなく丸めて歩く彼らは、以前に守矢神社を襲撃し、撃退されたロボカイ達だった。
暗い森の中を行く彼らの間に在る差異は、騎士服の色が其々で違うくらいだろうか。
浅葱。臙脂。黄土。そして、少し煤けたような白。
彼らは四人とも、見目形はそっくりそのままだが、色が違っていた。
とぼとぼと歩く四人のうちの誰かが、溜息のようなくぐもった機械音声を漏らした。
罅割れた機械の吐息は、いかにも面倒そうだった。
がしょん。がしょん。がしゃん。がしゃん。
夜露にマントを濡らしながら、彼らはのそのそ、緩々と歩いていく。
シカシ、大掛カリナ修理きっとダッタ割ニハ、ぱわーあっぷシタ気ガセンナ…。
臙脂の騎士服を着たロボカイが、くぐもった機械音声で呟いた。
それまで無言のままだった他のロボカイも、「ソウダナ…」、「ウム…」と頷いている。
コノ阿呆共メ。他三人の呟きに対して、白いロボカイは機用に無い鼻を鳴らした。

「駄目博士ノらぼナラ兎モ角…。余計ナちゅーんあっぷナド望ムナ。
現場ノ最前線デ、貴様達ノ修繕ガ無事ニ終エタダケデモ、十分過ギル程ニらっきーダ」

白い騎士服を着たロボカイは、他の三体へ順に視線を巡らせて、また鼻を鳴らした。

「コレカラ嫁ヲ迎エニ行クト言ウノニ、ばーじょんあっぷモ無シトハナ…」
「心許無イト言ウカ、使エナイト言ウカ…」
「オマケニ、嫁ノ数ガ3ナノニ、コッチノ数ガ4デハ…一人余ルゾ」
臙脂、浅葱、黄土の騎士服を着た三体のロボカイ達も、顔を見合わせ、肩を落とした。
このロボカイ達は、白いロボカイによって、大破の状態から復活した者達ばかりだった。
黒いソルが地底に向かっている間に、修復のオペを受けていたのだ。

白いロボカイが、クロウから指示された内容は簡潔なものだった。
まず、現地で遭難状態になっているAI持ちのロボカイ達と合流する事。
そして彼らを修復、修繕。共闘して、守矢神社の二柱と、風祝である巫女を捕らえる事。
内容自体は簡潔だが、その難易度はかなり高い。
女性の神と、その神に仕える巫女を捕らえるという任務。
此レハ…今マデニ無イ程ニ、むふふナ展開モ期待出来ルナ!
法力機術によって鋳造された特殊ボディを持つ白いロボカイは、今回は特に気合が入っていた。
珍しく真面目に任務を遂行し、修理キットと共に幻想郷に潜り込んでいた。
黒いソルが地底で暴れている間に、白いロボカイも無駄に本気を出していた。
探知結界に捕捉されぬよう、細心の注意を払いつつ、迅速に他のロボカイ達を探し出した。そして、自らにインプットされた法力機術を行使し、見事に彼らを修理して見せたのだ。
普段のロボカイらしからぬ任務遂行力だった。
不審に思ったのだろう。途中で、心配そうな声でクロウから通信が入った。
全部修理したのかい? え…、三体とも? ……凄いな…。予想時間より遥かに速い…。
驚きを隠せない声で言うクロウに、ロボカイは鼻息を荒くして応えた。
三人ノ嫁ガ待ッテイルカラナ…。本気ヲ出サザルヲ得ンダロウ。
……あぁ、まぁ、うん。成程。そうだね。そういう事にしておこうか。
気の抜けた様な通信を最後に、クロウからの連絡はあれから無い。
だが、白いロボカイだけは燃えに燃えて、萌えまくっていた。
やる気の無さそうな他の三人に比べ、白いロボカイは胸を張って夜の獣道を行く。

「貴様達ハ何カ勘違イシテイル様ダカラ、一ツ言ッテ置クゾ。
 八坂神奈子、洩矢諏訪子、東風屋早苗ノ三人ハ…取リ敢エズ、吾輩ノ嫁ダ」

勿論、異論ハ断ジテ、一切、認メン。
そうきっぱりと言い切って、白い騎士服のロボカイはズンズンと歩いていく。
いや、歩いていこうとしたところで、両肩を後ろから掴まれ、後頭部をどつかれた。
「オビョフッ…!」白い騎士服を着たロボカイの眼が飛び出しそうになった。
 白いロボカイの後頭部を殴りつけたのは、浅葱の騎士服を着たロボカイだ。
 
 「フザケタ事ヲ抜カスナ、コノ戯ケ。早苗サンハ、わしノ嫁ニナルンジャ馬鹿タレメ」
 異様な程に真剣味な機械声で言い、浅葱の騎士服のロボカイは拳を握り固めている。
 
 「諏訪子タンハ、ワシガ娶ルノダ。しりあるガ若イダケノ白うんこハ黙ッテイロ」
 真面目くさった声で言う黄土の騎士服を着たロボカイは、どうやらロリコンの気が在るらしい。
 
「マァ、神奈子ハ吾輩ノ嫁ナンデスケドネ。ドュフフ」
気持ちの悪い笑い声を漏らした臙脂の騎士服のロボカイは、神奈子を狙っているようだ。
 
浅葱、臙脂、黄土のロボカイ達の結束は妙に固いようで、互いに頷き合った。
序に、早苗さんのメロンは程よい大きさで素晴らしいだの、
神奈子様に踏まれたいだの、諏訪子様の幼児体型は至高だのと、盛り上がり始めた。
白いロボカイは、コノ恩知ラズ共メ…、と思ったが、反論するのをぐっと我慢した。
そうだ。我慢しろ。吾輩は、この阿呆共の長兄なのだ。兄なのだ。
馬鹿な弟達の為に、堪えねばならん時もあるだろう。今がその時だ。
何にせよ、捕獲する事に成功せねば、嫁もへったくれも無い。
此処で言い合っていても、徹底的に無駄だ。
言ッテイロ。馬鹿者共メ。吾輩ガ最モいけめんナノハ明ラカナノダカラナ…。
誰にも聞こえないようにボソッと言って、白いロボカイは獣道を進もうとした。
Pipipipipi。小さな電子音が、その騎士服の懐が響いたのはその時だった。
駄目博士カラノ通信カ…。白いロボカイの呟きに、他の三人の言い合う声を止めた。
白いロボカイは掌大の板状の端末を取り出し、携帯電話のように耳に当てた。

「何カ用カ、駄目博士。アア、サッキ言イ忘レテイタガ、吾輩ノ結婚式ハ和式デ頼ム」

『…君の婚礼については、別に好きにすれば良いと思うよ。
 今は任務遂行に集中してくれると在り難いんだけどね。…そっちはどうだい?』

「如何モ何モ…。長兄デアル吾輩ガ指揮ヲ取ッテイルノダ。問題ナド微塵モ無イ」

ちらりと他の三人を見遣りながら、白いロボカイは自信に溢れた声で応える。
統率が取れているとは言い難い状況だが、取り敢えずは団結出来ているので嘘では無い。
それを見越してだろう。端末の向こうで、クロウが僅かに鼻から息を吐く音がした。
やれやれと言った感じの溜息だった。

『…なら良いんだけど。僕もサポートに入るけど、先走って派手に動かないでね。
 もう少しだけ準備に時間が掛かりそうなんだ。…くれぐれも慎重に頼むよ』

君達の行動開始の合図はこっちから出すから。それまでは大人しくしておいてくれ…。
そう言った端末越しのクロウの声は、少し疲れているようだった。
白いロボカイは少し黙ってから、…ウム、と応えた。

「隠レ潜ム位ナラバ容易イ。駄目博士モ根ヲ詰メ過ギルナヨ」

『珍しく優しいね、今日は。
まぁ、こっちの処理も出来るだけ早く終わらせるよ』

それじゃ弟達の事、よろしく頼むね。
少し笑った声で言ったクロウは、其処で通信を切った。
弟達か。そうだ。博士の言う通り。吾輩はお兄ちゃんなのだ。
やはり、この任務が終わるまでは、立派な兄として振舞わねば。
白いロボカイは懐に端末を仕舞いながら、他の三人に顔を巡らせる。
「聞イタ通リダ」。ロボカイの声は暗がりの森の中でも、全く響かなかった。
それでも、その機械音声には妙な威厳のようなものが在った。
他の三人のロボカイも黙って、白いロボカイの言葉を待つ。
神妙な空気を醸した少しの沈黙の後だった。
嫁トノ結婚式ハ、和式デ決定ダ。白いロボカイは勝ち誇った様に言った。








何も感じず、何も考えられない。体は動かない。
いや、動こうという思考自体が頭に浮かんでこない。
 眠気は全く無い代わりに、酷い虚無感を感じる。ただ只管に、虚しい。
俺は夢を見ていた。いや、見ている、と言うよりも、眺めている。見飽きた光景だった。
夢の中で、俺は戦っていた。阿呆の様に孤立して、ギアの群れに突っ込もうとしていた。
崩れた都市と、その瓦礫の山を埋め尽くす死体と屍骸と骸が地面を覆う、血の泥濘。
それを踏み躙り、俺は巨大で不恰好な石包丁を振り回していた。
曇天の下。其処彼処に死が溢れ、何もかもが壊滅して、元の形を成していなかった。
濁った赤燈の炎を纏う俺は、次から次へとギアを殺した。殺した。殺した。
飽く事も無く、倦む事も無く殺した。数え切れない程に殺した。
戦場は此処だけじゃなかった。渡りに渡っても、戦場は無くならなかった。
 月日が過ぎた分だけ、流れる血の量は増えて行った。
 地球上に存在する人間の都市は、もはや只の戦争の繭だった。
 それでも表情一つ変えず、俺は徹底的に戦っていた。恐れなど無かった。
一切の容赦無く、息子とも娘とも、弟とも妹ともつかない同胞達を皆殺しにしてきた。
それ以上に、人間も死んだ。守ろうとする意思が折れそうな程に、容易く殺された。
膨れ上がった人口問題と食料問題が、一緒くたに解決する程の死者が出た。
肥え過ぎた人類という種は、壮絶な痛みと出血を強いられた。
そんな中でも、俺は愚直だった。ただ、ギアを追い求めていた。
疲れは感じなかった。心を苛む罪悪感は、俺の纏う炎を更に苛烈にしていた。
一気に全てを失った喪失感は、心を麻痺させた。
そのせいで、悲哀や悲嘆と言った感情は、まるで他人事の様に感じられた。
薄っぺらくしか感じない悲しみは、すぐに憎悪に塗り潰された。
何かを考える事が面倒になって、戦う事に縋る様に、夢の中の俺は歩いていた。
生への執着を完全に捨て去った様な貌の俺は、憑かれた様に歩き続け、殺し続けた。
野を。山を。平野を。荒野を。湿原を。高原を。森を。廃都を。廃村を。死んだ都市を。
太陽と月が、俺を嘲笑うかのように出ては沈んでを繰り返した。
降り来る雨は俺を濡らし、荒ぶ雪は俺から体温を奪おうとした。
神などというものを信じる気は無かった。
空はただ漫然と頭上に在って、天泣の中を行く俺を見下ろしているだけだった。
夢の中の俺は、ただ歩いていく。それを端から眺めている。見ていることしか出来ない。

ふと気付く。
夢の中に居る無表情な俺の体には、何時の間にか、無数の楔が深々と打ち込まれていた。
足跡代わりの血溜まりを作りながら、俺は歩いている。
其々の楔には鎖が通され、その先には余りに巨大な、血塗れの十字架が繋がれている。
俺は、血塗れの十字架に繋がれて、それを引き摺って歩いていた。
見れば、俺の歩く地面は、ギアと人間の屍で埋まれ、空は赤く錆ついていた。
地平の彼方まで、死で埋め尽くされていた。その地平に、薄黒い太陽が沈んでいく。
十字架を引き摺る俺は、無機質な金色の眼で、その何も無い死の地平を睨み据えている。
無表情な貌は、全く感情も伺わせない。疲れた素振りも見せない。俺は頑なに歩く。
夢の中の俺の視線の先には何が在る。何を見ている。俺は知りたくなった。
 端から見ている俺も、夢の中の俺と同じ方へと視線を向けた。
 だが、何も無い。見つける事が出来ない。俺には、何も見えない。
屍骸で埋まった腐肉の丘と、澱み切った偽りの黄昏が在るだけだ。
 それなのに、奴はまだ歩く事を止めようとはしない。
何を目指して、奴は歩いているんだ。一体、何を目指しているんだ。
 憎悪を『あの男』にぶつける為か。贖罪の為か。夢の中の俺は、俺には気付かない。
屍の海の中を掻き分けるようにして、ただ歩いていこうとしている。
教えてくれ。そう声を掛けようと思う時には、まどろみが薄れて、気付く。
いつもそうだ。これは、俺の夢であって、俺の夢では無い。
埋め込まれただけのオリジナルの記憶が。経験の無い『記憶』が見せる、悪夢だ。
俺は、聖戦を戦ったことなど無い。しかし、記憶と体だけが在った。
造り出された俺は、何度も似たような夢を見た。
生まれたばかりの俺には、それが何を意味しているのかなど、全く理解できない。
気分はどうだい…? 抑揚が在るのに、低い声が聞こえた。嫌に近くからだ。
眼が醒めた。重い瞼を押し上げ、視線を横へとずらす。
眼鏡をした陰気そうな男と眼が合った。クロウだった。
俺は、多数のコードが繋がれた、大掛かりな施術椅子に寝かされていた。
何かの処置を受けていたのだろう。着ている衣服も、薄手の白い被術衣のみだった。
天井からの照明が薄暗い分、クロウの顔に掛かる影が濃く見えた。
だが、表情くらいは分かる。奴は微笑んでいるようだった。
クロウの質問には答えず、俺は体を起こそうとした。その時だ。
頭に激痛が走って、体から力が抜けた。思わず呻き声が漏れた。

「…気分も体調も、あんまり良く無いみたいだね」
やれやれと言った風に呟いたクロウは、左掌のグローブを外し、俺の額に乗せた。
骨ばった奴の手は、不思議と暖かかった。…お前が…俺を回収したのか…。
何とかそれだけを聞くと、クロウはまた少しだけ笑った。

「地底の妖怪達も、まだ混乱の中に在ったからね。
余裕はあんまり無かったけど、君一人を連れ帰る分には問題無かったよ」

クロウは何気なく答えて見せるが、果たしてそんな簡単な事なのか。
幻想郷に張り巡らされた探知結界を避けつつ転移法術を編む事は、途轍もない精密作業だ。
加えて、其処から誰かを回収し、捕捉探知もされずに此処まで帰ってくるとなると至難の業だろう。
当たり前の事だが、幻想郷には八雲紫という強大な壁が存在している。
妖怪の賢者の眼を掻い潜り、幻想郷の結界を素通りするには、大掛かりな準備が必要だ。
事実として、俺が地底へと送られた際の術式には、相当な時間が掛けられていた。
 随分と不審そうな貌をするね。僕の答えが納得行かないかい?
 笑みすら浮かべてそう言うクロウの左掌に、青黒い法術の光が灯る。
 その瞬間、触れられている額だけでなく、脳自体に鈍い痛みが走った。
 吐き気と眩暈が同時に来て、次に、体の節々に痺れが来た。
 
「他者を幻想郷に忍び込ませるよりも、僕自身が入り込む方が簡単だからね。
 まぁ、研究の成果が出ていると言うべきかな。『境界が視える』ようにもなると、
見えてくる景色がやっぱり違ってくるからね…、有効に使えば、強力な武器にもなるさ」
 
俺は体中に走る鈍痛に耐えながら、その言葉を聞き、思う。
人間である筈のクロウに、そんな芸当が可能なのか。
いや、違う。人間だからこそ可能なのか。
法力機術については詳しくは分からないが、この男はまだ何かを秘めている。
クロウは最早、陰気なだけの細工師でも、職工でも、彫金師でも無い。
この男も、ある種の賢者という境地に足を踏み入れようとしているのかもしれない。

「? 僕の顔に何か付いているかい?」

「……いや…」。俺にとっては、どうでも良い事か。

「何か言いたそうだね」

「……俺は…負けたのか…」

「負けたと言うよりは、相討ち…かな。僕も想定外だったよ。
 鬼達の抵抗も、予想よりも然程大きく無かった事もあったからね」

君も、少し油断していたんじゃないかい?
呟くように言ったクロウの声は、薄暗い施術室によく響いた。
鈍痛の走る脳を働かせ、俺は眼を閉じて思い出す。
二人の鬼と、一人の青年の姿が脳裏に浮かんだ。
次に、心を読む妖怪『さとり』の貌が浮かんで、核熱を操る地獄鴉の事を思いだした。
奴らは一歩も引かなかった。執拗に喰い付いてきた。俺は奴らを払い除けようとした。油断。俺は油断していたのか。違う。油断などしていない。奴らの方が単純に強かった。

俺の方が弱かった。
そう言うと、「君はロボと違って潔いね…」と、クロウはまた少し笑ったようだ。
俺はクロウの視線を受け止めてはいたが、何も言わなかった。
施術椅子に横たえられた身体に、更に強い痛みが走った。身体が軋む。
無理矢理に嵌め込まれていた肉体の枷を、毟り、剥ぎ取られているかのようだ。
「君の方が弱かった訳じゃないよ。…ただ、君は力を出せていないだけさ」
クロウは、俺の額に触れている掌に少し力を込めた。

「……俺に…何をしている…」

掠れた声で言う俺に、またクロウは少しだけ笑って見せた。

「感じないかい? 君の身体に施した抑制術式を解放しているんだよ。
 想像以上に敵が強かった事も在るし、まだ君にも頑張って貰わないといけないからね」
 
 悪態をつこうと思ったが、それすらも面倒だった。
俺は弱い。俺は何も知らない。ただ創り出され、生み出され、戦っている。
好む好まざるも無く生きている。クロウという男の命令に従って、殺して、奪う。
罪悪感の様なものは感じない。いや、感じられないのか。俺は不全だった。
正気や狂気を判別する能力があっても、自分がそのどちら側に居るのかは判断出来ない。
生まれたばかりの俺には、正義や悪と言ったものを理解する事が出来なかった。
俺は、最初から持っていた、この自分のものでも何でもない『記憶』を持て余している。
贖罪の記憶。復讐の記憶。懺悔の記憶。
俺の中に在る記憶は、どれもこれも熾烈で、過酷だった。
 産み落とされた瞬間から、戦いの記憶を持った俺は兵器だ。ギアだ。
クロウの施術を受けている今、身体の中で、何かが膨れ上がるのを感じた。
胸の内に込み上がってくるものが、殺意や、闘争欲と言うものだとは知っていた。
俺は、だが、やけに醒めていた。熱に浮かされたような自分の体が恨めしい。
クロウ。こいつを殺してやろう。何度もそう思った。だが、無駄だった。
 俺の意識や思考には、既にこのクロウという男の手綱が掛けられている。
所詮、俺は造物だ。不完全な模造品だ。造形主に抗う術など無い。
仮に今此処でクロウに襲い掛かった処で、返り討ちに会うだけだ。
いかに激烈な反抗心を持ったところで、クロウは俺を容易く抑え込むだろう。

そして、言うのだ。
君を失いたくは無い。
君は知りたくないかい?
 君のオリジナルが何を求めるのか。
君のオリジナルを造り上げた『GEAR MAKER』の真意を。
君自身がどんな自我を芽生えさせるのか。僕は知りたいと思っているよ。
僕は君自身がこれからどんな成長を遂げるのか、とても興味が在る。
ふふ、まぁ…歪んだ親心かもしれないけれどね。
 
 俺は、奴に何も言い返す言葉が無い。
 俺は、何も知らないままだ。無知で、無能なだけの、いぎたない餓鬼だ。
 施術椅子の上で眼を閉じ、脳裏に夢の中の俺を思い浮かべた。
 十字架を引き摺りながら、屍の道の上をただ只管に前へと歩いた俺よ。
 憎悪と懺悔に苛まれながらも、同胞を屠り続けて来た俺よ。
 愛する女すら殺して、地面を這い蹲り続けた俺よ。
答えろ。俺は、何者なんだ。俺の存在価値は何だ。
 俺は知りたい。俺がお前の99%の適合率を持つコピー体だと言うならば。
 俺とお前との違いを。残りの1%を知りたい。
 それを知ることが出来なければ、俺は、お前の過去でしかない。
 過去を忘れた者は、未来に喰われる。お前は。俺は。戦わねばならない。
そんな方法しか知らない。俺に在るのは、お前の記憶と知識だけだ。
もういい。飽き飽きしていた処だ。
俺は。お前に会いたい。
 



[18231] 三十六話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/03/06 21:43

 紅魔館に設けられた大図書館内部には、パチュリーが集めた膨大な量の蔵書が在る。
薄暗くも、重厚な雰囲気を漂わせる石造りの館内は、普段と同じ静けさに包まれていた。
列柱の如く整然と並べられた巨大な本棚は、最早、棚と言うよりも塔だ。
魔道書、魔法書がびっしりと詰め込まれた本棚に囲まれ、彼女は研究に勤しんでいた。
小柄な彼女には不釣合いな程に巨大な執務机の上には、燭台と山積みの本。
ページを捲る音と、術式を編み、書き留めていくペンを走らせる音が微かに響いている。
彼女は大人数で騒ぐことを余り好まない。図書館に篭っていることが殆どだった。
助手でもある子悪魔に紅茶を入れて貰い、それを飲みつつ、本を読むことを好んだ。
ただ、この紅魔館の騒がしさが嫌いという訳では、勿論無い。
孤独を極端に愛している訳でも無いし、友人達の事も大事に思う。
贅沢な事に。今日の図書館には、顔馴染みの客人が二人も居る。
走らせていたペンを止めて、懐中時計を取り出して時間を見てみた。
そろそろ、子悪魔が紅茶と菓子を持ってきても良い時間だった。
彼女は魔女だ。喉の渇きや空腹感を覚えて、筆を止めた訳では無い。
ただ、何となく落ち着かない。

パチュリーは掛けていた眼鏡の位置を直しつつ、視線だけを静かに左へと向けた。
執務机の左隣には、重厚感の在る革張りのソファとテーブルが置かれてある。
ボタン止めや鋲飾りまで、濃いブラウンで統一されたソファは、この図書館に良く馴染んでいる。
其処にゆったりと腰掛け、分厚い魔法書を読んでいるのは、七色の人形使い、アリスだ。
アリスは上海人形を隣に座らせ、ゆっくりと、じっくりと魔法書を熟読している。
時折、何かを思案するように眼を閉じたり、顎に手を当てたりしていた。
集中しているからだろう。パチュリーの視線には気付いていない。
優雅な姿勢で魔法書を読むアリスに対して、もう一人の客人は慌しくページを捲っている。
パチュリーが右隣に視線を向けると、石の床に胡坐をかき、呻り声を上げる魔理沙が居た。
魔理沙が座っている周りには、処狭しと本が開かれ、詰まれ、並べられている。
何冊も魔法書、魔道書を見比べ、呻って、何かを閃いた様な貌をしては、また呻っていた。
視線をあちこち行ったり来たりさせて、魔理沙は貪るように知識を吸収しようとしている。
魔理沙の鬼気迫る集中力にパチュリーは軽く息を吐いた。
あまり急いで知識を吸収しようとしても…喉を詰まらせる…。
どちらに言うでも無く呟いたパチュリーの声に、魔理沙とアリスは本から顔を上げた。

「少し…休憩を入れましょう」
二人の顔を交互に見ながら、パチュリーは少しだけ口許を緩めて見せる。
アリスは何だか驚いたような貌をしているし、魔理沙は苦虫を噛み潰したような貌だった。
特に魔理沙の方は何かを言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
「…それもそうね」。アリスは眼を閉じて、首を鳴らしつつ付箋を挟んで本を閉じる。

「まぁ、頭を働かせるには休息も必要だな…」
魔理沙も一つ伸びをしてから、ボリボリと後頭部を掻いた。
丁度その時だ。革靴が石床を叩く音が、少し遠くから聞こえて来た。
胡坐をかいていた床から立ち上がり、上海人形を挟んで、魔理沙もアリスの隣に座った。
ソファに身体を預けた魔理沙はまた伸びをして、足音の聞こえてくる方へと視線を向ける。
ナイスタイミングだな…。いや、もうおやつの時間か。
魔理沙は呟いてから、出かけた欠伸を飲み込んだ。
佇立する巨大な本棚の列の間を、小悪魔が銀の盆を持って歩いて来るのが見えた。
三人分の紅茶、チーズケーキが盆の上に乗っている。
パチュリーは掛けていた眼鏡を外し、執務机の上に置いてから、子悪魔の方を見遣った。
急かすつもりは無かったが、視線を感じたのだろう子悪魔は、少し早足になる。

「お菓子と御茶が入りましたので、お持ちしました」
魔理沙とアリス、パチュリーへと頭を下げながら、小悪魔は紅茶をテーブルへ置く。
メイド長の教育の賜物だろう。子悪魔の所作の一つ一つには品があり、洗練されていた。
「いつも悪いわね」。「在り難く頂くぜ」。
子悪魔はアリスと魔理沙の礼の言葉に、少しだけはにかみながら会釈を返す。
「貴女も、キリの良いところで少し休みなさいね…」
主であるパチュリーの言葉には更に深く頭を下げて、小悪魔は本の整理へと戻って行った。
その背中を見送りながら、アリスは溜息を吐いたようだった。
小悪魔も貴女も、随分と冷静ね…。見習わないといけないわ。
アリスは自分を落ち着ける様にそう呟いて、配られた紅茶に口を付けた。
それに続いて、魔理沙も紅茶を一口啜り、渋そうな貌になる。
「ああ。妙に落ち着いてるよな、小悪魔の奴。まぁ…主も主だからか」
紅茶には手をつけないまま、パチュリーは魔理沙の視線を受け止め、首を緩く振った。

「私は…落ち着いてる訳じゃないわ。ただ…視野が狭まっているだけ」

そうだ、とパチュリーは思う。落ち着いている訳じゃない。
冷静では無い。余裕が無いだけだ。法力を研究し、自分の魔術へと編みこむ為に。
取り澄ましているだけに過ぎないから、落ち着かないのだ。
それは、パチュリーだけでは無い。
眼の下に隈が出来る程に、魔法書を貪り読みに来る魔理沙にしても。
自立人形製作よりも、自身の魔力強化の為に図書館を訪れるアリスにしても。
これからどう動くべきかに頭を悩ませているレミリアもそうだ。
出来る事を探すのに、必死なのだ。それは、幻想郷全体でも同じ事が言える。
幻想郷を包む結界どころか、探知結界までをも素通りされて、地底は襲われた。
あれから少し時間が経ち、旧都の妖怪達は持ち直してはいる。
勇儀や萃香の傷も癒えてこそ居るものの、やはり余裕は無い。
地底強襲は、幻想郷に大規模な攻撃を仕掛ける為の予行演習だったのだろう。
八雲紫はそう考えている様だ。近いうちに、大きな攻撃を受けるだろうと。
藍や橙だけでなく、ソルを引き連れ、結界に解れが無いかを調べて廻っているそうだ。

「パチュリーの言う通りだな。…霊夢の奴も、今じゃ修行始める始末だしよ」

ぐったりした様な声で言って、魔理沙は大の字になってソファに凭れ掛かった。
それから、眠そうな眼を擦って、図書館の天井を見詰めながら、鼻を鳴らしたようだ。
気に入らねぇよな。好き勝手されるが儘ってのは…。
魔理沙も、相当に腹に据えかねているだろう。呟いた声には怒気が篭っていた。

「魔理沙こそ、顔色が悪くなるくらい魔術書を読むのに必死じゃない」
冗談っぽく言ったアリスは、しかし、魔理沙の事を馬鹿にしている訳では無い。
何処か切羽詰ったような、歯切れの悪い感じだった。
冗談めかして何かを言うことすら難しいのか。
「自分の事棚に上げて、よく言うぜ…」と魔理沙も、口の端を微妙に歪めた。

それから少しの間。
三人とも、何も言わなかった。
何をどう話せばいいのか、分からない。
沈黙が降りた図書館内部の空気は、やけにひんやりと感じた。

「なぁ…」
魔理沙はフォークを手に持って、ケーキに刺すのでは無く、パチュリーの執務机を指した。
アリスも、魔理沙のフォークの指す方。パチュリーが書き留めている術式に眼をやった。

「パチュリーは何をしようとしてんだよ。
…やっぱり見たまんま、新しい魔術式の開発か?」

「そういう貴女は…散らかし放題に本を開いて、何を考え込んでいたの…?」
パチュリーは魔理沙には答えず、紅茶を啜ってから、椅子に座ったまま向き直った。
質問を質問で返すなよな…。ぼやきながら、魔理沙はフォークでケーキを一口食べる。
それから、床に広げた無数の魔術本をフォークで指しながら、へっへ、と笑った。

「なぁに、秘密兵器つーか、裏技っつーのかな。
 奴らにガツンとぶちかます必殺技を考えてたんだよ。…笑うなよ?」

どうせ、お前らも似たようなモンだろ?
魔理沙は更に一口ケーキを口に放り込んで、アリスとパチュリーを見比べた。
全然具体的じゃないわね…。アリスは苦笑いしながら、紅茶を啜る。
そう言うアリスだって、結局人形関係の魔術研究なんだろ。
唇を尖らせて言いながら、魔理沙は鼻を鳴らした。

「まぁ、弾幕はパワーだからな。細かいことは良いんだよ。
 …で? パチュリー、お前さんはどうなんだ? 隠すなよ。
ぱっと見た感じ、かなり面白そうな術式だしな。もったいぶらずに教えてくれって」

興味深そうに言う魔理沙の眼は、爛々と輝いている。
パチュリーは一度、執務机に視線を落とし、それから魔理沙の眼を見詰め返した。
それから、軽く息を吐いた。「これは…、法力術を対消滅させる為の、魔術式…」
答えたパチュリーの言葉に、魔理沙だけでなく、アリスも眼を細めた。
何処か危うげな、それでいて情熱的な光を眼に宿した魔理沙は、「へぇ…」と相槌を打つ。

「相変わらず凄ぇな。…私にも後で教えてくれよ」

「まだ…完成してないから…」

「何だよ、連れねぇなぁ…パチュリーさんは。
 幻想郷を代表する、彼氏居ない魔女三人トリオの仲じゃん」

なぁ、良いだろ?、と寄ってくる魔理沙に、パチュリーは少しむっとした表情を浮かべた。
見れば、アリスの方も眉間に皺を寄せた貌で魔理沙を見ている。凄く何か言いたそうだ。
微妙な沈黙が、図書館内部を包んだ。
むっとした貌のままのパチュリーは、執務机に視線を落としながら眼鏡を掛けなおした。
彼氏が居ないのは…関係無い…。ボソッと呟いたパチュリーに、アリスも頷いた。
おいおい、怒んなって。顔色が悪い癖に、少年のように魔理沙は笑った。

「でも、パチュリーからそういう反応が返ってくるのも珍しいな。
 さては…気になる奴でも居るのか? んん~? どうなんだよ。言ってみ?
相手は誰だ。ソルか? だろ? 正解か?」

ニヤニヤと笑う魔理沙の詰問に、少し狼狽した様なパチュリーの頬に、さっと朱がさした。
慌てたように顔を上げてから、すぐに眼を逸らした。「ち、違う…。そんな事は、無い…」
尻すぼみな声で何とかそれだけ言い返したパチュリーは、唇を噛んで俯いてしまった。
その反応を見た魔理沙のニヤニヤ笑いが、更に意地悪なものに変わる。

「図星かよ。ヒュー。大図書館にも恋の季節がやって参りましたよ」

「違う…。ソルの事じゃ、無いから…」

パチュリーは俯いたまま、魔理沙の方を見ずにボソボソと答えた。

「嘘は駄目だなぁ~。じゃあ、コレ何だよ」

魔理沙はスカートのポケットから、掌に乗る程の大きさの正方形の黒い箱を取り出した。
アリスは怪訝そうな貌でその箱を見ていたが、パチュリーの方は息を呑んで蒼褪めた。
ヒッヒッヒ、といやらしく笑った魔理沙が、楽しそうに掌の上で箱を転がした。
箱は、よく見れば、小さな正方形が集まって形を成している。
黒一色のルービックキューブだ。

「さっきパチュリーの部屋にお邪魔させて貰った時に見つけたんだよ。
 こんな面白いもの隠してるなんてな。酷いぜぇ、パチュリーさん」

「勝手に…人の部屋を…!」

パチュリーが立ち上がろうとした時、魔理沙がカチッ、とルービックキューブを回した。
その瞬間だった。『…アリス、今日も可愛いな…』とソルの声が聞こえて来た。
いきなりだったから、飲んでいた紅茶を危うく噴出しかけたアリスは、盛大に咽た。
パチュリーの方は、あうあう…と、真っ赤になって視線を彷徨わせ出した。

「いやぁ~、これは悪戯に使えるぜ。美味しいアイテムだな」

「…っていうか、何なのそれ?」
ケホッと咳をしながら、アリスは魔理沙の持っているルービックキューブに眼をやった。
すると、にんまりと笑った魔理沙は、私の見解が正しければ…、と得意気に語り始めた。
完全にいじめっ子である。

「紅魔館のパーティーがあっただろ。
あの時に、音声拡張の魔法を使ったのはパチュリーだったよな」

う~…、う~…、と何か言い返そうとしているパチュリーは、もう涙目だった。

「そん時に拾ったソルの音声を集めて、魔力で加工。序に調整を加える。
後は、このキューブにそれを詰め込んで、回転の組み合わせで、好きな言葉を話させる。
こんな風にな」

再び、カチカチっと魔理沙がルービックキューブを回した。

『…アリス…好きだ…』

『…アリス…愛してるぞ…』

『…美しいな…アリス…』

『…アリス…お前を抱きしめたい…』

「ちょ…! ちょっと! 止めて! 何で私の名前に設定してるのよ!?」

顔を赤くしながら、アリスが慌てて立ち上がり叫んだ。
その声も上擦っていたし、最後の方は裏返っていた。
いや、何となくそっちの方が面白いかなぁと思って…。
魔理沙は無邪気な貌のまま、しれっと答えた。何て奴だとアリスは思った。
「そのキューブは…えっと…、勝手に出来てたっていうか…」
パチュリーの方は、もう泣く一歩手前だった。

「ゴメンゴメン、ちょっと遣り過ぎたな」

悪びれもせずに、魔理沙はそのルービックキューブをパチュリーに返した。
呆気なく返されたことに、パチュリーも驚いているようだった。

「そのルービックキューブに関しては、私達だけの秘密にしとくから安心しろって」
なぁ、アリス。そう言われ、アリスの方は腕組をしながら溜息を吐いた。
「言わないわよ。レミリア達にもバレて無いわよね、それ…」
うん…、と、パチュリーは静かに頷いて、ずれかけた眼鏡の位置を直した。

「レミィとフランにばれたら…もっと大変な事態になる…」

「あの二人の手に渡ったら、流石のパチュリー製のマジックアイテムでも…」

そこまで言った魔理沙が肩を竦めて見せた。
まぁ一日で使い潰されちまうだろうな。正に爆弾だった。

「おっと、此処で魔理沙さんの耳より情報。ソルは金髪好きって話だぜ?」
うっ…、とパチュリーが呻いた。はっとした様な貌のアリスが、自分の髪をさっと触った。
魔理沙は、また笑った。「冗談だよ、本気にすんなって」。
「そういう冗談は良くないわ…」今度は、アリスが不機嫌そうに鼻から息を吐いた。
呟いたアリスの声は、かなり低かった。

怖い声出すなって。
は~やれやれ、と息を吐いた魔理沙は、またソファに座り込んで、不敵な笑みを浮かべる。
それから、まだ若干貌の赤いパチュリーと、黙り込んでしまったアリスを交互に見た。

「緊張を緩める訳じゃねぇけど、ちょっと賭けでもすっか?
 この三人の中で、誰が最初に彼氏が出来るのか…。
勝った奴は、負けた二人の魔道書、魔法書借り放題。
序に、パチュリーのルービックキューブの所有権付きでどうだ」

いつもよりも饒舌な魔理沙は、自分なりにアリス達の緊張を解そうとしているのだろう。
それが分かるから、パチュリーもアリスも、嫌な貌をしない。
彼氏よりも先に…、この術式を完成させないと…。
冗談に紛らわした魔理沙なりの気遣いに、パチュリーは少しだけ微笑んだ。

「そうね。その賭けは、終戦管理局の脅威を退けてからにしましょう」
アリスも、隣に置いてあった魔法書を再び開きながら、口許を緩めて見せる。

「おっし。そうと決まれば、私も帰って必殺技の開発に勤しむとするか。
 まぁ、引き篭もる前に一眠りするかな。はしゃいだのに眠気が全然引かねぇ」

魔理沙はまた伸びをしながら、ソファから起き上がる。
そして、先程まで石床に広げていた魔法書を数札小脇に抱えた。
魔法書の隣に置いてあった箒を肩に担ぎ、魔女帽子を頭に乗せる。
どうやら魔理沙は、今日は一度帰って眠るようだ。欠伸をかみ殺す貌は酷く眠そうだった。
それじゃあな。パチュリー、アリス。この本、借りてくぜ。
魔理沙はひらひらと手を振って、黒い魔女帽子を被りなおした。
どうせ返しに来ないくせに…。
緩い溜息混じりにアリスが呟いて、パチュリーも苦笑を浮かべた。
死んだら返すさ。魔理沙は笑みを返しながら、図書館を後にした。














永遠亭の中庭。庭園を眺める事の出来る縁側に腰掛け、イズナはどうしたものかと悩んでいた。
昼間、妖怪の山へと薬を配りに行って、帰り際のことだ。
薬鞄を背負い、鬱蒼と木々の茂る山道を下っている最中に射命丸に出会った。
薬を配りに来ていると他の妖怪達から聞いて、イズナの事を探していたらしい。
しかも、緊張した面持ちの射命丸は、一人では無かった。
鴉天狗や狼天狗を合わせて、総勢で20人程が、ずらっとイズナの前に並んだのだ。
狭い山道に天狗が並ぶ光景は圧巻で、イズナも流石に腰が引けそうになった。
何も悪いことしてないと思うんだけどねぇ…。
ぼやきそうになるのを堪えて、イズナは物々しい雰囲気の天狗達に視線を巡らせた。
皆、真剣な眼差しでイズナを見ていた。誰も、何も言わない。
彼らの視線に戦意や悪意が篭っていなかった分、少々気味が悪かった。
山道に澄んだ風が吹いて、枝葉を鳴らした。正直言って、一目散に逃げ出したかった。
ただ、逃げたところで、この数の天狗達を撒くことが出来るかどうか。多分無理だろう。
諦めるしかない。溜息を堪えるしかなかった。

あんの…、オイに何か用ですかね…?
射命丸に視線を向けてから、恐る恐る聞いてみた。
すると、並んだ天狗達が一斉に片膝を付く姿勢で項垂れたのだ。唖然とした。
跪く格好の彼らが、イズナに頭を下げている。その事に気付くのに少し時間が掛かった。
何せ、いきなりだったからだ。御蔭で、びっくりして何も言えなかった。
ぽかんとしてしまったイズナだったが、顔を上げた射命丸と眼が合った。
イズナさんを、妖怪の山に迎えたいのです。そう言われ、イズナは混乱しそうになった。
と言うか、混乱した。「ぇ…」と、間抜けな声が漏れてしまった。
聞けば、何でも射命丸の上司達が、イズナを山に迎え入れたいのだそうだ。
そんな馬鹿なと思ったが、頭を下げに来てくれている射命丸達は真剣そのものだった。
どうも、冗談でも何でもないらしい。
ただ、射命丸の上司にあたる天狗達が、一体何を考えているのか分からない。
イズナを妖怪の山に迎え、何をさせたいのだろう。
単純に、妖怪の山の為に戦い、攻めて来た終戦管理局の尖兵から山を守れ、という事か。
事実として、イズナは以前、山の妖怪達と共に戦ったことも在る。
しかし、天狗の社会は、妙に排他的に思えてならない。
イズナを迎え入れたいと言う言葉も、怪しく思えてきてしまう。
排他的な思考、社会は、イズナは余り好まない。
だからと言って、天狗自体を嫌いになる訳では無い。
だが、その社会の枠組みの中に入れと言われれば、断りたいところだ。

「以前イズナ殿と共に戦った者達の中にも、
イズナ殿を親分と呼び、慕っている者も少なくありません」

ただ、射命丸にそう言われ、簡単に断ることも何だか悪いような気がしてきた。
結局。考える時間が欲しいと言って、その場から逃げるように帰って来たのだ。

溜息の代わりに鼻から深く息を吐き出して、イズナは腕組をして夜空を見上げた。
竹林は今日も静か過ぎる程に静かで、笹の揺れる音だけが聞こえて来る。
澄んだ黒天に浮かぶ月は、満月。
慎ましくも美しい月光が、永遠亭の中に拵えられた庭園を、柔らかく照らしていた。
月が綺麗だねぇ…。ぼんやりと夜空を見上げながら、呟こうとした時だ。
「あれ…イズナさん?」 背後から声を掛けられた。鈴仙だった。

「お、今日もお疲れ様だねぇ…」
振り返ってから、イズナは眉尻を下げるようにして、笑って見せた。

「お食事、まだ摂られて無いんじゃないですか」

「ん~…。ちょいと食欲が無くてね。
 月でも見ながら、ぼ~っとしたくて…此処で座ってたんよ」

縁側に腰掛けたイズナの隣まで来た鈴仙も、その紅い瞳で夜空を見上げた。
ほんの少しだけ、鈴仙の貌が曇ったように見えたのは、イズナの気のせいだろうか。
隣、良いですか? 
ほいほい、どうぞどうぞ。
柔らかく言うイズナの隣に、失礼しますと、片膝を抱え込むようにして鈴仙も腰掛けた。
抱えた膝の上に顎を乗せてから、鈴仙はゆっくりと息を吐きながら眼を閉じる。
やはり、少し疲れているようだ。無理も無いとイズナは思った。
診療所に訪れた怪我人、入院患者全員の治療を終わらせるべく、忙しい日々が続いていた。
妖怪の山に薬を配りに出たイズナも、帰ってきてからは治癒法術での手伝いを行っていた。
だから、その大変さが良く分かる。オペには神経を使うし、集中力も必要だ。
永淋と鈴仙は休むことなく、外科手術を含め、その他の医療処置に追われていた。
余りの慌しさに、輝夜が自発的に手伝いに来る程だった。
ただ、皆の協力も在って、今日で全ての患者達の精査、治療が終わった筈だ。
カルテの整理などを行っていた鈴仙も、今しがた、その仕事が片付いたという事だろう。
縁側に腰掛けた鈴仙は、少ししょんぼりとした様子で、溜息を吐いた。

「…まだ、風見さんの治療薬だけが、用意出来ていないので」

そうだ。一人だけ、まだ治療を終えていない患者が居る。幽香だ。
イズナも難しい貌になって、手で顎を擦った。
法術治癒を試みてみたが、イズナでも幽香の容態を快復させるには至らなかった。
どうやら、白玉楼戦でロボカイに射ち込まれた、終戦管理局の薬の影響らしい。
戦いの後は暫く何とも無かったが、時間が経つに連れ、次第に容態が悪化して来たそうだ。
今では、発熱、眩暈、動悸に加え、精神も少し不安定になっている状態だ。
永淋が創り出した新薬、オペを持ってしても、幽香をまだ治せていない。
今は沈静化しているものの、それは対処療法であって、根本的な解決にはなっていない。
こうなると、もうイズナには手出し出来ない範囲だ。医療の天才である永淋に任せる他無い。
出来る事と言えば、薬を配る他に、永遠亭の警護に回る事ぐらいだろう。

「役立たずで御免ねぇ…。医術に関しては、オイも門外漢だもんでね…」

申し訳無いと項垂れたイズナに、鈴仙は真剣な貌で、いえいえ…!、と首を振った。

「謝らないで下さい。私も、気休め程度の手伝いしかしていませんし…。
姫様やイズナさんが居てくれる御蔭で、治療に専念できると師匠も仰っていました」

「そう言って貰えるなら、有り難いね…ホント。
 オイは今まで、逃げるが勝ちの生き方だったからねぇ」

イズナは頬をポリポリと掻いてから、また月を見上げた。
 黙ったまま、鈴仙はそのイズナの横顔を見詰める。
少しだけ唇を噛んだ鈴仙は、何か言いたげな、思い詰めた様な雰囲気だった。
だから、イズナは無言のままで月を見上げていた。
 
 「イズナさんは、逃げてなんか居ないじゃないですか。
  妹紅さんの様子がおかしくなった時でも、妖怪の山でも…」
 
何が鈴仙の心の琴線に触れたのか。
 静かに、しかし僅かに、鈴仙の語気が強くなった。
 怒りや苛立ちとも違う。何かに反抗する様な声音だった。
 イズナは、鈴仙へと顔を向けてから、困ったような笑みを見せる。
 
 「オイは戦うっていう事で、色々と考える事から逃げてるんよ。
  鈴仙ちゃんみたいに、自分に出来ることをするっていうのは…難しいもんさ」
 
 自分を卑下しちゃ駄目だよ。以前に永淋に言われた言葉と同じことを言われ、
何か言い返そうとした鈴仙だったが、結局何も言わずに俯いてしまった。
 イズナはまた月を見上げながら、開き直ってる部分も在るんだけどねぇ…、と呟いた。
 
 「まぁ、逃げても悪いことじゃねぇだろ、って感じだね。オイの場合は。
  誰にだって逃げたい時だって在るし、逃げなきゃ手に入らないもんだって在るからね」
 
 緩い笑みを浮かべたイズナは、横目で鈴仙に視線を向けた。
少し驚いたような貌で、鈴仙は瞳を揺らしてイズナを見ていた。
命あっての物種だからね。結局、蛮勇に過ぎると全部失う事になるのさ。
そう言いながら、イズナは片目を瞑って見せた。
 
 「鈴仙ちゃんは十分以上に戦ってるよ。
  阿呆みたいに太刀を振り回す以外に、逃げ道が無いオイに比べたら…全然ね」
 
 その言葉に、何を感じたのか。鈴仙は夜空を見上げ、暫く月を見詰めていた。
 月明かりに照らされた鈴仙の貌は、今にも泣きそうな貌に見えた。
 おっと、そう言えば…。隣に座っていたイズナが、思い出したかのように呟いた。

「さっき、てゐちゃんに聞いたんだけど…。
今日の昼間に、藍様が永遠亭に来てたってホントかね?」

先程までの真面目な雰囲気とは打って変わって、イズナの口調が嫌におっさん臭くなった。暗い貌の鈴仙が、きょとんとしてしまう位だった。
どうなん? そうなん? と聞いてくるイズナに思わず、鈴仙はくすりと笑ってしまった。

「ええ、見えていましたよ。イズナさんに礼をしたいと…そう、仰っていました」

あっちゃあ…、とイズナは掌で額を抑えた。

「すれ違いになったか…。なんて事よ」

そんな風におどけて見せるのも、思い詰めたような鈴仙を気遣ってのことだろう。
イズナの優しさを感じて、鈴仙は藍に対し、何だか嫉妬に近い感情が芽生えるのを感じた。
純粋に言えば、イズナに想われることが、羨ましく感じる。
今までに覚えた事の無い感情だった。頬が熱くなるのを感じた。
また弱音を吐きそうになったら、イズナは今日のように励ましてくれるだろう。
気分が落ち込んだ時にも、今のように少しおどけながらも、元気付けてくれるだろう。
手を握っても良いですか? と聞いてみたら、イズナはどんな貌をするだろうか。
見てみたくなった。鈴仙は、貌を上げて、イズナを見て、すぐに眼を逸らしてしまった。
やはり、イズナは力の篭っていない、人畜無害そうな笑みを浮かべていた。
イズナの笑みには、色んな種類が在る事を鈴仙は知っている。
それは、困ったような笑顔だったり、気の抜ける様な優しい笑顔だったり。
少し寂しそうだったり、父親の様に穏やかな笑みだったりする。時々で違う。
もしも、イズナの肩に凭れ掛かったりしても、やっぱり、笑うのだろうか。
ひょっとしたら、よしよしと肩を抱いてくれるかもしれない。
ぐるぐると思考が廻って、鈴仙は何かを口走りそうになった。
咄嗟に口を閉じた。浮かれている場合では無いのに。
でも、傍に居る者を安心させる何かが、イズナには在る。
それは間違い無い。一種の魔性と言うべきか、カリスマと言うものなのか。
 一緒に居ると、ほっとするのだ。話をしたくなるし、聞きたくなる。
 不思議なひとだ。そう想う。イズナは、緩い笑顔のまま、顎を撫でている。

「イズナさんは、此処で…何か考え事をしていらしたんですか?」

うん、まぁね。馬鹿の考えなんとやら…って奴だけどね。
イズナは眉尻を下げて、参ったな、みたいな笑みを浮かべた。

「妖怪の山に来ないかって、天狗のひと達に誘われてね。
…こりゃどうしたものかな、と思ってねぇ」

「そう、だったんですか…」 上手く言葉が出なかった。
此処に居て欲しいと思ったが、それを決めるのは妖怪の賢者の判断と、イズナ自身だろう。
鈴仙が何か言っても、イズナを困らせるだけだ。

「まぁ、幽香ちゃんが良くなるまでは、輝夜の姫さんと、永淋先生の用心棒しないとねぇ」

何でも手伝うから、また声掛けてよ。
イズナは渋みのある穏やかな声で言って、鈴仙に向き直ってから目許を緩めた。
その視線に胸が高鳴ったが、鈴仙はそれを隠し、ひっそりと頷いた。
はい。これからも、宜しくお願いします。それは精一杯の言葉だった。
イズナに此処に居て欲しいという気持ちを込めて。鈴仙も笑みを浮かべようとした。
苦しくなった。ちゃんと笑えているだろうか。
心配は要らなかった。イズナも、やはり頷いてくれた。
嬉しかったし、少し悲しかった。だからだろう。
夜空に浮かぶ満月へ雲が掛かり始めている事に、その時は気付けなかった。




[18231] 三十七話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/03/29 05:33
 
いきなりだった。本当に何の前触れも無く、奴らは現れた。
緊張感などとは無縁な、間抜けな雰囲気を漂わせた奴らからは、まるで脅威を感じない。
ただの散歩に来ただけの暢気な若者か、或いはただ参拝客のようですら在る。
晴れ渡った空の下。木漏れ日が眠気を誘うような、暖かな陽光の中。
アクセルはその日も、守矢神社の鳥居に背を預け、境内へと上がる階段に腰掛けていた。
愛用の鎖鎌を棍棒の状態に変形させて、肩に引っ掛けて空を見上げていた。
口笛でも吹こうかと思うくらい長閑だった筈だ。そのせいで、気付くのが遅れそうになった。
遅れそうになっただけで、遅れなかった。
女神ヲ娶ルトナルト、吾輩達モ宮司トヤラニ為ルベキカ。
ソウダナ。…ソノ辺ハ、嫁ト要相談ダナ。
吾輩達用ノ小袖ヤ内袴ナド、和服モ用意セネバナランゾ。
奴らは雑談さえしながら、あんまりにもゆっくりと階段を上がってくる御蔭だ。

あいつ等が相手か。…やり難そうだな。
呟いてから、アクセルは棍棒を肩に担ぎ、鳥居の前に立ち塞がるようにして立つ。
向こうもアクセルに気付いた様だ。階段の途中で足を止め、アクセルを見上げている。
臙脂、浅葱、黄土、そして、白色の騎士服を着たロボカイが四体。

「此処は立ち入り禁止だぜ。回れ右して帰ってくれねぇかな」
ロボカイ達を見下ろし、アクセルは棍棒で肩を叩きながら言ってみた。
一瞬の沈黙が在って、ロボカイ達は顔を寄せ合って、見合わせた。
立チ入リ禁止ラシイゾ…。
イヤ、シカシ…嫁ガ居ルノハ神社ノ社ノ中ダロウ。
今日ノ処ハ出直スカ?
奴らは、ひそひそと何かを相談し始めた。
もしかしたら、大人しく帰ってくれるかもしれない。少しだけアクセルはそう思った。
当然だが、そんな大人しい集団でもないのも明らかだった。

「阿呆共メ、任務ヲ忘レルナ。此処ハ強行突破ダ」 
四体のうち、白いロボカイがまず動いた。
封雷剣のレプリカの切っ先をすっと下げて、アクセルに視線を寄越した。
次の瞬間だった。度肝を抜かれそうになった。
奴が階段を駆け上がる姿勢を見せたと思ったら、もうアクセルの眼の前まで来ていた。
「な…っ!?」 迫ってくる封雷剣のレプリカを、咄嗟に棍棒で弾いた。
いや、弾いたのは良かったが、境内の中まで吹っ飛ばされた。何だこいつ。強ぇ。
アクセルは地面に叩きつけられる前に、手を付いて宙返りを決め、何とか着地した。
それでも勢いは殺しきれない。ざざざぁーーっと石砂利の上を滑って、ようやく止まった。
棍棒を持つ手が痺れて、震える。凄い打ち込みだ。
白いロボカイの追撃は来なかった。奴は鳥居を少し潜った辺りで、足を止めている。
カイそっくりの構えを取って、アクセルを見ていた。慎重な奴だ。
紅魔館戦で相手にした、ただ数が居るだけの木偶達とは違うって訳か。
厄介なチームだ。ぞろぞろっと奴らは境内まで上がって来た。

同時だったろうか。それよりも、少し速いか位だ。
境内の中に轟っと風が逆巻いた。神社を包むように生い茂っていた木々が、盛大に揺れる。
茫々と渦巻く風に掻き消されることなく「性懲りも無くまた来たか…」
毅然であり、凛然とした女性の声がした。
「今回は一人増えているね」続いて、場違いな程可憐な声が聞こえて来た。
二人声には重力にも似た、凄まじい威圧感が含まれていた。
境内を吹き荒ぶ風に、思わずアクセルは顔を腕で庇って、声がした方へと振り返る。
ロボカイ達が色めき立つのを聞いた。それもそうだろう。
俺が助っ人に来たってのに、逆に心強く感じてどうすんだよ。
八坂神奈子、洩矢諏訪子の二人が社から出て、境内に降りたとうとしているところだった。
「今度は四人組ですか…。ですが、私達も負けませんよ」
澄み渡った声で言う早苗は、二柱の間に立ち、ふわりと浮いている。
手には霊夢と同じように紙垂を持ち、ロボカイ達を見据えていた。
逆巻く風の中で、アクセルも棍棒を鎖鎌へと変形させ、両手に柄を握りこむ。
睨み合うロボカイ達と、早苗と二柱。その丁度真ん中くらいで、アクセルは口笛を吹いた。

さぁて、どう出るよ。突っ込むか。いや、駄目だ。
此処はタイマン×4が正解か。助っ人としては情けないが、自爆するよりはマシだろう。
白いロボカイが強いのは間違い無い。後の三人はどうだ。分からない。
臙脂の騎士服の奴は封雷剣のレプリカを構えてはいるが、何処かぎこち無い。
浅葱の奴も、似たような感じだ。黄土の奴に至っては、剣を放り捨てやがった。
白い奴がダンチなのか。油断するな。そもそも、まともな戦い方をするのか。
そう思った時だった。マジかよ。 諏訪子タン! イキナリデスマン! 嫁ニ来テ下サイ!
黄土のロボカイはバギーのように変形し、アクセルの脇を通り抜けて行った。
凄い速度だった。アクセルには止める間も無かった。
正確には、止めようとした処を潰された。白いロボカイが瞬く間に肉薄して来たのだ。
振り下ろされた封雷剣のレプリカを、鎖鎌で挟み込むようにして受け止めた。
雷光が閃いて、火花と一緒にアクセルの腕に炎が灯る。何とか受け止めた。
だが、脚が地面にめり込んでいく。凄いパワーだ。おい。ちょっとは加減しろよ。
バチバチと稲光が明滅して、明るい赤炎がとぐろをまく。

「貴様ハ中々厄介ナ奴ダカラナ。吾輩ガ相手ヲシテヤロウ」

「遠慮してぇが、そうもいかねぇよな…!」

アクセルは受け止めていた封雷剣を押し返すのでは無く、身体を捻って受け流した。
だが、相手の体勢を崩すことは出来なかった。
ロボカイも重心を後ろに下げ、すっと身を引いていたからだ。
互いの距離は少し空いたが、すぐにゼロになった。とにかくロボカイの踏み込みが疾い。
右斜めからの打ち下ろしと、左斜めからの打ち下ろしが同時に来る。
そんな風に錯覚してしまう程に、ロボカイの攻めは苛烈だった。
アクセルは防戦に追い込まれる。弾いて、かわす。だが、ロボカイは止まらない。
脇腹。太腿。両肩。手首。胸。矢継ぎ早に繰り出される斬撃が重い。
おまけに封雷剣が稲妻まで纏っているから、威力が凄まじい。
赤炎の灯った鎖鎌で、その悉くを往なした。捌いた。だが、やはり攻撃には転じられない。
封雷剣と鎖鎌がぶつかる度、火の粉と雷光が盛大に散った。
舌打ちをしたアクセルは、押し切られる寸前だった。くそったれ。張り付いてきやがって。
これじゃ、早苗ちゃん達がどうなってんのか見る余裕すらねぇ。
ロボカイは剣を振り上げると見せかけて、今度は突きを繰り出して来た。
額。喉。水月。急所ばかりを狙った容赦無い攻撃だった。
一撃目は首を捻ってかわし、二撃目は鎖鎌で弾いて、アクセルは息を鋭く吐き出した。
三撃目の突き。これは蜂巣箱の要領で、鎖鎌の鎖部分でロボカイの封雷剣を絡め取った。
「ム…!」ロボカイの動きが止まった。
その隙に、アクセルは身体を横に回転させ、後ろ回し蹴りをロボカイの顔面にぶち込んだ。
ぶち込んだと思ったが、防がれた。白いロボカイは冷静だった。
封雷剣を即座に片手に持ち替えていた。
絡めとられた鎖から剣を引っこ抜き、もう片方の腕をガードに回したのだ。
アクセルの蹴りに圧される形で、ロボカイが後ろに跳ぶ。
やはりダメージも無いようだ。芸達者な癖に、パワーもありやがる。
やべぇ奴だな。アクセルが鎖鎌を構え直した時、大砲をぶっ放すような音がした。
本格的に始まったようだ。





バギーに変形した黄土のロボカイは、真っ直ぐに諏訪子達の方へ向かっていく。
創意も工夫も何もない。余りに単純過ぎる突撃だ。無謀とさえ言える。
だが単純な分、その速度は凄まじかった。 「ムォォォォッッホホォーーーゥッ!!!」
境内の石砂利の上をガリガリ言わしながら疾駆した黄土のロボカイは、有頂天だった。
テンションもMAXだ。アノ馬鹿メ! 突ッ走リオッテ…! 臙脂のロボカイが叫んだ。
浅葱のロボカイも駆け出した。間抜けな足音の癖に、一気に加速した。
腕をバズーカに変形させた臙脂のロボカイも、援護射撃に入る。
「対神用捕獲弾! “愛☆LOVE☆嫁”発射!!」
臙脂のロボカイはバズーカをぶっ放した。一発じゃない。立て続けに3発。連射した。
発射されたバズーカ弾は、相変わらずトーテムポールのような戯山巫た外見だ。
しかし、それが空中でバラバラっと分解して、弾頭の中から網状の鉄繊維大きく広がる。
浅葱のロボカイも、姿勢を低くして走って来る。

だが、そのロボカイ達の攻撃姿勢にも、神奈子は鼻で笑った。
「正面から来るとは、中々潔いな」 
低くも凛然とした声で呟いて、神奈子はすっと左の掌をロボカイ達に翳した。
そして右の掌を頭上へと掲げる。その動きに応えるように、巨大な柱が宙空に現れる。
太さの直径は1メートル程、長さは6メートルも在ろうかという御柱だ。
数も、一本や二本では無い。全部で二十本は在る。凄まじい質量と物量だ。

紙垂で五芒星を描いて、弾幕を展開する早苗の動きに合わせ、再び風が逆巻く。
早苗の美しい深緑色の髪が、激しく靡いた。早苗は更に手に札を持ち、文言を重ねて唱える。
弾幕は密度を増し、赤色と薄青の微光が、風の暴れる境内を照らし出す。

諏訪子の方は、両の手に鉄の輪を持ち、くるくると廻しながら、ぴょんと地面へと跳んだ。
軽やかな跳躍だった。バギーに変形した黄土のロボカイが何か叫んだ。
まるで水の中に飛び込む蛙のように、諏訪子が石砂利の下へと潜り込んだからだろう。

それが合図だったのように、神奈子が展開した御柱の雨が、黄土のロボカイに降り注ぐ。
疾駆していた黄土のロボカイの反応は速かった。それに、気持ち悪い位の小回りの良さだ。
小刻みにドリフトをかましながら、地面に突き立っていく巨大な御柱を避けていく。
御柱が地面に突き立つたび、地鳴りが響いた。その中を、浅葱のロボカイが駆けてくる。
いや、駆けてくると見せかけて、奴は跳んだ。上へ。
突き立つ御柱の上に着地し、蹴った。早苗達から見て、正面斜め上から、降ってくる。
上から来るのは、浅葱のロボカイだけじゃない。戯けた名前の網砲弾も降ってきていた。
早苗は詠唱を続けながら頭上を見上げ、紙垂を振るう。
そうして、展開していた弾幕を一斉に撃ち出した。吹き上がるような強い風が吹く。
舞い上がってくる弾幕の壁に向かって、浅葱のロボカイは「ムワッハッハ」と笑った。

「吾輩ノらっしゅ力ヲ侮ッタナ!」
やはりと言うべきか。浅葱のロボカイも空中で変形し始めた。
両脇腹と両肩から、握り拳を固めた別の腕がニョキニョキと生えたのだ。
握っていた封雷剣のレプリカを口に咥え、浅葱のロボカイは、背中からブシューっと排熱した。
そして、都合六本になった腕で、落下しながら目にも止まらない連打を繰り出す。
駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目……!!
浅葱のロボカイは拳の連打で、弾幕の壁を掘り進んで来る。無茶苦茶だ。
網砲弾の方は、早苗の弾幕と風に阻まれ、空中で粉々にされた。

バギー状態で御柱を掻い潜った黄土のロボカイ。
拳を連打しながら弾幕の壁に穴を空ける、浅葱のロボカイ。
二人が、神奈子と早苗に迫る。いや、迫りそうになっただけだ。
地面から、蛙を模した巨大な岩石が飛び出して来て、黄土のロボカイを跳ね飛ばした。
「ブヘェッ…!!」バギー型に変形していたロボカイは、岩石と正面衝突した。
石砂利の下を、まるで池の様に泳いでいた諏訪子の仕業だ。
「余所見はいけないね」
蛙の岩石と一緒に飛び出した諏訪子は、手に持っていた鉄の輪を、浅葱の奴に投げつけた。
投げ放たれた鉄の輪は、黄金色の光を帯びていた。
流石に危険を感じたのだろう。浅葱のロボカイは反応した。
横合いから飛んで来た鉄の輪を二つ、がっちりと受け止める。
だが、そのせいで隙が出来た。ラッシュが止まったのだ。
その隙を見逃さなかった。即座に早苗は手にした札を展開し、詠唱を完成させる。
放たれた札の弾幕は、空中でロボカイの腕と足に絡まり付いて、まるで枷の様に捕縛した。

「ヌゥ! ウ、動ケン…ッ!」

「くれてやろう」
鉄の輪を掴んだまま、札に捕縛され身動きが取れなくなったロボカイに、神奈子は告げた。
そして、掬い上げるように掌を掲げる。すると、今度は地面から太い御柱が突き出て来た。
チョッ…!? 何か言おうとした浅葱のロボカイだったが、何も言う暇も無かった。
まるで神社の鐘のような、ゴーーーンという音が響いた。
地面から飛んだ御柱が、空中に拘束されたままのロボカイの胴体に直撃したのだ。
ピューっと吹き飛ばされた浅葱のロボカイは、石砂利の上にぐしゃっと叩きつけられた。
それでも、すぐにムクリと起き上がって見せるあたり、かなりタフだ。
咥えていた封雷剣のレプリカを手に持って、構えを取ろうとしている。
黄土のロボカイも、バギー状態のままで地面にひっくりかえっていたが、すぐに元の姿に
戻って立ち上がった。

「やれやれ、元気なものだねぇ」
腰に手を当てて呟いた諏訪子の視線の先で、臙脂のロボカイが更に変形を見せていた。
封雷剣のレプリカを放り捨て、両手をバズーカに変形させたのだ。援護射撃でもする気か。
諏訪子はそう思って身構えようとして、気付いた。

諏訪子達から少し離れた処で、白いロボカイと斬り結んでいたアクセルが、少しずつ押されている。
白いロボカイは、他のロボカイと違い、派手な変形は全く見せていない。
封雷剣のレプリカを使いこなし、苛烈にアクセルを攻め立てている。
アクセルは防戦一方だ。とにかく、此処から見ていても分かる。
単純に、白いロボカイが強いのだ。恐らく、他の三体よりも。
稲光。雷光。渦巻く炎。その全てが交じり合った凄絶な打合いを演じている。
助けに入った方が良いだろう。だが、すぐには行けそうに無い。

臙脂のロボカイが、両手を変形させたバズーカを乱射したのだ。
立て続けに十数発の球状の弾頭が発射されるのが見えた。
諏訪子は鉄の輪を掌の中に作り出し、構える。浅葱、黄土のロボカイも、再び駆けて来る。
発射された球状の弾頭は、また網状に展開されるものと思っていた諏訪子は、かなり驚かされた。
今度は網状になったりしなかった。
その代わり、笠を頭に被った信楽焼きの狸のような、珍妙な造形へと変化したのだ。
しかも変化しただけでは無い。「蛙よ、大海を知れ」。渋い声で喋り出した。
序に、ぶんぶんと短い足と手を使って、パンチとキックを繰り出しながら迫ってくる。
一体だけじゃない。撃ち出された球状の弾全てが、狸へと変形しているのだ。
はっきり言って、かなり対処に困る攻撃だ。
おまけに、浅葱と黄土のロボカイも、狸達を楯にして突っ込んでくる。

諏訪子は手に持つ鉄輪の数を更に増やし、黄金色の光を纏わせ、投げ放つ。
放たれた鉄の輪は、六つ。だが、それでは足りない。
鉄の輪は狸達を破壊し、砕いていくが、如何せん数が多い。
文言を唱えつつ、諏訪子は神奈子と早苗の位置まで下がろうとした。
だが、黄土のロボカイが急加速して来た為、間に合わなかった。

「諏訪子タン! オ迎エニ来マシタ!」
恐ろしい突進力で、黄土のロボカイは狸弾幕を追い越して諏訪子に迫ったのだ。
しかも、下半身が戦馬の形に変形している。白馬の王子様気取りか。
相手にしていられないとばかりに、諏訪子は足元の地面へと掌を突き出した。
澄んだ薄緑色の微光が諏訪子の掌から地面に伝わり、漣のように脈打つ。
次の瞬間には、突っ込んできた黄土のロボカイを押し返すように、木々が生い茂り始めた。
突然現れ、もの凄い速度で成長を始めた樹木の壁にぶつかって、黄土のロボカイはひっくり返った。

だが、その黄土のロボカイごと、樹木の壁を飛び越えた浅葱のロボカイが諏訪子に迫る。
違う。諏訪子じゃない。浅葱のロボカイは、壁と一緒に諏訪子を飛び越えていた。

「ムォォ! 早苗サン! 娶リタイデス!」

「ちょっ…!? 早苗! 気を付けて、そっちに行ったよ!」

諏訪子は振り返りながら叫んだが、その諏訪子の頭上を飛び超えていく臙脂の影が見えた。
奴は下半身を戦馬どころか、ジェットミサイルのように変形させ、文字通り飛んで行く。
神奈子の方に向かって真っ直ぐに。愚直な程に真っ直ぐに飛翔している。凄い速さだ。
一瞬言葉を失いそうになって、諏訪子はその場から飛び退る。
生い茂った木々を掻き分けるようにして、黄土のロボカイがこっちに向かってくるのが見えた。
その後には、狸達もパンチを繰り出しながら、木々の壁を押し分けて迫って来ている。
バキバキ、ミシミシと、派手に樹木の折れる音が聞こえて来る。
全く…、冗談じゃ無いよ。呟くようにぼやいて、諏訪子は再び文言を唱え始めた。



「弾幕を展開される前に、距離を詰めて来るつもりか…」

神奈子は拳を鳴らし、前に出る。
早苗も、更に札を指に挟み、紙垂を握り締めて、神奈子に並ぶようにして前へ。
弾幕を展開するよりも、臙脂のロボカイの方が疾い。もうすぐ其処まで来ているからだ。
ミサイルの下半身でかっ飛びながら、こちらに突っ込んで来る。
それに続く形で、浅葱色のロボカイも疾駆し、距離を縮めて来ている。

神奈子は、ちらりと諏訪子へと視線を向けると、境内に茂らせた霊樹を壁にして、呪言を唱えていた。
かなり大掛かりな呪詛を紡ごうとしているのだろう。空気がビリビリと震えている。
淡い赤紫色の術陣が、諏訪子の足元に浮かび上がり始める。
黄土のロボカイだけでなく、狸の形を模した珍妙奇天烈な造形物も、其処へ群がろうとしていた。
ただ、諏訪子は孤軍奮闘の状態だが、それでも全く押されてはいる様子には見えない。
それは土着神の頂点として威風が在り、諏訪子の表情にも焦りが無いからだろう。
頼りになる。そう思っている内に、臙脂のロボカイが突っ込んで来た。

奴は空中で更に変形して、元の人型に戻って、再び変形を始めた。
背中の辺りから、ジャキジャキンと巨大な腕を二本生やして、四本腕に変わったのだ。
「愛ノ抱擁ヲ受ケ取ッテ下サイ!」臙脂のロボカイは勢いを殺さず、そのまま猛襲して来た。
その手付きは、拳を繰り出すというよりも、神奈子を抱すくめようとしている様だった。

「砲戦しか出来んと思ったか?」
神奈子は重心を落としつつ、伸びて来たと言うよりも、降って来たロボカイの腕をするりとかわした。
同時に、右手で突き上げるような掌底を、カウンター気味にロボカイの胴にぶち込んだ。
ズドンとも、ドゴンともつかない、壮絶な重低音が境内に響き渡る。
臙脂のロボカイは、「オフゥッ…!?」と奇妙な呻き声を上げ、空へと打ち上げられた。
神奈子は吹っ飛ぶロボカイに左手を翳し、串刺しするように御柱を垂直に落とす。
ロボカイは御柱に胴体を強打されたまま、地面へと落下し、大穴を境内に穿った。
地鳴りと共に、土煙が濛々と上がる。その中を浅葱のロボカイが突っ切って来る。
構えを取り直そうとした神奈子の脇を、今度は早苗が風を纏いながら飛び出して行った。

「私が相手です!」
浅葱のロボカイは早苗しか見ていなかった。早苗だけを見ていた。
「不束モノデスガ、宜シクオ願イシマス…ッ!!」

浅葱のロボカイは言いながら、剣を変形させた。
それは、人間一人なら楽に包み込んでしまえるような、長大な虫取り網だった。
一瞬ではあったが、流石の早苗も鼻白んだ。だが、逃げ腰になったりはしない。
「嫁☆ゲットォォォォ!!」浅葱のロボカイが絶叫した。そして、虫取り網を振り下ろして来る。

早苗は慌てなかった。
豪速で降ってくる網をひらりひらりとかわし、また片手に握った紙垂で柄を弾いていく。
浅葱のロボカイはブンブンブォンブォンと網を振り回し、何とか早苗を捕まえようとしている。
必死だ。表情こそ変わっていないが、全身全霊を掛けて、早苗を捕まえようとしている。
それが伝わってくる。早苗は妙な息苦しさを覚えた。
ロボカイの振り回す虫取りの網は、乱暴のように見えて、その実は繊細だ。
早苗を無駄に傷つけない為か。余計な事を考えていたせいで、反応が遅れそうになった。
咄嗟に、手にした紙垂で網の柄を受け流し、体勢を整える。
矢継ぎ早に振るって来る網を掻い潜り、早苗は札を持った方の指で印を結んでいく。

「フンヌゥウウウオオオオォォォ――――――ッ!!」
網を振り回す浅葱のロボカイに触発されたのか。
御柱に下敷きにされていた臙脂のロボカイが、気合と共に何と起き上がった。
しかも、ただ起き上がっただけではない。
振るわれる網をかわしつつ、チラリと視線を向けた早苗は、眼を疑った。
ロボカイは自身を押し潰そうとしていた御柱を、巨大な方の腕で掴んで、持ち上げていた。
とんでもない腕力と握力だ。神奈子の方も、少々面食らったようで追撃が遅れていた。
だが、それでも十分過ぎる威力を秘めているだろう。御柱を更に五本。
うねる大蛇の様に、神奈子は連打で臙脂のロボカイに向けて撃ち出す。
ダメージを受けている筈のロボカイは、信じられない程に軽快な動きでこれに対処した。
迫ってくる御柱の最初の一本は横に身体をずらしてかわし、続く二本目の御柱を片手で掴むようにして受け止めた。
四本腕の御柱ニ刀流になったロボカイは、そのまま御柱をメタクソに振るって、
三本目、四本目、五本目をぶん殴って地面に叩き落した。凄まじく重く、また鈍い音が響き渡る。

「ムワッハッハッハッハッヴ…ゲッホッゲホ!!」
臙脂のロボカイは馬鹿笑いしながら咽帰り、御柱を構えて、神奈子に猛然と迫ろうとしている。


「しつこいですよ…!」
早苗は言いながら、振るわれた虫取り網を紙垂で受け流し、印を結び終えた札を浅葱のロボカイに向け突き出した。
大き過ぎる虫取り網を受けながされて体勢を崩し、つんめった浅葱のロボカイの額。
其処に、早苗は札をペタリと張り付けた。「ヌッ!? 此レハ…ッ!」
浅葱のロボカイは慌てて札を剥がそうとした様だが、もう遅かった。
ビュォオッ、と鋭くも鈍い音がした。風だ。強く、澄んだ風が吹き荒んだ。
「ナンテコッタイ…!」 疾風と旋風が巻き起こり、ロボカイの手足を拘束し始める。
風と共に、澄んだ薄緑色の微光が湧き上がり、文言を唱える早苗の身体を包み込んだ。
すると、ロボカイの足元にも五芒星の術陣が刻まれ、動きを完全に封じ込めた。

風で編みこまれた結界に捕まり、拘束された浅葱のロボカイはなんとか身じろぎしようとしている。
だが、無駄な抵抗だった。全く動けていない。
「此処で大人しくしていて下さい…!」早苗は言って、神奈子に加勢すべくロボカイに背を向ける。
向けようとした。だが、その瞬間だった。オーバークロック。ロボカイが呟いた。
早苗は咄嗟に、ロボカイから飛びすさった。紫電が奔り、風の結界が引き裂かれる。
浅葱のロボカイは電磁渦の爆発を纏い、結界を無理矢理にこじ開けたのだ。
その窓の眼は赤く光り、ブシュー、ブシューと、背中や脇腹の辺りから激しく排熱している。
危険だ。不味いと思った早苗は弾幕を放ったが、ロボカイの方が疾かった。
有り得ない程に鋭い踏み込みで、ロボカイが虫取り網を振り下ろして来る。
明らかに、先程よりも動きが疾い。そのせいで、早苗の反応が遅れた。
弾幕を放つ事を諦め、紙垂で弾き返そうとしたが、無理だった。
すっぽりと、ロボカイの虫取り網が早苗を捕らえた。捕らえられてしまった。
同時だった。虫取り網は、柄と網の部分で分離した。
網の部分だけが地面に縫い付けられるようにして、早苗を捕縛している。
早苗は網を破ろうとしたが、法術で編まれたのであろう網は強靭だった。

「暴レンデクレ。コレ以上、嫁ト戦ウノハ忍ビナイワイ」
満足そうに言ったロボカイは、握っていた虫取り網の柄の部分を、脇へ放り捨てた。
その機械音声も、何処か慈愛に満ちたような声音だった。
唇を噛みながら、早苗は睨み返す。


「何故、私を捕らえようとしたのですか…。網で無く、剣のまま私を攻撃していれば…」

「嫁ニ手ヲ上ゲルナド、夫ノスベキ事デハ無イカラナ。
吾輩ハ早苗サンヲ傷ツケル気ナド、サラサラ無イ…。ダガ、少々手荒ダッタノハ謝ロウ」

素直に頭を下げ出したロボカイの声音が余りに真摯で、早苗は言葉を失った。
浅葱のロボカイは視線を逸らすように、ブシュー、と排熱しながら神奈子達の方へと視線を向けた。
 見れば、御柱二刀流となった臙脂のロボカイが、押されている。
 神奈子が次々と打ち出す御柱と弾幕を弾き、叩き落すので精一杯のようだ。
 それも、かなり身体に負担を掛けているのだろう。
 臙脂のロボカイの口や眼から、まるで血の様に黒いオイルが漏れ出していた。
 痛みを吐き出すかのような激しい排熱に、その身体が軋む音が此処まで聞こえて来る。
 神奈子は攻撃の手を緩めない。弾幕だけでなく、蔦の鞭を手の中に作り出した。
 過去の諏訪大戦で鉄の輪を錆びさせ、猛威を振るった蔦編みの戦鞭だった。
縦横無尽に神奈子はそれを振るう。その表情に余裕は無い。ロボカイが全く怯まないからだ。
神奈子サンノ愛ノ鞭ナラバ、喜ンデ受ケヨウ! ヌゥフッフッフッフゥゥーーッ!!
臙脂のロボカイは嬉しそうだ。笑っている。幸せそうですらある。
 神奈子の元に辿り着く為、巨大な御柱を振り回すロボカイの身体は、ミシミシと悲鳴を上げている。
 弾幕に身体を削られ、御柱を振り回す手が軋み、オイルを零しながらでも退こうとしない。
 
 「モット違ウ形デ出会ウ事ガ出来タナラ、コンナ荒々シイ事ハセンデモ良カッタノダガナ…」
 浅葱のロボカイは、しかし臙脂のロボカイを助けに行こうとはしない。
 何処か悲しそうに呟いて、ただ静かに見詰めている。いや、見守っているのか。
 「貴方達は、本当に私達を…」早苗は、浅葱のロボカイを見詰めて、其処まで言った時だ。
 不意に、地面が脈打つ様にうねった。蛙は口ゆえ蛇に呑まるる。
幼さの中に、威厳を伺わせる声が聞こえた。諏訪子の声だ。
浅葱のロボカイも、危険を感じたのだろう。「ムッ…!」っと呻いて、重心を落とした。
早苗は、神奈子から諏訪子の方へと視線を向ける。

 SYYYYYYEEEEEEiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii……!!
岩石で出来た大蛇が、境内の地面から飛び出していた。
大蛇は、霊樹の壁を破って来た黄土のロボカイに喰らいつこうとしていた。
諏訪子が召んだのだろう。大蛇は、人間ならば軽く呑み込む程の大きさだ。
大蛇の動きは、その巨体には似つかわしくない程の素早さで、ロボカイに迫った。
「ヌゥウゥウウフゥウゥゥンッ!!!」 黄土のロボカイは、だが、すぐには飲み込まれなかった。
足掻く。大蛇の上顎を手で押さえ、下顎を閉じないように脚を突っ張っている。
だが、黄土のロボカイの手足も、バキバキと音を鳴らしていた。
あの様子ではそう長くは持たないだろう。直に呑み込まれる。動けない筈だ。
そう判断したのだろう。「早苗…!」
狸型に変形した砲弾を鉄の輪で断ち割りながら、諏訪子は早苗の方を見て叫んだ。
しかし、黄土のロボカイの眼が赤く光り、背中から煙と共に、バシューッっと排熱したのも同時だった。
りみったー解除ダ! 罅割れた機械音声で言いながら、黄土のロボカイは電磁渦を纏う。
そして、更に変形し始めた。出鱈目だ。そんな馬鹿な。諏訪子様…! 早苗は叫んだ。
青白い電光を散らしながら、黄土のロボカイはワッハッハと笑った。
大蛇の上顎と下顎を押さえ込みながら、脇腹あたりがパカッと開いて、何かが構築されていく。
それは、ロボカイ本体を遥かに凌ぐ大きさの、レーザー砲だった。
あっという間だった。歪で巨大過ぎる砲身を造り出したロボカイは、蛇の口の中へと狙いを定めた。
捕まった早苗に気を取られていた諏訪子も、ロボカイに変形に気付いた。
慌てた様にその場から飛び下がり、地面へと潜り込んだ。
黄土のロボカイは、諏訪子が地面に潜り込んだのを確認してから、レーザーをぶっ放した。
境内が真っ白の光に染め上げられ、次に、濁った青い光が直線状に迸った。
太過ぎる光線だった。もの凄い威力だ。あまりの光量で、眼が灼けるかと思った。
境内を囲む塀が蒸発し、その向こうに生い茂った森林の木々が、繰り抜かれたように消散した。
耳鳴りがする。離れた所に居る早苗も、身体を強く煽られた。
だが、浅葱のロボカイが、早苗を暴風から庇うように立ち、支えてくれた。
御蔭で倒れることは無かった。優しい手付きだった。

「吾輩達ハ、嫁ヲ迎エニ来タダケダカラナ。別ニ戦イニ来タ訳デハ無イ」
何故そんな事を言うのか。嫁を迎えに来た。意味が分からない。
しかし、彼らが本気だと言うことは、見ていれば分かる。
攻撃では無く、飽くまで捕獲する為に、彼らは自らの存在を掛けている。
見れば、早苗を支えた浅葱のロボカイも、口と左眼からドロリと黒いオイルが流れ出していた。

「…私達は、貴方達と一緒に行く訳には行きません」
早苗は呟いて、網に囚われた中で低く静かに文言を呟き、準備しておいた札を取り出す。
その文言に応え風が応え、暴れ狂う鎌鼬が早苗を中心に吹き荒れた。
 微光を塗した鋭い風は、早苗を捕らえていた特殊戦意の網を粉々に切り飛ばした。
ソウダロウナ。分カッテイル。ソンナ事ハ…。言ワレナクテモ。
浅葱のロボカイはバックステップでその風をかわして、少しだけ笑ったようだった。



くっそ。マジでコイツ強いな。全然押し返せねぇ。
両手で握った鎖鎌の感覚が、だいぶ薄れて来ている。斬撃を受け止め、弾く度に鈍い痛みが来る。
変形したりバズーカをぶっ放したり、御柱を振り回したり、挙句にはレーザー砲かよ。
 特にレーザー砲の光量のせいで、眼が霞んでヤバイ感じだ。また一段と押され気味になる。
笑えねぇんだよ。アクセルは心の中で悪態を付きながら、飛んでくる斬撃を往なす。
疾くて、重い。白いロボカイの攻撃は、まさにカイ=キスクを思わせる剣捌きだった。
隙が無くて、それでいて、稲妻を操った攻撃も容赦無い。
「ヤハリ、貴様ノ足ヲ止メテ正解ダッタ」封雷剣を袈裟懸けに打ち込みつつ、白いロボカイは呟いた。
アクセルは此れを、両手の鎖鎌で挟み込むようにして受け止める。
「お前さんに粘着されても、ちっとも嬉かねぇよ…!」 
両者の顔の間で、封炎剣と鎖鎌が、火の粉と火花を散らす。ギチギチ、バリバリと空気が焼けた。
コイツ一人に完全に押さえ込まれているのが、助っ人として情けない。
まったくよ。やりたい放題し腐りやがって。流石の俺も、頭に来たぜ。どけよ。
法力を腕に宿らせ、アクセルは受け止めた封雷剣を受け流すことも無く、そのまま押し返した。
筋肉がぶちぶちと言う音が聞こえたが、それがどうした。どけ。其処を。
白いロボカイが、まるで待っていたかのように剣を素早く引いた。
おまけに、剣を引くだけでなく、身体を捻りながら飛び上がり、大上段から斬り下ろして来た。
剣には稲妻が宿っていて、斬撃の跡を光の帯が引いていた。
やっちまったと思った。カイの得意技。グリードセバーか。無警戒だった。
反射的に対空技を振ろうとしたが、駄目だ。間に合わない。死ぬ。ふざけんな。
アクセルは半身を捻りつつ、紙一重で振り下ろされた封雷剣を避けた。
序に、半身を捻った反動を利用して、背中を向けた状態からの踵サマーソルトを繰り出した。
「Bufo…!」今度は決まった。ロボカイの顎に、蹴り上げたアクセルの踵が突き刺さった。
かなりの手応えというか、足応えは在ったが、アクセルも無傷では澄まなかった。
剣身そのものは回避できたが、紙一重すぎて稲妻で背中が焼かれた。痛ぇんだよ。
アクセルは宙返りして着地を決めたが、激痛の余りふらついた。何とか踏ん張って、顔を上げる。
白いロボカイが吹っ飛んで行くのが見えた。追撃をかますか。いや、違う。そうじゃない。
俺のすべき事は、早苗さんと、神様二人のフォローだ。アクセルは背中に奔る痛みを堪え、駆け出す。

まずは、あいつだ。レーザー砲をぶっ放して、岩石の大蛇を吹っ飛ばした黄土のロボカイだ。
アクセルは姿勢を落とし、極端な前屈姿勢で石砂利の上を駆ける。一瞬で加速して、迫る。
黄土のロボカイがこっちに気付いた。奴は、だが様子がおかしい。クールダウン中なのか。
ふらついて、身体が揺れている。オイルが身体中から漏れ出しているし、今にも倒れそうだ。
それでも、レーザー砲を引き摺る様に持ち上げ、こっちに向けて来た。
砲身に光が収束していく。撃つ気かよ。やりすぎだろ。待てよ。こっちは人間だぞ。
そう思った時だ。黄土のロボカイの足元に、何かが居ることに気付いた。蛙だ。水で出来た、蛙が居る。
一匹、ニ匹、三匹、四匹、五匹、六匹…。まだまだ居る。まだ増える。増えていく。
地面から湧き出る泉のように、蛙達が黄土のロボカイの足元に殺到した。それが諏訪子の仕業だという事はすぐに気付いた。
次の瞬間だった。本当に瞬く間だった。境内の中に森が出来上がったと錯覚する程の木々が、アクセルの目の前に生い茂ったのだ。
「こっちは大丈夫さ! 早苗と神奈子を頼む!」 何処からとも無く、諏訪子の声が聞こえた。
「了解しました! 気を付けて下さいよ、…っと!」 アクセルは応えてから、身を更に沈めて、飛び上がった。
黄土のロボカイのレーザー砲の射線上から外れ、まるで蜘蛛男のように木々に鎖鎌を引っ掛けて、飛び移り、飛び越えていく。
「小癪ナ…!」 黄土のロボカイの方も、レーザー砲を上に向けようとしたようだが、もう遅かった。
アクセルの眼下で、先程の水の蛙達が、まるで間欠泉の如き勢いで破裂するのが見えた。
まるで花火のような盛大な水しぶきと炸裂音に飲み込まれ、黄土のロボカイは、今度こそ倒れた。

次は、御柱二刀流になっている、あの戯けた臙脂のロボカイだ。
木々の間を飛び移り、着地して、またすぐに駆け出したアクセルは冷や汗が出るのを感じた。
焼かれた背中が痛む。序によ。どうするよ。あれ。馬鹿だろ。頑張り過ぎだろ。
ブォンブオンビュオンビュオン言わせて、あの巨大な御柱を振り回すロボカイには、どう対処すれば良い。
決まってる。正面から行くのはゴメンだ。と言うか、無理だ。なら、背後から行く。
正面は、御柱と弾幕、蔦編みの鞭を振るう神奈子に任せる。物量的には、完全に押している。その筈だ。

「愛!!愛!!愛!!LOVE!LOVE!LOVE!!」 だが、それでも奴は全く怯んでいない。
勢いが全く落ちない。それどころか、増して行く。奴の握る御柱が、電磁渦を纏い始める。
愛を叫びながら、臙脂のロボカイは手にした御柱で迫ってくる弾幕と、御柱、蔦の鞭を押し返そうとしていた。
身体を拉げさせ、軋みを上げて、オイルを眼と口から零し、臙脂のロボカイは無垢な愛を叫んでいた。
小手先の術など、展開する暇も与えないロボカイの攻勢に、対峙する神奈子の顔が歪んでいる。あれは焦りか。
余計な事をしようとすれば、神奈子でさえ押し切られそうな程の勢いが、今のロボカイには在る。

そうはさせねぇぜ。気配を消すのは得意だった。
アクセルは呆気無い程簡単に、御柱を振り回していた臙脂のロボカイの背後を取った。
神奈子が驚いたような貌をしているのが見えたが、勢いに任せていたロボカイの方は、気付くのが遅れていた。
振り向かれる前に、アクセルは臙脂のロボカイの四本腕を、鎖鎌でスカッと切断してやった。無音の早業だった。
握られていた御柱と共に、大きさの違う四つの歪な腕が、ゴトンッ、ドゴンッ、と地面に落ちた。
「ヌ…オォオ!?」突然腕が無くなったことに、臙脂のロボカイが何か言いかけた言葉は、しかし、言葉にならなかった。
隙を見た神奈子が、止めとばかりに、一際巨大な御柱を撃ち出したのだ。
今までの勢いを一瞬で失ったロボカイは、次に飛来してきた特大の御柱を避けることもできなった。
アクセルは飛び下がっていたが、両腕を失ったロボカイは、まともに喰らって吹っ飛んだ。
鉄が拉げ、潰れるような鈍い音が聞こえた。その瞬間には、アクセルはもう駆け出していた。

早苗と対峙する、浅葱のロボカイがまだ立ち回っている。
札の弾幕と、五芒星を描く光弾を巧みにかわしながら、浅葱のロボカイは反撃の機会を伺っている様だった。
だが、早苗の方が明らかに押している。
浅葱のロボカイの動きは、まるで遠慮しているかのように思い切りが無い。
すぐに、浅葱のロボカイは、立ち回りきれなくなった。風だ。
五芒星を象る風が、ロボカイの動きを封じ込めた。
身動きを止められてから、ロボカイは抵抗らしい抵抗をしなかった。
まるで諦めたかのように、弾幕に身を晒した。
弾幕を喰らい、早苗の紙垂で強烈に打ち据えられ、浅葱のロボカイは倒れ伏した。
早苗の元に行こうとしていたアクセルだが、咄嗟に駆ける脚を止めて、横っ飛びに転がった。
爆発音と身体の痺れが同時に来た。アクセルが居たであろう場所に何かが豪速で落下してきたのだ。
ゴロゴロと転がったアクセルは、手をついて即座に起き上がり、お前かよ…! と呟いた。
地面に穴を穿ったそいつは、白い騎士服を着たロボカイだった。
追って来やがったのかよ。くそ。もうちょいだったってのに。
アクセルは浅葱色のロボカイと早苗をちらりと一瞥して、白いロボカイに向き直る。
一対四だ。数の上では有利に立った。
早苗と諏訪子、神奈子が居れば、どうとでもなるだろう。
だが、こいつはまだ何かを隠している。明らかに本気じゃない。
「しつこいのは嫌われるぜ?」 鎖鎌を構えつつ、アクセルは口の端を歪めて見せた。
やせ我慢だ。焼かれた背中が引き攣るように痛む。冷や汗も出てくる。それでも、弱っているのを気取られるな。
コイツを何とかすれば、勝ったも同然だ。そう思った。大間違いだった。
突然だった。神社の空から太陽が消えた。暗がりの中に放り込まれた様な錯覚を覚えた。
風が止んで、陽光までが病んだように、空が青黒い陰影に染まっている。アクセルは総毛立った。
   
鳥居を潜り、一人の男が境内に上がってくるのが見えたからだ。
見覚えが在る。陰気そうな貌をした男だ。
黒いコートを着た男は、眼鏡の位置を直しながら、視線をこちらに巡らせている。
クロウ。確か、そんな名前だった筈だ。

「これは敗色濃厚だねぇ。サポートに入るのが少し遅れたかな…」

口ではそう言いながらも、その声音は全く焦っているようには感じられない。
穏やかな口調だった。クロウは境内に広がる戦況を眺めて、空を見上げた。空。そうだ。
なんて暗い空なんだ。誰の仕業なのかなんて、考えるまでも無かった。アクセルは知っている。
以前の紅魔館戦で、同じような結界術式を見たことが在ったからだ。それにしても、何てタイミングだ。

アクセルは鎖鎌を構えつつ、ちらりと視線を巡らせる。
浅葱のロボカイと対峙していた早苗も、クロウに気付いた様だった。
 諏訪子と神奈子の方は、既に鳥居の方へと向き直っている。
臙脂と黄土のロボカイは起き上がっては来ていない。倒れたままだ。
 その様子を見てから、クロウは軽い吐息を漏らした。
奴が手に纏わせている微光は、空と同じ色をした、青黒の法術の光だ。
 
 「大将がお出ましとは、テメェらも割かしマジみてぇだな」
 
 冷や汗を頬に伝わせながら、眼を細めつつアクセルは唇の端を舐めた。
 
「…イヤ。ソウデモ無サソウダガナ」

白いロボカイは、クロウを一瞥して、半歩下がった。
そうでも無いとは、どう言う意味だ。違和感が在る。
その違和感の正体は分からない。
アクセルと睨みあっていた白いロボカイが不意に、大きくバックステップを踏んだ。
ポーンと後ろに跳んでアクセルとの距離を空け、それから続けて二度、三度と後ろに跳んだ。
そうして、鳥居の前に居るクロウの前へと、陣取るように着地した。

神奈子、諏訪子、早苗達と対峙する形になった。
アクセルはロボカイの行動に、一瞬呆気に取られた。
だが、状況が良い方向に変わった訳では無い。
 それだけは分かる。寧ろ、ヤバイ感じだ。アクセルも駆け出して、早苗達に並んだ。
 青黒く澱みきった空の下。クロウは、白いロボカイと早苗達、そしてアクセルを一瞥してから、短い詠唱を行った。
すると、青黒の陰影に彩られた空が、ずぶずぶと蠢いた。まるで、今にも腐り落ちて来そうだ。

まず最初に動いたのは諏訪子だった。呪詛を唱えつつ、地面へと両手を翳す。
それと同時に、アクセルも前へ。斬り込む。
早苗は紙垂で五芒星を描き、その軌跡をなぞるように札が展開されていく。
神奈子は御柱を無数に召び出して、容赦無く撃ち出した。

クロウは慌てていなかった。何処までも冷静だった。
諏訪子の呪詛に応えて、地面から巨大な腕が二本生えた。岩石が象った、超重量を持つ腕だった。
その迫力には、味方の筈のアクセルでも、駆ける足が怯みそうになる程だった。
だが、その巨大な腕が迫って来ても、クロウは動こうとしなかった。或いは、動く必要が無かったのだろう。
再びクロウが短い詠唱を行うと、奴の両手に宿る青黒い微光が、輝きを増した。同時だった。
クロウの足元から、機術汚染が始まった。暗銀色の塗膜が広がったのだ。
塗膜は広がるだけでなく、何か巨大なものを象り始める。嘘だろ。アクセルの足が今度こそ止まった。
暗銀色のアレは、腕だ。諏訪子が作り出した岩盤の腕と、暗銀の腕ががっぷりと組み合ったのだ。衝撃が境内を揺らす。
 白いロボカイも、手にした封雷剣に猛る稲妻を纏わせ、迫ってくる御柱を正面から防いだ。
 自身とクロウを守る盾のように、雷の塊を撃ち出したのだ。ただ、あそこまで練り上げられた雷は、盾と言うよりも結界だ。
 御柱は稲妻の結界に焼かれ、弾かれ、砕かれ、霧散し、地面にドンガラガッシャンと落ちた。
 アクセルは明滅する視界の中で、咄嗟にクロウを狙おうとした。
 しかし、それも読まれていた。白いロボカイが、稲妻の結界ごと突っ込んで来た。
 凄いスピードだ。やめろよ馬鹿。殺す気かよ。そう言おうとしたが、言う必要が無くなった。
猛展開された早苗の弾幕と神風が、白いロボカイの突進を押し返してくれなければ、アクセルは吹っ飛ばされていただろう。

歯痒い。アクセルは何も出来ない。押し返された白いロボカイは剣を構えなおし、すっと重心を落とした。
その隣で、暗銀の腕が岩盤の腕を打ち負かし、押し潰すように地面に崩れ始めている。
たった一人加勢されただけで、此処まで盛り返されるとは思って居なかった。アクセルは再び前に出ようとした。

「あ…れ…?」

 その時だ。まるで見せない何かに押し潰される様に、早苗が膝をガクンと折った。
いや、早苗だけじゃない。
御柱だけでなく、蔦の鞭を編み込もうとしていた神奈子も、地面に潜り込もうとしていた諏訪子もだ。
 

「神様っていうものは、信仰心が十分に集まって無ければ、力を揮えないみたいだからね」

だから、そうさせて貰ったよ。ロボ達が頑張ってくれている間にね…。
クロウは冷静な貌のまま、神奈子、諏訪子、早苗を順番に見てから、次に倒れたロボカイ達に視線を巡らせた。
遅イゾ、駄目博士。 モタモタシオッテ…。 危ウク壊レル処ダッタワイ…。
倒れた浅葱、黄土、臙脂のロボカイは、掠れた電子音声で言いながらも、満足そうだった。

この澱んだ空の下は、クロウの手の内だ。
信仰を消し去り、銀塗膜で全てを徴兵する儀式場に過ぎない。
徴兵されたクロウの造物は、無心に創造主を信仰し、忠誠を誓う。
其処には、早苗達を信仰する者はいなくなる。
この神社を囲う結界は、忠誠心と信仰心を区別しない。
此処では、あらゆる物を汚染し、徴兵するクロウこそが神の定義に当て嵌まる。

「やる事が汚いのは相変わらずだな…」
アクセルは早苗達を守るように立って、鎖鎌を構えた。前に出ようにも、出れない。
早苗達の貌が苦悶に歪んで、かなり苦しそうだ。放っておく訳には行かない。
だが、どうする。踏ん張りきれるか。いや、踏ん張れ。助っ人だろ。気合入れろ。
すっと腰を落としたアクセルを見て、「立ち回りが上手いと言って貰いたいね」と、クロウは少しだけ笑った。

アクセルの元へと斬り込もうとするロボカイを手で制して、クロウは言葉を続ける。

「君は…僕達の世界にも、神様が居ると思うかい?」

穏やかな口調を変えないクロウに警戒しつつ、アクセルは眉間に皺が寄るのを感じた。
何を聞いてくるんだ。こいつは。圧倒的に戦力差が開いたからか。だが、奴は油断していない。
冷静だ。クロウは眼鏡の奥の眼で、興味深そうにアクセル達を見ている。

「居るんだろうぜ、そりゃ…」。
答えながら、アクセルは隙を探す。だが、無い。ありゃしねぇ。無理だ。攻められない。
奥歯を噛み締めるアクセルを見ながら、クロウは「そうだね。僕もそう思うよ」と頷いた。

「かつてのジャパンにも、八百万の神が居た筈だと、僕も考えている。
信仰心を失いながらも、人々を愛し、共に歩んで行こうとした神様達がね」

クロウは言いながら、早苗や諏訪子、神奈子に視線を向けた。

「聖戦の時代、殺戮される人々を見て…、
そうした神様達も、ギアと戦ったんじゃないかな。
 僕はその神様の存在を研究したくてね。此処まで出張って来た訳さ」

「良い趣味してるぜ。神話と童話を区別しねぇ分、随分と真面目じゃねぇか…」

「現実こそが最強の神話だと思うけど、それとこれとは話が別だからね。
 かつてギアに抗ったジャパンの勢力は、神々と人々の共同戦線だったと、僕は考えてるんだ。
神々と手を結び、その神の力を授かれる者こそが、ジャパニーズの価値を上げていたんだろうね。
だからこそ、それを厄介だと思ったジャスティスは、ジャパンを海の底に沈めた」

飽くまで仮説なんだけどね。そう言うクロウの足元からは、更に暗銀の塗膜が広がりつつある。
もうアクセルの足の先まで、鋼液が来ている。とんでもない侵食速度だ。
白いロボカイの方は、剣を構えたまま、じっとクロウの話を聞いている。
神奈子や諏訪子、早苗達も、苦悶の表情を浮かべながらも、異世界の日本の神々の話を聞いているようだった。

「神々と人々の抵抗は、まるで山火事に戦いを挑む子雀の群れの様だったみたいだけど…
それでも十分に興味深い話だと思うよ。研究する価値は在る筈だ。
だから、僕は君達を信仰している。一点の曇りも無くね」

其処まで聞いて、アクセルは気付く。
恐らく、GEAR MAKERも、同じような思考を持っていたのだろう。
だからこそ、早苗に会いに現れたのだ。しかし、本当にそれだけか。
何故、神奈子や諏訪子で無く、早苗に会いに来たのか。
早苗が狙われる理由は何だ。現人神である事意外に、奴らが早苗を欲しがる理由は。
 そう考えて、思い出した。聞いただけの話だが、思い出した。
 かつて、ジャスティスの素体となったのは、人間の女性だったそうだ。
 だからか。
 
「なら、こんな物騒な方法じゃなくて、賽銭でも入れに来れば良いだろうよ。
 …風祝の早苗ちゃんを素体に、ジャスティスのコピーを作る気か?」

「そうなるね」
聞いてみたら、あっさりとクロウは頷いて見せた。
膝を付いていた早苗が、怯むように息を呑んだ。
 神奈子と諏訪子は、怒りを顕わにして、立ち上がろうとしている。
 だが、無理だ。この結界の下では、神力も奇跡も起こり得ない。
 しかし神奈子達の代わりに起き上がった者達が居た。
 ボロボロになって、身体のいたるところからオイルを流すロボカイ達だった。
 
 「黙ッテ聞イテ居レバ、勝手ナ事ヲ言イオッテ…諏訪子たんハ、吾輩ノ嫁ダ!」
 
 ゴフッ、とオイルを吐き出しながら、黄土のロボカイはクロウに向き直った。
 立っているのがやっとの状態なのだろう。
ふらふらと体を揺らしながらだが、その眼は死んでいない。

「神奈子様ヲ実験ノもるもっと代ワリニ使ウナド、許ス訳ニハ行カンナ…」

両腕を失くし、最も破損状態が酷い臙脂のロボカイも、続いて起き上がった。

「早苗サンヲ、ぎあノ素体ニハサセヌ。吾輩達ハ純粋ニ、嫁ヲ迎エニ来タノダ…」

浅葱のロボカイは、搾り出すような声で言いながら、クロウを睨みつけた。
その眼からも、オイルが流れ出しているしで、とても戦える状態には見えない。
 彼らの姿を見て、白いロボカイは何を思ったのか。構えを解いて棒立ちになった。
そして、クロウに背を向け、鳥居を潜る。
 
 「吾輩ハ、此処デコノ任務ヲ放棄スル…。弟達ノ想イヲ邪魔スル訳ニハ行カンカラナ」
 
 「そう言うだろうと思ったよ。嬉しい誤算という事にしておこうか。
…処罰はしないから、さっき伝えたポイントに向かってよ。其処で待ってるから」
 
 クロウは、自分の下を去って行こうとする白いロボカイに、少しだけ微笑んだようだ。
 白いロボカイの方は、「了解シタ」と短く答えて、階段を駆け下りて行った。 
 その成り行きを見ていたアクセルは、訝しげな眼でクロウを見詰める。
 ロボカイ達の反抗、離反を受けて尚、クロウは冷静なままだ。
 
 「良いのかい、行かせて。お前さん、何を企んでやがるんだ…?」
 
「別に何も…。僕の造った人工AIが、その愛を貫こうとしてるんだからね。
 親なら、それを応援するのは自然だと思うけど。データも採れたし、収穫は在ったよ」

何処か嬉しそうな貌で答え、クロウは両腕に灯った法力の微光を強めた。
アクセルの足先まで来ていた鋼液が更に広がり、境内を暗銀一色に染め上げる。
塗膜は蠢き、無数の蟲を地面から孵化させていく。蟲の大きさは人間の子供程だ。

「ヌゥ…! コレハイカン!」
両腕を失った臙脂のロボカイは、ノイズ混じりの電子音声で言いながら、膝をミサイルポッドに変形させる。
そして、アクセルや神奈子に迫る蟲達目掛けてぶっ放した。
轟音がして地面の塗膜が捲れ上がり、爆風に呑まれた蟲の破片が飛び散った。
浅葱と黄土のロボカイも、まだ立ち上がれて居ない神奈子達を蟲から守る為、体を変形させる。
あっという間に、浅葱は再び六本腕になり、黄土はバギーへと姿を変えた。

「加減ノ必要ハ無イナ…。吾輩ノぱんち力ヲ見セテヤロウ」

「ンン~! ふるまっくすデ飛バスゾ!」

 浅葱のロボカイは湧き出してくる蟲達に、パンチの連打を叩き込みながら押し返し、
 バギー状態の黄土のロボカイは、早苗達を守るように蛇行運転し、蟲達を跳ね飛ばした。
 ミサイルをたて続けに撃ちまくるのは、臙脂のロボカイだ。
 彼らは冗談でも何でもなく、オイルの漏れる体をおして、本気で神奈子達を守るべく戦おうとしていた。
 これには神奈子や諏訪子も、唖然とした様子でロボカイ達を見ていた。
 それはそうだろう。ついさっきまで派手に戦っていた相手、突然味方になったのだ。
 正直、アクセルだってまだ半信半疑だ。本当にロボカイ達を信じていいのかどうか分からない。
 もしかしたら、これも演技なんじゃねぇのか。クロウの良い様に踊らされているだけじゃないのか。
 そう思うが、蟲の量がどんどん増えてくるこの中では、ロボカイ達の存在が頼もしい事も間違いなかった。
 この現実と機術だけに支配された結界の中で、ロボカイ達は本気で愛を信仰している。
 
「…信仰されている以上、私達は無力ではありません!」
早苗は唇を引き結んで、浅葱のロボカイの背中を見詰めながら立ち上がった。
血が出る程に紙垂を握り締めて、クロウを睨みつける。

「そうだな…。私も神の一人だ。
僅かでも信仰が在るなら、その上に胡坐を掻いている訳にもいかん…!」
 まるで体に圧し掛かかっている重力を振り払う様に、神奈子も、ぐぐっと体を起こした。

「土着神を甘く見ちゃあいけないよ…!」
諏訪子も、帽子を被りなおしながら、立ち上がって見せる。

これで、全員復活か。アクセルは蟲をバッサバッサと切伏せながら、肩越しに神奈子達を振り返った。

皆と眼が合う。行ける。押し込む。相手は一人だ。やれる。っていうか、やれ。
俺が突っ込みますんで、援護頼んます! アクセルは叫んでから、駆け出して、跳んだ。
気色の悪い蟲の群れの上に着地して、その上を走る。疾駆する。
追い風が吹いて、アクセルの背中を押してくれた。スピードが上がる。早苗さんか。
そう思った時には、アクセルの眼の前に、蟲の壁が出来上がった。だが、恐れなかった。
スピードも落とさない。落とす必要も無かった。特大の御柱が、その壁をぶち破ってくれた。
メキメキ、バキバキと御柱が蟲達を粉砕し、粉々に叩き潰した。
それでも、どんどんどんどん、まだまだ湧いてくる蟲達は、諏訪子が作り出した岩盤の腕が押し退けてくれた。
滅茶苦茶になっていく境内の中をアクセルは走る。前へ。
クロウとの距離は、もうじき詰まる。奴がこっちを見ている。やけに凪いだ貌だ。
来た。暗銀の塗膜が象った大腕が。二本。掌を広げて、アクセルを押し潰すように落ちてくる。
でも、遅い。俺の方が速い。降ってくる腕を潜る。もう一本は、ひらりとかわす。
轟音が二回響いた。暗銀の腕が、無数の蟲達と一緒に地面をぶっ叩いた音だ。ぐじゃぐしゃっという音も聞こえた。
アクセルは鎖鎌を持つ手に炎の渦を巻きつかせ、さらに走るスピードを上げる。
でも、奴は。クロウは、全く焦った貌を見せない。罠か。いや、違う。そうじゃない。
やはり違和感が在る。だが、此処まで来たらやるしかない。
迫るアクセルを見て、クロウは蟲を自分自身の体に纏うようにして、防御体勢を取った。
奇跡が起きたのはその時だった。光が。澄んだ光が降り注ぎ、境内に溢れた。
明るすぎる客星が、機術の結界に穴を空け、アクセルを照らし出したのだ。
しかも、ただ照らしただけじゃない。蟲達が溶けていく。黒い粒子になって、薄れ、消えていく。
ウォ眩シッ!? ドヒィ!? ヌォォ!? ロボカイ達の声が背後から聞こえた。
お願いします! 早苗さんの声も、聞こえて来た。ああ。分かってる。これで決めるぜ。
百重鎌焼。アクセルは腕に纏う炎ごと、手にした鎖鎌の柄を投擲した。
炎が奔り、蟲達を焼き潰しながら、投擲された柄はクロウを包む蟲の群れを吹き飛ばす。
その筈だった。アクセルは舌打ちした。
投げ放った柄は、確かに蟲達を破砕した。だが、微笑みすら浮かべるクロウの体をすり抜けたのだ。
 
 「データも揃ったし、そろそろ潮時かな…」
客星に照らされたクロウの虚像は、何故か満足そうだった。
 ロボカイ達の任務は明らかに失敗だというのに、誇らしげですらあった。
 いや、失敗というよりも、寧ろ反逆とさえ言える。
 それでもクロウは、微笑むような貌でボロボロになったロボカイ達を見ていた。

「…お前さんは、一体何が望みだったんだ」
アクセルは鎖鎌の柄を手元に引き戻し、法力の炎を消す。
そして眉を顰めて、クロウの虚像へと視線を向けた。
やはりクロウは、微笑を浮かべているだけだ。

「別に…。ただ、ジャパンの神様というものに興味を持ってね。
だから研究したいと思っただけだよ。東風屋さんに関しては、さっき君が言った通りさ」

「…愛だなんだのと喚く、あのロボカイ達を試したのかい?」
 
「どう取って貰っても構わないよ。任務失敗に変わり無いからね。
 彼らは回収せずに廃棄しよう。…好きに使ってやってくれ」

それじゃあね、と緩く手を振って、クロウの虚像は消えていく。

「逃がさないぜ? 見計らったみたいに、あの白い奴が此処から離れたんだ。
お前さんも、まだ幻想郷のどっかに居るんだろ。今から行くから俺も混ぜろよ」

「ふふ…そうだねぇ。そんなに僕に会いたいんなら、あのロボ達に聞いてみると良いよ」

透明になって、殆ど消えかけのクロウの虚像は、それだけ言い残し完全に消え去った。
地面を覆う塗膜も消えて、穴ぼこだらけになった境内だけが残された。
辺りを眩く照らしていた客星の光も消えて、それを追うように、空の青黒い陰影も消えてしまった。風が戻って来た。
大きく息を吸い込んで、アクセルは溜息を吐き出した。背中が相変わらず痛んだが、ゆっくりしている暇も無い。
クロウのあの口振りからすると、幻想郷に忍び込んでいるのは間違い無いだろう。
早いとこ追っかけねぇとな。アクセルは鼻から息を吐いてから、ロボカイ達を振り返った。
とにかく、クロウの行き場所に心当りが無いか聞かなければ。
そう思ったが、どうやらそれ処じゃないらしい。見れば、ロボカイ達は三人ともぶっ倒れていた。

 「ヌフゥ…モウ駄目…モウ動ケン」
 黄土のロボカイはバギー状態を解いて、地面に体を投げ出している。
 
「吾輩ニモ見エルゾ…ぱんつノ流レル河ガ…割トぱらだいす…」
臙脂のロボカイは、ミサイルを全て吐き出したのだろう。
脚をミサイルポッドに変形したまま、横向きに倒れていた。

「ムゥグ…」
低く呻いて、うつ伏せに倒れた浅葱のロボカイは、六本腕で何とか起き上がろうとしている。

「立てるか」 アクセルは片膝立ちになって、浅葱のロボカイに手を差し出した。
ロボカイは、差し出された手とアクセルを見比べ、無言でその手を取ろうとしたようだ。
だが、途中で力尽き、仰向けに倒れてしまった。
ゴホッとオイルの塊を吐き出して、浅葱のロボカイは少し笑ったようだ。
そのロボカイ達の傍に、早苗や神奈子、諏訪子も歩み寄って来る。
黄土と臙脂のロボカイは、早苗達に視線を巡らせたが、結局何も言わなかった。
早苗達も、静かにロボカイ達を見詰めていた。

「お前達の事、廃棄するだってよ…。良かったな、お前達。これで自由じゃねぇか」
 
やれやれと鼻から息を吐き出しながら、アクセルは緩い笑みを作った。
ロボカイ達は、アクセルの方に視線を向けた。

「廃棄サレテモ当然ダ…。
吾輩達ハ、命令ニ背イタダケデ無ク、創造主ニマデ歯向カッタノダカラナ…」

そう言った浅葱のロボカイの声は、罅割れていて聞き取り辛かった。
だが、やはり少しだけ笑っているように聞こえた。

「見捨てられると分かっていて…
何故です、どうして私達の味方になったりしたんですか…?」

少し強い口調で言ったのは早苗だった。
早苗の傍に立っている神奈子と諏訪子も、神妙な貌で、その答えを待っている。
浅葱のロボカイは、苦しそうにオイルを吐き出してから、早苗を見上げた。
その眼も罅割れ、黒いオイルが流れ出している。酷い損壊状態だ。
だがそれでも、ロボカイ達が何処か満足そうに見えるのは、アクセルだけでは無いだろう。
心ヲ持ツ者ニハ理解出来ンダロウ…。罅割れたその声は、やけに揺れていた。

「吾輩達ハ…愛ヲ叫ビナガラモ、ソノ実…“愛”ナドト言ウモノヲ全ク理解シテイナイ。
 “愛スル”振リヲシテイルダケニ過ギン…」

「駄目博士ニ反抗シタノモ、吾輩達ナリノ意地トイウ奴ダ…。
身体ヲ挺シテ、嫁ヲ守ル事デ…“愛”トイウモノヲ知リタカッタノダ」

浅葱のロボカイの声に続いたのは、黄土のロボカイだった。
諏訪子の方をちらりと見た黄土のロボカイの声は、疲れたような声音だった。

「ダガ、理解出来ル訳モ無イ…。
吾輩達ハ、“愛”ダ“嫁”ダト喚キナガラモ、気付イテイタ。
所詮、吾輩達ノ“愛”ナド、虚偽ト欺瞞ニ満チタ代物ダト言ウ事ハ…モウ分カッテイタ」

倒れたまま青空を見上げて、呟くように言った黄土のロボカイは、全てを諦めたかのようだ。

「最後ニ、ソノ虚飾ニ塗レタ“愛”ヲ、本物ニシタカッタガ…。
 如何ヤラ失敗ダッタ様ダ。…結局、何モ分カランママダ…。モウ疲レタワイ」

苦笑するみたいにそう言った臙脂のロボカイは、アクセルに視線を向けた。

「ドノ道…吾輩達ハモウ助カラン…。破損ガ激シ過ギル…」

そこまで言った臙脂のロボカイは、オイルを吐き出しながら咳き込んだ。
無理も無い。神奈子や諏訪子、早苗達の相手をした後に、クロウにまで楯突いたのだ。
ロボカイ達は瀕死だった。あぁ。こいつら、マジでやり辛いな。
仕種や喋り方が人間臭すぎて放っておけぇねぇ。

「意地張れたんなら上出来だろ。諦めんのは早いぜ…!
 早苗ちゃん、河童の沢ってのはどっちに行けば良い? 誰か呼んで来るぜ!」

「いえ…、私が行って来ます!」 少し涙ぐんでいた早苗は、目許を拭ってから力強く言った。
それから、神奈子、諏訪子を交互に見た。
その貌は、縋るような、訴えかけるような表情だった。

「…頼むとしようか。悪いね、いつも面倒事を押し付けて」

「私達だって、この人形達から話が聞きたいしね…。
此処は、カラクリに詳しい河童に診て貰うとしよう」

神奈子と諏訪子はそう言って、早苗に頷く。これで話は決まった。
早苗はすぐさま空へと飛び上がり、河童の住む沢へと向かってくれた。
神トハ、酔狂ナモノダナ…。
浅葱のロボカイは呻くように言ってから、アクセルを見上げてきた。

「悪イ事ハ言ワン…。駄目博士ヲ追ウノハ止メテオケ…。
 白ノ騎士服ヲ着タろぼモ、箆棒ニ強イガ…、駄目博士ハソレヲ上回ル…。
 貴様ガ行ッタ処デ犬死ニスルダケダ…」

人の心配してる場合かよ。
アクセルは、襤褸雑巾みたいになっているロボカイの前にしゃがみ込んで、口許を緩めた。
稲妻で焼かれた背中が痛むが、まだ動ける。
腰のベルトに指したナイフの感触を確かめてから、手にした鎖鎌を棍棒状態に戻す。
それを肩に担いで、ふぅと息を吐いた。

「俺もね、お前達と同じなんだよ。死っていうのが嫌いでね。
 死なせないぜ。って言うか、死ぬなよ。その為に、早苗ちゃんが飛んでってくれてんだ。
俺も、出来る事をしなくちゃいけない。
教えてくれ。お前らの駄目博士は何処に居るんだ?」





[18231] 三十八話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/03/21 16:03

 
石畳が敷き詰められた地霊殿の中庭には、今日はペット達の賑やかな鳴き声は聞こえない。
静まり返って居る。ぽつぽつと植えられた、植え込みの花々だけが微かに揺れていた。
その植え込みの傍でシンは一人座り込み、棍を肩に担いで、頭上をぼんやりと眺めている。
空の代わりに頭上を覆う岩盤は、此処から見ても、暗く無骨で、途方も無く分厚く見えた。
別に、青空を見たい訳でも無い。ただ、意味も無く、頭上を眺めていただけだ。
じっとしていると、色々と考えてしまって、どうも苦手だった。
動いていれば、余計なことを考えなくても良い。そう思っていた。
だが、どうやら違うようだ。身体を動かしていても、同じだ。
結局は思考の泥沼に囚われたままだから、色々な事が脳裏を過ぎる。

俺は、これから如何すれば良いのか。
如何すれば俺は、皆に受け入れて貰えるのか。
どんな風に為れば、俺はこの世界に相応しい奴になれるのか。
考えるのはそんな事ばかりだ。考えないようにしようと思っても、無理だった。
考えれば考える程、思考は同じところをグルグルと廻って、答えは出ない。堂々巡りだ。
どうしろってんだよ。まぁ、分かる訳ねぇんだよな。俺に。考える事とか苦手だしな。
この考え事の真似事を続けている内に、諦観にも似た感覚を覚えるようになった。
考えるのも面倒になって、もう良いんじゃねぇかとも思う。
俺は俺だろ。違うか。違わないだろう。どうしようも無く、俺は俺だ。
嫌われても。蔑まれても。忌避されても。怯えられても。誰にも好かれなくても。
いや、皆が皆、俺を遠ざける訳じゃない。こいしは、俺の話を聞いてくれるだろう。
親父も、イズナも、アクセルにしても。俺の事を無視したりしないだろう。
そうだ。俺は一人じゃない。孤独って訳じゃない。
なのに、もっと多くの誰かに受け入れられたいと思う俺は、欲張りなのだろうか。
其処まで考えて、座り込んでいたシンは頭を抱えた。らしくもない重い溜息が出た。
賞金稼ぎの真似事をしていた時には、こんな事を考える事は無かった。
だが、よくよく思い出してみれば、あの頃から、俺は暴力が好きだったのかもしれない。
高額な賞金首共は、揃って腐れ外道で、人を人とも思わない最悪な奴らばっかりだった。
奴らをぶちのめすには、遠慮が要らなかった。だから、俺はそれを楽しんでいたような気がして来た。
悪人どもの顔面に拳をぶちこむ感触。骨が折れる音。悲鳴。血。
暴力を暴力で踏み躙る悦楽を、昔から俺は求めていたのかもしれない。
否定出来ない。そんな風に思う。“でも、否定しなくても良いんじゃねぇかな”。
そうだ。俺は、もうこんな事で頭を悩ますのは勘弁だった。楽になりたい。
もういいだろ。俺はもう十分に考えた。無い頭を使って、必死に考えたんだ。
まぁ、まともっていう基準から見たら、俺はさぞかし異常に見えるんだろう。
それがどうした。知るかよ。勝手にしろ。シンは抱えていえた頭を少し上げて、眼を細めた。
誰かが、中庭の石畳の上を歩いて来るのには気付いていた。気付かないふりをしていた。
今は誰とも話しをしたくない。そんな気分じゃないんだ。
だが、その誰かは、遠慮無くシンの方へと歩み寄って来る。誰だよ。
こうなると、無視する訳にもいかない。中庭に、コツコツと硬い足音が響く。

「…誰だよ。あんた」 
顔を上げつつ立ち上がったシンは、僅かに重心を落として眉間に皺を寄せた。

「さぁ、誰かしら…?」

いつでも構えを取れる姿勢になったシンの前に立っていたのは、一人の女だった。
真っ赤なレザーのジャケットに、ミニスカート。太腿までを覆う、紅の厚底のブーツ。
インナーの類は何も着ていないから、凶暴な程に艶美で、短めの黒髪も妖艶だった。
水色のギターを吊り、頭には、髑髏を模した真っ赤な唾広帽子を載せている。
唇を妖しく歪ませた女は、帽子の奥で目許を笑みの形に細めていた。
普通の男ならば、一目で骨抜きにされてしまう様な色気が在る。
だが、シンは渋そうに貌を歪めただけだった。

「地底じゃ見ない顔だよな…」
つーか、何もんだよ。シンは言いながら、すっと半身立ちになって棍の先を女に向けた。
いつでも構えを取れる姿勢だ。中庭にはシンと、この赤い楽師の女だけだ。
女の纏う雰囲気は明らかにこの地底の、と言うか幻想郷のものじゃない。危険だ。
信用できない。睨むようにしてシンが女を見据えていると、女が苦笑した。

「そんな怖い顔しないで。私は敵じゃ無いわ…」

敵の敵は味方でしょ…。
そう言って肩を竦めて見せる女を見ても、シンは重心を落としたままだ。
この地霊殿の中まで、誰にも気付かれずに入り込んで来た処を見れば、警戒せざるを得ない。
シンは頭の中で、この女の言った言葉を反芻する。敵の敵。つまりは、終戦管理局の敵か。

「あぁ…。“あの男”の仲間かよ…あんた」

「…仲間と言うより、私は“あのお方”の信奉者ね」

何処かうっとりとした声音で言う女に、シンは眉を顰める。
一見して、ただ突っ立っているだけの女は隙だらけに見えて、実際は全く隙が無い。
あっさりとシンの棍棒の間合いに入って来る事を見ても、やはりただ者では無いだろう。
睨むシンの視線に、女はくすりと小さく笑った。艶美で、それでいて邪悪そうな笑みだった。

「私はね、貴方を迎えに来たの。…“あのお方”の命でね」

シンは眼を更に窄めて、女を睨んだ。

「わかんねぇな…。何で俺なんだ」

「貴方の持つ、貪食の稲妻の力を借りたいの。
風見幽香の容態については、貴方も少しくらいは聞いてるでしょ…?」

薄笑いを浮かべた女の、見透かしたようなその視線に、シンは一瞬怯みそうになった。
 だが、睨み返す。気にいらねぇ。それに、何で幽香の話が出てくるんだ。
 幽香に関しては、白玉楼戦の後、かなり衰弱しているという事くらいは聞いた。
今は永遠亭で治療を受けている筈だ。 「何が言いたいんだよ…」。 
シンは奥歯を噛み締め、呻くように言葉を返した。
 
 「貴方なら、風見幽香を癒せると…“あのお方”は考えておられるみたい。
  …だから私が、わざわざ地底まで貴方を迎えに来たのよ」

俺が…。思わず、シンは女に聞き返してしまった。
当然というか、医療に関する知識など、シンは殆ど持ち合わせていない。
 治癒法術に関しても、初歩的なものしか扱えない。カイ程の大規模な治癒術も、使えない。
 この幻想郷で思い知ったのは、シンの黒稲妻は、徹底的に衰微と暴食を司っているという事だ。
 瓦礫も粉塵も、燃え上がる炎でさえ、シンの稲妻の前ではただの餌食でしか無い。
 選り好みも特別扱いもせず、シンの纏う悪食の黒稲妻は、只管に喰い散らかすだけだ。
はっきり言って、治療とは全く正反対に位置する力だとシンは考えていた。
 だから、女の言葉には正直かなり面喰らった。
 
 「…もう奴らも動き出してるし、余り愚図々々もしてられないの。
  嫌だと言っても連れて行くわ。…“あのお方”が、そう望まれているもの」
 
 シンの心は揺れた。悩むのが嫌で、もう考えるのは止めようと思っていた。
 しかし、弱った幽香の為に、自身が何か出来るという事に、とても惹きつけられた。
 それはただ、自分が楽になりたいだけなのかもしれない。
 幽香の為では無く、自己満足の為の、独り善がりな衝動のように思えた。
 それでも、やはり無視出来ない。何が正しいのかなんて分からない。
女は冗談を言っている様には見えない。寧ろ、有無を言わせない迫力が在る。
シンを連れて行くという言葉は本気だろう。中庭の空気がピリついているのを感じる。
相変わらず薄笑いを浮かべている女の眼には、やけに不穏な光が灯っていた。
もしも断れば、此処で戦う事になるのだろう。それ程、女の放っている空気は刺々しいし、攻撃的だ。
 溜息の代わりに、鼻から息を吐き出してから、シンは棍棒を担ぎ直した。
 
「余計なドンパチする気は、俺にも無ぇよ。大人しく付いて来いって言いたいんだろ…」

もの分かりの良い子は嫌いじゃないわ。唇を歪める女を見て、シンは首を傾ける。

「随分急いでる様に見えるぜ…。そんなに切羽詰まってんのか」

「ええ。終戦管理局も大きく動いてるもの。
…永遠亭も、もうじきに襲撃を受けるでしょうね」

「何…?」 シンは、女の言葉に愕然としかけた。
 
「だから言ったでしょう? 嫌でも連れて行くって…」

そんなシンの様子を見てから、女は薄い笑みを消して無表情になった。

「私も永遠亭の守りに入る。その間に、貴方には風見幽香の治療をお願いしたいの」

それが、“あの男”が女に命じた内容なのだろう。女の声が明らかに硬くなった。
幽香を治療する。出来るのか。俺に。いや、出来るのかじゃなくて、やるんだ。
視線を地面に落としたシンを見て、女は軽く笑ったようだった。

「難しく考える必要は無いわ。
貴方は、風見幽香の身体の内にある毒素を食べてくれれば良いの」

笑っていても、その声音は真面目で、冗談めかしている様には聞こえない。
シンの異質な法術特性を利用して、幽香の身体から悪いものを取り除けという事か。
自身の法術は、ただ貪り喰うだけで、何も生み出さないと思っていた。
だから、そんな利用方法が在る事は考えたことも無かった。シンは女に頷く。
毒素を引き受ける形でならば、解毒処置を施せそうではある。
だが、それはオペなどとは到底呼べない、無茶苦茶な治療処置だ。
それを理解していながら、この楽師の女は平然とシンを連れて行こうとしている。

「“あのお方”も、幻想郷のひと達を助けようとしているの…。嘘ではないわ」

まだまだ疑う余地はありそうだが、断る理由も無い。シンは頷いた。

「分かった。…あんたに付いて行く。
 でも、ちょっと待ってくれ。地上に出る事、誰かに伝えとかねぇと…」
 
誰か居ないかと中庭を見渡すが、やはり中庭にはシンと女以外には誰も居ない。
まるで、恣意的にこの状況が作られたかのようだ。余りに静か過ぎる。
そう感じたシンの感覚は、どうやら当りだったようで、女は薄く唇を歪めた。

「人払いの結界を張ってあるからね。誰も此処には来ないよ。
 それに言ったでしょう。…急いでるの。すぐに出発するわ。暴れないでね」

女は赤いマニキュアの塗られた細い指で、吊っていたエレキギターを軽く爪弾く。
弦が震える音と共に、女とシンを囲うように、真っ赤な術陣が浮かび上がった。
それが、高度な転移法術だと言うことはすぐに分かった。シンは、女の顔を見詰めた。
「あら、私に興味が在るの?」 口許を歪めた女は、虹色の瞳を細めて、シンの視線を受け止める。

「あぁ…。俺の事は、あんたはもう知ってるんだろうが、俺はあんたの名前も知らねぇ」

そう言えばそうね、と、女はわざとらしく微笑んだ。
それから、法術を発動させる詠唱を呟いて、シンに流し目を送った。
全くシンがときめかなかったのは、女の纏う空気が、余りにも異質だったからだろう。

「私はイノよ。覚えといてね」

シンが「あぁ…」とだけ短く答えた時には、足元に浮かび上がった法術陣が光を増した。
こんな俺でも、誰かを助けることが出来る。淡い期待と不安を抱え、シンは右眼を覆う眼帯に触れた。
出来るのか。いや、出来る筈だ。そう自分に言い聞かせる。
怖がってるの。不意に、イノがシンの顔を覗きこむようにして聞いて来た。
ああ…。ちょっとビビってるかもな…。シンはイノの眼を見ずに答えた。
次の瞬間には、シンとイノは、地霊殿に中庭から姿を消していた。






薄暗い竹林の中を疾駆する。澄んでいる筈の空気は、やけにべたついて、重く感じる。
この纏わり付くような重さは、威圧感だ。私は恐れている。怯みそうになっている。
それを隠すように、臆病さに押し潰されないように、誤魔化すようにして駆けていく。
呼吸は乱れていないが、息苦しい。喉が詰まりそうだ。嫌な汗が出てくるのを感じる。
鋭く息を吐きながら、暗がりの竹林を行く。土を蹴る感触を確かめ、腰に佩いた刀の感触を確かめる。
無力感は無い。だが、代わりに焦りのようなものを強く感じた。
普段は冷たく感じる竹林の空気が、今はジリジリと肌を焼くような熱さを孕んでいる。
そう感じる。身体が押し返されるような感覚を覚えながら、それでも足を前に出す。
この熱さは、実際に温度が高い訳では無い。錯覚だ。私は錯誤している。気圧されている。
感じる威圧感に押し潰されそうになっている。しっかりしろ。そう自分に言い聞かせた。
選ばれたのなら、全力を尽くすのみだ。
利用されているだけの都合の良い駒だったとしても。


白玉楼に仮面の男が現れたのは半刻程前だった。
青白い肌をした仮面の男は、頭から太い針を生やしていた。
いや、生やしていたと言うよりは、仮面ごと、額から後頭部にかけてを針が貫いていた。
穴らしい穴の空いていない仮面は、まるで拘束具の様で、ひたすら不吉だった。
思い出しただけで、胸の辺りが冷たくなるのを感じる。
仮面の男は、西行妖を見上げていた幽々子の傍に、姿を現した。
幽々子の傍に妖夢も控えていたが、まるで気配を感じなかった。転移法術というものか。
男の纏う雰囲気が余りに不吉で、咄嗟に刀を抜きそうになったが、それは幽々子に手で制された。

「招かれざるお客様ね…。冥界まで、何か御用かしら?」
突然現れた仮面の男にも、幽々子は少し笑みを浮かべただけだった。
勿論、その間も、妖夢は刀に手を掛けたままだった。それははっきりと覚えている。
「突然の訪問で申し訳無いが…、この妖怪桜に封印施術を行いたい…」
そう言った仮面の男の声は歪んで、濁っていた。だが、それでいて何処か真摯でもあった。

「…そう。それは残念ね。
この桜の下に、どんなひとが眠っているのか興味が在ったのだけれど…」

少し冗談めかした幽々子の言葉に、仮面の男は何も言わず、花を付けていない西行妖を見上げていた。
妖怪として成長しきった巨木を前に、男は仮面の下で軽く溜息を吐いたようだった。
「悪いが、急を要する…」。そう呟いた仮面の男からは、全く害意を感じなかった。
それでも妖夢は、幽々子と仮面の男を見比べつつも、まだ刀から手を離す気にはならなかった。
確か、レイヴンという名らしいこの男は、やはり油断ならない空気を持っていた。
無視するには余りに不穏で、不吉だった。「妖夢…そんなに気を立てなくても大丈夫よ」
睨むようにしてレイヴンを見据えていると、不意に、幽々子から穏やかな声を掛けられた。
「敵対する意思は無い…」当然だろうが、レイヴンの方も妖夢の視線には気付いていたようだ。
妖夢はもう一度、レイヴンと幽々子を見比べてから、刀から手を離した。
どうも、この男は好きになれない。何を考えているのかを全く伺わせないせいで、余計に不気味に感じた。

「序に言えば…、魂魄妖夢。お前にも頼みたい事が在る」
レイヴンは言いながら、今度幽々子では無く、妖夢に向き直った。
思わず身構えそうになった。
それを見た幽々子は、少し肩の力を抜きなさい…、と苦笑したようだった。
どうも幽々子の方は、まるでレイヴンを危険視していない。
或いは、完全に味方だと考えているのか。妖夢には分からなかった。
だが、この男も紅魔館戦でアクセル達と共闘し、妖精メイド達を助ける為に動いていた。
その事実を見れば、ある程度は信頼出来るようにも思える。
ソル達が“あの男”と呼ぶ第3の勢力は、味方だと考えてもいいのかもしれない。
そんな事を思いながら、妖夢は顎を引いて、真っ直ぐにレイヴンへと視線を返した。

「そう警戒せずとも…主は、幻想郷と敵対しようとは考えては居られぬ」
挑まれるような視線を受けても、レイヴンの落ち着き払った声には全く変化が無い。
私にも用が在るとの事ですが…。妖夢も、低い声で訊く。
幽々子は、そのレイヴンと妖夢の様子をじっと見守っている。

迷いの竹林とやらに在る、永遠亭へ向って欲しい…。
少しの沈黙が在って、レイヴンは抑揚の無い歪んだ声で言い、妖夢の視線を受け止める。

「終戦管理局の侵攻が本格的になりつつある。既に紅魔館の者達は博霊神社に向かった…。
守矢、博霊の神社が共に狙われている今の状況では、頼める者がお前しか居ない。
永遠亭付近にも、法術の痕跡が見られた。恐らく、奴らは攻めて来るだろう…」

私が動ければ良いのだが、そうもいかん状況なのでな…。

そう告げられ、転移法術によりこの竹林まで送られたのが、つい今しがただ。
幽々子に関しては、西行妖の封印施術に当り、聞かねばならない事も在ると、白玉楼に残したままだ。
勿論妖夢は、幽々子の傍を離れる事に反対した。敵対していないとは言え、
得体の知れないレイヴンという男と幽々子を置いて、白玉楼を離れる事は出来ない。
しかし、主である幽々子に命令されれば、頷くしかなった。
私の事は大丈夫だから、貴女は永遠亭に向かいなさい…。
そう妖夢に命じ、微笑みすら浮かべる幽々子には、何かの確信が在ったのだろう。
“あの男”という存在を、完全に味方だと思うには、妖夢にはまだ抵抗が在る。
レイヴンでは無く、大丈夫だと言う幽々子の言葉を信じるしかない。
幽々子の真意は分からない。何を見越しているのだろう。私は、まだまだ未熟だ。
だが、私に出来る事もまだ残されている様だった。だから、私は命を受けたのだ。
すべき事と言った方がいいかもしれない。竹林の空気が、熱を含み始めている。
これは、錯覚では無い。明らかに熱さを感じた。
笹の枝葉の隙間から吹いてくる風には、火の粉が混じっている。
くぐもった破裂音。それに続いて、閃光が奔った。
何か、巨大な力の込められたものが、竹林に大穴を空けていくの見えた。
妖夢は、視線の先に見えて来た永遠亭へと、更に駆ける速度上げた。
だが、様子がおかしい。変だ。近づくに連れ、その違和感が大きくなる。
永遠亭から人の気配が消えた。なのに、息苦しくなるような威圧感だけが在る。
とにかく嫌な予感がした。駆ける脚を疾めようとした時だ。
「えっ、あれ!? 妖夢か!?」 此処最近で聞き慣れた声が、突然横から聞こえた。
「ひゃあっ!?」と変な声が漏れた。脚がもつれそうになったが、何とか体勢を整える。
全然気付かなかった。隣を並走してくる者が居るなんて、思ってもみなかった。
やはり、私はまだ修行不足だと思うが、今はそんな事より。

「シンさん!? どうして此処に…!?」

「そりゃこっちの台詞だって! 妖夢こそ、何で此処に居るんだよ…!」

竹林の木々の隙間を、泳ぐようにして駆けながら、妖夢はシンと顔を見合わせる。
「“あのお方”の御意思よ」。その妖夢達の背後から、艶美な女の声がした。
まるで影のようにピッタリと着いてくる女は、奇抜な格好していた。

赤い唾広帽子に、艶やかな黒髪。
今にも胸が見えてしまいそうな真っ赤なジャケットに、真っ赤なミニスカート。
膝まで覆う厚底ブーツまで真っ赤で、肩からはエレキギターを吊っている。
見える角度によって、虹の用に色を変える眼は、酷く妖しい雰囲気を漂わせている。
女は駆けている訳では無く、まるで宙を滑るようにして、シン達の後を着いて来ていた。
妖夢の怪しむような視線に気付いた女は、薄笑いを浮かべる。

「自己紹介は後ね。…そろそろ盛り上がってる頃だから、私達も急ぎましょう」











いかんねぇ。こりゃ不味いよ…。
イズナは冷汗を流しつつ、永遠亭の庭先で抜刀の姿勢のまま、重心を落としていた。
姿をまるで隠そうともしない奴は、なんの工夫も無く庭から永遠亭へ上がり込もうとしていた。
其処を正面から止めに入り、こうして睨み合っている。イズナは腕が痺れるのを感じた。
一撃打ち合っただけだが、それでも相手の膂力が凄まじい事は十分に分かった。
奴はイズナに道を阻まれ、少し距離を取って、永遠亭の周囲へと視線を巡らせている。
眼の前に居るイズナを無視する様な形だ。その態度に腹を立てるよりも先に、焦燥感を覚えた。

予め聞いていても、驚いた。
永遠亭へと乗り込んで来た黒い騎士服のソルは、本当のソルと瓜二つだ。
その威圧感に、はっきり言ってもうかなり気圧されている。及び腰になりそうだ。
だが、笹の揺れる音が聞こえる中、黒いソルに対峙しているのはイズナだけではない。
黒いソルが近寄って来た時点で、それに気付いていた永琳や鈴仙も、既に戦闘態勢に入っている。

鈴仙はイズナから見て、左前に。永琳はイズナから見て、右前に。
封炎剣をだらりと下げた黒いソルを、三角形の頂点で囲むような状態だ。
そして、其処から少し離れた所で宙に佇み、静かに見下ろしている輝夜の姿も在る。
地底の時と同じだ。何の創意も無く、乗り込んで来た黒いソルは、完全に包囲されている。

女性が扱うには余りに大振りな弓を構えた永淋は、今にも矢を放ちそうな程に殺気を漲らせている。
鈴仙は紅の眼を鈍く輝かせ、掌をピストル型に構えて、黒いソルを見据えていた。
宙に佇む輝夜が手に携えているのは、金枝銀根の蓬莱の球の枝だ。
皆、すぐに動ける体勢だ。この場に居ないのは、えゐと、唯一残った患者である幽香のみ。
まだ衰弱の激しい幽香の事は、頭の回転の速いてゐに任せてある。
イズナ達が黒いソルと戦っているうちにならば、逃げる事も出来るだろう。

何かを探すように、辺りへと視線を巡らせた黒いソルは、おもむろに首を鳴らして見せた。
そして騎士服の懐から、板状の端末を取り出し、そのディスプレイと永琳達を見比べる。
永琳から順番に、輝夜と鈴仙へと視線を向けてから、面倒そうに鼻から息を吐いた。
「……蓬莱人というのは…お前達の事だな…」確認するように言った黒いソルの姿が、一瞬ブレた。

イズナは、黒いソルの動きを眼で追う。
だが、追うのがギリギリだった。踏み出すのが遅れた。
瞬く間に、奴は大弓を構える永琳に迫っていた。永琳は冷静だった。
弓を構えたまま、重心を落としつつ半歩下がった。黒いソルの持つ、封炎剣の間合い。
そのギリギリ外へと出た永琳の喉首を、封炎剣の切っ先が掠めた。
黒いソルは横一文字に封炎剣を振り抜いている。永琳はその隙を付く。
顔色一つ変えず、永琳は黒いソルの顔面目掛け、至近距離で矢を放った。
黒いソルは顔を捻って矢をかわしていた。霊力の込められた矢は、竹林に大穴を穿ちながら飛び行く。
永琳は即座に飛び退りながら、大弓に矢を番え、霊力と共に二発目を放った。
黒いソルは、迫る霊力の篭った矢を、正面から叩き斬った。
斬られた矢はただ爆散するだけでなく、青白い霊力編みの渦が巻き起こって黒いソルを包み込んだ。
渦は黒いソルを捕らえ、動きを止めた。其処に、鈴仙が弾丸状の弾雨を放つ。
赤い微光を纏う霊弾は弾幕と化して、捕縛された黒いソルを猛襲した。
まともに喰らう筈だとは、鈴仙も思っていなかった。その通りになった。
いきなりだった。黒いソルが、爆発したかのように茫々と燃え上がったのだ。
凄い熱波が、爆風と共に周囲を舐めていく。永琳は顔を腕で庇いながら、距離を取る。
黒いソルが墨色の炎が防陣となって、弾幕全てを猛烈な勢いで飲み込む。
次の瞬間には、奴は墨色の焔の帯を引いて、再び永琳に襲い掛かかろうとした。
そうはさせねぇよとばかりに、脇からイズナが一足で踏み込む。
鞘から太刀を抜き打とうとしたイズナは、しかし、翻すようにして身体を横へと捌いた。
イズナが居たであろう空間を、墨色の炎と共に突き出された封炎剣が焼いた。
紙一重で凌いだイズナは、身体をひらりと回転させ、そのまま刀を打ち込む。
流れるような反撃だった筈だが、黒いソルは空いた右手で刃を掴み止めて見せた。
グローブと一緒に掌の半分程を斬られ、其処から流れる血は墨色の炎へと変わっている。
即座に、イズナは刀を右手で引きながら、左手で印を結んだ。
結ばれた鉄線印は、封炎剣を握った黒いソルの左腕を凍りつかせ、動きを止めた。
刀を引いた事で、黒いソルの右手が飛んだ。手首から先が無くなり、血飛沫が上がる。

だが、それでも黒いソルは止まらなかった。
右手首の血飛沫が燃え上がり、氷漬けにされた左腕が爆発した。
身を引くよりも先に火柱が上がって、その爆風でイズナは後方へ吹っ飛ばされた。
内臓が口から飛び出しそうな衝撃だった。イズナは背中まで強打して、眼が廻りそうだった。
取りあえず立て。刀はちゃんと握ってる。感触はある。追撃は来なかった。
イズナが顔を上げれば、黒いソルは炎を身に纏ったまま、やはり永琳に迫ろうとしていた。
しかし、鈴仙のアシストを受けた永琳の弓捌きは相当なもので、黒いソルも前に進めていない。
永琳の矢は、撃ち出された次の瞬間には視界を覆う程の弾幕へと拡散し、結界を結ぶ。
それが非常に高度な術式だということは、イズナも見ているだけで理解出来た。
見れば、黒いソルを囲むようにして結界が結ばれ、弾幕の雨霰を浴びせかけていた。
秘術『天文密葬法』。結界に囚われた黒いソルは、光の渦に巻き込まれ立ち往生している。
幾ら炎で身体を包み、防陣代わりにしていると言えど、あれだけ喰らえば一溜まりも無いだろう。
秘術の眩い閃光にも怯みもせず、鈴仙も縫うように駆けながら、黒いソルの死角へと回り込んでいく。
そうして、凄い身のこなしで弾幕を掻い潜り、ピストル型に握った掌から弾幕を撃ち込んだ。
離れて見ているイズナは、思わず眼を擦った。鈴仙の姿が、三人にも四人にも見える。
その残像とも本物ともつかない鈴仙の分身達も弾幕も放っているから、弾幕の密度は凄まじい。
弾幕に焼かれ、押し潰され、呻き声一つ上げない黒いソルの姿は、イズナからは良く見えない。
さすが永琳先生。それに鈴仙の嬢ちゃんもやるじゃないか。
これは勝てるかもしれない。そう思った次の瞬間には、嫌な予感がした。

永遠と須臾を操る能力で、輝夜が永遠亭を覆ったからだ。
周囲の時間が、幻想の世界で孤立した。秒と秒の隙間に、別の歴史が出来上がる。
外に干渉しない、独立した結界と時間と世界が生まれた。

色を失った世界の中を、咄嗟にイズナは駆け出す。
鈴仙ちゃん…! 本物は手を上げてくれ! 叫ぶと、鈴仙の分身達が一斉にイズナの方を見た。
その一瞬後、分身達が薄れていく。驚いたような貌をした本物の鈴仙が、イズナを見ていた。
印を結びながら駆け込み、イズナは鈴仙を庇うように抱きすくめ、氷の防術陣を編み出し、構築した。
結界を造り終えた輝夜も、永琳と黒いソルの間へ割り込む。
「えっ、姫様…!?」鬼気迫る無表情で矢を放ち続けていた永琳の貌が、引き攣った。

停滞と虚無の暦の中に閉じ込められた、この空間で無ければ大惨事だった事だろう。
冗談でも何でも無く、黒いソルが大爆発した。
しかも、ただの炎じゃない。法術が生み出した、墨色の炎が嵐のように吹き荒んだ。
もの凄い規模だった。氷獄の防術陣を張っていたイズナにも、周囲を見ている余裕など無かった。
氷の中で身を丸めて、防術陣を維持するのに精一杯だ。何をどうするとか、そんな問題じゃない。
ただ分かる事と言えば、途方も無い規模の爆発が起きて、何もかもを無茶苦茶に吹き飛ばしている事だけだ。
鈴仙にしても、イズナの腕の中で、しがみ付くようにしてただ震えている事しか出来なかった。
とにかく、視界なんて概念が無くなるような爆発と爆風だった。
真っ暗闇の中で、荒れ狂う炎が止むのを待つしかなかった。
永琳は。輝夜は。てゐは。幽香は。永遠亭はどうなったのか。分かる訳が無い。
何も見えない。聞こえてくるのは、墨色の炎がのたうつ音だけだ。長い。長過ぎる炎の粛清だ。
氷の術陣に亀裂が入り、罅が広がっていく。マジで冗談じゃないねぇ…。
イズナは焦った。これ以上は持たない。限界だ。術陣を保てそうにない。
だが、その嵐の終わりも唐突に来た。いきなり炎が止んだのだ。
氷が砕ける音が聞こえ、次に静寂が訪れた。鈴仙が顔を上げた瞬間、まず熱が来た。
空気が熱されて、呼吸するだけで喉の奥が灼けるようだ。
眼の前に広がる光景を見た鈴仙は、腰が抜けそうになった。
「こりゃぁ…」イズナも立ち上がり、刀を手にしたまま立ち尽くした。
青々と茂っていた竹林が。永遠亭が在った筈の場所が。焼け野原になっていた。

ものの数秒の出来事だった筈だ。
濛々と濁った煙が立ち込め、黒く焼け焦げた地面と炭屑が広がっていた。
舞い散る灰の中には、まだ火の粉が混ざり、パチパチと何かが燃える音も聞こえる。
周囲にあった何もかもが、根こそぎ焼き払われている。形を残しているものが何も無い。
ああ。酷い。あんまりだ。鈴仙の心の中で、何かが折れるような音がした。
思い出も在った。大切な場所だった。私の居場所だった。終の棲家だった。
てゐは。幽香は。そんな。こんな簡単に。燃えて。消えてしまうなんて。
動けなかった。茫然自失としてしまった。……しぶとい奴等だ…。
聞こえて来た声に、鈴仙は我に帰った。


黒い騎士服のソルは、まるで何事も無かったかの様に其処に立っていた。
あれだけ弾幕を浴びた筈なのに、傷も全て癒えている。斬られた右手も再生済みだった。
無感動に、奴は佇んでいた。くすんだ金色の眼が、鈴仙とイズナを見ている。
鈴仙は、血が出る程に唇を噛んだ。涙で視界が滲んだが、どうしようも無かった。
今まで感じた事の無い怒りと、頭が真っ白になる程の恐怖感が、同時に胸の内に在った。
逃げるとか、戦うとかじゃなくて、もうぶちまけてしまいたい。これは、殺意だ。
鈴仙は飛び出しそうになったが、それを手で制してくれたのはイズナだった。

「…何をそんなに急いてるんだい?」
そのイズナの言葉に、黒いソルは僅かに眼を細めたようだった。
本当に僅かな変化だったが、鈴仙もその表情の変化を見逃さなかった。
黒いソルは眼を細めたまま、封炎剣を担ぐように持ちなおした。

「……そう見えるか…」

「あぁ…。序に言えば、力に振り回されてるように見えるねぇ」

黒いソルは何も答えず、剣を担ぐように持ったまま、周囲に視線を巡らせた。
 其処で、鈴仙は気付いた。イズナも当然気付いているだろう。
立ち込めた白煙の向こうに、複数の気配が在る。

 「無茶苦茶ね。危うく焼かれるところだったわ」
 「迂闊でした…。申し訳ありません…」
 
 熱気を含む煙の向こうで、輝夜と永琳の声が聞こえた。
それと同時に、周囲を包む煤煙を薙ぎ払うように、風が舞い上がる。
永琳を炎から守った輝夜が、二人の身を庇っていた火鼠の皮衣を大きく翻したのだ。
神宝「サラマンダーシールド」。炎と熱波を遮断する宝物だ。
時間の流れ、その須臾の中に永遠の歴史を造り出し、永琳を咄嗟にカバーした輝夜は、
ほっとしたように口許を緩め、イズナと鈴仙にウィンクして見せた。
 
 
「オイオイ、テメェ。随分派手にやってんじゃねぇか」
唐突に聞こえた乱暴な声は、明らかに女性の声。竦み上がるような、暴力的な声音だ。
声がしたのは、永遠亭が在った方からだ。そちらに視線を向けて、鈴仙は言葉を失った。
眼の錯覚かと思った。
あの爆風を受けて、燃えて、炭になって吹き飛ばされたものとばかり思っていた。
安堵が胸のうちに広がった。永遠亭が、無傷のままで其処にあったからだ。
でも。どうして。焼け野原には何も無かった筈なのに。
薄緑の防御結界と共に、白煙の中に再び浮かび上がった永遠亭を背に、
防陣を纏った彼女は、虹色の瞳をぎらつかせ、煙をくゆらせ堂々と歩み出て来た。
赤い楽師の女だった。唇を歪ませて、獰猛で凶悪そうな笑みをその貌に張り付けている。
吊ったギターを彼女が軽く爪弾く度に、エレキの音階が残響する。
消えたり現れたりする永遠亭は、敵か味方かも分からない、あの女性の仕業か。
だが、どうやら彼女は鈴仙達と敵対しようとしている訳では無い様だ。
それは楽師の女の傍に、見た事のある人物が、二振りの刀を構えていたからだ。
「助太刀に参りました…!」イズナと鈴仙に放たれたその声の主は、白玉楼の庭師。
妖夢だ。聞きなれたその声が、今は頼もしく感じられた。

 イズナ、聞こえてるかぁ!?
 此処からは見えないが、永遠亭の中の方からシンの大声も聞こえて来た。
 
「幽香達も無事だ! そっちは頼む!」
どうやら、幽香や、てゐも無事の様だ。良かった。本当に良かった。
 鈴仙は安堵で、その場にしゃがみ込んでしまいそうになった。
だが、座り込む訳にもいかない。鈴仙も、再び掌をピストル型に握り直し、赤い微光を宿らせる。
鈴仙の視線の先では、敵に囲まれた黒いソルが、無表情のまま視線を巡らせていた。
彼のくすんだ金色の眼は只管に凪いでいて、底冷えする程に静かだ。
黒いソルは孤立している筈なのに、焦りなどと言った感情を全く表に出さない。
油断している訳でも無いだろうが、落ち着き過ぎている。
……手間の掛かる奴等だ…。低い声で言った黒いソルは、首を鳴らして、墨色の炎を纏った。









 
イノに導かれる形で、シンがこの須臾と永遠の結界内に侵入したまでは良かった。
結界内に潜ったシン達が出た場所は、永遠亭の、丁度診療所の裏口だった。
人の気配がして中に踏み込むと、診察室にはカルテが散乱していた。
薬剤が荒らされた様子は無いが、永琳達がついさっきまで居た形跡が在る。
不幸中の幸いと言うべきか。診察室には、この結界に閉じ込められた二人の姿が在った。
蒼褪めた貌の幽香と、その幽香を横抱きにして逃げようとしているのは、てゐだ。

「おい! 大丈夫か!?」

「今のところは。…でも患者さんの方はヤバイかもしれないね」
シンの切羽詰まった声に、冷や汗を流しながらも、てゐはニヒルな笑みを浮かべて見せた。
患者の方。その言葉を聞いて、シンは幽香へと視線を向け、息を呑んだ。
清潔感のある白い施術衣を着た幽香の姿は、少し痩せたように見える。顔色が悪いから余計だろう。
それに眼も落ち窪んでいて、普段の幽香には暴力的な程に満ちている筈の生気が、
大きく欠けているような印象を受ける。な、…に…見て。…るの、よ…。
そう言った幽香の声音は掠れて、蚊の泣くような、今にも消えそうな声だった。
幽香は青い貌でシンを睨んで来たが、そんな事は構っていられない。
俺に任せろ。そう言ってシンは、てゐから幽香を抱き受ける。滅茶苦茶軽い。
確かにヤバイと思った。幽香の衰弱の仕方は、シンが想像しているよりも遥かに深刻そうだ。
呻くようなか細い声で、幽香はシンに抗議の声を上げようとしているが、無視する。
「他の方々は…何処へ?」妖夢は、てゐに聞きながら、刀を抜き放つ。

「庭先の方さ…、案内するよ」
駆け出そうとするてゐの背中を見て、妖夢がそれに続く。
幽香を抱き抱えたシンは、この場に留まるべきかと思ったが、イノに手招きされた。
「貴方も来なさい…。傍に居ないと守れないわ」。その声音は真剣で、頷くしかなかった。
ちょっと揺れるけど、我慢してくれ…。シンは腕の中に居る幽香に言って、イノ達の後を追う。
幽香は僅かに呻いたようだが、何も言わなかった。大人しく、シンに身体を預けてくれた。
抱えた幽香に出来るだけ振動を与えないようにして、シンはてゐ達の後に続く。
他の兎達は、もう既に何処かへ避難しているのだろう。広い永遠亭には、他に誰の気配も無い。
長く、磨きぬかれた廊下から縁側へ。其処から中庭へ降りて、玄関の方まで迂回する。
その間、イノはずっと何かを詠唱していた。朗々と紡がれるその詠唱は、すぐに役に立つ事になった。
シン達が庭先まで出たところで、もの凄い閃光と衝撃を感じた。
既に、誰かが戦っている。弾幕の光が、瞬いている。むき出しの殺意を感じる。
光弾の眩めきの向こうに、永琳の姿が見えた。その永琳の貌には、いつもの優しげな表情は無かった。
ただ無表情に、殺意を込めて弾幕を張り続けている。
明らかな敵意を持って、眼の前に居るものを殺そうとしている。
“俺も混ぜろ”。頭の中で声がしたが、それを無視して周りを見た。
イズナと輝夜の姿が見える。弾幕の渦から離れたところに居る。
いつでも動ける体勢だ。優勢に見える。しかし、胸騒ぎがした。
 いきなり、周囲の温度が上がった。熱い。何だ。何が起きてる。そう思った瞬間だった。
 弾幕に飲み込まれていた誰かが、爆発した。そうとしか思えなかった。
洒落になってない爆風だった。黒い、墨色の爆炎が、視界を塗り潰した。
 見計らった様に、イノが防御法術で結界を構築してくれていなければ、シン達も危なかっただろう。
ノックアウト寸前まで追いやられていたのは間違い無い。
奴は、永遠亭ごと吹き飛ばす気だったのか。そうとしか思えない爆圧だ。
シンは抱えていた幽香を庇うように屈んで、風に吹き飛ばされそうになっている妖夢と、
てゐの二人を、もう片腕で何とか捕まえた。
其処までは良かったが、後はどうしようもなかった。炎が消えるのを待つしか無い。
見覚えのある、この墨色の炎。あいつか。オヤジモドキか。またかよ。
シンは戦おうと思ったが、無理だ。そうだ。幽香を治す為に、俺は此処に来たんだ。
戦う為じゃない。だが、この状況じゃ、治療もクソも無い。
とにかく熱くて、イノの張った防術陣の壁の向こうは、炎のせいで何も見えない。
楽しそうに笑っているのは、薄緑の結界を纏ったイノだけだ。
ゲレラゲラゲラと。イノは笑っている。何が楽しいんだ。おい。幽香を外に出せないのか。
シンはイノに叫んだが、イノは笑いながら肩を竦めて見せた。
もっかい結界を潜り直せですって? この状況で? 冗談よしてよ。イノは苦笑を浮かべた。
炎の嵐を掻き消す、強力な防陣を張れるイノでも、今は無理か。だが、今、無理なら、何時なら良いんだよ。

悪態をつきそうになったら、嘘みたいに炎の嵐が止んだ。
暴れ狂っていた墨色の炎が、まれで何かに吸い込まれたみたいだ。
そんな訳が無いと思う。だが、あながち間違いでも無さそうだ。
茫々と阿呆みたいに燃えまくりくさっていた炎の次は、静寂が来た。
次から次へと何かが起こって、頭がおかしくなりそうだ。
状況を把握しようとするだけで精一杯だが、妖夢も幽香も、てゐも、すぐ傍に居る。
顔を左右に巡らせて見れば、ずっと向こうまで灰色の焼け野原が広がっている。
此処が結界内じゃなかったら、どうなってたんだ。ぞっとして、気付いた。
 
黒いソルが居る。平然と其処に立っている。傍に居た妖夢が立ち上がった。
妖夢は、「幽香さんをお願いします…」と言って、微笑みかけてくれた。
呼び止めようとしたが、止めてどうする。俺に出来る事は、一つしか無い。
妖夢の背中と、その向こうを見れば、イズナも、鈴仙も、永琳も、輝夜も、黒いソルを囲んでいる。

「イズナ、聞こえてるかぁ!? 幽香達も無事だ! そっちは頼む!」

取りあえず、大声を張り上げる。
すると向こうから、おうよ! と、間延びした声が返って来た。頼りになるぜ。
さて、俺はとっとと幽香を治さねぇと。しかし、どうする。どうやって治す。
違う。治すんじゃんなくて、毒素を取り除くのか。

「さっきの診察室になら、解毒剤の一本や二本は在るよな…?」
胡坐を搔いた脚の上に、そっと幽香の頭を乗せるように寝かせて、シンは、えゐに視線を向ける。

「ああ。解毒薬の類なら、何本か在った筈だよ」
てゐは、黒いソル達の方を一瞥してから、神妙な貌で頷いた。
シンは寝かせた幽香を見てから、もう一度てゐを見る。
在るもん全部持って来てくれ…。どうなるか俺も分かんねぇからよ。
頬を引き攣らせたシンは、ぎこちなく笑いながら、てゐに頼んだ。

「無茶も良いけど、死なない程度にしなよ…!」
てゐは、正に脱兎の如く走ってくれた。その背中を見送ってから、シンは深呼吸する。

「おい、幽香。起きてるか…?」

真っ青の貌の幽香は、言葉を返す代わりに、睨むようにしてシンを見上げて来た。
シンは少しほっとした。まだ睨み返してくる元気が残ってるんなら、大丈夫か。そう思いたい。
寝かせた幽香の額を、掌で優しく撫でながら、シンは、すまねぇ…、と呟いた。
 額を撫でられた幽香は、怒る元気は無かったのか、訝しげな貌になった。
 その視線を受け止めながら、シンは奥歯を噛んだ。
 
「先に謝っとくぜ。…これしか思い浮かばねぇ」
 もっと時間があれば、もっと他に方法も在ったが、今はそういう訳にもいかない。
 少し遠くで、派手な音が聞こえて来る。始まった。
黒いソルと、皆が戦っている。負けるんなよ。俺も、俺自身に負けねぇ。
シンは息を大きく吐き出して、黒稲妻を纏う。バリバリと雷線が奔る。
 寝かせた幽香を中心に、大きく法術陣が浮かび上がり、赤黒い微光が漏れ始めた。
 唾を飲みこんだシンの左眼が、ゆっくりと血色に染まっていく。
 
 「後で好きなだけぶん殴ってくれても構わねぇ。…今はちょっと我慢してくれ」
 
 呟くように言って、シンは幽香の唇を、自分の唇で塞いだ。
 幽香が眼を見開いた。緩々と腕を動かして、幽香はシンの身体に手を回す。
 拒絶しようとしたのかもしれない。だが、シンを跳ね除けようとはしなかった。
乱暴な人工呼吸のようなものだったが、シンは大真面目だった。 
 まず幽香から生命力を吸い上げ、毒素を濾しとって、再び幽香へと循環させる。
 シンの貪食の稲妻を用いた、ぶっつけ本番の大規模な精密法術だった。
 “パテカトルステイン”、”ディバインゲイズ”の二つの法術を組み合わせる。
 対象から澱んだ命を吸い上げ、シンの体内で浄化し、もう一度対象へと流し込んでいく。
 これ以外の方法が思い浮かばなくて申し訳無く思うが、戸惑う時間が惜しい。
シンはとにかく集中していたから、幽香の唇の柔らかさや温もりなど、感じる余裕など無かった。

黒いソル達が戦う音が、やけに遠くに聞こえる。
灰塗れの地面に刻まれた法術陣は、更に赤黒い光を増していく。
それに合わせて、シンの身体に何度も黒稲妻が落ちる。肉体が稲光を飲み込む。
幽香の身体からは、青黒く濁った微光のゆらめきが立ち上り、シンへと流れていく。
シンは貪る様に、幽香を強く抱きすくめる。幽香も、シンの手を握り返す。
繋がれた掌からは、澄んだ新緑の微光が、シンの身体から幽香へと還っていく。
血色の眼で、シンは幽香を見詰めていた。幽香の顔色に、血の気が戻って来る。
稲妻が奔る法術陣の中で、黒いシンは、何かを助ける為に必死だった。
助かってくれ。そう思った。“何て美味そうなんだ”。そう思った。
でも、耐えろ。俺が喰うのは、終戦管理局が幽香に射ち込んだ病毒だけだ。
幽香の体内を巡り、苦しめるその毒素だけだ。“ちょっと位なら良いだろう”
馬鹿なことを言うな。“誰も分からないさ”。黙れ。“ひひひ”。黙れよ。“黙るのはお前だよ”。
頭の中で声がした途端、眼の前が真っ赤になったような気がした。
甘い、と思った。幽香の唾液が。舌が。唇が。抱きしめた幽香の身体の柔らかさを感じた。
吹っ飛びそうになる理性を必死で握り締める。
何とか冷静さを保ったシンは、唾液が糸を引く唇を、幽香から離した。
それに合わせて、地面に浮かび上がっていた法術陣もゆっくりと消えてく。
黒いシンは唇を舐めてから、赤い眼を細めてもう一度幽香を見た。
寝かされていた幽香は、縋る様な、何処か熱っぽい眼でシンを見詰めていた。
 どうしていいか分からず、シンはすぐに眼を逸らして、幽香を抱え上げる。
名残惜しさを感じるよりも先に、強烈な頭痛が来た。眼の焦点が合わない。
幽香の衰弱をそのまま譲り受ける形になったシンは、一瞬意識を失った。
 血が出る程に歯を噛み締め、倒れそうになるのを何とか耐える。
 
 「もう直に、てゐが薬持って来るからな…一緒に此処から離れるぞ」
ふらつくが、まだ耐えろ。
まだ訳が分からなくなる程じゃないが、その内そうなりそうだ。
とてもじゃないが、戦えそうにない。マジで死にそうだ。
苦しくて、熱い。内臓を吐き出しそうだし、目玉も飛び出そうだ。
だが、今は逃げろ。此処から。離れるんだ。
戦うんじゃねぇ。幽香を連れて。逃げろ。





ああ。俺は。またしくじりそうだ。
黒いソルは墨色の炎が宿った封炎剣を振るって、迫ってくる弾幕を薙ぎ払った。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。数え切れない程に何度も。
俺は一人だ。奴等は、大勢居る。どいつもこいつも知っている貌だ。ただ知っているだけだ。
データとして知っている。俺は。何をすべきかを思い出す。思い出せ。
クロウは言っていた。白玉楼戦で回収し損ねたサンプルが在ると。それを回収しろと。
風見幽香と言ったか。奴は何処だ。何処に居る。此処からでは見えない。探す間は無い。
弾幕が途切れること無く、俺を襲う。俺は避ける。薙ぎ払う。掻き消す。何発かを喰らった。
痛みは無い。後退はしない。俺は下がらない。正面から弾幕に身を晒す。次は。
密度の濃い弾幕に混じり、霊力の込められた矢が、空間を切り裂くように飛んで来た。
放たれた矢はただ飛んでくるだけでなく、拡散して、無数に張り巡らされた結界に変わる。
天網蜘網捕蝶の法。そう唱えたのが聞こえた。聞こえた瞬間には、俺は結界に捕らえれていた。
矢を放ったのは、永琳。八意永琳。蓬莱の人間。今回、俺が回収すべき目標だ。
俺は動けない。身を焼くような結界と弾幕に晒され、身動きを封じ込められている。
次に動いていたのは、輝夜。蓬莱山輝夜。黒髪が眼を惹く奴も、俺の回収すべき目標だ。
輝夜は、蓬莱の球の枝に霊力を込め、弾幕で象った巨大な竜の顎を俺に放った。
神宝「ブリリアントドラゴンバレッタ」。竜の頚の玉。それを俺は、敢えて喰らった。
結界に縫い付けられた俺の身体は、一瞬で飲みこまれた。
竜に噛み付かれ、弾幕の濁流に飲み込まれた。眼がチカチカする。眩い光だ。
右腕が粉々になって吹っ飛んで、視界の右半分が消し飛んだ。
恐らく、上半身の右半分が吹っ飛んだのだろう。封炎剣を持っていた左腕は、まだ在る。動く。
俺は地面に叩きつけられたが、すぐに起き上がって、距離を詰めて輝夜を狙った。
輝夜は、俺を見ていた。美しい貌が、驚きに歪んでいる。この状態で動ける事に驚愕しているようだ。
だが、呆気無く距離を詰めた俺を待っていたのは、白い狐の耳を生やした男だ。
白い狐耳の男は、横合いから斬り込んで来た。鋭い、鋭すぎる踏み込みだ。対処が遅れた。
疾い。左肩を斬られた。だが浅い。俺は構わず左腕を振り上げ、輝夜に迫ろうとした。
踏み込みながら墨色の炎を纏い、俺は白い狐耳の男を追い散らす。奴は俺から飛び退った。
だが、奴等の攻勢は止まらない。いきなり、手の感触が無くなった。
俺の左腕が両断され、封炎剣が地面に落ちるのが分かった。。
今度に来たのは、銀髪の少女が二人だった。二人。分身している。
魂魄「幽明求聞持聡明の法」。少女がそう唱えていた。身体の半分を失った俺は避ける事が出来なかった。
二刀流の少女が二人。四本の刀は、俺を容赦無く斬った。斬り刻んだ。ズタズタにされた。
だが、それでも浅い。まだ、脚が二本残っている。繋がっている。動ける。俺は輝夜を狙う。
な…っ!? まだ…!? 俺の間合いで、銀髪の少女が息を呑んでいた。動きが一瞬止まった。
俺は炎を纏って、やはり驚愕の表情を浮かべる銀髪の少女を蹴飛ばしてやろうとした。
出来なかった。俺の右脚に、人間の腕位あるだろう白い銃弾がぶち込まれた。
それが、妖力で練り上げられた弾丸だという事はすぐに分かった。奴か。
鈴仙。四人にも五人にも見える幻術が、同時に放つ弾幕に俺の動きを止められた。
右脚が爆ぜて、次の瞬間には、左脚が吹っ飛んだ。赤い楽師の女。何時の間にか間合いの内に居た。
イノ。“あの男”の側近の女。奴は笑って居た。ゲラゲラ笑いながら、奴は法術を行使した。
俺は避けようにも避けられなかった。至近距離と言っていい間合いだった。イノは容赦無くギターを掻き鳴らし、音波と衝撃波で俺の右脚を吹っ飛ばしたのだ。
俺はとうとう立てなくなった。地面にどさりとゴミ袋のように転がって、血を吐き出した。
奴等は上手く立ち回る。誰も俺に近づこうとしない。賢明な奴等だ。俺は、まだ死なない。
地底の時よりも、相手が多い。それでいて、地底の時と同じく、一人一人が強い。
手も足も出ない。ならば、手も足も出るようにするしかない。この程度では死なない。俺は。まだ動く。生きている。身体を再構築する。俺の身体から、墨色の炎が燃え上がる。
澱んだ炎はバキバキ、ビシビシと音を立てて、竜鱗の甲冑へと代わっていく。
腕も脚も顔の半分も失った俺は、だが、立ち上がる。墨色の竜鱗が、俺の手脚になる。
黒い騎士の様になった俺の背中からは、バギバギと何かが拉げる様な音と共に翼が生えた。
暴力的なフォルムを持つ、竜翼だ。俺の周りでは、炎が荒れ狂っている。
その全てが俺だ。俺こそが炎だった。俺は吼えた。虚しい。俺の心は酷く空虚だ。
あっという間に肉体を修復した俺は、まず手始めにイノに一歩で迫った。
「ぉ…ッ!?」 何か焦ったような声を漏らしたイノは、ギターを何とか盾のように構えた。
防陣をその上から張っていた。それがどうした。俺は構わず、ギターの上から拳を叩き込んだ。良い感触だった。
イノはギターごと冗談のように吹き飛んで、結界の遥か向こうの方までゴロゴロと何度も地面を転がって行った。
周囲に居た奴等が、僅かだが、明らかに怯むのが分かった。俺はその隙を見逃さなかった。
一瞬の空白の後。白い狐耳の男が、何かを唱えようとしているのが分かった。
それを潰しに行く。案の定、俺の方が疾かった。白い狐耳の男は、咄嗟に詠唱を中断した。
そして、身体を逃がしながら刀を打ち込んで来た。だが、無駄だ。俺の身体を覆う竜鱗が、それを弾いた。
俺はすっと懐に入り込んで、ボディブローを叩き込んでやった。骨と肉の潰れる感触があった。
「がは…っ!!」っと血を吐き出して、白い狐耳の男は身体を折り畳むようにして倒れた。
ものの数秒で二人を沈めた俺は、次に輝夜を狙う。当然、永琳の大弓が邪魔に入る。
それがどうした。大地を穿つ霊矢が、雨霰と俺を襲う。だが、俺の鱗は通らない。
俺は突進した。輝夜が蓬莱の玉の枝を振るった。弾幕。竜の弾幕だ。口を開けている。
やはり虚しい。何をしていても、俺には生きる実感が無い。俺は、竜の口の中に突っ込んだ。
墨色の炎を纏った俺は、猛スピードで正面から突き抜けた。最短距離で、輝夜と永琳までの距離を縮めた。
二人は急接近した俺に対処しようとしたが、俺の方が遥かに疾かった。
俺は、突進した勢いを殺さず、二人の間をすれ違うようにして駆け抜けた。
すれ違い様に、輝夜の右腕と、永琳の左腕を掴んで、引き千切った。赤い血が派手に散る。
悲鳴とも呻き声ともつかない声がした。輝夜が血の噴出す右肩を押さえ、蹲るのが見えた。
永琳もだ。左肩を押さえ、何とか立っている。俺を睨んでいる。だが、何が出来る。
そんな様で。お前達の腕は、俺が両手に握っている。ああ。これでは剣が握れない。
まぁ良い。剣など。神器とは言え、所詮はレプリカだ。この蓬莱人の腕の方が優先される。
ぅうううううああああああああああああああああああ―――――――っっ!!!
絶叫。甲高い声が聞こえる。違う。これは裂帛の気合だ。
俺は、引き千切った腕を掴んだまま声がした方を振り返った。鈴仙と、二刀流の銀髪の少女が。
俺に向かってくる。目尻に涙を浮かべた鈴仙は、すでに分身している。
その紅の眼を見据えた瞬間。視界が赤い霞でぼやけた。
意識に靄が掛かったような感覚だ。幻術の類か何かされた様だが、どうでも良い。
見え難くなった眼を細めつつ、弾幕を放ってくる鈴仙は無視しようとした。
すると上下左右から打撃が来た。鈴仙の分身達が、俺を打った。撃って、打ち据えた。
凄まじい乱舞だった。だが、俺は翻弄されない。何も感じない。
俺は。弾幕を貰いながら、すっと重心を落とした。来る。銀髪の少女が。刀を振り上げて。
断迷剣「迷津慈航斬」。銀髪の少女が叫んだ。少女の持つ刀が、霊力を帯びて塔の様な刃と化した。
躊躇いも何もなく、少女は巨大な刃を振り下ろして来る。俺は、その刃目掛けて体当たりを食らわした。
結果。俺の竜鱗が勝った。澄んだ薄緑の微光を宿した、塔の刃が砕けた。
そのまま、銀髪の少女に突っ込む。肩だ。肩をぶち当てるようにして、突進した。
咄嗟に、少女の方も刀を交差させて防ごうとしたようだが、無理だった様だ。
少女は血を吐きながら、吹っ飛んだ。骨が折れるような鈍い感触が在った。
その感触が残るうちに、俺は弾幕を掻い潜り、鈴仙へと肉薄する。
まだ眼が霞むが、この距離まで近づけばそんな事は問題にならない。
俺は、手に掴んだ血塗れの輝夜の腕で、鈴仙の顎を打ち上げて、永琳の腕で側頭部を打ち下ろそうとした。
どぐおん。ばぐん。そんな感じの鈍い音が二回した。鈴仙は倒れた。


白煙が薄くけぶる中、俺は永琳に向き直った。
片腕になった永琳は何とか輝夜を抱き起こし、睨む殺す形相で俺を見ている。
まだ腕は再生していないが、直ぐに復活するだろう。輝夜と永琳を回収せねばならない。
俺が再び、永琳達に迫ろうとした時だ。脳に直接、声が聞こえた。
『苦戦しているみたいだね。隔離結界に捉えられたのは、こっちからでも分かったよ』
クロウの声だ。いつもと変わらない、落ち着いた声音だった。俺は何も答えない。
発信されたテレパシーを受け取る事は出来ても、こちらから発信する事は出来ない。
俺は、只命令を受け、それを唯々諾々とこなすだけだ。
そうすれば、俺は、オリジナルに会える。そう、クロウは約束した。

『そろそろ時間だ。
サンプルの回収は、出来る範囲で良いから…こっちに合流してくれるかな』
 
 俺は手に握った、血塗れの永琳と輝夜の腕に眼を落とした。
 
 『…それじゃあ、出来る限り早く来てね』

 そのクロウの声を聞いている間に、俺の身体の傷は、ほぼ完治していた。
時間切れだ。与えられた任務は、成功とは言い難い。だが、もう良い。
輝夜と永琳から引き千切ったこの腕さえ在れば、サンプルにはなるだろう。
風見幽香という素体も回収し損ねたが、出来る範囲で良いと言ったのはクロウだ。
これ以上、追いかけ廻すのも面倒だ。オリジナルにさえ会えれば、どうでも良い。
俺は、立ち上がろうとする輝夜や永琳達に背を向け、竜翼を広げて空へ飛び立つ。
永遠と須臾を司る能力によって、作り出された結界は、少しずつ弱まって来ていた。
歴史と隔絶の帳に穴を空け、結界に解れを生じさせる。その縫い目から、俺は結界を抜けて、クロウの元へと向かう。
胸が軋むような音を立てる。空虚な魂をぶら下げて、俺は、お前に会いに行く。




[18231] 三十九話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/03/29 05:31
 管理しきれなくなった力は、何れ恐怖の対象になる。
制御できなくなってしまった力は、何時か自分達に牙を向いてくるかもしれない。
そうなる前に。欲しいものだけが手に入れば、余剰な力を上手く殺してしまえば良い。
制御、管理出来る状態まで、頃合を見計らって、力を削ぎ落としてしまえば良い。
そうすれば、飼い犬に手を噛まれる心配も無い。
癌になるだろう細胞を、予め切除してしまえば憂いも無くなる。
終戦管理局は恐らくそう考え、強大な力を有し始めたクロウを、切り捨てる算段をつけている。
不死者のモデルとして、“蓬莱人”を提示した頃から、クロウはそれを薄々感じていた。
阿求の掌を回収し、肉体を超えた記憶の保有、保管を可能にする技術を開発した。
それを報告した時だ。ジャスティスのコピー達への命令権限の剥奪を言い渡された。
自身が生み出した生体兵器達を取り上げられる形となったクロウは、其処で確信した。

上の人間達は、クロウを邪魔だと感じている。それは間違いでは無かった。
すぐにクロウの居る立場に、後任の者が決まった。
何時でも切り捨てられる様に、クロウはもうじき一介の研究者に戻される
もしかしたら。いや、高確率で適当な難癖を付けられて、処分されるだろう。
結局、終戦管理局は此処に来て、完全な形の不老不死に眼が眩んだのだ。
リスクの伴う『キューブ』への侵攻を、此処で諦めようと考えているのだろう。
だからこそ、余計な事を知りすぎたクロウは、上の人間達にとって邪魔になり始めた。
蓬莱人達のサンプルが手に入れば、終戦管理局はクロウを抹消しに掛かる筈だ。
クロウはそう考えていた。だから、先手を打った。
蓬莱人のサンプル回収の任務を受けるに当って、自身も幻想郷へと向かう許しを得たのだ。
大きな危険が伴い、下手をすれば死ぬ事にもなるであろうこの提案は、だが、あっさりと受理された。
クロウが幻想郷に出向き、都合よく死んでくれれば、終戦管理局は手を汚さずに外患を処理出来る。
保管されていたジャスティスのコピーのうち、二体のみ使用可能の許可も得た。
だが、たったの二体だ。それで何が出来ると言うのか。
当然上の人間達は、幻想郷に乗り込むのに、この数では足りないだろうことも分かっている。
明らかに、クロウを殺したがっている。しかしクロウにとって、そんな事はどうでも良かった。
もう終戦管理局に戻ろうとも思っていない。
残ったジャスティスのコピー達は、上の人間達を守るたけの駒として扱われるだろう。
幻想郷だけでなく、GEAR MAKERに対する武力として、保有しておきたいのだ。
せっかくのジャスティスのコピー達を腐らせてしまうのが残念でならない。
だが、まぁ仕方無い。所詮、クロウも組織の人間だ。出る杭は打たれる。
打つ事も出来そうに無い杭ならば、上手い事切倒してしまいたいのだろう。
クロウ自身も、終戦管理局への反逆も考えたが、面倒で敵わないので思い止まった。
それに、もう自分の居場所が終戦管理局に無いことを思うと、気が楽で良かった。
これで大手を振って、再び幻想郷へと踏み入ることが出来る。胸が躍った。
そう。そう。これで良いのだ。何にも縛られることなく、僕は“彼ら”に近づく。
思えば、その時の為に。この時の為に、僕の研究は在ったのだろう。
僕の研究者としての人生が在ったのだろう。もしかしたら。もしかしたらと、思う。
ギアプロジェクトに着手していた“彼ら”も、今の僕と同じような気分だったのかもしれない。
違うとは言い切れない。否定しきれない。可能性は在る。もしも同じならば、僕の胸は更に躍るだろう。

境内へと昇る階段を上りきったところで、博霊神社の鳥居を見上げ、クロウは眼を細めた。
日が傾きかけ、僅かに黄色を帯びた空と、朱塗りの鳥居のコントラストに、少しの溜息が漏れた。
澄んだ空気も、静謐な神社な雰囲気も、悪く無い。この美しさを誰かに教えてやりたいと思う。
だが生憎、そんな相手は思い浮かばなかった。しまったな…。お賽銭を持ってくるのを忘れた。
そんな風に暢気に思いながら、クロウは深呼吸して境内へと足を踏み入れた。

静穏な神社の境内は、だが、静かでこそあれ平穏とは程遠い。
境内は穴だらけで、其処彼処で細い煙が上がっている。生々しい戦いの跡が残っていた。
その境内の中心には、二体のジャスティスの残骸が、襤褸雑巾の様に寝かされている。
ジャスティス達は、ほとんど原型を留めていなかった。相当に激しい戦闘だったのだろう。
腕が千切れ、脚も消し飛んで、身体を覆う外骨格はボコボコに凹んでいる。
二体のうち一体は上半身と下半身が叩き斬られ、もう一体は肩口を裂かれたような状態だ。
そのジャスティスの亡骸を囲むように立つ、巫女と、妖怪の賢者、そして、ソルの姿が在る。
稼動許可を取ったジャスティスのうち二体を先行させたが、どうやら容易く退けられた様だ。

だが、戦闘の結果はどうでも良い。
クロウが神社に来るまでに、妖怪の賢者を此処に縫い留める為の陽動だ。

「…久しぶりじゃない」
鈴の鳴る様な、それでいて聞く者を凍りつかせる様な声だった。
クロウは口許をひっそりと緩めて、その声の主、霊夢へと向き直った。
澄んだ朱色の霊力を纏った霊夢は紙垂を手に持ち、半身立ちの構えのまま、クロウを睨んでいた。

「急にお邪魔して、申し訳無いね」
惚けたように言いながら、クロウはジャスティスの残骸を一瞥して、視線を巡らせた。
金色の眼でクロウを見据えるソルと、頬を微かに強張らせた紫と眼が合った。
ふぅん、…やっぱりコピー達が相手だと、少々役不足だったみたいだね。
そう言って口許を緩めるクロウに、ソルは眼を窄めて、半歩前に出る。
霊夢と並ぶ位置に立って、封炎剣を肩に担ぐようにして持ったソルは、頚を鳴らした。
「…今度は…何を企んでやがる…」低い声で言うソルは、すでに封炎剣に濁った赤燈の炎を宿している。
クロウの返答次第では、今すぐにでも襲い掛かって行きそうだ。
それ位の殺気と威圧感を放っている。

「それを君に教える必要性が無いと思うけれどね。
 仮に教えても、君が納得する訳も無い。無駄な問いだと思うよ。違うかい?」

だが、ソルと正面から対峙しながら、クロウは涼しい貌のまま、肩を竦めて見せた。
そのクロウの視線の先で、扇子を手にした紫が、ふわりと宙に浮き上がった。
見下ろされる形となったクロウは、それでも、僅かに微笑みを浮かべたまま、眼を細める。

「言いたい事はそれだけかしら…」
紫の声は、何処か張り詰めていた。普段の余裕のものは何処居も無い。
不穏な境内の中に少しの静寂が在った。黙ったままのソルが、軽く重心を落とす。
霊夢は、クロウと紫達が睨み合う空間が、ぐにゃぐにゃと歪むような錯覚を感じた。
「質問してもいいかい…」この緊迫した場に相応しく無い、やけに自然体な声音だった。
やはり微笑みの様なものを浮かべたクロウは、左の掌に青黒い法力の微光を宿らせている。

「性質上、幻想郷は全てを受け入れてくれるそうだけど…
 僕も受け入れて貰う訳には行かないかな? 別段、突飛なお願いじゃないと思うんだけどね」

クロウがそう言った瞬間だった。霊夢が地面を抉る程の力で蹴って、飛び出した。
翔び行く霊夢の周囲に陰陽球が二つ浮かび上がり、手に握られた紙垂にも赤い霊光が灯る。
「…一昨日来なさい!」霊夢は身体を撓らせ、紙垂をクロウに叩き込もうとした。
それは残念だな、と技とらしく肩を落としたクロウは、左腕を翳して暗銀の結界を構築する。
霊力の込められた紙垂と、クロウの展開した結界が激突、拮抗し、派手に衝撃波が奔った。
その刹那の間。札を懐から取り出し、弾幕を展開した霊夢は、クロウの結界を押し潰す勢いで弾幕を降らせる。
地を穿つ霊弾の弾幕の嵐を受けて尚、クロウの結界はやはり緩まない。

それならばと霊夢は、紙垂を持っている方とは逆の手で素早く印を結んだ。
それに応え、霊夢の纏っていた陰陽球が巨大に膨れ上がり始める。
どんどんどんどん、大きく膨張を始めた陰陽球は、あっという間に家位の大きさまで育った。
神社まで一緒に吹き飛ばす程の威力を秘めた陰陽球が、轟々と呻りを上げている。

それを見た紫は、博霊神社の周囲一帯を境界で括り、別の空間へと隔離する。
幻想郷であり、幻想郷で無い処。夢と現の狭間に、博霊神社そのものを潜り込ませる。
空の色が消えて、虚無の帳に包まれた箱庭と化した神社に、紫はクロウを捕らえた。
ソルも、紫の境界操作に合わせて、法術結界を展開し、それを補佐する。
法力と境界操作の能力が造り上げた、幻想と忘却の檻が出来上がる。
非実在の世界へと変わった事を確認した霊夢は、膨れ上がった陰陽球をクロウに放った。

クロウが展開したドーム状の結界が、バキバキ、ミシミシと音を立てる。
陰陽球が、両側から暗銀の結界を押し潰すようにして減り込み、砕いていく。
霊夢は其処から飛び退って、宙空で停止した。そして、掌を頭上へと翳す。
翳された掌の先には、更に巨大な、巨大過ぎる陰陽球を生み出した。
既に大地が泣いている。振動と衝撃が、境内をビリビリと震わせていた。
澄んだ朱色の光が、激しく暴れ狂っている。
二つの陰陽球は、もう殆どクロウの結界を押し潰そうとしていた。
亀裂が奔り、罅割れ始めた暗銀結界の中で、クロウは少し眼を細めて霊夢を見ていた。
霊夢は容赦も慈悲も無く、そのクロウ目掛けて、超特大の陰陽球を降らせた。
暗銀の結界は、呆気なくぺしゃんこになった。
まるで巨大な槌で、泥濘を叩いたような光景だった。
三つの陰陽球は、境内に大穴を空けている。いや、消滅させていると言った方が正しい。
荒れ狂う朱色の霊光の向こうで、大地を鳴動させながら、まだ減り込んでいく。
クロウの暗銀の結界は、完全に潰れた。その筈だ。霊夢は宙に佇んだまま、唇を噛んだ。
地下深くまで掘り進んでいく勢いの陰陽球が、突然その動きを止めたのだ。

ピシピシ。パキパキ。パリパリ。ピキピキと。
細かい音を立て、まるで薄氷が張っていくかのように、陰陽球が鋼液の膜で覆われていく。
信じかたい光景だった。紫も、その光景に眼を奪われた。動けなかった。
ソルも舌打ちして、それでも動けずに居た。

「強いねぇ。やっぱり…」。冷静で、妙な抑揚のある声がした。
同時だった。鋼液で覆われ、静止した陰陽球が萎み始めた。
いや、違う。縮小していく。見る見るうちに小さくなっていく。
三つあった強大な陰陽球が、更に小さくなって、やがて一つになる。
瞬く間に、大地を砕く陰陽玉が、クルミ程の大きさの鋼玉になってしまった。
境内に開けられた大穴からゆったりと歩み出て来たクロウは、その鋼玉を右掌で受け止めた。

「僕の扱う法力機術は、夢や幻想すら汚染して、徴兵出来るからね。
…幻想に生きる君達に対しては、中々に良い対抗策になるんじゃないかな」

クロウは指で眼鏡の位置を直して、宙に佇む霊夢を見上げた。
眉間に皺を刻み、唇を噛み締めた霊夢は、再びクロウへと迫ろうとした。
だが、それよりも先にソルが動いていた。クロウまでの距離を、一瞬で詰めたのだ。
「ぬぅ…ッ!」封炎剣を長大なフォルムに変形させ、ソルは大上段から振り下ろした。
しかし、それは届かない。阻まれた。クロウの足元から噴出した蟲の節足に、がっちりと挟み込まれた。
見れば、クロウの足元の地面は、既に暗銀の液鋼によって覆われ、不気味に蠕動している。
其処から、太い蟲の足が伸びまくって、ソルの封炎剣を受け止めていた。
それだけじゃない。地面から伸びる鋭く太い蟲の足は、ソルの身体を貫いている。
脚と腹、そして胸だ。三本の蟲の足が、ソルの身体に埋め込まれていた。
目の前で止められた封炎剣を一瞥し、クロウはソルに視線を向け、口許を緩めた。

「前にも言ったけど、君への対策も、もう打ってある。
 君が僕に勝つのは無理だと思うけれどね…。確率は極めて低いと思うよ」

クロウは言いながら、左手に宿した青黒い法力の光を強める。
その光に応え、クロウの足元から蟲の節足が更に噴出し、ソルを押し流そうとした。
実際、ソルは押し流されそうになったが、途中で踏みとどまって見せた。
がりがりとソルの足が地面を削った。身体中に、蟲の鋭い脚が突き刺さっている。
それでもソルは、赤燈の炎をその身に纏って、真っ向から、その蟲の節足の壁に突っ込む。
封炎剣は燃え上がり、長大な炎剣へと姿を変えている。前のめりになったソルが吼えた。
金属蟲の足を溶かし、へし折りながら、ソルは更に踏み込んで、再び燃え盛る剣を凪いだ。
完全に炎剣の間合いだった筈だ。しかし、封炎剣は空を斬った。其処に居た筈のクロウが居ない。
転移法術を用いた瞬間移動だ。紫も霊夢も、クロウの姿を一瞬、見失った。
「君とこうして戦うのは初めてかな。…御手柔らかに頼むよ」
クロウは、ソルの後ろに居た。ソルは、振り向き様に剣を横一文字に振り抜こうとした。

だが、間に合わない。
クルミ程の大きさになった鋼玉を、クロウがソルに放る方が疾かった。
青黒い微光を纏った鋼玉は一瞬で分裂し、元の陰陽球の大きさに戻って、ソルを猛襲した。
霊夢が放った時は朱色の霊光を纏っていたが、今は違う。澱んだ青黒い微光を纏っている。
境内を分断するかの様に地面が抉れ、穿たれ、亀裂が奔る。
ソルは陰陽球を剣で受け止めたが、すぐにその勢いに押し潰され、見えなくなる。
神社全体が振激しく振動する。視界が明滅する。霊夢は宙に浮かびながら、腕で顔を庇った。
誰かがソルの名前を呼ぶのが聞こえた。紫だ。それと、もう一人。自分の声が聞こえる。
霊夢も、ソルを呼ぶ。だが、爆音と光の洪水に掻き消され、届く筈も無い。
見れば、クロウには薄い結界が張られている。だから平然としていられるのだろう。
奴はこの無茶苦茶な破壊のすぐ傍で、冷静な貌のまま、紫と霊夢を交互に視線を巡らせた。
まるで、ソルには用が無いと言わんばかりだ。霊夢が急降下していく。
霊夢の右手には紙垂が握られているが、左手の指には退魔針が挟まれている。
紫もスキマを開いて扇子をしまい、代わりに其処から一振りの長刀を取り出し、抜き放つ。
抜き身の刀を手に握り締め、紫もクロウへと迫る。

青黒の陰陽球は激震と共に、未だソルを押し潰そうと地面に減り込み続けている。
助けなければ。しかし、クロウがそのすぐ傍に居る。いや、待ち構えているのか。

「人間を相手にするのは、不慣れなようだね。やけにぎこち無く感じるよ」
呟いたクロウは口許を緩め、両手に青黒の微光を纏わせた。
その足元から再び機術汚染が始まり、暗銀の泥濘から蟲の脚が溢れ出す。
長く巨大な、蟲の節足の濁流だ。濁流は上へ、横へと伸び、まるで生い茂る木々のようだ。

霊夢は宙空まで伸び上がってくるその節足を巧みに交わし、潜り込むように降下していく。
その途中で、手にした退魔針を弾幕として展開し、撃ち出す。朱色の驟雨が降り頻る。
暗銀の蟲の脚は、緋色の雨に打たれて、砕かれ、穴を穿たれ、崩れていく。
霊夢が飛び行く為の穴が出来上がる。霊夢は巫女服をたなびかせ、更に速度を上げた。

飛翔する紫も、扇子の代わりに刀を振るう。振るわれた刀は空間に黒い線を引く。
引かれた線はスキマの亀裂となって苦無弾幕を吐き出し、蟲の脚を次々に壊し穿つ。
刀が振るわれる度、空間が切り裂かれると同時だ。無数の蟲の脚も、容易く両断された。
弾幕を盾にしながら、金属の蟲の脚を斬り捨てながら、紫もクロウに迫った。

霊夢と紫の間合いに、クロウが入った。霊夢は紙垂を振り上げ、紫も刀を振ろうとした。
間違いなく、その瞬間だった。クロウの足元を覆う暗銀の塗膜が、ぶわっと吹き上がった。
まるで、獲物を捕食しようとする軟体生物のように、暗銀の汚泥が襲い掛かったのだ。
ありえない動きだった。吹き上がる汚泥の勢いは凄まじく、霊夢と紫は一瞬反応が遅れた。
溢れだした蟲の脚は、紫や霊夢を引き込む為のダミーだったのか。そうとしか思えない。
クロウは誘っていたのだ。ソルを陰陽球で押し潰す振りをして。紫と霊夢が近づくのを。
不味いと霊夢が思った時には、視界が起き上がった暗銀で染まった。
しかし、汚泥が霊夢を包む事は無かった。スキマだ。紫のスキマが、間一髪で霊夢を飲み込んだ。

霊夢は賽銭箱の前辺りに吐き出され、地面に転がった。即座に起き上がって顔を上げる。
視線の先。紫が、暗銀の塗膜に多い尽くされそうになるのが見えた。
霊夢が紫の名を叫んだ。その時だ。
今まで地面に減り込む処か、掘り進む勢いだった青黒の陰陽球が爆散した。
濁った赤燈の中に、血錆色が混じった炎が見えた。
吹き飛ばした。青黒の陰陽球を。青黒の法力の微光を。焼き尽くす様に炎が燃え上がった。
腕や胸などを、赤銅の甲冑の様に変質させたソルが、炎の中から飛び出して来る。
暗銀の泥濘に飛び込んだソルには、刺々しく暴力的な竜翼が生えていた。
うねり、起き上がり、紫を飲み込もうとしていた銀の泥沼が、ソルによって焼き払われた。
ソルは泥濘を焼き払いつつ横合いから紫を抱えて、クロウの間合いから飛び離れる。
その瞬間を見ていた霊夢は、ソルと眼が合った。
どうやらたいした傷を負った訳では無いようだ。ソルの眼は静かで、だが炯々と輝いていた。
霊夢を助けた紫も無傷だ。クロウを相手に、まだ霊夢達は引けをとっていない。
鋭く息を吐きだしてから、霊夢は再び宙へと見を踊らせる。手に紙垂を握り、指に退魔針を挟む。
もう一度、霊夢はクロウに迫ろうとした。その時だ。全身に鳥肌が立った。
「やっぱり、簡単にはいかないな…」どういう訳か、クロウの声がすぐ此処で聞こえた。
霊夢は確かに聞いた。蟲達の脚から反射しあうように、遠くに近くに、クロウの声がした。
少し遠く。クロウの足元辺りから、ブゥン…という不気味な音がした。
思わず、霊夢は空中で静止した。ソルも紫を放して、二人共クロウの上空から離れる。

「ちょっと手荒になるけど、余り長引かせる訳にも行かないんでね…」
眼鏡の位置を指で直したクロウは、蠕動する足元の塗膜に、法術陣を浮かび上がらせた。
大きい。それも一つじゃない。二つだ。術陣の中心は、まるで黒い穴の様になっている。
その穴からは有刺鉄線が伸びて、伸びて、伸びまくって地面に突き刺さり、何かを引き摺り上げようとしている。

其処から、何かが這い出てくる。蟲だ。
だが、おかしい。奇妙に丸みのある姿形は、人間の肉を想像させる。
巨大な二つの法術陣から、有刺鉄線に引き摺りあげられ、這い出して来たのは、蜘蛛と、蝿だ。
かなりの巨体だ。大き過ぎる。しかも、普通の蜘蛛と蝿じゃない。
人間の赤子と蟲を移植させたような姿だ。彼らは、今生まれたのだ。冒涜的な姿だった。
怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨――――。
鳥肌が立つような産声を上げて、彼らは身を捩じらせている。
儀式は終わらない。朗々と文言を紡ぐクロウの声に会わせ、青黒の微光が広がっていく。
地面を覆う塗膜は境内全体に広がり、覆った全てを金屑の野と化して、幻想の地を蝕む。
クロウの詠唱に応え、金屑の大地は、錆と夢で命を紡ぎ、幻想に現実を鋳込み、産声を上げる。
忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌――――――。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死―――――。
啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞―――――。
無数の蟲赤子の群れが、地面から孵化し、溢れ出したのだ。
蜂。蛆。百足。蟷螂。虻。他にも、蟲かどうかも分からないような造形の生き物達。
生まれたばかりの赤子と、蟲の異種移植の標本を並べたような悪夢の光景だった。
彼らは、彼女らは、一斉に泣いて、喚いて、何かを求めていた。違う。
何かを求めるように造られた、哀れな命だ。

霊夢は胃から込み上げてくるものを飲み下し、何とか冷静になろうとした。
無理だ。そんな暇も無く、押し寄せてくる。溢れ出てくる。悲鳴が漏れそうなる。
だが、悲鳴を漏らす代わりに手にした退魔針を弾幕として投げ放つ。
金屑の蟲赤子達は、しかし怯まない。霊夢の弾幕へと突き進んで来る。押し寄せてくる。
凄い数だが、霊夢は短い深呼吸しながら、札を懐から取り出す。印を結びつつ、宙へと身体を浮かせた。
文言を唱えつつ、界を結び合う札を、蟲達めがけて展開する。拡散結界だ。
広がる結界の帯が、霊夢を中心にしてブワァァアっと広がった。隔絶された境内に、光が溢れる。
結界の帯に捕らえられ、粉々になる蟲赤子達の頭上を、びょんっと何かが飛び越えてきた。
巨体をしならせ、引かれた結界の線を縫うように飛んで来たのは、クロウが召還した蜘蛛だ。
忌悲悲悲悲悲悲悲悲悲悲――――。狂気じみた産声と歓声を混ぜ込んで、蜘蛛は霊夢に飛び掛った。
蜘蛛には、やはり人間の赤ん坊が無理矢理に縫合されたような姿だ。
八本の脚を大きく広げて、霊夢に抱きつくかのように迫ってくる。
霊夢は身を翻らせ、その脚をすり抜けた。すれ違い様に、手にした紙垂に霊気を纏わせて、蜘蛛の胴を打ち据える。
強かに打たれた蜘蛛は地面に叩き落され、ジタバタと脚を動かした。
その蜘蛛に退魔針の雨を降らし、止めを刺してから、霊夢はクロウへと迫るべく飛翔する。
金屑の蟲達は、拡散結界に抑えられ、思うように動けないでいる。

だが、クロウの方は、霊夢には視線を向けない。
クロウが見ているのは。今しがた、空中で蟲赤子の蝿を叩き斬ったソルだ。

ソルは竜翼で空を打って、クロウ目掛けて急降下していく。
霊夢よりも疾い。血錆色の炎が、ソルの竜鱗を包んでいる。ソルは吼えた。
轟音と共に、ジグザグに太過ぎる炎が奔った。落雷の様にクロウに突き刺さった。
クロウに迫ろうとしていた霊夢には、少なくともそう見えた。
途轍もない威力の何かが、クロウ目掛けて放たれたのだ。その威力も馬鹿げていた。
浮いている霊夢は、遅れてやってきた衝撃波で後方へ吹き飛ばされた。
空中で何とか姿勢を整えた霊夢が顔を上げると、もう蟲赤子の群れは壊滅的だった。
今までクロウが居た場所は、荒れ狂う炎の瀑布と化していた。
血錆の炎は蟲達を容赦無く飲み込んで、無慈悲に蹂躙していく。
流石は、プロトタイプギアと言うべきかな。…恐れ入るよ。
だが、その炎の嵐の中から、やけに通る低い声がした。
キィィィンンという耳鳴りと共に、霊夢はその声を聞いた。
何かが起こったのだ。それは、すぐに分かった。
今まで荒れ狂っていた炎までもが、陰陽球のように暗銀に覆われ、凝り固まっていく。

「が…ぁ!」

その凝り固まる暗銀の炎の中から、ソルが吐き出されるように地面を転がってきた。
金屑と化した蟲赤子達の残骸の上を転がったソルは、すぐに起き上がりはしたが、駆け出そうとして膝を崩した。
見れば、頚や胸、腹や肩口に、銀色の蟲の脚が突き刺さり、大穴を穿たれている。
ごほっと血の塊を吐き出したソルは、パキパキと固まっていく炎を睨みつけた。
クロウの姿は見ない。だが、暗銀の炎だけが、蟲の脚へと姿を変えていく。
炎すら錬金し、自分の意のままの姿を取らせている。
その暗銀の炎から歩み出て来たクロウは、顔色一つ変えず、何かを短く唱えた。
その瞬間だった。膝立ちになったソルの身体に、青黒の紋様が浮かび上がった。
「ぐ…がぁああああああぁぁああああ―――――ッ…!!!」
ソルは額を地面にぶつけるようにして倒れた。
苦悶の絶叫が響く。ギアの肉体を灼く青黒の紋は、ソルの身体と精神を苛む。

「君の肉体は、もう既に僕の敵じゃない。
諦めた方が良いと思うけれどね。…君の炎は、もう怖くない。
どういう訳か。今の僕は酷く醒めているよ。何故だろうね…。
もしかしたら、僕は君に何かを期待していたのかもしれないね…」

まだ膝を付くソルを目掛けて、炎に象られた蟲の脚が溢れ出て来た。
霊夢はそのソルの前に滑り込み、紙垂を一文字に構えて、防御霊術で術陣を構築する。
弾幕で押し返すだけの余裕は無かった。ソルを庇うように立って、霊夢は歯を食いしばる。
術陣と蟲の脚が激突する度、地面が鳴動するのを感じる。霊夢の小さな身体が悲鳴を上げる。
蟲の脚は、物凄い量と勢いだ。耐えられそうに無い。

ソルは身体に喰いこんだ蟲の脚を引き抜きながら、術陣を張る霊夢の背後で立ち上がった。
それが分かった時だ。霊夢の術陣が割れて、砕けた。
「……博霊…ッ!」その直後に、霊夢はソルに抱きすくめられ、何も見えなくなった。
視界が真っ暗になったが、身体に感じる衝撃は嫌になるほど生々しい。
ああ。私は、またソルに守られてる。ソル。ソル。名前を呼ぼうとするが、声が上手く出ない。
只管に真っ暗で、揺さぶられるだけだ。何も見えない。熱くて、苦しい。
そのうち衝撃が止んで、霊夢を庇うソルの身体が、急に重くなった。
霊夢は、倒れたソルに押し潰されるような形で、抱きすくめられていた。
すぐにソルの身体から這い出そうとして、気付く。言葉を失った。

霊夢とソルの盾になるように、今度は紫が深四重結界を構築していた。
長刀を手にした紫が結界を結び、クロウが発生させた蟲の脚を受け止めていたのだ。
それだけじゃない。紫はソルと霊夢を庇いながら、更に詠唱を続けている。
神社を包み、幻想郷から隔離していた結界が、縮み始めていた。
まるで、中に居る者全てを押し潰すかのようだ。
木々が砕け、地が捲れ上がる。吹き荒ぶ、風ならぬ風。
深紫に染まる空と、停滞の狭間に置かれた博霊神社であり、博霊神社では無いこの世界が。
全てを飲み込み、虚無へと還ろうとしている。余りに大掛かりな封印結界術だった。
今まで紫が姿を見せなかったのは、この為だったのか。
大地が轟々と鳴動し、空は今にも落ちて来そうだ。
境界で仕切られたこの世界が紫の声に応え、今正に閉じようとしている。

暗銀の塗膜と、蟲の脚に守られたクロウの姿は、やはり霊夢からは見えない。
だがそれでも、この結界世界の変律には気付いている筈だ。黙っている訳が無い。
その証拠に、紫の張った深四重結界に、地面から吹き上がった有刺鉄線が絡みついた。

「成程、僕はまんまと君達に嵌められた訳か…」
立ち上がり、ソルを横抱きに抱えた霊夢は、クロウの低い声を聞いた。
その声はやはり、遠くから、近くから、四方から聞こえて来る。
何処だ。何処に居る。クロウは。霊夢は視線を巡らせる。
だが、紫の張った結界の向こうは、金屑蟲の節くれだった脚の群れと有刺鉄線の嵐だ。
暗銀のオブジェと化したソルの炎が崩れ落ちるのが、遠くに見える。
其処にもクロウの姿が見えない。紫は構わずに、一心不乱に詠唱を続けた。
紫の詠唱は、強大な結界術を為して、神社を括る世界を圧搾する。
押し潰し、すり潰し、滅却する。虚無の彼方へと、砕いて放逐する。
スキマ送り。もうこの世界で無事なのは、博霊神社の境内の内部だけだ。
だがそれもじきに、この空間ごと圧縮され、消滅する事になる。

「此処から出るわ…!」
紫は深四重結界を解くと同時に、自身と、霊夢とソルをスキマに飲み込んだ。
一瞬後。支えを失った蟲の脚が紫達の居た場所を襲う。石畳を粉々に粉砕し、地面を抉る。
迫り来る結界の圧縮の中で、只一人残されたクロウは、軽く鼻を鳴らした。





元の次元。斯く在るべき幻の世界。
幻想郷の博麗神社へと帰還した紫は、荒い息を吐いて地に膝を付いた。
手に握っている長刀の柄も、汗が伝う。肩で息をしながら、紫は背後を振り返る。

「…何とか結界内に閉じ込めたけど、
彼がこのまま大人しくしているとは、到底思えないわね」

「…ああ…直に出てくるだろうな…」
見れば、霊夢に横抱きにされたソルが、眼を覚ましていた。
だが、ソルの身体を覆う竜鱗には、青黒の紋が刻まれたままだ。
紋様は未だに鈍い光を放っていて、明滅の度にソルは苦しそうな呻きを上げる。
それでも、ソルは霊夢の肩を借りて何とか立ち上がり、封炎剣を杖の様に地に突き立てた。
長い戦闘の経験からか、ソルはあれだけ攻撃を受けても、封炎剣を放していない。
流石にダメージを受けたのだろう。その剣を持つ手も、微かに震えている。
「……怪我は…」 無事とは言い難い状態のソルは、霊夢へと視線を向けた。

「私は大丈夫だけど、あんたは…!」
何か言いかけた霊夢は其処で言葉を切って、ソルを少しだけ睨んだ。
無茶ばかりして、と言いたいのかもしれない。霊夢は何か言おうとしようとしている。
だが、結局何も言わずに、ソルから眼を逸らした。…ありがと。
ぶっきらぼうに短く言ってから、霊夢は紫に向き直る。そして絶句した。
紫のすぐ背後。其処に、もう一つのスキマが在った。有刺鉄線で編まれた、スキマだ。
其処から、クロウが現れたのだ。奴は傷一つ負っていない。口許に微笑みすら浮かべている。
霊夢は紫を突き飛ばそうとしたが、間に合わなかった。
剣を地面から抜いたソルも、何とか動こうとしていたが、完全に遅れていた。
「く…っ!?」 紫も気付いたようだが、クロウの方が疾かった。
振り向き様に振られた紫の長刀を、青黒の光を待とう右手で受け止め、クロウは何かを唱えた。
それに応えて、有刺鉄線で編まれたスキマが、ブワァァっと幾つも口を開けたのだ。
紫が開こうとしたスキマは、空間から生えた有刺鉄線が縫い付けてしまった。
それだけじゃない。抵抗しようとした紫の手首、喉首に青黒の術紋が浮かんだ。バインドだ。
紫が長刀を取り落とした。スキマを封じられ、能力を抑制された紫が、捕らえられた。
霊夢とソルはクロウに迫ろうとした。だが、有刺鉄線で編まれたスキマがそれを阻んだ。
幾条も開いたその口から、無数の金屑蟲を吐き出したのだ。
咄嗟に防陣を展開したまでは良かったが、霊夢は蟲の群れに押し流された。
ボキボキ、バキバキ、ギャリギャリ、ギャガガガガ…! 金属同士が激しく擦れる音がする。
その中を突っ切ろうとしているのは、ソルだ。血錆の炎を身体に纏わせ、剣を振るっている。
だが、無理だ。金屑蟲達の勢いの方が遥かに上だ。まだ、これだけの数を召還出来るのか。
ぬぅ―――ッ!! ソルの身体に蟲達が牙を立て、爪を食い込ませる。
だがそれでも、ソルは紫の元へ辿り着く為に前へ出る。そのソルの身体が更に変質していく。
ソルの貌以外を覆う竜鱗の外骨格は、既に血錆の炎を燻らせている。
封炎剣は巨大な炎剣と化して、蟲の群れを焼き潰し、両断し、ソルは踏み込んでいく。
何とかして、紫を助けようとしている。バインドを解こうとしている。
金屑の蟲を残骸へと変えて、ソルは歩を進める。ソルは吼える。紫の名を呼ぶ。
クロウはそんなソルを見て、嘲笑うでもなく、称賛するでもなく、ただ見ていた。
霊夢もそうだ。防陣を張ったまま、呆然と見ていた。眼を奪われていたのかもしれない。
荒れ狂う炎と鉄屑の中、ソルを呼ぶ声がした。紫の声と。ああ。これは自分の声だ。
喉が痛む。霊夢は焼けるような空気を吸い込んで、ソルの名を叫んでいた。
まだだ。立ち止まるな。まだ行ける。手は在る筈だ。
霊夢は防陣を解くと同時に屈んで、懐から取り出した札を地面に叩きつけるようにして貼り付けた。
八方鬼縛陣。澄んだ朱と、清流にも似た薄青の光が、霊夢を中心に地面に陣を刻む。
四角形の霊術陣で囲まれた霊夢は、文言を唱えて術式を起動させ、解き放った。
術陣からは霊光の柱が聳え立ち、霊夢に押し寄せる金屑の蟲達を蒸散させる。
その光の柱を付き抜けて、霊夢もソルに続く。弾幕を展開して飛翔する。

金屑蟲達が蹂躙されるのを眺めながら、クロウは紫を捕らえるバインドを強めた。
身動きを抑えられた紫は、境界操作によってスキマを開こうとしたが、無理だった。
空間に干渉するスキマの悉くを、クロウの操る有刺鉄線が縫い付けていくのだ。
余り暴れられると困るね。少し大人しくして貰おうかな…。
呟いたクロウは、紫を捕らえるバインドの上から、更に封印法術を施した。
かつて、連王カイを捕縛した、独立型ウロボロスループの拘束術式だ。
霊夢やソルに何かを言おうとした紫は、青黒い球状の術陣に閉じ込められた。
術陣の外からは、紫の姿は見えない。完全に捕らえられてしまった。

「僕も一応、境界が視えてるんでね」 そう言ったクロウは左腕をソルと霊夢に翳す。
青黒の法力の光を宿したクロウの左手は、地に散乱する金屑の残骸にすら命を与える。

境内が、あっという間に暗銀の塗膜で染まり始める。
地面に転がる残骸が不気味に蠕動し、解け、蠢いて、寄り集まり、姿を変えていく。
次第に金属の残滓は何かを象り始める。ゆっくりと開いていくそれは、蓮の花だ。
残骸が姿を変える。金属の滓と錆で編まれた、青黒の微光を纏う銀蓮華。
汚染された境内の上、暗銀の塗膜の中に咲いていく蓮の群れだった。
突然出来上がった蓮の池の中で、ソルの纏う炎が鈍り始めた。
「…ぬぅ…!」 それだけじゃない。ソルの動きも、明らかに鈍くなった。
苦しげに呻いたソルの身体。その竜鱗に刻まれた青黒の紋が、暗銀の微光を放っている。
霊夢も同じだ。展開した弾幕が、青黒の光に染められて霧消していく。
銀蓮華の群れが、ソルと霊夢の力を汚染しているのだ。

霊夢は歯噛みするが、次第に身体に力が入らなくなりつつある。
不味い。劣勢だ。だが、それでも諦める訳にはいかない。
指で印を結び、霊夢は札を構える。汚染された霊気を纏いつつ、宙へと舞い上がる。
霊夢は何にも縛られない。全てから浮き上がり、あらゆる法則から解き放たれる。
纏う朱色の霊気から、青黒の澱みが抜けていく。澄んだ紅の微光が、帯を引く。
これで倒れなさいよね…。呟いた霊夢は、七つの陰陽球を自身の周囲へと纏わせる。

GuuuuuuoooooooaaaaAAAAAHHHHHHHhhhh――――!!!!
その霊夢の眼下で、蓮の花の群れの中でソルが咆哮を上げた。
ソルの纏う血錆の炎が、巨大な竜髑髏の陰影を象り、金屑の蟲の群れを突き抜けていく。
とにかくもの凄い熱波だ。髑髏の竜と化したソルが、クロウに迫る。

クロウの方は少し眼を細めて、笑みを浮かべて見せた。

「君は随分弱っているようだね。…本気を出すのが怖いのかい?」
その低い声と共に、クロウの足元の塗膜が震えた。ブゥン…、という鋭い振動音も聞こえた。
次の瞬間だった。まるで茨が噴出すように、青黒の光を宿した有刺鉄線が溢れて、ソルの炎を受け止めた。
その炎と、ソルを見詰めて、クロウは緩く首を振って見せる。

「敵も味方も分からなくなる程に君が本気をだせば、或いは僕を殺せるかもしれないよ。
 それが出来ないのかい? どうしてだい? 失うのが怖いのかい? 以外だな。
 いざとなれば、君はもっと、あらゆる者に容赦無いと思ったけれど…
やはり変わったんだね。人間らしくなったね。良いことだ。喜ばしい事だね」

GaaaaAAAAAAAAAAAAHHHHHHHH――――!!!!
血錆炎の濁流が堰き止められ、遮断されている。信じ難い防御力だ。
燃え盛る炎の髑髏流を纏い、ソルは何とかその茨の壁を越えようと剣を叩き込む。
その度に地面を振るわせる振動が在り、炎が柱のように燃え上がった。
衝撃にやられ、神社が今にも崩れそうだ。空を焼く炎を前に、クロウは冷静なままだ。
なんて奴だ。あのソルを目の前にして、無傷のままで佇んでいるなんて。

霊夢も、陰陽球を纏ったまま急降下する。
だがそれも読まれていた。クロウが不意に、霊夢を見上げてきたのだ。
ただ見上げて来た訳じゃない。明らかに、奴は霊夢が迫ってくるのを待っていた。
ソルの猛進を受け止めているクロウは、ゆっくりと左手を霊夢に翳す。

「夢想天生、と言う奴かい? …随分と本気だねぇ」

クロウの詠唱よりも早く、霊夢はこの世界から浮き上がろうとした。
ズズズ…、という音を聞いた。
突如現れた有刺鉄線のスキマが、霊夢の両手首に噛み付いたのはその時だった。
青黒の微光を放つ有刺鉄線は、対象の能力を捕縛する。バインドだ。
技の出掛かりを潰された。霊夢は空中で絡まった有刺鉄線を引き剥がそうとするが、無駄だ。
足掻けば足掻くほど、余計に絡まる。そのうち、足首にも鉄線が巻きついてくる。
「くっ…ぁっ!」 空を飛ぶ力すら捕らえられ、霊夢は失速し、銀蓮の群野に肩から墜落した。

同時だったろうか。再びクロウが短い詠唱を行った。
クロウ詠唱に応え、ソルの身体に刻まれた紋が、肉体と精神を蝕む。
青黒い光を明滅させ、ギチギチと音を立てて、ソルの自我を縛り上げていく。
「Gaaaahhhh――――!!」 血錆色をした竜髑髏の陰影が、大きく揺らいだ。霞んでいく。
ソルの突進の勢いが死んだ。ソルが膝を付いたのだ。身体中から炎血を流している。
眼や口からも血を流して、それでも、有刺鉄線で編まれた茨の壁越しに、クロウを睨む。
怖いね、そんなに睨まないで欲しいな。炎を阻むクロウは肩を竦めて見せる。
燃え盛る血錆の炎が霧消していく中でも、ソルは起き上がろうとしたが、やはり膝が崩れた。

クロウの法術が、ソルを、炎を蝕み、汚染する。
GuuuuooooOOOOOOOAAAaaahhh―――!!! 
蹲る様な格好のソルは、苦悶を振り払おうと咆哮する。
血を吐き出しながら、ソルは何とか、機術の呪縛から抜け出そうとしている。
だが、無理だ。出来る筈が無い。クロウにはまるでダメージが無い。奴はピンピンしている。
機術が強まることは在っても、弱まるなんて事は無い筈だ。
私が。私が行かないと。助けないと。ソルを。紫を。
歯噛みしながら、霊夢は手首と脚首を噛んで来る有刺鉄線のスキマを、何とか解呪しようとした。
「私!! 参上!!」 ふざけた様なテンションの高い声が聞こえたのは、その時だ。
次に、ドッシィィィィィイイイイイイン――――――!!! と来た。
凄まじい振動と衝撃だ。霊夢は腕で顔を庇う。鉄線が手首に食い込んで痛いが、それ処じゃない。
余りの揺れに、ドンガラガッシャンと神社の半分が崩れるのが横目で見えた。何てことだ。
何かが落ちて来た。見覚えが在る。在り過ぎる。あれは。注連縄がされたあの巨大な岩石は。
ソルとクロウの間。其処に在った、法力を纏う茨の鉄線を押し潰したあれは、要石だ。
赤い霊光を纏う要石の上には、あざやかな蒼天色の髪を靡かせた少女が立っていた。
気質を操る、気炎万丈の天候の権化。踏ん反り返った不良天人は、
非想非非想の剣を片手に傲然と立ち、霊夢に視線を寄越した。
「助けに来てやったわにょ…!!」噛み噛みに言いながら、親指を立てたのは比那名居天子だ。


要石が落ちた時の衝撃で後方に飛ばされ、尻餅を付いていたクロウも、少々呆気に取られた様だ。
ぽかんとした貌で要石の上に立つ天子を見上げている。だが、間違い無くクロウの詠唱が途切れた。

「礼を言うのは何だか癪だけど、助かったわ…!」
霊夢は天子に言いながら立ち上がり、自身を縛るスキマを解呪し、ソルの元へ飛ぶ。
自分が何だか不甲斐無く思えて、少しだけ涙が出そうになった。心臓が一気に脈打つ。
ああ。大丈夫なんだろうか。ソルは。倒れてる。蹲る様に。胸を搔き抱くようにして。
丁度、要石の陰に隠れるような場所だ。吹き飛ばされるのを何とか堪えたのだろう。
だが、それでも立ち上がれなかったのだろう。苦しげに呻いている。
指先や脚が痛みで震えるが、それがどうした。とにかく、ソルを此処から離さないと。
霊夢はソルの傍に降り立って、肩を貸すようにして、何とかその身体を持ち上げようとした。
…逃げろ…博霊……。血と一緒に低い声を零したソルと、眼が合った。
相当な負荷を精神にも肉体にも受けたのだろう。金色の眼の焦点が、微妙に定まっていない。
逃げろなんて言われて、はいそうですかと、霊夢が逃げると思っているのだろうか。
鼻を鳴らして、霊夢は肩でソルの身体を支える。「ええ…! アンタも、紫も…連れて行くわよ…!」





突然の闖入者に、クロウは呆然としていたが、すぐに冷静さを取り戻した。
尻餅を付いた体勢からすぐに起き上がる。いや、起き上がらざるを得なくなった。
とうっ! と、要石の上から、彼女が飛び降りて来たからだ。
手には、橙と紅蓮が混じり、身が炎のように脈打つ剣が握られている。
あぁ、成程と…、クロウは眼を細めた。そして、左手に青黒の微光を纏わせ、機術を編む。
天子は落下速度を乗せて、クロウ目掛けてギュオンと剣を振り下ろした。
だが、非想非非想の剣は届かない。クロウの足元から吹き上がる蟲の脚に遮られた。
爆音にも似た衝撃と衝突音を感じながら、天子は不敵な笑みを浮かべた。
クロウも、口許を緩めて穏やかな笑みを返す。

「少しデータで見ただけなんだけどね…
天人の子かな。面白いものを持っているね」

「すぐに面白く無くなるわ…!」

天子は剣を引きながら後方へと飛び退って、地面へと剣を叩き込んだ。
不譲土壌。激震と共に地面が激烈に隆起し、尖る岩盤が突き上がるようにしてクロウを襲う。

「おっと、これは…!?」
クロウは慌てたように結界を張る。だが、結界を張ったところで逃げ場は無い。
拘束した紫を守るクロウは、その場を動けない。完全に立ち往生の状態だ。
ミシミシ、メキメキと音を立て、隆起した大地がクロウの結界を締め付け、押し潰そうとする。

だが、まだ天子の攻撃は止まない。
何度も何度も地面に剣を打ち込み、地殻変動を巻き起こす。
ドッグォォオン、バグォォン、と派手な地うねりと共に、地面がクロウへと襲い掛かる。
凄まじい質量の攻撃だ。クロウの貌に、少しの焦りのようなものが浮かんだ。
無理も無いだろう。クロウが展開した暗銀の結界にも亀裂が入りまくって、今にも割れそうだ。
止めとばかりに、天子は宙高くへと飛び上がる。同時に、先程降らせた特大の要石を浮かび上がらせた。
落とす気だ。その瞬間に、一瞬の空隙が出来た。


「……俺が…奴の結界を割る…八雲を頼む…」
何とか身体を起こしたソルは、宙へと竜翼を広げ、霊夢に視線を寄越した。
霊夢も、その言葉を信じるしかなかった。とにかく頷いて、紫を奪還する事に集中する。
出来る筈だ。天子がクロウを押さえている間になら。ソルが竜翼で宙を打って、飛び出した。
地面が隆起しまくっている境内は、もはや境内とは呼べない様な状態だ。
荒れ砕け、突き出る岩盤の溝を、ソルは縫うように飛翔して、クロウへと迫る。
天子は更に高度まで要石を持ち上げていく。クロウはそれを見上げている。
行ける。霊夢も飛びだす。ソルの後に続く。割れた海のような岩石の中を、飛び行く。
その最中だった。地面のうねる音が。地殻が変動し、突き上がって来る音が消えた。
何をした。天子か。いや、違う。これは。

「操るべき大地が敵に廻ったら、君の剣は何の役に立つのかな。…興味深いね」
霊夢は愕然とした。クロウの法力機術が、今までに無い規模で汚染を始めたのだ。
地面を暗銀一色に染め上げ、隆起した岩石は、歯車仕掛けの機械の塔へと姿を変えていく。
うねる銀の大地からは、鋼液が触手となって天子の元へと迫ろうとしている。
無茶苦茶だ。そんな。こんな事が在って良い筈が無い。此処は、幻想郷だ。
クロウはそれすら無視している。この場所に、現実という神話を招き入れようとしている。
銀と親和、錆と夢の要塞と化した博霊神社は、天から降り来る要石を排除しに動く。
伸びて伸びて、伸びまくった凶悪な触手の先には、人間の子供の顔のようなものが在る。
啞。忌。怨。呪。死。滅。亞。宇。重。珂。罫。詠う。触手達が歌う。一斉に。
命在る者の声だった。呪われた産声の輪唱だ。気が触れそうだ。何て声だ。やめて。
霊夢は墜落しそうになる。飛翔する体勢を崩しそうになる。気付いた。顔触手が。
伸びてくる。霊夢目掛けて。反応が遅れた。咄嗟に身を捩ったが、肩口に噛み付かれた。
ぶちぶちと、肉を持っていかれた。痛い。だが、止まっている暇は無い。どんどん来る。
不味い。避け切れない。そう思った時だ。誰かが、霊夢に迫る顔触手をぶった切った。

「旦那ァ…! 霊夢ちゃんは任せろ! 先に逃げとくぜ!」
声が聞こえた。誰。知ってる声だ。アクセル。アクセルだ。
顔触手をズッタズッタと切りながら、銀の尖塔を跳び渡って来たアクセルは、墜落しかけた霊夢を抱きとめたのだ。
同時に、鎖鎌を棒状にして、一目散にこの場を離れようと走る。
ちょいと揺れるけど、ごめんね…! アクセルは、駆ける。飛ぶ。迫る顔触手をかわす。
抱えられた霊夢は、放してと言おうとした。まだ、紫が捕まったままだ。まだ、私は戦える。
そう言おうとして、身を捩ろうとしたら、喰いちぎられた肩に激痛が走った。
何とか視線を、飛び行くソルへと向ける。其処で、ソルと眼が合った。すぐにソルは眼を逸らした。




クロウの結界は、先程よりも更に強度が増して、自身の周囲を要塞と化している。
今のソルの状態では、突っ込んでも返り討ちに会うだろう。突っ込めない。相手に出来ない。
霊夢と天子のどちらのフォローに入るか。その決断に迫られた。
顔触手が伸びるまくる中では、思考の余裕は無かった。亞。啞。怨。苧。騨。食
遠慮なく、触手はソルにも伸びてくる。封炎剣で斬り捨てながら、ソルは判断せねばならなかった。
視界が霞み始める。限界が近い。クロウに食らわされた汚染法術が、想像以上に利いていた。
だから、このタイミングでのアクセルのフォローは助かった。

ソルは、霊夢とアクセルが神社を離れるのを確認してから、空へと浮かぶ要石へと向う。
空を打つ竜翼からも、血の代わりに火の粉が漏れ出している。だが、まだ止まれない。

「何なのよ、こいつ等! キショイのよ、このッ!」
視界の先。要石の上では、剣を振り回しながら、天子が喚いていた。
伸びてくる顔触手の相手に必死なようだった。
非想非非想の剣を懸命に振り、触手の群れを追い散らそうとしているが、すぐに限界が来た。
一本の触手が、天子の左手に絡みついた。それを引き剥がそうとしているうちに、今度は左脚に触手が絡み付いてくる。

「こ、この…っ!」 
涙目になった天子は、触手を振りほどこうとしているが、その間にも別の触手が次々と迫って来ている。
駄目だ。数が多すぎる。ソルは要石に着地すると同時に、鋭く息を吐いた。
「…伏せろ…」血の塊を吐き出しながら、ソルは天子の元に飛び込む。
天子は、ソルの声に反応したと言うよりは、腰を抜かしてへたり込んだ様だった。
その頭上を、ソルの封炎剣が通り過ぎ、天子を縛る触手を、一閃し斬り飛ばした。
「…ぬぅぁ…!」 ふらつきながらも、ソルは触手の群れを斬りまくり、焼き潰す。
それから、呆然としたような貌の天子を荷物みたいに抱え、要石の上にふわりと陣取った。

「…落とせ…!」 「へっ!? あっ、ええっ!」
抱えられた天子が、慌てたように言ったと同時だった。
宙に浮いていた要石が赤光を纏って落下を始める。

「……離れてろ…」
抱えていた天子を放し、要石を追う格好で、ソルは急降下しようと身体を傾けた時だ。

『妖怪の賢者を助ける必要は無いよ…。
 いや、必要無くなったと言った方が正しいかな』

穏やかな少年の声が、ソルの耳に届いた。
やけに近くだ。すぐ其処と言って良い。だが、声の主の姿が見えない。
何処だ。何処に居る。

『此処だよ。僕は此処に居る。君の傍に居る。君を見ているよ。
君はまた無茶をしようとしているね。そんなにボロボロになって。酷い状態だ。
妖怪の賢者を助ける為に、まだ彼に立ち向かうつもりかい?』

黙れ。黙れ。黙れ。八雲が捕まってる。
もう残っているのは、俺だけだ。邪魔をするな。

『駄目だよ。君にこれ以上、無茶をさせる訳には行かないよ。君が必要だ。
…いや、君達が必要だ。失う訳にはいかないな。悪いけれど…』

「ぐ…貴様っ!」 ソルの身体が、空間に現れた黒い水面に飲み込まれる。
「ちょっ…!?」 天子も同じように、黒い水面に引きずり込まれる様にして消えていく。

八雲…っ! ソルの呼ぶ声も、水面に飲まれ、クロウの元までは届かない。
代わりに、余りに巨大過ぎる要石が降っていく。
轟々と音を立て、神社全てを押し潰そうと降ってくる。
隕石の如き要石を見上げながらも、クロウは軽く溜息を吐いた。

「GEAR MAKERのお出ましか。
…良いね。『キューブ』まで行く手間が省けそうだ」

クロウの詠唱に応えたのは、やはり汚染された大地だ。
博霊神社に走る龍脈すら侵食し、力に変える。
奇跡も不可思議も、夢も幻も、信念も想念も関係無い。
クロウにとっては、それら全ては非実在の金属であり、打ち鍛える為の材料でしかない。
振り来る要石も、同じだ。法力の機術細工師にとっては、脅威にはならない。
豪速で落下する超質量の要石が、瞬く間に鋼液の雫となって飛散した。
命を鋳込む彫金師であるクロウにとって、破壊とは創造の延長に過ぎない。
存在する全てが味方だ。命は尽きない。寿命こそ在れど、それは永遠だ。

クロウは液鋼の冷雨を結界の中で眺めながら、空を見上げた。
曇天となった空の中には、もうソルの姿も天子の姿も無い。
霊夢も、飛び込んできたアクセルと共に離脱するのを見ていた。
戦闘は勝利とは言えず、収穫も少なかった。
まぁ…合流まではまだ時間は在るかな…。
クロウは口許を緩めて、懐から端末を取り出した。




[18231] 三十九・一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 23:02
曇天の空に亀裂が出来た。其処から覗く太陽が頭上を越え、傾きかけている。
山の稜線は次第に茜色に染まり、そのうちに暗がりがやってくるだろう。
空気が張り詰めていて、只管に重い。息が詰まりそうだ。風も止んでいる。
空間に出来た黒い水面は、“あの男”の操るスキマだ。それは、直ぐに分かる事になった。
黒い水面から、ソルと天子が吐き出された場所は、戦いの痕の残る守矢神社の境内だった。
“あの男”は既に其処に居て、神奈子や諏訪子、早苗の姿も在った。
また早苗達の他にも、幻想郷に住まう面子の多くが、守矢神社に集まっていた。

魔理沙やアリスも居るし、それに、紅魔館のメンバーも揃っていた。
レミリアにフラン、パチュリーに咲夜、美鈴が、神妙な顔で佇んでいる。
子悪魔の姿は無いが、図書館の留守を任せているのだろう。
境内の隅で、半壊状態のロボカイ達を弄り、修理しようと奮闘しているのは、にとりを含む河童達だ。
他にも、射命丸を含む天狗達や、山の妖怪達も数多く集まっている。
ひしめき合う程では無くとも、かなりの数が集まっていた。
夕暮れの迫る境内には、先程まで博麗神社から離脱した筈のアクセルや、霊夢の姿も在る。
霊夢達も、“あの男”によって此処に送られて来たのだろう。


「あれ…、此処って、守矢の神社…!?」
転移の後、玉砂利の上に立ち上がった天子も、いきなりの事に若干おろおろとしている。
黒い水面から吐き出され、視線を巡らせながら立ち上がったソルは、奥歯を噛んだ。
境内の中心辺りに佇み、ソル達の方へと視線を向けている“あの男”を睨む。
だが、何も言葉が出ない。怒りや憎悪よりも先に、疑念が頭を擡げてくる。
今更、何をしに現れたのか。何が目的なのか。分からない事ばかりだ。
ソル達が現れ、境内に居る者達の間に漣の様なざわめきが起こっている。
そんな事はどうでも良い。ソルは立ち尽くしかけた。聞かねばならない事が在る。
在り過ぎる。何故だ。何故、邪魔をした。俺を、博霊神社へと連れて行け。
八雲が。八雲が捕らえられた。放っておけるか。此処に用は無い。立ち止まらせるな。
何も感じないと思っていた心が、こんなにも乱れている。胸が苦しい。苦し過ぎる。
耐え難い。耐えられそうに無い。耐える必要も無い。俺の邪魔をするな。
少し離れた位置に居る“あの男”へと、ソルが口を開こうとした時だった。

霊夢とアクセルが駆け寄って来た。二人とも深刻な貌だった。
いや、駆け寄って来たのは、アクセル達だけじゃない。藍や橙、それに魔理沙達も居た。
皆一様に不安そうな顔だった。「紫の姐さんはどうなったんだ!?」
焦ったアクセルの声に、ソルは何も答えられなかった。ソル自身が聞きたい位だった。
黒い水面から現れたのが、ソルと天子だけだったのを見ていた霊夢も、何も言わずに唇を噛んで俯いた。
横合いからソルに掴み掛かる勢いで詰め寄ったのは、藍だった。その傍には橙も居る。
紫様は!? 紫様は、どうなったのです!! 血相を変える藍の声は、やけに虚しく響いた。
焦りきった貌の藍と、不安そうな貌の橙を交互に見て、ソルはすぐに眼を逸らした。
ソルは、……すまん…、としか答えられなかった。そうとしか言い様が無かった。
藍はその場にへたり込みそうになったが、顔を片手で押さえ、何とか踏みとどまっている。
そんな感じだった。恐らく、ソルも似た様な様子なのだろう。疲れていないと言えば嘘になる。
頭が切り替わらない。八雲を救えなかった。その事実を消化しきれていない。
「…苦戦した様ね」 焦燥した様子のソルに、労う様にそう声を掛けたのは、
フランや咲夜、美鈴とパチュリーを引きつれ、ソル達の前へとやってきたレミリアだ。
紅魔館のほぼ全員が此処に出張って来ているというのは、ただ事ではない。
しかし、レミリア自身は特に気負う風でも無く、飽くまで自然体だ。
ソル達の様子で、戦闘の結果や紫がどうなったのかも、ある程度は察したのだろう。
それは、恐らくレミリア達だけでは無かった筈だ。分からない訳が無い筈だ。
この場に集まっている者達も、ソル達の様子から感じ取ったに違い無い。
何か重大な事が起こったことを。それが妖怪の賢者に関わることを。
重く沈みこんだ空気の中で、誰も、何も言おうとしない。
或いは、“あの男”の言葉を待っているのか。

境内の中心辺りに静かに佇み、
ソル達を見詰めている“あの男”に、レミリアは静かに向き直る。
それに倣う様に、境内に集まった者達も一様に“あの男”向き直った。
集まった者達の視線を一身に受けて、“あの男”は口許に緩い笑みを浮かべたままだ。
黙したまま、皆を見守っている様ですらある。
神秘と禁忌を纏う少年の姿で、魔人は其処に佇んでいる。

「ちょ、ちょっと貴方…!」その静寂の中を、ずんずんと歩を進めたのは天子だ。
空気を読んでいないのか。それとも、空気を読んで敢えてそうしたのか。
肩をいからせ、“あの男”の前まで歩み出た天子は、腕を組んで首を傾げて見せた。

「こんな処に私達を送って来て、どういうつもりかしら? 
せっかくこの私が参戦したって言うのに、途中で邪魔してくれちゃって…
貴方の御蔭でちっとも活躍出来なかったじゃない!」

傲然と言い放たれた声音にも、法衣を目深く被った“あの男”はひっそりと微笑むだけだ。
抗議にまるで反応らしい反応を見せない“あの男”に、天子はむにむにと唇を歪めた。
その眉間には皺が寄っている。「な、何とか言ったら―――」其処まで天子が言った時だ。

「割り込んでしまって、申し訳無い事をしたね。許して欲しい」
不自然な程に澄み渡った声で言いながら、“あの男”は天子に僅かに頭を下げた。
あまりに素直に謝られ、「うっ…」と、天子も言葉を詰まらせ、思わず身を引いている。
その天子を一瞥してから、“あの男”は周囲へと視線を巡らせてから、ソルに向き直った。
境内の中に緊張が走る。殺気だ。ゴリゴリと歯を噛み締めるソルが、殺気を滲ませたからだ。
ソルが睨み据える“あの男”の口許には、やはり穏やかな笑みが浮かべられている。

「相変わらず無茶ばかりしようとするね。…君は。
 しかし…君の心の中には、良い変化が見られるね。嬉しく思うよ」

「…戯言は良い…何故邪魔をした…」 

そう言ったソルの声音は、聞く者の心を圧し折る威圧感が在った。
ソルと“あの男”の間に立っていた天子は、びくりと肩を震わせ、そそっとソルの前から退いた。
だが、それ程までにソルの声は威圧的だった。ビリビリと境内の空気が震えている。
天子のように息を呑んだのは、一人や二人ではなかった筈だ。
集まった妖怪達も、知らず及び腰になっている者も多数居た。

「邪魔をしたと君は言うが、それは違う。僕は君達を助けたつもりだよ。
 あのまま闘っていても、君は勝てなかった筈だよ。違うかい? 違わないと思うよ。
僕は、何も君だけを助けようとしている訳では無い。当たり前だけれどね。
幻想郷を救う為に…此処に居る皆に集まって貰ったのだけれどね」

この場に居る全員が、息を呑むようにして“あの男”の行動を見詰めている。

「襲撃を受けた永遠亭にも、もう僕のホムンクルスが向っている。
怪我人の治療が必要だからね。イノも随分ダメージを受けた様だし、楽観は出来ない。
…シンと、イズナ。彼ら二人も、まだ戦える状態では無い。まだ動けない筈だよ。
地底や、人の里に関しても…閻魔の元にも、既に別のホムンクルスに任せてある…。
ああ…、冥界の西行妖への封印施術には、レイヴンに頼んであるよ。
必要な場所には必要なだけ、僕も手を貸しているつもりだ」

「…今更しゃしゃり出て来て…何のつもりだ…」

「言った筈だよ。幻想郷を守る為だと…」

「…その為に…他の妖怪や…レミリア達を此処に集めたのか…」

“あの男”は少しの間、黙った。法衣の奥で、ソルを見詰めている様だ。
早苗達も、レミリア達も、天狗や河童達も、黙って“あの男”の言葉を聞いている。
今は、それしか出来ないからだ。無論、そうだよ。“あの男”は穏やかな声で答えた。

「彼女達に此処に集まって貰ったのは、大きな準備の為だ。
幻想郷を守る為に。もっと厳密に言うなら、幻想郷に住まう者達を救う為だ。
信じようと信じまいと、嘘では無いよ。終戦管理局は、幻想郷を破棄するつもりだ。
幻想郷を橋掛かりに、バックヤードへのゲートを無理矢理にこじ開けようとしている。
そうなれば、この世界の夢の在り処は潰え、完全に壊れ、幻想は行き場を失う…」

「御託は良い…っ!」 叫んだのは、歯を剝いて“あの男”を睨む藍だった。
橙も、唇を噛んで“あの男”を見据えている。挑むような眼つきだ。
話を聞いていた他の者達も皆、緊張した面持ちで藍と“あの男”を見比べた。
紫が捕らえられた。この非常事態に、暢気になどしていられないと思うのは当然だ。
それが、紫の式神である藍や橙ならば尚更だろう。焦っているのだ。
“あの男”は、藍と橙を見比べ、緩く首を振って見せた。

「良くは無いよ。重要な事だ。とてもね…。
結界で包まれた、この幻想郷という夢は…其処に住まう幻想無くしては存在し得ない。
大結界が無ければ成り立たない、儚い夢だ。夢は…何れ終わる。誰しも、夢から醒める…」

しかし、夢の続きを見ることは可能だ…。
そう言って、“あの男”は目深く被った法衣をゆっくりと脱いで、その貌を曝した。
 今まで、飛び掛る様な勢いで“あの男”を睨んでいた藍の膝が、今度こそ崩れ落ちた。
 橙は放心状態で“あの男”の貌を見詰めていた。恐らく、この場に居た誰もがそうだ。
 霊夢は歯が鳴るのを感じた。魔理沙が、嘘だろ…、と呟くのを聞いた。
 レミリアも息を呑んで、天子は吃驚して尻餅を付いていた。
 顔を歪めたソルは歯を噛み締め、…外道が…、と吐き捨てた。
 
 少年の姿をした“あの男”の貌は、幼さこそ在るものの、それは紫の貌だった。
 間違い無く、妖怪の賢者“八雲紫”の貌だ。霊夢は全身に鳥肌が立って、吐き気を覚えた。
 眩暈のようなものも感じる。何か、決定的なものを失くしたような感覚だった。
 紫の貌をした少年が微笑むのを見て、それが絶望に似た何かだと、直感的に理解した。
 神話に於ける海神は、予言の力を持ち、あらゆるものに姿を変えることが出来たと言う。
 その神の名をProteus。また、あの男”の法衣に刻まれた銘も同じく“PROTEUS”。
「率直に言おう」 紫の貌をした少年は、微笑んで、ぐるりと視線を巡らせた。

「幻想郷は、今日…滅ぶ。このままでは皆、消えてしまう…。
だから、僕はもう一つ幻想郷を造っていたんだよ。…君達が闘っている間にね。
現実世界の夢を、造り上げていたんだ。途方も無い時間が掛かってしまったよ。
 何せ、まずは“妖怪の賢者”を造り上げる必要が在ったからね。
でも、時間を掛けた甲斐は在った…。無駄な事は無かったよ。
より完全な形で、幻想郷を造り上げる事が出来たからね…」
 
 霊夢はそれ以上、この少年の声を聞いていたくなかった。
やめてと叫びたい。聞きたくない。紫の貌で、そんな事を言わないで。
だが、そんな願いは何の意味も無い。此処に居る全ての者が、とっくに理解している。
理解していて、この少年に何も言えずに居る。反論出来ないのだ。
それは、この少年が正しいからでは無い。在り難いからでも無い。
只只管に、受け入れ難い現実を突きつけられ、痛感しているのだ。
紫の貌をした少年の声は。言葉は、余りに優しく、残酷だ。

「この幻想郷に住まう者達を、助けたい。
僕の造り上げた幻想郷へと移す為に、力を貸して欲しくてね…。
 此処に集まって貰ったんだよ。君は今更、と言ったが、それは違う。
 ようやく…、だ。僕も、孤独な戦いを続けていたんだよ。嘘では無い」

ソルは、紫の貌をした少年をねめつけて、歯軋りをした。

「…八雲を助ける必要が無いと言うのは…そういう意味か……」

「君を失う訳には行かない」

「…貴様の独善には反吐が出る…」
そう吐き捨てたソルに、少年はすっと、握手を求めるように手を差し出して見せた。
奥歯を噛み締めたままのソルは、少年の貌とその手を見比べた。…何のつもりだ…。
威圧的な低い声で言われた少年は、穏やかな貌のままで微笑む。霊夢は吐き気がした。
僕が造り上げた幻想郷にも、一つだけ…どうしても足りないものがあってね。
少年は詠うように言葉を紡ぐ。

「龍神か…」少年の後に続いたのは、少し離れた所で腕を組んで佇んでいた神奈子だ。
その隣に居た諏訪子も、ふむ…と頷いて、少年とソルを見比べた。
泰然とした二柱に比べ、早苗の方は戦々恐々とした様子だ。
その三人へと順に視線を向けた少年は、満足そうに頷いた。

「そう、彼女の言う通りだ。神様を造り上げるには、時間が無くてね…。
 この幻想郷に根付く、“龍神”を、君の身体に降ろして、連れて行って欲しいんだ。
 新しい幻想郷へと…。そうすれば、全てのピースが揃う。
その為の、“Dragon Install”だ」

「…最初から…それが目的だったのか…」

「違う、と言っても、君は僕を信じないだろうね。
幻想郷を造り出したのは、飽くまでも保険のつもりだった。
しかし、終戦管理局が…と言うよりは、クロウという一人の研究員が、
予想以上の力を持ち始めてしまった。これは、本当に急なことだったからね…。
今の幻想郷を犠牲にするには忍びないが、僕達の世界を危険に晒す訳にはいかない」

其処まで言って、紫の貌をした“あの男”は再び周囲へと視線を巡らせた。
不意に、その貌から優しげな笑みか消える。その瞬間だった。明らかに空気が変わった。
誰もが身構える程の威圧感が境内を包む。まるで、深海の中に放り込まれたような重圧だ。
集まって居た者達の中にも、怯え、頭を押さえて蹲る者や、尻餅をつく者も居た。
有無を言わさない“あの男”は、無表情のまま、ソルへと視線を戻した。

「彼らは幻想郷を足掛かりに、バックヤードへと踏み入るつもりだろう。
妖怪の賢者の肉体を演算回路にすれば、博霊神社にゲートを空ける事も可能だ…。
入り口が開いてしまえば…もう間に合わない。君も分かっている筈だよ。
幻想郷は、バックヤードの情報密度に耐えることなど出来ない。
この世界は崩壊し、融けてしまう」

「…八雲は見捨てん…」

「助けに行くメリットなど無いよ。もう賢者の代わりとして僕が居る。
 式神と結界、境界操作は“僕”が引き受けよう。それに…、
ゲートが開けば、『キューブ』も危険に曝される事になる。それだけは避けたい。
時間は余り無い。僕は、この幻想郷と『キューブ』を秤にかけるつもりは無いよ…」

「…貴様一人が居なければ立ち行かん世界など……勝手に滅びれば良い…」

「君が守った世界の筈だよ…。
それに…その言葉を返すなら、幻想郷だって同じゃないかな。
必要最低限の犠牲だ…。苦しいと思うが、分かってくれ。フレデリック。
ホムンクルスの数も、正直ギリギリなんだよ。これでもね…」
 
紫を見捨て、新たな幻想郷へと皆を移住させるため、此処に残れ。
少年はそう言いたいのだ。

終戦管理局が紫の能力を利用してゲートを開く前に、幻想郷の魂である“龍神”を持ち去る。
 その為に、ソルの身体を、神を入れる器にしようと言うのか。

ソルは少年に背を向けて、未だ変質している身体に燻る炎を宿した。
背に生えた竜翼を広げ、博霊神社へと向うつもりだろう。ソルは振り返らない。
「私も行くわ…!」霊夢もその後に続く。このまま紫を見捨てる事など出来ない。

「黙って行かせると思うのかい…?」
呟いた少年の両の掌に、蒼と碧の微光が灯り、その体の前で渦を象り始めた。
 一触即発の空気の中。唾を飲む音が其処彼処で聞こえた。息が詰まる静寂だった。
境内に集まった者達は皆、ソルがどう行動するのかを見守るしかなかった。
 風の無い夕凪前の空気を吸い込んで、霊夢はソルと少年を見比べた。
 天子も深刻そうな貌で成り行きを見守っているし、レミリア達にしても紫を助けに動きたい筈だ。
 神奈子や諏訪子も、何も言わずにソルの言葉を、行動を待っている。
 唇を噛んだままの早苗と、霊夢は一瞬眼があった。霊夢は少しだけ笑って見せた。
果たして上手く笑えていただろうか。様々の者の思惑が、静寂の中渦巻いている。
茜色に染まりかけた空を睨みつけてから、ソルは肩越しに少年に視線を寄越す。

「…奴らがゲートを開くまでに…八雲を取り戻す…」

「出来る訳が無いよ。確率は極めて低い。…零に近いと言って良いかもしれないね」

「…貴様がこうやって、
…ゴチャゴチャと抜かす位なら…まだ僅かでも時間は在るという事だな…」
 
 …本当に切羽詰まっているなら…もっと手荒な方法をとる筈だ…貴様ならな。
 其処まで言ったソルは、今度は完全に少年に背を向けた。
 
 「…まだ時間が在るなら…俺は行く…
…間に合いそうに無くなれば…俺の身体などくれてやる…」
 
 言い放たれたソルの言葉に、紫の貌をした少年は、緩い溜息を吐いた様だ。
 まるで古い友人の悪癖に、『相変わらずしょうがないな、君は…』とでも言う様な溜息だ。
その吐息と共に、渦を巻いていた蒼と碧の光が解けて、消えていく。
緊張が消え、周囲に弛緩した空気が流れた。少年が、微笑みを浮かべたからだ。
「分の悪い賭けが好きだね…」そう言った声音は、酷く優しげだった。 

「君が博麗神社に向う間に、僕も出来る限り準備をしておこう…。
 この幻想郷を捨てる準備になるけれど…間に合う様、君を信じるとしよう」

「おっしゃ…! そうと決まれば、俺も旦那に付いて行くぜ!」

“あの男”の言葉の後に続いたのは、バンダナをぎゅっと巻き直したアクセルだ。
白い歯を覗かせて、唇の端を持ち上げている。恐れや躊躇いの無い笑顔だった。
そのアクセルを見て、やれやれと緩い息を吐いたのは、レミリアだ。
 ソルに倣うように“あの男”に背を向け、優雅にひらひらと手を振る。
「私達も博麗神社へ向うわ」 言葉を続けたレミリアの口許には笑みが浮かんでいた。
パチュリーとフランがレミリアに頷き、御意にと頭を垂れたのは、美鈴と咲夜だ。
紅魔館の面子は、ソルに加わるつもりだ。其処に、魔理沙も挙手して、へっへと笑って見せた。
「やっぱり、此処は魔理沙さんも手伝いに行かないとな」

「黙って見てるのも夢見が悪いし、私も行くわ…」

魔理沙に続いて、グリモワールを手にしたアリスも、肩を竦めて見せる。
では、私も…! と、皆に加わろうとしていた藍は、“あの男”に制止されていた。
「今は一応、君達は僕の式神だからね。…残って、僕を助けて欲しいな」
“あの男”の言葉に、橙も悔しげに俯いていた。その頭をそっと撫でて、霊夢は、“あの男”へと向き直った。

“あの男”は穏やかな貌のまま、霊夢の視線を受け止めている。

「こうなる事も、貴方は予見していたの…?」

霊夢の声に、肩越しにソルが視線を寄越してきた。
「いや…、ただ僕は、巻き込む形になってしまった幻想郷を守りたいだけだよ」
答えの様な、なっていない様な曖昧な言葉を返し、“あの男”は微笑むだけだ。

「此処に残ってくれた者達と共に、僕も準備を始めるとしよう。
 …行くなら、急いだ方が良い。 余り時間は残されていないからね…」
 
ソルも霊夢、もう“あの男”には何も答えず、空へと飛び上がる。
それにソルが続き、魔理沙とアリス、紅魔館のメンバーも博麗神社へと向う。
「在り難く乗せて上げるけど、落っこちないように気をつけてよ」
「OK、OK! 任しといてよ!」 天子は要石を召び出して、アクセルを乗せて宙へと浮かぶ。

皆に続いて飛び上がろうとする早苗に振り返り、霊夢は「後、頼んだわよ」と叫んだ。
今度はちゃんと笑えていただろう。我乍ら勝手な事を言っているものだと、そう思う。
頼んだといわれた早苗は、唇を噛んで、泣きそうな貌になっていた。
「山の者達の事は任せておけ!」 「ちゃんと勝って来るんだよ!」
だが、早苗の代わりに、神奈子と諏訪子が手を振ってくれた。
後は、悔しいが“あの男”を信じるしかない。
里には妹紅と慧音が居るし、人間達も大丈夫だろう。
そう思うしかない。何せよ、紫を取り戻せば、すべて丸く収まる。その筈だ。
簡単な方法が在るんだ。勝って皆で笑うんだ。待ってなさいよ…。
霊夢は呟いて、空を駆ける。



[18231] 四十話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 23:02
 
勝算は如何ほどなのか、そんな些細で瑣末な事に気を使う必要はもう無い。
自身の帰る場所が無いが故に、大きな勝負に出ることも出来た。これは賭けだ。
大きな博打だ。己の人生と研究と、培った技術と理論が、何処まで通用するのか。
ずっと試してみたかった。望みだった。只管に研究して生きてきて、夢に見ていた。
自身の力は、GEAR MAKERに届くのか。触れる事が出来るのか。
同じ場所に立ち、同じ景色を見てみたかった。肩を並べてみたかった。
もしもその夢が実現しならば、己は其処で、何を思うのだろうか。
GEAR MAKERと同じ場所に立ち、同じ景色を見詰めた時。
果たして、ギアプロジェクトに携わった最初の三人と、自身も同じ事を想うのか。
その思考までもが、GEAR MAKERと同じなのか。もしかしたら、違うかもしれない。
聖戦の戦史を紐解き、バックヤードから世界を見て、己が何を感じるのか。知りたい。
それを知る為に、神に弓引く事になろうとも。ただ、知りたい。知る権利は在る筈だ。
そう、これは夢だ。だれしもが見る、夢の話だ。その夢の中には、神が居る。
夢を見る者こそが、この想念の世界でもある幻想郷では神なのだ。
眠る者は皆、知られざる神に為り得る。例外無く、その可能性を秘めている。
だからだ。この夢の中に、手を突っ込む方法を探していた。
夢を経由する事で、世界の向こう側へ。バックヤードへと至る扉を欲した。
願いの無い祈りが、それ自体が願いである様に。夢こそが扉だった。
その扉を開ける鍵。境界を操る、妖怪の賢者を手に入れた。手中に収めた。
だが、本番はこれからだ。此処からが勝負だ。

妖怪の賢者の精神には、強固なプロテクトが掛けられている。
まずは、これを解呪せねば為らない。魂を模倣するには、精神情報が必要だ。
彼女は。妖怪の賢者は、神社の鳥居に吊るされる様な格好で、空間に固定されていた。
両手首、両足首にバインドを施し、顔と口にも法力鋼の拘束具を嵌めてある。
能力自体も封印施術を行ってある以上、身じろぎする事は出来ても、移動は不可能だ。
彼女は全裸だった。美しい素肌を曝し、その白い背中には蒼い紋様が浮かんでいる。
紋様は蒼い微光は放っており、未だに解呪される様子は無い。時間が必要だ。
この八雲紫という存在が、どれだけ強大で、どれだけ幻想郷にとって重要な存在なのか。クロウは十分に理解しているつもりだった。必ず、彼女達は奪還しに来るだろう。
幻想郷の者達が、このまま手をこまねている筈が無い。

拘束された紫の前に立ち、クロウは施していた呪破法術の手を止めた。
暗銀の城塞と化した博霊神社の境内をぐるりと眺め、クロウは裂けた曇天のから覗く太陽を見遣る。
雲の切れ目から降注ぐ柔らかな陽光は黄色く、黄昏の近いことを示していた。
暗銀に覆われた神社の境内が、その陽光を鈍く、滲む様に淡く照り返している。
神社の社はほぼ完全に銀の塗膜に覆われ、不気味な尖塔と化しているし、
境内に立っていた灯篭も汚染され、歯車が軋みを上げる不気味なオブジェとなっている。
青黒の法力光の漏れる、機術と暗銀の世界だ。最早、神社の面影などほとんど無い。
石砂利の敷かれていた地面も、まるで金属板を嵌めこんだように平坦な銀面へと均されている。
生きた金属と、それを駆使する細工師の庭。幻想の中に出来た、現実の亀裂。
最早、結界と言って差し支え無い規模の汚染の地で、空を見上げるクロウは眼を細めた。

…さぁて、彼らはどう出て来るのかねぇ。
呟きながら、呪破法術を続けようとした時だ。拘束された紫が、何かを言おうとした様だ。
口は完全に拘束されているから、微かな呻き声にしか聞こえなかった。
その時は何故か、無視しようとは思わなかった。君はどう思う。そう軽く聞いてみた。
答えようの無い紫は、頬を僅かに強張らせただけだった。
クロウは口許を緩めて、肩を竦める。声が出せないのだから、聞いても無駄だ。
勿論分かっていた。ただ聞いてみたかっただけだ。
無駄な事かもしれない。しかし、無駄な事など無いのかもしれない。
そんな妙なことを考えてしまう程に、クロウの頭は冴えてくると同時に醒めていく。
がしょん。がしょん。がしょん。がしょん。間抜けな足音が聞こえた。
「待ち構えるのは初めてだね。落ち着かないかい…?」言いながら、ゆっくりと境内へと振り返る。

「ソウダナ…。体ガ冷メテイク様ナ、妙ナ感覚ダ」
その視線の先。白い騎士服を纏ったロボカイが歩み寄って来て、クロウを見詰めていた。

「僕も似た様な感じだよ。…柄でも無い事は、するものじゃないね」

鼻から息を吐き、肩を竦める様にして言うクロウに、ロボカイは暫く無言でいた。
何かを考え込んでいる様な、思い詰めている様な様子だ。酷く似合わない。
取り敢えず、クロウも無言も返す。
少しの沈黙が在って、ロボカイは自分の掌に視線を落とした。
何度か金属の掌を握ったり開いたりしてから、不意に視線を上げる。
妙に真剣な様子で見詰められ、クロウは鼻から息を吐いた。

「…何か言いたい事でも在るのかい?」

「ウム…。質問ト言ウ程ノ事デモ無イノダガナ…」

ロボカイはクロウの眼を見て、一拍置いてから言葉を続ける。
「吾輩ハ結局、模造品デシカ無イノカ…?」 クロウは一瞬、きょとんとしてしまった。
らしく無い質問だ。今更でも在る。答えに困り、眉間に皺を寄せ、クロウは首を捻った。

「難しい処だね…。君はコピーでも在るし、意思を持つオリジナルでも在る」

「…ナラ、ヨリ手ッ取リ早ク、
確実ニ強ク為ルニハ、かい=きすくヲ模倣シタ方ガ間違イ無イナ」

「面白いことを言うね。…確かに、それが出来れば強い筈だよ。
 何せ、彼は聖戦時代の英雄。人類の盾だ。弱い訳が無い。
データ自体は、君にもインプットしてあったと思うけど…そう簡単じゃ無いよ?」

「無論、分カッテイル。
フム…。了解シタ。ソレガ聞キタカッタノダ」

満足そうに頷いたロボカイは、くるりと踵を返して、賽銭箱前へと向って歩き出した。
一人納得して立ち去ってしまうその背中を見送りながら、クロウは首を傾げる。
自分が造ったAIとは言え、相変わらず何を考えているのか分からないロボだ。
だが、今は頼りになる。何せ、こっちは三人だ。三人で、神に弓を引こうと言うのだ。
正気の沙汰では無い。おまけに、クロウには既に終戦管理局の助けを求める気も無かった。
しかし、狂っているのかと聞かれて素直に頷く程も、思考回路が熱している訳でも無い。
研究者と言うのも、困ったものだ。クロウは少しだけ笑った。



半壊した神社の前。
賽銭箱前の階段に腰掛けた黒いソルは、拳を握り、じっと地面を見詰めていた。
黒いソルが着ている騎士服は、破れて煤けて、もうボロボロだった。
その癖、完全な再生が終わった肉体には傷一つ無いせいで、妙にちぐはぐだ。
封炎剣のレプリカはもう無い。必要も無い。やっと、俺は会える。お前に会える。
空虚な心の中に、炎が灯る。俺には、この感情が何なのか理解出来なかった。
出来るとも思わなかった。理解しようともしなかった。どうでも良い。
お前に会えば分かる。以前、人里でお前に会った時、俺はまだ空虚なままだった。
がらんどうだった。しかし、今は違う。お前を想うと、胸を掻き毟りたくなる。
俺は、俺が生まれて来た切っ掛けであるお前が憎いのかもしれない。
或いは、感謝しているのかもしれない。これは、一種の友愛の情なのかもしれない。
しかし、何でも良い。俺の激情の前では、そんな事はどうでも良過ぎて、問題じゃない。
俺は、お前の居る場所が欲しい訳じゃない。オリジナルにとって代わりたいなどとは思わない。
何が欲しいのかなど、もう分からない。

「辛気臭イ貌シテ如何シタ、芋面」
不意に声を掛けられ、黒いソルは顔を上げた。ロボカイだ。
黒いソルはロボカイを鬱陶しそうに一瞥してから、すぐに地面へと視線を落とした。
相手をするのも面倒なのだろう。黒いソルは何も言葉を返さない。
その無言の返答をどう捉えたのか。かなり唐突だった。
ロボカイは、ドッコラショ…と、黒いソルの隣に、おもむろに腰を下ろした。
微妙な空気が流れる。黒いソルは何も言わず、横目でロボカイを見た。
妙に落ち着いた様子のロボカイは、僅かに視線を上に向けて、空を見ている。

「……他の奴らは…くたばったのか…」 
ロボカイには、他に三体程が別に居たらしい事は知っている。
特に興味も無かったが、黒いソルは聞いた。
すると、ロボカイは、フッ…、と気障っぽく笑った様だ。

「弟達ハ、愛ニ生キタノダ…」
ロボカイは芝居がかった声で言いながら、空を見詰めて満足そうに首を緩く振った。

「……いつもの誤作動か…」

「誤作動トカ言ウナ! …フゥム、…ソウ言ウ貴様ハ如何ナノダ」

ロボカイはゆったりと脚を組みながら、黒いソルに視線を寄越した。
黒いソルは、姿勢を変えずに視線だけでロボカイを見た。

「……何…?」

「嫁ニシタイ者ハ居ランノカ?」

「……下らんな…」

「ソウカ、浪漫ノ無イ奴ダ」

無い鼻を鳴らしたロボカイは、つまらなさそうに再び空へと視線を向けた。
夕焼け前の曇り空には陽の光が滲んで、薄い黄色に染まっている。
陽光と青黒の微光で染まった境内とのコントラストは、一種のグロテスクさが在った。
浪漫などと言う言葉は、今の景色には酷く似合わない。滑稽ですらある。
黒いソルは、またロボカイを横目で一瞥して、境内へと視線を向けた。
鳥居に括り付けられるようにして、空間に拘束された八雲紫の姿が見える。
そして、その八雲紫に施された封印施術を、法術によって解呪しようとするクロウの姿も。
不意に、黒いソルは気になった。

「……あの八雲と言う奴には…お前は興味が無いのか…」

美しい裸体を晒す妖怪の賢者を一瞥し、ロボカイは何も言わずに首を振った。

「吾輩ハSMぷれいハ好カン。あぶのーまるハ、如何モ受ケ付ケン」

「……面倒臭い奴だな…」

「好キニ言ウガ良イ。吾輩ガ欲スルノハ純愛ダ」

ロボカイの言葉を聞いて、黒いソルの心の中に一人の女性が浮かんだ。
賢そうな、それでいて活発そうな、赤毛の女性だ。名前は。名前は何と言ったか。
赤毛の女は俺を見て微笑んでいた。優しげな微笑だった。名前が浮かばない。
お前の愛した女だろう。愛か。愛など。俺には理解出来ない。邪魔なだけだ。
黒いソルは鼻から息を吐いて、「…そうか…」とだけ答えた。
マァ、嫁ダ嫁ダト言ウ前ニ、マズハ博士ヲ勝タセネバナランナ。
不意に、ロボカイの声に真剣味が宿った。
ロボカイの視線を追った黒いソルも、無言のまま眼を細める。
遥か向こうの空に、幾つも影が見えた。思ったよりも早い。
博霊霊夢に、紅魔館の者達。アクセル=ロウに、天人の娘。
それに、奴も居る。ソル。ソル=バッドガイ。

黒いソルとロボカイが立ち上がったのは、同時だった。

「モシカシタラ、吾輩ト貴様ハ良イこんびニナルカモ知レンナ」
何処か人懐っこそうに言ったロボカイが手にする封雷剣には、すでに蒼稲妻が奔っている。
墨色の炎を右掌に宿し、黒いソルは興味なさそうに鼻を鳴らした。
そして、バキバキと背中から竜翼を生やす。「……下らんな…」
「ムワッハッハ、ソウ照レルナ」 稲妻を纏うロボカイは歩み出す。
黒いソルも、飛び来る者達を見上げる。いや、正確には、ソルを睨み据えた。
やっとお前に会えた。さぁ。俺に教えろ。貴様から俺を引いて、何が残るのか。


これは、夢だ。夢。夢。
そうだ。夢の中に俺は居る。
良い夢だ。お前と会える。
奴らが容赦無く突っ込んで来る。


すぐ其処まで来ている。俺は、お前を見ていた。
だが、違う。お前は、俺を見ていない。俺を視界から外している。
何処へ行くんだ。俺は此処だ。炎をくゆらせ、俺は奴を追う様に境内へと踏み出した。
その時だ。まばゆい光が、俺を包んだ。極光だ。虹色の弾幕が降ってくる。
邪魔な。小癪な。俺は防御なんてしなかった。する必要も無かった。
俺は上半身と両腕を竜鱗の甲冑で覆い、降り頻る弾幕に身を晒しながら進む。
弾幕を喰らう度に、ガリガリ、バキバキと身体が軋む。だが、それだけだ。俺は無傷だ。
全くダメージを受けない。利かない。痒いな。痒いぞ。邪魔臭い。退け。奴は何処だ。
ロボカイは弾幕をするりするりと縫い潜りながら、クロウのフォローに入ろうとしているのが、境内の向こうに見えた。
あのがしょん、がしょん、という間抜けな足音が消えて居た。ロボカイも本気なのだろう。
そんな事を思っていると、弾幕の向こうから何かが降って来た。豪速だった。
何かが俺に向って来た。「破ぁぁ――――ッ!!」裂帛の気合が聞こえた。
ああ。俺は知っている。名は、確か紅美鈴。紅魔館の門番をしている者だ。
極光を纏う蹴りだった。ミサイルのような飛び蹴りが、俺の胸に突き刺さった。
俺は少しよろめいた。地面が揺れる様な蹴りだった。だがそれだけだ。
俺に蹴りを食らわせた美鈴は、くるんと宙返りをして着地すると同時に、距離を詰めて来た。
正面からだ。悪く無い疾さだった。胴を砕く様な拳の連打を喰らった。俺は血を吐いた。
血を吐きながら、美鈴を捕まえようとした。拳を喰らいながら突進した。間合いを潰す。
捕まえた。そう思ったが、違った。誘いだった。ズドンと来た。重い拳の一撃が、俺の胸板を抉った。
竜鱗の甲冑が拉げ、肉が潰れ、胸骨が砕けるのが分かった。美鈴の渾身の突きだった。
一撃だけじゃない。二度、三度と、俺の身体に拳が叩き込まれた。身体が悲鳴を上げる。
俺はそれでも脚を止めなかった。しかし、美鈴を捕まえられなかった。何て脚捌きだ。
美鈴は、擦り抜ける様に俺の間合いの外へ出ていた。強いな。思っていたよりも遥かに強い。
だが、それがどうした。俺は、地底の時とは違う。これくらいでは倒れない。
見ろ。俺の身体はすぐに再生する。ミシミシと筋肉が音を立てる。甲冑が傷を塞いでいく。
美鈴の貌が強張った。僅かに怯んだ。俺は飛び掛かろうとした。出来なかった。
背後からだ。強い衝撃が来た。首の骨が鈍い音を鳴らした。折れたのか。どうでも良い。
俺は背後から殴打された様だった。次に、ぐじゃっという音がした。頭蓋が砕かれた。
視界がぶれる。頚を回そうにも、上手く動かなかった。面倒だ。
身体ごと振り返ると、翼を広げたレミリアが俺の顎を蹴り上げた。強烈な蹴りだった。
身体が浮き上がりそうだ。だが、それだけでは終わらなかった。身動きが出来なくなった。
ぐるぐると俺の身体に巻きついてくるのは、鎖か。魔力で編まれた、太い鎖だ。
幾条もの鎖を魔力で練成し、俺を絡め取ったのはレミリアだ。俺は動けない。囚われた。
レミリアと眼が合った。真剣な貌だが、それでいて苦しげに歪んでいた。
太い鎖の束を握り締めるレミリアの手が、微かに震えている。そうか。
俺の貌が、ソルと同じだからか。戦い難いのだろう。甘い。甘いな。実にくだらん。
くだらんな。俺は、お前達がどんな外見だろうと関係無い。燃える。夢は燃える。
お前達は燃える。そうだ。俺は、夢すら燃やす。灰に出来る。お前達は容易く燃えて、崩れる。
俺は、俺を縛る鎖を引き千切ろうとした。出来なかった。いや、する必要も無かった。
強烈な、余りに強烈な魔力弾が、胸に叩き込まれた。その衝撃で鎖が千切れとんだからだ。
俺の胸に大穴が空いた。凄まじい破壊力だった。美鈴もレミリアも、爆風に押し流されそうになっていた。
血の代わりに墨色の火の粉が舞う。俺は塵屑のように吹き飛ばされた。
一瞬、何も見えなくなった。身体は粉々になりそうだが、生憎そうはならなかった。
地面に仰向けに倒れた俺は視界を巡らせ、見つけた。朽木翼の面晶体を煌かせ、奴は空に居た。
禁弾・スターボウブレイクを俺に叩き込んだフランドールが、宙に陣取って居る。
フランドールの貌も歪んでいた。泣きそうな程に眉をハの字に曲げて、唇もへの字に曲げていた。
紅魔館の者達が、俺の足止めをするつもりか。敵が多いな。邪魔だ。
貴様達に用は無い。俺は身体を再生しながら即座に立ち上がった。
ズグッと音がしたのはその時だった。音が聞こえた時には、両眼が見えなくなった。
手で顔を触ってみると、眼から何かが生えている。いや刺さっている。これは、ナイフか。
全く認識出来ないうちにナイフを埋め込まれた。ナイフを眼から引き抜く間にも、ナイフが俺を襲う。
バスバス、ドスドス、ガスガスと面白いように俺の身体に、次々とナイフが刺さっていく。
妙な感覚だ。俺の認識と、ナイフが刺さる間には奇妙な空白が在る。まるで。時間が止まっている様な。
俺はナイフ攻撃に手も脚も出なかった。反撃する事も出来ない。感覚に空隙が在る。
ナイフの雨が止んだ次には、更に強烈な攻撃が来た。距離を縮めてくる気配も在った。
この間合いまで寄って来るという事は美鈴か。俺は眼が見えない。攻撃をかわせない。
連打で来た。ズダダダダダダン!!、っと、拳を叩き込まれた。その一撃一撃がやけに利く。響く。
そうか。美鈴は気を使えるらしいな。これがそうか。身体の内側にダメージが溜まって行くのを感じる。
余りに喰らい過ぎて、俺は血と、内臓に近い何かを吐き出した。膝を付く。
其処に、もう一撃来た。見えない眼に、極光を感じた。身体の中で、何かが爆発した。
美鈴の拳が、俺を砕いた。だが、俺は。すぐに元に戻る。どうした。もう終わりか。終わりなのか。
なら、俺は美鈴をまず壊してやろう。攻撃が止んだ。そう思ったからだ。
そんな訳が無かった。俺は安心した。修復しかけた俺の身体に、鋭い何かが突き刺さった。
ぼんやりと回復しつつある視界に、紅い。紅の美しい魔光が見えた。長大な、紅の槍が。余りにも超大過ぎる大槍が、俺を貫いて吹き飛ばした。だが、まだだ。地面を転がりながら、光を感じた。
地面を転がる俺に、更に巨大な、まるで破城鎚のような炎の剣がぶち込まれた。フランドールだ。
フランドールの身体には不釣合いな程の炎剣が、容赦無く俺を襲ったのだ。地面が陥没し、亀裂が奔る。
俺は大槍と炎剣に押し潰され、死にそうだった。心地よかった。
一瞬意識を失いそうになったが、失わなかった。何だ。この程度なのか。
やはり、駄目だ。俺は、満たされない。ソル。お前でなければ、俺は駄目だ。
何も分からない。虚しい。虚しいんだ。何もかもが無意味だ。ああ。お前は何処だ。





ソルと霊夢は、一直線にクロウの元へ突っ込もうとしたが、やはりそう簡単にはいかない。
罠だ。やはり張られていた。境内に無数の法術陣が浮かび上がる。法力機術による召還だ。
おまけに、クロウと紫、そして鳥居を囲うように強力な結界が張られてある。
結界の中には、拘束され囚われた紫の姿が見えている。クロウがその傍に立っている。
薄い笑みを浮かべたクロウは、ソル達を見え上げ、眼を細めていた。

「そう言えば、君に言い忘れていた事が在ったよ。 
実はね…君のコピーを造るまでには、随分と失敗を重ねたんだ。何度もね…。
実験体となった者達は、可哀相だから処分せずに保管しておいたんだ。
…分かるかい。黒い君にも、兄や姉達が大勢いるんだよ。
せっかくだから、君にも合わせてあげよう」

「…ぬぅあああ…っ!!」 竜鱗を甲冑のように纏ったソルは、剣を結界に叩き込む。
何度も剣を振り上げ、打ち込んだ。しかし、傷一つつけることが出来ずに弾かれる。
霊夢も呪破の為に印を結ぼうとしたが、無理だった。
ソル達を阻むのは、クロウが構築した結界だけでは無かったからだ。

蒼い稲妻が奔る。「駄目博士ノ邪魔ヲスルナ」
宙空のソル達へと、まるで閃光の如く斬り込んで来たのはロボカイだ。
なんて疾さだ。一瞬で肉薄されたのは、ソルでは無く霊夢だった。
咄嗟に文言を唱えるのを止めて、霊夢その場から飛び退る。
紙一重だった。霊夢の頚の前を通り過ぎた封雷剣は、空気を焼いた。
「…邪魔だ…!」 そのロボカイを横合いから強襲したのは、ソルだ。
炎と共に振り下ろされた封炎剣を、稲妻と共にロボカイは封雷剣で受け止めた。
一瞬の拮抗の後、ロボカイが地面へと吹っ飛ばされた。いや違う。
衝撃を殺す為に身を引いたのだ。ロボカイは脚を折って、更に衝撃を殺して無音で着地する。
同時に、機械音声で詠唱を完成させた。ソルから離れていた霊夢の視界が、真っ白になった。
凄まじい雷鳴と共に、宙に居たソルの背に、巨大な落雷が何本も何本も突き刺さったのだ。
何かが焼ける匂いがした。片方の竜翼が焼け千切れ、ソルは肩から境内へと墜落した。
「…ぐ……」 ソルは倒れて、何とか立ち上がろうとしている。ダメージが無い筈が無い。
「ソル…っ!!」 霊夢が境内へと急降下する。それよりも早く、クロウの召還術が完成した。
暗銀の要塞と化した境内。其処に浮き上がった無数の術陣から現れたのは、やはり蟲だ。
人間と蟲を移植した様な、グロテスクなサーヴァント達。しかし、今回は更に厄介だった。
ソルのカバーに入ろうと飛び行く霊夢は総毛立つと共に、戦慄した。
どの蟲達にも、人間の貌のようなものが在る。それら全てが、ソルに似た貌だったからだ。
心が削られる音がした。それでも霊夢は、ソルを庇える位置に降り立って、紙垂を構え、札を展開する。
澄んだ朱色と、緋色の霊光が結ぶ界。霊夢は弾幕の壁を織り、ソルを守る。

忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌―――――。ソルの貌をした蟲が押し寄せる。
啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞―――――。霊夢の弾幕によって砕けていく。
忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌―――――。「うっさいのよ…!」
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死―――。「吾輩ハ此処ダゾ」
怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨―――。「そうはさせっかよ!」
弾幕をすり抜けて、霊夢に迫ろうとしていたロボカイだったが、それは阻まれた。
弾幕と同時に、トリッキーにも蟲達の上を走り抜けて来たアクセルが、ロボカイに斬り込む。
アクセルだけじゃない。「どっせーーーーーい…っ!!」 天子だ。天子の掛け声と共に、要石が降って来た。
ドッスンドッシンドゴンドゴンと、要石がソルの貌をした蟲達に降注ぎ、押し潰したのだ。

大量の金屑蟲達が、バキバキのグシャグシャにぶっ壊れて、破片が舞う。
その中で、アクセルはがっちりとロボカイの封雷剣を、鎖鎌で受け止めていた。
「こっちは任せときなさい!」 天子は霊夢にウィンクして、アクセルのフォローに入る。
これで、ロボカイは二対一。敵は分断出来ている。だが、クロウはソル達を見ていない。
優勢の今は、相手にする必要すら感じていないのか。

「……うぜぇ……!」 
札と退魔針で弾幕を放つ霊夢の背後で、血反吐を吐きながらソルも起き上がる。
焼かれた竜翼は、まだ再生しきっていない。法術の稲妻を受けた背中の竜鱗は、焼け焦げたままだ。
それでも、闘志は全く萎えていない。ソルは起き上がってすぐに、近くに居た金屑蟲に斬りかかった。
蟲の巨体を袈裟斬りに切伏せて、殴り飛ばし、踏み潰し、炎で押し流す。
自分の顔を持つ蟲達を容赦無く砕き斬り、ソルは吼える。GAAAAhhhh――!!!
咆哮と共に、ソルの肉体は再生を始めている。命を嘲笑うように、ずぐずぐと竜鱗が蠢く。
法術の稲妻に何度も打たれ、あれだけ無茶苦茶だった背中から、もう翼が生えてきている。
血錆の炎を纏うソルの上半身は、もう人間のものでは無い。外骨格で覆われた、竜の肌だ。
ソルは倒れない。しかし、蟲達もどんどん溢れ出てくる。次々と湧き出て、迫って来る。
何て勢いだ。紙垂を振るう霊夢が少しの焦りを感じた時だ。

「仲間外れにすんなよ…!」
今度は星屑の流弾が、蟲達へと降注いだ。霊夢とソルは、その声に応え、空へと離脱する。
蟲達は霊夢やソルへと追い縋ろうとした様だが、星屑のシャワーがそれを許さない。弾幕だ。
霊夢の視界が明滅する向こうで、白黒の魔法使いが地面に降り立ち、魔道書片手に詠唱を行っていた。
色鮮やかなの星屑の後には、全身を重厚な甲冑で武装した人形の隊列が割り込んで行く。
横隊に並んだ人形達は、手にした突撃槍を構え、戦列となって突撃し、蟲達を押し返す。
アリスと魔理沙の強烈な波状攻撃だ。だが、まだ終わらない。パチュリーだ。
空中に陣取ったパチュリーが、空間に魔法陣を構築している。空気が振動する。
金屑蟲達を堰き止めていた魔理沙も、詠唱と共に八卦炉を構えた。多分同時だった筈だ。
操っていた人形達の突撃を中止し、人形達と共にアリスが空へと飛び上がる。
水と炎で編まれた超大な流壁がパチュリーの眼下に起き上がり、蟲達を飲み込んだ。
それだけじゃない。流壁を逃れた蟲達の群れ目掛けて、魔理沙が極太のレーザーをぶっ放した。
光と水と炎の奔流が、青黒の鋼液に染まった境内に溢れ返った。
その魔力の瀑布の中を、甲冑で身を固めた人形達が再び踊り舞い、残る蟲達を圧倒する。
戦操「ドールズウォー」。境内に舞い降りたアリスは、楽器を演奏する様に両手の指を躍らせた。
アリスの傍らに浮かんでいる魔道書は、グリモワールか。
魔光を纏う分厚いグリモワールは、独りでに捲れて、次々と新しい人形と鎧の幻影を生み出していく。
七色の魔力の微光と共に、幻影の人形達が乱舞し、蹂躙していく。一瞬で戦場の風向きが変わった。
物量でも、アリスは負けていない。クロウの召還術に真っ向から立ち向かっている。
それを操るアリスも、軽装の西洋甲冑で腕と脚を固めていた。

「あんまり好きじゃ無いのよね、割りと本気を出すのは…!」

「連れない事言うなよ、アリス! まだまだ来るっぽいぜ!」

「…油断は…禁物」

アリスの隣に魔理沙が降り立ち、パチュリーは魔道書を携え、宙に陣取ったまま呟く。
瞬く間に、魔女三人組みは境内を制圧してしまった。頼もしい限りだ。
だが、クロウの召還術はまだ終わっていない。新たな法術陣が境内に浮かび上がりつつある。
しかも、さっきよりもずっと多い。とんでもない数と密度だ。奴の法力は底無しなのか。

「霊夢、ソル! こっちは任せとけよ!」 魔理沙に言われ、霊夢ははっとした。
少しの間、息をする事も忘れていたようだ。とにかく魔理沙達に救われた。
そっちも気を付けなさいよ。多分、そんな事を言ったように思う。
おうよ…!。魔理沙の声が聞こえた。十分だ。
魔理沙は強い。アリスも強い。パチュリーも強い。何を心配する必要が在る。
とにかく、今のうちだ。霊夢はソルの名前を呼ぶ。
ソルは魔理沙達を置いていく事に、少しの迷いが在るのか。
だが、逡巡は一瞬だった。すぐさま、ソルも霊夢に続く。
紫が囚われた結界まで辿り着く為に。




アクセルと天子を同時に相手にして尚、ロボカイは優位に立ち回っている。
こいつ、やっぱダンチだな。貼りつくのがやっとかよ。嫌になるぜ。なぁ、おい。
でもよ。俺も負けてらんねぇんだよな。良いから、まずはお前から沈めよ。
鋭く息を吐いて、アクセルは鎖鎌を投擲する。投げ放ったのは右の鎖鎌だ。伸びる。
「ムッ…!」 びゅんと伸びて、ロボカイの左腕に鎖がジャラっと巻き付いた。
これで腕を一本封じた。ついでに、一瞬だけだが、ロボカイの動きが止まる。
天子がその隙を突く。ロボカイの背後だ。間合いを詰めた天子が、更にぐっと踏み込む。
刀身が炎のように波打つ、緋想の剣を、大上段から真っ直ぐに振り下ろした。
体重も速度も、天人の力も乗せた、これ以上は無い打ち込みだった筈だ。
しかし、ロボカイは背後から迫る剣を、紙一重で避けて見せた。
すっと身体を半身にずらしたのだ。「ちょっ…!?」 天子の身体が僅かに泳いだ。
完璧なタイミングだった。だが、ロボカイの反撃はこれからだった。
鎖で絡められた左腕を、アクセルごとグォンと振り回したのだ。
マジかよ。アクセルは玩具の人形みたいに引っ張られて、身体が浮いた。
そのままの勢いで、アクセルは振り子みたいに天子にぶつけられた。
「あだっ!?」 天子の呻き声が聞こえ、アクセルの視界が回転した。
空が見える。倒れてるのか。起きろ。立て。鎖鎌は。まだ握ってる。だが、どうする。
アクセルは手を付いて起き上がる。天子も、帽子を押さえて起き上がろうとしている。
ダメージは無いようで、ほっと安心したかったが、そうもいかない。まただ。
グオオオンと引っ張られた。なんつう力だ。引き寄せられる。でも、まだ鎖鎌は放さない。
アクセルはすっ転ぶように頭を下げ、地面を転がった。その真上を、封雷剣が通り過ぎる。
「器用ナ奴メ…!」 少し悔しそうなロボカイの声がした。すぐにまた引っ張られる。
調子に乗るなよ。何も出来ないと思ったか。アクセルは、引っ張られる勢いを利用した。
軽くジャンプして、迫ってくる封雷剣の上に着地し、更に剣身を蹴って、跳ぶ。
「暴れんなよ」 アクセルはロボカイの肩の上に飛び乗って、唇の端を持ち上げた。
「何…!」 ロボカイは手にした封雷剣でアクセルを追い散らそうとしたようだが、もう遅い。 
アクセルは左手に、まだ鎖鎌を持ったままだ。その鎖を、ロボカイの身体にグルグル巻きにした。
巻いてしまうついでにガッチリと締上げてから、アクセルはポーンとロボカイの肩から跳ぶ。
そして、空中でサムズアップする。「天子ちゃん! 一発かましたげて!」
「任しときなさい!」 天子はアクセルに応えて、剣を地面に打ち込んだ。
ドッゴォォォオンと来た。汚染された青黒の地面なんて、私には関係無いと言わんばかりの勢いだ。
地面から尖った岩盤が鎚のように突き出て、身動きの出来ないロボカイを強打したのだ。
凄い音がした。「ヌゥグ…ッ」 ロボカイがぶっ飛んだ。
巻かれていた鎖鎌が解けて、ロボカイはくるくるビューンと空中を移動し、地面に叩き付けられた。
ドグシャっという嫌な音がした。アクセルは鎖鎌を引き戻しながら、渋い貌になった。
天子の方も、「何でよ…」と、少々納得行かない様だった。
ロボカイがすぐさま起き上がって来たからだ。やっぱ凄ぇタフだな。
アクセルが呆れ半分に呟いた時だ。凄まじい熱波と暴風が来た。
墨色の炎だった。咄嗟に天子を庇い、法術で防陣を組んだが、勢いまで殺せなかった。
アクセルは天子を庇ったまま、ひっくり返った。何。何が起こったの。つうか。おい。
あいつは。あのロボカイ、何処行った。居ねぇ。何処だよ。いや、マジかよ。
防陣と炎の向こうで、ロボカイがクロウ達の居る方へ向っているのが、ちらっと見えた。
逃がした。良い感じで分断出来てたってのに。だが、不味いのはそれだけじゃない。
この炎だ。墨色の炎。かなりヤバイ感じだ。紅魔館の皆と戦ってるのは、旦那のコピーだ。
咲夜さんとか、大丈夫なのか。いけるか。どうする。

「あんたは向こうに行きなさいよ。私はこっちに行くわ」
アクセルに庇われる姿勢の天子は起き上がって、顎をしゃくって見せた。
“向こう”と、天子が顎をしゃくった方は、黒いソルと、紅魔館の皆が戦っている方だ。
成程。此処でまた二手に分かれるつもりか。天子ちゃんは、クロウ達の方に行くのか。
ロボとクロウはやばそうだが、黒い旦那もかなりヤバイだろうし、迷ってる暇が惜しい。
「一人で大丈夫かい!?」 防陣の向こうの炎が、僅かに緩んだ。行くなら今だ。
「そっちこそ…!」 天子は生意気そうに言って、防陣を飛び出して、緋色の光を纏った。
炎を掻き消す勢いの緋色の光を纏い、天子は笑った。
「敵は多い方が楽しいからね…! 私はこっちに行くわ!」

そう言うが早いか。召還法術が展開されている真っ只中へと向って、天子は駆け出した。
きっと、彼女は負けないだろう。何となくだが、そんな風にアクセルは思った。
勝つ者のオーラというか、アクセルには出せない力強さを、溢れんばかりに感じたのだ。
任せるしかねぇ。そう思った。「そうかい! 俺は少ない方が良いんで、こっちに行くぜ…!」
アクセルは言いながら天子の背中を見送り、墨色の炎の中を、防陣を張ったまま駆ける。
駆けながら、ちょっと失敗だったかな、と少しだけ後悔した。何だよ。あれ。凄ぇ火柱だ。
墨色をした猛炎の塔だ。天にも届きそうだ。空が。空が燃えてる。焼け落ちて来そうだ。
山と黄色い空を隔てる稜線が、炎の翼を広げている。やべぇんじゃねぇの。っていうか。
俺が行ってどうにかなんの。脚が震えてくる。駆ける脚が縺れそうになる。ズドンと来た。
地鳴りと共に、境内を囲う木々が燃え立ち、灰になった。吹き飛んで、丸禿にされた。
アクセルはすっ転びようになったが、何とか防陣を張って耐える。
紅魔館の皆も、防御術陣を張って何とか耐えているようだった。それもそうだろう。
とんでも無い法力の嵐だ。その証拠か。何か。境内、広くなってねぇ。いや、違うな。
広くなってるんじゃなくて、無理矢理広げられてるんだ。法力と炎の暴風で。
待てよ。冗談だろ。墨色の炎の塔から、奴が出て来た。嫌味なくらいゆったりと、悠然と。
墨色の炎を囲う紅魔館のメンバーの向こうに佇んだ奴は、もう人間の姿をしてない。
人間の型こそしてるが、絶対に違う。上半身と貌が、人間のものじゃない。完全に竜だ。
化け物だ。全身を押し潰すように包んでくる悪寒は、殺気とか、威圧感とか、そんな上品なものじゃない。
俺が感じてるのは、恐怖だ。ただ、怖がってるだけだ。肺が震えて、しゃっくりが出そうだ。

紅魔館の皆だって、金縛りに会ってる。恐怖に飲まれている。
ああ、やべぇ。俺も丸呑みにされている。逃げたい。超逃げたい。
誰も文句無いだろ。誰が俺を責められるよ。逃げたって良いだろ。
逃げる? 逃げちまうか? 尻尾巻いて? 皆を見捨てて? 一人だけ? 何処へ? 
まぁ、無ぇんだよな。それが。逃げ場なんて。何処にもありゃしねぇ。
行くしかねぇんだよ。逃げたくても。出来ないんだな、これが。参るよな。参ったぜ。
未来の俺よ。生きてりゃ良い事在るって言ったよな。
「マジで信じるからな…!」 「あぁ、信じろ!」


未来か。未来。未来。未来なんて無い。必要無い。見ろ。俺の身体を。炎を。本質を。
それが全てだ。全てだった。俺には、過去も無ければ、未来も無い。要らない。必要無い。
どうでも良い。未来など、すぐに死ぬ。燃える。灰になって、風に攫われる。何も残らぬ。
虚しいな。俺は酷く虚しい。ああ。誰も俺から眼を背けられない。俺ですら、囚われたままだ。
俺の眼に映ったのは、紅魔館の者達だ。奴らは、俺と対峙している。戦うつもりだ。
レミリア。綺麗な貌が引き攣っている。レミリア。レミリア。お前の名前を知っている。
お前は、長い、長くて巨大な、魔光を帯びた槍を、俺に投げ放った。容赦無く。投げた。
俺は避けなかった。お前を見ていた。見ていたんだ。俺の身体を刺し貫いた、紅い槍は爆発した。
俺の身体の右半分が粉々になったが、炎が俺を復元する。ああ。元に戻る。痛みすら、虚ろだ。
レミリアの放った槍が、合図だった。フランドール。可憐な貌をした。フランドール。
フランドールは叫びながら、俺に、巨大な、巨大過ぎる炎の剣を叩き込んで来た。俺は。
やはり、動かなかった。レミリアからフランドールに視線を移して、片手で受け止めた。
熱。熱を感じる。だが、冷たい。寒い。酷く寒いんだ。何でだ。突然だった。音が消えた。
本当に突然だった。ナイフが、俺の身体中に刺さった。いや、刺さっていた。ああ。ああ。
時間を操る奴が居るのか。だからか。そうか。だが、それがどうしたんだ。どうしたと言うんだ。
俺は掴んだままのフランドールの炎剣を握り潰した。呆気無く、砕けた。砕けてしまった。
フランドールが何か叫んだ。いや、もしかしたら悲鳴だったのかもしれない。遠い。悲鳴も。
俺は、逃げようとするフランドールの背中の羽を掴んだ。細い、羽根だった。
フランドールが暴れた。そう思ったら、四人になった。分身した。
俺は殴られて、蹴られてた。殴られ、殴られ、殴られ、蹴られ、蹴られた。
次に爪で引き裂かれた。零距離で弾幕を浴びた。滅茶苦茶にされた。
それでも、背後から接近してきた美鈴には気付いていた。
振り返って、フランドールを差し出した。美鈴は息を呑んで、拳を止めた。
もしも突き込んでいたら、美鈴の拳は間違いなくフランドールを砕いていた。
拳を止めたが故に、美鈴に隙が出来た。大き過ぎる隙だった。
俺はすっと美鈴の前まで距離を詰めて、フランドールで美鈴を殴った。
打ち上げて、打ち下ろした。鈍い音が盛大に響いた。美鈴は呻いて地面に倒れた。
気付けば、フランドールの分身も消えて居た。或いは、維持出来なくなったのか。
フランドールが重くなった。止めのつもりで、フランドールを美鈴目掛けて振り上げた時だった。
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――!!!!!
絶叫が聞こえた。レミリア。突っ込んで来た。電光石火だった。でも、見えていた。
分かっていた。そう来るだろうと思っていたんだ。俺は、レミリアにフランドールを緩く放った。
パスした。紅い魔光を全身に纏わせ、太い鎖までを練成して距離を詰めて来たレミリアは。
呆気なく止まった。フランドールを抱き止めようとしたに違い無い。だが、出来なかった。
泣きそうな貌をしたレミリアの背後に廻った俺が、レミリアの頚を掴み上げたからだ。
抱き止められなかったフランドールの身体が、どさっと地面に落ちた。
「あ…ぐぅ…!」 俺の掴んだレミリアの頚の肉は柔らかく、肌はひんやりとしていた。
軽い。何て軽いのか。命とは、こんなにも軽い。軽いな。実に軽い。悲しい程に軽い。
このまま、炎に包んでやろうと思った。絶叫に近い声がして、ナイフが飛んで来た。
「調子に乗んなよ、この野郎…!」 それよりも疾かった。ナイフよりも疾かった。
レミリアを掴んでいた俺の腕が、容易く両断された。ナイフが来たのはその後だった。
見れば、赤いバンダナを巻いた青年が、俺に肉薄して来ていた。良い眼をしていた。
俺はナイフを身体中に浴びながら、その眼を見詰め返した。墨色とは違う、紅い炎。
怒りと殺意に満ちていた。それでいて、非情になり切れない眼だ。澄んでいる。良い眼だった。
どんな風に生きれば、そんな眼が出来る。俺も、お前と同じように生きれば。お前の様な眼になれるのか。
お前を知っている。知っている。アクセル。アクセル=ロウ。時間漂流者だった筈だ。教えてくれ。
「……お前の見てきた未来に、俺は居たのか…」 


「さぁな…! 咲夜さん、そっちお願い…っ!」
冗談じゃねぇんだよ。テメェ、おい。クソ熱いしよ。やってられねぇ。
でも、まだだぜ。まだだ。俺は行ける。来る。墨色の炎と、腕。竜の腕が。俺は。避ける。
捌く。往なす。鎖鎌を持つ手が焼けた。痛ぇ。痛ぇんだよ。序に熱いんだよ馬鹿。くそ。
あっと言う間に、両手の感覚が無くなった。
焼けてる。爛れて、肉が焦げてる音が聞こえる。泣きそうだ。
でも泣いてる場合じゃねぇ。俺は睨んだ。睨みつけてやった。
旦那そっくりの顔しやがって。
黒いソルの上半身は、黒い竜鱗の甲冑で完全に覆われている。
五つに裂けた眼は、くすんだ白金の光を放っていた。
アクセルを捕らえようと、黒いソルが腕を伸ばしてくる。
何処か緩慢な動きだったが、それでも十分に脅威だった。
捕まったら一巻の終わりだ。一発で終わりだ。何て理不尽で不公平なんだ。
相手はリトライしまくりで、俺の攻撃なんてびくともしねぇ。まるで効いてねぇだろ。
さっきから、鎖鎌で斬って、抉って、切り裂いて、刺して、ぶった切ってるのに。
今だってそうだ。斬った筈の奴の腕が、すでに再生している。
迫ってくる黒い両腕。それを、身を捻ってかわした。序に、再び鎖鎌でスパッとやった。
まず右腕を。次に左腕だ。その筈だ。奴の竜鱗で覆われた腕が、ボトリと地面に落ちた。
でも、やっぱり駄目だ。すぐに奴の腕が再生する。
墨色の炎が腕と鱗鎧を象り、凄まじい速度で復元してしまう。
ズルイぞ。マジで。鎖鎌を握る俺の手が焼ける。というか、爛れまくって、もう半分融けてる。
視界までぼやけて来やがった。眼が灼ける。熱いな。くそ。熱いんだよ。痛いしよ。
でも、気分はどうだよ。黒い旦那。人間一人に梃子摺る気分は。悪く無い気分だろ。なぁ。
もうちっと付き合えって貰うぜ。お前さんは気付いて無いだろ。いや、気付いてるか。
咲夜さんが、レミリアのお嬢ちゃんとフランちゃんを抱えて、離れた事なんて、気にしてないだろう。
美鈴ちゃんが気を取り戻して、此処から間合い取ったことも。お前にとっちゃ、大した事じゃ無いだろうな。
そんだけ強けりゃ、『俺』が法力を全力で込めて、チャンスを待っているのも、些細な事なんだろうよ。
全部気付いて尚、俺に付き合ってんのか。相変わらず、酔狂な奴だな。
でも、やっぱりだ。お前は俺を選んだ。これは決まってる事なんだろうな。
運命って奴さ。前に俺は、そんな喰えもしねぇモンに縛られるなんざ御免だって言ったが。
こればっかりはしょうがねぇ。現在と未来を繋ぐ、必要なコストなのさ。
後は、咲夜さんの能力発動に合わせるだけだ。
時間停止の間は、俺と咲夜さんしか認識出来ない。
正に、二人だけのゴールデンタイムな訳よ。
駄目だ。そろそろ限界だ。そう思った時だ。捕まった。
奴の左手がぬぅっと伸びて来ていた。その左手が俺の右肩を掴んだ。呆気なかった。
俺の右肩が焼け潰れて、どさっと右腕が落ちた。アクセル様!! そう声がした。
悲鳴みたいな声だ。咲夜さんだ。時間が止まった。来た。
黒い旦那は、俺の右肩を握り潰した姿勢のまま、止まっていた。千載一遇のチャンスだ。
俺は、残った左手に持っていた鎖鎌を口に加える。鉄の味と、焼けた肉の不味い味がした。
口で鎖を引っ張る。空いた左手で、地面に落ちた片方の鎖鎌の柄を掴む。姿勢を落とす。
こいつで決めるぜ。俺の意思に応えて、地面に垂れた鎖が、幾重にも法術陣を描き、刻む。
色を失い、止まった時の中。死掛けの俺は、命を鎖鎌の刃に込める。今更だけど奇遇だな。
俺の命も、炎だ。墨色とは違う。紅い炎だ。見せてやるよ。
お前達みたいな怪物とは一味違う、定命の奴が持つ炎がどんなモンか。
俺はこうなる事を知っていたんだ。ずっと前からな。俺は。俺だけは知っていたんだ。
俺は現実から爪弾きにされて、落ちて零れた。幻想の存在だ。夢幻の住人なのさ。
痛みが麻痺した腕に力を込めて、血反吐を吐いて笑う。そうさ。俺は未来から来たんだ。
笑えよ。俺は笑うぜ。だってよ。違うからな。結末が。変わるんだよ。未来が。
時が止まっている。殺界。煉獄連斬。地に刻まれた鎖が、何重にも黒いソルを縛り上げる。
滅茶苦茶にグルグル巻きにして、ガッチリ捕まえる。まるで蜘蛛の巣のように絡まりつく。
黒い竜神を捕らえた。とんっ…、とアクセルが踏み込んだ。鎖鎌に宿る炎が、紅の帯を引く。



「しくじんなよ…ッ!」 「あぁ! 任せとけ…っ!」
幽炎の影をくゆらせたアクセルが、鎖で雁字搦めにされた黒いソルに迫る。
レミリアとフランを庇う様に立つ咲夜は息を呑んで、その光景を見ていた。
眼を疑う。右腕を失ったアクセルの背後。其処に、もう一人のアクセルが居る。
止まっている時間の中で、二人の彼が居る。片方は、咲夜の知っているアクセルじゃない。
違うアクセルだ。アクセルであって、アクセルでは無い。タイムスリップという言葉が頭に浮かんだ。
蜃気楼の様に現れ、咲夜のナイフを追い越して黒いソルに迫ったアクセルは、違う。
二人のアクセルの存在に、混乱する。だが、見分ける事は可能だった。
どちらが咲夜の知るアクセルかは、一目で分かった。紅の法力の微光を纏う彼だ。
右腕を失ったアクセルの背後に続いた彼は、ナイフを口に咥えていた。
咲夜がプレゼントした物だ。間違い無い。
この瞬間まで、彼は自身の持つ法力を限界まで練り上げていたのだろう。
右腕を失ったアクセルは、その時間を稼いだのだ。
其処まで思考が回転した時には、勝負が付いた。
右腕を失ったアクセルが、左手に握った鎖鎌を縦横無尽に舞わせた。
あんな死掛けの身体で、どうやったらあんな風に鎖鎌を扱えるのだろう。
炎閃の軌跡が幾重にも幾重にも奔る。音は不思議な程しなかった。
黒いソルを捉える鎖ごと、右腕を失ったアクセルは微塵に斬り捲った。
まるで塵に返すかのように滅多斬りにした。あの強固な竜鱗をものともせずに。
だが、まだだ。人間の原型すら留めていない黒いソルは、まだ再生しようとしている。
最早、黒い靄みたいな状態なのに、まだ生き返るのか。凄まじい生命力だ。圧倒される。
墨色の炎が燃え上がる。消えない炎だ。右腕を失ったアクセルが、倒れるように膝を付いた。
だが、まだだ。ナイフを咥えたアクセルが飛び出した。鎖鎌を展開して、地に鉄鎖によって再び法術陣を刻む。
鎖は白波の焔となって、墨色の炎を囲い括る。止まった時間の中、咲夜ただそれを見ていた。
だが、止まった時間はもうすぐ動き出す。アクセルは、今のうちに決めてしまうつもりだ。
その瀬戸際で、咲夜はただ眺めているしかなかった。脚が竦んでいる訳でも、放心している訳でも無い。
割って入る隙が、全く無いのだ。二人のアクセルが命を掛けて、黒いソルに挑んでいる。
全存在を掛けて、打ち倒そうとしている。其処には、誰も割り込めない。彼らだけだ。
彼らだけのステージだ。咲夜は祈った。何に祈ればいいのか等は、知らない。
だが、祈らずにはいられなかった。アクセルが吼えた。
咥えていた銀ナイフを手に握り、疾駆しながら振り被った。
そうして、再び姿を取り戻そうとしている墨色の陽炎へと、ナイフを叩き込んだ。
アクセルの持つ、有りっ丈の法力を全て込められたナイフは、赤と銀が混じる光を纏う。
命が燃えている。炎の渦と化したアクセルの、全身全霊を込めたアクセルボンバーが炸裂した。



陽が沈み始めている空は、茜色に染まりつつある。
クロウは結界の中から、ゆったりと夕暮れに近づく空を見上げた。
GEAR MAKERによる封印施術の解析が終わった。あとは、解呪するだけだ。
これは、時間の問題だ。リモートで解呪出来る。
そうすれば、紫の肉体を演算回路とした術式も、すぐに発動出来るだろう。
妖怪の賢者を手中に収めながらも、心が浮かれるような高揚は無い。
クロウは冷静なままだった。

もうこの結界の中に居らずとも良い。解呪施術の完了を待つだけだ。それで、勝利の筈だ。
地を揺るがすような竜の咆哮が聞こえた。空からだ。ソル。ソル=バッドガイだ。
竜翼を翻す彼が、クロウの居る結界目掛け、垂直に降って来て、障壁に封炎剣をぶち込んだ。
これで何度目だろうか。ソルは執拗に結界を破ろうとしていた。紫を救う為だろう。
執念と共に叩き込まれ続けた剣は、結界の中程まで貫通して、止まった。
ついに、ソルの剣が結界を打ち破ろうとしている。
結界を破ろうと死力を尽くしているのは、ソルだけでは無い。
鮮烈な緋と、澄んだ朱の光で編まれ、結ばれた術陣が、クロウの結界を覆っていた。
賢者に掛けられた封印施術を解こうとする解呪法術ごと、この結界を呪破しようと言う訳か。
クロウはもう一度空を見上げ、紙垂と札を構えた紅白の巫女を見つけた。
膨大な霊力の奔流だった。霊夢は本気だ。眼を見れば、誰だって分かるだろう。
霊夢は、まさに血眼だ。眼から血が流れている。いや、眼だけじゃない。
鼻からも、耳からも流血している。朗々と文言を唱える霊夢は、血と共に術を紡いでいる。
だが、痛みも苦しみも感じない程に集中しているのだろう。満ちる霊気は神社全てを包もうとしている。
身体に凄まじい負担を掛けるような、超大規模な呪破結界を発動させる気だ。
ああ。このままでは、ゲートを繋ぐ鳥居を守る結界を保つことは出来ない。

ならば、保てるようにするとしよう。
封炎剣を突き立てられ軋む結界の中から、クロウは呆気ない程に容易く外に出た。
GAAAAaahhhhhhhhhh――――!!!! 即座にソルが反応した。
斜め上から結界に剣をぶち込んでいたソルは、そのまま横へずれる様にしてクロウへ迫る。
封炎剣で結界を削りながら、猛撃した。炎の塊になったソルが、クロウに突進する。
しかし、やはりソルの攻撃は届かない。蟲の脚だ。

クロウを守るように、滅茶苦茶に吹き上がる暗銀の蟲の脚。
バキバキグシャグシャと、金屑が拉げ、燃え落ちる様子を眺め、クロウは口許を歪めた。
ソルの力と拮抗する蟲の脚は、それだけで脅威だ。だが、まだだ。まだ悪夢は終わらない。
吼え猛るソルを見上げ、クロウは左手のグローブを外し、ソルへと翳した。
クロウの掌には本来、在る筈の無いものが在った。いや、埋め込まれていると言った方が正しい。
暗銀の肌をした、クロウの掌の真ん中。其処に、眼が在る。メリーから奪った眼だ。
ギョロっと動くその眼が、ソルを見ている。

「君は本当に強いね。…次元一つを守るだけは在るよ。でもね。僕は理解出来ないな。
 何故、踊らされていると知りながら、僕と対立するのか。
まぁ。理屈じゃないのかもしれないね。この世界が大切なのかい。
…或いは、妖怪の賢者の存在が、君を駆り立てるのかな」

クロウは言いながら、頭上に陣取る霊夢を一瞥した。もう直ぐに、霊夢の術陣が完成する。
広域を対象に取る、十重二十重に編まれた呪破結界だ。これが発動すれば、不味いことになる。
流石に、クロウが構築した結界はおろか、妖怪の賢者に施してある解呪法術まで打ち消されてしまうだろう。
霊夢とクロウの術唱レースだ。先に完成した方が勝つ。

成程。分かったよ。そういう事なんだね。やはり僕も、君の書いた筋書きの上に居るのか。
GEAR MAKER。君は、彼女達の力で、僕という脅威を排除出来ると判断したんだね。
この場に姿を現さない君は。やはり全てを見通しているのかい。教えて欲しいね。
どの道、保険も掛けているんだろう。悔しいな。悔しいね。実に。でも、僕も諦めない。

クロウは境界を操り、暗銀の蟲の脚と競り合うソルの周囲に、無数のスキマを展開した。
掌に埋め込まれたメリーの眼が、ソルを静かに見据えた。空間が、獰猛な口を開ける。
有刺鉄線で編まれたスキマは、ソルに齧り付き、竜鱗すら容赦無く食い破った。
血と炎が盛大に散った。圧倒的質量と物量の攻撃だった。熱く、紅い雨が降った。
ソルの身体は、空間に食い千切られて、ズタズタになった。両腕が千切れかけ、頚がもげそうだ。
胴体は裂けまくって、いまにも外れてしまいそうになっている。脚もぶら下がっているだけだ。
それでも、ソルは握った剣を離さない。凄いな。クロウは素直にそう思った。
境界を見る左掌の眼。メリーから奪った眼が、ソルの内に現れる境界を見た。
力の境界が、更なる力と炎を生んでいた。

泥人形の様な有様だったソルの身体が、復元されていく。
クロウは蟲の脚をさらに練成して、ソルにぶつけた。スキマを生み出し、さらに噛み付かせた。
ソルの身体は復元される内から破壊され、破壊の内から再生を繰り返す。
まるで、其処に生命が在って、肉体と精神が炎となって生まれ、生まれ、生まれ続ける様だ。
そうか。そうか。クロウは久ぶりに笑った。微笑みが零れた。慈しむ様な微苦笑だった。
聖戦の時から、君はそうだったのかい。 GRRUUUuuuuaaahhhh――――!!!!
暴力と炎の海の中に消えてしまいそうな、“フレデリック”と言うたった一滴の人間性を必死に守って来たのかい。
GGGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHH―――――――!!!!!!!
誰かの為に戦おうとして、救えず、殺して、壊して、それでも狂う事も出来ずに、戦い続けて来たのかい。
UUUUUUUUUGGGGGGGGGGGGGGGGGOOOOOOOOOOOOOOOOO――――!!!!!
贖罪を願いながら、復讐を求めて、人類皆の罪を背負って、足掻き続けてきたのかい。
もう良いんじゃないかな。もう良い。十分だろう。君だけが苦しむ必要なんて無い。
君だけが苦しんで終わりなんて、そんな小さな話じゃ無いだろう。余りに哀れだよ。
やはり、君は。この夢の世界と共に消えた方が、きっと幸せだ。
ソルの肉体は、もう人間の形をしていない。竜だ。炎が竜を象っている。
これが、ソルの正体だ。暗銀の蟲の脚を溶解させて、有刺鉄線編みのスキマを焼き払う。
炬火と熔炎の竜髑髏の陰影。その中に、赤銅と血錆の鱗で身体を覆う、竜人が佇んでいた。
灼炎と暴力が、意思を持って姿を持っている。
クロウは抵抗を忘れ、聳える炎の影を見上げていた。壮大な力の化身に、見惚れていた。
眼を奪われていた。感動すらしていた。燃え上がる血錆の炎を前に、立ち尽くす。
そのクロウへと。まるで隕石の様に、炎が降り頻ろうとした時だ。コノ弩阿呆メッ!
殴られたかのように錯覚する、強い声が聞こえた。「ぅっ…!?」
気付けば、クロウは誰かに担がれ、空を移動していた。ロボカイだ。
先程までクロウが居た空間が、炎の嵐に飲み込まれる。

「ボンヤリスルナ駄目博士! 
コノ規模ノ呪破結界ガ構築サレテハ、全テガ無駄ニ為ルゾ!!」




何故だ。俺は。何故生きている。俺は。俺は。まだ、生きている。うんざりだ。
「マジかよ…空気読めよ…!」 切羽詰まった声で言うのは、俺から少し距離を取っていたアクセルだ。
アクセルは、死掛けのアクセルを横抱きに抱えていた。紅魔館の者達も、俺から距離を取っている。
だが、もうどうでも良い。俺を殺しきれなったお前達には、もう興味は無い。もう良いんだ。
ただ、流石にダメージは在るようだ。身体の動きが鈍い。だが、それがどうした。
俺は見つけた。炎を。視界の先。ずっと向こうだ。血錆の炎が、竜髑髏を象っていた。
気付けば、俺は飛び上がり、お前に向って吼えて、空へと飛び上がっていた。
この胸の中を支配する感情が、喜びに近いものだと言う事は、すぐに分かった。
紅魔館の者達も。アクセルも。俺の視線の先を見て、息を呑んでいた。
無理も無い。博麗霊夢。結界に秀でた力を持つ事は知っていた。だが、此処までとは。
神社一帯を覆う程の、呪破結界を構築している。
こんな大規模の術を行使して、生身の人間が無事とは思えない。
凄まじい負担が掛かる筈だ。博麗霊夢は死ぬ気なのか。
だが。呪破結界の成否などは、俺にはどうでも良い。問題は、髑髏竜となったお前だ。
クロウに襲い掛かるお前の姿こそが、俺が求めたものだ。俺も、墨色の炎を纏う。
俺も、竜髑髏の陰影を纏う。全てを掛ける。燃えろ。俺よ。もう何も要らない。
翼で空を打ち、俺は空を飛翔する。紅魔館の者達も、アクセルも置き去りにする。
もうお前達とじゃれ合うのはお仕舞いだ。ああ。お前の炎が近づいてくる。
ぐんぐんグングン。近づいて来る。違う。違うな。俺が、お前に近づいているんだ。
見れば、もうすぐ其処だ。待ちわびた瞬間だった。俺は、お前の炎に触れる。
朱と緋の霊光で編まれた霊夢の術陣が、先程よりも大きく、空に刻まれている。
それがどうした。術陣の真下。竜髑髏の陰影を纏うソルに、黒い炎が猛撃した。
同じく墨色の炎が象った竜髑髏だ。ニ匹の竜の咆哮が混じり合い、空と大地を震わせた。



空が燃え上がる。
クロウの召還した金屑の蟲達を粗方片付けた魔理沙達は、その空を見上げ腰を抜かし掛けた。
黒い竜の髑髏火が、空を覆っていた。茜色に近い色だった筈の空が。黒く焼け落ちて来そうだ。
黒いソルだ。黒いソルが、ソル目掛けて猛進している。空から、轟々と音が降って来る。
風圧で押し潰されそうだ。それに、もの凄い熱さだった。魔理沙は帽子を押さえ、視線を宙へと向ける。
冷や汗も止まらず、舌打ちをしたかったのに、不思議と口許が笑みの形に歪んだ。
紫が捕らえられた結界を呪破する為、霊夢が結界を構築する間の時間を稼ぐには、如何動けば良い。
ざっと視線を巡らせ、魔理沙は状況を把握する。黒いソルは、ソルとガチンコのタイマンに持ち込むつもりだ。
紅魔館の奴らとアクセル達をそっちのけで、黒いソルはソルへと突っ込んで行ったのか。
…って言うかよ。何でアクセルが二人も居るんだよ。まぁ、ツッコムのは後だ。そうさ。
今の問題は、アイツ達だ。クロウを担いだロボカイだ。宙に居る霊夢に迫ろうとしている。
そうはさせねぇ。行かせないぜ。霊夢の邪魔すんじゃねぇよ。

「アリス! パチュリー! あいつ等を止めるぜ!」 
金屑と滓礫の中で、魔理沙は箒に飛び乗りつつ言って、燃える空へとかっ飛ばす。
パチュリーとアリスも、即座に魔理沙に続き、空へと舞い上がった。
流石に、そう簡単には先手は取れないか。ロボカイが、魔理沙達に気付いた。
クロウも続いて、魔理沙達の方へと視線を向けてきた。奴は少し笑って居た。
ムカつくぜ。中々、冷静じゃんか。霊夢へ攻撃しようとしていたロボカイは、境内に着地。
横から攻撃を受けるのは避けたいのだろう。魔理沙達を迎撃する気だ。
荷物みたいに抱えていたクロウを降ろして、封雷剣を持つロボカイは構えを取った。
同様に、クロウの足元の地面も、暗銀の塗膜が汚染を始めている。
魔理沙は恐れなかった。人里の時のリベンジだ。今度は負けねぇ。覚悟しろよ。
来た。クロウの足元から。ドバァァァァっと来た。蟲の脚だ。吹き上げてくる。
まともに遣り合うのは厄介な攻撃だ。クロウが召ぶ蟲の脚は、ソルの猛撃を受け止める程のパワーが在る。
だが、魔理沙は敢えて突っ込む。真正面から行く。開発した秘密兵器だぜ…!
箒に跨り、彗星の様に突撃をかます魔理沙の両腕に、魔呪の回路紋様が浮かび上がる。
自身の魔力と肉体の強さを劇的に倍加・強化する、魔理沙が独自に編み出した魔術だ。
笑う魔理沙は血を吐き出して、自身の周囲に、擬似的な賢者の石を纏わせる。
その数、四つ。得意技、オーレリーズサンだ。特大の隆星魔弾と化した魔理沙に、蟲の脚が殺到した。
だが、自身の魔力と肉体を強化しまくった魔理沙には、そんなものは無意味だった。
突撃力は、既にソルを超えている。まるで融けるチーズの様に、蟲の脚に穴を空けていく。
流石に、クロウの貌が強張った。全身を魔力倍加装置と化した魔理沙は、まだ止まらない。
魔法陣を纏う突撃に、クロウの機術汚染が間に合わない。魔理沙が押し勝っている。

「ナント言ウ馬鹿力ダ…!」
ロボカイがフォローに入ろうとするが、それを阻んだのは、アリスとパチュリーだ。
指で糸を操るアリスは人形達に戦列を取らせ、空中に陣をひきつつ、呪文を詠唱している。
パチュリーは賢者の石を自身の周囲に展開して、手にした魔道書を開き、朗々と詠唱を重ねていた。
おーばーくろっくダ…! ロボカイも、どうやら覚悟を決めたようだ。
頚や背中、脇腹から盛大に蒸気を吐き出し排熱し、法と優雅、秩序の蒼稲妻を身に纏う。
それは、カイ=キスクの稲妻だ。ロボカイは機械の持つ残酷さと、尊敬の意思を持って、その力と姿を映す。
窓の眼を真っ赤に染めて、ロボカイは飛び出す。アリスが布陣した甲冑人形達に斬り込む。
稲妻が人形達を斬り裂き、焼き潰す。剣で斬り払い、斬り伏せ、打ち払う。怒涛の斬撃だった。
しかし、アリスの持つグリモワールのページが捲れる度、幻影が甲冑人形の像を象る。
結ばれた像はすぐに槍や戦斧を持つ人形と為って、隊列に加わっていく。
アリスの召還する終わらぬ行軍と、ロボカイは対等に渡り合う。互いに死力を尽くしている。
魔力を出し惜しみしないアリスの貌には、既に大量の汗が流れている。
ロボカイは激しい排熱と共に、身体から軋みを上げて剣を振るう。

魔理沙とアリスの戦闘が拮抗している間に、パチュリーはオリジナルの魔術を編み込んで行く。
パチュリーが、自身の魔力と知識を全て捧げて構築する術式は、“否定”。
事象の可不可を定める力は簡素であるが故に、最も強力で問答無用の効果が在る。
それは、ソルの持つ“相手を黙らせる能力”に近い。だが、近いだけで別物だ。
パチュリーの行う魔術は、より完全な形でのディスペル。術式対象は、この神社全てを覆う機術汚染だ。
当然、そのパチュリーの挙動に、対象となるクロウが気付かない筈が無かった。
魔理沙の突貫を受けながらも、クロウはパチュリーを見て、眼を細めていた。
驚きでは無い。あれは、称賛の眼だ。クロウの機術汚染が、更に強大になった。
金屑蟲までもが地面から孵り、魔理沙を押し流そうと、蟲の脚と共に更に猛り狂った
凄まじい物量だ。無理だ。勝てる訳が無い。パチュリーは危うく、魔理沙の名を呼びそうになった。

しかし、其処にフォローに来たのは、緋色をした気質の濁流と、要石の雨だった。
振りまくる要石が、孵る金屑蟲達を押し潰し、極太の緋閃光がクロウを襲った。
全人類の緋想天。天子がクロウの横合いから殴りこんで来たのだ。
「なっ…、これは!?」 慌てて結界を構築したクロウの声に、焦りが浮かんだ。
魔理沙の突撃、天子の砲撃を同時に受け止めていたクロウの機術が、鈍い軋みを上げる。
「決めちゃいなさいよ! 白黒!」 天子の声に、魔理沙も負けていなかった。
「分かってらぁ!!」 血反吐を吐いた魔理沙は、んべぇっ、と口を空けて舌を出した。
その舌にも、魔術紋様が刻まれていた。血の線で描かれたそれが、最後のスイッチだった。
魔理沙は、身体を捨てるつもりだ。その覚悟が、魔理沙を一種の無敵状態に押し上げる。
わははははッ! と、笑う魔理沙の貌は、鼻血と、吐血と、血涙で真っ赤だ。
倍加・強化の魔法を極めた今の魔理沙は、聖霊と言って良いだろう。
箒の上に飛び乗って、魔理沙は八卦炉を取り出して構え、ぶっ放した。
「行っけぇぇぇぇええええええええええええええ――――!!!!」
魔理沙の絶叫と共に、茜色の空に星屑が瞬き、埋め尽くした。
星空が、魔理沙の味方になった。いや、違う。あれは、展開された弾幕だ。
空にまで浮かぶ、魔理沙の魔力回路図が放った、もの凄い密度の魔光と隆星の弾幕だった。
圧倒的な物量を、それを上回る超弾幕量で凌駕した。
クロウの法力機術を、聖霊と化した魔理沙の魔力が上回る。

「弾幕はパワーだぜ…ッ!!」 

暗銀の塗膜も、蟲達も、練成された超大な蟲の脚も、呆気なく蒸散した。
星を鏤めた、もの凄い光の奔流が、全てを押し流した。光の量が飽和する。
真っ白に染め上げられる。「…参ったなぁ」 呟いたクロウは、何とか防御術陣を展開した。
しかし、すぐに光に飲み込まれ、見えなくなった。同時だった。パチュリーの術式が完成した。
境内に現れたのは、幾重にも重なる超巨大な魔法術陣だ。
澄んだ紫色の光が、波紋として広がる。漣のように青黒の法力の微光を漱ぐ。
暗銀の塗膜に覆われ、姿を変えていた神社の風景が、塗り替えられていく。
風が、緑が、土の匂いが帰ってくる。夕陽と共に沈もうとしていた幻想郷という世界が。
息を吹き返す。大地に走る龍脈が、陽の光と共に再び脈を打ち始める。


ロボカイとアリスの勝負も、決着が着いた。アリスの霊糸が、ロボカイを捕縛したのだ。
「人の形をしていたのが、貴方の敗因ね…」 息を切らしながら言うアリスの言葉は掠れていた。
人形操術を極めたアリスに捕らえられたロボカイは、完全に動きを封じ込められていた。
だが、それも容易な事では無かった。アリスも肩で息をしている。
戦列を取る甲冑人形の数もかなり減っているし、グリモワールを包む魔光も、薄くなっている。
操り人形のように吊られたロボカイは、しかし、諦めなかった。自爆した。「な…っ!?」
ダメージを覚悟して、絡まる霊糸を吹き飛ばしたのだ。アリスは後方へ危うく飛ばされかけた。
だが、それが目眩ましだと言う事に気付くのが少し遅かった。
爆発が煙幕の代わりだった。居ない。逃がした。逃がしてしまった。
慌てて追おうとした。だが、気付く。「魔理沙…!」 どさっと、地面に墜落してきた。
魔理沙だ。魔女帽子は見当たらない。両腕は黒焦げで、貌も血だらけだ。
駆け寄り、上半身を抱え上げた。しかし、息をしていない。呼吸が止まっている。
治療魔法を、と思ったアリスだったが、その眼が霞む。一瞬、意識が飛んだ。
魔理沙もそうだが、アリスも相当無茶をしたのだ。手が震える。魔理沙。返事は無い。
抱える魔理沙の体が、凄く重く感じて、同時にこんなに軽かっただろうかと思った。
アリスは混乱している。死ぬ。魔理沙が。死んだ。そんな。そんな事。
「そのまま…動かないで…!」 声がした。後ろから。パチュリーだ。
その足取りは覚束ない。貌も蒼白で、眼の焦点も定まっていない様に見える。
だがそれでも、強い意志は消えていない。「まだ、助かる…」
ゴホッと、唇の端から血を零しながら、パチュリーは治癒魔法を行使しようとしている。
私は、何を勝手に絶望しようとしているんだろう。アリスは頷いて、深呼吸する。
集中する。残り滓程度だが、まだ魔力は残っている。
一人でだと厳しいが、今はパチュリーが居る。いや、違う。二人だけじゃない。
「手伝います…!」 「私も…!」 美鈴と、フランドールの声が背後からした。そうだ。
紅魔館の皆が、まだ此処には居る。貌を上げたアリスは、レミリアと眼が合った。
疲れたような貌だが、唇の端を歪めていた。「無茶ばかりするわね…」 
呆れた様に言ったレミリアも、残った魔力を渡す形で、ふらつくパチュリーの身体を支えた。
咲夜も、その咲夜に肩を貸して貰っている美鈴にしても、もう一杯一杯の筈だ。
とっくに限界を超えている。特に、二人居るアクセルの内、片方の状態は深刻だ。
右腕を失い、出血量も多い筈だ。腕の火傷も重い。肉が融けている。酷い怪我だった。
「…俺は、良。…い。…大丈、夫さ」 しかし、そんな状態だと言うのに、彼は笑って見せた。
…魔理沙ちゃん。やべぇ、ん…だろ。先に、手当て…して、やってくれ。
ぶつ切りに途切れた掠れた声だった。重体のアクセルを担いだ、もう一人のアクセルは神妙な貌で頷く。
「分かった…。俺にも出来る事在る? ガチバトル以外なら、まだ何とか体は動くぜ!」
もう片方のアクセルは、魔理沙を助ける為に力を貸してくれる様だ。
感謝せねばならない。これなら、助かるかもしれない。
もし死んだりしたら許さないわよ、魔理沙。



霊夢の巫術結界が完成し、鳥居を囲う結界が砕けた。
同時に、紫を空間に拘束していたバインドも解け、青黒の光の粒子となって消えていく。
吊るされていた紫の身体が力なく地面に落ちて、倒れ付した。
暗銀の塗膜汚染が浄化された境内からは、もう金屑の蟲達も孵って来ない。
クロウの召還法術陣も、完全に消え失せている。魔理沙達が勝利した証だ。
安堵と同時に、霊夢の意識が飛んだ。視界が真っ暗になった。あれ、と言葉を零した。
真っ逆様に墜落しようとしている。それだけは何とか分かった。
分かっただけで、どうしようも無かった。身体に全く力が入らない。
地面が近づいて来るのを感じる。このままでは激突する。まぁ良いか、と思った。
しかし、誰かに受け止められた。「だらしないわね…、まだ終わって無いわよ!」
薄っすらと誰かの顔が見え始める。蒼い、美しい髪。桃をあしらった帽子。天子だ。
何か言い返そうとしたが、そんな気力も無い。それに、見れば天子の方も、一杯一杯だ。
汗だくで、相当に疲れた青い貌をしている。それでも、勇気凛々な天子は笑って居た。
見る者を元気にさせる様な、背中を押してくれる様な、嫌味の無い突き抜けた笑みだ。
抱えられた霊夢も、何だか安堵したような気分になったが、まだだ。まだ終わっていない。
黄昏の空の遥か向こう。ずっとずっと上空だ。二つの影が。巨躯がぶつかり合っている。
ズドォォォウウウン―――――。此処まで聞こえる。凄まじい力と力がぶつかり合う音が。
ゴウウゥウウウウウンン――――。音が、身体の芯を揺さぶり、打ってくるようだ。
Gooooooaaaaaaaaahhhhh――――。叫び声。咆哮。凶暴で、暴力的な雄叫びも聞こえる。
GAAAAAAAAAAA―――――。しかし、獰猛なだけでなく、何処かもの悲しささえ感じた。
天子に抱えられて、無事に着地した霊夢は鼻血を啜って、貌を染める血を拭った。
そして、ふらつく自分の脚で何とか立って、倒れた紫に歩み寄る。
「紫…、紫っ!」 霊夢は紫の上半身を抱え上げて、顔に嵌められた拘束具を外し、名を呼ぶ。
反応は無いが、息は在る。紫の背中を見れば、蒼い紋様が消えかかっていた。
霊夢の解呪巫術の結界は、ギリギリのところで間に合ったという事だろう。
もしも、魔理沙やアリス、それにパチュリー、天子が居なければ、間に合わなかった。
クロウやロボカイの妨害に合っていたのは間違い無い。

「助太刀したいけど、あっちは別次元ね…、空が燃えてるわ…」
霊夢の傍で、遥か上空を見上げる天子は、感嘆とも驚愕ともつかない声で呟いた。
紫達を連れて、少し離れてて…。空を一度見上げてから、霊夢は天子に向き直った。
天子の方は驚いたような貌をした後、眉を顰める。

「あそこに割って入る気なの…。今のアンタじゃ、ちょっと無理なんじゃない」

語気を少し強くする天子に、霊夢は緩く息を吐いた。
溜息を吐こうとして、失敗したような吐息だった。
それから、霊夢はもう一度鼻血を拭い、ゆっくりと頚を回した。
「これでも、博麗の巫女だしね…」 口許を緩めて、天子を見つめ返す。
空をまた一瞥した天子は、肩を竦めるようにして、今度は皮肉っぽく笑った。

「異変解決が仕事か…。今は強がりにしか聞こえないけどね」

「強がり言える内に、面倒事を潰しておくの。…魔理沙達の事も頼んだわ」

霊夢の言葉を聞きながら、天子は紫をよっこらしょと抱き上げた。
その足元は、少し覚束ない様素だった。やはり、天子も霊夢と同じだ。限界が近いのだろう。
「要石を浮かべるのも、そろそろ危うくなりそうだけどね…。期待すんじゃ無いわよ」
それでも、軽口を言ってみせる辺り、流石は天人のタフさと言うべきだろう。
紫達を天子に任せた霊夢は、頷きを返して朱色の霊光を纏い、空へと舞い上がる。



空へ。空へ。上へ。上へ。Guuuuuaaaaaaaaaahhhhhhh――――。
咆哮が近くなる。魂を砕くような、大音声だ。GAAAAAAAAAAAAAAHHHHH――――。
近づく。燃える空に。黄昏を焼く、竜達の元へ。沈む夕陽と、昇る二つの太陽。
濁った紫色に縁取られた、黒い太陽と。血錆の炎に縁取られた、赤銅の太陽。
竜人と化した彼らの炎で空は燃え上がり、焼かれ、悲鳴を上げて、泣いていた。


これだ。俺が求めていたのは。此れなんだ。俺よ。俺よ。俺よ。そうだ。それで良い。
こんなにも、俺は満たされている。お前の血錆色の炎は、こんなにも熱い。熱くて、痛い。
俺は確かに生きている。お前と対峙しているのだ。お前は、俺と対峙しているのだ。
夢でも、現でも、何でも言い。お前は間違い無く、俺という過去を相手にしている。
そして俺は、何かを掴もうとしている。お前と闘う中で、何かを見出せる気がするんだ。
お前の持つ封炎剣が。歪で、直線的なフォルムを、更に凶悪に変形させ、巨大化した。
その剣が俺目掛けて振り抜かれる度に、俺の身体は粉々になりそうな衝撃が奔った。
何度も。何度も何度もだ。数え切れない。お前は飽く事も無く、俺を殺そうとしていた。
腕が千切れて、胴が裂けて、脚が斬り飛ばされて、顔面は潰され、身体を貫かれた。
お前は容赦無かった。今もそうだ。俺はすぐさま身体を再構成して、お前に踊り掛かった。
竜翼を羽ばたかせ、肉薄した。お前は、血錆の炎と共に剣を振り下ろしてくる。
最早、剣等とは呼べない程に肥大化した神器を。膨大な殺意を込めて振り込んでくる。
もう何度目だろう。俺が、その神器を素手で受け止める。俺の両腕が粉々になる。
俺は止まらなかった。俺はお前に体当たりをぶち込んで、無くなった両手でお前を殴った。
頭を。頚を。胸を。腹を。腕を。殴り抜いて、蹴り捲くった。炎が盛大に散った。
しかし、まだだ。俺達の纏う竜髑髏は、全く消えない。霞もしない。
揺らぐことも無い。お前の背負う罪のようだな。いや、正確には違う。少し違うな。
お前が一人で、無理矢理に背負い込もうとしていた罪か。馬鹿な奴だ。お前は。
あの聖戦の中で、誰か一人が悪かったなどと、そんな戯けた話が在るものか。
勘違いしている。大きな勘違いを。そんな事にも気付かない程に、自分を責めるのか。
GGGOOOOOOOOOOAAAAAAAHHHHHHHH――――!!!!!! 吼える。
俺は吼える。お前も吼える。墨色と血錆の炎が、混ざりあう。
お前の拳に炎が集まるのが見えた。俺も拳を即座に再生させて、炎を集める。
同時に拳を繰り出した。タイランレイヴが相殺した。衝撃波と炎が空を蹂躙した。
虚しさは、気付けば消えて居た。俺の拳は砕けた。お前の拳もだ。ぐちゃぐちゃだ。
だが、封炎剣を握っている方のお前の手は無事だった。振り下ろされた。俺は斬られた。
ばっさりと割断されるまでは行かなかった。俺の竜鱗の身体が、封炎剣を止めた。
左肩から腹までを叩き割られたが、其処で剣は止まった。俺は、そのまま突っ込んだ。
お前の反応は、僅かに遅れていたな。俺には分かる。俺の拳が。タイランレイヴが。
墨炎の塊がお前の顔面を襲った。効いた筈だ。その証拠に、お前の手から封炎剣が離れた。
それを見逃さなかった。封炎剣を、吹き飛ぶお前から奪った。奪い取った。
使い方は勿論知っている。お前は以前、神器を身体に取り込んでいたな。
ギアの肉体に神器を組み込む事で、弱りきっていた筈のお前は、俺の炎を受け止めた。
お前に出来るならば、俺にも出来る。俺は、お前だからだ。俺は。俺は。俺は。
KAHAAaaaaaaaaaaaaaa――――!!! 胸部の竜鱗を片手で引き裂いて、身体に亀裂を作る。
其処に、手にした巨大な封炎剣を、刺し入れていく。剣が、俺の身体に入ってくる。
痛みは在ったが、まるで気にならなかった。俺の身体は。肉体は、熔鉄で満たされた炉だ。
全てを燃やし尽くして、取り込む。俺は神器を胸から取り込んで、溶かして、飲み込んだ。
その瞬間だ。意識にノイズが走り出した。頭がざらつく。俺の纏う竜髑髏が膨れ上がる。

お前は、体勢を立て直して飛翔し、俺に向って来た。血錆の炎疾風と化したお前は。
徒手となったお前は、俺に拳を何度も叩き込んだ。大地を砕く拳の連打だった。
だが、何だ。急に、お前の拳が軽くなった。どうしたんだ。どうした。こんなものなのか。
いや、弱くなったんじゃないな。お前の力が弱まっている訳じゃない。そうか。
封炎剣を取り込んだ俺が、より強くなったのか。そんな事か。お前の力はその程度か。
弱いぞ。弱い。弱過ぎる。萎えそうな程に。俺は、お前の拳を捕まえた。
次に、俺もお前の胴に拳をぶち込んだ。腕の力だけで、お前の身体に拳を叩き込んだんだ。
お前の身体が折れ曲がり、竜鱗が潰れ、拉げる。動きが止まった。どうした。どうしたんだ。
たった一発だぞ。冗談だろう。お前は、こんなにも脆かったのか。がっかりだ。
酷い頭痛とざらつきが、俺の視界に罅を入れる。墨炎が暴走し始めた。轟々と燃える。
俺は、俺を制御し切れなくなりそうだ。いい気分じゃないな。眩暈がする。
もう終わりだな。俺は、血を吐き出したお前を、宙空に蹴飛ばした。
弧を描いて、お前は頼りなく浮き上がった。お前の纏う竜髑髏が、大きく揺らめいた。
火の粉となって、今にも消えそうだ。消える。お前が消える。俺が、お前を抹消する。
俺は、お前目掛けて、渾身の力を込めたタイランレイヴを叩き込む為、息を吸い込む。
お前は、これでお仕舞いだ。終わりだ、お前は、此処で消え去る。
俺は知りたかった。夢の中のお前が、何を見据えて歩き続けて来たのか。
何を見ていたのか。お前が消えて、其処に何が残るのか。俺は知りたかったんだ。

朱、緋、紅の光が奔ったのはその時だった。同時だった。俺の手脚が術陣に捕縛された。
脆い結界だ。この程度で俺を括ったつもりか。最後に邪魔に入って来たのは、巫女だ。
あれだけの大巫術の後だと言うのに、意識を保っているのが不思議な程だ。博麗霊夢。
最後に立ち塞がるのは、貴様か。

お前は、落下していく。遥か下の幻想郷の大地へ。助けに入りたいだろう博麗も、無理だ。
俺が見逃さない。こうして立ち塞がることしか出来ないだろう。
落下の途中で、お前が持ち直したとしても、無駄だ。もう、お前じゃ俺には勝てん。
お前には、守りたいものが在る。だが、俺には無い。俺には無いんだ。何も無い。何も。俺は空っぽだ。空っぽの、熱いだけの炉だった。全てを焼き尽くす炎だった。
俺は持っていない。持っているのは、お前の記憶だけだ。罪の記憶だけだ。
お前は、自分を、守りたいものを捨てきれない。だが、俺は違う。俺は違うんだよ。
俺は、全部捨てられる。飲み込んだ封炎剣が、俺の肉体と拒絶反応を起こし始めた。
視界にノイズが入りまくって、ぐちゃぐちゃになる。でも、まだ見える。
お前達を殺してしまうには十分過ぎる。足掻け。足掻いてくれ。足掻くんだ。
このままでは、俺は何も分からないまま、お前達を潰してしまう。
さぁ、どうするんだ。どうするんだ、博麗霊夢。見せてくれ。

霊夢は眼と閉じ、集中する為に軽く息を吐き出した。巫女服の裾や袖が、大きく靡く。
霊光を纏う霊夢の周囲に、複数の陰陽球が浮き上がり始める。あぁ、お前も本気なのか。
肥大化した翼を広げ、俺は博麗を待ち受ける。人間が、俺に勝てるのか。教えてくれ。
空中で半身の構えを取った博麗は、次の瞬間には消えていた。亜空穴に消えた。
一瞬だった。俺の懐に入り込んで、博麗は現れた。ダダダン! と、拳を打ち込まれた。
次に浴びせ蹴りを二発喰らい、最後に紙垂で三度打ち据えられた。強烈な攻撃だった。
だが、それだけだ。効かないな。まるで効かない。やめてくれ。俺を失望させるな。
そう思ったが、大間違いだった。俺が博麗を捕まえようとした時だ。気付いた。
博麗の纏う陰陽球全てが、眩く輝いていた。光を放散していた。「夢想天生…!」
文言を素早く唱えた博麗の身体から放たれた、渦を描く膨大な量の極光の嵐。
燃え落ちそうな空が、光で覆われた。俺は、光に飲み込まれた。全てが染め上げられた。
霊光の霹靂の中、俺の身体が崩壊していくのを感じた。何て威力だ。良い。良いぞ。
流石は、博麗の巫女だ。俺は、自分自身の自我までもが崩壊していくのを感じた。
俺が誰なのか分からなくなる。俺は。誰だ。お前は。俺は。俺は。ああ。そうだ。
思い出した。思い出したんだ。俺の身体はより強く生まれ変わり、俺は俺を思い出す。
目覚める。力が。全てが。俺は、GEARの種父だ。Aa――。笑いが零れそうだ。
お前もそうだ。俺は、お前のコピーだ。力尽きたのだろう。博麗の身体が大きく揺れた。
意識を失って落下し始めた博麗を抱きとめたお前は、俺をただ見ている。
もはや、俺は人間の形すらしていないだろう。
メガデスクラスを超える今の俺の巨躯は、竜と言っても過言じゃない。
お前は、まだ人間の形を保っている。そうか。結局はこれが、お前と俺の違いか。
つまらんな。実に。拍子抜けだ。なんて残酷なんだ。
俺は、こんな事を知る為に闘っていたんじゃない。

「落胆する事は無い。…君の知りたい事は、もうすぐに分かるよ」

突然だった。澄み切った、不自然な程に落ち着き払った少年の声がした。
GEAR MAKER。お前か。お前までもが、俺の邪魔するのか。
奴は、博麗を抱きかかえるソルのすぐ傍に、静かに佇んでいた。
何時の間に、とは思わなかった。そんな事を思う程、俺は奴に興味は無い。

「幻想郷が、その魂を貸してくれた。これは、正しい事に使うとしよう」

法衣を目深く被った奴の両掌に、蒼と碧の光が渦を巻いた。
その瞬間だった。奴の背後だ。沈み掛けていた夕陽が、再び昇り始めた。
陽を背負う奴は、短く唱えた。

“Guilty Gear『Dragon Install』”

GEAR MAKERの詠唱に応えたのは、ソルだけでは無かった。
覚醒した幻想郷と、この地に宿る龍神だった。太陽の頂点の下、奴は微笑んでいた。
「……助けに来たつもりか…」 「あぁ。…旧友としてね」
ソルとGEAR MAKERは短く言葉を交わし、それ以上は何も言わなかった。
その必要も無かったのだろう。博麗を奴に抱き渡したお前は、俺に向き直った。

「……くたばれ…」
そう低い声で呟いたお前は、血錆と赤銅の竜髑髏を纏わなかった。
代わりに、紅蓮の霊炎を両腕に宿し、纏う陰影は太陽色をした龍だった。
浄火が術陣を刻む。俺はお前に飛び掛った。猛然と遅い掛かったんだ。
お前は。竜人と化したお前は。恐れることも怯むことも無く、俺に向って来た。
お前の纏う龍神の陰影と、俺の纏う、巨大に膨れ上がり過ぎた髑髏の陰影がぶつかる。
炎の代わりに、曙光の如き光が溢れた。優しい光だった。暖かさを感じた。
俺は包まれていた。まるで、赤子が毛布に包まれる様に。温もりを、安らぎを感じたんだ。
……最初からこうなら…話が早かったんだがな…。お前の声が聞こえた。
炎だ。お前の操る炎から、濁りが抜けていた。俺は、もう抵抗する気にならなかった。
分かった気がしたんだ。俺は、ようやく分かった。お前に在って、俺に無いもの。
そんな大それたものじゃないんだな。お前は。少し変わる事で、それを手に入れたんだな。
或いは俺も。生まれ変われるならば。お前の様に、誰かと絆を育む事も出来るのだろうか。
俺の身体に、奴のタイランレイヴが叩き込まれた。俺の巨躯が、簡単に砕けた。
濁りも澱みも無い、澄み切ったお前の炎が。龍神の炎が。俺を容赦無く焼いた。
脈打つお前の心臓に合わせて、炎が奔った。
俺は、もう形を保っていられない。
お前の炎に紛れてしまう。
混ざってしまう。
それで良い。
アリア。
俺は。

お前に会えるだろうか。








UUuuuuuuuGGGGGGGGGGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――――。
凄まじい断末魔が、幻想郷全土に響き渡り、大気を振動させた。死に行く竜の叫びだった。
聞く者の魂を激しく揺さぶる、命の終わりを告げる鳴き声だった。
どんな素晴らしい楽器でも、この声以上に心を打つ事など出来ないだろう。
霞みの掛かる意識の中でその大音声を聞きながら、クロウは微かに笑みを浮かべた。
ロボカイに背負われたままのクロウは、既に瀕死だった。
黒のコートは所々焼け焦げているし、改造を施した左腕もボロボロだ。

「もう…良いよ…。僕、を…。置い、て行くん、だ…」

「阿呆ナ事ヲ抜カスナ!」

そう言うロボカイの損壊状態も深刻だ。自爆のダメージで、左の窓眼が割れている。
身体の彼方此方からは、オイルの代わりに青黒の微光が零れ、関節が軋みを上げていた。
いつ停止してもおかしく無い状態だ。それでも、ロボカイはクロウを降ろそうとはしない。
何とか共に逃げ切ろうとしている。だが、多分無理だろう。そうクロウは考えていた。
ロボカイ達は博霊神社から離脱すべく、茂る木々の中を逃走していた。
茂みや枝葉を掻き分け、ロボカイは逃げている。もうどれ程来たのか分からない。
何処に行くんだい…。不意に、幼くも異様な程落ち着いた声がした。

「グッ…!」 ロボカイが呻いた。クロウは、僅かに笑みを零した。
鬱蒼と茂る木々の狭間に、法衣を目深く被った少年の姿が、眼の前に在ったからだ。
慌てて踵を返そうとしたロボカイだが、その足元に黒緑の法術陣が浮かび上がった。
術陣からは微光が編んだ黒い茨の蔦が伸び、ロボカイの脚に絡みついて来る。
スロウフィールドだった。「無駄な事をするな」 どろっと濁ったような男の声だ。
丁度、ロボカイの背後。其処に、ダークグリーンのボディスーツを着た、仮面の男が居た。
深緑の景観全てを腐らせてしまう様な、余りに澱んだ雰囲気を纏っている。レイヴンだ。

「…止めを、刺し…に、来たの、かい…?」

言いながら、背負われたままのクロウは、唇の端から血を零しながら笑った。
ロボカイは少年とレイヴンを交互に睨みつけ、何とか逃げ出す隙を探っている。
だが、逃げられる訳が無い。ロボカイは既にスロウフィールドの中だ。
術者のレイヴンも、この場に居る。「そうだと言ったら、君はどうするのかな…」
少年は、澄んだ声音で言う。クロウは、そうだなぁ、と呟いて、貌を上げた。

「僕として、は…君に、会う事、が…出来て、十分に、満足だか…らね」

ゲホっと血を吐き出してから、クロウは微笑んだ。
無駄ニ喋ルナ! 駄目博士! ロボカイが喚くが、クロウは構わず言葉を続ける。

「君、に…お願いが、在るんだ…。
このロボを…君の配下に…加えて、やって、…くれないか」

ロボカイが絶句した。少年とレイヴンは黙ってクロウの言葉を聞いている。

「任務、遂行力に…は、若干の問題が、…在る、けれど…。悪い、奴じゃ、…無いんだ」

途切れ途切れの言葉だったが、血と混じるその声音は真剣だった。

 「言動…も、妙な処が在るけど、傍に居て…退屈は、しないと、思うよ…」
 
 其処まで言った時だ。ロボカイが少年を睨んだ。

「オイ、ガキンチョ! 駄目博士ハ、確カニ駄目駄目ダガ、研究者トシテハ優秀ダ!
 吾輩ヲ造リ上ゲ、ちゅーんあっぷスル程ニナ! ソレダケジャナイ!
 アノじゃすてぃすノこぴーヲ量産スル変態ップリダ! 兎ニ角、凄イノダ!
ソレニ、駄目博士ハ♀ニモ全ク興味ガ無イカラ、嫁ヲ取ラレル心配モナイゾ…!」

ロボカイは、そのまま蹲るようにして頭を下げた。

「雑用デモ何デモスル! 頼ム…ッ! 博士ヲ! 助ケテヤッテクレ…!」
 
 ロボカイの電子音声が、深緑の木々の中に木霊した。
 背負われていたクロウも、少し驚いたような貌になっていた。
 「如何致します…」 そう少年に問うレイヴンの手には、既に針が握られていた。
少年は黙ったまま、頭を下げるロボカイを見詰め、それからクロウへと視線を向けた。

「僕も、君の力と記憶を…少し貸して貰いたい。
これ以上、『キューブ』を終戦管理局の脅威に曝したく無いんだ…」
 
 静かな声音で言いながら、少年は握手を求める様にクロウ達に手を差し伸べた。

「此方に来てくれるかい…? ルールを破ろうとする側から、守ろうとする側へ…」



[18231] 四十・一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 21:55
終わった。とにかく、終わったんだ。
それだけは分かった。沈み掛けていた黄昏の太陽が再び昇った。
それを見て、本当に何となくだが、この戦いが終わるんだと思った。その通りだった。
空を見上げれば、見た事も無いほどに綺麗な、余りに壮麗な紅蓮の炎が巨像を象っていた。
脈打つ炎だった。命そのものであり、幻想郷の姿だった。神の息吹を感じた。
龍だ。巨大な龍の陰影が、頚を擡げてこちらを見下ろしていた。
昇る陽と炎を背にして、俺達を見ていた。



多分、と言うか、間違いなく、一生忘れられない光景だ。あれから一日経った。
永遠亭の診療所、そのベッドの上で、アクセルは天井をぼんやりと眺め、思い出していた。
今は思い出す事くらいしか出来ない。したくても出来ない状態だ。とにかく疲れていた。
動けるには動けるが、身体の反応が鈍い。身体を起こそうとすれば、少し眩暈がする。
アクセルは包帯で全身をぐるぐる巻きにされて、永琳から絶対安静を言い渡された。
そりゃそうだろう、と思う。何せ、黒い旦那とガチンコで遣り合ったんだ。
無事で済む訳が無い。こうやって生きてる方が不思議な位だ。
ひょっとしたら俺、実は死んでるんじゃねぇの。そんな風にも思うが、どうやら生きてる。
何処か妙な気分だった。アクセルは今、少し薄手の白い被術衣を着て、毛布を掛けている。
頬と鼻の頭にも大きな絆創膏を貼って在るが、昨日よりも血色は遥かに良くなった。

永琳や鈴仙達の治療の御蔭だった。
永遠亭も襲撃を受け、輝夜と永琳自身も負傷したが、流石は蓬莱人と言った処だろう。
自力で傷を再生し、シンやイズナ、鈴仙や妖夢達だけでなく、アクセル達まで一手に治療を引き受けてくれたのだ。
感謝せねばならない。もしも永琳達が居なければ、本当にアクセルは死んでいたかもしれない。
だが、治療が間に合わなかった者も居た。もう一人の、未来から来たアクセルだ。
彼は永遠亭に着くまでに死んだ。死んでしまった。アクセルの眼の前で、自分が死んだ。
何だか現実感が無くて、悲しさや喪失感と言った感情は、不思議と感じなかった。
それは、死んだ未来のアクセルが、嫌に満足そうな貌をしていたからかもしれない。
彼は言っていた。死ぬ間際だった。未来からやって来た彼は、死ぬ気だったんだろう。
右腕を失い、唇の端から血を流し、途切れ途切れの声で、自嘲気味な笑みを浮かべていた。
火傷だらけの身体を震わせて笑って、語ってくれた。

俺はね。逃げたんだ。此処から。最後の最後に。皆を置いて。一人で逃げたんだ。
逃げちまったんだ。そしたら、紅魔館の皆が殺られちまったんだ。皆、皆やられたんだ。
紅魔館の皆だけじゃない。霊夢ちゃんも魔理沙ちゃんも。旦那もだ。誰も助からなかった。
クロウがゲートを開く寸前に、俺は過去に跳んだんだ。そして、此処に…過去に来た。
今に来たんだ。逃げない為に。皆がやられちまう未来を変える為に。悪いな。
謝って済むもんじゃねぇけどよ。俺は、俺が二人同時に存在出来る事を、利用したんだ。
俺は。俺は、未来を変えたかったんだ。でも、これで良い。これで良い筈なんだ。
これで未来は変わる。お前は、俺みたいに逃げなかった。立ち向かった。闘ったんだ。
皆生きてる。生きてるんだ。戻って来て良かった。すまねぇ。すまねぇな。
ああ。眼が霞んで来やがった。駄目だ。もう、良く見えねぇ。
なぁ、お前は…めぐみに会えると良いな。

未来のアクセルはそう言って、アクセルの腕の中で死んだ。
死んでから、光の粒子みたいになって、透けて、消えてしまった。
まるで夢か幻か、蜃気楼の様に消失して、無くなってしまった。
呆気なかった。今思い返してみても、不思議と何の感慨も抱かなかった。
未来が変わったが故に、未来のアクセルは存在出来なくなったのだろう。
だから死体も残らずに、消えた。消滅した。彼はもう、世界の何処にも存在しない。
ただ、一言。彼の最後の言葉だけが、嫌に耳に残っている。
“会えると良いな”。命を掛けてまで未来を変えて、俺に伝えたかった言葉だ。
俺だって、めぐみに会いたい。そう思う。当たり前だろ。

アクセルは、身体をゆっくりとベッドから起こして、病室に視線を巡らせた。
柔らかく、涼やかな風が窓から入ってきて、カーテンを緩く揺らしている。
陽の光の暖かさと、微かな薬の香りがする。病室には、ほかにも二つベッドが置かれていた。
其処には、霊夢と魔理沙が寝かされている。永琳の治療を受けたのだ。
二人も、清潔感のある白い被術衣を着て、穏やかな寝息を立てていた。
体力も気力も、相当に消耗したのだろう。もう一日経つが、二人が起きる気配は無い。
特に霊夢と魔理沙は大技を連発して、死ぬ一歩手前だったから、無理も無い。
だが、御蔭でクロウ達を退け、紫を救う事も出来た。この二人のコンビには本当に恐れ入る。
少女と言える年齢の霊夢や魔理沙が、今よりも成長し、更に力を付ければ一体どうなるのか。
楽しみな様な、末恐ろしい様な気分になる。

そんな風に暢気な事を考えている自分に気付いて、鼻から息を吐いてアクセルは苦笑した。
何か、気が抜けちまったな…。 呟く様に言いながら、コキコキと頚を鳴らす。
それから静かにベッドから降りて、足元に用意されていたスリッパを履いた。
足音を立てない様に歩いて、病室の外に出る。
安静を言い渡されたが、外の空気を吸う位は良いだろう。
診療所の廊下には、誰も居なかった。他にも患者は居る筈だが、今はやけに静かだ。
廊下に置かれてある待合用の長椅子に腰掛けて、アクセルはだらしなく脚を伸ばした。
煙草でも持っていたらと思うものの、此処は診療所だし、灰皿も持っていない。
溜息の様に大きく息を吐き出して、頭の後ろで手を組む。吐息が静寂に溶けていく。
やる事も無くて、やはり天井を見上げる位しかなかった。じっと見上げていた。
終わった。終わったんだな。そう思う。それ以外の事を考えようとする。それ以外。
例えば、これから俺はどうなるんだろうとか。どうするべきなんだろうとか。
元の世界に帰る方法を探すか。元の世界。でも其処に、俺の居場所は残ってるんだろうか。
レイヴンから聞いた話では、俺は幻想入りしたらしい。つまり俺は、現実からの除け者だ。
時間の中を行ったり来たりしながら、如何にかして、仮にめぐみに会えたとしてだ。
幻想入りによって、俺は現実世界での痕跡を抹消されている。仲間達の記憶からも消えている。
無かった事になっている。誰も、俺を俺と認識することが出来ない状態だ。
そのめぐみは、俺の事を覚えているんだろうか。分からない。確かめてみない事には。
だが、それが恐ろしい。今まで眼を背けて来た分、余計に怖い。もしも、もしもだ。
めぐみが俺の事を覚えていなかったら。『誰ですか』とか言われたら。俺はどうするだろう。

決まってる。
思い出させてやる。世界の方に、俺の事を思い出させてやる。
幻想入りしたんだ。なら、現実に逆戻りだって出来るだろう。だが、もしも出来なかったら。
まぁ、そん時はそん時だな。今考えたって仕方無い。
天井を見詰めたままのアクセルには、一応のあてが在った。

不和と不同、無貌と多相の神。語り騙る者。“あの男”だ。
博麗神社での戦闘に現れてソルを助け、そして終わってすぐに、また忽然と姿を消した。
何を考えているのか分からないし、行動も読めない。更には本物かどうかも区別が出来ない。
“あの男”の目的を知ったところで、その真意を理解する事など無理だろうとも思う。
多元を司る年代史家の考える事なんて、知ったところで干渉出来るなどとも思えない。
だが、だからこそだ。奴ならば、アクセルが現実に戻るヒント位は知っている筈だ。
何とかして“あの男”に会えれば、道は開ける。アクセルはそう睨んでいた。
以前に会った時も、アクセルの体質の原因についても知っている様な口振りだった。
もしくは、レイヴンに聞いてみてもいいかもしれない。

まぁ結局は、元の世界に戻らないとならねぇって事かねぇ…。そう呟いた時だった。
色々と考えていたせいで、近くまで誰かが来ている事に気付くのが遅れた。

「絶対安静じゃねぇのか。怒られても知らねぇぞ…」

廊下の向こう側から歩いて来た青年に声を掛けられた。
白の細身のジーンズに、白いシャツを着ている。シンだった。
アクセルは視線だけでシンを見てから、少しだけ口許を歪めた。

「寝っぱなしっで、身体が硬くなっちまってな」

「ヘロヘロだった癖に良く言うぜ…」
 
シンは呆れた様に言いながら、どかっとアクセルの隣に腰掛けた。
それから緩く息を吐いて、ボリボリと頭を搔いた。何か言おうとして、迷っているのか。
微妙な貌のままのシンは、少し申し訳無さそうに眼を伏せた。

「最後は、また親父達に任せっぱなしになっちまったな」

「気にすんなよ。…お前さんだって、
地底の皆や、幽香ちゃん達の為に出来る事したんだろ? 上出来じゃねぇか」

「そうかもしんねぇけど…」

歯切れ悪く言うシンは、また微妙そうな貌でアクセルを見て、すぐに眼を逸らした。
どうもシンは、博麗神社での戦いに参加出来なかった事に、負い目を感じている様だった。
しかし、とアクセルは思う。あの時、戦っていたのは、何もアクセル達だけでは無い。
“あの男”が造り上げたと言う、もう一つの幻想郷へ移り住む為に、皆動いていたのだ。
守矢神社に集まった妖怪達や、早苗を含む二柱も。地底や人里、白玉楼もそうだ。
勿論、この永遠亭も含まれている。傍観者などは誰一人として居なかったのは間違い無い。
シンやイズナも、傷ついた身体を推して、転移術式の構築に協力したのは聞いている。
だが、今のシンはそう言った処とはもっと違う処で、自分を追い詰めている様に見えた。
まるで自分を痛めつけ損なった様な、痛め付ける事を自分に強要している様な、そんな感じだ。
難しい年頃なのかねぇ。アクセルは顎を擦りながら、肩を竦める。

「そう言や、“あの男”のホムンクルスとやらは何処行ったんだ? まだ此処に居るのか」

ふと思い付いた。この際だ。ホムンクルスでも何でも良い。
本物の“あの男”、GEAR MAKERに取り次いで貰う事を思い付いた。
だが、少し遅かった様だ。「何にも言わずに消えちまったよ…」と、シンが緩く頚を振った。

「イノと一緒にな。…もう此処には居ねぇぜ。多分、他のトコもそうだろ。
 さっき妹紅と永琳達が話してるのを聞いたけどよ。
人里に現れた“あの男”のホムンクルスも、もうとっくに姿を消したらしいぜ」

「へぇ…、って事は、地底と守矢神社も望み薄か…」

「この調子じゃ、白玉楼に現れたレイヴンの奴も、もう消えちまってるだろうな」

シンの言葉を聞きながら、アクセルは後頭部を搔いて、また天井を仰いだ。
さっさと姿を眩ましてしまう処を見ると、“あの男”も痕跡は出来る限り残したく無かったのか。
もう一つの幻想郷を造り、此処に住まう者達を移住させる。確か、そんな事を言っていた。
大き過ぎる保険だが、終戦管理局を相手にする以上は、それ位は必要だったのかもしれない。
今までの幻想郷での戦いを振り返れば、かなりギリギリの綱渡りだった様にも思う。
幻想郷が戦場となる事を是とした時点で、“あの男”は既に行動を取っていたに違い無い。
“あの男”は、滅ぶ幻想郷を未来に見ていた筈だ。実際、そう言っていた。

だが、読み間違えた。未来が変わった。変わったのだ。その一因は、アクセルだ。
未来からやって来て、その未来を変える為に闘って死んだアクセル自身だ。
全てが変わった。未来を見た“あの男”は、幻想郷の滅びに備えたが、それを覆した。

完全なイレギュラーだった筈だ。
アクセルは、チェックメイトを否定した。事実として、幻想郷は無事に残っている。
時間をも切り裂く夜鷲の鎌刃が、とうとう未来をも切り拓いたのだ。
しかしアクセル自身、そんな大それた事をしたなんて言う実感は微塵も無い。
飽くまで、未来を変えようと奮闘したのは、“未来のアクセル”だらだ。
実感など在る筈も無い。他人事と言わないまでも、まるで現実味の無い話だ。
ただ眼の前には、“あの男”のホムンクルスに接触する機会を失った、という現実が在るだけだ。

博麗神社での戦闘が終わってすぐの事だ。
ぶっ倒れた霊夢や魔理沙、それに紫を永遠亭まで運んでくれた“あの男”。
正確にはホムンクルスだろうが、彼はソルやアクセルに礼を述べてから、言っていた。
『終戦管理局の居場所を突き止めた。そして、クロウの身柄も確保した』と。
相変わらず、幼くも異様に落ち着き払った声音だったのを覚えている。
今回の騒動の中で、アクセルはイノに出会って居ないから、
“あの男”のホムンクルスがイノを連れて消えたのも、あれからすぐだったのだろう。
正直、戦いが終わってすぐだったから、そんな事にまで頭が廻らなかった。
ヘロヘロ過ぎてそれどころじゃ無かったから、気付きもしなかったと言う方が正しい。
あの戦闘の中、ロボカイと共に姿を消したクロウを捕らえて見せる辺り、手際の良い事だ。

それに比べ、アクセルはまだ何も手に摑んでは居ない。
結局、この戦いがようやく終わった事くらいしか分からない。
霊夢や魔理沙、紫達が眼を覚ませば、それで本当にお仕舞いだ。
幻想郷から“あの男”が姿を消したという事は、終戦管理局との因縁にも決着か。
旦那はどうすんのかねぇ…。
参った様に呟きながら、アクセルはちらりと横目でシンを見た。

「なぁ…、お前さんは、これからどうすんだ?」

何となく、アクセルは聞いてみた。
シンは、渋い貌になって頬を指で搔いて、鼻から息を吐き出した。

「別に、どうもしねぇけど…ただ、解毒法術の影響で、まだ幽香が衰弱したまんまだ。
 術を編んだ俺の所為でも在るしな…。体力が戻るまでは、一緒に居てやろうと思ってる」

身体から毒素を抜くのと一緒に、幽香の生気まで大分吸っちまったからな…。
呟いたシンは、奥歯を噛み締めて、険しく眼を細めながら宙空を睨んでいた。
普段からは想像しにくい様な、険しい表情だった。
「そっか…」とだけ返して、アクセルは息を吐きながらゆっくりと瞳を閉じる。
まぁ、あんまり自分を責めんなよ…。その言葉に、シンはアクセルに向き直った。
アクセルは少しだけ笑って居た。

「何か思い詰めた貌してんな。
…悩み事が在るんなら、俺様が聞いてやっても良いぜ?」

人生の先輩としてな。少しだけ冗談めかして言って、アクセルはまた口許を緩めた。
唇をへの字に曲げたシンは、アクセルから視線を外して、暫く廊下の床を見詰めていた。
微妙な沈黙が、診療所の廊下を包んだ。アクセルは黙ったまま、シンの言葉を待つ。
何か言いたそうにシンは唇を動かして、また直ぐに俯いた。
どう言えば良いのか分からないのか、或いは、どう言葉にすれば良いのか迷っているのか。
呻くように言葉を詰まらせながらも、何とか言葉にしようとしている。
必死に言葉を探す辺り、やはり何か悩みを抱えていて、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
それをアクセルが察したのは、何となくだ。言うなれば、ただの勘だった。
切っ掛けとも言えない様な、小さな切っ掛けだ。それでも、その何となくに救われる事も在る。
見た目よりも割と長い間生きて来たアクセルは、身に沁みる程で無いにしろ知っている。

「上手い事言えねぇ…」
らしく無い亡者みたいな声を絞りだしたシンだって、多分、今も迷っている筈だ。
何処まで話して良いのか。どう言えば伝わるのか。分かって貰えるのか。
そもそも、話しても良い事なのか如何か。喉まで言葉が出掛かって、苦悶している。
今のシンは、そんな風に懊悩している様にアクセルには見えた。

「上手いか下手かってのは、聞いてる俺が決めるさ。
 言葉にしたい事が在るなら言ってみろって。…結構すっきりするぜ。
 嫌なら言わなくていいさ。…何なら、幻想郷の可愛い子ちゃんの話でもするか?
 もう戦いは終わったんだしな。腑抜けちまってもバチは当らないだろ」

気楽そうに言うアクセルを横目で見てから、シンは右手で頭を抱えて黙り込んだ。
少し伸びをして、アクセルはシンの言葉を待つ。病室前の廊下に沈黙が続いた。
まぁ、言うか言わないかはシン次第だ。言いたくなければ、無理に言わなければ良い。
何も言わず、胸の内に苦悩を仕舞いこんでしまうのも在りだと思う。
時間が経てば、シンの中で自ずと答えだって出るだろう。
タイムスリップ体質だからか。アクセル自身、誰かに相談する事なんて殆ど無かった。
彼方此方の時間に跳び捲くったのも在るが、一人で居る事の方が圧倒的に多かった。
シンの言葉を待ちながら、アクセルは少し前までの事を思い出そうとした。
明日も昨日も、朝も昼も夜も、何もかもが出鱈目なタイムトラベルの日常を。
笑える位に酷い毎日だった。時間の中を彷徨う内に、俺は結構疲れてたのかもしれない。
悩む暇が無い、と言うよりも、考えてもどうしようも無い事ばかりだった。
そりゃそうだ。一人だから、考えたって答えなんて出ないし、気分が晴れる訳も無い。
心細い時だって在った。誰かに話を聞いて欲しいと思う時くらい在った。
俺だけじゃない。誰だってそうだろうと思った時だ。シンが「あのよ…」と呟いた。

「言葉を飾ったりすんの、あんま得意じゃねぇんだ…。
だからよ、ストレートに言うけど…笑ったり引いたりすんなよな」

苦い貌で、何かを決心したかの様に言ったシンは、アクセルに顔を向けた。
「勿論、真面目に聞くさ」。その視線を真っ直ぐの受け止め、アクセルは肩を竦めて見せる。
少しの沈黙の後。シンは両手で頭を抱える様にして項垂れて、「俺さ…」と言葉を紡いだ。

「闘ったりした時にな、相手をムチャクチャにしてぇとか思うんだよ。…必要以上にな。
 怒ったりとか、ムカつくとか、そんなんじゃ無ぇんだ。何つーか、違うんだよ…。
楽しいんだ。ぶっ殺したり、ぶっ壊したりするのが、ワクワクしてしょうがねぇんだ…。
妖夢とか、幽々姉とかの無防備な背中とか見るとな…、もう止まらなくなりそうなんだ。
腹が空いたみたいに涎が出てくるんだ。頭の中でな、“やれ”、“やっちまえ”って声がするんだ。
自分で自分をコントロール出来なくなりそうで…、何でこんな事で悩んでんのかも馬鹿らしくてな…」

呻くような声で言いながら、シンは言葉を探している様だった。
アクセルは腕を組んで、「ふぅん…」と、低い声で相槌を打ち、成程と思った。
自身の内面が、他人よりも遥かに獰猛、凶猛で、それを負い目に感じているのか。
どうしようも無く穢れていると感じても、自分ではどうして良いのか分からない。
分からないのに、その欲望がどんどん膨らんで、抑え切れなくなったら。
俺はどうすれば良い? 何をすべきなんだ? 俺はおかしいのか?
シンはそんな風に苦悩しているのだろう。少なくとも、アクセルにはそう見えた。

「…お前さんは、幻想郷の皆を無茶苦茶にしちまいたいワケじゃ無いんだろ?」

「違うに決まってんだろ…」

「じゃあ、問題無いじゃん。我慢すれば良い」

「何だよそれ…、簡単に言ってくれるぜ」

「こういうのは、出来るだけシンプルに考えた方が良いだろ」

「無理だっつの…。そう簡単じゃねぇよ。
 俺はもう、地底で派手にやらかしてるからな…。シンプルに考えようにも、もう遅ぇよ」

身体を反らしたシンは頚を鳴らして、アクセルの眼を見ずに、天井を振り仰いだ。
虚空を見詰める薄緑の眼は、何かを諦めたみたいに悲しそうで、苦しそうだった。
…そうでも無ぇだろう、と言葉を返したアクセルは、少し考える様に床に視線を落とす。
それから、またシンに向き直った。

「お前さんの御蔭で、あの黒い旦那を地底から追っ払えた、ってのは聞いてるぜ。
 相手が相手だったんだ。綺麗に、スマートに…ってワケには、そりゃ行かねぇって」

違うか? と、アクセルは横目でシンを見遣る。
シンは何か言いたそうに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。
「それでも頑なに自分を責めるってんなら、止めたって無駄だろうけどな…」
言いながら、アクセルは肩を竦める。

「俺の知り合いにも、まぁ…取り返しのつかねぇ事やらかしちまった奴が居るぜ。
 そいつは何とかそれを償おうとしてる。…自分の人生賭けて、必死でな」

シンも、横目でアクセルに視線を寄越した。
「ソイツ…、何しちまったんだよ」。興味を引かれたのだろう。
ゆっくりと身体を前屈みにして、シンは聞く姿勢を作った。眼差しも真剣だった。
シンの眼を見詰め返しながら、「人殺しさ」と、アクセルは少し低い声で、短く答えた。
その言葉に何を思ったのか。シンは眉を顰め、僅かに眼を細めた。
アクセルは、また少し笑みを作って見せる。

「そいつは、凄腕の医者だったんだけどな…。その腕の良さに、嫉妬を買っちまったのさ。
ある時だ。仕組まれた医療ミスで、自分の患者を死なせてな。…本番は其処からだ。
そいつはショックの余り、気が触れちまってな。人殺しの道に入っちまったんだ。
殺した人数なんて数えてたら日が暮れる位、…そいつは色んな奴を手に掛けた」

話を続けるアクセルの声音は、やけに平坦で抑揚が無い。
しかし、その表情は微笑む寸前の様な、とても穏やかな貌だった。
話を聞いていたシンは更に深く眉を顰め、少し唇を噛んでから俯いた。

「…償いきれねぇんじゃねぇのか。そんなの…」

「それでもさ。死んで償うって事も考えたらしいがね。考えを変えたらしい。
今じゃそいつ、自分の医術を生かして、救いを求める患者の為に世界を奔走してるよ」

アクセルの脳裏に、紙袋を被った戯けた格好の医者の姿が浮かんだ。
「まぁ極端な話しちまったけど、要するにだ…」其処まで言って、アクセルは目許を緩めて見せた。
気取ったところの無い、不思議な魅力の在る微笑みだった。

「お前さんの失敗は、まだまだ取り返せるだろうさ。時間も掛かるし、キツイだろうがな。
それでもだ。味方だって居ない訳じゃないしな。…少なくとも、俺は味方だぜ?」

ニッヒッヒ、と笑うアクセルに、シンも釣られてちょっとだけ笑ってしまった。
それを見てから、アクセルは言葉を続ける。

「俺達だって、感情を持って生きてるんだ。ムカつく時だってありゃ、
ぶっち切れる時や、暴れたくなる時だって在る。人間、誰だってそうだ…。
心に闇を抱えてるのは、お前さんだけじゃ無い。だから、安心しろよ。
俺様の場合は、ちょっとモテ過ぎちゃう処が短所かな。参ったね、こりゃどうも」

冗談めかして言うアクセルに、シンも微苦笑を浮かべた。「うぜぇ、何だよそれ」
友人の笑えない冗談に、少し呆れた時の様な、肩の力の抜けた笑みだった。
ネガティブな思考の泥沼から、少しずつ抜け出しつつあるのだろう。
シンの貌から翳りが少しずつ抜けつつある。
静かな病室前の廊下に、二人の嫌味の笑い声が少しだけ響いた。

「お前さんが自分を責めて、何かを隠そうとしたって、やっちまったモンは仕方無いさ。
 地底で派手に暴れた事実は消せねぇ。でも、それで助かった奴達だって居るのも確かだ。
 とにかく、自信持って胸張れよ。お前さんは独りじゃない。…やり直せるさ」

アクセルのその言葉に、シンは頷きかけたが、止めた。
「無責任な事言いやがってよ」 微苦笑を浮かべたままシンは言いながら、肩を竦めた。

「まぁそう言うなって。俺だって真面目に言ってるんだぜ。
お前さんが暴れたくて暴れたくてしょうが無くなったら、俺のトコに来くれば良い。
ストレス発散の相手になってやるからよ」

「…我慢出来なかったら?」

「いやいや、それは耐えろよ。耐えなきゃ始まらねぇだろ」

シンに突っ込みつつ、軽く咳払いしたアクセルは、眉尻を下げて唇を歪める。

「暴れたい欲求を自分で抑えるんだ。死ぬ気でな。
って言うか、まずは其処からだろうよ。其処からがスタート地点だ。堪えるんだ。
良いか? 約束だ。破るんじゃねぇぞ。その為に、俺様が態々相手になってやるんだ」

アクセルの話を聞いていたシンは、少しだけ苦しそうな貌になった。

「…誰だってそんなモンなのか。
 自分を必死で抑えて、隠して…何かをやらかしちまったら、それを償って…。
 誰かに赦されなくても、嫌な思いをしても、それでも生きていくモンなのか」

「そんなモンなんじゃねぇの。序に、開き直りも必要になってくるかもしれねぇがね。
 俺も、昔はスラムのギャングを相手に暴れ捲くってたからな。派手にやってたんだぜ?
そりゃ蔑まれたり、ビビられたりしたさ。…それでも、仲間と一緒に生きてきたのさ」

軽く片方の眼を瞑って見せて、アクセルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 仲間。仲間か。俺にも仲間が居たんだ。シンに言いながら、少しの虚しさを感じた。
 幻想入りして、元の時代の仲間との絆を失った。
でもこの世界でも、皆と友達になれたんだ。仲間が出来たんだ。

シンだってそうだろう。
俺はどうすれば良いと悩んでいた様だが、それはアクセルも同じだ。
 同じだから、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
 
「お前さんも大丈夫さ。
何て言っても、旦那に育てられたんだろ。
それにだ。さっきお前さん、言ってただろ。
体力が戻るまでの間は、弱った幽香ちゃんを守るってよ。
あんまり考え込んでたら、お前さんの方が心配されちまうぞ?」

「…そうだな。俺も、ぐちゃぐちゃ考えるのは止める。
 暴れたくなっても、我慢する。…限界が来たら、マジで頼りにするからな?」

シンは力強く笑って、白い歯を見せた。

「おう、任せろよ」
そう言いながら、アクセルも親指を立てて見せる。
安請け合いしたような気もするが、聞いちまったからには力になりたいと思った。
思い返せば、幻想郷に来てから結構経ったな。俺も、もう少し此処に居るのも悪くないか。
どうせ、元の時代に帰るよりも先に、現実に戻る方法を探さなきゃならなしな。
俺も、振り出しに戻るどころか、スタート地点すら見失ってる状態だ。
やってられねぇな。でも、まぁ良いか。全部取り戻す為に足掻くのも悪く無い。
未来の俺は死んだが、今の俺は生きてる。それで十分だろう。
明日はどっちだ。どっちにも無い。だが、何処かに必ず在るんだ。
それを探す為に。俺もシン達ともう暫くの間は、良い夢を見る事になりそうだな。



[18231] 四十一話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 22:13
GEAR MAKER。
彼程に知識を蓄え込んだ人物は、多元世界に於いても殆ど存在しないだろう。
彼は元々、人間だった。野心も狂気も持たない、一人の研究者であり、一人の識者だった。
これからの世を担う筈の、将来有望な青年だった。世の為に人の為に、彼の青春は在った
彼は誰よりも自身の世界を想っていた。未来を見据え、より良き道へと皆を導こうとした。
その為に、自身の知識を使ってきた。人類の為に、彼は日々奮闘していた。
彼には、仲間と呼ぶべき同僚が二人居た。一人は男性で、もう一人は女性だった。
三人は非常に優れた頭脳を持ち、数在る才者の中から選ばれた精鋭だった。遠い昔の事だ。
だが既にこの時から、彼は“慈悲無き啓示”を予感していた。彼は気付いていた。
神というものが存在するのならば、間違い無く、人類を滅びの道へと向わせていた。
前触れも無いその啓示と、闘おうとする者なども居なかった。全ては時間の問題だった。
誰も気付かず、見向きもせず、予想もせず、考え付きもしない。
歴史の裏側で、破滅の召水だけがゆっくりと、確かに流れ続けていた。
余りにも非現実的な、しかし、何処までも現実的な滅びの予兆だった。
皆が見ようとしない時の帳の向こう側を、彼だけは危惧し、その啓示に備えようとした。
人類の絶滅を回避し、意思など無い筈の神の悪意に抗う為に、彼には独善さが必要だった。

そして彼らは、人類の未来を大きく左右する、一つのプロジェクトに携わる。
人間、そしてそれら全てを包括する自然形態を強化・進化させる、“ギアプロジェクト”
彼ら三人はこのプロジェクトに深く携わり、後に“最初の三人”と呼ばれる事となる。
そして、この研究においてチーフを務めたのも彼だった。そうして、彼は行動を開始する。
ジャスティスを造り上げ、聖戦の引き金を引き、ソルの身体をGEARへと変えた。
此処からだった。地球という星の危機の、その序曲ですら無い最初の最初。
彼が造り上げた歯車は多くのものを飲み込んで、軋みを上げながら大きく回り始める。
人類の絶滅を阻むべく、彼は人類の三分の一を生贄に捧げる決意をしたのだ。


「閻魔の君から見れば、僕は大罪人なのだろうね…」
救世主であり、また滅世主でも在る彼は、口許に穏やかな笑みを浮かべている。
紅く豪奢な廟がひかれ、ゴシック調の柱が立ち並ぶ裁判所の空気は張り詰めていた。
傍聴席などは無く、余計な人物は誰一人として居ない。厳かな静寂だけが、其処に在った。
弁護人も傍聴人も居ない。その被告席には、彼が静かに佇んで、裁判席を見上げている。
『最後に話しておくべき事が在る』と、GEAR MAKERが映姫の元に訪れたのだ。
神出鬼没さでは紫にも引けを取らない。彼にとって、テレポートなど容易い事なのだろう。
彼は魔人だった。詐話と神話の狭間に流れる、現実という大河の主だった。
本人なのかホムンクルスなのかも、外見からでは見分けがつかない。
最早、人間というカテゴリーを超越した彼にも、善悪という概念が在るのか。
裁判所に突如訪れたGEAR MAKERに対して、映姫はそう問うた。
『僕達が歩んで来た道を見てみると良い…。君の知りたい答えは、其処に在ると思うよ』
そう穏やかな言葉を返す彼には、過去を知られる事に対する抵抗などは無いのだろう。
判決を言い渡す時と同じ様に、映姫はGEAR MAKERの過去を鏡で見渡した。
そうして、ソル達の世界が、如何に危うい平穏と均衡の中に在ったのかを理解した。
思い知らされた。ソルと同じだ。余りに大き過ぎる罪と正義の為に、彼は生きてきたのだ。
裁判席から被告人を見下ろす格好の映姫は、覗いていた瑠璃の鏡から視線を上げた。
その映姫の貌は、僅かに強張っている。普段の厳粛な裁判官の貌では無かった。
絶対的に公平な筈の閻魔は、明らかに言葉に詰まっていた。

「君が見た通りだ。僕の過去に、善悪という概念は必要無いんだ。
ただ…誰かがすべきだった事を、僕がしただけに過ぎない。全ては巡り合わせだ」

法衣を目深く被った少年の姿のまま、GEAR MAKERは言葉を紡ぐ。
その声音は幼くも異様な深みが在り、聞く者の心と頭の中に染み入るような声だ。
ある意味で、外見にそぐわない厳粛な雰囲気を纏う映姫と、彼は良く似ていた。
だが、似ているだけだ。実質は全く違う。彼は、恐らく造り物だ。ホムンクルス。
それでもだ。彼は偽者にも関わらず、十分に得体の知れない威圧感を放っている。
彼の貌は、被った法衣に隠れて下半分しか見えない。
口許に浮かんだ微笑みには、慈愛に満ちていた。

映姫は裁判席から彼を見下ろし、口を噤んだままだった。
冷たい石造りの裁判所に、重たい静寂が降りる。重圧感すら伴う沈黙だった。
彼の静かな微笑みは、一向に揺るがない。崩れる気配が全く無い。
映姫の言葉を、彼はただ待っている。映姫を見上げ、見詰めている。

罪状と量刑を言い渡される被告人の様に、無言のまま。
しかし端から見れば、まるで映姫の方が追い詰められている様だ。

「貴方は…、罪悪感に苛まれる事も無いのですか…?」

まるで苦し紛れの様に、映姫は言葉を紡ぐ。

「難しい質問だが、答えるのは容易いよ」

…僕には、罪を感じる様な機能は備わっていないんだ。
少しだけ悲しそうに言う彼の言葉に、映姫は背筋に寒いものが走った。
今と同じ様な優しげな微笑を浮かべて、彼は何億という人間の命を見捨てたのだろう。
罪を背負う悲壮な覚悟と共に、彼は独善だけを残して魔人と化した。彼も犠牲者だった。
聖戦も、“慈悲無き啓示”が強要した流血の一部に過ぎない。
地球という惑星の危機を回避する為の、必要な犠牲だった。
そして彼は躊躇う事無く、自身の人間性を捨てた。
神の領域に足を踏み入れたのだ。

「僕の過去は、どうしようも無く穢れているかもしれないね」

…でも、僕は誇りに思っているよ。
透き通るような声音で言いながら、彼は何かを思い返す様に少しだけ顔を伏せた。

「憎悪も敵意も、僕の財産だ。僕に残された、人間としての最後の縁だからね。
善悪に対する価値観は持ち合わせて居ないけれど…重要なのは、善か悪かじゃないよ。
文明には栄枯盛衰が在って、その中に人々の未来が在る。滅ぶ事無く廻る命が在るんだ。
僕達の世界が平穏で在る事こそが、重要なんだ。…正義なんてものは、言葉遊びに過ぎない」

「どんな犠牲を払う事も是とすると…そう言いたいのですか?」

「…静穏の為に罪を犯す必要が在るならば、僕は躊躇しないだろう。
 ふふ…。君は、僕の行いを独善だと思うだろうけれどね。仕方の無いことなんだ。
 誰かが背負わなければいけない。歴史は、もう既にバックヤードで造り上げられている。
 未来に及ぶ史実の全てが、人類の為になる事とは限らない。歴史には容赦が無いから…。
 だから…観測者が必要なんだ。善悪に囚われず、綴られてしまった未来を曲げる者がね」

映姫は彼の言葉を聞きながら、何も言い返せずに居た。
事実として彼は、彼の世界の人類種を歴史の裏から守って来たのだ。
正確には、現在と過去から、未来を守り続けて来た。
そして今回は、終戦管理局の脅威から幻想郷を救い、此処に居る。
誰が彼を断罪出来るだろう。彼の前では、言葉は無意味だ。

「すまないね。…少し、余計な話をしてしまったようだ」

押し黙った映姫を被告席から見上げ、彼は緩く頚を振って見せた。
法衣越しの彼の視線を受け止め、映姫は顎を引いてから表情を引き締める。
裁判所内の空気が、さらに張り詰める。彼の穏やかな声音だけが、酷く場違いだった。
しかし、そんな事など全く気にしていないのだろう。彼は何処までも自然体だ。

「君に伝えたかったのは、僕が造ってしまった“もう一つの幻想郷”についての事だ」

その言葉に、映姫は眼を窄めた。貌が強張るのを感じる。
彼は戦場となる幻想郷のコピーを造り上げて、滅ぶ未来への保険としていた。
そして、今の幻想郷に住まう者達を其処へ移そうとした事も知っている。
歴史や時間、博麗大結界をも模造し、幻想に造形を与え、最後には全てを救おうとした。
しかし、アクセルの時間跳躍によって未来は変わった。彼の予見は外れたのだ。
希望と夢の残滓である幻想郷のコピーは、今や宙吊りの状態の筈だ。
細めた映姫の眼を見詰め返し、彼はやはり微笑みを湛えたままだった。

「必衰の理に縛られた文明とは逆に、
夢と現の境界に守られた幻想は、衰微し得ない。
 常に外の世界から、忘れ去られたもの達が訪れるだろうからね…。
“もう一つの幻想郷”などは、最早無用の長物だ。僕自身の手で、破棄しよう」

「…やはり、貴方は独善的に過ぎる様に思えてなりません。
 例えそれが、多くの命を救う事になろうともです…。
 次元世界に箱庭を造り、そして其れを簡単に壊そうとしている…。
 其処に栄える筈だった歴史すら全てを含めて、葬り去ろうとしている。
 貴方の業は、ますます深まるばかりですよ」

「『キューブ』の鍵足り得る幻想郷が、二つも在る事の方が…余程危険だからね」

魂の数を数える事は、子供にだって出来る。
だが、その魂を天秤に掛けることが出来るのは、限られた者だけだ。
全ての命の重みを平等に捉えているからこそ、彼は容易く、少人数を見殺しにする。
多くを救う為に。多くを危険に曝さない為に。彼は容易く、自らの造ったものを壊す。
天秤の傾きに従って、より良き未来の為に、容赦無く取捨選択を行う。
今回も、彼にはとっては只それだけの事なのだろう。
「あぁ、それと…」と、彼は言葉を紡いだ。

「終戦管理局については、もう心配することは無いよ。
 彼らが拠点としている次元座標軸も、既に制圧済みだからね…。
 今の幻想郷を脅かす者は、もう存在しない。…安心して良いと、皆に伝えて欲しい」

その瞬間だった。目深く被った法衣から覗く彼の笑みが、少しだけ変わった。
今までの様な超常的な、仮面の様な笑みでは無かった。打算や邪気も胡散臭さも何も無い。
本当に、普通の少年の様な、大人しくもあどけない微笑だった。

「僕も、この幻想郷の者達には干渉しないと誓おう。
 全て終わった。これからは今までと同じ様に、静穏と平穏が訪れるだろう。
 其処に、僕は必要無いからね。後は妖怪の賢者に任せ、幻想郷を去るとしよう」

「…それを伝えに、態々この彼岸の地まで訪れたのですか?」

被告席から映姫を見上げる彼は、ひっそりと頷いて見せる。
対して、裁判席に立っている映姫は、やはりその真意を測れずに居た。
神秘的な雰囲気を纏っているものの、彼の見た目は素直な少年にしか見えない。
一体、彼は何を考えているのか。その思考を窺い知る事が出来ないままだった。

「楽園の閻魔である君には、やはり会って直接伝えておこうと思ったんだ。
 それに君ならば、幻想郷に住まう者達だけで無く、他の閻魔達にも接点が在る。
出来れば、彼らにも…君から、僕の言葉を伝えて欲しいと思っているよ。
…生死を司る組織の者達には、これ以上は関わるには不味いだろうからね。
下手をすれば、余計な混乱を呼ぶ事になりそうだ」

彼の言葉に、映姫は「成程…」と呟いて、眉間に皺が寄るのを感じた。
この異変に際して、彼は是非曲直庁と十王にも接触していた事を、映姫は知っている。
彼の言う通り、是非曲直庁は人間の生と死を司る。厳格であり、矛盾を赦さない機関だ。
一方で、彼は――GEAR MAKERは、生と死の理に背く者であり、超越者でもある。
両者は絶対に相容れない。思想、理念が余りにも掛け離れている。
だが彼は、終戦管理局による異変に干渉しない様に提言するべく、是非曲直庁へ単身赴いた。
大胆不敵なその行動に裏に、どんな保険を掛けていたのかは分からない。
しかし、彼の行動全ては、より良き未来へと幻想郷を導こうとしている様に思える。
彼が予見した、幻想郷の滅びは覆された。だが、それすらも彼は見越していたのだろう。
時間の流れは、彼の思い描いたシナリオ通りに進んでいる。予定調和の結末なのだ。
全ての脅威が取り除かれたからこそ、彼はこの地を去ろうとしている。

「…他の者達には会わないつもりですか」

裁判席からの映姫の言葉に、被告席の彼は静かに頷いた。
「そのつもりなのだけれどね…」言いながらゆっくりと法衣を翻し、映姫に背を向ける。
それから、肩越しに裁判席へと視線を向けて、彼は少しだけ迷うように口を噤んだ。
だが、すぐにふっと口許を緩めて見せる。

「彼らをこの世界に召んだのは僕だが…
元の世界に帰るかどうかは、まだ彼らは迷っているようだ。
その点に関しても、やはり妖怪の賢者に任せる事になってしまうけれどね」

つまりは、ソル達が元の世界に戻る方法は、この幻想郷でも確立する事が可能という事か。
境界を操作し、次元や空間を透過し、渡り移る力を持つ紫ならばそれも可能だろう。
時間さえ在れば、ソル達の世界の次元座標を割り出すことも出来る筈だ。
今まではそんな余裕は無かったが、長かった戦いは、もう終わった。

「個人的な質問になりますが…、
貴方自身は、…救われたいと思った事は無いのですか?」

映姫は眼を閉じながら呟き、再び彼の背へと視線を向ける。
その時にはもう、彼の姿は消えて居た。裁判所には、映姫だけが残された。
伝えたい事だけを伝えて、すぐに姿を消してしまうのは、誰かと良く似ている。
全く、賢者と呼ばれる者は、皆あんな感じなのだろうか。
非情な魔人の素顔とは、案外、とても人間臭い魅力に溢れているような気がした。






ある京都の大学で、大規模なガス爆発が起きた。号棟の一つが倒壊したが、怪我人は皆無。
現代の奇跡。そう新聞で報じられ暫くの間、学校側は学内への立ち入りを禁止していた。
今では学生達の立ち入りを禁止する一方で、ビルメンテナンス業者や建築家、または
電気工事の業者などを多数呼んで、大掛かりな検査を行っている。
一時はマスコミなども殺到し、テレビでも特番が連日組まれる程に騒がれていた事件だ。
その真相を知っているのは、世界広しと言えど、秘封倶楽部の二人だけだった。
いや、正確には三人と言うべきだろうか。

そして、境界を見る眼を欲しがる、終戦管理局という組織の危険さを思い知った。
黒炎の渦柱が大学の号棟を焼き崩し、粉塵と火の粉、怒号が入り混じるキャンパス。
非実在が現実を侵食する景色の中で、終戦管理局の尖兵はメリーへと迫って来ていた。
あの光景は、今でも鮮明に、鮮明過ぎる程に脳裏に焼き付いている。
コンビニへと貯金を下ろしに来ていた蓮子は、あの時の事を思い出して少し唇を噛む。

余りに衝撃的な体験だったせいか。
不意に、瞼の裏に、あの光景がフラッシュバックする時が度々在った。
それは、本当に突然だ。思い出したように、頭の中に浮かび上がってくる。
食事中でも、夢の中でも。メリーと話をしている時も。一人で居る時は尚更だった。
トラウマに近いが、少し違う。これは、発作的にやってくる。
ATMのパネルを操作する指先が、僅かに震えた。蘇る。胸の内に、去来する。


あの時。狙われたのは、親友のメリーだった
思い出したくない。だが、まるで烙印の様に、眼に浮かんでくる。
呼吸が浅くなって、じっとりと嫌な汗が出て来た。もう、こんなものは呪いでしかない。
浮かんでくる。見える。見えてしまう。眼を瞑っても、耳を塞いでも。
あいつは、メリーの口に親指を捻じ込み顎を摑んで、逃げられないようにしてから。
朱色の髪をした、あいつは。メリーの眼を。眼を。眼を。素手で抉り出した。
まるで玩具の人形の、ボタンの眼を剥ぎ取るみたいに。無遠慮に。無感情に。簡単に。
ぷちぷちと音がしたのを覚えている。赤い血の色と匂い。微かな鉄の匂い。
ぽっかりと空いた、真っ黒なメリーの眼窩が。眼窩から、血が。真っ赤な血が。
忘れたい。忘れてしまいたい。でも、無理だ。忘れられる訳が無い。
恐怖が呼び起こされて、胸が押し潰されそうになる。

肩を叩かれたのはその時だ。
大丈夫、蓮子…? 隣に立っていたメリーが、心配そうに貌を覗き込んで来た。
意識が現実に戻って来る。気付かれないように呼吸を整えて、唾を飲み込む。
何と無い仕種で汗を拭って、表情を隠す様に、愛用の帽子を深く被り直した。

メリーは強かった。あんな恐ろしい目に遭って尚、蓮子の前では笑顔を絶やさない。
普段通りだった。親友の蓮子だからこそ分かる。メリーは、無理をしている訳でも無い。
恐怖の記憶を乗り越えようとしている。克服しようとしている。強いな。メリーは。

「貌色、ちょっと悪いみたいだけど…」 それに、蓮子の事も気に掛けてくれている。
何でも無いよと誤魔化す様に笑ってから、蓮子はATMから紙幣を取り出し、財布に仕舞う。
それから、空調に効いたコンビニの店内をざっと見回してみる。
都会の中に在るだけあって、品揃えもそれなり。清潔感もそこそこで、店員の愛想も良い。
店内には、メリーや蓮子の他に、雑誌を立ち読みしている学生達くらいだ。

「序だし…秘封倶楽部の活動計画会議の為に、お菓子でも買っていきますか」

ついさっきまで、心を蝕んでいた悪夢の光景を振り払う様に、
蓮子は努めて明るく言いながら、自動ドアの向こう側へチラリと視線をやった。
店の外では、白のパーカーを目深く被った一人の少年が、店内の蓮子達を待っていた。
少年の白パーカーには、複雑な黒紋様が描かれて、何処か神秘的ですらある。
紺のパンツは細身で、やたら高級そうな革靴もよく似合っていた。
幼い外見とは余りに不釣合いな、落ち着き払った魅力と存在感のせいだろう。
レジに立つ店員も、さっきからチラチラと少年の方を見ている。
蓮子の視線を追ったメリーも、微苦笑を浮かべて頷いた。

「あの子にも、何か買ってあげましょうか」 そのメリーの言葉に、蓮子も頷く。

「アイスクリームなんて良いんじゃない? 私も…」
其処まで言った処で、蓮子は微妙な貌になった。う~…と、ちょっと悔しそうな貌だ。

「太りそうだから、私は止めとくわ」

「ふふ…、お菓子も食べるしね」 悪戯っぽく言ったメリーに、蓮子は唇を尖らせた。

「お菓子とアイス、両方食べるのはリスクが大きいじゃない。
 只でさえ、今はあの子の監視が在って、何処かに遠出する事も無いしさ。
このままじゃ運動不足になっちゃうわ」

安全確認が出来る迄の暫くの間、今は大学の講義がほぼ全て休講となっている状態だ。
時間に余裕の出来た蓮子達も、本来なら秘密を探してフィールドワークに出かけたりする
処だが、今回はそういう訳にもいかなかった。
秘封倶楽部の活動に対して、少年がストップを掛けたのだ。

メリーや蓮子を、これ以上危険に曝したく無いとの事だった。
真剣にそう言われると、メリーも蓮子も強く言えず、仕方なく自室に引き篭もっている。
ちなみに、大学が襲撃されてからは、蓮子はずっとメリーの部屋に泊まりこんでいた。
勿論、メリーが心配だったからだ。親友を守る為に、ほぼずっと一緒に居た。
何が出来るのかと聞かれれば答えに窮するが、メリーを一人にしておく事は出来なかった。
ただ、少年の方は、普段は何処に身を潜めているのかは分からなかった。
しかし、常にメリー達を見守ってくれている事は理解しているつもりだった。
終戦管理局という組織が潰えない限りは、メリーには危険が付いて廻る事になる。
メリーが安心して暮らせるようになるまでは、少年もメリーの傍から離れようとしないだろう。
そんな事は、かつて少年がメリーを必死に治療していた事を見れば、誰だって理解出来る。
黒ずくめの男に眼を抉られたメリーは、余りのショックに意識が朦朧としていた。
後から聞いた話だが、少年に治療されている間の記憶は、まるで無いらしい。

一方、蓮子の方は完璧に覚えている。
腹に大穴を空けられたまま、少年はメリーを懸命に助けようとしていた。
視力を与え、新たな眼球と血液を造り、治してしまった。本当に魔法の様だった。
きっと、またメリーに何か不幸な事があれば、少年はすぐに動くだろう。
そんな事を思いながら、アイスクリームのコーナーの前に蓮子達が立った時だ。

コンビニの自動ドアが開いて、駆け込む様に一人の男が入って来た。
鼻と唇にピアスをした、茶髪モヒカンの若者だった。派手なアロハシャツを着ている。
何故かふらふらとした足取りで、汗をかいていた。息もやけに荒く、はぁはぁ言っている。
眼の焦点も微妙に定まっていない。血色の悪い紫色をした唇は半開きで、涎が漏れていた。
明らかに様子がおかしい。普通じゃない。何か薬でもやっているのか。
誰かから逃げているようで、しきりに外の様子を気にしているのも妙だ。
嫌な予感がしてきた。「…ねぇあれ、ヤバイんじゃない?」蓮子は小声で言う。
「そうね…。ちょっと危ない感じね」メリーも眉を顰めている。
ひそひそと顔を寄せる蓮子とメリーは、遠目に男を見ていた。

モヒカン男はぐるりと店の中を見回した。店内には、店員以外に学生と蓮子達しか居ない。
それを確認したのだろう。夢遊病者の様な頼りない足取りの男は、イヒヒ、っと笑った。
気色の悪い、理性の箍が外れたような笑い方だった。男が、蓮子達の方を向いた。
黄ばんだ歯を見せて笑いながら、肩を揺らして此方に歩いて来ようとしている。
身の危険を感じた蓮子とメリーは、何も買わずに店を出ようとした。だが、遅かった。
いきなりだった。男が猛然と蓮子達の方へと向って来た。ちょっと、冗談止めてよ。
何故こっちに来るのか理解できない。「おら、待てよ!」 男は蓮子の腕を乱暴に摑んだ。
星空から時間を知る能力を持っている蓮子でも、男の腕力を振り解く事は出来なかった。
蓮子の傍に居たメリーは、男に片手で突き飛ばされて床に倒れこんだ。
店の中が騒然となる。

雑誌を立ち読みしていた学生達が逃げ出し、女性店員はレジの向こうでおろおろしている。
だが、蓮子の頭は怒りで一杯だった。メリーに何て事をするんだ。この馬鹿モヒカンめ。
悪い癖だった。蓮子の心の中から、怯えが吹っ飛ぶ。「放してよ…っ!」
蓮子が男の頬を平手で張った。だが、男は怯まなかった。

「大人しくしてろ! このアマ!」 
それどころか、男は興奮した様に貌を紅潮させ、怒鳴り声を張り上げた。
貌を歪めた男は空いている方の手で、ポケットから何かを取り出して蓮子に突きつけた。
流石に蓮子の貌が凍りつく。女性店員が悲鳴を上げた。学生達は雑誌を取り落とした。
立ち上がろうとしていたメリーも息を呑んでいる。男が取り出したのはピストルだった。
「ほ、本物…?」 強張った貌のまま、蓮子は思わず呟いていた。
「試しにお前の頭を吹っ飛ばしてやろうか」モヒカン男は言ってから、イヒヒと笑う。
それから、倒れていたメリーに視線を寄越してから、顎をしゃくって見せる。
「おら! お前も両手を上げて立て…っ!」

店の外で、けたたましいサイレンの音が聞こえてきたのはその時だ。パトカーだった。
都会の中にあるから、決して広いとは言えない駐車場に三台程のパトカーが止まろうとしていた。
それを店内から見ていた男は、舌打ちしてからメリーに向き直り、ピストルを突きつける。
「妙な真似しやがったらマジで撃つからな! イヒヒヒャ! こんな風にな!」
叫んだ男は、銃口をレジの方へと向けてから引き金を引いた。間抜けな程乾いた音が響く。
続いて、何かが倒れる音と絶叫がした。「ギャアァアアアアアア――――ッ…」
逃げようとしていたレジの女性店員の腕を、男が撃ったのだ。メリーと蓮子は蒼褪める。
冗談や虚仮脅しでも何でもなく、この男は本当に撃つ。面白半分に人を撃ち殺す人間だ。
刺激するのは危険過ぎる。メリーと蓮子は黙って男に従うしかなかった。
男はピストルの銃口を蓮子の首元に押し付けながら、店の外へと視線を向けて舌打ちした。
見れば、警官達が店を包囲している。あれ…と、蓮子は思った。
頭の隅に在った冷静な部分が、違和感を覚えさせる。
外に居た筈の、あの少年が居ない。
何処へ。逃げたのか。

「其処へ並べ!」
男は、両手を挙げた人質状態のメリーと蓮子を、まるで盾のように並ばせた。
そして、ポケットから錠剤を何粒か取りだして、それを急いで飲み込んだ。
ふ~…、と息を吐き出した男は、またイヒヒヒャヒャハハと笑った。
笑いながら、今度は携帯電話を取り出して、忙しない手付きで操作し始めた。
片手でピストルを持ち、もう片方の手で携帯電話を耳に当てながら、外の様子を見ている。
店の外では、ぞろぞろと警官隊が隊列を組んで、コンビニを取り囲んでいた。
野次馬達も集まり始めていて、かなり大きな騒ぎになっている。
モヒカン男は、しかし動揺したような素振りは見せない。大胆とも冷徹とも違う。
こうなったっちまったらしょうがねぇ。しょうがねぇよな。そう腹を括っているのだろう。
小鼻をひくひくさせながら、モヒカン男は口許を歪めていた。
床に倒れこんだ女性店員の、痛みに泣き叫ぶ声。サイレンと男の笑い声が混じる。
緊張した空気の中『…君は違法薬の売人なんだね』場違いな程に澄み渡った声がした。
メリーや蓮子達には、此処数日で聞き慣れた声だった。男の携帯電話から声は漏れている。
今度は、男の下品な笑い声が凍りついた。「でっ…!? 何だテメ…っ!?」
明らかに狼狽した様子の男は、携帯電話を耳から外してディスプレイを凝視した。
信じられないと言った表情だった。額に脂汗が浮かんでいる。

『警官から逃げていたようだけれど、逃げ切れないと悟った様だね。
だから、その“こんびにえんすすとあ”に立て篭もろうとした様だけれど…。
抵抗は止めた方が良いと思うよ。君は逃げ切れない。諦めて自首した方が良い』

「うるせぇ…! 何モンだ! な、何でこの番号で…!!」

モヒカン男は蒼褪めながら、店の中や外へと視線を飛ばす。

『そんな事は、君にとっては些細な問題の筈だよ。
 もっと重要なのは、君が人質に取ろうとしている二人に在る。悪い事は言わないよ。
 大人しく武器を捨てて、彼女達を解放してくれないか。…これが最後の忠告だ』

「黙れ! 黙りやがれ!」

澄み切った少年の声が漏れる携帯電話を、再び耳に押し当てて、男は唾を飛ばして怒鳴った。
それから床に携帯電話を叩きつけた。ディスプレイが砕け、プラスチック片が散らばる。
『…止むを得ないな。僕は忠告をしたよ。どうか恨まないで欲しい』
スクラップ寸前の携帯電話からは、落ち着き払った少年の声がノイズ混じりに響いた。
それと同時だったろう。店員用のバックヤード入り口が音も無く開いた。
瞬間。店内の空気が、がらりと変わる。メリーと蓮子は、上手く呼吸出来なくなった。

ズシ…ッ。ズシ…ッ、と余りにも重い足音が聞こえる。聞いた事の在る、重過ぎる足音だ。
何で。そんな。また。またなの。止めてよ。そんな。嘘だ。嘘だ。嘘だと言ってよ。
心の何処かで、もう終わったと思っていた。もうメリーが襲われる事なんて無いと。
そう楽観していた。カチカチと歯の根が鳴る、押し潰されそうな重圧感の中。蓮子は見た。
見てしまった。凄まじい寒気に襲われて、眩暈と同時に総毛立った。
メリーが悲鳴を飲み込むのが分かった。モヒカン男も、暫く金縛りに会っていた様だ。
レジの向こうで倒れた女性店員も、悲鳴を上げるのを忘れていた。

誰も動けなかった。完全に飲み込まれていた。
パトカーも野次馬も、血の匂いも悲鳴も、現実と共に遥か遠くに行ってしまった。
静まり返った店内の中に在るのは、餌食と捕食者の二種類だけになってしまった。

バックヤード入り口から出て来たのは、一人の男だった。
長い朱の髪を後ろで束ね、黒のジーンズとジャケットを纏っている。
屈強な身体の肌は嫌に白く、くすんだ白金の瞳孔は、禍々しく縦に裂けていた。
見間違える筈が無い。墨色の炎が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
「ぉ、ぉま…お前…っ!」 誰よりも先に我に帰ったのは、モヒカン男だった。
ピストルを朱髪の男に向けて、明らかに恐怖に震える声で叫んでいた。
もうモヒカン男には、ピストルをメリーや蓮子に向ける余裕など無い。
誰でも分かる。この状況で、誰があの朱髪の男から眼を逸らせるだろう。
正直言って、蓮子だって生きる気力が萎える寸前だ。生きた心地なんてまるでしない。
だが、それでも何とか朱髪の男を睨みつけているのは、憎悪の為せる意地だった。
怖いけれど、絶対に赦さない。その気持ちが折れない限り、蓮子はまだ耐えられる。
下唇を噛むメリーも、蓮子と同じく朱髪の男を見据えていた。

「……それを捨てろ…」

朱髪の男は、無表情のままでモヒカン男に言いながら、ゆっくりと歩を進めてくる。
暴風が吹き荒れるような錯覚を覚えたのは、きっと蓮子達だけじゃない筈だ。
「来るな!! 来るンじゃねぇ!!」モヒカン男は逃げ腰のまま、上擦った声で怒鳴った。
及び腰になるのも無理は無い。正直、蓮子だって尻餅を突きそうな程に恐ろしい。
朱髪の男は、左手に剣の様なものを逆手に持っていた。
明らかに、モヒカン男の持つピストルなどよりも危険だ。
見れば分かる。此処に立てば、誰だって理解出来る。
だから、恐怖でモヒカン男は錯乱した。「ク、…ソがぁぁあああ――――ッ!!」
モヒカン男は叫びながら、朱髪の男目掛けてピストルを撃ち捲くった。

乾いた音がたて続けに何発も何発も響いた。
その度に、朱髪の男の身体に弾丸が撃ち込まれていく。
顔に。眼に。腕に。胸に。腹に。脚に。肉が潰れる鈍い音が聞こえる。
それでも、朱髪の男はゆっくりと歩いて来る。そよ風の中を歩いて来るかのようだ。
メリーと蓮子は、眼を逸らせずに居た。逸らす事なんて出来なかった。
眼を背けた瞬間、何が起こるのか分からないのが、恐ろしくて仕方無かった。

モヒカン男も、眼の前の明らかな脅威に、恐怖の虜と化していた。
「うぅああぁあぁぁ――――っ!!」 顔を歪めて、眼に涙すら浮かべ必死だった。
だがモヒカン男の抵抗は、長くは続かなかった。カチン…という音と共に、銃声が止んだ。
一瞬の静寂。その間に、朱髪の男の体の傷が、墨火の炎粉と共に見る見る内に塞がっていく。
銃弾で破壊された整った顔を墨色の炎が覆い、すぐに元通りに戻ってしまった。
触れてはならない超常の怪物が、ゆっくりと歩いて来る。無意識に呼吸を止めていた。
顔を引き攣らせたまま、モヒカン男は何度か引き金を引いた。だが、もう弾切れだ。
カチン、カチン…と音がするだけだった。「何だよ…」モヒカン男の貌が、絶望に染まった。

「な…、何者なんだよ、ぉま…、お前…」


「……俺が聞きたい位だ…」 言いながら、朱髪の男は首を傾けて眼を細めた。
次の瞬間だった。気付いた時には、朱髪の男はメリーと蓮子の間を擦り抜けていた。
もうモヒカン男の眼の前に居た。モヒカンの男は、きっと逃げようとしたに違い無い。
弾かれた様に踵を返していた。だが、無駄だ。
閉塞的なこの狩場を作ってしまったのは、モヒカン男本人だ。
それでも、その生存本能に従って、店の外に飛び出そうとしたのだろう。
警察官達に捕まった方がマシな事くらいは、子供にだって感じ取れた筈だ。
朱髪の男はそうはさせなかった。逃げようとしたモヒカン男の首根っこを、片手で摑んだ。
そして、まるで子猫を持ち上げるみたいに片手で宙吊りにした。
其処でようやく、メリーと蓮子は朱髪の男へと振り返った。
吊られたモヒカン男は、もう抵抗しようとすらしなかった。賢明な選択だ。
この朱髪の男を相手に暴れたりしたら如何なるかなど、誰だって知りたくもない。
「や、やめ…」とモヒカン男が掠れた声を漏らしたのと、ほぼ同時だったろうか。
朱髪の男は、相変わらず無表情のまま、手首の力だけでモヒカン男を放り投げた。

冗談のようだった。グワッシャァァーン、と盛大な音がした。
ピンボールみたいにふわっと浮きあがったモヒカン男は、そのまま
ジュースが陳列された硝子とケースをぶち破って、バックヤードの向こう側まで減り込んでいた。
ピクピクと指先が動いているのを見ると、まだ死んでは居ない様だ。
だが、その場に残された蓮子達にとっては、それがどうしたと言わざるを得なかった。
悪夢が蘇る。此処も、大学と同じように墨色の炎で包まれることになるのか。
あの少年は此処には居ない。どうしよう。どうする。逃げよう。無理だ。
無理に決まっている。身体が動かない。脚が震えて、どうしようも無い。
メリーと蓮子は身体を硬直させて、ただ朱髪の男を見据えるしか出来なかった。
笑える程にささやかな抵抗だった。

だが朱髪の男の方は、無言のままメリーと蓮子を見比べていたが、すぐに視線を逸らした。
そして、ゆっくりとレジの方へと歩いていく。メリーと蓮子は呆気に取られた。
だが、それだけだ。何か行動しようとしても、やはり身体は動かない。
見れば、朱髪の男は何かを唱え、墨色の術陣を床に浮かび上がらせている。
彼は、レジの向こうに倒れていた女性店員の傍にしゃがみ込み、その腕の傷を診ていた。

蓮子の頭が混乱する。
この朱髪の男は以前のように、メリーを捕まえて眼球を奪おうとしないのか。
目的の為ならば、周囲の人間や建物を、容赦無く巻き込むような冷徹なヤツじゃないのか。
胸の内には憎悪の代わりに戸惑いが沸いてくる。メリーに酷い事をした、あの朱髪の男が。
何処か優しげな手付きで女性店員に、何か施術をしている光景に酷い違和感を覚える。
納得行かない。店の周りを囲む警官達や野次馬などが、まだ意識の外に在る。
「これからは、…彼にも君達を守って貰おうと思っているんだ」相変わらず突然だった。
女性店員の傷を癒す朱髪の男を呆然と見ていると、背後から声を掛けられた。

「この場は、彼一人で十分だったからね。
だから僕は、銃を持っていた男について、少し調べていたんだ。
心配を掛けてしまったかな。悪いね…」

メリーと蓮子は同時に振り返る。其処にはやはり、パーカーを目深く被った少年が居た。
何時の間に店の中に入り込んで来たのかは分からないが、今更そんな事では驚かない。
蓮子とメリーは、少年と朱髪の男を一度見比べてから、少年へと向き直る。
分からない事が多過ぎて、やはり二人の頭は混乱気味だ。
少年の方は、そんな蓮子達の反応も予想していたのだろう。

「此処で長話をするのは良くないね。
防犯カメラの記録も、もう書き換え終えた。…後は、警察に任せておこう。
僕達も少し場所を変えようか。転移するよ」 

そう呟いてから口許に穏やかな笑みを浮かべた少年は、左の掌に蒼の微光を灯した。
女性店員への治療施術を終えた朱髪の男も立ち上がり、メリー達の方へと歩み寄って来る。
メリーと蓮子は思わず身構えてしまうが、朱髪の男は凪いだ眼のままで佇むだけだった。
警官達が、店の中に突入してくるのと同時だった。
朗々と詠唱を行う少年と、メリー達の姿がコンビニの店の中から消えた。






「私が彼から聞いた話は、以上です。
ですが…恐らく彼は、幻想郷の外には干渉し続けるつもりなのでしょう。
未だ幻想郷に渡って来ていない不穏分子の監視については、彼は言及しませんでした。
世界一つを創ってしまう様な人物ですし…彼がそれを放置するとは思えません」

映姫は座敷に集まった面々の顔を見渡しながら言って、言葉を待つ様にソルに向き直った。
今の博麗神社の座敷には、既に治療を終え、永遠亭から退院した霊夢が帰って来ていた。
まだ完治とまでは行かない様で、頬や眉尻に絆創膏を貼り、身体には包帯が巻かれている。
少し面倒そうな貌をした霊夢は、自身の廻りに視線をめぐらせていた。
正座するその霊夢の隣には、両腕を包帯でぐるぐる巻きにされた魔理沙の姿も在った。
魔女帽子を脱ぎいで傍らに置いた魔理沙は、何が楽しいのか、嬉しそうな笑顔を浮かべている。
紫地のドレスでは無く、いつもの導師服を纏った紫は、神妙な貌で映姫の話を聞いていた。
二人の他にも、早苗やアリス、レミリアや幽々子、輝夜に永琳の姿も在った。
従者である咲夜や妖夢、永琳も、彼女達の背後に控えている。
女性陣に混じって、シンやイズナ、アクセルも居った。
皆ちゃぶ台を囲むように座っているから、かなりの人口密度だ。

こうして幻想郷の面々が集まるのは、ソル達が幻想郷に訪れて以来だろう。
ずいぶん昔の事の様に思うのは、やはり戦いが激しかったせいかもしれない。
ふとそんな事を思いながら、口を噤んだままの霊夢は、ソルと映姫を見比べる。
思案する様に口許に手をあてているソルは、視線を僅かに落としたままだ。
映姫の言葉に、何か思う所が在るのだろう。

落ち着いてこそ居るが、僅かに険しい貌をした映姫は、黙してソルの言葉を待っている。
霊夢や魔理沙を含め、集まった他の面々も同じだ。何時からだろうか。
こんな風に、ソルが幻想郷の者達と同じ立場に立って、何かを考えているのは。
今ではごく自然に、ソルやソル達が幻想郷の一員として、この会合に顔を出している。
ソル達は、もう仲間と言っても差し支え無いだろうし、ソル達も嫌な貌はしないだろう。
それが何だか嬉しくて、霊夢は口許が綻びそうになるが、それを何とか堪える。
魔理沙が笑っている理由が、何となく分かった気がした。
ただ、幻想郷の管理人としての立場もあるからか、紫だけは妙に緊張した面持ちだ。
“あの男”のホムンクルスと直に闘った事が在るのは、紫しか居ない。

だからこそ、“あの男”がこれからの幻想郷の脅威となるか如何かを重要視しているのか。
或いは、終戦管理局と入れ替わる形で、幻想郷を害する勢力となる事を懸念しているのかもしれない。

神経質になるのも理解出来るし、こればかりは楽観も出来ない点だろう。
恐らく、ソルと紫は同じ事を考えている。だから、ソルは沈黙を返しながら思考している。
“あの男”が此れからどう動くのか。ソル達がどうすべきなのか。その少し後だった。
ちゃぶ台を挟んで正面に座っている映季に、ソルは顔を上げて視線を返した。

「…ワチャゴナドゥ…聞きたいことが在る…」

糞真面目な低い声で、ソルは一体何を言い出すのか。
映姫の顔から、一瞬で表情が消滅した。

思わず噴き出しそうになって、霊夢は何とか堪える。
ふすぅ、と息の漏れる音が聞こえた。笑いを殺しきれなかったのは魔理沙か。
早苗は俯いて小刻みに肩を震わせていた。何処か気まずい雰囲気が満ち始める。
レミリアも口元をむにむにと動かして、必死に笑いを堪えている。
咲夜と妖夢は口を手で押さえ、顔を横向きにしてぷるぷると震えていた。
紫は咳払いをして、幽々子は普通にくすくすと笑った。
その周囲の様子に、ソルは怪訝そうな表情を浮かべて、「…ああ…」と得心が行ったようだ。

「…シャバダバドゥ…だったか…?」

ちょっと自信が無さそうに言ったソルは、珍しく眉をハの字に曲げていた。
何だか申し訳無さそうな貌だった。映姫の貌が歪み始める。「違うって、オヤジ!」
アクセルとイズナは空気を読んで黙ったままだったが、馬鹿丸出しでシンが手を挙げた。

「シュビドゥバドゥだって、間違えんなよ。なぁ、映姫!」

今度は紫の肩が震えだした。霊夢も、笑いを堪えすぎて頬が痙攣するのが分かった。
あれ、と首を傾げたシンは、不思議そうな貌で映姫に向き直った。

「ビビデバビデブーだっけ…?」

早苗とレミリアに限界が訪れた。二人が噴出したのは同時だった。
緊張した空気だったから、笑いのツボが浅くなっていたのだろう。
輝夜や永琳ですら、口許を裾で隠して忍び笑いだ。
「…掠りもしていませんね」と、映姫は冷たい眼差しで、シンの問いを一蹴した。

「ヤマザナドゥです。それに、これは役職名であって、私の名ではありません。
 …まぁ、今は置いておきましょう。それで…私に尋ねたい事とは、何でしょう?」

横道に逸れそうになる話を無理矢理に戻して、映姫は不機嫌そうな貌でソルに向き直る。
「…む…」と、短く呻いたソルは、眉尻を下げたまま一度映姫から視線を外した。
やはり、少し申し訳無そうな貌だった。だが、すぐに何時もの無表情に戻り、顔を上げた。

「…奴は…もう終戦管理局を無力化したと…確かにそう言っていたんだな…」

ソルの低い声に頷いてから、映姫はその金色の眼を見詰め返した。

「はい。『もう心配する必要は無い』と…彼は言っていました。
 それから、皆さんが元の次元世界に帰るには、妖怪の賢者に任せるとも…」

「……奴はまた…何かを企んでやがるんだろう…」

ソル達を幻想郷に残しておく点を見ても、
どうやら“あの男”は、本当に幻想郷に干渉しないつもりの様だ。
『キューブ』を抱え守る為に、“あの男”は、もう既に動き出しているという事だろう。
ソル達にすら接触して来ないのは、“あの男”のなりの気遣いのつもりなのか。
肉体に巣食うDragon Installと、ギア細胞の呪縛から解き放たれて自由となったソルに、
選択肢を与えたつもりなのかもしれない。ソルは、何故だとは思わなかった。
ソルの心の中に、今までに無かった感情が芽生える事すら、“あの男”が見越していたのならば。
“あの男”は、ソルを幻想郷に残して行くだろうという事も、ソル自身も予想していた。

眼を閉じたソルは溜息を吐いてから、顔を俯けた。溜息しか出なかった。
奴は、いつもそうだ。何かを見透かした様に、手薬煉を引いて俺を舞台へと招き入れる。
血塗れの舞台だ。それは聖戦であったり、“慈悲無き啓示”との対決であったりした。
俺は道化でしかなかった。呪われた身体を引き摺る様にして、踊り狂うしか無かった。
血の泥濘と屍の山の上に立って、俺は踊る事しか出来なかった。
全ては、奴の筋書き通りだった。奴の掌の上でしか無かった。
そう思うと、憎悪よりも先に、倦怠感で心が麻痺してくる。
もう一度、ソルが溜息を吐こうとした時だ。

「つー事は、だ。要するに、幻想郷に平和が戻って来たって事で良いんだろ!
 紫も、さっき言ってたじゃねぇか。大結界には解れも隙間も無いってよ。だろ?」

おもむろに立ち上がったのは、妙に嬉しそうな魔理沙だった。
少年の様な笑顔を浮かべた魔理沙は、それから座敷に居た全員の貌を見廻した。

「やっとこさ異変が解決したんだ! やる事なんて一つだろ!?」

…む…、と低く呻いたソルも顔を上げて、立ち上がった魔理沙に視線を向ける。
 ニッシッシ、と笑った魔理沙はソルの隣にしゃがみ込んで、その肩を組んだ。
あ…っ、と羨ましそうな、少し切なげな声を上げたのは、恐らく紫とレミリアだった。
 霊夢とアリスの眉尻も、僅かに吊り上がった事には気付かず、魔理沙は笑う。

「難しい話はもう良いっつの! 宴会だよ! 宴会! やるしかねぇだろ!?
 いや、宴会だけじゃ足りねぇ…。皆で温泉に行こうぜ! 間欠泉センターにあるだろ!」

魔理沙が言い放った瞬間、集まった皆がポカンとした。
だが、そう言われれば…みたいな空気になるには、其処まで時間が掛からなかった。
「賛成~♪」と、ころころと笑いながら、最初に手を挙げたのは幽々子だった。
続いて、「俺もー!」と握り拳を突き上げたのはシンだ。輝夜もそっと手を挙げて居る。
妖夢の方は、幽々子とシンを窘めるべきかどうかを迷い、きょろきょろと周囲を見比べていた。
早苗とアリスは顔を見合わせて肩を竦め、やれやれと微苦笑を浮かべている。
アクセルとイズナも、魔理沙の提案には満更では無いようだ。二人共、口許を緩めている。
鼻から息を吐いてから腕を組んだレミリアは、まぁ良いんじゃないのかしら、と映姫に視線を寄越した。

「いくら話を捏ね回しても、異変が終わった事に変わり無いわ。
 こうして顔を突き合わせてるのは、ただ事実確認する為でしょ? なら、もう十分よ」

レミリアの言葉に、「それもそうですね…。私も伝えるべき事は伝えました」と映姫も頷く。
紫が何か言おうとたが、それよりも先に「おっし! じゃあ決まりだな!」と魔理沙の声が座敷に響いた。
その声の勢いに、ちょっと待って…と顔を曇らせたのは霊夢だった。

「もしかして、宴会は今日此処でやるつもりなの?」

「当り前だろ、善は急げって言うしな!」

程々にしておきなさいよ、と永琳も苦笑を浮かべて、成り行きを見守っている。
こうなると、もう誰も止める者が居なくなる。もとより、宴会好きな者の多い幻想郷だ。
緊張と不安が緩めば、いつかは自然と宴が開かれていた事だろう。
それに、まだ酒も入って居ないと言うのに、段々とこの場が盛り上がりつつある。
ただ映姫としては、浮かれてばかりも居られない。
この後に人里にも立ち寄り、慧音や妹紅、阿求達にも、伝えておかねばならない事も在る。
だが、もう少しの間だけ、この賑やかで暖かな空気を味わっていたかった。







締め切られた空間の中に響いているのは、穏やかなジャズピアノの曲だった。
その旋律の中に、やけに遠くから響いてくるサイレンの音が微かに混じる。
完全な隔たりが此処に在った。緩めの照明が、少し薄暗い店内を照らしていた。
コーヒーの香りと、店のドアが開く、カランカランという虚しい音色。
注文を繰り返す店員の声もする。客の入りは二割程だったから、店内はかなり空いていた。
どうも少年のお気に入りらしいこの喫茶店は、少し古い感じで、派手さがまるで無い。
都会である京都の中にあって、時代の流行になど全く流されていないからだろう。
余計な装飾を削り、必要な分だけを足す。それでいて洗練されていた。
若者の喧しい騒ぎ声や、談笑をする声も殆ど聞こえない。
彫刻に造形美が在る様に、この店が提供する静穏な空間は、何処までも上品だ。
誰かと落ち着いて話をしたりするには絶好の場所だろう。
だからこそ、少年はこの店にメリーと蓮子を連れて来たのだ。

喫茶店の最奥のボックス席。
其処に並んで掛けたメリーと蓮子、その正面に、少年と朱髪の男が掛けていた。
取り敢えずという事で、少年が頼んだホットコーヒーが四つ、湯気を立てていた。
嫌な沈黙が続いている。当たり前だと思う。蓮子は先程からずっと朱髪の男を睨んでいた。
だってそうだ。納得行かないし、赦せない。頭の温度が上がりっぱなしだ。
“メリーの眼を抉り出すという凶行に及んだ相手と、喫茶店でお茶をする”。
一体、どんな状況だ。理解出来ないし、何か話すことなど無い。ふざけてる。
しかし、蓮子とは違い、メリーの方はさっきから何かを言おうとして失敗していた。
朱髪の男に声を掛けるのには、当然並々ならぬ勇気と根性が居るだろう。
少年も、何かを言葉にしようとしているメリーを見て、何も言わずに黙っている。
それは、朱髪の男も同様だ。口を噤んで、無表情のままメリーの言葉を待っていた。

蓮子も何か言ってやろうかと思う。
だが、あのくすんだ金色の眼に見据えられたら、やはり何も言えなくなってしまいそうだ。
とにかく、朱髪の男は寡黙で、落ち着き払っていると言うよりも、虚脱しているかの様だ。
雰囲気自体は落ち着いているどころか沈み込んで居るから、店の雰囲気を壊していない。
だが、それでも十分過ぎる威圧感を放っているし、何より、あの眼が見る者を恐怖させる。
注文を取りにきたウェイターも、男の眼を見て、お冷の入ったコップを取り落としていた。
そんな大柄の男と、華奢ですら在る少年が並んでいる光景は、何処か滑稽ですらある。

「あの…貴方はどうして、私達を助けてくれたんですか?」

勇気を振り絞ったメリーの声は、やはり尻すぼみだった。
朱髪の男は、暫く黙っていた。しかし、すぐにメリーの眼を見詰め返した。

「……お前達を守れ、と…そう言われた…」

何だそれは。意味が分からない。
低い声で答えた朱髪の男は、隣でゆったりとコーヒーを飲んでいる少年を横目で見た。
少年はコーヒーを味わってから、カップをテーブルに置いた。それから、ひっそりと頷く。

「終戦管理局に関しては、もう心配は要らない。…僕の仲間から連絡が在った。
 これで僕達の世界は守られた。協力に感謝するよ。不自由な思いをさせて、すまないね」

朱髪の男の答えと、少年の言葉が微妙に繋がっていない。
終戦管理局を無力化したと言うならば、もうメリーに張り付いている必要など無い筈だ。
しかし、少年はコンビニで何と言っただろうか。嫌な予感がしてきた。

「だが、マエリベリーさんの“境界を視る眼”の存在は、放置しておけないんだ。
 前にも言ったけれど…境界に関する力は、僕達の世界に大きく影響するからね。
 それに…留意すべき組織は、終戦管理局だけでは無いんだ。脅している訳では無いよ。
 君達の住まうこの世界の帳の向こうには、無数の次元世界が横たわっている。
 其処から、新たに君達を狙う者達が現れないとは言い切れない…」

少年は真剣な声音で言いながら、メリーと蓮子の顔を見比べた。

「既に、君達に眼を付けようとしている者達も居る。
世界虚空情報統制機構と言う…此処とは違う世界に根付く、大きな組織だ」

蓮子は眩暈を覚えた。嫌な予感がしていたが、その通りになった。
今日はコンビニで暴漢に人質にされそうになるしで、本当に災難だ。
店の雰囲気がもっと砕けた感じだったなら、頭を抱えてぐわーと叫んでいたかもしれない。
また別の世界の組織に、メリーが狙われるのか。バカバカしい。映画の話じゃないの。
そんな風に笑い飛ばせれば、どれだけ気が楽だろう。暗澹たる気持ちになってくる。
コンビニから転移する際、少年は言っていた。この朱髪の男にも、君達を守って貰うと。
勘弁してよ、と言いそうになって、蓮子は朱髪の男と眼が合った。

「何よ…」 蓮子はぐっと睨み返してやった。
「………俺が憎いか…」 そう聞いて来た朱髪の男は、相変わらずの無表情のままだった。
正直言って、かなりカチンと来た。いや、カチンどころじゃない。そんな程度では済まない。
頭の血管がブチブチ言いそうな位だった。コーヒーカップをぶん投げてやろうかと思った。
だが、仮にコーヒーカップを投げつけられても、この朱髪の男は容易く避けるだろう。
熱いコーヒーを被ったとしても、平然としているに違い無い。やるだけ無駄だ。
自分をクールダウンさせる為、蓮子は一つ息を吐いた。「赦さないって言った筈よ…」
有りっ丈の憎悪を混めて、答えてやった。自分でもこんな声が出るのかと驚く位だった。

しかし、朱髪の男は「…そうか…」とだけ、短く答えた。
それから、蓮子からメリーへと視線を移し、「……お前もか…」と聞いて見せる。
謝罪の言葉を述べないのは、謝って赦されるとは思っていないからか。
それとも、まるで生まれてすぐの子供の様に、罪悪などまるで感じないからなのか。
見た目では判断出来ない。メリーも、答えに困っているようだ。
少年の方も、その朱髪の男の問いに対するメリーの答えを、興味深そうに待っている。

「憎い、と言うよりも…、どちらかと言うと、怖いですけど…」
二人の視線に居心地が悪そうにしながらも、メリーはポツポツと言葉を紡ぐ。

「貴方にも、私の眼を奪わなければならない理由が…、在ったのでは無いですか」

メリーのその言葉に、朱髪の男は明らかに怯んだ。狼狽している様にも見える。
難しい貌をして黙り込み、メリーから眼を逸らした朱髪の男は、何を思っているのだろう。
「……俺には…」苦し紛れみたいに搾り出したその声は、酷く頼りなさ気だった。

「…理由など無かった…。
…お前の眼を奪えと…そう言われただけだ…」

蓮子は怒りの余り、頭がくらくらした。言われたからした。
ただ言われたから。指示されたからメリーを。メリーの眼を。あんな酷いことをしたのか。
それでも何とか自身を抑え付ける事が出来たのは、メリーが落ち着いているからだろう。
寧ろ、朱髪の男を見るメリーの眼は、哀れんでいるようにすら見える。
朱髪の男は、何かを考え込むように視線をテーブルに落としたままだ。
メリーと眼を合わせようとしない。「彼はね…」少年が、男の言葉を継いだ。

「自我が生まれて、まだ間も無い。僕と同じでね。善悪の概念がまだ無いんだ。
 だから…これから君達を守る中で、徐々に感情を覚えていく事になるだろうね」

少年の言葉を聞いた蓮子も、黙って俯いている男に視線を向けた。
善悪の区別も無く、恐怖も躊躇も無いならば、『死ね』と言われれば、この男は死ぬのか
銃弾を受けてもビクともしなかったこの男は、死ぬ為に全力を尽くすのだろうか。
未発達な自我と感情を抱えたまま、彼は言われた事だけを淡々とこなそうとするだろう。
生物兵器という言葉が、蓮子の脳裏に浮かんだ。
その思考を読み取ったのかどうかは定かでは無いが、少年が囁くように言葉を続けた。

「彼は、試験管の中で生み出された。…一つの兵器なんだ」

メリーは悲しげに眉を顰めて、何も言えずに居た。
蓮子も、胸の中の怒りが萎んでいくのを感じた。
喫茶店内に流れる、シックなジャズピアノの音色が、やけに悲しい。
「……俺は…」其処まで言った朱髪の男も、口を噤んでしまった。
重たい、重過ぎる沈黙が、ボックス席を包んだ。
しかし、その沈黙は長くは続かなかった。

優しげに目許を緩めたメリーが、テーブルの上に、すっと掌を差し出したからだ。
その行動に、少年も少し驚いたようだった。正直、蓮子も一瞬呆気に取られた。
朱髪の男に至っては、差し出された掌を凝視している。困惑しているのだろう。
掌から視線を上げた男の貌は、怯むと言うよりも戸惑っていた。
「ちょっと、メリー!」思わず、我に帰った蓮子は声を上げていた。
しかし、メリーは微笑を崩さなない。

「また狙われる事になるけど、くよくよしてたって始まらないわ…。
それにこのひとも、私達を守ってくれるみたいだし…握手くらいは良いでしょう」

もしかしたら、メリーには心臓に毛が生えているのかもしれない。蓮子は思った。
自身の眼を抉り出した相手に、握手を求めるなんて。
良く視れば、メリーが差し出した手は、微かに震えていた。
少年は成り行きを見守っている。メリーの御蔭で、沈黙の重みが抜けていく。
男は、おずおずとメリーの手を握った。グローブを嵌めた彼の手は白く、大きかった。
穴が空く程に握った手を見詰めていた男に、メリーは少しだけ苦笑を漏らした。

「私の名前は、もう知っていると思いますけれど、一応自己紹介しておきますね。
…マエリベリー・ハーンです。これからご迷惑を掛けますが、宜しくお願いします」

状況を良く理解出来ていない様子の男は、何とか「…ああ…」とだけ言葉を返していた。
端から見れば、女子大生に手を握られ、焦っている初心な男に見えなくも無い。
「…私は宇佐美蓮子」握手こそしなかったものの、蓮子も腕を組みながら自己紹介をした。
メリーとの握手を解いた後も、男はじっと自分の掌を見詰めていた。

「あんた、名前は…?」
そう言われれば蓮子達は、まだ朱髪の男の名前を聞いていない。
ぶっきらぼうに蓮子に聞かれて、男は少しだけ迷う様な素振りを見せる。
「素直に答えれば良いよ。君の名前は一つしかない」囁くように、少年が声を掛けた。
少しの沈黙の後、朱髪の男は決心したようにメリーと蓮子の貌を見て、
澱みなく自分の名を答えた。

 



[18231] 四十ニ話
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 22:15
 宴会が開かれた博麗神社。
座れる様に茣蓙が敷かれた境内を照らすのは、提燈と、色取り取りの妖火だ。
暗がりになって間も無い空には、星屑が瞬いている。淡く浮かぶ月にも風情が在った。
アルコールの匂いと、其処彼処で弾ける談笑には、微かな熱気が篭っている。
場の空気も熱を帯び始め、大きなうねりとなって夜を包む。静寂の居場所などは無い。
暢気に過ぎる程に平和な幻想郷が、再び戻って来る。その事を喜ぶ声で溢れている。
盛況さは既に飽和状態であり、神社の境内から溢れかえりそうだ。
誰も彼もが笑顔で杯を傾け、思い思いにこの久方の宴を謳歌している。

その中に混じらず、少し離れた所で杯を傾けているのは、イズナとアクセルだった。
二人は特に騒ぐでも無く、静かに酒盃を重ねながら、宴の盛り上がりを見守っていた。
色気も何も無いが、アクセルとイズナは満足そうだった。十分に、宴会を楽しんでいる。

「そんじゃあまぁ…今んトコ、帰還希望の奴は俺だけ、って事になるのかね」
結構な量の酒を飲んでいるにも関わらず、そう言ったアクセルの貌は殆ど赤くは無い。

「ソルやシンも、まだ此処に残るつもりみたいだからねぇ」
アクセルに答えながら、横目で宴会に視線を巡らせつつ、イズナも杯を傾ける。
そっか…、と呟く様に言って、アクセルは夜空を仰ぐ。それから、溜息を吐き出した。
星よりも遥か遠くを見詰める眼を細めて、参ったみたいな笑みを浮かべて見せる。
「“あいつ”と一緒なら、俺も此処で暮らしてみてぇな」 力の篭らない言葉が、空に溶けた。
「誰か、待たせてる人が居るみたいだね」 イズナは、空いたアクセルの杯に酒を注ぐ。
おっと、すまねぇ。アクセルは酌を受けつつ、そうなんだよ…、と笑った。

「俺の恋人なんだけどね。
タイムスリップ体質の御蔭で、会えない処か、元の時代にすら帰れねぇ…。
おまけに俺自身が幻想入りだろ? 参るぜ…。飲まなきゃやってらんねぇっつの」

「となると、“幻想”から“現実”へ戻る術が必要だぁね」

「…そうなんだよな。
仮に紫ちゃんが俺達の次元世界を割り出しても、俺は其処に帰れねぇ臭いし…。
いや、帰れないっていうか、存在する事に矛盾が起きるんだろうな…」

紅魔館戦の後、アクセルの前に現れたレイヴンは言っていた。
お前の存在は世界から払拭され、現実から見放され、放逐されてしまったのだと。
元の次元では、もうアクセルという人物は存在しなし、存在する隙間も無い事になっている。
因果干渉体という異分子を幻想へと取り除いた世界は残酷だった。
容赦が無かった。都合の良い様に歴史を改竄し、つつがなく回っているんだろう。
ぶん殴ってでも、俺の居場所を取り戻す。そうアクセルは思うが、すぐには動けない。
アクセル一人の力では絶対に到達出来ない処に、めぐみは居る。幾つもの分厚い壁が在る。
その壁は余りにも厚過ぎて、よじ登る事も、飛び越える事も出来ない。
時間と次元。夢と現。その境界全てがアクセルを元の世界から遠ざけている。
まるで嘲笑うかの様で、慰めてくるかの様じゃないか。
問題も山積みで、気が滅入りそうだ。溜息の吐き出す代わりに、杯を傾ける。

「元の次元世界に渡れるようになったら、オイも故郷の皆には声を掛けに行かないとねぇ」

イズナも言いながら、何かを思い出すみたいに顎に手を当てている。
何にせよ、紫がアクセル達の世界を見つけない事には、この話は進まない。暫くは見の時だ。
終戦管理局の戦いも終わった。皆の傷も完全には癒えていないし、今はゆっくり休むべきだろう。
アクセル自身も、今は法力を行使しようとすると、身体と頭に痛みが走る。
黒ソルとの戦闘で飛ばし過ぎた事も在り、コンディションは万全とは言い難い。
隣に腰掛けたイズナにしても、胴は包帯でぐるぐる巻きだし、歩き方も少ししんどそうだった。
まぁ、焦ることも無い。じっくり体力を回復させれば良い。もう襲撃される心配も無いのだ。

「それはそうと…。紅魔館の皆の姿が見えないねぇ」

杯を片手に、イズナは周囲に視線を巡らせる。
確かに、レミリアやフランドールの姿が見えない。
彼女達が居れば、宴会の騒がしさは更にもう二段階程は上がるだろう。
じきに皆来るさと、アクセルは喉を鳴らすみたいにして、面白そうに笑った。

「旦那を意識してんのかね。
レミリアちゃんもフランちゃんも、何か衣装を選ぶのに迷ってるみたいだったな。
 何か知らんけど、パチュリーちゃんは今から着ていく服を練成するとか言ってたし…。
まぁとにかく、俺は『先に行ってろ』って言われたから、一足先に此処に来たんだよ」

「あぁ、そう言う事かい」 

「特にフランちゃんの方は、今度はパジャマパーティーでも開くつもりだぜ。
 旦那と俺は強制参加っぽいし。…そっちも覚悟しといた方が良いかもな。
 下手すると、永遠亭にも招待状が行くかもしれねぇ」

「有無を言わさない辺り、紅魔館のひと達らしいねぇ」
納得したように頷くイズナに、アクセルは「なぁ」、と声を掛けた。
その貌は微妙にニヤ付いていて、何かを企んでいるみたいだった。
イズナは少し嫌な予感がした。

「折角だからよ。もっと面白い話しようぜ。
八雲の藍さんのとは御近づきになれたのか? どうなんだよ」

アクセルの言葉に、「…はぁ~」と息を漏らして、イズナは額を抑えて項垂れた。
それがねぇ…。そう漏らした声音は、情けない程落ち込んでいて、気の毒になる位だった。
杯をぐいっと傾けたイズナは、手酌で酒をついでから、眉をハの字に曲げる。

「お礼を言われただけだねぇ…。嫌われて無いのだけが救いだよ」

「忙しそうだもんな~…藍さん。だがまぁ、チャンスはまだまだ在るだろ」

そうだと良いんだけどねぇ…。
苦笑混じりに言ったイズナは、言葉程に凹んでいる風では無さそうだった。
藍の事を想ってはいるが、がっついている訳でも無いのだろう。
一歩身を引いている様な感じだ。或いは、藍に要らない気遣いをさせたく無いのかもしれない。

「な~んか勿体無くねぇ。もっとガシガシ行っても大丈夫だと思うけどな」

「無理言わんでよ。…それを言ったら、そっちはどうなのさ」 

イズナは、少し可笑しそうに笑った。
それから、アクセルの持っている杯が空いている事に気付いて、酒を注いでやる。

「俺はこう見えて一途なんだよ。可愛い女の子は勿論好きだけどねぇ」

軽佻浮薄さを装う事を、アクセルが得意としているのは、イズナも気付いているだろう。

「愛する人が居るってのは羨ましいね…」 
道化の振りをするアクセルに、イズナは冗談めかして、しかし深い声音で言う。
だろ…?、と言ってみせたアクセルは、また杯を傾ける。宴はまだまだ盛り上がるだろう。
熱い液体の苦味が、少しだけ増した気がした。俺の人生と明日の味で、割りと辛口だった。
酔いにくい自分の体質が、ちょっとだけ恨めしい。まだまだ、俺は酔わない。まだいける。
お前は、会えると良いな。未来の俺はそう言って死んだ。くたばった。消えちまった。
何勝手に死んでんだよ。だが、俺は生きていく。杯から酒を飲み干して、空を仰ぐ。
待ってろよ。めぐみ。





境内に引かれた茣蓙の上に座り込み、シンは渋い顔で自分の喉首をしきりに触っていた。
其処には、やたら頑丈そうな革の首輪が嵌められており、序に太い鎖が繋がれ伸びている。
まるで飼い犬を散歩に連れて来たみたいに、その鎖を手に持っているのは、シンの隣に座っている幽香だ。
其処だけ、異様な雰囲気だった。賑やかな宴の席の中に、明らかな空隙が出来ている。
何者をも寄せ付けない歪な空気が出来上がっていた。一種の結界と言っていいかもしれない。
周りに居る者も、ちらちらと視線をシン達に向けたりするものの、関わろうとする者は居なかった。
貌を顰めているシンに対して、幽香の方も機嫌が良いとは言えない表情だからだろう。
眉間には皺が寄っているし、何処かむすっとした貌だ。

だが、誰も寄り付かない理由と原因は、恐らくそれだけでは無いだろう。
「…なぁ、幽香」シンの気だるそうな呟きには答えず、幽香は手にした杯を傾けている。
杯の中身は酒じゃない。紫が外の世界から調達してくれた、果汁100%のオレンジジュースだ。
そのジュースをちびちびと飲んでいる幽香の身長はかなり低く、外見も10歳にも満たない様な幼い姿だった。

永遠亭での戦いでシンは、幽香の身体に複雑なドレイン系統の法術を施した。
幽香の身体の中から汚染を吸い上げる際に、その肉体の活力をも吸い上げてしまったのだ。
眼に見える形でその影響が現れた時には、幽香の身体は急速に退行を始めた。
見た目で言えば、こいしやフランドールよりも更に幼い位だった。

「おい、無視すんなよ。ゆうかりんちゃんよ」 幽香が咽た。
周りに居た者達も、微かに噴出した。シンは鼻から息を吐き出し、唇をひん曲げた。

「確かによ。殴ってくれても良いとは言ったけどよ。…これは無いんじゃねぇ?」
窮屈そうに言いながら、シンは首輪に触れる。ジャラっと鎖の音が鳴った。
幽香は鼻を鳴らして、ぐいっと手に持った鎖を引っ張った。だが、その力は弱々しい。
本来なら、シンは幽香の方に容易く引き摺られるだろうが、そうはならなかった。
その事実に、幽香は悔しそうに少し唇を噛む。それから、ふん…、と可愛らしく鼻を鳴らした。
退行したのは身体だけで無く、妖怪としての凶暴なまでの力が落ち込んでしまったのだ。
それも、見た目通りの歳の少女位にまで。はっきり言って、腕力など無いに等しい。
花を咲かせたりする力は、まだ残っているらしい。だが、それが自衛に役立つかと言われれば微妙な処だ。
縮んでしまった今の幽香は、並みの妖怪どころか、野良犬に襲われても太刀打ち出来ないだろう。
最凶の妖怪から、抵抗力と暴力を抜き取った様な今の状態は、かなり不本意に違い無い。
その原因となったシンは、体力が戻るまでの間は、幽香の傍に居ることを選んだ。
幾ら平和が戻って来たとは言え、今の幽香を一人にしておくのは、やはり不味い。
あのフラワーマスターが幼子同然に弱まって、それでも一人で暮らしている。
そんな事が広まれば、良く無い考えを起こす輩も出てくるだろう。
良い意味でも悪い意味でも、幽香は有名だからだ。

「今の私の身体で貴方を殴っても、痛くも痒くも無いでしょ…」

そっぽを見ながらそう言う幽香の声は若干高く、見た目通りで明らかに幼い。
拗ねているみたいな声音だった。幽香はシンの方を見ようとしない。
ずっとこんな感じだ。永遠亭に幽香を迎えに行った時から。

元の姿と力が戻るまでは一緒に居て、幽香を守る。
そうするつもりで居る事を、シンが幽香に伝えた時からだ。
やっぱり、永遠亭戦での施術の仕方が不味かったんだろう。
だが、あの状況では他に方法も思いつかなかった。
それすらも只の良い訳にしか過ぎないのかもしれない。
参ったみたいに後頭部を掻きながら、シンはまた鼻から息を吐き出した。

「…こんな首輪なんかしなくても、俺は逃げねぇよ。
 って言うか、聞いたぜ? 永遠亭の風呂で溺れかけたんだろ?」

オレンジジュースを飲む幽香の手が止まり、上目遣いに睨むみたいな視線を向けてくる。
頬も若干赤い。恥ずかしいだけかもしれない。紅い瞳は、何処かうらめしそうだった。
だが、すぐに「うるさいわね…」と呟いて、幽香はシンから視線を逸らす。

自身の身体の弱り具合を最も理解いているのは、やはり幽香自身なのだろう。
花を咲かせる力が残っていても、悪意を持った脅威を退けることは出来ないと。
それは痛感している筈だ。元より強者の幽香だから、今の自分の強さを見誤る筈も無い。
過信もしないし、卑下し過ぎる事も無い。冷静だ。だからだろう。
力が戻るまでは、幽香の家に一緒に住まわせて貰う事を、幽香自身が提案してくれた。
明日からは、シンは幽香を守るべく、彼女の家に世話になる事になる。
妖夢や幽々子にも、もう話は通してある。振り回してしまって、申し訳なく思う。
幽々子は、また幽香の力が戻ったら、白玉楼に戻って来てくれれば良いと言ってくれた。
待っていますからと、妖夢も頷いてくれていた。自分を受け入れてくれる仲間が、確かに居る。
だから、その仲間達の力になりたかった。知らず、視線が下がっていた。その時だ。
「へぇ~、…ホントに縮んじゃったんだ」 興味深そうな、それでいて面白がる様な声がした。
今まで誰も近づこうとしなかったシン達のすぐ傍に、何時の間にか彼女は入り込んでいた。

感覚まで退行してしまい、突然の事に驚いたのだろう。
ビクッと幽香が肩を震わせて、手に持っていた杯を取り落とした。
もう中身の入っていなかった杯を拾い上げつつ、シンは溜息を吐きそうになった。
また面倒な事になりそうな予感がしたからだ。

怯えるみたいに身を竦ませた幽香は、向けられる無遠慮な視線に俯いてしまう。
その様子を見て、彼女は意地悪そう笑みを浮かべた。天子だった。
「ふ~ん…、へぇ~…、“あの”風見幽香さんが、こんな小さくなっちゃってまぁ」
天子は言いながら、幽香の眼の前にしゃがみ込んだ。そして、シンと幽香を見比べる。
何処で聞いたのかは知らないが、幽香の身体が縮んだ理由を知っているのだろう。
ウィンクをしながら、シンに向けてぐっと親指を立てて見せた天子は、いい笑顔だった。
正面にしゃがみ込んで来た天子から、幽香は逃げようとしたようだが、駄目だった。
うふふふふ、と何だか嬉しそうに笑う天子に捕まった。

「恐怖のサディスティッククリーチャーも、こうなると中々可愛いじゃない。ふふ…」
天子は、ぷにぷにと幽香の頬を指でつつき出した。幽香は何も言わず、俯いたままだ。
スカートの裾をぎゅっと握っている幽香は、本当に怖がっているみたいに見えた。
更に調子に乗り出した天子は、うりうり~、と両手で幽香の頬を捏ね繰りまわし始めた。
普段なら、天子はもうとっくに殴り飛ばされているだろう。
それが出来ないのを知っているから、天子は止めようとしない。
或いは、「小さい子と遊んであげる、優しいお姉さん」的な気分なんだろう。
だが幽香の方は、良いように頬を嬲られ、その目尻にぶわわわと涙が滲み始めた。
流石に、天子もドキッとしたのだろう。え、あ、あれ!? 泣く!? 泣いちゃう!?
ぷるぷると肩を震わせ、洟を啜りだした幽香の頬から慌てて手を放した天子は、オロオロし始めた。

幽香は、今にも「ふぇぇん」と泣き出しそうだ。
しょうがねぇなぁ…と、シンは幽香の背後から、高い高いをするみたいに抱き上げた。
それから、胡坐をかいた自分の脚の上に、優しく幽香を座らせてやる。
びっくりした様な貌の幽香は、振り返る様にしてシンの貌を見上げて来た。
その頭を撫でてやりながら、シンは半眼になって天子に視線を向ける。

「ゆうかりんを虐めんなよ。只でさえ身体が縮んで、精神的にも不安定なんだから…。
お前みたいな不良天人に絡まれたら、怖くて泣いちまうだろ? 考えろっての」

うっ、と天子は言葉を詰まらせる。それから、ご、ごめんね…と、幽香に謝った。
シンの脚の上に座った幽香は、涙をごしごしと拭いながら「うん…」と小さく頷いた。
その言葉を聞いてほっとした様な天子に、シンはさっきまで幽香が持っていた杯を差し出した。

「…何よこれ」 天子はその杯とシンの顔を見比べた。

「紫姉から、オレンジジュース貰って来てやってくれ」 

「な、何で私が…」

「仲直りしとけよ」

少し冗談めかして言うシンに、天子は口を噤んだ。
まだ天子の事が少し怖いのだろう。頭を撫でられている幽香は、天子の方を見ようとしない。
「…何か釈然としないわねぇ」 男であるシンの方が懐かれているのが、納得行かないのか。
ぶつぶつ言いながらも、天子はシンから杯を受け取ってくれた。
根は悪い奴じゃない。それはシンも知っているし、幽香だって分かっているだろう。
苦し紛れっぽい笑みを浮かべた天子は、「ちょっと行ってくるわ」と背を向けた。

また、シンと幽香だけが残された。
小さな幽香の身体は、すっぽりとシンの胡坐に収まっている。
また洟を啜った幽香が、今度はシンの上着をぎゅっと摑んで来た。「…余計な事はしないで」
俯き加減でそう言う幽香の声音には、言葉ほどに棘は無く、弱々しかった。
「泣く一歩手前だったじゃん」と、幽香の頭を撫でてやりながら、シンは苦笑する。
幽香は何も言い返して来なかった。いじけている訳でも無いだろうが、無言だった。
「マジで悪かったな。…そんな身体にしちまって」真面目な声で、シンは言葉を続ける。

「謝る必要なんて無いわよ。…感謝しているわ。
貴方が居なければ、私はまだ診察室のベッドから動けなかったでしょうし」

呟く様に言ったシンに、幽香は少しだけ笑った様だ。

「なぁ、幽香。…俺にも花の咲かせ方、教えてくんねぇかな。
 いや、正確に言えば…あ~、何て言えば良いのか分かんねぇ…。
 そうだな。力の使い方っつーのかな。俺、加減とか全然出来ねぇし…」

「衰微と暴食を抑えるコツを知りたい…、と言う訳ね。
 そう言えば最初に会った頃よりも、貴方の纏う雰囲気も随分変わったわ…」

また、幽香は振り返るようにしてシンを見上げてくる。
その真っ直ぐな視線から眼を逸らし、シンは「そうかもな…」と答えた。
安心したのか。ふっと幽香が、シンの胴に寄り添うみたいに体重を預けて来た。

「もっと考え無しで、馬鹿な子だと思っていたけれど。随分と悩んでいる様ね。
張り詰めた様な眼をしているし…。貴方こそ、少し不安定なんじゃない?」

「そうかもな…。正直、自分自身に振り回されてる。それを何とかしてぇんだ…」

「出来るわよ。貴方なら」

「…そう思うか?」

「えぇ」

…コホン、と誰かが咳払いした。
何だか、わざとらしい咳払いだった。聞き覚えの在る声だ。シンは貌を上げる。目の前だ。
「今は…お邪魔でしょうか?」妖夢が、何だか微妙な貌で、幽香とシン見比べていた。

「いや、そんな事は無ぇって」 取り敢えず、シンは少し笑って見せた。
妖夢は徳利を手に持ち、もう片手に持った皿に料理を乗せている。また、気付かなかった。
天子の時もそうだったが、幽香を気に掛けるばかりで、周囲の気配を見落としがちだ。
序に言えば、シンの背後を漂うように陣取った幽々子に気付くことなどは、至難の業だった。
首の後ろ辺りから聞こえてくる幽々子の薄い笑い声が、やけに冷たい気がした。
幽香が更に強くシンの上着を摑んでくる。そりゃあ怖いだろう。

「羨ましいわねぇ。…私も抱っこして貰おうかしら」

冗談めかして言っているつもりなのかもしれないが、全然冗談に聞こえなかった。
幽々子はシンの隣にふわりと座り込む。その隣に控える様に、妖夢も茣蓙の上に腰を下ろした。
空気が張り詰める。気のせいか。いや、違う。気のせいなんかじゃない。
両肩に奇妙な重みが在る。突然すぎるだろ。驚いた様な、妖夢と幽々子の視線を感じた。
「えっへへ~…。だーれだ♪」嬉しそうな声と共に、いきなり目隠しをされた。
見なくても分かる。この神出鬼没っぷりと言うか、気配が全くしない事を見ても、一人しか居ない。
無意識に潜る、古明地の妹。こいしだ。いつの間にか、シンはこいしを肩車していた。
「あれ、何か人増えてる!?」其処に、オレンジジュースを持った天子が帰って来る。
シンの周囲の人口密度が一気に上がって、また騒がしくなり始めた。





戦いが終わって、まず感じたのは大きな安堵感だった。
緊張が途切れた所為もあって、今の自分は大層な腑抜けになっている事だろう。
しかし、不思議と虚無感の様なものは感じなかった。達成感とも違う。
やはり懐かしい様な、暖かい様な、不思議な感覚だった。心地良かった。
流されてしまいそうになる。もうこのまま、この優しい夢の中に埋もれていたくなる。
見苦しくも、ぬくもりを感じていたい、貪っていたいと思う。身を委ねてしまいたい。
そう思う一方で、困惑する。得体の知れない感情に戸惑っている。惑乱しそうになる。
自身に言い聞かせる。冷静になれと。眼を背けるなと。思い出せと。燻る憎悪が心を焼く。
“生きろ、背徳の炎よ”。奴の温い声が、頭にこびり付いている。生きろ。生きろ、だと。
勝手な事を抜かすな。死ねないこの身体は、生きざるを得ない。それ以外に選択肢が無い。
ギア細胞の侵食と精神汚染も止まっている。正気で居続ける事を強要してくる。
半永久の命は、強制的に正常な精神を約束する。最早、それは呪いに近い。
余りに強靭な肉体と精神は、自我を拘束し、逃げ出す事も赦さない。それで良かった。
戦いに明け暮れるには好都合だった。正気も狂気も無い。正義も悪も無かった。
考える必要も無かった。戦う事だけだ。それしかなかった。それしかなかったんだ。
聖騎士達の屍と、ギアの骸の地平を行くには、焔炎と暴力だけが必要だった。
死を振り撒き、纏って、何もかもを炎で塗り潰して来て、立ち竦む。何の為に。何の為だ。
贖罪の為だ。奴に憎悪をぶちまける為だ。それ以外の何かなど無かった。皆無だった。
顧る必要など無い。そんな価値などあるものか。殺して、殺して、殺して、殺した。
この手は血塗れだ。錆びて濁った炬焔が宿るだけの、殺戮を召ぶギアの手だ。

聖戦の血海に沈んだ、あの若い聖騎士の貌と言葉が浮かんだ。虹が見たい。
そう言っていた。今なら、あの若い聖騎士の気持ちが分かるような気がした。
だが、今更だ。どうしようも無い。今になって、胸が苦しい。掻き毟りたくなる。
取り返しなどつく筈も無い。分かっている。分かりきっているんだ。そんな事は。
何かを守る事など無かったから、余計だ。気付く事など無かった。気付こうとしなかった。
大切なものを失う恐ろしさから、眼を背けていたんだ。気付かないふりをしていた。
自分自身を騙していたんだ。もう、何も怖くないと。失うものなど何も無いと。
そう言い聞かせてきた。人間で無くなった時に、一緒くたに全てを失ってしまってから。
だから、只管に歩いて来れた。闘って来れた。何も悲しく無い振りをしてきたんだ。
全てを失った筈の自分自身は、結局は何も変わっていない。いい加減、気付いた。
憎悪と贖罪の為に、苦行主義の仮面を被っていただけだ。背徳の炎と言う仮面だった。
その仮面も、もう剥がれた。剥がれて落ちてしまった。隠すことなど出来そうに無い。
剝き出しになった自身の正体は、余りにも脆弱で、か細くて、醜かった。分かっている。
分かっているんだ。だが、どうすれば良いのかなど、俺は知らない。知らないんだ。

博麗や霧雨、八雲達を失っていたら、俺はどうしただろうか。それを思うと、心が軋む。
底の無い奈落へと落ちていく様な心地になる。その場に蹲っていたくなる。
また全てを失った時、俺は泣くのか。悶えるのか。のた打ち回るのか。叫ぶだろうか。
分からない。想像が出来ない。今になって震えが来る。失うことを恐怖している。
恐ろしい。時間が経つことが恐ろしい。喪失の予感に、怯えていることしか出来ない。
全ては時間の問題だ。何をどうしようと、永遠に変わらないものなど存在しない。
生きている者は、何時かは死ぬ。その当たり前過ぎる事実に、打ちのめされそうになる。
博麗や霧雨も、八雲もそうだろう。寿命の差こそあれ、何時かは死ぬ。また失う。
皆、俺の眼の前から居なくなる。その時は確実にやってくる。避けられない。
賽銭箱前の階段に腰掛け、ソルは酒なども飲まずに黙したまま、地面を見詰めていた。

「どうしても…この世界を去る前に、君に会いたくてね」
宴会の席に溶け込む様に、まるで最初から其処に居たかの様に、彼は其処に佇んでいた。
法衣を目深く被った少年が、賽銭箱を挟んでソルの反対隣に腰掛けて、微笑んでいる。
僅かに覗いたその貌には、八雲紫の面影が在る。ホムンクルスだ。本物じゃない。幻想だ。
認識阻害の法術を纏っているのだろう。ソル以外の誰も、少年には気付いていない。
陽気な宴会が開かれている境内と、賽銭箱が置かれた本殿前の空気は全く違う。
其処に在るのは、停滞と虚像だけだった。

「…体の具合はどうかな。随分と無茶をさせてしまったからね。辛くは無いかい?」

紫の貌をした少年は言いながら、視線を境内へと向けている。

「この世界の特異点、博霊霊夢については…『僕』は放置するつもりだ。
 彼女は何者にも縛られない。だが、逆に言えば…彼女は何も縛ることが出来無い。
 理の檻を抜けた彼女は、ある意味で亡霊だ。存在し得ない筈の命だ。
 だからこそ、不可能を可能にする…。出来れば、無力化しておきたいんだけれど…。
君と敵対するのは、本意では無いからね」

言葉を返すつもりも無いのだろう。ソルは何も言わず、やはりただ地面を見詰めていた。

「それと…君の肉体の崩壊と、精神の消滅を危惧していたんだけれど…。
杞憂だったようだね。無言を返せる様ならば、問題は無いと捉えるべきかな」

視線をソルへと戻してから、少年は微かに苦笑を漏らした様だった。
その少年の苦笑も、すぐに陽気で賑やかな笑い声に紛れた。宴の明かりが、ソル達を淡く照らす。
認識阻害法術の影響で、境内で騒ぐ者達は、誰一人としてソル達の方を見ようとしない。
隔絶された幻想の中から、少年は眩しそうに境内を眺めていた。

「妖怪の賢者に施した精神プロテクトも、既に解呪してある。
僕に出来る事は、もう終わりだ。僕はほっとしているよ。
…『キューブ』は守られ、終戦管理局は退けられた。全てが、在るべき姿に収まった。
未来は変わり…幻想郷も滅ぶ事無く、確かに此処に在る。君達の御蔭だ。感謝しているよ」

「…貴様は…未来が変わる事も含めて…全て見透かしていたんだろう…」

ソルは視線だけを横に向けて眼を窄め、少年を睨んだ。
その敵意の滲んだ低い声に、しかし、少年は全く怯む素振りも見せずに口許を緩めた。

「イレギュラーな事は常に起こり得るけれど…想定しておく事で、対応も出来るものさ」

「……それを予見した貴様は…まだ生きているのか…」

「…どうだろうね。ホムンクルスの僕では、回答を用意するのは難しいね。
 知りたいかい? でも、君はまだ知らない方が良いと思うけれどね。嘘は言いたく無い。
隠している訳じゃないよ。ただ…君は、憎悪以外の感情を思い出した筈だよ。違うかい?」

少年の言葉に、ソルは口を噤んだ。何も言葉を返せない。
いつもそうだった。肝心なことを全て見透かし、相手の反応など分かりきっている癖に。
奴に噛み付けば噛み付くほど、自分が滑稽になる。道化で在る事を思い知らされる。
こうして口を噤み無言を返す事も、奴は既に知っている筈だ。気に喰わん。
だが、抵抗する術など無い。沈黙も、こいつの前では無力だ。俺は無力のままだ。
何も出来無い。全てGEAR MAKERの筋書き通りだった。もうそれで良い。十分だ。
この世界が無事だった。紫も、霊夢も、魔理沙もだ。皆無事で生きている。
他に望むものなど、思い付かない。胸の内に在る感情を、もう手放したくない。

「……貴様達は…これからも『キューブ』を守り続けていくのか…」

ソルは、紫の貌をした少年の問いには応えなかった。
地面に視線を落としたままで、代わりの言葉を低い声で紡いだ。
答えを聞けなかった少年は、「…そうなるだろうね」と、優しげに口許を緩めて見せた。

「僕達の肉体は数多あっても、その意思と目的は一つだ。
僕は『僕』を裏切れない。造られた僕達は、結局は君達を移す鏡に過ぎない。
『僕』は待っている筈だよ。『僕』を壊しに来てくれる君を。…ずっとね」

「……黙れ…」

「ふふ…。そういう反応が返ってくるのも、喜ばしい事だね。しかし、強要はしないよ。
君が此れからどんな選択をするかは、僕が決める事では無いからね。…全ては君次第だ」

もう答える気も無いのか。
眼を窄め、眉間に皺を寄せたソルは鼻を鳴らして境内へと視線を向けた。
誰かが酒の飲み比べでもしているのだろう。手拍子と歓声が聞こえてくる。
談笑する声が弾けては消えていく。妖達の宴は更に盛り上がろうとしていた。
辺りに響く陽気な声は、晴れた夜空の星屑に混じり、月明かりの中に溶けて広がっていく。
幻想の檻の中。退屈な静穏と共に、馬鹿騒ぎを求める。そんな相反した欲求が滲んでいる。
しかし、それは矛盾していない。常の幻想郷が持つ、平和の姿であり正体だ。
楽園は元の形を取り戻し、醒めない夢はまだ続いていく。
その夢の中から、逆死魔の少年の姿が揺らめいた。

「……その貌で…二度と俺の前に現れるな…」ソルは短く言葉を紡いだ。
ああ、善処しよう。微笑む様に少年が答えてすぐだった。宴会の熱気が押し寄せて来る。
境内と本殿を隔てていた見えない壁が消えた。認識阻害の法術が、無効化したのだ。
少年が術式を解いたのだろう。遠くにしか聞こえなかった歓声が、やけに近くに聞こえる。

「…隣、良いかしら?」 不意に声を掛けられた。
ソルは少年が居た処から視界を外して、声がした方へ顔を上げる。
行灯と妖火に照らされた其処に、閉じようとする黒いスキマが視界の端に視えた。
足音も気配もしなくて当然だろう。空間を飛び越えるその力は、賢者と言うに相応しい。
導師服を纏った紫が、少しの笑みを浮かべてソルの前に立っていた。
「……あぁ…」紫に答えながらソルは、少年が居た場所へと再び視線を戻す。
しかし、もう其処には少年の姿は無かった。まるで蜃気楼か煙の様に、姿を消していた。
ソルを蔑む訳でも、嘲笑うでも無い。奴のホムンクルスは、ただ本当に話でもしに来たのか。

分からない。が、分かりたいとも思わない。
どうせ奴は、地べたを這いずる俺の事など、少しも理解していないだろう。
俺の全てを見透かしていても、その僅かも理解していない。同じだ。俺も同じだった。
奴の事を知っているつもりで、結局は何も分からないままだ。理解などしていない。
ただ憎悪をぶつける為の、復讐の対象でしかなかった。今はどうだ。今もそうなのか。
下らんな。俺は、俺自身すら理解しきっていない。分かる筈も無い。
溜息を堪える様にして、ソルは額の刻印に指先で触れながら視線だけを紫に向ける。

一緒に飲もうと言うつもりなのか。紫の手には、丹塗りの杯が二つ在った。
紫の笑みは、緊張している様で何処かぎこちない。それに、眼が少し泳いでいた。
普段の胡散臭さも無く、頬の上気もアルコールのせいだけでは無いように見える。
一言で言えば、全体的にもじもじしている様な感じだった。
どうも気まずい雰囲気だ。ソルは何か言おうとした様だが、結局止めた。

先に口を開いたのは紫だった。 「…何も口にしていないみたいね」
言いながら、紫はソルの隣に腰を下ろす。そして杯を一つ、手渡す様にソルに差し出した。
黙ったままのソルは視線を横にずらしてから、迷う様に、杯と紫の貌を見比べた。
だが、妙だった。やはり紫の頬は若干強張っているし、微妙にソルと眼を合わせようとしない。
さっきよりも顔が赤い様に見える。無言で杯を受け取って、ソルは眉間に皺を寄せた。

「……体調でも悪いのか…」

「別に、…そ、そんな事は無いわ」

ソルの視線に、自身の貌が赤い事に気付いたのだろう。
杯を持っている方とは反対の掌を、頬や額に当てつつ、やや上擦った声で紫は答える。
それから、また少しの沈黙が在った。しかし、ソル自身は特に何も感じて居ない様だ。
無表情のままで、黙って宴会の開かれた境内を見詰めている。

やはり様子がおかしいのは、紫の方だろう。
小さく深呼吸をしたり、しきりに唇を噛んでみたり、手の中の杯を握ってみたりしている。
何処か憑き物が落ちたかの様な、自然体なソルとはかなり対照的だった。
紫は忙しなく瞬きをしたり、唇を舐めて湿らせたりしながら、何とか話を切り出そうとしていた。
一つ咳払いしてから、紫は自身の傍にスキマを開いて、酒瓶を取り出した。
それから、勇気を振り絞る様に唾を飲み込んだ。

「…注ぐわ」

「……いや…今は良い…」

酌をしようとした紫はソルに断れられ、何だかしょんぼりした様に口を噤んだ。
だが、そんな紫の様子には気付かないままで、ソルは少しだけ目許を緩めて見せる。
「……俺が注ぐ…」紫を労う様な、微かで儚げな、笑みの欠片の様な貌だった。
今までにソルが見せた事の無い種類の、穏やかな表情だった。少なくとも、紫にはそう見えた。
境内から紫へと視線を戻したソルは、「…貸せ…」と紫の手から酒瓶を受け取った。
そして、紫の持つ杯へと酒を注いだ。透明な液体が丹塗りの杯を満たして、星空を映す。
ソルに酌をして貰った紫は、赤い貌のまま、口許が綻ぶのを必死に我慢している様だった。
じっと手元の杯に視線を落としたままで、やはり紫はソルの眼を見ようとしない。

「……おい…本当に大丈夫なのか……?」不審と言うよりも、心配そうな声だった。
美しく艶やかな金髪に隠れ、紫の表情はソルからは見えなかった。
ソルに貌を覗き込まれそうになって、慌てた様に紫は貌を上げて、ソルに向き直る。
だが、またすぐに杯に視線を落とした。再び、宴会会場となった境内から歓声が沸いた。
そんな賑やかな声なども、まるで聞こえていないのか。
紫は眼を泳がせながら、必死に言葉を探している様だった。

「え、えぇ…。本当にどうもしないわ。ただ、ちょ…ちょっと…、えぇと…」

「……妙な奴だな…」

普段の紫は冷静沈着で、何手も先まで読んでいる更に上から、胡散臭さの仮面を被る。
そんな、人を喰った様な態度とは違い、どもっているのが珍しく感じたのだろう。
ほんの少しだけ眉尻を下げたソルは、唇の端を僅かに歪めた。
笑おうとして、失敗したみたいな貌だった。



「…ぅ」
紫は、そんなソルの表情に鼓動が早くなって、何だか頭が上手く廻らなくなっていた。
話したい事が沢山在った。聞きたい事も在る。教えて欲しい事も在る。声が聞きたい。
どうしたんだろうと紫は思った。とにかく顔が熱くて、危険だ。何が危険かは分からない。
ただ、今までこんな風な感情になった事は無かった。経験した事が無い。
だから、どう対処すべきかわからない。熱い。胸が。張り裂けてしまいそうだ。

苦しい事は沢山あった。数え切れない程にあった。それでも、弱音など吐けなかった。
一人で大丈夫だと思った。藍や橙も居る。強く在らねばならない。そう言い聞かせてきた。
終戦管理局との戦いが激化するに連れ、自身の存在意義を見失いそうになった。
境界操作の力が奪われる事が怖かった。無力化させられる事が恐ろしかった。
耐えられそうに無かった。やはり限界はやって来た。潰れてしまいそうだった。
誰かに支えて欲しかった。力が強大であればある程、芽吹く無力感は、容易く精神を苛む。
抵抗出来なかった。自分自身が無意味に思えて、壊れてしまいそうだった。誰かに支えて欲しかった。
『お前の助けが要る』と言われた時、泣いてしまった。弱い自分を知られてしまった。
多分、あの時からだろう。心のより深い処に、ソルの姿を思い浮かべる様になったのは。
此処に居て。何処にも行かないで。堪えられなかった涙と共に、そう言葉に出してしまった。

それを思い出して、顔がまた熱くなる。
非常事態だったから仕方無い。弱りきっていたし、疲れきっていたにせよ。
何だか、自分がとんでもない事を口にしてしまった様な気がして来た。
はわわわ…、となりそうになるのを何とか堪え、紫は表面上は冷静を繕う。
この胸の高鳴りの正体は、所謂、“萌え”というものだろうか。萌え。萌えか。
異性に対する胸のトキメキを、外の世界では萌えと表現するらしいが、これがそうなのか。
何処か違う様な気もするが、きっとそうだ。そうに違い無い。そう自分に言い聞かせる。
言い聞かせ、冷静さを取り戻そうとして、更に泥沼に嵌っていく。余計にパニックになる。
つまり、私はソルに萌えているのか。ど、どうしよう。どうすれば良いのだろう。
分からない。見当もつかない。混乱しそう。いっそ、言うべきなのだろうか。
貴方に萌えていますと。バカバカしい。言える訳が無い。紫は何だかくらくらして来た。
仮にそんな事を言っても、ソルは怪訝そうな貌をするだけだろう。
どうすれば良いのだろう。こんな感情は知らなかった。

「……飲まないのか…」

何処か心配そうな貌で、ソルは横目で紫へと視線を寄越して来た。
冷静さを装って、紫は一つ咳払いをした。危うく何かを口走りそうになったのを堪える。
そうだ。しっかりせねば。異変が解決され、安堵の時がやって来た事には変わり無い。
しかし、緊張が緩みきってしまうのは良く無い。落ち着いて、呼吸を整える。
紫は唾を飲み込んでから、ゆっくりと杯を傾けて酒を嚥下してから、小さく息を吐いた。
酒の味など分からなかった。喉の奥が微かに熱い。沈黙が、何だか気まずい。いや。違う。
そう感じているのは、恐らく紫だけだ。ソルは、何も感じて居ないに違い無い。

ちらりと横目でソルを見て、紫は唇をきゅっと結んだ。
宴が開かれた境内を眺めているソルの貌は、無表情の様で、少し違う。
少しだけ苦しそうな、手から零れていく大切な何かを見詰める様な眼をしていた。
以前の宴会の時も、ソルはこの賽銭箱前の階段に腰掛けて、開かれた宴会を眺めていた。
あの時とは、明らかに違う。こうして、ソルと幻想郷の者たちとの距離が近づいた。
紫は、ソルを利用しようとしていた。ソルは、ただ復讐に生きていた。懐かしく思う。
素敵でしょう…と、紫はソルに聞いたのを覚えている。
……居心地が悪いくらいだ…という、ソルの言葉も、覚えている。
やはり、ソルは今でも自分を責め続けているのだろうか。

「ソルを独り占めなんてズルイじゃんか、紫。私にも付き合えよ、ソル」
紫が何か言おうとした時だった。綺麗な癖にやけに元気な声音が響く。魔理沙だった。

「見ないと思ったら、こんな隅っこに居たのね」
可憐さを壊す奇妙なイントネーションで声を掛けてきたのは、足元をふらつかせる霊夢だ。
それなりに飲んだのだろう。二人の白い肌が赤く染まっている。ほろ酔い状態といったところだ。
気分の良さそうな二人の身体の至る所にも、今もまだ包帯が巻かれていた。
痛々しい姿では在るが、本人達はまるで気にしている風でも無い。
やはり二人は笑顔だった。

「独り占めなんて…し、してないわ」

微妙に言葉の歯切れの悪い紫は、しかしソルの隣から動こうとはしなかった。
魔理沙は少し意地悪そうに笑って、包帯だらけの手に握られた酒瓶を振って見せる。
「それじゃ、私達がお邪魔しても問題無いな」 言いながら、魔理沙も賽銭箱前の階段へと腰掛ける。
その隣に、霊夢も腰を下ろす。自身の周囲に人が増え、ソルは少し困ったような貌になった。
大人数で集まることが苦手なのは、普段の無口なソルを見ていれば分かる事だ。
だが、「そう冴えない貌すんなよ」と魔理沙は笑って、酒瓶の口をソルに向けて見せた。
注いでやるよと言いたいのだろう。しかし、やはりソルは魔理沙の酌を受けなかった。
緩く首を振って見せ、「…俺は良い…」と低く言うだけだ。

そう言われては、魔理沙も無理に勧めることも出来ず、しょうがなく手酌で自分の杯に酒を注いだ。
続いて、霊夢の杯にも酒を注いでから、魔理沙は紫にも酒瓶の口を向ける。
「紫もどうだ?」と勧められ、紫は軽く頷いてから、魔理沙から酒を注いで貰う。
夜風が吹いて、提灯と妖火の明かりを揺らした。霊夢達の間に、少しの沈黙が降りる。
無言のまま、悄然としている風でも在るソルは、無言のままで境内を見詰めているだけだ。
それを横目で見つつ、魔理沙は杯を傾けて一口酒を飲んだ。

「この調子だと、今日は前よりも盛り上がりそうだな。
 そう言えば、守矢神社と地底でも、今日は宴会が開かれているそうだぜ」

「天狗や河童達は、早苗のところに行ってるみたい。
 地底も復旧が進んだみたいだし、色々と一段落着いたって事でしょうね」

霊夢も杯を傾けつつ、少しだけ憂鬱そうに軽く息をついた。
恐らく、この宴会の片付けの事でも考えているのだろう。僅かに眉間に皺が寄っている。
だが、平和が帰ってきた事には素直に嬉しいようで、霊夢の口許は緩んでいた。
しょうがないわねぇ…、みたいな貌のまま、霊夢は視線を紫に向ける。

「紫には、まだもう少し頑張って貰う事になりそうだけど…大丈夫?」

「ええ。…身体の方は、もう問題無いわ。
急ぐことでも無い様だし、心配は要らないわよ」

幻想郷を包む結界の修繕は、式神である藍や橙の助けも在り、もう既に終わっている。
人里や地底の被った被害も小さくは無かったが、復旧は順調だ。妖怪の山にも活気が戻って来ている。
あるべき姿を取り戻しつつ在る幻想郷で、急いですべき事はもう殆ど無い。
ただ、すぐには解決出来ない、時間の掛かる問題も残っているのも確かだった。
終戦管理局との戦いは終わったが、まだソル達の次元世界へ渡る術は無いままだ。
GEAR MAKERが、ソル達の事を幻想郷に残していくという選択を取った真意は何なのか。
未来を予見する彼には、何が見えているのか。紫にも、理解する事は出来ない。
しかし、平行世界に移り渡る力を持って、紫はソル達の世界を探す事ならば出来る。

霊夢と紫の言葉を聞いていた魔理沙の笑顔が、少しだけ曇った。
酒をもう一口飲み、口許を包帯の巻かれた腕で拭ってから、なぁ、ソル…と声を掛けた。

「幻想郷での戦いは一応終わった訳だけどよ。これから如何するのか、何か考えてるのか?」

その声音は少し硬く、いつもの魔理沙らしく無かった。
唇を僅かに噛んだのは紫だった。霊夢も僅かに眼を伏せ、口を噤んだ。
三人共、やはり考えている事は似ているのだろう。予感する事も同じだった筈だ。
ソルが幻想郷を去る可能性を。そして、再び復讐の為に戦い続けることを選ぶ未来も。
きっと、魔理沙は引き止めたいのだ。だから、“如何するのか”を敢えてソルに聞いた。
思い出せば、幻想郷に来た時のソルは、封炎剣の中に封印されていた。
全てを諦めて、ソルは自らを封炎剣の中に封印したのだ。

勝手な都合で封印解呪され、憎むべき“あの男”に踊らされ、ボロボロになっても。
それでも、ソルは幻想郷の為に戦ってくれた。ソル達は、もう掛け替えの無い仲間だ。

「そりゃあ、『元の世界に帰りたい』って言うんなら、私がどうこう言うことじゃないさ。
 部外者の戯言かもしれないけどよ…もしも、また復讐の続きをしようなんて思ってるなら、私は止めるぜ」

仲間としてな…。其処まで言った魔理沙の貌は真剣だった。
だが、すぐに相好を崩した。少し赤い貌のまま、にっと笑って見せる。

「良かったら、此処で暮らさないか?
誰にも文句は言わせねぇからさ。きっと楽しいと思うぜ。…少なくとも、私は楽しい」

少年みたいに笑う魔理沙の言葉は、余りにも真っ直ぐだった。
階段に腰掛けたソルは、怯む様にその眼差しを受け止めつつ、右手で額の刻印に触れた。
言葉に迷っているのか。再び視線を地面に落とし、ソルは無言のままで眼を細める。
「…私も、あんた達だったら歓迎するわ」。霊夢も、口許を緩めてソルに向き直った。
紫も、優しい眼でソルを見詰めて、その言葉を待っている。

三人の視線に、流石に居心地の悪さを感じたのだろう。
低く呻く様に息を吐いて、俯いたままのソルは掌で額を摑んだ。
まるで、霊夢達の視線から逃れようとするかの様だった。苦しそうだった。
搾り出すように息を吐き出したソルは、僅かに奥歯を噛み締めた。
それから、ゆっくりと貌を上げて、霊夢達へと順番に視線を向けて、また項垂れた。
ソルの金色の瞳が、頼りなげに揺れていた。

「…俺は…害悪にしか為らんぞ…」

害悪かどうかは、決めるのは私達だぜ。魔理沙はそう言って、また笑って見せる。
ソルが他人を拒絶しようとするのは、無意識の事なのだろう。壁を造り、他者を遠ざける。
それと同じ様に、やはり魔理沙は恐れも怯みも無く、容易くその壁を越えていく。
…貴方達には、本当に感謝しているわ、と。魔理沙の言葉に続いたのは、紫だった。
強張った微笑みは、何だか縋るようでも在る。杯をぎゅっと握った掌が微かに震えている。

「きっと、宴会に参加している者達もそうよ。
…誰も、貴方を責める者なんて居ないわ。だから…」

紫の声音は、少し震えていた。何だか、今にも泣き出しそうな声音だった。
冷笑と薄ら笑いを浮かべる事には慣れているが、感情を吐露する事には抵抗が在るのか。
ぐっと言葉を飲み込んだ紫は、其処で声を詰まらせた。

「私も、前に言った通りよ。…結局は、あんた次第なんだけどね」

少し沈み掛けた空気を変えようとしたのだろう。
霊夢は片目を瞑りつつ言って、杯を傾けた。貌の赤さが少し増していた。
宴会の陽気な喧騒と、独特の熱気に浮かされただけでは無いように思えた。
以前、ソルは霊夢にも、此処に残らないかと言われた事が在った。その言葉に、苦悩した。
懊悩した。己にそんな価値が在るのか。芽生えた感情を持て余していた。分からなかった。
こうして宴に混ざらず、隅で眺めているソルにも。その正体が、今なら分かる気がした。

「……正直に言って良いか…」

霊夢も魔理沙も紫も、少し驚いた様に眼を丸くして、思わず凝視してしまった。

多分、初めてだろう。
眉尻を下げたソルが、ほんの少しだけ困ったみたいな笑みを浮かべて見せた。
本当に少しの表情の変化だったが、凪いだ金色の眼は切なげで、少しだけ揺れていた。
普段は無表情で仏頂面だから、余計に反則的で魅力的だった。そんな貌をするのは卑怯だ。
霊夢は慌てて視線を逸らし、紫が杯を取り落とし掛けて、魔理沙はポカンと口を開いていた。

「……俺は……此処に残りたい…」
霊夢や魔理沙の言葉が、ソルに届いたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

ずっと、ソル自身も考えていたんだろう。
低い声で紡がれたその言葉は、酷く頼りなかった。
何だか、全然ソルらしく無い感じだ。
素直な言葉で答えられ、霊夢や魔理沙、紫の三人は困惑しそうになった。
ただ、困惑しそうになっただけで、挙動不審に為るまでは行かなかった。

「みゃ…な、何だよ! それならそうと、早く言えっての!」
顔の赤さを誤魔化すみたいに、杯に残った酒を一息に飲み干した魔理沙は、また笑った。
ほっとしている様でも在るし、それに凄く嬉しそうだった。
ソルに向き直った魔理沙は、「まぁ飲めよ!」と、酒瓶の口をソルに向ける。

「宴会は楽しんでナンボだ! …これからも宜しくな!」

笑顔の魔理沙に、ソルは「……あぁ…」と答えて、酌を受けた。
何時もの無表情に戻りつつあるソルの眼は、でもほんの少しだけ、優しげに細められていた。

霊夢は掌で額の辺りを擦って、僅かに滲んで来た汗を拭う。顔、あっつ…。
楽しそうな魔理沙が、何だか羨ましい。見れば、紫の方も霊夢と似た様な感じだった。
いや、紫の方が若干重症だ。茹でたみたいな顔の赤さで、掌で必死に汗を拭っている。
不意に、霊夢はソルと眼が合った。鼓動が高鳴るのを感じる。何か言わないと。
そう思うが、咄嗟には言葉が出てこなかった。ソルは、唇の端を少し持ち上げて見せた。
穏やかな表情だった。何だろう。あの金色の眼に吸い込まれそうだ。喧騒が酷く遠い。
あれ。やばいな。何か変じゃない? って言うか、熱い。耳とか頬が。
血が昇り捲くってるのが分かる。多分、自分の貌も、とんでもなく赤いだろう。

ソルの視線を感じる。何だか、どんどん恥ずかしくなって来た。そうだ。お酒だ。
魔理沙みたいに、顔の赤みを誤魔化そう。もっと飲まないと。
「私にも注いでよ」と、霊夢はずいっと魔理沙の方に杯を突き出した。
「おぅ!」と機嫌良く答えた魔理沙は、杯に並々と酒を注いでくれた。
それを、ゴクゴクと水みたいに一気に飲み干して、ふはぁ~、と息を吐き出した。
続けて注いで貰おうと杯を魔理沙に差し出したら、今度はソルが酒瓶を傾けて注いでくれた。

「…体を壊すなよ…」。その低い声まで何処か穏やかで、霊夢は硬直しそうになった。
魔理沙も杯をソルに差し出した。「私も注いでくれよ」。無言のまま、おずおずと続いたのは紫だった。
ソルは面倒そうな貌一つせず、魔理沙と紫の杯に酒を注いでから、
飲み干した自分の杯にも酒を注いだ。

境内から聞こえて来る陽気な声は、先程よりもまた一段と騒がしくなっていた。
宴はまだまだ終わりそうに無い。取り敢えず、乾杯するかと魔理沙が笑って言う。
四人はその言葉に軽く頷いて、杯を軽く合わせた。



[18231] エピローグ 1 博麗神社にて
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 23:00

その日も青年は眠そうな顔で、少し薄汚れたレジカウンターの中で、パイプ椅子に座っていた。
だるいな。いや、暇過ぎるだけか。とにかく、欠伸が出てきて敵わない。暇だ。暇。暇。
やる事は一応終わったし、慌てる様な仕事も無い。後は時間が来るまで店番をするだけだ。
客が来ないものだから、暇でしょうがない。本当にやる事が無い。眠ってしまいそうだ。
だが、退屈だからと言って、仕事中なんだから眠る訳にもいかない。起きてないと不味い。
狭いレジカウンターは個室の様になっていて、中からは客の顔が見えないよう簾がしてある。
そのレジのすぐ後ろには、防犯カメラに繋いだ合計四つのモニターが、店内の中を映していた。

モニターを確認してから、青年はゆっくりと伸びをした。
店のフロアは無人だ。誰も居ない。今は平日の深夜。客の入りも元々多い日でもない。
とにかく客待ちだから仕方無いが、この時間のシフトに入ると暇でしょうがなかった。
かと言って、忙しくなればなったで、きっと面倒でダルイだろう。それは勘弁だ。
暇だなんだと言いながらも、結局は今の様に楽が出来る状況が丁度良いのかもしれない。
退屈な時間的拘束ぐらいは我慢すべきだろう。

青年は欠伸を飲み込んでから携帯を取り出し、意味も無く開いてみた。
着信、メールが共に無いのを確認。次に、お気に入りのサイトへ飛んで時間を潰す。
やる気も何も無い。店長は遅過ぎる夕飯休憩に出ているし、客なんて一人も居ないからだ。

此処は、個室を貸し出してDVDの試写をして貰う店で、基本的には男性向けのものが多い。
店内には成年向けの本やビデオが並び、壁に貼り並べられたポスターもヌードグラビアばかりだ。
アダルトグッズなども陳列されているが、その殆どが男性向けの商品である。
いや、殆どと言うか、男性向けの商品しかない。かなりのピンク空間だ。
申し訳程度に普通の洋画なども在るが、この店に於ける需要などは無いに等しいだろう。
レンタル等も行っているが、大半が成年向けだから、子供の客など来る筈も無い。

夕方~夜の時間帯になれば客の入りも増えて来る。だが、山を越えたこの時間は本当に暇である。
今では個室を借りていた客も全員帰ってしまって、店内には青年一人だけだ。
青年はもう一度欠伸を飲み込んでから、何気無く監視カメラのモニターに視線を移す。
当然だが、誰も居ない。モニターに映るのは、半裸のグラビアモデルのポスターだけだ。
その筈だったが、違った。「……えっ」 青年は思わず、モニターを凝視してしまった。

目の錯覚かと思った。この店自体は其処まで大きい訳では無い。だから、
相手の顔が見えないように設計された個室レジカウンターの中に居ても、客が来たかどうか位はすぐに分かる。
店の自動ドアが開く音もしなかったし、足音もまるで聞こえなかった。その筈だ。
携帯電話をポケットに仕舞い込んで、青年は不審そうにモニターを見詰める。


何時の間に店内に入って来たのか。其処に映っていたのは、一人の女性だった。
豪奢でありながら艶やかな金色の髪に、少し派手目な深紫のドレスが印象的だ。
リボンをあしらった、珍しいタイプの帽子も被っている。手には不思議な形状の日傘。
青年は息を呑んだ。監視カメラのモニター越しでも分かる。とんでもない美女だ。
見た事が無いくらいに整った顔立ちだし、この世の物とは思えない存在感が在る。
纏う雰囲気も何処か神秘的で、周りのグラビアポスターのモデル達が霞んで見えた。
彼女の持つ美貌に気付いてしまうと、もう眼を離せなかった。じっと見てしまう。
魔性と言うのか。とにかく、見る者の眼と心を奪うだけの魅力が、彼女には在った。
美しすぎて、現実感に欠けている。と言うか、場違いにも程が在る。
そうも思うが。やはり彼女は、確かに店の中に居る。嘘でも幻でも何でもない。

モニターに映る金髪の彼女は、かなりソワソワしながら店内を見て回っている。
纏う怪しげな雰囲気とは裏腹に、赤い貌をしながら、辺に視線を飛ばしていた。
怖る怖ると言った感じで、陳列されたDVDパッケージを恐る恐る手に取ったりしている。
その度に、衝撃を受けたような貌になったり、唾を飲み込んだりしているのが分かった。

かなり刺激が強かったのか、手に取ったDVDパッケージを取り落としたりもしていた。
何だか、ちょっとくらくらしている様にも見える。大丈夫だろうか。
アダルトグッズのコーナーに差しか掛かった時には、彼女は肩をビクッと震わせていた。
女性にとっては未知の領域なのだろう。カルチャーショックを受けたような貌になっていた。
しかし、顔を赤くしつつも、唾を飲み込んだ彼女のその眼差しは真剣だった。
またキョロキョロと辺りを見回して、震える手でアダルトグッズの一つを手に取った。
そうして、商品を矯めつ眇めつしている。勿論だが、男性向けのアダルトグッズである。

店の中に他の客が居ないのを確認したいのか。
キョロキョロしたりもして、若干挙動不審だった。妙に落ち着きが無い。
普通なら万引きを警戒する処だが、青年は正直、彼女に興味を惹かれた。
あんな真剣な貌で、何故にそんなじっくりと見ているんだろう。
紫色のドレスを着た彼女は、やはり間違いなく女性だ。女性にしか見えない。
女装をした男性では無い筈だ。というか、あんな綺麗な男が居たら仰天する。

ああ、もしかしたら。アダルトグッズのメーカーの人だろうか。
実際に店舗に脚を運び、売れ筋の商品をチェックしているのかもしれない。
だが、それにしては場慣れしていないと言うか、やはり酷く落ち着きが無い。
監視カメラのモニターに映る彼女の貌は、更に赤さを増している。
店の自動ドアが開くのが聞こえた。

モニターを見ていた青年には、すぐに分かった。別の客が入って来たのだ。
中年の男性客だ。男性の少しニヤついた顔は脂ぎっており、かなり好色そうな客だった。
他の客が入って来て、その場から逃げようとしたのかもしれない。
彼女は大慌てでアダルトグッズを棚に戻そうとした様だが、それが不味かった。
慌てたからだろう。商品を戻そうとした彼女の手に、他の商品がぶつかった。
積まれていたアダルトグッズを派手に地面にぶちまけ、ガタガタガタっとそれなりに大きな音がした。
店に入って来た男性が『何だ何だ』と言った感じで、音がした方に立ち寄った。
監視カメラのモニターを見ていた青年は、助けに行こうかと思った。
だが、助けに行けば余計に恥をかかせてしまう様にも思えて、何も手を出さないでいた。
可哀相だが、これはどうしようも無い。

中年の男性客が其処で見たものは、現実感を奪う様な光景だっただろう。
床に散らばったアダルトグッズの数々を、必死に棚に戻す絶世の美女が其処に居るのだ。
彼女の、もう泣く一歩手前みたいな貌は、病気かと思うくらいに真っ赤だった。
と言うか、目尻に薄っすらと涙が浮かんでいるのが分かる。
反応に困ったのか。男性客の方も、美女とアダルトグッズを見比べ、立ち尽くしていた。
遠慮の無い奇異の眼差しを受けている彼女の肩は、ぷるぷると震えていた。
それでも、一生懸命に棚へと商品を直してくれていた。
彼女自身は非常識な人と言う訳では無さそうだ。

しかし、中年の男性客は彼女を助けようともしない。
その癖に、何時まで彼女を見詰めているつもりなのだろうか。
やたらねばっこい視線を向けているのは、モニター越しでもすぐに分かる。
嫌らしい笑みを浮かべる唇からは、黄ばんだ歯が覗いていた。かなり気持ち悪い。
モニターを見詰めていた青年が顔を顰めた時だった。男性客が動いた。
しゃがみ込む彼女の背後に回る様に、ぐるりと迂回して、ゆっくりと近づいていく。
それから、彼女のすぐ後ろに立ち、「手伝いましょうか?」と声を掛けた。

彼女がギクリと肩を震わせるのが分かった。
男性客の視線は、しゃがみ込んだ彼女のドレスの胸元しか見ていない。
背後に回ったのも、その胸元を覗き込む為だったのだろう。
「い、いえ…、大丈夫です」と、彼女は男性客の視線から逃げるように呟いた。
少しの無言の後、「ぶへへ、そうですか」と、男性客は満足した様に笑って、その場を去る。
あの様子からして、彼女の胸元を十分に堪能したという事だろう。羨ましいと思った。
アダルトグッズを棚に直し終えた彼女は、ほっとした様に胸を撫で下ろしていた。
彼女のその姿をモニターで確認して、青年はレジの斜向かいへと向き直る。


この店の場合でも、DVD試写室を利用する場合は、当たり前だが申し込みが必要だ。
ただ、申し込みと言っても特に何かを記載する必要は無い。カードを提出するだけだ。
レジカウンターのすぐ傍にカードが置かれてあり、基本的には誰でも利用出来る。
それを提出し、試写室に持ち込みたいDVDを数枚選ぶという方式だ。
ちなみに、提出カードには『1時間コース』と『3時間コース』と表示されてある。

先ほどの男性客が、『1時間コース』のカードをレジカウンターに提出しに来たのだ。
モニターは分割画面になっており、レジ前の画面も当然映し出されている。
そこでちらっと見たが、男性客はニヤついた顔をしていた。
何か良い事でも在って嬉しそうな、それでいてかなり嫌らしい笑顔を浮かべていた。
レジからでは顔は見えないが、肩というか身体が揺れていて、笑っている事ぐらいは分かった。
接客するのも気が乗らないが、これも仕事である為仕方無い。
試写用のDVDを選んだ男性客に、数種のアダルトグッズを詰めた籠と、個室の鍵を渡す。

利用料金は帰り際に払って貰う事になっている。延長料金や、
使用したアダルトグッズの分も含めて、最後に纏めて支払って貰う形だ。
男性客を案内して、ほっとしていると、予想外の出来事が起こった。

流石に、「あ、あの…」と青年も対応に困った。
レジカウンターに『3時間コース』のカードが、そっと提出されて来たのだ。
簾がしてあって顔は見えないが、格好くらいは分かる。あの紫色のドレスを着た彼女だ。
客が二人しか居なかったのだから間違いようが無い。俺が接客すんの、これ…?
青年はカードを受け取り、狼狽する様に「えぇと…」と言葉を詰らせた。
女性の客を案内する事になろうとは、思ってもみなかったからだ。
とは言え、客としてカードを提出された以上は、店員として対応せねばならない。
一つ咳払いして、青年は個室の鍵と、グッズ籠を渡そうとして気付いた。

グッズは当然と言うか、全て男性向けのものである。
女性が来店する事など想定していないので、女性向けのものなどは用意していない。
渡すかどうか迷ったが、青年はグッズを詰めた籠も、鍵と一緒に渡した。
支払い時に籠も返して貰い、使用していれば別料金を払うシステムだから、
使わなければ料金は発生しない。

その説明を聞いて、「わ、わかりましたわ…」と言った、彼女の声は若干震えていた。
艶やかさの中にも上品さが在り、羞恥に震えるその声音は、ずっと聞いていたくなる程だ。
どうも眼の前に居る彼女には、この店の雰囲気が似ても似つかない。青年はふと思う。

3時間の間、がっつりと個室に篭るのならば、
もしかしたら始発の電車でも待つつもりなのかもしれない。
終電の時間はとっくに過ぎているから、その可能性も無いとは言えないだろう。
歩いて十数分の所に大きめの駅も在るから、電車を逃した人が、この店に訪れることも少なくない。

仕方無しに来店したに違いない。そう思う事にした。
彼女自身の上品な雰囲気も、この店には余りに似合わない。
個室利用に関しての説明を聞いている時も、彼女はやけに真剣な声音で相槌を打ってくれた。

全ての説明が終わって、「ごゆっくりどうぞ」と付けたし、青年はカウンターに背を向ける。
嫌に汗を掻いている事に気付き、自分を落ち着かせる様に軽く息を吐き出した。
モニターで見たあの美女と接客業務とは言え話をしている事に、胸が高鳴っている。
やっと、ほっと出来る時間が帰って来たと思ったが、違った。
「あ、あの…」と、か細い声が聞こえた。何て魅力的な声音だろう。
振り返ると、簾で顔の見えないカウンターレジの向こうに、まだ彼女が居た。
青年は胸の高鳴りを気取られない様に、また咳払いをした。

「何でしょう?」 声を掛ける。
簾の向こうで、彼女がきょろきょろと周囲を見回すのが分かった。

「その…、じょ、女性向けの…、えぇと、ぁの…」
ぽしょぽしょと消え入りそうな声で、彼女は必死に言葉を紡いでいる。
貌は見えないが、その首元くらいは見えた。気の毒な位に赤くなっている。
羞恥で今にも消えてしまいそうな声音だった。
ひょっとして、彼女は何かの罰ゲームの最中なのだろうか。

青年は「す、すいません…」と謝るしか無かった。
「女性向けのDVDやグッズは、ちょっと置いてないんですよ…」

女性×女性ならばまだしも、
男性×男性というのは、この店舗では絶望的なまでに需要が無い。
そ、そうですわよね…、と裏返りそうな声で言った彼女は、足早に個室に向って行った。
その背中を見送りながら、彼女が選んだDVDが全てノーマルなものだった事に気付く。

つまりは男性×女性のものである。
先程の彼女は、彼氏の為に色々と勉強でもしたいのだろうか。
確かに女性ならば、レンタルビデオ屋でアダルトなものを借りるには、少々気まずい筈だ。
モニターでしか見ていないが、彼女はとにかく美人だったし、人目も集めることだろう。
そう考えれば、こういう専門店の様な場所の方が、利用しやすいのか。
青年は何だか切なくなった。あんな綺麗な彼女が居たらなぁ…。
そんな事を思いながら、パイプ椅子に腰掛け、時間を潰す為に青年は再び携帯を開いた。


一時間が経って、男性客が個室から出てくる。
「さっきの姉ちゃん、新しい店のスタッフかい?」
料金を受け取る際に、好色そうな笑みを浮かべた男性客に、そう聞かれた。
「違いますよ。お客さんです」素っ気無く答えて、男性客が出て行くのを確認してからだ。

ふっと思い出して、悪寒と同時に鳥肌が立つのを感じた。
ごく最近になって、この業界で囁かれるようになった、新しい噂だ。
何でも、深夜帯の時間に訪れたある女性客が、個室の中から煙の様に消えてしまうらしい。

ちゃんと料金は個室に残されているにも関わらず、
誰もその女性客が個室から出てくるのを見ていないと言うのだ。
神隠しの女。確か、店長はそんな風に言っていた。
一応、夜が降り切った後に来る女性客には、気をつけて欲しいと。

都市伝説にもなっていない、寝惚けた店員の与太話だろうと思っていた。
信じてなかったし、バカバカしいと思っていた。そんな訳あるかと思っていた。
だが、茫漠とした不安が胸中に湧き上がってくる。何故か、指先が震えて来た。
地域が全く違う区域でも、この噂に出てくる女の格好は、不気味なことに全て一緒だった事を思い出す。

“その女性客はとんでも無い美女で、紫色のドレスを着て、夜でも日傘を持っている”

其処まで思い出してから、青年は唾を飲み込んで、監視カメラのモニターに視線を移す。
おい。マジかよ。さっきの女性の服装は、どうだっただろうか。寒気がして来る。
頭の隅の方で、理性が警鐘を鳴らしている。確かめようと思った。噂は、ただの噂だ。
そう自分に言い聞かせる。止めておくべきだった。
青年は監視カメラの映像記録をチェックしてしまった。

愕然とした。映っていなければならないものが映っていない。
彼女が。彼女の姿が何処にも無い。影も形も、其処には映し出されていない。
途中から店内に入ってきた男性客だけしか、カメラの映像の中に存在していなかった。
青年はぞっとした。見てはならないものを見てしまった。そんな気がした。
違う。気がするだけじゃない。呼吸が乱れる。落ち着け。青年はモニターを見詰める。
グッズが床に散らばるのも、まるで一人でに棚から崩れた様になっている。
中年の男性客は、誰にも居ない空間を凝視し、『大丈夫ですか』と声を掛けていた。
そして、また誰も居ない空間に『ぶへへ、そうですか』と笑い掛けていた。

青年の背筋に寒いものが走った。間違い無い。ヤバイものを見ている。
何だ。おかしいぞ。おかしい。こんな筈が無い。こんな事が、あって良い筈が無い。
だって、おかしいじゃないか。ついさっきまで、恥ずかしそうにしていた彼女は。
何処に消えた。何処に。彼女は。まだ個室にいるのか。本当に。本当に居るのか。
青年は立ち上がる。パイプ椅子を蹴倒し、カウンターレジの扉を解錠しようとした。
個室に行って、確かめよう。そう思ったが、駄目だ。脚が竦んだ。喉が渇く。
落ち着こう。落ち着け。冷静になって、もう一度モニターを確認してみよう。
息を吐き出して、監視カメラのモニターへと再び視線を向けて、今度こそ腰を抜かした。
眼だ。モニターの中に、無数の眼が映り込み、こちらを見ている。逃げられないと思った。
『気付かれてしまっては、仕方ありませんわね』 耳元で聞こえた声には、酷く艶が在る。
彼女の声だ。青年は、金縛りに会ったように、指一本動かせなかった。すぐ後ろに、気配。
レジカウンターの扉の解錠していないのに。どうやって入って来たのか。いや、違う。
そうじゃない。どうやってとか、どうしてとか。そんな事はどうでも良い。
今重要なのは、青年の背後に居る者が、恐らく人間じゃないという事だ。

青年は混乱と恐怖の中で、死を予感した。
視界がゆっくりと真っ黒に染まり始める。店の中の空間が、明らかに違うものになる。
自分の立っている場所が、現実から剥離してしまう。飲み込まれそうになる。
落下していく。暗がりには数え切れない眼が。眼が。眼が。こっちを見ていた。
その視線に曝され、意識が薄れるのを感じた。精神が解き解されていく感覚だった。
青年は悲鳴を上げることすら出来なかった。何も抵抗出来ないまま、意識を摘まれて行く。
緩い衝撃が来て、身体の右半分に硬い感触が在った。
立っている事が出来ず、倒れてしまった様だ。
『お代は、此処に置いて行きますね』、という彼女の声を聞いた気がした。
だが、青年は直ぐに何も分からなくなって、意識を完全に手放してしまった。

それから、どれだけ時間が経ったのかは定かでは無い。
休憩から帰って来た店長に起こされて、倒れていた青年は眼を醒ました。
当然だが、彼女の姿はもう何処にも無かった。
しかし、代金はちゃんとレジカウンターに置かれている。
「俺…あの“神隠しの女”と、は、…話をしました。あの噂、マジですよ…」
心配そうな貌の店長に、青年は震える声でそう言った。









終戦管理局との戦いが終わり、平穏と退屈な日常が幻想郷に戻って来ている筈だった。
しかし。博麗神社の座敷にて、霊夢は眉間に皺を寄せて腕を組み、唇を尖らせていた。
座布団の上に正座したまま、少し不機嫌そうにお茶を啜っている。

半眼になった霊夢の視線は、ちゃぶ台の上に乗せられたある機械に向けられていた。
それは、外の世界から紫が持ち込み、河童に改良して貰ったノートパソコンだった。
バッテリー充電用のコードは繋がれておらず、代わりに其処には
使用者の妖力や魔力、霊力を、そのまま電力へと変換するコンバーターが接続されてある。
優れた治金術によって開発されたこの装置は、にとり特製で、その性能も御墨付きだ。
何を始めるのかは分からないが、外付けのHDDも接続されており、準備万端の様だった。

座敷の空気が微妙に硬い。
霊夢自身は、これからの時間をゆっくりと過ごそうとしていた所である。
夕食や風呂の準備も済ませたのだから、寝転がって一眠りでもしようかとも思った。
せっかく取り戻した穏やかな時間を、霊夢なりに満喫しようとしていた矢先。
博霊神社に客人が訪れたのだ。霊夢は面倒そうな貌のままで、座敷の中を睥睨した。


緊張した面持ちで、ちゃぶ台の上のパソコンに電源を入れたのは紫だ。
その隣で、興味深そうにパソコンの画面を覗き込んでいるのは、魔理沙とアリスだった。
霊夢を含め、座敷に居るのは全員で四人。ソルは人里の方に出ていて、此処には居ない。


「…ねぇ、一つ聞いていいかしら。何で此処に集まった訳?」

霊夢の渋そうな声に、苦笑を浮かべたのはアリスだ。

「…一応言っておくと、私は魔理沙に付いて来た訳じゃないわ。
法力で動いていたあの鉄人形達について、少しソルに話を聞きたいと思ってね。
此処に足を運んだの。魔理沙とは偶然、神社の表でばったり会ったのよ」

言ってから、アリスは紫と魔理沙を見比べる。
それから、きょろきょろと視線を座敷に彷徨わせた。霊夢は息を吐き出して、お茶を啜る。
せっかくだけど、ソルなら里に行ってるわよ。霊夢は言いながら、少しだけ笑った。
終戦管理局との戦いが終わってから、ソルは里の復興や農作業の手伝いに出る様になった。
そうして、給金の代わりに酒や味噌、野菜や米などの農作物を貰って来てくれている。
慧音達と共に里の為に戦ったソルは、里の者達からもある程度は受け入れられているのだろう。

この場にソルが居ない事を聞いたアリスは、「また日を改めるわ」と肩を竦めた。
残念そうだが、アリスは優しげな苦笑を浮かべたままだ。別に急ぎの用でも無いからだろう。
では、一方の魔理沙と紫という少々珍しい二人の組み合わせは、何の用で此処に来たのか。

もう一口お茶を啜ってから言って、霊夢はノートパソコンを一瞥する。
ディスプレイにはロゴが浮かび、壁紙として何処かの草原の景色が映し出されている。
外の世界の機器は確かに興味深いが、紫が妙なものを持ち出すのは珍しい事でも無い。
取り敢えず、『またか…』みたいな貌のままで、霊夢は紫に視線を向けた。

「で、…あんた達は?」

「そ、その…、家だと橙も居るし、やっぱり不味いかなと思って…」
視線を彷徨わせながら、紫は何だか苦し紛れっぽい笑みを浮かべて見せた。
何だか微妙に答えになっていないし、家じゃ出来ない事を、此処でやろうと言うのか。
都合よく神社を利用されている様に思うのは、多分気のせいじゃないだろう。
と言うか、何をするつもりなのか。霊夢は、更に眉間に皺が寄るのが分かった。

「まぁ、そう怖い貌すんなよ。紫も、最初は私の家に来る予定だったんだけどな」

覗き込んでいたパソコンのディスプレイから視線を上げた魔理沙は、楽しそうに笑った。

「神社に行こうって言ったのは、私なんだよ。霊夢もどうせ暇だろうし、別に良いだろ?
最近じゃ、昼間の間はソルも居ないしな…。此処なら、女だけで集まれると思ったのさ」

宴会が終わってからも、魔理沙はよく神社に顔を出している。
だから、このごろではソルが人里へと出かけている事も知っていたのだろう。
だが『女だけで集まれる』とは、どういう意味なのか。
霊夢だけでなく、アリスも胡散臭そうな貌になって、魔理沙と紫を交互に見た。
その視線が気に入らないのか。魔理沙は、溜息を吐いて見せる。

「おいおい。せっかく魔理沙さんが気を利かせてやったのに、その眼差しは無いぜ?」

「いや…って言うか、結局それで何する気なのよ」

霊夢は半眼のままで、ノートパソコンのディスプレイへと再び視線を向けた。
其処には幾つかのウィンドウが重なって開かれ、無数のフォルダが並べられている。
だが、特に大きな動きを見せる訳でも無く、ただちゃぶ台の上に鎮座しているだけだ。
外付けHDDのカリカリカリ…、という微かな音が聞こえる。

「霊夢、アリス…。優秀な貴女達なら、
霊力、魔力、妖力と言った概念が在るのは理解していると思うけれど…」

真剣な声音で言いながらマウスを操作して、紫は画面の上に更にもう一つウィンドウを開いた。
新たに開かれたウィンドウの縁には、『再生』、『音量』、『一時停止』という文字が在る。
パソコン内にインストールされていた動画プレーヤーを立ち上げて、起動したのだ。
いつでも動画を再生出来る状態にした紫は、神妙な面持ちで、霊夢とアリスに向き直る。

「もう一つの力…“女子力”という言葉を知っているかしら…」

「……………ぇ?」
霊夢は眉間の皺を限界まで深めて、眉を吊り上げた。

「………女子力?」
困惑した様な貌のアリスも、思わず聞き返していた。

「そう…。“女子力”よ」 
様子がおかしい。覚悟を決める様な貌の紫の眼は、冗談を言っている様には見えない。
魔理沙も糞真面目な貌で、紫の言葉を聞いている。霊夢は、何だか頭が痛くなってきた。
そんな霊夢には気付かないまま、紫はノートパソコンをちらりと一瞥する。

「私にも、まだまだ理解出来ない感情が多過ぎるわ。
 自身の精神を読み解く為には、妖力でも霊力でも無く…女子力が必要だと気付いたのよ」

幻想郷を包む結界の修復と管理。それに加え、
更に、ソル達の次元世界の捜索を行う中で、紫は外の世界に接する機会が多くなった。
新たな概念や思想が生まれ続ける現界は、曖昧なものを常に排除していく。
そんな外の世界に接する内に、どうやら紫の思考の中で妙な結論に達したらしい。
恐らく、紫の言う“女子力”という力も、外の世界が定義したものなのだろう。

「私は、私自身の感情を理解する為…、時間を見つけて少しずつ研究してみたの。
 誰かを想うこと。誰かに想われたいと感じる事。こうした心の動きを知る為に…。
そして浮かび上がって来た到達地こそが、“萌え”と“女子力”だったのよ」

ふざけている訳では無い。紫の貌は真剣だった。アリスと霊夢は顔を見合わせる。
力の篭ったその言葉に、霊夢は辟易したように息を吐き出して、魔理沙を見遣った。
アプローチの仕方は面白いじゃん? と、魔理沙も、不敵な笑みを浮かべて見せた。

「一昨日の夜だったな。私の女子力が高そうって事で、紫から相談を持ちかけられたんだ。
 賢者とか呼ばれてる紫ですら、感情を理解するのは簡単じゃないみたいだし、それなら
研究してみようって話になったんだよ」

「…其処からどうして、あんた達が此処に集まる流れになるのよ」

外の世界の概念なのだろう事は、一応は分かる。
どうも、紫は女子力とやらの本質を、精神と感情の掌握とでも考えている様だ。
魔力や妖力などと関連付けて話をしたりする辺り、既に迷走している感は否めない。
霊夢自身も『女子力』というものの正体は分からない。当然だが、初めて聞く言葉だ。
紫自身が其処に答えを求めようとする程には、信頼に足るパラメータなのか。
しかし、どうも眉唾ものに聞こえてしまう。
半眼になったまま霊夢に、魔理沙は、よく考えてみろって…、と笑う。

「“女子力”って奴を高めれば、新しい術式も編めるかもしれないだろ。
 それだけじゃない。これは、一つ上の女になるチャンスの筈だぜ?
 …私と紫だけで女子力を上げるのも何だと思ったから、此処に来たんだよ。
 呼びに行こうとも思ったんだが、良いタイミングでアリスにも会えたしな」

果たして、女子力を上げる事で、新しい魔術を組む事が可能になどなるのだろうか。
どう考えても怪しいが、魔理沙自身は疑っては居ない様だ。
いや、無理っぽいですよと言い掛けたが、
アリスは取り敢えず『あ、有り難う』と言っておいた。
要するに、魔理沙と紫は、一緒に女子力を上げようと言いたいのだろう。

アリスと霊夢は、もう一度顔を見合わせた。
二人は、魔理沙と紫の考える女子力に、微妙な齟齬が在るような気がしてならなかった。
だが、突っ込むと面倒な事になりそうなので、黙っておく。

「もう準備は整ってるわ。そろそろ…起動するわよ」

紫は唇を舐めて湿らせ、意味が分からない位に鋭い視線で、霊夢達を順番に見遣った。
「おう! 始めてくれよ」ちょっと待ってと言おうとした霊夢の声を、魔理沙が遮る。
まぁ、良いか…。騒がしいのはいつもの事だし。霊夢はゆっくりと息を吐き出した。
アリスが取り敢えずと言った感じで、紫の背後。魔理沙の隣に移動する。
霊夢も、渋々とパソコンの画面が見える位置へと移動した。

お茶を啜りつつ、面倒そうな半眼をちらりと縁側に向けて、息を吐く。
外は良い天気だ。ぽかぽかとした陽気も、眠気を誘う。
その癖、座敷の中の空気が若干ピリついている。
何かを決心する様な貌の紫が、酷く緊張しているせいだろう。

霊夢、アリス、魔理沙の視線が、パソコンのディスプレイに集まる。
唾を飲み込んだ紫が、震える指でマウスを操作する。ウィンドウの再生ボタンを押した。
その瞬間だった。パソコンの画面一杯に、裸で絡み合う男女の姿が映り出したのだ。
音量調節のミスか。女性の嬌声が大音量で流れ、平穏な空気が粉々に消し飛んだ。
「ちょっ…!」、と魔理沙は噴出してから顔を背け、右手で顔を覆った。
余りの事に力加減を誤ったのだろう。霊夢は湯?みをメキメキっと握り潰してしまった。
中の茶が零れて、「熱っ!?」っと手を振っている。
未知の扉を開いてしまった様な貌の紫は、身体を硬直させていた。
ずっこけそうになったアリスは、ちゃぶ台の足に小指をぶつけて、蹲った。

「お、おい、紫…! こ、これ、話が違うだろうがよ!?
外の世界の魔導書を見せてくれるんだろ! これ、ま、魔導書って言うか…!」

「だって、ひ、一人で見るのなんて怖いし…」 紫の声は裏返っていた。
顔を右手で覆ってはいるが、魔理沙は指の隙間からディスプレイをしっかりと見ている。
霊夢も何か抗議の声を上げようとしたが、とにかく映し出される映像に眼を奪われた。
先程の紫の言葉を思い出す。確かに、橙には見せられない映像だ。
これが。これが、睦事と言うか、夜伽と言うか。男女の営みと言うものか。
気付けば、生唾を飲み込んでいた。顔を上げたアリスも、赤い貌で画面を凝視している。
容赦無く繰り広げられる、肉と肉の饗宴。湿った水音。甘い悲鳴。男の呻き。
正解かどうかは別として、霊夢自身も、どんな行為を行うのか位は知識として知っていた。
しかし、それを実際に見てみると言うのは、大変な衝撃だった。
本来なら、思考の中にしか無い筈の光景。それが、鮮明な映像として眼の前に在る。
暫くの間、四人は無言のままパソコンの前で固まっているしか無かった。

『あの真面目くさった女子力の話は何処に行ったのか』とか、
『魔力、妖力、霊力なんて、全く関係無いだろ』という突っ込みも、誰もしなかった。
それ位、パソコンが映し出す映像には、四人とっては問答無用の破壊力が在った。
ちなみに、モザイクは紫の能力で除去されていて、その刺激の強さも相当なものだった。
固唾を飲んで、四人が画面の向こうの行為を見守っていると、動きが在った。
今まで男に蹂躙されていた女性が、おもむろに重ねていた肌を離して、
男性の股間のものに手を伸ばしたのだ。

そして恍惚とした表情で、男性のものを咥え込み、扇情的な音を立て始める。
「うわ…」。「こ…これが…」。「あわわわ…」。「ぇぇえ…」
最初は恥ずかしがっていた魔理沙も、ぎゅっと唇を噛んで真剣な眼差しになり始める。
元々、根は真面目で勉強熱心な魔理沙だから、こういった知識の吸収にも真摯なのだろう。
アリスは少しもじもじしながらでも、やはり画面から眼を逸らそうとしない。

その内、男性の呻き声が大きくなる。
何かを堪える様に、身体がピクピクと震えているのが分かった。
女性の方はより激しく頭を動かし、男性自身に奉仕を続けている。
石膏像の様に動かなくなってしまった紫の眼は、ぐるぐると回っていた。
そっと自分の唇に触れた霊夢は、熱っぽい眼で画面を見ている。
パソコンのスピーカーからもれる卑猥な水音だけが、座敷に響いていた。
画面の中の男性が、快感から悲鳴を上げる。身体を波打たせ、何かを必死に我慢している。
次の瞬間だった。画面が真っ暗になって、映像が途切れた。見れば、
自分を落ち着かせる様に息を吐いた紫がマウスを操作して、動画を一旦止めたらしい。

「い…今、良いところだったじゃない。なん、…何で止めたのよ」

どもりながらも、霊夢は紫の肩を掴んで揺すった。

「そうだぜ。もうちょっとで…えぇと…」
魔理沙も、抗議する様な視線を紫に向けた。アリスは何も言わずに深呼吸している。
少し涙目になった紫は、霊夢達の眼を見ずに「その、やっぱりちょっと怖くて…」と小さな声で呟いた。

「こういうのって、女子力とかいう力に関係あるの…?」
アリスが引き攣った様な声で、紫に聞く。

「え、えぇ…。女子力の基本は、男性を惹きつけて、その心を捕まえる力らしいから…。
 色々と、外の書物で調べてみたんだけれど、一番効率的と言うか、効果的なのは…
こ、こういう夜伽で、『男性を喜ばせるのが上手』である事が大切みたい」

霊夢達にも、そういう経験が無いから、…へ、へぇ、と言うしか無かった。
女子力などという胡散臭いパラメーターよりも、今は完全に好奇心が勝ったのだろう。
咳払いをした紫は、居住まいを正す様に背筋を伸ばし、パソコンに向き直る。
「じゃ、じゃあ…。行くわよ?」 紫のその言葉に、霊夢達は無言で頷いた。
汗を拭いながら紫はマウスを操作し、動画の続きを再生する。

始まった。
画面の向こうでは、女性が男性の股間に顔を埋め、頭を激しく上下させていた。
こうなると、もう皆無言だ。全員、穴が空くほどにディスプレイを見詰めている。
誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。位置的に、魔理沙か。いや、自分自身か。
分からないし、それどころじゃない。霊夢だけじゃなく、四人共、身を乗り出した。
画面の向こうの男性が、呻き声を上げて身体を激しく脈打たせたからだ。
女性の方は、少し貌を顰めているが、男性のものを咥えこんだままである。
少ししてから、女性は何かを嚥下するように、こくこくと喉を動かしていた。

四人の顔の赤さが最高潮に達した。
アリスの足元がふらついた。思わずと言った感じで、紫が画面から眼を背ける。
「こ、これは…、どど、どっど、どうなったんだ?」魔理沙が挙動不審になった。
「ど、どうって…」霊夢は何だか、上手く声が出なかった。
……何をしてるんだ…? 低い声が、霊夢達の背後から聞こえた。

霊夢達四人の肩が、ギックゥと跳ね上がる。
紫は凄い勢いでノートパソコンを閉じて、頬を強張らせながら慌てて振り返った。
何てタイミングだ。人里に行っている筈じゃなかったのか。

其処に、眉をハの字に曲げて、怪訝そうな貌をしたソルが居た。
服が汚れたから着替えでも取りに来たのだろうが…、ねぇ、ちょっとどういう事?
白のジーンズを穿いているが、何故か上半身は裸だった。…裸だった。
空気が再び凍りつくと言うか、霊夢達四人は金縛りに会った様に動けなくなった。

「……聞き覚えの無い女の声が……聞こえた気がしたんだが…」

ソルは座敷の中を見回した。

「き、気のせいじゃない」

言いながら、
霊夢はソルの眼を見ないようにして、ちらりとその逞しい身体を横目で伺った。
今まで意識しないようにして来たが、見てしまうと胸がドキドキして仕方無い。
彫刻の様に均整の取れたソルの肉体には、贅肉など殆どついていない。美しいとさえ言える。
多分、同姓から見ても魅力的であろう引き締まった上半身には、強烈な色気が在った。
きめが細かいと言うか、肌もやけに綺麗で、何だかずるい。
ソル自身の顔立ちも整っているから、凄まじく蠱惑的だ。思わず眼が行きそうになる。
脳裏に、先程までの映像がフラッシュバックしたのは霊夢だけでは無いだろう。
鍛え抜かれたソルの身体は、さっきまで画面に映っていた男性の裸よりも、遥かに凶悪だ。
紫は眼を泳がせながら、「…私たちには、特に何も聞こえなかったけれど…」と、何とか言葉を紡ぐ。
その声音も、今にもひっくり返りそうだった。魔理沙とアリスが、便乗する様に頷いた。

「…里の畑で泥でも被ったの」
霊夢も、出来るだけ普段通りに声を掛けたつもりだが、若干上擦っていた様にも思う。
恥ずかしさで貌が歪みそうだったが、何とか堪える。

「……あぁ…足を滑らせた…」
不味そうに言ったソルは、座敷の隅に畳んでいた自分の服を手に取った。
普段着ている黒のインナーだ。それに袖を通して、ソルは霊夢達へと順番に視線を移した。
そりゃあ違和感もあるだろう。何せ、自分でもそわそわして落ち着かないのが分かるのだ。
紫と魔理沙は視線を泳がせているし。顔が熱いのか、アリスは掌でパタパタと扇いでいる。
どう見ても不自然だ。しかし、空気を読んでくれたのか。或いは、特に興味も無いのか。

無表情のまま何も言わず、ソルは玄関の方に向かおうとしていた。
すぐに里に戻るつもりなのだろう。座敷でゆっくりとしようと言う様子は無い。
助かったと思う反面。心の隅っこの方で、霊夢は何だかムッとしてしまう。
霊夢達の前で、上半身裸のままで平気だったりするあたり、
もしかしたら、ソルは霊夢達を女性として見ていないのかもしれない。
何だろう。こちらだけドキドキさせられるのは、何だか不公平ではないか。
「ちょっと、お兄ちゃん…」 霊夢はソルの名前を呼ぼうとしたら、言い間違えた。
凍りついていた空気が、粉々に砕け散った。紫達の視線が、一斉に霊夢に集まる。
上手く聞き取れなかったのか。ソルは不可解そうな貌をしていた。

沈黙の中。縁側から、暖かくも緩い風が吹いてくる。
自分を落ち着ける様に、霊夢はみずみずしい緑の匂いをゆったりと吸い込む。

「汚れた上着は、もう洗ったの?」 
取り合えず。何事も無かった様に、霊夢はソルに声を掛けた。
しかし、顔色が悪い。霊夢の頬は、赤いと言うか、若干紫色っぽかった。
深く追求すると、不味い事になりそうなのを感じたのかもしれない。
誰も先程の発言に突っ込もうとはしなかった。

「……水場を借りて干してある…悪いな…」 

それに、ソルもどれだけ派手に転んだのか。
もう洗ったのだろうが、よく見ればその頬にも、まだ少し泥が着いている。
ソルにドジっ子属性が在るようには見えないし、すっ転ぶ場面もイメージ出来ない。

ちょっとバツが悪そうな貌で、指で頬を擦い、泥を拭い取ったソルは、
「……行ってくる…」と、それだけ行って、また里へと戻って行った。
霊夢達の事も不審に思っていない様で、それ以上の会話も特に無かった。





「びっくりしたわ…」 
ソルが座敷を後にして、その場にへたり混んだのは紫だった。

「…いきなり過ぎて、何にも言えなかったぜ」 
魔理沙も大きく息を吐き出して、ちゃぶ台の傍に腰を下ろす。

「心臓に悪いタイミングだったわね…」
アリスは苦笑の様なものを浮かべてから、はぁ~ぁ…と疲れたように息を吐いた。

女ばかりで集まって、成人向け動画を昼間から鑑賞しているという戯けた状況だった事も在る。
そんな中にいきなりソルが帰って来たせいで、酷く消耗させられた。
どっと疲れた。霊夢も、腰を下ろして、薄い溜息を吐き出す。
パソコンを紫に片付けて貰って、もう今日はお開きにしようと思った。

だが、魔理沙やアリスは、どうもそうは思っていない様だ。
鑑賞会をまだ続ける気らしい。紫も、再びノートパソコンを開く。
立ち上がった魔理沙は玄関の方まで足を運んで、また戻って来た。
「OKだ。ソルは行ったみたいだぜ」 態々確認しに行ったらしい。
少し鼻息が荒い様に思うのは、多分霊夢の気のせいでは無いだろう。

念の為というか、監視の為だろう。
アリスも数体の人形を、神社の鳥居上部に配置しに行った。
結構本気の布陣だった。これで抜かりは無い。
それを満足そうに確認してから、紫は再びパソコンのマウスを操作し始める。

「聞きたいんだけど…、こういうのを見れば、えぇと『女子力』が上がるの?」

今更かもしれないが、霊夢は胡散臭そうに眉根を寄せて、紫に視線を寄越す。
すると、紫からは「い、一応…私の理論では」と、微妙に歯切れの悪い答えが帰って来た。
大丈夫なんだろうか。そう思った時だ。パソコンの画面を見ていた霊夢は気づいた。
動画の再生が終わり、プレーヤーとは別のウィンドウが開いている。

其処にはいくつものフォルダが並んでおり、題名も様々なものがあった。
えっ…、と霊夢は思う。その中に、「巫女もの」と書かれたフォルダが在ったのだ。

「ちょ、ちょっと…、これは…?」
思わず、霊夢は画面を指さしながら紫に聞いてしまった。
魔理沙とアリスも、パソコンの画面を覗き込む。

「『こすぷれ』って言うのかしら。
巫女姿の、こ…こういうのは、外の男性には結構人気が在るみたい」

紫の言葉に、霊夢は自分の姿を見下ろした。巫女姿の女性は、男性に割と人気らしい。
劣情の対象になっている訳だから、喜んで良いのかどうかは微妙な所だ。
その話を聞いていた魔理沙も、ウィンドウを凝視しながら、ふむ…と頷いた。

「…『巫女モノ』が在るなら、『魔法使いモノ』も在るのか?」

真面目な貌の魔理沙も、おかしな事を言い始めた。
「『人形使いモノ』は無いの…?」と、深刻そうな貌のアリスも続く。
何だか妙な空気になりはじめた。紫はマウスを動かし、フォルダを探す。
「…そういうのは、無かったと思うわね…。『妖怪モノ』とかも無いし…」 

画面上にも、それらしい動画は無い。
魔理沙とアリスは、何処か残念そうな貌になったが、すぐに表情を引き締める。
この“賢者タイム”って、どういう意味なのかしら…。
紫は呟きながら画面をスクロールさせた。カリカリ…とパソコンから音が漏れる。
ウィンドウには、更に多種多様なジャンルのフォルダが保存されており、膨大な量だった。
「ソルも…巫女モノに興味あんのかな…」 ボソッ…と魔理沙が呟いた。
その呟きに、マウスを操作する紫の手が止まった。霊夢はドキリとして、視線が泳ぐ。

「可能性は無いとは言えないわよね…。
でも、彼って、そもそも女性に興味が無い様にも見えるわ。
 何というか…下心とか、執着心が無いと言うか…」

魔理沙の言葉に続いたアリスも、思案するように少し眼を伏せた。
既に女子力などどうでも良い状況になっているが、霊夢も確かにそんな気がする。
終戦管理局との戦いが続いていた頃は、ソルと一緒に神社で暮らしていたから、余計だ。
思い返してみれば、何というか微妙な気分になってくる。
基本的に、霊夢に対するソルの態度は、ある意味で素っ気無い程に紳士的だった。
霊夢を女性として見ていないと言うより、まるで娘か妹に接する態度だった様に思う。

「私もそう思うわ…」霊夢も、アリスの言葉に頷く。
しかしである。ぶっきらぼうなソルだが、フランには優しかった様な気がする。
聞けば、さとりとも結構仲良くなっていたらしいではないか。
もしかしたらと思う。もしかしたら…。「ソルって…よ、幼女趣味なんじゃ…」
気づけば、霊夢は呟いていた。

「…マジか」 
魔理沙が呻いた。

「子供好きって言えば、聞こえは良いけれど…」
アリスも困惑した様に呟く。

「いえ、まだ…相手が女性であるなら…。
 もしも、女性に全く興味が無くて、男性が好きだったら…」

そうであれば、“女子力”が役立つ要素など皆無である。色々と絶望的だ。
必要になって来るのは“男子力”と言う事か。もう意味が分からない。
だが、まだ可能性の話である。何も、まだソルが女性に興味が無いと決まった訳では無い。

それに…、と、霊夢は思う。ソルにも、誰かを深く愛した事だって在る筈だ。
表情や言葉の端々からは、そんな事は全く伺わせないだけだろう。
不器用で無表情な彼と、霊夢達のとの距離は、確実に縮まっている筈だ。
僅かに在る隔絶を、埋められると信じたい。手を差し伸べたいと思う。

そんな霊夢の思想をぶった切ったのは、また別の女性の嬌声だった。
新たなに再生された動画には、巫女装束の女性が、あられもない姿を晒していた。
こ、これが…『巫女モノ』と言う奴か。
霊夢は、まるで戦いを挑むような眼つきで、ディスプレイ睨む。
鑑賞会は、まだ続きそうだ。取り敢えずは、幻想郷は平和を取り戻していた。




[18231] エピローグ2 太陽の畑 前編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/11/03 23:01

 静けさと微かな暗がりの中で、意識が浮かび上がってくる。眼が覚めていく。瞼を上げた。
見慣れない天井が在る。それから、天井から視線を下げていくと、キッチンが見える。
薄暗いリビングの中に、カーテン越しの薄い光が差し込んでいた。
昇り掛けた朝日に、部屋の中も白んで来ている。まだ早朝だから、少し肌寒い。
他に人の気配が無いから当たり前だが、静まり返っている。

一瞬、此処って何処だったかと思ったが、すぐに思い出す。此処は、幽香の家だ。
外見は落ち着いた感じのログハウスで、家の中は狭苦しくも無く、広すぎる事も無かった。
テーブルや椅子、食器棚などの家具も揃っているし、生活するには不自由はしない。
置かれてある家具にも妙な飾り気が無く、質素で、それでいて洗練されたいた。
清潔感の在るこのリビングも、よく手入れがされていた。落ち着けるし、居心地も良い。
身体を横たえていたソファから少しだけ上半身を起こして、シンは視線を周囲に巡らせる。
大分早い時間に眼が覚めてしまった様だ。まだ眠い。大きく欠伸をして、後頭部を掻いた。
割りと何処でも寝られる体質だから、睡眠不足という訳では無い筈だ。
この強い睡魔は、緊張の糸が緩み捲くって、気が抜けているせいだろう。
ただ、シンが腑抜けの様になってしまうのも仕方無い。それだけ消耗したという事だ。
幻想郷全体の空気も、落ち着きと平穏を取り戻して来ているし、その所為もある。

人里、地底旧都の復旧も大分に進み、妖怪の山での機術汚染にも、除去施術が終わっていた。
法術に関して知識の深いソルやイズナ、それに数多の秘術、霊術、妖術に長けた紫の活躍の御蔭だった。
加えて、里の人々を支えている慧音や阿求。旧都の者達を纏め上げる勇儀と萃香、そしてさとり達の存在も大きい。
天狗や河童達の協力も在り、幻想郷は再生し、確実に良い方向に向っている。
永遠亭には未だシン達は世話になっている。白玉楼の西行妖には、より強固な封印が施された。
最終戦に参加した紅魔館のメンバーは、もうピンピンしている。普段通りと言って良い。
何もかもが元通りとは行かないが、今は安らぎが在る。幻想郷の皆で勝ち取った安寧だった。
後は、時間に任せて、傷が癒えるのを待つくらいか。
もう気を張り詰める必要も無い。穏やかな時間の流れは、シンに眠気を誘う。


幽香の家で過ごす様になって、三日経った。
その間は、特に問題も起きる事も無かった。
いや、強いて言えば『起きた後だった』と、言った方が正しいかもしれない。
永遠亭で治療を受ける為、幽香が家を長い間開けている間に、他の妖怪に荒らされたのだろう。
夏になれば向日葵が咲き誇る、太陽の畑と称される向日葵畑の3分の1程が焼き崩されていた。
ただ焼かれているだけでは無く、土まで掘り起こされる酷い有様だった。

終戦管理局という脅威が去り、幻想郷の平穏が戻って来た途端の事だ。
それだけ、幽香が他の妖怪達から恐れられ、畏怖され、恨みを買っていたという事でも在る。
管理局との戦いにも参加しなかった下級妖怪達にとって、幽香が弱った今は、仕返しのチャンスだったのだろう。

焼かれた向日葵畑を目の当たりにした幽香は、ぎゅっと唇を噛んで、服の裾を握り締めていた。
泣く寸前の様な、自分を責める様な、苦しそうな貌だったのを覚えている。
ごめんなさい…。と、ポツリとそう呟いた声は僅かに震えて、掠れていた。
幽香は、聞こえない程の小さな声で、足元に広がる焼けた土と緑に詫びていた。
大事な花達を守れなかった事は、悔しく無い筈も無い。
あれだけの規模と範囲の草花を蘇らせるのは、今の幽香にはまだ酷だろう。
花を咲かせる能力が生きていても、今のままでは限界が在るし、無理はさせられない。
ただ黙って、焼かれてしまった太陽の畑を見詰め、立ち尽くすだけだった。

シンは何も言えなかった。だが、幽香は違った。
幽香は洟を啜ってから、ゴシゴシと袖で目許を拭った。
紅い瞳で、未だ炭と灰が残る太陽の畑を見渡し、自分を落ち着けるように深く息を吐いた。
それから、シンへと顔を向けて見上げ、凄く無理をしているみたいな苦笑を浮かべて見せた。

独りだと…動けなくなったら、この子達を守るのもままならないわね…。
自分を責める様に呟いて、「分かっていたつもりなのにね…」と言葉を続けた。

太陽の畑を元の姿に戻すべく、幽香はすぐに動いた。
現状で行使出来る力を使いながら、土地と根、土と風に活力を還していく。
弱った幽香の能力では、本当に少しずつでしか無かった。
それでも、幽香の眼には強い意思の力が宿っていた。
元の姿に戻る事が出来れば、焼けた大地に向日葵を芽吹かせる事も出来るだろう。

シンも、花達の世話、食事の用意等の家事手伝いも一通りこなした。
手伝える事をしながら、幽香の肉体が活力を取り戻し、回復するのを待っている状態だ。
楽観する訳にも行かないだろうが、幽香自身は落ち込んだり塞ぎ込んだりはしていない。
花と触れ合う幽香の姿は真剣で、肉体が大幅に弱体化してしまったが、何かに強く怯えたり、怖がる事も無い。
幽香自身も、シンの事を信頼してくれているのかもしれない。何事も無ければ良いと思う。
無事に幽香の肉体が元通りになれば良いが、それまでに容態が急変しないとも限らない。

在りがたい事に、幽香の身体の具合が悪くなれば、いつでも永遠亭に来なさいと、永琳も言ってくれていた。
今の幽香の様子を見ている限りでは、体調が急変するような事は無い様にも思えるが、油断は禁物だ。

眠い頭を働かせ、シンは幽香の姿を思い浮かべる。
帽子を被り、スコップと如雨露を手に花の手入れをする幽香の所作は、愛情に溢れていた。
また幽香自身も草木と花に愛されているからだろう。
幽香が花壇の花達に触れ合う時には、真剣さと優しさが見える。
その健気な姿に、一緒に居るシンの方が、まるで励まされている様な気分になる位だ。
ただ、身体が幼体化してしまって、肉体労働が少し辛そうだった。
そういう時は、シンが代わりに土をいじったり、水を汲んで来たりして手伝っている。
慣れない作業の連続で、少々疲れもするが、今の所は平穏だ。
すまないと思うと同時に、元の姿に戻れるまでは、何が在っても守りたいと思う。

“綺麗事を抜かすなよ”
そう囁いて来たあの“声”は、今はもう聞こえない。聞こえてこない。沈黙していた。
シンは掌で額を掴んで、溜息を漏らした。聞こえなくとも、“声”の主は、シンの中に居る。
黙っていろ。喋るな。そう強く念じる度に、“声”の主は、シンそのものに近づく。
溶け合うように、嘲笑うかのように、せせら笑うかのように。抗えない。一つになる。
赤黒い稲妻が、自身の心を雁字搦めに縛り、握り潰そうとしている。抵抗しようとする。
無駄だ。そんな事はとっくに理解している。分かっている。分かりきっている。
結局、それはシン自身だからだ。自分自身を縛り潰しても、其処に残るのは、己のみだ。
シンは、黒いシンと同一だ。表と裏だ。引き剥がすことなど出来ない。
受け入れるしかない。受け入れて、打ち克つ。捻じ伏せてやる。もう負けねぇ。
悪意をぶっ潰すには。誰かを守るには。何かを成すには。やはり力が要る。俺は弱い。
まだまだ弱い。強くなる為に、受け入れろ。獰猛さも、残酷さも、凶悪さも。全部俺だ。
否定する必要も無い。受け入れて、耐えろ。笑い飛ばせ。

もう一度息を吐き出して、シンはソファからゆっくりと起き上がる。
被っていた毛布を畳んでから、一つ伸びをする。コキコキと首が為った。
シンが寝巻き代わりに着ているのは、紺色の作務衣だ。ゆったりしていて着心地が良い。
まだ幽香も起きて来て居ないし、まぁもう少しはこの格好で良いだろう。
普段着ている白のジーンズとコートは、リビングの隅に置いたままだ。

作務衣のままで、ゆったりとした足取りで玄関に向かい、草履を履いてシンは外に出る。
玄関から出ると、小奇麗に並べられた鉢植えと、そこに根付く花草が目に入った。
幽香が帰って来てからの此処数日で、どれもこれも手入れが行き届いていた。
まだ咲いていない花も所々在るが、小さくも瑞々しい活力を漲らせているのが分かる。
緑の匂いが心地よい。シンは玄関先で立ち止まり、欠伸を飲み込む。
そして、大きく伸びをして高い空を見上げてみた。

今日も良く晴れそうだった。
空には雲も疎らで、澄み渡った青と朝焼けの朱が、白雲の影に滲んでいた。
暫くすれば朝日が昇ってくるだろう。遥か遠くに見える、朝靄に霞む山の稜線を見上げる。
こうして恙無く毎日が続いて行くことが、何だかとても尊い事のように思えた。
シンは暫くの間、少し冷たい朝の風を吸い込みながら、呆然と遠くを見詰めていた。
眼帯の中の右目が疼いた。“ひひひ”。声がした気がした。しかし、もう恐れは無かった。
俺は、俺だ。俺は、俺以外には為り得ない。否定しない。堪えて見せる。“無理だよ”。
こめかみに鈍い痛みが走る。囁き声が聞こえる。何処から。決まってる。頭の中だ。
振り払うのも面倒だ。いいぜ。聞いてやるよ。何か久ぶりだな。何か用かよ。


“お前は、俺を従えるつもりかい?”“やめとけよ”。“出来ないよ”。“出来っこ無い”。
“分かってる筈だよ”。“無理だ”。“無理無理”。“だからお前は馬鹿なのさ”。“この馬~鹿”。
“いつか、お前は大事なものを穢して、壊して、飲み込んじまうよ”。“間違い無いよ”
“お前は、俺なんだろう?”。“その俺が言うんだから、間違い無い”。“そうだろう?”
“無駄さ”。“格好付けるなよ”。“楽になれよ”。“何なら、俺が楽にしてやるよ?”
“幽香”。“幼くなっちまった風見幽香”。“良い声で泣きそうじゃないか”。“なぁ”。
“見たくないか? 聞きたくないか?”。“ちっこくなった幽香の泣き顔を”。“悲鳴を”。
“今なら、容易く出来るよ”。“やれよ”。“邪魔をする奴なんて居ないよ”。


…興味無ぇな。
心の中に響く“声”には適当に答えて、シンは朝焼けの空をただ眺めていた。
吹いてくる緩い風は、まだ少し冷たい。辺りに茂る背の高い花草が、微かに揺れている。
頭上に広がる空と同じ様に、シンの心は寂然と凪いでいた。頭の芯は完全に冷えたままだ。
一つ深呼吸をして、澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。
心の隅の、暗い部分の囁きには耳を貸さない。相手にしない。惑わされない。

振り回されない。好きにほざいてろ。そんな俺の態度が気に入れなかったのだろう。
“嘘を吐くなよ”。声は、より低く、はっきりと聞こえる様になった。
頭の中と言うよりも、本当に耳元で聞こえる。そう錯覚する程、“声”は近い。

“興味が無いなんて、嘘っぱちさ”。“隠さなくても良いんだぜ”。“ちゃあんと分かってる”。
俺は鼻を鳴らした。下らねぇ。面白くも何ともねぇ。俺の何を分かってるんだ。言ってみろ。
“ひひひひ”。“何を?”。“何をだって?”。“決まってるだろう?”。“全てさ”。“全部だよ”。
お前は俺が苦悩するのを見て、面白がってるだけだろ。始末に負えねぇな。糞うぜぇ。
“そう思うかい?”。“まぁ、そうだろうね”。“俺もね、お前が嫌いなんだよ”。“大嫌いさ”。
そうかよ。“ああ、そうだよ”。“いつまでもグズグズしやがって”。“見てて苛々するよ”。
俺はお前みたいに、欲望に忠実じゃない。この世界で出来た友達が大事なんだ。
“それがどうしたんだい”。“皆、お前の本当の姿を知らないだけさ”。“能天気な奴だねぇ”。
“ケヒヒ”。“それにだよ”。“友達だと思ってるのは、お前だけじゃないのかい?”。

うっせーよ…。シンは大きく溜息を吐き出して、頭をぼりぼり掻いた。
眼をゆっくりと閉じ、もう一度息を吸い込んだ。また、濃い緑の匂いがした。
シンは鼻を鳴らして、青空から自分の掌へと視線を落とした。
握って開いて、唇の端を少しだけ笑みの形に歪める。


それじゃあ、お前が俺のダチになれよ。
適度にストレスは発散させてやるからよ。アクセルも、手を貸してくれるみたいだしな。
いがみ合っててもしょうがねぇ。もう良いだろ。十分だ。いい加減にしょうぜ。
どうすれば俺は…、俺達は、ぶっち切れて爆発せずに済むのか、一緒に考えてくれ…。


シンは心の内で、真剣にそう言葉を返してやった。
意表を突かれたのか。“声”の主は黙り込んだ。
返事は無い。頭の痛みが引いて、“声”の気配が遠ざかるのを感じた。
おいおい。逃げんのかよ。シンは呼び止めた。ズキッと頭の芯が軋んだ。
“…マジで言ってんか?”。次に聞こえた“声”は、今までの様な嘲る囁きでは無かった。
威圧的で暴力的な声音だった。シン自身を屈服させようとしているのかもしれない。
焦っているのか。それとも、戸惑っているのか。“声”の雰囲気が大きく変わった。
動揺しているのは、多分間違い無い。“声”の主は、微かにだが揺れている。
それが分かる。当たり前だ。“声”の主。お前は、俺なんだからな。
頭に走る痛みが増した。シンは右手で眼帯を押さえた。意思に関係無く、稲妻が漏れた。
バチバチ、バリバリバリ!っと、朝焼けの光の中に、赤黒い稲光が線を刻んだ。
それを無理矢理に押さえ込みながら、シンは頭を振る。それから、少しだけ笑った。


マジで言ってるのか、だって? 勿論だ。100パー本気だぜ。
お前は、俺の事を全部知ってるって、さっき言ったよな。俺もだ。俺だってそうなんだぜ。
分かってる。ビビってるのはお前の方さ。俺には分かる。逃げてるんだ。俺達は。
誰かに近づくと、その分、拒絶された時の傷が深くなる。忌避された時に、死にたくなる。
仲良くなればなる程、痛みが増していくからな。地底戦の時には、マジで参ったよな。
あんな思いをすんのは嫌だから、お前は、そうやって凶暴振ろうとしてるんだろ。
最初から誰も彼も傷つけて、ぶっ壊して、遠ざけて、一人きりになって。
そうやって、自分を守りたいんだ。誰かと強い絆を持つ事を恐れてるんだ。
お前だけじゃない。勿論、俺もだ。お前は、俺だからな。怖がってるんだよ。
見て見ぬ振りをしていた俺に、お前は“声”を掛けたんだろう?
このままだと、お前は辛い思いをするぞ。
お前は受け入れられない。誰からも必要とされないぞ。
その前に、妖夢も、幽々子も、誰も彼も遠ざけろ。
もう誰にも期待すんな、…ってな。


軽く息を吐き出して、シンは再び視線を空に向けた。陽が少しずつ高くなっていく。
空の青さが増して、雲に掛かる朝焼けの朱が薄らぎ始める。一日が始まろうとしている。
そろそろ幽香も起きて来るだろう。朝飯を一緒に食べて、花達の手入れの手伝いだ。
守りたい。そんな穏やかな時間と安らぎを。いや、守りたいなんて、おこがましいけれど。
思うくらいは良いだろ。俺の自由だ。でも、俺だけじゃ無理だ。お前の力が必要だ。
悔しいが、仕方無い。事実だ。“…我乍ら、阿呆な思考回路をしているねぇ”。
聞こえて来た“声”は、嫌に冷めた声音だった。だが、今までに無い程に力が篭っていた。

“俺は、お前を支配するよ”。
違うな。共有するんだ。
“何れ、お前は俺に飲み込まれるよ”
 出来ねぇよ。お前は、俺の意思と感情だ。
“時に感情は、理性や自我を凌駕する”
 もう俺は、お前には振り回されねぇ。
“出来るものかよ”
じゃあ、もし出来たら。握手でもしようぜ。


「おはよう。早起きなのね…」
多分、シンはその声が耳に届く前には、半ば振り返って居た。
肩越しに背後を見遣る。玄関の扉を開けて、幽香がこちらを見ていた。
頭にはナイトキャップを被っており、薄桃色の可愛らしいパジャマを着ている。
パジャマには白いフリルがあしらわれ、今の縮んでしまった幽香に良く似合っていた。

「おう。…俺も起きたトコだけどな」
まだ少し眠そうな眼を擦る幽香に、シンは少しだけ笑った。
朝の静けさの中。そよぐ風に、幽香の家の周りに茂る緑が微かに揺れている。

「朝飯にはまだ早いから、ちょっと外の空気を吸ってたんだよ」
言いながら、幽香の紅い瞳を見詰め返す。大丈夫だ。俺は、ちゃんと笑えてる。

「まだ寝てたらどうだ。すんげー眠そうだぜ」

「…縮んでしまってからね。ぐっすり眠っている筈なのに、朝が凄く辛いわ」

「身体のリズムみたいなモンも、退行しちまったんだろうな。…悪い」

「別に責めている訳では無いわ。元はと言えば、私の不甲斐無さが招いた結果だもの」

微かな苦笑を漏らして、幽香は欠伸を飲み込んだ。そうして、シンに背を向ける。
上手い言葉が見つからず、シンは何も言わないまま、その小さな背中を見ていた。
幽香の声音に、シンを責める様な響きや含みは、やはり全く無い。自然体で穏やかだった。
特に用事らしい用事も無く、ただ顔でも見に来ただけなのだろう。
もう家の中に戻る気らしい。「貴方も、余り根を詰め過ぎないようにしなさい…」
言いながら玄関扉に手を掛けつつ、幽香は肩越しにその目許を緩めていた。

「気付いてたのかよ…」

「花では無く、雑草を相手に頑張っていたのは、ね。
 中々上手く行ってないようだけれど、悩む姿を見るのが楽しくて、黙ってたの」

趣味悪ぃな…、と頭を掻きながら、バツが悪そうにシンは眼を逸らす。
花への直接干渉は、シンにはまだ早い。幽香そう判断しているのだろう。
此処に来てから、未だシンは幽香から“花を咲かせる”為の力の使い方を教わって居ない。
生命操作に類する術式だから、慎重になっているのも理解出来た。
それに、幽香自身が能力を喪失していないとは言え、今の肉体は脆弱に過ぎる。
持って生まれた力だとしても、それが今の幽香の身体に負担を掛けないとは言い切れない。
回復を待つ為にも、やはり少し時間が必要だった。

その間に、こっそりと花を咲かせる為の術を、シンは自分なりに編もうとしていた。
何も教わらなくても、コツ位は?める筈だと楽観していた。大間違いだった。

「草の成長を弄ることも出来ねぇ…。
 ドレインが強すぎて、すぐに枯らしちまう」

「そうでしょうね…。貴方自身の力も、変質して来ているもの」

以前のままなら兎も角…。
と、言葉を続けてから、幽香は背を向けたままで肩を竦めて見せる。

「貴方は一部と言えど、あの西行妖の力を飲み込んでいる。
 吸命、吸魂に関しては言えば、そこらの妖怪や悪魔よりも遥かに強力な筈よ」

「まぁ、そうかもな…」シンは少し唇を噛んで、溜息を飲み込んだ。
以前、幻想郷に来てすぐ。レイヴンの転移法術で冥界の空に放り出された時。
白玉楼の庭に落下した際に、生えていた桜の枝を圧し折ってしまった事があった。
あの時は、治癒系統の法術を拙いながらも組み合わせて、枝を繋げ、木の傷を癒した。
結果として、修復した桜の木は花を咲かせた訳だが、今同じ事をしろと言われれば難しい。
扱う法術自体は変わらないが、幽香の言う様に、その性質が大きく代わりつつある。
シンが纏う、赤毒と黒瘴の稲妻。その本質は、衰微と衰弱、吸収と暴食だ。

治癒や回復を司る法術との相性は多分、最悪だ。
初歩的な治癒法術ならば効果を正しく発揮するだろうが、規模が変われば途端に化ける。
癒すどころか、稲妻の及ぶ範囲に在る全てに噛み付き、喰い潰してしまう。

「今の貴方だと、いきなり花を咲かせるなんてのは、…無理でしょうね」

「それは、此処数日で思い知った。
かなり精密な術を編む必要が在るのは、理解してるつもりなんだがな…」

言いながら腕を組んだシンの眉間に、少し深い皺が寄った。
以前に桜を咲かせた時も、馬鹿みたいに消耗したのを覚えている。
シン自身の力の性質がベクトルを変えたせいで、今ではもっと消耗させられるだろう。
より小さい者の命を芽吹かせ、成長と活力を分け与え、育み、花を咲かせる。
それが如何に難しいものなのかは、頭では分かっている。

難しい貌をするシンを見て、幽香は満足そうに頷いた。
それから、弟を見守る姉の様な、優しい微笑みを浮かべる。

「真剣に悩めるのなら…貴方にも、花達は何れ心を許してくれるでしょう。
ふぁ…。もう少しだけ横になったら、朝食には丁度良い時間になりそうね…」

そこまで言って、幽香は玄関から家の中へと戻って行った。
まだ眠そうに欠伸を漏らしていたから、もう一眠りするんだろう。
「俺は起きてる。…もうちょい外の空気を吸ったら、中に戻るぜ」
眠気は、先程の“声”のせいで飛んでしまった。もう一度ソファで寝転ぶ気にはなれない。
深呼吸をしてから、シンは少しだけ笑って見せる。
小さな背中が玄関扉の向こうに入って行って、扉が閉まるのをただ見詰めていた。
一度振り返った幽香は、何か言いたそうな貌だったが、結局何も言わなかった。
玄関先に一つ残されたシンも、鼻を鳴らそうとして、止めた。
空を見上げようともしたが、やっぱり止めた。

代わりに、足元の地面へと視線を落とす。探すまでも無く、すぐに見つけた。
レンガが埋め込まれ、ある程度舗装された玄関前。其処に立つシンの視界の隅に。
それは、何て事の無い、ただの草だ。濃い緑色をした小さな雑草だった。
手入れがされているから、群生し、生い茂っていると言う程では無いが、まだまだ在る。
シンはしゃがみ込んで、生える雑草の内の一本を引き抜いてみた。微かな土の匂いがした。

細い根に土を付けた草を、掌の上に乗せる。
自身の持つ、法力の本質を克服する為。花を咲かせる力を。力の使い方を知りたい。
命を奪うのでは無く、生命力を分け与える術が欲しい。

しゃがみこんだまま、掌に乗せた小さな草に集中する。
パリッ…! と、細かい雷線が奔った。蒼い法力の微光が、シンの掌に宿る。
風も無いのに、草達がざざざ…、と細かく靡いて、蒼の光が脈打つ。
シンの掌の中に在る草が、少しずつ大きく、成長し始める。活力の付与だった。
一見、それは順調そうに見えたが、違った。そう簡単では無かった。
…やっぱり、そう簡単には行かねぇか…。シンは呻いた。
同時だった。透明な蒼の微光は次第に澱み、赤黒く変わる。
途端に、シンの掌の上に在る草が、急速に萎れ始めた。
乾燥して罅割れ、枯れて崩れていく。その様は、壊死という表現が似合う。
また、細い稲妻が散った。生命力を割り振ろうとするシンの意思を、肉体が無視する。
あっと言う間に、掌の上の草はシンに生気を奪われ、死滅してしまった。
自分の体を、未だ完全には制御出来ていないのだ。前途多難だな、こりゃあ…。
真っ黒な灰みたいになって、音も無く朝の風に攫われて行く。それを眼で追った。
片手で頭を抱える様にして、シンは堪えきれずに溜息を吐き出した。





その日の朝食は、シンが作った。メニューは薬膳粥だ。
治療薬に用いるのだろう。漢方、薬草は、永遠亭で分けて貰ったものだ。
永琳も、弱っている幽香の食事には、身体に優しいものを、と考えていたのだろう。
縮んでしまった幽香の傍に付く事を永琳に話した時に、親切にもレシピを教えてくれた。
貴重な薬草類も譲って貰い、本当に感謝せねば為らない。
取り敢えず、小鍋で二人分を用意する。少し味見をしてみると、味も悪く無い。
いや、普通に美味い。と、思う。多分。安い舌だから自信は無いが、美味い筈だ。
料理手順を完全に覚えている訳では無かったが、押さえるポイントはしっかりと守った。
シン自身、味付けや盛り付けなんて適当で、食えれば何でも行ける口だ。
だが、今回はそうも行かない。幽香だって食べるのだ。不味いものを出すのも気が引ける。

こんなモンだよな…。 
キッチンに立ち、シンは味見に使った小皿を片手に呟いて、首を傾げる。


テーブルに頬杖を付いて、ちょこんと座っている幽香は、シンのその後ろ姿をチラチラと見ていた。
朝食の時間と言う事で、幽香はもうパジャマ姿では無く、着替えて来ている。
赤チャック柄のスカートにカーディガン。白いレディースシャツ。
当たり前だが、そのどれもが子供サイズだった。里の服屋で用意して貰ったものだ。

シンの方は、愛用のくすんだ白ジーンズに、清潔感の在る白シャツを腕まくりしている。
その上に、シンプルな黒エプロンを着ていた。広く、大きな背中が印象的だ。
普段のガサツさを感じさせない、長身のシンに良く似合う、落ち着いた雰囲気の格好だった。
無邪気な少年みたいな仕種がミスマッチで、何処か男性らしい魅力も在る。
視線には気付いていないだろうシンは、無防備に幽香に背中を向けたままだ。

ついつい、幽香はシンの姿を眼で追ってしまい、気付いて慌てて視線を外す。
そんな事を繰り返している内に、シンが丁度テーブルの真ん中辺りに鍋敷きを置いた。
視線を上げると、幽香はシンと眼が合った。すぐに逸らす。少し胸が高鳴ってしまった。
どうも意識してしまう。ちょっとだけ顔が熱い。永遠亭で、ドレイン法術を受けてからだ。

それまでは、幽香はシンの事など何とも思わなかった。
腕が立つし、タフだから、虐め甲斐の在る奴ぐらいにしか思っていなかった。
覚えている限りでは、その筈だ。本当にいきなりで、心の準備も何も無かった。
あんな状況で、唇を奪われる事になるなんて、予想出来る筈も無い。
思い出すと、また顔が熱くなってくる。

俯く幽香にはまるで気付かず、
「待たせたな」と、嫌味無く笑ってから、シンは鍋?みで持った小鍋を鍋敷きの上に置いた。
顔の赤さを気取られるのが嫌だったが、漂って来た良い香りに、視線を上げる。
乳白色の粥米が湯気を上げ、アクセントとして、その中心に薬草の緑が添えられていた。
正直、驚かなかったと言えば嘘になる。幽香は反応に困った。
何と言うか、もっとワイルドな『男の料理』的なものが出てくると思っていた。

「何で怪訝そうな貌してんだよ。俺が料理出来るのがそんなに意外か?」
幽香の向かい側に座ったシンは、お玉で粥を掻き混ぜながら苦笑を浮かべて見せる。

其処まで不味いって事は無い筈だから、安心してくれよ。
そう言いながら、茶碗に粥をよそい、スプーンと一緒に幽香へと渡してくれた。
何だか悔しいが、良い香りがする。少しお腹が鳴ってしまった。聞かれただろうか。
恥ずかしい。手渡された碗に一度視線を落として、もう一度顔を上げる。
すると、シンは白い歯を見せて、子供みたいに笑っていた。

「喰おうぜ。腹減ったよな」

「ええ、頂くわ…」 

自分の分も碗によそって、シンは手を合わせた。
幽香も、それに倣う。それから、湯気の立つ粥をスプーンで一掬いして、一口食べてみる。
美味しかった。味付け自体は薄いが、素朴で、何だかホッと安心出来る様な、優しい味だ。
もう一口、二口と口に運んで、咀嚼する。今までに馴染みの無い味だが、やはり美味しい。
自然と顔が綻びそうになる。それを堪えて、また一口、二口。うん。悪く無い。好みの味だ。

そう言えば、と思う。
今までにこんな風に、誰かに料理を造って貰って、一緒に食事をする様な事も無かったな。
美味しさだけでは無く、暖かさの様なものを感じるのは、そのせいだろうか。
気付けば、幽香は割りと夢中でスプーンを動かしていた事に気付く。
はふ、はふ、と美味しそうに食べる幽香を見詰め、シンは優しげに目許を緩めている。

「…何よ。何か言いたい事でも在るの?」
眼を逸らし、むっとしたような声音で言う幽香の頬に、朱が差した。

「いや、美味そうに喰うな~…と思ってな。
 熱いんだったら、俺がふーふーしてやろうか?」

「別に…、良いわよ。一人で食べられるわ」

「そうか。まぁ、ゆっくり喰おうぜ」

そう言った声音は、からかったり、冗談めかしたりしていない。
幽香が甘えようと思えば、幾らでも応えてくれそうでも在る。
ちょっと惹かれてしまうのは、やはり身体が弱まっているせいに違い無い。
「薄味過ぎたかもしんねぇな…」 粥を食べながら、シンは首を傾げていた。
味付けについて、少し考えているのだろう。唇の端をペロリと舐めた舌が、妙に艶かしい。
ドキリとしてしまう。また、眼が合った。「私は、好きよ。この味なら…」
咄嗟に言葉を探してしまう自分に気付く。機嫌を損なう程では無いが、何だか面白く無い。

「美味いと思って貰えたんなら、上出来って事にしとくか」
シンは、やはり少しの笑みを浮かべて見せた。裏表の無い、純粋に嬉しそうな笑みだった。
子供みたいな表情なのに、眼帯をしていない薄緑色の眼がやけに落ち着いている。深い眼だ。
不思議な子だと思う。共に食事をしながら、幻想郷に来てすぐの頃のシンを思い出してみる。

初めてシン達と出会った、神社での宴会の時。白玉楼で、鉄仮面達と戦った時。
あの頃と比べると、今のシンが纏っている雰囲気は、随分と違う。
大人びた、と言うよりも、大きくなった、という表現の方が近い。
無邪気そうな貌の下に、何かをひた隠そうとして、無理だと思い知って、受け入れた。
隠そうとしたものを少しずつ曝して、克服しようとしている。
その為に。“花を咲かせる”という術を教えて貰いたいのだろう。
一見して、シンは能天気そうで、何も考えていない様にも見える。
だがその実。自身の内に潜む深い闇と、正面から向き合っている最中だ。
地底での戦いで、シンがかなり無茶な戦い方をした事も聞いていたから、それ位は分かる。
だから、少しでも力になってあげたいとも思う。

「どうしたよ、幽香りん。何か難しい貌してるけど…。トイレか?」

スプーンを口に咥えながら、シンは怪訝そうな貌で、幽香の方を覗き込んで来た。
じとっ、とした視線で少し睨んでから、幽香は眼を閉じて息を吐いて見せる。

「…デリカシーが無いわね」


「え? ベーカリー? パンがどうしたんだ?」

「……もう良いわ。忘れて」

「何だよ。気になるじゃん」

妙な処で喰い付いてくるシンに、幽香はもう一度息を吐き出して見せた。

「私としては、その…“幽香りん”って呼ばれる方が気になるわ。
それ、止めてくれないかしら。凄く落ち着かないのだけれど…」

「ん…。嫌だったんなら悪かった。呼び易くて、ちょっと気に入ってたんだよ」

すまなそうに、困った様な笑みを浮かべたシンは、掌を顔の前に立てた。ゴメンのポーズだ。
更に、「次からは気を付ける」と、変に素直に返されて、少し反応に困った幽香は、視線を逸らした。
そんな感じで、向かい合う形でテーブルに座っているシンと幽香は、のんびりと食事を摂った。

粥を食べ終わってから、お洒落なティーカップで、幽香が紅茶を煎れてくれた。
背が縮んでしまっているから、茶葉やカップを扱う手付きが少々危なっかしかった。
キッチンをちょこちょこと動く幽香を見て、手伝おうかと言うと、これくらい出来るわよ、と睨まれた。
普段なら、凄んだ幽香はおっかないのだろうが、今の姿では全然怖くない。寧ろ、微笑ましい。
だが、本当に微笑んでいると、また怒られそうなので我慢する。
そうこうしている内に出してくれた紅茶は、とんでもなく美味かった。
シンが煎れたら、絶対にこんな味には為らない。
特に紅茶が好きという訳でも無いシンでも、溜息が漏れる。
両手でティーカップを包む様にして持った幽香は、そんなシンの様子を見て、嬉しそうだ。
椅子に座ったまま、脚をブラブラとさせて得意げで、ちょっと可愛い。
味について何も聞いて来ない辺り、幽香自身も相当に自信が在るのだろう。
「美味いな」と言うと、「そう」とだけ言葉が返って来た。


食後の一服の後。シンが使った食器を洗い、片付けをしている間の事だ。
幽香が、土も埃も付いていない、新品の鉢をテーブルへと持って来ていた。
インテリアに使うものなのだろう。掌に乗る様な大きさの、かなり小振りの鉢だ。
其処にはもう土が敷かれ、何の変哲も無い雑草が、二・三本植えられていた。
何かを始めようとしているのは分かるのだが、どうもシン待ちらしい。
ただ待っていると言うのも手持ち無沙汰だった様で、手伝いに来てくれた。
片付けをしているシンの傍にやって来た幽香は、食器の水分を布巾で拭い始める。
家事自体には慣れているのだろうが、身体が縮んでは勝手が違う。かなり遣り難そうだ。

「これ位、俺がやっとくぜ。ゆっくりしてろよ」

「二人でやった方が早く終わるでしょ」

「何か、…ぎこち無くね。手付き」

「仕方無いでしょ。当たり前だけど、手の大きさだって違…」

幽香がシンの方を見ながら、そう言い掛けた時だった。ガチャーンという音がした。
うっ…、と、幽香は足元に視線を落として、言葉を飲み込む。皿を落として割ってしまったのだ。
怪我してねぇか、と視線を寄越したシンが聞こうとしたら、幽香は慌てて破片を拾おうとしていた。
それが不味かった。「痛っ…」 しゃがんだ幽香は、自分の右手人差し指を見詰める。
?んだ陶片で指先を切ったのだ。血が滲んで来ている。「意外とおっちょこちょいだな」
エプロンで手を拭いたシンは、しょうが無ぇなぁみたいな貌で、幽香の傍にしゃがんだ。
「見せてみろよ」幽香の右手を?み、それから、切った指先を見て、少し貌を顰める。
陶片で切ったにしては、少々深く切っていた。滲む血が紅雫となって、床に落ちた。

「結構痛そうな切り方してんな…」

「すぐに治るわ。こんなの。片付けるから、放して」

失敗して、ちょっとだけ恥ずかしそうな幽香は、シンの顔を見ない。

「まぁ、ちょっと待てって」

幽香は心臓が止まるかと思った。
零れそうになる血の雫を、床に落とさない為だったのかもしれない。
シンはおもむろに、優しく?んだ幽香の指先を、自分の口にパクっと運んだのだ。
迷いも下心も躊躇も感じらなかったから、全く反応出来なかったし、予測も出来なかった。
みょっ!? と、奇妙な声が幽香の口から漏れて、ぐるぐると眼が回りだした。
顔の赤さを何とか誤魔化そうとするも、頭が混乱の極地で、あぅあぅするのがやっとだ。
指先に感じる、暖かく、柔らかな感触。舌だ。血を舐め取ってくれている。幽香は眩暈がした。
背筋にゾクゾクとしたものが走って、脳天を直撃しそうになる。唾を飲み込む。
酷く切なくて、身体の奥が熱くなってくる。ドレイン。吸収されている。そう思う。
だが、多分違う。シンは、ただ幽香の指先に滴る血を、舐め取っただけだ。
勝手に盛り上がって、恥ずかしい。でも、どうしようも無い。抗えない。
抗う必要も無いし、そんな間も無かった。

シンが幽香の指を咥えていたのは、せいぜい二秒かそこ等だ。
血を舐め取った後、シンは幽香の指先に軽い治癒施術を行った。
本当に初歩的な法術ならば、術式が生命力の簒奪へと変質する事も無い。
指先に残る僅かな傷跡も、時間と共にすぐに消えるだろう。

「回復力も弱まってるんだ。
前と同じような感覚だと、傷を膿ませちまうぜ」

こん位なら、俺でも手当て出来るだから、遠慮すんなって。
キッチンに掛けてあった清潔な手拭で幽香の指を拭い、シンは少年の様な笑みを浮かべた。
相変わらず能天気そうだで、気恥ずかしさ劣情、侮蔑と言った感情は全く伺わせない。
幽香は右手指を左手でぎゅっと握る様にして、俯く事しか出来なかった。顔が見れない。
俯いているから、前髪で表情は悟られないだろうが、不自然に思われはしないか。
冷静さを取り戻そうとするが、胸の鼓動が速過ぎて苦しい。

「こっちももう終わったからよ。もうちょっとだけ待っててくれ。
破片だけ、裏に持って行ってくる。割れた鉢とか置いてあるトコで良いよな?」

声音も、完全に普段通りだ。幽香は、小さく頷く事しか出来なかった。
幽香の様子など、気付いていないか、まるで気にも留めていないのだろう。
徹底して紳士的だし、まるで歳の離れた妹の世話でもしているかの様だ。
ひょいひょいと皿の破片を拾い上げてから、シンは手早くエプロンを脱ぐ。
椅子の背凭れにエプロンを引っ掛けてから、裏口へと向う。
その際に、テーブルの上に置かれた鉢に気付いたようだが、何も言わなかった。



一人残された幽香は、その場を動けずに居た。
ほぅ、と一つ息を吐き出して見る。自分で嫌になる位、熱っぽい吐息だった。
指先に、まだシンの舌と口腔内の感触が残っていて、頭がぼーっとしてしまう。
余韻に浸ってしまいそうな程、生々しい感触だった。
また自然と溜息が漏れて、ふるふると首を振る。何をやっているんだろうかと思う。
誰も居ないのは分かっている筈なのに、キョロキョロと辺りを見回してみる。
見慣れたキッチンがやけに広く感じられるのは、身体が縮んだせいだ。
シンが居なくなった途端、何だか寂しくなってしまったなんて事は断じて無い。
身体が縮んでからは、普段はまるで気にもしない様な事に振り回される。
肉体と精神の繋がりは密接だから、心もある程度弱まっているのも間違いない。
子供っぽく見えて、妙に気が付いたりするシンには、思ったよりも助けられている。
大事にされている事は、理解しているつもりだ。だが、これでは頭が働かない。

テーブルの上に持ってきた鉢と、其処に植えた野草を用いて、
シンに“花を咲かせる”力の扱い方を説明するつもりだったが、今の状態では無理だ。

幽香はゆっくりと視線を落とし、じっと右手の人差し指を見詰めた。
鼓動が、再び速くなってくる。未だ、シンの舌の感触が残る指先を、親指で触れる。
唇を舐めて湿らせ、辺りを見回して誰も居ない事を確認した。
大丈夫。誰も居ない。誰も見ていない。私だけだ。私だけ。口の中が唾液で一杯だ。
頬が上気しているのが自分でも分かった。熱くて、くらくらして来た。
ゴクリと唾を飲み込んで、幽香はゆっくりと、震える右手を口元に持って行こうとした。
「見~た~ぞ~☆」 すぐ後ろで声がした。底抜けに明るい声だった。
驚きの余り、口から魂が飛んでいくところだった。がばっと振り返る。其処に。

脱いだ黒ブーツを両手に一足ずつ持って、笑顔で佇む少女が居た。
黒い帽子に、黄色と緑を基調とした洋服が印象的だ。閉じられた第三の眼。
悪意も嫌味も無い、悪戯っぽい笑みのまま、彼女は「こんにちは」と挨拶してきた。
半泣きになったが、幽香は何とか「こんにちは」と裏返った声で挨拶を返す。
何がこんにちわだと思ったが、苛立つ気力も無かった。



[18231] エピローグ2 太陽の畑 後編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2012/12/01 22:37

 其処まで油断していたつもりは無かったが、こればっかりはどうしようも無い。
言い訳に過ぎないが、もう相手が悪いとしか言い様が無い。幾ら感覚を研ぎ澄ましても無駄だ。
ついさっきまでは、この家には幽香とシンだけしか居なかった筈だ。他には誰も居なかった。
しかし、その認識自体が誤りだった。

意識の表層に在る思考では、無意識に潜る彼女の存在を捉える事は出来無い。
もしもの話だが、彼女が害意や悪意を持って動き始めれば、途轍もない脅威となるだろう。
無意識が敵に回る。“意識”を持った者達では、彼女と対峙する事自体が困難を極める。
誰からも見えず、聞こえず、気付かれず、認識されず、想われる事も無いままだ。
彼女は敵意を思うが儘に振り撒き、犠牲者の心の奥底に隠れ潜み、蹂躙を繰り返せる。
抵抗や反抗といった思考の及ばぬ所に、彼女の持つ脅威は在り、それは不可侵の力だった。

そうした自身の能力の影響なのか。
彼女は気配や存在感を完全に遮断して、誰かの背後に立ったりする事が多かった。
背後を取られた方にしてみれば心臓に悪いし、非常に悪趣味な事この上無い。
ただ、彼女にしてみれば、それは好きも嫌いも無く、ただ本当に“無意識”の行動なのだろう。
黄色と緑、そして黒を基調としたゴシックな服装は、彼女のミステリアスな雰囲気に良く馴染んでいる。
天真爛漫で無邪気な笑顔も、何処か儚げで、独特の魅力が在った。


古明地こいし。博霊神社の宴会で、少し話をしたのはつい最近だ。
いや、正確に言えば、話という話もしていない。ほんの少しだけ言葉を交わした程度だ。
聞けばあの時は、地底で開かれた宴会を抜け出し、態々シンに会いに来ていたらしい。
地霊殿から永遠亭へ向って以来の再会だったから、少しの気まずさを感じたのを覚えている。
イノと共に、地上へ転移した時は、半ば地底を飛び出すような形だったせいもあるだろう。
それに、さとり、こいしだけで無く、お空やお燐にも何も言えずじまいだった。
勿論、シンが急遽として永遠亭での戦闘へ参加した事は、後にさとり達にも伝わっていた。
地底から突然消えた事、そして、再び戦いの場に飛び込んだ事で、二重に心配を掛けてしまった様だった。

お姉ちゃん達だけじゃなくて、私も凄く心配したんだよ。
宴会で出会ったこいしにそう言われ、シンは「悪ぃ…」としか言えなかった。
その様子が、まるで仲の良い姉弟の様にも見えたのだろう。
周りに居た縮んだ幽香や、幽々子、妖夢、天子達は何処か微笑ましいものを見る貌だった。
居心地の悪さを感じ、シンは頬を人差し指で掻きながら、視線を誰にも合わせられなかった。
そんな、ちょっと困った様なシンを見て満足したのか。「怒ってるんじゃないよ」
頬を膨らませていたこいしは、だが、すぐに優しげな微笑を浮かべて見せた。
思わず見惚れる様な、幼い外見には不釣合いな、大人びた表情だった。
多分、シンだけで無く、周りに居た幽々子達も眼を奪われただろう。

「シンくんが元気なのが分かったから、安心した」
微笑むこいしの姿が、その言葉と共に薄れ始める。
宴会の陽気な喧騒の中へ、蜃気楼の様に溶けて流され、認識出来なくなっていく。
シンは、こいしを呼び止めようとしが、出来なかった。
それよりも先に、「また会いに来るね」と、薄れるこいしの声が遮ったのだ。
寂しげに聞こえる声音だったが、無意識に消えてしまう最後まで、微笑んだままだった。
すぐ後に、酒の匂いが混じる風に吹かれ、其処彼処で聞こえる笑い声や談笑の声が響いた。
まるで、こいしが此処に居たという事実や痕跡を濯ぐようだった。

結局。
シンは、無意識へと潜ってしまったこいしと、ろくすっぽ話をする事も出来なかった。
また会い来る。こいしは、そう言っていた。だから、近い内にまた会う事になるだろう。
そう思っていた。旧地獄街道の復旧の状況や、さとりやこいし自身の話は、その時に聞こう。
他にも、聞きたい事は色々と在った。自ら地底に出向くのは、やはり気が引けた。
友達として会いに来てくれるこいしに、話を聞きたい。話がしたいと思っていた筈だ。

だが、何を話そうとか、何を聞こうとか、そう言った思考がいっぺんに吹き飛んでしまった。
割れた皿の破片を片付けた後、幽香の家の裏からキッチンリビングに戻って、シンは眼を疑った。
キッチンリビングの床の上。其処に。幽香が、こいしに押し倒されていた。

体格的に、幼い幽香よりも、こいしの方が上背が在る。
当たり前だが、単純な腕力に置いても、今の縮んだ幽香では、こいしに勝てる筈も無い。
まるで、ペットを可愛がるかのように、幽香は容易く押さえ込まれてしまっている。
えへへ~。 こ、この…! 退きなさい! 暴れちゃ駄目だよ~。 頭を撫でないで…っ!
押し倒された幽香も、何とかこいしを押し退けようとしているが、まったく無力だった。
無邪気過ぎる楽しそうな笑みのまま、こいしは幽香をくすぐったり、撫で回したりしている。
正に猫っ可愛がり状態だ。だが、可愛がるだけでは済まなかった。
こいしのスキンシップは、更にエスカレートしていく。
可愛らしく緩んだ笑みのまま、こいしは幽香の服を脱がしに掛かった。
その手付きは乱暴でも無いし、別に素早い訳でも無い癖に、酷く捉え難い動きだった。
するすると押し倒した幽香のシャツのボタンを外し、下着をスカートの中から下ろしてしまった。
端から見ていたシンも、その挙動を完全に意識の中で追うことが出来なかった。
まるで、無意識という認識の死角を縫われたような感覚を覚える。

流石は、心を読み解く“覚り”妖怪の妹だ。あの行動も無意識だとすれば、相当性質が悪い。
「や…っ!? やめて! やめてよぅ…!」 強気だった幽香も、流石に半泣きになっている。
服も肌蹴て、白い肌が所々で顕わになっていた。それでも、こいしはお構い無しだ。
幽香のささやかな抵抗を嗤うでも無く、踏み躙るでも無い。殆ど無視に近い。
まるで着せ替え人形の服を脱がすみたいに、このままでは幽香がすっぽんぽんにされてしまいかねない。

「…おーい。こいし。その辺にしといてやってくれ」
何も見なかった事にして、この場を去ろうとも思ったが、幽香を見捨てるのは気が引ける。
シンの声が聞こえたからだろう。幽香を押し倒している体勢のこいしの動きが止まった。
その隙に、幽香はこいしの腕から逃げ出して、シンの脚の後ろにタタタッと走って隠れてしまう。
縮んでしまった今の状態では、こいしに迫られるのは結構怖かったのだろう。
う~…と呻る幽香は、シンの脚から顔だけを出して、涙目のままでこいしを睨む。
涙目になった紅い瞳には、やはり以前の迫力は皆無だ。全く威嚇になっていない。

一方、顔を上げて振り返ったこいしは、シンと幽香を見比べ、嬉しそうに眼を細めていた。
「こんにちは。…会いたかったよ。シンくん」 急に大人びた声音で言われて、少々戸惑う。
相変わらず、こいしの纏う雰囲気はころころと変わる。気を抜けば、惹き込まれそうだ。
存在感が希薄なことも在り、可憐さや天真爛漫さだけでは無い、独特の魅力に溢れていた。
自身の背後に隠れてしまった幽香を一瞥して、シンも少しだけ笑う。「そうか、俺もだ」
そのシンの言葉に、こいしも、にっこりと笑みを浮かべた。






かなり渋々と言った様子だったが、突然の地底からの客人を、幽香は紅茶で持て成した。
終始不機嫌そうな貌のままの幽香を横目で見ながら、シンも取り敢えずテーブルに着く。
ソファに座ろうかとも思ったが、話をするには、やはりこっちの方が良いだろう。
位置的には、こいしと向う合う形で、シンと幽香が隣り合って座っている。
テーブルに案内されたこいしは、茶菓子と一緒に出された紅茶を一口啜り、眼を輝かせていた。

何か、此方から聞いた方が良いのか。何を聞けば良い。迷う。
上手い言葉が見当たらず、中途半端に口を開いたり、閉じたりを繰り返してしまう。
上品な仕種で、それでいて美味しそうにカップを傾けるこいしを見ながら、シンは何も言えないままだった。
聞かないと。そう思う。地底の事。さとりの事。鬼達の事。お空や、お燐の事。
聞きたい。でも、聞くのも、少し怖い。唾を飲み込んで、シンは下唇を少し噛んだ。
眼の前に座るこいしから視線を逸らして、鼻から息を吐き出す。怖がってどうすんだよ。
そう思った時だ。不意に、隣から視線を感じた。幽香だ。何だか、難しい貌でこちらを見ている。

シンは幽香と眼を合わせたが、やはりすぐ逸らしてしまう。
そもそも、こいしはシンに会いに来たのだろうし、地底での戦いの事は幽香だって知っている。
何か話しが在って、こいしは此処まで来たのだろうと考えるのは自然だ。別におかしくは無い。
テーブルを挟んで座っているシンとこいしを見比べるだけで、幽香は黙したままだ。
むすっとした貌だが、空気を読んでくれている。在り難いのだが、その表情のせいかどうもやり辛い。
視線が痛いというか、成り行きをじとっと見据えられているようで、落ち着かないのだ。
意気地が無いのね…。黙っている幽香の視線に、そう言われているような気がした。
背中を押してくれている様な気もした。幽香に視線を返すと、眼を逸らされた。
やっぱり、気のせいか。椅子に軽く座りなおし、こいしに向き直る。
鼻からゆっくりと息を吐き出し、シンは右手で眼帯に軽く触れてから、唇の端を緩く持ち上げた。

「元気そうだな…」
そんな詰らない言葉しか出てこなかった。もうそれで良いと思った。
言葉を飾る必要も無い。伝えたい事を伝えられるなら、それで十分だ。
少々素っ気無いシンの言葉に、こいしは、嬉しそうな笑顔を返してくれた。
天真爛漫な笑顔とは、また違う。しっとりとした、穏やかで女性的な微笑みだった。
閉じられたこいしの第三の眼が薄っすらと開かれて、シンを見ていた。姿と心を曝す。
思考を読み取るその視線に怯む事も無く、シンも、口許を緩めたままだった。

「私は元気だよ。…お姉ちゃんも、お空も、お燐もね。
 心配は要らないよ。旧地獄街道の皆も、もう元気な姿に戻ってるから…。
ただ、街が元通りになるのは、もう少し時間が必要だけどね」

優しげな口調で言うこいしの微笑みが、また少し変わる。
それはまるで、母親の様な、柔らかで包容力の在る笑みだった。
少なくとも、こいしの正面に座るシンにはそう見えたし、幽香も同じだったろう。
シンと隣に腰変えていた幽香も、少しの驚きと共に、こいしの貌を凝視している。
存在感が希薄なだけでなく、纏う雰囲気がガラリと変わる御蔭で、こいしの感情は捉え難い。
 だが、その言葉には確かに暖かさが在った。間違い無く、感じられる。

「その口振りだと、勇儀や萃香も、もう完全復活って感じか」
 
 こいしは頷いてから、じっとシンの眼を見詰めて来た。その眼差しは、真っ直ぐだった。
 何処までも真っ直ぐで、純粋で、眼を逸らす事も出来そうに無い。吸い込まれそうだ。
 澄んだこいしの瞳に。こいしの第三の眼に。シンが映っている。何も隠せない。
 だが、何かを隠す必要も無い。恐れる事も無い。既にこいしは、シンの黒い部分を知っている。
 心を共有して、一緒に戦った。助けられた。こいしの命を分けて貰って、黒いソルを退けた。
 今更、こいしの前で取り繕うことなんて、何も無い。その筈だ。シンは冗談っぽく笑う。
 
 
 「あの二人は流石だな。また会って話もしたいけど、地底に行くのは…まだ、ちょっとな」

参ったように肩を竦めるシンを見ても、幽香は特に表情を動かさなかった。
チラリと、こいしとシンを見比べるだけで、無言のままだ。話に入って来る気も無いのだろう。
退屈とはまた違う、やはり不機嫌そうな無表情だ。ふと其処で、シンは気付く。
唇を少し尖らせた幽香は、こいしを。その第三の眼と、シンを見比べている。
 微妙な貌の幽香に、シンは声を掛けようとしたが、出来なかった。
「やっぱり、まだ地底に来るのは…気が引ける?」 こいしの声に遮られた。

正面に向き直り、シンも、第三の眼を一瞥してから、こいしの瞳を見詰め返した。
薄く開かれている第三の眼は、シンの心の表層、思考、感情を読み取っている。
だから、こいしの質問自体が既に無意味だ。
真意は、シンの心を見る事で分かりきっているからだ。
そりゃあな…、と。シンは参った様な、苦し紛れの様に、少しだけ笑う。

「あんだけ派手にやったし、すんげぇ嫌われたしな…」
幾ら能天気で、糞が付く程にポジティブなシンでも、当たり前だが限界が在る。
旧地獄の街道をボロクソに壊した上に、地底の妖怪達とも、まだまともに話し合いもしていないのだ。
シンに対して気が立っている者も居るだろうし、アホ面下げて地底に潜ろうものなら、袋叩きに会うかもしれない。

流石に、それは勘弁して欲しい。
地底の者達をわざわざ刺激しに行く必要性は皆無だ。
だが、シンとしても、地底の者達との関係が修復出来るのならば、勿論したい。
難しいところだが、その為には、鬼達を束ねる勇儀や、萃香の助けは必須だろう。
あの二人には、地底戦が終わってから会っていない。会わない事には始まらない。
その為に、具体的に如何するか。未だ良い考えが思い付いていないのが現状だった。
「私に任せて。良い方法が在るよ!」 第三の眼で、シンの持つ思考を読んだのだろう。
溜息を堪えたシンを見て、鼻息を荒くしたこいしがテーブルの上に身を乗り出して来た。
いきなりだったから、幽香がビクッと肩を震わせていた。僅かに身を引いたシンも、面食らう。
大きな瞳をキラキラとさせながら、こいしは無邪気な笑みを、更に深めて見せた。

 「シン君が地底の皆と仲直り出来るように、私も色々と考えてたんだから」
得意気な貌のこいしは、そんな幽香とシンを交互に見てから、椅子から立ち上がる。

「ちょっと待っててね!」
ウキウキした様子のこいしは、そのまま、玄関へとパタパタと走って行ってしまった。
半ば呆然としたまま、その小さな背中を見送った幽香とシンは、顔を見合わせる。
だが、幽香はすぐに眉間に皺を寄せて、ふん…と鼻を鳴らす。

「…あの子、何だか苦手だわ」 
シンから視線を外しながら、幽香は独り言の様に呟いた。

確かに、やり辛いだろうとは思う。
意識が捉えるこいしの姿は、遠くに居るようで、すぐ近くに居る。
かと思えば、すぐ傍に居るようで、遥か彼方に居たりする。
何処にでも居るし、何処にも居ない。こいしの、他者との距離の取り方は独特だ。
無意識に潜み、まるで獲物の隙を伺う様でも在るし、観察している様でも在る。
地霊殿で過ごしている時は、シンも、こいしの持つ捉え難さを常に感じていた。
 
「まぁ、いきなり襲われて押し倒されたらな…」
取り敢えず、シンは冗談めかして言いながら椅子に凭れ掛かり、肩を竦めて見せた。
幽香にしてみても、やはりこいしには接し難いと感じる部分も在るのだろう。
ただ、『あの子は苦手』と言った声音には、こいしに対する嫌悪が無かった。
険悪なムードでも無い。軽口をシンが返せるのも、その御蔭だ。
 
「でも、悪い奴じゃないんだ。今回は許してやってくれよ」 
困ったみたいに笑うシンを見て、幽香は「別に、…気にしてないわ」と眼を逸らす。
幽香は何か言葉を続けようとした様だったが、唇を少し噛んで、結局何も言わなかった。
何を言おうとしたのか気になったが、深く追求する事でも無いだろう。
シンも何も言わず、椅子に凭れ掛かり、頭の後ろで手を組もうとして、気付いた。
「お、そう言や…」 テーブルの隅に、小振りで、割りと綺麗な鉢植えが置かれたままだ。
鉢には細い草花が植えられており、儚げに、だが健気に、小さな小さな花を咲かせてる。
鉢植えを手に取って、シンは植えられた草花を繁々と見てから、幽香に視線を向けた。

「飯食ってる時は無かったよな。此れ。摘んで来たのか?」

ええ、と頷いた幽香は、シンの持つ鉢へと手を伸ばし、草花の花弁を指先で触れた。
白い幽香の指先から、深緑の微光が草花に伝った。小さな花が、風も無いのに揺れる。
シンは、凄ぇな…と、声を漏らした。ほんの少し、幽香の指が触れただけだ。
それだけなのに、鉢に植えられた草花が、明らかに伸びた。目の錯覚でも何でも無い。
間違いなく、成長し、瑞々しさを増している。寧ろ、強くなったという印象すら受ける。
たったあれだけの接触で、此処まで活力を分け与える事が出来るのか。
手の中の鉢植えを、感嘆の貌で凝視するシンに、幽香がくすりと笑みを零した。

「花を咲かせる為の、生命力の循環、付与の体得には訓練が必要でしょう。
まずは、その野花から始めなさい。…その子なら、すぐに枯れる事も無い筈よ」

唇を引き結び、真剣な貌で幽香の話を聞いていたシンは再び鉢植えに視線を落とす。
『すぐに枯れる事は無い』という言葉の意味は、一目見ただけで、すぐに理解出来た。
鉢に植えられた小さな野花が、幽香の魔力光と同じ、深緑の淡い光を宿している。
寧ろ、微かに発光しているかの様にさえ見えて、かなり神秘的だった。
こんな小さな植物にまで、活力と魔力を漲らせる事が出来るのは、流石である。

「暫くは、こいつが俺のパートナーって訳か…」
呟きながら、鉢植えを大事そうに持ち直し、シンは唇の端を持ち上げて見せた。

「態々すまねぇ。色々と用意してもらって。あんがとな」

「礼には及ばないわ。その変わり、その子は出来る限り大切に扱いなさい」

優しげに微笑んで、幽香はシンの手の中に在る鉢植えを一瞥した。
まるで、自分の娘を預けるみたいな眼差しだった。シンも、何だか背筋が伸びてしまう。
玄関の方から、パタパタと軽い足音が近づいて来たのも、丁度その時だった。

こいしが戻って来たのだ。
足音を聞いた幽香は、それ以上は何も言わず、腕を組んで椅子に座り直す。
シンも、手に持っていた鉢を、慎重な手付きでテーブルへと一旦置いて、顔を上げる。
「お待たせ♪」 見れば、戻って来たこいしは、何やら大きな風呂敷の包みを持っていた。
ニコニコ顔のこいしは、テーブルの上に風呂敷をよいしょと置いて椅子に座る。
それから、シンと幽香を交互に見て、えへへ、と笑った。シンは、少し嫌な予感がした。

「これ、私の手作りなんだよ」
 嬉しそうに言いながら、風呂敷の包みをこいしが広げ、その中身を掲げて見せる。
幽香の眼が点になった。シンは何とも言えない貌で、唇を窄めながら眼を瞬かせた。
こいしが風呂敷の中から取り出したのは、ひょっとこ面と、渦巻き模様の頭巾。
それに、頭巾と同じ渦巻き模様のマフラーと、赤褌だった。
これは、一体どういう組み合わせなのか。

えらく自信満々なこいしの笑みと、
その手に持っているひょっとこ面を見比べ、シンは頭の中で言葉を探す。
しかし、どうもこの場に相応しい台詞が浮かんで来ない。
こいしワールドに引き込まれた。そんな気がして仕方無い。
手遅れな気もしたが、取り敢えず何とかしないと。シンは咳払いをして、居住まいを正す。

「えぇと…、なぁ、こいし」

「どう? 良く出来てるでしょ?」

「いや、…そうだな、…うん。
凄ぇ造り込まれてるってのは、俺でも分かるんだけどな。
それとは違うんだが、ちょっと聞いて良いか?」

「? どうしたの?」

「それ、何なんだ…?」

何だか訝しげな表情のまま、端で成り行きを見守っている幽香の視線を感じる。
割りと真剣な質問だったが、多分こいしには届いていない。ふわふわとした笑顔のままだ。
そんな笑顔で、「正義のヒーロー☆ひょっとこ仮面☆変身セットだよ!」と言われた。

シンは一瞬眼を逸らす。
其処で、同情の眼差しを向けて来る幽香と眼が合った。幽香は、だが何も言わなかった。
浮かんでいる表情は、諦めか。それとも哀れみか。分かった。幽香はシンを見捨てる気だ。
咳払いをして、シンはこいしに向き直る。「…誰が変身するんだ?」 一応聞いてみる。
すると、こいしは、シンを見詰めたまま、またニッコリと笑ってくれた。何て良い笑顔だ。
穢れも邪悪さも、澱みも濁りも何も無い。純粋。純真。無垢。その全てだった。
「俺用か…」 呟いたシンは絶望した。あんな笑顔で言われたら、抗えない。断れない。
今まで緩やかだった筈のリビングの空気が、まるで処刑場に吹き溜まる瘴気の様に沈んだ。
死刑宣告を受け、断頭台に首を乗せられたのは他でもない。シンだった。

「ね、ね! 一度、これ着てみて!」 
首を落とす斧刃は速攻で降って来た。容赦も糞も無い。電光石火だった。
テーブルの上で、ひょっとこ仮面変身セットを手渡されて、シンの貌が引き攣る。

「それを着て、地底の平和を守る正義の味方になれば、皆と仲直り出来ると思うよ!」

つまりは、シンに変身ヒーローになれとでも言うのだろうか。勘弁して下さい。
こいしの声音は期待に弾んでいて、凄く楽しそうだった。心遣いが在り難い故に、残酷過ぎる。
笑って誤魔化そうとしたが、駄目だ。こいしはシンが着替えるまで待ち続ける構えだった。
どうすんだよコレ…。シンは手に持った御面と風呂敷マントに眼を落として、困り果てた。
マジかよ、とも思った時だ。不意にこいしが、笑顔のままで寂しそうに眼を伏せた。

「私もね、ずっと考えてたんだけど…。
やっぱり、地底の皆との誤解をすぐに解決するのは、無理だよね。
関係を取り戻すって、本当に少しずつしか出来ないのは、分かってるつもりだよ」

其処まで言って、こいしはシンの手にした“変身セット”に視線を落とした。
地底の者達とシンとの関係を修復するのは、少しずつで無いと無理だろう。
簡単じゃないし、時間も必要だ。それだけの被害を出したのは事実だ。
そんなのは分かってるんだ。十分に理解しているつもりだった。
シンは黙って、こいしの言葉を聞いていた。幽香も同じだ。

顔を上げたこいしは、シンと幽香を交互に見た。
だからね…、と言葉を続けるその眼は、やはり真剣だった。

「突飛なアイデアだけど、もしもシン君が地底の平和を守るヒーローになれば…。
皆がシン君の話を聞いてくれる切っ掛けになるかも…って考えたんだ。
地底の為、私達の為に、…シン君が戦ってくれたのは嘘じゃないだもん」

自信無さそうな声音で呟いたこいしの笑みに、翳りが出来る。
シンは、胸が苦しくなった。こいしも、シンの事を真剣に考えてくれていたのだ。

如何すれば、シンが地底の者達との仲を修復出来るのか。受け入れられるのか。
気軽にとは行かなくとも。また地底に。地霊殿へと訪れてくれるのか。
その答えの形が、この衣装なのだ。嫌がらせでも、悪ふざけでも何でも無い。
こいしを少しの間見詰めてから、シンは決意と共に、ゆっくりと息を吐き出す。

「俺は良いアイデアだと思うぜ。…あんがとな、こいし」
少し悪戯っぽく唇の端を持ち上げて、白い歯を覗かせて見せる。

「やるなら、さとりには話を通しておいた方が良いな。
ひょっとこ面のヒーローが突然現れたら、流石によろしく無いだろ」

「何の話も通して無いのなら、まず余計な騒ぎを生むでしょうね。
 本当にやるなら…せめて地霊殿の主と、鬼の四天王にも話をしておくべきだと思うわ」

今まで黙っていた幽香も、少しだけ笑みを浮かべて、シンとこいしを交互に見た。
応援してくれているのだろう。椅子に座り、脚をぶらつかせる幽香の眉間から、皺が消えた。
こいしの笑みに、輝きが戻ってくる。それを見たシンも、椅子を引きながら幽香に向き直った。

「ちょっと向こうで着替えてくるぜ。此処で生着替えをするのはNGだろ?」

当たり前でしょ…、と。幽香はひらひらと掌を軽く振って見せた。
着替えるならさっさと着替えて来い、と言うメッセージだ。
「よっし…ちょっと待っててくれ」 言いながら、シンは椅子から立ち上がった。

それから、幽香が用意してくれた鉢植えと、ひょっとこ面を見詰める。
こいしの手作りらしい御面は、右側の部分が深く、余裕の在る作りになっている。
大きさも丁度良い。眼帯をしていても、顔に付けられる様に工夫してくれてあった。
ひょっとこ面を右手に持つ。そのまま、ゆっくりと左手を伸ばす。
鉢植えに咲いた、深緑の微光を纏う花草にそっと触れた。
幽香の力の加護を受けているから、萎れも色褪せも乾燥もしていない。
シンにとって、この二つは大事な、大事な絆の証だ。

そうだ。もう決めたんだ。悩むんじゃなくて、出来る事は全部やるんだ。
お面と風呂敷スカーフ、褌と頭巾を抱えて、シンはこいしに笑みを返して見せる。
そうして、ひょっとこ仮面に変身すべく、リビングを後にした。



五分後。

「待たせたな…」

リビングに戻って来たシンの姿を見て、こいしは大いに盛り上がった。
幽香の方は、これ以上無い程にドン引きだった。この点は、二人の感覚の違いだろう。
と言うか、結構なムキムキボディを、褌一丁と風呂敷マントで包んだ姿は、かなりキテる筈だ。
おまけに、頭には渦巻き紋様の頭巾と、顔にはひょっとこ面である。
シュールさと狂気さが相まって、外見はもう殆ど変態か化け物だった。

「うわぁ! 凄く良く似合ってるよ! 格好良い!」

「うわぁ…、何て言うか…、うわぁ…」

旗付きの棍棒も装備しているから、怪しさも爆発的に全開だ。寧ろ、かなりヤバイ。
この姿を見て『格好良い』という言葉が出てくる辺り、こいしも相当にぶっ飛んでいる。
シン自身、これちょっと不味いよな…とも思う。
だが、格好良いと言われると、満更でも無かったりした。

何かポーズ取ってみて! と、こいしに興奮気味に言われて、
シンは力強さをアピールするように、両腕に力瘤を作り、腹筋に力を込めた。
筋肉が盛り上がり、鍛え抜かれたひょっとこ仮面の肉体に力が宿る。「こんな感じか…?」
無駄な脂肪や贅肉を削ぎ落としたシンの身体は、十分に魅力的で、色気も在った。
ただ、褌一丁で、ひょっとこ面という姿が、その魅力を皆殺しにしている。
こいしの頬には朱が差したが、幽香の表情は引き攣って歪んでいた。

「どうだ…? 勇気と正義のヒーローとして、問題無いか?」

それなりに真面目に変身しようとしているのだろう。
シンの声音が妙に真剣なせいで、幽香もどんな反応をすれば良いのか迷う。
だが、あの姿のままでは、真面目も不真面目も無い。其処に居るのはただの変質者だ。

「逆に聞くけれど…、問題じゃない箇所は何処なのよ…。
 …想像を遥かに超えるビジュアルね。霊夢が調伏しに来るレベルだわ」

仮に、さとりや勇儀達に前もって話しを通していたとしてもだ。
今の姿のシンが地底にやって来たら、蜂の巣を突いた様な大騒ぎになるだろう。
本末転倒も良い処だ。関係を修復するどころか、粉々に爆散してしまう。

「う~ん…。でも、確かにちょっと派手だったかな…」
こいしも、流石に此れは不味いと思ったのだろうが、“ちょっと”どころの話では無い。
どう考えても、明らかに遣り過ぎである。
確かにアグレッシヴ過ぎるよな…、と、シンも面の下で笑う。

玄関の方から、来客を告げる軽い鈴の音が聞こえたのはその時だ。
「遊びに来てやったわよ~。居るんでしょ~」 不遜と言うか、妙に偉そうな声音だ。
その癖、何だか楽しそうで、ウキウキしているのが伝わって来る。

誰の声なのかはすぐに分かった。幽香とこいしが、一緒に玄関の方へと顔を向ける。
また面倒な奴が来たな…、それに何てタイミングだよ。シンは溜息を吐こうとして止めた。
「お客さんだね」と、相変わらず笑顔のままのこいしと顔を見合わせ、幽香が押し黙る。
その貌は渋そうに歪んでいて、少々鬱陶しそうだ。ふと、幽香とシンの眼が合った。

「相手をするのも疲れるわね…、追い返して来て頂戴」
気怠そうにテーブルに頬杖をついて、幽香はシンに薄い笑みを浮かべて見せる。
ひでぇな…、とも思ったが、シンは取りあえず頷いておいた。
普通の客人なら幽香も持て成す気になれたのだろうが、相手が相手だ。
あの不良娘をこの場に招いたりすれば、もう収拾がつかなくなってしまう。
ただでさえ、先程は幽香もこいしに襲われ、結構なピンチだったりしたのだ。
今はやっと落ち着きつつある。これ以上の爆弾分子の登場は、遠慮願いたいのだろう。
お~い、開けてよ~。ねぇってば~、入るわよ~。居るのは分かってるんだから~。
玄関の外からだった。待ちきれないかの様に、やけに楽しそうな声が再び響いて来た。
どれだけ構って欲しいのか。最早返事も聞かずに入って来るつもりの様だ。もう仕方無い。

「ちょっと行って来るぜ…」
きょとんとした様子のこいしと、半眼のまま頬杖を付いている幽香に言い残して、
そのままの格好、つまり、ひょっとこ仮面の姿のまま、シンは玄関先へと足早に向かった。




おい。マジで入って来るつもりかよ。
シンが玄関先に着いた時には、もう扉が半分開いていた。
半端に開いたその扉の向こうに、美しい蒼い髪を靡かせた彼女の笑みが在った。天子だ。
招かれもしないのに、ズカズカと踏み込んでくる図々しさも、ある意味では彼女の長所か。
自由を謳歌する彼女は唯我独尊で、身勝手で、勝気で、それでいて純粋だった。
霊夢とは違う意味で、彼女は何にも縛られていない。自らを縛るものを拒絶していた。
爛漫と清純、不遜と傲岸が混在した彼女の性質は、歪でありながらも活力に満ちている。
その生き様や心の在り様が、眩い程に魅力的に見えるのは、時折見せる芯の強さ故だろう。

「あれぇ、誰も居ないの~? まぁいいや…。お邪魔しまぅ…ぉ…」
快活な笑みを浮かべる天子は、そのまま玄関へ一歩入って来ようとして、動きを止めた。
弾むような笑顔を凍りつかせて、驚きに身体を硬直させたのだ。
ひょっとこ仮面シンの存在に気付いたらしい。やけに重い沈黙が降りた。
眼をまん丸にしたままで、シンを凝視する天子の貌は完全に強張っていて、見た事の無い貌だった。

そんな天子の視線を受け止めつつ、「よう、何か用か?」と、シンは普通に対応した。
幽香からは追い返せと言われたものの、『忙しいから帰れ』と直球で言うのは、少し気が引ける。
当り障りの無い遣り取りで、やんわりと忙しさを伝え、この場は帰って貰おうと思っていた。
天子も空気ぐらいは読んでくれるだろうと、楽観もしていた。
だから取りあえず、シンは天子の反応を見ようと思った。

「もっ、えぇっ…と、あ、あれ…、おかしいな」
激しく眼を泳がしながら、帽子を脱いだり被ったりと、天子は挙動不審に陥っていた。
ひょっとこ仮面の姿が、相当なインパクトだったのだろう。
明らかに怯えている。どうも、ひょっとこ仮面がシンだとは気付いていない様だ。

「あ、の…、あにょ…、此処って…。
かざ…風見さんの御自宅です…よね?」

いつもの威勢は何処へ行ったのか。
へっぴり腰になった天子は、言いながらもう既に後ずさっている。
割りと怖いもの知らずな天子だが、今のシンの様な異質系のものは駄目なのか。
素で怖がっている。

「んぇ…?」
一瞬、天子の質問の意図が理解できず、ひょっとこ面を付けたままで、シンは首を傾けた。
仮面のせいでシンの声もくぐもっていたし、一種の威圧的な態度に見えたのかもしれない。
と言うか、少なくとも天子には見えたのだろう。
肩をビクリと跳ねさせて、いひっ…!、っと上擦った奇妙な声を漏らした。

「す、すぃませんっ…、ま、間違いました…!」
慌てて後ろに下がろうとして、尻餅をついたがすぐに起き上がり、踵を返して逃げ出した。
泣き出す寸前みたいな貌の天子は、扉をぶち破る勢いで外に駆け出して行く。
凄い速さだった。御蔭で、その背中に声を掛ける暇も無かった。
あ~…。今度会ったら、謝った方が良いかもしんねぇな…。
呟いてから、シンはゆっくりと息を吐き出して、ボリボリと頭を掻いた。
やっぱ、こりゃ駄目だ…。




天子が帰って後。程無くして、こいしも幽香の家を後にした。
シンと会い、色々と話も出来たし満足したのだろう。
一応、ひょっとこ仮面の件に関しては、保留という事で納得して貰った。
さとり達とも話しをしていないし、まだ幽香を一人きりにはしておけない。
その点に関しては、こいしも駄々をこえねる事無く、すんなりと頷いてくれた。
去り際。「またね」と、再会を望む言葉と共に、手を振ってくれた。在り難かった。
たっそれだけの事に、本当に救われる思いだった。後は、俺が変われば良い。
活力と生命力を扱う為、シンの特訓が始まった。



数日の間。シンは、幽香が用意してくれた小振りの鉢植えと睨み合う。
鉢植えの花草から生命力をドレインし、自身の体内を経由させ、力を再び花草へと還す。
命を等価のまま循環させるには、エネルギーの変質を極力に抑えなければならない。
つまりは、50の生命力をドレインしたならば、そのまま50を還すという事だ。
言葉にすれば簡単だ。一見すれば、無意味な作業の繰り返しにすら感じるだろう。
だが、実際は膨大な精密術式であり、規模こそ小さくとも、それは命の移し変えだ。
行程自体が単純でも、必要な集中力と精神力は尋常では無い。
命に直接触れ、その力にも干渉していく。これが、まず最初の壁だった。

喰い過ぎ、吐き出し過ぎは駄目だ。繊細な加減が必要になる。
花草から50の生命エネルギーを取り込むつもりが、100の値を取り込んでしまったりした。
50の内、49を自身の肉体に取り込んだり、
逆に、200近くを吐き出してしまい、花草が巨大化してしまたったり。
とにかく、数え切れない程に失敗を重ねに重ねた。ちっとも上手く行かない。


今日も、幽香の花の世話を手伝った後、もう殆ど荒行に近い特訓を一人行っていた。
リビングに淡い緑光が明滅し、差し込んで来る仄かな朱色の陽光と重なる。
陽の色は夕暮れへと変わりつつも、昼の日差しの名残が在った。
白昼でも薄暮でも無い、曖昧な今の時間を表している様だ。

…ちょい休憩だ。呟いたシンは、息を吐き出してリビングのテーブルに突っ伏した。
激しく運動したかのように息が乱れているし、疲れた貌の額には、汗が浮かんでいる。
数時間ぶっ続けで術式を組み立てて、失敗して、また組み直してを繰り返している。
流石に、集中力が底を付いて来た。頭が働かない。
突っ伏していた体勢から、ゆっくりと身体を起こして、シンは椅子に凭れかかる。
だらしなく両腕をだらんと下げ、頭を傾けながら、テーブルへと視線を上げた。
其処には、花草の揺れる鉢植えと、ひょっとこ面が置いてある。

しかしタフだな…、コイツも…。グロッキー状態のシンは、参ったみたいに少しだけ笑う。
幽香の魔力と能力の加護を受けた花草は、ドレインを受けて続けても未だ健在だ。
ドレイン量が少ない事もあるだろうが、普通ならとっくに枯れ草になっている筈である。
瑞々しさを全く失わないその姿は、まるでシンを鼓舞しているかの様だ。
彼とも彼女ともつかない眼の前の花草は、本当にシンの相棒だった。
頼もしい限りだ。シンはオーバーヒート気味の頭を緩く振って、首を鳴らした。

等量の命を受け取り、返還し、廻らせる。その難しさに、シンは舌を巻く。本当に難しい。
白玉楼で桜を咲かせた時。あの時、自身は如何やって法術式を組み立てたのか。
ぶっつけ本番な上に、勢いだけで成功させてしまったから全く思い出せない。
シン自身、頭で理論を築くよりも先に、身体が動くタイプだから、余計だ。

“悪戦苦闘とは、正に今のお前の事を言うんだろうね”
ぼんやりとする頭の中。耳元。すぐ傍だ。あの“声”が聞こえた。
だらしなく椅子に凭れ座った体勢のまま、シンは動くことも無く、鼻を鳴らす。

“進歩してないな。序に、成長の兆しも見えない”

うっせぇよ。分かってると思うけどよ、マジで難しいんだぞ。そう簡単に行くかよ。

“お前には無理だ”“お前は、歩く西行妖みたいなもんだろう”“止めとけよ”“分かってるだろ”

…だから、何とかしようとしてるんだろうがよ。足掻いてんだ。俺は止めない。

“なら、一つ聞きたい”

何だよ。

“そんなに頑張るのは、お前自身の為かい?”“それとも、誰か為かい?”


シンは心の中で言葉を聞きながら、椅子に座り直して、ぐりぐりと首を回した。
聞こえてくる“声”が、怪しいくらいに真剣で、すぐには言葉が出てこなかった。
誰の為か。そんな事は、“声”の主だって知っている筈だ。俺自身だからだ。
わざわざ聞いてくるなんて、妙な奴だな。確かめたいのか。それこそ無駄な事だ。
長く息を吐き出して、軽く伸びをした。

両方に決まってる。一々聞くなよ。分かりきってんだろ。

“そうかい…”“そんなに大事なのか”“妖夢が”“幽々子が”“幽香が”“こいしが”“皆が”
“だったら、ひょっとこの面はいつでも持っておけよ”“お前は”“俺は”
“暴れる時には笑っちまう”“あの笑顔は、見せない方が良い”
“お前だって、見せたくないだろう”

含みのある言い方だな。…何が言いたいんだよ。

“最初で最後の忠告だ”“その雑草との睨めっこも良いが、思い出せ”
“お前は何で此処に居るんだ”“それを忘れたら、利己的も利他的も無い”
“お前は術式を編むのに没頭していて、気付いていない”

あぁ? 何だ? 勿体ぶるなよ。

“気配だ”“二つ”“この家の近くに来てるぜ”

シンは、自分の体から熱と汗が一気に引いて、心臓が冷たくなるのを感じた。

“幽香は、今何処だ”“一人にしてたら、ヤバイんじゃねぇのか?”












花壇の手入れを一段落させた幽香は、向日葵畑へと足を運んでいた。
黄と橙の混じる空の下、緩く澄んだ風が吹いている。涼やかで心地よい。
微かに揺れる髪を手で押さえながら、幽香は視線を落としながらゆっくりと歩道を歩く。
寂しげな貌のままで、土を踏みしめる足音は軽くて、頼りなかった。
それに、少し元気も無い。原因は、誰の眼にも明白だ。少し視線を上げれば見えてくる。
夏になれば、『太陽の畑』の名に相応しい風景が広がる。その筈だった。
今は違う。手酷く荒らされてしまった。

掘り起こされ焼かれた土地も、ある程度は再生に向いつつあるが、傷は深い。
簡単には、戻らない。今年の夏は、毎年の様な向日葵達の姿を見る事は出来ないだろう。
花が咲くには、根を張る大地が必要だ。土が、雨が、光が必要だった。
幽香自身の能力だけでは、どうしようも無い部分が抉られている。

向日葵畑の前で足を止め、幽香はその場にしゃがみ込んで、そっと地面に手を触れた。
畑には青く背の高い草が茂っていて、その土肌を見渡す事が出来ない。だが、幽香には解かる。
全ての草木が教えてくれる。痛んだ土地と、其処に根を張る者達の苦しげな声が聞こえる。
しゃがみこんだまま幽香はきつく眼を閉じて、肺から空気を押し出す様に息を吐き出した。
心の内で、辛い思いをさせてしまっている事を詫びる。その時だった。
風が吹く前に、幽香の周りに茂る草木が、ざわざわと揺れた。

地から芽吹く全ての命が、幽香の味方だ。彼ら、彼女達が、伝えてくれる。
この場から離れ、逃げるべきだ。急いで。早く。早く。危ない。早く。一人じゃ駄目だよ。
夕凪を待つ緩やかな時間だった筈だが、一気に不穏な空気になった。張り詰めている。
危険を感じ、幽香は立ち上がって踵を返し、家へと戻ろうとした。「今は一人かい? 幽香ちゃん…」

息が止まるかと思った。振り返った其処に、見覚えの無い男が一人、立っていた。
背丈は180センチ程。襤褸布を被った様な姿で、麻か何かの下穿きもボロボロだった。
茫々とした暗い茶色の髪が、頭巾と共に顔の半分程を隠していて、かなり不気味だ。
上背が在る筈なのに、異様な猫背で、かなり姿勢が悪い。
纏う雰囲気もやけに不吉で、下卑た笑みを浮かべる唇からは、黄ばんだ歯が覗いている。
一見すれば浮浪者にも見えるが、明らかに違う。髪の隙間から覗く瞳孔が横に裂けていた。
人間では無い。妖怪だ。

「これだけ近づいても、俺の存在に気付かない所を見ると、
あの眼帯をした餓鬼も、どうも大した事の無い様だねぇ。…警戒して損をしたよ」

男は、縦と横に瞬きをして、奇妙な程に長い舌で、唇をレロレロと舐めて見せる。
幼い幽香を見下ろす男の眼には、待ち望んだ瞬間を迎えた様な愉悦が浮かんでいた。
えふ、えふふ…。肩を細かく揺らし、男は笑う。その男を睨み返し、幽香は一歩後ずさる。
「何か用かしら…」 気丈に振舞おうとする幽香だったが、前に脚が震えた。
情けない。こんな奴に。私が怯むなど。だが、今の姿ではどうしようもない。
何も出来ない。抵抗らしい抵抗と言えば、相手の思う通りの反応を返さない程度だ。

「えふふへへ…。連れない事を言うね。お迎えに来たんだよ。
 一緒に、遊ぼう。幽香ちゃん。言っておくけど、拒否権は無いよ」

「下品極まり無いわね…。自分勝手な男は好きじゃないわ」

吐き捨てる様に幽香が言うと、猫背の男はまた肩を揺らして笑った。

「良いよ。それで良い。そうやって嫌がってくれた方が、俺は楽しめるよ。
 悲痛に泣き叫んでくれたら、もっと滾るね。女の子は笑顔が似合うと言うけど、違うね。
 泣き顔が一番良い。幽香ちゃんの可愛い貌が歪むのを想像すると、もうビンビンだよ」

「そうやって言葉を並べて、相手の怯える貌が見たいのか。
下らない事をやってる暇があったら、さっさと攫って行くぞ」

今度は、後ずさる幽香の斜め後ろだ。落ち着いた声だった。
恐らくは、シンが周囲に居ないのを確認していたのだろう。
何て念の入れようだ。挟み撃ちされている。
まるで忍び寄る様に、奴は音も無く空から降りて来ていた。
男だった。猫背の男と同じく、この男も妖怪だ。みすぼらしい襤褸を来ている。

短い黒髪を刈り上げており、首から両肩にかけて、文様が浮かんでいた。刺青か。
慎重は170センチは無い。165センチ程だ。小柄と言っていい。
しかし、纏う雰囲気が明らかに危険だった。
恐らく、誰が見ても筋骨隆々なのは一目で分かる。
精悍な顔の右半分は潰れ、爛れたように皮膚が引き連れて、歪んでいた。
幽香を見下ろす残った左眼は鋭く、殺気で満ちている。
今にも襲い掛かって来そうだ。握られた男の拳がミシミシと音を立てている。
その衝動を抑えているのだろう。
黒髪の男の無表情は、やけに硬い。
無理矢理に感情を押さえ込もうとしているみたいだった。

黒髪の男は、幽香の家の方を一瞥してから、幽香に視線を戻した。
だが何も言わずに、また直ぐに視線を周囲に巡らせる。「お前が連れて来い」
硬い声で言った黒髪の男は、屈強なその身体に群青色の妖気を纏わせた。
何をする気だ。そう言おうとしたら、息が出来なくなって、身体が浮かんだ。
気配も音も無く接近して来た猫背の男が、幽香の首を掴み上げたのだ。
余りに呆気無かった。まるで、子犬でも持ち上げるみたいだった。

「ぁ…ぅ…!!」 幽香は自分の首を掴む、猫背の男の指を外そうともがいた。
だが、無駄だ。今の幽香の力では、絶対に太刀打ち出来ない。
肉体の強さの差で言えば、今の幽香と猫背の男では、大人と子供どころの差では無い。
相手が妖怪である事を考えれば、絶望的過ぎる。逃げようにも、もう無理だ。
足が地面に付いていないだけでなく、宙へと飛翔する力も無い。
この状況を打破する為に、何か行動を起こすには、今の幽香は余りに非力だった。
情けなさと悔しさ、それに首を摑まれた苦しさで、視界が滲んだ。

「こんなに慎重に動かなくても良かったなぁ。
 余裕じゃん。超余裕じゃん。な~んもビビる必要無かったじゃん」

猫背の男が、楽しそうな声で言う。幽香を連れて行く気だ。何処へ。分からない。
だが、この男い連れて行かれれば、絶対に無事では済まない。それは間違い無い。
何とかせねば。そう思った時だ。

「貴様は、俺の事を覚えているか…?
 随分、昔の話だ。もう何年前だか分からない程、昔だ。
俺はお前を襲った。だが、簡単に返り討ちに合い、半殺しにされた」

猫背の男の手から逃れようと、未だもがこうとする幽香を見て、何を思ったのか。
押し潰した様な低い声音で言い、妖気を纏った黒髪の男は、奥歯をゴリゴリと噛んだ。
幽香は、反吐が出そうになった。これは報復なのだろう。
完全な逆恨みだが、思考の飛んだ妖怪なら珍しい事でも無い。
いかにも、卑劣愚劣な弱小妖怪の考えそうな事だ。

「まぁ、覚えてなどいないだろうな。
大量虐殺も、遊びのうちなどと嘯く貴様は…」

言いながら、宙吊りにされている幽香の顔を覗きこんで来る。
当然と言えば当然だが、首を摑まれた状態の幽香は、声を出して答えられない。
代わりに、苦悶の表情を浮かべ、目尻に涙を浮かべながらも、黒髪の男を睨む。
黒髪の男の方も、返答など待っていなかったに違い無い。
何かを思い浮かべる様に、ゆっくりと眼を閉じて、空を仰いだ。

「俺の腕と脚を潰したお前は、優雅な笑みを浮かべながら俺を見下ろしていたな。
 嗜虐的で、冷酷で、美しい微笑だった。本当に花の様だった。今思い出しても、溜息が出る。
 芋虫の様に這いずりながら、俺はお前に心を奪われていた。恐怖と、お前の虜だった」

其処まで言った黒髪の男が、視線を空から幽香に戻して、すぐだった。
厳しい無表情から一変して、ふっと微笑みを浮かべて見せたのだ。
一瞬、苦しみの中にありながらも、幽香は混乱した。

「俺は、お前に惚れた」
真剣で、吹っ切れた様な声音が、酷く似合わない。
何を言っているんだ。こいつは。呆然としそうになる幽香を尻目に。
黒髪の男は微笑みながら、妖気を纏う掌を、向日葵畑へと向ける。

次の瞬間だった。
黒髪の男の掌に、妖術陣が浮かんだ。群青の炎が迸る。
猫背の男が、ぼさぼさの長い髪の下で、茶化す様に、ヒューと口笛を吹いた。
幽香は、眼を瞑る暇も無かった。熱風が吹きつけて来て、幽香の髪を嬲る。

向日葵畑が、青鈍の陽炎に覆われた。
見れば、地面にも術陣が浮かび、向日葵畑をすっぽりと覆っている。
花も、草も、土も、その陣の中に在る全てが燃え立つ。迫る薄暮に、煙霧が満ちていく。
首を絞められる苦しさも忘れ、幽香は眼を見開いて、青鈍の揺らめきを見詰めていた。
それしか出来なかった。喪失感が大き過ぎると、心が麻痺する。
黒髪の男は、そんな幽香の表情を見てから、また優しげに微笑んだ。

長かった。実に長かった。寝ても覚めてもお前を想っていた。
お前の悲しむ貌や、苦しむ貌が見たくて堪らなかった。長かった。
だが、好機が廻って来たんだ。お前が弱体化したという話を聞いた。
俺は、いてもたっても居られなくなって、此処に来た。お前を見ていた。
ずっと。ずっとだ。注意深く観察していた。やっと、お前の傍に来れたんだ。

熱に浮かされた様な口調で言いながら、誰に聞かせるでも無く、男は一人呟いている。
そうして、陶然としたまま、向日葵畑に向け、青鈍の炎を撒き散らし続けていた。
術陣の光と、熱を含んだ青い揺らぎが、済んだ緑を蝕んでいる。
や…やめ…。辛うじて、幽香の口から、縋る様な声が漏れた。その声は届いていた。
黒髪の男は、悲しそうに首を緩く振った。猫背の男は忍び笑いを堪えている。

「言ったろう。俺は、お前の悲哀に滲む貌が見たい。
 歪んでいるが、これも愛の形だ。俺は、そう確信している。
 妖怪の山で、鉄の木偶どもと戦っている時から、ずっと考えていた。
 どうすれば、お前にこの想いを理解して貰えるのか。考えていた」

答えは一つしか無かった…。その言葉に、猫背の男が爆笑した。
えひぇひぇひぇひぇひゃひゃ! 神経を逆撫でする大笑にも、黒髪の男は表情を崩さない。
変質的で、狂気的な、それでいて何処までも真面目な貌だ。一際強く、青鈍の炎が奔る。

熱い揺らぎを見詰めながら、黒髪の男は心苦しそうに表情を曇らせた。

「お前から全てを奪って、俺のものにしてしまうしかしない」

「ちょっと待てって! 『俺の』、じゃないから! 『俺達』の!
 こいつってば酷い奴だねぇ、幽香ちゃん。でも大丈夫、安心してね。
今は悲しくても、すぐに俺が忘れさせてあげるよ」

猫背の男は笑いながら、宙吊りに掴んでいる幽香を、自分の顔の近くまで持って来た。
それから、長い舌でべろっと幽香の頬を舐った。

生臭く、生ぬるい感触が在ったが、幽香は何の反応も返さなかった。
返せなかった。そんな余裕も、気力も無かった。
眼の前で、太陽の畑が死のうとしていた。殺されようとしている。
炎の海と化した向日葵畑を見ているしか無かった。不覚にも、遅れて涙が溢れて来た。

やめて。もう、止めてよ。知らない。全然、覚えてない。猫背の男も。黒髪の男も。
分からない。永い間生きているから、記憶の中に埋没しているだけなのか。どうでも良い。
自身の弱体化が、まさかこんな結果を齎すとは、思っていなかった。
危険が及ぶのは自身だけだと。そう考えていた。だが、違った。
無関係な花達を、巻き添えにしてしまった。

幽香の胸の内を見透かしたのだろう。
黒髪の男が、少し離れた所にある、先程まで幽香が手入れをしていた花壇へと掌を向けた。

「傷つけてしまった様だな。辛そうな貌をしている。
 良い表情だ。愛おしい。お前を愛しているぞ。深く愛している。
俺の愛は、少し痛みが伴うだろうが、すぐに俺無しでは居られなくなる」

反吐の出そうな台詞と共に、青鈍色の微光が、再び術陣を宙に描き出した。
燃やす気だ。花達を。何もかもを灰にするつもりだ。男は、また幽香に微笑んで見せた。
何処までも慈愛に満ちた笑みだった。―――やめて。やめてよ。もう、止めて。

幽香は、声に成らない叫び声を上げた。
締められた喉首から漏れた声は掠れていて、言葉を為さない。
その幽香の悲痛な声無き叫びに、空が応えた。

呻き声とも悲鳴ともつかないその声を、雷鳴が掻き消したのだ。
激しい明滅で、視界が焼かれた。雷音が身体にぶつかるのを感じた。
凄まじい衝撃だった。魂と心を揺さぶり、抵抗も反抗も赦さない撃音だ。
耳鳴りもしていて、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

何の心構えもしていなかったから、幽香は驚愕に身を竦ませる。
黒髪の男も、猫背の男も同じだった。彼らも、短い悲鳴の様なものを漏らしていた。
雷響に圧され、黒髪の男は意味も無く後退って、猫背の男はその場にへたり込む。
その拍子に、摑み上げられていた幽香も、地面に尻餅を付いた。
首を絞める手の力が緩む。咳き込みながら、視線を上げた幽香は、見た。

暗紅と黒瘴の万雷が、帳となって向日葵畑を覆っていた。
地雷の如き轟音と共に、陽炎が霧散する。落雷は、地と草を穿つ事は無かった。
猛り狂う見た目とは裏腹に、破壊や殺戮とは遠い力だった。
代わりに、向日葵畑を焼いていた青鈍の炎が、稲妻に喰われたのだ。

黒髪の男も、猫背の男も、ただその光景を見ていた。眼を奪われていた。
それ以外に何が出来るのか。見る者の心に焼き付く、清冽で、凄烈な天雷だった。
向日葵畑から炎が瞬く間に消え失せ、あとに残ったのは、風に靡く煙霧と灰だった。
焼かれ、朽ちた向日葵畑が無残な姿を曝している。気付けば、幽香は呼吸を止めていた。

今までの轟音が、嘘の様に静まり返っている。
空も、風も、地も、何もかもが息を潜めていた。
澄み渡った凪が、風に塗された灰と煙を攫っていく。
神鳴が齎した浄化と静穏の中を、彼が歩いて来ていた。

「お前ら誰だよ。幽香の友達か?」
彼の声はガラガラに罅割れていた。悠然とはほど遠く、足取りは重い。
あれだけの規模の召雷だ。消耗していない筈が無かった。息遣いが荒いのが、此処からでも分かる。
肩で息をする彼は、ひょっとこ面を被り、手には旗付きの棍棒を握っていた。
幽香の危機を察知して、おおいに慌てていたのだろう。
愛用の白コートも、着るのでは無く、マントの様に首に引っ掛けている。

鍛え抜かれた肉体に蒼稲妻を纏わせた彼は、猫背の男と黒髪の男を見据えながら、首を傾けた。
たったそれだけの動作だったが、鼓動と呼吸が止まるかの様な、凄まじい威圧感だった。
首を摑まれたままの幽香は、尻餅を付いたままの猫背の男が、体を硬直させるが分かった。
立ち上がれて居ない。黒髪の男も、額に脂汗をびっしりと掻いて、瞳を激しく揺らしていた。

ひょっとこ面の下で、彼は少し咳き込んだ。
それから、手にした棍棒の先端を持ち上げ、すっ…とこちらに向けた。
正確には、猫背の男に向けたのだ。

あの稲妻の嵐を見た後だったから、命の危険を強烈に感じたのだろう。
「ぅひぃぃ…っ!!」 可哀想になるくらい怯えた声で、猫背の男が悲鳴を上げた。
身体が浮き上がるような感覚を覚えたが、幽香には何もする間も無かった。
猫背の男は、咄嗟に手に掴んでいるままの幽香を、盾にでもしようとしたのだろう。
もしくは、人質にでもしようとしたのかもしれない。どちらにせよ、無駄な抵抗だった。
幽香も、まったく眼で追いきれなかった。

気付いた時には、視界の隅の方で、黒髪の男が血を吐きながら吹っ飛んでいた
彼が払い除けるみたいにして、軽い裏拳を鼻面に見舞ったのだ。とにかく疾い。
もう、ひょっとこ面が眼の前に在る。「取りあえず、幽香を放せよ」 低い声だった。
怒気を孕んだその声と同時に、ひょっとこ面の彼は、猫背の男の手首に手を伸ばす。
絶対に反応出来ない速さと、間合いの詰め方だった。幽香の首を摑み上げている方の手首だ。

彼は、がっちりと掴んで、そのまま握り潰した。肉と骨が潰れる音と、悲鳴が聞こえる。
その悲鳴も長くは続かなかった。彼が、靴底で猫背の男を蹴り飛ばしたのだ。
人の形をしたものが、あんなに派手に地面を転がってぶっ飛ぶのを見た事が無い。

解放された幽香は、空中に放り出された様な格好だったが、何の心配も無かった。
首を絞める乱暴な手の感触の代わりに、壊れ物を扱うみたいに優しく抱き止められた。
気付けば、幽香はひょっとこ面を横から見詰める位置に居た。片手で抱きかかえられている。
本当にすまねぇ…。くぐもり、呻くような声が、ひょっとこ面の下から聞こえた。

張り詰めていた緊張が緩んだせいだろう。その声を聞いた瞬間だった。
安堵と悲しさと悔しさが、いっぺんに幽香の心の中に溢れる。
それは混ざり合って意味不明の激情となって、嗚咽と共に涙が止まらなくなった。
きっと、体が幼退しているせいだ。普段なら、こんな貌は絶対に見せない。見せたくない。
泣き止もうとした。涙を両手で拭う。私は平気だと言おうとした。全然出来なかった。
今になって、恐怖がやって来た。身体が震えて、冷静な思考なんて無理だった。
もう自分ではどうしようも無い程、心が千々に乱れ、感情を抑制出来ない。
ひょっとこ面の彼の首元に抱きついて、自分の貌を隠すのがやっとだ。

「ぬぐ…ぉ…! 貴様…!」
潰れたような掠れた声がした。それが、黒髪の男の声だという事はすぐに分かった。

「邪魔を…っ!! 風見幽香から、俺の風見幽香から離れろ…!
 触れるな…! 触れるな…! 俺の…! 俺の愛を…! 愛を…! 想いを…!
伝えねばならん…! その為に、俺は今まで生きてきたのだ! 邪魔をするな…っ!」

奴は喚き散らし、鼻を手で押さえながら起き上がる途中だ。
顔の形が歪んでいて、口許も鼻も、押さえる掌も血で真っ赤だった。
足もガクガクと震えているし、眼の焦点も大分怪しい。それでも立ち上がるのは、執念か。
青鈍色の炎が、ふらつく奴の身体に灯った。何て端迷惑な気合だ。

「…言いたい事は、そんだけか?」
彼は。シンは、幽香を抱え直して、面の位置を直す。
それから、焼かれた向日葵畑へと視線を向け、歯軋りをした。
バリバリッ…、と雷線がシンの身体を包む様に奔る。同時だった。

シンの肌から血の気が引いて行き、白い肌に青味が差して来た。
肌理細かい金髪も、まるで色が抜けていく様に白金に近づいてく。
纏う雷は、より黒く。黒く。黒く染まる。緋が縁取った、黒い稲妻だ。
ざわざわざわと、シンの纏う衣服にも、仄黒い波が立つ様に揺らめいた。
稲妻の脈動は、地に広がって草花を揺らし、吹いて来た風に電弧を塗す。

「幽香の代わりに、俺がお前の愛とやらを受け取ってやるよ。
 俺も、お前と同じだ。独り善がりな暴走のせいで、色々駄目にしちまった。
 今もそうだ。俺が間抜けなせいで、幽香の大事な向日葵畑も守れなかった…」

シンは言いながら少し屈んで、まだ涙を浮かべる幽香を、地面にそっと降ろした。
離れててくれ…。何とかして見せる。そう言ったシンの声音は低く、全く揺らいでいない。
幽香が何か言葉を返す前に、シンは立ち上がって背を向けてしまった。
あの面の下で、シンは一体どんな表情を浮かべているのか。幽香からは見えない。
雷の陰影を纏う背中には、迷いも躊躇も感じられ無かった。




「逃がさねぇeeeeEEEEぞ。
お前ら二人には、手伝って貰う事も在るんだ」

特に構えも無く、シンはまた掌を横合いに翳す。
閃光と雷鳴が轟き、顔を庇った幽香は尻餅をついた。
突き出されたシンの掌から、雷で編まれた鎖が、凄まじい勢いで伸びたのだ。
ゼロファイトチェインだった。狙いは、黒髪の男では無い。
ほうほうの体で逃げようとしていた猫背の男だ。

気付かれないとでも思っていたのだろうが、そんな訳が無かった。
獲物を絞め殺す蛇の如く、鎖は猫背の男に絡みつき、がっちりと拘束した。
おい、止めてくれ! か、勘弁してくれ! お願いだ! 悪フザケだったんだ! 
拘束され、虫の様に地面に転がりながら、今更な命乞いを始めた猫背の男は、半泣きだ。
がしゃがしゃと身体を揺らしているが、そんな事で鎖が外れる筈も無い。
むぁぁあああ…!! 黒髪の男の方は、逃走も戦闘も、思考も判断も何も無い。
ただ、ヤケクソにシンに突っ込んで来た。屈辱からの蛮勇なのか、愛の深さ故か。
どちらでも良い。黒髪の男は青鈍色の炎を纏い、掌には妖術陣を象っている。
花草を踏み躙って、突進して来る。だが、シンの方が遥かに疾かった。
ギャララララ…ッと、稲光と共に金属の擦れる音がした。「ひぎゃぁ!!?」 

迫ってくる黒髪の男に目掛けて、シンは雷鎖を編み上げた腕を振り抜いた。
そのまま、拘束され、身動きの出来ない状態の猫背の男を、ぶちかましに掛かったのだ。
かなりの勢いと速度を乗せた筈だったが、黒髪の男は止まらなかった。「ぐぇえへ…っ!?」
飛んで来た猫背の男に、青鈍の炎を纏わせた拳を叩き込んだのだ。黒髪の男は吼えた。
両拳を振り上げて頭上で組み合わせ、体ごとぶつかってくる。組まれた拳には、青い炎。
シンは動かない。パンチを貰って吹っ飛ぶ猫背の男を、再び豪腕で一気に手元に引き寄せる。
そうして、盾の様に自分の前に差し出して、音も無く踏み込んだ。間合いを潰す。
黒髪の男が、組んだ拳を振り下ろせない程の至近距離まで飛び込む。
それでも、勢いは殺さない。シンは横殴りの要領で、猫背の男を叩き付ける。
「ぬぐぅあ…っ!!」 「あびょ!!」 重く鈍い、かなり危険な音が響いた。
二人の男は、その場に崩れ落ちた。

旗付きの棍棒は使っていないが、腕一本で十分だった。
黒髪の男は、まだ何とか起き上がろうとしているが、眼が完全にイっている。
仮に立ち上がれたとしても、あの状態では動き回るのは無理だろう。
一方、猫背の男の方は、白目を向いて泡を吹いていた。
あのまま放置しておけば、そう長くは持たない筈だ。
もう良いと。幽香は、シンに声を掛けようとしたが出来なかった。

地面へと棍棒を突き立てるシンのジーンズやコートが、一瞬、黒くなった様に見えたのだ。
一瞬だったから、見間違いかと思った。だが、様子が少しおかしい。
ひょっとこ面をしたまま、シンの肩が僅かに上下していた。笑っているのか。

「そういや、お前らの名前も知らねぇな。
 まぁ良い。何だって良いな。お前らの名前なんて。
いちいち面倒くせぇから、トムとボブって事にしとくか…」

分からないが、ひょっとこ面を付けたままのシンは二人の男の前にしゃがみ込んだ。
そうして。右手で、黒髪の男の喉首を。左手で、猫背の男の喉首掴み上げたのだ。
完全に宙吊りだ。

「さぁて…、今日、俺とお友達になりましたぁaaaaAAAAAA。
黒髪偏執狂のトム君と、茶髪変態のボブ君にぃiiiii、サプライズなクエスチョンだ」

シンの声は、やはり低く、かなりの怒気と孕んでいる。
あのふざけた様な口振りは、理性を失う程に、完全にぶち切れてしまわない為なのだろう。
声音も全く笑っておらず、言葉自体がおちゃらけて居るせいか、異様なまでに迫力が在る。

バリバリバリ! バッチバチバチバチ! と。
稲妻が、シンを中心にして渦を巻いた。地には、雷線が描く暗紅の術陣が刻まれていく。
巨大な術陣だ。幾重にも重なり合い、螺旋を描く様にして、空まで届こうとしている。
吹き荒れる法力の脈動は、小さな幽香の身体を後方へと押し流して、シンに近づけない。
雷鳴に掻き消されて、やはり声も届かないだろう。

「Q、お前達が荒らした向日葵畑を再活性させるには、
一体どれだけの生命力が必要なのでしょうかぁaaaAAAAAAAAAA」

その声音に滲む怒りは、果たして、二人の男だけに向けられたものなのだろうか。
まるで、自分自身にも向けられている様にも感じる。余裕の無い、自分を責める声だった。
何が起ころうとしているのか。シンが何をしようとしているのか。予想が出来ない。
喉首を掴み上げられている、黒髪の男も、猫背の男も同じだろう。
だが、このままでは自らの身が危険である事は察した様だ。

黒髪の男は、首を掴むシンの腕を外そうと暴れ、蹴りをシンの横っ面にぶち込んだ。
おおおおおおおお…っ!! 叫びながら、何度も何度も。容赦無く蹴り捲くった。
だが、シンはビクともしない。腕の力は弱まる気配を全く見せない。
それどころか。二人の男を掴み上げたまま、緩い治癒法術まで施して見せた。
何をする気なのか。今まで泡を吹いていた猫背の男が、意識を取り戻した。
状況を把握して、次の瞬間には泣きべそをかきだした。抵抗が無意味だと理解したのだ。

「答えは、“やってみなきゃあ、わかんねぇ”。
 かなりマジの逆ドレインだ。お前らの命はギリギリまで借りるぞ」

シンは胸を逸らして、天に向って咆哮を上げる。
空が慟哭に応える。浮かび上がった術陣を通り、まるで巨塔の如き落雷が、シンに落ちた。

顔を腕で庇いながら、幽香は眼をきつく閉じる。
視界が白く塗り潰され、引き裂かれ、轟音で聴覚が麻痺した。
何が起こっているのか分からない。だが、何だ。暖かさを感じる。
身体に沁み込み、満たされて行く様な感覚だ。まるで春風の抱擁であり、庇護だった。
そんな場合でも無いのに、眠くなってきそうな程の安心感と安堵感が在る。


混乱しそうになる頭を冷静に保ち、戻りつつある視界に意識を集中しようとして、気付く。
今度は、澄み切った寒さを感じた。冷たい風が一陣、吹き抜けて行った。雪風だった。
咄嗟に空を見上げて眼を擦り、その光景をはっきりと見た幽香は息を飲み込んだ。
おかしい。完全におかしい。振り来る淡く、白いこれは。雪だ。雪が降り出した。
それに、何だ。あれは。雲が渦を巻く中心。空に。穴が空いている。亀裂と言って良い。

顔を下ろし、シン達の方へと視線を向けて、幽香は眼を奪われた。言葉を失う。
シンを中心に、幾重にも象られた術陣全てが、雷光を宿らせて力線を描き出していた。
凄まじい力の坩堝だ。術陣を介して溢れ出す生命力は、周囲に在る全てに活力を与える。

草花や大地、空と風が歌う。命の頌歌だった。
吹き荒ぶ風は、活性と言うよりも、それは復活と蘇生であり、漲る力の合唱だ。
響きあう歌声に、死んだ筈の向日葵畑が歌声を乗せ始める。
まるで、時間の巻き戻しだ。灰と煙となって破壊された太陽の畑が。詠う。
蘇っていく。生命力を取り戻していく。深緑と洗朱の光の波が、傷跡を濯いで行く。
焦土は肥沃な大地へと姿を変え、焼け朽ちた草根が、再び芽吹き立ち上がる。

それだけじゃない。
万物の聖歌は響き渡り、空に新たな季節を呼び込んでいた。
恵風と薫風、凍風と金風が同時に吹き降ろしてくる。もう滅茶苦茶だ。
幽香は唇を噛んで、向日葵畑の手前、聳え立つ雷陣の中心を見据えた。
荒れ狂う神雷の中では、シンが身体を痙攣させるようにして、吼え猛っている。
掴み上げられた二人の男は、生命力放散の餌の一部にされて、同じく絶叫していた。

爆発的な規模の、ドレイン法術の反転。
衰微と貪食を裏返し、活性と復活へと無理矢理に転じている。
それは最早、『季節』と『生命』という概念への接触だ。冒涜的ですら在る。
加減を知らないシンの御蔭で、今、この頭上の空には、春夏秋冬の全てが混在していた。
途轍もない力技で、“花を咲かせる”という力を応用している。
生命力を扱う加減も、コントロールも下手糞なままだから、余計に暴力的だ。

向日葵畑は蘇り、踏み躙られた土地も息を吹き返したが、これで終わる筈が無い。
見上げる空が、季節風の嗚咽と、季節の召還という出血と共にシンに跪いている。
フラワーマスターとして、この自然の隷属と酷使を見逃す訳には行かない。
助けてくれて事には感謝するけど、こんな方法を教えたつもりは無いわよ…。
幽香は胸の内で呟いて、脚に力を混めて駆け出す。
在るべき世界、在った筈の風景は、シンが取り戻してくれた。
後は、暴れる馬鹿ひょっとこ仮面を沈めるだけだ。ホントに、世話の掛かる子ね。




[18231] エピローグ2 太陽の畑 終編
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2013/03/13 23:48
 息が苦しい。呼吸を乱れに乱して、俺は走っていた。
只管に。ただ、阿呆みたいに走っていた。前のめりになって、駆けていた。
何をそんなに急いでいるのか。自分でもよく分からない。気付いたら、もう走っていた。
口の中はカラカラ、ガラガラで、血の味がした。糞不味くて、吐きそうだ。

ぜぇぜぇ言いながら、俺は視線を上げた。此処には、空なんてものは存在しなかった。
黒一色の空僻が、無限に広がっているだけだ。ずっと向こう、彼方まで、空っぽの世界だ。
空気が粘つくと言うか、纏わり付くと言うか、とにかく圧し掛かって来る様に重かった。
何も存在しないのに、妙な圧迫感しか感じない。それと、焦りだ。何かに急かされる。
前へ。前へ行かないと。だが、俺が向いている方は、本当に“前”なのか。
俺は、何故か異様に焦っている。酷い閉塞感だ。解放感なんてものは全く無い。

何だよ此処。やけに暗いな。道も無いし、建物も無い。
目印になるようなものも無いし、人の姿も無い。何にもありゃしねぇ。
薄暗い平面の世界だ。靴底に感じる地面の感触も、上下の感覚も、兎に角曖昧だった。
ずっと向こう迄、マジで何も無い。平坦な、まるで鉄板みたいな地面が続いているだけだ。

やめろよ。何処まで行けば良いんだよ、コレ。見えねぇよ。勘弁してくれ。
おい。俺一人なのか。俺は何処へ行こうとしてるんだったけか。思い出せない。
それより、ホントに何処なんだよ此処。ああ。疲れたな。やけに疲れてる。
体の重さと怠さが尋常じゃない。走る為に動かす脚も、鉛を括ったみたいに重い。
思い出したみたいに、体の反応が鈍り出した。気付いたら、俺は疲労困憊だった。
どれだけ走って来たんだろうか。とんでもない距離だったように思う。
でも同時に、まだ駆け出してすぐだったような気もする。覚えが無い。わからない。
どっちでも良い。とにかく、疲れた。ちょっと立ち止まろう。休憩させてくれ。
別に良いだろ。そろそろ限界なんだ。やべぇんだ。ぶっ倒れそうじゃねぇか。
このままのペースでなんて、とてもじゃないが走ってられない。
ゲロでもぶちまけそうだ。つーか、誰も居ないのか。やっぱり、俺一人かよ。

そう思った時だ。
顔を上げて、気付いた。休もうとしていたのに、脚を止める事を忘れる。
ずっと向こうで、誰かが歩いているのを見つけたからだ。前方だ。
何も無い薄暗い世界で、堂々と歩を進めている彼らは、二人組だった。

一人は、青と白を基調とした王位を纏い、威厳と風格を備えた背中を、俺に向けている。
もう一人は、くすんだ赤色が目立つ旅装束と、頭の後ろで結んだ髪が印象的な、大柄の男だ。

二人の後ろ姿には見覚えが在った。
いや、見覚えが在り過ぎる。余裕で知ってる。“父”と“親父”だ。

何でこんな所に、とは思わなかった。そんな事を思う程、頭が回っていない。回らない。
俺も、だいぶ疲れてるんだろう。眼が霞んで、二人の背中は見上げる程に大きく見える。
その癖、やけに遠い。遥か向こう側だ。ずっとずっと遠くだった。
俺は近付こうとする。走る。走った。とにかく走る。走るが、遠過ぎて、嫌になる。
走っているのに、一向に距離が縮まらない。まるで近づけない。
それどころか、遠ざかっている。二人の後ろ姿が小さくなっていく。離される。
どんどん離れていく。待てよ。待ってくれ。そう声を上げても、“父”には決して届かない。
“親父”の方は、聞こえていて無視してるだけか。そう思いたい。希望的観測だ。

おい、こっち見ろよ。聞こえてるんだろ。
違う。俺の声が小さ過ぎるだけだ。聞こえてない。聞こえないんだ。

息を切らして走る俺とは違い、“父”は前を見据え、ゆったりと、しかし力強く歩みを進めている。
足取りには、迷いも、憂いも無い。己の進む道を信じて、前を見据え、己の正義を貫いていた。
それは決して独善的な歩みでは無く、広い視野と柔軟な思考を携えた、導く者の歩みだった。

一方で、“親父”の方は、少しだけ様子が違う。
まるで目的地を失いかけて、次に自分が目指す場所を探しているみたいだった。
胸を張って、足取りのしっかりしている“父”に比べて、“親父”の方には覇気が無い。
足元に視線を落としながら歩いている。緩慢では無いが、突き進む様な勢いも無い。
自分の立っている場所を、確かめているみたいだった。

俺は何とか声を出して、二人の父の名前を呼んだ。呼ぼうとした。でも無理だった。
息が苦し過ぎて、目玉が飛び出そうだ。何でこんなに必死なのか、自分でも分からない。
声が出ないんなら、とにかく前へ行こうとするが、走る脚が縺れて、すっ転びそうになる。
“父”と“親父”は、やはり、此方には気付かない。
咳き込み、バテバテでヘロヘロの俺は、何とか脚を前に出しながら、気付く。

そうか。
俺は。

あの“父”と“親父”を追いかけてるのか。
追い縋ろうと、追い抜いてやろうとしている最中なんだ。
そう言えば、そうだな。確かに、“親父”の背中を追いかけた事は在った。
賞金稼ぎの旅に出たのも、“親父”に憧れていたからだ。少しでも近づこうとしていた。
旅の途中で、俺はレイヴンに絡まれて、奴の編んだ転移法術に飲まれたんだ。
結果、俺は幻想郷に来る事になった。何か懐かしいな。
でも妙だな。俺が目指していたのは、“親父”の背中だったのにな。
目指した筈のその背中の隣に、今は連王である“父”の背中が見える。

今まで、父の後を継いで王になろうなんて、思った事も無い。
政に関わり、連王国を良い国にしてやろう、豊かにしてやろうなど、大層な事は考えた事も無い。
知識も才能も何も無い俺じゃ、政治に関わっても役にも立たない。邪魔なだけだ。
臣民の事を考えて国を動かしていくなんて、到底無理だ。違うんだ。そうじゃない。

俺が目指しているものは、もっと漠然としている。
具体的じゃない。あんまり頭を使って、未来を思い描いた訳でも無い。
薄っすらと思い出すと、息が上がってるのに、笑いが込み上げてきて咳き込んだ。
笑う余裕なんて皆無だったが、自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

結局のところ。
“父”を追い越すというのは、人間的なデカさと言うか、器の大きさというか。
そんな曖昧なものを比べようとしていたに過ぎない。気付かない内に、調子に乗っていた。
俺は、“親父”の背中を追いながら、“実父”の背中までも追い抜こうとしていたのか。

馬鹿だよなぁ。俺。まぁ、馬鹿なりには覚悟していたんだ。
簡単な事じゃない事は理解しているつもりだった。だが、出来ないとも思わなかった。
俺は強い。弱くない。強くなった。まだまだ強くなれる。こんなもんじゃねぇ。
いつかは追い付いて、肩を並べ、俺が先に行く。先に行けるんだ。そう思っていた。
ついさっきまでは、そう思っていたんだ。
自分の中にある、穢い部分だって理解した。認めた。
俺はもう眼を逸らさない。俺は成長している。その筈だった。

だが違った。走る自分の足元を見て、心が萎えそうだ。
何てこった。俺、すげぇちょっとしか前に進んでねぇ、進めてねぇ。
何だこれ。ふざけんなよ。冗談だろ。おい。誰か居ねぇのかよ。ああ、ちくしょう。
心の隅の方で余裕をぶっこいていた俺は、ようやく分かった。
俺と、“父”との間に横たわっている距離は、俺が思うよりも遥かに遠い。
だったら、その距離が意味するものは、何だ。何が違うんだ。

一歩の重みが違い過ぎるのか。
いや、それだけじゃない。一歩一歩の重みだけじゃない。
理想も思想も、決意も覚悟も、何もかもが違うんだ。
自身の小ささ、弱さを思い知らされる。遠くに在る父達の背中が、まるで聳える壁の様だ。
俺の眼が見ている景色と、“父”の眼が見ている景色も、当然だが違う。
立ってる場所が違うから当たり前だが、どうせ、到達する場所も違うんだろう。

我武者羅に走っていた俺は、とうとう倒れるみたいに素っ転んだ。
すぐに起き上がる。膝に手を付いた。動こうとしたら、上手く体に力が入らなかった。
ぜぇぜぇと息を吐き出しながら、汗を滝の様に流して、俺は足元を注意深く観察してみた。

見渡して、視線を地へと巡らせる。
眼を凝らしてみると、足跡が残っている。“父”の足跡だ。
その足跡を眼で追うようにして、地面から顔を上げていくと、“父”がこちらを見ていた。
立ち止まり、体を半分振り向かせている。慈しむ様な貌で、俺の歩みを見守っていた。
微笑む寸前みたいな貌の“父”は、何も言わずに頷いて見せて、また俺に背を向ける。
そうして、またゆっくりと歩き始めた。何かを言う間も無かった。

俺と“父”は、理念も価値観も、背負うものも違う。
考え方も違えば、性格だって全然違う。纏う雷の色も、その性質も違う。

“父”の召ぶ雷には、秩序と優雅が宿っていた。
だが、俺が編み上げて召び込む雷には、そんな上品なものは全く無かった。
気品も優しさも何も無い。喰い散らかすだけの黒い稲妻だった。
何でもかんでも違い過ぎる。似てる所なんて在るのかよ、とも思う。
俺じゃ、あの背中を追い掛けるなんて無理なんじゃねぇのか。
ちょっとだけ、そう思ったりもしたが、気付いた。

追い掛けてるんだから当たり前だが、俺が走る方向と、“父”の歩む方向は、同じだ。
だから何だと言われればそれまでだ。別に大した事でも無いだろう。下らない瑣末な事だ。
只管に真っ直ぐに進もうとする“父”は、横道に逸れたり道草を喰ったりしない。
追い掛けるには、俺も直線コースを走れば良い。ただその程度の事だが、気付いたんだ。
分かり易くて良い。馬鹿な俺でも、ストレートコースなら迷いようが無い。
前だけ見てりゃ良い。

俺は、また走り出す。全力疾走だ。それしか知らない。教えて貰ってねぇからな。
それでもだ。此処に来て。幻想郷で。仲間が出来たんだ。友達が出来たんだ。
何時の間にか、俺は色んな奴に支えられていた。皆が、俺を強くしてくれたんだ。
色々と失敗ばっかりで、間違いまくって、躓きまくって、コケまくってる。

それでも俺は、知らず知らずの内に、“父”の背中を追い掛けていた。
理由は。何だろうな。分かんねぇ。旅に出る時は“親父”の背中を追いかけてたのにな。
何時の間にか。ひょろいと言っても良い、あの“父”の背中を目指してたみたいだ。
やっぱり、その血を引いてるから。俺の体にも、聖騎士の血が流れているからか。

くだらねぇ。呟いてから、俺は体を起こして汗を拭った。
大きく息を吸い込んで、吐き出して、呼吸を整える。
考えるな。理由なんて無ぇんだよ。立ち止まってると、置いていかれる。
そうなると、何も見えなくなりそうだ。追われ、急かされる様に“父”の背を見据えた。
其処で気付いた。“親父”が、肩越しに俺を振り返って居た。眼が合う。せいぜい、数秒だ。
何を言うでも無く、無表情なままの“親父”は、すぐに俺から視線を外し、前に向き直った。
まるで、俺が居るのを確認したみたいだった。さっさと来い。そう言われた気がした。

言われるまでも無ぇんだよ。
体が熱い。血が沸騰している。湧き立って、疲弊した身体を衝き動かそうとする。
叫び出しそうな衝動に、眼の前に火花が散った。その時だった。


“おい、この糞阿呆。何処に行く気だ”
近く、遠くで、声がした。聞こえた。踏み出そうとした足を止める。
何時の間にか。誰かが俺のすぐ傍に居た。本当にすぐ近くだった。誰だ。
此処には俺と、ずっと向こうにしか見えない“父”と“親父”だけだと思っていた。
声が聞こえたのは、背後だ。やはり近い。振り返る。いきなりだった。
唐突に、この何も無い平らなだけの空間に、景色が戻って来た。
いや。景色と言うか、世界だった。

乾燥した砂地に、澄んだ雨水が沁みこんでいくみたいだった。広がり、色づいていく。
白玉楼。地霊殿。永遠亭。それに、太陽の畑。俺は見渡す。感じる。思い出す。
浮かび、蘇って来た世界は。今まで、俺が居たことの在る場所だった。
俺は、確かに其処に居た。存在していた。すぐ近く、遠くに居るのは俺自身だった。

じゃあ、今はどうだ。
俺は、何をしていた? 誰と一緒に居た? 何と戦っていた?
頭の中で、何かが引っ掛かる。それを取り出し、引き摺り出そうとした。


“お前はすぐに視野狭窄に陥るな…。
そんなんだから、幽香を危ない目に合わすんだ”

呆れた様なその声の主は、溜息を吐くみたいにして言葉を紡ぐ。
混ざり合い、歪に繋がった景色の真ん中だ。黒い俺が立っていた。
獰猛な血色の瞳をした黒い俺は、担ぐ様に持った黒旗の棍で、トントンと肩を叩いていた。

“いつまで意識を飛ばしてるつもりかは知らねぇが、そろそろ起きろよ”

低い声で言いながら、黒い俺は、俺を見下ろす様にして、面倒そうに首を回した。
それから。俺と、遥か遠くの“父”と“親父”の二人を見比べて、鼻を鳴らす。
苛立っているのだろう。奴の血色の眼が、物騒に細められている。

“親父達を追っかけて突っ走るのは後にしろ。今はそんな場合じゃねぇだろう”

俺は何も言い返せなかった。声が、言葉が出てこない。呼吸を整えるのに必死だ。
ただ走るだけじゃ駄目なのは分かってる。俺はどうなってる。どうすりゃ良い。
そう聞こうとして、止めた。自分で考えろ。
奴も、考えてる筈なんだ。だから、苛立ってる。
俺には分かる。伝わって来る。

“愚図愚図すんな。…さもねぇと、また俺が先に出ちまうぞ”

奴は吐き捨てるみたいに言ってから、うざったそうに顎をしゃくって見せた。
さっさと行け、という合図だ。俺は、何か反論しようとしたが、それどころじゃ無かった。
稲妻だ。熱い。瞼の裏に火花が散った。一瞬、視界が真っ白になった。霞んで、ちらつく。
周囲に広がっていた景色が、細かく千切れ、途切れて、霧散し始める。五感が消える。
唐突だった。足元の地面が消える。浮遊感が在った。落ちる。落下し始める。
内臓が押し上げられる。奈落へ墜ちて行く。掴まる場所なんて無い。真っ逆様だ。
ぼやける視界の中に、黒い俺は地面も無いのに突っ立ったままだった。
俺を見下ろしていた。落ちていく俺は、何かに掴まろうと手を伸ばした。
だが、やはり何も無い。届くはずも無い。

伸ばした俺の掌の向こうで、奴は貌を歪めている。
何かを言いたそうな貌だ。それでいて、何か言葉を飲み込んだみたいな貌だった。
おい。何で其処で黙るんだよ。何とか言えよ。黙るなよ。

“上手くやれよ” 『シン…ッ!!』

黒い俺の声のすぐ後に、幽香の声が聞こえた。
それが合図だったみたいに、墜ちて行く俺の体が、強い力で持ち上げられた。
意識や思考も、一気に鮮明になる。同時に、黒い俺も、“親父”も“父”の姿も消えた。





全部が消えて、全てが還って来た。五感はちゃんと在る。血の味がした。
何だ。俺は、眠ってたのか。いや、違うな。気を失ってたのか。身体中が痛くて仕方無い。
今はどうなってる。俺は、どうなったんだ。取りあえず、立ってる事くらいは分かった。
視界の方は、暗紅の稲光りに焼かれて碌に見えない。チカチカしまくってる。
普通なら、こんなに眼が眩んだりしない。そんだけ消耗してるって事か。うぜぇな。
唾と血を吐き捨てて、眼を凝らした。ぼやける視界はグラグラと揺れて、焦点が合わない。
揺れてるのは視界だけじゃない。俺の体も左右にブレまくってる。まるでヤジロベーだ。
マジで何とか立ってる状態だ。糞が。体の感覚がやけに遠くて鈍い。
ふらつきまくる体に力を入れ直す。

周囲の状況を思い出して、理解するのに2秒くらい掛かった。

黒い雷が俺の周りでメタクソに吹き荒れまくって、法術陣の力線を伝って空を焼いていた。
両の掌の感覚も鈍いが、微かな重みが在る。トム君(仮)と、ボブ君(仮)だ。
二人の首を引っ掴んで持ち上げたまま、俺は気を失っていたらしい。
だが意識の有無に関係無く、俺の肉体が行使する生命ドレインは絶賛稼働中だった。
あれだけ強靭だったトム君(仮)と、ボブ君(仮)の体が、まるで老人の様に皺くちゃだ。
俺の肉体は、飲み込んだ二人の生命エネルギーを、この土地に流し込み続けている。
勿論、放散する生命エネルギーは、トム君(仮)とボブ君(仮)の分だけじゃない。
俺自身の分も含まれる。急拵えの上にヤケクソだったが、そういう風に術式を組んだ。
四季が混ざり合い、嵐となって吹き付けて来る。俺まで吹き飛ばされそうだ。

だが、一応は上手く行った様だ。この嵐から零れた恵みは間違い無く本物だった。
此処等一帯に充溢した活力の波は、稲妻と共に行き渡り、地と空に生気を漲らせている。
黒い神鳴りが次々に落ちながらも、四季に宿る風を縫い合わせて、復活の帳を編み上げた。
吹く花風は斑雪と混じり、冷雨と夏風の抱擁を受けて、命の詩を歌っていた。
制御が出来る限界まで、法術の対象規模を拡大したからだろう。
太陽の畑一帯に、生命力に変換されたマナが溢れ返っていた。
非常識な量のビックマナは、雨と風と雪と雷になって、猛り狂う。

稲光のストロボと雷爆の中にありながら、大地はちゃんと俺の法術に応えてくれていた。
俺の足元からは、新しく花草が次々と芽吹きだしていた。良く見れば、足元だけじゃない。
焼かれて、傷付いていた筈の周囲の地肌が、何時の間にか淡い新緑に覆われている。
どんどんと芽を出して、小さな草花達が凄まじい成長を始めているのだ。
控えめで儚い小さな花が、その新緑の中に無数に咲き出した。
花達は吼える雷にも、地を嬲る暴風にもまるで怯まない。雨と雷にも折れる事も無い。
この止まない法力風の嵐の中にあっても、凛として咲いている。

俺が咲かせたんだ。
俺が吐き出した、この馬鹿みてぇな量と規模の反転ドレインが、四季を呼び込んだ。

何だよ。俺にも出来るんじゃねぇか。そんな安心感が、緊張の糸を緩めた。
途端に意識が吹っ飛びそうになった。“しっかりしろ”。うっせぇよ。分かってんだよ。
血が出る程にバキバキと奥歯を噛み締めて、意識を握り締める。

両手で掴みあげているトム君(仮)、ボブ君(仮)も邪魔くせぇ。
どうせこいつらには、もう吸収する程、生命量にも余裕が残っていない。
最早二人は呻き声すら上げない。ピクピクと指先を痙攣させるか、唇を僅かに震わせるくらいだ。
いい加減、吸命を続けるこの手を離してやらないと、マジで死ぬだろう。
まぁ、こんくらいで赦してやるか。最後まで付き合わせたら、砂にしちまうな。
その二人を脇に放り投げて、雨と風に体を曝した俺のすぐ傍に、雷が数発落ちた。

ついでに、俺の顔にも一発来た。痛みや痺れよりも先に、衝撃が在った。
貌の右前辺りで、金属が砕ける様な音がした。次の瞬間には、顔が軽くなった。
あれ…、っと思った。急に視界が広くなる。ドサッ、と何かが地面に落ちる音も聞こえた。
落雷を受けて、こいしが造ってくれた御面と、俺の眼帯が地面に落ちたのだ。

拾おうとしたが、出来なかった。
消耗が激しすぎて、視界が白く染まる。耳鳴りがして、聴覚が消し飛ぶ。

やべぇな。俺も無事で済みそうにない。
一気に来た。頭が割れるというか、爆発するくらいに痛みだした。
さっきから鼻血が止まらねぇし、眼からも血が出てんのか。視界が真っ赤だ。
咳き込むと、血と胃液が逆流して来て、かなりマジでやってられねぇ。
俺の体は、バッチバチと細い雷を散らしながら、まだまだ生命力の放散を続けている。
吐き出しまくって、半暴走状態だ。もう止まらない。
また俺の体に、暗紅の落雷が何発も落ちて、突き刺さった。
だが、すぐにそのエネルギーも、激痛と共に外に吐き出される。

勢いで法術を組んだのは良いが、解除の仕方までは特に考えてなかった。
ぶっちゃけると、力任せに発動させたから、止めるも糞も無い。時間切れ待ちだ。
つくづく阿呆だな。せっかく、終戦管理局の奴らを退けたのにな。
俺。死ぬかもしんねぇな…。そう思いながら、猫背に棒立ちのままで空を仰ぐ。
天気なんて概念は、もう此処には無い。晴れも曇りも雨も無い。全部ごちゃ混ぜだった。
もう俺はずぶ濡れで、雪に凍えそうで、湿った熱い風に汗だくになりそうだ。

荒ぶ気候の中には、確かに四季が宿っているのを感じる。
相変わらず雷がバチバチ鳴って、其処ら中に落ちまくっているが、気にならない。
体を冷やす雨と雪が心地良い。曇天の切れ間には、青空が見えた。夏の風が吹いて来る。
夏か。良いな。此処は、夏になると向日葵が咲き誇って、山吹色の海みたいになるそうだ。
さぞ綺麗なんだろう。見てみたかったな。幽香とだけじゃなくて、幽々姉とか、妖夢とか、こいしとか。
他にも、親父とか。イズナとか。アクセルとか。まだまだ居るな。皆一緒に、見れたら良いな。
カイ。お前にも、教えたい。こんな凄ぇ世界が在るんだって、教えてやりたい。
面と向って言えないけど、俺は、お前を尊敬してるんだ。今も、お前の背を追い掛けてる。

おかしいな。何でこんな事を思うんだろうな。
眼の前が、まるで影が差したみたいに暗くなった。
瞼が重くて、強烈な眠気が来た。今度こそ、体から力が抜けた。
体を支えるものが、いっぺんに取り払われたみたいだった。ふらっと来た。
「シン…っ!!」 雷鳴に混じって、また名前を呼ぶ声が聞こえた。返事をしたい。
だが、無理そうだった。俺は、その場にへたり込む様に崩れ落ちる。
地面にぶっ倒れる寸前だった。何かがぶつかって来る様な、軽い衝撃を感じた。
白く小さな手が、倒れる俺の上半身を受け止めようとしたのだ。

落雷と暴風、季節の泣き声の中。
危険を顧みず、背後から走り寄って来た幽香だった。
ただ、俺の方が体格的にも大きいから、巻き込むように倒れてしまった。
そういえば、さっきの夢みたいな世界でも、幽香の声を聞いたな。ぼんやりと思う。
立ち上がろうとするが、無理だった。力が抜けるどころか、体がまるで動かない。
感じるのは、命が零れ落ちて、漏れ出して、魂が抜け殻になるみたいな、酷い寒気だけだ。
寒い。寒いな。寒い。それに熱い。体の中が焼けそうだ。

体を強く揺すられた。
「眠っては駄目よ、眼を覚まして…!」
視界が暗くて良く見えないが、何とか眼だけを動かして、幽香を見た。
幽香は泣きそうな貌だった。必死な声音だった。涙が滲む様な声で、震えていた。
だが、怯えている訳では無い。強い決意を伺わせる眼は、潤んでいても、まっすぐ俺を見ていた。
その赤い眼を見詰め返して、何かを言おうとしたが、やはり声にならない。
死掛けの虫みたいなザマの俺を見て、幽香は何を思ったのだろう。
地べたに座ったまま、俺の上半身だけを抱き抱える様な姿勢の幽香は、一度眼を閉じた。
覚悟を決めるみたいな、真剣な貌だった。

それから、抱えた俺にもう一度視線を落として、少しだけ微笑みを浮かべて見せた。
同時だった。幽香を中心として、澄んだ薄緑の波紋が、漣の様に辺りに広がり始める。

「手間の掛かる子ね…」 
呟く様に言いながら、瞳を閉じた幽香の小さな体が、薄緑と翠色の微光を纏わせていた。
俺の体から零れ出す生命力を汲み上げて、集めて、収束させているのだ。
幽香と俺のすぐ傍に、また雷が落ちる。風がより強くなった。
轟々と鳴り、吹き荒れている。猛り狂う季節の恵みが、潮流となって幽香の身体へと流れ込む。
弱まった幽香の肉体には、絶対に収まりきらないエネルギー量の筈だ。
でも、幽香は落ち着き払った表情のままで、流れ込む成長と活力の潮流を飲み込んでいく。

いや、飲み込んでいるだけじゃない。
幽香の肉体と、俺を抱える手を通じて、流れ込んでくる。
暖かい何かが、空っぽになろうとしていた俺の体に、注がれているみたいだ。
やっぱ凄ぇな、と思った。気付いて、理解した。
幼退化してしまった今の幽香でも、フラワーマスターとしての力は残っている。
その能力を最大限まで使いこなした、超規模の治癒成長術、生命術の行使だった。

強烈な負荷が掛かっているのだろう。ゲホッ…、と、幽香が血を吐いた。
その血が俺の頬と首に掛かった。熱い血だった。幽香は再び眼を閉じて、詠唱し、詠う。
無理矢理に俺が召んで、細切れのままバラバラだった季節達を、幽香が縫い直していく。
春と夏が、秋と冬が、元の姿に戻ろうとしている。
空気とも、温度とも、生命とも表現出来ない。この場に満ちていた何かが渦を巻く。
多分、それは世界とか、常識とか、そんな感じのものだ。眼には見えない。
触れる事も出来ない。だが、確かに其処に在って、空と大地を繋いでいる。

俺が吐き出したマナは、焼かれた地と土に還り散って、草木と花を蘇らせた。
そうして、蘇った花達は、今度は幽香の能力に応えて詠い、今も合唱を続けていた。
幽香を介して、俺に“命”としてのマナを還してくれているのだ。
若緑、浅緑の微光が大河となって溢れ返り、流れる様にこの土地に染み渡っていく。
まるで、季節と命の瀬だった。幽香の鼓動に重なり、せせらぎが聞こえる。
嵐は止んでいた。暖かく、柔らかな風。そよ風が吹いているのを感じた。

俺は上半身だけを起こして、抱き止められたまま、見ているしか出来なかった。
言葉も出ない。ただ、見惚れていた。完全に眼を奪われていた。その時だ。
閉じていた瞳をゆっくりと開いた幽香は、俺を見下ろした。深緑の髪が、靡いている。
「眼を、閉じて…」消え入りそうな声で言ってから、少しだけ気まずそうに眼を逸らす。
その言葉に逆らう理由も無いし、反抗する気なんて全く無かった。
あれだけ苦しくて、しんどかったのに、今は欠伸が出るくらいに心地良い。
反応を返すのも面倒な程だった。だから、頷きを返す代わりに、俺は眼を閉じた。
相変わらず、体は動かない。だが、泥が詰った様な息苦しさは、もうとっくに抜けている。

マジで眠っちまいそうだなと思った。同時だったろうか。
ほんの一瞬だったが、何か、柔らかいものに唇を塞がれた。
数百、数千に至る野花の香液を集め、その上澄みだけを掬い上げた様な香りがした。
魂を蕩けさす様に甘く、蠱惑的で、儚い、まるで夢の様な香りだった。
すぐに、柔らかな何かが唇から離れるのを感じた。途端だった。

今まで鈍かった感覚が、一気に鮮烈になった。
まるで、心臓を無理矢理に動かされて、活力を体にぶち込まれた様な感覚だった。

思わず眼を開ける。夢でも見てるのかと思ったが、違う。

幽香の貌が、眼の前に在る。
俺の頬に、幽香の両手が触れている。
幽香の額と、俺の額が触れ合っている。
その事に気付くのに、少し時間が掛かった。触れ合う肌の感触が、現実感を奪う。
幽香は眼を閉じて、朗々と文言を紡ぎながら、辺りに満ちる膨大なマナを調律する。
同時に、煮え滾る様な脈動が俺の体に流れ込んで、貫いて、廻り、廻った。
命や力が、渦を巻くみたいに、幽香の体と、俺の体を循環する。
碌に身動き出来ない俺は、されるがままだった。身を委ねるしか無かった。

其処で、見た。
幽香の体が、元の姿に戻っていく。ゆっくり。ゆっくりとだが、大きくなる。
辺りに満ちるマナを受け取り、俺に渡しながら、幽香自身も、活力を取り戻しているのだ。
今着ている服のボタンが飛んで、白い肌が顕わになる。それだけじゃない。
深緑の髪も、腰程まで伸びているし、背中から生えたのは。巨大な、あれは翼だ。
蔦と葉と枝を織って、編み上げた様なそれは、確かに翼だった。

何か、天使みたいだな…。
そんな陳腐な感想しか頭に浮かばなかったが、其処まで間違っている訳でも無いと思う。
生きた巨森であり、自然の意思を聞く事の出来る幽香の姿は、今は余計に神々しく見える。
少なくとも、俺には天使に見えた。

蔦編みの翼が、俺を包むようにして抱きすくめて来る。
何だか、このまま飲み込まれそうだ。でも、別に嫌じゃないな。
嫌じゃない。こんな近くで、幽香の熱っぽい視線を受けていると、抗う気も失せる。
体に力が戻って来たが、幽香に触れる事は何故か躊躇われた。触れてはいけない気がした。



額が重なっている時間は、どれ程だったろうか。
一分か。二分か。それとも、十分か。もっと長かっただろうか。
分からない。ほんの数秒だったかもしれない。曖昧で、あっという間だった。
暖かな花風を感じる。荒ぶ風と雷は、もう完全に霧散していた。
微かに揺れる野花達の淡い香りが、辺りに満ちている。
陽を翳らせた厚い雲も、抜ける様な空の中に溶けて消えていた。
本当に、夢から覚めた様な感覚だった。だが、これは夢なんかじゃない。

「一応、これで…借りは返したわ」
そう呟きながら、名残惜しそうに貌を離した幽香は、切なげな熱い吐息を漏らしていた。
蔦編みの翼の抱擁も解け、俺は座り込んだまま地面に手をついて、幽香を見上げる。
お互いに見詰めあう格好になったが、しかし、すぐに眼を逸らされた。
逃げるみたいに立ち上がろうとする幽香の頬に、朱が差している。
こちらを見ようとしない幽香の肩は、微かに震えていた。

「本当に、貴方と居ると退屈しないわね…」
背をこちらに向けて、やけに小さな声で、また幽香は呟いた。
その声音は少し上擦っていて、裏返ってしまいそうにも聞こえた。
まるで、何事も無かったかの様に振舞おうとして、失敗したみたいだった。
体が元に戻ったから、ボタンが飛んで肌蹴てしまったレディースシャツの前を、腕で隠している。

スカートにしてみてもそうだった。子供用のスカートだったからだ。
体格が変わり、本来在る筈の幽香の脚の長さが戻って来て、尋常じゃない程のミニスカートに見える。
酷く扇情的な格好になってしまった幽香だが、不思議といやらしくは無い。
今の幽香の纏う、神秘的な雰囲気のせいだろう。

それに、幽香の色っぽい姿に興奮出来るほど、自身の心には余裕が無かった。
胸中に在るのは、後悔とか、自己嫌悪とか、罪悪感とか、そんな感じのものだった。
申し訳無くて仕方無い。ぬくみの在るそよ風を感じながら、一つ深呼吸する。
手を付いて立ち上がってから、何か言おうとしたが、言葉が見つからない。
体には活力が満ちている筈なのに、やけに心が重かった。
空も高いのに、やけに暗く感じる。

また、やっちまったな…。溜息を吐き出しそうになって、それを飲み込んだ時だ。

自分が、眼帯をしていない事に気付く。本当に今更だったが、慌てて、右眼を、右手で隠す。
もう遅い。もう隠したって無駄だ。幽香は、見た筈だ。俺の眼。眼を。正面から。真っ直ぐに。
見られた。見られちまった。絶望にも似た焦りと同時にそう思った。
今度は、俺の方が幽香の方を見る事が出来なかった。逃げ出したかった。
この場に蹲ってしまいそうだ。顔を伏せたままで、俺は動けなかった。
立ち尽くす。胸が詰る。何かを掌から零してしまった様な気がした。

「…これ、貴方のでしょう?」
だが、すぐにその暗い感情は、聞こえて来た穏やかな声に拭われた。
普段通りの、やけに綺麗な声音だった。

顔を上げると、幽香がひょっとこの御面と眼帯拾い上げて、此方に渡そうとしてくれていた。
手で右眼を隠したまま、動けない。差し出された御面と眼帯と、幽香の顔を見比べる。
何も言えない。俺は黙ったまま、唾を飲み込んだ。
先に御面を左手で受け取ってから、ベルトに引っ掛ける様にして吊るす。
それから、おずおずと眼帯を受け取り、細く息を吐き出した。
すぐにでも貌全部を隠してしまいたかったが、もう遅い。

「その眼…、産まれ付きなの…?」

ギクリと心臓が跳ねた。呻きそうになったが、堪える。
右の掌で、右眼と言うか、顔の右半分を覆ったままで、幽香の顔を見詰め返した。

「良い眼ね…。大切にしなさい」

緩やかな花風に髪を揺らしながら。
幽香は、微笑む寸前みたいな貌で、見守る様な眼差しで、俺を見ていた。
何を言われるのかと、身構え、戦々恐々としている自分が、馬鹿の様に思える。
そんな、優しげな表情だった。まるで、母の様だった。

「……気味悪がったりしねぇんだな」
そんな風に、ちょっと捨て鉢な言葉が出てしまった。
俺の声は、やけに頼りなく聞こえた。「そう言う意味では、お互い様ね」
微苦笑を浮かべ、ゆるゆると首を振ってから、また幽香は、俺の眼を見詰め返して来る。
嫌悪も忌避も無い、まっすぐな視線だった。

「私も、人喰いよ…。
人間の世界を生きて来た貴方にとっては、私は忌むべき存在でしょう」

軽い冗談でも言う様な口振りだった。
肌蹴た衣服を手で押さえていた幽香は、少しだけ笑った。
背中から生えた蔦編みの翼を畳むようにして、その肌を隠す。
俺は、右手で顔の右半分を抑える様にして隠し、ただ立ち尽くしているだけだった。

「貴方は、…自身を生んだ親を恨んだりしているのかしら?」
聞いて来た幽香の声は、本心を隠したり、誤魔化したりする事を赦さない声音だった。

そんな訳無ねぇだろ。
だから、俺は即答した。断言出来る。俺は、父も母も恨んでなんか居ない。恨んだ事など一度も無い。
幽香から眼を逸らさなかったのは、単純に、眼を逸らせなかっただけだ。意地でも何でも無い。
情けないが、幽香に向ける俺の眼は、縋るみたいな眼だった筈だ。
そう…、と何処か満足そうに呟いた幽香は、俺から視線を外して、靡く髪を手で押さえた。
一度ゆっくりと瞬きをしてから、周囲に視線を巡らせる。
或いは、俺から視線を外す為だったのかもしれない。

「誰も憎んでいないのなら、貴方はまだまだ日向に居られるわ。
 特に此処では、脛に傷在る者なんて珍しく無いもの。誰も彼も、何かを負っているわ」

幽香の真意は分からないが、静かな声音には、優しさの様なものを感じた。
気のせいでは無いと思いたい。ぬくみの在る春の風が、空から吹いて来た。
苦しい程に、暖かい。微光を帯びた草花達は体を揺らし、せせらぎの様な葉擦れ音も聞こえる。

この子達も、そうね…。
自分の子供を紹介するみたいに、幽香は俺を見詰めてから、視線を横に向けた。
幽香の視線を追う。其処に広がっていた景色に、今度こそ眼を奪われて、言葉を失った。
ついさっきまで、絶対に咲いてなどいなかった。それは間違い無い。
いや、雷の嵐が吹き荒れていた時には、全く気付かなかっただけだろうか。

向日葵だ。
蘇った肥沃な大地は彼方まで続き、地肌が見えない程、一面に咲き誇る向日葵だった。
とにかく、凄い数だ。太陽色に染まった、向日葵畑は、圧巻であり荘厳だった。息を呑む。
「すげぇ…」と、思わず言葉を漏らしていた。その俺の呟きが聞こえたのだろう。
幽香は視線だけを此方に向けて、口許を緩めて見せる。

「…どんな花の根も、生きる為なら、水だけで無く血だって吸うわ。
 私の傍に咲く、此処の花達は…特にそうね。私が若かったせいも在るけれど…。
結構な者達の肉片を、この土地に蒔いてしまったものよ」

あの頃から、殺し合いも好きだったし、喰わず嫌いも無かったわね。
冗談めかして言いながら、幽香は、向日葵畑を見詰める瞳を眩しそうに細めた。

「血溜りを啜り、骸に根を張った向日葵達は、でも……こんなにも綺麗でしょう?」

頷くしかなかった。この景色を前に、首を横に振れる者など居ないだろう。
とにかく、圧倒的な自然美が此処には広がっていて、それを肌で感じている。
打ちのめされると言うか、飲み込まれていた。「貴方は、…此処の花達に良く似ているわ」
そんな俺を見てから小さく呟いて、幽香はまた少しだけ笑った。
俺は、やはり何も言えなかった。ただ、何故か。言葉が必要だとは感じなかった。

「芽吹くものは皆平等に、花を咲かせ、種を実らせるわ。
残酷で狂猛な、貴方の心の本質も…同じよ。生きている限り、全ては等しく育まれる」

「“信じて良いのか…?”」 俺の声が二重になっていた。

「信じる信じないは、貴方次第ね」 

「“まぁ…そうだよな。なんだってそうだ。俺次第だよな”」

冗談めかして言う幽香も、二重になっている俺の声に気付いている筈だ。
俺の左眼も今、凶暴な血色に変わって、ギラギラと危険な光を放っている事だろう。
だが、幽香は表情を揺らすことも無い。正面から、俺の視線を受け止めている。

「これで最後ね」
微笑む様な貌のままで、幽香は、ゆっくりと宙空に左掌を差し伸べた。
まるで、此処其処に満ちる何かと、握手する様な格好だった。幽香の掌に、光が灯る。
命術の紋様がリング状の帯となって現れ、その掌の上で熱を帯び始めた。
再び渦を巻く、活力の波。幽香の術灯に応え、混在する季節と恵みが、空へと上り還っていく。

光の源となっている幽香から、また薄緑の波紋が広がる。
その光を受けて、俺の体に篭った熱が引き始めたが、寒気を感じる事は無かった。
力が体に満ちている。まるで根を張るみたいに、俺の心にも沁み込んでいくのを感じた。
満ち足りた様な気分だった。右眼を隠す掌を退けて、両眼で、還り昇る力線を見遣る。

不完全だった季節。それが元の姿へと戻るのを眺めながら、俺も右の掌を宙空へと翳す。
幽香に倣い、握手を求めるように手を差し出してみた。何かが掴める気がした。
“手伝う位なら、今の俺達でも出来るだろうよ”。気のせいじゃない。確かに、感触が在る。
俺の掌に電弧が奔り、滲む光が宙に伝わった。捩れ絡まった四季を解して、解き、紡ぎ直す。
混在していた季節の流れは、春夏秋冬へと別れ、微光の潮流となって幽香の掌に注いだ。
淡い光の帯が、俺の掌と、幽香の掌を伝う。全く触れ合ってもいないのに、幽香と手を繋いでいる様な気がした。

幽香が、何だか少し驚いた貌で、俺を見ているのに気付いた。
眼帯を外したままで、俺は幽香の方に貌を向けて、唇の端を持ち上げて見せる。
いつも通り。俺はちゃんと笑えていただろうか。多分、大丈夫だ。心配要らない。


ぬ…ぐぅううぁ……。 呻き声が、少し離れた所から聞こえた。
完全に気を抜いて、失念していた。そう言や、まだ奴らは死んでない。
ギリギリで生きてたんだったな。しつけぇな。相手をするのも、もう面倒臭ぇよ。
トム君(仮)、ボブ君(仮)も、この地に行き渡る活力の波を受けて、何とか息を吹き返していた。
二人とも、立ち上がろうとしている様だが、ふらついては倒れ、倒れては起き上がろうとしている。
干乾びる寸前みたいな体を支える脚は、ガクガクと震えていて、真っ直ぐ立つのも無理そうだ。
そりゃそうだろう。あれだけ生命力を吸い上げられれば、妖怪だろうが人間だろうが、ああなる。
地面に咲いた草花達との対比で、彼らの姿は酷く惨めに見えた。

あの二人は、もう脅威には成り得ない。
それを理解しているから、幽香も宙に手を翳したままで、特に身構えたりしない。
俺も、視線だけを二人に向けて、ただ眺めていた。
もう攻撃を加えようと言う気も起こらない程、二人の姿は弱々しく、惨めだ。
枯れ木みたいな腕や脚、落ち窪んで濁った眼も、乾燥しきった肌も。俺がやったんだ。

「…何とか生きてんな。手でも貸してやろうか」

立ち上がる途中だった、茫々茶髪のボブ君(仮)が、俺の声を聞いて悲鳴を上げた。
そうして、俺を見て、貌を盛大に歪めて尻餅をついた。唾を飛ばして、擦れ声で何かを叫んだ。
俺の眼を。右眼を見たんだろう。ボブ君(仮)は、俺の貌を凝視している。
幽香でも、突然咲き誇った向日葵でも無く、俺から眼を逸らせない。
赦して、もう赦してくれ、助けてくれ。多分、そんな感じの事を言ったんだと思う。
恐怖で貌を引き攣らせたままの声と言葉は、よく聞き取れなかった。

「あ~…。分かったから、さっさと行っちまえ…」

聞き返す必要も無いから、面倒そうに言ってやると、
ボブ君(仮)は、体を引き摺って、這い蹲るみたいな格好で、一目散に逃げ出した。
追い掛ける必要も無い。その哀れっぽい背中を見送ってから、また溜息が漏れる。

黒髪のトム君(仮)の方は、まだ折れていなかったからだ。
何とか立ち上がり、奴は吼える。右半分が爛れた貌は、盛大に歪んでいた。
奴の両の腕に、青鈍色の炎が灯った。俺と。或いは、幽香と。対峙する気だ。
だが、奴の纏わせる炎は、先程までの勢いは全く無い。僅かに燻る程度だ。
口の端からは、涎と血の泡を零しているし、両の眼はあらぬ方向を向いて血走っている。
とてもじゃないが、まともに動ける姿じゃない。
それでも尚、奴は幽香を手に入れる為に、戦おうとしている。凄まじい信念と執念だ。
奴は、死に体のままで、此方に歩み寄って来る。覚束ない足取りで、ゆっくりと。
正直、吹いてくる風にでも飛ばされそうな程に、頼りない歩みだ。
しかし、その気迫や威圧感は、中々のものだった。

俺は眼帯を付け直しながら、息を吸い込んで、吐き出す。
ド根性野郎め。しつこくてかなわねぇな。やっと一息つけると思ったのによ。
幽香の方をちらりと見てみると、幽香は静かな貌で奴を見詰めていた。
見ているだけで、手を出そうとはしていない。動かない。ただ、其処に佇んでいる。
夕焼け小焼け。夕涼みの心地よい空気を吸い込んで、俺は奴に視線を戻す。

「……か、ざ。み…。ゆう、か…ぁあ、あ。…あ、あ……!」
思考も意識も糞も無い。うわごとみたいに言葉を漏らす奴の眼は、何処も見ていない。
奴は何度も崩れ落ちそうになりながら、生まれたての子鹿みたいに震えて近づいて来る。
瑞々しく伸び育ち、咲き揺れる草花達を踏み躙り、のろのろと近づいて来る。
俺は、幽香と奴の間に割って入り、棍棒を肩に掛ける姿勢で立ち塞がった。
溜息を飲み込む。疲れてんだよ。見ればわかんだろ。空気読めよ。“もう、やっちまうか…”。
俺の頭の中で声がした時だ。暮れ掛けた景色の中に、すぅ…、と幾条かの黒い線が入った。

それは裂け目であり、亀裂だ。
音も無く開いた亀裂には、内部に無数の眼を湛えていた。「いつも世話を掛けるわね…」
幽香の声に応えたのは、地面に一際大きく口を開けた隙間。スキマだった。
多分、トム君(仮)は何が起こったのか理解出来ていなかった筈だ。
いきなり、足元の地面が無くなり、代わりに空間の裂け目が出来上がったのだ。
あっという間に、トム君(仮)は、バクンッ…と、隙間に飲み込まれた。
抵抗も悲鳴も、何も無い。やけに静かだった。
無音のままで隙間は閉じて、何も無かったかのように消えていく。

その無慈悲な流刑を横目で見ていた幽香は、翳す掌を下ろし、手に灯した光を消した。
微光の潮流が解け、消えていく。俺も、幽香に倣い、手を下ろす。
掌には、もう何の感触も残っていない。だが、心身の内には、力が満ちている。
俺は項垂れながら息を吐き出し、手を握り締めてから、力を抜いた。

「貴女が私の友人で無ければ、一緒にスキマに送っているところよ」

貌を上げると、一人の女性の姿が現れつつある。
地面のスキマを閉じながら、彼女は別に開いたスキマから、ゆったりと歩み出て来た。
彼女の存在は、今の寂然と不穏の入り混じる空気を壊す事無く、自然とこの場に現れた。
賢者。八雲紫。紫姉だ。手に扇子を持って、顔の下半分を隠している。表情は分からない。
だが、細められた眼は、まるで古い友人の悪い癖に、呆れているみたいに見えた。

ついでに、紫姉に続くようにしてスキマから出て来たのは、親父だった。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、俺を一瞥しつつ、溜息みたいに鼻から息を吐き出していた。
それから、辺りや空へと視線を巡らせる。残留するマナを感じているのだろう。
精査解析の法術も必要も無いほど、この土地には生命の源でもあるマナが溢れている。
と言うか、自分でも、一体どれだけマナを放出したのか、ちょっと想像出来ない。
多分、頭がイカレてるんじゃねぇかって位だろう。

「……お前は加減を知らんのか…」
ぶん殴られるかとも思ったが、別にそんな事も無かった。
親父の声には、少しの安堵が滲んでいて、抑揚の無い声音も穏やかだった。

…阿呆め…、と。面倒そうな貌をした親父は、空を見上げながら低い声で呟く。
陽の光は茜に焼けていて、澄んだ眩さの中に寂寞を湛えている。今は、風も止んでいた。
夕凪の空を見上げると、スキマとはまた違う、薄黒い亀裂が残っている。
規模で言えば、大穴と言うべきか。俺の詠んだ雷が、道理や理を突き破って、空を穿った痕だ。
あれは季節を染み出させる、概念の罅だった。
未だ、不完全で透明な四季の欠片が、空に渦を巻いている。

故に、紫姉と親父が此処に現れ、対処する為に術を編み上げていく。
空を見上げていて気付いたが、この土地を覆い括る様に、既に深紫の結界線が引かれていた。
此処に溢れる活性の波が、他所へ漏れ出さない様に蓋をした紫姉は、短く文言と唱える。

澄んだ紫光が、粒子となって昇る。紡がれる詠唱と共に、地と空に術紋と陣が刻まれた。
大輪の境界術陣は、上空に開いた傷口を潅ぎ、縫い合わせて、緩やかな速度で修繕していく。

その光景に、俺はただ見惚れていた。見惚れるくらいしか、出来ることも無かった。
安心感と言うか、安堵と言うか。とにかく、ほっとした。助けられてばっかりだ。
俺は、またポカをしたが、取り返しが付いたのだ。付いたと思いたい。
何だか申し訳無い気持ちで、紫姉の方へと視線を向けると、眼が合った。
ギクリとして眼を逸らしたが、すぐに向き治る。「世話掛けちまって、マジですまねぇ…」
不思議と、すんなりと言葉が出て来た。親父も、俺を見ている。

「ちょっと遣り過ぎだけれど、御蔭で幽香も元の姿に戻れたみたいだし…」
紫姉は言いながら、俺の眼帯を一瞥して口許を緩め、ゆるゆると首を振って見せた。

「えぇ、…自分が如何に恨みを買っているのか、痛感したわ。
 誰も彼も、遊び半分に殺し尽くすのは、少し控えた方が良いかもしれないわね」

紫姉の言葉に、軽口を叩く様にして続いたのは、肩を竦める幽香だった。
ただ、その言葉とは裏腹に、幽香の赤い瞳には殺人オーラに近い、物騒な光が返って来ている。
身体も元の状態に戻り、完全復活と言った感じだった。

親父は、その幽香と紫姉を見比べてから、何も言わずにまた空へと視線を戻す。
在り得た季節と、在るべき時間の流れが元の形に戻り、夕昏に空いた亀裂も塞がっていた。

「……眼帯を外したのか……」
低い声で聞いてくる親父は、まだ空を睨んだままだ。
俺は、「あぁ」と短く応えた。親父も「…そうか…」とだけ、言葉を返してくれた。
何だか心が軽くなった様な気がした。自棄になったんじゃない。そうじゃないんだ。
“俺は変われない”。上等だな。“俺だけじゃない”。そうだな。幽香もそう言っていた。
根っこの部分で足踏みしていた俺は、一歩だけ前に進めた気がした。
確かめる術は無い。別に良い。夕陽が綺麗だ。




[18231] エピローグ3 駄目博士の日
Name: 鉛筆男◆cf1ba3c9 ID:91cabc16
Date: 2013/04/24 23:00

 時代が変われば、生きる技術も知識も変わってくる。

文明の栄枯盛衰の中で、技術は進化をし続け、求められる知識も変わる。
その流れは速くもあり、遅くもある。時には堰き止まり、行き詰まる時もある。
順調であるとは限らないし、何が技術進歩の障害となるかは、時々で違う。
開発、研究の滞り。人口問題。倫理、道徳の壁。限りの在るリソース。環境汚染。
そうした多くの要因が複雑に絡み合って膨らみ、鋭く尖った棘を生やし、生い茂っていく。
文明の発達へと至る道は、いつもそんな茨の道だった。踏み入ることさえ憚られる、痛みの道だ。

だが、人類は愚直にその道を突き進んで来た。疑いもせず、躊躇いもしない。
茨に身を削られ、傷付いて、血を流しながら、技術の進歩は時代の先端にあり続けた。
時にその歩みが鈍り、行き詰まり、立ち止まりそうになっても、人類は痛みを堪えて突き進んだ。
痛みと引き換えに、新たな発見と革新を繰り返して、更にその歩みを加速させた。
利に聡く、目先の欲に弱い人類は、済崩し的な繁栄を維持し続けた。
余計に傷付き、多くの犠牲を払う事になっても、是とされた。

その姿勢を疑う者は、居るには居たが、本当に少数だった。
力の無い、小さな声だった。故に、誰も耳を貸さない。悉く無視するか、黙殺された。
痛みなどは、最早麻痺していたのだ。気付いた時には、もう手遅れだった。

気付けば人類は傷だらけで、傷口から流れる血は、致死量に近づいていた。
人類種の死は、すぐ其処まで来ていた。だが、運良く。或いは、不気味な程に都合良く。
起死回生の手段は、近くに転がっていた。『魔法の理論化』の成功である。
森羅万象を解明したこのシステムの発案者は、未だ不明だ。得体も出所の知れない情報だった。
だが、そんな胡散臭さなど霞む程の、貴重な情報でもあった。

環境問題と技術革新の板挟みになっていた科学者達は、すぐさま飛びついた。
無限のエネルギーを生み出す新たな此の技術は、後のGEAR計画を支える発見だった。
追い詰められていた人類は、生き延びる為に全力を注ぐ。結果は良好だった。
魔法という未知のリソースを元に、完全にクリーンな技術として法力、法術式を開発。
確立した法力技術は、すぐに科学技術と入れ替わる形で、普及していく事になる。
こうして、脱皮する蛇の様に、世界各国の様相は変わり始めた。
全ては、“慈悲無き啓示”へ向う。滅びの足音だった。

GEAR MAKERは、一体どの段階で、この“慈悲無き啓示”を意識、確信していたのか。
実際に彼に聞いてみたが、どうにも要領の得ない答えが帰ってくるだけだった。

“何時頃であっても、この問いに対する答えは意味を成さないよ。
強いて言うならば、そうだね。つい最近になって…、という表現が正しいかもしれないね”

目深く被った法衣の下で、口許にひっそりと微笑みを浮かべた彼はそう言っていた。
誤魔化したり、煙に巻くと言うよりも、言葉を選んだ結果なのだろう。
飾るでも無く、削るでも無い。ただ、現実を語る。彼は、多次元を司る年代史家だ。
在り得る事象を観測し、在り得た事象を記憶し続けている。
彼の言葉には、虚偽も欺瞞も無い。ただ、事実を記した文字の羅列に過ぎない。
疑っても意味は無い。嘘か真かなど、確かめる術も無い。
今も彼は、千変万化するバックヤードの揺らぎを観測し、未来を見据えている。
只管に未来を視て、地球という惑星の声に耳を傾け、人類の行く末を見守っているのだ。

想像も及び難い規模の話ではあるが、その手伝いと言うか、何と言うか。
GEAR MAKERに誘われる形で、以前は敵対していた彼とは、今は協力関係に在る。
いや、実質は、彼の配下に加わった様なものだろう。人生って、分からないものだねぇ…。
クロウは頭の隅でそう思いながら、しみじみと鼻から息を吐いた。
疲れているのかもしれない。GEAR MAKERの頼み、と言うか、指示を受けたのは、少し前だ。

そう。少し前なのに、なんだか随分な時間を過ごした様な気がする。
今の環境にまだ慣れていないからだろう。
肉体的な疲れは殆ど無く健康体だが、ただ、どうも気力が湧かない。
動くのが億劫で、まだまだ横になっていたい。だが、時間にも余裕を持たせたい。
時間に追われるのは好きじゃない。キビキビと動くのは、どうも苦手だ。
自分のペースを作るには、余分に使える時間が必要だ。
だから、ある程度早い内に行動しておくスタンスは変わらない。
多少の身体の怠さは、我慢しておくのが正解だ。

黒のシャツに、煤けた様な灰色のネクタイを合わせ、
細身のスラックスを穿きながら、出掛けた欠伸を飲み込んだ。
愛用していた厚手のコートを羽織ってから、左の手に拘束具めいた手袋を嵌める。
身支度を整えた自分の姿は、姿見で見る度に、やけに滑稽に思えた。
自身の格好になど、頓着した事が無かったせいかもしれない。
欠伸の代わりに溜息が漏れた。


現在。クロウは、京都市内に在る大型マンションの一室で暮らしている。

マエリベリー・ハーンと、宇佐美蓮子の監視、防衛。
その任に当たっているソル=バッドガイのコピーの調律、調整が主な仕事だ。
と言うのも、GEAR MAKERよりも、クロウの方が上手くソルのコピーを扱えるからだった。

『ソル=バッドガイ』という存在も、元は人間だ。
GEAR MAKERの旧友でも在る。フレデリックという名を持った、一人の科学者だった。
それは、“1”である。実数であり、有である。
だが、クロウの生み出した、『ソル=バッドガイ』のコピーは、違う。
人間を素体にしない、“0”という虚無からの創造であり、模倣だった。
生命科学と法力機術を用いて、有機の肉体に、無機の命を鋳込んで造り上げた。
『ソル=バッドガイ』のコピーは、その細胞の一つに至るまで、クロウの造物だ。
血液の流れから、思考、記憶、精神構造まで、クロウは全てを構築した。
新たに、そして、歴史上最後のGEARを生み出したのだ。
その手腕が見込まれ、クロウは現世の京都に滞在している訳だが、これが中々に疲れる。


マエリベリー・ハーンと、宇佐美蓮子。
この二人と、二人を守護するソルのコピーとの接触を容易にする為なのだろう。
GEAR MAKERは、クロウを現世に送り込む際に、バックヤードに干渉し、因果を書換えた。
そうして改竄された現世では、クロウは『ある大学の教授』として、その歴史の中に存在していた。
いや、正確に言えば、現世の方が、GEAR MAKERの手によって歪められたのだ。
“斯く在る”世界を、“斯く在れば”の世界へと変える事で、クロウの居場所を無理矢理に造り出した形だった。

冗談じゃないとも思うが、反抗出来る立場で無いことも理解している。
GEAR MAKERの麾下に加わっている身だ。文句も言えない。

ただ、クロウが創り、生み出したソルのコピーは、GEAR MAKERにとっても得難いものだった筈だ。
オリジナルである『ソル=バッドガイ』の代替品としても、重要性は極めて高い。
GEAR MAKERにとっての有事の際には、あの黒いソルが動く事になるのだろう。
そうなれば、黒いソルの調整、調律を行えるクロウも、補助に入る事になる。
加えてクロウは、新たなドラゴンインストールのプログラム開発も任されていた。


それなりに忙しいが、此処での暮らしについては、別に其処まで不満が在る訳では無い。
高級マンションという訳では無いが、割りと小奇麗で広い部屋を用意してくれていた。
トイレもキッチンも揃っており、生活するだけならば十分である。

しかし、『ソルのコピー体のメンテナンス』には、それなりの設備が必要だ。
割りと深刻な問題だったが、これに関しても、ちゃんとGEAR MAKERはケアしている。
この部屋内の空間に細工を施し、物理法則を超えた間取りを可能にしてあるのだ。
ちなみに、浴室の扉は、かつての終戦管理局支部の研究室に繋がっている。
空間を捻じ曲げ、縫合して、次元を飛び越えるワープホールを拵えていたのだ。
故に、支部内に設けられている実験室、培養室も、シャワールームも使用可能である。
幻想郷と敵対していた頃と、ほぼ遜色無く研究活動は行える状態だ。
難しい注文をしてくるだけあって、GEAR MAKERは用意周到だった。
クロウのラボは、今も尚健在のままだ。色々な意味で、幸せ者だね…僕は。
そう思いながら、クロウは姿見から視線を外し、眼鏡の位置を直した時だ。

管理局支部内に通じる浴室の扉が、乱暴に開かれた。
リビングに派手な音が響いたが、防音についても完璧だ。隣部屋の迷惑になる事は無い。
がしょんがしょんと、何処か間抜けな足音が近づいて来る。
朝から騒がしいな…。そう呟いてから、クロウは足音のする方へと向き直る。
浴室の扉が繋ぐ、管理局支部から出て来たのはロボカイだった。

その格好も、何時もの騎士服では無い。
白の細身のパンツに、黒十字のエンブレムが刺繍された長袖のシャツを着ている。
少々、若者向けな格好では在るが、不思議と派手さを感じさせない。
色合いも白と黒の二色だけで、ロボカイ自身の纏う、無機的な雰囲気のせいでもあるだろう。
ロボカイの手には、アイロン掛けされた綺麗なハンカチを畳んで持っていた。

「オラ。忘レモノダゾ、駄目博士」 
クロウの前に立つと、ロボカイはずいっとそのハンカチを突きつけて来た。
愛想も何も無い面倒そうなその仕種は、見る者に妙な人間臭さを感じさせる。
眼の前に突き出されたハンカチと、ロボカイの顔を交互に見てから、クロウは少し笑った。

「あぁ、すまないね。アイロンまで掛けてくれたのかい。有り難う。
 ……ところで、随分と機嫌が悪い様だけど、何か気に入らない事でも在ったのかな?」

ハンカチを受け取りつつそう聞いてみると、ロボカイは無い鼻を器用に鳴らした。

「イヤ、何モ無イ…」

「そうかい。なら良いんだけどね」

「良クハ無イ…。何モ無サ過ギル」
そう零したロボカイの電子音声は、退屈と言うよりも不満そうで、切なげだった。

「吾輩達ノ世界デハ、海ノ底ニ沈ンデシマッタ、神秘ノ国……“じゃぱん”。
 異世界トハ言エ、ソノ“じゃぱん”ニ…、
イヤ、京都ニ滞在出来ル幸運ガ舞イ込ンダト言ウノニ……」

ロボカイは、右手で自分の顔を覆うみたいに擦って項垂れて、溜息を漏らした

「コッチニ来テカラ、博士ノ御守バカリダ。
 炊事、洗濯、掃除マデサセオッテ…、吾輩ハ家電製品デハ無イゾ」

妙な熱の篭った電子音声で言いながら、ロボカイは糞真面目な様子でクロウを見詰めて来た。

「此レデハ、管理局時代ヨリモ時間拘束ガ厳シイ状態ダ。
噂ノ“芸者☆がーる”ト、きゃっきゃうふふト仲良クナル機会モ造レンデハナイカ!」

多分ではあるが、『ちょっと位、遊びに行かせろ』とでも言いたいのだろう。
だが、そう簡単に持ち場を離れられても困る。そもそも、此処は外の世界だ。
異界の人間社会で、余計な問題を起こされたくは無い。

「平穏無事、無病息災で在る事は、得難い幸福だよ。
 それに、家事に関しては、ちゃんと分担してるでしょ…。
ツーマンセルの指示なんだ。我慢してくれないかい。状況が落ち着いて来るまではね…」

諭すように言うクロウに対して、ロボカイはやはり納得行かない様子だ。
首の後ろ辺りから、バシューーッ…!!、っと排熱してから、首を傾けて見せる。

「フン…、吾輩ガ知ラントデモ思ッテイル様ダガ…。チャァント知ッテイルゾ、駄目博士。
 大学トヤラデハ、随分ト女子学生カラ人気ガ在ルミタイジャナイカ! エエ!?」
 
 ずいっと顔を近づけてくるロボカイに対して、クロウは少し身を引いて困った様な表情を浮かべた。
 後ろめたい事を指摘されて、狼狽している訳でも無い。ただ単に面倒そうだ。

「人気と言うか…。偶々僕が担当した講義に、勉強熱心な学生さんが多かっただけだよ」

「ホホォォーウ…。
れぽーとノ中ニらぶれたーヲ紛レ込マセル学生ガ、勉強熱心ジャトォ…」

「どうせ僕宛てじゃ無いよ。…間違って提出ボックスに入れちゃったんでしょ…」

首を傾けながらグイグイ詰め寄って来るロボカイに
肩を竦めて言いながら、クロウは腕時計に眼を落とした。
そろそろだな…。そう呟いて、左の手を握ったり開いたりして、感触を確かめた。
動作に問題は無い。ちゃんと動く。クロウの意思と機術も、阻害される事なく掌に伝わる。
 
「仮に僕宛てだったとしても、だ。…今の僕を羨むのは、無意味だと思うけどね。
 この世界の歴史は、ごく小さな規模ではあるけど改竄されて、造られたものだし…」

特に感情の篭らない声で言いながら、クロウは眼鏡のブリッジに右手の指で触れて、軽く押し上げる。

「僕という存在が割り込んだこの場所も、社会的な立ち位置も、…全ては仮初だ。
 GEAR MAKERの用が済めば、全ては元通りになって、僕達は居なかった事になる」

其処まで言ったクロウは、口許に緩い笑みを浮かべて見せた。
それから、ゆっくりとロボカイに背中を向けて、玄関へと向う。
途中で、窓とベランダの向こうに広がる、京都の近代的な都市の光景を一瞥した。
朝の光に照らされた街並は、コンクリートと科学に整備され、幻想など入る余地も無い。
一日が始まる、忙しい朝の時間だからこそ、余計にそう感じるのだろう。
クロウの部屋から見える景色には、現実という世界が、豁然として其処に広がっている。
しかし、それすらも幻だ。あくまで、クロウ達にとっては。

「仮に…、この世界で誰かと仲良くなって、強い絆を持つことになってもね。
 僕達に関する想いも、記憶もだ。この世界の人達の心には、僕達の痕跡は何も残らない。
それこそ、夢のまた夢の様に、…跡形も無く消えてしまうよ」

GEAR MAKER によって変質させられた、今の“斯く在れば”の世界。
それが、元の“斯く在る”世界に戻る時には、余計なものは何もかもが霧散する。
錯覚という装飾が剥がれ落ちて、正しい時間が還って来る。
それまでは、遍く事象が虚でしかなく、蜃気楼の様に不確かで稀薄だ。
消去されることを前提として、クロウが生きるこの世界は時計の針と歴史を刻んでいる。
徹底的に空回りだ。虚しく、悲しい事だ。「吾輩モ、ソノ点ニ関シテハ理解ハシテイル」
玄関で靴を履こうとしたクロウの背中に、ロボカイの声が掛けられた。
普段のふざけた様な妙なテンションでも無く、感情の全く篭らない電子音声でも無い。
静かな声音だった。

「吾輩ノ存在ガ、他者トノ繋ガリヤ、記憶諸共りせっとサレテシマウトシテモダ。
 言葉ヲ交ワシテ打チ解ケ、友情ヤ愛情ヲ育ム事マデ、吾輩ハ無意味ダトハ思ワン」

“愛情”ヤ“友情”ナドハ、未ダ完全ニ理解出来テイル訳デハ無イガナ…。
最後にそう付け加えた声には確かな意思が宿っていて、嫌に真面目な反論だった。
クロウは肩越しに振り返って、少し驚いた様な貌でロボカイを凝視した。

この世界の時間軸は細工され、時間軸は空転し続けている。
それが元に戻る時、この世界はクロウ達を置き去りにしていく。
同時に、クロウ達の痕跡、完全に払拭される。誰の心の内からも、消えてしまう。
だが、この世界から追放される形となっても、クロウ達の存在は消滅する訳では無い。
法則や理の枠外に居るが故に、経験や記憶、感情を失う事も無い。
クロウ達だけは、この空回る時間内を憶えている事が出来る。
それを、虚しく、無意味であると思うクロウに対して、ロボカイの考えは違う様だ。

「記憶マデガ、完全ニ抜ケ落チル訳デ無イノナラバ、十分ニ価値ハ在ル。
 吾輩ガ覚エテイレバ、“0”デハ無イ。無意味デハ無イ筈ダ。
経験トイウ感情ノ起伏ハ、吾輩ノ精神ヲヨリ発達サセルダロウシナ」

ロボカイはクロウに靴べらを手渡してから、腕を組んで鷹揚に頷いて見せる。

「ツマリダ、駄目博士。
吾輩ハ、一刻モ早ク芸者☆がーるト仲良クナリタイゾ。割リト本気デ」

「……君の思考は、女性に向いているのか、自己啓発に向いているのか…判断が難しいね」

手渡された靴べらを持ったままで、一度ゆっくりと瞬きをしてクロウは少しだけ笑う。
笑えない冗談を無理に笑う様な、困った様な、それでいて、優しげな微笑だった。
「何ガ可笑シイノダ?」 ロボカイは腰に手を当てて、不満そうに首を傾ける。

「いや、別に。馬鹿にしてる訳じゃないよ…。君自身の考え方にも、一理在ると思ってね」

思案するように僅かに俯き、クロウは何かを決心したかのように小さく頷いた。
それから靴を履く前に、懐のポケットから、携帯端末を取り出して手早く操作した。
重要なコマンドを実行する為だろう。端末のディスプレイに、指紋、生体データを認証する画面が表示されている。
この部屋に連結された状態にある、終戦管理局支部の施設にアクセスしているのだ。

「それじゃあ、君も僕と一緒に来るかい?
 外へ…、とは言っても、僕の居る大学構内に限らせて貰うけれどね」

「ムゥ…。確カニ、京都ノ女学生ニハ勿論興味津々ダガ…」

クロウは手にした端末のディスプレイから視線を上げて、ロボカイを一瞥した。
「格好は、まぁ…そのままでも良いかな…」 呟いてから、視線をディスプレイに戻す。
余りに冷静なクロウの様子に、我が侭を言ったロボカイの方が、微妙に言葉に詰まっていた。
しかし、クロウとロボカイの二人が留守の間。この管理局支部の管理は如何する気だ。
そうロボカイが聞く前に、クロウはさっさと操作を終わらせ、端末を懐に仕舞う。
同時だったろうか。ゴウン……と、腹の底に響く様な、低く重い音が、浴室の方から聞こえて来た。

「君の代わりの留守番に、念のため、ジャスティスを二体程起こしておいたから…。
これで心配は要らない筈だけど。…もう忘れ物は無いかな」

今の駆動音は、生体ポッドの厳重なロックが外された際の、振動音だったという事だろう。
ジャスティスまで起動させるとなると、かなりの大きなアクションの筈だ。
一体、クロウは何を考え付いたのか。ロボカイは、その真意を測りきれずに居た。

「さて、後は…」と。
クロウは靴を履きながら振り返り、動けずに居るロボカイに、左手で手招きした。
おいでおいでをするみたいな、軽い感じの手招きだ。
ロボカイは、クロウの傍に近寄るかどうかは一瞬、迷った様だ。僅かに身を引いている。
無理も無い。見れば、手招きするクロウの左掌には、青黒の法力機術の微光が灯っていた。損傷した左腕の修繕も終わっているから、微光の揺らぎは以前にも増して禍々しい。

「何ダ、急ニ…。言イタイ事ガ在ルナラ、口デ言エバ解カル」

「良いから…こっちに来てくれないかい」

渋々と言った感じで、ロボカイは玄関先に立つクロウに歩み寄る。
我輩ノ体ニハ、悪イ所ナド何処ニモ無イゾ。ぶつくさ言うロボカイに、クロウも一歩。
ゆっくりと歩を詰める。「ォポ……」奇妙な声を漏らした、ロボカイが動きを凍りつかせた。
クロウが、青黒の微光を纏う左の掌で、そっとロボカイの右頬に触れたのだ。

「結構な精密作業だからねぇ。じっとしていてくれ。
 …特に、顔のパーツは動かしたら駄目だよ。造り直すのに手間が掛かるからね」

諭す様に言いながら、クロウは自分の唇の前に、右手の人差し指を立てて見せた。
口のパーツを開閉させないよう、喋っては駄目だというポーズだろう。
厚手の手袋をした左掌は、ロボカイの右頬に触れたままだ。
驚いているだろう。硬直してしまったロボカイは、まるで彫像の様だ。
法力機術の影響か。身じろぎすらしない。完全に動きを停止させている。

そのロボカイの頬へと、クロウの掌から青黒の微光が、じんわりと伝い始める。
青黒の微光は、鋼液となって薄く広がり、ロボカイの頬を、そして顔全体を覆っていく。
体を強張らせたままで、短くロボカイが呻いた。「大丈夫だよ。すぐに終わるから」
低い癖に抑揚の在るクロウの声は、青黒の微光と、陽光が混じるこの部屋内に響いた。
改竄された世界で、空転を続けるクロウという存在と同じく、やけに虚ろな響きだった。
自分でもそれを感じ、クロウは気怠るそうに鼻から息を吐いてから、詠唱を紡ぐ。
再び、ロボカイが呻いた。

頬から広がり、ロボカイの顔を覆う暗銀の液鋼が、ズゾゾゾ、と不穏に波打ったのだ。
法力機術の微光。その揺らぎによって彫金、細工され、鋼膜は人間の貌へと象られていく。
造形だけでは無い。その肌の質感も、色も、肌理の細かさ、艶も在る。
一見しただけでは生身の人間と大差無い程だ。飽くまで、見た目は。

「頭髪や体格が馴染むのは、…やっぱり、これかな」
呟いたクロウの右掌から漏れる光は、強さは増して揺れる。
鋼塗膜から、機術が彫り出したその顔の造形は、“カイ=キスク”の生き写しだ。
形だけでなく、生気と呼べるものまで鋳込む、途轍もなく精巧、精緻な機術メイクだった。顔を変形させられて尚、彫像の様に動かないロボカイの頬を、クロウは左手で少しだけ撫でる。
拘束具めいた手袋は嵌めたままだ。その左掌には、未だ機術の微光が宿っていた。

「君にとっては、ちょっと複雑な気持ちかもしれないけれど、我慢して貰おうかな」

ロボカイを見詰めながらゆっくりと瞬きをして、クロウは唇の端に緩い笑みを浮かべた。
自分の子供に、余所行きの服を着せてみた親の様な貌だった。酷く似合わない。
「ナ…、何ジャ…!? 何ヲシタノダ!?」 ロボカイの方は、ようやく反応を返した。
クロウの左掌から逃れるように飛び退り、ペタペタと自分の顔を触り出した。
序に、あたふたと視線を彷徨わせている。多分、自分の姿を確認出来るものを探しているのだろう。
慌てた様子のロボカイは、先程までクロウを映していた姿身まで飛んで行き、絶叫した。

「ァァアアアアアアアァァァAAAAAAAHHHHHHHHHnnnnnnnnnnnnnnンンン…――――!!!?」

VOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!
部屋の中に雷が落ちた様な、凄まじい放電音が響き渡る。と言うか、また建物が揺れた。
強化施術された窓にも罅が入り、壁掛けテレビの画面が割れ、床もビリビリと振動している。
ドンガラガッシャンと食器棚が倒れた。破片が床に散らばり、派手な音を立てる。
あぁ…、せっかく家具も揃えたのに、また修理費がまた掛かるなぁ…。
部屋を見回しながら呟いて、クロウは再び腕時計へと視線を落とす。
それから、軽く息を吐き出した。

時間は、まだ少し在る。急ぐ程では無い。のんびり行けば良い。
陽は昇り、星は回り、人は廻り、世界は空転を続けている。
クロウとロボカイを乗せず、勝手に時間は進んでいく。
そうして最後には、二人に関わる全てが、最初から無かった事になる。
何れ訪れるであろう、遥かな忘却の一部でしか無くなるのだ。
誰の記憶にも残らないまま、在る事も無く、消える。

“斯く在れば”の世界が、“斯く在る”世界へと還る時、因果は異物を取り除いてしまう。

しかしその中でも、ロボカイは他者との繋がりに価値を見出しつつ在る。
自らの精神性をより成長させる糧として、情動を憶える事に前向きだ。
随分と打算的では在るが、およそ機械的とは言い難い思考と言える。
製作者としては、喜ばしい事だ。

対して、己はどうだろうか。
僅かに零れそうになる笑みを堪えて、クロウは自らの左掌を見下ろした。

何れ消える事となる、他者への感情や絆など、無意味では無いのか。
こういう無機的な思考は、法術機術の細工師として、必要なものだとも思う。
ロボカイに比べると、どうも自分は思考回路の面で人間味に劣る様な気もする。
だが、それはそれで良い。見方が変われば、得られる知識も変わってくるだろう。
歴史の変遷と共に変わっていく、ひとの夢と同じく。

人間により近づくロボカイも。
人間から次第に遠のいて行く、クロウ自身も。
移ろい、輪郭を暈し、姿を変えて、何処かへ辿り着くのだ。

遍く者の最後。その到達地点を知っているのは、GEAR MAKERのみ。
或いは、何処にも辿り着く事無く、忘れ去られたものは、八雲の賢者が管理する幻想へ。
ただ、それだけの事だ。面白いか、面白く無いかは、自分次第だ。


Pipipipipi。携帯端末が電子音を鳴らした。メールを受信したのだ。
稲光りが明滅する部屋を面倒そうに一瞥して、クロウは「そろそろ行くよ」と声を掛ける。
今日、大学に用意されたクロウの研究室に、客人が来る事になっている。遅刻は厳禁だ。
携帯端末を取り出し、ディスプレイを確認する。

メール受信を知らせる画面には、“岡崎夢美”の文字が浮かんでいた。
幻想郷に干渉しうる因子として、GEAR MAKERが眼を付けている人物だ。
18歳で大学の教授となった天才であり、科学魔法の使役を可能としている人物でもある。
以前、クロウはこの現界・顕界へとサーチャーを放ったが、見落としていた。
かつて、マエリベリー・ハーンを探し出したのは、その異能の力を検出してこそ。
岡崎夢美自身が“普通の人間”で在った為に、捜索対象に含まれなかったからだ。
表面上は、“普通の天才”としかサーチャーが反応しなかった。本物の異分子だ。
だが、クロウは彼女の存在を知って、正直興味を引かれた。

彼女の居た現界・顕界では、統一原理の名の下で、遍く力は全て統一が可能だと証明されている。
重力も、電磁力も全て統一できると証明され、それに当てはまらない力は無いとされていた。
そんな世界の学会で、彼女は魔力という力が存在する『非統一魔法世界論』を発表した。
結果として、彼女は笑い者になった。だが、そうした学会を見返す為なんだろう
何でも、『可能性空間移動船』なるものまで造り、幻想郷へと乗り込んだらしい。
岡崎夢美自身が、この世界では無く、パラレルワールド出身だとも聞いている。
幻想郷の者達と接触するのは、かなり大規模なアクションだ。
だが、自説の証明の為に動く辺り、好感が持てる。

今日のクロウの仕事は、彼女と会い、彼女の扱う科学魔法について聞く事だった。
勿論、話をするだけでは無い。暫くは、大人しくしていて欲しいと頼まねばならない。
どうも、そう簡単には話が纏まるとも思えないが、善処するしかない。

玄関の扉に向き直り、半分程開く。朝の空気が、その隙間から入り込んで来る。
部屋の中へ振り返って、激しく放電を続けるロボカイにもう一度声を掛けようとして、出来なかった。
心臓が不規則に、しかし強烈に脈打った。直後には、心臓の動きが止まるのを感じた。
咳き込む。咄嗟に口許を右手で抑えた。どっと汗が出た。眩暈と、耳鳴りがする。
抑えた手を見れば、血で濡れていた。それを見て、クロウは微かに笑った。
随分、無茶をしたからねぇ…。疲れが溜まってるのかな。蚊の泣くような声で、クロウは呟いた。
その背後で、放電と排熱の爆音が止むのが分かった。急に静かになった。
フローリングを凹ませるかの様な、ドスドスガショガショという騒がしい足音も近づいて来る。

「オウオウオウオウオウオウオウオォォォウ……!!
 吾輩ノ整然トシタ目鼻立チヲ、アンナ駄目おりじなるト同ジニシオッテェェ…!!」

憤懣やるかた無いと言った様子で、ロボカイが背後から詰め寄って来た。
クロウは気付かれないように、血のついた右手をコートのポケットに突っ込んで、振り返る。
液鋼の皮膜が象る、カイ=キスクの貌を貼り付けたロボカイは、既に怒りの表情を浮かべて見せている。
活き活きとした表情は生気に満ち溢れているのに、何処か造り物めいていて、冷たい。
暖かみに欠けて、何処か薄ら寒い。そんな印象を受ける貌だ。無理も無い。
白目の部分が黒く、各種センサーを組み込んだ虹彩が白い事も在って、少々不気味だ。
だが、今のロボカイの姿を見て、他人に騒ぎ出される様な事は無いだろう。
貌の造形と、電子音声に宿る感情らしきものの御蔭で、かろうじて人間に見える。

「…気に入らないというのも、理解出来るけどね。
君の姿形で、余計な面倒事を増やしたく無いんだ。右へ倣え、というのも大切だよ」

「シカシダナ…!!」

「はい、コレを付けて」

何かを言い返して来ようとするロボカイの言葉を遮り、クロウは左手で、懐から手袋を取り出した。
やはりと言うか、その手袋も拘束具めいて分厚く、全く肌を露出させないタイプのものだ。
先程、ハンカチを差し出したロボカイと同じ様に、クロウは手袋をロボカイへと差し出した。

「貌と首元までは、肌の色を付けてあるけど、手までは細工する時間が無いから。
 これで隠しておいてね。まぁ…この都会の中だと、誰も気にも留めないだろうけどねぇ」

其処まで言ったクロウから、ロボカイは渋々と言った感じで、手袋を受け取った。
何かをぶつぶつと言いながら、手袋を両手に嵌める。これで、もう鋼皮の肌が出ている箇所は無い。
ロボカイの頭から足先までを視線だけで一瞥して、クロウは満足そうに頷いた。

「君は手ぶらで良いよ。どうせ持っていくものなんてないでしょ?
 封雷剣のレプリカに関しても、万が一必要になった時には、僕が転移させるし…」

「イヤ…、ソレヨリモダ。ヤハリ、コノ貌ハ…」

「また時間が在る時にでも、新しく造ってあげるから。今日は、それで我慢してくれ…」

まるで頼む様に言われて、ロボカイは少しだけ呻いて、クロウから視線を逸らした。
貌らしい貌を持ったのは初めての癖に、何とも言えない不味そうな貌を浮かべて見せている。
不満だが、しょうがないから納得して、それでも釈然としない様な、渋い貌だ。
「ふふ…、君は、表情を造るのが上手いね」言いながら、可笑しそうにクロウは笑った
こんな風に笑ったのは何時ぶりだろうか。不思議と、肩から力が抜けた気がした。

「……何カ妙ナ物デモ食ベタノカ?」
ロボカイが、眉間に皺を寄せた怪訝そうな貌で、クロウを見ている。

「僕だって人間だ。…笑う事だってあるよ」

じゃあ、行こうか。クロウはロボカイに背を向けながら、扉を開けた。
また笑みが零れる。そうだ。僕は、まだ人間だ。ギリギリで、人間という枠の中だ。

だが、人間のままでは、もう長くは無いだろう。
元より体は強い方でも無いし、幻想郷での戦いで、相当に無理をした。
GEAR MAKERからの治療を受けて尚、肉体の消耗は取り返せて居ない。
仕方の無いことだ。肉体は勿論だが、精神も思考も、感情も魂も、全ては消耗品だ。
それら全てを包括する『命』という概念自体が、既に磨耗を前提とした輪廻の中にある。
行き着くのは、死だ。弱ったクロウの肉体は、確実に死へと向っている。
まぁ、一回くらいは、『死』というものを経験しても良いかもしれない。

GEAR MAKERは、クロウが自身の肉体を弄ることで、生命を維持すると踏んでいる。
間違い無い。確信している。だからこそ彼は、この顕界の京都に留まる命をクロウに与えたのだ。

幻想。現実。そして、可能性世界。パラレルワールド。
余りに多岐に渡り、茫洋極まる多次元の歴史。その全てを観測し続けるGEAR MAKER。
彼の傍らに居続ける為、最終的にクロウは、この肉の体を捨てる事になるだろう。
バックヤード内の情報密度にも耐えられるよう調律された、万能の体が必要だ。
肉体は強化され、生身では見えないものも、見ることが出来る様になる。
では、そうして死を克服した時、自身は何を失うだろう。どうも分からない。
記憶や自我はバックアップ可能だ。消える事は無い。ならば、感情や想いの在り処か。
分からないから、惜しむ事も難しい。クロウは、左手を軽く握った。

ロボカイが廊下に出て、自動ロックで扉が施錠されるのを確認してから、クロウは歩き出す。
朝焼けに滲む京都の街並を横目に見ながら、クロウは口の中の血の味を確かめた。
まだ生きている。完全に肉の体を捨ててしまえば、そんな事も思わなくなる。

それがどうしたと言った感じだ。
だが、先程の様にロボカイの仕種を見て、笑う事も出来なくなるのは、少し残念だ。
なら代わりに、人間に近付きつつ在るロボカイが、笑えるようになればとも思う。
親心とも言えない、何とも独り善がりな考えで、自己満足以外の何物でも無い。

「ナンジャイ! 吾輩ノ貌ヲチラチラト見オッテカラニ!!」

「ふふ…。何でも無いよ」

廊下を歩きながら、クロウは肩越しにロボカイを振り返る。
ロボカイは相変わらず不機嫌そうな、それでいて、何だかしょっぱそうな貌だった。
整った顔立ちで、一人で変顔百面相を続けている。
それを見て、またクロウは少しだけ可笑しそうに笑った。





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