こんなに緊迫して、団結して、闘志が充溢した妖怪の群れを、今まで見たことが無い。
百鬼夜行、という言葉があるが、今のこの状況は正にそれだ。
薄暗がりになりつつある木々の茂みを掻き分ける、殺気と害意を漲らせた物の怪の波。
群集となった妖怪達の中に、無言のままの者は居ない。
ある妖怪は、自分を鼓舞するように吼え猛っている。
また、ある妖怪は、念仏のように何かを唱えながら、妖術の微光を纏わせながら歩を進めている。
仲間の名を呼ぶ者。
殺せ、殺せ、喰え、喰え、と煽る者。
行く手を遮る木々を殴ったりして、自分を奮い立たせる者。
とにかく騒がしくして、恐怖という感情を追い払い、自分達を酔わせようとしている。
低い山鳴りと共にその喊声は響き渡り、妖怪達の心を更に猛らせた。
残響するその妖怪達の声は、巨大な激情の坩堝となって、妖怪の山を包む。
激情は混じり合い、一つになる。
沈む陽と共に、妖怪達の精神は燃え上がる。
その熱は、他の妖怪達に伝播し合い、際限なく高まっていく。
半ば狂乱に近い激情にあてあれ、この百鬼夜行に加わろうとする者がどんどん出て来た。
動物的本能に従うことしか出来ないような、獣に近い下等な妖怪の姿も多数見える。
それを拒む妖怪は、一人も居ない。
ただ、暗がりの森の中、新たな異形の影が群れを成すだけだ。
他者を、此処まで振るい立たせる事が出来るものなのか…。
百鬼夜行というには、余りに熱狂的で、積極的で、破壊的な群れ。
それを見下ろしながら、藍は呟いた。
夜行に混じる彼らの多くは先程、勇儀や萃香、紫達が戦っている処から逃げ出して来た者達だった。
大怪我を追った者から、戦意喪失のあまりに忘我状態の者、恐怖から泣き喚く者。
敗残し、壊走してきた彼らの様は、もう再起不能の状態だった。その筈だ。
少なくとも、藍が妖怪の山に駆けつけた時には、そうだった。
もう戦闘は敗北色が濃厚で、妖怪達はこの住処から放逐されようとしていた。
藍は、正直言ってどうすれば良いのか分からなかった。
いや、何処から手を付ければいいのか分からなかった、と言う方が正しいかもしれない。
それに、相手は、終戦管理局とは、一体何者なのか。
藍は、逡巡して身体が強張るのを感じた
主である紫と、鬼の二人が共同で戦線を張って尚、妖怪の群れが敗走した。
眼の前に在るその事実が、終戦管理局の得体の知れ無さを物語っていた。
消耗し切った様子の妖怪達を見ても、それは窺い知ることが出来る。
怪我をした者を含め、打ちのめされ切った妖怪達は、消滅の危機にあった。
彼らの心が、死のうとしている。
妖怪の賢者の式として、藍は迷った。
妖怪の山は、半ば崩壊の中にあった。
その中で、彼らの治療を優先すべきか。
それとも、主の元へ馳せるべきか。
どちらのカバーに入れば良いのか。すぐには判断出来なかった。
主人である紫は、藍がどちらを選ぶのを望んでいるのか。
そんな事を基準にしてしまいそうな程、混乱と焦燥が藍の思考を鈍らせた。
ぐずぐずしている場合でも無いのに、迷ってしまった。
夕闇の中、妖怪達の呻きと嘆き、血の匂いに塗れて、藍は立ち尽くし掛けた。
だが、迷う時間は、ほんの僅かの間で済んだ。
彼が一人の河童と共に現れたからだ。
名は、イズナと言った筈だ。
彼は憔悴した様子の藍の貌と、周囲の惨状を見比べ、すぐに動いた。
彼は永遠亭に控えていると聞いていたが、何故此処に居るのか。
それでも、彼が此処に居てくれたことには感謝すべきだった。
「こりゃあ…、オイ! しっかりせんかいな!」
イズナは永遠亭の薬と、見慣れない術式を用いて、妖怪達をすぐに治療しに掛かった。
その必死な姿には、以前、博麗神社で見た時のような、ぬぼーっとした雰囲気は全く無い。
河童―――河城にとりも、イズナに続き、妖怪達の手当てに加わった。
藍は頭を振って、自分を叱咤する。
今、必要なのは、広い視野では無い。
死に絶えようとする妖怪の群れを癒すことだ。
藍も、紫の元に向かう前に、此処に居る妖怪達に治療を施す事を選んだ。
それは、主人である紫と、此処に居る妖怪達の命を天秤に掛けた訳では無い。
どちらかを選ぶのでは無い。出来る事は全てやるだけだ。
主人が逃がそうとした、護ろうとした者達を癒す。その上で、主人と共に戦う。
まず今出来ることが、眼の前にある。それだけだった。
藍も加わり、妖怪達への施術は、より高度なものになった。
それらは応急手当に過ぎないが、するかしないかでは、全く違う。
肉体自体が強靭な妖怪にとっては、応急手当だけで動けるまでに回復する者も多かった。
飲み薬、軟膏、湿布など、八意印の薬品は、妖怪向けに調合されていた。
御蔭でどれも効果が高く、応急であっても、十分な治療効果のあるものばかりだった。
傷が癒され、気力も戻りつつある妖怪達の中には、外来の者であるイズナの事を、悪意の篭った目で見る者も居た。
触るな余所者! 妖怪の誰かが言った。
山から出て行け! また、別の妖怪が叫んだ。
そうだ、山から下りろ! 違う妖怪が、その怒声に続いた。
つい先程まで、外来の者と対峙し、手酷くやられたからか。
八つ当たりとは言え、それらの言葉には十分な敵意が伺えた。
余所者。
その言葉に、今まで大人しく手当てを受けていた妖怪達の眼にも、猜疑の色が浮かぶ。
妖怪の群れの視線は、明らかに険しくなり、それはイズナを迫害する寸前の眼だった。
黒い感情が、夕闇の茂みに渦を巻き始める。
その様子を見守っていたにとりは、あまりの剣幕にうっ、と息を呑む。
「貴様ら…! 助けて貰ってその言い草は…!」
藍は声を荒げかけたが、不意に響いた鈴の音が、それを止めた。
まるでこの場の空気を浄化してしまうような、その澄んだ鈴の音に、誰もが視線を向けた。
イズナは全く怯んでいなかった。
刺す様な敵意の視線を平然と受け止めながら、ふぅむ…、と顎を手で擦って見せた。
他所者…ねぇ…。
呟くように言ったイズナは、腰から刀をすぅっと抜いたのだ。
妖怪達は、皆一様にその身を引いていた。
普段はのんびりした雰囲気で、周囲の空気を和ませるイズナだが、今の凪いだ貌には、見る者を圧倒する存在感がある
イズナは切っ先を地面に向け、くるりと円を描いた。
低く渋い声で朗々と法術を詠唱し、その声に合わせ、白い雪風が吹き渡っていく。
冷たくも澄んだ風に、白い着流しが揺れる。
描かれた円に法術陣が浮かび上がり、淡く優しい山吹色の光が溢れた。
イズナは柄を逆手に持ち代え、描いた陣円の中心に、すっと切っ先を沿えるようにして触れる。
その瞬間だった。山吹色の光の波が、山全体に染み渡っていくように広がったのだ。
光の漣は、木々を縫い、地表を覆い、妖怪達に体にも染み渡っていく。
生気を与える山吹の風は、敵も味方も無く、優しく包み込んで、癒し、ぬくもりをくれる、
おお…、と感嘆の声を漏らした者は、一人や二人ではなかった。
天人菊。
それは、イズナの持つ、回復と霊気を司る法術だった。
確かに、オイは他所モンかもしれんね…。
緩く優しい山吹の風の中、イズナは少し寂しげに呟きながら、抜いた刀を鞘に納めた。
「仲良しこよし、って訳じゃ無いけど…オイは幻想郷の皆の事、友達みたいに思っとるよ」
ゆっくりと周囲を見渡したイズナは、少しだけ唇を笑みの形に歪めた。
朱色にも黒にも見える眼も、柔らかく細められている。
今の追い詰められた状況で、損得も打算も無く、イズナは自然体で微笑んだ。
見る者を安心させるような笑みだった。
藍は、その微笑みに惹きつけられるのを感じた。
イズナは、まだ仲間として戦おうとしてくれている。
その事に対する、それは、ある種の希望のようなものかもしれない。
それに、イズナ自身に、紫とはまた違う種類のカリスマのようなものも感じた。
「さて…、ほいじゃ、オイも行くとしますかねぇ」
藍がイズナに声を掛けようとした時には、イズナは既に背を向け、妖怪達が逃げてきた方へと向き直っていた。
aaaaaaaaaaaaaaaAAHHHHHHHHHHHHHHhhhhhhh――――。
怖気が走るような声が聞こえて来たのは、丁度その時だった。
木々と枝葉が、ビリビリと震える程の大音声。
それでいて、聞く者の心をへし折るような、呪われそうな声音だ。
いや、もう妖怪の山は、この声そのものに飲まれてしまうのではないか。
そう思わせるだけの、危険さや忌まわしさを感じさせる声だった。
悲鳴を上げる者。耳を塞ぐ者。頭を抱える者も居た。
一体何が居るんだ。藍の頬に、冷たい汗が伝う。
にとりは、へなへなと尻餅を付きかけたが、何とか堪えていた。
「…喧嘩は下手なんだけどねぇ」
その大声がした方へ、イズナは歩み出した。
怯えも怯みも全く感じさせない、不思議と軽い足取りだった。
皆、その静かな背中を見詰めていた。
妖怪達の視線に気付いていたのかどうかは分からない。
だが、ふっとイズナは肩越しに妖怪達を振り返り、その目許を緩めて見せた。
「友達が困ってんなら、助けたいって思うでしょ…。
余所者なりにけっぱるさけ、もうちっとだけ山に居させて貰えんかね」
場にそぐわない穏やかで、柔らかな物腰のイズナの貌は、やはり少しだけ寂しそうだった。
ただその声音はとても真摯で、それがただの軽口で無い事は、この場に居るだれもが感じただろう。
再び、静寂。地鳴り。声。
「ほいじゃあね。ちょっくら行ってくるよ」
誰に言うでも無く言って、イズナは腰に佩いた刀の柄に手を掛ける。
そうして、くるりと踵を返すと、妖怪達からの言葉も待たず、イズナは姿勢を前に傾け、静かに駆け出した。
チリリィ―――…ン、と澄んだ鈴の音が残された。
白い雪風と化したイズナは、木々の合間と夕闇の中に滑り込んでいった。
逃げ出した訳では決して無い。
イズナは一人で戦場に向かおうとしている。
鈴の音と共に残された妖怪達は、互いに顔を見合わせ、歯噛みした。
妖怪達は、未だ恐怖に囚われたままで、すぐにイズナの背を負うことが出来なかった。
先程イズナが行使した法術・天人菊の御蔭で、妖怪達の体は癒え、体力自体は大きく回復している。
しかし、それが自分達が感じる不甲斐無さに拍車を掛けていた。
暗がりに薄れていく鈴の音は、木々の枝葉の揺れる音に消され、もう聞こえなくなった。
微かな血の匂いと、静穏だけが残った森の中。
藍はふわりと宙に浮き上がり、イズナの走り去った方へと身体を向けた。
暗い森から、ごう、と風が吹いてくるのを感じた。
濁った不穏な風は、異様な威圧感を混じらせ、戦慄を誘う。
AaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHhhhhhhhh――――。
再び聞こえた大声に、藍は歯噛みする。怯んでいる場合では無い。
「妖怪の山は、私達の故郷だからね…」
不意に、少し震えた声が聞こえた。
その鈴の音を追おうとしている者が、藍以外にも一人だけ居たのだ。
にとりだった。
にとりは言いながら、緑色のキャップを深く被り、リュックを担ぎ直した。
それから深呼吸して、周囲に居る妖怪達を見渡す。
「私は…イズナのおいちゃんに続くよ。
無理と邪魔しない程度に頑張らなきゃ、きっと後悔すると思うからね」
にとりの言葉は、やはり少し震えていた。だが、其処には強い意志が伺えた。
その決意が伝わったのか。
妖怪達の中で、呻き声のようなものが上がった。
やられたままでは終われない。
何かを決心したように頷くものも居た。
逃げてきた方角へ振り返る者も居れば、再び拳を握り固めている者もいる。
「紫様の力になってくれるのか…」
藍は、真剣な貌で、にとりに視線を向ける。だが、その声音は嬉しそうだった。
まだ危機に立ち向かおうとしてくれる者が居る。
紫を助けようとしてくれる者が居る事は、大きな救いだ。
にとりは藍の言葉に頷く。
「役に立たなかったら、その、申し訳無いけど…」と、少し気まずげに眼を逸らした。
そんな事は無い、と藍は首を振り、礼を述べた。
そして、共にイズナが走り去った方角へと向き直る。
その時だった。
uuuuuuuuUUUUUUUUUUUUUUUU―――。また声が聞こえて来た。
今度の声は先程のものよりも、より生々しい声だった。
だが、その大声を掻き消さんばかりに、妖怪達の群れの中からも、一つ咆哮が上がった。
己を振り立たせる為の、狂乱の色を帯びた咆哮だ。
それが切っ掛けだった。
顔を見合わせ、気まずそうに、或いは悔しげに唇を噛んでいた妖怪達だったが、その咆哮を聞き、また誰かが雄叫びを上げた。
負けじと、また別の妖怪が続き、それは次々と連鎖して、熱狂の渦へと変わっていく。
重なり合いながら木霊する咆哮は、藍と、にとりの心を揺さぶった。
飲み込まれるような熱気に、危うく浮かされそうになる。
傷つき、心折られた者達の眼に、再び闘志が灯った。
太陽は沈み、妖怪達の心は燃え上がる。
自らの故郷を守ろうとする意思に、人間も妖怪も無い。
憩い休む場所でもあり、守らねばならないものであることに変わりは無い。
そうして、今。
百鬼夜行と化した妖怪達は、紫達の下へと辿りつきつつある。
群れの先には、巨大な赤ん坊の姿が見える。
青黒の光沢の無い、金属の肌。肉。
血のように身体から滴る鋼液。全身から生えまくり、自身に絡みつく有刺鉄線の束。
無数の細かな穴が空いた、眼も口も鼻も無い貌。
アレを赤ん坊と呼ぶのは、言語的に無理があるかもしれない。
だが、確かにアレは生まれ、生きていて、他者を呪うかのような産声を上げている。
怯むんじゃねぇ! やれ! やっちまえ!
血を! 血を! 殺せ! 殺せ!
もたもたすんな! 行け! 行け!
妖怪達の声は狂乱と凶暴さに彩られ、夜行の群れは、赤子の異様にも全く怯まない。
上空から赤子を目指していた藍は、その群れの遥か前方に、雪風が吹くのを見た。
夕闇の木々の中、その影を縫い渡っていく白い影は、もうその赤子の下へと辿り着いていた。
相手の打った手は通ってしまった。それを悔いても仕方無い。
後悔出来る内は、まだ良い。
もうすぐのところで、後悔するだけでは済まなくなる所だった。
Mmmmmmmmmmmmmmmmaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhh―――。
青黒の微光で暗い青錆色の身体を覆った赤ん坊は、まだ巨大に成長している。
少し前よりも、大きくなっている。
いや、膨らんでいる、と言う表現の方が似合うかもしれない。
這う赤ん坊の手が地面に触れるたび、地盤が青黒に染まり、ひずんで、汚染されている。
金属に変わった土草を掌から吸収して、その体積を急激に増していく。
土地の宿る『幻想』という命を鋼で塗り固め、それを貪り喰っていた。
膨張を続ける、肉とも金属ともいえない肌には、相変わらず有刺鉄線が無数に絡みつきまくっている。
棘が食い込んだ肌からは、鋼液が滴り、身体を濡らしていた。
甘いような、苦いような、胸が悪くなるような匂いもする。
Uuuuuuuuu―――aaaaaaahhhhhhhh―――。
赤子は、体を引き摺るようなハイハイで迫って来ている。
その間にも、金属で構成された身体は、土地から鋼液を吸い上げながら、どんどん育っている。
イズナは居合いのように構えたまま、重心をすっと前に移動させた。
ん~…、こりゃ厄介だで…。呟きながら、刀の柄に添えた手をにぎにぎと動かす。
そのイズナに、おい…、と、隣から声を掛けたのは、勇儀だった。
「お前さん、何者だい…?」
勇儀も重心を落とし、両拳を構えた状態のまま、視線だけをちらりとイズナに向けた。
ズズゥゥーーーン…、と地面が鳴いた。這い来る赤子の掌が、地面を衝いたのだ。
揺れと、凄まじい威圧感が紫達を襲う。
だがその中でも、イズナは軽く片目を瞑って見せた。
「オイはイズナ、っちゅうモンでさ。
…まぁ、自己紹介しあうのは、後にした方が良さそうだぁね」
紫達は、ジリジリと少しずつではあるが、後退している。
こりゃ面倒な事になったねぇ…。
イズナは構えたままその場に留まり、赤子を見上げ、鼻から軽い息を吐いた。
「あの赤さん…ありゃ、この土地の魂っすなぁ。
下手に潰しちまうと、この辺一帯が枯渇しちまうでよ…」
「ええ。…どうにかして、還したいけれど、時間が掛かりすぎる」
答えた紫の声は、落ち着いているようで、焦りきっているようでもあった。
紫は冷や汗をびっしょりと掻いて、その貌色も青白い。
傘を握る手も震えていて、噛み締めた唇からは血が滲んでいた。
無理も無い。人里でも同じ状況が起こりうることを考えれば、気が気では無いだろう。
それに、この金属で汚染され命を持った土地自体が、紫を縛る結界のようなものだ。
境界操作の能力に掛けられた枷は、強力だった。
この場を勇儀達に任せて、紫自身は里に向かうことも出来ない。
足止めを喰らい続ける訳にもいかない。
だが、安易に土地を殺せば、未来も死ぬ。
法力機術によって、無理矢理にたたき起こされた土地の魂こそが、あの赤子だ。
紫に、勇儀に萃香も居る。戦えば、殺してしまう事も出来るだろう。
だが、そうすることで此処の大地は死ぬ。
鉄屑と錆滓の山になってしまう。
「…困ったね」
萃香も、半身を霧に変えながら、弱ったような声で呟いた。
だが、更に困った状況になるのは、多分これからだった。
Aaaaaaaaaaaaaaaaahh―――ahhhhhh―――。
『亜啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞――』
轟く産声に、更に違う産声が重なった。
その産声は、地の底から聞こえた。比喩では無く、本当に地面から聞こえてくる。
湧き出す声と同時に、赤子の周囲の地面が、痙攣を起こしたようにぶるぶると震えだした。
液状の鋼に蝕まれた地面は泡立ち、細かい気泡が出来ては弾けていく。
法力機術の紋様がそこら中の地表に浮かび上がり、青黒の光を溢れさせた。
足止めは要らないってのは、こういう事かい…。勇儀は歯軋りしながら、低い声で呟いた。
赤子は、勇儀の呟きには応え無かった。
だが腕振り上げ、掌で地面を叩き更に声を上げて、自分以外の土地を呼び覚ました。
幻想が沸騰し、金属に孵り、それは何かの形を成していく。
いや、形だけではない。声や、感情や、表情を造り上げ、其処に歪んだ魂が宿り始める。
紫達の遠くで、近くで、すぐ其処で。
まず聞こえてきたのは羽根音だった。
かなりけたたましい音だ。
啞啞啞啞。産声は一つじゃ無い。亜啞亜啞。無数だ。
赤子の正面に陣取っていた紫、勇儀、萃香は飛び退った。
イズナも半歩だけ身を引いて、こりゃ、嫌になっちまうねぇ…、と呟いた。
産まれ出てきたのは、やはり赤子の姿をしていた。
その身体の大きさは、既に人間の子供程度の大きさがある。
ただ、人間の子供の姿形とは大きく異なっている。
彼らは皆、人間の赤子に、同じサイズの蟲を移植したような姿だ。
蠅のように眼が肥大化し、複眼になっているものもいれば、蜘蛛のように頭に無数の眼を持っているものも居る。
中には、蛞蝓のように両眼窩と口から、粘液に塗れた角が突き出しているものも居る。
背中には蟲の羽根が生えていて、高速で羽ばたいていた。
濁った透明な白い羽根は、耳障りな羽音を立てて、赤子を宙に持ち上げている。
その姿はバラエティに富んでいて、まるで異種移植の標本に息を吹き込んだようだ。
啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。
産声は、理解不能の言語のようにも聞こえる。
嗚咽のようにも聞こえるし、笑い声にも聞こえる。
男の声でも、女の声でも、老人の声のようでもある。
銀塗膜の世界は、冒涜された誕生によって埋め尽くされていた。
蟲赤子の群れは、飛び退った紫を見た。
その視線は、余りに無垢で、余りに無邪気だった。
勇儀を見て、萃香を見て、イズナを見た。
紫は後ずさり、勇儀と萃香は、鳥肌が立つのを感じた。
啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞啞啞。
羽音の質が変わり、蟲赤子の群れは宙に浮き上がったまま前屈みになった。
Aaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh――――。
巨大な赤子も、地面を叩くようにして、前に出てくる。
それが合図だったのか。一斉だった。
木霊する歪んだ産声と共に、蟲赤子の群れはイズナ達に突っ込んで来た。
突進とも、突撃とも違う。それは、抱擁を求める子供のような仕種だった。
傘を構え、紫は唇を更に強く噛んだ。
急いでるのよ…! 呟いて、苦無弾幕を放とうとした。
勇儀は拳を握り、重心を落とし、待ち構える。
半ば霧と化した身体に、鬼火を纏わせたのは萃香だ。
イズナは皆の動きを視線で追ってから、すっと前へ踏み込んだ。
直後だった。
「ご無事でしたか! 紫様!」
凛とした声と共に。
深い群青色の弾幕が、蟲赤子の群れを横合いから猛襲した。
蟲赤子の悲鳴が響く。金属が砕ける音に、粘液が飛び散る水音が聞こえた。
暗い森と暗銀の塗膜の景色の中に、群青の火花がぱっ、ぱっと裂いて、蟲赤子の何匹かが地面に落ちた。
啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞―――。
金属で出来た体はゴトン、ドスン、と不気味な重い音を立てて、蟲赤子達は地面を転がる。
紫達の横合いから飛び込んできたのは、藍だった。
九尾を揺らしながら、結界術と妖術によって編まれた術陣を無数に展開させている。
次いで、すぐ其処まで来ていた、幾重にも響き合う足音と咆哮が、雪崩れ込んで来た。
数秒もしない内だった。藍が展開した術陣と弾幕の光を遮るように、無数の影が差す。
銀塗膜で塗り固められた木々を縫うようにして、今度は先程逃げ出した妖怪の群れが殺到したのだ。
木々をへし折り、叫び、地面を踏み鳴らして押し寄せた影の濁流は、あっという間に蟲赤子達を飲み込んで、絡み付いて、襲い掛かった。
地の魂そのものである巨大な赤子を前に、勇儀と萃香が攻めあぐねている束の間。
紫も、どう動くかという思考の一瞬の隙間。
それ程、本当に瞬きの間だった。
妖怪と蟲赤子がそこら中で入り乱れ、取っ組み合い、押し合い、殺し合う状況が出来あがったのだ。
紫は眼の前に広がる乱戦の場を見詰めて、唖然とした。時間で言えば、一秒程か。
直ぐに視線を上げる。其処には、焦ったような、心配そうな貌を浮かべた藍が、直ぐ傍で宙に浮いて居た。
「お怪我は!?」
「大丈夫よ…。今は私の心配より…」
其処まで言って紫の言葉は、ズズゥーーーン…、という轟音に掻き消された。
藍も、その轟音がした方に向き直り、眼を鋭く細めた。その頬に、一筋の汗が伝う。
紫と藍の視線の先。巨大赤子は、突然の出来事に硬直しているのか。
ゆっくりとした動きで、乱戦の地となった銀林を見下ろし、戦場を眺めるだけだ。
積極的に動こうとはしていない。そう見える。
赤子の思考の中に在るのは、戸惑いなのか、驚きなのか。
何を考えているのかは分からないが、この時間は好機だ。
蟲赤子の相手は、妖怪の群れが完全に抑えた。
少なくとも、今はそうだ。めちゃくちゃな乱戦は、決して劣勢では無い。
妖怪達は皆、薄い山吹色のオーラのようなものを纏っている。
オーラは妖怪達の身体を活性化させ、恐怖を忘れさせる。そして興奮させ、奮い立たせる。
追い返せ! 叩き潰せ!
怯むな! 行け! やっちまえ!
喊声と怒号が上がり、妖怪の群れは更に猛り狂う。
勇儀と萃香は軽く頷きあい、その乱戦の中目掛けて同時に駆け出した。
敵と味方が入り混じる中を割って、巨大赤子に迫るつもりだ。
紫は、藍と共に宙に浮き上がりながら、数え切れない程の術陣を展開し、巨大な赤子と対峙する。
眼下に怒号を聞きながら、藍は既に赤子に迫っている者が居ることに気付いた。
イズナだ。
乱戦の中を割っていこうとしている勇儀、萃香の前を行く形だ。
イズナはするすると滑るようにして、その戦場の中を縫って行く。
いや、ただ歩を進めているだけじゃない。
白い風を纏ったイズナが通り過ぎた後には、蟲赤子だけが切り伏せられていた。
あれだけ混雑した戦場の中、味方を全く傷つけず、敵だけを切り倒していく。
今も、イズナは音も無く太刀を振るって、蟲赤子の首を飛ばした。
液鋼の血が噴出す死骸の横を、やはり無音で進む。
イズナに切伏せられた蟲赤子の死体は、空中でその身体を霧散させ、鉄塵と幻想へと還っていく。
強力な解呪法術を纏わせたイズナの太刀は、対象を斬る事で、其処に込められたものを抹消する。
黒コートの男が鋳込んだ偽りの命を、汚染された鋼の体から、幻想へと還す。
その為に、イズナは更に太刀を一閃させる。
白刃の線を引きながら、イズナは混戦の中を縫い行く。
次々と蟲赤子が両断され、霧に変わった。
切捨て御免ねぇ…。申し訳無さそうに呟いて、イズナはひゅっと短く息を吐いた。
前傾姿勢を更に低く落とし、眼をすぼめた。
その視線の先で、一人の妖怪が押し倒され、群がろうとしていた四体の蟲赤子が居た。
にとりだった。
リュックから伸びた機械のグローブ付きアームで何とか抵抗しているが、相手の数は四人。
劣勢だ。イズナは、にとりのすぐ脇に踏み込んだ。
ついでに、一人の蟲赤子の首にすっと太刀を埋め込んだ。
そのまま手首を返し、首を刎ねる。イズナは即座に身体を返して、水平に太刀を凪ぐ。
次の瞬間には、二人の赤子の首と、胴体が飛んだ。
大丈夫かい。そう言ったイズナの声は、恐ろしく落ち着いている。
にとりに向き直る途中で、残った最後の蟲赤子の頭頂部から股下までを両断していた。
悲鳴も何も聞こえないまま、蟲赤子の左半分と右半分は地面に落ちる。
瞬く間に幻想へと還る蟲赤子を一瞥して、刀を血振るいするイズナの貌は、人畜無害そうな、人の好さそうな貌のままだ。
尻餅を付いたような姿勢になったにとりは、何かを言おうとしたが、出来なかった。
驚愕と脅威を同時に感じたような、怯えたような貌で、にとりはイズナは見上げたまま硬直してしまった。
だが、そのままへたり込んで居る訳にもいかない。
困ったような笑顔を浮かべたイズナは、にとりの手を引いて起こす。
すぐそばで、妖怪の悲鳴と、啞啞啞啞啞啞啞啞啞―――、と喜色ばんだ赤子の声がした。
誰かやられたのか。血の匂い。咆哮。殴打音。
色んな音が混じり、熱気と共に混戦の場を包んでいる。
足元の金属塗膜は、気付けば血とそれ以外の液体が交じり合って、ひどく足場が悪い。
だが、まだ劣勢では無い。このまま圧せる。
河童さんに頼みがあるでよ。
イズナは言いながら、振り向きざまに背後から迫って来ていた蟲赤子の額に刀の切っ先を埋め込んだ。
啞啞――ー…、と蟲赤子は声を漏らしながら、べろんと舌を出した。
一つしかない眼が飛び出していた。
切っ先を引き抜かれた赤子は、その場に崩れ落ち、鉄塵に変わり、熱い風に攫われた。
敢えてその様子には視線を向けず、イズナはにとりに背中を向けたまましゃがんだ。
そして、肩越しに視線を向け、口許に笑みを浮かべる。
「掴まっててくれるかい。…河童さんの治金術が頼りなんだわさ」
イズナの渋い声は、この怒号と咆哮の中でも、にとりに届いたようだ。
にとりは、緑の帽子を深く被り直し、頷く。
そして、イズナの背中に掴まり、「…闘いじゃ足を引っ張っちゃうな…ごめん」と呟いた。
イズナはにとりを片手でおんぶするようにして立ち、もう片方の手で刀を握る。
「出来る事があるなら、頑張るよ」
にとりは、強い意思の篭った声で言いながら、頷く。
そうして、背後から迫ってた蟲赤子を、リュックから伸びたグローブ付きのアームで殴り飛ばした。
イズナも、横合いから飛んできた蟲赤子を逆袈裟に切り捨てた。
「…遣り辛いねぇ、どうも」
凪いだ貌のまま呟いたイズナの声には、しかし苦渋と罪悪感が滲んでいた。
押し殺したような呼吸は、自身を無理に平静に保とうとしているようでもある。
イズナは何も感じず、ただ作業的に人を斬れるような人物では無い。
だからこそ、この赤子の姿をした敵の姿は、心を追い詰めてくる。
惑わされては駄目だ。流されず、区別すべきだ。敵は敵だ。
宿った命を殺すのでは無く、元に還すのだ。
柄を握る手に、力を込めた。一瞬だけ、視線を周囲に巡らせる。
AAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHH―――。
蟲赤子の親。巨大な顔なし赤子の、苦しげな声が轟く。
紫と藍だ。乱戦の外から、顔なし赤子を弾幕で牽制してくれている。
光球と光線が奔り、巨大な赤子の顔や身体を削っていた。その度に、鉄が拉げるような音が、断続的に響いている。
顔なしの赤子は前に進もうとしているようだが、弾幕をいやがって、中々前に進めずに居た。
勿論、乱戦の中に居る蟲赤子が、紫達に気付かないはずが無かった。
啞啞啞啞。啞啞。啞啞啞啞啞啞。―啞― 啞―啞。
蟲赤子の群れが、その蟲羽根を羽ばたかせ、飛び立つ。
そして、誘蛾灯に集まる蛾のように迫った。
しかし、数だけで押し切れ程、紫も藍も弱くは無い。
邪魔な…。藍は呟き、一枚の札を懐から取り出し、何かを唱えた。
紫が音も無く傘を振るい、数体の赤子を切り裂いたのと同時。
群青の光、弾幕と共に放たれた札は卍紋を描き、飛び来る蟲赤子を消し飛ばした。
それらは全て、巨大な赤子を牽制しつつの片手間の戦闘だ。
視野の広い紫と藍のおかげで、乱戦は未だ優勢を保っている。
「やるねぇ…、あんた」
「このまま押し切れそうだね」
二人分の声がしたのと、イズナの周囲に迫っていた七匹程の蟲赤子が粉々になったのは、ほぼ同時だった。
イズナが何かの行動を取ろうとしていることに気付いただろう。
乱戦の中を掻き分けて割りながら、白い霧と共に、鬼火が揺れて、流れて来た。
イズナの脇に飛び込んできた勇儀が、そして、霧を身体変えた萃香が、イズナのカバーに入ったのだ。
殴り飛ばされ、吹き飛ばされた蟲赤子は、他の赤子を巻き込む。
うわぁ…、と驚愕の声を上げたのは、イズナの背中に掴まったにとりだ。
「何か手があるなら、助太刀するよ」
勇儀は更に迫っていた蟲赤子を蹴り飛ばし、掴んで投げ飛ばしながら頷いた。
「やるなら今のうちだ。長引くと…」
状況が変わりかねない。
鬼火を纏った鎖を振り回しながら、萃香はそう言おうとしたのだろう。
イズナは萃香の声に被せて、あぶねぇ…!、と叫んだ。
そのイズナの声に、一体どれほどの数の妖怪が気付いていただろうか。
地面が揺れた。次に、影が差した。途轍もないプレッシャー。上だ。
「逃げなさいっ!」そう叫んだ紫の声は、乱戦の怒号に圧され、掠れて聞こえた。
他の妖怪達は、反応が若干遅れた。その僅かな時間が致命的だった。
乱戦の中に、一瞬の静寂が起きた。誰もが眼を奪われた。
今まで弾幕に圧され、身体を削られていた顔なしの赤子が、跳ねたのだ。
いや、飛び上がったと行った方が正しい。
身体を縮めて、両手で地面を叩き、びょんと飛んだのだ。
それも、妖怪、蟲赤子が入り乱れた混戦の真っ只中に向かって。
ドッシィィィーーーーーーーーーーーン、と身体を持ち上げるような轟音が、暮れなずむ空に響き渡った。
心を打ち砕くような、凄絶な音だった。
妖怪の山が、この場所を基点に穴が空いて、壊れてしまうんじゃないか。
そんな錯覚を覚えさせる激震だった。
次いで、強烈な揺れと、衝撃波。
銀塗膜に覆われた地面や木々までもが砕けて、宙に舞い上がり、周囲に撒き散らされた。
イズナは吹き飛ばさそうになりながらも、刀を握る手で顔を庇い、姿勢を落として何とか堪えた。
にとりも、吹き飛ばされないように、イズナの背に必死にしがみついている。
勇儀と萃香も、重心を落として衝撃に耐えたようだが、その表情は凍り付いていた。
顔なしの赤子が落下する直前、多くの悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなものは余韻すら残っていない。
無数の妖怪を、その断末魔ごと巨体で押し潰し、顔なしの赤子は何がおかしいのか、くぐもった笑い声を上げていた。
Efuuuufuuuuufuuuufuuufuuuuu―――――。
無邪気さすら感じるその笑い声に混じり、ザァァァァ…、と、波が寄せてくる様な音がした。
畜生…、と呟いたのは、勇儀か、それとも萃香だったのか。
イズナには分からなかった。にとりは身体を震わせて、ぎゅっとイズナの着流しを掴んだ。
咽るような、熱い匂いが押し寄せて来た。血の匂いだ。
銀と赤黒い血を混ぜた液体が、顔無し赤子の身体の下から流れ出てきたのだ。
大量の血液と鋼液が混ざったそれは、押し潰された妖怪達と、蟲赤子の血だった。
辺り一面に流れ出したそれは、あっという間に地面を赤と銀色に染め上げる。
それは、まるで膿の漣。
今までの乱戦の熱気が嘘のように静まりかえり、圧死を免れた妖怪達は暫く動けなかった。
弾幕を放っていた紫も、藍も、呆気に取られて攻撃の手を緩めてしまった。
その隙を、顔無しの赤子は見逃さなかったようだ。
今まで浴びせられた邪魔臭い弾幕が薄まったのを見て、更にもう一回、両手で地面を殴りつけた。
そして再び、びょんと飛び上がった。今度は、紫と、藍の方へ。
とてつもない飛距離と速度だった。巨木を見下ろすあの巨体だ。縦幅も横幅もある。
しかも、顔無しの赤子が飛び上がった直後に、その身体が更に変質し始めていた。
余りの光景に、紫も藍も、回避が一瞬遅れた。
赤子の胸、首、顔、腹から、青黒の微光を纏った有刺鉄線の束が噴き出したのだ。
まるで一本一本の鉄線が意思を持っているかのように絡み合い、編みこまれ、それは空中で腕の形を成していく。
それも、凄まじい速度だ。
紫達に飛び掛ろうとしてる赤子は、首やら顔やら腹から腕を生やし、あっという間に六本腕になった。
爆発的に膨れ上がった表面積は、紫達から逃げ場を奪う。
咄嗟に、紫は結界を張ろうとした。だが、間に合うか。もう眼の前だ。
能力の減衰した状況で、法力によって生み出された異形の赤子を止められるのか。
そんな思考が過ぎった次の瞬間には、紫は誰かに突き飛ばされていた。
かなり強い力だった。ご無礼を御赦し下さい…!、と切羽詰った声も聞こえた。
藍だ。横合いから紫を、赤子の飛んでくる軌道の外へ押し出したのだ。
体勢を崩しながら、紫は中空から落下する。息が詰まった。
見れば、藍が結界術を唱えながら、紫を守ろうと前に出ようとしている。
その貌に怯みや恐れは無い。主を守るという使命感が、藍の恐怖を捻じ伏せていた。
紫が鋼液で凝り固まった地面に墜落したのと同時か、その直後。
卍紋の結界が展開され、飛んで、というよりも、降って来た顔無しの赤子と激突した。
Baaahhhhhhhhhhhhhhahahahahahhahahahaahahha――――。
寒気がするような無邪気な笑い声と共に、顔無しの赤子はじゃれつくようにして藍の結界に掴みかかった。
空中に浮かぶ球状結界に、しがみつくような格好だ。
新たに生えた六本腕でがっちりと結界に組み付き、其々の手の指が、結界の光壁に食い込んでいく。
「く、ぅ…ぁぁぁあ…っ!!」
藍は何とか耐えようとするが、顔無しの赤子の腕力は、半端では無かった。
亀裂と、細かな罅がバキバキビシビシと奔り始める。それだけじゃない。
顔無しの赤子の纏う、青黒の法力の微光が、煙のように藍の周囲に立ち込め出した。
明らかに危険だ。藍は、結界ごと顔無し赤子に抑えられて逃げられない。
青黒の微光は、細かい蟲の群れのように不気味に蠢き、藍の展開する結界を侵し始めた。
美しい群青の光彩が、黒く澱んでいく。
「ぐ、く…! あああ…!!」
バキバキ、ガキン、と何かが砕けていく音が、断続的に響き、藍の貌が苦悶に歪む。
顔無し赤子の六本腕が、更にギシギシと締まっていく。
まるで獲物を咥え込み、動きを押さえ付けるようとする蛇のような動きだ。
こりゃいかんぜよ…! イズナは、にとりを抱えなおし、駆け出す。
うわわ!? 、と声を漏らしたにとりも、しかし、すぐにリュックから伸びたアームを構えさせた。
勇儀と萃香は、イズナに続こうとした。
だが、周囲に迫っている蟲赤子に気付き、追従する代わりに、イズナ達が踏み込むカバーに入る。
「止まるな!」
言いながら、勇儀は、左のボディブローで飛んできた蟲赤子を砕いた。
ついでに、イズナ達に追いすがろうとする赤子を蹴り飛ばしてから、下段突きで叩き潰した。
「頼むよ!」
萃香も、鎖を振り回して、何匹も蟲赤子を叩き伏せながら、息を深く吸い込んだ。
吸い込まれた空気は、吐火となって吐き出され、にとりの頭に噛み付こうとしていた赤子を火達磨にする。
降ってくる火の粉から、にとりを庇うようにして身体を捻り、イズナは重心を沈めた。
そうして「はいよゥ!」と答え、ダンっと地を蹴る。
重さをかんじさせない跳躍は、一気に藍との距離を狭めていく。
うろたえながらも、何とか踏ん張ろうとしている妖怪達を飛び越え、脇をすり抜け、駆ける。
そのイズナの前に飛び出して来た蟲赤子は三匹。
一匹をイズナが袈裟懸けに切り捨て、霧に還し、残りのニ匹をにとりのリュックから伸びたグローブ付きアームが殴り飛ばした。
とにかく、疾く。迅く。考えている間は無い。
Hyyyyyyyyyaaaaaaaaaa,a,a,a,a,a,a,a,,a,aaaahhhhhhhhhhhhh――――!!!
鼓膜を劈くような、強烈な奇声が響き渡ったのはその時だった。
いや、鼓膜というよりも脳にくる。
痛ってぇ…!。脳髄に、針を何度も刺し込まれるような鋭い痛みが走る。
イズナは呻いて、つんのめり掛ける。視界が霞んだ。
にとりも、唇を噛んで、ぎゅっと眼を閉じて痛みに耐えている。相当苦しそうだ。
生まれたばっかの癖に、とんでもねぇな…。
軽く頭を振りながら舌打ちを堪え、イズナは駆ける速度を更に上げる。
他の妖怪達も、頭を抑えて蹲る者が多数居た。というか、ほとんど全員だ。
その隙に、蟲赤子に取っ組み付かれて、押し倒される者も居た。
蟲赤子達の方は、このおぞましい奇声には全く反応を示していない。
聞こえていないか、或いは、全く影響を受けない構造なのか。
どちらにせよ、優勢だった妖怪側の立場が、確実にぐらついた。
顔無し赤子は、混戦の極みにあるこの戦場を更に引っ掻き回し始める。
Hyyyyyyeeee.r,r,r,r,r,r,r,r,,a,a,a,a,aa,a,ara,ra,ra,ra,ra,ra,ra,ra,ra,―――。
もう一発来た。奇声というよりも、今度は、唄だった。
確かな感情の篭った歌だ。
耳から入って、魂を鷲掴みにしてくるような強烈な感情が込められている。
顔無しの赤子には、顔に必要なパーツは一つも無い。当然、口も無ければ、舌も無い。
顔、というか、頭部には無数の黒い穴が空いているだけだ。
何処から声を出しているのかすら謎だというのに。
どうやったらこんなに楽しそうな声で歌えるのか。
顔無しの赤子の声は、明らかに「楽」の感情が込められていた。
だが、その「楽」の感情が余りに激烈過ぎる。
そのせいで、聞く者に与えるのは、悪意と無慈悲さと、精神の萎縮だけ。
とんでもなく攻撃的な歌声だった。
だが、苦悶の表情を浮かべながらも、全く怯まない者も居た。紫だ。
地面に墜落することで顔無しの赤子から逃れた紫は、すぐさま立ち上がりつつ、藍と同じく結界術を唱えていた。
それでも、やはり境界操作の能力を減衰させられている事が影響しているのか。
発動と結界の展開は、藍よりも若干遅かった。
だがそれでも、流石は賢者というべきだろう。
神経を削る奇声の中、結界術を完成させる集中力と、その威力は本物だった。
亀裂が入り、その群青の光を鈍らせていた卍紋の結界に、深紫色の光帯が奔る。
それは結界陣を刻み、藍を守るべく、幾重にも重なり合う結界の層が生まれた。
夕闇が書き消され、深紫と群青が辺りを染め上げる。
強固な結界術に阻まれ、顔無し赤子の腕も手も、青黒の煙霧の侵食も、押し返し、浄化していく。
落下する勢いで結界陣に組み付いていた顔無し赤子も、ぐぐぐ、と徐々に引き剥がされつつある。
IIIIIyyyyyyyyyyyyyyyyykikikikikikiiiiiiiiiiiyyyyyyyyyyy―――。
いやいやをするように顔無しの赤子は首を振るが、その六本腕が離れていく。
紫が、結界術を完成させる時間。それを稼いだ藍の勝ちだ。
「生意気なことをするようになったわね…藍。後でお仕置きよ」
紫は安堵したような緩い息を吐いて、藍を見上げる。
「…申し訳ありません」
その視線から、少し気まずそうに眼を逸らしつつ呟いた藍は、ぎょっとした。
目前に張られた重層の結界に、何かが絡み付いていた。
ぐるぐる巻きにする勢いで、それに、とんでない量だった。
有刺鉄線だ。その瞬間を見ていた者は、一体何人居ただろうか。
完全に押し返されていた顔無し赤子の身体がブルブルと痙攣した直後だった。
顔無し赤子の身体に巻きついていた有刺鉄線が、爆発的に伸びに伸びまくって、結界ごと藍をくるみこんでしまったのだ。
ギャリギャリ、ギャギャギャ、ギャガガガガ…!、と、甲高い金属音が響く。
金属繊維が擦れ、削れる音の木霊の中でも、紫と藍が造り出した結界は健在だ。
だが、顔無しの赤子は、そんなものお構い無しだった。
結界に押し返されるなら、飲み込んでしまえ、という事か。
深紫色の球状の結界は、もう有刺鉄線でぐるぐる巻きの状態だ。
「紫様…! お逃げ下さ…!」
その藍の声も、鉄線の層によって遮られ、何も聞こえなくなった。
代わりに、更に大きくなった金属質の音だけが響いてきた。
あっという間だった。
おまけに、顔無し赤子の頭部、腕、胸、腹、股間などからも、噴出すような勢いで次々と生えまくり、それらが全て結界に巻きついていく。
有刺鉄線が象ったそれは、檻であり、拘束具であり、繭だった。
青黒をしたの法力の光を纏う鉄線の束は、また卵のようでもある。
其処に、融けていくようにして、顔無し赤子の身体が解けて、繭と一つになろうとしている。
赤子は、六本の歪な腕で、鉄線編みの繭を抱きしめるように抱え込み、uuuuuuuuuu――――、と呻き声を上げた。
まるで、芋虫が蛹になろうとしているような、繭を作ろうとしているかのような光景だった。
藍は結界ごと、その羽化の為の餌になろうとしている。
それを黙って見ていられるものか。
藍の名前を叫び、鉄線編みの繭へと飛び行こうとする紫の先。
にとりを背負ったイズナが地を蹴って、繭になろうとしている赤子へと肉薄していた。
音も無く、気配も感じさせない跳躍だった。
にとりのリュックから伸びるアームも、それなりの大きさがある。だが、それすらも全く感じさない。
まるで、そよ風のように顔無し赤子の頭頂部辺りに、すっと着地して、同時に刀を振るった。
何回斬りつけたのか見えない程の早業だ。
白く淡い法力の微光が、斬撃の軌跡を彩り、帯を引いている。
AHH―――…? 顔無しの赤子は、何が起こったのか理解出来ていないようだ。
イズナは顔無し赤子の頭の上で、ぐっと腰を落とした。そうして視線を下げ、その眼をゆっくりと細める。
刀を鞘に納めつつ、イズナが居合いのような構えを取った。
キン…、と刀の鍔と鞘が鳴ったと同時。
繭を抱え込み、同化しようといている顔無し赤子の六本腕。
それが全て切断され、腕と繭を編んでいた有刺鉄線の束が、サラサラと鉄屑へと還って行く。
金屑と鉄の微粉は雪風に攫われて、まるで金属に宿った魂、命が、浄化されていくような光景だ。
雪風の吹く中、かろうじて残っていた球状結界の残滓の内側。
藍が気を失い、漂っていた。
淡い白と、群青が織り成す術光の紋は、その藍の身体を優しく包んでいる。
一瞬の間に、一体何度刃を奔らせれば、あの巨体をあそこまで切り刻めるのか。
にとりも紫も、呆気に取られたかけたが「ほんじゃあ頼むよ。にとり嬢ちゃん」という渋い声のおかげで、動きを止めずに済んだ。
イズナは居合いの構えのまま、背中にいるにとりに、肩越しに視線を向ける。
「コイツの核を治金して、元の土地に還してやってくだせぇ」
言いながら、ふっと目許を緩めたイズナは、刀の柄に添えた手に力を込めた。
にとりは頷いてから、緊張で乾いた唇を舐めて「…頑張ってみるよ」と少しの笑みと共にもう一度頷いた。
Gyiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii,Hyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhh――!!
何をされたのか、イマイチ理解出来ていなかった様子の顔無し赤子も、どうやら自分の状況を理解したらしい。
突然、金切り声の絶叫を上げた。
イズナを頭に乗せたままの顔無し赤子の身体は、崩れかけだ。
自身の身体を融解させつつ、藍と結界を取り込み、繭へと同化しようとしていたせいだろう。
胸や腹、顔は、どろどろと溶け始めている。
その同化の途中で腕と繭をぶった切られ、中途半端に終わったからか。
赤子の全身に巻きついている有刺鉄線も、びちびちと中空で不気味にのたくっている。
血液代わりの液鋼が、顔無し赤子の身体の断面やら傷口から溢れ、地面を叩きまくった。
其処へ、空間の亀裂が横一文字に奔った。
細い細い、空間の断層が、顔無し赤子の巨体を通り過ぎた。
特に振動や音は無かった。その直後だ。
Igihyiiiyy…――!、と短い悲鳴を漏らし、顔無し赤子の身体がブルッと震えた。
降り注ぐ液鋼の雨を、縫うようにして飛翔して来た紫が、境界と共に傘を一閃させたのだ。
それに、イズナも続く。刀を抜く刹那。紫とイズナの眼が合った。
紫は必死な貌だった。その唇が何かの言葉を紡いでいた。
藍は私が…!。そう聞こえた。
イズナはその刹那の間に頷きを返して、腰を落とし、刀の柄を握り締めた。
ほんじゃ、いきますか…! イズナは身体から白い法力光を発しながら、鞘から刃を走らせる。
縦だ。
イズナの居る頭頂部から股下までを、白い斬撃の軌跡線が伝う。
横一文字に奔った空間の亀裂と、丁度垂直に交わるように。
斬撃と亀裂の軌跡の交点は、顔無し赤子の胸部を貫く線上にある。
一拍の無音の後。ガゴ…ン――、と鈍い音がした。
紫の生み出した空間断裂と、イズナ斬撃の軌跡に沿って、顔無し赤子の身体が四つに離断され音だった。
Ogyaaaaaahhhhhhh―――…、という断末魔まで切り裂かれ、その声は歪に響いた。
もはや空中に留まっていることすら出来なくなったのだろう。
顔無し赤子の巨体は、バラバラになったまま落下を始める。
藍を浮かせていた球状結界も同時に解け、その身体が宙に投げ出された。
だが、飛翔してきた紫が、すかさず藍を両腕に抱き止める。
普段ならスキマを開くことで、全く苦も無くこなせる事でも、今ではかなりの労力を強いられる。
境界操作という自身の力に枷をつけられた今のままでは、平時の3割程度の実力を出せれば好い方だ。
それくらい、この土地が紫を縛る強さは強烈だった。
だが、その枷ももうすぐ外れそうだ。藍を両腕で抱えながら、一旦その場を離れる。
其処で見た。
顔無し赤子がバラバラになったその残骸の中に、青黒の法力光を放つ球状端末が埋もれていた。
あの赤子の心臓であり、汚染され、紫を縛り付けるこの土地の核だ。
イズナもそれを見つけたのだろう。手にした刀を鞘には納めず、柄を口に咥えた。
そうして残骸と化した赤子の頭頂部から、落下中の破片へと飛び移りながら、核を目指す。
両手が自由になったことで、イズナは破片を飛び移りながらも片手で印を結んだ。
そして、もう片方の手で、背中のにとりを背負い直す。
ブン、っと空気が振動する音がした。球状端末が放つ光が脈打ったのだ。
その脈動に合わせ、ざわざわざわざわ…、と周囲の金屑の表面が不気味に波打った。
少し離れた場所に居た紫は、その光景をまともに見てしまった。
啞啞啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞啞。啞啞。啞啞啞啞。啞啞啞啞。
亜亜亜亜。亜亜亜亜。亜亜亜亜亜。亜亜。亜亜亜亜。亜亜亜亜。
産まれまくってくる。落下しつつある残骸一つ一つから、数え切れない程の蟲赤子が。
大きさにはかなりバラつきがあった。
2メートル程もある者も居れば、掌に乗るような大きさの者も居る。
それらが一斉に金属から孵化し、イズナに迫る様は、鳥肌が立った。
一気にあれだけの蟲赤子を用意するあの球状の端末は、一体どれだけの力を秘めているのか。
それに、紫の能力を縛る法力を持続させ続けても居る。
黒コートの男が去って尚、この脅威だ。
紫は手が震えるのを感じた。
怖気が走るような、忌まわしい蟲赤子の羽音の群れも聞こえた。
逃げて。
そう叫ぼうとしたが、間に合わない。ただ、その必要も無かった。
イズナが印を結び終え、掌を突き出す。白と、淡い山吹色の光が瞬いた。
冷気と共に羽音が聞こえなくなった。突然だった。蟲赤子達が空中で凍り付いている。
いや、氷塊の中に閉じ込められている、と言った方が正しい。
イズナの法術、鉄線印だ。
カチコチに氷漬けにされた蟲赤子達を足場にし、飛び移りながら、イズナは更に球状端末に迫る。
だが、中には氷漬けになるのを免れた蟲赤子も、何匹か居た。再び群がってくる。
咥えていた刀を、印を結び終えた手に持ち替えたイズナは、速度を落とさない。
そのままだ。いや、それどころか飛び渡る速度を上げて見せた。
次に動いたのは、にとり謹製のグローブ付きアームだ。
「おいちゃん! 上も!」
にとりは言いながら、イズナの背中に捕まったまま、素早くアームを操作して見せた。向かってくる蟲赤子をバッコンバッコン殴り飛ばすにとりに、「了解さね」と答えたイズナは視線を上に上げた。
もうすぐ其処まで来ていた。頭が複眼だらけの蟲赤子だ。亜亜亜亜亜。声がした。
イズナは鋭く息を吐いて、刀をコンパクトに振った。
鈍い音と同時に、赤子の首が落ちる。だが、それはすぐに金屑と鉄屑に還っていく。
「もうちょいだねぇ…!」
その中を、イズナは宙から落ちていく残骸を駆け上り、渡る。
そして辿り着いた。
青黒の脈動を放つ球状端末は、残骸に埋もれたまま落下しようとしている。
イズナは一気に駆け抜け、その脇を通り過ぎながら、刀を鞘に素早く納めた。
そして、空いた手の中に端末を掴み取った。
元々、卵程の大きさのものだ。イズナの掌にすっぽりと収まってしまう。
だが、端末が纏い、放つ青黒の法力は全く収まらない。
弱まるどころか、今まで宿っていた顔無し赤子の身体が無くなったせいか、一層強力に脈動を始め出した。
こりゃ、ホントに厄介なモンだで…。少し苦しげに呟いて、イズナは地面に着地する。
金床の地表は冷たく、まだ血に濡れてぬめっていた。咽るような血の匂いだ。
蟲赤子の群れも、かなり数を減らしている。
勇儀と萃香のおかげで、劣勢に傾きかけた妖怪側が盛り返し、蟲赤子を潰しきるのにもあと一息と言った処だろう。
だが、まだ元凶である球状端末が、イズナの手の中で健在のままだ。
「だ、大丈夫かい!? おいちゃん、手が!」
にとりはリュックから伸びたアームを引っ込めて、イズナの背から飛び降りた。
同時に悲鳴にも似た声を上げてしまった。
端末を掴んだイズナの掌に、金属の塗膜が広がっているのだ。
イズナは「大丈夫だぁよ」と、少しだけ笑って見せたが、その笑みもやはり苦しそうだ。
押し出すように息を吐いて、イズナは片膝を付いた。
「法力を応用した機術なんて、もっと半端なモンだと思っとったんだがねぇ…」
言いながら貌を顰めるイズナは、膝を付いた体勢のまま、にとりに向き直る。
そして、汚染され、半ば金属と化してしまった掌を開く。
其処には、金属汚染と鋼液の源泉である端末が、未だ不気味に脈動していた。
ホンマ、手間の掛かるモン残してくれたもんだで。
イズナはぼやくように言って。小さく笑って頷いた。
「この金属にゃあ、『命』と『現実』を鋳込まれとる。
…河童さんの治金術で、『幻想』へ還して欲しいんだわさ」
残った『命』はオイが何とかするさけに…。
苦しみに耐えながらの言葉だったのだろう。言ったイズナの額には、汗が浮かんでいた。
「うん…!」。強く頷いたにとりは、顔を上げ、イズナの背後を見て凍りついた。
亜亜亜亜亜。声がした。
飛び掛ってきている。蜘蛛とも百足とも言えない身体を持った蟲赤子だ。
蟲の身体に、人間の赤ん坊の顔。耳まで裂けた口。
口腔内は油とも唾液とも付かない液で、てらてらと光っている。
裂けきった口の両脇から獲物を捕らえる為、クワガタのようなハサミが飛び出していた。
そのハサミが、イズナの首に掛かろうとしている。
おいちゃん。にとりはそう呼ぼうとしたが、間に合わない。
だが、イズナは気付いているようだった。
一服くらいさせてくれんかねぇ…。
冴えない声で呟きながら、イズナは膝立ちのまま即座に刀を抜いていた。
柄を握る手は逆手持ち。体勢は動かさず、刀の切っ先を、脇を通すようにして突き出す。
頭の後ろに、眼でも付いてるんじゃないか。
にとりがそう思うくらい、背後に向けて突き出された刀は、見事に蟲赤子の頭部を捕らえていた。
蟲赤子の上顎を貫いて、後頭部辺りに刃が抜けている。
亜亜亜亜蛾蛾蛾蛾解――…。くぐもった呻き声を漏らしながら、蟲赤子はその場に崩れ落ち、金屑と鉄滓に還っていく。
「援護してくれるなら、ホント助かるよ。…もう一杯一杯やさけ」
イズナの疲れたような声に答えるように、深紫色の結界が、イズナとにとりを包んだ。
それと、ほぼ同時だったろうか。
すぅっ、と周囲に白い霧が立ち込め、地面を踏み鳴らす足音が一つ。
濃い靄の中に灯ったのは、赤い鬼火。
拳に剛の炎を宿した勇儀が、蟲赤子を蹴散らしながら踏み込んできた。
「なぁに…、打てる手が在る奴は守らないとねぇ。腕っ節だけじゃ限界が在るよ」
言いながら剛毅な笑みを浮かべ、結界で守られたイズナの隣に陣取る。
その灯火に照らされながら、白い霧が凝り固まり、イズナの隣に萃香の姿を象った。
萃香の貌にも少々の疲れは見えるものの、身に纏う力強さは全く衰えていない。
ロボカイに負わされた腕の傷も、もう既に塞がり、回復しつつある。
「助太刀、感謝するよ」
萃香は嫌味の無い笑みで答えてから、飛びかかって来た他の蟲赤子を殴り飛ばした。
吹き飛ぶ蟲赤子を見送ってから、にとりは唾を飲み込んで、唇を舐めた。
そうして両膝を着く様にして座り、イズナの掌に乗った球状端末へと両手を翳す。
河童はその治金術で、幻想に落ちた造形物から、現実を奪い去る。
金属に鋳込まれた『現実』を取り除き、幻想郷に在るべき『幻想』へと還す。
ぼぅ、と、イズナの掌の中に、薄緑色の柔らかな光が灯った。
イズナの掌を包むようにして翳されたにとりの掌にも、淡い緑の微光が溢れる。
にとりは朗々と詠唱を続け、球状端末の効果を解き解していく。
それに合わせ、暗銀の塗膜で覆われた大地に、ゆっくりと淡い緑の光が広がっていった。
柔らかな光に解毒されるように、金属に汚染された一帯から、木々や地表を覆う銀塗膜が剥がれ落ちていく。
茂る草木は元の植物の持つ緑へと変わり、地表を覆っていた鋼液は、気化するように薄れ、消えていこうとしている。
その光景に、周囲で残った蟲赤子を駆り立てていた妖怪達も、「おお!?」とか「うわぁ!」と驚きの声を漏らしていた。
イズナは周囲に視線を巡らせ、軽く息を吐いた。
それから、にとりの声に重ねるようにして、イズナも法術の詠唱を始める。
萃香は、詠唱に入った二人を守る為、身体の半ばを霧状態にしつつ、鬼火を掌に灯している。
何とかなりそうだねぇ…。イズナは思いながら、詠唱をしつつ再び視線を巡らせる。
蟲赤子達を追い立てる妖怪達は、傾いた優勢のこの好機に、更に激しく攻勢に出た。
その先頭で誰よりも奮戦しているのが、勇儀だった。
群がってくる蟲赤子を殴りつけ、蹴飛ばし、踏み潰し、投げ飛ばし、もう無茶苦茶だ。
乱戦の中でも、圧倒的な強さを見せつけている。
だが、その苛烈な戦いぶりは、周囲に居る数十匹の妖怪の勇気だ。
同時に勇気は伝播し、更にその周囲の妖怪達を奮い立たせる。
勇儀が居るなら、向こうは心配要らない様子だねぇ…。
呟いた萃香は、詠唱を重ね合うイズナ、にとりを守るように佇み、白い霧を立ち込めさせている。
霧が揺らいだ。掻き分けて来た。亜亜亜亜亜。蟲赤子が、三匹。イズナ達に迫る。
位置的には、萃香と、イズナ、にとりの背後からだった。
「させないよ」静かな呟きと共に、萃香の姿も揺らぐ。ひゅん、と音がした。
萃香の姿が霧の中に溶ける。次の瞬間だった。
飛び掛って来た蟲赤子とイズナ達の間に、拳を脇に引き込んだ姿勢で現れた。
ひゅっ、と萃香は息を鋭く吐いて、突きを繰り出す。
ばぎゃあ。ごぉん。がぃぃん。鈍く、腹の底に響く打撃音が、ほぼ同時に三つ鳴った。
蟲赤子三匹は、原型を留めない程に拉げ、霧の彼方へと吹っ飛んでいく。
それを見送って、一度周囲に視線を巡らせた萃香は、ついっと上空へと顔を向けた。
「其処にいときなよ。本調子じゃないなら、今は式と自分を守ってくれ」
イズナも居るしな。…こっちは任せときなって。
萃香は言いながら、友に向けるような朗らかな笑みを浮かべた。
ちらりと、イズナも萃香の視線の先を見遣る。
其処には、悔しそうな表情を浮かべた紫の姿があった。
その紫の隣では、ぐったりとした様子の藍が、肩を貸されるような状態だった。
顔無しの巨大赤子に飲まれかけたせいだろう。
意識はあるようだが、藍の顔色はかなり悪い。
紫としても、境界操作能力を用いて、一刻も早く事態を収めたいところだろう。
だが、未だこの土地に残る法力、法術の効果は、紫の力に制限を駆け続けている。
唇を噛みながら、勇儀と萃香、そして、イズナ、にとりを見下ろし、しきりに視線を彷徨わせている紫の様子は、酷く辛そうだった。
能力を抑えられた今でも、幻想郷の管理者と、その式として、何か出来る事が無いかを探しているような感じだ。
「焦る気持ちは分かるけど、我慢を頼むよ…」
困ったような笑みを浮かべ、萃香は空に佇む紫へと声を掛ける。
同時に、横合いから飛び掛かって来た蟲赤子を、万力を込めた裏拳で殴り飛ばした。
一撃でぐしゃぐしゃにされた蟲赤子は、砕け散り、破片を撒きながら転がっていく。
「も、もうちょっと…!」その破砕音に混じり、にとりの呻くような声が響いた。
拳を構え直そうとした萃香も、眼を瞠る。
にとりによって治金術を施されている球状端末が、鼓動を打ち始めたのだ。
更に強い薄緑色の脈動が響き、その微光の波紋はより大きく広がっていく。
ぬくみのある波動が、夕闇から夜へと変わりつつある木々の茂みに染み渡り、銀塗膜をどんどんと剥がしていく。
影響を受けたのは、塗膜だけでは無かった。蟲赤子達もだ。
今まで蟲羽根を羽ばたかせ、機敏に、そして獰猛に萃香達を襲っていた蟲赤子達が、ビクンと身体を痙攣させた。
今の薄緑光の波を浴びて、その動きが途端に鈍化したようだ。
寧ろ、羽ばたけずに地面に落ちているものも居る。抵抗が一気に弱まった。
畳み掛けろ! そう叫んだのは、両手で蟲赤子の頭を引っ掴んだ勇儀だ。
勇儀は掴んでいた蟲赤子の頭を、グワッシャァアアンと胸の前でかち合せるようにして叩き潰した。
それが合図になった。
妖怪達は鬼の声に鼓舞され、更に猛り狂い、蟲赤子の群れを駆逐していく。
行ける。このまま押し切れる。
勇儀達が戦う様子を見ながら、萃香は思った。
萃香の纏う霧は、にとり、イズナを守っている。
それに、と萃香は視線を上空に移す。
其処には、唇を噛みながら、祈るような貌で勇儀達を見守りっている紫の姿が在る。
その紫に肩を貸して貰っている藍も、健在とは言えないが、それでも無事だ。
また、にとりの翳した両手の中で、球状端末が一際大きく脈を打った。
端末が纏っていた青黒の法力の微光は、にとりの治金術によって、もう完全に払拭されていた。
金属への解呪と解毒を行い、にとりの詠唱は其処で途切れる。
施術が終わったのだ。
同時だった。
ごう、と突風が吹いて、球状端末から溢れた薄緑の微光が、暗がりを染めあげた。
光に照らされた金屑は、細かな青黒の光の粒子へと還り、風に攫われて消えていく。
亜亜亜。啞啞啞。亞亞亞。亜亜。亞亞。啞啞――――――――。
悲鳴とも呻きとも断末魔ともつかない声が響く。
薄緑の光に照らされ、塵に還ろうとしている蟲赤子達が。
妖怪達に狩り立てられ、バラバラに砕けた蟲赤子達の残骸が。
一斉に泣き出したのだ。
萃香は鳥肌が立ったし、勇儀も、妖怪達も、思わず身を引いていた。
しゃがんだままのにとりが、小さく悲鳴を漏らしたのが聞こえた。
イズナは貌を顰め、泣き出した蟲赤子達の群れへと視線を向ける。
それは、まるで聖歌だった。
勝手に産み出され、そして消えようとしている命が詠う、慈雨を求める歌だ。
自分達を生み出した者を呪う呪詛でもあり、生きたいと願う切実な賛美。
鳥肌ものの輪唱だった。何かを求め、呼んでいるような。
無邪気で、悪意の無い赤子の声が、重なり合い、響き合う。
その声すら、薄緑の光の脈動に攫われ、弱まっていく。
誰も、その場を動く事が出来なかった。
蟲赤子の歪な歌声は、意味不明の感情を聞く者に呼び起こしていた。
それは感動なのか、悲哀なのか、寂寥なのか、好意なのか。
どれとも違うし、似ている。ただ、圧倒され、動けない。
萃香の心に内に巻き起こったのは、強烈な淋しさだった。
今まで味わった事が無いような孤独感。押し潰されそうだ。
歌は容赦無く聞こえてくる。
ああ。一人は嫌だった。分かるよ。皆と一緒が良い。
寂しい。誰か。誰か。
混乱と共感がいっぺんに来て、萃香は自分の能力を制御できなくなった。
気付けば、泣いていた。
耳を塞ぎたくなるような、もっと聞いていたいようなおぞましい歌声は、徐々に小さくなっていく。
掠れて、聞こえなくなっていった。
蟲赤子達の姿が光の粒に還り、影も形もなくなって、空気の中に融けていく。
後に残されたのは妖怪達だけだ。
歌声が響いていたのは、一分も無かった筈だ。
それでも、誰も彼もがその場に、呆然と立ち尽くしていた。
…―――香―――萃香――…!
呼ばれて、萃香ははっと我に帰った。すぐ隣に、紫が降りてきていた。
酷く心配そうな貌で、萃香の顔を覗き込まれている事に気付き、萃香は慌てて涙を拭う。
「大丈夫!? 何処か怪我でも…!?」
そう言った紫の表情も、かなり辛そうではある。
紫の肩を借りている藍は、まだ意識が朦朧としているようだ。
「ああ。何でも無いよ…。
あの赤子達の声の…何か妙な力にあてられただけさ」
軽く頭を振って、萃香は紫に答える。
そして、敢えて紫の顔を見ずに、周囲を見渡した。
地表や木々を覆っていた塗膜は、ほぼ完全に拭い去られている。
ただ、血で濡れた草木はそのままだったが、金属の煌きはもはや何処にも見えない。
妖怪の山は、元の姿に戻っていた。
そう見える。戦いは終わった。脅威を退けたのだ。
イズナはまだ何かを唱えているが、にとりの方はキョロキョロと視線を彷徨わせている。
立ち尽くしていた妖怪達も、自分達の勝利を感じたのだろう。
我に帰った妖怪の内の一人が、勝鬨の咆哮を上げた。
それは次々と連鎖していく。皆、自分達の勝利を喜んでいる。
ただ、その歓喜の中に居て、勇儀だけが渋い貌をしていた。
萃香も同じだ。
確かに、脅威は去った。
妖怪達が蟲赤子を抑え、その間に、紫とイズナが顔無しの巨大赤子を仕留めた。
藍と勇儀のフォローと、球状端末を解呪するにとりを、萃香が守りきった。
結果を見れば、勝利だ。
しかし、この違和感は何だ。
その正体が分からないまま。萃香は、周囲を見渡す事しか出来ないでいた。
紫も、萃香と同じように、注意深く辺りを観察している。
妖怪達の勝鬨は、空々しく、やけに虚しく聞こえた。
にとりは、その勝利のムードにほっとしたのか。
深い溜息を漏らしながら、ぺたんとその場に座りこんだ。
イズナの手の中に在る端末は、にとりによって解毒、解呪され、もう脈動も消えている。
その筈だった。
亞亞亞亞AAAAAAHHH啞啞啞啞啞啞ああああ亜亜亜亜亜――――。
妖怪達の咆哮の中に、聞こえてはならない声が混じりだしたのは、その時だ。
薄氷が割れていくような音と共に、その声はさらに大きくなって、一帯を包み込んだ。
どよめきが起こるよりも先に、悲鳴が上がる。
此処から離れろ、と叫んだのは勇儀だ。その声は、今までで一番切羽詰っていた。
勝鬨を上げていた妖怪達は、皆散り散りにその場から逃げ出すようにして踵を返した。
逃げ散る。勇儀もだ。
萃香と紫は、その光景に眼を疑った。
何で…、と消えそうな声で呟いたのは、身体を震えさせるにとりだった。
蟲赤子達の断末魔の歌声は、法術による汚染とはまた違った形で、この土地に呪いを掛けていた。
妖怪達が居た場所。その地面から、何かが広がっていく。
今までの様な暗銀色の鋼液では無かった。黒っぽい茶色だ。澱んだ赤茶色にも見える。
あれは錆びだ。
大地が、錆びていく。
黒コートの男は、膜のように液状の金属で森を覆っていたが、これは違う。
あの広がって来る錆びは、この土地に宿った一つの『命』だった。
存在する植物や土を、金属に変えて、即座に腐食させ、飲み込んでいく。
塵へと還った蟲赤子の命が一つに混じり合い、のたくって、妖怪の山を蝕んでいる。
紫は咄嗟にスキマを開こうとしたが、やはり駄目だった。
有刺鉄線に縫われたスキマが現れるだけだ。その有刺鉄線も、錆でボロボロだ。
まだ、紫を縛る法術は生きている。
この土地から孵った錆の化身が、境界操作を妨害する法術を保っているようだ。
亜亜亜亜ああ亜亜亜亞あああ亞亞亞啞啞啞啞啞嗚呼。
地面から響く、歪んで重なり合った声に、妖怪達は更にこの場を離れ、逃げようとする。
だが、それで正解だった。
逃げ遅れた一人の妖怪が、錆の波に飲み込まれたのだ。
狼の獣人のような、筋骨隆々の人型の妖怪だった。
妖怪の身体が、瞬く間に金屑と鉄屑に変わり、変わった途端に錆びて、ボロボロに崩れ落ちていく。
悲鳴を上げる間もなく、獣人の妖怪は絶命した。
錆の波は、更に餌食を求め、アメーバのように不定形に伸びて、魔の手を伸ばして来る。
「こいつは手の出しようがないねぇ…くそ…!」
萃香も、歯軋りしながら後ずさった。
紫も、藍に肩を貸したまま、半ば立ち尽くしかけた。
だがそれでも、自暴自棄になるほど混乱はしていない。
もしそんな事になってしまえば事だ。
何か方法は。どうすればいい。どうすれば。
早口で呟きながら、紫は必死に考える。だが、そう都合よく解は出てこない。
…紫様。此処は…危険です。一度、離れましょう…。
今までぐったりしていた藍だったが、無茶をしそうな主の空気を感じたのか。
掠れた声で、紫に呼びかける。イズナの詠唱が終わったのは、それとほぼ同時だった。
「紫姐さん、此処はオイに任せてくんなまし。
萃香ちゃん、にとり嬢ちゃんと一緒に、ちょいと離れといてくだせぇ…」
膝立ちの体勢からゆっくりと立ち上がりながら、イズナは微笑んで見せた。
余計な力の入っていない、自然体の笑みだった。
そのイズナの身体からは、白い靄のようなものが、ゆらゆらと立ち上っている。
白い靄は煙のようでもあり、法力の微光を宿していて、魂の燃焼を思わせた。
「何か…手が在るのかい?」
紫よりも先に口を開いたのは、押し寄せてくる錆を一瞥した萃香だった。
やはり鬼とは言え、流石に体力を消耗しているのだろう。その貌には、余裕はもう無い。
イズナは頬を人差し指で掻きながら、一応はね、と頷いて見せた。
萃香は、少しだけ辛そうに貌を曇らせる。それから、すまないね…、頼むよ、と呟いた。
その言葉に頷きを返しながら、イズナは紫の傍に歩み寄る。
そして、「ちょいとごめんねぇ…」肩を貸していた藍へと左の掌を翳した。
掌と、藍の間。白い微光で象られた法術陣が現れ、まだぐったりした様子の藍を癒す。
魂と精神に負った傷を治して行く。
その間にも、ZUZUZUZUZUZUZUZUZUZUZU…と、錆がうなりながら押し寄せてくる。
「おいちゃん…」と、心細い声で言ったにとりは、カタカタと身体が震わせていた。
球状端末を持つ両手にも、ぎゅっと強く力が込められている。
藍を治療しながら、イズナはにとりに視線を向け、片目を瞑って見せた。
「大丈夫さ…。何とかしてみせるさけに」
うん…、と小さく頷いたにとりの頭に、イズナは右手の掌をぽんと乗せた。
そして、帽子の上からわしゃわしゃと撫でてやりながら、藍の治療を終わらせる。
「これで、藍さんもちょっとは楽になったと思うけど…。
さぁて、ほんじゃ…ちょいと派手に行ってきまさぁ」
紫に向き直ったイズナは、表情を引き締める。
「他の妖怪さん達も、安全なとこまで誘導したって上げてよ」
その声音は威圧的では無かったが、有無を言わさない迫力があった。
逡巡の様子を見せたが、紫は神妙な貌で、イズナの言葉に頷いた。
「無茶はしないで…」
「はいさ」
イズナも、紫に頷いて見せて、歩き出した。
ゆっくりと、しかし確実に押し寄せてくる錆の化身へと。
ZUZUZUZUZUZUZUZUZUZUZU…。ZYUZYUZYUZYUZYUZYU…。
妖怪の山が蝕まれる音が、更に大きくなる。近づいて来る。
そろそろ、此処も危険だ。
萃香はにとりを背負い、駆け出した。
紫も、藍に肩を貸したまま宙に身体を浮かせ、低空を飛びながら、この場を去る。
ZUGUGUGU。ZUGUZGUZGUZU…。
ZYUGUGU…、ZYUBUZYUBUZYUGUZYUGU。
豊かな自然が、錆と鉄滓になっていく音だけが聞こえる。風は無い。
もう、妖怪達の姿は見えないし、悲鳴も怒号も無い。
この場に残っているのはイズナと、赤錆と膿の集合体と成り果てた、蟲赤子達の魂だけだ。
不定形のスライム状態の塊は、貪欲だった。
膿と鉄屑、赤錆と鋼液の濁流が、蠢き、広がってくる。
薄暗がりの森の中には、木々がへし折れる音と、腐って崩れていく音が木霊している。
それは、喰う、というよりも、呑み込んでいる、という表現の方が正しい。
奴は、何もかもを錆び付かせて、取り込んでしまおうとしている。
させんよ。んな事は。
イズナは左手で持った刀を肩に担ぐようにして、すっとその場に膝を着いた。
そして、右の掌を地面に押し付ける。汚染され、錆び付かされた掌が、ギチギチと鳴る。
痛みは在ったが、集中力がそれを上回っていた。
相手が悪かったねぇ…。いや、相性って言うべきかな。
木々をへし折り、地面を飲み込んで押し寄せてくる赤錆と膿の雪崩に向かって、イズナは呟いた。
それから、集中するように、ふぅぅ…、と息を吐く。
吐息は凍え、白く煙った。鈴の音が響き、粉雪の混じる冷風が吹き抜けた。
急激に温度が下がりつつある。
イズナの纏う白い靄が、渦となって巻き上がり、地面に巨大な陣を描き出した。
もう一度鈴が鳴った。暗がりの中に、澄み渡った音が響く。
その鈴の音に答え、白い光がイズナの足元が溢れ、辺りを真っ白に染め上げた。
光は飽和して、渦を巻いていた白い靄は、吹雪となって吹き荒れる。
GUZUGUZUGUZUGUZGUUUUUUUUUuuuuuuuuu…―――
赤錆の集合体に、知覚や思考力が備わっているようにはとても見えない。
だが、それでも何かを感じたのだろう。大地を侵食する速度が明らかに落ちた。
怯んだのだ。
朗々と唱えられる声に応え、大地に描かれた白の法術陣は、吹き荒ぶ雪風に形を与えていく。
にとりが球状端末の解毒を行うと同時に、大規模な召還術の準備をしていた。
己の魂を燃焼させ、この幻想の世界に顕現させる為、自らの身体に法術を施し、待っていた。
蟲赤子の魂が、『命』が、大地に再び還り、宿るのを。
そして、それは赤錆と膿の化身と成った。
同時にそれは、この大地に宿った「付喪神」と同義だ。
人も妖怪も、心を込めて作ったものには、魂が宿る。
イズナは其処から、魂を抜き取る術を知っている。
治め、塗り替える術を知っている。
バックヤードという情報世界に生まれたが故。
特異な術を扱う事が出来るイズナは 対付喪神に於いて、無類の強さを発揮する。
その一つの形として、一撃で相手のマスターゴーストに致命傷を与える仲間を模して、召び出す。
吹き荒ぶ雪風が、嘘みたいに止んだ。
暗がりも夕焼けもへったくれも無く、何もかもを染め上げた白い光も、眩さを無くしていく。
代わりに、地鳴りのような轟きと、ズズゥゥゥン…、という、短くも巨大な振動。
何がどうなったのか。
召還を行使したイズナ自身も、すぐには状況を把握仕切れなかった。
馬鹿馬鹿しい程すんなりと、イズナは召還を終えた。
それも、準備あればこそであり、当然、リスクが無い訳では無かった。
時間が掛かりすぎるし、自身の法力の消耗も馬鹿にならない。
はっきり言って深刻だったが、良い案がこれしか浮かばなかった。
おかげで、意識が飛びかけているし、頭がしゃっきりしない。
立っているのか。座っているのかすら曖昧だ。
ぐわんぐわんと景色が揺れて、吐き気がした。こりゃいかん…。
イズナは握った刀の鍔で、額をガツンと殴った。強く瞬きをして、頭を振った。
次第に、視界がクリアになる。
揺れを感じた。頬を撫でる風も。上手く行ったみたいだね。
刀を握る手に、再び力を込める、
イズナは、夕闇に染まった森を見下ろしていた。
座り込むような姿勢だが、身体は何とか起こしていられる。
ふぅ、と一息吐いて、疲れたようにイズナは薄い群青の星空を仰ぐ。
「しっかり決めちまわないとねぇ…」
NUuuuuuuuuuuunnnnnnnnnNNN―――――…!!
その呟きに応えたのは、イズナを肩に乗せた、とてつもない巨体を誇る大妖怪・でいだーらだった。
その白い身体には金銀の紋様を刻み、桜花を散らせる枝を生やしている。
舞い散る花びらは雪風に吹かれ、汚染された大地を慰めるかのようだ。
巨木を模した二本の角と、背に並んだ鳥居、手にした大槌は神々しさを湛えている。
だが、何処か愛嬌のある尻尾、もふもふとした優しそうな顔がミスマッチだ。
赤錆と膿の化身となった付喪神にとっては、でいだーらは悪夢のような存在だった。
その巨体は、膿溜まりの裕に倍はある。
手にした大槌は、卵を割るように容易く魂の殻を叩き割る。
其処に例外は無い。
ぶっ叩かれれば、土地でも建物でも、中に宿った命など粉々だ。
UGOGOGOGOGOOUUUUUuuuOOOOooooooooooo…―――。
潮が引くように、のたくっていた赤錆と膿の塊は、逃げようとしていた。
だが、もう遅い。
イズナによって召還されたでいだーらは、桜花が吹き上がる中、吼えながら大槌を振り上げていた。
王手…。
イズナが呟いてから、間は数秒だった。
呆気なく、そして、荘厳ささえ感じさせる動作で、でいだーらは大槌を振り下ろした。
祓魔の大槌は、情け容赦無い一撃だった。
音というよりも、衝撃だった。
幻想郷全体を揺るがすような、視界がめちゃくちゃになる様な爆音。
GYOOOOOOOOOOOOoooooooooohhhhoooooooooouuuuuuuuuuuuuuu―――。
赤錆と膿が爆散して、弾けて、声とも音ともつかない断末魔を上げた。
魂が砕かれる音が聞こえた。残酷な音だ。叩き潰された意識の悲鳴だ。
暴風と衝撃波が、周囲の木々を揺らすどころか、吹き飛ばす寸前だった。
その激烈な一撃を前に、生まれて間もない付喪神は、無力だった。
相手が悪いと、イズナは言った。その通りだった。
今度こそ、還っていく。蟲赤子達の命が、完全な無へ。
赤錆は崩れ、土となって地へ還る。
膿は気化して、薄れ、消えていった。
今までの騒乱の元凶が、降り来る斑の雪よりも儚く散っていく。
緩い雪風は、不思議と暖かった。
この土地に掛けられていた、境界操作を縛る法術も、諸共砕けたのだろう。
青黒い法力の微光が、粒子となって雪風に攫われていった。
その様をでいだーらの肩から眺めながら、イズナは眼を細める。
今度はもっと、別の形で会えるとええね…。呟きと共に漏れた吐息は、白く曇った。
無へと帰り、バックヤードへと収束する魂の名残を見詰める。
汚染された大地も、でいだーらの霊気によって浄化されていく。
ふら…、と、イズナの身体が揺れた。
限界が来たようだ。イズナはくらつく頭を手で押さえ、刀を鞘へと納めた。
汚染されていたイズナの掌も、もう元に戻っている。
痛みはもう無いが、それ以上に凄まじい疲労に襲われ、立っていられない。
BUUuuuuuoooooooooooooo…。
でいだーらも、気遣わしげな声を上げて、肩に乗るイズナへと顔を傾けた。
大丈夫だぁよ。イズナは、疲れた笑みを浮かべながら、その肩から飛び降りる。
その着地した足元。荒れた大地からは、新たな草木が芽吹き始めていた。
土地が、もう息を吹き返しつつあるようだ。
一件落着…とはいかんけど、駄目だ。ガス欠っぽいね…。
イズナは、ふらふらと覚束ない足取りで、一本の木の幹へと身体を預ける。
そして、心配そうにこちらを見詰めてくるでいだーらを見上げる格好で、腰を下ろした。
鈴の音が鳴って、粉雪が宙で砕け、消えていく。
召還法術も限界のようだ。
イズナが自身の法力で象ったでいだーらの巨体が、粉雪と共に消えていく。
少しずつ薄れて、見えなくなっていく。舞い散る桜花も一緒だ。
見る者の心を奪うのに、十分な美しさを持ったその光景を見上げながら、イズナは深く息を吸い込んだ。
眼を閉じて、息を吐いた。
鈴の音は変わらず澄んでいたが、その吐息は、もう白く曇る事は無かった。
悪いねぇ…。ちょいと一服させて貰うよ…。
誰に言うでもなく呟いて、イズナは眼を閉じた。
「やぁ、久ぶりだね」
奴は本当に、道端で旧い知人に偶然出くわしたみたいな気軽さで、声を掛けてきた。
顔色が悪く、肩まである艶のある髪が、やけに不吉だ。
痩躯を包む、厚手の黒コートもそうだ。
得体の知れなさを強調していて、まったくひ弱そうには見えない。
寧ろ、あからさまな危険人物に仕立て上げている。
眼鏡の奥で細められた双眸には、飢餓にも似た好奇心と、無慈悲な理知が宿っていた。
その癖、野心のようなものは全く感じられない。
気味が悪い位に、奴は落ち着いている。
纏う空気が、人間のものじゃない。
御蔭で、不意打ちを喰らう嵌めにはならなかったが、もっと最悪な状況だ。
どうやって此処に現れたのか。どうやって此処まで辿り着いたのか。
いや、どうやってもへったくれも無い。
奴は街道を真っ直ぐ突っ切って、嫌味なくらいゆったりと歩いてくる。
街道で、農具や武器を持って自衛にあたっていた里の男達も、混乱しているようだ。
何だ、アイツ…。
何処の奴だ。見ない顔だぞ。
やばいんじゃないか。
おい、アレ…!。
次第に、里の男達の間にどよめきが広がっていく。
油断していた訳じゃない。
此処に居る全員が、気を張り詰めさせていた。
アリスも、慧音も、ソルもだ。誰も攻められらない。
奴は、濁った水みたいに静かに流れて来て、この里の中に紛れ込んでいた。
寺小屋の玄関前。
其処から見える日常の光景。
それらが夕陽と共に沈んで、黒く塗り潰されていくような感覚を覚え、アリスは身震いした。
後ずさらなかったのは、偶々だった。
怯みかけた自分を鼓舞する為、アリスは何かを唱えながら、トランクを地面に放る。
そして、手にした画板のように分厚い魔道書を開いた。
地面に落ちたトランクがバクンと開いて、中から無数の人形が溢れたのは同時。
展開される人形の戦列と、それを盾にしたターボスペルで、アリスは臨戦態勢を取る。
だが、慧音は、構えることが出来なかった。
街道から歩いて来る男を見詰め、慧音は愕然とさせられた。
アリスの隣に立った慧音は、後ずさるとか以前に、動けなかった。
なんで…、そんな…。震える唇から漏れる声も、小刻みに震えている。
無理も無い。当然だった。
歩いてくる男は一人じゃなかった。
男の少し前を歩く形で、一人の少年と、少女が並んで歩いていたからだ。
慧音から見て、右が少年で、左が少女だった。
良く知った顔だ。
最悪なことに、彼女の教え子の姉弟だった。
良く勉強の出来る姉に、腕白な弟だ。
姉弟の貌は恐怖で引き攣って、泣くどころでは無いようだった。
逃げられないようにされている。
姉の胸元に。そして、弟の喉首に。
金属で出来た蜘蛛が、がっちりと張り付いてた。
蜘蛛の爪が食い込んで、皮膚からは血が流れている。姉弟の着物は、赤く濡れていた。
だが、痛みに泣くことも出来ないほど、恐怖が勝っているようだ。
ガチガチと歯の根を震わせて、姉弟が男の前を歩いている。
「案内ありがとう…。もう少しだけ、一緒に居てくれるかな」
男は優しげに言いながら、背後から子供達の肩に触れて、その歩みを止めた。
短く悲鳴を漏らしたのは、姉の方だ。
弟の方も、腰を抜かす寸前だろう。脚がガクガクと震えている。
その二人の様子を知ってか知らずか。男は「ごめんね」と謝って、顔上げた。
両手は、まだ子供達の肩に乗せられたままだ。
街道に居る男達は騒然となっていたが、そんなものは全く気にも留めていない。
黒コートの男は、冷静な眼のまま、少しだけ笑みを作って見せた。
「僕が幻想郷側に居たなら…僕だって、君を此処に置きたいと思っただろうしね。
此処に来て正解だったよ。…リスクに見合う収穫だ」
「……外道が…」
ソルは剣を肩に担ぎながら、アリスと慧音の前に出る。
金色の眼を物騒に細めたソルの凶相にも、男は全く怯む素振りを見せない。
変わってないね、君は。と、怯むどころか、懐くかしむように笑みを零した。
「変わってないな。本当に。君は不変なんだね。
辛くないかい? 誰にも望まれて無い復讐を、まだ続けてるのかい?
可哀相に…。見てられないよ」
ソルはぐっと身を沈めた。飛び掛る肉食獣のような姿勢だ。
「駄目! 止めて!」
慧音が悲鳴を漏らした。震える声は、もう涙声だった。
「待ちなさい! ソル!」
咄嗟に叫んだアリスも、唇を噛むより他無かった。
展開した人形達を全く生かせない。戦力的には、圧倒的に優位に居るはずだ。
ただ、恐怖に震える事しか出来ない姉弟が、ソル達を動けなくしていた。
「出来ないよ。変わってない君じゃあ。この子達を斬れないだろう?
今の君じゃ、僕まで届かないよ。君は兵器として不全だからね」
男は余裕の笑みすら見せない。ただ、じっとソルを見据えて居る。
「そんな様で、『GEAR MAKER』に挑むつもりなのかい。
勝機は無いと思うよ。君が勝てる可能性は、限りなくゼロに近いんじゃないかな…」
ソルが、更に身を深く沈めた。濁った赤燈の炎が、封炎剣に宿る。
だが、動かない。動けない。アリスも同じだった。
どうしようも無い。封殺されている。
「頼む…。その子達を、放してやってくれ…」
悲痛な声で懇願したのは、慧音だった。男は訝しげに眉を顰める。
「そうは言われてもな…。こうでもしないと、話合いにならないからねぇ」
何が話し合いよ…。アリスは男をねめつけて、吐き捨てた。
ソルは黙ったまま、金色の眼を細める。
「お願いだ…! 何でも、何でもする! だから…!」
止めてくれ。助けてくれ。その子達を。傷つけないで。お願い。
お願いします。どうか。助けてください…。
縋るような声音になっていく慧音の言葉に、子供達もとうとう泣き出した。
男の方は心底困った顔になって、視線を彷徨わせた。
気付けば、寺小屋の玄関を囲む形で、里の男達が取り囲んでいた。
皆殺気立ち、今にも黒コートの男に、背後から雪崩掛かりそうだ。
本当に危うい所で、この場の拮抗が保たれている。
黒コートの男は、何かを思索するように眼を伏せてから、ソルを見た。
次に、アリスを見て、最後に慧音で視線を止めた。
「じゃあ、手っ取り早く行こうか…」
子供達の泣き声が、まるで別の世界の事のように響いている。
「ミスターバッドガイ。君が、僕と手を組んでくれるなら、男の子を返そう。
それと、この隠蔽結界の仕組みを教えてくれれば、女の子を返すよ。
勿論、この蜘蛛達も外すし、ちゃんと治療もする。約束するよ…」
どうだい、悪く無い条件だろう。
そう言った男の声は、真剣だった。
「…貴様が…約束を守る保障が無い…」
ソルは言いながらも、封炎剣に灯していた炎を消した。
「それは、僕も言えることだよ。
子供達を解放した後で、僕は君に殺されるかもしれない。
それに、隠蔽結界にしたって、嘘を教えられるかもしれないからね…」
だからまず…、と、男は、ソルの眼を見詰めながら、少しだけ笑った。
「プロトタイプである君を…ギアとして完成させて、抵抗の意思を取り除かせて貰う。
ドラゴンは、卵から孵る前に殺してしまおうってだけの話だけどねぇ…。
君を真っ向から無力化するよりは、ずっと効率的だろう」
それに、この約束にも強制力が生まれる。
君次第だよ。ミスターバッドガイ。