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[17818] 【完結】魔法少女リリカルなのはTREIZE The 13th Numbers
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2015/07/17 01:20
 今回から初めてこちらに投稿させて頂くことになりました、作者の「毒素N」でございます。拙文でお見苦しい事この上ないことかも知れませんが、読者の方々には何卒寛容な心で読んでもらえればと思っております。
尚、私はこことは別のサイトでも同一のPNでタイトルを少し変えて投稿させて頂いております。現在あちらのサイトはメンテ中ですが、いずれは掲示板内で告知する予定ですので、ご安心ください。

 タイトルからお察しの通り、本作品は「13番目のナンバーズ」と言う架空の存在が居たとしてのIFモノであります。

 注意点

 ・基本的にアニメ、及びサウンドステージに準拠した設定としております。
 ・オリ主ですが、ひょっとしたらチートかも知れません。その点は作品を進める中で徐々に修整を掛けて行くつもりです。
 ・時系列はStSのTV本編の後、SSXよりも三ヶ月後と言う設定になっております。
 ・所謂アフター物でもあります。なので原作の設定を引き継ぎながらも多々オリ設定が垣間見えますが、仕様だと受け流してもらえれば幸いです。
 ・主人公なのに余り目立ってないかもしれません。
 ・主人公とは別に名有りオリキャラが重要ポジに居ますが、そちらは本作のキーパーソンではありません。
 ・Q.どうして題名になのはさんの名前が?/伝統です(キリッ

 本編に関する注意点は以上です。読後は何かしらの感想を頂ければと思っておりますが、作品に対する過剰且つ執拗なまでの批判……俗に言う荒らし行為は控えてもらいます。そうでなければ、私は読者である皆様の意見なども元にして誠心誠意連載を続けて行く所存です。
 どうか最後までお付き合いください。





10万PV、ありがとうございます! これからも精進しますのでどうぞ最後までお付き合いください。




3/23 これからしばらくの間更新速度が格段と下がる恐れがありますので先に報告させて頂きます。理由としては慣れない新生活(大学、バイト、etc...)が挙げられますが、決して自分勝手に飽きたとか、煽りや荒らしの矢面に立たされた事による創作意欲の低下などではありません。(←とか言ってもそんなに人気無いwww) これ以外にもまだまだ書きたい物も御座いますので、出来る限りになりますが細々と更新を続ける所存です。



[17818] 序章 
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/01 17:31
 ミッドチルダ、新暦75年9月19日―この日、次元犯罪者ジェイル・スカリエッティ博士が機動六課の手によって逮捕されたことにより、首都クラナガンを始めとするミッド全体を震撼させた世に言うJ・S事件は幕を閉じた。

 首謀者のスカリエッティは第9無人世界グリューエン軌道拘置所に無期懲役の収監、12名の存在が確認されていたナンバーズの内4名は事件の捜査に非協力的であったために同じく別々の軌道拘置所に収監。この件とは別にNo.2ドゥーエは地上本部総司令レジアス・ゲイズ中将を殺害の後にその場に居合わせたゼスト・グランガイツによって機動停止、管理局によって処分が決定。

 共犯者ルーテシア・アルピーノは魔力封印処置を施された後、第34無人世界マークラン第1区画にてメガーヌ・アルピーノと共に隔離処分。残りのナンバーズ7名は捜査に協力的、保護後は海上更正施設へと編入し、現在はギンガ・ナカジマ陸曹協力の元で更正プログラム受講中。プログラムに目立った支障などは無く、このまま問題無く受講が進めば社会復帰も――



 新暦78年11月6日―時空管理局本局・次元航行部隊所属XV級艦船「クラウディア」艦長、クロノ・ハラオウン提督執務室にて……。

 「J・S事件の第五次報告書、確かに受け取ったよ。仕事が早いのは相変わらずだな。こちらとしては嬉しい限りだが、あまり無理はするなよ?」

 「どういたしまして。こっちも仕事でやっていることだし。て言うかいつも山の様に仕事を盛り付けているのは義兄さんじゃない。特に無限書庫はいつも火の車だってユーノも言ってたんだから」

 「あそこは次元世界やロストロギアの資料請求に必要不可欠だからまだ良いとして……。そんなに僕は請求する仕事量が多いか?」

 「職場で『クロノ・ハラオウン』って言えば入り立ての職員以外は9割が泣きつくわ」

 「……聞きたくはないが後の10%は何だ?」

 「良くて辞表、悪ければ発狂するって噂よ」

 汚れ一つないデスクの上でクロノは盛大に溜息をついた。前々からユーノに似たような事は言われて自分なりに自覚はしていたつもりでいたが、改めて身内から同じことを聞かされるとやはりどうにかしなければと思えてしまう。しかし、こちらとて何も嫌味でやっている訳ではない。執務官になり、提督へと身を上げてからはほぼ毎日が書類にサインを振る始末。さらに自分には次元航行部隊を率いて指揮する艦長としての務めまである。年間で数回以上もの次元世界の調査・探索には無限書庫の情報は不可欠であるし、その情報を得てからも書類を片手に各部署への資料提出の催促を行わなければならない。部署の者達には申し訳ないが、こちらも良心が痛むなどと言っている暇は到底ない。

 「僕だって出来ることならなるべく無理の無いようにはしてやりたいさ。しかしJ・S事件から間を置いたとは言え、先のマリアージュ事件のことが尾を引いているのが原因で今このミッドチルダはこれまでに無い混乱期に突入している。はっきり言ってやる事が山積みなのは仕方がないんだ。むしろこれ以上の災厄が無いことを祈るより他はないよ。分かってくれ、フェイト」

 「うん……。ごめんね、クロノだって忙しいのは同じなのに我儘言っちゃって」

 「いや、いいんだ。上に立つ者としてこれ位の苦情でへこんではいられないからな」

 目の前の執務官、義妹フェイトの言い分はもっともだ。やはり事件が多発しているのを人員酷使の理由にはこれ以上できない。管理局の体制に欠点があるのかも知れないが、それは最早誰の所為と言う訳でもないのだから。

 「……そう言えば」

 「うん?」

 「ナンバーズの面々はどうなった? 引き取り先で何か問題は?」

 「特に何も。協調性が懸念されてたノーヴェも他の姉妹やギンガのフォローでナカジマ家でも上手くやっていけているし、この間もスバルと一緒にシューティングアーツの訓練をしていたわ」

 「そうか……」

 「そういえばシャッハが『これほど教育のし甲斐があるのはロッサ以来です』って……」

 「セインか。なんと言うかその……第97管理外世界ではこう言う心境を何と言い表すのだったかな」

 「『ご愁傷様』ね」

 今頃彼女は教会の仕事をサボってシャッハの鉄拳制裁ならぬ「ウィンデルシャフトの裁き」を受けているのだろうが、フェイトは苦笑するより他なかった。陸戦AAAランクの打撃はベルカの騎士でしか耐えられないが、彼女なら上手い具合に手加減してくれるだろう……多分。

 「そうか、更正組は何も問題なしか……」

 「スカリエッティの方で何かあったの?」

 「何も問題がないのが問題なのさ。事件解決から3年経った今になっても敗者の矜持云々で一向に協力姿勢を示さない。残りのナンバーズも更正組からの呼びかけには一切応じず、未だに収監中だ」

 チンクからディードまでの7名は管理局に恭順したのに対し、Dr.スカリエッティ、ウーノ、トーレ、クアットロ、セッテの5名は自らの意地を貫き通し、3年の月日を経た今でも拘置所にて身柄を拘束されている。

 「上層部の連中にとっては彼の有能な『無限の欲望』に鎖を繋いで手元に置いて飼い馴らすいい機会だろうが、あのジェイル・スカリエッティが素直に頭を垂れる訳が無い。こちらとしては彼に関してだけ言えば今の拮抗状態が続くことを願っているよ。だが、管理局と彼の間の些事に彼女らを巻き込み続けるのは得策ではない……何としても首を縦に振ってもらいたいのだが」

 戦闘機人――旧暦より続く忌わしい禁忌の産物は未だに彼女らが意識せぬ所で彼女らを縛り続けている。自分達が戦闘機人であると言う認識が強すぎるあまりに人間としての生き方を捨て、自らを戒め続ける。それはとても残酷だが、同時にどうすることもできないことだ。

 「ミッド全体にあったスカリエッティの研究所もついこの前検挙したのでもう17つ目。その内回収したレリックは全部で8つ……。本人は何も言わないけど、きっとまだあるはず」

 「だろうな。引き続き調査及び報告を頼んだぞ、フェイト・T・ハラオウン執務官」

 「はい!」

 姿勢を正し一礼した後、フェイトは金の長髪を靡かせて退室。あとには数分前の静寂が戻っていた。

 改めて書類に目を通すと、先程話していた研究所の写真が貼り付けてあり、そこに映るシリンダー型の培養槽には何も入ってはおらず、報告書にも同様の記述が見られた。

 「今回も空……か」

 過去に検挙した研究所は全て戦闘機人を生み出すだけの設備があったにも関わらず、そこに認められたのは研究データと予備のレリックだけで培養槽に個体が入っているケースは一度としてなかった。恐らくスカリエッティ自身はナンバーズ以外の戦闘機人は生み出してはいなかったのだろう。

 「僕としてもこれ以上の厄介事は御免だから丁度いいのかも知れないが……」

 どうも腑に落ちない。

 長年この仕事をしているとカンと言うものが冴えてくるのか、クロノは心のどこかで密かに考えていた。「この事件はまだ終わってはいないのではないか」と。

 「…………いけないな、どうも深く考えすぎてしまうな。最後に海鳴に行ったのはいつだったか……カレルとリエラは元気にしているだろうか。クリスマスのプレゼントは何が良いかな」

 遠き地で平穏に暮らしているはずの我が子に思いを馳せながら、クロノは報告書に確認のサインを記した。

 数か月後に控えた次元航行のための山積みの資料に目を流すと「今日もオーバーワークか」と諦観の苦笑を浮かべてその一つを手に取る。

 「そう言えば、ユーノに頼むのを忘れていた資料が――」



 この時クロノは忘れていた。自分が常日頃言ってきた「世界はこんなはずじゃなかったことばかりだ」と言うことを……。

 そしてその事態がもうすぐ迫っていることなど、誰も予想してはいなかった。










 第9無人世界グリューエン軌道拘置所第1監房――その監獄施設の一室にその人物は居た。

 「…………そろそろか」

 艶のない紫紺の髪に透けるような白い肌、そして爬虫類を幻視させる気だるくも鋭い眼光を放つ金色の瞳。アルハザードの技術の結晶、ジェイル・スカリエッティが独房の中で微笑んでいた。



 その僅か2時間後、彼に一人の面会者が訪れる。










 「これはこれはフェイト嬢、こんな落ちぶれたテロリストのために遠路はるばる……。執務官の仕事はいいのかな?」

 「その『落ちぶれた』人間に会う為にわざわざ来てやった。それと、お前はテロリストじゃなくて科学者じゃないの」

 「フフ、いかにも。しっかり分かっているようで安心したよ」

 両脇に大柄の護衛官を待機させてフェイトは目の前の重犯罪者を凝視する。フェイトの実力を考慮すれば護衛などは不要に等しいのだが、一応場所が場所なので形式上はこうして付き添う担当者が居なければ直接面会は出来ないシステムになっている。もっとも、相手のスカリエッティは3年前に身柄を拘束されて以来それまでの強情さはどこへやら、脱走する気配はもちろんのこと、獄中で暴れるなどと言った愚行はまずしないことは目に見えていた。

 「ついさっき看守から聞かせてもらったよ。また私の古巣の一つを見つけたとか……。結構なことだ、後始末に困って放置していたのを君たち管理局が次々に片づけていってくれる。私個人としては実に結構なことだよ」

 厳重な魔力コーティングが施された分厚いガラス壁の向こう側ではパイプ椅子に腰かけた元科学者が口元に不敵な笑みを浮かべている。かつて3年前に研究所に単身で殴り込み、対峙した時に見たあの瞳……。何も変わってはいない。唯一変化があるとすればそれは、昔着ていたのは科学者が着る白衣だったが今着ているのは囚人が着ることを強制させられている薄汚れた白服と言うことだけ。何も変わらない……。

 「できれば貴方自身の口から残りの研究所の在り処を話してもらいたい所だけれど」

 「度重なる熱心な要求に頭が下がる思いだが、それは無理な要求だ。私は完成されたモノと自ら破棄したモノには深く拘らないのだよ。故に、過去の遺物は早々に脳裏から消し去ることにしている。それに人間と言う生物は元来『忘れる』生き物なのだよ。自らの欲望が求めないないことは消去し、欲望の飢えを満たすためにさらなる高みへと臨む……その道程に過去の遺物など不必要だとは思わないかね」

 「極論ね。私は言葉遊びをしにきたくてここに来た訳じゃない……あなた自身も、自分の研究の残滓が他人に悪用されるのが気に喰わないのなら、出来るだけ早い内に捜査に協力しなさい」

 「人聞きの悪いことを……それではまるでこの私がわざと君たち管理局の足を引っ張っているみたいじゃないか。それに、私が駄目ならば君の所で世話になった私の娘たちに聞けば良かろう。チンクに聞けば大抵のことは分かるはずだが」

 「現在発見された研究所の内の10件は全てあの子たちの情報提供のお陰よ。貴方のことだからミッドだけでもまだ未発見の施設があるはず……知っているのはもう貴方たちしかいないのよ」

 「ならば私の優秀なウーノに聞けば良い」

 「彼女は貴方が動かない限り絶対に動じない。分かり切っていることよ」

 「君たちの選択肢には『ナンバーズを人質にして情報提供を強制させる』とか、『私を人質にしてウーノに情報提供を強制させる』と言うものは無いのかね? この3年間それが不思議で仕方無かったんだが」

 「例え出来たとしても、少なくとも私はそんなことはしようとも思わない。自分たちの利益の為に、私はそこまで非情にはなれないから……」

 「優しさは時として罪だ……かつて君の『母』も優しかったが故に『娘』の復活に固執し、自らの道を踏み外した」

 「……言うな」

 「そちらこそいい加減に割り切ったらどうだね? 君には我々の『敗者の矜持』が理解できぬかも知れないが、私にとっても君たちの生温いやり方はとても遺憾に思うよ。でなければ、やがて君も自分の『母』と同じ運命を――」

 「……黙れ!」

 すぐ後ろに護衛官が居ることも忘れ、フェイトは自分の周囲に殺気を撒き散らせた。狭い空間が一瞬で張り詰める。しかし、殺気の矛先であるスカリエッティ本人は他人事のように涼しい顔をして変わらぬ不敵な笑みを湛えている。そのことがさらにフェイトの神経を逆撫でし、魔力変換資質によって生み出された微弱な電撃が金色の長髪を滑って椅子に小さな焦げ目を刻み込んだ。

 その状態が約30秒続き、護衛の二人が命の危機を感じ始めたその時――

 「失礼します」

 小さなノックと一緒に看守の一人が入室して来た。そのことで緊張していた空間に心理的な緩みが生じ、フェイトの理性に冷静さを取り戻させた。

 「執務官、少しよろしいですか」

 大柄な看守はそう言って彼女に歩み寄ると、その耳に何かを口伝えた。

 「……そう、分かった。ありがとう」

 要件を済ませた看守は一礼した後に退室し、先程まではないが再び面会室を緊張が走った。

 「今本局の査察官から連絡があったわ。18つ目の施設を発見したそうよ」

 「ほう、知らぬ間に優秀になったものだな。おめでとう、立派なことだよ。それで、どこの研究所を発見したのかね?」

 「本当に覚えてないの。発見されたのは――」



 






 少し時を遡る……

 第69管理世界コクトルス――。ミッドチルダとは違い一年中雪が降り積もり大地が氷に覆われるこの地では生物の姿は欠片も見当たらず、現地の住人たちでさえ地球で言う赤道周辺でなければまともに暮らすことは適わぬ、確認されている次元世界の中では五指に入るほどの劣悪環境を誇っていた。厚さ数百mにも達する永久凍土は如何なる植物の根の進行を許さず、陽光の大半を海上の氷壁に遮られた海の底ではエネルギー消費の少ない極小の微生物しか蠢いてはいない。かつて旧暦の頃は次元航行を行う程に発達した世界だったらしいが、過去に起こった魔力暴走による天変地異が原因で気候変動が発生して今に至る。その余りにも劣悪極まりない世界故に新暦40年代から時空管理局で正式に物資援助などの支援活動などを行い、現在まで交流が持続している。管理局の方針では近い内に全住民をミッド及びその他管理世界へと移住させる案が出されているらしい。

 その白銀の大地の北方、ヒトが安全に住める境界線を遥かに越えたその地点では数人の人影が散開し、各々が何か言葉を口走っている。

 その内の一人、周囲の現地人たちとは違う長身の男性の足元にベルカ式魔方陣が展開された。

 「御苦労さまです。後はこちらに任せて、あなた方は少しだけ下がっていてください。ここから先は何があるか分かりませんから」

 そう言った彼……ヴェロッサ・アコースの足元に濃緑色の魔力に彩られた魔犬『無限の猟犬(ウンエントリヒ・ヤークト)』が数頭出現していた。彼は着込んでいた防寒着のフードを取り去ると、自らの足元に手を置いた。

 「なるほど、上手く騙してある。今まで見つからないはずだよ」

 手のひらから地面に向けて結界解除の魔力を流し込むと、すぐに隠れ蓑は剥がれた。それまで幾重にも掛けられていた迷彩効果を持つ結界魔法に歪みが生じ、屋外設置型の無骨なエレベーターが姿を現した。

 「願わくば、ここが最後の施設であることを祈ってるよ」

 魔犬の一頭が金属製のドアを引き剥がし始めた。



 地下およそ200メートルの深さに位置するその研究施設はエレベーターからラボまで一直線で、これまで検挙してきたものに比べると単純な造りをしていた。

 「所有者の名はハルト・ギルガス。新暦61年にスカリエッティとの個人的接触有り。彼の代理、もしくはサポートで研究施設の管理をしていた疑い……か」

 『無限の猟犬』は既にその姿をくらまし、安全と確認したヴェロッサは単独で施設内へと足を運んだ。内部空間は外に比べて温暖で、施設全体が凍土層に埋もれているのが嘘のようにも思えた。

 歩きながら彼はここの所有者の調書に目を通していた。今頃その人物は本局に移送中だが、彼は友人であり自らの上司でもあるクロノからこれまでと同じように施設の調査を頼まれてここに来ている。上手くすればここには戦闘機人の製造データやJ・S事件の中核となったレリックなどが保管されているかもしれない訳であり、前者なら自分が責任を持って、後者であったならば自分とは別に本局からの担当官が処理するだろう。3年前ならばロストロギアの担当部署は機動六課だったのだろうが、試験運用期間が終了して解散した今では古代遺物管理部からの迅速な人手は余り期待できそうになかった。

 だが、過去に検挙した17の施設の中にレリックが保管されていた件数はたったの8件。上層部はもちろん、ヴェロッサ自身もレリックが発見されることは無いのではと薄々考え始めていた。

 「まぁ、油断は禁物と言うからねぇ。僕も気を引き締めた方がいいのかな」

 狭く簡素な通路を進むと、目の前にスライド式のドアが見えて来た。所有者のハルトから押収した施設の見取り図によれば、ここから先は研究設備が詰まったラボになっているはずである。今更トラップやAMFの類は無いだろうが、それでも一応は警戒しておくのが筋だろう。

 「…………良し、問題ないかな」

 扉越しに軽く探査を掛けてみたが怪しい気配などは感じられず、AMFも展開されてはいなさそうであった。

 少し下がると彼は再び『無限の猟犬』を発動、厳重に閉ざされていたドアに風穴を開けるべく突進させた。



 






 所変わって……

 「第69管理世界? 初耳だな、私は知らんぞ」

 「何を惚けているの! 貴方がハルト・ギルガスと接触があったのは管理局の捜査で分かっている、いい加減に……!」

 「ん? 待て、ハルトとか言ったな? ……確か……」

 それまでずっと気だるそうな態度だったスカリエッティはその名を耳にした瞬間に昔のマッドサイエンティストの眼を垣間見せた。

 「あぁ、居たなトレディア・グラーゼと同じような理由で私に近づいてきた輩が。そうか彼か……」

 「やっと思い出し……」

 「あんな不便な所に潜んでいたとはな」

 「え? どう言う……」

 フェイトは思わず我が耳を疑った。今の彼の言動から察するに、今回発見された施設の所有者とスカリエッティ自身は直接的には何の関わりも無いらしいのだから。

 「懐かしい名前だな……。そう言えば、あの時私が断腸の思いで貸与してあった『アレ』はどうしたのだろうか……?」

 過去を懐かしんで遠い目をするスカリエッティ。しかし、そのさり気なくも不明瞭な単語を若手の執務官は聞き逃さなかった。

 「『アレ』? アレとは何!? 知っているなら、覚えているなら答えろ!」

 「ククク、もし3年前に『アレ』が私の手元にあったなら、『聖王のゆりかご』はどうなっていただろうか。考えただけでも欲望をそそられる」

 そこには先程までの萎えきった人物は居なかった。かつての、もしかしたらそれ以上の狂気を再び身に纏ったその姿にフェイトは身震いした。10歳の頃から幾多の死線を掻い潜り続け、本局では親友である高町なのはや八神はやてと並んで賞され、一部では『管理局の黒い稲妻』とまで異名を冠する程にまでに強力な魔導師に成った彼女が、目の前の爪牙を抜かれて矮小なけだものへと身を落としたはずの相手に確実に恐怖していた。

 いや、正確には彼に恐怖していたのではない。彼の纏う狂気、その向こう側に潜む“何か”に怯えていた。この3年間で一度たりとも何一つ興味関心を示さなかったスカリエッティ、唯一気に掛けていたのは自分の造り出した娘に当たるナンバーズたちのことだけだったが、それでさえ『気に掛けていた』程度のものであってかつての狂気を取り戻させるまでのレベルではなかったはず。一体何が彼を再び狂気と欲望の渦に駆り立てるのか、今のフェイトには理解できず、その謎が彼女を際限ない恐怖に陥れていた。

 「あぁ……もしかしたら、例えIF想定の空想であったとしても……私はあの究極のサンプルを……“13番目”をこの目で見てみたかったなぁ」



 






 「これは……!」

 いつもの飄々とした態度が瓦解するほどの衝撃がヴェロッサを襲った。

 ラボに突入してすぐに視覚神経を通じて脳に届いた映像は――

 「戦闘機人!?」

 人の身長を二周り大きくしたシリンダー型の培養槽に収められていた人間だった。しかし、酸素吸入マスクも付けずに培養液の充満した容器に全裸で入れられているような人間は彼の知り得る知識と記憶の範疇には一種しかいなかった。

 ナンバーズ達とは違って膝を抱えて背を丸めて浮かんでいるその姿はまるで母胎に閉じこもった胎児にも見えなくもない。ラボにはこの培養槽とその周囲に散在する制御装置らしきものしかなく、やはりここは研究所と言うよりかは保管庫の意味合いの方が強く思えた。

 「もう発見されることは無いと思っていたのですが……。まさかこんな辺境世界に安置されていたとは」

 改めて中に入っている人物を確認する。

 蹲っている所為で正確な身長や顔立ち、外見年齢などは分からなかったが、恐らくは現在聖王教会で活動している同じ戦闘機人のセイン、後発組の他のナンバーズと身長と外見年齢は同じだと踏んだ。しかし、すこしだけ驚いたことがもう一つだけあった。それは――

 「この戦闘機人、男なのか?」

 髪が短いのはともかく、少し垣間見える胸板や背中のがたいは女性のそれとは明らかに違い、男性であることを容易に確認できた。スカリエッティの製造した戦闘機人、ナンバーズ達が全員女性タイプだったのはその胎内に彼のコピーを宿すことを前提にしていた訳で、その理屈から考えれば男性タイプの機人は不必要なはずだった。それが何故?



 と、ヴェロッサは中の人物と唐突に『目を合わせて』いた。



 余りにも不自然なくらいに自然だった視線の交差は彼の思考を一時的に停止させた。数瞬遅れて気付いた時には中の人物は戦闘機人特有の金色の瞳と両腕を静かにヴェロッサに向けていた。

 「ま、待て! 今出すから」

 我に返った彼の行動は早かった。折り畳んで持っていた防寒着を放り捨てると装置の一つにとっかかって培養槽の排水作業に取り掛かった。



 






 「“13番目”!? 究極のサンプル!? 何を隠しているの!!」

 「心外な、何も隠してなどはおらんさ。ただ単に……そう、忘れていただけのことだよ」

 「忘れて……?」

 「先程も話をしたように、私は完成したモノと廃棄したモノは研究対象として見成さずにそのまま消去する。簡単な話が諦めていたのだよ。17年前に『アレ』を明け渡した時点で『アレ』に対する研究意欲は諦観によって打ち砕かれていたのかも知れん。故に忘れていたのさ」

 「だからっ! アレって何のことを……!」

 「一つだけ注意しておこう。長年私の手を離れて今はそこに有るかどうかすら怪しいが、『アレ』には決して近づくな。もし仮にも『アレ』を不用意に起動させれば――」



 






 「大丈夫かい? これを着ると良いよ」

 ヴェロッサは少年に自分の防寒着を羽織らせた。上ほどに気温が低い訳ではないが、少年は全裸に加えて液に体を濡らしていた為の一応の配慮だった。

 「…………え……れ……」

 「ん? 何だい」

 「お前、誰……ここ、どこ? ここ、ドクター、居ない」

 文字通りの濡れ羽色となった紫苑の髪の先から培養液を滴らせ、少年はヴェロッサを見上げていた。金色の眼には表情が宿っておらず、ヴェロッサは知る由もないがその表情と感覚はナンバーズのセッテに似通っていた。片言で喋るそれはあどけなさには程遠く、名状し難い何かしらの威圧感を放っていた。

 「僕かい? 僕はヴェロッサ・アコース、一応本局の査察官だよ」

 「査察官……本局…………時空管理局、か」

 「そうだよ。ところで、君がさっき言ったドクターって言うのはここの所有者のハルト・ギルガスのことかな?」

 「違う。ハルト、ただの、くぐつ。俺のドクター、ジェイル・スカリエッティ、だけ。……ドクター、どこに居る? 俺、ドクターと、他のナンバーズに、合流する」

 「? 君は3年前のJ・S事件のことを聞いていないのかい?」

 「3年前、何があったか、知らない。俺、ここで待ってた、それだけ」

 少年は抑揚が無くも毅然とした口調で話す。そこには嘘偽りなどと言ったものは何一つ感じられず、わざわざ思考捜査をするまでも無く感じられ、実際そうだった。

 「そうか、ならこのままミッドに移送しても混乱するだろうから、大まかな事情説明だけしておこうかな。今の年号は新暦78年――」



 






 「起動させたら……どうなるの?」

 先程とは違った緊張感にフェイトは心身ともに疲弊しつつあった。そして尚且つ彼女の本能が叫んでいた。何かとんでもない事態が起こる、いや、起きてしまうと。

 高濃度AMF展開下の状況に置かれたかのように体が重く、嫌な感覚の汗が滂沱の如く湧き出ては顎先を伝って数滴床に落ちてゆく。対するスカリエッティは変わらぬ冷笑を湛えていたが、それは見かけだけのものであり、俗に言う『目が笑っていない』表情をしていた。

 張り詰めた緊張の糸が切れそうになり、フェイトが叫び声を上げそうになったその時――

 「失礼します」

 ノックと一緒に入ってきたのはさっきの大柄な看守だった。そしてこの時、フェイトはここに来て初めて彼に心の中で感謝の意を伝えた。

 「執務官、少し……」

 「何でしょうか?」

 始めに来た時と同じようにしてフェイトの耳に必要なことだけを伝えて、その看守は退室した。

 「………………今日はこれで……」

 「おや、もう帰るのかね。戻ったところで退屈なデスクワークしか待っておらんだろうに」

 「面会時間が過ぎてる。それに、たった今良くない知らせが届いたわ」

 「ほう、実に興味深いな。何だったのだね?」

 椅子から立って踵を返し、スカリエッティに背を向けるようにして立っていたフェイトは顔も向けずにただ事実だけを包み隠さず簡潔に伝えた。

 「施設の調査に当たっていた査察官が現地で意識不明の重体に陥った。……それだけよ」



 






 足元で昏倒しているヴェロッサには目もくれず、少年は装置のコンソールから膨大な情報を引き出してゆく。その体にはかつてナンバーズ達が着用していたものと同じ紺色の防護ジャケットを着こなし、左手には黒い立方体を握りしめていた。双眸が見つめる画面にはこの施設だけでなく、かつてここの所有者だった者がスカリエッティから譲渡された技術情報まであり、一般人には理解できそうにもない記号や画像、専門用語だらけの文章がほぼ数秒にも満たないうちに出現と消失を繰り返すが、彼は瞬きもせずに眼球だけを動かし視神経を通じて脳細胞に刻み込んでゆく。

 そうして情報をかき集めること約五分、少年の目はある一文で止まった。

 それは培養槽に入った自分の写真の傍に記されてあり、少年の名前を示しているらしかった。

 「……………………行こう、皆が居る所へ」

 装置の電源を落とし、少年は上にヴェロッサから奪った防寒着を羽織った。そして、やはり地面に這い蹲っている本人には一瞥もせずにラボを出ると、そのままエレベーターがある場所まで歩いて行く。

 その目にはやはり人間としてのあらゆる感情の光が映し出されてはおらず、ただ金の瞳が爛爛と照明を反射していただけだった。

 「No.13……“13番目”の戦闘機人…………」

 エレベーターの前で彼はブツブツと呟く。呪詛のように連ねるその言葉にすら、よく聞けば何の感情も宿っていないのが分かる。

 「…………No.13、『トレーゼ』……それが、俺の名前」

 首元に掛けられた金属製のチョーカーに刻まれた刻印は「XⅢ」。かつてスカリエッティによって捕獲されたギンガに与えられた製造番号と同じ13……。しかし、同じ数字でも少年――トレーゼと彼女とでは明らかに意味合いが違っていた。

 「…………行こう、急いで。皆を探して、見つけ出そう」

 エレベーターが到着するのと、彼の足元に真紅のテンプレートが展開されたのはほぼ同時だった。










 ラボにただ一人取り残されたヴェロッサ。その周囲にはトレーゼが用済みとなって無造作に捨てた研究記録誌が散逸し、何枚かが排水された培養液に浸ってしまっていた。

 その一枚、そこに書かれていたその単語は――





 『戦闘機人――No.13“Treize”。

 起動テストにてIS(インヒューレントスキル)の発動を確認。

 危険レベルAA+に付き、培養槽にて封印処分。実戦投与の予定無し。

 ――新暦62年1月16日』



[17818] 来訪者
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 00:34
 その日、八神はやては一年で片手の指の数くらいしか取らない有給休暇の申請をしていた。

 表向きではワーカーホリック気味なのを部下や年齢的に上司であるゲンヤに注意されたからとしているが、実際のところの理由は違った。

 「ロッサ、大丈夫やろか……?」

 「あいつのことだから心配しなくても大丈夫なんじゃねーか?」

 吐く息が白く凍りつく程の気温に満ちたクラナガンの街並みを、はやてとヴィータは分厚いコートに身を包んで並んで歩いていた。行先は先端技術医療センター、ここにヴェロッサが入院しているのだ。

 つい3日前に意識不明の重体となって任務先から帰還した彼が目を覚ましたと言うのを聞いたのは、つい数時間前のことだった。知り合って以来、ずっと兄のように慕ってきた者の一大事に気が気でなかった彼女はかなりの立場的な無理など(具体的にはコネ)を通し、半ば強制的に休暇の申請を許可させる形になってしまったが、本人にとってはこれほど重要なことはない。

 「まぁ、ヴィータに分かり易く言うとやな、明日から八神家の炊事はシャマルの担当になるってのと同じくらい大変なことや」

 ここへ来るまでにヴィータにそう説明すると、「そりゃ大変だ!」と言って血相を変えてはやての付き添いでセンターに同伴することとなった。ここに来るまでに何度も「早くしねーとシャマルの産業廃棄物がテーブルに並んじまう!」と、意味を履き違えていたが。ちなみにヴィータの休暇申請は事後承諾。



 






 「やぁ二人とも。ちょっと見苦しいかもしれないけど、来てくれて嬉しいよ」

 「おぉ! 美味そうな林檎! ひとつもらうぞ」

 ベッドの上でヴェロッサははやてとヴィータを笑顔で迎えてくれた。死装束……と言ったら縁起でもないが、彼の着ている服は病院で患者が着用を強要されるバスローブのような白い服で、ベッドから上体を起こしているところだけ見ると元気そうではあるものの、上半身の至る所には心電図計測に使う電極のようなものが貼り付けられていた。

 「ほ、ほんまに大丈夫なん? ロッサ」

 「ピンピンしてる……と言いたいところだけど、まだまだだよ。はやてが来るちょっと前に体が起こせるようになったんだけど、下半身は全くさ」

 そう言いながら彼は読書をしていて、書名は『女性に人気! ケーキ類ベスト100特集』だった。

 「聞いたで……。全治二ヶ月やってな」

 「ごめんね、はやてが楽しみにしていたクリスマスのケーキ、今年は作れるかどうか分からないよ」

 「ううん、無理せんといて。今はただ現場に復帰することだけ考えてくれたらえぇ」

 「僕としては、このままここではやてと話をしたいんだけどな」

 「なんやぁ、思うたより元気やないか。後でシャッハさんに言うたろ」

 「ハハ、ご冗談」

 いつも通りの会話を交わすぐらいには問題無いことに安心したはやては、備え付けの椅子に腰掛けてそのまま親しい間柄の会話に華を咲かせていた。いつのまにかヴィータはヴェロッサの隣に置いてあった籠盛りの中からもう一つ林檎を取って先に病室を抜け出していた。あの様に見えて一応気のきく一面もあるのだ、と言うのは烈火の将の談。



 






 「それで、どんな奴にやられたん?」

 丁寧に林檎の皮をナイフで剥きながらはやてが聞いてきた。彼は査察官と言う立場上、あまり前線には出張らないが一癖も二癖もある管理局魔導師達と引けを取らない程の実力の持ち主だ。隙を突かれた、油断していた、その程度のものでここまでの事態に陥ると言うのは考え難い。だが……。

 「あれは本当に危なかったよ。まさか気が付いたらリンカーコアが衰弱していたなんて、悪い意味で夢のようだった」

 リンカーコア――。ミッド式、ベルカ式問わずに魔力を応用する者ならば誰しもが有する魔力精製機関。外界から魔力を取り込むこの部分は未だに謎が多いが、ただ一つ分かっていることは、この機関が何らかの理由で衰弱すると生命の危機に瀕する可能性があると言うこと。かつてはやての親友なのはは常人では遠く及ばないレベルの魔法を多発、酷使した所為で自らの命を縮め、一時は魔導師生命を危ぶまれた時もあったほどだ。

 「僕の場合は魔力が根こそぎ奪われていたらしい。別に魔法を使い過ぎた訳ではないはずなんだけど……」

 「気が付いたらって、それまでは何ともなかったん?」

 細かく切り終えた林檎を楊枝で突き刺すと、はやては慣れた手つきでそれをヴェロッサの口へ持って行く。

 「ありがとう。――――うん、さっきの質問だけど……ちょっといいかい?」

 「はえ?」

 ヴェロッサがもうちょっと近くに寄るようにとはやてを誘った。念話と言う手段もあるのだろうが、今の彼には体の負担になるだけなのでこうして所謂、耳打ちする形で要件を伝えるしかなかった。とは言ってもこの体勢、丁度ヴェロッサがはやての肩に顎を乗せて彼女がそれを抱きかかえる状態となってしまっているため、当のはやてとしては気恥かしいことこの上ないが。

 「(何や? 堂々と言うたらあかんの?)」

 「(ひょっとしたら僕が思っているよりも事は重大かも知れないからね。それに……この件にはあれが関わっている)」

 「(何や?)」

 「(戦闘機人だ)」

 「え……?」

 思わず声を上げてしまいそうになるが、そこはやはり若いながらも歴戦の魔導騎士。理性がすぐに働いてそれを抑える。

 「(先にここに来てくれたハラオウン執務官に一応報告はしたけど、相手が戦闘機人であることは上層部には伏せてもらうことにした)」

 「(そんなっ! 今の今まで見つからへんだのに、どうして……!)」

 「(詳しいことは後で執務官に直接聞いておいて欲しい。最高評議会が無き今でも戦闘機人をダシにして伸し上がろうとする連中は多い。よほど大きな事件にならない限りは表沙汰にはできないんだ)」

 「(うん……分かってる)」

 「(本当かい? 君はおっとりした口調に似合わずに無茶するから、今回も僕が倒れたって聞いて大慌てだったんじゃないかい?)」

 「(い、今そんなん関係ないやん! 何言うてんの)」

 「(冗談だよ。でも……さっきも言ったように、長い間査察官をやってきたけど、予想よりも大事になってしまう気がしてならない。はやてには今の内に予防線を張っておいて欲しいんだ)」

 「(ロッサ……)」

 いつになく真剣な彼の声色にはやての方も少し気を引き締める。職業柄、勘と言うのは良くも悪くも当たることを彼女は充分に理解していた。それに、彼はこんな場面で冗談は口にはしない、それは騎士カリムやシャッハと同じくらいに断言出来ることだ。

 「(……了解や、すぐに口の固いモン集めてチームを編成させる。だから、心配せんでもええからな。私がしぶといの、よぅ知っとるやろ?)」

 「(ありがとう。釘を刺しておかないと、君は何を仕出かすか分からないからね)」

 「(いらんお世話やて。…………なぁ、ロッサぁ)」

 「(うん? 何だい)」

 「肩痺れてきた……。ちょっと退いてぇな」



 






 「んなコトがあったのか。あれ? それをあたしに教えてくれたってことはよぉ……」

 「勘がええなぁ、ヴィータは。もちろん協力してもらうで。報酬はもちろん、ギガウマなアイスを――」

 「いや、流石のあたしでも真冬にアイスは……。いくらギガウマってもよぉ」

 先端技術医療センターを出た二人は来た道を戻って行く帰り道の途中でそんな会話を交わしていた。時間帯は昼過ぎ、クラナガンの中央区画は溢れる様な人だかりでごった返していた。冬の寒さもこの人数の前では息を潜めるかのように、ちょっとはマシに感じられるから不思議なものである。

 「でも戦闘機人か……。3年前を思い出しちまう」

 ヴィータの呟きが白い水蒸気の吐息となって虚空に消える。と、同時に彼女は澄み渡る青空を仰ぎ見た。

 3年前、この空には古代兵器“聖王のゆりかご”が浮かび、大小様々なガジェットが進軍する中で一際異彩を放っていたのが、たった12人の少数精鋭機人部隊「ナンバーズ」。今でこそ彼女らは個々人の人間として社会に溶け込んでいるが、スカリエッティの私兵だった頃は本局の手錬の魔導師をも軽くあしらい、一度は地上本部すら壊滅させた実力者たち――。通常の手術を受けて機人となった訳ではない彼女らは純粋に戦闘行動に特化し、その目的の為だけに造られた哀しい戦闘者――。

 「また……あんな事件が起こっちまうのか……」

 「そんなことにならんようにする為に、私らが解決せな……な?」

 「そだな。そうだよな」

 「そうやって。あ、そう言えばお昼まだ何も食べとらんだなぁ。どっかで軽食でも入ろか?」

 「けーしょく? あんな紅茶がおまけのチミチミしたのなんか性に合わねー。ギガウマなデカ盛りがいい!」

 「りょーかい」

 さり気なく財布の中味を計算してからはやては快く頷いた。大丈夫、万が一赤字になろうとも八神家の家計簿は彼女が握っているので、こっそりヴィータの小遣いから差し引けば良い。世の中そんなに甘くはないと言うことを身を以って知るハメになりそうである。



 ――――――――。瞬間、交差する影と影――。



 「あれ?」

 「んあ? どうしたんだよ、はやて」

 背後を振り向いたまま往来に止まってしまったはやての袖を引っ張るヴィータ。何か面白い物が見えたのかと思って同じ方向に目を凝らすが、人の波以外は特にこれと言ったものはない。

 「は~や~て~! 何かあったのかよ」

 「いや……さっきすれ違った人……」

 「どいつだよ、もう見えねえぞ」

 「…………ロッサに買ってあげたコートと同じやつ着とったなぁ」



 






 ミッドチルダ東部――森林地帯の某所にて。

 時空管理局地上本部担当の管理及び厳制監視区域、ここにかつての狂科学者ジェイル・スカリエッティの最後のアジトがある。今現在ここは管理局の管轄下にあり管理局保有の施設として使われているが、許可を得た一部の執務官でしか入ることを許されてはいない。地下ラボに蓄積されていた研究資料、並びに戦闘機人の製造データやレリックは逮捕直後に全て押収されて殆どが抹消、一部が地上本部にて厳重封印されている。

 警戒には本局の魔導師ではなく、ラボから押収したガジェットに改良を加えて製造された小型の監視用のものが使われている。アイカメラから捕えた映像と集音マイクから拾った音声はほぼリアルタイムで担当部署に繋がれ、万が一の事態には即時対応できるシステムとなっていて、ガジェット自身にも不埒な侵入者程度なら撃退できるくらいの簡易装備は取り付けられている。それがラボ上部から下部に渡っておよそ30機ほど待機して監視を続行していた。



 ≪――――――――?≫

 入口付近に浮遊して警戒に当たっていたガジェットの一機が目の前の木々の茂みに反応した。何かが移動する音を集音マイクが捕えたようなのだが、カメラからの視覚情報には何も映ってはいない。簡易AIの自己判断によりカメラを赤外線によるサーモグラフィーに切り替えようとしたその時――、

 ≪??????――$@%&%#$+*#$@≫

 浮力を失ったガジェットはカメラを明滅させて混乱の色を示しながら地に落ちて行く。外からでは分からないが、今ガジェットのプログラムは不可視の浸食――ジャミングを受けており、視覚と浮力に異常をきたしている。この程度ならば自己修繕によって数分で回復するので、担当部署の方はさして気にも留めないだろう。例え壊れたとしても補充が効くので実質問題無いのと一緒だった。

 その横を人影が悠々と通り過ぎる。今の季節にはぴったりな厚いコートに身を包み、フードを目深に被り込むその少年の姿は街中ならどこでも見かける当たり前の格好だ。

 「…………」

 しかし、フードの隙間から見え隠れする金色の瞳は常人とは違うモノを映しているように思えてしまう。それは戦場に生きる兵士の眼でも、獲物を狙う猛禽類の眼でも、ましてや飢えた狂人の眼でもない。“何も”映してはいなかった。ヒトとしての何物かが大きく欠落しているその瞳は地下に続く洞窟の口を静かに捕捉し、離さなかった。

 「……マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 少年の声に掌中の黒い立方体が電子音で答える。すかさず少年の瞳孔に幾何学的な紋様が浮かび、施設全体のレーダー情報が示される。立体的に映し出されるその索敵範囲図には赤い光点が30個点滅し、警戒用ガジェットであることを認識させた。

 「……哨戒用小型機、進路上に、およそ15機……。各機の巡回ルート、及び、有視界範囲の計算、算出」

 『Got,it.』

 眼球に映る施設の3Dマップの一部がズームアップし、各ガジェットの予測軌跡と捕捉視界が色つきで表示される。

 「…………対象の、知覚混乱後、移動」

 『About 28.3%(約28.3%)』

 「超高速移動による、レーダー追尾を、振り切り、走破」

 『About 56.9%(約56.9%)』

 「後者を、実行する」

 少年――戦闘機人トレーゼがフードを脱ぎ取った。紫苑の毛先と日光を知らない白肌が寒波に晒されるも、彼は身震い一つしない。

 「IS……発動」

 『Start up.』

 真紅のテンプレートが足元に現れた。



 






 ティアナ・ランスター。年齢19歳、職業は本局執務官、武装隊での階級は三等陸尉に相当する陸戦魔導師であり、かつて『奇跡の部隊』機動六課スターズ分隊のフォワードの一角を担っていたやり手。J・S事件の際にナンバーズ3名を確保し、事件解決に大きく貢献した功績が認められ、今ではフェイト・T・ハラオウン執務官に次ぐ武装執務官として局内では名を馳せている。

 そんな彼女は今、資料室に置かれているコンソールの前である情報を探していた。画面にはクラナガンの往来を行き来する山の様な数の人々、そしてそれらの間を走り周る円形のロックアイコンが映っていた。別に仕事サボってシューティングゲームに興じている訳ではなく、立派な“人探し”をしているのだ。

 その時、――

 「っ!?」

 電灯すら点けていない空間、彼女は自分の背後に不審な気配が忍び寄って来ているのを察知した。振り向くことなく誰かがここに入って来たのを確認すると、静かに懐にある待機状態のクロスミラージュに手をやる。

 「誰ッ!!」

 先手必勝、迅雷の如き瞬速で自らの相棒を構えると、足首・腰・首の回転を活かしてコンマ数秒で相手を視界に収め――、

 「ティアナ、私だよ!」

 「て、あれ……。フェイトさん?」

 背後数メートルに立っていたのは自分の上司であり、かつて共に闘った戦友、フェイト・ハラオウンだった。

 「すみません、つい……」

 「ううん、ティアナがあんまり真剣にやってくれてるから声掛け辛くって……。ごめんね、邪魔しちゃった?」

 「いえ、そんなことは! こちらはもうすぐ終わりますけど、やっぱり該当者は居ないみたいです」

 「ミッド東部の監視システムにも居なかったわ。この3日間のうちにミッドに来た人たち――観光・移住問わずに――を探ってみたけど、どこにも居ない」

 「アコース査察官の証言通りに、外見的特徴を検索条件に当て嵌めてみましたけど……。すみません、見つけることは……」

 「どう言うことなの…………まだこっちには来ていない? でもアコース査察官の言っていることが本当なら、ナンバーズを回収しようと真っ先にミッドに来るはず……。なのにどうして…………?」

 フェイトは思索する。

 謎の戦闘機人――。ナンバーズの13番目を自ら名乗り、ヴェロッサ・アコースを撃破する存在。IS不明、実力未知数、現在位置も特定できず……。人類の歴史において不可視の存在ほどに恐ろしく、脅威となるものは無い。

 「あの……フェイトさん? 獄中のスカリエッティに接触は出来たんでしょうか?」

 「私が3日前に面会してからは行ってないけど、多分口を割ろうとはしないと思う。それに、今まで発見できたどの施設でも“13番目”に関する情報なんてどこにも無かったから、今押収されてる資料や情報から実態を掴むのは――」

 「不可能、ですよね。コクトルスの施設にあった資料は全部事前に抹消……紙媒体の物も培養液に浸って大部分が薬品の影響で印刷の劣化が激しく、解析には時間が……」

 「アコース査察官に口止めされて上層部からの援助は出来ないし、かと言ってJ・S事件の中核に居たナンバーズが『12人』と言う上層部の暗黙の決定事項を覆せば――、」

 「本局の一部はその方面に力を入れて他の部署や管轄の対応が遅れる……。もしそうなれば、最悪の場合には質量兵器密輸に関わる違法組織の隠れ蓑になってしまう…………ですよね?」

 「考え過ぎと言うこともあるかもしれないけど……」

 「あらゆる事態を予測し、対応するのもまた管理局の責務……ですよね?」

 ティアナの蒼い瞳が静かな熱意を帯びる。六課を解散し、補佐官時代を経てなお変わらぬ正義感に、先輩であり、戦友であるフェイトは感心して「そうね」と一言肯定の意を示した。

 画面では検索条件に掛らなかったシステムが『Not found』の文字を明滅させていた。



 






 『Not found,my lord.』

 ラボに電子音が発する人語が響いた。

 今この場所、スカリエッティのラボには人間が一人しか居ない。ガジェットも監視カメラの類も何一つだ。その他には押収されずに残された培養槽や巨大なⅢ型ガジェット程度しか無い。

 もちろん、それには理由がある。先述したように哨戒用ガジェットのカメラ映像は管理局の担当部署にリアルタイムの直通でリンクされている。ラボには物理的サイズや情報量、保管所の関係で押収し切れなかった設備やロストロギアにⅡ型以降のガジェットが大量に安置されている。仮に時空管理局に技術横流しを画策するスパイ等が潜んでいたとしよう。横流しの相手はもちろんテロリスト等々……。そのような不埒者が万が一にも居ないとは限らず、そいつらが映像データからスカリエッティの技術を盗み出す可能性は極めて高い。

 ならばどうすればいいのか? 答えは至極単純にして明快、見せなければ良いのだ。ラボ内部の立ち入り禁踏区域と定めた領域にはガジェット並びに如何なる情報収集機能を持つ物の持ち込み及び設置を全面禁止したのだ。故に、アジト全体でも特にここは仮設最高評議会の許可で認可されない限りは調査担当の執務官ですら進入を許されてはいない。魔法とは違う完全な物理的封鎖空間が見事に作られていた。

 しかし、転送魔法を使用すれば即刻感知されるほどにまで警備が行き届いているこの空間でさえ、あくまで『魔法面』で完璧と言うだけだ。純粋に科学的・物理的・力学的に侵入すれば問題は無い。もちろん、生身の人間でこれを実践出来る訳がない。ヒトでありながら『人間』と言う枠組みから外れた機人、その存在は常人の及ばぬところに位置する。

 現に彼――トレーゼはこうしてここに居る。そしてコードを打ち込んで開けた秘密の収納スペースに何も入ってはいなかったことに一人で違和感を感じていた。

 「ない? 何故、ない? 固有武装も、ファクターサンプルも……。あるのは、既存の武器データ、だけ」

 壁際から迫り出した収納スペースには何も収められてはおらず、文字通り読んで字の如くもぬけの殻だった。本来は何かしらの重要な物が置いてあったのかもしれないが、ここの持ち主スカリエッティが逮捕されたことによって押収、封印処分を受けてしまったのだろう。ともあれ、彼の求めるものがあるのはこの次元世界には一ヶ所にしかないことは自明の理であった。

 「…………時空管理局地上本部」

 『Administrative Bureau Midchilda Central Office.』

 「取り戻す、今すぐ」

 『Information is lacking.(情報が不足している)』

 「なら、入手すれば、いい。それだけ。…………IS、発動」

 『Start up.』

 真紅のテンプレートが発生し、ラボを紅く照らし出すが、警報システムは作動しない。使われているのは魔法ではなく、あくまで科学的なものだからだ。

 トレーゼの周囲に立体的光学キーボードとホログラム画面が展開される。すぅ、と両手を上げると鍵盤を弾く奏者のようにキーボードに指を滑らせていく。『運命』か『トッカータとフーガ』を演奏するかのような素早い指の動きによって画面にある一人の人物が導き出されてきた。

 「…………」

 その人はクラナガンの街の一角で連れと一緒に食事を楽しむ管理局員だった。試しに局内の登録簿データベースに外部アクセスしてみると、それなりに上位に位置する人間だと言うのが見て取れた。憶測だが、権力や人脈と言う名のパイプラインで少しぐらいの融通が効くタイプの者であるとトレーゼは踏んだ。

 「……IS『――』による、本部潜入成功確率は?」

 『About 78.1%(約78.1%)』

 「遂行、する」

 目を閉じ、胸の前で両腕を静かにクロスさせる。すると発現していたテンプレートの半径がさらに大きくなった。

 「任務内容……本局へ潜入、目的物の奪取、そして脱出」

 両目が見開かれ、機械眼球がX線受光モードへと切り替わる。扉の向こうにいる哨戒用ガジェットは全部で6,7機程度である。彼にとっては抜けない数ではなかった。

 「目標、時空管理局地上本部…………マキナ」

 『Yes,my lord. Release limitation,ignition(了解。出力、限定解除)』

 その瞬間、彼の足元に小さな亀裂が入った。体内で生成された莫大なエネルギーが熱に変換されて体外に放出されるが、その総量は他のナンバーズの比ではなかった。

 右足を前、左足を後ろにしてそれぞれの地を固く抑えてスタート体勢を取った。

 「……任務、開始」

 『Full drive.(全速前進)』



 

 ほんの数瞬後にはそこにトレーゼの姿は無く、代わりにタイヤの滑走痕のように黒く熱くなった跡が一本、真っ直ぐ伸びて途中で消えていた。しかし、侵入者が居たと言う明確なこの証拠も誰の目もないこの場所では意味を成さなかった。外に居たガジェットたちも、カメラ視覚とレーダーで知覚できない速度の物体には意を介することなど到底不可能だった。名も無き機械たちに出来たのは、自分たちの哨戒ルートの壁や床と天井にいくつか小さなタイヤ痕の様なコゲ跡がいつの間にか増えていたと言うのを確認できただけだった。しかし簡易AIは自己判断により、そのことを非常事態として認識することなく見逃すより他なかった。

 洞窟から少し距離をおいた森林には明らかに獣道とは違い、重機が薙ぎ倒したかのように草木が圧し折れて引き千切れ、かつて“聖王のゆりかご”が浮上して更地となった地面にも溝を形成する形で通過痕が刻まれていた。

 そして、その真っ直ぐ一直線に伸びた襲撃者の足跡は遥か西に見えるクラナガンの街並み、管理世界の法の塔「時空管理局地上本部」へと伸びていた。



 新暦78年11月9日、午後13時46分の出来事だった。



[17818] 第二次地上本部襲撃事件 Act.1
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 17:44
 11月9日、午後13時58分――。クラナガンで東部から西部に掛けて瞬間最大風速31.9メートルが記録された。突風は極一部の区画で発生したものであることがその後の調べで分かり、その場に居合わせた人々の証言によれば「まるで大型車両がすぐ横を通り過ぎたかの様だった」と言う内容のコメントが多かった。



 






 その日、地上本部災害担当課の港湾警備隊・防災課特別救助隊セカンドチームに所属する防災士長のスバル・ナカジマ陸曹は同じナカジマ家の姉妹であるノーヴェと一緒に訓練室にて格闘技術の洗練に勤しんでいた。

 空戦魔導師でも使用が可能である造りをしているこの空間は現在、空色のウィングロードと黄金色のエアライナーがある所はクロスし、ある所は螺旋状に入り混じっており、この二色のコントラストが訓練室を美しく彩っていた。その中で相対的な二つの影が高速で互いを打ち合っている。よく目を凝らして見れば、それは人、10代後半の少女達だ。

 「はぁあああっ!!」「おりゃぁあああ!!」

 空色の翼の道をスバルが、黄金の突撃者の道をノーヴェが激走する。一瞬の交叉で頑強な拳と光速の蹴りが激突し互いを牽制、接触するスピナーの回転数が跳ね上がり、両者の力が数瞬拮抗した後にすれ違い、道が続いて行く。この間僅かに1.029秒。一方はリボルバーナックルと左拳によるコンボ、もう一方は脚部ジェットエッジの加速による一撃打法。殴打を脚で捌き、蹴りを拳で受け流す、相反するも互角の実力を有する彼女らの戦いは終わりを見せずさらに白熱の様子を見せる。

 「うぅうおおぉおおぉおおおッ!!!」「うりぃやあああぁぁあああぁあッ!!!」

 道を通るのではなく、通った跡が道となる。この言葉をここまで正確かつ忠実に体現しているのは管理世界広し言えどもスバルとノーヴェ、そしてナカジマ家長女のギンガぐらいなものであろう。そして、ナカジマ家最強の実力者であるギンガが不在のこの場では誰も介入することなど出来る訳がなく、純粋に戦いの終わりを告げるゴングが鳴らされない限りは決して終わることなどありえないことだった。



 ジリリリリリリリリリリッ!!!!!!



 目覚ましが鐘を鳴らすような古典的なブザーが鳴り響いたその直後、互いの拳と爪先が接触するすんでの所で二人は戦意を収めた。

 「これで34戦34分けか。いい加減にどっちが強いのかハッキリさせたいな」

 「そんなコトいいじゃん別に。こうやって二人で互いに鍛え合って、実戦とは違うやり方で強くなるのに勝ち負けなんかいらないって」

 二人同時に地面に降り立つと、ウィングロードとエアライナーが彼女らの走行した後から消えてゆく。スバル蒼い髪とノーヴェの赤毛が互いに色彩的に自己主張し、当人らの性格までもがそれに呼応するかのように対照的である。ノーヴェが好戦的なのに対して、スバルはどちらかと問われればまだ落ち着きと多少の余裕が見て取れる。年齢的にはノーヴェの方が上なのだが、この姉妹を初見した者は十人中九人がスバルを姉だと思い込んでしまうらしく、良くても双子と言う認識を持たれてしまい、ノーヴェ本人としては実力とは別であっても自身が下に見られるのは気に喰わない。

 「いいことあるか! あたしら地上本部襲撃した時に一回殺り合っただけでそれから全然だし、あれだってチンク姉が割って入ったから結局引き分けみたいなモンだったしさ!」

 「え~、だってあれって勝負って言うのかな? 自分から攻撃した私が言っちゃうのもナンだけど……」

 「うるせぇ! 一度受けた戦いには必ず決着をつけろって、お前んとこの桃色髪の騎士が言ってたんだよ!」

 「またシグナムさんは余計なこと言うんだから……。分かったよぅ、そこまで言うんだったら後一回だけだよ? もうお腹空いて早く食堂に行きたいんだから」

 そう言ってスバルはマッハキャリバーに制限時間を三分に設定するように頼んだ。長年コンビを組んできてくれた足元の相棒は快くそれを引き受けてくれると、右腕のナックルを操作してカートリッジをロードする。

 「ちぃ! そっちはカートリッジシステムがあっから便利だよな」

 「そうとも限らないけど……。だったらノーヴェもシャーリーさんに頼んで専用のデバイス造ってもらったら?」

 「バーカ、あたしら戦闘機人は魔力使わねーし、使えねぇから意味ないんだよ! ISがあるからそこいらの魔導師なんかより強ぇけど、普通に手術で機械骨格ブチ込んだだけの機人は基本的に『常人よりちょっと体が丈夫』ってだけなんだよ」

 「嘘!? 戦闘機人って皆私やノーヴェと同じだと思ってた!」

 「てめぇ……これ確か更正施設に居たときにチンク姉が教えてくれてたよな!?」

 「え、そーだっけ? ごめん、覚えて無いや……」

 ――瞬間、ノーヴェの頭の中で何かが物理的且つ心理的に切れる音が響いた。彼女にとってチンクの存在は単なる姉妹のそれとは大きくかけ離れた絆で結ばれている。その敬愛するチンクがわざわざ教えてくれたことを簡単に忘れてしまうと言う愚行はノーヴェにとっては屈辱以外の何物でもなかった。

 「オーケー、三分だったな? 三分でケリつけてやるよ。かかってこい!」

 「かかって……って、さっきから挑んでくるのはノーヴェじゃん……」

 「問答無用ッ!!!」

 『試合開始!』

 ノーヴェの右手のガンナックルが火を噴くのと、マッハキャリバーの電子音が響いたのは全く同時だった。



 






 午後14時5分、地上本部の正面玄関に一人の妙齢の女性が足を運んでいた。

 建物の内部に入ると通りすがりの管理局員の何人かが挨拶をして行く。それに対し彼女は微笑んで会釈し、そのまま通り過ぎて行く。防寒着を外し、その下に着用していた制服を露わにする。その胸元に見えるのは武装隊階級「二等陸佐」を表すバッジが煌いているのが見て取れた。

 と、その視線の先、連絡通路の遥か先からこちらに何かが向かって来るのが見えた。いや、正確には何かがこちらに飛来してくるのだ。30センチ程のそれは道行く人々を縫うようにしてこちらに急接近すると、その勢いを衰えさせることなく慣性の法則に従って彼女に激突――、

 「はやてちゃ~ん! 戻ってたんだったら連絡ぐらいしてくださいですぅ!」

 人間の子供よりも小さな小人――リィンフォースⅡは女性の胸をボカスカと叩きつけた。管理局が確認している数少ないユニゾンデバイスである彼女は宙に浮遊しながら目の前の自分の主人(ロード)、八神はやてと同じ目線で猛烈に叱り飛ばし、一気に捲し立てる。

 「全くもう! はやてちゃんが急に休暇申請した所為で、わたしがずぅーっと代わりに書類の片付けをしてあげてたんですからねっ!」

 「……ごめんな、リィン」

 「ほんっとに大変だったんですよ! お仕事の途中でアギトが目の前で花火を破裂させるし、ナカジマ姉妹が暴れて訓練室壊して三回も変える手続きに時間が掛かるし……!」

 「うん……うん……。大変やったな、リィン、ご苦労さん」

 「? はやて……ちゃん?」

 ここで初めてリィンは自分の主の様子がおかしいことに気が付いた。いつものように自分に優しく微笑み掛けてくれているその顔にはなんだか元気が無いように思えてしまったのだ。現にさっきから彼女が返してくれる返事にはいつものハキハキとした感が全く無く、その視線はこちらを見ていてくれているはずなのに自分を見ていない気がしてならない。

 「どこか具合でも悪いですか……? もしそうだったら、シャマルを呼びますけど?」

 「ううん、大丈夫や。心配あらへん、ちょっと疲れが、溜まってるだけやから」

 「そう……ですか。ならいいのですけどぉ……。あれ、そう言えばヴィータちゃんはどうしたのですぅ?」

 「……ヴィータは、先に帰ったよ」

 「え~! ヴィータちゃんの休暇申請は事前の報告がされていないのにぃ~! 事後承諾がどれだけ迷惑を掛けるのか分かってないんですか~!」

 「ヴィータには、後で私が言い聞かせておく。……御苦労さま、リィン、今からは、私が業務を引き継ぐ」

 「了解ですぅ! あれ?」

 「? ……どうしたん?」

 「そのコート、確か入院中のヴェロッサさんに買ってあげた物ですよね、リィン覚えてるです」

 そう言ってリィンははやての手に包まれたよれよれのコートを指差す。彼女の言うとおり、そのコートは肌寒くなってきた10月の中旬頃にはやてが日頃世話になっているヴェロッサの為に買った物だった。あの時の彼女の嬉しそうな表情は今でも忘れてはいない。

 「これは……ヴェロッサから預かったんや」

 「あぁ~、入院中は着れませんもんね。納得です」

 「……………………」

 「あ! ご、ごめんなさいです! 余計なこと言ってしまって……。私はフェイトさんに呼ばれてるので失礼します。お仕事頑張ってくださ~い」

 そう言うと小さなユニゾンデバイスは手を振りながら豪速球で過ぎ去って行ってしまった。

 「……………………」

 はやてはそれを無言で見送った後、再び歩を進め始めた。

 壁際の表札には赤い字で大きく矢印と一緒に「管理世界次元犯罪管理部・押収物品管理課・保管庫」と記されていた。



 






 同時刻、管理局の第二食堂にて。

 「てめぇ……バスターは……ディバインバスターはやめろ。あれは零距離で喰らわせるモンじゃねーだろ……」

 食堂のテーブルでノーヴェは伸びていた。所々焦げ目が目立つ紺を基調とする防護ジャケットを着たまま着替えもせず、疲労困憊となっている彼女の背中からは、こころなしか煙が上がっているようにも見えなくもない。

 「あはは……ごめんね。ギン姉には出力抑えてって言われるんだけど、どうも魔力の調節が上手くできなくって」

 その目の前にはバリアジャケットから局の制服に着替え終わったスバルが既にカレーライスを五皿も平らげており、今こうして話している内にも六皿目を食べ終わろうとしていた。

 「くそぉ~! せめてドクターが用意してたって言う新装備があれば、蹴り技一辺倒ってのはしなくていいのに……!」

 「え? スカさんって新しい武装造ってたんだ」

 「おうっ! ガンナックルとは別に製造されていたやつで一回見せてもらったけど、見た目はおめーのリボルバーナックルとあたしのジェットエッジを改良したやつに見えた」

 「へ~、凄いねスカさん」

 「結局、戦闘のデータ蓄積と肉体増強レベルの不足がダメで取り付けてもらえなかったけど……。両手にリボルバーナックルは正直にキツい」

 「うわ、スカさんも無茶するな~」

 「……てゆーか、『スカさん』って何だよ? 多分ドクターのことなんだろーけどさ」

 「そだよ。って、ノーヴェも何か食べないと! すいませーん、『ナカジマ家特注特盛りカレーセット』くださーい。あ、食券料は後で払いますから」

 「食えるかっ!!!」

 悪いことは言わない。戦闘機人の常識で考えてもギンガとスバルの食事量は尋常なものではないのだ。



 






 午後14時8分、管理世界次元犯罪管理部・押収物品管理課――。ここには過去に次元犯罪に関わり、事件解決と共に管理局に没収された物が年代ごとに保管・安置されている。主に管理外世界から密輸された質量兵器などが置かれているが、最近になってここには新たにスペースを消費する物体が増えた。

 「…………」

 ガジェットである。大半はⅠ型で中にはⅡ型もちらほらと見かけるが、精々標本のように数機置かれている程度だ。ちなみに本来の数量はここにある比ではないのだが、押収された物の殆どは技術開発研究部へと回されて小型哨戒機へと改造、量産に向けたサンプルとして提供している。近いうちに管理局ではⅡ型ガジェットを解析・改良・量産化し、人材不足に悩む航空武装隊に配備させる計画が上がっている。

 その中にそれら質量兵器とは一線を画す物体がガジェットらの後方のガラスケースに安置されているのが見えた。計12個のその押収物は内5つが武装、残りの7つは分類不明として位置付けられていた。

 「…………」

 武装に分類分けされた物には、リボルバーナックルとジェットエッジに酷似したものがそれぞれ両腕両脚に装着する為に二つずつと、正直武装かどうかも怪しい表裏純白のマントが一枚だった。それとは別に非武装として分類された物は試験管のような物体に見え、実際そうだった。7本のガラスの試験管にはそれぞれ「Ⅵ」から「XⅡ」までの番号が振られており、これが何を意味するのかについては今のところ分かってはいなかった。

 「……見つけた」

 ケースの眼の前に立つ人影はそう静かに呟くと周囲一帯を確認した。幸か不幸か、この庫内でこの場所は今労働中の管理局員からは死角となってしまっている。元々敵方から取り上げただけの物をただ単に置いておくだけの部署に過ぎなく、前々から職務怠慢が見受けられていたので当然と言えば当然だった。

 「……奪取後の、逃走経路、確保」

 『It already.(既に計算済み)』

 「地上本部、見取り図の、展開」

 『Yes,my lord.』

 瞬時に手前の虚空にホログラムで本部全体の見取り図が表示される。地下通路の細部から展望台、さらには屋外にある演習場までもがくっきりと映し出されている。

 「……脱出ルートは、Bプラン。タイミングは、Fで実行する」

 『Got,it.(了解)』

 ホログラムが消えたその直後、袖口から両刃の鋭利なナイフが飛び出した。かつてNo.5チンクが使用していた物と全く同じ投擲用のナイフ、『スティンガー』が握られていた。

 「IS『――』、腕部限定、発動」

 『Action.』



 






 一方その頃、第9無人世界グリューエン軌道拘置所の面会室にて――。

 「やぁ、ジェイル。何年振りかね、こうして貴様のしょぼったれたツラを見るのは」

 「相変わらずだな。その他人の神経を逆撫でするような言動は……。なぁ、ハルト・ギルガス」

 強硬ガラスで区切られた空間の片方に居るのはDr.スカリエッティ。つい3日前にフェイトが面会に来た時のように薄汚れた白い囚人服の出で立ちで、備え付けのパイプ椅子にだらしなく座っていた。しかし、今日面会に来ているのはフェイトではなかった。面会の許可を出してそのように取り計らったのは彼女の義兄だが、来ていたのは全くの別人で、いやに身長が低い白髪の老人がガラス向かいの空間に居た。同じように白い囚人服を着て椅子の上で両膝を立てて座っており、左右別の方向を向いている斜視はどちらも相手を視界に収めてはいなかった。この男こそ、過去にスカリエッティに自ら接触して一部設備や戦闘機人のデータを譲り受けた違法科学者のハルト・ギルガスであった。

 「で、何故に儂はこんなところへと連れてこらされたのか全く分からんのだが、知っとるかね?」

 「私の『知り合い』の執務官が、以前君に貸与した例のサンプルについて知りたがっていてね。そこに古風な録音機があるだろう? 我々の供述が欲しいのだろう」

 スカリエッティの指差す方には確かにあからさまに小型のマイクが置かれており、ここで話された事柄を逐一管理局に教えることになることは容易に想像できた。

 「はんっ! 貴様の知り合いなんぞロクな者がいないな」

 「それは自分もカミングアウトしていると言うことかな?」

 「何を言っとる! 儂はただ単に自分の研究意欲の為だけに、あくまで一時的に貴様を利用していただけのこと。故に――」

 「故に、ここで自分が何をどう喋ろうと私には関わり無い……そう言いたいのだな?」

 「ふはは、相も変わらず察しが良いな。…………良いさ、教えてやろうじゃないか。管理局の脳無しどもにな」

 「私は何も話さんよ。ここに入る時にそう宣言しているからな」

 「好きにせい。さて……どこから話したもんかのう」

 「痴呆か? 良くないな、脳細胞の衰弱と欠如は。どこから話すなど、決まっている事柄のはずだ」

 「そうだったな。はてさて、儂が貴様からあのサンプルを借りてからもう既に17年か……。時が経つのは早いものだ」

 この時、ハルトの斜視だったはずの両目が一瞬で眼前のスカリエッティを捉えた。その目に宿るのは同じように在るべき道を踏み外した者がもつ狂気の輝きがあった。



 






 時を遡ること約数分前――。地上本部中央管制室にてそれは始まりを告げた。

 『緊急警報発令! 緊急警報発令! 本部内にて火災が同時多発! 一般局員は避難経路に従って本部の外へ避難してください』

 突然のアラートと共に管制室全体に異常を報せる警報が響き渡った。ここだけではない、今頃は本部の建物の全区画に放送されているはずだ。

 「火災が多発だと!? 一体どこでだ!」

 対応の年配の室長がすぐにオペレーターの一人に現状の報告を急がせた。一挙手一投足の動きが遅ければ事態は悪転してしまう。

 「K-12区画第7連絡通路にて二ヶ所! H-34区画第3研修室にて一ヶ所!」

 「馬鹿な、その周辺はガス管など通っていないぞ! 警備員は何をしていた!」

 「それが……現場周辺の担当の報告によると、寸前まで爆発物及び可燃性の物体は全く見受けられなかったとのことで……」

 「火の気の無い所に爆炎が出る訳がないだろう! スプリンクラーを作動、直ちに消火活動に入るように伝えろ」

 「了解しました」

 火の手が上がったのは三ヶ所、映像で確認したがそれほどに大きなものではなかったので、すぐに鎮火できることだろう。



 そう、考えていた。



 「これは……! スプリンクラー作動しません!」

 「何だと!?」

 「どの緊急コードも受け付けてくれません! あぁ、くそ! 制御不能!!」

 「現場周辺の局員の退避は出来ているな。防火シャッターを降ろせ! K-12区画とH-34区画を閉鎖しろ!」

 「駄目です! 局全体の防災システムに異常発生! 消火用水道と空調装置停止、シャッター動作不全、局全体のガス管全開! このままでは……!」

 映し出されるモニター映像には、既に消火器や特大バケツなどでは追いつかない勢いにまでに成長した炎が通路全体を蹂躙している様子が無情なまでに映っていた。巻き込まれた人間はまだいないようだが、ガス管に引火するのも時間の問題だろう。

 「偶然などではない……。これは第三者の意図が、悪意がある…………テロだ」

 既に管制室は今いる人員では間に合わず、その間にも火の手は勢いを増す。被害報告の間隔はやがてその誤差をゼロにし、毎秒ごとに件数を残酷なまでに増殖させてゆく。

 だから気付かなかったのだろう。押収物品管理課からも警報が発せられていたことに……。

 そして、既に保管庫からは次なる火の手が上がっていたことに。



 






 「え! 何、火事!?」

 職業柄、スバルの危機感知能力は高い。食事中にも関わらずにスプーンを放り出すと直ぐに通信を飛ばす。

 「管制室、こちら防災課のスバル・ナカジマ陸曹です! 報告をお願いします!」

 「って、おい! ちょっと待てって!」

 目の前の食事分を放置して食堂を全力疾走して抜け出すスバルの後にノーヴェも急いで駆ける。既に通路は警報のアラートが鳴りっ放しで、魔法が使えなかったりランクが低い一般局員は我先にと避難しようとして逆に混乱の極みを表していた。

 「えぇ!? もうそんな場所まで! 了解です、今すぐ現場に急行します。――マッハキャリバー!」

 『分かっています、相棒』

 首に掛けてあった蒼いネックレスを掲げると一瞬のうちにバリアジャケットとローラーブーツ型インテリジェントデバイス『マッハキャリバー』を装着し、混雑する人々の間を縫うようにして大衆とは逆向きに移動して行く。もちろん、そのすぐ後から紺色の防護ジャケットを身に付けたノーヴェもジェットエッジを加速させて追い付き、並走する。

 「おい、火事って一体どこでだよ!」

 「K区画とH区画が発生源だけど、もう間に挟まれた区画は全焼したって言ってた!」

 「これからどうするんだよ!」

 「私は今から消火活動しに行くから、ノーヴェは避難経路の確保に行って!」

 「消火って……! 天井から水出ねーのかよ!」

 「良く分からないけど、防火シャッターも降りないって言ってた!」

 「はぁ!? まぁいい、あたしは群れてる奴らの整理をすればいいんだな?」

 「お願いね」

 「チンク姉やディエチと違ってあんまし器用なマネは出来ないけど……。やってやる!」

 「ありがと! これが終わってまだ食堂が残ってたら今度こそ特製カレー奢ってあげるから」

 「いらねぇよ!」

 そう言ったのを最後に、二人は十字路で左右に分かれて行動することにした。しっかりと別れ際に互いの拳を打ち合わせたのはほんの一瞬のことだった。



 






 局員が、人々が、男女入り乱れて逃げ惑う。

 既に数メートル先では紅蓮の炎が垣間見えているこの状況では、誰一人として自らの冷静さを保っていられるはずがなく、自分たちの身の安全を第一に考えるだけで精一杯だった。

 しかし、唯一人だけは違った。通路の曲がり角で静かに現状を解析、混乱に対しても全く動じることなく周囲を静観し続けていた。その姿は良く見れば異常なことだったのかも知れなかったが、やはり誰もそのことには気付くはずもなかった。

 「…………第二陣、発動」

 『Over Detonation.』

 懐から電子音が返事を返す。すぐに変化はなかった。

 しかし、変化が訪れないわけではなかった。



 






 その頃、資料室では――。

 「フェイトさん! 早く避難しないとここも危ないですって!!」

 「うん……ちょっと待って」

 オレンジの長髪を振り乱し、ティアナは必死に脱出を促す。だがフェイトは先程から、正確には火災状況を確認しようとして画面に地上本部の見取り図を展開した時からずっと、そこを一歩も動こうとはしないのだ。今彼女らが居るのはE区画、いつ火の手が迫って来るとも分からないこの状況でフェイトがとっているのは明らかに自殺行為だった。

 『緊急警報! A-39、N-21、O-40、R-54の計4区画で新たに出火が確認!』

 「え!? フェイトさん、挟まれました! 何してるんですか、いい加減に早くしないと私たち焼かれ死にます!」

 「待って! お願い、後もう少しだけ時間をちょうだい」

 そう無理を言ってフェイトはまたしても画面を食い入るようにその紅の眼で見つめだす。既に映し出される立体図では建物内部の殆どが全焼を表すように赤く塗り潰されていて、二人がいる資料室の数十メートル手前まで劫火は堰を切って迫ってきている。確かにこのままではティアナの言うように数時間後には焼死体になってしまうことは確実だった。

 「発火場所は全てランダム……。防災システムに異常があるのは……誰かが内部からハッキングを掛けているから? でも誰が? いいえ、それは問題じゃない。問題は…………もし相手が本部内に居るのなら、混乱を引き起こしてからどうやって逃げるのか……」

 既にフェイトの鋭い勘は今のこの事態がテロ、もしくはそれに準ずるものであると分かっていた。しかし、相手の意図が読めない。ここまで火災の勢いを強めれば自身も危険に曝されかねない。例え相手が単独犯であったとしたとしても、最外区画であるA区画にまで手を付けた以上は逃走経路は自然と限られてくる。既に外ではなのは率いる教導隊が訓練を切り上げて消火と混乱する人々の整理に回っている頃だろう。もし仮に不審な人物が飛行して逃げようとするものならば、彼女が見逃すはずがない。かつて一度とは言え地上本部襲撃事件の教訓は伊達ではなく、侵入を許してしまったからにはみすみす逃走などと言う失態を犯すのも考え難い。

 「分からない、犯人の思考が……。一体何を…………?」

 フェイトが考え、ティアナが慌ただしくする中で火の手はさらに拡大し、蹂躙を続けている。防災システム自体に復旧の目途はなく、スプリンクラーも防火シャッターも完全に停止しているこの状況ではもう死人が出てもおかしくない事態だった。

 「足りない……犯人の足取りを決定付ける何かが足りていない」

 だがしかし、今あるこれだけの情報ではその“何か”を突きとめるのは困難を極めた。脳裏に異様に引っ掛かるそれを振り払い、この場に居ることにとうとう限界を感じた彼女は踵を返してティアナと共に逃げ出そうとした。いざと言う時の為に待機状態のバルディッシュを握りしめて。

 その時――、



 






 中央管制室――。

 「これは……!」

 「どうした、今度はどこで火災が発生した!?」

 「いいえ! 違います!! 本部上空に高熱エネルギー反応が感知されました!」

 「何だと!?」

 すぐにモニタ-に外部から地上本部全体を映した特殊処理映像が出された。確かに中央展望塔よりも遥かに高い位置でエネルギー反応を表す様子が一点から示されていた。レーダーに円形の波紋のように映し出されるそれは徐々にその半径を拡大させ、それはエネルギー量が極大増加していることをいやでも理解させた。

 「信じられません、予測物理影響レベル推定オーバーS! もしこれが純粋な攻撃か何かであれば本部の三分の一は……!」

 「そんな馬鹿なことがあってたまるか! 外の高町一等空尉に繋げ! 報告を急がせろ!!」

 「りょ、了解!」

 すぐにオペレーターが通信回路を開く。すると別窓の小モニターに『SOUND ONLY』と表示された。

 『こちら戦技教導隊教官、高町なのは一等空尉です。現在私の教導隊の一部を消火及び救援活動に当てています』

 「空尉、貴官は今外に?」

 『はい』

 「ならば丁度良い。そこから本部上空に何かを確認できないか? 何でも良い、目に付いた物があればすぐに報告を願う!」

 『え? 空、ですか……? いいえ、こちらからは何も確認できません!』

 「何ぃっ!? エリアサーチは掛けたのかね!?」

 『駄目です、レイジングハートも何も発見できないとしか……』

 「そんなことがあるものか!! こちらのレーダーでは既にエネルギー反応が感知されているのだ、残っている空戦魔導師を総動員して早期発見に移れ!」

 『でも、もうこちらで割ける人員は……』

 「そんなことは聞いてはいない! 今は非常事態だ、四の五の言っている時間があれば迅速に――、」

 度重なる事態に混乱していた室長は声を荒げて画面越しに若き一等空尉を怒鳴り散らす。非常事態なのは誰もが把握していることだが、本部にはただでさえ空戦に特化した人材は少ない。その少ない人数で被害阻止に当たっているのだ、そこから下手に人間を引き抜けば大事になる恐れがある。火災状況は今局に居る防災課の面子だけでは手に負えない上に、民間の組織に増援を依頼していたのでは時間が掛かってしまう。とても今のこの状態では現状を打破するのは無理難題に等しかった。

 その時だった、モニターにもう一つ『SOUND ONLY』と表示された小窓が出て来たのは。通信相手は……。

 『管制室、こちら八神はやて二等陸佐であります』

 『はやてちゃん!? 今日は休暇申請してたんじゃ……?』

 「八神二佐か。今は知っての通りの現状だ、報告ならば後にしてくれたまえ」

 室長は素気ない態度で通信のはやてを突き離した。前々からだが、局内では彼女のことを快く思ってはいない者が多く、恐らくはこの室長も同じなのだろう。

 『いえ、火災現場には私が消火に向かいます。ですので、現在内部で活動中の空戦魔導師の6割を一等空尉の指揮下に移すことを提言します』

 「何を言って……そうか、八神二佐の魔法は氷雪系が主力だったな……。過去の空港火災の際にも消火活動に一役買っている…………となれば、断る理由は無いか」

 『いかがですか? 現在こちらは現場に移動中ですが』

 「うむ、では八神二佐、大至急現場に急行してくれたまえ」

 『了解しました。では、報告は後ほど……』

 そう言い残し、はやては通信を切断した。後に残ったのは同じく通信を繋いだままだったなのはだけだった。

 「と言う訳だ、一等空尉。貴官も至急調査に移行してくれ。すぐに君の教導隊の一部がそちらに戻ってくるはずだ、頼んだぞ」

 『……分かりました、現場に急行します』

 小さく了承の旨を伝えると、大空のエース・オブ・エースは与えられた職務と命令を実行するべく通信を切った。数分後には目標ポイントに到着して報告が入ることだろう。火災現場にもSSランク魔導師の八神はやてが向かっている、良くすれば数時間で火災は尾を引くだろう。

 午後14時23分の出来事だった。



 






 所変わってグリューエン――。ミッドの地上本部とは打って変わってここは静かを通り越して無音に近かった。

 「あの時の貴様はまだ四体しか戦闘機人を完成していなかったな。今でも覚えているな、あのときの衝撃は。あの時代であれだけの生体改造技術を持っていたとはな」

 面会室ではガラス越しにハルトが一方的にその皺だらけの口から言葉を紡ぎ、対するスカリエッティはただ静かにその言葉を聞いているだけだった。

 「当時は儂も様々な違法研究に手を染めていた。その中には当然機人製造も含まれていた、満足のいくモノは造れなかったがな」

 「そんな時に、この私と出会った……そうだな?」

 「人のセリフを取るな。……そう、完全なモノを造りたいと言う自己の欲求を満たす為だけに儂はジェイル、貴様に接触したのだ」

 そう言って彼は関節が浮き彫りとなった節だらけの指でスカリエッティを指差した。そのすぐ横には事情聴取用の録音機が既に作動しており、先程から彼らの証言を一字一句逃さずに録音している。

 「そこで儂は驚嘆した。まさか! そんな! こんなことが有り得るのか! ……とな。旧暦より様々な科学者たちが追い求め、敗れ去っていった完全なる生体技術の完成。それをたった一人の手で完成し、形にしてみせた……その事実が、儂には衝撃以外の何物でもなかったのだ」

 「たった四体じゃないか……」

 「だが結果として貴様は13体造り、うち12体を己が計画の為に使った。まぁ、結局のところは管理局の阿呆どもに負けたがな」

 「誰の所為だと思っている?」

 「さてな、儂ぁ知らん。ともあれ、あの時儂は思った。どうにかしてこの技術を、この力を、この能力を自分のものにしたいとな。今思えば浅ましいことこの上ないことだ、自ら道を求めるのが科学者の第一だと言うのを信条としていた儂が他人の能力を妬み、あまつさえ――」

 「この私から半ば強制的に“13番目”を譲り受けた……そうだな?」

 「……そうだな……そうだったな。かつて君の元に居た他の戦闘機人たち…………あー、名は何と言ったかな?」

 ハルトは自分の白髪まるけの頭を少しばかり申し訳なさそうに掻いた。

 「…………No.1、ウーノ。No.2、ドゥーエ。No.3、トーレ」

 「そう! そうだった、思い出したぞ、確かにそんな名だったな。すまんな、どこかの誰かさんと一緒で名前には拘らん主義でな」

 「それは珍しい、一体誰のことだね?」

 互いに微笑みを浮かべてはいるが、やはり目が笑っていなかった。元来、「笑う」と言う動作は肉食獣が獲物に牙を剥く行為を表している。不敵に笑う二人の間には心理的にはもちろん、物理的にも割って入ることはできなかった。

 「…………まぁいいがな。あの時はまだこの位で可愛らしかったが……三人ともどうしたね?」

 そう言うとハルトは床から100数センチの所に手を翳した。 

 「ウーノとトーレはこことは別の拘置所に居る。ドゥーエは…………」

 「何だね、差し詰め計画の遂行中に無様に野垂れ死んだか?」

 「……………………何も言うな」

 たった一言。それだけだがハルトの口を塞ぐには充分だった。憤怒、悲哀、無情……数ある感情のどれでもなく、また全てを内包するかのようにスカリエッティは静に、されど強く言い放った。

 「まぁそう言うな。当時の彼女たちには悪かったが、貴様の秘蔵っ子だった“13番目”、即ちNo.13『トレーゼ』を求めた。自らの研究を更なる高みへと昇華させる、その礎とする為にな」

 「私は渋ったがな」

 「結果として、儂は“13番目”を貰い受け、最重要サンプルとして自分の古巣へと持ち帰った」

 「第69管理世界コクトルス――」

 「儂は嬉々とした、この上ない程にな! これで自分はもっと上に臨める、体良く言い表すなれば進化するのだとな」

 「…………それで?」



 「――失敗した。挫折したのだよ」



 この時、ハルトの左右の眼が再び別々の方向を向いてしまった。先程まで嫌でも感じさせていた狂気の渦は消え去り、代わりにどうしようもない虚無感が滲み出ていた。

 「ほう、何故?」

 「『真の進化』と言うものを見せ付けられたからだよ。全く恐ろしいものだ……恐ろしくあり、同時に儂自身が愚かに感じて仕方がなかった。あれは儂が求め描いていた理想とは全く違い、儂の理想よりも遥か高みにいたからな。こんな小さな高みを目指していた自分が急にバカらしくなってしまった……」

 もう既に彼からは瘴気の残滓も感じられず、ただただ虚しさと自身の愚かしさを吐露しているだけの惨めな存在に成り下がっていただけだった。

 「だから……儂は研究を止め、“13番目”を封印したのだ」



 






 ミッド地上本部、午後14時26分。災害判定第一線区域にて――。

 「くっ!! 駄目だ、これ以上の消火は無理だ! ナカジマ陸曹、ここはもう無理です! 一度後退して控えの魔導師と合流しましょう!」

 前方の劫火を前にして防災課の隊員の一人がスバルにそう提言した。外部から給水されてくる水量では燃え盛る火の手を消すことはおろか、遮ることすら出来ずに熱で水分が蒸発してしまうだけだった。防火シャッターの代わりに周囲の壁や天井を崩して炎の行く先を封鎖すると言う方法もあるのだろうが、この閉所でその強行手段をとれば最悪の場合は生き埋めになりかねなかった。それ以前に彼女は近接戦闘特化のベルカ式魔導師、射撃を得意とする親友や砲撃を主力とする師とは違ってその行為は通常以上に危険が伴ってしまう。

 「ダメ! 後ろのA区画は消火出来たって聞いたけど、活動に当たってた魔導師の殆どが外に出て行ったって報告があった! ここで引き下がっても頭数は変わらないかも知れないし、合流するまでに被害が増えちゃうかも知れない!」

 「しかし! 現状戦力では耐え切れなくなるのも時間の問題です!」

 「大丈夫、もうすぐこっちにはやてさ……八神二佐が来るって報告があったから、あの人なら何とかしてくれる!」

 「八神……? あの八神はやてですか!?」

 この場にはかつての空港火災で活躍した者もいる。その者達には若き二等陸佐の実力が充分に分かっていた。そして、それを聞いた全員の心に安堵の波紋が広がっていくのが手に取るように分かった。彼女の手に掛かれば鎮火など容易いものに違いないと、誰もが信じて疑わなかったからだ。

 「だから皆、あともう少しだけ頑張って!!」

 スバルの檄が飛ぶ。今まで過酷な災害現場に立ち会い、中には自分たちが死に直面したこともあった。その度に彼女はこうして仲間たちを励まし、時には叱咤して困難を乗り越えてきた。これは防災課ではある種の儀式のような意味合いを持っていると言っても過言ではなかった。

 「了解です、こちらは現状戦線を維持、八神二佐が到着するまでの間持ち堪えてみせます!!」

 「ありがとう! …………ノーヴェもあっちで頑張ってくれてる、私だって頑張らないと!」

 右腕を前方に大きく構えたスバルはリボルバーナックルのカートリッジをロードする。二つのスピナーが高速で回転し、腕周りに魔力を纏った風が渦巻くと彼女は腰を捻り、大きく打ち出しの構えを取った。

 「リボルバー……シュートッ!!!」

 自らの目の前の虚空に拳を打ち出すと、高圧の旋風弾丸が劫火を押し返しながら通路を突き抜けた。常識で考えれば風が吹くことで炎が飛び火し、被害が拡大するのだろうが、ガジェット数機を軽々と吹き飛ばすだけの風圧の前では劫火も風前の灯火に等しかった。しかし、この方法では時間が掛かる上に誰でもやれる訳ではなく、文字通りの「焼け石に水」でしかなかった。せいぜいこの区画限定での時間稼ぎにしかならないだろう。

 「今だ! 放水、前へ出ろ!」

 隊員たちが周りに足止めの水を撒きながら突き進む。スバルが風圧で押し返し、他の隊員たちが放水しながら火の手を遮る。実際この方法でしか有効な手段はなく、彼女としてもなんとか目標の位置まで押し返したいところだった。

 ≪――バ……ル…………スバル、聞こえてる? 返事しなさい、スバル!!≫

 「え? ティア……?」

 ナックルに予備の弾装を込めようとした時、ふと脳裏に直接親友の声が響いてきた。念話を使って話しかけてきているようである。

 ≪どうしたのティア、そんなに慌てて? 何かあった?≫

 ≪私の方はなんとか大丈夫。それより今どこに居るの?≫

 ≪どこって……防災課の皆と消火活動中だけど……≫

 ≪今すぐに手を空けて! 向かって欲しい所があるから!!≫

 親友のとんでもない発言にスバルは目を剥いた。今のこの状況が分かっていながら何を言っているのかと、思わず本人かどうか確認しそうになってしまった。魔力の周波帯はティアナ本人のものだと分かっていたのでそうするまでもなかったが。

 ≪バカ言ってんのは私が一番分かってる。でも言うとおりにして! 早くしないと取り返しのつかないことになるかも知れない!≫

 ≪ティア……≫

 ≪スバル、私を信じて。……お願い≫

 顔は見えないがスバルには嫌でも親友の緊迫した表情が目に見えた。伊達に訓練校以来の付き合いではない、彼女が嘘や冗談を言わないのはスバルが一番良く理解していた。

 ≪分かったよティア、すぐに私が行く。こっちの指揮は別の人に任せておくから≫

 ≪ありがとう。いい? 一度しか言わないから良く聞いて! 私はもうフェイトさんの指示で向かってる、今すぐに――≫



 






 午後14時30分、本部地下大型搬入通路にて――。

 「……………………」

 コツ、コツ、コツ、コツ――。

 無機質で硬質な音を足元から響かせながら一人の人影が非常階段の一つから降りてきた。一定秒数で規則的に歩いているその姿はまるで二足歩行に優れた機械か何かに見えないこともないが、歴とした人間の形をしていた。

 「……………………」

 上の騒動や混乱とはかけ離れた静けさの中でその影は確実に歩を進めて行く。この搬入通路は元々本部内に大型の設備や物資などを入れる為に使われていたのだが、技術の発達によって設備の小型化や一つで多くをこなす多機能機器などの導入が増え、その影響で現在では年内でも数える位にしか使用されてはいない場所の一つとなってしまっていた。

 「……………………」

 もちろんこの一本道の先は地上に繋がっており、大型車両が丸々一台は余裕で通れる寸胴型の通路となっている。地下への出入り口は土地の関係で本部の敷地より少しばかりの距離を置いた所に位置していて、上空を警備している魔導師の目が全て本部を向いている今では大きな死角となっている。おまけに空戦魔導師の大半は地上本部の遥か上空で意味の無い警戒を続けている。今ここで地下を通って逃げおおせたとしても、誰も気付くことはないだろう。

 そうして歩いていると重々しいシャッターが見えて来た。この通路はこうして一旦途中で区切られていて、ここを越えれば地上へは文字通りの一直線だ。

 「……………………」

 そっとシャッターの前に立つとその表面に手を添えた。金属のひんやりとした感覚が伝わっているはずのその手は黒く、指沿いの赤いラインと鋭利な五指の鉤爪が目立っていた。その形状やデザインはキャロやルーテシアが使うブーストデバイスに酷似していたが、彼女らのものとは違って武装としてのイメージが強かった。

 すると、接触面がら紅く淡い光が発生し始めた。傍からでは分からないだろうが、今その掌中には膨大なエネルギーが集束しており、その人物はそのエネルギーを一点に集中・爆散させることでシャッターを粉砕しようと試みているのだ。やがて目標を破壊するに事足りるだけの物理的エネルギーが集まると、少し表面から手を離し、勢いをつけてその高濃度エネルギーを叩きつけようとした。



 「――そこまでよ」



 刹那、その手がシャッターの数センチ手前で急停止する。声は後ろから聞こえてきたが、あえて振り向かない。後頭部あたりから武器を介して相手の殺気がひしひしと伝導してきているからだ。

 「一応局法で非殺傷設定にはしてあるけど、当たれば凄く痛いわよ」

 カチリ、と撃鉄を起こす小さな音をその人影は聞き逃さなかった。銃器型のデバイスを使用しているのは間違いないだろう。そうして静止しているうちに後ろから声の主はゆっくりと接近し、その距離を詰める。足音からして互いの距離は1m余り、何か不穏な動きをすれば瞬く間に封じ込まれる間合いだ。

 「抵抗しないなら、大人しくここで連行されなさい」

 腰に届きそうなオレンジの長髪を揺らし、管理局の制服を着こなすその女性――執務官ティアナ・ランスターはクロスミラージュの照準をしっかりと後頭部に当てていた。

 「あなたを逮捕するわ」



[17818] 第二次地上本部襲撃事件 Act.2
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 22:03
 最低限の照明器具しかない薄暗いこの空間でティアナは最大限に警戒意識を高める。今目の前に背を向けているこの相手は危険だと、自分の本能が告げているからだ。過去にナンバーズ総動員による襲撃事件に匹敵するだけの混乱をたった一人で起こし、あともう少しで逃走まで許してしまうところだったのだ。警戒しない方がどうかしている。

 「……………………」

 「何でここが分かったのか教えてあげるわ。と言っても、先に気付いたのは私の上司だけど」

 そう言いつつもクロスミラージュの銃口は決して標的からは離さない。しかし絶対に直接は突き付けない。もしそうすれば己と相手の正確な距離を教え、そして最悪の場合には一瞬の隙に得物を奪われる恐れがあるからだ。

 「出火場所は全部が適当なランダム、多分これには特に意味はないはずよ。強いて言うなら、上の階の局員を混乱させるのが目的」

 足元に橙色のミッド式魔方陣が展開される。一応威嚇して相手の戦意を削がなければいけないからだ。見た限りでは相手は手甲型の武器しかなく、彼女にとってはまだこの距離内ならば銃で対抗できる自身があった。

 「始めは事故を装ったテロに見せかけて本部内を焼き払って、どうやってこの建物から逃走するのか見当もつかなかったわ。最外区画にまで火を起こして退路を切断して、外にはなのはさんに鍛えられた航空戦力がウジャウジャと居るのに逃げるなんて不可能に等しいはずなのに、あえてそんな行動に出たのか理解できなかった……。でも、それは私たちの目を騙す為のトリックだったんでしょう?」

 魔力を溜めるとオレンジの光球が銃口に発生する。彼女の言ったように非殺傷設定にはしてあるが、頭部にまともに当たれば昏倒するのもまた事実だ。

 「空に高エネルギー反応が出た時に気付いたのよ。地上はどこもかしこも火が上がってるのに、地下だけは手付かずだったことにね。普通の無差別テロならそんな選り好みなんかしないはず……。そして、空に偽の反応を検知させたのも、ここに居る局員の目を地下から逸らす為のフェイクに過ぎない……違う?」

 「……………………」

 「……このままダラダラ話しても無駄ね、両手を上げなさい! ゆっくりよ」

 タネ明しをしても何のリアクションの無い相手にティアナは痺れを切らし、早急に連行しようと語気を強めた。すると相手の方はいやに大人しく手を引っ込めると、これまた大人しくこちらに体を向けて来た。

 「手を上げろって言ったのよ。まぁいいわ、取り合えず今度はその鬱陶しいフードを取りなさい。薄気味悪いったらありゃしない」

 そう言うと、少しの間があったが、相手は分厚く大き目なコートのフードに手を掛けた。袖口から見える黒い金属質の両手はどうやら装着型のアームドデバイスに見えたが、不思議なことに魔力の類が何一つ感じられないのだ。もしこれがデバイスなのだとすれば、無用の長物も良いところだ。どんなデバイスも魔力との親和性が無ければ只の機械や鉄屑に成り下がってしまうからだ。

 そんな所に目を向けているうちに目の前の人間はフードを脱ぎ、自らの顔面を晒して見せた。

 その顔は自分達ミッド人とは少し違った作りをしていて、どちらかと言えば、そう――、かつて世話になった部隊長に似て……。

 「なっ!!?」

 その瞬間、ティアナは今日一番の衝撃を味わうことになった。自らの眼球に飛び込んできたその映像に彼女は柄にもなく大声を上げてしまう。

 驚くのも無理はなかった。目の前でコートに身を包んだその人物は何を隠そう、元機動六課創設者にして部隊長その部隊長八神はやてだったのだから。手を伸ばせば届くこの至近距離でまさか他人と身違うはずもなく、ティアナのまともな精神は驚愕の事実の前に瓦解寸前となっていた。

 だから、自分でも知らぬ間にクロスミラージュの照準を外してしまい、震える足取りで眼前の「彼女」に接近してしまった。

 「は……はやてさん…………何でこんなこと――」

 途切れる声で問いかけても、彼女は虚ろで空っぽな瞳を向けるだけで何も答えようとはしなかった。



 ――刹那、風が薙いだ。



 人間の動作は五感を司る感覚器官から刺激を得て脳が対処することで起こる現象だ。人によって差異はあるが、感覚器官→脊髄→脳→脊髄→末梢神経と言うプロセスを完全に経るにはおよそ0.2秒掛かると言われており、反応できない0~から0.2秒までの時間は無意識の時空となってしまっているのだ。訓練を受けていない者が基本的に銃弾を回避できないのは、この無意識の隙を突かれるからに他ないからだ。音速を超えて飛来する物体を人間の感覚が捉えるのは容易いことではない。

 この瞬間にティアナの感覚が感知できたのは目の前から急にはやての顔が消えたように見えたこと。そして、自身の左側から迫る殺気に研ぎ澄まされた第六感が反応したことだけだった。しかし、たったそれだけでも彼女が危機を脱するには充分だった。

 「――ッ!!」

 一瞬の油断が死を招く……この時身を以って感じたこの教訓をティアナは決して忘れないだろう。六課時代に鍛えた肉体の一部、背筋を利用してほんのコンマ1秒で逆海老反りに身を引いた。少し格好のつかないこの体勢も、相手の神速の蹴り上げを回避するには致し方ないこと。目の前には明確な敵意と悪意、そして殺意を身に付けた鋼鉄の足先がほんの数ミリ手前まで迫っていたからだ。

 そして同時に気付いたことがあった。そう、蹴り上げを喰らいそうになった時のたった一瞬でだ。

 「くっ!!」

 腹筋と背筋のバネを最大活用し、宙返り、その勢いで敵との距離を開ける。そして気付いたこと……。

 “八神はやては武闘派ではない”と言う事実だった。確かに彼女の職業上、多少の護身術などをヴォルケンリッターなどから教わっていたのかも知れないが、少なくともここまでアクロバティック且つアグレッシブな攻撃をしてくるなど見たことも聞いたこともなかった。それに、局でも彼女は魔力的・物理的問わずに近接戦闘を不得手としていたのだ、だから……。

 こんな八神はやてを、ティアナは知らない! だが、相手からは全く魔力反応が感じられない。例え変身魔法を使っているのだとしたら、多少なりともそれに対する魔力が感じられるはずが、皆無なのだ。だからとて、相手が八神はやてである可能性は今この一瞬でゼロとなっている。常識では考えられないことだった。

 既にいつの間にか敵は再びフードに顔を隠し、悠然とこちらを向いていた。着込んでいるコートは明らかにサイズが合っておらず、垂れた状態では袖に両腕が完全に隠れていて、足元の方もすっぽりと隠れ掛けていた。そして、僅かなその隙間から見える足は……。

 「何よ、その足……」

 何が見えたのか? どうと言うことはない、別に足が無くて宙を浮いていた訳でもなく、しっかりと地に“四輪の足”を付けて立っていた。

 『マスター、あの者の武装……キャリバーに酷似しています』

 「言われなくても見たら分かるわよ。クロスミラージュ、バリアジャケット!」

 『了解、マスター』

 一瞬の輝きの後、ティアナは純白のバリアジェケットを身に纏い、右手にしか持っていなかった自分の相棒を両手持ちに切り替えた。すぐさま銃口を再び向けるが、当の相手は全く動じようともせず、むしろ構えようともしなかった。単純に戦闘意識が無いのか? いや、先程の鋭い蹴りは間違いなく脳髄へのダメージを狙っていた。あのまま直撃していたならば、頭蓋骨の一つや二つは軽く粉砕されていたのもまた間違いない。

 「……顎に当てて脳震盪、行けるわね?」

 『もちろんです』

 かつてのヴァイスが戦闘機人ディードに対してやったように、彼女もその行動のシュミレーションを頭に思い浮かべる。そして確信。行ける、この距離、この角度、この体勢、自分が魔力陣を展開して弾丸を形成、人差し指による引き金の動作、それによって相手が怯んだその隙を突く。大丈夫、実行可能だ、決して無茶ではない。どんな人間、いや生物でも脳に直接衝撃を与えれば効果は必ずあるのだ。

 そう確信すると、ティアナは数秒の間を置いた後――、

 「――せいっ!!」

 足元に魔方陣を展開、照準を合わせ、魔力弾の形成、引き金を引く。この間およそ0.4秒。訓練を受けていない常人ならば対応する術など無く撃ち抜かれる速度である。

 殺った。ティアナは声には出さずにそう胸中で呟いた。彼女には既に弾丸が着弾し、その体をぐらつかせるヴィジョンが目に見えている。伊達に長年ガンナーをやってはいない、この確信は既に今この瞬間に必勝事項と成ったのである。



 否、――



 相手の体に吸い込まれるようにして飛襲したはずの魔力弾は目標の僅か手前で消滅する。手品? 奇術? 幻術? いいや、確実に今、ここでこの瞬間にそれは『魔法』のように消え去ったのだ。その証拠に先程まで健在していたはずの弾丸の魔力はこの空間から無くなっており、代わりにある一点を中心にして粘つくような感覚が広がっているのをティアナは感じていた。

 その感覚を彼女は嫌と言う程に知っていた。目の前の敵の直ぐ眼前で波紋状に展開されているその不可視の壁は3年前の戦いで知ったもの。間違いない、全ての魔導師と騎士の天敵と成り得る高位魔法――、

 「AMF? そんな、さっきまで魔力反応なんか無かったのに……!」

 しかし、そう言い聞かせても現に目の前で起きていることは事実だ。肌で感じ取る限りでは、前方から放出されるそのAMFの濃度はかつてのガジェットⅢ型の出力に匹敵しているのではないかと思えてくる。今こうしているうちにも肉体が重苦しい枷をはめられている感覚を強いられているのだ。でも、それだけではない、魔力とは違った何かがティアナの背を悪寒と共に駆け抜ける。

 「何よ……何なのよ。あんた一体…………」

 前言撤回、こいつは“危険”なんてレベルじゃない!

 先程は経験で察知していた彼女はその判断基準を生物としての最高ランク、「本能」へと切り換えた。でなければ勝てない。僻みや謙遜などとは決して違う、違うのだ。

 「こうなったら先手必勝、強行手段、行くわよ!」

 『了解』

 そう言うと、ティアナの周囲にさっきと同じオレンジの魔力弾が大量に出現する。言わずと知れた彼女の十八番、【クロスファイアシュート】だ。弾丸の一つ一つが精密極まりない誘導弾であるこの弾丸もまた、先程と全く同じ威力を持ち合わせている。一点突破が難しいならば、手数で押し切られた隙を狙ってバリアを引き裂く、それが彼女の導き出した答えだ。

 「クロスファイア――、」

 クロスミラージュがカートリッジを消費する硬質な音が響いた後、

 「シューートッ!!!」

 駆けるは魔力を伴った流星の尾、狙う標的は唯一人。弾数は全部で16発、いくらこの空間が広いと言えども局内の訓練室ほどではない以上、逃げようにもスペースが無い。もう既に次弾の装填準備が出来ている彼女は着弾と同時に第二陣を発射、第一陣で怯んでいるその隙にタイミングをずらして弾丸と共に生身で特攻するのだ。そして、間合いに入ったその瞬間にダガーモードの魔力刃を使って表面に展開されているであろうAMF層を切断、さらに近距離からのチャージショットでのノックダウン、それが現状で最も有効な策だと彼女の脳は判断した。あとは実行するだけ。

 第一陣弾幕と敵の距離は現在およそ2m、それでいてなお、相手は地に根を下ろしたかのように微動だにしない。諦めたか? ならば好都合と言わんばかりにティアナは第二陣発動の準備を行った。

 だが、そのとき彼女は見てしまった。

 深く被られたフードの奥で金色に怪しく光る何かを――。

 「…………IS、No.5『ランブルデトネイター』発動」

 『Over Dtonation.』

 着弾の瞬間に何かが聞こえたが、同時に空間を揺らした強烈な爆音に掻き消されてしまった。

 鼓膜を爆音が殴打したのをティアナは感じた。通常、特別な細工を施さない限り魔力弾はこんな風に爆発したりなどは決してしないはず。そう、有り得ないことなのだ。

 「くぅ……何が……?」

 予期せぬ事態に思わず耳を塞いでしまったが、その分体勢の立て直しも当然早い。濃灰色の爆煙が漂う前方にすぐ照準を掛け直すと、煙が沈静化するのを待った。決して自分からは飛び込まない。視界がうまく保てないこの状況では危険な行為だからだ。やがて煙は勢いをなくしていき、周囲はなんとか視界が保てる状態にまで回復してきたその時――、

 爆煙の中心、敵が佇立していた所から一閃、ティアナの足元へと何かが飛来した。

 「!?」

 それはナイフ、無骨な金属製の両刃のナイフが彼女の二本の足の真ん中の地点に深く突き刺さっている。放り投げただけではここまで深くは刺さらないだろう。

 「何よ、ただのこけおどし…………っ!?」

 そう思った時、ナイフの柄に真紅の小さな環状テンプレートが光輝いた。その輝きは地下空間全体を紅く照らし出し、クロスミラージュが膨大な熱反応を感知したことを主に告げる前にそれは内包していたエネルギーを余すことなく外界に向かって全力で解放させ――、



 

 何が起きたのかティアナには全く分からなかった。

 いや、正確には幾つか分かっていることがある。まずは自分の状態、爆発したナイフから離れようと後方に飛んだものの、予想以上の威力で生み出された爆風に体重の軽さが災いして地面に激突、軽傷ではあるが所々を擦り剥いてしまった。そしてもう一つは敵の状態、仰向けの体勢からなんとかして上体を起こして見ると、目の前には変わらず佇立するその姿があった。しかし、その周囲にはさっき自分の足元に投擲されたものと同じナイフが多数空中で浮遊しており、こちらを威嚇するかの如く刃先がティアナの心臓を狙っていた。だがこれでもなお魔力は一切感じられなかったが、魔方陣の代わりに見覚えのある紋様がその足元に浮かび上がっていた。

 「それ……まさか!?」

 見違えようはずもない。足元で輝く幾何学的な多重円形紋はかつて3年前に自分達……いや、地上本部の魔導師たちを苦しめた戦闘機人ナンバーズが自らのISを発動させる為に使った疑似魔方陣と全くもって同じものだったからだ。ヴィータのベルカ式魔方陣よりも紅いその紋様は規則的に回転し、既に空中のナイフ全てにも環状テンプレートが展開されている。推測だが、目の前のナイフ全てが先程と同じだけの威力を有していたとすれば、この地下空間はただでは済まされないだろう。

 「金属物の操作、爆発……。スバルのところのチンクって人と同じ能力ってことね……。どうりで魔力を感じないはずよ、戦闘機人だったなんて」

 口で言葉を紡ぐ最中にも自身の肉体の状況確認は怠らない。脚部に激痛が走るが、幸いバリアジャケットのおかげで重傷を免れるのには成功し、両手のデバイスも問題なく動かせる。そうと分かれば彼女の行動は素早かった。

 「せいっ!!!」

 銃口向け、カートリッジロード、撃鉄起こし、魔力弾の大量形成、照準合わせ――、射抜く!

 この一連のプロセスを雷挺の如き速度をもってして一気に成すと、再び発生したオレンジの弾丸はまたもや宙を駆けた。狙うは敵の得物、空中に浮かぶナイフだけ。武器さえ取り上げてしまえばこちらのもの、あとは爆煙など無視してAMFを貫き通す砲撃を放ってやれば良い。

 弾道の一つ一つはしっかりとナイフを狙っている。大丈夫、今度こそ……!

 痛みを抱えた足に鞭打ち、なんとか体重を支えると両腕のクロスミラージュを構える。カートリッジをロードする暇など無いが、この距離ならば現状の彼女の最大攻撃【ファントムブレイザー】は難なく通るはずだった。すぐにミッド式の環状魔方陣を展開し、着弾するまでの短い時間にできるだけのパワーを溜めようとした。



 だからなのか。集中していたからこそ――眼前に迫っていた鋼鉄の拳に気が付いていなかったのだろうか。



 「え――?」

 衝撃、震動、視界の反転、再び衝撃、……そして激痛。明らかに人体から生み出される威力ではないその殴打に彼女の肋骨は耐え切ることなどできなかった。胃が締め付けられる感覚を覚えた後に粘性のある血反吐がジャケットと地面を濡らす。両胸の痛みからして肺に骨が刺さっていることが容易に想像できた。肺だけではない、実際は内臓の幾つかも既に損傷を受けていることだろう。両手に握っていたはずの相棒も殴り飛ばされた時の衝撃で弾き飛んでしまっていた、もう拾いに行ける距離ではない。

 「がほ……!! ぐぅ……」

 肺の一部が潰れた今、まともに言葉を発することまで不可能となり、ティアナはただ呻き声を上げることしか出来ずにいた。このまま処置無しに放置されれば、吐血されるはずの大量の血液が肺胞に流れ込み、やがては窒息性のショック死を迎えるのも時間の問題だろう。これでは敵の逃亡をみすみす見逃すことになってしまう。

 だがその心配は無用だった。およそ10数メートル離れた壁際まで吹っ飛ばされた自分の元まで相手はあちらから接近して来たのだ。両足首には紅いエネルギー翼が展開されており、コートの間からスピナーの回転する高音が響いていた。

 「IS、No.3『ライドインパルス』、解除」

 『Yes,my lord.』

 誰に命令したのか、懐からの電子音が聞こえた直後、エネルギー翼は消失して展開されていたテンプレートも同じく消えた。両足四対のローラーで地面を走行し、停止。ティアナのすぐ前から見下ろしていた。いや、フードの奥から見える金色の双眸は睥睨しているのではない、“観察”しているのだ。

 「……な、何よ、見てんじゃないわよ!」

 自他共にボロボロの状態だが、それでいてなお彼女は威嚇する。

 しかし、それは決して生来の負けん気からきているものではない。生命の危険を肌で感じたことによる明確なる“拒絶”の意思に他ならない。

 「……対象の、損害状況、確認。危険度、レベルEに、低下」

 金色の瞳は獲物を見定めるようにしてティアナを見つめているが、既に相手にとって彼女は何の危険対象でもなくなったのだ。その証拠に先程まで感じていた敵意や殺意は嘘のように消え、今はただ耐え難い苦痛が全身を襲っているだけだった。

 『My lord,break a her device.(対象のデバイスを破壊せよ)』

 「承認。構造解析後、直ちに行動する」

 電子音との会話を終えた相手はティアナから目を離すと、視線を数メートル先の地面に放置されていたクロスミラージュへと向け直した。行動対象を確認するとすぐにローラーを回転、爆発の影響が色濃く残る地面を滑走した。そして、物言わぬ機械となってしまっているクロスミラージュを手中に収めた。そうすると、またもやその足元に真紅のテンプレートが発現し輝きを増した。

 「何するのよ……それをこっちに返しなさい!」

 さっきとは別の種の危険を感じたティアナは思わず立ち上がろうとしたが、骨折した肋骨の痛みがそれを冷酷に拒んできた。動けば動くほどに骨片は心肺や内臓を抉る、この痛みは限界であるのと同時に肉体側からの警告なのだ。無理に酷使しようとすれば本当に命に関わり兼ねない。

 「くぅ……!!」

 目の前で相手が良からぬ行動を起こそうとしていると言うのに、自分は無様に地面に伏せているだけしか出来てない。それが堪らなく悔しく、とても腹立たしくて彼女は怨嗟の眼差しで睨みつける。常人が視線で人が殺せるなら彼女の場合は滅ぼしかねない勢いだった。

 「デバイス系統、及び魔力運用方式、ミッドチルダ式に、ベルカ式カートリッジシステムの融合。武装タイプ、射撃及び砲撃型。……マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 クロスミラージュを持つ鋼鉄の手甲の表面に紅いラインが走り、足元にも真紅のテンプレートが再度光り輝いた。それと同時にクロスミラージュをからノイズ塗れの音声がティアナの鼓膜を打ってきた。

 『マ、――マス……ター…………!?』

 インテリジェントデバイスにはAIが搭載されているだけのただの機械だが、その機械の心が自らの苦痛を瀕死のマスターに訴えていた。人とは違っても、その声には肉声以上の緊迫感が込められているのが容易に分かる。途切れ気味のその音声も徐々にノイズの濃度が高まり、もはや聞こえてくる音は言語として成り立ってはいなかった。

 「クロスミラージュ……? どうしたの、何が起きてるのよ! あんたも一体何をしようとしてるのよ!!」

 ティアナが激しく問い詰めるも、テンプレートの回転は加速し、それにシンクロするかのようにしてクロスミラージュのクリスタルの明滅するテンポが速度を増してゆく。

 『@+*>%$=――!#{|?**&”$~――――――…………』

 そして、奪い取られてからおよそ数十秒後、ノイズ音を発していたクロスミラージュは遂に完全に沈黙し、オレンジ色のクリスタルもその輝きを失ってしまった。次の瞬間にはクロスミラージュを掴んでいた手から紅いラインが、足元に浮かんでいたテンプレートがほぼ同時に消え去った。

 「マキナ……データの、バックアップは?」

 『Already. But,not accession practical use stage yet.(完了。しかし、実用段階には至らず)』

 「問題、無い。データさえ取れれば、あとはどうにでもなる……」

 『Now,break a it.(では破壊せよ)』

 「実行に、移す」

 突如、スピナーの鋭い回転音が袖の中から響いてきた。それと同時にデバイスを握る手の圧力が一気に高く上昇し始めた。傍から見ただけでは分からないが、少なくともデバイス一基は高層ビルからの自由落下にも耐え得るだけの堅牢さを兼ね備えているのだが、その屈強な基礎フレームで造られているはずのクロスミラージュの表面には手との接触面から深く長い亀裂が走っており、今こうしている間にもその亀裂は白銀のボディを蹂躙し続けている。

 「ちょっと……何するのよ、止めなさい!」

 自分の脳裏を過った不安に怯えたティアナは強靭な精神だけを頼りにして怒声を飛ばす。しかし――、

 「その要求は、受諾できない」

 声色一つ変えずに即答、それだけ言い放つと再び掌中の圧力を高める。もう外部フレームは無様にへし曲げられ、押し広げられた亀裂の隙間からも中味である極小機器やデバイス用疑似魔力回路などを覗かせていた。所々から電光が走り、もう既にこの状態でクロスミラージュが限界を迎えていることは誰の目から見ても明らかなはずだった。それでもなお敵は標的を圧殺する手を緩めようとはしない。

 「止めて……止めなさいったら! ……お願いよぉ、止めて!!」

 大声を上げたその瞬間に肺に折れた肋骨の一部が食い込み、さらなる激痛を生み出す。だがそんなことはどうでも良かった、自身と共に死線を潜り抜けてきた半身とも言える相棒がこのまま只の物言わぬ金属の塊にされるのを黙って見ているのが我慢ならなかった、理由はそれだけで充分だった。

 しかし、当然のことながらそんな言葉に相手が耳を貸そうとするはずもある訳もなく――、



 次の瞬間、ティアナの両耳に届いたのは何かが潰れ圧壊する鈍い音、そして――数瞬遅れて砕かれた細かい欠片が落ちて響いたシャープな音だった。



 「あ……ああぁ……ああああああああああっ!!!」

 もはや痛みすら忘れるほどの絶叫。喉から血泡が吹き出て声が掠れるが、たった今眼前で起きた光景から与えられた絶望にくらべれば大したことではない。

 「データ採取、及び破壊完了」

 ブンッと言う空を切る音の後に『何か』が相手の握り拳から放たれる。その『何か』はティアナの頬を掠ると無機質な耐衝撃壁に激突、ついには粉々に四散した。 まるで角砂糖か何かのようにしていとも簡単に……。

 「ぁ……あああ……………………あぐぅ!!」

 滂沱の如き涙を流し呆然とするティアナ、そんな彼女の頭を凶暴な鋼の手が髪ごと掴み上げた。その力はやはり戦闘機人と言うべきか、彼女の肉体を片手で軽々と自分と同じ目線まで容易に吊り上げて見せた。

 「対象の、“破壊”を、実行する」

 「え? ……い、今なんて…………あぁ!!」

 呟くようにしてフードの奥から聞こえたその言葉にティアナはやっと正気を取り戻した。だがそれと同時に自らの頭部を鷲掴みにしていた手の力が強化された。

 「ケース1、酸素の供給経路の完全遮断。

 ――ケース2、脳幹含む中枢神経の破壊。

 ――ケース3、肉体を構築する全細胞の死滅……」

 次々と口から箇条書きのように紡ぎだされる項目の数々、始めは何を言っているのか見当がつかなかったが、それらがある一つの共通項を持っていることを知った時にティアナはこれまでの半生で一番の恐怖を経験した。

 「ケース4、心肺の強制停止。

 ――ケース5、頸部の切断及び破壊……」

 それは『生物に確実且つ純粋な死を与える』行為であると言う事実に他ならなかったからだ。

 「以上の五つの行動ケースから、現段階において、実行可能なケースは――」

 次に彼女の視界に映り込んだのは灰色の地面、人間の認識速度を明らかに超越したスピードで叩きつけられたことに気付いたのはその直後だった。だがしかし、当のティアナ自身にはもう抗うだけの肉体的余力は残されているはずもなかった。

 「――選択ケース5。推定所要時間、およそ0.1秒~0.6秒前後。行動に支障無し」

 顔面を含む肉体前面を食い込む程に押し付け、両腕を後ろ手に引き伸ばす。肩と肘が互いに鈍い悲鳴を上げるが、相手の狙いは手足の無力化などではなく殺すことなのだ、そんな無駄な行動をするはずなどなく、これはただ単に獲物の抵抗と逃走を許さない為の策に過ぎないのだ。

 重力に従って垂れていたオレンジの長髪をもう片方の手で冷酷且つ俊敏に吊り上げると、丁度彼女の上体は逆海老反りの体勢に固定されることとなった。もう彼女の上体は一部破れた肺から空気が漏れだし主要血管が急激に圧迫されたことにより、充分に酸素が届かぬ組織が紫色に変色してしまっていた。例えこの状況で肺の空気を外に排出したとしても、高等医療魔法による治療無しでは直に変色している部分を中心にして壊死が進行し、最終的には当然のことながら死に至る。しかし、これだけでも充分過ぎるのに対し、敵は“確実に”“今”息の根を止めようとしてそれを中断する気配など毛頭無かったのだ。

 「切断……開始」

 「あ――あぁ、あ……!」

 機械仕掛けの死神による死刑宣告――。

 同時に回転速度が一瞬で音速に達する四輪のローラー。意識が朦朧としているティアナの鼻腔を摩擦によって発生したコゲ臭い匂いが刺激する。必死に首を振ってはいるものの、それはとうの昔に無駄な抵抗となってしまっている……。

 やがて音も無く脚が首切り斧のように高く上がり、一気に振り下ろされ――、



 






 「しかしまぁなんだね、君の発明品は聞けば聞くほど実に魅力的この上ない。儂も一度会ってみたかったものだ」

 「発明品ではないよ、今や彼女らは誰一人欠けることなく私の“娘”さ。と言うか、クアットロとチンクに限って言えば17年前に目にしているはずだが?」

 一方、グリュ-エンの拘置所ではスカリエッティとハルトの供述が続いていた。と言っても、ハルトだけが一方的に喋っていた先程とは違って今回はスカリエティ自身も口を動かしており、供述も事件とは関わりの無い半分世間話のような状態になっていた。

 「あー、あの髪の長い憎たらしいツラした嬢ちゃんと綺麗な銀色の髪した可愛い子か……」

 「そうだ。確かにクアットロは外見だけでなく性格にも難が有るがな。今でも彼女には私の因子を与え過ぎたのではないかと思えて仕方なくてね……。まぁだからこそ“ゆりかご”の番人と言う最重要ポジションを任せられたのかも知れないのだがな」

 「会ったと言っても、あの時は二人揃って培養槽の中で調整中だったはずだが? 儂の記憶が正しければ言葉すら交わしとらんはずだぞ」

 白髪頭をポリポリと掻きながらハルトはそう確かめた。

 「うむ、確かにそうだったな。こちらとしてはいずれ外に出てくる娘に醜悪な人面をみせずに済んだから良いが」

 「誰のことを言っている?」

 「想像にお任せするとしよう。それはさておき、君はさっきからトレーゼ……即ち“13番目”を究極のサンプルとして定義付けていたな?」

 「あぁ、それがどうかしたか?」

 「実を言えば…………」

 ――あれはまだ不完全な初期段階なのだよ。



 






 何が起こったのか、ティアナには分からなかった。分かっていることがあるとするならばそれは……。

 「生き……て…………いる?」

 体を起こそうとして――断念。痛みももちろんあるが、誰かが優しく両手で制してくれているのだ。いつの間にか仰向けになっていた彼女は霞む目を凝らすと――。

 「ごめんね、ティア。こんなになるまで来れなくて……」

 「……ス……バル?」

 上から自分を覗き込んでいたのは紛れもなく自分とは切っても切れない腐れ縁で結ばれた友人、スバル・ナカジマ本人だった。純白のバリアジャケットに身を包む彼女は悲しげな表情でこちらを見つめている。少し痛みが和らいでいるのは覚えたての治癒魔法を使ってくれているからなのだろうか、微々たるものかも知れないが今はそれでも充分にありがたく感じる。

 「喋っちゃダメだよ! 肺に骨が入ってるし、色んな所が潰れてるから!」

 「待……て…………あいつは?」

 「大丈夫だよ、ティア。あいつなら……ほら」

 スバルと同じ方向へと目を向けると、そこには壁に背から激突し力無く項垂れたまま気絶している敵が居た。かなりの力が働いたのか、接触面には巨大な亀裂が放射状に伸びているのが分かる。

 「思いっきり蹴り飛ばしてやったから、しばらくは起きないと思う。……これで良しっと! ティア、立てる? ちょっと頑張ってね」

 そう言ってスバルは丁度ティアナに肩を貸して抱える形で立たせた。下手に負えばティアナの肋骨をさらに圧迫することになるので、これが最善策には違いない。

 「よいしょっと。いくよ、出来るだけ足は浮かせて、ローラー使って移動するから」

 足元でマッハキャリバーが低い唸り声を上げる。ローラーが回転し、すぐに加速して脱出する。



 ――はずだったのだが、



 「ごめん、ティア……………………捕まっちゃった」

 「え……?」

 スバルの謝罪とキャリバーのローラーの盛大な不調音が聞こえて来たのはほぼ同時だった。何事かと思って自分の周囲へと目を向けると、そこには……。

 「何よ……何なのよ、これ」

 まず視覚情報として眼球の網膜に焼き付いてきたのは地面に発生した多数の小型テンプレートだった。一つ一つの直径が人の頭程の大きさがあるそれからは太さが指一本分しかない細い魔力の糸が一本しか伸びていないが、元々の数が半端ないだけに空間そのものを埋め尽くしてもなお足りなかった。

 「バインド……!?」

 魔力糸の全てがマッハキャリバーのローラーに絡みつき、その回転を強制停止させるそれはやがてスバルの体にまで伸びていく。しかもその表面からは対魔力フィールドであるAMFがふんだんに発生しているのが肌で感じ取れた。

 「AMFバインド……」

 すぐ背後からの声、振り返るとそこには瓦礫を撥ね退けながらゆらりと立ち上がる敵の姿があった。蹴り飛ばされた時の衝撃でコートの両袖は無残に破れており、そこからリボルバーナックルに酷似したデバイスが完全に姿を見せていた。両腕のスピナーやカートリッジ機構までがスバルやギンガのものと寸分違わずに同じものであり、ただ一つの相違点を上げるとするならばグローブ部分の鉤爪だけだった。

 「対象B、確認。危険度、レベルAと、断定。同時に、カテゴリーNに酷似した存在として、厳重処分する」

 そう言った直後、足首に真紅のエネルギー翼が展開、残像も残さぬスピードをもってして二人に接近し、攻撃を仕掛けてきた。

 「ティア!!」

 瞬間、スバルの悲痛な叫びをティアナは確かに聞いた気がした。



 






 「不完全? 不完全とはどう言うことだ?」

 拘置所の面会室にてハルトはガラス越しにスカリエッティに捲し立てた。

 「まぁ落ち着け、私は何もあれが失敗作とは言ってはいない。あれはまだ『発展途上』なのだと言ったまでだ」

 「? ……どう言う意味だ、ちゃんとこの老いぼれにも理解できるように喋ってもらわんとな」

 「都合の良い時だけ自称年寄りか……………………いいか、君の言ったように彼はいずれ進化を遂げて完全態へと移行する。これには何も間違いは無い、むしろ予定ではこうであるはずなのだからな」

 強硬ガラスの向こう側では頷きながらもどこか腑に落ちないハルトが居た。それを見てスカリエッティはさらに狂気の笑みに顔を歪める。

 「だが、逆にこう考えるのだ。進化すると言うことは、『少なくとも今はまだ限界の状態では無いと言うこと』なのだと。精神的にも肉体的にも限界を迎えていないと言うことは、『まだ進化の可能性を秘めていると言うこと』なのだと……!」

 「…………なるほどな、そう言うことか」

 スカリエッティの狂気じみた熱の籠った発現を聞いているうちにハルトは彼の真意を知った。確かにもし彼の言う通りなのだとすれば、これほど恐ろしくなるものはない。

 「“無限の進化”……かつて貴様が言っていたのはこう言うことだったのか。恐ろしい……しかし、恐ろしくもあり同時に興味深くもある。これはもう科学者の性と言うやつだな。こんな薄汚い所に居なければ是非とも残りの12体も目に収めておきたかったよ」

 「彼女らには悪いが、所詮彼女たちは各々の得意分野に一芸特化した存在でしかない。完全態へと変貌を遂げるはずだった“13番目”の汎用性には遥かに劣る予定だ」

 「ほぅ、それはどのようにかね?」

 「飽くまで予定だったものだ。サンプルそのものが無い今となっては幾ら語っても、稚児の夢想にも劣る。それで構わんのなら聞けば良い」

 「構わん、どうせ儂らは常人には理解出来ぬモノを追い求めて飽くなき研究に溺れる……そう言う種族なのだよ、我々科学者とはな」

 「そうか……。私の予定では彼は……

 ――頭脳ではウーノを

 ――電子戦ではクアットロを

 ――統率力ではチンクを

 ――隠密性ではセインを

 ――索敵範囲ではディエチを

 ――機動性ではウェンディを

 ――他のナンバーズとのコンビネーションではオットーとディードを

 ――空戦ではセッテを

 ――陸戦ではノーヴェを

 ――総合戦闘力においてはトーレを軽く凌駕する、文字通り“最強のナンバーズ”として成すはずだったのだよ」



 






 天変地異――。目の前の出来事を名状するにはその言葉しか無かった。

 「スバル……?」

 陥没してその奥から千切れた電線などがはみ出る地面。その淵からは見覚えのあるリボルバーナックルが覗いてはいたが、問いかければ答えを返してくれるはずの友人の声がいつまで経っても聞こえなかった。

 「聞こえてるなら……返事しなさいよ」

 ティアナは信じていた。つい一瞬前には危険を察知して自分を突き飛ばしてくれたあのバカな親友の陽気な声が必ず聞こえてくるはずだと。ナックルの鉄の指には鮮やかな血液が大量に付着していても、それは相手の返り血であって彼女自身は無傷だと。

 だから――、陥没していた地面の淵からスバルの右腕『だけ』が転げ落ちてきた時、彼女の中で何かが大きく瓦解したのだ。

 「え……? 何よ、それ。え、えぇ?」

 切断面からはザクロ色の血肉と機人特有の複雑な機械骨格が見えていて、繋がっていたはずの本体がどこにも見当たらなかった。その時、瓦礫を押し上げて出てくる人影があった。

 「対象Bの、脅威レベル低下。接触時に、IS因子の反応を、確認。これより、サンプル採取に、移る」

 出てきたのはスバルではなく敵の方だった。もう既にフードだけしか残ってはいないボロボロのコートを未だに身に纏い、その左手には血液採取用の注射器と何か見覚えのある塊が握られていた。注射器をセットする傍らでその二つの『塊』からは同じように滝のように血液が溢れ出ており、何かから無理矢理引き千切ったことを容易に想像させた。

 「この武装は、不要」

 そう言って彼はそれをティアナのすぐ目の前まで投げて寄越した。見覚えがあったのは間違い無かった、それは彼女の親友が両足に装着しているローラー型のデバイスだったからだ。見事に本体から離れている――



 ――足首から切断された状態で、だが。



 「あああぁああああぁぁっ!!!」

 もう確実だった。眼前の窪みでは恐らく四肢を切断された親友が無残に横たわっているのだ。だが、自分には助けに行くだけの余力など残されてはいなかった。やがて成すべき目的行動を終えたのか、敵はゆっくりと立ち上がった。その手には血液で満たされた新たな試験管が握られているのが分かる。

 「採取完了。対象Bの、生命反応、低下。脅威レベルFと判断し、放置」

 彼はそう呟くと、陥没した地面から抜け出して今度はティアナへと向き直った。

 「対象A、脅威レベルE。戦闘意思の、確認出来ず、殺害の必要性は、限り無くゼロ。よって、放置」

 たったそれだけ言い残しただけで彼女を一瞥もせず、防火シャッターへと歩みを始めた。再びシャッターの冷たい表面に手を合わせると、スピナーが回転、掌中に莫大なエネルギーが集中して紅く光出した。そして体の勢いをつけると――、

 「リボルバー……キャノン」

 空間全体を揺らす威力を以って、障害の物理的破壊を成し遂げてみせたのだった。



 あとに残されたティアナは陥没した地面の中心で横たわる親友スバルの名前を必死に叫んでいることしか出来なかった。瀕死のスバルは友の言葉に気付くことなく、目を開けようとはしなかった。










 所変わってグリューエンでは二つに区切られた面会室に新たな影があった。それはハルト側の扉を開けると真っ直ぐにこちらへと歩を進め、二人の科学者は怪訝な顔をした。

 「これはこれは看守殿、何か御用事かな? 面会時間が切れたのか」

 「いや、一つ伝えておくことがあるだけだ。心配するな、それが済めば私の業務に戻る」

 「いやはや仕事熱心大いに結構。で、何かね?」

 「管理局の意向でハルト・ギルガスは以後この拘置所の独房にて生活。詳細は追って通達する」

 「あー、分かった分かった。管理局様のご命令には従うさ、老骨に鞭打ってな」

 「それでは、引き続き供述願います」

 大柄な看守は半ば一方的にそう伝えると、さっさと面会室をあとにして行った。かなり急いでいたようにも見受けられた。

 「…………」

 「…………」

 「……これは、何かあったようだな」

 「だな」



 






 薄汚れた電灯に照らし出された搬入通路をジェットエッジのローラーで駆け抜けるトレーゼ。袖の無いコートの隙間からは紺色の防護ジャケットが見えており、時折腰の小型収納ケースから戦利品であるガラスの試験管も見え隠れしていた。透明な液体が入った七本とスバルから採取した血液が入ったものだ。

 しばらく行くと眩く網膜を刺激するものがあった。地上の光である。予定より大幅に遅れたが外に大部隊の気配は無く、最終目的である脱出は無事に達せられたのだ。

 しかし、彼は出入口付近まで来ると何故か失速、停止してしまったのだ。そしてその双眸が目の前の事態を捉えるのに、そう時間は掛からなかった。

 「よう、遅かったな。半分待ちくたびれたよ」

 地上からの逆光を背に受けて立つその姿に彼は自然と攻撃の構えを取った。

 「そうこねーとな。スバルに言われて仕方なくここで張ってたけど、意外とホネがありそうなんだな、お前。鈍ってた体にはイイ訓練器になるかもな」

 そう言ったその瞬間、少女の両足首でスピナーが凶悪な唸り声を上げ始めた。構えていないだけで少女――ノーヴェはとっくの昔に臨戦態勢へと突入していたのだ。

 「いくぞぉ!!」

 一瞬で回転速度がマッハを軽く突破したローラーは硬い地面を容易に抉り、一直線に得物を強襲した。

 「く……」

 顔も見せぬままトレーゼは右手のナックル一本でその蹴りを受け止めてみせた。こちらも負けじと同じくスピナーを猛烈に回転させて逆に押し返す。

 「やるな! けど……こいつはどうだッ!!」

 片足立ちの体勢から一転し、今度は至近距離で右腕のガンナックルが火を噴いた。

 「ふん……!」

 ライドインパルス――。視覚情報の認識速度を遥かに飛び抜けたスピードで一気に距離を置き、再び構えを取り直した。

 「なっ、IS!? だけど何で! そのISはトーレ姉の『ライドインパルス』じゃねーかよ!」

 「…………No.3、トーレを知っている?」

 「あぁ!? まぁんなことはどうでもいい! こうなったらアレだ、早いとこ捕まって盗品返しやがれっての!!」

 IS発動、『ブレイクライナー』!

 目にも止まらぬ速度で黄金のテンプレートを展開し、エアライナーがトレーゼの無防備な影を見事に捕えてみせた。

 「捕まえた、喰らえ!!」

 地面を走る倍以上の速度で突っ込んで来たノーヴェは自身が持てる限りの渾身の一撃を以ってして腹部を蹴り上げた。建物の隔壁を余裕で破壊する蹴りは肉体に詰め込まれている精密機器を粉砕、直に相手は気絶する。――はずだった。

 「返答せよ。何故No.3を、知っている?」

 「な……!?」

 爪先はほんの数ミリ手前で発生した真紅のプロテクションによって遮られてしまっており、衝撃も相殺されていた。

 「返答せよ」

 「う、うるさい!」

 危険を感じて彼女は一旦距離を離したが、不思議と相手からは殺気が完全に消え失せていたのだった。

 「あたしは元ナンバーズ、トーレ姉も元ナンバーズだからだ! これが理由だよ!」

 「ナン……バーズ?」

 「余所見するんじゃねぇ!!」

 訳の分からない相手の顔面に蹴りを炸裂させるノーヴェ。しかしやはり寸でのところで回避されてしまう。

 「……同じナンバーズなら、戦う理由は無い」

 「はぁ? 訳の分からねーこと言ってんじゃねー。今お前はあたしの敵、ブチ壊すには充分過ぎる理由なんだよ!」

 先程から一転して今度は彼女の攻撃を防ぎもせずに回避だけに専念するようになってしまった敵に対し、ノーヴェは徐々に苛々を募らせていった。やがてそれは時を経た活火山の如く胸の内を焦がし、ついには――、

 「うぉおおおおおおおおおりぃやあああああああああああああああ!!!!」

 一瞬の隙を見せたその瞬間に、必殺の一撃を横薙ぎに見舞ったのだった。数瞬の経過の後、硬直してした影は横に薙いだ箇所を中心にして一刀両断されて、地に落ちていった。本来ならば敵を仕留めたことに喜ぶべき場面なのだが、彼女は全くもって喜ぶ節を見せなかった。

 「……やろう…………!」

 むしろ苦々しく顔を歪めるその視線の先には相手が着用していて今は上下に分断されたボロボロのコート『だけ』が風に揺らめいていた。

 「逃げやがった……!」

 地上へと続く地面にはノーヴェのものとは違うローラーの滑走痕が刻まれており、既に標的が遠くへと逃げおおせたことを静かに意味していたのだった。

 「あいつ……なんなんだよ」



 






 午後14時53分、ミッドチルダ北西部海上にて――。

 周囲を完全に青い海に囲まれた絶海の小さな孤島。周回およそ3㎞しかないこの島には少なからずも緑が生い茂り、鳥のさえずりが耳をくすぐった。

 そんな森の中を一人の少年が細かい木々を踏み鳴らしながら突き進んでいた。邪魔な大木に手をやると、いとも簡単にそれを圧し折り先を急ぐ。

 「検索一件、該当、有り。No.9『ノーヴェ』」

 道を急ぐその脳内ではつい十数分前に肉弾戦を演じた赤髪の少女に関する情報が纏められていた。

 「推定肉体改造レベル、AAA。陸戦特化型と、推測」

 やがて邪魔だった木々を退かすと、そこには森林の中には似合わない金属製の重々しいドアが見えてきた。明らかに人為的なものであることは目に見えて分かっていた。

 「重要戦力に、なる」



 

 ドアを抜け、地下へと降りればそこは簡素な造りをしたラボだった。まだ管理局に発見されてもいないのだろうが、本当に必要最低限の設備しか見当たらなかった。その設備の一つ、電気椅子のようにガッチリとしたその椅子のすぐ横にはこれまた巨大な針を持つ注入機が構えられていた。

 「ファクターサンプルの、インストールは、一気に行う。交戦した、対象Bの血液の分析は、同時進行で」

 『Yes,my lord.』

 黒い金属立方体をデスクのスリットに収めると、トレーゼはケースから八本の試験管を取り出した。そのうちの一本、スバルの血液を封じたものを伸びてきた機械のアームに渡して分析と精製を急がせた。後の七本は椅子の隣に設置されてある注入機、その操作盤の蓋を開けるとそこに連続して空いていた穴に一本ずつセットしてゆく。全てをセットし終えると急いで椅子に座り、体勢を整えた。

 「セット、完了。ファクターサンプル、インストール、開始」

 『Got,it.(了解)』

 電子音と共に注入機が大きくマウントし、先端の針がトレーゼの首筋を捉えた。やがてその鋭利な先端が白い皮膚の表面に接触、刺し貫き、傷口から血液が少しだけ流れ出た。

 「……………………注入」

 ガラス張りの針の中を液体が移動、そのまま彼の体内へと注がれていった。彼は眉ひとつ動かすこともなく、ただじっとして成り行くままにしているだけだった。

 「ドクター……待っていてください」

 一瞬、トレーゼの金色の目が電子的な輝きをもった気がしたが、本当に一瞬の出来事だった。



 この日、ミッドの記録に新たなる事件名が記されることとなった。俗に「第二次地上本部襲撃事件」と称されるようになったこの事件は、事件の首謀者が奇しくも新暦75年に起こった同質の事件「地上本部襲撃事件」と同じナンバーズによるものであると言う事実によって名を馳せることになる。その規模はJ・S事件に並ぶ大事件へと発展することも、後の記録に記されることになったのである。

 そして、この事件が投げ掛ける波紋を彼もナンバーズも管理局はもちろん、スカリエッティですら予測は出来ていなかったのだった。





 「No.13、トレーゼ。始動」

 『ignition.』



[17818] 日常のセカンド・コンタクト
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 01:12
ティアナ・ランスター本局執務官並びに、防災課所属スバル・ナカジマ陸曹の二名重傷を負う。ランスター執務官は肋骨の骨折及び肺の一部を損傷、両足にも軽傷を負い現在車椅子による移動手段を取っている。所有していたミッドチルダ式デバイス『クロスミラージュ』は破壊、現在シャリオ・フィニーノ一級通信士の元で緊急修理中。完全復旧の目途無し。ナカジマ陸曹に関しては左腕を除く四肢を切断され、リンカーコアが著しく衰弱。現在医療センター集中治療室にて厳重入院中。現場復帰の可能性は極めて低いことが懸念されている――。



 「状況は芳しくない……か。歯痒いもんやね」

 地上本部から送られてきた第二次地上本部襲撃事件の報告書に目を通しながら八神はやては溜息をついた。窓から差し込む心地よい日光も、今だけに限って言えば無性に虚しく思えるだけである。

 「ですね。自分も今このような状況でなければと、そればかり考えてしまいます」

 室内に居るのははやてだけではない。自らの身長には不似合いな銀の長髪を靡かせて彼女のすぐ目の前に座るその人物ははやて以上に落ち着いており、朝のコーヒーを嗜んでいた。左目をこれまた不釣り合いな大きな黒い眼帯で隠しているその姿は、どこかしら外見年齢に合わない威圧感を放っていた。それは少女――チンク・ナカジマ自身が苛立っていたからなのかも知れない。

 「自分の妹が心配なんは分かるけど、もうちょっと落ち着いた方がええよ」

 「すみません、自分でも分かってはいるつもりなのですが……」

 「分かっているだけでもマシや。それに、どの道こんなとこに詰め込まれとったんやったらやることも出来へんわ」

 報告書の束を纏めると、彼女はそれを脇に置いて再び窓の外へと目をやった。窓の向こうでは鳥たちが自由を謳歌して羽ばたいているが、その視界に不自然極まりない物が同時に映っていた。長方形のガラス窓を縦に四つに分断するそれは冷たく硬質であり、簡単には取り外せないことを示していた。陽光を遮って室内に影を落とすそれは“鉄格子”、そしてそんなものがはめられている空間などかなり限定されている訳であり……。

 「いつになったら出られることやら……」

 「そうですね……」

 チンクとはやては揃って溜息をついていた。

 見ての通り、今現在二人とも絶賛謹慎中だった。

 ミッドチルダ、新暦78年11月11日の出来事である。










 何故この二人がこの様な事態に陥っているのかと言うと、それには事の経過を説明する必要があった。それはつい先日に起こったことだった――。

 「納得出来ません!」

 会議室に金髪紅眼の美女、フェイトの怒声が響き渡った。その前の席には数名の中年男性たちが座って構えており、皆それぞれがレジアス中将亡き今では管理局内でもかなりの発言力を有している面子ばかりだった。

 「君が何と言おうと、これは既に厳正なる審議によって出された結論だ。君一人の意向では覆らんよ」

 男性たちの丁度中央に座っていた重鎮がそう静かに言い渡した。それに同調するかのように他の男たちも頷いた。

 「ですから! 状況証拠だけではなく、現場検証に基づいた調査の上で審議するべきだと……!」

 「では問うが、ハラオウン執務官殿。君自身ここに映し出されているモノをどう捉えるのかね?」

 「そ、それは……」

 そう言って一人が差し出してきたホログラム映像にフェイトは言葉を詰まらせた。実際これがあるからこそ如何ともし難いのだ。

 そこに映っていたのは紛れもなく自分の親友の八神はやてに他ならなかったからだ。身長に合わないコートを着込もうとして映像に固定されているその顔は限り無く無表情に近く冷たいが、間違うはずもなかった。

 「当時この区域周辺の監視システムには一切の魔力反応が検知されていなかった。これが何を意味するのか聡明な執務官殿なら分かるはずだ」

 「……」

 魔力反応が無い。それはつまりは単純にその場所において魔法が使用されなかったことを意味しているのだ。通常どんな小さな魔法であれ、使用したのであればそこには痕跡が残るはずなのだ。例え変身魔法であったとしても……。

 「つまりは変身魔法すら使われていないと言うことは、暗にここに居たのが八神二佐本人であることを表している他ならぬ事実なのだよ」

 「左様、この魔法技術が普及し発展しているミッドにおいて、わざわざ変身魔法ではなく整形手術によって顔を変える道理が無い。手間は掛かるし、おまけに多少の危険も伴うのだからな」

 「それに押収物品保管庫を担当していた局員も、直に彼女が本人であることを確認しているし、君の部下のランスター執務官も魔力は一切感知できなかったと報告しているではないか。…………以上が大まかな理由だよ、八神二佐を無期限謹慎処分にする、な」

 「ですが! 事件発生当日のこの時間帯は、八神二佐はクラナガンの街に居たことが同伴していたヴィータ教導官の証言でハッキリしています。事務局の方でも、彼女らの休暇申請は確認されています!」

 フェイトの言う通り、この日のこの時間には二人とも街中で食事をしていたのだ。しかし――、

 「ヴィータ教導官は八神二佐の守護騎士だ。言わば彼女の身内や直接の部下と言っても差し支えがない。身内の擁護発言を安易に鵜呑みにするのはおかしな話でしょうに」

 「もっともだ。それに彼女には『闇の書事件』での前科がある。多少なりとも大袈裟にならなければ意味が無いのだ」

 「ですが……」

 「それとも何だね、公正な執務官殿は彼女が親友であると言うだけで擁護しようとしているのか? それは職務上どうなんだね」

 「…………八神二佐については了解します」

 「何か含みのある発言だな、感心せぬな」

 フェイトの心中を察した一人が追い打ちをかけた。彼女は湧き上がる怒りを必死に抑えながら、静かに言葉を紡いだ。

 「謹慎処分者のリストに『チンク・ナカジマ』の名前があることが理解出来ません……」

 「あぁ、なるほどな。説明不足だったか、これは失礼した」

 「うむ、知っての通り、今回の事件は爆破とそこから派生した二次被害の火災を狙ったテロ行為であることが局員全般の共通認識となっている」

 「はい……」

 「火災発生現場には不思議なことに、通常出火の原因となるような物は全くもって発見されなかったのだよ。マッチ一本、ライター一個もな」

 それは聞いている。確かに不思議なことであり、当初は管制室もその問題で混乱していたのだ。

 「そう、通常有り得ないことだ。だから我々は徹底的に調査に調査を重ね――」

 そう言って男の一人がプラスチックケースをフェイトの前に差し出してきた。そこに収められていた物は元は一つの形を保っていたのだろうが、完膚無きまでにボロボロに劣化しており、どうにか破片をかき集めて復元したのが見て取れた。それはかつてフェイト自身も資料などで見たことがある代物であり、納得すると同時に愕然とした。

 「これを全ての火災発生現場で発見した」

 復元された両刃のナイフ――スティンガーは所々で鈍く輝いていて、未だに凶器としての主張を保っていた。

 「ここまで言えば分かると思うが、このナイフに限らず、何の変哲も無い只の金属を爆発物に変えられるのは局で確認されている限り彼女をおいて他にはおるまい」

 「待ってください! それでは余りにも安直過ぎます、小型の質量兵器の存在も視野に入れるべきかと――」

 「現場には火薬を含む一切の質量兵器の確認はされていない。もちろん、魔力反応もだ」

 「そんな……」

 「では逆に質問しよう、ハラオウン執務官。君は彼女以外にその様な能力の持ち主に心当たりがあると? このミッド……いや、この数ある管理世界のどこかに居ると言うのかね?」

 「…………」

 当然のことながら答えられるはずもなく、フェイトにはただ単に口を真一文字の形に締めることしかできなかった。

 「……では、これにてこの議題は終了とさせてもらおうか」

 「そんな……!」

 「当然だろう、我々管理局は管理世界の法と秩序を守ると言う大義がある。それはもちろん生半可な覚悟でやれるものではないし、当たり前のことだがそれを賄う為の資金とて馬鹿にならん」

 「金はともかく、我々には時間の浪費まで許されている訳ではないのだ。……分かったのであれば自らの持ち場へ戻り給え。何なら今ここで休暇申請を出しても構わんぞ? 昔のこととは言え、六課時代の部下が重傷を負ったとなれば居ても立ってもおられんだろうに。今なら医療センターの方でも空きがあるはずだ」

 男は暗にスバルの見舞いに行くことを勧めているようだが、ただ単に今すぐこの場から彼女を追い出したいだけにも聞こえた。

 「いえ、結構です……。失礼します」

 あえて胸の内を曝け出すことを避け、フェイトは一礼すると踵を返してドアへと手を伸ばした。

 「ふむ、義兄のハラオウン提督と同じく仕事熱心だな。感心したよ。君が変わらず管理局に忠誠と従事を誓うのなら、上のポストへの移行も早いだろうな」

 「…………失礼します」

 一瞬魔力変換によって生み出された高圧電流がドアノブを握っていた手から漏れ出そうになったが、何とか堪えて凌いで見せたのだった。

 これがはやてとチンクが謹慎処分を喰らっている理由であり、事の顛末だった。



 






 本部のラウンジではある三人の人間が一堂に会していた。いや失礼した、正確には三人と“一頭”である。三人が座っているテーブルのすぐ下で大人しくしているその大型犬は道行く人々の注目を集めるのかと思えば、逆に誰もが見慣れた光景として特に目をやることなく仕事に従事していた。

 椅子に座っていた三人はいずれも見目麗しい女性であり、内二人が局員の正装である制服を着用しているのに対して、もう一人は清潔感溢れる白衣の出で立ちだった。

 「…………」「…………」「…………むぅ」

 三人が三人とも揃って無言を徹していたが、明らかに一人だけ、三人の中でも外見年齢が特に若い少女が苛立ちを見せていた。本人は努めて悟られぬようにしているつもりらしいが、どうやらこんな所で無駄な時間を食っていることに腹を立てている訳ではなさそうだ。

 「おいヴィータ、いい加減にしたらどうだ。見ているこちらがみっともなくて仕方がない」

 「そうよ。こんな所で私達がどうこうしたって、上の決定は変わらないわ」

 「うるせぇ! んなことは分かってるよ!」

 鮮やかな桃紅色の長髪とブロンドの短髪を持つ二人が諌めようとするものの、当の本人はまるで聞く耳を持とうとはしていなかった。そればかりか、逆に神経を逆撫でした模様であり、手がつけられなかった。

 「子供じゃあるまいし、駄々を捏ねればいいのではないのだぞ」

 「シグナム! お前ははやてが謹慎喰らって何にも思わねーのか! 何もしてないのに……!」

 「お前の怒りは理不尽とは言わん。ただ、良く考えろ、ここで例えお前が上層部に殴り込みに行ったとしても事態は好転しない。それどころか、主はやての沽券に関わるのだ。……それだけは避けたい」

 「それも分かってるよ!」

 「今はテスタロッサが掛け合っている頃だろうが……ハッキリ言って見込みは薄いな」

 「上の方は未だに『闇の書事件』で私達を毛嫌いしている人も居たから、こじつけるには良い機会なのよ……」

 湖の騎士シャマルもいつになく気弱な発言をしてしまい、それがさらにヴィータを苛立たせた。

 『それ以上の発言は控えた方が良い。どこで誰が聞き耳を立てているか分からんからな』

 このままでは身内での内輪揉めになりかねないと判断したのか、足元の犬――ザフィーラから静かに決定打となる言葉が念話で届いてきた。伊達に女性ばかりで姦しい八神家の大黒柱の代わりをやっている訳ではなく、その一言で三人は再び無言の状態へと戻ったのだった。

 どれだけその沈黙が続いただろうか。しばらくそうしていると、向かいの通路に目を向けていたシグナムがこちらに向かって来る人影に気が付き、軽く会釈した。その人物は乾いた笑みでそれに応えると、静かにシグナムの前、シャマルの隣に腰掛けた。

 「……それで、どうだった?」

 「ごめんなさい、やっぱり上層部の決定は変わらなかった……」

 金髪の女性――フェイトは申し訳なさそうに項垂れるとただ静かに結果だけを伝えた。予想していた答えにシグナムは「そうか……」と短く相槌だけ打っておいた。

 「主はやては無期限謹慎処分……恐らくこれを機に反八神派の連中が勢い付くだろうな」

 『うむ。我々も今はこうしていられるが、何時反対勢力の矢面に立たされるか分かったものではない。良くも悪くも、主は局内では力を持っていた方だ。その局内での勢力の一角が落ち、尚且つそれが反対勢力を多数抱えているものならば、下についている我々は良いように利用されるのがオチだろう……』

 「現状はただ流されるままにするしかない……と言うことね」

 「ちっ! だから組織は嫌いなんだ。公明正大を謳っときながら、肝心なところは姑息でコソコソして……」

 「ヴィータ」

 「分かってるって!」

 そう言うと不意にヴィータは懐から小さな手鏡を取り出し、それをシャマルへと渡した。この手鏡自体は何の仕掛けも無くて、見ての通り年頃の女性が顔の身嗜みを整えるのに使う普通のものだが、彼女は化粧をする振りをしてさり気なく鏡を傾けて隣のフェイトの視線を誘った。

 「見えるかしら、私の後ろに二人組の局員が居るのだけれど……」

 鏡の反射角度を利用してフェイトはシャマルのすぐ背後へと目をやった。確かに後ろの方では局の制服を身に纏った男性二人が談笑しながら協力して書類仕事に励んでいるのが分かった。恐らく同じ部署の同僚同士なのだろうが、シャマルから聞こえてきた単語はフェイトの予想を簡単に裏切ってくれた。

 「今回の件で派遣された監視員よ」

 「え……!?」

 思わず耳を疑って聞き直してしまう所だったが、確かに良く見れば時々その視線はこちらに注がれ、その鋭さはただ単にこちらが目についたと言うだけでは説明出来ないものがあった。

 「でも何で……? 今回の件で処分が下されたのははやてとチンクの二人だけのはずじゃ……!?」

 「分かんねーのか。上のお偉方にとっては『ヴォルケンリッターは人間じゃない』ってのと、『ヴォルケンリッターは八神はやての“所有物”』って二つの暗黙の考えがあるんだよ。万一はやてが問題起こして責任を取らされる場合、ヴォルケンリッターの指揮権の一部は管理局に強制剥奪されちまうんだよ」

 「私達自身、元を辿れば闇の書が生み出した守護騎士プログラムの一端に過ぎない。けど、人間の姿形をしている以上は“人質”として充分過ぎる効果を持ち合わせているわ……。私達ははやてちゃんの拘束期間中は人質であると同時に上層部の良いように使われる体の良い働き手ってことなの」

 「つまり彼ら監視員は我々が反逆せぬようにと上層部が掛けた保険と言うことだ。そのような要らぬ心配をしてまで、上は優秀な戦力確保をしたいのだ。いつもは目の敵にしているのにな」

 『だが、我々は主はやてが管理局に反旗を翻すなどとは考えてはおらん。きっと何かの間違いだ』

 「でなけりゃ、ハメられたんだ!」

 ダンッ! 

 ヴィータの両手が渾身の怒りと共にテーブルを叩いた。背後の監視員以外に何人かの注目を集めてしまったが、この理不尽に対する彼女の怒りは最早そのようなこと程度で自制心を取り戻せはしなかった。

 「ヴィータ、落ち着いて」

 「これが落ち着いてられっか! もういい! こんなトコで燻ってられるか!」

 そう言い放つと彼女は席を立ち、猛然と早歩きで立ち去ろうとした。

 「どこに行く」

 「うっせ、訓練室だよ! アイゼンの試し撃ちしてくるだけだ!」

 シグナムの静止も聞き入れず、彼女はさっさと肩を怒らせながら道を急いだ。その勢いは他の道行く人々が思わず避けて通る程のものだったが、フェイトにはその後ろからしっかり監視員が後をついて行くのが見えていた。

 「まったく……。いかんな、常人より長く生きていると言うだけでは。駄々を捏ねる赤ん坊と何ら変わらん」

 『言うてやるな、あいつは優し過ぎるだけだ。その優しさを踏み躙られるのが、あいつには我慢出来ぬのだろう』

 「ザフィーラの言う通りよ。それに……私達だってそんなの耐えられないもの…………」

 重苦しい沈黙が再び彼女らの間に横たわった。足元のザフィーラでさえ掛ける言葉が見つからないのか、大人しく項垂れるより他なかった。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 ――ピピッ! ピピッ!

 「? あぁ、ごめんなさい、私です」

 通信が入ったのを知らせるアラームが鳴り、フェイトが一旦席を立った。すぐに彼女はスクリーンを開くと通信を寄越してきた相手と話し始めた。しばらく画面側の相手と会話をしていたが、数分後には再びテーブルまで戻って来た。

 「皆さん、ちょっといいですか? 一緒に来てもらいたいんです」

 「ん? 私は別に構わんが、ヴィータを呼び戻さなくて良いのか?」

 「時間がありません。急いでください」

 事態が急を要すると察したのか二人と一頭は殆ど二つ返事でフェイトの後に続いて行くこととなった。もちろん、すぐ後ろから監視員が来ているのだろうが、別に疚しいことをするつもりではないので構わないのだが。

 「そう言えば――」

 「どうかしましたか?」

 「今日は一度もなのはちゃん見掛けませんね。無限書庫の方でも司書長が珍しく休暇申請をしたとかで噂になってましたよね」

 「高町とスクライアが同時に……? 大方久し振りに逢瀬にでも行ったのだろう」

 「デートですか……。ちょっと近いですね」

 『知っているのか?』

 フェイトは優しく「えぇ」と一言だけ微笑むと――、

 「今日はヴィヴィオの学芸発表会なんです」










 ここセント・ヒルデ魔法学院はミッドでも有数の教育機関である。管理世界でもメジャーな宗教である聖王教の直接の庇護下にあり、経営そのものも本部である聖王教会の直轄で行われていることもあって生徒数は年々増えつつある傾向があった。宗教自体も非常にオープン且つ淡白な為、地球で言うところの新興宗教などとは違って胡散臭さは欠片も無く、別にそこで教育を受けている子供達に主義・思想に悪影響を及ぼすようなこともないことが人気の秘訣の一つでもある。

 だが、この学校も宗教が関わっている以上は細部で宗教的なものが介入してきていることも当然のことながら有り得ている。

 その一つとして挙げられるのが、地球でのキリスト教などで言う所の聖歌隊のような集団である。





 Ah~♪

 聖堂全体に澄み切った歌声が響き渡る。いかにも宗教的な神聖さを表す色鮮やかなステンドグラスが目立つ天井から差す陽光、木製の長椅子には所狭しと聴衆たちが座っており、皆一様に目の前の光景に注目していた。

 それは歌い手たちである。学院の制服を着て歌う彼らは全て学院で日々を学ぶ生徒たちで、大半は立候補した者によって成り立っているのだ。中にはちらほらと大人たちの姿も見え、一緒に歌っているのが分かる。歌の内容は聖王教らしく古代の聖王を讃える讃美歌であり、今は長きに渡る戦いの末に古代ベルカを平定した章を歌っている所だった。

 皆が静かに歌声に耳を傾けていると、どこからか歌声とは別に耳に突く声が聞こえてきているのが分かる。耳を澄ませてみると……。

 「セイン~! こっち向くッス~! あ、オットーにディードも映りたいならこっちを向くッスよ~!」

 どう考えても場違いなその声に対し、遠くに居る者は無視、近くに居る者は盛大に顔を顰める羽目になった。この場においては雑音扱いされかねないその声の主は幸いにも端の方の席に収まっていたが、周りの身内らしき人達が幾ら言い聞かせてもビデオカメラ片手に席から身を乗り出すと言う愚行を止めようとはしなかった。

 「おいウェンディ! チンクが居ないからって調子に乗るな。ケガするぞ」

 「むぅ、パパりんは壇上で歌ってる三人の勇姿をカメラに収める私の仕事を邪魔するッスか!? そ・れ・に! 謹慎の所為でここに来れないチンク姉の為にこうしてカメラ回してるんスから」

 「ならせめてちゃんと席に座って撮れ! 他の奴らの迷惑ってのを考えろ!」

 「だって~、オットーもディードもぜーんぜんこっち向かないんスよ~。って言うか、あの目立ち屋がりのセインまで目も合わせようとしないってどう言うことッスか!」

 背中の口まで届きそうなワインレッドの髪を頭の後ろで束ねた少女――ウェンディは父親である白髪の壮年男性の言い分も聞かずにカメラを回し続けている。どうやらこれが始まった時からずっとこの調子らしく、他の聴衆たちの誰もが諦観の表情を浮かべていた。

 「かぁ~っ! ディエチも何か言ってやってくれ、俺一人じゃ手に余る!」

 「ゴメン、私の力じゃもう無理。ノーヴェに任せるよ」

 「…………知らね。バカに関わってたらこっちまで同じ目で見られるからヤだ」

 「この薄情者! 初老の俺に寄って集って鞭打ちやがって……」

 娘達の親――ゲンヤ・ナカジマは現状を大いに憂いでいた。長女であるチンクに直接頼まれたと言う大義名分がある以上はウェンディは今の行動を止めはしないだろうし、実際止める気配が全く無かった。正直、ゲンヤは妻であるクイントが逝去した時と同じ位に泣きたい心境に陥っていた。

 そして、もういい加減にこちらが諦めようかと盛大に溜息をつきそうになったその時、 

 「父さん、ここは私に任せて」

 「ギンガ……」

 実の娘から助け舟。20歳になり、より一層大人の魅力に磨きが掛かった彼女の笑顔は、遺伝子上当然だがやはり亡き妻の面影が感じられる。

 「任せてってお前……ここで左手のドリル使うなよ?」

 「そんなことしなくても、平和的且つ早急に片付けるから安心して」

 そう言うと彼女はニコリと微笑んで見せた。そしてそれを見たゲンヤは、昔クイントが自分が浮気をしていると勘違いした時に見た笑顔と同質の雰囲気の「何か」をその裏に垣間見てしまった。もちろん、彼は昔も今も妻一筋であることに変わりは断じて無い。

 ギンガは丁度ウェンディの真後ろに座っているので、ちょっと身を乗り出せばすぐに彼女の耳元へと辿り着くことが出来る。

 「ねー、ウェンディ、私のお話聞いてくれる?」

 「ダメッスよ。いくらギン姉の頼みでも、私の中の序列はチンク姉の方が上ッス。そのチンク姉の頼みがある以上はそっちの方を死守するのが今の私の義務ッスよ」

 「ウェンディ、私は何もカメラを回すなとは言ってないわ。ただ、今貴方がやっていることは私達含め他の人達にも迷惑だから、せめてちゃんと席に座って撮って欲しいだけなの。言ってること分かるかしら?」

 「それでもダメなものはダメッス! いい加減にして欲しいッスよ!」

 決定打。この時のことを後にゲンヤとディエチは互いにこう語る。「最終通告を無視してなお意固地になる敗残兵の姿を見た……」と。

 「ねぇ、ウェンディ、あそこに居る人が見えるかしら?」

 そう言ってギンガは自分達よりも前方に座っている女性を指差した。艶のある長髪をサイドポニーの形で束ねているその女性は、隣に座る同年代の優しそうな男性と一緒に生徒達の歌声に耳を傾けており、時折その男性と楽しそうに会話をして微笑んでいた。

 「なのはさん、見えるでしょう?」

 「それがどうかしたッスか……?」

 「私が今ここであの人に念話を送れば、間違いなくウェンディは後でレイジングハートを構えたなのはさんと“お散歩”させられるわよ。出来ることなら、避けたいわよね~?」

 「お、脅しッス、そんなの。それにわかってるんスよ。あの人の隣に居る人、無限書庫の司書長さんッスよね?」

 確かに、大空のエース高町なのはの隣の席に腰掛けている人物は地上本部で一番忙しい男として有名な無限書庫の司書長、ユーノ・スクライアである。彼女の魔法の師であり、今現在彼女が公私共に最も親しく接している異性でもある。余談だが、既に局内では二人の少年時代からの仲は局員全体に知れ渡っており、本人らはどう思っているかは知らないが、今や二人は管理局公認のカップルになりつつある。『エースオブエースが戦術以外で勝てない相手』としても彼は有名で、最近では何を勘違いしたのか武装隊からの移籍勧誘が絶えないらしい。

 「あの彼氏さんが近くにいると無敵のなのはさんも感覚が鈍るッス。今ここでギン姉が念話で呼びかけても反応するかどうか……」

 「ウェンディ――」

 「は、はい……! 何でしょうか?」

 ギンガの纏う空気が急激に変化したのを察知したのか、ウェンディは思わず丁寧語になってしまった。そして、自分が地雷を踏み抜いたことも半ば理解しつつあった。

 「今から三つの行動を提示するから、良く聞いてなさい」

 「はい……」

 「一つ目、三分待っても言うこと聞かなかったら私の左手が唸るわよ。いい? 三分間待ってあげる」

 「待ってって……もう回転してるッス」

 「黙って聞きなさい。二つ目、私が全力全開でなのはさんの注意を向けるわ。知らないわよ、娘のヴィヴィオちゃんの晴れ舞台を邪魔したのがバレたら。ディバインバスターぐらいは覚悟した方が良いわ」

 「うぅ……」

 「三つ目、今すぐここでカインのフルスイングを受け止めること」

 「ごめんなさい! 私が悪かったです、許してくださいッス!!」

 号泣しながら許しを乞うウェンディを見てギンガは満足そうに笑い、「分かれば良いのよ」と優しく頭を撫でていた。さり気なくカメラを取り上げてその隣で震えているディエチに渡すと、自身はすぐに席に戻った。

 その横では顔の右半分を包帯で隠した男性が目深に被ったフードから彼女に笑顔を向けていて、ギンガもそれに微笑み返していた。



 彼女らが全力で騒いでいるのと同時刻、少しばかり距離を置いた別の席では一人の少年が腰掛けて聖歌隊の歌に聞き入っていた。

 いや、正確には聞きながら読書をしているのだ。紫苑の短い髪を揺らすことなく静かに無の境地に達するようにして、静かに読んでいる。別にそれを不謹慎と言って咎めることは誰もせず、皆少年がそこに居ないかのように扱っていたのだった。

 「……………………」

 真冬の寒風によって冷えた手でページを捲る。一応本の題名に目をやると、『君はあの事件を覚えているか! J・S事件編 ~故中将の秘書官が語る事件の真実とは~』と言うものだった。民間の報道記者の記録を一冊の書物にしたものであり、そこに書かれている誹謗中傷の数々が大衆のエゴを刺激するのか、ミッドにおいては大ベストセラーのシリーズとなっているものだった。今までに『P・T事件編』や『闇の書事件編』などが刊行され、その他にも管理局の不祥事などを赤裸々に綴ったゴシップ的なシリーズがある。

 「……ファクターサンプルの、インストール率は?」

 『No.Ⅶ,No.Ⅷ,No.Ⅹ,No.XⅠ,and No.XⅡ are complete. But,No.Ⅵ and No.Ⅸ are yet.(No.7、No.8、No.10、No.11、No.12は完了。しかしNo.6とNo.9は未だ完了ならず)』

 「把握した。現在、どこまで、インストール済み?」

 『No.Ⅵ is about 56.3%. No.Ⅸ is about 78.4%.(No.6は約56.3%。No.9は約78.4%)』

 「採取した、未確認ファクターの、分析は?」

 『Analysing now.(現在解析中)』

 「把握した。引き続き、作業を継続、せよ」

 『Yes,my lord.』

 他の者には聞こえていないのか、電子音との一通りの会話を終えると少年はすぐに目を紙面に、耳を歌声の方に集中させた。しかし、すぐに聴覚はそこから切り上げ、一言だけ感想を述べた。

 「雑音……。感性の、理解不能」



 






 その数分後、無事に何事も無く学芸会は終了。学院の責任者でもあるカリム・グラシアの閉会の辞と共にお開きとなったのだった。

 その後は毎年恒例なのか、局の仕事に戻ろうとしたカリムを民間の報道業者が捕まえ、昨今の地上本部の模様について質問攻めにあっていた。一応付き人のシャッハが睨みを効かせたはずなのだが、そこはやはり相手連中も引き下がる訳が無く、小型マイクやペンを片手にインタビュー。とうとう痺れを切らしたセインが文字通り足元から救出し、何とか難を逃れることには成功した。しばらくは両者の息が続く限り壁や床の中を潜ってやり過ごすことだろう。幸いにも記者達はそこまで執拗ではなかったようで、カリム本人が居ないと分かった途端にゾロゾロと帰って行った。

 「ふぅ……。後もう少しで肺が潰れるかと思った。大丈夫ですか、カリムさん?」

 「大丈夫よ。伊達に騎士を名乗ってはいないもの、これ位まだ平気よ」

 壁からいきなり出現した二人は少しばかり周囲の目を引いたが、以前からセインの能力を知っている者も居たのか、そこまで騒ぐことはなかった。代わりに見覚えのある顔触れがこっちに手を振りながらやって来るのが分かった。思わずこちらも全力で振り返す。

 「セイン~! 元気にしてたッスか~!」

 「こんにちわ。セインがお世話になってます」

 「やっぱりお前さんは元気だな」

 ナカジマ家の面々である。ゲンヤを始めに、自分の姉妹達の再会にセインは……。

 「みんな~! お姉ちゃんだよ~!!」

 全力疾走。しかし――、

 「ウェンディ、パス!」

 「断固辞退するッス! ノーヴェ!」

 「だが断る! ギン姉ぇ!」

 「私ってレズに見えると思う? 遠慮するわ」

 全員から拒絶意思の一斉表明。それらの言葉の棘がセインの耳に到達する頃には既に彼女の心を見事に折っていた。

 「うぅ……みんなして酷い。久し振りの再会にその対応は無いよ」

 「軽い冗談だってば。機嫌直して、セイン」

 悪意は無かったのが唯一の救いである。半分涙目な彼女をすぐに心優しいディエチが慰める。

 これがいつもの姉妹のコミュニケーション、と一人で納得していたカリムの前にすっと近づく人物があった。ギンガである。

 「お久し振りです、グラシア少将」

 「プライベートで階級は気にしなくて結構ですよ、ギンガさん」

 「そうでしたね、カリムさん。では改めて、お久し振りです」

 「はい。ゲンヤさんも、お元気そうで何よりです」

 そう言ってカリムはギンガの後ろで白髪頭を掻いていたゲンヤにも挨拶した。

 「いやぁ、お前さんも年取る度に綺麗になっていきやがるな。教会の深窓でデスクワークさせとくには惜しいな」

 「父さん!」

 「ギンガさん、良いんですよ。またゲンヤさんお得意の社交辞令ですから。今日はヴィヴィオちゃんの……?」

 「あぁ、そうだ。高町の奴に誘われてな。この歳になると局の業務も暇になってきてな、丁度良いと思って娘達と一緒に来させてもらった」

 「そうですか。そう言えば、こうして直接お話しさせて頂くのはいつ以来でしたっけ?」

 「ん~、確か…………あっ、そうだった、思い出した。ウチのギンガの見合い以来だったな」

 「そうでしたね。そう言えば、カイン君は今どちらに?」

 「あ? そう言えばあいつどこに……って、居た。おーい、カイン! んなトコで油売ってないでこっち来い」

 周囲を軽く見渡したゲンヤは目的の人物を発見したのか、その人間を大声で呼んだ。その人物は学院の生徒ら――主に学院寮に戻って行く子供達――に対して優しく手を振って挨拶していたが、ゲンヤに呼び出されたのに気付いてこちらに駆けて来た。それは先程の学芸会の時にギンガの隣に座っていた男性で、やはり顔の右半分を包帯で覆い隠していると言う痛々しい出で立ちをしていた。

 「と、父さん!? 何してるの、恥ずかしい!」

 「別に恥ずかしくはないだろ? “婚約者”を呼んでるだけなんだからよ」

 そう言ってニヤリと笑うゲンヤの後方から目的の男性が到着した。近くで良く見ると、包帯は顔だけでなく袖で隠れた右肩からその指先にまで巻かれており、大層な大怪我であることを容易に想像させた。

 『お久し振りです、騎士カリム。と、我がマスターは申しております』

 カリムの方へと向き直った彼の腰辺りから合成電子音が挨拶をしてきた。良く見ると、腰の左右にスティック型に待機したデバイスが大人しく控えているのが分かる。どうやらそちらが故合って喋れない彼の代理で話しているようだ。

 「はい、お久し振りねカイン。孤児院で生活していた頃が懐かしいわ、あの頃に比べて見違える程に成長して……」

 『いいえ、まだまだ自分は未熟です。と、我がマスターは申しております』

 「謙遜しなくても良いのよ。それで、挙式はいつだったかしら?」

 「はい……。春先にはこちらで挙げさせてもらう予定です」

 短く、しかしハッキリとギンガはそう答えた。その頬が赤く染まって見えるのは気の所為ではないはずだ。

 「そうでしたね。その際には是非とも盛大に皆で祝いましょう。六課の皆と、セイン達も」

 「はい、よろしくお願いします」

 『カリムにはまた世話になる。と、我がマスターは申しております』

 カインと呼ばれた青年は包帯で巻かれた右手で静かにギンガを自分の方へと抱き寄せた。言葉こそ一言も発しないが、行動の端々から彼女に対する深い愛情が滲み出ているのが分かる。

 「始めはあんなに嫌がってやがったのに、最近じゃこっちが恥ずかしいくらいにベタベタするんだよな」

 「まぁ、それは御盛んですね。ゲンヤさん、決して二人の邪魔をしてはいけませんよ?」

 「誰がするかよ。クイントの娘ながらあいつも強情でな、『カインの失語症を直してあげるのは自分に課せられた役目』って言い張るんだ」

 「彼女ならいつかそうしてくれるでしょう。私やはやてには出来ませんでしたから……」

 そう言って彼女は少し遠い目をして寒風吹く青空を見上げた。かつてあった過去の、今は過ぎ去ってしまった出来事に想いを馳せているのだろうか。

 「――あ、そう言えば!」

 『どうかしましたか? と、我がマスターは申しております』

 「えぇ。つい最近、はやてが教えてくれた地球産の占いを覚えたのだけれど、折角だからこの際に占ってみようかしら」

 「占い? そんなことしなくてもお前さんにはそれ関係で立派なレアスキルがあるじゃねーか」

 「『預言者の著書(プローフェンティン・シュリフテン)』のことですか? あれは月の魔力の関係で一年に一回しか使用できなくて、以前言いましたけど、せいぜい『良く当たる占い』程度なんです。おまけに日常レベルでの細かなことは占えませんし……」

 「あー、そう言えばそんなことも言ってたか。で、そちらの方は?」

 「今の所は的中率99%ですね。以前ロッサが統計を取ってくれました」

 「…………もう、レアスキルじゃなくてもそっちで占えば良くないか?」

 「言わないでください、気にしてるんですから。それで、誰か占って差し上げますけど……?」

 そう言って彼女はポケットから小さなカードの束を取り出した。ぱっと見ると60枚近くはありそうなそのカードを見事に捌くと、ゲンヤ達に勧めた。しかし――、

 「いや、俺はオカルトなのは基本的に信じないんだ。悪いな」

 「私も気になって仕方なくなりそうですし……。遠慮しときます」

 『こちらも同じです。と、我がマスターは申しております』

 三人とも断られてしまった。

 「じゃあ仕方ないですね。またの機会に――」

 「あーっ! それってタロットだよね、カリム」

 カードを仕舞おうとしたカリムの手が止まった。どう言う経緯があったかは知らないが、ウェンディの下半身をISで壁に埋め込んだままこちらに走って来た。そしてそのままカリムからカードを取り上げるとすぐに姉妹達の方へと戻って行った。

 「セイン、それ何ッスか?」

 「トランプか何かのカードゲーム?」

 「チッチッチ、違うんだな、これが。これはちゃんとした占いの道具なのさ。良く見てろ~」

 そう言うとセインはカードを規則正しく並べてゆく。全てが裏を向いたカードを時々位置を変えながら手順通りに進めて――、

 「ここをこうして、これをこう…………良し! これだ」

 そう言って彼女は一枚のカードを引いた。すぐにそれを皆に見えるように地面に置く。そこには何やら古めかしい塔のようなものの絵が描かれており、それ以外は何も記されてはいない簡素なカードだった。

 「……これが何か意味あるの?」

 「うん、これが出たってことは……………………こっちか!!」

 そう言って彼女はディエチの質問にも答えずに壁に向かって全力疾走、足元に水色のテンプレートを出現させるとそのまま一気に潜行しようと試みた。が、しかし――、



 ガンッ!!!



 「~~~~~っ!!!!?」

 壁に頭から激突し、墜落。頭を抱えたまま地面をのたうち回る羽目になった。

 「やっと見つけましたよ、シスター・セイン!」

 「げぇっ! シャッハ!?」

 激痛の残る頭を擦りながら声の主を見つけると、そこには仁王立ちの天敵シャッハ・ヌエラの姿があった。

 「ついさっき建物全体に障壁を張っておきました。これでもう逃げられませんよ!」

 「い、いや、これはその……姉妹の涙の再会ってことで……」

 「オットーもディードも自分の仕事を終わらせてから会うつもりだと言うのに、貴方と言う人は……! ちょっと来なさい、灸を据えてあげます!」

 「えぇ!? ちょ、それだけは勘弁……!」

 「問答無用!!」

 「アッー!!!」

 セインは教会が誇る武闘派シスターであるシャッハに連れ去られてしまった。当然のことながら、自業自得なのと誰も逆らえないのが相乗して皆無言で見送るしかなかった。

 「じゃあ、ここは私がタロットについて説明するわ。もちろん、実演も交えてね」

 そう言うとカリムは待ってましたと言わんばかりにウェンディ、ディエチ、ノーヴェの三人の所へとやってきた。カードを拾い直すと、数回シャッフルした後でまたそれを地面に並べ直し始めた。

 「はやての受け売りだけど、タロットって言うのは第97管理外世界で一部流通してる占いの道具でね、起源はハッキリしていないのだけれど、始めはトランプと同じようにカードゲームとしての意味合いがあったらしいわ」

 説明しながらカードを並べる手際の良さはさっきのセインよりスマートで鮮やかなものがあった。恐らく彼女にこれを教えたはやてはもっと手際が良かったはずだ。

 「寓意的な意味を持つ22枚のカードでその人の運勢や人格、持って生れて来た自身の意味を見出すとされているわ。これでいいかしら……」

 規則正しく円形にならんだカードを見て満足気に微笑むカリム。

 「じゃあ、まずはディエチさん?」

 「はい?」

 「どれでも構いませんから、一枚だけ好きなカードを引いてください」

 そう言って少し戸惑っているディエチにそう促した。カリムに勧められて、恐る恐るその手に取って捲って見ると――、

 「第五番『法王』の正位置……貴方にはぴったりね」

 カードに記されていた絵柄は法衣を身に纏った古代の僧侶であり、背景から神々しい後光が差しているのが特徴的な一枚である。

 「それはどー言う意味があるんスか?」

 「『法王』のカードが表すのは“包容”。平たく言えば、全ての事象を認め、許容して、包み込む優しさを示しているの」

 「確かにディエチは優しいッス! この間も電車に乗った時にも席譲ってくれたッスよ」

 「あれはウェンディが疲れたって我儘言ったから……」

 「謙遜しなくても良いのよ。貴方が優しいのはセイン達からも聞いているもの。それが貴方の持つ本質なのよ」

 頭を撫でられて満更でもなさそうだが、元の気質がシャイな一面もあって彼女の顔は真っ赤になっていた。

 「ちなみに、セインが引いた第十六番『塔』は“身に降り掛かる災難”を表しているわ」

 「あー、納得した。どうせあいつソレしか引いてなかったりするんだろ?」

 「……良く分かったのね」

 「本当かよ……」

 「じゃあ今度はこっちが引くッスよ!」

 ウェンディはそう言うと、いつのまに壁を破壊したのか腰回りからボロボロと破片をばら撒きながら近づいてカードを引き当てた。どうでも良いが、修繕費用は教会から負担してもらえるのだろうかと、ゲンヤはこっそりと考えてしまっていた。

 「んあ? 何ッスか、このカード?」

 彼女が掲げたそれには崖の上で大袈裟なポーズを取る男性が描かれており、ぱっと見ただけでは何を表しているのか全く分からなかった。

 「えーっと……これは第零番『愚者』の正位置ね」

 「“ぐしゃ”って何ッスか? 何か潰した時の擬音ッスか?」

 「愚者……。簡単に言えば、バカな人ってことだよ」

 「ウェンディにはお似合いだな」

 「むかー! それって私が馬鹿ってことッスか!!」

 「そう言ってるじゃん」

 「いいえ、そうでもないわ。これはこれでレアなカードなのよ」

 「?」

 「『愚者』が示しているのは“変化”。常に周囲の状況に囚われること無く、自分から改革を起こそうとする柔軟な考えがあることを表しているのよ。だから、決してバカって意味だけではないのよ」

 「ざまぁッス!」

 自らの馬鹿説が否定された為かウェンディは非情に得意気に笑って二人を指差した。

 「ちなみに、なのはさんは第七番『戦車』だったわ。あらゆる戦いにおいて常勝無敗、“勝利”を体現しているカードよ」

 「うわ、ピッタリだ」

 「オットーとディードは二人とも第十八番『月』が出たわ。二人の似通っている“曖昧”な所が合っていたのかも知れないわ。えっと次は……ノーヴェね。カードを引いて」

 「あたし、こんなの興味無いんだよな……。ほらよっと、これでいいだろ?」

 ぶっきらぼうにカードを一枚取ってカリムに投げて寄越すと、自分だけどこかへ行こうとして立ち上がったのだった。

 「あれ? どこ行くッスか?」

 「喉渇いただけだ。すぐ戻る」

 そう言って彼女は振り向きもせずに一人でさっさと自販機を探しに行ってしまった。元々姉妹以外の誰かと慣れ合うことを極端なまでに避ける性格をしている為か、ナカジマ家においては未だに局でも親しい者が居ないのは彼女だけだった。

 「すまないな、あいつもあぁ見えても根はイイ奴なんだ」

 気をきかせたゲンヤがすぐにフォローを入れるが、当のカリム自身は慣れっこなのか全く気にした様子も無くニコニコしていた。

 「いいえ、あの子も悪意はないのでしょう。それはそうと、もうお帰りになるのですか?」

 カリムがそう訊ねるとゲンヤは「あぁ……」と短く返答。その後ろにはギンガとカインも並んでいる。

 「スバルが入院していてな……この後で見舞いに行く予定なんだ」

 「そうでしたか……。そう言えば二日前の本部での騒ぎの最中で重傷を負ったとか…………そうとは知らずに長々と引き留めてしまって……」

 『お気になさらないでください。と、我がマスターは申しております』

 「そうですよ。あの子も子供じゃないですし、きっとすぐに元気になると信じてます」

 「仲が良いのですね。分かりました、では道中お気をつけてください」

 「あぁ。ウェンディ達はオットーとディードに会ってから帰宅するように言っといてくれないか。あいつらも会うのを楽しみにしていたからな」

 「はい。それでは、またお会いしましょう。今度は春に結婚式場で」

 その言葉を交わした後、ゲンヤ達一行は騎士カリムに別れを告げて学院の敷地を後にした。彼のすぐ背後ではギンガとカインがしっかりと手を繋いでいるのが後ろから見えていた。

 「あっ、そう言えばノーヴェの引いたカードは何だったかしら?」

 カリムはずっと手に握っていたその一枚を表向けると、思案の表情となった。カードの絵柄は相対的な男女の絵が描かれており、それが何を意味するのかは彼女しか分かる者は居なかった。

 「第六番『恋人』の正位置…………。指し示す未来は……“出会い”、“友情”、“選択”、“決断”……。初めて見たわ、このカード」

 そう言って彼女は何事も無かったかのようにそれをポケットに仕舞い込み、ウェンディとディエチにお茶を御馳走する為に二人の名を呼んだ。



 そんな彼女らの脇を、一筋の影が通り過ぎた。確実にそこに居るはずの“存在”に誰も気付くことなく、限り無く黒いその影は音も無く目的の場所へと移動を続けた。



 






 その頃、ノーヴェは自販機の前で独りだけで缶入りの飲料物を空けていた。中味はホットではなく、本人の嗜好から炭酸飲料だった。

 「…………」

 いつになく物静かな彼女の双眸には道行く人々の顔が映っていた。皆一様に笑顔であり、中には親子連れも多々見受けられている。その光景は限り無く「日常」であり、今自分はその日常の中に居るのだと実感させられていた。それはまさに、一言で言い表すなれば――、

 「平和……か」

 少なくてもここは、つい二日前の地上本部の騒動など嘘だったかのように平和だった。火の手の代わりに緑の草木が生え、人々の悲鳴の代わりに幸せな笑い声が聞こえる。彼らはそんな「非日常」など知らない上に知る必要も義務も無く、恐らくは一生知らずに過ごす者が殆どだろう。ただ平凡に、それでいてただ平和に一生を終えるのだ。それが彼らの人生であり日常、不変の事実なのだ。

 だが、彼女は時々考えてしまう。「自分はここに居て良い存在なのだろうか?」と。何が“普通”であり何が“日常”なのかは人によって相違がある。つい3年前まで彼女らは他人の日常を侵し、脅かす侵略者でしかなかったし、本人らもそれが自分達にとっての「日常」だったのだ。何も疑問を感じることもなく、ただ単に命令を遂行して計画成就の為に使われる駒――それが自分達なのだ。

 それが今はこうして平然と社会に溶け込んでいる。更正施設で刑期を終え、ちゃんとした審議の結果として自分達はそれが正当に許されたのだろうが、ノーヴェには今の自分の状況が不自然極まりなかった。ひょっとしたら自分は……いや、自分達は本当は社会にとって好まれない存在なのではないか? 社会から抹消……とまでは行かなくても、捕縛されたあの時に全員スカリエッティのように更正の余地無しと判断されて監獄に身を置くべきだったのではないのかと、考えてしまうのだ。以前、ここには居ない敬愛する姉にこのことを相談したこともあったが、その時彼女は「もう終わったことなのだ。いつまでも引き摺るべきではない」と言って喝を入れてくれた。しかし、それでもなお彼女には理解出来なかった。

 そして同時に恐ろしいのだ。今自分は幸せだ、人並みの日常を、平和を、幸福を享受出来るのだから。だが、もしもその幸せが今だけのものだったなら? もしこれから予期せぬ事態に陥ってその幸福が瓦解する――。

 そのことが彼女にはどうしようもなく……

 「怖い……」

 思わず口をついて出てしまった言葉に気付くことも無く、彼女は空になった缶をゴミ箱に入れ込んだ。現在、彼女の妹分でもあるスバルは重傷を負って入院中である。この心配が何時現実のものになってもおかしくはなくなっているのだ。そして、こんな不安を感じるくらいならいっそ――と思ってもしまうのだった。

 そんな不安を全身全霊で振り切った彼女は喉の渇きも潤したことで、早く姉妹達の元へと急ごうと踵を返した。その時――、

 「ねぇ君さ、ちょっとイイかな?」

 一人の男性が愛想笑いを浮かべながらこちらに接近して来た。両手にそれぞれペンとメモ帳を携えているその姿をノーヴェは嫌と言いたくなる程に知っていた。

 「……またかよ」

 記者である。それも三流記事の紙面でゴシップなものしか書かない類のライターだとすぐに分かった。

 「君ってアレだよね~? ほら、J・S事件で有名な! ちょっと二つ三つぐらい答えてもらいたいんだけどなぁ……」

 始めに断っておくが、民間の機関には彼女らナンバーズの情報は顔なども含めて全て秘匿されている。では何故こうして彼女らのことを知っているものが居るのか? 答えは簡単だ、単に些細な情報漏れである。管理局も組織である以上は全ての統括を完璧に行っている訳ではない。必ずそこには人間が引き起こす必然的なミスもあるのだ。そして、それらのお零れに反応して嗅ぎ付けてくるのが……。

 「悪いけど、急いでるから……」

 「そんなこと言わずにさぁ。すぐ終わらせるから」

 このような人間と言うことである。今までにも同じ人間が接触してきたことはあったが、その時はナカジマ家の人間と一緒であったし、何よりチンクが居てくれた。接触してきた何人かはチンクがうまいこと言って追い返してはいたが、今回は一人である為に下手には動けない。この場合は無視しておくのが妥当だろうと思って先を急ごうとしても――

 「手間は取らせないよ」

 そう言って回り込まれてしまうのだ。そして、余りにもしつこいと、自他共に認める程に気が短い彼女の堪忍袋はすぐに限界を迎えてしまい、手が出てしまう。それが相手の思惑通りになるとは知らずに。

 「うるさいなぁ! しつこいんだよっ!!」

 「おぉっと……危ないなー。良いのかい? 僕にこんなコトして」

 「あぁん!?」

 ノーヴェが軽い威嚇のつもりで蹴り上げた小石を避けて、記者は意地悪くそう言ってきた。

 「僕らにはね、報道の自由が許されているんだよ。余り過剰にしない限りはこうしたインタビューも当然許されているんだ」

 「それがどうしたよ!」

 「だけど君は折角僕が低姿勢にお願いしているのに、それを暴力で返してきた…………それって社会的にどうなると思う?」

 「そ、そんなこと……!」

 「知らないなんて言葉じゃ世間は認めてくれないだろうね。残念だけど、僕は今ここで起こったことをメモ帳に書き残して会社に提出させてもらうよ」

 「な……!?」

 そんなことをされれば間違いなく彼女は、いや、彼女に関わる全ての人間に多大な迷惑がかかってしまうだろう。

 「やめろ!!」

 「おっと、君こそ止めた方がいいよ。これ以上僕に近づけば、僕はさらにここに書く事柄を増やすことになるからね。記事の見出しは……そう、『J・S事件の元実行犯、フリーの記者に白昼の暴行か!?』で行こうかな」

 わざとらしく芝居がかったその言動に、ノーヴェは歯軋りしながらも目の前に居る相手に手が出せない苛立ちに苛まれていた。だがこのまま放っておけば確実にメモ帳のネタは投函され、明後日以内には世間の知れる事態に発展するかも知れなかった。

 「止めてくれ……」

 「始めに大人しく応じてくれなかったのは君の方だよ。元犯罪者らしい行動にビックリ……いや、この件でまた犯罪者になった訳か」

 口元に卑しい笑みを浮かべながらもペン先は止まらない。もう二枚分は書いたはずだった。

 もう強襲してでも阻止するしかない――。そんなことをノーヴェが本気で考え始めたその時、

 「な、何だ君は!? おい! 止め……ぐあっ!!」

 一瞬だが何が起きたのか分からなかったが、すぐに彼女は現状を把握する。

 目に入って来たのは紫苑の髪と、一目で少年と分かる程に引き締まった背中。年齢は恐らく自分と同じ位だというのもすぐに予測した。その少年がゴシップ記者の手を思い切り捻じり、その手からメモ帳を奪い取ったのも見えた。

 「ちょ! 君、一体何を……って、あぁ~!?」

 記者の止めるのも聞かず、その少年は端をホチキスの針で留めてあるだけの簡素なメモ帳を両手でいとも簡単に引き裂いて見せたのだった。後はそれらの残骸を風に乗せるだけで――

 「……処理、完了」

 「何をするんだ君は!? 良いのか、こんなことをしておいて! 許される……と…………でも?」

 少年に面と向かったその記者は徐々に尻すぼみになってしまった。その金色の瞳に見入られ、彼は自分の心に一筋の悪寒が走るのを覚えたからだ。

 「こ、今回は大目に見よう! ま、また、次の機会に会いましょうかね!」

 半分震えた声になりながら、逃げるようにして二人の前から、そして学院の敷地外へと去って行くのだった。

 「…………え?」

 余りに唐突な出来事にノーヴェの思考は始めは追い付かなかったが、目の前に突然現れたその少年が今度は何も言わずに立ち去ろうとした時には思わずその腕を掴んでいた。

 「待って! 待てってば!」

 「……何か?」

 振り向き様に合った目にノーヴェは何かしらの既視感を覚えながらも、まずは礼を述べなければと思って言葉を紡いだ。

 「さっきはその……ありがと。どこの誰かは知らないけど、お陰で助かりマシタ……?」

 敬語に慣れていない彼女はしどろもどろになりながらも、最後まで言い切った。微妙に気恥かしいと感じるのは対人関係の苦手さが影響しているからなのだろう。

 「…………」

 「…………」

 「……トレーゼ」

 「はい?」

 しばらく続いた気まずい沈黙を先に破ったのは少年の方だった。金色の瞳でノーヴェを捉え、白磁の肌を持つ彼は静かに単語――自分の名前を口にした。

 「『どこの誰か知らない』と言った。だから、名前」

 「あー! そうデスね……。あた――じゃなかった、私は……」

 「無理、するな」

 「え?」

 「自分に、出来ないことは、しない。その方が、良い」

 「…………あっそ、じゃあそうさせてもらおっか」

 すぐに柔軟に対応したノーヴェは飾った口調をすぐに止めると、少年――トレーゼに真正面から向かい合った。普段の他人を毛嫌いする彼女からは考えられない行動だった。しかし、彼女は直感で感じていたのだ――

 「あたしはノーヴェ。ノーヴェ・ナカジマ。助けてくれて、ありがとう」

 彼が自分と同じ感じをしていることに――。

 「…………トレーゼ。ただの、トレーゼ」

 「ふぅん、変わってるな、お前。でも悪い奴じゃねーよな!」

 「……何故、そう思う?」

 「さっきも言ったろ? あたしを助けてくれたじゃん、理由はそれで充分過ぎるだろ?」

 こう言うセリフを素面で吐ける程に他人付き合いは良くないはずの彼女だが、さっきから感じている既視感と親近感が後押しして、何故か笑みが浮かんでくるのだった。

 「あ、その本……!?」

 しかし、彼のポケットに収まっていた小さな本に目が行くと、それの題名が鍵刺激となったのか――

 「ちょっと寄越せ!」

 「……何をする?」

 「うるせ! こんなモン、こうしてやるんだよ!!」

 それは恐らく彼が読んでいたものであろう書物であり、自分達が関わったJ・S事件のあることないことが書かれているゴシップ物だった。彼女はそれを取り上げると、あろうことか足蹴にしてビリビリに破いてしまったのだった。

 「あ……」

 「胸糞悪いったらありゃしねー! こんなモン、こうしてやって当然だ!」

 傍にトレーゼが居るのも忘れて、彼女は鬱憤を発散させてしまった。だから、我に返った時……

 「あ!? …………その、ゴメン、ついイラッとして……」

 もちろん許される訳ではない。他人の所有物を勝手に処分してしまったのだ、当然だろう。しかし、彼は全く怒った様子もなく、破れた紙面の一つを手に取ると、それをノーヴェの前に差し出した。それは以前に流出したのであろう、J・S事件の実行犯として彼女の顔写真が載っているページだった。プライバシー保護で両目を黒線で隠してはあるが、本人を前にして見ると嫌でも同一人物だと分かってしまう。

 「……これ、ノーヴェ?」

 「そ、それは…………!?」

 「同じ、違わない」

 「…………あぁ、そうだよ」

 半ば無愛想に言い放つと、彼女はその紙片まで取って破り捨てた。風に乗ってそれらは空へと上がって行ってしまった。

 「……次元犯罪者ってヤツさ」

 「社会の、基準では、そうなる」

 「幻滅したろ? さっきお前、あたしを助けてくれたけどさ、本当はあんなことされても文句言えねーんだよな……」

 「だが、過剰に、誹謗中傷がなされている」

 一応フォローしているつもりなのか、トレーゼの途切れ調の言葉が何故か耳に染み入るように思える。

 「優しいんだな、お前」

 「『優しい』? 分からない」

 「…………」

 「…………」

 「……プ! アハハ、変な奴だな、トレーゼって!」

 「?」

 「皆あたしらの言うことなんか信じちゃくれないのに、気遣ってくれたのは初めて……」

 「ノーヴェ、嘘は言いそうに、ない」

 そう言ったのを最後に彼は彼女に背を向けた。

 「もう帰るのかよ?」

 「『帰る』? 違う、行くだけ、帰らない」

 「ふーん、あ、そう。じゃあ、さよなら」

 「……さよなら」

 たったそれだけ言うと、彼は何の惜し気も無さそうに歩き出した。決まった歩調で歩くその後ろ姿はまるで良く出来たロボットのようでもあった。

 ノーヴェ自身もこのまま別れるつもりだった。しかし――、



 「……………………っ!」



 何故だろうか、彼ならば自分が常に抱えている不安を、この感情を受け止めてくれるのでは、と甘く下らない妄想が頭を過ったのだ。たった一瞬のことだったが、次の瞬間には自分でも知らぬ間に彼女は再びトレーゼの腕を掴んでいた。

 「ま、待ってくれ!」 

 「……何?」

 「……………………」

 「……?」

 「……あたしの言うこと…………信じてくれるか?」

 「?」

 「無理なら無理で良いんだ! ……ただ、誰かに……聞いて欲しいだけで…………」

 後半は生来の対人関係の苦手さが災いして尻すぼみ。さっきは記者を心の中でバカにしていたが、自分も全く同じ状況に陥っているのを自覚して今更恥ずかしくなってきてしまったのだった。

 「…………いい」

 「へ?」

 「聞こう、ノーヴェ、言いたいこと」



 後に彼女は語る。あの時ほどに他人と接して嬉しかったことはない、と。  



 だが、彼女はこの時は未だ気付かない。彼とは既に接触していたことを。これが二度目の邂逅だと言うことを。

 そして――、そのことに気付いた時に、新たな波紋を投げ掛けることになるのも…………まだ知らない。





 「ありがとうっ!!」

 彼女は生まれて初めて、精一杯の笑顔を湛えた。



[17818] 守護騎士-Wolkenritter- VS “13番目”
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 13:58
「うまいッス! 生きてて良かったッスよ」

 ウェンディとディエチの二人はセインやオットーとディードが仕事を終わらせるまでの間だけカリムの事務室に招かれていた。秘書であるシャッハが淹れてくれた極上の味を持つ紅茶を堪能しながら、談笑していた。

 「このお茶ってどこの葉を使っているんですか?」

 「確か第24管理世界で旬に収穫された物を使用していたはずよ。市販でも売られているから、覚えれば誰でも簡単に淹れられるわ」

 「こんな美味しいお茶が飲めるのに、ノーヴェはどこ行ってるんスかね?」

 「さっき誰か見掛けない方と一緒に学院のベンチに座ってお話してましたけど……」

 「へぇ、珍しいこともあるんだね」

 姉妹のことを完全に信用し切っているのか、稼働時間では姉に当たるディエチでさえも今は放任していた。優雅に紅茶を口に含むその姿は限り無く画になる。

 「…………ねぇ、ディエチ、ちょっといいッスか?」

 「何?」

 「もし私達姉妹に“兄弟”が居たら、どんな子になってたッスかね?」

 「兄弟? 男性体のナンバーズってことだよね?」

 「そうッス。あー、ピンと来ないなら聞き流してもいいッス、こっちも不意にそう考えただけッスから」

 「そう……」

 結局何を突き止めたかったと言う訳でもなく、その話題はこれでお開きとなった。ディエチの方もウェンディが唐突な事を言い出したりするのは今に始まったことではないので、このことも軽く放置した。

 そんな二人を尻目にカリムは窓の外に広がる寒空を見上げて物想いに耽っていた。カップに入っている紅茶もとっくに湯気が収まって冷めてしまっていたが、本人はそんなことは気にせずに呟きを漏らしていた。

 「もうすぐ『預言』の時期ね……」

 ミッドの天文情勢では数日以内に二つの月が最接近する予定だった。彼女の持つ古代ベルカのレアスキル『預言者の著書』は月の魔力が上手い具合にシンクロしなければ発動せず、どのように頑張っても発動周期は一年に一回が大原則である。そして、今年はこの季節に巡って来たと言う訳だ。

 「叶うなら……何事も起こりませんように」

 果たして、彼女の切なる願いを見知らぬ神が聞き届けてくれるのか、誰にも与り知らぬ所だった。



 






 丁度その頃、ノーヴェは学院の敷地内に設置されていたベンチに腰掛けていた。その隣にはつい先程知り合ったばかりであるトレーゼも座っているのが分かる。その片手には水の入ったペットボトルが握られており、これ自体は金を持っていなかった彼の為にノーヴェが奢ってあげた物である。

 そして、彼女は全て話した。もちろん、自分達の過去も暴露した上でだ。

 ――自分が今の現状に不安を抱いていること。

 ――自分がここに居て生活しているのは、本当は不自然ではないのかと思っていること。

 ――自分は……本当はここに居てはいけない存在なのではないかと言うこと。

 全て話した。途中で「他人に話して何になるのか」とも思ったりしてしまったが、それでも彼女は言い切って見せた。その間、トレーゼは一言も口を挟むことなく無言で聞き入ってくれていた。





 「――ってことなんだ」

 「…………把握した」

 話し終えた時には既に彼のボトルの中身は空になっており、言い終えたのを機に彼はそれをゴミ箱目掛けて放り投げた。流線形の軌道を描いてそれは見事に箱の中に入り込み、それを確認した後で彼は再び口を開いた。

 「俺は、ノーヴェが何を考えているか、分からない」

 「へ?」

 「正確には、『ノーヴェ』は『俺』ではない……と言う事実。人間に限らず、この世界に存在する全ての、存在は、自己とは違う他者を、真には理解、出来ない」

 「……? 何か良く分からないな」

 「平たく言えば、結局俺は、ノーヴェを理解することは、不可能、だと言うこと。もし仮に、俺が、ノーヴェと、同じ環境にいたとしても、他人である以上は、完全に分かり合うことは、出来ない」

 「そんな……」

 トレーゼの口から発せられた言葉に彼女は愕然とするしかなかった。やはり、直感などに頼って見ず知らずの他人にこの様なことを話しても結局は無駄だったのかも知れなかった。

 だが、そんな風に力無く項垂れる彼女をどう思ったのか、隣のトレーゼは再度口を開いて言葉を紡いだ。

 「だが……ノーヴェが、自分で何を望んでいるのかを、聞くことは出来る」

 「え?」

 「だから――教えろ、ノーヴェは、何がしたい? 自己の判断に、委ねろ」

 トレーゼが金色の瞳でノーヴェの同じく金色の瞳を凝視した。それと同時に彼女は会った時に感じた既視感を再び感じていた。どこかで出会った――もしくは、自分の知っている誰かに似ているのではないか、と。

 「返答せよ」

 彼が何の抑揚も無しに言うセリフもどこかで聞いたことがあるような気がしていた。しかし、当の彼女はそんなことよりも、ただ素直に嬉しかった。まだ相手は自分のことを許容してくれる、まだ少なくとも自分のことを理解しようと努力してくれている。その事実が心に染みた。

 「……あたしは……ただ、今の幸せが続いて欲しいだけ……」

 「――――『しあわせ』とは、どんな状態?」

 「スバルと一緒にギン姉からシューティングアーツ習って、ウェンディが馬鹿やってんのを笑って、ディエチやチンク姉から注意されたりして…………」

 「――――それで?」

 「うん……。こうやってたまに教会に来てセインとかオットーとディードに顔合わせたり、いつかドクター達が帰って来るのを待って……帰って来てくれてまた皆で笑っていられたら、あたしはそれでいいんだ」

 「――――それだけか?」

 「それだけ。昔のあたしならどんなコト考えてたのか知らないけど、今はそれだけでイイんだ。戦うことにも……何か疲れたってゆーかさ、思えばバカやってたなって今なら思えるし……」

 「……………………」

 ノーヴェが胸の内を吐露する間、やはりトレーゼは無言で彼女の言うことに耳を澄ませてくれているようだった。ただただ無言で聞き入るその姿はまるで彫像のように微動だにせず、その姿を見たノーヴェはすっかり彼に気を許していた。

 「はは、こんなコト言っても分かんないよな。でも、何でだろ? トレーゼとあたしって今日初めて会ったんだよな?」

 「…………あぁ」

 「前にどっかで会ってない? それもつい最近に……?」

 「……いや、こちらの都合で、つい先日、ミッドへ来たばかり」

 「ふーん、そっか。なんだか知らねーけど、他人みたいに思えねーんだよなぁ」

 「……気のせい」

 そう言う彼の目は限り無く冷めた感覚であり、雲一つ無い空を見上げているはずなのに何も映していないようにも思えた。だが、そんな目も彼女にとっては限り無く澄み切ったように見えていて、全ての汚れないものの象徴に見えていた。それほどまでにノーヴェはトレーゼと言う存在に心を許し切っており、それは彼女にさらに他人とは思えない感覚を抱かせるには充分だった。

 そんな二人の前に――、

 「ノーヴェさん、こんにちわ」

 一人の少女が近づいてきた。見た目は十歳前後で、眩い金髪と左右色違いのオッドアイが特徴的なその子供はノーヴェの良く知る人物だった。

 「おー、ヴィヴィオ。今帰り?」

 「うん! ママぁ~! ユーノさーん! こっちこっち」

 少女――高町ヴィヴィオは来た道の方を振り向くと大きく手を振った。その先では茶色の長髪をサイドポニーで束ねた女性とその隣に付き添う細身の男性が手を振り返していた。

 「……ヴィヴィオ?」

 「ん? あぁ、さっきあたしが話したのと同じ奴さ。“聖王の器”とかって呼ばれてたけど、今じゃ完璧にあの人の子供になってる」

 「…………そう」

 トレーゼはそれだけ聞くと後は興味無さ気に淡白に返しただけだった。

 「ヴィヴィオ~、一人で先に行っちゃダメだよ」

 「なのは、ヴィヴィオもいつまでも子供じゃないんだから、そんなに心配しなくても……」

 そう言いながら愛しい娘の元へと近づいて来たのは管理局の生きた伝説、不屈のエース・オブ・エース高町なのはであった。今日は恐らく愛娘の学芸発表会にわざわざやって来たのであろう、つい二日前には局で起きたテロ騒動の鎮圧に尽力していた一人だったのがその疲労を物ともせずにこうしているのだ。無限書庫の司書長であるユーノの方は友達繋がりで一緒に来たのだろう。

 「何言ってるのユーノ君、いつ何が起きてもおかしくないんだから。特にヴィヴィオのような小さい子供の周りは危険が一杯なんだからね」

 「フェイトのことを過保護って言ってたけど……こうして見ると君の方も結構過保護だよね」

 「そ、そんなことないってば。私はただ……本当に心配なだけで……」

 「分かってるって」

 傍から見れば新婚夫婦に見間違われるようなテンションの二人ではあるが、互いに歴とした未婚者である。だがヴィヴィオからすればなのはは戸籍上も心理的にも完全に親子であり、それと同時に最も接する機会が多いユーノも一番“父親”と言うものに近い人物であった。だから既に周りが何と言おうとも幼い彼女にとってはこの三人は立派な家族であることに間違いはなかった。

 「ママ! ユーノさん! 喧嘩しちゃダメなんだよ!」

 「ご、ごめんね、ヴィヴィオ……」

 「も~、ユーノ君の所為で怒られちゃったよ。……あっ、ノーヴェちゃん! 久し振り」

 「うぃっす、久し振り。ヴィヴィオも久し振り、元気にしてたか?」

 「うん! 元気だよ。……ねぇ、ノーヴェさん、その人だれ?」

 そう言ってヴィヴィオはノーヴェの隣に座っていたトレーゼを指差した。

 「…………」

 大してトレーゼの方は特に気にした風もなく、その光の宿らぬ双眸でじっと彼女の方を見つめていた。

 「こいつの名前はトレーゼって言うんだ」

 「トレーゼさん? ノーヴェさんのお友達?」

 「……いいや、今さっき、知り合った」

 「そうなんですか。でもすごい仲良くしてたし……やっぱりお友達ですか?」

 「……『友達』と言うモノは、理解できない」 

 「?」

 トレーゼの発言が分からないのか、ヴィヴィオは首を傾げるばかりだった。

 「ヴィヴィオ~、そろそろ行くよ」

 「は~い! じゃあまたね、ノーヴェさん! あっ、来週にもまた発表会があるから来てください!」

 「行ってやるよ、またな!」

 なのはに呼ばれたのを機にヴィヴィオは来た時と同じように手を振りながらノーヴェ達に別れを告げた。母の元へと走るその後ろ姿はどこまでも元気なもので、それはいつまでも変わることはないだろう。

 「…………」 

 再び二人きりになり、ノーヴェは間をもたせるつもりが逆に変な沈黙を流し込んでしまった。相手は特に気にしてはいないようではあるが、このままでは彼女自身の決まりが悪く思えてしまう。

 しかし、意外にもその沈黙を破ったのはトレーゼの方だった。

 「少し、外す」

 それだけ言うと彼はベンチから腰を浮かし、少し距離を置いた所まで離れて行った。

 「?」

 しばらく懐から出した端末のような物を弄っていたが、三分もしないうちに彼女の元まで戻って来るなりこう言った。

 「急用が、出来た。そろそろ、行く」

 「へ? ……あぁそっか。悪ぃな、引き留めたりして……」

 「問題無い、今からでも、間に合うから……。じゃあ」

 「ん。またな!」

 「…………あぁ、近いうちに……いずれ」

 最後の方は小声で聞こえなかったが、ノーヴェとトレーゼはそれだけの言葉を最後に――、

 「……あいつ、やっぱりイイ奴」

 別れた。



 






 「第二地下ラボに、向かう、航空戦力?」

 『Hurry up.(急行せよ)』

 「了解。念の為、ガジェットドローン試作Ⅴ型の、起動準備を」

 『Yes,my lord.』

 「敵性戦力の、解析。移動速度、相対距離、魔導師ランク……全て」

 『Analysing now.(現在解析中)』

 「こちらも、情報の大半は、入手成功。最重要サンプル、“聖王の器”及び、最重要警戒対象の視察、同時終了。No.9『ノーヴェ』に関しては…………」

 『My lord?』

 「……現段階においては、不要。恐らく、計画に恭順する、意思は無い」

 『Disposai.(処理せよ)』

 「しかし、現状において、No.9ほどに、戦力となり得るナンバーズは、存在しない。入手した情報には、肉体増強レベルSランクは、No.3『トーレ』と、No.7『セッテ』のみ。現在、この二人は無人世界にて、入獄中……。ドクター、No.1『ウーノ』、No.4『クアットロ』に並び、救出は極めて、困難。現状での最大戦力は、陸戦特化型ナンバーズであり、肉体増強レベルAAAの、『ノーヴェ』のみ。故に、処分は見送る」

 『Give her a brain wash to recommend.(彼女に対する洗脳を推奨する)』

 「……いや、現段階では、不可能。もう少し、接触を重ね、心理的に距離を詰める必要性、有り。所詮、今日は、この為に接触しただけ、ただの足掛かりに、過ぎない」

 『On ready at the completion,carry into action.(では準備が整い次第実行せよ)』

 「承認」

 『How do you cope a caution target of supreme importance?(最重要警戒対象の対処はどうする?)』

 「作戦は、既に立案済み。問題は無い。それよりも、現在は、敵性戦力の、排除が最優先事項…………。マキナ、空戦態勢」

 『Yes,my lord.』

 「――ナンバーズは、所詮は機械。所有者であり、創造主であるドクターの、“道具”。道具に、自分の意思なんか、不要。ただ使われ、用済みになれば、抹消される……それが、俺達の、存在意義」



 






 時を遡ること十数分前――。地上本部の一室にて。

 「それで、話しとは何ですか? 通信では言えないとか……」

 フェイトとヴィータを除くヴォルケンリッターが一堂に会する中、呼び出した張本人は椅子から立つこともなく忙しく作業をしていた。

 「えぇ、急を要しましたから。忙しいのにいきなり呼び出してしまって……」

 「前置きはいい。それで用とは何だ、フィニーノ」

 椅子に座って黙々と作業を続けていた女性――シャーリーことシャリオ・フィニーノは眼鏡を上げながらフェイト達に向き直った。

 「実はたった今マッハキャリバーの修理が終わりました。それで、皆さんに……特にフェイトさんには伝えておきたいことがあるんです」

 「私に……? もしかして、例の解析結果がもう……!?」

 「そのこともですけど、実は話があるのはマッハキャリバーの方なんです」

 「え?」

 シャリオがそう言ったのと、彼女が懐から蒼いクリスタル型に待機したマッハキャリバーを出したのは同時だった。元々足を切り離されただけでクロスミラージュに比べて損傷が少なかったこともあり、そのフォルムは既に傷一つなく修理されていた。

 『実は戦闘中に幾つか敵の情報を入手しました』

 「敵方の情報をか? しかし、それならば我々ではなく上層部に提供すべきではないのか? 少なくとも、あちらの方が情報を欲しがっているはずだ」

 『いいえ、私の独断でこの情報は貴方達に知らせた方が良いと思ったのです』

 「どう言うことなの?」

 『それは話すよりも実際に見てもらった方が早いでしょう。シャーリー、お願いします』

 「わかった」

 シャーリーの細い指先がコンソールのキーを打ってコードを入力してゆく。すると目の前にホログラムスクリーンが表示されて見覚えのある場所が映し出された。

 「ここって……」

 「地下大型搬入通路?」

 確かにそこに映っている薄暗い光景はつい二日前にティアナとスバルが激闘を繰り広げ、そして撃退された場所だった。

 『この映像は私のAIがバックアップで残しておいた11月9日の映像です。今映しているのは相棒が救出に向かっている最中のものです』

 視界に映る壁や天井が高速で動いているのはスバルが高速で移動しているからなのだろう。しばらく同じ光景が続いた後に、やっと最後の角を曲がり目的地へと辿り着いた。

 そして、視界に入ってきたのは地面に這い蹲る傷だらけのティアナと、今にも彼女の首を切り落とさんとする敵の姿だった。それを認識した瞬間に映像が大きくぶれて、次に正常に映った時には既に敵は壁に強く叩き付けられていた。親友の危機にスバルが間に入って蹴り飛ばしたと言うのがすぐに把握出来た。そこからは報告にもある通り、スバルがティアナに対して応急の治癒魔法を使って彼女の救出に当たった。

 「報告ではこの直後に……」

 フェイトがそう言うのとほぼ同時に映像が切り替わって視界のすぐ横にティアナが映り込んだ。スバルが肩を貸して移動しようとしているところなのだろう。すぐに録音音声に入っていた四輪の駆動音が画面からも聞こえてきている。

 だが、次の瞬間にはタイヤの回転を無理矢理止められて不調を訴える音が耳を突いてきた。場面はそのまま周囲の状況確認へと移り替わり――、

 「!? シャーリー、一旦止めて!」

 「は、はい!」

 フェイトの大声で映像が停止した。

 「どうしたのだ、テスタロッサ?」

 「これを見て。拡大して」

 そう言われてシャーリーはすぐに指摘された部分の映像を拡大、解像度を上げることも忘れない。徐々に解像度の率を上げてゆき、そこに何が映っているのかがハッキリしてきた。彼女が指摘した箇所に映っていたもの……それは――

 「これは……!?」

 「魔方陣? ……いや、テンプレートか!」

 そこに映っていたのは見覚えのある幾何学的紋様、三年前までは敵同士であったナンバーズの面々が固有能力ISを発動させる際に発現させた疑似魔方陣だった。網膜細胞を刺激する真紅のテンプレートからは一筋の光の糸のような物が伸びていて、一目でそれがバインド系の魔法だと言うのも分かった。しかし、その真紅のテンプレートから放出されるそれにフェイトは見覚えがあった。

 「……かつてスカリエッティが使用したものと同系統の魔法!? 何故敵がそれを使用出来る?」

 「ううん、問題はそこじゃないわ。私もティアナの治療には携わったけれど、生身の人間がたった一発の殴打で人の肋骨を粉砕骨折できると思う?」

 「つまりは何が言いたいのだ、シャマル?」

 「現場には一切の魔力反応の検出は無し……明らかに人外レベルでの身体能力とIS…………これだけ言えば分かるはずです」

 「戦闘機人……。それもスカリエッティの製造理論によって生み出されたものか」

 シグナムの呟きが皆の耳に届く。

 全ての機人がISを使える訳ではない。ISとは即ち先天固有技能、それは読んで字の如く遺伝子上の関係で生まれながらに持ち合わせる所謂レアスキルの類である。ナンバーズのものはもちろんのこと、スバルの振動破砕然り、ヴィヴィオの聖王の鎧然り、フェイトやエリオがもつ魔力を電力に変える変換資質然り、アギトやシグナムの炎熱変換なども言うなれば一種の先天固有技能に当たる。これらは全てDNAに含まれる特殊な遺伝子が作用し発現することで能力として開花するのだが、彼女らナンバーズの場合は創造主であるスカリエッティが独自に編み出した生命工学と戦闘機人製造方法に基づいて造られている。そしてその方法によって生み出された機人達は皆例外なく活性化された特殊遺伝子を組み込まれており、その結果としてISを使用出来るに至るのだ。つまりは今画面に映っている敵方も彼女らと同じくその理論に基づき製造された可能性が限り無く高いと言う結論に至る。

 「このことを上層部には……?」

 「通達出来る訳がない。テスタロッサも、そのことで懸念しているのだろう?」

 「はい……」

 「そうですか。そうですよね…………映像、続けますね」

 そう言ってシャーリーは映像を再生させた。続きはスバルが敵のバインドに掛かってしまい、猛襲を掛けてきた敵からティアナを庇って彼女を突き飛ばした所からだった。しかし、そこから先はすぐに映像にノイズが走って二度と映ることは無かった。

 『あの後で相棒は一瞬の隙を突かれて昏倒、四肢を切断されてしまい私のAIも一時的に停止してしまいました。ですから、私がお見せ出来るのはここまでです』

 「いいや、敵の正体が知れただけでも大きな違いだ。礼を言うぞ、マッハキャリバー」

 「それなんですけど、これとは別件でフェイトさんに知らせておかないといけないことがあって……」

 「何なの、シャーリー?」

 フェイトが問うと彼女はすぐにデスクの引き出しから一枚の書類のようなものを取り出してきた。

 「以前頼まれた写真の解析処理の結果です。取り合えず写真の方を重点的にしたんですけど、薬品の浸食が意外に激しくて完全には処理し切れませんでした」

 彼女が渡したのはつい数日前に彼女が秘密裏に解析を頼んでおいたものであり、ヴェロッサが任務先で検挙したコクトルスのラボにあったものである。培養液の薬品によって劣化していた為にやむなく時間を掛けて解析することにしていたのだ。

 「これが……アコース査察官が言っていた……」

 そこに載っている写真には無表情極まりない一人の少年の顔が映っていた。確かに身体的特徴は以前彼が証言してくれたものと全く同じだった。金色の瞳と紫苑の短髪、そして陽光を知らない白磁の肌――全てが言っていた通りのものである。

 「…………この顔……」

 しかし、初めて見る顔のはずなのに彼女は強烈な既視感を覚えていた。以前――過去に何回か――それも極々最近に、自分は酷似した人間と顔を合わせている…………直感ではなくて本当にそう感じていたのだ。しかも何故だろう、その人物を思い出そうと記憶を探ると同時に強烈な苛立ちを覚えてしまうのだ、まるで、自分はその人間のことを無意識に避けているかのように……。

 「ん? どうかしたのか、テスタロッサ?」

 「いえ……何でもありません」

 「ならいいが……」

 『待ってください、得ることに成功した情報はこれだけではないのです』

 「まだあるの?」

 「はい。実はティアナの証言だと交戦中に敵がAMFを……それもかなり高濃度で強力なものを使用していたみたいなんですけど……」

 それはフェイトも直接彼女から聞いてはいる。カートリッジをロードしていなかったとは言え、彼女の魔力弾を一瞬で無効化して掻き消すレベルともなれば相当なものであるのは容易に想像がつく。

 「正確には……AMFに酷似した魔法を使用していたらしくって……」

 「酷似? AMFとは違うってこと?」

 「はい。ちょっと待ってくださいね」

 そう言ってシャーリーがマッハキャリバーの記録とは別に映像を映し出す。それはある規則的な波線形を描くグラフで、ここに居る全員は一目でそれがAMFの魔力波長を表したものであると勘付いた。

 「知ってると思いますけど、AMF――アンチ・マギリンク・フィールドは従来の魔導師や騎士たちが使用する魔力波長と全く正反対の波長をぶつけることで魔力結合や魔力効果発生を無効化するAAAランク魔法防御です。上手い具合に波長がぶつかり合えば、より効果的に相手を無力化して、理論上はリンカーコアに多少の影響を及ぼすことも出来るんですけど…………」

 さらに彼女はもう一つのグラフ映像を出してきた。

 「これは何とか生きていたクロスミラージュのAIから交戦のデータを取り出して解析を加えたものなんですけど……。もう、分かりますよね?」

 「あぁ……」

 皆が一様に頷く。そこに映っていたグラフは先に表示されたAMFのものに比べて乱雑で、規則性の欠片もない波長を示していたからだ。

 「これが交戦中に敵が使用した『AMFに酷似した魔法』の魔力波長です。一見別物の魔法に見えますけど、大まかな波長の振れ幅や仕様が共通していて全くの別物ではないんです」

 「明らかにガジェット等の機械が起こした単調なものではなく、人為的に出力調整がなされているな。下手に大出力で迫る機械共に比べるとこう言う奴は余計に性質が悪い」

 「あと……もう一つ気になる点が……」

 「まだあるんですか?」

 「はい。通常のAMFと大きく異なる点があって……。さっきも言いましたけど、通常のAMFは相手の魔法を無効化する為に魔力を外部に向けて放出、相殺させるのが目的の高位魔法です。それがこの場合、不思議なんですけど……魔力ベクトルが内側に向かって作用しているんです」

 「内側だと!? 外側ではなくて内部に向かって作用するなどと言うことがあり得るのか?」

 「いえ、もちろん外側に向かって作用している部分もあるんですけど、全体魔力量の約70%以上が内側のベクトルを向いています。おまけにこの魔法は解析していて判ったことですけど、常時微弱展開されていて、ティアナの魔力弾のように指向性のある攻撃がなされた場合にのみその方向へ出力を集中させることまで可能なようなんです」

 映し出された映像はマッハキャリバーのものに特殊処理を施したもので、不可視の魔力に着色処理が掛けられているものだった。ティアナを救出する場面の映像では敵の体の周囲を薄い真紅の魔力壁が覆っており、それが展開されている魔法だと分かる。

 「つまり、ガジェットのように垂れ流しにするんじゃなくて出力調整を行うことでエネルギー効率を改善しているってことかしら。だとすればこの戦闘機人にはAMFを展開させる為にガジェットと同じように魔力結晶が……?」

 「いいえ、現在解析されている限りでは体内に魔力結晶が埋め込まれている様子はありませんでした。代わりに内包している魔力値がとんでもなく大きかったですけど……。恐らく、ギンガやスバルみたいにリンカーコアを持ち合わせた人造魔導師的な存在なのではないかと」

 「やっかいな相手だな……。相手が戦闘機人、それもスカリエッティ製のものとなると迂闊に上層部に通達するわけにもいかんからな。かと言って、ここまで大事になってしまったからには秘密裏に捜査を進めると言うのも難しい話ではあるが……」

 手っ取り早い話が現状では下手に動かずに様子を見るより他ないと言うことだった。今はただ静かに相手の出方を静観するしかない。

 『…………すまないが、少し良いか?』

 すると今までずっと沈黙を保ってきたザフィーラが念話で言葉を投げ掛けてきた。

 「どうしたの、ザフィーラ?」

 『うむ、先程の……コクトルスで査察官を襲ったと言う奴の写真を見せてもらえぬか?』

 「構わないけど……」

 フェイトはすぐに守護獣形態の彼に見えるように腰を屈めて写真を見せた。改めて見ると写真は所々が薬品の効果が抜け切らずに滲んでいる箇所がまだ目立っていた。しばらくその写真を見つめた後、彼は今度はシャーリーに向き直った。

 『マッハキャリバーの映像をスバルが急襲された所まで早送りしてくれ』

 「あ、はい」

 ザフィーラの要求に彼女も素直に応える。すぐに映像を問題の場面まで進ませる。

 「これでいいですか?」

 『いや、もう少し……あと数秒程…………そこだ!』

 彼が最終的に停止したのはスバルが倒したはずの敵を目視、ティアナを突き飛ばした場面であった。

 「ここがどうか……?」

 『そこだ! そこの敵のフードの隙間を出来るだけ拡大してくれ』

 そう言われてすかさずその部分の拡大に移る。拡大した始めはモザイク画のような映りとなっていたが、すぐに解像度処理がかかりその部分の詳細が明らかとなり――、

 「これは……!?」

 「まさかな……」

 『やはり、そうであったか』

 そこに映っていたもの、フードの隙間から覗く金色の眼光と紫苑の髪――紛うことなくそれは写真の人物そのものだったのだ。



 そしてその場に居た全員が驚愕の相を示したのと、シャマル以外のヴォルケンリッターに管制室からの招集命令が下ったのはほぼ同時だった。



 






 そして――、時と場所は移り変わる。

 クラナガンから離れた廃棄都市区画。今では使われることもなくなってしまったビルが立ち並ぶこの場所は、かつて何度も戦いの場所にもなっていた所だ。既に放棄された場所なので全壊した建物は修理されることもなく、当時の爪痕を生々しく残したままだ。

 そんな灰色砂漠の上空に人の形をしたものが三つ確認できた。いや、それらは本当に人間の姿をしており本当に両足を地に着けることなく地上から離れた空の上で直立していたのだ。三人が三人とも変わった意匠の服に身を包んでおり、唯一の男性を除いては二人とも手に武器を構えていた。

 「それで? 問題のエネルギー反応があったのはどこなんだよ」

 その内の一人、一番年格好が幼い少女がぶっきらぼうに聞いてきた。目に痛い程に強烈なスカーレットの衣装――バリアジャケットを着込み右手には無骨な彼女のアームドデバイスである『グラーフアイゼン』が握られている。

 「管制室からの指示ではこの辺りで反応があったらしいが……。その反応自体が途中で途切れているらしい」

 「ようするに、尻切れトンボってことか。上の奴らの索敵なんてたかが知れてるな」

 「口には気をつけろヴィータ。我々の精神リンクは主はやてではなく局のシステムに直結されている。ここでの会話は全て管制室に届いているのだぞ」

 唯一非武装の男性は徒手空拳の手錬なのか両手に重々しい篭手が装着されているのが分かるが、それよりも目を引くのが肌色の皮膚の代わりに蒼い毛が生えて先端が尖っている獣の耳だった。どうやら偽物ではないらしい。

 最後の一人は白銀の長剣を腰に差した麗人だった。束ねられた桃色の長髪が風に揺れている姿が古代の戦乙女を連想させる美しさを醸し出す。

 彼らこそ最後の闇の元保有者にして夜天の主、八神はやてに忠誠を誓いし人の形をした人成らざる者達――守護騎士『ヴォルケンリッター』である。数百年の長きに渡る悠久の時を存在し続けてなお人間の心を持つ彼らからは歴戦の戦士としての威厳と風格が漂い、ここが古代ベルカの戦場ならば間違いなく敵味方問わず畏敬の眼差しを以て見上げられていたはずだ。

 しかし、今や彼らは主であるはやての指揮下から強制的に外され、半ば互いに互いを人質にされた状態で上層部の都合の良い駒へと成り下がってしまっている。

 「んなこたぁ分かってるって。さっさと潰すモン潰してはやてが一日でも早く帰ってこれるようにするよ」

 「さすれば、今やらねばならぬことは一つだ」

 「あぁ。今はただ大人しく、それでいて迅速且つ正確に与えられた任務をこなす。それが今の我々の成さねばならぬことだ」

 だがそれでも彼らの固い結束と主に対する熱い忠誠心まで譲った訳ではない。闇の書が消滅して、プログラムではなくなってその肉体は徐々に人間に近付く度に昔に比べて脆弱になってしまってきたいるが、そこまで落ちぶれる程にまで地に堕ちた訳ではないのだ。

 「管制室、指定ポイントはここで間違いないか?」

 すぐにスイッチを切り換えてシグナムは地上本部の管制室に連絡を取る。既に現場周辺に到着してから十分が経過してその間ずっと探知魔法や探索を行ってはいるが、出動前に通達されたようなエネルギー反応は何一つ感知出来なかった。

 「おいおい、まさかカラ出撃でしたなんてオチじゃねーだろーな?」

 「だが局はこの廃都市区画で正体不明の反応を検知したと言っている。まさか嘘は言わんだろう」

 ザフィーラの言う通りだ。いくら彼らが局内で毛嫌いされているとは言えここまで露骨ないやがらせはしないだろう。



 しかし――、



 「――ん、おい! 管制室、応答せよ。こちら首都航空隊第14部隊副隊長、シグナム二等空尉だ!」

 「どうした、シグナム?」

 「おかしい……本部との通信が途絶えた」

 「はぁ? ……………………ほんとだ、繋がらねぇ。何でだよ!?」

 突如として地上本部との通信が完全に遮断されてしまったのだ。何の前触れも警告も無しに唐突にだ。通常有り得ることではない、何かあったのではないか。

 「控えの後続部隊とも駄目か……。取り合えず、ここは私が一旦様子を見て来よう。お前たちは引き続きここで警戒と探索を頼んだ」

 シグナムが髪を翻し、空中で踵を返す。ここから後続部隊が控えている所まではざっと数百メートル、彼女のスピードならばものの数分で急行出来るはずだ。

 いざ行かんと彼女が足元に推進用の魔力を集中させたその瞬間、

 「シグナム! ヴィータ! 散開しろ!!」

 響くザフィーラの怒号、それと同時に三人は一斉にバラバラの方向へと飛び跳ねた。

 ――そして、彼らが回避したのと、その間を天空から降り注いだ真紅の破壊光が貫いたのは同時だった。

 「何者だ!」

 「敵に決まってんだろ!」

 「だが、探知魔法には何も……!」

 三人は混乱しながらも一斉に攻撃が飛来してきた上空を仰ぎ見た。始めはどこに居るのか分からなかったが、目を凝らすことによってようやく対象を確認することができた。

 それは荒野を歩く死神の如く全身を黒く巨大な布で包み隠した人影であり、その隙間から見える足首には紅いエネルギー翼が展開されていた。そして一番目立つのが相手が構えている長大な武装だった。明らかに自分よりも大きくそして重量もあるはずの黒光りする砲身を片手だけで持ち上げており、こちらに向けられている銃口からはまだ熱い煙が吹き出ているのが分かる。

 「あいつ……何モンだ」










 「IS、No.10『ヘビィバレル』、解除。指定区域全域に、プリズナーボクスを、発動」

 『Yes,my lord.』

 少年の持つ巨大な砲身から電子音が聞こえてきた。次の瞬間にそれは黒い金属立方体へと変貌し、その手に収まってみせた。とてもあれだけの質量とサイズが収まっているとは思えない程の変わりぶりだが、今はそんなことを指摘している場合ではない。

 「敵性戦力の、魔導師ランクと、戦闘スタイルは?」

 『Near“S”. Battle style is“BELKA ”. (ニアSランク。戦闘スタイルはベルカ式)』

 「……純粋接近戦特化型。現状では、直接戦闘は、得策ではない。マキナ、作戦変更、第二地下ラボは、破棄する」

 『Are you OK?(よろしいのですか?)』

 「代わりに、ガジェット試作Ⅴ型は、第一ラボへ転送。転送魔法発動まで、ここで抑えれば、いい」

 『Estimate the required time is about ten minute.(推定所要時間は約十分)』

 「問題無い。マキナ、『フローレス・セクレタリー』、『ライドインパルス』、『シルバーカーテン』、『ツインブレイズ』……この四つは、常時発動。高濃度AMFも、展開。後は、状況に応じて、使用する」

 『Yes,my lord.』

 立方体がそう電子音で応えるのと同時に少年はマントの下から二振りのスティックを取り出した。構えると同時にエネルギーが集中し、紅いレーザーの刀身が伸びるそれはかつてナンバーズNo.12のディードが使用していた武装と全く同種のものだった。

 「No.13『トレーゼ』、目標を、『眼前敵の完全沈黙・または制限時間までの耐久』と、設定。ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』に、リンカーコアの、第一拘束制限術式の限定解除を、申請する」

 『Approval.“――”limit releace.(承認。『――』の制限を解除する)』

 空中で待機するその足元に真紅の多重円形幾何学紋様が展開される。その足首から発生している鋭利なエネルギー翼が同じようにして両手首にまで発生、凶悪な空を切る音が辺りに響く。

 「交戦、開始」

 『Drive ignitio』










 一方では構えた黒衣の敵を下方から凝視していたヴォルケンリッター達が相手が構えの取ったのを見て、こちらも臨戦態勢へと突入した。

 「今は相手が何であろうと構わん! この状況で敵対する意思を見せるなら、それは敵だと言うことだ!」

 「そうだな! いっちょ、やるか!」

 ザフィーラが拳を握り締め、シグナムとヴィータがそれぞれ『レヴァンティン』と『グラーフアイゼン』を構えてカートリッジをロードした。周囲に廃気孔から吐き出された白い蒸気が充満する。

 「行くぞぉ! 夜天の主に仕えし守護騎士、ヴォルケンリッターが一角! 『盾の守護獣』、ザフィーラ!!」

 「同じく、『烈火の将』シグナムと、我が魂『炎の魔剣レヴァンティン』!!」『お任せください、我が主!』

 「同じく! 『紅の鉄騎』ヴィータと! 『鉄の伯爵グラーフアイゼン』!!!」『了解した』

 三者三様、十人十色。明確な宣戦布告を以て、今――、

 「「「参る!!!!!」」」

 戦いの火蓋は切って落とされたのだった。



 






 同時刻、先端技術医療センターの集中治療室にて。

 「あの、ヴァイス陸曹……本当に良かったんですか?」

 「ん~? 何がだ?」

 センターを訪れていたヴァイス・グランセニックとティアナ・ランスターは、現在二人きりでこの空間に居た。密室で二人の男女が……と言うと何やら雲行きが怪しく思えるが、別に逢瀬でこんな殺風景な場所まで来る訳も無く、ここに来た理由は……

 「わざわざ私の検診に付き添いで来て頂いて……」

 「良いってことよ、気にすんな。こっちもJ・S事件やマリアージュ事件が解決しちまって、武装隊としてもヘリパイロットとしても仕事が全然なくて暇だったんだ。それに、お前もこんな体じゃ満足に動けないだろ?」

 そう言って笑うヴァイスは今、彼女の丁度背後に立っていた。ただ立っているのではない、車椅子に座っているティアナを後ろから支える為にこうして手を貸しているのだ。二日前に彼女が怪我を負って、その翌日には無理を押して復帰した時からずっと付き添いでサポートを行ってくれている彼は自分の時間の大半を彼女の為に費やしてくれていた。実際彼が言うように武装隊の仕事は殆ど無いに等しいのだが、パイロットの仕事はそうでもない。物資や要人警護に犯人の護送などがあり、やることは山積みなはずなのだ。それなのに献身的に支えてもらっており、ティアナ自身としては感謝してもし切れないばかりだった。

 「でも……ラグナちゃんは放っておいたりしていいんですか?」

 「それなんだよな~。実はさ、お前が大怪我したってのを知ったら、あいつ凄い剣幕で俺に怒鳴ってきたんだよな~」

 「何て言われたんですか?」

 「ん~とな……家に帰って早々、『ランスターさんの所に行かないでどうして戻って来たの!!』って言うんだ。一応見舞い代わりに顔は見せたって言ってやったら、『そんなのじゃなくてちゃんと傍に居なきゃダメでしょ! ランスターさんは体が不自由なんでしょ? だったら付き添いとかしなきゃダメ!!』ってよ……」

 「は……はぁ?」

 「『私よりも、お兄ちゃんはランスターさんを大事にしてあげて!』だってよ。どーゆー意味かさっぱりなんだけどよ~、あいつってあんなにお前に懐いてたっけ?」

 「さぁ? 何度かラグナちゃんには会ってますけど、別に嫌われた様子は全然ありませんでしたけど……」

 「だけど、『私よりもランスターさん』ってのが引っ掛かるんだよな。この前もお前と一緒にツーリングしに行く予定だったときも、朝叩き起こされたしな」

 「そ、そうですか……。それは……まぁ、災難でしたね……」

 ティアナはここには居ない彼の妹に賛辞を述べた。そして思う、彼女は歳の割には出来た子であるとしみじみ感じた。彼女の想い人はそれ位してもまだ自分の『本心』に気付いてくれない程の朴念仁なのだ。思い出すだけで何故か涙が出て来てしまうのは花も恥じらう乙女の今までの苦労が密かに語られているのを示していた。

 「ん? どうした、具合でも悪いのか?」

 「いいえ……何でもありません…………」

 つい今までのことを振り返って涙してしまったが、なんとか悟られずにすんだ。そして、小さく誰にも聞こえないように「バカ……」と呟いたのだった。

 「さぁ~てと、検診も終わったことだし、そろそろ戻るか」

 「あ、待ってください。まだスバルの面会が残ってますから、そっちを済ませてからにしてください」

 「そうだったな。ほらよっと!」

 「うわわ!? もう少し丁寧に動かしてくださいよ!」

 「わりぃ、ちょっと加減間違えた」

 「もう……」

 ヴァイスに車椅子を押してもらい目的の場所まで二人は一緒に行くことにした。だが車椅子に乗っている彼女からしたらすぐ背後に想い人が居てくれているのは安心出来るのと同時に常時緊張状態に陥ることでもあり、自分でも血圧と脈拍が急上昇しているのが手に取るように分かってしまっていた。彼はどう思っているのかは知らないが、少なくともこちらとしては気恥かしさがピークに達したままで、このままではどうにかなってしまうのではと本気で考えてしまう。途中で誰でも良いからすれ違わないかと思って周囲を見渡しても……

 (何でよ…………)

 本日晴天なり。窓からは眩い陽光が差し込んでさえずる鳥たちも見えているのに、何故かこの通路には誰一人として居なかったのだ。いつもは忙しく医療スタッフが行き来しているはずなのに……

 (どうしてこう言う時に限って……!)

 途中で階を移動するのに乗り込んだエレベーターですら当然と言わんばかりに二人きり。もうこのまま面会時にまで二人きりだったら血圧上昇で古傷が開いて入院……などと考えていた時に、

 「お? 先に来てる奴がいるな」

 神は居た。面会ルームに入ると、そこには三人の先客が居たのだ。それも三人とも良く知っている人物ばかりだった。

 「なんだ、お前らも来てくれていたのか」

 「ティアナじゃない。会うのっていつ以来かしら?」

 『久し振りだなランスター。それとグランセニック。と、我がマスターは申しております』

 白髪頭の壮年男性――ゲンヤ・ナカジマ。深い藍紫色の長髪を靡かせて微笑む女性――ギンガ・ナカジマ。そして彼女の婚約者にして陸士108部隊のエース――カイン・ヤガミ。ナカジマ家の見知った面々を目にして、ここに来て初めて彼女は真の落ち着きを得ることに成功したのであった。

 「はい、お久し振りです。ゲンヤ・ナカジマ三等陸佐、ギンガ・ナカジマ陸曹、カイン・ヤガミ一等陸尉」

 「お前さんも相変わらず固い奴だなぁ。仕事場じゃねーんだからイチイチ名前に階級付けて喋らなくて良いんだぞ?」

 「いえ、やはり直接ではないとは言っても上司ですから」

 「ま、いいけどな。ここに来たってことは……お前さんもうちのスバルの見舞いに来てくれたってことか?」

 「はい……」

 「ありがとうね、ティアナ。私達よりも、やっぱり友達が来てくれた方があの子も喜ぶかも知れないわ」

 そう言ってギンガの視線がある一方を向いた。それに伴って全員が同じ方向へと目を向ける。その方向には壁に大きなガラスが嵌め込まれており、この部屋全体が隣の部屋の様子を一望できると言う造りのもので問題の隣室からは電灯の光が溢れていた。その部屋をもう少し良く見てみると、様々な機器が清潔感ある白い空間を所狭しと占領しているのが分かり、その中心に――、

 「スバル……」

 白いシーツの敷かれたベッドの上で昏睡する藍色の髪の少女――スバル。微動だにしない彼女の口元には酸素マスクが取り付けられており、マスク内にこもる吐息が水蒸気となっているために彼女が辛うじて生きているのが見てとれる。しかし、眠っている彼女のベッドから少し距離を置いた位置に安置されている強化ガラス製の密閉ケースには本来彼女の四肢を担っていなければならないはずの物体――手足が入っていた。腐食などが進まないように右手と両足がそれぞれ液体保存剤の中に封入されているが、切断面からは骨ではなくて機人特有の金属と機械のフレームが生々しく飛び出していた。恐らくは彼女の体のほうの切断面も同様のことになっているのだろう。

 「…………だから俺は入局には反対だったんだ」

 ゲンヤの苦々しい呟きが耳朶を打つ。しかし、そんな彼の呟きもガラス越しの娘にまでは届くはずもなく、二日間生死の境を彷徨っている彼女の精神を覚醒させるには至らなかった。

 「……担当医さんの話しだと、峠は越えたらしいんだけど……目覚めるにはまだ時間が掛かるって……」

 「……そうですか。…………やっぱりあんたはバカよ、格好つけて私なんか庇ったりするから……。先に戦ってた私より、助けに来たあんたの方が重傷って…………」

 あの時、自分が苦戦などしていなければ……。

 そう考えるティアナは傷口が痛むのも忘れて静かな怒りと自責の念から拳を強く握り締めた。

 『四肢の件については第一優先で治療が進められてはいるらしいが、ハッキリ言って完全復帰の見込みは限り無く薄いそうだ。と、我がマスターは申しております』

 「え!? それってどう言う……?」

 「これが普通の人間の手足なら時間を掛ければ問題ないんだ。……ただ、スバルやギンガのように生身の部分と精密機械がここまで緻密に融合してると、完全な再生は凄く困難らしい」

 「単純に肉体医療と機械工学の両面から考えても、機械部分の部品交換や修理、切断された血管とか神経も正確に繋げて、その上で基礎フレームの電気信号を伝達させる為の電子回路まで完璧に接続させるって言うのは…………今のミッドの技術では限り無く不可能だって言われてるの」

 「それじゃあ……もしこのまま目が覚めても、スバルは……」

 「一生左腕だけだろうな。義肢は付けるのかも知れんが、どの道そんな体じゃ防災課のチームからは確実に降ろされるな」

 災害を未然に防ぎ、それで困っている人間を救う――。それはスバルが何にも譲れない望みであると同時に目標だったはずだ。それが叶えられ、彼女は大きく羽ばたいている長い道程の最中だと言うのに、その努力はこんな所で無残にも断たれてしまおうとしているのだ。腐れ縁の親友として、共に戦い抜いた戦友として、そして彼女を一番近くで見てきたティアナにとって、その事実は我が身に起こった出来事のように辛く彼女の心を蝕んでいた。

 「……お前さんが気にした所でどうしようもねぇ。そんなことよりも、今はあいつに感謝してやってくれないか。その方があいつも喜ぶからな。…………ところで、傷は大丈夫なのか? さっきから気にはなっていたんだがよぉ……?」

 「あぁ、はい。一応大丈夫です」

 「一応……?」

 ゲンヤ達が怪訝な顔をしたままなので、口で説明するよりも実際に見てもらった方が早いだろうと言い、彼女は行動に移した。いきなり胸元のチャックに手を掛けると、それを下手に刺激しないようにゆっくりと降ろし始めたのだ。思わず倫理的に目を逸らさなければいけないように感じてしまうが、問題は制服の下に隠されていたものだった。

 「まぁ、こんな感じです」

 彼女の両胸はブラジャーではなくて、素肌に直接包帯を巻き付けた所謂サラシの状態となっていた。それはそれで扇情的ではあるが、注目すべきはそこではない。その胸部の丁度中心に輝いているのは魔方陣――鮮やかな青磁色をした掌大のベルカ式魔方陣がゆっくりと回転しているのだ。その光を見ていると疲れが無くなるように感じるのはこの魔法が強力な治癒魔法だからだろう。

 「シャマルさんのお手製です。なんとかこれで痛覚を誤魔化して細胞を活性化させて無理のない自然治癒を行っている最中なんです。たまにちょっと痛い時がありますけど……」

 「心配すんな。その為に俺が付いてるんだからよ」

 すぐ後ろからヴァイスが「任しとけ!」と言わんばかりに胸を張る。こう言うときは頼りになると分かっているので彼女は素直に任せることにした。伊達に六課時代に背中を預けた訳ではないのだ。

 「とにかく、こいつが目ぇ覚ましたらどうするかだ」

 『いくら根が明るいポジティブさがあるとは言え、自分の夢が潰えたとなれば立ち直れるかどうか分からん。と、我がマスターは申しております』

 確かに彼らの言う通りだ。如何に底抜けに明るい性格のスバルとは言え、今度ばかりは大丈夫でいられるかどうかは自身がない。

 そんな中で、ティアナはさっきからずっと黙って妹の様子を見ているギンガへ目が行った。いや、良く見ると彼女はじっと自分の左手を穴が開く程見つめているのだ。

 「どうかしたんですか? 具合でも……?」

 ヴァイスに車椅子を押してもらって彼女に接近すると、ギンガのほうからおもむろに手を差し出されてきた。余りに唐突だったので一瞬仰け反りそうになってしまったが。

 「ところで、私の左手を見て。これをどう思うかしら?」

 「すごく……綺麗です」

 確かにギンガの手はデバイス上の関係から両腕をかなり酷使するはずなのに、シミや汚れ一つ見当たらない。単に綺麗好きなのか戦い方が上手いのかのどちらかだろうが、今この場面でそんなことを聞いてくる理由が分からなかった。

 「ありがとう。……………………やっぱり、あの人しか居ないのね……」

 「え……? それってどう言う意味ですか?」

 ギンガの呟きをティアナは聞き逃さなかった。すぐに彼女の口から発せられた「あの人」と言う単語が引っ掛かる。

 「…………ひょっとしたら、スバルの手足……完全に治せるかも知れない」

 「何だって!?」

 「おいおい! それは本当か、ギンガ!?」

 今度はゲンヤとヴァイスも同時に反応した。それに彼女は今何と言った? ――スバルの手足を治せる可能性がある、と言わなかったか!? だが彼女はこんな状況で嘘や冗談を軽々しく口にするような人間ではないことは重々承知している。何の根拠も無しにこの様なことを喋った訳ではないだろう。

 しかし、ミッドの医療技術と機械工学の粋を決したとしても困難極まりないと言うのに、「完全に」治せる人間がこの世に居るはずがない。所詮は苦し紛れの戯言なのかと失望しそうになっていたが、その時カインも進み出てくるなりこう言ったのだった。

 『奇遇だなギンガ、実は俺にも一人だけ心当たりがある。と、我がマスターは申しております』

 「それマジかよ? 一体誰なんだ?」

 「…………確証が無い上に、今はミッドには居ません」

 「他の次元世界に居るってことか? なら管理局権限とか何とかで呼び出せば……」

 『いや、今となってあいつに頼るのはかなり難しい問題だ。下手をすればミッドの治療で完全治癒するのと同等に困難だろうな。と、我がマスターは申しております』

 「そうね……。せめて、はやてさんの助けがあれば……」

 そう言って再びギンガは自分の左手を見つめ直した。

 かつてナンバーズに切断され、今は傷一つ無く再生した自分の左手を……。

 『…………義姉さん、貴方はこんな所で潰える人間ではない。と、我がマスターは申されております、はやて様』



 






 「ラケーテン……!!」

 アイゼンの先端、鎚の部分が変形して無骨な推進機構が露わになった。魔力を燃焼させて出る強力なジェット噴射で一気に加速・回転して小さな体躯から生み出される莫大な遠心力の全てを突貫力へと変換させて――、

 「ハンマァアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーッ!!!」

 ベルカ墨付きの破壊力を誇るヴィータの十八番、【ラケーテンハンマー】が大炸裂。ひび割れたアスファルトの大地を完全に崩壊させるには充分過ぎるエネルギーを周囲にブチ撒けて見せた。

 爆音にも似た轟音の後で撥ね上がるアスファルトやコンクリートの細かい瓦礫、そして辺りを覆い隠す程の砂煙。それだけで彼女の実力の一端が覗える。

 しかし、灰色の煙を引き裂いて一筋の影が飛び出てきた。それは空中を鼠花火か何かのように複雑な軌道を描きながら高速で移動し、彼女との相対距離を離す。

 「くっそ! ゴキブリみたいにチョロチョロしやがって!」

 「開戦から既に数分……相手にただの一撃も与えられていないぞ」

 「分かってるけど、あいつがすんげぇ速く動くから……」

 「確かにそうだな」

 ヴィータの言い訳も無理はない。黒衣の敵は二本のブレードを構えてこそはいるが、一撃必殺の威力をかまして来るヴィータの攻撃を全て寸前の所で回避し、自身は精々いなす程度にしか武器を使ってこないのだ。そして一番の問題はその回避速度である。単に素早いだけではないことはもちろん、単純なその速度は戦士として鍛え上げられたヴォルケンリッターの視認速度を遥かに凌駕していた。現時点では辛うじてシグナムが追える程度であるが、彼女もまた相手のスピードは周囲の音を置き去りにしていると既に感付いていた。ベルカの騎士として生きて長いが、その長い戦いの人生において音速を超えた者は数える程しか居らず、その中には自身の生涯の好敵手であるフェイトはもちろん、彼女の息子分であり自身の一番弟子でもあるエリオも含まれている。だが――、

 「あれはもうエリオのソニックムーブの域を超えている。…………ならば」

 興奮して息巻くヴィータの前にシグナムが進み出て、その手にレヴァンティンを構える。かつて十余年前に当時9歳だったフェイトと刃を交えた自分ならばと、代わりに臨戦態勢を取る。

 「邪魔すんなよ、シグナム!」

 「落ち着け。お前はこの間奴と刃を交えていると言うのに気が付かないのか?」

 「何がだよ?」

 本当に分からないと言いたげなヴィータの表情にシグナムとザフィーラは盛大に溜息をついた。

 「いいか? 相手を良く見てみろ」

 「ん~? ……がたいからして、男だな」

 「そうではない。今こうしていても相手は全く仕掛けて来ないだろう?」

 言われて初めて彼女はその事実に気付いた。確かに敵は常に自分達と一定の距離を保ち、一応警戒はしているようだが決してあちらからは手を出しては来ないのだ。

 「あの手の敵の真の狙いは決まっている。時間稼ぎだ、自分の目的を終えるまでのな。恐らく、目的を終えると同時に姿を暗ますだろう」

 そう言いながらシグナムはカートリッジをロード、レヴァンティンの白銀の刀身に魔力を含んだ劫火が纏わりつくのを確認すると静かに攻撃の構えを取る。周囲に満ちる冬の寒波を押し切る程の熱エネルギーが素肌を痛く照らし出す。

 「一撃のもとに屠ることが出来ぬなら、回避出来ぬ速度と手数を以て――」

 集中、狙い定め、捕捉、駆ける!

 「押し切るっ!!」

 推進用魔力を足に纏いて加速、空を駆ける一陣の風となりて戦乙女は眼前の敵に迫った。当然相手は回避体勢を取るが、既にその身は彼女の制空圏へと入り込んでしまっている。

 劫火を纏いし炎の魔剣を振りかざし、シグナムは必殺剣を放つ。

 「紫電……一閃!!!」

 “動くこと雷挺の如し”。しかし、その実態は雷にあらず。纏いし炎は赤竜の火炎よりも熱く、その剣捌きは煌く光の如し。天の雷に匹敵する威力とその眩い閃光に似た刀身の輝き――それこそが彼女の必殺剣、【紫電一閃】の真髄なのだ。切っ先が擦れただけでも大木は消し炭となり巨岩は両断される……そんな攻撃を真に受ければ如何に鋼鉄に並ぶ防御を以てしても、完全に威力を殺し切るのは至難の業だ。

 しかし、

 「くっ……!」

 彼女は現状に苦々しい表情をした。それもそのはず、切れぬ物など無しと自負していたレヴァンティンの刃は、あろうことか敵の手に鷲掴みにされて逆に捕えられてしまっていたのだから。その力は凄まじく、歴戦の戦士である彼女が両手で踏ん張ってもビクともしないのだ。

 「…………マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 「!?」

 突如耳についた敵方の声と奇怪な電子音。何を言い表しているのかは分からなかったが、危険を察知してすぐに身を引こうとする。

 「逃がさない」

 だが、敵の腕力は想像以上に強く、彼女の全力でも全く動じようとはしてくれない。そればかりか逆にその圧力をどんどん高められているのだ。レヴァンティンの刀身からは枯れ枝でも折るかのようにミシミシと嫌な音が容赦なく響き、それは当然シグナムの耳にも届いている。

 「くぅ! この……離せ!」

 『My lord,finish to analysis.(解析が終了した)』

 「報告、せよ」

 微動だにしないまま、敵は自分のことなど眼中に無いかのように事を進めて行く。良からぬことを企んでいるのは確実だが、自分だけではどうすることも出来ない。

 「シグナム! 待ってろ、すぐに……!」

 背後からヴィータとザフィーラが助太刀せんと接近する気配を感じた。敵同士でも一対一の決闘形式を重んじるシグナムではあるが、窮地の今となってはそんな流儀を意固地になってまで通す訳にはいかない。ここは素直に感謝すべきだろう。



 「AMFバインド」

 『Yes,my lord.』



 囁くような声と共に背後から届く重苦しい感覚。瞬時に彼女の肌が、かつてホテル・アグスタ防衛戦において敵のⅢ型ガジェットと相対した際にその身に感じたモノと同質の魔法であると解析する。しかし、それが分かった時には既に手遅れだった。

 「何だよ、このバインド!」

 「魔力糸がAMFで構築されているだと!? 不味い! このままでは……!」

 「ヴィータ! ザフィーラ!!」

 背後では全身を紅い拘束糸によって緊縛された二人が徐々に力無く高度を下げていっているのが見えた。虚空に浮かんだ多数の小型テンプレートから伸びる大量のバインド、一本一本が強力なAMFで構築されているそれを真に受ければ周囲に纏った魔力は分解・無効化され、やがては地に落ちるだろう。いくら人間離れしているとは言ってもこの高さから落下するのだけは避けたい。

 だが、背後の仲間の危機に注意を向けてしまっていた気付かなかった。

 その眼前から鋼鉄の鉤爪が迫っていることに……。

 「ぐあっ!!?」

 突然頭を襲った衝撃に戦乙女は悲鳴を上げる。明らかに人間の力を凌駕したその圧力に、シグナムの頭部の奥からも嫌な悲鳴が上がるが、右手にレヴァンティンを構えたままでは抵抗のしようがない。両手でも大地の割れ目に刺さってしまったかのようにビクともしなかったものが、今更片手だけで対処出来るはずがないのだ。

 「この……っ!!」

 冷たく嫌な金属の感覚から必死で逃れようと首を振る。だが、黒腕の五指から生えた鉤爪が頭髪と頬に食い込み、それを許さない。

 こうなれば最終手段。騎士であり正々堂々を旨としている彼女には有るまじき選択だったが、マントを纏った敵の胴体に渾身の足技を見舞ったのだ。剣ばかり振るっているイメージこそあれど、何も鍛え上げられているのは両腕ばかりではない。数多の戦場を駆け抜けた両脚こそが彼女にとっての騎馬であると同時に槍なのだ。空中で片足立ち体勢の後、太腿の筋肉のバネを最大活用し、一気に前方敵の腹部目掛けて放った。

 しかし――、

 「な……に!?」

 確かに自分は黒衣の奥にある肉体に蹴りを入れ、手応えもあった。だが……

 「……腹部に、物理的ダメージ。行動に支障、無し」

 硬いのだ。常人ならば触れた瞬間に慣性の法則に従って吹き飛ばされる程の威力で蹴ったにも関わらず、マント越しに足先を伝ってきた感触は限り無く硬い鉄のようなモノで、聞こえて来た相手の声も何事も無かったかのような口振りだった。

 「マキナ、『あれ』を発動」

 『Yes,my lord.“Drain-Magilink-Field”,invoke.(ドレイン・マギリンク・フィールド、展開)』

 「な、何を…………ぐぅああっ!!?」

 シグナムは自分の頭を押さえる敵の掌中から不審な魔力を感じた次の瞬間、何と一瞬で放出されていた魔力が一気にベクトルを反転させるのを感じた。その勢いは凄まじく、相手側が放出していた分はもちろん、あろうことか接触面からリンカーコアに干渉し、シグナムの分の魔力まで吸い取ろうとしているのだ。かつて闇の書の蒐集を受けた時と同じように急激に干乾びる彼女の魔力核はすぐにレッドラインへと突入し、薄れ行く脳裏に警鐘を鳴らすが、既に肉体末端の魔力回路は枯れた井戸水の如く消失しているのが分かった。

 (このままでは……!?)

 窮鼠何とやら。消失寸前の体力と魔力、そして全体重を再び脚に込めて、敵の腹部へと撃ち放った。

 「む……」

 小さな声と一緒にレヴァンティンと頭を鷲掴みにしていた手の握力が揺らぐ。

 その隙を彼女は逃さない。さらにもう一発蹴りを入れて距離を離し、方向転換、そして急降下。何とかギリギリではあったが、バインドを全て切り伏せて地面に接触する直前に二人を助け出すことに成功した。

 「ありがと、シグナム」

 「礼には…………及ばん……」

 一旦三人は地面に降り立ったが、シグナムが思わず片膝を付くのを見てザフィーラは駆けよって肩を貸した。

 「すまない……」

 「何があった? お前らしくもない」

 「…………魔力を……触れただけで持って行かれた」

 「はぁ!? 蒐集じゃねーんだぞ、んなコトあるもんか!」

 「詳しいことは……分からんが、あの時…………敵の魔力ベクトルが反転した。恐らく、その時に魔力が共鳴反応を起こして……」

 「魔力ベクトルの反転……紅いテンプレートに、シグナムの蹴りでも応じない肉体……そしてあの腕力…………シグナム」

 「あぁ、間違いない……顔こそ見えんが、奴は戦闘機人……それも二日前に地上本部を襲撃した者と同一人物と見て間違いはないだろう」

 一同は再び上空の敵に向き直る。やはり相手からは仕掛けては来ないが、逆に逃亡もしない。じっとこちらを警戒しているようだ。

 始めにテンプレートを目にした時からもしやとは思っていたが、この短い期間でここまでの共通事項が上がれば全くの他人であると推測する方が無理がある。だが、もし相手が同一の人物だとすれば、ティアナとスバルに重傷を負わせたのも……

 「……一つ聞こう!」

 ザフィーラが上を仰ぎ見て声を張り上げた。もちろん、詰問の相手は黒衣の敵だ。

 「二日前、地上本部を襲撃し、テロ行為に及んだのはお前か!」

 怒号にも似たその問いに対し――、

 敵はナイフの投擲で返してきた。地面に突き刺さったそれの柄に瞬時に環状テンプレートが出現、光り出すと同時に膨大な熱エネルギーをばら撒き出す。

 「!!」

 「くっ!!」

 「な!?」

 強烈な物理的衝撃と共に三人はすぐさま回避と受け身を同時にこなす。急に攻撃に転じてきた相手に戸惑いながらも、体勢を整え直すと、ヴィータの方は猪の一番にアイゼンを振り回し、【シュワルベフリーゲン】の応酬で叩き返した。

 「でりゃぁあああ!!」

 打ち出された四つの魔力球は弧を描き、敵を撃墜せんと飛襲する。だがそれらの攻撃は敵の片手に張られたシールドによって阻まれ、シグナムを襲った時と同じく魔力を掻き消されて虚空に消滅してしまった。

 「……吸収、及び、解析完了。マキナ、スティンガー大量配置」

 『Yes,my lord.』

 黒衣の周辺に虚空からナイフが大量に転送されてくる。それらの切っ先は全てがヴォルケンリッターを狙っているのが分かる。

 「……発射」

 瞬間、舞い飛ぶこと飛燕の如し。ただ一直線に、それでいて音速を突破して迫るそれは一切を駆逐する矢羽の如く飛来する。

 「こんなモン、弾き落としてやらぁ!」

 すぐにヴィータが進み出てアイゼンを回転、時間差も無しに飛んできた凶器を全てバラバラの方向へと弾き飛ばす。

 「へ! こんな安っぽい攻撃で……」

 「バカ者! 避けろ!!」

 シグナムに襟首を掴まれ、ヴィータは大きく後方へと引き摺られた。

 そんな彼女の足元へ弾き飛ばしたはずのナイフが一斉に突き刺さる。アスファルトを余裕で貫通するその鋭利さに驚愕するが、今はそんな所を気にしている場合ではない。さらに、刺さったはずのナイフの柄に再び環状テンプレート、てっきり爆発するのかと思ったが、次の瞬間にそれらは独りでに地面から抜けると空中で矛先を変え、また飛来してきたのだ。その切り替えの素早さはかつてのフェイトの得意魔法【フォトンランサー】にも匹敵していた。

 「……IS、No.7『スローターアームズ』」

 敵の声を合図に、ナイフの刃先から耳をつんざく高音が響いてきた。編隊飛行を続ける刃はそれによって切れ味を格段と上昇させ、進路上に存在していたコンクリートやアスファルトを切り裂き、貫通しながらも速度を落とすことなく飛襲を続けてくる。

 「高周波振動……!? あいつが操っているのか」

 「爆発、遠隔操作、魔力吸収…………滅茶苦茶だ!」

 ビルとビルの間を縫うようにして飛行しながら三人は回避行動を続ける。が、その背後からは銀影煌かせてナイフの群れが接近しつつあった。ザフィーラの【鋼の軛】の隙間を掻い潜り、ヴィータの【シュワルベフリーゲン】までもかつてのⅡ型ガジェットを上回る回避性能で一発も当たらない。明らかに敵が操作しているのは明確だが、ここまで正確且つ長時間に渡る操作はなのはレベルの実力者でなければ説明がつかなかった。

 「ヴィータ、ザフィーラ! 一旦散開するぞ! 各自でこの攻撃をやり過ごす!」

 「その後はどうする! 策があるのか?」

 「正直策などには頼りたくはなかったが……仕方が無い!!」



 「……騎士から摘出した、魔力と、デバイスのデータ、解析は?」

 『It already. Accession practical use stage already.(完了している。既に使用可能段階にも到達)』

 灰色砂漠の上空で佇む彼は自身のストレージデバイスと現状の確認に移った。纏ったマントの奥で光る金色の両目は眼下に広がる廃棄ビルを睥睨し、時々左手で空を切るような動作を見せた。

 彼の足元では真紅のテンプレートが一定速度で回転している。使用しているISは物理的遠隔物体操作能力『スローターアームズ』、かつてナンバーズの数少ない空戦担当だった個体、“空の殲滅者”No.7セッテが使用していたものである。武器――特に投擲関連の武装を自在に操り、制御するこの能力はただ単にスルーアンドリターンだけではない。このように一度に大量の武器を制御下に置き、全てを時間差操作することこそがこの能力の真髄なのだ。

 「……三方に別れた? …………追尾する」

 相手の行動にも眉一つ動かさずに対応し、すぐにナイフ群を操作・分裂させて追尾を続行させる。操作する理屈こそなのはのブラスタービットと同じ理論だが、あれだけの物量ともなれば指示を下す脳に多大な負担が掛かり、制御だけでもかなりのエネルギーを消費する。だが彼は表情筋すら動かすことなく指揮者の如く左手を振り、三陣に分かれたナイフ陣を操作し、徐々に敵影を追い詰めて行く。

 と、その時――、



 ほぼ同時にバラバラの三つの地点から空間と大気を震わせて響く爆音、そして視界には爆音の数と同じだけの爆煙の柱が上がっているのが捉えられた。



 あのナイフには全てランブルデトネイターの効果が付与されていた。スローターアームズで追尾し、着弾と同時にランブルデトネイターによる爆撃によって仕留める算段だったようだが、仕掛けた当の本人は凍り着いた無表情のままで少し首を傾げた。

 「対象が、全て同時に、撃墜?」

 『Confirmating now.(現在確認中)』

 いかに敵方がこちらの能力に驚愕したとは言え、あれだけの実力者らがそうそう簡単に墜ちるとは考え辛かったのだ。それも同時ともなればあちら側に何か策を練られた可能性が非情に高い。だとすれば、警戒レベルが上がるのも必然と言えよう。

 しかし、その警戒心もデバイスから異常無しの報告を受けると同時に瞬時に退いていった。

 「…………本当に、撃墜された? なら、現時点より、この戦闘区域より、離脱。第一ラボへと、移動する」

 『Yes,my lord.』

 ライドインパルスのエネルギー翼が大きく唸りを上げ、次の瞬間には彼はさらに高く上昇していた。廃棄ビル群も豆粒ぐらいの大きさにしか見えない。

 「では、行くか」

 展開していたテンプレートを収め、風にはためく黒マントをきつく締めると一気に速度を上げて――、



 「やられたと思ってんのか?」



 頭上に影、そして声。

 見上げた瞬間に彼が目にしたものは、眩い真冬の陽光と、それを背にしてデバイスを構え迫る紅の騎士の姿だった……。

 「バカにすんじゃねーよ……あんなナイフ、全部叩き潰したに決まってんだろ!」

 逆光で顔は影になって見えないが、その語気は静かな怒りを帯びていた。ハンマー型アームドデバイス、グラーフアイゼンがジェット推進し、今度は敵を叩き潰さんとする撃鉄と化す。

 すぐに回避しようとするが、既に自分のいる座標は彼女の制空圏内、今できることは一つ……衝撃に備えて防御体勢を――

 「吹っ飛べぇーーーーっ!!!」



 






 渾身の力を以て敵の体を弾き落としたヴィータのアイゼンは余剰魔力を排出し、周囲に白い水蒸気が溢れ出た。

 ≪ヴィータ、仕留めたか?≫

 遠くから様子を見ているシグナムから思念通話が飛んで来た。もちろん、通信が無いだけでザフィーラも無事である。散開したのは捲く為ではない、一度に大量のナイフを相手にするのではなく、散開して群が分裂して数が少なくなった所を各個撃破する為だったのだ。その方が効率良く処理でき、例え全弾命中したとしてもそれ程度の数量ならば防御魔法でも防ぎ切れる自身があったのだ。

 「いや、あいつ……アイゼンが接触する寸前にすんげぇ固ぇプロテクション張りやがった。多分まだピンピンしてるはずだ」

 そう言うヴィータの眼下では屋上に大きな穴が開き、衝撃で大きく傾いたビルがあった。当然初めからこうなっていたのではない、さっきのヴィータの【ラケーテンハンマー】をまともに喰らった敵はそのまま衝撃と威力を相乗して慣性に従い落下、その勢いはビルの天井に当たってなお留まらずに、さらに外壁を貫通してその体を内部へと消え去ったのだ。

 ≪そうか。ならば、分かっているだろうな……?≫

 「分かってるって。気絶してれば良し、してなくて抵抗の意思を見せるんならブッ潰す……だろ?」

 ≪決して深追いはするな。刃を交えて分かったが、奴は相当出来る。もし仕留められなかった時は――≫

 「言われなくても分かってるつってんだろ。心配しなくても、あいつが本当に地上本部襲った奴なら、スバルとティアナの借りはきっちり責任持って返してやるさ」

 再びアイゼンを構え直すと、ヴィータはカートリッジをロードして虎穴へと足を運んだ。上から見やると天井を突き抜いた穴は相当深くの階まで続いていて、密かに彼女のアイゼンの威力を物語っていた。

 「覚悟してろよ……!」

 小さき紅の鉄騎はいざ行かんと縦穴へと足を踏み入れて行った。その姿はすぐに淵から隠れてしまい、辺りには束の間の静寂が訪れたのであった。

 ただ、それが安寧の静けさなのか、嵐の前のものなのかまでは誰にも分からなかった。



 






 「それでな、チンク姉! そいつが今までの奴と違っててさ!」

 ウェンディとディエチに遅れてカリムの事務室へとやって来たノーヴェは差し出された紅茶には目もくれず、備え置きの電話を見つけると引っ手繰るかのようにそれを自分の元へと引き寄せたのだった。

 通話の相手は彼女の最も敬愛する姉、チンク・ナカジマだ。今は簡易拘置所にてはやてと一緒に謹慎中だが、何も面会などの接触が許可されていない訳ではないのだ。元々が状況証拠ばかりで罪を確定させられたこともあり、時間帯や許可された範囲内での接触なら許されてはいるのだ。それの一部がこのように電話での会話である。

 もしこれが故レジアス・ゲイズ中将が仕切っていた管理局時代ならばこうはいかなかっただろう。彼が殺害されたことによって局の上層部でも一部では人員的な改革が起こされ、彼が存命だった頃のような強硬な姿勢を取る体制も一部では徐々に改善されつつあるのだ。それでも彼女ら二人の謹慎処分まではどうしようもなかったのだが……。

 「むぅ~、ディエチ、ノーヴェはチンク姉に何を話してるッスか?」

 「なんかついさっき知り合った人が凄く親切だったんだって。ここに来るのが遅かったのも、その人と話をしてたからだってさ」

 「ノーヴェが私ら以外の他人とッスか? 不思議なこともあるもんスね~」

 それだけで二人はノーヴェの話題から離れ、また取り留めない談笑に華を咲かせ始めたのだった。

 そんな彼女らのすぐ近くでノーヴェは――

 「なんかさ、もう言葉とかじゃ言えねぇぐらいにイイ奴だったんだ! 初めて知り合ったあたしを助けてくれたし、あたしの悩んでたことも聞いてくれたし……」

 『そうか、お前が他人とまともに接するようになりとはな……姉は嬉しいぞ、ノーヴェ』

 「あたしだってやる時はやるんだよ。心配しなくても大丈夫に決まってるじゃん」

 『そうか……そうだな。人は誰でも成長する、お前もその時期か』

 「あぁ! …………ところでさ、チンク姉」

 『ん? 何だ?』

 「そいつ……トレーゼのことなんだけどさ、なんか知らないけど一緒に居て落ち着いたってゆーか……息が合うってゆーのか……何か良く分からねーけど、本当に悪い感じはしなかったんだ。この感覚、今まで感じたことなくて……あたしには分からなくて……チンク姉なら知ってんじゃないかなってさ」

 『ほぅ……ノーヴェ、それはな、“友”と言うものだ』

 「友……?」

 ノーヴェは良く分からないと言う風に首を傾げた。実際彼女には「友」と言うものがどんなものなのか理解できていなかったのだから、当然と言えば当然でもある。

 『友とは良いものだ。今は亡き騎士ゼストもかつてはそう言っていた……お前の身の回りにも、親友を持つ者は沢山いるぞ。スバルやティアナ……八神殿やハラオウン執務官に高町教導官……エリオとキャロはどちらかと言えば、より親密だがな。友は人生において一番重要なんだ、私自身も持つべきは唯一無二の親友だと思っている』

 「本当にいいモンなのか……?」

 『うむ、真の親友とはな、常に互いを支え合うものなのだ。一方が辛い時はその辛さを安らげ、一方が喜んでいる時はその喜びを分かち合う……そうして人間は誰かと互いに喜怒哀楽を共有し、成長するのだ』

 「ふ~ん…………ゴメン、やっぱ良く分かんない」

 『いずれお前も分かるさ。ノーヴェはまたその者に会いたいのか?』

 「会いたいけど……他人なのに何度も会えるのか?」

 『ノーヴェがその者を他人と思っている内はダメだな。だが――友なら、親友と思っているのなら、いつかまたどこかで会えるさ』

 自身に満ちた姉の言葉にノーヴェの方も無性に嬉しく思えて、本当にそうなるような感じがしてきたのだった。

 『友とはそう言うものなのだ。……お、もうそろそろ時間だ。看守に注意される前に切らねば』

 「うん、じゃあな、チンク姉」

 『うむ、私が無事に帰るまでちゃんと大人しくしているんだぞ?』

 「ガキじゃないんだからさ、心配し過ぎだって。……じゃ、また今度な」

 そのやり取りを最後にして、ノーヴェは受話器を置いた。謹慎中の姉に電話できるのは一日に一回、次に電話できるのはきっかり24時間後となるだろう。

 しかし、今の彼女の胸中には、今度最も親しい姉に何の話題を振ろうかではなく、ついさっき知り合った人物――トレーゼのことが渦巻いていた。

 「…………友達、か」

 “友達”……。言葉で言い表せばたった四文字で済んでしまうが、それが内包している意味はとても深い。ノーヴェ自身、19歳と言えどそれは戸籍登録上の年齢でしかなく、実際は製造が完了して培養槽から出て来た年数はたった10年程しかない。そんな彼女が今まで自分が経験したことのないモノに興味を抱くのは至極当然だが、今回のようにここまで強い衝動に駆られるのは初めてだった。

 その衝動はかつて戦場に身を置いていた頃に感じていた戦闘衝動とは違い、風前の灯火のように控え目で、それでいて何故か強くハッキリと胸の奥底で熱を持っていた。今までに感じたことのないそれに、彼女は戸惑いながらも手を伸ばすのだろう。

 「今頃何してっかな…………トレーゼ」

 窓の外から見える太陽はさっきよりも少し地平線に接近して、今日もまた一日の「日常」が終わりを告げようとしていた。



 






 「……状況、報告」

 『No problem. Not obstacle to action.(問題無し。行動に支障は一切無い)』

 「ガジェット試作Ⅴ型の、転送は?」

 『Already. Retreat from this battle area.(既に完了。現戦闘区域から撤退せよ)』

 「それは、不可能。周辺を、囲まれた」

 『What shall I do?(ならばどうする?)』

 「目標の変更。『耐久』から、『完全殲滅』へと、移行させる。どの道、地上本部のことが、知れているとなれば、顔も割れている可能性が、高い。ここで排除、する」

 『OK,approval. Into action at once.(承認。直ちに実行に移せ)』

 「了解」





 廃棄ビルの薄暗がりの中で、彼は纏っていたマントを引き剥がした。もはや姿を隠す必要はない、今すぐここで排除してしまえば自分を「見た」者は居なくなるのだから。

 「マキナ、セットアップ」

 『Form of“Cross Mirage ”. Mode of“Dagger Mode”.』

 足元に何度目かの真紅のテンプレートが輝いた。高速で回転するその光を真下から受け、周りの空間と彼の顔が露わになる。紅い光を跳ね返す金色のその瞳はただ前方の視界を見つめているだけであり、まるでこの世の全ての事象に興味が無いかのように感じられる無表情を湛えていた。

 しかし、絶対零度のその眼から発せられているものは冷気などではなく、純粋なる「敵意」と「殺意」、そして



 限り無く虚ろなる「無」だけだった。



 「目標、敵対する全対象の、『殺害・破壊』。

 ――開始する」



[17818] 雷、墜つ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 22:37
 じゃり……!

 崩れかけの空間を一人の少女が移動する。真っ赤なバリアジャケットに身を包んだ彼女の手には無骨で巨大な鉄槌が握られており、いつでも対応できるように臨戦態勢は万全だった。当然のことながら彼女自身も周囲に対する警戒を怠ったりはしない。聴覚と視覚を司る神経を最大限に張り詰め、120°の視界と20~20000Hzまでの可聴音域をフル活用させて行動に当たっているのだ。しかし、それでもなお相手の姿を確認出来てはいなかった。

 「……………………」

 鉄槌を構えた少女――ヴィータは電灯すら無い廃棄ビルの廊下を出来るだけ静かに歩く。探索魔法は使わない、あの魔法は発動中は移動せずに行うことが前提の魔法であり、万が一にも使用中に襲撃を受けないとも限らないこの状況下では控えた方が良いのだ。ヴィータ程の手錬にもなれば移動しながらでも使用はできるが、それでは効果範囲が限られてしまう上に彼女自身の注意力も散漫になってしまう恐れがある為、やはりこのように原始的な方法で探すしか手立てが無かった。

 だが、彼女に限らず全ての魔導師や騎士は、元々このような原始的な方法による戦闘をあまり得意とはしていない。「魔法」と言う文明の利器のもたらす効能を日夜享受しているこの世界の人類にとって、このような手段を取らねばならない状況とは通常縁遠いからだ。よっぽど限られた場合でしかこんな戦法は取らない彼らにとって、今のこの状態は非常に危険極まりなかった。

 「聞いてるか、黒づくめ! 居るんなら返事しろ!」

 ここで彼女は見えない敵に対して大声を張り上げた。常識で考えれば自分の位置を教えると言う自殺行為にも見えるが、もちろん彼女の狙いは別にあり、むしろそれによって相手が攻撃して来る方が好都合だったのだ。この全意識を戦闘に向けている状況では一度彼女の制空圏へと入ってしまえば、後はこちらのもの。例え背後や足元、頭上からの強襲にあっても今の彼女は全てに対応し切れる自信があったのだ。

 「おめーが地上本部を襲ったのはバレてんだ。いい加減に出て来い! 言っとくけどな、外に逃げたって無駄だ! シグナムとザフィーラが張ってる、逃げ場なんか無ぇぞ!!」

 まるで人の気配が無い空間にヴィータの怒声が木霊する。無論、返って来る言葉など無く、それは相手がこちらの挑発に簡単には反応しないことを指し示していた。

 それでも彼女は時折壁を壊して室内を睨みつけながらも気長に敵が尾を出すのを待っていた。今の所は外で見張っている二人からは何の連絡も無い、敵がまだ絶対この建物の中に潜伏しているのは明確だ。あとはヴィータがそれを見つけ出せるかが問題なだけである。

 しかし、さっきにも言ったようにここへ進入してから既に約十分が経過し、屋上からもうかなり離れた下の階層まで来てもなお人の影も形も見当たらない。いや、見当たらないだけならばまだしも、気配すら感じることがないのだ。重ねて言うが彼女とてヴォルケンリッターの一員、今までにも数多の戦場を駆けて死線を潜って来た彼女が敵の殺気を全くもって察知出来ない訳があるはずないのだが、今回ばかりは違った。鋭く研ぎ澄まされた視覚と聴覚を以てしても無音の暗闇に閉ざされてしまったかのように敵の行動が、思考が、全く読めないのだ。ヴィータは今更ながらにシグナムの警告を思い出すが、完全に不可視且つ無音の敵が相手では下手に動きようがない。

 ヴィータの頬を嫌に冷たい汗が流れ、顎を伝って流れ落ちる。たまに音がしてその方向へ首を振っても、大抵は崩れた壁の表面から落ちた瓦礫の音であったりするので緊張の糸が切れそうになってしまう。しかし、すぐに気を引き締め直すと再び歩を進める。

 「よくもウチのヒヨッ子どもを可愛がってくれたな……礼は百倍返しにしてやる、釣りも取っとけ」

 彼女自身、ぶっきらぼうだが情が無い訳ではない。スバルやティアナの重傷具合は見舞いに行った時に充分知っているし、スバルに至っては回復の見込みが無いことも認めたくはないが知っている。二人はなのはの教え子であると同時に自分の教え子でもある、そんな二人があそこまで手痛い仕打ちを受けてもじっとしていられる程にヴィータは冷徹ではない。すぐにでも見つけて引き摺り出し、同じ目にしてやりたくて内心は怒り心頭なのだ。しかし、怒りに身を任せていても事態は好転しない。ここは迅速に、それでいて尚且つ慎重にならなければ逆にこちらが狩られてしまいかねない。それでは本末転倒もいい所だ、騎士の名折れだけにはなりたくはない。



 その時、鼓膜を揺らして聴神経を刺激する音を、ヴィータの耳は感知した。



 「っ!!」

 鉄槌構え、カートリッジロード。足音を立ててはしまうが、魔法を使う相手に対して飛行魔法を使用すれば魔力反応で勘付かれてしまう恐れがあるため、面倒ではあるが早歩きで目的の位置まで接近する。歩く度に足元で煩い瓦礫や砂利をこれ程までに恨めしく思ったことは無く、いっそ外部から建物ごと【ギガントハンマー】で圧壊させたい衝動を必死に堪えながら徐々に音の発生源へと近付いて行く。

 そして、遂にその足がある一室の手前で止まった。壁に身を寄せて隠れながら耳を澄ませると聞こえてくる音がある。何かが大きくはためく音……ヴィータは真っ先に敵が羽織っていた黒衣のマントを脳裏に思い浮かべた。確かにドアの無いその室内からは建物の外から吹いているのか微風が頬を撫でるのを感じる。

 風の流れと微かに聞こえる音――それらの限られた情報から大まかな室内の様子を脳内で描き出すと、ヴィータは口元に笑みを浮かべた。いつもはやてや他のヴォルケンリッターに向けているような優しくて人懐っこいモノではない、己の狩り場にて獲物を射程圏内に収めた狩人……いや、肉食獣が牙を剥く瞬間に他ならなかった。

 「下手こきやがったな……管理局の一兵卒でもやらかさねぇぞ、こんな初歩的なミス」

 自然とアイゼンを握る圧力が上がる。音の大きさからして相対距離は約4メートル、対してヴィータの最大攻撃圏は腕とアイゼンを足して約2メートル前後、そこに彼女自身の爆発的な踏み込みが合わされば――、

 行ける!

 そう確信したヴィータは大きく振り上げの体勢を取った。そして足首を捻り、右脚を屈折、左足のアキレス腱を引き伸ばし、爪先で大地を踏み締める。爆発的な瞬発力は下半身の筋肉と人体の要である腰の連動によって生み出される。純粋接近戦特化型である古代ベルカの騎士にとって相手の間合いに瞬時に踏み込むことは即ち戦いの初歩であり極意、その一瞬にも満たない刹那のやり取りが勝敗を決し、食うか食われるかの雌雄までも決めると言っても過言ではない。もう既に目で見えないとは言え彼女は敵を襲撃し取り押さえる過程を描いていた。後はそれを実行に移せばいいだけの話だ。

 「……行けるな? アイゼン」

 『もちろん』

 無骨なアイゼンは血の気の多いレヴァンティンとは違って口数は少ないが、戦場に無駄口は必要ない、ただ忠実に主について来るだけで事足りる。壁越しの相手からは殺気は伝わって来ない、幸いにも敵の方はこちらに気付いてはいないようだった。さすれば……!

 「でやぁあああああああっ!!!」

 既にボロボロの壁を叩き壊すと慣性によって弾き飛ばされた瓦礫と共に雄叫びを上げ、先陣を切るバーサーカーの如く突貫した。

 そして――、










 一方、外で待機警戒していたシグナムとザフィーラはビルの中から轟音が響いて来たのを捉えていた。

 「この震動……どうやら先に仕掛けたのはヴィータのようだな」

 「あぁ、万事うまく行ってくれるとありがたいが」

 今の所は建物周辺に張っておいた探知魔法に中から逃げ出す者の気配は無く、敵は確実に中に潜伏していることも分かっている。その状況でアイゼンを振り下ろす音が聞こえてきたと言うことはつまり、ヴィータが敵を発見し撃墜しようとしたことに他ならない。問題は敵方が大人しく倒れてくれるかどうかである。

 「その時は我々が動くしかないがな」

 「うむ……そうだ……な」

 「シグナム……?」

 彼女の異常に気が付いたザフィーラは心配して声を掛ける。実際、シグナムの顔色は悪く、貧血でも起こしているかのように上体はフラフラとなって足元も覚束ない風になっていた。恐らく、さっき交戦した時に魔力を奪われたことによる体力低下が原因であろう。しかし、彼女がここまで弱体化するとなれば深刻な問題である。一体どれだけの量を奪われたのか……。

 「心配いらん、すぐに回復する……」

 「そうか、なら良いのだが」

 「それよりも……気になることが一つある……」

 「何だ?」

 そう言って改めて彼女の方へ意識を集中させると、なるほど、リンカーコアの魔力がかなり落ちているのが分かる。これが常人ならばとっくに失神しているレベルだ。それでもなお彼女が立っていられるのは戦場で培った気力と騎士としてのプライドがあるからなのかも知れない。

 「先程、刃を交え……接触した時に魔力を奪われたと言ったが…………奴に頭を掴まれた瞬間に、別の『何か』を感じた」

 「別の『何か』? 一体何だそれは?」

 「分からない。吸い取られているはずなのに……逆に何かが頭の中に入り込んで来る感覚を覚えた。脳髄を蠢くような何かを……」

 「入り込んで来た…………? 何が何の為に?」

 「それも分からん。だが、良からぬことなのは確かだろう。嫌な予感がしてならない……敵も、この一連の事件も……」

 戦士の勘は当たる。しかし、二人とも、互いにこの時程に自分達の予感が外れて欲しいと願ったことはなかった。










 ヴィータは瞬時に自分の今の状況を整理し、そして把握した。「ハメられた」と。

 手応えはあった。目標を叩きつけた感覚が痺れるように残っている。

 罠はなかった。今現在、彼女の身には何の変化も無い。

 彼女の視界に映るのは、アイゼンの猛攻によって見るも無残に引き裂かれた敵の黒マント。そして……

 それだけだった。

 目の前にあるのは途中から鉄槌の威力でポッキリと折れたコンクリートの柱と、彼女を誘き寄せる為にそこへ掛けられていた黒マントだけだったのだ。ガラスの外れた窓から吹く風がマントを揺らし、その音に反応して足を運ばせる……つまり、一見何のブービートラップも無い空間だが、

 ヴィータが音に反応してここへと足を運んだその時点で、既に彼女は罠に嵌っていたのだ。

 狩人には二種類存在している。猟銃を構えて自ら野山を駆けて獣を追う者と、罠を仕掛けて気長に待つ者の二つである。後者の場合、罠を仕掛けたからには獲物が掛るのを待たなければならない。捕縛用の罠では獲物は絶命せず、最後の息の根を止める為に常に罠の傍には狩人が居なければならないのだ。

 つまり――、

 既にヴィータは誘い出され、敵の術中に嵌った。この後起こり得るであろうプロセスはただ一つ……

 罠に掛った獲物を狩人が仕留めに来る――その狩人は近くに居るはずであり、常に目を光らせているはずなのだ。

 「!?」

 その時、背後から肌を刺すような強烈な感覚、殺気が飛んできた。意図せずとも冷や汗が流れ出て心臓の鼓動が速くなって行く。逆に首は言うことを聞かず、背後を振り向けずにいた。戦士としての勘ではなくて、生物としての本能が後ろの捕食者を忌避しているからだ。それはまさに『蛇に睨まれた蛙』の状態を表していた。

 微動だに出来ないヴィータとは違い、背後からは殺気の主が接近して来るのが分かった。瓦礫を避け、砂利を踏みつけながらゆっくりと、しかし確実に接近して来るそれは死神の宣告をもたらすべく背後から自らの武器を構えてきた。

 「……!」

 首筋に微かな痛覚、そして左目の視界の隅から見える紅い刀身。ヴィータの記憶が正しければ、これは先程の戦闘で敵が使用していた武装に違いなかった。如何に彼女らヴォルケンリッターが元は人間ではないとは言え、首を切断されれば絶命は確実だ。敵もそれを狙っている。

 (ちくしょう!) 

 ヴィータは姑息な罠に嵌められたと言う事実に歯軋りした。長い戦いの人生においてここまでの屈辱を感じたことは無かったからだ。

 だが敵からすればこれはむしろ当然のやり方だろう。正々堂々を旨とする古代ベルカの騎士とは時代が違う、より賢くそして確実にと言うのが現代のやり方だ。その意味では間違った戦法ではない。ただ彼女はこんな所で潰えるのが我慢ならなかったのだ。



 しかし、古代ベルカの戦いの神は彼女を見離さなかった。



 光刃が一旦首筋から離れたのだ。どうやら首と胴を切り離す為に勢いを付ける動作を行っているらしい。

 この一瞬にも満たない僅かな時間の隙を、ヴィータが見逃すはずがなかった。一旦離れた刃が再び首に接触、頸動脈と脊髄を一刀のもとに切り伏せるのにコンマ数秒も掛からないだろう。ならば、ここで起こすべき行動はただ一つ……。

 相手の速度を上回るスピードを以てして――、

 「甘ぇっ!!!」

 押し切るのみ! 発想はバトルマニアであるシグナムのそれだが、現状では最も有効な策であることに違いは無かった。既に外で戦った時に相手の大まかな身長は算出している、後はアイゼンの鎚をその頭部へと叩きこめば良いだけだ。殺す必要はない、脳震盪によるショックで昏倒・気絶させればそれで事足りるのだ。足首と腰、人体の二大スイング関節をフル稼働、一気に薙ぎ払いを掛けてみせた。

 「予測内、対処する」 

 「な……!?」

 アイゼンを握る手に固い感触、しかしそれは相手に攻撃を喰らわせたものではない。

 驚愕に目を見開く彼女の視覚が捉えたモノは二つ。敵が着用している紺色の見慣れた防護ジャケットと、その右手に握られてアイゼンを防ぐ漆黒のデバイスだった。

 「ぐあっ!!?」

 次の瞬間には反撃すら許されないままに腹部に重い衝撃。蹴られたと言うのが理解できたのは小さい背中が壁に激突してからだった。

 「くっそぅ……!」

 激痛の走る腹筋に鞭打ち、愛鎚を杖代わりにして立ち上がり、敵を眼中に収めた。バリアジャケットも腹部が少し破れていた。本来術者の身を守る為に発動させるバリアジャケットは魔力的にも物理的にもあらゆる衝撃に対して筆舌に尽くし難い防御性能を誇っている。そのバリアジャケットが機人とは言えたった一度の蹴りで、それも攻性魔力を全く付与しない純粋物理衝撃だけで破られたとなれば敵の脚力、並びに攻撃力が如何ようなものか容易に想像がつくだろう。

 それよりも、問題は敵の姿である。体躯の逞しさから性別は男、身長と外見年齢はスバルやティアナとほぼ同じ位、紫苑の短髪に白磁の肌、不気味な程に光を宿さぬ金色の瞳……そして何よりも目を引くのが、その身に付けた防護ジャケットである。紺を基調としたデザインのそれは間違いない、かつては機動六課を敵に回して苦戦を余儀なくさせ、現在は管理局に一部恭順して共に戦う仲間となった戦闘機人『ナンバーズ』――彼女らが着用している物と同じ物だったのだ。

 「お前ぇ……その防護服」

 「…………」

 既に出撃前にシグナムからは地上本部を襲った目の前の敵がスカリエッティの製造理論に基づいて生み出された可能性が高いことは聞いていた。しかしこれではまるで……

 「まんま、ナンバーズじゃねーか……」

 直立不動、見るからに攻撃意思が皆無に見える程に構えてすらいないが、非武装ではないのは当然だった。両腕両脚に装着されて唸りを上げて回転するスピナーが特異的なその武装は腕はスバルとギンガのリボルバーナックルに、脚はノーヴェのジェットエッジに酷似していた。足の裏の四輪のローラーも寸分違わず、互いに唯一の違いを上げるとするならば、ジェットエッジに当たる武装にも足首の少し上辺りにカートリッジ機構が取り付けられており、リボルバーナックルには黒い鉤爪の付いた手甲が両手に装着されていると言うことだけだった。

 だが、彼女が一番驚いたのは別にあった。

 「何で……何でだよ。何でお前がそれを持ってんだよ!」

 彼女が指差すのは少年の右手に握られたモノ。左手にある紅いブレードは外での戦いで既に目にしているが、逆にそちらの方は彼女の予想を遥かに大きく裏切ったのだった。

 それは拳銃。しかし管理局法で使用が禁止されている火薬式の質量兵器ではない。それには見覚えがあった、かつて三年前、機動六課が設立されて間もない頃になのはが鍛え上げた教え子が使ってモノ――執務官となった今でも使っている愛銃、そう、それは……

 「『クロスミラージュ』を!」

 色こそ漆を塗ったかのようにメタリックな黒一色だが、全体的にL字型のフォルムは彼女ら元六課のメンバーにとっては見間違えようが無かった。しかし、何故それを敵が持っているのか、それだけが分からなかった。ティアナの持っていたクロスミラージュは完膚無きまでに破壊されてしまったはずなのだ。

 「答えろ!」

 「クロスミラージュ、違う。これは、ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』」

 「ほざけ! んなことは聞いてねぇんだよ!!」

 『ラケーテンフォルム!』

 怒号を合図にアイゼンの先端が変形し、再びジェット機構と四角錐のスパイクが露わになる。爪先を軸に高速で回転し、一気に離されていた距離を埋め直した。

 「でやぁあああああ!!!」

 「く……マキナ、モードツー」

 『Yes,my lord.』

 接触と同時に両者の足元の地面に亀裂が走る。互いに相手にGを掛け合いながら鎬を削るその姿はまさに真剣勝負さながらのプレッシャーを魔力と共に周囲に撒き散らしていた。壁のヒビがさらに拡大し、崩れかけの天井からもコンクリートの欠片が落ちて来る。それでもなお両者の鍔迫り合いは続き、とうとう足が陥没を始めた地面に埋まるまでになっても拮抗は終わらなかった。

 「ダガーモードまで……!!」

 ヴィータのアイゼンを受け止めるのはグリップ状の魔力刃が展開されたクロスミラージュ。この形態も数あるこのデバイスの持つ機能の一つだ。魔力刃の色彩がティアナのそれとは違い真紅だが実際の違いはそれだけではない、実際に彼女と刃を交えた訳ではないので分からないが、その強度は明らかにティアナよりもワンランク硬いのだ。武装局員の中でも屈指の突貫力と破壊力を誇るヴィータの鉄槌を真正面から受けてなお拮抗していることが何よりの証拠である。

 その時、彼女は見た。敵の首、そこに掛けられている金属製のチョーカーに刻まれている『XⅢ』の刻印を。

 「13……? うわっ!?」

 だがその瞬間、拮抗の崩れは唐突に訪れた。

 「な、何だよ、こいつ! 急に……!」

 しっかりと腰を据えて地面に喰い込ませていたはずのヴィータの両足が少しずつ後方へ押し退けられて行くのだ。おかしい、地上と空中の違いこそあれど一度目の接触ではいとも簡単に叩き飛ばされた相手が二度目には耐久、三度目には凌駕……何故初めからこれだけの力を出さなかった!? 隠していたからか? 否、眼前敵を前にして全力を隠す道理など無いはずだ。いまこうしている間にも自分の自他共に認める小柄な体躯が丸ごと押し退けられて行くのが嫌でも分かる。それもただ単に押し退けられている訳ではない、【ラケーテンハンマー】の莫大な推進力をさらに両腕の筋肉で起こした遠心力に乗せて放った一撃が押し返されているのだ、並大抵の力で成し得る所業ではないことは想像に難くない。それもヴィータが両手を使って精一杯なのに対して相手はその細い片腕だけで対抗、押し返す……。彼女は体躯こそ局員の中でも小さい方だが、単純な腕力は戦闘機人であるスバルやギンガをも凌ぐ強さがある。訓練中に彼女らを吹っ飛ばした回数など多過ぎていちいち覚えてなどいない程だ。そんな彼女にとって自らの全力の一撃を片手で受け止めただけに止まらず、あまつさえ押しやられると言うこの現状が理解出来なかった。

 「対象の、ハザードレベル、測定完了。レベルAAと、断定」

 「な!? しまっ――!」

 相手は右手のクロスミラージュだけで対応していた。それ即ち……

 残った左の腕が狙って来ることに他ならない!

 対してヴィータは両腕が塞がれた状態、頭上を見上げた彼女の視界に映ったのは、今まさに振り下ろされんとする真紅のブレード。それはまさに、機械仕掛けの死神による死刑宣告だった。



 






 その頃、管理局中央管制室にて。

 「どうなっている! 先遣と後続隊はまだ接触出来んのか!」

 「通信も回復していない、報告急げ!」

 「余計な事は言わんで良い! 今はただ現場で起こっている詳細だけを伝えろ!!」

 正体不明のエネルギー反応が検出された廃棄都市区画へと調査を兼ねて先遣隊であるヴォルケンリッターを送り出し、連絡が途絶えてから既に十数分が経過していた。管制室では予期せぬ事態に混乱の相を極めており、現在は分断された先遣と後続をどうにかして接触させようと躍起になっている所である。しかし、現状は芳しくは無く、先遣のヴォルケンリッターとはもちろん、その周辺を固めて待機している後続隊とも何らかの外的要因なのか通信が阻害されている模様だった。

 「現場の上空からの映像、入ります!」

 オペレーターの一人がコンソールのキーを打ち込み、急遽派遣された航空部隊が送ってきた映像をスクリーンに映し出す。別ウィンドウで表示されたそれは初めはノイズが走っていて何が起こっているのか分からなかったが、解析が進むと徐々に何が映し出されているのかがハッキリしてきた。

 「これは……!?」

 「結界か!」

 所狭しと並び立つビルによって生み出された灰色砂漠、その他の建築物が全く無いはずのその場所に一際目を引き、尚且つ一目で明らかにそこにあるのが異常と分かるモノが映っていた。

 それは半透明な薄紅色の立方体型のクリスタルのようなモノだった。周囲の建築物と比較すると、その大きさが良く分かる。一見しただけでも数百メートルの規模はありそうだ。職業上の関係で多種多様な魔法に精通している局員たちはこれが結界の効果を持つ物だと推測する。しかし――、

 「いえ、映像解析では魔力反応、一切無し! 純粋な力学エネルギー干渉による虚軸位相空間発生を利用した障壁との結果が出ました!」

 「バカな、どこの世界の技術に魔力を使わず科学だけでそれ程のモノを発動させられると言うのだ!」

 「現在、解析班とこちらで位相空間の中和方法を模索中ですが、障壁表面のエネルギー比率が随時変化しています。完全に解析が完了するのには時間が……!」

 「待ってください! たった今こちらで障壁表面の解析が終了しましたが、後続部隊の魔導師では突破不可能です!!」

 「どう言うことだ!?」

 「ですから! 後続部隊の魔導師では総力を決してもあの障壁を打ち破るのには力不足なんです!!」

 怒声にも似た報告の後、スクリーンに新たなウィンドウが提示され、全員の目がそこへと集中する。

 魔法学校はもちろん、歴とした養成機関や管理局系列の訓練校ではもちろんの如く結界魔法の行使方法、及びに対処法なども当然教えられる。その基本となる教えが、「どれほどに高度且つ緻密な結界魔法であっても、構成術式に干渉すれば対処出来る」と言うものである。知っての通りミッド式・ベルカ式問わずに管理世界で確認されている『魔法』は全て精密な魔力計算と構築によって得られる一種の『技術』である。射撃・砲撃魔法、斬撃などの魔力付与魔法、バリアジャケットを始めとする防御魔法、空中移動に多用される飛行魔法……これらは全て、魔導師が魔力を供給し、デバイスが出力計算を行うと言うプロセスで行って初めて実現出来るものなのだ。特に、結界魔法等の広域に渡って発動させる系統のものになるとさらに難易度は増す。広範囲になってしまった分だけ、計算・発動・維持などの過程も引き摺られて大規模になるからだ。しかし、互いの術者の力量にも左右されるが、発動して維持するのに比べると干渉して突き崩す方が意外にも簡単なのだ。方法も至って単純、敵の魔法構築術式に魔力的干渉してノイズを仕込めば良いだけなのだ。たったそれだけで場合によっては結界に歪みが発生、術者の力量によっては完全に崩壊させることも可能である。その為、通常で結界魔法を行使する時はその欠点を補う為に複数の魔導師による役割分担と連携によって簡単に崩されないように工夫していると言う訳だ。

 しかし、この場合は違った。相手が発動させているのは魔力に頼らない完全物理的封鎖空間、もちろん突き崩すことも可能なのかも知れないが、その為にはこちらも魔力では無く純粋な物理的衝撃を以て干渉しなければならなかった。

 だが――、

 「現状の後続部隊の戦力では、全員のデバイスに物理破壊設定を許可したとしても……火力不足です」

 ウィンドウに表示された二つの数値は後続部隊の総合火力と、エネルギー障壁の予測耐久力を表していたが、その差は歴然過ぎた。誰の目から見ても二つの数値には開きがあり過ぎるのが分かる。

 「ではどうすれば良いと言うのだ! 高町一等空尉を呼び戻そうにも、彼女は現在聖王教会へ『預言』の聴取の為にハラオウン提督、並びにスクライア司書長と共に出頭中だぞ!」

 「室長、八神二等陸佐の砲撃魔法であれば放つまでの時間を抜きで考えても充分に――」

 「二佐は現在謹慎中だ! 上層部の許可を取っていてからでは事態が悪転する恐れがある!!」

 地上本部の件で謹慎中の八神はやてを仮出動させるには上層部に対して何重にも許可を取らねばならない。場合にもよるが、今から対応していたらはやてが来るのは数十分後になってしまうだろう。

 「障壁内のサーチはどうなっている!」

 「駄目です、内部からの魔力反応は完全遮断! 先遣のヴォルケンリッターのリンカーコア反応も全く感知されません!」

 「サーモグラフィックス、電磁波、赤外線サーチ、音響探知……全ての物理エネルギーも魔力面ほどではありませんが、大部分が遮断されています。外部からでは解析のしようがありません」

 「やはり、どの道どうにかして内部へ進入しなければならないと言うことか……。だが、現状の現行戦力では……!」

 彼の有名な『ベルリンの壁』は東西ベルリンの市民達が一斉決起、手に手に武器を持って完全に人の力だけで崩壊させられた。それは何故か? 単純に蜂起した大衆の圧力が抑圧の象徴であった壁の耐久力を上回っただけに過ぎない。統率力の有る羊の群れは時に狼ですら駆逐する、と言う故事をまさに忠実に体現していると言えるだろう。

 しかし、この場合は違う。如何に後続隊が優秀でも、計算上彼らと障壁との間に横たわる絶対値を克服することだけは無理だったのだ。彼らがマスケット銃を構えた兵士ならば、目の前の障壁はさしずめ城壁……相手が、相性が限り無く悪過ぎた。

 管制室では早くも全員が諦観の相を露わにし、現状を見守るしかないと誰もが口に出さずとも脳裏で一致していた。



 その時、一人の影が音も無く管制室を後にしたことを、その場の誰も見てはいなかった。










 「はぁ……はぁ……くそっ、下手こいたのはこっちってことかよ……!」

 完全に闇に閉ざされた空間の中をヴィータは行く。右手にはアイゼンを携えてはいるが、体の至る所に怪我を負ってしまったのが祟って半ば引き摺るようにして移動を続けていた。

 今彼女が居るのはビルの地下階である。相手の攻撃を頭上から受けた彼女は刹那の瞬間にシールドを発生、何とか難を逃れたものの、その暴力的なまでの物理的衝撃に彼女の足元のコンクリートの地面が耐えられるはずがなく、遭えなく崩壊。着地の受け身を取った時には既に地下階へと叩きつけられていたと言う訳である。

 だが、彼女自身も敵の攻撃を防いだとは言え全くの無傷だった訳ではない。シールド越しに届いた衝撃は彼女のスカーレットのバリアジャケットを左肩口から脇腹にかけて大きく引き裂き、そこから垣間見える肌からも僅かながら血液が流れ出ていた。

 一見すると彼女らのバリアジャケットはデザインばかりのお飾り的なモノに見え勝ちだが実際は違う。魔力による砲撃戦を想定してプログラムされているミッド式のバリアジャケットとは違い、彼女らベルカ式……それも純粋接近戦を主とする古代ベルカの騎士のジャケットは武器としているデバイスの性質上、物理的ダメージに対して効果的な性能を誇っている。少なくとも小型乗用車両との正面衝突程度ならば余裕で耐え切れるはずの甲冑とジャケット部分が物理衝撃だけでこれほどまでにボロボロになると言うのは、ハッキリ言って有り得ないことだった。

 「……ここまでか……」

 ヴィータは一旦来た方角を見直した。暗闇が広がって視覚では分からないが、大丈夫、敵の気配はかなり遠くに離した。ここまで攻めて来るのには少し時間を掛けなければならないはずだ。

 「一旦外に出て……シグナム達と合流するしかねぇか…………」

 敵との相対距離を確認した後、彼女は転移魔法を行使すべく足元に赤い三角魔方陣を展開させた。瞬時に脳内に周辺一帯の座標を表示すると、外に居る二人の魔力を探知、それを目印に魔力計算とプログラムの構築直後――、



 彼女の頬を真紅の刃が掠った。



 「……!?」

 すぐに意識を集中するのを停止したヴィータだったが、時は既に遅かった。

 「あぁっ!!」

 アイゼンを握っていた右腕に激痛、気付かぬうちに自らの愛鎚を取り落としてしまった。暗黒の空間に響く金属の鋭く大きい音……そして、その音の向かった先からこちらへと接近する影がある。目を凝らせばまるで当然かのようにして暗闇からあの少年の姿が浮かび上がってきた。足元のローラーを回転させながらこちらへと徐々に、しかし確実に近付いてくるその姿はかつて十数年前になのはと相対し、彼女の実力を思い知った時と同質のモノを醸し出し、あらゆる戦場を潜り抜けたはずのヴィータを恐怖させた。

 「悪魔かよ、お前……!」

 歯軋りする彼女の視線は現在、自身の右腕と敵の手元へと向いている。戦場で利き腕を攻撃されるのは即ち「死」を意味している。しかし、今気になっているのはそんなことではなかった。

 真紅のブレードは見事に腕の筋組織と骨を砕き貫き、その切っ先は彼女の背後の壁に突き刺さっていた。こう描写すると、まるで投擲されたブレードが驚異的な命中率と貫通力を以て刺し貫いた、もしくは、高速で接近した敵が目にも止まらぬ速度で攻撃してかのように思えるかも知れない。しかし、実際はそのどちらとも違った。

 「反則だろーがよ……刀身が伸びるなんて、聞いてねぇぞ」

 そう、ブレードは投擲された訳でもなければ、持ち主自らが急接近した訳でもなかったのだ。

 ただただ、

 至極単純な現象……

 ブレードの光刃部分を伸縮させ、対象とのレンジを操ると言う接近戦武器の概念を根底から覆す暴挙に出ただけだったのだ。

 実際、二人の距離はおよそ4メートル……その両端のヴィータの右腕と敵の左手を真紅の刃が結んでいるのが分かる。先述したように、腕を貫通したブレードの切っ先はその延長線上の壁に深く刺さり込んでおり、まさに今の彼女は文字通りの「釘づけ」状態に陥ってしまっていた。

 「ツインブレイズは、体内で発生させた、エネルギーを放出し、刀身に凝縮、使用する武装だ」

 「つまり、エネルギーの出力を上げれば……元々がエネルギー体の刀身が伸びたりデカくなったりするってことか」

 「そうだ」

 「良いのかよ? 敵にそんなこと喋ってもよぉ」

 「問題無い、すぐに、処分する」

 そう言った彼の周囲に紅い魔力弾が大量に発生した。いや、魔力は微々たるものしか感じなく、代わりに離れていても肌を焦がすような熱を帯びていた。恐らく、魔力は弾丸を形成する為にしか利用されておらず、純粋なる熱によって肉体組織を焼き殺すのが目的なのだろう。流石の守護騎士言えども、細胞そのものを直接死滅させられては一溜まりも無いことは目に見えている。だが、ヴィータにはその魔力弾を使用する魔法を良く知っていた。

 「その魔法…………ティアナの!?」

 色彩と使用しているエネルギーに違いはあるものの、見紛うはずがない、空中に大量に弾幕を配置して一斉発射するこの射撃魔法はティアナの得意技の【クロスファイアシュート】である。何故それを敵が使えるのか、一瞬分からなかったヴィータだったが、すぐに予測はついた。

 「それがおめーのISか……他人の魔法を喰らうか、見るだけでモノにするなんてよ。ふん! 大したことねーな」

 そう、一見すると大層な能力に思えるかも知れないが、実際は彼女の言う通りで、特筆に値するものではないのだ。現代でこそ それほどの力量を持つ者は少ないが、戦乱渦巻く古代ベルカにおいては敵の動きを完璧に真似、自らの流派の技として洗練して体得する猛者も少なからず居たのだ。現になのはの愛弟子であるスバルは師の最も得意とする砲撃魔法【ディバインバスター】を自ら近代ベルカ式に改造し、ミッド式には遠く及ばないにしろ同じベルカ式としては他に類を見ないロングレンジ魔法へと発展させている。彼女の才能が高いこともあるだろうが、魔法の模倣自体はそう大したことではないのだ、極端な話だが、仕組みさえ理解出来れば素人にも形だけは体得できる。

 そうして相手をあからさまに挑発するヴィータだが、 彼女は密かに敵の視線が自分の右腕から逸らされているのを確認していた。意を決して握り拳を作ってみると、当然のことながら傷口から鮮血が吹き出て痛みが走った。思わず顔を顰めるが、彼女の頭の中では既に一つの突破策が浮かび上がっていたのだった。

 (やっぱ……これしか無いよな……!)

 手段など選んではいられない。もう既に相手は真正面からこちらに向けて照準を合わせている。引き金を引かれれば空中の弾丸全てが間違いなくヴィータの急所を狙い、細胞を焼失させ、死に至らしめるだろう。守護騎士として、一人の局員として、そして何よりもスバルとティアナの為にも、それだけは断じて許せなかった。

 もう一度、周辺を確認する。ブレードが刺さっているのは右腕だけで、あとは五体満足だ。得物のアイゼンは少し離れてはいるが、敵に奪われてはいない。

 良し、行ける!

 そう彼女が確信した次の瞬間――、

 「…………シュート」

 真紅の凶弾が一斉に彼女に向かって牙を剥いて来た。

 「くそ……!!」

 迷っている暇など無い、思い立ったが何とやらだ。そう自信を奮い立たせると、彼女は両脚と腰周り、そして上腕筋の全てに力を込めた直後に――、

 思い切り振り上げたのだ。

 「!?」

 「あぁああっ!!」

 刃と反対の向きに向かって腕を引いたその瞬間、まずヴィータの中枢神経が末梢神経から送られて来た衝撃に驚愕し、それからコンマ数秒遅れて神経と筋組織が切断されたことによって発生した激痛が脊髄を侵し、彼女の大脳へと大々的な危険信号を打ち鳴らした。右腕は斜め半分に切断され、なんとかあとの半分の骨と筋肉で繋がっている状態だったが、切断面からは血管を断たれたことによって鮮やかな動脈血がまるで激流か何かのように溢れ出ており、痛みそのものも半端ない。だが、あの状態から脱するには自らの腕を丸ごと犠牲にするだけの覚悟が無ければどの道無理だったことに変わりは無い。流石に命には代えられない。

 敵の魔手から辛くも逃れたヴィータは飛襲して来た魔力弾を間一髪で回避、そのまま地面を小さな体躯を活かして転がり込むようにして移動した。常人ならばここまでで失神するか一歩も動けなくなってしまうかのどちらかだが、彼女を動かしているのは最早常人を超えた強靭なる精神力だけだった。

 そして最終的にヴィータが到達したのは、愛鎚であるアイゼンが横たわる場所。素早く両足で体勢を整えた後、健在な彼女の左手に赤い光が灯った。熱は感じないが、代わりにかなり高濃度の魔力を内包しているのが分かる。

 「でやぁ!!」

 それを敵に投げつけるのかと思えば、彼女はその光球を天井スレスレまで高く放り上げたのだ。この行動に相手は思わず身構えるが、この魔法が攻撃魔法ではないと知った時には既に遅かった。

 「へへっ! 覚悟しろよ!」

 右腕が使えないのですぐに左手で地面のアイゼンを掴むと、その先端の鉄槌部分を落下してくる光球へと狙い合わせて――、

 「吠えろ! グラーフアイゼン!!!」

 接触のその瞬間、暗闇で支配されていた地下階を強烈な光と爆音が埋め尽くした。



 






 「やはり我々では力不足か!」

 一方その頃、ヴォルケンリッター達から約数キロ離れた地点では後続隊の面々が苦い顔をしていた。原因は今彼らの眼前に聳え立つ巨大なエネルギー障壁だ。立方体を象るそれの一辺の長さはおよそ数百メートル、かつて廃棄ビルを丸ごと包囲したオットーの疑似結界の数倍以上は大きく、強度もまた本職の結界担当の魔導師のそれよりも遥かに高い。魔力を一切使用せずに純粋な物理的エネルギーでのみ構築されたこれを突破するにはこちらも出来るだけ物理的破壊力を以てして臨まなくてはならない。

 しかし、現状は見ての通り。後続隊が使用している支給品の杖型のストレージデバイスの出力と、何よりも彼ら自身の魔力値では太刀打ち出来るはずも無く、まさに焼け石に水となっていた。

 「隊長、やはりここは本部からの増援を待った方が……」

 「だが上からの対応を待ってからでは遅すぎる! 既に先遣隊が隔離されてからもう既に十数分、未だに増援どころかまともに通信すらに取れんのだぞ」

 「ですが! これ以上は……!!」

 隊員たちは既に全員が疲労困憊の表情をしていた。無理も無い、彼らは先遣と分断されてから今までずっと結界突破の為に尽力していたのだ、とっくに体力も気力も底をつき掛けていても何ら不思議ではない。

 誰もが絶望の陰に顔を曇らせていた、その時――、

 「隊長! こちらに向かって高速で接近する詳細不明の機影があります!」

 「機影? 技術開発研究部が造った試作量産型ガジェットⅡ程度の火力ではたかが知れているぞ。一体何機居る?」

 「それが……確認出来ている限りでは一機のみで……………………なっ!? 速い! これは……ガジェットではありません!!」

 「何だと! レーダーを見せろ!」

 報告してきた隊員のあまりの慌て様に只ならぬモノを感じた隊長は虚空に映し出されていたホログラム映像に目を剥いた。映し出されている立体映像は後続隊を中心として半径約十数キロに渡って広域探知魔法が掛かっている範囲内の様子を余すことなく伝達しており、周囲一帯に乱立するビル群までも忠実に映していた。映っているのは青い光点で表示された自分たち後続隊と、赤い色で彩色された巨大なエネルギー障壁……そして、自分達の遥か後方から猛スピードで接近して来る黄色い光点が一つだった。確かに速い、都市部のリニアレールが全速力で走ったとしたとしてもここまでの速度は出ないだろう。

 その光点は宙に浮かんで待機している後続隊よりも高い位置を飛行しており、レーザーか何かの様に真っ直ぐこちらへと向かって来たいた。

 「間もなく、肉眼捕捉可能域に進入します!」

 その言葉に、その場に居た全員の視線が一斉に後方上空へと注がれた。

 初めは青空に何も見えなかったが、ものの数秒もしない内に雲一つ無い空の向こうから小さな点のようなものがこちらへ近づいて来るのが見えてきた。

 ガジェットではない、形や大きさがまるで違う。しかし、そのスピードは飛行戦闘に特化したⅡ型ガジェットのそれを大きく上回っていることだけは実物を見ただけで分かった。

 やがてそれは接近して距離を縮めると、その全容が徐々に明らかになり……

 「あれは……まさか!?」

 全員がその姿を確認出来た次の刹那には、「それ」は彼らの頭上を通過した後だった。










 大地を揺るがす爆音の後、廃棄ビルから小さな影が飛び出すのをシグナムとザフィーラの優れた動体視力が捉えた。

 「ザフィーラ! 今だ、やれ!!」

 赤い小さな影――ヴィータは空中で待機していたザフィーラに向けて大声で合図した。

 「承知した!!!」

 空を蹴るとザフィーラは一気にアスファルトの地面に向かって急降下し、右拳を構えた。肘関節を折り曲げ、二の腕の筋肉のバネを最大限に圧縮、そしてその剛腕の鉄拳に膨大な魔力を上乗せする。

 「鋼の軛!!!!!」

 鋼鉄よりも堅剛な拳が地面を穿ったその瞬間、そこから派生した亀裂の一筋が急激に伸び、彼の前方、ヴィータが戦っていた廃棄ビルへと走った。地表を猛スピードで走るその亀裂はまるで地中を何か巨大なモノが移動しているようにも見え、実際そうだった。

 「はああぁぁああっ!!!」

 亀裂がビルの外壁に到達したのを確認した彼はさらに魔力を増幅させた。この魔法の最後の大仕上げに取り掛かったのだ。

 彼の咆哮の直後、ビルを中心とする周囲の地面が大きく波打ち、その次の瞬間――、

 一瞬にして廃棄ビルが内側から爆散した。低い階層の壁は残ったが、上の階は完全に消し飛び、消滅したコンクリートの代わりに実体化した白銀の魔力の尖角塔が一本、大きくそびえ立っていた。これぞザフィーラの十八番、攻防一体のベルカ式魔法【鋼の軛】である。

 同時にこれは彼ら三人の作戦の一つでもあったのだ。ビルの中に叩きつけた後はヴィータが先行し、気絶していれば捕縛、そうでなければ戦闘で押し切った後に当然捕縛。だが、万一彼女の実力を以てしても止められなかった場合は建物内部にて足止めの後、ザフィーラかシグナムの手によってビルごと破壊して敵を丸裸にすると言う算段だったのだ。とは言っても、これはあくまで最終手段として考えていたのだが、まさか実際にここまで戦況を引き摺られるとは誰も予測してはいなかった。

 突き上げられて粉砕したコンクリートの外壁や瓦礫が落下して来るのが収まった後、周囲に存在していたのはヴィータ、シグナム、ザフィーラの三人と、ビル丸々一棟を破壊した【鋼の軛】だけとなっていた。

 「おい、ヴィータ、その腕……!?」

 「気にすんな、どうってコトねーよ。こっちは腹をブチ貫かれたことだってあるんだ、腕が半分切れたぐらい直ぐに治るって」

 そう言うヴィータの肘から下の腕の切断面からは未だに滝のように血液が溢れ出している。完全に切れてしまった訳ではないのでなんとか手や指先は存在してはいるが、筋肉が完全に分断された今となっては動かすことはもちろん、アイゼンを握ることなど到底不可能となっていた。実際彼女は口でこそ何とも無いように喋ってはいるが、その顔は苦痛の表情で歪み、脱出するまでに見掛け異常に大量の血を失った所為で皮膚も青白くなってしまっていた。

 「襲撃事件で負傷者が居なければ、シャマルを連れて来るべきだったな。ともかく、今は応急だけでも……!」

 「あぁ、サンキュ。でも……あいつはどこ行ったんだよ? 流石に手加減したから死んじゃいねーとは思うけどさ」

 包帯できつく腕を締めながらヴィータは辺りを見渡した。完膚無きまでに粉砕されたビルの周辺には彼女と相対していた敵の姿が見えず、瓦礫の山だけが積み上がっているだけなのだ。一応周辺一帯に探知魔法を掛けてはみるが、探知妨害でも掛けられているのか全く以て反応が無い。やはり肉眼だけを頼りにする他なさそうだ。

 しかし、いくら探せど人っ子一人見当たらず、一旦地上に降りて捜索しようとしたその時――、

 『上空だ!!』

 シグナムの腰に差さっていたレヴァンティンが声を張り上げた。

 それに伴って三人の目が一斉に空中へと向いた。空にはエネルギー障壁の所為で紅く染まっており、網膜を容赦なく刺激するその中で、ただ一点だけ影が確認出来た。

 「……どうやら、相手は高い所からこちらを見下すのがかなり好きらしいな……」










 「IS、No.11『エリアルレイブ』、発動」

 『Form of “Riding Board”.』

 トレーゼのデバイス、デウス・エクス・マキナは無骨な漆黒の大型プレートに変形し、口数の少ない主を足元から支えていた。そのプレートの直下にはISの発動を示す真紅のテンプレートが回転し、彼が今発動させているISの影響でデバイスごと宙に浮かんでいられるのだ。

 「マキナ、最大速力で、現領域から離脱。このまま、第一ラボまで、振り切る」

 『Yes,my lord.』

 足元からの電子音と同時に大型プレートが大きく方向転換、次の瞬間には見えない波に乗るサーフボードの如く虚空をジグザグに高速飛行を開始し始めた。

 ナンバーズ11番、ウェンディが使用していた固有武装『ライディングボード』。元々この武装はDr.スカリエッティが空戦能力を持たないナンバーズ、もしくはその他の戦闘機人が限定的に空戦能力を得られるようにと開発した代物であり、その浮遊・飛行機構は少々複雑だ。ボードを中心とし、主に重力の働く下部を重点的にして重力の影響を緩和させる反重力を発生させると言うのは開発者がジェイル・スカリエッティだからこそ成せる業でもある。推進力はそのままダイレクトに使用者である機人が体内にて貯蓄、もしくは発生させたエネルギーを回すので問題は無い。実際に難しいのは反重力の出力計算である。浮遊してから、飛行、上昇、下降、カーブ、旋回、停止……これほどのプロセスの間に行わなければならない重力制御計算は並大抵のものではなく、それを本来ならばたった一人の使用者がこなさなければならないのだ。故に、この固有武装を使用する者の脳はそれだけの処理能力を得る為に、高速計算に特化した疑似脳細胞やシナプスなどを埋め込み、増殖させることでそれを解決している。

 しかし、そのシステム自体は空戦魔導師の飛行魔法を模倣したものである。単純に、使用されている力が「魔力」か「物理的エネルギー」かで、計算をするのが「デバイス」か「使用者」の相違だけに過ぎないのだ。

 初速の時点でレーシングカー並みの速さで飛ばしたボードは後方のヴォルケンリッターを置き去りにし、さらにその速度を上昇させる。当然ながら、背後から追跡してくる気配があるのだが、如何せんこちらの方が速いために追い付かれる心配など皆無だった。それに彼らは重ねて言うが古代ベルカの騎士であるため、ミッド式魔法とは違ってそれほど精密な射撃を行われることもない。このまま一気に振り払ってしまえば後はこちらのものである。

 乱立するビルの間を蛇行してある程度距離を離した後は急上昇し、上空のエネルギー障壁の天井へと一直線に駆けあがって行く。地上およそ数百メートルに到達する頃には後方の三人の姿も豆粒のように小さく見え、充分過ぎる程に引き離しには成功したことを示していた。

 このまま行けば無事問題無く脱出出来る。

 『My lord! Caution! Caution!(警告! 警告!)』

 そう思っていた矢先だった、足元のデバイスが警告音を発してきたのは。

 射撃や砲撃魔法は飛んできてはいない。だとすれば、誰かがこちらに向かって急接近していると言うことだ。しかし、背後の三人は完全に振り切っているだとすれば一体どこから……?

 その答えは自らの頭上、薄紅色の障壁の遥か向こうの上空から「強襲」して来た。

 「あれは……何だ?」

 『“Unknown”. But,the most danger.(未確認物体。しかし、極めて危険)』

 自分よりも遥かに高い上空から降下して来る「それ」はただ一直線にこちらに接近し――、



 音の壁とエネルギー障壁を同時に突破した。



 「この速度……このパワー……!」

 外側からは難攻不落を誇ったエネルギー障壁が、たった一度の接触だけでまるで石を投げつけられたガラスか何かのように粉砕された事実に彼は初めて驚愕に目を見開いた。障壁を突き破り音速に達した「それ」は巨大な自分の得物を振り上げると、接触するその寸前に――

 「はぁぁぁあああああああーーーーーッ!!!」

 トレーゼをボードごと弾き飛ばし、慣性とエネルギー保存の法則に従って彼の体は刹那の瞬間にアスファルトへ叩き戻したがなお足りず、衝突によって発散されなかったエネルギーはさらに彼の体を引き摺り、既にボロボロのアスファルトにさらなる傷痕を刻み込むに至る程だった。

 上空から飛来したその人物が握るは黒き雷の大剣、しかし手に持つ武器に反してその足元に展開する魔方陣は煌びやかな金色の円形のミッド式魔方陣。黒いバリアジャケットに身を包み、その背中に揺れるのは付属の純白のマントと絹のように輝く二つに分けられたプラチナブロンドの長髪、そして紅い瞳。

 「バルディッシュ、サーチして」

 『分かりました、サー』

 デバイスから吐き出された白い蒸気を身に浴びながら本局屈指の武装執務官、フェイト・T・ハラオウンは今――

 戦場に降り立った。










 すぐに彼女の元へとヴォルケンリッターの面々が接近してくる。

 「テスタロッサ! 来てくれたのか?」

 「はい。でも……実は出動許可をもらってなくて……」

 「どう言う意味だ? まさか管制室から直にこちらへやって来たのではないだろうな?」

 「実はそうなんです……」

 本人はまるで近くに寄ったついでに足を運んだとでも言うように話しているが、実際これは重大な問題である。管理局の武装局員は言わば軍隊や警察組織と同じなので、有事の際の出動には正式な許可がいるのだ。中には独自行動を上層部から許されている者も居るが、それも局内では片手で数える人数しか居らず、フェイトもこの中には入ってはいなかった。その規則を破ったとなれば、如何に優秀な人材である彼女とは言え、始末書の数枚は書かされるだろうことは目に見えていた。

 「何でそんな強引に?」

 「上層部の部署を幾つも通して許可の判子をもらって大部隊増援を送るのと、許可なんかもらわないでさっさと出動して後で始末書書くのとどっちが早いのか考えたんです」

 「あぁ……なるほどな」

 フェイトの言いたいことは概ね理解した。機動六課が存在しない今、地上本部は大組織故のジレンマに再び陥ってしまっている。団体や組織が大きく成長すればするほどにその対応や行動には遅れが生じてしまう、もし彼女が局法を無視して増援に来なければ今頃とっくに敵を取り逃がしてしまっていたのは自明の理だったに違い無い。

 何はともあれ、今は増援に感謝せねばならない。彼女の構えるデバイス――バルディッシュは現在ザンバーフォーム、これで弾き飛ばされたとなれば相手は相当の痛手を喰らったはずだ、しかし、あれ程の実力を持つ者がそれだけで終わるはずがない。すぐに四人は一斉に探知魔法を発動させ、その居所を探り出そうとした。だが――、

 「おかしい、確かに探知範囲内には存在を確認できるが……」

 「速ぇ……! 捉え切れねーぞ!」

 彼女らの言う通りだった。既に敵の影は落下地点には無く、もぬけの殻だった。問題はその後だ、探知魔法には効果範囲内にその存在が居ることが確認出来るだけで、その正確な位置や座標は全くもって掴めないのだ。時折思い出したかのようにして引っ掛かることもあるが、瞬きした後には反対側に現れると言う人知を超越した神速で翻弄し続けるそれはもはやエリオのソニックムーブの域までも超えている程だった。

 しかし、ヴォルケンリッターの三人がうろたえる中で……

 「……………………」

 フェイトだけは違った。彼女は目を閉じると全意識を自分の周囲に向け、ただじっと待つ。

 「……………………」

 三人の声は聞こえない。代わりに鼓膜を打って聴神経を刺激するのはもっと微細な音波、大気の流れを肌で感じ取り、その流れを発生させた原因を探り当てようとする。もはやそれは原始的と言う言葉では言い表せない程で、ある一種霊感的なモノを感じさせていた。

 自身を中心とし、不可視のプレッシャーを放ち続ける。

 その刹那――、風が薙いだ。

 「……っ! バルディッシュ!!」

 『イエス、サー!』

 目にも止まらぬ瞬速でカートリッジをロード、大剣型のザンバーフォームを操作して湾曲した魔力刃が特徴的なハーケンフォームへと変形させると、それを自分の背後に向けて大きくスイングさせた。

 瞬間、二つの物体が真正面からぶつかる音が盛大に鳴り響いた。

 「な……?」

 「捕まえた」

 雷光の刃がその切っ先に捕えたのは紫苑色の髪を持つ敵の姿だった。顔の表情筋こそまるで凍り着いたかのように微動だにしないが、その黄金色の双眸は驚愕に見開いていた。しかし、やはりその剛腕振りは変わり無く、ライディングボードから形を変えた漆黒のデバイスを片手にフェイトの斬撃を受け止めていた。流石に格が違うのか、ヴィータとは違って弾き飛ばされるようなことにはならずにいた。

 「やっぱり、その防護ジャケット……精密機器を埋め込んだ眼球……それに、そのチョーカーの番号……。貴方、スカリエッティ製の戦闘機人!」

 フェイトの紅い目が眼前の少年を睨んだ。写真や映像で確認したものと寸分違わず、氷の結晶のような光を宿さぬ瞳がこちらを見返してきている。外見年齢と背格好は被害に遭ったスバルやティアナと同世代と踏んで見ても間違いなさそうだが、彼女が気になって仕方が無いのはその容貌の方だった。

 (この顔……誰かに似ている。でも一体誰に? どこで会ったの?)

 写真を見た時に感じた強烈な既視感がまたもや彼女の脳裏を過った。そして確信した、「自分はかつてこの少年に似た人物に直接会っている」と。

 だがしかし、肝心なその人物が頭に現れないのだ。やはり自分はその人物を知っていると同時に限り無く無意識に忌避していることも実感していた。

 と、その時――、

 「該当データ、検索……。一件、『プロジェクト“F.A.T.E”』の、完成体」

 「っ!? どうしてそれを!」

 「処理、する」

 「うわぁああ!!?」 

 フェイトの質問に少年は答えず、次の瞬間にバルディッシュと鎬を削っていた右腕が急激に力を増してきた。おかしい、さっきまではこんな腕力は無かったはずなのに急にこれだけの力を出してくるのは不自然だ。これではまるで――

 (急激なスピードで強くなってる!? そんなことが……!!)

 そんなことがあるはずがない!

 確かにスカリエッティ製の戦闘機人は戦闘能力の向上が異常に早い。だがそれは彼女らナンバーズ同士の間で行える「動作データの共有」と「データ蓄積」の二つのシステムの加護を受けて初めて成せる現象だ。しかもそのシステム自体も、二人以上の戦闘機人が存在し尚且つ互いのプログラムが直結している場合のみに有効なだけで、もしそうでない場合には全くの無用の長物に成り下がってしまうのだ。少なくとも、発見済みのスカリエッティのラボから押収された研究記録や後発組みの長女であるチンクらの供述には目の前の少年に関する情報は一切皆無だった。だとすれば、彼はナンバーズではなく、ナカジマ姉妹のように別の人間がスカリエッティの製造理論を用いて生み出したとしか考えられなかった。

 だが、紺を基調としたデザインの防護ジャケットに、四肢に装着されているキャリバーに酷似したアームドデバイス、背から伸びる白いマント……そして何よりも、首元で鈍く輝く金属のチョーカーに刻み込まれた『ⅩⅢ』の文字がどうしても無視できなかった。

 そして、そこから記憶が派生し、呼び起されるのは面会室でスカリエッティが言った言葉…………究極のサンプル、“13番目”。

 「くぅうっ! バルディッシュ!!」

 高速思考の最中でも敵は容赦無く、攻撃の手は緩めない。対抗する為に彼女は自身の持てる限りの魔力をデバイスに注ぎ込んだ。

 「これは、何を……?」

 少年も接触している所から魔力を感じ取ったのか少し身構えた。しかし、フェイトが魔力を集中させたのは愛杖のバルディッシュの出力を上げる為ではなく、他にあったのだ。

 「管理地区内での許可されていない魔法の行使……局員に直接攻撃などの公務執行妨害…………今なら、自首したら間に合います。すぐに武器を収めて投降してください」

 「拒否する。まだ俺は、目的を、達成していない」

 「そうですか……残念です」

 戦場において最終通告を無視された場合、取るべき行動は一つ……。

 迅速かつ正確に――!

 相手を無力化することだ。

 「はぁぁあぁああぁあああああっ!!!」

 彼がどこから自分のデータを引き摺り出して来たのかは知らない。だが、彼は重大なミスを犯していることに気付いていなかった。

 一つは、フェイトはミッド式の魔導師でありながらも自身の魔力変換資質「電気」を利用した高い近接戦闘の能力を持っていると言うことを知らなかったこと。

 もう一つは――、



 その彼女に対して近接戦闘を挑み、不用意に間合いに進入してしまったことだった。



 デバイス同士が接触した部分から高圧電流に変換されたフェイトの魔力が少年の肉体へと一瞬で侵攻を果たした。電流は紺色のジャケットの表面を這いながら、その下に隠れた神経系統や精密機器を刺激し、狂わせてゆく。その威力に流石の敵も苦悶の表情を浮かべていた。

 「くぅ……! がぁっ!!」

 獣の咆哮にも似た叫びの後、少年は空を蹴ってフェイトの間合いから逃れた。

 距離を空けられてしまったが、改めて相手の全体像を確認出来るチャンスにはなった。

 足元には真紅の多重円形紋が光輝いており、その両足首からは同じく紅いエネルギー翼が唸りを上げていた。フェイトはこのISに見覚えがある、かつてナンバーズの実戦リーダーだった者が持っていた能力だ。一度使用されればその速度は音の壁を突破し、常人の視認許容速度を遥かに超えるスピードで強襲される脅威的な能力だが、フェイトはその一瞬の不意打ちを見事に受け止め切ってみせた。

 当然相手は彼女がヴォルケンリッター同様、自らの速度について来るとは思っていなかったのか、少し動揺しているようにも見えた。

 「何故、防御出来る? 人造魔導師とは言え、素体は、人間…………視認速度を、超えた速さに、対応は不可能、なはず」

 「少なくとも、私は自分と貴方以外に音速を超えられる人間を二人知っている。それに……貴方のスピードはトーレよりも劣っているわ」

 そう、目の前の少年が発動させているIS『ライドインパルス』は確かに常人の認識速度を遥かに超越してはいる。しかし、魔導師最速を誇るフェイトにとっては追い付ける範囲内に充分収まっていたのだ。加えて彼女が言った「トーレよりも劣る」と言ったのも嘘ではない。実際彼のスピードはラボで戦ったトーレのそれに比較して微妙な差異ではあるものの、遅れを取っているのをフェイトは感じ取っていたのだ。対してナンバーズ最速のトーレが全力を出しても勝利出来なかった相手に、それよりも遅い相手が太刀打ち出来る道理が無かった。

 「貴方はスカリエッティとどう関係しているの? “13番目”とは、貴方の事なの?」

 「…………」

 「答えなさい! 目的は、一体何をするつもりなの!?」

 フェイトが距離を詰めようと構える。

 「下手に近寄んな!!」

 「ヴィータ……?」

 「そいつに見せた魔法は皆そいつにパクられちまうんだ! それに、そいつのデバイスだって……!!」



 「マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Laevatein”.』



 「っ!!?」 

 フェイトは再び襲い掛かって来た気配に無意識に回避行動を取った。慣性の法則でその場に留まろうとした長髪の先端部分が一閃、そのまま重力に従って落下していった。

 「マキナ、行動を再開。現戦闘区域より、離脱する」

 そう言った瞬間、少年の体が一瞬で上空へと遠ざかった。その右手に握られているのはやはり漆黒のデバイス、しかし、その形はヴィータの見た銃器型の物ではなくなっていた。

 鋭い切っ先に長く真っ直ぐな刃渡り、全体的に無骨でありながらも全く無駄のないそのフォルムは至高の芸術品にも劣らぬ美しさを秘めていた。しかし、色彩は違えどその形状は見紛うはずがない。

 黒き炎の魔剣――

 「レヴァンティンだと!? いつの間に……!」

 「くそっ! 遅かった! 初めにシグナムと戦った時に……!!」

 「あの時にか!?」

 そう言われてシグナムはほんの数分前の出来事を思い返した。確かにあの時、彼女の得物は敵である相手に強奪されかけた。もしレヴァンティンのデータを採取しコピーするのだとしたら、あの瞬間でしかあり得ない。

 幸いにも、ヴィータの言っていることが正しければ、敵は自分で見て体感した魔法しかコピーして使えないはずだ。だとすれば、地上本部襲撃事件の時を累計すれば彼が習得した可能性のある魔法はティアナの射撃魔法、ザフィーラの【鋼の軛】に、ヴィータの【シュワルベフリーゲン】ぐらいのものだろう。一応ヴィータの【ラケーテンハンマー】もコピーされている可能性もあるのだろうが、あれはアイゼンがあって初めて成せる技だ、見る限りではアイゼンまでコピーされた様子はない。フェイトの雷撃も、あれは彼女が自身の魔力変換資質によって編み出したものであるため、資質を持たない敵にはコピーするのは不可能である。つまり少し早計かも知れないが、敵はそれ程に脅威となる恐れのある魔法は持っていないことになるだろう。

 だがそうして思案しているうちに少年は上空へと逃走して行く。彼の向かうその延長線上には、フェイトが突破したことによって大穴が開けられたエネルギー障壁の天井があった。

 「待ちなさい!!」

 すぐさま逃走するのを防ぐべくフェイトが飛び立つ。しかし、相手も必死なのか距離はどんどん離されてしまい、このままでは逃げ切られてしまうと焦燥感を感じたその時――、

 敵が障壁の突破穴で急停止した。

 「な!?」

 こちらの予想を大きく裏切る行動にフェイトは思わず空中で停止してしまった。だがこちらに恭順する意思が無いことは分かる、そうでなければ逃走を図ろうとする動機が無い。

 地上数百メートル、少年はこちらを睥睨しながら得物のレヴァンティンを模倣した漆黒のデバイスを静かに彼女の胸元へと向けてきた。

 まるで、「お前たちとは付き合っていられない」と言いたげに……。










 『How do you do?(どうするつもりですか?)』

 黒いレヴァンティンの刀身にある紅いクリスタル部分から電子音が次の行動を伺って来た。

 「目標の、変更……『証拠隠滅』に、移る。この区画ごと、第二ラボを、消滅、させる」

 『Into action.(実行せよ)』

 「了解。マキナ、フォームチェンジ」

 『Yes,my lord. Mode of “Bogenform”.』

 トレーゼの手からデバイスがひとりでに離れる。すると、刀身がいきなり二つに割れたかと思えば次の瞬間には全く形状の違う武器が彼の手に握られていた。

 「ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』に、リンカーコアの、第二拘束制限術式の解除を、申請する」

 『Approval. Limit releace.(承認。解除する)』

 全体的に半月形で鋭角的なその武装は、さっきまでの長刀とは明らかに使用用途が違うことをハッキリと周囲に知らしめていた。半月形の両端を結ぶ紅い魔力の糸、そして左の手を独特な形で添えて構えるその武器は――、

 弓! レヴァンティンの隠された能力の一つのボーゲンフォルムがその手の中にあった。

 虚空に純粋な魔力で構築・実体化された黒い矢が出現し、右手に収まると彼は間を置かずにそれを弦に絡ませて構えを取る。リンカーコアから常人ならざる莫大かつ高純度の魔力が弓と矢に注がれ、足元ではテンプレートが目にも止まらぬ速度で回転している。

 最早彼の双眸は何も捉えてはいない。フェイトも、ヴォルケンリッターの三人も、何もかもその視界には映ってはいなかった。彼が今その氷の眼で見ているモノはただ一つ……それは

 「魔力、圧縮充填、完了。発射する」

 『Flying falcon,“Sturmfalken”.(翔けよ、隼。シュツルムファルケン)』

 純粋なる作戦行動の完遂……ただそれだけだった。

 「使用出来る魔法が、『見た』モノだけとは、一言も、言っていない」



 刹那、破壊の矢が解き放たれた。



 






 下方に位置していた彼女らは全員が驚愕の表情を顔面に凍らせていた。いきなり敵が周囲の空間を歪める程の膨大な魔力を集中させたかと思った矢先に、シグナムのシュツルムファルケンを構えたのだ、驚くのは当然とも言える。だが、何故だ? 如何なる術者も実物を目の当たりにしなければ模倣など出来ようはずがないのだ。それを何故……!?

 「おい……マジかよ、そんな……嘘だろぉ!?」

 「シュツルムファルケンだと!? 馬鹿な、私はあの魔法を使った覚えは…………………まさかっ!」

 記憶を手繰り寄せたシグナムの脳裏にある一つの出来事が浮上した。ここへ来て隔離されてから初めて相手と刃を交えた、あの時――。

 あの時彼女は魔力を吸収される時に頭を掴まれた。腕でも首でもなく“頭”を掴まれたのだ。そして、魔力吸収の瞬間に感じた違和感……確か自分は言ったではないか、「何かが頭の中に入り込んで来る感覚を覚えた」と。

 つまり、その時に――、

 「私の“記憶”を……盗み出したと言うのか!?」

 それならば説明がつく。【シュツルムファルケン】を見せていない以上、敵がその魔法の全容を確認出来るのは彼女の記憶しかあり得ない。記憶の集積する場所は即ち脳、魔力を吸収すると同時にその記憶を解析すれば魔法の使用方法も当然分かって当たり前である。故に記憶に進入する為に敵は頭に接触したのだ。そうとしか考えようがない。だがしかし、どうやって他人の記憶に入り込んだと言うのか?

 「今はそれよりも、出来るだけ遠くへ……!!」

 「うむ!全員、プロテクトを最大に展開しつつ散開! 攻撃範囲外へ逃げ切るぞ!」

 幸か不幸か、敵のファルケンの矢じりはこちらではなく遥か下方のアスファルトへと向いている。こちらを直接狙っていなければ、まだ離脱できる可能性はある。それに、もし仮に敵の攻撃がシグナムのものと同じだけの威力があるとすればこの一帯は壊滅するだろう。かつて闇の書の防衛プログラムの障壁の一枚を破ったあの威力なら……。

 無駄口は叩かない、すぐに四人は各々の方向へと空を蹴って飛行し、予測攻撃範囲内からの離脱を図った。

 「っ!!」

 逃走行動に出てから間を置かず、フェイトは自分の背後に魔力の塊が下方に向かって通過するのを感じ、さらに飛行速度を上げた。魔力を感知すると他の三人も同じように速度を上げたのが分かった。

 目の前に薄紅色の障壁が迫って来る。再びバルディッシュを大きく構え、突破口を開こうとし……



 強烈なエネルギーの奔流が空間を『破壊』した。

 ミッドの太陽が地に落ちる、午後15時39分の出来事。



 






 時は少し遡り、午後15時30分。所も同じく変わって、視点を一度聖王教会の事務室へと移そうと思う。

 ミッドの冬は日が短い。ついさっきまでは陽光が燦々と照っていたのが、一時間後にはすっかり暗くなってしまうと言う現象が日本同様に起こることも多々あったりする。俗に言う「釣る瓶落とし」とか言うモノだ。

 ここも当然例外ではない。窓から差し込む光は既に暖かみを失いつつある西日へと変わり、その所為で全ての物の影が長く地面に黒溜まりを作っていた。そして、その部屋には現在三人分の人影があった。

 「それでね、ヴィヴィオが歌ってるのを見てたら本当に可愛いなぁって」

 「ふっ、何を言っている。うちのカレルとリエラも良い子で頑張っていてな、俺がたまの休暇に海鳴へ帰ると『お帰り』って…………あれが一番の至福の時だ」

 「ふーん。だけどヴィヴィオはもっと凄いんだから。この間なのはの家に夕食に呼ばれて行った時も、『ユーノさん、お仕事お疲れ様』って言ってくれたんだ」

 「ほぅ。なかなかだが、うちの二人には程遠いな」

 円卓では三人の人間、なのは、ユーノ、クロノが腰を落ち着けており、談笑……もとい、自分の子供自慢に華を咲かせていた。傍から見ていればまるで茶番だが、見ていて無意識に頬が緩むのはその雰囲気がとても穏やかだからだろう。

 「もう、二人とも、いい加減それ位にしないと。もうすぐカリムさん来る頃だから」

 「あっ、ゴメンね、なのは。ついつい夢中になっちゃって……」

 「分かってくれれば良いの」

 そう言ってなのははユーノの頭をまるで幼子にするかのように撫でた。もちろん、撫でられた本人は気恥かしそうに顔を赤らめながらも、悪い気はしないのか成されるままに大人しくしていた。

 その一見微笑ましい光景に隣のクロノはと言うと……

 (甘ったるい!! 口から砂糖を吐きそうだ! 早く……何とかしなければ、この万年バカップルが!)

 二人はJ・S事件が解決した辺りから殆どこんな調子で、そのくせ交際しているのかと聞けば互いに、「友達だよ」としか返さない。見ているこっちが歯痒くもあり恥ずかしい。

 ちなみに、クロノは甘い物が大の苦手である。

 彼が痺れを切らして「いい加減にしろ」と言いそうになったその直前――、

 「あの~……ひょっとして、お邪魔でしたか?」

 神が現れた。事務を終えて戻って来た金髪の麗人、カリム・グラシアが扉を開けてこちらを見たまま半分固まっていたのだ。手には三人分の紅茶を乗せた銀盆を持っている。

 「いや、構わない。むしろ待ち焦がれていたぐらいだ!」

 「は、はぁ……?」

 状況が把握できていないカリムではあったが、クロノの方が切羽詰まっている雰囲気だったのを感じ取って戸惑いながらもすぐに入って来た。そのまま三人の向かいに座って持って来た紅茶を配った。

 「すみません、急に呼びつけたりなどしてしまった上に待たせてしまって……」

 「いいんですよ、どうせ休暇申請で暇でしたから」

 「ヴィヴィオちゃんはどうしたんですか? 一緒に帰宅したはずでしたよね?」

 「ヴィヴィオは一旦アイナさんに預けて、その後すぐに出頭要請があってトンボ返りして来たんです」

 「本当なら局の方から担当局員が来るのだろうが、二日前の件で誰も手が空いていなくてな……。急遽、休暇申請をして暇な奴で、尚且つ信用できそうな人員を見繕った結果が二人と言うことだ」

 「私は三年前に立ち会ったけど、ユーノ君は初めてだったよね?」

 「うん。知り合いに預言解析班の方がいるから色々聞いてはいるけど、実際に見るのは今回が初めてだよ。でも、何だっていきなり……」

 「えぇ、私にも分からなくて……。確かに月の魔力は日を追うごとに強くなってはいるんですが、昼間には全く発動の兆しは無かったのに……」

 カリムの表情が思案に陰った。彼女が言っているのは自分が保有している古代ベルカのレアスキル、『預言者の著書』のことである。ミッドチルダ上空に存在する二つの月の魔力を利用し、最大で数年先の未来に起こるであろう出来事を詩文形式で知らしめる一見利便性の高そうな能力だが、月の軌道関係や魔力のシンクロが問題で基本一年に一回しか使えない諸刃の何とやらだ。基本、術者であるカリムは一年間365日を通していつ預言の時期が来るのか大まかに把握しており、その時期が近づくと地上本部から担当の執務官などが派遣されて来て預言を持ち帰り、預言解析班がこれを解読すると言う一連のシステムを辿っているのだが、今回は違っていた。

 「確かにここ一ヶ月の間に月は互いに接近し、この一週間で最接近する予定ではあったが……何故だ? たった数時間そこらで急に発動が促進されるのは前代未聞だぞ」

 そう、彼女のレアスキルは月が満ち欠けるようにして発動可能時期が巡って来る。天体と言う大自然の産物を利用した魔法……即ちそれは、急激なサイクルの変化はまず起こらないと言うことだ。一体何が原因でそのような事態が起こっているのかは理解は出来ないが、今重要なのはそこではない。

 カリムが「そろそろ……」と言ったのを皮切りにして四人は部屋のカーテンを閉め始めた。『預言』は地上本部においては最重要機密にも匹敵する程に重要度が高く、他人はもちろん、派遣された者以外は同じ管理局員であっても立ち会うことは許されてはいないのだ。

 「では……」

 椅子から立ち上がったカリムはそのまま円卓から離れると精神を集中、懐から取り出した紙片の束に魔力を込めた。

 そこから先は三年前に見たのと全く同じ、彼女の周囲を数十枚の輝く紙片が取り囲み、その内の三枚が着席しているなのは達の手前まで飛んで来た。長方形のその小さな紙面には前回と同じく預言の詩文が書き記されており、その文はこれから先の未来で起こり得るであろう事態を明確に――、

 「あの……読めません」

 「右に同じくだ」

 解読不能。当然だ、紙片に書き記されている詩文は古代ベルカの言語で記されている為に、一般人にはまず読める訳が無かった。なのはとクロノは少し申し訳なさそうに頭を下げる。

 「ご、ごめんなさい。いつもは解読班の方が来られるものでしたから、つい……」

 「あぁ、大丈夫です、僕が読めますから。これでも古代ベルカ関係の遺跡調査で解読能力はある程度身に付いてますから」

 そう言うとユーノは目の前の紙片を手に取ると、眼鏡を掛け直して解読に掛った。伊達に遺跡研究のプロフェッショナル、スクライア一族の出身を名乗ってはいない、既に彼は小さくブツブツと何かを呟いては解読を完了させようとしていた。

 「やれやれ、危うく本部から解読班を呼びだす手間を取られる所だった」

 「にゃはは……。それで、ユーノ君、もう解読出来たの?」

 なのはが隣の幼馴染にそう問い掛けると、凍り着いたかのように固まっていた彼はそっと……



 「『法の塔は二度倒れる――』」



 その言葉から始めた。





 『旧き結晶の力を身に宿した“13番目の使徒”が中つ大地に降り立つ時――、法の塔は虚しく倒れる。

 統治者は彼の者を許しはしない。彼の者を打ち砕かんとするのは、“星”、“雷”、“翼”……そして、袂を分かった“使徒”である。

 彼の者の力は強大也、されど、闇にあらず――。彼の者は忠実、されど盲目也――。彼の者は始原にして終極――。彼の者は守人にして掠奪者也。

 やがて、彼の者は仕えるべき主を失うだろう。度重なる戦いにその器は干乾び、彼の者は標を見失う。

 彷徨える彼の者と結託する者あり。其即ち“裏切りの使徒”也。

 二つの使徒はやがて中つ大地を離れ、遠き彼の決戦の地へと流れ着く。

 されど、統治者は二つの存在を許しはしない。彼の者達は“星”、“雷”、“翼”、そして“使徒”らを拒絶する。

 遠き決戦の地で“13番目の使徒”は汚れ無き翼に身を纏い、掠奪した力を以て敵意の刃を向ける。彼の者が“裏切りの使徒”の造りし道を通る時、決戦の地は紅く染まる。 

 ――“裏切りの使徒”が小さき結晶を宿し、彼の地が聖なる白に染まる時――、

 大いなる戦いは終端を迎える』



 






 午後18時43分――、ナカジマ宅にて。

 「……ごちそうさん」

 「ん? 何だノーヴェ、もう食わなくていいのか?」

 基本ナカジマ家では仕事関係で忙しくない限りは家族揃って食事をするのが習わしだ。初めの頃は一家三人で、J・S事件があった最中は殆ど一堂に会して食事と言うのは出来なくなってしまっていたが、解決すると同時に家族の人数が一気に7人に増えて騒がしくなったこともあって今では局内でも指折りの大家族となっていた。さらに最近では一家の胃袋を満たす為の調理担当にカインが就いたこともあり、実質8人での食事風景に収まっている。

 ちなみに、戦闘機人はほぼ例外無く胃袋が常人よりも大きい。普通の人間とは違って肉体を構成するモノの大部分が機械骨格や精密機器である為、それらを支える筋肉などに消費するカロリーが必然的に多くなってしまうのだ。ナカジマ家においてはゲンヤ以外は全員が機人な所為で一家の年間の食費はバカにならない。特にスバルとギンガの姉妹はその他の機人も驚愕するレベルで食べるのでたまったものではない。

 それらの事項はナンバーズの九女、ノーヴェももちろん例外では無い。総量こそスバルやギンガには及ばないが、それでも彼女はいつもは椀に必ず三杯以上は米を食べている。もちろんおかずのお代わりも当然忘れない。

 だが、今日の彼女は何かおかしかった。いつも食事中は常に他の姉妹に会話を吹っかけている陽気な彼女はどこへやら、食事を始めてからさっきまでずっと表情が上の空であり、時折思い出したかのようにして椀を突くが、またすぐに半ば放心状態……。そして、彼女はたった今食事を終えて席を立ったが、食器の上にはまだ食べ物が残っていた。

 「うん……。なんか食欲なくってさ……」

 「風邪か?」

 「う~ん……何か違うかな。気分もそんなに悪くねーし」

 「そうか。なら良いんだがな……」

 「じゃ、寝るよ」

 「おいおい、寝るってお前さん、そんな時間でもないだろう。せめて風呂入ってからに――」

 ゲンヤの言葉を無視するようにしてノーヴェはドアを開け、居間を後にしてしまった。ドアを開ける姿も何だか力無く見え、実際に彼女が通ったドアは閉め切っておらずに半開きとなっていた。

 「どうしたんスかね、ノーヴェ? 電柱の陰で拾い食いでもしたッスか?」

 「ウェンディ、犬じゃないんだからそれはないよ。あと、食事中に下品なことを言わないの」

 『少なくとも賞味期限が切れた食材は使用してはいない。と、我がマスターは申しております』

 「まぁ、あの子のことだから多分大丈夫ね」

 いつもと調子が違う彼女は心配ではあるが、たまにはこう言う珍しい事もあるだろうと一家の面々はそれほど深入りはしなかった。見た所それほど重い病気にかかったと言う訳でもなさそうだったからだ。

 「本当に大丈夫かぁ~?」





 ナカジマ家の寝室はゲンヤを除いて相部屋である。無駄にスペースを取らない為に俗に言う「二階建てベッド」が全部で三台置いてあり、その内の一つに紅い髪をした少女が無造作に寝転がっていた。

 「…………」

 眠ってはいない。金色の瞳が暗闇の中で光っているので分かるが、ノーヴェは全然寝入ってはいなかったのだ。その表情は何故かいつもと比べて元気が無く、そのくせまるで何かを考えているかのように眉を顰めてしかめっ面なんかしていた。

 「…………」

 言葉は無い。その所為で窓の外から冬の静かな雨音が鼓膜を執拗に突いた。ミッドの天気は今夜から明日の昼にかけて雨がふる予報が出されている。折角ベッドに入ったが雨音が煩くて眠れないのだろう。

 「…………」

 本当は眠くもないし、調子もそんなに悪くはなかったのだ。食事だって続けられたし、風呂にだって入ろうと思えば入れた。だが――、

 「熱い…………!」

 体に掛けていた毛布を放り捨てると彼女はベッドの上に大の字になった。真冬だが部屋には暖房はついてはいない、それでも彼女は毛布を掛け直さない。顔は既に熱で赤く染まっており、それほど重症でもないはずなのにノーヴェは徐々に意識が遠退いて行くのを感じ始めていた。自分でも異常だとは分かっているつもりだが、何故だろうか……

 全身の感覚神経を犯そうとしているその熱はどことなく――

 「あ、つ……い………」 

 甘美な温もりを持っていたからだ。

 薄れ行く意識を手放した瞬間、ノーヴェは安らかな表情を浮かべてベッドの柔らかみに体を預けた。



 






 同時刻、ミッドチルダ北西部海上の孤島にて――。

 「IS、No.13『――――』の、個体接続を、確認した。接続率、およそ37%。予測接続適合率より、高い数値を、記録。ヴェロッサ・アコースから、取り込んだ、『思考捜査』も、完全に、インストール完了」

 地下ラボにて少年――トレーゼはそう呟いていた。足元には真紅のテンプレートが回転していたが、やがてそれは静かに消え去った。

 「マキナ、例のファクターサンプルの、解析は?」

 『It's already.(完了済み)』

 「IS因子の、検出及び、精製は?」

 『It's already too.』

 トレーゼは壁から迫り出してきた収納スペースに収められていた試験管に目をやった。二日前に交戦した少女から採取した血液を解析・精製して作った物で、そのガラスの容器には『Type-0 2nd』の文字が記されているのが分かる。

 「ドクターと、同じ理論で、生み出された、違うコンセプトの、戦闘機人、タイプゼロシリーズ……。計画には無いが、摂取しておいても、支障は無い」

 彼はその試験管を手に取るとそれを椅子のそばの注入機へとセットした。すぐに自分は椅子に腰を降ろすと、近くで待機しているデバイスに向かって実行の命令を下した。

 すぐに注入機の巨大な針がその白い首筋に突き立てられ、液を注入し始める。二日前に注入した時とは違い、今度はまるで海綿が水分をどんどん吸収するのと同じようにして肉体に馴染む感覚が全身に広がっていくのが感じられた。

 「……インストール速度が、上がっている……これも、“進化”の、影響なのか?」

 『Infusion complete.(注入完了)』

 「だが……F.A.T.Eの完成体、あれは、計画実行の、支障になる。現状では、対抗策は、無い」

 彼の脳裏に蘇るのは障壁内で戦ったあの金髪の管理局員だった。自分達と同じように……それもドクターの編み出した理論を利用して造られた存在でありながら、創造主に仇成すあの存在が彼にとってはとても疎ましかった。しかし、現状の自分の『段階』では太刀打ち出来るかどうかも怪しい上に、格が違い過ぎるのだ。

 「せめて、あの魔力変換資質を、取り込むことが出来れば…………」

 彼は目を閉じた。脳細胞をデバイスとリンク、膨大な量子情報の中に自分が今探し求めているモノは無いかと、意識を集中させた。そして――、

 「該当一件…………昼間の騎士に比べれば、ランクは、劣るか」

 対象に関するデータから当てはまる人物を見つけ出すことに成功した。この人間と接触し、因子を奪い取ればあの魔力変換資質に対抗するだけの免疫が体内で構成されるはずである。だがその人物に関するデータを閲覧していると分かったことが一つあった。

 「この人間も……プロジェクトF.A.T.Eの、産物?」

 データにあったその人間は昼間に交戦した女性と同じように『造られた』存在であることがそのデータベースには記してあった。偶然ではないだろう、恐らくF.A.T.Eの技術を利用して生み出された生命は先天的にこの変換資質が身に付く可能性が高いのだろう。

 後でマキナにその仮説を記録させようと思考していると、小さな痛みと共に注入機の針が首筋から抜かれた。それと同時に彼は立ち上がると自身の手足を確認する作業に移った。軽い運動の後で四肢に問題が無いことを認めた彼はすっと両拳を握ると構えを取った。

 「動作テスト、及び、ISの発動確認」

 そう言ったトレーゼの眼の前に丸い巨体が特徴的なⅢ型ガジェットが進み出て来た。攻撃設定はしていない、これは直に廃棄処分になるからだ。

 「IS、No.0、発動」

 拳を構えた彼の足元に再び円形紋が浮かび上がった。それと同時に、足元の地面が体重も魔力も掛けていないのに突然亀裂が走ったのだ。トレーゼは少し驚いた風に目を開いたが、すぐに前へと向き直る。

 四肢と腰のバネを最大限に活用し、破壊力を込めた一撃を機械の塊に向けて解き放った。



 接触した瞬間、巨体と堅牢さを誇っていたガジェットの躯体は見るも無残な鉄屑へと一瞬で変貌を遂げた。



 「接触兵器型、純粋近接戦闘型……か。使用用途は、限られるが、近接戦闘では、強力なISとなるか」

 『What is set a name?(IS名はどうする?)』

 「四肢に、高速振動を発生させ、共鳴振動で、破壊する…………IS、No.0『バイブレートクラッシャー(振動粉砕)』と、設定」

 『Yes,my lord.』

 トレーゼはただの残骸と化したガジェットを一瞥した後、痛覚刺激を感じた右腕へと視線を移し変えた。所々の皮膚が裂けて血液が出ていて、地面に少し小さな血溜まりを作ってしまっていた。振動粉砕は近接戦においては脅威的な力を持つ反面、自身もダメージを負う可能性が非常に高い。特にそれを素手で発動させたならば論外だ、体内の精密機器を一斉に取り換えなければならなくなりそうである。

 しかし、彼の表情が痛みに歪むことは決してなかった。まるで、人体の危険信号である痛覚など無視しても、さして問題は無いと言う風に。

 「…………まだだ、まだ、計画は、第一段階すら、終了していない。完遂の為に、俺は計画を、忠実に実行するだけ…………」

 右腕の血液を拭うと、痛々しい裂傷が露わになった。しかし痛みに震えはしない、彼が何を成そうとしているのかは誰にも分かりはしないだろうが、恐らく、彼はそれぐらいのことでは自らの行動を止めはしないだろう。

 「この一週間が、計画遂行の、最重要期間……。失敗は――



 ――許されない」



 金色の瞳が不吉な色を湛えた。それは純粋な“決意”でもあり……

 その他には何も無かった。



[17818] 重なる再会
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 01:36
 新暦78年11月11日、午後19時31分――。クラナガンから少し離れた地方都市の一角にて……。



 街のとある住宅地の一件に二人の人影が足を運んでいた。一人は初老の男性で、もう一人は全身黒ずくめの若者のようだった。男性はこの周辺の住宅や土地を管理している不動産の事務員で、今日もこうして物件の紹介にこの部屋を当たったと言う訳だった。

 しばらく部屋の様子を吟味した若者は、男性の元へ寄るとサインを振る為の契約書を求めて来た。どうやらこの物件を購入するらしい。

 「承知しました、ありがとうございます」

 恭しく頭を下げた彼は依頼主である若者の右腕に視線が行った。冬にも関わらず袖が異様に短く、そこから見える肌は血管が通ってないかのように真っ白だった。

 だが、右腕の方は違った。肘と手首の間を埋め尽くすようにして包帯が巻き付けられており、まともに止血していないのか、血の紅で滲んでいたのだ。男性はすぐにゴロツキ達が良くやらかす抗争を思い浮かべた。この周辺一帯では縄張りや闇ルートの占拠の為にそう言ったガラの悪い連中がそうした馬鹿な命のやりとりを頻繁にするのだ。もちろん、意図せずに巻き込まれてしまう者も多々居る。この若者もこうした抗争に巻き込まれてしまったのか、それとも単に事故か何かなのか。

 そう男性が思考していると、若者が視線に気付いたらしく、

 「……何か?」

 と問うてきた。抑揚の無い声が聞こえてきて少し驚いたが、男性はすぐに愛想笑いを浮かべると顔を上げて契約書を渡した。

 「いえいえ、何でもありません。では、こちらにサインを……」

 紙を渡してから彼が氏名を書き終えるまでにそう時間は掛からなかった。その間ずっと若者は一言も喋る事無く黙々としており、実際事務所を訪れてからここへ来るまでも二言三言しか男性は彼の声を聞いていなかった。

 やがて必要な筆記を終えると、若者は挨拶も無しに部屋を後にし、夜の街へと消えて行った。結局最後までどんな人物だったのか推し量れなかったが、職業柄、そのような事には首を突っ込まないことにしているので、正直どうでも良い事ではあった。

 部屋に一人で取り残された男性は自分もさっさと事務所に帰るべく部屋を出ると、鍵を閉めて徒歩で住宅街から離れて行った。

 夜はさらに更ける。










 新暦78年11月13日、午前9時15分――。クラナガンから少し距離を置いた区画を通過するリニアの車両にて……。



 「もうすぐかな……。ほら、起きて」

 とある一車両の席に腰掛けていた少年は自分の隣で寝入ってしまっていた同乗者に声を掛けた。少年の外見年齢はおよそ十代前半で、地球で言う所の小学校高学年か中学生に入り立ての子供と言った感じで、隣の少女も同じ位に見受けられた。二人ともかなり遠方からやって来たのか疲れの色が濃く、少年の方は体力があるのか血色も良いのだが、少女の方は目元に少し隈が目立っていた。多分寝ていたのも疲れていたからなのだろう。

 「うぅ~ん……待って……あと五分だけ…………」

 隣の少女は肩を揺さぶられながら完全に寝ボケ口調で、精神の半分近くをまだ涅槃に置き去りにしていた。揺らす度に淡白な桃色の髪が小さく揺れるのだが、一向に起きる気配が無い。

 仕方が無い、目的地に着くまでにはもう少し時間はある。それまでは眠らせておくことにしよう。

 少年は素直にそう割り切ると、少し乱れていた彼女のコートの襟元を直し、自分の席に座り直した。窓の外に目をやると、発展したミッドの街並みが一望され、真冬の澄んだ空の少し遠くには地上本部の巨大なタワーが聳え立っているのも見えていた。吐く吐息がガラスに白い曇りを作り、少年はそれを丁寧に拭き取る。することが無くて暇なのか、だいたい数分はその行動の繰り返しだった。時折思い出したかのようにしては隣の少女が席からずり落ちてしまわないように気を付けて、その小さな体をちゃんと座席の真ん中へと戻してあげている。

 ガサ……! 

 「あれ?」

 何やら物音が聞こえたのでそちらの方に視線を移すと、少女が肩に掛けている少し大き目のバッグから音が出ていることが分かった。いや、良く見るとそれだけではなかった。

 ガサ、ゴソ……!!

 動いている。少女の膝の上で微妙にだが揺れ動いているのだ。もちろん、手足など生えてはいない。初めてこの光景を目にした人間ならどこぞのB級ホラーのようなリアクションを取るのだろうが、彼は少し微笑むとそのバッグを自分の所へ引き寄せ、蓋を外した。中には取り合えず財布とかホットティーを入れた水筒などが入っており、ここまでは何も異常はなく普通の人間の持つバッグ事情と何も相違は無かった。そう、ここまでは……。

 バッグの面積の大半を占めていたのは何やらせわしく蠢く白い塊、人の頭程の大きさがありそうな「それ」はバッグから這い出ると少年の前に這い寄り、自らの体を大きく広げた後に――、

 「キュクル~」

 あくびをした。

 出て来たのはトカゲのような面構えをした奇妙な生物だった。トカゲの「ような」と言うのは、厳密にはその生物が我々の良く知る爬虫類の類とは似て非なるものだったからだ。少し大きな胴体に、硬い甲殻で覆われた頭部には真っ赤な小さな目が光っており、細い脚で二足歩行、そして何よりも目を引きつける上に爬虫類との決定的な違いがあった。

 それは羽。本来あるべき前脚の代替として備わっているそれは、明らかに空中を飛行する為のモノであり、今にも飛ばんとバサバサと羽ばたいていた。

 「おはよう、フリード」

 少年はその生物を優しく抱き上げると、再び窓の外の風景へと目をやった。

 もうここまで言えばお分かり頂けただろうが、バッグの中に潜んでいた生物と、そう、「竜」である。魔法文化がある世界において竜とはまさに生物的脅威であると同時に絶滅などが危惧されている希少種でもある。例え子供の幼竜であったとしても、何故そのような貴重な生物を隣の少女が所有しているのか?

 それは彼女――辺境自然保護隊所属の保護官、キャロ・ル・ルシエ一等陸士が時空管理局では数少ない竜使役スキル持ちの魔導師だからである。

 そしてその彼女の傍で景色を眺めている赤毛の少年は、同じ保護隊に所属している近代ベルカ式魔法の騎士であるエリオ・モンディアル。同じく階級は一等陸士である。

 彼らこそ、かつての「奇跡の部隊」、機動六課ライトニング分隊の誇った槍騎士とその後衛魔導師にしてフェイトの愛弟子、そして、六課フォワード陣の大切なメンバーの一人であった。

 二人を乗せたリニアはもうすぐ終点であり目的地へと辿り着くだろう。

 ――ミッドチルダ最大の都市にして首都、クラナガンへと。










 結論から言えば聖王教会の朝は早い。真冬でも日の出と共に起床して、聖堂の清掃から教会内各所の点検まで幅広く作業を行い、それら全てを多くの信者達が参拝に訪れるまでに済まさなければならないのだ。当然、それをやるのは教会のスタッフ一同だ。全員の心と行動を一つにし、協力しなければならないこの試練……断じて誰一人とも欠けることは許されはしないのだ。そう、決して、一人たりとも――。



 「待ちなさい! シスター・セイン!!!」



 小鳥がさえずる静寂な早朝を打ち破った怒号が廊下全体に木霊した。あまりの衝撃に窓ガラスは震え、その異常事態に樹上の鳥たちは一斉に危険を察知して空へと飛び去ってしまう程だった。一瞬、深き永劫の眠りについてしまった幼き古代ベルカの王ですら目を覚ますのではないかと思ってしまったが、流石にそれはなかったようだ。代わりに声が響いてきた方向とは逆の方角から全力疾走してくる影があった。

 「はぁ、はぁ……!」

 廊下を命からがら疾走し、淡い水色の髪を揺らしているのは教会の新米シスターである少女、セインだ。一応、身元引受人がシャッハである以上、彼女の姓名は「セイン・ヌエラ」になるのだろうが、ここでは親しみを込めて「シスター・セイン」と呼称することにしたいと思う。彼女は今とても切羽詰まっていた。何故ならば、彼女の背後十数メートルからは彼女が最も忌避するモノが追い掛けてきているからだ。逃げ切らねばならない! 何としても、今日こそは……!! あのモノの魔の手から!!!

 「逃げるな、止まりなさい!」

 「じゃあ追っかけるのをやめてくれ~!」

 「貴方が逃げるから追っているんです!」

 「追っかけて来るから逃げてるんだよ!」

 聖王教会の珍名物、『シスター・セインの逃走劇』がおよそ十分前から開幕されていた。追うのはもちろん、セイン曰く、「暴力シスター」ことシャッハ・ヌエラである。陸上スプリンターも驚愕の足の速さを持つ二人はほぼ互角のスピードで走っているが、このような事態になったのにはもちろん理由があり、彼女の言動などが発端なのだが……。

 「朝は6時に起床してそれから窓拭き、トイレ掃除に廊下のモップ掛け! 全部貴方の仕事ですよ、シスター・セイン!!」

 「だから何さぁ~!」

 「貴方は今朝、何時に起きましたか!!」

 「8時ッ!」

 そう言ってグッと親指を立てるセイン。 

 振り向いたセインのその無駄に爽やかな笑みがシャッハの神経を盛大に逆撫でした。もうこうなってしまったらセインの冥福を祈るしか無い、既にシャッハの手には待機中の彼女のデバイスが握り潰さんとばかりに構えられているのだから。

 「げぇっ!? ヤバイ!」

 機人として鍛えられた彼女の本能が警鐘を鳴らした。すぐさま彼女は足元に疑似魔方陣を展開するとさらに走行速度を上昇、大きく息を吸い込んで肺に蓄積したその直後に足腰の筋肉を最大活用して床へダイブ、階段の落下速度を利用して無機物で造られたその場所へと――、

 「ヴィンデルシャフトォーーーッ!!!」



 午前8時54分、ミッド北部のベルカ自治領にて小規模の地殻の揺れが感知されたが、別にこの自然現象とシャッハは何の関わりも無いことをここに明記しておく。










 「ふぅ、ちょっと仕事を止めて一休みしてたぐらいで何であそこまで怒らなくても良いじゃんか」

 ディープダイバーの能力で何とか窮地を脱したセインは現在教会の中庭の茂みにて息を潜めていた。真冬の中庭は気温的に少し堪えるが、背は腹に変えられない、中に入ってしまえばたちまちシャッハの探索範囲網に捉えられてしまうだろう。もう少し様子を見て、ほとぼりが冷めた頃に戻るしかなさそうだ。

 「って言うか、良いのかな? あれ思いっきり階段とか壁を壊したよな~? ……あれって修理費用出るの?」

 確かに、あまり必死だったから背後は確認出来てはいないが、あの時は轟音と共に色んなモノが壊れる音が鼓膜に響いて来ていたのを覚えている。柱の一本や二本は軽く粉砕されたのではないだろうか? だとすれば、修繕費は当然地上本部あたりから出されるのだろうが、場合が場合だからもしかしたら出ない可能性の方が高い。

 「大丈夫です、もし出なかったとしても、セイン姉様の給料から差し引くようにしてますから」

 「なぁんだ、それなら心配な…………いっ!?」

 突然背後から聞こえて来た声に数瞬遅れてから振り向くとそこには、艶やかな茶色の長髪を風に美しく流し、セインと同じく教会の正装に身を包んだ少女が居た。外見年齢はおよそ十代後半、寒風に吹かれながらも清楚な佇まいを崩さないその姿はまるで山茶花の様でもある。しかし、そんな彼女のセインに向けられている視線は限り無く冷やかであり、半ば呆れも含まれているのが見て取れた。

 彼女こそ、元ナンバーズの一人にして現在はシスター兼修道騎士の――、

 「ディード!? 何でこんなトコに!?」

 「はい、私ですがいけなかったでしょうか?」

 「い、いやいや、別に居ちゃいけないってコトはないけど…………はっ! まさか、お姉ちゃんを捕まえてシャッハに引き渡すつもりだな!? そうなんだな!?」

 身の危険を感じたセインはしゃがみ体勢から素早く立ち上がると、 迂闊に背を向けないようにゆっくりと後退し始めた。今この状況下ではディードの能力は危険過ぎだ、少しでも隙を見せれば一瞬でお縄を頂戴する羽目になってしまうことは目に見えている。

 「いえ、私は別にセイン姉さまが何をしていようと、何も関わりはありませんから……」

 「嘘だ! そんなこと言ってお姉ちゃんを騙そうったって、そうは行かないぞ! 伊達に早く生まれちゃいないんだ!」

 そう言いながら彼女は後退を続け、自分の後ろにある教会の壁に向かって少しずつ距離を詰めて行った。壁は無機物で構成されている、このまま壁に潜り込んでやり過ごすしか手立てはなさそうだった。中に入ってしまったらシャッハに感付かれてしまうかも知れないが、そこは壁や天井などを潜行して逃げるしかない。

 思い立ったが何とやら! 一気に腹を括った彼女は自分の歩行速度をほんの少しだけ速くした。

 と、その時――、

 「んあ? 何か踏んだぞ?」

 右足の裏に何やら固い感触。細長い形のそれに対してセインは一瞬木の枝か何かを思い浮かべたが、すぐにそれが間違いだったことを身を以て知る羽目になってしまった。



 刹那――、天地が逆転した。



 「うぉわぁあああ!!?」

 セインは突然全身を襲った謎の衝撃と、自分の頭上に地面が広がっていると言う不思議光景に初めは混乱したが、瞬時に自分が一瞬で追いやられた現状を把握した。

 逆向きになってしまったのは自分自身の方だったのだ。重力に従って下方向へと垂れ下がるスカートを手で押さえつつ、自分の吊り上げられた右足へと目をやった。自分が踏んだ木の枝とばかり思っていたモノは実は良く見ると……

 それはロープだった。それも、重量のある荷物を吊り下げる為に使われるような丈夫な代物であり、機人の腕力を以てしてもビクともしなかった。縄を辿って行くとすぐ傍の樹上に仕掛けられているのが見え、当然、植物の繊維を縒り合せて作った縄は有機物なのでディープダイバーでは抜け出すことは不可能である。

 「卑怯者~! こんな罠なんか仕掛けるなんて~!!」

 「いえ、そのトラップは私ではなくて、オットーが用意しておいたモノです」

 「へ? オットーが……? 何でさ」

 意外な名前が出て来たことに少々驚きを禁じ得なかったセインだが、すぐにその訳を逆さまの体勢のままで問い詰めた。あの寡黙だが何を考えているか分からない妹のことだ、きっと対不法侵入者迎撃用に設置しておいたとか言うオチに違いない。

 「万が一、誰かが仕事をサボった場合にはここで引っ掛かるようにと――」

 「あるぇ~!? マジメだった!!?」

 全体的に顔を「(;・3・)」なデフォルメな感じにしながらセインは樹上で釣り上げられた小魚の如く暴れ回った。しかし、悲しいかな、やはり頑丈この上ないロープから脱するには誰か他の人の手を借りるしかなさそうだ。

 「あ、あのさぁ、ディード……お姉ちゃんを降ろすのを手伝ってくんないかな?」

 「さっきも言いましたけど、私はセイン姉さまがどのような状況下に陥っていても“一切”認知しませんので……」

 「そんなぁ~! お願いだよディード! ここから降ろして!!」

 「じゃあ、私が降ろしてあげます」

 「おぉ~! どこの誰かは知らないけど、ありが…………とうっ!!?」

 釣り下がった状態から体を捻ったセインは背後の人物を視界に収めたその瞬間に思わず目をひん剥いた。何故なら、そこに鬼の形相を湛えながら立っていたのは――、

 「御苦労様です、シスター・ディード。お陰で手間が省けました」

 「いえ、私は何も。セイン姉さまが勝手に掛かってくれただけですから」

 いつの間に建物の捜索を終えたのか、天敵シャッハの姿がそこにあった。顔には一応笑みを浮かべてはいるのだが、何故かその表情からは絶対零度にも肩を並べるのではないかと思える程の冷たく強烈な怒気が放出されているのを、セインは肌で感じ取っていた。玉のような脂汗が次々と流れては額を伝って流れ落ちて行く。

 「そうですか。……では、さっさと降ろしましょうか」

 「あの~……シャッハさん、どうして私一人を降ろすのにワザワザどうしてデバイスを構えるんですか……?」

 セインの眼の前でシャッハが愛用のトンファー型のデバイスを構えて見せた。しかも何故だか知らないが、カートリッジまで込めて準備は万端な様子でもある。

 「いえ、見た所とっても丈夫そうなロープですから、これ位しないと切れないのではと思って……」

 「さ、さよか……」

 「あと、先に言っておきますが、ひょっとしたら手元が狂ってあらぬ所に当たるかも知れませんが、それは自己責任と言うことで我慢してください。と言うか、我慢しなさい」

 「待ってぇえええええっ!! お願い、それだけは止めてぇっ! 原型保っていられるかどうか心配だかr――」

 「問答無用!!!」

 「アッーー!」










 教会の寒空にセインの断末魔が大きく響き渡り、やっと落ち着きを取り戻していた小鳥たちを再び空へと追いやる羽目になってしまった。そこから先の出来事をディードは知らない。と言うよりも、自分の姉のことながら毎度毎度バカらしいので、興味を失しただけだ。

 「…………」

 取り合えず、朝の警備の続きと言うことでいつもの巡回ルートを練り歩く。正門の方からは熱心な信者の方々が早くも参拝に訪れている気配があった、直にその数は増えることだろう。古風なデザインの時計塔へと目をやると、長針と短針が見事に90°の角度に開いた状態で午前9時丁度を示していた。太陽はとっくに東の地平線を離脱して徐々に南の空を目指して上昇している。

 「……あと二時間」

 澄み切った空を流れる雲を眺めながら彼女は静かに呟いた。たまにこうして見つめていると、雲よりも低い空を時折ヘリなどが通り過ぎて行くのが見えている。その殆どが地上本部の物だ。

 きっと今頃、あのヘリの中のどれかに……。

 ≪ディード、聞こえてる? ディ-ド?≫

 「聞こえてる、オットー」

 通信で脳裏に届く声の主は、彼女と遺伝子を共有した双子のオットーからだ。今彼女が居るのは恐らくカリムの事務室だろう、ああ見えて実はボディーガードとして結構腕が立つのだ。

 ≪もうすぐ待ち合わせの時間だけど……そっちは何も問題無い?≫

 「セイン姉さまのサボり癖が永遠に治りそうに無いと言うことが判明しただけで、何も問題無いないわ。予定通りに行けそう」

 ≪そう、じゃあ数分後には出発するから、準備しておいて。あと、セイン姉さまのサボり癖は、『判明』じゃなくて、『再確認』だと思うんだ≫

 「そうだった、忘れてた。今度から気をつける」

 ≪じゃあ、2、3分後に……≫

 その言葉を最後に、オットーからの通信が途絶えた。再びディードは巡回を始め、青い空の向こう側へと目をやった。

 「…………やっと来るのね……」

 正門の向こう、遥か先にはミッドの首都であるクラナガンの街並みが見て取れる。地上本部の塔の周辺をヘリが忙しく飛び交い、行ったり戻って来たりを繰り返しているその風景は平和そのものでもある。その中で、彼女は風に揺れる髪を手櫛でかきながら、そっと感概に耽っていた。

「あまり関わった思い出は無いけど……姉妹だもの」

 午前9時5分、聖王教会の正門にて――。










 午前9時8分、ミッドチルダ地上本部のとある事務室にて――。

 「また君は派手にやらかしてくれたな」

 「その件については、弁明はしません」

 若き執務官、フェイト・T・ハラオウンは義兄であり上司でもあるクロノを前にして頭を垂れていた。二日前に無断で出撃した彼女は先日は一日中謹慎処分を受けていたのだが、ようやく解放されて今現在クロノの元へと呼び出されたのだ。そんなフェイトに対して、肘掛椅子にドッカリと座って溜息つくクロノの表情はどことなく呆れ半分、疲労半分と言った微妙な顔をしていた。

 「管制室に断りも無しに勝手に出撃し、許可無しに空戦……そして、あろうことか主犯を取り逃がしてしまった、か。これはイタいぞ」

 「責任は私一人で負います。全て自己責任で行動しましたから……」

 「だがまぁ、一応現場で立ち往生を解消してもらった後続隊の隊長並びに隊員達から感謝の意と陳情が僕の元に届いてな……こちらも上層部に無茶を承知で掛け合ったところ…………」

 クロノの手がデスクの引き出しの一つに届き、その中から大量の紙束を取り出して彼女の手前に置いた。それを手に取ったフェイトの顔がどんどん青褪めていった。死刑宣告を喰らった囚人にも勝る顔色の悪さ……それを引き起こす原因となっているモノとは!?

 「始末書だ。君が本来籍を置く本局から、中央管制室に、ミッド航空部署、廃棄都市担当のあらゆる部隊に対してのモノだ。結構あるぞ」

 「正直、中学校のプリント配布以来です……紙の束が重いって感じたのは……」

 「だろうな。だが、逆にこれだけで済んだんだ、贅沢言うなよ?」

 「その件については本当にありがとう、義兄さん」

 事務室には二人を除いて誰も居ない為に、兄妹水入らずでいつの間にやらフランクな口調になっていた。別にクロノはそれを咎めるつもりもないし、むしろ本人も堅苦しいと思っていたようなので丁度良かったみたいだった。

 「やれやれ、どうして僕の身の回りには無茶をする奴しか居ないのかな。君と言い、なのはと言い……」

 「あはは……本当にゴメン……」

 苦笑いを浮かべながらフェイトは頬を掻いた。どうも年齢的にも立場的にも、彼女は目の前の義兄には頭が上がらないのだ。それでいて自分達にとっては筆舌に尽くし難い程に助力を惜しまず、今まで何度も世話になっている。きっと、これからも今まで通りに続いて行くのだろう。

 「ははは……所でだ、フェイト――」

 クロノは椅子から立つと背後の窓のカーテンを閉め始めた。途端に部屋の明度が下がり、空間の雰囲気が変わるのをフェイトは敏感に感じ取った。

 「例の件……どうなった?」

 「…………シャーリーに頼んで解析してもらった写真……」

 フェイトが懐から取り出して渡したものは一枚の写真、つい二日前にシャーリーが解析した物を印刷したものだった。顔写真には紫苑の短髪と白磁の肌、猛禽類のように輝く金色の瞳を持つ少年が写っており、その無機質な顔立ちはまるで精巧な蝋人形か何かにも見えてくる。

 「そして、こっちが廃棄都市区画で交戦した時の映像……」

 次に虚空に展開されたのは立体映像。恐らく、バルディッシュが残した記録から抽出したものだろう。そこに映っていた人物は全部で五人……一人はフェイト、内三人は先に出撃していたヴォルケンリッターの面々……そして、最後に映り込んでいたモノは――、

 「同一人物だな。綺麗に一致している、これを他人と言う奴は居ないだろう」

 「いままで検挙してきたどの資料やデータベースにも無い、全く未知の戦闘機人…………今分かっているのは、この子が“13番目”ってことと、凄く危険と言うことだけ……」

 「第一線で活躍している実力派魔導師の君が『危険』と言うか……。確かに、ヴォルケンリッターの前衛担当が束になって掛っても結局は仕留め切れなかった程の実力者……聞いただけでも鳥肌モノだな」

 「近いうちに、もう一回スカリエッティに情報提供させることにしてる。多分……理由は分からないけど、チンク達は絶対に彼の事を知らないと思うから」

 「あのマッドサイエンティストがそうそう簡単に口を割るとは思えないな、何せ三年間も黙りを決め込んでいた男だからな……」

 「それでも、何とかして情報を聞き出すしか方法が無い……。早くしないと、取り返しのつかないことになるかも知れない」

 「熱心なのは良いことだが、そんな君に良くない知らせがある」

 そう言うクロノの表情は硬く、非常に思い詰めた感じだった。それを見たフェイトも何か嫌な予感を感じていた。

 「僕は、今回の件を上層部に正式に報告することにした。J・S事件に続く新たな戦闘機人の事件としてね」

 「そう……」

 少し俯き加減にフェイトは小さく返した。義兄の言う通りだ、病床のヴェロッサは局の管理体制の偏向を恐れて、まだ規模が小さい内に手を打っておきたかったようだったが、予想以上に敵方の動きが早過ぎたのといきなり地上本部の襲撃に当たられたことが結果的に相乗効果をもたらし、少数有志では対処出来ない状況へと悪転してしまったのだ。

 「体制偏向を懸念していたアコース査察官には悪いが、今は事件の早期解決が優先される。最早、悠長な事を言ってこれ以上事態を悪転させる訳にはいかない。それならばいっそ、人海作戦で物量押しして、一気に解決するより他無い。……敵の数が一人の今の内にな」

 「分かってる……」

 「ロッサは倒され、はやては策に嵌められ……守護騎士たちと君は敵を取り逃がした…………。次は無いんだ」

 クロノの言葉にはフェイトに対する棘は一切無かった。むしろ、提督と言う上に立つ者としての自責の念が強く込められていた。

 それから少し無言が続き、落ち着きを取り戻すと雰囲気は再びフランクなモノとなった。職業柄、切り換えは早い方が良い、いつまでも引き摺っていては業務にも差し支えるからだ。

 「そう言えば機人関連で思い出したが、本日付けで『あちら』から一人、こっちへと移送されて来るらしい」

 「うん、聞いた。えっと……確か……『7番』だったけ?」

 「そうだ。それにしても、こっちへ連れて来るのには骨を折ったよ。なかなか首を縦に振ってくれなかったものだからな」

 「元々、あの子は事件への関連性が薄かったから、丁度良かったのかもね。到着する頃にはナカジマさんの所と、教会からも面会に行くって言ってた」

 「それが良い。なにせ久し振りの再会になるからな」

 クロノは懐から出した書類に目を通した。そこには今日中に管理局のとある施設へと移送されて来るはずの人間に関するデータが記されており、予定ではあと二時間足らずで到着するはずだった。もちろん、管理局のヘリに乗ってだ。

 「かなり無理矢理な事をしたって聞いたけど……本当?」

 「まぁな、どちらかと言えば、半強制的に連れて来たようなものだ。だが、ハッキリ言えばあのようなタイプの者はもっと早期にこうするべきだったと僕は思っている」

 「どうして?」

 「僕自身、今まで様々な次元犯罪者を摘発し、中には取り調べの過程で直接面会した者も居たが……経験上、複数で行動していた輩は二種類に別けられる」

 「“主犯”と“共犯”……」

 フェイトの言葉にクロノは頷いた。複数の人間で構成された組織的犯行ならば大抵はその二つに判別されるのは自明の理と言うものだ、それは素人ではない彼女にも充分分かっている。

 「そして、“共犯”側の人間はさらに二種類に別けられる……。自らの意思で“主犯”の人間の考えや思考に同調して行動する者…………そしてもう一つは――」

 クロノの手から調書が数枚デスクに落ちた。そこには囚人の顔写真と全身を写した二つの写真が印刷されており、その人物の全体像の詳細が書かれていた。

 「――自らの自己意識無くしてただ単に盲目的に“主犯”側に付き従う者。…………『彼女』は間違い無く後者だ」

 写真の人物はまるでガラス細工のような目を寸分の狂いも無くカメラ目線で向けて来ており、無表情ながらも他者を近づけさせない頑なさを醸し出していた。ちなみに、ガラス細工と言う表現は目が綺麗だからと言うのでは無い、単に全く以てヒトとして感情が籠っていない空っぽな状態を言い表して言っているのだ。

 自主性を持たない人間ほどに恐ろしいモノは無い。特にそれが犯罪に手を染める者ともなれば尚更だ、自らの意思を持たずに命令だけに従って動く者は他者には害悪を、自身には決定的破滅しかもたらさないからだ。

 『彼女』の場合は、そうならなかっただけでも幸福と取るべきなのだろう。



 Pi――♪



 「開いている、入室を許可しよう」

 室外からのインターホンに対し、クロノは瞬時にスイッチを切り換え、完全な仕事口調で入室者を出迎えた。フェイトの方も姿勢を正して直立不動の体勢へと戻る。

 「失礼します……次元犯罪総括部捜査課からの者ですが……」

 入って来たのは細身に亜麻色の髪をした女性局員だった。新人なのか、提督であるクロノを前にして少し怖気づいているような節がフェイトには見受けられていた。

 「ん? 捜査課だと? おかしいな、何も事前連絡が無いのだが……」

 「はぁ……? ですが、私は提督殿にJ・S事件の第五次報告資料の請求は既に成されているとしか…………」

 「まぁいい、単なる行き違いだろう。第五次報告書だったな、確かここに……」

 クロノはそう言いながら席を外すと、近くに設置してあった金庫に歩を進めた。金庫の前に立つと、懐からカード型に待機中だったストレージデバイスの『デュランダル』を翳した。すると、重鎮な金庫の表面から小さなレーザー光線のようなものが伸びて、デュランダルのクリスタル部分へと到達、解析を始めた。

 金庫の中には許可無しには閲覧出来ない重要書類などが山ほど保管されている。故にこうして持ち主であり預かり主である者のデバイスに登録してある暗証認識が無ければ決して開かない仕組みとなっているのだ。

 「ふむ……。これだ、確かに渡した」

 「はい。第五次報告書、確かに預かりました。それでは、失礼します」

 紙の束を受け取ったその女性は丁寧にお辞儀をした後に、無駄口叩く事も無く早々に退室して行った。その後ろ姿を見ながらフェイトは――、

 「頑張ってるなぁ……」

 「君もそんな事言っている余裕があるのなら、早く自分の持ち場へ戻らないか。何なら……その手にある始末書を倍増してやっても良いぞ?」

 「ハラオウン執務官、これより通常業務に復帰します!」

 やはり切り替えの早さは職業柄だった。フェイトは額に汗を浮かべながらも敬礼した後、金の長髪を振り乱しながら半ば逃げるようにして義兄の事務室を退室して行った。ハラオウン家に養子として迎えられたその時から、彼女は彼に対してだけはどうも頭が上がらなく、それは十年以上経った今でも変わり無いようだった。

 「やれやれだ……。我が妹ながら毎度毎度冷や冷やさせられる。…………教育方針を誤ったか? だとすれば大変だな、あの歳であの落ち着きの無さはハッキリ言って色んな意味で命取りだ。母さんじゃないが、正直言って『貰い手』が現れるかどうかも――」

 自分一人だけの空間でクロノはブツブツと呪詛のような呟きを漏らしていた。ただ純粋に義妹の将来を案じているだけなのかも知れないが、傍から見れば単なる不審者と思われても不思議は無い程だった。

 ちなみに、それから十分後に事務室を訪れた局員によると、インターホンを幾ら鳴らしても反応が無かったので入室したところ、真剣な目つきで何かを思案している提督の姿があった為に出直したらしい。










 「情報収集は完了したわ。後はよろしくね――マキナ」

 『Yes,my lord.』

 通路を歩く亜麻色の髪をした女性の言葉に、懐のデバイスは電子音で返事を返してきた。広い通路の角でもたれ掛かっているその人物に、道行く者達は特に気にした風も無く、すれ違ったり追い越したりしていつも通りに仕事に勤しんでいた。

 ふと、一瞬だけ目を離した次の瞬間――、

 「同時に、管理局データベースに、精密ハック。ハッキング用の、回路を、開け」

 そこにさっきまでの女性の姿は無く、代わりに一人の少年がそこに居た。地上本部の局員が着用するカーキ色の制服を違和感無く着こなし、胸元の小さな階級章へと目をやるとそこには小さく『一等空曹』と記されているのが分かった。口調もついさっきまでは完璧な女性のそれだったのに対し、変身を解いた今では完全に素の喋り方へと戻っていた。

 変身魔法ではない。局内の建物の中では許可されていない場合と空間においては如何なる魔法の使用も御法度とされており、それは変身魔法も同じことだった。これこそ、彼――トレーゼが使用するISの一つ、『ライアーズ・マスク』である。顔面から頭髪、足の爪先に至るまでの身体的特徴などを完璧に偽装する為のこの能力は、シルバーカーテンが電子戦に特化した対軍用に使用されるモノだとするならば、まさに対人や潜入用には持って来いの能力だった。肌や髪の色彩は勿論、本来あるはずの無い胸元の膨らみもこの偽装の成せる業と言えよう。

 彼が来ている制服も独自のルートで調達した物ではなく、これも普段着用している防護ジャケットの表面だけをライアーズ・マスクの力を応用して『見せ掛けて』いるだけに過ぎない。

 では、そんな彼が何故身の危険を冒してまでこの時空管理局地上本部の一角へと足を運んだのか?

 否、『危険』など最初から冒してはいなかったのだ。

 「現状では、公式にも非公式にも、俺の存在は、管理局には、知られてはいない……」

 そう、管理局――特に上層部と一般局員ら――は、彼の存在を全く『知らない』からだ。。

 通常、管理世界において罪を犯した者はその規模の大小によって様々な分類分けをされるのだ。例として挙げられるのは、かつてのスカリエッティのような広域指名手配犯などがある。彼の場合は、管理局員であるヴェロッサを昏倒させたことによる公務執行妨害罪……地上本部襲撃の際の同時多発爆破による公共物破損罪に、同じく局員であるスバルとティアナを再起不能寸前にまで追いやったことによる傷害罪……そして、つい二日前に廃棄都市区画での許可されていない危険魔法の武力行使等々…………。実にそこら辺で小型の質量兵器の売買をしている違法組織の末端に比べてもかなりの罪状の数になる。

 しかし、彼の場合は違う。罪状の発生はおろか、指名手配すらされてはいないのだ。重ねて言うが、彼の存在は『確認されて』いない、管理局上層部にも、民間にも、だ。確認されていない以上、そこに彼に対する罪は生まれない上に、こうして灯台下暗しよろしく、局内を闊歩していても何も問題無い。。

 何故確認されていないのか? 

 ――然るべき人間が然るべき所へ知らせていないからだ。

 ヴェロッサ・アコースが――、 

 八神はやてが――、

 ヴォルケンリッターが――、

 ティアナ・ランスターが――、

 ハラオウン兄妹が――、

 彼らは皆総じて慎重にコトを運ぼうとしていた。そうすることで過度な混乱を避けようと奔走していた訳であり、かつてのJ・S事件の二の舞を未然に防ごうとしたのだ。

 だが彼らは慎重に『なり過ぎた』のだ。慎重になり過ぎた余りに行動が後手に回り、こうして自らの陣地に再び侵入を許してしまうと言う大失態を犯してしまった。まさに敵方にとってはこれ以上の隠れ蓑は無い。

 しかし――、

 「マキナ、回路構築率は?」

 今回の彼の目的は『侵入』ではなく、どうやら『潜入』にあったようだ。その証拠に、先程休憩所に着いて椅子に座ってから何も不審な行動は起こしておらず、まんまと提督から掠め取った資料に目を通すだけだった。一応、いつの間にテーブルに置いたのか、漆黒の立方体の自分のデバイスが卓上で時折輝いてはいるのだが、それだけで他に変化は全く無い。当然のことながら、人間やガジェットと違って手足の無いデバイスに物理的単独行動などさせられるはずもなく、今は単により詳しい情報を収集する為だけにここへと足を運んだようである。

 彼が目を通しているモノはJ・S事件について管理局側が入手したありとあらゆる情報を詰め込んだ代物で、正式名称を『J・S事件第五次報告資料』と言うモノだった。事件解決からこの三年間で首謀者であるスカリエッティが関わったとされるあらゆる企業・組織・次元世界に対して調査を行った重要資料で、最新版のこれにはその情報がふんだんに盛り込まれていた。

 だが、彼はそんなものなどには目もくれず、次々とページを捲って行く。彼が求めているのはコネでは無い、そんなものは目的を無事達成出来た後で幾らでも繋がりを作ることは出来る。今は重要なことではないのだ。

 「…………」

 彼が得たかった情報……それは、自らの兄妹であり、今は別世界で幽閉されている同胞達のデータだったのだ。

 「…………」

 通路からの喧騒を完全に無視すると、彼はさっきとは打って変わって静かに紙面を読み始めた。ゆっくりと、吟味するように……。

 まず一番初めに目に映ったのは、全ての計画の指揮官であり自分達の創造主である男。もう少し伸ばせば肩まで掛かりそうな紫紺の髪と、爬虫類を彷彿させるその金色の目つきの持ち主――、

 「ドクター……我らナンバーズの、偉大なる創造主にして、計画の頂点に、立つ御方……」

 次にページを捲ると、そこには口元に笑みを浮かべた妙齢の女性が居た。薄紫の長髪は流麗に背中へと流れ、一見優しげな表情の奥から古参としての確かな威厳を醸し出すその女性は――、

 「ウーノ……ナンバーズの、頭脳にして、ドクターの右腕……」

 次に見たのは後ろ髪を二つに分けて結び、度の入っていない伊達眼鏡を掛けた少女。愛想笑いのそれは表面だけだと言う事が見ただけで分かるその少女は――、

 「No.4『クアットロ』……ドクターの因子を、受け継いだ、最後のナンバーズ……」

 そして、右手の指が次のページを開いた時、彼の視線が……ほんの少しだけ揺らいだように見えた。それはたった一瞬の出来事だった為、誰一人として気付くことは無かったが。

 彼の眼球が捉えたモノ――、それは一人の女性の写真だった。艶やかな飴色の長髪はウーノのそれとは違ってストレートに伸びており、口元に浮かべていた笑みには不敵かつ妖艶な感覚が含まれていた。だが、そんな彼女の写真のすぐ横には、ある単語が記されているのが見て取れた。

 『死亡』、と。

 「…………ドゥーエ……計画から、離脱」

 トレーゼは表情筋一本動かすことなく、冷酷なまでに事務的な口調で、かつての同胞の死を憐れむこともなく戦線からの離脱を宣告した。そこには慈悲や感情など一切入り込まぬ、まさに“絶対領域”を体現していると言えた。

 その指は最後のページを捉え、ゆっくりと一律の速度で開いて行き……

 「………………あぁ……」

 最後の人物、それは先の三人とは様々な点で違っていた。まずはその体の作りからして違っていた、他のメンバーが基本的にスレンダーな体つきに対して、彼女は衣服の上からでも一目で分かってしまう程の筋肉質なボディをしていたのだ。もちろん、元の素体が女性なので男性と比べれば大したモノではないのは分かる。それでいてなお、彼女の肉体は明らかに戦闘……それも接近戦に長けた作りをしていることを認識させられた。

 濃い暗紫色の短髪に、精密部品を埋め込まれた金色の瞳に宿る鋭い眼光、そして肉体増強による副作用にも思える程の長身――、

 「トーレ……全ての、戦闘における、最重要存在……俺の、“――――”」

 静かに目を閉じるトレーゼ。その白い指先が初めて紙面の文字列から離れ、写真に映る人物に伸びてその表面をゆっくりと撫でた。

 その一瞬だけだった。表情や感情らしきものをまるで持っていないかのように見えていた彼が、感概に耽るかのような仕種を見せたのは。

 「…………」

 次に彼に対して注意を向けた時には、既に彼は資料冊子を閉じ込んでおり、テーブル上で沈黙していた自分の得物を掴み上げていた。先程まで忙しく明滅を繰り返していたそのデバイスもとっくの昔に作業を終えたらしく、AIを埋め込まれていないストレージらしく黙って主を待っていたようだった。

 「マキナ、データベースへの回路、開いたか?」

 『Already.(完了した)』

 「シルバーカーテン全開……。俺の存在を、隠蔽しつつ、管理局データベースの、第二層までの情報を、ハッキングする。ハック後は、入手した量子情報群を、デバイス内の、記憶端末に蓄積」

 『Yes,my lord.』

 忠実な機械である彼のデバイスはインテリジェントとは違い、無駄口など一切叩かずに命令を実行に移す。誰が言ったかは知らないが、ストレージデバイスはAIによる意思を持たない代わりにその処理速度が速く、特にこの様な事務的且つ単純作業については人格型のデバイスには出来ない芸当をやってのける節があった。故に彼のデバイス、『デウス・エクス・マキナ』も例外ではない。現に開始から約数分後には既に難攻不落を誇るはずの時空管理局のデータベースに風穴を開け、量子情報を横流しする為の連絡通路を構築してしまっていた。もちろんこれには持ち主であるトレーゼが今発動させているIS、『シルバーカーテン』による電子偽装効果が後押ししている所為もあるだろう。しかし、管理局の全てが詰まっているデータベースに侵入すると言うことは、分かり易く言い表すならば、隙間が全くない鋼鉄の城壁に裁縫針で穴を開けて突破しようとするのと同義なのだ。つまりは“不可能”、かつて何人もの次元犯罪者達が管理局の転覆を狙い、その外堀を埋める為にとハッキングを試みたことが多々あったが、そのどれもが鉄壁のプログラムを看破することは適わなかった。

 だが彼は違っていた。過去にデータベースに手を出した次元犯罪者達に共通していた事項は、「一気に本丸を狙おう」としたことだった。事を急いた彼らは充分な段取りが出来ていない内に行動に移り、その結果として逮捕された…………その様なヘマを、ここまで来た彼がするはずも無い。

 全部で七層から成る管理局のデータベースは奥へ侵入する毎にその警戒プログラムのレベルが桁単位で跳ね上がっていく仕組みになっている。森林の奥地へ進めば進むほどに埋没している数が増える地雷原を想像すると分かり易いだろう、不用意に走り切ろうとすれば即刻“お陀仏”と言う実にシンプル且つ確実な方法だ。数あるプログラムの中にはウイルスを入れ込まれた時の為に、逆に送り主に対してそれ以上に強力なウイルスを構築して送り返すと言った手の凝ったモノもまである。

 それに引き換え、彼の侵入した第二層は登録してある情報の重要度の比較的低さから警戒レベルも低く、精々管理局に籍を置いている局員の誰がどの部署のどこの課に勤めているのか……武装隊なら手持ちのデバイスは何かと言う程度にしか分からなかった。第四層かそれ以上先へ行けばそこいらの成り立ての執務官などではアクセスすることが出来ない情報が入手出来るはずで、彼の能力を以てすれば時間は多少掛れど不可能ではないはずだろうに、何故そのような回りくどいことをしなければならないのか……それだけが不明だった。

 『My lord,collection assignment information at the complete(指定された情報の収集を完了した)』

 「把握した。コード169に対応した『ボム』を、設置……。その後、侵入回路と、痕跡を、消去せよ」

 『Practicing now.(現在実行中)』

 現在するべき事柄を全て終えたのか、彼はここへきて初めて椅子の背もたれに寄り掛かった。表情こそ変わりは全く無いが、かなりの体力を消耗したらしく、少しの間だけ眠るようにして目を閉じていた。

 「………………………………!?」

 どれ位の間そうしていたのかは分からないが、彼は突然跳ね上がるようにして飛び起きると、卓上の資料冊子を再び開き出した。最初に開いた時とは違い、ページの隅から隅までを全力で一気に捲り立てて必死に何かを探していた。だがしかし、やがて自分の求めていたモノが無いことを知ると、彼は一言だけ――周りに聞こえない位小さな声でこう呟いた。

 「……一人、足りない……?」



 同時刻、提督クロノ・ハラオウンの事務室にて――。

 「――――――ん? しまった、僕としたことが……!」

 長きに渡る思考の海から帰還していた彼は、部署からの届け出があった大量の書類にサインを振っている途中であることに気がついた。すぐに彼はデスクの引き出しから数枚の資料を取り出してそれを卓上へと置いたのだが……

 「困ったな……さっきの捜査課から来た彼女にこれを渡すのを忘れてしまっていた。渡そうにも名前は分からんし……課の方に直接届けようにも僕自身暇じゃないし、どうしたものやら」

 溜息が一つ。クロノはそれらの紙面をまじまじと眺めながら、どうやってこの重要書類を届けようかと言う議題に頭を悩ませていた。

 「完全にこちらの不注意だな……。拘置所から移されて来るものだから、つい冊子から除外してしまっていた」

 彼が持っている紙面は、本来ならばさっき訪れた捜査課の女性に渡すべき資料冊子に含まれている物であり――、

 彼の義妹、フェイトに見せた物と同じ物だった。



 午前9時21分の出来事であった。










 午前9時34分、地上本部正面玄関前にて――。

 「へっきし!」

 赤毛の短い髪を揺らして一人の人影が盛大にくしゃみを放った。あんまりにも大きな声だったので、通りがかりの局員らの何人かが振り向いたが別に大した異常ではないのですぐに見て見ぬふりをして通り過ぎて行く。そんな薄情な人達を尻目に、彼女はポケットから出したチリ紙で鼻から飛び出していた分泌物を拭き取っていた。

 「寒ぃ~! あ~ぁ、早く来て損した」

 玄関前でブツブツと悪態をついているのはナカジマ家の一員にしてナンバーズの九女、ノーヴェ・ナカジマだった。冬らしく色の濃いカジュアルな長袖の服装に身を包み、手には手袋、首にはマフラーと言った完全防備な出で立ちは彼女が寒さを苦手としていることを暗に示していた。それに加えて彼女の鼻からは先程からずっと風邪でも引いたのか赤らんでおり、厭に水質性な鼻水を垂らし続けていた。

 彼女は誰かを待っていた。既に玄関前にやって来てから十分近くが経過し、それでいて尚中へ入ろうとしないその姿は誰の目から見ても人待ちの様子だと言うのが分かる。しかし、彼女以外にナカジマ家の人間は全く見当たらなかった。謹慎中のチンクと入院中のスバルはさておき、家長のゲンヤを始めとし、長女のギンガと婚約者のカインも、生真面目な姉のディエチや陽気な妹のウェンディも……彼女以外は全く以てその姿がなかったのだ。まさかこのタイミングで全員が下の用を足しに行ったと言うのも考え難い訳であり……

 「ったく、皆で揃ってスバルの見舞いに行っちまいやがって……。あー、くそっ! もう待ち合わせの時間過ぎてるってのに!」

 鼻を啜りながら悪態を呟く彼女は右掌を自分の耳に当てると、意識を集中させた。

 「オットーに聞いてみっか。いい加減遅ぇんだよ」

 脳神経に外部からの電気刺激を与え、大脳内に埋め込んである通信端末を起動させると、彼女は登録してあるメンバーの一人を脳裏にイメージすることでアクセスに成功した。機人の長距離通信の仕組みは科学的エネルギーに頼っているかそうでないかだけで、基本的なプロセスは魔導師が行う念話と大して変わりは無い。

 「あー、オットーか? ……そうだよ、何やってんだ、集合時間過ぎてんだっつってんだよ!! …………はぁ!? ……え~っと、つまり、『セインが逆さ吊りのままでケツをアームドデバイスで往復殴打させられたから、回復するまで待ってろ』ってことか?」

 妹からの連絡で頭に思い浮かぶのはウェンディ並みに陽気で少しバカな姉の顔だ。またあの姉が懲りずに厄介事を発生させたと知って、ノーヴェは怒りよりも呆れの方を強く感じていた。

 「分かったよ…………へ? 風邪引いてんのかって? あぁ、二日前に毛布も何も被らねーで寝ちまったから鼻の調子が悪ぃーんだ。…………は? 違うって! 暑かったんだよ、あの夜は! 本当だっての!」

 何か気に喰わないことでも言われたのか、彼女は風邪気味の顔をさらに赤くして数キロ以上離れた所に居る妹に対して怒鳴り散らした。道行く人々の視線が突き刺さったが別に気にせずに会話を続行する。

 「ズズッ………とにかく、セインのバカは蹴り飛ばしてでも連れて来い。こっちは寒いってのに朝っぱらから早起きして集合場所まで来てやってんだよ! じゃあな、切るぞ」

 半ば一方的に通信を切断した後、ノーヴェはさっさと管理局の建物の中へと入り込んだ。ミッドの寒風は彼女の防寒装備を以てしても防ぐことは出来ず、寒がりな上に風邪を引いているノーヴェの体には酷だったのだ。中へ入ると、外とは打って変わってすぐに暖房の温風が彼女の体を包み込んで体温の上昇に貢献してくれた。もうここまで来れば手袋とマフラーは必要無い、彼女はすぐにそれらを外すと、手袋はポケットに仕舞い込み、マフラーは小さく折り畳んで腕に挟んだ。

 「暇だなぁ……。訓練室使おうにも、あたし一人でやってたって何の練習にもなんねーし……」

 しつこく流れ出ようとする鼻水を数秒置きに吸い上げながら彼女は奥へと向かって行く。途中で顔を見知った局員らの何人かがこちらに挨拶してはくるが、ノーヴェは会釈のように軽く頭を下げるだけであり、すぐにそっぽを向くと足早に通り過ぎて行ってしまう。ゲンヤが言っていた対人関係に難有り……と言うのはあながち間違ってはいないようだった、一種の照れ隠しか何かから去来するしかめっ面の所為で、先に挨拶してくれた方が逆に怯えてしまい、意図せず先方に負の印象を与えてしまっていた。自分と反対方向に去って行くその姿には目もくれず、彼女は暖かみを求めて先へと進む。意図していないとは言え、人から避けられるのはもうとっくの昔に慣れていたし、自分は外交的な姉や人付き合いが得意な妹とは違ってそう言うのが得意ではないことも充分に理解していた。だから、今更ショックなどは受けない。

 どれ位歩いたのか、やがて彼女はシフトを終えた局員らが集まる休憩所へと足を踏み入れた。適当に空いている席を見つけるとそこの背もたれにマフラーを掛け、ホットコーヒーを淹れるべくすぐ近くの給湯ポットへと向かった。

 「はぁ……」

 寒風吹き荒れる中で数分以上も待たされていたノーヴェの体温がコーヒーを流し込んだことで胃の奥から上昇してきた。

 改めて脳内の通信端末を開き、見舞い中の姉妹から連絡は無いかと思って確認して見ると――、

 「やっとこっちに来るのかよ。遅ぇんだよ」

 電波信号による連絡はディエチからのもので、たった今医療センターを出てこちらへ向かって来ていると言う内容だった。

 妹のスバルは未だに昏睡中だ。とっくの昔に峠を越えたにも関わらず、左腕以外の四肢を断絶された彼女の意識は戻って来てはいなかったのだ。担当医師の話によれば、彼女の肉体自身がこれ以上の負荷や疲労を蓄積しないように、自動的に一種の冬眠状態に陥らせることでそれを解決していると言うのが見解らしい。戦闘機人には肉体の酷使によるフレームや回路の劣化を防ぐ為の措置として自己オミット機能がプログラミングされている。恐らくスバルもそれが働いているだけだろうから、四肢の傷さえどうにかしてしまえば自然と目を覚ますはずだ。

 「それが出来れば苦労しねーんだよ……」

 文字通り自分と血肉を分けた姉妹の姿を思い浮かべながら、ノーヴェは苦々しく呟いた。実を言うと、彼女は一度もスバルの見舞いには行っていないのだ。管理局に籍を置いているとは言え、元次元犯罪者の彼女ら『N2R』は一部では疎まれている節もある為緊急時以外ではそれほど出動要請は無い。その為、ノーヴェ自身が多忙で行けないと言うのではなく、単純に彼女自身の意思で行かないだけなのだ。

 「あいつは……あんなコトぐらいでくたばっちまうタマじゃねぇ……! 絶対に…………!」

 そう、彼女は信じていたのだ。かつては敬愛する姉を追い詰め、完璧な統制の取れていたはずの自分達姉妹を完全に敗北へと引き摺り下ろした…………そんな彼女がこれ位の苦難で潰えてしまうなど、到底考えられず、考えた事も無く、同時に考えたくなかったのだ。

 それに、彼女は襲撃のあったあの日、一度見てしまったのだから…………










 「スバルっ!? おい、どうしたんだよ! 返事しろっての! スバルッ! スバルッ!!」

 時を遡り11月9日――、地下搬入通路の真ん中に開けられたクレーターの中で、ノーヴェは必死に妹の名を呼んでいた。抱きかかえた妹の顔面は既に彼女が駆けつけるまでに大量の血液が抜け出てしまった所為か蒼白であり、半開きになった両目には生気が宿ってはいなかった。それでもノーヴェは一心不乱にスバルの上体を揺らし続ける。その姿を見れば誰もが彼女が混乱していると言うのが分かっただろう。

 「ノー……ヴェ……」

 「え……? ティアナ? 何だよ、今話し掛けてくんじゃねぇ! スバルが……スバルが……!!」

 直ぐ近くの壁際ではオレンジの髪を血に濡らしたティアナが擦れた声でノーヴェの名を呼んでいた。彼女もスバル程ではないが、両脚は所々に裂傷が入り、今でこそ血液の流れは収まってはいるものの、足元の血溜まりは傷の深さを無言で語っていた。それでもなお彼女は折り曲げそうになる膝を鞭打ち、ノーヴェの元へと歩を進めて来た。腕に何かを抱えているようだが、そんなものは今のノーヴェの眼にはハッキリ見えてはいなかった。

 「落ち着きなさい! 一度しか言わないから良く聞きなさい! 良いわね、あんたは今からスバルを背負って上の階に行きなさい。上に行ったら誰でも良い、最優先で医療班を呼ぶのよ!」

 「え、うぇ……!?」

 「一度しか言わないって言ったでしょ! さっさと行くのよ」

 「でも、それじゃあお前はどうなんだよ!?」

 「今の現状見て分からないの! 私とスバル……どっちが重傷なのか、見ただけで分かるでしょ!!」

 「うぅ……」

 いまこうしている間にも、腕の中の妹の体温は徐々に低下して行き、呼吸も浅くなっているのが嫌でも分かっていた。最早事態は一刻の躊躇も許されはしない状況へと陥ってしまっていたのだ。

 「分かったなら……『これ』も一緒に持ってくのよ……」

 「な、何だよ、それ…………ひっ!?」

 ティアナから差し出されて腕に捻じ込まれたモノ……それは、鋭利な刃物か何かで寸断されたスバルの手足だった。思わずノーヴェは胃がむせ返る感覚に口元を手で覆う。戦闘機人である彼女は今まで多くの人間に危害を加えてはきたが、正直ここまで残酷な事はしたことが無かったし、見たことも無かった。そのため、災害現場で働く者とは違って耐性の無いノーヴェは本体から分断された手足を見た瞬間に、生物として生来持ち合わせている生理的嫌悪感に襲われてしまった。

 「あ……え、あぁ……!」

 「何ボサっとしてんのよ!? 早く行きなさい!」

 「で、でも――」

 「良いから早く行けって言ってんのよ!! 撃たれたいの!!」

 いつまでも混乱状態に陥ったままのノーヴェに痺れを切らし、遂にティアナは彼女の鼻先に魔力弾を向けた。

 「ッ!!?」

 オレンジ色のそれは普段彼女が連発しているものに比べるととても弱々しく、半径も当然と言わんばかりに小さなものだった。既に気絶していてもおかしくない状態で作り出したものなので、今にも消えそうだったが、混乱していたノーヴェの意識を正常へと戻すには充分だった。

 「…………分かった、行って来る。必ずお前も助けに来るから、待ってろよな!」

 ノーヴェが立ち上がるとスバルを抱きかかえていた腕から溜まっていた血液が流れ落ちた。急がねば! 階段を駆け上がっている余裕はもう無い。建物の構造図を一瞬で脳裏に展開した彼女は頭上に向けてほぼ垂直に黄金の道を発現させた。

 「うぅぉおおおりゃあああああっ!!!」










 あの直後、医療班を捕まえて応急処置後、現在スバルはなんとか一命を取り留めることに成功した。だからなのかも知れない…………ノーヴェはもう一度妹のあの姿を見てしまったら、今度は信じられるかどうか不安だった。他人からすれば只の身勝手だろう、自分のエゴの為だけに身内の安否すら気遣ってやれないと言うのは一見酷な話であることは間違いない。

 だが、勘違いしてはいけない。彼女は戦闘機人なのだ、つまりは『生み出された』存在……。これが外界の人間社会での経験が高いチンクや、元々対人用に開発された今は亡きドゥーエあたりならば綺麗に割り切ることが出来たのだろう。しかし、彼女らは違った。先発組の五人とは違い、生み出されて間もない後発組みは総じて常人とは良くも悪くもかけ離れた考えをしているのだ。それに彼女らも元々は戦う為だけの道具として造られ、それ以上も以下も以外の意義は持ち合わせるはずはなかったのだ。つまり、彼女らは自らの心に完全にセーブを掛けることが出来ないでいるのだ、一度親しくなった者が傷つけば、簡単に割り切る事も出来ないし、普通の人間よりも深く考え込んでしまう。

 「…………ごめん、スバル……今はあたしの勝手で見舞いには行ってやれねぇ……。でも、必ず……必ず……!」

 右手のカップにヒビが入る。明らかに常人の倍以上の握力が掛かっているのが分かり、彼女の表情筋も怒りによって引きつっていた。脳裏に浮かぶのはあの日、自分を出し抜いてまんまと逃げ果せた顔も分からぬ敵の姿……。

 「あいつをブチのめすまで待ってろよ」

 改めて決意を固めた彼女は心中を表すかのようにして一気にコップの中身を飲み干した。かのじょの胸中に渦巻いているのは炎だ。かつてチンクを傷付けられた時に精神を満たした怒りの炎、ドス黒く熱い憤怒の感情が再び彼女の心を焼き焦がし始めていたのだ。そして、その炎はノーヴェ自身が目的を完遂するまで消えることは無いことも、明らかだった。

 充分体も温めたことで同時に暇つぶしにもなった彼女は、席を立つと再び玄関前へと戻ろうとした。もうすぐ見舞いに行っていたゲンヤや姉妹達が来ている頃かもしれない、教会のセインについてはさっきの通りに叩いてでも連れて来るように言っておいたのでそちらも問題は無いはずだ。チンクが未だに謹慎命令に服していると言うのは彼女にとっては腹立たしいことこの上無かったが、敬愛すべき姉が取った行動は尊重する主義だ、今更どうこう言うつもりはない。

 「……あれ?」

 マフラーを巻き、手袋も付けた彼女の視界に何かが留まった。すぐに頭の中の膨大な記憶の海から『それ』に関する情報を掻き出すと、あてはまる一つの事項を発見することが出来た。

 それは『人物』……もちろん、自分の知っている人間だ。でなければ自分の記憶にあるはずが無い。

 その人物は休憩所の片隅に佇んでおり、自分に背を向けていた。何やらテーブルの上で作業に勤しんでいるようだったが、如何せんこちらからでは見えなかった。その後ろ姿に少し躊躇いを覚えながらも、ノーヴェはそちらへと足を運ぶことにした。

 ゆっくりと後ろから接近するが、相手は集中していてこちらには気付いておらず、振り向きもしない。そんな相手に彼女は少しずつ距離を詰め、やがて数十センチの所まで来るとその腕を伸ばして……

 「よっす! ティアナ」

 「あぁ、誰かと思ったら……」

 肩を叩いた。その女性はオレンジの長髪をなびかせるとこちらを振り向き、手にはさっきノーヴェが飲んでいたものと同じコーヒーを入れたカップを持っていた。執務官ティアナ・ランスターはテーブルに備え付けの椅子ではなく、医療センターから貸し出されている車椅子に腰掛けており、ここからでは見えないが制服の下の両脚は包帯で何重にも包まれていた。

 「この時間って仕事じゃねーのか?」

 「まぁね……。本当ならそうなんだけど、怪我人待遇って言うのかしら……普段ちゃんと仕事に従事してると、こう言う時にちょっとは融通してもらえるようになってるのよ」

 「ふーん……あ、そ。隣いいか?」

 「嫌なら今頃あんたが話し掛けて来ても無視してるわよ」

 お互い少し捻くれている者同士、何か通ずる所でもあるのか、思いの外この二人は公私共に接点が多い。純粋にティアナ自身がスバルを始めとするナカジマ家の面々との接点があることもあるのだろうが、ノーヴェがスバルと訓練をする場合には殆どティアナも一緒にやらされている事が多いのだ。もちろん、ティアナのシフトが空いた時にやるのだが、いくら武装執務官とは言え苛烈な仕事の合間に戦闘訓練は正直キツイ訳で、いつも愚痴を漏らしてはいたが。

 「んあ? お前、いつも車椅子押してるあの男はどこだよ? 便所か?」

 「男……? あぁ、ヴァイス陸曹ね。あの人なら、早朝から西部の地上支部に出向中よ、ヘリで海上更正施設まで運んで欲しい人が居るんですって」

 「ふーん……」

 「ちょっと大変だけど、慣れれば簡単な腕のトレーニングになるわよ、これ」

 「遠慮しとく……」

 あらそう、と言ってティアナは飲み掛けのコーヒーを口に含んだ。彼女の嗜好からか、砂糖抜きの完全なブラックモーニングではあるが、どこかの“超”が付く位に甘党な統括官とは違い、強烈な苦みに表情一つ変えること無く喉に流し込んでいる。後で聞いた話によれば、元々眠気覚ましに飲み始めたらしいのだが、毎朝飲んでいると自分でも気付かぬ内にハマってしまったらしい。

 「……………………」 

 そんな彼女の姿を目にしながら、ノーヴェは何だか良く分からぬ居心地の悪さを感じていた。いつもはここにもう一人居るはずなのだ、バカに見えても実は努力家で誰よりも頑張りを見せているもう一人が…………今はここには居ない。いつも三人で居ることが多かった為、それが当然だと思っていた。その所為か、たった一人欠けてしまっただけでもその穴が途轍もなく大きく感じられてしまうのだった。今こうして居るのだって、本当は神経が磨り減る思いなのだ。

 だが――、 

 「……そんなショボっ垂れた顔してたら、こっちまで辛気臭くなるからやめなさい」

 「っ!? …………やっぱ分かっちまうよな……」

 「当然よ、こっちだって伊達に執務官やってないんだから。それに、あんたはあいつに似て単純だから、顔見ただけで何考えているかなんて分かるわよ」

 「さり気なく好き勝手に言いやがって……」

 「事実でしょう? でもね……これだけは言っとくわよ」

 「な、何だよ……?」

 わざわざ車椅子の車輪を動かして自分の方に顔を近づけて来たティアナに只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ノーヴェは少し身じろぎながらも彼女の目を見つめて耳を傾けることにした。元来、生真面目と言う言葉を体現している彼女は冗談を殆ど言わないし、言ったとしても区切りを持っている。さっきは少し冗談が入ってはいたが、今度のそれは一部の冗談や隙が無いのは目に見えていることだった。

 「あんたがスバルのことで思い詰めているのは分かる……仲間だし、家族だし、何よりも姉妹なら当たり前よ。それをどうこう言うことは私にも出来ない……けどね、余りいつまでも引き摺ってたら元も子も無いんだから」

 「? ……どう言う意味だよ」

 少し納得がいかないノーヴェの表情にティアナは一瞬だけ瞳を曇らせたように見えた。何か自分の奥底にも引っ掛かるモノがあるのだろうか、そう思ってノーヴェが問おうとすると――、

 「昔ね……一人の女の子が居たの……」

 「え?」

 「その子はね、平凡な……そう、街に行けば何処にだって居るような普通の子供だったのよ。でもね……ある日突然その子の耳に、たった一人の肉親だった兄が死んでしまったって聞かされてきたの……。それでね、気付いちゃったのよ……自分の兄が自分にとってどれだけ大きな存在だったのか、ってね……」

 静かに語りながらティアナは右手のカップをグルグルと回していた。しかし、その表情は悲しみの静寂に満たされているのが分かった。既にコーヒーは飲み干され、中に微量に残っている分が重力に逆らう事無く底面を流れている。

 「だからね……その子は自分の兄と同じようになりたかったんだと思うの。兄が居た場所に行きたくて、兄が目指した何かを追い求めようとしていた……」

 「それが……あたしとどう関係あるんだよ」

 「話はそこからよ。その子は年を重ねるごとに成長していった…………訓練校を首席で卒業して、兄の居た管理局へ入局……」

 「へぇ、どこの誰か知らねえけど、良かったじゃん」

 「でもね、失敗したの」

 「え……?」

 ティアナの口から聞こえて来た言葉にノーヴェは一瞬だけ硬直した。“失敗”……? 何を言っているのだ、さっきまでは何事も無く、むしろ順風満帆で行けているような口振りだったはずだ。それが何故?

 「どんなに頑張っていても、それは自分の為や、まして今近くに居る仲間の為でもなくって、もう居ない自分の兄へ近付こうとしている行為に過ぎなかったってことよ。自分以外の周りが見えていなかったその子は必死になって失敗の穴を埋めようとした…………けど、それでもまた失敗した……。理由は簡単よ、始めに言ったけど、その子は『平凡』な存在だったの。特にこれと言った才能や素質も無くて単純に努力しか出来なかったその子は、周囲の仲間達に引き離されそうに感じたのもあって、失敗の穴を埋めようとして別の失敗…………自分の失敗を許せなかったその子は責任を感じて自分を追い詰めて行ったわ……自滅寸前にね」

 「自滅って……」 

 まるで大した事無いとでも言わんばかりに軽く言ってのけるティアナの口振りに、暖房が利いているにも関わらずノーヴェは少し身震いしてしまった。対してティアナの方は特に大した変化を微塵も感じさせていなかったが、その双眸はどことなく悲しげに遠くを見つめているような気がした。

 「……それで……どうなったんだよ?」

 「結果的に言うと、その子は立ち直ったわ。周りの応援と上司の後押しが無かったら今頃どうなってたか分からないけどね」

 「あ、そ。それで? そいつとあたしがどう関係してんだよ」

 「分からない? 要は『いつまでも気持ちを引き摺ってるとロクな事が無い』って言いたいのよ。あんたは私と違って神経が太いから、そんな無駄な心配しなくても良いのかもしれないけど……」

 「一言多い上に余計なお世話だっての! もういい、行くぜ」

 「そうね、長いこと引き留め過ぎたかしら……。重ねて言うけど、あんまり気にしない方が良いわよ、本当に。じゃないと……その子みたいにとんでもない目に合うから。あんたの為に言ってやってるんだから」

 「ご親切にどーも。そいつがどこの誰かさんかは知らねぇけど、あたしはそこまで『バカ』じゃねーよ」

 「あらそう……。言っとくけど、その『バカ』な子は……もしかしたら案外近くに居るのかもしれないわよ?」

 そう言ってクスクスとわざとらしく微笑んでいるティアナに、とうとうノーヴェは明確な悪寒を覚え、頬を伝う冷や汗が滂沱のように流しながら脳裏にて静かにこう思った。

 (なんか……地雷踏んじまったかな……)










 午前9時48分、南口玄関付近の受付場周辺にて――。

 「あ~ぁ、それにしても、あと少しで松葉杖に乗り換えられるって言うのに、それまでは車椅子だなんて……」

 ノーヴェとの交流を経たティアナは「やれやれ……」と言いたげな表情で車椅子を両手で漕いで移動していた。さっきはノーヴェに対して「トレーニング」などと軽く言ってしまったが、実際はこれ、かなりキツイ。車輪を一回転させる度に腕の筋肉を振り絞るようにして力を出し、その度に体重を掛けている箇所が軋む音を立てていた。ちなみに、彼女の名誉の為に言っておくが、体重を掛ける度にギシギシと音が出ているのは彼女が重いからではない。例え重かったとしても、それは六課時代に鍛え上げられた鋼の筋肉の所為であり、断じて訓練の怠りから去来した贅肉などではない。

 彼女は下半身の怪我具合から他の者よりも遅い10:00からの勤務となっている。あと十分で勤務先まで戻らねばならないが、それまでにあと車輪を何回転させねばならないのかと考えると、限り無く憂鬱だった。

 「ヴァイス陸曹……早く戻って来てください」

 今は仕事でミッド西部へと向かっている想い人の顔を思い浮かべながら、ティアナは職場への道程を少しずつ漕ぎ出そうと再び両腕に筋力を集中させようとした。



 「ティアナさん――?」



 ふと、背後から耳に届いた聞き覚えのある声に、ティアナはすぐさま左右の腕を反対に動かして車椅子を回転、声の主を視界に収めた。

 「あら……」

 まだ声変りもしていない、少女と聞き間違えそうな高い声の発生源は“少年”だった。自分よりも年齢も身長も下の少年がこちらへ手を振りながら歩いて来るのが見えていた。記憶の糸を手繰り寄せるまでもない、彼女の良く知っている人物なのだから。

 一目で目を引く真っ赤な髪と、対を成す済んだ蒼い瞳のその少年は――、

 「エリオ? 久し振りじゃない。どうしたのよ、急にこんなとこまで来て」

 「どうしたの……って、それはこっちのセリフですよ! 地上本部が襲われて、スバルさんとティアナさんが大怪我したって聞いてどれだけ心配したと思ってるんですか!?」

 「えっ? いやでも……わざわざこっちに来てくれる程心配しなくても――」

 「僕…………来ちゃいけませんでしたか……? 本当に心配で心配で……キャロやフリードと一緒に保護隊の仕事を前倒ししてまで休暇作って来たんですよ……」

 「うぅ……!」

 エリオは良くも悪くも純粋な人間だ。そんな純粋な濁りの無い眼差しで訴えられたら何も反論出来ないと言うのが世の常であり、ましてやその視線が目元に涙を溜めていようものなら効果は抜群な訳で……。

 「あんたはいつまでもそのままでいてね、エリオ」

 「上手い事言って誤魔化そうとしてませんか?」 

 年長者らしくここは頭を撫でておくことにした。とは言っても、13歳にも関わらず長身なエリオに対してティアナの方は座った状態だったので、両者の身長差は殆ど無いに等しいから若干変な格好になってはしまったが。

 「そう言えば、キャロはどこなのよ? 一緒じゃなかったの?」

 「キャロはフリードと一緒にそこの休憩所の椅子で寝てます。向こうを朝一番で出立してきましたから……」

 「何もキャロまで一緒に連れて来なくても良かったんじゃないの?」

 「僕もそう言ったんですけど、半分無理矢理ついて来ちゃって……。ついこの間も希少種の竜の捕獲作業で無理させてしまったばかりなんですけど……」

 「大変なのね、あんた達も。言っとくけど、女の子一人大切に出来ないようなら、あんたもまだまだ未熟よ。しっかり守ってあげなさい」

 「な、何でそこでキャロだけを掻い摘むんですか!?」

 「あら? 私は別にキャロだけなんて言ってないわよ。女の子なんてどこにでも居るし……」

 「ティアナさんっ!!」

 からかわれた事に顔を赤くして怒るエリオを見てティアナは、やはりまだ子供だな、と実感した。機動六課時代から変わらない……エリオとキャロ、二人はどこまでも純粋だ。自分達の弟や妹のような存在だったこの二人――、

 (どうか……この二人がいつまでもこのままでいてくれますように……)

 未だに顔を真っ赤にしている彼を笑いながら宥め、ティアナは切にそう願っていた。彼女も例外無く、目の前の『弟』が可愛くて仕方が無いのは同じなのだ。










 「おーし! 全員居るなぁ?」

 数分前、正面玄関前の駐車スペースにてちょっとした人だかりが出来あがっていた。パッと見て10人は居るその集団は男性が二人しか居らず、あとは平均して全員10代後半の女性ばかりだった。やはり女と言うこともあってか、ざわざわととても喧しくしている彼女らに対して、一番の年長者である初老の男性が点呼を取ろうと号令を掛けた。

 「教会組は全員居るよ…………尻が痛い」

 淡い青の髪のシスター服姿の少女が自分の臀部を痛々しく擦っている。何やら頑丈極まりない何かで思い切り強打したようだが、ここはあえて聞かないでおこうと全員の意思が暗黙の了解で全会一致していた。そんな中でも、特に彼女の脇に居る長髪と短髪が対照的な二人の少女は揃って溜息をついており、その表情は殆ど呆れが入っていたりもした。

 『チンクとスバルを除き、ナカジマ組も全員集合している。と、我がマスターは申しております』

 「よぅし! じゃ、全員こいつに乗り込みな」

 そう言って白髪頭の男性――ゲンヤが指差したのは、明らかに中で一晩は過ごせるのではないかと思えるような特大サイズのワゴン車だった。運転席と隣の助手席に二人で、あとは後方の三人分×2で充分間に合う程だった。

 「あれぇ? パパリンってこんなデカい車持ってたッスか?」

 「いや、これは陸士部隊の部下が持ってる奴なんだがな、こんな大所帯で行くのにウチの車じゃ手に追えないってんで貸してもらったんだよ。あと『パパリン』はやめろ」

 そう言いながら彼は運転席に乗り込み、シートベルトを肩から掛けてキーを差し込んだ。燃料がエンジンに点火し、荒々しい音が辺りに響く。

 「取り合えず早ぇとこ乗れ。時間がねーぞ」

 「うぃーっす!」

 「分かった分かった……」

 「おじゃましまーす」

 そこから先はヒヨコの行列である。全員が乗り込んでドアを閉めると同時にゲンヤはアクセルを踏んでハンドルを切り、駐車場から抜け出した。取り合えず内部の様相はと言うと、運転席にゲンヤで隣の助手席にカイン……あとの女性陣は一列目にギンガ、ノーヴェ、ディエチで……あとのウェンディ、セイン、オットー、ディードは二列目ですし詰め状態となっていた。管理局の敷地を抜けるまではまだ少し走らねばならないが、車を動かすと同時にナンバーズ達はまたもや

 「ノーヴェ~、オットーから聞いたよ。布団被らないで寝ちゃったんだって~? バカみたいじゃん」

 「ケツの割れ目増やしたくなかったら黙ってろ、シスター・サボリ」

 「ひどっ!? お姉ちゃんにそんなこと言うの!?」

 「ディード、後でツインブレイズよこせ。ケツの割れ目十字にしてやっから」

 「とても遺憾なんですけど、教会に置いてきました」

 「ノーヴェ、あんまり女の子がそんな下品な言葉使ったらダメってチンク姉が言ってたじゃん」

 「どうでも良いけどよ……お前さん達もう少し静かにしてくれ、頼む。運転し辛いったらありゃしねぇ」 

 「はいは~い、あたしが悪ぅございましたよっと。ズズッ…………調子悪いんだから話し掛けてくんじゃねーよ」

 そう言って鼻を啜りながらノーヴェは窓際へと頭を寄せ、窓の外を流れる風景に目をやった。ギンガを挟んで座っているディエチはそんな意地っ張りな妹の機嫌を後でどうフォローしたものかと頭を悩ませている模様で、完全に顔にやつれた笑みを張り付けていた。チンクが家を留守にしている今現在、ノーヴェを抑えられるのはナカジマ家ナンバーズでは年長のディエチしか居ない訳なのだが、問題はその彼女の言う事ですら中々聞く耳を持とうとしてくれないのが悩みの種と言うことで……。

 そんな彼女を差し置いて、後方の教会組+ウェンディはカードゲームに興じるし、前方の男二人は所属部隊が同じな所為でさっきから仕事関係の会話しかせず、日常レベルで気苦労が絶えないギンガとディエチは目的地に着くまでに日頃の疲れを癒そうと仮眠に入ってしまっていた。退屈な状況に陥った時に取る人間の行動と言うのは大抵誰しもが同じな訳であり、ノーヴェも例外無く――、

 (眠ぃ…………あたしも寝よっと)

 自然と瞼が重くなり、視界に霞が掛かって来るのを感じながら、ノーヴェの精神は静寂の涅槃へとまどろみ始めた。窓に顔を寄せたまま眠ったら跡が残るだろうな、と考えつつも生理現象に逆らえるはずも無く、歩道を歩く人々を眺めながらとうとう最後の数ミリが閉ざされようと――、



 ――しなかった。



 「ストォォオオップッ!!!」

 ノーヴェの怒号が車内に轟いたその約0.4秒後、「ガンッ!!!」と言う何か固いモノがぶつかる盛大な衝突音と共に、二輪駆動の車両の推進力全てが一瞬のうちに隕石衝突の如く強烈なGとなって前方へと集中した。

 「あべしっ!!?」

 「アッーー!!?」

 すぐ背後からセインとウェンディの悲痛な叫びが聞こえて来たが、一番の被害者は何を隠そう、運転席のゲンヤに他ならなかった。どう言う訳かシートベルトの制止を振り切ってハンドルの中央に思い切り顔面をキスしており、起き上がって来るまでに少々時間を要していた。いくらノーヴェが急に大声を出したとは言え、自分でブレーキを人間が踏んだ人間がこの様な事になるなど考え難い。とすれば、踏んだ人間は他に居る訳で……

 「ったた……おい、カイン! お前なぁ……」

 『すまない、つい反射的に反応してしまった。と、我がマスターは申しております』

 助手席から伸びたカインの右足が代わってブレーキを踏んでおり、その所為でゲンヤがこの様な事態に陥ったらしい。

 さて、事の発端となったノーヴェはと言うと――、

 こともあろうに「ちょっとそこ行って来る!」とか何とか言ってそのまま引き剥がすようにしてドアを開け、ゲンヤの制止も聞かずに車外へと飛び出してしまっていた。足にジェットエッジこそはいてはいなかったが、陸上選手も仰天する速度で反対車線を走破すると歩道を歩いていた一人の人物に手を振りながら近付いて行くのが見えた。

 「誰だありゃ?」

 「さぁ……?」

 「誰ッスかね?」 

 その人物は遠目からなので詳しくは良く分からなかったが、どうやら男性で、年齢も今車内に居るナンバーズの面々と同年代らしかった。あと分かった事と言えば、カーキ色の制服は着ている者が地上本部に所属していることを表しており、その少年もまた管理局の一員だと言うことぐらいなものだった。

 しばらく両者はなにやら言葉を交わしていたようだったが、ふと、ノーヴェの方が皆の予測の斜め45度上を行く行動を取り――、





 数分後、ナンバーズの面々を乗せたワゴン車は海沿いの高速道路を飛ばしていた。本日晴天也、とは誰が言ったのか、まさに今日は寒風吹き荒れこそするが、外出には持って来いの日和には違い無かった。海の方へと目をやれば、空とはまた別の青で彩られた大海原が視界に飛び込み、水面から反射する日差しが眩しかった。

 ちなみに、彼女らを乗せた車内には行きとは違う変化が一つだけあった。

 それは……

 「……で……そいつは誰なんだ? ノーヴェ」

 運転席のゲンヤが妙に威圧感を纏った口調で後方の赤髪の少女に質問、いや、詰問してきた。もっとも、バックミラーから彼の顔を見ると額に大きなコブを作っているのが丸見えだったから威厳もクソもあったものではないのだが……。

 「だーかーらー、前に言っただろ。教会で知り合った奴が居たってさぁ。なぁ――――トレーゼ」

 そう言って彼女は自分に代わって窓際に座り込んでいた紫苑の短髪の少年、トレーゼの肩を景気良く叩いた。彼の方はと言うと、ノーヴェにいくら叩かれようが彼女の姉妹に背後から興味津々な視線を注がれようと、

 「…………」

 全く動じなかった。 

 大した反応も返さないその態度が気に喰わないのか何なのか、彼が乗り込んでからゲンヤの機嫌が明らかに悪くなっているのはノーヴェ以外の全員が肌で感じ取っていた。だがいつもの光景なのか、繊細なディエチは戦々恐々としてはいたが、ギンガは軽く受け流している上に助手席のカインに至っては既にどこ吹く風と言わんばかりに寝入っている始末だった。

 「あー、そう言えば私はディードから聞いたよ」

 場の空気を和まそうとしてか、後ろからセインが身を乗り出して来てトレーゼの頭をグリグリと撫でまわし始めた。一応仮にも彼女はナンバーズでは年長の方だった、だから場の空気を読むことも当然――、

 「ノーヴェの『彼氏』だってね」

 出来ちゃいなかった。一瞬で車内の空気が凍結――その後核爆発レベルの衝撃が全員の脳内を襲った。

 「な、なななな……違ぇよっ!!! 何言ってんだこんの――アホ花がぁあああああっ!!!!!」

 顔を羞恥の赤に染めたノーヴェが窓ガラスを揺らす程の怒声と共に鉄拳をセインの頭部に振り下ろし、明らかに人体のそれを叩いた程度では出ないはずの音が鼓膜に襲来した。

 「うぐぅぁあああ!!? 何するんだよ!?」

 「うるせぇ! 降りたら覚悟してろよ、ジャンクにしてやらぁ! それとオットー! ディード! 二度とこいつに余計な事吹き込むな!」

 「う、うん……分かった」

 「はい……ノーヴェ姉さま……」

 近接戦最強のノーヴェに対して誰も楯つく事など出来るはずもなく、あえ無くセインのスクラップは決定されてしまった。もっとも、下手すればオットーとディードも同じ運命を辿っていたかも知れない訳であり、頭を押さえて蹲る姉の隣で二人も密かに震えていた。

 そんな彼女らを余所に、今度はギンガがノーヴェの連れ込んで来たトレーゼに会話の種を振って来た。

 「ごめんなさい、トレーゼ君……だっけ? 局の仕事の途中じゃなかったかしら?」

 やはり周囲が私服の中でカーキ色の制服は目立つのか、ギンガが半分申し訳なさそうにして訊ねて来た。しかし、そんな彼女とは対照的に彼の方は――、

 「自分のシフトは、夜中……。仮眠も、既に取ってある。問題無い」

 「そ、そう……」

 「なぁ、トレーゼとか言ったな? 俺はあんたがうちのノーヴェとどんな関係なのかは知らねえが、別にノーヴェに誘われたからって無理に同行しなくても良かったんだぞ。何なら、今からでも適当なトコで降ろしてやろうか?」

 さっきからピリピリしていたゲンヤが、ギンガに対しても素気ない態度のトレーゼにとうとう痺れを切らしたのか、少しトゲの効いた言葉を口にした。元々雑把ながらも豪快な性格のゲンヤだけに、彼のような口数が少ない上に薄っぺらそうな性格の者が癪に障るのだろう。

 「ちょっと お父さん! いくらなんでも今のは失礼じゃないですか!」

 「い、いやな、俺は別にこいつをイジメようとかそんなんじゃないんだ! ノーヴェ! お前は分かってるよな!?」

 やはり愛娘には弱いのか、ギンガに注意された途端に彼は顔を少し青くしながらアタフタとハンドル捌きが乱れ出し、みっともなくノーヴェに助け舟を出してきた。

 だが――、

 「親父…………あとでケツの穴十個にするからな……」

 「んなっ!? 何そんなに怒ってんだよ!? そりゃあ、俺もお前さんが折角連れて来た友達さんにイキナリな物言いだったのは認めるけどよ……」

 「うっせぇ! バカにしやがって…………悪ぃな、トレーゼ、うちの親父ったらよー、空気読めねーんだ」

 「別に……問題無い……」

 「そっか、ならいいんだけどよ」

 ゲンヤに対して怒りを露わにしていたノーヴェは彼のその一言で素直に引き下がった。その様子を見ていた周りの反応――特に彼女との付き合いが長いナンバーズの面々は……

 「す、すげぇッス……!」

 「あのノーヴェ姉さまが……感情を尾を引かないなんて……」

 ノーヴェは単純故に、一端火が点いてしまえば誰にも止められるはずがなかった。日常生活においては一度始めた事柄は最後までやり遂げる固い主義を持っており、こと戦闘に関してだけ言ってしまえば、相手が息の根を止めてしまうまで戦い続ける程にまで刷り込まれているはずだった。その彼女が、たった一言――それもつい最近に知り合ったばかりで、それほど会話も交流も重ねていないはずなのにも関わらず、すんなり言う事を聞いてしまうと言うのは如何に驚愕に値するのか、想像には難くはないだろう。

 「やはぁ~、やっぱ彼氏の言うことは素直に聞くんだね~。お姉ちゃん、嬉しいよ。いつの間にそんな仲になったのか知らないけどさ」

 「カイン兄ぃ、あとでアリーウスかオリーウス貸してくれ! このアホは死なせなきゃ直らねぇんだよ!!」

 もっとも、セインの余計な一言でまた点火してしまったようだが……。

 そんな彼女は半分諦めがついたのか、中央座席の年長集団はとっくにトレーゼへの質問攻めに行動を切り換えていた。実はノーヴェがゲンヤに敵意を剥き出したあたりから既にギンガの猛烈な質問タイムが行われていたのだが(「所属はどこ?」、「何歳?」、「いつからミッドに住んでるの?」等々……)、たった今そのバトンがディエチへと手渡されたところだった。もっとも、彼女の場合はギンガとは違ってもっと緩やかなペースで入る上に生来の正確故か、とても物腰が低かった。

 「ディエチ・ナカジマ、よろしくね」

 「……あぁ」

 「ごめんなさい、うちのノーヴェが無理矢理…………」

 「問題無い。個人的に、興味があったから、同行することにした」

 窓の外の海を眺めながら彼女に目も合わせる事無く答えるトレーゼ。しかし、別に悪意を感じなかったのか、ディエチが機嫌をそこねた風もなく、変わらぬ様子で微笑みを湛えたまま会話を続けた。

 「今日はね、私達の姉妹を迎えに行くの。ちょっと無愛想だけど……良い子だよ。雰囲気敵にはトレーゼに似てるかな」

 「…………」

 隣でディエチの声が聞こえてくる。しかし、彼は何も言わないままで、金色の双眸は瞬きもしないまま窓の外の風景を眺めたままだった。そして、騒がしい車内の片隅で、誰の耳にも届かない小さな声で――、

 「知っている…………」

 とだけ呟いていた。

 同時に、彼女らを乗せたワゴン車が停止した。










 ――――夢を見た。

 いや、『見た』と言う表現はおかしい……自分は今も、現在進行形で夢を見続けていた。

 何故夢だと分かるのか? その理由の一つに、『自分はこの光景を以前見た記憶がある』と言うことが挙げられる。人間の睡眠中に見られる夢は総じて二種類に分類できる。『最も強くイメージした想像』と、『最も印象に残った記憶のリピート』だ。

 自分の場合は後者に当たった。

 それなりにスペースが取られているこの空間は訓練室だ、見覚えがある。今自分は両拳を構えて足腰を固めて臨戦体勢を取っている。目の前にはもう一人、自分と同じ位の長身の持ち主が、これまた似たような構えで相対していた。敵ではない、訓練相手であり、もちろん記憶にもある人物だった。『懐かしい』とは思わない……自分にはそう感じるようにプログラミングされてはいないのだ。別に違和感は無い、これが普通。

 やがて記憶のリピート……つまりは格闘訓練が完全に終了するまで五分も掛からなかった。結果は僅差で相手側に勝利の旗が上がった。こちらは息が上がってしまっているのに対し、あちらは全く疲労の色を見せず、こちらとの実力差を顕示していた。

 「午前はこれで一旦終了だ。充分に休息を取れ」

 「……はい」

 切り換えが重要だ、すぐに姿勢を正すと相手に敬礼せんばかりの返事を返した。組織においては上下関係がモノを言う、これも重要な事柄だ。

 だが、あの人はどう言う訳か何故か溜息をついた。半分呆れが入っていたその溜息に、ワタシは至らぬ点があったのかとそれまでの行動を回想し始めた。しかし、何も思い当たることが見当たらずにいると――、

 「お前は可愛くないな……」

 そう言ってあの人はワタシの頭を撫でて来た。何故そのような行動に出て来たのかは分からない、ワタシ自身も特に快不快は感じる事はなかった。何故なら……ワタシはそうやって『造られた』のだから。

 それなのに――、何故なのだろうか?

 「あいつと比べて……可愛くないな」

 あの人が言った『あいつ』……その言葉、それだけが脳髄に焼き付いて離れなかった。

 “あいつ”とは――

 誰ですか?










 「――きな、――――姉ちゃん、起きなっての!」

 声――。ワタシを仮初の幻想から現実へと呼び覚ます鈴の音……。目を開けると同時に網膜に映ったのは陽光と金属質の壁、そして成人男性の顔面だった。

 「うっす! 良く寝てたな、寝不足は体に毒だぜ。ほれよ、姉ちゃんが眠ってる間に俺がヘリでここまで連れて来といてやったぜ」

 「そうですか……」

 精神が完全に覚醒すると、起立。少し背伸びをしたい所だが、生憎とそのような時間は無い。ここまで一緒だったヘリパイロットを一瞥もせずにその女性は後部ハッチまで歩を進めた。外部からの風が腰まで届く桜色の長髪を吹き荒らすが、気にも留めないでコンクリートで出来た地面へと立ち臨んだ。

 「……………………」

 少し肌寒さはあるが支障は無い、大丈夫だ。頑強な金属の手錠で留められた両手を前に揃えながら、彼女は歩き始める。

 やがて見えて来る人影の集団があった。大部分は知っている者だったが、さっきも言ったように『懐かしさ』など微塵も感じない。あちらはどう思っていようと関係ないが……。

 一歩一歩を同じ間隔で歩き、そして停止。白い囚人服が風にはためくが気にしない。

 「……………………」

 こうして見ると皆様々な表情をしている。一様に笑顔に見えるそれも、良く見れば微妙に違いがあった。どれも、自分には無いモノだった。

 第一声はどうするか?

 考えるまでもない、そんなの決まっていることだ。

 背筋を律し、両足を揃えて繋がれた両手を正中線へ正すと、ワタシは言った。

 「ナンバーズ、No.7『セッテ』。本日付でここ、海上更正施設にて生活します」



[17818] ⅩⅢ+Ⅶ=?
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 13:09
 ミッドチルダ時空管理局地上本部――、その第一会議室にて。



 「……以上が、私が仮定する今回の一連の事件の全容です」

 照明を消した室内には巨大な長デスクが設置されており、そこには横一列に管理局を代表する重鎮たちの顔触れが所狭しと出揃っていた。激動を生き抜いてきた男女が入り混じってはいるが、皆一言も口を開かず、一様に重い沈黙が空間を支配していた。表情は差異はあれど皆が驚愕と不安に彩られた様相を浮かべており、その視線は全員が前方のスクリーンへと注がれていた。

 「終わっていなかったと言うのか…………あの忌まわしい狂科学者の起こした事件が……!」

 スクリーンに映し出されているのはつい二日前に廃棄都市区画にて勃発した戦闘行動の映像データだった。制止映像に映っているのは、遥か上空で黒鉄の弓矢を構えた今にも破壊の矢を放たんとする――、

 「ナンバーズ……! まさか13番目が存在していようとは!」

 紺色の防護ジャケットに純白のマント……そして、拡大画像に映された首元のチョーカーにある「ⅩⅢ」の刻印。かつてミッドチルダを席巻せんとした少数精鋭戦闘機人部隊『ナンバーズ』、その最後の一人……。

 「予想外のゲスト……と言って済ませるには、少々手痛い存在だな……」

 デスクに腰下ろしていた最年長の男性――現在の仮設最高評議会の議長がジョークと言うには余りにも雰囲気が重いが、彼の一言で周囲の人間達の口から自嘲とも取れる失笑が漏れ出た。しかし、それは一時の気休めのようなものでしかないことなど、ここに居る全員が承知でのことだった。

 「地上本部をたった一人で襲撃し、経験が浅いとは言え二人の局員に深手を負わせる……」

 「それだけに飽き足らず、八神二佐の戦術の切り札でもあるヴォルケンリッターを退けた上にこの有様とはな……」

 そう言ったと同時にスクリーンにピックアップされる画像があった。それは二日前の戦闘で外観を大いに変貌させてしまった廃棄都市のビル群の上空写真だった。ある一点を中心として、まるで空軍の爆撃にでも合ったかのように巨大なクレーターが口を開けていた。障壁から脱出する時に敵方が放った矢、一撃必殺の破壊力を有する【シュツルムファルケン】が残した爪痕である。

 「現在、戦闘行動中に右腕に重傷を負ったヴィータ教導官は八神宅にて療養中。本人の体の回復具合から、復帰には最低でも数ヶ月を要するかと……」

 スクリーンの脇に立ち、解説を入れる男性――クロノは手に持った資料に目を通しながら予め仕入れて置いた情報を口頭で伝えていく。時折映像を交えながら進めているこの会議は、既に十数分前から開かれている。

 「今はそんな事はどうでも良いのだよ、ハラオウン提督」

 「左様……。重要なのは敵方の詳細だけだ。聞く所によると、君の部下であり妹の執務官がわざわざ出撃許可も無しに交戦したにも関わらず、結局取り逃がしてしまったそうではないか?」

 「…………ヴォルケンリッターからの報告と彼らのデバイスに残されていた映像データから、相手はスカリエッティの製造理論に基づいて生み出された事は確実です。交戦中にも、ISの発動が複数確認されています」

 取り上げられた映像には足元に真紅の幾何学的多重円形紋を発現させる敵の姿があった。一枚ではなく、連続して数枚同時に表示されるそれらには全てにそうしたテンプレートを浮かび上がらせていた敵が映っているのが分かった。

 「交戦中に発動されたのは実際に使用されているのも含めると、推定でも五つ以上は使用されているものと推測出来ます。障壁外にて足止めを喰らっていた後続隊との通信が不調だったのも、発動中だったISによる双方向通信の阻害が原因かと思われます」

 「一人の戦闘機人に複数の固有技能だと!? そのようなことが有り得るのか?」

 「彼らスカリエッティ製の機人が各々保有している固有技能は全て、創造主であるジェイル・スカリエッティが高レベルの遺伝子工学によって人為的に付加させたものです。従って、然るべき手段や方法を以てすれば、肉体の細胞組織、染色体……ひいてはDNAに負荷を掛ける事なく複数の能力を得る事も充分可能です」

 「なるほどな。流石は廃れた禁忌の外法とは言え、狂気の天才が編み出しただけのことはあるな。人の形をした兵器人形が……!」

 「人形とは……言い得て妙な……」 

 「だとすれば、我々はよっぽど『人形』に振り回される数奇な運命にあるようだな。闇の書ではヴォルケンリッターと言う名の『人形』に仕打ちを喰らい、その十年後にはナンバーズと言う機械仕掛けの『玩具』に踊らされた……。もう沢山だ!」

 室内に集まっていた議員達の口から次々と悪態とも取れる雑言が流れ出た。列挙される事件の名はどれもかつて管理局が辛酸を舐めさせられたものばかりだ。彼らとしてもこれ以上の難事件は抱えたくはないはずだった。

 「それで? 何かしらの対策は立てられているのだろうな、ハラオウン提督?」

 「地上本部襲撃事件と廃棄都市での一件……この二つの事件の発生した間隔が短いことから、敵は未だこのミッドのどこかに潜伏しているものと推測されます」

 「つまり、このクラナガンを始めとするミッドの各所の警戒体制を底上げすると言う方法が――」

 「その件なのですが、そう一筋縄ではいかないかも知れません」

 「? それは一体どう言うことかね」

 議員の言葉に対し、クロノはスクリーンに資料映像を映すことでそれに応えた。映されたのは現在無人世界の軌道拘置所にて収監中のナンバーズ先発組の顔写真だった。いや、良く見ると公式では既に死亡扱いとなっているはずのNo.2のものまであるのが分かる。

 「先程申し上げたように、敵方は現在確認されているISを複数保有している可能性があります。映像を解析した結果、彼……ここでは便宜上、『“13番目”』と呼称しますが、彼が最も使用していた回数が多かったのが、このISです」

 そう言ってクロノは挙げられていた四人の顔写真の内の一つ、暗紫色の髪をした強面の女性の写る写真を拡大した。同時に全身を写したものも出される。全体的に無駄が全く無く引き締められ端正の取れた肉体を持つ彼女は、首元から掛けた識別札をカメラに見えるようにして掲げており、そこには本来記されているはずの名前は無く、代わりに『Ⅲ』とだけ記されていた。

 「No.3『トーレ』のライドインパルス……か。確か……肉体の増強組織と基礎フレームに流れるエネルギー出力を一定時間だけ増幅させ、爆発的な瞬発力と推進力を手に入れるISだったな。だがそれが後の三人とどの様な関係があると言うのかね?」

 「はい。高速移動による“13番目”の戦闘スタイルは彼女のものと酷似しています。この他にも、通信阻害にはシルバーカーテン、投擲武器の爆発と遠隔操作にはランブルデトネイターとスローターアームズ、接近戦剣撃にはツインブレイズなどが使用されているものと……」

 「御託はどうでも良い。結論だけ述べろ」

 「この他にも、敵の肉体周辺から感知されたエネルギー反応から、敵が主に使用しているISはナンバーズ上位四人……もしくはチンク・ナカジマを含む五人のものを中心とした複数のISです。つまり――」

 「つまり、敵が上位五人のISを修得し、尚且つそれらを熟練して使用出来ると言う事は、あのレジアス中将を殺害したNo.2『ドゥーエ』の完全変装のISも使えると言う訳だな」

 誰がその事実を口にしたのかは知らない。しかし、その発言が聞こえた直後、それまで納得がいかないと言いた気だった議員達の表情が一斉に驚愕の相に変貌し、その次の瞬間には見る見る内にその顔が青褪め出した。どうやら、クロノが言わんとしていることの意味がようやく理解できたようであった。

 「対軍用偽装のシルバーカーテンに……対人用偽装のライアーズ・マスク……。検挙や逮捕はおろか、発見することすら困難と言うことか」

 「闇雲に人員を投与するだけ無駄になるな。下手に人手を外回りへと集中させれば、地上本部は手足をもがれた蟹も同然だ、それだけは避けねばならぬ」

 「もっともな意見ではあるが、こちらとて只単に指を咥えて身に掛る火の粉を静観している訳にはいかんことも確かだ」

 「だとすれば、こちらが取るべき行動は二つに過ぎん…………『本部の人員を割いて物量で押し切る』か、『こちらへ足を運ぶのを待って一気に掃討する』かのどちらかだ」

 「敵の目的が分からない今現在、そのたった二つの選択すら、誤ってしまえば取り返しがつかないことになるぞ!」

 「ではどうしろと――!!」

 そこから先は雁首を揃えた議員達の野次や文句にも似た雑言の飛ばし合いだった。進展は無い、全員が全員自分達の保身しか考えてはいないからだ。

 クロノは密かに落胆する。現場を離れ、柔らかい椅子に座り続けた人間の物腰とはこれ程までに脆弱なモノなのかと、内心ではここに居る誰よりも悪態を呪詛のように呟いていた。親友のヴェロッサが懸念していたのは、どうやら管理局の体制偏向だけではなかったらしい。組織とは、やはりその大きさ故にままならない所があったようだ。

 「…………静粛にお願いします。今は内輪で混乱している場合ではないはずです」

 「ハラオウン提督! 君はコトの重大さを理解しておるのかね!? 君の方こそ、いつまでそのような悠長な事を言っていられると思っているのだ」

 コトの重大さ? そんなものはこちらとてとっくに承知している。ハッキリ言ってしまえば、クロノは今自分の目の前で椅子に構えている彼らに比べればよっぽど事件の重要性を認識しているつもりだ。それに――、



 既に対策は立案済みだ!



 だが……

 (はっきり言って……『これ』は僕らしくないやり方だ……。なにせ危険過ぎる! 下手をすれば、本当に取り返しのつかないことに陥るかも知れない……!)

 そう、既に……彼は既にフェイトを通じてヴェロッサから戦闘機人が関わっていることを聞かされてから……地上本部が襲われてから……そして、その戦闘機人がスカリエッティ製のものだと勘付いてから…………薄々ながらも「この方法しか無い」と感じつつはあったのだ。

 その時、クロノは脳裏にとある言葉を思い浮かべた。地球……それも東の海にはこんな諺がある……。

 『虎穴入らずんば虎子を得ず』。何事も危険を冒さずしては結果を望めないと言うことだ。

 さすれば、自分が取るべき選択など端から決まっている――。

 (やむをえまい……!)

 同じ危険なモノ同士を天秤に掛けるとは、何とも愚かな行為ではあるとは自覚している。だがしかし、今この状況を打破するには最早この手段しか残されてはいないのだ。

 「――静粛に!」

 クロノの静かな、それでいて大きく響いた声に議席についていた者達が一斉に口を閉じる。伊達に多くの戦場と次元の海を越えてきている訳ではない、彼の口から発せられる言葉の一つ一つには誰も無視できない威圧感が滲み出ていたのだ。

 「……皆さんは、先程『敵の目的が分からない』と仰いましたが……それは正確には誤りです」

 「なにっ!? では、既に君は対策を立てていると言うことかね?」

 「大まかに……ではありますが…………恐らく、これが最も有効且つ確実な手段ではないかと……」

 それを言ったその瞬間、議員達の顔が再び驚愕に変化した。しかし、今度のそれは先程の絶望に満たされたものとは違い、むしろその逆だった。

 「では! 早速メンバーを編成、すぐに行動に移したまえ!」

 お偉い方の反応は大抵決まってこうだ、自分達にとって都合の良い予兆が起きればすぐに飛びつく癖に自分達自身は高い所から命令するだけだ。これならかつてのレジアス・ゲイズの時代の方がよっぽどマシに思えてくる。彼には無理矢理な所があった分、こんな結論を先延ばしにするなどと言う愚の骨頂はしなかったはずだ。ある意味では惜しい人間を亡くしたと言えよう。

 「……………………」

 「どうしたのかね、クロノ提督?」

 何かを堪えているかのようにして押し黙ったままのクロノに議員の一人が怪訝そうに訊ねて来た。

 「……現段階では、実行不可能です」

 「な、何を言っているのだね!? こんな時に冗談は――」

 「現状では、明確な作戦を立案し、実行するには人員が枯渇しています。不可能です」

 嘘は言っていない、自分の考えたこの“作戦”は危険故に、行動に移すにはそれなりの準備と人材の確保が必要なのだ。それも――、

 「人手の件ならば君の望むだけ投与しよう!」

 「お言葉ですが……私が言っているのは単に“量”の問題ではなく、“質”の問題です。この作戦を実行するにあたり、必要不可欠な人材が欠けています」

 「君ほどの人間がそこまで言う程の実力を持った者が居ると言うのかね?」

 「はい……」

 「では遠慮無く……」

 クロノは大きく息を吸うと、この会議の『本題』とも言える言葉を会議室の全員に聞こえるようにハッキリと口にした。

 「八神はやて二等陸佐と、チンク・ナカジマ……両者の謹慎解除を要請します」










 海上更正施設、屋内レクリエーション空間にて――。

 見事に刈り揃えられた緑の芝生の真ん中で佇立する人影があった。腰まで届く桜色の長髪を肩から流し、直立不動のその様は何のヒネりも無い代わりに一切の無駄が無く、古代の女神の姿を模した石柱のような無機質な美しさを持っていた。

 「…………」

 先程まで両手の手首に嵌められていた重い金属の手枷は既に外され、セッテの四肢は完全に自由となっていた。

 囚人である彼女を拘束から解放して良いのかと思ってしまいそうになるが、ここは監獄でも無ければ拘置所でもなく、一介の“施設”である。その為、受刑者と言うよりかは寧ろ『更正の余地有り』と判断された者が集う場所である所為で人権的な配慮から手錠は掛けないようにしているのだ。もちろん、彼女も例外ではない。

 「…………それで?」

 しばらくの間だけ身体の自由を噛み締めた後、彼女はゆっくりと背後に目をやった。限り無く無機質な感覚を放つその瞳の輝きは足元の芝生でも清潔さを象徴した白い隔壁でもなく、自分の後ろに控えていた集団へと向いていた。

 「…………何か御用でも?」

 彼女の視線の先には、芝生の上で寝転がっている大量の……

 「あぁ~、懐かしい。つい三年前まで私達もここの芝生の上でゴロゴロと……」

 「セイン、そっち気をつけるッス。確か変な虫っぽいのが……!」

 「ここって虫なんかいたっけ、ディード?」

 「持ちこまれてはいないはずよ。ここは清潔に管理されているはずだから」

 「大方、ウェンディの節穴の目ん玉がゴミ屑か何かを見間違えたんだろ。……いや、そもそも始めっから節穴か」

 姉妹達。純白の囚人服を着込んでいるセッテとは違い、普通に私服に身を包んでいる彼女らは当然のことながら囚人でもなければ看守でもない。では何故この更正施設の芝生の上でダベっているのかと言えば……

 「お~い、セッテぇ~! そんなブスっとした顔してないで、一緒にここで寝転がろってば~!」

 「……その行動にどんな意味が?」

 「どんな……って、緑だよ、み・ど・り! こんな綺麗で居心地の良い所でこうやって体を休められるって、それだけで何て言うかこう…………癒されるって言うのかな……?」

 「…………はぁ……」

 「ほら! ここら辺じゃさ、かなり郊外まで行かないとこんなに植物生えてないでしょ? こう言う珍しいモノとかの触れ合いが良いんだってば」

 セインの熱弁に見た目は熱心に表情一つ変えずに耳を傾けているセッテ。だがしかし――、

 「全く理解不能です」

 「あ、ありゃ……?」

 「そんなことでは全身の筋力の低下を招きます。確かに休息も必要ではありますが、今の貴方がたの状態は本来あるべき姿とは程遠いことは断言できます」

 「本来あるべき姿って……何?」

 妹の言い回しを不思議に思ったのか、ディエチがセッテに訊ねる。先程までノーヴェやウェンディらと一緒に談笑していた彼女は足元の草を踏み締めながら、歩み寄り――

 『何の警戒心も抱かず』にセッテの“射程圏内”へと足を踏み入れてしまった。



 「え――?」



 刹那の瞬間、ディエチは自分の身に何が起きたのか正確に理解するまでに時間を掛けることとなった。ただ分かったのは、右腕が強い力に引っ張られたその数瞬後に自分の背中に大きな衝撃が襲い、視界に施設の無機質な天井が投影されていたことだけだった。

 「っな……!?」

 一瞬で全員の目がセッテへと注がれる。肉体増強レベルSの筋肉から生み出された強烈なスイングで地面に叩きつけられたディエチは背中の激痛にしばらく悶え、そんな彼女を見降ろしながらセッテはただ一言――、

 「堕落しましたね、ディエチ。以前の貴方ならこんな致命的な隙を見せませんでした」

 神速の背負い投げ一本。相手の腕と肩関節、そして自分の背筋の三点から生み出したテコの原理の力で敵を地に叩きつけるその技は、一瞬で相手を無力化できると言う点ではどのような技よりも優れている。それをまともに喰らった時、絶対的な隙が生じ、戦いにおいてそれは即ち『死』を意味していた。

 「セッテ……なんで…………」

 「『何で』? では逆に問います、ディエチ。私達は“何者”ですか?」

 一瞬、問われている側のディエチだけでなく、その場に居た姉妹全員が質問の意味が分からずに首を傾げた。セッテは冗談やはったりを言う性格ではないことは百も承知だ、だとすれば、必ず意味があるはずだ。

 「何って……ナンバーズっだよ、姉妹だよ。違うの?」

 表情を変えずに佇む自分の妹の姿にディエチは恐怖した。自分の言った事は間違ってはいないはずだ、自分達は血縁関係こそ無いが、寝食を共にして互いに支え合って生きて来た仲間であり姉妹だ。そこには何も相違など存在しないはずだった。

 だが――、

 「違います。貴方は間違っています、ディエチ」

 セッテの返した言葉は彼女らの予想を裏切った。平淡に、それでいて率直に、セッテは言い放って見せた。

 「ワタシ達は姉妹である以前に“戦闘機人”です。戦う為に造られたワタシ達が何のまともな訓練もせずにこうして堕落して行くと言うのは、生み出された我々の存在意義そのものを自ら否定することになります」

 「戦いって……もうドクターの計画は……!」

 「だから貴方はバカなのです、ウェンディ」

 「うなっ!?」

 脇から口を挟んできたウェンディを何の躊躇いも無く一蹴すると、セッテは自らの長身の正面を呆然としたままの姉妹達に向けた。一見、毅然としているようにも見えるその顔立ちは、単に何の感情も宿さない鉄仮面でしかなかった。氷の瞳は対象以外の存在は眼中に無く、瞬きもすることなく見つめ続ける……。かつてクアットロが「つまらない」と言ったのは、こうした正論ながらも歯に衣着せない物言いや、感情の排斥によって生み出された直接的行動の事を言っていたのかも知れない。

 そうしている内に、彼女はすっと両腕の拳を構えると、軽やかにステップを踏み始めた。タップダンスのような華やかなモノではない、現代における拳闘士……即ちボクサーが臨戦体勢を取る為のアノ動きだ。

 「セッテ……何を……!?」

 単純な数値では現代階においてノーヴェを超えて最強のセッテ。そんな彼女の突然の戦意表明に姉達は戦慄した。接近戦に自身が無いウェンディやディエチに至ってはすぐさま飛び退き、彼女のリーチの外へと逃げ果せた。逆に血の気の多いノーヴェは間を置かずに構えを取って威嚇する。

 「いえ、単純な格闘訓練です。軌道拘置所に居た間はロクに出来ていませんでしたから、丁度良い機会かと…………ノーヴェ、貴方が相手をしてくれませんか?」

 「おっ!」

 指名されたノーヴェは突然の事に驚きながらも、一度固めた体勢を緩めはしない。じっと相手の目を見据え、出方を窺うのだ。

 ゆっくりと自分の方へと距離を詰めて来るセッテを凝視するノーヴェ。只でさえ無表情で抑揚の無い口調をしている自分の妹…………元々会話を殆ど交わさなかった所為もあり、ノーヴェは彼女の真意が掴めなかった。いや、特に深い意味は無いのだろう、セッテ本人が稽古をつけたいと言っているのなら、それはあくまでそれだけの事であって悪意も何もそこには存在してはいないはずだった。

 ただ――、

 「……セッテよぉ、ひとつ聞いてもいいか?」

 「何でしょう?」

 「何でお前はそうやって楽しもうとしねーんだよ?」

 「は……?」

 予想していなかった問い掛けに、セッテの表情が初めて不思議そうなモノに変わった。

 「『楽しむ』? 何を“楽しめ”と言うのですか?」

 心底不思議そうに聞いて来るセッテを見て、ノーヴェは「はぁ……」と溜息をついた。まるで、とてもつまらなさそうに……。

 「何が不服なのですか?」

 「何って…………やっぱつまらねぇ奴だなって思っただけだよ」

 「つまらない? ……理解不能です」

 「だろうな。ま、いいけどよ。お前が稽古つけて欲しいって言うんなら、あたしは幾らだってやってやらぁ」

 そう言いながらノーヴェはギンガから教わった、機人格闘技であるシューティング・アーツの構えを本格的に取った。やるからには徹底的に……それが彼女の信条だ。手を緩めるつもりなど毛頭無い。

 「…………では、参ります」

 「いいぜ、いつだって。こう言うのは楽しんでやるもんだってのを教えてやっからよ」

 互いに拳を突き出し合い、触れるか触れないかの距離まで伸ばす。試合を始める前の合図だ。

 止めようとする者は居ない。今はゲンヤもギンガも所長に用があると言って、ここにはまだ来ていないのだ。居るのは同じ姉妹達だけ。そして、彼女らの中に二人を止められるだけの実力を持った者は居なかった。幸いにもノーヴェの方が特に気に障った風も無く、それだけが救いだった。もし、これでノーヴェの機嫌を損ねたならば、とっくに乱闘騒ぎとなってしまっていただろう。

 「…………」

 「…………」

 しばらくの間、ギャラリーが見守る中で両者は膠着し続けた。互いが体表から発する殺気で相手を牽制し合っているのだ。つまり、互いに手の内が粗方読めればその次の瞬間には――、



 「ッ!!」「フッ!」

 既に行動は始まっているのだ。





 (何と言うことだ……)

 空間の隅でコトの成り行きを静観していた“彼”は内心で愕然としていた。表情には出さない。いや、出さないのではない、『出せない』のであって、同時に出す事を知らないのだ。

 元々、ここへ同行している間にも違和感はあったのだ。そして、得た結論は――、

 (自覚が無い、無さ過ぎる。これでは、計画に、多大な支障が……)

 焦燥感が脳裏を静かに通り過ぎた。

 各々が自分が『何の為に生み出された』のか、『何の為に存在している』のかを全くもって理解している節が見受けられなかった。始めこそ、現在の状況下でなりを潜めているだけではないかとも考えたが、どうやらそうではなかったようだ……。

 (堕落…………言い得て、妙ではある)

 先程、“あの人”の教育下にあったと言う彼女の言葉を噛み締めながら、なるほどと納得する。

 (それを、『堕落』と、捉えるか……。No.7『セッテ』、やはり、お前は――)

 “彼”は確信する。そして安堵した。目の前で格闘訓練に勤しむ“彼女”の姿を凝視しながら生まれた、たった一つの確信……

 (やはり、お前は……優秀だ。流石は、“――”が直々に、教え込んだだけはある……)

 目の前で繰り広げられる拳と蹴りの応酬……。一見すると両者の実力はほぼ同等に見えるが、実際は違う。ノーヴェが一撃必殺の威力を以てパワーで押し切ろうとするのに対し、セッテの方は急所を狙っての鋭く無駄の無い攻撃を加えようとしている。防御面でも無駄が無い。セッテはノーヴェの攻撃を受け止めるのではなく、全て両足を軸にして体を回転し、受け流しているのだ。そうすることによって下手に威力の高い一撃を肉体で受け止めるよりかはダメージを喰らわなくて済むからだ。逆にセッテはノーヴェに回避も防御も許そうとはしない、素人が見ただけでは掠った程度の当たりでも、それらが積み重なって蓄積されたダメージの総量はやがて相手の肉体を鈍らせることは目に見えていた。

 だが――、

 (しかし……まだ、足りない。全体的な、動きのムラ……体躯故の、機動力の低さ…………何とか、肉体増強の効果で、総合戦闘力が高いものの、計画実行段階には、至っていない)

 “彼”にとってセッテが地上に降りて来たのは嬉しい誤算ではあった。しかし、現在の彼女は多少の技量こそ持ち合わせてはいるものの、大抵は自らの生来持っている力に頼っているだけでしかなかった。このままの段階で彼女を利用しようにも、規定値にまで実力が達していなければ単に足手纏いになるだけだ。

 (まだだ…………まだ俺のIS、『――――』に適合させるには、まだ足りない)

 古来より、何でも数が多ければ良いと言う訳ではない。戦争の歴史を見れば分かるように、たった数百の兵でその十数倍の物量の兵力差を覆したと言う事例は少なくない。と言うことは、その逆もまた然り、いくら個人の力量が大きい者が居ても、それとは別に己が能力を最大限に活かせるだけの技量が無ければ話にならないのだ。

 (……………………やはり、ここは、計画を早急に、遂行させるのを、優先すべきか。となれば、今はやはり…………)

 と、思案しているこの間およそ数十秒。ふと“彼”が視線を格闘訓練の方へと戻すと、いつの間に佳境を終えたのか、両者の決着はほぼ着き掛けていた。

 (予測通り……か)

 ノーヴェの方はとっくに息が上がっているのが分かった。このままでは隙を突かれて撃破されるのが関の山だろう。

 そう思いながら事の成り行きを静観していた。

 ――その瞬間!





 始めは優勢だと思っていた。いや、確かにこっちが優勢だったはずだ。

 同じナンバーズ……いや戦闘機人の中で自分に勝る者など居ないと自負していた、それが陸の上で戦うならば尚更だ。自分は陸戦型、肉体増強の面では確かにランクは劣るが、地に足を着けて戦うこのスタイルでは戦術的に負けるはずがないのだ。

 それがどうしたことか。

 (……何で……何だって当たらねぇんだよ!)

 ノーヴェは己の四肢を眼前の少女に振るい続けながら薄らとそう考えていた。攻撃が外れることによって自然と行動の全てが大振りとなってしまい、余計なエネルギーを費やしてしまっているのが自分でも分かる。それはまさに、陸で戦う事を目的として生み出された自分よりも、空中で対象を撃墜する為に生れたセッテの方が機動力に富んでいると言うことに他ならなかった。機動力だけではない、かわし切れずに手足で防御した一撃一撃がとても重く、防御の上からでも自分の肉体に埋まっている駆動フレームが悲鳴を上げている程だった。

 ノーヴェは悔しさに歯軋りした。一対一のサシ勝負……それも空中ではなく陸の上と言う、言わば自分の最も得意とするはずのフィールドでの劣勢は彼女の心に止め処無い焦燥感をゆっくりと、しかし確実に滲ませていった。既に息は完全に上がり、暖房が効いているとは言え疲労からの汗が大量に噴き出してもいた。体力を削られたのだ、見上げた精神力は健在でも、肝心の体自身がまともに動かなくては話にならない。

 「はぁ……はぁ……!」

 一旦距離を空ける。長身に似合わないセッテの鋭い攻撃が放たれる制空圏から離脱し、一度態勢を整え直すためだ。ジェットエッジを装着していない分、どうしても移動速度に難があるが、そこは持ち前の脚力でカバーするしかない。一度相手との距離を離してしまえば拮抗状態が生まれ、あちらとて下手には手出し出来なくなるはずだ。

 「間を空ければどうにかなるとでも? その選択は間違っています、ノーヴェ」

 「はっ! 勝手に言ってろ、折角こっちがこう言う事の楽しさを教えてやろうってのに、これじゃ本末……何だっけ?」

 「本末転倒ですね。やはり、言いたくはありませんでしたが、貴方はやはりその程度と言うことですか……」

 「言いたくねーんなら言うなや。あぁっ、クソ! こっちの方が早く生まれてんのに、調子に乗りやがって……!」

 純粋に悔しくて地団駄を踏みたくなるが、生憎とそれだけの体力も残ってはおらず、今はこうして静止して回復するのを待っているしかなかった。対してセッテ側の方は自分とは違って汗や息切れはおろか、呼吸の調子も手合わせを始める前とさほど変化が見受けられず、むしろこれまでの一連の訓練で鈍っていた自分の調子を完全に取り戻してしまってのか、動きのキレが最初よりも見える。もはやここまで来れば勝敗は既に決されているようなものだった。

 「早く生まれた遅く生まれたと言うのは性能差の理屈にはなりません。要は単純な話、経験値の差がモノを言うだけです。貴方とワタシでは戦いについて教わったことの差がそのまま自身の戦闘力の差に直結している…………ナンバーズ最強のトーレと後発組まとめ役のチンクとでは、教えることに差異があって当然です」

 「おい、ちょっと待て! それってチンク姉が弱いってことかよ!?」

 突然出て来た姉の名に驚きつつも、彼女は個人の強弱の件でいきなり敬愛する姉の名を引き合いに出されたことに敏感に反応した。それと同時に、彼女はチンクが間接的に侮辱されたのだと受けとっていた。

 「別に弱いとは明言していません。それに――」

 セッテが何を思ったのか、拳を降ろして自らの臨戦体勢を解いた。両腕を垂直に垂らし、完全に全身の力を抜いてしまっているその格好は、その場に居た他の姉妹達から見ても明らかに戦意喪失以外の何物でもなかった。

 「トーレとチンクでは稼働歴にも差があります。従って、チンクが弱かったとしても、それは自明の理と言うモノです」

 決定打。周囲の誰もが言ってはならない一言が今ここで放たれたことに震撼した。声帯の振動で生み出された“声”が空間の大気を震わせて伝播し、耳殻から外耳道を伝わって鼓膜を叩き、耳小骨によって増幅された音がうずまき管のリンパ液を振動させて聴神経を経由して脳へと届く。そのプロセスがノーヴェの中で完了するのに――、

 「今何て言いやがったぁぁっ!!!」

 レクリルームに轟くノーヴェの怒号。脱走防止用の強化ガラスがビリビリと震動し、足元の芝生の草の葉も大きく揺れ動く程の衝撃が彼女の体から発散させられた。

 瞬間、ノーヴェが跳んだ。ISは使っていない、この施設内では特殊加工した魔力波を常時放出させることで如何なる魔法・特殊能力をも無効化すると言う対策措置が成されている。収監中にセインのディープダイバーでも脱走出来なかったのはその為だ。故に、今のノーヴェは純粋な自分の脚力だけで足下の土を蹴り、セッテとの距離を縮めたこととなる。憤怒から起因した力は大きく、コンマ数秒と経たない内にセッテに接近した彼女は既にその鍛え抜かれた拳を端正な顔面の前に突き出していた。

 すぐさま、それまでコトを見守っていた周囲の姉妹達が制止しようと手を伸ばした。しかし、それは身内で争うと言う不毛な行為を諌める道徳心からの行動ではなかった。

 「…………っ!」

 セッテのそれまで無表情だった眼光に殲滅者としての鋭い光が走ったのを見逃さなかった。彼女は、突進して来たノーヴェの体躯が自分の制空圏に侵入する直前に、自分の右手に迎撃用の拳を握ったのだ。だがそれは見え透いたフェイクに過ぎず、本命はその左手にあった。

 「フン……ッ!!」

 左の手に見えるのは、真一文字に突き出された二本の指、たったそれだけだった。たかが指二本と侮るなかれ、人体三大急所の一つとも言われている鳩尾にも正確な角度と的確な速度で叩き込めば巨漢でも膝を着く……眼球を狙われれば最後、肉体的にも精神的にも多大なダメージを与えることが可能な、まさに人体最後の武器と言っても過言ではないのだ。今のノーヴェは姉を蔑ろにされたことによって冷静さを失っている、そんな彼女に例え真正面であっても右手のフェイクを見破るのは至難の業に等しいはずだ。大してセッテの方もまだ全力を出し切っている訳ではなさそうだが、彼女は加減と言うものを知っていない。「壊せ」と言われれば粉々になるまで叩きのめし、「待機していろ」と言われればまるで糸の切れた人形のように不動となる……そんな彼女にも、ノーヴェに手加減出来るとは到底思えなかった。

 だから止める!

 ディエチを筆頭にしてナンバーズ全員が接触寸前の二人に向かって駆ける。このまま見過ごせば事態はとんでもない方向へと悪転することなど目に見えている。

 だが悲しいかな、彼女らは両者の揉め事に巻き込まれるのを無意識に忌避するあまり、二人との相対距離を空け過ぎてしまっていたのだ。いくら彼女らが常人以上の俊足を誇っていたとしても、ISも使えず、ましてやノーヴェとセッテ両者の相対距離以上に離れてしまっている今、追い付くことすら儘ならない状況となってしまっていた。

 届かない! 全力で疾走しながら誰もが間に合わないことを感じてしまっていた。

 突貫するノーヴェの体がセッテの制空圏に入り、それを精密な鼠取り機か何かのようにして迎え撃とうとするセッテ。右の拳が放たれ、それを寸前でかわす。

 「ッ!!?」

 しかし、暗器と化した左手の指が人体の最も守護すべき場所、肋骨の隙間の奥にある臓器群へと発射された。ノーヴェの黄金の瞳がそれを捉える、しかし、右拳に意識を集中させていた彼女はとっさの状況判断に欠けてしまっていた。気付いた時には既に遅し、彼女の胴と指先の感覚はおよそ数十センチにまで縮められてしまっていたのだ。

 音の壁を突き破らんとする凶器の指先が、今得物を駆逐せんと彼女の腑を強襲した。










 人間、自分の身に目に分かる危険が迫った瞬間、感覚が以上に鋭敏になる。身近な例としては顔面に飛んで来たボールなどがスローモーションで見えることが挙げられるだろう。あれは人間の脳に掛けられた一種のリミッターが身に降り掛かった危険に対処する為に解放され、反射神経を人体が耐え得る極限にまで高めるから起こる現象である。だが大抵は極限にまで増幅された神経に肉体自身がついて来れず、結局は回避できるのは稀であるのだ。

 もちろん、ノーヴェにも同じ現象が起こっていた。直前にまで迫っていた危険に意識が拡大され、視界に映ったセッテの左手が遅く見えていた。周囲から止めに入ろうとする姉妹達の姿も、まるでビデオの特殊再生か何かのようにとてもゆっくりとしたものに見えたのだ。

 だがそれでも慣れない感覚に肉体が全く対応出来ておらず、頭では分かっていても体が言う事を聞いてくれなかった。

 このままでは殺られる! そう確信したが、今更ながらに冷静になってももう遅い。既に賽は振られてしまったのだから……。

 しかし――、



 「え――!?」



 一瞬の……いや、一瞬だったかどうかすら、“済んでしまった”今となっては分からない事である。

 さっきも言ったように、人間の感覚は危機が迫ると同時に鋭敏化され、飛来する銃弾は子供の全力で投げられたボールと同じ位の速度に、繰り出される拳は亀の行進のように遅くなる。野球のバッターが「ボールが止まっているように見える」と言うのは、その鋭敏化された感覚によって引き起こされる効果の一つだ。

 つまり、この鋭敏化したことによって引き伸ばされた感覚の中では、いかなる事象をも認知するだけなら出来ると言うことになる。

 では……

 何故なのか?

 「あ……あぁ……!」

 何故ノーヴェはいつの間にセッテとの距離を離された事に気が付かなかったのか!?

 彼女の顔に浮かんでいる表情は明らかに自分の身に何が起きたのかを理解していないモノだ。対するセッテの方も既に姉妹達に取り押さえられている状態だが、彼女自身も――、

 「なんと……!」

 自分がやったことではないのか、彼女も面喰らった顔だった。それだけではない、彼女に手を掛けているディエチや他の姉妹達も全員が驚愕の表情を浮かべてこちらをみているのだ。何が何だか分からなくなってくる。

 ふと、ノーヴェは自身の身に起こっていることに気がついた。

 「な、なな、な……!?」

 まず、彼女は自分が両足を地に着けていないことに気付いた。飛行魔法なんか使ってはいないし、もちろん彼女は魔法なんて使える訳がない。

 それに――、

 何だ、この体勢は!? 地に足を着いていないのに背中にあるこの柔らかくも丈夫な重量感と、両脚を支えてくれているこの安定感。それに、自分の体に掛かっているはずの重力のベクトルが何故“前方”から感じるのだ!? 星の上に立つ限り、重力の掛る向きは絶対不変だ。と言うことは……

 自分は今、仰向けになっていると言うことだ。

 では、何故地面に寝転がっている訳でもないのに仰向けなんかになっているのか? 

 「ななっ! な、な、な……!!」

 冷静になれば答えは簡単なことだった。地に足を着けずにこんな体勢になる状況なんて限られている、それも良く見れば自分一人で成せる業ではない訳で……

 「いつの間に……!」

 「おぉ~、おぉ~! お熱いこったねぇ」

 ノーヴェが地に足を着けていなかった理由……それは――、

 抱きかかえられていたからだ。

 誰に? 同じ姉妹達は全員ノーヴェの視界に収まっている。だとすれば、自分を支えてくれているのは第三者、全くの他人と言うことに――、

 「支障は、無いか? ノーヴェ」

 「ト、トレーゼ!? お前、何してんだよっ!!」

 「何……? では、離そう」

 「え!? ちょ、ま――だはぁっ!!!」

 素直に降ろしてはもらったものの、一メートル強の高さからの自由落下によって彼女の腰は思いっきり強打されてしまった。フライパンの上のイカの如くノーヴェがのたうち回るのは、ある意味では滑稽とも言えよう。

 「ま、まぁ取り合えず、姉妹喧嘩は体良く収まったってことでイイじゃん! はぁ~、一時はどうなるかと思ったけど、やっぱ男の子は違うね、いざって時には頼りになる。ノーヴェ~、この子、お姉ちゃんにくれよ」

 「ちょっとセイン、失礼だってば」

 「軽いジョークだってば。それにしても、トレーゼって走るの早いなぁ。全っ然目で追えなかったもん」

 「いいなぁ~お姫様だっこ。私にもして欲しいッス」

 「ウェンディ姉さまは重いから無理なのでは……?」

 「いや、それ言っちゃたら、ボクら皆体重70キロ前後あるよ? 機械だからさ」

 「はははっ! 残念だったね、ウェンディ。心配しなくたって今度お姉ちゃんがしてあげるって。セッテも落ち着きなってば。…………セッテ?」

 自分よりも背が高い妹の肩をバシバシと叩いていたセインは、そこでようやくセッテの様子がおかしいことに気がついた。いつもは貼り付けたかのような無表情な顔に、何故か大量の汗が滲んでおり、双眸は驚愕によって見開かれていたのだ。

 「そんな…………そんなバカなことが……」

 「んあ? どうしたのさ、セッ……て、ぅおあ!?」

 急に強靭な片手で肩を押されたセインはそのまま芝生の上に尻もちをついた。再び彼女らの間に戦慄が走るが、今度はそう長くは続かなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 セッテの視線が見降ろす先にあるのは……

 「…………何か?」

 自分よりも頭一つ分小さな体躯の少年を見つめ……いや、睨みつけるかのように凝視するセッテ。最早その目つきは先程までノーヴェと組み手をしていた時の無関心なモノではなく、現状持て得る最大級の警戒心が発露していた。しかし、他の姉妹に背を向けている状態の今、その事に気付く者は目の前のトレーゼ以外にはいなかった。

 「…………」

 「…………」

 「…………名前は何ですか?」

 「トレーゼ……」

 「姓名は?」

 「トレーゼ・S・ドライツェン……。局員証に、記されて、いるが?」

 「失礼。……では、魔導師ランクは?」

 「総合Aランク――」

 「嘘です」

 「!?」

 それまで矢継ぎ早にトレーゼに対する質問を繰り返していたセッテは、その応答が彼の口から聞こえた瞬間にさらに距離を詰めて近寄って来た。そこまでくると周りの姉妹達もおかしいと感じ始めたのか、再びセッテに注意深く接近して来た。特に一番近くに居るノーヴェに至っては、視線で人を殺せるのではないかと思える程の眼光をセッテの背中にぶつけていた。

 しかし、そんなことで動じる彼女ではなかった。ナンバーズの切り込み係とも言える彼女は殊更戦闘に関して言えばスカリエッティが持てる限りの技術の全てを注ぎ込んだと言っても過言ではない。そんな彼女がこれだけの殺気、それも自分自身に向けられているものに勘付かないはずがないにも関わらず、まるで他のモノが全く見えていないかのような感覚で目の前の彼だけを注視しているのだ。

 「貴方のあの動き……直線移動にも関わらず、辛うじてワタシの眼で追えるか追えないかの範疇でした。後衛担当として造り出されたディエチやクアットロとは違い、前衛担当として造られた純粋戦闘機種であるワタシはあらゆる敵の行動に対して即座に反応出来るようにと、眼球を始めとし、全身の各反射神経系を極限にまで強化されています。……それにも関わらず、ワタシは貴方の動きを追えなかった」

 「…………何が、言いたい?」

 「貴方の動作は常人のモノではないと言いたいのです。ましてや、たかがAランク相当であのスピード……あり得ません」

 「ちょ、ちょっとセッテ! いくらなんでも失礼だってば!」

 「貴方は黙っていてください、セイン。……それで、どうなのですか? 貴方は……何者なのですか?」

 セッテがさらにトレーゼとの距離を詰めた。両者の間隔はもう然程離れておらず、少し荒く息をすれば吹き掛かるのではないかと思える程に近くまで来ていた。ただでさえ身長が大きい彼女の氷のような瞳で睥睨してくるのだ、並大抵の者ならば卒倒してしまう程の威圧感にとっくに気絶していてもおかしくないレベルだ。

 だが――、

 「…………じゅ……だ……」

 「?」

 「まだ、未熟だな」

 「は? 一体、何を――」



 刹那、セッテが“逆転”した。



 「――え?」

 天と地がおよそ『二回』入れ替わった時、彼女は自分の体が回転していることをようやく理解していた。そして――、

 「ぐあっ!!?」

 三回半回転した時、彼女の体は無様にも頭から地面に叩きつけられるのを全員が呆然として見つめていた。あまりに唐突だったのと、到底あり得ないこの出来事に誰もの頭がフリーズしていた。ただ一人を除いては――、

 「くっ……!」

 急速に体勢を立て直したセッテは自らに危害を加えた“敵”を迎撃すべく、両腕の増強筋肉をフルに使って回転を起こし、コンクリートの塊をも余裕で粉砕する蹴りの一撃を放った。危険を察知した他の姉妹達は一瞬で我先にと跳び退き、距離を離した。障らぬ機人に巻き添い無し、だ。

 しかし――、

 「戦いとは……常に、“選択”だ」

 「なにっ!?」

 セッテの渾身の蹴り技は通らなかった。否、触れることすら出来ていなかったのだ。何故ならば……

 「人が、人間が、人類が……進化する上で、最も、発達した部位は、脳以外にもう一つ……。それは、“腕”だ」

 トレーゼの途切れ口調が周囲に届く。それはもちろんセッテの耳にも入ってはいたが、彼女は蹴りを入れようとした体勢のまま微動だにしなかった。

 「確かに、蹴り技は、人体の持つ、有効な武器の一つ……。人類が、二足歩行と言う技術を獲得し、身体の体重を、脚部のみで、支えるようになったことで、筋力は自然と増加し、そこから生み出される、破壊力は、絶大だ」

 「…………」

 「だが、どれほど訓練を重ねても、殴打に比べ、蹴りは常に動作に、遅延がある。なのに、お前は、腕を使った、素早い『殴打』ではなく、強靭な脚部を使った、鈍重な『蹴り』を、“選択”した」

 セッテの額や頬に冷たい汗が流れた。いや、ひょっとしたら全身から吹き出ているのかも知れない。既に彼女の視線はトレーゼの姿ではなく、代わりに全く別のものが視界を埋め尽くしていた。

 「No.7『セッテ』……お前の、回し蹴りが、俺の両脚の機能を奪うのと……俺の指が、お前の視力を、ゼロにするのとでは、どちらが早い?」

 セッテの顎を伝ってとうとう汗が流れ落ちた。全身はガクガクと痙攣しているかのように小刻みに震え、両目はずっと見開かれていた。その眼が捉えているモノは……指。眼球の僅か数ミリ手前にまで迫った二本の指先が、今にも彼女の眼球を抉り取らんと照準を定めていたのだ。

 セッテの回し蹴りが狙っていたのは確かにトレーゼの脚部だ。しかし、彼とセッテの足の距離は目測で約60㎝、それに対してトレーゼの指先と彼女の眼球の相対距離は前述した通りである。最早誰の目から見てもそこからもたらされる結果など見えていた。

 「お前は……選択を、誤った。故に、お前は、未熟だ」

 「……………………」

 セッテの眼前から静かに指が離れて行く。たった一瞬にも満たない牽制戦はこのたった一動作で終了したのだった。

 「うわー、やっぱ男の子はやることが過激だね~。お姉ちゃん、思わず漏らしそうになったもん」

 「てめーは一生戯言垂れてろ、セイン」

 「それにしても、お強いのですね、トレーゼさんは」

 「そうだね、全然反応出来なかった……」

 「ほらほら、セッテも落ち込んでないで顔上げるッスよ。いつまでも『orz』な体勢は見ているこっちもヘコむッス」

 やっとの事で一段落ついたことによって、それまでずっと外野だった他のナンバーズもゾロゾロと二人の元へと戻って来た。皆一様にホッとした面持ちで、すっかり緊張感が緩んだようである。

 「ほーら、立つッス。いつまでもそんなことしてないで――」

 「離せっ!」

 「ぅわっと!? 何するッスか!」

 「どしたのー? って、なんとぉぉおおお!!?」 

 後発組一の剛腕で突き飛ばされたウェンディは慣性の法則に忠実なまでに従い、不幸にもその射線上に位置していたセインまでをも巻き込んで壁に激突することでようやく停止した。

 「てめぇ……! いい加減にしろよな!! 今度は本気でブチのめすぞ!」

 セッテの進行上にノーヴェが立ちはだかった。だがしかし、その彼女ですら――、

 「邪魔です!」

 「のわっ!!?」

 セッテの進行を防ぐ事は出来なかった。全ての障害を進路から遠ざけた彼女は徐々に歩を進めると、再びトレーゼの前に立った。最早彼女の視線や発せられるオーラには一部の隙も無い、もし今度一撃を放たれれば、間違い無く仕留められる距離だ。

 「はぁっ!!」

 ノーモーション、全く以て攻撃の気配を感じさせないパンチが放たれた。初撃でこれが放たれれば、常人ではまず対処出来ないだろう。ましてやこの至近距離……当たり処によっては昏倒どころか少し細めの骨なら粉砕されても全く不思議ではない。それだけに彼女の拳が尋常ならざる速度を持っていたと言うことになる。

 コンマ数秒で機械骨格の拳は顔面の僅か数センチ手前にまで迫り、セッテは既に攻撃は決まったも同然と認識した。こんな距離で回避出来るはずがない、いや、出来ない。

 「討った!」

 勝利を確信して、セッテの拳が今――、



 「……甘い」



 その時、彼女の右足に激痛走る! 人体の数ある急所の一つである『弁慶の泣き所』、即ち脛を蹴られたのだ。大腿骨前側は人体の中でも特に皮膚が薄く、尚且つ神経が集中している箇所だ。ここをちょっとでも小突かれようものなら、どんな屈強な者でも一瞬の隙が生じるのは当然と言えよう。

 「っあ……!?」

 思わず体勢を崩し掛けるセッテ。しかし、何とか持ち堪えて見せると、彼女の視線がトレーゼの顔面を捉えた。

 ダメージが期待出来る足技よりも、初動が素早い手腕での攻撃。今ならばその意味が分かる、確かにこの至近距離では大振りな蹴りよりも腕での攻撃の方が有利なのは自明の理だ。その方がより確実に仕留められる。まさか脛蹴りと言う古典的な手段を取って来るとは思ってこそいなかったが、これで如何なる攻撃にも対応できる絶対の自信が身に付いた。次は無い!

 顔を下げて足の確認が済んだ彼女は、即座に顔を上げると――、

 凶暴な速度を纏った蹴りに顔面を強打された。

 「な!?」

 「えぇ!!」

 「嘘……!」

 あまりにも過ぎた行動に、その場に居た全員が凍り着いた。芝生の上を回転しながらセッテの体が壁にぶつかり、有り得ない程大きな衝突音が窓ガラスを揺らした。脱走防止用の対衝撃壁を構成していたパネルの何枚かが無残にもへこんでしまっているのが見え、その手前で桜色の長髪を乱したままのセッテがピクリとも動かずにうつ伏せとなっていた。

 「せ、セッテー!」

 すぐにディエチが駆け寄って行く。無理に起こそうとはしない、まずは意識があるかどうかを確認してからだ。

 「何もあんなにやらなくても……! ねぇ聞いてるのかよ!!」

 長女のセインがトレーゼに詰め寄る。妹想いな彼女は一連のセッテに対する行為に流石に腹を立てたようで、彼の襟首を掴み上げにかかった。身長は僅かながらにトレーゼの方が高かったが、そんなこと構わずに躍起になるセイン。

 「何とか言いなよ!!」

 「来る……」

 「へ?」

 予想していたのとはどれも違うトレーゼの言葉に、セインは一瞬だけ停止、彼の視線の先にあるものを見つめた。

 そこには――、

 「マジで……!?」

 見開かれるセインの目。無理も無い、それもそのはず、その視線の先にいたのは、肩を貸そうとするディエチの腕を振り払いながらゆっくりと立ち上がる……

 「セッテっ!!?」

 「大丈夫……って、ちょっとヤバいんじゃねーのかよ!?」

 息を呑む、と言う行動の真意をノーヴェは初めて理解したように思う。何故なら、頭部に衝撃を受けたことによって脳震盪を起こし掛けながらも立ち上がるセッテ、その顔面には思わず目を背けたくなる程にまで鮮やかな血液で濡れていたからだ。傷は無い、顔面を強打されたことで鼻の血管が破裂し、それによって流れ出て来た鼻血だったのだ。

 「はぁ……はぁ……はぁ」 

 「立つか……。流石だな…………だがっ!」

 「え?」

 セインが自分の掌で掴んでいたはずの襟首の感触が消えて無くなるのと、何かとても重い音が背後から聞こえたのは――同時だった。思わず手元を見ると、案の定そこには何も無く、ただ空を掴んでいるだけだった。

 次に聞こえたのは、およそ人の口からでるモノではなさそうな呻き声と、芝生の上に液状の“何か”が連続して落ちる音だけだった。

 「――!?」

 振り向かなくては! だが、生理的な忌避感が喉の奥から込み上げて来て体がそれを拒絶する。

 「あ……あぁあっ!?」

 続いて、生い茂った芝の上にドサリと倒れる音が……

 「っ!!」

 「セッテ……セッテぇぇえええっ!!」










 所移って会議室――、

 「八神二佐とチンク・ナカジマの釈放だと!? 君は何を言っているのか自分で理解しているのかね!」

 「少なくとも、ここに居る貴方達よりかは現状を理解しているつもりですが」

 「なんだとっ!?」

 「まだ分からないのですか!! 地上本部襲撃事件は敵、“13番目”によって引き起こされたものであることは既に確定事項……! そして、奴は複数のISの同時使用が可能な個体であることも、ヴォルケンリッターとの交戦データに基づき立証済み…………つまりっ!」

 「つまり君は、ランスター執務官や保管庫の担当員が確認した者は、本当は八神二佐ではなく、ISを使用して姿形を変えた“13番目”だと言いたいのだな?」

 議席の議員達にどよめきが走った。皆が口々に何かを口走るが、その殆どは「有り得ない」と言う否定のものだった。そして、数少ない賛同者と思しき無言の者達も、周囲の圧力に押されてやがては同調してしまう。

 「ハラオウン提督、妄言もここまでにしてもらおうか。第一、本当に彼女が犯人で無い証拠など、どこにも無い」

 「……貴方達は八神二佐とチンク・ナカジマを歴とした物的証拠も無く、全て状況証拠だけで現在の処分に至った……。つまりは、その権力を応用すれば、逆にいつでも謹慎を解いて釈放するのも可能と言うことです」

 「だがしかし、彼女らには前科がある。いつ何時行動を起こしたとしても、おかしくはない」

 「それだけですか? 貴方達はそうやって都合の良い言い訳をして、彼女らを……いや、全ての更正して立ち直った元次元犯罪者をそうやって黙殺してきたのではないのですか?」

 「…………」

 クロノの辛辣とも取れる物言いに、議員達が一斉に押し黙った。確かに、ここに集結した議員の大半は『闇の書事件』や『J・S事件』で同僚が傷付き、中には部下を失った者も居る。ある意味では次元犯罪者に対する私怨や憤怒、憎悪だけを糧にして伸し上がってきた連中も少なくなく、総じて犯罪者を異常なまでに毛嫌いしていた。何かスキャンダル的なモノを掴めば、それを利用して犯罪者上がりの彼女らを貶めようとするのは当然とも言えた。

 「既に、埃を被っていた科学研究班を総動員し、11月9日の押収物品保管庫と、同日の地下大型搬入通路でISを発動させたエネルギー反応があったかどうかを検査中です。近日中に結果が出るでしょう」

 「ふん! 結局は君も確証無しでの発言か……」

 「えぇ、確証も物的証拠も何もありません。しかし、それはこれから明らかになろことです。それに――」

 クロノは既に手元の書類を整理し始めており、まとめ終わったと同時に彼は壇を降りるとすぐに会議室の扉に手を掛けた。もう言うべき事は無いようだった。

 そして、退室する間際にたった一言だけ言い残していった。

 「僕は彼女らを信じています」










 「――――――――はっ!?」

 生み出されたコンセプト上、彼女は深い眠りにつくことはまずなかった。人間の形を象り、尚且つ生物としての一面も持ち合わせている以上、最も無防備な状態に陥るのは睡眠中だ。故に、彼女は今までなるべく深い眠りに落ちないように細心の注意を払い、そしていつでも意識を覚醒出来るようにと努めてきた。

 だが今回ばかりは気絶していた為に眠り以前の問題に意識が飛んでいたので、こうして無防備な覚醒に至った。

 つい数日前まで見慣れていた軌道拘置所の独房の薄暗い天井ではなく、今彼女の視界に飛び込んできていたのは医務室の白い天井だった。誰が言ったか知らないが、まさに「知らない天井」だった。

 「…………」

 呼吸がし辛い……。なにか自分の顔面、それも鼻面に何かが貼り付けてあるようだったので見てみると、止血用のコットンが二重三重に重ねてあり、それをさらに外側から包帯で巻き留めてあった。今更になって自分が顔面を強打し、鼻から出血していたのを思い出した。未だにその感触が神経にこびり付いている。

 「…………あぐっ!?」

 起き上がろうとして腹筋に力を入れたセッテは腹部から湧き上がって来た激痛に悶えた。何事かと急いで上着をたくし上げると、丁度自分のヘソの少し上辺りに明らかに不自然な拳大の黒痣が浮かんでいるのが見て取れた。内出血自体は収まっているようだったが、神経を傷付けたことによる痛みだけは消えていなかったようだ。

 「……ワタシは……負けた?」

 「そうだ」

 「――!?」

 聞き覚えのある声に自然と体が反応した。痛む首を構うことなく声のした右側へと向けると、そこには……

 「銃器を、持たない、一対一での戦闘の際、最も敵に有効打を与えられるのは、頭部・腹部・脚部……この三つだ」

 微動だにしない、まるで石膏か何かで固められた彫像のように備え付けのパイプ椅子に座るトレーゼの姿に、セッテの視線は無意識に釘づけとなってしまっていた。何故だか自分でも分からなかったが、自然と、打ち負かされたことに関する負の感情は湧いてこなかった。

 「それで良い……感情を引き摺れば、いずれ、自滅する。それを、“選択”しなかったお前は、優秀だ」

 胸中を丸ごと見透かされたような発言が出て来ても、彼女はそれを不自然だとは思わなかった。むしろ……何故かそれが当然の事のように思えてくるのは何故なのだろうか?

 「話を戻す……。顔面を殴れば、一時的に、視力を奪う上に、脳震盪で、昏倒が可能。腹部は、長時間に渡って、痛覚が持続し、相手は集中出来なく、なる。脚部は、主に、脛を蹴ることで、体勢を崩せる。……全て、お前に対して、実演した」

 「!?」

 確かに……。セッテは――正確な時間は知らなかったが――ついさっきの戦闘を振り返って思う。接近して一気に仕留めようとした時、脛を少し小突かれただけで自分は体勢を容易に崩してしまった。その次の瞬間には顔面を蹴られて弾き飛ばされ、起き上がった時には脳震盪で揺れ動く体を立たせるだけで精一杯だった。そして、その戦闘続行が不可能な自分に対して、彼は無慈悲にも止めを刺したのだ。

 「……………………」

 「……だが……お前の、近接戦に長けた、あのスタイルは、いずれ大成する、可能性がある」

 「え……?」

 突然の予想もしなかった言葉にセッテは驚きを禁じ得なかった。彼自身は凍り着いたかのように表情筋を動かすことなく喋っているが、セッテはその姿にかつて自分に戦闘に関わる全ての事柄を教え込んだ人物を思い浮かべていた。何故だろうか、今の彼の姿は“その人”にとても似ているような気がしてならなかった。

 「大柄な体躯は、相手に心理的、恐怖感を与える。そして、それに違わぬ、あの速度と、威力…………お前は、現時点でも、充分に優秀」

 「…………訓練をつけてくれた教育係が、ワタシ達の中では優秀でしたから。特に、戦闘行動に関してはトップレベルでした」

 「そう……。ナンバーズ最強、か。道理で、お前も、強い訳か……」

 「いえ、ワタシは――」

 「だが弱い」

 「ッ!?」

 トレーゼのはっきりとした物言いに彼女は少なからずショックを受けた。しかし彼は当然の事を口にしただけで、実際彼女は彼に指一本触れることすら出来なかったのは事実だ、それを否定することは出来ない。

 「見ていて、分かった。ノーヴェほど、ではないが、全ての打撃が、威力任せの、直線的な軌道になってしまっている。そして、全体的な、機動力の、低さが目立つ」

 「ワタシは……目的があってドクターにこの肉体を与えられました。この肉体である以上、それはどうしても補えない問題です」

 「…………なら、お前も、所詮そこまでだ、No.7『セッテ』」

 「どう言う意味ですか? 以前ドクターに訊ねたことがありますが、ワタシのこの大柄な体は先程も貴方が言ったように、敵対する者に心理的恐怖感を植え付ける事を目的にして培養されたモノです。そして、物事には何でも長短が存在します、ワタシの大柄な体躯ではそれ以上の機動性を絞り出す事は不可能に近いでしょう」

 「……………………」

 「それに……貴方は結局何者なのですか? 最強とは決して言いませんが、ワタシはナンバーズの中ではそれなりの強さを保持しているものと自負しています……。そのワタシを貴方はいとも簡単に打ち崩した…………単純な戦闘訓練を受けただけの管理局局員程度の実力で成せる業ではありません」

 セッテの眼光がトレーゼの双眸を捉える。金色の眼球を捉えて離さない彼女の視線には、既に敵意は消え去り、純粋な“疑問”の心と好奇心にも似た探究心が垣間見えていた。納得の行く答えを得るまでは絶対に退かないと言う意思の表れもあるようにも見える。

 「答えてください。貴方は……本当は何者なのですか? 貴方がどんな人生と言う名の過程を歩んで来たとしても、常人にしては余りにも強過ぎる……ワタシにはそれだけが納得出来ない……どうしても」

 「……………………とある、管理外世界には、こう言う諺が、ある……」

 しばらく質問に答えずに沈黙を保っていたトレーゼだったが、やがて痺れを切らしたかのようにパイプ椅子から立つと、ずいっと顔を彼女に接近させてきた。やはり抑揚の無い声に光の宿らない瞳を、同じく彼女の顔面に埋め込まれた宝玉のような眼球に向けていた。かつてこれ程の威圧感を内包した視線を放つ者がこれまで相見えた者の中に居ただろうか、いや居ない。

 「『好奇心は猫をも殺す』…………俊敏性に長けた、猫でさえ、自ら危険に飛び込めば、死ぬ……。今の、お前だ」

 「……」

 もう何も言えない……素肌の表面を駆け巡るこの不快感は間違い無く鳥肌だ。生み出されてからかなりの時間が経過しているが、今までに一度も経験したことの無いこの感覚……肉体の奥底と脊髄、そして脳味噌の中を抉られるようなこれは、まさか“恐怖”!? 有り得ない! 相手は非武装、年齢こそ不詳だが恐らくノーヴェかセインと同じ位、身長も体重差も自分の方が遥かに上回っている。なのに、つい先刻に一方的に蹂躙されたヴィジョンが脳裏に付着してるのが後押しして、自分が彼に対抗出来ると言う予想が全く以て浮かび上がってこなかった。

 「……………………」

 「…………まぁ、今は、知らなくても、良い。今は……」

 「え?」

 「何でも無い。…………………No.7『セッテ』」

 「はい」

 突然名を呼ばれたのに、セッテは自分でも違和感無く返事を返していた。自分の姉妹の誰かに呼ばれるかのように極自然に……。

 「お前は、いずれ、現存するナンバーズの中では、最強になる」

 「……何故そう言いきれるのですか?」

 「俺の予想では、もう、拘置所に居る三人は、自らの意思で、出所することは、無い。となれば、今現在での、最強は、お前となる」

 「…………」

 「だが、今のままでは、お前はただの、機械だ」

 「では……どうすれば?」

 「自分で導き出せ。自らが、生来、肉体と共に、併せ持つ、『存在意義』に、従って……」

 「ワタシは…………ワタシは、“戦闘機人”。ワタシは、戦う為だけに造られた存在……」

 「それで……?」

 「強くなりたい……強く在らねばならない。ワタシが“ワタシ”である為に…………それがワタシの『存在意義』」

 「ならば、そうしろ。俺は……何も言わない…………そう、来るべき時が、来るまでは……」

 何故だ? 彼の言葉が自然と耳から脳へと染み入って来る……。空っぽの記憶端末にいとも簡単に大容量のデータが入ってしまうように、トレーゼの口から出される言葉の一つ一つが難なく入って来るのだ。

 類は何とやら……雰囲気が似ていると言うディエチのコメントも、あながち大袈裟な表現でもなかったようだ。髪の色や身長、性別による顔立ちにも差異などもあるが、こうして並べて見てみると本当の兄妹か何かに見えて来るから不思議なものだ。

 「…………では……せめて貴方がワタシに訓練を施してくれませんか?」

 「……どう言う、意味だ?」

 「いえ……ワタシの見立てでは恐らく、貴方は今この海上施設……いいえ、もしかするとチンクやディエチらが世話になっていると言うナカジマ家のタイプゼロ・ファーストを凌駕し……ひいては、かつてワタシ達を決定的敗北へと追いやった六課のエースにも匹敵するものと推測しています……。御存知かも知れませんが、ワタシ達スカリエッティ製の戦闘機人は、より強い者と戦うことで常人よりも早く自身を強化します。ですが……自惚れなどではないですが、ここにはもう、ワタシより強い者はいません」

 「だから……俺なのか……?」

 「はい」

 「他の、ナンバーズが、居るだろう? そいつらに、頼めば、良い」

 「最早、後発組最年長のチンクですら、ワタシの糧にはならない可能性が高過ぎます。かと言って、本局のエースである彼女らがわざわざワタシの為に手解きをしてくれるなどとは毛頭思っていません…………」

 「……………………そうか。だが、悪いが……」

 「そうですか。予想はしていました」

 突き放されたことに意外とショックは受けなかった。それは彼の口調が限り無く自分と同じ平淡なモノだったからなのかも知れない。彼の言葉には何の余分な含みも無く、ただ淡々と事実だけを告げる分、セッテにとっては余計な勘繰りをしなくても良かったのだ。逆に親切に遠回しに言っていたら彼女も意味を履き違えるのかも知れない。

 ふと、再びトレーゼの方へと目をやると、彼は自分のポケットから取り出した小さな紙切れにペンで何かを書き入れていた。およそ三十秒足らずで書き上げたそれを小さく折り畳み、親指の表面と同じ位の大きさになったそれをセッテに渡した。

 「……これは?」

 「その、時間帯だ。。用意しておけ」

 「え……? いえ、あの……?」

 突然の事に対応出来ていないセッテだったが、彼女の制止も聞かずにトレーゼは椅子から立つと、そのままベッドから動けない彼女を後にしてさっさと無人の医務室を出て行ってしまった。あまりに一瞬の出来事に図らずも呆然としてしまう事しか出来なかった。










 やがてそれからどの程度の時間が経ったのか、担当医すら居ない医務室の外、つい先程トレーゼが出て行ったドアの方から人の足音が聞こえてくるのをセッテの強化聴神経が捉えた。

 「…………違う」

 足音のリズムで人数と歩調が分かる。足音の間隔で発信者の身長が分かる。足音の大きさで発信者の体重が分かる。彼女は始め、急に出て行ってしまったトレーゼが戻って来たのではないかと期待したのだが、それは違ったようだ。

 聞こえてくる足音は一人分……。だがその音の大きさもリズムも、トレーゼのものとは違い、彼よりも体躯が小さな者のものだった。やがて近付いて来たそれは、医務室のドアの前で止まると、取っ手に手を掛けて――、

 「よぉ……」

 ノーヴェが入って来た。赤髪を無作法に掻きながら入室して来た彼女は、まるでマラソン上がりの陸上選手のように息を切らしており、施設の中のかなりの距離を走っていたようだった。何の為にそんなことをしたのかはしらないが。

 「ノーヴェですか……。何か用ですか?」

 「あー……いや、あのさ……トレーゼ探してんだけどさ、見なかったか?」

 「…………いいえ」

 嘘である。ついさっきまで彼はここに居たし、自分と話していた。 

 セッテはどうして自分でも嘘をついたのか分からなかった。ただ直感的に、彼の存在を誰にも知らせてはいけないような気がしていたのだ。特に、何故かノーヴェには……。

 「そっか……。さっきまで一緒に居て、親父とかと話してたのに……」

 「…………随分と親しくするのですね、ワタシ達ナンバーズの中では最も社交性の薄かった貴方が……」

 「ん? まぁな、ちょっとした事がきっかけでさ……。って言っても、あたしだって知り合ったの最近なんだ」

 「そうですか…………ワタシには関係の無いことです」

 「あ、そ。…………あのさっ! セッテ……」

 「何です?」

 「今日はその……急に突っかかったりして、その…………ごめん……」

 「…………」

 造り出されてから初めて聞いた彼女の謝罪の声……。いつの間にか鼻元の痛みも完全に引き、腹部の方も少しは楽になっていた。

 「…………ノーヴェ、貴方は自分より強い相手と相対した時、どの様な感覚を感じますか?」

 「いきなり何だよ……?」

 「答えてください」

 「そ、そりゃあ……自分より強いんだったら、怖いさ」

 「そうですか……やはり、“恐怖”しか感じませんか」

 自分の予想していたモノと全く同じ答えにセッテは溜息をついた。“恐怖”……稼働時間が短い自分には縁遠いモノだと思っていたが、あの肌から侵入し、脳髄全体を麻痺させるあの攻撃的感覚は間違い無く、生物が危険を忌避する為に生来持っている危機回避能力が作動した証だった。あれ以上の領域に足を踏み込んでいれば、精神は侵され、肉体はボロボロに朽ち果てる…………現実では有り得ないことかも知れないが、極限にまで追い込まれた感覚はそう錯覚するのだ。

 だが……。

 何故だろうか……。

 確かに恐怖なるものを感じたのに、肉体の芯から込み上げるようなこの高揚感にも似た熱は何だろうか…………?

 興奮? 人間の遺伝子には古代より続いた戦いの歴史が刻まれており、より強い他者と見える事を最大の悦びとする者は戦いの最中で自己を奮い立たせる者も居ると聞く。人工的に生み出された上に全身の半分が機械だが、それと同時に彼女も遺伝子を備えた人間でもある。ひょっとしたら彼女の素体となった遺伝子にもいるのかも知れなかった。

 だが彼女は人間である事よりも、戦いの道具である“戦闘機人”としての自我を優先することを決めている。よって、自分の中で起こったこの現象をすぐに不要なモノとして、忘却の彼方へ追いやることにしたのだった。どうせ整備不調から来るノイズか何かに違い無いと決めつけて……。

 「それ何だよ、セッテ。その手に紙切れ」

 「紙切れです。見て分かりませんか?」

 「いや……見たら分かるけどよぉ。それにしたって、トレーゼどこ行ったんだよ、まさか先に帰ったとかじゃねーだろうな?」

 「無理ではないのですか?」

 「だよな~。だってここ……」

 換気の為にノーヴェが窓を少し開ける。冬の真昼日の陽光が入り込み部屋の温度を上げると同時に、季節風の寒風も一緒に入って来るので少し肌寒かった。風には湿気が含まれており、窓の外に見える光景は一面の青――。

 「海のド真ん中だしな……」

 11月13日、午前11時57分の出来事だった。










 同時刻、数キロ離れた海上にて――。

 「No.7『セッテ』との、接触に、成功した。適合率は、予想より下回るが、現段階では、最有力候補に挙げられる」

 『Recommend to contact with she.(彼女へのさらなる接触を推奨する)』

 「問題無い、全ては、計画通り。順調に、進んでいる」

 彼は飛行魔法は使ってはいない。海上更正施設の半径十数キロは許可無しでは飛行及び攻撃魔法が使用出来ず、ヘリと鳥類以外に上空を飛ぶ機影があった場合には問答無用で撃墜されるシステムになっているからだ。つい二日前の廃棄都市区画では総合A以上の騎士が三人も送られた……今度その様な戦力がいつ迅速に来襲して来るとも限らない、ここは仮に一つでも不安要素を無くしたいところだ。

 ではどうやって海上を移動しているのか?

 「マキナ、このまま魔力濃度を維持、全体重を分散、あと2.3キロ歩行」

 『Yes,my lord.』

 彼の足元、そこに広がる大海原が揺らぐ。彼の足が一歩一歩を踏み出すと同時に、その足の裏が塩分を豊富に含んだ水面へと接触する。しかし沈みはしない……まるで小さな水溜りを走り切ったかのように少しだけ水が跳ねるだけで、彼の体が沈むことは決してなかった。

 いや、良く見ると彼の足元……正確には足の裏と水面の間が何やら淡く光っているのだ。しかもかなりの範囲に渡って光っている部分が続いている。面積にするとクラナガンの首都高速道路の路面数十メートル分になり、それが綺麗な正方形を描いているのだ。

 「体重分散率、良好……。目標圏まで、あと――」

 圧力と言うモノがある。例え総重量が同じでも、接地している面積に差異があればそこに掛る力には開きが出て来るのだ。雪の上をそのまま靴で歩こうとすれば足が埋まってしまうが、スノーボードを使えば新雪の上にでも容易に足をつけることが出来る……魔力を実体化させて出来る薄い幅広の障壁を展開することで足元に掛かる体重の圧力を分散、そしてそれを常時維持することによって水中に没することなく歩行しているのだ。上空から見ればまるでアメンボのようだが、アメンボと違うのは、あちらは表面張力を利用していると言うことぐらいだ。

 「…………No.7『セッテ』、肉体増強レベル、Sランク……。ナンバーズ有数の、空戦タイプ、貴重な戦力…………No.9『ノーヴェ』、との実力差は?」

 『“Sette”is stronger than “Nove”that determine.(セッテの方がノーヴェよりも強い事は確定しています)』

 「…………やはり、予測はしていたが……そうだったか。やはり、究極の、戦闘機人、あのトーレが、訓練を施しただけは、あるな。そして……高度な、知的生命体である、“人間”と、精密機械の、完全なる融合……やはり、ドクターは天才だ…………」

 水面を歩き続ける。陸は見えないが、代わりにさっきまで自分が居た海上施設は遥か後方の水平線へと隠れており、どれ程の距離を歩いたのかが見て取れる。

 「だが、いくらドクターが、神に等しくも…………生み出された、機人そのものが、堕落していては、話にならない。その点では、セッテもまた、完全には、程遠い……。現に、こちらから少々、人間味を持って、接しただけで、あの反応…………こちらが、打算あって、接触している、ことも知らずに、すっかり、人間社会に、毒されてしまっている。あれでは、十二人中……良くても、『三人』が、限界だろう。……それ以上は、計画遂行に、多大な支障が出る、恐れがある――」

 陸が見えて来た。ここまで来れば施設の監視圏から脱しているはずだ、足元に展開していた魔力を集束させると、テンプレートを発現、体を数十センチ宙に浮遊させた。シルバーカーテンによる隠蔽も忘れない、既に飛び上がると同時に全身は光学迷彩によって完全に隠された。

 「とにかく……現状で、こちらの、勢力図に引き込めるのは、『セッテ』と『ノーヴェ』のみ…………更に、現段階で、戦力的に、モノになる可能性が、高いのは……セッテのみ……。あとの、六人は……もはや、何の役にも立たない。もし仮に、こちら側へ、引き込めたとしても、足手纏いに、なるだけだ」

 『Disposal.(処分せよ)』

 「承認。だが、現段階では、不可能。肉体増強レベルが、最も低いNo.8『オットー』か、非戦闘タイプの、No.6『セイン』あたりなら、恐らくは始末出来るだろうが、やつらは、常に複数で、行動している……。単独で、行動している所を、始末するしか、ない」

 もはや彼の脳裏には、移動の車内や施設で見た彼女らの笑顔など残ってはいなかった。いや、むしろ、自分達が何の為に生み出されたのか、その目的を忘れ、安穏と日常に溶け込む彼女らの表情は途徹もなく疎ましいモノとなっていたのだ。もはや仲間意識など到底湧いてこないし、同族とも思わなかった。つまりは――、

 「ただの、敵だ。最早、ナンバーズでも、何でもない…………“Lazy Numbers(堕落した機兵)”の名こそが、相応しい」

 『Enemy.(敵と認定)』

 「そう……。もう、どうしようも、ない…………あぁ、せめて、あの人が…………トーレが、居れば……勝機は」

 『My lord,please hury up.(お急ぎください)』

 「分かっている。……『取引現場』までの、距離は?」

 『About 25.6km.(約25.6キロ)』

 「急ごう……もう、計画は、遅れを許されない」



 正午、ミッドの上空を不吉な紅い流星が駆けた。










 時過ぎること約7時間、日も完全に西へと落ち、クラナガンの街が街灯に照らされる午後18時48分――。

 中心街から少しばかり距離を置いた所に存在する、ホテルなどが集中する宿泊街。中心街ほどではないが、ここに立ち並ぶ建物も相当な階数があるのが分かる。道路を走る車両は全て適当に宿を物色した後に、すぐに駐車場に入ってチェックインする。予約している者はともかく、そうでない飛び入りの客はなるべく早い内に部屋を取らなければならないのだ。

 そして、この車に乗っている二人もまた、例外ではなかった。

 「すみません、何だか余計な配慮を掛けさせてしまったようで……」

 「気にしない気にしない。子供は黙って大人の好意に甘えた方が得なんだから、甘えられる内に甘えた方が良いの」

 「はぁ……どうも」

 黒塗りの車を操縦しているのは時空管理局本局所属のメカニック、シャリオ・フィニーノ一級通信士である。車の震動でずり落ちる眼鏡をシミ一つ無い指先で上げながら、彼女はハンドルを切って、どこか空いていそうなホテルを物色する。その後ろの乗客席に居るのは、今日早朝に辺境から仲間の見舞いに参った、若き有能な騎士と魔導師――、エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエだった。

 「本当は見舞いを終わらせたらすぐに御暇させてもらうはずだったんですけど……」

 「二人とも訓練生に凄い人気あったしね。三年前に機動六課が解散してから、管理局じゃ二人の名前知らない人なんて居ないんだよ。当時10歳なんて、最年少だったんだから。あっ! なのはさんは9歳から魔導師やってるけどね」

 「でも、おかげでこちらも良い経験になりました。自然保護隊に配属してから対人戦の訓練が殆ど出来てませんでしたから、体が鈍って……」

 「体が鈍ってたからって一度に5人も相手にするものなのかしら……。しかも全戦全勝だなんて……」

 「そう言えば、訓練生の人達ですけど、何だか三年前より若い人達が多くなかったですか?」

 「あぁー、あれね。一時期、J・S事件が解決するまでの過程を描いたドキュメンタリー番組が民間で放送されたことあったでしょ? あれに感銘を受けて、それまで本局志望だったのを無理を通して地上本部に切り替えた生徒や訓練生が沢山出たの。それで、結果的に猛勉強して、飛び級やら何やらで早い段階で管理局入りする子が猛烈に増えたって訳。昼間にエリオ君が相手してあげてた子達も、平均年齢12、3歳の集まりだからねー」

 「えぇっ!? じゃあ、三年前の私達みたいに――」

 「いるよ。訓練生の子達の中には10歳とか11歳の子も居るよ。年の近い二人に憧れて入った子も少なくないんだから」

 「そんな、憧れだなんて……。エリオ君はともかく、私なんてサポートに回ってただけで……!」

 「謙遜しないの。あ! ここのホテルが空いてるわね、二人とも、宿なんて別に拘って無いでしょ? 寝込み襲われなかったらどこだって良いわよね?」

 宿泊街へと来てから既に数分、やっと適当な宿を見繕ったのか、シャーリーが後部座席の二人に確認を取った。もっとも、マイペースな彼女は確認を取りつつも既に車を駐車場に入れていたが……。

 「はい。すみません、何から何まで……」

 「いいのいいの。保護隊の方にも休暇日数を一日増やしてくれるように言っておいたし、一応フェイトさんも公認。どうせ今からリニアに乗ったって、あっちに着くのは日付が変わる真夜中だし。いくらなんでも、子供二人きりで夜道を帰れって言うのは酷い話でしょ? だーかーらー、一晩クラナガンで過ごして、明日の朝方に戻れば良いって事」

 「ありがとうございます」

 「チェックは私がフロントの方でしておくから、二人は鍵持ったら部屋に行って寝るのよ。良い子は早寝早起きが一番なんだから。まぁ……別に、二人水入らずってコトで、好き勝手やっても良いんだけれどね」

 「あ、あの……シャーリーさん?」

 「フェイトさんはちょっと過保護だから、バレたら大目玉かも知れないけど、私は内諸にしておいてあげるから心配しないで。ちょっと『早い』気もするけど、何事も経験よね」

 「……………………」

 以前から思考回路の一部がはやてと似通っているとは思ってはいたが、こうまで来るともう閉口するしかなかった。

 それからおよそ5分、シャーリーの思考回路が正気を取り戻すまでの間、エリオとキャロは顔を赤くしながら後部座席で時が過ぎるのを待っていたのだった。










 シャーリーの車が停車した駐車場から約3キロ、とある名も無き通り道にて――。

 特にこれと行った特徴も無く、治安も決して悪くは無いこの街の一角には、社会と言う名の強烈な渦に呑まれて疲れ切った体を癒すべく、あらゆる人間達が集う場所があった。

 それは、バー。平たく言ってしまえば、一種の“飲み処”である。

 あまり人気は無い。単に評判が悪いのか、それとも隠れた名店とやらなのかは知らないが、とにかく店内に居る人数は少ないことこの上なかった。マスターらしき壮年の男性が一人と、その前のカウンター席に腰掛ける男性客が4名……あとは店内に幾つか置かれているレトロな木製円卓に座る客の数が片手で数える程度のものだった。閑古鳥が鳴いている。

 そんな店内の客連中の中に二人、ペアで酒を飲んでいる者達が居た。店内の一番端のテーブルに向かい合って腰掛け、何か言葉を交わしているようだった。詳しくは聞こえなかったが、数分もすると話題は佳境を終えたのか、男の一方が懐から何か箱をような物体を取り出し、それを卓上に置いた。いや、それは実際に何かを入れた箱だった。何を入れてあるのかは分からなかったが、それを向かい側の男性が受け取る。

 「長いこと飲みに付き合わせて悪かったな。注文通り、それが『本体』で……こっちが『替え玉』だ」

 箱を渡した男がさらに懐から始めの物とは違って小さめの箱を、二つ取り出して渡した。それをまた向かい側の男が受け取り、自らの懐中へと入れ込んだ。

 「にしても、あんたも珍しい奴だな。今のこの御時世だから仕方ねぇのかも知れねーが、もうちょっと『買い物』の量を増やしてもらわないと、こちらも商売何とやらだ。そんな少ない手持ちで、一体何をやらかすつもりなんだよ?」

 「……………………」

 「ん? あぁ、すまねぇな、いらねぇこと聞いてよ。『注文』が終わっちまえば、あとは依頼主がどうやろうとそっちの勝手だったな。忘れてくれ」

 「……………………」

 「兄ちゃん、それの『使い方』分かってんだろうな? 最近それでヘマする奴が居やがるから、お前さんも充分気をつけてくれよ? そいじゃあ、俺はこのへんでそろそろ……。また縁があったら会おうや」

 そう言って、男の一人は自分の頼んだ酒代の分を卓上に置くと、さっさと立ち去って行った。天気予報ではもうすぐ雨が降ると言っていた為、男の右手にはしっかりと傘が握られていたのが見えていた。

 店内に残されたもう一人は、しばらく自分のグラスの中味を口に含んでいたが、やがてそれを飲み終えると、代金を払って同じく店を後にしたのだった。

 傘などない。むしろ防寒着の類を殆ど身に着けていないに等しい服装だった。暗黒の空を見上げれば既に湿気を大量に含んだ黒い雲が見え、間もなく冬の冷たい雨が降って来ることを報せていた。

 「…………マキナ、指定範囲全域に、召喚虫を、放て」

 『Yes,my lord.』

 貰い受けた箱が入っているのとは別の懐から電子音が響くと同時に、彼が羽織る薄い上着の袖口がモゾモゾと蠢いた。明らかに腕を動かしている動きではない、大量の小さい『何か』が内側で絶え間無く蠢いている動きである。

 やがてその蠢きは次第に袖の中を移動し、遂に――、



 「行け」



 周囲の道行く人間達は気付かない……その者の袖口から雲霞の如く飛び出した極小の羽虫の存在に。地球に存在する生物的な面影は全く以て無く、それはかつて三年前のJ・S事件の際、故あってスカリエッティ側に協力していた幼い天才召喚士――ルーテシア・アルピーノが使役していた小型の召喚虫であった。召喚に必要な魔法陣が展開されていない所を見ると、どうやら研究の為にスカリエッティが保存してあったものが隠れアジトの一つに残されており、それを直接持ち歩いていたようである。

 仄かに紅く明滅する虫達はしばらく彼の周囲を取り囲むようにして飛び回っていたが、ものの数秒と経たない内に100を超える虫達は一斉に雲行きの怪しいことこの上無い空へと飛翔したのだった。

 「……ミッド全域……管理局が網を張る、その前に、こちらから、仕掛ける。既に……最重要警戒対象群――『機動六課』の内、三名は潰した。『スバル・ナカジマ』、『ティアナ・ランスター』、そして……図らずも、『八神はやて』。だがまだだ、まだ足りない……奴らを、孤立させるには、まだ策が、足りない」

 召喚虫――インゼクトの大群が飛び去ったのを見送った彼は、ゆっくりと夜の街を練り歩く。特に行く所は無い、先程の受け渡しとは別に取り決めた『約束の時刻』まではまだ大いに時間がある、暇潰しと言う感覚が彼にあるのかどうかは微妙な所だったが、とにもかくにも今日一日残り約5時間の中でもうやる事が何も無いことだけは確かだった。

 「……………………」

 中心街ほどではないが、ここも夜になればそれなりに街灯の明かりが昼間の太陽に取って代わって街を照らす。その明かりの下を行く人々は大抵二人以上で行動していた。あと一月半もすれば新たに年が明ける、その瞬間を親しい者と一緒に過ごそうとする感覚は至極当然と言えよう。

 だがそんな中で独り。

 「……………………」

 彼は金色の瞳を寸分もブラすことなく、ただ前だけを見据える。彼の目に映るのはビルでも道行く人々でも、街の明かりでも何でもない……自分の踏んでいる道、ただそれだけ。

 彼の眼光が他人のそれと明らかに違う所為か、たまに目が合った者の何人かが彼を避けるようにして歩く。

 だが気に留めず。

 彼にとっては道行く者など文字通り、眼中に無いのだから。










 どれほどの距離を歩いただろうか、気が付くと彼は中心街に近い歓楽街へと足を運んでいた。人の数も格段と多くなっているここでは、数に比例して街の喧騒も自然と多くなる。

 ここまで来る頃には、彼の存在はまるでガラス球のようになっていた。もちろん比喩だが、まるで人々がそこに何も存在していないかのような態度を取り続けているのだった。恐らく、肩がぶつからない限り……いや、最早ぶつかっても気付かないのではと思える位に彼の存在自体が薄いモノとなっていた。

 「……………………」

 今のところ、哨戒に出した召喚虫からは何の反応も無い。特に異常は無いようだった。問題は天気だった、既に夜空は黒雲で覆われており、さっきから頬に小さな雨粒が当たっている。このまま後十分もすれば真冬に似合わない盆をひっくり返したような土砂降りになるのは必至だろう。

 なるべく早く雨風を凌げる場所に移動した方が得策だ。

 そう考えたのか、彼は自分の歩調を少しだけ早めた。向かい風が頬を流れて行き、それと同時に人の波もまた彼の視界の左右に流れて行く。



 その刹那――、



 鼻腔をくすぐる“嗅ぎ覚えのある”匂いが、彼の脇をすれ違う。

 「――ッ!?」

 彼が身を翻すのは早かった、サバンナのチーターは時速100キロを越えようとする走りであっても平気でV字ターンをかます、それと全く同じ動きだった。

 増強された神経が埋め込まれた鼻の異常な嗅覚が、途切れ掛けの“匂い”を再び掴む。あとはそれを追うだけだ、犬畜生にも出来る芸当だ。

 彼は覚えていた、この“匂い”の主を――。

 そして、もし仮に彼の予想が正しければ、その主とは……





 「ふぅお!? 寒っ! 何もこんな時間に買い出しに出さなくっても良いじゃんかよ~!」

 真冬の完全防備――、それは防寒着。コート、手袋はもちろんのこと、首にはマフラーを巻き付け、頭にもニット帽を目深に被ってすっかり防寒対策を取っているその人物は、辛うじて声で性別が分かる程度だった。つまり、その位に彼女は寒波を凌ぐ為に努力を費やしていたと言う訳だ。

 脇に抱えるのは紙袋、買い物をしてきた帰りであることは容易に想像がつく。ちなみに、中身は紅茶の茶葉が封入された箱だった。ミッドとは別の管理世界で栽培されている品種で、芳醇な味わいで人気を博している一品である。

 そして彼女――、淡い水色の短髪をすっかりニット帽で隠した少女、セインは帰り道を急いでいた。

 「はぁ~、シャッハの奴、更正施設から帰って早々にケツ叩いて買い出しにいかせるなんて……。うぅうぅううっ……寒い、この世の地獄だよ、これは」

 なるほど、昼過ぎにセッテとの面会を終えたナカジマ家と教会組は、特に局の仕事も無いのでそのまま帰宅し、教会で彼女を待ち受けていた“仕事”がこれだったと言う訳だ。大方、朝方のサボりに腹を立てたシャッハが、わざわざ日が暮れて大寒波が吹き荒れるこの時間帯を選んで買い出しに出掛けさせたのだろう。さすがは仕置きがキツいことで定評のあるシスターだ、やる事が違う。

 ともかく、凍死することなく目当ての物は買えたのだ、あとはリニアに乗って一端中心街に戻り、そこからタクシーか何かを上手く拾って帰れば良い。もちろん、懐の持ち合わせもちゃんとある、何も心配は無い。

 「んお? 何か音がするよ」

 歓楽街の歩道を半分内股で歩いていたセインの聴覚神経が、街の賑やかな喧騒に合わない“音”を拾った。耳を澄ませると確かに聞こえてくる、その音……いや、“声”。

 「うーんと、こっちか」

 そう言って彼女は人が全く居ない狭い路地裏へと入り込んで行った。





 歓喜? 否!

 愉悦? 否!

 快感? 否!

 否、断じて否なのだ。彼の頭を駆け巡るノイズ……それは最早、喜怒哀楽などと言う一種の“プログラム”では計り切れない程の衝撃だったのだ。

 何と言う僥倖! これが俗に言う天恵とか言うモノなのか。

 彼はすぐに“獲物”の後を追った。逃がしはしない、絶対に仕留める、今ここで! 条件は全て整っている、『こちらは相手よりも強い』・『相手は現在単独行動中』・『邪魔者は一切居ない』……この全てが、今! 整っているのだ。

 図らずも獲物はたった今、人気の無い空間へと自ら足を踏み入れた。まさに絶好の好機、これ以上のチャンスが今を逃して次に来るだろうか? いや来ない、断言する、来ない!

 この建物が所狭しと建ち並ぶ区画では、路地裏は全て袋小路。一度入った後にこちらから塞いでしまえば自然と逃げ道を消せる。加えてこの喧騒、これだけ騒がしければ叫び声を上げない限り衆人に気付かれることはない。

 「……………………」

 影。まさに影そのものだった。まるで、『そうであること』が極々自然であるかのように、彼は獲物の迷い込んだ空間へと滑り込む。

 袖口から取り出したるは……ナイフ。果物を切る時に使うような小さな物だ、用具店に行けば幾らでも売っている品物、武器としては心許ないような気もするが、実は違う。

 人間はナイフ一本でも充分に殺せるのだ。そして……対象が人間の形をしている以上は、全く同じ事が言える。刃を横に倒して差し込めば肋骨に邪魔されることなく内臓に立て続けにダメージを与えられる。頸動脈を切り裂けば放っておいても勝手に死ぬし、スマートに脳天に振り下ろせば即死だ。

 念の為に叫び声を上げられないように左手で口を封じる算段も練っておく。獲物は抵抗するだろうがたかが知れている。

 真冬の気温も彼に味方している。始末に成功して、例え死体をここに置き去りにしたとしても、この寒波では死肉は腐らず、長い時を保存される。そうなれば、如何に管理局の犯罪課が優秀であろうとも死亡推定時刻の算出に遅れが生じるだろう。ともなれば、管理局側が推定時刻と犯人の割り出しに時間を費やしている間、こちらはあわよくばそれを隠れ蓑に使えるのだ。

 これらの条件も踏まえた上で、まさに今のこの瞬間は好機と言えた。

 彼が獲物を発見・捕捉してからこの間約4秒。既に……彼の眼球は路地裏の奥を向き、その網膜には獲物の背中が投影されていた。完全にこちらのリーチ内、逃がそうにも自然と仕留められる距離……制空圏の中へと引き摺りこむことに成功したのだった。

 月明かりの代わりの街灯がナイフの面に反射して鈍く光る。見る者全てに原始的な恐怖感を揺り起こす輝き……それが今、彼の右手にあった。

 「……………………」

 気配を消し、接近す。自らが内包する存在感を限り無くゼロ、一次元の点に昇華させる……そうすることで、彼はようやく――、



 鉄槌の代わりにナイフを振り下ろした。










 彼女は夢を見ている。現在進行形……昼間と同じように、脳の奥底にある記憶の部屋、そこから漏れ出る残滓が見せるモノだった。

 だが何故か、自分の脳には一切覚えが無い映像だった。どれほど昔の記憶なのか、それさえも分からない。とにかく過去のモノであることは確かだった。

 視界が歪んでいるのは恐らく液が満たされた培養槽に居るからなのだろう。少し手を伸ばせば届く距離にガラスがあり、空間を隔てているのが分かる。だが問題はその向こう側、その先に見える光景だった。



 ……誰? そこに居るのは……誰?



 液体に体を沈めている所為で視界が霞む……良く見えない。分かるのは、そこに居るのが“人”と言うことだけだった。誰かまでは分からなかった……と言うことは、初めて見ると言うことになる。



 ……ねぇ……わたしは…………いつになったら……ここから出れますか?



 こちらから問い掛ける。だが、当然の如くあっちは気付いてくれない。一応、こちらが覚醒しているのは気付いているみたいだったが、全く反応してくれなかった。

 いや……一人……いや二人だけ、気付く者が居た。

 液体の中で声も聞こえないはずなのに、その二人はこっちに気付いてくれた。手を振っているのが薄らと見える。

 手を伸ばす。強化ガラスで区切られているのは知っている、それでもなお、分かっていてなお…………伸ばさずにはいられない。

 自分の存在に気付いてくれた、愛しい存在に。

 そして――、

 指先がガラスに触れる一手前で――、

 幻想が覚めた。










 11月14日、午前2時――、ミッドチルダ海上更正施設にて。

 看守は居ない。日付が変わったこの時間帯では流石に見回りの看守達も睡眠を摂る。単純で寂れた夜の静寂だけが施設を包んでいた。

 そんな中で、彼女――セッテは行動する。

 「…………フンッ」

 与えられた自分の個室……と言ったら聞こえは良いが、実際は独房であるその部屋のドアを、当然のようにしてこじ開ける。しかし、警報ならず。鍵も掛っていなかったのだろうか? 通常この様に無理矢理開けたりなどすれば、たちどころに脱獄防止用の警報が作動し、ものの数分と経たない内にその者は捕縛されるはずだ、それが何故?

 フロアの他の部屋には自分以外誰も居ないのを良い事に、彼女は目的地へと向かう。途中で危うく天井などに設置してある監視カメラ何度かと鉢合わせしそうになったが、上手く切り抜けた、カメラの死角は人間のそれよりも大きいのだ。

 都市部の方は雨らしいが、この海上は快晴の夜空、よって、真夜中に起こる放射冷却現象により、現在の気温は0℃を少し下回っていた。

 それでもなお、彼女は進む。裸足であっても、ただただ進む、目的の場所へと足を運ぶの為に。



 そして――、辿り着く。



 「…………」

 そこは昼間に彼女と姉妹達が集った場所、レクリルームだった。足元の草がさっきまでの無機質な床とは違った冷たさを足の裏へと伝えて来ているのが分かる。窓から見えるのは街灯と言う人工的な光ではなく、遥か闇夜の天空に浮かぶ二つの巨大な月によって照らし出された大海原、さざ波で揺らめく広大な水面。全てを内包し、生み出す母なる海……。

 だが、そんな光景の中に、不自然な“影”……。本来そこに居るはずがない存在……。

 「…………来ましたよ、言われた通りに」

 窓の外側に居るその“影”に話し掛けるセッテ。それに言葉ではなく行動で応える相手側……壁際から体を離すと、ゆっくりと窓ガラスへと近付いて来る。

 「およそ14時間振りですね――――トレーゼ」



 月光が“影”の顔を浮き彫りにする。



 紫苑の短髪に白磁の肌……ガラス球のように透明に輝く金色の双眸。



 そして、貼り付けたかのような無表情――。



 「いや……告知した、時間より、2分44秒、経過している」

 No.13『トレーゼ』が――再び舞い降りた――。










 「では……始めようか」



[17818] 前哨戦・騎士の槍と機人の狂気
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 23:03
 新暦78年11月14日――。時空管理局犯罪総括課のデータベースには、この日は二つの事件が起こったと言う事実が記されている。

 一つはミッドチルダの沖合に存在する海上更正施設、ここに侵入者があった事。この事実はその時に発覚したものではなく、真相を掴むのに時間を要した為に、そうだと分かったのは随分と後の話になった。

 そしてもう一つ……。首都クラナガンから離れに離れた辺境へと続くリニア、これが突然山中で停車、たまたま乗っていた管理局員二名が謎の襲撃を受けたことだ。

 前者はともかく、後者の事件は明らかにその局員を狙った犯行であることが分かり、管理局地上本部はその犯人の割り出しに尽力するのだった。



 そして、その二つの事件が関連性を持つことに気付くのも、この時はまだ先だった。










 11月14日午前2時5分、ミッドチルダ沖合、時空管理局地上本部・海上更正施設にて――。

 第97管理外世界『地球』……それも日本で言うところの“丑三つ刻”に値するこの時間帯はまさに全てのモノが静寂を体現していた。唯一耳に届くのは、ガラス一つを隔てた向こう側から聞こえる波の音だけで、これが夕刻ならばさぞかし風情があっただろう。

 このレクリルームから見える海の光景も全く以て美しいモノだった。揺れる水面に二つの月の光が反射し、時折風が吹いてさらに小さな波紋が水平線の向こうへと広がって行くのは大自然の神秘とも言えよう。

 そのレクリルームの外と中で互いに相対する二つの影があった。厚さたった数センチのガラスを境にしてその二人は凝視し合う。

 「……で、始めると言っても何をするのですか?」

 「まずは、そちら側に、進入する、必要が、ある。……少し、目を閉じろ」

 「何故ですか?」

 窓の外の影――トレーゼの言葉にセッテは不思議そうに訊ねた。彼がどうやって窓ガラスを警報も鳴らさずに突破するのかは知らないが、度台無理なことだろう。例え何らかの方法があったとしても、わざわざこちらがその現場を視界に収めてはいけない理由が分からない。

 だからこその質問。だがしかし――、

 「立場が、上の者の、発現には、従え」

 「何……っ!?」

 「この強化ガラス…………一平方メートルを、爆薬で、破壊するのに、必要なエネルギーは、およそ……TNT火薬30キロ、と言ったところか。…………お前なら、どう破壊する?」

 「…………武装の無いこの状況……純粋な腕力だけで破壊するとなれば、不可能です」

 「そうか……なら――」

 トレーゼの右手がユラりと上げられた。亡霊でももう少しマシな動作をするのではないかと思えるような気だるそうな動き……その手の先が目の前の強化ガラスにそっと触れた。とても弱々しい、精々中指の先が接地した程度の接触でしかない。たったそれだけの動作で一体何が出来るのかと、セッテは内心では高を括っていた。

 しかし――、

 「これは、どうだ……?」

 「な……っ!?」

 首元に冷たい感触――。頸部を万力の如く締め上げるソレにセッテは始めは混乱の相を表した。しかし、数秒後には自身の防衛本能をフル活用し、喉元のそれに手を掛ける。

 冷たいながらも有機的な柔らかさを持っている……これは腕だ。もちろん、自分の腕ではない、今にも気道を握り潰さんと掛けられるその腕の先へと目を辿れば――、

 「そんな……バカなこと……っ!!」

 視線の先、内と外を区切る境界となっているガラス――。

 そのガラスを見事に貫通して……

 トレーゼの腕がこちらへ進入していたのだ。

 「魔力の流れが感知出来ない……!? 有り得ないっ! 物質透過の魔法無しにこんなことが……出来るはずが――!」



 「そう――、出来るはずが、ない」



 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 少なくともセッテ自身には長いように感じられた。5秒か、30秒か……それこそ2分以上だったのか、それすら分からなかった。

 だが、ふとした衝撃で彼女はその浮足立つまどろみから解放された。

 「――――はっ!!?」 

 セッテは自分の混乱し掛けていた精神が戻ってくるのを感じ、睡眠から覚醒したばかりのように霞む目を擦り、再び前を見た。

 「これは……?」

 いつの間にか首元の感触が無くなっていると思って手を当てて見れば――、

 無い! 窓を貫通して伸びていたはずの腕が、こちらの首に掛っていたはずのトレーゼの腕が目の前に無かったのだ。

 それだけではない、確かに自分は今さっきまで首を絞め潰されていたはずだった…………あの感覚が夢幻だったとは思えない、自分は本当に首を絞められていたはずなのだ。

 なのに……

 何故だ!? 

 何故首元にその絞められた跡が無いのだ!?

 機械骨格が埋め込まれていたからこそ何とか耐えられたようなものだが、常人ならとっくに頸骨がヒビ割れていてもおかしくない圧力が掛っていたはずだ。なのに……彼女の白い肌の表面には絞められて鬱血したどころか、針一本が小突いた跡さえもなかったのだ。触って確かめてみるも、結果は同じだった。

 「な、何が……!? ワタシは今さっき……確かにこの首を……」

 「何を見たかは、知らないが、意識を逸らすなよ?」

 「!!?」

 自分の右耳、その数センチ離れた所から聞こえる声。それが鼓膜を叩いた瞬間、セッテは反射的に脚力を全開にし、一瞬で五メートルもの距離を空けた。さっきの声は背後から聞こえて来たモノだ、例え戦場ではないとは言え、背後を取られると言うのは致命傷だ。前方に跳ぶと同時に空中で腰を捻って半回転、背後の敵から距離を離すのと、相手を視界に収めるのを同時にこなす。

 「どうだった? こちらの、幻術の、具合は」

 「そんな……!?」

 時刻は午前2時7分。邂逅から既に数分が経過しているが、窓に立っているトレーゼの姿をセッテが確認したのは、ほんの2分前の話だ。



 では何故、自分の眼前に彼が居るのか?



 「お前は、俺がここに、入ったことに、気付けなかった。人の行動において、『気付かない』、と言うのは、常に致命傷だ。『気付かない』、状態から、『気付く』までの間に、何が起こるか、分からないからだ」

 「…………つまり、貴方がこちらへ進入してから今この状態に至るまでに、ワタシはどんな目にあっていても不思議ではなかったと?」

 「そうだ……現にお前は、俺に、背後を取られた。数時間後に、見回りに来た、看守に、お前の屍が、発見されていても、知らんぞ」

 彼なりのジョークか何かなのかは知らないが、今この状況で言われるととてもじゃないが洒落になっていなかった。彼なら本気でやりかねない……昼間の一件で重々承知していた。

 しかし、今のセッテにはそれとは別の疑問で頭が一杯だったのだ。

 「…………一つだけ……貴方に質問しても良いですか?」

 「何だ?」

 「貴方はどうやって侵入したのですか?」

 「始めから、こちらに、居た……と言えば?」

 「それは嘘です。貴方はワタシがここへ足を運んだ時に既に幻術に掛けて、現実と幻覚の区別を出来なくさせたのだと言いたいのでしょうが、それは違います。ワタシは対魔導師戦用に開発された戦闘機人……魔力の感知に長けたワタシのセンサーを騙すことは出来ません」

 「……………………」

 「確かに、貴方の腕が窓ガラスを貫通したヴィジョンは紛れも無く幻覚でしょう……しかし、少なくともワタシがここに来てから貴方と視線を合わせるまでの間、不審な魔力の流れはありませんでした。とすれば、貴方はさっきまで確実に『窓の外に居た』と言うことになります……違いますか? 貴方は『何らかの方法』を用いて、ヒビ一つ入れば警報が鳴るはずの窓を通過し、内部へと侵入した……。そして、その『何らかの方法』をワタシに見られたくなかったからこそ、幻術と言う手段を用いて強制的にワタシの意識を逸らした……」

 セッテの推理講釈の間、トレーゼは特に表情を変える事無くいつものように平淡とした面持ちで彼女の言葉に静かに耳を傾けていた。何もしない……ただ呼吸をして、心臓を動かし、ただ単に存在しているだけだった。

 「以上が……ワタシの予測ですが、違いますか?」

 「……いや、パーフェクトだ。戦うことしか、能が無いのかと、思っていたが、そうでもなかったか」

 「何が言いたいのですか?」

 「別に……。さて、始めるか」

 「その前に……」

 「まだ、何かある、のか?」

 「えぇ……まぁ……」

 そう言いながらセッテの視線が彼の上着を捉え、そのまま下へと注がれる。あまりにも彼女の視線が気になったのか、トレーゼ自身も何事かと自分の身の回りを確認し始めた。

 「……クラナガンに居たのですか?」

 「何故、分かる?」

 「全身が濡れています。今の都市部は雨のはずですから…………寒くはないのですね?」

 「特にはな……」

 そう言ってトレーゼは本当にどうもなさそうに振舞っていた。だが彼の濡れ方は半端なく、紫苑の髪は勿論のこと、昼間の局員制服とは違う上着やズボンなども目も当てられない程に雨水で湿ってしまっていた。まるで、傘無しで嵐の中を歩いていたかのように……。

 しばらくそんな彼の格好を凝視していたセッテは、やがて何を思ったのか――、

 「どこへ、行く?」

 「いえ、少し……」

 走ってレクリルームを後にしてしまった。来た道を戻った彼女が次に姿を見せるのに時間は掛からなかったが、いざどこに行っていたのかを聞こうとすると――、

 「自分の房に戻っていました」

 「は……?」

 「トレーゼ、ちょっとしゃがんでください」

 「な、何を……ぉおっ」

 身長に頭半分程の差がある為、抵抗する間も無くトレーゼは頭を軽く押さえ込まれ、芝生の上に座らされてしまった。殺気が感じられなかったので特に警戒しなかったのだが、ここまで強引にされると流石に抵抗しない訳にもいかなくなってくる。彼は素直に座ったように見えて、しっかりと両脚に力を込めて臨戦体勢を取っていた。

 しかし、そんな彼の心配もあっけなく無為なものになってしまった。

 「大人しくしてください」

 その言葉が聞こえると、頭に何か柔らかい感触が降り掛かった。重量は感じず、とても軽い物と言うことが分かったが、生憎と“何か”までは分からなかった。何故なら、頭の上に落とされた“それ”の所為で視界が完全に塞がれてしまったからだ。そしてその上から掛けられる更なる物理的圧力が二つ……。その二つの重みが頭を強く掻き回すのだ。

 「何をする……?」

 「分かりませんか? 貴方の頭の水分を拭き取っているのです。これから何をするにしても、そんなズブ濡れの格好で行動したくはないですから」

 そう言って彼女はトレーゼの頭を丁寧に拭き回す。意外と几帳面なのか、頭を拭いていても他に濡れている箇所を見つけるとすぐに拭きとるのだった。流石に顔面は自分で拭いていたが……。

 「別に答えてくれなくても構いませんが、都市部で何をしていたのですか? どう考えても、傘を差していなかったことだけは分かりますが……」

 「大したこと、ではない……」

 そう言ってセッテからタオルを引っ手繰ると、彼は淡々と全身の水分を拭き取り始めた。髪はまだ少し濡れて艶やかに光っていたが、始めの頃の水滴が垂れていた時に比べれば幾分かマシになっていた。

 やがてある程度拭き終えたのか、用済みとなったタオルをセッテに投げ返すと立ち上がり、ゆっくりと窓際へと歩を進めた。ガラスに手を掛けると、その向こう側に広がる海の風景を食い入るようにして見つめる。

 「そう……大したこと、ではない……」

 静かな彼の呟き。しかし、そんな彼の声は小さなもので、セッテの耳には届いていなかった。










 時を遡ること、約7時間前――。



 「うーんと、こっちか」



 トレーゼは目の前の獲物――セインが路地裏に入って行くのを見逃さなかった。何と言う僥倖か、つい数時間前に処分することを決定した存在とこうも簡単に接触出来るとは思ってもいなかった。しかも相手は単独で行動している、今なら余計な介入者も入らない、迅速且つ確実に始末することが出来る絶好のチャンスだった。

 周囲の喧騒に紛れて足音を消し、彼は獲物の後を追って自身も路地裏へと入り込んだ。袋小路となっているその道の数メートル先の突き当たりでは既に獲物が地面にしゃがみ込んでおり、完全にこちらに背を向けている状態となっていた。

 これもまた好機、死角からの攻撃は想像している以上に有効的なのだ。特に、出来る限り無音で接近すれば成功率は格段と上がる……。そして、軍隊式格闘技の基本スタイルでもあるこの暗殺法にはもう一つだけ必要不可欠なモノがあった。

 トレーゼが右腕を軽く振ると、遠心力によって袖口に仕込んであったモノが飛び出し、手に収まる。ナイフ……刃渡りは20㎝強と言ったところだろうか、これを逆手に持つと彼はゆっくりと、しかし確実にセインの背中との距離を詰め始めた。

 本来人間一人を殺すには別に素手でも殺せるのだ。脊髄の頸骨を中心にして力一杯捻じれば、脊髄粉砕と頸動脈破裂によって難無く殺せるし、機人の機械骨格と増強筋肉から生み出される腕力を以てすれば訳無いことだ。だがしかし、相手もまた自分と同じ戦闘機人だ、通常の人体とは違って重硬金属で構築されている首の骨を捩じ切るのは流石の彼でも難しい。モタモタしている間に抵抗されて逃走されては折角の好機も水泡に帰す、それだけは絶対に避けねばならない。

 故のナイフ。骨まで砕かずとも肉を切り裂けばそれで充分、腹を連続で刺して内臓を破壊、頸骨を切断出来ずとも左右の頸動脈を輪切りにした後、止めに機人唯一の弱点である頭骨を貫通させてナイフを通せばそれで終了。あとは物言わぬ“物体”と成り果てた屍を適当に安置しておけば良い。

 既に、彼とセインの相対距離は数十センチにまで縮められていた。トレーゼがもうナイフを振り被っているのに対して、セインの方はまだ気付かないのか、地面に座り込んだままで何やらブツブツと呟いていた。見た所何かに没頭しているようであったが、こちらからでは彼女の背が陰になって良く見えなかった。どうせすぐに殺すのだ、何をしていようと問題は無い。

 そう――、

 (殺す……ただそれだけ……!)

 眼前の存在はもはや彼の計画には不要のモノだ。いや……“不要”だけならまだしも、下手をすればこの存在そのものが後々の計画進行における“障害”と成り得る可能性が高いのだ。介入される前に芽を摘み取っておくのが道理だ、情けなど一切掛けるつもりも無いし、掛けてはいけない。もしこれが彼女らのように顔見知っていた仲ならば情が湧いたのだろうが、彼の場合はそうではないのだ、いざ殺す時には何の躊躇も無しに始末出来る……。例え同胞でも躊躇い無く殺せる、今の彼の最大の強みだった。

 右手のナイフを構えたまま、口封じの為の左手を伸ばす。口を封じる際には同時に出来るだけ鼻も押さえるのが好ましい、呼吸が満足に出来なくなれば相手はパニックを起こして必死に抵抗するだろうが、無酸素状態で激しい運動をすれば十数秒と保たないだろう。

 背後からのネオン光を反射してナイフの刃が光る。

 それをゆっくりと掲げ、狙いを定め……

 振り下ろそうとした、その時――、



 セインの視線の先にあるモノが見えた。





 「お~よしよし、腹減ってんのか? そりゃそうだよね、こんなトコに捨てられてちゃ満足にモノも食えないよね」

 しゃがみ込んだセインの見つめるモノ……それはダンボール箱。家庭に普通に置いてあるテレビより一周り小さなサイズの物だった。彼女はこの路地裏に入ってからずっとこの箱の前に座り込み続け、何か話し掛けているのだ。

 人気の無い路地裏にダンボール箱……これだけで中に入っているモノはだいたい察しがつくと言うものだ。

 そう……



 ミャー



 「可愛いなぁ~! お持ちかえRYYYYYYYYYYッ!!」

 そう言って箱から取り上げたるは……猫。とても小さい、まだ生後半年も経っていない程のサイズだ。それが箱の中に全部で五匹も入れられている。当然、ここが正当な住処ではないことは確かだ。大方、食わせていくのに難を感じた飼い主がここへ放置して行ったのだろう。

 母親を探す本能が働いたのか、箱を開けてセインの姿を見た瞬間から彼女に擦り寄って来るのだ。その愛らしい仕種に女性特有の母性をくすぐられたのか、セインの方も一匹づつ抱き上げては愛しそうに頬擦りしていた。

 「なぁ、お前達……どうせ住む所無いんだったらさ、ウチに来ない?」

 ミャー♪

 「そうかそうか。お前達持ってったらウチの妹達が文句言うかも知れないけど、悪い奴じゃないから何だかんだ言っても面倒見てくれるさ。……あっ!? 文句言うのはあの暴力シスターも同じか…………うーん、まぁ何とかなるっしょ」

 そう軽く言いながら仔猫の小さな頭を撫でまわすセイン。さっきまで寒さで震えていたのが嘘のように満面の笑みを浮かべながら、愛でることに全力を注ぐ姿は微笑ましいものである。

 いい加減に移動しなければと思ったのか、手に持っていた仔猫を箱に移そうとした、その時――、



 シャーッ!!



 抱えていた仔猫が急に毛を逆立てて警戒し始めたのだ。小さいクセに全身の体毛と手足の爪、そして牙を立てて威嚇している。

 「え!? ちょ……どうしたのさ?」

 いきなりの威嚇行動に戸惑うセイン。しかし、その敵意が自分に向けられているモノではないことにはすぐに気付いた。第一、もしそうなら今頃小さな爪は彼女の手をズタズタにしていたはずだ。

 では、一体“何”に対しての威嚇なのか……?

 すぐに戦闘機人としての戦闘経験が脳内でリピートされ、このケースの場合の対処法が検索された。

 自分は目の前の猫に集中していたとは言え、何の不穏な気配も何も感じなかった。だとすれば、その“敵”は自分の感覚の外側に居ることになる。そして、自分ではなく猫がその存在に気付いて威嚇したと言う事は、その“敵”は……

 『自分には見えず、猫の視界に居る』と言うことに他ならない!

 抱えた猫の視点は自分とは真反対を向いている……と言うことは、その見えざる者はつまりつまり――、

 「誰だっ!!!」

 背後。

 瞬時に仔猫を箱に戻すと、姿勢を反転、両手両脚を構えて拳闘姿勢を取った。いくら彼女が非戦闘タイプとして開発されたとは言え、元の本分は戦闘機人。その名の通り、戦うことを目的として生み出されている以上は腕に覚えがあった。少なくとも街に居るゴロツキ程度なら余裕で倒せる自信がある。

 だったのだが……

 「あ、あれ……?」

 振り向いても、そこには何も無かった。数メートル前方からは歓楽街の光が変わらず差し込んでおり、路地裏を薄く照らしていただけだった。何者かが居たと言う形跡すら残されてはいない……いや、むしろ本当に誰も居なかったのだろうか?

 だが、さっきの猫の威嚇は半端なかった、あれはどう見ても対象無くして出来るモノではない。となれば、その“敵”は自分が振り向くほんの数瞬前までは確実に背後に存在していたことになる。敵意や殺気こそ感じ取れなかったが、もし自分がその存在に気付くことなく見逃してしまっていたなら、今頃どうなっていたのだろうか?

 「……!!」

 考えただけでも身震い。願わくば自分の思い過ごしだと信じたかった。

 ポケットの携帯電話にメール着信があった。送り主は教会に居る二人の妹達からで、内容は――、

 『早く帰って来い』とのことだった。










 数分後、セインは仔猫×5の入れられた箱を大事そうに抱えながら帰路を再び辿り始めていた。リニアは使わない、一端中心街まで行ってからタクシーを拾って帰るつもりだった。

 そんな彼女の後ろ姿をおよそ十数メートル後方から凝視する影があった。

 「…………危なかった、あともう少しで、発見される、ところだった」

 歓楽街に建ち並ぶビル群……その中の一つの屋上に、彼は居た。背後の夜天に二つの月を従えながら、トレーゼの視線は下界の街並みを行く己の取り逃がした獲物を追っていた。金色の瞳だけを爛々と輝かせている彼の表情は相変わらずの無表情だったが、その胸中は得も言われぬ悔恨で埋め尽くされていた。

 しくじった……完全に!

 目の前に獲物が居たのに、自分は仕留めるどころか触れることすら出来なかった。廃棄都市区画でヴォルケンリッタ-を仕留められなかった時などの比ではない、これは有るまじき大失態だった。

 彼女の抱いていた猫がこちらを威嚇した瞬間から、彼は彼女がこちらの存在に勘付くのは時間の問題だと悟っていたのだ。そして、彼女が猫を箱に戻してこちらを向くまでのほんの一瞬の内に再び死角……即ちビルの壁によじ登ることで事無きを得たのだ。セインの視線が右側の壁面に行かなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう、もしあの状況で彼女がその部分を見ていたなら気付かれただろう――コンクリートの表面を穿って作った足場の存在に。

 抜かった! 始めから全力で対処しておくべきだった。どうせ始末するつもりだったのなら力を隠さずに一気にやるべきだったのだ。ライドインパルスで瞬時に殺害するも良し、シルバーカーテンによる知覚錯乱で混乱している隙を突いて仕留めても良かったのだ……それを何故ナイフなのだ!? トレーゼは今更ながらに自分の行った“選択”の誤りを悔いていた。

 もう既にセインの姿は遥か向こうの街並みへと消えている……例え追えたとしても、この衆人環視の中で殺害すれば後々面倒が付き纏う。もう無理だった……。

 「…………やはり、そろそろ、必要か……計画遂行の為の、サポーターが……」

 二つの月光は喧騒に塗れる街を静かに見下ろしている。そんな中で、No.13『トレーゼ』の金色の瞳が飢えた猛禽類の如き光を放った後、音も無く夜闇の最中へと消えて行った。

 そのすぐ後だった、豪雨が降って来たのは――。










 トレーゼの記憶はそこで回想を終えた。あの後はずっと変装してクラナガンの街を意味も無く練り歩いていただけだった。もちろん傘は無い、お陰で道行く人々に不思議そうに見られたものだったが、別に気にはしなかった。

 「…………それにしても、どうやって、独房から、抜け出た? 鍵が掛かって、いるはずだが?」

 窓から離れると、トレーゼは傍で控えていたセッテに訊ねた。確かに彼の言う通り、この施設の房には全て鍵が掛けられており、無理にこじ開ければ警報が鳴ってしまう。そんな極限の状況下で彼女はどうやって自分の独房から抜け出たと言うのだろうか?

 すると彼女は――、

 「あぁ、その事ですか……」

 そう言って自分の尻ポケットをまさぐると……

 「これです」

 何かを取り出した。トレーゼはそれを受け取り、しばらく見つめた後に一言「なるほどな……」とだけ言ってまた返した。

 彼が返した物、それは紙切れ。無造作且つクシャクシャに丸められたその紙切れをセッテが解いていくと、そこには何やら文字の様なモノが記されていた。良く見て見ると……



 『200』



 ただそれだけだった。恐らくこの空間にて落ち合う為の集合時刻である午前2時を表していたのだろうが、それ以外には何も書かれてはいない、何も見当たらない。本当に何のタネも仕掛けも無いただの紙切れに過ぎなかった。

 「貴方が昼間の医務室でくれたモノです。鍵を誤魔化すのに一役使わせてもらいました。ドアの鍵にこれを噛ませておけば閉まらない上に、監視システムは『鍵は正常に閉まった』ものとして認識します」

 「なるほどな…………流石だな、優秀だ」

 「貴方はそれを計算してこれを渡したのでしょう? そろそろ教えてくれませんか? こんな回りくどい事をするのは一体何の為なのか……」

 セッテの鋭い視線がトレーゼの目を貫いた。互いに無機質な視線を交わらせながら、物言わぬ冷たい戦いが繰り広げられているかのように錯覚してしまいそうだったが、その拮抗は長くは続かなかった。

 「何を言っている?」

 「え……?」

 「お前が、『強く在りたい』と、望んだから、俺はそれに対し、無慈悲に協力するだけ…………来い」

 トレーゼの顔がセッテの正面を捉えた。構えてはいない。いや、この構えていない状態こそが彼にとっての臨戦体勢なのかも知れなかった。セッテの脳裏に蘇るは半日前の映像……自分が手も足も出せずに一方的に攻撃されて終わった、戦闘機人としてはあまりに屈辱的極まりない瞬間だった。

 「自らの手で己の汚点を払拭する機会を与えてくれるとは、意外にも優しいのですね」

 「『優しい』……? 何を勘違い、している、お前に……そんなモノは、不必要だ」

 「そんなことは分かり切っていることです。ワタシは戦闘機人……戦う為だけに造られ、戦う為だけに存在し、戦いの中で消耗し……戦場で潰れるだけの人形…………そこに余計な感情は無くても良い」

 セッテが構えた。長身に隠された鍛え抜かれた筋肉を引き締め、両拳を突き出す。その姿勢には昼間と比べて一部の隙も無く、今なら例え背後からの介入者があったとしても間違い無く処分出来るのではないのかと思える程だった。

 「はぁっ!!」

 セッテが初撃を狙いに踏み出した。爆発的な瞬発力に芝生は土ごと抉れ、後方へと吹き飛ばされる。

 そんな彼女を真正面に見据えながら、トレーゼは呟きを漏らした。



 「そうだ、それで良い。やはり、お前は優秀な、“道具”だ」










 何も見えない……ここは何処なんだろう? 少なくとも『私は誰?』なんて言うベタな事にはなってないから安心した。 でも何も見えないのはちょっと怖いかも……。

 何か音がが聞こえる……どこから聞こえるのかな?

 私って…………どうなったんだっけ? えっと、確か……消火活動の時に現場を抜けて、地下に行って、それから……――

 あぁ、そっかぁ、これは夢なんだ……じゃなきゃこんなに暗い訳ないよね。私が見ている夢……眠っているから見る夢……これが夢だって分かっちゃたのなら、もう覚めないといけないんだよね……。

 そう、私は沈んじゃいけない……! 潰えちゃいけない……! ここで――死ぬ訳にはいかない!!

 私にはまだやる事ややらなきゃいけない事が沢山ある……だから、こんなトコで――

 「死ねないっ!!!」



 11月14日午前7時29分、スバル・ナカジマが深き昏睡から覚醒した瞬間だった。










 午前7時34分、中心街から距離を置いたとあるホテルの一室にて――。

 この時間帯には太陽は東の地平線を離れて南の空を目指しており、既に大きな道路などでは通勤に行く人々で溢れていた。街が本格的に目覚める時間、それが今だった。

 そして、その『目覚める時間』と言うのはこの二人も例外ではなかった。



 Pi Pi Pi Pi♪ Pi Pi Pi Pi♪



 部屋に鳴り響く目覚ましのブザー音。発信源は寝室の卓上……そこに置かれた腕時計からだった。ベッドの厚い掛け布団の中から小さな手が伸びると、しばらく空を探っていたが、やがて音の根源を見つけるとそれを掴み上げ、それと同時に音も止まった。

 「う~ん、もう時間なの、ストラーダ?」

 『あぁ、今からここを出れば午前7時51分発の下りリニアに充分間に合う』

 「うん……分かったよ。キャロ、そろそろ起きて……」

 赤髪の少年――エリオがすぐ隣のベッドへと手を伸ばす。一応その布団の中には自分と同じ歳の少女が包まっているはずなのだが……

 「……あれ? キャロ?」

 あんまりにも反応が無かったので少々申し訳なく思いつつも布団を剥がすと、そこには誰も居なかった。寝ぼけているのかと思って良く見てみるが、やっぱり居ないことに変わりはなかった。さらにはフリードまで居ない。

 「トイレかな…………あれ?」

 寝起きから間を置いたことで体の感覚が少しずつ戻ってきた所為か、エリオは布団の中に自分とは違うモノの温度の持ち主が潜んでいるのに気付いた。半分嫌な予感がしながらも布団を捲ると、そこには――、

 「……フェイトさんが居なくて本当に良かった」

 『内心はまんざらでもないのだろう?』

 腕に取り着けた相棒からの冷やかしに溜息をつくエリオ。そんな彼のすぐ横では体を密着させて眠る竜召喚士の少女と、既に目を覚まして退屈そうに欠伸をしている仔竜の姿があった。










  同時刻、昨日の雨など無かったかのような蒼天に浮かぶ影が一点――。

 「……………………」

 素肌に張り着くようなサイズの紺色の防護ジャケット……

 寒風を受けてはためく頂戴な白マント……

 『ⅩⅢ』の刻印が成された首元の金属製チョーカー……

 四肢に装着された凶悪な武装……

 そして、精密機器を内蔵した金色の双眸……。

 「…………昏睡状態だった、タイプゼロ・セカンドが、復活したか……」

 ナンバーズの13番目、トレーゼ。彼の視線は遥か眼下に広がるクラナガンの灰色砂漠を凝視していた。上空5000mの地点に位置するここは地上本部の索敵範囲内ではあるが、そこは電子戦用ISのシルバーカーテンの効果を余す事無く発揮することで事無きを得ている。

 彼がセカンド……つまりはスバル・ナカジマの覚醒に気付けたのには訳があった。彼らナンバーズにはそれぞれの個体ごとに感情や脳内情報を個体間で行き来させる為の“送受信機”のような役割を果たすシステムがある。このシステムがあるからこそ、彼女らナンバーズは互いの位置を知る事が出来たり、高度なコンビネーションを取ることが出来ているのだ。彼の場合はその中でも少し特殊だった、現在の彼は他の十二人のナンバーズ同様に互いの正確な位置や情報を得てはいるが、その反面として自分の情報は限られた者としかリンクしてはいないのだ。でなければ、今頃とっくにナンバーズ全員が彼の存在を知っているはずだ。彼は自らの存在を隠蔽する為に一方的に情報をカットしており、かつては三人だったのも、現在で彼の存在を正確に知り得るナンバーズはたったの“二人”だけとなってしまっていた。

 話を戻そう……。彼はスバルのIS、『振動粉砕』を獲得する為に彼女の血液を直接取り込んだ。この際に彼の体内で、コンセプトは違えど同じスカリエッティ製の戦闘機人の生体情報が“ナンバーズ”として刷り込まれたのだ。これが通常の機人の生体情報を取り込んだだけではこうはならなかっただろう……あくまでナンバーズの製造理論を利用して生み出された個体だったからこそ成せる業だった。

 「…………セカンド、か……」

 寒波吹き荒れる空中で彼は瞑想するかのように黙り込んだ。目を閉じ、静かに考えるその姿は一種の芸術的彫像にも見え、心成しかとても画になった。

 やがて、彼は双眸の目蓋を開けると、ただ一言だけ――、

 「使えるか……」

 とだけ呟きを漏らした。表情は相変わらずの鉄仮面……なのに、その絶対零度をも下回る温度を、全身から狂気や殺気にも似たプレッシャーで発散させていた。今の彼は無慈悲且つ無機質だ、目の前を通り過ぎる者が居れば肉食獣のように喰らい、立ち塞がるならば草の根一本であっても焼き尽くさんばかりの覇気を漂わせている。比喩でも皮肉でも何でもなくて、間違い無く彼の通った後には草木一本も生えないのは確実だろう。そして……一度自分にとって利を生むと分かれば、例え自分が痛めつけて生死の境へと追いやった者ですら手駒にしようとするその豪胆さも、今では脅威以外の何物でもなかった。

 「……それにしても、結局、セッテは俺から、一本も勝利を、取れなかったな」

 回想するは数時間前に行った格闘訓練と言う名の一方的強襲の場面である。午前2時過ぎに始めてから、看守が早朝の見回りを開始する30分前の午前4時までの二時間、セッテとの間で行った無制限の一本勝負……セッテが一回でもトレーゼの背を地に着かせれば勝ちだったのだが、結局はまたもやセッテの惨敗となったのだ。

 「まぁいい……徐々に、馴染ませて行けば……。駒の準備は、順調なんだから…………………っ!?」

 トレーゼの視線が眼下の街から自分の背後へと切り替わった。一見何も無いように見えるが実は違い、常人の視認領域を遥かに越えた所からやって来る“それ”を彼は捉えていたのだ。

 「……来たか」

 そっと虚空に右手を差し出すと、その指先に小さな紅い光点が留まった。昨晩街中に大量に放って置いた召喚虫の一匹が戻って来たのだ。もちろん、タダで戻って来た訳ではないことは承知だ、放った数百匹の内の大半には区画ごとに有益な情報を収集して来るように密命を課しているのだ。つまり、ここでこの一匹が主である自分の元へと帰って来たと言うことは、何か情報を掴んだと言うことだ。

 指に留まったその虫は小さな羽を震わせながら、外骨格で覆われた自らの体に魔力の光を纏った。言葉を持たない虫と意思疎通をする際にはこうして彼らが発する光を一種のモールス信号のようなものとして受け取ることで成り立っているのだ。

 不規則に明滅を繰り返すそれを見た後、トレーゼは小さく「そうか……」と言い――、

 「もう良い、戻れ」

 軽く手を払って虫を飛ばすと、インゼクトは彼の頭上をしばらく旋回した後に眼下へと降下して行った。再び情報収集へと向かわせたのだ、次に来るのはいつになるのかは分からない。

 「…………“目標”を確認……。マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Laevatein”.』

 いつの間に取り出したのか、トレーゼの右手にはキューブ型のストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』が掴まれており、主の命を受けた黒鉄のフォルムが次の瞬間にはかつての廃棄都市戦の時と同じように炎の魔剣――『レヴァンティン』の形状へと変形していた。火炎は出ない、彼の体内には炎熱系の魔力変換資質が入っていないからだ。代わりに鮮血の如く紅い魔力の奔流がダイレクトに刀身から放出されていた、少しでも触れれば瞬く間に全ての生物を腐敗させる瘴気の渦にも見えなくはなかった。

 「“目標”は、下りのリニアに乗って、北西の山岳方面へと、移動中……。至急追跡し、行動を開始する」

 真紅の疑似魔法陣が展開し、両手首と両足首にエレルギー集合体の鋭利な翼が生える。超高速で飛翔する手前の合図だ、恐らく次の瞬間に彼の姿はこの半径200メートル以内から姿を消すだろう。

 そして――、

 案の定ものの数秒と経たない内に彼の姿はクラナガンから完全に消えていた。

 上空に残っていたのは不自然な飛行機雲だけで、本来ならその軌道には航空機など通らないはずであり、一時航空署で小規模の混乱が起きた。










 午前8時、クラナガン医療センターにて――。

 「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 オレンジの長髪を振り乱しながら、執務官ティアナ・ランスターは激走する。メロスもかくやと言う程のスピードで院内の廊下を駆ける彼女だが、重要なのはその動力源となって貢献しているのがヴァイス・グランセニックだと言うことだ。

 「あーもうっ! 急いでください、ヴァイス陸曹!」

 「無茶言うなよな! 玄関からここまで来るのにでも一年分の運動量だぜ、まったくよぉ」

 「じゃあ、良い機会です! 頑張って走ってください」

 痩せ馬に鞭打つのでももう少し優しくするのではないかと思えるような口調で背後の彼を叱咤し、彼女を乗せた車椅子は走り続ける。目の前を先に歩いていた医者や看護師達を押し退けながら目的の場所を目指すその姿はまさに単騎で戦場を駆ける戦乙女であった。もっとも……車椅子に乗っている姿は何かとシュールだが。

 エレベーターに飛び込みボタンを連打、目的の階まで移動している間はずっとイライラとして落ち着きなく足を踏んでいた。車椅子に乗った人間がそんな事をしていて良いのかと思えてくるが、実際のところ彼女の足はもう完治しているようなものなので別に問題は無かった。

 やがてドアが開くと、それと同時に再び車椅子が激走を始める。始めにここへ来た時に受付で場所は聞いたので、いちいち背後のヴァイスに行き道を言う必要は無く、後はそこへ如何に早く到達出来るかだった。

 何回目の角を曲がっただろうか……途中で数えるのを止めた時、遂にティアナは目的の場所へと辿り着くことが出来た――、

 「ここね……」

 「そうみたいだな……」 

 とある病室の一つ、そのドアの前に。バリアフリーとなっている為、車椅子に乗った状態のティアナでも開けられる仕組みになっていた。取っ手に手を掛けると彼女は何の躊躇も遠慮も無く、一気に開け放ち――、



 「スバルッ!!!」

 「あ! ティアじゃん! どうしたのー、その車椅子? って、私もか」



 病室に居たのは自分と同じように車椅子に乗っている蒼い髪の少女、スバル・ナカジマだった。呑気に窓際で日向ぼっこでもしていたのか、口元には涎が垂れているのが見受けられた。ここまでの階まで来ると寒風の代わりに窓からの日光しか届かないので丁度良い暖かさになるのだ、大方ドアを開ける瞬間までうたた寝でもしていたのだろう、幸せなものだ。

 そんな彼女――、表情こそ笑顔だったが、その実態はとても居た堪れないモノだった。車椅子に乗っているのまではティアナと同じなのだが、スバルの場合はそれが『電動車椅子』だったのだ。便利なモノだ、ちょっと軽くレバーを操作するだけで車輪が動いてくれる便利極まりない代物だが、何故そんなモノを宛がわれているのか? 別に自分で動かすのなら普通の車椅子でも良いはずだ。

 動かせないのだ。

 何故?

 “無い”からだ。

 何が無いのか?

 車輪を動かす為の腕が片方しか無いからだ。

 「あー、これ? ちょっと不便だけど……まぁ何とか上手くやってるよ」

 視線に気付いてスバルが自身の『本来右手であるはずのモノ』を軽く振って見せていた。

 健在なのは左腕だけ……。右腕と両脚には本来有るはずのモノが全く無く、代わりに切断面には汚れ目の無い包帯が二重三重にも巻かれてあった。

 「ビックリだよ、起きたら手足が無いなんて、また夢でも見てるのかなって……。あは、何言ってるんだろうね、私って」

 「スバル……!」

 笑顔。あくまで笑顔……自ら庇ったとは言え、自分の所為で四肢を失う羽目になってしまったと言うのに、彼女は――スバルはその事に触れようとはしない。だが、話題に触れないのは目の前の親友に余計な気負いをさせたくないからではないことなど、ティアナはとっくに知っていた。もちろんそれもあるだろうが、訓練校以来の付き合いだ、彼女が生来嘘をつき難い性格をしていることぐらい重々承知だ……彼女は“忌避”しているのだ、自分が手足を失うと言うのがどう言う事なのか……どんな残酷な意味を持っているのかと言うことを、本人が一番理解し、そして理解することを避けている。

 人を……他人を助けるのは大変だ、親の血肉を分けてもらい、神から与えられた二本の腕は自分の為にあるのだ、その腕を他人を救う為に使うのは至難の業なのだ。そして、人間は誰でも“他者”よりも“利己”の為に能力を使う事に長けている、持ち合わせる能力の違いと言うのもあるが、第一線で戦果を上げる人間が災害救助に回されると意外にも期待した程の効果は無いが、逆の場合はそうでもないのだ。それは何故か? 単純に物事を利他的に成すのは困難だと言うことだ。例え同じことをやろうとしても、自分の為にやるのと他人の為にやるのとでは、その困難さに格段と差が出て来るのだ。

 その難行を……他人の為に人を救い続けると言う、地上で最も名誉あり苦しい行為をスバルは自分の為ではなく人の為にし続けて来た。他でもない自分の意思でだ。それが彼女の望んだことであり、彼女の成し遂げたかった夢だったのだ、今更それを苦しいなどとは思ってはいないはず。

 ただ――、

 手足を切られ、残ったのは強い意志と左腕のみ……。こんな体では他人を救うどころか自分のことですら儘ならない……無理を通してでもやろうとすれば、それはただの傲慢になってしまう……そんなことは親友であるティアナが、かつての仲間達が、そして何よりもスバル自身が一番理解しているはずだった。

 理解出来ているからこその辛さ、理解しているからこその残酷さ…………それを身に染みて感じているのに――、

 「あは、ははは……はは……」

 笑っている。

 目尻が光っているのは錯覚などではない。目を凝らせば薄らと見える頬の細く赤い跡も、うたた寝による無様なモノとは決して違う。意識が覚醒して最初に見えた自分の手足に対する悔し涙の跡だ。

 それでも笑っているのだ。本当は耳を覆いたくなる程の絶叫を上げて悲しみの涙を滂沱の如く流したいに違い無いのだ。それでも、彼女は目の前に居る親友にこれ以上無様な姿を見せたくないのと、夢が崩れてギリギリの一線で自己を保っている自分の精神がそれを許さなかった。

 「…………スバル……」

 「うん? 何? ティア」

 「…………もういい……もういいから」

 「え――?」

 「もう……いいから」

 そのまま適当な理由をつけてヴァイスと一緒に一端部屋を出ると言う手段もあった。そうすればスバルは心置きなく泣くことが出来ただろう、その意味では部屋に留まり続けたティアナの行動はある意味で残酷と言える。

 だから抱き締める。優しく、それでいて強く、両腕を回して抱きとめる。傍から見たら潰れてしまうのではないのかと思える程の強さだが、筋一本で繋がっていたスバルの心を引き戻すには充分だった。

 「あぁ……ティ……ア?」

 「バカよ……あんたバカよ! 自分ばっかり辛い目に合ってるなんて思って……! 私が、私達があんたが眠ってる間……どれだけ…………っ!!」

 「ティア……。ティア……」

 「私だって辛いのに、あんたばっかりヘコんでないでよ! そんなショボったれたあんたの顔なんか……顔なんか……!」

 不器用……ただただ、不器用。目の前の親友は傷付いているのに、ティアナは辛い言葉しか掛けることが出来ない、不器用だから彼女は素直に慰める事を知らない。だからせめて……抱き締めるのだ、不器用でどうしようもない自分でも目の前の親友を例え一時でも癒せるようにと。

 心臓の音が直接伝わって来る。だがそれとは別に伝わって来る震動がある、小刻みに震えているそれは自分のモノではなかった。

 「ティアッ! ティ……あぁ、ぁああぁああああっ!!」

 泣いている。抱き返したスバルの腕から伝わるその慟哭にも似た悲痛な叫び……何と痛々しく、耳を背けたくなるような悲鳴。

 だが離さない。むしろその逆だ、もっと力を入れて抱き締め直す。潰れても構わない、それで彼女が自分を保っていられるのなら……。

 「ティアぁ……わたし……わたし、もうっ……!! もう、誰も助けられないよぉ……」

 「諦めんの? あんたらしくもない。大丈夫、根拠なんて無いけど、私達がきっと何とかしてあげるから……」

 自分でもガラにもない事を言ってしまったものだと自覚はしていた。スバルの蒼い髪を優しく撫でながらティアナはそう感じる。だが、それと同時に彼女の心の中にある一つの決心がついたのも、また事実だった。

 「――絶対に、許さないから」



 それはまるで私怨にも似て……










 同時刻、地上本部のとある個人事務室にて――。

 「それで、預言の解読の方はどうなんだ?」

 「どうもこうも、ひとまず全体の一割か二割と言ったところかな。現時点じゃ不明瞭な点が多過ぎるよ」

 黒塗りのデスクに腰掛ける法衣姿の局員はクロノ・ハラオウン、開いた通信回線の立体映像に映るのは無限書庫の司書長ユーノ・スクライア。二人揃って、通称『海と陸の頭脳』とか呼ばれているのはさて置き、普段顔を合わせればすぐに口喧嘩を始めるはずの二人のはずなのだが、今回は二人ともやけにしかめっ面で、とある事項について議論の最中だった。

 「今回は例年と比べてかなり克明なモノだったらしいが?」

 「いくら預言の文章そのものが鮮明でも、それを解読する為の要素が無かったらどうしようもないよ。解読作業自体は専門の解読班がやってくれているけど、解読に必要な古代ベルカの資料は全部無限書庫が提供しているんだから無茶言うなって」

 「解読出来た所までで良い、何か無いのか?」

 ユーノ及び彼の属する無限書庫に今回当てられた依頼は、『預言の解読』だった。珍しいことではない、預言の解読には無限書庫の力が必要不可欠で、毎年解読班も世話になっている。だが今回ばかりは違った、今回はどうしても早急に解読せねばならない理由があったのだ。

 “J・S事件の再来”……既に書庫の一部の局員にはコトの重大さが認識されている所もあり、その中には三年前の地上本部襲撃事件で傷付いた者も居る。事態が危険度を増すその前に出来るだけの事をしようとするのは当然と言えよう。

 故に早期での情報提供。こうして逐一報告を入れさせることで三年前のような事件を未然に防ごうとするのがクロノの考えだった。

 「……まず一番始めの部分の、『法の塔は二度倒れる』って所だけど、ここは恐らく三年前の時と同じようにして考えられる」

 「『法の塔=地上本部』と言うことか……。とすると、『旧き結晶を身に宿し――』と言うのは……」

 「“レリック”、もしくはそれに準ずる魔力結晶体と考えるのが妥当だね。そして、もしそれがレリックだとすれば、“それ”を身に宿す……つまり体内に内包していると言う事になる。高純度魔力結晶体を体内に埋め込むなんて事をする理由、少なくとも僕は一つしか知らないね」

 「レリックウェポン……。ゼスト・グランガイツや、現在保護観察処分中のルーテシア・アルピーノと同じ存在と言うことか?」

 「可能性としては充分に高い。もしそうだとしたら、対処を誤ればとんでもないことになる恐れがある」

 レリック――、数あるロストロギアの中でも一級品の危険物であるその結晶体は、下手に物理的・魔力的衝撃を加えると周囲数百メートルから数キロに渡る全ての物体を消失させるだけの破壊力を撒き散らすと言う危険極まりないモノだ。古代ベルカの時代においてはその結晶を体内に埋め込み、人為的にリンカーコアと接続させることで爆発的な強さを得ると言う禁忌の術があり、かつてスカリエッティに与していたルーテシアは早い段階でそれに成功、ゼストに至っては一度死んだ身である事実を覆した程だった。

 「それはそうと、今回の預言の件で個人的に気になっている点があるんだけど……」

 「気になる所? それは何だい?」

 「うむ、預言を読み進めるとある、『使徒』と言う部分なんだが、何か分かった事はあるか?」

 「使徒? …………あぁ、確かにあるね。意外だね、その歳で提督にまで登りつめた君になら察しがついていると思ったんだけど」

 「嫌味か?」

 「違うよ。まぁ、僕の方ではこの『使徒』って部分は大方予想がついてるけどね」

 そう言って鼻で笑うユーノの表情は明らかに悪友であるクロノを小バカにしているようだったが、それが分かっていても彼はあえて平静を保つ。これ位で腹を立てていたら彼は今頃とっくに高血圧による血管破裂で死んでいるはずだ。

 と、ここでクロノは何かを思い出したのか、ユーノに「外すぞ」と一言言ってから別の通信回線を開きだした。映像ではなく音声回線のみを開き、目的の人物と話をつける。

 「クロノです、ご無沙汰しています。例の件ですが――はい……はい……そうです。お急ぎ頂けるに越した事はありません、改めてよろしくお願いします」

 しばらく回線越しにその人物と何やら話をしていたクロノだったが、ものの30秒と経たない内に回線を切断すると、再びユーノに向き合った。

 「……今の誰だったの? 上役の人?」

 「まぁな。母さんの昔の同僚で、次元犯罪総括部署の重役に就いておられる方だ。“例の件”で色々と融通してもらっている」

 時空管理局の次元犯罪総括部署と言えば、あらゆる管理内外の次元世界で起こる犯罪処分に対してほぼ絶対的な権力を持つ部署だ。地球の日本で言う所の法務省のような役割を果たしている部分もあり、もちろん、重犯罪を犯した囚人に対する死刑執行権なども持っている。

 「“例の件”か……。やっぱり実行に移すのかい?」

 「無論だ、敵方の素性がナンバーズの生き残りだと判明した以上、この作戦を実行し、成功させれば、必ず喰い付いて来る」

 「罠としては実に単純だ、むしろ罠とも呼べないかもね。只の釣り餌だ、賢い魚なら針を鱗に掠らせもしない」

 「例えそうだとしても、奴はこの作戦に『引っ掛からざるを得ない』。何故なら、奴が『ナンバーズだから』だ……。奴がスカリエッティに命を吹き込まれたナンバーズである以上は、どうしてもこれは回避不可能な茨の道となる…………そこで生じる絶対的な隙を付け狙うしか手立ては残されてはいない」

 「だとしたら、君はやっぱり考えることがえげつないね。安心したよ、色んな意味で」

 「褒め言葉として受け取っておこう」

 一見刺々しいことこの上ない会話だが、このやり取りも十年来の付き合いである二人だからこそ、何の確執も固執も無く互いに憎まれ口を叩き合えるのだ。その意味では最高の友と言えよう。

 その時――、

 『こちらギンガ・ナカジマ陸曹です。廃棄都市区画での調査の件で、至急報告したい事があります』










 午前8時49分、北西山野地帯のとあるリニア車両にて――。

 「…………IS、No.13『――――』の発動を、確認。適合率、約64%…………上々の結果だ」

 “彼”は窓の外を流れ去る風景を見つめながら、何の抑揚も無く、それでいて何故か満足そうに呟いた。窓の外には都会では見る事が無い森林の緑が陽光を浴びて燦々と輝き、少し向こう側には渓谷を流れる大きな河川も見えていた。

 そんな風景を前に、“彼”はただ静かに読書に耽るフリをしながら、本に隠れた掌の上で密かに真紅のテンプレートを回転させていた。どこで誰が見ているか分からない、警戒はしておいて損は無いだろう。

 「やはり、予測通りだ。No.9すら凌ぐ、その適合率……これを、さらに接触すれば、適合率は飛躍的に、向上する。全てが、意のままに……なる」

 “彼”の右手が上着のポケットに入り込み中から何かを取り出した。取り出したそれを座席の取り付け台の上に並べる。

 サイコロだ。取り出した“四個”のサイコロは二つが一の目、後二つが六の目になっており、それ以外は何一つ変わらない普通のサイコロだった。それを等間隔の一文字に並べ、“彼”は静かに思考する。

 「現時点で、使用可能な“駒”は、たったの四つ……。そして、その内の二つは、使えるかどうか、まだ不明瞭」

 “彼”の指が六の目を示していた二つのサイコロを、残りの二つから遠ざける。

 「さらに、内一人……No.3『トーレ』は、現在幽閉中」

 “彼”はさらに二つの内の一つを除外した。これで残ったサイコロは一つだけ……。

 「だが、手はある……。二つの、手が残されている」

 そう言って“彼”は取り上げたはずの二つの六の目のサイコロの内、一つを台に戻し、さらにポケットから別のサイコロを一つ出すと、それを置いた。

 「古来より、誰が言ったかは知らないが、傷付いた者を、癒す方法は、三つ……。『酒』、『博打』……そして、『異性』」

 “彼”はポケットから最後に取り出したサイコロを摘まむと、その立方体の角を軸にしてコマのように回転させる。

 「例え同じ戦闘機人でも、所詮は、人間として生きて来た。……だとすれば、懐柔するのも、容易いことだ」

 回転するサイコロはまるで空気や接地面の抵抗など知った事ではないように回り続ける。まるで勢い付いた地球儀の如く回り続ける。

 「傷心の、人間は、弱い……甘い言葉を掛ければ、すぐに気を許す…………そして、すぐに懐いてしまう。もはや、愚か以外の、何物でもない」

 サイコロの回転がようやく弱まり始めて来た。徐々に回転力を失いつつあるそれを、“彼”は静観する。

 「だが、俺も、万能ではない……二つの事項を、同時に成すのは、不可能だ。故に、どちらか一方を、代わりに完遂する為の、“サポーター”が必要になる。そう――」

 とうとうサイコロの回転力がゼロとなり、合計六つの目の決められた一つが遂に導き出された。

 「お前だ」

 出された目は“4”、不吉を代表する悪魔の数字だった。

 その目が出たと同時に、“彼”は逆のポケットから別の物を出して来た

 それはカード。それも一枚や二枚ではない、全部で合計22枚あった。一つ一つに違った絵柄が描かれており、寓意的な意味合いを持っているだろうと言うことは容易に分かった。

 「適当に買った、本の付録に付いていた。目的ポイントまでの、暇潰しにはなるだろう」

 “彼”は知る由も無いだろうが、それはかつてSt.ヒルデ魔法学院においてセインとカリムが披露して見せた地球産の占いの道具、タロットカードだった。もはや説明不要だが、二十二の寓意絵を組み合わせ、導き出された一枚によって対象者の運命を知らせる在り来たりなモノである。ちなみに、“彼”が購入した本の題は、『管理外世界の占術百科』とか言うモノだった。何故それを選出したかについては不明だ。

 「占い……か。オカルトは、信じない派だが、一時の気休めには、なるだろう」

 “彼”は台の上に始めと同じように五つのサイコロ、一の目と六の目を二つずつと最後に出した四の目を一つ、それらを全て出した後に一旦端へと寄せる。そして空いたスペースを利用してカードを規則的に並べて行く。

 「まずは、何よりも、俺自身……」

 そう言った“彼”はカードの一枚を引いた。数字は十、絵柄は車輪のような巨大な輪、第十番『運命の輪』の正位置だった。持つ意味は名前のままで、“運命”、“宿命”、“物事の展開”などが挙げられる。

 「曖昧だな……」

 次にサイコロの一つ、二つある一の目の内の片方を手前に取り寄せる。再びカードをシャッフルして並べ直すと、占いの対象となる者のヴィジョンを強くイメージする。そして引き寄せる――。

 導き出されたカードは、荒ぶる猛獣が描かれている、第八番『力』のカードだった。あらゆる事象に対しての強い影響力を表した一枚だ。

 「なるほどな、一理ある。あれ程の、実力者ともなれば、多少は影響があるか」

 次は四の目を出したサイコロ。ここまでくると単純作業となってくる。引き当てたカードは――、

 黒く大きな山羊頭の怪人が描かれた、見るだけで嫌悪感を剥き出しにせざるを得ない、第十五番『悪魔』の正位置。物事の悪循環と堕落を体現した、第十六番『塔』と並んで最も忌避される一枚。

 「要注意、と言う訳か……」

 あと三つ……一の目が一つと、六の目が二つ……合計三個。

 ここまでくれば、後は何が出るのかは運次第だった。運否天賦とは一体誰が言ったのか……。



 そのはずだったのだが――、



 「…………何だ、これは?」

 思わず間の抜けた声がその口から出るなどと、誰が予測出来ただろうか? 台の上に出されたカードは、数字は“6”、絵柄は“男女”……第六番『恋人』の正位置。

 誰が予測しただろうか、まさかそのカードが三回連続で導き出されたモノだと言うことを。

 「……確立的には、有り得なくもない……か」

 “彼”はそう言って一人で勝手に納得することにした。そして、二十二枚のカードと五個のサイコロを仕舞い込む、もう二度と取り出される事もないだろう。

 それが『運命』と言うレールの行先を暗に示しているとも知らずに……。

 “彼”は窓の外へと目を向ける。この山岳地帯は幾つかの河川の源流が流れており、もうすぐこのリニアも二つの川の間、即ちW字谷の渓谷に掛けられた橋にさしかかろうとしていた。

 「来たか。予定ポイント、およそ2分前」

 仕込みは既にこの車両に乗り込んだ時点で完了している。あとはそれを実行に移すだけだ、そして、それを完遂出来るか否かは自分の実力と、進行するに当たっての障害との絶対差が鍵を握っている。だがそれは心配には及ばない、奢りではない、これは単純なる確定事項に過ぎないのだから。

 “彼”は席を立つ、そしてその狂気染みた金色の視線を己の背後へと向ける。その眼で今回の“獲物”を捕捉・確認した“彼”はすぐさま車両の中を移動し始める。

 そして呟くのだ、かつての自分の創造主が管理局――ひいてはミッドチルダ全体に対して宣戦布告を行った時の、あの忌まわしい言葉を、今再び繰り返すのだ。

 「ひとつ、大きな花火を、打ち上げようじゃないか」










 ガタンッ!

 「おおぅ!? ……なんだ、ただの車体の揺れか」

 『お前はいつもだな。そうやって気を張っていれば、いつか早死にするぞ?』

 「そんな大袈裟な……。あとどれ位で着けるかな?」

 『まだまだだ。このまま事故もトラブルも無ければ、推定で約2時間18分後、±1分7秒で到着出来る』

 「そう……じゃあ、僕はまだもう少し眠るよ。最近何でか知らないけど、眠くって仕方が無いんだ」

 『成長過程の人間とはそう言うモノだ。心配無い、目的地に到着する十分前にはアラームを鳴らす。それまではキャロと共にゆっくりしていると良い』

 「うん。ありがとう、ストラーダ」

 少年――エリオは手首にて待機している自分の相棒に礼を言うと、隣で大人しく寝息を立てていたキャロに毛布を掛け直し、自分もそこに潜り込む。キャロは駅で乗り込んでから数分後には、寝足りなかった分を埋め合わせするかのようにしてまた睡眠に入ってしまった。13歳の育ち盛りの所為なのか、最近では以前よりも良く食べるようになり、徐々にだがそれまで低かった身長も次第に伸びて来ているように思える。女子は成長が早いと言うので、二年も経てばエリオなどの同世代と並ぶと言われている。なお、体重の件に関しては一切触れないでおこう、それが淑女に対する礼儀と言うモノだ。

 二人の毛布を留めるかのようにして上にはフリードが乗っかっており、彼(彼女?)も大人しく寝息を立てている。育ち盛りなのは人間だけではないようだった。

 眠気で閉じ掛けの目を薄らと開きながら、エリオの意識は窓の外の美しい風景をその視覚に留めようとしていた。森林の緑……遥か遠くにはクラナガンの灰色の街が……あぁ、もうすぐ鉄橋に差し掛かる…………



 ガチンッ! ……ゴゥン……ゴゥン…………ガタン。



 「え……?」

 思わず意識が覚醒するエリオ。リニアの車体全体を揺らしたこの震動はさっきまで断続的に続いていた走行によるモノではなく、何か強い衝撃によっての震動だと直感した。そして同時に体感した、自分達の乗っている車両のスピードが何故か遅くなっていることに。始めは気のせいかと思ったが、窓の外を見れば一目瞭然、高速で過ぎ去っていた風景が徐々に失速し、遂には完全に停止してしまったのだ。

 「何か事故でもあったのかな?」

 車内放送は何も掛からない、加えてこの静寂、誰も混乱していないのだろうか?



 当たり前だ、混乱などするはずがない。



 何故なら、今この車両には――、



 「誰も居ないっ!!?」

 エリオの青い眼球が瞬時に周囲360°を見渡す。

 居ない。横二列一組の座席が大量に縦列に並んでいるこの空間には、他の人間が誰も居なかったのだ。

 おかしい、確かに乗車した時はもちろん、ついさっき目を覚ました時だって数人ぐらいは居たはずだった。

 それが居ない! エリオの戦士としての勘が現在の状況に対して警鐘を鳴らし始めていた。何かが起きている、と。

 「ぅ……ん~、どうしたの、エリオ君?」

 急に隣の彼が動いたのでキャロも目を覚ます。未だに眠そうに目元を擦ってはいるが……。

 「キャロ、フリードも起こして!」

 「え!? あ、はい!」

 いつもとは様子が違うエリオに気押され、キャロは言われた通りに眠りこけていた仔竜を起こした。当然、フリードの方も眠そうではある。

 「あれ? こんなにスッキリしてたっけ、エリオ君?」

 「いいや! 違う、何かがおかしいんだ!」

 初見でキャロですらこの状況に違和感を覚えていた。

 あまりに異常なその静寂さは何故か? 人が居ないからだ。

 何故居ない? それが分からないのだ。

 ここは六両編成リニアの最後尾の車両……つまり、ここに人が居ないと言うことは前方の車両に移っただけと言うのも考えられる。むしろそうであって欲しかった、この現状を視界に収めた瞬間から彼の鋭敏化された騎士の感覚が疼くのだ、「今この瞬間は正常ではない」と。

 「行くよ!」

 「あぁっ! ま、待ってよ、エリオ君!」

 毛布はそのままにして、エリオはキャロの手を引いて直ぐに前方車両へと走った。すぐ背後からはフリードも全速力で羽ばたいて来る音がしている。

 車両と車両の連結部分にあるドアを開けて次の車両へと入り込む。だが――、

 「居ない……!?」

 「嘘!」

 無人。人工0人、乗客率0%。確かにこの地方は利用客が少なく、下りのルートを進めば進む程に乗客の数は自然と減って行く。だが、決して利用客が居ない訳ではなく、ゼロになることなど一度も無かった。

 五両目にも人間の姿は無かった。そして、リニアが停止してから既に三分が経過しているが、未だに車内放送の一つも掛からないのはどう言うことか? もうここまで来ると嫌な予感はさらに胸中で肥大化する。

 戸惑っている暇は無い、二人と一匹はすぐに次の車両へと行く。

 ドアの取っ手に手を掛け、開ける。

 だが――、

 「そんな……」

 またもや無人。これで半分の車両には人間が居ないことになった。

 「エリオ君……」

 流石にこれは最早異常を通り越した怪異そのものだった。以前からオカルト系の話題で大量の人間が一斉に、それも極短時間で姿を蒸発してしまったと言うのは聞いたことがあった。まさか自分達がそんな非現実的な場面に遭遇しようとは……!

 それから二人と一匹はとうとう無言で車内を進み始めた。

 残りのドアを次々と開け放って行く。

 三枚目……

 四枚目……

 五枚目……

 六枚目……



 六枚目――? 



 その車両に突入して半ばまで進んだ時、エリオの脳裏に違和感。それは瞬く間に脳細胞を駆け巡り、彼の直感を刺激した。

 おかしい! 何故そこで『六両目』と言う言葉が出て来るのだ!!

 有り得ない! 思わず無意識の隅に置いてしまいそうだった、これが“異常”の正体……これがこの状況の“元凶”!

 「エリオ君……どうしたの? 急に立ち止まって……」

 「…………ねぇキャロ、このリニアは六両編成だったよね?」

 「う、うん、そうだったよ?」

 「じゃあ、車両と車両の間にあるドアは……全部で幾つ?」

 「え!? えーっと……」

 とっさの質問にキャロは自分の指で必死に数えようとする。ドアは車両と車両の間を繋ぐ為に存在しているので、全てのドアは六つの車両に挟まれる形でしか存在する事は出来ないはずなのだ。

 と言うことは……?

 「五つだよ、エリオ君!」

 「……………………」

 「エリオ君?」

 「じゃあ……じゃあ何で……!」

 そう、ドアは“五つ”しかないはずなのだ。いや、あってはならないのだ!

 なのに――、

 「何で僕たちは“六枚”のドアを通ったんだっ!!?」

 最早覆せない絶対の法則、『六両編成のリニアに五つ以上のドアは存在しない』。これが、今、崩れているのだ。

 幼いと言えるエリオの脳内は既に混乱していた。

 何故リニアが急に止まったのか?

 何故乗客が一人残らず消えたのか?

 何故本来五つしか無いはずのドアがそれ以上あるのか?

 何故――

 ここには自分達しか居ないのか?

 頭が混乱の境地に達しようとしていた。



 そんな時――、



 「キュクルゥ!」

 それまで座席の淵で留まっていたフリードが急に飛び立ち、前方の座席の一つに降り立った。なにやらゴソゴソと忙しく動いていたが、やがてその足の鉤爪に何かを掴んでこちらへと戻ってきた。

 それは……

 「これは……!」

 「私達の毛布?」

 それはつい先程まで自分達が使用していた足掛け用の毛布だった。移動を始めたあの時にそのまま座席に置いたままにしてしまっていたのだ。

 だがそれが何故ここにある?

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………ッ!? まさか……!!」

 エリオの行動は早かった、キャロの止める間も無く彼はすぐさま常人離れした脚力を全開にし、窓へと一直線に跳んだ。そして構える、自分の手首に巻かれた待機状態の相棒を。

 「ストラーダぁあああああっ!!」

 瞬間、雷光一閃。目もくらむ眩い光が空間を満たした直後、彼の手には青き槍が強く握られていた。彼はそれを真っ直ぐに構えると、窓ガラスに向かって突き進み――、



 ――破った。



 砕け散るガラスの破片、細かな粒子となったそれらが響かせるシャープな音、そして着地。

 だがその着地は鉄橋からのダイブによる大きなモノではなかった。むしろその逆、ガラスを突き破ってからものの3秒と経たない内に地面に着地してしまったのだ。

 しかし、次に彼が目を開いた時に見た光景は、彼の『予想』通りだった。

 「あ、あれ!? エリオ君っ!!? どうして……さっきその窓から飛び降りたはず……」

 そこはリニアの車内。そして目の前に居るのはキャロ。

 そしてさらに彼女の背後には、見事なまでに砕け散った窓ガラスがあった。

 「やっぱり……そうだったんだ」

 ここで遂にエリオの『予想』は一つの確固たる『確信』へと昇華したのだった。

 「これって、空間が繋がってるの?」

 「いや、違うよ。これは空間が“閉鎖”されているんだ。この六両目だけを綺麗に区切って完全に“閉鎖”しているんだ。その証拠に、ほら」

 そう言ってエリオが自分が割って脱出を試みた窓を指差した。

 「僕達が本当に車両を移動していたのなら、窓の外の風景が変わっているはずなんだ。なのに、全然……。これは僕達が同じ車両を行き来していた証拠さ」

 「それって――!」

 「一定の空間内に特定の選定した人物を閉じ込める……。【封鎖領域】か……あるいは、ミッド式の【封時結界】……。どちらにしても、ここに僕たちを閉じ込めたってことは、少なくとも僕達に用があるってコトだよ」

 「用って……誰が?」

 「決まってるよ、この魔法を仕掛けた張本人さ!」

 エリオの全身が光ると同時に彼は純白のバリアジャケットを装備した。臨戦体勢だ、ここは既に戦場と化したのだ、いつ誰がどんな攻撃をして来るか分からないこの状況では一部の隙が文字通りの命取りとなるのだから。

 「キャロも早くバリアジャケットを装着して!」

 「分かった!」

 淡い桃色の魔力光が輝き、次に彼女の姿が見えると、彼女は白い法衣を身に纏い、グローブ型の人格型ブーストデバイスの『ケリュケイオン』をその両手に装着していた。

 「ケリュケイオン! エリアサーチお願い!」

 『お任せください』

 すぐさま手の甲の宝玉が応える。この狭い空間に犯人が居ると言うのは考え難い、ひょっとしたら外部からの結界構築をしているのかも知れない。現在行っているサーチは使用者の特定と同時に、結界に存在するはずの綻びを捜索するものだった。

 だが、発動から数秒と経たないにも関わらず、エリオの手がそれを制した。

 「その必要は無いよ、キャロ。向こうから来てくれたみたい」

 「え……?」

 そう言ってエリオが再び指差したのは、最後尾の車両に必ずあり、運転手室と対を成す車掌室のドアだった。本来一般客が使うはずもないその空間には現在の状況もあってか、無人のはず――、



 だった。



 ドアが開く。そこから姿を現したフードを目深に被った“それ”を見た瞬間、キャロは背筋が凍ると言うモノを理解した。それと同時に、「蛇に睨まれた蛙とはこの様な感覚なのか」とも感じていた。

 黒い――。

 色がではない、その者の身に纏う雰囲気とでも言おうか、それが限り無く黒かった。抵抗力が無ければ真っ先に取り込まれてしまうのではないかと思える濃度の“邪気”が発散させられてくるのが嫌でも分かった。

 室内から出て来た“それ”は丁寧にドアを閉めると、ゆっくりとこちらへと歩を進めて来た。微動だに出来ない、こっちへ来ると言うのが目に見えて分かっているのに、それでも動けない。キャロを守ろうとして前に立ち塞がるエリオですらストラーダの切っ先を向けることしか出来ず、下手に動けなかった。

 「職務質問の応答要求! このリニアは今どうなっている!?」

 エリオの怒声にも似た声が相手に投げ掛けられた。例え相手が意図しておらずとも、状況に流されてしまっては不利になる恐れがあった。これはその流れを変える為の策だった。

 「…………古代ベルカ式、結界魔法の、【封鎖領域】を張らせてもらった。この車両、限定でな」

 意外にも素直に答える。白いマントを纏う“それ”は答えながらさらに距離を詰める。

 「他の車両は!?」

 「この六両目の車両だけを、切り離し、この鉄橋に、置き去りにした」

 「切り離したって……! その事に気付かないはずが無い!」

 「気付かないように、しただけのこと……」

 「こんなことをする意味は!?」

 「良いのか? 時間が、無いぞ?」

 「何っ!?」

 理解不能な言葉を出した相手にエリオは槍を構えつつも疑問の念を拭えなかった。時間が無い? 自分から仕掛けておいて何を言っているのか?

 「さっきも言ったが、この車両は現在、レール上に固定されている……。さらに、さっき俺は、『この車両に結界を張った』と言ったが、むしろ、『この車両そのものが結界』、と言った方が近い。…………と言うことは、外部からでは、ここに車両があることなど、到底判別出来ない」

 「まさかっ!?」

 相手の出方を探ろうとして稼働していたエリオの脳はとある事実に気付いた。もし彼の『予想』が正しければ、今この空間に長居し続けるのは確かに危険だった。

 「え? えっ!? 一体何のコト?」

 一人だけ事態の危うさが把握出来ていなかったキャロが、場の空気に合わない間抜けな声を上げていた。

 「結界が車両の内部ではなく、この車両全体を外側から覆っているのだとしたら……今ここに置き去りにされている車両の存在を外側からじゃ認知出来ない……!」

 「そ、それじゃあ、今下りのリニアが来たら――!?」

 「僕達はタダでは済まされないことになるね……。普通なら異常事態が起きればダイヤの変更でどうにかなるのかも知れないけど、多分『気付いてない』だろうね」

 バシュッ――!

 ストラーダがカートリッジをロード、圧縮された蒸気音の直後に空薬莢が地面に軽い音を立てて落ちた。ここまで来るとド素人でも彼が臨戦体勢を取ったのだと理解出来た。

 「こんなことをする目的は何だ!?」

 「お前に、用がある……エリオ・モンディアル三等陸士。いや…………プロジェクト・Fの残滓」

 「どうしてそれをっ!!?」

 その口から出て来た意外な単語に驚きを禁じ得ないエリオ。思わず槍の切っ先がブレてしまいそうになるが、堪える。相手が動揺したのを狙って襲撃しないとも限らなかったからだ。

 エリオとフェイトが人造魔導師であることを知っているのは管理局の仲間達と上層部の一部だけで、それ以外となれば局で情報を握って反旗を翻す者しか考えられなかった。相手は何故そのことを知っているのか!?



 だが、この時エリオは気付いていなかった――、

 自分達が人造人間である事を知る可能性を持つ者が他に居ることに――。



 「最後に聞く! 貴方は誰なんですか!」

 ストラーダの刃先がその人物のマントとフードの下に隠れた喉を狙う。人体に数ある急所の内、喉仏は打撃を与えられるとその者は一時的な呼吸困難に陥り、場合によっては昏倒させることも可能な、ある意味では心臓を貫かれるよりも危険な部位である。もちろん、エリオは訓練を受けているので必要以上のダメージを与えないようにすることも可能だが、眼前の相手の力量は底知れない、もし必要『以下』の力しか出さなかったらこちらが――何よりも、背後のキャロが危険だ。それだけは絶対に避けねばならない。

 「…………俺を、誰と問う、か。俺は、お前の事を、知っている、充分にな」

 白マントの首元の留ボタンが外される。だが、袖から出て来たのは人間の肌色の手ではなく、漆もかくやと言う程の漆黒の鋼の指だった。五指に不気味に煌く鉤爪は明らかに対象となる者の骨肉を削ぎ落す為のモノで、手首よりも下に取り付けられたドリルにも似たスピナーは如何なる頑強な物体ですら容易に破壊して見せようと言わんばかりに自己主張をしていた。

 ボタンが外される。まず始めに見えたのは首元に掛けられた金属の首輪だった。悪魔の従属か何かであるかのようなそのチョーカーに刻まれている文字は――『ⅩⅢ』。

 次に見えたのは、全身を覆う紺色の対物理・魔力衝撃防護ジャケット。見覚えのあるそれは、かつて三年前に自分達と死闘を繰り広げた人造人間達が使用していたモノと全く同じで、唯一の相違はそれが男性用のモノだと言うことだけだった。

 そしてフードが取られる。

 「我らが偉大なる、Dr.スカリエッティにより生み出された、ナンバーズ……。その、秘匿されたNo.13……」

 かつてどこかで見た事があるだろうか、エリオはその顔に見覚えがあるような気がした。

 かつてどこかで見ただろうか、エリオは今までにこれ程冷たい目をした人間を知らなかった。

 そして――、



 たった今この瞬間、エリオは自分とキャロの生存率が急激に低下していくのを肌で感じた。



 「ナンバーズ……!!」

 「そう、No.13『トレーゼ』……。最重要警戒対象群、その一人である、エリオ・モンディアル……」

 敵――トレーゼが構えの姿勢を取った。鋼鉄のアームドデバイスのカートリッジがロードされ、四つのリボルバー型の空薬莢が四方へと飛び出る。それと同時に彼の肉体周囲を膨大な魔力が覆い尽くす、紅く禍々しい濃密な魔力が……。

 一概には言えないが、魔力の量や質の差はそのまま個人の力量差に繋がる事が多い。現在のトレーゼの魔力は単純計算しても、明らかに総合AAかそれ以上の力がありことは明白だった。無作為に魔力を放出するだけでこの車両はおろか、下手をすれ車両が現在位置しているこの鉄橋そのものが崩壊しかねない。この場合、エリオがしなければならない事項は二つ――、

 眼前の敵性対象を一秒でも早く無力化すること。

 そして――、

 その間、背後に居るキャロを絶対に守護することだった。

 「でぇぃやああああああっ!!!」

 先に動いたのはエリオだった。先手必勝、後手に回ってしまっては勝機を逃してしまいかねない。今重要なのは敵の目的云々よりも、より早く敵を倒すことだ。

 ストラーダの切っ先が制空圏へと侵入する。この時点で対応が出来ていなければ大抵の人間は次の瞬間には昏倒している。制空圏とは単にその者の攻撃可能な間合いを示す空間だけを指すのではなく、その者が反応可能な域までをも示しているのだ。つまり、ほんの数瞬後にはエリオのストラーダが見事に鳩尾に激突している。



 ――はずだった。



 「な――っ!!?」

 「予想以上に、遅いな。同じ『F.A.T.E』でも、これ程の差が、出て来るとは」

 驚愕に歪むエリオの顔……。

 どうと言うコトはない――、エリオの両手に構えられたストラーダ……その刀身とも言うべき先端部分がトレーゼの鉤爪に捉えられていただけだ。

 「ぐ……!」

 エリオが渾身の力を以て抗うが、大地の割れ目に突き刺さった王の剣のようにビクともしない。幾ら相手が戦闘機人とは言え、片手だけでこれ程の腕力が発揮されると言うのはおかしな話だ、かつて刃を交えたウェンディなど比較にならない。

 「くそっ!」

 かくなる上は――!

 「はぁあああっ!!」

 魔力変換資質。リンカーコアから供給される凶暴な電力を100%、自分の手腕部に集中し、ストラーダを通して一気に放電する。恩師フェイト程ではないが、彼女が空中で放電したのに対してこちらは地上……科学を熟知している者は分かると思うが、放出された(+)の電気は(-)の電気を大量に帯電する地面へと優先的に流れる仕組みになっている。これが人体を経由して行われた時に発生するダメージが“感電”であり、その衝撃は地面に近ければ近い程に増えるのだ。

 そして、彼は知る由もなかったが、フェイトが地上数百メートルでそれを行ったのに対し、現在同じことをエリオは地上で行おうとしていた。電圧と電流に差異はあれど、当然威力は――、

 「喰らえっ!!」

 可視化するまでの高圧電流がストラーダの先端から解放される。さすがに防護ジャケット越しなので肉の焦げる匂いまではしないが、トレーゼのストラーダを掴む手の圧力が少しだけ緩んだ。

 それ逃すことなく、エリオは一旦身を退いた。まずは体勢の立て直し、その次に情報の整理だ。

 「キャロ! ブースト二重掛け、行ける!?」

 「は、はいっ!」

 エリオの救援要請にキャロはすぐさま行動で返す。後衛に専念するキャロの特性を活かしたケリュケイオンのブースト魔法は瞬時にエリオのスピードと、ストラーダの突貫力を脅威的に底上げすることに成功した。

 「……なるほど、“失敗作”だな」

 「ッ!!」

 距離を置くことだけを考えていた為に確認出来ていなかったが、高圧電流によって全身から煙を上げながらトレーゼが再び構える。まるで何事も無かったかのように無表情なその顔に、エリオとキャロは恐怖した。常人ならとっくに気絶していてもおかしくない量の電気を流し込んだはずなのに、それでなお平気に立っていられるその状況が理解出来無かったのだ。

 「俺が欲しいのは、お前の、能力だ」

 「何!!?」

 トレーゼの構え……それはエリオの知る範疇では存在しないはずの未知の格闘技の構え方だった。その動作の一つ一つが余計に二人の焦燥と同様を煽る……。

 「さぁ……俺の、更なる進化の、為に。そして……計画の成就の為に……」

 両拳を突き出したその構えに、エリオも再びストラーダを向け直した。今度はさっきとは違い、キャロの魔法によって術者とデバイスの両方を強化している。次にもしエリオが先手を奪うことが出来たなら、今度こそ間違い無く決着がつくはずだった。今の一瞬の攻防で彼はトレーゼの反応速度を概ね把握出来た、俗に言う、「同じ手は通用しない」とか言うヤツだ。それにここはリニアの車両……狭いこの空間では精々前後か左右の座席の間にしか逃げ込む隙は無い、そして、今のエリオにはその動きにすら対応出来る自信があったのだ。

 そしてこの距離。先程の電撃で相手が特に仰け反らなかったのが逆に幸いし、現在両者の相対距離は始めに相見えた時とさほど変わり無く、エリオの攻撃の速度と間合い補正はこの際必要無くなっていたのだ。その意味では利はエリオの方にあると言えよう。

 行動可能な域は制限されている、間合いは初撃の時と変化無し……天の利は間違い無くこちらに味方してくれていた。

 だが――、

 「?」

 ここでエリオは新たな事実に気付く。

 それは相手の視線のベクトルだ。精密機器を埋め込まれた金色の機械の眼球……それがどう言う訳か、自分の方に向けられていないように見えたのだ。いや、実際向けられていなかった。戦いにおいて最も重要なのが敵の動きを予測することであり、相手の行動を予測するのに最も効果的な部分は目なのだ。目の動きを追うことで常に眼前に居る相手の手を予測しようとするのは近接戦闘における基本なのだ。

 それがトレーゼの場合は違った。彼の視線はさっきからエリオの両目でもなければストラーダの先端でもなく、むしろ彼そのものを見ていないようにしか見えなかったのだ。ますます意味が分からない……そして、その意味不明な行動がさらにエリオを混乱させるのだった。

 「く……っ!」

 分からない。

 相手の目的が、

 行動の意味が、

 そして本当の素性が……。

 全て分からない……。だからエリオは無意識に考えてしまうのだ――、



 自分は目の前の敵とまともに戦えるのだろうか、と。










 私は夢を見る――。

 そうか、夢なのか……どうりで意識がハッキりしないはずだ。あぁ、懐かしい……この風景、この喧騒、この匂い……そして“お前”。

 夢の中とは言え、また“お前”に会えるとは思っていなかった。久方振りだ、『嬉しい』などと言う女々しい感情を喚起したのは。だが悪くはない。

 本当に懐かしい……まだ全てが未知だったあの頃……。知っているつもりでも、知らないコトが多かったあの頃……。思い浮かべるだけで眼前に再現されるとは……夢を見ると言うのもたまには良いモノだ。

 でも――、

 これは夢なのだ。

 そう――、

 望んでもいつかは覚めてしまう、優しくも残酷な現実……。

 もうそろそろ……行かなくてはならない。次に相見えるのはいつだろうか? 期待はしない、私はあまり睡眠中に夢を見ないからな。

 そんな顔をするな。お前はいつまでも私が居なければならない訳ではないだろう? やれやれ、自分がこれ程にまで女々しい存在だったとはな……。 

 だが、それでも楽しみにしているぞ。また“お前”に会える時を……。

 最後に――、

 “お前”と初めて会った時を思い出そうか。

 そう――










 あれは……いつだっただろうか?










 私は目覚める――。

 自分でも不機嫌なのが分かった。

 だが、何がそんなに腹立たしいのかは分からない。恐らく、さっきまで見ていた夢の所為なのかも知れなかった。

 だが――、



 私は自分が何の夢を見ていたかは覚えていない。



 生来、重要な事項以外の余計なコトは頭に留めないタチだから、当然だったと言えよう。

 ……もしかしたら……

 今自分が苛立っているのは、『見ていた夢の内容を忘れてしまったから』なのだろうか?

 良い夢を見ていたのに、覚醒してみると全くそのことを覚えていなかった自分に対して、無意識に 腹を立てているのだろうか……?

 「ハッ……!」

 バカバカしい、そんなどうでも良いコトに囚われて、一体何になると言うのだ!

 それに……

 そんな女々しいことこの上無い感情など……

 もう、とっくの昔に置いてきてしまったはずなのだ。

 「そう……あの時に……」

 胸中をさっきの苛立ちとは別の感情が支配するのが手に取るように分かった。

 このドス黒く、居ても立ってもいられないこの感情は――『悔しさ』か!?

 あぁ、感情の捌け口が分からぬまま、私は情けなく頭を抱え込み、掻き毟る。だが幾ら頭を乱暴に掻いても、胸の中の“それ”はいつまでも収まりがつかなかった。










 何年振りだろうか――、

 この目から熱い雫を零したのは――。



[17818] EVOLTION――進化の兆し
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/05 00:36
 11月14日、午前8時49分、時空管理局海上更正施設にて――。



 自分に宛がわれた独房の中でセッテは考える。

 早朝での監視検査の際にはなんとかやり過ごせたが、今の彼女の全身は青痣だらけだった。思い切り走っている時に派手に転んだとしても、これ程の怪我はしないのではないかと思える位の酷さだ。

 もちろん、彼女が自分でそんなヘマをするはずが無い。これは全て深夜中にレクリルームで行った戦闘訓練……と言う名の一方的な虐げの所為に他ならなかった。培養槽から出されて三年が経過しているが、これまで味わって来た痛覚の中では最も刺激が強かったと言える、ひょっとしたらトーレの渾身の一撃と匹敵していたかも知れなかった。

 「…………」

 だが彼女の胸中には敗北から起因する悔しさよりも、もっと別のモノが満たされていたのだった。とても歯痒く……それでいて身を焦がすような高揚感――。



 欲しい!



 それは願い。自らに足りないモノを補おうとする純粋な願望。

 それは欲望。自らの欲するモノを如何なる手立てを以てしてでも手に入れようとする、この世で最も生物の根幹を成すに近しい行動原理。

 今のセッテの心境は、目の前に玩具を見せ付けられた幼子と同じだった。

 あの強さが欲しい……! 何人たりとも寄せ付けない強靭な肉体、如何なる者でも捕捉不可能な速度、地に膝を屈さずにはいられない物理的パワー……そして何よりも、あらゆる局面に対応する戦闘テクニック――。

 どれも自分には無かったモノだった。「魅せられた」と言っても過言ではないだろう、実際彼女は戦闘機人としてトレーゼの強靭無比なスペックに圧倒され、すっかりその強さに心酔し切っていたのだから。



 だが――、



 求めるだけ虚しい、特にそれが形の無いモノならば尚更だった。いくら強く望んだところで、彼女にあの強さが身に付く訳ではなかった。かと言って、特訓を欠かさなければどうにかなると言うものでもない、あの強さは明らかに一朝一夕で手に入れられるモノではないことは確かだったからだ。

 それでも欲しい! 最早彼女の脳裏に輝くのは人間ではなく、戦闘種としての使命のようなものだった。戦う為に強くなる……強くなる為に戦う……この連鎖こそが自身を強化するものなのだとセッテは固く信じていたのだ。

 もう止められない、止められるはずもない。一度動き出してしまえば、あとは自身の欲望を満たし切るまで絶対に止まらない。

 それは、かつて一人の青年が自ら処刑される為に街から街へ走り抜いたように……。

 それは、かつての西方の有角王がこの世の陸地を全て我が物にせんとしたように……。

 それは――、



 かつての美しい名を持った少女が禁断の男性を求めたように。



 強さに恋焦がれる……こんな意味不明なモノに自分が惹かれるなどとは思ってもいなかったセッテだったが、実際自分がその立場に立たされたとなると共感出来る。なるほど、管理局に務める某ベルカの剣士が生粋のバトルマニアだと言う噂を聞いた事があったが、頷ける。

 と、ここで彼女は考えることを“停止”した。

 否、『停止せざるを得なかった』と言うべきか。

 「こ……れ、は――!?」

 質素なベッドの上でセッテは自らの体を縮めた。背中を海老反りにし、桜色の長髪を振り乱し、まるで狂ったかのように頭を掻き毟る。

 「あ、あああぁ、ああああああ゛あ゛あ゛ぁあっぁああああっ!!!」

 尋常ではない。

 始めは腹痛か何かを起こしたのかと思ったが、実際は違った。

 熱だ! それも、まるで溶鉱炉の中心に突っ込んだかのように全身が熱い。始めは心臓と脳天から始まり、それは10秒と経たない内に全身を侵し始めたのだった。

 まるで溶解寸前にまで熱された鉄棒で刺し貫かれるような地獄の感覚が素肌を、臓腑を、骨を、神経を、脳髄を……破壊するかのように……。セッテ自身は一応人間の身である以上は肉体の健康にも気をつけていたし、そのことの重要性は彼女の教育係であったトーレからも重々言われていたので今までに一度も怠ったことなどなかった。それに、彼女の知る範囲内ではこんな急激に肉体を蝕む熱病など知らなかった。

 「あ゛あ゛あ゛……!! ぁぁぁあっぁあああああ゛あ゛あ゛――っ!!!」

 『セッテさん? 何か異常でもありましたか? ……セッテさんっ!!?』

 監視カメラを通して異常に気付いたのか、天井のスピーカーから管制室に居る自分の担当官が声を掛けてきた。だが、そんな声も熱に侵された彼女の耳には届くこともなかった、今のセッテは自身の精神を保つだけで精一杯だったのだ。

 そんな彼女の足掻きも、とうとう終わりを迎える時が来ていた。

 「――ッ! ―――カ……ッハァ――!! ……………………」

 墜ちる。

 なんとか筋一本で支えられていたセッテの精神の糸がついに切れ、全身を小刻みに痙攣させながら彼女はベッドから落下、やがて痙攣のサイクルが緩やかになった時……彼女は両目を静かに閉じた。

 『医務室! 至急、243号室へ急行してください!! 急患です!』

 管制室は混乱しているようだった。それはそうだ、管理下にある囚人がいきなり原因不明の熱病に失神したとなれば、様々な責任問題に問われるから一大事だろう。

 (あぁ…………何も聞こえない……。ワタシは……一体どうしたと言うのだろうか?)

 薄れゆく精神の中で、セッテは視界がぼやけるのを感じていた。このまま行けばやがては完全に気を失うだろう……別に恐怖は無い、むしろ何故か訳も分からない安定感が胸中を満たしていた。言うなれば、そう――、



 胎内の子が、その全てを母に委ねるような絶対の安定感があった。



 不思議だった……自分がどうなってしまうかも知り得ぬと言うのに、全てを曝け出してしまいそうな安心感を感じているこの矛盾が……。

 あぁ……ワタシの意識が墜ちる。

 彼女が薄れ行く意識の中で最後に見たモノ……それは、別れ際にトレーゼから手渡された新たな紙片だった。



 『1115・1300』、とだけ記されていただけだった。










 午前8時57分、北西山野地帯のとある渓谷上に掛けられた鉄橋上にて――。



 「…………」

 「…………!」

 孤立した車両の中でエリオとトレーゼは相対する。片方は身の丈を越える槍、片方は鋭利な鉤爪の付いた鋼鉄の拳……一見すると、間合いの大きさの分だけエリオに分があるようにも思えるが、実際のトレーゼの反応速度とそれに見合うだけの機動性はエリオの想像の範疇を遥かに逸脱していた。下手な動きはそれだけで命取りになってしまい、もちろんそれは背後のキャロも例外ではなかった。

 加えてこの車両は現在古代ベルカ式結界魔法【封鎖領域】によって完全に外界との接点を断たれていた。蟻の這い出る隙間も無いとは良く言ったモノだった。

 しかし、素人が見れば絶望に満ちたこの状況下でも、エリオの洞察眼は既に状況の整理から対処法の絞り込みまで行い、作戦の立案にまで取り掛かっていたのだった。

 (どんなに小規模でも、これだけ緻密な結界を維持するには想像以上の集中力と、そこから起因する魔力の持続性が無くちゃならないはず……。複数の犯行なら問題だけど、結界から漏れ出ている魔力の波長は一種類だけ…………つまり、発動して維持しているのは、目の前の一人だけってことになる)

 そう、結界に意識を集中させてから分かった事なのだが、この空間の維持に専念しているのはトレーゼ一人だけのようだった。通常二人以上で結界の発動と維持を行った場合、微量ながらも必ず他の者の魔力波長が伝播されるはずなのだ。それがこの場合に限って全く無かったのだ、魔力消費の面から考えれば途徹も無い話だが、トレーゼはやはり単独でこの空間を維持していたようだった。

 だとすれば、この戦いにも一縷の光明があった。

 いつだったか述べたように、結界魔法とは数多くの魔法の中でも特に精密さが要求されるモノだ。例え一時でも集中を切らせばそこで全てが破綻、異空間を形成していた結界は跡形も無く消滅してしまうのだ。本来なら複数での維持、もしくは単独で空間維持に専念する者が居ない限りは滅多に使用されないし、使用を忌避するはずの魔法を彼は本当に一人で行っている。

 つまり、いつ集中の糸が切れてもおかしくはないのだ。もしここでエリオが決定打となるだけのダメージを与えられれば間違い無く結界に揺らぎが生じるだろう……その一瞬の隙を突いてキャロが結界破壊の魔力を流し込めば脱出するのも夢ではないはずだ。

 「…………」「…………」

 念話などしなくても良い、エリオとキャロは一瞬のアイコンタクトで互いの行動内容を把握すると、密かに体勢を整え始めた。タイミングは一瞬しか訪れない、逆に言えばその一瞬を逃してしまえば今度こそ命を……

 張り詰める空気――、引き締められる筋肉と神経――。

 人体で最も活発に動く部位だとされている眼球でさえ、今ばかりは一寸も動いていなかった。両者共に純粋に相手の動作を見逃すまいと、睨み合っている。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………はぁっ!!!」

 「――ッ!」

 先に動いたのはまたもエリオだった。両腕の上腕二頭筋を一気に収縮させてバネを溜め、それが最大限になった瞬間にカートリッジロード、魔力の電撃を帯びた刃をトレーゼの顔面に向けて一閃! この間およそ2秒弱、これまでの戦いの中で何万回と行って来た行動だけに、一切の無駄が無い。エリオはかつてこれと同じ動作の攻撃で、保護管理下にある竜の暴走を食い止めたこともあり、その竜は鋼の数倍の硬さを誇る自慢の甲殻をボロボロにされていた。その時程の出力ではないにしろ、現在の彼の刺突は少し大きめの岩石程度なら余裕で粉砕出来るだけの力が込められていたのは明白だった。

 ヴィータの鉄槌は『面』、シグナムの斬撃は『線』……どちらも受け止めるとなれば相当の力量を要するが、エリオの場合は刺突による『点』での攻撃だった。攻撃に用いられた面積が狭ければ狭いほど、その捌き方には技量が求められる……流麗な剣撃は回避して受けられたとしても、篠突く雨の如く連続して突き出される槍の一撃一撃を全て避けるのは到底不可能だろう。エリオはまさにそれを利用していたのだった。

 地球の歴史で見掛けるような槍と比較するとストラーダの先端面積はやや大きめだが、それでもその攻撃面積は限り無く狭い。そして圧力――。例え掛かる力が同じでも、その接地面積が小さければ掛かる圧力は大きくなり、破壊力も増すのだ。エリオの両脚によって支えられ、腕のバネで起爆して発進したストラーダは、触れたその瞬間に爆発的なエネルギーをその先端から発散させるはずだった。

 「フンッ!」

 それを避けるトレーゼ。下手に真正面から受け止めようとすれば、その圧力によって予想以上のダメージを負いかねない。ここは無駄打ちを誘って体力を消耗させると言う作戦に出ていた。それもただ単に体を逸らして回避するのではなく、自分の手前ギリギリまでに迫った瞬間に切っ先に掌底を当てることによって軌道を変え、自分の体力消費を限界にまで抑え込んでいるのだ。

 だが――、

 「まだだぁ!!」

 軌道を逸らされた瞬間にエリオがストラーダを引き戻し、すぐさま第二射が放たれる。初撃と全く遜色無い、むしろ精度もスピードも突貫力も、始めのモノと比較して上がっているのではないのかと思える程だった。

 それを先程と同じようにして捌くトレーゼ。なるほど、彼にとっては幾ら鋭さを増そうが所詮は刺突に限られた単調な攻撃……それほど特筆に値するモノでもなかったのだろう、顔色一つ変えずに片手で二撃目を完全に回避した。



 が――、



 「だぁっ!!!」

 「――ッ!?」

 そこに彼ら以外の第三者が居たなら目を疑っただろう。

 最高数百ボルトの出力を誇る電撃を以てすら身動ぎしなかったトレーゼが、大きく後方へと跳び退いたのだ。たった一瞬の出来事だった、そのたった一瞬の間に彼が生物的本能を以てして危険を察知したのか、エリオと彼の距離はこれで大きく開いてしまった。

 「……なるほど、考えたな」

 いつもと同じ抑揚の無い声のはずが、その時だけはどこか苦々しそうに聞こえた。

 彼の視線の先ではストラーダを突き出した体勢のままでこちらを力強く凝視するエリオの姿――。そして、彼のストラーダの陰に隠れて空中に飛んでいるフリードの姿があった。小さな口からは炎を吐こうとしていたのか蒸気が昇っており、その目つきは外敵を追い払わんとする一人前の竜の姿だった。

 「まさか、そんな小さな竜を、出してくるとはな……」

 そう……あれだけの至近距離で戦うとなれば、得物の長短に関わらずトレーゼに比べて身長の低いエリオは、どうしても下方からストラ-ダを突き上げる形になってしまうのだ。するとその場合、トレーゼの視線から見てストラーダの先端の丁度下側は絶対の死角となり、もしここに何らかの仕掛けを施した場合、回避するのは一気に至難の業へと昇華するのだ。

 この場合における『仕掛け』とはまさにフリードのことだった。槍の刺突による剣撃を寸前で回避する行動を見抜いたエリオは、絶対の死角であるストラーダの陰に密かにフリードを潜行させ、相手が槍を弾いた直後に火炎攻撃で仕留める算段だったのだ。直接的なダメージは与えられずとも、一瞬でも怯ませられることが出来れば良かったのだ。

 だが実際は寸前でトレーゼが大きく後退した所為で火炎攻撃は成されなかった。

 「……今分かったことがあります……」

 突き出していたストラーダをゆっくりと引きながら、エリオは素直に自分の思った事を口走っていた。それは侮蔑でも嘲笑でもなく、むしろどちらかと言えば――、

 「貴方は強い」

 畏敬の念に近かった。一対一のサシ勝負……命と命を懸けた真剣な渡り合いだからこそ理解出来る戦いの境地の悦びに、エリオは今、達していたのだ。始めの頃の恐怖感はどこへやら、かつてシグナムに剣技指導をしてもらっていた時でさえ、これほどの興奮と高揚感を経験したことがあっただろうか!?

 師であるシグナムのことを常日頃から、戦いに悦びを見出す生粋の武人である事は重々理解してはいた……。彼女が戦う場面を自分は何度か目にしたことがあったし、その度に彼女が『戦う』と言う行為に敬意を払い、同時に勝者敗者と言う概念すら超越した、最早美的と言っても良い感覚に浸っていることも知っていた。だがあくまでそれらは、『知っていた』と言うだけのモノであり、同じベルカの騎士とは言え古代の戦士にしか理解できないモノなのだろうと自己完結していた節がエリオにはあった。

 誰が想像し得ただろうか!? そのエリオが、たった今強者との戦いに没頭し掛けていることを。一瞬だけ……ひょっとしたら刹那の感覚だったのかも知れなかったが、彼はこの攻防を『楽しい』と感じてしまっていた。今まで自分が目にして来た単調な動きしか出来ないガジェットや、ただ凶暴なだけの魔法生物とは違う……真に高い知性とそれに見合うだけの戦闘力を持ち得る者だからこそ、この充実感が得られているのだ。

 しかし、そんな戦いの愉悦に彼が浸っていたのはほんの数瞬のことでしかなかった。この空間に閉じ込められてから通算三度目になる刺突体勢を構え、勝負は再び膠着状態へと戻った。もう二度とフリードによる奇襲は出来ないだろう……これ程の実力者ともなれば、例え工夫を凝らしたとしても同じ手に易々と掛かるとは到底思えなかったからだ。

 「……………………」

 「……………………」

 再び訪れる無言の静寂に、両者はただ睨み合う。どちらが優勢劣勢と言う訳でもなく、得物の関係から今はただ下手な動きが出来ないだけに過ぎなかった。仮にエリオかキャロのどちらかがミッド式のデバイスを所持していたのなら遠距離から一方的に相手に攻撃を加えることが出来ただろうが、エリオはミッド式が混合して出来ている近代ベルカ式の使い手とは言え接近戦専門、キャロに至っては後衛からの支援しか出来ず、まず直接戦闘には全く以て不向きだと言うのは最早言うまでもなかった。

 対してトレーゼの方は戦闘スタイルは全くの未知だった。使用されているデバイスは両手両脚の全部で四基、見掛けはエリオ達も充分知っているナカジマ姉妹のキャリバーとナックルに酷似しており、先程から観察している動きも接近戦に特化した動きをしていたが、実際に彼が純粋に接近戦特化の術者であるかどうかは怪しいところだった。エリオの野性の嗅覚は、彼が一癖も二癖もあることを見抜いてはいたが、何よりもそれらを知らしめているのが彼の姿形だったのだ。

 (ナンバーズ…………その13番目。本当なのか? 彼の言っていることは)

 紺色を基調とした防護ジャケットに首元の金属製チョーカー……後者はともかく前者の防護ジャケットは見紛うはずが無い、かつて三年前の地上本部襲撃事件において散々煮え湯を飲まされた12人のナンバーズが着用していたモノと全く同じだったからだ。次元世界広し言えども、戦闘の際にこんな防護ジャケットを着用しているのはスカリエッティ製の戦闘機人、“ナンバーズ”以外には到底有り得なかった。そして、そのナンバーズの生き残りか模倣か何かは知らなかったが、今こうしてここに存在していると言う事実をエリオは上手く呑み込めていなかった。

 まず、何故こんな所に居るのかが分からない。三年前ならいざ知らず、現在12人のナンバーズは全員捕縛されて内8人は保護観察、残り4人の内の一人は死亡し、3人は収監中……首謀者のジェイル・スカリエッティですら軌道拘置所にて厳戒体制の元で無期限収監中だ。もし、眼前のトレーゼ自身が純粋にスカリエッティによって生み出された機兵として存在しているのならば、まずは主人の救出を急ぐはずだ。それが何故に自分達を付け狙うのか……。

 「……………………」

 「……………………」

 この車両が現在外側から見てどうなっているのかは分からない。だがこのまま結界の効果で何も見えないまま後続リニアが来てしまえば、間違い無く惨事になるだろう。そうなれば自分達は車両ごとこの鉄橋から転落、なんとか車両の外殻が落下の衝撃に耐え得るのではと言う希望的観測も出来なくもないが、その望みは限り無く薄いだろう。

 だが、同時にその危険性は相手のトレーゼも同じ事だ。あちらは直前に脱出する算段でもあるのかも知れなかったが、少なくとも、自分達に用がある以上はエリオから離れることは決して考えられない。もしかすると、後続車両と衝突するかもと仄めかしていたのも、ある一種の脅しか何かだったのかも知れなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 もうどれだけの時間が流れただろうか……時間と言う概念が存在しない結界の中では正確な時の流れすら実感出来ない。この緊張に包まれた静寂が永遠に続くのではないかと、エリオが錯覚し始めた、その時――、

 「……いつまで、そうして、いるつもりだ?」

 「え……?」

 唐突に何を言い出すのかと、エリオは思わず身構えていて硬くしていた全身の筋肉を緩めてしまった。その時相手から完全に殺気が消えていたのもあったのだろうが、ともかくその瞬間のエリオは全くもって油断していたと言っても過言ではない状態だった。

 にも関わらず、その隙を付け込んでトレーゼが攻撃して来ると言う事態は決して起こらなかった。常人では考えられない、またとない絶好のチャンスを自ら作っておきながら、それをあえて不意にするかのようにトレーゼは両拳を構えたままの体勢で微動だにしないのだった。一応、必要最低限の警戒だけはしているようだったが、相変わらず視線はどこを向いているのかまるで分からなかったし、何故か殺気を完全に消し去った状態にも関わらず冷や汗が止まらない。むしろ、この完全な無の状態こそが彼の真骨頂なのではないのかと、勘繰ってしまいたくなる。

 だがそんなエリオには構わず、トレーゼは自分の口から矢継ぎ早に言葉を紡ぎだしていた。 

 「事前に、調べて判明したが、お前は、人造魔導師らしいな……エリオ・モンディアル」

 「……それが何か?」

 「実に……“理不尽”だと、思わないか?」

 「理不尽……? 一体何の不満があるのか、僕には分からない。僕は確かに欲が無いとは言えないけど、少なくとも、今自分が持てる分以上には望んだことなんて一度も無いよ」

 嘘は言っていないし、ましてや偽善など欠片もあろうはずがない、エリオが言った言葉は全て真実だ。確かに自分は真っ当な生まれ方をしていない紛いモノの生物であることは否定しない……。本来、この世にはもう存在しないはずのオリジナルの『エリオ・モンディアル』を模して造られたただのレプリカに過ぎず、一時期はどうしてもその現実を認めることが出来ずに荒んでいた時もあった。あの時は自分と言う存在を成す全てが一瞬にして否定されたような気がしていて、その所為でまだ幼かった自分は他者を拒否することで自分を“自分”として保とうと必死になっていた……そうしなければ、“自分”と言う小さな存在が本当に霧散してしまいそうで恐怖していたからだ。

 だが今は違う! 胸を張ってそう言えるだろう。フェイトに引き取られて、彼女が献身的に自分の母親としての責務を成し遂げてくれていたからこそ、今の自分の礎があり、そのことは最早言葉では語り尽くせない程の感謝の気持ちで一杯だった。確かにフェイトがエリオを引き取ったのは、彼女自身が自分と同じ境遇に置かれていたエリオに対して同情の意念があったと言うのも一つの要因だったのかもしれなかった。だが、例えそこに同情の気持ちが混じっていたのだとしても、彼女が自分を引き取って育てて、自分に数え切れない程の大切なコトを教え続けてくれた…………そのことに、一体何の不平が、不満が、理不尽があると言うのだろうか。もし、そんなモノが胸中にあると言うのならば、それこそまさしく『理不尽』と言うモノだ。

 「なるほど……所詮は、その程度の、認識しか無いか」

 「何っ!?」

 自分の思っていたことが読まれたかのようなトレーゼの言動。しかし、エリオが驚いたのはそこではなかった。

 「俺が言っている、“理不尽”とは、お前の環境を言っているのではない。そんなモノは、どうでも良い…………俺が言っているのは、お前と、俺の、差だ」

 「僕と……貴方の……差?」

 エリオは、始めトレーゼが何を言いたいのか全く分からなかった。単に自分の理解度が低いのか、それとも彼が言葉足らずなだけなのか……。

 「正確には、俺と、お前“達”だ」

 「?」

 「疑問には、思わないか? 何故、同じ創造主の理論で、『造られたモノ』が、片や管理局の“私兵”……片やナンバーズと言う名の、“機兵”として対立するのか……。俺には、度し難い」

 「貴方と僕は確かに他人の身勝手でこの世に生を受けた……確かに、その点では僕と貴方は同じです。でも! 僕は守る事の大切さを教わった」

 「それが、何だ?」

 「貴方は僕よりもずっと強いかも知れない……腕力も、頭脳も……僕の何倍も上を行っているのかも知れない……。だけど! どんなに強くて大きな力を持っていても、それを正しく使えなかったら意味が無い!」

 「力の、使い方に、良し悪しは無い」

 「それは違う! 人を傷付ける大きな力よりも、人を救うささやかな力の方がずっと尊い事だって僕は知ってる!! 僕はそれを教えてもらった! 貴方達は教えてもらわなかった! それが僕と貴方の違いです」

 相手の妄言のやり取りに一々付き合っていては心理的に思う壷だ。ここは理路整然とした論理では何も出来ない、感情論で押し切ることで相手の流れを無理矢理引き剥がすと言う戦法に出たのだった。

 だが――、

 「なるほど……やはり、『F.A.T.E』は、揃いも揃って、“失敗作”ばかりか」

 「え……!?」

 「誰よりも優れ、誰よりも前進的で、如何なる他者をも、超越し得る可能性を秘めているのも関わらず……所詮は、ただの“人間”の域か……。期待外れ、と言うのもおこがましい」

 「何が言いたいんですか」

 「プロジェクト・F…………その理論によって、造られたモノは、先天的に、遅れているようだ。他者より先に、他者より強く、他者よりも賢く……それが、この世界の定石……それを、自ら破棄すると言うのは、“堕落”と言うモノに、他ならない。所詮は、テスタロッサの残滓も、“堕落”したモノ、でしかないと言うことか」

 「…………」

 「そして……あの、ゼロ・セカンドも、また同じ――」

 「ッ!? ゼロ……セカンド?」

 聞き覚えのあるその単語に、それまで槍を構えていたエリオの警戒心が再び揺らいだ。少なくとも、彼の知る限りではそんな単語は一回しか聞いたことはなく、さらに言えばその単語が表している意味がそうそう幾つもあるなどとは当然思っていなかった。

 「お前達には、『スバル・ナカジマ』と、呼称した方が、理解出来るか」

 「ッ!!?」

 その名を聞いた瞬間、エリオとキャロの脳裏に鋭く映ったのは、医療センターの病室で生死の境を彷徨い、目も当てられない状態に陥りながら痛々しく生きていたかつての戦友の姿だった。左腕以外の四肢を何の慈悲も無く無残に切断され、自身の夢を完全に断たれてしまった彼女の姿……なんと虚しく悲しいモノだったことか。

 目の前のトレーゼが何故スバルのことを――それも惨事に陥ったのを知っているかのように話すのか、エリオには最初は分からなかった。だが、落ち着いて情報を整理してみれば簡単なことだった。スバルが襲われて四肢を失ったのは六日前の11月9日の本部テロ事件の時だった……。本部内を散々混乱させた後で脱出を試みようとしていた犯人を捕えようと駆けつけたティアナだったが、実力足らずに後一歩で返り討ちにされかけていたのを寸前で救出しようとして割って入り、代わりに攻撃されたのだと聞いている。その時、二人が襲撃にあった地下大型搬入通路にはたった三人の人間しか存在していなかった……スバルとティアナ、そして侵入者の三人だけだ。つまり、目の前のトレーゼがまるでスバルに直に会っているかのように話しているのは何も不思議なことではないのだ。

 本当に会っているのだ。そしてスバルの四肢を捥ぎ取り、彼女を回復の見込みすら無い昏睡状態へと追いやった。でなければ、今この場面で彼の口からスバルの名が出て来るのはどう考えても不自然だからだ。逆に考えれば、彼が実際に地上本部への侵入者であるのだとすれば、彼がスバルの存在を知っているのも、ティアナの報告にあった武装を装着しているのも全て説明がつくが、それでも自分達の前に立ち塞がる理由だけがまだ分からなかった。



 だが、そんなことは今のエリオにとってどうでも良かったのだ。



 「――――ッ!!」

 彼は常人と同じ120°の視界しか持っていなかったから、背後のキャロがどんな表情をしていたかは知らなかった。だが、自分が今どんな形相をしているかは鏡を見なくても手に取るように分かっていた。

 「貴方が――、お前が……スバルさんを……っ!!」

 それは“憤怒”。生物の持つ感情と言うプログラム、その根幹にある最も原初に近しい衝動……怒り。全神経を焼き焦がし、肉体に規格外の力を与える根源となるその荒ぶる感情が、エリオの脳内から始まって全身を高圧電流となって駆け巡った。もはや理性とかと言うモノでは止められるはずもない、例え傷付くのが他人でも、彼のとっては我が痛みと同じことなのだから。

 すぐ背後でキャロが制して来るようだったが、今の彼の耳には届かない。我を忘れた人間とはかくも雄々しく、そして荒々しく攻撃意思を剥きだしにするものなのかと思わず感心してしまいそうな程だった。

 「ストラーダッ!!!」

 自分の身長より若干長大な相棒を、古代の祭典の槍投げのような投擲体勢で構える。ここまで来ると間違い無い、エリオは本気で目の前のトレーゼを廃そうとしているのだ。かつてこの投擲の姿勢から繰り出した一撃で、保護担当区域で暴走していた竜の外殻に大きな傷を付けたことがあった。一度人に向けて放たれ、もし仮に直撃したとすればどうなるか、エリオ本人が一番良く知っているはずだった。

 しかし止めない。母とも言えるフェイトを貶め、かつての同志の夢までをも断ったその存在が、エリオにとっては許すことが出来なかった。だから放つのだ!

 踏み出しの時点で既に彼の初速は小型車両並みのスピードが出ていた。止めるとなれば物理的に相当量の力が必要になることが予想されるが、間違い無く今のトレーゼにはそんな力は備わっているはずもない。竜の外殻ですら防ぐ事が不可能な一撃に、たかが増強肉体が耐えられる道理が無かったのだ。

 「貫けぇぇええええええええぇええっ!!!」

 魔力変換資質による高圧電流と、機動力底上げの【ソニックムーブ】の併せ技……当たれば即死レベルの大技だ。

 北欧神話に登場する神の槍――『グングニル』にも匹敵する強大な一撃が、今――、



 ――放たれた。










 同時刻、第9無人世界『グリューエン』の軌道拘置所にて――。



 「一週間振りだな。私個人としてはもう少し早く訪れるものだと思っていたのだが……」

 殺風景な面会室のパイプ椅子に尊大な態度で座るのは、稀代の天才科学者ジェイル・スカリエッティその人である。白い囚人服をだらしなく着ているその自堕落な姿からは到底想像もつかないが、現在確認されているどの次元世界にも彼に勝るだけの頭脳を持つ者などは存在しないことだけは確かだった。もっとも、彼がその才能を衆人の為に向けるかどうかについては別だが。

 そして、そんな彼が何故自分の独房ではなくこんな所へ来ているのかと言えば……どうと言うこともなく、単に面会者が来ていただけに過ぎない。もっとも、その面会者と言うのは彼も熟知していて、本来ならば自分を投獄する要因となった忌むべき存在の――、

 「生憎、貴方が思っている程に執務官の仕事も暇ではありませんから」

 金髪の麗人、時空管理局が誇る武装執務官にして、戦術の切り札の一人……フェイト・T・ハラオウンだった。局の制服に身を包んだ彼女は強化ガラス一枚を隔てた向こう側で、スカリエッティと完全に向き合う形で同じように質素なパイプ椅子に座っていた。ある程度の美しさを持った者は黙って座っているだけで画になるから不思議なものだと、つくずく実感させられる。

 ここで浮上する議題とは、『何故再び彼女がここに訪れたか』と言うことにある。前回の11日6日に彼女がここへやって来たのは目の前の狂科学者に事情聴取することが目的であり、このやり取りは既に彼が捕まったこの三年間ずっと続けられていることだった。未だに口を割らないが……。

 ここで思案していても埒が開かないので、二人の会話に耳を傾けることにしようと思う。

 「それで? その、『お忙しい武装執務官様』は今度は何の用事でこんな辺境の獄中まで足を運んだのかね? ここへ来る物好きな局員は君ぐらいなものだがな……」

 「…………今回はJ・S事件とは別の件で来ました。いえ……ひょっとすれば、貴方と関わりが深いかも知れません」

 「ほう……。遠回しな言い方は好きではないが、興味深いのもまた事実……。一体何だね?」

 「…………」

 するとフェイトは自分の制服の内ポケットからある物を取り出し、それをガラスの向こう側にいるスカリエッティに提示して見せた。

 「ふむ……なるほどな」

 それは何の変哲も無い二枚の写真だった。だが、そこに写されているモノが問題だったのだ。

 一つは、台の上に固定された七本のガラスの試験管だった。一本ごとに番号が付けられているのだが、何故か『Ⅵ』から始まって『ⅩⅡ』で終わり、中には透明な液が詰め込まれているのが分かる。もう一つは、ナカジマ姉妹が使用しているリボルバーナックルに酷似したものと、ノーヴェのジェットエッジに似た形状の武装が写っており、それぞれ両手両脚の二つ分が存在していた。

 そう、これらはどちらも三年前のJ・S事件解決の際に検挙されたスカリエッティのラボから押収された代物であり、今から六日前の地上本部のテロ事件で侵入者によって強奪されたものでもあった。一方は誰がどう見ても明らかに四肢に装着する為の武装と言うのは分かるが、もう一方は何の道具なのかについては持ち主が口を割らなかった所為で未だに不明だ……少なくとも、成分分析の結果では毒でないことだけは確かだった。

 「ほほぅ……そうかそうか」

 何が可笑しいのか、その写真を見た途端にガラスの向こうのスカリエッティの表情が満面の笑みへと変貌した。独り言のように呟きを漏らしながら、一人で笑うその姿は見ただけで嫌悪感を剥きだしにせざるを得なかった。

 「……それで……私に何を聞きたいのかね?」

 「まず第一に、『その二つが何なのか』と言う疑問に答えてください」

 「断る……と言った場合は?」

 「梃子でも動きません。貴方が答えるまで……」

 そう断言したフェイトの赤い目は固い意志の炎に満ちていた。戦場で見るモノとは違い、その瞳の決意は穏やかで、それでいて有無を言わせない凄みがあった。それはまさに、この三年間の事情聴取においてスカリエッティ初めて目にした彼女の決意の光でもあった。

 両者の睨み合いが一体どれだけの間続いたのか、やがて――、

 「面白い、そこまで言うのであれば私もそれ相応の態度で返さねば筋が通らないな。良いだろう、私が御教え出来る範疇であれば幾らでも御教えしよう。ただし、私が話すのはこの二枚の写真についてのみで、君達がJ・S事件と呼称している件に関しての情報提供はこれまで通り何一つするつもりはないので、心得るように」

 スカリエッティが折れた。やけに芝居掛った口調で、ちゃっかりと条件まで設けて……。 

 「不思議なものですね。この三年間、ただの一度も情報提供をしてくれなかった貴方が、このたった二枚の写真だけで動いてくれるとは……正直言って、拍子抜けです」

 「君が私に対してどのようなイメージを抱いているのかは知らないし、別段知りたくもない。だが一つ言えることがあるとすれば……私も風の吹き回しが変わる時もあると言うことだ」

 「貴方の口からそんな人間らしい言葉が出るとも思ってませんでした」

 「ふっ……母親と似て、随分と失礼だな君は。まぁそれ以外にも、一応私の研究成果でもある『F.A.T.E』の残滓が、ここまで必死になるこの現象に興味が湧いたと言うのもある。まったく人間とは不可思議なモノだ」

 そう言いながら、彼は心底可笑しそうに含み笑いを漏らしていた。笑い方こそ背筋が震えそうなモノだったが、彼の場合は自分の欲望・欲求に素直な分、何故かその笑いも純粋なモノに見えて来るから不思議だった。

 「さぁ……互いに前置きは充分だ…………本題に入るとしよう」

 不意に、スカリエッティの金色の目に輝きが戻る。かつて三年前に見たことのある……そして10日前にも目にした狂気の輝きだ。見ていて決して気持ちの良いモノではないことだけは確かだが、その光は万人の好奇心と言う名の欲望をそそるだけの魅力を持っていた。

 「講釈の時間だ。ノートにメモの準備は良いかね?」










 「仮に……人間の、行動する速度が、光速に達していたとすれば……どう思う?」

 音が一切無い空間の中でトレーゼは言葉を紡ぐ。誰に聞かせる訳でもないような抑揚の無い声で、独り言のように呟く。

 「周囲が、“1”の行動を終えるまでに、自分はほぼ無限大に、等しい行動が出来る…………。つまり、それはどう言う、ことか……」

 彼は空間に直立不動の体勢で佇立していた。何をするでもなし、ただ単にそこに佇むだけだった。

 「その現象は、即ち、『光速で動ける者にとっては周囲の時間は遅延している』、と言うことだ。その者の、行動が光速に達し、その思考速度も、肉体に充分追従していると、仮定した場合……その者にとって、周囲は……いや、世界の時間は、遅れて見えるはずだ」

 だが、良く見れば彼が単純にそこに立っている訳ではないことが分かる。強く握られた左拳は少しだけ前に突き出され、見事に対象を穿っていた。

 「だが、それは単に、体感時間の差、でしかない……。時空間に流れる、絶対的時間は、虚数空間でない限り、不変だ」

 彼に変化があったとすれば、それは首元にあった。つい数分前まで首に掛けられていたチョーカーは無く、どこへ行ったのかと見てみると、見事に粉砕されたそれが彼の足元に散乱しており、その傷を作る原因となった物――ストラーダも同じくトレーゼの足元に転がっていた。

 その持ち主であるはずのエリオは――、

 「結論から、言おう…………俺は、お前よりも、反射速度が、速かった。だから、俺とお前の、体感時間に、常人では感知不能な、極僅かな差が生まれた。だから……お前は、負たんだ――エリオ・モンディアル」

 腹部に一撃――。

 ただそれだけの行動でエリオは力無く地面に横たわっていた。既に意識は無く、口元からは凄惨な量の血反吐が重力に従って体外へ流れ出ていた。

 「そ、そんな……エリオ君……エリオ君!!」

 恐怖心すら完全に捨てて、キャロが駆け寄る。気絶している体を無茶に揺らすことなく抱き上げた後、必死に彼の名前を叫ぶように呼びながら覚醒を促す。

 だが、彼の目は覚めなかった。心臓も動いているし、呼吸もしているが、一度に受けた物理的衝撃が重かった所為で完全な昏睡状態へと陥っていたのだ。最早その呼吸ですら文字通り虫の息だったが。

 「確かに、お前は、速かった。だが、肝心なところの、動きが直線的だった…………最後の突撃も、その最初で最後の、一撃さえ回避すれば、後は何も、しなくて良い……ただ、そちらから、向かって来るのを、迎撃すれば、良いだけだ」

 背後から見ていたキャロには分からなかったのかも知れなかったが、あの時エリオは自身の持て得る限りの最大の力を以てして戦いに挑んだ。ストラーダの推進力に彼の爆発的な瞬発力は完璧な融合を果たし、トレーゼを強襲、見事その首のチョーカーを壊して見せたのだった。



 だがそれだけのことだった。



 ストラーダの先端が制空圏に進入してからチョーカーに接触するまでの間は、トレーゼが事態を視認してから行動に移るまでの誤差の範疇に収まっていたのだ。刃が首に届く寸前で、彼は自身の体をほんの少し横へずらすだけでその攻撃の威力を完全に逸らし、殺した。

 そして迎撃――。何も大仰なことはしなくても良い……彼は何もせずともエリオは自ら彼の懐に飛び込んだからだ。接近戦とはそう言うモノだ、不用意に近付けば仕掛けた方が痛い目を見る。トレーゼは彼の腹部に拳を突き出すだけで、あとはエリオ自身のスピードによってそこに威力が生じたのを良いことに、彼の自滅を誘ったのだった。

 案の定、軽車両と同等の速度で突っ込んだ彼は腹部に同じ衝撃を喰らい、現在に至る。

 「エリオ君っ!! しっかりして、エリオ君!!!」

 そして、ただ腹部を殴っただけではない。接触した瞬間に彼はその手にDMFを作動、エリオの魔力をリンカーコアから根こそぎ奪い取り、一瞬にして衰弱させたのだ。今のエリオはかつてのヴェロッサと同じ状態にある。収奪された魔力は全て、トレーゼのリンカーコアへと移動した。

 「…………キャロ・ル・ルシエ……そこを、退け」

 本来自分が成さねばならないことをまだ終えていないトレーゼは、エリオを抱きかかえるキャロへと近付き、大人しく退くことを要求した。女子らしからぬ肝の座りを持つ彼女とは言え、目の前で自分の仲間が倒されるのを見れば恐怖心が促進され、自己の意思を保てなくなるはずだった。

 だが――、

 「……エリオ君に……何をするつもりですか?」

 彼女は退かなかった。恐怖に駆られて震える体を必死で諌めながら、彼女は決してそこを退こうとはしなかった。彼女の前にフリードが飛び立ち、キャロとの間を隔てて彼を精一杯威嚇する。

 「お前には、関係無い。元々、お前が居るのは、想定外のことだった」

 「それなら……私がこうしてエリオ君を守っているもの『想定外』なんですね?」

 「あぁ、そうだ。だが、戦闘向きではない、お前を始末するのは、容易いことだ」

 「例え脅しても……私は絶対に退きません! 私は! 貴方からエリオ君を守ります!!」



 「なら、絶対に退くなよ?」



 「え……――?」

 次の瞬間に彼女の視界を埋め尽くしたモノ……それは、鮮血もかくやと言うぐらいに紅く、凶暴な魔力の奔流だった。トレーゼの指先から無作為に解放されたそれは、フリードの小さな体躯を軽々と弾き飛ばし、そして――、

 「ぁああぁあぁっ!!!」

 彼女の眉間にピンポイントヒットした。強烈な物理的衝撃が脳を盛大に揺らしたその結果、彼女は脳震盪によって決意虚しく無残にも地面に横たわったのだった。だが、彼女の手はエリオの手を固く握ったままだった。

 「自ら、犠牲になろうとも、その手は離さない…………理解、し難いな」

 あまりにもあっけない。彼が手加減をしたのかどうかは知らないが、現状では二人とも生きていることだけが唯一の救いだった。もっとも、完全に無防備となった今では、その命すらあとどれだけのものなのかは分からなかったが……。

 結界は未だ維持したままだった。いつどこから邪魔が入るかは分からない……警戒に越したことはないだろうと踏んでのことだった。

 「…………さて……」

 地面に無様に横たわる二人を尻目に、トレーゼは何故か踵を返した。そのまま足下のローラーを回転させて通路を音も無く進み、始めに自分が潜んでいた車掌室へと戻って行った。

 だが彼はほんの数十秒としないうちに戻って来た。その右手に大きな銀色のアタッシェケースを持って……。










 「ところで……君はこの二枚の他にも私に見せる物があるはずじゃないかね?」

 「……何が言いたいのですか?」

 スカリエッティの尊大な態度に何か別のモノを感じ取ったのか、フェイトの表情が怪訝なものに変わる。思わず身構えそうになるが、殺気や敵意と言ったものが一切なかったので大事には至らなかった。

 「とぼけなくても良い。私の前にこれらを持って訪れたと言うことは、既に粗方の目星は付いているはずだ」

 「…………やはり、貴方に隠し事は無理でしたか」

 少し自虐的に微笑んだフェイトは素直に自分の胸ポケットから三枚目の写真を取り出し、それをスカリエッティに提示した。

 その写真が出された瞬間、彼は食い入るようにしてそれを見つめた。猛禽類のように爛々と狂気に彩られたその瞳でしばらく凝視した後、彼は長い溜息と共に静かな声でこう言った。

 「懐かしい……あぁ、懐かしい…………」

 フェイトが提示した写真――。

 それは例の管理世界の隠しラボから押収した写真――。

 そう、管理局では“13番目”と呼称されているトレーゼの顔写真だった。










 「もう、ここに用は、無い」

 全ては滞り無く終わり、あとのプロセスは脱出するだけとなった。フードを被り、手元のケースをしっかりと握ると、彼は再び地面で気絶している二人に接近した。重なるようにして昏倒しているエリオとキャロの前に立つと、彼はケースを持っていない左手を二人の前に出して来た。

 「……ピアッシングネイル」

 腕に装着されていたアームドデバイス、その五指の鉤爪の内、親指・人差し指・中指の三本の爪が一気に三倍の長さに変化した。かつてドゥーエがレジアス中将殺害に使った武装と全く同じ物であるそれを、彼はエリオの首筋に当てた。

 「……さようなら、『F.A.T.E』の副産物……。さようなら、我が創造主に仇成す、“失敗作”……」

 それは必死に戦った者に対する賛辞の言葉ではなかった。大した実力も無しに自らの進行上に立ち塞がった愚か者に対する侮蔑だったのかも知れない……それをたった今から排除しようとする彼の淡々とした姿は、まさに機械仕掛けの死神であった。

 そして、その死神が運ぶ絶対的な死が――、

 エリオの首を――、

 掻き切る――!



 「そこまでよ」



 「ッ!!?」

 突然鼓膜に届いた第三者の声に、トレーゼは初めてこの空間に変化が訪れていたことに気が付いた。

 「結界が――!?」

 先程まであれだけ完璧に張られてあったはずの【封鎖領域】が、あろうことか完全に消え去ってしまっていたのだ。始めにエリオが突貫して破った窓からは渓谷の風が入り込み、トレーゼの大いに揺らす。有り得ない! 自分は既に二人を倒したとは言え、警戒は決して怠ってはいなかったはずだ、結界に接触する者が居ればすぐに分かる。おまけにこの結界は規模が小さいことこの上なく、そのお陰で注意が散漫にならずに済んでいたはずだった。

 では何故! 自分の意識の外でこの様な事態が起こっているのか!?

 フードの奥のトレーゼの眼球が声の主を捉える。本来ならここと五両目を繋いでいるはずのドア……今は完全に外に通じているそこから入ってきたその人物を、トレーゼは充分知っていた。

 深い藍色の長髪に、凛とした翠の双眸……引き締められた肉体に羽織ったバリアジャケットに、左手に装着した白銀の篭手――。

 「地上本部、陸士108部隊所属、ギンガ・ナカジマ陸曹です。貴方を殺人未遂を始めとする犯罪の現行犯で逮捕します」



 ナカジマ家最強の拳闘士、ギンガ・ナカジマの姿がそこにあった。










 時を遡って8時17分、ミッドチルダ廃棄都市区画の一角にて――。

 『不審な残留魔力が検出された?』

 つい数日前に先遣として出動したヴォルケンリッターが謎の襲撃者との交戦を行った場所で、ギンガは自分の伴侶と、チンクを除いたN2Rの面々と共に淡々と調査を続けていた。調査を続けていた。あの日、管制室で記録された謎のエネルギー反応の解明――それが彼女に今回与えられた任務だった。

 結論から言えば、管制室が検出したと言う謎の科学エネルギーは全く以て確認出来なかった。その代わり、現場を中心とした半径5㎞に渡って充満する謎の高濃度魔力を検出することになり、現在クロノに報告中だと言うことになる。

 「はい。人為的に発生したと言うことは明らかですけど……」

 『何か異常でも?』

 「もし仮にこの魔力が一人の人間が行使した魔法から起因しているのだとしたら、数値的に有り得ないはずなんです……」

 『有り得ない……か。分かり易く言うと?』

 「なのはさん、フェイトさん、はやてさん……この三方のリンカーコアと同じ位か、あるいはそれ以上かと……」

 『聞いただけで気が遠くなりそうだが、状況的に考えてもその魔力はシグナム達を追い詰めた者の魔力と見て間違いなさそうだ。引き続き調査を頼むが、決して深追いはしないでくれ』

 「了解しました」

 それを最後にギンガは回線を切断、姉妹と伴侶が待機している場所へと急いだ。既に各々に割り振られた周囲の探索・調査が終了したのか、その場所には全員揃って彼女の帰還を待っていた。

 「ギン姉、お帰り。クロノさんは何て言ってた?」

 「このままここで待機……引き続き調査ですって……」

 「そうッスか……。とは言っても、何にもすること無いッスけどね、調査報告も終わっちゃったッスし……」

 「…………何言ってんだ」

 「ノーヴェ?」

 「あたしの耳はただ穴が開いてるだけの節穴じゃねぇ。桃色髪の騎士から聞いてる…………ここで暴れた奴と、本部をテロった奴が一緒なのはよ……」

 「…………何が言いたいの?」

 妹の言わんとすることが何となく察しがついたのか、ディエチが訊ねる。

 「悔しくねぇのかよ! スバルを殺ろうとした奴が居るんだぞ! 今すぐにでもそいつ見つけてぶっ殺さないと気が済まねぇんだよ!!」

 他人とは関係が疎遠になり易い分、身内との繋がりを

 「……………………バカね、悔しくない訳がないでしょ」

 「だったら! こんだけ魔力が濃く残ってんなら、それを辿って行けばそいつのケツに辿り着けるってことじゃん!!」

 「でもね、ノーヴェ……私達の仕事はここで終わり……これ以上は独自行動になるわ」

 「そんなこと――!!」



 「でも大丈夫。さっき許可もらったから」



 「――へ?」

 予想していなかったギンガの言葉に、思わずノーヴェは間抜けな声を出してしまった。

 「ウェンディ、言質取ってあるわね?」

 「バッチリOKッス! ちゃーんと『深追いはするな』って言ったトコまで録音済みッス」

 「深追いするなってことは、ギリギリ手前までだったら行動しても良いってことになるわ。カイン、魔力探知お願い!」

 『問題無い、既に出来ている。と、我がマスターは申しております』



 これが30分前のやり取りだった。










 「何故だ……この結界は、外側からも、干渉出来ないように、知覚錯乱まで、施したはずだ」

 「こちらには魔力探知と結界解除に長けた優秀な魔導師がついていましたから……」

 「……………………」

 流石にこれは想定外だった。一体何をやったのかは知らなかったが、シルバーカーテンの知覚錯乱の効果は確かに常人の魔力探知能力すら欺くだけの効果を発していたはずだった。通常なら少し注意を集中させればその存在に気付くであろう結界を、全く悟らせない為の二重措置……それがシルバーカーテンの役割だった。

 それが破られた! 完全無欠を自負していただけに、彼は表情こそ鉄仮面だったが、脳内では様々な情報が混乱を極めていた。

 少なくとも、今この場でトレーゼにとって幸運だったのは、彼が顔を隠すようにしてフードを被っていたことだった。もし仮に、ここで顔が割れてしまえば、例え逃げ果せたとしても後々の行動に面倒な支障が発生する可能性が極めて高かったからだ。

 だが、当然不運だった点もあった――。

 「手元のケースを地面に置いてください。ゆっくりとです」

 それは、相手がよりにもよってギンガだったこと。正確には、ナカジマ家の人間だったことが、彼にとっての最大の悲劇だった。なんとか今はあちらがこちらの正体に気付いておらず、こちらも意図せずとも顔を隠していたから良かったようなものの、一度顔を見られてしまえば、現在接触中のノーヴェにも知れ渡ることになる。そうなってしまったら、今度は芋蔓式に自分の情報が接触予定のスバルに知れることになってしまう。そうなってしまえば、計画の根幹が水泡に帰してしまう恐れがあった。それだけは絶対に避けたい。

 この場合の選択肢は二つ――。

 『対象を殺害して情報漏洩を阻止する』か、『逃走を優先して現領域から離脱』のどちらかだった。

 「ちなみに、抵抗しても無駄です。私を中心とした半径3㎞圏内には既に別の局員が待機しています。もし私に何かあったら、貴方の安全も保障はできません」

 なるほど、意識をそちらの方に集中させて分かったが、確かに目の前の彼女意外に、この車両から数キロの範囲内にリンカーコア反応が二つと、ナカジマ家に引き取られたナンバーズの反応が三つで、計四人の反応があるのが把握出来た。特にリンカーコア反応を出している魔導師らしき方はかなりの実力者であることが魔力値から窺える。やはり彼女の言うように、下手に戦闘するだけこちらが不利になりかねないようだった。



 さすれば――!



 トレーゼはギンガの渓谷を無視するとケースの取っ手を固く握り締め、左拳を高く振り上げた。既に鉤爪は元の長さに戻っており、代わりに彼の足元に真紅のテンプレートが出現した。

 「!!?」

 反射的に身構えるギンガだったが、彼に自分に対する攻撃意思が無いと言うのが分かった時、僅かだったが隙が生まれてしまった。

 トレーゼはそれを見逃さなかった。ナックルのスピナーがシャープな音を立てながら回転し始め、左腕全体が高速な微振動を発生する。やがてその振動はサイクルを激増させ、大気を震わせられたことで周囲の窓ガラスが粉々に弾き飛んで行った。

 「IS、No.0…………」

 「まさか――っ!?」

 彼がしようとしていることが分かったのか、ギンガは両足のキャリバーを全力で駆り、彼の行動を阻止しようと急行した。

 だが――、

 遅かった。

 「『バイブレートクラッシャー』」










 ノーヴェは自分の目に映った映像を脳で理解しようとするのに時間を要した。つまりそれは、如何にその事態が有り得ない現象だったかを暗に物語っていることだった。

 自分達姉妹は現場を中心として距離を取り、そのまま待機。先にギンガが先鋒で突入し、出来れば検挙、もし抵抗するのであればすぐに自分達を応援に呼ぶはずだった。

 打ち合わせ通りにギンガが中に入り、残りの四人は文字通り四方に散って様子見…………ここまでは良かったのだ。

 一体どこの誰がこんな事態を予想出来ただろうか!?



 突入してから数十秒で車両が鉄橋ごと崩落するなどと。



 「ギン姉!!」

 黄金のエアライナーの上を猛スピードで駆けて、ノーヴェは鉄骨と共に渓谷の半ばまで落下していた車両へと急いだ。地上およそ200余メートル……真下の河川の底に激突すれば中に居るはずのギンガもろとも車両は木端微塵、まず生きては居られないだろうことは安易に想像がついた。ノーヴェの対角線上からもライディングボードに乗ったウェンディが飛来して来ていた。

 だが、距離を取り過ぎたのが仇と成り、ナンバーズの中では屈指の機動力を有しているはずの二人でさえも、自由落下によって加速度を増す車両に追い付くことは困難を極めていた。

 (あと2.41秒……!)

 ノーヴェの脳内に存在する増強脳神経細胞が、地表に激突するまでのタイムリミットを算出した。

 そして、届かない!

 ウェンディとノーヴェは落ち行く車両に手を伸ばしながら、天体に働いている重力の存在を憎んだ。

 そして、地表まで残り僅か十数メートルの所まで迫ったその時――、



 落下が『止まった』。



 比喩でも揶揄でも何でもない、止まったのだ、空中に、手品か何かのようにして、時が停止したかのように完全に。

 「ありがとう、カイン。一瞬だったけど、河原の向こう側で母さんが手を振っていたのが見えた気がしたわ」

 『礼には及ばない。あと、その川は絶対に渡るな。と、我がマスターは申しております』

 地面スレスレの空中に停泊した車両の上に、大刀型のアームドデバイスを起動させたカインが静かに降り立った。灰色の魔力を体に纏わせているところを見る限り、何らかの魔法によってギンガ達が囚われている車両全体と自分を浮遊させているようだった。

 「ウェンディ、ノーヴェ、この二人をお願い」

 傾いた車両から壁を壊して深い藍色のウィングロードが飛び出し、中から気絶したエリオとキャロを両脇に抱えたギンガが出て来た。彼女が脱出したのを確認した後、頭上のカインは魔法を解除、床部分に大穴を開けていたリニアの車両はとうとう川底へと墜落を果たした。

 「…………あの穴……何があったんだ、ギン姉?」

 気を失ったエリオを抱きかかえながらノーヴェが訊ねる。彼女が言っているのは恐らく車両下部を貫通している大穴のことだろう、ギンガが突入してからずっと見張っていたが、攻撃に魔力や火薬などが使用された反応は一切無かった。となれば、当然これは純粋な物理的衝撃のみで抉じ開けられたことになり……。

 「一撃必倒、パンチ一発で開いた穴だって言ったら、信じてくれる?」

 「こっから逃げられたッスか!? 良いんスか、追わなくって?」

 『問題無い、索敵の精度と範囲でディエチに勝る者は居ない。今頃捕捉できている頃だろう。と、我がマスターは申しております』

 カインの言う通り、ディエチはここへ来た時から既に自分の索敵網を張っており、万が一敵が逃走を図った際にはこうして敵の位置を割り出し、それを彼女らに伝達すると言う役割を担っていたのだ。だから、全員がこうして一ヶ所に集まっているのに対し、彼女だけは忠実に持ち場を離れずに居ると言う訳だ。

 案の定、ものの三分としないうちにディエチから敵影を捕捉したと言う通信があった。

 「カイン、二人を一旦この領域から遠ざけて。私達は引き続き敵を追跡するから」

 『了解した。近くにベルカ自治領の騎士団が哨戒中のはずだ、一旦そこに身柄を保護してもらおう。と、我がマスターは申しております』

 「お願い。行くわよ、二人とも!」

 「おうっ!」

 「はいッス!」

 ギンガの号令と共にウェンディがボードに飛び乗り、上空に藍色と黄金の二本の道が伸びた。

 「ウェンディは上空からディエチの情報と照らし合わせて索敵をお願い! ノーヴェは目標の手前で一旦分かれて挟み打ちよ!」










 彼は思考する。誰かが言っていた、『こう言う時こそ落ち着くべきだ』と。何の根拠も立証も無いが、今は確かに一旦落ち着いて状況の整理に移った方が賢明だった。余談だが、落ち着くコツとしては素数を数えた方が良いらしい、何故かは知らないが……。

 渓谷を流れる河川から距離を置いた山中の森林――、その一角にある岩の傍で彼は腰を落ち着けていた。鉄橋を崩落させてからも絶対に落とすことなくここまで持って来たアタッシェケース……それを自分の手前に置き、留め具を外して中を確認する。

 「……『F.A.T.E』に対抗する、鍵……」

 そこに収められていたのは、大きめの注射器と赤い生命の液体が入った試験管だった。彼はその試験管を手に取ると、それを眺める。全体内容量のおよそ3分の2を血液が満たしており、それを彼はグラスを傾けるようにしてゆっくりと回す。特別な処置はしていない……十数分と経たない内にこの液体は血液特有の凝固作用によってゲル化、時計の長針が一周する頃には完全に固体化するであろうことは目に見えていた。もしそうなってしまえば液中の組織構造が変質し、そこから特定の因子だけを抽出するのはかなりの困難を極め、折角あの“失敗作”から取り上げた血液も無駄になってしまう。

 そして、その限られた時間の中で彼が無事に逃げ果せられる確率はほぼゼロに等しい。

 既に自分がディエチの索敵範囲内に入ってしまっているのは自覚していた。シルバーカーテンを使用して逃走すると言う手立てもあるのかも知れないが、エネルギー感知に長けた彼女の目ではそのISを使う時に発生したエネルギーで勘付かれてしまう恐れがあった。下手に身を隠そうとするのは得策ではなさそうだった。

 かと言って、ここで徹底抗戦すると言う選択肢も危険だった。確かに彼は対魔導師戦においては充分過ぎる性能を誇ってはいた、元々、『魔法』と言う文明の利器に頼り切った彼らと戦うことを想定して造り出された分、対魔法性能に限って言えば最強と言っても過言ではなかった。だがしかし、結局のところそれは魔導師に対してのみ有効なものであり、少なくとも『現段階』においては同族である戦闘機人との戦闘は限り無く不向きだった。リンカーコアを活力にしている魔導師ならばAMFで行動制限、あわよくばDMFで魔力を根こそぎ奪えるのだろうが、彼女ら戦闘機人にはそれが通用しない……通常の人間とはもちろんのこと、魔導師とは違って科学的エネルギーを動力源として動く彼女らに対してはDMFなど欠片も通用しないのだ。

 おまけにこの戦力差と地形……このような樹木の生い茂る障害物だらけのフィールドでは迂闊に小回りの利かないライドインパルスは使えない。かと言って、上空に逃げ道を見出せば、後方からのディエチの砲撃の格好の的だと言うこともまた事実……。

 姿を隠す? 無駄だ、どうやってかは知らないが、奴らは自分の存在に勘付いてここまでやって来た。今更どこへ隠れようとすぐに発見されるだろう。

 「…………状況は、芳しくない……か……」

 鋼鉄の手で試験管を強く握りしめながら、トレーゼはその鉄仮面な顔で天を仰いだ。別に神に祈っている訳ではない、彼自身そんな形而上の存在など信じていなかったし、彼にとっての絶対的上位者とはスカリエッティを除いては他に居なかった。今の彼は言わずもがな、思考しているのだ。現状を打破する為の解決策を……完全で、完璧な策を……。

 否、策などあろうはずが無い! 自分は最強のナンバーズとなるべく造り出されたとは言え、未完全なのだ。ファクターサンプルによって得た13のISは、そのどれを取って挙げても元の保有者よりも若干劣っており、リンカーコアを有しているとは言え、コピーした魔法の大部分は科学エネルギーとISの併用に頼らなければ上手く発動しないのだ。かつて鉄槌の騎士に面と向かって言われたが、他人の魔法や能力をコピーすると言うのは――、



 ――魔法?



 その時、トレーゼに天啓が閃いた。

 「そうか……引き起こせば、良いのか……。自分の手で、“進化”を……!」

 ここに誰も居なかったのはある意味では良かったのかも知れない。何故なら、彼の言ったことがあまりにも不可解なものだったからだ。

 『進化』とは、動植問わずに全生物がこの地、この世界に存在を許されたその瞬間から、“究極”に向かおうとする道程であり、全ての欲求に優先的に勝る本能の根源だ。どんな絶望的な状況に立たされようとも生き残ろうとする生存欲……口から摂取した水分と栄養を元にしてエネルギーを充足させる食欲……より優れた相手と交わることで後世に優良種を残そうとする性欲…………どれも、生物の“進化”の上では欠かすことの出来ない要素であると同時に、これらもまた“進化”に対する衝動あって成り立つモノであることに変わりは無かった。

 だが、その“進化”そのものも、一朝一夕で成り立つものではない。生物は自らが根源的に抱えている欲求を満たし続けることで常に進化を続けていくのだが、これは何世代もの年月を掛けて初めて実現させられるモノなのであり、当然今日言って明日にはと言う訳にはいかない。ミッドチルダの歴史を見ても分かるように、人々はすぐに魔法と言う力を手に入れられたのではない……何千何万と言う歳月をかけて体内にリンカーコアを生み出し、太古の人類は古代ベルカ式魔法の体系を樹立させた。それは詰まる所、究極と言う終着点へと向かった彼らが得ることの出来た“進化”の一片なのかも知れなかった。



 それを、トレーゼは成そうと言うのだ。今! ここで!



 思い立ったが何とやら、彼の行動は素早かった。試験管の蓋を外すと、すぐさま溜まった血液の中に注射器の針を入れ込んで中身を抜き出す。急がねば、時間が無い、追ってはすぐそこまで迫って来ているのだ。

 無造作に抜き取った彼は、残りが入っているはずのその試験管を投げ捨てる。器の中には半分位まで血液が満ちており、それを確認した彼はエタノール消毒も何もしていない左腕に針を打ち込む。鋭い針の先端は皮膚表面と真皮組織を貫き、あっさりと静脈へ到達した。

 自らの血管に他人の血液を直に投入するのは些か危険がある、血液型が違えば凝固障害を引き起こしてしてしまうからだ。

 だが彼は止めることなく、ついに全ての血液を注入し終えたのだった。その後は針を抜き、そのまま投げ捨てた。

 「……………………」

 やるべきことをやり終えた彼は、再び座り込むと瞑想するかのように黙り込んだ。ちゃんと索敵妨害用に周囲を微弱なシルバーカーテンで固めてはいるが、バレるのは時間の問題だろう。そうなれば即刻戦闘の開始と言う訳だった。

 もっとも、そのバレるまでの間が正念場と言うモノなのだが……。



 30秒か、五分か、あるいは十分以上経っていたのか、木々のざわめきが変わらぬサイクルを刻んでいたその時、

 彼に変化が訪れていた。

 「う……ぐぅ、あぁあ……!!」

 始めは血液を打ち込んだ左腕からだった。予防接種をした時に起こる腕が腫れる現象……それが針を刺した傷口から徐々に広がって来た。だがそれは、痛覚として捉えるには緩慢で、熱として捉えるにはあまりにも症状が重過ぎていた。

 傍から見れば全く分からないかも知れないが、今の彼はその全身が灼熱に侵されている。左腕から始まったその熱は数分としない内に頭の先から背中、足の爪先に至るまでを完全に征服し、トレーゼに人知を超越した苦しみを課していた。筋肉はもちろんのこと、内部に埋め込まれた機械骨格や指先すら動かせず、眼球内部のモニターにはさっきから異常を知らせる警報が引っ切り無しに響いてくる始末……本来ならば毒物を取り込まなければ起きることのない現象だった。

 そう――、毒なのだ。まさに彼が体内に取り込んだモノ……他人の血液とはまさに毒物そのものに他ならないのだ。本当ならば解析機にかけて必要な因子を発見、それを精製して余分な成分を排することで拒絶反応を極限にまで抑えることで初めて注入段階に至るのだが、今回ばかりはこの様に直接体内で自己解析を行うより道がなかった。その所為でこうして彼の体は拒絶反応の嵐に見舞われていることになるのだが、彼の場合はそれが異常な程に顕著だった、普通ここまでの熱に侵されるなど、そうそう有り得ないことではあった。

 「が、ががっ……! あぁぁっ!!」

 狂った獣の様に呻き声を上げながら地面をのたうち回る、苦し紛れに掴んだ草は根こそぎ地面から引き剥がされ、小さく細い木々は邪魔だと言わんばかりに剛腕で薙ぎ飛ばす……手が付けられないとはこの事だった。だが、同時にこれは彼にとっては完全な無防備状態であり、今ここで敵に狙われれば最後、無事では居られないことは容易に想像がついた。

 だから――、

 今だけは何も起こらないことを祈るしかなかった。










 「…………」

 空中に築いた黄金の道を駆けながら、ノーヴェはいつになく静かな思考に入っていた。嵐の前の静けさ……と言ったら聞こえが悪いが、確かに今の彼女の心理状況は獲物を追い込むことに成功した狩人のそれに近かった。目的の獲物を袋小路へと追いやったことに成功した愉悦と、それを上手く狩れるかどうかと不安に思う気持ちで彼女の脳は二分されていたのだ。

 「…………」

 一度は逃げられた相手だ。それも、あの時相手は本気ではなかった、自分から逃走することだけを優先していた節が見受けられていた。もしあの時、相手が自分を倒すつもりだったら? もしあの時、奴が本気で自分に迫って来ていたなら……そして、今度相見えた時にその本気を出されてしまったなら……?

 「……っ!」

 いけない! 何を余計な事を考えているのだろうか。そんな負の思考をしているからいけないのだ。ティアナだって言っていたではないか、「深く思い詰めるな」と。余計な考えは行動を鈍らせる……今はただ、敵を完膚無きまでに倒すことが先決だ。

 そう――、スバルの仇を討るのだ。他の誰でも無い、あの優しい妹の為に――。

 そして――、その優しい少女の未来をいとも簡単に断ち切った者をに制裁を加える為に――。

 「ノーヴェ、ディエチから連絡よ。この先にカインの捕捉した魔力反応の塊を捉えたらしいわ。一旦ここで二手に分かれて……」

 「なぁ、ギン姉……一つ、お願いしても良いかな?」

 「…………何?」

 すぐ隣を並走する義理の妹から発せられるモノに何かを感じ取ったのか、ギンガはウィングロードの発生を一時停止させ停滞、ノーヴェもそれに従った。

 「…………それで? 何かしら」

 「留めはあたしにさせて欲しい」

 「駄目よ、管理局員とは言え、行き過ぎた武力の行使はご法度なのよ。例えチンクが認めても、私が認めない」

 「そんな……!」

 「安心して。貴方が心配しなくても、私が責任持って逮捕するわ。そしたら、ノーヴェにも一発くらい殴らせてあげるから」

 「さっすがギン姉、話が早ぇな!」

 「当然よ、この世に自分の妹を傷付けられて黙っている姉や兄なんて居ない…………腹立たしいのは私だって同じなんだから」

 それだけ言うと、ギンガとノーヴェは再び目標へ向かっての追走を開始した。ディエチの通信内容が正しければ、今自分達が走っているポイントからおよそ230m手前に敵が潜伏しているはずだ、二人は森林の視界の悪さを逆手にとって百メートル手前まで接近した後で一度二手に分かれて接近し、先にギンガが先手に打って出る。その後はある程度まで体力を消耗させた後でノーヴェと上空で待機中のウェンディが戦線に介入してさらに追い詰める。仮に敵が上空へ逃げることがあろうとも、自分達の遥か後方からのディエチの火砲支援で確実に墜とせる算段だ。この陣形こそ、ナカジマ家のナンバーズである彼女らN2Rが独自に生み出した、自称「究極のフォーメーション」である。本来ならばノーヴェが突撃、ウェンディが空対地でチンクが地対地からの援護、そしてディエチが後方支援と言うまさに理想的な陣形であることに間違いは無かった。

 そう――、この陣形を破るとなれば、それこそ高町なのは並みの射程距離を持っていなければ崩しようがないはずだった。



 ――はずだった。



 「ノーヴェ!! 避けなさい!!」

 「え――?」

 ギンガの怒声にも似た警告が彼女の鼓膜を痛い程叩いた。もちろん、それに動じない程鈍いノーヴェではない、すぐに彼女はエアライナーの舵を取ると前方から飛来して来た紅い光線を紙一重で回避することに成功した。

 だが、

 彼女の足元の黄金の道を寸前で通過した光線はそのまま大きく上昇し、空中を飛行していたウェンディのボードに……

 「ウェンディぃいぃいいいいっ!!!」

 直撃した。ノーヴェを狙ったにしては照準が甘かったが、実はそれが始めから彼女らの頭上のウェンディを狙っていたのだとすれば説明がつく。敵はとっくにこちらの動向に気付いていたのだ。

 「ギン姉! 先に行っててくれ! あたしはウェンディを……!」

 基本、戦闘機人は肉体の強度は人間の比ではないにしろ、あの高さから落ちたとなれば無傷ではないはずだ。ノーヴェは急いでエアライナーを反転させると、ギンガを先に行かせて救助に急ぐ。一応ディエチの方にも助けを要請するつもりだ。

 「無事を確認したらすぐに戻って来て! 私と貴方の二人で仕留めるわ!」

 ギンガの方には何の攻撃も来てはいないが、油断は出来ない、あれだけの弾速と命中精度ならばいつこっちが墜とされてもおかしくはなかった。ギンガはウィングロードの高度を下げると本格的に森林の茂みに入り込み、相手とこちらの視界条件を五分と五分にした。これで自分は相手の姿が見えなくなった代わりに、相手の方も接近しなければこちらを確認出来なくなったと言うことだ。

 「……待ってなさい、今すぐカタをつけるから」

 ウィングロードを消し、森の中の獣道をキャリバーのローラーで走行するギンガ。その後ろ姿からはまるで修羅のような熱気を帯びた魔力が陽炎となって滲み出ていた。










 「……なるほど、これが……俺に与えられた、能力か…………素晴らしい」

 森の一角でトレーゼは満足気に呟いた。天に伸ばされた鋼鉄の掌からは蒸気が立ち昇り、そこから大きなエネルギーが放出されたことを物語っていた。手首部分に収納されていたリボルバー式小型カートリッジはその内包魔力の全てを使ったのか、軽い蒸気音と共に排莢機構によって放り出され、そのまま傾斜を転がって行った。問題無い、替えの物は幾らでもある。

 「我が創造主、Dr.スカリエッティ……貴方はやはり、天才だ。俺に、こんな能力を、与えてくださった…………これが“進化”、即ち全ての行き着く場所……」

 足元に展開している紅い発光体、回転こそしてはいるが、それはテンプレートではなかった。やがて役目を終えた『それ』は自然に消え去り、それと同時に彼は背後を振り向き――、

 「ふん……!」

 掌底から再び光線を放った。凶暴な威力を秘めて放たれた一条の光は障害物であるはずの樹木に穴を開け、真っ直ぐに対象を撃墜するところだった。

 「危ないわね、あんな高威力のもの……人に向けて撃つモノじゃないわよ」

 拳大の穴が開通した樹木の陰から姿を現したのは、左手に自分と同じナックル系の武装を構えたギンガだった。彼女が姿を見せると同時に、その樹は他の樹木を薙ぎながら大きく倒れ、その衝撃で森の鳥達が一斉に飛び立った。貫通した部分は見事に黒く炭化しており、植物のコゲ独特の鼻を突く臭気が辺りに立ち込めた。

 「……タイプゼロ・ファースト……ナンバーズにして、ナンバーズ成らざる者」

 「違う、私はギンガ・ナカジマ……。ナカジマ家の長女、クイント・ナカジマとゲンヤ・ナカジマの娘…………そして、貴方が痛めつけたスバル・ナカジマの姉よ」

 「…………仇討ちか……理解し難いな、奴は個人としての、強さが足りずに、自らこちらに仕掛けておいて、身を貶めた……」

 「貴方が何者かは知らない……。その防護ジャケットを見る限りではナンバーズなのかも知れないけど、私の妹を傷付けた代償は重いわよ」

 「感情に、左右される……“兵器”としては、落第点だな」

 「当然、私は兵器でも武器でも何でも無い…………一人の人間よっ!!」

 カートリッジロード、左腕のスピナーが回転し、彼女の足元に藍色の翼の道が顕現される。この間およそ3秒弱、先手を取ったのは完全にギンガの方だった。ベルカ式魔法独特の三角魔法陣がと同時に出現したウィングロードは足元の雑草を薙ぎ倒して突き進み、トレーゼに回避することすら許さずに、彼を背後の大木に叩きつけた。丁度自分の越し辺りを押さえつけられた彼は何のとか逃れようと試みるが、両脚が地面から離れてしまっている所為で全体に力がこもらない。

 「く……!」

 力尽くでは脱出出来ないことを悟った彼は両手をウィングロードの表面に翳した。その瞬間に藍色の翼の道が途端に形を崩し始める……接触した部分から直接魔力が奪われているのだ。

 「させない!」

 脱出などさせない! ギンガは今にも形を失いそうなウィングロードに飛び乗ると、キャリバーのローラーの馬力を全開にし、一瞬で彼の鼻先まで距離を詰めて飛び掛った。今は亡き母の遺した白銀の篭手――、スピナーが回転すると同時に出現した環状魔法陣は単なる魔力の収縮だけを意味しているのではない、スピナーの音速を超えた回転によって発生した衝撃波を拳周りに集束・停留させ、対象に向かって一気に放つ大技……一撃の元に彼を撃沈させるつもりなのだ。

 【リボルバーキャノン】、ナカジマ姉妹の最も得意とする射撃魔法であり、元は妹スバルが編み出したその拳術と魔法の融合した技を、今ギンガは渾身の力を込めて叩きつけようとしていた。この距離だ、例え魔法が無効化されたとしても、打ち出された拳の物理的威力までは消せないはずだ。今のトレーゼはギリギリで身動きが出来ていない……そうなれば、どちらに転んでも彼女に分があった。

 既に、両者の距離は1メートルを切った。

 トレーゼが両腕を交差させて防御体勢を取る。それを目にしても、ギンガの拳は止まらることを知らなかった。

 「はぁぁあああああっ!!!」

 金属と金属の衝突する鈍く大きな音が森の枝や葉を揺らした。小鳥達がまたもや一斉に飛び立ち、臆病な小動物も我先にと音の発信源である二人から走り去る。白銀の五指と漆黒のスピナーが物理的に拮抗する音が周囲の空間を振動させ、干渉し合う互いの魔力の奔流が地面を穿つ……だが――、

 「なかなか……!」

 トレーゼは屈していなかった。両腕一杯でギンガの拳を受け止めながらも、彼は背後の大木を支えにして退こうとはしなかったのだ。それどころか、表情筋一つ動かすことなく対抗して見せるその姿に、ギンガはいつの間にか恐怖に似た感情を喚起してしまっていた。

 「――……――――……」

 「え……?」

 ここで彼女は、トレーゼが何かを呟いていることに気付いた。スピナーの音で始めは聞こえなかったが、耳を澄ませてみれば――、



 「接触したな?」



 「ッ!!?」

 危険を察知した時には遅かった。全身を異常な脱力感と倦怠感が襲い、両脚が無様にフラついてしまった。彼女の脳は一瞬で状況を整理すると、この現象の原因が彼の魔力干渉、もしくは吸収によるものだと言うことにすぐに勘付いた。なるほど、地下でスバルの体が異常に衰弱していたのは、過度な魔力吸収によるリンカーコアの収縮が原因だったのか!?

 接近戦ではこちらが不利!

 コンマ数秒で結論を出したギンガはウィングロードを蹴り上げ、大きく後方へ跳んだ。同時に足元のウィングロードは消滅してしまい、トレーゼを拘束するモノは完全に無くなってしまったが、問題無い、まだ手はある。取り合えず一定の距離を保ちつつ中距離射撃で追い詰め……

 と、ギンガの思考がここで止まる。トレーゼが傾斜を滑り降りて逃亡を図ろうとしていたからだ。

 「待ちなさい!」

 彼の跡を追ってギンガも傾斜を滑り降りる。かなりの距離がある上に木々が生い茂って視界は最悪だったが、ここの地理は事前に把握してある……この先は何の障害物も無い、戦闘を行うには絶好のフィールドがあったからだ。

 そう――、それはつまり……

 川! 上流に位置しているここでは河川の流れが急だが、なんとか立って移動は可能なレベルだ。水飛沫を上げながらトレーゼが、それに引き続いてギンガが間を置かずに飛び込み、彼を再びその視界に収めることに成功した。

 「いくら逃げても無駄です! 大人しく投降しなさい!!」

 水流の感覚を両脚に受けながら両者は再び膠着状態へと移行した。互いに動けない……ギンガは接近戦を挑めば魔力を吸われるので迂闊にトレーゼには近付けず、トレーゼは幾ら逃げようとも必ず追って来るギンガに成す術は無いはずだった。完全な拮抗……だが、それもギンガにとっては一時的なものに過ぎない、ノーヴェさえ戻って来ればこの拮抗状態は解け、彼を捉えるのは容易くなるはずだ。要するに、彼女が戻って来るまでこちらが耐え切ればそれで良い話なのだ。

 もう逃がさない、もう逃げられない! ギンガは戦いの勝利を、今確信していた。

 だが――、 

 「……無駄? 何を、言っている…………やはり、お前も、その程度」

 トレーゼの様子が一変した。全身に纏っていたはずの殺気や敵意と言ったモノが完全に消滅し、拳闘の体勢も解いて両腕をダラリと垂らしてしまったのだ。どうやら戦う気力が完全に失せてしまったらしい。

 「……どういうつもり?」

 相手から殺気が消え去ったにも関わらず、ギンガは警戒を解かない。左拳を構えたまま彼女はジリジリと距離を詰めようとする。

 それが間違いだったことに気付くのはすぐ後だった。

 川底の砂利を踏み締めた時に感じた違和感――、

 水流の中に紛れ込んだ異常――、

 それに彼女が気付いた瞬間――、



 「ぁ――――!!!?」



 神経を焼き切る程の衝撃が全身を一瞬で駆け廻り、ギンガの肉体を蹂躙した。

 「あぐぁあぁああぁっ!!!」

 鍛え上げられた脚の筋肉は無様に痙攣し、体重を支え切れなくなった彼女は浅い川底に両手をついてしまった。予想すらしていなかった尋常ならざる痺れは全身の神経を撫で上げ、遂に彼女は四肢で体重を支えることすら困難となってしまった。

 「これは……電流!?」

 霞む目を凝らして見ると、川の流れの淀んだ部分ではショック死した小魚が白い腹を見せて浮上しており、今この河川一帯に相当量の高圧電流が流されたことを暗に物語っていた。バリアジャケットの衝撃遮断性能のお陰で何とか呼吸は出来ているが、恐らくは熊ぐらいの大型動物の心肺を一気に停止させられるだけのエネルギーが流れていたに違いなかった。

 だが何故だ、この電流は魔力の波長が一切感じられなかった。だが目の前のトレーゼのデバイスに高圧電流を瞬時に発生させられるだけの機能が備わっているとも考え難く、かと言って魔力による疑似電流ではあれ程に混じり気の無い電気は発生しないはず……。

 「まさか……魔力変換資質……っ!?」

 「そうだ、フェイト・T・ハラオウンに、対抗する為に、エリオ・モンディアルの、血液を取り込み、得た力だ……。…………そして――っ!」

 トレーゼが急接近した。回避行動など出来るはずも無く、ギンガは腹部を鋼鉄の脚部で蹴り上げられた。

 「――がはぁっ!!」

 一瞬で3メートルの高さまで上昇するギンガの肉体……その真下で待ち構えるトレーゼ。最頂点に達してから落下して来るのにどれ程の時間が掛ったのか、正確な時間は分からなかった。ただ一つ確かなことは、彼女が落下して来るのをトレーゼが待ち構えており、彼女に更なる攻撃を与えようとしていたことだ。

 頭から落下したギンガはバリアジャケットの襟元を掴まれ、重力加速度とトレーゼの剛腕から弾き出された加速によって更に川底に叩きつけられた。

 「ぐあ゛っ!!!?」

 体内の精密機器の殆どが破損したのを無意識に感じたギンガ。脳を物理的に揺り動かされ、視界は振り回しによって回転し、彼女の意識は暗闇に落ちそうになっていた。

 だが、猛攻が急に停止した。

 「へ……? な、何を……!?」

 襟首は掴まれたままで、彼女は自分の体がゆっくりと地面を離れて行くのをその眼で捉えていた。それもそのはず、トレーゼが自身の頭上にギンガを軽々と持ち上げているからだ。機械骨格を埋め込まれた80㎏前後のギンガを、まるで重力など存在しないとでも主張するかの様に片手で垂直に持ち上げるトレーゼ。魔力の流れは一切無く、機械骨格とそれを覆う増強筋肉から生み出された純粋な物理的な怪力だけで持ち上がっている……本気を出したノーヴェですらここまでの力は出せないことが容易に想像がついた。

 「あ……あ゛ぁ……ぐ……ああっ!」

 襟首を締め上げられている所為で呼吸すら儘ならない……酸欠を起こし掛けて意識が朦朧としてきたその時――、



 不意に感じた禍々しい魔力。

 そして、自分の腹部に軽く手が当てられる感触……。



 「!!? そんな……これは――っ!!!」

 彼女は自分の視界――川底のトレーゼの足元に映っていた『それ』の存在を疑った。

 何故だ! 何故そんなモノがあるのだ!? 有り得ない!

 しかし、

 そんな彼女の混乱と、そこから湧き上がった疑問は、数瞬後に塵となって消え果た。

 強制的に意識がカットされる最後の瞬間に彼女が見たモノ……それは、急速に遠ざかる地面と、自分が仕留めることの出来なかった相手の足元に展開されていた――



 真紅の三角魔法陣だった。










 電流を流した時点でトレーゼは自身の決定的勝利を確信していた。

 そして、その確信は遂に現実のモノとして形となった。

 ギンガを持ち上げることに成功した彼は、頭上で必死にもがく彼女の腹に空いていた右手を突き当てた。スピナーが回転し、膨大な魔力がそこへ集中する。

 そして、スピナー周りに展開されるのは真紅の環状魔法陣。足元にはそれに呼応するかのようにして血よりも紅いベルカ式魔法陣が顕現する。

 魔力の充填は完了した。あとはそれを――、

 放つだけ!

 『Divine Buster.』

 マキナの電子音と同時に、集束していた凶暴な魔力の全てが解放……その射線上に居たギンガの体を軽々と吹き飛ばして見せた。紅い魔力の砲撃は森林の樹木よりも高い位置で威力を失って拡散、消滅し、偉大なる慣性の法則に従ってギンガはそのまま森の奥まで撃墜されたのを確認出来た。あの速度で飛ばされたとなれば、落下衝突時の衝撃は計り知れない……恐らく無事では無いだろう。

 「……なるほど、【ディバインバスター】とは、こう言うモノか」

 蒸気を発する右手を握り締めながら、彼は誰に聞かせる訳でもない呟きを洩らした。排莢機構から空のカートリッジが飛び出し、そのまま水底へと沈むのを見て、彼は天を仰いだ。

 「ゼロ・ファースト…………いや、ギンガ・ナカジマ……お前の言ったことは、正しかった」

 静かに目を閉じ、まるで天空にいる神に祈るかの様にして言葉を紡ぎ出す。白磁の肌の表面は水飛沫によって水滴に濡れ、紫苑の髪も完全に湿って艶やかに光っていた。

 「お前は、確かに人間だった…………そして、

 “人間”が“兵器”に勝てる道理など、無い」

 黄金の目には何もうつされてはいない……ただ上空の太陽の光を反射しているだけで、彼自身が意識して見つめるモノなどここには無かった。

 「これが、“進化”だ……これが、頂点だ。堕落の、一途を、辿る者達には、理解出来ない…………完全なる、『根源』へと、向かう事を、忘却した者達には、決して理解出来ない、真の発展と進歩……それが、『俺』だ」

 誰に聞かせる訳でもない、ただ彼を満たしているのは、新たな力を得た充足感と――、

 「そして、進化の極みに、到達することこそが、俺の望み…………ドクターの願い、トーレの目指したモノ……。そう――」

 目的までに達していないと言う虚無感だった。

 「世界よ、刮目せよ。これが、“進化”だ……これが、『ナンバーズにしてナンバーズを超越した者』、だけに授けられた、絶対の力だ」

 だからこそ、彼は誇示するのだ。それは周囲に対する自身の圧倒的力の顕示であると同時に――、



 警告だった。










 後の報告書にはこうある 

 新暦78年11月14日、午前9時21分――。

 陸士108部隊所属のカイン・H・ヤガミ一等陸尉を隊長とする機動小隊『N2R』とギンガ・ナカジマ陸曹は、局員二名を襲撃した犯人を取り押さえることが出来ず、その戦闘の際にナカジマ陸曹とウェンディが軽傷を負ったとされている。

 そして、その報告書の次のページには……



[17818] 終極の“13”と始原の“セカンド”
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/06 00:30
 「――――――――はっ!?」

 彼女――ギンガ・ナカジマが目覚めた時、目の前には灰色の無機質な天井が広がっていた。背中と頭の後部に柔らかい感触……自分の居る場所がベッドの上だと分かるのに、それほど時間は掛からなかった。

 ≪気が付いたか?≫

 右隣で聞き覚えのある声……。頭の中に直接響くこれは念話だ、自分の最も親しい者が、最も心を許した者にしか掛けないはずの念話だ。首を回して見ると、顔面の右半分を包帯で覆った見覚えのある顔があった。どうやら、自分が目を覚ますまでずっと傍に居てくれたようだった。

 「……ここは……どこ?」

 自分で質問しておいて、ギンガは自分でも馬鹿馬鹿しいと感じていた。この部屋一帯に漂う、鼻を突く独特な刺激臭……薬品のモノだ、それもかなりキツめの。どうやらここは病院か、どこかの施設の医務室らしかった。

 「……犯人は……どうなって……!」

 ≪落ち着け、腹部に火傷を負っている。下手に動けば傷が深くなる≫

 「…………ここはどこ?」

 さっきの質問とは意味が違い、この建物の所在地を聞いていた。

 ≪北方ベルカ自治領騎士団の宿舎だ。落下してきたお前とウェンディを、ここまで運んだ。ルシエとモンディアルも別の部屋で安静にしている≫

 「そう……ありがとう……。でも、犯人は……」

 ≪今は報告を受けた担当地区の哨戒騎士達が向かっている。心配はいらない≫

 上体を起こそうとしたギンガを優しく制し、カインは布団を掛け直す。普段はデバイスを通してでしか話をしない彼が、親しいとは言えこうして会話している……彼自身も心のどこかで動揺を隠そうと必死だったのかも知れなかった。

 ≪ノーヴェとディエチは待機してくれている。お前も直に医療センターに搬送されるだろうが、傷自体は浅い。命に別状が無いのはもちろん、傷痕も後遺症も残らないだろう≫

 「……………………」

 ≪どうした? 急に黙り込んだりして……≫

 「私って……ダメね」

 ≪……お前が自分の何を卑下しているのかは知らないが、俺が思うにお前は良くやった。追跡していた犯人がそのまま逃走することなど頻繁にある。誰も責めはしない≫

 普段は決して聞く事の無い伴侶の慰めの言葉……無駄口を挟まない彼の言葉が染入るようだったが、ギンガはそれを素直に受け入れることが出来なかった。

 悔しかった。職務を全う出来なかったこともそうだが、愛しい妹を傷付けた犯人を捕えられず、あろうことか返り討ちにあった。これ程にまでに無様なことがあるだろうか!? 自分から首を突っ込んで挙句の果てに自らを貶める……まさしく敵の言っていた通りだった。そして、仇討ちが出来なかったのと、敵の言った通りになっていることが、彼女にとって悔しさ以外の何物でもなかったのだ。

 「本当に……ダメだよ、私って……!」

 柔らかい掛け布団を上げて顔を隠すギンガ。親しい間柄とは言っても、やはり自分の無様に泣いている所は見られたくはない。心までズタズタにされた彼女の最後の意地でもあった。

 ≪……俺はお前を責めない。何故なら、俺はお前が優しい心を持っていることを知っているからだ。例えお前が失敗だと言っても、その行動はお前の優しさから来たモノだからだ≫

 カインはゆっくりと手を伸ばし、布団の上から彼女の頭に手を置いた。五指の先端以外は完全に包帯で包囲された痛々しくも温かいその右手で、彼はそっとギンガの頭を撫でる。何も言わない、彼は信じているからだ。彼女が自分で立ち直れると。かつて自分にそうしてくれていたように……。



 それからしばらく、二人以外は誰も居ない部屋で静かな嗚咽の声が聞こえていた。










 午前10時4分、ギンガが撃墜された地点からおよそ南東へ3㎞の森林にて――。

 「ベルカ聖堂騎士団…………それなりの、実力者と、聞いていたが、案外弱かったな」

 ありとあらゆる小動物がそこから距離を置き、樹上の鳥達に至っては完全に姿を消していた。何故か? 危険を察知したからだ。動物は賢い、自分の身に余る危機を感じればすぐに退散し、身を隠す。この場合がまさにそれだった、彼を中心とする半径数十メートルは重苦しく異常な殺気に満ち、鼻を突く生臭い異臭が森林の清浄な空気を汚していた。

 悪臭の原因……それは彼の足元に四散しているモノの所為だった。苔の密生した地面に転がる八つの丸い物体……いや、良く目を凝らして見れば、形が微妙に違っているモノも混じっていた。原形を保っているものもあれば、半分ほどザクロのように破裂して中身を撒き散らしているものもあり、中には綺麗に半月形に切断されているものまで……。

 緑の地面に転がるそれら……無残に“壊され”て、もはやただの『物体』と化し、切断面からだらしなく赤い命の液体を垂れ流し続けているそれ……。

 そう、人間の頭部である。つい数分前までは確実に生きていたそれらも、今では見事に自分の胴体と泣き別れており、双眸は完全に精気を失っていた。それが全部で八個……計八人がここで命を奪われたことになる。他ならぬこのトレーゼ本人の手によって。

 『Mode of “Strada”, release.(形態『ストラーダ』を解除します)』

 彼の手に握られている得物。身の丈と同じ位の長さを誇るそれは色彩こそ違えど、彼がほんの一時間前に対峙したエリオの専用デバイス『ストラーダ』に酷似していた。長さから形状に至るまでの全てが瓜二つ。唯一の相違点を挙げるならば、それはやはり切っ先から反対側の先端に至るまでのカラーリングが漆を塗ったかのような黒と言うことぐらいだった。

 「一撃突貫型デバイス、ストラーダ……なるほど、ベルカ式魔法を、修得したばかりの、この肉体には、実に馴染む武装だ」

 彼がストラーダ――の形状をしたデウス・エクス・マキナを軽く振る。刃に着いていた血液が遠心力によって周囲に四散し、苔の表面に更なる血痕を残した。近接特化のエキスパートであるベルカ自治領騎士団の八人小隊……それがまさか、接触してからものの5分と掛からずに全員惨殺されたなど、一体誰が信じられようか!? より確実に、より無駄無く、より迅速に。首と胴体を切断すると言う最も有効的且つ確実に相手が死に至る方法を、彼は戦闘のプロに対してやってのけたのだ。邪魔をすれば殺す……ただそれだけの実にシンプルな理由で行動を起こし、あまつさえ実行する彼のその行動力は、ある意味では賞賛に値するものではあった。

 「これが、『F.A.T.E』の副産物……魔力変換資質の、力か」

 古代の戦士のようにしてストラーダを天に突き上げると、彼はその先端に向かって自身の魔力を集中させた。次の瞬間、刃の先端から紅の電流が一気に空中に放たれる。凶暴な電圧を秘めたエネルギーの奔流は周囲の木々を焼き焦がし、モズの速贄のようにして枝に突き刺さっていた騎士団の胴体を一瞬で炭化させた。あとには骨の髄まで消し炭となった哀れな“人間だったモノ”と、元の自分の胴体から完全に離脱して絶命してしまった生首だけだった。しかし、その唯一の人間だと分かっていた部分も、胴体を焼き払った電撃が跡形も無く蒸発させてしまった。

 電撃を放出し終わった彼の漆黒のストラーダは一瞬の後に待機状態の立方体へと姿を変え、トレーゼはそれを仕舞い込んだ。証拠はある程度隠滅出来た、あとはどうとでもなるだろう。

 「……マキナ、これからの、予定は?」

 『The final maintenance of the “Gajet Drone Type-Ⅴ prototype”.(ガジェットドローン試作Ⅴ型の最終調整がある)』

 「了解。一度、海上ラボへ、移動する」

 ストレージデバイスの下した命令に従い、彼は両の手を合掌すると、全身に魔力を練り上げ始めた。足元に、修得したばかりの真紅のベルカ式魔法陣が展開される。一定の速度で回転するその陣の中心に膨大な魔力が集束する……これは転移魔法だ、それもかなりの距離を一瞬で移動する為のもの。かつてルーテシアが行使していた魔法を想像してもらえば分かり易いだろう。

 「……目標座標、固定完了。最終誤差、±0.62……」

 集束していた魔力が足元の一点から解放され、彼の全身を包む。その瞬間、彼の周囲が紅く輝いて――、










 ほんの数瞬後には彼の姿は殺風景なラボの中心に移っていた。足元の三角魔法陣は消失し、彼は魔力の放出を停止した。

 「……………………」

 彼は壁際へと足を運んだ。歩きながら彼はフードを外し、背中のシルバーケープを脱ぎ払うとそれをデスクの上に無造作に乗せる。更に両腕のナックルの留め具を外すと、それらも一緒に収納ボックスの中に仕舞い込む。もちろん、両脚の武装も忘れずに入れた。次に体に密着していた防護ジャケットの中に空気が入り、それを脱ぐ。脱いだジャケットを壁際から出て来た収納スペースに仕舞い、代わりに取り出したのが純白の服。医者が着るような白衣ではなく、街の人間達が普通に着用しているものを真っ白にしたような少々デザイン性に欠ける服だった。

 「……………………」

 備え付けの鏡台で最低限の身嗜みを確認するトレーゼ。別にデザイン性が無くても良いのだ、衣服は着る為にあり、装飾要素など皆無だったところでどうと言う問題は彼にとっては無いのだ。ただ着ることが出来ればそれで事足りる。

 「マキナ、ガジェットⅤ型、全機こちらへ」

 『Roger.』

 マキナは主人の命令通りにプログラムにアクセスすると、彼の目当ての物を地下に通じる部分から迫り出してきた。とても巨大な物体……否、機械だ。全部で四台、トレーゼの身長を大きく上回る大きさだが、それが何に使われるのかについては全く見当がつかなかった。ただ一つ言えるのは、とてもそれが慈善目的で使用されるモノではないと言うことぐらいだった。ゴツゴツとした四本の脚部は見るだけで寒気がするような無機質的恐怖を植え付けるフォルムをしており、上部にある人間の頭のような部分に存在する単眼カメラはまるで捕食者の眼球そのものを現しているかのようだった。

 だがこの物体は“起動”してはいない。四台とも文字通り電池が切れた玩具のようにして大人しく鎮座しており、その周囲をドライバーなどの原始的な器具を持ったトレーゼが几帳面に点検をしていた。

 「操作系、駆動系、その他電子機器系統、異常なし」

 案外粗雑な造りなのか、工学技術の発展しているこのミッドにおいて、フレームなどの装甲が全て大型のネジとナットなどでビス留めされている上に、溶接までされていると言うのは少々前世代的な印象があった。恐らく、あり合わせの機材などを利用してトレーゼが独力で造り上げたのだろう。単独で造った所為か全体のフォルムとしては物足りなさを感じるが、製作者である彼からしてみれば必要最低限の“装備”を持つこれは最早完成品と言っても良かった。

 やがて一通り検査を終えたのか、彼はまたマキナに命じてそれらを地下に封印した。今はまだ使用する時ではない……だがいずれ使う時が来る、その時まで一時的に保管しておくだけのことだ。元々これらは、このラボに自分の主人が残した設計図を利用して造っただけに過ぎない……性能は折り紙付きだ、何も心配はしらないだろう

 「さて……次の、予定は――」

 マキナと自分が所有している固有武装の点検、新しく手に入れた能力の臨界記録に、毎日欠かさず行っている基礎訓練……やる事は結構山積みだった。一日が24時間だけでは正直言って足りない、計画の第一段階の期限はそこまで近付いて来ているのだ。

 だがここで――、

 思いもよらない事態が発生した。

 「――ッ!!」

 思わず足を止めてしまうトレーゼ。バネが切れた人形の如くその場で棒立ちになる……金色の眼球は全開になっており、少しばかり眉をひそめているようにも見えた。

 「…………はぁ」

 やがて、彼は心底面倒そうに溜息をつくと、デスクの前の椅子に身を預けた。彼は本当にその“現象”が煩わしかった。しかしこればかりは流石の彼言えどもどうしようもなかった。この次元世界広し言えども、この“現象”を止められる者など居るはずもなかった。

 それは――、

 「やっかいだな……空腹と言う、モノは」

 どんな作業よりも、今は腹ごしらえをするのが先決だったようだ。










 『罪を憎んで人を憎まず』、と言う格言のようなものがある。分かり易く言えば、人の犯した罪を罰するのは道理に適っているが、その罪を犯した人間そのものを人が直接罰するのは傲慢であると言うことだ。犯罪を起こした者が悪いのではない……言うなれば、犯罪を起こさせたその歪んだ心が悪いのだと言い聞かせることで、人は自らの枠内に自身の傲慢さを隠し続けて来たのだ。

 実に含蓄の有る良い言葉だ。実際、法律関係の職に就いている者達はこの信条を自らの行動理念にしている者も少なくはない。人を憎めば、例えそれが正当な理由に基づくものであったとしても憎悪の連鎖が巻き起こり、その負の連鎖は更なる犠牲者を生むだけだからだ。まさに人類が長きに渡る試行錯誤の中で導き出した崇高なる答えなのだろう。そのことには何の異論も批判も無い。

 だが、どんなにもっともらしい言葉を並べて理屈を捏ねても、人の心までは変えられない。その人間が犯した罪の所為で、今度は周囲に居る数多の人間の心が歪められてしまうのだ。例えどんなに他人が諭しても、当事者が折り合いをつけて納得するとは限らないのだ。

 そう……それは、かつての女性科学者が愛娘を失った悲しみによって狂ってしまったように。

 それは、かつての呪われた魔導書によって家族を亡くした大勢の遺族達のように。

 それは……かつて、肉親の死を踏み台にされ、憎き者の姓を与えられた少年のように……。



 彼女は違っていた。










 午前10時36分、クラナガンの医療センターにて――。

 少女、スバル・ナカジマは考える。自分のこれからを……。左腕以外を失ってしまった自分がこれからどうなってしまうのかを。

 「……だらしないな……本当に」

 腰を掛けているのはセンターから貸し出された電動車椅子だ。何をするでもなく、適当にレバーを動かしては個室の中を行ったり来たりしているだけ。そんな彼女の姿はとても哀しく、痛々しいものだった。

 ふと窓の外の光景に目をやる。街は既に活気づき、車両の喧騒や人々の幸せそうな笑い声などが聞こえてくる。冬の寒さを跳ね返さんとするその声も、普段なら気にも留めなかったのだろうが、体が不自由な今となっては何故かとても羨ましいものに見えて仕方がなかった。そして疑問……「どうして自分はあそこに居ないのだろう?」と言う、素朴な疑問だった。だがその疑問の解答は残酷なまでに簡単なものだった。

 「そうだよね……こんなことになっちゃったんだもん…………病院に居ない方がおかしいよね」

 普段の彼女には決して見ることのない自虐的な笑み……。包帯で巻かれた右腕を見つめるスバル。本来あるべきはずのモノが無いと言うのは色々と不便だ、物も掴めないし、地面やベッドに手をつくことすら出来ない。だがそれ以上に、彼女にとって四肢が無いと言うことは他の者には理解出来ない苦しみがあるのだ。

 「…………ん……で……」

 包帯で巻かれたその腕を強く握り締める。痛くはない、これは現実を容認出来ない彼女がその“現実”を覆い隠そうとしただけだ。だが、どんなに頑張っても彼女の手では右腕の包帯は隠せなかった。手が、指が……それらが無い現実がどうしても彼女の目に焼き付いた。

 「なん……で……!」

 うずくまる。視界に映さないことを選んだのだ。

 だが――、

 「ッ!!?」

 足――。

 右腕と同じようにして白い包帯で巻かれた自身の両足。だが……やはりそこにはあるべきモノが無かった。

 「あ……あぁあ……! あぁああああっ!!」

 認めたくない! 認められるはずがない!! こんなはずじゃなかった、なんて安直な諦めの言葉で認めてしまったらいけない!!!

 感情が昂ってしまい、精一杯頭を掻き毟ろうとする。だが今の彼女にはその腕すらも一本しか無いのだ。

 「なんで……! どうして…………!!」

 一度溢れた涙は止まることを知らず、彼女の頬を流れて流れ落ちた。自分の双眸から流れ出るその雫を拭く事も忘れ、彼女は備え付けのベッドの上に上体を叩きつけるようにして倒れ込んだ。

 そして泣く。予想などしているはずもなかった自分の惨状に……。

 そして憤る。こんな惨状に陥ってしまった自分の力量の無さに……。

 だが――、



 彼女の心には決して自分を貶めた者を憎むモノは一点も無かった。



 人を疑う、妬む、欺く、嘲う、憎む…………彼女はこれまでの人生でただの一度も他人に対してそんな感情を抱いたことなど無かった。優しいスバルだからこそ、純粋であれたのだ。

 だが、そんな優しい彼女だからこそ、身に余るその感情を誰かにぶつけることも出来ないで苦しんでいるのもまた事実。かと言って、誰も救いの手など差し伸べられるはずもなかった。下手な慰めなどを求めている訳では決してないからだ。

 「おかしいよぉ…………こんなの……おかしいって!!」

 静かな病室にスバルの悲痛な叫びがこだまする。だが、そんな彼女の胸の内の響きなど、誰の耳にも届いてはいなかった。










 午前10時40分、地上本部のとある個人事務室にて――。

 『以上が報告内容です』

 「……………………」

 『あ、あの……!』

 空間が無駄に重苦しい沈黙に包まれているのは誰の所為か? 他でもない、この部屋の主にして管理局での権限の大部分を握っている若い提督、クロノ・ハラオウンの所為だった。すこぶる機嫌が斜めなのか、報告を入れてきたディエチが幾ら喋ってもウンともスンとも言わなかったのだ。かと言って怒鳴り散らすでもなし、睨みつけるでもなし、彼は静かに目を閉じているだけで何もしてはいないのだが、そこはやはり幾つもの修羅場を乗り越えただけのことはあり、無言の圧力が無垢なディエチを完全に委縮させてしまっていた。

 「…………ディエチ・ナカジマ」

 『はい……!』

 報告を入れてから既に五分が経過……。ここで初めてクロノの声を聞いたディエチは、そのあまりの重圧さに思わず声が裏返りそうになった。やはり勘違いではなかった、彼は今途轍もなく怒っている。それなりに気難しい性格だとは耳にしてはいたが、同時にあまり気が短いと言う訳でもないと聞いていた分、どうしてもその怒気が手に取るように分かってしまう。ディエチ本人としてはさっさと通信を切断して逃げ出したい気分だった。

 「……何か僕に言う事は無いか?」

 『あ、いえ、その……』

 「例えば……本来当てられた任務とは別の行動を取ったことについて、とか」

 『それは、その……!』

 「例えば、その勝手な行動の末にあろうことか怪我をしてしまった事とか」

 『うぅ……』

 「組織において命令無視はかなりの厳罰に処されると言うことは、優秀な君なら知っているな?」

 『…………』

 もう何も言えない。ディエチの目は半分涙目になってしまっていた。本来報告を入れるはずのカインは現在療養中のギンガに付き添っており、ここには居ない。ウェンディも今はベッドで休んでいるし、かと言ってノーヴェは敵にまんまと逃げられた所為ですっかり興奮しており、文字通り話にならない。以上の紆余曲折を経て彼女がクロノに報告を入れることとなったのだが、彼女は早くもその行動に出た事を後悔していた。こんなことなら、大人しくカインが戻って来るのを待っていれば良かったと身に染みて痛感していた。

 「……まぁいい、身内が襲われた心情が理解出来ない訳でもない。今回の無断行動の件も考えようによっては情状酌量の余地もある」

 『は、はい』

 「処分については後々伝える。御苦労だった、下がっても良い」

 『失礼します』

 立体映像越しにディエチが敬礼したのを最後に通信が切れ、室内は沈黙に包まれた。後にクロノの前に残ったのは、まだサインを振っていない未整理の書類の山と報告にあった廃棄都市区画の上空写真……そして――、

 「待たせて悪かった……ランスター執務官」

 デスク越し彼が視線を向けた人物……備え付けのソファの代わりに車椅子に座った人物は静かにクロノが用を済ませるのを待っていたようであり、彼に声を掛けられたことで一歩前に進み出た。

 「犯人……捕縛出来なかったようですね」

 「そのようだ。敵はこちらが思っていた以上の実力を隠し持っていたようだな」

 「ハラオウン提督、やっぱりここは総力戦に打って出た方が――」

 「それは出来ない注文だ」

 ティアナの必死の提案をいとも簡単に切り捨てる。その目には強い否定の意思が宿っていた。

 だが――、

 「どうしてです!? これ以上被害が拡大する前に行動を起こさないと、また犠牲が出るだけです!」

 「ランスター執務官、物事には何でも順序と言うモノがある……。その優先順位を見誤れば勝ち取れるモノも勝ち取れない……」

 「……提督は……目の前で友人を傷付けられたことが無いから、そんな悠長に言っていられるんです……」

 「……………………」

 俯いたティアナの纏う空気が変わったのを肌で感じたのか、クロノが押し黙った。決して彼女の気迫に臆した訳ではないが、ここは彼女に言わせてやろうと考えたのだろう、彼女の口から吐き出される言葉の一言一句に静かに耳を傾けていた。

 「貴方はいつもそうです……。貴方だけじゃない、私達がどんなに頑張っていても上の人達は認めることなんてしないでコキ使って……!! 私達の仲間が傷付いたって、『それはそいつの力量が足りなかったからだ』の一点張り……」

 「……………………」

 「これじゃあ……命を懸けている私達がバカみたいじゃないですか!!」

 ティアナは泣いていた。車椅子に座っていなかったなら今頃クロノに掴みかかっていたのではないかと思えるような気迫を吐き出しながら、彼女の双眸からは透明な涙が滂沱の如く溢れ出ていたのだ。無意識ながらに自分の悔しさを……仲間を傷付けられた痛みを全力で相手に理解してもらおうとしていたのかも知れない。彼女はそれだけ必死だったのだ、それは何の嘘偽りも存在しない真に純粋な心そのものだ。眼前のクロノがどうしてそれを否定出来よう。

 「提督は弱冠十五歳の時から局内では優秀な魔導師だと窺いました……。優秀だったから貴方はパートナーなんてものに頼ることなく、独力で執務官になり、提督の地位を手に入れた…………。パートナーが居なかった貴方に……私の気持ちなんて理解出来るはずがないです!」 

 「…………確かに、僕は君や高町教導官のように公私共に親密なパートナーなんてものを持った事が無い。強いて挙げるとするならば妻のエイミィぐらいなものだろうが、彼女はどちらかと言えば『部下』としての認識の方が強かった……。その意味では僕は間違い無く『パートナーを傷付けられる辛さ』と言うモノについては全くの無知だろうな」

 「……………………」

 「だが、大切な……かけがえの無い誰かを失う辛さと言うモノは身に染みて分かっているつもりだ」

 「っ!! 何ですかそれは! さっき仰ってたことと矛盾しているじゃないですか!!」

 馬鹿にされたとでも思ったのか、ティアナは目の前の人物が自分よりも遥かに地位が上な上司であることも忘れて怒鳴り散らした。本来なら何かしらの上下関係トラブルに繋がるのかも知れなかったが、クロノはそこまで器の小さい男ではなかったし、当の本人はその言葉に眉一つひそめることなく静かに聞き入っていた。その姿はある意味では達観していたとも言えよう、まるで聖者が衆人の懺悔を静かに聞き届けるかのようだった。

 やがて彼は場の空気を変えたかったのか肘掛け椅子から立つと、冬の陽光を燦々と取り入れている背後の窓へと向き直り、たった一言――、



 「僕は幼い頃に父を亡くした」



 ――と短い言葉を背後のティアナに投げ掛けた。

 わざわざ目で見なくてもティアナが驚愕に息を呑むのが分かる。対してクロノの方は逆にさっぱりとした表情だった。とても身内の死を語っているとは思えない程に……。

 「任務の途中で事故にあったんだ。それなりに重要な任務だったが、内容そのものは簡単だった。第一級指定のロストロギアを迅速且つ安全に運ぶと言う、とても重要で簡単な仕事……。でも、事故にあってしまったんだ」

 「……闇の書……ですか?」

 「…………あぁ。父が居なくなったのは、残されたたった二人の家族にとってはとても耐え難い苦痛だった。母さんも父を愛していたし、僕自身も幼いなりに懐いていた分のショックは大きかった。今思えば、入局してからずっと仕事一筋で通してきて提督の座に就いたのも、心の何処かしらで父の背中を追っていたのかも知れないな……」

 「……………………」

 「ランスター執務官、僕は君に怒ることをやめろとは言わない。悲しむなとも、敵を憎むなとも、蚊帳の外に居ろとも、無関心でいるなとも言わない…………ただ……ただ今は黙って耐えていて欲しいんだ」

 クロノがティアナに向き直る。その瞳はどこまでも純粋な願いの光を宿していた。人間模様の荒波に揉まれたとは到底思えない純粋で綺麗な瞳だった。ただただ純粋に願いを乞う……そんな瞳。

 「……………………」

 しばらくティアナは俯いたままだった。彼の言葉を上手く受け入れられないのか、それともその言葉を身勝手なモノと捉えての憤りに震えているのか……どちらにしても、今彼女が押し黙ったままなのだけは確かだった。正義感が強く意固地な彼女のことだ、クロノ自身もすぐに受け入れてもらえるなどとは思ってはいないし、それには時間を要するだろうと言うことも充分理解していた。そして――、

 「それでも……私は賛同出来ません」

 その予想は案の定的中した。予想通りの応答にクロノは別に落ち込む訳でも怒る訳でもなく、ただ単に苦笑していた。歳の離れた自分の弟妹が小さな物事に失敗するのを見てしまった時に見せる「どうしようもないな」と言うような、柔らかい苦笑だった。

 「何が可笑しいんですか?」

 「いや別に……。昔フェイトが執務官の試験に二浪した時の事を思い出しただけだ」

 「意味が分かりません。…………これ以上話していても不毛ですから、失礼します。外でヴァイス陸曹を待たせたままなので……」

 あえて言葉尻だけは丁寧に一礼すると、彼女は車椅子をターンさせて退室する為にドアを目指した。クロノにとって小さなその背中はまるで大きな一枚岩のように堅固な意思が宿っているように見えた。

 「一つだけ良いか?」

 「何ですか?」

 ドアを開ける寸前で呼び止められ、彼女の車輪を漕ぐ腕が止まる。

 「これからどうするつもりなんだ?」

 「…………私は私なりのやり方で犯人の検挙に尽力するつもりです……と言ったなら?」

 「止めはしないし、かと言って協力も応援もしない。傍観……見て見ぬ振りをするぐらいさ。ただ……」

 「ただ……?」

 「無茶だけはしてくれるな」

 「無茶ですか……? 大丈夫です、私だってなのはさんの弟子です。引き際ぐらい知っていますし、自分の身を守れるだけの実力もあるつもりです。それに――」

 彼女はそこで言葉を区切ると、車輪に伸ばしていた腕を肘掛けに戻し、上半身の力をそこに集中させた。当然のようにして体は座席を離れ、彼女は完全に回復に成功した自分の二本の両足でしっかりと大地を踏み締めていた。オレンジの髪が重力に揺れ、少しだけ振り向いた彼女の顔がデスクのクロノの視界に入った。

 「私がこうして立ち上がったのも無茶な行為に見えましたか?」

 「いや、全然」

 その言葉を聞いて満足したのか、ティアナは車椅子を綺麗に折り畳むと再びクロノに向かって軽やかに敬礼し、ドアを開いて退室して行った。

 一人残されたクロノは先程までのやり取りが無かったかのように書類作業に戻り始めていた。紙面内容に目を通して確認し、サインを振る……やがてそんな単調な作業が何十回と続いた時、彼の口から静かにこんな言葉が漏れ出ていた。

 「根回しが大変だな」










 「あの……すみません」

 医療センター一階の受付待合広場で一人の看護婦がベンチに腰掛けていた若者に声を掛ける。ここに入って日が浅いのか、その声は少し腰が引けてしまっているように思えた。だが相手が良かったのか、特に喰って掛られるようなこともなく「何ですか?」の言葉を聞いた時に微かに表情を緩めた。

 「院内では飲食は原則禁止されていますので……」

 彼女の指差すのは若者が右手に持つ簡素なパッケージに包まれた小さな箱……街中でも普通に売られている小型の携帯食品だった。なるほど、待合の場所で勝手にこの様な行為をしていては注意されるのは当然と言えよう。若者はすぐに食べ掛けのそれを仕舞い込み、短く「失礼した」とだけ言い残した。

 「今度から気をつけてくださいね」

 意外と素直に対応してくれて内心ほっとしていたのか、その看護婦は診察板を片手に自分の受け持ちの患者の定期診察に向かおうとした。

 が――、

 「少し、良いか?」

 「は、はい。何でしょうか?」

 背後からその若者に呼び止められ、看護婦は思わず身を強張らせた。別に彼の声がその筋の人間すら裸足で逃げ出す程の語気だったのではない。むしろその逆、その声があまりにも抑揚が無くて冷え切ったものだから驚いたのだ。肉体の奥底に存在する心の臓腑を丸ごと凍らせるような、静かではっきりとした死神の処刑鎌ような冷たさに……。

 「ここに、スバル・ナカジマが、入院している、はずだが?」

 「え? ナカジマさんですか? 確かにナカジマさんはB病棟に入院中ですけど……。管理局の方ですか?」

 過去に数えるくらいだったが、怪我や病を負って入院していた無防備な管理局員を襲撃して殺害した事件が幾つかあった。法の番人と言う立場上やはり他人に恨みを買ってしまうことも多々ある訳で、絶対的な隙を窺っては命を付け狙う輩が後を絶たないと言う訳だった。当然センターの方でも警戒を怠ることはなく、勤務している者の自己判断で怪しいと感じた者は即刻マークすると言う警戒体制は敷いていた。

 若者の方は疑われていることをそれとなく感じたのか、白一色の服の胸ポケットから一枚のカードを取り出すと、それを黙って看護婦に渡して見せた。それはその者が管理局に務めていることを証明する局員証だった。ちゃんと小さな顔写真が張られているのが見える。

 ちなみに、今まで寝首を掻きに来た犯人達に同胞の管理局員は一度も居なかった。それもあってか、看護婦はすっかり安心してしまったようで、にこやかな笑顔を向けると――、

 「スバル・ナカジマさんでしたら、B棟の――」










 同時刻、北方ベルカ自治領騎士団の寄宿舎にて――。

 「……………………」

 「…………ノ、ノーヴェ、あのさ――」

 「黙ってろ」

 「……うぅ」

 簡素なベッドに腰掛けている自分の妹に声を掛けたディエチだったが、ノーヴェのあまりの殺気立った言葉に気押されてしまい、大人しく口を閉じてしまった。今の彼女は言うなればまさに猛獣、猛り狂った獣そのものだった。無断で自らの領域に足を踏み込む者が居ようものならば全力で排除する……そうしかねない程の気迫があったのだ。

 もちろん、彼女がこれだけ怒っているのにはちゃんとした理由があった。それは、彼女の隣のベッドの上でずっと眠ったままの少女のことだった。

 「だ、大丈夫だよ。ウェンディだって、ちゃんと受け身取ってたから傷なんかそんなに無いし……」

 「黙ってろって言ってんだよ!」

 どうやら彼女の怒りはディエチが想像していた以上のものだったようだ。ベッドに眠る妹へと目をやるノーヴェ。普段は後頭部に留めた髪も今ではそのまま解放されており、静かな寝息を立てていた。一応ディエチの言ったように、肉体には何の支障も無い。ボードから落下して地面に激突する際にしっかり受け身は取ったらしく、大した外傷も骨折も無くただ単に気絶しているだけだった。

 だが、ノーヴェが怒っているのはそのことではなかった。

 ウェンディのことも心配なのは当然だ。仮にも自分の妹だ、心配でないはずがない。だが彼女の胸中を埋め尽くすのはそれらとは別の感情……スバルだけでは飽き足らず、ギンガとウェンディまで追い詰められたことによる一種の『悔しさ』にも似たモノだった。目の前に……手の届くはずの場所に憎き怨敵が居たにも関わらずそれを遂に仕留めることが出来なかった。そのことがどれ程悔しく腹立たしいことか理解に苦しくはない。しかし、彼女の抱えるその悔しさがどれ程に本人にとって深刻であるかについては誰にも理解出来はしなかったことだろう。

 「ちくしょう……。ちくしょう!!」

 許さない。

 否! 許せるはずもない。彼女の意地が、矜持が、心が――敵を許すなかれと呻いて止まなかった。

 阿修羅をも凌駕する怒りとは言い得て妙だが、まさに今の彼女こそがその阿修羅そのものだった。

 敵を許すな。

 敵を逃すな。

 敵を必ず――



 コ ロ シ テ ヤ ル










 午前10時47分、トレーゼは人気の全く無い廊下を一定の歩幅で歩く。真冬の雪をそのまま身に纏ったかのような白一色の服を着こなし、右手にはさっき待合場で看護婦に注意されていた携帯食料を握っていた。道を歩きながらスティック型のそれを口に入れる姿は街中で見掛ける若者のスタイルだが、全身から醸し出す雰囲気は大きく逸脱していた。周囲に人が居ない所為なのかも知れなかったが、トレーゼの全身からは着ている服の色彩とは全く正反対の波長をダイレクトに伝播させていた。少なくとも、街のチンピラが目を合わせれば裸足で進行方向180°逆に走り去るレベルだ。

 やがて最後の一本を完食した彼は包装紙を右手で丸めると、一瞬だけ魔力を集中、高圧電流で灰にして見せた。ちなみに、彼が食べていたものは市販品ではない。ラボに大量保管されていた保存食であり、かつてスカリエッティがカロリー消費の激しい戦闘機人の活力として自作していたものだった。一本で数時間は他の栄養分を摂取しなくても良いように計算されており、それが一つの箱に全部で六本詰められている。

 ここに来るまでに彼が看護婦に見せた局員証……かつて海上更正施設でセッテに見せた物と同じではるが、あれは偽物である。写真こそ自分のものを使ってはいるが、所属と階級はもちろんのこと、氏名欄の『トレーゼ・S・ドライツェン』の名字部分だけは偽名だった。別に趣向を凝らせる必要は無い。要は自分を局員だと思わせることが出来ればそれで良かったのだ。

 「………………ここか」

 待合場から七分、彼の足はとある一室の手前で停止した。ドアのサイズで部屋の大きさが分かる、これは個室だ。ドアの脇に掛けられたネームプレートには端正な形で『SUBARU・NAKAJIMA』と書かれてあるのが分かる。もちろん、彼はここに用があってやって来たのだ。正確には『ここに居る人間』に用があるのだが。

 「タイプゼロ・セカンド……俺の予想が正しければ、奴もまた……」

 ドアの前で佇むトレーゼの脳内に浮かぶ一つの仮説……。それはこれから接触するであろう人物に対してのものだった。

 彼の言うタイプゼロ・セカンド……即ちスバル・ナカジマは戦闘機人である。今は亡き陸士部隊のエースであったクイント・ナカジマの遺伝子を基礎にして生み出された人造生命素体……そこから更に何者かがDr.スカリエッティのナンバーズ製造理論を勝手に応用して戦闘機人に仕立て上げて完成したのが彼女だ。本来ならば12人の姉妹と同等の性能を有していてもおかしくはないのだが、後発組ナンバーズよりも先に製造された所為もあってか完成度は低く、耐久力・速度・機動性・攻撃性能……どれを取ってもナンバーズのそれには劣るものばかりだった。トレーゼが彼女をどうするのかは分からない。だが自ら四肢を切り取った上に自分達よりも性能が低い者を勢力図に取り込んだところで、一見して何も得が無いように見える。



 そう、得など無い。



 だが彼にとっては性能差などは二の次であり、今現在重要な事項はとにかく『自分の陣営に引き込むこと』なのだ。後の事はそれからどうとでもなる。その為に自分のISがあるのだ、もし……彼女の存在を成す根幹部分にナンバーズとしての因子が含まれているならば、恐らくは自分の“能力”を真に受けるはずだ。むしろそうでなくては困る、そうでなくてはならないのだ。そして、もしそれが成功すれば――、

 いや、今は余計な事はどうでも良い。今はただ目標と接触しておけばそれで良いのだ。

 ドアをノック。意外に几帳面な行動は彼のイメージに合わないのかも知れないが、誰の目も全く無いこの空間では別にどうと言うことはない。言うなれば形式的な行動に過ぎなかった。



 コンコン――。



 乾いた軽い音が廊下と室内に響く。個室自体の面積はそんなに広くないはずだ、すぐに応じるだろう。いざ面と向かった時のことも既に考えてある。機動小隊N2Rのノーヴェと知り合いだと言えば気を許すはずだ、人間誰でも自分の身内と顔見知りだと言われれば少なからず警戒心が揺らぐものなのだ。そこから後は心理戦である。如何にして相手の気の緩みを誘うかが問題に……

 「……………………」

 …………

 ……

 遅い。出てこないにしても返事まで無いとはどういうことだろうか?もう一度ノックしてみるが、それでもやはり返事は無い。寝ているのか?

 「……失礼する」

 先に一言断りを入れた後、トレーゼは何の臆面も無くドアを開けると中へ進入した。まず彼の視界に入って来たのは窓からの景色だった。芝生が生い茂った中庭の様子が一望出来る三階のこの部屋には遠くから街の喧騒も聞こえており、立地条件としてままずますと言ったところだった。

 次に見えたのはテレビ。24時間稼働する訳ではなく、消灯時間を過ぎれば電源が入らないシステムになっているものだった。もちろん、安物だ。

 そして、そのテレビから一メートル程離れた場所にある……



 空のベッド。



 なるほど、どうりで返事も何も無いはずだった。

 「…………探すか」










 午前10時50分、医療センター中庭にて――。

 「……………………」

 芝生の中に敷かれた石畳の道を進む一台の電動車椅子があった。乗っている少女――スバルは左手のレバーを操作しながら、まるで行くアテの無い浮浪者のようにゆっくりとした足取りで中庭を徘徊していた。これがもう既にかれこれ五分以上は続いている。

 「私……何やってるんだろ?」

 半ば朦朧としたような感じで彼女の口からそんな言葉が漏れ出た。別に誰かに聞いてもらいたかった訳ではない、自然と出て来てしまったのだ。

 彼女の膝元には大きな毛布が掛けられていた。一応寒さを凌ぐ為と言うのもあったのだろうが、今のスバルにとってはそれよりも重要な意味があった。足だ。あるべきものを無くしてしまった足を外側から見られないようにと、わざと大きな毛布を膝に掛けることで隠しているのだ。当然のようにして右手もその毛布の中へ隠していた。

 「…………ギン姉も左腕無くなった時って……こんな気持ちだったのかな?」

 今は完全に治ってはいるが、姉のギンガもかつては無残にその左腕を切り落とされたことがあった。あの時は自分の身内を傷付けられた所為で頭に血が昇り、一種の激昂状態に陥っていた。目に映る全てが自分の敵に思えていた……自分の大切な人間を傷付けた奴らが許せなかった……もう殺してしまっても良いとさえ感じていた…………なのに――、

 どうしてだろう? 自分の今の惨状を見ても別に怒りや憎しみと言ったような負の感情が全く湧き上がって来なかった。むしろ、逆に得も言われぬ虚しさだけが心の中を微風となって吹いているだけだった。悲しみが少しあるだけで、それすらも病室で号泣した後には綺麗さっぱり無くなってしまっていた。ただただ……何かが心から抜け落ちてしまったように虚しかっただけだった。

 ひょっとしたら、自分はどこかが異常なんじゃないのかとも考えられた。自分のことなのにここまで無関心なのは正直どうかとも思えるのは事実だ。そして、今の彼女はそこまで頭が回る訳などなかった。

 「……自分のことなのに……可笑しいね。ティアに言ってたら怒られたかな……」

 今頃、局の仕事に追われているであろう友人の姿を想像しながら、スバルは車椅子の進行を一旦止めた。空を見上げる。特に意味は無く、単に気分だっただけだ。何となく空を見上げたい……そう思っただけだ。

 「…………イクス……私の夢ってここまでなのかな? 私……ちゃんと……沢山の人達を助けられたのかな?」

 11月の寒空は一点の雲も存在しない実に晴々としたものだった。スバルは誰かに答えてもらいたかったのかも知れなかった。自分の心に燻るこの空虚なモノをそうすれば良いのかを。だが、彼女の疑問に答えようとする者はどこにも居なかった。

 「…………検診って何時からだっけ……?」

 中庭の中央に位置する時計台を確認しながらスバルは自分の病室に帰ろうと、レバーを操作して車椅子をUターンさせた。毛布が落ちてしまわないように手の無い右腕で押さえながら彼女は慣れない手付きで車輪を操作して石畳の上を急ぐ。思っていたよりも電動車椅子と言うのは動きが鈍重なものらしく、レバーの操作はもちろんのこと、アクセルからブレーキと言った一連の動作までが自分の行動よりも数瞬遅れるので、彼女としては難しいことこの上なかった。ここへ来てからでも、何回石畳の上から車輪が落ちそうになったことか……。



 そして、恐れていたことが起きたのはその直後だった。



 彼女は知らなかった。 

 病棟への入口をくぐろうとした時、死角となっていた足元の更に下にたった数センチ以下の段差が存在していたと言う事実に。

 「あっ――!?」

 軽い衝撃が下半身を突き上げた直後、彼女は自分の体が大きく右横へと傾くのを感じた。そして瞬間的に悟る。もうこの傾きは重力の補正ではどうしようもない……倒れてしまう、と。

 今自分の身に起こっている現実の全てがスローモーションとなって彼女の網膜に焼きつく。既に車椅子の傾きはおよそ30°以上、顔面と地面の距離もそんなに後は無い。このままではダイレクトに地面に激突するのは必至だと言うのは容易に想像がついた。

 だが彼女もそんなに鈍くさい訳ではない。訓練時代に築きあげた反射神経をフルに活用し、スバルは受け身を取ろうとして地面に手を伸ばし――、



 しかし、そこで彼女の動きが一瞬だけ停止してしまった。



 そして気付いてしまったのだった。その事実に気付いたスバルは普段は絶対に見せないであろう自虐的な笑みを口元に浮かべながら、静かに、それでいて悲しげに呟いた。

 「腕が無いのにどうやって手をつくんだろうね……私ったら」










 同時刻、第9無人世界『グリューエン』の軌道拘置所、その面会室にて――。

 「――――と、私が話せるのはここまでだ」

 強化ガラスを挟んで二分された空間に二人の影。もうフェイトが入室してからどれ程の時間が過ぎたであろうか、スカリエッティが話し始めた時には“9”の所にあったはずの時計の短針が、既に“10”の数字をとっくに通り過ぎていた。その間フェイトはずっと熱心に必要な情報をメモしていたらしく、自前の手帳が既に数ページは消費されていた。

 「大まかな部分は把握出来ました。あとはこちらで聴取した情報を元に引き続き捜査を続行します。協力に感謝します」

 「なに、お安い御用さ。久し振りに他人に講釈を垂れるなぁ……17年振りか」

 話していた一時間の間ずっと席を離れていなかったのか、スカリエッティは椅子が小さいと言わんばかりに大きく背伸びをした。体中の骨が鈍い音を立てているようだったが、この際それは気にしない方向で行こうと思う。

 「さてさて、フェイト嬢。もう私から搾り取る情報など無いはずだ。君ほどの優秀な執務官がいつまでも局を離れていては事務に滞りが発生するだろうから、早々にここを退散することを推奨するよ」

 先程までとは一転し、稀代の天才科学者は目の前のフェイトをまるで室内に迷い込んだ一匹の蠅か羽虫か何かのようにして手で払う仕種をする。面倒臭くなったと言うのもあるらしいが、どうやら本当にこの件に関しては話す事が無くなったらしく、彼は早くも看守と共に自分の独房に戻ろうとしていた。

 「待ってください。まだ聞きたいことがあります」

 さっさと退室しようとしているスカリエッティを急いで呼び止めるフェイト。

 「何だね? 君もしつこい人間だな。まぁ、私が何か話し忘れているようなことがあったのなら応じようではないか」

 呼び止められた彼は大人しくパイプ椅子に戻ると、再びガラスを挟んでフェイトと向き合った。双眸からはとっくに狂気の輝きが失われており、彼の興味が既に失したことを暗に表していた。

 「確かに……この二枚の写真に写っているモノについては貴方から教えてもらいました……。でも、あともう一つ……」

 フェイトが指し示すモノ……それは始めに渡した二枚とは別の写真、現在確認されている最後のナンバーズこと、通称『13番目』の顔写真だった。ここに来てから一時間以上が経過しようとしていたが、結局スカリエッティが写真の彼について話す事は一度も無かったのだった。まるで意図してその話題を避けているかのように……。そして、その事に気付かない程に鈍感なフェイトでもなかった。

 「話してもらいますよ」

 彼自身、どんな意思があってその事に触れなかったのかは知らない。だがここまで来たからにはどうしても喋ってもらわなければならない。それが今のフェイトの責務なのだから。



 しかし――、



 「断固辞退する」

 「なっ――!?」

 断られた。それもただ単に断られてしまった訳では無かった。今までだったら単に自分勝手などうしようもない矜持に拘っての黙秘だったのに対し、今回のそれは断じて違っていた。何か明確な意思、それでいて拒絶とは違う別の何かをフェイトは感じていた。

 「……一応ですが、何故話したくないのか理由を聞いても良いですか?」

 「簡単なことだよ。この事に関しては私よりも彼……“13番目”を良く知る人物が居るからだ。私よりも良く知っているのに、その者に代わって私が話してしまうことが出来る訳が無い」

 「貴方よりも知っている人物? まさか、ハルト・ギルガスのこと!?」

 「ハルトぉ? フゥハハハハハ、君はなかなか面白い冗談を言うね。傑作だよ! よりにもよって私よりも下衆な輩が、仮にもこの私の生み出した至高の傑作のどこを、何を、どう言う風に知っていると言うのだね!?」

 気の利いたジョークに大受けするイタリア人のように腹を抱えて椅子から転げ落ちんばかりに大笑いするスカリエッティ。そのある意味ではおぞましいことこの上ない姿に、フェイトは本能的に思わず身震いしてしまった。どれ程彼の反応が狂気染みていたか想像に難くはないだろう。

 「ハハハァ……。違う違う、開発者である私よりも、一時的な預かり人であるハルトよりも、どの次元世界の誰よりも…………彼のことを知り尽くしている者が居るのだよ」

 「その人は今どこに!?」

 開発者である者が自分よりも遥かに詳しいと豪語した……興味が湧かない訳ではない。それに、もし本当にそうだとすればその人間に聞いた方がより確実であることに間違いは無い。フェイトとしても、何とかして情報を掴みたくて必死な勢いだった。

 だが――、

 「残念だが、それ以上の事は言えんな」

 「何故!?」

 「言ったろう? 『その者に代わって話すことは出来ない』と。と言うことは、私が自分の勝手でその者を何の断りも無く君達に紹介することも憚れると言うことだ。勘違いしてくれるな、決して詭弁などではない」

 「では……どうすれば教えてくれるのですか?」

 「管理局の持つ権力の全てを使えば、私に口を割らせることなど容易いだろうに。まぁ、それ以外の方法でと言うのなら、残念だが出直して来たまえ」

 妙に勝ち誇ったような表情のスカリエッティは今度こそ本当に自分の役目は終わったと言いたげに椅子から立ち、背後のドアから付き添いの看守と共に退室してしまった。後に残されたフェイトはと言うと、彼の出て行ったドアを穴が開くほどに睨みつけながら悔しさに歯軋りしていた。その心情は後一歩のところで獲物を仕留め損ねた猟犬と言った方が分かり易い。

 「ハラオウン執務官、そろそろ……」

 ずっと自分の背後で控えてくれていた拘置所の所長が大柄な体を屈ませて静かに耳打ちしてくれた。確かに、これ以上の長居は無意味だ。また日を改めてから説得に来るより仕方が無さそうだった。もっとも、これ以上の接触を続けたところで彼が多くを語るとは到底思えなかったが……。

 「お見送りしましょう」

 「ありがとうございます。――――? 失礼」

 素早く懐に手をいれた彼女はそこから小型のポケットフォン――地球で言うところの携帯電話に相当する物を取り出した。即座にその小さな画面を確認すると、アドレスは義兄からのものだった。正直驚いた、仕事一筋の彼が正規の連絡網と通さずに直接自分に連絡を入れて来るなどとは思っていなかった。だが、それは逆に言えば直接伝えなければならない程に重要で、尚且つ早急に実行に移してもらわなければならなかったからと言う考えも出来た。

 「はい、こちらフェイト・T・ハラオウン執務官。…………はい……はい、了解しました。すぐに実行に移します」

 義兄からの連絡を受けた彼女はすぐさまポケットフォンを仕舞い込み、隣の所長にこう言った。

 「お手数ですが、もう一度スカリエッティを呼び戻してください」










 午前10時56分、医療センター中庭――。



 「どうしよう……立てないや」

 石畳の冷たさを全身で感じながらスバルは地面に力無く横たわっていた。そのすぐ後ろには同じようにして電動車椅子が転がっており、彼女が衝撃で座席から放り出されたことを物語っていた。なんとか立ち上がろうと左手を地面に着けて踏ん張るのだが、如何せん片手では体重を支え切れない上に足そのものが無い所為でいつまでも地面をのたうち回っているだけだった。やがて体力が無くなったのか、彼女は遂に立ち上がることを止めて、大人しく誰かが通りかかるのを待つ事にした。

 だが、

 「うぅ、誰も来てくれない……」

 悲しいかな、彼女の願いとは裏腹に中庭を通ろうとする者は誰も居なかった。いくら昼間とは言え、誰も好き好んで冬の外に出ようとはしないのが一因だった。

 「…………寒いなぁ。風邪引きそうだよ」

 寒風にダイレクトに吹き晒され、スバルは寒さに身を縮めた。転げ落ちた時に一緒にはみ出た毛布を手繰り寄せ、それを上から被った。ほんの少しでも寒さを凌ごうとしてだったが、足を覆い隠すには充分でも、体を全部覆うには足りなかったようで、結局彼女が寒さに震えることに変わりはなかった。

 せめて、両脚さえ無事だったなら、今頃こんなことには……。



 両足――? 無い――?



 「……っ!!」

 その時、スバルの胸中を通り過ぎた一陣の鋭い感覚。全身を瞬時に駆け巡った“それ”は彼女の精神を蹂躙し、肉体に寒さとは全く異なる震えをもたらした。

 それは『恐怖』。感情の揺らぎが彼女に与えた圧倒的な恐怖だった。

 「いや……駄目だよ、こんなの…………こんなおかしいの誰かに……見せられる訳がないよ!」

 それは四肢を欠き、望まずして他人とは違う姿になってしまったことによる劣等感が原因か。それとも、自分の夢を無残にも断たれてしまったことの虚無感の所為なのか。とにかく今のスバルは自分の姿を他人に見られてしまうことに尋常ならざる恐怖感を覚えていた。幼子のように怯えきってしまい、震える体を更に縮めて毛布の中に隠れようと必死になっていた。

 「ダメ……ダメ、ダメ! 来ないで! 誰もこっちに来ないで!」

 自分でも何を口走っているのか分からなかったに違い無い。もはや彼女の怯え様は常軌を逸していた。彼女の中では、立つ立てないの事などもうどうでも良くなっていたのだ。ただ単に、この姿が誰の目にも入らなければそれで良い……この自分であって自分のモノではないこの姿を誰にも見られたくないだけなのだ。

 「ダメ……! ダメだよぅ……来ないで……!!」

 藁にもすがる思いで必死に祈り続けるスバル。



 だがしかし、天は彼女を見離した。



 一定のリズムを刻んで響くその音は明らかに人の足音。しかも何と不幸なことか、その足音の主はゆっくりと、しかし確実にスバルの近くへと接近して来ているのだった。

 「あぁあ……!」

 恐ろしい! 嫌だ! ここから逃げ出したい!!

 両目は完全に見開かれ、スバルの心はもう限界点に達しようとしていた。心臓の鼓動が有り得ないくらいに早鐘を打ち、それに伴って脈拍も急上昇、冬の寒波なのに汗が止め処無く溢れ出る。アドレナリンが大量分泌されて吐き気まで催してきた、その時――、

 足音がスバルの前で停止した。

 「!!?」

 夏に比べて低い日射角度がスバルの顔に長い影を落とさせた。隠れるようにして頭に被った毛布の隙間から、微かに見えるその者の両足の白い靴……サイズからして恐らく体躯は自分と同じ位だと言うのが分かったが、今の彼女は自分の惨めな姿を見られまいとするのに必死で、そんな事はすぐに頭の隅に追いやってしまった。

 「……ッ!」

 左手で毛布を掴み、怯えきった目に涙を浮かべながら、彼女は目の前の人物が自分の前から居なくなるのを祈っていた。もう、立ち上がれなくても良いとさえ感じていたのだ。

 だがしかし、天の御座におわすでろう神はまたもや彼女の願いを聞き届けてはくれなかった。

 毛布に自分とは別の手が掛けられるのが分かった。ゆっくりと重力とは別の方向に毛布が引かれて行く……スバルの左手は緊張のあまりにそれを拒むことすら忘れてしまい、カッと目を見開いたまま微動だに出来ずに毛布を剥がされてしまった。

 「ぅあ……!」

 せめて右腕だけはと、彼女は包帯に巻かれた自身の右腕を左手で隠そうとした。もっとも、そんなことをしたところで何の意味も無くなっていたのだが。

 我ながらみっともない姿だと、彼女は後で思い返すハメになったのはまた後日談。ふと自然に顔を上げてしまった彼女の視界に映ったモノ……それは、まるで雪でも纏ったかのような純白の服。徐々に視線を上げていくと、突然目の前の人物――彼がしゃがみ込んで視線を合わせてくれ、少々驚きを禁じ得なかった。

 「あぁ……………………綺麗」

 自分でも信じられなかった。心は恐怖で委縮していたはずなのに、まさかそんな言葉が口から出てくるなんて思っていなかったのだ。

 それでも綺麗だったのだ。彼のガラス玉のように濁りが無く、どこまでも透き通った金色の眼が。

 白磁の肌に紫苑の短髪……そして金色の双眸――。



 「スバル・ナカジマ、だな?」



 トレーゼとスバル……後に互いの矜持と意地、そして命をも懸けて拳の死闘を繰り広げる二人の戦闘機人の最初の顔合わせが、まさかこんな出会い方だったなどと一体誰が想像出来ただろうか。










 午前11時、『グリューエン』軌道拘置所にて――。

 「やれやれ、こうも連続で君の顔面を眺めるハメになるとはな……。それで、今度は一体何なのだね? 質問の如何によっては私は今後一切君との面会を拒否するよ?」

 パイプ椅子に腰掛けるスカリエッティの表情はその言葉に相違無く不機嫌なものだった。椅子に座りながら胡坐をかいて退屈極まりなさそうに欠伸をして、さっさと終われと言わんばかりにフェイトを蛇の目で睨みつける……これは相当立腹のようだった。

 だがそんなことなどお構いなしにフェイトは切り出す。

 「貴方は、自分の口を割らせたいのなら管理局の権力の全てを集中させるべきだと」

 「如何にも。もっとも、お優しい執務官殿にそんな強行策が取れる訳が――」



 「取れますよ?」



 その瞬間、ガラスの向こうのスカリエッティの表情が一瞬だけ凍りついたように見えた。いや、実際に凍りついていた。しかし、その一瞬の表情の停止は驚きによるものと言うよりかは、「こいつは何を言っているんだ?」と言う感じの方が強かった。要するに、彼はフェイトの言ったことが真に理解出来ていなかったようだった。

 「……一応確認の為に聞いておくが、それはどう言う意味かね?」

 「言葉そのままの意味です。所長、お願いします」

 「はい。スカリエッティ、こっちへ……」

 「おいおい、何をするつもりだね? ちょ、ちょっと、おい!」

 いきなり手錠を掛けられて看守二人掛かりで面会室から引き摺るように連れ出されるスカリエッティ。程なくして彼はガラスを挟んだ反対側の空間、即ちフェイトの待つ部屋へと引っ立てられて来た。間近で見て分かったが、全体的にかなり痩せてしまっており、服がダボダボだった。後で局の担当部署に食事に関する改正検討を提出しておこう。

 「一体何がしたいんだ? いい加減に私も怒るよ、君」

 そりゃそうだろう、何も聞かされずに呼び戻されたと思ったら、今度は手錠を掛けられて役人の前に引っ張られて来たのだ。これはどんなに心が広い者でも立腹するのは必至だろう。もっとも、中年の男性が頬を膨らませると言う古典的漫画のような怒り方をするのもどうかと思うが……。

 「説明も無しに引き立てた無礼は詫びます。Dr.スカリエッティ、貴方に至急取り次ぎたい人間が居ますので、説明はその人から……」

 「ほうほう、その言い方からすると、君よりも立場が上の人間のようだな。実に興味深い、誰なのだね?」

 質問に対してフェイトは行動で応えた。ポケットに手を差し込んで取り出したのは、さっきのポケットフォンとは別の機械、正方形の面に小さなレンズのようなものが設置されている小さな装置だった。

 「……………………」

 側面のスイッチを押す。装置の内部に仕込まれた精密機器が一斉に動き出し、レンズ部分から特殊加工された光を放出させた。始めは目に痛い鮮やかな原色光線が出ていただけだったが、やがてそれらは織り合わさり、フェイトの手の上、スカリエッティの目線に立体映像を投射させた。

 始めに見えたのは顔だった。誰かの顔……輪郭からして恐らく男性、年齢は30代近く、髪は漆を塗ったかのような黒……スカリエッティはその顔に見覚えがあった。ナンバーズを率いていた時に機動六課に関する資料に目を通した時に見た覚えがあり、拘置所に入れられてからは実際に面会に訪れたことも偶にあったのも覚えていた。

 『久し振りだな、ジェイル・スカリエッティ』

 「やぁ、提督殿。お変わりないようで安心したよ。仕事は順調かい?」

 若き天才、クロノ・ハラオウン提督がそこに居た。










 「…………あの……」

 「何だ?」

 「ありがとね、えぇ~っと……トレーゼだっけ?」

 「…………」

 医療センターB棟の廊下を行く二つの影。一つは電動車椅子に乗った蒼い髪の少女、もう一つはその後ろからゆっくりと車椅子を押す白い少年のもの。病院の中ならばどこにでもありがちな光景だったが、そこには幾つかの相違と言うか、違和感のようなモノが存在してはいた。

 まず、スバルの様子がどこか余所余所しいものがあった。これは彼女にとって背後のトレーゼが初対面の人間だったからだと言うのが大きな原因だっただろう。そして、彼女自身あまり人見知りをする性格ではなかったのだが、あれだけ自分の怯えきった姿を見られたのは流石に恥ずかしかったと言うのもあったのかも知れない。一応礼を言うだけの気力は残ってはいたので良かった。彼女は礼儀正しい姉に育てられた分、助けられればどうしても礼を言わずには居られない性分なのだ。

 彼にとって好都合だったのは、彼女が自分に警戒心を抱いていないことだった。始めこそ初対面だった所為で無意識に接触を避けるような仕草はしたが、少なくとも敵として接されている訳ではない以上、心理的に距離を詰めることは充分に可能だ。その意味ではトレーゼの計画も今のところ順調と言えよう。

 「あ! ここです、この病室です」

 「うむ……」

 ちなみに、トレーゼはここへ来るまでにスバルに自分の事を幾つか話しておいた。もちろん、それらには自分の正体を隠す為の嘘も織り混ざってはいたが、ノーヴェ及びにその他のナカジマ家の人間と知り合いであると言った部分だけは本当だった。当然のことながら、『知り合い』であると同時に現在進行形で敵対関係にあることは伏せておいた。幸運なことに、彼女は地下搬入通路にてトレーゼと接触していることを知らない……偶然にもあの時に顔を隠しておいたのが功を奏したと言う訳だ。

 病室に入る。予定通りに目の前のスバルにはノーヴェの伝で彼女の事を知って見舞いに訪れたと言ってある。彼女が疑いを知らない人間だったのも幸運の一つだった。疑いを知らない人間……人をすぐに信用し、信頼してしまう人間ほどに騙し易いモノは無い。

 「うわぁ~! 美味しそうな果物。誰からだろう?」

 備え付けの卓の上には沢山の赤い林檎を乗せた籠――いわゆる特大サイズの籠盛りが置かれてあった。始めにトレーゼがここへ来た時には見受けられなかった……彼が去った直後にスバルの同僚か誰かが置いていったのだろう。置手紙が残してあるので確認して見ると、『湾岸警備隊一同より――』と書かれてあるのが分かった。

 「そう言えば、トレーゼ……だっけ? ノーヴェといつ知り合ったの?」

 左手で林檎を握り取り、生来の気さくさを取り戻したスバルが陽気に話し掛けて来た。相変わらず右手と両足は毛布の下に隠したままだったが、それでなんとか精神を保っていられると言うのなら無理に指摘する必要も無いだろう。

 「ほんの、偶然だ。元々所属も、違うし、接点も無かった」

 半分嘘だ。偶然なのはそうだとしても、管理局に籍を置いていない以上は所属も何もあったものではない。真っ赤な嘘だった。

 だが――、

 「へぇ、そうなんだ。ノーヴェが家族以外の人と一緒に居るところなんて想像したことないよ」

 彼女は――スバルは信じた。偽装して造った局員証を見せるまでもなく、彼女はトレーゼの言うことを全て丸ごと信じたのだ。もしトレーゼに人並みの感情が存在していたのだとしたら、今頃湧き上がる笑みを堪え切れなかったに違い無い。自分の計画の何もかもが面白い程に順調に進んで行く……これのどこが笑わずに居られようか。

 しかし、彼にはおよそ感情と言えるようなモノなど何一つとして備わってはいなかった。だからこそ彼は自分の思ったことを顔に出さずに……いや、むしろ何も考えてなどいなかったのかも知れない。トレーゼにとってこれは“行動”ではなく“作業”、即ちわざわざ頭で考えるまでも無いと言うことだ。頭で考える必要が無い以上、彼の心に感情が芽生えることも到底なかった。

 これで良い、それで良い! このまま心理的にスバルの距離を縮めれば――。 

 「ねぇトレーゼ」

 「……何だ?」

 「皮切って!」

 「……………………ん?」

 「林檎の皮を切っててば。ほら……私、今腕無いし……」

 「…………あぁ、分かった」

 身内の話からいきなり食の話題に飛んでしまって調子が外れてしまった。事前の情報でカロリー消費の関係で食事量が異常に多く食欲旺盛だとは知ってはいたが、まさか仮にも初対面の客人の前でも平気で喰うとは思っていなかった。仕方が無い、怪しまれる恐れがあるので、ここは素直に言う通りにしておくことにしよう。トレーゼはスバルから林檎を渡されるとそれを右手に持った。

 「ホラホラ、ここにナイフあるよ……」

 「切ったぞ」

 「早っ!!? えっ、何で? ナイフ無いよね!?」

 トレーゼから綺麗に六等分に縦切りされた林檎を手渡され、スバルは思わず車椅子から転げ落ちそうになった。確かに果物ナイフはあるのだが、それを手渡す前に彼は林檎を切り終えていた。

 「手品!? 凄いね、今度私にも教えてよ!」

 ちなみに種明かしをすると、これは手品でも何でもない。トレーゼが持つ13のIS……その三番目の『ライドインパルス』を今ここで発動させただけに過ぎない。あのISは発動させた時に発する余剰なエネルギーを手首と足首から放出させることにより、それを武装及び推進力として利用する能力だ。そして彼の場合、本来手首に発生するであろうエネルギー翼を五指にカッターのように集中させ、それをマイクロ秒単位の間だけ発生させていただけだ。常人はもちろんのこと、戦闘機人の動体視力を以てしてもまず捉えることは不可能である。そして相手はスバル……普通なら怪しむところも勝手に誤解してくれた。実に好都合だ。

 「いただきま~す!」

 皮も剥かずに種まで刳り抜かずに出された林檎をお構い無しに口へと放り込むスバル。その姿はどことなく食料を口に入れることに夢中な小動物を連想させ、一切の疑念も勘繰りもトレーゼには向けられてはいなかった。

 (…………No.9……タイプゼロ・ファースト……そして、セカンド。全く同じ遺伝子を、基盤として造ったにも、関わらず、ここまでの違いが、出るとは……)

 彼が感心するのも無理は無い。心を許した者以外は絶対に自分の領域に寄せ付けない一匹狼のノーヴェ、全てにおいて品行方正を体現して社交性に富んだギンガ、他人を警戒することもさせることもなく接触して短期間で親しくなるスバル……とても同じクイントの遺伝子から生み出されたクローン体だとは思えない。DNA螺旋構造の中にはたった零点数パーセントだけだが本人の性格などを決定付ける部分があるらしいが……どうやら間違いかも知れなかった。後でラボに保管されてあるドクターの論文に加筆修正しておこう……トレーゼは密かにそう考えた。

 その時――、

 「あっ……! あ~……痛ぃ」

 「どうかしたか?」

 手に持った林檎を半分食べたところでスバルに突然異変が訪れた。いきなり顔をしかめたかと思うと、口元を押さえて声にならない小さな悲鳴を上げていた。流石に咀嚼した分を吐き出すまではいかなかったが、口内に残っていたものを無理に飲み込んだ所為で少しだけ咽込む羽目になった。

 トレーゼの脳が瞬時に起こり得る可能性の幾つかを提示していた。後々戦局に影響を及ぼしかねない存在だ、場合によってはこちらが即時対応しなければならない事態も考えられる。

 毒か――?

 金属片などの異物――?

 それとも本人が自覚していなかっただけで、食物性アレルギー体質だったのか――?

 「さっき転んだ時に口の中切ってた」










 午前11時3分、軌道拘置所――。

 「今日は本当に客人が多いな。次元震でも起きるんじゃないかい?」

 『もしそうだとしたら、僕は地球に置いて来た家族にしばらく会えないことになるな。勘弁してくれ』

 フェイトが事前に持ち込んであった小型投影機によって空中に映し出されるクロノのリアルタイム映像。相対するは次元世界きっての天才科学者ジェイル・スカリエッティ。本人たちにとっては別に意識している訳ではなさそうなのだが、何故だろう、そこの空気だけが異様に重く感じられて仕方が無い。

 『改めて…………時空管理局本局次元航行部隊“クラウディア”艦長、クロノ・ハラオウンだ』

 「君達が言うところの“悪の組織の筆頭”こと、ジェイル・スカリエッティだ。……さて、一応挨拶も済んだことだし、そろそろ本題をお聞かせになってくれないかね? まさかこんな落ちぶれた科学者のツラを拝む為だけに、御多忙の中で通信を繋いだ訳ではあるまい」

 妙に嫌味掛った口調で馴れ馴れしく話し掛けるスカリエッティ。通常のお偉方が相手ならここで頭に血が昇って話しにならないのだろうが、そこはやはり一部では『氷結提督』とも呼ばれているだけのことはあり、冷静且つ柔軟に流して見せた。

 『その多忙極まりない仕事の一部がたった今完了したところだ。もっとも、現在僕が抱えている仕事の大半は君の生み出してくれた“13番目”の所為でもあるんだがな』

 「ほほぅ、彼の有名な若き敏腕提督殿の手を煩わせるとは、開発者としては鼻高々だよ」

 『頼むから茶化さないでくれ。貴方にとってはたった一人の戦闘機人でも、こちらがどれだけの損害を被ったことか……。直属ではないとは言え、僕のかつての部下達は傷付き、旧友は本部襲撃の濡れ衣を着せられて謹慎までさせられた…………本当なら、“坊主憎ければ袈裟まで”と言うことで、貴方とも口すら聞きたくなかったのだが……』

 「のっぴきならない事情で仕方なしに……と言う訳か。君も大変だなぁ、私の様に自由奔放としていたならそんな厄介事を押し付けられずに済むのと言うのに」

 『…………本題に入って良いか?』

 いい加減に付き合い切れなくなったのか、映像の向こう側でクロノが大きく溜息をついた。ただでさえ短い持ち時間を割いて通信を繋いでいるのに、これ以上無駄話をしていては文字通り時間の無駄になってしまう。そうなる前に伝達事項だけをさっさと口頭で伝えなければならない。

 『今回の件で管理局にて確認されたスカリエッティ製戦闘機人……通称“13番目”は、局の保管庫にて厳重管理されていた押収物品を強奪後に逃走。確保しようとして接触した局員二名に攻撃を加え、内一名を実質再起不能にまで追いやった』

 「再起不能……と言うからには死にはしなかったのだな。大したものだ、彼が本気で仕留めるつもりだったなら生きてはおれんかっただろう」

 『その後、地上本部は廃棄都市区画にて謎のエネルギー反応を感知。調査を兼ねて先遣として出撃させたヴォルケンリッターが現場上空にて“13番目”と接触、交戦。途中でフェイトが介入したことで戦局に変化が現れたように思えたが、後一歩のところで逃走されてしまった』

 「そんなものだろうな」

 『そして更に二時間前、私用で首都まで足を運んでいた局員二名が所属部隊への帰還の為に乗り込んでいたリニアの中で襲撃を受けた。原因は不明……寸でのところで局員が介入したものの、今度はその局員が返り討ちにあってしまった……』

 「ふむ……意外と行動が早いな。正直感心したよ」

 クロノが挙げていく事項を素早く整理していくスカリエッティ。与えられた情報は一つとして無駄にせずに活用しようとするのは研究者の癖であり、それは三年間ずっと染み付いたままのようだった。

 『相手の出方も目的も分からず、上層部は混乱してしまっている。このままでは管理局はたった一人の外敵に対処出来ないままに終わる可能性が非常に高い』

 「人類の歴史上、素性が全く分からない者ほどに恐ろしいモノは無いからなぁ」

 『だが対抗策はある!』

 先程までの言葉とは打って変わって力強いその台詞に、思わずスカリエッティは「ほぅ……」と感嘆の声を上げた。

 『確認しよう。ジェイル・スカリエッティ、“13番目”は貴方が生み出した最後のナンバーズであることに相違は無いか?』

 「いかにも。彼……No.13『トレーゼ』はこの私の英知の限りを尽くして造り出したナンバーズだ」

 言質は取れた。クロノの口元に微かな笑みが浮かぶのを背後のフェイトは見逃さなかった。

 『知っているか、スカリエッティ? 管理局法において、あるモノが周囲に対して大なり小なり危害を加えた場合、その責任はモノの持ち主及び保護責任者が負うことになっている…………つまり――』

 「おいおい、これ以上私に刑罰を重ねようと言うのかい? 冗談じゃない」

 クロノの言わんとしていることがだいたい察しがついたのか、スカリエッティは心底嫌そうな顔で手を振った。「こんな食事が異常に不味い所でいつまでも居られるか」と言っており、フェイトは絶対に食事生活に関する改善をさせよう、と固く決心した。

 だが、クロノの言葉は彼の予想の斜め45°上を遥かに通り過ぎていた。

 『“13番目”が貴方によって生み出されたと言う事実がある以上、主である貴方を奪還しようとして必ず行動に移すはず! それが我々が現時点で推測出来る彼の“目的”です』

 「だろうな。彼にはこの私を絶対的上位者として認識するように刷り込んである……。遅かれ早かれ、最終的には私を取り戻そうとしてくることはまず間違い無いだろう」

 『そうか、それを聞いて安心した。これでようやく……この数日間の僕の苦労も報われると言うものだ』

 立体映像越しにクロノとフェイトの視線が一瞬だけ交差し、互いにそっと笑みを浮かべた。作戦通りと言いたげなその表情に、すっかり傍観者となってしまったスカリエッティは心底不思議そうに首を傾げるなかりだった。

 一体どんな事項を言い渡されるのか……。スカリエッティはそれだけが気掛かりで、同時に好奇心をそそられていた。 

 『ジェイル・スカリエッティ。たった今……現時刻をもって、あなたの身柄を時空管理局地上本部に強制移送させることを決定した。異論は認めない』

 少なくとも、ここの不味い食事とはしばらく縁を切れそうだと言うことは分かった。










 「あ~、血が出てる……いたぁい」

 自分の口に指を突っ込んで、付着した血液を見て涙目になるスバル。それを傍で見ていたトレーゼは自分の切った林檎を手に取ると、少しだけ齧ってみる。なるほど、果物に含まれるビタミン独特の酸味が少し強い種類らしい。軽い口内炎でも痛覚を刺激するには充分だと言うことは良く分かった。

 「…………」

 ここで彼は考える。彼女に対する行動を……。

 戦闘機人は体の免疫が常人とは少々異なる。傷口から病原菌が侵入しただけで組織が壊死することもあり、場合によっては内部の機械骨格ですら使い物にならなくなってしまう恐れがあるのだ。左腕以外の四肢を削ぎ落した相手とは言え、いつかはこちらの戦力図に加えなければならない存在……。手足の傷口は既に処置が施されているから良いとしても、口内から菌が侵入することを考えれば、ここで対処しておくのが妥当と言えるだろうことは容易に察しがついた。何事も用心に越したことはない。

 皮肉なものだ……自らの手で直接手足を奪った相手の面倒を見なくてはならないとは……。せめてこうなることが分かっていたなら、四肢を切り落とすこともなかったのかも知れないが、流石に自分もそこまで万能ではない……戦闘機人は魔導師にはなれても超能力者にはなれないのだから。

 トレーゼの右手がゆっくりと伸ばされ、スバルの頬に触れた。

 「冷たっ!?」

 自分では自覚してはいなかったが、トレーゼの手は冬の気温に晒された所為でかなり冷たくなっていた。それで手袋も付けずに急に触られたものだからたまったものではない。スバルはあと少しで食べ掛けの林檎を落とすところだった。

 「な、何するの?」

 「黙っていろ」

 スバルが大人しく口を閉じた瞬間、彼女は右頬に人肌とは違う温度を感じた。この体の内部から直接温められるこの温度は覚えがある……細胞を直に活性化させる治癒魔法のものだ。

 「わぁ……!」

 それもただの治癒魔法ではない。本来、このような軽い傷に対しては表面部分の傷口が閉じるまでしか治癒を掛けず、そこから内部は本人の自然治癒力に任せると言うのが主流なのだが、トレーゼはそうはしなかった。細胞を無理矢理に活性化させることで通常の数倍の治癒力を発揮させるこの魔法は、持続して使用すれば当然の如く細胞に負担を与え、場合によっては早期での老化を招き細胞死を起こさせる諸刃の魔法……。だがそれは長時間に渡って使用した場合のみでの話であり、トレーゼの場合は二分にも満たない極短時間で集中的に治療することで細胞に負担を掛けることなく口内の傷を修復、手を当ててから僅か数十秒でスバルの傷を完全に消す事に成功させた。

 「……これで、どうだ?」

 粘膜から内部で切れかかっていた神経まで治した。これで痛みは感じないはずだった。

 「ぅわ~。……あ、美味しい!」

 何も言わずにスバルは食べ掛けだった林檎を口に入れた。それを十回以上咀嚼して良く味わった後、嚥下。先程の痛みが相当のものだったのか、もうその痛覚が無いと分かった時、彼女の表情はそれまで以上に明るく溌剌としたものとなって輝いた。

 「すごぉい! 痛くないよ、血も出て無い! ありがとうね、トレーゼ」

 余りにも嬉しかったのかは知らないが、スバルはトレーゼの手を握ると大きく上下に振りまわした。とても熱い手だった。いや、ただ単に自分の手が冷たいだけか、何とも馬鹿馬鹿しい。

 「……………………」

 すっかり冷え切った脳でトレーゼは静かに思考していた。自分の眼前にて嬉しそうに笑顔で林檎を頬張る少女について……。接触してからまだ30分も経っていないと言うのに、彼女はこちらに対して既に警戒心を抱いてはいなかった。常識で考えればおかしな話だ、今日……それも今さっき出会ったばかりの見ず知らずの相手に対してここまで気を許してしまうと言うことは到底有り得ないことだからだ。これも彼女が生まれながらにして持ち得る天性のものなのか……そんな風にも考えもしたが、そんなことは実のところどうでも良かった。

 トレーゼは不思議だった。かつて、彼の主は教えてくれた……人と人、ひいてはこの世に存在するありとあらゆる生物は自分とは別の存在を真に理解することは出来ないと、一番最初に教えてくれたのだ。確かにそうだと実感出来る。理解出来ないから、分かり合えないからこそ人はぶつかり合って傷を付け合うことしか出来ないのだ。だからこそ主は――Dr.スカリエッティは社会から、世界から隔絶されて排除されたのだ。誰も彼の事を理解しようとしなかったから……。

 だが――、

 何故だろう――、

 目の前の彼女は違っていた。

 始めに接触した時こそ少しばかり拒絶の意思は見えたものの、それはすぐになりを潜めてしまった。元から戦闘用として生み出されたセッテはともかく、あのノーヴェですらこちらのことをもう少しは警戒していた。そのことを考えれば、これは最早特異を通り越してまさに“異常”。トレーゼは完全に肩透かしを喰らったかのように思え、ただ手に持ったままの赤い林檎を見つめるだけだった。

 「トレーゼは優しいね。初対面なのに、まるで他人じゃないみたい。ノーヴェが懐くのも分かるなぁ~」

 「別に、懐いては、いない」

 「嘘だよ! そんなことないってば。昔私のお母さんが言ってたもん、『優しい人は誰からでも好かれるから、その人の周りにはどこにでも友達が居るんだよ』って。私もね、局で働いてる執務官に友達がいるの。トレーゼ友達多いでしょ?」

 「……友人、と呼べる者は、居ない。姉……なら、居るが」

 「お姉さん居るの? 私と一緒だね。二歳離れてて、『ギン姉』って呼んでるの。何人居るの?」

 「……三人だ」

 「ふ~ん……。あっ、林檎食べて食べて! どうせ私だけじゃ食べきれないし」

 そう言ってスバルは籠ごと林檎を渡して来た。食べきれないと言うのは彼女が気を利かせたのだろう、本当は自分で全部食べられるのだろうが、親しくなった者に殆どあげずに自分だけで食べてしまうのは流石に気が引けたのだろう。

 特に断る理由も無かったので、トレーゼは素直に籠から一個だけ受け取ると、それを数秒だけ眺めた後に――、

 皮も剥かずに大きく口を開けて齧りとった。

 「豪快だね……。私もマネしてみよっかな」

 ちなみに、果物は皮を剥かずに食した場合、皮部分に豊富に含まれる食物繊維が消化の妨げになり、場合によっては消化不良を引き起こすらしいので止めておいた方が無難である。










 「またえらく急な話だな。正直流石の私も驚きを禁じ得ないよ」

 『それはそうさ。この事実を知っているのは、局員でもフェイトを除けば上層部のお偉方だけだからな。一般局員にはもちろんのこと、民間の情報管理企業などには噂すら届いてはいない』

 「情報操作技術の無駄遣いだな。まぁ良いさ、世の中なるようにしかならん。これもある一種の定めだと思えば幾分気が楽で良い」

 『意外と素直に応じてくれるんだな』

 「どうせ私は人質さ。嫌が応でも君達に従わなくてはいけないことぐらい、重々承知している。それで? 護送されるのはいつなのだね?」

 『早ければ明日か明後日にでも行動に移せる。僕が担当部署に少し我儘を言えば、今日中にでも移送可能だ』

 「結構結構。何事も早いに越したことは無い。……ところで提督殿。確かに私はこの件にかんしては何も干渉も文句も一切しないつもりだ。その方がトラブルが少ない分、そちらとしても願ったり叶ったりだろう」

 『確かにそうだな……』

 「君が私をここから連れ出して地上本部に移すと言うことは、これから君が実行するであろう作戦に私の存在が必要不可欠と言うことに他ならない。違うかね?」

 『図星ですね』

 「つまり、必然的に君達は私が呼びかけに応じなければ困ると言うことだ。以上の要素を踏まえた上で、君に一つの提案があるのだよ」

 『提案? “条件”の間違いじゃないのか?』

 「察しが良くて結構。そう、まさに条件だ。君達が今から私の提示する条件を飲めなかった場合、私も君の言うことは何一つとして聞き入れないのでそのつもりで」

 『そんな対等な立場だと思えるのか?』

 「和議の場において、それぞれの立場の差云々など問題ではないのだよ。重要なのは、その条件を飲むか飲まないか、だ。等価交換とか言うやつだよ」

 『…………』

 「さぁ、どうする? 提督殿」

 『…………条件とは何だ?』

 「なに、簡単さ。たった一つ……そのたった一つの条件さえ通してもらえれば、こちらは何も言わない。むしろこの条件は君にとっても有利に働くはずだ」

 『信用できるのか?』

 「ここで嘘をついても仕方ないだろう。意外と察しが悪いな君は」

 『もういい。それで、条件とは何だ?』

 「私が提示するたった一つの条件……それは――」










 午前11時35分、医療センターのとある病室にて――。



 結局あれからどれ程の間か会話をした。特にこれと言って大したこともない、他愛も無い会話。話しても話さなくても変わり無いに違いないはずの会話……それを続けていた。

 何歳? どこの出身? 

 家族は何人? 局には何年務めているの?

 休暇は何日? オフの時は何をしているのか?

 全部逐一答えた。質問をされれば間髪入れずに返すのをいたく気に入ったのか、スバルのマシンガンクエスチョンは止まることを知らなかった。



 全部嘘なのにだ。



 そもそも管理局に所属していないどころか、真っ向から敵対しているのだ。本当のことなど言えるはずもないし、当然言わなくても良い。関係の無いことだからだ……所詮はただの道具、計画を円滑に遂行させる為の“布石”であり数ある中の“手段”の一つに過ぎないからだ。騙すのだ、ノーヴェにそうしたように……セッテにそうしているように……自分の事を俗に言う『良い人』だと、『優しい人』だと誤認させることで、やっと自分の計画の第一段階は終了する。その為には自分は幾らでも他人を騙すし、時と場合によってはもちろん殺害も辞さないつもりだった。

 なのに――、

 何故だろう――、

 少し喋り過ぎた……トレーゼは自分でも知らぬ間にそう考えてしまっていた。当初の予定ではここまで深入りするつもりなど毛頭無かった。それがどうだ、接触から既に30分以上が経過し、一向に彼女の前から離脱出来る気配がない。いや、ここから出ようと思えば出れたのかも知れなかった。ただ……

 「そろそろ……」

 「もう行っちゃうの? まだ林檎あるよ? 何なら一緒にテレビ見ない!? この時間帯って何か面白いのあったかなぁ~♪」

 こんな感じだった。彼が席を外そうとする度にスバルの方から呼び止められてしまい、彼はいつまで経っても病室から出られなかった。いっそのこと無理を押し切って出ると言う方法もあったのだろうが、それを実行に移してしまえばこちらの苦労も水泡に帰してしまいかねなかった。あくまでこちらは計画成就の為だけに彼女の接触しているに過ぎず、その為にはどうしても彼女との心理的距離を縮めなければならないのだ。そうしなければ自分のIS……『――――』は意味を成さなくなってしまう。それだけは避けねばならない、何としてでも。

 だから今は彼女の機嫌を出来るだけ損ねないように細心の注意を払っている。どうせすぐに自分と会話していることにも飽きるはずだ、それまでの辛抱である。





 それからおよそ30分経った12時3分――。

 「そろそろ、定期健診の時間、じゃないのか?」

 「あ!! そうだった! って、もうこんな時間!? ごめんねトレーゼ、長い間引き留めちゃって……」

 真昼の院内放送が天井のスピーカーから流れた時、スバルはようやく自分が目の前の人物の時間を勝手に費やしてしまっていたことに気が付いた。テレビ番組を見て談笑していた先程までとは打って変わり、大慌てで籠の林檎を片付けるとレバーを操作して病室から出ようとした。

 「……こけるぞ」

 「わぁあ! 脅かさないでよ」

 「どうせなら、途中まで、ついて行っても、良いぞ?」

 「本当? じゃあお願いね!」

 「うむ……」

 トレーゼはスバルの背後に回ると、ここへ来た時と同じようにして彼女の乗る車椅子を押し進めることにした。外の中庭とは違う平坦で綺麗な廊下の上を、体に負担が掛からないようにゆっくりと押す彼の姿は、どこから誰が見てもスバルの付き添いにしか見えなかった。実際、今この間だけはそうだった。

 今のこの瞬間だけは、目の前の少女の言う『優しい人』を演じるつもりだったのだ。

 「トレーゼは本当に優しいよね。ティアだったらこんなに気を利かせてくれないもん」

 幸いにも、彼女はこちらを信用し切っているのが手に取るように分かった。左腕を除く四肢を欠いたことで傷心だった自分の元に都合良く現れた、『自分に優しい人』。これが手を伸ばさずにいられようか? 勢力図に引き込む前に四肢を切り落としてしまったのは確かに計算ミスだったが、そのお陰で彼女との心理的距離を埋める手段が講じれたと言うものだ。プラスマイナスゼロ……何も問題は無い。手足の件についてはこちらに取り込んだ後でどうにでもなる。完全再生は無理だが、その分より高性能な義肢を取り付けることは可能だ。

 「ねぇ……トレーゼ」

 そんなことを考えながら移動を続けていた彼は、目の前の座席に座っているスバルがこちらに話し掛けてきているのに気付いた。もはやここまで来ると、彼にとっては手元の小動物が少し煩く鳴いているようにしか感じなくなっていた。そう言うモノだ、彼は目の前の少女が何を言おうが自分とは関係ない……言いたいように言わせて、勝手に誤解させておけば良い。その方がずっと好都合――、



 「ありがとうね」



 「…………?」

 始め何を言われたのか理解出来なかった。いや、何を言われたのかは分かっている。礼を言われたのだ、何の裏表も無い純粋な感謝の意を唐突に伝えられたのだ。

 情けないことだ、いきなり何を言われたのかが分からず、トレーゼの脳は急停止してしまった。それは“驚愕”……人の精神の根幹を成す感情群の中で最も衝撃が大きく、最も刺激が強いモノ。時に怒りの衝撃すら凌ぐその衝撃はトレーゼの鼓膜を打ち、聴神経を通って脳に到達、彼の全脳細胞に散らばる全てのシナプスを大いに刺激させた。

 ふと、彼の足が止まる。頭は正確に30°下を向き、その金色の双眸はじっとスバルを見つめていた。

 「……どしたの? 具合でも悪い?」

 急に立ち止まってしまったことを不思議に思い、スバルがこちらを見上げるようにして振り向いた。その瞬間、二人の視線が交差した。片や光も宿さぬ金色の眼球、片や年齢特有の輝きを内包した翠の眼球……相容れぬ二組の目がほんの数瞬だけ入り混じったことで、トレーゼはようやく意識を取り戻し……

 「いや……何でも無い。気にするな」

 「そう? ならいいけど」

 再び歩を進め始めるトレーゼ。そんな彼を見ながらすこぶる上機嫌なスバル。トレーゼの無機質さを除けば、誰も二人が初対面などとは思わなかったに違い無い。

 結局、エレベーターに乗り込んでからもスバルは彼に会話を振り続けた。殆ど彼女の方から一方的な言葉の流れだったが、トレーゼが何も言わずに黙って聞き入ってくれているのがよほど嬉しかったのか、彼女はずっと笑顔だった。笑顔で心底嬉しそうに目的の階に着くまで彼に語り掛けていた。










 トレーゼは思考する――、目の前の車椅子に座る少女のことを。

 話していて幾つか分かったことがあった。

 彼女は人間として至極単純だと言うことだ。こちらの喋ったことは全て鵜呑みにし、何の疑いも無しに信じ込んでしまう……はっきり言ってしまえば馬鹿だ、それも折り紙付きの……。

 だが……

 何故だろう……

 人の話は殆ど聞かず、自分ばかり喋っている。会話の途中でも腹が減れば食物に手を付け、勝手に食いながらまた会話……。相手の都合なんかお構い無しに自分のペースに流す彼女……居れば調子が狂ってしまうにも関わらず――、



 不思議と不快感は無かった。



 ノーヴェと接触した時の警戒心も、セッテと手合わせした時の緊張感も――、

 そこには無かった。

 (…………『ありがとう』、か)

 トレーゼは自分の脳裏に焼きついたその単語をずっと反芻していた。かつて、自分が良く姉達に使っていた言葉だった。まさか自分が言われるとは思っていなかった……自分が最後にその言葉を言ったのも、もう17年も昔の話なのだから。

 「…………ウーノ……ドゥーエ…………トーレ」

 網膜に蘇るは、かつて共に過ごした三人の姉の姿。しかし、イメージで浮かぶその姿は17年前のものでしかなく、今の彼にとって三人のことなど何一つ分からなかった。別にそれで良かった……10年以上の時をたった一人で過ごしていれば忘却の彼方へと追いやられてしまうことなど目に見えていたことではないか。

 彼の表情は変わらない。欠落して無に帰した心は何の反応も見せることは無かった。虚空を見つめるその瞳も、今は何も語ろうとはしない。

 ただ、彼の車椅子の取っ手を握る手が少しだけ強く握られているような気がした。

 (計画は、遂行する…………それが、俺の……俺達“ナンバーズ”の、たった一つの、望みだから……)

 エレベーターが開くと同時に、トレーゼは車椅子を押して踏み出す。スバルがこちらに笑いかけている。関係無い、こいつは言うなれば道具……計画遂行の為の“手段”だ。道具は使われる為に存在を許される。用も手段も無くなったその後は……

 考慮しておいた方が良さそうだ。



[17818] T・S事件回顧録
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/06 17:44
 新暦85年7月22日、午前11時34分――、時空管理局ミッドチルダ地上本部、第八演習場にて――。



 T・S事件? あぁ、『トレーゼ・スカリエッティ事件』のことか。何故それを聞く? 執務官だと? 見えないな、若過ぎる。なるほど、最近は優秀な人間が増えたと言うことか。

 で、何故その事を俺に聞く? 提督に第四次報告資料の作成を命じられて、か。ならば俺でなくても彼の義妹に聞けば…………ハラオウン執務官が俺を直接推薦した? そうか、彼女は既にこの件から身を引いていたか……。だからとは言え俺に聞かなくても良いのでは?

 …………まぁ良い、たった今訓練も終わったことだ。俺が語れる範囲内でなら協力しよう。ただし、時間は無い。これでも一部隊の隊長だからな、そこいらの窓際局員よりかは予定は詰まれているつもりだ。と言っても私用だがな。

 そうか……あれからもう六年か……。早いものだな、月日が過ぎると言うのは。いつか提督殿が言っていたな……世界はこんなはずじゃなかったことばかりだ、と。まさにその通りだ。明日の事はもちろん、一時間後の事だって誰にも分からない。お前がここへ来ることだって同じように分からなかった。

 だからこそ、人生は面白い。そう思わないか?

 済まない、話が逸れた。歩きながら話して行こうか。

 俺がこれから語るのは新暦78年11月14日……つまり、世間を少し騒がせる羽目になった『“聖王の器”誘拐事件』の四日前の話だ。表向きにはあまり知られてはいないが、彼が誘拐事件を引き起こす為の段取りは、実はこの日に済まされていた。そして、彼の計画もこの誘拐事件を発端にして加速して行くことになった。

 メモの準備は良いか? じゃあ、始めるぞ。










 時を遡り六年前…………。

 新暦78年11月14日、正午十分過ぎ、クラナガン医療センター――。



 「……………………」

 人気の無い廊下で壁を背もたれ代わりにして静かに佇む少年の姿。目蓋を閉じたまま停止しているその姿は眠っているようにも見えなくはなかったが、その周囲から発せられていた無言の気迫は明らかに常人とは掛け離れたオーラを周囲一帯に撒き散らしてした。

 彼のすぐ脇にはドアがある。この院内に幾つかある診察室の一つだ。彼がここに佇んでいるのには訳があり、決して一休みしているのだとか、暇を潰しているのだとかではない。彼は思考していた……これからの行動を。

 今、この薄いドアの向こうではスバルが診察を受けている最中だ。本来ならば短時間で済むのだろうが、そこはやはり戦闘機人、肉体の検査一つ取っても時間が掛かってしまいものだ。肉体面での健康はもちろんのこと、体内の機械骨格などの精密機器に関しては専門の技師や設備によって厳重に検査しなければならず、早く見積もっても後20分は出て来ないだろうことは予測が付いた。

 はっきり言えば、今日はもう彼女に用は無かった。やるべきことは終えたし、何よりも彼女と再度接触する為のきっかけも作ることが出来た。これは結果的に大収穫であることは間違い無かった。

 そして、用が済んでしまった所に長居は無用だった。壁の時計を見上げれば『12:14』の表示……予定ではもっと早くここから立ち去るはずだったのだが、意外と時間を食ってしまった事を彼は今更ながらに後悔していた。

 ここから離れたいのならまさに今が絶好の好機。そう考えた彼は静かに目を開き、周囲を確認……誰も居ないことをしっかりと確かめた後、懐から自前のデバイス、マキナを取り出した。

 「長距離転移……開始」

 『Roger.』

 音も無く展開される真紅の三角魔法陣。既に座標軸は固定してある、後は身を任せて目的の場所目掛けて移動するだけだ。鮮血の紅が白く清廉とした廊下を浸食していく中で、その中心にたった一人で佇むトレーゼの姿……。それはまるで荒ぶる劫火の中から召喚された古代の悪魔の如き禍々しさに満ち溢れていた。粘性を帯びた様な高濃度の魔力は大気を汚し、塵芥を押し退け、周囲の空間を飛び回っていた小さな虫の命を何の抵抗も無く簡単に蹂躙し、その魔手が廊下の先の看護婦の背中に届こうとしたその時――、

 消えた。

 魔力の流れが……殺気が……そして何よりも、トレーゼの姿が廊下から完全に消え去っていた。代わって後に残されたのは、彼が背中を預けていた壁際の残留体温と、その足元に落ちた絶命した羽虫の残骸だけだった。

 彼の姿は――、










 同時刻、首都から距離を置いた場所に存在する魔導師育成機関――St.ヒルデ魔法学院。明るい将来への期待に胸を膨らませる若き学徒達が集うこの学び舎は、何の喧騒も騒動も無く、まさに平和な学院生活を送るには最適な場所だった。聖王教会管理下にあるこの教育施設からは毎年多くの人間が旅立って行く。魔導師となって管理局に入局する者も居れば、聖職者として教会に所属する者も居る。様々な分野で将来が有望な人材を輩出する機関として、管理局と幾つもの接点があった。

 そんな校舎のとある場所……遠くに見える首都の街並みを一望出来るその屋上に一人の影があった。

 「……転移完了。予定より、30分以上の遅れ。計画進行に、変更も、考慮される」

 少年――トレーゼは彼方に広がるクラナガンの街を眺めながら、ストレージデバイスに現状の報告を続けていた。時刻は真昼……午前中最後の授業が終わるまでにまだ20分はある所為か、現在この屋上には彼以外に人間の姿は無かった。殆どのクラスが教室で授業をしており、外に出ているのは校庭の方で二組ぐらいの数のクラスが合同で授業を受けている程度だった。とは言っても、授業が終わって昼休みになればここは昼食を食べに来る生徒達で一杯になる。その前にここへ転移出来たのだけは幸運だったと言えただろう。

 だが、彼にとっては大いに不満だったようだ。正直言って、ここまでの遅延が発生するとは思ってなかった。完全な計算ミス……たかが道具程度にここまでの時間を浪費させられるとは、ある意味では失態だった。次回に接触する時には時間配分と言うモノを考えて行動した方が良いと言うことを考えさせられた。

 グラウンドから少し離れた場所に位置する時計台。眼球部分の赤外線望遠機能を使って見てみると、古風な長針と短針が12時25分を示しているのが見て取れた。あと15分で授業終了のチャイムが鳴るはずだ。そうなれば腹を空かせた生徒達は一斉に食事に取り掛かり、まずその場所を動く事は無い。そしてそれは教師も同じはずだ。

 つまり、昼休みはこの校内に居る人間の大部分が動かないことになる。絶対的な隙がその時間帯に生まれるのだ。

 しかし、問題もあった。食事中は誰も席を立つ事無く談笑に耽っていることになる……それはつまり、その間誰かが移動していたらそれなりに目立ってしまうと言うことになるのだ。少し考え過ぎかも知れないが、想像して欲しい……本来ならば皆揃って食事をしているはずなのに一人だけ、それも見ず知らずの人間が校内を徘徊しているのを誰かが見たら何と思うか。恐らく疑念を抱くと同時に不審だと直感するだろう。だがこれは生徒達が食事を終えてからでも一緒だった。

 昼休みの時間は40分。しかし、生徒達の食事スピード如何によっては10分で食事を終えて校内を行き来する者も居るだろう。そうなれば、行動出来る範囲は更に狭まってしまう。

 「……………………」

 彼は考える。現状で実行可能な最善策を……。

 シルバーカーテンでの光学迷彩? いや、仕掛けを終えるまでの間それを使用し続けるのはエネルギーの浪費だ。どの道バレてしまう恐れがある。

 変身魔法? それも否。校内に居る教師達は全員が魔法技術のプロだ、全身に魔法を施した状態ですれ違いでもすれば間違いなく魔力を感じ取られて勘付かれてしまう。

 とすれば、ここはやはりライアーズ・マスクでの変装能力に頼るしかないと言うことになるが、それでもまだ問題点はあった。

 誰に変身する? まず校内の教師はNGだった。どこで誰が見ているかも分からない……同じ姿形の人間が違う場所を歩いていたりしたら誰だって不思議に思ってしまうのは明白だ。かと言って、上級生などに変身するのも、同一の理由で却下だった。

 「どうするか……」

 全くのデタラメな他人の姿もこれまたただの不審者だ。そうなると、校内どこをいつうろついていても何の違和感も感じさせない人物に変身しなくてはならないことになる。校内をいつでも自由に移動でき、尚且つ顔を知られていなくても問題無い人物に……。

 そんな都合の良い者が居る訳が無い――トレーゼは即座にその結論に落ち着いた。冷静に考えてもその通りだ、そんな都合の良い条件に適った人物などがここに居る訳が無いのだ。仕方が無い、やはりここはエネルギー消費など気にせずに光学迷彩で行動するしか――、



 その時、トレーゼの眼に止まるモノがあった。



 「……あれは」

 彼の眼球の望遠機能が捉えたモノ……それはグラウンドから少し離れた茂みの中を行く一人の人間だった。あんな人気の無い所をたった一人で徘徊していれば普通は怪しまれるはずなのだが、どう言うことか距離を置いた所で授業を受けている生徒達も、引いては教師も何の違和感が無いかのようにして普段通りに振舞っているのだ。

 絶対におかしい! 教師でもなくましてや生徒でもないその者が何故平然と校内に居られるのか? だが、その疑問はその者が一体どんな人間なのかと言うことを理解すると同時に氷解していった。そして、それと同時に彼の脳裏にある一つの閃きが浮かんだ。瞬く間に全脳細胞を駆け巡ったその刺激は彼が先程まで求めて止まなかった“理想の作戦”を一瞬で立案させたのだった。

 行ける。これなら確実に、完璧に!

 すぐさま脳内でシュミレーション、成功確率が規定値を満たすことが分かった瞬間に彼は実行に移すべく屋上から立ち去った。

 12時35分――昼休みまであと五分。










 「さてと、無事交渉成立したことだし、私は自分のみすぼらしい独房に帰らせてもらうとしようか」

 その頃、フェイトが出向していた軌道拘置所では元第一級次元犯罪者であるスカリエッティが大きく背伸びをしながら自分の居た場所まで戻ろうとしていた。既にクロノの立体映像を映し出していた小型映写機は仕舞われており、現在この空間には彼を除いては付き添いの看守と眼前の執務官以外は居なかった。ヨレヨレの服を少しだけ伸ばした彼は看守を引き連れてさっさと退場しようと……

 「待って! 今日中に移動するつもりじゃなかったの?」

 背後からフェイトに呼び止められた。どうやら彼女は目の前のスカリエッティが今からミッドへと移動するものだとばかり思っていたらしい。実際さっきまで彼はそうしてくれと言っているような口振りだったのも事実だ。

 「う~む、そう一応そうも考えたのだが、冷静に考えてみれば急いては事を仕損じるとも言うからな。今だけは君達の手を煩わせないことにするとしよう。その方が良いだろう」

 「そうですか。では、私はこれで……。ご協力、感謝します」

 「せいぜい頑張り給え。私の最高傑作を前にどれだけの間頑張りを保って居られるかは知らんがな」

 「その台詞だけ聞くと、明らかに貴方が彼に加担しているみたいですから、あまり大きな声では言わない方が良いかと……」

 「おぉ、怖い怖い。口は災いの何とやらと言うからな……私の無駄口も今日はここで終わりとしよう」

 わざとらしく手を振って茶化しながら、スカリエッティは看守によって開けられたドアに入って行った。背後に二人の看守を従えて、彼はドアの向こう側にある監獄エリアへと向かって行く……次に顔を合わせるのは、管理局の体制などを考えると恐らくは一週間後かそれ以内となるだろう。それまで再びしばしの別れとなるだろう。あの男の不思議な所はズバリ“憎めない”ことだとフェイトは考えている。20年以上に渡って数々の違法研究に手を染め、ロストロギアの大量無断所有、果てには生命に関する禁忌の技術にまで触れた史上最も悪名高い次元犯罪者……そのはずなのに、彼の一々耳障りな言動も間を置いてしまえばどう言うことかそれほど気に障る程のモノでもなかったことが分かるのだ。憎めない性格とは彼のようなことを言うのかも知れない……そんなことを考えながら、フェイトはゆっくりと去って行く彼の細い背中をじっと見送る。数日はあの憎たらしい口が聞けないと思うと、すっきりすると同時に何か淋しくもあって――、

 「あ、そうそう! 言い忘れていたことがあったよ」

 前言撤回、さっさと独房へ戻れ。職業柄の鉄面皮を苛立ちに痙攣させながら、フェイトは心のなかだけで目の前のドアから顔だけを出して来たスカリエッティに雑言を吐いた。ちょっとでも感傷に浸った自分がバカだった。

 「彼は単独で行動しているだろう。彼は仲間を必要としない、彼は全ての計画を自分の力だけでこなそうとするはずだ」

 「それが……?」

 「だが現実は甘くは無い。彼が私を取り戻そうとする計画を遂行していたとしても、必ずどこかで単独ではカバーし切れない誤差が生じるはずだ」

 「つまり……?」

 「彼に仲間は必要無い……しかし、彼は自分で用意しようとするはずだ。自分にとって都合良く動く“道具”となる存在を……。心しておきたまえ、これは勧告ではない、注意でもない、『警告』だ。いずれ彼は本格的に動き出すだろう。今でこそその程度で済んでいるが、今のままでいれば必ず後悔する……用心しておきたまえよ?」

 この時、フェイトは彼が言っているのは冗談でもハッタリでもないと言うことを察知していた。 

 微かに開いたドアの隙間からこちらを見つめるスカリエッティの眼はいつものような気だるそうなモノではなく、かと言ってかつての狂気に満ちたモノのどちらでもなかった。蛇とも猛禽類とも取れる輝きの眼は純粋な警告だけを知らせようとしており、とても嘘を言っているようには見受けられなかったからだ。

 「…………御忠告、感謝します」

 「頼んだぞ、決して失敗してくれるな。君達の為にも、私の為にも……そして何よりも、彼の為にも……」

 それだけの言葉を最後に、スカリエッティは本当にドアの向こうへと消えていった。

 最後の後ろ姿……痩せ細った背中に何かしらの哀愁を感じたのは、単なる気のせいだったのだろうか。後に残ったフェイトにはそれだけが分からなかった。










 12時37分、医療センターのとある診察室前にて――。

 「あれ? どこ行っちゃったんだろう、トレーゼ」

 半時間に渡る診察を終えて廊下に付き添いの看護婦と出て来たスバルは、てっきり外で待っているとばかり思い込んでいた姿が消えていることに驚きを禁じ得なかった。鳩が豆鉄砲を喰らったとはこのことか、彼女は口を半開きにしたまま後ろの看護婦に押されて自室まで戻って行った。

 「うぅ……トレーゼぇ……」

 「お友達なんですか?」

 「はい……さっき知り合ったばかりですけど……」

 半分涙目になりながらも返答するスバル。無理もない、さっきまでは普通に会話をして一緒に診察室までついて来てくれていた人間が言伝も何も無しにどこかへ行ってしまったのだ。確かに少し無口で無愛想な気もしなくはなかったし、あちら側の都合もあったのかも知れないが、それでもやはりショックは大きかった。

 「その人ってスバルさんのご家族ともお知り合いなんですよね?」

 「トレーゼはそう言ってました。ノーヴェと……あ~、私のお姉ちゃんと知り合ったのが縁でって」

 「なら、ひょっとしたら今度来る時には多分ノーヴェさんと一緒に来るんじゃないかしら。今日はきっとあっちの用事か何かがあっただけよ」

 「そうですか…………そうですよね。また会えますよね」

 誰に聞かせるでもなく、自分に言い聞かせるようにしてスバルは呟いた。彼とはたった一時間しか喋ってはいなかったが、決して悪い人間ではないと自分の直感が告げていた。きっとまた会いに来てくれるはずだ。そうでなかったら、退院してから幾らでも会いに行ける、何も心配などいらない。

 生来のポジティブ思考により、自分の病室に着く頃にはスバルはとっくに笑顔に戻っていた。

 単純と言うなかれ。

 純粋なのだ。










 午前12時50分、St.ヒルデ魔法学院の初等科と中等科の敷地の間にある小庭園の一角にて――。

 とても人工的に造られたとは思えない程に自然なその緑の空間には様々な野生の小鳥達が集い、澄んだ歌声を周りの木々に聴かせて飛び回っていた。今の季節でこそ樹木の葉はすっかり枯れて落ちかけてはいるが、春には花、夏には万緑、秋には紅葉と言った様々な風景を楽しめることから、この小庭園は学院でも五指に入る名所として知られている程だった。各所に設けられたベンチには最大4人が座れるように設計されており、それが全部で10……昼休みである今の時間帯はそのどれもがここで昼食を摂ろうとして集まった生徒達で埋まっていた。

 その中の一つ……入口から少しだけ離れた所に位置する青いベンチに座っている三人の少女達が見えた。笑顔で会話をしていることから、傍目から見ても三人の仲が非常に良いのが分かり、自前の弁当箱の中身をつつきながら年頃の談笑に華を咲かせていた。

 三人の内の一人――ツインテールの少女と、頭のリボンと八重歯が特徴的な左右の二人に挟まれた少女に注目することにしよう。顔立ちからして年齢は恐らく左右の二人と同じように10歳、金の長髪を背に届く程伸ばし左右を青いリボンで小さく結んだ髪型、優しそうな口調は何の裏表も存在せずどこまでも地の優しさが滲み出ているのが充分に分かった。そんな彼女の一番の特徴は、何と言ってもその両目……右が草原の翡翠、左が炎もかくやと言う紅玉の色に染められていた。

 そんなオッドアイの彼女――高町ヴィヴィオは現在二人の親友、コロナ・ティミルとリオ・ウェズリーと揃って仲良く食事中だった。

 「さっきのテスト、『質量兵器取り締まり法が制定されたのはいつか答えよ』って言うのがあったでしょ? あれっていつだったけ?」

 「新暦1年よ。ちゃんと覚えときなさいって、常識問題よ」

 「そ、そうだったね……あはは」

 中等科の様に本格的なものではないが、一応初等科でも次元世界の歴史に関して学習する科目がある。先程ヴィヴィオが言っていたテストとは四限目の時に行われた小テストのことであり、主にミッド史における大まかな歴史的出来事について問われたモノだった。一応比較的簡単なモノではあったようなのだが、ヴィヴィオにとっては常に初めて見る単語が並んでいる歴史の語句や年代は覚え難いものがあったようだった。気恥かしそうに頭を掻きながら苦笑するヴィヴィオに対し、親友二人もつられて口元が緩んだ。何とも微笑ましい……これが彼女達の日常であり、ヴィヴィオ自身が言っている「普通の女の子」が送る日常の理想図そのものだった。

 「あ~ん……っと」

 ヴィヴィオの指が弁当箱の中の爪楊枝を摘まんで口に入れる。母である高町なのは特製の先端が四つに分かれたウインナーで、通称『タコさんウインナー』である。一本の楊枝に二本で、それが二組の計四つのウインナーが可愛らしく隅に入っており、良く見れば年頃の愛娘の為に母が色々と工夫を凝らしておいてあるのが随所に見て取れた。流石は飲食店を実家に持つなのはだけのことはある。ヴィヴィオはいつものことながら母の料理の腕前に感心するのだった。

 と、ここでちょっとしたアクシデントが発生した。

 別に弁当箱を落としてしまったとかではない。そこまで彼女もドジではないし鈍くもない。ただ――、

 「あっ!」

 「どうしたの?」

 「爪楊枝が……」

 どうと言うことはない、そのまま容器の中に戻そうとしていた爪楊枝を弾みで落としてしまい、更にそれが風に流されて三メートル位手前まで飛ばされたのだ。綺麗に刈り揃えられた芝の上をある程度転がった後、そのまま摩擦で運動エネルギーを無くして停止、完全な“ゴミ”として地面に転がる羽目になってしまっていた。

 拾いに行かなければ。ヴィヴィオは直感でそう感じた。それはゴミをそのままにしておいてはいけないと言う道徳心と、この美しい庭園に例え小さなものとは言えゴミなどがあるのはおかしいと言う小さな美的感覚を重んじる心があったからだった。急いで立ち上がるとまだ残りが入っている弁当箱をコロナに預け、ゴミとなったそれを拾うべく小走りで駆けた。近くにはゴミ箱もちゃんと用意されているので、拾った後はちゃんとそこへ処理すれば良い。

 「よいしょっと……」 

 手前まで来たヴィヴィオは芝生にしゃがみ込み、手を伸ばす。右手の指の先が徐々に近付く……芝生の上数センチを平行に移動し、彼女の少女にしては端正な指先が触れようとしたまさにその時――、

 先に別の誰かがそれを拾い上げた。

 「あ!」

 驚いて顔を上げると、自分のすぐ前に知らない人間が立っていた。薄汚れた水色の作業服と帽子を身に着けたその人物は一応知っている。この学院に雇われている校務員の人だ。主に学院の敷地内の清掃管理を手掛けてくれている作業員の方々で、生徒達ではやり切れない箇所の清掃から収集したゴミの焼却、長く務めている人だと警備員のように敷地内の警戒に当たる人まで幅広く居るのだ。顔はパッと見て30代か20代後半、背はヴィヴィオ達と比べてかなり高く見え、温厚そうな男性だった。

 「ゴミはちゃんとゴミ箱に入れてくださいね」

 「は、は~い!」

 しゃがんだままのヴィヴィオの前でゆっくりとそれを拾い上げた彼は顔に笑顔を浮かべ、背後数メートル先にあるゴミ箱に――、

 「わぁ……!」

 「入った!」

 綺麗な放物線軌道を描いて投げ入れて見せた。およそ5cmにも満たない一本の楊枝がその百倍の距離の先にあるゴミ箱へと吸い込まれるようにして入って行った光景はある意味で爽快なものだっただろう、ベンチに座っていたコロナとリオも歓声を上げていた。

 「あの、ありがとうございました」

 「気にしなくて良いよ。俺の方だって仕事でやってんだから。じゃあね、早く食べないと授業が始まるぞ?」

 笑顔で手を振りながらその校務員はヴィヴィオの前から立ち去って行った。人当たりの良さそうな人に見え、実際にそうだった。ひょっとしたら、自分は普段この学院で生徒や教員以外と口を聞いたのは初めてかも知れない……ヴィヴィオはふと気付いたようにそんなことを考えながらベンチで待つ友人の元へと戻って行った。

 「落としたのが楊枝一本だけで済んで良かったわね。あれでもし弁当箱だったらどうなってたことか」 

 「ごめんね~。今度からはちゃんと気を付けるね」

 「……って、もうこんな時間! 早くしないと本当に昼休み終わっちゃうよ!?」

 「あー! そう言えば次の授業はリンクス先生だった! 早く行かないとまた廊下に立たされちゃう!」

 几帳面且つ神経質な自分達の数学担任の顔を思い出し、三人は自分の弁当箱の残りを一気に口に放り込み始めた。かつてあの教師の機嫌を損ねてしまったクラスメイトが居た時は、女子と言えども容赦無く廊下に立たされていたことがあった。以来、絶対に彼の逆鱗に触れてはならないと言う暗黙の了解が生まれた程だ、今度はそれが自分達になってしまうかも知れないと思うと気が気ではなかった。急がねば!

 そんなこんなで、本当なら楽しくお喋りをしながらもう少し時間を掛けて食べるところなのだが、この場合は時間が優先されるので仕方ない。

 その所為か、ヴィヴィオの脳裏からはとっくに先程の校務員の男性のことは消えてしまっていた。










 13時00分、小庭園から距離を置いた中等科寄りの林道にて――。

 「やっぱりあのヴィヴィオって奴は肉体的に未完成だな。これじゃあ、サンプルとして手に入れられたとしても利用価値があるかどうか分かんねぇや」

 枯れた木々に囲まれたその下を歩く一人の男性の姿。薄汚れた水色の作業服に身を包み、頭には同じ色の帽子を被っているその人間は、間違い無くさっきヴィヴィオの前に現れてゴミを拾って去って行った校務員だった。気さくそうな笑みを浮かべて何やら一人言のように呟いているのが見受けられた。誰かがこれを見れば不審者か何かだと思っただろうが、生憎こんな寒空の下を昼休みとは言えわざわざ出ようとする者は少なく、おまけにこの林道の先には学院の礼拝堂しか無いので早朝の祈り以外の時間帯では誰も彼の姿を見る者は居なかった。もっとも、例え遠目から誰かが見ていたとしても、誰も怪しむ余地などあるはずがなかった。

 「やーれやれ、とにもかくにも接触は出来た。あのおチビさん二人は放っておいても問題無いだろうし、ちょこっと腕の立つ教員程度なら俺じゃなくてもどうにだってなる。お! あれは体育館か?」

 どれ程林道を歩いたか、その男は遠くに大きな建物を確認するとそっと帽子を取った。黒髪に丈夫な骨によって支えられた顔立ちは地球で言うところの東洋人に似ており、年齢は20代を過ぎた頃ぐらいだった。

 と、ここで何を思ったのか、白い軍手をはめた手で顔を擦る。汚れか何かを気にしているのかとも思えたが、どうやら違うらしい。そんなに強く擦りはしない、むしろ撫でるようにして顔を手で覆い尽くした後、大きく頭の髪を後ろに引き伸ばし――、

 「おそらく、作戦を実行すれば、生徒達は、あそこへ、避難するはずだ」

 既に、そこにさっきまでの男性は居なかった。代わりにそこに立っていたのは紫苑の短髪と白磁の肌、金色の双眸が特徴的な無機質極まりない感覚を垂れ流しにする少年――トレーゼの姿がそこにあった。完全変装の能力であるライアーズ・マスクは魔力を使用しない為に魔導師が感知することは難しい。加えてこの服装はまさに隠れ蓑そのものだった、広い校内の敷地内に全員で40人以上は居る校務員は学院のどこを歩いていても怪しまれる心配はまずない、むしろ素通りされるであろうことは容易に想像がついた。どの場所、どの時間帯でも何の障害も無くこの学院を自由に堂々と移動できる存在に、この短時間で彼はなってみせた。まさに盲点……コロンブスの卵、これで学院側が気付く可能性は永遠に消滅した。

 林道を歩いていた彼はとうとう体育館の前までやって来た。なるほど、いざ近くで見てみるととても大きなものだと言うことが分かる。一応、管理局の武装隊志望の生徒達の為の訓練場のような要素も含んでいる為のこのサイズであり、この学院程度の規模の教育機関では普通に用意されている設備ではあった。外壁はその大半が全体の重量に耐える為にコンクリートを使用されており、当然中には大人の親指と同じ位の太さの鉄筋が幾本も埋められていた。

 と、ここでトレーゼは懐から何かを取り出した。黒い立方体……ルービックキューブ大のそれを右手に、彼は左手で建物のコンクリの壁を撫で始めた。ちなみに、彼が出したのはストレージデバイスのマキナではない。このミッド……いや、全ての管理世界において忌み嫌われる最悪の道具、質量兵器だった。

 それも銃器のように特定の人間を狙うモノではない。つまりは爆弾……それも飛び切りに高性能で、これ一発で自分の体積の五百倍以上の物体を巻き添えに出来る代物だった。彼が事前に用意しておいたのは全部で30個、その内の三分の二……つまり20個はここに来るまでに様々な箇所に仕掛けておいた。主に初等科の校舎を重点的に、学院の全ての正門と裏門付近にもしっかりと……。あと仕掛けなければならない場所は、これを発動させた時に生徒達が真っ先に避難するであろうこの体育館。避難するべき場所が消滅したとなっては学院の生徒はもちろん、教師達も混乱するだろうことは予想出来た。

 「……………………」

 外壁を触りながら徐々に移動を続けるトレーゼ。外に仕掛けたのではすぐにバレてしまう、ここは必然的に内部に仕込むのが常識だろう。だが、内部であればどこにでも仕掛ければ良いと言う訳でもない。物事を成し遂げるには何でも『条件』と言うモノがあるのだ。彼は自分の求めるその条件に適った“部分”を見つけるまで根気強くそれを探し続け、遂に――、

 「……見つけた」

 外壁に沿いながら移動すること十数メートル、彼はようやく足の動きを停止した。自分の手で触れたその部分を何度か撫でて材質を確認する……問題無い、ここだ、ここで間違いは無い。

 彼が触れている部分、それは支柱。巨大な体育館を外側から支える為の重金属の柱だった。ミッドの先進した建築工学の粋を決して製造されたこの長さ40m幅2mの柱は、真正面からの風速30m以上の突風にも耐えられ、当然地震などにも完全に耐久可能な造りをしている。それこそ上空から隕石が降って来ない限りは、屋根に穴は開いたとしても全壊するなど絶対に有り得ないことだった。恐らくはこの支柱があるからこそ、この建物はこの耐久度を保っていられるのだと言っても過言ではないだろう。外部からのありとあらゆる衝撃と圧力にも余裕で耐え切れる堅牢さがあるのを、トレーゼは見抜いていた。

 だがしかし、幾ら強度が高くてもそれは所詮外側からの耐久度を示した場合でしかないことも同時に見抜いていた。セメントを凝固させて精製したコンクリートは圧力には強くても内から外へ向かう張力には抵抗性が無い……それと同じだ。特にこの柱は外部から掛った力を周りの鉄筋コンクリートへと分散させて衝撃を緩和させる構造、地震などには強い反面どうしても内部からの瞬間的な衝撃にはかなり弱かった。内側に爆弾を仕掛けられ、それが炸裂しようものならば一瞬で粉々になるに違い無かった。

 さて、問題は……

 どうやってその爆弾を支柱の中へ仕掛けるかだ。

 それなりに掘削用のドリルなどの重機を用いれば簡単なのだろうが、それでは時間も掛ってしまう上に周囲に勘付かれてしまうのは必至だ。それは馬鹿のやることだ、彼は違う。彼は決して馬鹿ではないし、増してや常人などとは一線を画した存在……言うなれば超越者だ。彼の起こす行動で常人と同じなのは呼吸方法だけ。その思想、考え、主義、行為は他の何人たちとも理解出来ず、また彼も自分以外の下等存在の行動原理など理解したくもなかった。

 「IS、No.6……」

 最早見慣れた真紅の円形疑似魔法陣が足元に展開され、彼が自身の持つ13の先天固有能力を発動させたことを知らせた。外壁を撫でていた左手を離し、代わりに小型爆弾を掴んだままの右手を突き出す。

 「『ディープダイバー』、発動」

 何と言うことか……彼の声と共に、その腕が銃弾すら跳ね返すはずの重金属の支柱の中へと何の抵抗も躊躇いも無しに入り込んで行くではないか。

 トレーゼが発動するは、かつて自分の六番目の妹が地上本部襲撃作戦において厳重な警備体制を全て通り抜けた脅威の偵察用能力……無機物潜行「ディープダイバー」だ。その名の通り、対象を構成する物質が全て無機物だった場合に限り発動者を自在に物質透過させられる、ある意味では魔法に限り無く近しい能力。一度発動させればどんなに分厚い壁でも、どれ程弾丸の雨を浴びせられようが何の抵抗も無しに通り抜けてしまい、創造主スカリエッティですら発現するのは全くの予想外だったほどだ。

 だが、一見して万能なこの能力もしっかりと短所はある。それは、『対象が無機物でなければ潜行出来ない』と言うことだった。対象となる固体物が炭素を含有する有機物であった場合、この能力は途端に意味を成さなくなってしまう……まさに一長一短な能力なのだ。

 だからこそ、彼は探していたのだ。

 何を? 爆弾を仕掛ける為に能力を使用出来る最適な場所を!

 外壁の大半は有機物であるコンクリートで固められてしまっている。ディープダイバーは当然使えないし、重機ももちろん使用不可。ライドインパルスのエネルギー刃で無理矢理こじ開けると言う方法もあるにはあるのだが、それでは痕跡が残ってしまう。可能な限り完璧に……それが彼の目的なのだ。

 故のこの支柱。周囲のコンクリートとは違って完全な無機物。爆弾を仕掛けられ、且つディープダイバーの効果を余すことなく発揮するには絶好の箇所に他ならなかった。

 「……セット、完了」

 何はともあれまずは一つ。体育館は上空から見ればコロセウム型の真円を象った造りをしていて、それを合計八本の支柱で支えている。この柱を基点としてあと四個を一本置きに仕掛ければ準備は整ったことになり、残ったあとの六個のうちの半分は中等科の敷地に、そしてあと半分は礼拝堂に……それで全ての準備は整う。

 それから僅かに五分後、トレーゼは予定通りの数だけ仕掛けることに成功した。まだ爆発はさせない…………まだ“今のうち”は、だ。

 『Go to next point.(次の場所へ移動せよ)』

 「了解した」

 脳内に直接届くストレージデバイスからの量子端末通信の命令に従い、彼は再び移動を開始した。枯れ葉の積もったこの林道を歩き続ければ、やがては中等科と初等科の丁度中間地点に存在する礼拝堂へと辿り着くだろう。残った六個うちの三個をその礼拝堂へと仕掛けるのだ。中に仕掛けるのは止めておこう、最重要サンプルである“聖王の器”を殺してしまったら元も子もなくなってしまう。

 礼拝堂が見えて来た。なるほど、ノーヴェと接触した日にも見たが改めて目に収めてみると歴史を感じさせる荘厳とした建築様式を内包していることが見受けられた。そのことに関しては全く学の無い彼ですらそう感じたのだ、どれほど歴史的・文化的価値があるのか。

 だが彼はそんなものに興味は無かった。ただ淡々と自分の役目をこなして行くだけだ……それ以外の行動は彼にとっては計画進行の妨げにしかならない。もし、今後彼の目の前に直接間接関わらず計画を邪魔する者が現れたとしたならば、例えそれが女子供であっても彼は容赦しないだろう。それが管理局だろうがかつての同胞だろうが知ったことではない、要は完膚無きまでに潰してしまえばそれで良かろうものなのだ。彼にならそれが出来る……一切の情けを掛けることも無く躊躇も無しに……四肢を削ぎ落し、心臓を捻り潰し、頭部を刈り取り、まさに絶対なる死の体現者へと変貌することが彼には出来るのだ。それは並大抵のモノではない。

 作業に戻ろう。礼拝堂全体を中心として三角形を描く配置で地中に埋没させる。だいたい2mの深度で埋める。でないと、それ以上深く埋めれば如何に高性能且つ高威力言えども表面の土が少し盛り上がるだけで終わってしまうからだ。

 「マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Strada”, set up.』

 懐から取り出したるは漆黒のデバイス。一瞬の輝きの直後に、手に収まる大きさの立方体だったそれは身の丈に匹敵する長大な黒鉄の槍へと姿を変えた。そして周囲に人が居ないことを確認した後、先端の刃先を剥き出しの地面に突き立て、丁度スコップのようにして地面を掘り起こし始めた。派手な魔法を使えば魔力波で勘付かれてしまう……魔法文明と言うのは厄介なものだ、万能と言ってもやはりそこには何かしらの短所が確実に存在しているのだから。生物としていざと言う時に頼りになるのはこう言った肉体労働に取って代わるモノはないだろう。

 それからおよそ15分後の13時19分、予定通りにトレーゼは三つの爆弾を人知れず埋設することに成功出来た。何もかもが順調である、あとやらなければならない事と言えば、学院の管理システム全体に対して電子トラップを忍ばせることぐらいだ。本来なら異常事態が起こることで自動的に管理局に異変を知らせるはずの管理システムを、爆発と同時に信号を送ることで一斉にシャットダウンさせる。例え再度回線を開くことに成功したとしても、出てくるのは完全に初期化された白紙のデータベースだけだと言うことだ。

 残りの爆弾はあと三個。急いで中等科の敷地に仕掛けなければならない。校務員の服を着ているので怪しまれることはまずないだろうが、誰がどこで注視しているかは分からない、早く済ませた方が良さそうだと感じていた。

 礼拝堂から伸びる二本の道のうちの一本は中等科の校舎へと向いている。在籍年数の関係から、初等科と比べて生徒数は少なくそれほど設備も無いが、あそこにも爆弾を仕掛ければ混乱はますます大きなものとなるに違い無かった。そうなれば“聖王の器”強奪はより確実なものとなる。

 綺麗にレンガを組み敷いた歩道を歩きながら、彼の金色の視線は中等科の校舎をしっかりと捕捉したままだった。初等科よりも幾分近代的な造形は発展した文明の精神そのものを体現しているようにも見えた。

 もうすぐ林道が終点を迎えようとしていた。ここから先は完全に中等科の敷地内となり、初等科よりもワンランク上の実力を積んだ生徒達が籍を置いていることになる。ここからでも微かではあるが強い魔力の波長を幾つか感じることが出来た。なるほど、こうして将来局内で名を馳せる魔導師が育成されると言う訳か、何とも御苦労なことではある。

 既に昼休みは終わり、学院の全生徒は午後からの授業を受けるべく教室に収まっている時間帯だった。

 林道を抜け、アスファルトで固められた地面を歩くトレーゼ。一糸乱れぬ行進は死を恐れぬ兵士と言うよりかは、むしろ絶対的な“死”そのものと言っても良かった。ここで言う“死”とは広義で言うところの生物学的な意味ではない、死とはありとあらゆるモノに対して絶対的な脅威の象徴……つまり、ここで言う“死”とは何者であっても抵抗出来ない絶対的上位存在の比喩なのだ。今このフィールドにおいて彼はまさに強者、絶対的強者たりえる存在に他ならなかった。

 やがてアスファルトを抜けると広大なグラウンドが現れ、その向こうにようやく校舎が見えるようになった。

 あと数十メートル……もう目標は眼前!



 だがここで――、



 彼の足が停止した。



 「……ッ!!」

 時が止まってしまったのではないのかと思えるような、そんな停止だった。両目は完全に見開かれている……足に根が生えたとか、縫い止められたとかなどと言うモノではなかった。余りのショックに対してその思考すら一時的に停止してしまっていたのだ。

 一体何故? どうして!?

 それは彼自身も分からないことだった。

 ただ一つ……彼が感じることが出来たのは――、

 (この魔力……何者だ?)

 魔力。それもかなり莫大且つ高純度の上等な魔力の波長が流れ込んで来ているのを肌で感じ取っていた。その膨大な力は例えるならそう、『重力』、周囲の全てを巻き込むだけでは飽き足らず、押し潰し、跪かせ、動くことすら許さぬような強大な力……覇気そのものだった。

 麻痺した精神をもち直し、彼は冷静に状況を分析し始めた。

 始めは“聖王の器”の目付け役として教会側から派遣されたシャッハ・ヌエラとか言う騎士に勘付かれたのかとも考えたのだが、彼女は聖王教会のトップであるカリム・グラシアの護衛でもある。彼女ほどの実力者が、いくら“聖王の器”とは言え主を放置してまで足を運ぶとは考え難かった。

 それに……この魔力の質は成人のものではないようだった。確かにこの空間を覆い尽くす尋常ならざる魔力は稀に見る上等さであることは間違い無い。しかし、この魔力の波はどことなくムラと言うのか綻びと言うのか、とにかく全体的に無駄が多くあるのが見て取れた。そしてこのさっきから感じられるどことなく未熟な感じ……もしやとは思ったが、この魔力の根源はこの学院に居る生徒のものなのではないか!?

 そして、さっきまでは全く感じなかったにも関わらず、この中等科の土地を踏んだその瞬間に重圧を感じた。これを友好的なモノと捉えることはまずないだろう……以上から考えられる事柄は一つ、相手がこちらに対して無言の威嚇をしていると言うことに他ならない。一体誰がどうやってこちらに気付いたと言うのか。だとすれば、それはどんな相手なのか。

 (……だが、しかし)

 構っている余裕など無い。推測で子供とは言え、これだけの魔力量……こちらとて拘束制限術式が掛けられているとは言え、自分のリンカーコアと匹敵しているともなれば、いつあちらから仕掛けて来るとも分からない。

 さすれば――!

 「第三拘束制限術式、限定解除」

 力が拮抗しているならば凌駕すれば良い。

 相手が威嚇してくるならそれを跳ね返せば良い。

 敵がこちらを攻撃しようとするならば――、



 それを更なる力を以てして戦意を喪失させるのみ!



 「…………!!!」

 体内に内包する凝縮リンカーコア、それの数ある拘束制限術式の幾つかを外すことにより解放されるのは――、

 「……去ね。身の程を、弁えろ」

 『真紅』。もはや物理的エネルギーは元より、魔力としての概念すら大いに超越し、人間の持ち得る感覚では色彩としか感知出来ない程に爆発的な魔力の奔流が、文字通り無差別全方位に向けて爆散させる。そのあまりに強力過ぎた力の流れは近くに居た虫はおろか、足元に密生していた雑草ですら一瞬で根こそぎ枯らし尽くして見せた。瞬時に拡散した魔力は大気を伝播し、あっと言う間に校舎を呑み込んだ。

 まさに刹那、ほんの一瞬だけの出来事だった。だが、見えざる戦いの決着を完全に着けるには充分過ぎた。

 「消えていく……さしずめ、怖気づいた、か」

 相手の威嚇魔力が徐々に退いて行くのを感じながら、トレーゼは自分の方の魔力も収めた。無用な争いは避ける派だ、10代前半でこれ程の力を有しているのはどんな人間なのか興味はあったが、接触するのは避けておこう。予定も変更、仕掛けるはずだった残り三個の爆弾は破棄、このまま退散することにした。動物と同じだ……こちらの実力の方が上だったとは言え、威嚇を無視された挙句の果てに自分の縄張りにまで侵入されたとあっては、今度こそこちらに危害を加えるかも知れなかった。ここは大人しく身を引いておいた方が互いの為でもある。もっとも、もし相手が牙を剥いたとしても即刻灰にする所存だったが……。

 「…………行こうか」

 『Yes,my lord.』

 踵返して180°、彼は結局敷地を数歩踏み締めただけで中等科校舎を去って行った。問題は無い、元からターゲットである“聖王の器”は初等科に居るのだ、あそこに仕掛けられただけでも良いとしよう。

 しかし……偶然か、はたまたこっちの勘違いなのか……。

 先程感じたあの魔力……

 どことなく“聖王の器”と同質のモノを感じたのだが……。










  数分前、とある中等科一年生の教室にて――。

 “彼女”は授業を受けていた。当然だ、今は休み時間でない、それはあと二十分してからでないと来ない。何よりも“彼女”は生徒だ、この日常空間に居る間は出来る限りで私事のしがらみは持ち込まない事にしている。殊に、自分の出自に関する事柄は特にだ。

 目の前の壇上では歴史担当の教師が古代ベルカの戦乱時代について教鞭を執っている。ノートは取らない……別に自分に才能が有るからと言う理由で自惚れている訳ではない、今習っている時代についてはある程度『知っている』からだ。断続的な上に極一部でしかないが、戦乱渦巻く古代ベルカの地において何があったかについては大まかに把握はしていた。自分だから知っている、他の人間では絶対に有り得ないことだった。

 これが自分の体内に流れる血がもたらす呪いなのか天恵なのか、そんな事はどうでも良かった。今はただこの学院の生徒として、この時間を過ごすだけだった。

 「…………」

 授業も佳境に差し掛かり、壇上の教師の講釈にも与太話が垣間見えるようになってきた。今日もまた一日が平凡に終わろうとしている――まさに“彼女”がそう実感を持った、その時――、

 「!?」

 肌を痛い程に刺激する強烈な違和感が“彼女”に来襲した。思わず窓の外へと目をやる。この教室は一階にある為に上の階ほど視界は良くないが、それでも彼女の精神の中に眠る危機管理能力がこの異常の原因を探さずにはいられなかったのだ。

 (これは……魔力!? 大きい……余りにも大きすぎて、逆に気付けなかったなんて……!)

 かつてこれまでの人生で数々の実力者と相見えて来たが、これ程に強大な力の波長を“彼女”は感じたことがなかった。ここまで大きく、ここまで禍々しい魔力の渦を……。

 周囲の生徒達は異変に気付いた様子はなかった。どうやら感じているのは自分だけのようだった。無理も無い、巨大な危険はその大きさ故に気付かれ難い……これも同じだった、ここまで大きな魔力にもなれば逆に気付けと言う方に無理があった。この全てを包囲して押し潰さんとするような力の前では、全ての凡夫は無力――圧倒的劣勢に立たされるより仕方無いのが世の常だった。

 そして同時に“彼女”は理解していた。この力は危険だ、と。

 魔力の流れ具合からして、相手は攻撃の意思は見せてはいない。しかし、通常状態でこれだけの魔力量を垂れ流しにする程の実力者ともなってきては、最早感心を通り越して恐怖、驚愕を凌駕して危険しか感じなかった。接近するだけで脅威、もしこれがこのままこちらに接近しようものならば――、

 (いけない!)

 それは生物の本能……危機回避能力の最たるモノだった。周囲に勘付かれないように自分のリンカーコアを加熱、自身の内包する限りの魔力の全てを外に居るであろう見えざる部外者に向けて全力で放出して見せた。見えない敵を討つにはわざわざ罠などで誘き寄せる必要性は無い、相手がこちらに対して行動するその前にこちらの優位を知らしめてやれば良いだけの話なのだ。動物と同じ……体格の差はもちろんのこと、爪の長さ、体臭の強弱、鳴き声の大きさなどで自分の優位性を相手に顕示することで無用な争いを避けると言う戦法に打って出たのだ。

 (お願い、退いてください)

 自分の魔力の波が相手の波長を反対側へと押しやるのを感じながら“彼女”は更に魔力の流れを強くした。一瞬たりともこの放出を止めてはいけない! 隙を見せてしまえばそれで最後、敵からどんな仕打ちを受けるか分からないからだ。常にこちらから威嚇し続けることで自然に相手が身を退くのを待つ……これが現時点での“彼女”に出来る最大限の対処だった。だが、もしこれでも相手が退かないならば……こちらとてそれなりの行動に出なければならないことも重々覚悟していた。

 だが――、



 刹那の瞬間に起こった出来事は“彼女”の予想を遥かに超えていた。



 「――――ッ!!!?」

 全身の毛が総立ちになり、声にならない悲鳴の代わりに胃の内容物が逆流しそうになるのを必死に堪えた。

 何が起きた!? 分からない。ただ一つ分かるとすれば――、 

 体が重い! まるで自分の周囲だけの重力が倍化したかのように体が机に押し付けられるのを感じていた。だがこれは重力でない、さっきまで自分が感じていた魔力だ。それも並大抵の質量ではない! こちらが放出していた魔力の数倍以上にも匹敵するような大質量の禍々しい力が、“彼女”の肉体を、精神を蝕んで来た。

 「こ、これは――!!」

 重圧に四肢が痙攣を起こす。これで自分が外に居たならとっくに立っていられなかっただろう。目の焦点は合わず、手に持っていたペンは取り落とし、足は無様に震え出す始末……。“彼女”には理解出来なかった。否、理解出来るはずもなかったのだ。自分の全力を跳ね返したどころか逆に押し潰され、今こうして完全に自分の精神までをも蹂躙されたと言うこの事実を、誰が信じられるものか。しかし、実際に“彼女”はこうして屈服させられてしまっている……それが何よりの現実だった。気分はまさに竜の熱風の息吹に晒された小さき鼠そのもの……このままでは自分の精神を保つことすら危うくなる恐れが……!

 考えが甘かった! 威嚇をすれば退いてくれるだろうと思った時点で選択の誤りだったのだ。

 高濃度の魔力がもたらす重圧に、とうとう“彼女”が耐え切れなくなって叫びそうになった、その時――、

 魔力が消えた。

 (遠ざかっている……どうして?) 

 一瞬自分の感覚を疑った。あれだけの魔力を放出していたにも関わらず、その引き際は随分とあっさりとしたものだったからだ。夢でも見ていたのではとも思えてくる。

 だが、顔面から吹き出る大量の汗と、全身に残った鳥肌がさっきの出来事が白昼夢ではないことを嫌と言う程に教えてくれていた。玉のような脂汗を落としながら、“彼女”は自分の身に降り掛かっていた事態について分析し始めた。

 あれは何だ? 分からない、ただし明確な悪意を纏った存在だったのは確かだった。

 あれの目的は? そんなもの知るはずがない。むしろ知らない方が身の為なのかも知れなかった。直接相見えなくてもあの力……只事ではない。

 そしてあの引き際……相手は確かにこの中等科に用があったのだろう、でなければここまで足を運んだ理由が無い。だがこちらの威嚇に対してあれだけの反撃があった割には本当に潔い退きだった。あれはもはや敵意とか悪意とか、そんな生易しいモノを通り越した“殺意”だった。具現化した殺意そのものが自分に一直線に飛来するその恐怖が、自分を包み込み、焼き尽くそうとしているはずだった。

 はずだったのだ!

 あれは威嚇ではなかった! ましてやこちらの威嚇に対する抵抗でも反撃でも、どっちでもなかったのだ! あれはそう……自分の周囲を飛び回る虫に苛立って手を振り回す、あの行為に近しいモノを感じた。つまり、相手にとって自分は虫同然だったと言うことになってしまう。

 「そ、そんな…………そんな事が……!」

 “彼女”は衝撃に打ち震えた。決して自惚れてはいない……だがしかし、自分の存在をまるで虫けらのようにあしらわれたとあっては、悔しさを滲ませずにはいられなかった。

 しかし、何が一番悔しいのか? それはこうして見えない戦いに負かされたにも関わらず、今こうして無事に五体満足であることに安心してしまっている自分が居ることが一番悔しかったのだ。

 「どうかしたんですか? 具合でも悪いの?」

 隣の席に居る人間が話し掛けて来ても“彼女”の耳には届かなかった。

 紺と青のオッドアイを密かに悔し涙に濡らしながら、この日、“彼女”――アインハルト・ストラトスは己の未熟さを再確認したのだった。



 最強のナンバーズ“13番目”と、古代ベルカの王の直系子孫である“覇王イングヴァルト”……。この日あった両者の冷戦についての記録は一切無く、また、両者がこれ以降再び相見えたどうかについての記録は、後世のどの資料や報告書にも記されてはいない。










 午後13時48分、海上更正施設のレクリルームにて――。

 「――以上で、こちらからの伝達は終了よ。何か質問はあるかしら?」

 「……………………」 

 青々とした芝生が広がる空間ではつい一時間前からセッテの独壇場にあった。と言うのも、彼女曰く「戦闘用機人であるなら常日頃の訓練は欠かさない」と言う強固な意思があった所為で、ずっと自主訓練中だったからだ。

 だがその訓練も今だけは止めて、大人しく本部から足を運んだ執務官――ティアナの話に耳を傾けていた。地面に置いてあったタオルで無造作に顔面を拭きながら、彼女は無表情な顔の筋肉をピクリとも動かさずに、芝生の上に座ってティアナと向き合っていた。彼女は右手でタオルを持ちつつ、左手にはティアナがここへ来た直後に渡してくれた一枚の紙面に視線を注いでいた。

 「……一つ良いですか?」

 「何?」

 「ワタシがここを出るのは何年後になりますか?」

 「そうね……確かに貴方は実行犯ではあったけど、事件の中核への関係性の薄さや、一番最後に生み出されたグループって言うのもあるし、今まで拘置所で過ごした年数分も加味すれば…………二、三年で出所かしら」

 「ではこれは一体どう言う意味ですか?」

 そう言ってセッテはティアナから渡されたその紙をピラピラと振った。紙面には何やら所狭しと細かい文字が印刷されており、何やら小難しい文面と見受けられた。だが別に彼女の身柄を処分する為の事前通知と言う訳ではない。むしろその逆、将来この施設から出た後の措置について書かれていたのだ。

 過去の出所者……つまりは現在は聖王教会とナカジマ家に引き取られた七人の姉妹達と同じ処置を、彼女にも成そうと言うのだ。ここまで言えば分かるだろうが、紙面に書かれている内容とは即ち――、

 『決定型養子縁組通知書。

 養子:セッテ。

 身元引受人及び保護観察者:カリム・グラシア小将』

 要約すれば上記の内容が紙面に書かれていたことになった。ティアナの言う通りにこのまま三年間何事も無く更正生活を過ごせれば、彼女は出所後には教会のカリムの元へ自動的に引き取られ、晴れて『セッテ・グラシア』となることが約束されたと言う訳だ。そうなれば法律上も戸籍上もグラシア家の娘と言うことになって生活には困らなくなり、引いては彼女が局勤めをするにあたっても何かと立場が有利に働くようになる。更正上がりの元犯罪者を排斥する傾向にある局内の風当たりを少しでも軽減させようと、フェイトの配慮でもあった。

 だが彼女――セッテには何か不満があったようだった。

 「納得出来ません。ワタシは世間一般で言うところの犯罪者です。拘置所から強制的に移送されて来たその瞬間から、私はここで朽ち果てる所存です」

 「納得出来ないのはこっちの方よ。貴方は自分が何を言っているのか分かってんの?」

 「正論です」

 「違うわね、貴方が言ってるのはただの自己中心的な意見……いいえ、ただの我儘じゃない」

 「我儘? それは違います。我儘だとか意見だとか、それは歴とした人間が『個人』と言う明確な意思の下で培うモノです。ワタシは人間ではない、ただの機械、兵器です。故にこれは我儘でも何でもない」

 「言っていることが支離滅裂ね。なら言うけど――」

 ティアナが真摯な面持ちでセッテに近付くと、彼女に詰め寄るようにしてこう言って来た。

 「貴方が『ここから出たくない』って言った時点で、それは貴方自身の意思を見せたことになるのよ」

 「それは……」

 自分の言葉の矛盾を突かれ、セッテはここへ来て初めてうろたえるように言葉を濁らせた。さっきまではまるで精巧に作られた人形のようにしてティアナを凝視していた視線はとっくに逸らされ、無意識にセッテは彼女を避けようとしているのは明らかだった。

 そんなセッテに対して、ティアナはさらに追い詰めようとした。

 「駄々を捏ねるのもいい加減にしなさい。貴方が自分の事を何と言おうが勝手かも知れないけど、貴方が機械だって言うなら、他の姉妹はどうなのよ。自分が機械だって言うなら、貴方は他の10人の姉妹全員の人間性を否定した事にもなるのよ。何も感じないの?」

 「……ワタシは機械……戦闘及び殺人用に製造された、ナンバーズのNo.7です。機械としての精密性は求められても、一個人としての意思はそこに必要無い。……それは他のナンバーズにも当て嵌まることだった」

 「分からないわね、結局貴方が何を言いたいのか、私にはさっぱりだわ」

 「貴方は機械が家族ごっこをしている光景を見て違和感は感じませんか? つまりはそう言うことです。だから、ワタシはここで朽ち果てるのです。最初から最後まで……人間ではなく機械として」

 「……………………」

 「それに……」

 「?」

 いきなり芝生から腰を浮かせて立ち上がったセッテは、そのままティアナを尻目にルームと外界を区切っている窓ガラスへと足を運んだ。魚を負って海面を飛ぶカモメの群れを眺め、彼女は自分の桃色の長髪を軽やかに手櫛で流した。傍から見ると地上に舞い降りた天使か何かと見紛う程に美しい姿だった。

 そして、島も見えない海原を見つめながら、彼女は背後のティアナにも聞こえないような小さな声で、たった一言だけこう言ったのだ。

 「ここを出れば彼に会えないような気もしますので」










 午後13時51分、ミッドチルダ北西部海上のとある孤島にて――。

 「量子回路、接続完了。コード26に対応した『ボム』を、設置後、侵入の痕跡を、消去せよ」

 地下に隠されたラボの一室でトレーゼはマキナを前に指示を出していた。現在彼のデバイスはシルバーカーテンの隠蔽効果の下でSt.ヒルデ魔法学院の管理データベースへと侵入を果たしていた。管理局ほどではないにしろ、あの学院のデータベースは親元である聖王教会のものを間借りして成り立っている。教会とリンクしている以上は学院の方から教会側へと侵入することも当然可能と言う訳で、それが出来れば局と関わりを持っている聖王教会は多大なダメージを受けることとなる。もちろん、学院側からネットワークを通じて教会側に侵入するのは簡単なことではない。幾重にも張り巡らされた電子トラップや管理システムを潜らねばならない上に、ウイルスに対する耐性まであるこのデータベースを突破するのにはそれなりの準備が必要なのだ。そしてこれがその下準備と言う訳だ。

 「…………終了」

 やがてやるべき事を終えたのか、トレーゼはデスクから離れるとさっさと室内を移動し始めた。だがその足取りは物凄く遅い。と言うのも、彼が現在居るこの部屋はかつて彼の主であるスカリエッティが寝室兼事務室として使用していた空間である為、床にはありとあらゆる学問や科学技術について執筆された論文の山が所狭しと積み上げられていたからだ。専門分野である生物工学や医学はもちろんのこと、天体観測や野生生物を対象とした自然科学、エレクトロニクスの真髄を極めた電子工学に、さらには建築に関するものまで幅広く存在していた。どれもスカリエッティ本人が直接書き記したもので、中には現在の学会の常識を根底から覆すものまであるらしい。そんな紙があまりにも大量に床面を占領していることから、この部屋には寝室のクセにベッドが無く、代わりに船室の様にハンモックが掛けられていた。

 トレーゼはハンモックに身を投げ出した。睡眠は摂らない、内部フレームに流れる電流で脳を刺激し、生体部分に悪影響を及ぼさない範疇で興奮ホルモンを必要に応じて分泌させることによって覚醒を保っている。あと半日は眠らなくても大丈夫だった。

 「……これで、駒の数は、全部で三人…………マキナ、No.9の、予測最高適合率は?」

 『About 74.2%』

 「No.7」

 『About 87.9%』

 「タイプゼロ・セカンド」

 『About 68.7%』

 「やはり、セカンドは低いか……。予測していた、程ではないにしろ、考慮しておくか」

 11月9日にこのミッドへ来てから出会った三人の少女……良く覚えている、いずれはこちらの勢力図へ引き込まなければならない存在だから、現時点では丁重に扱うつもりだ。

 ノーヴェはあの性格を外堀から埋めることが重要となるなるだろう。幸いにも初対面で好印象を与えることが出来たこともあってか、完全に精神を征服するのに然程時間は掛からないかも知れなかった。

 セッテの方は予測通り適合率が高いので懸念する必要は無い。あの手の存在は自分よりも強い相手に従う傾向にあるので、常にこちらの優位性を顕示し続けていれば自然と支配することは適うだろう。

 問題はスバルの方だった。初対面での好印象と言う点ではノーヴェ以上に手応えがあったにも関わらず、彼女の予測適合率は低いままだった。元々ナンバーズとは根本的に違う部分があるのか知らないが、現在の彼女ほどにこちらに必要なものは無い。元機動六課のメンバーが急に寝返ったともなれば間違い無く管理局は混乱する……その混乱を狙っての彼女との接触だったはずだ。だがここまで低いとなると、正直言って完全に規定値にまで引き上げるのに一体どれだけの時間を要しなければならないのか……。

 やらねばならない事は山積みだ。地道に一つずつ解消して行こうにも、自分にはそれ程時間が残されている訳ではない。今から約96時間後には標的に定めた“聖王の器”を完璧且つ迅速に回収し、更にその計画を実行に移すには“サポーター”が必要になってくる。サポーターの方は明後日あたりにでも調達出来るが、今日含めて後30時間以上をどうやって有効的に活用するのかが問題だった。この場合はあの三人の誰かと接触を重ねるのが一番妥当なのだろうが――。

 とりあえずセッテは明日接触するので良いとして……。ひとまずノーヴェとの接触を視野に入れたかったが、彼女の脳量子波を辿ってみるとナカジマの自宅に居ることが分かった。ノーヴェとは面識があり、ナカジマ家の面々とも面識はあるにはあるが、確か自分はナカジマ家の所在地を聞いて無かったはずだった。わざわざあの面々がそんな細かい事を覚えていないだろうが、万が一と言うこともあり、不自然な行動は控えた方が良さそうだった。特にあのディエチに勘付かれると厄介だ、あれはあの様に見えて観察眼が高いことはとっくに見抜いている。

 となれば、またスバルと接触するか? 一度挨拶もせずにこちらから勝手に置き去りにしてしまったのに一日もしない内にまた会うと言うのもまた不自然な話だ。彼女の性格ならば然程気にせずに接するのかも知れないが、どうもあれと一緒に居ると調子が狂って仕方が無い。と言って何もせずに居るのも問題だ、どうしたものか……。

 白い天井を無表情で眺めながらトレーゼはこれから自分が成さねばならない事を思案した。だが、それが中々どうして悩ましい、全くと言って良い程に決めることが出来なかった。

 「…………ん?」

 と、ここで彼は視界の隅に何かを捉えた。鼠ではない、本だった。周囲は真っ白な論文の束で埋め尽くされている中でどうしてそれが目についたのかは分からない。論文がホチキスや糊で留められているのに対してそれが元からの冊子の形をしていた所為だろうか? またはその本の色彩が論文の紙とは違って汚れた茶色をしていたからだろうか? どちたにしても彼はその本が気になり、ハンモックの上から紙の山を掻き分けて取り上げた。

 「…………」

 以外と大きい、地球で言うところのノートパソコン程のサイズはある。それを手に取った彼は背表紙に小さな長方形の紙が貼ってあるのを発見した。黄ばんでボロボロになり、今にも外れてしまいそうな紙片には何やら文字のようなものが書かれてあった。いや、実際文字だった。良く目を凝らして見てみると、達筆な筆記体で『Relic』と書かれてあるのが分かった。この筆跡は間違いなく長女のウーノのものだ、仮にも創造主とは言えあのドクターが論文以外の紙に自分の文字を書き記すことはまずなかったからだ。

 開いてみると当然のように中も傷んでいた。破れずに原形を保っているのが不思議なくらいの劣化にも関わらず、中の内容だけははっきりと確認出来た。ページをゆっくりと捲りながら彼の視線はその中身に釘付けとなっていた。食い入るようにページを眺める彼は呼吸すらしているのかどうかすら怪しい程静かで、何人たりとも近付けさせない気位の高さがそこにはあった。

 「……そうか、17年も経ったのか…………ずっと、培養槽の中だったから、実感出来なかった」

 本を閉じた。この17年の月日で何が変わったのかは分からない。少なくとも、自分にとっては変わり過ぎた事ばかりだった。主は捉えられてしまい、首魁だった三人の姉達も投獄されてしまった。残りの顔も知らなかった妹達は自らに課せられた使命すら忘れて安穏とした日々を送り続けている……いや、もう妹とも呼ぶまい、ただの機械だ、意思の介在など最初から許されない一介の機械であるはずの存在が、あの様に人間社会に溶け込もうとしていることが間違っているのだ。あの毒された彼女らはそれを理解していない、だからこそ必要無いのだ。いずれ時が来た時には創造主の意思を継いだ最後の存在として完全に粛清するつもりである。

 何も変わらないのは自分と、今居るこの部屋の様相ぐらいなものだった。

 「…………計画は成功させる。それが、今の俺の、存在意義……もう、仲間など要らない、手駒さえあれば、それで良い。それで充分、事足りる」

 ハンモックから降りて、手にしていた本をデスクの上に置く。トレーゼの双眸はガラス玉のように透き通ったままであり、何も映さない。しかし、その視線だけは真っ直ぐと前だけを見つめたまま揺らぎはしなかった。

 「そして、その為にも……ドゥーエ、お前の遺産を、利用させてもらう」

 脳裏に刹那の瞬間だけ浮かぶは、かつて自分とここで寝食を共にした今はもう亡き二人目の姉の顔……。優しかったかどうかなどさして問題ではない。彼女はもう『死んで』しまった……今際の時に彼女が何を思ったのか、何を考えたのか、自分には分からない。

 ただ、一つだけ気になった事があるとすれば――、

 最期の瞬間に彼女の脳裏には自分が居たのかどうかが気になった。










  時を戻って新暦85年7月22日、正午12時8分――、地上本部内の食堂にて――。



 どうした、食べないのか? 遠慮しないで胃に入れた方が良いぞ? 別に食べれるが、財布の中は大丈夫か、だと? 言っただろう? こう見えても新設部隊の隊長だ。それなりに稼ぎはあるし、身内を養っていける分も当然残してある。

 それで話の続きだが、結局奴――トレーゼは『“聖王の器”誘拐事件』を引き起こすことになる、歴史の教科書の文面通りにな。そこから先はお前も知っているように、管理局はそれをきっかけに本腰を入れることになったんだ。たった一人と次元世界を統べる組織の真っ向からの対立……考えただけでもどちらに分があるかは歴然としていると思うだろう? だが実際は違った、管理局はこのT・S事件を完全に解決するまでに三ヵ月近くの時間を要した。トレーゼ一人に対して注ぎ込んだ費用と人材に関しては無限書庫にデータ管理されているはずだから、もし参考にしたいならそちらを当たれ。あそこの司書長は優秀だからな。

 ん? 肝心なことが聞けていないだと? 何だ、俺が言うべき範囲は全て話したはずだが?

 ……トレーゼに弄ばれた三人の少女はどうなったか、だと? 

 事件が解決するまで彼は彼女らとどう接していたか?

 解決してしまった後は四人は一体どうなってしまったか?

 あぁ、なるほどな。それは確かに気になるだろうな。妥当な感性だな、お前も。まぁ、今すぐと言うのならあれだ……本局から派遣されている執務官にグランセニックと言う者が居るはずだ、彼女に聞けば大抵のことは――、

 …………なに? グランセニックを知らないだと? ……そうか、あいつはまだ『ランスター』で名が通っているのか……。あいつも強情だな、結婚してから一年も経つと言うのに。いや何でも無い、とにかくこれ以上の情報が欲しいなら俺ではなく彼女に聞け。この事件の担当はあいつのはずだからな。



 Pi Pi Pi―♪



 失礼、少し……。

 ……あぁ、お前か。…………分かっている、先に帰っていてくれ、俺はもう少ししてから行く。……遅れはしないさ、安心しろ。それじゃあ、自宅で待ち合わせだな。

 …………済まなかったな、途中で。さっきの通話の相手か? 一応、俺の妻だ。所属は俺とは違う所でな、頑張ってくれている。

 これからシフト上がりで、一緒に学院に通っている娘を迎えに行くんだ。今日は終業式なんだ、午後一杯は一緒にいてやりたい。久し振りに三人で外食にも行くつもりだ。

 は? 俺が妻子持ちに見えないだと? 良く言われる。俺とあいつが10代後半の時の子供だからな、仕方ないだろう。色々とあってな……自分でもこんな関係に落ち着くなどとは思ってなかった。

 優しい? 俺が? 冗談が好きだな。俺も昔はこうじゃなかったんだがな……。

 ん……昔ヤンキーで今はマイホームパパってのは良くあります、だと? そう言うモノなのかもな……人生は何が起こるか分からない、だからこそ面白い。

 そう言えば、当時の件で一つだけ話していないことがあった。まぁそう怒るな。

 すぐに済む……話をもう一度だけ六年前にまで戻そうか。










 新暦78年11月14日午後18時00分、ミッドチルダ第四地上留置所にて――。

 いつか言ったように冬の陽は西の地平線に沈むのが早い。ほんの数十分前には大地にオレンジ色の陽光を余すことなく照らしていた太陽も、今ではすっかり西の空を仄かに赤く染める程度でしか確認出来なかった。青い海は反射するべき光を失って黒一色に染まり、そのすぐ上を飛んでいたカモメ達もいつの間にかどこかにあるはずの自分達の巣へと帰っていた。完全な静寂が周囲を支配しており、聞こえてくる音と言えば岸壁に波がぶつかる水音ぐらいなものでしかなかった。

 この海岸に面して造られた第四拘置所はミッドに数ある管理局の管理下にある施設の一つであり、主に社会で問題を起こした者や公判を待つ身である者達がここに収容されていた。ちなみにこの施設に独房は無い。局の方針で、独房に収監されなければならないレベルの人物はここに来る前にダイレクトに軌道拘置所に強制送還されるシステムになっているからだ。つまり、ここに収監されている者達はギリギリのラインで凶悪犯罪者になる前の者と言う訳だった。

 そしてそれは彼女らも一応例外ではなかった。

 「ん~っ! やっぱりシャバの空気は美味いわぁ!」

 留置所の正面玄関にて一人の女性が大きく背伸びをしながらそんな言葉を口にしていた。両腕を大きく真上に引き伸ばすようにして上げ、緩み切った背筋を締め上げると、続いて彼女は首の骨をバキバキと鳴らした。一瞬本当にムショ上がりの更正人かとも思ったが、良く見ると彼女はカーキ色の局員服を着込んでおり、遠目からでも彼女が管理局の局員であることが窺えた。

 「あの二佐……少し落ち着かれては。と言うか、シャバって何ですか?」

 そのすぐ後ろを頭二つ分小さな少女が付き従う。さらりと流れる銀の長髪は遥か東の空に現れた二つの月の光を反射して輝いており、唯一健在な左眼で目の前の女性を捉えていた。

 「それにしても、さっすがクロノ君や。ひょっとしたら半年ぐらい出れへんかと思てたけど、心配無用やったな」

 「ですね。聞けば、私達を釈放してくださるのにも随分と御無理をなされたとかで……」

 「まぁ釈放て言うても、実際は『仮釈放』なんやけどね。真犯人を捕まえられるまでは監視役が付いて周るらしいし……」

 そう言って女性――八神はやては東の空の月を眺めた。それに従ってチンクも空を見上げる。

 無期限謹慎処分中だった彼女らが鉄格子の窓から解放されたのはほんの30分前の話だった。いつも通りに無駄に白く清潔な壁以外は何も無い獄中で読み飽きた小説に目を通していた二人は、生活する内に懇意になっていた所長から突然ここを出るように言われた。始めは何が起こったのかまるで分からなかったが、その直後にハラオウン提督からの要請だと聞いて納得した。あの友人はやっぱり自分達を見捨ててはいなかったのだ。

 そこから先はあっと言う間だった。元々私物はそれ程持ち込んでいなかった為、片付けるのに手間暇は掛からず、本部から派遣されるはずの監視員の迎えが来ると聞いて今出て来たところだったのだ。

 さて、予定ではもう直ぐ局からの監視員が来るはずなのだが、連絡を受けてから既に30分も経つと言うのに一向に迎えが来る気配が無い。行き違いでもあったのか? それともどこかで事故でも起こしたか……。

 と、そんなことを考えていると――、

 「二佐、来たようです」

 「あ! ほんまや。レディを二人も待たせるなんて礼儀知らずもええとこやで」

 中央道路から離脱して真っ直ぐこちらへ向かって来る黒塗りの乗用車……間違い無い、局から回された要人用の高級車両だ。はやてはあれを見る度に税金の無駄遣いだと常々思っていたが、まさか自分が乗ることになるとは思っていなかった。二等陸佐と言う高い位から充分過ぎる程の稼ぎは得ているが、今の今までにあまり贅沢な金遣いはしなかった所為なのかも知れない。

 やがて車は正面玄関の二人の寸前で停止し、後部座席のドアを自動で開いた。それと同時にフロントガラスがスライドして運転席の人間が顔を覗かせる。

 「お待たせしました、八神二佐。どうぞ御乗りください」

 母親譲りの薄い色の髪を持ち、ネオンを反射する眼鏡がどことなく知的な雰囲気を漂わせているその男性ははやても良く知る人間だった。三年前の機動六課時代には部隊長だった自分の右腕として共に戦ってくれた知将――、

 「クロノ君も流石やな……わざわざグリフィス君を監視員にするなんて」

 グリフィス・ロウラン。機動六課が解散した今、本来ならば彼は本局の次元航行隊で勤務中のはずなのだが、彼の所属する航行隊は予定に空きがある為に彼は通常通りの事務勤務となっていたのだ。そこへさらにクロノが自前の提督権限を限界一杯までに行使したことにより、現在こうしてミッドチルダまで足を運んだと言う訳だ。そしてこれにはクロノ側の思惑もある。

 「六課の時と同様に二佐のサポートを提督から直々に言い渡されております。何なりとご命令を」

 「差し詰め、『名ばかり監視員』ってとこやな。相変わらず憎いことをしてくれるわ、あの提督も……」

 今頃デスクの上で書類の整理に追われているであろう友人の仏頂面を思い浮かべて苦笑しながら、はやては車に乗り込んだ。そのすぐ後ろからチンクも入り込み、二人を乗せた車は地上本部を目指して一気に首都高速へと突入した。

 「さてと……お喋りはここまでにしておいて……」

 後部座席に腰を落ち着けたはやては窓の外を流れる夜景には目もくれず、バックミラーに映るグリフィスの顔を見つめた。制服の皺を伸ばし襟元を正す。そこに先程までの気の緩み切った女性は居なかった、職務を全うしようとする気迫を全開にしている一人の局員だった。

 「グリフィス・ロウラン准陸尉、報告!」

 「はい。11月14日現在、管理局は一連の事件の容疑者としてスカリエッティ製の戦闘機人一名を指名手配、当容疑者を『13番目』と認定・呼称することが決定されました」

 「事件発生から五日も経ってるっちゅうのに、局は呑気なもんやね。局が取った対策は?」

 「現在、クロノ・ハラオウン提督を筆頭にして地上本部の主立った部隊がそれぞれの担当地区の哨戒に専念しています。本局から派遣されてきた分も換算しますと、平時の三割増しだと聞いてます」

 「三割か……。それでも何の情報も掴めてへんってことは、相手は相当のやり手ってことやな」

 「二佐も早速明日から捜査に加わってもらいたく――」

 「明日? 何言うてんの、今から参加するに決まってるやん」

 「え?」

 順調に進んでいた会話が突然狂いだし、ハンドルを握っていたグリフィスの視線が一瞬だけフロントから外れて後部座席の上司に移された。そこで彼が見たのは未だかつて見た事が無いはやての目の色だった。ミッド人離れした彼女の面立ちを何度も見ては来たが、こんな鋭く、そして鬼気迫るモノを彼は見た記憶は無かった。強いて挙げるとするならば、三年前に警戒体制の甘さ故に起こった最悪の事件――地上本部襲撃事件の時に似たような表情を見た記憶があった。

 そして直感する――。

 彼女……八神はやて二等陸佐は――、



 本気だ。



 六課が解散した所為もあるが、この三年間グリフィスは彼女の目に本気の色が宿るのをただの一度だって見たことなどなかった。彼女は風のような……いや、風に流れる雲のような人間だ、周囲に混乱を巻き起こそうとはせずに静観し、常に大衆の流れに同化することで難を乗り切る人間、それが彼女だ。一方で彼女のことを『根なし草』と形容する声も上がっている。当然かもしれない、大衆に合わせると言うことは自分の意思まで流されると言うことだからだ。

 だが彼女は違う。彼女は大衆の流れに合わせる人間であっても、決して流される人間などではなかった。でなければ、六課時代にあれだけの人員を引っ張ることなど出来なかった。全ては彼女の才覚――秘められたカリスマ性が成す業だと言うことを元副官のグリフィスは見抜いていた。

 今回もまた彼女は本気だった。もう誰も止められない、否、止めるなどと言う選択肢など最初から存在していないし、彼女にも止まると言う選択肢は無かった。ただ前に突き進む……事件の早期解決の為に。

 「…………了解しました、早速二佐には現場での指揮を」

 「分かっとる。……私やかて人の子や、自分の家族や仲間を蔑ろにされてまで指咥えとる程鈍臭い人間と違う……」

 ここで初めてはやては正面ではなく、隣のチンクへと目をやった。謹慎中ずっと緊張していた所為か、自分の隣でチンクはすっかり熟睡していた。可愛らしい寝息を立てる彼女にふと微笑み掛けたはやては自分の制服の上着をそっと上掛けした。自分達は謹慎を受けていたから無事だったようなものなのだ、今度は自分達が借りを返さなければならない番だ。

 「……落とし前はキッチリとさせたるから覚悟しときや」

 不思議と怒りは無い、むしろ極限にまで冷え切った感覚が彼女の神経を満たしていた。氷のリンクの上で佇むあの感覚……あの冷えた感覚だけが今の彼女の行動原理となっていた。怒りでもない悲しみでもない……そんな曖昧で、それでいてはっきりとした感情だけが残っていた。何とも不思議な感覚だと我ながら思わざるを得なかった。

 だが、これだけは確実だと言えることがあった。

 それは――、

 「怒ってはおらん。気分がムシャクシャしとるだけや」



 午後18時15分。管理局三強の一角、『夜天の主』八神はやてが完全復活を成し遂げた瞬間だった。










 新暦85年7月22日、12時14分――。



 彼女は今は確か海上警備の司令官だったか。今でもあれは前世代エース達の中では一番の出世頭だそうだ。ちなみに、ここだけの話だが、俺の所属する新設部隊の運営にも何かと協力してもらっている。一応部隊指揮をしている課長が彼女の義弟だからな……何かと弟想いな方なのだ。

 俺にも一応妹が居る。何だ、その意外そうな顔は? お前も名前ぐらいなら聞いたことがあるだろう? 元航空武装隊のエースで、今は俺の部隊の副隊長を務めている。

 ……俺の方が若干年下に見えるだと? お前……俺が高町レベルの砲撃を撃てると知っての発言か、それは。言っておくが、俺の方があれよりも…………いや、やめておこう。

 さてと、ある程度話すことは話したから、そろそろ俺は上がらせてもらう。自宅で妻が待っているからな。

 あぁそうだ、お前はどうやら新入りでここの事を分からない部分があるだろうから、挨拶の代わりにこの名刺を渡しておこう。もちろん俺のものだ。八神一佐に言われていてな……新顔にこうやって部隊の宣伝をしなければならないんだ。意外とこれが面倒でな……。



 『古代遺失物管理部及び半独立次元世界治安維持機動部隊“機動七課”

 ネオ・スターズ分隊長

 “――――” 一等空尉』



 八神一佐曰く、『期待の新星部隊』だそうだ。ひょっとしたら、将来お前を部隊に引き抜くかも知れないな。

 じゃあ、俺は行く。執務官の仕事は激務だろうが、上手くやれ。

 それと、人の名前は事前に確認しておけ? ハトがアルカンシェルを受けたような顔をしているぞ。ん……? 違ったか?

 面白いだろう? それが人生だ。

 さぁ帰ろう――、

 娘と妻が自分の帰りを待っているから。



[17818] 彼女の遺したモノ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/07 23:50
 人は誰しも自分が生きていた証を後世に遺そうとする。それは生前使っていた愛用の物品であったり、自分の姿を精巧に写し取った写真であったり、愛する者との間に育んだ子供であったり……。その者の性格や嗜好などによってそれは千差万別、様々なモノに姿を変える。

 だが、個々の姿は全て違えど、それがその故人にとってはこの世の全てよりもずっと大切なモノであることに大差は無い。だからこそ遺すのだ……自分の大切にしたものを――、死してなお自分が大切にしたかったモノを誰かに受け継いでもらう為に……。

 そして、それはもしかしたら“彼女”も同じだったのかも知れなかった。

 「我が姉にして、我が友ドゥーエ……お前は、俺に何を、遺していった?」

 今は亡きかつての姉の面影を描きながら、トレーゼはまるで故人を偲ぶかのような発言をした。

 彼の目の前にあるのは巨大な培養槽……かつてスカリエッティがナンバーズを製造する際に使用したものだ。それが全部で“八本”あった。今思えば、あの頃はまだ八人しか居なかった。自分達も培養槽から出た事は何度かあったが、それは精密検査の時だけの限られたものでしかなかったし、さらには外に出ても問題無いまでに開発が進んでいたのは当時でも自分達四人しか居なかった。あとの四人は自分の知る限りではこのシリンダーの中から出たことなど一度だってなかった。いつか……いつかは必ず出てくる…………そう考えて日々を過ごしていた時、自分はドクターの手を離れ、あの老いぼれの元へと譲渡されてしまった。

 「……………………」

 今となっては培養槽は全て破棄、つまりは使用されていない状態となっていた。かつてこの中に入っていた姉妹達は大半が更正、一部は獄中で囚われの身と成り果ててしまった。計画に失敗したばかりか、安穏とその命を本来あるべき事に使わずに生きていることにトレーゼは納得出来なかった。これが彼が自分と三人の姉以外のナンバーズを蔑む大きな理由だった。最初から最後まで自分達の本分を貫き通せば良いものを、よりにもよって奴らは人間社会に溶け込むことで生き延びる方を選択した……もはやこれは戦闘機人として生み出された者にとっては許されざる大罪だった。

 だが――、

 彼女、ドゥーエだけは違っていた。彼女は12人の中で唯一自らに課せられた使命を、任務を、完全に全うして見せたのだ。管理局内部の情報のリーク、最高評議会メンバーの暗殺、そして地上本部のトップであるレジアス・ゲイズ中将の抹殺……彼女だけだった、己の仕事を全て終えた者は。彼女は終始ナンバーズとして行動し、死の間際でさえもナンバーズとして死することを選んだのだ。無様な社会の犬畜生のような生ではなく、自らの存在意義を貫き通しての死を……。

 「…………我が姉ドゥーエ……俺は貴方に、最上級の敬意を……」

 空間の右側から二番目の培養槽――かつて彼女が入っていた場所に手を伸ばす。十年以上も人が出入りしていなかった所為で蓄積した埃を手で払い、彼はそこに刻まれたモノを見つめる。“Ⅱ”……たったこれだけだ、名前でもなければ日付でもない、単なる製造順に付けられた番号だけがそこにあった。

 誰もこれを何とも思わないだろう。だが彼は違った、彼はここに刻まれた文字がたった一人の存在を表す為の『名前』だと知っていた。知っていたからこそ、今はもう居ない彼女にこんな形でしか考えていることを伝えられなかった。

 シリンダーの前に跪いて目を閉じて瞑想するトレーゼ……。



 それは己の感情すらどこかへ置き去りにしてしまった少年が一瞬だけ見せた哀しみの表現だったのかも知れなかった。










 11月15日午前8時、クラナガン医療センターにて――。



 「――――Zzz……」

 スバル・ナカジマは只今絶賛爆睡中だった。自宅のベッドよりも寝心地が良いのか、だらしなく開けられた口からは涎が大量に流れ出てシーツに染みを作ってしまっていた。大喰らいでおまけにこの体たらく……初見なら誰しも彼女が管理局員だとは絶対に思わないだろう。

 「うぅ~ん……むにゃむにゃ……」

 両足と右手が無いにも関わらず器用に寝返りを打つ。しかしまだ起きない、カーテンの閉まっていない窓からはとっくに冬の日差しが差し込んで来ていると言うのにそれでも起きなかった。時間的にもそろそろ担当の看護師か誰かが起こしに来るのだろうが、少なくとも彼女が自発的に起きることはまずなさそうだった。あと30分以上はこのままだろう。



 だがここで――、



 「……………………」

 ドアを開けて誰かが入って来た。一人だけだが、看護師ではない、黒い私服に身を包んでいるのが分かる。その人物は一言も発することなくスバルの寝るベッドまで近寄って来ると、傍にあった備え付けのパイプ椅子を引き摺り出して座った。肩に掛けていた大き目のバッグを床に降ろす……その際にかなり大きな音がしたが、目の前のベッドで寝ている少女には聞こえなかったようだった。

 「…………」

 その人物はしばらく椅子の上で大人しくしてはいたが、やがて静かに立ち上がると、自分の手をベッドのスバルの顔面へと伸ばし――、

 鼻を摘んだ。

 「……ん……んんっ!? フゴ、がふ! うぇっふ!!」

 人体の数少ない呼吸経路を断たれてしまったスバルは当然の如く酸素を求めて覚醒し、文字通り覚醒した。コース完走後のマラソン選手も仰天するぐらいに息を荒くし、スバルは自分の呼吸経路を断とうとした不届き者の顔を睨んだ。

 「何するのさノーヴェ!」

 「うるせぇ、人がせっかく見舞いに来てやったってのにいつまで寝てんだ」

 燃えるような赤い短髪が特徴的な少女――ナンバーズの九女ノーヴェがそこに居た。いかにも「怒ってます」と主張している表情でもってこちらを睨んでいるのが分かったが、何もそこまでして起こさなくても良いのではと必死になってスバルは抗議した。が――、

 「お前ぇな……腹空かせてるだろうって思って人様がせっかく家で作ったメシを持って来たのによ。要らねーんだな?」

 「ごめんなさい! 起き抜けでお腹が減ってて困ってるの! だから頂戴!!」

 嗚呼、我が妹ながら何とも扱い易い性格……。涙目になりながら真剣に懇願するスバルを見ながらノーヴェは胸中でそう思わずにはいられなかった。今更ではあるが、とても自分達が同一の遺伝子から生まれたなどとは到底考えられなかった。なにせこんなにも性格に差があるのだ、そう考えるのが妥当だろう。

 ともかく、このまま何もせずに居るのだけは避けた方が良さそうだった。空腹のスバルは何を仕出かすか分かったものではない、ここはさっさと彼女の目当てのモノを渡すのが先決だ。床に降ろしていたバッグを引き上げるとノーヴェは中に入れ込んでいた物を取り出し始めた。

 「ほいよ。カイン兄特製のスパゲッティだ。箸は横にテープで留めてあるから使えよ」

 彼女が出した特大タッパーにはミートソースが満遍なく絡まった麺が詰め込まれており、量はもちろんスバルが食べることを想定しての特盛りとなっていた。ちなみに、製作に腕を振るったのは、現在ナカジマ家の稼ぎ頭No.2のカインであり、義姉から学んだ調理術を余す事無く発揮して作られた一品だった。塩分控え目なのに味はそこら辺のレストランでは決して味わえない、一度食べたら病みつきになってしまう味だ。

 「いただきまーすっ!」

 早速食事体勢を取るスバル。これまた器用に左手で引っ手繰るようにしてノーヴェからタッパーを取り、蓋を開けて中の麺の塊に箸を突っ込んだ。見事に箸に麺を絡ませてはそれらを次々と口の中に放り込んでいく。どうやら本当に腹が減っていたようだった。ここまで見事な食べっぷりはここ最近では殆ど見た事がなかった。

 「ムグムグ……そう言えばさ、私が眠ってた間に何があったの? ティアには聞く暇が無かったから……」

 「ん? あぁ……まぁ、色々とあったよ」

 適当に言葉を濁しておく。別に嘘は言ってない、周囲はともかく、少なくとも自分は襲撃事件から目立った異変に関わった訳ではなかったので、然したる問題は無いはずだった。

 「ふ~ん……。あ! ギン姉は元気にしてる? 私が寝込んで落ち込んだりしてなかった?」

 「っ!!」

 一番聞かれたくない所を聞かれてしまった。流石に身内の話題までは誤魔化し切れそうにない、ここは素直に言っておくべきなのだろうか、それとも――、

 「あ、あのな! ギン姉はその……」



 「私がどうかしたのかしら?」



 と、すぐ背後で聞き覚えのある声が。あまりに唐突なその声に、思わずノーヴェは自分の首を180°回す。だがしかし、彼女がその視界を完全に真後ろに移すよりも先に……

 「ギン姉!」

 スバルの声に少し遅れる形でノーヴェはその視界に自分の姉を収めた。さっき自分が入って来たドアにはいつものように長い紺の髪を背中に流したギンガが笑顔で立っており、こちらに手を振っていた。それだけ見ると健康そのものなのだが、問題は彼女の格好だった。

 「どうしたのその服? 私服……じゃないよね」

 スバルが疑問に思うもの無理は無い、ギンガが身に着けていた服は上下共に汚れ一つ無い真っ白な服であり、左の胸元には氏名と部屋の番号が書かれたネームプレートが付いていたからだ。明らかに個人が好きで着るような服ではないことだけは確かだった。

 「俺達も居るぞ」

 こちらの疑問を余所に続いて入室してきたのはナカジマ家の家長であるゲンヤと、ギンガの婚約者であり現在ナカジマ家の調理係担当のカインだった。二人とも局の制服を着用しており、この見舞いが終わったらすぐに出勤することが窺えた。

 「どう言うことなの、ギン姉?」

 「実は昨日ね、任務中にちょっとしくじっちゃって……」

 そう言って笑いながら彼女は自分の上着を下からシャツごと少しだけ持ち上げた。本来ならそこにはシミ一つ無い女性としては自慢の肌が見えるはずだったのだが……。

 「ど、どうしたのこれ!?」

 「火傷。ちょっとヒリヒリするかな、でも大丈夫よ。応急処置だってちゃんとやってるし」

 彼女の腹部にあったもの……それは二重三重にも巻かれた包帯だった。傷そのものは隠れてしまっていて見えないが、恐らく相当なモノに違いなかった。でなければこんな患者の着るような服を身に着けている訳が無い。

 「本当に大丈夫なの……?」

 「全然平気よ。でもスバル以来よ、相手に零距離砲撃なんて喰らわされたの」

 「ギン姉に一撃って……相手は誰だったの!?」

 「それは……その…………」

 「? ギン姉?」

 珍しく言葉を濁す姉にスバルは疑問に思った。黙り込んでいるのは彼女だけではなく、その後ろに居るゲンヤとカインも同じく口を閉じたまま何も言おうとしなかった。おかしい、さっきのノーヴェと言い彼らと言い、何をそんなに黙秘したがるのだろうか? 自分の眠っている間に何が起こったのか……。

 「…………あいつだ……」

 「え?」

 数秒の間隔の後、スバルは不意にノーヴェの口から小さく出て来た声に反応した。彼女の方を見ると、俯いた視線は床を見つめており、その肩は怒りで震えているのが分かった。かつてこれ程怒っている彼女の姿を見た事は殆ど無く、余程の事態があったと言うことだけは把握出来た。

 「あいつって……誰?」

 「……お前をこんな格好にした奴だ」

 「え……? それって――」

 「ごめん、スバル!」

 「え? えぇ? えぇえ!?」

 いきなり何の脈絡も無しに頭を下げて来たノーヴェに意味も分からずに当のスバルは混乱してしまった。一体何を言いたいのか全く分からない。ただ一つ分かることがあるとすれば、彼女の言っている「あいつ」…………もしこれがスバルの予想している人物なのだとしたら……。

 「あたしはお前がやられてから……ずっとあいつを捕まえる事だけを考えてたはずなのに……! 結局何にも出来なくて、逃げられて……ギン姉までっ!!」

 「ノーヴェ……」

 「あたしは……どうしようもない…………あんなに近くに居やがったのに、何も出来なくて」

 「……もう良いんだよノーヴェ」

 「!? 何言ってやがる! お前は自分が何されたか分かってんのか!!」

 「分かってるよ。私の手足はあの時会ったあの人に切られたのも……その所為で私は……もう、二度と部隊に戻れないかも知れないことも、ちゃんと分かってる」

 「なら――!」

 「でも、違うの! そうじゃない!」

 「何が違うんだよ! お前だって悔しくないのかよ、あいつの所為で……あいつの所為で……っ!!」

 「違う……そうじゃない、何かが違う気がする」

 「だからっ! 何が違うってんだよ!!」

 「私だって分からない。自分でも何が言いたいのかなんて分からない。けど、これだけは言えることがある」

 頭に血の昇ったノーヴェに真正面から向き合うスバル。一点の濁りも無いその瞳に射竦められたのか、視線を合わせたノーヴェはそれだけで完全に黙ってしまった。

 「……言えることって何だよ?」

 「あの時――最後の瞬間に襲われたあの時……私はあの人に悪意を感じられなかった」

 「悪意を感じなかった?」

 「おいおい、そりゃあどう言う事だよ?」

 スバルの言葉にギンガとゲンヤまでもが不思議そうに反応を示した。それもそうだろう、人間の四肢を切断しておいて全くの悪意や敵意が無い訳が無い。それなのに、被害者であるはずの本人はそれを感じなかったと言い張るのだ。始めは彼女の妄言か何かだとも考えられた。しかし、いくら彼女が人一倍優しい心の持ち主言えども、自分の生き甲斐そのものまでをも打ち砕き容易く力尽くで否定した人間を許すものなのだろうか? 答えは否、断じて否である。人間はそこまで寛容ではない、どんな聖人君子であろうとも自分に対して向けられた悪意に関しては決して無視できないのだ。

 だが、それでもスバルは言い張った。

 「顔は知らない。名前も、歳も、性別だって分からない。本当に一瞬のことだったからはっきり覚えていないだけかも知れない……。でも……あの人からは何も感じられなかった。敵意も、悪意も、殺気も……なんの感情も」

 「俺はお前が何を言いたいのか、まるでさっぱりだぜ」

 「ごめん、お父さん。でも、本当に何も感じなかったの。一つだけ感じたのがあったなら、気を失う前の痛みだけ……。後は何も……」

 「スバル、それじゃあまるで貴方が容疑者を擁護しているみたいよ」

 「…………そうなのかも知れない」

 「何ですって?」

 「何でだろう? 私はあの人を責めちゃいけない気がする……。こんなこと、おかしい事だって分かってるのに……」

 「だぁ~っ! いい加減にややこしくなるから、ここらでお開きにしてくれや。スバルもノーヴェもいい加減に割り切れ。スバルは治療、ノーヴェは犯人の検挙……お前らには自分のやる事が沢山残ってるだろ? つべこべつまらねぇ事で言い合ってる前に、まずは自分の仕事をきちっとやり終わってからだ。時間は幾らでもあるんだからよぉ」

 家長ゲンヤの鶴の一声。最近ナカジマ家では長女であるギンガや婚約者のカインの発言力が大きくなってはいるが、彼は一応最年長である為、こうもはっきり言われれば流石の聞かん坊のノーヴェ言えども黙らざるを得なかった。それはスバルも同じ事であり、散々自分の言い分を否定されてヘソを曲げたのか掛け布団を頭から被り込んでしまった。

 「ま、まぁとにかく、スバルは目が覚めたし、私の方だってこれくらいの怪我で済んでるんだから、良かったじゃないの」

 「何が良かっただ……。結局スバルの手足はどうなるんだよ! 何の解決にもなってねぇよ!」

 『うむ、実はそのことなんだが、喜べスバル――』

 今までずっと事の成り行きを静観していたカインが一歩前に進み出ると、半ば強引にスバルから掛け布団を引き剥がした。何やら重大な事項を伝えねばならないようであり、呆けた顔をしているスバルに早口でそれを伝えた。

 その所為で病室が少し騒がしくなったのはまた別の話。









 同時刻、クラナガンから少し距離を置いたダウンタウンの一角にて――。



 首都の中心部と比べて幾分か治安情勢に難があるこの一帯では、中心街では御法度とされている風俗や高利貸しなどの巣窟になっている部分があり、よっぽど顔の広い者や旧くからこの周辺を知り尽くしている者でない限りは決して近寄らないことが暗黙の了解で決まっているエリアだった。おまけにここは俗に言う『その筋』の権力者が威光を利かせているいることもあってか、管理局でも有事でないと介入することは困難な場所でもあった。

 そんなこの街角には何故か朝早くから開店している小さなバーがあった。普通バーと言うモノは夜中に人間が自然と照明の下に寄る習性を利用しているので、こんな早朝から開いているのは違和感しか感じなかった。だが実際に店内へ足を運んで見ると意外にも客足はあり、幾つかの小さな円卓には大の成人男性達がグラスの酒を飲み比べていた。朝から店を開いているのも問題だが、こうして真昼間から飲酒に精を出している大人が居ると言うのも充分な問題だった。職が無い流浪者なのか、仲間内でダーツや飲み比べなどの享楽に耽っている姿はとても退廃的なモノでしかなかった。

 そんな大人達に混じって一人、何故かここに居るのが逆に不自然に映る姿があった。フロントでたった一人で佇んでグラスの中を空けているその人物は数分前にこの店が開店してすぐに入って来た者であり、ただの一度も椅子に腰を落ち着けることもなく黙々とグラスを傾け続けていた。

 「よぉ! そこの美人な姉ちゃん! そうそう、あんただよ。一緒にこっち来て俺らと一緒に飲まねぇかい!」

 その姿を遠くの席から見初めた者が居たのか、大手を振って彼女を誘った。かなり酔っているようで、足元や卓上には既に空になった酒瓶が何本も転がっており、放っておけばこのまま酔い潰れるのは目に見えていた。

 そんな男の誘いにフロントの彼女が乗るはずもなく目もくれずに黙秘を決め込んでいると――、

 「ごめんなさいね。この娘、下戸なの。あんまり飲めなくってね……勘弁してあげて♪」

 この店のマスターらしき人物がフロントの奥から出て来ると見事なまでに愛想の良い笑みで柔軟に断って見せた。マスターはそう言いながら右目で軽くウィンクする……言葉尻は物凄く優しい喋り方ではあるのだが、色々と問題があって……。

 「今度私が一緒に飲んであげるからぁん!」

 「うへぇ、こっちからお断りでい」

 「失礼するわね! あんたはこの鍛え上げられた魅惑のボディを見てちっともときめかないって言うのっ!!」

 180を越える筋骨隆々の長身に黒のエプロン姿、胸元の黒い茂みは男性特有のホルモン作用の極限に達しており、顎も見事に縦に割れている。そう、紛う事無く男性……それもかなりガチでムチムチな体型の巨漢だった。そんな大男が真顔で女口調……初見の肝っ玉の小さい人間なら泡を吹いて卒倒するようなビジュアルである。

 「ぅンフフ、あなたもごめんなさいね。あの人ちょーっと酒癖が悪いだけで、基本良い人だから」

 自分の手前で酒を飲んでいた彼女にも断りを入れるあたり、このマスターはそれ程悪い人ではなさそうだった。それまで黙っていた彼女の方も笑顔で気にしていないと答え、空になったグラスをマスターに差し出した。

 「今日は良く飲むのね、これで三杯目よ。よっぽど嫌なことでもあったのかしら?」

 「…………」

 「ふふふ、良いわよ。今日は何の用事で来たのかしら――――ティアナちゃん」

 そう言って巨漢のマスターは目の前のオレンジの長髪の女性――ティアナに口直しの為の水を渡した。ティアナの方は黙ってそれを受け取ると、酒を飲む時の倍のスピードで一気に飲み干した。

 「……少し、お尋ねしたいことがありまして……」

 「良いわよ良いわよ、私とティアナちゃんの仲じゃない。何も遠慮なんて要らないわ、どしどし聞いてちょうだぁい」

 「単刀直入に……最近この周辺で不審な人物の情報は入って来てませんか? 出来れば、11月上旬辺りからの情報でお願いします」

 「あらぁ、また漠然としてるのね。う~ん、生憎だけど、ここらへんじゃあ不審者なんてのは道端の石を投げれば当たるだけ居るからねぇ。ティアナちゃんの欲しい情報がもうちょっと細かくないとダメかしら」

 「何でも良いんです。お願いします」

 「うぅ~ん、困ったわね~。私のこの店は至って平和だし、知り合いの飲み屋でもそんな話題なんて全っ然聞かないし……」

 「そうですか……」

 「本当にごめんなさいね。何の役にも立てなくって……。精々、この間私の知り合いの飲み屋がちょっとした密売の取引場所に利用されたってのは聞いたけど、ティアナちゃんが欲しいのはそんなのじゃないでしょう?」

 「いえ……こちらこそ突然お邪魔してしまって……。また日を改めてから、もう一度」

 「構わないわよ。あなたは可愛いティーダちゃんの忘れ形見だもの。今日は何も無かったけど、次までには飲み仲間達から情報漁っておくから、期待していてねぇん♪」

 「……はい。失礼します」

 およそ二分にも満たない会話の後、ティアナはマスターに飲み代を支払うとすぐに踵を返すと外へ繋がるドアへと戻ろうとした。これで三軒目……彼女の顔が利く情報屋はこれで三軒も当たってはみたが、彼女が欲する情報は誰も持ってはいなかった。自分の親友を貶めた張本人、『“13番目”』の情報……あれだけ大々的な行動を起こしたにも関わらず、得られた情報は全くのゼロ。このエリアには干渉していないのか単に情報操作に長けているのか……恐らくは後者である可能性が高かった、単身であれだけ狡猾且つ大胆な行動を起こす人物だ、情報の一つや二つを弄るくらいどうと言うモノではないはず。彼女の予想が正しいとなると、この情報探しは難航するだろう。

 「……今日は一旦帰って情報整理しないと……」

 柄にも無くオレンジの髪を無造作に掻き毟りながらティアナは店のドアに手を掛けようとして――、



 ガチャ。



 外側から別の人に開けられた。図らずも互いに真正面から向き合う形となってしまい、ティアナは一瞬だけ面喰ってしまったが、すぐに素面に戻ると「失礼」と軽く会釈してからその脇を通り過ぎていった。

 「…………変わったファッションね、流行ってるのかしら?」

 店の外へ出て少ししてからティアナはそっと呟いた。彼女が言っているのは先程接触した人物のことだった。すれ違っただけだから詳細は分からなかったが、真冬だと言うのに上下共に白一色の服装であり、今時の若者のものとは掛け離れた奇抜なファッションだった。男性なのは確かであり外見年齢は恐らく自分と同じほどらしかったが、あの人間は自分でも嫉妬してしまいそうなぐらいに白い肌を持っていた。色素欠落でもしているのかとも思えたが、冬とは言えこの日差しの中をアルビノ体質の人間が平気で歩けるとは思えなかった。

 「……最近の男の人って化粧品でも使ってるのかしら?」

 私の彼氏はスナイパー♪ そんな題名の鼻歌を口ずさみながら彼女は帰路についた。この一帯のゴロツキ達は彼女の顔を知っている所為で誰も近寄っては来ない。『幻影の射手』と言えば誰もが知っているティアナの通り名……そんな彼女にちょっかいを出す輩はそうは居なかった。大抵のゴロツキなら道を開けるお陰で彼女は鼻歌を歌いながらでもこの往来を闊歩出来ているのだった。

 冬の朝に似合わない暖かな日差しに、頬を撫でる優しい風……何もかもが彼女を優しく包み込む。

 その所為なのだろうか、彼女はすっかり忘れてしまっていた。

 さっきすれ違ったあの人物――、

 その双眸が金色に輝いていたと言う事実を。



 「ほいよ、これが御求めの品だ。ここまで運んでくるのに苦労したぜ」

 天井のライトと小窓からの陽光だけが室内を照らすこの空間は、先程ティアナが足を運んだバーの店内だった。さっきまでフロントに居た筋骨隆々のマスターは奥の倉庫へ酒瓶の調達に行っており、今ここに居るのは数人の酒飲み達と――、

 「……感謝する」

 その中に混じって同じようにグラスに手をつけている若い少年だった。全身を雪のように白い服で包み、同じくらいの白磁の肌にはそれと対比するように紫苑の髪と金色の両眼が目立っている特徴的な少年だった。対面する男は先程フロントで酒を飲んでいたティアナに声を掛けた泥酔男であり、自分のヨレヨレの服の懐から小さなメモリースティックを取り出すとそれを少年――トレーゼへと直に手渡した。

 「元局員とは言えこの情報を手に入れるには苦労したぜぇ。お陰で財布の中がすっからかんでい!」

 「…………見取り図は、確かに頂いた。一つ、聞きたい事が、ある」

 「ングッ……ングッ……何でい?」

 酒瓶をラッパ飲みしていた男はトレーゼにアルコール臭の満点な吐息を吹き掛けながら質問に答えるべく彼にズイっと近寄った。

 「警備の数は、何人だ?」

 「さぁな、詳しい数は覚えていねぇが、素人が見てもザルだったのは確かだ。鉄壁なのは地上部分だけ。監視カメラや警報システムなんてのは形だけのもんだったし、看守だって一人が幾つもの区画を掛け持ちせにゃならん程しか人数が居ない」

 「それは、何年前の、情報だ?」

 「俺が現役だった頃ぐれぇだったからな……20年前だな」

 「……本当に、この情報は、信用に値するのか?」

 「ハッ! 管理局は自分達の膝元を固めることしか頭に無い。そんな奴らがたった20年やそこいらで体制を変えたりするもんか。特にこいつのように辺境の施設に関してはな」

 男は怒鳴るようにしてそう言った後、再び酒を喉に流し込み始めた。過去になにがあったのかは知らないが、恐らく職場であった管理局と何らかのトラブルか何かが原因で権力にモノを言わされて辞職されたのだろう。でなければこうして自分の古巣を売るようなことはしない。

 トレーゼにとってはこう言う人間が一番使い易かった。自分の私怨を少しでも晴らそうとする者はその為ならばどんな努力も犠牲も決して厭わないからだ。だからこそこの男はトレーゼの望んだ通りに管理局の“ある施設”に関する情報を全て持ってきてくれたのだ。全く以て単純、しかしそれ故にやはり使い易い駒だった。

 「報酬はもう前払いしてもらってあっから良いぜ。あぁそうだ! お前さんに一個だけ聞いておきたいことがあるんだ」

 「?」

 「こんな情報を個人で仕入れるなんざ、お前さん何考えてやがんだ? 俺にはどうにもお前さんが単なる悪戯とかやるような奴には見えねぇ。むしろ、それよりもっとドでかいことを仕出かすような気がしてならねぇんだ」

 「…………」

 「何をするつもりなんだ?」

 「……姉の……」

 「へ?」

 「姉の遺したモノを……取り返しに、行くだけだ」

 それだけ言うとトレーゼは男の脇に置かれていた、まだ栓を開けていない酒瓶を引っ手繰ると洒落たコルクの栓をこじ開け――、

 「お……おいおい……」

 一気に胃袋へと流し込み始めた。男が止めようとしたのには理由がある、単純にこの酒の度が強いからだ。煙草を吸いながらこれを飲もうものならば火を吹けるとも言われている一品であり、少なくとも飲酒の初心者が興味本位で口にするモノではないことだけは確かだった。だが男が制止するのも聞かずに彼は一度も口を瓶から離す事無く飲み続けて、栓を開けてから30秒後には完全に飲みほして見せた。こころなしか、一度に大量のアルコールを摂取した所為で頬が赤く上気しているようにも見えた。

 「……協力に、感謝する」

 空になってしまった酒瓶を男の方へ返し、彼は席を立った。とてもあれだけの量のアルコールを摂取したとは到底思えないようなはっきりとした足取りで、呆然としたままの男を後に店外へと続くドアをくぐって外へと行ってしまった。

 何もかもが一瞬……息をつかせぬとはまさにこの事なのか、男はトレーゼが出て行った後もしばらくそのままフリーズしてしまっていた。










 午前9時00分、時空管理局地上本部内のとある一室の手前にて――。



 「…………」「…………」「…………」

 「…………そんな重い沈黙を保ちながら僕を見るな」

 心底勘弁してくれと言いたげな感じで力無く言葉を捻り出しているのは、何を隠そう、管理局でも一二を争う超多忙局員のクロノ・ハラオウンその人だった。イメージカラーの黒を基調とした制服を完璧に着こなすその姿は氷の彫像のように周囲を律するオーラを放っていた。……放ってはいたのだが……。

 「ねぇクロノ君、私……何の説明も聞いて無いんだけどな?」

 「せやなぁ。あ! でもフェイトちゃんだけは知ってたみたいやけどな~?」

 「義兄さん……何でもっと早くから言っておいてくれなかったの!?」

 彼の目の前に居るのは三人の女性陣――八神はやてを筆頭しにして、高町なのは、フェイト・T・ハラオウンと言った、管理局の戦術の切り札が勢揃いしていた。三人とはかれこれ十年以上の付き合いだが、かつてこれ程までに冷やかな視線を真正面からぶつけられたことがあっただろうか? いや、無い。と言うのも、こうなるのには歴とした正当な理由があるのでして……

 「とにかくや……本当にこのドア一枚隔てた向こう側に“あいつ”がおるんやな?」

 「あぁ、間違い無い。正真正銘本物が居るはずだ」

 「ちなみに、私達を連れて来た理由は?」

 「奴に限っては可能性は限り無く低いだろうが、万が一と言うことも有り得る。言うなれば保険だな」

 半ば苦々しい口調で話しながらクロノは問題のドアを眺めた。一見して何の変哲も無いただのドア。もちろん、ドアに異常がある訳ではない、問題なのはその向こう側の部屋に居るモノが問題なのだ。

 「居るんだよね……? この部屋に」

 「せやな。四月バカには早過ぎるから、本当におるっちゅうことや」

 「…………ジェイル・スカリエッティ」

 そう、つい一時間前にヴァイスの操縦するヘリで極秘護送されて来たはずの天才科学者スカリエッティ……その彼がたった今この部屋に入れられたと言う、本来なら一般局員には風の噂ですら耳に入らないような報告がなのはとはやてに届いて来たのはほんの十分前の出来事だった。フェイトは執務官として、はやてはこの件の正当な被害者として、なのははもし彼が何か余計な事をしないようにとの抑止力としてここへ連れて来られたと言う訳だ。

 そして現在、クロノ含む四人はこうして部屋の前までやって来た。あとはこの薄いドアを開ければ、そこにはかつて敵対関係にあった狂気の科学者の姿があるはずだ。

 「……よし、開けるぞ」

 先陣を切ってクロノが一歩前へ進み出る。ゆっくりと自動ドアのタッチパネルに指先が伸ばされ、永遠にも感じられた空白の後――、

 ドアが開く。

 そこにはやはりあの天才科学者が偉そうに踏ん反り返っているはずで……



 ――――ッ♪ ――――ッ♪



 プシュー。

 そこに広がっていた光景を見た瞬間、クロノは間髪入れずにドアを閉めた。開けてから閉めるまでおよそ二秒弱。だがその間に中の様相は後ろで控えていた三人にもちゃんと見えていたようで、全員が呆然とした表情で突っ立っているだけだった。

 「…………クロノ君、何で閉めるん?」

 「いや、流石にあれは予想外だった。と言うか予想しろと言うほうが無理な話だ」

 「…………もう一回開けるね」

 一応断りを入れた後に今度はなのはがドアを開け――、



 ――――――――ッ!!!



 プシュー。

 また閉めた。

 「……………………」

 「どうだった、なのは?」

 「……居た」

 「居たって誰が? スカリエッティ?」

 「うんうん。革張りのソファの上に居た」

 「で? どんなんだった?」

 「えーっとね――」

 『人の部屋の前で井戸端会議とは些か失礼じゃないのかね、君達』

 「っ!!!」

 インターホンのスピーカーを通じて聞こえて来た粘着質の声に四人は柄にも無く身を竦めて驚きを禁じ得なかった。恐る恐るインターホンの液晶画面を見てみると、そこにはニヒルな笑み浮かべながらこちらに向かって手を振っている……

 『はろ~』

 間違い無い、スカリエッティだ。出来る事ならこのまま何も見なかったことにしてさっさと立ち去りたいとさえ思ったが、こうしてここまで来てしまった以上はもうどうすることも出来ない。素直に諦めるが吉と言うものだ。

 『そんな所で突っ立ってないで早く入り給え。客人を外で待たせる程に私は常識知らずじゃないよ』

 「……では、失礼する」

 三度目の何とやら、意を決したクロノがドアを開けて中へと押し入った。この場は勢いで押し切るのが良いと判断しての行動だったのか、それともただ単に諦めの感情が勝っての行動だったのか、後日になってもクロノがこの事について語ることはなかった。

 「失礼しま――すっ!!?」

 先頭のクロノに引き続いて入室したはやては、自分の目の前に広がっている光景に目を引ん剥いた。眼前の光景に釘付けになると同時に、彼女は背後の親友二人も自分と同じようなリアクションを取っているであろうことを余裕で予測出来た。だって……ねぇ……? いくらなんでもこれは……

 「やぁやぁ! これはこれは高町教導官に八神二佐殿、久方振りだね。君達とはいつかこうして面と向かって話をしたいと常日頃から思っていたのだよ」

 やけに爽やかな笑みを浮かべて革張りのソファの上に座っているスカリエッティ。本来ならば来賓用のゲストルームであるこの部屋を最大限にまで活用して満喫中の彼は、机の上には最高級の酒が入ったボトルを置いて、獄中での窶れがまるで嘘のように活き活きとしていた。

 ただ問題なのは……

 「て言うか、何なんや! この大量のプラモデルはっ!!?」

 部屋に入って数歩と歩かないうちに彼女らの進入を拒んだのは、机の上を重点的に室内の床面積の殆どを占領していたプラモデルの山、山、山! 既に製作完了したプラモデルが小さなモノでは10センチ、大きなモノではその倍以上の大きさはある様々なサイズが所狭しと乱雑に陳列されており、スカリエッティの背後……正確には彼の座っているソファの丁度真後ろにはまだ手のつけていない箱が平積みされてあった。

 しかもここで注目すべきなのは――、

 「あれ……このプラモ……」

 なのはが足元から拾い上げたるはスカリエッティが製作した大量のプラモの一つだった。自分の手に握ったそれをマジマジと見つめた後、彼女が言ったのは……

 「これって地球のプラモだよね?」

 手に持った人型のロボットを模したそれをフェイトにも見えるように掲げてみせた。確かにそうだった。彼女らの記憶が正しければ、このプラモの元となった原作は地球……それも自分達が住んでいた日本で30年以上もの間国民的な人気を誇っているロボットアニメだったはずだ。なのは自身は特に興味があった訳ではなかったので余り詳しい内容は覚えてはいなかったが、代わりに父や兄などがテレビなどで見ていたのを知っていたのでそれなりに知識はあった。余談だが、彼女が拾い上げたのはそのアニメの原点となった最初のシリーズで主人公が乗っていた機体であり、作中では敵兵に『白い悪魔』などと主人公に似合わない仇名をもらっていたのを覚えている。彼女はこれを見る度に自分に通ずるモノを感じて仕方無かったのだが、まぁ気の所為だろう。

 問題は、どうしてそんなものがこんな次元世界の建築物の一室にあるのかと言うことだ。それもこんなに大量に。

 「いやぁ、ここへ来てすぐに地球の友人に『暇潰しの玩具を送ってくれないか?』と聞いたら、これとDVDと言うモノを大量に速達してくれたんだよ。私はアニメと言うジャンルの映像作品を初めて見たが、まさかこれほどまでにクオリティが高いとは正直予測していなかった。『戦争』と言うリアルな舞台で『二足歩行する機動兵器』と言う本来相反する二つの要素をここまで完全に融合させるとは! 確かこのアニメを放送していたのは……日本と言ったかな? 私も一度だけ行っておけば良かったよ」

 「あんたはどこにでも友人おるな。て言うか、地球にあんたのダチって……どんな人間なんや?」

 「極普通の人間さ。身長約80センチ前後の蛙と人間を足して二で割ったような緑色の小人だがね」

 「スカさん、それ人間と違う。ただのガ○プラ大好きな宇宙人や!」

 はやての小ネタが利いた突っ込みが容赦無く飛ぶが、肝心のスカリエッティは自分の背後から新たにプラモの箱を取って来るとそこからもはや何個目になるかさえも分からなくなってしまったプラモ製作に戻っていた。新しい玩具を得た子供の様とは良く言ったもので、周囲を置き去りにしてまで自分のことに没頭するその姿は本当に子供そのものだった。およそ3分置きにすぐ横の大画面テレビから『親父にも殴られたことないのに!』とか、『ここからいなくなれぇーっ!』とか、『パワーがダンチなのよねぇ!』とかの名言が飛び出して来る中で、アニメを見ながらプラモを高速で組み立てるのは明らかに持ち前の頭脳と手先の器用さの無駄遣いだった。

 「ところで、管理局の三強ともあろう方々がここまで足を運んだのだ。用件は何だね? 言っておくが、プラモ製作の手伝いなら間に合っているよ。この私の英知を以てすれば、説明書を読まずともパッケージ写真と部品を見るだけで完璧且つ迅速に完成させて見せようじゃないか!」

 「そんな事はどうだって良い。今日はずばり聞かなければならないことがあってこうしてやって来た」

 「ほう、聞こうじゃないか。まぁ立ち話もナンだし、座り給え」

 そう言ってスカリエッティは自分の向かい側のソファの上で見事なまでのジオラマを展開していたプラモ群をさっさと撤去させた。本人曰く、「またの機会にやれば良いさ」と軽い感じで言っていた。もっとも、ソファの上から除去したと言うだけで実際は机の上に移動させただけなのだが……。

 「単刀直入に聞こう。我々管理局が『“13番目”』と呼称する戦闘機人、『No.13 トレーゼ』の事についてだ」

 「これはこれは……。質問に一切の無駄が無くてよろしい事だ」

 「答えろ。彼は一体何者なんだ?」

 「即ち、この私、ジェイル・スカリエッティの最高傑作。それ以上でもそれ以下でもない」

 余りに極端すぎるその回答にクロノは頭を抱えた。一応予測は出来てはいたがここまで予測通りだと本当に対応に困ってしまうものだった。義兄のだらしない姿に何を思ったのか、今度は変わってフェイトが身を乗り出して質問する番だった。

 「では質問を変えます。貴方は彼をどんな目的、どんなコンセプト、どんな経緯を経て生み出したのですか?」

 「話せば長くなることながら……」

 「そこを短く」

 「かくかくしかじか」

 「余計に分からんわ。真面目にやらんと次元断層にブチ込むぞ、ワレ!」

 「やれやれ、レディとは言えちょっとした冗談も通じぬようではいかんなぁ。もう少し心を広く持ち給えよ。仕方が無い、私もいい加減素直に応じるべきか」

 スカリエッティは一旦プラモ工作の手を休めると、改めて眼前の四人を睥睨した。足を組み、肘をついて頬杖にすると彼はさっきまではどこにも無かったはずの狂気の色でその眼を染め上げた。

 「全ての始まりはそう、20年以上も昔に遡る」










 同時刻、クラナガンのとある商店街にて――。



 「お買い上げ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」

 青果専門店の自動ドアを開けて出て来たのは白雪の服に身を包んだ紫苑の髪の少年――トレーゼだった。右手に下げたビニール袋には先程店内で購入してきた林檎が全部で十個入っていた。一応食用だ、ただし自分が食べる為ではない。これは全部、今から行く場所で寝ているであろう少女に与えるモノだった。『貢物』と言った方がしっくりくるだろう……結論から言うと彼女は食い物で釣った方が効率が良いと言うことに至ったからだ。

 「……………………」

 ここは既に中心街、少し遠くを見れば医療センターの建物も見えている。早朝からの訪問と言うのは何かと相手方にとっては急な来訪となるやも知れないが、あちらの都合など知ったことではないし、彼女の性格を鑑みればそんな些細な事を気にしないことなど目に見えていた。幸いにも彼女が居る座標には他のナンバーズは居ないようだった。ついさっきまではノーヴェの波長が感知出来ていたが、今は病室を離れて移動している。恐らくはナカジマ家の面子と見舞いに来ていたのだろう、ついでにさっきまで感じれていた別の波長はゼロ・ファースト――ギンガ・ナカジマのものだろうが、それも今はスバルの居る病室から距離を置いていた。昨日の戦闘で負傷した傷をあそこで癒すつもりらしいが、トレーゼとしてはあれだけのダメージを与えたにも関わらずに存命していたと言う事実に若干の驚愕を覚えた。やはり修得したての魔法では大したダメージを喰らわせるのは難しかったか。

 「…………だが、これでファーストが、前線に出る可能性は、皆無となった。しばらく、邪魔は入らない、だろう」

 道行く人々の間をすり抜けるように移動しながら彼は誰にも聞こえないような声で呟いた。そうだ、計画進行に当たって彼の障害と成り得る存在はその殆どが排除出来たことになるのだ。今頃管理局ではスカリエッティの周辺を固めようと躍起になっているはずだ。そうすることでこちらのスカリエッティ奪還を未然に阻止しようと言う魂胆なのだろう。間違ってはいない、実際どのような経緯を辿ったのだとしても自分が最終的に主を取り戻そうとしていることに変わりは無く、どの道管理局と真正面から衝突するのは目に見えている事実なのだ。

 だが彼らは何も分かってはいないのだ。彼らがスカリエッティの周辺を固めている間、こちらはこちらでずっと成すべき事を進めているのだと言うことを。主立った障害が盤面から姿を消した今、まさにこの期間が絶好の好機、水面下の脅威を彼らが知らない今がチャンスなのだ。あちらはまんまとこっちの策に嵌ったと言うことだ。

 「……?」

 青果店を出てどれ程の距離を歩いたか、ふと彼の視線の先に留まるモノがあった。この朝の中心街を河川の水流のように移動する人々の群の中に彼はあるものを見つけたのだ。それは自分と同じようにして人間達の間を縫って進んで来ており、真っ直ぐにこちらへと向かって来ているではないか。

 「……まさか」

 半ば有り得ないとは思いつつもトレーゼは右手の袋を脇に抱えて曲がり角へと身を潜めた。周囲の人間の視線を少しだけ集めてしまったが、ここは一旦身を隠すのが先決だと判断しての行動だったので仕方が無い。壁に背中をぴったりと密着させて息を潜ませ、反対側から接近してくるそいつが立ち去るのを静かに待った。

 そして、袖口から哨戒用インゼクトを放ち、自分の視神経をリンクさせることで『第三の眼球』として機能させる。それを通じて彼が道路の先に見たモノとは――、





 「……久し振りの外だが、堪能している暇は無さそうだ」

 背後から見た“彼女”はおよそ10代前半の少女であり、身長に似合わない灰色のコートを着込んで冬の街中では良く見掛ける格好をしていた。身長も同年代のそれと比較しても相当低く、大衆に紛れて見えなくなっても不思議ではなかった。

 そんな彼女がどうやって目立つと言うのか? 理由は二つある……一つは髪、老人特有の艶の無い白髪とは違う滑らかな銀の長髪を風になびかせているその姿は明らかに見てくださいと言わんばかりのモノだった。もう一つは右目、世間一般の女性はまず付けていないはずの黒く簡素な眼帯が右の眼球を完全に覆ってしまっていて、見ていてとても痛々しいことこの上なかった。

 これらの要因が彼女――チンク・ナカジマが周囲から視線を向けられている主な理由だった。もちろん、見世物のようにマジマジと見られている訳ではないので何も問題は無いのだが……。私服の上に着込んでいる灰色の防御外套のポケットから小型の通信機を取り出すと電波周波数を合わせて目的の人物へと繋げた。

 「カイン殿か。こちらチンク、たった今担当のC地区の哨戒及び情報収集を終えたところだが、何も問題は無い。だが、情報の方も何も得られなかった。どの情報屋を当たっても知らぬ存ぜぬの一点張りだった」

 彼女が報告を入れているのは上司であり自分の姉の夫となる予定の男だ。彼女とカインを含む陸士部隊総勢十数名が密かに街の哨戒に繰り出してから既に30分が経過、チンクに割り当てられた区画はこれで終了した。つい昨夜に長い謹慎処分を終えてナカジマ家に帰宅した彼女はそのまま久し振りに再会した妹達と殆ど会話することもなく任につき、こうして陸士部隊との共同作戦で行動していた。

 「敵方は相当のやり手のようだ、油断してかからない方が無難だな。…………ん? ……確かに、その“13番目”とやらは私にとって……いや、私達ナンバーズにとっては兄や弟なのだろう。私は奴の事は何も知らない。存在すら誰からも聞かされてはいなかった、ウーノもトーレも、ドクターですらその口からその個体についての情報はただの一度だって話してくれたことは無かった。正直……兄と言う実感そのものが全く湧いて来ないのだ」

 チンクは何気なく空を見上げた。雲一つ無い晴天には小鳥が数羽飛び交っていて、街には人々の笑顔と賑やかな喧騒……何もかもが自分が謹慎される前と同じ光景であった。

 「きっと私は残酷なのだろうな、例え兄弟であろうとも職務に則って対処しようとしている自分が居る……全く以て不思議なものだ、本当なら三年前に私達姉妹と一緒に共闘していたかも知れないのに」

 そう言って自嘲的な笑みを浮かべるチンク。だがしかし――、

 「だが安心してくれ。造られたとは言え私とて人の子だ。自分の妹達に危害を加えた存在を見過すつもりなど毛頭無い、私は全力で奴を捉えるのみだ。例えそれが兄弟であろうともだ」

 決意を露わにし、チンクは通信機を切って再び歩を進め始めた。遠近感が掴めないはずの視界でもふらつくことなく歩き続けるその姿は、小さいながらも強し意思が宿っていることが窺えた。

 だが――、

 「!?」

 何を感じ取ったのか、彼女は急に背後に目をやった。何も無い、たださっきと変わらない人々の流れがあるだけだった。いつもと全然変わることの無い、そんな光景……。

 「……視線を感じた気がしたが……気のせいか」

 やれやれ、長らく謹慎中だった所為で気が鋭敏化し過ぎているのだろう、帰ったら何もせずにそのまま眠ろう。そう考えながらチンクはもう一度歩き始めた。

 自分のすぐ頭上を小さな羽虫が飛んでいたことに最後まで気付かないまま……。





 「………………まずいな」

 ずっと曲がり角の影でチンクを監視していたトレーゼの口からそんな言葉が漏れ出た。彼に人並みの反応をするだけの感情があったのなら、今頃盛大に頭を抱え込んでいるはずだっただろう。

 何故ここにチンクが居るのだ!?

 恐らくは釈放されたのだろう。

 誰に? 自分の目立てが正しければ奴が留置所から出てくるのは随分先になる予定だったはずだ。

 決まっている。恐らくは局内でもかなりの権力を持つ者の差し金だろう。差し詰めクロノ・ハラオウンと言ったところか。

 だが、間違えてはならない。ここでもっとも驚愕の真実とは、チンクが釈放されたと言うことではない! 彼女が留置所から解放された……それ即ち、一緒に謹慎処分を受けていたはずの八神はやても釈放されている可能性が非常に高いと言うことだ。彼の計画の障害と成り得るモノは二つあった。まずは機動六課の元FW連中……類稀なるセンスと才能、そして環境に恵まれて訓練を施された奴らの能力値は特筆に値すると同時に脅威でもあった。計画の進行にはあの四人がどうしても邪魔であり、警戒群の中では常にマークしていた。そしてもう一つは同じく機動六課の元隊長の三名……高町なのは、フェイト・T・ハラオウン、八神はやて……通称『管理局の三強』と呼ばれる三人の魔導師達の存在だった。近年では若くして打ち立てた数々の功績からか、戦術と戦略の“切り札(ジョーカー)”とまで絶対の賞賛を浴びつつある、まさに時空管理局最大のエースと言っても過言ではないはずだ。

 だが更にここで間違ってはならない部分があることを初見の者は決して気付かない。彼にとって最も警戒すべきなのは、大空のエースオブエース高町なのはでもなければ、増してや雷光の武装執務官フェイト・T・ハラオウンでもなかった。

 恐らく彼の最大の障害と成り得る存在……それは八神はやてである。何故彼女なのかと疑問に思う方も居るかも知れない。確かに彼女は高町なのは程に戦闘において万能ではないし、総合的な頭脳面でもフェイトには見劣りするのは事実だろう。しかし、彼女の真価とは戦闘力でもなければ頭脳でもない、同年代の他の誰にも見ることの出来ない独自の発想と、それを即時実行に移せるだけの目を見張る行動力と統率力……これを脅威と言わずして何と言おう。犯罪者上がりの人間に対して風当たりが強かった局内で機動六課を設立出来たのは、確かに彼女の周辺のコネと言うのもあったのかも知れなかったが、それ以上に彼女のその発想と行動力から去来するカリスマ性に魅せられたからと言うのが大きいはずだ。

 そんな一般の凡夫には眩いばかりの魅力に満ち溢れた彼女のことだ……釈放され、事件のことを知ればどうする? 真っ先に捜査の第一線に加わって犯人の検挙に打って出るはずだ。あの女が動けば管理局と言う名の大山が文字通り揺れ動くと言っても何ら差し支えはないだろう、あの女が事を仕出かせば全ての戦況がひっくり返る……盤面が崩壊するのだ!

 「……急いては、事を仕損じる…………だが、もうこれ以上は、遅れを取れない」

 物陰から出て来たトレーゼは往来の左右を確認する。チンクの姿はもう無い、恐らくは帰還したのだろう。彼女が八神はやての命令で行動しているとなれば自分の顔を知っている可能性が非常に高い……早い段階で始末しておくに越したことはなさそうだ。

 ふと、さっきまでここを歩いていた銀髪の『妹』の姿を思い浮かべる。あの眼帯は今は亡き騎士ゼストの一撃によって負わされた傷だと言うことは知っていたが、あの傷を未だに放置していることが彼には理解出来なかった。ドクターでなくても、このミッドの先進した医療技術に掛かれば視力は戻らずとも傷痕は跡形も無く消せるはずだった。なのにそれをしない……全く以て理解不能だった。

 「……No.5『チンク』……お前は俺を知らない、か。俺は、お前を知っているのにな……製造年月日から、遺伝子提供者まで……全て」

 知らなくて当然だろう、自分がドクターのラボで生活していた時はまだ彼女はシリンダーの中……自分の顔を知っているはずもない。

 「……いずれ、相見えるか……その時には、完全に処分する」










 午前9時5分、地上本部ゲストルームにて――。



 「さて、まずは君達にナンバーズが如何様なモノなのかについて復習を兼ねて語るとしようか」

 上座のソファに乗り換えたスカリエッティは芝居掛った口調で手前の下座に座るクロノ達四人に向き直った。未だに机や床には大なり小なりの地球産プラモデルが立ち並んでおり、スカリエッティの作業速度の速さを充分に物語っていた。

 「まず……そうだな、君達は『戦闘機人』と言うモノについてどれ程の知識があるかな?」

 「人間の肉体と精密機械の、生物学的及び機械工学的に完全なる融合によって生み出された量産型人間兵器です」

 スカリエッティの質問にフェイトが間髪入れずに答えて見せた。

 「うむ、要領を得ていてよろしい。今から語る戦闘機人についての話題には倫理観念からの意見などは一切挟まない方向で進めることにしたい。その方が話の進みが早いからな」

 「御託は良いから続けてくれ」

 「せっかちだな。先程フェイト嬢の回答したように、広義において戦闘機人とは、魔法世界において主戦力である魔導師に取って代わる量産型の兵器としての側面を特化させた人造人間の事を指し示した。長い訓練と経験を積まなければ一流の戦士になれない魔導師や騎士とは違い、彼ら機人は生物的発生の時点で細胞や遺伝子に手を加えることにより、誕生と共に内蔵フレームに対応した上に頑強且つ安定した性能を持たせる事が可能な、まさに理想の兵器だ。訓練などしなくとも本番の実戦を重ねるだけで強くなっていくし、定期的なメンテナンスを行うだけで常に最高のコンディションを維持してくれるのだからな」

 「時間を掛けずに強化される、か」

 「ここまでは既存の戦闘機人の常識概念だ。通常の戦闘機人と、私の生み出した『ナンバーズ』がどう違うのか、君達は御存知かな?」

 「違いだと? ……先天固有技能のISを持っていることか?」

 「それもあるが、少し違うかな。彼女らナンバーズと既存の戦闘機人の最たる相違点……それは、通常の機人が大量生産を目的とした安物であるのに対し、ナンバーズは各々の特性を活かすことを目的とした『一芸特化型』だと言うことなのだよ」

 ここまで話し終えた彼は「分かり易く説明するとだね……」と言いながら、四人の手前の机の上に少しだけスペースを作り、そこに自分の製作したプラモを幾つか置き並べていった。

 「つまりだ、普通の戦闘機人はあくまで低コストと言うことだけが利点の、使い古しの利くポンコツと言うことさ」

 彼が机に並べたのは、マシンガンを構えたピンク色のモノアイが特徴的な濃い緑色のロボットだった。原作のアニメを見た事があるなのはの記憶が正しければ、これは確か敵軍が使用していた量産型のロボットだったはずだ。主人公の駆る機体に無残にも敗れ去っていくシーンは今でも覚えている。

 「随分な物言いだな」

 「当然だ、私は自分の生み出したモノに絶対の自信を持っているからな。それでだ、通常の機人がどんなモノか理解出来たところで次はいよいよ本題だが……私の生み出した12人のナンバーズが一芸特化型だと言うのは今さっき話したが、それぞれがどのような性能に特化しているか考えたことはあるかね?」

 「どのようなって……戦闘タイプと非戦闘タイプですか?」

 「その回答、間違ってはいないが40点と言ったところだな。確かに高町教導官の言うように、彼女らは製造目的や用途に応じて戦闘型と非戦闘型に分類されているのは事実だ。私の助手のウーノがその最たるものだろう、彼女は開発計画の初期段階から私の補佐を目的として製造されていた為に純粋な非戦闘型の形式を取っている。他の11人と比較すれば彼女個人の戦闘力は皆無に等しいことが分かるはずだ。逆に戦闘型の頂点に立っているのは実戦リーダーのトーレだろう。純粋な腕力から、防御力、機動力、戦術立案に至るまでの戦闘に関する全てにおいてトップクラスを誇っているからな。彼女に真っ向から楯突ける存在と言えば同じ戦闘型のセッテぐらいなものだろう。…………まぁ、こんな風に口だけだと理解し難いだろうから……」

 彼は再び机に手を伸ばすと、先程並べたモノアイのプラモを退かすと別の4体のプラモを置いた。青、緑、橙、白……体型はそれぞれバラついてはいるが、地球出身のなのはの記憶だと、さっきの量産ロボとは違ってこっちの方の原作アニメはつい最近のものだったはずだ。詳細なストーリーや人物構成などについての記憶は曖昧だが、近未来の世界で起こる戦争を武力で鎮圧する若きテロリスト達の物語で、このプラモはそのアニメに出てくる主役パイロットが乗りこなしている機体を玩具化したものだった……はずだ。

 「私の生み出したナンバーズの中ではウーノ、ドゥーエ、クアットロ、セインの四名を除けば、後は全員が生粋の戦闘型に分類される。だが同じ戦闘型として大別されたとしても、その戦術や攻撃方法などによってそのコンセプトは違ってくる。例えばそうだな……接近戦をメインとして戦うチンク、ノーヴェ、ディードはこれだな」

 スカリエッティの指が青い機体を摘み上げてチラつかせる。右腕の大きなブレードが特徴の機体であり、一目でそれが格闘機だと言うことが分かった。ここでまたなのはの記憶を辿れば、この機体は確かアニメで主人公が乗っていた機体のプラモのはずだった。隣ではやてが密かに「せっちゃんの機体やな」と言っていたような気がしたが、あえて何も聞こえなかったことにしておいた。世の中には何かと面倒なルールがあるのだ。

 「次に後方支援を行うオットーとディエチは……この二つだな」

 次に彼が両手で摘まんだのは、狙撃銃を構えた緑のロボットと、現代日本人男性が見たら哀愁を感じてしまいそうな全体的に豊満な白のロボット……。なるほど、ぱっと見ただけでも圧倒的火力での遠距離ゴリ押しのタイプだと言うことが分かる。もっとも、遠距離砲撃担当のディエチはそうとしても、あの一見男子と見違えるオットーがこの白のデブなロボに例えられていると言うのも可愛そうな話だ。

 「そして……高機動を活かした一撃離脱の戦法を得意としているトーレ、セッテ、ウェンディはこれだ」

 最後に取り上げたるはオレンジ色のロボット。摘まみ上げてしばらくガチャガチャと何やら忙しくパーツを弄った後、彼の手にはさっきの人型とは似ても似つかない飛行機のようなモノが出来あがっていた。なるほど、確かに機動性をイメージさせるには最適だが……何故だろう、これを見た瞬間に目頭が熱くなって来た。隣ではやてが「電池……不憫な子」と言う呟きが聞こえた時には意味も分からないのに涙腺が崩壊しかけてしまった。

 「あぁ、ちなみに解説しておくとだな、私のナンバーズ製造理論の原点となっているナカジマ姉妹……あれは言うなれば『試作機』だ。全てのナンバーズの雛形となったプロトタイプが彼女らなのだよ」

 と、ここで並んでいた4体とは別にもう一つ、床から拾い上げたそれを列に加えた。このプラモは海鳴出身組は三人とも充分知っていた、このプラモの原作アニメの一番最初のシリーズで主人公が乗っていた機体だ。そう言えば、このアニメシリーズも30周年だったか、今度実家に帰った時に改めて観賞してみよう、もちろんヴィヴィオやユーノと一緒にだ。もっとも、ユーノはともかく十代前半女子の愛娘にあの作品が理解出来るかどうかは分からなかったが……。

 「以上で何となくでも理解出来ただろう。要するに、一見して全てのナンバーズが同じように見えても、少し考えて見ればこのように千差万別……これが低コスト量産型である通常の戦闘機人と、私が生み出した一芸特化型機人『ナンバーズ』の大きな違いだ。その平々凡々な脳髄で以てして御理解頂けたかな、諸君?」

 人を完全に小バカにしたような笑みを浮かべながら自分の側頭部をその白い指先でコツコツ叩いて見せた。そして、自分の話はもう終わったのだと言わんばかりに再びプラモ製作に取り掛かり始めた。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 貴方の話の流れに呑まれて忘れていたが、まだ全然肝心なことが聞けていない!」

 クロノの大声に、その隣の三人は思わず飛び上がりそうになった。そう言えばそうだ、目の前のマッドサイエンティストは始めの質問に対しての回答を行っていない。

 「トレーゼがどのような目的で製造されたかについて……だったな? そうだな、何と言ったら良いものか…………」

 ここまで来て初めて、スカリエティは少し考え込むような反応を示した。いつものように勿体ぶっている訳ではなさそうであり、しばらく顎を擦りながら長考することとなった。何をそんなに悩む必要があるのか四人には分からなかった。だがそれでも彼にとっては感慨深い何かがあるのか、彼はそのまま三分以上黙秘を決め込み続ける羽目になってしまった。

 やがて話すべき言葉を選び終わったのか、彼はふと、自分の足元から一個のプラモを拾って来た。それを何も語らずに四人の手前に置く。何の変哲も無い只のプラモだ、塗装すらしていない真っ白な状態……なのではなく、実はこの真っ白な状態で既に完成しているモノなのだ。それを置いて一拍し、彼は言葉を紡ぎ出した。

 「さっき言った題材……通常の戦闘機人とナンバーズの相違についてだが、実は違いはもう一点だけあったのだよ。通常の機人は大量生産を利につけた『道具』として生産されるのに対し、私のナンバーズは計画遂行の為の人手……即ち『人員』として生み出したと言う点だ。本来、あくまで人造物である機人には感情などは無い。そんなモノは誕生の時点でその分野を司る脳細胞を局所的に破壊することで完全に抹消されるものだ。だが私はそうしなかった、私は彼女らをあくまで意思を持った一個人として生を与えたのだ」

 「道具しての利便性よりも、人間としての柔軟性を重視したと言うことか?」

 「そうだ。それらを前提として話をするが、彼――トレーゼはそう…………今私が作っているこのプラモで例えるならば、ワンオフ機だな」

 「……僕は地球出身じゃないから、分かるように言ってくれないか」

 「製造に掛かるコストから製造プロセス上での危険性に至るまでの全てを一斉に度外視……且つ、本来全ての存在に対して有るはずの短所を圧倒的な長所で補いつつ、全体の性能を極限値までに上昇させる。もちろん、被験体である生命素体に掛かる重圧的負担なども完全に無視する」

 「それって……!」

 「そう、彼の何を極限にまで高めたのか……。それは『全て』だ、他の12人のナンバーズの特性全てを彼一人の肉体に閉じ込めた。生命に掛かる負担もリスクも全部無視してな」

 「…………」

 「そして……さっきはナンバーズを『道具』ではなく『人員』として生み出したと言ったな? 彼の場合は違うのだ、彼は私の英知と技術の粋を決して造った最高のナンバーズ……“ナンバーズを超越したナンバーズ”なのだ。故に、私は13人の中で唯一彼だけを――



 トレーゼを『道具』でも『人員』でもなく……『兵器』として製造したのだ」



 そう語る彼は指先で自分の作った純白のプラモを摘まみ上げ、やがてしばらく弄っていたそれを机の上に静かに置いた。額の部分に一角獣のような一本角を生やしたそのプラモは何も語る事無く、ただ前だけを物言わずに見据えているだけだった。










 午前9時14分、医療センターのとある病室にて――。



 「~♪」

 結論から言うとスバル・ナカジマは上機嫌だった。汚れ一つ無いベッドの上で上体を起こし、彼女は唯一健在な左手に綺麗に六等分された林檎を持って、それを夢中になって食べていた。ここだけ見れば単に食事にありつけて機嫌が良いのかとも思えるだろうが実は違う。彼女のベッドのすぐ隣のパイプ椅子に腰掛けて林檎を切っている人物……スバルの上機嫌な視線はさっきから彼の方に向けられていたのだ。

 「ん……」

 「ありがと♪」

 スバルが手持ちの林檎を食べ終えると隣で次の林檎を切っていたトレーゼが間髪入れずに代わりを手渡す。スバルの胃袋は無尽蔵だ、こうしている内に既に半分は体内に収められていた。もっともその内の二個分はトレーゼが食したのだが。

 「…………」

 丸く赤い瑞々しい林檎をヘタから下に掛けて一直線に切り、それを三回やると赤い果実は綺麗に六等分、ぎっしり実の詰まった半月形のそれから皮を剥き切る。それらの一連の動作を一寸の狂いも無く淡々と続けて行く……トレーゼの視線は完全に手元の林檎だけを見据えていた。だがしかし、その意識や注意は全て目の前の少女にのみ向けられていたのだ。

 「局の仕事は休みなの?」

 「今日は、非番だ。一応……暇」

 「そうなんだ。そう言えば、昨日は何にも言わないで帰っちゃったけど、何か用事でもあったの?」

 「あぁ、急用でな……。明日も、外せない用が、ある」

 実際嘘を言っている訳ではないので心は痛まない。もっとも、彼自身に心などと言うモノが存在しているのかとうかについては不明だが。

 「ふ~ん、そうなんだ。また暇な日で良いから顔覗かせてね。もうちょっと早く来てたらノーヴェも居たのに……」

 心底残念そうな表情をしながらも、手に持った林檎をシャリシャリと音を立てながら食す動きは止まらない。もうここまで来ると全ての本能が食事にのみ優先しているのではないかとも思えて仕方が無くなって来る。やはり試作機だからカロリー消費が自分達よりも多いのか……?

 だが一応その他の感覚機能は自分と比べても遜色ないのも事実だった。ここの病室に入ってすぐに言われた彼女の第一声が――、



 『お酒臭い……』



 だったからだ。ドアを開けて、ここに足を踏み入れた瞬間に言われたのだ……ベッドからドアまでは少なからず距離があり、その先から漂うアルコール臭を一瞬で感知したともなれば常人離れしているとしか言いようが無いだろう。確かに自分はかなり度数の高い蒸留酒を一気飲みしたが、それは一時間も前の話だ。とっくに口内のアルコール臭は消えていてもおかしくはないはずにも関わらず彼女が言い当てた所を見ると、やはり性能自体は高いようだ。むしろそうでなくては困る、最終形として造られた自分とは違って試作機とは言え、せめて必要最低限の性能は自分と同じでなければ到底話にならない。道具と言えどもタダで自分の手元には置かない……使えない、もしくは用済みと判断すれば即刻処分するつもりだ。練り歯磨きのチューブと同じである。

 「私はお酒飲んだこと無いから分かんないけど、あれって美味しいの?」

 「別に……。ただの、気休めだ、あんなもの」

 ちなみに言っておくと、ミッドの成人年齢は地球の日本と比べて若干早く、時代や地域によっては十代前半で成人を迎えると言った所も多々あり、もちろん飲酒も法的に認められているので何も問題は無い。もっとも、飲酒運転が禁止されているのだけは同じだが。

 こうしている内に、早いもので最後の林檎に手を伸ばしていた。これをカットすれば彼女の食事もこれで終わる……そうなれば彼女の注意はこちらにむけられるはずだ。

 この数日間で一つだけ分かった事柄がある。それは……『女とは心身共に脆弱な生き物』であることだ。筋力や骨格の耐久力はもちろんのこと、その精神力も雄性体と比較しても絶句する程に弱い。本当に同じ生物を素体としているのかとさえ思えてくる。

 何が友人だ。こちらが甘い言葉を掛けただけであの赤髪の少女は簡単に気を許した。

 何が自分に稽古をつけてくれだ。強さを求める事と進化へと向かうことは違うと言うことが何故分からない。

 何が優しい良い人だ。他人をそう言って思いこむ輩は自分の精神の弱さを他人で補おうとしているだけだ。

 「……………………」

 嗚呼、何故こうも失望させられることばかりなのだろうか。せめてドクターが雌性体などにしなければこのような脆弱なモノにはならなかっただろう。その点、自分の姉達は違っていた。彼女らは『個』である前に『隷』であった、創造主であるスカリエッティに対して全身全霊の敬意を表して全力を注いでいたのはあの三人だけだった。

 「……………………」

 嗚呼、ドゥーエが生きていたならば、彼女はどうしたのだろうか。この堕落した自分の妹達を見ても彼女は絶望しなかっただろうか? 自分の意思を貫き通して更正施設に入らず、そのまま獄中で過ごすことを選択しただろうか? 何はともあれ、死んでしまったものはどうしようもない……彼女が死ぬ間際、一体何を想って没したのかさえ不明だ。

 「…………死んだ者は……何を遺すのか」

 そんな言葉がトレーゼの口から出て来たのは単なる偶然だったのか、彼自身にも分からなかった。ただ何の考えも無く文字通り不意に口を突いて出て来ただけだったのかも知れなかった。何の意味も無い、ただただ意識せずに出て来た……本当にそれだけの他愛も無い妄言。



 そのはずだった。



 「トレーゼ……誰か死んだの?」

 「?」

 一瞬、スバルが突然何を言い出したのか分からなかった。だが良く良く事態を把握してみると、どうやらさっき自分が口走ったことについて聞いているらしい。さて、何と返答したら良いモノか……。

 「……………………」

 彼の選んだ選択肢は『無言』だった。何も言わずに押し黙ることでこの場をやり過ごそうとしたのだ。相手は自然と聞き間違いか独り言だと思い込み、そのまま終わって行く。それで良い、何もこのようなモノに語って聞かせる必要など――、

 「ねぇ、答えてよ」

 「……」

 と、トレーゼの林檎を切る手が止まる。ずっと下を向いていた視線がここでようやく上げられ、ベッドの上の少女へと注がれた。手に持っていた林檎は既に無く、彼女も視線も同じように自分に向けられていた。初めに見た時と同じ翠の目……だが、その目に宿った感情は初めに見た時とは全く違うモノだった。

 これは何だ? 哀れみ? 同情? いや違う、これは……一体何だ、自分の知らない目の色。何故だろう、不思議な感覚だ。

 「……………………」

 「…………死んだ人ってね、帰って来ないんだよね」

 押し黙りを続けているとスバルの方からそう言って来た。何を驚いたと言えば、彼女の口からいきなりそんな哲学的な言葉が出て来たことが何よりも驚いた。

 「私もね……お母さん亡くしたから少しは分かるけど、それって凄く悲しいよね。私もギン姉もそれから一ヶ月は泣いてたもん。泣いて泣いて、また泣いて……それから泣くのに疲れてきて……それで泣くのが嫌になって、やっとやめたの」

 「……何が言いたい?」

 「トレーゼにとって、その人ってどんな人だったの?」

 「…………姉……だな。歳の離れた」

 「どんなお姉さんだった? 綺麗な人? 優しい人? 立派な人?」

 「あれは、そのような、人間的な概念に、当て嵌まる者ではなかった。強いて言うなれば、自らに、課せられた意味を、真に理解して、いたと言うことは、言える」

 「じゃあ、良い人だったんだね」

 スバルは満面の笑みを浮かべてトレーゼの手から林檎を捥ぎ取りながら言った。対するトレーゼはただ呆然としているだけだった。紆余曲折と言う言葉があるが、彼女の言動はどこをどうすればそうなるのか全くの意味不明、まさに突拍子も無いとはこのことだった。

 「……何故、そうなる?」

 「だって、トレーゼがお姉さんの話してる時、何も嫌な事があったとかなんて言わなかったもん」

 「……………………」

 再び手元の林檎に視線を戻したスバルはまたそれを口に入れる。完全に話の流れに置き去りにされたトレーゼは自分の分も切ることすら忘れ、ただ椅子に座っていることしか出来なかった。

 確かに、故ドゥーエに関する僅かながらの記憶の中には、俗に言う『トラウマ』とか『黒歴史』と言う風に形容される内容のモノは皆無だ。とは言え、17年も昔の話である上に、ずっと培養槽の中で生命活動を続けていた所為で記憶を司る部分の脳細胞が少し多く死滅してしまっている為、それほど良く覚えている訳ではないが。

 「母を亡くしたと、言ったな?」

 彼女らナカジマ姉妹の母と言えば、言わずと知れたクイント・ナカジマのことだ。10年近く昔に自分の創造主であるスカリエッティを検挙しようとして逆に殺害され、その死体に残存したDNAはISを発言させ易くする為の因子として全てのナンバーズに組み込まれたと資料には記してあった。当然、自分の遺伝子にも入っている。死後もドクターの役に立ってくれるとは、ただの人間にしては出来過ぎたモノだと思ってはいたが、まさかこうしてその『娘』と対面するだろうとは思っていなかった。

 だから彼は、口では彼女の母を悼むような口振りでも、その心中では別のことを考えていた。

 (感謝する、クイント・ナカジマ……お前のみならず、お前の娘は、今こうして、俺の道具になろうと、している)

 人がこれを見れば冷酷と言うだろう。その通りだ、彼は非情且つ冷酷……目的の為ならば手段は決して選ばない。肉食性の虫が獲物を食する時はその事しか考えないのと同じように、彼は今やるべき最優先事項である事柄をただ実直に行うだけだった。

 「……その母は、お前に、何を遺して逝った?」

 「う~ん……友情、努力、勝利?」

 「真面目な回答か、それは?」

 「ううん、本当はね……『人を助ける事の大切さ』を教えてくれたんだと思う」

 なるほど、三文芝居の台詞だな。トレーゼは脳内で密かにそう呟いた。

 「小さかった時は知らなかったけど、私とギン姉って元々はお母さんの子供じゃなかったんだって。お母さんが任務先で保護して、そのまま養子縁組に持ち込んで私達はナカジマ家の子供になったんだけど、普通自分の子供じゃないのにまともに育てないと思うでしょ?」

 「そう言うのは、良く分からない」

 「うん。でも、これだけは言える、お母さんは私達二人をとっても愛してくれてた。死んじゃった後だって、私とギン姉に自分が使ってたデバイスを遺していってくれたもん。あの人があの両腕で助けてくれたから、今の自分が居る……そう考えてるの」

 「…………そう言うモノ、か」

 実際良く分からない。人間は所詮利害でのみ動く生き物のはずだ、なのに何故クイントはこのような自分の遺伝子を受け継いでいると言うだけで保護したのか。何の得も無い……全く理解し難い。ドゥーエはもちろんのこと、自分の原点となったあの三人は違っていた。あの三人が自分に対して教養を施していたのも、来るべき事態に備えてのモノであり、自分だってその事は理解していた。それは完璧な利害関係の上でのみ成り立っていた関係……それで当然なのだ、そうでない方がおかしい。利害無きモノなど存在しないのだ……。

 「トレーゼのお姉さんは何を遺して逝ったの?」

 「…………遺産……だな」

 「遺産? お金……じゃないよね?」

 「自身の全てを、そこに注ぎ込んだはずの、遺産……第二の自分、とも言えるモノを、彼女は遺した、はずだ」

 そう言いながら窓の外へと目をやるトレーゼ。風が流れている……窓ガラスを開けなくても分かる、木々から離れた枯葉は冬の木枯しに吹かれて何処へと消えていくのが見えるからだ。嗚呼、こんなことをこいつに話して何になると言うのだろうか。彼は今更ながらにそう考えずにはいられなかった。恐らく、自分はこれからも目の前の少女とは反りが合わないだろう……ここまで一緒の空間に身を置いているだけで調子を狂わされるとは考えてなかった。彼に人並みの感情が備わっていたなら、きっとこう思っただろう……

 不愉快だ、と。

 「……………………ぅん」

 と、ここで彼の体に異変が起きた。瞼が重い……これは眠気だ。何故突然眠くなるのだ? 既に副交感神経に切り替わりつつある脳を全開にして理由を探る。必要最低限の睡眠は取っていたし、起床する時間もレム睡眠時に覚醒するように時間調整だってしていた。なのに眠い、それは何故か?

 「どしたの、トレーゼ? 目が半開きになってるけど……」

 ふと、ここで閃いた。何故急に眠くなるのか? 簡単なことだ、ここへ来る前に吸収した大量のアルコール分……あれがたった今、全身に回ったのだ。アルコールは一度に大量摂取すると急な眠気や吐き気に見舞われると聞いたが、どうやら自分は前者だったようだ。

 意識が遠退く……四肢の自由すら利かなくなってきた……視界が完全に暗闇へと落ち込んで行くのが分かる。どうしようもない、人間をベースとしている以上は生理現象には決して逆らえないのだから。

 「トレーゼ……って、ちょ、ちょっと!?」

 この日、彼が学習したのは、自分の体内の脱水素酵素が少ないと言うことだった。

 自分の体が何か柔らかいモノに沈む感覚を覚えながら、彼の意識は完全に途絶した。握っていたナイフも下に落とし、彼はスバルのベッドに倒れ込むようにして眠るのだった。

 「…………ま、いっか」

 他人が見たらいらぬ勘違いを起こしそうな場面ではあるが、結局これからトレーゼが自然と起きるまでの間、誰もここに来なかったことをここに明記しておく。










 午前9時30分、地上本部ゲストルームにて――。



 「そう言えば、私の条件はきっちり呑んでもらえたはずなのだがな」

 地球の友人から送られて来たと言うプラモの山がとうとう三分の一となったところで、突然スカリエッティの鋭い視線がクロノに突き刺さった。明らかに余計な言葉を許さない気迫が込められており、直接向けられた訳ではないはずのフェイト達までもが震え上がった程だった。

 「クロノ君、条件って何のこと?」

 「……ここへ彼を連行するのはタダでは出来なかったと言うことだ」

 「裏取引!?」

 「おやおや、そんな三下がやるようなモノじゃないさ。私が提示した条件は何の損得も無かったはずだよ?」

 「じゃあ……一体どんな条件だったんですか?」

 「本来ならばその質問には答えなくてもいいはずなんだがねぇ。なにせ、私がここへ来る頃には、その約束は果たされていてもおかしくはないのだから」

 「こちらだって忙しいんだ。そちらの方ばかりを優先しているだけの余裕はない」

 クロノは溜息混じりにそう言って返した。フェイトを除くあとの二名はまるで状況が読めていないらしく、互いに顔を見合せながら首を傾げているだけしか出来なかった。そんな現状にとうとう痺れを切らしたのか、はやてがクロノに詰め寄って聞いて来た。

 「なぁ、クロノ君……条件って――」



 Pi―♪



 と、ここで入室を求めるインターホンが鳴った。クロノが席を立ち、真っ先にドアの方へと向かう。すぐには開けない、まずは外と中を繋ぐ唯一の窓口である液晶画面のスイッチを点けて誰が来たのかを確認してからだ。

 「…………」

 だが彼は外の人間を確認しても何のリアクションも示さなかった。終始無言で画面越しの来訪者を見つめていた彼は、不意に背後に居るスカリエッティに向き直るとこう言った。

 「たった今……貴方の提示した条件の一つが果たされました」

 彼の言葉にスカリエッティはプラモ製作の手を止め、ソファから立ち上がった。まっすぐとドアを見つめる視線は期待に満ち溢れたモノであり、普段は決して見る事の無い溌剌とした表情をしていた。相手が相手なだけに余計に新鮮なモノに見えて仕方がない。

 「うむ……提督殿、済まないがそこを退いてくれないか。なに、心配しなくても良いさ、脱走など企てんよ。ただな……」

 足元に散らばるプラモの山を器用に掻い潜りクロノに代わってドアの前に立つ。

 「久し振りの再会だから水入らずにして欲しいのだよ」

 ドアを開ける――。廊下を流れていた風が少し吹き込み、スカリエッティの男性にしては長めの髪を小さく揺らした。そこに立っていた人物を確認した時、彼の顔に初めて笑顔が宿る。

 「うむ、久し振りだな。――――ウーノ」



 「お久し振りです、ドクター」



 白い薄汚れた囚人服にウェーブの掛った薄紫の長髪、確かにそこに存在しながらもひっそりとしたその佇まいはどことなく神秘的であり、慈母の如き輝きを内包しているようにも見えた。

 ナンバーズ最古参――、

 No.1『ウーノ』が三年振りに獄中から自由になった瞬間だった。










 夢を見る……いつか見たことのある、昔の記憶の再現を脳裏に描きながら。

 頭を撫でられている。誰が撫でているのかは分からない、ぼやけていて全くその者の顔が見えない。記憶が曖昧なのかも知れなかった。

 『ねぇ、トレーゼ、知ってる? 私って顔がないのよ』

 何をおかしな事を言っているのだろう? 顔ならあるじゃないか、そのキャラメル色の髪に隠れた笑顔は何だと言うのだ?

 『そうじゃないって。私の能力は姿を変えるでしょ? あれよ、あれ』

 あぁ、そう言えばそうだった。彼女の特性はそうだった……姿を偽り、相手を欺き、貶める為の能力だ。だがそれとこれがどう関係しているのだろうか?

 『私ね……写真を見ただけでもその人に変われるの。

 髪の長い人、短い人。

 皺が多い人、少ない人。

 太っている人、痩せている人。

 背の大きい人、小さい人。

 …………能力訓練の時には30人ぐらいに変身することもあるんだから』

 それは知らなかった。いや、彼女が訓練をしていると言うのは知ってはいたが、そこまで密度の高いモノだとは聞いてなかった。

 『でもね、その所為なのか知らないけど、時々私って自分の顔がどんなのだったか忘れる時があるのよね』

 …………顔を忘れる? そんなことがあるのか?

 『嘘だと思うでしょ? でもね、一週間振りに培養槽とかから出ると、本当に思うのよ。自分の顔ってこんなのだったかしら……本当はもっと違う格好だったんじゃなかったかしらってね』

 自分には理解出来ないことだ。いくら変身を重ねたのだとしても記憶に影響があるとは思えないからだ。実際自分も数回は能力を行使したことがあったが、とてもそんな感触を覚えたことは一度も無かった。

 『良いのよ、分からなくて。ううん、分かっちゃダメなのよ、あなたは分からなくて良いの……』

 ふと、頭を撫でる手が離れ、突然抱きしめられた。女性特有の甘い体臭が鼻腔をくすぐるが、今はそんなことよりも、いきなり抱きしめられたことに驚きを感じていた。

 『あなたは私の苦しみを分からなくて良い。一生分かってくれなくたって良い……あなたは私の苦しみや辛さとは無縁の存在だもの、知らないまま生きて知らないまま死んでいく……うん、それで良いの』

 抱きしめる圧力が上がったような気がした。

 『でも……一つだけ約束して?』

 と、自分の小さな体を絡め取っていた腕が離れた。こちらの身長に合わせて彼女が腰を屈めて視線を合わせる……。

 『今のこれが私の本当の顔。これが“私”……この顔を絶対に忘れないでね。もし私が“私”の顔を忘れてもこれで大丈夫! あなたが……あなた達が覚えていてくれていれば私は“私”でいられるから』

 何をバカな、絶対に忘れるものか。安心して欲しい……例え貴方の知る誰もが貴方の存在を忘れてしまっても、自分は絶対に貴方を忘れない。ずっとこの脳に留めて覚えておく。

 あぁそうだ、思い出した……。彼女は――貴方は、もう……

 『あなたはもうすぐここから居なくなる……。だけど、このことは私の妹達にも教えておくわ。私の可愛いあなたと妹達に……』

 えぇ、是非。貴方のその言葉、それが貴方の遺したモノだと言うならば。










 午前11時23分、医療センターの一室にて――。



 「……………………」

 トレーゼはつい数分前に覚醒していた。だがまだ完全に肉体から眠気が抜け切っていないのですぐには起きれない。まだしばらくは布団に突っ伏したまま過ごさなければならないようだった。

 ふと、自分の頭に何やら重い感触があるのに気付いた。妙に温かい……これは人の手だ、誰かが自分の頭に手を乗せている。誰かなど考える必要も無い、ここには自分とこいつしか居ないのだから。

 首だけを回転させてその人物を見やる。蒼い髪のその少女は器用に上体を起こしたままで自分と同じように眠っていた。だらしなく口を半開きにしたまま無防備に……。このまま文字通り寝首を掻けるのではないかとさえ思えた。

 「ぅん…………んんっ……!」

 自分が動いたことで意識が揺り起こされたのか、スバルは目覚めの欠伸を伴って翠の双眸を開いた。微妙に口元から涎がはみ出ているのがまた何ともだらしがない。

 「んぁ、起きたんだ。いきなり寝るからびっくりしたよ~」

 にへら~、と笑顔までもがとにかくだらしない。ベッドの上にも関わらず微妙に背伸びして肩の骨を鳴らす。だがどう言う訳か頭に置いている手だけは離さないのだ。しかも何故かゆっくりと擦り続けているのも分かる。

 「……何故、頭を撫でている?」

 「ん~? 何となくかな。触り心地が良いし」

 質問に答えながらもまだ撫で続けている。以前どこかで、頭を撫でるのは一種の愛情表現だと言うのを聞いたことがあったが、どうにもそう言ったモノは分からない。もしそうだとしても、彼女がこちらに対してそのようなモノを感じる道理が無い。本当なら止めさせることも出来たのだろうが、別に不快でも何でもなかったので好きにさせておくことにした。

 「~♪ あ! そう言えば、トレーゼに言わなきゃいけないことがあったんだ!」

 「……何だ?」

 どうせまたくだらない事なのだろうと思いつつ、トレーゼは大人しく耳を傾けることにした。

 「あのね! あのねっ! 私の手足を治す事が出来る人がいるんだって!」

 「ほぅ……」

 正直驚いた。戦闘機人の四肢を修復できるだけの技量を持った者がまさかこのミッドに居るとは思いもしなかった。そんな芸当が可能なのは創造主であるドクターだけだと思っていたからだ。まぁ何にせよ、仮初であれ四肢が治ると言うのならそれに越した事は無い。こちらで修理するのも面倒だと思っていたのだし、丁度良い、誰かは知らないが精々頑張ってもらおうではないか。

 「…………それは、良かったな」

 「えへへ~♪ ありがと!」

 笑顔で心底嬉しそうに答えるスバル。……そろそろ頭を撫でるのを止めて欲しかった。










 時を遡って午前9時40分、ゲストルームにて――。



 「…………で、結局貴方は何の為にウーノを呼び寄せたんだ?」

 「愚問だな、私の助手をさせる為に決まっているだろう」

 相も変わらずにプラモ作りに精を出しているスカリエッティに対し、こめかみに青筋を立てたクロノが問い正すが、当の本人は涼しい顔でそれを受け流す。それにとうとう堪忍袋の何とやら……クロノは憤然と立ち上がって言った。

 「プラモ製作の助手かっ!!?」

 彼が怒鳴るのも無理は無い、本来ならばそれなりにややこしい手続きを幾つか踏んで初めて連行出来るところを、ウーノの場合は急遽連行しなければならなかった為に全ての手続きを後回しにしてまで連れて来たと言うのに……

 「ドクター、22番の塗装を完了しました」

 「御苦労ウーノ、次はこっちを頼むよ」

 「かしこまりました」

 彼女はいつ購入してきたのか、大量の専用塗料を駆使しながらプラモ作りに貢献しているのだった。なんでも、ここへ来る前に売店に立ち寄って購入したらしい。いつそんな暇があったのかは知らないが……。

 「そう言えば提督殿、ここへ来る直前にある男性に会ったのだが……んー、何と言ったかな?」

 「どんな人間だ? ここの局員だろう?」

 「あぁ、白髪頭の男性でね、急にこちらにやって来たかと思ったら、『うちの娘を助けてくれ!』って土下座されてね。面喰ったよ」

 「白髪……娘…………ひょっとして、ナカジマ三佐のことやないか?」

 勘の良いはやてがすぐにその人物を導き出す。なるほど、あの娘想いのゲンヤなら頭の一つや二つは下げるだろう。ちなみに、なのはとフェイトはどうしているのかと言うと、何故かウーノと一緒にプラモの塗装作業に勤しんでいた。特にフェイトは彼女に「事務仕事のコツ」とか、「上手な睡眠と食事の摂り方」などについて熱心に聞き込んでいた。同じ事務作業を担当する者として通ずるモノがあったらしい。

 「そうかそうか、彼がナカジマ三佐か。どこかで見た様な顔だと思っていたよ、ハハハ」

 景気良く笑ったスカリエッティはふとクロノ達に向き直ると、まるでちょっとそこの売店に言って来るとでも言うような口調でこう言った。



 「と言うことでスバル嬢の修理をすることになったので、よろしく」



[17818] Ⅶ+Ⅸ=Conflict
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/08 23:54
 11月15日午前11時30分、クラナガン医療センターにて――。



 「外せない用事って言ったけど、どこに仕事に行くの?」

 「第6無人世界『ゲルダ』」

 居眠りした時の服の皺を伸ばしながらトレーゼが素気なく答える。既にここから立ち去る準備を整えていることはスバルにも分かっていた。

 「無人世界? 何かあるの?」

 「何も……。山と、森と、湖しか無い」

 「うぇ~! そんなとこに何しに行くの? 一応仕事……だよね?」

 「あぁ、仕事だ。とは言っても、それ程、時間は掛からない」

 別に嘘は言っていない。あんな不毛な大地で長時間過ごす気などさらさら無いし、自分の作戦が何の滞り無く進行すれば数時間であそこから出れるはずだ。それに、自分はあそこの土地に用があるのではなく、あの土地にあるモノに用があるのだ。

 「お土産期待してるから!」

 「……………………」

 ドアを潜ろうとした自分にスバルが笑顔でそう言って来た。無人世界に行くと言ったのに土産を期待されるとは……ちゃんと人の話を聞いていたのか疑問に思う。

 「……………………あぁ」

 仕方が無い、適当に現地で採取した食べれそうなモノをくれてやるか。

 トレーゼの予備知識には、どんな食物も『焼けば食える』と言う概念があった。










 所変わって本部のゲストルームにて――。



 「……終わった、やっと終わった……」

 豪華な革張りのソファの上でクロノが衰弱したようにのびていた。あの氷の提督とまで呼ばれた彼がここまで脱力した様子を見せたのは何年振りだろうか……。だが彼の周りを良く見てみれば、だらしなくのびているのは彼だけではないことが分かる。隣では同じようにしてはやてがソファに体を沈めており、少し距離を置いた地べたではウーノ、なのは、フェイトの三人が並んで壁にもたれかかっていた。ちなみに、何故こうなったのかと言うと……。

 「御苦労だった、私のプラモ工作に付き合ってくれて。本当に感謝しているよ」

 上座に座るスカリエッティから正直有り難くも何とも無い労いの言葉が掛けられる。そう、地球の友人から送られて来たと言う大量のプラモデルをついさっきまで共に作らされていたのだ。何故一緒に作る羽目になったのか?

 「すみません、私の我儘に付き合ってくださって……」

 「いえいえ、気にしないでください。今日は殆ど教導官の仕事もありませんでしたし……」

 「やれやれ……ウーノは心配性だな。私の手に掛かれば誰の助けも無しにノルマを完遂出来ることぐらい知っているだろうに」

 始めは自分とスカリエッティだけで工作に励んでいたのだが、やがて現状を芳しく思わなかったウーノが頼み込んでこの場の全員に助力を要請したと言う訳だ。妻子持ちなので別に邪な目で見た訳ではないのだが、女性の頼みを無下に出来る性格をしていないクロノはそれに付き合うことにしたのだった。後に彼が語るには、「あれは書類仕事よりも疲れた」とのこと。もっとも、1000体を越える大小のプラモデルが空間を埋め尽くしていると言うのは壮観と取るべきなのか、背筋が凍ると取るのかは不明だが。

 「僕は……まだ書類の整理が残っているから……そろそろ上がらせてもらうよ」

 このメンバーの中で最も多忙であるクロノがかなり不安な足取りで出口へと向かった。ソファからドアまでの数十センチまでの間で足元のプラモを一個も踏み潰すことなく歩けたのが奇跡なぐらいな千鳥足だったにも関わらず、彼はドアに辿り着くと、「後は頼んだ……」と力無くはやてに言うとそのまま去って行った。叩き上げの中間管理職と違って提督職は激務なのだ。そして、その激務が彼を待っている……。

 「私はここで寝かせてもらうとするよ。実は昨日から熟睡してないからね……」

 そう言って数秒後、スカリエッティはソファの上で爆睡モードに突入した。どこまでも自由奔放な人だ……向かい側に座っていたはやてはそう思わずにはいられなかった。

 「ドクター、そんな所で眠られては風邪を引いてしまいます」

 主が眠りこけたのを見てすかさずウーノが立ち上がっては毛布をその上に掛ける。本当に良く出来た助手である。

 「…………あの、ウーノさん……」

 「何でしょうか、高町教導官?」

 隣で一緒に壁際にもたれ掛かっていたなのはから声を掛けられてウーノは微笑を浮かべながらそれに応える。その表情は、かつて彼女が犯罪行為の片棒を担いでいたとはとても想像できない穏やかなモノだった。その表情に緊張していた心が解れたのか、自然となのはの方も笑顔になる。

 「なのはで良いです。……あの、ウーノさんは今回の件のことを……?」

 「はい、事前に提督殿から聞かされております。襲撃事件から、廃棄都市区画での一件……ナカジマ三佐の御子女についても把握しております」

 「それでその……貴方がたにとって彼――“13番目”って、一体どんな存在なんですか?」

 もう少し遠回しに聞いた方が良かったのかも……。そんなことを考えながらもなのはは結局の所率直に聞くことにした。こう言うのは無駄無く聞き込んだ方が良いのだと判断したからだ。

 「……そうですね……あの子は、私達の“兄”であり、“弟”でもあります」

 「? それってどう言う意味ですか?」

 「いずれドクターが御話しになられることですから、私からは何も言いません。ただ……あの子は良い子でした」

 「良い子? 人の手足を切り落とす『良い子』ってのは想像つかんけどなぁ」

 「はやて……!」

 辛辣な言葉を投げ掛けたはやてをフェイトが諌めようとする。だがソファから半身を乗り出した彼女の言葉の槍は留まることを知らなかった。

 「ええから言わせて。私やかて人の子や……自分の部下や後輩があんだけ蔑ろにされて黙っておれる程大人な性格してへん。あんたらの言い分や釈明のしようによっては、私は全力で“13番目”を潰す! 何の遠慮も配慮も無しに……法的にも、物理的にも……あんたらの言う『最高傑作』を――」

 「違います! あの子を……あの子のことを物のように言わないでください!」

 「何が違うんや! さっきもスカリエッティが言うてたやんか、兵器として造ったって! あんたにとっては何なんや、何やって言うんや!!」

 後にも先にも、なのはとフェイトは自分の親友がここまで激怒しているのを見た事が無かった。身を乗り出していただけだったのが今ではその両足で憤然と立ち上がり、阿修羅の如き怒気を含んだ目でウーノを見降ろしていた。彼女がウーノに掴み掛からなかったのは、若くして上に昇りつめたその忍耐力のお陰だったのかも知れなかった。これで血の気が多かったらとっくに刃傷沙汰になっていてもおかしくはなかった。だがそれでもウーノは顔を伏せてただ黙っていることしか出来なかった。肩を震わせて今にも泣き出しそうな表情をしている。

 やがて彼女は何か言いたそうに口を微かに動かしているだけだったが、それがちゃんとした言葉となって出てくるのに時間は掛からなかった。

 「あの子は……あの子は、そうなるべきじゃなかった……ただそれだけなんです」

 「どうなるべきやったって言うんや?」

 「どうにもならなくて良かったんです。あの子は……ただそのままで……私達にとっての“希望”だったんです」










 午後12時50分、海沿いのとある街にて――。



 「ほほぅ、ここの鳥に好かれるとは珍しいね、お兄さん」

 この土地に昔から住んでいるのであろう老人が、自分のすぐ頭上を飛ぶカモメ達を見ながらそう感想を述べた。カモメ達の円らな視線の先には一人の男性が立っており、皆一様に彼の手にあるスティック型の携帯食料をねだっている様子だった。

 「ここはカモメに悪戯する連中が多いからな……あんたのようにカモメの方から寄って来てくれる者は少なくなってしもうたよ」

 老人の前に佇んでいる男性の肩や腕には一気に二、三羽のカモメが止まっていた。男性が呆然としている内に次々とスティックをついばんで行ってしまうが、当の本人は全く気にした様子も無かった。老人が見ている間にスティックは食べ尽くされてしまい、てっきり食べる物が無くなって去って行くだろうと思っていたのにカモメ達はまだ彼の周囲から離れようとしなかった。それどころか、まだ食べる物は無いだろうかと白い服の端々を突く始末だった。

 「……………………」

 「ハハハ、食い物を皆取られてしもうたか。今度からは気を付けなすってなぁ」

 老人は笑いながら去って行く。男性は呆然としたまま立ちつくすだけ……。

 「…………」

 ふと、男性が口走った――。

 「…………カモメは、食えるのか?」

 空腹と言う成す術ない現象に対してトレーゼが漏らした一言だった。










 「それでワタシの食事を食べているのですね」

 「そうだ。悪いな」

 目の前の長身の少女――セッテからパンを譲ってもらいながらトレーゼは感謝の言葉を述べた。芝生の上で互いにパンを貪る二人……。ちなみに、前回と違って今回トレーゼは正面玄関から来訪している。もっとも、管理局員だと偽って入って来ているのだけは変わらないが。

 「…………前回の、戦闘訓練で、分かったことが、ある」

 パンを完食してからトレーゼが話す言葉にセッテは微かに首を傾げた。

 「分かったこと?」

 「あぁ、お前は、俺より、弱い」

 「それはもう前回で骨身に染みて理解しています。今更挑発めいた言動を取るのは止めてください」

 「なら言おう……。お前は、接近戦重視の、戦闘に向いている」

 それまでずっと立ったままだったトレーゼが芝生の上に腰を落ち着けた。セッテもそれにつられて座り込むが、彼の言葉の真意を把握出来ていないような表情をしていた。

 「どう言うことですか? ワタシは持ち前の高機動性を活かした一撃離脱戦法を目的として開発されました。今更戦闘スタイルを変えるなどと……」

 「まぁ、聞け。以前に話したが、お前は、その大柄な体躯に、見合わない機動性を、持っている。だが、一度距離を離されると、完全に追尾出来るまでに、予想以上のタイムラグが、ある事に気付かなかったか?」

 「それは……」

 言われて見れば確かにそうだったのかも知れなかった。同じ相手を追い駆けるのでも、自分から攻撃意思を持って追うのと、一旦こちらのリーチから離れてしまった敵を追うのでは微妙にだが時間に差が出てしまうのだ。反応速度の差と言うのもあるのかも知れなかったが、それを加味したとしてもあれは流石に遅いのではないかと薄々自覚してはいた。はっきり言ってしまえば、これは戦闘機人としては致命傷に他ならない。

 「本来の、規定値に満たない性能は、確かに致命傷だ。お前の、一撃離脱型戦法は、誰かの猿真似だな?」

 「……ワタシに戦闘に関する全てを教授してくれた個体が、その戦法を最も得意としていました」

 「なるほど、門前の小僧……とか言うモノ、か。では聞くが……お前が、最も誤差を、少なく出来る、追尾射程は、どれだけだ?」

 「10から15。それ以上だとどうしてもコンマ単位で誤差が出てしまいます」

 「良し、ならば今日は、その訓練だ」

 トレーゼが立ち上がったのを見てセッテも同時に立つ。あまりに間を置かずに立ったその姿は、まるで二人が鏡映しみたいにも思える程だった。

 「この手を、握れ」

 向かい合う形となったトレーゼからいきなり差し出された左手を凝視するセッテ。別に男性に対して嫌悪感を抱いているとかではないのだが、いきなり手を出されたことの真意を理解出来なかった。何か罠か何かでもあるのではないかと思えて仕方が無くなって来る。

 「心配いらない。罠など無い……」

 信用に値するかどうかは別として、彼がわざわざ姑息な罠を掛けてくるような人物ではないことだけは確かだった。自分よりも弱い相手にその様な姑息な手段を今更使って来ると言うのも考え難かった。

 「…………」

 10秒だけ考えた後、結局彼女は自分の左手を差し出し、両者は丁度握手する形となった。トレーゼの手を掴んで真っ先に彼女が思ったのは、「冷たい」だった。冬とは言え彼の手の温度はまるで無く、氷のバケツに腕を丸ごと突っ込んでいるような感触が彼女の神経を伝導していた。血行が悪いのかとも考えたその時――、



 「離すなよ?」



 「へ――?」

 ここから先、彼女は一瞬言葉を失った。

 五指が内側へと捻じ曲げられる……! これは圧力、それも半端ない力だ。皮膚は引き伸ばされ、筋肉は外部からの物理的圧搾力を悲鳴を上げた。

 「な、何を……っ!?」

 予期せぬ痛覚に悶えながらもなんとか体勢を保ち、セッテが眼前で平然と立ったままのトレーゼに問い詰めた。既に手の感覚が痛覚に支配されてしまい、握り返すことすら出来ない状態だったが、如何せんその手は目の前の彼に万力のように締められているので離そうにも離せない。

 「これで、俺はお前を、お前は俺を、絶対に離せなくなった」

 「何故、このような……」

 「互いを、互いのリーチに、捉え続ける為だ。今から行う訓練……それは、敵との、相対距離を、一定に保ち続ける、モノだ」

 「――ッ!!」

 一瞬の出来事だった……鼻先数ミリで停止したトレーゼの拳を凝視しながら彼女は固唾を呑んだ。殺気を感じたのはほんの刹那だった。その瞬きさえも許容されない世界に、今自分が立たされていることを彼女はたった今自覚したのだ。

 「相手を、自分の圏内にて、捉え続け、且つ、逃がさない……それが、身に着くまで、続行する」

 「…………ルールの有無は?」

 「左手が使用不可、及び、左腕への攻撃も不可。それ以外は、無いモノと、思って構わない」

 「そうですか……」

 セッテが構える。全身に殺気を纏って相手を威嚇しつつ、その視線はずっと腰と両足を見つめ続ける。そうすることで常に相手の動作を予測しようとしているのだ。もっとも、セッテ自身彼を相手にそれが通用するかどうかさえ不明だったが。

 「……来い」

 「参ります」

 互いの鍛え抜かれた鋼の足が芝生を陥没させんと踏み締める。左手以外の全身の全てを臨戦体勢へと突入させ、互いを牽制し合うがそれも長くはもたないと言うことなど直感で分かっていた。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……はぁっ!!」

 「……ッ!!」

 セッテの掛け声がゴングとなり、両者の鉄拳が今、互いの顔面へと放たれた。










 「クロノから事前報告は聞いてはいたけど……」

 限られた空き時間を利用してゲストルームに顔を出したユーノはその光景に唖然とした。無理も無いだろう、目の前の空間を大小様々なプラモに占領されていたなら誰だって似たようなリアクションを取るだろう。おまけに自分の友人達がその部屋の隅っこで脱力し切っている姿を見たら自然と、「何があったんだ?」と思わざるを得ない。

 「これは予想以上に凄いね。ここを整理することを思えば、無限書庫の資料捜索の方が幾分マシに思えてくる……よっと!」

 足元のプラモ群を飛び越えてソファに華麗に着地し、隣で何か不機嫌な表情を浮かべていたはやてへと声を掛ける。

 「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」

 「んー、別に。そこで睡眠こいとるアホらしい科学者の趣味に付き合って疲れただけや」

 彼女の指差す方向にある上座のソファでは、三年前までは敵同士だったマッドサイエンティストがいびきまでかきながら熟睡していた。色んな意味でシュールな光景だと改めて実感させられる。

 「そう言うユーノ君は何でここへ来たん? クロノ君に聞いて来たって言うてたけど……」

 「うん、実はこの前の騎士カリムの下した預言の解析についてなんだけどね、この件には博士にも是非協力して欲しいとのことでね」

 「預言解析? 内容はグリフィス君通して私も確認はしたけど、例年と比べて量が多いだけやったら解析班だけで何とか出来るやろ?」

 「あぁ……実はその……あんまり大きな声では言えないような事もあってね……」

 「?」

 珍しく歯切れの悪い幼馴染に、はやてのみならず他の二人も怪訝そうな表情を浮かべた。そして予感……ただでさえ心配性な彼がここまで言葉を濁すことなど、そうそう有り得ることではない。そして、それは同時に彼自身が恐ろしいことを予見していると言うことでもあった。更にここで運が悪いのは、彼の予測はほぼ間違いなく必中すると言うことだ。今まで良くも悪くも彼の予測が外れた事などただの一度だって無い。

 「ここには私達しかおらんから、言いたいことがあったらハッキリ言いや」

 「その前に、博士を起こして欲しいんだ。さっきも言ったけど、この件はこの人の協力無しには進められそうにないんだ」

 「承知しました、スクライア司書長」

 すぐさまウーノが立ち上がり、ソファの上で眠りこける主を起こすべく彼の肩にそっと手を触れた。その手つきはまるで居眠りしている学生を起こすような優しいものだったが、それでもスカリエッティを覚醒へと導くには充分だったようだ。

 「何だねウーノ、私はまだ寝足りないのだが…………おぉ、これはこれは」

 目元を骨が見える痩せた手で擦りながら、スカリエッティはいつの間にか席に加わったユーノを目に収めると興味を抱いたのか、彼に握手を求める手を差し出して来た。

 「お若い司書長殿、かねてよりお噂は耳にしているよ。いつか君とはこうして話をしてみたいと思っていた」

 「稀代の天才科学者にそう言われるとは光栄ですね」

 「それで……わざわざ私を起こしてまでしなければならない用件なのだろう? 実は私は前々から聖王教会の『預言』について興味があってね、こうしてそれの解析に携わらせてもらえるなんて楽しみだよ」

 子供が新しい玩具を与えられたかのような満面の笑みを浮かべてソファの上を飛び回るスカリエッティに苦笑しながらも、ユーノは自分が持って来ていたファイルから紙を取り出した。はやて達はこれが管理局内で事務的に扱われる正式な書類だと言うことを見抜いていた。ユーノはその紙面を確認しながら一言――、

 「まず、管理局預言解析班はこの度正式に今年度の預言解析から手を引くことが完全に決定されました」

 「はいっ!?」

 一瞬、この幼馴染は一体何を言い出すのだろうと、隣のはやて達は思わずには居られなかった。預言が解析されたと言う情報は担当執務官であるフェイトにはもちろん、その解析の進行情報すら聞き及んでいないはずだった。つまりは預言の完全解析は成されていないはずなのだ。にも関わらず、毎年のように解析作業に携わって来た彼の口から聞かされた事実は皆を一様に驚愕させた。

 ただ一人を除いては……。

 「ふ~む……司書長殿、一つお尋ねするが、その解析班のメンバーはどのような構成なのかな?」

 「管路局直轄の魔導師育成機関で古代ベルカ語を専攻していた人達を中心にして構成されています。中には僕の様な民間学者の方々も混じってはいますが」

 「くくく……なるほどな、そう言うことか。それは確かに解析計画を中止せざるを得ないな」

 「?? あのー、どう言う意味かさっぱり分からないんですけど……?」

 恐らくこの空間において最も知能指数が高いであろう二人だけで話が進んで行くのを見てなのはが質問をする。一瞬空気が凍りついた所為で、質問した本人ですら「私何か間違った事言ったかな?」と言う表情で固まっていた。

 「あぁー、そう言えばなのは達にはまだ事情説明してなかったっけ」

 「構わんさ、司書長殿がここまでヒントを出してくださっているのに閃かないのが悪いのだ」

 「教えてくださ~い、スカ博士!」

 「勝手に人の名前を略さないでくれたまえ。つまり要約するとだな、解析班の構成員は高学歴とは言え全員が一般局員……中には司書長殿のように民間からの協力者も多々居る。一方で『預言』は局内では指折りの重要機密だ、その情報が教会から管理局にもたらされた時点で管理局にとっては向こう数年分の命運が決定するのだから当然と言えば当然だろう」

 「つまり?」

 「つまりも何も、この二つの要点のギャップが招くモノは何だ? 『預言』と言うパンドラの箱には何が入っているかは開けるまで分からないが、危険なモノが混入されていることだけは確定的に明らかだ。だがおかしいかな、そんな危険且つ重要なモノを携わる者達は揃いも揃って口のガバガバな一般局員達に過ぎない。もし……もし仮にだ、誰かが暗号の塊である『預言』を解き明かす過程において、そこに含まれている情報が途轍もなく危険極まりないモノだと勘付いたなら、どう思う? 扱っているのは一般局員、だが出てくるのは重要機密……」

 「なるほど、そう言うことやったんか。それ程の重要機密が解析の過程で知られれば情報漏洩はもちろん、下手すりゃ局内に混乱を来たすってことか」

 「流石は若くして異例の出世を遂げた八神二佐、察しが良くて何よりだ。恐らくこの司書長殿は解析の過程にあたって誰よりも早く『預言』が内包する危険情報に気付いたのだろう。そして、自身の友人であるハラオウン提督殿に依頼してまで預言解析班を今年度の『預言』から撤退させた……そうだろう?」

 「その通りです博士」

 「でもでも! 危険性が云々って言うんだったら、それは今までだって同じことだったんじゃ……?」

 「だからこそ私なのだろう? 違うか?」

 ソファの上で踏ん反り返って、どこから取り出したのか分からないシガーチョコを口に咥える。スカリエッティのニヒルな笑みが張り着いた視線はまるでこちらの全てを見透かそうとしているようで気味が悪かったが、彼はそんな事お構い無しに話を続ける。

 「司書長殿が予見した危険性がこの私……もしくはこの私に関わる“何か”に対して深く関係していると言う事に他ならないと言うことさ。して、その案件は何なのかね? この私無くしては解決出来んのだろう?」

 「…………まずはこの資料を御覧ください」

 ユーノがファイルから取り出した一枚の紙を手に取り、それを凝視するスカリエッティ。二つの眼球が規則的に左右を往復し、紙面の内容を完全に確認するのに30秒と掛からなかった。

 「……これが今年度の『預言』と言う訳か。初めて目にするが、古代ベルカ人は詩人だなぁ、ただの暗号文ではなくこの様な品のある詩文形式でもって衆人に警告を促すとは……」

 「ご確認頂けましたか?」

 「あぁもちろんさ、この私の脳髄を以てすればこれ位の長さの文など暗記するなど容易いことだ。で、お若い司書長殿が危険性を嗅ぎ取った部分とは何処なのかね?」

 「『13番目の使徒』……そして、近い未来その存在に加担するであろうことが示唆されている『裏切りの使徒』……この二つについてです」










 結論から言うと彼女――セッテの旗色は最悪だった。片手を封じられたとは言えそれは相手も同じ条件下……身長の差はもちろんのこと、腕の長さから体重差も全てこちらが勝っていたはずだった。

 なのにこの有様……

 「遅い……」

 「ぐあっ!!」

 左顔面を殴打、腹部に強烈な膝蹴り、右脚部を足払い……こちらが優勢だろうが劣勢だろうが目の前の少年の猛攻は止まることをまるで知らなかった。胸元を掴めば地面に叩きつけ、長い桃色の髪を握れば振り回し、体勢を立て直そうとすれば容赦なく背中を踏みつけて追撃……まるでリンチ、前回ここを彼が訪れた時と何も変わらないただの一方的な虐げだった。

 だが、そんな彼女にも転機が訪れた。

 「――ッ!!」

 トレーゼが放った回し蹴りを寸前で回避した彼女はトレーゼに一瞬の隙が生じたのを見逃さなかった。左腕への攻撃は認められていないが、その左腕を利用してはいけないとは言われてはいない。体勢を立て直させる暇も与えずに彼女はトレーゼの左手を引き寄せた。そのまま右拳で彼の顔面を――、

 「詰めが甘い」

 「なっ!!?」

 片足と言う不安定なバランス状況を逆に利用したトレーゼは回し蹴りの時に発生した慣性のエネルギーを利用して左回転、当然その時の回転でセッテの左手も引き寄せられ、彼女の繰り出した右拳は完全にその軌道を逸らされてしまった。それだけではない、攻撃が外された事で体勢に難を来たした彼女はそのままトレーゼに右腕を掴まれ、見事に背負い投げ……偉大なる慣性の法則と重力によって叩きつけられてしまった。

 さてここで問題なのは、彼女が何に激突したかである……。普通常識で考えれば、背負い投げされた彼女は綺麗な放物線を描いて芝生の上に落ちたことになるのだろうが、今回は少しだけ違っていた。

 「……?」

 トレーゼは自分が掴んでいた左手が完全に脱力してしまっていることに気付いた。ついさっきまでは一応相手側も離すまいと握り返していたはずが、どう言う訳かだらしなく垂れ下がっているだけとなっていた。

 始めは気絶してしまっているのかとも考えたのだが、手の動きからして一応意識はあるようだった。何事かと思いつつ彼が背後のセッテに目をやると……

 「…………あ」

 自分でも間抜けな声を出してしまったものだと思わずにはいられなかった。それもそのはず、互いに片手を掴み合ったまま格闘訓練をしていた二人はいつの間にかレクリルームの端の方へと移動してしまっていたらしく、二人が今立っているのは壁際となっていた。つまり、トレーゼが背負い投げたセッテが激突したのは芝生の地面ではなく、脱獄防止用の耐衝撃防壁だったと言うことだ。

 「……………………」

 「……ぐ……うぅっ!」

 地面でうつ伏せになっているセッテには目もくれず、彼は白い防壁へと目をやった。赤いシミ……手に取ってみるとネバついており、独特な生臭さが鼻腔の嗅覚神経を刺激した。少なくとも、彼の知る限りではこんな液体は数える程しか無く、彼はまさかと思いつつも足元で苦痛に悶えるセッテを裏返した。

 「……………………」

 「あぁ……ぁ……」

 前回は手加減してのモノだったのですぐ治ったらしいのだが、はっきり言って今回は加減無しでやってしまった分面倒だった。顔面の下半分は鼻から流れ出た大量の血液で塗れており、重力に従って落下するそれらの所為で緑の芝生は一部赤く染まってしまっていた。失血で脱力した顔を見ると、心なしか涙目になっているようにも見える。

 「…………少し、待っていろ」

 「…………」

 足元で転がっている彼女の上体を無理に起こして顔を下に向けて応急処置を取った後、彼は一旦レクリルームを後にした。向かう場所はそう――、

 医務室である。










 「ではスクライア司書長殿、君が推測したこの文面に出てくる幾つかの単語についてご教授願おうか」

 「はい。まずはこの預言の冒頭にあります『法の塔は二度倒れる』ですが、この部分に関しては三年前に貴方達が引き起こしたJ・S事件の時に下された予言にも同じモノがあったことから、『法の塔=地上本部』と言う解釈で今回も通っています。それが二度倒れる……一回目に“倒れ”たのは三年前の地上本部襲撃事件ですから、今度また高確率でこの地上本部が狙われると言うことです」

 地上本部襲撃……耳から離れかけていたその単語に隣の海鳴三人娘が身を強張らせた。あの惨劇が再び繰り返されるとなれば、同じ管理局に身を置く者として緊張せざるを得ないだろう。

 「続いて、『統治者は彼の者を――』と言う節ですが、ここで言う統治者とは恐らく次元世界の統治者……即ち、時空管理局そのものだと思われます。その管理局が許さない……つまり局は彼に対して法で裁き、法を以てして排除しようとすることを暗示しています」

 「おぉ怖い怖い。権力者はやることが強引過ぎる。それで……始めに聞いた『使徒』の部分なのだが、君はある程度の仮説・推測は立っていると言うじゃないか。今の内に聞かせてもらえないだろうかな?」

 「……『13番目の使徒』……この単語は恐らく“13番目”そのものを指していると思われます」

 「状況的に考えてもそうだろうな。それで、ここで言う『使徒』とは何だね?」

 「『13番目の使徒=“13番目”』と言う方程式を前提で話をすれば、ここで語られる『使徒』に対する定義も自ずと見えてきます。彼は13番目のナンバーズ……と言う事は、『使徒=ナンバーズ』と言う風に定義すれば全ての説明がつきます」

 「なるほどな、ではここの『袂を分かった使徒』と言うのは地上に降りた更正組のナンバーズ達と言うことになるな。彼女達は悪く言ってしまえばナンバーズとしての自覚は無きに等しいからな。“ナンバーズではなくなったナンバーズ”と言う訳だ」

 「ちょっと待ってください! ではまさか……『裏切りの使徒』と言うのは……!?」

 ユーノの言わんとしている事を察したのか、それまで無言で成り行きを静観しているだけだったウーノが身を乗り出して来た。彼女が何を考えたのか一々聞かずとも周囲は分かっていた。何故なら、ユーノもなのは達もスカリエッティも全く同じ答えに辿り着いていたからだ。

 「も、もしユーノ君の言っていることが正しいなら……」

 「『裏切りの使徒』……つまりナンバーズ側から彼に加担する者が一人、居るはずなんだ」










 「これで、良し」

 「……ありがとうございます」

 芝生の上に座っているセッテの周りには鼻血を拭き取ったティッシュが大量に散乱しており、トレーゼはそれらの回収作業に当たっていた。セッテの顔面の丁度真ん中の鼻には止血とクッションを兼ねたガーゼが当てられており、顔を濡らしていた血液も残らずタオルで拭きとられていた。

 「痛みは?」

 「大丈夫です」

 「五分経ったら、ガーゼを交換する。それまでは、安静にしろ」

 「いえ、今すぐにでも訓練の再開を要求します。ワタシはまだ敗北を認めたわけでは――」



 「手負いの草食動物が、引き際を間違えるとどうなるか、知らないか?」



 「ッ!?」

 セッテはいつの間にか自分の胸倉を掴まれていることに驚愕を隠せなかった。いつもの彼女なら決して目で追えない速度ではなかったはずなのに、彼の右腕を見切ることが出来なかったのだ。

 「失血で、脳に酸素が、届いていない。その状態で、激しい運動を、継続的に行えば、酸欠で気絶するぞ」

 「…………」

 「悪いが、互いが万全な状態で無い限り、訓練を、続行するつもりは、ない」

 トレーゼに諭されたセッテは大人しく腰を降ろすと、自分が顔面から激突した壁に体を預けた。左手が使えないと言うだけでいつもとは違う体力を消費してしまった……鼻血による失血の所為もあるが、彼女は完全に脱力した状態となっていた。今までにこんな状態に陥るような事態があっただろうか。

 と、彼女に向かい合う形でトレーゼも芝生に腰を落ち着けた。改めて彼の顔を眺めて見て分かったことがある……金色に染まった眼球の瞳は常人と違う輝きを持っているように見えたのだ。もちろん、彼の目は感情が欠落しているのは変わり無い。彼がどこを見ていて、その際に何を思っているのかなど全く分からないし、ひょっとしたら何も考えていないのかも知れない。ただ分かったのは、彼が自分と同じ“欠落した存在”だと言う事……そして、彼の顔を以前、それもそれ程昔ではない時期に見た様な気がしていた。

 「貴方に初めて会った気がしません」

 「三文芝居の、台詞は、気に入らない」

 一蹴された。別に彼女がロマンチストである訳ではなく、自分の考えた言葉を率直に告げたら自然とこうなっただけだ。実際彼をどこかで見た様な気がするのは事実だ。さらに正確に言うなれば、彼に似た人物をどこかで見たような気がするのだ。彼に酷似した人物などそうそう居ないだろうから、その人物は自分も良く知るところの人間と言うことになるのだろうが、何故だろう、思い出せない。

 「……貴方は良くワタシに構うのですね」

 「こちらの、都合だ」

 「世間一般では貴方の事を“優しい”と形容するのでしょうね」

 「お前もか……いい加減に、してくれ」

 それまでずっと無表情を貫き通していたトレーゼの顔に初めて陰りが差したのをセッテは見逃さなかった。常人から見たらそんなに大したリアクションを取ったようには見えなかったかも知れないが、これまで交流を重ねた彼女は何となくだが彼の微かな心情の変化を察知出来るまでになっていた。そして、今彼は何やら不機嫌そうであった。

 「何故そんなに不快な反応を?」

 「自分の、身の程も弁えない、馬鹿な女と、同じ言葉だったからだ」

 「貴方はその人の事をよほど嫌悪しているようですね」

 「別に、あれだけじゃない。世間で言う、“嫌い”と言う感情を、俺は全てのモノに、向けている。お前も、例外ではない」

 「ワタシは貴方に嫌われているのですね」

 「そうだ。だから、お前も、俺を嫌悪しろ……それが、お前の力となる」

 「その提案は却下します」

 「……なに?」

 セッテの言葉に話のペースを崩されたトレーゼは思わず彼女の言葉を聞き直した。ついさっきまで余所を向いているだけだった彼女の視線はいつの間にか自分を穴が開くのではと思う程に凝視していた。素人が見ても分かる……彼女の視線は強い意志が宿っている、他人の言動には決して惑わされない強い意志が……。

 「ワタシは自分のやり方で貴方を凌駕する力を手に入れます。ですから、貴方の指図は絶対に受けません」

 「ならば、やってみろ。出来るのならな……」

 「はい、いずれ……。ですが、ワタシにはどうしても……貴方と初対面だとは思えないのです」

 「……………………」

 「本当に……以前どこかで貴方と、もしくは貴方に良く似た人物に出会ったような気が……」

 「気のせいだ。本当に……気のせいだ」

 次の瞬間にトレーゼは芝生の上に腕枕を敷いて目を閉じた。「少し、寝る」と一言だけ言った後、壁際へと転がるようにして移動し、そのまま寝息を立ててしまった。どこまでもマイペースな人間……セッテの冷え切った脳は図らずもそう考えていた。

 「…………貴方はどこから来て……どこへ行くのですか?」










 結論から言えば、ノーヴェは暇だったのだ。チンクの謹慎が解かれたと聞いた時は柄にも無く狂喜してしまったが、何故か今朝からずっと肝心な彼女との連絡が取れないでいた。父のゲンヤ曰く、「カインに連れ出されたんじゃないのか」とのことだが、実は彼とも連絡が取れていない。よっぽど仕事が忙しくなければあの几帳面な二人が何の連絡も無しに家を離れたままにしているなど有り得ないことではあったが、今の彼女にとってそんな事はそれ程重要な事では無く、むしろ今のこの暇な時間をどう過ごすかについてが最大の課題だった。別に非番なのだから自宅で余暇を過ごすと言うのも選択肢の一つではあったが、それではむしろ物足りない。彼女の性格上、体を動かさずに時間を浪費するのは性にあっていなかったのだ。かと言って、甘ったるいスポーツジムに行く趣味なども無い。彼女は一対一での格闘形式を何よりも重んずる為、室内に置かれているだけの器具を相手に肉体を鍛えるなどと言う惰弱な考えは元から無かった。

 ではどうするか? 今彼女の知る限りで自分の稽古に付き合ってくれそうな……もしくは付き合えるだけの技量を持ち合わせた人物はそうそう居ない。スバルは当然無理であるし、ギンガも今現在は入院中、義兄カインと実姉チンクも仕事中で何処に居るかも不明……。後のナカジマ家には自分とタメを張れる者は居そうになく、彼女の希望は潰えたかにも思えた。

 しかし、良く良く考えて見れば一人だけ居た。つい最近になって地上に降りて来た生意気な妹……ナンバーズ最強から手解きを受けていた彼女ならば自分の相手が務まるやも知れなかった。もっとも、前回顔合わせした時にはあちらの実力を思い知らされたが、今回は一方的にやられるつもりは毛頭無かった。むしろ逆転してやろうと言う意気込みがあった。

 「局員証、確認しました。どうぞ」

 「ん、どうも」

 海上更正施設の正面玄関の窓口で局員証を提示した彼女は、同じく危険物検査をクリアしたジェットエッジを片手に一般通路を進む。この一般通路は内部の更正者用のものとは違い、外部からの来客者専用に造られた道である為、この通路を出所する元更正人以外が通ることは殆ど無い。道行く人々も大半がここの職員であり、中には三年前から見知った顔もあった。

 さて、もうすぐ自分達が慣れ親しんでいたレクリルームが見えてくる。そこではあの無愛想極まりない妹が一人で格闘訓練を……

 「……………………」

 しているはずだったのだが……。

 「……あぁ、ノーヴェですか。今日は何の用です? 生憎とワタシはこのように安静の身ですから、訓練はつけられませんよ」

 芝生の上に腰を落ち着け壁に背を預けるセッテ……こんなに気の抜けた彼女を未だかつて見た事が無かった。確かにこんな格好なら他の人間で例えたなら幾らでも居そうな気はするが、忘れてはならない、相手はあのセッテなのだ。起立、気をつけ、構え、休め……一度立てば戦闘以外にはその四つの動作しかしなかったはずの彼女が自分の意思で腰を降ろしたままで居る姿など想像していなかったのだ。

 「ってか、鼻どうしたんだよそれ?」

 「これですか? 図らずもワタシの顔面に多大なダメージを与えた張本人が今こちらで睡眠中ですので、直接聞いてください」

 「お前ぇの顔面に一発入れるって、一体どんな奴なんだ…………って、えぇ!!?」

 ノーヴェは自分でもこんな大声が喉の奥からひじり出されるなどとは思っていなかった。セッテの指差した方向に居た人物……紫苑の短髪と日光を知らないかのような白磁の肌が特徴的なこの人物を彼女が見紛うはずがない。そう、ノーヴェ・ナカジマが人生で一番最初に得た友人……トレーゼがそこで眠りこけていた。

 「な、何でこいつがここに……!?」

 「何故って……ワタシの格闘訓練の為に決まっています」

 「はぁ!?」

 「彼の戦闘技術には目を見張るモノがあります。ワタシはそれらを実技を通じて直接学んでいるだけです」

 「だけですってなぁ……お前はこいつの都合を――」

 「彼とは合意の上で成り立っている関係です。貴方に一々口出しされる覚えはありません」

 「ご、合意の関係って……!」

 セッテの口から出た単語を深読みしてしまったノーヴェは自分でも顔が赤くなるのを感じていた。頭ではそんな事ではないと理解はしているのだが、どうにも理性的な考え方が出来ないのは性格上どうしようもなかった。

 「いつまでそうして立っているつもりですか? いい加減座ったらどうです」

 「お前から座るのを勧められるとか……」

 「ワタシだって不本意ながら人間の形をしている以上、いつまでも立っていたらそれが体力の浪費に繋がる事ぐらい知っています。ワタシがそんな無駄な事をする性格に見えますか?」

 「違ぇねーな。じゃ、隣に座るぞ」

 そう言ってセッテのすぐ横に座り込むノーヴェ。持ち込んだジェットエッジもついでに脇へと置いておく。せっかく彼女を頼ってやって来たと言うのに無駄足になってしまった……だが、予期せぬ再会があったのは嬉しかった、今時の人間とは違って何の連絡手段も持っていない彼とこうしてまた会えるとなると彼女にとっては天文学的数値の奇跡と等しかった。

 「何をニヤニヤしているんですか、少し気味が悪いですよ」

 嗚呼、我が妹ながら口調にトゲが沢山……。教育係が最強であると同時にナンバーズで最も寡黙な性格が原因なのか、彼女の言い分は歯に衣着せないと言うのか、あえて棘々しく言っていると言うのか……とにかく初対面の人間なら間違い無く心証が悪化する言動しか取らなかった。付き合いが短いとは言え、姉である自分ですら癪に障るような事しか言って来ないのだから困ったものである。

 「御覧の通り、ワタシはまともに訓練を出来る状態ではありませんので、早急に帰還されることを推奨します」

 ほら、またこれだ。こめかみの青筋が盛大に過剰反応してはいるが、ここは年長者らしく堪えるのが道理と言うモノ、チンクだってそう言っていた。ここは大人しく冷静に返すべきである。

 「いいよ別に。トレーゼが起きたら付き合ってもらうだけだし」

 彼とは未だ一度も手合わせをした事が無いが、セッテとも互角に渡り合う程の実力を持っていることは確かだ。その点で言えば彼を稽古の相手にするのは間違ってはいないだろう。

 だが――、



 「悪いですが、帰ってください」



 「……は?」

 隣の妹からの言葉にノーヴェは思わずそちらの方を凝視した。セッテの方は相変わらず膝を抱えた体勢のまま暇そうに足元の草を弄っているだけで、時折隣で眠っているトレーゼに視線を移してはまた足元に視線を向けると言う繰り返しをしていた。

 「……何だってお前にそんな事指図されなきゃなんねーんだよ」

 少し語気が強くなってしまったが、今のノーヴェにそんな事にまで気を回す余裕は無かった。今の妹のズケズケとした物言いに彼女の精神的忍耐力は一気にレッドゾーンへと突入していたからだ。今この妹は自分に向かって何と言った?

 「……………………」

 対してセッテは無言を貫き通すだけだった。ノーヴェ自身にはまるで興味が無いとでも言いたげな表情で足元の芝生しか見てはいなかった。その仕草が逆にノーヴェの神経を逆撫でしているなどとは知らずに彼女は続けてこう言った。

 「貴方の実力程度では彼とは釣り合いません。それは彼の強さの質を落とす可能性も孕んでいます。ですからワタシは推奨するのです……」

 セッテの目が初めてノーヴェの金色の目を捉える。そして、ただでさえ気の短い彼女の最後の一線を容易に打ち破る決定打を、堂々と真正面から放ったのだ。

 そう――、

 「彼の強さの質が落ちる前に、二度と彼に接触しないでください」

 彼女――ノーヴェにとってはまさに宣戦布告と同義である言葉が弾丸となり、今ここで、発砲されたのだった。










 夢を見る……。今自分が居る空間は見覚えがある。幅のある室内に並んだ八台の培養槽……右半分は自分達が入っていた物で、あとの四台は未だそこから出た事の無い“妹達”が入っていた。いつ出てくるかは分からない……だが必ず出てくると信じていた。

 ふと、人の気配。背後から近づくそれは敵ではない、むしろその逆、自分と同じ同類の匂いだった。背後を振り向くと、そこには自分よりも頭一つ分身長の大きい少女の姿があった。もちろん知っている顔だ。彼女はまっすぐこちらへ足を運ぶと、自分の隣に並んで自分と同じように眼前の培養槽を見上げた。自分と同じ金色の瞳は、自分とは違う輝きを持っているのが分かった。何故彼女にあんな表情が出来るのかは分からなかった。いや、昔は分かっていたのかも知れなかった、何かの紆余曲折を辿った結果として分からなくなったのだろうが、自分には何故なのかは全く分からなかった。

 『またここに居たのか。お前も好きだな』

 隣の少女が話し掛けて来た。彼女は呆れ半分と言った感じの表情でこちらを見下ろし、頭に手を置いてきた。以前から彼女が自分に対して行う一種の愛情表現……とでも言うモノだった。彼女は何かある度に自分の頭を撫でていた……自分にいつも構っていたのを今でも鮮明に覚えている。

 『こうして待っていても、こいつ達が出てくるのはまだまだもっと先だ。お前は“待つ”と言うことを知った方が良い』

 そんなことは分かっている。今こうして眺めている限りでは水中の少女達は死んでいるかのように微動だにしていなかった。実際は生きてはいるのだが、彼女らの脳は常時生体電位を操作されており、必要時以外に目覚めることはなかった。そして、その『必要時』が来るのは隣の彼女が言うようにまだずっと先なのだ。少なくとも後10年は来ない……。

 残念だ、とても……。頭では理解していてもどうしようもなく期待してしまう……仕方ない、今は大人しく待つしかないのだろうな。



 だが――、



 『馬鹿な! 動いただと!? 生体電位に異常が……ウーノは何をやっているんだ!』

 すかさず彼女の声と視線の先へと顔を向ける。左端から二番目の培養槽……そこに閉じ込められている桃色の髪が特徴的な被験体の四肢が僅かだが動いていた。目蓋こそ閉じてはいるが、自分には分かる、この個体はもうすぐ目覚めてしまうだろう。酸素吸入はされているので問題は無いのだろうが、もし彼女が槽内でパニックでも起こせば一大事だ、その場合は槽内の液を全て排出して一旦彼女を外部に出さなければならなくなるだろう。生みの親であるドクターからは彼女らが如何に重要な個体であるのかは重々聞かされている……万が一に備えていつでも培養槽のガラスを砕く準備は整っていた。

 『目覚めるぞ!』

 手足の動きが静かになると、やがてその陽光を知らない二つの目蓋がゆっくりと開けられた。覚醒してしばらくは、自分よりもずっと小さな二つの眼球が液中の左右上下をキョロキョロと忙しく動いていたが、やがて自分の手をゆっくりと持ち上げるとそれを凝視し始めた。その彼女の行動は始めに予測していたようなパニックなどとは程遠く、むしろ外見年齢とは掛け離れた落ち着きを見せていた。

 『驚いた……まさかこれだけの短い時間で自分の置かれた状況を理解して受け入れるなんて……!』

 どうやら驚愕していたのは自分だけではなかったようだった。培養槽の中の少女はとっくに何事も無かったかのように液中に浮遊しており、二つの小さな眼だけをこちらに向けているだけだった。

 『あれを見ていると、初めてお前が目を開けた時の事を思い出す。お前もあいつと同じような感じだった。やはり兄妹は似るのだな』

 妹……? あれが?

 『そうだ。こいつだけじゃない、今ここに居る全員が私達の“妹”となるのだ、良く覚えておけ。だが、こいつだけはお前にとっても特別な存在になる』

 何故?

 『ドクターに仰せつかっているのだ。この個体は将来この私が教育を務めることが決定されているのだ。私はお前の“直接の姉”……そしてその私が育てるのだから、こいつはお前の“妹”でもあるのだ』

 これが……妹か……正直実感が無い。

 『今はそれで良いさ。いずれはこいつもお前を“兄”だと認識出来るようになる。その時は、お前もいい加減に年上としての自覚を持てよ?』

 ……こいつの名前は?

 『名前か……。私達の名は所詮番号でしかない……こいつは確か……“Ⅶ”か。セッテ、こいつの名前はセッテだ』

 培養槽のプレートに刻まれていた番号を確認しながら彼女が個体の名前を教えてくれる。培養槽に入ったままのセッテと呼ばれた少女は糸の切れた人形のように液中に浮遊しているだけで、外界の一切に興味が無いかのようだった。

 だが、ふと彼女の視線が自分を一直線に向いていることに気が付いた。生まれて初めて目を開けたのにもう視力があるらしく、その証拠にこちらが移動するとそれに合わせて目線を変えて来るのだ。

 『ほう、お前に懐いたようだな。手を振ってみたらどうだ? 意外と振り返してくれるかも知れないぞ』

 言われて半信半疑だったが一応手を振って見る。始めは何の反応も期待してはいなかったのだが、驚いたことに少女は僅かな間を置いた後にゆっくりと自身の右手を振って見せたのだ。ここの培養槽に居る少女達は今までここから出た事が無く、それは言わば意識がはっきりとしていない胎児の状態だった。にも関わらず、彼女はこちらに反応を返してくれた。それはまさに、小さき肉体に生命が宿っているのを目の当たりにした瞬間でもあったのだ。

 『お前がこいつにとって良き兄たらんことを……』

 ここで視界がぼやけて来た。夢の終わりが近づいて来ているのだろう……元々夢は眠りの浅い時に見るモノだから当然と言えば当然なのだろうが、もう少しこのままで居たかったような気もしないではない。まぁ17年も前の記憶を脳の奥底で蓄積していたことには自分でも驚いたが……。

 ……何か喧騒が聞こえる。現実世界で何かあったのだろうか? どの道起きなければ分からない……そして、自分が完全に眠りから覚めるのにはもう少しだけ時間が掛かるようだった。










 怒りで視界が真っ赤になると言う現象を、ノーヴェはこの時初めて理解した。頭に血が昇っていた間、自分が何をしていたのか覚えが無く、気付けば目の前の芝生にはセッテが倒れ込んでいるだけだった。そのすぐ横には彼女が鼻に付けていたガーゼが外れて落ちており、まだ乾いていない赤い飛沫が所々に飛び散っていた。

 「はぁ……はぁ……!」

 次に彼女に感覚が戻って来た時、自分の右拳が異様に熱を持っていることに気付かされた。固く握った右手は相手の顔面を殴打した所為で節々が痛く、激しい怒りによって上昇した血圧と心拍で息は喉が痛くなる程極限に上がっていた。

 「てめぇ、黙って聞いていりゃあ何様のつもりなんだよ!!」

 芝生の上で倒れていたセッテを非情にも胸倉を掴んで引き起こし、ヤクザも顔負けな勢いで彼女に詰め寄るノーヴェ。セッテの鼻からはトレーゼによって壁に叩きつけられた時ほどではないが、殴られた所為で治りかけていた鼻の粘膜が再び破れて赤い動脈血が流れ出ていた。酸素を豊富に含んだそれは重力に逆らうことなく口元から顎を伝って落下し、胸倉を掴んでいたノーヴェの両手にも付着した。

 「……………………」

 セッテは何も言わない。彼女の目は何の感情も含んではいなかった……怒りも、悲しみも、恐怖も、何もかも彼女は見せることはなかったのだ。

 「何とか言えってんだよ!」

 ノーヴェが怒声を張ってもセッテの鉄面皮は崩れない。むしろ彼女の怒りが大きく激しくなるほどに彼女の表情はいつもよりも固くなっているようにも見えた。それがさらにノーヴェの怒りを促進させていることには気付かずに……。

 ただ不思議だったのは、戦闘型として造られた彼女が身内とは言えこうして真正面から堂々と殴られたのに対し、何の抵抗も仕返しもして来ないと言うのだけは理解出来なかった。自分に危害を加えた者を徹底的に排除するように教育されているはずの彼女がこの状態……ノーヴェの煮え滾った脳の一部ではその疑問だけが渦巻いていた。

 やがてノーヴェが冷静さを取り戻す頃にはセッテの鼻血も止まり、ノーヴェはその疑問を口にした。

 「何で……何で何も抵抗しねぇんだよ」

 「何故だと思います?」

 「聞いてんのはこっちなんだよ! 答えろって言ってんだろ!」

 「…………彼に言われましたから」

 セッテの視線が横に逸れる。それはノーヴェから目を逸らそうとしているのではなく、自分の横で眠ったままのトレーゼを見つめようとしていた。

 「何であいつの言う事は聞くんだよ……」

 「それは……分かりません」

 「っ! ふざけんなぁ!!!」

 セッテの言葉の何が癪に障ったのかは分からないが、再び怒りの沸点を迎えたノーヴェはまたもやセッテの顔面を殴った。

 もう一度殴る。今度は腹部だ、顔面だけでは物足りない、この怒りを発散させるだけの回数は殴るつもりだった。

 三発目。

 四発目。

 五発目。

 六発目…………。

 ノーヴェが自分の製造番号と同じ回数だけ殴打した頃には、セッテの顔面は内出血だらけで見るも痛々しい外観に変貌してしまっていた。特に左顔面は右拳で殴り続けていた所為で左顔面は痣や瘤で見れたモノではなくなっていた。

 「……お前はトレーゼの何なんだよ? 何の権利とかがあってそんなこと言いやがるんだ」

 「そう言う貴方はどうなんですか、ノーヴェ。貴方は彼の何なのですか?」

 「友達さ」

 「本当にそうですか? 本当は貴方が勝手にそう思い込んでいるだけなのではないですか?」

 「黙ってろ、ブン殴られてぇのか!」

 「安心してください。彼はワタシの事を嫌っているようです」

 「ざまぁみろ。お前みたいな無愛想な奴……嫌われて当然だ」



 「彼は貴方の事も嫌いのようですが」



 「――――え?」

 ノーヴェは自分の頭に強い衝撃が走るのを感じ、思わず握り締めていた手を離し掛けそうになった。もちろん、目の前の妹に攻撃を受けた訳ではない。彼女は最初に攻撃も反撃もしないと宣言している……彼女は嘘はつかない分、自身の言ったことは絶対に曲げない性格をしていたのでその点は安心だ。

 彼女の受けた衝撃……それは精神的なモノだった。想像してみて欲しい……彼女は先発組とは違ってこの世に生を受けてからの期間が短い。通常の戦闘機人とは違って人格を与えられているとは言え、元々は戦うことを目的として造られた分、その精神年齢はどうしても外見年齢に見合わない事が多いのだ。現に三年前にギンガとカルタスが社会教育の為に教鞭を執っていた時には、女性として最低限身に付けておかなければならない性的予備知識ですらほぼゼロに等しかったぐらいだった。情操教育の蓄積が極端に薄い彼女らは思考面でも未熟な部分があるのはもちろんの事、自分にとって不都合な事実は考える事無く根っから否定しようとするし、一度自分が気に入ればまるで火が点いたかのように執心する……まるで幼子、子供そのものなのだ。

 それは当然のことながらノーヴェも例外ではなく、直接聞いた訳ではないにしても自分は友人だと思っていた者から突然『嫌い』などと言われたなら、そのショックは計り知れない。もしこれがティアナやウェンディが言ったのなら、嘘張ったりや冗談などと言う考え方ぐらいは出来たのだろう……だが、間違えてはならない、相手はあのセッテなのだ。嘘も冗談も絶対に口にしない鋼鉄のナンバーズ……12人の中では教育を施したトーレよりも“ナンバーズ”と言う概念を体現していると言っても過言ではない存在である彼女が、そんな俗人的な言動をするなど到底考えられなかった。だが、つまりそれは彼女の言った事が真実であると言うことになってしまい……

 「嘘だ、そんなの嘘に決まってる!」

 「嘘ではありません。彼は言いました……自分はこの世の全てを“嫌悪”している、と。例えそれが人であれ、物であれ……」

 「嘘だ……こいつが……トレーゼはそんな事言わない、絶対に!!」

 「そんな確証がどこにあるのですか? 貴方は彼の何を分かっているつもりでそう言い切れるのですか? 貴方は彼にとっての何だと言うのですか?」

 「だから! あたしはこいつの友達だって言ってんだろ!」

 「ですから……それだって貴方が自分勝手にそう思っているだけです」

 「――っ!! この減らず口がぁっ!!!」

 最早怒りなどと言う生温い言葉では表現出来なくなってしまった程の感情……即ち憎悪が彼女の背筋を、脳髄を、四肢を駆け巡った。右拳を今まで以上に固く握り締めた彼女はそれを大きく振り被り、セッテの顔面目掛けて鉄槌の如く振り下ろす。さっきまでは怒りによって湧き上がる力を無造作に出していただけだったからまだ良かったものの、今度は間を置いた事で冷静さを取り戻した所為で性質が悪かった。より正確に相手に壊滅的ダメージを与える為、彼女の拳骨は人体で最も脆弱であろう顔面の二つの器官……眼球を狙っていた。いくらセッテとは言え、眼球を破壊されればたまったモノではないのは確実だ。

 しかしセッテは微動だにしない。まるで何かを悟ったかのような穏やかな目でノーヴェを見つめ返すだけだった。ついに顔の寸前にまで迫った拳にも一切怯える事無く平然としていた。その澄ました態度が余計にノーヴェの心の嗜虐心を駆り立てるとも知らずに……。

 だが――、今思えばセッテはこの数瞬後に起こるであろう出来事を知っていたのかもしれなかった。だからノーヴェの暴力を見過すような事が出来たのかも知れなかった。

 そして彼女は忘れないだろう……自分の背後から、自分だけにしか聞こえなかった小さな声で、聞こえて来た単語のことを……。










 「IS、No.13……『――――』発動」










 (な、何だよこれ!?)

 ノーヴェは困惑する、自分の身に降り掛かった事態を把握出来ずに混乱を極めていた。怒りで熱を持っていた四肢が冷や汗と共に冷却されてゆく中で、彼女の脳は必死に今起きている現象について解析を試みていた。

 腕が固い! 握り締めた拳がそのままセメントで硬化されてしまったかのようにその場で停止してしまっていた。突き出す事も引き戻す事も出来ず、それが右腕だけでなく全身に渡って硬化現象が起きていたのだから仰天しない方がおかしな話だ。まるでバインドだが、この施設はありとあらゆる魔法が許可無しでは使用できないシステムとなっている上、彼女のセンサーには魔力の反応は全く感知されなかった。何よりも、バインド魔法特有の光の帯やそれに準ずるモノが見当たらないことも彼女に混乱を来たしている要素の一つだった。

 なんとか眼球だけの自由は残されていたようで、自分の視線を腕から再び目の前の妹へと切り換えた。

 「あ――!」

 自分の視界に映ったモノ……それを見てノーヴェは無意識に小さな声を上げてしまった。彼女の視線はセッテではなくその背後、芝生の上にゆっくりと立ち上がった人物に向けられていた。

 「トレーゼ……?」

 言葉に詰まる……。ノーヴェの目に映る寝起きのトレーゼの姿……それは彼女の全く知らない禍々しいまでの雰囲気を纏っていた。顔こそいつもと同じ完璧な無表情だったが、その金色の双眸はまるで猛禽類はおろか、サバンナの百獣の王ですら一目散に逃走を図ろうとするのではないかと錯覚してしまいそうな邪気を含んでいた。その邪眼とも形容出来るそれが、今自分を凝視している……その事実がノーヴェにはどうしても理解出来なかった。

 「……………………」

 不意にトレーゼがこちらへ近付き始めた。足元の芝生を踏み締めながらゆっくりと……その姿にノーヴェは震え上がった。もちろん恐怖でだ。人間としての部分に根強く存在している生存本能が彼女の脳裏にて盛大に警鐘を鳴り響かせる。彼女は持ち前の強靭な脚力を利用してすぐに背後に飛び退こうとするが、依然として彼女の四肢は蛇女の眼に睨まれたかのように固まったままで動かすことは適わなかった。そうしている間にも彼との距離は徐々に狭くなり、やがてセッテとの間に割り込んで来た彼は――、

 「……………………」

 拳を構えたままの姿の自分を見下ろしながら彼は終始無言だった。別にセッテを一方的に殴りつけていたことを責めるでもなく、ただこうして立っているだけなのに、ノーヴェは嫌な予感がしてならなかった。

 そして、その嫌な予感は遂に現実のモノとなって彼女に突きつけられた。

 視界の隅で微かに動いたモノ……それはトレーゼの右手。開いて垂れ下がっていた五指がいつの間にか掌の内側へと折り曲げられ、拳を形成していた。固く握り締められたそれはゆっくりと目線の高さまで上がり――、



 ノーヴェの顔面に炸裂した。



 「のぶぁ!!!」

 ここでやっと身体の自由が利いたのも束の間、ナンバーズで二番目に小さな体躯である彼女は後方の耐衝撃防壁に激突するまで回転を続け、壁にぶつかることでようやく停止した。

 「な、何を……!?」

 駄目だ、不可視の拘束から解放されたかと思ったらまだ指先や下半身の感覚が覚束ない。無理に立とうと試みるものの、殴られたことで視界までもぼやけてしまっているのでどうしようもなかった。だが視界がはっきりしていなくても、向こう側からトレーゼがこちらへ向かって来ているのだけは分かった。

 再び自分の眼前に立った彼は追撃を仕掛けてくるでもなく、ただ自分の目の前に立ち塞がっているだけだった。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……お前は、今の自分の、戦闘スタイルを、変えた方が良い」

 長く重苦しい沈黙の後にトレーゼが口にしたその言葉を、意外にもノーヴェが冷静に受け止められたのは奇跡だったのだろうか。それともただ単に殴られた精神的ショックで呆けていただけだったのか……とにかく彼女が何の反論も罵詈雑言も吐かなかったのは事実だ。

 「今俺は、お前の顔面を、セッテに対して行ったのと、同じ威力で殴打した。数回殴打して、累計したダメージを、抜いて考えても、セッテよりもお前の方が、防御力が高い……」

 「…………」

 「お前は、とにかく、その防御力を利用して、相手をジリ貧に、持ち込み、急所を的確に突く……。それだけだ」

 「あ! ど、どこに……」

 言う事だけ手短に言い渡したトレーゼはそのまま踵を返すと、ノーヴェの質問に一切答える事無く一直線にセッテの元へと歩み寄った。壁にもたれてダウンしていた彼女の肩を掴み上げると、自分よりもずっと体重差の大きい彼女を軽く抱きかかえて移動を開始した。

 「どこに行くんだよ?」

 「医務室。顔面の、内出血を、このままにしておけば、酷くなる」

 「なら、あたしも一緒に――!」

 「来るな」

 急いで駆けようとしたノーヴェの足が止まる。底冷えするかのような擬感覚化された悪寒が彼女の全身を包み込み、その足を止めたのだ。これ以上接近することは出来ない……獣の本能とも呼ぶべき卓越した戦闘経験が彼女にそう告げていた。大人しく彼女はその場で座り込み、彼に抱きかかえられたセッテを恨めしそうに見ることしかしなかった。

 「……今は、誰とも、話す気分ではない」

 ノーヴェに聞こえない小さな声でそう呟くと、トレーゼはセッテを医務室へと運ぶ通路に足を踏み入れた。ただ一人だけレクリルームに残されたノーヴェは自身の心に吹き荒む一陣の哀愁の風をどう対処すれば良いのか分からずに、ただ途方に暮れていることしか出来ていなかった。










 「話は変わるんだがね司書長殿。地上に強引に移送されたセッテの件なのだが……彼女の調子はどうかね?」

 「施設の担当員からの報告では、万事問題無く更正プログラムは進んでいるようですが」

 『預言』の会談で一段落終えたのか、暇そうに自分の作ったプラモを弄っていたスカリエッティはふと思い出したのか、一番最後に生み出した娘について聞いてきた。ユーノに変わってフェイトが応答したが彼女の言っていることに嘘は無く、実際にセッテの更正教育は順調に進んでいるのは確かである。しかし――、

 「ただ一つ……悩みのタネと言うのがあって……」

 「対人関係、だな? 予想はしてはいたが、どのようなモノなのかね?」

 机にプラモを置いたスカリエッティは、思案するかのように顎を撫でながらフェイトの話に聞き入っていた。よほど自分の末子が心配なのか……。

 「問題が起こっていないのが問題と言いますか、誰に対しても何の興味も示そうとせず、寡黙過ぎる傾向が目立ちます。社会では無意識に孤立してしまうタイプです」

 「やはりな。一応懸念はしていたのだが、そこまで酷なモノだったとはな……。実はな、私は三年前のノーヴェに対しても同じことを気にしていたのだよ」

 「ノーヴェに……ですか?」

 さっきまでのセッテの話とは一見まるで関係無い名前が出て来たことに衆人は驚きを隠せなかった。話を聞いていたユーノも資料写真などでセッテとノーヴェ、両者のことは知ってはいたが何の引き合いで出されたのかについては理解出来なかった。

 「ノーヴェは元々は12人の姉妹の中では最も他人に依存してしまい易い性格をしていた。常に自分の精神の欠けた部分を他人で補完しようと躍起になっている部分があったが、あのような常時気勢を張っている人間には良く有り勝ちな現象だと、私自身は見過していた。本来ならノーヴェはスバル嬢と瓜二つの性格をしていても全く不自然ではなかったはずなのだ」

 「それが何故あの様な頑なな人格に?」

 「全てがその所為とは言わんが、教育者であるチンクの影響もあるだろうな。彼女は後発組の纏め役としては非情に優秀だ……その敏腕を一個人の教育の為に振るい、ノーヴェを一流のナンバーズの一員として育て上げて見せた。私にとっても計画にとっても、実に大きな貢献をしてくれたのだが……所詮はそれまででしかなかったと言うことだ」

 「それまで……と言うのは?」

 「彼女はノーヴェに対して戦士として一流の教育を施したが、一個人が学ぶべき『人として』の教育はそれ程重要視していなかった。恐らくは計画が一段落終えた後で教育するつもりだったのだろうが、そうする前にナンバーズは離散し、教育者と言う立ち位置はそっくり丸ごとゲンヤ・ナカジマに移されたことで、彼女の教育者としての任は御役御免となったと言う本末さ。教育者が移り変わったことで、本来ノーヴェに身に付くはずだった『人間性』や『他人との適度な人間関係の築き方』などの一部が欠け落ち、現在の彼女の人格を形成付ける一因となってしまったと言うわけだな」

 なるほど、戦士として自分以外の他人を排除……もしくは距離を置くと言う思考を優先的にしてしまう傾向のみが彼女の心に根差していると言うことだ。もし計画が成功して彼女が人間としての教育を受けていたならと考えると、惜しいことをしてしまったとも思える。

 「対してセッテは教育者であるトーレの性格上からも分かるように、戦闘目的を重視した教育法を取っていた。ありとあらゆる戦術にたいして常に柔軟且つ迅速、それでいて正確な処理がこなせるようにな。だが彼女はチンクとは違って公と私を上手く織り混ぜることでセッテを『人間らしく』成長させようとしていた。彼女は最強であると同時に『最賢』でもあったからなぁ……」

 「でも彼女は12人の中で最も人間性が薄いです。どう言うことですか?」

 「それはトーレの責任ではないよ。セッテ、オットー、ディード……この三人の人間性を完膚無きまでに削除するようにプランを提出し、それを実行に移したのはクアットロだ。オットーとディードは双子と言う利点を無意識に活かして互いの欠けた人間性を補完し合う事が出来たが、如何せんセッテにはその様な人間が居なかった……」

 「だから……彼女は人間としての部分が欠けてしまっているから対人関係が希薄だと?」

 「そうだ。本来ならば、彼女にはオットーとディードのように対になる存在が用意されているはずだったのだが、どうも儘ならない事ばかりだ」

 「ならどうしてその対になるナンバーズを造らんかったんや?」

 「造ったさ。その為の彼……その為のトレーゼだった」

 スカリエッティの独白に同じ人造生命であるフェイトは思う所があるのか、ただ押し黙って沈黙しているだけだった。彼女はずっと考えていたのだ、同じ造られた命である自分と彼女とで何故あそこまで違ったのか、と。

 答えは至極簡単だった。自分と違って彼女達には支えとなるモノが無かった。支えが無くても自立出来る程に彼女達の精神力は強かった。だが、強い反面、そのどこかでは弱かった。だから彼女達は欠落していたのだ……無意識に弱い部分を心から削り取ってしまったから……。

 「…………八神二佐、確か君の守護騎士にシャマルと言う医療担当の騎士が居たな?」

 「それがどうかしたんか?」

 「すまないが、医療センター側に頼んでスバル嬢を本部の彼女の医務室に移送するように頼んでくれないか? 私があちらに行くよりも、彼女の方を連れて来た方が何かと都合が良いはずだ。君達にとってもね」

 「了解。それは今すぐでええんやね?」

 「問題無い。必要な医療道具や部品などは後ほど用意してもらえればそれで良い」

 「ほな、行って来るわ。後はよろしくな、なのはちゃん、フェイトちゃん、ユーノ君」

 渋々とした納得の行かないと言いたげな表情で退室したはやては、そのまま医務室へと急行した。かつての敵にコキ使われると言うのは何かと不自然な感じもするのだろう。

 「……司書長殿、君達の言う“13番目”に対する処置に関してだが、今ここで方針を決定しても良いかな?」

 「今ここで? ……貴方がですか?」

 「そうだ。20年近く管理下を離れていたとは言え、あれは今でも私の所有物だ。さすれば、管理者であり生みの親でもある私が今後の行く末を決めるのにも一理あると思うのだが……」

 「…………至急、クロノに取り次ぎます」

 「ありがとう。そして……高町教導官にハラオウン執務官、貴方がた二人には立会人になっていただきたい」

 「立会人ですか?」

 「うむ……」

 いま一つスカリエッティの言葉の真意を理解出来ていないなのはとフェイトは互いに首を傾げているだけだった。

 「この私、ジェイル・スカリエッティの覚悟の程を見届けてもらいたいのだよ」










 人選ミス、と言う言葉を今日トレーゼは身を以て知る羽目になった。以前からノーヴェとセッテの二人が互いに反りが合わないのは薄々勘付いてはいたが、まさかここまで酷いモノだとは思っていなかった。惰眠を貪っていたので詳細は分からないにしても、セッテの口数の少ない言い分からして恐らくは逆上したノーヴェが一方的に行った暴力行為だろう。

 今自分の目の前のベッドには顔面に湿布や包帯を何重にも重ねたセッテが安静に寝ており、ここへ来てからも来るまでもずっと沈黙を保ったままだった。無論、喋らせるつもりも無い。顔面がこの状態で表情筋などを無理に動かせばより一層酷い事になりかねないからだ。ちなみにノーヴェはレクリルームでの訓練以外の私闘を行ったと言う責を咎められ、今頃は施設の所長から説教を受けているはずだ。当分はここに足を踏み入れることすら許可されないだろう。

 元々ノーヴェは自分がミッドで大規模戦闘を行う際の為にと事前に用意しておくはずだった、言わば非常時用の駒に過ぎなかった。本来ならばその時の予定通りに自分のサポーター第一号は彼女になるはずだったのだが、そこへセッテが地上へ降りて来たことで事態は急転した。ノーヴェよりも肉体増強度も経験も高く、尚且つ自分のISとの適合率も高いと言うまさに理想の個体がやって来たのに、どうしてそれを放置しておく理由があろうか。なるほど、始めは自分に親切にしていた人間が急に違う人間に興味を見せたとなっては混乱もするだろう。それが自分にとって最初に出来た友人だと言うなら尚更だ。これはあれか? いわゆる『嫉妬』とか言う感情をノーヴェは抱いているのだろう。

 馬鹿な女だ……今更ながらに彼女等を戦力として計算に入れていたのが間違いだと痛感させられた。あの様な精神的に不安定な生き物程、自分の要領を弁えない無能振りが目立つ……感情の赴くままに行動した者が大成した例など無いのだから。ここは本気でノーヴェを戦力図から降板させる考えを固めた方が良さそうである、これ以上彼女と接触しても利よりも害の方しか無さそうだ……もう少し様子見してから処分を決定した方が無難だ。まぁ、どうせ結果は同じだろうが……。

 「……トレーゼ、一つ質問をしてもよろしいですか?」

 「何だ?」

 改めてセッテの顔を見てみるが、やはり酷いものだった。自分がとっさにISを発動させておかなかったら今頃鼻っ柱の一本や二本は軽く壊されていただろう。ナンバーズの固有技能が封じられているはずのこの施設で使用可能なISは、完全隠蔽のシルバーカーテンと、自分のISだけだ。ここのIS妨害システムはシルバーカーテンの『騙す力』よりも劣っている為に少々工夫を凝らせば使用は可能であり……自分のISに関してはここの妨害システムに登録すらされていない為、幾らでも出来る。ここの施設全体に放出されている妨害波長システムはそうなっているのだ。各魔法や固有技能ごとに対する妨害波長を一度に一斉に流している。

 「…………」

 「?」

 何やら黙ったままだ。セッテらしくもない、さっさと喋れば良いものを何故か歯切れが悪い。思う所があるのか……?

 「……貴方は……貴方は何者なんですか?」

 「何者だと、思う? 他人に聞く前に、自分で考えろ」

 「では、ワタシなりの回答を聞いてくれますか?」

 「聞こう」



 「貴方はワタシと同属なのですね」



 「……どう言う意味だ?」

 「惚けないでください。ワタシは聞きました……貴方がノーヴェの動きを止める時に……はっきりと」

 「何を?」

 セッテは絶対安静なので上体を起こせない。よってトレーゼは顔を自分から近付けて耳打ちさせる体勢を取った。同時にこれは彼女が無意味に大きな声を出さないようにとの事前策でもある。彼女の雰囲気から察するに、あまり芳しくなさそうな事を口にするかも知れなかった。

 耳を接近させたことで彼女の吐息のサイクルまで把握出来る。鋼のナンバーズと形容されても、流石にその素体は人間だから呼吸もするし睡眠もするので当たり前なのだが……。

 そして、近付けた耳にを通して鼓膜を叩いて聞こえた声は――、



 「Inherent Skill(インヒューレントスキル)」



 そのままデバイスの電子音声に組み込んでも充分違和感が無い流暢な発音で彼女はその単語を口にした。何の疑念も臆面も無く、はっきりと、単刀直入に。

 「教えてください……貴方は何者なんですか?」

 「…………」

 「貴方が戦闘機人であることはとっくに把握しています。魔力を封じられた場所であれだけの肉体強度は普通は有り得ませんから……」

 「…………」

 「教えてください」

 「…………手を出せ」

 「え? そんな事に意味なんか……」

 「意味ならある。良いから、出せ……そうしたら、全て分かる……教えてやる」

 「……………………」

 清潔なシーツに包まれた体からセッテがそっと右手を出すのを確認した後、トレーゼはすかさずそれを握り取った。何故だろう、同じ室内で同じ行動をしていたはずなのに手の温度はまるで違う。セッテが最低限の体温を保っているのに対し、トレーゼはいつもと同じ氷のような冷たさを維持し続けていた。握っていて自分でも血が通っていないのかとも思えた。

 彼女の意外に小さな手をしばらく握っていたトレーゼは、ふと目を閉じて瞑想するかのように息をひそめた。そして、その直後――、

 「IS、No.13『――――』発動」

 曝け出す! 全てを――!!










 『……本当に……それで良いんだな?』

 「君もくどいな。他ならぬ私自身がそれで良いと言っているのだ。それ以上の理由や動機など必要無いだろう」

 ゲストルームでスカリエッティは空間に映し出されたクロノとの映像回線を通しながら、今後の方針に関する報告をしていた。周りのソファでは助手のウーノや監視役のフェイト達が静かに見守っていた。彼女らもスカリエッティの下した決断の場に立ち会っていたこともあり、彼がどんな内容の判断をしてそれをクロノに告げたのかも全て把握していた。把握していた上で何も言わずにこうして静観していた……皆が一様に票所に陰が差しており、特にウーノに至ってはその事実が容認出来ないと言いたげに顔が青褪めていた。今この中でいつもと同じ冷静な面持ちを保っていたのは、事の発起人であるスカリエッティと、今彼の報告を受けているクロノだけだった。

 「元々は君達管理局が保身に走ったのが原因だろう? “13番目のナンバーズ”と言う混乱の種を権力で隠蔽し、自分達の行動を無意味に遅らせたことで自分達の首を真綿で絞めていただけだったのだよ」

 そう言われると何も反論出来ないのが悔しくもあり、実際的を射ているので閉口せざるを得ない。事の発端を挙げればヴェロッサが局の体制偏向を懸念して事を内密にしようとしたのが始まりだった。戦闘機人……特にナンバーズは最高評議会にとっては故ゲイズ中将の件もあって、権力と裏取引の象徴でもある。管理局にはそれを揉み消したいと思う者も居れば、逆にそれをネタに伸し上がろうと画策する者まで千差万別だ。そう言った起こり得る可能性を少しでも淘汰しようとして始めは隠密に事を運ぼうとして……事態は悪転した。いっそ始めから行動を起こしておいた方が良かったのに、自分達は内部混乱を避けようとして無意識に保身に走ったのだ。

 「だから、この私が君達の尻拭いをしてやろうと言うのだよ。この私……ジェイル・スカリエッティその人がね」

 『だからと言って……これは極端過ぎないか? もう少し検討を重ねてからでも……』

 「科学者に二言は無い。私の意思が決定事項なのだ、誰の異論も認めない」

 『…………そうか』

 もう彼の意思は揺るがないだろうと判断し、クロノはもう何も言わないことにした。この件に関してはもう口出ししない方が賢明だと判断したのだろう……だがその表情はどこか曇りがある。

 「……納得出来ない、とでも言いたげだな」

 『それは僕ではなく、君の助手に言った方が良いんじゃないか? 仮にもナンバーズである以上は彼女の兄弟でもあるはずなんだからな』

 「言ったろう? 彼はもう『兵器』だ。情けを掛ける余地など……もう、どこにも無いのだよ」

 『……………………至急、対策本部に連絡し、その旨を伝えます』

 「よろしく頼んだよ」

 クロノが通信を切ったのを確認すると、同時にスカリエッティも下座のソファに座っていた四人に向き直った。スバルが本部に移送されて来るまでにはまだ時間がある……さっきまでの真剣な表情をどこかへ追いやり、退屈そうな表情で欠伸すると彼はまたもや寝入ろうとした。他の四人はさっきまでのやり取りを終始見ていた所為か、雰囲気は限り無く重く、特にウーノはさっきも言ったように精神的にもかなりの負荷を背負っているらしく、完全に衰弱し切った感じでソファにもたれていることしか出来ていなかった。

 「ウーノさん……大丈夫ですか?」

 「えぇ……心配は要りません、高町教導官」

 「でも……」

 「良いんです。遅いか早いかで、こうなることは理解していましたから……」

 達観……と言うよりかはむしろ諦観したような表情だった。心のどこかでは納得していなくても、周囲の状況がそれを許さない為に仕方なく……と言った感じである。無理も無い、血は繋がらずとも兄弟として接していたらしいのだから。

 「……高町教導官、ハラオウン執務官……スクライア司書長殿も聞いて欲しい」

 「何ですか、博士?」

 そのまま惰眠に入るかと思われていたスカリエッティの言葉に、名指しされた三人は彼の方を見やった。頭から完全に毛布を被り込んで冬眠状態の蓑虫のようになっているソファから声がすると言うのは、それはそれでシュールな光景だが……。

 「この件は短期決戦を重視して行動した方が良いだろう。変に仰々しい作戦やらを考えていれば、それだけ余計な時間を浪費してしまうからな。要は簡素な行動でどれだけの戦果を出せるかだ」

 「それは理解出来ますが、そう簡単なことではありませんよ」

 「簡単さ……相手の行動を予測出来ればな」

 「ですから、それが出来たら苦労はしませんってば!」

 なのはの言う通り、古来より如何なる戦略戦術においても敵方の出方を予測するのは基本であり極意……だが、人は自分以外の人間の行動の一つ一つを完璧に予測することは不可能だ。殊更、対象に関するデータが少なければそれはより困難となるのは自明の理と言うものだ。

 「いや、データは少なくとも、彼の行動パターンさえ把握していれば大まかな予測は立てられる」

 「どう言うことですか?」

 「彼は兵器として製造した……人の思考を極限にまで排した彼は、目的達成の為に最短且つ確実なルートを選択するように刷り込んでいる。もし、彼の思考回路の中に一分たりとも俗人的な要素が無いとしたならば――」




















 ミッド標準時間11月16日午前4時00分、第6無人世界『ゲルダ』の地上にて――。



 「…………これで、準備は出来た」

 広大な緑地……大量の植物の緑で覆われたこの無人世界の大地には人の介入が無いことから惑星全体に自然が残っており、山や湖はもちろんのこと、ここでしか確認出来ない動植物なども多々あるほどだった。

 そんな大自然のとある湖畔にて、一人の少年が佇んでいた。雪のように白い手を水面に接触させていた彼は立ち上がると、空を見上げた。彼の視線の先の青い空には、空中を優雅に飛ぶ鳥類と白い雲……そして天を突く巨大な柱だった。

 軌道拘置所……幾つかの無人世界に建設されている巨大な刑務所のようなモノである。この施設に収監される犯罪者は色々だが、共通していることと言えば彼らが管理世界ではとても管理しておけない荒くれ者だと言うことである。管理世界の施設に収監するのでさえ危険性が高いと判断された者達が最終的に放り込まれる場所……それがここなのだ。

 彼は今からそこへ行くのだ。正式な訪問ではなく、むしろその逆、強行突破だ。彼はあそこにどうしても用がある、その為には手段などは選ばない。だがもちろん、何の手筈も無しに行動したのでは意味が無い……それなりの作戦は立てておいた。

 あとはそれらのプロセスを無事に済ませられるかどうかである。

 「……マキナ、現時刻をもって、対象の奪還作戦を、開始する。ガジェットドローン全機は、地上にて待機。単騎で、施設内部に、突入する」

 『Roger.』

 「対象の奪還後、速やかに、予定時刻に、予定ポイントに、到着する」

 ここはミッドとは違って夏だが未だ日は昇っておらず、この拘置所が建っている半球部分は黒檀の闇に覆われていた。かろうじて地平線の向こう側から太陽の光が差し込もうとしているのが見えるだけだった。一応さっきも言ったようにここの季節は夏なので夜明けの時間はミッドと比べて早い……朝日が完全に地表を照らし出す前に施設に侵入しなければ。

 彼の漆黒のジェットエッジが唸りを上げるのと、木々に覆われた暗闇の奥で五つの光点が赤く妖しく輝いたのはほぼ同時だった。










 ミッド標準時間午前5時00分、軌道拘置所のとある独房エリアにて――。



 「ふん……! ふん……!」

 独房とは本来通常の監獄とは違って一切の自由を許されない。数人で鮨詰めにされている房にあるような娯楽品などはもちろんのこと、窓も換気扇も無ければ、最悪照明器具すら無い所もあるらしい。独房に分類される空間にあるのはベッドとトイレだけだ。それもその二つが同じ空間にあるから房の中は不衛生極まりない。唯一の外界との窓口であるドアの小窓には強化ガラスが隙間無く嵌め込まれているので、ここはまさに閉鎖空間そのものだった。

 そんな空気の流れの悪い室内でも彼女の日課である腹筋運動は止まない。30分前から起きてずっと続けている。こうして運動しておかないと獄中生活で肉体が鈍ってしまうのだから仕方が無い……余分な脂肪と贅肉は女性の天敵だ、野放しにしておけば泣きを見るのは火を見るよりも明らかである。

 「ふん! …………ふぅ」

 やがてノルマを終えたのか、彼女は服の裾で汗を拭き取りながら床から立ち上がる。毎日欠かさずにやっているのか、服の上からでも普通の女性と比較して肉体が引き締められているのが分かった。背中に長くなびいた亜麻色の髪は育ての姉譲りであり、今さっき顔に掛けた丸眼鏡は伊達眼鏡……

 「ふぅ…………寝ましょ。睡眠不足はお肌の天敵だもの」

 ナンバーズの四番、クアットロ。ここは彼女の独房である。

 通常ならば、朝の5時と言えば一般的な収監施設の起床時間ではあるが、自分は独房にブチ込まれるレベルの犯罪者と相場が決まっている為、普通の囚人達がやらされるような刑務所仕事は殆どさせてはもらえない。一旦外へ出せば何をするか分かったものではないからだ、だったら始めからここで飼い殺しにしておいた方が良いと思っているのだろう。

 「暇ねぇ……虫でも潰せれば幾分かマシなんでしょうけど、ここには虫なんて居ませんし……あーぁ、本当に退屈」

 退屈は魔女をも殺す猛毒と言う……千年を生き永らえる魔女ですら多大な余暇を持て余す退屈さから来る精神的苦痛には耐え難いモノがあると言うことだ。まさに今の彼女がそれであり、そんな状態がもうかれこれ三年以上続いていた。これは地味に精神が病む……何もすることが無いと言うのは人間にとってかなりの痛手なのだ。何かせずにはいられない……それが人間として生まれた性と言うモノなのだ。

 やれやれ、これが後何年続くのやら……そう考えると自然と溜息が出る。かと言って、三年も経過してしまった事件に関して捜査協力する気などさらさら無かったのも事実だった。彼女にとって自分以外の存在は全てがクズ……虫ケラと同じなのだ。そんな下等な存在に対して妥協する点など一切無いし、そんな事は天と地が引っ繰り返っても絶対に有り得ないことだった。そんなどうでも良いことを考えながら彼女が再び睡眠の涅槃に旅立とうとした、その時――、



 「出ろ」



 「……はぁい?」

 久しく聞いていなかった外部からの声にクアットロは一寸反応に遅れた。24時間外出を禁じられた独房から例え看守に呼び出されたとしても、出してもらえることなど滅多にあるものではない。クアットロ自身もこの三年間で片手で数える程度しか出たことはなかった。年に数回行われる身体検査ぐらいなものだが、些か時期外れである。

 何はともかく、ぼさっとしていては何を言われるか分からない。如何に自分の知力体力が相手よりも上でも、今この場ではこちらが権力的に弱い立場なのだ。権力によって人為的に創造されたヒエラルキー……それがこの閉鎖空間での常識だ、今更それをどうこう言うつもりはない、その場その場で強いモノに従うのが処世術の極意だからだ。

 「はいはぁ~い。クアットロさん、いますぐに♪」

 ちなみに猫被りも立派な処世術だ。










 一人の看守が鋼糸に繋がれた10人の囚人を引っ張っていると言う光景は些かシュールなものがあるだろう。通常囚人を管理するには一対少数か、複数対複数だと相場が決まっている。幾ら権力が上の存在とは言え、多勢を圧倒するには結局は数がモノを言うのだ。

 だが近年管理局は辺境の施設には余り関与していない傾向にあった。理由は簡単……単純に面倒だからだ。組織が大きくなればなるほど、そこに属する者達は自分のことしか考えなくなる。例えそれが刑務所だろうと同じ事だ、さらに自分の利益だけを追求して高みを目指す者達にとって辺境の一施設は眼中に全く無いのだ。故に人員は割けないし、管理体制も地上部分が幾分鉄壁なだけで、内部は芯を繰り抜かれた林檎のように脆いモノとなってしまっていた。だがそれを幾ら進言しようとも上に立つ者の思考が堕落しているのでどうしようもないのが現状だ。

 そんな囚人達の行列の先頭を、クアットロは歩く。正確には看守によって手元の手錠ごと引っ張られているので二番手なのだが、彼女の表情は不機嫌そのものだった。

 「ねぇ~、私達どこに連れて行かれるのか・し・ら?」

 「…………」

 無視。女性はこれをやられると一番腹が立つらしいが、本当にそうだったようだ。ここが三年前の戦場ならとっくに「気に入らないわ」の一言で処分出来るのに……。

 やがて一行はエレベーターに到着した。まだ早朝なので人通りは少なく、エレベーターの中も完全に貸切状態となっていた。この大気圏外にまで伸びている施設の生命線とも言えるこのエレベーターは全部で十本あり、それら全ての管理が徹底されている。ある意味、この施設の予算の大半はそれに回されていると言っても過言ではない。これが無ければこの施設は機能しないからだ。

 全員の足がエレベーターの床に体重を預ける。クアットロも不本意ながら体重が80㎏前後あるが、一応体重制限はクリア出来た。

 アナウンスも無くドアが重々しい音と共に閉まろうとし、ドアの隙間が30㎝……15㎝……5㎝……閉鎖。

 そのまま11人を乗せた箱は下方に向かって移動を開始しようと――、



 ズズゥ……ン!!



 「!?」

 揺れ。微弱なものだったが、これだけ広大な施設が揺れたとなれば相当なものだったはずだ。他の囚人達にざわめきが走ると同時にクアットロの表情にも動揺が表れ、思わず周囲を見渡そうとした。だがここはエレベーターの内部……外の様子など全く分かるはずもなかった。一応まだ動いてはいるようだったが……。

 「これは……一体――!!」

 ふと、ここで彼女は自分の手錠から伸びていた金属のロープがいつの間にか看守の手から解放されていることに気付いた。看守はそれに全く気付いていないのか、薄汚い帽子を目深に被ったままで微動だにしなかった。周囲が混乱していると言うのに何故平気で立っていられるのかが全くもって不自然な光景にクアットロは思えて仕方が無かった。

 「看守さん、何があったのかしら?」

 両手を塞がれたままで彼女はその看守に接近し――、



 刹那――、風が吹き、喧騒が止んだ。



 頬に何か温かいモノが飛び散る。足元に何か硬いのか柔らかいのかさえ分からない物体が転がる。視界に捉えていたはずの看守がいつの間にか消滅していた。その代わりに彼女の五感が捉えたのは……

 白い空間を占拠した鮮血の赤。

 鼻腔を押し広げて嗅覚を麻痺させる鉄分の匂い。

 さっきまで人体だったモノから噴出して床に落ちる赤い雫。

 そして死体――。床に落下した、確かに『頭部だったモノ』が全部で九個……そして、その頭部を冠していたはずの胴体が対になる形で転げているだけだった。

 「あら……あらあらあらあらぁ♪」

 明らかに異常。見ているだけで得も言われぬ精神的負荷が圧し掛かって来るこの空間にたった一人で居るのに、クアットロは……

 笑っていた。子供の落書きでも見つけたかのような笑みを顔に張り付けて、彼女は壁を濡らした赤い液体を華奢な指先で絡め取った。赤いそれはすぐに水分を失い、粉末となって床に落ちる。それを見ては更に嬉しそうに微笑むのだった。

 「誰なのかしら、こんなに……こんなに面白いコトを催してくださったのは」

 背後を向く。血の海に佇む影が一つ、確認出来た。それは先程まで自分の眼前に立っていたはずの看守だった。手に持った紅いブレードからは獲物の首を刈り取った雫がべっとりと付着しており、彼がこの殺戮を引き起こしたことは容易に分かった。

 「誰かしら? 私に知覚させない行動が出来るなんて……只者じゃありませんよね?」

 背を向けていた彼がこちらを見やった。紫苑の短髪に金色の眼、自分でも嫉妬しそうな白磁の肌……知らない人物だった。だが彼が自分にとって足元にも及ばない実力者であることだけは窺い知れた。

 「…………No.13、『トレーゼ』」

 「13……? う~ん…………あぁそう言えば! 昔ドゥーエ姉様から聞かされたことがありましたぁ。てっきり噂だけの存在かと思っておりましたが……実在していたなんて、クアットロ感激です」

 自分よりも若干身長が低い相手に妖艶に迫る。

 「…………No.4、『クアットロ』」

 「はぁい、ここに♪」

 「俺は、お前を、奪還に来た。お前の力が、必要だ」

 「嗚呼、この日を心待ちにしておりましたわ…………いつか、貴方のような私に変革をもたらしてくれる人をずっと、このクアットロは求めておりました」

 「ならば、良し。――――来い、我が妹」

 「お望みなれば、いくらでも――――お兄様」

 エレベーターが目的階に到達した。ドアが開くと同時に溜まっていた鉄の匂いが解放され、代わりに外部の汚れない空気が入り込んで来た。





 No.4とNo.13……後の軌道拘置所の囚人達の間では『アンラッキーナンバーズ』とまで形容されるまでになった二人の軌跡がどんなモノだったのか、それは当事者しか知らない。



[17818] Unlucky Numbers 4&13
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/21 00:36
 11月16日、午前3時15分。ナカジマ家の寝室にて――。



 「……………………」

 ノーヴェは眠らない。と言うよりも眠れないと言うのが正しいだろう。身も凍る冬の外気が微風となって彼女の頬を撫でても、彼女は微動だにしない。特に寒がった様子も無く掛け布団も寄せ上げず、ただ目だけを開けて天井を見据えていた。

 「……………………」

 とにかく目が冴えて仕方が無い。別に昼間カフェインの多いモノを摂取した訳ではないのだが……。

 「…………痛ぇ」

 原因は自分の右頬、昼間に自分が友人だと思っていた者に粉砕せんとばかりに殴られた痕が未だに痛むのだ。あれだけの衝撃でまともに殴打されたにも関わらず歯一本も欠け無かったのは、自分が戦闘機人だったからだろう。一応手加減はしていたのだろうが、並みの人間があれを喰らった日には間違い無く顎が文字通り粉微塵になるようなモノだった……今更ながらこの常人離れした肉体に感謝した。

 何故彼が自分にあの様なことをしたのかは分からない。 

 セッテを一方的に殴りつけたからか? いや、彼とセッテは何の深い意味も無い、言うなればただの師弟関係に過ぎないはずだ。彼の様な自分以外の俗事にまるで興味を示さないタイプの人間が、それ以上の意味を持って深く介入することなど考えられなかった。

 では、自分に愛想が尽きたとかなのか?

 「っ!!?」

 思わずベッドから飛び起きる。脳内をスパークした情報物質が一斉に駆け巡る衝動に彼女は身震いした。元を正せばセッテの言うように、彼自身がこちらに対して同じような印象を持っていたとは限らない訳だ……冷静になっている今だから考えられる、愛想が尽きたとかそんなモノではない、初めて会って会話を交わした時から何となく感じていたあの虚無感はトレーゼが自分に何の興味も抱いていないと言う事実を無意識に認識していたからだったのかも知れなかった。

 「違う……!」

 隣でディエチが寝ているのも忘れ、彼女は夜中の静寂に似合わない声を出してしまった。いつもはナカジマ家六人娘で使っていたこの寝室も、スバルとギンガは入院中、チンクはもうすぐ義兄となる男と共に局で泊まり込みの仕事に行っている為に同じく居らず、今ここで寝食を共にしている姉妹も自分とディエチとウェンディだけとなってしまっていた。

 そんないつもよりも寂しい空間で彼女の小さな体は震えていた。寒さで震えているのではない……怖いのだ、本当の真実が自分の認識していたモノと違うかもしれないと言うその憶測が……当たってしまっていたならと思うと怖いのだ。人は誰しも、一度自分の考えを正しいと思い込めばそれを修整するのは一筋縄ではいかなくなる。だが、仮にそれを間違いだと認識した途端に人間はその精神に衝撃を覚えるのだ。

 今の彼女が願うこと……



 どうか自分の予想が間違いであってくれますように。










 午前5時05分、第6無人世界『ゲルダ』軌道拘置所内部第四エレベーターにて――。



 軌道拘置所はその構造上、地表から最も離れたポイントでは惑星の自転を利用した遠心力が重力の代わりとなっており、最上階では人々は地表側から見ると丁度逆さまを向いた形で生活することとなる。だがそれはあくまで上階での話であり、下へ行けば行くほど惑星の重力が増す為にどこかで床と天井を転換せねばならない。星の重力と自転による遠心力の拮抗するゼロ地点……そこがターニングポイントと言う訳だ。

 エレベーターから二人が降りたのはまさにそこだった。静止衛星軌道……星の重力が及ばないギリギリのラインであるこのポイントは遠心力も比較的弱く、内部構造の上下を逆転させるには持って来いの中継地点だった。無重力では上も下も無い、それを上手く利用した構造と言えよう。

 「お兄様ぁ、この後の段取りはどんな風になってますの?」

 「脱出。長居は、無用」

 「分かり易くて良いですわぁ。でも~、あれはどうするんですか?」

 そう言ってクアットロの細い指先がトレーゼの視線の先を指す。混乱に気付いた職員がこちらを捕縛しようと一斉包囲していた……のではなく、その逆だった。二人の目に入って来たのは暴動……耳に取り込んだのは喧騒……そして肌で感じる大衆の熱気が二人を待ち受けていた。突然の出来事に暴走する囚人と、それを抑えようとする看守の二つの勢力に別れて事態は激しく混乱を呈していた。

 「これってぇ、さっきお兄様がやったのと関係が?」

 「10本のエレベーターの、半分を爆破した」

 「あらぁ、澄ました顔して意外とえげつないんですね。軌道拘置所の生命線を半分も切っちゃうんですから」

 なるほど、この上下左右前後を縦横無尽に荒れ狂う人の波はその所為だったのか。全ての高層建造物は上下の移動手段を断たれれば驚くほど脆くなってしまう……それは例え大気圏を股に掛けて聳え立つこの軌道拘置所言えども例外ではなかった。外壁そのものは対デブリ対策を想定しての最新技術でも、内部の構造はミッドなどの管理世界においてはマイナーな技術しか使われておらず、ちょっとした衝撃でも支障を来たす程に脆弱なモノでしかなかった。

 そんな建築物の文字通り“生命線”と言えるエレベーターを半分も破壊したとなっては混乱するなと言う方が無理な話だ。おまけにここは看守に比べて囚人の数が通常の収監施設に比べても圧倒的に少ない……起床から食事、そして作業場へと囚人が大移動をするこの午前5時代に暴動が起これば、自然と囚人側が押し切るのは時間の問題だ。

 「こうなることを見越していたんですのね。流石お兄様ですわぁ」

 すっかり彼の計画性から垣間見た隠れたカリスマ性を見抜いたのか、クアットロは心底心酔し切っていた。無重力なのを良いことにして壁を蹴ると、彼女は自分よりも若干小さな体に背中から抱きつく。

 「あぁ、最高です……私ぃ、貴方のようなお兄様を持ててとっても幸せですよ」

 腕を絡ませる……微妙に熱を持った吐息が耳元を撫で、端正な十本の指先が胸板を這う……まるで目の前で起こっている混乱など対岸の何とやらとでも言わんばかりに彼女は彼に夢中になっていた。まるで情婦……見る者全てを容赦無く虜にしてしまうような妖艶な雰囲気を無尽蔵に放つ淫魔そのものだった。

 「……クアットロ、作戦の、成功において、最も重要なことは、何だ?」

 「えーっと…………んふっ、迅速且つ的確な行動ですね」

 意外にもトレーゼが反応を返してくれたことに少々驚きつつも、クアットロは質問に忠実に返答してみせた。トレーゼの自分よりも白い指先が顎先を掴み、金色の双眸がこちらを見据える……映画のワンシーンなら、そのままキスしてもおかしくはない構図だった。

 「そうだ。そこまで、分かっているなら……」

 だが、ここでクアットロは異変に気付く。こちらの顎先だけを触れるようにして掴んでいたはずの彼の指が、突然――、

 「お、お兄様っ!?」

 両頬を圧搾せんとばかりに鷲掴みにしてきたのだ。始めは微笑ましい冗談かとも思ったが、この圧力は尋常ではなく、彼女は早くも生命の危機を感じることとなった。最早彼女の眼前にはガラス玉のような目は無く、氷を削って出来たかのような冷やかな眼球が睨んでいるだけだった。

 「余計なことを、している暇があるなら、さっさと行動を、続けろ……俺を、失望させるな」

 「は……はい、お兄様」

 頬を押さえていた五指がいつの間にか首筋へと移っていた。白く冷たい指が肌を撫で回すが、それは冗談では無く本気だった……余計な事をすれば首を捻り潰すと言う意思表示の。

 「ドゥーエの遺産……期待しているぞ」

 ドゥーエ……亡き敬愛する姉の名を引き合いに出されたとあってはクアットロも大人しく頭を垂れるしかない。増してやこの実力差、如何に自分が非戦闘型とは言え力の差をここまで見せ付けられては反抗したその瞬間に消されるのがオチだろう……もちろん物理的にだ。

 「……それでお兄様、これからどのような経路で脱出を?」

 「その前に、やることが、ある。これを、持て」

 「これって……」

 無重力の空間を利用してトレーゼが手渡してきたのは、ツインブレイズの片割れだった。刃は出ていない、スイッチを押して初めて彼女のエネルギー光に合わせた緑色の光をした刀身が伸びた。初めて手にする武装ではあるが、一応ディードが使っているのを見たことがあるので最低限の要領は得ている……武器が無くては戦えるものも戦えなくなりそうだったところだ。

 「ここは、まだ、大気圏外……熱圏を下回る、階層まで、移動する。そこに移動するまでに、やらなければ、ならないことが、ある」

 「何なりと命じてください。私はお兄様の手足、道具です……貴方が御命じになられれば即座に実行いたしますわ」

 芝居がかった、しかし優雅な動作で一礼し、クアットロは目の前の兄に対して最大限の畏敬の念を表した。何故なら、彼女は直感していたからだ……この男に絶対に逆らってはならない、と。だが逆にこの男にさえ従ってさえいれば身の安全はもちろんのこと、これから先のありとあらゆる事象に対する安息は保障されることは確定的に明らかなのも明白だった。寄らば大樹の陰……巨大なモノに寄り添い立つことこそ、まさに処世術の極意なのだから。










 同時刻、地上本部第一医務室にて――。



 「えっと……取り合えず、今のこの状況は何なんですか、シャマル先生?」

 医務室の奥に存在する、実質使う機会に恵まれない医療機器や設備などの物置きと化した集中治療室……そこの手術台の上には早朝の寝ている間に密かに医療センターより連行されてきた少女、スバルが何故か全身をロープでグルグル巻きにされた何とも情けない姿で乗っかっていた。

 「実はね、はやてちゃんから『早いとこ終わらせたいから、ベッドに縛り付けてでもやらせといて』って言われて」

 「それって言葉のアヤだと思うんですけど……」

 「あらぁ、日本……じゃなかった、ミッド公用語って難しいのね」

 「もういいです……。それで、私の手足のことなんですけど……」

 上半身もきっちりと縛られた状態でスバルはなんとか視線を足元へ注いだ。掛け布団で隠れて見えなくしてはあるが、現在の彼女は両脚と右腕を完全に欠いた状態である。本来ならばミッドの先進医療技術を用いれば、時間さえ掛ければ再生可能なのだが、それはあくまで普通の人間の場合の話でしかない。戦闘機人である彼女は常人よりも耐久性が高い分、肉体構成の緻密性も半端が無く、常人の骨折と機人の“骨折”とではその意味合いが大きく違ってくるのだ。普通の人間ならば多少骨が折れても細胞の働きでいずれは治癒するのに対し、機人の骨とはすなわち精密機器……たった一つの部品が壊れただけでも、それの取り換えからそれに関係している部分の点検などがあり、単純に肉と筋を繋げる作業に留まらない。おまけに、仮に内部の部品を交換し、骨肉を繋げることに成功したとしても、機人の細胞作用などは常人と異なる為に必ず再生部位に何らかの障害が生じてしまう為、まずそう言った者達は治療せずに一生を過ごすことが殆どらしい。

 「大丈夫よ、貴方を治す為にここまで引っ張って来たんだから!」

 「いえ、別に疑ってはいないんです。治してもらえるなら感謝しなきゃですけど……それなら医療センターでも良かったんじゃないですか?」

 「あぁ~、それがね……そうしないといけない事情って言うのかしら……その……何て言えば良いのかしら」

 「?」

 一部親しい間柄からは密かに『意外と図太い』とかとまで言われているシャマルがここまで言葉を尻ごみさせるとは珍しく、スバルが「どうかしたんですか?」と聞こうとしたその時――、



 「やぁやぁ、待たせて済まなかったな」



 手術室のさらに奥にある準備室から出て来た人物……白衣を見事なまでに着こなし、猛禽類のような金色の双眸を研究意欲で爛々と輝かせ、こちらに半ば猛然と歩み寄って来るその人間は――、

 「あ! スカさん」

 「どうして君まで人の名前を略すのかね? 流行ってるのか、流行ってるのかな!?」

 自分の名前を省略されるのが本当に嫌なのかスカリエッティは年甲斐にもなく涙目になりつつあった。中年男性がヤケ起こして涙目になっている姿と言うのはハッキリ言って滑稽と言うのか気色悪いと言うのか……

 「どうしてここに居るんです!? 軌道拘置所で隠居してるって聞いてましたけど……?」

 「ここの情報統括は一体どうなっているんだ。私は隠居じゃなくて収監されていたはずなんだが」

 「細かいことはいいじゃないですか。早いとこ始めましょう」

 「え!? 私、まだスカさんがここに居る訳を聞いてませんよ!? 教えてくださいよ~!」

 ベッドの上で駄々を捏ねるようにしてスバルが飛び跳ねるが、如何せん体を縛られている所為で悶えているようにしか見えないのが悲しい。何にせよ、彼女をこのままにしておいたら色々と面倒なので質問に答えた方が無難なのは分かっていた。

 「実はな、君の手足を切断した“13番目”に関する情報提供、及びに作戦協力と言う立ち位置でここまで連行されて来た。君の修理はその『ついで』と言う訳さ」

 「情報提供……?」

 「君も聞いてはいるだろうが、彼……“13番目”は過去に私が開発したナンバーズでな、文字通り、13番目に完成が予定されていた個体だ」

 「過去って……何年前に?」

 「う~んっと……20年以上前だったような」

 「そ、そんなに昔なんですか!? 私よりずっと年上じゃないですかっ!?」

 「いや、その内の大半の時間を培養槽で過ごして肉体の成長を抑制していたはずだから、外見は君と変わらないはずだ。君も見たんだろ?」

 「顔隠してたから分かりませんでした。ティアも見ていません」

 「まぁ、いずれ相見えるだろうがな……。さて、早速だがオペを始めるとするか」

 そう言ってスカリエッティはメスや専用工具の入ったボックスを大量にベッドの傍に置くと、手術用の清潔なゴム手袋を装着し始めた。良く見ると彼が連れて来た助手のウーノも同じようにして白衣を纏って準備をしているのが見受けられた。

 「でも、本当に治せるんですか?」

 「面白いことを言うな君は。このアルハザードの技術の結晶、科学の寵児であるこの私に技術面での不可能など無いことなどとっくに分かり切っているだろうに。デバイスの強化から機人の修理、改修、アフターサービスと言う名の改造まで何でもござれさ!」

 「でも……」

 「それに忘れたかね? 君の姉であるギンガ嬢の左腕を完璧に治して見せたのは、この私だ。何も心配は要らんよ」

 「スカさん…………………………………………そのドリルは何ですか?」

 スバルの恐怖に怯えた視線の先にある物……それは明らかに岩盤掘削用に使用されるような鋭利な先端を輝かせた極太なドリルだった。スイッチを入れたり切ったりする度に背筋の毛が総立ちになるような音が室内に響き渡る。

 「何って君、決まってるじゃないか。ナニだよ」

 「脚部機器の一時的措置の為に使用するモノです。少々ドクターの趣味が入って通常規格よりも大きいですが…………問題は無いでしょう」

 「えぇえええっ!!?」

 スバルの生存本能が叫んだ。これは明らかに機人の手術に使う物ではない、と。何気に少し間を置いて返答したウーノの表情もどことなく引きつっていたのを見ると、それがより確実なモノであることを暗に知らされた。

 「ドリルは科学者のロマンだと言うじゃないか」

 「それって二重の意味で違う気が……って、私の足をドリルにしないでぇ!!」

 「大丈夫だ、精々フロートシステムを取り付けて、日常的に反重力で生活出来るようにするだけだ」

 「やぁ~めぇ~てぇ~っ!!!」

 「シャマル女史、済まないが彼女の腕を押さえておいてくれ。ウーノは太腿を」

 「こうですか?」

 「いやぁ~!!!」

 後に、『ジェイルの3時間カスタミング』と言われるようになった事件がこれである。










 同時刻、軌道拘置所一般囚人収監エリアにて――。



 ここは上層階の独房エリアとは違い、一つの部屋に最大で六人の囚人が収監されている。本来ならばこの時間は全ての囚人達が列を作って作業場に向かっているはずなのだが、どう言う訳か今日だけは違っていた……エリア一帯の全囚人が如何なる理由を以てしても外出を禁じられていたのだ。つい小一時間前に起こったエレベーターの爆破事件の報せが早くも下の階層にまで伝播していた所為だ。如何に内部設備が古かろうと情報管制までに支障は来たすはずもなく、混乱がこれ以上拡大する前に囚人を監獄に封じ込めることに成功していたのだ。既に先程の混乱も大半が沈静化され、現在ではその喧騒の波は退きつつあった。

 中に居る囚人達は文字通り暇を持て余していた。はっきり言って拘置所と言う閉鎖空間では業務以外にやる事が無い……その業務ですら取り上げられた彼らはこうして部屋に籠り、既に飽きてしまったカードゲームに興じているしかなかった。暇なのは精神を侵す猛毒である。

 だがここで、変革が起きた。

 「ちょっと失礼」

 激しい蒸気音が彼らの鼓膜を刺激した。ポットの湯が噴き零れたのかとも思ったが、生憎ここにはそんな物は無い。それにこの熱気……肌を照らすその熱の方向へと首を回すと――、

 「どうも~! 独房エリア出身のクアットロちゃんで~す。虫籠に閉じ込められてた可愛そうなクズの皆さんを解放しにやって参りました」

 脱出防止用の二重構造になっている金属のドアを緑のブレードでブッタ斬りながらクアットロは毒の含んだ挨拶を送ってきた。長い髪を後ろで二つに束ね、伊達眼鏡の奥にある目はこれ以上無い程の笑みを湛えていた。だが囚人達は本能で察したのか、彼女の周囲から放たれる邪気に触れまいとして一歩距離を置いた。

 「何ですか、その目は? お仕置きでもされたいって言う目をしてますね……って、いけないいけない、殺したらNGでした、皆さんにお知らせがあります」

 球場の応援席にでもやって来たかのようなノリでブレードを振り回しながら、彼女は現状に全くついて行けていない囚人達を完全に置き去りにして勝手に話を始めた。さらに危険を察知した彼らはクアットロからさらに距離を離す。

 「皆さんにぃ、脱獄するチャンスを上げます」

 「は、はぁ?」

 「ドアは抉じ開けましたけど、ここから出て行くかどうかは貴方達の勝手です♪ ここから出て頑張って脱出するも良し、逆にここに居残ってこの先十年以上退屈な生活漬けになるのか……全部貴方達が決めてください。私はここを開けただけです」

 「何を言って……!」

 「それじゃあ、クズはクズらしく頑張ってくださいね~」

 嵐のように突如到来し、まるで何事も無かったかのようにして自然に去って行く……。クアットロが鼻歌混じりにブレードを振り回しながら次のエリアのドアを破壊すべく姿を暗ませた後、取り残された囚人達は互いに顔を見合わせた。

 手錠は無い。鍵も無い。自分達を封じ込めていたはずのドアも無い……。ここまで来ると人間とは不思議なモノで、目の前の餌に釣針が付いているかどうかを考えることすら出来なくなるらしい。思考が鈍るからだ、空腹の犬が形振り構わずに肉に喰らいつくのと全く同じ現象である。

 結局、十数分間も悩んだ挙句、彼らは牢から脱することを決意した。と言うのも、ここへ来るまでにクアットロが解放した総勢48名の囚人達が既に外を闊歩しているのを見たから、それに背を押されただけの話に過ぎなかったのだが……。










 「お兄様、指定ブロックの囚人の解放に成功しましたわ」

 何の目的も無くただ歩き周るだけの囚人達……。そしてそれらを獄中に戻そうと躍起になる少数の看守達……。だが、どう見ても圧倒的に看守側の数が少ないのは目に見えていた、この施設全体でどれ程の数の看守が存在しているのかは知らないが、恐らく囚人達の数の方が多いのだけは変わらないだろう。食物連鎖のピラミッドと同じで、どんな社会や組織でもヒエラルキーの頂点に近い者ほどに数が少ないのは理に適っていると言えようが、この場合は極端に少な過ぎた。施設全体を完璧に管理出来ていなかったのだ。

 そして、もしそのような状態で予測していなかった人為的な問題が起こったとしたなら……

 「お兄様の言う通りでしたわ。看守側と囚人側に横たわっている物量差……あのクズ達が何もしないでそこら辺を歩いているだけでも、おバカな看守さん達は大慌て♪ 縦横無尽に歩き周る彼らを一々捕まえてもう一回部屋にブチ込むまでに、一体どれだけの時間が掛かるかしら」

 シルバーカーテンの効力で自分の姿を隠しつつ、クアットロは次のエリアを目指していた。彼女の周囲には脱出した囚人が七割、それを捕えようとしている看守が三割と言った具合で混乱状態に陥っていた。今もこうしている間に別行動中のトレーゼがさらに囚人達の解放を続行しているだろうから、やがて数量差は8:2になるだろう……そうなれば、今度は看守だけではなく囚人同士での小競り合いが勃発するに違いない。その争いから派生した熱は囚人達の間を伝播し、やがてはこの施設全体が暴動状態になるだろう。だが、この二人の目的はそれではなかった。

 「クズ達がどんな乱闘騒ぎを起こしていても、私達兄妹には全然無関係……むしろ好都合。彼らの目が同族同士の争いに向いている間に、私達はさっさと退散って言うわけ♪ 簡単ですけど何てシンプルな作戦なんでしょうね、流石はお兄様ですわ」

 兄トレーゼが指定した階層まではまだ距離がある。そこまでに何人の囚人が封じ込まれているのかは知らないが、ここは辺境世界の監獄だ……管理局はここの地理的状況を利用した上でここに拘置所を建設、管理世界では抑えきれないと判断した札付きの犯罪者をここに大量に封じ込めたのが今になって仇となってきた訳だ。それらの大部分を解放すれば、間違い無くこの施設は……

 「あぁ……! 期待していてくださいね、お兄様。クアットロは必ず貴方の期待に応えて見せますわ」

 ウーノとトーレ……その二人には全く感じなかった隠れたカリスマ性を彼女はトレーゼに見出していた。かつて自分の教育者であったドゥーエにのみ感じていた高揚感を……。

 「当然、邪魔する奴はブチ殺しても構わないんですよね?」










 午前6時10分、ミッド海上更正施設にて――。



 セッテは自分の房のベッドの上で蹲っていた。寝ていたのではない、むしろ眠れていなかった。備え付けの鏡を覗いて見れば、両目の下に隈が出来ているのが分かった……ストレスなのは一目瞭然だが、それは不眠から来るものばかりではなかった。

 「……………………」

 桃色の長髪に隠れていて分からないかもしれないが、彼女は苛立っていた。端正に切り揃えられていた手の爪も、その苛立ちを少しでも紛らわせようとして齧った所為でボロボロとなってしまっており、血が出て来た所でようやく止めた。だがそれでも彼女の苛立ちは収まらないのか、血が滲んだ手を握ると硬いことこの上ない壁に叩きつけてまで彼女の行為は止まなかった。

 そもそも、彼女は自分自身で自分のことを感情を持たないモノとして定義していた。不本意ながら人間の形をしていても所詮はそれだけでしかなく、戦闘型である自分に感情などと言う不要なモノは要らないと常日頃から考えて来ていた。かつて自分の姉であり教育者のトーレは「機械過ぎる」と言う発言をしたが、それは戦闘機人としては常識、つまりは当然の事として疑わなかった。感情などと言うモノに無意識に縛られているから敵に情けを掛け、敵にも情けを掛けられてしまう……ずっとそう考えてきたはずだった。

 だが――!

 これは――!

 でも――!

 そんなことが――!

 「……………………ッ!!」

 “彼”が自分と同じ存在だと分かった時、不思議とそれほど驚きはしなかった。むしろその逆……あの瞬間に絶対的安心感が彼女のある意味で成熟していない精神を包み込んだのだ。脳内物質が加速的にニューロンを駆け巡り、言葉を出す事すら儘ならなくなるような強く激しい衝撃と一緒に頭の中に雪崩れ込んで来たあの瞬間、文字通り自分の拳二つ分の大きさの脳はスパークした。

 あの時自分の頭に流れ込んできたのは“映像”……だった。たった二つの映像……自分の居る空間と外を区切る分厚いガラスと、その向こう側に居る二人の人影。だがそれだけで充分だった――、

 忘れかけていた記憶を呼び覚ますのには。

 あの時、“彼”が使用したISが一体何だったのかは分からない……ただ一つ分かったことがあるとするならば、あの瞬間に自分の中枢とも呼べる部分で“何か”が根付いたのは確かだと言う事実だった。小さくて熱を持った、それでいて蒲公英のように深く浸透した謎の感覚……これが何なのか分からず、分からないと言うままにしておけない彼女は、眠ることすら律して考え続けていた。考え、考え、思考し、それでも“これ”が何なのかは最後まで分からず終いでしかなかった。

 ただ……

 今度“彼”に会った時に――、

 「『兄さん』…………と言った方が良いのでしょうか?」



 それは自分の教育者ですら「姉」と呼んだことが無かった彼女の、人間性が初めて垣間見えた瞬間でもあった。










 「これでやっと指定数のエリアの解放に成功したわね。さっさとお兄様と合流しないと♪」

 親に買い物を頼まれた子供が家路につくかのような調子でクアットロは外壁と収監区の間に存在する非常階段を下っている最中だった。ここは既に大気圏内、酸素はあるので問題は無い。常人なら五分と保たずに酸欠で頭痛と吐き気に見舞われて気絶するような気圧ではあるが、そこはやはり戦闘機人、ただこうして移動するだけならば少量の酸素でも活動は充分可能だったと言う訳だ。そして、ここをずっと下まで降りれば後はトレーゼと合流して脱出するだけだ。地上まではまだ距離があり、どうやって逃げ果せるのかは不明だが、あの彼のことだ、何か策があるのだろう。どの道心配することは何も無いだろうことは目に見えていた。

 「あぁん! 良いですわぁ、薄い酸素の所為で脳ミソの一部が麻痺するこの感覚……内股の肌が擦れるだけでも達してしまいそう♪ クアットロちゃんったらイケナイ子」

 ここの階段は螺旋階段……少しだけ飛行魔法を使って落下すれば早く合流ポイントに到着出来るかも。遥か下方まで続く吹き抜けを見下ろしながらそんな事を考えたクアットロは、その僅か数瞬後に何の思考も警戒もしないままに階段の手摺りを軽やかに飛び越え、水泳の跳び込みのように垂直なフォームで頭から落下して行った。空気抵抗の中でも彼女の軌道が一直線なのは、落下中に彼女が自分の飛行能力を応用して角度と速度を微調整しているからだ。そうでもしなければ壁や階段の手摺りに顔面衝突は必至であり、そんな無様なことを仕出かすような彼女でもなかった。もはや一目惚れのような惹かれようではあったが、兄であるトレーゼの期待は裏切れない……彼に言われたことを完璧にこなすことこそが、今の彼女にとっての最重要事項だった。

 別行動を取る前に彼から知らされた情報によれば、合流ポイントまでは後200m弱、このまま一定の速度を保ちつつポイントの手前ギリギリで滞空すればそれで万事問題無い。本来ならここは脱獄対策で只でさえ少ない人員を哨戒員として割いているはずなのだが、内部が混乱の様相を極めている今、誰もこの区画にまで注意が周っていないからこそ出来る芸当だった。もしここで哨戒担当が居よう状態で魔法なりISなり行使しようものなら施設の管制システムに感知され、一瞬で蜂の巣に――、



 ――――チュンッ!



 「…………はい?」

 クアットロは自分の右頬を何かが接触寸前で通り過ぎたのを見た。淡い光を伴って猛烈な速度で自分を追い抜いて行った“それ”は一瞬で見えなくなり、まるで夢であったかのように彼女の前から姿を消してしまった。

 だが、彼女は自分の右頬の痛覚神経が警鐘を鳴らすのを感知した。手を触れて見れば僅かだが血液が滲んでいる……。そして咄嗟に把握するのだ、「撃たれた!」と。

 「くっ!」

 すぐさま自分の背後――今さっきまで自分が落下して来た方向へと視線を変えた。ストレージの杖型デバイスを構えた哨戒魔導師が全員で三名、垂直に落下している自分と同じ体勢でこちらを追尾して来ていたのだ。先程の威力と魔力の質から察するに、あの攻撃は間違いなく物理破壊設定……どうやら、この施設の規律に従って脱獄未遂である自分をここで抹殺する魂胆のようだ。死体は遥か下方の地面に激突すれば文字通り木端微塵となり、掃除する手間も省けるだろう……中々考える連中だ。

 何とか抵抗はしたい……と言うかしなければいけないのだが、自分が持っている武装は近距離戦用の武器である上に、ISであるシルバーカーテンは固有武装であるシルバーケープのバックアップ無しでは真の効果を発揮出来ない……どの道、この場でやらねばならない事は唯一つ――、

 逃走あるのみ!

 返り討ちにしようとしても無駄に労力を使うだけだ。それならいっそここで逃げ切ってトレーゼと合流してしまえばそれで良い。彼の実力ならばたったこれだけの人数など大した数ではない、瞬きする間に肉塊に変えてくれるはずだ。

 だが、飛行能力保持のナンバーズとは言え、空戦型ではない自分の逃げ足でどこまで行けるのかは分からない。仮に捕まったその時は……覚悟しておいた方が良さそうだ。だが、何故あれだけの騒動で自分達の脱走がバレたのか?

 とにかく飛行、いや落下! 目的の合流ポイントまでは後150mも無い、ここを振り切れば――!!

 しかし、

 「あうっ!」

 右肩に直撃、すんでのところでブレードを落としそうになるが、堪えた。ここまで来て武器まで無くしてしまえば相手に対しての視覚的威嚇が出来なくなってしまう。恐らくあちらはこっちが非戦闘型であることを囚人登録情報から把握しているはずだ、それで武器を無くせば間違い無く奴らは容赦無く追撃を加えて来るのは必至! でなくても追い付かれれば処分されることに変わりは無いのだが……。

 だが、彼女の逃避行も虚しく、一人の魔導師の杖先から放たれた翠の弾丸が再びクアットロの肩を猛攻した。当然、一度傷付いた部分に再び追い撃ちを掛けられれば耐えられるはずもなく、彼女は小さく悲鳴を上げた直後、とうとうブレードを弾き飛ばされてしまった。

 「くっ! 虫の分際で!!」

 不味い、飛行制御が上手く行かなくなって来ている。このまま落下を続ければやがては飛行出来なくなって自由落下が始まり、やがては地表部分に……となれば、最後の力を振り絞って空中に停滞するしか無いが、一度止まれば追撃者の撃鉄が今度は確実に自分の脳髄を貫くだろう。彼女の心理はヤケを起こしていた、どっちにしても死なら地面に激突にてスクラップになるのは御免だと考え、ターンを決めて上下反転すると、彼女は空中に停滞したのだった。

 たかが虫ケラ如きに引っ立てられるなど彼女にとっては泥を啜るような屈辱の極みだが、ここは一旦大人しくして彼らの隙を窺うことにしたのだ。もっとも、すぐにこの場で銃殺刑に処す所存である彼らに隙が生じるかどうかは賭けだったが……。

 「手間を取らせてくれたな」

 どうやらすぐには殺さないようで、魔導師の一人がバインドでこちらの四肢を封じて来た。寿命が延びたのは良いが、これでこの窮地を脱する可能性は更に低く不確かなモノとなってしまった。最早最悪の場合を想定しておいた方が良さそうだった。 

 「……どうして私がここに居ると分かったのかしらね?」

 「簡単だな、お前らが散々逃がしまくった囚人共……あいつらは全員魔法も固有技能も持ってはいないんだよ。ただの一般人……質量兵器の密売や絶滅危惧種の狩猟で前科数犯以上をやらかした奴らだけどな」

 あぁなるほどな、どうやら自分は墓穴を掘ってしまったようであった。密かに自嘲的な笑みを浮かべながらクアットロは、何故自分がここに居るのがバレたのか、その真相を知った。冷静に考えれば簡単な話だった……三年もの時間の間にすっかり忘れてしまっていたが、自分が封印されていた独房エリアは札付きの極悪人を閉じ込めると同時に、下の階層とは比較にならない程の対魔法結界で覆われていた……それは何故か? 決まっている、あそこには『魔法及び魔力的固有技能を行使可能な者』しか入れられていないからだ。今更気付くのも充分致命傷だが、本題はここからだ……クアットロとトレーゼは互いに囚人達の無差別解放に専念しておよそ二百余名の囚人を解放することに成功した。一見彼ら不特定多数の中からたった二人だけを困難にも思えるだろう……だが、ここで問題なのは、軍団と化した囚人達は全員が魔法を使えないと言うことにあった。独房エリアから抜け出した囚人はクアットロを含んでもたったの10人、他の9人が殺害された情報はとっくに入っているだろうから、結果的に独房から抜け出た囚人は彼女のみと言うことになる。

 そして……この大混乱の中で魔法やそれに準ずる能力を使用したことが感知されれば、それは自分達しか居ないと言うことになり……。

 「しくじりましたわ!」

 「いまさら気付いても遅いさ。まぁいい、これより時空管理局法刑事項目第26条に則り、囚人クアットロを脱獄未遂の責に問い射殺する」

 魔導師の一人がデバイスの先端をクアットロの頭部に向けて狙いを定めた。頭蓋程度の硬さの物体なら余裕で貫通出来るであろう魔力がそこに集中して行くのが嫌でも分かる。どうやら自分の悪運は尽きてしまったらしい……ここを脱獄した後は、自分に砲撃魔法を喰らわせたあの生意気な魔導師に一矢報いることが出来ると期待していたのだが、それも出来ぬままにこんな所で没するとは……我ながら怒りよりも呆れるほうが先に立った。

 だが、いざ魔力の弾丸が放たれようとした、その時――、

 「隊長、こいつこのままオシャカにするには勿体無いんじゃないですか?」

 仲間の一人が今にも撃たんとする杖を手で遮ってそう言って来た。雲行きが怪しい……クアットロの生物的直感が警鐘を鳴らし始めた。

 「お前はまだ懲りていないのか。支部の武装隊でも、その癖が原因でここへ追いやられたのを忘れたのか」

 「い~いじゃないですか、減るモンじゃないんですし。一発、ね? 一発だけですってば!」

 不味い! 目を見て分かる、この男は不味い、日常でも非常時でも絶対に相対したくはないタイプの人間だとすぐに見破れた。全身の肌が粟立つ……生理的嫌悪感が最高潮に達しようとしていた。

 「こいつは脱獄犯として今すぐここで射殺せよとの命令が出ている。同時に、それを妨げる者も同様の処分を行えとも言われている。邪魔立てはするな」

 どうやらこの隊長は真面目な性格らしく、なんとかその男の行動を抑制してくれていた。きっとチーム編成で意図的にこの様にしたのだろう。でなければ秩序が乱れる……今でも充分に乱れてはいるが。

 「そう言うのは外へ行ってからやれ!」

 「ここだから良いんじゃないですか。どうせ射殺するんなら、せめてイイ思いさせてやりたいってのが人としての情って奴じゃないですか」

 「いい加減にしろよお前ら! さっさと撃つんだよ!」

 何やら雲行きが怪しいと思ってはいたが、どうやらこの三人は互いに思考のベクトルが違うらしく、図らずもこちらから注意を逸らしてくれることとなった。このまま何も出来ずにこんな名も知れぬ汚らわしい男に犯されるのも、少しだけ先延ばしになった……何とかしてこの窮地を脱しなくては、この三人の注意が余所を向いている今の内に。

 とは言ったものの、四肢を封じられた上でこの至近距離、正直言って難しいことこの上ない。このバインドは空間に固定するタイプ……飛行能力を切断しても自分の体が下に落ちることは無いだろうが、それは逆に、自分がこの三人の前から一歩たりとも動けないことを意味していた。今頃合流ポイントにはトレーゼが居るだろうが、ここに居る自分に気付くかどうかさえ不確かだ。施設の外はともかく、内部のここは侵入者対策に元々探知系の魔法及び能力が極端に制限されている。彼のスペックがどの程度のモノなのかは知らないが、自分の存在に気付いてくれるのは望み薄のようだった。どの道自分はここでお終いのようだ……脱獄に失敗して死ぬとは、何とも情けない最期……。

 「とにかく、こいつはここで殺す。そんなにヤりたいならこいつの死体で我慢しろ。もっとも、数千メートルも下に落ちて行った死体を拾って来れればの話だけどな」

 再び杖先がクアットロの眉間を捉える。今度は待ってもらえないだろう……皮膚を破って頭蓋を砕き、脳を貫通した魔法の弾丸は何の躊躇も間違いも無く彼女の生命を絶つだろうことは容易に想像がつき、そしてそれは最早不変のモノとなってしまった。

 「……………………」

 「射殺、完了!」

 引き金の無い杖から翠の弾丸が音も無く放たれた。生命的危機に直面したクアットロの感覚が極限にまで引き伸ばされ、眼前の弾丸の接近速度が緩く感じられる。だが、四肢を封じられた彼女には避けられるはずもなく、弾丸は無情にも彼女の眉間を貫通――、



 「クロスファイア……」



 ――するはずだった。クアットロの足元――遥か下方から飛来してきた真紅の魔弾が翠の弾丸を相殺し、そのまま虚空に消えた。見えたのはたった一瞬、されどその時の彼らの反応は一様に早かった。どんなに軽口を叩いたり堅物で融通が利かないような人間に見えていても、そこはやはり軍人気質、突然の事態にもすぐさま反応しては異常の発信源を探そうと視界を張り巡らせた。光弾の飛来して来た下方には人影は無い……隠れたか、逃げたかのどちらかなのは明白……だがどこに? ここは外壁と居住区の間に存在する非常空間、隠れる場所など視覚的に存在しないはずだ。

 魔力の反応は今のところ感知出来ていない、彼らの優秀な脳は状況から既に攻撃の相手が報告にあった脱獄を手引きした者だと言うことに気付いていた。だが肝心の姿が見当たらない、姿が見えなければ対応のしようも無い、まさかここら一帯を破壊して行く訳にもいかないから地道に手分けして探すしかないのだろうが。

 「…………お前の仲間が近くまで来ているようだな」

 「そうみたいですわね。正直助けに来るなんて思ってませんでしたわ」

 「何処に居る? 分かっているのなら言え!」

 「あらあら、何を怯えているのかなぁ? ひょっとして、怖かったりしちゃうんですかぁ?」

 形成が自分に好転してきたのを良いことに、クアットロは三人を挑発し始めた。姿の見えない強敵を前にして自分一人……それも四肢を完全に封じられた相手に気を回していられるだけの余裕は無いはずと見ての行動だった。彼らが優秀でなく、自分の感情に沿ってしか行動の出来ないような人間であったなら、怒りに任せて彼女は即刻殺されるだろう。だが、もし彼らが己の感情よりも、自身に課せられた職務を優先的に全うしようとする人間だったなら――、

 「何を言っている。少し黙ってろ! その頭、撃ち抜かれたいか!!」

 「はいはい、熱くならないの♪ そんなに人の事を邪険にしてる悪い子は――――



 悪魔に首を刎ねられるわよ?」



 「何を意味の分からないことを言って――!」

 そこから先の言葉はクアットロの耳には届かなかった……。もし、目の前の三人がもう少し優秀だったなら、いくら挑発されたからと言ってこんな非常事態でわざわざこっちに目を向けたりなどしなかっただろう。だがまぁ良い、どの道彼らは幸せ者だ……何故なら……

 自分達のすぐ背後にまで迫った“死の恐怖”を直視しなくて済んだのだから。

 無機質の金属で構成された壁……そこを14のISの一つ、無機物潜行の能力でもって一気に通り抜けて来たトレーゼの右手には、自身のエネルギー光でまるで血染めの刀のようになったツインブレイズの片割れが握られており、それを大きく振り被ったその姿は正しく童話や神話の中に垣間見える悪鬼そのものであった。

 常人なら恐怖に駆られて絶叫を上げるであろうその姿を見て、クアットロが漏らしたのは――、

 「嗚呼、素敵」

 それが、追撃者達の聞いた最後の言葉となった。










 「博士って、友達は居ます?」

 一通り手術が進んでいた時にスバルが聞いてきた何気ない質問に、ゴム手袋に白衣、そしてマスクと白い手術帽と言う本格的な出で立ちで専用工具を手に持っていたスカリエッティはふと手を止めた。

 「友人か……。生まれながらの試験管ベビーだった私は10代前半までは英才教育、20歳で自分の研究所を所有する程に頭脳を磨きはしたが……友人と呼べる者は一人も居なかったかな。それがどうかしたのかね? ご友人と何かトラブルでも?」

 「いえ、そう言うのじゃないんです……別に喧嘩も言い争いも何もしてないんですけど…………何て言うのかな……」

 「落ち着いて順を追って話してみたまえ。丁度ここら辺で小休止を取ろうと思っていたところだったのだよ。シャマル女史、済まないが手術部位の保存を頼む」

 「分かりました」

 シャマルの手が青ビニールの天蓋に伸び、青磁色の輝きが漏れ出た後、すぐに引き出された。彼女の魔法で30分は血行の流れを止めたままでも細胞を壊死させないように施した。当然麻酔効果もあり、スバルが痛みに悶えることもない。これでしばらくは会話の時間を稼げたことになった。

 「ふむ、それでその御友人が如何なされたのかな? 確か君の友人と言えば、もっぱらランスター執務官か六課時代に親しかった者のはずだったと思うのだが……」

 「実は、最近私が入院してた病室に見舞いに来てくれるようになった人が居て……その人の事なんです」

 「ほうほう。それで?」

 「何て言うんだろ…………どこを見てるか分からなくなるんです。いつも、自分とは違う、どこか遠くを見ている感じで……偶に私でも分からないトコロに行っちゃうんじゃないかって思えるんです」

 「君には随分と哲学的な感性があるのだな。だが君の言うように、人間が自分以外の他人の事を真に理解出来ることは極稀だ。どんなに親しい仲……例え親兄弟であっても、同じ空間に存在している限りは必ずと言っても差し支え無い程に軋轢や行き違いなどが発生するものなのだ。殊更それが…………異性であった場合は」

 「!?」

 スカリエッティの言葉にスバルは思わず反応して身動ぎしてしまった。自分でも少し頬辺りが赤くなって来ているのが分かり、それを見ている彼の「してやったり」と言う笑顔が更にスバルの顔を紅潮させた。

 「ふむ、図星か。君のような年頃には良くある事象だと聞く……相手の事を知りたい、だが分からないままの自分に苦悩する……。人間は自分とは違う者に対して敏感に、且つ貪欲なまでに興味を示しては追究し、その者を完全に『知ろう』とする傾向にある……特に、先程も言ったようにそれが異性であった場合などは顕著になる」

 「あ~えっと、その……」

 「一目見た時から君は男っ気が無いと思っていたのだが、まさかここでそんな話が出てくるなどとは思いもしなかったよ。お父上もきっと喜ばれると――」

 「ドクター」

 「失礼、野暮な話だったな。まぁとにかくだ、人間生きていて他人を理解しようとするのは良い心掛けだが、生半可なコトではないと言うことなのだよ。何もすぐにそうしようとしなくても良い……時を掛ければ幾らでも親しくなれるさ」

 「そうなんですか?」

 「聞けば、高町教導官とハラオウン執務官は元から親友ではなかったそうではないか……あれと同じさ。君とノーヴェが始めから仲が良かった訳ではないようにな」

 そう言われればそうだ。いつだったか、なのはとフェイトは昔は親友だったどころかその真逆、真っ向から対峙していた敵同士だと聞いたことがあった。元副隊長陣であるヴォルケンリッターの面々も、今でこそ同志だが、かつては目的を違えた為に刃を交えて命のやり取りをしたと聞いた……だが彼女らはそうした交流の中で次第に心を通わせ、親友となったのもまた事実……それを思えば、スカリエッティの言うこともあながち間違ってはいないと言うことだろう。

 「ましてや君達は別に敵対している訳ではないのだろう? だったら尚更問題は無いさ」

 「そうなんですか?」

 「私は友人は居なかったが……面と向かって敵対の意思表示をされない限りは大丈夫だろう」

 「ドクター、そんな大雑把な……」

 「違うのか?」

 自分ではもっともな事を言ったつもりだったのか、隣に座るウーノに諭されて首を傾げるスカリエッティ。そんな間の抜けた姿にスバルは思わず笑みを零した。他人が見たら彼らがつい三年前まで対立関係にあったなどとは到底思わないだろう……それはここに居る誰もが実感していることだった。三年前まではこうやって一堂に会するなどと、一体誰が予想し得ただろうか。

 「本当……こうやって話をしてると、私達って本当に戦ってたのかしらって感じちゃうわ」

 「人生何が起こるか分からん。どんなに計算されたことであっても、それを簡単に覆すような出来事が起こることがあるのだよ。実際この私も、まさか獄中暮らしをするなどとは思ってなかったのだからな」

 「それは……まぁ、そうですね。あはは……」

 六課時代にスバルが聞いた話では、管理局の収監施設の食料は全てが不味いとのこと……。手術台の上から見たスカリエッティの頬が引き攣り、どこか遠くを見ているような生気の無い目をしていたのは何となく理由が分かったような気がした。と言うか、隣のウーノまでもが似たような表情で顔に陰が差しているのが見えたような気がしたが、気のせいだったのだろうか? とにかく、あまりそのことについては深く追及しないことにしておいた方が良さそうであると言うのは直感で分かった。

 「まぁ、若い内から多くの人間と朋友となっておくのは良いことだ。後で色々と都合が利くからなぁ」

 「ドクター、そんな身も蓋もないことを……」

 「冗談さ。それよりも、君が異性を友人として認識するとは、一体どんな人物なのかね?」

 「あー、それは私も興味有ります。やっぱりスバルちゃんと同じようにバカ……もとい、穏やかで陽気な感じなのかしら」

 「シャマル先生、今何気に酷いこと言いませんでした?」

 「気のせいよ。それで、どんな子なの? 年齢は? 身長と体重は? 生年月日は? 血液型はもう聞いた?」

 「シャマル女史、落ち着きたまえ。それ以上は野暮と言うモノだよ。ここは若い人間の成り行きに任せようではないか」

 「時々スカさんが常識人なのかそうじゃないのか分からなくなります……。って、私は別にそんな関係じゃないですってば!」










 「…………くしっ!」

 「あら、可愛いクシャミ♪ 風邪でも引かれたんですかぁ?」

 自分の一歩前を歩く兄にクアットロは悪戯っぽい笑みを浮かべながら聞いてきた。今二人が歩いているのは、予定された合流ポイントから約200メートルも下方の螺旋階段の上だった。トレーゼが先頭を、クアットロがそのすぐ背後を追う形で移動を続けており、彼が言うには脱出ポイントまではもう少し下らなければならないらしい。四対のローラーが付いたジェットエッジを地面に接触させる事無く器用に浮遊して移動するトレーゼ……後ろ姿だけ見れば地上に舞い降りた精霊のような軽やかな足取りだが、その実は違う……。

 「お兄様には驚かされました。こんな辺境の地とは言え、追手の魔導師を三人も同時にブチ殺すなんて……トーレ姉様にしか出来ない芸当だと思ってましたわ」

 「……………………」

 「邪魔な奴らはブチ殺して罷り通る……私の理想にも適う貴方のやり方……惚れ惚れしますわ」

 「……………………」

 「お兄様? さっきからずぅーっと黙り込んでますけど、何かありましたの?」

 何か様子がおかしい……先程追手を惨殺した時から彼はただの一言も口を聞こうとしなかったのだ。始めに見た様な鉄面皮を顔面に貼り付けたまま、クアットロの言葉を聞いているのかどうかさえ分からず、ただ前方だけを見据えたままだった。何かあったのかと思いつつ彼女が肩に手を伸ばすと――、



 「……俺を失望させるなと、言ったはずだ」



 「な、何を――きゃっ!!?」

 鼓膜を打ったのは小さな声、背中を直撃したのは大きな衝撃。自分が対衝撃仕様の壁に叩きつけられたと認識するのにクアットロは一瞬の時間を要した。リボルバーナックルに酷似した漆黒の鋼の腕がクアットロの首を締め付ける……冷たい五指の鉤爪が食い込み、彼女の食道と気管を圧し折らんばかりに握り、クアットロは辛うじて呼吸が出来るかどうかにまで追いやられた。自分でも何でこんな事になったのかまるで分からず、クアットロはただ混乱するだけだった。

 「な……何故……!?」

 「こちらが、聞きたい。何故、あそこで、飛行能力を、行使した? 感知されれば、追手が来ることぐらい、冷静に考えれば、分かるはずだ」

 「そ、それは……!」

 「自分が必要と、されているからと言って、いい気になるな。後で、泣きを見るぞ」

 爪が首元の頸動脈に容赦無く食い込む……始めは冗談か何かだと思う余地もあったが、これは本気だった、目の前の彼は自分を消す事に何の躊躇も無かった。紙の書き損じを消しゴムで消すように……そしてその塵を吐息一つで何の遠慮も無しに吹き飛ばすようにして、同胞を消す……この男にはそれが出来るのだ。何の躊躇いも、考えも、遠慮も、策も、そんな甘ったれた思考など介さずとも自分の妹程度の存在なら軽く殺してしまう……そんな気迫があった。

 その時、クアットロの脳裏に浮かぶビジョンがあった。先程の追手の首を全て刈り取った瞬間に見たトレーゼの瞳――動いたモノ全てを狩るまで止まらない獣の眼――始めに見た時には美しささえ感じたその禍々しい視線が、今は自分に向けられている。その事実にクアットロは恐怖した。

 「分かりましたっ! ですから! 許してぇ!」

 懇願。人為的危機に陥った際に人間が取る行動は限られ、その一つがこれだ。圧倒的劣勢に立たされ、それを脱する可能性があればどんなに低くてもそれに縋るしかない……今の彼女にとっては最も見っともない行為でしかなかった。

 「…………お前は、道具ではない……計画遂行の為の、ただの“部品”だ。正常に稼働すれば、それで良い。他の余計な事は、一切するな」

 「は……はい」

 「なら良い。では……」

 トレーゼの手が喉元から離された。しかし、やっと解放された彼女の息つく間も無く、万力のような圧力を発揮していたその手が次に掴んだのは――、

 「ひっ!」

 真紅のツインブレイズ。送り込むエネルギーの総量によって長さが変化するその刀身の現在の長さは、およそ1m……刀剣型の武器としては結構な長さだった。それを片手に構えたトレーゼは剣圧に怯えるクアットロを余所に外壁部分に接近し、戦闘体勢の構えを取った。更に驚いた事に、彼はその居合いのような構えの刀身に自身の魔力を送り込み始めたのだ。

 「…………」

 隣でクアットロが戦々恐々としているのにも気にせず、膨大な量の魔力を注ぎ込まれた刀身の輝きが更に増していく。焼き上がった鉄もかくやと言うぐらいにまで真紅の輝きを満たし、その刃渡りを伸長させない代わりにその密度を極限にまで高めつつ鋼以上の強度をもたらすことに成功して見せた。

 「……秘剣――」

 柄の握り込みが強くなる。刀身を左腰に回し、右手によるこの構え……隣で傍観しているクアットロは知る由も無いが、この構えはとある管理外世界の極東の島国にて編み出された抜刀術の究極形――即ち、居合い斬り。刀剣の威力と切れ味を最大限に引き出すこの構えでトレーゼが放つのは、かつての廃棄都市区画での一戦にて烈火の将より奪いし大技――、

 「――紫電一閃」

 魔力変換された紅い電流が切っ先から漏れ出るのと、精密機器を内蔵した眼球のハイスピード機能を以てしても捉え切れない斬撃が対衝撃仕様防壁を切り崩したのはほぼ同時だった。勘違いされる事が多いが、烈火の将シグナムの奥義が一つであるこの『紫電一閃』は単純に刀身へ炎を纏わせるだけのモノではない。あの炎はあくまで敵方に対する視覚的威嚇と熱と斬撃による二重攻撃の為のエフェクトでしかない。刀身にありったけの魔力を送り込み、抜き放つと同時にそれらを解放、瞬発的な爆発的威力を発揮して相手を物理的に排除するのがこの術の真髄なのだ。その証拠にシグナムの一番弟子であるエリオはその大技を自分のスタイルに合わせてアレンジして見せた。それを鑑みれば、このシンプルな技を形だけでもマスターすることは一応可能だろう。

 だが、彼の場合は違っていた。

 彼の場合は『見て』すらいないのだ。スバルの【ディバインバスター】然り、エリオの【紫電一閃】然り、相手の技を見て真似し、見稽古によって修得して見せると言うのはある程度は可能だ。だがしかし、それは結局は目で見なければ話にならない……眼球で捕捉し、耳で聞き取り、肌で感じ取るからこそ成せるはずのモノなのだ。それを彼は思念捜査でシグナムから奪い取った記憶だけを頼りに完成させて見せた……人の脳内に僅かにしか蓄積していない曖昧な記憶からたった一つの事項を完璧に再現するのは至難の業にも関わらずだ。これが彼の持つ固有技能か何かの成せるモノなのか……それについて判明するのはまだ先になることだけは事実だった。

 と言うよりも、隣に居たクアットロにそんな余計な事を考えている余裕などこれっぽっちも無かった。何故なら……

 「ああぁあああぁああああああっ!!!」

 間違い無くジェットコースターに初めて乗った人間でもこんなに上品でない悲鳴は上げないであろう絶叫を、彼女はありったけの力を振り絞って捻り出していた。何故か? ここは軌道拘置所の外壁と居住区の中間に層のようになっている場所……今さっきトレーゼが物理的にこじ開けたのは施設の外側に通じる壁面……そして、ここは地上数千メートルの高度……施設の内部は一気圧でも、外部の気圧は地上よりもずっと低く、そんな状況で外界との隔壁を取り去ってしまえば気圧の高い方の空気が低い方に向かって気流となって流れるのは自然現象として当たり前。そして、その空気の流れは互いの気圧差が大きければ大きい程に激しくなるのだ。そして、その激流に現在全身を晒されているがクアットロと言う訳で、螺旋階段の手摺りに抱きつくようにして必死に吹き飛ばされまいと踏ん張っていたのだ。

 「な、な、何でこんなトコでっ! わわぁああっ!!」

 何でこんな所で穴を開けるのか……恐らくはそう問いたかったのだろう。だが、死に物狂いで掴まっているクアットロを余所に、トレーゼの態度は平然としたものだった。ブチ開けた穴のすぐ近くに立っているにも関わらずに直立不動で佇立しており、それどころか外界に首を出しては遥か下方の地表を見つめているではないか。

 「お兄様ぁ! 危ないですってぇ~!! あら、あらあらっ!? どこを掴んで……って、どこへ運んで行くんですの!」

 トレーゼの右手がクアットロの首根っこを引っ掴む。身長も体重も明らかにクアットロの方が大きいのに、そんな彼女の体躯を片手で持ち上げたトレーゼはまるで重たそうな顔もせずに、あろうことか穴の方へ向かって彼女を引き摺って行く。

 「こ、ここ、ここへ私を連れて来て……ど、どうするおつもりですの……?」

 「自由落下」

 「あぁ、なるほど……………………へぇあ!?」

 兄の口から聞かされた突然の言葉に思わず彼女は目を引ん剥いた。今この兄は何と言った!? 自由落下と言うことは、即ちここから飛び降りると言うことだ。だが、ここが地上何千メートルか知っての発言なのか!? 確かにクアットロ自身、多少ながら飛行スキルはあるものの、それはあくまで戦闘用ではなく急用での移動用でしかなく、彼女もここまで高い所を飛行する自身は無かった。おまけにこの気流……始めから空戦が目的として造られたトーレやセッテならともかく、彼女の様な『おまけ』程度の飛行能力ではあっと言う間に乱気流に呑み込まれてしまうのがオチだろう。そうなればパニックに陥り、最後まで飛行することもなく地表に接触、寸分の狂いも間違いも無しに死亡してしまうだろう。

 「な……なんで……!?」

 「始めから、飛行して、魔力やエネルギーを、感知した対侵入者用機銃に、駆逐されても良いなら、俺は何も言わん」

 「……………………」

 確かにそうだ、軌道拘置所の全外壁面には対侵入者用に物理破壊効果を持った魔力弾を大量に吐き出す機銃が設置されており、特に大気圏内ではその警戒に磨きが掛かるのだ。鳥以外の飛行物体があれば即座に撃墜されるシステムとなっており、唯一の例外は上空からの落下物だけだ。外壁はデブリ程度ならば余裕で耐えられる構造なので、ある程度のサイズの落下物は大気圏を突破して小さくなったデブリとしてそのまま見送られるのだ。

 「つまり、地上1000までは、自由落下し、後は飛行によって加速し、ここを脱する」

 「下まで歩いて行くのは?」

 「ノー。時間が掛かり、過ぎる」

 「では私がやったようにして行けば……」

 「学習能力が、無いのか?」

 「…………やっぱり、飛び下りなければ?」

 「当然だ」

 改めて下を見やる……。低層雲が足元に見えると言うのはある意味でスリリングな光景ではある、日常的に見れるモノではないだろう、ここから飛び降りろと言うのだからどうかしている。そして確信、やはり自分は上手くやれる自信は無い。

 「あの~ぅ、やっぱり他の方法を考えませんかぁ……なんて」

 生命の危機を直感したクアットロは、どうにかしてプランを変更してもらわなければと思い、自分の首元を掴み上げたままのトレーゼに振り向き――、



 「良し、先に行って来い」



 「へ?」

 突如、自分の体が自由になり、クアットロは自分の体が一瞬だけ浮遊するのを感じた。内蔵が浮足立つような気持ちの悪い感覚の後、空中でゆっくりと回転した彼女の視線が捉えたモノは……白い肌の鉄面皮でこちらを金色の瞳で凝視したままの兄の姿だった。

 「あ、あああ! あああぁああああああああぁぁぁぁぁ~~~…………」

 伸ばした手は結局何も掴めず、彼女の断末魔にも似た叫びは乱気流に呑まれた体と共に虚空に消えて行った。そして、自分の妹が木の葉のように飛ばされて消えて行くのを見届けた後、彼は静かに目を閉じ――、

 「行くか」

 降下を開始した。










 「さて、これである程度の修理は完了した。あとは生体部分の組織や神経を丸三日掛けて再生し、繋ぎ合わせるだけだ。その場合、シャマル女史には文字通り72時間付きっ切りで治癒魔法を掛け続けてもらい、細胞の治癒を促してもらう」

 ミッド標準時間午前6時48分、およそ二時間近くに渡って行われた手術はようやく一段落終えることが出来た。実際は内部フレームの部品取り換えと回線の修復などが終了しただけなのだが、先程スカリエッティが言ったように生命素体部分は時間を掛けさえすれば再生は可能だ。後遺症や障害などが残らないように気を付けてさえいれば問題はない。

 「ありがとうございました。本当に治してくれるなんて……」

 「取り合えずは両脚だけだがな。日常生活を送る分には片手でもしばらくは問題ないだろう」

 「ドクター、お飲み物を」

 「ありがとう、ウーノ。右手の修理は少し間を置いてからにしようと思っている。そうだな……両脚の再生によって蓄積した細胞への負荷が完全に抜け切るまでを考慮しれば、ざっと一週間後と言ったところか」

 マスクと手術帽を剥ぎ取った彼はパイプ椅子に腰掛けると、ウーノから受け取ったコップに口を付けた。休み無しにずっと立ったままで手術をしていたので、その疲労は計り知れない……それは他の二人も一緒だった。何はともあれ、これでスバルの足が完全に治る目処がついたのは事実だ、後は右手さえ元に戻れば良い。始めはどんな風に改造されてしまうのかと寿命が縮み掛けたが……。

 「本当に……ありがとうございます」

 「君のお父上たっての頼みだからな。それに……私自身、戦闘機人が惨めに朽ちて行くのは見たくなかったのもある。色々と思い入れがあるからなぁ……」

 「…………“13番目”も同じ戦闘機人なんですよね?」

 「……そうだ」

 突然スバルが興味を示したのが予想外だったのか、スカリエッティの返答に少しだけ間があった。彼女の方はベッドの上でただ静かに虚空を見つめたまま微動だにしなかった。自分の手足を圧し折られた事実に対する悲しみも、友人を傷付けられた事に対する怒りも……そこには無い、ただ澄んだ瞳があるだけだった。スカリエッティには、いや、同じくそれを見ていたシャマルとウーノにも理解できなかった。何故この少女はここまで澄んだ目をする事が出来るのだろうか……。

 「……強いんですよね?」

 「君も知っての通りな」

 「でも、私と同じ“人間”なんですよね?」

 “人間”の部分をいやに強調してスバルが問う。何故かは分からないが、彼女の澄んだ目に囚われたスカリエッティは一瞬だけだが返答を黙秘しそうになってしまった。だが彼女が質問したからにはそれに答えねばなるまい……故に彼ははっきりと言ったのだ。

 「いや違う。彼は……あれは“兵器”だ。君達“人間”とは違ってな」

 「…………そうですか。……あの、名前を教えてくれませんか?」

 「名前? あれのかい?」

 「はい。何でか分からないけど……知りたいんです、あの人の事を……。でないと、もし今度出会った時に私は何も知らないまま戦わないといけなくなるから……そんなの嫌だから……」

 「……良いだろう、いずれは相見えるやも知れん、せめて名ぐらいは知っておいた方が良いだろうな」

 これが吉と出るか凶と出るかは分からない……だが少なくとも後々の戦況を揺るがすような恐れは万に一つも有りはしないだろう。そう判断したスカリエッティは隣のウーノと目配せして意思を確認した後、ゆっくりと、はっきりその言葉を紡いだ。



 「『トレーゼ』、管理外世界の言語で“13”を意味する……。彼の名前だ」



 何も間違ってはいない……少なくとも彼にとってはそうだったに違いない。

 だが――、

 「え――?」

 この直後、スバルは自分の言動を激しく悔やむことになる。彼女にとって今の自分の問いと、それに対して返って来た答えは、あまりに過酷過ぎる『間違い』だったからだ。










 落下し始めてから数十秒後、クアットロはいつの間にか悲鳴を上げるのを止めてしまっていた。とは言っても、決して慣れてしまった訳ではない……乱気流帯を突破した彼女の肉体は始めに飛び降りた地点から半分は落下が進んでおり、独楽のように空中で何回転もする内に泡を吹いて気絶してしまっていただけだったのだ。

 緑の大地までは残り距離2000……いかに機人の肉体が常人の数倍は頑強言えども、これだけの高度から発生した運動エネルギーでもって地表に叩きつけられれば木端微塵になることは必至。かと言って、気絶したままの彼女に接触寸前に飛行能力を展開するだけの余裕があるはずもなく、運よく湖にでも突っ込まない限りは未来がなかった。

 だが、そんな事は彼女を放り投げた張本人であるトレーゼが一番良く知っていた。

 「…………」

 ツバメが羽を畳んで滑空するような体勢で急降下する彼の視線の先には空中で無様にキリキリ舞いするクアットロが捉えられていた。空気抵抗を最低限にして落下してきた彼は先行していたはずのクアットロを空中で捕まえるべくさらに加速する……そして遂に――、

 「ふん……!」

 「ぐぇえ!?」

 潰した蛙でももう少しマシな声を出すであろうこれまた無様な悲鳴が、トレーゼの掴んだ首からひじり出た。そのまま空中で体を捻って気流を体に纏って一回転、彼女を背負う事に成功した。地表まではあと数百メートルしか残されてはいない……だがここで――!

 「IS、No.3『ライドインパルス』」

 足元に紅いエネルギー翼が瞬時に展開されると同時に二人の姿は残像すら残さずに綺麗な直角軌道を描いて地面から平行に高速で退避した。高速移動状態での急な軌道変化は肉体にそれなりの負荷を与えるが地面に激突するよりかはマシだと判断しての行動だった。この距離では対侵入者システムに感知されたかも知れないが、こちらは弾丸よりも速く移動しているので問題は無い。

 さて、そろそろか。こんな余剰エネルギーをダダ漏れにする能力をいつまでも行使していれば弾丸の代わりに追手の魔導師が何人来るか分かったものじゃない。青い湖が見えた所でトレーゼは背負っていたクアットロを再び掴み上げると大きく振り被り、水面に叩きつけた。その瞬間に魚雷か何かが着弾したかのような水飛沫が周囲の木々の葉を一斉に濡らし、枝に留まっていた鳥達を遠くへ離散させてしまった。

 「ぶぇはぁっ!!? あ、あれ? ここって天国? そ、それとも! 地獄ですのぉ!?」

 「何を、寝ぼけている。戦闘機人に、その様な宗教的概念は、存在しない」

 「あ、お兄様。と言う事は、ここは現実……? なぁーんだ、つまりませんわね」

 幸い水底はさほど深くなかったお陰でクアットロは溺れることなく岸にまで自力で上がって来れた。眼鏡は無い、落下の最中か先程の着水の瞬間にどこかへ放り出されてしまったのだろう。どうせ度の入っていない伊達眼鏡だった上に大して執着も無かったクアットロは探しもせずにトレーゼの元まで駆け寄って来た。

 「無事か?」

 「水面に投げ飛ばした本人がそれを言います? 一応無事ですよぉ」

 「では移動を、再開する」

 「え!? まだ行きますの!?」

 「ここへ来る前に、次元転送術式を、設置しておいた。そのポイントへ、向かう」

 「はぁい……」

 地上数千メートルから強制ダイブさせられたばかりかまだ移動を続行しなければならないとは……クアットロは自分が脱力していくのをどうする事も出来なかった。今はただこの男について行くことが身を護れる唯一の術だ、ここは何を言われても大人しく従っておこう。

 地面から足が離れ、二人は森林の樹木よりも高い位置まで飛翔した。飛行能力を使えば目的の場所までは一直線、ここまで来れば後は何も起こらないだろう。いや、むしろもうここまでされれば何が起きても驚きはしない……今の彼女にはそんな変な自信が根付いてしまっていた。

 「さぁさ、早く行きましょうお兄様♪」

 「…………」

 「あら? どうかしました、お兄様?」

 地上から離れたと思えば何故か空中で停滞したまま微動だにしないトレーゼを見て不思議に思ったのか、クアットロが彼の視線と同じ方向を見やった。生憎だが何も確認出来ない、それとも彼にしか見えない何かがあるのだろうかと思いつつ、眼球の望遠機能を使おうとしたその時――、

 「まずい――!」

 「どうしましたのお兄様……って、きゃあぁっ!!!」

 突然トレーゼに突き飛ばされるクアットロ。何が何だか分からないままに彼女の体は慣性の法則に従ってトレーゼから離れ、トレーゼの方も彼女から距離を置く。

 その瞬間――、



 「ディバインバスタァーーーーーーッ!!!!!」



 クアットロの視界を埋め尽くした輝きがあった。

 その輝きの塊は自分とトレーゼの間を通り抜け、延長線上に存在していた木々をまるで紙屑か何かのように薙ぎ払って消えた。彼女は見た事があった……“これ”が何なのか知っていた、知っていたからこそ彼女は混乱した。

 「そんな……! 何で、何であの女がこんなとこまで!?」

 眼前をかすめた桜色の極大の魔力光――【ディバインバスター】。これ程の大出力を撃てる人間を彼女はたった一人しか知らない……そう――、その人間こそ――、

 天使をモチーフとした純白のバリアジャケット。

 頭の左右に留めた長い髪。

 足元に輝く桜色のアクセルフィン。

 そして、両手で構えたる紅玉が特徴の愛杖……。

 「あ……あぁああ……! ああぁぁああぁああっ!!!」

 クアットロの肉体と脳裏に原始的恐怖として刻まれた忌まわしい記憶が蘇る……。かつての戦いにおいて生身の人間でありながらディエチの砲撃を真っ向から食い破り、難攻不落を誇った古代ベルカ最大の遺産“聖王のゆりかご”の内壁を何重も破壊したあの攻撃……天井を突き破り、自分の肉体を完膚無きまでに打ちのめしたあの忌まわしい魔法!



 「時空管理局武装教導隊戦技教導官、高町なのは一等空尉、目標とエンゲージ!」



 “大空のエースオブエース”。

 “管理局の戦術の切り札”。

 “不屈の砲撃魔導師”。

 数々の異名や二つ名を抱えた白き魔導師、高町なのはがそこに居た。全身から発散される桜色の魔力に対して完全に恐れを成してしまったクアットロ、すぐさまトレーゼの背後に隠れてしまった。対するトレーゼも何かを感じ取っていたのか、微動だにせずに目の前の魔導師と相対しているだけだった。だが、その殺気は直接向けられていないはずのクアットロにも肌で分かるぐらいに強烈なモノだった。小さな鳥類程度の脆弱な生物ならば間違い無く屠れるレベルの強烈な殺気が……。

 だがいや待て、冷静に考えて見れば……

 「あ、相手は高町の悪魔言えども単独……こちらには、お兄様がついているんだから、だ、大丈夫……」

 そうだ、如何に相手が自分の戦闘史上最悪の敵であろうとも、こちらにも切り札は存在しているのだ。まだ真の実力は未知数だが、かつてドゥーエから聞いた事が正しければ自分の兄であるトレーゼはまさに“単体最強”の力を誇っているはずなのだ。どれだけ目の前の敵が同じ最強であろうとも、それは結局のところ“生物最強”でしかない……たかが生物の枠組みにはまっているだけの存在が自分達『超越した者』に対してどうこう出来る訳が無いのだ。

 そのはずだった。

 「……それは、どうかな」

 「お兄様、何を言って……………………っ!!!?」

 トレーゼに諭された時、今度こそクアットロは自分の心臓が停止するかと思った。自分の頭上、自分でも何故気付けなかったのか不思議になる程に近くに突如として感じた別の大きな魔力……それを感じ取った時には、既にクアットロは“彼女”を見てしまっていた。



 「本局付き執務官、フェイト・T・ハラオウン一等空尉、目標を至近距離で確認」



 電光迸る鎌を持った黒い魔導師――高町なのはと双壁を成す魔導師、フェイトがこちらを見下ろす。幾分離れているとは言え、戦闘に素人なクアットロでも分かった……これはもう彼女の距離だと。

 「そんな……!」

 「驚くのは、まだ早い」

 「え?」

 そう言ってトレーゼが指差すのは眼前の高町なのはの更に後方……緑生い茂る森林の向こう側の山脈だった。いや違う、良く見れば彼が指しているのは山なんかではなかった。彼の視線と指の先にあるモノ――、

 それを見た瞬間、

 今度こそクアットロは絶望を感じた。



 「時空管理局特別捜査官、八神はやて二等陸佐、これより対象との交戦に入ります」



 最後の夜天の主、歩くロストロギア、史上最年少佐官……その手に勝ち取った名声と異名は数知れず、史上最も成功したとされる魔導騎士が遥か遠方から狙いを定めていた。

 「高町なのは……フェイト・T・ハラオウン……八神はやて…………か。管理局め、打って出たな」

 まさか管理局の戦力を代表する三強が出てくるなどとは思いもしなかったのか、流石のトレーゼの言葉にもどこか苦々しさが含まれていた。『管理局の三強』、いつからこの呼称が内外で定着したのかは分からない。ただ一つ分かる事があるとするならば、それは彼女ら三人の個々人の戦闘力がそれぞれ支部の一個大隊の総合戦力と優に匹敵すると言うことだけである。同じ管理局からは『英雄』とされ、あらゆる次元犯罪者からは『悪魔』と称されるこの三人……はっきり言って、今回のこの邂逅は――、

 窮地以外の何物でもなかった!

 「…………No.4」

 「は、はい」

 「……………………骨は、拾わん」

 「え? それってどう言う――」

 「来るぞ!」

 眼前と頭上、二つの方向から雷光と光線が飛んでくるのと、トレーゼが展開した三角陣のトライシールドがそれらを防ぐのはほぼ同時だった。瞬時に爆煙から脱した二人は一旦距離を置くべく全速力で後退し、再び相対した。



 『管理局の三強』と『アンラッキーナンバーズ』……これが管理局と“13番目”の初の公式戦とでも言える最初の戦いだった。



[17818] 三強包囲網を突破せよ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/05/05 01:47
 「そう言えば……」

 管理局側から招かれたとは言え一応彼らは刑期を終えていない犯罪者、移動する時はスカリエッティとウーノ共々こうして腕の立つ局員が付き添うことになっていた。今回のこの場合はつい先程まで手術に立ち会っていたシャマルがそれを担当していた。これからゲストルームに戻るこの二人と同行し、彼らが脱走などしないようにとのことである。ちなみに、スバルは肉体の一時的安静の為にあのまま手術室に寝かせて来た。後で寝室の方に移動はさせる。

 「ん? どうかしたのかね、シャマル女史」

 「いえ、昨夜からはやてちゃ……八神二佐の姿を見て無くって。よっぽど忙しくない限りちゃんと家には帰って来るはずなんですけど……」

 「あぁ、彼女は私の頼んだ野暮用で今はミッドには居ないよ。ついでに言うと高町教導官とハラオウン執務官も一緒だ」

 「そうなんですか?」

 十数年前とは違い、今や三人とも役職的に接点が薄れて来ていたはずだった。そんな三人が再び同じ任務に就いたと言うことは、それなりによっぽどの事態があったに違いない。

 「どこへ?」

 「うむ。無人世界『ゲルダ』にある軌道拘置所だ」










 午前7時00分、第6無人世界『ゲルダ』――。



 「……………………」

 紫苑の短髪に白磁の肌、トレーゼが両手の拳を前に構える。装着したリボルバーナックルに酷似した武装の表面が東からの陽光を受けて鈍く輝き、その凶暴な外観を目の前の襲撃者達に対して顕示する。

 「……………………」

 相対するは三人の魔導師。接近戦に長けたフェイトを最前列に、中距離火砲支援と同じく接近戦対応型のなのはが中心、そして三人の中で最も強力な長距離支援を行えるはやてが五倍以上離れた位置に……。一見シンプルで何の捻りも無い陣形にも思えるだろうが、事前に彼女らの戦闘スタイルを熟知していたトレーゼにとってこれ程の強力且つ難攻不落と言うに最も相応しい陣形は存在し得なかった。接近戦に特化した者が前線に出張りそれを火砲支援で二人目が援護、そしてその更に後方からの隙を見計らっての大火力爆撃……この三人だからこそ成し得た究極の少数精鋭陣形! こちらに見せる隙など万に一つとてあろうか。

 砲撃の天使――。

 斬撃の死神――。

 爆撃の堕天使――。

 この三人と初めてコトを構えたトレーゼが各人に対して最初に抱いた第一印象がこれであった。どれも彼の嫌悪する宗教的存在を比喩に出さなければならなかったのが癪だったが、それでも総合した実力は彼女らの方が断然上だと言うことは認識せざるを得なかった。これはまさに危機……稼働を始めてから一ヶ月も経ってはいなかったが、生涯最大の危機に自分が瀕していることを彼は熟知していた。

 ここで重要なのは勝つことではない……今この場面で重要なのは、『どうやってこの場をやり過ごすか』である。一々複数の魔導師――それも管理局の三強と対峙していたのでは埒が開かない……ここは彼女らを出し抜くのがポイントだ。

 だがどうする? 見ての通り奴らの陣は鉄壁、針の穴ほどの隙もありはしない。常人ならばそこまでで完全に考える事を止めて投降するか、がむしゃらに武器を振るうかのどちらかに落ち着くだろう……。

 “常人”ならば、だが。

 「……クアットロ」

 「はい!?」

 「行って来い」

 「はぁ? な、何を――――って、ちょっと、何をぉ!!?」

 今日で何度目になるか分からないがクアットロは自分の首根っこを掴みに掛って来たトレーゼの勢いに驚いた。正確には彼の気迫に気圧されたのではない、彼がこちらに手を伸ばして来たその瞬間に禍々しいまでの膨大な魔力が込められていたから、それにびびったのだ。その灼熱の劫火に匹敵する質量の魔力の込められた右手に再び捕えられた彼女は、その吐き気を催しそうな魔力に委縮する暇も無く思い切り前方へと――、

 「きゃぁあっぁああああああ!!?」

 投擲された。最早体重とか重力とか慣性とかの法則をまるで無視し、人間一人の肉体を少し大き目の石か何かのようにして思い切り。そのあまりに物理的且つ思考的に常軌を逸した行動に目の前のフェイトが思わず身構えた。相手が何をするか分かったモノではなかったのだろうが、まさか自分の身内を投げて来るなどとは思ってなかったのだろう。

 だから生まれてしまった……。

 三人の間に絶対的な小さな隙が……。

 「あああぁぁああぁ! ……って?」

 慣性の法則に従って飛ばされていたクアットロは自分の肉体に起こって来た変化に気が付いた。先程の投擲の瞬間にトレーゼの掌中を通して伝わって来た大量の魔力が体表を舐めまわすように循環し、次の瞬間にはヘソを中心に肉体が捻じ曲げられるような感覚が巻き起こり……

 消えた。

 それはもう綺麗さっぱりと清々しいぐらいに、消えたのだ。

 「な!?」

 流石の戦術のプロであるなのはとフェイトも、こればかりは予測がつかなかった。

 何故ここで!? 何故そんな!? 何故消した!? 頭の中の神経回路を疑問と言う名の情報奔流が止め処無く流れ続け、混乱しそうになるのを堪えるだけで精一杯だった。

 口に出しはしなかったが、もしその問いが直接自分に向けられていたのだとしたならトレーゼはこう答えただろう。むしろ彼にとって自分の行動には一切の無駄など無いに等しい……一見して無意味に見えるこの行動でも彼にとっては充分な意味があったのだ。



 即ち、『均衡を崩す為』である。



 次に変化が現れたのは意外にもはやての所だった。もっとも、その『意外にも』と言うのは彼女の親友である二人の視点からの見方から導き出されたモノであるに過ぎず、当の張本人であるトレーゼからすれば全てが必然……完璧なる予定調和から成された当然の結果でしかなかった。

 彼にしか予測など出来なかっただろう……

 はやての眼前に短距離転移して来たクアットロが出現するなどとは。

 「きゅわ!? って、あらぁ、八神のはやてさんじゃないですかぁ~」

 「!?」

 「はやてちゃん!」

 消されたはずのクアットロが一分と経たない内に自分の目の前に転移して来たことに驚きつつも、彼女は取り乱すことなく冷静にシュベルトクロイツの切っ先を槍のように向けて来た。だが冷静なのは表面だけの話、実の所は混乱していた。だが対するクアットロの方はと言うと、今の自分の現在位置と目の前に居る人物……そして、自分の手に持っている武装を確認しただけで事態を正確に把握することに成功していた。

 「はっは~ん……そう言うことですのね……お兄様ったら相変わらずえげつない事この上ないわぁ」

 戦いとは常に状況を如何に正確に把握し、処理するかにある。その速度の違いが後々の戦局を大いに変化させると言っても過言ではない。そして、この場合先手を取る事に成功したのはクアットロの方だった。右手のブレイズを起動させると緑色の毒々しい刀身が出現し、目の前のはやてを威嚇するように唸りを上げるそれを西洋のレイピアのように構えた。

 「はやてちゃん!」

 親友の危機にすぐさま反応したなのはがレイジングハートの先端をクアットロに向けた。彼女は前衛と後衛に異常が起きた際に最もそれを処理し易いカバーポジション……これくらいの距離なら彼女の技量と射程距離で以て呑み込めるレンジのはずだった。

 ふと、なのはは自分の視界が暗転するのを感じた。まるで天に燦々と輝く太陽を雨雲が覆い隠してしまったかのような影が――。



 「お前達は、俺がここで、潰す」



 そして声! なのはとフェイトは自分達を覆い隠さんとしていた頭上の“影”の正体に気付く。それは――『面』、神話に出てくるアトラスが支えし天蓋がそのまま落ちて来たのではと錯覚するような巨大な物体の『面』であったのだ。きっとこれがはやてのように距離を置いた所からならば全容が把握できたのだろうが、文字通り『真下』に居た二人には“それ”が何なのかを完全に理解するまでにほんの数瞬の時間を要する羽目になってしまったのは事実だった。

 危機回避本能によって拡張される意識の中で、なのはとフェイトは聴覚を捨てて視覚のみを最大限に発揮させて全力の回避に臨んだ。もし仮に自分達の予想が正しければ、この“攻撃”はとんでもなく破壊力が大きいはずなのだ。バリアジャケットの一枚や二枚は軽く打ち破り、ビル程度の脆弱な物体なら粉砕し、時には地形すら変貌させる可能性すら孕んだ物理的大技――、

 『Giganthammer.(ギガントハンマー)』

 無機質極まりない電子音が響いた直後、それの数百倍以上の轟音と共に森林の土壌が本来およそ縁の無いはずだった天空へと大量に舞い上がった。










 少女は佇む。周囲を侵略する劫火の中でたった一人で、何をするでもなくただ佇立しているだけ……。

 彼女は困惑する。どうしてここに居るのか……ではなく、『どうしてこうなってしまったのか』について。

 スバルは走り出す。行く場所など無い、だがここには居られないと本能が告げていた。だから離れるのだ、ここに居たくないから……。

 自分がどこを走っているのかなんて知る訳が無い。黒いアスファルトか剥き出しの土か、それとも建物の中なのか……そんな事なんかどうでも良かった……今はただ駆けるだけだった。

 だが、行けども行けどもこの地獄のような光景は変わらなかった。肌の表面を焦がす熱と可燃性の物体が燃えて出る臭いが彼女の五感を刺激し、徐々にその精神を追い詰めて行く。有史以来、火とは進化の象徴であると同時に侵略の象徴……それが今、彼女を徹底的に追い詰めんとしているのだ。

 どれだけ走ったのか分からなくなって来たその時――、

 劫火に塗れるその向こう側に何かを見た。

 「あれは……」

 それは“人”、しかも自分の良く知っている人物だった。紅蓮の劫火の中で映えるそのオレンジの長髪……見紛う事無く親友ティアナの後ろ姿であった。カーキ色の制服に身を包んだ彼女がどうしてこんな所に居るのか……そんな事はどうだって良いのだ。要は一緒にここから脱しなくてはならないと言うことが最重要だった。

 だがどうしたことか、彼女はこの肉を焼き焦がす火の海の中で全く動じることなく佇んでいるだけだった。サラマンダーの舌のように炎が伸びて来ては服の裾を焼くも、まるで糸が切れたマリオネットのようにして立っていることしか出来ていなかった。

 「ティア! どうしてこんなとこに居るのさ! 早く行こう、ここから逃げよう!!」

 力無く俯いたままの親友の手を無理矢理に取ってスバルは駆けだそうとした。だが――、

 ティアナは動こうとしなかった。足に根が生えたようとはこの事か、スバルが力一杯引っ張るのに対して彼女はこの危険極まりない場所からただの一歩も動いてはくれないのだ。

 「ティア! 何で……!? 早く逃げようってば!」

 「……逃げるって……どこに逃げるってのよ」

 いつもの彼女にあるはずの覇気がまるで無い。だがそんな事に一々形振り構ってはいられなかった。テモでも動かない彼女の腕を掴んだままスバルは彼女を引き摺ろうとする。

 「どこでも。安全な所まで!」

 「無理よ……。どの道、こうなったらどうしようもないわよ……」

 「無理じゃない! 何で諦めちゃうのさ!」

 「じゃあ聞くわよ? あんたはさ……



 そんな腕でどうやって私を引っ張って行くつもりなの?」



 「…………え?」

 振り向いて自分の右腕を見る……。さっきまでティアナの腕をしっかりと掴んでいたはずの腕が――、

 無かった。

 痛覚は無い。その代わりに切断面の動脈から堰を切ったような勢いで鮮血が吹き出し、その飛沫が親友の虚ろな表情を湛えた顔面を大いに濡らし、重力に従って顎先から滴り落ちて行くのがスローに見えていた。滴り落ちた血液は火中に消え、水分を蒸発させた生臭いことこの上ない臭気がスバルの鼻腔を突く。

 「あ……ああぁあぁぁあぁああっ!!」

 遅れてやって来た激痛が、彼女に腕の喪失と言う事実を強制させるのにそう時間は掛からなかった。灼けた鉄板を押しつけられたような激痛に悶えながらも、スバルは目の前の親友から目を離さなかった。目を離してしまったら最後、彼女がどこかへ行ってしまいそうな気がしていたから……。

 「……何やってんのよ……無駄よ、そんな事しても……」

 「ティア……!」

 親友は一歩も動かない……自分から離れようとも、自分に寄って来ようともしてくれなかった。どこか弱々しい彼女を今度は左手で掴もうと手を伸ばし――、



 「だって私……死んでるんだから」



 ズボッ!

 まるでぬかるんでいた地面から杭を抜いたかのような音が聞こえた後、ティアナの胸元から噴き出した血液がスバルの顔面を盛大に犯した。これは何かの冗談か? ティアナは口から唾液や吐瀉物の代わりにドス黒い血反吐を垂らしており、立ったままで綺麗に、それでいて確かに『死んで』いた。あぁ間違い無い、死んでいる、完璧に完膚無きまでに彼女は死んでしまったのだ……今この瞬間に。

 あまりに衝撃的過ぎる光景に思考能力が枯渇して行く……。そして、糊のような粘着性を帯びた血がゆっくりと頬を伝い下りる意識の中で……スバルは見た。否、見てしまった。

 親友の胸部の丁度真ん中……そこを反対側の背面から脊髄を圧し折り、肺と心臓を握り潰し、肋骨を内側から破壊して――、

 鐡の腕が貫通していた。

 「ティア……? あ、あれ? ティア、嘘だよね? 嘘って言ってよ!?」

 懇願するようなこちらの呼び掛けにも親友『だったモノ』は応えてはくれなかった。ただのガラス球に成り下がってしまった虚ろな眼球をあらぬ方向に向けているだけの屍はただのモノでしかないからだ……。

 やがて死体の胸を刺し貫いていた腕がゆっくりと引き抜かれた……。ポッカリと空洞となってしまった胸部からは動脈静脈の区別無く入り混じった血液が無尽蔵無差別に流れ出し、その血の海はスバルの足元をも侵略した。そのまま両脚が血中に没してしまうかのような感覚が彼女の精神を恐怖となって襲う。

 だが、真の恐怖、戦慄、衝撃はここからだった。

 ティアナの死体が火中に消え、音も無く彼女の死体は消滅してしまった。後に残ったのはスバル自信と、目の前の親友を一撃にて屠った人物……



 トレーゼの姿だけだった。










 「うわあぁああああぁぁぁあああぁぁぁああああぁああぁあああああああぁぁぁあぁああぁああっ!!!!!」










 目が覚めた時、彼女は医務室のベッドの上だった。

 「はぁっ! はぁっ! はぁっ! …………はぁ!」

 寝汗が凄い。あと頭痛も最悪だった。過去に入隊祝いだとかで酒を無理矢理飲まされたことがあったが、今のそれはあの二日酔いの時と比べても酷いモノだった。

 そして吐き気。手術前は何も腹に入れることはないので吐瀉はしなかったが、胃の律動は収まらない。このまま胃袋の中身を全てブチ撒けられればどんなに楽なことか……。

 悪夢を見るのはいつ振りか? それ以前に彼女は眠りの深い方なので夢を見ることが珍しいことではあった。だが、珍しく見た夢がこんなモノだとは……あれを聞いてしまったからだとは薄々勘付いてはいた。

 「…………嘘……だよね。何かの偶然だよね。そう、そうに決まってるよ」

 誰に聞かせる訳でも無しに自分に言い聞かせるようにして呟きを漏らすスバル。そのまま考えることを完全に止めた彼女は再びベッドに潜り込んだ。今はとにかく手術で弱った体を休ませなければならない……枕に頭を預けてからの彼女の寝入りは早く、既に意識の半分はもう一度涅槃へと向かおうとしていた。

 そして一言――、

 (今何してるかな……トレーゼ)

局の仕事で今は辺境の地へと向かっているはずの友人の無表情な顔を思い浮かべながら、スバルの傷付いた意識は眠りの闇へと水没して行った。次に見るのが悪夢でないことを祈りながら……。










 『表面張力』、と言うモノがある。科学知識が無い者でもその名称ぐらいは聞いた事があるであろう……アメンボが水面に立っていられるあの現象だ。あの小さな虫は四本の肢の先に密生した体毛と水面に働く分子間力を利用することで水面に溺れることなく立っていられるのだが、あの現象はアメンボだとか一円玉だからこそ成せる業なのであって、決してそれ以外では成し得ない現象のはずだった。

 「……………………」

 彼は立っていた。広大な森林地帯の一角に存在するその湖の水面に両足を接地して、まるで体重など存在しないとでも言い張るかのように……。以前、海上更正施設周辺の海上にてやって見せたあの現象だ……自分の足元に極薄且つ数十平方メートル以上にも渡る魔力の膜を生成し、スキー板の如く体重を分散させるあの離れ業……。水面に接地しているローラーの僅か数センチ単位の爪先部分から常時一定量の魔力を放出し、維持し続けるのは針先で岩盤を掘削するのと同じ位のテクニックを要し、場合によっては飛行するよりもずっと難易度が高いのだが……

 少なくともトレーゼの両脇を固めるようにして空中に停滞している二人にはそんな芸当は出来なかった。杖と鎌を手にした白と黒の彼女らは水面に留まったトレーゼとの距離を一定に保ちながらとっくの昔に臨戦態勢に入っていた。

 「…………あなた……ノーヴェと一緒に居た……」

 紫苑の短髪と白磁の肌、そして金色の双眸。なのはの記憶に蘇るは11月11日にあった愛娘の学芸発表会でのこと、あの時敷地内のベンチでノーヴェと一緒に座っていた少年……初めて見た瞬間から自分とは違う、対極と言うよりかはまるで『異端』と言う雰囲気を漂わせていたのは確かだったが、まさかこんな所でこんな再会のしかたをしてしまうなどとは思っているはずもなかった。

 「……ナノハ・タカマチか……」

 「なのは……? 知ってるの?」

 「前にヴィヴィオの学芸会の時に……」

 なのはは思考する……何故あの日あの時彼があそこに居たのかについて……。地上本部襲撃事件があったのはあの二日前、既にクロノ達の調査であの時の犯人が“13番目”であるのは確定的に明らか、だがその僅か二日後に何故あんな所に彼が来ていたのか? 分からない……彼の思惑が全く以てなのはには理解出来なかった。これは何かの策なのか?

 「……前々から、お前達三人を、警戒していた」

 そんな彼女の心境など知った事でないとでも言うように、トレーゼが水面を離れて浮上する。小さな波紋が湖に広がると同時に魔力膜が湖面から消失、完全に足場を無くした。

 「リンカーコアを、持たない人類から生まれた、一代限りの突然変異種…………死亡した者の、細胞を利用して発生した、戦闘用クローン生体…………この世で最も、忌まわしい古代遺失物の核を宿した、異端の生きたロストロギア……。過去の、如何なる事例を見ても、貴様たち程の、『特殊』は見受けられない」

 「…………」

 「加えて、貴様たち三人の共通項は、『個人の戦闘力の高さ』。常人が、数年……いや、数十年以上掛けても、到達出来るかどうか、分からない極致に、達している……。まさに、『特殊』だ」

 トレーゼの四肢の武装がそれぞれカートリッジをロードし、空薬莢が湖面に没した。スピナーの鼓膜を引き裂くような強烈な音がなのはとフェイトを威嚇する。

 「全てのモノは、三つに大別される……。『正常』と、『特殊』……そして、『異常』」

 右手に握られていた黒いキューブ型のストレージデバイス、デウス・エクス・マキナの表面に電光が走り、T字形の破壊鎚へと姿を変える。形状も大きさもあの小さな守護騎士が振り回しているモノと寸分の狂い無く同じだが、その色彩は限り無い黒、持ち主の特性を反映しているかのような色彩だった。

 「少なくとも、貴様たちの部下は、紛う事無き、『正常者』……俺からすれば、どうでも良い、存在だ」

 トレーゼが軽く柄を振ると、六発装填式のカートリッジ機構が作動してデバイス全体に魔力が満ち溢れた。ハンマー部分に、彼女らには見慣れたスパイクと噴射口が出現する。

 「だが、貴様たちは、違う。貴様たちは、存在することが、こちらにとっては、既に危険なのだ。三年前も……貴様たちが居なければ、計画は成功していた、はずだった」

 さらに足元に疑似円形陣が展開され、手首と足首に真紅のエネルギー翼が出現して唸りを上げ始めた。これで彼は最速のスピードと最強のパワーと言う相反する二つの力を同時に手にしたことになる。

 「貴様たちのような、『特殊者』を排除しておけば、以降の計画進行は、盤石なものとなる。だから――、



 ――死ね」



 棍棒を振るったような空を切る音の直後、衝撃波によって湖面の水が瀑布の如く弾け飛び、その予期せぬ飛沫がなのはの目蓋を襲った。

 「しまった……! 目が……!」

 水飛沫が両目に飛びこんで来た所為で反射的に目を閉じてしまった彼女は、これが相手の策だと言うことに気付き、すぐに目元を拭き取って距離を置こうとする。

 だが――、

 「討った……」

 「!?」

 背後から声……。いちいち振り向かなくても分かる、今自分の後ろには一撃必滅の威力を秘めた一撃を与えるべくしてやって来た“悪魔”が自分を狙っていることが。

 だが見てしまう。腰を捻り、肩を揺らして、首と眼球を背後の“彼”へと向けてしまうのだ。

 そして見えてしまった。

 白面に輝く二つの金の瞳……

 短い紫苑の髪を振り乱し……

 こちらの臓物を抉り出さんとして鐡の鉤爪を伸ばして来るトレーゼの狂気の姿を!

 「ぅぐ!?」

 その瞬間、なのはは恐怖した。長年現場などの第一線で出張って来て、様々な犯罪者などをその目で見て来たが、未だかつてこれほどの狂気に塗れた存在と出会ったことなどただの一度だって無かった。だからこそ、彼女は反応するのが遅れてしまったのだ。彼の姿に気圧されたから……狂気に打ち負けたから……恐怖してしまったから。

 レイジングハートが何か言っている……だが聞こえない、聞いている暇なんてあるはずもなかった。この時彼女の脳裏に浮かび上がったイメージは、自分が10代の時に初めて撃墜された瞬間に思い浮かべてしまった“あれ”……

 死である。



 刹那、爆音が空間のあらゆる生物を脅かした。










 「あらあらぁ~。お兄様の方は早くも始めちゃったようですわねぇ」

 遠くで起きた爆発をクアットロはまるで花火でも観賞しているような感じでそれを眺めていた。白い囚人服の出で立ちで右手にブレードと言う奇抜を通り越したファッションだが、目の前の標的の意識を自分に釘付けにするには充分過ぎた。

 「そ・れ・でぇ~♪ お兄様には何にも言われてませんけどぉ、別に好きにしても良いんですわよね」

 「好きにって……何をや?」

 「決まってるじゃないですかぁ。どうやってあなたを殺すかですわ」

 ブレードを正中線に沿った形で構えた後、その切っ先をはやてに向かってレイピアのようにして構えるクアットロ。彼女とて戦闘機人の端くれ、姉であるドゥーエからは多少なりとも武器の扱いは習っている。

 対するはやて側も無抵抗でいる訳にはいかない。身の丈程ある十字杖のシュベルトクロイツと夜天の書を手に臨戦兼威嚇態勢に突入する。

 「あらあら、下手に抵抗するから痛い目に合うってことを知らないのかしらぁ? このクアットロちゃんに任せておけば、腹を掻っ捌いて地面に臓物をブチ撒いて、脳髄をこの綺麗な指先でもってグチュグチュに掻き回してあげるのに……」

 「…………」

 「あぁー、でもやっぱり頭を穿るのは首をブツってからの方が良いかしら? ボールみたいになった貴方の首を抱えて懐かしのラボを凱旋する……あぁ! 想像するだけで濡れちゃいそう!」

 「……なぁ、あんた、これからどうするつもりなんよ?」

 「はぁ?」

 まさかはやてがその様な事を聞いて来るとは思ってなかったのか、彼女は一瞬だけ呆けたような表情を取った。そしてその次にクスクスと嫌な笑みを浮かべてこう言ったのだ。

 「どうするも何も、私はお兄様について行くだけですわぁ」

 「そうやない。辺境とは言え一監獄施設を武力を使うて脱出なんかしよったら、次元世界の端っこまで逃げても無駄や……必ず脱獄したあんたらを迎えに来る」

 「来たら、何だって言うんですかぁ?」

 「良くて終身刑、悪けりゃその場で射殺……悪いことは言わへん、今すぐ投降し!」

 はやての言った事は嘘ではない。実際彼女は知る由も無いが、クアットロは確かにあの拘置所を脱する時に射殺されかけたのは確かだ、彼女ら二人が捕まれば言い訳も何も無しに殺されるのは目に見えている。そんな事は相手側だって充分承知のはずだ……だが――、

 「アハッ! アハハッハハハハハハハァキャハハハハハハハァ!!! 何を言い出すかと思えば、『投降しろ』ですってぇ~!? 天下の八神元部隊長様はジョークも天下一品ですこと! 可笑しくって笑えちゃうわ、うふぅはははっははははははっ!!!」

 「な、何を……!?」

 「あー可笑しいぃ! お兄ぃ様ぁ~! 聞こえましてぇ~? この女の馬鹿げた冗談、戯言、世迷言を!! アハハハッ、私達ぃぃぃ! 投降しないとぉぉーー! 殺されるんですってぇぇ!! 笑っちゃいますよねぇ~!!!」

 背を大きく仰け反らし、腹を抱え、この世の最高のエンターテインメントを堪能したかのように爆笑、遥か遠くの湖で死闘を繰り広げているはずの兄に向って盛大に嗤い掛けた。

 笑い。

 嗤い

 哂い。

 馬鹿にするように嘲るように蔑むように……クアットロは歴戦の魔導騎士の出した最大の譲歩を綺麗さっぱり笑い飛ばして見せたのだ。

 「はぁ~笑った笑った、一生分笑いましたわ。お礼を申し上げますわ八神元部隊長、こんなにイイ気分になれたのは三年前のあの日、地上本部をブッ潰した時以来ですわぁ。でもぉ~、まさか貴方のその下種な売女の口からそんな逸品のジョークが直接聞けるなんて……このクアットロ、感謝と光栄と興奮で局部がビショビショですわぁ~」

 右手にブレードを持ったままクアットロが肢体を妖艶にくねらせるが、今のはやてにとって重要なのはそこではなく、『何故彼女がこちらの譲歩を断ったか』にあった。確かに彼女はあまり利口とは言えないだろう……与えられた使命よりも個としての自我を最優先させるタイプである彼女は自分の気に入らない事に関しては徹底的なまでに拒否を示す。だが、それと同時に彼女とて度を越したバカではないはずなのだ、自分が袋小路に追い詰められた鼠であることを理解した上でこの言葉を吐いたのだとしたら、一体その自信はどこからやって来ているのか?

 「……何でや?」

 「はぁい?」

 「何でそんなに自信があるんや!?」

 「『何でそんなに自信があるのか』ですってぇ? キャハハッ、あなたはあの人の怖さ、恐ろしさ、偉大さをまるで知らないんですねぇ。可愛そうですわ~」

 「あんたは何を知ってるって言うんや!」

 「知りませんわよ。私だって会ってから半日だって経ってないんですもの、知る訳ないじゃない」

 「やったら……!」



 「ならあそこに行って確かめます? 死にますけど」



 「っ!?」

 「今の彼にとっては動くモノは全部が敵…………狂気と殺意に満ち満ちたあそこに突っ込めば、私ですら生かしては返してもらえないでしょうね」

 そう言って不敵に笑うクアットロの遥か後方からは確かに純然でそれでいて莫大な殺気の渦が地殻変動の津波の如く押し寄せて来ているのが肌で分かった。クアットロの言った事は決してハッタリなどではない……今あの場所に足を踏み入れたモノは有機物無機物の概念の垣根無しに影も足跡も残さず、完膚無きまでにこの物質世界から消滅させられてしまうであろうことは容易に理解出来た。これまで幾人となく常人とは違う人間などを見てはきたが、“あれ”は間違い無く特殊……いや、『異常』だった。

 「イイですかぁ~? お兄様は、とっくに貴方がたの物差しで計れる範疇を超えてるんですのよぉ。“自由”とか“拘束”だとか……そんなモノはあの人にとっては自分の行動を制限する着脱可能な枷でしかない……まさに至高! 究極! 絶対の象徴! それが彼、ナンバーズNo.13『トレーゼ』なんですから♪ 所詮あの人にとって、貴方がたが幾ら軍団で押し寄せようとも道端に転がる只の石コロでしかないんですよ」

 「あんたらは一体何をするつもりなんや?」

 「どうも何もありませんわ。ここから無傷で脱し、私達の創造主であるDr.スカリエッティを奪還する……それ以外に考えられるコトなんてありまして?」

 「……私が『はいそうですか』って言って逃がすと本気で思とんのかいな?」

 「だったら悲しいですけどぉ~、はやてちゃんにはここで死んでもらいますぅ。手足を削いで首をブッタ斬り、お腹の中身をブチ撒けた後で内臓を口に詰め込んで、眼球を刳り抜いた頭を手足ごと腹にブチ込む……嗚呼! 想像しただけで興奮するわぁ!!」

 空を切る嫌な音の後、先に攻め込んで来たのはクアットロの方だった。ブレードを正中線に構えた彼女ははやてよりも高い空中へと飛翔し、一瞬で獲物の死角へと侵入を果たした。対するはやても無抵抗でいる訳にはいかない、十字杖を真横に構えて上からの衝撃に対する防御体勢を固めて迎え撃つ。

 「くぅ……!」

 「あらぁ、よくもまぁ受け止められましたわね」

 予想よりもずっと鋭く重い斬撃に腕の関節が悲鳴を上げるが、なんとか持ち堪えることは出来た。だが純粋な腕力の差は歴然とし過ぎている……このままでは自分が打ち負けることは避けられないと判断したはやては逆上がりの原理を利用した回転蹴りを見舞った。

 「おぉっと!」

 しかし寸前で回避されてしまった。一応距離を取り直すことには成功したが、今度それを詰められれば無事でいられるかどうかは分からなかった。要は自分の制空圏内に入れさせなかったら良いだけの話なのだが、如何せん相手の機動力は自分よりもワンランク上だ、一瞬でも気を抜けばその時点で即死と成り得る……間合いを保つことすら困難なのだ。

 「どうやら、さっきの一撃で私の怖さをしっかり分かってくれたみたいですわねぇ~。こ・れ・がぁ~、私達と貴方達の決定的な違いですわ。バリアジャケットなんて薄っぺらいコスチュームとデバイスなんて言う玩具程度の道具しか扱えない貴方と、遺伝子レベルでの改造を施して“兵器”へと昇華した私達…………貴方達がどんなに“超人”だろうと所詮人はヒトであることに変わりは無い。たかが人間の分際で私達“兵器”に適う道理なんて無いのよぉ」

 確かに、はやてが今戦っているのは戦闘機人……人の形をした人成らざるモノなのだ。普通の人間が物理的な力で対処出来るはずがない。

 「加えて貴方はバリバリの超長距離爆撃支援型の戦闘スタイル……その砲撃能力だけはあそこに居る高町の悪魔をも凌駕していることだけは確かですけど、それの代償と言っても良いくらいに接近戦がダメダメだと言うのもまた事実ですわ。違いまして?」

 「御明察や。小さかった時から体動かすんは苦手やったからな……」

 幼少期の頃の後遺症とまでは言わないが、あまり継続的な運動をした事が無かったはやては三人の中では一番スタミナが少ないのだ。過去にシグナムから護身術として剣術を指南してもらおうとした事があったのだが、主である彼女の体力値の低さを懸念した忠実な烈火の将自信が頑なに拒み、軽い間接技しか教えなかった程だ。長距離アウトレンジからの爆撃に特化した戦闘方法は彼女にとってはまさに天から降って舞い降りたようなスキルではあったのだが、杖と魔導書だけに頼った戦闘は更に彼女の肉体を鈍らせるのに一役買っていたと言う訳なのだ。

 対するクアットロはそれら魔導師とは対極の存在……魔力による一方的なレンジからの攻撃がメインである魔導師とは違ってリンカーコアを持たない彼女らは、接近戦などによる物理的戦法による仕留め方を主流としている。格闘技能だけでもそこいらのスポーツ選手の数十倍は高い能力を有している。

 「“13番目”はこれを見越して……!」

 「今更気付きましたの? 接近戦を不得手としている貴方には非戦闘型の私の実力だけで充分と判断されたってことですよぉ~♪」

 手頃な木の枝を拾って喜ぶ子供のようにブレードをやたらめったら振り回すクアットロ……成す術など有ろうはずも無い。

 「私、まだ人間の解体だけはした事が無かったんです♪」










 危なかった――。あの時とっさの機転を利かせたフェイトが突き飛ばしてくれなければ、なのはの脳髄は物理破壊設定のスパイクによってミンチより酷い状態にされていただろう。

 湖面で繰り広げられる高速不規則軌道飛行……フェイトをに先頭にして一番最後をトレーゼ、追って来る彼をなのはが後ろ向きに飛行しながら16発の【アクセルシューター】を常時一斉発射して迎撃していると言った図式だ。なのはの攻撃は鋭い、撃ち出されたスフィアの一個一個が誘導ミサイル並みの精度と一撃で人体を昏倒させるだけの威力を内包している。伊達に砲撃型魔導師最強と呼ばれている訳ではないのだ。

 だが――、

 「DMF、全方位展開」

 『Roger.』

 どんな高性能な魔力弾も当たらなければ意味が無い。【Drain-Magilink-Field】……魔力を拡散して無効化させるだけの従来のAMFとは違い、この対魔力魔法は触れた魔力物質を例外無く『吸収』する事を目的としてトレーゼが編み出したモノである為、DMFの出力を上回るだけの魔力をぶつけなければ通る魔力も通らないと言う訳だ。せっかく撃ち出された16発の弾丸もただの魔力の滓に分解され、トレーゼのリンカーコアへと還元されただけだった。

 そして、吸収された魔力分は100%彼のモノとなって……

 「ディバインバスター……」

 『Divine Buster.』

 破壊の閃光が彼の翳した右手から弾き出された。真紅の暴力的な魔力の奔流がなのはのバリアジャケットを焼き消さんばかりの勢いで猛襲して来る。

 「く……!」

 だが寸前でその奔流は自然消滅し、辛うじてなのはは無傷で済むことが出来た。あれだけの高威力の魔法が何故あんな短い時間で消滅したのか……それは彼の放った魔力組成に理由がある。通常【ディバインバスター】は遠距離の対象を撃墜するのに持って来いの砲撃魔法である。原案者である高町なのはのイメージした最強の砲撃魔法……どんな強固な壁をも粉砕し、どんな速い物でも追い付き、どんな強さを持った敵でも撃墜する……それがこの砲撃の真髄なのだ。

 だが彼の場合は違う。もし彼がなのはから直接コピーしていたのだとすれば間違い無く遠距離魔法となっていただろうが、実際に彼が収奪したのはスバル式にアレンジされた至近距離拡散型……文字通りショートレンジの対象に対しては絶大な攻撃力を誇るもある程度まで距離を離された物に対しては効果を成さない場合が多いのだ。

 「やはり、【ディバインバスター】は、遠距離魔法だったか……」

 ナックルから空薬莢を弾き出しながらトレーゼは苦々しげに呟く。こちらの攻撃が距離的に届かない以上は接近するしかないのだが、そうなればフェイトの間合いに突入することになってしまい、容赦無い攻めを受ける羽目になってしまう。まさに拮抗状態であった。

 「答えて! スバルの足を切ったのは貴方なの!?」

 「……だとしたら、どうした?」

 自分の前を行くなのはからの言葉にトレーゼは【クロスファイア】を撃ち込みながら応答した。飛襲して来た真紅の弾丸を桜色の光線で掻き消しながら彼女は続ける。

 「どうして……! どうしてあんな酷い事をしたのっ!!」

 「何が酷い? この世に、酷いだの、正当などと言う、概念は無い。強者こそが、理であり法なのだ」

 「そんなこと――ッ!!」

 「奴は、弱かった……だから、俺に四肢を、分断された。だが、もうその心配も、無い」

 「それってどう言う意味!?」

 「ここで、死ぬ輩に、何を言っても無駄…………一気に、叩かせてもらう」

 トレーゼの手前に魔力が集中する。しかし、今度現れたのはただの魔力の塊では無く鉄球だった。高純度且つ高密度に凝縮されたその弾丸を撃ち出す魔法……【シュワルベフリーゲン】は射程も貫通力も【クロスファイア】に比べて高く、当然のことながら威力はその比ではない。

 「させないっ!!」

 撃ち出しを阻止するべくフェイトが前へ進み出る。手にしていたバルディッシュはいつの間にか見慣れた鎌の形から大剣型のザンバーフォームに変形しており、彼女のスイングモーションはかつてスカリエッティを壁に叩きつけた時以上の力を込めていることを容易に想像させた。

 だが――、

 「甘い……!」

 空中サマーソルトによる足捌きで剣筋を僅かに逸らして剣先の軌道を変えた後、回転の要領を活かして弾丸の一つをなのはの心臓目掛けて撃ち出した。

 鎚に接触した瞬間に撃鉄を入れられた銃弾の如く飛び出したそれは寸前で彼女の張ったシールドに防がれて霧散したが、着弾の瞬間に発生した閃光に紛れて突貫して来たトレーゼに最後まで気付けなかった。腹部を途轍もない衝撃が襲う……!

 「ぅぐっ!!?」

 「なのはっ!!」

 一歩出遅れたフェイトがすぐさまトレーゼの背後に斬りかかる。しかし、純粋な魔力によって生み出された刀身はDMF圏内に入った瞬間に形状を失い、彼の肉体には届かない……。ならば肉弾戦と言わんばかりの回し蹴りを飛ばすが、ガンナックルに酷似した武装――『ジェノサイドストライカー』――の漆黒の外殻によって防御されてしまう。

 「く……! レイジングハートッ!!」

 『エクセリオンバスター、発射!』

 主の意思を汲み取った愛杖は自殺覚悟の大技、零距離バスターを敢行するべく先端のエッジに魔力を溜めこんだ。この距離ならば対魔法結界など無力に等しい、チャージに時間は掛かるが、一度発してしまえば後はこちらのものとなる。如何にトレーゼの肉体が頑強言えども耐え切れまいと見越しての手段だった。

 「バスターーーーーッ!!!」

 かつてこの零距離砲撃を受けて無傷で済んだのは初代リインフォースただ一人……Ⅲ型ガジェットですら粉微塵になるそれを、なのはは生まれて初めて人間に放って見せたのだ。



 刹那、暴力的な輝きを持った桜色の閃光が湖面を眩く照らした。



 爆煙と舞い上がった水霧の中からなのはとフェイトが飛び出して来た。フェイトの方はとっさの衝撃に備えていた為に辛うじて難を逃れたが、当の突貫戦法を敢行したなのはは身に降り掛かった衝撃を殺し切れずにボロボロだった。だが手応えはあった、ありったけの魔力を込めて放ったあの砲撃がそうそう対処し切れるモノではないのは使用者である彼女の知る処……予想が正しければ昏倒して水面に浮かんでいるはずだった。

 だが――、

 「なのは!!」

 「っ!?」

 隣のフェイトの声でなのはの体に再び緊張が走った。痛みで悲鳴を上げる筋肉を鞭打ってレイジングハートを構え直し、彼女は前方の未だ立ち込める爆煙に目をやった。

 始めに見えたのは光だった、桜色の薄らとした光が真円を描いて空間に集中している様子が分かった。次にその光の正体は先程の【エクセリオンバスター】の魔力だと分かった、少し大き目の岩石なら容易く破壊出来るだけのその魔力が全て、そこに集中していたのだ。

 やがて爆煙が完全に晴れるとその正体が判明した。

 「魔力、圧縮……」

 真円の中心には無傷のトレーゼが居た。あれだけの大出力砲撃を零距離で受けながら何故彼が掠り傷一つ無いのか……それは、彼がバスターを放たれた瞬間にAMFを全開にし、その魔力組成を崩壊・拡散させることで難を逃れて見せたのだ。そして、術者から発散された魔力を彼がそのまま霧散させるはずがなく、こうして自らの肉体の周辺に集中、空間を歪ませるまでに圧縮したそれを自らのリンカーコアに吸収するのだった。

 やがて肉体をすっぽり覆っていた魔力の球体は彼の右手に収まるまでに圧縮され、ついにトレーゼはそれを握り潰すようにして体内に取り込んだ。

 「吸収、完了……。これ程、良質な魔力は、初めて見る」

 「そんな……! あの攻撃を至近距離で受けて……!?」

 「距離など、関係無い。例え、貴様らが、懐に居ようが、惑星の反対側に居ようが、発見し、排除することに、変化は無い」

 トレーゼの足が水面に降り立った。紺色のバリアジャケットの表面をリンカーコアから溢れ出た魔力が紅い電光となって迸る。毒々しいその魔力は水面を走って、距離を置いている二人の所まで届くようだった。

 「……ねぇ、どうして君は戦うの?」

 「全ては、創造主スカリエッティの、為に」

 「どうしてあの人の為にそこまで出来るの?」

 「ナンバーズは、あの方の、私兵……それ以上の、理由など、そこに介在する、余地も無い」

 くだらない話は聞き飽きたと言わんばかりにトレーゼの四肢のスピナーの回転数が上昇した。恐らく次の瞬間には高位魔法が飛んで来る……そう判断したなのはとフェイトは念話で確認もせず、阿吽の呼吸で瞬時にトレーゼを阻止する為の行動に出た。なのはが右、フェイトが彼の左サイドへと移動し、互いにデバイスへ今自分が持てるだけの魔力の全てを注ぎ込み始めた。両者のカートリッジ機構が作動し、排出された無骨な空薬莢が水面に沈む。

 「エクセリオン……――!」

 「トライデント……――!」

 対象を左右からの最大砲撃魔法で以て挟撃するこの戦法……かつて三年前の廃棄都市区画での一戦の時、逃走を企てたクアットロとディエチを仕留めようとして使ったモノだ。『溜め』から『発射』までの間に敵が幾ら距離を離そうとしても意味は無い、その程度の誤差ならば軽く呑み込んでしまえるからだ。

 なのはは杖の切っ先に、フェイトは自身の左手に、リンカーコアの大半の魔力を乗せ、そして――、

 「バスタァァァァァァーーーッ!!!」

 「スマッシャァァァァーーーッ!!!」

 桜色の直線砲撃と雷光を纏った三本の閃光が、たった一人を仕留める為に文字通り全力全開で放出された。現段階で二人が使用出来る最大の攻撃魔法……遠目から見れば、まさか二人がたった一人の人間に向けて撃ったとは誰も思わなかったはずだ。

 対するトレーゼは放たれた暴力的な閃光を一瞥する事も、そこから一歩も動く事も無く、遂に左右から迫る閃光が自分の制空圏内に入って来ても動じる事は無く……



 着弾した。










 “彼女”は思考する――。と言っても、別に何をどうこうしようかと野暮で俗人的な事を考えているのではない……普通なら明日の予定は何にしようかとか、夕刻の食事は何だろうかなどを考えるのだろうが、“彼女”の場合に限ってのみ言えばそんな事は絶対に有り得なかった。

 「……………………」

 ふと、瞑想を続けていた“彼女”が不意に立ち上がり、狭い部屋の外へと続いているはずのドアへと向かった。だが外には出ない、その近くの壁際に設置されているインターホンのような小さなボタンを押し、自分の声が届くようにスピーカーへ口を近付ける。

 『はい、こちら居住区担当管制室です。413号室、何か問題でも?』

 「いや、特にこれと言った異常は何もないのだが…………一つだけ頼まれてくれないだろうか?」

 『はい?』

 「今日……いや、明日で構わない……管理局内で発行される広報誌があるはずだから、それを一部だけ私に融通してくれないか?」

 『申し訳ありませんが、あの広報誌は局員とその関係者のみに配当されているものですので、失礼ながら貴方には……』

 「私がここから無理矢理脱すると御思いか?」

 『いえ、その様な事は……』

 「ならば、ここに居る間は私は管理局の関係者と言うことになる。では頼んだぞ」

 半ば一方的に“彼女”はインターホンの向こう側に居る担当官に言伝すると、さっさと通信を切ろうとした。

 『ちょ、ちょっと待ってください! どうしていきなりそんな……!』

 「どうして、か。そうだな……ただの勘だな」

 その一言を最後に、“彼女”は通信を切って再び部屋の奥へと引きこもった。だがさっきのように地べたに座り込むのではなく、今度はベッドの上に潜り込み、そのまま目を閉じて睡眠に入ることにした。

 「そうさ……ただの勘さ。背筋を悪寒が走る程の異様な胸騒ぎがする……ただの勘だ」










 結論から言えば、二人の攻撃は単なる徒労に終わったと言うことになる。なのはの撃ち出した砲撃も、フェイトの繰り出した雷撃も、全く以てトレーゼにダメージを与えることは出来なかったと言うことだ。

 「単純な、力でのゴリ押し……戦術性の欠片も無い。まるで、話にならん」

 こんどはさっきと違って爆煙も何も巻き起こらなかった。その分の魔力は一体どこへ行ったのかといえば、【エクセリオンバスター】の魔力は右手に、【トライデントスマッシャー】の魔力はトレーゼの左手に、野球のボールのように圧縮されていた。桜色と黄金色の魔力球を握りつぶすモーションで再び魔力を直接取り込んだ彼は、自分の取り込んだ魔力量を確かめるようにして体表に紅い魔力を滲ませた。

 「そんな、あんなに力一杯撃ったのに……!?」

 「魔力の量など、関係無い。貴様らの戦術が、こちらから見て、劣っているだけだ」

 二人の魔力を余す事無く吸収した所為か、トレーゼの体表からは魔力変換された紅く妖しい電光が這いずり回っており、それだけで見る者全てを威圧するような圧迫感があった。その無言の迫力に気圧された二人は生物の本能からか、無意識に彼から離れようと後ろへと遠退き始めた……彼の“狩猟圏内”から一歩でも離れる為に。

 「さて…………読めたぞ、貴様らの、戦術性が」

 「え!?」

 「まずは、ナノハ・タカマチ……。砲撃と、射撃による、ロングレンジ攻撃を、利用した遠距離戦闘型だが、同時に近距離に対応した、一撃突貫離脱型でもある……違うか?」

 正鵠を射るとはまさにこの事か! 目の前の少年の言葉に思わず身震いするなのは……彼女のその反応はそれが真実であるか否かを見定めるには充分過ぎた。

 「だが、自身の生み出す速度に、対応し切れていない為、接近戦は、限り無く、直線的になり易い」

 これも正しかった。フェイトと違って元々接近戦がそれ程メインではない彼女は両腕で武器を振り回すと言った行動が苦手なのだ。唯一の接近戦魔法に【A.C.Sドライブ】による刺突だが、あれこそまさに彼が言ったように直線の動きしか出来ないモノだった。

 「次に、フェイト・T・ハラオウンだが、お前はもう、話にならない」

 「……何が言いたいのですか?」

 軽い侮蔑が含まれた言葉に反応する事無くフェイトは冷静に問いただした。ひょっとしたら相手による心理的な揺さぶりも考えられる……ここは下手な反応をしないが吉だと言えた。

 「ミッドチルダ式は、本来遠距離攻撃を、メインとして、発展した魔法体系…………だが、お前は至近距離での、接近戦に、頼り切った戦術しか、しない。最早これは、既存の在るべき魔法体系を無視した、ただの武力でしかない…………お前、砲撃戦が苦手と見た」

 「…………図星よ」

 彼の言ったことはハッタリではなかった、実際フェイトは局内では接近戦に長けた異色のミッド式魔導師として名が通ってはいるが、それはつまり裏を返せば遠距離による射撃・砲撃はそれに比べてレベルが劣ると言うことでもあった。確かに彼女の戦闘技術は接近戦に限って言えばベルカ式の騎士にも見劣りはしない事は明白な事実……だがしかし、記憶転写クローンとして生まれた彼女は先天的に発現した固有能力である魔力変換資質の所為で、本体である彼女の肉体から離れた射撃・砲撃などの魔力の塊は射線上でそのまま電気に変換され、霧散してしまい易いのだ。魔導師のバリアジャケット……特にミッド式のモノは遠距離戦闘を重視している為に対魔力性能が高く、発電所並みの電圧でない限りただの電流となった攻撃など容易く遮断してしまうのだ。故に、彼女は遠距離戦を好まない……彼女の唯一無二のデバイス、バルディッシュが接近戦仕様なのも、彼女の育ての親であり制作者でもあったリニスが彼女の魔力特性を考慮していたからなのかも知れなかった。

 「お前の、過去は、ある程度予備知識として、認識している……。母の名は、“プレシア・テスタロッサ”……ドクターとは違い、『表』にその名を、馳せた、天才的科学者だが、研究施設の実験での暴走事件で、娘である、“アリシア・テスタロッサ”を死亡させた」

 「……………………」

 「その娘の復活を願い、奴は記憶転写クローンの、技術に、手を染めた……。通称、『プロジェクトF.A.T.E』……そして、お前は、その栄えある『失敗作』、と言うことだな」

 「…………何が言いたいの?」

 始めは静かにトレーゼの言葉を聞き流していたフェイトだったが、やがてその話が自分の過去……ひいては今は亡き自分の母にまで及び始めた時、彼女の冷静さは少しずつ氷解が始まってきていた。自分の事はどうだって良い……母から肉体的な責め苦を受け始めた時からそうだった、自分の事は二の次で自分の大切な人間が満足すればそれで良かった……そして、その大切な人間を汚したり仇成す者が居れば全力で排除して来た、それは今からでも変わりは無い。

 だから――、

 「いや、別に……ただ……」

 必死に冷静であろうと努めていた。

 しかし、心の――感情の防波堤は彼女の必死な理性とは裏腹に――、



 「所詮は、堕落した女と、獣から成りあがった使い魔……そこまでが、限界でしかない、クズと言うことだ」



 ――決壊した。

 「おまえぇぇぇぇえええぇえええぇええぇっ!!!」

 後に友人であるなのはは語る……過去にフェイトがこれ程までに怒りを露わにした事が果たしてあっただろうか、と。いや、出会ってから早10余年……今の今までに一度だって見た事など無かった。電撃を従えた髪を振り乱し、雷光の大剣を大きく振りかざした彼女は隣のなのはが制止する暇も無く、自分の母と師をこの上無い侮辱と嘲笑で汚した憎い敵を討とうとして突っ込んだ。

 『サー! 危険です、サー!』

 「うるさいっ!! ファランクス! 対象の全方位に多重展開!!!」

 もはや握り締めた相棒の声など聞こえるはずも無く、憎悪と憤怒に目を見開いた彼女は自分の持てる唯一の全方位型迎撃砲撃魔法……【ファランクス】をトレーゼの前後左右上下360°に展開させた。総数1064発の凝縮された雷の弾丸の先端の全てが彼の心臓と頭部に狙いを定めているのが分かる。

 「発射ぁ!!!」

 対象はたった一人……それに対する弾数は1064……常人が見れば明らかに度を越した行動だと言うのは明白だったろうが、今のフェイトにそんな言葉は通じなかった。主に逆らう事の出来ないバルディッシュは激昂した彼女の命令通りに弾頭全てをトレーゼに向けて叩き込むことを決断した。

 そこから先の光景は筆舌には尽くし難いモノがあった。かつて、なのはに対して行使した時でさえこれほどの迫力は無かったはずだった……最初の第一波が着弾すると同時にトレーゼの体躯は完全に電光走る爆煙の中に呑み込まれてしまい、第二波が襲来した時にはもはや彼の姿が原形を保っているかどうかの保証さえも危うく感じられた。

 それでもまだまだ続く。最初に空中に生み出した弾丸は1064発だったが、フェイトは着弾と同時に更に数十個生み出すために弾丸の嵐は止む気配がまるで無く、最初の一波が着弾してから五分後……ようやく嵐は止んだ。

 「はぁ! はぁ! はぁ!」

 もうこれ以上の大出力魔法を放てる余裕は無い……飛んでいるだけで精一杯だった。今度こそ、今度こそは確かな手応えがあった。もしあれでも倒れないようなら……いや、そんなことは有り得な――、



 「所詮は、『失敗作』だったな。期待した、こちらが、愚かだった」



 その瞬間、フェイトが感じたのは自分の額を銃弾が撃ち抜いたのではないかとさえ錯覚するような激痛と、網膜に焼き付いた紅く毒々しい魔力の光だった。身に迫った危険に精神が追い付いておらず、結果として彼女自身が自分の頭部を万力のように締め上げられている事を自覚するのに数秒を要してしまった。視界が真っ赤に染まる……激痛と疲労で既に五体は脳の言う事など全く聞かず、視覚を塞がれた彼女は両手を虚しく虚空に振るだけしか出来なかった。

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁああぁぁああぁっ!!!」

 「フェイトちゃん!」

 親友の危機に隣に停滞していたなのははすぐさま解放しようとしてトレーゼに急接近した。愛杖を構えて全力で飛行する彼女は、得意の砲撃を撃つ事すら忘れてしまっており――、

 迂闊に彼の射程圏内に進入してしまった。

 蜘蛛が自分の網に触れた獲物を絶対に逃がさないのと同じように、左手でフェイトの頭を掴み上げながら、右手を迫り来るなのはに向けて……

 「ディバインバスター」

 『Divine Buster.』

 炸裂する紅い閃光を真正面から受け、断末魔の悲鳴を上げることすら出来ずになのはの肉体は慣性の法則に従って対岸の森林へと撃墜されてしまった。それは、砲撃の魔導師が迂闊に敵の間合いに入ってしまった事から発生した、生涯で最も恥ずべき失敗として彼女の教訓の一つに追加されることとなったのだった。

 「な、の……はっ!」

 頭蓋の耳障りなギチギチと言う音が鼓膜をうるさく叩きまくる……薄れ行く意識の最中で囚われのフェイトが最後の感じたのは、目の前の家族を侮辱した敵に対する憎悪ではなく、ましてやこんな醜態を晒した自分に対する自責の念でもなく……

 自分の愚かな行為で被害を被った友人に対する済まないと言う謝罪の気持ちだった。

 「DMF、発動」

 無機質な死刑宣告にも似たその言葉が、彼女の聞いた最後の声だった。発動と同時にタイムラグも無しにトレーゼの魔力が体内を蹂躙、リンカーコアを見つけ出してからその内容魔力を根こそぎ収奪するのにおよそ五分と掛からなかった。生命の源の一端を担っている魔力が完全に枯渇すると遂にフェイトの強靭な精神は意識を手放し、蹴り上げようとしていた足も、トレーゼの腕を振り払おうと振り回していた両手も、力無く重力によって垂れ下がるしかなかった。

 「続いて、思念捜査、開始」

 魔力を先に奪い取ったことで抵抗される危険性を排除した彼は、次に彼女の記憶を調べ上げることにした。ナンバーズの特性の一つに戦闘行動の積み重ねによる経験の飛躍的向上と言うモノがある……創造主であるスカリエッティが12人のナンバーズの短期育成の為に組み上げたシステムであり、戦えば戦う程に強くなると言う当然のプロセスを更に顕著なモノにしたものだと思えば分かり易いだろう。本来ならば実戦を積まなければ効果が無いこのシステムを、トレーゼは対象の戦闘に関する部分の記憶を奪うことにより、あたかも自分が本当にその人間と戦ったとシステムに誤認させることで更なる進化を実現させたのである。記憶を奪う対象は戦闘技能が高ければそれに越した事は無い……そして、今の彼の目の前には最高の検体がまさに自分の為に『強さ』提供してくれていたのだった。

 程なくして記憶回収は終了し、これにてフェイトに対する利用価値は毛程も無くなってしまった。一時期は洗脳暗示によって尖兵にすると言うのもあったのだが、彼女のような精神力の強い者にはやるだけ無駄と言うことが分かった。もう手足を動かすだけの力も残ってはいまい……このまま手を離してしまえば自重で肉体は水没し、溺死する……高町なのはを撃墜し、八神はやても今はクアットロが足止めしている以上こちらに来る事も無い……万が一クアットロが突破されるような事があったとしても、接近戦に不慣れな魔導師など敵ではない自信が彼にはあった。

 「さようなら、Fの残滓……造られたモノ同士、せめて、志を共にしていたら、こうはならなかっただろう……」

 鐡の剛腕からやっと解放され、フェイトの体躯はゆっくりと降下して行った。空中で逆転した彼女の物言わぬ体は頭から水没……30秒経っても浮上しない事を確認したトレーゼはそこから一気に距離を離し、一転して湖畔の森の中へと進路を変更した。

 「ガジェット全機、指令だ」










 「そろそろ諦めたらどうです~? フェイトお嬢様は墜ち、高町も撃墜された……もう勝敗は決しましたわよ?」

 「……ナマ言うておったら……あかんで……」

 クアットロの小バカにした言葉に真正面から喰って掛かるはやてではあるが、彼女にはもう体力があまり残されていないのは誰の目から見ても明らかだった。騎士甲冑の中でも肌の露出した魔力障壁が薄い部分を的確に狙われた所為で切り傷が目立ち、特に生物的弱点である顔面へのダメージは深刻だった……。

 「そんな右目で一体どうやって戦うつもりですかぁ?」

 「やかましい! 伊達に年とっとらへんわ、目ん玉の一個ぐらいで泣き言言うか!」

 右の眼窩から溢れ出す半透明な硝子体が入り混じった血液……潰されていた、眼球が、完全に。戦士として、例え片目であっても見えないと言うのは致命傷だ、単純に考えれば120°あるはずの視界の半分が削り取られると言うことになるのだから当然である。加えて痛覚、人体の中で最も繊細な部位が破壊されたともなれば、その痛みは計り知れない……きっとこうして立って虚勢を張るのが精一杯に違い無かった。

 「まぁ、私としては貴方の右目を頂けただけでも一応満足はしていますけど……お兄様は貴方の抹殺を望んでますから、ここで仕留めておくのが得策かと」

 「あんたがあの“13番目”に心酔してんのは良く分かったわ……やけどな、ええんか? いつまでも私に構ってばっかであいつを一人にしといても……」

 「あらあら、脅し文句は状況を良く理解してから口にした方が良いですわよぉ? 貴方のお友達は二人とも撃墜されたって――」



 「ここへ来たんが誰が三人だけやって言うたんや?」



 「……………………え?」

 人間は自分の予想の斜め上を行く事実が発覚した時、二種類の反応を取る……その事実に過剰なまでに驚きの反応を取るか、あまりの仰天にしばらくの間は放心状態となるかのどっちかしか無い。彼女の場合は後者だった、それもそうだろう……

 何故なら――、

 自分達の迎撃に来たのは『三人』しか居ないはずなのだから!

 「ど、どう言う……!? だって! ここには……あなた達しか来てないはずなんじゃ……っ!?」

 「アホか、アンタらを捕まえんのに保険も無しに来たりすると本気で思とったんかい。それに……おかしいと思うたはずや……私が魔力の出し惜しみをしてたんが」

 確かに、調子に乗って忘れかけていたが、始めに先制を仕掛けた時から少し疑問に感じていたのだ……あまりにも弱過ぎる、と。確かにはやてが接近戦を不得手としているのは事実……だが、冷静に考えれば自身の肉体を護るはずの魔力障壁まで薄いとなってくると、それは可笑しな話でしかなくなってしまう。

 何か……何かが足りない! 欠け落ちているピースがあるはずだ、それが何なのか……!

 「まさかっ――!!?」

 最悪の事態が脳裏を過ったその瞬間、クアットロは遥か後方の森林で敗北者の処理を行っているはずの兄の元へと急ごうとした。だが――、

 「行かせへん!」

 右目を潰され全身傷だらけで満身創痍……そんな体を鞭打ち、はやてはクアットロの進路を阻んだ。十字杖と魔導書を構え、隻眼となってまで威嚇する彼女の姿には『動かざること山の如し』と言う言葉が相応しい。

 「始めに誘ったんはアンタや……。最後まで付き合ってもらうで……!」

 「このアマ……!!」










 こんな光景を六課時代の人間が見れば驚愕に目を見開くだろう。あの生まれながらの天才とまで呼ばれていた高町なのはが、何の間違いか冗談か無様に地面に倒れているのだ。頭部からは裂傷の所為で流血しており、意識も完全に失ってしまっていた。少し離れた所では、落下時の衝撃で飛ばされたのか待機状態のレイジングハートが転がっており、主とのリンクが切れたことによって完全に黙り込んでしまっていた。

 「……………………」

 手負いの獣は危険だが、死に掛けの獣は只の餌でしかない……気絶したままの彼女の元へ来るのは味方か、それとも――、



 ガサッ――!



 その時、木々の茂みを掻き分けてこちらへ向かって来るモノがあった。突然の出来事に驚いた小鳥がけたたましく飛び去って行くのと、木々の枝の揺れを見る限り、かなりのサイズを誇る物体が移動しているようだが、問題はその数だ。全部で五つ……それぞれが違う方向から移動をしているようなのだが、その予測軌道は全てこちらを向いていた。こんなサイズの物体が多数で移動していては敵に気付かれてしまう恐れがある……かと言って、トレーゼの仲間と言う線は無い、彼は単独行動を好むからだ。

 では誰か? 彼ら以外の一体誰がここまで足を運んでいると言うのだろうか?

 その疑問は“それら”が茂みから姿を現すと同時に見事に氷解した。

 何故なら、“それら”は人間ではなかったからだ。鋭利な爪先が特徴の四脚のズングリとした球形の胴……神話に出てくるような人型の上半身が半ば無理矢理に接続されているその姿は、まさに人型機動兵器と言うに相応しいモノだった。

 『――――』

 全部で五機、無骨な赤いモノアイが地に倒れている対象を見つけるのにそう時間は掛からなかった。搭載されているサーモグラフと心拍測定機能で彼女が生きていることを確認すると、その内の一機が前に進み出て来た。

 余談ではあるが、この機体こそトレーゼがラボに残されていた設計図を元にして試験的に製造した陸戦用小型四脚機動兵器、ガジェットドローン試作Ⅴ型である。下半身の胴体と四脚は全てのガジェットの原形となったガジェットⅣ型の四脚駆動をモデルにしており、完全な陸戦仕様である。唯一の相違点はその上半身……両手に物理破壊設定の魔力弾を撃てる非合法の銃器型簡易式デバイスを装着しており、歴とした兵器としての有用性も暗に示していた。今回はその動作テストを兼ねてここへ持ち込まれているのだが、今この瞬間だけに限って言えばこの兵器に課せられたミッションは兵器らしからぬモノだった。

 進み出た一機が左マニピュレーターを突き出す。てっきり発砲するのかとも思われたのだが実は違う、中折れ式となっている銃器を外すとそこから隠れていた腕部を見せたのだ。指にしては細すぎる……それは注射針だ、血液採取用の大き目のサイズの注射器……それを的確な角度で以て気絶したままのなのはの首筋へと突き立てた。

 「……うっ」

 気絶しても眠りが浅いのか、彼女は首筋に走った痛みに身じろいだ。だが結局は体力と魔力を削られたこともあってか覚醒には至らず、容器の中が満たされるまで無抵抗で居るしかなかった。

 やがて目的量だけ取り終えた後、三本指のマニピュレーターを器用に動かして――、

 トレーゼへと手渡した。

 「……………………」

 いつからそこに居たのか、彼は注射器を受け取ると中身を試験管の中に移し、凝固阻害剤を混入して栓をした。容器に納められた赤い生命の液体を眺める彼の視線は、まるで幼子が目の前の宝石をどれ程の価値があるかも知らずに見ているのと同じようなモノがあった。だが彼はこの採取した血液が自分にとってどれだけの意味があるのかを重々理解していた。ここに彼女らが来たのは番狂わせも良いところだったが、こうして思わぬ収穫があったのは彼にとってそれだけで大きな戦果だと言えるのは確かだった。

 「……さて、まずは、その魔力を、もらおう」

 地面に伏せたままのなのはを足蹴にして仰向けさせた後、彼はその頭部に指先を当てた。接地面積などは関係無い……要は魔力と記憶を根こそぎ奪えればそれで良いのだ。程なくして魔力吸収が完了すると、次に彼は彼女の脳から記憶を抽出し始めた。垣間見える過去の戦闘の数々……記録では知っていたが、こうしてその一端を目の当たりにすると壮観なものがあり、若干9歳から命懸けの戦闘を繰り返して来た者の経験値はこれまで相手して来たどの人間よりも凝縮されていた。どんなエリート路線を行く魔導師であっても、やはり実戦に勝る訓練は無い……その点ではまさに彼女は今までに類を見ない最高品質の『素材』だった。

 だが所詮『素材』は使われる為にあり、用済みとなれば練り歯磨きのチューブと同じように破棄されるのが末路……。

 そして今――、

 「収集、完了。これより、ナノハ・タカマチの、最終排除に、移行する」

 地面に転がったなのはの頭部をジェットエッジに酷似した武装――『アサルトヴァンガード』――で蹴り飛ばすと、血液採取をしたものとは別の機体に指示した。

 「頭部を、狙え。もしくは、心臓……。絶対に、殺せ」

 『――――』

 物言わぬ機械の存在はマスターであるトレーゼの命令を音声認識で把握すると、蹴飛ばされて岩にもたれ掛かる体勢となっていたなのはの頭に照準を定めた。事前に弾き出したデータによればⅤ型の射撃命中率はおよそ98.47%……まだ実際に撃たせたことは無かったのでこのまま動作テストを兼ねるつもりだった。行く行くは来るべき戦いの為の布石の一つ……ここで有用性を確立しておくに越した事は無いだろうと踏んでの判断だった。

 管理外世界では文明の利器として真っ先に挙げられる武器――『銃』。近代の人間の心理にこの上無い恐怖を植え付けてくすぐるその無骨なフォルムの先端は、目の前の有機物の塊を排除するべく銃口にジェネレーターに備蓄されていた魔力を集中し――、



 先端部分が飛来して来た氷の刃で一瞬にして刈り取られた。



 「!?」

 狩人の本能が予期せぬ攻撃を加えて来たモノを捕捉しようとして、トレーゼはその氷柱が飛んで来た方向へと視線を向けた。そこに居たのは……

 「……貴様……」

 「させません!」

 魔力で生み出した氷の刃をまるで石つぶての様に投げつけては正確に急所を狙って来るその人物……白いバリアジャケットはその者に魔力的素質が充分に備わっている事を示しており、手にした蒼い魔導書から供給される魔力を用いて攻撃しているのがはっきりと分かった。だが問題はその身長……いや、外見年齢だった、身長も顔立ちもどう贔屓目に見ても10代前半でしかない……そして、以前目にした時はもっと小さかったはず……!

 「……ユニゾンデバイス!」

 かつて、管理世界を数百年に渡って震撼させ続け、魔法界の歴史にその名を永遠に刻まれた史上最悪のロストロギア『闇の書』……その完全消滅の際に所有者であった八神はやての意思によって創造された『闇の書』の残り滓……それが――、

 今彼の眼前に居るリインフォースⅡである。ロードである八神はやてからの魔力供給が解除されているのか、その身長は第二次地上本部襲撃事件の時とは違って四倍近く大きくなっており、本来出せる力の全てをフルに使えることを示していた。

 「てぇい!」

 魔力変換資質『氷結』によって生み出された大量の氷柱が一斉に飛来し、五機のガジェットの銃器腕を切断する。所詮は陸戦型、それも試作機として製造した物に空中を飛ぶ敵に対する対空迎撃装備など付いているはずもなく、ガジェット全機はものの30秒としないうちに頭部を切り取られて破壊されてしまった。

 「投降してください! 貴方にはもう味方は居ないです!」

 なるほど、こうしていざ戦闘して見ると普通の人間とは全く違うモノだと気付かされる。データに目を通した時にはてっきり八神のマスコットのようなモノでしかないと思っていたが、その考えは間違いだったようだ。

 だが――、

 「詰めが、甘かったな」

 「え?」

 リインがその言葉の真意を問いただす暇も無く、彼女は自分の撃破したはずのガジェットの残骸に変化を発見した。



 Piー♪ Piー♪ Piー♪



 目覚まし時計ではない、撃破したガジェットの胴体から聞こえてくるその高い音はリインの意識に警告のシグナルを促していた。何かがおかしい……とんでも無い事が起こる……そう確信していた。

 そして、彼女の脳裏に最悪の事態が予測される。

 「まさか……自爆!?」

 内蔵されているジェネレーターのリミッターを外して、その過剰に発生したエネルギーによって大爆発を引き起こす……それが全部で五つも起これば、この辺り一帯は間違い無く地形を変化させるほどのエネルギーによって壊滅してしまうだろう。

 このままでは爆発に巻き込まれる! そう直感したリインはすぐさま爆発圏内から身を引くべく、倒れていたなのはを肩に引っ下げて後方上空へと一気に飛んだ。だが対するトレーゼはそんな彼女を見上げるだけで全く移動しようとはせずにそこに留まり続けるだけだった。彼の障壁が如何様なモノなのかは知らないが、流石に機動兵器のジェネレーター五つ分ともなればその衝撃全てを殺し切ることは出来ないはずだ……なのに、彼はそこから一歩も動かない。

 アラートの鳴り響く間隔が段々狭まって来る……そろそろ予想されていた爆発が起こる時だろう。距離は充分に離した、ここで主犯を捕えられなかったのは失態だが、度の道爆発してしまえば骨肉の一片たりとも残らないはず――、



 プシューッ!!!



 「……………………え? 嘘!?」

 予想斜め上とはこの事か、リインは眼下の光景を見て呆然自失となった。

 てっきり自爆するものだとばかり考えていた……いや、そう思い込んでいた! 使いモノにならなくなった機械の塊の利用価値など所詮その程度しか無いと、本気で考えていたから。

 だが、これではっきりと分かった……何故彼があそこから一歩も動こうとしなかったのか……それは、爆発など起こらないと知っていたからだった。

 蒸気音と共に各ガジェットから一斉に噴出される有色スモーク……原色を使用したその煙幕は数秒で一帯の木々を覆い隠し、上空を飛んでいるリインの足元まで届こうとする程だった。毒は含まれていない……となるとこれは――、

 「逃げられたです……」

 まんまとしてやられた。










 「あれは……?」

 遠方で巻き起こった煙幕に、はやてとクアットロの視線が移動した。木々より高い位置へと舞い上がった原色の煙は風に運ばれて拡散し、鼻を突く臭気がこちらまで届いていた。

 だが、良く見ると煙幕に紛れてこちらへと急速に飛行して来る物体がある。それは目にも止まらぬ速度でこちらへ一直線に突き進んで来て、両者の間に飛び込み――、

 「撤退するぞ、No.4」

 クアットロの首元を掴んで通過して行った。ライドインパルスの亜音速で以て突破された為、隻眼となってしまっていたはやてには捉え切れず、トレーゼとクアットロは見事砲撃の堕天使の有効射程圏内から離脱することに成功した。

 「お兄様っ! ギブです、ギブ! 首が……!!」

 容赦無く首元を掴まれている所為でクアットロの顔面は蒼白になっており、トレーゼの右手をタッチしながら危険信号を報せていた。だが当のトレーゼは相変わらず亜音速で飛行し続けて一向に彼女を解放する気配が無く、彼女の肺の酸素は限界領域まで近付きつつあった。

 「時限式次元間転移の、発動までに、時間が無い」

 「だからって……! こんなに急がなくても!!」

 「黙れ。無駄口叩く暇があったら、飛べ。貴様は、重いんだ」

 「なっ!? 花も恥じらう乙女に向かって『重い』って言いましたわね、お兄様!? この屈辱、クアットロは一生忘れませんよぉ!」

 「……………………」

 ギリギリギリギリギリギリ……!!!

 「ひゃぁぁあああっ!!? ごめ、ごめごめ、ごめんなさいぃぃっ!! クアットロはバカな娘ですぅ! だから、だから、首をそれ以上締めないでぇ!!」

 「……次喋ったら、俺の全力で、虚数空間に、叩き落とす」

 「はい……」

 半分冗談だろうとタカを括りたい所だが、この兄ならば本気でやり兼ねないのでこれ以上の発言はしないことにした。お陰で首に掛る圧力が少し軽減され、彼女の呼吸経路の安全は保たれた。

 冷静になった頭でクアットロは自分の兄について思考を始めた。出会ってまだ半日も経ってはいないが彼の力量と技能はそれなりに知ったはずだった……圧倒的物量差も関係無しに、有象無象の区別までをも超越した影響力を及ぼす存在……そう言う風に認識していた。だがそれはあの三人の魔導師達も同じことだった、人間と言う限られた枠組みであれだけの頂点……一種の極みに到達したと言うのはそれはそれで有り得ぬ事なのだろう。だがしかし、所詮それらはどんなに高みへ臨んだ結果であろうとも、『人間』としての限界を突出した訳ではないのもまた事実……。

 彼は違う、その『超人』を二人も相手取って見事討ち取ったのだから。誰にも成しえなかった事だ……自分を含むかつての12人のナンバーズが束になっても敵う事の無かった相手に打ち勝ってみせるなどと。

 (流石はお兄様ですわぁ。でも……)

 感心すると同時クアットロは思った。こんな早期に管理局が誇る三強が前線に投入されて来たと言うことは、局の上層部はトレーゼの危険性を重要視し始めたと言うことになる。そしてこうやって実動部隊の様なモノを送りつけて来たのだろうが、始めから彼女らのような強豪を送りつけられて来たともなれば――、

 「先が思いやられますわねぇ」



 直後、クアットロは本当に次元の狭間に叩きこまれそうになった。










 二等陸佐八神はやては、かつて無い屈辱に肩を震わせていた。あんまりにも悔しいので下手に言葉を吐こうものならばそのまま心中の怒りを今自分の右目を癒してくれている小さなユニゾンデバイスにぶつけてしまいそうだった。

 「はやてちゃん……もう、右目の視力は……」

 「……………………リイン」

 「はい?」

 「フェイトちゃんを引き上げてくれて……ありがとな」

 「はやてちゃん……」

 小さなユニゾンデバイスは理解していた、自分の主が湧き上がる怒りと苛立ちを必死に律していることに。たった一人の敵を捕える為だけに三人の魔導師が全力で臨み、得た結果は惨敗、失ったモノは自分の右目……あまりにも代償が大きく、そして割に合わなかった。親友二人もヴェロッサの時程ではないにしろ、魔力吸収によってリンカーコアは衰弱し、昏睡状態に陥ったままだった。大きい、あまりに大き過ぎる痛手だ。

 「…………リイン、私は……惨めやな。昔の部下を蔑ろにされて、身内の借りも返せへんと……挙句の果てにはこの有様や。カインに怒られてまうわ」

 視界がぼやける。ついでに何やら熱い液体が目から流れ落ちる……これは血ではない、涙だ、悔し涙である。

 「アホやんか、自分が強いて思てたんや……本当は全然歯が立たんだのに!」

 小さなユニゾンデバイスには彼女を慰めるだけの言葉が、語彙が、思いつかなかった。自分の限界と非力さを思い知らされた人間を、一体誰が慰められようか。リインに出来ること、それは……目の前の主が泣き止むまで、その小さな掌で頭を撫で続けることでしかなかった。



 11月16日午前7時56分、管理局の三強と秘匿された“13番目”の戦いはトレーゼ側の逃走によって幕を降ろした。彼女ら三人が再び立ち上がってトレーゼと二度目の刃を交えるのは――、

 まだ当分先の事である。










 午前8時05分、ミッドチルダ時空管理局地上本部ゲストルームにて――。



 「そうか……。取り逃がしてしまったか」

 『リイン曹長の報告では、“13番目”はクアットロと共に次元転送で離脱したらしい。恐らくはミッドのアジトに戻って来ているものかと……』

 スバルの手術を一段落させて部屋でウーノと共にアニメ観賞に勤しんでいたスカリエッティは、事務室に居るクロノからの緊急速報に耳を傾けていた。一見テレビ画面の方に釘付けになってちっとも人の話を聞いていないかのようであるが、その両耳はしっかりクロノの言葉を一言一句逃さずに聞いていた。

 「管理局の単体最高戦力を三人も投入してなおこの有様か……。単に力だけでは抑え切れんと言うことだな」

 『何を他人事のように……一連の全ての事件の遠因は貴方の撒いた種でもあるんですよ?』

 「だが、私とて万能ではない……。いくら自分の撒いた種とは言え、既に大木にまで成長してしまったモノを切り倒すのは一筋縄では行かんよ」

 『なら尚の事! これ以上の横行を許すわけには――』

 「友人を三人も追い込ませて尚、君は理解出来ないのかね? もはや彼には理屈も力も通用しない……開発者であり所有者だったこの私の追える範疇を凌駕しつつあるのだ。そんなモノにこれ以上下手に戦力を費やせば痛い目を見る羽目になる」

 『ならばどうしろと!?』

 流石にここまで現状が深刻なモノになって来るとクロノと言えども冷静では居られなかった。単体でも無敵に近い戦力を誇る“13番目”がサポーターを得た……明らかにこちらの予測を遥かに上回る惨状だ、ただでさえ強敵な彼がJ・S事件関係者からはナンバーズ最悪とまで形容されているクアットロを従えたのだから、これから派生するであろう被害もまた計り知れない。

 だが、対するスカリエッティの表情は実に澄ましたモノだった。まるで本当に自分とは関係無い事柄だとでも言わんばかりの清々しさに、クロノは一瞬言葉を失ってしまう程だった。

 「…………時が来るまで待つしかない」

 『その“時”とは?』

 「今はまだ来ない。だが、近い内に必ず来るはずだ……最初で最後の、大きく危険な賭けが」

 ハイリスク・ハイリターン……賭けた分が大きければ配当もそれに順じて大きくなるが、万が一にもその目論見が失敗に終わった時の代償もまた大きなモノとなってしまう。スカリエッティはいずれ来るであろうそれの大波に乗ろうと提案しているのだ。

 「私は犠牲も代償も全て度外視するつもりだ。君のように合理性に拘っていたら解決出来るモノも出来なくなってしまうからな」










 「えぇ~っ!? 二人とも仕留められませんでしたのぉ!!?」

 時限式次元転送によって帰って来たクアットロの呆れた大声がラボ内に木霊する。その声の元凶となっているはずのトレーゼはと言うと、いつの間にか紺色の防護ジャケットから普段着の純白の服に着替えており、今日あった戦闘の記録を整理している最中だった。

 「あぁ、途中で、邪魔が入ってな。だが安心しろ、留めは差せずとも、それなりの対策は、施しておいた」

 「本当ですかぁ? 相手はあの管理局の三強ですよぉ~。腐っても最強なんですから、もっと丹念に殺しておいた方が良かったんじゃあ……」

 「その心配は、無用だ。今のナノハ・タカマチなら、お前でも、充分に対処可能だ」

 「うぅ~……」

 それでも納得が行かないらしく、クアットロはいじけたように頬を膨らませてはハンモックにぶら下がったままのトレーゼの周りをうざったく飛び跳ねる。何も彼女は多くを望んでいる訳ではない、あの魔導師には常識が通じないのだから当然の事と言えよう。かく言う彼女こそが、ナンバーズの中で唯一高町なのはの恐ろしさを目の当たりにしたのだから。

 「……それより、お前に、手伝ってもらう事が、ある」

 「あらぁ、何ですか?」

 「ある薬品を、製造してもらう。俺の、血液を使ってな」

 「…………それは、どんなお薬ですの?」

 「知りたいか?」

 「えぇ、それはもう♪」

 寄らば大樹の何とやら……この兄のやる事柄は何に関しても吸収しておいた方が身の為と判じた彼女は、花の甘美な蜜に誘われる毒虫のように、彼の胸板に手を這わせながら妖艶に訊ねた。

 そんな彼女にトレーゼは――、

 その薬の製造方法……

 用量……

 そして、使用方法と効能を……

 「――――――――――――――――」

 全て彼女に教えた。それを聞いたクアットロは――、

 「それは……



 とってもステキな事ですわぁ♪」



 白い指先で胸板を優しく撫でながら、もう一方の指先で伊達眼鏡を外し、さらに束ねていた髪を下ろしてドゥーエ譲りの長髪を振り乱すようにしてトレーゼの顔面に垂らした。

 「お兄様……」

 「…………」

 「そんなモノを使わなくっても、このクアットロ、文字通り貴方様に酔っておりますぅ。お兄様が求めるなら、私は幾らでもそれにお応えするまでですわぁ」

 吐息が掛かりそうな程に近い距離しか離れていない二人の顔面……クアットロが熱っぽい表情をして相手の出方を誘っているのとは対照的に、トレーゼの金色の瞳は揺らぐことを知らず、妹の瞳を見返すだけしかしなかった。

 「お慕いしてますわぁ、お兄様。私はずぅっと……貴方のモノ……これからもお傍に置いてくださいねぇ」

 「必要な内はな。好きに、していろ」

 「じゃあ遠慮無く♪」

 刹那、クアットロの瑞々しい唇がトレーゼのモノと接触した。元来の責めっ気をフルにして二枚貝の様に固く閉じていた唇を舌で抉じ開けると、さらにその勢いで口内をありったけに蹂躙した。自分の舌と相手の舌を絡ませて歯茎を舐め回す深く濃厚で長い接吻……その間トレーゼは意外にも無抵抗だった……彼女を撥ね退けるでもなし、蹴り倒すでもなし、嫌そうに身を捩ることすらもせずに、ただ彼女の好きなようにやらせているだけだった。

 「んんっ……ん、ふぅ。フフフ、お兄様、可愛いですよぉ」

 「そうか、俺は、どうでも、良いがな」

 「素直じゃないトコがまた意地らしいですわ。はむっ……! ぅん、んん」

 結局、クアットロの気が済むまでそれから10分も掛った。無抵抗な相手を自分の趣向の赴くままに蹂躙すると言う、彼女にとってはまさに至高の悦びを堪能すると、クアットロはシャワーを浴びると言って一旦部屋を後にした。かつて無い程に満足した笑みを浮かべながら……

 だが、彼女は気付いていなかった……。

 自分が蹂躙を続けていた間、目の前の兄の視線が最初から最後まで自分を見てなどいなかったと言うことに……。










 砲撃の天使、高町なのはは自分の薄れていた意識が急速に覚醒へと向かっていることに気付いていた。深層意識の暗闇にまで叩き落とされていた自分の魂魄が徐々に上へと引き上げられて行く感覚を覚えながら、遂に彼女は自分の眼前の一筋の光明を捉えて重い目蓋を開け――、

 真っ先に親友のはやての顔が見えた。

 「なのはちゃん、大丈夫? どっか痛いとこあらへん?」

 心配してくれているのは大いに結構なのだが、かく言う彼女も右目の包帯がとても痛々しい事この上無かった。自分の言えた義理ではないが、彼女の方こそ自分の体を心配した方が良いんじゃないかと思わざるを得なかった。

 「フェイトちゃんも無事やよ、水没してたトコをリインが引き上げてくれたから」

 あぁ、やっぱり彼女は死んでいなかったか……これで安心できた。意識が途絶する時からずっと心配だったのだが、生きていたなら取り合えずは喜んで良いのだろう、彼女は自分よりもしぶといのだから。

 「そいでな、なのはちゃん……レイジングハートから聞いたんやけど、何やなのはちゃん“13番目”と前に会うたことがあるらしいけど……詳しく聞かせてくれへん?」

 そう言えばそうだった、すっかり忘れてしまっていたが、彼が11月11日にSt.ヒルデの校舎に居たと言う事実を早く誰かに知らせねばならないのだ。一戦交えて分かったが、あの彼が何の理由や計画も無しに行動を起こすはずは無い……あの日あそこに居たのも何らかの理由があるはずなのだ。それを突き止められれば、彼の行動を先読み出来るやもしれなかった。

 そうとなれば早く知らせねば! そう思い立ったなのはは目の前の親友に自分の情報を伝達しようと口を開き――、

 「――! ――――、――ッ!!」

 はやての耳朶に叩きつけるようにして言葉を発したなのは、伝えるべき事は伝えた……これでゆっくり出来るはず……

 そのはずだった――。

 「……なのはちゃん……アンタ……まさか!?」

 何だ? どうしてそんなに動揺しているのだ? 何かおかしなことでも言ったのだろうか?

 「…………リイン、なのはちゃん診たってや」

 「はいです!」

 リインまで……一体どうしたと言うのだ、自分の体に何が起きていると言うのだ!?

 「なのはさん、私の名前を言ってみてください……」

 物凄く真剣な顔でそんな簡単な事を言われると拍子抜けすると言うか何と言うか、とにかくさっさと自分何も問題無いと言う事を示さなくては――、



 「――――――――!」



 思えば、覚醒したてでまだ意識がはっきりとしていなかった所為なのかも知れなかった……。だから自分では気付けなかったのだろう……すっかり自分では口を聞けるモノだとばかり思っていた……。

 「はやてちゃん……」

 「何か分かったか、リイン」

 「大脳言語野の信号伝達系統がヤられちゃってます……。それと、脳の認識野にもかなり……」

 「端的に」

 「言語野の破壊で発音がとっても困難です。それと、情報整理と意思の疎通がまともに出来ません。喋る事はもちろん、見たり聞いたりした事を上手く頭の中で理解出来なくなる恐れがあるです」



 ミッドチルダ標準時間午前8時12分――、

 魔導師、高町なのはは文字通り完全に声を失った。



[17818] 彼の休日
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/05/21 00:25
 11月17日午前6時00分、研究施設内にある寝室にて――。



 秘匿された存在である彼の起床は早い、脳内の生体電位を弄ることで目覚まし時計無しにベッドから上体を起こしたトレーゼは、自分の体がヤケに冷え切っていることに気付いた。

 それもそのはず、彼は上半身裸だったのだ。起きている時も寝る時も着ていたはずの白一色の服は完全にベッドから落ちており、まるで力尽くで引っ手繰られたように皺だらけだった。季節は冬、体調管理を徹底している彼が暖房器具の無いこの部屋で服を脱いでそのままにしておくはずもなく……。

 何故こうなっているのか……その答えは自分のすぐ隣で不遜に寝転がっていた。

 「……………………」

 シーツを捲ると、そこには自分の体を娼婦のように扇情的にくねらせたままで寝ているクアットロが居た。

 特に何がおかしいと言う訳では無かった……別に寝ている時にまでトレードマークである伊達眼鏡を掛けていた訳でもなく、昨日見た髪型が変化しているなどと言う事は決して無かった。

 ただ――、

 全裸だった。

 何故? そんなの簡単だ、深夜のベッドで肉体的に成熟した男女が成す行為など限られている……ベッドに入ったのは夜中の1時だったが、それから丸々一時間はその行為に没頭していたので、実質睡眠時間は僅か四時間しか取っていないことになる。

 だが、その行為はトレーゼの方から求めた訳ではない……シャワーを浴びてから部屋に戻り、そこで待ち構えていたクアットロに折角着た服を半ば強引に剥ぎ取られ、ベッドに導かれてそのまま行為を済ませるまで……全部彼女が自分から率先してしてきたことで、彼は何も言わずにその児戯に付き合っていただけに過ぎなかった。

 「…………」

 ベッドから降りてすぐに服を着ると、彼は未だベッドで惰眠を貪っている妹を放置したまま研究室へ向かった。昨日一日も掛けて作っていたはずのものをマキナに任せている……そろそろ完成しているはずなので、一度見ておくことにした。例の物は自分とクアットロの共同作業によって初めて製造に成功したことを鑑みれば、彼女をこちらの勢力図に取り込んだのはあながち間違いとは言えないだろう。昨夜のように行き過ぎた事を仕出かすのは否めないが、仕込んだ芸を上手くやれた犬畜生に餌を与えるものと思えば良いだけの話だ、何も問題は無い。

 ラボに到達すると薬品特有の刺激臭が彼を出迎えた。例の特殊薬の精製に関して様々な薬品を混ぜ込んだ結果なのだが、換気扇すらここには無い所為で昨日発生した臭気が未だに抜けきらない所為でもあった。

 「マキナ、例のモノを……」

 『Yes,my lord.』

 卓上に鎮座していたデバイスに命令して“それ”を格納スペースから取り出すトレーゼ。市販で売られている缶飲料と同じ位のサイズの茶色のガラス瓶の中に封入されている一見水に見える液体……何に使うのかは今の所判明していないが、恐らくは無味無臭なのだろう、匂いや味があれば対象が薬品の使用に勘付いてしまうからだ。もちろん、それはこの薬品が毒であればの話なのだが、格納スペースの中にはこれと同じサイズの瓶が後30個は収納されている……いくら大掛かりな作戦とは言え、これ程の量の毒を使う相手が果たしているのだろうか。

 だがこれは『毒』なのだ。それも、使用用途と対象が限り無く限定された対少数専用の強力な『毒』……誰にでも有効では無いからこその有効性がこの大量の薬品にはあったのだ。

 さて、確認も終わった事であるし、やる事は他にも山積みだ……少しずつ解消して行かねば。今から30時間後には計画の第一段階の要でもある『“聖王の器”奪取作戦』を展開せねばならず、その為の詳細な作戦立案と内容確認は必至だ。

 だが、まずは何よりも――、

 「…………食事だ」

 嗚呼、戦闘機人の悲しき性……。










 午前8時00分、所変わって地上本部のゲストルームにて――。



 「…………ふむ、これはまた手の込んだ事をしてくれたものだな」

 朝っぱらから研究する訳でもないのに白衣を着ているスカリエッティは只今診察中だった。ガジェットを造ったりナンバーズを生み出したり魔力結晶を兵器に転用したりと、何やら機械工学のイメージしか無い彼ではあるが、本業は生命の人為的誕生を行う医学が専門なのだ。それこそはやてではないが、犯罪など起こさずに医療系学問や知識を極めていればあらゆる不治の病ですら治せる歴史的医師になっていただろう。

 で、そんな彼がウーノを助手に従えて一体誰を診ているのかと言うと……。

 「――。――――、――」

 「うむ、なるほど……何を言っているのかサッパリだな」

 ソファに体を横たえて静かに目を閉じて診察を受けているのは、局内では珍しい私服に身を包んでいるなのはだった。いつものトレードマークであるはずのポニーテールを下げており、頭部を念入りに調べられている間はしきりに何かを喋ろうとしているのだが、声帯が無くなったように口からは言葉が出て来る事は無く、たまに何か声が出たかと思えば何を喋っているのか全く分からない奇声が出て来るだけだった。

 「八神二佐の報告にあったように大脳言語野を重点的に侵食されているな。調べてみて分かったが、その他にも認識・判断・平衡感覚・運動能力の一部などが著しく低下している」

 「運動能力ですか?」

 「そうだ。とは言っても、何も車椅子で生活しなければならない程に悪化している訳ではない。分かり易く言えば……」

 そう言いながら彼は何か手頃なモノを探して……まず第一に、今でもプラモ作りの為に使用しているペンチをなのはに手渡した。

 「高町教導官、握ってみたまえ」

 「――――」

 差し出されたペンチを苦も無く握って見せるなのは。取り合えずここまでは良いようだったのだが……

 「では次にこのペンを……」

 目の前に出されたボールペンをしばらく凝視した後、彼女は何の問題も無さそうにそれに右手を伸ばして触れた後――、

 取り落とした。いつもの書類整理の時のように右手の三本の指で持とうとしたのだろうが、それが出来なかったのだ。指先が上手く動かないのだ……腕を振ったり手を握ったりする事は出来ても、五指を精密に動かすことが極めて困難になってしまっていた。

 「と、まぁこう言うことだな。他にも認識と判断力がやられているから他人の言った事や自分の周囲の事象を理解するのに時間が掛かるし、平衡感覚がダメになっているから補助無しに歩けば10メートルも行かない内に地面に倒れるだろう」

 「治す方法は?」

 「何も直接神経を物理的に破壊されている訳ではないからな……。彼女の脳内に埋め込まれたトレーゼの魔力波長が高町教導官の神経を侵食しているに過ぎん」

 「では、その魔力を除去すれば……」

 「無理だな。これは言うなれば盗聴器だ、差し込まれた親元のエネルギーを横取りして作用している。高町教導官のリンカーコアが欠片でも存在し続けている限りは、そこに寄生して半永久的に彼女の脳を蝕み続けるさ」

 「ではどうすれば?」

 「術者であるトレーゼがこれを解除すれば良いのさ。もっとも、意図があってやったのだから、そうそう簡単に解除はせんだろうが……」

 結論から言えば、現状でなのはを治す方法は皆無と言うことであった。事件が完全に解決するまでの間はずっと障害者として生活しなければならないと言うことなのだが、それは一児の母でもある彼女にとってはかなり苦渋の結末であり……。

 「気長に待ち給え。事件が解決さえすれば脳に埋め込まれた魔力も自然と消滅する。それまでの生活介護や補助などは必要になって来るやも知れんが、君にはお優しい司書長殿が居られるから何も心配は無いだろうな。今も外で待機してくれているのだろう?」

 スカリエッティの表情が何故かニヤニヤとしたモノになり、なのはの方は少し間を置いた後でソファから転げ落ちそうな程に混乱した。顔を真っ赤にして弁明の言葉を吐こうにも如何せん言語機能が完全に麻痺しているので出て来るのは母音だらけの意味不明な言葉ばかりで、それを良い事に更にスカリエッティは彼女を冷やかす。

 「実は君の事も前々から男気が無いと思っていたんだが、どうやらその心配は無用のようだったなぁ。異性は良い、私も20代の頃は幾人の女性を手玉に取ったものだよ」

 「いえ、私の記憶が正しければ、ドクターは私を製造して肉体が完全に成熟するまでは『未経験』のはずでh――」

 「ゴホンゴホンッ! とにかく、隣で誰かが献身的に支えてくれていると言うのは肉体的にも精神的にも良い事は言うまでもない。それに、うら若き20代前半女性がいつまでも独り身と言うのは何かと不便なモノだ、いっそここいらで身を固めるのも一つの手段やも知れないぞ?」

 親切なのは良い事だが、彼が言うと良からぬ企みがあるのではないかと思えて来るから不思議だ。と言うか、貴方はいつの間に結婚相談人になったのですか……言葉が喋れたらなのははそう聞いていただろう。

 「それにしても、トレーゼは何故高町教導官の脳を……?」

 「詳しい事は本人に聞かねば分からん。ただ私が推測するに、彼は教導官が持つ何らかの情報が誰かに伝達されるのを防ぎたかったのではなかろうか。高町教導官は何か心当たりは?」

 なるほど、言語機能と指先の神経不全……これら二つだけを見れば、何となくでも情報伝達が阻害されている事はおおよそ予測出来るだろう。彼女を再起不能にしたいなら脳全体を壊死させれば良いのだし、適当だったなら別に記憶を司る後頭部でも良い訳だ。それをあえてその部分に限定したのかを追究すれば、あえて言うなら『生殺しにする為』と言うのがあるだろう。彼女は自分の持つ情報を他人に伝達する手段を封じられ、周囲の人間からもそれを引きだす術は無い……文字通りの封殺された状態に追いやられたのである。

 「――! ――!」

 しばらく間を置いた後に彼女は大きく首を振って肯定の意思を示した。返事が少し遅れたのはやはり大脳の認識系統が麻痺している所為なのか……。

 「ドクター、声帯や指先が使用不可なら念話ではどうでしょうか?」

 「人類最高峰の頭脳を持つこの私がそんな事に気付かなかったとでも思っているのかね。さっきも言ったように、彼女の脳に埋め込まれたトレーゼの魔力は教導官の大脳神経を圧迫している……脳は神経が集中する所であると同時に魔力回路の集積所でもある訳だからな、当然念話機能を司る魔力部位も完全にオシャカだ」

 念話とは本来、術者が声の届かない位置に居る相手との意思疎通を図ろうとしたのがきっかけで古代ベルカの時代から存在している基本魔法の一つだ。しかし、教育機関に籍を置けば最初に習うのが『シールド』と『念話』と言う程に相場が決まっているのだが、実は見た目や使用頻度に似合わない程にその仕組みは複雑なのだ。脳が活動する際に放たれる微弱な生体電位や脳波の波長パターンを全て魔力に置き換えることによって任意の相手と言葉を用いずに会話する……術者そのものを一機の無線機のようにすると言ったら分かり易いだろう。生体電位の波長パターンを全部魔力の波に変換するのは一度コツを掴んでしまえば簡単なように思えるが、ほんの少しの障害が生じただけで使えなくなる恐れがあるのだ。

 「まぁ、人生諦めが肝心だと言うことだ。私のかつての友人にも諦めの悪い奴が居てな、無茶をやった所為で自分の死期を早める羽目になってしまったよ」

 「私はその方を存じ上げませんが、どのような方だったのですか?」

 「いやなに、『高度7000メートルの上空を飛行する巨大飛行艇型プラット・ホームを襲撃するから、付き合わないか?』と誘われたんだがね……。私は失敗するから止めておいた方が良いと提言したにも関わらずあの愚か者は……」

 何故だろう、その友人はその直後に一億人は殺しそうな雰囲気があるような気がしてならないのだが……。

 「前々から思ってはいたのですが、何故ドクターの友人にはマトモな人が居ないのですか? 私の肉体が幼少だった時も良からぬ人付き合いがあったと聞いております」

 それから先はウーノの愚痴が始まることになるのだが、何ともまぁ大した『友人』達だと改めて実感させられる。犯罪者は横の繋がりが異常に強いと言うのはかつてクロノが言っていたような気がするが、まさかここまでとは……。

 例えば……

 某環境に悪い緑色の粒子を最初に兵器に転用した軍事会社の社長だとか――、

 某片腕が明らかにサイコで銃な世界を股に掛けるヒーローだとか――、

 某世界の帝国を潰す為に何とか騎士団なるモノを立ち上げた天才高校生だとか――、

 その他諸々etc……。とにかくウーノの言う通りマトモそうな人間は一人も居なかった。類は友を呼んでしまうのかどうか……科学的検証をしてみたいとさえ思えた程だった。

 「とにもかくにも、高町教導官は今後しばらくは局勤めを一時中断するように。これはハラオウン提督殿からの御達しでもある……こうでもしないと、君は無茶に無茶を重ねるらしいからなぁ」

 全く以て図星だから何も反論出来ない。と言うか、それ以前に言語機能を麻痺させられているので喋れないのはどうしようもないのだが。

 「用心したまえ、無理に前線に出れば君は真っ先にトレーゼに抹殺される。君の生殺与奪は彼が握っているのだからな」










 同時刻、ミッド郊内のナカジマ宅にて――。



 「それで、事の顛末は如何様なモノなのか?」

 リビングで朝食を摂っているのは三人……一家の家長であるゲンヤと、彼の仕事場での部下であり近々愛娘の良人となるカイン、そしてナンバーズの五番にして後発組の筆頭であるチンク……たったその面子でミッドでは珍しい箸を器用に使って朝食である鮭をつついていた。先程口を開いたのはチンクであり、質問された側であるカインは無言で白米を口に入れながら……

 『端的に言えば任務失敗です。“13番目”と彼によって手引きされたクアットロは迎撃を振り切って脱走……取り逃がしたばかりか、迎撃に出動した八神二佐は右眼球を失明、ハラオウン執務官はリンカーコア衰弱による意識不明の重体、比較的損害が軽微であった高町一等空尉でさえ敵方の攻撃で脳障害を引き起こしている状態だ。と、我がマスターは申しております』

 「“最凶”と“最悪”のナンバーズが手を組んだか……。どうしてなかなか儘ならぬモノだな」

 「おいおい、他人事みてぇに言ってる場合じゃねーぞ。長年管理局に務めて来たけどよ、こんなにヤバイ予感がする事件にブチ当たったのは久し振りだぞ!?」

 『だが現状ではどうしようも無い。管理局が誇る最高戦力が三人とも撃墜されたともなれば下手に動く事は不可能だ。単純な力のゴリ押しだけではどうしようもない事がこれで立証されたのだからな。と、我がマスターは申しております』

 ちなみにこの家には現在彼ら三人しか居ない。ギンガとスバルは例によって入院中、後のノーヴェとディエチとウェンディは早朝鍛錬だとかで走り込みに行っている最中だ……毎日五キロ以上は走るので、後一時間は帰って来ない。

 「って、お前さんは何でちゃっかりここで朝飯作ってんだよ。仮にも自分の姉が目ん玉潰されたってのに、ちょっとは実家に帰ってやったらどうだよ?」

 『20歳にもなって、わざわざ互いの心配ばかりすると言うのも可笑しな話だ。たかが片目が見えなくなった程度で一々騒ぐものでもない。と、我がマスターは申しております』

 「そりゃそうだけどよぉ……」

 『奴にはアコースが付いている……義弟である俺の出る幕ではない。と、我がマスターは申しております』

 「そう言えば、療養中だったアコース査察官がもうすぐ復帰なさるとか……」

 チンクの言う通り、“13番目”の最初の被害者でもあった管理局の査察官のヴェロッサ・アコースは近い内に退院するらしいのだ。余談だが、彼の退院が決定した時、院内の看護婦達の労働意欲が低下したとかしなかったとか……。

 「カイン殿、話を戻すが、貴方は一連の事件について何か考えは?」

 『質問が漠然としているが、一筋縄では解決出来ないのは確かだ。三年前までは“奇跡の部隊”とまで称された機動六課のフォアードメンバーが全員離脱……管理局も彼女らが居るからと言う安直な理由だけでタカを括っていたのだろうが、それが根底から覆された今となっては誰も率先して前に進み出る者など居ないさ。と、我がマスターは申しております』

 「ティアナにスバル……ヴォルケンリッターの前衛三人……エリオとキャロも退けられ、ギンガまでもが撃墜……そしてとうとう元隊長の三人までもがこの有様…………」

 『計11人、か。並みの武装隊員だったら微々たる損失だが、奴ら個人の戦闘力を数字に換算して考えれば、事実上として管理局は前線戦力の半分を削られた事になる。現状では彼女らに取って代わるだけの組織・団体・個人は……もう管理世界のどこにだって居やしないさ。と、我がマスターは申しております』

 管理局が誇りし各々の得意分野にのみ特化した特殊な一個人達……個人で高過ぎる戦闘力を有するが故に忌避され続けて来た彼らを一点に結集した最強無敵の少数精鋭部隊……それが機動六課のはずだった。設立したての当時こそ上層部からは疎まれこそしたが、確実に戦果を上げ続けて行く彼らをいつしか局は認め出し、今となっては歴史の教科書にすら記載されている管理局の権力の影と闇の象徴でもあったJ・S事件を見事解決してからは『奇跡の部隊』などと言って持て囃されて局内に小さな伝説を築いた機動六課……そう、彼女らは完全無欠にして最強無敵の部隊だったはずなのだ。

 誰が予想した! 周囲の誰が彼女らの敗北など予想出来ただろうか! たった一人の存在にここまでの敗北を喫するなどと……!

 これから一体どうなってしまうのか……?

 「……俺は諦めた方が良いと思う。相手さんが何を考えてんのかは知らねぇが、チンクやノーヴェと同じナンバーズってなら、やる事は親のスカリエッティを奪還する事だけだ。下手に刺激したら犠牲が増えるだけだ」

 「私は反対です。管理局は法と秩序を体現する一大組織、それがたった一人の存在の横行を許して良いと本気で御考えなのか!」

 「い、いやな、別にそう言う意味で言った訳じゃ……!」

 『別にゲンヤの意見やチンクの反論なぞどうでも良い。要は……事件が早く解決してさえくれればそれで良い。と、我がマスターは申しております』

 カインの一言に、それまで熱くなり掛けていたチンクは我に返って冷静になると、再び食事に集中し出した。全く以てこの義兄の言う通りだった、今は将来の方針をどうするかで一々争っている場合ではなく、どうやって事件を解決するかであることをすっかり忘れてしまっていた。大局を見なければいけないことを失念していた自分を諌めようと、チンクはそれからはずっと無言で朝食を啄んでいた。

 だが――、

 『そう言えば、姉上から聞いたのだが――』

 カインが何となく口にしたその言葉……それは――、

 『スカリエッティがミッドに来ているらしいな。と、我がマスターは申しております』

 チンクの口の中身を一気に噴出させるには充分な破壊力を秘めていた。










 午前8時30分、ミッド医療センターの窓口にて――。



 「……移転?」

 白衣の受付係を目の前にしたトレーゼは彼女の言った言葉の意味を理解するのに少々時間を掛けてしまった。看護婦の方はと言うと、真冬だと言うのに自分の着ている白衣よりも真っ白な服を来ている少年の姿に気を取られてしまっていたのか、彼が聞き返して来た言葉に返事をするのも少し遅れた程だった。

 「はい。局内の設備で手術を受けることが決定しまして、それからはあちらの方で寝泊まりなさっております」

 「……そうか」

 「あの……よろしければ代わりに取り次ぎますが?」

 「…………いや、結構だ。失礼した」

 受付係の言葉を一刀両断すると彼はさっさと踵を返して医療センターを後にした。目当てのモノが居ない以上は長居する理由も無い訳であり、せっかくこんな所まで出て来たが仕方なく引き返すことにした。

 外に出て真っ先に感じたのは日の高さだった。管理外世界の『地球』の気候と酷似しているミッドの冬は地表に対する太陽の軌道が地球同様に低いのだが、センターに入る前と後とではやはり徐々に日が昇っていると言う事を実感させられる。たった数分から十分だけ……それでもこうやって時の流れを実感するとは……古代ベルカ人の言葉に『時の価値は王の領土に眠る財宝よりも重い』と言う故事があるが、その意味も今の彼なら身に沁みて理解出来た。

 「…………帰るか」

 ここに用が無いのだからラボに帰るより他無いのだが、どうも予定が狂ってしまったような気がしてならない。この時間なら叩き起こしたクアットロがラボで明日の作戦の準備をしているだろうが、正直言ってあそこにはまだ帰りたくはなかった。あの妹のことだ……今帰って行ったら間違い無く“求め”られるだろう。朝に起こす時ですら一歩間違えれば再び引き摺り込まれるところだった、自分が居ない分には仕事をそつ無くこなすので何も問題は無いのだろうが、あれで無能だったならとっくに『処理槽』行きにしているところだった。

 かと言ってこのままクラナガンに留まり続ける理由も無い。入院していたスバルが本部の施設に移ったともなれば無闇に顔を出す事すら出来ないし、とは言っても今から半日もセッテの鍛錬に付き合う余裕も無い……何かと不便なものだ。

 仕方なくトレーゼは街路の脇に取り付けられていたベンチに腰掛けた。30メートル毎に二つ一組で設置されているそのベンチには、早朝の所為か彼以外には2、3人程しか座っておらず、居眠りをしている者も居た。彼はそんな不用心な事は決してしない……こうして座っているだけでも瞬きすらせずに意識を周囲に向けていた。

 「……………………」

 ふと、何を思ったか彼は自分の嗅覚神経を拡張させて周囲に漂う臭気に気を向けた。戦闘機人として生み出された彼の最大嗅覚は犬の約数十倍以上、数十メートル離れた先に置かれたコップに注がれたのが真水が塩水かを容易に判別可能な程の嗅覚だ。その鼻をフルに使って周りを嗅ぎ別ける……まず感じたのは人間の体臭、早朝のジョギングで疲労した体から滲み出る汗や、余所へ出向かう女性からの香水……大体はこの二つが街中の人間から匂って来ていた。大きく大気を吸い込めば冬の冷え切った空気が鼻腔をくすぐる……そして、澄み切ったその気流とは別に漂って来る大量の“異臭”が同時に彼の嗅覚神経を舐め回す。

 「…………そんなもの、だろうな」

 誰に聞かせるでもない小さな声で呟いた後、彼はベンチから立ち上がって再び歩き出した。彼は混じり気のあるモノが何よりも気に喰わなかった、個として存在しているモノがどうして混じらねばならぬのか彼には理解が出来なかった……例えそれが液体であれ気体であれ、人間であれ…………バラバラの個として生まれながら何故混じる必要があるのか。群体でない個として在る以上、そんな事に意味は無いのだから……。こうして街を見ているとその事を理解出来ていない輩が多過ぎる、それはとても忌むべき事態だった。だが彼にとって一番の苦悩の種は、共同戦線こそ成さなかったがかつての同志であるはずのナンバーズがその様な思想に毒されていると言う事実だった。既に更正して地上に降りた計7名の姉妹……その全員が戦闘機人にあるまじき汚れた思想に感化されてしまっている事に、彼は失望した。自分達が何の為に作り出されたのかさえも把握出来ていない……奴らは人間ではなく“道具”なのだ、道具に意思など必要無いし、ましてや群れて生きると言う俗物的な考えなど不要なモノでしかないはずなのだ。

 そう言った意味ではクアットロもまた例外ではない……彼女もまたナンバーズとしては更正組とは別の意味でどうしようもなかった。創造主スカリエッティの因子を受け継ぐ最後のナンバーズであるクアットロ……因子を分け与えられた上位四人の個体は、そのそれぞれがドクターの持つ四つの要素を備えている――、

 『知恵』の体現者ウーノ――。

 『狡猾』の体現者ドゥーエ――。

 『力』の体現者トーレ――。

 『欲望』の体現者クアットロ――。

 創造主スカリエッティが持つ四つの要素を色濃く受け継いだこの四人は、スカリエッティの計画の中核を担うべくして造り出されたナンバーズの中でも上に位置する“上位者”だ。創造主スカリエッティを各方面からサポートする事を目的としているが、その中でもクアットロだけは『特殊』だった、自身の欲望の赴くままに行動するその姿は、スカリエッティの暗黒面のみを受け継いでいると言っても過言では無い……その意味では、彼女は最も俗物的な存在と言えるだろう。彼女の欲望があらぬ方向へ向けられたその時には、自分の手で始末をつけなければならないだろう、俗物的なナンバーズなど自分の傍には要らないからだ。

 「……………………?」

 ふと――、

 トレーゼは自分の背後から接近して来る不穏な気配に気付いた。いや、正確には接近して来るのではなく、自分と距離を一定に保ってついて来ているのだ。耳の聴覚神経を拡張させる……足音の大きさからして少し距離を離しているようだ、それに音の間隔からして急ぎ足のように小刻みなリズムが聞こえる、そして、足跡も自分の歩いた後を忠実に辿って来ている……間違い無い、誰かがついて来ているのだ!

 誰だ? 殺気は感じない……かなりの手錬なのか、それとも何かの囮か? どちらにせよ確認しておく必要性があるのは確かだ。映画やドラマのワンシーンなら人気の無い路地裏までこちらが誘導した後で……と言うやり取りなのだろうが実際は違う、人気の無い所へ行ったらこちらもあちらも遠慮無しになってしまうからだ。そうなれば戦闘は必至、相手の実力が未知数である以上は先にこちらから動くこと相手の行動を先制するのだ。

 「――ッ!!」

 180°振り返るのに要した時間は僅かコンマ数秒、鷹の目を以てしても知覚させない速度でのその振り向きは自分の背後に居る人物を瞬時に圧倒し――、



 「きゃ……っ!」



 尻もちをつかせた。

 「…………」

 「ぁぅぅ……」

 そこに居たのは幼い女子が一人、外見と身長から察するに恐らく10代にも満たない子供だった。目の前の少女に関する記憶は無く、少なくとも自分を狙って来た刺客だと言う線は消えた。なるほど、意外に近くに居たと思えば、足音が小さかったのは体重が軽かったからで、間隔が短かったのは身長が短かったからか。

 だが、解決すべき疑問が増えた……。

 「…………誰だ?」

 「はぅっ……!?」

 偵察か刺客かと思って見れば目の前に居るのはただの少女……記憶にあれば警戒はしたのだが、生憎と自分も彼女の事はまるで知らない……だが少女は自分の後をついて来ていた、これはどう言うことなのかハッキリさせておかねばならない。驚いてすっかり腰を抜かしてしまっている少女に容赦無く無言の圧力で以て迫ると、トレーゼは相手に戸惑う暇すら与えずに問いただした。

 「あ、あの……! 違います、その……!」

 「……何故、俺を追う? 答えろ」

 「え……その、えっと……」

 「……………………」

 如何に相手が年端も行かない子供だからとて遠慮も容赦もあったものではなかった、片方がすっかり怯えて座り込んでいるのに対し、トレーゼは仁王立ちの状態で威圧感だけを放つ金色の双眸で見降ろしているだけだった。これがまだ誰からも分かるように表情に表れていたなら彼女にはまだ救いだっただろうが、トレーゼの表情と視線はどこまで行っても無機質な鉄面皮だった。怒っているのかどうかさえも分からないその無表情に、いつの間にか少女の精神は徐々に追い詰められて行き……

 「……ぅ……うぅ、ひっ、うぇぁあああああん!!!」

 「ッ!!?」

 まぁ、精神的に幼い子供が追い詰められて取る行動と言えば限られている訳で……案の定、目の前の少女は文字通り火が点いたかのようにワンワン泣き出してしまった。その凄まじさと言ったら筆舌し難いモノがあり、かなり遠方の建物に居る者が窓を開けて確認する程だった。道行く者が怪訝な視線を向けて来るが、それでも彼女の号泣は止まらず、見かねたトレーゼは……

 「……マキナ、助力を、要請する」

 『I have such a feature is not.(私にはその様な機能はありません)』

 手持ちのストレージデバイスに一刀両断されてしまった。彼にまともな思考をする能力があったなら、今頃自分の持っているのがインテリジェントデバイスでない事を悔やんでいただろう。だが、今の彼はそんなデバイスと目の前の未だに泣き続ける少女を余所に天を仰いでいた。

 「ぇぁあああああんっ!!! えぐ……! ひっ……! うわぁあああん!!」

 そろそろ周囲に衆人が集まって来た。ここで注目を浴びるのは何かと不都合でもある……さっさと終わらせなくてはならないのだが、当のトレーゼはいつまで経っても無言で天を仰いだまま何もしようとはしなかった。

 やがて、何かを思い出そうとするかのように小さく、こう呟いた。

 「……こんな時、トーレなら、どうしただろうな……」










 数分前、医療センターへと向かう一台の車両の中にて――。



 「余り無理をなさらないでくださいね、二佐。御自分の体を自愛するのもまた仕事の内なのですから」

 「ありがと。まぁ、私やかてこんな仕事に就いてんのやから、いずれ遅かれ早かれこうなるってのは覚悟してたけどな」

 運転をグリフィスに任せ、右顔面を包帯で覆ったはやては昨日に引き続いて医療センターの診察へと向かっている最中だった。一応彼女は乗用車両の免許は持ってはいるのだが、隻眼となってしまった今では当然の如く運転を出来る訳が無く、こうして補佐官であるグリフィスに付き添いで来てもらっているという訳だった。

 「ま、治療やら何やらしてもどうせ無駄やろうな。リインやシャマルの目立てでも失明は確実らしいし……」

 赤信号に引っ掛かって停車する。十字路になっている目の前の道路を横進行の車両が次々と通り過ぎて行くのを見つめながら、はやては盛大に溜息をついた。

 「以前みたく暴れられへんのが残念やわぁ」

 「マスコミが聞いたらスキャンダルのネタにされますから、そう言った発言は控えてください。それと、お聞きしたい事があるのですが……」

 「何や?」

 「昨日の件です。確か二佐はDr.スカリエッティの助言を受けて、高町教導官とハラオウン執務官を同行して現地に急行したと聞いていますが……?」

 「そうやな」

 確かにあの日の真夜中、はやての自宅にいきなり電話が掛かって来たかと思えば、切羽詰まった感じのスカリエッティが『今すぐに君の現状で用意出来る最高戦力を持って第6無人世界へ急行してくれたまえ。理由は後ほど追って連絡する』と言われたのが始まりだった。始めは何を言っているのか全く分からなかったが、言われた通りに地上本部へ向かうとそこには既に親友二人が先に到着していた。

 「彼は何故“13番目”の行動が予測出来たのでしょうか? それは確かに奴がスカリエッティを含む四人の監獄組の救助を目的の一つとしているのは充分把握出来ますが、何故それがNo.4だったのでしょうか?」

 確かにグリフィスの疑問にも一理ある。三年前の事件で管理局に最後まで頭を垂れる事無くそのまま獄中に入れられたのは五人……その内の一人であったセッテはやっと地上に降りたが、それでも獄中にはまだスカリエッティを含めて四人も居た。直接対峙した今のはやてになら分かるが、あの“13番目”は何の計画も無しに行動を起こす人間では無い事は重々把握していた……行動の全てが緻密に積み上げられたプロセスから成り立っており、尚且つそこから生じる誤差すらも完全に掌握出来るだけの技量と柔軟性まで備えている完璧な存在である彼に失敗など有り得なかった。

 だがそれを前提で考えたとしても、何故彼はクアットロを選んだのか? そして、スカリエッティは何故そんな彼の行動を完璧に予見出来たのか? 流石の彼でもまさか当のスカリエッティが地上本部に身柄を移されたなどとは考えまい、あれは管理局内でも上層部の十数名と自分達当事者しか知らない超級の極秘事項……“13番目”の情報収集能力が如何様なモノなのかは知らないが、流石にこればかりは知られていない自信があった。もちろん、助手のウーノに関しても同様のことが言えた。となれば、未だ“13番目”は上位の四人が未だに獄中に居るものだと思い込んでいるのは自明の理……更にコトを慎重に運ぶ事を優先させるであろう彼の事だから、軌道拘置所でも最も警戒レベルの高い創造主の所へいきなり単身で乗り込むなどと言う愚行はまずしないはず。これで早くも候補は三人に絞られた事になった……あのスカリエッティの事なのでこの程度の思考など訳無かっただろうが、それでも尚『何故この三人からクアットロ』を選出したのかと言う疑問は残っている。

 「私もなぁ、始めは何でやろなって思てたんやけど……理由聞いたら納得出来たわ」

 「と言いますと?」

 「獄中に居るウーノ、トーレ、クアットロ……一見したらこの三人の重要度はさして変わりあらへんようにも思えるけど、実際は違う。“最賢”のウーノ、“最強”のトーレ、“最悪”のクアットロ…………この三人を良く見れば、むしろクアットロだけが仲間外れなんに気付くはずや。綿密な知略で攻めたいならウーノを選ぶし、純粋な力のゴリ押しで行きたいなら他の11人が束になっても敵わんトーレを選べばええ……やのに“13番目”はクアットロを選んだ……何でやと思う?」

 「…………なるほど、そう言う訳ですか」

 全ての謎が解けてグリフィスも納得が行ったようだった。信号が青になったのを確認すると再びアクセルを踏み、加速によって二人の体が少しだけ座席に沈む。

 「察しがええな。知略と戦力の最高峰……主犯やったスカリエッティの助手やったウーノと、第一線で全ての戦闘行動の直接指揮を執っとったトーレ……この二人の警戒レベルは各拘置所内でも最高クラス……当然やろな、会社で言う所の重役のようなもんなんやからな。そやけど、対してクアットロは多少頭はキレたか知らんけど、監獄にブチ込まれたんは『捜査に協力する姿勢を見せなかったから』って言う方が強かった。そりゃ一応は決戦で“聖王のゆりかご”を任されるぐらいの実力はあったんか知らんけど、他の二人に比べりゃ実力的な意味で影は薄い…………そして、その重要度の低さから、拘置所内での警戒レベルも二人に比べりゃ当然低かった。せいぜい“稀代の連続殺人犯”程度の拘束しか喰らっとらんかったはずや」

 「“13番目”はそれを見抜いていたと?」

 「その可能性は大いにある……いや、むしろそうや。そうでなけりゃ説明がつかへん。…………なぁ、グリフィス君……」

 「何でしょうか、二佐?」

 二度目の信号で停車した時、運転席でずっと上司の言葉を静かに聞いていたグリフィスは、ふとはやての声色が微妙に変化するのを見逃さなかった。さっきまでの気だるそうに窓の外を流れる風景を見ていた彼女の表情はいつの間にか固いモノになっており、彼の知る限りでは見た事の無いモノとなっていた。

 「…………私らはひょっとすると、トンデモな奴を敵に回しとんのとちゃうかな?」

 「……その感は否めませんね」

 かつて、たった一冊の魔導書が管理世界を震撼させた事があった……。その呪われた魔導書は十数年前にたった10名の魔導師と騎士の手によって打ち破られ、その管制人格は『世界一幸福な魔導書』として天に還った……その出来事は魔法史では有名で、歴史の教科書にも記されているぐらいである。

 そして今、たった一人の戦闘機人の手によって同じように管理局が混乱している……。かつての魔導書事件で実力を発揮していた猛者達を次々と退け、後輩と弟子達まで手に掛け、もはや誰の力でも止められなくなっている……三年前の時ですらここまでの絶望を抱いた事があっただろうか。自分達はあの怪物じみた異常の存在に対抗できるのか……今のはやてにはそれだけが分からなかった。

 「……………………ん?」

 ふと、窓の外を見ていたはやてはあるモノに気付いた。幅の取ってある歩道の真ん中で何やら小さく群衆が出来上がっている……それ程大きくもないが、何かトラブルでもあったのだろうか。運転席に座っていたグリフィスが窓を開けて確認すると――、

 「子供が泣き喚いているだけみたいです。迷子か何かでしょうね」

 「迷子なぁ……。治安課が働き掛けてくれてるけど、流石にこればっかは数が減らんか。そう言えば、昨日私が留守にしとった間に何や過激派の連中が質量兵器の闇取引をやらかしたとか――」










 結論から言えば、トレーゼは再びベンチに腰を下ろす羽目になった。いつも数本は持ち歩いている高カロリー携帯食料を包み紙から出してポリポリと齧りながら、ぼぅっと目の前のビル群を何の感傷も無しに静観しているだけだった。11月中旬の肌寒い寒風が服の白い布地と、同じ位に白い肌を吹き抜けて行くが、彼はいつもの様に全く気にした風も無しに石像の如く不動を保っていた。

 何故一旦ベンチを離れた彼が再びここに居るのか? その理由は彼のすぐ隣に鎮座していた。

 「はむっ、ムグムグ……! あむっ、ムシャムシャ! ハグッ…………ッ!? げほげほ!!」

 トレーゼのすぐ横に座って彼が与えた携帯食料を夢中になって口の中に放り込んでいるのは、彼が先程過剰に威嚇して大泣きさせてしまった迷子の少女だった。あれから思考錯誤した後、彼女に持ち合わせの携帯食料を分け与えて口を封じる事でなんとか泣き止ませることに成功した。以前どこかで、泣いている子供を黙らせるには食い物が一番効果的だと聞いた事があったが、あながち嘘ではなかったようだ。

 落ち着かせてから聞いてみたところ……なんでも実父が管理局に単身赴任しているらしく、休暇を利用して南部の地方都市から母と親子連れで会いに来たのだとか……だが、リニアで上京して首都中央駅で降りたは良いのだが、この少女自身はクラナガンのような大都会に来るのが初めてだったらしく、人ごみの中を移動する内に母とはぐれてしまったと言う訳らしかった。クラナガンのような大都市ともなれば迷子の数は相当数になるのは明白だろう、実際こうして隣に居るのだから……。

 だが疑問もある……どうして、母を探している途中で疲労が溜まってベンチに腰掛け、たまたま近くに居ただけの自分を少女がつけ回そうとしていたのか……? その訳を聞いてみたところ――、

 「だってお兄ちゃん悪い人に見えなかったもん。だから……大丈夫かなって……思ったのに……」

 少女は事情を語りながら、先程のやり取りを思い出してしまったのか涙目になってしまった。と言うか、もう泣いていた、鼻水が垂れそうになっているのが分かる。それにしても、今時の子供は見ず知らずの人間にでも構わずに後を追う程までに無防備なのか……トレーゼに人並みの感性があったなら、今頃大いにカルチャーショックを受けていただろう。もっとも、彼にとっては少女がこのまま迷子でクラナガンの街を彷徨おうがどうだって良かったのだが……。

 「ママぁ~! どこ行ったのぉ~!!」

 「…………泣くな」

 「でも……! でもでもでもぉ~っ!!」

 「黙れ、鬱陶しい」

 「うっ!? ……うぅ、うううぅうぅ~っ」

 何故だろう……トレーゼは昨日の戦闘こそがこれまでの稼働歴の中で最も過酷なモノだと認識していたのだが、ひょっとすればその認識を改めざるを得ないかも知れなかった。兵器として造られた戦闘機人である自分が幼子の泣き言に振り回されるなど、よもや創造主スカリエッティですら予測していなかったに違いない……何とも不名誉なことだ、ここは早急に立ち去って事無きを得るのが得策だ。

 さすれば、いざ――! トレーゼは隣の少女が涙目になりつつも手渡した携帯食料に貪りついている瞬間に立ち去ろうとしてベンチから腰を離し――、

 「待ってっ!!」

 あっさり服の裾を掴まれてしまった。人目を気にせずにライドインパルスで逃げれば良かった……『選択』を誤ったか。

 「…………何だ?」

 ……嫌な予感しかしない……そうだと分かっていながらも聞いてしまったのは条件反射だとしか言いようがなかった。

 「お願い! 一緒にママを探して!!」

 そしてその予感は現実となってしまった。










 午前8時48分、医療センター付近の歩行者道にて――。



 「待ってくれよぉ! 二人とも歩くの早いってば!」

 道行く者達を必死で掻き分けながら一人の少女が猛スピードで走り抜けて行く……同じ方向に行く者を追い抜かし、反対方向に行く者を突き飛ばさんばかりの勢いで走り去る少女――セインはやっとの思いで自分の先を歩いていたオットーとディードに追い付く事が出来た。

 「セイン姉様、歩くのが遅すぎます」

 「ぜぇ……ぜぇ……! あんたらが早過ぎるんだよ。ちょっとは姉ちゃんを労わってくれよぉ……」

 「そうやって厚着してたら歩くのも遅いよ……。って言うか、教会では半袖なのにどうしてまた?」

 「いや、あれは私のイメージスタイルだから!」

 「……何それ?」

 白い息を吐いて会話を交わしながら医療センターへと続く道を歩く三人。何故教会組のナンバーズが教会の仕事を放り出し、揃いも揃って朝のクラナガンの街を歩いているのかと言うと……今日なんとか退院することとなったヴェロッサを迎えに行くようにとカリムから頼まれたからである。リンカーコアが消失寸前にまで追いやられて復帰を果たしたのはある意味では奇跡だろう。まだ戦闘や捜査活動に戻るには時間が掛かるそうだが、必要最低限の日常生活を送るには充分とのことだった。彼女らも一時はヴェロッサの作るケーキが二度と食べられないのではないかと内心冷や冷やしていたが、この間直に連絡を寄越して来た本人によれば「その心配は要らないよ」と陽気に述べていた。

 「早く食べたいなっ、ショートケーキ! モンブラン! アップルパイ!」

 「最後のはケーキなんですか?」

 「絶対違うよ、ディード。世紀の大発見みたいに目を輝かせないで、単純にセインが間違えてるだけだから」

 「えぇ~、でも前にアップルパイ作ってくれてたじゃん。あれすっごく美味しくって忘れられないんだなぁ~」

 「病み上がりの人に余り無理をさせないでくださいね」

 「分かってるってば」

 三人で冗談を飛ばし合いながら目的地まで足を運ぶ……セインから見れば、更正を終えて社会に入った自分達の中で一番変わったのはオットーとディードの二人だと考えていた。性格や無駄口を言わないのは以前と殆ど変り無いが、それでもやはりこうして普通の人間と遜色無く『姉妹』の会話が出来る日が来ようなどとは思っていなかった。昔はつまらないとか思っていたが、今ではすっかり可愛い妹と言う印象が――、

 と、ここでセインの思考が急に停止する。

 何故か?



 背後から思い切り突き飛ばされたからだ。



 「どぉうわ!!?」

 背中から物理的な不意打ちを喰らったセインの体は大きく弓なりになり、舗装された道路に顔面から叩き込まれた。かなりのスピードで叩きつけられた所為か、逆に見ているこっちの鼻面が痛くなってしまう程だった。実際、前方を歩いていたオットーとディードは無意識に鼻を隠すように押さえている……。

 「痛ってぇなぁっ! 誰だ! 人のこと突き飛ばしたのは! 危ないだろ!!」

 だがそこは流石戦闘機人、痛みをモノともせずにすぐさま立ち上がって自分をこんな目に合わせた人物を一喝しようと勢い良く怒鳴り声を上げた。

 だが――、

 「……セイン姉様、何を言っているんですか?」

 「え? 何が?」

 ディードが何やら不思議そうに首を傾げているので痛みのする鼻を擦るセイン。案の定鼻血が酷い事になっていたが、どうやら妹が訊ねているのはその事ではなさそうだった。

 「突き飛ばされてと言いますが、セイン姉様はいきなり転倒したのですが……?」

 「はぁ!? 何言ってるのさ、明らかに今さっき後ろから力一杯突き飛ばされたじゃないか!」

 「突き飛ばした突き飛ばしたって……言っておくけど、『ここには誰も走る人は居なかった』よ」

 「嘘だぁ!」

 確かに彼女の倒れ方を見れば、足元の小石に蹴躓いたとか足首を捻ったとかのようなモノではないことは一目瞭然だった。それはもちろんオットーとディードにも分かってはいた、自然に倒れたとしたらあの速度は絶対に有り得ないから…………だが――、

 「本当に何も見えませんでした」

 確かにセインを突き飛ばし、自分達の間を何かが通り抜けて行った。だが、その『何か』が結局何だったのかについては視認できなかった以上、どうしようもないことだった。










 「今さっき誰かにぶつかったよ?」

 「問題無い、移動を継続する」

 クラナガンの道路を走るモノがある……それは自動車であり、二輪車であり、バスなどの公共機関であり、自転車などであり…………



 明らかにスポーツカー並みの速度で走る戦闘機人であったり――。



 隙間無く舗装されたアスファルトの路面を走行し、次々と乗用車を追い越して行くトレーゼ。両脚に装着したアサルトヴァンガードの四輪駆動から生み出される爆発的なスピードを遺憾無く発揮して、時に対向車両を飛び越し、時にビルの壁面を駆け上がり、時に進行方向から見てほぼ直角に横滑りすると言う物理的に有り得ない軌道を描きながら、彼は首都の道路を爆走する…………背中に迷子の少女を背負いながら。

 「お兄ちゃんって『まどうし』さんだったの!? すごぉい! 私、魔法見るの初めてぇ!!」

 「舌を噛むから、黙っていろ」

 「はぁ~い!」

 結局、トレーゼは何故かこの少女の頼みに逆らう事が出来なかった。そのまま振り切って……と言う手段もあったにはあったのだが、また大泣きして騒ぎを起こされたらたまったものではないと判断し、さっさと母親とやらを探し当ててからの方が得策だと考えたのだ。それからすぐに彼は行動を起こし、街中を走りながら捜索すると言う手段に打って出た。

 ちなみに、今の彼の走行速度は時速70㎞超……これが一般車両ならとっくに交通課に通報されている速度だが、生憎と二人の姿は他の誰にも見えてはいない。彼の持つ14の固有技能の一つ、完全偽装のシルバーカーテンの効果によって二人の全身を光学迷彩皮膜で覆っているからだ。よほど接近しない限りは他者に認識はされないし、視認距離に入った時には既に通り過ぎている為、こちらから停止しなければ絶対に見えないようにしていた。

 「母親の、特徴は?」

 「私と同じ栗色の髪の毛で、目は緑色! あっ、あとね、髪の毛がすごく長いの!」

 目的の人物の身体的特徴をマキナに入力して行く。こうする事であとはマキナが管理局の戸籍登録簿にハックして自動的に探してくれるのだ。そうして次々と情報を入力して行く内に、二人は車両の通りがさっきよりも多い場所……街の中心へと近付きつつあった。

 「お兄ちゃん、さっきから思ってたんだけど、どこに行くの?」

 「見晴らしの、良いポイント。そこから、お前の、母親を探す。母親の、名前は?」

 「う~ん……ママのことは『ママ』って呼ぶから、分かんない♪」

 「……………………マキナ、以上の条件に、該当する、人物は?」

 『There hits 624.(該当件数は624件です)』

 「では、さらに、『クラナガン在住ではなく』、『夫が局勤め』で、『子持ち』の条件に、当て嵌まる者は?」

 『There is only one name if applicable.(該当者は一名だけです)』

 「ポイントは?」

 『Are in approximately 624 meters from here.(ここからおよそ624メートルの位置に居ます)』

 600と言えば、ビルを一つ二つ跨いだ位の距離である。意外と近くに居た事を考えれば、当の母親も少女の事を必死に探していたのだろう。早急に終わらせねば……。

 「方角は?」

 『It is eight o'clock.(8時の方向)』

 「通り過ぎたか……」

 「えぇ!? どうするの?」

 「…………こうする。IS、No.9『ブレイクライナー』発動」

 その声と同時に、走行中のトレーゼの足元から真紅のウィングロードに酷似したエネルギーの道が形成され始めた。瞬時に前方20メートルにまで伸びたその道は、途中で大きく上部に反る形となり、さらに大きなU字を描いた。ジェットコースターのレール軌道と同じで、その上をトレーゼが――、

 「掴まっていろ」

 駆け抜ける! エアライナーは折り返した所から逆さを向いている……その為にここで一気に加速しておく必要があったのだ。時速100㎞超のF1並みの速度から派生した強烈なGが真正面から少女を襲うが、彼女は目を閉じながらも精一杯踏ん張ってトレーゼにしがみ付いて離れなかった。やがて折り返し点を通過すると、レールに沿って二人はさらに上空へと駆け上がる……そして、エアライナーの終点を突破した時、二人は――、



 ビルよりも高い位置を数秒間滑空した。



 「おおおぉぉ~~~っ!?」

 生まれて初めて見る光景に、少女はただただ感心しているだけだった。今まで自分が見て来た人や車などと言った大きかったはずのモノが、ここから見ると完全に手に取れるようなサイズに見えてしまうから不思議なのだろう。

 だが忘れてはならない……飛行魔法も無しにこの高度まで上昇すれば、運動エネルギーが無くなれば後は必然的に……

 落下すると言うことを!

 「きゃぁぁあああぁあああああっ!!!!」

 自由落下の浮遊感は少女の心にある意味で衝撃だったはずだ。それまで微妙に浮き上がっていた自分の体が一瞬の間を置いて急転直下、それは確かに誰しも慣れる事は出来ない感覚に違い無いだろう。だが、彼女が必死に叫んでいる間にも、下方では黒いアスファルトの地面が二人の衝突を待ち焦がれていた。一応、戦闘機人であるトレーゼはこんな高さなら屁でもないのだが、そんな事を少女が知るはずもなく、絶体絶命の恐怖に怯えていることしか出来ていなかった。

 そんな背中の彼女を余所に、すっかり落ち着き払っていたトレーゼは……

 「バインド……」

 自分の左手から一本の魔力の縄を作り出した。掌から伸びたそれはそのまま延長し、彼らのすぐ傍のビルの壁面に貼り付くことに成功した。たった一本と侮るなかれ、成長期の竜の動きならば容易に封じる事の出来る程の物理的強度を誇るバインドなら二人の体重を支えるには充分だった。手から伸ばしたロープでビルの谷間を高速でターザンすると言うのはどこかの映画にあったような気がしないでもないが、今はそんな事を一々気にしてはいられない……二人を支える一本のバインドは振り子運動によって加速度を増し、もうすぐ最高速度を弾き出すであろうポイントに向けてまっしぐらに彼らを振り下ろして行った。バインドの長さは短く、最高速度到達点はギリギリ地面に接触しないラインではあったのだが……

 「あ! ママぁ!!」

 背中の少女が指差した方向に居る一人の女性……栗色の長髪と、横顔から僅かに垣間見える緑色の目……なるほど、どことなく顔つきが少女にも似ている所を見れば確かに彼女が母親なのだろう。遠目で見ても分かるが落ち着かない様子で周囲をしきりに見回していた……自分の娘を探しているのはもう明白。

 「……行けるか」

 距離はおよそ300余メートル……このまま背中の少女を機人の剛腕で以てして前方の母親に投げつけるのが一番手っ取り早いのだが、そこら辺の小石から鉱山で採掘される重金属の塊まで大リーガー顔負けの豪速球で投擲する彼の腕力に少女の肉体が耐え切れる保証は全く無い。仮に耐えられたとしても、それを射線上に居る母親が受け止める確率はほぼゼロ……反射的に回避してしまい、地面に叩きつけられた少女はたちどころに肉塊に変貌してしまうのは目に見えている。

 ならば――、

 「……おい」

 「なに? お兄ちゃん?」

 「……………………死ぬなよ?」

 そこから先は無音の世界だった。バインドの振り子運動の速度が最高に達したその瞬間、トレーゼが手を離した。振り子運動は紐の長さが長ければ長い程、先端の物体が重ければ重い程にその速度を増す……トレーゼの体重は70~80㎏前後、その体重から生み出される速度はどこぞの蜘蛛男の比ではなかった。すぐ背後で少女が何かうるさく叫んでいるが、もはや何も聞こえない……前方に向かって放り出された二人の速度は凄まじく、距離を取っていたはずの地面があっという間に接近し、母親との相対距離もさらに縮まった。だがその軌道は明らかに母親の方を向いており、このままの速度を維持して突っ込めば衝突は免れられなかった。かと言って飛行魔法で軌道修整を行おうにも、この相対距離と速度では修整は無意味に等しい……もはや接触は絶対に回避出来そうにないだろう。



 だと思っていたら大間違いだった。



 トレーゼは自分の首に回されていた少女の腕を一瞬で振り解くと、彼女を自分の胸に抱え込んだ。いきなりの事態に少し抵抗はされたが無理矢理抑え込む……これで全ての準備は整った、後はそれを――、

 実行するだけだ!

 エネルギーを脚部へと集中、だが決して過剰にしてはいけない……タイミングも、方向も、放出するエネルギーの総量と放出時間も、その全てを見誤ってはいけないのだ。

 シルバーカーテンの効果で相手はまだこちらに気付いていない。始めは100メートルはあった距離も目測約10メートルにまで縮まった……だがまだだ、まだ接近しなければいけない。

 まだだ……

 まだ……

 もう少し……

 そして――、

 距離約3メートル! 今だ!

 「IS、No.3『ライドインパルス』発動!」

 シルバーカーテンを解除すると同時にトレーゼの足首から真紅のエネルギー翼が出現、そこから発生する全推進力を一気に足下に向けて解き放った。

 ただし100分の1秒だけ! それ以上放出を続ければ今度はそれまでと逆方向に押し出されてしまう上に、この抱きかかえている少女の肉体が音速のGに耐え切れずに絶命してしまうからだ。故に一秒にも満たない刹那の瞬間に振り子運動で掛ったエネルギーのベクトルと全くの反対方向に向けて推進しようとする事で、人工衛星の軌道修整などに使用されるジェットの逆噴射の要領によって双方向のエネルギーを相殺し、その場に……

 「……着陸、成功」

 降り立って見せた。目の前の女性はいきなり見ず知らずの少年が自分の眼前に現れた事に驚きを隠せずに唖然としている事しか出来なかった。

 「あ、あなた……! どこから? さっきまで居なかったのに――」

 「ママっ!!」

 だがその戸惑いもトレーゼが抱きかかえていた少女の声で現実に引き戻された。自分の姿を認めるなり足元に飛び付いてきた娘を見て、母親はさっきよりも強い驚きに打たれた。

 「心配してたのよ! ママね……ずっと探してたんだから……!!」

 「ママぁ! ママぁ~っ!! うわぁああああん!!!」

 人目も憚る事無く大声で泣きじゃくる少女……遠い異邦の地で母とはぐれ、絶対的な孤独感に苛まれていた彼女は、今ようやくその呪縛から解き放たれたのである。緊張から一気に安堵したことによって涙が堰を切ったかのように溢れ出し、母親もつられて目尻が濡れているのが分かった。

 「お兄ちゃん、ありがとね! 私……お兄ちゃんの事、ずっと…………あれ?」

 少女は自分をここまで連れて来てくれたトレーゼにたった一言でも礼を言わねばと、背後でこちらを静観しているはずの彼の方を向いた。「ずっと忘れない」……この一言で少女は自分の持つ精一杯の感謝の念を伝えようとしたのだ。



 だが――、



 振り向いた時にはもう、トレーゼの姿は霞みの様に消え去ってしまっていた。あの少し菫色に近かった紫苑の短髪も、血が通ってないような白磁の肌も、琥珀のような澄んだ金色の双眸も……胡蝶の夢の如く少女の前から消え去り、二度と姿を現そうとはしなかった。










 「……………………」

 いつの間に登ったのか、八階建てのビルの屋上に眼下の母娘を静かに眺めて佇立しているトレーゼの姿があった。しばらくは自分の姿が見えなくなったのに戸惑っていたようだったが、程なくして二人が歩き出したのを確認すると彼も空へと飛び上がった。今度は母と子が互いに手を繋ぎ合っていた……あれでもう逸れる心配もあるまい。それにしても、全くもって面倒な厄介事に巻き込まれてしまったものだ……トレーゼは今度からはあの様な小さな子供に不用意に近付くのは決してしないようにと固く決心した、『管理局の三強より一人の幼子』……その言葉の重みを恐らく彼は忘れないだろう。

 時刻は午前9時00分、まだまだ昼とも言えない時間帯だが度重なる能力の行使でカロリーを消費してしまったトレーゼの腹は空っぽだった。例の携帯食料も少女に全て与えてしまい、もうストックは無かった。かと言ってこのままラボに帰ってクアットロに絡まれると言うのもまた癪な話……またしばらくクラナガンの街を練り歩くより他無かった。

 「……また、厄介事に、関わらなければ、良いのだが」

 そう呟きながら彼は中心街を目指して飛行を続けた。恐らく自分があんな子供と触れ合う事など今後一切無いであろうと考えながら……

 だが何故だろう、あんなに厄介極まり無かったはずなのに――、



 不快には思わなかった。










 休日の過ごし方。ナカジマ家、N2Rの場合――。



 「なぁなぁチンク姉ぇ、久し振りに稽古つけてくれる約束しただろ!」

 「分かっているよ、ノーヴェ。だからそんなに引っ張ってくれるな、私の体が引き摺られているではないか」

 「チンク姉は小さいッスからね~。いつまでも子供みたいで可愛いッス」

 「ウェンディ、あんまりチンクをからかうのはいけないよ? ノーヴェだって、チンクは出所してから働き詰めなんだから我儘は言っちゃダメだからね」

 ナンバーズ更正組の長姉であるチンクを引っ張るノーヴェとウェンディ、そしてそれをイノーメスカノンの手入れをしながら見送るディエチ……ここ最近は見掛けなかった彼女らN2Rのいつも通りの日常がそこにあった。基本的に非常時出動などが多いN2Rはこうして非番である事が多く、それを機に久し振りにチンクから直接稽古をつけてもらおうと管理局の訓練室へと向かおうとしている最中だった。

 玄関で靴を履き、取り付けの掛け鏡で身嗜みを確認、そしていざドアを開けて外に出ようとした時――、

 「なぁノーヴェ、最近何かあったのか?」

 「……どうしてさ?」

 「いや……何か朝から気分が悪そうに見えてな……」

 チンクにそう言われて思わず返答が数瞬遅れてしまったノーヴェ……幸いにも姉に背を向ける形で立っていたお陰でその表情までは窺い知れなかったが、当のチンクはその僅かな反応を見逃してはいなかった。だがあえて口にはせず、自分の妹の出方を見守った。

 「……別に何も無いってば。あたしは元気だから全然心配無いよ、そうだろ?」

 「…………そうか、どうやら私の思い過ごしだったみたいだな。だが何かあればすぐに姉に相談するのだぞ、良いな?」

 「……うん、分かってる」

 返答はいつもより弱々しく、いつもの覇気はどこかへ消え去ってしまっていた……そんな状態のノーヴェを大丈夫だと思える要素は少々心許なく、自分の居ない間に何かがあった事を容易に想像させた。だが必要以上に意固地になり易い妹の事を想ったチンクはノーヴェの方から心を開く事を期待し、今は深く追及しない事にしたのだった。いつかは自分から話してくれる……そう信じながら。

 と、ここで――、



 ~♪ ~♪ ~♪



 「ん? すまんな」

 着信のメロディを聞いたチンクが自分のポケットから携帯電話を取り出した。彼女の場合、掛けて来る人間によって着信音設定を使い分けている為に画面を確認せずとも誰からのモノなのか把握出来るようになっており、今の送信主は家長のゲンヤからであった。

 「はい、チンクです。……はい……はい……了解しました」

 会話をしながら雰囲気が固くなって行く姉の姿に、ノーヴェとウェンディが掴んでいた彼女の服の裾を離し、そして部屋で武器の手入れをしながら聞き耳立てていたディエチも何も言わずに立ち上がった。その両手にしっかりとイノーメスカノンを抱えて……。

 やがて用を聞き終わったチンクは携帯を仕舞い込むと――、

 「さて、予想出来ていると思うが、仕事だ」










 休日の過ごし方。自称『腐れ縁』とその友人の場合――。



 「正直ね……スカリエッティがあんたの足を治してくれるなんて万に一つも予想してなかったわ」

 地上本部の中庭をゆっくりと歩いて目の前の友人に語りかけるは、元機動六課フォワード部隊四人組のリーダー役でもあったティアナ・ランスターである。治らないモノとばかり思っていた親友の両足が復活するやも知れないと聞き、彼女は誰よりも驚き、誰よりも安堵し、そして誰よりも嬉しく感じていた。始めは手術に関わったのがあの変態博士だと聞いて内心ギョッとしたが、ちゃんとマトモな姿で帰って来たので安心はした。

 ……のだが、どうにもスバルの調子がおかしいのだ。最初は自分の姿を見るなり飛び付かんばかりに興奮していたのに、時間が過ぎるごとにそれが嘘だったようにいつもの元気が消え去って行くのだ……そればかりかあの万年食い意地張りっ放しのスバルが、買って来た土産(もちろん食い物)にも全く反応を示さないと言うのは天と地が引っ繰り返っても有り得ないはずなのに、「後で食べる」と言った時にはもうこちらが気絶するかと思ってしまった。細胞再生手術による一時的な影響か何かなのだろうか? そう考えて気分でも悪いのかと訊ねたところ……

 「別に……そんなことないよ」

 伊達に長い事付き合って来た訳では無いので分かるが、こちらが話し掛けていてもそっちのけで天を仰いでいたり、10秒に一回の割合で溜息をつきまくる人間のどこが大丈夫なのか……。良く見れば顔色だって優れないし、ひょっとしたら足を無くしていた頃の方がよっぽど機嫌が良かったのではにか。

 (何かあった? でも何が? いっつも能天気なスバルがこんな…………でも、ボケっとしてるだけだから、そんなに大したコトにはなってないのかしら……)

 取り合えず、何か話を振らなければと思ったティアナは、手術前にスバルが良く話してくれていた『友人』について聞こうとした。最初は彼女のマトモな男友達が出来たことに少なからず驚きはしたが、自分達はもうすぐ20歳……かつての部隊長三人がまるで男気が無かったことを思えば自然の摂理なのかも知れなかった。キャロにエリオが居るように……自分にヴァイスが居るように……。

 「あんたさぁ、手術のことってその友達に連絡したの?」

 「え!? あ~、まだ話してない……」

 「はぁ? あんたねぇ、そうやって雑把にしてると、そう言う奴はさっさとどこか行っちゃうんだから。逐一コンタクトとっておきなさい」

 「えぇ~! 大丈夫だよ、そんなに細かくしなくったって、トレーゼは気にしたりしないってば。その内また見舞いに来てくれるし、その時に言えば良いよ。…………多分、その内に来てくれるから……」

 名前は今初めて知った……と言うか、随分懐いているようだ。彼女が人見知りしないのは今に始まった事では無いが、今まで男性に対してここまで懐いたことがかつてあっただろうか? いやあったにはあったが、ここまで柔らかい雰囲気を纏っていた事は無かったはず。過去にも六課の職場にはエリオを始めとする男性陣が居たには居たが、そのどれもが『知り合い』程度にしか収まっておらず、少なくともプライベートにおいてまで親しくした者は居なかった。そんな彼女がこれ程に……これじゃあまるで――、

 「あんた……そのトレーゼって人の事――」

 「大変だティアナ!!」

 ティアナの耳に聞き覚えのある声が聞こえ、彼女が声の方向を見やるとヴァイスが血相を変えてこちらに疾走しているのが見えた。いつも飄々としている彼がここまで慌てているのは余程の事があったのだろう……。

 そして案の定――、

 「例の質量兵器の闇取引した連中が尻尾見せた。事件だよ、それも殺しのな!」

 嗚呼やはりな。自分の担当していた闇取引事件の小組織がこの街の界隈で良からぬコトをしていたのは知っていた……だが、決定的な物的証拠を押さえる為にワザと泳がせておいたのだ。念の為明記しておけば、奴らを野放しにしておいたのは担当官の彼女の意思ではない、むしろ彼女は組織の検挙を後回しにしていた上層部に何度も要請していた方だ。コトが大きくならない内にとあれだけ言ったにも関わらずこうして事件が起こってしまった。それも殺しとなれば尚更だった。

 「ヴァイス陸曹、私はこれから現場に急行しますのでスバルをお願いします」










 午前11時00分、クラナガン中心街のメインストリートにて――。



 「……………………」

 歩きながらファーストフードを口に入れると言うスタイルはこの文明社会ならどこでも有り勝ちな光景だ。ハンバーガーに始まり、売店のアイスクリームからスナック菓子、湯を入れてから三分で食事可能なカップ麺に至るまでの食の殆どが時間を掛けずに済ませようとする方向に進んでいるからだ。一食毎の栄養についてはともかく、初めてそれらを発明して食した者は誰もがその低価格と時間と味の魅力に魅せられたに違いない。ここミッドはもちろん、地球の歴史においてもファーストフードは電化製品と並んで日常的文明の利器なのは明白だった。

 だが、幾ら低価格でサイズも手頃なモノとは言え、まさかそれを一度に十数個も買う人間は居ないはず……

 だと思っていたら実は違っていた――。

 「…………完食」

 トレーゼの片手に握られたどう見てもLサイズの紙袋の中にはバーガーの包み紙が20個分は突っ込まれており、明らかに彼一人でそれらを食べ切った事を暗に示していた。そして今最後の一個を胃袋に収めた後、その紙袋を拳大にまで丸めると高圧電流で灰にして風に流した。戦闘機人はその圧倒的戦闘力を振るえる反面で、内部フレームや増強筋肉を動かす過程で常人よりも余計にカロリーを消費してしまうので常にその食事量が半端ないのだ。特にナカジマ姉妹が大食いなのは彼女らが最初期に製造された所為でカロリー消費が最新式であるナンバーズと比較しても多いからであろう。まぁ、彼の場合でも充分多いのだが……。

 「……さて、セッテの訓練の後で、帰るか」

 様々な人々が行き来するこの道をトレーゼはまるで他の人間に認知させないようにして自身の存在感を希薄にし、常に感覚の外側に自分を置いていた。日常的にこうすることで戦闘での隠密行動の糧にしていると言う訳だった。案の定、道行く人間は誰も彼の事を気にも留めない……毒々しい髪と猛禽類の如き金色の瞳、真冬だと言うのに純白の服装などと言った目立つ出で立ちをしているにも関わらずだ。誰も彼に気付かない……誰も……

 そうして彼が無心のままメインストリートから逸れた路地へと足を踏み入れようとした、その時――、

 「マジかよ! 殺人!? どこでだ!」

 ふと、彼の足が止まった。この完全管理社会であるミッドで殺人……それも白昼堂々とはかなり珍しい事態であった。耳に飛び込んで来る声を聞くと、どうやら最近になって活動を始めたらしいとある犯罪組織の連中が局の治安課に追い詰められ、逃走用の車を街の人間から強引に奪い取ったらしい。大方殺されたのはその車の持ち主だろうが、行き掛けの犯罪者に車を盗られてその上殺害されるとはなんとも不運な人間だ。

 だがトレーゼは自分には関係の無い事だと割り切り、すぐさま踵を返して立ち去ろうと――、



 「聞いたか!? 殺されたのって親子連れらしいぞ。女の子が血まみれで――」










 「……………………」

 はっきり言って『これ』は一般人には刺激が強すぎた。事件が発生してから時間が経っていないのか、目隠し用の青いビニールシートなどが全く張られておらず、哀れな二つの骸は周囲の人間達の晒しモノへと成り下がってしまっていた。

 天頂からの陽光を受けた黒いアスファルトの上を流れる大量の鮮血と頭の部分からはみ出ている臓物とは別の物体……血液が全然乾いていない所を見ると、本当についさっき殺されたのだと改めて認識させられる。二人ともうつ伏せになっているので正確なことは分からないが、出血量から銃痕はおよそ二発……どちらも頭を撃ち抜かれていた。即死だった……断末魔の叫びなんか上げられるはずもなく、それはその親子が二度と互いを呼び合う事も出来ないことを残酷に意味していた。

 「……………………」

 治安課の人間達がやって来た。進入防止用のテープを張り巡らし、大きな青いビニールシートを天蓋のように広げて二人を覆い隠す……

 だが、その瞬間にトレーゼは見た――否、見てしまったのだ。

 死してなお二度と離すまいとして互いに固く握り締められた右手と左手――、

 その二人が親子であることを示している栗色の髪――、

 そして……女の子の左手に握られている食べ掛けのスティック状の食べ物――、



 それはトレーゼが渡した物だった。



 「……………………っ!!!」

 トレーゼは自分の脳裏を何か得体の知れない強い刺激が一気に駆け抜けるのを感じた。『それ』は瞬時に脳から脊髄を伝って全ての骨格、血管、内臓、筋肉、間接、器官へと侵入しては彼の神経を焼き切らんばかりの熱で犯し始めたのだ。脳裏では自分に嫌に懐いて母と会うまで離れてくれなかった少女の顔が激しくフラッシュバックし、混乱する記憶情報の奔流がピークに達したその瞬間――、

 彼の視界は真紅に染まり、意識はブラックアウトした。

 最後に彼の意識が捉えたのは自分のストレージデバイスの無機質な電子音声だけだった。

 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』

 次の瞬間には彼の姿は何処にも無く、逃走者達が奪った車のタイヤ痕だけがそこにあるだけだった。










 同時刻、地上本部ゲストルームにて――。



 スカリエッティの休日の行動は大抵睡眠と言う風に相場が決まっていた。元々は研究漬けになっていたのを見かねたウーノが彼に勧めたのが始まりだったのだが、今ではそれがすっかり習慣となり、休日と定めた日には丸一日中眠っている事も珍しくは無かった。

 だが、少なくとも今現在に限って言えば彼は全く睡眠を摂らずにいた。画面に映された映像に穴が開く位にまで無言で黙々と見つめ続けており、かれこれ一時間はその状態がキープされている状況だった。友人からもらったとか言うアニメを見ているのではない……映像はつい昨日に自分の要請で現地に赴いてくれた元隊長陣三人の戦闘記録であり、今見ているそれはフェイトのバルディッシュから抽出した映像記録だった。現地での交戦記録が事細かに記録されていて、もちろんそこには脱獄したクアットロとそれを手引きしたトレーゼの姿も見えていた。やがて戦闘が開始された所まで見ると、それを早送りで最後まで見て、また巻き戻しては最初からと言った具合に、それらを数回以上も続けていたのだ。

 「…………………」

 映像を停止すると、彼はまるで『考える人』のように固まって思考し始めてしまった。いや、思考自体は観賞している途中から始まっていたのだろうが、今度はされにそれに集中する姿勢に入ったのだ。しばらく何も言わずにずっと押し黙るスカリエッティ……それを傍らで静かに見守るウーノ……。

 やがて長い思考から帰って来た彼はふとウーノの方を見やると――、

 「ウーノ、気付いているかな?」

 「はい、ドクター」

 「やはり私の思い込みではないようだな。…………



 ここに映っているのは本当にトレーゼなのか?」



 スカリエッティの指差したモノ……それは、最後の瞬間にフェイトを吹き飛ばすトレーゼの鉄面皮の横顔だった。










 30分後、廃棄都市区画の一角に存在するとある廃ビルにて――。



 これが上手く行けば後はどうとでもなる……そう思っていた。クラナガンとは縁もゆかりも全く無い管理世界のスラムから出て来た自分は常に金に不自由していた、働けど働けど我が暮らし何とやらと言う奴だ、それ故に一攫千金を狙っていなかったと言えば嘘になるだろう。だからこんな質量兵器などと言う物騒極まりないモノに関わったのだ……製造・個人所有・売買など質量兵器に関する全てが御法度とされているこの管理世界では闇取引で得られる利益は同じ重さの貴金属の10倍以上にもなり、上手く行けば一生遊んで暮らせるだけの資金が転がり込み、自分は伸し上がれるはずだった。

 だから一週間前に知り合ったばかりの見ず知らずの同じ考えの奴らと組んで行動を起こしたのだ。互いに素性も経歴も何も知らない者達が八人……そう言った裏のネットワークを通じて知り合い、即席での取引計画だった……正直言って成功するかどうかさえ不安だった、上手く仕入れ先から銃器を受け取れたのが奇跡だったとさえ思える。

 だが、所詮はそこまでの話……取引を嗅ぎつけた管理局の治安課のヤサ入れが始まって事態は急転した。先にブツはこの本命のアジトに隠しておいたから良かったものの、自分達は逃げるのに精一杯……途中で民間人から逃げ足用の車を奪おうとしたが抵抗に合ってしまい、自分は止めようとしたにも関わらず逆上した仲間の一人が発砲、親子共々地獄送りにしてしまった。

 ひょっとしたら、その時の報いなのかも知れなかった――、

 今自分の目の前に――、

 『紅い悪魔』が居るのは。

 「――――――――ッ!!」

 管理局の連中をどうにか煙にまいて逃れて来たアジトには先客が居た。冬だと言うのに真っ白な服とそれに負けない白磁の肌……見た事が無い、始めはこちらが売りつける取引先の人間が来ていたのかと考えられたが、次の瞬間にその予想は完全否定された。

 背中から生えた四枚の紅い羽根がその存在を人間かどうかさえ危うくさせたのだ。すぐさま危険を察知した仲間の一人が発砲した。立て続けに他の奴らも一斉に発砲、その得体の知れない『何か』を蜂の巣にするべく攻撃を開始した。飛び出した数多の銃弾は大半が当てずっぽうな場所へ飛んで部屋の壁に幾つか穴を開けたが、内の何発かの軌道はしっかりと対象の心臓と頭部へと一直線に続いており、このまま行けばその得体の知れないモノを殺す事は容易なはずだった。

 そう――、『はずだった』のだ。

 「――――――――」

 “それ”の右腕が一瞬消えたように見えた次の瞬間、自分の前に居た仲間の一人が無様に仰向けに倒れた。眉間に穴が開いている……銃痕だ、もちろん自分達が撃ったのではない、だが相手は銃を持ってはいない……どう言うことか?

 その疑問はすぐに晴れた。目の前の“それ”が右手を開いた時、五指の隙間から合計18発の弾丸が乾いた金属音を立てて床面に落ちて来た。以前どこかで聞いたことがあった……マッハ3で手を振れば銃弾ですら弾けると……ならばそれ以上の速度で振れば一体どうなるのか? つまりはそう言う事だった。

 「に、逃げ――!!」

 一番先頭にいた奴が本能で危険を察知したのか、背後に居る自分達に大声を張り上げながら振り向いた。しかし、そこから先の言葉は血の泡に消え果た……。

 「ごふ……! げぇぼっ!」

 こちらを振り向いたまま口から吐血してそのまま硬直する男の肢体……その腹から小腸の纏わり付いた“それ”の腕が突き出していた。発泡スチロールを貫いたかのように容易く人体を貫いたその腕はそのまま死体ごと持ち上がり――、

 地面に叩きつけられると同時に木端微塵に粉砕して周囲を赤く染めた。辺りに血液はもちろんの事、黒く変色した内臓や頭部に収まっていたはずの皺だらけの脳ミソ、バラバラに砕け散った肋骨と脊髄などまでが天井にまで飛び散り、辛うじて繋がっていた手先の指がまるで虫のように小刻みに痙攣していた。“それ”は叩き付けた時の衝撃で半分だけ残っていた頭の下顎の部分を拾い上げると……

 パキョ……!

 生卵を割るのですらもう少し凝った音で表現できるだろう……とても人体の一部を破壊したとは思えない軽い音が室内に虚しく響く。開戦からおよそ二分で一人目を仕留めた“それ”は無造作に死肉の塊から折れた一本の肋骨を拾い上げ――、

 二人目の首に投げ刺した。

 「ぐぇ……!!?」

 首に穴が開いただけでは人間は中々死なない、その事を熟知していたのか“それ”は瞬間移動でもしたかのような高速直線移動によって二人目に詰め寄ると、両腕を鷲掴みにし、関節ごと引き千切った。肩の断面から溢れ出た血液が“それ”と自分達の体を汚して行く……。

 「……あ……あぁ……!!」

 「――――――――」

 だがまだ絶命はしない……それを確認し、“それ”は大きく拳を振り上げて――、

 一人目よりも派手に叩き潰す! 一瞬にして頭部から股間にかけて人体を無残に『潰し』た後――、

 「――うう――――うううぅううぅうぅうううぅウウウウッ!!!!」

 天を仰ぎて息を吸い込む――外気を肺に吸収していくと背中の四対の羽根がさらに大きく膨れ上がり、羽根の形状に収まらなかった高濃度魔力が室内どころか建物全体を真紅の粒子で覆い尽くす。ただそれだけの行為なのにその場に居る全員がその禍々しくも神々しい姿に目を奪われ、地獄の悪鬼の如き唸り声に足が竦み、その圧倒的恐怖に全員が――、



 「ウォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」



 今、この場に居る事を後悔した。

 後に聞こえたモノ……それは――、

 抵抗の銃声――、

 断末魔の叫び――、

 コンクリートの壁を徹底的に破壊する轟音――、

 肉と筋を無理矢理に引き千切った断裂音――、

 骨が砕け、脳漿と血液に塗れた半液状の臓物が床にブチ撒けられる音――、

 そしてほんの少しの静寂の後に……

 「………………あ……ああぁ!! あああああああぁああぁぁぁぁっ!!!」

 骨と臓物の入り混じった血まみれの空間で一人の戦闘機人の哀しい咆哮が最後となった。

 その手は八人分の血で染まり、雪景色を切り取ったようだった服までもが全て赤く変色していた。顔面に飛び散った飛沫が重力によって垂れ下がるのを拭いもせず、彼は慟哭する……顔を覆い、頭を掻き毟り、血の池に崩れ落ちても叫び続けた。

 その姿は獲物を仕留めた肉食獣でもなく――、

 無事に狩りを終えた狩人でもなく――、



 まるで神に懺悔する罪人そのものだった。










 『Emergency shutdown of the console “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの緊急停止を確認)』










 「…………管理局が、来たか」

 遠くから聞こえて来る複数の車両の音がトレーゼの耳朶を打つ。窓を少しだけ開けて確認すれば遠方の道路をこの区域を担当している陸士部隊の車両が向かって来ているのが見えた。このまま長居していても得は無い……そう判断した彼は侵入して来た別の窓から身を乗り出し、飛行を始めた。血染めの服からまだ乾いていない分の血液が滴り落ちる……それを一向に構う事無く、彼は淡々と目的地まで一直線に飛行を続けた。

 ふと、背後のビルを見やる。そして自分の行動を顧みながら彼はこう呟くのだった。

 「トーレ……貴方なら、どうしたのだろうな……」



[17818] 聖王のバビロン捕囚
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/06/06 01:09
『新暦78年11月18日――それは聖王教史上最悪の大事件が起こった日である』

                                   ――――カリム・グラシアの手記より抜粋。









 「酷い匂いですね。何人殺しました?」



 「……八人」



 「かなりの数ですね。血液独特の鉄分の臭気が鼻に突き刺さります」



 「そんな事は、どうでも良い……明日の、作戦で、話がある」



 「作戦? どう言う意味ですか?」



 「とぼけるな……お前にとって、俺がどう言う存在か、しっかり理解している、はずだ。その為に、わざわざ、教えてやったのだ」



 「……………………」



 「期日は明日……場所は、“お前は”St.ヒルデ魔法学院……作戦開始時刻は、11:00……。回答を、要求する」



 「……それはどうしてもイエスと答えなければならないのですか?」



 「強制はしない。お前が、イエスと言えば、俺はここから、武力行使で連れ出す……。ノーと言えば、今はそうして、安穏としていると良い」



 「今は、ですか。含みのある言い方ですね」



 「どうとでも言え。こちらにとって、お前が、重要な戦力の、一つであることに、変わりは無い。答えは、Yes or No……どっちだ」



 「ワタシは――」










 11月18日午前6時00分、地上本部内の局員宿舎にて――。



 「……それで、現場状況はどのようなモノだったんですか?」

 はやての通話の相手……それは昨日の昼間から新たに発生した二つの殺人事件の捜査に駆り出されたゲンヤだった。昨日起きた二つの殺害事件……一つは最近になって活動を始めていた闇取引の小組織が逃走用の車両を民間人から強奪、その際に親子連れ二人を殺害したこと。そしてもう一つは、その組織のアジトらしき廃ビルの内部でどう言う訳かその組織の連中が全滅していたことだった。

 はやて自身は捜査に加わっていない為に現場の様子がどの様なモノだったかについては知り得ないが、実際に調査に加わった部下や同僚などが言うには「地獄の光景だった……」と言っていた。それ以降幾ら聞き込んでもその者達は固く口を閉ざしたまま彼女の問いに答えようとはせず、食事さえも摂ろうとはしなかった。彼女も取引事件に目を付けていたこともあって事の顛末が気になって仕方が無かったので、こうして担当者でもあったゲンヤに直接聞こうとしているのだ。

 だが――、

 『…………あー、その、何だ……アレは何て言えば良いのやら……』

 珍しく歯切れが悪いゲンヤにはやては通話口の前で首を傾げた。おかしい……昼間の治安課の面々と言い彼と言い、本当に何かあったとしか思えない。

 『…………そのな、上手く言えねーんだけどなぁ……お前さん、ケチャップとミートソースをごちゃ混ぜにしたことってあるか?』

 「いえ、ありませんけど……?」

 ケチャップはオムレツ、ミートソースはスパゲッティなどにしか使った事が無く、少なくともそれを同時に使う料理をした事が無かった。

 『その混ぜ込んだ奴を部屋一杯にブチ撒けるんだ。壁や天井にも目一杯塗り込んでな』

 「そんな事したら部屋がベトベトの真っ赤っかになりますよ」



 『その赤い部分が全部血だって言ったらどう思う?』



 「……………………」

 空気が凍りついた。トマトの酸味とミートソースの甘みに満ちた空間が一瞬にしてドロリとした真紅の生臭い死臭に切り替わる恐怖……想像を絶するモノがあるのは当然だろう。だがそれも所詮は想像……直に見て来たゲンヤ達に比べればどうと言う事は無い。

 『最悪の現場だった……局勤めし始めてから長い事この職に就いて、今まで色んな殺しの跡に携わってきた……。バラバラ殺人なんてのはしょっちゅうだったし、酷い時なんかだと体の一部がどっか行っちまってるなんて事だってあった。でも……でもよぉ! アレは酷過ぎる! 殺害現場なんてもんじゃねぇ、“破壊”だ!』

 破壊……一言で言ってしまえば簡単だが、その実は恐ろしいことこの上ない。

 『壁の欠片だと思って見れば骨だった……ボールみてぇなのが転がってると思いきや脳ミソだった……割れた窓ガラスに何が刺さってたと思う? 腸だ、腹から思いっきり抉り抜いた内臓塗れの蛇みてぇな腸がブッ刺さってた。腕とか脚とかなんかも原型保っちゃいなかった、虫みたいにピクピク動いてよぉ……』

 「…………同行して行ったN2Rも現場に?」

 『あんなもの娘達に見せられる訳が無ぇだろ。締め出した後でそのまま家に帰したさ……お陰でこっちは向こう一ヶ月は肉料理が食えそうにない。特にソーセージはな……』

 「御愁傷様です。それで、捜査方針としてはどのように?」

 『人体の破壊度や室内の損壊具合から考えて、何らかの小型の魔法生物か何かが大暴れしたってのが妥当なんだがな。そうでなけりゃあの惨状は説明がつかねぇ』

 「その言い方だと本当は違うんですね?」

 『残留していた魔力波長を調べて見たが、あれは間違い無く人間のモノだった。…………ところでよぉ、話は逸れるんだが……お前さんは魔力測定器って知ってるよな? リンカーコアの容量計ったりする時に使うあれだ』

 「はい? えぇ、まぁ一応は……」

 はやては昔見た事があったいやに古臭いあの機具を脳裏に思い浮かべた。

 『あれで室内にこびり付いたままの魔力を測定したんだがな…………お前さん、あの測定器の針を振り切らせた事はあるか?』

 「入局したての頃にフェイトちゃんとなのはちゃん達と一緒にふざけて針を限度一杯まで振り切らせた事は一回だけありましたけど、今のは昔と違って測定容量も跳ね上がってますから……。もしかして、振り切ったとかですか?」

 もし仮に測定器の針を振り切らせたとなれば、その場に充満していた魔力は半端ない量と濃度だったに違いない。例えるなら、核兵器投下直後の爆心地で放射能濃度を計るようなものだ。

 しかし――、ゲンヤの言葉ははやての予想の遥か斜め上を行っていた。

 『ぶっ壊れた……スイッチ入れた瞬間にボンッってな』










 午前7時15分、海上の孤島地下の隠しラボにて――。



 「復唱。作戦開始時刻は?」

 「11:00ですわ」

 「作戦ポイントは?」

 「St.ヒルデ魔法学院」

 「作戦対象は?」

 「“聖王の器”、高町ヴィヴィオ」

 「作戦遂行における、障害は?」

 「ブッチ殺して罷り通る」

 「この作戦の、意義は?」

 「全ては創造主スカリエッティの為に」

 三年振りにシルバーケープを身に纏ったクアットロは見事なまでに御機嫌な様子でクルクルと回って久し振りの感覚に酔い痴れていた。対するトレーゼの方も防護ジャケットの上に同じくシルバーケープを纏い、四肢に漆黒のキャリバー武装を装着していた。

 「それにしても、昨日お兄様が血塗れで帰って来た時には本当に驚きましたわ。よっぽど素敵な方法で殺して来たんですのね。今でも血の匂いかプンプンしますわ」

 「……………………」

 「あらぁ、何にも喋ってくれないなんて悲しいですわ。それで作戦の事なんですけど、一つだけよろしいかしら?」

 「何だ?」

 「作戦開始時刻が昼頃と言うのはどうしてかしら? “聖王の器”を確認してからすぐではイケナイのですかぁ?」

 「学院に、人間が来る時刻は、人によって違う……11:00なら、大人数を利用して、混乱を引き起こせる」

 「あぁそう言うことですのね、納得♪ それで……“聖王の器”に関しては『生死問わず』でよろしいのかしら?」

 「却下だ、“聖王の器”は、生存しているからこそ、意味を成す……死体で持ち帰った場合、お前ごと、『処理槽』行きだ」

 処理槽……その単語が兄の口から発せられた瞬間、クアットロの表情に明白な焦りと恐怖が垣間見えた。この研究施設で生まれた上位のナンバーズしか知らない禁忌の場所……直接出向いた事は無いが、あのドゥーエですら心底恐れて絶対に近寄らなかった場所だと聞いている。

 「……じょ、冗談ですわよ、冗談! ちゃんと生きたまま連れて帰りますってば! ただ……」

 「……何だ?」

 「無事に連れ帰った暁には、“聖王の器”の世話を私に一任してくださらない?」

 「勝手にしろ」

 この作戦は計画の要と言っても過言ではない……これが成功すればそれで良し、失敗すれば自分達の計画進行率はガタ落ちとなりこの先上手くやれないだろう。だが膳立てはした、あとは実行するだけなのだ。

 「そう言えば、お兄様が言ってらした『もう一人の作戦要員』って言うのは誰でしたの? 一応期待してたのですけど……」

 「……予定が、変わった。作戦には、参加しない」

 「あら残念。使える奴かどうか見たかったですのに」

 「……少なくとも、お前よりかは、使える」

 「随分と買っているんですね。ちょっと嫉妬」

 そう言いながら彼女は背後からトレーゼの首に腕を回した。扇情的に誘惑しながら熱い吐息をその頬に吹きかける。

 「……この作戦の、成功失敗の如何は、全てお前に、掛っている。期待して、いる」

 「はぁい♪ 乞うご期待ですわ、お兄様」










 午前9時30分、St.ヒルデ魔法学院にて――。



 学院付き聖堂で行われる冬の第二学芸発表会……わざわざ一週間空けてこう言う行事を行う理由は定かではないが、クリスマスとイブを分けて祝うようなものと同じだと思ってもらえれば良い。先週は古代ベルカ賛歌がメインだったのに対して、今回は“ゆりかご”を駆って古代ベルカの地を統一した最後の王である“聖王女”の英雄譚を描いた劇を行っているのだった。9時丁度から始まったこの演目はざっと二時間は続く……二部構成となっており、最初は若き聖王女が国交の盛んだった国へと留学した際に自分と同じベルカ王である青年、“シュトゥラの覇王”と親しくなる過程を描いており、第二部で死地へと赴こうとする聖王女をその青年が必死で行かせまいとする涙を誘う物語である。この物語の一番の見所は何と言ってもクライマックスで聖王女と覇王が互いの意思の食い違いから戦う場面である。王としての責務を果たしに死地へと向かう聖王女と、それを必死で食い止めようとする覇王……その当時の記録や文献は殆ど残されておらず、拳を交えた両者がどうなったのかを知る者は居ない事が相まって、この物語は一部聖王教の信徒からは悲恋モノとして語り継がれている。

 ちなみにこの演劇、図ってか図らずか聖王女役がヴィヴィオと言うことになっており、本日ここにこうして観劇に来ている母親のなのはとしては本当に喜ばしい限りだった。

 のだが――、

 「――――――――」

 木製の長椅子に座っているなのははここへ来た時から落ち着かなかった。娘と一緒に自宅を出た時も、連れ添いのユーノに手を引かれて敷地へ入って来た時も、常にその視線は周囲を隈なく捜索していて一定の方向に留まる事を知らなかった。それもそうだろう、一週間前にここで偶然見かけた少年……つい二日前には生きるか死ぬかの瀬戸際にまで追い詰めたあの戦闘機人がまたここに来るやも知れないのだ。一応局に許可を得てレイジングハートは携帯してはいるが、大脳をやられて運動能力と平衡感覚を大きく欠いている状態では護身用にもならないだろう。そしてこの危機を誰かに伝えようにも声を出せない、ペンも握れない、念話も封じられていると言うこの絶望的状況では誰にも自分の持つ情報を伝える事など適わなかった。仮に伝えられていたなら局から増援の数人くらいは呼べたのだろうが……。

 「なのは……」

 流石にここまで来ると隣のユーノも気付くのか、そっと優しく彼女の肩を抱き寄せた。親しい人間を身近に感じると人は精神的に安らぐ……その言葉の通りに、ユーノの男性らしからぬ甘い体臭が鼻腔を刺激すると同時に極限に緊張していたなのはの体が徐々に落ち着きを取り戻して行った。やがて完全に緊張が解された彼女は隣に居る世界で最も安心出来る存在に体を寄せた。

 「大丈夫だよ、何も起きやしないさ。いざと言う時にはシスター・シャッハやセイン達だっているんだから……ね?」

 「――――(コクッ)」

 そうだ、何も心配する事は無い。非戦闘型とは言えセイン、オットー、ディードの三人は最新鋭戦闘機人『ナンバーズ』、更にこちらには聖王教会が誇る陸戦最高戦力である武装修道女のシャッハ・ヌエラも控えている。彼女に限って言えば今ここに来ている主人のカリムの護衛と言う仕事があるが、有事の際には頼れる味方になってくれるはずだ。そうなのだ、何も心配する事なんか無い、全て杞憂なのだ。

 「――――」

 緊張が解けた事で昨日殆ど眠っていなかった事を思い出した彼女は、まるで思い出したかのような眠気に襲われ、そのまま目を閉じた。





 ノーヴェは周囲を忙しく見回す。まるで何かを探すように必死に。いや、実際に探していた……何かではなくて『誰か』をだが。

 「…………やっぱ居ねーか」

 やがて目当ての人物が居ないと分かると、隣のチンクに注意される前に彼女は大人しく首を前に向き直した。先週来ていたから今日も来ているのではないかと思ったのだが……どうやらトレーゼはここには居ないようだった。まぁもっとも、見た感じ気紛れそうな彼に規則性があるのかどうかすら分からないのだが……。

 それにしても、ここへ来た始めになのはに出会った時には驚いた……見た感じでは何一つ異常が無いように見えたのに、平衡感覚を失っている所為で一人ではまともに歩く事が出来ず、休暇をもらって付き添いに来ていた司書長に手を引かれている姿が痛々しかった。後ほどゲンヤに聞いてみたところによると、昨日の戦闘の際に敵方の策略に嵌ってしまい、大脳及びその他の神経系統を弄られたのが原因らしい。彼女以外にも昨日の戦闘で重傷を負った者は多い……はやての右眼は義弟であるカインから聞いた事によると、かつてのラグナ・グランセニック同様に眼球の形状は戻せても破壊されてしまった視覚細胞の復活は不可能だとのこと……これから一生彼女は隻眼のままで生活する羽目になるらしい。だが三人の中で一番重体なのは他の誰でもなくフェイトであった……昨日の間ずっと音沙汰が無いと思っていたのだが、あれは医療センターの集中治療室で一日中手術をしていたからだと言う事が今日になって分かった。頭部裂傷とそれに伴う出血……長時間水没していた事による酸欠と体温の低下……そして極めつけは何と言っても魔力吸収によるリンカーコアの衰弱…………それらの要素全てが彼女の肉体を完膚無きまでに打ちのめしていた。ミッドの先進医療技術に掛かれば裂傷ぐらいの再生はワケ無いが、問題はリンカーコアの方である……衰弱の度合いを計測したところ、退院したヴェロッサが陥っていたものよりも酷いことが判明した。今こうしている間にも酸素吸入器と全身に標本のようなチューブを差し込んだ状態でようやく命を繋いでいると聞く。

 正直、ここまで来ると一時は妹の為に燃え盛っていた報復の炎も恐怖が勝ってか消沈してしまうものだ。実を言えばノーヴェはなのはとフェイトと手合わせをした事が無い……よって彼女らの実力がどの程度のモノなのかを正確に知っている訳ではないのだが、ナンバーズ砲撃担当のディエチと真正面から撃ち合って高町なのはと、地下ラボにてスカリエッティの護衛を任されていた戦闘型最強のトーレとセッテをたった一人で退けたフェイト……これだけ見ても彼女らが強いかどうかについての想像は難くない。そして、その二人がいとも簡単に返り討ちに合ったともなれば事情は違って来る……これはもう単純な強弱の話には収まらないのだ。

 だがまぁ、ここでそんな事をいつまで考えていてもキリが無い……今はヴィヴィオが主役の劇に目を向ける。ちなみに今日のナカジマ家からの観客はほぼ先週と同じ面子である。先週欠番だったチンクが今ノーヴェの隣に居り、代わりにギンガとカインが居ないと言う光景だった。カインはゲンヤに代わって先日の取引組織殺害現場を洗っており、ギンガは例によって入院中……ではなく、実はとっくにセンターから勤務復帰許可をもらっており、今はセッテの教習担当官として更正施設に出向いている。三年前と言い今回と言いどうして彼女がナンバーズの更正プログラムの推進役に抜擢されるのかと言うと、彼女が『社会に適合した戦闘機人』であることが大きく起因している。更正を受けて社会に順応する為には同じ立場かそれに近い者が適任であると言う考えが強く、よってプログラムを受けるナンバーズと同じ戦闘機人であり尚且つ社会に適合している彼女が抜擢されるのだ。よって今日のナカジマ家は五人での観劇となる……二度も揃って家族全員が来れなかったのは正直言って寂しいものだ。

 それにしても、先程周囲を見回している時に見えたなのはの顔……以前ゲンヤに第97管理外世界のとある神話に『鬼子母神』の話を聞いた事があったが、まさにあの事を指しているようだった。緊張で大きく見開かれた目に思わずこちらが身震いしてしまった程であった。血は繋がっていないとは言え、やはり愛娘……心配なのは当然か。

 「…………ん……」

 いけない、乾いた冬特有の気候で快晴の所為で窓から降り注ぐ陽光が眠気を誘う。そう言えば朝の天気予報ではクラナガンや北部ベルカ自治領を含む広域で晴れの予報だった……は…………ず……。










 午前10時10分、地上本部の個人事務室にて――。



 右目を包帯で巻いた八神はやてはずっと待っていた……昨日自分がセンターで診察と治療を受けていた時に発生した二つの事件、それに関する報告を。先に起きた親子連れの事件の方は元々取引組織を視野に入れていたティアナが、一方の惨殺事件の方はあの区域の哨戒を担当している陸士108部隊所属の捜査主任であるラッド・カルタスがそれぞれ担当している。昨日の時点では殺された数と死亡推定時刻ぐらいしか判明しなかったが、詳細はもうすぐ……

 と、ここで――、

 『八神二等陸佐、陸士108部隊所属ラッド・カルタス二等陸尉より御報告申し上げたいことがあります』

 ホログラムウィンドウが開いて見慣れた顔が映り込む。

 「どうぞ」

 『はい。現場で発見された残骸……もとい、遺体検証の件ですが、現場で回収された脊髄を調べたところによりますと、例の闇取引のメンバーであることが判明しました』

 なるほど、大量の血液と肉片が入り混じっている現場でどうやって遺体の身元を割り当てるのかと疑問だったのだが、脊髄と来たか。確かゲンヤが言っていた事によれば背骨はまるで大根のように綺麗に人体から引っこ抜かれていたと聞いていたが、まさか原型を保っていたとは思わなかった。

 『他にも、これを見てください』

 そう言って画面の向こう側でラッドが操作して別の画像を映し出した。……正直言ってこれは精神的にキツかった、人体のどこの部分とも分からない拳サイズの肉片が急にアップで映し出されれば誰だって胃の奥が疼く感覚に襲われるだろう。だが肝心の観点はそこではなく……

 「……この皮膚の表面にあるのって……」

 『お気づきになりましたか。御覧の通り、人の“指”の跡です』

 焼き立てのパンのように無造作に引き千切られている肉片の表面には何やら黒く変色した部分が残っており、それに沿って肉がめり込んでいるのだ。その黒い跡……誰がどう見ても人の指の形にしか見えない、サイズもピッタリだ。

 「これが?」

 『ナカジマ部隊長からお話は聞いておられると思いますが、ここに居る被害者達は全員が力尽くの腕力をメインで無残に引き千切られているのですが……始めはそれらの行為を篭手型デバイスを使用した筋力増強による犯行かと考えて捜査を進めていました。ですが……』

 「……?」

 『指の輪郭や表面の痣などに付着した物質を調べたのですが……どうやら犯人は素手で犯行に及んだものかと……』

 「素手!? デバイスとかの増強や無くって素手やて!?」

 それまで完璧な仕事口調だったはやての声がその事実を聞いた瞬間に裏返った。だってそうであろう、近接戦闘に特化したベルカ騎士の鍛え上げられた腕力でさえ鉄棒を引き千切ることは適わないのだ。デバイスを起動してでの魔力解放状態ならいざ知らず、魔力増幅器でもあるデバイスも無しに純粋な魔力のみだけでそこまで人体を破壊できることなどあるのだろうか?

 「…………付着していた物質からの身元は?」

 『垢などに微量に含まれる汗などからDNAを割り出してみましたが、少なくともミッド在住のどの人間のモノでもありませんでした』

 「犯人は違法滞在者の可能性有り……か。クラナガンからちょっと離れた所に行けばゴロゴロ居る人種やな」

 毎月何十人の違法滞在者が検挙されている事やら……。しかもそんな人種が成り上がったばかりの小犯罪組織の全員を惨殺するだけの動機が無い……案外この事件が迷宮入りするのは時間の問題かも知れなかった。

 と、またここで――、

 『失礼します、ティアナ・ランスター本局付き執務官です。昨日のメインストリート親子連れ殺害事件に関する報告があります』

 「どうぞ」

 ラッドとは別に開いたホログラムウィンドウにこれまた見知った顔が映る。どうやら親子連れの件が一段落ついたようだ。

 『身元を再確認したところ、地上本部に赴任して来ている職員の父親に会いに来ていたらしいです。たった今その人に直接確認してもらいました』

 「お気の毒に……。ドタマ撃たれとるから顔なんかまともに分からんのになぁ」

 『それで現場を洗っていた時に気になったモノがありまして……至急、確認頂きたく……』

 そう言ってティアナの方からも何やら画像が送信されて来た。ラッドと同じように朝から胃に迫るモノを見せられるのかと思いきや……

 「……何これ? なんかの食べモン?」

 出て来た画像は現場で回収した物品などを封入しておくタッパーだった。事件現場で回収される破片や物品を保存しておくあれであるのだが……そこに入れられているモノが問題だった。見たところによると何かのスティック菓子か何かみたいだった。食べている途中で殺された為か10㎝あるはずのそれの端が少し齧られており、銀色のパッケージには手の形をした血の跡がこびり付いていた。一見どこにでもありそうな健康食品にも見受けられるのだが……

 『お気づきになりましたか?』

 「あぁ……子供が食べるモンにしては色気が無さ過ぎる……それにパッケージの何処にも商品名が無い」

 確かにはやての指摘通り、そのスティック菓子を包む銀紙には本来同系統の食品に見られるような商品名や賞味期限などがまるで記載されておらず、明らかに子供が率先して食べたがるようなモノではないことは明白だった。少なくともはやてはこんなものを見た事は無い。

 『ミッド全体の食品会社を当たってこれと同じ商品が無いかどうかを調査しましたけど、どの会社も首を横に振りました……こんな商品は開発した覚えも無いし、予定すら無いそうです』

 「商標登録がされてない謎の食いモンか……殺されたその子には悪いけど、ようそんなん食べる気になったなぁ。毒とか無かったん?」

 『成分を調べた結果ですが、カロリーが異常に多い事を除けば至って普通の携帯食料でした。食品管理法に抵触するような化学物質は何一つ使用されていません』

 「ますます謎やなぁ~」

 昨日起きた二つの事件は分からない事だらけだった。街の真ん中で発生した親子連れの殺害事件……犯人は最近になって現れ出していた質量兵器の闇取引組織……だが二人も人間を殺してまで逃げ果せたそいつらは僅か数十分後にアジトで何者かに惨殺されてしまった…………何もかもが謎のままだ、前者はともかく後者はどう考えても人外の犯行としか思えない……。

 だが科学的検証では犯人は人間……気がおかしくなりそうだった。

 『あともう一つ気になったことが……』

 「?」

 『携帯食料のパッケージに付着していた指紋なのですが……“二つ”ありました』

 「…………二つ!?」

 『はい、二つです。正確に言えば“二人分”です』

 ――――ひょっとしたら、何かの光明かも知れない……この時はやてはそう直感した。










 午前10時30分、St.ヒルデ魔法学院の上空1000メートルにて――。



 「ふぁ~あ……暇ですわぁ~。暇は魔女を殺せる唯一の毒なんですのにねぇ」

 第二学芸会が行われている学院聖堂の遥か上空の足場の無い虚空に佇むクアットロ……三年振りに身に纏った紺色の防護ジャケットの上に羽織ったシルバーケープが冬の寒風になびかせながら、眼下の聖堂を睥睨するその姿はどう見ても悪意の塊にしか見えなかった。

 「さ・て・と♪ 作戦開始時刻まで迫ること30分前。これが成功すればお兄様に対する私の株も急上昇間違いなし……まさに! 流星に跨って急上昇ですわ!」

 と、ここで彼女は高度を少しずつ下げ始めた。学院の警戒システムではレーダーの効果範囲は上空3㎞まであるが、完全偽装能力のシルバーカーテンの前ではザルも同然だ。やがて高度500まで来ると再び停止した。

 「私の作戦行動までは後30分……でも、それは私だけの話」

 そう言うと彼女は脳内に埋め込まれた通信用マイクロチップを起動させ――、

 「お兄様、時間ですわよ」










 同時刻、北方ベルカ自治領の聖王教会本部上空にて――。



 「確認した。これより、『第一次』作戦行動に、入る。続く第二次は、任せた」

 空中に浮遊していたトレーゼの足元に魔力が集中する……そして鋼鉄のデバイスに包まれた両手を合掌させると、更に全身に魔力を増幅させる。彼の眼下にあるはこのミッドだけでなく大多数の管理世界にて影響力を持つ最大の後任宗教組織『聖王教』の総本山……その中で一番大きな建築物を見据えていた。全身に纏った魔力が天に昇り始めると、次の瞬間にはそれまで快晴であった天空にどこからともなく大量の黒雲が集い始めた。およそ冬の空には似合わない色と量……そして耳を澄ませば聞こえる稲光の音、嵐の予兆だった。しかし、その嵐を起こそうとしている人物こそ、今ここで儀式を執り行っているトレーゼに他ならなかった。

 「アルカス・クルタス・エイギアス……。煌めきたる天神よ……いま導きのもと降りきたれ」

 彼が呪詛のように唱えるは呪文だ、デバイスによる自動入力が一般化したこのミッドでは殆ど使用されない大規模な高位詠唱儀式魔法を発動させる為の……。かつてフェイトが海中に没したジュエルシードを回収する為にたった一度だけ使用したあの魔法……幼い頃から天才的な魔力の天賦に恵まれていた彼女ですら一度行使したら最後、魔力の大量消費によって肉体が極度に疲弊してしまうあの大技を、彼は明らかにあの時以上の魔力を込めて発動しようとしていた。黒雲がさらにその濃さと量を増して行き、とうとう雲の表面を紅い電光が走るようにまでなった。

 「バルエル・ザルエル・ブラウゼル……。撃つは雷、響くは轟雷……アルカス・クルタス・エイギアス」

 地表を見れば急激な天候の変化に機敏に勘付いた一部の人間達が空を指差して何か喚いているのが分かる。確かに常人が見ればこれは明らかに天変地異か何かだと考えるに違いない。

 だが、もう遅かった。

 「…………サンダーフォール!」



 空が一瞬だけ紅く光ったその刹那、幾筋もの雷が聖王教会の土地を一斉に蹂躙し始めた。



 魔力ではなく物理的な力を以てして降り注ぐ稲妻……屋根を突き破り、庭園を吹き飛ばし、たまたまそこに居た不幸な人間を消滅させながら無限に降り注ぐその光景は、神話で言うアルマゲドンのような悪夢でしかなかった。

 その眼下の光景を何の感情も籠っていない目で睥睨しながら彼は――、

 「…………『第一次聖王領侵略遠征』か。クアットロも、良い作戦名を、考える」

 彼は懐から白い仮面を取り出した。何の捻りも独創性も無い、白一色の面に二つの目を模した穴が開けられているだけの逆に風変わりな事この上無い仮面を……。

 白い仮面を被った紅い悪魔が地上にゆっくりと降り立つと、異変の主を仕留めようと聖堂騎士達が一斉に出迎える。手に手にベルカ式デバイスを構えたるは皆が管理局魔導師一個中隊にも匹敵する実力者達だ。だが――、

 「……クズに、用は無い。消えてもらう」

 手に持っていた黒い立方体――デウス・エクス・マキナが変形する。ものの数秒と掛らずに変形を終えた“それ”を手にした時、彼の足元に魔法陣が現れた。しかしその魔法陣はつい最近会得したベルカ式の三角魔法陣ではなく……

 真紅の円形魔法陣であった。










 午前10時40分、St.ヒルデ魔法学院の聖堂にて――。



 この時間で劇はクライマックスに突入しようとしていた。意を決して戦地に向かおうとする聖王女とそれを必死に止めようとする覇王の互いの意地を懸けた戦い……観客の中には熱心な聖王教の信徒も居るのか、二人の邂逅のシーンに突入するや否や感極まって涙目になる者も居た。

 そんな観客席から少し距離を置いた別の席……所謂、ゲスト席の所には先週と同じく学院の実質の管理者であるカリム・グラシア小将と、その左脇には秘書兼護衛を担当する聖王教会が誇る最高戦力の陸戦騎士であるシャッハ・ヌエラが清楚に控えており、さらにその右脇には元ナンバーズの三人がオットーを先頭にして佇んでいた。ちなみに、一番落ち着きが無いはずのセインまでもが大人しく静かにしているのは単純に彼女がシャッハの視界に映らないのを良い事に居眠りをしているからに過ぎない。対して騎士カリムの方は開会の辞を述べた時から現在に至るまでただの一度も目を閉じた事は無く、瞬きすらしていないのではと怪しくなるくらいにニコニコと劇の様子を満足気に観劇していた。あと20分で劇が終われば再び席を立って壇上に上がり再び辞を述べればそれでお終いだ……その時に後ろのセインが起きていれば良いのだが。

 彼女の視線の先には壇上で“聖王女”の役を見事に演じ切っているヴィヴィオの姿があった。あの少女の生い立ちをカリムは熟知している……古代ベルカの地を平定した最後の聖王の血脈を元に生み出されたクローン素体、管理局からは人成らざるモノとして忌避され、教会からは現人神として神聖視される可能性のある彼女を最後まで機動六課の面々と一緒になって保護し、この学院に入学させる時にも色々と便宜を図ってあげた……確かにカリム本人もその特殊な生い立ちとJ・S事件の根幹に関わっていたと言う事実から一時は世間からどの様な目で見られて後ろ指を指されるかと心配ではあったが、本人はそんなハンディキャップをモノともせず、また彼女の周囲に居る人間達もそんな彼女を特別な目で見るような事は決してしなかった。現在でも教会の内部に存在する急進派のような者達は彼女を新たな宗主として祭り上げようとしているらしいが、カリム自身はそのような時代は終わりを告げたのだと考えている……少なくとも彼女の目が黒い内は絶対にそのような事はさせないし、彼女自身もするつもりは無いだろう。

 「……三年ね……本当に早いものだわ」

 「その通りですね、騎士カリム。私もつい三年前まではこうして妹分が出来るなどとは思っていませんでした……この寝ているのを叩き起こしてよろしいでしょうか?」

 隣の主を見やった時に遂に寝ているセインの姿を確認したシャッハは今にもヴィンデルシャフトを起動させんばかりの怒気を放ちながらもあえて笑顔はそのままで訊ねて来た。その迫力に思わずオットーとディードは余波を喰らうのを免れるために椅子から腰を浮かし掛けた。

 「まぁまぁ、彼女も日々の勤務で疲労が溜まっているのでしょうからここは穏便に……。後で私の方から言っておきますから」

 「いえ! 騎士カリムの手を煩わせるまでもないでしょう。今ここで! 私が! 確実に! 引導を渡しておきます!」

 嗚呼、哀れセイン……もはやこうなってしまったシャッハは誰にも止めることは出来そうにない。何とかしてこの場をなだめようとしたカリムだったのだが、劇が終わった後でと言う風に後回しにする事しか出来なかった……せめて『お仕置き』は敷地外でやって欲しい、クレーターの埋め立てが毎度の如く難作業なのだから。

 と、哀れなセインを横目に苦笑していたその時――、

 「失礼します、グラシア小将……至急、取り次ぎたい用件が……」

 見知らぬ人間……制服のデザインを見る限りでは管理局の人間らしかったが、何やら慌てているようだった。小走りで彼女の許までやって来たその人はカリムに『ある情報』を耳打ちした後――、

 「お急ぎください」

 「……了解しました。シスター・シャッハ、今すぐセインを起こしてください。オットーとディードも私に続いてください」

 「騎士カリム? 一体何が……!?」

 報告を受けた瞬間に血相を変えて移動を始めた主の姿にシャッハも異変を感じ取ったのか、拳で思い切りセインの頭を殴り付けながら訊ねた。

 「…………聖王教会本部が……何者かの襲撃を受けています」










 「……………………」

 そこはこの世の地獄だった……完璧なシンメトリックを保っていた聖堂はその全ての棟が完膚無きまでに徹底的に破壊し尽くされ、破壊の衝撃で落下してきた瓦礫がその舌に居た人間達の足や頭を容赦無く砕き、そして飛び散った大量の脳漿と血液の入り混じった液体が庭園の白い畳石を残酷に彩っていた。だがそんな革新的過ぎる芸術的な彩りは天空から降り注ぐ雨が全て洗い流して行った……つい10分前まで天空から襲来していた紅い雷はとっくに鳴りを潜めて、残った黒雲からは大量の雨だけが残ったのだ。生き残った数少ない人間はその殆どが地に臥せっており、虫の息だった。

 だがそんな場所に二人だけ両足を地に付けて立っている者達が居た。一人は濃緑色の長髪が特徴的な長身の男性――足元に数匹の『無限の猟犬』を従えた管理局査察官のヴェロッサ・アコース。いつもと同じようにどこか掴み所の無い佇まいを崩してはいなかったが、そこから発せられる覇気はいつもの彼には決して無いモノだった。だが無理も無い……生まれ育った家でもある教会をことごとく破壊された上に罪の無い信徒達までをも巻き込まれたとなっては怒りを露わにしない方がおかしい。

 そしてその彼の眼前にもう一人……四肢を鋼鉄のアームドデバイスで覆い、雨に濡れた純白のマントを紺色の防護ジャケットの上に羽織り、白い仮面を装着している『敵』の姿だった。ここまで来る間に直接手に掛けた者が居るのか腕や胸板は返り血を浴びて妖しく色付いており、小さな飛沫が仮面にまで届いていた。全身から放たれる紅い瘴気にも似た濃度の濃い魔力は決して空中に四散せずに蛇のように地面を這いずり周っていた。

 「……………………」

 「…………聞くまでもないだろうけど……この落雷は君の仕業だね?」

 「……そうだ」

 「何人死んだと思う?」

 「落雷及び、その二次被害での、負傷者は、およそ73名」

 「……君が直接殺したのは?」

 「殺しては、いない。騎士団員、総数33名。良くも、あれだけの実力で、騎士になれたものだ」

 「……………………そうか。ならせっかく足を運んでくれたのに悪いけど、僕は君をここで排除しなくちゃいけないんだ」

 「出来るか……貴様程度に」

 「試して見るかい? 僕だって昔は騎士団長にスカウトされたこともあったんだよ。デバイスを持つのが面倒で断っただけさ」

 足元の犬達が一斉に飛び掛かる。だが当然の如くその犬は無残に斬られ、虚空に霧散した。飛び掛かりからリーチに入って首を切り落とされて消滅するまでに掛った時間はおよそ0.4秒足らず……だがその僅かな瞬間にヴェロッサは自分の犬が何やら長大で鋭利なモノで攻撃されるのを見逃さなかった。まるで人の生き血を吸って練り固めたかのような真紅の“それ”はヴェロッサにとっても見覚えがあった。

 「……それはハラオウン執務官のバルディッシュ・アサルトかな?」

 「形態はな。形状と、特性を、完全模写しているに、過ぎない」

 そう、仮面の人物が手に持っているその紅い刀身に黒い柄のデバイスは現在入院中のフェイトの持ちデバイスのザンバーフォームに瓜二つなのだ。唯一の相違は刀身とクリスタルの部分が紅いと言う事だけであり、目測ではサイズから重量などもほぼ同一としか思えない完璧なコピーだった。

 「さっきの天候操作型の大規模魔法……あれも執務官の魔法だね?」

 「そうだ……。あいつの、魔法は、全て収奪した。故に――」

 右手に自分の身長より大きな大剣を構えたまま、その人物は左手を前に突き出した。瞬時に危険を察知したヴェロッサは服が泥に塗れるのも構う事無く横に転がるようにして回避行動を取り――、



 「トライデント……スマッシャー」



 明らかに左手の面積では賄い切れないとすら思えてしまう三本の魔力の奔流が地表を盛大に抉り、射線上に存在していた瓦礫や死体を吹き飛ばし、ギリギリの領域で立っていた建物の壁を木端微塵に破壊して遥か向こう側へと消えて行った。地面に残った砲撃軌道の傷痕を見てヴェロッサは青褪める……彼自身あまりこう言った系統の魔法には詳しくは無いのだが、少なくともあれだけの大規模出力を誇る砲撃は『溜め』の動作無しのノーモーションで放てるモノではないと言う事ぐらいは知っていた。砲撃魔導師の高町なのはですら抜き撃ちバスターには僅かだがチャージの時間を必要とする……にも関わらず、目の前の敵は左手を突き出した瞬間にはフルチャージ並みの威力の砲撃を放って来た。リンカーコアから直接腕に魔力を送ったのなら速度的に説明がつくだろうが、アンプであるデバイスを通さずに出してもあんな高威力は望めない……魔法学的に有り得ない現象なのだ!

 「驚いたね……! その力を正しい方向に使えば君は間違い無く歴史に残るエースになれるよ」

 「興味無い……。俺の任務は、ここで貴様らを、排除すること……例えクズでも、容赦はしない、全力で、消し潰す」

 そう言いながら仮面の敵は紅の大剣を片手で軽々と持ち上げた。本来の使い手であるフェイトですら攻撃ごとの隙が大きいからと言う理由で両手持ちでしか使わなかったザンバーを、まるでそこら辺で拾って来た小枝のようにして振り回すその光景にヴェロッサは思わず後ずさった。単純な腕力だけでは計り知れない恐ろしさをそこに感じたからだ……こいつとは絶対に真正面から戦ってはならない、正攻法では天と地が逆転しようとも決して自分に勝ち目など無いと悟っていた。

 「くっ……!」

 古代ベルカ式魔法の継承者とは言えヴェロッサ自身は直接戦闘には不向き……背後に飛び退くと同時に『無限の猟犬』を八頭出現させると同時に、遠距離バインドで仮面の動きを封殺した。目の前の雁字搦めの獲物に真っ直ぐ突撃を開始した犬達はその防護ジャケットの表面に見事その牙を突き立てて見せた。流石に対魔導師戦を想定して製造されただけあって純粋な魔力の塊である犬達の牙にはまるで動じない……だがバインドとの相乗効果によって仮面の動きは完全に封殺出来た、後はこのままの状態を維持するだけ――、

 「たかが、犬ごときで、どうにか出来ると、思ったか」

 やはり想定はしていたが一筋縄ではいかなかった……敵の腕や脚に喰らい付いていたはずの犬達は、まるで金属片が酸に溶かされるかのようにして徐々に形を失い、遂に分解された全ての魔力は残らず体表を透してリンカーコアへと吸収されてしまった。バインドと猟犬の二重拘束から難無く逃れた後、仮面の敵は右手に握っていた大剣を大きく振り下ろした。既に壊滅状態にある石畳が更に空高く弾き飛ばされ、殺人的な加速度を纏った破片や瓦礫がヴェロッサを襲う。

 「どうにもこう言う敵とはやり難い……!」

 片手にシールドを張りながら移動し、取り合えずは射線の外側へと逃げる。彼とて伊達に管理局の査察官と言う位に就いている訳ではないので実力はあるのだが、彼の戦闘スタイルはバインドによる拘束で生じた隙を狙って『無限の猟犬』で仕留めると言う間接的な戦法を取っている……その為、相手の魔力を吸収すると言う戦術を取る仮面の敵とはこの上無く相性が悪いのだ。仮にもベルカの使い手なのだから接近戦を行えば良いのだが、昔からシャッハの稽古を忌避していたのがこんな所で仇となった訳だった。

 ここで彼は逃走の最中に幸か不幸か自分と敵の中間に一際巨大な瓦礫が落下するのを見逃さなかった……その瞬間に発生した砂煙を煙幕代わりにして、ヴェロッサは一旦崩れかけの教会の壁際へと身を隠す。この距離ではいずれは気付かれるだろうが、敵の視線は今自分に向けられている……これは自分が発見される僅かな時間を利用して生き残った聖堂騎士達が一般人の避難を行えるだけの猶予を与える時間稼ぎなのだ。流石に奴が直接民間人を手に掛ける事はないだろう、今こうして死人が出ているのは始めの不特定多数を狙った雷撃の際に出た者であり、少なくとも姿を隠した自分を誘き出す為にそのような行動に出る事は無いはずだと考えていた。

 だがここで――、

 異変が起きた。

 「…………フンッ」

 仮面の敵が地面を蹴って上空へ飛び上がったのだ。一瞬ヴェロッサは上空からの探索に移ったのかと考えたのだが、今自分の居る場所は上空からでも死角となっている場所なのであんな事をしても意味は無いはず……何故だ?

 しばらく上空に停滞していた彼は案の定下界の様子を睥睨していた。どうやらこちらを探しているようだが先程言ったようにここはあちら側にとっては完全な見つけられるはずがあろうはずがない。



 そう、この時は考えていた。



 「マキナ、モードチェンジ」

 『Yes,my lord. Form of “Raising Heart Exelion”and mord of “Exceed Mode” .』

 主の命を受け、漆黒の紅い大剣は忠実に臨むままの姿に自らを変貌させて行く。ものの数秒と掛らずに変形を終えた“それ”を眼下の大地に向けて構えを取った仮面の敵はその瞳を照準代わりにし、先端に自分の有り余る魔力を一気に注ぎ込み始めた。目に痛い紅い魔力が曇天の中心に集中するその光景はまるで第二の太陽が輝くようであったが、その輝きがそんな神々しいモノではないと言う事をヴェロッサは熟知していた。自分の予想が正しいのならば“あれ”はとんでもない魔法なのだから……。

 始めは拳大だった魔力の塊は徐々に魔力集積によってその大きさを増し、砲丸、人体の頭部、そして遂には両手では抱えきれないサイズにまで膨れ上がったそれは太陽と言うよりかは地上を焼き尽くさんとする劫火がそのまま押し固められたかのようだった。そして……実際そうだった!

 「……集え、星光。貫け、閃光」

 仮面の敵がその槍にも似た漆黒の杖――黒きレイジングハート・エクセリオンを天に掲げた。本来の使用者であるなのはの物とは違い、先端に伸びているクローの数は全部で三本……音叉のようなその先端からは滲み出た高純度高濃度の魔力がさらに拠り所を求めて電光となって迸るそれを、彼は大きく振り被り――、

 「全てを滅する……破壊の光!」

 『Starlight Breaker.』



 刹那、世界が真紅に染まった。










 午前10時59分、学院聖堂内にて――。



 長く続いた劇もようやく終演となった。舞台に並んだ学童達が一斉に客席の父兄らに向かって礼をすると、観客からは拍手喝采が巻き起こり、生徒達は一旦舞台の袖裏へと消えて行った。本来ならこの後で管理者であるカリムがそれらしい祝辞を述べてから学院長の閉会の辞があるのだが、当のカリム自身が途中退席した所為で劇の終了と同時にすぐさま閉会となった。ちなみに教会からの出席者が揃いも揃って退席した真相については誰も知らない……コトがコトなだけに知られる訳にはいかず、学院長ですら精々体調が優れなかったのだろうとしか認識していなかった。

 だがそんな裏事情の詳細など露知らず、客席に居たユーノは何も起きなかった事にひとまず安堵していた。実を言えば彼も隣のなのは程ではないにしろ心配はしていたのだ……幼い頃から自信に満ち溢れていたなのはがこれ程までに怯えているのを見ておきながら何も起こらないと思う方がおかしな話だ、幸いにも起きてくれなくて安心したが……。当の彼女の方も始めとは違って幾分か落ち着きを取り戻し、今ではユーノの隣で大人しくしていた。とりあえず今日は先週同様に劇のみで午後からの授業は無いので、後はこのままヴィヴィオと一緒に帰るだけだ……このまま直帰するのもナンだし、途中でナカジマ家の面々と寄り道するのも良いだろう。もちろんそれは先方の都合が良ければの話だが……

 「ママー! ユーノさーん!」

 と、ここでようやく沢山の生徒に混じってヴィヴィオがこちらに向かって小走りでやって来るのが見えた。三年前なら少しでも走ろうものならすぐにこけていたものだったが、やはり子供の成長は早いもので、今では年相応の落ち着きが見えて来ていた。今ではすっかり「将来の夢はママと同じ管理局員だもん!」と言い張って聞かないのだが、それはそれで子供らしい意地があるのだろう、まぁユーノ自身は彼女なら行く行くは立派な局員なり武装隊なりになってくれると自負しているが。

 何はともあれ、なのはが危惧していた程の事態は何も起こらなかった……そう安心しながらユーノはなのはの手を引いて立ち上がろうとして――、



 「では、二次会の始まり始まり~♪」



 背筋が凍るような妖艶な声が鼓膜を叩いた。一瞬、ユーノは自分の世界の全てが無音に帰すのを覚えた……同時に自分の肉体も停止し、自分の背後に居るはずの“それ”から届く声だけが唯一この時の止まった世界で動いているのを確かに感じ取っていた。

 「――ッ!!」

 時が止まったような錯覚から抜け出した瞬間、彼は自分の背後にいる“それ”の姿を確認しようとしたが……

 「それポチッとな」

 既に時遅く――、

 “最悪”の宴が始まってしまった。










 同時刻、北方ベルカ自治領聖王教会“跡地”――。



 「はぁ……はぁ……はぁ……!!」

 伝承に登場する古代ベルカの空を飛ぶ戦船が行う爆撃にも似た魔力砲撃の後、ヴェロッサは奇跡的に生きていた。咄嗟に張った防壁で数秒間も続いた地獄のような魔力の奔流に耐え切った彼は自分の目の前の光景に絶句した。

 始めの雷撃で教会の殆どが倒壊した事は目に見えて分かっていた……だがこれはどうしたことか! あのボロボロの壁が! 土を抉られて弾き飛んでいた石畳が! 景観を良くする為にと植えられていた木々が! 

 全て消えていた。

 いや、正確には『消滅させられた』と言うのが正しいだろう。誰に? 目の前の仮面の敵にだ。黒いレイジングハートを構えた奴はあの爆撃の後に地上に降り立ち、何も隔てるモノが無くなってしまった状態のヴェロッサをその白い仮面の奥の双眸から見つめていた。目を凝らせば微かに見える金色のその瞳がまるで幼い頃に義姉であるカリムに聞かされた御伽噺に出て来る悪魔のような輝きを持っていることに気付き、彼は無意識に身震いした。そして予想外だった……まさか自分を探す為だけにこれ程までの大破壊をやってのけるなどとは夢にも思わなかったからだ。

 「……耐えたか……やはり、あの魔法は、リンカーコアだけでの供給では、威力不足か」

 「はぁっ! あれだけ破壊しておいて威力不足って……言う事が違うね」

 一見肉体にダメージは無いかのように喋っているが、実際の彼の疲労と痛覚は伊達ではなく、今でさえ立っているのがやっとの思いだった。加えてこの雨による体温低下……正直言って次の攻撃を受けることはおろか、回避できるかどうかも危うい状況だった。次に奴が攻撃態勢に入れば間違い無く自分は死ぬ……そう直感していた。

 そして最悪な事に……手負いの獣を放っておくほど敵は甘くはなかった。

 レイジングハートの先端クローから半実体化した魔力の刃――ストライクフレームが出現し、足元にミッドチルダ式の円形魔法陣が展開される……ざっと10メートル以上は距離を離しているにも関わらずに届いて来る肌をも焦がすようなこの高濃度魔力はカートリッジロードを一切使用せずに発生しており、たった一人で原発並みの出力を誇っている事を意味していた。少なくとも高町なのはでさえここまでの魔力を出す事は不可能に違い無い。

 黒檀の槍を構えた仮面の敵は、ゆっくりと突きの構えを取り――、

 背面の土が抉り飛ぶ程の瞬発力によってヴェロッサの心臓目掛けて飛び出した。

 「くっ……!」

 速度、威力、誤差修整……どれを取っても非の打ち所の無い完璧な屠殺態勢に当の標的であるヴェロッサは感服し……死を覚悟した。

 そして、槍の切っ先が彼の心臓を――、



 「逆巻け! ヴィンデルシャフトォ!!」



 貫かなかった。直前で上空から猛スピードで降り立った……と言うよりかはまるで隕石の如き威力で襲来した“彼女”の得物がヴェロッサの心臓の手前僅か十数センチの所で槍の切っ先を弾き、その余波が水分を豊富に含んだ地面の土や泥を盛大に弾き飛ばし、仮面の敵の動きを遮ったのだ。瞬時にその介入者の実力を見破った仮面の敵は無用な損害を避けるべくしてその場から跳躍力だけを活かしたバックステップで距離を置き――、

 「どっせーい!!!」

 舞い上がった泥に混じって飛び掛かって来たセインのタックルによって後方に吹っ飛ばされた。だがこれは攻撃の体当たりではない……確かに威力は相当なモノがあるが、激突してからの飛距離が半端ない。二人はそのまま地面と水平に飛び――、

 「あらよっと!」

 あの爆撃で唯一生き残っていた教会の外壁の一部をセインだけが『通過』した。一緒に透過するはずだった仮面の敵を壁の通過中に器用に置き去りにする事で見事に封殺して見せたのだ。

 「逃がさないよ」

 更にその上からオットーが壁ごとエネルギー糸で縛り上げる。

 「危機一髪って感じだったね」

 「貴方の目は節穴ですか、シスター・セイン! これのどこが危機一髪なのですかっ!」

 仮面の奥から現状を確認する……加勢に来たのは全部で五人、セインとオットーとディードのナンバーズ三姉妹、陸戦最高戦力のシャッハ・ヌエラ、そしてここの教会の管理者であるカリム……この五人が揃い踏みしていた。もっとも、戦力と言う観点から見ればカリムは頭数には入らないだろうが……。

 「それにしても……」

 「あぁ、こいつ…私達と同じナンバーズなのか?」

 壁に封殺された仮面の機人を前にして三人のナンバーズは各々が驚愕に目を見開いていた。次元世界広し言えどもこの防護ジャケットを着用して戦闘を行う存在を彼女らは他に知らなかった。だが、仮面の所為で顔立ちは分からずともその体躯の作りは明らかに雌性体である自分達とは違い完全な雄性体……彼女達は男性のナンバーズなど聞いた事すら無かった。

 「私知らない…………………………………………こんな不細工な仮面付けてる奴」

 「えっ、着眼点そこですか?」

 「とにもかくにも! 貴方はここで私達に拘束されなければいけません。罪状は……不法侵入に始まり、公共物破壊、聖堂騎士に対する公務執行妨害と殺害、そして…………それらの行動によってもたらされた二次被害の犠牲者達への冒涜行為! よもや許されるなどと甘い幻想を抱いてはおりませんね?」

 シャッハが前に進み出る。その全身から放たれる威圧感は凄まじく、伊達に教会最強と呼ばれていない事や、現在彼女が生まれてこのかた見せた事の無い程に激怒していると言う事を容易に分からせてくれた。そのあまりの怒りの波動によって滲み出る魔力は背後で控えているカリムですら震え上がった……引き取ってから姉の様に接して来たはずの彼女でさえこんなに怒っているシャッハを見た事が無かったのだ。

 「貴方の犯した行為は罪です! 法の下での裁きを覚悟することですね」

 トンファー型アームドデバイスのヴィンデルシャフトを待機状態に戻し、シャッハは普段と同じ法衣姿に戻った。だが視線だけは目の前の仮面の機人を睨み据えており、完全に油断している訳ではない事を示していた。

 大抵の者であれば彼女の様な実力者から面と向かって睨まれでもしようものならその瞬間に身が竦むような感覚に襲われる……はずなのだが――、

 「……シスター・シャッハ、貴様は、自分の感覚に、自信を持っているか?」

 「どう言う意味ですか?」

 「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……それらが与えてくれる、情報のどれだけを、貴様は自信を持っている? 所詮、信じていたとしても、可視角度、可聴音域の中でしか、貴様たちは事象を、認識出来ない」

 いきなり饒舌になりだした敵にシャッハは得も言われぬ不安を覚えた。目の前に居るのは自分から見ても完璧に封殺された敵の姿……トラバサミに足を噛まれた野兎に等しく無力であるそれを前に、臆する事など何も無いはず。だが何故だろう、幾ら自分にそう言い聞かせても不安は拭えない、むしろ戦士としての自分の勘が盛大に警鐘を鳴らすのだ。

 「例えば、視覚……全天周囲、360°ある世界で、見えているのは、たったの三分の一……残りの、240°の中で、何が起きているか、貴様は分かるか?」

 「な、何を……!」

 「例えば、聴覚……20Hz以下、もしくは、20,000Hz以上の音域で、どんな音がしているか、貴様は考えた事が、あるか?」

 「だからっ! 貴方は何を言って……!!」



 「要するに、貴様らは、俺に時間を、与え過ぎた、と言う事だ」



 刹那――、

 シャッハの意識が揺れ動く。鼻と耳の穴から水が強制的に入り込み、その水が頭蓋の隙間を滑り込むような感覚に片膝をつきそうになった。続いて、高山の頂に登った時に発生する酸欠による高い耳鳴りと動悸……全身の血液を含む全ての水分が沸騰し、激しい吐き気や不快感が脳髄を駆け巡り――、

 直後、無心。

 先程までの劇的な感覚の乱渦が嘘ハッタリであったかのような澄んだ感覚……その余りにも不自然な程の切り返しに、再び彼女の精神が揺らぎ始めた。不快感の後に訪れるこの爽快感にも似た異様なまでの清々しさ……まるで、迷路の抜け道を見つけた時の様な……

 まるで、悩み抜いた末にようやく数式の間違いに気付いた時のような――!

 「義姉さん!!」

 「っ!?」

 背後のヴェロッサの叫びがその『間違い』を決定的なモノにしてくれた。待機状態にしてあったデバイスをすぐさま起動させるが時既に遅く……

 「騎士カリム……!」

 「動くな……筋一本でも、動かせば、この喉を、掻き切る」

 自分の目の前に居るのは主人であるカリム……そして、そのすぐ背後から首筋に鉤爪を当てている仮面の機人の姿があった。

 「そんな!? だって……あんたは私がそこに…………」

 セインの言う通り、確かに仮面の敵は彼女の策によって壁の中に封殺し、更にその上からオットーが拘束したはずだった。完全に壁の中に半身を埋め込まれていたはずであり、その両腕も封じていた……奴が動けばそれを視界に収めている自分達が気付かないはずがない。そう思いながらもセイン達がその方向を見やると――、

 「馬鹿な!」

 シャッハの口から出た言葉をセイン達もそっくりそのまま脳裏で叫んでいた。確かに眼前には崩れかけの建物の壁の一部があった……その上にオットーが掛けたバインドが二重三重にも絡められており、確かに“それ”を完全に封じていた。

 その石柱の一部を!

 ディープダイバーによってセインが埋め込んだと思っていたのは実は敵の肉体ではなく、建物を支えていた石柱の一部だったのだ。始めから彼女達は騙されていたと言う訳である。

 「そんな……いつの間に幻覚を!」

 「貴様たちが、ここへ来る事など、とっくに予測済み…………始めから、こうなる事を想定し、仕掛けていた」

 「では、シスター・セインの初撃の時点で既に我々を幻覚に陥れていたと!?」

 驚愕に気が動転しつつもシャッハは主を救出しようと徐々に距離を詰めようとする。対するカリムの方も束縛から抜け出そうと身を捩るのだが、如何せん戦闘機人の握力から両手が脱する事が出来ず、その抵抗は虚しいものでしかなかった。

 「その手を離してください。でなければ――斬りますよ?」

 威嚇するようにディードが袖から二本のブレードを引き抜く……紅玉の如き輝きを持つそれを両手に構えながら、彼女は自身のISを発動させるべく足元に疑似魔法陣を展開させた。彼女のIS――『ツインブレイズ』による瞬間的加速によって標的の死角に侵入するその殺人的な速度を以てすれば刹那の瞬間に仕留める事も容易……その最大瞬間速度はライドインパルスにも匹敵する。

 「やって見せろNo.12……」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………フッ!」

 一瞬だけ呼吸を停止し、全身の増強筋肉を引き締める! 内部フレームにジェネレーターで生成したエネルギーを一気に流し込んだ後、目標との相対距離を割り出して軌道計算、構えの体勢を維持し、そのまま――、

 突撃する!

 ベルカ式魔法の武芸者であるシャッハですら未だ完全には見切れぬ、戦闘機人だからこそ成せるその殺人的加速度で、ぬかるんだ大地を抉りながら瞬時に敵の死角に到達。二本のブレードを己の頭上にまで高々と振りかざし……



 腹部に重い蹴りを入れられた。



 「ディード!!」

 全重量およそ200㎏超……鉱山の岩盤ですら亀裂の入る威力を秘めたその蹴りをまともに喰らい、機人の双剣士は血反吐を吐きながら無様に手を地についた。吐き出された血の塊は雨に溶け、土に染み込み、流れて霧散する。

 「貴様が、相手の死角を狙うなど、とっくに予測していた……。そして、愚かにも、背後のみを、狙うこともな」

 「ぐぅ……うぅ……!!」

 「……じゃあな。せめて、苦痛を知らぬように……」

 地に膝を屈しながらもまだ意識の健在な彼女の姿を見下げた仮面の機人は、最後の一撃を与えるべく、高く上げた右脚を――、

 「やめろぉーーーーっ!!!」

 セインの咆哮にも似た制止も聞かずにディードの後頭部に振り下ろした。その場に居た全員は最後の瞬間に聞こえた何かが潰れるような音……せめてその音が泥の弾け飛ぶ音であるように祈ることしか出来なかった。

 「…………馬鹿な奴……」

 ディードの四肢がほんの一瞬だけ固く引き伸ばされるように硬直し、その直後に事切れたかのように弛緩……何も言わなかった、叫びも、呻きも、何も……。そしてその力の抜けた体を更に蹴り飛ばして自分から遠ざけた。

 「お前……! よくもっ」

 双子の姉妹とも言うべき存在を文字通り足蹴にされた事に憤怒したオットーは怒りに身を委ねて飛び掛かる。妹であるディードが背後を突いたのとは違い、彼女は真正面から攻める。敵はカリムの背後からこちらを見ている以上、どうしても彼女の頭部が邪魔となりこちらが見え難いはずだ。そう判断した彼女はそのまま突貫し――、

 「騎士カリム! じっとしていてください!」

 寸前で跳躍! 彼女が狙うのは人間の240°もある死角の中で最も肉薄であろう箇所、即ち頭頂。戦闘機人だからこそ成せる脚力で飛び上がり、レイストームによる緊縛で首を絞め落とす。如何に相手が自分達と同じ戦闘機人とは言え酸素の供給を立てば気絶するのは必定、そして彼女にはそれを実行するだけの自信も策もある。高跳び選手の如く舞い上がった彼女は空中で反転して真下の大地を目に収め……



 そこに標的が居ない事を認識した。



 「え? そんな……!」

 眼下僅か二メートルを見やってもあの仮面の姿は何処にも無い。消えた? そんなまさか、目を離したのはたったの数瞬……そんな短時間で一体何処に――、

 「アデュー」

 突如、オットーは自身の頭部に衝撃を感じた。痛みは無い……痛みなどと言う陳腐な感覚を脳髄が認識する前に彼女の意識はブラックアウトしたからだ。当然の事ながら、「いつの間に敵が自分よりも高い位置まで跳んでいたのか?」などの疑問も浮かばなかった。

 「……戦術も、戦略も無い……話にならん」

 わざわざカリムが叫ばないように御丁寧に彼女の口元を押さえてまで跳び上がった仮面の機人は、鋼鉄の両脚をオットーの後頭部を下敷きにして着地すると、残り三人となった相手側を見やった。妹が二人もやられたのを目の当たりにしたセインの戦意は完全に喪失し、主が捕えられたままの所為でシャッハは手が出せず、ヴェロッサはとっくに疲労困憊……恐らくこの三人の全力で掛ったとしても、カリムを奪還出来たとしても仮面の機人を仕留める事は出来ないと直感していた。

 「……貴方の目的は何なのですか? この聖王教会の武力占拠ですか? それともただの無差別殺戮なのですか?」

 ある程度落ち着きを取り戻したカリムが己の背後を脅かす存在に初めて声を掛けた。少なくとも自分をすぐに殺す意思は無いと判断したからだ。

 「……これは、ただの布石……本懐は、別にある」

 「では! 何の意味も無くこんな非道な真似事を行ったと言うのですか!!?」

 「意味はあった……



 ――貴様達を、ここに釘付けにすると言う――



 重要な意味がな」

 「まさか――っ!!」

 「今頃、“神体”はこちらに、落ちた頃だ……貴様達の、敗北だ」










 同時刻、St.ヒルデ学院聖堂にて――。



 「あーらあら、意外とあっけない。拍子抜けですわぁ」

 聖堂……と言う言葉がまるで嘘のようにそこは凄惨な光景だった。崩れ落ちた天井の一部が木製のベンチやパイプオルガンなどを押し潰し、幸いにもその惨事から逃げ遅れた者は居ないにしろ所々に血痕が飛び散っていた。辺りを漂う鼻腔を刺激するこの匂いは火薬……少なくともこのミッドでは禁制の品である質量兵器が一度に大量に使用されたことを暗に意味していた。そして喧騒……聖堂の外へと逃げ果せた人間達の混乱の叫びがここまで届いて来ていた。

 それらの光景の中心に位置するは全ての現象を引き起こし、全ての元凶でありながら媚びも省みもしないと言う笑顔で佇むクアットロ。彼女がその脇に抱えるモノは――、

 「ふふふ、お兄様の立案した作戦とは言えこんなに簡単に済ませられるなんて思いませんでしたわ。貴方もそう思うでしょう? 聖王陛下ぁ♪」

 そう言って彼女は右脇にまるで少し大き目の荷物を抱えるような感じで気絶しているヴィヴィオを揺さぶった。いや、気絶して居るのは彼女だけではない……クアットロの足元にはヴィヴィオを救いだそうとして逆に返り討ちにあったN2Rの面々が満身創痍で地に伏しており、ゲンヤとユーノも壁際で同じく気を失っていた。特にユーノの方はヴィヴィオを奪われる際に抵抗をしたのであろうか、外傷が一番酷く、頭部から血を流している有様だった。

 ふと、クアットロは自分の足元に伏していた妹の一人――チンクに目を落とした。

 「チンクちゃ~ん、私ねぇ、貴方の事をずぅーっと可愛くないって思ってたのよねぇ……私よりもちょこっと先に生まれたからってイイ気になっちゃって…………本ッ当にムカつくわ!」

 クアットロの爪先が容赦無く気絶したままのチンクを蹴り飛ばした。本来ならここでノーヴェが必死に噛みついて来るのだろうが、その彼女ですらとっくに姉と同じ道を辿っていた。

 「さとて……目的も無事終了しましたし、そろそろ帰還しましょうか――」

 もうここに用は無い……用が無い以上、畏怖する兄ではないにしろ長居は無用、早急に立ち去ろう。図らずも爆発時の衝撃で天井の一部が崩れているからそこから抜け出そうと飛び上がり――、

 足元に魔力弾が当たった。桜色の小さな弾丸が右脚に当たり、大したダメージも与えぬままに消滅――霧散した。

 「あらぁ……存じていたつもりですけど、ここまでしつこいと興醒めしますわ」

 爪先が何か小さい物に蹴躓いたと思ったら死に掛けの小汚い小動物だった……とでも言わんばかりの視線を投げ掛けるその先に、彼女――高町なのはは居た。レイジングハートを構え、その先端をクアットロに向けて狙いを定めようとしていた……愛する娘を返せと。

 「何度やっても同じ事……今の貴方では私を止めるなんて大仰なことは不可能ですわ」

 脳に埋め込まれた妨害魔力波長の所為でバリアジャケットも張れず、かろうじて自分の持ちデバイスを起動させたは良いが、クアットロの言うように照準はまるで定められておらず、先程の足元への銃撃も本当は人体の要である腰を狙っていたはずなのだ。かと言って接近する事も出来ない……平衡感覚を完全に失したこの状態では数歩も歩かぬ内に倒れ、立ち上がる事さえ不可能となってしまうからだ。棒立ち……距離感も、照準も、接近も儘ならない今ではそうする事が彼女の精一杯でしかなかった。

 「御安心を。お兄様の真意は計れませんが、聖王陛下の身柄に関しては『生かして連れて来い』と言われてますから。悪いようには致しませんわ……そう、貴方が想像しているよりかはですけど」

 クアットロの口上に嫌気が差したのか、なのはは再びスフィアを放つ。だが結局は全く的外れな方向へと飛び去り、クアットロの髪すら揺らさなかった。

 「それでは、私はこれで失礼しますわ。いずれまた相見える日があれば――」

 クアットロの体が浮上する……そのまま連れ去られて行く愛娘の姿をなのはは見送る事しか出来ない。

 「――それが貴方達の最後ですわよ」

 それが最後、クアットロは聖堂の天井から逃げ果せ…………後には我が子を奪われた悲しみで滂沱の如く涙を流す一人の女しか居なかった。










 午前11時20分、北方ベルカ自治領聖王教会本部――。



 トレーゼは人質に取っていたカリムの身柄を解放する。作戦が完了した今、もう彼女に用は無いからだ。乱暴に彼女の背を押してシャッハの方へと明け渡す。

 「……これで、ここには、何の用も無い。去らせてもらう」

 地面に伏したままの妹を一瞥もせず、堂々と背を向けて踏み越えて行く……背後に残したままの敵にはまるで警戒せず、そのままゆっくりと、歩いて、飛びもせずに……。当然、そんな彼の行動をみすみす逃すはずもなく――!

 「逃がさないっ!」

 普段のシャッハならいざ知らず、今は不意討ちなどと拘ってはいられない……ぬかるんだ大地を蹴って対象の背後に追い付くと、彼女は両腕のヴィンデルシャフトを精一杯に振り降ろした。

 だがそれをトレーゼは振り向きもせずに右腕で涼しい顔をして受け止める。もちろん、彼は仮面を付けているので誰にもそんな事は分からないのだが……。とにかくしつこいようだが、陸戦最高戦力であるシャッハの腕力を以てしても全く微動だにしない。いや、良く見れば押し返している。

 「それ以上、近寄るな……近寄れば、殺さなければ、ならない」

 「世迷言を! 貴方をこのまま行かせると思っているの?」

 「…………頼む……行かせろ。このままでは、拘束制限術式が――」

 「問答無用!!」

 回し蹴り、右ストレート、左の肘打ちの直後に反転しての踵落とし……更には頭突きまでをも繰り出すシャッハ。しかし、それらの連撃はことごとく阻まれた、目の前を飛ぶハエを叩き落とすような気軽さで……。

 「……っ!!」

 だが逃げの姿勢に転じたトレーゼの意思は固く、一瞬のラグを突いて彼女の制空圏から離脱、そのまま全力疾走での逃走を開始した。機人の走行速度は時としてF1の最高速度にも匹敵する……だがシャッハとて負けてはいなかった、両脚に魔力を送り込むとそれをバネに一気に加速する。その数十秒にも満たない寸劇に二人の姿は教会の廃墟の最奥へと導かれて行った……



 そしてその直後――、










 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』










 午前11時25分……『第一次聖王領侵略遠征』は急速な終演を迎えた。










 午前12時00分、ミッド某所――。



 都内の一角に設けられた借り駐車場……そのスペースの一つに停められた一台の黒塗りの乗用車の中に二人、いや三人は居た。運転席に眼鏡を掛けた女性、助手席に紫苑の短髪の少年……そして背後の後部座席には気絶した少女が一人。

 「こんな車まで用意してあるだなんて、流石はお兄様ですわ」

 「用が、終われば、すぐに破棄する。私物化するなよ?」

 二人の足元には中身を飲み干されて空になったペットボトルが捨てられており、後部座席のヴィヴィオの方にも一本だけ置かれてあった。彼女が目を覚ました際に脱水症状を起こしていたらすぐに飲ませられるようにとの配慮である。

 「そう言えばぁ~、さっきラジオで聞きましたけど、聖王教会の件の負傷者の数が100を越えたそうですわね」

 「……らしいな」

 「で・も♪ 不思議ですよね~、民間人側の死傷者は今の所確認されて居ないらしいですのよ~」

 「……………………」

 「作戦内容は私も確認しましたけど、あれで死人が出ていないって言うのは『奇跡』ですね。ひょっとしてぇ……そう仕組んだのですか?」

 「……無駄口を、叩くな。捻り潰すぞ」

 「はいは~い。でも……これだけは聞かせてくださいます?」

 「…………何だ?」

 クアットロの纏っていた雰囲気が変わった事を鋭敏に察知したのか、トレーゼの方も少し身構える。

 「……本当に誰も殺していないのですか?」

 「…………………………………………一人だけ……」

 「殺しました?」

 「……………………」

 「……ま、良いですけど。さてと、陛下が目を覚ます前に移動しちゃいましょう」

 「…………あぁ」

 そう言ってクアットロはアクセルを踏むとハンドルを切り、路上に進み出た。行く先は――、隣の兄が知っている。










 時を遡り午前11時30分、聖王教会の一角にて――。



 シャッハの姿が消えてから何の連絡も入っていない……敵を追った彼女の事だから仕留めるか、それが不可能と判断して早々に戻って来るかのどちらかのはずなのだが、帰って来る気配さえもない。地に伏したオットーとディードを救護班に回収させた後、カリムとヴェロッサとセインの三人は消息を絶ったシャッハの捜索に繰り出した。幸いにもヴェロッサの回復した魔力で生み出した犬を使う事で魔力を嗅ぎ取り、敵の膨大な魔力の淀みが充満する空間に彼女の魔力を見つけ出す事に成功した。やがてその筋を辿ると、三人は教会の敷地の北寄りに存在する道具小屋の中にシャッハが居る事を付きとめた。

 「シャッハ! 聞こえますか、返事をしてください!」

 すぐさまカリムがドアを叩いて彼女の生死を確認する。返事があればそれで良し、もし無かった場合は覚悟していた……そして――、

 「――――騎士…………カリ……ム?」

 ドア越しに微かに声が聞こえた。紛う事無く自分の秘書の声であることを確認したカリムはすぐさまドアを抉じ開けて中へ入り込んだ。だがすぐには姿を確認出来ない……小屋の中は教会で使われる事の無くなった大小様々な物品が所狭しと並べられている所為で、その気になれば大の大人が隠れるようなスペースが幾らでもあるのでまずは探す事から始めた。

 「シャッハ、無事なのですね?」

 手当たり次第に物をどかしながら内部へと突き進む三人。総司がそれていないのか、埃などで視界は最悪だった。

 「申し訳…………ありま……せん…………敵を……取り逃がしました」

 「もう良いわ。貴方は充分にやれたもの……。シャッハ、今何処に居るの? ここからじゃ見えないわ」

 「……分かりません…………何か……大きなモノに……」

 「?」

 分からないとはどう言う意味かは分からないが、彼女の声がする範囲内で『大きなモノ』と言えば少し距離を置いた場所に存在する柱ぐらいしか無い。とりあえずそこまで行く事にした、ひょっとしたらダメージで動けないのかも知れないのだから。

 「あぁ……騎士……カリム…………一つ、お聞きしても……よろしいですか?」

 「何?」

 足元の物体を次々とどけて進むカリム……もうすぐでシャッハの所に到達出来そうだと思っていた、その時――、



 「私の……腕と…………脚を知りませんか?」



 「……え?」

 自分とシャッハを隔てる最後の障害物……それをどけて目の前の光景を見た瞬間、カリムは絶句した。すぐ後ろでヴェロッサとセインの息を呑むのが分かる……これは何かの間違いだと信じたかった。

 「無様だと……笑ってください……。自分で……敵を追いながら…………この醜態……弁明のしようもありません」

 確かにシャッハは小屋のほぼ中央に立っている太い柱のすぐ傍にもたれ掛かっていた。たった10分の戦闘で何が彼女をここに身を隠さねばならない程に疲労させたのかと、ここに足を運んだ最初の時はそう考えていた。

 しかし、今自分の目の前の光景を見ればその疑問は氷解した。

 まずシャッハの右腕が無かった――。鋭利な刃物で肩口からバッサリと、在るべきはずの部位が綺麗に刈り取られていた。傷口から見えるザクロのような赤い肉の断面からは白い突起物が見え、生命の液体が栓を緩めた水道の如く溢れ出ているのが分かった。次に脚……左の脚が同じようにして寸断、行方を暗ましていた。その他にも首元から腰に至るまでに大きな太刀傷が走っており、およそ一人の人間に対する殺傷方法の全てを叩き込まれたかのような惨状となっていた。

 そして――、

 「シャッハ……その眼隠しは……?」

 カリムが指摘するのは発見した時から彼女が両目を覆っている布の事である。修道服の一部を千切ってあてがっており、どうやら彼女をここへ押し込める際に敵が施したと考えるのが妥当だった。

 「待ってください、今すぐ外しますから!」

 どうりで自分の位置が把握できていないはずだった、すぐさまカリムはそれを外そうとして彼女の後頭部に手を伸ばした。

 だから気付けなかった――、

 その眼隠しの布が異様なまでにベットリと濡れている事に……。

 自分の付き人が既に光を失っている事に、最後まで気付けなかった――。

 閉ざされた瞼をも真一文字に引き裂き、シャッハの両目を削り取った斬線の痕……明らかに殺意を原動力としたその蹂躙の痕からは、目隠しを外してしまったことにより、『かつて眼球だったモノ』が血液と共に流れ出た。

 「本当に……申し訳ありません…………明日からは……貴方に紅茶を淹れる事は……出来そうにありません」



 右腕、左脚、両目……たった10分の戦闘で彼女が敵に対して払った代償はあまりにも大き過ぎていた。










 「……………………ん、んんっ! あれ……? あれ? ここってドコ?」

 昏睡から覚めた少女ヴィヴィオは今の自分の現状を理解するのに少しばかり時間を要した。確か自分は学院の聖堂で催し物をしていたはず……それが終わった直後に母の所まで戻り、そして何やら大きな揺れがあって――、

 見慣れない部屋……フローリングの部屋には家具が自分の横たわっていたベッドと食物を保存しておく為の冷蔵庫しか無く、まるで引っ越しする前のアパートのようだった。取り合えず冷静になったヴィヴィオは、ここがどこなのかを把握しようとして窓の外を確認するべく立ち上がり――、



 「はぁい♪ お久し振りですわね、陛下ぁ」



 自分の背後から聞こえた底冷えする声に足が止まった。声が鼓膜を通して耳小骨を震わせて脳に届き、ヴィヴィオの記憶の奥底で消えかかっていたはずの圧倒的な原初の感情の奔流、即ち『恐怖』が呼び覚まされた。声の発生源は背後、だが振り向けない! 振り向けば認める事になってしまうからだ……自分の恐怖の根源として今尚脳裏から離れぬあの姿を!

 だがどうしても振り向いてしまう……そこに悪魔が居ると分かっていながらも反射的に。そして――、

 「三年振りの再会にこのクアットロ、身に余る光栄で張り裂けそうですわ。またよろしくお願いしますね」

 忘れもしない……三年前、自分の身柄を拘束して“ゆりかご”の玉座に縛り付け、母との望まぬ戦いを強いた張本人……二番目の姉の狡猾さを受け継ぎ、12人中“最悪”とまで謳われたナンバーズ、No.4クアットロがそこに居た。丸い伊達眼鏡の奥に光るその卑しい輝きに塗れた眼球が笑みを湛えてこちらを見ているのを見て、ヴィヴィオは自分の両足がガクガクと痙攣するのを覚えた。

 「な、何でここに……!?」

 「あらぁ、私が脱獄したのは聞いてません? どうせ情報管制が敷かれてるのでしょうけど……」

 クアットロの蛇のように細くしなやかな指先が怯え竦むヴィヴィオの頬を撫で回す。だが怯えながらも冷静さを欠かなかった彼女は、かねてから母に渡されていた小型の通信機をズボンのポケットから取り出そうとする。かつて母が管理局の知り合いに頼み込んで作ってもらった特別製であり、一度スイッチを入れればそこから発せられた特殊波長が直接レイジングハートに届く仕組みになっている。それを押そうとしてクアットロに悟られまいと静かに手を伸ばし――、



 「探し物は、これだな?」



 目の前に伸びて来たクアットロとは別の人物の指がその小さな通信機を押し潰すのを見た。小さいとはいえ機械の塊をまるで角砂糖のような気軽さで潰したその人物……紫苑の短髪、白磁の肌、金色の双眸と言う特徴が三拍子揃ったその顔には見覚えがあった。つい先週、学院の敷地内でノーヴェと一緒に居た少年――トレーゼである。

 「トレーゼさん!? どうして? 何ですかその格好!?」

 目の前のクアットロへの恐怖も吹っ飛ぶ衝撃がヴィヴィオを襲った。いつの間に自分の隣に居たのか、トレーゼの着用している紺色の防護ジャケットは明らかにクアットロの着ている物と同一であり、まるで彼が彼女と同胞か何かであるかのようにその存在を顕示していた。

 「『まるで』じゃありませんわ。お兄様は秘匿された13番目のナンバーズ……正真正銘の戦闘機人ですわよ」

 「そんな……! じゃあ、私を連れて来たのは……!?」

 三年前に自分が攫われたのは、古代ベルカ人が残した究極兵器である“聖王のゆりかご”を起動させるための鍵として利用されたからだった。だが既に“ゆりかご”の消滅した今となっては自分に利用価値は無いはず……何故この様な事態に陥ったのか、彼らの目的は何なのか、考えるべき要素が脳内を目まぐるしく駆け回ってヴィヴィオの精神が自身の扱える許容量を突破しようとしていた。

 その時――、

 「ん……」

 「え?」

 混乱し掛けていた彼女の目の前に突き出される銀色のパッケージに包まれたスティック状の携帯食料……トレーゼから無造作に突き出された物だった。その意外な行動に声を上げたのは、これまた意外にもクアットロの方であり、当の差し入れられたヴィヴィオの方は良く分からないままにそれを受け取り……

 「……ありがとうございます」

 「ん。食べ終わった後、ここでの生活に、ついて、幾つか話しておく。何も、考えるな……その方が、ずっと楽だ」

 相手が混乱するに至るまでにその意識を別の事物に素早く向け直す。混乱した子供程に厄介なモノは無し……先日の一件で彼が身に沁みて理解した教訓がここで活きた。

 「…………クアットロ」

 「はい?」

 「今すぐ、ラボに戻れ。例の、『毒』の増産に、取り掛かれ」

 「は~い♪」

 兄の命を受け、クアットロの姿が一瞬にして消え去る。続いてトレーゼは隣で黙々と自分の与えた食料を食べているヴィヴィオを尻目に、自身のデバイスを取り出した。

 「定時記録、開始」

 『Yes,my lord.』



 「11月18日、現時点を以て、計画の第一段階は、完全終了。第二段階へと、移行する」




















 途中経過の報告――。



 スバル・ナカジマ:トレーゼの計画進行における第二の被害者。左腕を除く四肢を切断され、Dr.スカリエッティ観察下の許で再生治療に専念中。現在両脚の接続及びリハビリを確認。



 ティアナ・ランスター:スバル・ナカジマと共に攻撃を受け、肋骨の骨折とそれに伴う肺の一部を損傷したが、湖の騎士シャマルの治療により復帰。破損したデバイス、『クロスミラージュ』は現在シャリオ・フィニーニ一級通信士が復元修理中。



 鉄槌の騎士ヴィータ:廃棄都市区画での交戦の際に右腕を負傷。後述の高町なのはに代わって、現在は捜査前線から退いて教導隊を率いる。



 エリオ・モンディアル:“13番目”との交戦により昏睡。しかし他の被害者達と比較して軽傷であった為、回復。現在は地上本部で療養中。



 キャロ・ル・ルシエ:上記に同じ。



 ギンガ・ナカジマ:交戦の際に腹部に軽い火傷を負うが、短期間の入院の後で復帰。更正施設在中のセッテに対して教鞭を執る。



 高町なのは:第6無人世界での交戦の直後に大脳を浸食。介護無しでの生活は困難。



 フェイト・T・ハラオウン:肉体酷使とリンカーコアの過剰な衰弱により、現在入院中。復帰出来るか否かについては不明。



 八神はやて:クアットロのとの交戦で右眼球を損傷。治療中ではあるが、失明は確定的。



 ヴェロッサ・アコース:計画進行における第一の被害者。現在はリンカーコアも回復し、11月17日を以て退院。



 シャッハ・ヌエラ:右腕と左脚が切断、胴と背中に深さ4㎝・長さ60㎝以上の切り傷、両眼球の完全破壊。――再起不能。



[17818] 欠けた者、集う者
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/06/21 00:48
 時を遡って11時25分、聖王教会敷地内にて――。



 シャッハは追う。人の領土を散々侵しておきながらのうのうと逃走を図ろうとした敵を、彼女は必死に追っていた。天空から降り注ぐ豪雨が視界を遮るが、今の彼女にとってそんな事は些細なモノでしかない。自分の育った家でもあるこの教会を完膚無きまでに破壊したその存在を許せなかったのだ。かつてセインを撃墜した時以上の猛攻で以てして、彼女は徐々に相手を追い詰めようとしていた。それぐらいしなければ、オットーとディードの姉妹を秒殺したこの敵を倒せないと踏んでいたからだ。

 だが――、

 おかしい、目の前の仮面の敵が一旦逃げに転じた先程から、ずっと反撃して来る気配が無いのだ。こちらの繰り出した打撃を受けはするものの、こちらの隙を突いて来る事は一切して来ない……どうやら本当に自分と戦う意思が無いのか。それに……

 「……………………」

 長年武人として生きて来た彼女だからこそ分かるのだが、先程とは一変し、相手から全く敵意が感じられないのだ。こうして戦っていても、目の前に居るのが本当に自分の敵なのかと疑いたくなる程に……。

 「く……! いつまでも調子に乗って――!!」

 シャッハが地を蹴る。次の瞬間、彼女の肉体は大地にまるで沈むように消え、敵の前から姿と気配を完全に消失させた。だが彼女は諦めて踵を返したのではない、仮面の機人がほんの一瞬だけ気を取られている隙に彼女は土中を突き進んで背後に回り込み――、

 「旋迅疾駆っ!!!」

 聖堂騎士修道女、シャッハ・ヌエラの秘技、それがこの『旋迅疾駆』である。物体を透過して潜行すると言う点ではセインの『ディープダイバー』と全く同じだが、彼女の場合は潜行可能な時間が極端に短く、当然潜行中の酸素供給は不可能である為にそう易々とは行使しない技だ。だが『ディープダイバー』との最大の相違点は、土中などの有機物であっても潜行可能と言う点にある。故に潜行可能時間の短さを度外視すれば奇襲には持って来いの魔法なのである。

 そんな彼女の地中からの勢いを付けた蹴り上げに対応し切れず、敵の機人は振り向いた瞬間に顔面にモロにそれを喰らう羽目になった。常人であれば顎が砕ける威力であるそれを受けた敵は大きく後ろに仰け反り……彼女は知る由も無いが、起動から現在に至るまで無敗であったその機人を初めて地に倒したのだった。味気無かった白い仮面は粉々に砕けて四散し、仰向けになった白い顔に雨水が容赦無く降り注ぐ。シャッハはここで初めて相手の素顔を見た……痣も痘痕も無い白く端正に整ったその顔は、声を聞いていなかったら女性と見紛う程に美しく、美を捨てて武に生きて来たシャッハが初めて嫉妬感を抱いた程であった。

 だが油断をしてはならない。セインの手で一度封殺したと思っていたのが実はあの場に居た全員に幻覚を見せる事でやり過ごした程の実力者なのだ。本当は気絶しているフリをしてこちらの隙を狙っていると言う事も充分あり得る……用心するに越した事は無いのだ。

 「……若い。それに強い、戦闘機人と言う道具のまま生きるのが惜し過ぎますね」

 外見年齢は恐らく18歳、顔面に皺やニキビなどの老化の痕跡が何一つ見当たらないので正確な年齢は分からないが、少なくとも20歳にはギリギリ到達していないと見積もった。彼女が年齢に自信を持てない理由の一つに肌の色があった……紫外線云々などによって体表に集中するはずのメラニン成分の色が全く無く、そこから派生する皺・ほくろ・ニキビ・肌荒れなど、先程言ったように老化現象の痕跡が全然無かったからだ。アルビノとはこの様なモノなのかと思わず感心してしまった。

 と、ここで彼女は対象の観察を止めて気絶している彼を運び出そうとした。罪を憎んで人を憎まず……自らが育ち、研鑽を積んで来た教会をここまで破壊された事については憎んでも憎み切れないが、自分は『裁く者』ではないのだと言い聞かせてそれを堪えた。ハンムラビの復讐法ではないが、やり返しでは駄目なのだ。

 「よっ……しょっと!」

 流石は戦闘機人、骨の代替物として埋め込まれている内部フレームの所為で体重が常人の五割増しになっており、担ぐだけでも一苦労だ。体勢的に無理をしていないかと、丁度自分の左横に来ていた顔を覗き込み――、



 真紅に染まった目がこちらを睨むのを見た。



 「え……?」

 人間とは不思議なモノだ、自身の感覚の許容量を遥かに越えた恐怖が精神を犯した時、その根源に対するリアクションが一拍遅れると言うのだ。この場合シャッハが正にそれだった……管理局きってのバトルマニア、烈火の将シグナムと肩を並べた女武人として聖王教会の矛となり楯となって来た彼女が、この時初めて、生涯最大級の恐怖に――、

 「あああああああぁああぁあぁぁああああああぁっ!!!!」

 真の恐怖の前では理性など脆く崩れ去り、本能の赴くままに行動しようとした彼女は一度担いだはずの“それ”を突き離し、『逃げた』。生涯初めての逃げに転じたのだ! だがその事を彼女は恥じない、悔いない、否定しない――なぜならそれが最善策だと判断したからだ。最善策として判断し、『そうする事でしか現状から逃れる術は無い』と判断しての行動だったからだ。相手が人間なら勝てる、相手が竜であれば防衛戦に限ってのみ言えば対抗は出来る……だが、相手が人知を遥かに超越した化物であった場合は別だ、自身の生命の尊厳と生存本能の全てを懸けてそれから逃げなければならない。人でもなければ増してや武人でも戦士でも無い“それ”に仕留められると言う事はそれだけで屈辱であり、生物として最大の汚点なのだから。

 そして――、今まで“それ”に出くわす機会が無かったシャッハを幸運だったと言うのならば、今こうして“それ”を目の当たりにしている彼女は間違い無く不幸と言う事のなるのだろう。水溜りを避ける事すらせずに全力で逃走する……相手取れば死ぬ、対抗しようとすれば殺される、ならば逃げるしか道は無い。



 だが――、



 彼女が逃走してから最初の五秒は黙って見送ろうとしていたはずの“それ”は、ふと何を思ったのか彼女の背中を向くと腰に手を掛け……

 抜刀!

 踏み込み!

 瞬速!

 一閃――!

 ここに戦闘に加わらない第三者が居たとするならば、高速で移動した事に寄る抉れた地面を見ない限り“それ”が瞬間移動でもしたようにしか見えなかっただろう。全力疾走していたシャッハのおよそ五倍以上の走行速度で迫り、刹那の瞬間にその脇を通過、彼女の進行上に立ち塞がった。

 「あぁっ!!?」

 シャッハの逃走の足が止まる――。だがそれは自分の前を塞がれた事によるものではない、その程度の障害であるなら彼女は悠々とやり過ごす事が出来たはずだ。彼女が止まった理由……それは二つあった。一つは目の前に立ち塞がった敵の姿――、全身の体表からマグマの如く滲み出る紅い魔力が焔となって周囲に立ち昇っており、体内で許容し切れなかった余剰な魔力が背面に集中、蝶の如き大小二対の翅の形となって放出されていた。その姿……眼光こそ自分が心底恐怖した禍々しい輝きが残ってはいるが、追い詰められた事によって精神感覚が少しズレ始めていたシャッハはその光景に得も言われぬ『美しさ』を見出してしまい、凝固したのだ。

 だがそれとは別にもう一つ、彼女の足を止めてしまった理由がある。それは自分の身に起きた小さな“違和感”……“それ”に追い付かれる前と後とではハッキリと違うと言えるその感覚が彼女の動きを完全に停止させるに至ったからだ。とは言っても、その違和感と言うのは先程の戦闘で幻覚を見せられたと自覚した時に感じたモノとは違い、今度は物理的なしっかりとしたモノだった。故に、彼女がその違和感の正体に気付くのは早かった。



 「――――斬ったのですね?」



 その疑問に答えは無かった。強いて言うなれば、次の瞬間に自分の体を走った激痛と、視界を覆った赤い液体の霧がその回答だった。腹側と背面……透かして見れば丁度『X』の形になるようしにてシャッハの肉体は斬られていたのだ。

 いつ? そんなもの、すれ違ったあのたった一瞬でやったに決まっている。

 「がっ……!! あぁぐっ」

 20年以上生きて来た生涯で最初となる太刀傷に怯みながらも、彼女の思考は止まらない。今自分の目の前に立っている敵……自分の体を切断しようとしたと言うのに、その両手にはブレードの類は何一つとして握られていないのだ。まさか手刀でやれる訳も無し、かと言って腕部の武装は明らかに打撃用途のモノ、切断には不向きだ。ではどうやって? 考えられるのはあの背面から放出されている二対の翅……霧状に放出された高濃度魔力が凝縮しているあれでの攻撃ならば切断もあり得る。刹那の瞬間に連撃を叩き込んだにも関わらず、内臓や大動脈などを傷付ける事無く肋骨部分を削るだけに留まったのは、恐らくその兵装の使用に長けていない所為なのだろう。自分が走って来た距離と“それ”が追走して来たのに掛けた時間を考えるなら、あの兵装の真価はその『速度』……その殺人的加速から発生する衝撃波による斬撃だとシャッハは推測した。

 さすれば、まだ好機はある! それほどまでの速度を売りにしているのなら、急な軌道変換は不可能なはず……管理局最速の名を欲しいままにしたフェイトですら、ソニックフォーム時の軌道は精々鈍角移動に毛の生えた程度でしか無いのだから、それ以上の速度ではそれすら困難なはず。ならば――、

 「っ!!」

 やられたのは上半身、下半身はまだ生きている――そう考えた彼女は反復横跳びを利用したジグザグ走行で再び逃走を図った。反復横跳びと言っても、聖堂騎士……それも陸戦型として成長して来た彼女の脚力は半端無く、一気に三メートルは跳んでいた。当然そんな軌道を描いて跳ぶ彼女を“それ”が追えるはずも無く――、



 追えないから魔力射撃を放って来た。



 通常の弾丸と違って円月形の魔力弾は、その形状から想像がつくようにブーメランの如く高速回転しながら不規則軌道を描いて逃走するシャッハの背に追い付き――、

 まるで、彼女がそこに来る事が分かっていたかのような正確さで――、

 背後から肩に食い込み――、

 皮膚を切り裂き、神経を焼いて、上腕二頭筋を引き千切り、そして骨格を飴細工のように容易く破壊し――、

 彼女の右腕を『壊した』のだった。

 「ぐああああぁあああっ!!!!!」

 再び激痛に襲われた事でバランスを失い、シャッハの体は遂に地面に倒れ込んだ。肩ごと腕を切り取られた断面からは肉の焦げる悪臭が漂い、腕の細胞が丸ごと焼かれたのを意味していた……細胞を直接破壊された事で再生治療は望めないだろう。

 「……………………」

 仕留めた獲物に止めを刺そうと言うのか、“それ”がゆっくりと近付いて来るのが分かった。痛覚を堪えて首をそちらの方向へ向けると……そこには斬り飛ばされた自分の腕を拾い上げて見つめる“それ”の姿があった。道端に偶然落ちていた小枝を拾ったかのような感じで人の腕を眺める……しばらく凝視した後で――、

 両端を持って骨ごと捻じり切った。

 吐き気を催す生々しい音がシャッハの耳にも届いた。腕が切れただけだったなら、せめて形だけでも繋ぎ合わせる事が出来ただろうが……五指の全てがあらぬ方向へと圧し折られ、螺旋状に数回以上は捻られて使い古されたしめ縄か何かになってしまったそれを、果たして『腕』と呼べるかどうかだが……。さらに“それ”は捻じり切るだけでは飽き足らず、肘の関節を砕き、分断した。単なる肉の塊となってしまったそれを流石に腕とは言えないだろう。

 「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 全身の激痛にもはや叫ぶ気力も完全に削がれ、ミミズかナメクジの如き無様な姿で這いずる事しか出来なくなっていた。

 そう――、彼女はここまで追い詰められて初めて気付いたのだ。

 突然変貌を果たした“それ”の正体に……。

 もはや敵意だとか殺意だとかで片付けられるようなモノではない、“それ”はまさに――、

 破壊衝動と殺戮衝動の塊だった。

 遂に“それ”がシャッハの左脚の太腿を掴み上げた。ナックルの鉤爪が遠慮無く肉に食い込み、さらにもう片方の手で踵辺りを掴み、次の瞬間……



 脚を切り取った。



 そこに物理法則などそこには介在しない……乾いていない粘土でももう少しは抵抗があるはずだと思える程にあっさりと切れたのだ。背面の翅を形成していた粒子がほんの一瞬だけ纏わり付き、次の瞬間には骨ごと切断……まるで魔法……。

 蹂躙! もはや殺害だの破壊だのと言う陳腐なモノでは表現できない一方的な行為。千切り取ったその脚も、細いタバコの吸い殻を縦に潰す時のようにして圧壊させ、森の方向に向かって放り投げて遺棄する。

 「あ……ああ、うぅう……!」

 二つの断面からの大量出血で体から力が抜け、更に真冬の冷たい雨が容赦無く打ち付けるので、既にシャッハの肉体は生物としては危険な域にまで体温が低下してしまっていた。指先から始まったその冷化は徐々に神経を麻痺させて彼女を傷口の激痛から解放する代わりに、彼女をゆっくりとした死へと誘いつつあった。このまま放置しておけば、どんなに保っても5分後には意識を失い、さらに5分過ぎれば確実に生物学的な意味で死を迎える……薄れ行くシャッハの脳が諦観の色に滲む。

 そんな彼女の残っている左肩を“それ”が掴み、地面に伏していた腹面を引っ繰り返した。顔は泥に塗れ、腹は更に斬り裂かれた傷口からの血で赤黒く変色していた。

 「…………いっそひと思いに…………殺し……なさい。こんな無様な最期……騎士の名折れ…………」

 自分を見下ろす紅い目に恐怖は感じない……迫る死の感覚がそれらを緩慢にさせてしまっているからだ。だが、例え廃れても騎士は騎士、雨水でぬかるんだ大地で死するぐらいなら、例え化物だろうが人外だろうが自分を倒した者に止めを刺してもらうのが理想……その意味では彼女は死を覚悟していたとも言えよう。

 「……………………」

 シャッハの最期の願いを聞き入れたのか、“それ”は自分の右手の鉤爪をゆっくりと彼女の頭部に伸ばした。雨水よりも冷たい金属の爪先が額から喉元までを、どこが裂き易いかを吟味するかのように撫で回す。そして、遂に――、

 眼球に辿り着く。最後の最後まで趣味が悪い、眼球を抉って直接脳髄を破壊しようと言うのだから……。



 この時はそう思っていた――。



 不意に頬に落ちた小さな液体……雨水とは違って温かく、それでいて血液ではないその滴はシャッハを一瞬で正気に引き戻した。

 「あ、貴方……まさか!」

 だが、時既に遅し。シャッハが戸惑っている瞬間に“それ”の鉤爪が人体で最も柔らかく脆弱な器官である眼球角膜を真一文字に斬り裂き、彼女は永遠の闇に落ちた。

 光を失う前に彼女が聞いたのは古代ベルカ語でもない、どこか異郷の言葉――、

 「Je suis désolé」

 そして――、光を失い気絶する最中に彼女の脳裏に浮かんだある言葉――、



 (あれは……『紅い悪魔』……)










 「それで、騎士カリム……その『紅い悪魔』と言うワードに心当たりは?」

 午後12時45分、教会領内に辛うじて残っていた数少ない建造物の中には、聖王教会管理者のカリムと、事件の事を聞き付けて至急救援部隊の指揮の為にここまで来たクロノが居た。以前来た時に腰掛けた新品の椅子は既に瓦礫の中に埋もれており、外では現在必死の除去作業と負傷者の救援が行われていた。現在のところでは民間人側に死者は出ておらず、負傷者達も命に別条は無いとの事だった。だがあくまでそれはこの日にたまたま教会を訪れていた民間人だけがそうだったと言うだけの話で、侵入者の迎撃に駆り出された教会付き聖堂騎士団はその大半が殺害されてしまった。辛うじて戦闘だけは生き延びた者も居たが、傷が深すぎて長くは続かなかった。ほんの15分前には40名以上だった死者数が今ではさらにその数を増やしつつある。

 教会と管理局……提携関係にある一方の組織がこの様な事態に陥ったとあらばこうしてもう一方が助力に向かうのは必定。だがその二大組織の事実上のトップである二人がどうして現場ではなくこの様な場所に陣取っているのかと言うと……。

 ちょっとした隠蔽工作のようなモノだと思ってもらえれば良い。今二人が話しているのは敵の事……何の前触れも宣戦布告も無しにここに現れ、建ち並ぶ物全てを破壊し、立ち向かう者全てを殺戮し、そして誰にも悟られる事無くして姿を消して行った“敵”の事についてだ。陸戦と接近戦に限定して言えば管理局武装隊をも遥かに凌駕し得るとまで評された聖堂騎士団を、ものの30分と掛らずに看破、壊滅させたその存在……その事について談義するのに身内の前では彼らの士気が著しく下がると考え、あえてこうして人の出入りが無い場所で会合を行っているのだ。誰だってこの様な惨状をもたらした存在についての詳細を聞けば不安になるだろう。殊更それがたった一人の手によってもたらされたモノならば尚更だ。

 クロノの予想が正しければ、こちらを襲撃したのは例の“13番目”のはずだった。既にSt.ヒルデに居合わせたナカジマ家の方からはクアットロにヴィヴィオが強制連行されたと言うのは聞いている……戦闘力に極端に秀でた“13番目”が教会を襲撃し、その制圧に向かったシャッハ達の隙を突いてクアットロが本懐であるヴィヴィオを攫って行く……実にシンプルだが、これ程までに効果的且つ理想的な作戦を立案し実行したのは驚愕に値する。だが、彼も“13番目”がどれ程の実力者かは承知していたつもりだったが、まさかここまでのモノだとは考えもしなかった。“13番目”に立ち向かった者で唯一の生存者であるシスター・シャッハも、右腕と左脚と両目を損失し、傷口からの大量出血の所為で充分に意識が保てない状態にある。彼女が戦線に復帰する事は二度と無いだろう。

 だがそんな彼女でも自分達に何かしらのヒントを残していってくれた。

 『紅い悪魔』……傷だらけの彼女がベッドで昏睡する前に主であるカリムに伝えたと言うその単語……。少なくとも後で聞いたクロノの記憶に聞き覚えが無い以上、その単語の概要を知るのは教会関係者と言う事になるはずなのだ。もしかすれば、それが何か重大な意味を持っているはず……。

 「ええ、知っています。私とヴェロッサとシャッハ……私達三人なら良く知っている言葉です」

 「では、その意味するモノは?」

 「…………それをお話する前に話しておかなければならない事が……」

 そう言いながらカリムはクロノと向き合うように小さなテーブルの椅子に腰掛けた。部屋の棚にあった一冊の本を開くと、かなりの年月を放置していたのか埃が舞い上がった。

 「提督は、どうして私の家系……グラシア家がベルカ時代から聖王教会の中核に居座り続けられたかご存知ですか?」

 「確か……古代ベルカ聖王領に存続していた貴方の先祖が、代々の聖王を支え続けて来た重鎮だったからでは?」

 「ええ、私から数えて十数代前の始祖が聖王の膝元に取り入ったのがグラシア家の始まりだとされています。跡目を継ぐ者が居なくなって王家の存在が宗教化したのも、全ては当時の当主が聖王家の威光を後世まで伝えんが為に仕組んだ事だと伝え聞いております」

 なるほど、権力者の血筋が絶えればその側近が成り替わると言うのはどこの世界でも同じ事だったらしい。

 「では、提督は何故このグラシア家が数百年に渡って聖王教会の権力を握って来られたかをご存知ですか? あらゆる次元世界の支配者達を御覧になっても分かりますように、どんな精強な国家を打ち立てても、その血族が真に覇権を握っていられるのは極々僅かです」

 言われて見れば確かにそうだ、地球だけに限って言っても、古今東西あらゆる為政者達の血族が末代まで威光を保っていられたケースは非常に少ない。どんなに本家が権力を持とうと、いずれはそれに群がる別の権力者の手に落ちるのが必然であり、そうでなかったとしても影から糸を引く者が必ず現れる者なのだ。

 「ですがこのグラシア家は違います。聖王家が消滅したその日から握った覇権を誰にも譲り渡す事無く、今代のこの私に続くまでずっと教会の政権を守り通して来れました。何故だと思われますか?」

 「……………………嗚呼、そう言う事ですか」

 始めは何やら読めないと言った表情だったクロノだが、少し考えた後に結論に到達したのか、すぐに納得の顔になった。何故グラシア家が戦乱の古代ベルカ時代を乗り切って尚この教会が内部で権力を握っていられた理由など、一つしか無い。

 「そうです……『預言者の著書』、未来を見通すこれがあったからこそ聖王教の信徒達は決してグラシア家に反旗を翻さなかった。いえ、翻せなかったと言うのが妥当でしょう」

 『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』……ミッド上空に浮かぶ二つの月の魔力を利用して発動する未来予知のレアスキル。最大で数年先の未来を予知することが可能なこの希少技能は、あまり知られてはいないが実はレアスキルの中でも特筆に値する程に特異な特徴があるのだ。この事実は聖王教会でも代々のグラシア家の直系とその側近、そして提携関係にある管理局の極めて一部の者しか知り得ない極秘事項……それは――、



 「『預言者の著書』は――――“遺伝”する能力です」



 古代ベルカ時代のグラシア家始祖が何故、戦乱渦巻く極端な実力社会だった聖王家に取り入る事が出来たのか? そして何故数多くの群雄が割拠する時代で聖王だけが覇権を握れたのか? それは一重にこの血族の有する能力あってこその繁栄だったと言えよう。何者にも勝る武力と、全てを見通せる予知の目……この二つが揃っていたからこそ聖王家はベルカの地を平定出来たのだ。

 やがて世代交代の時期が迫った時、当時の聖王家の当主とグラシア家の当主は預言の能力が次代に継承される事を発見、これを隠匿する事にした。平定したとは言え未だ戦乱の時代、他の者に悪用される事を恐れたのだろう。だがベルカの時代が終わった後は教会の一部の者に敢えてその秘密を教える事により、逆に聖王教会の中でのグラシア家を地位を確固たるものにして見せたのだ。『聖王家に仕えし預言者の血族』……周囲の畏怖と敬愛を集めるには肩書きはそれだけあれば充分だ。

 とにもかくにも、彼女の能力は子々孫々と“遺伝”するのだ。だが一代ごとに継承されるのではない……彼女の前に預言者を前任していたのは彼女の祖父、つまり二代前から隔世遺伝して来たのだ。例え彼女が子を成したとしても発現するかどうかは不明だ。確かに言えるのは、この能力がグラシア家の直系の誰かにのみ受け継がれると言う事だけだ。数少ない予知系統の魔法であるこれが希少技能として認定されているのは、本来一代限りの突然変異とでも言うべきはずのレアスキルが、血は繋がっているとは言え他人に継承されると言う特異性があったからなのだ。もちろん、この事実を知っている者は前述したように数は少ない。

 「……それで? 既にその事実を熟知している私にとっては大した驚愕にもならないのだが……」

 「ええ、分かっています。先程お訊ねになられた『紅い悪魔』と言うワードについてですが、そもそもこの言葉が最初に表世界に出たのは私から数えて七代前のグラシア家当主が遺した預言に記されています」

 そう言いながらカリムは開いていた埃塗れのその古い本をクロノの方に差し出した。どうやら過去の預言者達の預言を記した一冊らしい、いずれは彼女の預言もここに記されるのだろう……。

 「ご安心を。解読済みのモノを記してあります」

 手渡されたそれに目を通すと、目が痛くなる程の量の文字がびっしりと書き込まれていた。恐らくは最初に預言能力に目覚めたグラシア家の始祖に始まり、数百年分の全ての預言がここに記されているのだろう……どうりで指三本分の厚さがある訳だ。

 その中に見つけた文章が――、





 『名も無き彷徨う者あり、それは“紅い悪魔”也。

 彼の者は強大也。万の兵、千の竜、百の騎士、十の戦船……王の力を以てしても討つ事適わず。足音に虫は怯え、吐く息吹に草木は慄き水は枯れ、その背後には何も残る事無し。彼奴を恐れぬは“裏切り者”と“仮初の王”のみ。

 彼の者は怒る。己が唯一信じ、己を唯一受け入れたはずのモノに見限られ、彷徨い始める。壊し、殺し、奪い、滅ぼし……得る物は何も無し。

 彼の者は繋ぎ留める。失ったモノの代わりを求めて“裏切り者”を縛り付けようとする。“裏切り者”は何も語る事無し……哀れな彼の者に慰めも施しも無く、ただ一時の情だけを寄せる事しか知らず。

 やがて彼の者は王の地を離れ、遠き彼の地へと流れ着く。遠き彼の地に眠る黒騎士を呼び覚まし、自らの糧とする。彼の地に眠る黒騎士は彼の者を認めず……彼の者を弱らせ、腐らせる。されど彼の者に更なる力を与えるだろう。

 されど、汝彼の者に手を出す事無かれ。やがて彼の者は滅びの一途を辿る……紅き怒りが消え去り、悲しみと孤独が体を引き裂こうとも、、決して止まる事はしない。止めようとする者は彼奴より先に滅びを見る。

 彼の者は歩く。遠き彼の地を“悲しみ”の荷を背負い、“孤独”と言う名の足跡を刻みながら彷徨い続ける事しか出来ない。

 “裏切り者”の赦しを受けるその日まで――』





 「代々のグラシア家当主とその近しい側近は、このように歴代の預言者達が遺した預言を管理する役割を担っています。私の代で言えば、丁度ヴェロッサとシャッハがその管理者に当たります」

 「ですが、歴代の預言者の遺した物は数多に存在します。何故その中からこのワードを正確に覚えていたのでしょうか?」

 「単純に彼女の記憶力が良かっただけ……と言うのもあったのでしょうけど、恐らくは『印象深かった』からだと思います」

 「?」

 途端に解せないと言いたげな表情になったクロノに対し、カリムは慌てて注釈を入れた。

 「実はこの預言、歴代預言者の中で唯一……



 起こらなかった事件を予知してしまったモノなんです」



 「…………それは……確かに印象深いですね」

 『預言者の著書』は未来に起こるであろう事象を詩文形式で知らしめる能力……その文面の解釈の仕方によっては意味が異なり、その所為で預言事態の的中率はカリムが言うように「良く当たる占い程度」のモノでしかない。だがしかし、その文面に記されているのは、解釈はどうであれ来るべき未来に必ず起こるはずの出来事を記しているはずなのだ。

 「文面にありますように、『紅い悪魔』は当時最大の勢力図を誇った聖王ですら対処する事は不可能だと伝えられています……。この預言がもたらされた当時の聖王はその正体不明の敵に対処するべく、半ば悪政に近いやり方で富国強兵を推し進め、その結果として領土を拡大、歴史上最大の統治国家を築き上げたのですが……」

 「当の『紅い悪魔』は訪れなかった……ですね?」

 「はい。当時のグラシア家当主が次代の預言者に世代交代してから現在の私の代に至るまで、ここに記されている事件は何一つ起こらなかったのです。疫病、反乱、王族暗殺未遂、果ては突然変異種の魔法生物の暴走……確かに事件は山ほどあったらしいのですが、そのどれもが預言文章の内容とは符合しないものであったらしく、結局、この預言は史上初の『的中しなかった預言』として記録されたのです」

 なるほど、解釈の相違と言う点を除けば的中率100%を誇るはずの『預言者の著書』が唯一予知を外したモノともなれば、預言管理者の一人であるシャッハの脳裏に残っていたとしても不思議ではない。問題は……

 「シスター・シャッハは何を伝えたかったのでしょう?」

 「私はあの子ではないので分かりかねますけど、見た目まんまの特徴だけを伝えるならわざわざその様な周りくどい事はしなかったはずです。何か別の意味を伝えたかったのでしょう」

 「貴方自身はどう解釈していますか?」

 「さぁ……彼女の言う『紅い悪魔』が本当にあの“13番目”と言われる戦闘機人を指しているのかどうかは分かりませんし……。ただ、歴代の預言者達はこの『紅い悪魔』を――」



 『悲しみと孤独の象徴』、と解釈しています。










 ほんの十分前、クラナガン郊外のとあるアパートの部屋にて――。



 「……………………」

 「…………うぅ……」

 あれから時間が過ぎた……ひとまずヴィヴィオを落ち着かせる事に成功したトレーゼは、彼女が食べ物に意識を向けている間にキッチンから椅子を持って来てそこに腰掛けた。一見単に目の前の少女から距離を取っただけに見えるが実は違う……ベッドに座っているヴィヴィオに対して丁度向き合うようにして椅子を配置する事で、食べ終わった後の彼女の意識が次に自分に向くように計算してのことなのだ。そうすることで彼女は否応無しの無意識に自分の話す事に耳を傾けるからだ。

 結果としてトレーゼの思惑は成功し、特に大した混乱やトラブルを見せる事無くヴィヴィオは彼の言葉に耳を傾けるぐらいの事はした。誘拐されて来た身の上、もう少し取り乱すと思っていたのだが、三年前にも同じ目に合っていたのが幸いしたのか終始落ち着いていた。

 「まず、当然だが、外出は不可だ。必要なモノは、こちらで、出来る限り揃える」

 そう言いながらトレーゼは自分の背後のドアを指差す。鍵は掛けられてはいない……代わりにドアノブが抜かれていたが。

 「用を足したいなら、そこだ。ただし、バスルームは、無い……」

 次に彼が指差したのは、こことは別の空間に繋がっているドアだった。風呂が無いとはよっぽどの安物物件なのだろうが、文句は言えない。

 「食事は、一日三回……先程与えた、携帯保存食を、二本。それで、充分だ」

 ピーマン味でなければ大丈夫だ、基本的に好き嫌いはしないのでこれは特に大した問題ではない。

 「次に、最重要項目……一日一回、この試験管に、一本分の血液を、提供してもらう」

 これは少し驚いた。血液を抜かれると言う事は即ち毎日注射器の針を腕に打たれると言う事だ。トレーゼの見せている試験管は通常規格より一回り小さいので死にはしないだろうが、それでもやはり気分の良いものではない。

 とにかく、今までの話を要約すればこうだ――。ここから一歩も出る事無く黙って血液を出していれば身の安全だけは保障されると言う事だ。吸血鬼じゃあるまいし、一回やそこらの採血で死ぬほど採られる事など無いだろう。

 だが、次のトレーゼの言葉にヴィヴィオは精神が崩壊せんばかりの衝撃を受ける事になった。



 「お前の、生活のサポートは、クアットロが選任した」



 「……………………え?」

 「以後、お前に関わる、全ての事柄は、あいつの管理下に――」

 「ま、待って! それってどう言う意味なんですか!? まさか……!」

 「お前の、生活の管理権限を、あいつが持つと言う事だ。食事、睡眠、行動規制、監視……一切合財、全てだ」

 自分の管理をあの四番が行う……たったそれだけの事実でも、彼女にとっては死刑宣告にも等しい意味を持っていた事は確かだった。生殺与奪を握られるとはこの事か。

 「駄目……トレーゼさん! それだけは、それだけはやめてください!!」

 「安心しろ、殺しはしないだろう」

 「そうじゃないんです……!」

 「決定事項だ……今更、変更は無い。お前は、黙ってこちらの、言う事を聞いていろ……………………最後に、質問は三つまでだ」

 どうやらこちらの言い分は本当に何一つ聞くつもりは無いらしい。絶望に打ちのめされたヴィヴィオはしばらくベッドの上で蹲っていたが、やがてそうしていても何も解決しないと判断したのか、ゆっくりと起き上がり、口を開いた。

 「……本当に……トレーゼさんはナンバーズなんですか?」

 「個体名、『Treize』。個体識別番号、“0013”。製造開始年月日、新暦50年8月15日。最終調整完了年月日、新暦55年10月10日。正式稼働開始年月日、新暦78年11月6日。肉体増強レベル、オーバーS。…………正真正銘、創造主スカリエッティが、造り上げた、最古且つ最新鋭の、個体だ」

 そう言いながらトレーゼは自分の足元に真紅の幾何学円形魔法陣を出現させた。ミッド式でもなければベルカ式でもないこの紋様をヴィヴィオは一つしか知らない……間違い無くナンバーズのみが持つ固有技能の証だ。

 「私を誘拐して……どうするんですか?」

 「お前は、重要なサンプル……ただ、それだけだ。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でも、何でも無い」

 どうやら自分に多くを語るつもりも無いらしかった。現時点で確実に分かっているのは、少なくとも彼がその目的を達成するまでの間だけは殺される心配は無いと言う事だけだった。

 そして、最後の質問――、

 「……………………」

 「……………………」

 「…………ママ……」

 「?」

 ここに連れて来てから初めて聞く少女の小さな声に、始めトレーゼは聞き零しそうになった。顔を俯けて居る目の前の少女……肩を静かに震わせ、鼻をすする微かな嗚咽の声が次第に大きくなり……

 「ママぁ……ママの所に帰してよぉ……!」

 「……………………」

 もう質問でも何でもない、ただの純粋なる願望だった。たった一人の母の許に帰りたい……見知らぬ場所に連れて来られた彼女の精神は脆く、ここへ来て遂に感情の堤防が決壊、心細さから去来する寂しさと悲しみが双眸から涙となって溢れ出たのだ。服の裾やシーツを濡らし、彼女は嗚咽する。いくら三年前とは違って成長したとは言え、やはり一介の子供……自身の精神が処理し切れないのは当然と言えよう。せめて大泣きしないのは精神年齢が憚るのかも知れなかった。

 「…………残念だが、決定事項だ」

 「うぅう……! うえぁあああっ!」

 「…………クアットロ、少し、良いか?」

 脳内に埋め込まれた通信用マイクロ端末を開き、回線を孤島の地下ラボで作業中のクアットロに繋げる。しばらく相手が出るのに時間が掛ったが、なんとか繋ぐ事に成功すると――、

 「対象の精神、極めて不安定。接触には、充分気を付けろ。以上」

 返事も待たずに言う事だけを言うとさっさと切断、椅子から立つと、ベッドのヴィヴィオに近付いた。腰を落として目線の高さを彼女と同じに合わせると、その小さな瞳に視線を合わせる……。目の前の金色の瞳を前にして一瞬の隙がヴィヴィオに生じ、次の瞬間――、

 「あ…………っ!」

 コツン……っと額をトレーゼの指が小突いた。もちろん、ただ単に小突いただけではない……接触した僅かコンマ数秒にも満たない一瞬に彼は自分の魔力波をヴィヴィオの脳内に直接流し込み、覚醒物質を分泌する部位に作用させてそれを停止、一つの外傷を付ける事無く彼女を昏睡させた。電池の切れた人形のようにベッドに倒れ込んだヴィヴィオに毛布を掛け、トレーゼは椅子を片付けながら外へと続いているドアへと足を向けた。

 「……取り合えず、一週間分の、水分を、補給せねば……」

 以前の彼ならば無理矢理にでも昏倒させようとしただろう。そしてその時ヴィヴィオは必死の抵抗をしただろう……管理局の三強の一角である者を母に持ち、学院の実技試験でもそれなりの成績を持っている彼女が魔力弾の一つや二つを放てないはずが無い。だが何故それが出来なかったのか? それは単純にトレーゼの行動速度が速かったと言う理由だけには収まらない。



 目と目を合わせれば子供はその者を警戒しない。



 たったそれだけ……たったそれだけで精神の幼い子供はなけなしの警戒心を一瞬だけとは言え簡単に解いてしまうのだ。人間の子供だけではない、手に乗るネズミから大型の肉食獣に至るまで、眼球の視線が互いに交差すれば例え一瞬であったとしても隙が生じるものなのだ。

 以前の彼なら絶対にしなかったはずの行動。

 それは彼がつい昨日に迷子の少女から学んだ行動だった。

 脱走防止の為にドアノブを外したドアをディープダイバーで潜り抜け、トレーゼは外の街へと繰り出す。持って帰って来る水分は……ペットボトル20本で充分だろう。










 午後13時00分、聖王教会にて――。



 「ふむふむ、なるほどな。確かにこれは酷いモノだな。これに比べれば、三年前に私が実行した地上本部襲撃作戦がまるで児戯だ、お遊びだ、おままごとだな」

 室内の窓から外の様子を確認する……完膚無きまでに倒壊した建築物と聖堂騎士団の死体の血の跡、そして少し離れた場所に見える爆撃でもあったかのようなクレーター……ほんの一時間前に繰り広げられた、とても戦闘とは言えない一方的な殲滅の痕跡が聖王教会の敷地の大半を覆っていた。そんな大惨事の後にも関わらず、それを引き起こした張本人を造り上げた者であるスカリエッティは実に満足気な笑みを浮かべながら窓の外を忙しく動き回る救護班を睥睨していた。

 「他人事のような口振りですね」

 「おいおい、勘違いは良くないな。三年前とは違って、一連の事件はあくまで“13番目”自身が作戦立ててやっている事だ……私は一切関与していないし、するつもりも無いよ。つまり、本当に『他人事』なんだから仕方が無い」

 いつになくトゲが目立つカリムの言葉をかわすと、稀代の天才科学者はどっかりと椅子に腰掛け、品も風情も知った事ではないとでも言うかのように紅茶を一気飲みした。公式記録上では終身刑扱いである彼が本部からここへ来たのは今からつい十分前。何故かウーノを本部に置いたまま数人の護送担当者と共にここへお忍び訪問……本人曰く、「私の最高傑作が『少し遊んだ跡』を見に来た」とのこと。ちなみに、本来軌道拘置所に居るはずのスカリエッティがここに居る事についてカリムが何も言わないのは、彼女も彼の一時的釈放への働きかけに一枚噛んでいるからだ。とは言っても、まさか教会の敷地内にまで何の断りも無しに入り込んで来るとは思っていなかったらしく、彼が堂々と椅子に座っているその横でカリムはずっと不機嫌に押し黙ってしまっていた。

 「それにしても、まぁなんだね……流石はトレーゼと言うべきだな。一見してただ無差別に破壊しただけにも見えて、実はこれがまたまたどうして手が込んでいる」

 「どう言う意味ですか? 詳しくお聞かせください」

 「フフフ、山の中に籠って俗世から切り離された聖人様達は、これが単なる大破壊としか見受けられんようだな」

 如何にも挑発的に芝居掛った口調でカリムを鼻先で笑った後、スカリエッティは再び窓際へと歩み寄る。

 「そうだな……まずはあの建物を見てもらえばある程度は理解出来るだろうか」

 そう言って彼が指差すのは、侵入者が行った大破壊の最初の雷撃で倒壊した教会の建物の一部だった。

 「お気づきかな……あの建物だけではない、今現在ここに辛うじて現存している建物はその全てが『天井だけを破壊されている』と言う事を」

 「それは! 雷を落とされたのですからそうなるのは必然――」

 「違うな。私もここへ来る途中に少しだけ落雷地点を見させてもらったが……建物を狙ったのと屋外を狙ったモノとでは威力に相当な違いがあることを発見させてもらった。恐らく、建物を狙った落雷は天井を突き破るだけが目的だった可能性がある」

 「だとしても、それに一体何の意味があるのですか?」

 「これだけヒントを与えても分からんかね? 理由は単純にして明快! 『混乱させる為』さ! 教会の礼拝堂の中に鮨詰めにされていたのは何だ? 参拝に来ていた信徒達だ! ここに存在していた礼拝堂の総数から考えれば、その頭数は200を下らないはずだ。勝手に祭り上げられただけの居るかどうかも分からない不確かな存在に対して必死に祈りを捧げていた奴らは、いきなり天井が落雷で崩壊すればどうなる事か……それ位は検討がつくだろう? 加えてその後の豪雨! 天井から瓦礫と共に降り注ぐ、視界の確保すら儘ならないレベルの雨量に人々の精神的圧迫感は更に跳ね上がる。そしてその結果として聖堂騎士団の人員は二分化された……侵入者を迎え撃つ者と、混乱した信徒達を抑える為の二種類にだ。そして」

 確かに彼の言うように、雷撃による天井の崩壊で発生した信徒達の混乱の沈静化を最優先で行動した聖堂騎士団は、その人員の実に七割近くをそちらに回し、残りの三割だけで侵入者を迎え撃ったと言う構図だったと言うのが生き残りの騎士の談だ。たった三割と侮るなかれ、本来なら管理局の選りすぐりの航空武装機動隊にも肩を並べる実力者集団、半分以下であろうがたった一名の襲撃者に遅れを取るはずが無いと判断しての行動だったのだろう。少なくとも、相手が人間であったならその理屈は通じただろう……あの高町なのはでさえ陸戦に限定すれば騎士団の面々とは真っ向勝負を避けるのだから……だが、現実は違っていた。自分達が到着するまでの僅か半時間の間で前哨に駆り出された三割は壊滅、混乱の鎮静化をある程度抑えた後でヴェロッサと共に向かった後続の七割も、その半数以上が死に絶えると言う凄惨な結果に終わってしまった。改めてそう考えれば、この無差別破壊は全て計算尽くで成り立っていた事が実感させられる……だがもしそれが事実なのだとすれば、自分達は今、とんでもない敵との関わりを余儀なくされていると言う絶望的恐怖感がカリムの背筋を凍らせた。

 「本当に……全部計算されていた!?」

 「腐っても私の最高傑作、彼が何の意味も無く行動を起こすはずが無い。だが一番恐ろしいのは、これだけの大破壊が実は学院側に居た君達を呼び寄せる為だけの陽動作戦に過ぎなかったと言う事だな。これだけの為に一体どれだけの人命が失われたか……」

 「…………騎士団員、総数132名……彼らの魂は安らかなる光と風に守護され、楽園へと還るでしょう」

 「ふんっ、死後のモノに楽園だの地獄だの転生だの、そんなモノはただの幻想だ、戯言だ。死ねばそこで全てが強制的に終了される……そして“13番目”はそれを目的として造り上げた」

 「物を壊して、者を殺す……あのシャッハですら腕と脚と眼を犠牲にしなければ生きて帰ってこれなかったんですから、貴方の言う事もあながち嘘ハッタリと言う訳ではないのですね」

 彼女には申し訳ないが、いっそそのまま死んでしまっていた方が楽だったのではないかと思ってしまう……戦士としての道を断たれ、主である自分の付き人すら満足にこなせずに、ただ単に生きているだけの人生をシャッハが恥じずにいられようものか。今でこそベッドの上で何とかして命を繋いではいるが、義理固い彼女がいつ自害しないとも限らない。

 「……あー、ちょっと良いかね?」

 と、ここで椅子に座って総計26杯目となる紅茶を堪能していたはずのスカリエッティが、ふと小さく手を上げた。どうやら紅茶のおかわりを要求するつもりではないらしい……と言うか、心なしか顔色がいきなり悪くなっているような気がする。

 「一つお聞きするが……従者殿は……『死んでいない』のだな? 本当に? 実は君が現実逃避しているだけで、本当はセインもオットーもディードもその従者殿も、とっくに死んでいるのではないのかね!?」

 「なっ!? 何を失礼な!! シャッハは……辛うじてではありますが、ちゃんと生きています! シスター・ディードとオットーの二名も顔面に軽傷、シスター・セインに至っては無傷です!!」

 初めて人前で見せる怒りの形相に、いつの間にか蚊帳の外だったクロノの方が飛び上がった。だが確かに、自分の身内を勝手に死人扱いされれば誰だって激怒する訳で……。だがどう言う訳か、怒らせた当の本人であるスカリエッティはだらしなく口を開けたまま唖然としており、次に長考、その次にやはり腑に落ちないと言いたげな感じでカリムを見直し、果てには夢でも見ているのだろうかと自分の頬を抓っていた。

 「…………もう一つだけお聞きするが……死者を含めてここに居る騎士団の総数は?」

 「ご……丁度、500名――」



 「有り得んっ!!! そんなっ! 事はっ!! 絶対にっ!! 有り得ない!!!」



 今度はカリムが飛び上がる番だった。ここに来てからずっと終始不遜な態度を取りつつも一貫して嫌に落ち着いた雰囲気を身に纏っていたはずのスカリエッティが、突然椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、その細い両手の一体何処から出ているのか不思議になる位の音が叩き付けた卓上から出ていた。それから数十秒間、クロノとカリムが呆然と見守る中で彼は室内をグルグルと歩きまわりながら、「有り得ん……何かの間違い……いや、そんなはずは……!」と何やらブツブツと呟くだけだった。

 やがて少し間を置いて落ち着いたのか、再び椅子に身を落ち着けた。クロノが無言で椅子を引き、スカリエッティが無言でそこに座り、カリムが無言で紅茶を注ぐ……そんな傍から見れば異様にしか見えないやり取りが行われた後――、

 「提督殿……さんざ大見栄を切っておいて悪いのだが…………一つだけ訂正させてもらえるかな?」

 「何でしょうか?」

 「うむ。実はハラオウン執務官のデバイスの戦闘記録を見させてもらった時から薄々と感じていたのだが……今、確信に変わった」

 通算27杯目となる紅茶を喉に流し込み、狂気の天才科学者はその生涯で初めて――、



 「これはトレーゼの仕業ではない!」



 自説を大否定したのだった。










 同時刻、ミッド某所のショッピングエリアにて――。



 「クアットロ、予定台の増産は、完了したか?」

 小さな店舗でミネラルウォーターをペットボトル20本分購入したトレーゼが帰路につく最中に、ラボに居るクアットロに通信を入れた。彼女の作業速度を考えればそろそろ出来あがっていてもおかしくはない。

 『もちろんですわ。お兄様に言われた通りの量をたった今精製完了しました。今さっきちょこーっとだけ効能がどれ程のモノなのか試してみましたけど、まぁ効きます効きます……』

 「廃人に、なる恐れがある……」

 『あらぁ、心配してくださっているんですの? お優しいんですねぇ~。あ! そ・れ・と♪ 私ぃ、お兄様に一つ頼みたい事がありましてぇ』

 「……何だ?」

 どうせ何か良からぬ事を考えたのかと思いつつも、今の現状下において彼女が何かすると言っても何も出来ないだろうと判断し、トレーゼはこの時点では深く言及しない事に決めた。



 そう……この時点では、だが。



 『昔ドクターが残したままの試験用薬物……確か、まだラボの奥のスペースにありまして?』

 「……あぁ」

 『もし使用する予定が無ければ、このクアットロにほんの少しだけで結構ですから融通してくださらないかしら? ちょっと試したいコトがありますの』

 「……………………好きにしろ」

 確かにあのラボの奥には、かつて主であったスカリエッティがそのままにしておいた数々の薬品が陳列している。中には調合次第で劇物にもなる代物まであるが、それを使ってクアットロがトレーゼに反旗を翻す恐れも無い。仮に彼が油断しており、彼女にそれを実行するだけの度胸があったとしても、彼の肉体にはメジャーな青酸カリを始めとするあらゆる毒素は無意味に等しい。唯一トレーゼの肉体を駆逐するであろう可能性を持つ「毒素」は、細胞レベルで生物を直接破壊できる放射能ぐらいなものだろう。だがこのミッドでは個人がそんな物騒なモノを所有できる訳が無い。以上の点を踏まえた上で彼はクアットロがその薬品を使用する事を許可してしまった。

 『ありがとうございます♪ 断られちゃったら自分で調達しないといけないところでしたけど、これで一安心ですわ』

 「どうでも良い……何をするかは、知らないが、目立つ事は、するなよ?」

 『はぁい。あとそれと、お兄様ぁ……聖王陛下のお世話を任じてくれた事、心から感謝しておりますわ』

 「?」

 トレーゼがその言葉の真意を問いただす暇も無く、通信はクアットロの方から切られてしまった。特に支障は無いだろうと判断したトレーゼはそのまま帰路を歩き続け、片道約10分掛る道程を歩いてようやくアパートまで辿り着いた。当然入室する時はディープダイバーで通り抜ける。

 「……まだ、寝ているか」

 寝室を覗いて少女がまだ眠っているのを確認し、彼は冷蔵庫に購入して来た水分を仕舞い込む作業に入った。小さいながらも優れモノ、20本のペットボトルを収納するには充分なスペースが保たれていた。ほどなくして全てを収納し終えた後、彼は再び寝室に戻ってきた。燦々と陽気を窓から取り込んではいるが、実はこの窓も脱走防止の為に鍵の内部構造を少しだけ弄って開かないようにしてある。

 「……………………」

 キッチンから椅子を持って来るとそこに腰掛け、トレーゼは眠り姫となっている少女を無言で見守る事にした。どの道彼女が起きた後で何が起こるか分からない……また泣き出すだけならまだしも、錯乱して自殺しようものならたまったモノではない。死なせる為に連れて来た訳ではないのだから、少なくとも計画が無事に終えるまでは生きていなくては話にならない。幸いにも彼自身、人質を心身共に生かさず殺さずのままにしておくスキルは予備知識としてその脳に叩きこまれているので心配する事は無い。

 だが――、

 たった一つだけ問題があった。

 元々そう言う人種と接触する機会が無かった所為もあって今まで自分でも気付かなかったのか、昨日の件で自覚した事……それは――、

 「…………どうも、子供は、不得手だ」

 子供は脆弱だ……人間の中で誰よりも他者の手を借りねば生きていけない。そのくせ、自己の存在を顕示する力だけは人一倍あるのだ。その動作の一つに、「泣き」がある……。

 痛ければ泣く、

 寂しければ泣く、

 怒れば泣く、

 怖ければ泣く、

 理解出来なければ泣く……。

 これだけ見ていると泣く事しか能が無いのかとさえ思えて来る。そしてその単純な行動こそが何よりも厄介なのだ、裏も表も無いと来れば引っ繰り返して考える事も出来ないのだから当然だ。その感情の激流が流れ去るまでじっと待たねばならない……トレーゼにとってはそれが一番気だるく、そして理解出来なかった。

 そう言うモノがあるから振り回されればならないのだ。ならいっそ捨ててしまった方がずっと楽なのだ……かつての自分の様に。

 ただ……彼はふと考えた。不自然な程に自然に、本当に自分でも分からない位に不意に考えてしまった。

 もし、この場に“あの人”が居たなら……と。

 「貴方なら…………この様な事態に、どう接するの、だろうか?」

 ひょっとすればこの世でたった一人だけ、この自分が完全にして無欠、万能にして完璧と認識したあの者ならば、この精神的窮地とも言える状況下をどうやって打破するのか……知りたい気がした。










 「一つ、提督殿は『コンシデレーション・コンソール』と言うモノを御存じかな?」

 通算30杯目……混乱から落ち着きを取り戻してしばらくしてから室内に充満していた不穏な沈黙を破ったのは、他の誰でも無くスカリエッティ本人だった。とうとう茶葉が切れたのか、それだけのお代わりを胃袋に収め切ったのを皮切りにして彼自身から破られた沈黙は一つの質問から始まった。

 「三年前、貴方が自分の勢力に与していたルーテシア・アルピーノに施していた一種の洗脳プログラムの事ですね?」

 「その通り。人造魔導師と戦闘機人……人の手で人為的に生み出された者の精神に対して、ある一定の条件下でのみ発動し、脳と肉体と精神のありとあらゆる限界を完全に無視して、ただただ破壊と殺戮にのみにその全ての力を強制的に向けさせるシステムだ。システムと言っても、何も機械的な意味ではない……哺乳類の条件反射と同じで、人の思考の奥底に眠る無意識下に組み込まれる暗示と思ってもらえれば良い」

 「今更ながら人道的なやり口とは思えないな」

 「この際御宅はどうだって良いのだよ。さて――、では第一問から派生する第二問を投げ掛けようか。じゃあ今度はグラシア殿」

 「はい? 何か……」

 「君はルーテシアの観察処分に一票を投じた一人らしいが、彼女に施されたコンシデレーション・コンソールが発動する『条件』を熟知しているかね?」

 「そ、それは……えーっと、そのですね……」

 ルーテシアの別次元世界での観察処分にカリムが賛同したのは確かにそうだが、彼女は保護処分となった彼女らに対して社会的便宜を取り図らう役目を担っていただけであり、ナンバーズを含める彼女らがどの様な更正教育を受けたかについては実はそんなに把握してはいないのだ。故にルーテシアに掛けられた強制暗示の発動条件など露とも知るはずもなく、恐らく当時の担当官であったフェイトの直接の上司であるクロノなら知っているだろうとアイ・シグナルで助けを求めたが――、

 「あぁそれと、この質問は君に投げ掛けたものだからちゃんと君が答えてくれたまえ」

 隣の意地の悪い科学者にその思惑を看破されてしまった。だがそこは流石聖職者、予期せぬ事態に陥っても雅に潔く清らかに――、

 「申し訳ありません」

 腹を括った。彼女のこの余りにも潔い行動が、元来女性は腹黒いモノだと心のどこかで考えていた節があったクロノの考えを改めさせたと言うのはまた別の話である。

 「やれやれ、もっと知的で聡明な方だとばかり思っていたのだが……どうやら私の誤解だったようだな」

 「くっ……!」

 「簡単な話さ。犬が餌を前にしてだらしなく唾液を垂らすのは何故だ? それを食物だと認識しているからさ。では……もう分かるな?」

 「……コンシデレーション・コンソールは……『対象を“敵”として認識する』事で初めて発動する……」

 「その通りだ。目の前に居る対象を敵性個体として脳が認識したその瞬間、システムが作動して自我の大半を喪失する代わりに圧倒的なパワーを得られる。時に外部からの強制信号によっても発動するが、基本的には暗示を施された本人が脳裏に強く意識しない限り発動はしない。だが――、」

 「…………実を言えばそれはプログラムとしては劣化版に過ぎないのだよ。いや……正確に言うなれば、ルーテシアのモノはそれで良いのだが、トレーゼに施したモノは違うと言った方が良いだろうな」

 「違う? どの様に違うと言うのですか?」

 「基本的なコンセプトは変わり無い。対象を敵と認識する事で発動する事もな…………ただ、それとは別にもう一つ、『条件』が存在するのだよ。否、条件と言うよりかはむしろ『束縛』と言った方がしっくり来るだろう」

 “束縛”……その物騒な表現にカリムは自分の背中が無意識に寒くなるのを覚えた。単純にその言葉自体が物騒だったからだけではない……その言葉の裏側に込められ、隠匿されているはずの意味が孕む危険性が感じられたからでもある。その真意をはっきりさせようと彼女が質問を口にしようとしたその時――、

 「失礼、通信が入った」

 途中でクロノが席を立った事で出鼻を挫かれてしまった。スカリエッティの方は別に気に留めていないようだったが、質問する気満々で居たカリムの方は釈然としないと言いたげな恨めしそうな視線をクロノの背中に投げつけていた。が、当の本人はそんな事を気にする事も無く、通信が終わると再び席に戻って来て座り込んだ。その時気付いたのだが、どうもクロノの雰囲気が席を立つ前と今とでは違う事が初めて分かった。しかし、その雰囲気の差異に彼女よりも早く勘付いていたのは――、

 「それで? 何の報告だったのだね、提督殿」

 「貴方が正真正銘、この事件に対して本腰を入れて頂くことがようやく決定しただけです」

 「ほうほう、それはまた意味深な発言だな……どう言う意味かお聞かせ願おうかな」

 正解が分かっていながら敢えて回答を要求するような感じで訊ねているのが丸分かりだが、それに気分を害した風など微塵も無いようにクロノは言葉を続けた。

 「貴方を一時的釈放するに当たってこちらが呑んだ条件……忘れた訳ではないでしょう?」

 「もちろんだとも。この不肖ジェイル、三度の飯は忘れても他人との契約内容までは忘れたりせんよ。『こちらの提示する条件の全てを呑めば、一連の事件解決に全面的に協力する』……忘れるものか」

 「そうですか。では単刀直入に申し上げるとしましょう。



 ――たった今、“最後の条件”をクリアしました」










 僅か五分前、地上本部ゲストルームにて――。



 「貴方とこうしてお互いに顔を合わせて会話するのって、実は10年振りなのよね」

 「……そうだな」

 相変わらずスカリエッティが作って行ったプラモのジオラマが床やデスクなどに展開しており、そんな空間の中に並べられた二対のソファには二人の人間が鎮座していた。主であるスカリエッティの帰りを待って留守を任されたウーノと、そしてもう一人……。

 「そうそう、これ全部ドクターが組み立てたのだけれど、貴方はどれが良いかしら? 私はこの丸いの……」

 「三年前とは打って変わったな。否……『堕落した』と言った方が良いのか」

 「貴方は何も変わらない……それが貴方の美点で、取り柄で、長所で……それでいて欠点よ」

 「何とでも言え」

 ウーノの対面に座っている“彼女”はぶっきらぼうにそう言うと、静かに目を閉じて瞑想の姿勢に入った。だがその口は構わずに言葉を並べたてて行く。

 「既にクアットロの件についてはランスターとか言う執務官から聞いている」

 「そう……なら期待して良いのかしら?」

 「ああ、ある程度はな」

 「なら期待しているわ。あの子の……トレーゼに対する最大の抑止力候補……



 ナンバーズNo.3、『トーレ』」



 全12人のナンバーズで最強……戦術に関しては最右翼、右に出る者無し。

 文字通りの“最強”を目指して生み出された、製造番号第三番――、

 トーレが三年の禁固から解放された瞬間だった。





 「弟の不始末は姉の不始末だ。尻拭いはあいつが小さい頃から慣れている」










 かくして、“無敵”に対抗する為に急遽送られて来た“最強”……。彼女の存在が水面の小石となって渦中に投じられたが、その波紋が只の波紋のままか、それとも大波となって対岸を襲うかは誰にも知り得ない。

 ただ一つ言えるのは……

 賽は振られてしまい、後戻りは出来ないと言うことである。




















 「――って、貴方しっかり人の話聞いてた?」

 新暦85年7月22日、午後13時20分――、地上本部のとある事務室の一角にて。ある一人の女性の呆れ声がその室内から響いてきた。

 「貴方が六年前の『T・S事件』についての資料を作成するのに苦労してるからって、わざわざ空き時間作ってまでこうして付き合ってやってるんだから、居眠りしてないでしっかり聞く! 睡眠不足? それはあんたの責任! 私があんたと同じ駆け出しの頃はもっと上手く時間調節してたわよ。はぁ、こんなのが私の後輩だと思うと、先が思いやられるわ」

 女性はそう言いながら右手を銃の形にしながら、「次寝たら額に撃つわよ」と言い足した。ちなみに、局の敷地内での無許可魔法の行使は御法度である。

 だが――、

 「あー、残念なんだけどもう時間が無いわ。私は次の事件の法的調査があるから、貴方は悪いけど別の人に聞いてもらえるかしら」

 時計の時刻を確認していた彼女は不意にそう言って立ち上がると、椅子に掛けてあった上着を忙しく着ながら早々に移動を開始しようとした。わざわざメモ帳を確認している所を見ると、本当に予定が詰まっているらしい。

 「無限書庫に行きなさい。あそこの先生なら分からない事なんて何も無いから。あ! 連絡は私の方から入れておくから安心しなさい。あとアドバイス! 書類は丁寧に書いてこそ書類扱いなのよ。一字一句の誤字脱字でも許されないんだから!」

 なるほど、先輩からの有り難い御言葉と言うモノらしい。そんな几帳面な彼女を見送っていると、ふとメモ帳の氏名欄にこれまた几帳面に書かれているものがあった。どうやら彼女の名前らしかった。

 彼女の名前が……



 『ティアナ・L・グランセニック』





 六年前の出来事が今の彼女にどう見えているのか……その名も知らない若い見習い執務官は駆け出した。

 知識の宝庫、無限書庫へ――。



[17818] 矛盾:食い違う現実    ※ACfaネタ有
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/07/10 22:03
 物語の視点をほんの少しだけ移動させよう……。どんな大きな荒波も時が経てば必然的に揺れる事を止め、静かになる……その静寂の“時”にまで視点を先に進めるのだ。

 だが勘違いしてはいけない……荒波が消えても水面の小さなさざ波までが消える訳ではない。全ての事象が“波”となって世界を漂い始め、時には消え、そして時には他の波さえも呑み込んでしまう荒波へと再び変貌を遂げるのだ。

 では、早速水面に手を差し伸べて水を掬って見るとしよう。

 そこに何が見えるのか――、




















 新暦85年7月22日、午後13時40分、無限書庫にて――。



 情報集積技術が発達しているミッドにおいて何故この施設に封印されている資料の全てが『本』などと言う紙媒体なのか? それについては色々と所説は尽きないが、最も有力な説としては『文化的且つ盗難防止の為』だと言われている。確かにポケットサイズのメモリー端末に情報を入れていたのでは利便性は言うまでも無いが、そのコンパクトさから持ち運びの良さを利用した盗難に合う可能性が高い。だったら古代人みたく石版に……と言う訳にもいかず、ここを建設した先人達は有史以来最も文化的な情報保存方法によってそれを防止する事にしたのだ。即ち、一冊の本にして情報を保存した。書庫の内部が総じて無重力なのは、バベルの如く積み上がった本棚に仕舞われた本を取り易くした先人達の心遣いなのかも知れない。

 そんなこの施設は現在の姿からは意外にも、ついぞ十数年前まではまともに機能しておらず、まさに管理局内の鬼門と言われて廃墟扱いされていた始末だった。広大な未知のエリアの一体どこに必要な資料があるのかも分からず、入局したばかりの生え抜きの武装局員の何割かを探索隊に出さなければ巨大な本棚の位置さえ把握出来なかった程だったのだ。ただでさえ各部署や施設に対して莫大な維持費が掛かるのに、そんなまともに機能しない施設は局内には不必要だとの意見が高まり、一時期は完全封印処分が決定されかけていた事もあったのだ。

 しかし、そんな施設が今現在こうして多くの局員が知識の宝庫として利用出来ているのは何故か? 

 それは十数年前に管理局に文字通り彗星の如く現れたたった一人の少年魔導師の功績が全てを語っている。

 かつて『管理局の三強』と賞賛された三人の魔導師達を裏で支え続け――、

 就いていた部署が部署だったならエースを狙え、ひょっとすれば『管理局の四天王』となっていたかも知れない有数の実力者の一人――、

 そして、その有り余る知識を多くの執務官輩出の為に役立ててくれた――、

 通称、無限書庫の知識の守り人にして『砲撃天使の堅き楯』――、



 ユーノ・スクライアその人である。



 かつて少年だった彼も今では壮年の男性となり、トレードマークの丸眼鏡を掛けているのは相変わらずだったが、後ろで束ねていたはずの髪が六年前より少し短くなっていた。無重力空間に浮かんで十数冊分の検索魔法を行使している姿は、脳に多大な負担を掛けている事など微塵も感じさせないタフさが見受けられていた。ふと、何か思う事があったのか、彼の手が自分の周囲を浮遊していた本の内の一冊を掴んだ。紅い革表紙のそれは表面に傷や劣化の痕跡が全く無く、つい最近にここへ加えられた物である事を暗に示していた。

 「歴史って言うのはね、実は権力者の都合の良い様に編集されてるってのは聞いた事あるよね?」

 特定の誰かに聞かせる訳でも無し、彼の口からこぼれ出たその言葉は止まる事を知らずに無重力空間に放たれ始め、誰の耳に留まる事も無く虚空に消えて行った。彼が誰に話しているのかは分からない……誰かに話し掛けているのか、それとも単なる独り言に過ぎないのか、それは誰にも分からない……だってここには彼以外に誰も居ないから。

 だが人が口にする言葉には必ず何かしらの意味があるモノなのだ。彼が何か語りかけている以上、彼には最後まで語り尽くす義務があり、聴衆にはそれを聞き届ける権利がある。ならばこの場合も例に漏れる事は無い、誰かが聞いている訳ではないが止める理由が無い今では彼に語らせる事にしよう。

 「実際良く聞く話だと思うね。特に歴史の部分で大々的な編集と改竄が行われるのは、『戦争』の部分……。どこどこの誰が自分の国の人間を何百人殺したとか、逆に自分の国の誰其がどこどこを短時間で占拠しただの、種は尽きない。でもね、そう言った記録は互いにとってもほんの一部分に過ぎないんだよ」

 本を捲っていた指がとあるページを留めた。どうやら過去の何かの記録書の類のようであり、その部分の日付は『新暦79年10月23日』とされているのが見受けられた。今から五年前に記された物らしい。

 「例えば、とある荒廃した管理外世界の話になっちゃうけど、その世界に実在したとされるある一人の『人殺し』はたった数十分で一億人を屠殺したらしいよ。どう言った方法でそんな大人数を殺したのかについては、管理外の次元世界の出来事だから詳細は分からなくて、その人物についての記録はその人間が後世の人間達に『人類種の天敵』と呼ばれたと言う事ぐらいしか残されていないんだ」

 男性の物とは思えない端正な指先が目的の項目を探すべく紙面をなぞる。

 「当然、そんな人間の事だから後世の人は総じて悪魔を見るような目でその人を見ただろうね。でも……彼らは何も見ていなかったんだ。何故その人が一億人の人間を殺そうと思い立ったのか? どうしてそこへ考えが行き着いてしまったのか? 実際に人を手に掛けた時に何を思っていたのか? その事件の背景を完璧に知っている人間なんて誰も居やしない……その本人が語らない限りはね」

 やがて目当ての記述を見つけ出したのか、その指先が止まる。過去の事を思い浮かべたのか、口元に微かな笑みを浮かべているのが分かる。

 「この場合に限って言えば、“彼”は語ってくれたよ。“彼”だけじゃない……“彼”と関わった人間の一部も語ってくれた……。ここにある記録は、六年前に起こった彼の有名な『T・S事件』の第一次報告書……事件の全てが一旦の終息を迎える事が出来た日に作成された一番最初の報告書だよ。“最後のナンバーズ”、“存在しない13番”、“進化する機導士”……J・S事件に引き継いで起こった機人絡みの事件だけに、“彼”を表す呼び名は多い…………でも、本当の“彼”を知っている人間は僕の知る限りではたったの五人しか居ない。今から僕が話すのは、その中の一人……」

 ふと本を閉じ、彼はそれを本棚の一角に収める。そして無重力の空間を慣れた動作で文字通り流れるように移動すると、足の振り子運動を利用して空中に停滞、そして――、

 「でも、その前に質問……。君は“彼”に『姉』が居た事を知っているかい?」




















 新暦78年11月18日、午後8時00分。地上本部ゲストルームにて――。



 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………さてさて、真冬の夜にこうして一堂に会して言葉を交わすのは中々乙なモノだが、如何せん面子がアレな所為でお喋りにすらなってないな」

 つい半日まで存在していたはずのプラモデルの山がまるで嘘か夢幻だったかのように消えており、二対のソファには合計で六人の男女が着席……と言うよりかは、殆ど黙っているだけなので鎮座しているだけにしか見えなかったが、とにかく座っていた。面子はスカリエッティを筆頭にして――、

 つい半時間前に仕事を早目に切り上げて来たクロノ――。

 頭部に包帯を巻き付けながらも席に参入しているユーノ――。

 今日はここから一歩も出ずに留守を任されていたウーノ――。

 主と姉妹との三年振りの対面にも関わらずに鉄面皮を保ったままのトーレ――。

 そしてもう一人……

 「相変わらずですね……御変りないようで安心しました」

 「君も変わらんなぁ。真面目で、頑固で、融通が利かない……自分でそう育成しておいて言うのもナンだが、よくもまぁ、対外的に難が無かったものだな――チンク」

 スカリエッティの対面に腰掛けている面子の中で一番小さな人物……ナンバーズ五番のチンクが如何にも不機嫌だと言わんばかりのしかめっ面で鎮座していた。

 「本当に御変りないですね。他人に予定を全く教えない上に自分勝手な行動ばかりで……こちらに来ていたのなら、どうして一言だけでも言ってくれなかったのですかっ!?」

 「ふっ、大人には大人の事情と言うモノがあるのだよ。それが察せぬようでは、君もまだまだ子どm――」

 「ドクター、そこから先は半分禁句です」

 「おっと! そうだったな。いかんいかん、我ながらどうも人の事をおちょくってしまう」

 「く……!」

 人形は人形師に逆らえない……その故事を今更ながらに実感したチンクはそれ以上の事を追及するのを止めた。

 「…………ウーノから粗方の事情は聞きました。クアットロよりも先に生まれた私ですら存在を知らされていないナンバーズが居たなんて……!」

 「では、その情報を踏まえた上で聞こうか……チンクは“13番目”に対して如何なる対処法を投じるべきだと思うかな?」

 「断然、早急な法的処分を掛けるべきだと考えます。私は未だ相対した事はありませんが、あんなモノをいつまでも野放しには出来ない!」

 「うむ、的を射ているな。では、今更聞くまでもないだろうが、提督殿と司書長殿は如何様に御考えかな?」

 「もし、チンク・ナカジマの主張通りに考えを進めるとするならば、永久凍結刑は免れられないでしょう」

 『永久凍結刑』……ミッドチルダの法的処分上最も重い罪状を犯した者に課せられる極刑の事であり、俗称『ゴミ出し』、正式名称『虚数空間への永久封印処分』。その名の通り、刑の執行対象となる者を石化魔法で固定した後に【エターナルコフィン】などの凍結系魔法で物理的・魔力的に完全封殺し、それを次元空間の狭間に存在する虚数空間に叩き落とす事で、その者は時間も重力も存在しない上に魔法を使えない空間を永遠に漂流し続けると言う内容だ。犯罪者に対しても人道的処置を追求するミッドにおいて死刑の概念は無いが、この刑が事実上の『死刑』として局内では広く認知されているのだ。

 「だろうな。もし仮にここが“13番目”に対する裁判の場なら、彼への処遇はもう決定したようなものだ。だが……現実としてはそうもいかないのだなこれが…………なぁ、トーレ」

 例によって意地の悪そうな笑みを浮かべながらスカリエッティが名指しで呼んだのは、自分の丁度対面にて瞑想しているようにして目を閉じて座っているトーレだった。無人世界の拘置所から急遽連行されて来た所為で服装は白い囚人服のままで、目を閉じていても分かるぐらいの人相の悪さは三年前に書類の写真で見た時と全く同じだった。

 「このまま行けば君にとっては余り好ましくない結果になるやも知れんぞ?」

 「……………………」

 「良いのか……君はトレーゼのたった一人の『姉』なんだぞ? 思う所があるはずだ」

 「…………スクライア司書長」

 「あ! は、はいっ!?」

 同席しながらもすっかり蚊帳の外だと自覚していたユーノは、突然自分に話を振って来たトーレに驚きつつもすぐに佇まいを直して彼女の言葉を待ち受けた。言葉の抑揚からしてかなり不機嫌そうだ……面と知り合ってまだ数十分だが、何を言われるか分かったモノではない。

 と、内心戦々恐々としていた彼だったが――、

 「済まないが、一旦外出したいので誰か適当な者を見繕っていただけないか?」

 「え……? 適当なって……」

 刑期を終えていない犯罪者とは言え一応の建前上は招かれた身……監視役の武装局員を付ければ、昼間のスカリエッティの行動は例外中の例外として、このゲストルームの半径500メートル以内であれば基本的にどこへ移動しても構わないようにしている。だがやはり、もしもの事態と言うのが想定される訳であり、もし仮にその様な事態に陥った場合に『適当な』局員だけで彼女ほどの実力者を抑えられる訳が無いと言う考えが頭を過ってしまうのだ。三年もの間一言も文句を言わなかった彼女が今更こんな所でそんな行動を取るはずが無いとは理解してはいるのだが……

 「今この時間帯だと……教導隊のヴィータ辺りの手が空いてるな」

 「って、何勝手に話進めてるんだよ」

 通信機を弄ってヴィータに連絡を入れようとしている隣のクロノを肘で突きながら諌めようとするユーノ。監視を任せられるヴィータには失礼極まりないが、フェイトが全力を出さなければ勝てなかった相手の監視が務まると本気で考えているのだろうか?

 「(そう言うお前は彼女がここで逃亡を図ると本気で思っているのか?)」

 「(それは……)」

 「(なら構うな。人為的に造られたとは言え彼女も女性……一人になりたい時もあるのさ)」

 「(はぁ? 何だよそれ)」

 「(妻待者にしか分からない女性の心理だ。お前にはまだ早い)」

 「(さり気なく人の事バカにしなかったか?)」

 とか何とか言っている間に、ふとそれまでずっと押し黙っていたチンクが立ち上がり――、

 「ハラオウン提督……その役目、私に一任してください」

 「チンク……」

 突然の申し出に少しばかりとは言え驚きの声を上げたのは意外にも彼女の隣に居たトーレだった。確かに三年前とは違って今のチンクは管理局に務める武装局員でおまけに腕利き、外出を求めるトーレを一時的に監視する権利はある……。だが当の申し出た本人もまさか自分の妹に監視されるとは思っていなかったのだろう、瞑想していた目を見開いて隣の小さな彼女を凝視している様子がトーレの驚きの様相を表していた。

 「……では、チンク・ナカジマに一任する」

 呼び出しに使うはずだった通信機を仕舞うと、クロノはドアを開けて二人の退出を許可した。

 「さぁ、トーレ……」

 「…………あぁ」

 同時に席を立つトーレとチンク……先にチンクが室外に出て待機した後、続けてトーレが出て行く。ナンバーズで最も高身長と低身長の二人が並んでいると互いに互いの身長が強調し合って目立つのだが、それは彼女らの尊厳の為に敢えて口には出さないでおこう……特にチンクの為に。

 ふと、そのまま退室しようとしていたトーレの足が止まった。

 「ドクター……一つだけよろしいですか?」

 「何だね?」

 振り向きもせずに言葉を紡いでいくトーレを特に注意すると言った風も無く、スカリエッティは大人しく耳を傾けているだけだった。

 「私は今まで創造主である貴方に疑念を感じた事はただの一度もありません。ましてや反抗心を抱くなど言語道断……そう考えてきました」

 「…………『今まで』か」

 「はい。ですから……今この瞬間に、私は生み出されて初めての『反抗』をさせて頂きます」

 トーレが振り返る……とても生粋の戦闘用として生み出されたとは思えないその優雅な佇まいに一瞬だけ視線が固まるユーノとクロノ。だが、二人のその一瞬だけの幻想は次に彼女の目を見た時に脆く崩れ去った。

 「私も一連の事件の映像資料は目を通しました…………ですから、それを踏まえた上で敢えて言わせてもらいます。

 ――確かにあれは『トレーゼではありません』

 でも――、

 『ただそれだけ』の事です。予測し得た“結論”が同じでも、そこへ至った“過程”は全く違います」

 精密機器を埋め込んだ戦闘機人特有の金色の双眸が、とても自分を生み出した主に向けるモノでは無いと分かる程の厳しい眼光を放っていたからだ。だが、当のその視線を向けられているスカリエッティはまるでそのオーラを気にした風も無く、逆に薄らと微笑んだ後――、

 「そうか。君はあくまで『違う』と言い張るのだな……」

 半ば何かを諦めたかのような口振りで……それでいて何か哀れむような口調でそれだけを言い残した。トーレもそれ以上は言及する事無く再び踵を返し、チンクと共に一旦外へと出て行ってしまった。

 「…………失礼します」

 「期限は一時間だ。それまでに戻って来るように」

 「承知しました」

 ドアが閉まって訪れる静寂の合い間……二人がこの部屋を出た事によって現在の客人はスカリエッティ、ウーノ、クロノ、ユーノの四人だけとなった。

 「……………………」

 「…………さて、堅物二人がまとめて退席してくれたお陰で幾分か会話が弾むようになったな。これで御二方も聞きたい事を存分に聞けるだろう……まず何を聞きたいかな?」

 「ひょっとしてこうなる事を狙って彼女の精神を逆撫でするような真似を?」

 「はて? 何を言っているのかサッパリだな」

 「……もう良いです。それでは御言葉に甘えさせてもらいますが、トーレさんの言っていたあの言葉……あれってどう言う意味なんですか?」

 「おや、提督殿から聞いてはおらんのかな?」

 「生憎となのは……高町教導官の介抱の後でこちらに向かったものですから……。ここへ来る途中にも何も聞いてませんが?」

 最後の方はむしろ隣の腐れ縁の友人に向けるような物言いでユーノは一応の釈明をした。昼間の一件があってから、ずっと自宅で精神薄弱になり掛けて朦朧としているだけだったなのはの介抱に付きっ切りであり、本人は「自分が居なくなったら今の彼女を守る者が居なくなるから……」と言って病院に行って治療を受ける事すら拒んでいたのだ。何とかして説き伏せたハウスキーパーのアイナが聖王教会に立ち寄っていると聞いたクロノに連絡を入れ、その後にようやく彼の手で地上本部の医務室で頭部の治療を受けに行ったのだ。移動の間に二三の言葉を交わす事はあったが、聖王教会が同時攻撃を受けていた事以外は何も聞かされていないのは事実だった。

 「なら……済まないが提督殿、司書長殿に説明してやってくれないか。研究に使ったフラスコを何十個も洗う作業は出来ても、科学者は二度手間が嫌いなんだ」

 「……………………申し訳ありませんが、それは御自分でお話しになられてください」

 「クロノ?」

 「私の口から話すべきではないかと」

 「ふ~む……それもそうか。面倒だが仕方が無いな」

 スカリエッティが立ち上がる。何かを説明する時に対し、それに掛かる時間が長くなる時に表れる彼の癖だった。彼に言わせれば「科学者の癖」なのだろうが。

 「さてと……まずはそうだな…………司書長殿は『コンシデレーション・コンソール』と言うモノを御存じかな?」










 「っくし!!」

 小さな体躯から大きなくしゃみ……それが口から出た唾と共に虚空へと消え、再び冬の夜の静寂が戻った。現在彼女――チンクが居るのは地上本部の屋外……と言うよりかは展望台のような場所であり、局の敷地から少し離れたクラナガンの夜景が一望出来るスポットだった。そして、彼女が居ると言う事は、当然彼女が監視している対象も一緒な訳であり――、

 「これを羽織れ」

 「ズズッ……すまない」

 トーレが上に着ていた厚着の一枚を隣の小さな妹の肩に掛け渡す。これではどちらが保護者……もとい、監視役なのか分かったものではないが当の情けを掛けられたチンク本人は拒む事無く受け取ったので問題は無いだろう。11月下旬の寒風が容赦無く吹き荒ぶ中で何故姉であるトーレがこんな場所に足を運んだのかは知らないが、とにもかくにもチンクは彼女の後をつけて行く事しか出来なかった。

 「…………変わったなチンク。以前のお前なら、一瞬だけ迷ってキッパリと断っただろうに」

 「他人の好意には目一杯甘えて、その後は恩返し……ナカジマ家での三年間で学んだ教訓です」

 「教訓……か。それも以前なら『敵性対象には情け容赦無く』だったのにな」

 「人は変わって行きます。私の知る限りで『変わって』いないのは貴方達だけです」

 それは三年前から、いや、自分が生み出されてから何一つとして何も変わる事の無い無骨な姉を非難していたのかも知れなかった。無骨で荒削りで、そのくせ鋭利な抜き身の刃のように完成されていて……どこまでも矛盾を抱えているようなままの姉を。

 だがそんなチンクの真意を余所にトーレは遠くの夜景を見つめたままだった。いや、正確には夜景すら見てはいなかった。視線の先のさらに向こう側、その遠い目はまるで昔の情景を見ているようであった。

 「…………あいつも変わってはいないのだろうかな」

 「あいつ?」

 「トレーゼだよ……」

 「っ!? …………私は姉上達よりも後で生まれた故、その者がどんな輩なのかは知りません」

 「当然だ」

 「なら、教えてください! そいつが一体何者なのか」

 「何者だとかそんな大層な者じゃない……。製造開始年月日、新暦50年8月15日。最終調整完了年月日、新暦55年10月10日…………正真正銘のナンバーズで、お前達後発組の兄に当たり……私の一人しか居ない『弟』…………ただそれだけだ」

 「『ただそれだけ』?」

 「ああ、本当にそれだけだ。本当にそれだけの――、



 ただの優しい子だった」










 午後8時15分、クラナガン郊外のとあるアパートの一室にて――。



 トレーゼは観察していた……今自分の眼前で堂々と脱走を図ろうとしている少女の行動を無言でつぶさに観察していた。彼女が睡眠から目を覚ましたのは今から四時間も前であり、起き始めの頃は完全にこちらを警戒して寝室に閉じ籠っていたのだがいたのが、やがてこちらが何も危害を加えない事を理解すると途端に行動的になり出したのだ。流石はなのはを母に持つだけはあると言うか……。だがそれを見たトレーゼも特に何をすると言う訳でも無く黙って観察しているだけで、ヴィヴィオの方もそれを良い事に徐々にその行動の度合いをエスカレートさせて行った。

 まず始めに手っ取り早く窓ガラスを割って脱出しようと試みた。管理局のような公共施設ならいざ知らず、普通の家庭の窓ならそこら辺で拾った石を投げつけただけでも簡単に割れてしまう……増してやここは安物件、割れない道理が無い。キッチンから椅子を持って来るとそれを持ち上げ、全力全開で投げつけ――、

 ガンッ――!!

 「あれ!?」

 渾身の力で投げたヴィヴィオの予想とは真逆に、割れるどころか弾かれてしまった。むしろヒビすら入っていない。どう言う事なのかと内心混乱していると――、

 「その窓は、つい最近に、俺が全部、強化ガラスに差し替えた。装甲車が衝突しない限り、絶対に破れない」

 道理で硬いはずだ……。最近の侵入防止用ガラスは銃弾ですら数百発撃ち込まないとヒビも入らないと聞いた事があるが、やはりこれもそれと同種のものなのだろうか。だとすれば窓を破っての脱出は不可能だ……他の方法を探さなければならない。

 次に彼女が目をつけたのは外へと通じている金属製のドアだった。鍵が掛かったままドアノブが外されているのでこちらも容易ではないが、支えている鍵を衝撃で壊す事は出来るはずだと踏んだのだ。そうと決まれば早速行動に出るのが彼女の信条……ドアとの相対距離を開け、駆け出しの体勢を取った後に一気に駆け出して――、

 「ふんっ!」

 ドンッ!

 全力疾走でのタックルで鋼鉄のドアがほんの少し揺らぐ。手応えはあったのだがまだ足りない、もう何回かアタックする必要がありそうだ。その『何回』が本当に何回なのかは分からないが……。

 「せぇーいのっ!!!」

 ドンッ!

 「よいしょっ!!!」

 ドスンッ!

 「もう一回!!」

 ガン!

 「まだ、まだぁ!」

 ボン!

 「まだ……!」

 ボスン……。

 「そこのドアも、昨日俺が、溶接した。無理にやれば、肩の骨が砕けるぞ」

 今更だが、良く見れば確かに蝶番の部分などが完璧に溶かされて形を変えられているのが見えた。これを押し破るにはそれこそ戦闘機人の脚力で蹴り飛ばさないと絶対に開かないだろう。と言うか、彼に指摘されて初めて自分のタックルに使っていた肩が熱と痛みを持っていることに気付いた……これは炎症を起こし掛けたかも知れないと思うと冷や汗が出て来た。

 「ついでに言うが、部屋の壁は全て、防音素材に替えた。更に、隣り合う部屋は、別名義で俺が購入している……つまり、空き部屋だ。誰を呼んでも、無駄だ」

 そう言いながら彼はいつの間にか椅子から立ち上がって冷蔵庫からペットボトルを取り出していて、すっかり疲労して戻ってきたヴィヴィオにそれを手渡して来た。左の手に携帯食料を二本持っているのを見ると、どうやら約束の食事の時間らしい。

 「…………ありがとうございます」

 「ん」

 敵かも知れない人間からもらった食事に手を付けるのには多少の抵抗感はあったが、時間を置いて冷静になっていた彼女はトレーゼが自分を殺そうなどと言う考えを露とも持っていない事に気付いていたので、毒が混入されていない事も確信していた。殺すつもりなら襲撃の時にやっているはずだ。

 パッケージを破って中身を取り出し、早速口に放り込んだ。ヴィヴィオ自身は母親とは違って食品内に含まれている添加物やら何やらは余り気にしない方だが、少なくとも今食べているこの保存食は今までに食べた事が無い不思議な味がしていた。不味くは無いので別に良いのだが……。

 ほどなくしてそれらを食べ終えると――、

 「腕を出せ」

 「ふぇ? は、はい」

 いきなり何だろうと思いつつも早急にヴィヴィオは自身の右腕を差し出した。学院の冬服なので袖は長く、彼女の手首までをスッポリと隠していた。それを確認したトレーゼは袖を一気に肩まで捲ると、鼻を突く臭気を放っている消毒液が含まれた綿をその素肌に近付けて濡らした後――、

 「ッ……!」

 注射器の針が突き刺さり、小さくも鋭い痛みがヴィヴィオの右腕を走った。皮膚と皮下脂肪を貫き、筋繊維をより分けて、その細い針先は静脈血管へと進入を果たした後に気圧差を利用して赤黒い生命の液体を吸い出し始めた。致死量ではないと頭では分かっていながらも、やはり自分の目の前で直接血液が抜かれて行くのを見るのは気分が良いモノではない……こうしている間も背筋が寒くなるのを抑えられていなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 「…………何人……殺したんですか?」

 「……何故、そんな事を聞く?」

 「血の匂いがするんです……」

 聡い奴だ――。自分でも今の今まで意識していなかった所為で忘れかけていた血液の臭気をこの娘は勘付いた……クアットロでも指摘しなければ気付けなかったはずの匂いを感じ取るとは……。

 「…………それが、どうした?」

 「どうして……! どうしてそんな事が出来るんですかっ!!?」

 「敵対すれば、そうするのが当然だ」

 「そんな勝手な理由で――!」

 「勝手か? 敵対、抵抗、障害、反抗……それらの要素は、己に害を成す故、決してあっては、ならない。ならば排除し、破壊し、消し潰してでも、殲滅進行、あるのみだ」

 「でも……! でもでも! 殺すのは……駄目な事だって……! 誰かを殺したり、殺されたりするなんて、悲しいだけだよぉ!」

 「そう言った感情は、理解出来ない。むしろ、無い」

 やたらと噛みついて来る少女を少々鬱陶しく思いながらもトレーゼは彼女に対する精神分析を怠りはしなかった。確かに一般常識で個々の殺人及び不特定大多数の殺戮は古来より御法度どころか道徳心に反する行為の第一として広く深く認知されている……この少女とてそれは例外でないのは分かっているが、ここまで人の生き死にをとやかく追及しようとするのが何故なのか? 義母である高町なのはが管理局の武装隊で命のやり取りをしていた事をどこかで聞いたのだろうか? 今でこそ教導官として働いているお陰で招集される事が少なくなってはいるが、身近な存在がそう言った危険な場で日夜働いていたともなれば他の同年代の者より幾分かこう言った道徳観念が鋭くなるのもある程度は頷ける。

 「人を殺して……トレーゼさんは何がしたいんですか……」

 「全ては、創造主スカリエッティの為。ドクターを奪還し、現状使える、全てのナンバーズも、収集する……それが、俺の計画だ」

 嘘は言っていない。Dr.スカリエッティの身柄を管理局から取り戻し、自分が考え得る限りで最も『ナンバーズ足り得る者』も同時に収集する……それがこの計画の最終目標であり、兵器でありながら持ち主の居ないままに行動するしかない今の自分の存在意義なのだ。

 「それが終わったら……どうするんですか?」

 「そこからは、俺の決める事、ではない。俺は『モノ』……人間では無い以上、そこに意思の介在する、余地は無い」

 「モノって何なんですかっ! 戦闘機人も人間だって――」

 「なら、逆に問う。『人間』とは何だ? 筋肉も、神経も、骨格も、内臓も、眼球も、脳の一部でさえ、全て人工物の塊が、果たして人間……否、生物と呼べるのか?」

 「それは……!」

 「人間なら、手足が欠損すれば、戦えなくなる――。

 眼球が潰れれば、見えなくなる――。

 内臓が傷付けば、血反吐を吐く――。

 骨が折れれば、歩けなくなる――。

 頭部が破壊されれば、死ぬ――。



 だが、戦闘機人は、違う。



 手足が欠損しても、戦える――。

 眼球が潰れても、内蔵センサーがある――。

 内臓が傷付いても、大した事では無い――。

 骨が折れても、飛行する――。

 頭部が破壊されたとて、エネルギーが切れるまで、止まりはしない……。戦闘機人は、人間では無い……運用目的上、あくまでヒトの形をした、兵器に過ぎないのだ」

 そう、戦闘機人はヒトの形をしていながらも根底では全くの別物……人間の柔軟性と機械の確実性を併せ持つ完璧な兵士であり、同時に如何なる状況や環境下に置かれても一切その性能を揺らがせる事の無い究極の兵器の更に理想形……それが戦闘機人の本質であり、その更に上を行く存在として造り出されたのが対魔導師及び騎士戦特化型仕様戦闘機人『ナンバーズ』なのだ。トレーゼの言うように、ナンバーズ……特に敵性対象との直接戦闘を目的として造られたタイプは簡単には死なない。裂傷なら数時間、太刀傷程度なら数日で完治する脅威的な回復力を誇る生命素体部分は物理的に細胞を直接破壊しない限りは死滅せず、例え細胞や器官の破壊に成功したとしてもそれは『生物的死』であるだけでジェネレーターを始めとする各機器が生きている限りは行動を続行するのだ。奴らを完全に機能停止させるには脳と心臓とジェネレーターの三点を同時に潰すより他無く、頭部だけを粉砕したとしても内部に残されたジェネレーターから供給されるエネルギーが枯渇するまでは搭載された体温感知機能やリンカーコア検出システムが働き、対象を追い詰め続けるのだ。

 そしてここで疑問が発生する――。手足を折っても動き、内臓を潰しても這いずり、心臓や頭を破壊しても尚行動を続けられる限り無く不死に近いそんなモノを『人間』と呼んで良いのか、と。

 「……………………」

 「理解しろ。貴様の、眼前に居るのは、一つの兵器の、完成形だ。どんなに、自分と姿形が、似ていても、中身は違う…………そう、あの人が、自分に教えた」

 「……あの人?」

 「ああ、貴様には、関係無い……。もういいだろう……寝ろ。睡眠時間の、減退は、ストレス発生の、第一要因だ……」

 ここまで来てトレーゼは応答するのに飽きたのか、椅子から立つと寝室に続くドアを開いてヴィヴィオにそこへ戻らせようとした。

 「少なくとも二週間は、貴様に健康体で居てもらわなければ、ならない。過度にストレスを溜め込んで、肉体に影響すれば、後の計画進行に支障が出る」

 要するに、調子が悪くなったり早死にするとこちらが困るからさっさと体を休めろと言う事らしい。言う通りにしなければ何をされるか分かったモノではないし、かと言って何もしなかったとしてもこのままでは風邪を引いてしまいそうなのもまた事実……結局、詰まる所こちらが困るのに変わりは無いと言う事だった。大人しくヴィヴィオは椅子を立って寝室に足を向けた。しかし――、

 その足はドアの前で止まってしまい、最後の一歩を踏み出そうとはしなかった。トレーゼには何かを拒んでいてその先へ行こうとしていないように見えていたが、ベッドしか無い空間のどこに彼女が怖れを抱くモノがあるのかが理解出来なかった。

 「…………どうした?」

 「何でも……ありません。…………だけど……」

 本人に自覚があるのかは不明だが、やはり明らかにこの部屋に入る事を拒否しているようであった。こちらが早く入るように促しても中々動かない……実は閉所恐怖症だったとかなのか? だとしたら急遽寝室を変更する必要がある。そうでなかったとしても先程言ったようにストレスを溜め込む要因が万に一つでもあってはいけない訳で……軟禁しておきながら心身の余裕も確保してやらなければならないと言う相反する二つの状態を常に維持させなければいけない分、対象である彼女の扱いは一級指定ロストロギア並みに慎重にするはずだった。それがいきなりこんな所で頓挫の危機に直面しているかも知れないと分かれば内心焦りが芽生えるもので、即刻その原因を断とうとトレーゼが何を怖れているのかを問いただそうとしたところ――、

 「一人で寝た事無くって……」

 「……………………」



 少女、高町ヴィヴィオ10歳……未だに母の胸の温もりが無ければ寝付けないらしかった。










 午後8時30分、地上本部ゲストルームにて――。



 昼間の聖王教会でクロノとカリムに対して語ったように、スカリエッティは自分の知る“13番目”がどの様なモノであるかを順々に語り終えたところであった。

 コンシデレーション・コンソールの詳細――。

 かつてルーテシアに仕掛けられていたそのシステムが“13番目”にも組み込まれている事――。

 ただし“13番目”に組まれたそれはルーテシアとは違い、一つの『条件』が存在していると言う事――。

 そして、それを踏まえた上で“13番目”≠トレーゼと言う疑念が浮上した事も――。

 三年前にクロノと共に事件の後始末を行っていたユーノも、彼らに止む無く加担していたルーテシアにそう言った強制暗示が掛けられていたのは熟知していた。対象を真に敵性として判断・認識する事によって発動し、その者を一種のバーサーカー状態に強制移行させてしまうシステム……。脳や精神に直接作用する所為で対象に対する恐怖等の負の感情は全て排除され、全身のあらゆるエネルギーをただ対象を殺戮し、障害物を破壊すると言う点にのみ注がせる、ヒトの尊厳なんて形無きモノを完膚無きまでに踏み躙る禁忌の術の一つ……。かつて太平洋戦争時の日本では、特攻隊の隊員達に対して出撃前に薬物を投与する事で思考能力を低下させて恐怖心を鈍らせ、途中で寄り道をさせる事無く敵艦に体当たりを敢行させたと言う話がある……主旨はどうあれ、戦闘目的に精神を希薄にさせて思考能力を奪うと言う点では、コンシデレーション・コンソールの意義はこれに近しいモノがあるが、こちらは人体を直接武器と化している事を考えればその残虐性は計り知れない。

 だが、ユーノが気になったのはそこよりも……

 「“13番目”が貴方の言うトレーゼでは無い恐れがあるとはどう言う意味でしょうか? それに……そのトレーゼの暗示にのみ備わっている『条件』とは?」

 「その前に……提督殿に一つだけ頼み事をしてもよろしいかな? チンクにもう少しの間だけトーレを連れて局内をブラブラしているように言っておいてくれないかね」

 「つまり、用件が終わるまで彼女らをここから締め出せば良いと言う事ですか?」

 「察しが良くて助かるよ」

 クロノはすぐに通信を入れるとチンクにその旨を伝える事にした。この場合本当ならスカリエッティの要望は万に一つも通らないはずなのだが、クロノ自身も本来なら軌道拘置所で無期懲役を喰らっているはずの彼を半ば無理矢理にここまで引っ張り出して来た事もあってか、今更その程度の言い分でとやかく言うつもりは無くなっていた。少し遅れて通信に出てくれたチンクに適当な口実を作って伝言を伝えると、クロノは何故か席を立ってドアの方へと足を向けた。

 「クロノ? どうしたのさ?」

 「僕は万年穴倉仕事のお前とは違って多忙だからな……一旦職場に戻らせてもらうだけだ」

 「言ったなこの野郎。一度自分が請求して来る資料の数を胸に手を当ててジックリ再確認して来い」

 「と言うのは建前でな……。正直に言うと、この話の先を二度と聞きたくないからさ…………人間が同じヒトに対してやる行いではないからな」

 「それってどう言う……って、おい!」

 ユーノがその言葉の真意を確かめる前に、クロノはさっさと部屋を退室、最終的にこのゲストルームに残ったのは始めの面子の半分だけとなってしまった。スカリエッティは爬虫類の様な輝きを持った金色の瞳で冷や汗が出るような湿った雰囲気を醸し出し、助手のウーノは会話が始まった時から今に至るまで殆ど口を開かずに押し黙るだけ……こんな沈鬱とした重苦しい事この上無い空間に置き去りにされたユーノは心中で腐れ縁の友人を罵る事しか出来なかった。

 「…………続きをお願いします」

 このままではこっちの神経が擦り減る! そう予感した彼は連続する沈黙を破るべく無理矢理な感じに口を開いた。

 「あー、どこまで話したかな? そうだそうだ、私の最高傑作に課せられた強制暗示システムの『条件』についてだったな。ではここで復習タイムだが、コンシデレーション・コンソールの発動条件を回答せよ」

 「感覚内に捕捉した対象を敵性として認識する事。もしくは、第三者による外部からのコード入力です」

 「パーフェクトだ。そう、対象を敵と認識し、恐怖心と自我の一部を犠牲にするだけで成り立つ強化プログラム。だが、これには一つだけ難点がある…………それは単純に、『対象を敵と認識しなければ発動しない』と言う事にある」

 「一つよろしいですか? 戦場で自陣営以外の人を敵性と認識できないなんて事が有り得るんですか?」

 確かに過去に地球の歴史で欧州のどこぞの国家間の戦争時、前線に居た敵国の兵士がサッカーボールを投げつけて来たのに激怒して蹴り返したところ、それから何故か戦争の真っ最中にあるはずの両国の兵士達が入り混じってサッカーゲームに興じたと言う珍妙極まりないエピソードがあったらしいが、実際に魔力砲撃や銃弾が飛び交う鉄火場でそんな事態になる余裕などどこにだって存在しないはずなのだ。それでいてなお、『敵と認識出来ない』状態があるとかつてのスカリエッティは危惧していた。

 「君のそのスポーツゲームの話は中々に面白い例だが、これが意外にもあるのだよ。例えばルーテシア……彼女の掛けた暗示は『条件』が付いていない事を除けばトレーゼに施したモノと何の遜色も無かった。知っての通り、彼女は私とは一部作戦上に置いては提携関係にあり、本部襲撃作戦を含む様々な形で協力をしてもらっていた。だが、彼女はクアットロに強制されるまで一度もシステムを発動させる事は無かった……何故だと思う? 特に廃棄都市区画にてモンディアルとルシエの両陸士と対峙した時でさえ、彼女は最後までシステムに頼ろうとはしなかった。どうしてだと思う?」

 「…………二人を『敵』だと認識していなかった?」

 「ビンゴ! 理性では敵だと分かっていても、思考を司る領域の更に奥底の無意識の所で否定していたのだよ。否、二人が『敵ではない』と確信していた節もあると言った方が良いか。とにかく、あの時の彼女を見れば分かるように、戦場では対象を『敵』と認識する事の方がよっぽど稀なのだよ。戦場において大抵の者は眼前の対象を二種類にしか絞らない……自分よりも劣る只の“獲物”としてしか見ない者と、自分では足元にも及ばない“障害”として見る者の二つだ。そのどちらも対象を自分と対等の『敵』として認識出来ていない事は共通している……そして、コンシデレーション・コンソールの発動条件はあくまで『対象を“敵”と認識する』事から、この場合は当然発動しない」

 「タネを明かせば催眠術とは言え、システムとしては欠陥品じゃないですか」

 「ならばどうすれば良いと思う? 思考するが故に行き着く結論は人によって千差万別、千変万化……だが、辿り着く答えは無限大に対して対応している解答はたった一つだけ……。君ならこの絶対的とも言える矛盾をどう説明し、そしてどうやって解決して見せるかな?」

 これは予想以上の難題を吹っ掛けられてしまった……。ユーノは考え込む……地球のとある哲学者が言うように、人間は考える葦、即ち思考する動物である哺乳類の中でも突出した高度な知性を有する部類に属する。有史以来、自分達人類は様々な事象に対して『考える』ことで対処して来た。思考とは人間にとってまさに生きる事であると同時に、無限の可能性を切り拓く為の手段だったのだ。その思考で導き出される無限の回答の中のたった一つだけを絞り込んで優先的に行動させるなど、どう考えても不可能なはず……。

 「絞り込む…………?」

 不意に――、

 ユーノの脳髄がスパークする。それは閃き、それは発見、そして怖気が全身を駆け巡った。

 いや、まさか――! 

 だが、しかし――!

 自分の導き出してしまった解に慄き、そして絶望するユーノ。もし! もし仮に何らかの間違いで自分のこの答えが正解だったとしたなら、まさに悪魔の所業……もはやそこいらで蔓延っている弱小犯罪組織がマッドサイエンティストの真似事でやっているような人体改造なんか目じゃない、さっきまで人の尊厳がどうだとか何とか考えていた事が矮小な事に思えて来てしまう……そんな解答……。

 「聡明な司書長殿ならすぐにこの解答に行き着くと確信していたよ……。そして、正義感に満ち溢れる君はきっと私の事を非難するだろうねぇ」

 「こんな……! こんな事がっ、ヒトに! 人間に対して許されるとでも……!!」

 「敢えて言わせてもらおう、何を今更そんなことぐらいで。それに言ったはずだ。彼は“兵器”として私が造り上げたのだと。故に他のどのナンバーズよりも完璧でなければならぬ……だからこそ――、



 『創造主と同胞以外を認識したその瞬間に、その対象を“敵”であると強制認識させる』システムを脳髄に埋め込んだのだ。



 思考する余地など与えん、脳に直接作用し、思考能力を緩慢にさせて尚且つ対象を強制的に敵視させるようにしたのだよ」










 時を少し戻して8時20分、屋外展望台にて――。



 チンクは疑問を抱いていた。目の前の寡黙な姉が突然口にした予想の遥か斜め上を行く言葉が今の彼女の脳裏を反芻して回っていた……。

 今この姉は何と言った?

 過去にトーレを含む上位三人と“13番目”との間にどんな関わりがあったかは知らないが、今の一言で彼女が“13番目”をどの様に見ているのかが全く掴めなくなってしまった。奴が『優しい』!? 義理の仲とは言え、自分の妹の四肢を錆びた壊れかけのブリキ人形みたいに引き千切り、今日自分の耳に届いた話によれば教会に所属していた騎士達を100名以上も屠殺した挙句、同じナンバーズであるはずのオットーとディードにも深手を負わせた輩を、あの12人の正規ナンバーズの中で誰も寡黙で荒々しくそして今まで自分達姉妹をただの一度も人間的評価をした事も無いあのトーレが、事もあろうに『優しい』と言う評価を下した事が不可解極まり無かった。始めは皮肉った表現をしているのかとさえ思ったが、クアットロや昔健在だったと言う二番目の姉とは違って嘘ハッタリや遠回しな表現を好まない彼女が素の言葉の意味以上は絶対に含ませない言い方をする事を知っていたチンクは更に混乱した。

 「トーレ……それはどう言う意味なのでしょうか?」

 「鈍ったな。私が言葉を飾らないのは知っているはずだ……。つまり、言葉通りの意味だ」

 寒風に身を晒しながらそう言うトーレの表情には一点の曇りも無く、かと言って晴々としている訳でも無く、何やらどこまでも矛盾を抱えているようにしか見えなかった。だが彼女がやはり嘘を言っていないと言う事だけはこれで確定はした。

 だが――、

 「少なくとも、相手の四肢を捩じ切ったり、たった一時間で100名の人間を殺し、自分の同胞である姉妹を徹底的に傷付けるような輩を私は『優しい』などと形容しません」

 そうだ、義理の妹とは言えスバルは“13番目”に関わったばかりに手足を切り落とされたのだ。今はゲンヤが頼み込んだ甲斐があってスカリエッティが再生修復に尽力してはいるが、獄中で謹慎を受けていた時はずっとその事の怒りだけが意識を支配していた。それに、奴の計画が一体何なのかについては不明だが、同じナンバーズなら何故オットーとディードに深手を負わせたのだ? クアットロは自陣に引き入れておきながらその行動は明らかに矛盾していた。そして陽動作戦で教会に踏み入り、聖王教会にかつて無い大破壊をもたらしてまで手に入れたヴィヴィオ……既に“ゆりかご”が消滅した今、彼女には何の利用価値も無いはずなのだが、そうと分かっているはずなのに何故ここまで少人数且つ大規模な行動を起こしたのか!?

 とにかく、そんな奴を人間の感性の秤に掛けて勘定することなどチンクには出来るはずもなかった。と言うよりも、この一連の事件が本当に人間一人の成せる業なのかとさえも思えて来てしまう。

 と、そんな訝しげな表情を浮かべている自分の小さな妹に盛大な呆れの視線を向けながら、トーレはこう口にした。

 「チンク、お前はいつから人の話を無下に聞き流す奴になったんだ。お前が言っているのは――、



 このミッドで起こっている一連の事件の首謀者、“13番目”の事だろう?



 私が言っているのは『弟』のトレーゼだ……。ハナからお前達が言っている“13番目”の事を話してなどいない」

 「そうだったのですか…………………………………………え!?」

 今……この姉は何と言った? 確かここへ来てから今に至るまで自分達は何について話し合っていた? 一連の事件を引き起こしている戦闘機人、管理局内通称『“13番目”』……氷に閉ざされた第69管理世界の研究施設から押収された資料の一部に、奴が過去に製造されたナンバーズの最後の一体、『Treize』である事が記されていた事から付けられた名称であり、つまりそれは情報が正しければ『“13番目”=トレーゼ』であると言う事になる。だがしかし、過去にトレーゼと接点を持っていたと言う目の前の姉はたった今それを否定した訳でもあり……。

 「ど、どう言う意味なんですか……!? だって“13番目”は、そのトレーゼって……! え! えぇ!?」

 「本当に人の話を聞かなくなってしまったのだな。部屋を出る時に私が言った言葉を忘れたか? こう言ったはずだ――」










 「つまり結論から言えば、“13番目”はトレーゼではないと言うことさ」

 「すみません、いきなり結論が飛躍し過ぎて何が何だかわかりません。今の話のどこをどう辿ったらそんな結論が出るんですか!?」

 ユーノは困惑した。原因は眼前のソファで踏ん反り返るようにして座っている科学者が発した言葉の所為だった。今この科学者は何と言った? たった今まで自分が最高傑作だと謳っていたはずの存在を、ここでいきなり何の前触れも注釈も無しに突然それまで喋っていた事とはまるで正反対の結論がその口から飛び出したのだ……ユーノでなかったとしても、これを聞いていた者なら誰だって混乱したに違いない。

 「では司書長殿、つい今しがたまで話していた私の講釈の内容を覚えておいでかな?」

 いくら何でも五分前かそこらに聞いた内容まで忘れる程に鳥頭ではない。生命を自然の理ではなく人為的に生み出すだけでも充分歪んでいると言うのに、その被検体である人間から思考能力を奪ってただの兵器に成り下がらせたと言う非人道にも程があるあの話を、忘れられようがない。あの肝っ玉の丈夫なクロノが途中で席を立つ訳だ、三年前にナンバーズ達が人造人間である事が発覚した時でさえ嫌悪感が全身を駆け巡ったと言うのに、今回はその比ではなかったのだから。

 「ほうほう、怒っているね? 何に対してかね? 人為的に生命を生み出した事にかね? 手足を掻っ捌いてマニュピレーターをブチ込み、過多重力にも耐え切れるようにと内臓の位置を勝手に差し替えたり、眼球を割ってマイクロ単位の機器を入れ込んで、そして頭蓋を抉じ開けて脳を引っ掻き回して催眠術を施した事にかね? 今更ながらに言っておくがね、私を君達で言う所の一般常識とやらに括れる存在だと思わん事だな。私は自分自身の知識欲と探究欲を満たす為ならどんな行為だろうと厭わない……人造生命? 造ろう、幾らでも! 兵器開発? やろう、望むままに! 代償は私の欲望を満たす事……ただそれだけで私は満足なんだよ。覚えておきたまえ、私はこう言う人種なのだよ」

 怖れも引け目もそこには全く無い……むしろ逆に尊大な態度を終始一貫しているのが清々しいぐらいだった。

 「それで、どうして『“13番目”≠トレーゼ』の方程式が成り立ったのかを教えてくださ――」

 「はぁぁあ~っ! 君は全く察しが悪いなぁ。あれかね? 穴倉の職場で生活している内に頭の中がカビたかね?」

 「なっ!?」

 予想だにしていなかった最高級の小馬鹿っ振りに面喰らいながら、ユーノはソファから転げ落ちるのを必死になって堪えた。いや、それは確かに自分で考えもせずに人に解答を求めると言う行為は探究する科学者であるスカリエッティの癪に障ったのだろうが、いきなりそんな侮蔑の言葉を吐き掛けられなくても……

 「良いかね? 本来ならばトレーゼにはコンシデレーション・コンソールが掛けられていて、敵を認識した瞬間に爆発的な力を発揮出来るように仕組んである……ここまでは良いな? 更に、彼にはそのコンシデレーション・コンソールを円滑に発動させる為に『強制的に敵を認識させる』システムが付いている…………では、そこから導き出される解は何だね?」

 「……………………」

 「答え易いようにヒントを出してあげよう。そう……『コンシデレーション・コンソールは“敵”の完全排除を以て解除される』」

 「ッ!! まさか……っ!!?」

 ユーノの頭に一つの閃きが輝くと同時に、その導き出された答えから派生している事実を認識したことによる悪寒が背筋を走った。欠けていたピースの全てが当て嵌まり、目の前の科学者が言わんとしている内容にここでようやく辿り着く事が出来たのだ。

 「気付いたようだね。そう……コンシデレーション・コンソールは敵を認識する事で発動し、その敵を完全に屠る事で初めて解除される……。一度認識されればその対象が水中、地下、大気圏外にまで逃走しようと関係無い……発見し、追尾し、そして破壊する」

 「…………それはつまり……」

 「そうだとも……。もし今回の事件の犯人が本当にトレーゼならば――、



 彼が交戦した場所には生存者が居るはずが無いのだ。



 高町教導官並みの実力者ならばともかく、たかが聖堂騎士団員の400や500程度の頭数、たった30分もあれば教会の土壌ごと消滅するはずなんだ。否、していなければ可笑しいのだよ! この私、ジェイル・スカリエッティがそうするように徹底的な改造を施したのだからな」










 「で、では聞きますが、トーレは何故“13番目”がその……トレーゼとか言う輩と符合しないと断言する要因は何ですか? 私だって何も聞かされないままに一方的に結論だけを叩き付けられただけでは納得がいきません」

 チンクの言い分にも理はある……。この自分よりも寡黙で無口な姉がその輩に対してどれほどの思い入れがあるのかは知らないが、単に贔屓しているだけでの発言だとしたならそれこそ納得いかない。幸いにもクロノからの連絡で外出時間が延長した事もあり、時間にはまだ充分余裕がある……質問に答えるまでは彼女をここから一歩も移動させないつもりで居た。

 「……………………質問に質問で返すのは失礼だと分かってはいるが、一つだけ聞いて良いか?」

 「……どうぞ」

 「そうだ……ある一つの仮定の、『if』の話をしよう。もし仮に……ある日突然ノーヴェが通り魔殺人で見ず知らずの赤の他人を手に掛けたとしよう」

 「なっ!!? 何をいきなり! ふざけるのもいい加減にしてください!!」

 「仮定の話しだと言っただろう。もしその様な知らせがお前の耳に入って来たとしたなら、お前はその時どんな考えが思い浮かぶ? 実際にその現場を見た訳でもなく、ただ単に風の噂や人づてに聞いただけの情報だけで、お前はその真偽をどう判断する?」

 「フン、三年前ならいざ知らず、ノーヴェは教育者である私や姉妹達が責任を持って指導している! 万が一だったとしても、私はあいつが如何なる理由であっても殺しを働くような下種な行為に手を染めたりしないと信じている!」



 「つまりはそう言うことなのだよ……私が信じている事と言うのは」



 見計らったように一陣の寒風が二人の間を吹き抜ける……姉の数倍の長さを誇るチンクの銀髪をなびかせ、トーレの方は全く気にした様子も無く夜景を見つめているだけだった。時が止まったとまでは行かなかったが、少なくとも姉の口から出された事実を頭の中で消化して完全に理解するのに要した時間の間だけ動きが止まっていた事だけは確かだった。やがて徐々にその言葉の意味を理解して――、

 「トーレは……そのトレーゼの教育者だったんですか?」

 「教育者……か。あの頃は私も精神的にまだ幼かったからな……ウーノやドゥーエだけに限らず、同族だとかナンバーズだとかと言うよりも、やはり『弟』と言う見方の方が強かった。今で言うなら、年下の同期と言うところだな」

 冬の夜景を眺めるトーレの口元がほんの少しだけだが顔に笑顔を作った。隣に居たチンクは声こそ上げなかったが内心では心底驚愕していた……。あの無機質なオットーとディードとは違う意味で表情を作らなかった鉄面皮のトーレが、例え目を凝らさなければ分からないような薄い笑みだったとしても表情を浮かべた事はそれだけで驚愕に充分値するモノだったからだ。

 「つまり……私にとってのノーヴェが、貴方にとってのトレーゼと言う訳ですね?」

 「私と言うよりかは『私達』だったな。あの頃は今と違って四人しか居なかった……。青臭い言い方をすれば家族だったんだろうな、私達は。あいつは……幼かった私達がナンバーズとしての知識を与える前に姿を消した…………飛行の仕方、ISの発動方法、戦い方、そして殺し方……教えられなかったんだ」

 「教えていないから、人を殺す事が出来ないはずだとでも?」

 「いや、それだけじゃない。幼かった私達姉妹は躊躇った……その結果としてあいつにその知識を与えられなかった……。何故だと思う?」

 「……………………『優しかった』から、ですか?」

 「単に青かっただけだとさえ思えるが、私達は無意識に拒んだ……私達には無い優しさを持った『弟』が、私達の所為で穢れてしまうのではないかと恐れたからだ。あの時から十年経っていたらその考えも違ったのかも知れないが、あの時……あいつが連れられて行った時はそれでも良いとさえ考えていた。私はなチンク、そんな虫酸が走って反吐が出る程にどうしようもなく優しいかったあいつが――、



 どんな理由があっても殺人だけはしないと信じている。



 ナンバーズと言う枠組みから見れば異常なんだろう……。だが、私はそれでもあいつが生身の人間に危害を加えるとは思えないんだ。あぁ、到底思えないんだよ……。私達姉妹はそう言う不器用な育て方しか出来なかったのだから」










 「だから私は断言できる――」



                              「故に私は確信している――」



 「あのトレーゼが……私の『弟』が――」



                              「あのトレーゼが……私の『最高傑作』が――」



 「絶対にこんな事はしないと――」



                              「決してこの様な事にしてはおかないと――」



 「こんな――」



                              「こんな――」



 「こんな残酷な事をするはずがないんだ」



                              「こんな生温いやり方で収まるはずがないんだ」



 「だから私は信じない――」



                              「故に私は信じない――」



 「一連の事件の犯人がトレーゼではないと」



                               「今回の件はトレーゼの仕業ではないと」



 「だからこそ――!」



                               「それ故に――!」






                  「『“13番目”≠トレーゼ』なんだよ」










 午後9時00分、クラナガン郊外――。



 冬の寒さが容赦無く染み込む安アパートの寝室に一人の少女が眠っていた。ミッドにおいては珍しくないブロンドの髪を枕に埋め、完全に熟睡しているのか少女――ヴィヴィオの体は呼吸によって規則正しく上下していた。

 だがここに居るのは実は彼女だけではなかった。確かに静かに寝息を立てて寝ているのはヴィヴィオだけだったが、彼女のすぐ横……布団に包まれていた大きな塊がその上半身を起こし、通信回線用のホログラムを空中に映し出す。虚空に現れた『SOUND ONLY』の文字を確認すると通信相手にそれまでの現状報告を開始した。

 「ようやく寝てくれたわ。わざわざこうやって分かり易い恰好してあげないと落ち着いてくれないんだから……」

 心底うんざりしたと言う感じでその人物は通信相手に愚痴を零しながら、自分の隣で大人しく寝ている少女に目を向けていた。

 「それにしたって、本当は戦闘目的に造られた私がこんな風に子供をあやす羽目になるなんて……博士が知ったら何て言うのかなぁ」

 『……………………』

 「まぁ、別に良いよね。これはこれで必要だからやってるんだし。あ! あとそれと、明日からあなたの当番なんだから、しっかりしなきゃダメよ? 分かってるの? 返事は~?」

 『…………あ、あの~……一つ良いでしょうか?』

 「はい何でしょう? クアットロさん」

 顔も見えない通信相手に対して、これ以上無い実ににこやかな笑顔を向けながら“彼”はクアットロにその先を促した。そんな余裕に満ちた“彼”とは対照的にクアットロは――、



 『お願いですから! その悪魔の声で通信するのをやめてくださいぃっ!!』



 「あぁ~、忘れちゃってた。ごめんごめん」

 “彼”の姿が窓からの月明かりによって映し出される……。

 ピンクの無地のパジャマに、スラリと伸ばされたしなやかな流線形の肢体、腰まで届きそうな程に長く濃い亜麻色の長髪を肩から流し、外見の割にはどこかあどけなさが残るその声の主はどこからどう見ても――、

 高町なのはそのものだった。

 声や外見だけではない……喋り方やその抑揚、顔に見せる表情や指先までの一挙手一投足、そして何よりも隣で眠っているヴィヴィオに向ける慈愛に満ちた視線と頭を撫でる優しい手付きが、明らかに偽物だと分かるはずの存在を本物のように醸し出していた。

 もちろん、ここに居るなのはは本物ではない。本当の高町なのはは自宅で療養している上に脳をやられて満足に喋る事すら出来ないはずなのだ。今ここにこうして居るこの人物は対人偽装能力『ライアーズ・マスク』によってトレーゼが変身したものである。

 『それにしても、まるで本物みたいですわよ。聞いてるだけのこっちが震え上がりますわ』

 「本物みたい、じゃないの……。限り無く本物に近い偽物……いいえ、誰にも知られないで本物に挿げ変わる事がこの能力の本当の目的なんだから」

 ベッドに腰掛けるなのは(トレーゼ)は本当のなのはの様な笑顔を浮かべながらクアットロとの通信を続けた。

 「お姉ちゃんのドゥーエはただ変身するだけで終わりだったけど、私にはあのヴェロッサって言う人からもらった『思念捜査』って言うのがあるから、他の人の記憶を頼りにしてもっと完璧に化けられる……凄いでしょ?」

 『た、確かに声だけ聞いていますと本当に本物みたい……。でも、どうしてそんな所で変身を?』

 「うーんっとね……この子がどうしても一人じゃ眠れないって言うからね……母親の格好なら安心して眠ってくれるかなって」

 『よくもまぁ騙されてくれましたね。反発されなかったんですか?』

 「されたよ。でもねぇ、頭で分かっててもここまでそっくりだと生理的に安心するみたい。すぐに寝てくれたよ。この子の頭から母親に関する記憶を抽出してるから、ほら! 完璧に再現出来てるでしょ?」

 『……どうでもいいですけど、早いとこ元の姿に戻っていただけませんか、お兄様』

 「しょうがないわね……」

 足元に真紅のテンプレートが出現し、“彼”の全身が紅く光る。腰まで伸びていた髪が縮んで紫色になり、胸元の膨らみは平たくなって代わりに筋肉が戻り、着ていた服も淡いピンクから白くなり、最後に瞳の色が金色に戻ったことでようやく彼は元の男性体の姿に戻ることが出来た。変身に要した時間は僅か五秒足らず……管理局の捜査課では一部の潜入捜査官などがその捜査目的上で動物などに変化する変身魔法を使用しているが、彼のその変身速度は魔導師のそれよりも動物をベースにした使い魔並みの速度を誇っていた。

 「これで、いいだろう。過去に、ナノハ・タカマチに、何をされたかは知らないが、相当な恐怖を、抱いているな」

 『天井や壁をブチ抜いてエネルギーの塊が飛んできたら誰だってトラウマになりますわ』

 「くだらないな……。砲撃一辺倒の偏った個人戦力の、どこを怖れる必要がある?」

 『お兄様にとっては大したことなくっても、電子戦特化の後方支援目的に造られた私じゃ無理なんですぅ』

 確かに直接戦闘用に造られていない彼女では精々新米の武装局員十数名を相手取るのが関の山だろう。戦闘機人としては下の下程度の戦闘力でしかない。

 「それはそうと、『毒』の予定台生産は、完了したか?」

 『えぇ。言われた通り、保冷庫が満タンになるまで瓶詰しましたわ。それで、いつあれを配置するんですの?』

 「今夜だ」

 『了か……って、えぇ!? 今夜って……今からですか!?』

 「当然だ。計画に、遅延は許されない」

 ベッドのすぐ傍に置いてあった待機状態のデウス・エクス・マキナを掴み取るとベッドから立ち上がり、外出の支度を始めに掛った。セットアップすると、現在八つの変形形態を有している彼のデバイスがティアナから収奪したクロスミラージュの形に変形した。街中で戦闘になった場合にはレヴァンティンやストラーダのような長物は逆に不利になる恐れがある……手軽で素早く、それでいて正確に獲物を狙う事の出来る銃器の方が遥かに接戦には向いているのだ。それに今回は戦闘目的で行くのではなく――、

 「安心しろ、行くのは、俺だけだ。一旦、そちらに寄る……採取した血液の、解析と精製を、任せたぞ」

 『まぁ……今更お兄様に逆らうつもりなんて毛頭ありませんわ。…………でもぉ、一つだけ聞いてもよろしいかしら?』

 「何だ?」

 『随分と陛下に御執心のようですね~。お兄様の事ですから、こっちの言う事を聞かないなら締め上げてでも優劣をハッキリさせるだろうと思ってましたのに、一人じゃ眠れない陛下の為にわざわざ安心して眠れるように母親の格好までして差し上げるなんて……。お優しい一面がある、と言った方が良いのかしら? お陰で可愛そうな陛下の御心は一時だけでも潤されたようですけど』

 「……………………そう言う、お前にも、一つ問う」

 『はぁい?』

 「お前は、今まで自分の事を、『人間』だと、思ったことはあるか?」

 『全っ然!』

 「だろうな」

 クアットロの景気の良い返事を最後に、トレーゼは通信を切断した。支度を整え終わった彼は拳銃型のデバイス片手に部屋を後にしようと、ドアに手を掛けた。血液を収めた試験管のケースは既に持っている……後はここから一旦ラボに転移してから例の『毒』を大量に持ち出すだけだった。

 ふと――、

 「……………………」

 ベッドのヴィヴィオが身動ぎした。実は寝返りを打っただけなのだが、よく見ればその際に掛け布団から肩がはみ出てしまっているのが見えた。自分達機人にとってはどうと言う事も無い気温だが、目の前の少女にとっては凍えるような寒さだ……途中で起きて自分で掛け直す事を期待したが、この熟睡度では起きた頃にはすっかり冷え切ってしまっているはずだった。ここには入れ替わりでクアットロが来るはずだろうが、あの管理体制が穴だらけの彼女がこれだけの落ち度に気付く確率はほぼゼロだ。例えどんなに低くても風邪から派生するであろう病の可能性を考えれば、ここで自分が摘み取っておくのが妥当だ……そう考えたトレーゼは踵を返してベッドまで戻ると、なるべくヴィヴィオには触れないようにしながら布団を元の位置へと掛け直した。

 改めて少女を見やる……。聖骸布に含まれていたDNA情報を元にして生み出された聖王の器……目的こそ違えど、その出自や製造方法の大半は自分達戦闘機人と何ら変わりないはずのこの人造生命体が、つい一時間前までは血の繋がらない母を求めて泣いていた……。トレーゼは彼女らが言う『母』と言うモノを知らなかった。出自を辿れば居ない事は当然だ……強いて言えば、遺伝子提供者が『父』であり、試験管や培養槽が『母』と言う事になるだろう。逆に、自分達と同じような出自を持っている癖に生物的な『母』と言う概念を持つ少女を、彼はそこから起因する精神の揺らぎを利用して姿形だけのハリボテの母を演じる事で自分に対する警戒心を消失させようとしたのだ。

 「…………肉親の、概念なんて、脆いな。お前も、俺の姿を見ても、それが偽物だと、分かっていたはずだ」

 それでも母の偽物に一時だけとは言え縋るとは……やはり『人間』として生きた者は脆弱だ。分かっていて尚、縋らずには居られなかったのだろうが……。

 脆弱――。

 貧弱――。

 弱小――。

 非力――。

 恐らくこのありとあらゆる次元世界の中で最もか弱く、そして最も出来る事の少ない者を隣に見つめながら、トレーゼは限られた思考の中でこう呟いた。



 「やはり……子供は、嫌いだ」




















 新暦85年7月22日、午後14時00分、無限書庫にて――。



 「――っと、君がその執務官だね? ランスター執務官から聞いているよ。へぇ~、そんなに若いのに提督から直々に報告書作成をね~。でも、気を付けた方が良いよ。あの提督は仕事面じゃ本当に人使いが荒過ぎるから」

 無重力の空間で浮遊しながら本に目を通していたユーノは、来訪者の存在を目に留めると、すぐにそちらの方へと向かって飛んで行った。その際に周囲に浮かんでいた数冊の本が反動であらぬ方向へと飛び散りそうになるが、作業中の司書達の素早い連携で回収され、元あった本棚へと戻された。

 だが、収めたはずの一冊が静かにずり落ち、分厚いページがパラパラと捲れてしまった。しばらくそうして宙を舞っていたが、気付いた司書の一人がそれを再び回収し、棚へと戻す。

 司書が手にした時に開いていた最後のページ部分には実にシンプルな字体で――、

 『首都圏リニア幹線貨物車両襲撃事件』とだけ記されていた。

 この題名の時点でどんな内容か想像がつきそうな事件が、後に“13番目”……トレーゼ・スカリエッティの存在を完全に世に知らしめる一大事件へと発展するのだった。

 そして、この字面の直後にもう一つ……これとは別の事件名が記されている箇所に小さく、印刷ではない手書きの文字でこう書かれていた。



 『戦闘機人戦争:“ドールズウォー”』



 更なる別名『最後のJ・S事件』。このミッドチルダで起こった“13番目”に関する事件の中で、最後に勃発した最大規模にして最悪の事件の俗称である。



[17818] 仮面の日常:午前
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/07/29 00:59
 11月18日午後11時30分、とある絶海の孤島にて――。



 ラボに佇む一人の人影……少し黄色掛った亜麻色の長髪を滑らかに流しているその人物――クアットロは、一旦この施設に立ち寄った兄から渡された試験管を先程からずっと無言で眺めていた。とにかく眺めているだけだった……血液の充満してあるその試験管を時折ワイングラスのように揺らしながら、いつも浮かべている下卑ている笑みをどこへ置いてきたのか、まるで心底つまらないモノを見せられた子供のような無表情を目の前の赤い液体に向けているだけでしかなかった。

 「あ~ぁ、つまんない。本当に退屈ですわぁ~。お兄様は今頃、仕掛けを準備するのにクラナガンの街を飛び回っているでしょうから、帰って来るのはいつになることやら……」

 実を言えば彼女にやるべき事が全く無い訳ではない。トレーゼから手渡された血液を解析機に掛けて染色体を抽出し、さらにそのDNA内に存在している因子を特定して絞り出さなくてはいけない……。だが、トレーゼが『毒』の仕掛けに向かってから既に二時間が経過しても一向に彼女が作業に掛かる気配は無く、かれこれこの二時間の間ずっとこうして試験管に収められた血液を見ているだけでしかなかった。

 今こうしている間も全く取り掛かる事も無く――、

 「それにしても、お連れした時の陛下は可愛かったですわぁ~。あの小便臭いだけだったガキが、たった三年の間に見違えるように化けてくださるんだものぉ~。初めてお目に掛った時は、他の出来損ないのクローンと同じように数ヶ月くらいで肉体が崩壊するかと思いましたけど、まさかこんなに長く保つなんて想像していませんでしたわ。嗚呼、科学の予想を遥かに越えた生命の神秘に、このクアットロ感動ですわぁ♪」

 ミーハーな女子高生が有名タレントを生で目撃した時の様な異常な高さのテンションで、クアットロは興奮に頬を染めながら踊るような足取りで移動し始めた。クルクルと回転しながら彼女の足が向かう先は、兄に命じられていた血液を解析する為の機材がある場所……その目の前へとやって来る。そうして手に持っていた試験管をスリットにセットしようと手を伸ばし――、



 「でも気に入らない」



 パリン──!

 与えられた玩具に飽きた子供の様な感じに、クアットロは何の躊躇いも無く試験管を握り潰した。万力のような圧力に耐久する事が出来なかったガラス管は何の抵抗も無く一瞬で砕け散り、封入されていた赤い液体は収まるべき空間を失った事で自然に従って床に飛び散った。手袋もせずに握り潰した事によって内側の皮膚には細かくなったガラスの欠片が刺さり、封じ込められていたヴィヴィオの血液でじっとりと赤く濡れたその手をクアットロは眼鏡越しに見つめ、そして――、

 「ペロ♪ うーん、やっぱり子供ね。血液にまで甘ったるい味が染み込んでるわ」

 唾液を豊富に含ませた舌先で掌のそれを舐め取り、そして苦虫を潰したような表情でそれを吐き捨てる。そして自分の足元で真っ二つになっていた試験管の残骸を視認すると、ゆっくりと自分のしなやかに引き締まった脚を上げ――、

 「気に入らない」

 踏み潰す。小さかったガラス片が更に細かく砕かれ、その内の大きな物は遠くへと弾き飛ばされた。明らかに憤怒のエネルギーが込められながら繰り出された踏みつけ……顔の表情こそは先程から固められたかのように変化の無い笑顔だったが、目が笑っていない状態だった。さらにその笑顔を崩す事無く彼女は再び同じ脚を上げて――、

 「気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らないっ!!! あ~あっ! 本っ当にどうしてやろうかしら!!? 胃の中や直腸の汚物をブチ撒けてもまだ全然足りない! 脳ミソに湧いた蛆を神経ごと焼却したくなるようなこの嫌! 悪! 感ッ!!」

 叩きつける。何度も何度も何度も何度も何度も何度も……彼女の足の裏が金属製の冷たい床に接触する度にまるで道路舗装に使用されるプレス機が土を叩き潰すような大きな音がラボ中に響き渡り、彼女の鋼鉄の骨格が埋め込まれた脚部は懲りる事も無く更に苛立ちが収まるまで床を踏みつけ続け、およそ五分後にようやく……

 「ふぅ……あらぁ、いけませんわ私ったら。取り乱しちゃって、クアットロったらイケナイ子♪」

 またいつもの彼女に戻った。足元の床面はくっきりと足の形に数ミリ陥没しており、イタチの最後っ屁とでも言わんばかりに彼女は最後の蹴りを隣の機材にブチ込んだ。

 「フフ、お兄様には悪いですけれど、私の教育はお兄様の期待しているようなモノで収まるかどうか分かりませんよぉ。だってぇ~、クアットロは陛下の事が『大好き』なんですものぉ♪」

 全身の毛が総立ちするような妖艶な声……悪女と言う言葉こそが相応しい彼女は、鋼鉄が埋め込まれているとは到底思えない軽やかな足取りでスキップし、血液を解析する物とは別の機材の前へと進み出た。先程の物と比べればサイズはずっと小さく、周辺に試験管やフラスコ、スポイトなどが散乱している所を見ると、どうやらさっきまでクアットロがそれらを使って何かをしていた事だけは容易に想像がついた。その無造作に散乱している器具の中に一つだけ他の物とは違ってしっかりとスリットに固定されている試験管があった。中には無色無臭の液体が封入されているのが見て取れる。クアットロは自分のポケットから注射器を取り出すと、その針先を液内に進入させて吸い取り始めた。

 「でもぉ~、クアットロはイジワルな子だから大好きな陛下の事をイジめたくなっちゃいますのぉ。イジめて苛めて虐め倒して……! 鼻水と涙が入り混じった顔をもっとグチャグチャにして、口からだらしなく涎をダラダラと溢れ出させて、股間を小便でビショビショに濡らすまで何度でも何度でも虐めて、最後に自分から『殺して!』って泣いて懇願するまで虐め続けるわ」

 注射器内を液が満たした瞬間、彼女は素早く針を抜いてそれを再びポケットに仕舞い込んだ。空になったその試験管を、ヴィヴィオの血液が封入されていた物と同じように握り潰し、機材の上に堂々と腰掛けた。背筋が凍るような妖艶な言葉を紡ぎ出すその口からは睦言にも似た雑言が溢れ出し、言葉を出す度に彼女の顔はどんどん加虐的な笑みに彩られていった。

 「でもぉ、殺してなんかあげなぁ~い。そんな事したら私がお兄様にブチ殺されちゃいますもの! それだけはゴメンですわ。だ・か・ら♪ 生かさず殺さず、肉体も精神もボッロボロのグズグズになるまで丁寧且つ徹底的に痛めつけてやるんだから。それだったら、別に良いでしょう? お兄様」

 今は夜のクラナガンを飛び回っているであろう兄を思い浮かべながら、クアットロはうっとりと頬を染めた。あの完璧と言う言葉を真に体現している存在を裏切る事など彼女がするはずも無く、かと言って自分の加虐嗜好を満たしてくれるヴィヴィオの存在をそのまま指を咥えたまま見守るなんて事が出来るはずもなく、今の彼女の頭ではその矛盾を解決する為の姦計が張り巡らされている真っ最中だった。

 そして結論──、

 バレなければそれで良い!

 「取り合えずお兄様には、血液の解析は失敗したって事で何とかなりますわよね」










 『聖王教会襲撃事件』……実にシンプルな名前のその事件はその大規模且つ甚大過ぎる被害とは裏腹に、民間には一切報道される事は無かった。実際報道はされたにはされたのだが、教会の建物が倒壊したのは全てあの日突発的に起こった雷を伴う局地的異常気象が原因だと偽の情報が報道されたのだった。もちろん裏には管理局の報道規制があったのは確実だ……世間では敷地内の大半の建築物が跡形も無く消し飛んだ災害レベルの出来事が起こったにも関わらず奇跡的に死者はゼロだったと言われており、聖堂騎士団側の被害に関してはただの一言も世間に対して知らされる事は無かった。報道されなかった理由に関しては一重に実行犯が戦闘機人であったからと言うのが強いだろう。三年の年月が流れたとは言え、人々の記憶の底にはJ・S事件の際に刻まれた危機感と恐怖が根付いている……そんな世間に対して戦闘機人絡み、それも相手がスカリエッティ製のナンバーズである可能性を持った者ともなれば世論がどう動くか分かったものではない。それらの社会変動を危惧した組織のトップなどらが一時的な先延ばし措置として報道規制を強いただけに過ぎないのだろう。

 よって、この事件の真相は少しの間だが表舞台に出される事は無かった。そして、その事件を引き起こした張本人、トレーゼはと言うと──、

 「……………………」

 時刻は11月19日午前9時00分……場所は管理局管轄海上更正施設。その奥に存在している緑の芝生に覆われたレクリルームに、彼を含めて二人分の影があった。腰まで届いた桃色の長髪と白い囚人服がコントラストで強調されているもう一人は、現在収容中の元ナンバーズの七番、セッテだった。右拳を前に突き出すように構え、低めに構えた左手で対象との距離を測りつつその隙を窺っている姿は、他の姉妹達には見られない根っからの戦士としての覇気が感じられた。対するトレーゼはもはや構えてすらおらず、両手は下に垂れ下がり、両足の爪先も揃えてただ棒立ちになっているだけだった。いくら命のやり取りをしない訓練とは言え、傍から見れば最初から既に戦う事を放棄している様にしか見えなかった。

 だが実際は違う。実際の戦闘において彼の様なスタイルを取る者などそうそう居ないだろうが、実は『構えない』事こそ一部の実力者にとっては使いこなせれば最も有効的で、敵対する者にとっては最も忌避されるスタイルなのだ。構えればその体勢の分だけ先手を取る事が可能になるが、それと同時にその構えからある程度の行動が先読みされる事もある……それとは違い、構えない戦闘スタイルは初動が遅れて後手に回る分、相手に自分の行動を悟られる心配が無くなると言う利点があった。もちろん、そんな相手よりも一歩遅れる戦法を取る者などどこにも居るはずが無い……よっぽどの実力者を除けば。

 トレーゼの場合、その『実力者』の中に充分収まっていた。故に模擬戦が始まってから既に五分以上、セッテは迂闊に動けずずっとこの体勢で膠着しているだけでしかなかった。この半月の間に目の前の人物の実力は嫌と言いたくなる程に身に沁みて理解している。何故なら彼は──、

 「来ないなら、こちらから、行かせてもらう」

 「っ!!」

 痺れを切らしてこちらへ歩を進め始めたトレーゼに、セッテの精神の底に眠る生物的本能の一部がベルを鳴らす。ただ単にこちらに向かって歩いて来るだけ……敵意も無ければ殺気も無い、たったそれだけの行動だけでセッテは自分の足が無意識に後退りするのを感じた。歩いている間も両手は一貫して寸分も揺れる事を知らず、その不動の形無き構えがさらに脅威的に見えてしまう。だがここでいつまでも退いていては話しにならない……セッテは眼前のトレーゼを見据えておおよその距離を測った後、相手が自分のリーチへ進入したのを見計らって……

 「フンッ!」

 足元の芝生をも抉らんとする強烈な足払いが放たれた。自分の長身の利点を最大限に活用したその一蹴、間違い無くこの状況下でセッテが成せる最大の攻撃だった。互いの距離はおよそ一メートル弱……この距離と彼女の速度で以てすれば如何にトレーゼと言えども簡単には回避できないはずだった。案の定彼女の強靭な脚トレーゼの左脚に接触し、彼の体は一瞬にして慣性の法則をフルに表現して腰を中心に回転した。常人であれば回転する前に両足が物理的に弾け飛んでも全くおかしくない威力の蹴りを受け、セッテに比べて小さいトレーゼの体が一瞬だけ宙に舞った。

 しかし、ここで違和感……。確かにセッテの蹴りはトレーゼの脚に接触した……だが当の彼女はその違和感に逸早く気付いており、低くしていた腰を持ち上げると立ち上がり、地面に四つん這いとなっているトレーゼから距離を離した。

 「……危なかったです。蹴りが命中した割には反動が全く無かったですから…………。まさか、あの一瞬だけでこちらの一撃の重みを全て受け流すとは……」

 「脚部は、人体の急所の、一つだ……。お前が、狙って来るであろう事は、予想していた」

 ゆらりと地面から起き上がり、トレーゼの金色の瞳が再びセッテを捕捉する。今分かった事なのだが、彼がここへ来てからもう30分以上は経過しており、この組み手の間にもセッテが慢心する事無くほぼ全力で臨んでいるのに対し、トレーゼの方はまるで大人が児戯に付き合っているかのような感じで相手をしているだけだった。セッテは、彼が本気を出さない要因に自分との戦闘における概念の違いを示唆していた。セッテが勝利を得る為に行動する戦士なのだとすれば、トレーゼの場合は結果を得る為に行動する“狩人”だ。戦士は相手を打ち負かせればそれで終わりだが、狩人にとって勝利とは単に獲物を仕留めるだけに留まらない……獲物を糧として仕留めると言う結果を自力で得る事こそが狩人の目的であり、形の無い勝利と言う概念だけでは決して満足はしないのだ。そしてこの場合、組み手に勝利したからと言って彼が得る物は何も無い。なんとも現金な性格だと思われるだろうが、行動にはその者相応の結果と言うモノが必要なのもまた事実、彼にとって『戦いに勝つ』と言うモノはそう言う事なのだろう。

 「……本気は出さないのですね?」

 「出せば、勝負にもならない。実力が、違い過ぎる」

 「普通そう言うのは自分から言うモノなのでしょうか?」

 「なら、俺に一撃入れて見ろ」

 前回は対象を常に自分の射程圏内に捉え続ける訓練……今回セッテに課せられたのは前回からワンランクアップした、『リーチ内に捉えた対象に迅速且つ的確な致命傷を与える』と言うものだった。開始してから今に至るまで常にトレーゼはセッテの制空圏内ギリギリに位置しており、本来ならば彼女の最も得意とする距離に身を置いているはずだった。だが現在に至るまでに彼女が有効打を入れられた形跡は無い。殴打を繰り出せばかわされ、手刀を突けば捌かれ、蹴りを入れようとすれば先程の様に受け流されてしまうだけで、始めは軽やかなフットワークを見せていたセッテは体力を浪費してしまった所為でどんどん攻撃の鋭さを失いつつあった。

 「…………そう言えば、知っていますか? 局内は昨日の一件の話題で持ち切りだそうです」

 「だろうな」

 「世間ではどう認識されているかは知りませんが、犯人は間違い無く三年前のワタシ達と同じように歴史に名前が残るでしょう。管理局は犯人の捜査を秘密裏に行う事を決定したらしいです」

 「組織とは、よっぽど、世間体と言うモノが、気になるんだな」

 「局の捜査課は首都圏内を中心に、徹底捜査を仕掛けるそうです」

 「秘密裏の、くせに、徹底も何もないだろう」

 今ここに居るトレーゼは、ナンバーズの秘匿された第13番『Treize』としてではなく、一介の武装隊免許所有局員のトレーゼ・S・ドライツェンとしてここへ足を運んでいる。もちろん今着用しているカーキ色の局員制服や胸元の局員証などは自作した偽物で、入館の際の最新式スキャナーですら完璧に欺く精巧さを誇っている出来だった。

 「良いのか? どうやって、そんな情報を、仕入れたかは、知らんが、ベラベラと他人に話して……」

 「『今の貴方』は局員です……何も問題は無いはずでしょう? 情報に関してはギンガ・ナカジマ経由で色々と。本人は漏らすつもりで言った訳では無いのでしょうが、情報とは常に意識の外で自然と漏洩してしまうものです……」

 「まさに、金づるならぬ、口づると言う訳か」

 そう、今の彼は素性を知らぬ者から見ればただの管理局員……監視カメラの向こう側の人間も、今二人が話している内容がまさか本人達にしか分からない情報のやり取りをしているなどとは夢にも思っていないはずだ。

 「…………それで、最近の『拾いモノ』の調子はどうなんですか? 今頃『持ち主』が必死に探しているのでは?」

 「問題無い。世話は、4番に任せている」

 ここで言う拾いモノとはもちろん、昨日の一件で身柄を強奪したヴィヴィオの事である。彼の予定が正しければ、この時間帯はクアットロが食事を与えた後のはずだ。

 「壊れますよ。近い内に絶対に壊してしまうでしょう」

 「その時は、俺が、片付ける」

 嘘ではない、仮にあのクアットロが計画の要であるヴィヴィオに対して不必要な姦計を仕掛けようものなら、その時点で処分する事にしている。もっとも、あの首輪付きの犬にも劣る媚び売りの妹がそんな大それた事を仕出かすとは思えなかった。

 「余り無理な行動は控えてください。貴方が何をしようとするのかは分かりませんが、その行動の結果として損害を受けるのではワタシにとっても本意ではありません」

 「…………今日はやけに、饒舌だな。訓練程度で、精神が高揚するようでは、実戦では、何の役にも立たんぞ」

 「ワタシが冷静さを欠いているかどうかは一戦交えた後で判断してください」

 再びセッテが構えを取る……これまでに彼女がトレーゼに対して与えたダメージはゼロ、トレーゼが察するに恐らく現時点から彼女は自分の持てるだけのパワーを全力でこちらに向けて来るはずだ。元々彼女は高機動特化型のトーレの戦術補佐役として開発されており、一撃離脱型のトーレが先行して打撃を与えた後に彼女がその露払いをする役目を担っている。故に彼女の戦闘スタイルは機動力ではなく火力重視の制圧前進タイプ、物理的に道を切り拓く為に常に一撃必殺の勢いで来る事は明白だった。

 案の定、次の瞬間に彼女はヘヴィ級顔負けの体当たりをかまして来た。『脚力×体重×速度=威力』の方程式を黄金律並みの完成度で以てして迫って来るその迫力は、ひょっとすれば耐衝撃仕様防壁をも凹ませるのではないかと思わせる程の気迫に満ち満ちていた。

 しかし、所詮は直線軌道の攻撃──。

 「上が、ガラ空きだ」

 対するトレーゼは冷静そのものであり、爪先で軽く地を蹴り、急接近して来るセッテの肩を掴んで跳び箱の要領で、自分よりも頭一つ分高い彼女の長身を軽々と飛び越して見せた。戦闘機人だからこそ成せる常人離れした運動能力を無駄無く駆使した回避行動に、セッテの反応が一瞬だけ遅れた。脇や股の下を通り抜けるならまだしも、まさか堂々と真正面から自分の肩を踏み台にして行くとは殆ど考えてはいなかったのだ。

 だがそこはナンバーズ最強から直々の教育を受けた戦士……対象が背後へ逃げ込んだ位の事態でうろたえたりはしなかった。

 「ワタシを踏み台にしたとて……っ!!」

 いちいち足を止めて回れ右をしていたのでは隙が生じて次の攻撃に繋がり難い。目の前数十センチ先には脱走防止仕様防壁……これを利用するしかなさそうだ。

 「はぁ!!」

 左足で地を蹴って芝生から60センチも飛び上がり、右足で前面の壁を蹴り飛ばした反動で更に上昇、ネコ科の動物のように空中で身を翻して方向転換すると視界にトレーゼの姿を捉える事が出来た。セッテが方向転換と飛び掛かりからの強襲体勢の移行に成功したのに対し、彼は着地時の衝撃から体勢の立て直しに成功しておらず、視界に収めた時にはまだこちらに目を向けた瞬間だった。セッテの加速度は先程に走り込んだ時のとは比べ物にならない速度に達しており、互いの相対距離は目測で一メートルと40センチ……もうとっくに戦士セッテの射程距離内だった。

 「討った!」

 このまま手を伸ばせばそれだけで頭に接触し、こちらの勝利となる。数秒先の未来を確信し、セッテは今、自分の持てる限りの腕力の全てを懸けて──、



 「バカだな」



 自分の眼球に強烈な違和感をぶつけられた。

 「目が……!!?」

 いきなり眼球に飛び込んで来た“それ”に気をとられた彼女は空中でバランスを崩し、無様に芝生の上に叩きつけられる結果となってしまった。何が起こったなんて確認している余裕なんかどこにだって無い、すぐに立ち上がろうと腕に力を込めたが……。

 「The end.」

 俯いた後頭部に重み……五つの点が頭皮を押さえつけるこの感覚は、間違い無く手で頭を掴んでいるモノだった。

 「頭部、圧壊……戦闘なら、絶命は必至だな」

 「……完敗です」

 自分より小さい相手に押さえつけられていると言った屈辱感はそこには無い……あるのは、ただ自分が敗北したと言う現実を受け入れる思考だけだった。戦闘ではいちいち悔しがっている暇なんて何処にも無い、その前に始末されてしまうからだ。如何に戦闘機人言えども生物の肉体を持っている以上は“死”の概念が付き纏い、セッテにとって“死”とは陥れば抗う事の出来ない絶対的敗北の象徴でもあった。その概念を突き付けられれば、嫌でも敗北を認めざるを得なくなるのは当然だった。

 組手はここで終了し、二人とも一旦芝生の上に腰下ろして一息つく。目蓋に異物が入り込んだセッテはしばらく目を擦っていたが、やがてそれを取り除くと掌に乗せて確認する。そして納得した。

 「あぁ、あの時既に……」

 目元の周りにこびり付いていた緑色のそれは、今自分達が腰をついている芝生の草だった。つい数分前に彼女がトレーゼに足払いを掛けたあの時、その蹴りの衝撃を受け流した彼は着地の際に地面に四つん這いになった……あの時に彼は芝生の草をむしり取っており、いすれセッテが間合いに飛び込んで来るであろう事までも予想してずっと手の中に隠してあったのだ。

 「戦いとは、常に二手三手先を、見据えて行うのだと、誰かが言っていた」

 「きっとその人は軍人なのでしょうね。まさかあの時からワタシの行動を完全に予測していたなんて……」

 「完全、ではない。あそこで、お前が俺に飛び掛かる確率は、約68.24%だった。ある意味、賭けだった」

 「一つよろしいですか? 貴方とこうして訓練を重ねてしばらくになりますが、本当にワタシは強くなっていると言えるのでしょうか? 稼働時間の長さから実戦を殆ど経験していないワタシはあまり実感が持てません」

 今の彼女は言わば籠の鳥……自分の隣に居る人物の所為で、ここへ足を運んでいたナカジマ家の面子は更正教育の教鞭を執っているギンガ以外には誰も訪れず、他の面々は全員が事件解決に駆り出されてしまっている状況だった。故に彼女はトレーゼ以外の者と一戦を交えておらず、本当に自分の戦闘技能が上昇しているのかどうかの真偽を確認出来る機会に恵まれていなかった。

 「俺と戦っていて、何も実感しないか?」

 「貴方が強過ぎる所為で……。最近、ひょっとすればトーレよりも強いのではないかと疑い始めています。まぁ、貴方なら『ある意味』当然なのかも知れません」

 「誰にも、言わないんだな……俺の事を」

 「言ったはずです。貴方にとっての損害はワタシにとっても本意ではありませんから……。勘違いしないでください、貴方から訓練を受けられなくなるの可能性を懸念しているのであって、別に貴方が生命的危機に陥っても構わないのです。と言いますか、貴方がそんな危機的状況に陥る光景が思い浮かべません」

 「本当に、今日は舌の回りが、良いな。そんなお前に、朗報だ」

 「何ですか? ……っあ!?」

 突然襟元を掴まれ困惑するセッテだったが、自分の視界の右端にトレーゼの白磁の顔面が迫って来た事に一瞬言葉を失った。人間として生きた経験が少ないセッテには常人が言う所の“美”と言う概念が理解出来ない節があったが、下手したら雑誌で見るモデル女性よりも端正な顔立ちと、宝玉の如く澄んだ眼球を見せ付けられた瞬間に彼女は思わず身動ぎしそうになった。だが目の前のトレーゼはそれを許さず、セッテの耳元にそっと口を寄せて来た。口元は丁度カメラの死角になっており、レンズの向こう側からでは親しくなった男女が睦言を囁いているようにしか見えなかった……だが、彼の口から聞こえて来たのはそんなモノとは程遠く──、



 「太陽が、四回半空に昇るまで、待て。その時が、お前の望む、“時”だ」



 声帯の振動が大気を揺らして音波となり、その波が鼓膜を震わせて耳小骨で増幅されて脳に届いた瞬間、セッテはその驚愕の事実に目を見開いた。ドラマや映画ならここで相手がニヤリと笑う場面なのだろうが、幸か不幸かこの二人に限って言えばそのどちらもがそんな人間的感性を持ち合わせていなかった。ただ淡々と告げられた予告にセッテは自分の全身の筋肉が無意識に引き締まり、痙攣を起こしたかのように震えが止まらなくなった。だがそれは決して恐怖から去来するモノではない……むしろその逆──、

 「やはり、お前はトーレの教え子……。刷り込まれた、深層意識の中で、戦闘行動を、求めているな」

 白い指先を桃色の長髪に通しながら、トレーゼはセッテの反応をどこか期待通りと言う風に観察していた。彼女の精神の奥底には自分達と同じ様に戦闘機人特有の“刷り込み”と呼ばれる一種の強烈な暗示が施されている……コンシデレーション・コンソール程ではないが、彼女らは殊戦闘行動に関しては何の抵抗も無く実行に移せるだけの決断力を有しており、命令さえあれば物を壊したり人を殺すのにも躊躇したりはしない。特に彼女の様な直接戦闘仕様に開発されている者は戦闘の際に精神が高揚し、戦闘行動に対しても支援仕様のものと比較して積極性を示す方向にある。このセッテの反応も言わば武者震いであり、彼女の本質をトレーゼは見抜いていたのだ。

 「…………貴方はどこへ向かうつもりなのですか?」

 「創造主の許……ただ一つ、そこだけが、到達点だ。創造主の命で動き、創造主の命で停止し、創造主の命で没する……それが、俺やお前達の、本来あるべき姿だ」

 氷よりも冷たいトレーゼの手がセッテの顔に触れた……原子の振動で発生するはずの熱が根こそぎ奪われるようなその冷たい手を、彼女は臆する事無く左手で触れて見せた。絶対零度の氷に閉ざされた次元世界から主と同胞を追って戻って来た兄の温度は、まるで自分に直接触れる事を拒んでいるかの様なモノが感じられていた。セッテ自身が知る限りでは、自分達ナンバーズでコミュニケーション能力に難があるのは全員で三人……トーレとノーヴェ、そして自分。そこにある原因としては彼女自身のように対象に対して無関心であったり、ノーヴェのようなあからさまな拒否行為であったりなど様々だが、彼の場合はむしろ“拒絶”……どんな無関心や心理的拒否よりも強く、何人たりとも自分の心理的領域には入らせない明確な意思表示、それが“拒絶”。彼女自身、稼働の時間が短いのでそう言ったタイプの者を見た事は殆ど無かった。そう、たった一人を除いては──、

 「……似ています。貴方のその言動が全て……トーレに」

 「当然だ。トーレは、俺の『姉』だからな」

 セッテの頬を撫でていたトレーゼの手がふと離れる。それと同時に立ち上がった彼は尻の草を軽く払い落し、そのまま芝生の上に腰掛けたままのセッテを置いて通路へと通じるドアへと向かおうとした。

 「忘れるな、我が『妹』セッテ。四回半、だ……その時になれば、お前もまた……」

 最後の方を話す時には既にドアをくぐってしまっていたので聞き取れなかったが、おおよその予想はついた。あの自分の知る限りではトーレ以外には誰も居ない『ナンバーズを体現する者』である彼が何の打算も利益も無しに自分に接触を重ねるはずが無い……。太陽が四回半、即ち四日後の深夜に彼は行動を起こすつもりなのだろうが、もちろんセッテはその事をこの施設の局員はおろかギンガにすら伝えるつもりはない。恐らくすぐには信じてもらえないのが先立つだろうが、知られれば彼の計画に支障を来たす恐れがあるからだ。いや、別に支障を来たす程度ではどうだって良い……彼女にとって問題はその先にあった──。

 「はい『兄さん』。大人しく待ちます……貴方との決着まで」

 やっと自分の強さを再確認出来るチャンスが巡って来ている……それだけは逃したくはなかったのだ。

 セッテがドアの向こうに消えた兄の背中を普段は見せる事の無い輝きに満ちた目で見送ったその数分後、更正担当官のギンガがいつもと変わらぬ笑顔で手を振りながら入室して来た。笑顔……セッテの最も嫌いな表情の一つだった。










 午前10時40分、地上本部医務室奥の集中治療室にて──。



 「さぁ、恐れる事はない……やってみたまえ」

 「は、はい……じゃあ……!」

 訓練中の新兵などが大怪我をしない限りは殆ど使用される事の無いこの手術室には、現在三人の影があった。手術台のすぐ手前に陣取っている男は狂気に塗れた天才科学者ジェイル・スカリエッティ……隅のパイプ椅子に座り込んで仮眠を摂っているのは徹夜明けのシャマル……そして、手術台の上で恐る恐る下に目をやるスバルの三人だった。

 「よーっし! と、とうっ!」

 それまでずっと寝台代わりに使っていた手術台の上から床を眺めていたスバルは、スカリエッティに促される事でようやく意を決したように行動に出た。器用に左手だけで上体を起こすとベッドの縁にまで移動し、そこから松葉杖も無しに勢い良く飛び降りて……



 靴下も履かない左右の素足で立ち上がって見せた。



 「わぁ!」

 足の裏から伝わって来る感触と温度……皮膚が千切れそうな床の冷気でさえも、今では心底嬉しいモノに感じられる。

 「おぉ!」

 足の指を忙しく動かして見る……足裏の筋肉が少し動く度に感じるこそばゆい感触が久しく思える。

 「あはは!!」

 屈筋と伸筋の二つを律動させて大きく跳躍する……そして、着地! 筋肉と骨格を伝わって上半身までをも揺らす衝撃に彼女の顔には一気に歓喜の表情が咲いた。

 片足、爪先、蹴り、跳躍……この二週間の間ずっと、もうこの先出来ないとばかり思っていたはずの動作の全てが、今、こうして出来ている!

 歩ける!

 走れる!

 そして何よりも、立てる! 今の彼女にとってこれ以上の喜びに勝るモノなどありはしなかった。

 「ふむ。シャマル女史の治癒の腕前は申し分なしだな。完全に筋肉が組織ごと断裂していたものが傷痕も無しに回復するとは……。丸々三日間も頑張った甲斐があったと言うモノだな、女史よ」

 そう言ってシャマルの方を見やるスカリエッティではあったが、当の本人は72時間ほぼ連続で治療を続行していた所為で精根尽き果てており、パイプ椅子の上で殆ど仮死状態に陥っていた。もはやいびきどころか呼吸音すら全く聞こえて来ない辺り、本当に死んでいるのではないかと言う思いが頭を過って仕方ない。

 「まぁ良いだろう。元が人間ではないからそうそう簡単には死なんだろうさ。スバル嬢の方はどうかね? 内部フレーム共に異常は無いかな?」

 「はいっ! もう全っ然大丈夫です。走っても痛くないですし、ウィングロードだって出せちゃいますよ!!」

 「あー、その魔法行使の件なんだがな、しばらく魔法は使えんやも知れんからそのつもりで」

 「ふぇ? どうしてですか?」

 「魔力回路部分がまだ完全に修復し切れていない恐れがあるからなぁ。最低でも一週間掛けて修復させて行く予定だ」

 「もし、その間にウィングロードを出そうとしたら……?」

 「うむ、修復していない分の回路を補う訳だから、魔力回路に多大な過負荷が掛かる事になる。足が千切れ飛んだ時の激痛がまた蘇ると言う訳だな」

 「…………自重します」

 取り合えずバリアジャケットを着たりマッハキャリバーを装着出来るのは当分先の話になるようだった。このすぐ後に一旦目を覚ましたシャマルにも言われたが、魔力回路を修復した後にも短期間ながらリハビリや左手の再生治療などを行う為、職場に復帰するには一ヶ月半は掛るとの事だった。

 「まぁ見ている限りでは脚部に異常は無いようだな。後で私を通してハラオウン提督殿からナカジマ三佐に御報告するよ、『再生治療は無事完了した』とね。それと、歩く分に関しては何の問題も無いが、走行する時にはそれなりの注意を払いたまえ。二週間近く使っていなかった筋肉がそう易々と動いてくれるはずもないんだからな……」

 「そうなんですか? じゃあ、ちょっと気分転換とリハビリを兼ねて中庭を走って来ます!!」

 「えぇっ!!? ちょ、君! 人の話を……って、おおい!!」

 翼を得た虎……と言うのはこの際適切な表現ではないのだろうが、足を取り戻した事で生来の活発さを余さず遺憾無く発揮しながらスバルはスカリエッティの制止も聞かずに治療室の外へと飛び出して行った。上履きはおろか、真冬なのに靴下も履かずに……。元機動六課メンバーの中でも一番元気が多く行動的な彼女を物理的に止められるはずも無く、スカリエッティは半ば呆然と彼女の背中を見送った。一応彼が言ったのは嘘ではなく、緩み切った筋肉を何の適度な事前運動も無しに酷使すれば、肉離れとまでは言わないにしろ足が筋肉疲労で痛くなるのは必至だ。場合によっては立っているのも億劫になる程の激痛に見舞われる恐れもあった。

 「う~む……万が一の状況にでもなればランスター執務官が何とかしてくれるか。そう言えば、執務官殿で思い出したが、スバル嬢には確か最近になって親しくなった男友達が居ると聞いていたが……どんな御仁なのか? やはり大食漢なのか? と言うか、本当に冗談抜きで彼女にボーイフレンドなる者が居るとは考え難いなぁ」

 実の父親であるゲンヤですら二年前に考える事を放棄した議案を頭の中で悶々と膨らませながら、スカリエッティは隅の方で絶賛爆睡中のシャマルが覚醒するのを大人しく待っていた。監視役である彼女が付いていなければ勝手にここを離れる事も出来ないからだ。










 午前10時55分、ベルカ自治領聖王教会本部跡地にて──。



 聖王教始まって以来の大惨事の爪痕はたった一日やそこらで綺麗に消えるようなモノではなかった……。既に日が昇って半日が経とうとしている今でも、崩壊した建物の瓦礫の撤去や行方不明者の捜索に多くの人員を割いていた。先日のたった一時間で失った聖堂騎士団の穴を教会スタッフのシスター達で補いつつ、通行の邪魔になる瓦礫を端に寄せ、まだ崩れる心配の無さそうな建物は板やセメントなどで大まかな補修を行い続けた。教会のトップであるカリムはその立場上の関係から外には居らず、昨夜の時点からずっと管理局担当部署への定時報告や各次元世界に存在している教会支部への現状説明などに追われており、現在彼女は書斎に籠り切りの状態が続いていた。

 そんな中で……教会関係者の中、それも騎士団員達の間で流れている一つの“噂”があった。彼らの間で湧き上がっているその噂の中核には一人の人物があった……この教会でたった一人で騎士100人にも匹敵する実力者とまで謳われたあのシャッハの事だった。昨日の敵が大破壊をもたらして逃走した後から、彼女の姿を同僚の騎士団の誰も見ていないのだ。今日の補修作業でも一切顔出しをしておらず、教会で育ってきた彼女がそんな怠惰を見せるはずがないと分かっていた彼らは余計に今の事態を内心では怪しんでいた。そしてそんな状況下で流れ出た一つの噂がこうだ……『シャッハ・ヌエラは先日の敵に墜とされたのではないか』と言うモノだった。確かにそれなら全ての説明がつく。大怪我を負わされた事で人前に出て来れなくなっているのだとしたら……もしくは、実はとっくにその敵に殺されてしまっているのではないか…………そんな類の噂が朝から絶えないのだ。

 真実としてはシャッハは生きてこそ居るものの、とても人前に出せる状態でない事だけは確かだった。四肢の内の二本を玩具のように抉られた上に両目までをも切り刻まれると言う惨状を見れば誰だって気が引けるというものだ。現在の教会内で彼女の状態を知っているのはカリムを含めてもたったの五人だけ……その内のオットーとディードの姉妹も顔面をミイラのように包帯を巻くほどの怪我をおっていて、教会の戦力は先日のたった一時間で半分以上の痛手を被ってしまったのだった。

 そしてここにもう一人……その事実を知ろうとする者が現れた。

 「おじゃましまーすっと……!」

 一部倒壊した教会本部を少し改修しただけの建物の玄関に、バッグを抱えた一人の少女の姿があった。元々耐震設計や地下基礎がしっかりしていた事もあってか辛うじて内部構造の被害は最小限に抑えられたその建物に実に慣れた感じで入り込んだ彼女は壁の一部がバラバラと崩れ落ちている廊下を通り抜け、外に控えていた騎士団員から聞いた部屋の前までやって来た。木で出来ているその扉は倒壊時の衝撃で蝶番が外れかかっていた……手で押せば簡単に型から外れてしまっても可笑しくは無いそのドアの取っ手を掴むと、彼女は一気に押し開け……

 「よっす! セイン、大丈夫か? オットーとディードは何なんだぁ? それってアレか? 新手の化粧品に手を出しちまったらアレルギー起こしましたってツラしてんな」

 「おう、ノーヴェ。取り合えず茶だけは出すから、それ飲んだら帰れてめぇ!」

 顔を突き合わせた瞬間からとんでもない挨拶の交わし方だが、これが彼女らなりのコミュニケーションの取り方なのだと思ってもらえればそれで良い。実際ノーヴェの言うように、オットーとディードの二人は目鼻以外の顔面全体を隈なく包帯で覆われており、時折その隙間から何か言いたげに口をモゴモゴさせているのだった。ちなみに何を言おうとしているのかと言うと──、

 「『地面に顔を叩き付けられれば誰だってこんな顔になるよ』だってさ」

 「よく聞き取れたな……。でもよ、叩きつけられたってことは、昨日襲って来やがった敵さんにやられたって事だよな? ニュースじゃ異常気象だとか何とかって言われてっけどよぉ」

 「そうさ。私の見ている目の前でこう……グシャってな感じでやってくれたよ。て言うかやっぱり世間じゃ秘密にされてる訳か……。当たり前って言えば当たり前なのかも知れないけどさ~、そうやって何でも隠そうとするのってなんか納得行かないんだよなぁ」

 「ギン姉が言ってたけど、大人には大人のややこしい事情ってのがあるんだとよ。あたし達がいっくら気にしたって無駄だよ」

 「あの荒削りも良いトコだったノーヴェがこんな知的な発言を……!? お姉ちゃん、ちょっと感動しちゃったな」

 「ぶっ殺すぞテメェ。そんでどんな奴だったんだよ、その敵ってのはよぉ」

 セインはともかくとして、オットーとディードの双子は12人のナンバーズの中でも最も後期に生み出された言うなれば最新鋭機……後衛担当のオットーの後方支援と前衛担当のディードの瞬発力の組み合わせは同じナンバーズの中でも群を抜いて優秀なはずなのだ。聞く所によれば、敵はそれを真正面からの力技だけで押し切った挙句、彼女達よりも実力的に上位者であるシャッハを打ち倒したらしいではないか。ノーヴェ自身は彼女と手合わせした事は一度も無いが、あのシグナムと同レベルの実力を誇っていたと聞く辺りでは相当の強さを持っていたはずだ。その彼女が文字通りボロボロにしてやられた……事実を目の当たりにした者から直接聞いた今でも想像出来ない話しだ。

 「始めはトチ狂った奴が調子乗ってるだけかとも思ったんだけど、あんな奴なんかとは二度とやり合いたくないね。生きて帰って来れないなんてのが戯言に思えて来る……」

 「強いのか?」

 「強い……って言うよりかは、何なんだろう……。確かに強いって言えば強いさ、あんなのに真っ向から勝負挑もうなんて考えられるのは私達の中でもトーレ姉かセッテぐらいなもんだろうね」

 「うへぇ!」

 陸戦型ナンバーズの中で最も肉体増強率が高いのはノーヴェだ……その肉体の限界値の高さを利用する事で彼女は他の姉妹達よりも物理的に強化する事が可能なのだ。だがそんな彼女ですら3番目の姉と開発順には妹に当たるセッテにだけは真正面から挑戦する気にはなれなかった。理由はそれぞれに一つずつある……まず一つ目は単純に『経験値の差』が挙げられ、これはトーレに該当する。彼女はナンバーズの中でも最初期に製造された直接戦闘型の最高峰……十年以上にも渡る模擬戦と実戦の繰り返しの日々によって彼女の中に蓄えられた実力は、もはやこれが同じナンバーズかとさえ思えてしまうモノへと昇華していた。元々彼女を造り出したスカリエッティが定めたコンセプトがこれまた単純に『最強』だと言うのだから恐ろしい。次に『物理的力量の差』……これはセッテの方だ。ノーヴェよりも高い肉体増強率を誇る彼女は、その圧倒的パワーを惜しむ事無く前面に押し出すと言う荒業スタイルを取っている。流石はトーレの教育を受けただけはあり、純粋な腕力勝負では絶対に敵わない事は分かっている。

 つまりはそんな二人でないと相手にならないような敵……『最強』と『武力』を体現した姉妹でなければ対抗出来ないと言う化物じみたその相手を想像し、彼女は全身に鳥肌が立つのを覚えていた。

 「そいで……大丈夫なのかよ、お前んとこの騎士さんはよ……」

 「……………………手足を一本ずつ持ってかれた……。殺されなかっただけマシなんて言うなよ……あれじゃあ生殺しだよ」

 今は教会の奥で何とか生き残っていた医療室で応急治療中だそうだが、一通りの治療が済んだ後はクラナガンの医療センターへと極秘で移送されるらしい。今この状況で教会最高戦力が戦線復帰出来なくなったなどと言う情報が騎士団の者達に流れれば騎士達の士気に関わると判断した為にその様な処置に至ったらしい。

 「大人って皆どうかしてるよな。何でも隠せば良いってんじゃないのにさ~」

 「馬鹿セイン。大人なんてのはどうだって良いんだよ。要はこの先どうするかって事さ」

 そう突き離すような言い方の後、ノーヴェはベッドで寝たままの双子姉妹を尻目に再びドアに手を掛けた。

 「もう帰るの? 見舞いに来てくれたんじゃなかったのかよぉ」

 「アホか。一応仮にも姉妹だから建前って奴で一番暇なあたしが来てやっただけだ。勘違いすんな! イクスが無事かどうかだけ聞きに来たんだからな!」

 「ふーん……。わざわざ通信で聞けば良いのにねぇ。一応イクスは大丈夫だよ、寝かせてあった部屋は隅っこの天井が少し崩れてるだけだったから、今は東の館の部屋に寝かせてるから。どうせだったら顔見に寄ってきなよ」

 「あぁ、少しだけな……。あいつが傷付いたらスバルが悲しみやがるから、しっかりしてくれよな」

 「大丈夫、いっくらぐうたらなお姉ちゃんだってそれ位は分かってるって。どーんっと任しときなさい!」

 「うっわぁ、すっげぇ頼りねぇ……。でもまぁ、居ねぇよりかはずっとマシだな……頼んだぜ、セイン。お前はチンク姉の次に年食ってんだからよ、オットーとディードの面倒はお前じゃねーと見てやれねぇんだからな」

 そう言いながらノーヴェはドアの取っ手を握り、結局五分と経たない内に姉妹達と別れる事となった。血が繋がっていないとは言えあまりにも短過ぎる邂逅だったが、生まれ落ちた時から離れる事も無く一緒に居続けた彼女らにとって互いの心身の無事を確認するにはそれだけで充分だった。










 数分前、聖王教会一般入口にて──。



 昨日の一件で教会では始まって以来異例の事態が起こっていた。それは、教会自体の一時的封鎖である。幸いにも一般人側の死者はゼロだったにせよ、現在混乱したままの教会敷地内にいつも通り一般人を入れる訳にもいかず、それまで基本年中無休だった教会が新暦始まって初めて礼拝に訪れるであろう人達を拒む為にその戸口を固く閉ざしたのであった。門の前には数人の警護騎士が張り込んでおり、普通の人間ならその出で立ちを見た瞬間に踵を返すような気迫に満ちていた。

 しかし、そんな警護体制の中を難無く通り抜ける者が一人……それはデバイスを構えた騎士達の丁度脇を通り抜け、錠前で固く閉じられた金属の門を『すり抜け』、自分の庭に帰って来たみたいな気軽さで教会敷地内に進入を果たしたのである。もちろん、この様な体制下で関係者以外が立ち入れば不法侵入と言う事で捕縛されるのだが、何故かその人物は捕縛どころかまるで無視されているようにも見えた。

 だがそれもタネを明かして見てしまえば当然のことだった。



 見えていないのだ。



 シルバーカーテンとディープダイバーの併せ技、この二つを応用すれば如何なる場所でも入れない所は殆ど無い。トレーゼはシルバーカーテンの効果を利用して自身の表面に光学迷彩被膜を展開させて周囲の視線を欺き、無機物透過のディープダイバーを使って純粋な金属で構築されている門を通り抜けたのだった。しかし何故彼が昨日自分が戦闘行動を起こした場所へと秘密裏に舞い戻って来たのか? 俗に言う、『犯人は現場に戻って来る』と言えばつまりはそうなのだが、彼にはちゃんとした目的があった。昨日の戦闘で彼が障害物を除く為だけに行使した大出力砲撃魔法、【スターライトブレイカー】……クアットロ奪還作戦において彼が高町なのはから奪い取った、彼が知る限りでは最大の攻性魔法……その出力計算の為にわざわざここまで足を運んだのである。本人や彼女の娘であるヴィヴィオから収奪した記憶によれば、この魔法の最大の特徴は『パワー』……自分のリンカーコア、周囲の空間に散在する魔力素、そしてカートリッジによる供給の三点によって成される最早過度と言っても差し支えない程の出力を誇っているこの魔法をどう出力調整してアレンジするか、彼はそのヒントを得る為にここへ来た。

 「……………………」

 別にあの手の魔法は出力が高ければそれに越した事はないだろうと思われがちだが、実際に自分の手で撃った彼にとってそれは大きな間違いなのである。確かに単純な話で言えばパワーが大きければそれだけで相手には威嚇になる上に与えるダメージも上々のものとなるだろう。だがそれは全て『当たる』事を前提にしての条件であり、もし外したりすればそれだけで一気にこちらの戦局は不利の旗色に染まってしまうのだ。かつて考案者である高町なのはがこれを初めて使用した際には相手が一歩も動けないようにと四肢にバインドを掛けて封じたらしいが、ただでさえ大出力魔法を放とうと言うのにバインドなどと言う精神を集中させねばならないものまで使用しなければならないのはナンセンスだ。加えてこの魔法は一度放てば自身の持つ魔力の大部分を消耗してしまう欠点付きだ……考案者である高町なのはでも連続ではたったの二回、もしくはどんなに限界一杯までやれても三回しか使えないと来ている。射撃・砲撃系統の魔法は精度と連射性こそが絶対重要……それを完璧なまでに無視した砲撃魔法に有るまじき冒涜的とも言えるこれをどう改善するのか、それが最大の課題だった。

 光学迷彩被膜を解除した彼は撤去作業中の騎士団の目を避けて更に敷地の中へと進み、森林の獣道じみた道をを通って行くと、彼の目の前には開けた土地が見えて来た。昨日自分が放った砲撃の跡地ではない……地面の上に規則正しく並んだモノリスの表面には小さく個人名が刻んであり、それらが墓石である事を容易に理解させた。ざっと見渡してもその数は百を下らない……表面に苔や傷が全く無い所を見ると手入れが行き届いているのか、あるいはごく最近になって造られたのかは知らないが、どうやら道を誤ってしまったらしかった。本来ならば敷地内の最北エリア、砲撃による損害が最も少ないと計算した場所へと向かうはずだったのがいつの間にかこんな無用の場所へと行き着いてしまったのだ。どうにも直に足で移動するのは不得手だ、空中を飛行して移動するのとは違って目的地まで一直線と言う訳には行かないからだ。

 「仕方が無い、森を一直線に、突っ切るか」

 彼は墓前に立って手を合わせると言ったような宗教的行動は一切しない。自然の摂理ではなく完全な人工物として仮初の生を受けた彼にとって“神”と言う曖昧な存在はある意味で最も嫌悪すべき部類に入っているからだ。当然、死ぬと言う事実に関しても同じだ……生物的な死を迎えれば、その時点でそれが終了なのだ、霊魂だとか楽園だとか転生だとかも全く以て信じてはいないし、むしろ否定していた。死ねばその向こう側に存在するのは絶対的な“無”……それだけなのだ。

 足元の雑草を踏み、鳥達が泣き叫ぶのもお構い無しに木々を手刀で薙ぎ倒しながら彼は文字通り一直線に目的の場所を目指した。飛行すれば立ちどころに騎士達の目に留まってしまうので徒歩で移動するより仕方が無いのだが、自然の造形を出来得る限り残したままで教会を建築したこの敷地内には森林を始めとし、急勾配の坂道や本当に人が通るのかと言ったような獣道まで残っており、安息日に当たる日に通い慣れた信徒ですら通らないような道を現在彼はずっと移動しているのだ。山道にも似た悪路を移動するプログラムは搭載されている訳ではないのだが、それを差し引いたとしてもここはかなり歩き辛かった。

 そんな道を数分歩き続けた後、森林の茂みの中に少しだけ開けた箇所を発見し、葉の隙間から除けば高低位置の関係から教会敷地のクレーターをある程度だが見渡す事が出来た。ここからなら昨日の魔法の詳細な威力計算には持って来いのポジションだ、常緑樹の葉で迷彩効果もある上に人通りも全く無い。しばらくはここに長居していても大丈夫のようだ。

 「まず重要なのは、出力計算……。徒に魔力を、浪費しても、それに比例するだけの、結果が出せねば、話しにならない。如何に消費魔力を、セーブするか……それが問題だ」

 【スターライトブレイカー】の考案者の高町なのはは、この魔法を【ディバインバスター】の上位互換だとしている。砲撃魔法の短所であるチャージ時のタイムラグや魔力消費量の関係から出て来る連発性の低さと言ったモノを全て度外視し、圧倒的大出力から弾き出される重火力と破壊力のみを極限にまで追求した結果、彼女の場合はこの答えに行き着いたのだろう。火力と出力を重視する砲撃系統においてその概念は何の矛盾も無いのだろうが、トレーゼの場合は違っていた。と言うか、むしろ常人の思考であれば誰もが行き着くであろう回答を選ぼうとしていたのだ──。

 つまり──、



 短所を無くす。ただそれだけの事である。



 手っ取り早い話としては、従来の『破壊力』を維持しつつ、どうやって『連発性アップ』と『魔力消費の削減』を実現させるかと言う事だ。昨日の一件で彼が放ったのは従来の【スターライトブレイカー】(以後、『タカマチ式』と呼称)とは違い、リンカーコアからの供給のみで放ったモノだ。タカマチ式と比較すれば単純計算するとその最大威力は僅か三分の一、トレーゼのリンカーコアに複数掛けられている拘束制限術式を解放すれば話しは別だろうが、それでは高町なのはと同じ魔力の垂れ流しに過ぎない。なるべく魔力の消費を抑えながらそれでいて高威力……贅沢な注文だが、それを無理を通してでも可能にしてこそ対魔導騎士兵器として製造されたトレーゼの能力が試されると言うモノだ。

 「まず第一に、カートリッジは、不使用の方向で行こう。余分な魔力は、一切消費しない。となれば、やはり周囲から、直に吸収するしか、ないか……」

 タカマチ式も本来は戦闘空域に散布された余剰魔力を掻き集めて発動させていたはずだ。戦う場所にもよるが、この魔法世界ミッドチルダでは人間の住む所にはほぼ例外なく魔力が満ち溢れており、さらに辺境の竜種などが生息している地域ではその数倍以上の濃度で魔力が常時存在している。それらをリンカーコアの許容量限界にまで吸収し一気に解放すれば、爆弾の爆発で周囲の空気が熱膨張するのと同じ理屈で破壊力が生まれるのだろう。現に彼が放ったモノはリンカーコアから供給される魔力だけを圧縮しただけの単純なモノだったが、そこから導き出された威力はこうして目の前に結果として残っている。だがこれではまだ満足できない……真の砲撃魔法は土壌を抉って吹き飛ばす位でなければならない、これではまだまだ威力不足だ。魔力収集に関して言えばDMFがあるので問題は無い、いざとなれば相手から直接奪い取れば良いだけの話だ。

 「問題は、『威力』……。ダイレクトに、デバイスへ充填しただけでは、力不足も良い所…………やはり、一度リンカーコアに転送し、“再増幅”させるしかないか」

 取り込んだ魔力をそのまま得物に送り込めばその連発性と速射性能は確実だか、元々大気中に散在しているだけだった魔力を撃ち出すのは遠距離の対象に散弾銃で致命傷を与えようとするのと同義であり、どうしても貫通力を高める為に一度圧縮させる必要があった。だが通常デバイスには魔力を溜め込んでおく機能はあっても圧縮まではスペック上の問題から可能ではなく、それは彼のデウス・エクス・マキナとて例外ではなかった。やはりここは多少のタイムラグを無視してでも圧縮した方が良いだろう、威力が低くては何の為に撃つのか分かったものではない。

 ふと──、

 鳥達の鳴き声が止んだ。

 つい今しがたまで頭上の木々の枝でやかましく鳴いて止まなかった鳥達が突然ピタリと鳴き止んだのだ。飛び去った気配は無く、むしろその逆……自分達のテリトリーに進入して来た“何か”に対して身を潜めているのだ。自然界の動物は賢い……危険が迫っていると分かった時には、まず逃げるのではなくその場で息を殺して気配を消し、相手が自分を通り過ぎるのをじっと待つのだ。かつて古代ベルカ王朝によって支配された森林の部族達は木々に隠れた外敵や侵入者を察知するのに小動物達のこの習性を利用したとされ、平定に繰り出した騎士達はそれに気付けず幾度となく苦戦を強いられたらしい。今これがまさにその状態だった。鳥達が静観している所を見ると相手はただ単にここへ足を踏み入れたと言うだけなのかも知れないが、トレーゼにとっては不都合極まり無い状況だった。人気の無い獣道を使ってここまで来て身を隠していたのがここでバレる恐れがあるからだ。はっきり言って人知れず始末してしまえば一番手っ取り早いのだが、この一帯には常緑樹が生い茂っている所為で視界は悪く、枯葉などが蓄積している足元しか見えなかった。よって現在彼はここへ足を運んだ人物がどんな奴なのかについては全くの無知……であれば、もし発見された場合に取る行動は一つ──、

 「……速やか且つ、迅速に、対象を排除する」

 純白の服の袖口から、いつかセインを始末しようとした時に使ったナイフを滑り出させ、逆手に構えた。相手がどこから向かって来るかは知らないが、この足元で接近すれば足音が聞こえるはずだ。声を上げられる前に左手で口を塞ぎ、反撃される前に右手のナイフで喉を捌く……あとは絶命するまで押さえ込んでおくだけだ。返り血で全身が染まるだろうがシルバーカーテンの効果で幾らでも誤魔化しが効く、何の心配も無い。聴覚神経を研ぎ澄まし、対象……否、獲物が感覚の網に掛るのをじっと待った。

 そして──、

 ……ザクッ。

 「っ!!」

 枯葉と枝を踏む音が鼓膜を打った。立て続けに聞こえて来るようになったその足音に耳を澄ませる……音の大きさで相対距離、間隔で歩幅と身長、そしてそこから導かれる対象の体重に至るまでを瞬時に予測、獲物を仕留める手口に若干の修正を加えつつ、彼は臨戦体勢を取った。腰を低くして下半身の筋肉を縮め、いつでもバネ運動で飛び掛かれるようにしているのだ。やがて足音は徐々に彼の居るポイントまで接近し、茂みの向こう側で何者かがガサガサと動いているのも確認出来るまでになって来た。

 そして、枝や葉を押し退けて姿を見せたその姿を確認した時、トレーゼは──、










 「……………………どこだよ、ここ」

 セイン達と別れた後で作業中だった騎士を捕まえて東館の方向を聞いたノーヴェはその騎士が指差した方向を『真っ直ぐに』歩き、途中で森のような所を突っ切ろうとしたのだが、行けども行けども見えるのは見飽きた木々ばかり……万歩計で200歩位歩いた辺りからようやく、「あれ? ひょっとした迷った?」と言う考えに行き着く事が出来たのだった。

 「いやいやいやいや! あたしってこの教会って今までに何回か来てるじゃん! 何で今さら迷うんだって、バッカじゃねーのかよ。いや、そりゃあさ、東館なんて所一回も行った事ねーけどさ、だからってこんなベタな展開……………………道ってどこだっけ?」

 ここで頼みの綱代わりだった獣道までもが、独り言を言いながら歩いていた所為でいつの間にか逸れてしまい、彼女は遂に教会の敷地内で完璧な迷子状態に陥ってしまう事なったのだった。戸籍登録上とは言え彼女は18歳……さっきまでずっと迷った訳ではないと自分に言い聞かせていたのだが、とうとうその心も折れてしまった。彼女の言うように今までここには何度か足を運んではいたのだが、こう言った茂みの中へは一切立ち寄った事が無かった為にこうなってしまったようだ。

 「……そ、そうだ! チンク姉が言ってたっけ、遭難した時は太陽を見れば方角が分かるって!」

 隻眼の姉の言う通りに葉の隙間から見える燦々とした冬の太陽を見つめる。熱帯の密林ならともかくこの森はそれ程葉の密度が高い訳ではなかったので空を見るにはまだ余裕があった。

 だが……

 「あれ……? 東ってどっちだっけ?」

 南と北、東と西がそれぞれ対になっているのはノーヴェも知ってはいたが、問題はその配置……彼女は空の太陽と対比してどこに東西南北があるのかを全く熟知していなかったのである。結局、数秒間太陽を見つめた挙句に彼女が呟いたのは、「お日さんってどこの方向に昇るんだっけ?」だった。

 「しゃーない、適当に行きゃ何とかなるか。樹海に足突っ込んだ訳じゃねーんだし、歩いてりゃその内に出られるだろうしな」



 と、これが十分前の彼女の言葉だった。



 枯葉と細枝が落ちた地面を黙々と歩き続けたが結局道らしい道にはまるで出会わなかった。いくら広いと言っても教会の敷地にある森がそんなに広大なはずはなく、恐らくは知らない内に真っ直ぐ歩いているつもりが徐々に円を描くように進んでしまっていると言う遭難者の典型的な迷い方をしてしまっているのだろう。

 「あれ? ここってさっき通ったような気がするようなしないような……。やっぱセインに通信で頼んで来てもらっかなぁ」

 脳に埋め込まれているマイクロ端末を利用すれば殆ど時間を置かずにセインがそれを探知してここまで来てくれるだろう。だがそれは出来ればしたくはなかった。単純にプライドが高いからと言うのもあるのだろうが、今のセインは傷付いた二人の妹の世話で忙しく、恐らく自分なんかの為に時間を割いている暇は全く無いはずだったので気が引けたのだ。あの二人も血が全く繋がっていないとは言え自分の妹……出来る事なら早く傷を癒す方が良いに決まっているし、その所為で多忙な姉を煩わせる気も当然無かった。あの姉はスバルに輪を掛けてバカではあるが、妹に対する情熱はチンクと同じ位ある彼女の邪魔をしたくはなかったのだ。

 だがそう頭で綺麗事を並べていても自分が迷走している事実に変わりは無い訳で、彼女は途方に暮れながら再び歩き始めた。時刻はとっくに11時過ぎ……昼食にはまだ少し早い時間帯でも彼女の腹の虫はとっくに催促し始めており、これでは東館に到達する頃には空腹で一歩も動けないのではないかと懸念の心が頭を出し始めて来ていた。

 しかし、ここでノーヴェに転機が訪れた。

 「んぁ? あれって……」

 森の葉の間から僅かに見え隠れしている空間……葉の隙間が他の方向と比べて薄く、目を凝らせばその向こう側の風景も見える……。どうやらその場所は木々が生えておらず、そのお陰で少しだけ見晴らしが良くなっていた。あそこまで行けば何とかして森の外へと抜け出られるかも知れない……そんな期待を胸に抱き、ノーヴェは歩く速さを少し速くしてそこへと向かった。枯葉を踏み、木々をかわして進んで行き、ついに彼女はそこまでやって来ることに成功した。

 「おお! 出られた! すっげぇ見渡しが良いよなここ。えーっと、セイン達が居たのがあの建物だったから……東館ってのは多分あれの事だな」

 広い敷地の隅に位置している少し小さめの建物を確認し、他のものと比べても比較的損壊度が低かった事から彼女はそれがイクスの安置されている東館だと推測した。自分の居る位置から真っ直ぐに行ける距離にあり、彼女はすぐさま傾斜を滑り降りるべく腰を屈め、地面に手を着いた。

 だが、ここで小さな違和感……。

 「?」

 別に大したモノではない、足を捻ってしまったとか、ここへ来る間に何か落とし物をしてしまったとかでも何でもない……彼女が手を着いた所にあったモノ、それに違和感を覚えたのである。

 それは葉……そこら辺に落ちている茶色の枯葉とは違い、冬の寒さでも枯れる事を知らない常緑樹の葉だった。ここの森には冬を迎えると枯葉を落とす普通の樹木と一年の四季を通して一切枯れない常緑樹の二種類が密生しおり、通常枯れない常緑樹の葉は普通の木とは違って枯れないが故に茎や葉も丈夫なはずのだ。だがこの葉はこうして落ちている……昨日の雨でも全く落ちなかった木々の葉がどうして、何故、ここで、一枚だけ落ちているのかノーヴェには分からなかった。

 ふと、彼女は自分の頭上に何か不穏な気配か何かでも感じたのか、視線を自分の真上に向けた。

 鳥達が鳴き、葉や枝が空を覆い隠そうとしている他には何も確認出来なかった。確かに鳥とか小動物とは違う気配を肌で感じたような気がしたのだが、どうやらそれは自分の勘違いのようであった。

 そうやって実に理性的な結論を頭の出し、再び彼女は視線を元に戻し──、



 見覚えのある金色の瞳と目が合った。



 森林の暗い雰囲気とはまるで対照的な目に痛い純白の服とそれと同じ位に白い素肌……自然界ではおそらく目にする事が殆ど無いであろう濃い紫苑の髪……そして、今ノーヴェの視線が見事釘付けになってしまっている水晶よりも澄み切った金色の猛禽類の如き双眸…………見間違えるはずも無い、彼女が生を受けてからの人生で出会った数少ない“友人”に分類される人間の顔を──。

 「トレーゼっ!!?」

 「……あぁ」

 どうしてここに?

 自分をつけていた?

 それとも元からここに居た?

 こんな森の中に?

 だからどうして!?

 「え、っあうえぉ!? えええ!?」

 様々な疑問が脳内を激しく交差するが、それらは全て言葉になる事無く喘ぎ声のような奇声となって口の端から漏れ出るだけでしかなかった。必死に落ち着こうとするのだがそれが逆に混乱を加速させてしまい、その所為で体勢を保っていられなくなった彼女は枯葉の滑り易い表面に手を取られてしまい……

 滑り落ちた。それもかなり豪快に、何故か頭から。

 「ぎゃぁあああああああっ!!!?」

 女性の口から出ているとは思えない声は今更放っておくとして、元が山野の一部を拓いて建物を建てているだけに傾斜角度が結構あり、彼女の体重と相まって滑走速度は異常に加速を増して行った。足で踏ん張って止まろうとするものの枯葉が滑って全然止まれない……! このままでは怪我をするとまではいかないだろうが、地面に当たった時に痛い思いをするのは確実だ。彼女はこれ以上落ちてはいけないと必死になって木の根か何かに掴まろうと右手を振り──、

 “何か”を力一杯掴む事でやっと事無きを得た。始めは太さ的に木の根だと思ったのだが、根っこにしては感触が変だ……全体的に滑らかなようでしっかりしており、柔らかいようで凄く硬い……この感触を彼女はどこかで感じた事があった。彼女の右手が握ったモノ、それは“バインド”……押し固めた高密度魔力によって形成された魔法の綱が真っ直ぐにノーヴェの右手と彼女の上に居るトレーゼの左手を結んでいたのだ。

 「……大丈夫、か?」

 「お、おぅ……。寿命とかがマッハで三年分縮んだような気がしたけどな……」

 「降ろすぞ」

 バインドの長さを調節し、ようやくノーヴェは地上に無事着地することに成功した。多少泥で服の端々が汚れてしまったが外を出歩く分には問題無い程度だったので良しとしたかった。何故ここにトレーゼが居たのかは知らないが、それは後からでも充分聞ける事だ……自分の跡を追うように斜面を滑り降りて来る彼の姿を見ながらそんな事を考えていた。

 だが、ふと彼女はさっきまで気にならなかった服の汚れが少しだけ気になり始めていた。無意識にその部分が目の前の彼に見えないように隠しながら……。










 危なかった、あともう少しで眼前の彼女を『破壊』してしまうところだった。恐らくはセイン達の見舞いか何かでここへやって来たのだろうが、何故こんな人が通らないような場所まで? まぁそれは自分から聞かなくとも相手が喋ってくれる事だ。

 ノーヴェ・ナカジマ……恐らく自分が選抜した元ナンバーズの中で最も『不適合』の素材……元はセッテの代替物として勢力図の視野に入れていたが、当のセッテが地上に降りて来た所為でその必要性は大いに低下した。もはや利用価値は言う程無いのが事実……ひょっとすればここで始末しておいても良かったのかもしれなかった。自分はまたも『選択』を誤ったのかも知れない、これではセッテに言って教えた事が全部自分にも当て嵌まる事になってしまう……。全く以て儘ならないものだ。

 取り合えず、ノーヴェにはここへ来たのは職務上の知り合いが居ると言う事にしておけば良いだろう。幸いにも彼女には自分が“13番目”だと言う事は知られていない様子だ、自分は今まで通りに一介の武装局員として振舞っていればそれで良い。たったその一つの役を演じるだけで目の前にいる堕落者は簡単に騙されてくれるのだから……。

 仕方が無い、しばらくは彼女の『お友達ごっこ』に付き合ってやるとしよう。四日後には自分がどうなっているかも知らないで、ゼロ・セカンド共々本当に気楽なものだ。

 まずは差し障りの無い常套句から……。

 「奇遇だな、今日は、何の用でここへ?」

 返事はやはり妹達の見舞いだった。昨日の一件を思い浮かべるに、オットーとディードの事を言っているのだろう。あの双子には本当に失望させられたとしか言いようが無かった、戦術行動における『コンビネーションの高さ』をコンセプトに開発されている癖に互いの戦力分担や戦術構築がまるで成っていない……あれでは児戯にも劣る。何の為に創造主であるドクターが単一の遺伝子から同位異個体を造ったのか分かったものではない。私情に任せて後衛担当のオットーが前に出た時点で奴らの兵器としての運用性は地に堕ちたも同然だ、次に相見えた時には情けも掛けるつもりも無い。

 「では、何故あんな、所を?」

 道に迷った……? 聞いたこちらが何とやらだ、元々戦闘機人には遭難対策用のシステムとして常に拠点としているラボからGPSデータが送信されて来るのだ。どうやら局に恭順した際にそう言った機能に関するOSやデータを全て消去されてしまったようだ、厄介なものだ。と言うか、そもそもセイン達の見舞いが終わったのであれば何故こんな所をうろついていたのだろうか?

 イクスヴェリア? 聖王ヴィヴィオの記憶の中に少しだけ残っている……古代ベルカ時代の王の一人であり当時存在していたガリア国を死者の軍団で治め、近隣諸国から死者を操る王である“冥王”の異名を与えられていたとされているらしい。なるほど、現在は昏睡状態で辛うじて最低限の生物的活動をしているだけか……。それにしても死体を利用してそれを兵器転用するとは中々どうして強力な力を持っていたものだ。あのヴィヴィオが【聖王の鎧】である事を考えれば、さしずめそのイクスヴェリアの能力は【冥王の屍兵】と呼ぶに相応しい。

 ふむ、なるほど──、

 その力、興味がある。利用しない手は無いだろう。










 結論から言えば、ノーヴェは現在途轍もなく緊張していた。成り行きで一緒にイクスの見舞いに同行してくれるらしいトレーゼの姿を横目でチラチラと盗み見しながら、彼女はずっとソワソワした感覚を抑え切れなかった。元々父親以外の男性とはそれほど親しく接したことが殆ど無く、トレーゼに関しても出会ってから半月も経っていないので正直言って互いの意思疎通が上手く行っているかさえも自分では分からない始末だった。

 (うっわぁ……! 落ち着かねぇ!!)

 ギンガやチンクに言わせれば単に男性に対する免疫が無いだけだと言われるのだろうが、今の彼女は誰の目から見ても明らかに挙動不審としか思えないテンションだった。すぐ近くに居た友人がそう言った事を全く気にしない人種だったのがある意味一番の救いだったと言えよう……。だがしかし、彼女が必要以上に緊張してしまっているのは単に彼を異性と意識しているからと言う訳ではない。もちろんそれもあるが、彼女の心に在るのは緊張と言うよりかはむしろ居心地の悪さ……前回海上更正施設での一件が尾を引いており、四日振りに面と向かって会えたと言うのにどうも素直に喜べない。

 あの時セッテが言った言葉……『彼はこの世の全てを嫌悪している』と言っていた。そして、それは自分もセッテも例外ではないと言う事も聞かされた。あの日自分が怒りに身を委ねて妹であるセッテを一方的に殴りつけた後、彼はいつも以上に素気ない態度を取り続けた挙句、あの日は遂にあれ以上自分と言葉を交わそうともせずに姿を暗ましてしまった。実は最近になってトレーゼはますます自分との距離が開いていると認識し始めていたノーヴェ……最初に出会った時は無愛想で荒削りな物言いの中に何か別のモノを感じていたが、それは彼に会う度に次第に薄れて行った。『美女は三日で飽き、醜女は三日で慣れる』の男性版だと言ってしまえば身も蓋も無いのだが、当然彼女にとってはそんな生易しい言葉なんかで片付けられる程にこの思い悩みが軽いモノではなかった。

 今こうして辛うじて会話出来ているように見えるが、実際心の中は疲労困憊に近かった。今こうやって事も無く話している目の前の友人が本当は自分の事をどう思っているのか……相手の心中が分からない事程に恐ろしく、それでいてもどかしいモノは無い。あるいは自分に対して何の感情も抱いていないと言う事も考えられる。もし仮にこれが思い込みではなく本当にそうだとすれば、今こうして彼の横に立っている自分は一体何だと言うのか?

 そうして歩いている内に東館の玄関までやって来た。番をしていた騎士の男性はノーヴェの事を見知っていたので連れ添いのトレーゼの方も特に咎める事無く中へ入れてくれた。中の廊下に飾ってある絵画などの調度品が珍しいのか、トレーゼの視線はずっとそちらを向いたままだった。

 そして……。

 「えーっと、ここに居るはずなんだよな」

 東館の中で一番端の部屋の前……この扉を開ければそこのベッドにスバルの友人、イクスヴェリアが眠っているはずだった。現代の科学・医療技術では決して醒める事の無い眠りに沈んだ彼女……恐らくスバル自身も自分が生きている内には絶対に再会する事は無いだろうと自覚しているだろうが、それでもこうしてせめて人間らしく彼女を眠らせたいと言う愛情があるのだ。何世紀経ってしまった後でも彼女が出来るだけ寂しい思いをしないようにと……。

 ドアを開ける──。一人で使うには大き過ぎるベッドには橙色の髪を持つ小さな少女が眠っていた。永劫の時を流れる揺り籠に身を委ねる少女の寝顔には心なしか薄らと笑みが浮かんでいるようにも思え、ノーヴェもここへ来てやっと気持ちが紛れたような気がした。

 「イクス……久し振り。元気してたかー?」

 呼び掛ける。死んでいるのではない、ただちょっと眠りが深いだけだ……ちゃんと生きているのだからこうして話し掛けるのに何の抵抗も違和感も無い、むしろ当然の事だと思っている。頭を撫でれば人の体温が伝わって来る……生きているのだ、今もこうして。

 「あ、花瓶に花がねーな……。ったく、ちょっと水と花入れて来るから、トレーゼは待っててくれな」

 ベッドの近くに置かれてあった花瓶を抱え、彼女はすぐさま水を入れに行こうとした。やっぱり花瓶が置かれてあるのに花が無いと言うのはもったいなかった。トレーゼは素直に彼女に言われた通りに引っ張りだした椅子に座っていた。

 再びドアを開け、すぐ隣にある化粧室の水道を借りに行った。あんまり勢い良く飛び出した所為で彼女は見逃す事となってしまったのだ……。

 背後の友人が懐から一本の注射器を取り出そうとしている所を──。










 “冥王”イクスヴェリア……こうして直に見れば何と言う事は無い、ただの小さな子供だ。数百年の永い眠りの所為で死者を行使する能力は消え果て、もはや古代ベルカに君臨していた王の一人だとは到底思えない程に弱体化の極みに到達してしまっていた。この先再び数百年以上は覚醒しないと分かった時は半信半疑だったが、この状態を見る限りではそれも事実らしかった。人間の感情とは理解出来ない……こんなモノ、さっさと処分してしまえば良いのにいつまでもここに留めようとして自分達の記憶の残滓、『思い出』に囚われ続ける……何とも哀れで馬鹿な話だ。

 自分ならさっさと消し炭にするのに……。それとも、今ここでそうしてしまうのも悪くは無い、始めは無理矢理にでも覚醒させようと思ったが、起こすこと適わぬなら利用価値はゼロだ。いや、むしろ三ヶ月前の事件のように誰がこの能力を利用するか分かったモノではない。それも仮に管理局がそれを実行したとしたなら最悪だ、その屍兵共を自分に使われたのであれば切りが無い。ノーヴェが水を汲んでいる間に始末をつけるか?

 …………いや、待てよ? 利用価値はある。

 簡単だ、この少女の能力を自分が『見取って』しまえば良いのだ。正確には体液を取り込んでその能力発現を司る因子を組み込む、と言った方が正しいだろう。そうすればこちらも数の暴力とやらを手に入れられる……兵士を造るには死体が必要だが、問題無い、“ストック”は存在している。

 能力が消えたと言うのはあくまで表面上、肉体を構成しているDNAにはその因子がしっかりと刻まれているはず……。だとすれば当然血中にも……。

 うむ、針の通りが良い所を見るとやはり生きてはいるのか……。血色もさほど悪い訳ではない、本当に生きたまま死んでいるようだな。だが周囲の俗人には分からんだろうな……この状態こそまさに理想、生きていながら死んでいる、死んでいながら生きている……二つの矛盾した状態を抱えながらもこうして存在出来ているこの少女こそ真に一般論で言う所の“幸福”に値するのではないだろうか。『死んで』いるから一切の苦から逃れられ、『生きて』いるから生物としての生を享受出来る……まさに完璧だ、生と死の相反する二つの現象の狭間に居るからこそ成せる究極の“幸福感情”……自分は、この少女に羨望と言う感情を発生させているのかも知れない。

 さて、目的の物は手に入れた……一度は始末してしまおうとは考えたが、よくよく考えればそれもナンセンス……ノーヴェが戻って来る前にここを退散した方が良いだろうな。流石にあれの『お友達ごっこ』にも飽きる……いい加減付き合い切れない域にまで来ているからな。

 さようなら、恐らくこの世で最も『幸福』な少女……。欲を言えば俺も…………いや、今更何も言えないか。










 「お待っとさ~ん……って、あれ? トレーゼ?」

 花瓶に花と水を入れ終えて戻って来たノーヴェは、部屋に居る人数が一人減っている事にすぐ気がついた。ベッドの傍には誰も座っていない椅子が寂しく佇んでいるだけであり、さっきまで閉まっていたはずの窓が全開になっていた。真昼の冬風は虚しくカーテンを揺らし、彼女の頬を撫でて通り過ぎて行くだけだった……。

 「…………帰るんだったら言ってくれりゃ良いのに……」

 神出鬼没……風の様に現れ風の様に消えると言えば如何にもロマンチックに思えるかも知れないが、こうして実際目の当たりにすると物哀しいことこの上ない。自分の知らぬ間に相手が消えてしまうと言うのはある意味で恐怖と寂寥感が心中を埋め尽くすのだ。

 だが彼のそう言った所は今に始まった訳ではないので今更どうしようもない。そう割り切りながらノーヴェは卓の上に花瓶を置き──、

 足元に黒い羽根が落ちているのに気付いた。

 形と大きさから見てどうやらカラスの羽根のようだが、何故ここに落ちているのだろうか? 窓を開けた時に迷い込んでいたのか?

 「ま、いっかそんな事どうだって」

 だが結局彼女は生来の性格からすぐにその事について深く考えることを放棄した。この時、彼女がもう少し注意深い性格だったならベッドから少しはみ出しているイクスの腕を中へ戻しただろう。

 そして、その時気付くのだ……



 彼女の腕に小さな傷痕があった事に。










 午前11時30分、地上本部正面玄関入口にて──。



 ティアナ・ランスターは外のベンチで少し早い昼食を摂っていた。今さっきまで報告書作りに追われていた最中であり、午後からは例の親子連れ殺人とその犯人である組織が壊滅した件とのダブル調査で忙しく、今この時間でないと満足に食事を摂る事も出来ないのだ。もっとも、食事とは言え実際はそこら辺の購買やショップで売られているようなファーストフードだが……贅沢は言っては居られない、激務である執務官の職を選んだのは自分自身なのだから。

 「この『おにぎり』って言うの美味しいわね。米の栄養価と携帯食料の食べ易さが合ってるわ。今度ヴァイス陸曹にも勧めてみようかしら?」

 第97管理外世界特有の食文化の一部を堪能しながら彼女はそれらをさっさと胃袋の中へと押し込んで行く。

 「それにしても、朝っぱらからいきなりスバルが廊下走ってるなんて何の冗談かと思ったわ……。足が治ったのは良いけど、頭の中はいつものまんま。本当にバカだけど……安心したわ」

 今頃中庭で久し振りに走り込んでいるであろう親友の顔を思い浮かべながら、ティアナはふと微笑んだ。それはこの二週間で彼女がやっと見せる事が出来た安堵の表情だった。

 ふと、彼女は視界の隅で何か黒いモノが動いているのに気が付いた。何となくそっちの方向を見ると、一羽のカラスがチョコチョコと小走りでこっちまでやって来るのが見える。腹でも空かせているのか、その視線はティアナの手にある食事に向けられたままだった。

 「あんたもお腹減ってるの? 良いわよ、ちょっとだけあげるわ」

 米粒を少し摘まんでティアナはそのカラスに分け与えようと手を伸ばし……



 クァーッ!!



 「うわっ! ちょ、何すんのよ!? 痛っ! 痛い痛い!!」

 ここまで来てそのカラスは突然の威嚇行動に入り、黒い翼を大きく広げて飛び上がると脚の爪でティアナの頭を攻撃してきたのだ。その勢いたるや凄まじく、彼女がいくら抵抗しても頭皮や髪の毛を思い切り引き剥がさんとしていた。

 「あぁ~! もうっ!! いい加減にしないと撃つわよ!!」

 分かり易く右手を銃の形に見立てて大人げなくカラスに向かってブンブン手を振る。するとようやく相手も諦めたのか、強気に「カァー!」と一言鳴いてどこかへと飛び去って行ってしまった。手が爪の傷だらけで痛い……今回の件で知性的な彼女が新たに学習したのは、『動物には無闇に構ったりしない事』であった。










 地上約200メートル、地上本部の棟の天辺にそのカラスは一旦羽根を休めるべくそこへ留まった。時折鳴いたり、翼をくちばしで繕い、如何にも鳥らしくしている……。

 だが──、

 「これで、ランスターの記憶と魔法も、収奪完了した」

 次の瞬間にその黒カラスは消え、そこには白い服に身を包んだ一人の男性が佇んでいた。ティアナの記憶を奪った事でいつでも彼女に完璧に“挿げ変わる”事が可能になったその男──トレーゼは眼下の地上本部を見降ろしながらふと手を差し伸べた。その手の先に、ずっと街中に放っていた召喚蟲の一匹が留まり、紅い光の明滅で情報を主に伝達する。それらを解読し、彼は一つの情報を得た。

 「そうか……。ゼロ・セカンドの脚が、完治したか……。誰が治したか知らんが、大したモノだな」

 足元を見る……地上まで一直線で行けると判断し、次の瞬間に彼は投身自殺さながらの勢いで飛び降りた。地面まで後10メートルと言う所で彼は木の茂みに落下し……

 「はぁ~あ、バレないように魔法を使わないで落ちるのって苦労するのね。今度から控えようかしら」

 白い服はカーキ色の局員制服に、紫苑の短髪はオレンジの長髪に……つい今しがた記憶を奪ったティアナに完全擬態したトレーゼがそこに居た。身長体重はもちろんの事、体毛の数から筋肉の発達具合、喋り口調や性格に至るまでの全てが本人と寸分違わず……否、本人と同じになっているのだ。これが対人偽装『ライアーズ・マスク』の真髄、他人を模倣するのではなく挿げ変わる事で時に自分自身すら騙す完全な偽装の能力がこれだ。

 「やっぱり女の体って馴染まないのね。筋肉は弱いし、骨だって脆弱……こんなんで戦えてるのが不思議だわ。でも仕方ないわよね、潜入するには流石に局員の格好だけじゃダメだから。一応スバルに会いに行くまではこの格好維持しないと」

 服に付いた木の葉を払いながら彼は堂々と真正面から地上本部の中へと足を踏み入れた。行く先は決まっている……。

 「取り合えず、待ってなさいねスバル。一応アンタが一番幸先不安なんだから、今の内にしっかり矯正しておかないといけないんだから。覚悟してなさい……」



[17818] 仮面の日常:午後
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/08/15 01:14
 11月19日午前4時00分、孤島の隠れアジトにて──。



 「クアットロ、戦いにおいて、勝利を得るに、最も重要な事項は、何か知っているか?」

 三時間前にアジトに戻って来てから今までハンモックで寝ていた兄が突然口を開いた事にクアットロは一瞬呆けたが、しばらく真剣に考えるような素振りを見せた後……。

 「クアットロ、バカだから分かんなぁ~い♪」

 すぐに惚けて見せた。元々しっかり考える気なんて毛頭なかったのだが……。

 「だろうな。貴様は、バカだからな。故に、零点だ」

 「あら、失礼しちゃいますわ。でも、何でそんな事をお聞きになられたのかしら。興味津々ですわ」

 兄の首元に妖艶な雰囲気を纏って腕を絡ませ、クアットロは一人でも狭いハンモックの上に乗り込み、娼婦のようにトレーゼに抱き付いた。特にそれを鬱陶しいとも感じないのかトレーゼの反応は淡白なもので、クアットロの伊達眼鏡を取るとそれをデスクに放り投げた。

 「…………昔、ある主人の許に、忠実な三人の、私兵が居た。ある時、主人はその三人に、俺が今さっき聞いた事を、各々に聞いた」

 「へぇ~、それでその三人は何て答えましたの?」

 「一人目は、『知識』だと答えた。戦いを制するのは、情報……その情報を、操作するには知識が必要だと、そう答えた」

 「あながち間違ってはいませんわね」

 「二人目は、『狡猾さ』だと言った。相手の、裏を斯いてこそ、戦いに勝てるのだと、そう主張していた」

 「あら素敵なお考え。私と気が合ったでしょうねぇ。それで、最後のお一人は何て?」

 「……最後の一人は、『力』だと答えた。全てを圧倒する、小細工も、前調べも必要無い……自分の、前に立ったモノを、片っ端から消し潰す、そんな『暴力』だとな」

 「ちょっと野蛮ですけど一番確実な方法ですわね……。それで結局どれが正しかったんですの? 私に零点と言ったからには満点があるって言う事ですわよね?」

 「この話には、続きがある……。結果として、その三人は、各三十点しか与えられなかった」

 「へぇ……三人とも的を射ていましたのに、意外ですわ」

 クアットロはここで退屈そうに欠伸をするとトレーゼの胸にもたれ込み、眠そうに目を擦り始めていた。そんな彼女をハンモックから容赦無く引き摺り落としながらトレーゼは言葉を続ける。

 「実は、その主人にはもう一人、部下が居た。四人目の……いや、“13人目の”と言った方が、良いか」

 「え……? それって──」

 「主人は、その者にも、同じ事を聞いた。そしたら、そいつは、何て言ったか分かるか?」

 ハンモックの紐をバネ代わりにして飛び上がり、トレーゼはデスクの上に着地した。それだけの軽やかな動きに見とれてしまっていたクアットロは兄からの質問に答えることなど忘れてしまい、ただ呆然と彼を見上げているだけだった。

 「…………何て言ったんですの?」

 「たった一言、『全部』とな。『頭脳』、『速度』、『力』、『物量』……戦いに、勝利する為の条件、その全てが必要だとな」

 「そしたら……何点でしたの?」

 「100点」

 「でもそれってただのトンチ話しじゃありません?」

 「分からないか? 要するに、『勝つ為に手段は選ばない』……これが、正解だったんだ。破壊し、蹂躙し、殲滅してでも、必ず奪い取らなければ、ならない……良く覚えておけ」

 トレーゼは床を埋め尽くす大量の紙束の一枚を抜き出しながらそれをじっくりと眺め始めた。こうして暇な時には過去にスカリエッティが残した論文を読書代わりに嗜んでいて、ここに保管してあるものは粗方読み終えているようだった。そうしている時は大抵クアットロの方は暇なので始めは彼にちょっかいを出したりしていたのだが、やがて相手にされない事を諦めると次第に彼女も床の論文の山から何か面白いモノは無いかと漁り始め──、

 「あらぁ、何かしらこれは?」

 紙束を押し退けて彼女が拾い上げたのは一冊の本……他の物がホチキスや糊で留められているだけの物に対してこちらは革張りになっていて、背表紙には薄らとタイトルが書かれてあるのが確認出来た。小さなその文字を良く読もうとして彼女は背表紙に接近して目を凝らした。

 「えーっと、お兄様ぁ、この本のここってどう読むんですの? ミッド公用語とは違うみたいですの」

 背表紙に記されているタイトルは文字こそミッドチルダにおいて用いられている公用語と似たようなモノだったが、文法体系が微妙に違う所為で読めなかった。恐らくは別の次元世界で使われている言葉なのだろう……かく言う自分達の名前も本当はただの番号であるところをわざわざ創造主の気まぐれで異世界の言語で表記しているのだ、こう言った部分でもその様な趣向を凝らすのも考えられる。となれば、これは自分が目覚める以前に書かれた物と言う事になり、であれば当然トレーゼはこの言葉の意味を知っていると言う事になるはずなのだ。

 「……『Relic』……第97管理外世界に、存在する言語体系の一つ、“English”で、『遺産』を意味している」

 「遺産ねぇ~……中にはどんな記録が入っていますの? あのドクターがわざわざこんな豪華な背表紙の本に纏める位ですからきっとすっごい研究成果を記したに違いありませんわ! 何かしら何かしら? 最強の質量兵器『スイバク』を上回る威力の小型兵器の設計図と基礎知識かしら? それとも将来私達に取り付けるはずだった一個大隊にも匹敵する出力を得られる強化兵装かしら? それともそれとも……って、お兄様その中身見せてくださいなっと!」

 再び兄の手からその本を引っ手繰ると彼女は勢い良くページを開いた。その所為で傷んでいた紙面の一部が耳障りな悲鳴を上げるが彼女はお構い無しに嬉々とした表情で捲り続けた。

 だが、そんな彼女の表情はすぐに冷めたモノへと変わって行った。それは、まるで欲しがっていた玩具が実際に与えられて見ると存外面白くなかった時の子供のような表情だった。

 「何ですのこれ? ドクターはこんなモノを残す為だけにこんな本を作ったとでもいいますの? はんっ、バカバカしいったらありませんわ! お兄様、これそこら辺に捨ててもよろしいかしらぁ?」

 ページを乱暴に閉じた後、クアットロはそれを手にとってゴミ箱に捨てる振りをした。当然彼女はそれを捨てるつもりだったし、“それ”が自分達の計画進行の為には全く必要無いことは如何にクアットロ言えども熟知しているつもりだった。

 しかし──、

 「…………」

 「あらぁ?」

 コンマ数秒で掌から出したバインドを巧みに操って彼はクアットロから本を奪い返し、それを丁寧にデスクの引き出しに仕舞い込んだ。あまりの速度に常人の倍以上の動体視力を誇るはずのクアットロの眼球センサーが一瞬でエラー表示を出した程だった。

 「……お前の言う、こんなモノだが、これは、お前の亡き姉、ドゥーエの遺産でもある……。丁重に扱え」

 「な!? で、でもあのドゥーエ姉様がこんなどうでも……もとい、計画に関係の無いモノを残しておくなんて……!」

 「……………………もういい、今後一切、お前はあれに触れるな。見る事も、許可しない」

 妹の容赦無い物言いに何か引っかかるモノを感じたのか、彼は再び引き出しから先程の本を出すとそれを適当な布で包み、脇に抱えて室外へと出て行った。すぐにクアットロが論文の山を掻き分けて跡を追ったのだが、ドアを開けた時には既にトレーゼの足元には紅い魔法陣が展開されており、どこか彼女の与り知らぬ所へと転移してしまっていた後だった。

 「お兄様ったら、あんなモノに何か思い入れがあるんですの? このクアットロめには理解できませんねぇ」

 ナンバーズ足る彼女には兄である彼の取った行動が理解出来ずにいた。むしろ今この瞬間だけに限って言えば反感に近い感情を抱いていたと言っても過言ではなかった。それ程までに彼女は自分の姉が遺したモノと、それを擁護する兄の行動が受け入れ難かった……何故なら、あの本の中にあったのは世界の常識を覆す内容が記された論文でもなければ、ましてや兵器の設計図なんてモノでもなく──、










 同時刻、トレーゼの肉体は数秒の間も置かずに数十キロメートル離れたポイントへと転移を成功させていた。転移した場所は例のアパートのキッチンルーム……この時間帯だと恐らく寝室ではまだヴィヴィオは熟睡している頃だろう、トレーゼはその部屋へと続くドアを開けると音も無く進入し、彼女の様子を確認した。寝相が悪いのかそれとも単に落ち着かないだけか、彼女はこの季節の夜にも関わらずに布団の端から体の大半を露出させたまま睡眠してしまっていた。あのままでは風邪を引いて体調に悪影響を及ぼすだろう……そう判断した彼はすぐさま彼女に進み寄り、その小さな体を片手で抱えたままベッドを整理し、丁寧に彼女をベッドへと戻した。その後、彼はしばらく部屋をキョロキョロと見渡した後……。

 「……やはり、ここか」

 ベッドの下のほんの僅かな空間を見つけ、それまでずっと抱えていた本をそこへ滑り込ませた。ここであればクアットロが注意を向ける事も無いだろう……後は彼女が昨夜渡しておいた血液サンプルの解析を成功させればヴィヴィオは自然と用済みになり、その時にまた回収すれば良いだけの話だ。

 ふと、彼は窓の外から聞こえて来る喧騒に耳を傾けた。対衝撃仕様のガラスを透して聞こえて来た音は、発砲音……僅かな隙間から捉えた微粒子が嗅覚神経に教えてくれたのは硝煙の刺激臭、間違い無い、どうやら外で体の良い“玩具”を持てた事に浮かれた輩達がいらない騒ぎを起こしたのだろう。この部屋を借りる際に不動産屋が言っていたが、どうやらこの辺りは本当に薬物や拳銃などの小型質量兵器の密売屋が根城にしているらしかった。昼間でしかここに来ていなかったので分からなかったが、恐らく毎夜の如くこうして抗争紛いの馬鹿騒ぎを起こしているのだろう。通常ならすぐさま局の捜査官なりが来て一斉検挙のはずなのだろうが、如何せん管理局の体制は大型組織に有り勝ちな『事無かれ主義』……上層部の革張りの肘掛椅子に腰を降ろしている連中程にこう言った面倒事には極力関わろうとせず、積極的に行動を起こした者だけが結果的に割を食うのだ。ちょうど、かつてのティアナの兄ティーダ・ランスターのように……。

 また一発聞こえて来た、今度はもっと近くでだ。銃声と火薬の臭気からして恐らく先程の銃声の主と同じか、あるいは同型の銃を所持している複数の犯行か、どちらにしても連続して銃声が聞こえて来たとなれば他方の一方的な蹂躙が行われているのだろう。たかが利害の不一致で殺し合うとは……俗人達はやはり低俗な思考しか出来ないようだと改めて認識させられた。

 そして──、

 タァンッ……!!

 最後の一発が聞こえて来た時……。

 「ッ!!?」

 「……?」

 彼はベッドの中で熟睡しているはずの少女の体が大きく揺れ動くのを見た。掛け布団越しからでも分かるその痙攣は明らかに恐怖による強い拒否反応、恐らくはトレーゼが来る前から度々聞こえ続けていた銃声や喧騒に怯えて殆ど眠れていなかったのだろう。やっと少しだけ静かになって眠れそうになっていたのがこうして再び物騒な物音に苛まれ、虚ろな意識の中で恐怖に怯えて身を震わせていた。

 それを見るに見かねたのか、トレーゼは月光を取り込んでいた窓のカーテンとドアの鍵まで閉め、懐から取り出したマキナまでも卓上に置いて純白の服だけを纏った彼は足元に固有技能発動の印である疑似魔法陣を出現させた。現在彼が保有している14のISから今のこの現状で発動させるのは、たった一つだけ──、

 「…………IS、No.2『ライアーズ・マスク』、発動」

 対人用偽装能力『ライアーズ・マスク』。自身の肉体を塗り替えるその能力で変身する相手は、目の前の少女の母親──高町なのはだ。身長は一気に頭一つ分伸び、男性特有の筋肉質体型が柔らかな脂肪を湛えた流線形に変化、胸元には本来有るはずの無い隆起が発生し、濃い紫苑の短髪は長い茶色の長髪へと最早華麗としか表現出来ないような変貌を遂げた。完璧に『高町なのは』へと変化を完了した彼、否、“彼女”はゆっくりとベッドに歩み寄り、慈母の眼差しを持ってヴィヴィオの頭に手を置いた。

 「良い子、良い子……本当は怖いのにずっと我慢してたのね。偉いわね、偉い偉い」

 ただ単に頭を撫でているだけではない……ブロンドの髪と頭蓋を透して脳にダイレクトに魔力を流し込む事で神経に働き掛け、精神の安定を図っているのだ。眠っているとは言え脳は覚醒しているはずで、彼がわざわざ母親の姿を取ったのはその声で安心させようとしているのでもあった。

 その効果が表れるまでにそう時間は掛らず、布団の中で怯えていたはずの少女は落ち着きを取り戻して再び精神を涅槃の彼方へと沈めた。全く以て幼子とは厄介なモノだ、赤子ではあるまいしこうして夜中に面倒を見なければならないとは考えていなかった。幼児誘拐ほどに割に合わない犯罪行為は無いとは以前から耳にしてはいたが……何となくだがその意味が分かり掛けたような気もする、これでは途中で犯人がその子供を殺したりする訳だ。実を言えばトレーゼも内心では何をやっているのだろうと考えてはいたのだが……

 「今の私は貴方のママだから……。それに、今私は何でか知らないけどとっても機嫌が良いの……だから……」

 掛け布団を捲り上げ、中の温かい空気が逃げる前に体を滑り込ませる……自分よりもずっと小さなその体をそっと包み込むようにして抱き寄せ、既に眠っているはずの少女にこう囁いた。

 「独りが寂しいなら今日だけはこうしてあげる。『造られたモノ』同士……やっぱり孤独って嫌よね? 辛いよね? 寂しいよね? 私も……17年間…………」

 伏せた目がどこかヴィヴィオを恨めしげに見つめているようで、だがそれでいてどこか慈愛に満ち満ちた眼差しで、限り無く本物に近い偽物の姿をした“彼”はずっと優しく少女を抱き留めたまま共に眠りについた。睡眠時間はヴィヴィオが覚醒した朝7時までのたったの三時間……だが、彼にとっては創造主の許を離れた17年間の間で摂った睡眠の中で最も深い眠りにつく事の出来た三時間だった。










 午前6時30分、地上本部ゲストルームにて──。



 「つまり、どうしても同意は出来ないと言う事ですね?」

 未明の時間帯で局内には夜勤の者を除いては殆ど人が居ないにも関わらず、この来賓用の部屋の室内では対になっている革張りソファに合計六人の男女が一堂に会していた。面子はスカリエッティを挟んでトーレとウーノ、その向かい側のソファにはやて、クロノ、ユーノの順番に座っていた。現在彼らが夜通し議論を交わし合っているその内容は言うなれば『作戦会議』、例の“13番目”に対し今後どの様な出方を図るのかを検討していた。現状では管理局側はほぼ一方的な打撃を受けつつある状況に置かれていた……現在戦力に数えられているメンバーは、ヴィータを除くヴォルケンリッターの三人、両足の負傷が完全回復して職務に復帰しているティアナ、海上更正施設にて教鞭を執っているギンガ、そして地上本部武装隊に出向扱いとなっているエリオとキャロ……このたった七名だけだ。さらに欲を出して戦力を加味するのであれば、特務小隊N2Rの面々と、現在両脚の再生治療に成功しリハビリ中のスバル、隻眼となりながらも何とか戦闘行動は可能な八神はやて等々の面子も加えれば戦力は一気に十三名にまで跳ね上がる。

 だが足りない! 現在戦力図から完全に脱落した者は先日の時点で三名……魔力ノイズを脳に植え付けられた高町なのは、肉体とリンカーコアの双方に多大なダメージを受けた事により現在入院中のフェイト、そして四肢の半分と光りを奪われた教会側戦力のシャッハ……この三人は全て“13番目”の一方的蹂躙によって復帰の目途を無くし、あるいは再起不能にまで追いやられた面子だった。たった一人で武装隊一個中隊とも引けを取らないとまで評された者達が立て続けにここまでしてやられた事実をおいそれと見過す事が出来るはずも無く、生半可な戦力では到底太刀打ちする事など出来ない事を示していた。数も、質も、こちらが現在圧倒的に足りていない状態にあったのだ。そんな状況下で元ナンバーズ最高戦力トーレが急遽一時的釈放扱いになってここへ来たのはまさに暗中の中に差し込んだ一筋の光明と言えた。スカリエッティが自分の身柄を管理局の好きにさせる代わりに要求した条件、『自分の右腕』であるウーノと『対トレーゼ最大の抑止力候補』となるトーレも共に作戦に関わらせる事が今回クロノに課せられた条件だったが、彼自身も多少無理を通したとは言えここまで上手く行くとは思わなかった。何よりも、スカリエッティの先見の目のお陰でこうして新たな戦力を得られた事に内心ではある程度安心していたはずだった。

 そう、誰が予想出来ただろうか──、

 「くどい! 何度も同じ事を言わせるな」

 ナンバーズ側から提供されて来た最高戦力のトーレが──、

 「私はこの作戦については一切協力しない。干渉も! 手助けも! 何一つ絶対に関与しないと言う事を弁えてもらいたい!」

 作戦への協力要請を拒絶するなどと。

 動かざること山の如しとはこの事か、『“13番目”≠トレーゼ』と言う線が色濃くなってから急に旗色を変え、彼女は作戦への参戦を頑なに拒否し続けているのだった。日付が変わった時間帯からずっとクロノとユーノの二人掛りで説得に掛っているのだが、その度に返される言葉は決まっており……。

 「私は『対トレーゼの抑止力候補』としてここまで連行されて来たはずだ。貴様達の言う“13番目”とやらをどうこうする為に来た訳ではない!」

 この一点張りだった。過程は違えど彼女もまたスカリエッティと同じように“13番目”とトレーゼの不一致を強く信じている節があり、それを利用して協力の姿勢を一向に見せてはくれなかった。姉であるウーノも何とかして首を縦に振らせようとはするのだが、どう言った力関係なのか主人であるスカリエッティですらも強く言えない所為で彼女の説得も徒労に終わってしまった。

 「とにかく、何と言われようと私は作戦参加はしない。これだけは絶対だ」

 「絶対、か……。絶対と言う言葉を軽々しく使うとは、科学者として感心せんな。だが良いのかトーレ? 君の『弟』は『姉』である君自身の手でなければ決着は着けられないが」

 「私の知っている『弟』はドクターに強制命令されない限りは一連の事件のような事は仕出かさない。それは私を含めた上位三人のナンバーズ達の間では分かり切った事のはず」

 「フフ、見ての通り実に『弟』想いな『姉』だろう? 20年も昔からこうなんだ、こうやってツンツンしているようで自分の身内にはとことん甘い性格でな」

 出来の悪い娘を職場の同僚にでも見られたかのような困った笑みでスカリエッティはそう言うと向かい側のクロノ達に向き直り、さっきそこに居た虫を叩いたとでも言うような気軽さで……。

 「と言う訳で予定を変更してトーレは作戦に参加出来なくなったのでそのつもりで」

 「おい! ちょっと待て」

 思わず地の性格が口走ってしまったクロノだったが、彼にとって今は体面などどうでも良かった。無期懲役にも等しい刑を執行されている囚人のトーレを提督と言う立場を利用した人脈と権力をフルに使いやっとの思いで一時的釈放扱いにしたと言うのに、それが一瞬で水泡に帰したとなればそりゃ言葉の端々も荒くなると言うものだ。ただでさえ無理を通し過ぎた所為で上層部に対して上がらない頭が更にその重みを増したと言うのに、これで実績が出せなかったら責任を取らされるのは他でもないクロノ自身となってしまうのだ。

 「仕方ないさ、昔から一度曲げたヘソは簡単には直してくれない子でね。機嫌が直るまで新たな作戦でも考えようじゃないか」

 「新たも何も、この数時間ちぃっとも作戦らしい作戦なんか考えてへんやないか。子供の缶蹴りの方がよっぽどええ戦術思いつくわ」

 「それはそうだろう。古来より確実な戦略を編むには優れた知略、優秀な精鋭、周到な段取り、そしてそれを実行に移すだけのコストの四つのポイントをクリアしなければならないのだ。知略の面ではこの私一人で充分過ぎる、費用の面は全て管理局が経費として落としてくれるから良いとしても……問題は人員と準備期間だ。あれには幾ら木偶の坊を投げつけたところで大した意味は無い、半人前の魔導師程度では障害物とも思わないだろう」

 「ちょい待ち、準備期間てどう言う意味や? まるであちらさんがすぐにでも動きそうな口振りやな」

 「まるで、ではないよ……。必ずこの一週間以内に“13番目”は決着を着けに来るはずだ」

 「何故そう断言出来るのですか? 相手方にも準備期間は要るはずです。それがたった一週間で……」

 ユーノが疑問に思うのは当然だろう。どんな軍事作戦遂行のエキスパートでもたった七日で作戦を立案してしまうのは中々難しい話だ。それをあの“13番目”はたった二人の戦力でこの一世紀近くの間も次元世界の治安を護って来た管理局を相手取ろうとしている……常識で考えれば荒唐無稽も甚だしいところだが、相手は目的の為なら手段も犠牲も厭わない狂気の勢力故に一切の油断は出来ないものまた確かな事。

 「司書長殿の疑問ももっともだが、私がトレーゼ……何故“13番目”がそれだけ早期に行動を起こすと予測したのか、理由は三つある」

 立てられた右手の三本指にトーレを除いた全員の視線が集中する……。

 「一つはコスト面。私が察するに“13番目”は過去に私が残したラボのどこかに身を潜めている可能性が高い。三年前までアジトがいつ潰されても良いように幾つか居を構えていてな、そこには私達がいつ戻って来ても問題無く過ごせるようにと食料から研究用の機材や資料までの全てを備蓄して揃えてあった。そこに籠っているとするなら食料にも寝床にも困らないし、おまけにあちらの戦力はたったの二人だから自然に生活していてもコストは掛らない。コストが掛らなければ自然と行動の許容範囲が広がると言う理屈だ」

 「その研究所はどちらに?」

 「過ぎ行く過去に興味は無いので覚えておらん。次に、『戦力数の少なさ』が挙げられる。こちらが大所帯なのに対してあちらはたったの二名……しかも重要な作戦行動の殆どは“13番目”が行っている。数が少ない分不利に見え勝ちかも知れないが、作戦の立案と遂行のスムーズさではあちらが圧倒的に早い。しかもただ単に少ないのではなく実力までも兼ね備えていると来ているから性質が悪い」

 なるほど、頭数の少なさを逆手に取った戦術範囲の広さと言う訳だ。徒に数が多いよりもよっぽど行動し易いはずだ。

 「そして、最後の一つ……。これが最も重要で最も無視できないポイントだ……」

 スカリエッティの三本目の指が折り曲げられ、全員が固唾を呑み言葉を待つ。そして──、



 「相手方……“13番目”の作戦行動の準備期間は既に終了している」



 六人を取り巻いていた室内の空気が一気に凍りついた。明らかにそれまでとは違う重く冷たい沈黙が空間に圧し掛かり、冷静さを保っていたはずのユーノですらその言葉の真意を把握した時に流れ出る冷や汗を止められなかった。

 「……つまり……それは……」

 「とっくに貴様らは彼奴の術中に嵌っていたと言う事だ」

 それまでずっと黙りを決め込んでいたトーレに隣のスカリエッティも大きく頷いた。どうやら彼らの言っている事はつまり……。

 「地上本部襲撃に始まり、廃棄都市区画爆撃、リニア襲撃事件、クアットロ奪還作戦……そして昨日の聖王教会蹂躙と高町ヴィヴィオ誘拐事件…………全部、そう全部だ、今まで“13番目”の手で引き起こされた事件の全てがただの『下拵え』に過ぎなかったんだ。踊らされていたんだよ、お前達は」

 「今までのが準備期間て……そんなアホな事──」

 「だったら確認して見るんだな」

 トーレの突き離す物言いに怯みながらも、はやては一旦冷静さを取り戻した脳で思考した。全てを順番通りに解析して行く……。

 第二次地上本部襲撃事件は何故起きた? 押収されてあった武装を取り戻す為だ。

 廃棄都市区画の爆撃は? 調査ではまだ何も出ていないが恐らくは証拠隠滅の為。

 リニア襲撃は? 対フェイト対抗策としてエリオの血液から魔力変換資質を会得する為だ。

 考えれば考えるだけ思い当たる所だらけだ、今までの一見無茶な行動にしか見えなかった事件の全てがこの時の為だけに行われて来た大規模な作戦準備期間に過ぎなかったと言うのか。要約すれば、自分達は相手にとって本腰を入れてもいない舞台裏の事情に引っ張り回されていただけと言う事にもなってしまう。

 「よっぽど貴様らの組織は無能らしいな。ウーノの戦略眼と私の戦術予測の双方もドクターの導き出した答えと同じ見解だ。一週間……遅くても十日、早ければ五日以内に相手はピリオドを打とうとするはずだ。これはもう末期だ……悪い事は言わない、諦めた方が傷は少なくて済む」

 「……その期間内に一体どの様な出方を?」

 「これは確信だが、昨日攫われた“聖王の器”……あれが鍵となる事は確実だな」

 「ヴィヴィオが? それはどう言う意味ですか? 彼女を人質にするとしても、たった一人の一般市民と貴方達の身柄では明らかに釣り合いが……」

 「鈍いな。如何に戸籍登録上は『一般人』でも、その内実が明らかに異なる事ぐらい貴様達なら重々承知しているはずだ」

 トーレの言う通り、確かにあの少女は同年代の少年少女と比較しても明らかに異彩を放つ点が多い。出生、体質、血筋……そのどれもが彼女を聖王と言う滅びた血族の人間として縛り付けているのはここに居る誰もが理解していた。

 「“ゆりかご”が消滅したとは言え彼女の肉体は希少価値が高い……。管理局側にとってはただの一般人でも、聖王教会の熱狂的な古株達にとっては生きた神様と同義……現人神である彼女への価値観は局のそれとは大きく異なるはずだ」

 「加えて教会はかなり深く太く管理局と懇意にしている。管理局が強行策に出ようとすれば必ず教会の方は反対し、管理局の方はその反対を押し切るだけの強引さを持ち合わせてはいない。作戦方針の決定だけでも難航し、その隙を突かれて一巻の終わりだ。次元犯罪者に屈服する事を敗北とする管理局と、神を失う事を忌避する教会……二大組織新暦始まって以来の大敗北が見られるかも知れないかもな」

 「…………どうすれば未然に防げる?」

 自分で聞いておきながら何と愚かな質問をしたのだろうとクロノは心中で溜息をついた。相手が既に全ての段取りを終えたのに対してこちらは全くの手付かず……残されている時間も選択肢も無きに等しいこの状況で贅沢にもこんな口が聞ける場合ではないのは重々分かっているはずだった。だが一縷の望みに懸けずにはいられない……目の前にミッド中の知識人にも勝る頭脳を有している人間が居るなら、例えそれがかつての敵同士だとしても助言を乞いたかった。

 そんなクロノの心中を察してか、少しの間を置いてスカリエッティは今度は右手の指を二本立てた。

 「方法は二つだけある……。そう……たったの二つだけだ」

 再びトーレが沈黙し、その他の全員が視線がもう一度スカリエッティに集中する……選択肢はたったの二つ、ここで選択を誤るかあるいは選択してもそれを上手く実行して成し遂げられなければ、その時点で敗北、背水の陣と言う言葉ですら生温い現状だ。

 「まず一つ目、これが最も確実な方法だ。敵の行動の素早さから計算するに、“13番目”の拠点はこのミッドチルダのどこかに存在している事は確かだ。その事を踏まえて言わせてもらうと、一番効率が良いのは大量の人員を投入して行う炙り出し作戦だ。本局からも武装局員を収集し、この地上本部を中心として円形を描くようにして陣を展開して徐々に追い詰める……平たく言えば人海ローラー戦術と言う所だな」

 「確かにそれなら確実と言えば確実やけど……」

 「掛るコストと人員量は地上本部だけで賄えるかどうか……。仮に見つけたとしても、それじゃあまるで戦争だ」

 「私自身もこれはナンセンスな作戦だと考えている。だからこれはあくまで最終手段として脳の隅っこに記憶してもらうだけで結構だ」

 二本立っていた指の一本が折られ、残る選択肢は後一個……これがもし受け入れ難いモノだったとしても彼らはこの二つのどちらかを選ばなければ生き残る確率はゼロになってしまう。鹿の肝を舐める思いでどちらかを取らねばならない。

 「こちらは先程提示したモノとは違ってコストも人員も少なく、損害も最小限に食い止められる。ただし、この手は確実に相手を炙り出せるかどうかの保証は無い」

 「…………聞かせてください」

 「最後の作戦、それは──」










 午前7時05分、ヴィヴィオが軟禁されているアパートにて──。



 「部屋の環境を、一部改善して、おいた。これで幾分か、過ごし易くなったはずだ」

 冷蔵庫の中からペットボトルを取り出し、トレーゼは居間のテーブルに腰掛けた。すぐに栓は開けたりしない……軽くボトルを振りながら中に魔力を流し込んで温度を上げ、目の前に居る少女が飲める程度にまで温める。そしてそれを対面に座っているヴィヴィオに手渡す。

 「……ありがとう、ございます」

 「部屋の周囲に、微弱性結界を、施した。昼間に、日光の温度を、取り入れておき、夜間はそれを利用し、温度を保つ。加えて、外の喧騒は、一切入って来ない……これで、何も問題は無い、完璧だ」

 不束だった……少し頭の回転を利かせれば今時この歳の少女が冷暖房も無い空間でまともに寝れる事が無いはずだったのだ。流石に少しの期間しか使用しない部屋なので空調系統の機材を持ち込む訳にも行かないが、せめてもう少し厚い布団を入れる事は可能だろう。今日中に新しい物を買い入れておかなければ……。

 と、冷蔵庫の中を整理しながら一日の計画を練っていたトレーゼは背後の少女の気配がちっとも動いていない事を不審に思い、ふと背後を見やった。気配を感じなかったのも当然な事、彼女は椅子に座って俯いたまま黙り込んでしまっていた。こちらが手渡したはずのボトルは栓すら開けておらず、ただ下を向いて押し黙っているしかしていなかったのだ。

 「……どこか、不調なのか? だとすれば、すぐにでも……」

 「どうして……」

 「?」

 「どうして、私にそんなに優しくするんですか?」

 ベコッと言う鈍い音が静かだった部屋に響く……ヴィヴィオの小さく細い指がプラスチック製のペットボトルの表面に力一杯食い込み、それが小刻みに震えていた。俯いた顔は悲しみと言うよりか、トレーゼには全く理解出来ない感情に押し潰されて歪んでいた。

 「…………何故、そんな事を、聞く?」

 「…………スバルさんは……トレーゼさんを止めようとして手と足を無くしたんです!」

 「そうだな」

 「ヴィータさんは右手を!」

 「ああ」

 「なのはママもフェイトママも傷付いて……っ! はやてさんだって!!」

 「そうだ」

 「昨日だって! みんな傷付いて……酷い目にあって…………!」

 「それがどうした?」

 「じゃあ何で私には何もしないんですかっ!! ずっとそれだけ考えてて、どんな酷い事されちゃうのか分からなくて……! 殺されちゃうかも知れないから、ずっと怖くて……本当に怖くて……!!」

 「……殺しはしない。わざわざ、危険を冒してまで、強奪したんだ」

 「それが理由なんですか?」

 「……なに?」

 「サンプルって言って閉じ込めて! 体壊すとダメだからってお節介して! ママの格好までして私を騙そうとして……! 酷い、酷いよぉ……! こんな事して……何になるの……」



 「…………………………………………鬱陶しい」



 「え────!!?」

 首筋に冷たい氷の感触……冬の冷気、その何倍もの冷たさを宿した紅い魔力の刃がヴィヴィオの首筋を撫でる。トレーゼの人差し指から放出された魔力刃はヴィヴィオの命を簡単に奪える僅か数ミリ手前、後ほんの一息分指を突き出せばそれだけで皮膚を切り裂いて筋肉を貫通し、気道に直接穴を開けられると言うほぼゼロ距離と言っても過言ではない所まで伸びて彼女を脅かしていた。あまりに一瞬! 瞬きもしていないヴィヴィオを意識の外から強襲し、刹那の瞬間に彼女の生殺与奪を完全に掌握してしまったのだ。今のトレーゼはヴィヴィオを生かすも殺してしまうのも全くの自由……その事を理解しているのか、ヴィヴィオは全身から恐怖による震えが込み上げて来るのを止められなかった。

 だが、彼女が心の底から恐れて震えているのは単に自分の目の前の凶器に怯えているからではない……。

 『目』……鷹の様な鋭さと蛇の様な狂気に塗れたその金色の瞳、そこから自分に対して真っ直ぐに向けられている無機質な感情の籠っていない視線……それに慄いていたのだ。まるでそこを見ているのに網膜には何も映っていないようにしているその視線……どこを見ているのかすらも分からない底知れない闇がポツンとあるだけの金色の目が、今の彼女にとってはこの世の何にも勝る恐怖の象徴だった。

 「好きで、貴様を生かしていると、思っているのか? わざわざ、危険を冒してまで、身を匿い、計画が終了するまで、保護せねばならないのだ」

 「あ……あぁ……ぅ!」

 「結論から、言えば、貴様の利用価値など、たかだか血液採取程度のものだ。否……眼球一個程度の、細胞が残っていれば、それで事足りる。心臓が鼓動している必要も、脳が正常に脳波を出している必要も、無い……頭髪一本、たったそれだけの、細胞が残っていれば、充分だ。今からでも、遅くは無い、その邪魔な下半身を除き、頭部だけを、ラボに持ち帰ろうか。その方が、コンパクトだからな。そうだ、それが良い、うむ、そうしよう」

 人差し指だけだった魔力陣が一気に他の四本の指先からも出現する……発生した際に接触した床やテーブルを切り刻み、露骨なまでにその切れ味を少女に見せ付けた。命のやり取りをした事が無い素人でも分かるこの無機質な殺気……間違い無い、彼は──、

 本気だ!

 「やめてぇっ!! いや! こっち来ないでぇぇぇぇぇっ!!」

 恐怖による感情の暴走によって彼女の七色の魔力が【聖王の鎧】となってトレーゼとの間に壁を作る。何人たりとも寄せ付けず、例え銃弾ですらも通さない絶対防御……母なのはの砲撃魔法も通さないその壁を、トレーゼは一旦見据えた後に……

 「邪魔だ」

 暖簾を払いのけるように軽く手を振って掻き消した。DMFの存在を知らないヴィヴィオはそれを見てさらに混乱し、もはや自分でも何を言っているのかすら分からない耳障りな金切り声を上げて手を闇雲に振り回す事しかしていなかった。

 だがそんな子供の抵抗が戦闘機人である彼に敵うはずもなく、健闘虚しく彼女の意識は──、



 闇に墜ちた。










 「“誘い出し”だ」

 「誘い出し……ですか?」

 「そうだ」

 クロノら管理局側に残された最終手段の一つ、それは誘い出し……詰まる所、スカリエッティは罠を仕掛けようと言っているのだった。なるほど、確かに敵を自分達の間合いに引き摺り出すならば大規模なローラー作戦とは違って掛る人員とコストも少なくて済む。

 だがこの方法にも問題点は存在し……。

 「しかし、その為には相手を誘い出す為に必要な“餌”……疑似餌が無い」

 「確かに……。何もかもの準備を終えてしもた“13番目”は、言うたら手に入れられるモンは全部手に入れた状態や。相手が喉から手が出る程欲しいモンを据えてこその罠やのに、こっちにはそれが全然あらへんと来とる」

 「……………………いえ、一つだけ……」

 「?」

 「たった一つだけですが、彼が……“13番目”が手に入れていないモノがあります」

 それまでずっと静観を保っていたはずのウーノが発した言葉はその場に居た全員、と言うよりかはクロノ達の方に衝撃が走った。

 「本当か、その話」

 「はい。恐らく……いいえ、多少のリスクは掛りますがこの方法なら確実に“13番目”を呼び寄せる事が出来ます」

 「その……“13番目”が未だ手に入れていないモノとは……?」

 「私達です」

 「……………………はい?」

 一瞬思考が完全に停止するクロノ……一応何かの聞き間違いかと思って隣のユーノとはやての方を見やるが、二人とも自分と同じリアクションをしているのを確認すると自分の耳は正常だと安心できた。

 「ほほぅ、考えたなウーノ。その手があったとは」

 あくまでスカリエッティは面白そうに口元に歪んだ笑みを浮かべ、トーレは眉を寄せたまま押し黙っている……どうやら彼ら三人は言葉の意味を完全に理解しているようだった。いや、実を言えばクロノ達の方も薄々何を言っているのかについては察しがついてはいたのだが、もしスカリエッティの考えと自分達の予想が合致していたらと思うと、それを口に出す事が憚られてしまうのだ。

 何故なら、ウーノの言った言葉をそのまま当て嵌めるならば……

 「つまり私達三人の内の誰かを生贄にして相手を誘き寄せると言う事さ」

 別に何とも無いだろう、とでも言いたげな軽い感じで実にとんでもない爆弾発言を落としてくれた。

 「敵がトレーゼであってもそうでなくとも、同じスカリエッティ製の戦闘機人であれば主人と上位者である我々を奪還しに来るのは確実……さすれば、最終目的でもある我々を罠の餌として使うより他はあるまい?」

 「ですが、それでは……!!」

 「では他に方法があるのかな? これよりも確実で、局側の犠牲も少なくて済む戦術が他に一体幾つ存在していると?」

 「それは……」

 確かにそう言った方法なら一番確実に相手を誘い出す事が出来るだろう。作戦の立て様によっては人員も最小限に割ける上にコストも掛らない……だがしかし、問題が無い訳ではない。

 「私達の心配をしているのか? 違うな、君達は作戦が失敗した時の体裁の悪さを懸念しているに過ぎん。私にとってはそんな個人の都合なんかどうでも良い事だ」

 「言ってくれるな……誰の所為でこうなってると思ってん?」

 「元々が君達を困らせる為に造ってあるのだから君にそんな口を利かれる義理は無いな。では八神二佐殿、餌は用意してやったのだから後の作戦編成はよろしく頼むよ。私はスバル嬢の脚の仕上げに掛らねばならないので、この辺で失礼させてもらおう」

 「私んトコの騎士を無断で使ってるんやから、ちょっとはマシに治しとんのやろな?」

 「私はミッド中の科学者達が匙を投げるような手術をやってのけているのだ。少しは労いの言葉を掛けてもバチは当たるまい?」

 その皮肉の利いたやり取りを最後にスカリエッティは見張りのユーノを連れ添って退室して行った。ナンバーズ側の首魁を欠いた状態でどの様に会議を続けたものかは知らないが、任された以上は放棄は出来ない。ナンバーズ側の知恵袋ウーノが居るのでまだ幾分かマシな作戦が練られるだろう。

 「……それで……結局、どの様な作戦を立てるんだ二佐?」

 「う~ん、案自体は幾つかあるんやけど、実用性と準備期間の短さってのを考えるとちょっとなぁ……」

 折角スカリエッティからお膳立てしてもらっても頭の中に浮いて来る策は全て六課時代に培われた奇抜なアイデアばかり……あんまりにも派手な作戦しか思いつかぬので自分で自粛しているのだが、どうにも上手い具合に閃きが出て来ない。もう少し実用性のある無理の無い作戦を考えねば……。

 職業柄頭を使う事が多いので考える事は得意だと思ってはいたがどうにも落ち着かない彼女は一旦ソファを立つとウロウロと部屋を周回し始めた。トーレが鬱陶しそうな視線で見上げて来るがそんな事は気にしない……今はどんな良い作戦を立てるかが問題なのだ、文字通り自分達には時間が残されてはいないのだから。

 そんなこんなで十分、いや、本当は一分か二分だったかもしれないが、とにかく少し時間が経った時、ふとはやての視界に飛び込んで来たモノがあった。何と言う事は無い、別に何か奇抜なモノでも何でも無くて、彼女が視認した物は……。

 『地図』だった。このクラナガンを中心とした上空写真……かなり広範囲を映した一枚で、中心に存在している地上本部の敷地が小さく見えているだけだった。たまたま壁に飾りのように貼り付けられていただけのそれに何で視線が向いたのかは彼女にも分からない事だったが、とにかくはやての目がその航空写真に釘付けになったのは確かな事実だった。

 「…………………………………………」

 「二佐、一体どうし──」

 「済みませんが提督、ちょっと静かにしてもらえますか」

 「わ、分かった」

 余りの没頭振りに上司のクロノでさえも強く言えずに彼女の背中を見守る事しか出来なかった。何かを閃き掛けている時の八神はやて程に寡黙で、そして邪魔をしてはいけない存在は無い……きっと何かとんでもない奇策を思いつくに違いない事は確信出来た。

 「……………………………………………………………………………………やっぱり、これしか無い!」

 はやてがそう呟いたのと、彼女の右手が貼り付けられていた航空写真を剥ぎ取るのはほぼ同時だった。そしてその剥ぎ取ったそれを握り締めたままソファまで戻って来ると、それは卓の上に広げた。

 「クロノ提督、すみませんが事務室に直行して取って来てもらいたいモノがあります」

 「いち提督を使いっぱしりにしてまで必要なモノなんだな?」

 「お願いします!」

 結局、幼馴染の剣幕に逆らえる事が出来なかったクロノは局勤め歴十数年の間で久し振りに廊下を走らされる羽目になった。










 時大きく移り変わって午前11時00分、地上本部の第三中庭にて──。



 スバル・ナカジマは歓喜していた。失ったまま戻って来る事は無いと思っていた自分の両足がこうして再び戻って来た事に喜びと興奮を感じて止まなかった。裸足のままで廊下を走り、道行く者の何人かが何事かと驚きに目を丸くさせ、それでも彼女は構わずに走り去る……足を取り戻したどころかまるで翼を得たかのように一直線に。

 そのまま止まる事すらせずに彼女が辿り着いた場所は、この広大な地上本部内に幾つか存在する中庭の一つ……中庭と言っても元の施設全体が大きいのでここの規模も相当なものだ、ちょっとしたグラウンド程度の広さはある所だった。精神保養の効果をもたらす為に植えられている観葉植物が密生している中心部から距離を離した外周部は少し運動を出来るようにと舗装されており、体が鈍っている体育会系の局員達は暇な時は中庭の外周部を走り込むのが殆ど見慣れた光景となっていた。そして彼女も今からその一人となるべくそこに足を踏み入れ……。

 「よぉうっし!!」

 屈筋良し、伸筋良し、アキレス腱良し! 膝関節も骨盤も全て良し! 面倒臭いから全部良し!!

 全身の骨格と筋肉の点検を済ませた彼女は両手と足を地に着いてスタートダッシュの体勢に入った。見据える先には自分が走るべき道が伸びており、今から自分はそこを全力で走り込む……その姿を想像するだけで彼女の精神はこれまでに無い程にまで高揚していた。そして、いざ地を蹴り飛ばして走ろうとしたその瞬間──、



 「スバルッ!! あんた何やってんのよこんなトコで!?」



 突然の聞き覚えのある怒声に横槍入れられた事によって、勢い余ったスバルの体は大きく前方へと迫り出してしまった。辛うじて一歩の所で踏みとどまり、その声の主を見やると……。

 「ティア! ティアじゃん。どうしたのこんな所で? お仕事は?」

 久し振りに見た親友の顔は何故か疲労と呆れの色に染まっており、オレンジの長髪を振り乱しながらこちらへ向かって来る彼女にスバルは大きく手を振った。だが何故かそれを見たティアナはさらに眼光をきつくさせて迫って来て……。

 「こ! い! つ! は! シャマルさんに連絡があって今までずっと探してた私の苦労も知らずに~っ!!!」

 「痛い痛い痛いっ!! ごめ、ごめんなさ~いっ!!!」

 ティアナの両手の指がスバルの頬を摘んで盛大に引っ張り吊るし上げる。どうやら注意も聞かずに治療室を出てしまったスバルを探すように頼まれたらしく、それで手を焼いていたらしい。一通りスバルの頬を抓って気が済んだ彼女はほっと一息ついて落ち着くと、互いに久しく顔を見ていなかった親友をまじまじと見つめた。

 「足……治ったのね……」

 「え? あ、うん……足首も指も、ちゃんと動くようになったよ。ほら!」

 少し埃に汚れた素足を見せてその五指を動かして見せる。彼女に親しい者ならここで狂喜乱舞するような場面ではあるが、何故か終始ティアナの顔色は優れず、その反応は薄いモノでしかなかった。

 「そう…………良かったじゃない」

 「うん! 後は右腕だけなんだけど、こっちの方はもっと難作業になるから手術はもう少し先になるかも知れないって」

 冬の長袖に隠れて手首は見えなかったが、垂れ下がった袖口には五指の形は見当たらない……今のスバルに残っている傷痕はとうとうこの右腕だけとなった。

 「……………………ねぇ、スバル」

 「うん?」

 「ごめんなさい。私の軽率な判断の所為でこんな目に……」

 「ティア……」

 スバルは目の前の光景に目を丸くした。訓練生時代からの付き合いなので彼女の性格や思考パターンはある程度熟知しているつもりだったが、あのプライドの高いティアナが自分に頭を下げている姿など今の今までこうして見るまで想像すら出来なかった。しかも冗談半分でやっているのではなく、几帳面な彼女らしくしっかり斜め45°の傾斜をもって謝罪の意を表していた。

 「あの時……あのポイントに一番近くに居たのは私だった……私だけで行くべきだったのに、頭数が多い方が良いと思ってあんたを頼ったばっかりに…………」

 「そ、そんなの気にしないで! あれは私の不注意でなった事だから仕方ないんだって!」

 「でもそれは……!」

 「それに、ティアが自分の代わりに私がこんな目に合ったって思ってるんだったら、別に私はそれでも良いよ」

 「え……?」

 「お兄さんの為にやっと執務官になれたティアがこんな所で終わっちゃうなんてダメだよ。私はさ……ほら、片手だけでも助けられる人を助け続ける事が出来る。片手になっちゃってるから、ひょっとしたら助けられる人も半分になっちゃうかもだけど、その分二倍頑張れば良いだけだから…………それに、こっちの腕だって治してもらえるから、何も悪い事なんてないでしょ?」

 袖に隠れた右腕を元気良く振るうその姿……鬱っ気なんて何処にも無い、むしろ子供のような明るさには片腕を無くしたとは到底思えない底抜けのモノがあった。完全に毒気を抜かれてしまった……もう色んな意味で謝る気力も消え失せてしまったように思える。

 「…………そうね、あんたはそんな性格だったわよね。そんだけ元気なのに大人ぶって頭下げた私が馬鹿らしいわ」

 「えへへ~。ちょっと元気出た?」

 「そうね。元気ついでに下げたこの頭を返しなさい」

 「無茶言わないで……」

 そうだった……ティアナは今更になって再確認したのだ。自分の友人はいつも笑っていて、バカみたいで、その癖どこか鋭くて、それでもやっぱり肝心な所が抜けていて……だからどうしても自分の目が離せない自分の腐れ縁の親友だった。ある意味じゃこいつに心配の二文字は不要……今更だがこうしてもう一度その陽気さを目の当たりに出来た分だけでも彼女が元気だと言う事を把握するには充分だった。

 「その分だとメンタルは大丈夫みたいね。でも無茶して体壊さないでよ? 体ってのは治りたてが一番脆いんだから」

 「分かってる。ティアは心配症なんだから」

 「あんたがいっつも無茶してる分、昔っから私が尻拭いさせられてたんでしょうがぁ!!!」

 「痛い痛い痛い痛いっ!!? ごめんなさぁいっ!」

 ティアナは目の前の間の抜けた親友の頬をさっきよりも強く抓り上げた。だがそれは決して単に彼女の言動に頭が来たからと言う訳ではない、今までずっと本調子でなかった親友に対する少しの悪戯的な八つ当たり心だったのかもしれなかった。










 少し時間の経過した午前11時36分、地上本部第六休憩エリアにて──。



 医務室の白衣の天使シャマルは、その呼び名とは完全に真逆な様相を顔面に湛えていた。連続72時間立て続けの治癒魔法の行使によって派生した極度の寝不足症状は騎士の二つ名にも与えられている“湖”の美貌を完膚無きまでに破壊しており、特に両目の真下に出来た真っ黒な隈は彼女の神経が眠気だとか睡魔だと言うモノとは一線を画したモノに侵されつつある事を暗に示していた。

 「う~ん……頼まれたからって、やっぱり三日間も休み無しって言うのはキツかったかしら……。五日ぐらいは軽く行けると思ってたんだけど、はやてちゃんの言ってたように歳なのかなぁ~? これでも一応シグナムやザフィーラよりかは若いつもりなんだけど……」

 闇の書が消滅してから彼女ら守護騎士達の肉体は徐々に人間に近付き、老化現象も発生して来ている。だがしかし、元の素体が人間ではなかっただけあってその速度は常人と比較すればナメクジ程の前進にも満たない微々たるモノのはずだった。以前、主である八神はやてに茶化されて「もうええ歳なんやから無理せんとき」と言われた時は何を世迷言をと思ったが、案外それは正鵠を射ていたかも知れなかった。ついぞ100年前なら太陽がベルカの大地を五回照らすまでなら容易に戦闘行動が続行出来ただろうに……人間に近付いている事を喜ぶべきか、活動出来る範囲が狭まりつつある事を案ずるべきか……。

 とにかく眠気を覚まそうとしてここでブラックコーヒーを啜っているのだが、カフェインが効いて来るのは体内に入れてから一時間が経過してからの為、その間彼女は脳髄の奥底から襲い来る睡眠欲求と熾烈な戦いを繰り広げなければならなかった。

 「む~ん、もう一杯飲もうかしら……」

 自分の担当の医務室は現在空室……いつ急患が入って来るとも分からない職場をいつまでもほったらかしには出来ないと言う使命感が彼女の両足に鞭を打ち、あと一杯だけカフェインを摂取した後でと椅子から立ち上がった。だがその時既に朦朧としていた彼女の意識は立ち上がった両脚に上手く体重を支えられず、少しよろめいた後……。

 「あ──っ!?」

 後ろ向きに大きく倒れ込み──、

 「シャマルさん!!」

 その背中を駆け込んで来た誰かに支えてもらい難を逃れた。聞き覚えのある声にシャマルが背後を見やると……。

 「大丈夫ですか? 医務室の人間が倒れたりなんかしたら元も子もありませんって」

 ティアナだった。つい三十分前に医務室を飛び出したスバルの様子を確認するように頼み、今は最近発生した殺害現場の現場検証に向かっているはずの彼女が何故かここに居た。

 「あら? 確か仕事で出てったはずじゃ……」

 「いえその、お恥ずかしながらちょっと忘れ物をして……今から取りに行く最中で」

 「そうだったの。助けてもらっちゃってありがとうね、お陰でちょっとは目が覚めたわ」

 「どういたしまして。それでは、私はこれで失礼します」

 軽く会釈をして去って行くティアナの背を眺めながら、シャマルは目覚まし代わりに大きく背伸びをした。さっきよりかは幾分かマシになったと、いざ職場に戻ろうとした時──、

 ふと、右手に違和感を感じた。

 何か神経が痺れるように指先が小さく痙攣し、すぐに収まっていった事が逆に不安をそそった。だが右手の指にはめているクラールヴィントからは何の異常報告も無かったので、シャマルはそのまま気にも留めずに歩き出し、職場である医務室へと戻って行ってしまった。










 「よしよし、クラールヴィントの特性もしっかりコピー出来たわね。流石はマキナ、やる事が違うわ」

 休憩エリアを離れたティアナ……否、ティアナの姿をした“それ”は事も無さ気に満足そうに呟きながら一旦通路の脇に逸れている死角へと入り込んだ。だが特に何をするでも無し、ほんの数秒後には“それ”は本来の姿となって再び現れたのだった。

 「こちらの方が、持ち運びには、良いな。マキナ、以後この形態を、維持しろ」

 『Yes,my lord.』

 右手の人差指と薬指に嵌った二つの黒金の指輪を確認しながら本部内に進入を果たした彼──トレーゼは行く先を急いだ。収奪したティアナの記憶が正しければこの先の第三中庭エリアにスバルが居るはずだった。このままこのルートを行けば八神はやてとクロノ・ハラオウンの両者にも接触する心配も無く目的地まで行けるはずだ……途中でシャマルのデバイス、クラールヴィントの形を奪う事が出来たのはある意味で僥倖と言えよう。

 歩きながら彼は道行く局員達の顔をさり気なく確認しながら進んで行く……情報管制を敷いている故に誰一人としてすぐ近くを歩いているテロリスト紛いの存在に気付く節は無かった。四六時中戦う事を目的に造られたトレーゼにとって、この光景は理解し難いと同時にとても間の抜けているように思えていた。互いにいつ死ぬとも分からない立場に居るにも関わらず自分とは違うこの軽い雰囲気が受け入れがたい……今こうしてすれ違った何人かをコンマ数秒の間に殺す事など容易い事だ、ライドインパルスを発動させて直線移動をするだけで衝撃波によって周囲は切り裂かれた肉片だけになるし、リンカーコアのたった20%分の魔力を圧縮して投げるだけでも即席の爆薬でこの一画は間違い無く半壊するだろう……もちろんそんな事をする気はさらさら無いにしても、次元世界の秩序を守るとか言う大義名分を掲げている組織の局員達がこれ程までに緊張感の無い集団であったなどと今更ながらに驚嘆していた。自分の姉や妹達はこんな輩達にしてやられたのかと普通なら不甲斐無く思う所だが、三年前と今とでは決定的に違った部分があるのもまた事実……あの“奇跡の部隊”とまで大仰な異名を得た機動六課の存在があったからこそ、管理局は辛くも勝利を得たのだ。当時地上本部に存在していた金の卵とでも言うべき優秀な人材を片っ端から掻き集めて構成された寄せ集めの部隊は、上層部の誰の予想にも反して多大な成果と功績を上げ続け、当時の次元犯罪者達にとってはまさに凶星とでも言うべき天敵だった。

 だが機動六課はもう存在しない。他の常駐部隊とは違って試験運用期間と言う拘束があった六課は僅かながらの時間の後に解散、その大多数は本局に籍を置き、現在の地上本部に存在している脅威はクロノ・ハラオウン程度だ。しかもそのクロノでさえ実際の籍は本局付きであるが故に地上本部の意思で動かす事は不可能……三強を潰した今、トレーゼの敵は無いものに等しかった。

 不意に──、

 「…………そう言えば、かなりの、無理強いをしてしまったな」

 彼の脳裏に過る一人の少女……ヴィヴィオの姿があった。結局あの後、彼は殺す事などせずにそのまま脳に催眠を掛けて強制的に彼女を眠らせただけだった。ヒステリーを起こし掛けている人間をそのままにしておいては舌でも噛みかねないと判断した彼は、少々手荒な方法でヴィヴィオを昏睡させたのである。我ながら大人げないやり方をしてしまったと思わざるを得ないが、あのまま放置しておくのもまたナンセンス……正しい判断だったと自負はしている。これが終わってから厚めの替え布団を購入しなければ……。

 「さて、もう直ぐ、中庭…………………………………………またか」

 問題の中庭へやって来た、遠目にスバルの姿も確認した、だがその光景に彼は閉口する事となってしまった。しばらくの間はどうにかならんかと見守っていたが、やがてどうしようもないと分かると彼は現状を打破するべく彼女の許へと駆け出した。










 数分前──。



 「うーん、やっぱりこの間の新記録には全然届かないや。でもまぁ走る分には問題ないみたいだし、贅沢言えないよね」

 外周部を合計十周以上も走り込んだ彼女は流石に疲れたのか、少し呼吸を整えた後に地面に腰を降ろした。素足で走った所為で足の裏は汚れに汚れ切っていたが、久し振りに激しい運動をこなす事が出来た喜びのが勝ってか彼女は終始笑顔だった。部屋を飛び出した時にスカリエッティが何か注意を促していたが別にこの分だと何の問題も無いはずだった。

 「さてと、もうワンセット走ったら一旦医務室に帰ろうかな」

 ちなみに彼女は十周がワンセットとなっている、今からまたかなり走り込むつもりらしかった。病み上がりの体で無茶をやらかせば親友のティアナにまた何を言われるか分かったものではないが、今まで走っていて何とも無かったのだからと高を括っていた彼女は颯爽と立ち上がり──、



 両足首に激痛が走るのを感じた。



 「あぁっ!!?」

 一瞬アキレス腱が断絶したのではないかとさえ思えるような壮絶な痛みが駆け抜けた後、彼女は両脚で体重を支えられずに地に伏してしまった。

 痛い。とにかく痛い。もう痛いなんて生易しいものじゃない、足の筋肉の一本や二本は切れたんじゃないかと錯覚した。だが足首を見ても腫れているとか内出血を起こしているような変化は見受けられず、ただ尋常ではない痛みだけが足の神経を蝕んでいるだけだった。

 「あちゃ~……スカさんの言ってた事って本当だった……。取り合えず……医務室に戻らないと…………あぐっ!?」

 体勢を整えて立ち上がろうとするも、力を入れた瞬間に足が立つ事を拒絶するかのように激痛がスバルを攻撃した。どうやら力を入れようとするとこうなってしまうらしい。満足に立つ事も出来ない状況下で彼女はどうやって医務室に戻ろうかと模索する事にした……助けを呼ぼうにもこう言う時に限って人通りは全く無く、親友のティアナもとっくに仕事で本部の外に出てしまった後なのでどうする事も出来なかった。

 やがて足の痛みは徐々に変化し、無数の針が突き刺すような鋭いモノだったのが骨や筋肉を万力で締め付けて押し潰されるような鈍い痛みに変わって来た。少しはマシになったかと思ったが、それが間違いだった……その痛みは秒刻みに酷さを増して行き、ついには指の一本に力を入れただけでも悶絶する痛みにまでなってしまったのだった。もう一歩も歩く事すら適わない……。

 「誰かぁ……助けてくださぁ~い」

 地面にヘタレ込んだまま一歩も動けない彼女は運良く誰かが通りすがってくれる事を祈りながら情けない声を上げて救援を求め続けた。だがまぁそんなクロノではないが世界と言うのはそんなに都合良く出来ている訳が無く……。



 「おい、大事ないか?」



 丁度自分の頭の上から聞こえて来たその声にスバルは一瞬思考が停止した。一週間も顔を見ていなかった訳ではないのに酷く懐かしいその声……無愛想でどこかしら余所余所しい癖に何故かそれを不快とも思えない不思議な感覚に満ちているその人物を、ある意味でずっと待ち続けていたのかもしれなかった。

 だからこそ、スバルは何故彼がここに居合わせたのかと言う疑問よりも先に、この言葉が口を突いて出たのだ。

 「久し振り、トレーゼ。取り合えずちょっとそこまでおぶって!」










 時を遡って午前7時27分、ゲストルームにて──。



 現在室内に残っている四名の面子……八神はやて、クロノ・ハラオウン、ウーノ、トーレはたった今作戦会議を終了したところだった。はやての提示した即席ながらも実用可能な作戦はクロノやウーノを唸らせるには充分だった。しかし、実現可能だからと言ってリスクが全く無い訳ではない、むしろリスクの高さも異常だと言えた。

 だがその事をクロノに問われても──、

 「全ての責任は……私が負います!」

 その一点張りだった。クロノ自身も彼女の策以上に有効性のあるものが無い事は百も承知だったので強く言えず、結局は首を縦に振った。その後彼は一旦部屋を退出したスカリエッティに連絡を入れるべく、彼が居るであろう医務室に映像回線を繋いだ。ちなみにユーノは無限書庫の仕事があるので人足先に職場へと戻って行ったらしい。

 『おや、意外と早かったね。それで……この私して唸らせるに足るだけの作戦が立案出来たのかな?』

 ホログラムに映し出されたスカリエッティはいつもの尊大不遜な様子ではやてに現状報告を窺って来た。クロノを通じて大まかな作戦内容の確認をした彼は、しばらく脳内でシュミレーションを行った後にこう言った。

 『成功率は贔屓目に見積もっても精々64.7%と言ったところだな。確立としては低めの方だ』

 「随分と辛口ですね」

 『無理を承知で行うには少々荷が重過ぎるのではないかな?』

 「だとしてもこの方法以外には無いんとちゃいます?」

 『まぁ良いさ、仮に失敗しても責を問われるのはどうせ君達だ、私は痛くも痒くも無い。それで質問なんだが、肝心な“餌”は私達三人の中から一体誰を選出するのだね?』

 「っ! そ、それは……!」

 痛い所を突く質問にはやては言葉を詰まらせた。そう、この作戦を成功させるに当たって最も重要なポイント……それはある意味生贄と言ってしまっても差し支え無い疑似餌となる者を彼ら三人の中の誰かに決定せねばならないのだが、彼女は底の部分だけを後回しにしており現在そこは空席の扱いとなっていた。

 『そんな事だろうと思ってこの私が直々に選出する事にした。光栄に思い給え』

 「ちょ! 何勝手に決めているんですか!?」

 『そうでもしないと君はいつまでも悩み続けるだろう? 私的な部分においては良いが、こう言った場所ではそう言った優しさは逆に邪魔なだけだ。いい加減理解し給えよ』

 「この作戦で一番危険なんは他でもない餌役やって分かって言うてんのかいな!」

 そう、はやての言う通りこの作戦で最も危険なポジションこそ、この作戦の要であり成否を担っている“餌”なのだ。対象が直接奪いに来る事を考えれば、戦闘に巻き込まれて命を落としてしまう事も充分在り得るからだ。その最も危険極まりないポジションを誰に任せるかと言う点ではやては悩んでいたのだが、どうやらこの場はスカリエッティが勝手に仕切ってくれるらしかった。

 『大丈夫さ、餌役にはトーレを推薦しよう。仮に何かあったとしても彼女なら難無く対処出来るだろうからな』

 なるほど、ナンバーズ最強をその様に使うか。確かにそれなら確実である上に、餌として挿げるだけなので彼女の意向にも反しない。まぁそれに関してはただのトンチなのだが……。



 『と、思っていたのだがね……そうもいかなくなってしまった』



 「……………………はぁ?」

 まさかの逆説。この話の流れでこの発現と言う事はつまり……つまりそう言う事なのだろうが……。

 『うむ。諸々の事情があってトーレではなくウーノを推薦する事にした。よろしく使ってくれたまえ』

 一瞬はやては自分の耳を疑った。この人間は人の話を聞いていたのだろうか? 餌は最も危険なポジションだと口が酸っぱくなるまで言っているにも関わらず、よりにもよって戦闘力が皆無と言っても良いウーノを挙げるとは……一体何を考えているのだろうか。

 『まあまあ、皆まで言う必要はないよ。言いたい事は大方予想しているからな』

 「主である貴方に口出しをする訳ではありませんが、確かに今の決定には些か納得出来ないものがあります」

 それまで黙っていたトーレ本人でさえもこれには疑問を隠せず、主に詰問するような口調で弁明を要求していた。ただでさえ貴重な戦力を省くのにこの選択は誰が見てもナンセンスだと言わざるを得ないのは事実だった。

 『実は……その、この決定は実に個人的な事でな、あまり大っぴらに口には出来んのだが……』

 「それでも話してくれないと納得出来ません」

 『…………………………………………仮に、仮にだ……“13番目”がトレーゼだったと仮定しよう』

 トレーゼと言う単語にトーレが過敏に反応する。だがそんな事はお構い無しにスカリエッティは映像越しに言葉を続けた。

 『仮に“13番目”がトレーゼだったとすれば、トーレを餌役にするには危険が大きくなり易いからだ』

 「……仰る意味が良く分かりません」

 『確かにトーレを餌にした場合、彼が来る確率は一気に100%になろう。だがトーレは“姉”でトレーゼは“弟”だ……弟であるトレーゼは餌となっているのが姉のトーレであると分かったなら──、



 本気で取り戻しに来る可能性が高い。



 だから私は敢えてウーノを推奨しているのだよ。あれに本気を出させれば作戦なんてモノは意味を成さなくなってしまう……それだけは避けたいからな』

 スカリエッティの神妙な顔つきにはやては途轍もない不安を感じていた。目の前に居るのは常人の域を大きく逸脱した狂気の科学者……その彼でさえも恐れるモノが本気を出すとなればそれはどの様な字体を巻き起こすのだろうか……考えただけでも鳥肌が立って来た。

 『ともかくトーレをこの作戦に関与させる事は果てしなくナンセンスだ。あと、この作戦にはN2Rの参入も考えないでくれ』

 「ちょっと待ってください、ただでさえ恵まれていない戦力をこれ以上割いて何の意味が……!」

 『意味ならある。かの“裏切りの使徒”を出さない為だ』

 “裏切りの使徒”……その言葉にその場の全員の緊張が張り詰めた。カリムの預言から存在を示唆されているそれは近い将来に管理局側から“13番目”の陣営に身を移すであろうと予測されている裏切り者の事だ。現在はやて達の間では『“使徒”=ナンバーズ』と言う定義で共通している……現存するナンバーズ、特に管理局に恭順する姿勢を示して社会に復帰した七名の中の誰かが裏切りを企てると考えていた。当然その七人の中にはナカジマ家の四人姉妹も含まれている。

 『私は自分の手で生み出したモノに絶対の信頼を置いている……如何なる理由があろうと今の彼女達が世間一般常識で言う所の“悪”に加担するとは微塵も思ってはいないし、彼女らの精神が並大抵の事物で折れるとも思ってはいない。だが万に一つの可能性すら無視できないこの状況下ではこの様な安直な方法に縋るしか無いとは思わないかね?』

 確かに、いつ彼女らの誰かが裏切るとも分からない以上、下手に“13番目”との接触は避けるべきなのは素人が考えても分かる理屈だ。仮に彼女らの誰かがあちら側に加担した場合、情が邪魔をして作戦は覆るかも知れない……それを鑑みればこうするのは必然なのか。

 「ですが、結局の所として戦力数の問題がある。如何に人員が掛からない作戦とは言え、それに見合うだけの質を持った人材がこちら側には欠けてしまっています」

 『あー、その点に関しては私はもうどうする事も出来んよ。分かっていると思うが、私の方から提供出来る戦力はもう居らん……他を当たってくれたまえ』

 「だと思いました。とは言っても、一体誰を選出したもんやろなぁ。適当にクジ引く訳にもいかんし、かと言ってそんな贅沢が言える程こっちに戦力が残っとる訳でも無し……どうしたもんか」

 現在管理局側で使える人間はN2Rを除いてしまえば七名に逆戻り、しかも下手に手錬を並べても相手が警戒して出て来ない可能性もあるので帯に短し襷に何とやら……この状況でも的確な人選をしなければならないのが人の上に立つ者としての力量が問われる所だが、如何せんこれは条件が悪過ぎだった。流石のはやても万策尽きたと思われていた。

 だが──、

 「…………二佐、少し良いか?」

 またもそれまでずっと沈黙を保ち続けていたトーレが何を思ったのかいちいち挙手してまで意見を提示しようとしていた。手に持っている紙面は何かと視線を向けて見ると、今回の事件に関する被害報告を纏めた報告書だった。

 「……どうぞ」

 「うむ、一応事件に関する諸々の書類には目を通させてもらったが、それらを踏まえた上で私の方から人選をさせてもらいたい」

 「人選って、あんた今まで作戦には一切関わらんて言うてたやないか!」

 『まぁまぁ二佐殿、落ち着き給え。彼女も何か考え有っての発言なのだろう。最後まで聞いてからでも損は無いと思うが』

 「……………………まぁ、聞くだけやったらタダやしな。言うてみ」

 正直言ってはやてはこのトーレに対してあまり好感を持ってはいなかった……彼女の一時的釈放についてははやても少なからず圧力を利かせて働き掛けており、折角骨を折る思いでここまで引っ張り出して来た人間がここまで尊大不遜だとは思ってはいなかったのだ。主であるスカリエッティに輪を掛けて図々しいとなると好感を持てと言う方がどうかしている。

 とは言ってもここは大人な対応を。今更拘置所に叩き戻す訳にもいかないので一応意見だけは聞く事にした。

 だがまさか──、

 「ではその人選の前に、ドクター……話してください」

 『何の事かな?』

 「とぼけないでほしい。貴方なら……いえ、貴方は始めはそのつもりだったはずです」

 はやてやクロノ、ひいてはウーノですら予測していなかった──、

 「話してください…………そう、



 『もう一人の抑止力候補』の事を」



 こんな爆弾発言が飛び出すとは。










 「治癒、完了。もう無理は、するなよ」

 両手に集中させていた細胞活性化用の魔力を霧散させ、トレーゼは目の前の少女に向き直った。スバルは一時的措置を施された自身の両足をしばらく動かした後……。

 「痛くなくなってる! 何したの!? シャマルさんでもしてくれないよこんなの!」

 少し興奮気味の彼女に合わせるのが流石に疲れたのか、トレーゼは怒涛のマシンガンクエスチョンに逐一答える事もせずに休憩エリアの椅子にもたれ込むだけだった。治りたてが一番危険な状態と言うのは医学の基本だが、治療を施した両脚は思ったよりも筋肉や骨格を酷使されており、意外と魔力を浪費する羽目になってしまったのだ。この状態でもまだ運動を続行しようと言うのだから閉口する……流石に止めたが。

 「……ルームランナー……まずは、あれで、速度を遅めにして、やれ。いきなり、走れば誰でも、こうなる」

 「はーい。そう言えば…………無人世界のお仕事どうだったの? 大変だった?」

 「別に……。終わり良ければ、何とやらだ」

 「ふーん……じゃあ、上手くいったんだ。良かったね」

 「良いモノか、逆に、騒がしくなった」

 「?」

 「……何でも無い……こちらの、事だ」

 相変わらず良く喋る女だと、トレーゼは感情を読ませない鉄面皮でそう考えていた。恐らく今まで自分が戦って屠殺して来た中で一番戦士としての自覚が無いのではないかと、彼は勝手にそんな判断を下してもいた。単純な数では圧倒的にこちらが劣っているとは言え、こんな輩を戦力として頼らねばならなくなる自分が何故か情けない……つい先程、教会で眠る“冥王”なる少女から採取した血液を利用すれば頭数の問題はクリア出来るが、肝心なのは数でもなければ質でもなく、その『重要度』……それがその場に居る事から派生する“意味”こそが彼の真の狙いであり本懐だった。

 その為にはどうしても今この時点でスバルとの心理的距離を詰めておく必要があった。こちらを徹底的に信頼させておき、疑いの念を一切持たないように仕向ける……結果的に信じさせるのではなく騙しているのだが、人の欺き方は亡き姉であるドゥーエから心得ているので何も問題は無い。相手が異性なのはある意味では好都合だと言えた、人間は同種を警戒する時にまず自分とは違う者、特に性別の違う異性を警戒し易いと言うのは前々から知っていた。だがそれは初期の話し……一度異性に信頼を置いた人間はそれに依存する傾向を示し、まず疑って掛ろうとはしないのだ。電流の+と-、磁石のS極とN極のように一度接触に成功すれば互いに依存し求め合う……生物が有性生殖と言う進化の鍵を獲得した瞬間から存在している宿命とでも言うべき現象だと言える。トレーゼはそうした人間の習性を利用しているのだ。

 幸いにもスバルの方はこちらに対して警戒心を抱いている節は無い。現在彼女を含むノーヴェとセッテの三人の中ではセッテに次いで予測適合率が高くなっているのは他でもないスバルだ、このままつき詰めて行けばいずれは彼女を自陣営に取り入れる事も容易になるはずだ。

 ふとトレーゼが意識を隣の少女に移した時、彼女は何やら神妙な面持ちに変化していた。何か真剣に思い詰めている事があるのだろうか、それまで見て来た抜けている表情とは違って何か本当に悩んでいるような……。

 「…………どうかしたか?」

 「ふぇ!? ううん、何でもない! 気にしないで」

 「?」

 どうにも無視できない表情をしていたのだが本人が何とも無いと言っているのだからそれ以上の追究はしなかった。それからしばらくはスバルが一方的に喋くりまくってトレーゼが静かに聞き流していると言う状態が続いたのだが、やがてトレーゼはスバルの言葉数が徐々に少なくなって来ているのに気付いた。

 (おかしい……いつものこいつなら、もっと図々しいまでに、舌の根が回るはず……)

 さっきと言い今の感じと言い、今日のスバルはどこか様子が変だった。とても今さっきまで病み上がりの人間がこなすはずの無い運動をしていたとは到底思えない大人しさ……どうにもおかし過ぎる、足の痛みも無いはずなのに先程からずっと終始浮かない顔ばかりをしているのだ。体のどこかに不調を抱えているのかと思いトレーゼが声を掛けようとしたが、彼よりも先にスバルが疑問の言葉を投げ掛けてきた。

 「ねぇ、トレーゼってさ…………“13番目”って言う犯罪者の事知ってる?」

 「…………………………………………」

 こう言う突然の質問に対してもトレーゼが眉一つ動かす事無く平静を保っていられたのは一重に彼が常日頃から鉄面皮を保っていた恩恵であったかも知れなかった。彼に人並みのリアクションを取るだけの感情と思考能力があったなら今頃顔色の一つや二つは変えていただろう。

 とっさの質問にもうろたえる事無く彼は冷静に切り返そうとしていた。彼女はともかくとして、自分の存在は民間報道機関には示唆されておらず公には存在しない事になっているはずだった。だとすれば、一介の局員の振りをしている自分がここで「知っている」と答えるのは自殺行為……。

 「いや、知らない」

 「…………そうなんだ」

 それ以降彼女がその話題について追究して来る事は無くなった。だが口数が減ったのは相変わらずだった、それからは結局両者取りとめの無い言葉の交わし合いをしただけであり、トレーゼも元々彼女と親しくするつもりが無かったとは言え何か肩透かしを喰らったような感じがしてならかった。

 ふと、ここで一つの疑問が浮上……。

 (やはり、セカンドは、俺が一連の事件の犯人だと、勘付いているのか?)

 さっきの質問と言いこれまでのどこか余所余所しい態度と言い、彼女が自分の事を“13番目”だと気付き始めているとするならば説明がつく。内心でこちらの事を生物的に忌避しているのだろう、一度は左腕を除く四肢を完膚無きまでに切断したのだからそれも当然だ。いや、ひょっとすれば彼女はもう自分の事を敵として認識しているかもしれない……彼の脳裏にそんな最悪の予測が過った。

 だとすれば、ここでトレーゼ自身が取るべき行動は限られて来る……。

 一つ、ここでスバルを敵性対象と見なして処分する。

 二つ、今後の計画を鑑みて彼女を計画進行の因子から排除する。

 三つ、このまま様子見を続ける。

 とにもかくにも、まず一つ目はアウトだ。敵陣地のど真ん中で相手を殺せば、逃走には成功したとしても後の計画進行に支障を来たす恐れがある。では彼女を今後の計画進行における一切の事象から除外するか? それもナンセンスだ、計画の本懐を発動させるのは四日後の夜中……ここまで漕ぎ着けたと言うのにここで駒を手放すのは得策ではないからだ。

 となればここはやはり不本意ではあるが四日後まで彼女を様子見するより他は無い。どの道その時になれば管理局はこちらに屈するのだ……たった四日待てば良い、簡単だ。

 (良いさ、精々使えるようになっていれば、それで……)










 少女スバルは思案する……目の前の少年について。両足の治療中にスカリエッティから聞かされた“13番目”の名前、『Treize』……偶然の一致だと信じたかった、だが考えれば考えるだけ目の前の彼がその“13番目”であるのではないかと言う予感が頭から離れなかった。

 “13番目”が世界に放たれたのは11月6日……スバルが四肢を断たれたのはその三日後の11月9日、ノーヴェが初めてトレーゼと知り合ったのは本人の話からするにその二日後の11月11日……そして、スバル自身が出会ったのは三日後だ。11月の上旬辺りから地上本部に派遣されて来たと言うトレーゼの言葉が真実だとするならば、地上本部襲撃を含める全ての“13番目”に関する事件が彼がこのミッドチルダへとやって来てから起きていると言う事になる……これは只の偶然なのか? 疑問はまだある、彼は自分に三人の姉が居たが二番目の姉は三年前に死亡したと言っていた。ナンバーズの面々の中で唯一の死亡者はNo.2のドゥーエのみ、番号順に考えても彼女を姉としているならば何の矛盾も無い。そして極めつけは昨今の無人世界の軌道拘置所におけるクアットロ奪還事件だ。あの日の前日、彼は第6無人世界『ゲルダ』に出張だとか何とか言ってしばらく顔を見れなかったが、あれはクアットロを取り戻す為に行っていたのではないか?

 一つの疑問が更に疑問を呼び続け、彼女の精神は徐々に疑心暗鬼の淵へと追いやられ始めた。何を血迷ったのか自分でも分からないままに彼女は……

 「ねぇ、トレーゼってさ…………“13番目”って言う犯罪者の事知ってる?」

 当然答えはノーだった。考えて見れば当然の結果だった、彼が“13番目”であれ本当に管理局員であれ公には存在しない事になっているモノについて軽々しく知っているなどと答える訳が無かった。自分でも何て愚かな事を聞いたのだろうと泣きたくなった。

 それからは今までの様な軽い話が出来なくなってしまった……。いつもの無愛想な感じのトレーゼがいつも以上にどこか余所余所しく、こちらと必要以上に接触する事を拒んでいるかのように見えたのだ。

 だが彼女は信じようとしていた。目の前の友人が決してその様な人間ではないと心の底で信じ続けていた。

 しかし──、

 (もし、トレーゼが本当に“13番目”だったとしても……私は……)










 時を遡り午前8時00分、クロノ・ハラオウンの事務室にて──。



 「まさかトーレとは別の抑止力候補が居たとはな……しかもその人物がよりにもよって……!」

 クロノの頭を痛くしている悩みの種は、つい三十分前にスカリエッティの口から聞かされた『対トレーゼ第二抑止力候補』の存在だった。あの八神はやてや付き人のウーノでさえも予測し得なかったその人物に、クロノはずっとどう言った対応をしたものかと頭を抱えているのだった。

 当のスカリエッティは始めはその人物を作戦に参入させる予定だったらしいのだが……

 「私とて人の子だ、平穏無事に静かな暮らしを営んでいる者を戦場紛いの現場に引っ張り出すような無粋な真似はせんよ」

 とのこと。

 故にずっとその存在を黙秘し続け、トーレに口を割られるまで本当にその人物を作戦には参加させないつもりだったらしい。確かにトーレの指摘通り、その人物は次元世界に存在するあらゆる実力者達の中でも将来に秘めた素質はトップクラスと言えた……戦力としても申し分なく、その者を陣営に入れるだけでも違いは目に見えていると言っても過言ではなかった。

 しかし、如何せんその者を『呼び出す』にはある意味でナンバーズ以上に骨が折れると予測した。これまでと同じように管理局の権力にモノを言わせて無理矢理してしまえばコトは簡単に済むのだろうが、それではクロノ自身の良心が許さなかった。それに、作戦への参加にはどうしても先方の許可が必要だった。

 「『本人』が了承してもこればっかりは難しい問題だぞ」

 一応その人物を引っ張り出す為の書類関係は揃えてある……後はそこに連絡を入れて詳細を伝え、協力の意思を仰ぐだけだった。

 デスクに乱雑に置かれたその書類には、今回の件で入り用になった人物の顔写真と現在の居住地が詳しく記されてあった。そこにある表記が正しければその人物は間違い無くそこで静かに暮らしているはずなのだ。



 第34無人世界『マークラン』第一区画。



 “彼女”はそこでたった二人と大勢と共に暮らしている。




















 新暦85年7月22日午前11時35分、ミッドチルダ某所の墓地にて──。



 おう、元気か? ここんとこ顔出せ無かったからなぁ、ちょっと暇してたから顔出しに来てやったぞ。

 お前が逝っちまってもう早いモンだよな……こっちじゃ色んな事があった、ウチの娘も幾分か落ち着きって言うのが見えて来て最近やっと一息つけるようになって来た。未だに子育てっつーのは本当に苦労するな、スバルとギンガを纏めて面倒見てたお前がすげえ立派に見えて来るからなぁ。

 ウチの娘で思い出したけどよ、六年前にスバルとノーヴェが二人揃って無茶やらかしやがったんだ。あん時は本当に肝が冷えっ放しでどうかなりそうだったぜ。

 ん? それからどうなったって? まぁ転ぼうが叩き潰されようがタダじゃあ起き上がらなかったって事だけ言っとくよ。その事はまた近い内に報告に来るさ。

 さてと、俺はそろそろ行こうか。孫娘が家に帰って来る頃合いだしな。生きてりゃお前も『お婆ちゃん』だったんだぞ? お前はそう言う呼ばれ方って好きじゃなかったよな。そっちに逝くのはまだ先になるかも知れねぇけど、まぁ気楽にやってくれ。俺はいつ死んだって構いはしないんだが、ウチに住んでやがる愛妻家二人が煩いんだ。

 だから……もう少し、待っててくれよ────クイント。



 ゲンヤ・ナカジマ──ナカジマ家の歴史をずっと見守り続けた彼は、これから先の事をどう見据えて行くのか……ただ一つ分かるのは、六年前の事件についての彼の供述は如何なる報告書にも一切記されてはいない事だけだった。



[17818] 悩める者達    ※(ダーク・中盤グロ注意)
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/08/24 20:55
 午後12時30分、地上本部一階休憩エリアにて──。



 「では、俺はこれで帰る」

 それまでずっとスバルに付き合っていたトレーゼは唐突にそう言って席を立ち、椅子に掛けておいたカーキ色の局員服を羽織ると早急に帰る準備をし始めた。

 「もう……帰るの?」

 「俺のシフトは、夜中だからな……。もう、職場に居る、意味は無い」

 「そうなんだ…………」

 結局最初から最後まで彼女との『おままごと』は弾まないままだった。彼自身は別に盛り上げる必要も無かったのだが、彼女の心理をこちらに近付けると言う意味では彼女の好印象になるように事を運んだ方が良いに越した事は無いのは当然だ。となれば、やはり今回の接触は失敗だったと言う事になる……トレーゼとしては口惜しい限りだった。

 「…………──……─」

 「?」

 ふと彼はスバルが膝の上で何やらゴソゴソと忙しく左手を動かしているのに気付いた。テーブルの死角になっている所為で見えないが、手の動きからして何かを書き取っているいるのだろう……片手では何かと不便だろうに、まぁ斬り落とした自分が言うのもナンだが。何を書いているのか興味を持った彼はそこに視線を向けるべく少し腰を屈めたのだが……

 「あ! あれ何!?」

 「何だ?」

 スバルが突然指を指した方向を鋭く見やるトレーゼ。しかし、何か新手の奇襲でもあったのかとそこを見たのは良いがそこには何も無い……自分達が座っているのと同じテーブルや椅子、飲料を購入する為の自販機以外には目ぼしいモノは何も見当たらなかった。

 「……おい」

 「うわわ! な、何!?」

 「何も、無いぞ」

 「そ、そう? あれ~、おっかしいな~……ついさっきお母さんがあそこで手を振ってたような気がしたんだけどなぁ~。あは、あははははっ」

 「…………重症だな、お前」

 いつか脳外科か何かに通った方がいいのではないかと真剣に考えさせられた瞬間だった。だがいつまでもここに長居している必要は無い……早く行かねばと思い、トレーゼは背後の少女に「ではな……」と無愛想にたった一言だけ別れの言葉を投げ掛けた後に何の躊躇も無く去ろうとして──、

 「また……明日ね」

 「……………………」

 そのまま立ち去ろうとしていたはずの足が止まった。明日……この少女は敵かも知れない自分と24時間後にまた会いたいと言っている……解せない、こちらにとっては好都合とは言え何故そうまでして自分を引き留めようとするのか理解出来なかった。

 彼はそのまま無言で立ち去る事も出来た……そのまま踵を返したまま無視して行こうと思えばそう出来たはずだったが、彼は自分でも理解出来ない内にゆっくり振り向くと──、

 「あぁ、また、明日」

 約束してしまったのだ。久しく見ていなかったような満面の笑みで別れの手を振る彼女に、トレーゼは再会を約束してしまったのだ。それだけならまだ良い、所詮口約束なんてモノは反故にしてしまえばそれで誰からも咎められる事は無いのだから。しかし、幸か不幸かトレーゼの性格ではどうにもそう言った些細な契約でさえも無視しかねるモノがあったのだ。

 有言実行──。

 如何なる事物においても実行第一を旨とする彼は帰路につきながら明日の予定に加筆修正を加えるしか無かったのだった。










 同時刻、ゲストルームにて──。



 現在この来賓用の室内のソファに座っているのはたったの三人……ソファを丸々一つなり占拠して惰眠を貪るスカリエッティと、その向かい側のソファで静かに鎮座しているウーノとトーレの姉妹が二人並んでおり、互いに無口を貫いていた。もっとも、言葉を話さないのはどちらかと言えばトーレの方であり、ウーノの方はしきりに何か共通の話題は無いかと話しを振っていたのだがやがて妹がそう言った事に興味を持っていないと分かると徐々に言葉数が減り、遂には退屈したトーレが座ったまま睡眠に入ったのをきっかけにとうとう無言になってしまったのだった。

 「貴方の寝顔なんて片手で数える程度しか見た事なかったわね……」

 妹であるトーレがここまで無防備に睡眠を摂っていたのは自分達がまだ未熟な子供の時の事でしかなかった。あれから十数年の歳月を経てこの妹は当初の計画通りに強くなり、やがて刷り込まれた戦士としての教養の所為かまともに寝る事すらしなくなっていた……それを思えば良い機会だ。

 不意に、ウーノは遥か昔の事を思い浮かべた。戦いだとか、外の世界だとか、そんなモノとは全く無縁のあの時……何も考える事も無く過ごしていた平穏なあの時の事を……。

 「もう17年なのね……」

 静かに目を閉じた彼女は遥か昔に置き去りにして来たはずの記憶を思い返す──。

 そう、あれは……




















 新暦61年某月某日、スカリエッティの隠れラボの一角にて──。



 「やぁウーノ、第十六回目の基礎フレーム定期検査はどうだったね?」

 「通常機動を行う分には問題ありませんでした。ありがとうございました、ドクター」

 地下に造られているとは思えない明るさの空間に白衣の男性と一人の少女が互いに向き合う形で言葉を交わしていた。カルテのような記録票を片手に持つ男性の名はジェイル・スカリエッティ……この時期は管理局最高評議会からの指令で“聖王のゆりかご”に関する独自調査と研究、そして地上本部の戦力不足に頭を抱えているレジアス・ゲイズからの極秘依頼で戦闘機人の製造理論の確立及び量産に向けて独力で行動している時期だ。対する菖蒲色の髪の少女の名はウーノ……外見年齢では僅か10歳程度の少女だが、彼女こそスカリエッティの技術の粋を集めて造り上げた栄えある正式稼働型戦闘機人の“第一号”だった。幼い外見とは裏腹に言葉遣いや雰囲気は大人びていて、その肉体には既にフレームや精密機器が埋め込まれ始めており、歴とした人成らざる者としての実力を付け始めていた。

 「ドクター、そろそろ……」

 「ん? あぁそうだな、半年振りの再会だ、行って来たまえ。こちらの都合であの二人は先に終わらせてある。培養槽のガラス越しでは味気ないだろう」

 「はい。行ってきます」

 丁度自分の娘とも言える年齢の幼いウーノの後姿を見守りながらスカリエッティは再び記録をつける作業に勤しんだ。現時点において“書類記録上”では未完成ながらも稼働可能状態にあるのはウーノを含めて三人だけ……彼の持てる技術と知識の全てを注ぎ込んで生み出すだけあってその点検やメンテナンスは決して怠らない。

 ふと、何を思ったのか途中で踵を返したウーノがスカリエッティに問うた。

 「あの、ドクター」

 「んー? 何だね?」

 「あの……その、『あの子』は……居ますか?」

 「おぉ、もちろんだとも。彼の定期検査も今日だからな、既に培養槽からは出してある。早く会いたいのだろう? 行って来たまえ」

 「はい!」

 ウーノは元気良くそう答えると、既に見慣れた施設の通路を駆けて目的の場所へと向かった。地下に存在しているこの施設内では空間を有効活用するべく様々な方向に通路や空間が拵えてあり、その道はかなり入り組んだ構造になっている。そんな場所でも自分の庭のように迷う事も無く一気に駆けた彼女はものの二分も掛らずに目的の場所へと辿り着いた。重鎮な金属の厚い扉の前に立つと、丁度彼女の目線に合わせた位置に当たる扉の表面が迫り出し、カメラのレンズのような物体が現れた。そこから発せられる光線がディスク読み取りの要領で彼女の網膜と虹彩識別を完了し、後は自動的に開いて彼女を内部へと招き入れた。この部屋は施設の中枢となる場所で警戒レベルが高く、外部からこうして個体識別をクリアしないと入室出来ないシステムになっているのだ。

 だが今の彼女達にとってはそんな事はさして重要ではない。何故なら、この場所は自分達姉妹にとっての限られた集いの場なのだから。

 「う~の~! 待ってたんだからぁ。意外と遅かったじゃない」

 「……………………」

 「久し振りね、ドゥーエ、トーレ。ガラス無しで顔見るのっていつ振りかしら」

 「うーんと、私はこの間ドクターの検査受けたからねぇ~。ほら、私って一応対外用に造られてるって言うでしょ?」

 「ドゥーエは一番最初に外の世界に出る事が決まってるものね……。頑張ってね、あなたの役目はドクターの計画には一番重要なポジションなんだからね」

 「分かってるってば。お姉ちゃんの頑張ってる姿を妹達に見せ付けてやるんだから」

 そう、既にこの時点でレジアス・ゲイズも最高評議会も関係無くなっていたのだ。今のこの時点で既にスカリエッティの胸中には生まれながらにして与えられた本能的使命よりも、自らの知識と探究欲を満たす事を目的としていたのである。あと九体分の戦闘機人を製造し、同時に“ゆりかご”を動かす鍵を教会側から得られれば彼の計画は成就したも同然だ。もっとも、この時のスカリエッティや彼の私兵として生み出されたウーノ達は今より17年後に彗星の如く現れた“奇跡の部隊”に自分達の計画をことごとく砕かれるなどと夢にも思ってはいなかった。

 「ねぇ、一つ気になったのだけれど……」

 「なぁに~?」

 「『あの子』はどこに居るの? ドクターは先に上がってるって仰ってたのだけれど……」

 そんなに広くは無いはずの空間を幾度も見渡しながらウーノはここに居るはずの『もう一人』を懸命に探していた。スカリエッティはここに居ると言っていたがその影はやはり見当たらない。

 「あー、トレーゼ? あの子はさっき施設の探検ごっこに出てったわよ」

 「たん……けん……? …………いつの話し?」

 妹のドゥーエの言っている事が本当だとするならば目的の人物はたった一人でこの部屋をウーノと行き違いに出て行った事になる。ウーノの頬に冷たい汗が垂れる……あの者を何の監視も付けずに離したとあってはとんでもない事になる恐れがあったからだ。

 「うーんっと…………三十分ぐらい前に──」

 「心配だからモニタリングして!」

 「ちょっとそれは大袈裟すぎないかしらぁ? どうせこの施設の外には行けっこないんだからそこまで……」

 「良いから早く! 手遅れになってからじゃ泣きを見るのはこっちなのよ!」

 ここは施設の中枢である故に内部に設置してある全ての監視カメラの映像が一ヶ所に届くシステムになっている。それを利用してウーノは大急ぎでシステムを起動し、巨大なモニターに施設内全ての映像をリンクさせた。映し出された映像は全部で50を下らないが、“彼”を探すのには然程の労力を必要とはしない……何故なら、たった一人で施設の中を放浪する“彼”は必ず──、



 『おねえちゃぁぁぁぁぁんっ!! ここどこぉ~っ!!』



 必ず迷子になって泣き喚くからだ。

 「あ~ぁ、言わんこっちゃない」

 「あなたが一人で行かせたんでしょ!」

 「私の所為じゃないも~ん♪ トレーゼの世話はトーレの役目って決まっているじゃない」

 「……わたしに振らないでください」

 モニター越しに泣き叫んでいる『弟』を前に三人姉妹が嘆息を漏らす。一人で勝手に施設の探索に出た彼がこうして迷子になるのもこれで両手両足の指の数を越えた……その度に彼女らの誰かが迎えに行くのだが、その役回りは大抵決まっており……

 「はい、と言う訳で『お姉ちゃん』行ってらっしゃい」

 「任せたわよトーレ」

 「待ってください、なんでいつもわたしなんですか?」

 姉二人に指名を受けた、それまでずっと隅の椅子で大人しく座っていた少女──トーレが思わず反論した。そう、彼女らの『弟』であるトレーゼがこうして迷子になる度にトーレは彼を迎えに行かされるのだ。

 「だってさぁ、あの子あんなに必死になってあなたの事呼んでるのよ?」

 「別に『お姉ちゃん』はわたしだけではありません。ですからわざわざわたしが行く必要は──」



 『トーレお姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん!!!!!』



 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……ご指名入ったわよ」

 「行ってきます……」

 そう、昔からなのだ……あのトレーゼは生み出されて物心ついた時から何故か三人の中でもトーレに特に懐いていた。その懐き方たるや尋常では無く、定期検査で培養槽の外に出る度にトーレの傍らにベッタリとひっついており、検査が終了して培養槽に戻らなければならない時になると彼女の袖を掴んで離そうとしないのだ。ちなみに、『お姉ちゃん』と言う言葉を教えたのはドゥーエだが、その言葉を一番最初に使った相手もトーレだった。四六時中金魚のフンみたいに付いて回る彼を始めは鬱陶しく思って突き離していたトーレであったのだが、やがて気にならなくなり、しだいには文句や小言を言いながらもしっかりと面倒を見始めるようになり、今となっては口でなんだかんだ言いつつも上の二人以上に『お姉ちゃん』と言う役柄に定着していた。自分達より『先』に造り出された彼がどうして三人の中でトーレだけをそこまで執心しているのか始めはウーノにも分からなかったのだが、後にスカリエッティに直接聞いて確認して答えが分かった……生み出された経緯を辿れば確かに不思議は無いだろう。

 ラボを出たトーレは駆け足で目的の場所まで向かった。モニターに映っていた場所はここからそう遠くは離れていないはず……とすれば、必ず近くに……

 「お姉ちゃ~ん!! どこ~!!」

 居た。こっちがビックリする程近くに居た。自分達と同じ白い服を涙や鼻水でグチャグチャに汚しながら、同じく涙で焼けた顔をこっちに向けているのは紛う事無く自分の『弟』……『姉』として見ていて本当に情けない醜態だが、これでも一応『弟』なのだから堪えるしかない。この自分の住み着いている場所でも平気で迷い鼻水垂らして姉が来るのをただ単に待っているだけしか出来ない少年こそ、Dr.スカリエッティの計画の最終段階を支えると言う大きな役目を与えられた13番目の戦闘機人『トレーゼ』であった。

 「おねぇぇえちゃぁぁあぁぁぁぁあああん!!!」

 トーレの姿を視界にキャッチしたトレーゼが猛ダッシュで彼女の許まで駆け出して来た。流石に青春ドラマじゃあるまいし、鼻水でベトベトになっている彼を真正面から抱き留める事はしたくないトーレは自身の持てるだけのリーチ一杯まで腕を伸ばして彼の頭を押さえつけた。

 「おねえちゃ──ぐふぇっ!!?」

 「うっとうしい、近寄るな、顔を拭け! それが出来なきゃ二度とお姉ちゃんとは呼ばせない!」

 「ごめんなざぁ~い! もう勝手に探検ごっこしたりしないからぁ~!!」

 「分かったからもう泣くな。はい、鼻。チーンしろチーン」

 「チーン……ズズッ」

 服の裾で鼻を拭かせ、トーレはトレーゼの手を掴んだ。こうしておけば迷わせる事も無い。以前手を繋がずに帰ろうとした時に横道逸れてまた探す羽目になってしまった教訓だった。

 「さぁ戻るぞ。いい加減学習しろこのバカが」

 「ごめんなさい……」

 「お前は気楽で良いな。同じナンバーズなんて思えない」

 「トーレお姉ちゃん……僕のこと嫌い?」

 「誰がそう言った。どうでも良い事ばっかり覚えて喋って、この口は!」

 「いたいいたいいたいいたいっ!! ご、ごめ、ごめんなさぁい!」

 ナンバーズ初の直接戦闘型機人の頬抓りを受けたトレーゼは必死になって逃れようと顔を振った。長いこと続けているとまた泣くと判断したトーレは早々に切り上げたので事無きを得たが……。

 繋いでいる『弟』の手は自分より暖かく、抓られている間も『姉』の手を離すまいとずっと握っていた。そんな彼の手を引きながらトーレは帰路につく。帰り道はいつもと同じように説教タイムだ、いい加減この『弟』にも自覚と言うモノを心得てもらいたくて仕方が無い。

 「良いか? ラボへの通り道はここに設置してある暗号標識が目印だって何度言ったら分かるんだ」

 「はーい!」

 「本当に分かっているのか? これでもう何十回目だ」

 「えへへ~、おねえちゃーん!」

 「ベタベタとひっつくな! みっともないから!」

 いつもこうだった、隣で手を引いていてもこうやって自分に必要以上に寄って来るのだ。スカリエッティ曰く、「スキンシップだから気にせずとも問題無いさ」との事だが彼女が気にしているのは別にそこではなかった。

 何故自分に懐くのか? 自分達二人が生み出された経緯ははっきり言って特殊を通り越してある意味では異常だと言えるだろう……後に生み出される予定だと言うNo.8とNo.12よりも異常だと言えるかも知れない。いくら肉体的にも精神的にも幼いとは言え、この『弟』が自分達の出自だけを理由にそこまで懐くのは常日頃からおかしいと感じていた。

 「ねーねー、トーレお姉ちゃん」

 「なんだ?」

 袖を引っ張る『弟』が何かを指差しているのでその方向を見て見ると、そこにはシンプルな字体で『有事以外立ち入り禁止』と張り紙が成されてあるドアがあった。しっかりとバルブで固定されており、トーレが知っている限りでも主のスカリエッティが数回程度出入りしたのを見た事があるだけだった。

 だがこの奥に何があるのかは知っていた。自分だけではない、上の二人の姉も知っているし、さっきも言ったようにここの主であるスカリエッティも当然の如く知っている。知らないのはトレーゼだけなのだ……。

 「……………………」

 「お姉ちゃん?」

 「……トレーゼ、お前はこの先にあるモノを知りたいか?」

 「え……?」

 「知りたくなかったらそれで良いんだ。だけど…………もし知りたいなら、お姉ちゃんが連れて行ってやる」

 「トーレお姉ちゃんが一緒なら良いよ。行く!」

 元気良く手を挙げて返事を返すトレーゼ……内心呆れて声も出なかった。本当に気楽なモノだ、哀れになって来るぐらいに……。

 「分かった……行くぞ」

 意を決した彼女は小さな『弟』の手を引いてドアまで来ると、固定されていたバルブを片手で回転させて解錠した。中は階段が下層に続いており、冷たい空気が気流となって二人の間を抜けて行った。恐らくはこの先にある空間が施設の最下層になっているのだろう。

 「…………行くぞ」

 「う、うん!」

 漂って来る異様な雰囲気に気圧されたのか、後ろで硬直したままだったトレーゼを引っ張ってトーレは階段を降り始めた。コンクリートで塗り固めただけの地面を素足で移動する為に足の裏は冷たい事この上ないが、それでも彼女は構う事無く降り続けた。やがて互いの足音が三桁に達しようとした時、トーレはふと足を止めた。

 「お姉ちゃん……ここ暗いよ……」

 「当たり前だ、照明が無いんだから」

 「早くつけてよぉ! 怖い……!」

 「…………いいのか? わたしが照明をつければ、お前はもう後戻り出来ないんだぞ? それでもいいなら……」

 そう、“これ”を見てしまえばもうナンバーズ上位者として後戻りは不可能となる……最期の瞬間を迎えるまで脳髄にこびり付いて離れず、記憶の奥底で精神を蝕み続けるだろう。恐らくこの『弟』はその重圧に耐えられないと感じていたトーレの『姉』としての最大の譲歩なのだ、この一線を越えてしまえば……遅かれ早かれその重圧に耐えられなくなってしまうのではないかと心配しているのだ。それにこの臆病な性格もある……ここで諦めてくれるだろうと期待もしていた。

 だが──、

 「…………お姉ちゃんは……見たの?」

 「ウーノもドゥーエも見ている。見ていないのはお前だけだ」

 「…………………………………………見る、見るよ!」

 「お前……!?」

 「いいよ……明かりつけて……」

 『弟』の意思は固いらしく、もう自分がどうこう言っても動じないようだった。もう何を言っても無駄だろう……。

 「…………わたしはお前の『お姉ちゃん』だから……出来れば見せたくなかったよ。でもお前がそう言うなら別に良いさ」

 壁際に沿って歩きながらトーレは照明を入れるスイッチを探した。そして、一瞬躊躇った後──、

 天井のライトが全て眩く光り出した。

 「うわ……!」

 暗闇に慣れていた目を突然光が差し込んだ事で一瞬眩んでしまったが、ものの二分もすると徐々に網膜細胞が慣れ始め、トレーゼは目の前に広がる光景を目の当たりにする事となった。

 それはプール……巨大な水槽に大量の水分を貯蔵する為のあのプールがあった。深さはどれ程かは分からない、一杯にまで黒い液体が湛えられていて底が見えないからだ。しかもその液体からは鼻を突くような異臭が放たれており、もうここに数回は足を運んでいるはずのトーレですら顔をしかめずには居られない臭いだった。

 不意にトーレがそれまで握っていたトレーゼの手を離して空間の更に奥へと進んだ。辿り着いたのは部屋の行き止まりの壁、しかしただの壁ではない……壁一面に引き出しのような取っ手が付いていて奥に収納スペースがあるのか、壁一面が碁盤の目のように区切られているのだ。トーレは自分の腰の辺りにの取っ手を掴むとそれを引いて中にあったモノを凝視した。当然隣に居たトレーゼにも中身は確認出来た。だが、そこに収められていたモノは幼い彼の予想の大きく斜め上を行っており──、

 「え…………お、お姉ちゃん……?」

 まるで棺桶のような狭い空間に閉じ込められていたのは、服も着せられていない全裸ではあるが間違いなく隣に居るトーレそのものだった。紫色の髪や体型までもが彼女に酷似、いや、完全に彼女と同じだった。何故こんな所に閉じ込められているのか? それよりも、この少女は一体何なのか?

 「何だと思う? 言っておくが、わたしじゃないぞ」

 「違うの!?」

 「お前はトーレお姉ちゃんが何人も居て怖くないのか?」

 「う……! じゃあ……何なの、これ?」

 目の前に収められているのはどう見てもトーレと同じ人間にしか見えない……では結局一体何だと言うのか?

 「これは……そうだな、何て言ったら良いのかな…………ドクターの言葉を借りるなら──」

 トーレの手が少女に伸び、その首元を掴み上げる。機人の剛腕でその人間の形をした“何か”を担ぎ上げ、彼女は踵を返して歩きながらこう言った。

 「わたしを生み出す過程で出来てしまった、わたしに成り損ねた『わたし』……と言ったところか」

 担いでいたそれを部屋の隅に置く……身長、顔立ち、髪型に至るまでの何もかもがトーレと変わり無い、彼女の言っている事が本当だとするならば、この少女はトーレを培養する過程で発生した何らかの不良品と言うことになる。見た目は完璧な人間の形を模しているこれがスカリエッティの何にそぐわなかったのかは知らないが、それでもここにこうして安置されている以上はやはり何か問題があったのだろう。

 「……生きてる……よね?」

 「いいや、息もしてないし、心臓も動いて無い。生物学的には完全に『死んでる』とドクターは仰っていた」

 「でも! こんなにきれいだよ!? 死んでるなんて……」

 「でも死んでいるんだ……。さぁ、始めるぞ」

 再びトーレがその『死体』を担いだ。彼女は部屋の隅から中央にある黒い液体を満たしているプールの淵にまでやって来ると、背後のトレーゼに向き直った。

 「良いかトレーゼ、これからわたしは今までお前が稼働して経験した中で一番残酷な事をする……」

 「残酷な……こと?」

 「そうだ。お前は……わたしを嫌いになってしまうかもしれない……」

 「え……それって──」

 「だけど、お前にはこれを見届ける義務があるんだ。だから、わたしはお前に軽蔑されてもそれをやらなくちゃならない。…………分かってほしい」

 そこから先はトレーゼが何を聞いて来ても彼女は無言を貫き通した。音も無く波を打っているプールの黒い液体を凝視した後、彼女は深呼吸して調子を整え──、



 担いでいた『死体』を投げ入れた。



 水面を割って盛大に飛び込んだ物言わぬ少女の肉体は少し沈んでいた後に浮力で浮き上がり、傍から見れば完全に水死体と同じ状態になった。始めはたったそれだけかと思っていたが、やがてその変化は唐突に訪れる事となった……。

 シュゥゥゥゥゥ…………!

 何か空気の抜けるような気流の音が空間に響き渡る……自転車のチューブの空気が開いてしまった小さな穴から抜け出る時のようなあの音だ。始めはどこから出ているのか分からずにトレーゼは周囲をキョロキョロと見回していたが、トーレの視線が水面に釘付けになっていると気付いて自分もそっちを見た。

 「…………………………………………………………………………………………あっ!…………………………………………………………………………」

 自分の網膜に飛び込んで来た映像に、幼い彼の思考回路が強制停止した。

 まず混乱。眼前で起こっている現象に彼の脳が追い付かずに起きた出来事。

 次に無心。その光景の意味を理解してしまった彼の精神がその事物の重大さを無意識に拒絶し、一瞬だけブラックアウトした。

 そして最後に…………

 『恐怖』。

 「あ……あぁ、うわぁああぁあああああああああああああっ!!!」

 絶叫。幼い彼の前に広がっている光景は彼の脆弱な精神を蹂躙するには有り余る程の破壊力を有していた。

 黒い水面はボコボコと泡立って鼻に突く臭気を放ち出し、その中心にはついさっきまで人の形を保っていたはずの少女が全身を酸でドロドロに溶解されて形を失いながら徐々に沈んで行く人間“だった”モノが……。

 「目をそらすなっ!」

 『姉』の手ががっちりとトレーゼの顔を押さえつけ、目の前の光景をその視界に無理矢理刻みつけようとする。戦闘機人として格上の彼女の腕力に逆らえるはずもなく、眼前で起こっている世にもおぞましい悪夢のような出来事を彼は真正面から見据えさせられる事となってしまった。

 「あぁあ!! あぁあああああぁっ!!!」

 髪の毛が消失し、皮膚と唇が無くなって頭蓋と歯茎が露わになって行く……比較的柔らかい組織で形成されている眼球は瞬時に溶け、眼窩の空洞に流れ込んだ酸が脳髄を焼き尽くす蒸気音がここまで聞こえて来ていた。頭だけではない、既に四肢の指は完全に無くなっており、部位ごとに溶け方の差があるのか足の一本は本体から離れていた。はみ出た蛇のように長い腸がのた打ち回りながら溶けて行く様は見ていて決して気分の良いモノなんかではないのは当然だ。

 「う……! げぇっ、ぅえぇっ!!」

 酸味の利いた胃液の匂いがトーレの鼻を突く。だがそれでも彼女は自分の『弟』がこの光景の行く先を見届けるまで彼を押さえつける手を決して離そうとはしなかった。どんなに酷く、どんなに残酷で、どんなに彼の心をズタズタにしようとも、これは彼にとって避けては通る事の出来ないモノなのだから……。

 およそ十分も掛らず、その少女の肉体は完全にこの世から物理的に消滅した。骨だけになった時点で自重によって沈み、後は儚く溶け続ける泡の塊だけが水面を揺らす程度だった。そう、完全に少女の体はこの酸の溜まりに消えたのだ。

 「…………ちゃんと最後まで……見たな?」

 「…………………………………………」

 幼き『弟』にはもう言葉を発するだけの気力は残っておらず、胃液と唾液が入り混じった汚物を口から垂れ流し、虚ろな目で黒い水面を眺めているだけだった。やっと小さく頷くのを確認し、トーレはそっと彼の体を自分の方に向けさせた。

 「……どうして、わたしがあんな事をしたか分かるか?」

 「……………………」

 辛うじて首が横に振られたのが分かった。幼いながらにきっと必死に理解しようとしたのだろう……無理も無い、自分だって初めてこれを見た時はショックだったし、特に冷静に見えて繊細なウーノなんかは自分と同じ姿をした肉体が徐々に溶け行く様を見て失神した程だった。

 「…………ここに居るわたしと、さっきまであそこに居た『わたし』の違いが分かるか?」

 「…………?」

 「あの『わたし』は必要とされてなかったんだ。生み出す過程で出来てしまった、わたしに成り損ねた『わたし』……わたしは必要とされて、あれは必要じゃなかったから廃棄される……たったそれだけなんだ」

 「……………………」

 「そして……この先何らかの理由でわたしが必要とされなくなったときも…………こうやって捨てられる」

 「っ!!?」

 「…………わたしだけじゃない……ウーノもドゥーエも同じだ、使えなくなれば……こうなる」

 「そんっ……な!」

 「けどお前は別だ。お前はあれとは違う……お前は『必要とされて』いるんだ。例えわたし達三人が捨てられても、お前だけは違う……違うんだ」

 「…………………………………………」

 「いつその日が来ても良いように、お前にはこう言う方法じゃないと覚悟を決められそうになかったから……すまなかった。立てるか? もう戻るぞ」

 「うん……」

 脱力している『弟』の肩を支え上げ、トーレはこの忌むべき空間から早々に退散しようとした。彼女の言った事に嘘偽りは無い、もうすぐ正式稼働が予定されているが……いや、もし完成したとしても自分達の主であるドクター自身が失敗作だと判断すればここで処分される事は確かだろう。自分達の優先度はこの『弟』よりも遥かに劣っている……例え自分達が本当に処理されたとしてもこの『弟』だけは無事なはずなのだ。だが何も知らされぬままに自分達が消えて行ったら、この幼い彼は耐えられるだろうか? それならいっそ自分から自分達の秘密を知らせて覚悟を決めさせた方が良いのではないか……トーレの姉としての苦渋の決断が彼女をこのような行動に駆り立てたのであった。

 だが結果は予想していたように、初めてここを見せ付けられた自分達よりも酷くショックを受けている。自分が処分される事は無いと分かっても青褪めている辺り、純粋に姉である彼女らの心配をしているのだろう。どこまでも姉想いなことだ。

 「…………なぁトレーゼ、さっきお前はわたしに自分の事が嫌いなのかって聞いたな?」

 「うん…………」

 「嫌いだと思うのか?」

 「……トーレお姉ちゃんはいつも怒ってばっかだし、ぼくが居ると……なんだか嫌そうな顔してるから……」

 子供とは時に大人以上に聡い時がある……感情で行動を左右されない事を前提としている戦闘機人として努めてそう言った反応が表に出ないようにしていたのだが、どうにもこの『弟』にはそう言った事が筒抜けだったようだ。いつも一緒に居る者が常にこう言った不機嫌そうな表情を浮かべていては彼も戸惑って当然だ。

 「……………………良い事を教えてやるよ、トレーゼ」

 「?」

 「正直言ってわたしはお前が好きか嫌いかなんてどうだって良いんだ。すぐ泣くし、自分の住んでいる所でも平気で迷うし、その度にわたしが迎えに行かされるし、それでいて全然学習しないし、いつもいつもくっ付いていてうっとうしいし……」

 「うぅ~!」

 「でもな、そんなバカみたいにみっともないお前でも…………………お前はわたしにとって『必要』な存在だよ」

 トーレの手が『弟』の頭を掻き回すように撫でる。力加減なんて分からない、元々彼女自身がこうやって自分より小さな相手をあやす事など露とも考えていなかったからだ。それでもこの幼くどうしようもなく抜けているクセに姉想いな『弟』に自分の気持ちを伝えるには充分だった。

 「ぼくもトーレお姉ちゃんのこと、大好きだよ!」



 鼓膜を反射して耳に残るその言葉…………ナンバーズ最強、トーレの脳の奥底に残る最も幸福な記憶の残滓だった。




















 「……思えばあれは私が今まで稼働して来た中で一番の過ちだったのかもな」

 いつ起きていたのか分からないが、トーレが目を覚まして自分に向かって口を利いている事にウーノは何の違和感も抵抗も無く受け入れていた。

 「でもそれは貴方が必要だと判断したからそうしたのでしょう? それに貴方がそうしなければ、あの子はいつまでも覚悟を決められないままだったかもしれなかったのよ。それに貴方がしなかったらいずれドクターがそうしていたでしょうし」

 「だとしても…………私の手で見せるべきではなかったよ」

 冬の真昼の陽光が窓から彼女ら二人の顔を照らし出す。17年前のあの忌むべき場所へは亡きドゥーエを含んで二度と足を踏み入れていない、あの場所は自分達四人の中では一度見れば二度と踏み入ってはならない場所だと暗黙の了解があったからだ。だが一つだけ気掛かりなのはあの場所に眠るモノだった……アジトを転々としていた所為であの場所にはまだ処分し切れていない自分達の『成り損ない』が大量に眠っているのだ、今もまだあそこに哀れな彼女達がそのままだと考えると……………

 「……いけないな、どうにも感傷的になってしまう」

 「それでも良いんじゃないかしら。貴方が自分で悲観してしまう所も含めて、あの子は貴方の全部が大好きだったんだから……」

 窓の外を影が過った。あれはカラスだ、一羽だけで誰も居ない空へと向かう事しか知らない孤独な鳥……それはすぐにウーノの視界から消え去り、寒空へと羽ばたいて行った。










 午後16時04分、クラナガン郊外のとあるアパートにて──。



 「……………………ふぅ」

 極端な肉体労働にでも余裕で耐えられるはずの戦闘機人であるはずのトレーゼが疲労の溜息をついた……ライドインパルスの超加速による長距離移動を数十分以上持続して行える彼がこのアパートの前まで来るだけでそこまでの疲労が蓄積したとは到底考えられない……それもそのはず、彼は背中に自分の体積の1.5倍はあるモノを背負っていたからだ。

 それは布団、冬用の分厚い羽毛布団だった。自分が使う為に買って来たのではない、あくまでこのアパートの寝室に軟禁しているヴィヴィオの健康状態に支障を発生させない為の適切な処置として購入したに過ぎない。ただ問題だったのは、これを購入したのはクラナガン中央街の少し外れにあるショッピングモールなのだが、実は彼はここへ直接持って来たのだ…………歩いて。配送してもらっては企業繋がりでアシが付く恐れがあったし、かと言って離れた所に通っている都営リニアを使えばいつどこで自分の事を知っている局員に見られるとも分かったものではない……ちなみに、荷物が大き過ぎたのでタクシーにも乗せてもらえなかった。

 「……教会から、離脱する際に使った車両……残しておけば良かったか」

 今更後悔しても遅いのだが、彼は自分の『選択』を誤ってしまった事を後悔していた。

 何はともあれこうして戻って来れたのだから良しとしたかった。ディープダイバーの効果で蝶番を固定してあるドアを潜り抜け、室内へと進入した彼は寝室まで布団を運び出そうとした。

 だが──、

 「…………開かない?」

 変な気を起こして立て籠られないようにこの寝室の鍵は予め破壊しておいたはずだった。恐らくは内側から何らかの物体を置いて開かないようにしているのだろうが、そんなモノは直接戦闘用に造られたトレーゼの前では無に等しく、彼は拳を振り上げるとその頑強な振りをしているだけの障害物にすら成り得ない薄いドアを叩き破ろうとした。しかし、いざ打ち破ろうとしたその時、彼は中に居る少女が何かか細い声でこちらに喋っているのが聞こえて来た……耳を済ませると──、

 「────入って……来ないで──」

 「…………………………………………」

 明確な拒絶の意思を汲み取ったトレーゼは強行突破を諦めて布団を床に降ろし、ドアの片隅にそれを移動させた。無理に踏み入って彼女の精神に害悪をもたらすつもりは毛頭無い、彼女が来るなと言うのであれば今はそれを聞き入れるだけだった。

 「……新しい、寝具を、用意しておいた。ここに、置いておく……好きな時に、取りに来い」

 返事は無かった……だが一応伝えるべき事は伝えておいたので問題は無いはずだった。冷蔵庫の中を整理しようと開くと、中のペットボトルが何故か一気に十本も消費されていた……この冬の気候で喉が渇くとは到底思えないし、かと言って下痢によって失った水分を補う為に飲んだのだとしても量が多過ぎるが、如何せん本人と接触出来ないとなると理由を聞く事も出来なかった。



 …………クシャ……



 「?」

 制服のポケットから何か小さな音がしたのを彼の耳が捉えた。服越しでは違和感は無かったのと音の質から察するに、恐らくは紙だと推測した。ポケットをまさぐる……彼の着ている管理局員の制服はポケットが多い、胸に外側と内側に二つずつと腰の位置に左右一つずつで計六つ、彼の探していたモノは腰の所のポケットに紛れ込んでいた。

 それは案の定紙だった。店などで物品を購入した際に渡されるレシートと同じ位の大きさの紙……何かの不要書類を切り取った物のようだが、印刷されている文字は無く、代わりに雑な走り書きが残されていた。数字と半角記号の羅列に見えるそれはこの情報社会においては普段の日常で目にする事が多いであろうモノ、メールアドレスだった。特別な記号や符合が用いられていないのを見ると企業のアドレスではない個人用のモノだと窺えたが、問題は誰がこれを入れ込んだかだ……その問いを自問自答する間も無く、彼の目は紙面の隅に書かれた文字を見つける事で解決した。

 『SUBARU NAKAJIMA』

 「……………………………………………………………………………………何を考えているんだ、あいつは」

 膨大な知識で以て情報を制し、腹黒い狡猾さを以て相手の裏を斯き、圧倒的な力で敵を残らず駆逐する……どんな相手に対してもそれを押し付けるかのように旨として来た彼は、生涯で初めて頭を抱えたくなる事象に正面衝突したのだった。










 午後16時30分、地上本部押収物品管理課の保管庫にて──。



 「そうですか……じゃあスバルは久し振りに家に帰れているんですね」

 押収物品を収めてあるこの保管庫はつい二週間近く前に武装を取り戻す為に侵入したトレーゼによって焼失の危機に瀕していたが、元々が物品を保管する名目で造られている空間なだけに壁や天井が燃えにくい材質を用いられていたのと、担当局員達の消火活動が迅速であったお陰で全焼には至らず、安置されていた押収物も失わずに済んでいた。そんな場所に一人佇んでいるのは現在しっかり仕事中のはずのティアナである。昼間の調査が終わった彼女は帰って来て早々にかつての上司であるはやてに言われてここに安置されているはずのある資料を調べにやって来たのだ。

 『歩ける程度には足は回復しとるって言う話しやから、ナカジマ三佐も喜んでらしたよ。腕の治療は少し時間を置いてからやけど、手術前の調べやと何も問題無かったらしいし、もう心配はあらへんなぁ』

 「だと良いですけど……」

 『心配?』

 「あいつの事ですから、元通りになったら事件に首突っ込みそうで……。昔っから無茶ばかりしてるんです」

 『安心し。治ったら私の権力をフルに使うて湾岸警備隊に釘付けにしといたる』

 「職権乱用ですよ?」

 『勝手に無茶して大変な目になる事思ったらよっぽどマシや。私の我儘一つで昔の部下が危ない目に合わんと済むんやったら、十年以上働き詰めでここまで登りつめて来たんもあながち無駄やなかったって事や』

 「よろしくお願いします。こちらはは引き続き調べを進めておきますので、二佐は御自分の職務を全うしてください」

 『うん。ほな邪魔して悪かったな』

 通信が切れて再びティアナは与えられた仕事に集中する。彼女が調べているのは、今月上旬に検挙された違法科学者ハルト・ギルガスの事だった。現在彼はスカリエッティへの共犯行為を始めとし、戦闘機人の個人所有や違法薬物所持及びそれを利用した生物兵器研究の着手など様々な罪状で管理局の膝元で現在進行形で取り調べを受けている最中だが、今彼女が調査をしているのはそれとは別……。

 「……これね」

 彼女が手に取ったのは大学ノート大の紙の端をおよそ数百枚以上も紐で結び止めてあった紙束だった。もちろん、これが資源ゴミや古紙の日に出されてしまうようなただの紙束ではない事は当然だ、これはあのハルトが逮捕される日までずっと取っていたと推測されている研究日誌だ。全て手書きによる手記となっており、およそ二十年近くに渡ってスカリエッティから譲渡されていた戦闘機人に関するデータが事細かに記されている……はやての思惑としては、ここに記されているはずのデータを利用して『“13番目”=トレーゼ』である事を証明し、何としてもトーレを戦力に加えようとしているのだ。“13番目”が彼女の言うトレーゼと合致するなら彼女は嫌が応にも作戦に参加せねばならない、そうすれば作戦成功率は飛躍的に向上するからだ。

 彼女はそれを抱えると担当局員に行って持ち出しの許可を得る。本来こう言った物は何重にも上の人間の許可を通して初めて持ち出しが可能となるのだが、今回は事前にはやてが根回しをしてくれていたお陰で一発OKだった。持って来ていたバッグにそれを詰めると彼女は押収物品課を離れて一旦自分の事務室に向かった。一応極秘資料扱いなので人目の触れない所で目を通したかったからだ。

 ふと、道中彼女の脳裏にあの年中陽気な親友の顔が浮かんだ……今頃彼女は自宅で姉妹達と久し振りにふざけ合ったりしているのだろうと思うと、どうにも調子がおかしくなってしまう。今までさんざん人の事を心配させておいてあの元気さには本当に呆れるだけだった……だが、あの調子ならもう大丈夫だろう、最近親しくなったとか言う友人も自分の居ない間に会いに来ていたようだし……。

 ただ一つ不可解なのが、あのシャマルが忘れ物を取りに来た自分の姿を見たと言っていたのだ……幻覚でも見たのだろうか?










 午後16時45分、ナカジマ家の食卓にて──。



 「メシだー、集まんねーと先に喰っちまうぞー!」

 ナカジマ六人姉妹の一人、ノーヴェの声に他の五人がわらわらと食卓へと集まって来た。家長のゲンヤは陸士部隊の指揮官と言う職場上まだ帰って来ていないが、今日は半月振りにナカジマ家の面子が揃っためでたい日と言う事でその料理は豪勢だった。元々彼女らが大量にカロリーを消費する体質なので普段から多いのだが、今日のこの豪華なレパートリーの数々を平らげる主賓は彼女らの誰でもなく……

 「うわはぁ~っ!!! 美味しそう! これ全部食べても良いの!?」

 ディエチの付き添いで部屋から来たスバルは目の前の魅惑的な料理の数々に舌舐めずりを抑えられなかった。実際に料理を作ったカインの返事も待たずいの一番に椅子に着くと、さっそくそれらを胃袋送りにしようとした。

 「あっ、ずりぃ! このやろう、その肉はあたしのだっ!!」

 「残念だったなノーヴェ、それは既に姉が目をつけていたのだ!」

 「面白そうだから混ぜるッスー!」

 「じゃあ私はこっちのポテトサラダを……。ディエチはこっちの魚料理で良かったかしら?」

 「うん」

 スバルに続いてノーヴェ、チンク、ウェンディの三人が座り、その後でギンガとディエチが座って夕食は“開始”された。ここで問題なのが彼女らの食事模様だ……ギンガの婚約者であるカインは彼女らの食性を完全に把握している為に常に姉妹の好物を作ってくれるのは良いのだが、彼女ら六人は互いの好みが似通っているので大抵同じ料理を皆で仲良く分けっ子と言う訳にはいかず、いつも食卓で奪い合いが起こるのだ。その争奪合戦たるや凄まじく、食卓に置かれた直系20数センチの皿の上で最少6本のフォーク、最大12本の箸が一つの料理を時に拾い、時に横から奪い、時に弾き飛ばしながら行われるそれはもはやちょっとした戦争状態にまで発展する。特に今日は親のゲンヤが不在である為に歯止めを掛ける人間が居らず、ものの数分もしない内に──、

 「そのコロッケを寄越せぇー!」

 「甘い! そのカキフライも姉のものだ!」

 「がーっ! ギン姉が私のゴハンを横取りしたッス!」

 「食卓は戦いなのよ……」

 「あ、そのロールキャベツ美味しそうだからもらうね」

 六本の腕と12本の箸が高速でテーブルの上を飛び交う光景は動体視力が低い者なら目で追うのがやっとだろうが、戦闘機人の常人離れしている視神経には普段通りの光景として脳に映像を送り届けていた。あまりに白熱した時は「ナントショーシュートキャク!」とか「ダンコソーサイケン!」とか「ナントジャローゲキ!」とか「テンショージュージホー!」とか「ケッショーシ!」とか「ナントレッキャクザンジン!」とかなんとか有り得ない声や技が飛び交うこともしばしばあったりする。

 だが開始五分足らずで争奪戦を始めていた彼女らは、ふとある事に気付いた……。誰だか知らないが箸のスピードが遅いのだ、自分達五人が機人の増強筋肉を無駄遣いレベルにまで引き上げて高速機動で食事をしているのに、どうしてもそいつだけは遅いのだ。誰かと思ってその箸を辿って持ち主を見て見ると……。

 「んしょ……! うんしょ! ってあれ? 意外と利き手じゃない方で掴むのって難しいんだね~」

 スバルだった。右腕が無い彼女は慣れない左手の作業に戸惑いながら必死に箸を動かしていたのだ。それを見た姉妹達は数瞬押し黙った後に自分達の食べていた皿の料理を差し出して……

 「なんか済まないな、こちらだけで勝手に盛り上がってしまって……」

 「私のハルサメでよかったら食べるッス」

 「悪かった……この鶏肉美味いぜ」

 「え? 良いの? じゃあもらうね、ありがとう」

 スバルは誰にも奪われる事の無いそれらを順番に食べ尽くして行った。忘れていたが今日の主賓はあくまで彼女なのだ、改めて彼女らは遠慮と言う言葉の意味を深く噛み締める良い経験となったのである。

 だが、この食卓に座る者達の中で一番の年長者のギンガは自身の実妹の表情に何か別のモノを見出していた。何故か今日のスバルは元気が無い……やっと足だけでも治った日だと言うのに家に帰って来てから一度も笑わないのだ。一応さっきのように微笑むぐらいはやるのだが、それも会話に置ける相槌のような意味合いでしか無い事をギンガはちゃんと見抜いていた。始めはそんな日もあるだろうと思って黙って見守っていたが、大好物が並んでいる食事中でもこれとなればもう異常だ……彼女は意を決して──、

 「スバル……今日何かあったの?」

 「っ!?」

 訊ねて見た。案の定姉からの突然に質問にスバルは一瞬だけ身震いするようにビクッと反応した。脈ありだった。他の姉妹達もそんな彼女の様子に気付き始めて箸の動きを止め始めて聞き入っていた。

 「その顔だと……やっぱり何かあったのね」

 伊達に彼女の姉をしている訳ではないギンガは元来悩みとは殆ど無縁のはずの自分の妹が珍しく本気で頭を悩ませている事を見破ると、彼女が話しを濁さないような言葉を投げ掛けた。普段から悩みが少ない分、本当に思い詰めた時は誰にも話さずに一人で抱え込む傾向にある妹を放っておけない姉心があったのだ。

 「あー……何かあったって言うか、私の方から何かしたって言うのか……。出来たら言わないようにしてたんだけどなぁ。あはは……」

 「要領を得ていないぞ。言い難かったらべつに……」

 「いやいや、別にやましいとかそんなのじゃないから! ただ……」

 「……ただ?」

 「病院に居た時に知り合った友達がいるって話ししたよね?」

 「確か管理局員の方だったわよね? 男性の」

 「うん……。実はね、今日その人にまた会って……」

 「何か言われたんスか?」

 「うーん、退院おめでとうぐらいしか言ってなかったような気が……」

 「随分淡白な殿方だな。それで? 何か口論になるような事でもあったのか?」

 「全然! 普段通り……だったような」

 「じゃあ何が問題あるんだよ?」

 中々歯切れの悪いスバルに姉妹達が痺れを切らし始め、徐々に意地にでも彼女からコトの真相を聞き出そうと躍起になり始めていた。そんな五人の覇気に気圧されたのか、スバルはモゴモゴさせていた口を開くと普段からは想像もつかない小さな声で……。

 「アドレス教えちゃった……………………私の」

 一瞬、大した事は無かったなと全員そのままスルーしそうになったが、やがてそれを聞いた彼女らの誰が一番始めかは知らないが『スバル』、『男友達』、『メルアド』と言う三つの単語を用いた即席方程式を頭の中で紐解き、そこから導き出された解の意味に気付いた一人が──、

 「うそぉっ!!?」

 「ぅお!? ビックリした!」

 五人が一斉に張り上げた大声に思わずスバルが椅子から転げ落ちそうになったが、何とか左手で踏みとどまるとまた何事も無かったかのように夕食に手をつけようとした。ところが、彼女の仕出かした行動の重大さを理解していたギンガを始めとする他の姉妹達はそんな彼女の食事を妨害せんばかりに身を乗り出すと彼女を質問攻めにして来た。

 「い、いい、いつ彼氏さんなんて作ってたッスか!?」

 「ちょっと待ておい! あたしはてっきりお前はそんな事に興味無いってばっかり……!」

 「よ、良いかスバルっ、男女の関係と言うのはだな、ちゃ、ちゃんと順序と言うモノを踏んでだ……」

 「わ、私も……! そう言うの欲しいな……って思ってたんだけどなぁ……」

 六課時代よりも以前からその周囲に男の影が全く無い事を父であるゲンヤも安堵すると同時に危惧さえしていたあのスバルが、まさか自分達の知らぬ間にそこまで進展しているなどと思っていなかったのだろう……彼女が自分のアドレスを教えた男性と言えば、六課時代のフォワード仲間であるエリオ以外には同じ湾岸警備隊に所属している隊員ぐらいしか存在していない。それも単にそうしておいた方が有事の際に連絡が取り易いからそうしておいた方が良いと教えたゲンヤの言った事を実行しているだけで、純粋な男友達と言う点では今まではエリオぐらいしか居なかった。そんな彼女が同じ職場に居る訳でもない友人に自分からアドレスを教えたとなれば、彼女を良く知る者からすれば一大事なのは当然だった。あの常に冷静さを保っているティアナでさえこれを聞いたら同じ反応を返しただろう。

 「ギン姉~! 何とかして~!」

 頼りになる長女に助け船を求めたスバルであったが、肝心の姉は澄ました顔で自分の右手の親指を立てると……。

 「押しの一手よ、スバル!」

 「何言ってるの!?」

 姉のインパクトの利いた助言(?)にスバルはとうとう縋る者が居なくなってしまった事に愕然とした。この場に居る全員が自分の行動の真意を問い、その答えを聞きたがっている……聞かれている本人からすれば拷問にも等しい状態だが。

 「良いスバル? 人間誰でも押されれば折れるから、それを狙って行けば確実よ」

 「流石、経験者は語るな」

 「大丈夫よ、男の人って言うのは肝心な部分が小さく出来ているものだから、いざって事態になっても思ってるよりかは安心しても良いわよ」

 「流石、経験者は語る…………のかな、これは?」

 「……私、ギン姉が何考えてるか時々分かんなくなる……」

 『取り合えずギンガ、日付が変わる時間帯になったら俺の部屋に来い。一人でだ。と、我がマスターは申しております』

 騒がしさを取り戻しつつある食卓でスバルは早くも疲れを感じていた。質問攻めにされる側の労力をここで初めて理解したのだ。ふと、騒がしくしていて意識が逸れている間に席を外したのか、一旦部屋の方に行っていたウェンディが右手に何かを持って戻って来た。……スバルの携帯電話だった。

 「彼氏さんからメール来てるかも知れないッスよ!」

 「ちょ!? なに勝手に持って来てるの! 大体……あの人はそう言うのに興味無いかも知れないし……!」

 スバルは慌ててウェンディから携帯を取り上げた。さり気なく画面を確認して見たが、着信の知らせは無かったので安心したようなガッカリしたようなで彼女としては複雑な心境だった。そうだ、あの無愛想な友人がこの程度のちょっとやそっとのアプローチで反応を返すはずが無いのだ……それにアドレスを教えたと言っても、彼の隙を突いてポケットに滑り込ませただけだから正直言ってそれに気付いている方が奇跡だと言えた。

 掛って来なかったらそれでも良いと思いながら、携帯を部屋に戻すべく席を立ったその時──、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴッ、ヴヴヴヴヴヴヴヴッ!

 持ち主に着信を教えるバイブレータの振動音がその携帯から聞こえて来た。他でも無いスバル自身の物からだった。親友のティアナか父のゲンヤのどちらかだろうと思い画面を開く……前者なら「ちゃんと家で安静にしているか?」とか言う類で、後者なら「今晩は少し遅くなるからちゃんと風呂入って寝てろ」とか言う連絡だろう。そう思って彼女が着信画面を開くと……



 送り主:******

 title:『Treize』

 本文:Hello.



 「あ…………ほんとに来た」










 数分前、孤島の隠しラボにて──。



 「クアットロ、聖王の、血液解析は?」

 「あ~、その件なんですけどぉ~、実は解析機に掛けている時に不調が発生して……」

 「失敗したのか?」

 「あはは~、元がやっぱりクローンですから、そう言った培養過程で何かおかしな事が起こっちゃったりするのかなーって……」

 「…………俺が持って来た、“冥王”の方は、すぐに完了したがな」

 「う゛!? さ、さぁ~……何でかしらね~」

 「…………まぁいい、猶予はある程度ある。それを、逃すなよ」

 トレーゼは使えない妹を一瞥しただけで再び自分の作業に戻るとそれに集中した。倉庫の中に押し込められていた小型のパーソナルコンピューターを持ち出していた彼はキーボードを忙しく叩いていて、何かをしているのだけは傍目のクアットロにも分かったのだが、如何せん画面が見えないので彼女からは何をしているのかは分からなかった。

 そして、当の彼は何をしているのかと言うと……

 「……………………」

 昼間にスバルからポケットに忍び込まされたアドレスが書かれた紙……あれに書かれたあったアドレスを元にして今スバルに接触を図ろうとしていた。敵かもしれないと分かっている自分にここまで深く接触を試みる彼女の行動が理解出来ずに本格的に不安を抱き始めた彼は、彼女よりも先に接触する事で先手を打とうとしていたのだ。取り合えずメールの件名は──、



 宛先:SUBARU・NAKAJIMA

 title:『Treize』

 本文:Hello.



 こんなところだろう。ひとまずこれを送信して出方を図るのだ。この時間帯に寝ていると言うことは無いはずなので返事はそれ程待たずともやって来るはずだった。

 返事が返って来るまでの間、彼は今後の計画について考察を開始した。まず明日の予定だが、午後にセッテと接触して彼女の訓練に付き合うのは良しとして、問題は午前だ……あのスバルに一度会うと言う約束をしてしまった以上は何も言わずに会いに来なかったとなれば怪しまれる事は必至、ましてや彼女はこちらに対して疑心暗鬼の状態だ、下手な行動は今後の命取りに繋がるので注意は欠かせない。ノーヴェの方はまぁ良いだろう、彼女はスバルとは違ってこちらを完全に信じ切っている。盲信していると言っても良い節もある、正体を明かさない限りはまず彼女がこちらから離れると言う事態にはなり得ないはずだ。どの道戦力は大いに越した事は無いのは変わり無いが、それはあくまで『最終段階』の話し……現時点では現行の二人だけで推し進めて行った方が数に縛られない分好都合だ、この使えない妹も攫って来た少女の子守り程度には役立ってくれている。

 と、ここでメールの返信が来た。意外と早かったと思いつつもそれを開いて内容を確認し始めた。読み始めは特に何の異常も無くそのまま読み進めていたのだが、ある一点を境にどんどん表情に険が出始め、ついには……

 「…………どういうことだ……?」

 書かれていた内容にトレーゼはリアルに頭を抱えた。恐らく彼が稼働して来た長い年月の中でも初めての経験だったに違いないはずだった。

 何故なら、そこに書かれていた内容とは──、










 「マジでメール来たッスか!?」

 「うええぅぇっ!? ど、どどどどどうしよう! ギ、ギン姉ぇ~!!」

 「落ち着いてスバル。素数を数えるのよ、素数は1と自分でじゃないと割り切れない孤独な数字、あなたに勇気を与えてくれるわ」

 「え、えーっと、2、3、5、7、9……」

 「スバル違うぞ! 9は3でも割れる!」

 「うわわ~! そうだったー!」

 「バカな事やってねーで、いい加減メールの返事書いてやれよ!!」

 ノーヴェの怒号がスバルが我を取り戻すのに一役買ったのか、スバルは取り落としそうになった携帯を握りしめて悶々と返信内容を書き始めた。だがなかなか作業が進まないのを気に掛けたギンガがその内容を確認した途端……

 「あのね……幼稚園児の作文じゃないんだから、もう少し気が利いたこと書け無いのかしら……」

 「で、でも、こう言うのって初めてだから……!」

 「仕方ないわね、今回は私がお手本見せてあげるから、今度からはそれを思い出して上手くやること。良いわね?」

 半ば取り上げるようにして携帯を手にしたギンガは親指で12の文字盤を踊るように押しながら文を書き始めた。

 「まずは挨拶、これが初歩よ。今日は確か昼間に一度会ってるみたいだから、久し振りって感じで良いわね」

 ピ、ポ、パ♪

 「次に今自分が何をしているかを書くの。相手はこっちが何をしてるかって言うのを知りたがっているものだから、先にこっちから教えちゃうのよ」

 ポチポチポチ♪

 「それでもって、次に定番の『そっちは何してる?』ね。それで最後にここをこうしてあれがこう…………まぁこんなものね。あ! それとスバルって明日暇?」

 「まー、仕事もまだ出来ないから、局からは有給休暇扱いになってたと思うよ?」

 「じゃあこれを添えて……完成っと!」

 一応妹の了承を得たと勘違いしていたギンガはそのまま送信ボタンを押し、メールを相手の所へと送り届けてしまった。一応送信履歴には本文が残っているのでスバルや他の面々が一体どんなモノを書いたのかと目を通すと……

 「「「「…………………………………………どういうことなの!?」」」」

 N2Rの四人が揃って同じ事を口にして驚愕を示した原因はそのメール画面にあった。年頃の女子らしくメールも長文だったので割愛するが、要約すると……



 『直接声聞きたいな。今って電話しても良いかな?』










 「あら、お兄様何していらっしゃるの?」

 何やらガラクタやスクラップの山をごそごそと掻き漁っている兄の姿を怪しんだクアットロがその後ろから覗き込むと、彼の右手には一本の携帯電話が握られていた。かつてスカリエッティがクラナガンに存在している数人の裏情報屋と連絡や取引を行う際に使用していた簡単な通信手段だったのだが、まさかこうして残っているとは思っていなかった。彼はその電源を入れると電話番号を確認してそれをメールの本文に打ち込んだ。彼はますます相手の考えている事が分からなくなって来ていた……完全に判断しているのではないとは言え、彼女もこちらを敵かも知れないと薄々勘付いているはずなのに何故ここまでして接触したがるのか? トレーゼの頭の中では敵が自分に対して巧妙な心理戦を仕掛けて来ているのではないかと言う疑念が持ち上がって来ていた。

 (スバル・ナカジマ……侮れない奴)

 と、ここで早くも電話のベルが鳴って来た。ここで取り乱している節を見せれば彼女の疑念は加速度的に増す事は確実……落ち着いて対処せねばならない。そして、落ち着きを得ようとした彼の脳裏に浮かんだのは何故か……

 「素数を数えよう……」










 「お! マジで番号載せて返して来た!」

 「でも番号だけで他に何にも書いてないけど……?」

 「甘いな、さっきの話題でこの返し方は、相手はもうこちらの要求を呑んだと言うことだ」

 「じゃ、じゃあ電話しても良いってことかな?」

 姉のギンガの視線を窺うと、彼女は黙ってグッと親指を立てて先を促した。ここまで来るとスバルもどうにでもなれと言う意識が強いのか、震える指で番号を並べて行き、通話ボタンを押して自分の左耳に押し当てた。

 コールは在り来たりに三回鳴ってから出て来る……と思いきや、繋がっているのになかなか出てくれず、コール十回目で諦めようとした時になってからようやく……

 『────────ガチャ』

 「!?」

 スバルの反応を見て相手が通話に応じたと察した瞬間に、他の五人は示し合わせたかのように一斉に口を閉じた。そして自分達の姉妹が繰り広げる会話にそっと耳を澄ませる。

 「あ! げ、元気? 半日振り……? だね」

 テンションが付いて行けていないのか、あのスバルの言葉がたどたどしいのを見るのは身近に接して来た他の姉妹達にとっても珍しく感じられた。

 「あえ!? べ、別に用って程でもないけど…………え? あ……うん、ごめん」

 どうやら何の用事も無いのに電話を掛けて来られたのが癇に障ってしまったのか、しょんぼりと頭を下げるスバルを見てギンガが他の四人に悟られないようにそっと念話を飛ばしてアドバイスを挟む事にした。

 ≪スバル、落ち着くのよ≫

 ≪ギン姉?≫

 ≪何だかお友達が意外と気難しい性格みたいだから、私がちょっと手助けしてあげる≫

 ≪大丈夫……?≫

 ≪私を誰だと思ってるの? このミッドで一番気難しい人間を射止めた女性よ≫

 自信を持って胸を張るのは良い事なのかも知れないが、その射止めたはずの男はさっきから顔面の包帯の隙間の目で「何をやっているんだか……」と言う風に呆れながら事の成り行きを静観していた。

 結果的にギンガが台詞を伝えてスバルがそれを話すと言うやり方で行く事に決まったらしく、再び会話が繋がることとなった。

 「えっとね、明日そっちって暇? あ……そう言えば夜勤だって言ってたっけ……」

 ≪続けて≫

 「あのね……出来れば明日昼間に会えないかな? も、もちろん、そっちが迷惑だったりしなかったらの話だけど……」

 ≪ここの掴みを外したら後は諦めるしかないけど……どうかしら?≫

 「……………………え、いいの!? 本当に明日いいの!?」

 ≪よしっ! じゃあスバル、最後のあの台詞をキメなさい!≫

 「じゃ、じゃあさ────!」










 ピ♪

 「お話し終わりましたのぉ?」

 「…………あぁ。何だか、要領を得ていなかった」

 携帯の通話を終了したトレーゼはそのままハンモックに乗っかると睡眠行動に入ろうとした。だがその前にそこら辺に散乱していた論文の切れ端を拾い上げると、そこにペンを走らせてある文字列を書き込んだ。そしてそれを丁寧に折って紙飛行機を作るとクアットロの方向へと飛ばし、彼女の後頭部に命中させた。

 「ぁいた! 何するんですの、お兄様」

 「明日、昼間少し、ここを留守にする。一応行先だけは、教えておく」

 「でしたら何もこんな伝え方ってありますぅ~?」

 鋭角三角形の紙飛行機を分解して、そこに書き込まれている情報を確認した彼女はそれを丸めてゴミ箱へと放り投げた。

 「お兄様が留守の間、陛下の面倒は今日と同じように私がしっかり面倒を見ておきますので、なぁんにもご心配無く」

 「ん。任せた」

 それを最後に彼は再び目を閉じて眠りに入った。明日の面倒事に備え、彼は久し振りの長時間睡眠に入る。

 彼の走り書きにあったメモ、それは──、



 “明日、AM11:30、クラナガン中央駅北改札口前”










 「ふぅ……なんとかギン姉の言う通りにしてみたけど、これで良かったのかな?」

 「ええ、バッチリよ! あとは明日の頑張り次第ってとこね」

 「あのさ……その事なんだけど……明日私は一体どうすれば良いのかな?」

 「はぁ? お前ぇ、そんな事に気付かねーで約束しちまったのかよ?」

 「だってギン姉の教えてくれた通りにしてたんだもん……」

 「あんなぁ、父さんから聞いたけどよ、呼び出した場所が倉庫裏なら集団リンチ、河原なら喧嘩、便所なら連れションって相場が決まってんだよ。だったら男と女が駅前で集合だったら何だよ?」

 「う~ん…………何だろうね、あはは」

 「デートだよ、で・え・と!」

 「ああ、デートかぁ……………………え?」

 「早速明日の準備をしないとね。最初の掴みを外したらお終いだし」

 「え、ええ、えええ!?」

 「しっかりコースを組んでおいた方が良いだろうな。無計画なのが一番怖い」

 「ちょ、ちょっとみんな!?」

 「あぁ~羨ましいッス~! ちゃんとデート土産買って来るッスよ」

 「えええええええええええええええええぇぇぇぇぇーっ!!!?」



 その後、スバルはあれよあれよとままに進んで行く周囲のテンションについて行けずに食事も喉を通り難くなってしまった。……結局感触したが。




















 新暦61年某月某日、スカリエッティの隠れラボにて──。



 「と言う訳で、どうしてもお前の研究成果の一つが欲しいのだ」

 ラボの椅子には二人の男が腰掛けていた。一人は若い青年、もう一人は既に初老は迎えている事が容易に見て取れる老人だった。白衣などを着ている所を見るとその老人も医者か科学者であるらしく、ここへ足を踏み入れてからずっと青年──この施設の主、スカリエッティに何かを懇願していた。スカリエッティの方もなかなか首を縦に振らないのか、かれこれこのやり取りが二十分は続いていた。

 「もしお前の研究成果のお陰でこちらも戦闘機人の量産が可能になった暁には、お前の計画の後押しをしてやろうじゃないか。研究成果はその時まで貸与と言う形で……」

 「お前もなかなか物好きだな、ハルト・ギルガス。よりにもよってあのトレーゼを選抜するか」

 「彼だからこそ良いのではないか。それに彼はオス……メスである他の個体とは違って貴様のタネを仕込む事は出来んぞ?」

 「別にやましい事はしないはずなんだが、お前が言うと一気に物事が卑猥に聞こえてしまうな」

 「年寄りの欠点だよ。それで、いい加減心を決めてくれないか」

 「あれはもはや私だけのモノではないからな……」

 「ならこうしよう!」

 気前良く自分の足を叩いて乾いた音を鳴らしたハルトはスカリエッティの眼前にずいっと接近し……

 「もしお前があれを貸与してくれた暁には、あれをもっと完璧な姿へとこの儂が“改良”してやろう」

 「『もっと完璧な姿』だと?」

 「損は無いはずだ。お前も分かっているのだろう? あれはいつまでもあのままでは人間一人満足に殺せやしない……それじゃ兵器としては落第点だ」

 「…………貸与期間は?」

 「安心せい、お前が計画を実行する時には返却してやるさ。精々十年と言ったところだな」

 「…………少し考えさせて欲しい」

 椅子から立ったスカリエッティはそのまま自分の寝室に当たる部屋へと姿を暗まし、あとにラボに残ったのは老科学者一人だけとなってしまった。白い頭をボリボリと掻きながら、スカリエッティ以上の狂気に満ちた笑顔を貼り付け──、



 「安心しろジェイル……あれはこの儂がきっちり責任持って調教し、育成し、改良して……“作り変えて”やろうじゃないか。ヒッ、ヒヒ、ヒヒヒヒヒ」










 後にこのハルト・ギルガスが元機動六課メンバーから『F.A.T.Eの悲劇』と呼称される非人道的行為に手を染めるなどと、この時は天才のスカリエッティですら予想はしていなかった。



[17818] 一人と一体の温度差ランデヴー
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/09/11 12:48
 11月19日、午前10時10分、アパートの寝室にて──。



 「……………………お腹……へったなぁ……」

 少女ヴィヴィオは寝室のベッドの上で食事が運ばれて来るのをじっと待っていた。誘拐されてから既に一晩が経過……外の情報は一切入って来ないので今自分が管理局に捜索してもらえいるのかさえ分からない状況だった。テレビも無ければ新聞も無いのだから当然だ。

 だが、今の彼女の心にあるモノは、その奥底に刻み付けられた絶対的な“恐怖”だった。同じ人造的に生み出されたモノ同士のはずなのに自分とトレーゼとの決定的な違いを見せつけられてしまった事から起因する恐怖……善だとか悪だとかで言い括れない程にまで極み切ったそれは、今まで彼女が信じていた常識や幼稚な概念をも超越してしまった自分の甘い考えなんか針の先も通らないと見せ付けられてしまった恐怖が、彼女の精神を瓦解寸前にまで追いやっていた。首だけ切られなかったのは幸いだったのかも知れない……。

 そして直感的に悟った……母であるなのはの背をいつも見て育ってきた彼女は彼女が敗北を喫したと言う事実を始めはどうしても認める事が出来ずにいた。彼女の精神は『不屈』……文字通りの鋼の意思から去来する“敗北せず”の信念があるからこそ、同世代のエースとは別格とさえ言える戦果を誇ってきたはずだった。現に彼女が本気を出した実戦で勝てなかった相手はかつての教官のファーン・コラードと、闇の書の管制人格だった初代リインフォースのたった二人だけだ。

 しかしトレーゼは既にそんな次元には居なかった。母なのはの精神が『不屈』であるのに対し、彼の行動原理となる精神は即ち『不退転』……鋼の意思で耐え忍ぶ高町とは違い、最初から最後まで制圧前進撤退せず、眼前に広がる勢力を徹底的に蹂躙して背後に塵一つとして残しはしない単純にして最も確実で残酷なやり方を体現した、そんな存在だ。分かり易く言えば、なのはが『負けない』つもりで戦おうとするのに対比して、トレーゼは『勝つ』事を前提にして戦っているの違いだ。一見すればどちらも似たようなモノかもしれないが、その違いは限り無く大きい……『負けず』に戦おうとする者は必ずと言っていいほど自らの背後に逃げ道を講じているが、『勝とう』としている者の背中には何も無いからだ。追い詰められる壁も無ければ逃走経路も無い、まさに不退転の意思そのものなのだ。

 確かに、自分の危険すら顧みない者を相手に勝てる道理などこの世のどこにも無いだろう。そして自分は今そんな相手に囚われの身になってしまっている……その事実が重い絶望となってヴィヴィオに圧し掛かった。昨日は運良く命を繋げる事が出来たが、はたしてその悪運が今日もついているとは限らない……。

 ふと、ここで彼女は──、

 「……っ!!?」

 自分の張り巡らせていた野性的感覚に何かが引っ掛かるのを捉えた。物理的なモノではない、形の無い気配を捉えたに過ぎなかったが、彼女には分かっていた……もうすぐここに一番忌避している人物がやって来る事に。

 案の定“それ”はドア一枚隔てたキッチンに転移して来ると、図々しくノックをするどころか逆に蹴り開けてズカズカと入室して来た。忘れもしない……三年経った今となってもなお自分の心の奥深くに明確な形を持った“恐怖”として存在し続ける彼女こそ──、

 「おはようございます。朝のご機嫌いかがですか、陛下?」

 “最悪”のナンバーズ、No.4クアットロ。創造主の四つの要素の内の一つである『欲望』をある意味でオリジナル以上に色濃く引き継ぎ、そして体現しているナンバーズが今、ヴィヴィオの目の前にまで迫って来ているのだった。紺色の防護ジャケットも、背中に羽織った白いマントも、顔の伊達メガネでさえもが一緒……三年前の再現でも見ているかのような気分にヴィヴィオは辛うじて逃げ出さないのが精一杯だった。否、逃げる事すら出来なかったと言うべきか。

 「またこうして陛下のお世話をさせて頂けるなんて、このクアットロ、身に余る光栄で昨日からずっと興奮して眠れませんでしたぁ~。この睡眠不足どうしましょうかぁ~」

 何も変わっていない……伊達メガネの奥の顔面に張り着いた爬虫類のような薄気味悪い笑み、精密機器を埋め込んだ金色の瞳は狂気と言うよりは幼く、無邪気と言うには余りにもその密度が濃過ぎる毒気に塗れ歪んだ視線を無垢な少女に射るように向けるこの仕種……同じ空間に居るだけでも怖気が全身を襲うその感覚にヴィヴィオは早くも気を確かに保っていられる自信が無くなってきた。

 「まぁまぁ挨拶は終わりにしましてぇ、折角の涙ぐましい再会を一緒に喜び合いませんこと? 私ったらこの三年間、陛下にお会い出来ないのが寂しくって悲しくって……毎日拘置所の部屋に迷い込んで来る虫けらを小指で潰しながらずっとこの日を夢見ていましたのよ」

 しなやかな指がヴィヴィオの頬を妖艶に撫で上げる。直接戦闘を前提に造られてはいないとは言え、その気になれば頬に触れている五本の指だけで自分の首を簡単に圧し折れる事をヴィヴィオは充分承知していた。おまけに彼女にとって最悪だったのは、目の前の相手が自分の気分次第でそれを躊躇なく実行してしまう人種だったと言う事にある。ここは彼女の機嫌を損ねないように──、



 「だから、いつかこうしてみたかった♪」



 「────え!?」

 人間が知覚出来るようになるまでの感覚秒数は0.5秒、その間は誰であっても認識は出来ても決して反応することは不可能な肉体感覚的無意識……その間に何をされようとも抵抗すら出来ない間隔の間にヴィヴィオが感じたのは、自分の視界の上下が一瞬で入れ替わった事だけだった。続いてやって来たのは自分の右頬が強烈に痛む痛覚と、顔面ごと床に叩き付けられた事による冷たさが皮膚を通して脳に感知された事だった。あまりの速度で叩き付けられた所為で軽く脳を揺さぶられて意識が朦朧としたが、何が起こったのかだけは理解出来た……。

 叩き付けられた。力一杯。

 それは分かる。

 何故? それは分からない。母にも数える程しか叩かれた事の無い頬を、あろうことか叩きつけられる道理なんて自分には無いはず……混乱するヴィヴィオは痛みよりも先にその疑問が頭を駆け巡った。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、万力の右手で頭を床に押し付けたままそっと耳打ちして来た。

 「何でこんな事されちゃうのか分からないって顔してますね~。別に私は陛下の事が嫌いだったりするんじゃないですよ決して。ただ……」

 一瞬だけ右手が離れた後、今度は振り下ろされた足がヴィヴィオの後頭部を襲った。
 
 「ぁぐ!!」

 「あぁ、良い声……。もっと聞かせてなんて言いませんわ、悲鳴って言うのは時折耳にするから快感なんですもの」

 シューズを履いたままの足の裏で容赦無く子供の頭を踏みつけ続けるクアットロ……踏み潰さんばかりの足蹴の度に聞こえて来る僅かな悲鳴を聞く度に恍惚とした表情を浮かべているその姿は誰が見てもサディスティックなモノを感じずにはいられないだろう。

 「私はねぇ、あなたのママが大っ嫌いなの。足で蹴って、唾吐き掛けて、両手の指の骨をバキボキに折り畳んで、灼けた鉄串を鼻と耳の穴から突き入れて何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、あっちが飽きても何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、脳ミソと頭蓋が穴開いたって何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…………私の気が済むまで何っ度でも! 虐げて苛めて叩きのめしてウンともスンとも言わなくなってもまだまだ私の気が収まるまで何百何千何万回でも……あなたのママを壊してあげたいのぉ~♪」

 足の裏全体で押し潰していたのがいつの間にか踵で潰すようにして体重を掛けており、熱い鉄の味のする嫌な液体がヴィヴィオの口の粘膜から溢れて来ていた。

 「でぇもぉ~、悔しいけどクアットロにはあなたのママをブチのめすだけの実力が全然無いんですのぉ。真正面から正々堂々でも、足元や死角にトラップを山ほど仕掛けたって、あの女は持ち前の馬鹿力でみぃーんなボロッカスに粉砕するんですもの。憎らしいったらありゃしない! 別に“ゆりかご”の事だけじゃないわ、あの時だってそうだった……あの時あの女が空港にいなかったら、わざわざレリックの輸送を無理に進める事だってしなくて済んだのに!! レリックは暴発、せめて手土産にしようと思っていたタイプゼロの二人にも管理局の狗風情に横取りされてしまう始末……おかげであの後私はドクターや姉様達からお仕置きを受ける羽目になって……ねぇ、分かる? 私今最高にムカついているって!」

 「ぅうっ!!」

 鼻から鈍く嫌な音が響いた……折れてはいないだろうが鼻血が出る所を見るとかなり深刻なダメージを負ったようだ。だがそんな彼女の姿を見てもクアットロの加虐は止まる事を知らなかった……踏みつけるだけだったその行為は毎秒ごとにエスカレートし、ついには……

 「ねぇ、聞いてるんですのっ!」

 「あがっ!!?」

 片足で頭を踏みつけたまま腹を蹴り上げた。当然の如く痛みにのたうち回るヴィヴィオだが、当の加害者であるクアットロに至っては彼女の姿を見て「天日干しのミミズ」みたいだと逆に腹を抱えて大笑いした。

 「でもクアットロは賢い女だから、ちゃーんと分別って言うモノは分かっているつもりですわ。ただ……三年間積りに積もったこの鬱憤をあなたにブチ撒けたいが為だけにわざわざあなたのような小便臭いガキの世話係なんてのを引き受けたのよっ!!」

 それまで足の下にしていた頭を、髪を掴み上げて引き上げ、そして一気に床に叩き降ろす。しかも一回だけではない……何度も何度も何度も何度も、叫び声を上げる気力すら叩き潰し、気絶した自分より遥かに幼き体躯を一方的に蹂躙し続けるその姿はまさに天竺の説話にて登場する羅刹女の覇気そのものでしかなかった。

 「アハハハハハハハハハヒャァァハハハハハハッ!! 平伏せ! 跪け! 頭を垂れなさい、稲穂のようにぃ!! キャハハハハハッ! 良い気味、イイ気味よぉ! たった三年前までこっちからへいこらしてやってた相手が、今はこっちのお人形さんだなんて笑えるわぁ~♪ 悪く思わないでね陛下、ベルカの諺にもあるでしょう? 『王恨めしければ冠も憎し』って! アハハ! こんな言葉知ってるなんて、やっぱりクアットロはあったまイイぃ~!!」

 ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──!

 「あらぁ? 小便臭いだけだと思ってましたけど、私のだぁいスキな真っ赤な鉄分の臭いがするじゃな~い。もっと出してよ! 出しなさいよ! この私が満足するまで出し尽くしなさいよっ! アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャァァァハハハハッ!!」

 ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──!

 「あっと、殺しちゃったらイケナイから、今日はここまでにしときますね。でも……私の“お楽しみ”にもうちょっとだけ付き合ってくださいな」

 腰の小物入れに手を突っ込み、取り出したるは一本の注射器……血液採取用の大き目の物とは違い、ワクチンや薬物投与の為に使われる小さな規格の物だ。既に内部容器には液が満たされており、針先にはそれが漏れ出ないように蓋がされていた。その蓋を外したクアットロは床の上で虫の息になりかけているヴィヴィオの腕を引っ掴み、指で皮膚を押さえつけて静脈を浮き上がらせると消毒もせずに容赦無く針を突き入れた。

 「私は焦らすの得意じゃありませんから先に言っときますけど、今あなたに打ち込んだのは一応毒物ですわ。でもご安心を……全身の随意筋肉が自分の意思とは全く無関係に縮んだり伸びたりしてすっごく痛い思いをしますけど、新陳代謝と一緒に体の外に出るまでの間だけですから、案外早く収まるかもしれませんよ。死ぬほど痛いですけどね」

 蛇の生殺し……クアットロが最も好む嬲り方の一つだ。彼女の言っている事が本当だとするならば、投与されたヴィヴィオは今から最低でも24時間以上は全身の筋肉が万力やペンチで引き伸ばされる激痛に耐え続けなくてはならない事になる。死ぬ事が無いのが唯一の救いと取るか、それともそんな苦しみを味わうならばいっそ死んだほうがマシだと受け取るか……。

 「お兄様はあなたを気に入っているようだけど、私はお兄様みたいにガキに甘くはないから……。陰であなたの指の一本や二本や三本は平気で叩き潰してやれるって事を忘れないでねぇ~♪ あ! そうそう、食事の世話も頼まれていたんだった。陛下が食べ易いように細かく砕いてさしあげましたわよ。なんて優しいのかしら私ったら」

 そう言って彼女はまるで鶏の餌でも与えるかのように、本当に粉微塵にした保存食をヴィヴィオの前にバラ撒いた。形なんてあったものじゃない……始めから彼女はヴィヴィオの世話をするつもりなんか毛頭無かった、結局は自分の玩具にしたいが為だけに志願したに過ぎない。その証拠に見ると良い、彼女の表情を。三年振りに自らの加虐欲求を満たす機会を得た歓喜と、自分よりも弱いモノを虐げる愉悦と言う歪んだ悦びに釣り上がった口元は最早悪魔と形容する事すら生温い邪悪なモノだった。誰が見ても分かる、己のやっている無慈悲且つ理不尽な行為に誰よりも誇りと美学を持ち、それでいて自分が“悪”だと言う認識を欠片も持っていない最低の『悪』の姿だった。

 「私は他にやる事があって忙しいから、陛下が苦痛にのたうち回る御姿が拝見できなくって残念ですけど……あの女の娘を傷めつけているって言う何にも勝る優越感が今の私にとって最高の甘露ですわ。ですから陛下、もっと私を喜ばせてくださいね♪ それが今のあなたが生きる精一杯の手段なんですから」

 返事を返す気力さえも無くしてしまった少女を更に足蹴にした後、金属を擦る音よりも耳障りな高笑いを上げ、クアットロの姿はラボへと消えて行ってしまった。後に残されたヴィヴィオに残ったのは虚しい静寂と、肌を撫でる冬の寒さだけだった。

 「う……ごほっ、ぶほっ! ああぁ、う……」

 もう泣く事すら出来ない……そんな彼女が痛みで薄れる意識の中で発した言葉は泣き言でもなければ自分を虐げた者への怨嗟の言葉でもなく……

 「ママぁ…………帰りたいよぉ、ママ……!」










 11月20日、午前10時00分。ナカジマ家の寝室にて──。



 「う~ん……うぅ~ん……」

 そわそわ、そわそわ。

 「ううぅ~ん…………」

 もじもじ、もじもじ。

 「うううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううんっ!」

 ざわ……ざわ……! ざわ……ざわ……!

 「おいディエチ、スバルの奴さっきから何やってんのか分かるか……?」

 「今の私には理解出来ない……。って言うか、出来たら理解しない方が良いのかも……」

 「さっきからずっと鏡の前であんな調子なんだぜ? 見てるこっちがホラーだよ。チンク姉も黙って見てねーで何とかしてくれよ」

 「無茶言うな、流石に姉もあれは近寄り難いぞ。何か不思議な踊り踊ってるし……」

 「なんかもう、サトリ開きそうな感じッスね……」

 かれこれ三十分も鏡台の前で変なポージングを決めているスバルを陰から見守っているのは同じナカジマ姉妹のN2Rの面々……角から四人の頭がトーテムポールのように突き出ているのはある意味一種の怪奇だが、それ以上に奇っ怪だったのは彼女らの視線の先に居る他でもないスバル自身だった。彼女の方は背後の姉妹達に全く気付いておらず、いつも非番の日に着ている服装でさっきから鏡台の前をウロウロとしていて、時折服の端々を確認しながらまたもや落ち着きなく徘徊しており、とにかくまぁ要領を得ていなかった。それもただ単に唸ったりしているだけならまだ良い……普段の彼女にはとても似合わない真剣な顔つきでそんな事をしている所為で、こっちからも何故か声を掛け辛いのだった。いつも呆けた感じで居る分、このように真剣な面持ちをしている彼女ほどに接触が難しい人間はそうそう居なかった。

 と、ここで……

 「……何してるの、みんな?」

 「あ、ギン姉」

 昼間にも関わらず部屋から出て来ない妹達を心配して覗きにきたギンガは目の前の光景に呆れて絶句していた。四人の義妹達が固まって見守っているのが自分の実妹で、おまけにその妹が何やら落ち着かない様子なのは実の姉として何があったのだろうかと疑問に思わざるを得ないのは当然だろう。

 「実は、これこれこう言う事でかくかくしかじかな訳で……」

 「あぁ~、なるほどね。そう言う事だったら良い方法があるわ。お姉ちゃんに任せなさい」

 「流石はギン姉! あたし達に出来ない事をやってのけるなんて!」

 「見てなさい」

 そう言ってギンガは臆する事も無くスバルの背中まで歩を進めると、背後から彼女に気付かれないようにそっと耳打ちし……

 「●△※×☆@ッ!!!?」

 次の瞬間にスバルは何やら意味不明な言語で奇声を発しながらベッドの上に倒れ込んでしまった。対するギンガの方はこちらに向かって得意気な笑みを浮かべながら親指を立てている。

 「……ま、まぁ何はともあれ上手く収まったようだから、私達も退散しようか」

 「そうッスね~。ディエチー、そこまで一緒にランニング行こー」

 「うん。ノーヴェも行こう」

 「ああ。今行く」

 何か面白みの種が消えればすぐに解散するのがナカジマ六姉妹の共通項と言えようか、物見の対象が無くなったことでそれまで見守っていた四人は次々と自分達の思い思いの行動に移り始めた。あとに残されたのはスバルとギンガの二人だけ……スバルの方はベッドに飛び込んだまま微動だにせず、そんな妹の様子を苦笑交じりでギンガは見守っていた。妹のスバルの調子が変なのには理由があった……まぁ元を辿れば自分達の行動に行き着くのだが──、

 「ねぇスバル、良いじゃない。デートぐらいでそんなに気を張らなくっても」

 「で、デートじゃないよ! ちょっと遊びに行って来るだけだよ。て言うか、さっきのはないよギン姉ぇ~」

 「ん? だってそうでしょ? スバルはそのままの状態でも充分可愛いんだから、余計に着飾ったりしたりなんかしちゃったら逆効果よ。彼氏の気を引きたいんだったら、素材の良さを活かさないと」

 「だから、私とトレーゼはそんなんじゃないってば~!」

 そう、デート……この言葉を聞いた瞬間に一組の男女が仲睦まじく街を歩くと言う典型的且つ古典的なイメージを膨らませたのは他でもないスバル自身だ。姉のギンガに騙されて(スバルが勝手に乗せられて)友人と今日の午後一杯はデートに出掛ける羽目になり、彼女は今までの人生で経験した事が無い強烈な緊張感に支配されていた。元々彼女自身、友人と一緒にどこかへ出掛ける事と言ったら精々訓練生時代の時にティアナの運転するバイクを二人乗りして街へ繰り出した程度でしかなかった。それ以外で言えば湾岸警備隊で親しくなった者と仕事上がりにどこか軽食店に立ち寄ると言ったモノしか経験は無い。つまり、年頃の男女としての連れ合いは今回が初めてだと言う事だ。今までそんな経験がまるで無かった所為か、彼女は女と行くのも男と行くのも大して違いは無いモノだとばかり思っていたが、実際自分がこうしてその立場に立って見ると緊張するのなんのって……人間関係には自分が知らない未知の領域があったのだと改めて認識させられた次第だった。

 故に、今彼女が着ている服はいつもの非番の日に自宅で着るような無個性な物ではなく、簡素ながらもしっかりキメている余所行き用の服装だった。コーディネートしたのはもちろんギンガで、スバルの持ち味を活かした実に絶妙な組み合わせと言えた。

 「良い経験じゃない。失敗しても良い思いでになるわよ」

 「それが心配なんじゃないよ。ただ…………」

 「ただ?」

 「……トレーゼはそう言う事……あんまり好きじゃないかもしれないし」










 「確かに、好きでは、ないな」

 同時刻、孤島のラボで身支度を整えていたトレーゼは背後のクアットロの質問にそう答えた。今着ているのは戦闘体勢の防護ジャケットではなく、一人の人間として街を闊歩する為のカモフラージュに着込んでいる白一色の服だった。シミ一つ無いそれをさっきから彼は頻りに端々を確認しては落ち着かない様子だった。

 「あらぁ、そうですか? 私は好きですよぉ、足の指から切り刻んで間接ごとにバラバラに殺してやるのは」

 「何を言う、殺すだけなら、心臓と、脳を潰すだけで、充分だ。脚部切断は、対象が、逃走しないように、する為のものだ」

 「お兄様は即殺し派ですかぁ。でも、クアットロはやっぱり生殺し派ですわ。生かしたまま徐々に殺してやる……どんなに泣き叫んでも強がっても、結局生殺与奪はみんなこっちのモノ、生爪剥がすも手の指を折るもこっちが好きにできちゃうんですもの」

 「互いに、狂ってるな」

 戦闘機人としてもどこかネジの外れている妹の妄言を受け流しながらも、トレーゼの方は服装の確認を怠らなかった。それまで全体を眺めていたのがいつの間にか袖口に視線が集中し、そこを頻りに確認していた。

 「さっきから何してるんですの?」

 「護身用の、ナイフを、どこに仕込むべきか……」

 「…………お兄様なら果物ナイフでも充分でしょうに」

 「ストレージを、起動させた、新兵程度なら、七人は行けるな」

 「はぁ……お気に召したなら幸いですわ」

 自分とは文字通り別格の強さを誇る兄に戦闘面でとやかく言える程にクアットロはバカではない。集中している彼を尻目に床に散らばっている論文を拾い上げて目を通し始めた時──、

 ふと……

 「そう言えば、以前から気になっていたんですけど……?」

 「……何だ?」

 「お兄様は私よりも先に造られているんですよね?」

 「ああ、最初の三人と、同時期にな」

 「確か17年前にドクターが懇意にしていらした科学者に『貸与』って言う形で受け渡された…………ですよね?」

 「事実だ」

 「でしたら……その十数年の間にメンテナンスはどうしていたんですかぁ? まさか、旧式の内部フレームであそこまで戦えるって言うんじゃ……」

 いつだったかこの施設に残っていた記録を漁った彼女は、過去にトレーゼが一旦ミッドを離れる前に行った検査にて彼が基礎フレームを入れ替えないまま譲渡されていた事を知った。十数年も前の技術の機器が未だにメンテ無しで動いていると言うのは考え難いが、もしそうだとすれば追々不調を来たすかもしれないと危惧していた。だが、そんな彼女の心配とは裏腹にトレーゼは淡白なモノで……

 「ああ、その件か……。それなら、問題無い、俺のフレームは、既に最新のモノに、取り替えられている」

 「へぇ~。じゃあやっぱりあちらに居た時にメンテナンスはされたのですね」

 「…………いや……それは分からん」

 「え?」

 「あちらで17年も過ごしたが、俺はあの老いぼれが、俺の内部フレームを、交換した記憶は、一切無いんだ。だが、実際俺のフレームは、最新式…………不思議な事も、あるんだな」

 「単に覚えていないだけじゃ?」

 「それもあるかもな。内部フレームの、基礎構造は、ドクターの方式とは少々異なるが、出力も耐久性能も、遜色無い……老いぼれが、造った割には、上手く出来ている」

 それならまあ良いだろうとクアットロは再び論文の方に目を戻そうとした。だが、今度はトレーゼの方が彼女に問うて来る番だった。

 「聖王の件は、滞り無く、進んでいるか? 今朝、血液を採取した、はずだろう?」

 「(ギクゥ!?) そ、その件なんですけどぉ、実は~……」

 「また、失敗か?」

 「も、申し訳ありません! 全てはこのクアットロの注意が行き届いていないばっかりに……!」

 「もういい、お前は、そちらの件だけを、優先していれば良い。俺は、今から一時間30分後に、クラナガンへ、行く……留守は、任せた」

 結局妹に言われた通りに刃渡り約10センチ強のナイフを長袖と足の裾に合計八本も隠し持ち、更に袖口の布地に暗殺用の鋼糸鉄線を仕込み、準備万端の状態の彼は一足先に外へと向かおうとした。

 「どなたとお会いになられるんですか~?」

 「お前も、良く知る、奴だ。そいつに、呼ばれて、行くだけだ」

 「私も知ってる人? その方と何か取引でもするんですの?」

 「いいや、ただの…………おままごとだ」










 午前10時43分、海上更正施設の一室にて──。



 「…………来ましたね」

 与えられた寝室で不動を保っていたセッテは、ドアの僅かな隙間から進入して来た“それ”を捉えると、そっと差し出した指先に留まらせた。小さな“それ”は紅い光を頻りに明滅させながら彼女の網膜へ情報を届けた後、指先を離れて部屋を飛び回り始めた。飛び回る小さな虫──インゼクトを無視し、彼女は再び瞑想に入り込んだ。

 「今日は来ないのですね。クラナガンで用事ですか……わざわざ虎穴に入らずとも良いと思いますが」

 光点の点滅を利用した暗号通信には、送りつけて来た相手が今日一日の行動予定を知らせる為に飛ばして来たものだった。もちろん、その相手とはあのトレーゼの事である。管理局が殺気立っている今の時期に首都へ接近する事は得策ではない事自体、セッテは充分熟知していた。通信によると外せない用があって、それを済ませに行くらしいのだが……。

 「そんな事は不要な心配ですね。あの人は成長期の竜種ですら生身で屠殺しかねない個体……局員の10人や20人程度で臆するはずが無いですね」

 自分のコンセプトは『武力』、教育者トーレのコンセプトは『最強』……なればあの兄はまさしく『完全』を体現した最強以上の存在だ。単に強いと言うだけでは彼の敵とは成り得ず、ましてやその他の低級な輩では足元にも及ばない頂点の実力者なのだから。

 「…………そう言えば、ワタシからも伝えなければならない情報が……」

 再びインゼクトを指先に留めた彼女はその小さな虫に情報を刷り込み始めた。この施設には地理的な所在に関わらず様々な局関係の人間が出入りするので、自然とそう言った情報が耳に入って来るのだ。もっとも、大した重要性の無いモノであれば彼女とて知らせようとは思わなかっただろう……だが、今の彼女が持っているその情報は重要性と言う点では火を見るよりも明らかに高い事だけは確かだった。

 「明日未明、No.1『ウーノ』が西部支部から本部へと移送される予定だそうです」










 午前10時56分、ナカジマ宅──。



 「スバルー、そろそろ出掛けた方が良いんじゃないッスか?」

 軽いランニングを終えて居間でくつろいでいたウェンディが、未だに部屋に籠ったままのスバルを呼び始めた。ナカジマ宅は地上分部通勤なのを考慮してクラナガンの中心街の一角に位置しているが、首都中央駅からは少々距離を置いた場所にあるので少し早めに出た方が良いのだ。だがいくら呼べども肝心のスバルはちっとも顔を出さないので、とうとう痺れを切らしたノーヴェが部屋まで突貫して……

 「さっさと行って来ぉぉぉぉおおおおい!!」

 「うわわーっ!!?」

 文字通り蹴飛ばされて部屋を追い出されたスバルはその勢いで玄関まで一気に滑り込んで行った。流石に腰が重い彼女と言えどここまで来てしまえば引き下がる事も出来ず、渋々と靴を履いてドアに手を掛けるしかなかった。

 「行って来ま~す……」

 「あんまり彼氏さん待たせちゃダメだよ。もう待ってるかも知れないし」

 「だーかーらー、彼氏じゃないってばー!」

 「早く行ってやるッス。お土産買って来るッスよ」

 「はいはーい……。もう行く前から疲れちゃったなぁ……」

 100㎞マラソンでもやらされたかのような脱力感を身に纏い、スバルはいざ戦場(?)へと送り出されて行った。後に残ったのはN2Rの面々のみ……ギンガは既に更正施設へと向かい、ゲンヤに至ってはとっくに早朝から出勤しているので、今ここに居るのは彼女ら四人だけだった。いつもならそのまま家で静かにしていたり近くのジムへ足を伸ばしたり悠々自適な生活を送っているのだが、今日に限っては彼女らのテンションは何だかおかしかった。

 「さて、無事にスバルを送り出した事だし、次は我々が動く番だ」

 「うッス! この時を待ち構えてウズウズしていたッスよ!」

 「今こそあたし達の存在の真価って奴が問われる時だな」

 「良いのかなぁ……こんなことしても……」

 問題のスバルが居なくなった途端、チンクを中心として四人は円陣を組むように床に腰を着けて秘密の会合を始めた。今現在で唯一まともな思考を保っているディエチを除き、後の三人は完全に変な熱意を変な方向に向け始めようとしている真っ最中だった。そしてその『変な方向』と言うのが……。

 「良いか? 私達の姉妹、スバルの唯一の欠点とは何だ?」

 「ズバリ! 男の影が無い事ッス!」

 「その通り! 長姉のギンガには既に婚約者が存在し、ナカジマ家ではないにしても同期のランスターには既にヴァイス陸曹も居られるが、どうした事かスバルには全くもってそう言った浮いた噂どころか冷やかし話しすら聞こえて来ない! 何故だ!?」

 「お嬢ちゃんだからさ!」

 「小ネタの効いた返答をありがとうノーヴェ。ともかく! スバルには『出会い』が無い! 聞けばギンガとカイン殿が既に知り合っていた仲の傍らで、訓練校に通っていたスバルは相変わらず女友達しか居なかったらしい。これで同性愛に走って無いと言うんだからタチが悪い」

 「一時期はそうじゃないかって噂があったらしいけどね……」

 「とにかく! 今日のこのデートはまさに千載一隅のチャンス! 成功すれば彼女の将来は安泰だ!」

 「失敗したらどうなるッスか?」

 「可哀相だが、それまでだったと言う訳だな」

 「絶対成功させねぇと!」

 「その為には私達が一肌脱ぎ散らすしか無いッスね!」

 「ならばクリーk……じゃなかった、作戦決行だ!」

 「おぉーっ!!!」

 「…………もう私ついて行けないかも」

 拝啓、ドクターと拘置所の姉さん達へ。最近姉妹達のテンションがおかしいです……。これも人間社会に生きるに当たって必要なスキルなんでしょうか。

 遠くの監獄で隠居生活を満喫していそうな元主人の顔を冬の空に思い浮かべながらナカジマ家においてヒエラルキーの低いディエチはどうしようもなく遠い目をするしかなかった。

 「あ、そうそう! 作戦を決行する前にもう一人助っ人を呼ばないといけなかったッス」

 何かを思い出したのか、ウェンディが携帯を取り出して番号を打ち込み、その『助っ人』とやらに連絡を入れようとしていた。その人物はナカジマ家の者なら誰でも知っている人で──、










 同時刻、地上本部第四局員寮にて──。



 「それしにても科学者って言うのは、どうしてこんな面倒な記録の取り方するのかしら。いちいち手書きにしなくってもデータ端末にでも収めといたら楽なのに……」

 地上本部敷地内に存在する局員寮の一室で、ティアナ・ランスターは早朝からずっとデスクに座りこんである物を調べていた。押収物品課から貸出しと言う形で持ち出して来た違法科学者ハルト・ギルガスの過去の研究資料……数百枚の手記を一つに束ねたそれらを昨日含めて合計10時間近くにも渡って細やかに目を通している最中だった。こう言った調べ事なら隠すようにここでやらずとも良いのかも知れないが、局でやっていると執務官と言う職業上色々と厄介な仕事を持ち込まれて集中出来ないので、わざわざ有給休暇まで取って部屋に籠っているのである。だが彼女の予想以上に資料枚数が多く、未だに彼女は全体の半分も目を通せていない状態だった。

 「でもまぁ、私はこう言う科学とか全然興味無いから見ていてちっともピンと来ないけど、こいつはスカリエッティと同じ人種って事だけは確かね。まともな方向に知恵絞ってたら十中八九、次元世界の学界歴史に名前が残ってたわね」

 スカリエッティが医学知識を土台とした生物工学の天才なのに対し、このハルトは戦闘機人を始めとした各種生物兵器や新型質量兵器の開発に着手していた機械工学のプロフェッショナルだった。現在ティアナが調べ中のこの資料にも戦闘機人の内部基礎フレームや動力部の構造を重点的に、様々な機動兵器の製造理論が事細かに記されており、中には既存のデバイスを違法改造ながらも現行の物より出力と性能を向上させると言ったモノまで見受けられた。特に本命の機人関連の研究については、かつてスカリエッティのアジトから押収された資料よりも内容の密度が濃く、先に目を通したはやてですら舌を巻く程であったらしい。ちなみにそのはやてが言うには、ハルトの戦闘機人製造理論はスカリエッティのモノとは少しコンセプトが異なるらしく、もし開発に成功していればナンバーズの出力を大いに上回る計算が弾き出されたらしい。

 「そんな事はどうでも良いかしら……。今の私の仕事はこの資料の中から“13番目”に関するデータを──」

 ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ!

 「? 誰よこんな忙しい時に電話なんか……!」

 長時間の作業で精神が擦り減っていた彼女は苛立ちを隠せずにバッグから携帯を引き摺り出すと相手が誰かも確認せずに出た。

 すると……

 『やほー! ティアナ聞こえてるッスか?』

 ブツッ!(←通話ボタンを切った)

 ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ!

 「…………何の用、ウェンディ? こっち今忙しいから出来れば後にしてくれない」

 『そんなこと言わないで今日一日私達に付き合って欲しいッス! スバルが面白い事になってるッスから!』

 「オーケー、まともな用事が無いようだから切るわよ。じゃあね」

 またあのバカは何かやらかすつもりらしいが、もう自分達も良い年なので日常での私生活にいちいち首を突っ込んでやる義理は無い。多少の困難に当たっても彼女なら乗り越えられる……だ……ろう……?

 ティアナの思考が一時的に加速した。確かにスバルは彼女が思っているようにタフだし神経は人一倍図太いので大した事も無い障害程度であれば何も言ってやらなくても簡単に乗り越えるだろう。だがそれは平常時の話し、今の彼女は両脚の再生治療をつい先日終えたばかりの病み上がり……普通に歩行する分には問題無いとしても、無鉄砲が売りの彼女がいつ走りでもして足を壊すか分かったものじゃない。となればここは仮にも親友である自分が取れる行動は限られて来る……。

 『ティアナー、聞いてるッスか?』

 「……………………ねぇ、スバルが向かった場所ってどこ?」

 『首都中央駅東改札口ッスね。今からこっちも四人で見に行くッスよ』

 「だったら待ってなさい、こっちもすぐに行くから」

 ごめんなさい、お兄ちゃん……仕事より友人の心配をする私は執務官失格ですか?

 天で見守ってくれているであろう亡き兄の面影を空に浮かべながらティアナは外へ出る準備を始めた。見て来るだけ、見て帰って来るだけだ、時間は掛けない! と言うかあの万年アホ花咲かせてる奴は一体何を考えているのやら……病み上がったばかりの状態で早速外出するなんてどうかしている。

 そうやって外行きの防寒着を羽織り、いざ勢い良く飛び出したティアナはクラナガン中央駅を目指した。

 その時──、

 ドアを開けた時に入り込んだ一陣の風が彼女と入れ違いに部屋の中に入り込み、デスクの上に置かれたままの研究資料を数枚捲り上げた。その時には既にティアナは外に出てしまっていた故に気付く事はなかった……。

 資料の紙面に貼られた一枚の写真……紫苑の髪と金色の瞳が特徴的な少年が映されたその存在に。そしてその写真のすぐ下にはそれまでのページと同じように達筆な字で記されていた。

 『Numbers―No.13―32th』










 午前11時13分、クラナガン中央街東区にて──。



 「……………………」

 人ごみの中を一人の白い少年が縫うようにして移動する、全身白一色と言う異質な姿であるにも関わらず周囲の人間達は彼の存在に気付かないかのように普通にすれ違い、普通に通り過ぎ、そしてあくまで普通に二度と会わずに過ぎ去って行くだけだった。それを良い事に少年──トレーゼは途中の売店で購入した新聞紙の一面に目を通しながら徐々に首都中央駅に向かっていた。別に情報自体はクラナガンに大量に放ったインゼクト達から常時送られてくるのだが、これはほんの気まぐれで購入したに過ぎなかった。彼が購入したのは昨今の政治状況を伝達する経済新聞でなければ、ましてやスポーツ新聞でも無いどこにでもある極々普通の日刊紙だった。販売元のミッドチルダを中心に各次元世界の事件や出来事を両面刷り計17枚の紙面に記したどこにでもある新聞紙……その中で彼が得たかった情報はたった一つ、昨日自分達が決行した二つの作戦についての影響がどの様なモノなのかを知ろうとしていた。まず聖王教会襲撃に関しては概ね彼の予想通りの結果だった、管理局と提携して不都合な部分を綺麗に揉み消し、襲撃事件を『局所的な自然災害』によるモノとして隠蔽していた。大きな組織と言うのも考えモノだ、何でもかんでもすぐに隠せば解決すると思っている節がある。

 だが聖王教会の事件とは反対に、クアットロが担当した学院側の方は大々的に報道されていた。今彼が目を通している紙面の一部にも『St.ヒルデ学院にて女子生徒一名が誘拐された』と言う趣旨の記事が載っていた。“誘拐”と称するには随分と派手な事を仕出かしたが、そこはやはり権力にモノを言わせたのか一定の情報規制は働いていた。あの日、学院で起きた出来事に関する情報の全ては管理局と教会が発表したモノだった。学院に来ていた父兄達には教会と管理局の双方から圧力を掛けて封じ込めた……学院そのものが教会が設立し、管理局に関わる人間を数多く輩出しているので双方から権力の傘に入っている事がその隠蔽に一役買ったと言う訳だった。

 「…………ご苦労な、ことだな」

 用の無くなった新聞紙を丸めると、トレーゼはそれを公衆のゴミ箱へ突っ込んだ。既に彼は街の中心に位置する中央駅のほんの数百メートル手前まで来ており、人々の往来も街の中心に近付くにつれて徐々にその密度を増して行った。だが、やはり彼はこの街の喧騒がどうしても気に入らなかった。常人の何倍もの聴力と嗅覚を誇る彼にとって、道行く者達の談笑は雑音に、飾り立てのつもりで拭き付けた香水は悪臭でしかないからだ。何もかもが本当に不必要なモノだけでしか満たされていない……かつて姉が言った教訓を当て嵌めるなら、不必要なモノは無くさないといけないはずなのだ。本当に世の中は矛盾、パラドクスだらけだ……。

 首都中央駅東改札口、ここだ。まだスバルは来ていないようだが、こちらとしては早く終わらせたい。おままごとは長過ぎると興が冷める……。

 「……………………そう言えば、クアットロは、ちゃんと、世話をして、いるんだろうな?」

 元々彼女は身柄を拘束したヴィヴィオの監視役として拘置所から奪還してきたのだ……流石にこちらの命令を無視すると言う事だけはしないだろうが、一応気に掛る事も幾つかあるのでこれを済ませた後で一度確認に行った方が良いだろう。

 「…………ん?」

 視界の隅に小さな紅い光点……哨戒・情報収集用に放ったインゼクトの一匹が戻って来たようだ。光りの明滅パターンを解読すると、もうすぐこちらに問題のスバルが徒歩で向かって来るとの事らしい。街に放ったインゼクトの数はざっと200、その内の半分を哨戒と情報収集に分けているので彼の元には常に新たな情報が入り込んで来るシステムになっていた。今や管理局と教会の上層部以外の情報でならば聞こえて来ないモノは無い……もっとも、スバル・ナカジマを尾行させると言う目的で使うなどと露とも思ってはいなかったが。

 いや……目の前の召喚蟲が伝達している情報にはそれ以外にまだ続きがあった。スバルとは別に彼女を付き回している人間が数人居るらしい。距離を置いている……どうやら尾行しているようだ、だが何故?

 ここでまた別の一匹が情報を持って来た。その尾行している人間が一人増えた!?

 数は? 五人? たった一人を尾行するには数が多過ぎないか。だが蟲達の情報ではその五人がズバル一人をついて回っているのは確実……五人が一人を尾行し、その一人は今から自分の元に向かって来ている……この条件から察する解答は──、

 「…………スバル・ナカジマ、最初から、そのつもりで……?」

 導き出した解方程式はこうだ……今日自分はスバル・ナカジマに直接呼ばれてここまで来た、始めは何故急に会いたいなどと言い出したのか分からなかった、敵かもしれないと分かっているはずなのにどうしてこれ以上不必要な接触を行おうとするのか……。だがその謎は今解けた、奴は自分が進んで囮になる事でこちらの意図を探り出し、その様子を背後の五人が確認してこちらと本格的にコトを構えるつもりのようだった。こちらが首謀者だと言う尻尾を掴んだ瞬間に動き出すだろう、当然ここで易々と捕えられる訳にも行かないので抵抗はするが、それこそこちらの三日後に控えた本作戦に支障を来たすかも知れない……だが結局彼女の言いなりになってここまでホイホイと出て来たしまった自分もまた愚かだ。

 「スバル・ナカジマ…………恐ろしい奴」










 午前11時25分、同じく東区メインストリートにて──。



 「えーっと、髪良し! 目の下良し! 耳元良し! うなじ良し! 上着良し! 靴良し! めんどくさいから全部良しっと!」

 ショウウィンドウの反射を利用して軽く身嗜みを整えながらスバルは徐々に目的の改札口前まで歩を進めて行った。もう少し歩けば姉のギンガがセッティングしてくれた場所まで辿り着く、そしてそこには自分の友人が来るはずだった。朝早くに起こされ軽く顔に慣れない化粧まで施されて散々だったが、道行く人々を見れば自分と同じ年代の女子は大抵そう言ったモノに手を出している事に驚かされた、そう言うのはもうちょっと先の話だと思っていたからだ。スバル自身、“美”とか言うものには無頓着だった、三年前のホテル・アグスタ警護任務においてオークションに出される商品の一部を少しだけ目にした事があったが、彼女には精々「綺麗で高価な骨董品」と言う程度の認識しか無かった。それの価値の意味も知らなければ知る必要も感じた事は一度も無かったからだ。そんなつい昨日までそう言った事に無関心だった彼女が姉に言われて化粧までさせられるとは他のナカジマ家の面子ですら予想していなかっただろう……正直、スバル自身自分の事のはずなのに今でも変な感じだった。

 取り合えず駅前に着くまでにこれからの行動予定を確認しておく事にした。ギンガの立ててくれたプランでは、この後彼と落ち合ってから少し言葉を交わしながら移動し、さり気なく飲食店に入って昼食を一緒に食べると言うことらしい。昨日の深夜に姉が言うには、あくまで『さり気なく』の部分が重要らしく、食事を一緒に取ると言うのは男女間の進展を加速させる為に大事なプロセスがどうとか何とか言っていたような気がする。とにかく、第一ステップはそれと定めて問題はなさそうだ、メモ帳をしまってさっさと先を急がねば。

 ふと──、

 「……?」

 何か気になる物でもあったのか、彼女はさっきまで自分が歩いて来ていた道を振り向いた。特に何かあると言う訳でもなく、普通に冬の街を歩く人々や、その人々が出入りする飲食店やジュエリー店などしか視界には無かった。だが彼女は腑に落ちないと言いたげに首を傾げつつ再び駅前を目指して歩き出した。

 「何か視線を感じたような気が……。気のせいだったのかな?」

 元機動六課時代に培われた索敵感覚が未だに冴えているのかスバルは時たまこうやって対外の気配を察知する能力に長けていた。救助活動においてもそれを利用して瓦礫や水流に飲まれた要救助者を何度か助け出した事はあったが、今さっき彼女が感じ取った気配は明らかに一人や二人ではなく数人が寄り固まっているモノだった。数人分の気配が自分の後ろをつけるようにして漂って来ていたと言う事は、誰か怪しい者につけ狙われているのかもしれないが、当然彼女にはそんな心当たりは無い。と言うより実際には誰も居なかったのでそれで良しとしたかった。

 気を取り直して再び駅の方へと歩き出す。駅に近付く度に人ごみの密度は増して行き、段々目的の友人を見つけるのも困難になって来ているはずだった。

 だが──、

 「アハッ!」

 他の者にとっては存外に早く、スバルにとっては当然の如く早く彼を発見する事が出来た。こちらが指定した通りの改札口の本当にすぐ前、通行人の迷惑を考えていないのかと心配になるようだが、誰も彼に気付かないかのようにそこだけを避けて通っているので彼の周囲だけは無人だった。唯一彼の存在に気付いているのはスバルだけだった。

 どんなに薄っぺらい存在感でも分かる、どれだけ着飾らず没個性であっても感じ取れる、そして例えどれ程にあちらが意図してその身を隠すような真似をしたって必ず見つけられる……自分にとってそう言う不思議な自信を与えてくれるそんな存在がそこに居た。

 「待った?」

 「15分34秒、待機していた。呼び出した割には、少し遅いな」

 「うぇ? そんなに遅れてたっ!?」

 急いで時計を確認する……表示は『11:31 12』だった。取り合えず今日の第一の収穫は、友人が時間に厳しいと言う事が分かったことだった。真昼とは言え寒い中で例え一分たりとも待たせてしまっていたのはこちらの落ち度としか言えなかった、ここは素直に謝っておくのが妥当だろう。心なしかトレーゼの様子もいつもと違ってどこか頑なで苛立っているようにも見えていた。

 「ごめん……出て来るのにちょっと時間掛っちゃって……」

 「……まぁ、いい。それで、用は何だ?」

 「ふぇ?」

 「わざわざ、通話で済みそうなものを、ここまで、引っ張り出したんだ…………それなりの、用件があるのだろう?」

 「え、あぇ……えーっとその~」

 何だか話しが噛み合わない……どうやらトレーゼの方は、こちらが何か直接伝えたい重大な情報か何かがあるので出て来たと勘違いしているらしい。これは困った、と言うか困った程度の話ではない、この気難しい友人の事だから大した用も無いデートだと言ってしまえばすぐに踵を返してしまうのは必定……かと言ってここで何の用も無いとは言えず、ある意味究極の二択を心の中で迫られていたスバルは──、

 「あのさ……すっごく言い難いんだけど……」

 「何だ……?」

 「今日はいい天気だし、私もトレーゼも暇だし、ええっと……それで……電話でははっきり言えなかったんだけど……」

 「?」

 「……………………デート…………してくれないかなーって、アハハ」

 確かこう言う土壇場での決断を師であるなのはの出身世界では『清水の舞台からダイビング』だとか何とか言い表すんだったかな。そう言うどうでも良い考えが頭を快速急行並みの速度で通過させながら、スバルはとうとう一線を越えた。目の前の友人はしばらく瞬きした後で……

 「デート? 『デート』とは何だ?」

 斜め45度上の返答が返されて来た。










 「あぶなかったッス、あと隠れるのが三秒遅かったら命無かったッス」

 「さすがにそれは大袈裟だな。だがスバルの勘があんなに鋭いとは思いもしなかった、姉も仰天したぞ」

 尾行中に突然振り返ったスバルの視線を回避したノーヴェ達四人はすぐに行動を再開した自分達の姉妹を追跡を再開した。スバルとの相対距離は十メートル以上と一見離れ過ぎにも思えるが、彼女らは次元世界最高峰の頭脳を持つ科学者が自らの技術力の粋を決して生み出した戦闘機人、精密機器を埋め込まれた彼女らの可視範囲は100メートル先の硬貨の種類を優に見分け、特に射撃・砲撃をメインとして捕捉有視界範囲を格段に底上げされているディエチに至っては数キロ先を飛行する小型空挺の翼に描かれたロゴを読み取るに至る。ちょっとやそっと距離を置いている程度で見失うはずは無かった。

 と、ここで彼女らの一番後ろに居たノーヴェは、自分達とは別の気配を察知して背後を確認しようとしたのだが……

 「Freeze.(動くな) 抵抗したら撃つわよ」

 「お前が言うとシャレにならねーからさっさとその指鉄砲降ろしやがれ」

 「相変わらず冗談が通じないわね、ノーヴェ」

 「流石にあたしもブラックジョークは耐性無ぇよ。ってか、何だかんだ言っても来たんだなティアナ」

 銃の形に構えていた右手を降ろし、ティアナは如何にも怪しげな行動を絶賛続行中の四姉妹の列に加わった。

 「言っとくけど、私は一応あいつが無茶しないかどうかの確認をしに来ただけなんだから。それが終わったら帰らせてもらうわ」

 「まあまあ、見て行って損は無いはずッスよ」

 「生憎だけど、今となっちゃあいつのご飯食べてる風景だけでもお腹が捩れるような気がするの。スバルにとっての面白い事なんて、私からすれば厄介事も良い所よ」

 「親友のデート風景を見守ると言うのも、野暮かもしれないだろうが邪魔をしなければ一興だと思わないか?」

 「思わないわよそんな……こ…………と……………………今、何て言った?」

 さらりととんでもない爆弾発言を落としたチンクの肩をがっしりと掴みながら、ティアナは自分の両耳が正常かどうかを疑いそうになっていた。もし彼女の聞いた事が何の一分の間違いも無い事実なのだとすれば、今この状態は──、

 「逢引だよ、逢引!」

 「嘘でしょ……? あいつの事は誰よりも知ってるつもりだけど、訓練校に居た時だって男子寮からただの一通もラブレターをもらうどころか、浮いた話なんてどこにも無かったあいつが…………連れ添い!? あ、有り得ない……! 相手は誰よ!?」

 「最近になって仲良くなった人って言ってたよ」

 「あー、だとしたらやっぱり私も聞いた事あるかも……」

 「意外と私達も既に会っているやも知れないな。お! みんな静かにしろ。スバルが目標と接触したようだ」

 後発組リーダーのチンクが指示を出し、後に続くティアナを含んだ四人が一斉に息を殺して気配を消した。いつの間にやらティアナの方もその気になっており、さっきまで自分が言っていたはずの『どうでも良い事』に大いに首を突っ込んでいた。

 全員の視線が数十メートル離れている改札口前に集中する……確かにあの母親譲りだとか言う蒼く短い髪は間違い無くスバルだ。そして彼女のすぐ隣に居る人間、真冬に似合わない白い服と、見る者によっては毒々しくもある紫色の髪の毛……その人物は──、

 「あれ……誰ッスかね?」

 ウェンディのさり気ない一言に誰からも反論が無かったのは、単に彼女のいつものボケに突っ込み切れなくなったので放置……と言う訳では無かった。実際彼女と同じように他の姉妹やティアナも……

 「確かにあれは誰だ? ディエチ、知っているか?」

 「ううん。おかしいな、どこかで見た事があるような気がするのに全然思い出せない……って言うか、顔も見えてるはずなのに何だかボヤけて……」

 「こっちも全然分からないッス~!」

 そう、明らかにおかしかった。こちらからは確かに相手の姿は見えている……髪、目鼻、耳、口元、眉……確かにその人物の顔面を構成しているパーツが何もかも見えているはずなのに、その“顔”がどうしても認識出来ないのだ。目を見れば口元が、耳を見れば鼻が、髪を見れば目がと言った具合に、その人間の顔全体が彼女らの脳に上手く伝達していないのだ。さらに不可思議な事には、一旦その人間以外の方に視線が行ってしまうと視界の隅に捉えているはずなのにも関わらず、網膜の盲点に入り込んだかのように消え果て、再び視界に取り込んだとしてもやはりボヤけたままなのは変わり無かった。

 「眼球センサーの調子が悪いのかな? 解像度上げても全然ダメ」

 「生憎、私の目にもはっきりとは見えて無いわ。まさか街中で知覚阻害系の魔法を……ってそんな訳無いわよね、魔力なんてどこにも感じないし」

 通常、街中で管理局員以外の人間が認可の降りていない魔法を行使した場合は厳しく取り締まられるのだが、魔導師であるティアナが全く魔力を感知出来ていないとなると本当に魔法の類は使われていないようだった。だが現実として“彼”の顔はピントがずれたようにぼやけたままで、常人以上の聴覚神経を駆使しても声すら聞こえて来なかった。

 しかし、いい加減もっと接近した方が良いのではないかとチンクが提案を出そうとした時──、

 「なぁ…………あそこに居るのって、トレーゼじゃねーか?」

 五人の後ろから二番目に居たノーヴェの言葉に、ティアナとチンクは首を傾げ、あとのウェンディとディエチはしばし間を置いた後に再び前方の“彼”を見直し……

 「あー、言われて見ればそんな気がするッスね。見えないッスけど」

 「輪郭的にも確かにそうだね。見えて無いけど」

 確かに視界の中でぼやけている“彼”の背格好は、一週間近く以前に地上に降りて来たセッテに会いに行く際に初めてその顔を見た無愛想な少年、トレーゼにそっくり似ていた。あの時チンクは謹慎中だったのでその場に居なかったが、ウェンディがすぐに彼の事について話してくれた。

 「ほう、そんな事がなぁ。世間とは存外狭いものだな。……………………それにしても……」

 「どうかしたッスか?」

 「いや……どこかで…………聞いた事があるような気がするんだが……どこでだったかな」

 「そんな事より、よくあれがトレーゼだって分かったよねノーヴェ。何だか分からないけど、全然ボヤけて見えないでしょ?」

 「はぁ? お前頭大丈夫か? クッキリハッキリ見えてんだろ、さっきから何おかしなこと言ってんだ?」

 「うそだぁ!」

 「嘘じゃねぇよ! って良いのか? もうあいつら先行っちまってるぞ」

 「お、追うわよ!」

 いつの間にか四姉妹よりも積極的に首を突っ込む形になっていたティアナを先頭に、ノーヴェ、チンク、ウェンディ、ディエチの順に彼女らは大胆な尾行を続行した。だが結局彼女らが接近しても距離を離しても、ノーヴェ以外にはトレーゼの顔がぼやけたままだと言う事は変化無かった。










 「ねぇ、お腹空かない?」

 「……まぁ、そうだな」

 「じゃあさ、あそこの喫茶店行かない?」

 「……まぁ、別に、良いが……」

 「じゃあ行こ行こ!」

 「……ああ」

 何故か異様にテンションの高いスバルを先にして、トレーゼは彼女と共に白昼のクラナガンを歩いていた。喫茶店に入り込む彼女の後を追って自分もモダンな感覚の店内へと足を踏み入れた。そのまま窓際に空いていた席に腰掛け、向かい合うようにして座ったスバルがメニュー表をマジマジと見つめるのを静かに観察していた。

 「トレーゼは何が良い?」

 「アイスコーヒー……。砂糖、ミルク抜き、ブラック」

 結局彼がスバルの言う『デート』とやらに付き合う事にしたのには当然理由がある……。もし相手がスバル一人なら彼は即座に断り、さっさとラボに帰っていただろう……だが今回ばかりはいつも彼がスバルに接触していたのとは訳が違う、存在の分からない五人もの尾行者達が居る中で迂闊な行動を取れば即座にアウトだからだ。確かに自分が申し出を断ればスバルも帰るだろうが、その尾行者らがこちらに対してどのような行動に出るかは全く分からない……仮に大人しく引き下がったとしても、自分をマークしている管理局員と言う可能性を考えれば自分はこのまま「不審な人物」としてマークされ続ける事となり、今後の行動に影響を及ぼしかねない……。それならいっそ彼女と行動を共にして自分が潔白である事を逆に見せ付ければ良いと考え、今に至ると言う訳だった。ちなみに、今の彼は自分の姿を尾行者達に勘付かれないようにシルバーカーテンの効果で顔の解像度を落としているので外部からはピントぼけしているように見えているはずだった。

 だが──、

 (デート、逢引、ランデヴー…………男女が一組となって連れ添い、交友を深める為の、一種のふざけた遊戯……。理解し難いな、他人……特に異性ともなれば、互いを理解し合うのは、至難の業だ。どこまで行っても、人間は分かり合えないと、分かっているにも関わらず、互いの駆け引きに興じるだけの、低俗な遊戯……非生産的だな)

 眼前の少女からデートの意味を聞かされた後、彼はずっとその行動の重要性について考慮していた。交友を深めたいのであれば別にこんな回りくどい方法でやらずとも他にやり方が幾らでもあるはずだ……わざわざこんな非効率的な方法を取らなければならず、尚且つそんな『おままごと』に付き合っていると言う事実にトレーゼは早くも呆れつつあった。背後からの視線が無ければもう今すぐにでも帰りたかった。

 「アイスコーヒーご注文のお客様?」

 「……こっち」

 真冬にアイスコーヒーを頼んだのは別に彼がそれを好んでいたからと言う訳ではない。この気温でわざと冷たい物を飲む事で神経を張り詰めさせ、カフェインを摂る事で眠気を退けるのを目的としていたからだ。店員に変な目で見られたような気もするがいちいち気にしていては世話が無いのでスルーしておいた。ちなみにスバルの方はキャラメルミルクなる物を頼んでいた。

 「何食べよっか? パスタ? ピラフなんてのもあるよ?」

 「アイスコーヒー、二杯目」

 「飲むの早っ!?」

 氷だけがカラカラと音を立てているグラスを脇に下げ、トレーゼは店員に再び同じ物を注文した。三分としない内に注文の品が再びトレーゼの前に差し出され、彼はそれを一気飲み干した。礼儀も作法も無く、ただ単に「喉の渇きを潤す」と言う行為のみを追究したその豪快な行動にスバルはだらしなく口を開けて呆けていた。

 「お、お腹壊すよ?」

 「心配、いらない。そんなに、脆弱に、出来ていない」

 「そ、そう……。あ! パスタの注文こっちでーす」

 自分の元に届いたパスタの皿を受け取り、盛られている麺を左手のフォークで器用に巻き取りながら一気に口まで運んで行くスバル……それを見ながらトレーゼは相変わらず食欲旺盛だと感心するしかなかった。実際彼女の食欲とカロリー消費量は自分達最新型と比較しても多い部類に入る……正規ナンバーズよりも先に製造された旧型であるが故に消費量が多いのだろうが、流石にこれは多過ぎだろう。

 と、ここで……

 「……………………」

 背後の尾行者に気を配るトレーゼ。流石に五人の大所帯で店内に入って来る事はなかったが、斥候として一人だけを店内に入れたようだった。丁度自分の真後ろになるようにして居る為にこちらからは見えないが、間違い無く視線を感じる辺り監視されている事に変化は無かったようだ。だがここでいちいち気にしていては相手に勘付かれてしまうかも知れないので極力気にしないように振舞おうとした。

 「……………………足……」

 「うん?」

 「歩く分には、問題無い、ようだな」

 「あー、うん。昨日はありがとうね、死ぬほど痛かったけど、トレーゼのお陰で何とも無かったよ」

 「足が無くなった程度で、人間は死なない」

 「ひょっとして心配してくれた?」

 「まさか……」

 暇そうにストローでグラスの氷を掻き回しながらトレーゼは心底どうでも良さそうにそう答えた。出血量にもよるが、人間は四肢を切断された程度ですぐには死なない……心臓停止で五分、呼吸停止で十分、大量出血では15分もしなければ死亡確率50%には届かないのだ、人間は簡単に死なない。

 (まぁ、脳髄を捻り潰せば、即死だがな……)

 四角い氷を摘まみ上げて口に放り込み、ボリボリと音を立てて噛み砕きながら彼は眼前の少女と背後の尾行者に怪しまれぬように『普通』にしていようと努めていた。背後の得体の知れない尾行者達の事は放っておくとしても、問題はスバルだ……昨日の様子からすれば彼女はこちらの事を徐々に疑い始めているのは明白、その状況でのこの誘いは明らかにこちらがボロを出すのを狙っているとしか思えない。管理局もその気になれば無理を通せる巨大組織とは言え、仮にも法律を扱う組織である以上は明確な物的証拠が無い以上は検挙出来ない故にこうやって囮捜査のような事をしているのだとトレーゼは解釈した。どの道この状況から早急に脱しなければならない事に変わりは無い、何か適当な理由を付けてこの場を去るのが一番好ましいだろう、追っ手の尾行者達を上手く捲くだけの自信はある。

 と、無表情ながらも真剣に思案を続けていた彼は、自分の視界の隅に何やら蠢くモノを発見した。と言うかさっきから見えてはいたのだが無視していても一向に収まる気配が無かったのでそちらを見て見ると……

 「あーん……」

 「……………………」

 目の前に突き出されたフォーク、先端にはトマトソースが良い塩梅に絡んだスパゲッティが巻き取られていて、食欲をそそる酸味の利いた匂いが漂って来ていた。それを突き出しているスバルは微動だにせずにこちらの動きを窺っている……しばらく様子を確認した後、トレーゼは自分のフォークを掴むとそれを先端に絡め取ろうとし──、

 「それはダメっ!」

 遠ざけられてしまった。

 「摘んだ食べ物をそうやって受け渡しするのは縁起が悪いってお父さんが言ってたから……」

 「……それは、chopstick(箸)の、場合じゃなかったか?」

 「と、とにかく! はい、あーん」

 再び突き出されたフォークの先端を見つめ返しながら、トレーゼは理解出来ないと言いたげに首を傾げた。

 「だから、何だ?」

 「いや、あのね……直接……食べて欲しいんだけど……」

 何故だろう、背後の尾行者からの視線が少し痛い……さり気なく食卓の脇に置かれている胡椒の瓶を取って中身を練り固め、即席の目潰し拡散弾として気配の方向へと指で飛ばすと「めっ!?」とどこかで聞き覚えのある声が返って来たような気がした。取り合えず常人では知覚出来ない速度でブチ込んだので、前方で意味不明にモジモジしていたスバルはこっちが何をしたかまるで認知していなかった。

 さて、未だに目の前の彼女はフォークをずいっと近付けたまま固定しており、どうやらトレーゼがこれを口にしない限り動いてくれる気配は無さそうだった。ここで派生する選択肢が幾つか存在する……。

 一つ──、『断る』。相手が何を考えているか分からない以上、出過ぎた行動は控えるべきである。

 二つ──、『受け入れる』。仮に相手が何の意図も無くこの行動に出ているのだと考慮するならば、理由無く断るのは不自然である。

 「……………………」

 それからしばらくの間、無言で物思いに耽るトレーゼと、そんな彼を同じく無言で見守りながらもフォークを突き出したまま固定されたスバルと言う異質な状態が続いた。背後の尾行者の方は離れた所で胡椒の影響が持続中の鼻を鳴らしており、もう完全に尾行出来ていなかった。

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「……………………んっ……」

 「ああっ!」

 勢い良くスバルの左手を掴んだトレーゼはフォークの先端を自分の口に運び、絡みついていたスパゲッティを吸い上げてそのまま喉へと押し込んだ。程良く酸味と甘みの利いた食感が食道を通る感覚に、戦闘機人の生物としての面が喜びを感じるのが分かった。

 自分から望んでやって来た行為にも関わらず呆けているスバルを余所に、彼はたった一言……

 「…………美味、だな」










 やっぱりトレーゼの考えている事は全然分かんないや……。無愛想なのにどこか抜けてて……何でも知っていそうなのに誰でも知っているような事を全然知らなくって……本当に不思議な人だよね。

 でも…………

 トレーゼは何か私に隠してる事は無い? ノーヴェに黙ってる事って何も無い? …みんなの知らない所で誰かを傷付けてたりしない?

 もし違ってたらごめんだけど…………ねぇ、私には本当の事を言ってくれてるよね? このデートだってギン姉達が悪乗りしたのはそうだけど、ここに来たのは私が来たかったから来たんだよ。ちょっと出るの渋ったけどさ……。トレーゼも、私とデートしても良いからオーケーしてくれたんだよね? 今こうしてるのも本当は楽しんでくれているって思って良いのかな?

 …………ちょっと不安。そう言えばギン姉が言ってたっけ、食事中のイベントに『食べさせっこ』があるって。相手がどれだけ自分の事を信頼してくれてるかテストする……みたいな事言ってたけど、ほんとかな? て言うか、そんなのティアと売店で買ったアイスでしかやった事無い!

 ええい、南無三! あれ、違った? まあ良いや、とにかく一回だけ試してみよ。

 うわっ! すっごい変な目で見られてる!? ひょっとしてやり方違ってた? でもまぁ、スパゲッティはフォークで食べるものだしなぁ……。

 ってちょっと! まさかそっちもフォークで取ろうとしてるの!? 違う違う! 何か違う気がする! 直接食べて欲しいんだけどなぁ…………うわ~、これすっごく恥ずかしいよギン姉~! て言うかトレーゼも何かますます変な目で見て来るし~!

 …………もうダメ、やっぱりやめようかな────って、冷たっ!!

 あっ……! 食べてくれた……よね? う~ん……ギン姉、これって信頼されてるって言うのかなぁ? なんか自信無くして来た……。

 ……………………手……すごく冷たかったな……。










 これは何かの冗談か? 駅前での光景を見た時のノーヴェが一番最初に感じたのがそれだった。

 (何で……何でスバルがあいつと……トレーゼと一緒に居るんだよ!?)

 それはスバルがトレーゼとデートの約束を取り交わしたからと言う事実に気付くまでに少し時間が掛った。前々からスバルが親しくしている人が居ると言うのは聞いてはいたが、これは本当に笑えないジョークだと思いたかった。いや、実際笑えなかった。

 最初に彼の姿が見えた時、他の姉妹達が言っている言葉が耳を素通りして行く意識の中でノーヴェの頭の中では疑問の渦が巻き起こっていた。

 二人はどこで知り合ったのか?

 いつからそんなに親しくしていたのか?

 何でスバルはあんなにも嬉しそうなのか?

 そして……



 どうしてあそこに居るのが自分じゃないのか?



 「ッ!?」

 最後の疑問が浮かぶと同時に自分の胸の奥底から湧き上がった小さく弱く、それでいて確かな存在感と重さを持った“黒いモノ”……それを振り払うべくわざとらしく首を大きく振り被ってその疑問を忘却する。自分でもどうしてそんな事が頭を過ったのか分からない、ただ本当に胸の中の無意識の隙間を縫うようにして現れたと言う事だけが認識出来ただけだった。もう本当に何が何だか分からなくなって行く……表面上だけでも平静を保って居られているのが奇跡だとすら思えた。

 姉妹達が何か言っている……見えない? 何が? ……何を言っているんだか、あんなにハッキリと見えているじゃないか。

 (とうとう視覚センサーにガタが来やがったか……。けど、今はそんな事よりも──)

 気になる──。あの二人が何を話しているのか、スバルは目の前の彼をどう思っているのか……そして、彼が何を思ってあそこに居るのか。

 移動を始めた二人を密かに追いながらもそれら疑問のタネは尽きる事を知らない。ショウウィンドウの中にある冬服を物色しながら進んで行く二人を見失わないようにして追跡して行くが、流石に白昼の街中を距離を置いているとは言え五人の少女が連なって物陰に隠れたり小走りしたりを繰り返しながら尾行しているもんだから時々周囲の視線を必要以上に感じるが、そんなのをいちいち気にしていては時間の無駄なのでさっさと後を追う事だけを考えるようにした。

 やがて二人が喫茶店に足を入れるのが見えた。ここまで来たら流石に五人で突入する訳にも行かないので、店内に入る者を一名だけ選出する事にした。こう言う事に自分から首を突っ込むのが大好きなウェンディが真っ先に名乗りを上げるのかと思ったのだが……

 「いや、ここはノーヴェに行ってもらうのが適任だ」

 姉チンクから直々の御達しで幸か不幸かノーヴェ自身に白羽の矢が突き立った。さっきまでの尾行中に気付いたのだが、どうやら自分達には彼の姿が見えないだけではなく、彼の言葉も上手く感知出来ていないらしいとの事だった。どんなに聴覚の度合いを底上げしてもスバルの声や周囲の雑音だけが耳に入って来るだけで、問題のトレーゼ本人の声だけがどうしても聞き取れないらしい……。

 「ノーヴェには彼の姿がちゃんと見えているんだろう? だとすれば恐らく声も聞こえるはずだ。どう言う事か分からないが、私達では彼を上手く『認識』出来ないらしいからな」

 なるほど、そう言う事だったら確かに自分が適任だろう。いやに落ち着いた脳でそう考えた後、彼女はティアナの指示した席に座るべく店内へと足を踏み入れた。窓際に座っている二人に気付かれないように移動し、丁度トレーゼの真後ろで彼の背中を見つめる形で座った。

 耳を澄ませる……。

 取り合えず食べ物を頼んでいるのがスバルだけと言う事が分かった。トレーゼの方はそう言った腹に詰まる物は全く頼まず、さっきから水やコーヒーと言った飲み物だけを注文していた。腹が減っていないのだろう、例えそうでなかったとしてもスバルの食事に常人が付き合うのは十二の難業よりも苦痛だ。

 足? トレーゼはスバルの足が治療を受ける前は無くなっていた事を知っている? とすれば、彼は自分と同じようにこの11月中にスバルと知り合った事になる。つまりトレーゼは入院中のスバルに会いに行っていたと言う事だ。

 何故彼がスバルと接点を持つような事があって会っていたのかは知らない……だがその時から親しくなっていたのは間違い無いようだ。だが結局何故二人が出会う事になったのかまでは想像がつかなかった。

 取り合えず一旦落ち着こう……そう考えて店員の出した水に口をつけたノーヴェは上目遣いで前方を確認し──、



 「はい、あーん」



 「……ぶほっ!!?」

 思わず吹き出した。

 今の光景は何だ!? 自分の見間違いでなければスバルがスパゲッティをあのトレーゼに食べさせようとしているように見えていたが……。

 急いで鼻に逆流した水を拭き取り確認する……間違い無い、どう見てもスバルがトレーゼに対して直接自分のスパゲッティを食べさせようとしているようにしか見えなかった。有り得ない、こうして目の当たりにしていても普段の溌剌としながらも自他共に認めているであろう男っ気の無さが念頭にある為、どうしても眼前の光景とイメージが合致しなかった。対するトレーゼの方はと言うと、ノーヴェからは背中しか見えないので表情は読めなかったが多分いつも通りの無表情なのだろう、文字通り数ミリも微動だにしていない。だが如何に無愛想な彼とは言えここまでされたら単に黙っていると言う訳にも行かないはずだ……ノーヴェはその決定的瞬間を記憶しようとズーム機能を使用するのも忘れて必死に目を凝らしていた。

 と、何やらトレーゼがゴソゴソとしている。何をしているのかと思って更に目を凝らそうとしたその瞬間──、

 ────パラッ──。

 顔面に何か細かいモノが降り掛かった。いつもの彼女ならそんな事も気にせず軽く手で払う程度の反応しかしなかったのだろうが……

 変化は一瞬で訪れた。

 「…………めっ!?」

 痛い! 眼球と鼻腔が針千本で刺されているかのような激痛が彼女を襲った。台所で感じた事のあるこの刺激臭……間違い無い、胡椒の塊だった。何でそんなものが飛んで来たのかなんて気にしている余裕なんか無い、とにかく痛くて目を開けて居られなかった。

 結局、彼女はその『決定的瞬間』を見逃してしまい、スバルがスパゲッティを完食したのを見計らってノーヴェは店内から出た。確かにその瞬間は見れなかったが……

 スバルの顔はどこか嬉しそうだった。

 家族だから彼女が嬉しいなら自分も喜んで良いのだろう。

 でも──、

 何故かどうしてもそんな気持ちになれない自分が居た。










 食事が済んだ後、スバルがちょっと買いたい物があるのでと言って再び一軒の店の中へと連れられて行った。何と言う事は無い、前々から気になっていた冬服があったので物色したかったらしい。

 売り物は若年層を狙ってカジュアルな物が多く、男女両方に対応した商品が並んでいた。品数も多く、自分達以外にも客が何人か居た。

 “美”と言う感覚に無頓着なトレーゼにとって服の意匠と言うのはとても無意味なモノに感じられた。元来衣服とは太陽光に含まれる紫外線や冬の寒波を遮る事を目的としているのだから、それ以外の要素があるのはおかしな事のはずなのだ。それを反映するかのようにトレーゼの服は常にこの白い純白の服だけだった。耐寒・耐熱に優れている『だけ』の本当に衣服としての機能しか無いこれを、ある意味で彼は好んでいるとさえ言えた。

 (馬鹿馬鹿しい、何故人は、こんなモノに、執着するのだろう? こんなモノ、必要無いのに……)

 自分に『殺意』と言う感情があるのであればそれは恐らくここに居る低俗な輩達に向けられているのだろうと、トレーゼは考えた。彼は必要でないモノに価値を見出さない……彼にとっては研磨された無二の美しさを持つ宝石だろうと、ケース一杯に詰められた紙幣の束だろうと総じて皆無価値なのだ。何故なら、それは自分がそれらを必要としていないからと言う理由だけで事足りた。故に彼は不必要なモノを求める人間の心理が理解出来ず、一種の苛立ちすら覚えていたと言っても良かった。

 「じゃあ私レジに行って来るから、ちょっと待っててね」

 もうこの隙に帰れるものなら帰りたかったが、店内には先程と同じく尾行者の視線を感じていたので迂闊に動けなかった。結果的に店のロゴが入った紙袋を下げたスバルを待ち、再び彼女と共にクラナガンの街へと繰り出す羽目になった。尾行者達も距離を置きながらこちらの後を追って来ているのが分かる……ここが戦場ならとっくに始末しているのに、歯痒い事この上ない。

 ふと、スバルの様子がまた何やらおかしな事に気付いた。左手に持った紙袋に視線をチラチラと何度も往復させながら妙に落ち着きが無いのだ。また何か企んでいるのかと、トレーゼは軽く無視する事にした。いちいち関わっていてはこちらの精神が追い付いて行けない……デート開始から既に30分が経つが、もういい加減にしてもらいたかった。

 と、しばらく彼女の後に続いて歩いていた彼は……

 「……………………」

 天を仰いだ。冬晴れの空には筋雲が伸び、緩やかながらも厳しい寒さを保った風が流れる……そんな空を仰ぎ見ながら彼はこう言った。

 「……雨が、降るな」

 空気が湿っぽい、季節風に乗って雨雲独特の湿気を豊富に含んだ臭いが彼の嗅覚神経を刺激していた。恐らくあと一時間もしない内に雨が降り出すだろう。この間自分が行使した天候魔法の影響で季節外れの大雨が降るかも知れなかった。

 それなら僥倖だ、それを言い掛りにして帰ろう……流石に強引なスバルと言えど天候まではどうにも出来ないはずだ。

 「ねーねー! 今度はあそこ寄ってこ!」

 「……まぁ、構わないが……」

 次に彼女が向かったのはまたもや店だった。今度のはさっきの衣服売り場とは違い、帽子やバッグと言ったようなアクセサリーや小物系の商品が多かった。先程の話ではないが、“美”と言うモノを理解出来ないトレーゼにとってこう言った飾り付けの要素もまた度し難いモノでしかなかった。店内では先程の店とは対照的に女性客が多く、スバルと同じように自分に合う帽子やバッグなどを物色していた。

 と、意外と時間も掛らずにスバルが戻って来た。さっきの店とは打って変わって小さな紙袋を二つ持って、それを服屋でもらった大きい紙袋に入れ込んだ。

 「……何を、買った?」

 「うえっ!? えーっと、な、ナイショ……」

 「…………そうか」

 別に知らせてくれなくてもどうと言う事は無い、あくまで人間関係を円滑にするフリをする為に興味がある素振りを見せただけで、実際は興味なんてこれっぽっちも無い。目の前の鬱陶しい女が昨日何をしていたか今日何をするか、明日どうなるかなんてどうでも良かった……結局の所、彼女は計画を推し進める上で必要なファクターでしかないのだから。

 再び冬の街を歩き始める。隣の少女の歓喜が漂う表情がどこか憎らしい、と言うか本当に鬱陶しい……そう表現する事しか出来なかった。

 西の空を見上げる……。

 黒雲が近付いていた。










 案の定、それからものの20分もせずにクラナガンは盆を引っ繰り返したような雨に見舞われた。湿気の少ない冬としては異常な降水量だった。今日の天気予報を信じて疑わなかった大多数の人間は傘を買い求めに店内に殺到し、あるいは駅の構内に走り込んでいた。ショッピングに付き合ったり近くの公園でハトに餌をやっていたりしていたトレーゼとスバルはと言うと……

 「降って来ちゃったね……」

 「…………あぁ」

 当然傘なんか持っていない二人は一先ず公園の周囲に自生している樹木の木陰に身を寄せて雨をやり過ごそうとしていた。途中で買った物が入っている紙袋を大事そうに左腕で抱えながら不安げに雨天の空を見上げているスバルを横目に、トレーゼは周囲の気配を読もうと精神を研ぎ澄ませていた。ついさっきまで感じていた五人の尾行者達の存在は感じられなかった……突然の雨に気を取られてこちらを見失ったのだろう、丁度良い機会だ、今の内に彼女から離れてしまおう。いつ尾行者が戻って来るか分からない、事を急くに越した事は無い。

 「……………………ねぇ……」

 「?」

 「こんな天気じゃデートどころじゃないね」

 「……そうだな」

 「帰っちゃう?」

 「……そうした方が、良いだろうな」

 「…………そうだね」

 幸運にも相手の方から解散を持ち掛けて来てくれた事を僥倖と思いつつ、トレーゼはスバルの口が少しモゴモゴと動いているのに気付いた。何かを言おうとしている時に表れ易い人間の心理現象だった。すると案の定彼女は再び口を開け……

 「あのさ……! 私、実は一人暮らししてるんだけど……」

 「……………………」

 「この近くにあるの……家」

 「……それで?」

 「こんな天気の中で帰るのって不便だから……えーっと、その~…………傘、貸してあげても……」

 どんどん尻すぼみになって行く言葉を聞き取ろうとトレーゼが自身の聴覚神経をフルに拡張させようとした時──、



 「来ない……? 私の家」










 雨が、少し強くなった気がした。

 悪い予感がした。

 悪い感じは……しなかった。



[17818] ⅩⅢ+0=Difference   ※(序盤・原作キャラ虐げ注意)
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/09/25 22:48
 11月20日午前9時17分、クラナガン某所のアパートにて──。


 
 逃げなきゃ!

 ヴィヴィオの脳はこの二十四時間でずっと危険信号を鳴らしっ放しだった。体中の筋肉と骨が一斉に悲鳴を上げているのを鞭打ち、彼女はリビングの椅子を持ち上げて振り被り、この部屋唯一の出入り口である鉄のドアに叩き付ける。

 「うぅ!」

 叩き付けた瞬間の反動が彼女の小さな肉体にダメージを与える。対してドアの方はビクともしていない……それでも彼女は諦めずに再び椅子を振り下ろした。何回も何回も振り下ろし続け、そうやって諦める事無く続けていたその時──、



 「ッ!!?」



 来た。来てしまった。きっかり60分、一分一秒の遅れ無し、残酷な“それ”は少女の内側からひっそりと何の前触れも警告も無しに現れ……

 蹂躙を開始した。

 「あ……ぁげぇああああがぁっがはあ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」

 椅子を取り落とし、体を『く』の字に曲げて彼女は床に倒れ込んだ。単に蹲っているだけなら多少は問題無い……だが、服越しに背骨が浮き出ているのが見えるまでに屈折しているのはどう言う事か? 明らかにおかしい、右手の五指が内側に握り拳を作るようにして折り曲げられているのに対し、左の方は全部の指がてんでバラバラの方向にねじ曲がっていた。足に至っては屈筋がこむら返りを起こしたみたいに縮み上がり、一番マシな首でさえ右の方向にこれ以上曲がらない限度一杯まで回転していた。

 全身の筋肉が自分の意思とは無関係に動きまくると言っていたクアットロは正しかった……あの打ち込まれてから既に二十四時間、一時間から二時間のペースでやって来る肉体の内側からの凌辱、全身の筋肉と言う筋肉が骨の規格を無視した屈伸を不規則な律動で繰り返す……かつて欧州で行われた拷問裁判にも、被告人の手と足を逆の方向に引っ張って背筋が千切れるまでそれを行ったと言うモノがあったらしいが、今の彼女の場合は全身でそれが起こっている状態にあった。意識を保っているだけでも精一杯、一歩だって動けなかった。

 だが、今の彼女が気に掛けているのは自分の肉体の事なんかではなく……

 「逃げ……ないと…………早く、しないと……」

 筋肉が引き伸ばされて満足に動かせない両足を奮い立たせ、彼女は再び椅子を掴んだ。腕だってまともには動かせないにも関わらず、彼女はそれでも自分を閉じ込めるドアの前に立った。そう、早くしなければ“あれ”がまた自分の前に姿を現すからだ……人の、人間の持つ尊厳なんて形無きモノを自分の意思で自由気ままに蹂躙し、加虐し、そして殺し尽くす悪魔が……。



 「あらぁ、何してるんですの?」



 声……。まるで、最初からそこに居ましたよとでも言いたげな軽い調子で聞こえて来たその声は、ヴィヴィオのすぐ右側から聞こえた。そしてその軽い調子を保ったまま、右肩にポンっと手を置かれる感触があり、そして──、

 「あーあー、なるほどねぇ。要するに、何かを壊しているのが楽しくってそんな事やっているんですのねぇ~」

 肩を掴む五指に圧力が掛かる……筋肉を押し潰し、骨まで砕かんとするその力にヴィヴィオが椅子を落とした。

 「良いですよね~、破壊って。破壊は何も生まない~みたいな戯言を良く耳にしますけど、私はそうは思いませんわ。だって……」

 刹那、脳髄が『揺れた』。実際はそんな軽い言葉で言い表せられるような生易しいモノではなかったが、生身の人類では決して視認できない速度で頭部を叩き飛ばされたとなれば、もはやそう表現するしか無いだろう。慣性の法則に逆らう事無く真横にすっ飛び、鈍い音を立てて壁に激突したヴィヴィオは一寸も動かずに床に倒れ込み、静かになった。壁に当たった左側より叩かれた右側の頭から血が出ている辺り、如何に強力な力を加えられたかが分かる。

 「あらあら、そんな所にノビてもらっちゃ困るんですのにね~。よい……しょっと!」

 髪を引っ掴み、クレーンが鉄骨を釣り上げるが如くクアットロは少女を床から完全に離した。そのまま振り子のように宙を揺れる彼女を──、

 「だって破壊って言うのは……こんなにイイ快感をくれるんですものねぇ!!」

 ────床が抜けていても不思議ではなかった。戦闘機人のフルスイングで背中から叩き付けられ、ヴィヴィオの体は反動で数センチ上がった後、また沈黙した。薬物の影響が残っている四肢が小刻みに不自然な方向に痙攣していた。死んでいなかったのが奇跡だったのか、それとも不幸だったのか……。

 「破壊……嗚呼、なんて甘美なひ・び・き♪ 貴方達虫けらと同等の存在が築いてきた無価値なモノの中で、唯一の例外が『破壊衝動』と『殺戮欲求』……。邪魔なモノを無くす事で安息感を得られる破壊衝動と、同じく邪魔なクズ共を除去する事で優越感を得られる殺戮欲求……本当にこの二つを生み出した貴方達人類を尊敬しちゃいますわ~、この二つは次元世界に存在するどんな快楽をもたらしてくれる薬物なんかよりも優秀よね。自分の目の前に居るそいつを誰にも遠慮しないでブッ壊せたりブチ殺せるなんて……ウフフ、想像しただけでも濡れそう」

 返事は無い。とっくに気絶していた。

 「あーあ、面白くない。もうちょっとクアットロを楽しませるって言う配慮は見せてくださらないんですの、陛下ぁ~」

 普通の人間なら如何に残虐言えど、既に動かなくなってしまった者を無理矢理に起こしてまで虐げを再開するのは稀だ。そう言った連中は例外無くその加虐行為を楽しみ、その行為に悦楽を覚える人種である為、その快楽を長持ちさせる為に過度な負荷……殺害に至るケースは極めて珍しい。結果的に衰弱死するのは多々あっても始めから意図して殺すつもりでやる者はそうそう居ない。

 だが……

 「ねーぇー、起きてくださいよ陛下ぁ~。クアットロ一人じゃつまんな~い」

 眠っている飼い猫を無理に起こすような感覚でクアットロは少女の頬を叩き始めた。自分が叩き飛ばした右側頭部から流れ出る血も気にせず、彼女は白い頬を交互に叩き、たまに後頭部を軽くドアに叩きつけながらそのふざけた遊びを続けていた。

 だが、やがてそれでも起きないと分かると、彼女はヴィヴィオの右手を取り、その五本の指先を丹念に舐め回すように見つめ始めた。

 「あぁ、良い指……。ガキのくせに私よりも綺麗で整った爪先、傷一つ無い手の甲……良いわぁ、イイですわぁ! 嫉妬しちゃいそう」

 汗の臭いを嗅ぎ取るようにヴィヴィオの右手に頬擦りしていたクアットロは、その中で一番長い指である中指を舌で舐め上げ……



 ────────パキッ──!



 「ぎッ────────!!!」

 「は~い、ここで大声出されたら流石にクアットロちゃん困っちゃうから、静かにしましょうね~」

 中指から伝播して来た激痛に叫びを上げそうになったヴィヴィオの口をクアットロの剛腕が塞いだ。

 折った! 人間の、それも年端も行かない少女の手の指を、枯れ枝のように抵抗無く、簡単に、躊躇もせず、本来曲がりもしない方向に、捻り折った。薄い皮膚の上からでも分かる……一瞬で第一関節を除く二つの骨がバキボキに折られ、突出した部分が今にも皮膚を突き破って出て来てもおかしくない状態だった。

 「陛下がいけないんですからねぇ。ここから出ちゃいけないって言うのは、お兄様から言い付けられたでしょうに……。だから……申し訳ありませんけど、骨を折らせて頂きました。これでもう二度とどこか出て行こうなんて思いませんわよね?」

 時間を置いて内出血によって指が黒く変色し始めて来た……痛みで他の指も動かせず、今のヴィヴィオの意識は完全にこの状態を忌避したい気持ちで一杯だった。

 「──と、思ったのですけれど……」

 再びクアットロがその右手を取った……中指の折れたその手をだ。そしてその手を自分の右手で包み込むように握った後で……



 握り潰した。



 「―っ!! ――――ッ!!!!」

 「アハハ、陛下ぁ、御自分の右手を御覧なさいな! キャハッ タコの足みたいに色んな方向に面白く曲がっちゃってますよぅ! アハハハハ!」

 手の甲を突き破った骨から血が流れ出る……。床を濡らして行くそれをすくい上げ、クアットロは手に付いた赤い液体を舐め取り、満足気に微笑んだ。

 「はぁ……この濃い鉄分とヘモグロビンの臭気と味……最ッ高!」

 指先に残っているそれをインク代わりにして床に絵を描くクアットロ……描き上がったそれは、真っ赤に染まったウサギの絵だった。

 「さぁて、陛下もいい加減に懲りた所でしょうし、私はそろそろ御暇させて頂きますわ。……………………でも、その前にもう一つ……」

 ボロボロの右腕を釣り上げ、更に左手でヴィヴィオの肩を掴んだ彼女は文字通りの悪魔の笑みでこう言った。



 「せっかくですから、腕も三回ぐらい折っておかないと♪」










 午後12時27分、スバル・ナカジマの自宅前にて──。



 「今鍵開けるから、ちょっと待っててね」

 雨がざんざん降りしきる玄関前で二人の男女が佇む……脇に荷物を挟んだスバルが鍵を開けるまでの間、トレーゼは雨天の空を見上げていた。彼が気にしていたのは、つい先刻まで街中で感じていた尾行者の視線……流石に雨で一旦こちらを見失ったのが大きかったのか、もう完全に奴らの視線を感じてはいなかった。

 そうしている内にスバルが鍵を開け、中へと促して来た。

 「どうぞー。普段は私一人で住んでるんだけど、シャマルさんがそれは何かあった時に不便だから止めた方が良いって言われちゃって……」

 「…………失礼、する」

 玄関から入り、そのまま彼女の後ろを辿って部屋の手前まで進んだ後……。

 「じゃあ、ちょっと着替えて来るね」

 「……あぁ」

 「の、覗かないでよ?」

 「興味、無い」

 「そ、そう……。待ってる間、適当にテレビとか見てても良いからね」

 そう言って寝室に入り込んで行った。雨水に濡れた服を着替えるのにそうそう時間は掛らないだろう、彼女の言った通りにトレーゼはリモコンを手にするとテレビの電源を入れた。特に彼の琴線に触れるようなニュースや番組は無く、それからしばらくは本当に適当にチャンネルボタンを繰り返し押して暇を持て余しているだけだった。

 ピッ!

 『17日に発生した、中心街メインストリート親子殺人事件について、捜査本部は当該事件の直後に発生した廃棄都市区画での惨殺事件との関連性を──』

 ピッ!

 『聖王教会を襲った未曾有の大災害から二日、犠牲者の葬儀に参列した親族の方々からは悲しみの言葉が──』

 ピッ!

 『二日前の11月18日にSt.ヒルデ学院にて発生した女子生徒誘拐事件に関し、警察は管理局捜査本部との合同捜査を正式に──』

 ピッ!

 『明日から一週間のクラナガンの天気は、西部から東部に掛けて概ね晴れ──』

 遅い……寝室に入ってから既に10分は経とうとしているが、一向にスバルが出て来る気配が無かった。自分が居る事を忘れて眠っているのではないかと思えるくらいに長かった。自分から彼女に付き添った手前、黙って帰るのはどうかと思っていたのだが、流石にそろそろ帰ろうかと席を立ちそうになった時にようやく……。

 「ごめんごめん! 丁度良いの探してて時間掛っちゃった。はい、これ」

 家の中で着る普段着を身に纏ったスバルが雨水を拭き取るタオルと何故か上下揃った服を持って来ていた。

 「……何だ、これは?」

 「何って、服だよ。雨でビショビショでしょ? トレーゼに合いそうなの探してたんだけど、私が着てたのでも良いなら……」

 なるほど、道理で服のデザインが中性的な訳だ。これで完全な女物だったら感性に拘らないトレーゼでも流石に気が引けただろうが、これなら別に問題は無い。そう判断した彼はスバルの左手からタオルと服を引っ手繰ると、頭の水滴と拭き取り始めた。

 頭の毛髪から顔と首元、そして腕周りと言った順に拭いて行き、最後に胸元のチャックに手を掛けた。有事の際に服を脱ぎ捨てられるようにと彼の衣服はボタン留めにはなっておらず、チャックを外すだけで服の自重によって自然に脱げ落ちる構造になっていた。

 「う、うわぁ……」

 「……何だ?」

 上着を脱ぎ始めた所でスバルが呆けた感じで変な溜息をついた後、何故かそっぽを向いてしまった。その瞬間に袖口に仕込んであったナイフと鋼糸鉄線を取り去ったのだが、どうにも様子がおかしい、と言うか今日一日何か知らないが様子がおかしい事だらけのような気がした。

 「あ、あのさっ! 着替えなら私の部屋使っても良いから──」

 「必要無い、すぐ終わる」

 「あええ~!? ちょ、ちょっと……って、わぁ!」

 スバルの制止も聞かずにトレーゼは上着を脱ぎ捨て、隠れていた上半身を露わにした。

 白い。とにかく白かった。男性特有の平坦な肉体の表面は外から見て予想していた状態とそう大差無く、唯一の予想外な点と言えばその肌の異常とも言える白さだけだった。皮膚の下に隠れた重厚な筋肉と、それを支えるに充分足りる骨格のバランスは完璧であり、ベルカ式の魔導師として同じ肉体派であるスバルも嫉妬するような程にまで鍛え上げられた状態だった。

 「はぅあ~…………」

 「…………何だ?」

 「うぇ!? ううううううううん! ベ、別に何も無いよ?」

 「そうか」

 「ぁぁ、下までそんな……」

 「ん? あれは、何だ?」

 「え! どこどこなになに?」

 サササ──ッ!

 電光石火、スバルがほんの数秒だけ目を逸らしていた隙を見計らい、トレーゼは下着をはき替えて見せた。ちゃんと裾に仕込んであったナイフも回収した。

 「あ……!」

 「な? すぐに終わると、言っただろう?」

 「うん……。あの、着心地どう?」

 「別に……可も無く、不可も無く。サイズは、丁度良い」

 椅子に掛けておいた上着も羽織る……少し濡れた肌に乾いた布地が良く馴染み、彼は再び椅子に腰掛けた。電源を入れたままにしていたテレビはいつの間にか天気予報のコーナーを終え、ミッドチルダ観光特集なるモノに切り替わっていた。それを何の感慨も無く眺めているだけのトレーゼは自分が脱いだ服をスバルに投げ渡し──、

 「洗濯、するんだろう?」

 「あ、うん。乾燥機も付いてるから、終わったら着れるようにしてるから……」

 「ああ……」

 テレビに視線を固めたままのトレーゼをそのままに、スバルはバスルーム近くに設置してある洗濯機へと向かった。いつの間にか彼女は、人目につく事を怖れていたはずの手の無い右腕を隠す事も忘れていた。










 洗濯機の前でスバルは呆然と立っていた。特に何をするでもなし、自分の脱いだ服だけを先に入れ込み、彼女はその手に持った何のデザイン性も無い白い服を見つめながら呆然としていた。

 「……………………きれい……」

 白かった。服が、ではない……さっき見た友人の姿、あれが途轍もなく綺麗だと思えたのだ。自分とは決定的に何もかもが違う……あの姿を見た瞬間に、彼に対して抱いていた疑念や懐疑と言った矮小な感情が一斉に消え去った。それだけに彼の着飾らない姿は清々しく、綺麗で、優雅で──、

 魅力的だった。

 「……………………」

 左手に持つ彼の服を改めて凝視する……汚れもシミも何一つ無い清潔な白で満ちたその服……それを彼女は、普段は決して見せる事を知らないはずの蟲惑的なモノに憑かれたような視線で眺めた後、そっと近付けて──、

 嗅ぎ取った、彼の匂いを……。自分達女性とは違う、仄かな汗臭さが鼻腔をくすぐる……昔ゲンヤの服を洗濯しようとした時に臭った汗臭さとはどこか違う、不快感は無く、逆にどこかクセになってしまいそうな……そんな匂いだった。

 「…………ハッ!? なっなななななな何やってんだろ、私ったら! さぁーってと、洗濯洗濯……」

 正気を取り戻したスバルは急いで友人の服も投入し、スイッチを押した。洗濯に掛る時間は40分と言った所だろう。もうする事も無く、後は友人の待つ居間に戻るだけだった。

 「……………………」

 だが、彼の服の匂いを嗅いだ時に感じたあの得も言われぬ感覚に囚われていた彼女は、そのまま給水が終わる五分間、ずっとそこに佇んでいるだけしか出来なかった。

 形容し難いあの感覚──、

 名状し難いあの仄かな快感──、

 それはどこか背徳的で……林檎のような甘みにも似て……。。









 午後12時36分、監禁アパートの一室にて──。



 「──────────────」

 二度目だ、今日で二度目となる虐げをヴィヴィオは今さっきようやく乗り越えた所だった。彼女は現在、ベッドの上で毛布に包まって震えていた……服は着ていない、クアットロが無理矢理脱がせたからだ。何の為に? それは彼女の体の表面に答えがあった。

 「──────────────」

 白い肌に浮かび上がっている鬱血と内出血、そして細長く腫れた皮膚……革ベルトで鞭打たれたような傷跡が全身に刻まれていた。そして、これらは本当に鞭で打たれた跡でもあった。電柱などの大型物を固定する為に使用される鉄条網の一本、おおよそ猛獣に対しても使用しないであろうモノで叩かれたとあっては全身のダメージは計り知れない。ギリギリの所で『聖王の鎧』が発動していなかったら今頃とっくに肉が抉れていてもおかしくなかった。

 いや、実際彼女の右腕は今、クアットロに砕かれた骨の先端が皮膚を突き破って体外に飛び出し、手は完全に使い物にならない状態となっていた。開放骨折……露出した骨が皮膚組織やその他の軟部組織を傷付けている状態であり、骨折の種類の中では最も危険なモノの一つだった。幸運にも重要な血管は破れずに済んだようで、有り合わせの布やテープで一応の止血をしてあった。だが当然素人がやっている事なので、布の隙間からは今でも少量の出血を繰り返しており、既に乾いた部分は布越しからでも分かる程に黒く変色していた。このまま放置され続ければ、例え優れた医療技術で腕の形を取り戻せた所でまともに動かせるかどうかも怪しいところだ。

 痛みは無い……無いと言うのはおかしな話だ、実際には感覚が麻痺していると言うのが正しいだろう。流れ出た血液が多い所為で腕の感覚は既に失われ、痛みと言う人間が認知できる域を越えてしまった感覚にヴィヴィオは泣く事すら出来ずにただ震えていた。

 「──────────────」

 右腕の痛みと共に彼女を苛むモノが空腹だった。昨日からクアットロにまともに食事を与えてもらえていない彼女は、水道水を飲んで胃袋を膨らませ、なんとかして空腹を誤魔化している状態だった。以前どこでだったか聞いた事によれば、人間は水だけでは最大でも二週間しか生きられないらしい……このまま行けば死ぬ、そんな考えが彼女の頭を過った。

 だが結局、度重なるダメージに衰弱し切っていた彼女の思考はすっかり低迷し、もう自分が生死の境に立たされている事にも感覚が鈍感に対応していなかった。死に対する恐怖が全く湧いて来ない、人間として最も恐ろしい心理状態に置かれてしまっていた。

 「……………………ぅ……ぁ……」

 座っている体勢に難を感じ始めたのか、少し横になろうと右腕を庇いながらヴィヴィオはゆっくりと体を左側に倒し──、

 「ぁ……っ!!」

 いつの間にベッドの端に移動してしまっていたのか、バランスを崩して床に落下してしまった。右肩の肩甲骨から全身に激痛が伝播した……鞭を打たれた跡から血が滲み出し、布の下に隠れた右手の傷口からも盛大に血液が吹き出し、ヴィヴィオは床の上で痛みに耐えかねて蠢いた。運良く右腕だけはそれ程ダメージは無かったようだったが、どの道この状態ではそれ程大差無かったかも知れなかった。

 ふと──、

 「……?」

 ベッドの下に視線が行った彼女は、そこに何かが入り込んでいるのに気付いた。入り込んで、と言うよりかはそこに仕舞われていたと言う方がしっくりしており、どうしても気になったので左腕を伸ばしてそれを取り出した。

 本だった。かなり大きい……学院に持って行っている授業用のノートよりも大きい革張りの古ぼけた一冊の本だった。厚さもそれなりにあり、片手で持つ事は困難だと思った彼女はそれを一旦床に戻した。紅い背表紙には題名らしきものが書き込まれており、どことなくミッド公用語に似ていたが言語体系が微妙に違っている所為で読むには少し自信が無かった。この部屋にはクアットロも入ってはいない……現在ここに足を踏み入れたのは自分とトレーゼの二人だけで、自分はこんな物に覚えは無い。となれば、これは彼がここへ持って来たと言う事になる。

 何故? 何の為に? いや、それよりも……。

 気になる……本の中が気になる。得も言われぬ好奇心にくすぐられたヴィヴィオは左手で表紙を捲り、その1ページ目に目を通した。

 2ページ……

 3ページ……

 4ページ……

 5ページ…………。

 いつの間にか彼女の視線はその本に集中していた。ページ毎に刻まれているその長大な記録にいつしか心奪われた彼女は、窓を打つ雨の音もドアの隙間から差し込む冷気も忘れ、ただただその記録を見取る事だけに集中していた。

 ……………………

 ………………

 …………

 ……

 それからどれだけの間そうして居ただろうか……。やがて本の半分まで見終えた後、彼女はこの記録が途中で途切れている事に気付いた。そこから先はただの白紙、何も無いただの白いページだけだった。だがそれまでのページに記されていたモノは膨大で、これを見た彼女は直感ですぐに分かった。

 これは“大切なモノ”なんだ! これは彼の、トレーゼがたった一つだけ持ち得る“大切なモノ”に違い無いんだ!

 何故彼女がそう判断したかは分からない。場合によっては何を血迷ったのだろうとさえ思える即決振りだった。これは“大切なモノ”……その結論だけが今のヴィヴィオの脳裏を何度も渦巻いては彼女に未知の活力を与えていた。

 「……………………」

 本を抱きかかえ、彼女は再びベッドの上に毛布ごと包まった。左腕だけでそれを抱える姿はまるで卵を温める親鳥のようでもあった。

 守らなければならない! その力強い意志が彼女の捨てられ掛けていた意識を呼び戻した。あのトレーゼが何の意図があってこれを置いて行ったのかは分からない……だが、彼が所有している数あるモノの中で唯一これを、そして敢えてその保管場所にここを選んだのだとすれば、これには自分が想像しているよりも遥かに途方も無い価値が彼にとってはあるはずだと考えたのだ。ならば理由はどうあれ、誰かの“大切なモノ”を守りたいと言う強い意志は母であるなのはからの受け売り……ただ一人、尊敬する母の背中だけを見て育って来た彼女はその“大切なモノ”を守ろうとする事で生きる原動力にしていた。ある意味では現実逃避と言っても差し支え無かった。だがそれで今だけは生き延びる事が出来るなら──、



 私はこれを守りたい……。










 午後13時00分、スバルの自宅──。



 それから三十分、二人は他愛も無い会話を続けていた。とは言っても、結局はスバルが一方的に話してトレーゼが聞き流すと言う状態だったが、当のスバル本人にとっては自分の話を紛いなりにも聞いてもらえているだけでも満足だったようで、ずっと止まる事を知らずに喋り続けていた。

 「それでね、なのはさんの訓練が本当に厳しくって、私もティアもいっつもコテンパンにされてたんだ」

 「…………ほぅ……」

 「エリオって言う子が居てね、私よりもずっと年下なのにすっごい頑張るの。何が凄いって全部凄いよ。あのフェイトさんやシグナムさんの二人から特別特訓受けてたぐらいだもん」

 「…………ふぅん……」

 「キャロって女の子も召喚士なんだけど、竜とかバリバリ召喚するの。何度も助けられたなぁ~」

 「……………………」

 話題は聞いての通り、スバルの六課時代が中心だった。訓練校で親友のティアナと出会った話から始まり、ランクアップ試験で二人揃って無茶した事……フォワード四人揃っての初任務が緊張した上に現場が走行中の列車の上で内心怖かった事……模擬戦でやった自分達の行いが本当は自分を追い詰めるだけの無謀な行為だと諭された事……地上本部襲撃事件の直後に、それまでずっとひた隠しにしていた自分の体の秘密を明かした事……………………本当に色んな事を話した。その間トレーゼはずっと彼女の言葉を聞き流しているだけだった……嬉しそうに話していても、懐かしそうにしていても、彼は眉一つ動かす事無くただただ興味無さ気に聞き流すだけだった。

 そんなこんなでそれが三十分、良く互いに飽きなかったものだと感心させられる。と言っても、トレーゼの方は既に飽き飽きしていたようだが……。

 ふと、暇潰しにつけていたテレビ画面が新たなニュース番組を伝えていた。内容は──、

 『St.ヒルデ魔法学院に通う女子生徒、“高町ヴィヴィオ”ちゃんが誘拐された件について、学院の理事会は──』

 この二日間でニュース番組のトップに躍り出ているのは例の誘拐事件の事だった。管理局と国家直轄の警察機構が共同で捜査に当たる事を表明し、管理局がどれほど本気になっているかが窺える。どうせ聖王教会からの後押しがあって重い腰を上げたのだろうが、折角情報管制を強いてもこんな所で大々的に動いていては世間の目が黙っているはずがない。ヴィヴィオが聖王のクローンである事を民間は知らないが、名目上はたった一人の女子生徒の捜索にここまでするのは考え難いと言う結論に至るはずだ。

 「…………バカな、連中」

 「何か言った?」

 「別に……。…………なぁ、お前は、この事件を、どう思っている?」

 そう言ってトレーゼは学院の校庭を映し出していたテレビ画面を指差した。自分の仕掛けた攪乱用の爆発物の影響で土壌が抉れ、実際に事件の中心となっていた聖堂に至っては壁や天井の一部、設置されていたパイプオルガンなどが半壊していた。

 「うん……私は足治してたから行けなかったけど、ノーヴェ達は居たんだって。クアットロって言う人がやったんでしょ?」

 「知らん。初耳だな」

 今ここに居るのは最後のナンバーズ『Treize』ではない……一介の局員であるトレーゼ・S・ドライツェンとしてここに居るのだ。故に不用意に知っているなどとは口にしなかった、そんな事をすれば如何に鈍感なスバルと言えどこちらが犯人だと確信しただろう。流石にここでドジを踏むようには出来ていなかった。

 「なのはさん……あれからずっとショックで寝たきりなんだって。司書長のユーノさんって言う人が付きっきりで看病してるらしいけど……」

 子を無くした親とはかくもか弱いモノなのか……。生まれて一ヶ月も経たない内に親元を離れて生きる動物や畜生の方がよっぽどメンタルがある、血が繋がっていない癖に情なんか移すからこうなるのだ。所詮は女と言う事だろう……人間の雌生体はトレーゼにとって最も忌むべき生物、か弱い癖に自分の力量を弁えず図々しく、大抵の事は自分の思い通りになるとすら思っている厄介極まりない生物だからだ。

 目の前のスバルもそうだ、こちらの事を自分の四肢を切り落とした犯人かもしれないと勘付いているのに、わざわざこうして自ら過度な接触を求める意味不明な行動を取り続けている。必要でもない事を率先して行う……彼が最も嫌悪するタイプだった。

 「ねぇねぇ、今度はトレーゼが何か話ししてくれない?」

 「……話題が無い」

 「何でも良いんだってば~。子供の頃の話しでも良いよ?」

 「……覚えて無い」

 「お父さんとか、お母さんの話しは?」

 「father? mather? I don't know.」

 「じゃあさ、お姉さんの事でも良いよ。前に言ってたでしょ、三人居るって」

 「もう何年も会ってない……覚えていない」

 「へぇ~……何年くらい?」

 ふとスバルが立ち上がって居間の窓のカーテンを閉めた。続いて玄関の鍵を内側から掛け、さらに自分の寝室に続くドアも完全に閉め切った。雨音とテレビ番組とバスルームからの洗濯機の音だけが空間を支配した……椅子を引いて再びスバルが腰を降ろす音さえも際立って聞こえる静寂が二人の間に横たわった。

 「…………何年、だったか……。忘れた」

 「さっきからそればっかだよね」

 「覚えていないものは、覚えていないんだ。知らない」

 「じゃあじゃあ、私が言い当てて見よっかなぁ。えへへ~」

 「好きにしろ……」





 「17年……でしょ?」





 瞬間、刻が止まった──。

 一瞬で空が晴れ上がったかのように雨音が遮断され、洗濯機のうるさい駆動音も気にならなくなり、テレビの音声でさえサイレントになった。動くのは己のみ……画面に向いていた視線を動かし、トレーゼは対面のスバルを『捕捉』した。少し乾いた笑みを浮かべる彼女の顔はどこか儚げで、それでも何か意を決したような表情で言葉を紡いでいた。

 「……………………」

 「第69管理世界『コクトルス』……ハルト・ギルガス……No.13……最高傑作……………………全部当たってるでしょ?」

 「……………………」

 相手に突け入る隙を与えない為に表面上は完璧に鉄面皮を保っていたが、トレーゼは内心混乱していた。誰から聞いた!? いや、そんな事はどうでも良い、問題は目の前の彼女をどうするかだ。下手に先手を取られる前にここで殺害するのが無難だろう、幸いにもここは自分達以外には誰も居ない上に完全な密室状態、証拠さえ隠滅してしまえば後はどうとでもなる。

 刹那の間に思考を終えた彼の行動は迅速だった──。

 (殺す……)

 自身の持つ十三のISの一つ、高速移動スキル『ライドインパルス』を発動させると椅子を蹴飛ばして天井に張り着き、更にそれを蹴った反動でまだ腰掛けたままの彼女の背後へと到達した。そして袖口に仕込んでいた鋼糸鉄線の束を取り出し、それを背後から彼女の無防備な首元に絡ませた。ピアノ線並みに細い弦が首に食い込めば縄と違って指を引っ掛ける事も出来ないまま窒息死する……後はそこに首の異物を取り除こうと必死に首を引っ掻き回した痕のある死体の完成と言う訳だった。

 もう計画だの何だのとは言っていられなかった。今すぐここで殺す、それが結論だった。首絞めで無理なら頭部を直接破壊する! 躊躇いは無い、既に鉄線は首に巻き付いた、後はそれを左右に引くだけだ。トレーゼは自身の持てる渾身の力を込め、その手を左右に──、

 「ねぇ──、もう一つ聞いても良いかな?」

 「────────」

 手が止まった。鉄線の緩みが後数ミリと言う所で彼の腕が止まったのだった。ズタ袋を被された罪人を前にした執行人が、一度振り下ろしたはずの首切り斧を皮一枚の寸前で止めた……。何故彼の手の動きが止まったのか……それは、彼の右手に原因があった。

 スバルの左手……肩越しに伸ばされたその細い手が彼の右手にそっと乗せられていた。機人の剛力で押さえられているのではない、ただ単純に羽根を乗せるかのようにそっと触れているそれだけでしかなかった。たったそれだけの行為が彼の殺意の波動を押さえ込んでいた。

 「……………………」

 「手……やっぱり冷たいね。風邪ひきそうだよ」

 「言いたい事は、それか。殺すぞ」

 「違うよ。……あのさ、まだ話したい事があるから、もう一度座って欲しいな~なんて」

 「意味不明。もういい、無駄話は、性に合わない……せめて、痛覚を感じずに死ね」

 指に絡めていた鉄線を外し、トレーゼが左手をスバルの後頭部に当てた。脳自体に痛覚は無いので、そのまま粉砕すれば後始末が面倒なだけで確実に殺せる。次にスバルが言葉を発する前に潰そうと、彼が五指に力を込めた瞬間──、

 『Please wait,my lord.(お待ちください)』

 予想外な方からの制止の言葉に再びトレーゼが停止した。その声は自分の右手の人差し指と中指に指輪型となって待機していた自分のデバイスからのものだった。

 「……何故止める、マキナ」

 『A good idea to kill her was not present.(現在彼女を始末するのは得策ではありません)』

 「セカンドは、こちらの事を、知ってしまった。放置すれば、情報が敵方に漏洩する恐れあり……殺す」

 『I recommend her draw here at the moment.(彼女をこちら側に引き込む事を推奨します)』

 「正気か……」

 『Are only recommended.(推奨しているだけです)』

 「……………………」

 ストレージであるデウス・エクス・マキナには主である自分からの言葉を返すだけしか基本機能は無い……そのマキナが自ら行動の推奨を行うとは思っていなかったのか、トレーゼはそれからしばらくの長考に入った。彼が答えを導き出すまでの間、スバルは微動だにせずにずっと背後の友人……いや、正確には友人だった者が判断を下すのを待っていた。生かすも殺すも彼次第……そんな心身共に極まっている状況下でありながら、彼女は平然とした態度を変えなかった。まるでこれから起こる事が既に分かっているかのように……。

 やがて五分長にも渡る思考の後、トレーゼが下した結論は……。

 「……………………その推奨を、受理した」

 結果としてトレーゼは手を降ろし、スバルの要求に従って一旦は椅子に座り直した。いつの間にか絞殺用の鋼糸鉄線を仕舞っており、またつけっ放しのテレビに視線を移す様はほんの数分前と寸分違わない光景だった。今この場で第三者が入って来たとしても一体誰がここで生きるか殺されるかの瀬戸際の出来事があったなどと想像出来るだろうか。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………おい」

 「うん?」

 「何も話す事が、無いなら、何故座らせた?」

 「あー、ごめんごめん。何だか殺され掛けてたから、今ちょっと心臓がバクバクして上手く喋れない」

 「…………俺は、お前を常々鬱陶しいと、考えていた」

 リモコンに伸びたトレーゼの白い指がテレビのスイッチを押して電源を落とした。これで音が一つ消えた……窓を打つ雨の音と脱水に入った洗濯機の稼働音だけが二人の耳朶を打つ。独白にも似た彼の抑揚の無い辛辣な言葉を受け、スバルは自分の佇まいを直した。そして辛辣な告白から始まった彼の言葉の続きを待ち受けた。

 「まず、何が聞きたい? 地上本部を、襲撃した理由? 俺がお前の、四肢を切り落とした理由? 貴様の友人の、デバイスを破壊した理由? クアットロ奪還作戦で、貴様の師とやらを、再起不能にした理由? “聖王の器”を奪還した理由? それとも……No.9『ノーヴェ』を、騙している理由か?」

 矢継ぎ早に捲し立てる言葉の数々をスバルに浴びせるように話しながら、彼の左手は彼女の死角となっている位置でいつでも殺せるようにナイフを握り締めていた。マキナの推奨を通したとは言え、彼としては一刻もスバルを始末しておきたかった。故にわざと彼女の神経を逆撫でさせるような発言を頻発させる事によって彼女を挑発し、乗って来た所を迎撃と言う名目で殺害したかったのだ。だからさっきから打って変わって辛辣な言葉を吐き、過去の行動を逐一思い起こさせるような発言をしてその時の負の感情を復活させようとしていた。

 「……………………」

 「どうした? 何故黙っている?」

 「…………あのさ、さっきの話しの続き……聞かせてよ」

 「…………何の事だ?」

 「昔の話し……。本当は覚えてるんでしょ? 知りたいな」

 「……………………」

 意外だった。彼女が冷静だった事にではない、むしろそれは予想していた方だった。彼が意外に思ったもの……それはスバルからの質問内容だった。管轄や配属が違うとは言え、普通の管理局員ならここで目的と誘拐したヴィヴィオの行方について問うて来るのが妥当なはずだが、どう言う事か彼女はそれをしなかった。彼女は本当にさっきの話しの続き……即ち、トレーゼの過去の話題を聞きたがっていた。

 「ふざけて、いるのか?」

 「全然。本当に聞きたいだけ……それだけだってば」

 乾いた笑みを浮かべたままスバルはその先を促した。どうやら本当に彼の話しをききたいだけらしい。もっとも、彼が話す言葉の中に含まれる僅かなキーワードから何か情報を得ると言う事も考えられるが……。

 「……………………俺の、過去を聞きたいと、そう言ったな?」

 相手に戦意が無いのを確認した後、左手のナイフを机の裏側に刺して固定し、彼は彼女に真正面から向き合った。相手の目を真正面から捉える事で常にその行動を予測したり心理状況を把握して、そこに付け入る隙を見出す為だ。

 「どこから、聞きたい?」

 「どこからでも良いよ。トレーゼの好きなとこからで……」

 「……………………なら、良いだろう。だが、これ以上、俺は何も言わない、話さない、お前が、どんなに聞き込もうと、決して話さない。良いな?」

 つまり、今後一切彼女とは接触しないと言う宣言だった。もちろん、三日後に控えた計画遂行の時はその限りではないが……。

 「いいさ、クアットロでさえ、知らない……教えてやるさ。始まりは、そう、二十年以上も以前だ」



 洗濯機が終了の電子音を鳴らした。

 二人には聞こえていなかった。










 午後13時24分、ナカジマ宅にて──。



 「シャワー貸してもらって悪かったわね。私だけ先に入れてもらって良かったのかしら?」

 「いやなに、こちらこそ仕事があるのにウェンディが無理に付き合わせてしまって悪かったな。私達は後でも入れるから問題は無いよ」

 バスルームから出て来たティアナは暖房の利いた寝室へと戻って来た。スバルの尾行中に突然の雨に見舞われた彼女らは急遽行動を中止し、ここまで走り帰って来たのであった。もちろん予報で今日が晴れだとばかり思っていた彼女らは誰一人として傘を持っておらず、家の玄関をくぐる時には全身が雨で濡れていた。気を利かせたチンクがティアナを先にシャワーに浴びさせ、すっかり冷えていた体を温める事となった。これから順番に浴びて行くつもりだった。

 「じゃあ次は私が……」

 そそくさと風呂場に向かうウェンディの襟首をチンクが掴んで引き留めた。

 「お前は彼女を連れ出して来たんだからちょっとは遠慮を知れ!」

 「そんなぁ~! 風邪引くッスよ!」

 「良い機会じゃないか。以前、『馬鹿は風邪を引かない』とか言う諺を聞いた事がある。きっと大丈夫だ……多分」

 「嫌ッスー! ディエチ、助けるッスー!!」

 「ドンマイ。じゃあ先に私行くね」

 「ぎゃあああああっ!!!」

 バスタオル片手に軽く手を振って去って行く姉の背に怨嗟の視線を投げ掛けながらウェンディは地団駄を踏んだ。結局彼女はディエチが出て来るまでの間ずっと寒さに震える羽目になるのだが、暖房を利かせた室内で風邪を引く事は無かった。

 と、そんな騒がしい姉妹達とは違い、ノーヴェはと言うと……。

 「おいノーヴェ、お前はシャワー良いのか?」

 「…………いい」

 「そうか。まぁお前は丈夫な方だからな、大丈夫かもな」

 「私の方は大丈夫じゃないッスぅ……」

 帰って来るなりノーヴェは濡れた服を脱ぎ着替え、そのまま何も言わずにベッドに身を投げるようにして寝転がってしまっていた。始めは何か具合が悪いのかと思っていたのだが、様子を見ていてもそんな様子は無いようなのでひとまず彼女の好きなようにさせていた。

 「それにしてもやっぱり気になるわね」

 「何が?」

 「何って、スバルの事よ。私も知らないいつの間にあんなに仲良くなってたのかしら?」

 「私は経験が無いから分からないが、年頃の男女とはああ言うモノなのではないのか?」

 「年中食べる事しか考えて無い上に、仕事中でも余裕でアホ花咲かせてるような頭のあいつが、元六課フォワードの誰よりも先に連れを作ってたなんて今でも信じられないもの」

 「私はそう言うのは要らないな。昔、騎士ゼストの身辺の世話をしていた事があったが、日常レベルで他人が居ると精神が擦り減って仕方が無いよ」

 「それはまた特殊な部類だと思うけど……。まぁ、今日は出過ぎた真似したけど、これからは私達は黙って見てるだけの方が良いかもしれないわね。ああ言う酸いも甘いもって言うのは自分で経験しないと分からないものだし」

 「同感だな。下手に手出ししても何も得る物は無いからなぁ。えーっと、こう言う仲の良い男女に水を差してはいけないと言う趣旨の諺を聞いたのだが、何だったかな?」

 「確か……『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて地獄に落ちろ』だったッスか?」

 「その格言作った人ってかなり過激だったんでしょうね」

 「何か少し……って言うか、大幅に違うような気がするぞ」

 床の上に直接座りこんで談義するティアナとチンク。そのすぐ後にシャワーを浴びて来たディエチが加わって三人での談義へと発展した。ちなみにウェンディはディエチが出て来ると同時に風呂場へと飛び込んで行った。

 「いつか提督が言ってたっけ……世界はこんなはずじゃなかった事ばっかりだって」

 「本当に予測してなかったよね。それはそうと、スバルはどうしてるかな?」

 「流石にこの雨では逢引も続けられまい。別れたんじゃないないか?」

 「初っ端のデートが天候不良でオジャンって……私はそうならないようにしないと」

 「だがあの周辺は確かスバルの家があったはずだ。案外そこに誘っているかも知れないぞ?」

 「ないない。あのスバルに限ってそれは無いわよ。だいたい今日が初デートの人間がそんな大胆な行動に出ると思う?」

 「分からないぞ。本当は今頃二人で会話に華を咲かせているかもな」

 「あはは、もしそうだったら賭けて見る?」

 「良いわよ。後であいつの家に電話して確かめてみましょ。もし居たら今後一週間の昼食代は私が奢ってあげても良いわよ」

 「きっちり四人分だぞ?」

 「望むところ!」










 午後13時30分、スバルの自宅の居間にて──。



 「……………………これで、終わりだ」

 「…………そう」

 向かい合って座るトレーゼとスバル……半時間にも渡る彼の過去の独白にスバルの方は気が滅入っているようにも見えていた。対するトレーゼの方は、もう話す事は何一つ無いと言いたげな表情で再び片膝だけをテーブルにつき、裏側に刺して隠していたナイフを回収した。実際、これ以上話す事は無かった……彼は文字通り全ての過去を話したからだ。自分が生み出された原因と経緯、他の姉妹達との関係、自分の最終目的がスカリエッティの奪還である事も、自分がその為の計画因子としてスバルに接触していた事も……教えなかったのは、三日後に控えた作戦の内容と誘拐したヴィヴィオの居場所とその目的だけだった。

 「貴様が、この情報を、管理局に伝えようと、俺の行動予定は変化無い。どんな障害が現れようと、慈悲も、情けも、容赦もしない……全力で、消し潰すだけだ。無駄だと分かっていても、伝えたいなら、そうしても構わん」

 長く続いていた雨が止み、とうとう部屋の音は完全に消え去った。デジタル時計の末尾表示がまた一つ数字を刻んで行く時の中でスバルは自分が出すべき言葉を迷い、悩んだ末に出た答えが──、

 「お腹空かない? 軽いもので良かったら用意するよ」

 明らかなその場の言葉を選んでしまった。完璧に空気の読めないその発言に流石のトレーゼも数瞬思考が停止したようで、スバルはその隙に席を立って冷蔵庫のドアを開けて物色し始めた。いつかの食事の食べ残しをラップやタッパーに入れて保存しており、適当に見繕ったそれを取り出すとレンジに入れて温め始めた。

 「一応、鶏の唐揚げだけど……トレーゼって好き嫌い無いよね?」

 「……………………」

 「私も基本何だって食べれるけど、やっぱり一番好きなのはアイスかな。って、アイスはご飯じゃないっけ」

 「……………………」

 「トレーゼは何が一番好きなの? お肉? 魚? それとも──」

 「いい加減に、しろ」

 神速のスピードで椅子から離れたトレーゼはナイフを右手に構えてスバルの背後を取り、彼女の唯一のリーチである左手を塞いで首元に冷たい刃を押し当てた。軽く横に引くだけで皮膚と皮下脂肪をより分け、肉に隠れた頸動脈を簡単に切断出来る鋭い刃が彼女の生死を握っている状態だった。レンジの重い稼働音だけが響く中で二人は膠着した……下手に動けば殺される状況にスバルは固唾を飲み、逆にいつでも彼女の命を消せる優位に立ったトレーゼは右手のナイフを更に首に押した。

 「貴様と俺は、もう既に敵同士だ。否、始めに貴様の、四肢を切り落とした時から、既に俺と貴様はそうだった。俺は、貴様にとっての、都合の良い“友達”を、演じていただけなんだよ。騙されているんだよ、お前もノーヴェも、自分の願望に、妄想に……。哀れな9番目の妹の為に、心の奥底で燻る感情を受け止める、良き理解者と言う反吐が出る役を、奴の妄想通りに、演じてやった…………守る者でありながら、誰も自分の事を守る者の居ない、孤独なお前の為に、自分の味方と言う頭痛がする役を、願望通りに演じてやった……。良かったな、良い夢を見れて。だが残念、もう目覚める時間、夢見の涅槃は終わった……さようなら、優しい妄想。こんにちは、残酷な現実…………これが現実だ、俺が殺すモノで、お前が殺される者……実にシンプルだろう?」

 レンジが終了を知らせるベルと共に切っ先が少し皮膚に食い込む……酸素を含んだ赤い血液がほんの少し垂れ、刃を伝ってトレーゼの白い指を濡らす。あと五センチも切れば動脈は寸断される所まで来ていた。

 だが、それでもスバルは動じなかった。それどころか彼女はトレーゼの手を振りほどくとレンジの蓋を開けて入れ物を取り出し、それをテーブルの上に置こうとしていた。

 「貴様……! 自分の置かれている状況が、理解出来ていないのか!?」

 一旦離れてしまったナイフを今度は後頭部に当てた。肉体の大半が人造物である戦闘機人の唯一とも言える物理的・生物的弱点、『頭部』……唯一生身の骨格を残したその部位を突けば、鉄と骨の硬度差によりナイフは頭蓋を砕いて脳髄を破壊する決定的弱点を押さえられ、スバルは再び停止した。重く冷たい沈黙が居間を押し潰し、二人だけを残して後は全てが消え去ったような感覚が空間を支配する……殺す者と殺される者と言う余りにも差があり過ぎる構図がしばらくの間続く事となった。

 やがてどれだけの時間が過ぎただろうか……五分か十分か、それとも本当は一分か……とにかく時間が過ぎたと言う感覚が双方に芽生えた時、不意にスバルが口にした。

 「……殺さないの?」

 「殺して、欲しいのか?」

 「さっきまで殺す殺すって言ってたくせに…………。優し過ぎだよ、トレーゼは」

 「その言葉を、俺に言うな。俺にその言葉を、口にして良いのは、たった三人だけ……。その内の一人は、もう居ない」

 ナイフが再びスバルの体表に突き付けられる……首筋の時とは比較にならない痛覚が彼女を襲うが、それでも彼女は逃げようともしなかった。その澄ました態度が癇に障ったのか、トレーゼはさらに冷たい怒気を含んだ声で彼女の精神の圧迫に働き掛けた。

 「お前の性格は、熟知している。俺を放置すれば、貴様の言う『大切な人』とやらが、何人も死ぬぞ? 俺にとっては、学習しないクズ共の集まりでも、貴様にとっては違うはずだ……。選べ、選択しろ、ここで俺に殺されるか、万に一つの可能性に懸けて、俺を殺すか…………どちらだ?」

 最終通告……これの返答次第でトレーゼはここを戦場に変えるつもりだった。相手も戦闘機人である以上、頭部へのダメージはたかがナイフ一本では知れている……脳髄に突き刺して怯んだ瞬間を狙ってライドインパルスのエネルギー翼で首を切り落とす……痛みを知らずに死なせるのはせめてもの情けと言えるだろう。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………何で……!」

 「……………………」

 「何で! どうして……!ずっと友達だって信じて居たかったのに……! 信じてたのに…………ひどい、ひどいよぉ、こんなのって無いよ」

 「……認めろ、これが、現実だ」

 「やめようよ。こんな事してても何にもならないよ……。やめようって!」

 「貴様にとっては、『こんな事』でも、俺にとっては、これ以上の大義名分は、無い。貴様の価値を、俺に押し付けるな」

 「どうして人を傷付けたり、殺したり出来るの!? 間違ってるよ」

 「全て、創造主スカリエッティの為、とだけ答えておこう」

 「答えになってない!」

 ここで初めてそれまでずっと背を向けたままだったスバルがトレーゼに向き直った。突き立てられたナイフの妖しい輝きにも臆する事無い彼女の目には……涙が光っていた。

 「…………何故泣く?」

 「認めたくないからだよ!」

 「何をだ?」

 「トレーゼは……私の知ってるトレーゼはそんな人じゃない!!」

 「──ッ!!!」

 脳髄を焼き切る感情の奔流に精神がオーバーロードし、トレーゼは自分の意識が拡張して体感時間が引き伸ばされるのを感じた。左手に持ち替えようとして投げたナイフが宙をゆっくりと流れる映像が眼球に映し出され、それを目的の左手で受け止める瞬間には既に彼は自分の空いた右手が目の前の少女のたった一本の腕を封じていた。そのまま刃を喉笛に押し付け、今日で何度目かの生殺与奪の権限を握る形となっていた。

 「言葉を選べよ、セカンド……。三文芝居の台詞は好みではないが、貴様に俺の何が分かる? 何を理解していた? 何を汲み取ろうとした? 口だけで何もしない、何も出来ない貴様が、もはや得手不得手の概念すら、超越した俺の行動を、心理を、存在意義を、どう理解出来たつもりで居た? おこがましいにも程がある、このクズが、同じ戦闘機人と言う、括りに定義する事も、怖気がする」

 壁際に追い詰める……逃げ道を塞いだこの状況で思考の選択肢をも封じ、精神を追い詰める算段で居た。

 「たった一人から課せられた期待を背負い、たった一人の遺して逝った遺志を継ぎ、たった一人の秘めた望みを叶える…………たった三つのこれだけが、俺の行動原理、深層心理、存在意義……。覚えておけ、その規模の小さい脳で、徹底的に、刻み込め」

 ナイフを更に近付ける。首元に二つ目の切り傷を刻みつけながら、彼は恐らく今までの稼働歴の中で最も濃い殺意を目の前のスバルに向けていた。やはりここで殺そう……現時点で彼はそう判断していた。

 「もう止めろ、ここまでだ。涙を流しても、現実からは逃れられない……逃れられるなら、それは現実ではない、結局妄想だ。そして、それが許されるのは、赤ん坊だけだ」

 「そう言っても認められない……私は……寂しがってたノーヴェに手を差し伸べたトレーゼも、傷付いてた私を放っておけなかったトレーゼも…………全部本物のトレーゼだと信じてる」

 「三文芝居は、嫌いだと言ったはずだ。もう、友達を演じる演目は、終わった……我ながら、下手な芝居だった」

 「…………どうしても……私を殺す?」

 「予定が変わった……そうするしか、ないさ」

 「なら…………一つだけ約束して。私を殺したら、もうノーヴェには嘘をつかないであげて」

 「却下。奴は、堕落したナンバーズの中でも、稀に見るクズだが、計画遂行には、欠かせない……クズはクズなりに、有効活用させてもらうさ」

 「……………………ノーヴェをそんな風に呼ばないで」

 「少しは、自分の心配でも、していろ。もっとも、もうすぐ殺されるから、それも不要か」

 「…………もっと別の会い方してたら、こんな事しなくても良かったのかもね……」

 「ありとあらゆる、可能性を考慮し、そして言わせてもらおう……俺と貴様は、どんな状況下、境遇、紆余曲折を経たとしても、敵同士さ」

 本格的に刃が食い込む……涙に濡れたスバルに苦悶の表情が浮かび上がり、少しだけ抵抗の意思を見せた。だが、そんな小さな抵抗も虚しく、一旦喉元を離れたナイフは高々と掲げられ、その切っ先が頭に狙いを定めた。

 「アデュー……さようなら、貴様のこと、結局嫌いなままだった」

 死刑宣告、処刑斧よりもずっと小さな刃が一気に振り下ろされ、スバルは迫り来る絶命の瞬間に思わず目を閉じ──、



 プルルルルルル♪ プルルルルルル♪



 「……………………」

 「……………………」

 新たに部屋に響いた音、電話の呼び出し音に寸前まで来ていた切っ先が停止した。備え付けの固定電話から鳴り響いているそれは家の主が受話器を上げるのをしつこく促しており、トレーゼとスバルの視線は卓上のそれに釘付けになった。

 ここでトレーゼに新たな思考が生まれる──。

 電話の相手は恐らくスバルの知人だろう、プライベートでの友人か職場の仕事仲間か、どちらにしても彼女を良く知る人間でなければ電話番号を知っているはずはなかった。その場合、当然相手は彼女が四肢を失っていた事も知っているはず……退院した事を知っているかは不明だが、わざわざナカジマの実家ではなく彼女の自宅に掛けて来る辺り、その人間は今現在彼女がここに居る事を知っているか、もしくはそう予測したかの二種類に分けられる。だが後者の場合であると、よっぽどの馬鹿でない限り病み上がりのスバルがいきなり独り住まいに復帰するとは考えないだろう……となれば、電話を掛けて来る者は自然と『ここに居る事を知っている人間』となる訳だが、そうなるとその人間はここに入る瞬間を目に収めた事にもなってしまう。確かにここに入る時に外にはある程度人影はあったが特に視線は感じなかった……よほどの手錬か尾行のプロが追跡していたとすれば、それは恐らく昼間の下手な奴らの仲間と言う可能性が高い。昼間の奴らはただの囮とすれば、今ここで電話を掛けて来ている相手は自分がここに入り込んだのを確認してからスバルに安否を確認する電話をして来ているはずだ。ここで電話に出ないなら相手に自分がスバルを殺害した事が知れるだろう……。

 「…………出ろ」

 自分が後一歩の所で始末出来るはずだったスバルを突き離し、電話に出るように促した。自分でも苛立つ程に殺すのに手間取っていたのがここで功を奏したのは複雑な気分だが、それでこの場をやり過ごせると言うのならば僥倖だった。少し戸惑い気味のスバルを背後からナイフを突き当てて促し、受話器を取らせた。

 「もしもし……?」

 緊張した声色で相手を確認する……本人は努めて冷静にしているつもりらしいが、このままでは相手に勘付かれる恐れがある事を懸念したトレーゼはナイフを突き当てたまま念話を送った。

 ≪悟られぬようにしろ……。良いな?≫

 返事は無かった。だがこの限り無く無力に等しい状況下で余計な事を考える余裕が無いはずだと判断していた彼は無言の返答だけで充分だった。元々肝が据わっている性格をしている事もあってか、スバルは何事も無かったように普通に相手と会話を再開した。

 「あー、うん、途中で雨が降ったから今こっちの方に居るよ。…………え?」

 ふと、スバルがこちらに視線を流した。それはほんの一瞬だけの話だったが、その視線はどこか不安げな色を帯びており、助け舟を求めているようにも見て取れた。

 「……ううん、居ないよ? 雨が降ったから……途中で帰っちゃった。…………そ、そんな事無いよ! 一人だよ。……うん……うん、分かってる、もう少ししたらちゃんと家に帰るから、心配しないで」

 最後に「じゃあね」と一言だけ残し、スバルは自ら受話器を降ろした。何度目かの静寂が部屋を包み込み、また部屋に二人だけが取り残された感覚が甦って来た。相変わらずトレーゼはナイフを突き出したままスバルの命を虎視眈々と狙っており、対するスバルは無力なままだった。

 「……気を取り直して、殺そうか」

 見そびれていたテレビ番組を見直そうかとでも言うような軽い口調での死刑宣告の直後、トレーゼの姿が消えた。

 「ッ!!?」

 「遅い」

 腰を低く落として加速体勢に移行していた彼は文字通り目にも止まらぬ音速の踏み込みでスバルの鼻先にまで移動し、刃を振り被った。命懸けの反射神経で寸前の所で回避したものの、白銀の刃の軌道上にあった壁紙が一瞬遅れて思い出したように切断痕が刻まれるのを見て、スバルは後ずさった。格が違い過ぎる……パワーも、スピードも、防御力も、判断力も、何もかもがそこら辺に居る管理局員とは一線も二線も違う事をたった一瞬で見破ったスバルは当然自分では到底敵う事など有り得ないと判断し、ひとまず自分の寝室へと逃げ込んだ。

 「う……!」

 手術を終えたばかりの脚に違和感を感じたが、今はそんな事はどうだって良い……。居間よりも狭いこの空間ならナイフを大振りする事も出来ないと考えたスバルの判断は正しかったようだった、案の定トレーゼは彼女を追う事を止め──、

 「フンッ!」

 代わりにナイフを投擲して来た。

 一気に三本も投げつけられて来たそれを回避するが、その回避行動を取った際に発生してしまった隙を突かれて新たに五本も飛来して来た。両手が揃っていれば叩き落とす事も可能だっただろうが、利き手を失っている今の状態では難しいと判断した彼女はまたもギリギリの部分で回避する事に成功した。始めの三本と同じようにそれらも壁に突き刺さり、彼女に壁紙の修理と言う悩みを植え付けるはずだった。



 はずだった!



 「あれ……? これって……」

 スバルは自分の頬や手足に纏わりつく小さな感触に気付いた。右頬、左首筋、左右の脇、右脚の付け根にある“それ”は窓から差し込む曇天の光を受けて少しだけ反射して輝いて見え、自分の背後から真っ直ぐに伸びて眼前の自分の命を狙っている者の右手に収まっている光景は、まるで……

 蜘蛛の糸。

 その意味に気付いた瞬間には既に遅かった……。

 スバルの背後に刺さっている八本のナイフの内の五本、最後に投げたその五本の柄に結び付けられた五本の鋼糸鉄線を引っ張り、トレーゼが壁から離れたそのナイフを巧みに操って軌道を修正し、振り子運動の原理を利用してスバルの体に巻き付かせた。象一頭が引っ張っても切れない硬度を誇るその鉄の糸に全身の自由を奪われた彼女は成す術も無く、そのままバランスを崩して床に仰向けに倒れ込んでしまった。

 その瞬間をトレーゼは逃さなかった。既に床に落ちているナイフを拾い上げると加速による跳躍で飛び上がり、天井を蹴り飛ばした反動でスバルの腹部に全体重を掛けた馬乗りをかました。痛みに悶絶している隙をついて鉄線を結びつけた方のナイフを鉄杭のように床に突き刺し……対象を固定、完全に捕食者の立場へと移行した彼はゆっくりとナイフを掲げた。

 「……………………俺は、貴様が嫌いだ。いつも、俺の予想とは、違う行動をするから」

 「…………何となく分かってた……」

 「貴様の顔が嫌いだ、目が嫌いだ、耳が嫌いだ、鼻が嫌いだ、口元が嫌いだ、声が嫌いだ…………髪が、首筋が、肩が、二の腕が、肘が、指先が、乳房が、腹部が、腰回りが、太腿が、膝が、足首が、爪先が、足裏が…………本当に、嫌悪に値する」

 「そこまで言うかな……」

 「俺は、予想に反する結果が、嫌いだ。今も、死を目前にしながら、お前は泣き叫ぶどころか、そうやって冷静に、していられるのが、俺の予想に反している……嫌いだ、何もかも」

 「……なんか、理由なんかどうでも良いからとにかく私を殺したいだけに聞こえるよ……」

 「案外、そうかも知れないな……。情報漏洩だとか、必要性だとか、もうそんな事はどうだって良い…………何故だろう……とにかく、貴様を…………貴様を──ッ!!」

 ピシ──ッ!

 ナイフの柄にヒビが入るのをスバルは見逃さなかった……。トレーゼの右手は筋肉の圧力によって血管が青筋となって浮かび上がっており、彼の腕力が極限にまで高められている事を暗に示していた。腕だけではない、首元は腱が突き破らんばかりに隆起し、眼球に至っては内部の精密機器が何らかのエラー表示を出しているのが外からでも見て取れるほどだった。

 明らかに何かおかしい! スバルがそう気付くのに時間は掛らなかった。

 『Warning! Warning! Unusual situation occurs. Abnormal activation of the console ensure Konshidereshon. Has the danger of runaway.(異常事態発生。コンシデレーション・コンソールの異常発動を確認。暴走の危険性有り!)』

 ストレージデバイスの電子音声が危険信号を告げる。当然危険を察知したスバルは逃げ出そうともがくが、五体を鉄線で固定された上に馬乗りにされた状態である所為でまともに動く事が出来ず、彼女はただ呆然とトレーゼが変貌する様子を眺めている事しか出来なかった。

 「殺したい……壊したい…………あぁ、ツブシタイ……。何でかな? 何でだろう? おかしい、どうして、そんな思考が? あぁ、でも……もう、どうだって良い……。刺し殺したい、撃ち殺したい、絞め殺したい、斬り殺したい、叩き殺したい、蹴り殺したい、殴り殺したい、貫き殺したい…………殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい…………………………………………うん、殺す」

 ナイフを放り投げ、トレーゼの十指がスバルの首に食い込んだ。数ある殺人方法の中から彼が選んだのは『絞殺』……皮膚をへこませ、筋肉を押し潰し、気道を塞ごうとするその行為をまともに受けた彼女はカエルが潰れた様な汚い悲鳴を上げる事となった。

 「トレ……ゼ…………。やめ…………やめて……!」

 痛覚と息苦しさのダブルアタックにスバルは自分の眼球が反転するのを感じていた。舌が飛び出し、だらしなく唾液が垂れ下がるのを薄れ行く意識の中で感じながら、彼女は目を見開き、自分を殺している相手の顔を見ようとした。



 これが間違いだった。



 彼女が見たモノ……それは──、

 金色に輝く薄暗い二つの洞穴、その奥底でたった刹那の瞬間だけ垣間見えた底知れない…………紅い狂気。

 「あ……ああっ、アアアアアアアアアアアアッ!!!」

 見てはいけなかった! その瞳を見た瞬間、スバルは自分の理解の範疇を大きく逸脱した存在に対して叫んだ。恐怖の叫び、精神が悲鳴を上げて肉体までもがそれに従順になってしまう現象。彼女も未だ経験浅いとは言え魔導師の端くれ、任務の最中の事故や戦闘で命を落とすかも知れないと言う事は覚悟していたつもりだった。覚悟していたからこそさっきまでトレーゼが発していた殺気にも動じる事は無かった。かつてのティーダ・ランスターのように、志半ばで死んだとて悔いは残さないつもりでも居た。

 だがそれはあくまで“人間”に殺された場合のみの話し……。

 眼前の存在が果たして人間であるかどうか……多大なる恐怖で精神を侵された彼女の脳では既に判別は出来なくなっていた。ただ一つ分かるのは、これから訪れるであろう“死”が自分にとってはとても不本意なモノになってしまうと言う事だけだった。人でも無い、生物でも無い、ただの純粋な“モノ”と化してしまったそれに手を掛けられるのだ……戦士としては恥ずべき事であり、人間としても人ですらなくなってしまったモノに殺されたとあっては納得のいく話ではないのも頷けた。

 彼女はそれが怖かったのだ、人でも無いモノに殺される事が。

 だが、時既に遅し。

 「────────────────────────」

 圧力が倍化する……金属骨格を埋め込んだ脊髄はビルの屋上からの垂直落下でない限りは絶対に破壊される事は無いが、相手も同じ戦闘機人、十指の内部フレームから生み出される殺人的圧力は彼女の肺気道を完全に塞いでしまうのに五分も掛らなかった。

 「あ……げぇ、ごフ…………っ!」

 意識が遠退いて行く……既に聴覚も麻痺し始め、周囲の音が消えて行くのに反比例して自分の心音が喧しく思える程大きく聞こえていた。そして、酸素の供給を断たれた事で遂に脳までもが機能を失い始めて来た。ここまで来ると永くは無い……。

 「────トレーゼ……!」

 最期の瞬間に力を振り絞り、スバルは左腕を上げて眼前の彼に差し伸べた。あともう少しで届きそうな指先は無慈悲にも彼女の命令に反して力を無くし、触れる事無く落ちて行った。

 そして、その時──、



 『Invoke emergency measures. Complete closure constraint limiting total surgical. Stop command input during a work force.(緊急措置発動。全拘束制限術式完全閉鎖。強制一時活動停止コマンド入力)』



 圧力が消えた。パソコンの画面が急にブラックアウトするようにトレーゼの両手の増強筋肉が力を失くし、それに伴って内部フレームの稼働も停止して行った。ゼンマイが切れた玩具と言うには少々荒削りなその体躯は大きく背中側に反れた時の反動で反対側、つまりスバルに覆いかぶさるような形で倒れ込んで来た。ピクリとも動かないその体は辛うじて呼吸だけはしていたが、どう言う訳か生物特有の絶対的鼓動……即ち心音が途絶えていた。

 「げほっ、ごほ! ト、トレーゼ!? しっかりして! トレーゼっ!!」

 全身に巻き付いた鉄線は振り解けない事は無いが時間が掛かると判断したスバルは身をもがきながら目の前の少年に声をかけ続けた。心臓が停止した生物は五分と生きる事は無い……三年にも渡る救助活動の中で彼女が嫌と言う程良く学んだ教訓だ、心臓が停止する事によって酸素の供給が断たれて細胞の代謝現象が不調を来たし、排出すべき老廃物の蓄積で徐々に細胞が分解と死滅を開始するのだ。放っておけば本当に死んでしまう……その危機感が彼女を突き動かしていた。

 そんな彼女の行為に目を留めたのか、トレーゼの右指に嵌められていたマキナからの電子音声が届いてきた。

 『33 seconds to start running again after the heart and Power Authority.(心臓及び動力機関の再稼働開始まで残り33秒)』

 「トレーゼ! 生きてるんだったらしっかりしてよ!」

 『have been a danger of runaway state, and only went to the heart and the body suspended in accordance with section 273 of the Code.(暴走状態に陥る危険性が有ったので、コード273に従い心臓と機関部の強制停止を行っただけです)』

 マキナの言った通り、少しした後にトレーゼの体が何かの衝撃を受けたように大きく跳ね上がった後、心音が聞こえて来るようになった。どうやら内部に設置されていた電極からの電流で心臓に刺激を与えたようだが、トレーゼ自身の目が開く事は無かった。

 「ん……! ああっ!」

 やっとの思いで鉄線を振り切った彼女はトレーゼを抱き起こし、その胸に耳を当てた。大丈夫だ、心臓もその奥にある機関も正常に動いている、生きている。

 「はぁ~、良かったぁ」

 自分を殺そうとしていた相手とは言え、やはり目の前で死んでしまうのは本当に気分の良いモノではない……。救助隊の癖とも言える自分の性格だが、今この現状と経緯を親友のティアナが知れば大目玉を喰らうのは目に見えている。自分を殺すつもりだった相手が生き延びたのを見て安堵しているなんて……確かに人間としてはどこかズレているのだろう、昔から実の姉にも「変わっている」とか言われていた程なのだから。

 だが、どうにも彼女には未だにトレーゼが現在管理局から最も忌避される単独勢力……通称、最後のナンバーズ『“13番目”』だとは信じられなかった。たった一人で管理局を襲撃したと言う事実から一部の局員からは『ジェイルの再来』とも呼称されており、真実を知る聖王教会の騎士からも『悪魔』と呼ばれるまでに至る最強の存在……そして、かつて自分の四肢を切り落とした張本人でもある人物が、今彼女の腕の中で静かに眠っていた。

 ここでスバルが取るべき行動は限られている──。

 そう、彼を無力化して管理局に突き出す事だ。手っ取り早くは親友のティアナに連絡するのが一番だろう、その後はどうやって彼と接触したのだとか色々聞かれるだろうが事件解決の流れに合わせてそう言った事は無くなって行くだろう。後は法の裁きによって正当な処分を下されてお終いだ、それから先は会う事も話す事も無いだろう……。

 と、常人ならこう判断するのが普通だ。

 だが──、

 先程も言ったように、彼女──スバル・ナカジマはどこかズレていた。性格が、主義が、思考が、常識が……普通の人間とは違ってどこか歪んでいた。

 だから普通の人間では思いもしない事でも実行するし、常人が忌避するはずの事物にでも平気で手を出しては痛い目を見て、それでもまた諦めずに根気良く行動を続ける……そんな他の人間では諦めてしまいそうな事をやってのけてしまう人間だった。

 故に彼女が取った行動は……

 「うん……しょっと!」

 昏睡状態のトレーゼを自分のベッドにまで運び、介抱すると言うものだった。ショックを与えないように救助隊仕込みの運搬術で丁寧に運んでベッドに横たえ、その上に布団を被せて安静にさせて見守り始めた。心臓の鼓動は確認した、呼吸にも乱れは無いし顔色も良好だ、このまま何事も無ければしばらくして目を覚ますはずだ。

 「はぁ……今日はなんだか色々あって……すっごく疲れちゃったなぁ……」

 いつも自分が就寝に使っていたはずのベッドで眠る少年を見やる……紫苑の短髪は見る者によっては毒々しくも見えるが、今のスバルにとっては個性の一つにしか見えていなかった。雪のように白い肌は本当に綺麗で、先程彼女が無意識の興奮を覚えた時のままの白さを保っていた。何一つ自分と変わらないのに自分とはどこか違う、ただ一つ分かるのは……ほんの一週間前に初めて出会った彼、ほんの五日前に自分の病室を訪ねて来てくれた彼、つい昨日本部でまた自分を抱き上げて起こしてくれた彼、ほんの一時間前まで一緒にデートしていた彼、ついさっき自分を殺そうとしていた彼……そのどれもが彼の『本当』であり、結局自分は騙されていたと言う事だけだった。

 「でもね、トレーゼ……私ってやっぱりバカだからさ、何度言われても信じられないよ……。だって普段何にも言ってくれないんだもん、今更言われたって……信じられないって。ねぇ、それがトレーゼの『本当』なんじゃないよね? 私は……本当のトレーゼを信じたいから……」

 左手で頬に触れる……白い肌は予想通りに肌触りが良く、しばらく撫でるようにそうしていた後にたった一言──、

 「なーんだ……温かいじゃん」










 午後13時46分、軟禁アパートにて──。



 寒い。

 ヴィヴィオは冬の寒波に再び心身極まっていた。虐待の際に取り上げられた服はそのままクアットロによって面白半分に処理され、彼女の素肌を守っているのはトレーゼから与えられた掛け布団一枚だけだった。流石のクアットロも兄である彼が直接与えた物だと分かった時はこれに手をつけるのを止め、そのまま退散して行ったのが何よりの救いだった。右腕の激痛と失血に加えて寒さが来ればとっくに死んでいたはずだった。

 だがそれにしたって寒い。トレーゼが言うにはこの借り部屋の周囲に微弱な結界を張って熱が逃げるのを抑えているはずなのだが、だとするならますますこの寒さが理解出来なくなって来る。

 冷蔵庫を開けっ放しにでもしてしまったのかと思い、彼女はゆっくりと居間へと向かい始めた。その小脇にしっかりと赤い本を抱えて……。

 冷蔵庫は寝室のドアを開ければその真正面に見える形に配置されている為、ドアを開けただけで開閉の有無を見る事が出来た。だがどこからどう見ても冷蔵庫は開きっ放しになっている様子は無い……と言うか、この冷気はもっと別の所から流れて来ている事に気付いた。右手の痛みを堪えながらその僅かな気流の根源を辿り始めた彼女は、存外早くにそれを発見する事が出来た。

 それは出入り口のドア。蝶番を固く溶接されているはずの一体どこからそんなモノが……?

 目を凝らす、その上方に…………そして、見えた。

 溶接されている上の蝶番がどう言う訳かヒビ割れして粉砕されていた。確か始めにここへ来た時にはこんなモノは無かったはずだ、かと言ってバイクが正面衝突しない限りは突破出来ないこのドアを自分の力だけで破ったとは到底思えない。ヴィヴィオは考えた……そして、分かった。

 それは昼間の話だ、例によって自分を虐げる為にここへ足を運んだクアットロは自分の着ていた服を無理矢理脱がし始め、逃げ惑う自分を捉えてこのドアに叩き付け始めたのだった。もちろんそれで壊れたのではない、問題はその直後だった……散々自分の事を足蹴にしていたクアットロはその途中でたった一発だけ狙いを外してドアに蹴りを当てていたのだ。非戦闘型とは言え戦闘機人、その蹴りを喰らえば確かに溶接したとは言えドア一枚訳無く破れるだろう。

 自分の肉体を限界へと追いやる寒さの原因を突き止めようとしてこんな穴を見つけることになろうとは……その千載一隅の好機を得た彼女の行動は早かった。赤い本を一旦テーブルの上に置き、結界の内側にAMFを展開された空間であるにも関わらず自分の左手に集め得る限りの魔力を集中させ始めた。必死に集められた魔力はいつもの半分にも満たない小さなものだったが、これから素手でドアに拳を打ちつける事を考えればまだマシだった。

 満身創痍の体に鞭打って魔力で強化した拳を振り上げる。利き手ではないこちらでどれだけの効果があるかは分からないが、やれるはずだ。あのスバルだって左腕だけで頑張ったのだから!

 そう決意した幼き少女は大きく深呼吸して息を整えた後──、

 拳を打ち始めた。










 夢を見た──。遥か昔の夢……遠い記憶の彼方に置き去りにして来たはずの記憶の残滓が見せる淡いヴィジョン……それらが見せる夢は、忌むべき“あの日”の出来事だった。



 『良いか、トレーゼ。もうとっくに聞いては居るだろうけど、お前は明日から私達とは別のラボで活動することになった。以後はDr.ギルガスの命令に従って行動しろ、良いな?』

 培養シリンダーの並んだ空間に佇む一人の少女……紛う事無く自分の姉、トーレだ。その表情は外見年齢に反して無骨で険しく、自分の知るいつも通りの彼女の表情のはずだった。だが彼には分かる……今日の彼女はいつもと違っていると言う事……そして、その彼女の顔をこれから先長い間見る事は適わない事を。

 『そんな顔をするな、みっともない。今生の別れじゃあるまいし……あの老いぼれが自分の研究欲を満たせばすぐに済む話だよ。それが五年掛るか十年掛るかは分からないが、お前は私の“弟”だから、ちゃんと全う出来ると信じている』

 頭に手が乗せられた……もう片方の手が自分の頬を撫でてくれているのが分かる。その手に触れてみると、自分の姉の手がほんの少しだけ震えている事に気付いた。恐らくは自分の想像以上にこの姉も……だがそれを口にする事をはばかるようにトーレが自分の体を引き寄せて抱き締めてくれた。

 『良いか? お前はまだ弱い、私が吃驚するほどに弱い。何でか分かるか? お前には何も無いからだ、お前は自分の前にも後ろにも何も無い……そんな奴は強くも何にも無い。今は私がお前の前に立って居られても、ひょっとしたらこれが最後かも知れない…………こいつの成長を二人で見守る事が出来ないのも心残りだ』

 視線が隣に並んでいる培養槽に向く……。刻まれた数字は『Ⅶ』、トーレの教育を受けた後に自分が育成するはずだった唯一の個体が今もそこで眠っていた。恐らくは自分が唯一本当の意味で『妹』と呼べるはずだった存在……それももうここからしばらくは顔を見る事も無いのだ。

 『だけど、これだけは忘れるな。お前は私の“弟”だ……守る者も倒す者も居なくて良い、この先お前が何かを得て何かを捨て続けるような事があるだろうが、これだけは……この誇りだけは絶対に捨てるなよ』

 誇り……この強き姉の『弟』であると言う誇り……ナンバーズの長兄であると言う誇り……忘れる事が出来ようか。と言うか、今この場面でそんな事を言わないで欲しかった……だらしなく緩んだ涙腺から流れて来るモノをどうして止めれば良いのか分からなくなってしまう。

 『ほら泣くな……。今度会う時はお前は兄なんだぞ、涙はここに置いて行け』

 いつまでもここに居たかった……別離が訪れるなんて夢にも思っていなかった……それが例え一時の別れであったとしても辛い。

 『誇れ。胸を張れ。お前は私の“弟”……このNo.3トーレのたった一人の“弟”だ。私の自慢の“弟”……お前は私の誇りだよ』



 誇り──。それがいつの間にか自分の存在し続ける為の理由になっていた。










 午後13時51分、地上本部ゲストルームにて──。



 「して……立案なされた作戦の手筈は整っているかね、八神二佐?」

 「東部支部には既にハラオウン提督から話しはついています。ですが、『第二抑止力』に関しては……」

 「お取り込み中……と言ったところかな。そんなものだろうな、こればかりは相手方の都合もある事だし、交渉決裂が前提のようなモノだから仕方ないか。ときに、君の元部下のランスター執務官はどうしているかね? 知っているぞぉ、二佐殿が何やら個人的に頼み事をした事をな。我々側に関係のある事じゃないのかね?」

 「そこは別にお話しするべきではないかと……。ですが、本当によろしいんですか?」

 「何がだね?」

 「“13番目”の処遇についてです。仮にこの作戦が成功したとして、本当に対象の処遇は……その……」

 「無論、科学者である私に二言は無い。彼奴の処分についてはいつかに述べたとおりだ」

 「では……本当によろしいんですね?」

 「ああ、良いともさ。例え“13番目”がトレーゼであろうがなかろうが、管理局が言う勝利を決める為には敵方の投降以外にはこの方法しか無いのだよ…………



 ────殺処分……。



 これが一番妥当だろう。抵抗する意思を見せ次第即刻抹殺……最も確実で、最も合理的な手段だ」










 止んでいたはずの雨がまた降り始めた。



[17818] 機兵の存在意義
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/10/11 01:54
 午後14時09分、スバルの自宅にて──。



 「……………………今、何時だ?」

 心臓の強制停止からおよそ30分、トレーゼは自分の肉体がベッドに横たわっているのを実感しながらゆっくりと覚醒した。過去にマキナの判断によるこの措置を受けたのは今回を含めて二回……前回はどんな状況で発動したのかは忘れてしまった。

 そんな余計な情報は頭の隅に追いやり、トレーゼは自分の現状確認を急いだ。自分が今居る場所はゼロ・セカンド……スバル・ナカジマの自宅だ。何故居るのか? 彼女の言う『デート』とやらに付き合っている最中に雨が降り、そのまま済し崩し的に彼女の自宅に呼ばれてついて行ったのだ。

 問題はその後だ……。

 彼女には自分が“13番目”である事を知らせてしまった……現行の管理局敵対勢力の中で最もその頭数が少なく、最も危険な勢力である自分の正体を知れば局員である彼女が管理局に伝えるのは必定…………恐らく気を失った自分をここに固定してから局に向かったのだろう。既に思念捜査の能力を持つヴェロッサが復帰している事を考えれば、記憶から抽出した映像などで自分の顔が割れてしまう恐れがある。流石にここで鴨討ちにあってはたまったモノではない! この場合幸運だったのは自分が予想以上に早く起きる事が出来た事だ、あと30分も寝ていればとっくに身柄を本部に移されていただろう。

 そうとなれば長居する理由は無い。ベッドから飛び出した彼は自分の身形を確認し、瞬時に寝室のドアを文字通り蹴り破って粉砕しながら脱出し──、



 「あ、おはよー」



 名状し難い現実に突き当たった。

 おかしい……取り合えず現状の整理をしてみる事にした。

 自分がここに居るのはスバルに勧められたからである。これはOKだ。

 ここで自分は彼女に自分の正体を悟られた。正確には最後の一手は自分から告白したのだが、それはどうだって良い。ちなみにここで彼女を始末しようとしたのも事実である。これももちろんOKだ。

 心臓と機関部を強制停止させられた自分をここに寝かしつけたのはスバルである。ここには彼女しか居ないのだからそれも間違いではないだろう。

 では……どうして…………

 そのスバル本人がここに居るのだ!?

 敵方である自分がツッコミを入れるのはどうなのかと思うがここは言わせて欲しい──。

 「その選択は……間違いだぞ、セカンド……」

 テーブルの椅子に座ったまま鶏の唐揚げを食べている彼女の姿を見てトレーゼは呆れて脱力した。どう見ても彼女が自分が倒れてからこの家の外を出た形跡は全く無く、この30分の間彼女はずっとここでこうして食事をしていたらしい。

 いや……既に電話で知らせた可能性がある。

 「誰にも言ってないよ」

 「…………なに?」

 「だから、電話もしてないってこと」

 「……………………何を考えている、セカンド」

 管理局に知らせずここに自分を釘づけにしていると言う事は、考えられる事は幾つかある……。

 まず一つは念話で伝達したと言う事だ。確かに魔力を伝播させて情報を伝える念話ならばここから一歩も動かずに相手に直接伝える事が出来る。だが念話の有効圏内はそれ程広くは無い……有視界ならばある程度の距離があっても通じるが、障害物を挟んだ状況では良く行っても数百メートル程度しか効果が無い。

 もう一つは、『援軍などを呼ばずとも自分で片を付けられるだけの実力と自信がある』と言う事。だがこちらが本当だとしても自分をずっと放置していたと言う事実とは真っ向から矛盾している……。

 「…………もう、俺には貴様の考えている事が、分からない」

 理解出来ない……生物としてこれ程までに理不尽で恐怖に値する現象が他にあろうか? 一度は再起不能にまで追いやった相手によってこれほど高度な心理戦を強要されるなどと流石の彼ですら予測してはいなかった。対するスバルの方は左手に持ったフォークで唐揚げをついばみながらこちらを凝視しているだけで何も言わなかったが、ふと唐揚げの皿を出して……

 「食べる? 私のお手製唐揚げ」

 「いらん。と言うか、貴様を殺さねば、ナンバーズとして、示しがつかん」

 「ナイフとかは隠しといたよ。私は簡単に殺されるつもりはないし、タダでトレーゼを帰す訳にもいかないから」

 「どう言う、意味だ?」

 スバルが席を立つのを見てトレーゼが身構える……。ナイフと鉄線が無くとも純粋な腕力だけで、人間はおろか同族の戦闘機人ですら容易に破壊出来る彼にとって武器の有無は大した問題ではなかった。問題なのは……今現在自分の眼前に立ち塞がった彼女の行為だ。

 理解出来ない。両足は修復したばかり、利き腕である右手を欠き、デバイスを持たないどころか得意のウィングロードですら使用出来ない状態…………明らかに圧倒的不利! 戦闘の素人が見ても分かる不利な状況であるにも関わらず、彼女の双眸は誰の目から見ても分かるぐらいはっきりとした『不退』の意思が見えていた。師と仰ぐ高町なのはですら直面した事の無い危機的状況にスバルは直面しているはずなのだ。

 「……………………何が、目的だ。言っておくが、計画の中止は、受け入れられんぞ」

 「そんなのじゃないよ。冷静に考えたんだけど、トレーゼがこの先何をしてても私には関係無いだろうし計画って言うのとは違う余計な事をしたりしないだろうから、やりたい事が終わったらそれだけでお終いだって言うのも分かる……。私の信じてる人達はどんなに酷い事されたって大丈夫な人達だから、トレーゼが手を出しても無駄だと思う。けどね……一つだけ止めて欲しい事があるの」

 「何だ?」

 「ノーヴェだけは傷付けないで。もう……ノーヴェには関わらないであげて!」










 「ぶぇっくしょ!」

 「うわ! きたなっ!?」

 「風邪か? やはりお前もシャワーを浴びておいた方が良いのではないか?」

 「大丈夫だよ、どっかの誰かが変な噂してるだけだから……」

 「前々から思ってたんだけど、変な噂したらクシャミってのは一体どう言うメカニズムなのかしら?」

 「風が吹けば桶屋がどうこうって言うのと同じだろうな」

 「つまり、深い意味は無いってことね。それよりも、賭けの事は覚えてるかしらチンク?」

 「うっ……!」










 ノーヴェ・ナカジマは思考する……。ついさっきの昼間の光景について静かに、それでいて激しく思考する。帰ってきた時からそれは続いていた……雨に打たれて冷え切った頭はいつも以上に回転が早いが、それでも彼女なりに納得の行く結論が出て来なかった。

 昼間のあの光景……自分の初めての友人と、義理の姉妹が連れ添って歩くあの光景が頭を離れずにいた。あまりにもアンバランスな組み合わせに始めは戸惑い、次に驚愕し、そして混乱した。

 だってあのトレーゼだ! 自分以外のありとあらゆる事に関心の無さそうなあの彼がスバルの申し出を受け入れたと言う事実が信じられなかった。ただ彼女の跡をついて周るだけならともかく、喫茶店でのあのやり取りは度肝を抜かれたとしか言いようが無かった。喫茶店を出た後もデート中ずっと彼はスバルにつき従うようにして移動を続け、結局雨が降ってからはどうなったのか分からないが、あの様子だと恐らくはスバルのテンションに振り回されていたはずだ。

 確かにあの終始無愛想が服着て歩いているような彼がよりにもよって万年アホ花を咲かせているスバルとデートをしている事には驚かされた。だが、ノーヴェにとってもっと重要だったのはそこではなくもう一つの事実にあった……。

 嬉しそうだった。トレーゼがではない、スバルの方がだ。彼女と知り合ってまだ三年しか経っていないが、スバルが元来明るい性格をしている事は前々から知っていた……一度目を覚ませば眠りにつくまでの大半の時間を笑って過ごして居ると言っても過言ではないくらい底抜けにネアカな彼女は、いつも自分の属する集団を自分を中心にしてその明るさを笑いに変換して伝播させていた。持ち前の図太い神経……もとい、メンタル面のタフさもあってか、よっぽどの事でも無い限りは落ち込む様子を見せる事も稀なぐらいだった。

 だが今日は明らかに違った。確かにスバルはいつも笑っている、友人であるティアナや職場の同僚、ひいては自分達家族と居る時だって楽しそうなのは変わり無い。だが今日の彼女は楽しそうだったのではなく、『嬉しそうだった』のだ。一見似ているようでその意味も実態も大きく違う二つの感情……仮にも姉妹、ましてや同じ遺伝子を基盤として生み出された同位体であるが故なのか、あちらの考えている事や感じている事が手に取るように分かってしまうものなのだ。喫茶店に入った時も、街を歩いている時も、スバルはずっと……嬉しそうだった。

 それならそれで良いじゃないか。

 自分の身内と友人の仲が良いなんて願ったり叶ったりだ、喜ばしい事じゃないか。一体どこをどうやって悩む必要があると言うのだろうか。



 そんな簡単なものじゃないのだ。



 理解出来なかった。自分でも良く分かりもしないのに頭と腹の奥で何か熱いモノが這いずり回るような嫌な感覚を感じていた。この感覚が何を意味しているのかノーヴェは知っていた……そう、『苛立ち』だ。自分の身に起こっている現象の“何か”に対して強烈な拒絶感を抱きつつも、自分一人の力ではどうする事も出来ず、例え出来たとしても自分の中の別の部分でそれを行う事を否定している……二律背反から来るもどかしい苛立ちだった。

 分からない!

 面倒臭い事は嫌いだ……ノーヴェは思考する事を止め、ベッドの枕に顔を埋めた。すぐ横でチンク達が何か言っているがどうだって良い……今はただ、静かに時間が過ぎて行く事を願うだけだった。

 いつの間にか訪れたまどろみがこの感情を消し去ってくれると信じて……。










 「無理だな」

 トレーゼの両手首に紅いエネルギーブレードが出現する。彼が最も得意とするIS、『ライドインパルス』の発動によって発生する余剰エネルギーを武装として使用する戦闘スタイルは最早彼の十八番……瞬きどころか、眼球をほんの数ミリずらした瞬間には胴体を寸断するだけの力量を持ち合わせている彼の殺意の視線を真っ向から受け、スバルは身動ぎしてしまった。勝てない……! そんな弱気な思考が彼女の脳髄を支配した。真正面から挑もうが罠や策を弄しようが関係無い、そんな小さなモノは障害とも思わずに悉く潰してしまえるだけの実力もあると言う事をスバルは熟知していたからだ。油断していたとは言え、一度は一瞬で自分の両足と右腕を切り取った相手……こうして面と向かっている状態でも勝機は万に一つとして無いだろう。

 だが退かない! ここで退いては何も変わらない。

 それにこの行動は勝ち負けではないのだ、何としてでも彼に心変わりを起こさせる事が目的なのであり、その為には自分の言葉に耳を傾けてもらう必要があった。

 「どうしても……無理だって言うの」

 「くどい。奴は、計画完遂の為の、重要なファクター……ここで、手放す訳には、いかん」

 「そんな事の為だけに……!」

 「言ったろう? 貴様にとっては、『そんな事』でも、こちらにとっては、違う」

 「その『計画』って言うのが終わったら……ノーヴェはどうなるの?」

 「さぁな。あんなクズ、こちら側に引き入れる事も無い……処分する」

 トレーゼの右足が進み出る。続いて左足、再び右足と言う風に、彼は一気に間合いを詰めようとはせずに徐々に相対距離を縮めて来た。こうやって対象に徐々に死が近付いていると言う事を認識させ、その心理状況を圧迫させて精神の余裕を無くそうとしているのだ。やがて二人の距離は片方が腕を精一杯伸ばせば届くだけの距離にまで縮まり、トレーゼは更にスバルへの不可視の圧力を強めた。

 「どうしてそんなにノーヴェに拘るの?」

 「ほう、自分の姉妹でなければ、誰がどうなっても、構わないか……。存外、冷血だな、貴様も」

 「そ、そんな事言ってない!」

 「安心しろ、No.9とクアットロ以外にも、こちら側に、ついている者は居る」

 「!? だ、誰!!?」

 「言うと思うか? ただでさえ、貴様には喋り過ぎているんだ……。これ以上、口の端が、滑る前に、始末しておかないとな」

 右肩に重量が掛かるのを感じた……トレーゼの腕が置かれたのだ。紅いブレードが首筋の数センチ手前で揺れ動くのを感じ取りながらもスバルは彼の視線を捉えるのを止めなかった。

 「…………それってどういう意味?」

 「言葉のままだ。既に、奴はこちらの動きに、同調している。意外と、貴様のすぐ近くで、行動を開始しているかも、知れないぞ?」

 肩に置いた右手を軸にしてトレーゼがゆっくりとスバルの背後に回った。そしてそのまま背中に密着して左手の方も肩に回し、丁度二枚の刃がスバルの首を挟み込むような状態となった。ほんの少しでも動けば掻き切る事の出来る体勢……スバルの逃げ場はこれで無くなった。

 「無駄話も、これで終了だ。痛覚を伴わない事は、約束しよう。No.9に関しては、諦めるんだな」

 刃が左右から首を挟もうと接近する。

 「……ねぇ……トレーゼにとってノーヴェは何だったの?」

 「死に際になってまで、あれの心配事か」

 「答えてよ。ノーヴェはトレーゼの事を友達だってあんなに喜んでたんだよ?」

 「ハッ! 笑わせるな。良いか──」

 背後からトレーゼが耳元で囁くように言って来た。場合によってはとても官能的なその行為にスバルは一瞬だけ動悸が激しくなるのを覚えたが、それはすぐに別の意味に置き換わる事を知ってしまった。

 「奴はな、堕落した連中の中では、一番どうしようもなく、弱い奴だ。脆弱、貧弱、軟弱、ひ弱……『弱い』と言う意味の単語を、幾つ並べてもまだ、足りない……。弱いだけではない、自分の中の、わだかまりですら、自分で決着をつけられないような、最低のクズだ。もうあれは、どうしようもないな……。あいつに、出来る事と言えば、この俺を、笑わせる事ぐらいだな……“嘲笑”と言う、最も卑下たる、笑いをな」

 すぐ耳元でトレーゼの囁くような笑い声が聞こえた……彼に会って初めて耳にする笑い声だった。

 「貴様も笑えよ……おかしいだろう? あんな最悪で、最低な奴が、紛いなりにも、俺の妹だぞ。嗚呼、本当に最悪だ、反吐が出る……。協調性も、自主性も、一貫性も無く、ただ自分の激情だけで、動いているだけの、本当に意味での『人形』……まさか、あんな奴を、妹に持とうとは、ハハ、ハハハハハハッ、呆れを通り越して、笑いがこみ上げる」

 途切れ途切れの哄笑が居間の空間に外の雨音と一緒に入り混じって響いた……。自分のすぐ背後から聞こえるその声は、男性にしては良く澄んだ声で、快活で、壁や天井を反響して自分の鼓膜に届いたそれを認識した時──、

 「────ッ!!!」

 スバルは自分の意識が数瞬飛んだのを感じていた。脳を駆け巡った感情の奔流が意識を拡張し、体感時間が引き伸ばされる……腕を振り払った時に首と肩が少し切れたが今更だ、そんな事はもう関係無かった。突然の行動に虚を突かれた形となったトレーゼはその僅かな隙につけ込まれ──、



 パンッ……!



 笑い声が消え、代わりに聞こえたのは乾いた破裂音……スバルの左手の平手打ちが炸裂した音だった。反動で傾いたトレーゼの右頬が赤く腫れている。

 「……………………」

 感情の光を宿さない彼の金色の瞳がスバルを捉える。左手を振り上げた体勢のままで固まった彼女の視線に込められた感情は“怒り”……昂った感情の所為で息は上がり、その視線は目の前に居る自分を射殺さんばかりの迫力であった。

 「はぁ……! はぁ……!」

 「……やってくれたな、セカンド」

 再び濃厚な殺意の波動がスバルを真正面から襲う。だが頭に血が昇っている所為で感覚が少し麻痺していたスバルにとって、既に肌で感じ慣れてしまったその意識の波に臆する事は無くなっていた。

 「逆に答えろ、セカンド。貴様にとって、あのクズの妹は、一体何なんだ?」

 「家族だよ!」

 「陳腐な台詞だな、『家族』とは……。血縁こそが、この世で絶対の、繋がりだと、信じて疑わないか……バカな奴」

 「それがどうしたって言うのさ! 血が繋がっていてもそうじゃなくても──」

 「いや、貴様はそんな甘言に、自分で自分を、酔わせているだけだ。血が繋がっていても、子を捨てる親も居れば、親を殺す子も、兄弟姉妹を蔑ろにする者も、他人と何ら変わり無い、そんな連中も居る」

 「そんな事……!」

 「現に、プレシア・テスタロッサを、見てみろ。自分で娘のコピーを、造っておきながら、奴はその哀れな人形を、ゴミ屑同然の扱いで、使い捨てようとした……。現実から目を背け、記憶を受け継いだクローンを生み出し、それでも満足出来ずに、忘れられた都などと、在りもしない理想郷に逃避しようとして、あの末路だ……。あいつも、その娘も、多くを望み過ぎたんだよ……ある一点で、妥協しなければ、如何に家族だとか、身内だとかでも、何も変わりは無い、互いに傷付け合うだけさ」

 「詭弁だよそれは!」

 「事実だ、高望みすれば、失敗する……。あのNo.9も、いずれ失敗するぞ」

 「友達をそのまま好きでいる事がそんなに駄目な事なの……?」

 「戦闘機人に、そんなどうでも良いモノは、必要無い。必要なのは……倒すべき敵と、命令を下す主だけだ。それ以外に、何が必要だ? 馬鹿馬鹿しい」

 三日月の形に歪んだ口元から小さな笑い声が聞こえる。スバルはこれが嫌いだった、笑い声がではない……彼の笑い方がどうしても嫌いだったのだ。さっきは自分の背後だったので分からなかったのだが、今なら分かる……彼の笑いは、おかしかった。

 小さい頃、母親であるクイントがギンガと自分の分にと言ってままごと用の人形を買って来てくれた事があった。人形と遊ぶよりかは姉妹揃ってアウトドア派だったので、結局その人形は仕舞い込まれてしまったのだが、その人形と言うのが背中にある小さなボタンを押すと音声が出る仕掛けになっているモノだった……。今思えば、幼き日の彼女がその人形で遊ぶ事を殆どしなかったのはあの仕掛けが原因だったのではないかと思っている。ボタンを押した瞬間に聞こえる可愛らしい声……でも、プラスチックで出来た人工の顔面は口の端も眉も動かさずにただ笑い声だけを上げるのが幼かった彼女にとって小さな恐怖でもあった。

 そして、今まさに目の前のトレーゼがそれだった。人形と違うのは口元が歪んでいる事だけ……そう、『歪んで』いた。ただ表情が『笑って』いるだけに過ぎなかった。目が、感情が、心が……笑っていない、何も感じてすらいない…………それはとても怖い事だ。だが一番怖いのは、その心が宿っていない行為を目の前の彼が平気で行えると言う点にあった。

 だがその無垢な恐怖に屈してはならないと言う不屈の心がスバルの精神を後一歩の所で押し止めた。

 「…………ノーヴェってね……友達が居なかったんだよ」

 「だろうな」

 「仲の良い人は沢山居たよ……友達って言うのも、始めは私がそうだった。でもね、四人を養子って引き取ってから……“家族”になって、私達は“姉妹”になっちゃった。ノーヴェは優しいから、近くなり過ぎた私達に遠慮して何も打ち明けてくれなくなっちゃった…………前にもティアの事どう思ってるって聞いたら、何て答えたと思う?」

 「知らん」

 「“仲間”……背中を預けても良い仲間だって言ってくれたよ。でもね、やっぱりあの子が“友達”だって胸を張って言ってくれる人なんてどこにも居なかった……。あの子の必要な時に支えてくれて、理解してくれて、丁度良い距離に居てくれる人は居なかった」

 「……………………」

 「だからね、友達が出来たって聞いた時は本当に嬉しくて…………それなのに……!」

 「だから、どうした? お涙頂戴にも、程と言うのが────ッ!」

 トレーゼの言葉が不意に停止した……彼の金色の眼球がスバルとはてんで違う方向にある部屋の隅に向けられており、スバル自身もそれが気になり意識を彼の方に向けながらその視線の先を見やった。始めは天井の隅だけを見ていたので何も無いかと思っていたが、トレーゼの目の動きから“それ”が動いていると気付いてからの発見は早かった。薄明るい部屋にたった一つの紅い光点……浮遊しながらこちらに近付いて来るそれに彼女は見覚えがあった。かつて三年前に故あってスカリエッティ側に与していた召喚士の少女が使役していたインゼクトと言う蟲だ。

 それはゆっくりと漂うようにして移動していたが、不意に──、

 「なっ! ちょ、うわっ!?」

 いきなり自分の顔面にまで飛来して来たそれを左手で払い除ける。だが存外しつこいそれは手で叩かれても彼女に纏わり続け、その瞬間に彼女は……



 向けていたはずの意識を……逸らしてしまった。



 次に彼女の神経が脳に伝えたのは、自分の顔面が壁に激突した事を知らせる激痛だった。何故そうなったのかは分からない……戦闘機人の知覚速度を以てしても捉え切れない速度で自分の右頬を殴打されたと言う事実を把握するのには少し時間が掛かってしまった。

 「同じ、左だ……悪く思うな」

 「ぐ……! がフっ!」

 平手打ちの応酬にしては釣りが多過ぎるそれを受け、スバルは自分の意識の立て直しを最優先にして身を起こした。顎の先端を揺らす要領で横殴りにされた所為で発生した軽い脳震盪が彼女の四肢の自由を制限していた……なんとか視界だけははっきりしていたので、トレーゼが差し出した右手の指に蟲を留まらせるのだけは見えた。

 「セッテからか……。何か、情報を掴んだか」

 紅い魔力光を点滅させて蟲が主に自分の担った情報を伝達する……傍から見ているスバルにはその暗号化された明滅パターンが何を意味しているのか最初は分からなかったが、徐々に緊張に満ちて行くトレーゼの表情を窺い、それが彼にとってとんでもない重要性を秘めたモノだと理解した。

 「まさか……このタイミングで、管理局が……。罠だろうな、明らかに。だが、是非もなし」

 軽く手を払って蟲を飛ばし、その蟲はどこか小さな隙間を見つけたのか部屋から姿を消した。その時になってスバルは彼の変化が表情の微妙な緊張だけではない事に気付いた……名状し難いが、殺意とは決定的に違う何かの固い確実な意思が芽生えているのが見て取れた。

 「……と、そう言う事だ。No.9は、諦めろ。あいつは、俺が有効活用、してやる……本来の、使い方でな」

 「ま、待ってよ……! それだけは……!!」

 「触れるな、機械人形」

 「あぐ……ッ!!」

 不用意に接近した所為でもう一度顔面を鋼鉄の拳で殴打される……今度は鼻血が出た、と言うかかなり痛い、今度は側面ではなく顔面を真っ直ぐに叩き込まれたのでダメージが半端無く大きかった。両方の鼻の穴から酸素の豊富な動脈血を垂らしながらも彼女は寸でのところで耐え、再びトレーゼの許に駆け寄ろうとした。

 その時──、

 『お兄様! 緊急事態です! お兄様っ!!』

 トレーゼのすぐ目の前に開かれた映像回線からキンキン響く女性の声が飛び出した。この声には聞き覚えがある……クアットロだった。いつもの舐めるような口調はどこへやら、何やらとても緊迫した声色に部外者であるはずのスバルにも思わず緊張が走った。

 「この多忙な時に、何の用だ?」

 『そんな呑気にしていられる場合じゃありませんのよ!! 緊急事態ですってばぁ! 例の小娘……じゃなかった、“聖王の器”に事です!』

 「っ!!? ヴィヴィオがどうしたの!?」

 『せ、セカンド! どう言う事ですのお兄様!? 何故セカンドと行動を……』

 「詳しい事情は話さん。それよりも、何の問題が、発生した? 報告しろ」

 『あ、後で話してくださるんじゃないんですのね……。じ、じじじ、実は……非常に言い難いんですけど…………』










 亜麻色の髪と背中のシルバーケープが部屋に入り込む真冬の風にはためく……季節外れの大雨によって湿気を豊富に含んだその風邪を受けながら、クアットロは眼前の光景にただ呆然と立ち尽くすだけだった。映像回線越しの兄の目線がこの上なく痛い、無言の圧力が彼女がこれから言おうとしている事実を黙殺しようとしていた。

 「非常に……申し上げ難いんですけど…………」

 床に落ちている血液の跡に目を逸らしながらしどろもどろに現状報告を続行した。何故彼と共に居るのかは知らないがスバルの視線もどことなく痛かった。

 「えーっと、ぶっちゃけ、結論から言うとですわね……」

 再び視線を眼前に戻した。蝶番を溶接され固定されていたはずのドアはほんの僅かながら外側に向かって歪んでおり、外に向かって小さな隙間を広げていた。そう、丁度子供一人が通れるような、そんな小さな穴……。

 「脱走されちゃいました……高町ヴィヴィオに」

 軟禁アパートの部屋のどこにもヴィヴィオの姿は無かった。

 忽然と姿を消していた。

 クアットロも与り知らぬ一冊の本と共に──。










 午後14時17分、ナカジマ家の寝室にて──。



 「じゃあ結論として、向こう一週間私の昼食代を奢ってくれるって事で決定ね」

 「うぅ~、さらば私の小遣い……また会う日まで」

 与えられた仕事を忘れている訳ではないが、結局ティアナはそれからもナカジマ四姉妹と共に談笑に華を咲かせていた。雨は最初の時よりも激しくなっており帰るに帰れないと言うのもあったのだが、何だかんだ言ってしばらくこうして居たかったと言うのも大きかった。ここ最近ずっと根を詰め過ぎていてストレスを感じていたのだろう、心のどこかで息抜きを求めていたのかも知れなかった。

 「……って、ノーヴェいつの間にか寝てるッスよ」

 「やれやれ、仕方ないな。布団も被らずに寝ると風邪をこじらせると言うのに……」

 疲れていたのか、帰って来てからやけに静かだったノーヴェはいつの間にか熟睡しており、気を利かせたチンクが起こさないようにそっと毛布を掛けた。まぁもっとも、今更風邪を引く程にヤワな作りをしてはいないのだが……。

 ふと、カーテン越しの窓から外の風景を確認する。雨はまだ降りしきっており、道行く人々はその全てが傘を差していた。

 「それにしたって本当にどうかしてるわよね、この雨……。ちょっと前までだったらこんな天気無かったはずなのに」

 「これは、あれか? 今流行りの『温暖化』とか言うヤツなのか?」

 「いやいや、流行っちゃいかんでしょ。ま、私にとってはミッドの環境問題なんかよりも、明日起こるかも知れない刑事事件の方がよっぽど重要よ」

 「それは言えてるッスね。何だかんだ言って、私達だって明日の朝ご飯より今日の夕飯の方が気になるッスから」

 「それって私達が食いしん坊みたいじゃない」

 「実際多く食べるのは変わり無いッス。ま、スバルには負けるッスけどね」

 「って言うかあの馬鹿はいつになったら帰ってくんのよ? 病み上がりで一人暮らし復帰はまだ先のはずよ?」

 「そうだな……。雨が激しいからからかも知れないが、あまり遅いとこちらも迎えに行かなくてはならないしな。もう一度電話を掛けて確認して見るか……」

 チンクが再び受話器を取り、番号を押し始めた。

 「また何か賭けでもする?」

 「いいや、もう結構だ。どうやら私の運気は賭け事には向いていないらしい」

 そう冗談半分に笑いながらチンクは受話器の向こう側に居るはずのスバルが出るのを待った。だが……

 「……? おかしいな、全然出て来ないぞ」

 「大方寝てるんじゃないの? 一回こっちの携帯から掛けて──」

 そう言ってティアナが自前の携帯電話を取り出して同じようにボタンを押そうと指を伸ばした、その時──、



 ~~~~♪



 着信のメロディーが流れ出て来た。仕事用とプライベート用の携帯を二つ持っていない彼女は有事の際にどちらから掛って来たか分かるようにと、相手の電話番号ごとに着信メロディーを変えると言う工夫をしており、今掛って来ているのは仕事用の方だった。画面を見て相手を確認すると、以前に数回程度ながら共同で捜査を進めた経験がある執務官仲間からだった。

 「こちらティアナ・ランスターです」

 完全に仕事口調に切り替わった彼女を見てチンク達が一斉に押し黙る……ピリピリした神経質な雰囲気にそれぞれの緊張感がマックスに高まる中、用件を聞き終えたティアナが携帯の通話を切って立ち上がった。明らかに仕事モードの彼女にウェンディとディエチは気圧されて話し掛けられなかったが、唯一チンクだけが一言……

 「何かあったのか?」

 「…………チャンスが来たわ」

 「チャンス?」

 「ええそうよ」

 ジャケットを羽織りながら玄関に向かうティアナは傘を引っ掴んでドアを開けながら言った。

 「ヴィヴィオの魔力反応が検知されたわ!」










 雨の街を走るモノが居る……。傘も差さずに雨天の下を走破する“それ”はすっかり人気の無くなった道路を足音すら置き去りにして走る……。時折、自販機や停車中の車両と言った障害物を飛び越え、電柱を蹴って加速を付けながら道を走っていた。

 ふと──、

 「!」

 止まる。そして跪くようにして地面に手を伸ばす……。アスファルトで固められた地面を触っても水しかつかないが、その人物は付着した水分以外のモノを確かに感じ取っていた。

 「やはり、ヴィヴィオ・タカマチの、魔力残滓……」

 水がほんの僅かだが七色に輝くのを見逃さなかった。魔力素子の分解具合からここを対象が通過したのは約三分前……軟禁アパートからの距離を考えれば相当の速度で移動している事になる。彼女の放つ魔力パターンは三年前の騒動で管理局側には広く認知されているはず……だとすれば、既にこの付近に武装局員が展開していても何ら不思議ではない。場合によってはここら一帯を巻き込んでの戦闘も辞さなくなるだろう。

 「急がねば……。だが、その前に……」

 立ち上がり、トレーゼは自分の背後を鋭く振り向いた。彼の視界に飛び込んだのは今まで自分が追い越して来た街の風景と障害物、そして……。

 「何故、貴様がついて来る。セカンド」

 彼がクアットロの報告を受けてから捜索を始めて飛び出した時からずっと彼の背後からつけ回していた存在……明らかに着の身着のままと言った感じで防寒着を上に羽織ったスバルがそこに居た。手術したばかりの両足が痛むのか表情は険しく、息も絶え絶えだった。

 「させないよ……そんな事」

 「出来るか、貴様に。俺の、阻止が」

 瞳に宿っている決意は固いが、体力も気力も底を尽き掛けている事をトレーゼは見抜いていた。恐らくは文字通り全力を尽くして行動しているに違いない……だとすれば今の彼女を止めるにはその精神の奥底にある恐怖と言う名のストッパーを思い出させる必要があった。何か良い策は無いかと彼が思考を張り巡らせていた時──、

 「ッ!?」

 常時周囲に張っている彼の魔力感覚網がその有効圏内に強力なリンカーコアを持った人間が複数進入するのを感知した。目の前に居るスバルはこちらに注意を向けているので気付いていないようだが、その中には彼女の友人であるティアナの物も感じられていた。十中八九、ヴィヴィオの捜索に乗り出したに違いないと判断した彼は、それと同時にある考えが脳裏を過った。

 「…………おいセカンド、一つ……俺と、『ゲーム』をしないか?」

 「どういうこと?」

 「概要は、簡単だ。この場の、半径数百メートル圏内に、捜索に乗り出した局員が、やって来ている」

 「それがどうしたの?」

 「そいつらを、順に殺して行く」

 「な……!?」

 「ルールは、こうだ……。俺は局員を、殺して行き、全て殺し終えてから、“聖王の器”を、回収する……。お前は、俺を殺すか、俺よりも先に、“聖王の器”を、回収する事で、俺の行動を阻止出来る……。たったこれだけだ、簡単だろう?」

 「そんな事……出来る訳が……!」

 「やって見せろよ、セカンド……。局員の中には、貴様の友人とやらも居るぞ」

 「友人って……まさか、ティア!?」

 今のティアナは持ちデバイスを欠いている状態だ。流石に仕事で行動しているのなら代わりのデバイスぐらいは持っているだろうが、慣れたクロスミラージュではない武装で一体どれだけの立ち回りが出来るだろうか。その分を差し引いても彼女はスバル同様トレーゼに一度は敗北を喫した身だ、いくら気を引き締めていようが関係無く殺されるかも知れない。

 だが余計な思考に気を取られている隙を突かれ、スバルは目の前のトレーゼがISを発動させる瞬間を見逃してしまった。次の瞬間に彼の体は音速で空に舞い上がっていた。

 「早くしろ、セカンド。ランスターは、最後にしておいてやる」

 その言葉を最後に聞いた瞬間にスバルは両足の痛覚を無視して走り出していた。










 建物の屋根から屋根へと飛び移りながらトレーゼは眼下の人気の無い道路を注視した。天候だけでなく、元々ゴロツキが多いこの辺りは管理局の人間がやって来たと察知するやいなや条件反射的に息を潜めてしまうような所だ、ただでさえ人気が無い所が更に一層静かなものとなって彼の目に飛び込んで来る。

 だから見える──。今この一帯には自分とスバル、そして本部から派遣されて来たであろう局員しか居ないから。眼下の道を行く人間が自分の獲物……“殺害対象”なのだ。傘を差している上に私服で上手くカモフラージュしてはいるが、その利き腕は常にポケットに仕舞い込まれたデバイスを取り出せるように臨戦体勢を取っていた。相当な修羅場を潜り抜けて来た雰囲気が離れた場所に居るこちらにも伝わって来ている。

 だがそんな事は関係無い。

 足元に転がっていた拳大のコンクリート片を掴み上げると軽く握って強度を確認し……

 投擲!

 紅い花が咲くように局員の頭部が弾け飛び、水を湛えたアスファルトに胴体が叩き付けられた。十数秒間だけ四肢が死後の虫のようにピクピクと動き、やがて静かになる。脳髄を貫通したコンクリート片も地面に激突して粉々に砕け散り、凶器隠滅まで成功していた。

 「……まずは、一人目」

 死亡したのを遠目で確認した直後に彼は再び移動を始めた。

 今頃はこうした凶行に走っている彼を止めようとしてスバルも走っているだろうが、もしそうだったとしたらそれこそまさに彼の思うがままだった。彼が自分の行動を『ゲーム』と称したのには理由がある……別に彼自身が快楽殺人を行うような性格をしている訳では無く、ただ殺して行くだけならスバルの意志は揺らがなかっただろう、むしろこちらを阻止しようとする考えをより一層強めたに違いなかった。だからこそ、あえてこの殺人行為を『ゲーム』と呼称する事でこちらを殺人嗜好者の節があると思い込ませ、彼女の危機感と焦燥感を煽ったのだ。この仕掛けは彼にとっても賭けだったが、やって来た局員の中に彼女の友人が紛れていたのが幸いだった、お陰で彼女の緊張感がよりリアリティに満ちたモノとなったからだ。流石に数年以上も連れ添った者が危機に瀕しているともなれば彼女とて焦りを見せるはずだ。

 二人目を発見した。いや、正確には通行人の振りをして二人組で行動していた。実力は先程の奴と遜色無い。どうやら早くも自分達の仲間の一人が殺された事を勘付いており、纏っている雰囲気がかなりピリピリとしていた。安易に取り乱さない所は流石プロと言った所だが、果たしてさっきと同じ方法で同時に始末する事も出来るかどうか……。

 ふと、トレーゼの目に留まるモノがあった……。

 電柱だ。否、正確には電柱と電柱を繋ぎとめるモノ……電線に注目していた。実は電線と言うのはかなりの強度を誇っていると言う事実は余り知られてはいない……カラスが何十羽止まろうが暴風雨の直撃を受けようが切れない所を見ればその強度にも頷けるし、場合によってはそれこそ人間が一人ぶら下がっても簡単には切断されないだろう。そんな電力供給用の黒縄を見やった彼は目測で大まかな強度を計測した後──、

 飛び付き、そしてぶら下がった。

 機人の体重は常人の二倍以上であり、そんなモノをいきなり支える羽目になった電線は大きくしなった。そして最もしなった瞬間を見計らい、彼が魔力刃を飛ばして切断、ターザンロープの要領で地面に居る二人の背に強襲した。対象二人もこちらの存在に気付いてデバイスを起動させているがもう遅い……。トレーゼが着地した瞬間に雨水で濡れたアスファルトに高圧電流が流れ込み、局員二人が死のダンスを踊り始めた。エリオから電気の魔力変換資質を収奪していたトレーゼは電線から飛び出る電流を魔力に換えながらその二人を縛り上げ、電線に吊るし上げた。しばらくすると肉の焦げる悪臭が漂い始め、その二人は完全に高圧電流によって焼け死んだ。

 「これで、三人」

 予測ではあと同数だけやって来ているはずだ。早急に始末してヴィヴィオの捜索に向かわなければならない。

 その為に彼は再び走り出した。










 スバルは駆けた。鈍痛に悲鳴を上げつつある両足を鞭打ちながら彼女はトレーゼの奇行を阻止するべく走り続けていた。あちらが音速で移動しているのに対してこちらは鈍足も良い所、ウィングロードすら出せない窮地でありながら彼女は決して諦めようとはしなかった。自分の友人とその同僚の命が掛かっているのだから当然だ。

 雨が強くなる……霧雨も混じって視界を保つのが徐々に難しくなるが、走る分には全く問題ないので彼女はそのまま続行した。周囲に全く人の気配が無い事を不気味に思いながら、結界に囲まれた街角を彼女はひたすらに走った。

 ふと、目の前に──、

 人が歩いているのを見つけた。傘を差した私服姿の男性……通行人なのかも知れないが、今のこの場所はただの通行人が闊歩するには危険が過ぎる地域と化している。その事を伝えて早い内に退避してもらわなければ!

 そう考えたスバルは少し距離を置いてはいるものの大声で警告すべく肺に息を溜め込み──、



 その男性の頭に紅い花が咲くのを見た。



 「え────?」

 人間の頭頂部が一瞬で消滅し、頸部から剥き出しになった脊髄と食道の間から動脈血がポンプのように吹き出して胴体が地面に打ち付けられた。初めてだった、人が誰かに殺される瞬間を見たのは……。救援を欲する災害現場で何度も惨い死体を目にしたり、応急処置の最中で事切れたりする者を何人も見て来たが、明確な悪意と敵意、そして殺意を以てして殺された者を見たのは初めてだった。病死とも事故死とも違う決定的な悪意に塗れた冒涜的な死……人間として生きるに当たって絶対にあってはならない仕打ちを見てしまった彼女は、目の前の死体から出る血液の臭気とその根源となった悪意を感じ取ってしまい……

 「う……うぅ、げぇ!」

 横隔膜の反転運動による嘔吐……胃の内容物が黒いアスファルトを汚物の白に染めた。胃の律動が不快感が持続している事を嫌でも知らせてくれていた。

 「…………止めないと……」

 自分がこうして止まっている間にもあの無愛想な鋼鉄の戦闘機人は更に『ゲーム』と称して殺人を繰り返しているのだ。ここが戦場になるのも時間の問題……恐らく彼を止められるのはルール上とは言え権利を与えられた自分だけだ。

 急がねば。

 そう考え、彼女は再び走り出した。

 両足に軋みが走った。










 寒い……。

 冷たい……。

 凍えてしまいそう……。

 足の感覚はとっくに消えてしまい、抜け出した後は石を踏んでしまって痛い思いをしていたはずなのに、いつの間にか地面に足の裏が着いているのかどうかすら怪しく感じられるようになってしまった。

 「はぁ……はぁ……」

 もはや全身が氷のように冷たく固くなっている。それもそうだ、今の彼女の身を包むのは部屋を抜け出る際に引っ張り出して来た毛布一枚しかないのだ……始めこそ問題無いと思っていたのだが、冬の雨を見くびっていた所為で完全に寒さの虜になってしまっていた。加えてこの右腕の痛みだ、全身の感覚が麻痺していると言うのにここだけは歩いて体が揺れる度に激痛が走るのだ。

 だがまだ希望はある。いつだったか母が言うには自分の持つ魔力はかなり特徴的で、管理局はその魔力波のパターンを記録していると言うのを覚えていた。今こうしている間にも管理局がこちらのリンカーコアを感知して捜索してくれているはずだ……。

 歩こう。遠くには地上本部のタワーが見える……そこは街の中心部だ。頭の隅っこに僅かながらに残っている理性がこの姿で行く事に抵抗を覚えているが、命には代えられないのでここは何としてもこの一画を脱出するより道は無かった。

 ────ドサッ。

 「あ……!」

 脇に挟むように持ち歩いていたモノが落ちるのに気付き、ヴィヴィオは慌ててそれを拾い上げた。あの部屋から持ち出した赤い本だった。分厚いこれが彼女の歩みを更に遅くさせているのは明白だったが、恐らく彼女はこれを自分から手放す事はしないだろう……。

 「早く……行かないと…………!」

 もう膝と肘は完全に言う事を聞かずに曲がろうともしない……それでも彼女は歩みを止めようとはしなかった。ここで止まるのは諦める事、即ち不屈の精神を持つ母の教えを裏切る事でもあるのだ。それだけはどんな事があってもしてはいけなかった。

 そう決意を改めながら彼女がアスファルトを踏み締めていた時──、



 背後から肩を掴まれた。










 「はぁっ! はぁっ……!」

 その男性は管理局の執務官だった。まだ執務官試験を合格して一年と少しの見習いではあったが、仕事も人間関係もそつなくこなし、上司や周囲の人受けも良いと言うどこにでも居るような人間だった。社会人らしく控えめであり、上司からは将来成功するだろうと褒められ、彼を良く知る身内からは出世欲が無いなどと言われ、矛盾したようなそうでないようなと言う曖昧ながらも充実した日々を送っていたはずだった。

 彼は窮地に立たされていた。はっきり言ってしまえば『命の危機』と言う奴に瀕していた。もう少し正確に言えば、『まだ』何も起きてはいなかった。だがそれはつまり今から、これから先近い内に何か起こると言う事でもあった。

 乱れた息を整えつつ懐から銃器……いや、銃器形態のデバイスを取り出す。管理局内で一般に支給されているデバイスは杖型が多いが、彼ら執務官は長物である杖型よりも小回りと携帯に利便性の高い銃器型を好んで使用する傾向にあった。カートリッジが入っているのを感触で確認し、路地裏の入口に背中を貼り付けるようにして身を隠した。幸いにも今日のこの場所は人通りが全く無い……ここを根城にしているゴロツキ達が自分達の存在に勘付いていると言うのが大きな理由だが、今回はそれが大いに役に立っていた。相手はこちらにリンカーコアどころか魔力残滓ですら臭わせないプロのようだが、流石にこの自分たち以外に何の気配も無い場所で動きを見せれば即座に知れる。この賭けは自分達に分が良いはずだった。

 そう、はずだったのだ。

 人の気配が無いから相手の動向が分かり易いなどと高を括っていたのが愚かしかった。相手の方が紙一重、いや、こちらの何倍も上手を行っていたのだ。

 飛んで来る殺気! 殺気!! 殺気!!! 戦闘経験を積んでいるからこそ分かる襲撃者の気配が全周囲から矢のように彼の肌を突き刺していた。

 甘かった! 相手は気配を消すのではなく、逆に空間を自分の気配で滲ませる事で完全にこちらの感覚網を断ち切ったのだ。どこから攻めて来るか分からない……そして『未知』と言う思考に置ける無の領域が余計な想像を駆り立てる所為で、彼の精神は徐々に追い詰められて行った。しかもここで運が悪いのは、相手が完全に自分を抹殺している気で居ると言う事にあった。一応執務官の端くれでもある彼には相手の放って来る威圧感がどんな種類のモノなのか容易に判別出来た……残念な事に、これは脅しでもなければハッタリでも無く……

 本気だった。間違い無く自分は殺されるだろう。早ければ今ここで、遅かったとしても100メートル走を走り終えるタイムの後にはもう襲撃を受けた後かも知れない……。とにかく、相手が出て来たらその直後に勝敗……否、生死が決定しているはずだ。ともなれば先手必勝、先に相手を捕捉した方が勝ちとなるは必定。

 いざ、開戦!

 ポケットに仕舞い込んだ予備のカートリッジをいつでも取り出せるように片手でデバイスを持ち、壁の角から僅かに顔半分だけを出した状態で警戒を続ける。この勝負は先に相手を確認した方に軍配が上がる……油断は出来な──、



 ────トサッ。



 何かが落ちて来た。黒くて長い……電線だった。一瞬高圧電流の事が頭を過ったが、どうやら電流は止まっているらしく一安心してしまった。

 地面に落ちた『部分』が端を結んだ輪の形をしている事を見落として……。

 変化なんてモノは一瞬だった。輪から電線の余った部分が自分の頭上に伸びていると知って視線を上に向けると同時に、その輪が締まって足を捕られる状態になってしまった。当然とでも言いたげに変化はそれだけでは止まらない……足を捕った輪はそのまま頭上に伸びる電線に引っ張られて上に上がり、当たり前だが頭が下になった。アスファルトに叩き付けられた瞬間にデバイスを取り落としてしまったのが彼の運の尽きだとしか言えなかった……。

 一瞬で建物の上に釣り上げられて行くのを逆さに感じながら、彼は悲鳴も上げれずに為されるがままだった。そして、自分の体が建物の屋上に飛び出す瞬間──、

 自分とすれ違うようにして下に飛び降りる影を見た。

 釣り上げられた自分……対して電線のもう一つの端を持って飛び降りる“それ”の姿は、まるで悪魔のようだった。

 二つのベクトルが相殺し合い、彼の体は宙で再び頭を上、足を下にした。世界がスローモーションとなって彼を迎え、そして──、

 急降下! だが明らかに重力加速度的に合致していない速度だった。それもそのはず、下に飛び降りた“それ”が片手に握った電線を振り下げ、こちらを地面に叩きつけようとしているのだから。

 だが、既にそれを認識した時には加速は極限に達しており、成す術も無く彼の体は黒い地面に叩きつけられ……

 紅い花を咲かせた。










 電線はさっきの二人連れの局員を殺すのに使った物と同一の物だった。あの後電線の片方も切り落とし、死体を適当に転がしておいてからそのままこちらへと向かって来たのだ。ちなみにここへ来る道中にもう一人居たが、そちらも片を付けておいた。殺害方法は、振り回した電線の回転遠心力による撲殺だった。人体が刃物以外であれだけ鋭利に切れるとは、流石にトレーゼも電線に対する有用性を改めていた。

 これでもうこの街をうろついているのは自分とスバル、現在脱走中のヴィヴィオと彼女を捜索しているティアナの四人だけとなった。感知出来ているティアナの魔力反応が未だに街の一角をうろついている辺り、どうやらまだ発見には至っていないようだ。スバルの方は優先順位を自分からヴィヴィオの方に移したらしく、ティアナ同様に暗中模索と言った感じだった。

 つまりこの『ゲーム』の勝利条件は、先にヴィヴィオを発見した者が勝利者となる状況となっていた。さっさとスバル共々始末して回収に向かわねば……。

 と、ここで彼は街全体に存在するリンカーコア反応を一斉に検知し、確認を始めた。ヴィヴィオの特異性の高い魔力パターンは一度覚えれば簡単には忘れられない……すぐに発見に至った。

 だが──、

 「どう言う事だ……。移動速度が、上昇しているだと?」

 速い! ゴロツキ共の巣食う街の道路を彼女のリンカーコアが尋常ならざる速度で移動していた。推定時速はおよそ50キロ……明らかに人の足で実現可能な速度ではない。

 (速度からして、恐らくは車両……それも、バイクではなく、四輪車両か)

 何故彼女がそんな物に乗っているのかと言う疑問よりも先に解決すべき思考が彼の脳を染め上げた。とにかく追跡しながら考えよう。

 疑問その一、車両の運転手は一体誰なのか? まず考えられるのがヴィヴィオを回収しに来た管理局員と言う線だ。さっきまで自分が始末していたのは全て囮であり、その隙に魔力資質の足りない局員を一般人に紛れ込ませて救出に回す……なるほど、だとしたら良く出来た作戦ではある。払った代償はかなり大きいが、それなら彼女を連れ去る理由も明白だ。

 疑問その二、仮にそいつが局員で無いなら何者なのか? この疑問は最初の疑問が発生した際に自動的に生まれ出るモノで、管理局以外の人間が彼女を連れ去ったと言う事も考えられる。だがこの場合にしても奪還する事に変化は無いが。

 疑問その三、ではその目的は何か? 連れ去った者が局員でないならばその理由は何なのか? この疑問は一見素朴に見えて意外と重要だ、その目的の如何によっては彼女の命運は大きく左右されるからだ。

 「……急がねば」

 音速の翼を駆り、彼は一気に飛翔した。彼の目的はあくまでヴィヴィオの回収だ、それを逃せば計画は瓦解する。










 ティアナは目の前の光景に呆然としていた。雨音が激しくなるのを耳で感じながら、彼女は自分の意識が遠退きそうになるのを必死に堪えていた。彼女の強靭な精神をここまで追いやっているモノが何なのか……それはすぐ眼前にあった。

 今自分の目の前に広がるアスファルトの地面には紅い液体がぶちまけられていた……ペンキとも絵具とも違う粘着質で水より遥かに濃い液体が……。流れ出る液体の発生源もつきとめた……本来存在するはずの下半身を無くし、その切断面から大量の血液と内臓が入り混じったモノを噴出させているそれを。顔には見覚えがある、自分を呼び出したあの同僚だった。有給を取っている自分を呼び出して申し訳なさそうにはにかんだ笑みを浮かべていたのがつい数十分前の出来事だ……。始めに電話に出た時は少し腹が立ったが、この案件を最も気に掛けていた自分の存在を真っ先に呼んだと知った時は正直言って嬉しかったし、気が利く奴だとも思った。実力もしっていたし、他人のことではあるが簡単に死んでしまう輩ではないとも思っていたはずだった。

 だが死んでいる。結果として生物的に死んでいるのだ。上体と下体を真っ二つにされ、砕け散った肋骨が皮膚を突き破って飛び出している様は見ていて決して気分の良いモノではない事は確かだ。かつて仕事の関係で死人を写真や直接目で見たりした事はあったが、かつてこれ程までに『殺す』と言う行為のみを追究した結果の殺しがあっただろうか。銃撃戦の流れ弾で死んだ間抜けが居た……私怨を買ってしまって徹底的に蹂躙されて命を落とした者も居た……そのどちらも、殺すつもりは無く、もしくは『殺す』以上の事を追究した結果として死んでしまった者が殆どだった。だからこの死体には無駄が無かった……本当に『殺す』と言う一点のみを追究していたから出来る芸当だと見ただけで分かった。

 だがそんな自分が悲しかった。若くして“死”と言うモノに触れ過ぎた悲しい性だった。

 彼には悪いが死体は動かせない。連絡を入れて鑑識が死体状況を確認し、処理班が回収するまではここにこうして放置しておかないといけないのだ。忍びないが仕方の無い事だ……せめて祈りを捧げてからここを離れよう。

 そう彼女が目を閉じて聖王教式の祈りを済ませようとした時──、



 一台の車が脇の道路を通過して行った。



 目を閉じてしまっていた彼女はその車両のナンバーを確認する事も無く、そのまま車両の進行方向とは逆方向へと足を向けて行った。










 結論から言えば、今日と言う日を彼らは謳歌していた。彼らは商売人だった。商品を安値で買い取ったり引き取ったりし、それを買い取相手や依頼主が許容する限りの範囲内で高額にして売りつける……典型的な商売の基本とも言える行動を糧にして日々の暮らしを賄っていた。彼らの扱う『商品』は客層のニーズに合わせて値段が相当なモノが張ってあるが、その価格が仇となって収入は企業で手にする金よりほんの少し高いと言う程度だった。それでも彼らがこの商売を止められないのは、単にこの仕事について回るリスキーさが気に入っていたからでもあった。

 彼らの『商品』を得る方法は二つ有る。一つは自分達とは別の業者から買い取る事で、もう一つは……



 無料で拾う事だった。



 今日彼らが得た『商品』は上玉だった。プラチナブロンドの長髪にシミの無い顔、これだけでも充分に商品として成り立つが、何と言ってもその顔付きが逸品だと言えた。特筆すべきはその両眼、左右の眼球で虹彩の色が違うオッドアイがこの少女の値段を釣り上げる理由になっていた。たまたま今日業者の元へと商品の物色に向かっていた最中に見掛けた雨の中を裸足で歩く少女を見た時、彼らは直感的にこう思ったのだ、「売れる」と。

 だが当然不備もあった。既に誰かが遊んでしまった後なのか、顔以外の全身が傷に塗れ、右腕は眼を当てる事もしたくなくなるようなまでにボロボロに折られていたのだ。片腕は特に問題無いだろう、いざ売りつけるにしても買い取り先で抵抗力が通常よりも低いと言う点を逆に売りに出来る事もあるからだ。だが肌の傷だけは完全に値下げを考えなければならなかった。もしくは傷が完治するまで待ち、売る際に元を取るか……。どちらにしても、今の段階でこの少女が立派な商品だと言う事に相違は無かった。

 彼らの商売……それは身売りだった。扱っている『商品』の年齢は十代から二十代までの男女であり、その多くが不法滞在でミッドの戸籍上は存在していない事になっている者や、家庭の事情とか言うモノで身寄りが無く施設暮らしだった者を引き取ってそう言った値の張るモノに仕立て上げるのだ。

 こう言うと臓器をバラ売りするのを目的としているように思えるが、この現代社会において個人の内臓の不法売買ほどに危険な商売は無いのだ。人体の両手の指の数だけある内臓はどれも引く手数多ではあるが、裏社会での流通の広さが逆に仇となってすぐにアシがついてしまうのだ。流石にスリルを食い物にしているとは言え最低限の身の安全だけは保ちたいのが本心だった。

 とにかく、彼らの扱う『商品』は生きたまま『出荷』するのが売りだった。生身で鮮度の高い『商品』ほど値が張り、買い手も多くつく。時折、死体じゃないとイケないと言う稀有な客も居るには居るが、そう言った客に対してもニーズ通りに答えるのが商売と言うモノだ。だがそう言った連中は本当に極稀で、大抵は男だろうが女だろうが取り合えず“穴”が開いていればそれで結構と言う者達ばかりだった。そう言った意味でもどっちかと言えば女の方が重宝するのは変わり無いが……。

 運転している方の男は時々自分の右腕を擦りながら頻りにもう一人の仲間が乗っている後部座席をミラーで確認していた。何事にも対価は払わねばならない……今回の件も掘り出し物とは言えタダで手に入れた訳ではなかった。小さな体を車に乗せる際に思い切り噛まれたのだ。歯型からは少し血が出ており、相当の力を振り絞った事が見て取れる。護身兼鎮圧用に使っているスタンガンで黙らせた後、上に羽織っていた毛布ごと麻縄で縛り上げ、悲鳴を上げたり二度と噛めないように口もガムテープで封じ、今は後部座席の更に後ろに位置する荷物用スペースに放り込んである。一応うるさくしようものなら後部席に乗ったもう一人が即座に頭を叩いて黙らせていた……車の中とは言え騒がれれば勘付かれる恐れもあるからだ。

 だがその苦労もこの金の卵が元を取ってくれると思えば何の事は無い……たった一度の売買で膨大な金が入り込むからこそ、この商売は止められないのだ。

 取り合えずは『売り』を決めておかねば……。金髪に異彩症と言うだけでも充分だが、右腕と全身の傷痕はどう説明したものか…………。

 と、そんな風に男が少女の値段を熟考していた時──、



 眼の前に一人の少年が現れた。



 この路地は一本道だ、車はおろか自転車すら通れる横道は無い。それに確かに自分は時折背後の少女に視線を移してはいたが、目の前の状況を見逃すまでに注意散漫だった訳ではなかった。

 にも関わらずその少年は居る。まるで始めからそこに居たかのようにしてこちらに見えるように自分の右手を突き出し、親指を立てている。傘は差していない……ヒッチハイカーなのか? だとしたら別に気にすることはない……そう思って彼らはそのまま通過しようとアクセルを踏み込んだ。

 Zoom Zoom!!

 エンジンが凶暴な音を立てて加速し、周囲の風景と同じように少年を置き去りにしようとした。

 だが次の瞬間、運転席に座っていた男の視界が白に染まった。それが衝撃防止用のエアバッグだと気付くのにそう時間は掛らなかった。車両が大きな物理的衝撃を受けない限りは決して作動しないはずのそれが何故出て来たのかと言う疑問が発生したのと、タイヤが激しく地面と摩擦を繰り返す耳障りな音に気付いたのは同時だった。回転係数が上昇するに連れて摩擦熱が上がり、周囲を白煙が取り巻き始めた。

 その時、男は聞いてしまった。少年の口元が微かに動いて言葉を発するのを……。



 「……置いて行け、クズ共」










 結局はこう言うパターンでしかなかった。この周辺に住みつく輩の中にはこうして子供の体を文字通り食い物にして生計を立てている連中も多く、ある程度肉体が成熟していれば女だろうと男だろうとお構い無しな下種共の集団があるとは聞いては居た。買い取ったり拾って来た者を徹底的に調教して飼い馴らす事で売り物にしてそう言った趣味の連中に高値で売り飛ばす……バカでも充分考えつくやり方だった。

 四輪駆動でも無い車両を真正面から物理的に停止させる事などトレーゼにとっては造作も無い事だった。彼の腕力で止められないのは全速力で走るリニアのみ……乗り込んでいる男共は何が起こったのか把握しかねるような驚愕の顔付きでこちらを凝視していた。その視線は徐々に恐怖に彩られて行き、後部座席に座っていた方の男が発しただらしない悲鳴が上がった瞬間にピークを迎え、脱兎の如く車を捨てて走り去ろうとした。

 しかし──、

 「待てよ……」

 一閃、黒縄が薙いだ。脊髄を背後から襲った衝撃を感覚で捉える事も無く、二人の男の首は見事に胴体と泣き別れを果たす事となってしまった。この日トレーゼが学習した知識は、「電線は見た目以上に武器になる」と言うことだった。用済みになったそれを腰に巻き付けた後、彼は車の後部に回って荷台スペースのドアを抉じ開けた。バイタルを確認する限りでは生きてはいるが、かなり衰弱し切っていた……このままでは生命の危機も考えねばならないと判断し、トレーゼは虫の息となっているヴィヴィオを抱き起こそうと腕の間に手を差し込んだ。

 「──ッ!!」

 危なかった、後もう少し接触していればこのか弱い少女の口から激痛に喘ぐ絶叫が飛び出していただろう。右腕の骨が折れていた、それも尋常な折れ方ではない……二の腕の方はもちろんの事、手の指に至っては何本も開放骨折を起こしていた。事故ではなく明らかな人為的なもの……中世欧州の魔女狩り裁判官でもこれを見たら卒倒するぐらいに酷いモノだった。既に傷口からの失血量も危機的で、あと数時間も放置すれば例え一命を取り留めたとしても右腕の再生は難しくなるかも知れないと言う瀬戸際だった。

 どうする……? 生憎だが自分には治癒魔法に関する知識は殆ど無い。戦闘機人はその全てが大抵の傷であれば即座に再生可能なだけの自然治癒能力を付加されているので元々応急処置を殆ど必要とせず、尚且つ多少内部フレームが破損しても動けるだけの性能も持ち合わせているので個々の治療知識は皆無に等しいのだ。精々塩酸を掛けられた皮膚の表面だけを治す程度でしかない。だがこのまま放置する事は出来ない、彼女はこの計画に置ける要の一つなのだ。

 「…………おい」

 その時、彼は気付いた。

 「見張っているにしては、下手だな。こっちへ、来い」

 自分の背後に居るその人物に。



 「セカンド」










 「あー、もしもしウェンディ? 私よ私。……はぁ? あんた人の事をオレオレ詐欺みたいに言ってんじゃないわよ。…………別に……ちょっと誰かの声聞きたくなっただけよ」

 雨が降るのを傘で防ぎながらティアナはポケット出した携帯電話をナカジマ家に居るウェンディに掛けていた。雨水の打ち付ける音がうるさくて聞こえ難いが、それでも誰の声も聞こえないこの状況に甘んじるよりかはずっとマシだった。受話器越しのウェンディはそんな彼女の心境を察したのかただ大人しく耳を傾けてくれているようだった。

 「ねぇウェンディ……生き残るって辛いわね。はぁ? …………まぁあんたには分かんないかもね。だからこう言う事も言えんのかしら……」

 雨音が少し激しさを増したような気がした。ティアナは目の前のスペースを通る人間の為に少し道路の端に身を寄せた。そのすぐ前を同じ格好をした幾人もの影が通り過ぎる。

 「私って悪運強いのかしら……。今までだってそうだった、スバルの時だって……多分これからも私は何だかんだ危険な目に会っても生き残るわね……。如何なる危機的状況に陥っても必ず生き残る……これが自分の事を凡人だと思ってた私の唯一の才能なのかもね」

 目の前で青いビニールシートが広げられて行く……さっきまで生きていた者の最期の姿を他の者の邪推の視線から守る為のそれを呆然と見つめながら、彼女は言ってしまった。

 「全員死んだわ……知ってる人も知らない人も…………全員殺された。決して間抜けていたわけでも、油断してた訳でも無いはずなのに……何でよ、何でいっつもこうなるのよ!!」

 慟哭にも似た叫びを死体確認を行う鑑識達は聞き流す……もうこの街にヴィヴィオの魔力は感知出来ず、恐らくは再び敵に捕えられたか、最悪の場合──、

 鑑識が確認するべき死体がもう一つ増える事になるかもしれないだろう。

 いけない……強烈な吐き気が胃の辺りを掻き回す感覚に思わず身を屈める。どうやら一度吐いてしまわないと収まらないようだった……ここでは鑑識の迷惑になる、そこの路地裏に行こう……。

 そう思って彼女がよろけながら路地裏に消えたのと──、



 その反対側の道路から一台の車両が通り過ぎて行くのは同時だった。










 青いビニールシートが窓の外の風景に混じって目に映えた。間違い無く死体を取り扱っているに違いない。

 そんな事を考えながらもスバルは左手に魔力を集中させてヴィヴィオの圧壊し掛けたような腕に痛覚を和らげる治癒魔法を掛けていた。救助隊に所属する彼女にとって傷の応急処置は常識の範囲内だったので、それを目に付けたトレーゼによって移動しながらの治療となった。ただ彼女自身これ程までに被害の大きい骨折を見た事が無かった。

 「……これってトレーゼが……?」

 「何の意味がある」

 「じゃあさっき言ってた人達が……?」

 「奴らは、文字通り、人の肉体を、売り物にしている連中だ。そんな奴らが、わざわざ自分達で、値を下げるような事はしない」

 運転席に座ってハンドルを切るトレーゼはミラーでこちらも確認もせずにそう一蹴した。彼は敵だが、基本的に有言実行であるのでその点だけは信用しても良さそうだった。だがそれだと一体誰がこんな事をしたと言うのだろうか? 右腕だけなら何かの事故でと言う事も有り得るが、それでは全身の痣が説明出来なくなる。それに何故部屋を脱出するだけなのに彼女が毛布以外には一糸纏わぬ無防備な姿なのか?

 「それも、今から確認する事だ」

 車体が大きく右に揺れてカーブを曲がった事を知らせる……。運転席に座ってから一度もこちらに顔を向けようとしない彼ではあるが、その背中からは得も言われぬ名状し難い圧力が発せられていた。『怒って』いるのだ、彼と必要以上に長く接していたからこそ分かる、彼は今途轍もなく怒っていた。

 ふと──、

 「ねぇ……」

 「何だ?」

 「この本って……何?」

 スバルが示しているモノ……それは彼女がトレーゼによって半ば強引に乗せられた時からここにあった一冊の赤い表紙の本だった。健在な左腕でそれを大事そうに抱えるヴィヴィオの姿を見て始めは彼女の物なのかと思ったのだが、拉致された時には彼女は一切の私物を持ってはいなかったはずだと思い出した。では一体どこにあった誰の物なのか……スバルは純粋にそれが気になった。

 「…………俺のものだ」

 「そうなの?」

 気になる……必要の無い私物は決して身に付けないし、また所有する所も決して想像出来ない彼がどうしてこのような本を持っているのか。恐らくそれは彼にしか分からないだろうし、きっと教えるような柄でもないだろう……。

 「……見たいなら、勝手に見ろ」

 「良いの?」

 「好きにしろ…………。何故こいつが、それを持って出たかは、知らんが、それは後で聞けば良い」

 車が停止した。どうやらここが目的の場所らしい……このアパートの一室を借りてそこにヴィヴィオを閉じ込めていたのだろう。確かにこの建物の周辺には微弱ながら魔力伝播阻害用の結界が張られていた痕跡が感じられ、二階の一室のドアがへし破られていた。

 「ここで待て。俺は、道具を取りに行って来る」

 「部屋に運ばないの!?」

 「馬鹿か貴様は。その状態の体を、無理に運び出せば、傷口が更に広がる」

 「あ……そうか」

 既に息も絶え絶えなこの少女をここへ連れて来るだけでも安全運転を期して来たのだ、ここから先無理に連れ出す事は確かにナンセンスだろう。

 「逃げるな……と言っても、聞かんだろうから……」

 「っ!?」

 車内の至る所から触手のように伸びて来た紅いバインドがスバルの体を固定した。その後彼女の抗議の声も聞かず、彼は座席に展開した魔法陣と共に空間転移して行った。恐らくは自分達の隠れアジトに向かったのだろう。

 「……………………ねぇヴィヴィオ……私もう疲れたよ……」

 抵抗しても無意味な事を知っているスバルは自身を縛り上げる拘束糸を引き千切ろうともせず、そのまま座席に座り込んだ。エンジンを切った車内に外の冷気が流れ込むのを感じながら彼女は自分が無性に悲しくなるのを感じていた。

 止められなかった……彼を、彼の凶行を、自分では結局止められなかったのだ。無力……自分は無力だと思い知らされた……知ってはいた、自惚れていた訳でも無いので自分の実力だって知っているはずだった……。

 でも悲しかった。涙も枯れ果てるぐらいに、ただ悲しいと言う感情が彼女を責め立てているだけだった。



 人、これを虚無感と言う。










 ラボの中央のスペースでクアットロは地面に座らされていた。冷たい金属の感触が脛を伝って来るが、今の彼女にとってそんな事は別段気にするべき事でも無かった。と言うより、彼女が気にするべきものはもっと他にあったからだ。

 「さて……事情を、聞かせてもらおうか、クアットロ」

 死肉を狙って上空を周回するハゲタカのように自分を中心にしてグルグルと歩く兄の言葉を耳にした時、彼女は自分でも無意識に背筋が緊張するのに気付いた。もちろん気温の低さでそうなったのではない事ぐらいは自覚していた。

 「な、何の事でしょうか……?」

 「とぼけるな。お前が謂われなく、“聖王の器”を、迫害していた事ぐらい、とっくに予想できた」

 バレている……! だがまだ言い逃れの余地はあると判断したのかクアットロは大袈裟に大手を振って弁明した。

 「そっ! それはあれですよ! あの右腕はきっと勝手に脱走した後に何かあって、それで骨を折ったんじゃないでしょーか……なんて、アハハハ」

 「ほう、そうか……。確かに、その可能性も、無きにしも非ず、ではあるな」

 「で、でで、でしょう!? ですからぁ、そう言う事なんですよ~」

 「そうかそうか。なら聞くぞ、クアットロ」

 とん……。



 「何故、負傷している箇所が、右腕だと分かった?」



 頭に軽く手が触れた。例によって氷よりも冷たい兄の手が触れ、彼女の震えはその冷たさと相まって最高潮に達しようとしていた。そして上げられない……別に剛腕で無理矢理捻じ伏せられているのでもないのに、彼女は自分の押さえられた頭を上げられなかった。否、『上げてはいけなかった』と言うべきだろう。上げれば殺されると言う無意識の脅迫観念が彼女に自分の頭部を動かす事を許さなかった。

 そして、問われている。『問う』と言う行動をされている以上、その問いには絶対に『答え』ねばならず、そして相手もそれを強制していた。

 「俺は、ただの一言も、右腕を負傷しているとは、言っていないぞ。なのにお前は、骨折していると、負傷状態まで知っている…………どう言う事だ?」

 「そ……それは、その……」

 「あとそれと、血中から微量だが、毒物が検出された……。筋肉の収縮を司る神経に、変調を来たす効果を、持っていたぞ。以前、お前が倉庫から、持ち出した薬物で、精製可能なモノだった」

 「ああああ、あの、それはですからその……!!」

 「食事分として、取っておいた保存食も、一個も減っていない……これは、どう言う事だ?」

 「……………………」

 クアットロに残された選択肢は『沈黙』……都合の悪さをひた隠しにしようとする弱者の最後の判断だった。

 だが──、

 トレーゼはその『返答』をよしとはしなかった。

 「────クズが」

 「へぶっ!!?」

 伊達眼鏡が粉々に弾け飛ぶ……冷たい床の感触が顔面一杯に広がり、前歯の一本が不自然な音を立てた。ただ叩き付けられただけではない……鼻の穴を塞ぐように横向きに押さえつけ、尚且つ視線も上げられないように前のめりにして叩き付けていた。

 「クズ……」

 更に圧力が増す……。頭蓋骨が不気味な音を立てるが抵抗する気も起きないクアットロはただ黙ってそれを享受すしているしかなかった。

 「クズ、役立たず、減らず口、使えない、能無し、穀潰し、木偶の坊、塵芥、ゴミ屑、売女、アバズレ、底辺…………この地上に存在する、あらゆる罵詈雑言の言葉を以ても、今の貴様を形容するには、足元にも及ばんな。なぁクアットロ、我が愚妹……教えてくれ、貴様は何だ?」

 「な……偉大なるDr.スカリエッティの崇高な計画を遂行する為に生み出された……ナンバーズ、その四番です……!」

 「ならば、ナンバーズとは、何だ?」

 「き、機兵ですっ。一切の私情を持たず、主の命令には絶対遵守し、そして完遂する兵士です!」

 「だが、貴様は私利私欲に走った」

 ゴツ……。

 「ぐぅ!!」

 「貴様は、自身の低俗な欲求を満たす為に、計画の第一の要でもある、“聖王の器”に、手を出した……。一歩間違えば、貴様の所為で、この計画は瓦解する所だったぞ、貴様の所為でな」

 「っ! 申し訳ありませ──ぐぅあっ!!」

 「謝るな……。謝罪とは、責任逃れの、行為だ…………俺が貴様に、そんな行為を、許すと思っているのか?」

 一旦手が離れるが、間髪入れずに兄の足が頭蓋を踏み砕かんばかりのパワーで振り下ろされた。

 「貴様の行為は万死に値する……本来ならば、この俺が、直々に処分するのだが…………そう、本来ならな」

 散々足蹴にした後、彼は歯茎から血を出してボロボロになったクアットロの顔を上げさせ、その顔を包み込むように手で覆った。慈悲に満ちた兄の行動に一瞬呆けながらも彼女の顔には安堵の表情が生まれた。涙を流しながら目の前の兄を崇めるような視線で見上げ、彼女は最後の希望に縋った。

 「安心しろクアットロ、俺は貴様を、赦してやる。貴様がした、愚かな行為の全てを、俺は赦してやる……」

 「あぁあ、お兄様……なんとお優しい……。このクアットロ、幸せ者だと今実感しましたわぁ」

 「そうか、それは良かった……。なら、手を差し出せ、クアットロ、右腕だ」

 「あ、はい! そんなものでお許ししてくださるならもう喜んで!!」

 感極まっていた彼女はもうまともな思考をする事が出来ず、結果として何の疑いも無く自分の右手を差し伸べた。トレーゼはしばらくそれを見た後にそっと一言──、



 「要らないな、こんなもの」



 「え────?」

 懐から取り出したブレードを振り下ろし、彼は切り落として見せた。腕を……自分の妹の右腕を無慈悲に、何の遠慮も容赦も情けも無しに、彼は不必要だと言って切った。

 「あ……? あぁぁあ、ええぁああぁあああっ!!!」

 「良いだろう……俺は貴様の愚行を、たった腕一本で赦すんだ……。優しいだろう? 俺は。喜べよ、涙と鼻水で見る影も無い顔を擦り付け、額が擦り減るまで頭を垂れて、俺に感謝しろ……」

 「ああぁう……ええぇがぁああぁ」

 「貴様には、自死の権利すら、与えるものか……。片腕だけでも、使えるだろうからな、これからも役にたってもらうぞ」

 切れ飛ばした腕を拾うとそれに高圧電流を流し込んで消し炭にし、更に炭化して黒くなったそれをボロボロに砕き潰した。後に残ったのはかつてザクロ色をしていた肉片と、電流を流されながら変質しなかったフレームの金属片だけだった。それを足で蹴散らし、痛みに咽び泣く妹に一瞥もくれず、彼は再び転移魔法でヴィヴィオとスバルの待つ場所へと姿を消した。










 再び彼が姿を現したのは車の運転席だった。器用に隣の助手席に道具一式を詰め込んだアタッシュケースまで転送し、彼はすぐさま背後のスバルに命令した。

 「後部座席を折り畳め。スペースを作る」

 「そ、そうだね……って、ちょっと何それ!?」

 スバルが驚愕して指差す物、それは巨大なビニールバルーンだった。だが彼女はこれが何なのか知らなかった訳ではない……救助隊に居る彼女にとってこれは現場ではありふれて目にする機会がある物だった。内部にポンプで空気を入れ込み清潔な空間を作り出し、その中に重傷者を入れて緊急手術を行う為に使用される一種の疑似手術室だ。当然説明したように、そんなモノを使う場面など限られている訳で……。

 「ワゴンで幸運だった……今から、こいつの手術を行う」

 「手術!? こ、ここで!?」

 「当然だ。貴様も、これを着ろ!」

 ケースから引っ張り出された白衣を投げつけながらトレーゼも同じ白衣を着始めた。臭いで分かる……間違い無く手術用の清潔な白衣だった。着終わったのを見計らったトレーゼが更にゴム手袋を投げ渡し、ポンプを使ってバルーンを膨らまし続け、それもある程度終わると再びスバルに命令した。

 「入れろ。ゆっくりな」

 車内一杯に膨らんだその殺菌空間の中にヴィヴィオを入れるように促され、スバルはその勢いに呑まれるように自分のすぐ傍で呻き声を上げている少女を片手で持ち上げようとした。

 だが──、

 「む、無理ぃ……! 上手く力が入らない」

 せめて相手が負傷していなければ片腕だけでも充分持ち上げられたのだが、全身を打ちすえられている上に右腕がここまで破壊されていては無理に抱き上げるのも困難と判断して微妙な姿勢で起こそうとしたのだが、それも無理だった。

 「阿呆か、貴様は。そう言うのはな……」

 一旦車外に出たトレーゼはスバルの隣までやって来るとヴィヴィオに手を伸ばし……

 「ふん……」

 淡い紅い光がヴィヴィオの体を包んだ直後、彼女の体はふわりと浮かび上がり、そのまま彼の意思で殺菌空間の中へと運び込まれた。

 「頭の回転が遅いのは、損しか生まないな」

 「…………私、手術した事無いよ?」

 「誰も、メスを握れとは、言っていない。切り裂くのも、取り除くのも、縫合するのも……全て俺がやる」

 「経験あるの!?」

 「無い。だが、知識はある。貴様は、動脈の止血と調整、麻酔の代わりとなる、魔力を流し込むだけで良い。それ位は、知っているだろう?」

 「痛みを和らげる奴なら少しは……」

 「結構だ。なら、始めるぞ」

 白衣を収納していたアタッシュケースから銀色に輝く棒の様な物体を取り出す……メスだ、恐らくこの世に存在している刃物の中でも最も鋭いであろう物体がトレーゼの右手に握られていた。

 「ボヤボヤするな、脇を縛って、止血しろ」

 「本当にするの? ちゃんと病院に連れてった方が……」

 「こいつは、計画の要だ。ここで失う訳にはいかん」

 「何よそれ……何でもかんでも二言目には計画計画って……ふざけないで!」

 「なら、ここで止めようか? ここまで保っただけでも、充分奇跡だ……このまま放置すれば、腕一本では済まないぞ」

 「それは……!」

 「それとも何か……? このまま、いっそひと思いに、始末した方が良いか?」

 メスの切っ先が朦朧としているヴィヴィオの額に突き当てられた。そしてそのまま正中線を辿るように額、鼻先、口元、喉笛……最後には乳房の間から少し左に位置する部分を先端で軽く突いた。心臓、肋骨に当たらずに刺せば間違い無く心臓と肺はズタズタに引き裂かれるだろう。もちろん、そんな事をすれば死亡するのは必至だ。

 「……………………」

 「……交渉成立だ」

 沈黙を恭順と受け取ったトレーゼは胸元から切っ先を離し、それを右腕に移した。

 「さっさと、止血しろ。ついでに、麻酔もな」

 「…………今だけ……そう、今だけだから」

 他の誰でもない自分に言い聞かせるような口調でスバルは呟いた後、ヴィヴィオの脇をタオルできつく締め始めた。そして彼女の腕全体を包み込むようにして左手から魔力を集中放射、痛覚を司る神経に働き掛けを試みた。麻酔薬を用いないのではどれ程の効果が望めるかは分からないが、せめて気休め程度であっても無いよりかはマシだ。

 「準備は良いな……では、始めるぞ」

 充分止血された事を確認した後、トレーゼは少女の白い柔肌に銀色に鈍く輝く刃を突き入れた。



 こうして世にも奇妙な組み合わせの初の共同作業の幕が切って落とされた。




















 新暦90年某月某日、地上本部第七演習場上空にて──。



 空を飛ぶのは気分が良い……時にはその物理的高度から優越感をも抱かせる事から尚更気分が良くなる。飛行と言う技術は魔導師の中でも専門の知識を持ち、基本的な基礎訓練をしっかり受けた者が使える技能であって誰でも簡単に出来ると言うモノではなかった。先天的な魔力資質の面で空を飛べない者も居れば、その反面で飛行機よりも早く鳥よりも優雅に舞い飛ぶ者も居るのが現状だった。

 “彼女”もその一人だった。演習場の上空は様々な高度を飛び交う魔導師達が各々の練習の為に飛行訓練を続けており、その中から一人の少女が地上へと戻って来た。そのまま汗を拭き取りながらベンチに入って飲料水のボトルを手に中身を一気飲みした。その隣ではバリアジャケットを展開している教官らしき人物が空を見上げており、未だ飛び続ける訓練生達を監視していた。

 「始めの頃よりずっと上達したね」

 「そうですか? 先生に比べたらまだまだです」

 「謙遜しなくても良いよ。初めて飛んだ時から何か才能みたいなの感じてたから、きっと上手くなるって。ひょっとして、私以外の上手な人に教えてもらってた?」

 「あ、はい! 叔母さんが暇な時に少しだけ……」

 「えっと……叔母さんって、どの叔母さん?」

 「そ、そうだった! すみません! 私の叔母さんって何人もいますから……。あの~、何年か前に航空部署って言う所で働いていた方です」

 「あー、納得。あの子は飛ぶ事に関しては私よりずっと上だからね」

 「でも本当はあの人よりも、あの人のお姉さん……伯母さんの方がもっと凄いらしいです」

 「あはは、あの人はもう別格だよね」

 まるで友達同士で話しているかのような気軽さで歳も階級も離れた二人はそれからも数分ぐらい会話を続け、時に笑い声を交えながら女性特有の賑やかな談笑に華を咲かせた。やがてある程度時間が経って全体の休憩時間に入る為に上空の訓練生達に点呼を掛けようと教官がベンチを立ち、杖型デバイスの先端に信号用の閃光弾を放つ為の魔力を集中し始めた。

 だが、いざその魔力弾を空に向けて打ちだそうとした時──、



 大気を震動させる爆音と、大地を揺るがす振動が彼女らを襲った。



 「うぇ!? な、ちょっ、地震!?」

 異変に気付いた、と言うよりは異変に思い切り当てられたのは当然彼女だけではなく、上空に居た訓練生達の間にも動揺が走った。クラナガン中に響いたに違いない爆音はそれだけ凄まじいモノで、すぐさま彼らは地上に居る教官の元へと一直線に戻って来て指示を呷った。

 だが、そんな混乱に彩られている彼らとは対照的に教官の反応は極めて淡白であり、映像回線で確認を取った後で事も無さ気にこう言った。

 「第一演習場で行われた模擬戦の余波だって。気にしなくていいよ、いつもの事だから。あ、でも偶に大き目の破片が飛んで来る時があるから気をつけるように!」

 第一演習場と言えばこの地上本部が有する屋外訓練施設の中で最も規模が大きな場所だ。あそこが第一でこちらが第七……単純な直線距離でも相当あるはずなのだが、そこからあれだけの爆音となれば一体発信源ではどんな事が起こっていたのやら……。教官はああ言っていたが、本当は戦争が勃発しているのではと言う疑念が訓練生達の間で芽生え始めた。

 「あの……第一演習場って……」

 「えーっと、今使ってる部隊は…………あ、やっぱり。古代遺失物管理部及び半独立次元世界治安維持機動部隊が使ってる」

 「え、えっと……つまり……?」

 「『機動七課』。昔あった機動六課の常駐バージョンってとこかな」

 機動六課……管理局、少なくともこの地上本部では知らない者は居ないだろうとされる部隊であり、通称『奇跡の部隊』とまで呼ばれる程の実績を上げた事でも有名だ。かつてこのミッドで起きたT・S事件の次に最悪と言われるJ・S事件を解決したかつての英傑達は、その大半が各々の進む道を歩んでおり、現在存在している七課はそれを前身にしていると言う事以外はメンバーの殆どが別の部署に所属しているらしい。

 「そう言えば、七課のフォワードって確か……」

 「はい……お父さんが隊長をやってる所です」

 「じゃあさっきのも……?」

 「多分……。お父さんって手加減してくれませんから……。おまけに全力全開ですし」

 「あははは……演習場の整備の人、また泣いてるだろうなぁ」

 「そうですね。でも! 私、いつかお父さんの居る部隊に入りたいんです。お父さんと一緒に空を飛びたいから……」

 「行けるよきっと。お父さんの事は好き?」

 教官が微笑みを浮かべて問うて来たそれを少女は更に天真爛漫な笑顔と、自信に満ちた声でこう返した。



 「はい! 大好きです!! 優しい私のお父さんですから!」



 「そう。だったら頑張らないとね」

 「はい! あ、もちろんお母さんも大好きです! お姉ちゃんも大好きです!」

 「うんうん。好きなモノが多くて大いによろしい!」



[17818] 彼にとってはどうでも良い出来事
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/10/22 23:41
 11月20日午後16時24分、アパート駐車場に停車した車内にて──。



 手術は続いていた。重要な血管と神経を傷付けないようにメスで切り込みを入れ、内部を傷付ける恐れのある骨片を除去しつつ、時折細胞に酸素を供給する為に止血を解いて染み出した血液で手を赤く汚しながらもこの奇妙な手術は続行されていた。通常の麻酔をまるで投与されていない為、肌に刃を入れたり骨を生分解性ワイヤーで固定する度にヴィヴィオが苦しそうに呻き声を上げるが、余計な動きをして手元が狂ってはここまでの苦労が水泡に帰すのでトレーゼはその度に彼女の体を剛腕で押さえつけた。

 だが余りにも彼女が痛がる様子を見かねてトレーゼは苛立つような口調で麻酔の代用となる神経麻痺の魔力を流し込んでいるスバルに問うた。

 「おい、集中しろ。こいつが、激痛でショック死しても良いのか」

 「無茶……言わないでよ。こう見えたって……かなりキツいんだから……」

 かれこれ二時間近くに渡って魔力を垂れ流しにしているスバルにとってこれ程の重労働は無く、既に体力も気力も底を尽きかけている状態だった。左手から放出されている魔力の波長も徐々に弱まりつつあり、流石にこれでは手術に支障を来たすと判断した彼は……。

 「どけ!」

 「あうぁ!」

 メスと異物除去用ピンセットを脇に置き、彼はスバルを突き飛ばした。当然その瞬間に魔力供給が停止し、ヴィヴィオの顔にそれまで見た事も無い苦悶の表情が浮かび上がった。手を思い切り切開されている状態で麻酔が切れればその痛みは計り知れないのは当然だろう。だがトレーゼは間髪入れずに手をかざすと自身の膨大な魔力を一気に放出し、その右腕を取り巻くように三つの環状魔法陣を展開させた。

 「これでしばらくは、保つだろう。その間に、魔力を溜め込んでおけ」

 行使された魔法は強力なモノで、酸素供給と痛覚遮断の効果を持っているようだった。だがこの魔法は対象が動かないままで居る事が大前提であり、もし対象が腕を動かしたり魔法陣の範囲内に異物が入り込んだらその瞬間に解除されるものでもあった。つまり、これはあくまでその場凌ぎの時間稼ぎ用だと言う事だ。

 だが何はともあれこれで一息つける……安堵の溜息をついてスバルはその場にヘタり込んだ。戦闘行動以外でこれだけ魔力を消費したのはここ最近の彼女の行動では余り無かった事だった。災害現場も戦場と相違無いぐらいにまで過酷な場所ではあったが、それでもやはり倒すべき敵と倒される自分と言う緊張感が無い事からそれほどまでに疲労を感じる事は少なかった。その点で言えば今回の件は緊張と疲労感がピークを保ち続けた所為で一旦それが解けると彼女は自分の全身から汗が噴き出るのを止められなかった。

 対するトレーゼの方はと言うと、精巧さと迅速さを求められる手術をたった今さっきまでこなしていたとは思えない程の冷静な表情で、スバルと違って汗一つかいていなかった。血液で汚れたゴム手袋を交換しながら時折視線をこちらに向けて監視しており、未だに彼の健在さが窺い知れた。

 「おい、飲め」

 「あ、ありがと……」

 水の入れられたボトルを渡されたスバルは中身を警戒しながら少しずつ飲み始めた。

 「毒は入れて無い。そんな姑息な真似をせずとも、殺す時は殺せる。それに……貴様には、こいつの手術で、まだ役立ってもらわねばならない」

 「…………そうだね、そうだよね、うん」

 殺されないと言う安堵感と必要とされている方向性の問題から複雑な気分になりつつも彼女は一気に中身を半分まで飲み干した。疲労し切っていた体に程良い冷たさの液体が流れ込む感覚に喜びを感じつつ、スバルはこれから先自分がどうなるかと言う想像を膨らませていた。急いで飛び出して来た所為で自宅の鍵も掛けていない……二時間近くも家に連絡も入れていないし、と言うか携帯も置いて来てしまった…………距離を置いたここからでは念話も通じない……。このまま用が済んで始末されるか、それとも洗脳されて無理矢理あちら側に引き込まれるか……どちらにしても自分にとって不本意な結果に終わる事に変化は無いだろう。

 と、窓の外をぼうっと見つめながら思いを馳せていた彼女はある事に気付いた。

 飲んでいないのだ。

 誰が? トレーゼが。

 何を? 水を。

 スバルと自分の分として持って来ているはずのボトルに彼は一切口を付けておらず、それをガラス製のジョウロのような容器に移し替え、それを──、

 「飲め。寒いだろうが、脱水症状を起こしては、ならんからな」

 ヴィヴィオの口元にそっと寄せた。飲み込んだ際に気管に入らないように微妙に頭を持ち上げつつ、飲むように促した。そうだ、ここに居る誰よりも疲労の様相を呈しているのはヴィヴィオなのだ。今日一日激痛と空腹と寒さに耐え続け、この少女の肉体はそれこそ普段災害現場を飛び回っている自分とは比較にならない程にまで酷使されているはずなのだ。その事実を再確認すると同時に、スバルは自分の事を盛大に恥じていた……三年前ならいざ知らず、今の自分は成長していると言う自負を持っていたはずだった、修羅場を何度も潜り抜けて来た実績もあったし、多少の事では動じない自身もあった。だが現実はどうだ? 友人が殺されるかも知れない危機的状況を目の前に自分は一体どれだけの事が出来ただろうか……。最も落ち着きを見せねばならないはずの場面で落ち着きを失い、結局は大局を見る事が出来なくなって今に至るだけではないか。そして今だって頭に浮かぶのは自分の心配事ばかり……これを恥と言わずして何と言おうか。

 だが彼は違っていた。彼は自分の目的の為に行動をしつつも常に敵対する自分を監視するばかりか、精神を擦り減らすような手術中でも常にヴィヴィオの状態に気を配っていたのだ。自分と彼との大きな違いを見せ付けられ、スバルは更にバツが悪く感じて来た。

 「…………バカだよね私って」

 「分かり切った事を、今更……」

 「フォローぐらい入れてよ……」

 「Don't mind,scum.」

 「……今ひょっとしてバカにしなかった?」

 「自認しているなら、構わんだろう?」

 水差しをヴィヴィオの口から離し、その口元をガーゼで軽く拭く……最後まで気の利いた行為に心なしか少女の口元に笑みが浮かんだようにも見えた。それはトレーゼの方にもそう見えたようで、彼はヴィヴィオの頭に手を置きながらさらっと……

 「これから、折れた二の腕を、筋肉を引き伸ばして、噛み合わせる……。耐えろよ?」

 心臓が冷えるような事を言った。骨が折れる事によって支えられていた筋肉が一気に縮む……骨を正しい位置に戻すには万力のように引き締まった筋肉を人力で伸ばさねばならず、当然その際の苦痛は筆舌し難いモノがある。だが常人なら想像するだけでも気が狂いそうな事実を告げられたにも関わらず、ヴィヴィオは穏やかな顔をしていた。スバルはその面持ちに見覚えがあった……かつてヴィヴィオが六課に初めて身柄を確保されていた時、唯一懐いていた後の母なのはに対して向けていた視線と同一のモノだった。

 「……懐かれてるね」

 「馬鹿を言うな、ガキに懐かれても、得は無い……。それはただの、依存だ」

 「そう言いながらずっと頭撫でてない?」

 そう指摘されて初めて気付いたのか、トレーゼははっとして自分の右手を急いでヴィヴィオの頭から離した。自分でも無意識で置いていたらしく、顔は固められた無表情のクセにその視線はどこか余所余所しかった。

 そんな珍しい彼の姿を見たスバルはちょっとした悪戯心からイジワルを仕掛けてみた。

 「ねぇ、どうして撫でてたの? 教えてよ。ねぇってば」

 「別に良いだろう……どうだって」

 「良いんだったら教えてよ~。何でさ?」

 「…………以前、貴様の病室を訪れた時、不覚にも俺が眠ってしまった、事があっただろう?」

 「あー、あったね」

 あの時顔を見せに来た彼からは鼻が曲がりそうなぐらいの酒臭さが漂っていた……あそこに来る前にかなりの酒を呷ったのだろうか、そこに来て二三話しをすると彼はそのままベッドに身を寄せて睡眠を取ったのを覚えている。あの時自分は今の彼と同じようにその頭を何十分も撫でていたのだ。

 「あの時、貴様が述べた感想と、同じだ」

 「それって……」

 「……………………まぁ、悪くは無い、触り心地だった」

 「…………………………………………プッ、あは、あははははははっ!」

 「何が、おかしい?」

 「ううん……やっぱり、トレーゼは優しい人だよ」

 「もう、人間をダース単位で、殺害した俺を、言うに事欠いて、それか……。笑ったり、怒ったり、泣いたり……大忙しだな、貴様は。おい!」

 トレーゼが何かを投げ渡す……本だ、この車に乗り込んだ時からずっと気にしていたあの赤い本が今スバルの手の中にあった。いざ手に持って見るとずっしりと重く、これを持って街中をたった一人で移動していたヴィヴィオの根性に改めて驚かされた。

 「見たいんだろう? 目を通すだけなら、構わん」

 「良いの? 大事な物なんでしょ?」

 「くどい。気が変わったら、返してもらうぞ」

 「読むよ! ちゃんと読むからそんなに急かさないで」

 気になる物を取り上げられたのでは目覚めも悪いと言わんばかりに彼女は最初のページを捲り出した。二本の指で摘んだ紙片は予想以上に重く、一ページ目からもう気が引き締まる思いだった。

 そして、そのページに刻まれた膨大な記録の最初の一つを目にした瞬間──、

 スバルは自分の目から熱い雫が流れ落ちるのを感じた。










 「対象をロスト……か。またこれで振り出しに戻ったわけだが……」

 ヴィヴィオの魔力反応があったと言う報告を受けた場所の地図部分を黒のマジックペンで塗り潰しながら、スカリエッティは退屈そうに呟いていた。ウーノとトーレも互いに何もすることが無いのか似たような感じであり、特に勝手知ったる何とやらと言わんばかりにトーレはソファを丸ごと一つをベッド代わりにして熟睡していた。そんな彼女らを前にして頭を抱えているのは、現在映像回線越しからの会話となる八神はやてだ。顔面の半分を覆っていた包帯を外し、現在は眼帯となりつつもその滲み出る若い威厳は失われてはいなかった。だがその表情は陰っており、注視すれば醸し出している威厳の中にも不安や焦燥が見て取れた。

 「いや、捜索に出した者の大半を失ったのだから、実際は損失か」

 『グゥの音も出んとはこの事やな……。Dr.スカリエティ、相手はこちらを誘き出す為にこんなまどろっこしい事をしたのだと……?』

 「その予想には残念だが配点はやれんよ。全ての準備が整っているとは言え、相手も暇ではないはずだ、一介の局員数名を殺す意味が無い。恐らく今回ヴィヴィオ嬢の魔力が検知された件は相手側にとって純粋なアクシデントなのだろう。もっとも、そのアクシデントにつけ込むチャンスを我々は永遠に失ったのだがな」

 黒丸を描いた地図を手で丸め、それを惜しげも無くゴミ箱に捨てた。

 「現地に追加派遣する予定だった局員達には待機命令を出したまえ。恐らく監禁に使われていたアジトには何も無いだろう、証拠も、そこに居たと言う痕跡も……」

 『そう言うと思って、既に命令は下してあります。それと……例の“誘き出し”の件についてですが、抑止力候補については何とかなるかもしれません』

 「ほう、意外だな。相手方がこちらの要求を呑むとは……。何か汚い策でも使ったかね?」

 『それなりに……。そりゃもう、鬼だとか悪魔だとか言われるのも承知であの手この手を尽くしました』

 「二佐殿も大人のやり方と言うのが分かって来た年頃かね。良い事だ」

 『独り身の乙女を口説き落とすには少々茶化し方が成っておらんのとちゃいます? あともう一つ……明日の正午、ウーノさんには管理局ミッドチルダ西部支部に移ってもらいますので、了承してください』

 その申告にソファで静かに座っていたウーノが僅かに了承の頭を垂れた。作戦内容は当然彼女にも告知されており、少なくともこの部屋に居る三人は熟知している状態だった。そして、この作戦には裏があり……。

 「では手筈通りに情報のリークは済んでいるかね?」

 『はい。各メディアには既に独自の情報網を利用して横流しした後です。予想通りにマスコミはすぐに喰いつきを見せました』

 「だろうな。彼らは他人の情報を売り飛ばす事を商売としているからな。その分情報伝播率の高さは評価に値する……彼らが自然とその情報を広める事によって“13番目”も自然とこちらの釣り餌に食らいつくと言う訳だ」

 『そんな簡単に行くのでしょうか?』

 「行くさ。相手は間違い無くこの手に引っ掛かる。いや、引っ掛からざるを得ないのだよ……闇夜の灯りに群がる小蠅のように、奴は必ず向かって来る。一つ不安要素があるとすれば、相手がどの様な出方で攻めて来るか分からないと言う事だけだ」

 まただ……三年前と同じ狂気に彩られた蛇の様な瞳……絶対の自信がある時には必ず見せる癖のようなものだった。まぁ、見ていて決して気分の良いモノではないが、彼が絶対の自信を抱いていると言う事はこの作戦はそれなりに実行に移すだけの意義があると言う事でもある。紛いなりにも天才だ、その点だけは信じてもよさそうだ。

 「そう言えば、例の件で警戒は怠っていないだろうね?」

 『“裏切りの使徒”の件は現在最重要警戒項目としてマークしています』

 「具体的には?」

 『ナンバーズ全員の二十四時間体制での監視』

 「そんなものだろうな。私が思うに、聖王教会の三人に関してだけ言えば反旗を翻す事はほぼ有り得ないと考えている。なんでもあの三人は騎士カリムの付き人に甚く懐いていたそうじゃないか……その人物が再起不能に追いやられたのを目の当たりにしている以上、“13番目”に対する感情は怒りや憎しみと言った負の感情しかないはずだからな」

 『では、逆に一番怪しいのは?』

 「そうだな……。ウーノやトーレの居る手前、あまり身内を疑いたくは無いのだが…………やはり最も怪しいとなればノーヴェだろうな」

 これはまた意外な人物の名が飛び出した事に通信相手のはやてのみならず、傍で聞き耳を立てていたウーノでさえもこれには怪訝な顔つきをしていた。双方の納得がいかないと言う表情を眺めてスカリエッティも説明が必要だと感じたのか、咳払いを一つした後で恒例の講釈に移った。

 「確かにノーヴェは最初に“13番目”の被害を受けた者だ、奴の所為で自分の姉妹であるスバル嬢は四肢を寸断され、彼女もその事を深く根に持っているだろう。この点は先程のセインらと同じと思ってもらって構わない。だが問題はここからだ……。知っての通りノーヴェは頑固だ、一度自分が持ち得た信念は決して折らないし、場合によっては主である私が何と言っても聞かないだけの根性もある」

 『ですが、彼女がそんな簡単に甘言で手の平を返すとは思えませんが……』

 「分かっていないな二佐は。確かに鉱石は自然界に存在するあらゆる物体に勝る硬度を持っている……だが、如何に堅牢な鉱石と言えど表面上に必ずある“目”に沿って力を加えれば、呆気なく簡単に砕け散ってしまう。それと同じさ、一度自分の心の壁の中に相手の領域を重ねたが最後、彼女の様に頑なな性格をしている者は瞬く間に自分の心を揺らがせてしまう。それにノーヴェは良くも悪くも雌生体、即ち女性だ。肉体的にも精神的にも男性と比較して脆い部分がある」

 『それは今の時世だと男女差別になりますよ?』

 「それは失敬。だがこの観点以外にももう一つ、彼女が“13番目”に対して不利となり得る条件が存在しているのだよ。恐らく、これが彼女が“裏切りの使徒”となり得る最大の理由かも知れん」

 『……と、言いますと?』

 「彼女が“身内”に甘いと言う事さ。顔さえ見た事が無くとも、かつての自分達と同じ格好をしている者……しかも正真正銘自分達の兄かも知れない存在と相対した時、果たして彼女が自慢の拳を振るえると思うかな? 賭けても良い、スバル嬢の恨み事を加味したとしても彼女は“13番目”に対して拳を振るう事は出来んだろう……よっぽどの事が無い限りはな」

 『そんなもんでしょうか? ────? 少し失礼します』

 別の通信があったのか、画面越しのはやてが一旦映像回線を切断した。ゲストルームには再び静寂が戻りスカリエッティは暇潰しと言う代わりに隣に座っているウーノのウェーブ掛った薄紫の髪を手櫛で撫で始めた。彼女の方も親であり主である彼の行動に一々反応をする事も無く、されるがままにしていた。

 「はてさて、ここから先の未来は一体全体どうなる事やら。私には想像の域を越える事は出来んな」

 「ドクターですら予測不可能なのですか?」

 「ウーノ……確かに私は天才ではあるが、万能ではないのだよ。確定情報が不足している今のままでは一寸先の未来でさえ暗闇に包まれたままさ。今の私では精々──」

 髪を撫でていたスカリエッティの手が離れ、向かいのソファで体を横にして寝ているはずのトーレの肩に伸びた。そして彼女の肩をゆっくりと揺らし……

 「実はトーレがとっくに起きていたと言う事ぐらいしか分からんよ」

 「……いつからお気づきに?」

 「覚醒時と睡眠時の呼吸パターンには僅かだが誤差がある」

 「流石です」

 すぐさま起き上がって最低限の身嗜みを整えた後、トーレは普段通りの凛々しい表情に戻っていた。だがその表情に僅かながら陰が差しているのをスカリエッティと姉のウーノは見逃さなかった。

 「何か思い悩む事でもあったのかな?」

 「いえ少し……敵方の事について」

 「ほうほう……。ナンバーズ最強の名を欲しいままにした君の口からそんな弱気な台詞が出るとは……」

 「別に弱気になってなど……! ただ…………一つだけどうしても気になる事があるのです」

 「トレーゼの事だな?」

 「……やはり、それも察していましたか」

 「当然だ。私にとって彼は最高傑作であり、君にとっては『弟』だ……気にならんはずがないだろう」

 「ドクターはどのように御考えですか? その……“13番目”とトレーゼの関連性について」

 「私の持つ疑問は二つだ。仮に“13番目”とトレーゼが同一人物だったとするならば、その時はその時で考えるとして……問題はその逆、“13番目”とトレーゼが同一人物で無いならば、“13番目”とは一体何者なのか? そして、トレーゼ自身はどうなっているのか? この二つだ」

 17年前に彼らが譲渡した戦闘機人はトレーゼだけだ……当然、ハルト・ギルガスの研究施設に存在していた機人と言うのはほぼ十中八九彼で間違いは無いだろう。だが“13番目”をトレーゼと仮定する時、かつてトレーゼに施したコンシデレーション・コンソールの矛盾が発生してしまい、二つの存在をイコールで結べなくなってしまう。ではここでまた仮に二つの存在をそれぞれ別の人物だとした場合、発生する疑問は二つ……。

 本物のトレーゼはどこに消えたのか?

 そして“13番目”とは何者なのか?

 矛盾を解決するにはこの疑問を解かなければならない……そして、現状ではこの二つの疑問を解く術は無かった。

 「悲しいかな、さっき自分で言ったように私は万能ではない。確証の無い予測はただの下衆の勘繰りでしかないからな……そう言う行為は科学者としてやりたくはない」

 「…………そうですか」

 トーレが再びソファに横になり不貞寝を始めた。普段なら決してしないであろうその愚行を、姉と主は諌める事も無く容認し、そのままにしておくことにした。自分で生み出したとは言え彼女の心理は理解出来ない……理解出来ない以上、下手に触るのは避けたいと言うのがスカリエッティの考えでもあった。

 するとタイミング良く回線が再び繋がり、画面にはやての顔が映り込んだ。

 『長々と失礼しました』

 「構わんよ。何か急ぎの用だったかね?」

 『いえ、チンク・ナカジマから少し私用で……』

 「チンクが? 仕事中の人間に私用で連絡を入れるとは成ってないな、今度顔を合わせた時には私からきっちり言い聞かせておくよ」

 『それが……私用と言ってもかなり重要なモノで……』

 「と言うと何だね?」

 『ええ、それが…………なんでもスバルと連絡がつかなくなったとかで……』










 本を見終わった後、スバルはただ黙ってそれを運転席のトレーゼに返した。彼の方もそれを黙って受け取り、助手席の方に安置した。

 「……おい」

 「……なに?」

 「その、泣くのをやめろ。鬱陶しい」

 「ごめん……」

 「…………何故泣く?」

 「気にしてくれてるの?」

 「Die scum.」

 苛立ちを隠そうとして車内暖房の出力を最大限にまで引き上げ、エンジン音が煩くなる。流石にここまではっきり拒絶の意志を表明されると何も言えなくなるのか、スバルは少しほとぼりが冷めるまでの間だけは大人しくしていた。結局その間だけの話だったが……。

 「ねぇ……トレーゼはさ、頑張ってるんだよね?」

 「いきなり、意味不明な事を言うな。手術の続きを、始めるぞ、準備しろ」

 道具一式を入れ込んであるケースから今度はハサミのような物体と湾曲した釣り針のような物、そして同じく釣り糸のように極細の繊維を何本も取り出して来た。縫合に使う物だとは見ただけで理解出来た、そして今から行う術式が最も難しいと言う事も……。

 「Chuck is the mouth. ここから先は、一言も喋るな……。少しでも針先が狂えば、こいつが生き延びる確率は、格段と下がるぞ?」

 「(こくこく)」

 「貴様は例によって、麻酔を掛け続けろ。皮膚や筋肉の繋ぎ合わせは、こちらで行う。一応……ここからが、正念場とか言う奴だ」

 針に糸を通し、その針を持針器に持ってヴィヴィオの傷口に構えた。切っ先が寸とも振るえていない所を見る限り、流石の彼でさえもが相当の緊張を以てして臨んでいる事が窺い知れた。

 「……術式を再開する前に、先程貴様が言おうとした事を、聞かせてもらおう」

 「…………じゃあ聞くけど……トレーゼは頑張ってるんだよね?」

 「漠然とし過ぎている……要点を絞れ」

 「……誰かを殺すのも、何かを壊すのも…………みんな目的があってやってるんだよね。ノーヴェを騙してるのだって……そうでしょ?」

 「だったら何だ?」

 「何でさ…………何だってそんなに頑張れるの? トレーゼと同じ立場だったとしても、私には無理だよ……………………支えてくれる人も、解ってくれる人も、誰も居ないんだもん……。ねぇ、教えてよ……何でそんなに頑張れるの?」

 スバルは問う。恐らく彼女が生きて来た今までの人生の中で最も濃く、最も重要で、そして最も答えの知り欲したい問いを、今彼女は目の前のたった一人の戦闘機人に投げ掛けていた。そして、その問いに対する解答は三つあった。

 最初は“沈黙”……。持針器を構えたままマネキン人形のように停止し、眼球から放たれる強烈な毒を含んだ視線だけがこちらに向けられた。

 次に“深呼吸”……。厳密にはどちらかと言うと溜息に近く、この世の全てに飽いたと言う気だるそうな感じが吐息に含まれていた。

 そして──、

 「頑張ってなんか、いないさ。ただ、己に課せられた義務を、こなしているだけ……」

 簡単な受け流しの“本解答”が返されただけだった。それがたった一人で戦い、たった一人で騙し、たった一人で殺して壊し続け、たった一人でこれからも戦い続けるであろう者からの解答だった。意外にあっさりと、意外に呆気なく、そして予想通りに短かった。

 「…………そう……褒められるのが嬉しいとかじゃないんだね」

 「子供じゃあるまいし、馬鹿か貴様。…………………………………………だが、昔はそうだったかもな」

 「誰かに褒められた事があるの!?」

 「言っておくが、ドクターではないぞ。あの方は、命令するだけだ……機兵である俺達に命令し、そして、それが終了すれば、また別の命令を下す……それだけだ」

 「じゃあ誰?」

 「……………………教えん。教えても、貴様には関係の無い、事だしな」

 「いーじゃん、教えてくれたって」

 「断る。ナンバーズの中の、誰か、とだけ答えておこう。もういい加減、始めるぞ」

 「……分かったよ、そんなに言うんだったら聞かないね。誰にだって言いたくない秘密ってあるし」

 「貴様と一緒に、するな」

 そのやり取りを最後に、持針器に構えられた針先が少女の柔肌を貫いた。










 「スバルが帰って来ない!?」

 何とか仕事を終えて寮に戻って来たティアナを待っていたのは友人の自宅からの電話だった。自分が飛び出した後に更正施設での仕事を終えたのか、受話器の向こうの相手はナカジマ家の長姉ギンガだった。心配で気がかなり高揚しているのか、受話器から高い声がキンキンと鼓膜に響いて煩かった。相手の話だと既にこちらに掛ける前に同じ湾岸部署に所属している友人や上司などにも連絡を取って行方を聞いたらしいが、結局どこに居るのか足掛かりは掴めなかったそうだ。

 普段の彼女なら悪態をつきながらもすぐさま捜しに行こうとするのだが、今日ばかりは流石にやり終えていない仕事もあるので今からと言うのは無理な話だった。腐れ縁とは言え無二の親友と管理局存亡の危機を天秤に掛けて物事を考えてしまったのは大きな口では言えないが、それでもやはり重要度の差があるのもまた事実……本人の家族と会話している状態で言うのはキツいが、それでもここは知らぬ存ぜぬで突き放すのが良いのだろう。結局、ティアナは後ろ髪引かれる思いで受話器を置いた。

 外出前にデスクの上に置かれた資料の束がそのまま残っており、彼女のこなさなければ仕事量の多さを如実に語っていた。一旦気分転換にと思い立ったのか、室内の空気を一気に入れ換えようとして彼女は窓際に立ち、鍵を開けて──、

 突風を真正面から喰らった。

 「むわっ!? ちょ、ちょっと何なのよ! ったく!」

 冬の突風は季節の中で最もその勢いが強く、あっという間に彼女の部屋にある軽い物は次々と風のベクトルに従って吹き飛ばされて行った。その中には局員証なども有り、彼女は迅速に窓を閉めるとそれを拾い上げるべくUターンして背後に転がる物品へと足を向けた。

 だがその時にデスクのすぐ脇を通ろうとして腰が置いてあった資料に引っ掛かり……

 「ああっ、あぁああ!? ……あ~ぁ…………信じらんない」

 当然資料の束も重力によってずり下がり、フローリングに落ちる。だが彼女にとって不幸だったのは、資料の束を留めていた紐が緩んでいたらしく、落ちた瞬間にそれが解けて部屋中に散乱してしまった。数百枚はある紙が一斉に撒かれた事に苛立ちと気だるさを覚えつつ、彼女はそれらの回収に当たった。

 「…………まったく……やってらんないわよ」

 基本的に文句を言わないはずの彼女が小言を言っているともなればどれだけ苛立っているかが分かるが、だからこそ彼女は見落としてしまっていた。



 資料の一枚……問題の戦闘機人の顔を写したページだけが死角となるベッドの真下に吸い込まれていた事に……。










 午後17時46分、地上本部ゲストルーム──。



 『ちょっとよろしいですか?』

 再び映像回線を通じてスカリエッティ達の前にはやてが姿を現した。重なる仕事の大半を片付けたらしく、その表情はさっきと比較するとほんの少しながら落ち着きが見て取れるようになっていた。

 「構わんよ、私と二佐の仲じゃないか。遠慮は要らない、さぁ言ってみたまえ」

 『ウザい、キモい、鬱陶しい……現代の若者のキレの沸点を見事に押さえていますね。感服します』

 「……今軽く傷付いたんだがなぁ……」

 『本音はここまでにして、本題の方に移らせていただきます』

 「あ、本音だったのか」

 『実はドクターに面会を依頼している方が……』

 「面会? と言う事は何かね、もうそこのドアの向こうに居るのかな?」

 『いえ、相手方の都合で場所を離れられない状態ですので、失礼ですけど回線からの面会になります。けど、ご安心ください……貴方も良く知ってる相手です』

 そう言った瞬間、はやてが映っている画面の隣に別の回線が開いた。そして先程の彼女の言葉に嘘偽りは無く、その画面の向こう側に居た人物はスカリエッティはもちろん、ここに居る全員が認知している人物であった。

 『お久し振りです、ジェイル・スカリエッティ』

 「おや、久し振りだな。この所ずっと顔を見ないと思っていたら、何だねすっかりボロボロじゃないか────フェイト・T・ハラオウン執務官」

 画面の向こうでこちらを見ているのは、“13番目”のクアットロ奪還作戦以来ずっと入院して連絡が取れていなかったフェイトであった。頭や腕に痛々しく包帯を巻いて未だに癒えない傷口を隠しており、顔面の至る所にはもちろんの事、患者服の下の膨らみは彼女のほぼ全員が同じような包帯やギプスで覆われている事を物語っていた。後で聞き及んだ話しによると、つい昨日の夜まで酸素マスクを付けていたらしい。

 「存命していたのならそれはそれで喜ばしい限りだが、今日は何の用かな? 見ての通り私は暇ではないのだよ」

 『しれっと嘘言いましたね。元より時間は取らせません、近い内に実行される作戦内容について一つだけはっきりさせておきたい事があるだけです』

 「ほうほう、医療センターに居ると言うのにもう例の作戦についてご存知とは……地獄耳なことだ。それで、現状考え得る最高の作戦内容について何を物申すのかな?」

 『では一つお聞きします。作戦を立てるに当たって人選はそちらで行ったのは事実ですか?』

 「如何にも。正確には私ではなく、許可を頂いてトーレが抜擢した」

 そう言っていつの間にかちゃんと起きていたトーレを指し示す。彼女の方は自分が話題に取り上げられた事もどうでも良いと言った感じでそっぽを向き、耳も傾ける様子は無かった。

 『では…………何故──、



 何故人選の中にエリオとキャロが含まれているんですか?』



 これは不備ではない、作戦を担当する人選の中にエリオとキャロが居るのはトーレが選んだからであり、彼女曰く「理由があるから」と言う事で入れられているのだ。だが当然あの二人の親のようなものであるフェイトからすれば納得の行かない話しだろう。既に本人達には作戦内容については伝達されており、この事件に直接関わった者の中で今まで作戦内容について知らなかったのは彼女だけだった。

 なので彼女には分からないのだ。一度大敗を喫した相手に何故もう一度戦えと言うような事をやらせるのか。エリオもキャロも馬鹿ではない……一度負けたなら深く学習して進歩する姿勢を見せるのは良く知っている。だがそれでもやはりあの“13番目”に対して二度目だからと言ってそう簡単に対抗できるとは考え難い。万一の事があって命を落としてしまっては話しにならないのだ。

 「その件についての苦情はさっきも言ったように、直接の人選を担当したトーレ本人に聞いてくれたまえ。本人は何か思惑があってやったらしいからねぇ」

 「単純だ。あの二人は“13番目”と相対した者達の中で最も損害が少なかった……それに何と言っても、あの二人は奴と相対してほぼ無傷で生き残った稀有なケース、一度戦った相手に何の善戦もせずに敗れる程に貴方の弟子は弱いのか?」

 『それは……』

 「それに、敵方がどんな方法で向かって来るかは不明だが、そうそう自分の戦闘スタイルを変えられる程器用な兵士と言うのは存在しない……その意味でも、一度交戦した経験があるあの二人は貴重な戦力になる」

 確かに、何も作戦に参加しているのは二人だけではないのだ、敵の戦闘方法をある程度知っている者が居るなら例えその者の実力が追い付いていなくとも、他のメンバーがそれを代行する形で作戦を遂行する事だって可能なのだ。冷静に考えれば案ずる必要はどこにも無いようにも思える……。

 だが相手は紛いなりにも管理局の三強とされる自分達をことごとく打ち破った相手だ、生半可な覚悟と下拵えでどうこうなるモノではない。一度戦った経験があるからと言う安易な理由だけで勝てるとは到底思えないのも事実だった。

 「なぁに、問題は無いさ。作戦指揮には八神二佐も参加される……いざという時にはそちらを頼れば良いだけの事だ」

 「と言う訳です。ご安心を」

 『…………分かりました、私は本来部外者ですから……これ以上は何も言いません。でも……決してあの二人に無理はさせないでください……』

 「相分かった。約束しようじゃないか」

 『お願いします……』

 回線が切れて一瞬だけ静寂が戻る。フェイト自身はまだ肉体の治療が最優先の状態であり、戦線に復帰するのはまだずっと先だ……本来ならば三強である彼女らの力も借りたいのは山々なのだが、フェイトは全身に過大なダメージを負い、なのはは脳を浸食されて感覚を麻痺し、はやてでさえも右目を失った状態ではまともに戦える訳が無かった。

 『…………で? 本当の理由は詰まるとこ何なんですか?』

 「おやおや、二佐殿はこれ以上何を疑問に思うのかな? 理由はさっきトーレが申し上げた通りのはずだが?」

 『惚けんといてください…………衰弱し切ったフェイトちゃんを騙せても、選定の理由がそれだけじゃない事ぐらいこっちにも分かる事や。それに、一度交戦した経験者って言うんやったらギンガを選ばんのも不自然が過ぎる……私にも言ってへん本当の理由……教えてもらおか』

 プライベート以外で仕事口調でない時の彼女は決まってすこぶる気分が良い時か、或いは果てしなく気分が悪い時のどちらかに絞られている。今回は間違い無く後者だと言うのは付き合いの短いスカリエッティ達でさえ容易に判別できた。気が立っている女性を煙に巻こうとする行為程に愚かなモノは無い……聡明な頭脳を以てそう判断した彼は目配せでトーレに真相を言うように指示をした。ちなみにこの件についてはスカリエッティとウーノは本当に真実を知らず、結局トーレ本人の口から話してもらわなければいけなかった。

 「……………………私は……私はその結論に至った過程こそドクターとは違うが、基本的に私の『弟』と例の“13番目”は全くの別の存在だと認識している。私の知っているトレーゼは間違ってもそのような蛮行は行わない」

 『……それで?』

 「だが……だがドクターが仰ったように、この世の事物に『絶対』と呼べる現象は有り得ない。もし、もし仮に、万に一つの可能性として……件の“13番目”が私の『弟』と言う可能性も、充分に有り得るかも知れない……。もし…………だからもし仮に一連の事件の首謀者がトレーゼであるとするならば、これは賭けとなる」

 『賭け? そないな馬鹿馬鹿しいギャンブルじみたモンにあの二人を巻き込むんか!!』

 「ノーリスクでは結果は得られない……この作戦に賭けるしか無いんだ」

 『他人事やと思うて……!』

 「ああ、他人事さ。この作戦が成功しようと失敗しようと、その結果として二人の命が消え果ようとも、結局私にとってはどうだって良い事に変化は無い。だが『弟』は別だ! 僅かであっても“13番目”がトレーゼである可能性があるのなら、私はその可能性に賭ける……あの二人も、例の抑止力候補も、その為の駒、その為の牌でしかない。理解しろとも恨むなとも言わん、ただ黙って利用されていてくれさえすれば良いんだ」

 『……………………外道が』

 「何とでも言え……所詮、私は人造物だ、血は通っていても涙は出ない……そちらの言う通り、人間ではないのだから」

 両者画面越しに睨み合う……隻眼の戦乙女と金眼の人造戦士が火花を上げそうな気迫で互いを気圧そうとし、障らぬ神に何とやらと言った感じでスカリエッティとウーノは静かな嵐が過ぎ去るのを待った。だが二人の予想に反して結末は早く、そして意外と静かに終わって行った。

 『作戦についてはこちらも協力は惜しみません……万が一の為の援護部隊として陸士部隊にも話しは通しております』

 「ご苦労…………これでもう、互いに何も話す事は無いな。願わくば、全てが終わって拘置所に戻る日まで何も無い事を祈る」

 『…………それでは、失礼します』

 通信が切れる。気まずく重苦しい沈黙が室内に充満し、流石にそれまで冷静沈着を保っていたウーノですら自分の妹の思い切りの良過ぎる行為には内心肝を冷やしていた。だがそんな彼女とは対照的にスカリエッティの方は満足気に笑みを浮かべてソファに踏ん反り返っており、自分の前に機嫌悪そうに座って居るトーレにささやかな拍手を送ったのだ。

 「素晴らしい……私は今純粋に感動しているよ、トーレ。“私”を殺して頑なに命令に従い、決して自分から余計な事をせずに一線を引いていた君が、初めて自分の意志を明確に相他人に押し付けたのだよ。自分の作りだしたモノの成長を見る事がここまで気持ちの良いモノだったとは……感謝しているよ」

 「……満足頂けたなら結構です」

 「流石はトレーゼの『姉』だな。いや……本来ならば『妹』、もしくは『娘』と言った方が良いのかなこの場合は?」

 「どちらも不適切です。私が『姉』で、あいつが『弟』……この事実に変わりはありません」

 「そうか……なら良いさ、それでも良いさ。君と彼がそう取り決めたのであれば私は何も言わんよ、忘れてくれ」

 普段は決して自らの内側を人に明かそうとしないトーレがここまでの我を通すのは久しく見た覚えが無かった……。逆に言えば、その彼女にはここまで言わせるだけの執念があったと言う事にもなる。

 「…………嗚呼、今日も……日が落ちる」

 窓の向こうに見える灰色の地平線……その先では冬の太陽が赤い色でミッドの半球を照らしていた。










 同時刻、スバルの自宅にて──。



 「まぁ、やっぱりこう言う事なんだろうなって予想はしてたけど……」

 室内の様子を確認しながらギンガは溜息混じりに呟いた。家から予備の鍵を持って来たのだが、その鍵ですら開いたままもぬけの殻となっており、寝室は何やら不自然に散らかっていた。そして居間のテーブルには妹の持っているはずの携帯電話がそのまま置き去りにされていた。

 「……あの子ったら、どこに行ったのかしら? 連絡も無しにどっか行く程教育悪く育てたはずないんだけど……」

 何か置手紙程度の物でも無いかと居間の中だけでも徹底的に家探しを始めた。一人暮らしの超絶プライベート空間を荒らすのは趣味ではないのだが、あの状態の妹をそのまま野放しにするのは流石に無理があった。そんなこんなで、彼女は置手紙なんか有りそうにない台所の収納スペースなどに手を伸ばしていた時──、

 調理に使う鍋の中に何かが入れ込まれている事に気付いた。

 「?」

 仕舞い切れなかった器具をそこに入れてあるのかと思いながら手を入れて取り出して見ると……。

 「…………何よ、これ……!?」

 ナイフだった。それも果物を切るのに使用する小さな物ではなく、明らかに人を殺傷する事を目的とした凶悪なフォルムな物だった。それが八本も無造作に入れられており、どうにもただ単に入れてあると言うよりかは、人目を避けるように『隠して』あるように見受けられた。ただこの状況で分かるのは、少なくともギンガの知るスバルはこんな物を持つ趣味は無いと言う事だけだった。

 そしてそれを前提とした場合、当然の如く疑問が発生する。そう、『何故こんな物がここにあるのか?』と言う疑問だ。だがそんな事をいちいち気にしていては時間の無駄だと判断したのか、彼女は固定電話の受話器を取り、自分の自宅に番号を合わせた。

 「あ、もしもしチンク? うん……結局居なかったわ。その事なんだけど、ちょっと調べてもらいたい事があるの……。ええ、何か不審な臭いがする物を見つけちゃったから……」










 「…………終わったね」

 「……ああ、貴様は、特に何もしなかったがな」

 「してたじゃん!? 麻酔とか頑張ってたよね!?」

 「今度、縫合して見ろ」

 「……ごめんなさい」

 冬の太陽はとっくの昔に地平線の向こう側に息を潜め、クラナガンを夜の帳が覆い隠していた。三人の乗っている車内も天井の小さな電灯だけで照らしている状態だった。既に問題の縫合は終了し、車内一杯にまで広げられていたビニールは折り畳まれ、二人とも白衣と手袋も仕舞っていた。ヴィヴィオの方はと言うと大量の血液を失った代わりに全身に環状魔法陣を展開させ、体表から直接大量の酸素を取り込む術式を使用されていた。だがこれは一時的な処置でしか無く、トレーゼが言うには輸血かその代わりになるモノで血液の代替としなければならないらしい。幸いにもラボにはまだ使用可能な培養槽が幾つも残っている為、そこに入れて安静にさせるとトレーゼは提言した。

 しかし、そこで「そうですか」と言って引き下がる訳には行かないのも確かな事実だった。ここまでの多くの犠牲を払いながら目の前でヴィヴィオを連れ戻されれば何の為に自分がここに居るのか分からない……スバルは何としてもここで彼女を奪還する必要があった。しかし彼の実力を考えれば奪還は愚か、ここから離脱するのでも難しい……それこそ手足を失うだけでは済まないかも知れない。

 そして、そんな彼女の心理を察したのか、運転席に座っているトレーゼがバックミラーからこちらを凝視しながら話しかけて来た。

 「それで……今から、どうする?」

 「……どうするって?」

 「惚けるな……。俺はこのまま、こいつを持ち帰りたい。だが、貴様はこいつを、俺から取り返したい…………なら、どうする?」

 ここで彼が問うている真意は、相反する自分達の目的を再確認する事で互いがどちらに属しているかを自覚させ、その上で互いの行動をどうするかとわざわざ猶予を与えて質問をして来ているのだ。それはつまり、返答次第では例えヴィヴィオの見ている前であろうと躊躇無くこちらを殺すつもりなのだろう。回避する方法としては何とかして結論を先延ばしにし、はぐらかす事だが……。

 「この問いの回答として、こちらから、三つの選択肢を提示してやる。どれか選べ」

 流石に相手もこっちの手の内を熟知して来ているのか簡単には逃げ道を作らせてはくれなかった。先に回答を絞る事でこちらの意志を明確化させ、言い逃れ出来なくする為だ。

 「まず一つ……力尽くでこちらから、“聖王の器”を奪還する」

 座席の脇から一本指の立ったトレーゼの左手が覗き出る。これは現時点ではほぼ100%無理な話だ、スバルは両足の再生を終えたばかりで本調子ではなく、更に右手は未だに欠いている状態だ……とても戦闘にはなりそうもない。

 「二つ……こちらに属し、以後全面協力する」

 つまりは軍門に降れと言う事だ。だがそれは上記以上に無理難題……今まで世話になった者達を後足で砂を掛けるように裏切る事が何故出来ようか。それならいっそ自殺したほうがどれだけマシか。

 「そして三つ…………これが最後だ」

 “最後”……つまり三つある選択肢の最後と言う意味では無く、これが譲歩出来る最後のポイントと言う意味なのだろう。立てられた三本の指のそれぞれの重さを今の彼女は重々理解していた。

 そして──、

 「今後一切、こちらに関わらない事。こちらの起こす、行動に対し、如何なる形であろうとも、無関係で在り続ける事…………そうすれば、以後少なくとも、貴様に対してだけは、何の危害も加えないと、宣誓しよう」

 「……………………」

 言いたい事は分かる……今後彼が如何なる行動に出ようとも、こちらから接触しない限りは身の安全だけは確保出来るのだ。つまり……自分の周囲の人間達が死屍累々となろうとも、自分だけは見逃してもらえるのだ。何と魅惑的な条件であろうか!

 だが……。

 それは『逃げ』だ。相手の用意した無意味に安全なレールの上をただ走って逃げるだけの行為……それは戦わずして敗北しているのと同義だ。だが逆に言えば自分には戦うだけの実力も無いのでこの条件はさっきも言ったようにとても魅惑的な条件でもある。自分の意地と欲望が渦巻く中で彼女は考える……そして──、

 (やっぱり…………逃げるなんて出来ないっ!)

 余裕の無いはずの心の中で意地が軍配を上げた。そこから先はほんの数秒程度の事だったが憶えてはいない……変に頭が冴えていたとしか彼女の脳髄は認識出来なかった。

 選んだ答えは一番目の答え……即ち、命を賭してでもここでヴィヴィオを連れ出す!

 後部座席でのスバルに動きがあったのを察してか、運転席に座るトレーゼが左手を引っ込めて丁度死角となる位置に手を置き、爪先にブレードを出現させた。勝負はたったの一瞬で決着がつく……次の瞬間にスバルがドアを蹴り破って外に出るか、それともトレーゼが彼女の首を刎ねるかだ。

 狭い車内で更に両者の距離が縮まり、既に互いの制空圏は重なっている状態であった。そして、スバルの左手がヴィヴィオの肩に触れた時──、



 彼女の表情が何故か悲しげな事実に気付いた。



 とても悲しい顔……今にも泣き出しそうな顔だった。自分の身を案じてくれているのだろうか?

 いや、違う。口元が微かに動いて何かを喋ろうとしていた。ただ喋る力が無いのか声は出ておらず、単に唇だけが動いて何かを伝えようとしていた。読唇術なんてモノは身に付けてはいないが、それでも口の動きを見ればある程度は何を言わんとしているかは分かる……スバルは少女の口元を凝視し、彼女の意思を読み取った。



 “わ”

 “た”

 “し”



 「……………………」



 “だ”

 “い”

 “じ”

 “ょ”

 “う”

 “ぶ”



 「ヴィヴィオ…………」



 “い”

 “っ”

 “て”

 “く”

 “だ”

 “さ”

 “い”



 「ッ!!」

 ヴィヴィオは自分の出来る限りの満面の笑みを湛えながら最後に──、



 “マ”

 “マ”

 “に”

 “は”



 “し”

 “ん”

 “ぱ”

 “い”

 “し”

 “な”

 “い”

 “で”

 “っ”

 “て”



 “い”

 “っ”

 “て”

 “く”

 “だ”

 “さ”

 “い”



 「…………ヴィヴィオっ!」

 自分が、せめて今この一瞬だけでも身を捧げれば両者の無意味な争いを回避出来ると知っていたから……この幼き少女は自分よりも目の前のスバルの身を案じてくれていたのだ。それは暗にスバルに対して勧告しているのでもあった……「逃げてくれ」、と。

 「…………三番……」

 「何がだ?」

 「さっきの……答え。三番」

 流れ落ちそうになる涙を必死に堪えて隠しながら、彼女は幼き少女が自分の為に作ってくれた架け橋を渡ろうとしていた。それが逃避と言う行動になろうとも、今のスバルにはそれを選択するしか道は残されていなかった。

 「……受理した。今後一切、このNo.13『Treize』は、タイプゼロ・セカンドに対し、あらゆる接触及び関係を、断ち切る」

 宣誓の後、運転席から外へ出た彼はスバルの座る座席のドアを開けて彼女を外に出るように促した。無言だった……このドアを通り抜ければ恐らく自分と彼は二度と言葉を交わす事も無ければ、下手すれば後ろ姿さえも見る事は無いだろう……そう、自分は文字通り彼との縁を切ったのだ。

 「……………………」

 右足をアスファルトに押し付けるようにして降り立ち、暖房の利いていた車内の空気を入れ換えるようにして大きく深呼吸した。冷えた外気が肺胞を押し広げる感覚が胸に広がる……そんな冴えた感覚を感じながらスバルは最後にたった一言──、

 「さよなら……」

 「…………ああ、さようなら」

 互いに目も合わせないままに……二人はその短い言葉だけを最後にして別れた。涙を流す事さえ忘れる程の寂寥感と無力感に苛まれながら、スバルは帰路についたのである。



 冬の闇夜、午後19時23分の出来事だった。










 午後19時47分──。



 「無い……。やっぱり無いっ! 借りた資料が一枚足りない!!」

 膨大な資料の束を読み終えたティアナは別紙に大まかなまとめを書き出している途中、その資料の枚数を確認した。あくまでも非公式に貸与されている以上、一枚でも紛失すれば迷惑を被るのは根回ししたはやてなのだ……ここは慎重にすべきだ。

 と思っていた矢先にこれだった。最初に貰い受けた時に確認した枚数と今確認した枚数が何度やっても一枚合わないのだ。

 「道理で内容がどっか噛み合わないと思った訳よ……。無くしたとなれば……やっぱりあの時よね」

 あの時と言うのは、ここへ帰って来た時に窓を開けて突風に見舞われたあの瞬間を言っているのだ。あの時の風で大半の紙が吹き飛ばされ、全部回収したはずだったのだがどうやらそれだけが紛失してしまったらしい。とは言っても昼間ここを出る時にはしっかり有ったので、部屋のどこかに必ずあるはずだった。

 だがいざ探そうとして行動すると意外にも見つからず、いつの間にか彼女は冷静に考えればまるで見当違いのはずのバスルームにまで顔を出しては焦りを感じていた。一応仮にも押収物を無理言って持ち出しているので、紛失しましたなんて言った日には始末書や減俸どころの騒ぎではなくなるだろう……最悪、自分の持っている執務官の資格の一部を剥奪されても文句は言えないだろう。

 「あ~もうっ! どこに行ったのよ、ったく。落とし物ってこうだから……!」

 プルルルル♪

 「はい、ティアナ・ランスターです。ギンガさん…………え、帰って来たんですか、あのバカ? え……? はぁ……まぁそう言う状態だったんなら少しそっとしておいた方が良さそうですね……。ええ、また少ししたら元気になるでしょうし……はい」

 受話器置く。捜索再開。

 「あのバカ! 散々人心配させといて涙目で帰ってくるって……泣きたいのはこっちよ」

 プルルルル♪

 「…………ティアナ・ランスターです。はい……? いえ、違います、人違いです」

 受話器置く。捜索再開。

 「電話番号は末尾まで確認しなさいよ! こっちはいつまでも暇じゃ──」

 プルルルル♪

 「はいランスターです! って、おうわぁあっ!!?」

 苛立ち始めていた彼女は三度目になる電話で受話器を乱暴に取り上げた拍子にバランスを失い、右足を挫き損ねる形で横転してしまった。急いで受話器を取ろうと体勢を立て直す過程で頭を上げ──、

 ベッドの下に一枚の紙が入り込んでいるのを発見した。

 「あ……っと! はい、すみません。いえ、ちょっとこちらの事で取り込んでいただけですから。それでご用件は?」

 急いで紙面の内容を確認しながら電話内容も同時に聞き取りを始める。そこは流石に執務官、取り調べや情報のやり取りなどで常にあらゆる聴覚情報が自然と耳に入って来るようになっているのでお手の物だった。電話の相手は鑑識課の人間で、今日彼女が臨時に参加を要請されていた案件についての事で報告があるらしかった。

 「はぁ…………それで、その現場付近に付着していた吐瀉物の鑑定結果が……?」

 とは言っても、実際は受話器の向こうよりも今自分が目の前にしている資料の方がずっと優先順位の高い物だと判断していた彼女は、受話器の向こうの人間の言葉を軽く話半分で聞きながら資料に集中していた。そして紙面の文字よりも大々的に記載されているその顔写真を見た時──、



 刹那の瞬間だけ意識が止まった。



 それはもう綺麗さっぱりと……彼女は自分の体感時間がぴったり停止するのを感じていた。左耳に当てた受話器から何か声が出ているが、そんなモノはもう聞こえてはいなかった。今の彼女の意識の大半を埋め尽くしているのは──、

 混乱。

 えっ? 

 嘘、そんな事が……!

 馬鹿な!?

 でも……

 あれは確かに……!

 じゃあ、『あれ』は一体何だったのだ!?

 様々な疑問が混沌と頭の中を駆けずり回って彼女をさらに混乱させ、それなのに両目は意思の働きから外れたように紙面に書き込まれている膨大な情報を読み取ろうと無意識に動き、その脳に更なる隠れた真実を送り込んでいた。二行……四行……八行…………とうとう紙面の半分を読破した時、彼女はそこに秘められていた恐ろしく、それでいて尚且つ壮大な事実の一端を……知ってしまった。

 そう、『知ってしまった』のだ! 知らなくても良いのに……知らずに居た方が良かったのに、彼女は不用意に知ってしまった。その事実は彼女に衝撃を与え、そして……

 「これが……これが人の、血の通った人間のする事なのっ!!? 有り得ない、有り得ないわよ」

 相手の意思も確認せず、憤りに任せて彼女は乱暴に受話器を置いて通話を切断し、また新たに電話番号を押して掛け直した。だが通話の相手はさっきの鑑識課の人間ではなく、彼女の良く知る人物であった。

 「もしもし、八神二佐ですか。お仕事中に失礼しますが、大至急お伝えしたい事があって……。はい、例の資料の件です……お時間、よろしいですか?」










 「ここが、お前の寝る場所だ」

 地下ラボのとある区画……かつてナンバーズ上位の者達が使っていた培養槽が安置されている空間に、トレーゼはヴィヴィオを連れて来ていた。即席で台座に車輪を取り付けた移動式のベッドに彼女を乗せながら彼はいそいそと培養槽に彼女を入れる準備を整えていた。このシリンダーの中に液を満たし、その中に対象となる生物を入れる事で人工的に生物の子宮を再現するのだ。液は自然と皮膚呼吸を促進させて体表からの酸素供給率を上げ、不足分の血液と組織液が体内で生産されるまでそれを続けるのだ。培養液には自然治癒能力を高める効能もある……完治とまでは行かないだろうが、骨折した右腕をある程度まで回復させる事は可能だろう。

 「安心しろ、ここには、クアットロは近付けさせない……。お前の右腕も、傷痕も残らないように、善処しよう。もちろん、これまで通りに、動かせるようにもする」

 奥の収納スペースから酸素マスクと、それを繋ぐホースを取り出し、それを培養槽の脇に設置してある酸素吸入機器に接続した。これを通じて酸素を吸い込むのだ。

 「ああ、だがその前に……お前の血液を、少し頂くぞ」

 事前に持ち込んでいた注射器を取り出し、彼はヴィヴィオの左腕を消毒してから針先を当てた。小さく鋭い痛みが走り、彼女の静脈血が抜き取られるまでそう時間は掛らなかった。

 「────────」

 「ん? これか? お前の持つ、特殊能力……絶対防御の力、『聖王の鎧』が入り用でな…………少し貰っただけだ。カードは、多いに越した事は無い」

 「────────」

 「……それは、無理だ。計画の遂行上、奴らとは決して、相容れない……互いのどちらかが、潰れるまで、戦わなくてはならない」

 再びトレーゼは別の注射器を取り出した。今度のは既に容器内が液で満たされており、本体もずっと小さかった。

 「怖がるな。安眠用に、少量の沈痛剤を、投与するだけだ」

 再び針が進入する感覚を覚えながらヴィヴィオは一息ついた。今は喋る元気も無いが、今は彼女自身の回復力に賭けるより他は無いのだろう。

 と、安心して少し気が緩んだのか、ヴィヴィオは自分の目蓋が嫌に重い事に気付いた。何度目を見開こうとして頑張っても目の皮の弛みは引き締まらず、彼女はトレーゼにまだまだ聞きたい事があるのにと顔を上げ──、

 「言い忘れたが、鎮痛剤には、微量の睡眠薬も、混ぜ込んでおいた。もう効果が…………ああ、おやすみ」

 少々強引な方法だったかも知れないが、こうでもしないとこの少女はいつまで経っても自分から離れないだろう……それに、今から少しこの子を使って在る物を制作しなければならないのだから……。

 取り出したるは小型のビデオカメラとガムテープ、そしてロープ……それら一式を構えてトレーゼはポツりと……

 「こう言うのは、趣味じゃないがな……」










 数分後、ラボ最下層の某所にて──。



 「手筈は、整っているな?」

 「は、はい……全て仰せの通りに……」

 暗闇の中でクアットロは兄に跪いた。激痛の走る右腕を庇いながら必死になって自分の誠意をアピールする……今度は首を飛ばされない為に。

 「…………これで、全てか?」

 「はい、ここにあったモノは全部……」

 「そうか……。存外、多く残っていたな」

 一歩を踏み出したトレーゼの足元に真紅のテンプレートが出現し、回転を始めた。彼の持つ十四……否、今では既に十五となったISのどれかが発動したのだ。そして暗闇を照らす光源の上に立ち、彼は眼前に手を掲げて……



 「IS、No.14……『コンクエスト・マリアージュ』、発動」



 空間全体が鮮血よりも紅い光で覆われたのは一瞬……その一瞬の時が終わった後、クアットロは自分の目を疑った。そして次に平伏すのだ……自分の兄が成し遂げようとしている事の重大さと、彼自身の恐ろしさに。全てが終わった後にトレーゼは踵を返し、自分の方を一瞥もせずに次の要求を通して来た。

 「明後日の昼までに、“これら”を所定のポイントまで、輸送する手続きを済ませろ。そうすれば、計画はより、盤石なモノとなる」

 「ほ、本当に“これ”を輸送するんですの? あ、いえ、もちろんお兄様の作戦を疑う訳ではありませんのよ! ただ、もし不都合があった時の為にと……」

 「貴様は、黙って俺の命令を、聞き入れれば良い。何なら……さっそく、“これ”の餌食に、なってもらうぞ?」

 その瞬間、暗闇の奥で大量の“それら”が蠢いた。その感覚はそう、丁度檻の中の猛獣が臨戦態勢を取った瞬間のあの緊張感に似ていた。気を緩めれば殺られる……! そんな張り詰めた感覚が彼女の神経を伝って脳にリアルタイムで送り込まれていた。

 「申し訳ありません! 全てはお兄様の仰せの通りにします! 何なりと申しつけてください」

 「それで良い……。お前も、少し位は、優秀である所を見せてみろ……」

 「はい……」

 「では、後は任せた」

 階段を上がり、彼は上層階へと戻る。重厚なバルブ式のドアを開けると外側から光が差し込み、眼球の虹彩が一瞬で縮むのが分かった。だがそのたった一瞬で外の眩しさに慣れた後、彼は一直線にラボへと向かう事にした。ヴィヴィオの様子はあちらにある監視カメラからでも把握出来る……もし次に自分の妹が手を出そうものならその瞬間にこちらに丸見えだ。今度は腕や足だけでは済まさない……。

 生体認証をすべてクリアし、ラボに通じるドアが開くと彼は車輪付きの椅子にどっかりと腰を落ち着けた。だが休む間も作らずすぐに施設内の様子をモニタリングする。大画面にカメラの設置数だけの映像が出現するが、彼が確認するのはヴィヴィオの居る培養槽とクアットロの仕事場だけなのでそれ程忙しくは無い。むしろ少し忙しいのは──、

 「これだな……」

 懐から取り出したるは一枚のディスク……家電製品のプレーヤーで再生可能な記憶媒体だった。それを取り合えず脇に置き、彼はそれとは別に小さな紙片を取り出してそこに小さなペンで何かを書き込んだ。そしてそれを小さく折り畳みながら更に緩衝材の代わりとなる発泡スチロールを適当に切り崩し、そこに作ったスペースにディスクを入れて継ぎ目をテープで留めた。

 「あとは、これをこのダンボールに、詰め込んで…………良し」

 丁度人の頭より一回り小さめのダンボール箱に入れ込んだ後、その表面にさっき何かを書き込んだ紙を張り付ける。これで完成だった。

 これでやっと一息つける……クアットロが作業を終えるまで見張りを続けなければならないが、それはここで座りながら出来る事なので大して苦労ではない。後は今後の計画の練り直しをしつつ、引き続きインゼクトを駆使して管理局関連の情報を取り出し続けるだけだ。

 と、ここで彼は現在更正施設に居るセッテからの情報を再確認していた。流石にこのタイミングで相手がウーノを出して来るとは思ってはいなかったが、相手がこれまでからずっと彼女をダシに使う作戦を練っていなかったとも考えられない……恐らくは陽動、もしくは本当にウーノを据えてこちらに決死の誘い込みを掛けて来ているかのどちらかだろう。もしこのタイミングを見計らってこの作戦を立案しているのだとしたら、自分は相手の戦略眼を少し見誤っていたかも知れない……何せこちらの作戦が明後日の深夜に対して相手方が同日の朝方から昼に渡ってだ。これを偶然の一致と捕えるには少々難があるだろう。かと言ってこの作戦を、鬼才とは言えあの八神が一人で立案したとは到底思えない……誰か他に助言をした知恵袋の様な者が居るはずだ、でなければあの詰めの甘い彼女が人を餌にする作戦を思いつくはずが無いのだ。

 「分からんな、どうも」

 不明な事だらけだ……まぁ、未来の事物なんて言うのは大抵不確定要素だらけなのだが。考えても仕方が無いと彼は思考を放棄した。詳細はその時になってから考えれば良い……それまでは、眼前の障害物を消し潰すと言う方針でも構わないと判断したのだった。力押しは単純ではあるがそれ故に効果も大きい……かつて彼が姉の一人から教わった事だ。

 そう、未来の事なんてのは誰にだって分かりはしないのだ。十年後……五年後……一年後……半年後……一ヶ月後……一週間後……明日……半日後……一時間後……三十分後……ひょっとすれば五分先に起こるであろう出来事でさえも予測は出来ないのだ。自分だってそうだった……ある日突然姉達から切り離されるとは思いも寄らず、そしてその17年後に覚醒した事でさえも予測出来ていなかったのだから……。

 そして──、



 ピリリリリ♪ ピリリリリ♪



 今こうして自分の携帯に再び着信がある事だって予測してなどいなかった。

 誰からだ? スバルではないはずだ、彼女には散々釘を打って今日も相互不可侵の停戦協定を結んだばかりだ。まさか舌の根乾かぬ内からいきなりそれを反故にする程に彼女も愚かではないだろう。なら一体誰だ?

 番号を確認する……。一応スバルではないが、番号の並びから察するに携帯電話ではなく、家庭に置かれている固定電話のパターンが表示されていた。当然だが全く見覚えが無い。

 「……………………」

 怪しい……そう思いつつも疑念より興味が勝ったのか、彼は自分でも不思議に思う位軽く通話ボタンを押し、受話器を耳に押し当てた。そして、ほんの数秒の沈黙を破って聞こえて来た声は──、

 「なんだ……お前か…………何の用だ?」



 彼の知る人物からだった。




















 新暦85年3月7日、時空管理局本局のとある個人事務室にて──。



 「それで、貴方の初仕事だけれど、どうだったかしら? 新兵訓練の調子は?」

 事務室のデスクに座って映像回線越しに言葉を交わしているのは、機動六課設立の際にその後見人となり、現在は前線からは完全に身を退いて本局の内勤に従事している元提督……リンディ・ハラオウン総務統括官その人だった。もう既に中年と呼ばれる年代を過ぎ、初老を迎えているにも関わらず、肌は皺一つ無く、深い緑の長髪にも白髪どころか昔のように艶を保っていた。そんな彼女が今仕事の合間に会話している相手は、現在遠く離れた地上本部で自分と同じように仕事に合い間を見つけて話している相手だった。

 『“新兵”と言う言い方は正しくは不適切だ。時空管理局は軍隊ではない……』

 「あら、ごめんなさい。現場を離れ過ぎたかしら……少し気が緩んでいるのかしらね」

 『例の新入隊員達の件だが、結論から言えば悪くは無いとだけ言っておこう。こちらに編入した時点で既にタカマチからある程度の訓練は受けて来ているからな……磨けば使い物にはなるさ』

 「そう、なら良かったわ。その様子だとまだ扱き過ぎて壊れかけって言う訳じゃないみたいね」

 『だが……良いのか? 最初から俺にこんな仕事を与えても……』

 「新設の部隊にはどうしても実力の有る人材が必要なのよ。ミッドは実力社会だから、良い人材は全部余所に取られてしまうもの。貴方も四年前から保険を掛けておいて本当に良かったわ」

 『その心配は無用だったかも知れないな。俺は一部を除いて引き取り手は皆無だったはずだ』

 「私がその『一部』に入ってたのよ」

 年甲斐も無く悪戯味の利いた微笑みに、画面の向こうに居る彼は溜息をついていた。そして急に佇まいを直して改まった風になり、彼は急に敬礼した。

 『こんな自分にも必要とされるチャンスを与えてくださった事に俺は今でも感謝しています、ハラオウン統括官』

 「嫌ねぇ、そんな畏まっちゃって。私達と貴方の仲よ、何も遠慮する事は無いわ。それに、その感謝の気持ちは私じゃなくて……」

 『承知しています。あれには文字通り、幾ら感謝しても足りませんので……』

 「でも、あの子は満足しているわよ、きっと」

 『ありがとうございます。それでは、俺はこれからN・ライトニング隊の訓練補佐があるので、これで失礼します』

 そう言うと彼はリンディの応答も得ずにそのまま通信を切断した。普通なら失礼とも取られる行為だが、彼女は相変わらず微笑んだままであり、通信を切った遠い地の彼に向って呟くようにこう言った。



 「期待してるわよ────、ナカジマ一等空尉さん」



[17818] とある一等空尉の回想
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/11/01 00:37
 新暦86年某月某日、地上本部中庭にて──。



 「やぁナカジマ空尉。最近の調子はどうだい?」

 「テンプレだな、その台詞。もう少し違うのが吐けないのか」

 「いきなりご挨拶だな君も……。て言うか、君こんな所で何してるのさ? 確か模擬戦があったはずじゃなかったっけ?」

 「ああ、あれか。開始から16分09秒でケリを着けて来た。二か月前と比較して約30秒も長持ちしているのを考えれば、あいつらも進歩しているんだな」

 「おかしいなぁ……戦力差は1:30ぐらいはあるはずなんだけど……。君を見てると、昔のなのはを思い出すなぁ」

 「俺をあんな猪突猛進女と一緒にするな。と言うか、お前もこんな所で何をしている? 仮にも司書長だろ、お前」

 「僕をそんなに甘く見てもらっても困るよ。初めて着任した時ならいざ知らず、あれからもう十年以上経ってるからね……無限書庫は僕がいつ降りても問題無いようにしてあるさ」

 「とは言っても、あの提督から来る資料請求を捌けるのはまだお前しか居ないはずだぞ」

 「そうなんだよなぁ~。あれの所為で僕も年間の有給が溜まって溜まって……なのはとデートする余裕も無いよ。その点、君は良いよね……確か、年間の有給休暇を殆ど消化しちゃってるって聞いたけど?」

 「どうでも良いだろう、そんな事は」

 「でもまぁ、僕はともかくとして、他の皆は結構忙しいながらも楽しんでるみたいだよ」

 「だが、七年前はそうも行かなかったんじゃないのか?」

 「まぁ…………色々込み入った事もあったからね」




















 新暦78年11月21日、午前6時30分。高町なのはの自宅にて──。



 ハウスキーパーであるアイナの仕事は基本的にこの家の主人であるなのはの留守中、家の中の掃除や早くに帰宅するヴィヴィオの出迎えなどを主としている。最近になってそんな彼女の仕事が一つ増えた……他でも無いなのはの身辺の世話である。“13番目”との戦闘でその脳に魔力ノイズを埋め込まれ、まっすぐ歩く事さえ難しくなった彼女は現在局での公務を全てキャンセルし、自宅での療養を余儀なくされている状態にあった。彼女の復帰の目処が立つまでの間だが、アイナはその世話をする役目を進んで引き受けたのである。

 そんな彼女の朝は早い。日の出と共に目覚めて着替えを済ませ、玄関の軽い掃除とポストに何か配達物が無いかを確認し、それらを素早く済ませてから朝食を摂るのが彼女の日課だった。今日もいつもと同じようにしてベッドから起き、着替えと軽く身嗜みを整えた後、普段通りに外に出て──、

 玄関の前に小さな箱が置かれているのに気付いた。

 本当に小さかった。人の頭よりも少し小さく、片手ですんなり持ち上げられる程に軽かった。表面に運送会社とかのロゴが印刷されていないのを怪しみつつ、裏面にも目を回したら……一枚の紙が貼られていた。そこにはまるで印刷されているみたいに達筆な感じで何かの文章が書かれていた。



 『高町一等空尉へ。
           ────No.13より』



 「これって……!?」

 自分の手に握られた物が想像以上に重大なモノだと理解した彼女はそれを抱えながら大急ぎでなのはの寝室に飛び込んだ。もちろん、その友人である八神はやてにも連絡を入れてだ。










 スバルが泣きながら帰って来た。それもほんの少し涙目になってではない……大泣きだった。一体どうやって人目のある道を歩いて帰って来たのかと逆に怪しくなるぐらいのモノで、それを見たナカジマ家の面々はすっかり面喰ってしまった。

 先に帰って来ていたギンガがスバルの家から何かを見つけたと言うのは聞いていた。何を見つけたのかは知らないが、少なくともチンクと一家の主であるゲンヤはそれが何なのかを聞かされていた様子だった。当の本人が帰って来たらそれを問い質すつもりでいたようなのだが、如何せんそのスバルが異常な状態で帰って来たのでそれもうやむやになってしまった。それもそうだろう、ドアを開けてギンガを姿を見つけるなりその胸に飛び込んで子供のように言葉も話さず一方的に泣き叫ぶのだから……。

 だが、そんな彼女の姿を見て純粋にやきもきしていたのは実はゲンヤだけで、後の姉妹達全員は一つの共通した予測を頭の中に導き出していた。俗に言う、『嫌な予感』とか言うモノでもあった……。

 何故か? 彼女は今日友人とデートに行って来ていたはずだった……雨が降って来た後は知らないが、少なくともデートをしている間は何も問題は無かったはずだった。その後、彼女は雨を凌ぐ為に自分の家に行っていたのは電話で確認したのでそれも問題は無い。だがあの時スバルは傍に彼が居るかどうかを訊ねられた時、居ないと答えたはずだ。だが彼女のあの悲しみ様はどう考えても一人で行動していてなるモノではない……明らかにその悲しみの要因を作った誰かが居るはずだった。

 だが誰が? その疑問が浮かぶと同時に、ギンガ達姉妹はある人物を思い浮かべていた。

 それは今日彼女が共に行動しているはずだった友人の事だった。ギンガとゲンヤは仕事に行っていたので詳細は分からないが、他の四人は昼間のスバルと連れの動向を気に掛けてその様子を見ていたはずだ……認めたくは無いが、その友人が彼女に悲しみを与える要因を作ったとしか考えられない。

 その仮説に一番過敏に反応したのはノーヴェだった。食事中に大泣きして帰って来たスバルを見た彼女は一瞬でその仮説を打ち立てたのか、スバルの上着のポケットから携帯電話を取り出し、液晶に穴を開ける勢いでボタンを押しながら固定電話の前までやって来た。確認した番号を振るえる指で押しながら、ノーヴェは相手が受話器に出るのを待った。

 「…………おう、あたしだ。ノーヴェだよ」

 背後で他の家族が見守る中、電話の相手はすぐに出てくれた。スバルは落ち着くまでの間だけギンガと一緒に寝室に連れて行かれ、残りの家族が背後から数珠繋ぎになって様子を見守っていると言う形となっていた。

 「…………今さっき……スバルが泣いて帰って来たんだ。どう言う事なんだよ?」

 落ち着いているように思えるかも知れないが、彼女が嫌に落ち着いて言葉を出す時は大抵相当怒ってテンションが一周回ってしまっている時だ……。導火線に火の点いたダイナマイト……下手な反応を返せばその瞬間に怒声どころの話では済まなくなるのは背後の姉妹達も理解していた。せめてそうならないようにと祈りながら、事の経過を見守っていると……。

 「……ちょっと待てよ、それってどう言う…………何だよそれ! ふざけんなっ!」

 相手が何か気に喰わない事を言ってしまったようだ……最悪、電話そのものを買い替えなければならない事も考慮しておこう。背後からでも分かるその怒りようにチンクが諌めようと手を伸ばすが──、

 意外にも彼女の怒りはすぐに矛を収めた。

 「そうかよ…………ならいい、あたしは何も言わねぇよ。……じゃあな」

 やけに冷静になったノーヴェの様子を訝しみ、受話器を置いて通話を切ったのを確認してからチンクは声を掛ける事にした。

 「友人殿は何と言っていた? やはり、何か知って……」

 「ううん……。何も言ってくれなかった。ただ……」

 「……ただ?」

 「…………あいつとは……スバルとは、もう終わったんだって言ってやがった。だからもう互いに関わらない事にしたって……」

 「終わったって……別れたッスか!?」

 「分かんねぇよ! 何も言わなかったんだ……何にも分かんねぇって」





 これがつい昨夜のやり取りである。





 「スバルはまだ起きないのか?」

 朝食の時間になっても一向にスバルが寝室から出る気配は無い。昨日の夜帰って来てからシャワーも浴びる事無く寝付いてしまい、それっきり起き上がろうとしないのだ。何があったかは知らないが、友人との事がかなりショックだったのは間違い無さそうだ。

 「せめて今日一日だけはそっとしておいてあげましょう。何があったかはいずれ話してくれるだろうから」

 「…………そうだな、深く考えたって肩透かし食らうだけだ。今はただ黙っておこうか」

 「ありがとう。……あの、ノーヴェはどこ行ったのかしら? 今朝は確か居たはずなんだけど……」

 「ああ、ノーヴェなら少し前に走り込みに行ったよ」

 「あの子が何も言わないで行っちゃうなんて……」

 「聞く所によれば、スバルを振った殿方とノーヴェは知り合いだったらしい。それなりに色々思う所があるんだろうな、あいつも」










 「で、これが問題のブツって訳やな」

 受け取った一枚のディスクを左目で凝視しながらはやてはそれをスカリエッティに手渡した。彼もそれをマジマジと眺めてから再び元の持ち主であるなのはに手渡して一言こう言った。

 『ただのDVDディスクだね。何かウイルスが仕込まれている可能性も否定できないだろうから、念の為に通常のプレーヤーで再生する事を勧めるよ』

 今朝玄関前に置かれ居た小さな梱包箱の中に入っていたのは、どこにでもある記憶媒体のDVDだった。それ以外には何も入って入ってはいなかったのだが、実は呼び出したはやてが来るまでに先に開封してしまい、その事についてはかなり怒られたのだが──、

 『それは深読みが過ぎると言うものだよ、八神二佐。あの“13番目”が今更宅配テロなんかで相手を仕留めるはずがない。高町教導官は既に戦線を退いた身……追い撃ちを掛けるとは思えんよ』

 それもそうかも知れないが、だとしたらこのDVDは一体何なのか? ウイルスが仕込まれているならパソコンなどで再生した場合とんでもない事になるかも知れないが、もしそうでなかったとしたらこれには何が収録されているのだろうか……?

 「再生……してみよか」

 中身を見ない内から怪しんでいても進展はしない……ここは思い切りの良さに賭けて見るより他は無さそうだ。そう判断した彼女はなのはに軽く目配せして意思を確認した後、ディスクをプレーヤーに挿入してリピートボタンを押した。始めの十秒程は何も録画されていないのか画面全体がブルーで、しばらくしてからいきなり画面が薄明るいどこかの部屋を映し出した。どうやらカメラを手で持って録っているようで手振れだらけだったが、やがて固定台に乗せたのかすっかりそれは収まった。その直後、彼女らにとって聞き覚えのある声が流れ出て来た。

 『映像を、確認しているか、ナノハ・タカマチ? 今から流れる映像を、貴様と、元機動六課のメンバーが、見ている事を、想定して、以下の要求を述べる』

 無機質で抑揚の無く、途切れ途切れの声……間違い無い、クアットロ奪還作戦の時に聞いたあの戦闘機人の声だ。映像はまだ続いているが、映している空間が暗い所為で一寸先も見えず、何を映しているのか全く分からなかった。

 『今から、貴様の娘を、映す……。映像越しだが、安否の確認を、済ませろ』

 そう言った次の瞬間、室内の明かりが点いて一瞬だけ画面が白くなった。しばらく光量を調節して映りが悪くなっていたが、やがて再び映像が映された時──、

 なのはは無意識に吐き気を催した。

 確かに録画された映像には自分の愛娘が映し出された。白い肌に金色の長髪……その他の体格や身長なども見間違えようも無く自分の娘、ヴィヴィオだと確信を持てた。

 それは良い、と言うかそこまでは良いとしよう……その自分の娘が椅子に座らされているのも、『座らされている』と言う状態までは問題無いとしよう。

 だが──、



 その全身が指一本に至るまで拘束されているのはどう言う事か。



 椅子の上に座らせた小さな体躯をロープで縛り上げ、顔面も両目と口元を覆い隠すようにしてガムテープが貼られていた。胸の辺りが僅かに上下しているのを見て辛うじて生きていると言う事だけは分かるが、両足を椅子に縛り付けて首さえも動かないように固定してある……とても一人の年端も行かない少女に対して行う仕打ちではない。

 「なのはちゃん、気ぃしっかり持ちや」

 「…………」

 誘拐された家族が惨い姿で映し出されている現実を受け止め切れずに青褪めている自分の友人を、はやてはその肩を掴んで軽く揺さぶった。そのお陰で少しは気を取り直したようだったが、それでもやはりこれは精神的に厳しいモノがある事に変わりは無かった。だがそんな彼女らの意思とは無関係にカメラを回している相手はそのまま言葉を紡ぎだして行く。

 『こちらの要求は、こちらの、“聖王の器”を、そちらに引き渡すについて、その条件を提示したい』

 なるほど、大体読めた。つまりはヴィヴィオを元手にしてスカリエッティと、収監されている二人のナンバーズを交換しろと言うのだろう。人質を取った誘拐犯の常套手段とも言える卑劣なやり方だが、それが一番効果的なのは間違い無いのも確かな事実だった。そして、そんな彼女の予想通りに画面の向こうの機人が出して来た要求は……

 『二日後の、11月22日、午後9時00分……ポイントは、クラナガンから北西へ約120㎞の、ベルカ自治領内の、自然公園丘陵地帯……』

 ベルカ自治領となると教会に話を通しておかなければならないだろう。引き渡し用の輸送ヘリも航空部署に許可を取って借りねばならない。

 と、早速相手が提示して来た二日後の事を頭の中で作戦立てながら映像を見ていたはやては、次に自分の耳を疑う言葉が出て来た事に驚いた。

 『こちらの、“聖王の器”に対し、Dr.スカリエッティのみを、引き渡す事を、要求する』

 「スカリエッティだけやて? 何を考えてるんや……」

 相手は確かに自分の主であるスカリエッティを引き渡す要求をして来た。だがしかし、相手が要求して来たナンバーズ側の名前はその一つだけで、あと二人の名は全く含まれていなかったのだ。人質一人では三人もの交換は不可能と判断したか? 否、“聖王の器”と言う名は伊達ではない、身柄が一人でもその要求を充分通すだけの価値があの肉体には秘められているのだ。それは相手も重々分かっているはず……それでこの要求ははっきり言って控えめ過ぎるのだ。裏があると考えるのが妥当だろう。

 だが、相手側の奇っ怪な要求はその一つだけではなく、その一言がさらに彼女らに混乱を来たす事となった。

 『引き渡しに、当たっての、立会人も、こちらから提示させてもらう……。立会人は────』










 午前7時39分、ナカジマ宅の寝室にて──。



 眠い……。帰って来てからすぐ寝たはずなのに、まだ眠い。

 疲れた……。今さっき起きてほんの少し動いただけなのに。

 気持ち悪い……。何か食べたらその瞬間に胃液が逆流しそうな感覚だ。

 止まらない……。どんなに泣いても涙が全然止まってくれない。

 「……………………死にたい……」

 まさか自分の口からこんなネガティブな台詞が飛び出すとはと驚きつつ、彼女はベッドの毛布に包まってずっと泣いていた。悲しみの原因は昨日の自分の行いにあった……あの時トレーゼが自分に用意したたった一つの『逃げ』の選択肢を、自分は選んでしまったのだ。もちろん、あの状況ではそうした方が賢明なのは分かっていたし、自分がどうかしなくてもヴィヴィオが殺されると言う心配も無かったので一見は何も問題無いようにも思えるかも知れない。

 でも自分は逃げたのだ。自分には無理だからと言う陳腐な理由で、一人の少女を見捨てておめおめと逃げ帰って来てしまったのだ。恥ずかしい……! 無茶振りは自分の身を滅ぼすと師に教えられたが、だからと言って立ち向かう事もしなかったのは言い訳出来ない。敵前逃亡と言う重圧が今の彼女を責め立てているのである。

 しかし、それ以上にスバルの心を苛むモノがあった。それは、最後の最後までトレーゼの真意を確かめる事が出来なかったと言う事だった。

 別にそれを知って誰かに報告する訳ではなく、ただ純粋に彼の本当の気持ちを知りたかっただけなのだ。たった一人で多くを殺し、そして壊す彼が、今までどんな事を経験し、今どこに居て、そしてこれから先どこへ行こうとしているのか……それを知りたかった。でも、もうそれを知る事は出来ないのだ……彼と自分はもう、二度と接触する事は無くなったのだから。

 「…………喉……渇いた」

 腹は減らないにしても喉は渇く……自分が生きていると言う事がこれ程までに鬱陶しく思えた事は無い。これは相当来てるなと考えながら、スバルはよたよたと千鳥足で台所に向かった。居間に続くドアを開けると、まず一番初めにディエチと目が合った。こちらの姿を認めるなり少し驚いた顔をしていたから、恐らく相当酷い表情なのだろう。

 「だ、大丈夫? 顔すっごく青いけど……」

 「うん……平気だよ」

 軽く周囲を見渡すがノーヴェは居ない……走り込みにでも行ったのだろう。その時に目が合ったギンガが気を利かせて水の入ったコップを差し出してくれた。

 「気分はどう? 一晩中泣いてすっきりした?」

 「まぁね……。ありがと、もらうね」

 ギンガの手からコップを受け取ろうと手を伸ばした。だがその時に手に力が入っていなかったのか、受け取ったつもりがそれを取り落としてしまった。床一面に水とガラスの破片が飛び散り、スバルとギンガは急いでそれを回収に掛る羽目になった。

 「ご、ごめん……!」

 「本当に大丈夫なの? 調子が悪かったら、まだ寝ていても良いのよ」

 「ううん、本当に大丈夫…………ぁ痛っ!」

 ガラスの破片が指の表面を切り裂き、鋭い痛みに思わず手を引っ込めた。指には鋭い切り傷が走り、そこから血液が溢れ出していた。

 「あ…………」

 紅い……。そう、彼もこんな色をしていた。いつも彼の周りにはこんな色が付き纏っていた……初めて出会ったあの時は、自分の血の色で紅く染まっていたはずだった。昨日も……雨に濡れながら人を殺し続けていた彼は、きっとこの色に染まっていたのだろう。人の体に流れ、最も人の身近にある色でありながら、人に最も忌避されている色…………常にその色を纏っている彼の真意を確かめるとは、彼の存在を理解するとは、その最も忌避される色も受け入れると言う事なのだ。

 出来ない! 無理だ!

 スバルは忌避する、自分の身から滲み出たこの色を……そして、トレーゼが纏っていたあの色を……。だから無理なのだ、彼を受け入れる事など到底無理なのだ。何故なら、彼の本質を覆い隠すそれを受け入れられずに、彼を理解する事など出来るはずが無いからだ。小さい、あまりにも小さい! 己の器が、たった一人の存在を理解し、受け入れるにはあまりにも小さ過ぎる。

 「スバル……?」

 指を切ってからどんどん顔が青褪めて行く妹を見て、ギンガはやっと彼女がおかしい事に気付いた。両目の焦点も全然合っていない……呼吸も徐々に小刻みになり、喉元が蛇のように律動するのを見た後、ギンガは電光石火の早さでスバルを抱き起こして洗面所に連れて行き──、

 数分後、洗面所からスバルの苦しげな呻き声と何か液状のモノが落ちる音がして、その後に水道の栓を全開にした水音が聞こえて来た。事の重大さを察知したチンクが寝室に直行して毛布を取って来て、ウェンディは様子見、ディエチは別のコップに入れた水を電子レンジで温め始めた。

 程無くして戻って来たスバルは最初に出て来た時以上に顔色が悪くなっており、力無く口元を押さえていた。既に寝室から戻って来ていたチンクが毛布を背中から掛け、ウェンディを介してディエチが湯の入っているコップを渡した。

 「大丈夫ッスか? まぁ、見たら分かるッスけど……」

 もう喋る気力も無いのか、椅子に座った途端にグッタリとして動かなくなってしまったスバルを心配そうに見つめる事しか出来ず、チンクやディエチらも内心では焦っていた。あの天真爛漫と言う言葉を絵に描いたような存在だったスバルがここまで衰弱しているのは、未だかつて見た事が無かったのだ。彼女の事を良く知るギンガでさえ、ここまで弱っているのは母親が急逝した時以来だと思っていた。

 「風邪薬しか無いが、飲むか?」

 「……………………」

 ゆらりと上げられた左手が左右に振られて拒否の意思を見せる。しばらくは何も飲み込めないようだ。

 と、タイミング悪くここで固定電話がうるさく鳴り響いた。こんな朝から誰がと思いつつ、ギンガは受話器を取った。

 「はい、ナカジマです」

 相手は自分の良く知る相手、ティアナ・ランスターだった。今日は非番なのか、いきなりスバル居るかどうか聞いて来て、そして居るなら代わって欲しいと言って来たのだ。声色から察するに何か切羽詰まっているようにも感じられたが、生憎とそのスバルは現在とても応対出来るような状態ではなかった。

 「ごめんなさい。また日を改めてもらえるかしら? 私からは言っておくわ」

 『そうですか……お邪魔しまして済みません。では、私はこれで失礼します』

 意外にもあっさり引き下がってくれたので良しとしたかったが……

 「…………どうしちゃったのよ……スバル」

 自分の声も聞こえているかどうかさえ分からない状態の妹を見ながら、ギンガは純粋な心配からそう呟いた。










 「…………分からん。相手が何を考えてんのか全く分からへん」

 意味不明……それが、“13番目”から直に届けられたDVDの内容を見終えたはやての感想だった。そう、全く以て意味不明としか言いようが無かった。

 「どう思います?」

 虚空に浮かんでいる映像回線に移っているスカリエッティにも感想を求めては見るが……。

 『現状では相手が何かの策を練っているだろうとしか思えんよ。あの映像を見る限りでは何の変哲も無かったから、恐らく単純にこちらに対して交換条件を突き付ける為に録画しただけかも知れん』

 「やとしても……最後の条件は……」

 『うむ。それについては私も同意見だ。この条件……あちらにとっては何の得も無いはずなんだが……』

 ここで言う最後の条件とは、先程の映像において“13番目”が提示して来た引き渡しの『立会人』の事だ。即ち、人質と自分の主を交換するに当たっての証人代理となる者を管理局側から選出したのだが、この人選が──、



 八神はやて二等陸佐。
  
 高町なのは一等空尉。

 フェイト・T・ハラオウン執務官。

 シャマル主任医務官。

 ティアナ・ランスター三等陸尉。



 上記の五名を立会人として指名する物だったのだ。

 おかしい……明らかに人選がおかしい。百歩譲ってはやてとなのはは良いとしても、負傷して現在入院中のフェイトや今回の件には捜査上の関わりが薄いティアナに加え、極めつけに一介の医務官であるだけのシャマルまでその立会人の中にカウントしていると言うのはどう言う事か? 不可解にも程がある……。

 「何を考えている……。いや、何を考えてるにしたって、ここでどうにかしやんとチャンスは無い……」

 相手がヴィヴィオを手中に入れている以上、ここで要求を拒めば例え殺さないにしても彼女にどんな責が及ぶか分からない……意図不明で細かい要求であっても逐一呑まねばならない。もし“13番目”の言っている事が万が一にも正しいなら、二日後にはベルカ自治領の自然公園に奴らが来るはずだが、相手が素直にヴィヴィオを引き渡すとは考えられない。下手を打てば戦闘になるのも避けられないだろう。

 「改めて、どう思います?」

 『強いて言えばそうだな…………先程の映像をもう一度拝見出来るかな?』

 「…………構いません」

 なのはが居る手前、あのショッキングな映像を再び再生する事は気が引けてしまったが、今ここに居る者達の中でもズバ抜けた頭脳を持つ彼が言うのだから何かあったのだろうと、はやては再びディスクを入れてボタンを押した。

 映像は最初の方から流され、やがて拘束されているヴィヴィオが映り込んだ所で──、

 『止めてくれ』

 素早く停止ボタンを押して映像を止めた。椅子に固定されたヴィヴィオを真正面から捉えたその映像を目にして、なのははまた目を伏せたが、そんな事はお構い無しにスカリエッティは回線越しから映像を食い入るように眺めていた。やがてしばらくそうしていた後、ふとはやて達の方を向いて……。

 『寝ている……いや、どうやら睡眠薬か何かで眠らされているようだな』

 「分かるんですか?」

 『人間は覚醒時と睡眠時で呼吸の仕方が変化する。そして、眠りの深さなどにも微妙に左右される……これは薬物などで強制的に深い眠りにつかせているようだ。大方、この映像を録る際に抵抗されたのだろうな』

 「確かに、冷静に考えればこんな固そうな椅子の上でここまで力が抜けた感じで眠れへんわな……」

 最初に見た時は全身をガチガチに拘束されている所為で分かり難かったが、確かに始めから椅子に座って眠ったのを見計らって縄を掛けたにしては四肢に緊張が見られない。彼の言うように睡眠薬か弛緩剤の類を投与されて全身の力を予め抜いてある可能性が高かった。

 「と言うか、指摘したかったのってそこだけですか?」

 『いや……もう一つある。…………少しよろしいかな、御女中?』

 スカリエッティからの目配せで何となく言いたい事を察したのか、アイナがふらふらになっているなのはを部屋から連れ出した。二人きり……正確に言えばはやて一人だけなのだが、現在部屋で映像を見ているのは彼女と、同じく遠く離れた地上本部の一室から映像を見物しているスカリエッティだけだった。

 「それで? 気になる点ってのは?」

 『うむ。この映像をそのまま見る限りでは詳細までは分からんが、少し映像をコマ送りで戻してくれたまえ』

 言われた通りにリモコンで操作してコマ送りを開始する。と言ってもそんなに尺が無いので、すぐに映像は始めの方であった三脚などの台に乗せようとする手振れの場面に移り、もうすぐ地面を映す所まで戻ろうとしていた時──、

 『止めてくれ』

 スカリエッティが指定した停止ポイント……そこは、カメラが地面からヴィヴィオの方に向けられる手振れが最も激しい瞬間の部分だった。目を凝らしても何を映しているのか判別出来ないが、そのとある一ヶ所をスカリエッティは指差した。

 『ここの部分なんだが、見えるかな? 培養槽が映っている』

 言われて見れば画面左端に僅かだが何か巨大なガラスで出来た物体が映っているのが見えた。培養液は満たされていないが、どうやら人間が丸ごと一人入るには充分なサイズだった。

 『かつて私がナンバーズ製造に使っていた物と同型だ』

 「本当やな?」

 『伊達に二十年以上も研究に没頭していた訳ではない。自分が使っていた機材がどんな物だったかは覚えているさ』

 「やったら、ここがどこのアジトか突き止められるわな?」

 『情報量が少な過ぎる。これを録画した時間帯にもよるが、日光などが無い所を見ると恐らくは室内……培養槽の中には紫外線などを避けるデリケートな物を入れる事を鑑みれば、地下である可能性が大きい。映像を見る限りで分かったのはそれだけだ』

 つまり、現状では“13番目”がかつてスカリエッティが根城にしていたラボのどこかに潜んでいると言う事が確定しただけであり、未だにそのアジトをつきとめられずにいた。

 『あと非常に言い難いのだが…………もう一度ヴィヴィオ嬢の方に映像を進めてもらえるかな?』

 映像が再び拘束されたヴィヴィオに映り変わった。気絶させられて全身を縛られているのは何かと痛々しくもあるが、それ以外には何も気になる所は無いはずだった。

 だが、そう思っていたのははやてだけのようだった。

 『気付いているかな?』

 「何が?」

 『一見全身の関節を完璧に押さえた拘束方法だと思えるだろうが、実は違う……。良く見たまえ、右腕の拘束だけが若干甘い』

 「そう言えば……。左腕は関節とかバッチリ押さえてんのに、ここの部分だけ肩の方だけ縛っとるだけや……」

 『ふむ、私の見立てだと、これは何らかの原因で負傷していると見て良いだろうな。恐らくは、縛る時に痛めないようにと……ああ、言っておくが、多分“13番目”の仕業ではないだろう。彼女が何をしたかは知らんが、大事な交渉道具である“聖王の器”に自分で傷を付けるはずが無い。大方、クアットロが先走ったのだろう』

 「確かに、そんな事はなのはちゃんには言えへんな……」

 プレーヤーからディスクを抜き出し、はやてはそれを懐に仕舞った。これは重要な証拠物件として提出されるのだ。と、いつまでも立ちっ放しで疲れたのか、椅子を引いてそこに座り、一息ついた。

 「はぁ……片目の生活っちゅうのがこんなに難儀なもんとは思わんかったわ。ヴァイス陸曹の妹さんも、相当苦労してんやなぁ」

 『一人で感傷に浸るのも良いが、二佐は何か私に言いたい事は無いかね?』

 「…………気付いてました?」

 『高町教導官に退いてもらったのは実はこちらの方の理由が大きくてね。ランスター執務官に調べさせていた件で何かあったのだろう? 今は丁度トーレもウーノも出払っている……言い難い事は今の内に言っておく事を推奨するよ』

 「……………………例の資料……ハルト・ギルガスの研究施設から押収された手書きの研究資料を解読させた結果なんですが……」

 『要点だけで良い。余計な言葉を省いて真実のみを伝えてくれたまえ。つまり……“13番目”がトレーゼなのか、そうではないのかだ』

 「なら、結論から言わせてもらいますと────、



 “13番目”は『Treize』であり、『Treize』ではありません」




















 時を戻って新暦86年──。



 「あの時、お前も相当仕事をさせられてんじゃないか? 調べ物は無限書庫の専売特許だからな」

 「意外かも知れないけど、あの事件については僕は暇だったんだ。大抵の事は僕よりも頭脳明晰なDr.スカリエッティが居てくれたからね。犯罪者でなかったら欲しい人材だよ、彼は」

 「ほぅ……」

 「…………何食べてるのさ?」

 「弁当。見て分からないか?」

 「いや、見たら分かるけどさ……」

 「気付いて無いと思うが、もう昼だ。食事を摂っても問題は無い」

 「え…………本当だ、じゃあ折角だから隣で失礼させてもらうよ」

 「小さいな……。そんな量で満足なのか?」

 「君が大きいんだよ! 何だよそれ! ドカ弁じゃないかっ!」

 「貴様……! 俺の『愛妻弁当』にケチを付けたな!?」

 「ちょ! 君にそんな単語を教えたのはクロノかぁ~っ!!」

 「いいや、リンディ・ハラオウンだ」

 「リンディさんーっ!!」




















 「そうか……そう言う事だったのか」

 『既にDr.ギルガス本人には言質を取ってあります。紛れも無い真実です』

 「真実とは、意外に単純なモノなのだなぁ……。複雑に考えていたのが馬鹿のようだ」

 『この事……そちらの二人には……』

 「私から話そう。と言っても、ウーノはこれから作戦の重要な位置に着く事を考えれば余計な事を言って動揺を与えたくはない。二人とも、『“13番目”はトレーゼだと判明した』とだけ伝えておこう。それに、私が言った方がトーレも信じるだろうしな」

 『協力に感謝します。後で資料に添付されていた写真のコピーをそちらに送ります』

 「だが良かったじゃあないか。私にとっては大いに不本意ではあるが、君達はこれを口実にトーレの協力を得られるのだから、儲けモノだろう?」

 『……仕事ですから。では、後ほど』

 回線が切断され、スカリエッティは静寂の室内のソファに怠惰的に寝転がった。天井で輝く電球を薄らと開けた目で眺めながら欠伸を一つ……そしてその後、彼は不意にこんな言葉を吐いた。

 「世界と言うのは……こんなはずではなかった事ばかりだな。そう思わんかね? ハラオウン提督」

 視線をやった上座にはいつの間に来ていたのか、クロノが静かに腰を落ち着けて居り、自堕落に寝転がっているスカリエッティとは対照的な雰囲気を醸し出していた。だが彼の表情はどこか重苦しく、その部分ではスカリエッティと同じように何だか途轍もなく芳しくなかった。

 「…………これから、どうするつもりですか?」

 「どうするもこうするも無い。今はっきり言えるのは、あの二人に真実を隠し通すしかないと言う事だけだ。特にあのトーレがこの真相を知れば、恐らくは……」

 「恐らく?」

 「下手を打てば、三年前の地上本部襲撃よりも凄惨な地獄が見れるかも知れないな」

 ニヤリと笑った彼の横顔に思わずクロノは身を引いた。猛禽類の鋭い眼光と、蛇の様な粘ついた感じの笑み……このスカリエッティが必ず自分にとって楽しい事を考えている時に現れる癖の様なモノだった。もちろん、彼にとっての楽しい事と言うのは大抵碌な事ではないのだが……。

 そんな彼に別の話題を振ろうとしたクロノだったが、結局何も見つけられなかったらしく、渋々続きの疑問を聞く事にした。

 「……貴方はこの事実をどう思われますか?」

 「どうもこうも無いさ。どんなに奇っ怪で、どんなに込み入った事情でも……結局それは当事者以外から見ればどうしようもなく下らない事なんだよ」

 脇に置いてあった毛布を引っ掴んで自分の上に被せ、彼は睡眠を摂り始めた。いい加減に話しをしているのが馬鹿らしくなって来たのだろうか、彼は最後にこれだけを言って眠りに入った。

 「そうさ…………下らない、実に下らなくて、面白味に欠ける…………つまらない真実さ」










 同時刻、孤島の地下ラボにて──。



 「……………………」

 トレーゼはラボの椅子に座って読書をしながらモニター越しに妹を監視していた。昨日の一件から、彼はクアットロを一切信用しない事に決めていたのだ。彼女は自分達の行おうとしている事の重大さを理解していない……あのまま放置して行動に制限を掛けなければ、いずれ滅ぶのはこちらの方だと考えたのだ。自滅となってからでは遅いので、計画発動までの二日間をずっと監視する事で乗り切ろうとしていた。

 特に彼が気に掛けているのは、現在培養槽にて安静を強いているヴィヴィオであった。昨日までは一切言葉を話せないぐらいに衰弱していたが、一晩経過した今では何とか念話だけは飛ばせる程度には回復していた。もっとも、喋れたとしても液中で酸素マスクを装着しているので無理なのだが。

 ≪気分はどうだ?≫

 ≪はい……。右手が少し痛むだけで、後は何もありません。大丈夫です≫

 ≪そうか……≫

 この通り、回復は順調だった。砕かれた骨が完全に再生するまでには何ヶ月も掛るだろうが、組織液と同様の働きをする培養液の中に居る限りは血液不足による酸欠にはならないだろう。おまけにクアットロに関しても絶対に近付かないように釘を刺してもある……それでそれ以上の事を仕出かそうものなら、今度は殺処分どころか死体すら残さないつもりだった。ちなみに、そのクアットロ本人は現在彼が与えた仕事に着手している最中である。

 ≪水温が適していなければ、いつでも言え。直接調節しに行く≫

 ≪ありがとうございます≫

 ≪礼には及ばない。こちらが必要だからしているだけだ≫

 ≪それでも……ありがとう≫

 自分を拉致した者に対して礼を述べるとは、変わった少女だ。そんな事を思いつつ、彼は新たに本のページを捲った。彼が目を通しているのは例の赤い本……昨日、アパートに隠してあったのをヴィヴィオが持ち出していたあの本を見ていた。内容は本の半分ほども無いが、これは彼にとって封印されていた17年の空白を補充する為には欠かせない物である事に変わりは無かった。

 ≪そう言えば、これを預かっていた事についての礼がまだだったな。世話を掛けた≫

 ≪大切な物なんですよね?≫

 ≪クアットロの愚か者には、これが理解出来なかったようだがな……≫

 ≪それって、トレーゼさんにとっては一体何なんですか?≫

 一体何か……か。根本的な部分を問われれば流石に何と答えれば良いのやら……。本を閉じて長考した後、彼はこう答えた。

 ≪俺の……封印されていた17年、そのものだな。これには、俺の封印されていた間の全てが補完されている……それがあるから、俺は俺で居られている≫

 ≪それって……≫

 ≪時々、過去の記憶が曖昧な部分がある。二十年近く経っているからと言うだけでは説明出来ない……虫喰い穴のようにな≫

 閉じた本を収納スペースに仕舞い込み、彼は代わりに一枚のカードを取り出した。金属で出来た薄いカードで、自分の居るラボとヴィヴィオの居る培養槽を映像回線で繋ぎ、それを彼女に見せた。

 ≪これをお前に預けておく≫

 ≪何ですか、それ?≫

 何の変哲も無いそれを眺めながら頭に疑問符を浮かべている少女を見やりながら──、

 「…………良いモノ」

 少し勿体ぶった感じで答えた。










 「当面の問題としては、如何にして明日の作戦を成功させるかやな」

 なのはの自宅で例のディスクの検証を終えて戻って来たはやては、ゲストルームでクロノと野暮用から戻って来たトーレと共に明日に決行される作戦についての簡単な会議を済ませていた。ちなみに、スカリエッティはすぐ隣のソファで未だに爆睡中である。

 「既にウーノは西部支部に身柄を移す準備中で、各部署への根回しや協力要請なども完了……。あとはそれを実行に移し、相手が誘われて来るのを待つだけだ」

 「問題は、どうやって作戦を成功させるかやな。相手も一筋縄で行かへんって言うのを考えれば、これは予想以上に難儀な事になるやろなぁ……」

 つい今しがた作成された作戦指令書を確認しながら、明日の作戦について考え続ける。相手が引き寄せられて来る自信はある……だが、勝算があるかどうかについては殆ど断言出来ない。相手の実力はほぼ未知数……ハザードレベルはかつての犯罪者達と比較しても遜色どころか、逆に今まで稀代の凶悪犯罪者と謳われて来た連中が霞んで見える程だ。何よりも、単独犯でありながらここまでの事をやってのけているのが奴の危険度をより上げていた。

 だがその前に……。

 「いつまでそれを見ているつもりだ?」

 クロノの言葉がトーレの鼓膜を刺激した。彼女が見ている物……それは、クロノ達がここへ戻って来た際に彼女に渡した一枚の写真だった。そう、はやてがティアナに解析を頼んだ研究資料の中にあった顔写真のコピーである。毒々しい紫苑の短髪に雪よりも白い白磁の肌、そしてその存在が戦闘機人であると知らしめている金眼……彼女の記憶の奥底、17年にもなる過去の映像の中に確かに残っている弟の成長した顔をずっと見つめていた。

 「…………変わってしまったな、随分と」

 「元の写真が撮られたのはほんの三年前だ。二十年近くも経てば外見ぐらい変わって当たり前さ」

 「そうなのか……。記憶の中のあいつは……私の知っているあいつは、いつまで経っても泣き虫なままなのにな。いつの間にか、修羅の道を歩み始めていたと言う事か……」

 「そいで、弟が関わっている今回の件についてやけど、協力はしてくれんのやろ?」

 「……………………一度言った事は覆さないつもりだ。明日の作戦で直接関わる事は出来ないが、万が一の時の為のサポートには徹する事を約束しよう」

 「おおきに。やけど、願わくばあんたが出る状況だけは作りたないわ。ナンバーズ最強が出やんとならん状況は……」

 「出過ぎた『弟』の行為を実力行使で諌めるのが『姉』の役目だ。あいつを止める為なら躊躇いも無い」

 「じゃあ話しは変わるが、君はこの作戦が成功する確率についてどう思う?」

 手渡された作戦指令書を穴が開くほど眺め、トーレは熟考する。戦術のプロが頭を捻って出した解答は……。

 「…………40%……いや、五分五分と言ったところだな」

 「嬉しくない値引きやな。根拠は?」

 「作戦が成功するか否かについての要因は幾つかある。人員の量と質、布陣、チームワーク、仕掛けるタイミング、的確な指揮……それらが組み合わさってようやく明確な勝利を得る事が可能となる。だが、時としてそれらの要因が欠けていても作戦行動が完璧に成功する時があるのは何故か分かるか?」

 「……………………『運』、だな」

 “運”……それはこの世界でもっとも不確かでありながら、最も影響力を持った力の流れだ。この世で生きる者達全てが生まれながらにして持つ力だが、その実態はまさに未知の領域だ。ただ一つ言えるのは、この世には圧倒的な強運で祝福された者と、絶望的な悪運に呪われた者の二種類が居ると言う事だけだ。強運である者は如何なる死地をも涼しい顔で無自覚に乗り切り、逆に悪運に魅入られた者は如何なる平和なはずの日常ですら絶命的な事態に急変させてしまうのだ。そして、その無慈悲な力の流れは戦闘においても例外ではない。

 「あらゆる行動においてその成否を左右するのは結局これだ。三年経った今だから言うが、かつて機動六課が我々に勝利を収める事が出来たのも、詰まる所は強運に見守られていたからだ」

 「褒められてんのか負け惜しみ言われてんのか……」

 「どっちでも良い。ありとあらゆる面においてスペックは我々ナンバーズの方が遥かに上のはずだった……。だが、その絶対的とも確信していた確率の壁を六課は完璧に真正面から打ち砕いた。何度シュミレートしても我々の勝利は確定だった……敗北の余地すら無かったはずだったのに、それでも負けた。運も実力の内なのだと、心から思い知らされた瞬間だったよ」

 対魔導師及び騎士戦特化戦闘機人『ナンバーズ』……常人の数倍の高速学習と、各個体の感覚共有による経験値の増大は彼女ら機動六課言えども難無く撃破出来るレベルにまで成長するはずだった。現に過去の地上本部襲撃事件では突然の奇襲と言う事もあって、一度は彼女らを敗北させていた。だがそれでも結局逆に敗北を喫したと言う事は、彼女らの実力とそれを後押しする運によって勝敗を決されたと言っても過言ではない。

 「馬鹿馬鹿しいかも知れないが、私は六課のメンバーは総じて戦闘に関しての運が強いと言う結論を出した。どんな危機的状況からでも必ず生還する奇跡に満ち溢れた存在……それが機動六課だとな」

 「お褒めにあずかり何とやらってな。そんなんやったら、何で成功の目立てが五割なんや?」

 「単純な話だ。あのトレーゼが戦う事に本気になっていると言う事は、もはや戦場の確率はあいつによって支配されると言ってしまっても過言ではない。ありとあらゆる幸運も不運も、あいつにとっては自分の領域内で起きた単なる夢幻に過ぎない…………あいつは、そう言う風に生み出されているんだ」

 「はいはい、弟自慢はもう結構。もう私らに残されとる道は無い……ここで一世一代の大博打に出んと、いつまで経っても現状は打破出来ひん」

 懐から出した大きな紙──地図を広げ、デスクに叩き付けるようにして置いた。地図にはクラナガンの中央から西部に掛けてマジックペンなどで汚いぐらいにマークなどが書き込まれており、明日の作戦が如何に重要なモノかを物語っていた。

 「…………これが成功せんだら始末書だけで済むやろか?」

 「いや、場合によっては異動だな。もちろん閑職に」

 「座ってるだけで給料がもらえるのか……羨ましいな」

 「………………ええい、ままや! 今より約25時間後、『No.13鹵獲大作戦』を敢行しますっ!」

 「ネーミングが昭和だな。と言うか、よくそんなんで上層部に許可通ったな……」


















 「美味でした……」

 「ごちそうさま」

 「そう言えば、お前のその弁当は確か……」

 「うん、なのはが作ってくれたんだよ」

 「結構上手く出来ているな」

 「なのはの実家は喫茶店だから、料理はお手の物さ」

 「そう言えばそうだったな。俺達もあそこに少し居候していたから、この料理もその時あいつが教わった」

 「ああそっか、君達って一時期だけ翠屋に居たんだよね」

 「好きで居たんじゃないんだがな……」

 「良い経験じゃないか。それよりも、ナカジマ空尉はこの後予定とかあるかい?」

 「言っておくが、俺に男色の趣味は無い。一切無い」

 「台詞だけで飛躍し過ぎだぁ! そう言う意味じゃなーい!」

 「命拾いしたぞ……互いにな!」

 「その気があったら殺される所だったの、僕は?」

 「……………………」

 「ちょ! 黙らないでよ!!」




















 午後17時46分、ナカジマ宅にて──。



 あれからずっとスバルは寝込んでいた。昼に軽い流動食を口にしたっきりでベッドに逃げ込むようにして睡眠に入り、それからは家族の誰が話し掛けても全くの無反応だった。医者に行く事を勧めたのだが、本人のあまりの衰弱の様子が酷いものだったので、それは明日にする事にした。付き添いにはノーヴェが率先して進み出てくれたので取り合えずは一安心だった。

 「只今帰りました」

 すっかり日が暮れてしまってからチンクが家に帰って来た。上に羽織っていた灰色のコートを寝室の掛け具に留め、妹達の待つ居間へと足を運ぶ。

 「お帰り、チンク姉」

 「うむ。スバルはまだ回復しないようだな」

 「もう全然ッス。このままずっと気分悪いままなんじゃないかって……」

 「薬とかも飲んでくれないし……」

 一家のムードメーカーが完全にダウンしてしまっている所為で、他の姉妹達も完全に意気消沈と言った感じでドンヨリとしていた。

 「案ずるな。良くも悪くもスバルは私達と同じ戦闘機人……。そう易々と調子が戻らないなんて事にはならんさ」

 「……そうだよね。考え過ぎなのかな、やっぱり」

 「そうさ。ああそうだ、ギンガはどこに……」

 「呼んだ?」

 台所の方から紺色の髪を振ってギンガが顔を覗かせる。スバルの為に消化の良い白粥を作っていたのだが、一旦ディエチにその作業をバトンタッチしてエプロンを取り去りながらチンクに近寄った。

 「何かしら?」

 「いや、アテンザ技術主任から少し伝言を頼まれていてな……」

 「……そう。何の用かしら?」

 さり気なく二人は奥の部屋に移動すると、そこで話しの続きを始めた。他の姉妹達には自分の声が届かないこの室内で……。

 「それで? どうだったの?」

 「提出された八本のナイフだが、その全てからスバルの左手の指紋が検出された。だが、スバルのとは違う人物の指紋が彼女よりも遥かに多く検出されたらしい」

 「ちなみにその指紋の持ち主は誰?」

 「不明だ。このミッドチルダには存在していない者の指紋だったらしい。どの戸籍登録上にもな」

 「単なる不法滞在者の持ち物……だとしても、あのスバルには接点が無いはず……」

 「……………………いや、一つだけだが、該当している指紋があった」

 「どこの誰!?」

 「それが……どこの誰かは結局不明なんだが、以前メインストリートで発生した親子連れ殺害事件を知っているだろう?」

 その事は記憶にも新しいのでギンガも良く覚えている。クラナガンに上がって来た母と娘が、不幸にも逃走中の闇取引集団と出くわしてしまった所為で被害を受けたあの事件だ。

 「あの時の被害者の子供が持っていた菓子袋があるんだが、その表面に残っていた少女とは別の指紋……それと全く一致したそうだ」

 「またえらく接点が無さ気な所に話しが飛んだわね……」

 「どちらにしても、スバルが変な輩に関わっているのは可能性としては有り得る話しだ。これは思っていた以上にキナ臭い事になっているかも知れないな」

 「毎度毎度、あの子は面倒事を抱え込むのが得意みたいね」

 「……………………」

 「どうしちゃったのよチンク? いきなり黙り込んだりして……」

 「実は他人を挟んでなのだが、この後でティアナと会うように言われて……」

 「私も?」

 「と言うか、むしろ貴方がメインです」

 「そう言えば午前中にも電話があったわね。何か急用なのかしら?」










 午後18時00分、都内某所にて──。



 11月下旬の寒風を真に受けながらも、その人物はしっかりと地面に足を根付かせていた。手に持った高性能の単眼鏡で遠方のあるポイントを凝視していた彼女はふとそれをやめ、取り出した携帯電話のナンバーを素早く打ち込んで目的の人物に送信した。

 「……もしもし、こちらティアナ・ランスター。予定通りに対象の監視を続行中です、八神二佐」

 『ご苦労さん。そいで……やっこさんの様子は?』

 「対象・Aは朝方にランニングに出掛け、一時間後に帰宅した後はそのまま夕方の17時まで初期位置に留まった後、再び午後の走り込みを終えて現在に至ります。逆に対象・Bはこちらが行動を開始してから現在に至るまで一度も外出していません」

 『カマ掛けの電話は?』

 「ギンガさんが出ました。本人は……」

 『出やんかったか……。出来るんなら身内は疑いたくないけど、状況が状況やしなぁ』

 受話器を握る手の圧力が上がる……決して寒さに耐えて力が入ったのではない。ティアナは懐から一枚の写真を取り出し、それを無言で見つめていた。それは昨日自分が驚愕の事実を記していた紙面にあった写真のコピーだった。そこに映された人物……彼女も過去にどこかで見た事のある顔だった。

 (間違い無い……あの時にスバルと一緒に居たあの男!)

 興味本位で尾行していた時には磨りガラスを挟んだように顔が見えなかったが、特徴的な部分は全て覚えている。毒々しい紫の髪と無機物的な輝きを持つ金色の双眸……写真を見た瞬間に間違い無いと確信出来た。そう! 間違い無くこいつはあの場所に居た! 自分達のすぐ目の前で悠然と闊歩していたのだ! 自分の手で四肢を切り落とした相手と一緒に……その友人が見ている目の前で……。

 だが、忘れてはならない事実がもう一つ……。

 『何でスバルとノーヴェの二人はこいつと知り合いなのか…………解決したい疑問はそれだけや』

 「それは……もうすぐ分かるかもしれませんよ」

 単眼鏡を掛けて目的のポイントであるナカジマ宅の玄関を見やった。ドアを開けて出て来た二つの人影……小さい銀髪と、それに対比するかのように長身の麗人だ。こちらの指定した場所に向かおうとしているので、こちらも早く移動した方が良さそうだろう。

 「詳細は後ほど。二佐も……明日の作戦、絶対に成功させてください」

 『後輩の期待に応えられん程に私も落ちぶれとらへんよ。安心し……私が、私らが積み上げて来た全ての為に……成功させるよ』

 「…………ご武運を」

 携帯の通話を切り、コートをはためかせながら彼女は自分の居るビルの屋上から離れる。夜に映えるオレンジ色の長髪を風に揺らしながら夜光の街を歩く……。

 「……スバル…………隠し事なんてあんたらしくないわよ。すぐに引ん剥いてやるんだから……」










 午後21時00分、海上更正施設のとある寝室にて──。



 「…………もう良いですよ」

 「そうか」

 簡素なベッドに寝転んで天井を見上げていたセッテは、突如虚空に向かって声を掛けた。別に長期に渡る閉塞した空間での生活で幻覚を見ているとかではない……紛う事無くそこに『居る』からこそ声を掛けたのだ。

 彼女の呼び声に応じて部屋の隅の暗闇が揺らぎ、そこから人影が姿を現す。まるで最初からそこに居たとでも言うように当然な素振りで現れた彼は、天井の監視カメラの視線も意に介さず堂々とセッテの寝るベッドの隣に腰掛けた。それに伴って彼女は上体を起こして視線を向けた……他ならぬ自分の兄に。

 「…………明日ですね」

 「ああ」

 「行くんですか?」

 「ああ」

 「殺すのですね?」

 「ああ」

 「壊すのですね?」

 「ああ」

 「……………………」

 「…………お前の、出番も近いぞ」

 「そうは思えません。ワタシは収監されている身ですから」

 「予言してやる……お前は、間違い無く、俺の優秀な手足になる。クアットロの愚か者とは違う……真に優秀な、戦闘機人だ」

 トレーゼの手が伸び、セッテの桃色の髪に覆われた頭に置かれた。軽く数回だけ撫でた後に降ろされ、次にセッテは兄の顔が自分の顔のすぐ横に迫るのを感じた。

 「優秀でなければ、ナンバーズには、不要だ……。俺の妹で居たいなら、常に優秀で在れ。今のお前は、トーレと、ウーノの次に、優秀だ」

 「褒めているのでしたら素直に受け止めておきます……」

 軽く振り解くように再び彼女はベッドに横になった。そのまま目を閉じ、横の兄に──、

 「御武運を……『兄さん』」

 「心配無用だ……。全ては────」



 「「創造主、スカリエッティの為に」」




















 新暦86年、ナカジマ空尉とスクライア司書長の会話──。



 「それで? 俺に何の用なんだ?」

 「いやぁ、実はうちのヴィヴィオがもうすぐ誕生日なんだよ」

 「誕生日?」

 「うん。なのはの養子になった日を誕生日って事にしてるんだ。それで今日の夜に皆でパーティーなんだけどさ……どうかな?」

 「皆って誰だ?」

 「えーっと、僕らでしょ? 八神家でしょ? ナカジマ家でしょ? あー、あとフェイトも来るって言ってたでしょ? それに教会の方からも……」

 「まてまて! 多くないか? と言うか多過ぎるぞ! 『夜通しパーティーだよ、全員集合!』状態になってるぞ!?」

 「良いじゃないか偶には。それに、最近ヴィヴィオも会いたがってるよ」

 「俺か? ヒツキにか?」

 「両方。それに、あの三人にも会いたいってさ。ここの所ずっと会えなかったみたいだからね」

 「あいつらも呼ぶのか? 一体何人でやらかすつもりだ?」

 「きっと賑やかで楽しくなるよ。場所は第三会議室ね」

 「……何で場所が管理局なんだ?」

 「はやてが使って良いって許可出したんだよ。貸切だってさ」

 「職権濫用だな、あの狸女……。ん? 待て、少し失礼する。…………こちらナカジマ一等空尉……何だ、お前か。なっ、そっちにもその話が行っているのか? 行きたい? まぁ、お前が言うなら仕方が無いか。分かった分かった、帰宅したら準備をしよう。それじゃあな…………はぁ」

 「誰だったの?」

 「『嫁』、『妻』、『配偶者』、『伴侶』、『人生のパートナー』。言い方はそれぞれだが、意味は全部同じだ」

 「了解、把握したよ。取り合えず、君も参加って事で良いのかな?」

 「他の奴らが出るのに一人だけって言うのもな……。これも付き合いだからな、仕方ないか」

 「良かったぁ。君が居ないとヴィヴィオもちょっと悲しむから……って、どこ行くのさ?」

 「フォワード隊の訓練は一回だけではないからな……今から続きだ。お前も自分の職場に戻った方が良いぞ。提督から莫大な資料請求が来ているかもな」

 「冗談きついよ……」










 『パーティーらしいですね。久し振りに外に出れそうです』

 『やったぁっ! ボク、沢山食べるぞぉ!』

 『フン、塵芥が群れて騒ぐだけの会合なんぞに、何故我が……』

 『まぁまぁ、偶には良いのではないですか?』

 『そうそう! 楽しまないと損だって!』

 『塵芥共が下衆な事をせねば良いが……。そうだな、精々楽しませてもらうか』



[17818] 作戦開始!
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/11/16 00:53
 新暦78年11月21日、午前7時00分。クラナガン西部に位置する時空管理局地上西部支部にて──。



 「作戦行動は現時点より120分後の9:00より実行する! 各々のポジションは事前に通達した通りだ。各員、それまでに充分に英気を養っておくように。以上! 解散!」

 今回の作戦……『No.13鹵獲作戦』の現場指揮を執る部隊長からの号令の後、整列していた作戦隊員たちは一斉にその場を離れ、それそれが使い慣れたデバイスを携えてロッカールームに流れ込んだ。作戦が始まるのは二時間後であるにも関わらず、既に彼らはバリアジャケットを展開しており、今の時点でもかなりの熱気に満ちているのが分かる。ここに居る隊員たちは一連の事件の首謀者について詳しく聞かされており、中には本局から直接派遣されて来た選りすぐりの実力者も居る……。彼らはこれから戦う事になるかも知れない敵がナンバーズの残党である事を強く意識しており、対戦闘機人戦を想定しての訓練を受けた猛者達の部隊を組織しており、その全員が今回の作戦を実行するに当たっての充分な意気込みを持っていた。

 そんな彼らの中に、一見場違いにも見える人物が居た。

 「ケリュケイオン、調子はどう?」

 『全システム良好です。充分行けます』

 「ストラーダも……何があっても行けるね?」

 『大丈夫だ、問題無い』

 十代前半の二人の少年少女……。赤髪の少年は自分の身長よりも長大な槍型のアームドデバイスを携え、隣の少女は自分の両手に装備した珠玉が埋め込まれたグローブ型のデバイスをそれぞれ調整していた。この明らかに作戦に参加するには年齢が不釣り合いなようにも見える二人だが、その実力を知る周囲からは異議を唱える声は決して上がらない。彼ら二人は前衛ではなく、今回護送される要人の直接警護に当たる役目を担っていた。要人の直接警護に当たる者は彼らを含めて全部で『三人』……あと一人はここには居らず、後もう少ししたら顔を見せるとの事だった。

 「今日の作戦で全てが変わるかも知れない……。ここで決めないと、みんなに……スバルさんや、ティアナさん達に顔向け出来ないよ」

 「うん……。ねぇ、エリオ君。この作戦、成功すると思う?」

 「…………分からない。成功するかも知れないし、失敗しちゃうかも知れない。もし失敗するんだとしたら、敵に逃げられたか、もしくは……」

 「敵に全員が殺されるか……だよね?」

 「大丈夫……キャロもフリードも、僕が必ず守って見せるから。絶対にみんなを守って見せる……!」

 少年の意気込んだ声が周りの隊員たちにも聞こえたのか、気さくな彼らはすぐに冗談交じりにその少年を囃し立てた。「ガキが一丁前な事を言いやがって」とか、「坊主はカノジョだけ守ってりゃ良いんだよ」「そうだ。前は俺らに任せて、お前らは自分らの仕事に専念しな」など、ぶっきらぼうな中にしっかりと優しさが含まれている言葉ばかりだった。

 「ありがとうございます……!」

 「私達も頑張らないとだね」

 既にここに居る隊員たちは一つの『チーム』となっていた。結束力も協調性も、全てにおいて完璧に良好な状態が出来あがっていた。

 ふと、緊張していた彼らの中に一瞬緩やかな空気が流れた瞬間──、



 ドアが開き、そこからある人影が姿を現した。



 部隊長ではない。彼とは明らかに体格が違うからだ。

 そう、こちらの方がより逞しかった。明らかに身長は二メートルを越えており、筋骨隆々な胴体と四肢はその肉体が極限にまで鍛え込まれている事を暗に示していた。そんな奴がいきなり言葉も無く入り込んで来た所為で、室内の空気は一瞬で凍り付き、隊員たちはその姿を見た瞬間にギョッとした目つきになった。

 もちろん、エリオとキャロも彼らと同様に驚愕の表情となっていた。だがその驚愕は彼らのものとは少し違っており……。

 「君は……!」










 午前7時32分、クラナガン上空6000メートルにて──。



 「……来た」

 彼はこの雄大な冬の空を浮かんでいた。いつもの様に見えない地面を歩くように垂直にではなく、まるで落下している最中に時間が停止したようにして仰向けになって浮かんでいるのだ。風に揺られるようにして浮かび続ける彼は時折下界の街の様子を見やり、その度に鉄面皮な無表情で壊れたレコードのように繰り返し呟いていた。
 
 「来た……来た来た、来たっ、来た! 来た」

 表情筋が凍り付いているのかも知れないが、彼は今非常に興奮している状態だった。今日は……今日と言うこの日は、彼にとってまさに最適、この上ないと言う言葉がこれ程までに相応しい日に巡り合える事が出来たのだ。これはいくら冷静と沈着、そして不動を信念とする彼であってもこれは興奮せざるを得なかった。

 「来たよ……トーレ、ウーノ、ドゥーエ……。この日、この時、この瞬間……やっと……。そうさ、計画は、ここから始まる」

 浮力に使っていた魔力を切断し、彼の体が自由落下を始めた。地上1000メートルの位置に来るまでそのまま効果を続けた後、空中で華麗に体勢を整えて風を掴み、その勢いの浮力を利用した瞬間に飛行魔法を発動させた。ムササビのように滑空し、ツバメの如く飛翔した彼は自分の全身を光学迷彩で覆い隠し、音速の翼を駆って目的のポイントまで移動を始めた。もう止まらない、止められない……ここまで来た、来てしまった……もう戻る事は不可能であり、当然戻ろうなどとも思ってはいない。もう、戻るべき場所など無い……。

 「マキナ、目標の、予定ポイントの、通過時間割り出しは?」

 『All right.』

 「上々……。一発目の花火は、打ち上げられた……今は、フィナーレの、前座に過ぎない。楽しめよ、クズ共……本番は、ここからだ」










 午前7時56分、ナカジマ宅の寝室にて──。



 「病院……?」

 ベッドの上の布饅頭……ではなく、そこに埋もれるようにして寝ているスバルから弱々しい確認の声が聞こえて来た。昨日一日も寝たままだった彼女は今日も一度も寝床から起き上がる気配を見せてはいなかった。昨晩に姉のギンガが作った粥も半分だけしか食べておらず、今の彼女は昨日よりも更に衰弱しているのは誰の目から見ても明らかであった。

 そんな妹を見兼ねてか、今朝からギンガ達が一度病院に行く事を強く勧めており、今もベッドに引き篭っている彼女を説得している状態だった。

 「一人で行けなんて言わないわ。私とチンク、それにノーヴェも一緒に行くから」

 「……ウェンディとディエチは留守番?」

 「ええ。ノーヴェがランニングから帰って来て少ししてから行くから、ちゃんと調子整えておきなさい」

 「……うん」

 取り合えず拒絶の意思は無かったので了承と見たギンガは、水を入れたコップを近くの卓に置いた後にそっと部屋を出た。居間でテレビを見て大笑いしているウェンディの頭を小突きつつ、トイレから出て来たディエチとぶつかりそうになって、一旦用を思い出したかのように外に出た後──、

 「もしもし……。私よ」

 電話を掛けた。コール音を三回も繰り返す暇も無く、相手はすぐに受話器を取り、今こうしてギンガはその人物と電話越しの密会を果たしていた。

 「予定通りにスバルを連れて出掛けるわ。接触は……取り合えず帰り道にしましょう。あの子が調子悪いのは本当みたいだし……。…………ええ、分かっているわ、そっちも下手に情を移したら駄目よ。出掛け次第もう一回連絡するわ。それじゃあ……」

 メジャーな折り畳み式のそれをポケットに仕舞い、彼女は再び玄関のドアを潜って家の中に戻った。そして靴を脱いで床を踏み締めた時、ふと溜息をつきながら呆れた感じでそこに居た人物に言った。

 「盗み聞きって言うのは、らしくないんじゃない?」

 「すまない。少し気になってな……」

 銀髪と眼帯、それだけでこの姉妹の特徴を語れる。玄関のすぐ近くで待機していたチンクはギンガの前に立ち塞がるようにして前に進み出て、隻眼で彼女の目を見据えた。咎めるようにではなく、本当にただ澄んだ目で見透かすようにして……。

 「良いのか? 万が一と言う事も有り得るかも知れないが……」

 「私は……あの二人を信じてるから……信じているから、こうするしかないのよ」

 「……なら良いさ。私も一応は貴方に加担している身だ……最後まで共しよう」

 「ありがとう、チンク」

 「礼には及ばない。私も……自分の妹は信じていたいからな」










 午前8時10分、都内のとある公園のベンチにて──。



 「…………はぁ」

 ベンチに座りこんで汗を拭く赤毛の少女は、走り込みで消耗した体の調子を整えるべく現在は小休止に入っていた。自宅を飛び出すようにしてランニングを始めてから、近くのこの公園に戻って来るまでに一度も休まずに走った所為か、息を整えるだけでも時間を食う羽目になっていた。やがて少し落ち着きを取り戻し、酸素を含んだ冷えた血流が頭を冷却するに伴って彼女の頭も徐々に運動の興奮から冴えて行った。だが頭がすっきりする感覚とは別に、彼女の表情は険しく、眉間に寄せられた皺の数は彼女が何かを考え込んでいる事を容易に示していた。

 彼女……ノーヴェが考え込んでいたのは自分の家族の事だった。

 自分の双子の片割れとでも言うべき存在が、どう言う訳か昨日一日をずっと寝て過ごしていた……。あの天真爛漫とか、元気溌溂とか言う馬鹿な単語を見事に体現していた彼女があそこまで精神的に追いやられているのを見るのは初めてだった。あれから友人を通して聞いた話では、三年前に自分達が姉のギンガを拉致した際にもブルーな感じになっていた事があるらしく、今回はそれと同じか、それよりも酷いと言う事だった。天と地が引っ繰り返ってもあのスバルが失恋でダウンするとは誰も思っては居なかったらしく(と言うかノーヴェも考えた事も無かった)、実父のゲンヤでさえもが「今はそっとしといてやろう」と言う在り来りな言葉しか言えなかった。だがノーヴェには何となくだが分かる……あれは放置しておいても治るモノではないと。

 だが、家の中の誰もがスバルがヤワだと認めたくないのもあってか、誰も込み入った所まで入り込もうとはしなかった。実の姉のギンガでさえも、「本人の事だから……」と言って一線を引く始末だった。

 それでも重ねて言うが、彼女のあの弱り様は尋常ではない……。だがそれと同時に彼女がちょっとやそっとの事ではあそこまで衰弱しないのもまた事実だ。何があったのか……そんな事を考えると決まってノーヴェの脳裏に浮かぶ人物の顔があった。

 トレーゼ……恐らくはノーヴェが認めた初めての友人であり、今まで知りあって来た人間の中で最も神秘的な者の顔が浮かぶのだった。夜の帳のような黒い雰囲気を纏ったあの少年は決して多くを語ってはくれない……恐らくあの日に自分に話してくれた事も本当の事ではないのだろうし、実は肝心な部分をひた隠しにしているのかも知れないと考えていた。あの彼がスバルを悲しませる要因を作ったとは思いたくはなかったのだが、全ての状況が彼がそれに関わっていると証明している以上、やはりそこだけはどうしようもない事実なのだろう。ならば、せめて本当の真実を……あの日二人の間で何があったのかだけははっきりと聞いておきたかった。

 「…………今度会ったら、話してくれっかな……」

 そもそも次がいつ会えるかなんてのは分からない事だった。当たり前のようにそこで再会し、そしていつの間にか姿を暗ますのが常となっている彼は、こちらから意図して会う事も出来ない事が多いのだ。例え会えたとしても、また適当にはぐらかされるのかオチかも知れなかった。

 だが、もしそうだとしても……確かめずにはいられない。もしその先に何かしらの残酷な答えがあったとしても……自分には知る権利があるのだと、ノーヴェはそう自分の心に言い聞かせていた。

 それに、自分にはそれを受け止め切るだけの度胸も有ると言う自信も持っていた。

 そう、彼女は──、

 信じていたのだ、自分の友人を。

 あの彼が人を傷付けるなんて事は絶対にしないと言う、愚直なまでの根拠無き期待にも似た信頼を……彼女は、ノーヴェは揺らがせようとはしなかった。

 だから──、



 この時から既に彼女は『狂って』いたのかも知れなかった。










 午前8時23分、海上更正施設のレクリエリアにて──。



 「課外授業……ですか?」

 「ええ。セッテさんは順応が早いからって事で、早速なんですが、一時間後にクラナガンに向けて出発って形でよろしくお願いしますね~」

 その日は彼女にとって初体験となる日であった。以前のナンバーズ更正組にも行った課外授業なるものを、今日のセッテにも受けてもらおうと言うのだ。課外授業の内容は至って簡単であり、一般社会の仕組みを知らない彼女らが近い将来に更正施設を出て外界で暮らす事になっても困惑したりする事の無いように、更正中のプログラムの一環として月に二回程度のペースで担当官が彼女らを伴って街に出ると言うものだった。社会の成り立ちや仕組みについては施設の中でも教えることは充分に可能だが、それではやはり限界があり、百聞は一見に如かずと言う教訓もある事から実際に外に出て自分の目で見て学習させるシステムを取っている。言わば一種の社会科見学のようなモノだ。

 本来ならばこのプログラムは施設で教育を受けてから最低半年は経たなければならず、その半年の間に必要最低限の予備知識を学ばせてから実行される。セッテの場合はその基礎知識の覚え込みが早く、更には対人関係における必要最低限の対応方法や処世術なども徐々にマスターして来ているのもあって、施設での更正者の中では異例の早さでプログラムを受ける事が出来る状態にあった。後は、彼女の場合はその対人対応が型に嵌った形式的なものである為、実際の人間模様を見てそこに修整を掛けると言う意味でも今回のこれは重要な意義を持っていると言えた。

 だがセッテ自身にとっては、外の世界には大して興味は無く、今更実際に外に出たからと言って学べる事は無いとさえ考えていた。余所行き用に貰い受けた今時な衣服の類にも何の興味も湧かず、実際に着てみた今でも何の感慨も無かった。そして、窓の向こうの冬の海を眺める彼女の脳裏にはある一人の存在があった……。

 「そろそろ……兄さんも動いた頃でしょう」

 トレーゼ……彼女のナンバーズとしての実兄に当たり、自分よりも高い実力を持ち、教育者のトーレにも充分に比肩する唯一の存在。今頃は管理局の誘い出しの作戦にわざと乗って行動している最中であろう彼の姿を思い浮かべながら、セッテはそんな兄の事について思考していた。

 元々自分がここに出来るだけ長く留まろうとしているのは何故か? 彼に接触する為だ。彼に接触し、本人から直接手解きを受ける事で、ナンバーズ時代には得る事の出来なかった強さを吸収しようと言う考えだった。今現在自分がどれ程の実力を有しているかは全くの未知だ……ここで拳を振るえる相手はトレーゼ以外には居ないのもあるし、昨今の事件の忙しさの所為で姉妹の誰もここに立ち寄る暇さえ無いので、実力を正確に計る機会が得られていない状態であった。欲求不満とまでは言わないが、戦闘機人は戦う事を目的として造られており、特に直接戦闘用の彼女はその深層心理に少なからず刻まれた戦闘欲求を満たす機会を欲してさえもいた。

 だが、兄のトレーゼが言うには、その憂いも近い内に解消されると言う事を仄めかしていた。彼が何を予見しているのかは知らないが、恐らくその言葉は外れないのは根拠は無いが感じていた。あの兄が何の意味も無しにそう言う言葉を吐くとは到底思えなかったからだ。間違い無く彼の予見は的中するだろう……周囲が望んでも望まなくても、そんな事は関係なく一蹴に伏し、そして立ち塞がるモノを容赦無く消して行くのだろう。

 彼は“白”だ……。何物の色でも無く、一見して何色にでも染まるように見えながら、実際は染めようとして近寄る他の色を薄めて消してしまう凶悪な色だ。時には何色にでも染まって周囲に溶け込んで消え、時には色を薄めて逆に消してしまう……そんな二律背反の矛盾を許容して抱え込む存在が自分の兄なのだ。

 だから言える。

 彼はそこに居るのだと。どんなに薄くなってしまっても、それは薄くなっているように見せ掛けているだけであり、実際はそこに確かに居るのだ。

 そして狙っている。自分を染めようとするモノを逆に消してしまう瞬間を……。



 この時から既に彼女は『酔って』いたのかも知れなかった。










 午前8時47分、地上本部ヘリポートにて──。



 二つのプロペラが取り付けられた輸送ヘリに乗り込む人影が数人分……運転席に座る男性は後部のスペースに全員が乗り込めた事を確認すると、慣れた手つきでレバーを動かしてヘリを浮上させた。

 「今日は風が強いですから、しっかり部隊長もシートベルトしといてくださいよ」

 「おおきに、ヴァイス陸曹。せやけど、『部隊長』って言うのは余計やで。もう私は機動六課のトップやないんやから」

 「おっと! 失礼しました。どうにも昔のクセが抜け切らなくって」

 機体が大きく右に傾き、窓の外の風景が加速するのを眺めながら、後部スペースの座席に座っている三人は大人しくシートベルトで体を固定した。八神はやて、ジェイル・スカリエッティ、トーレの三人はこれから間もなく実行に移されるであろう『No.13鹵獲作戦』を離れた上空から直接指揮する為に現場に急行する所であった。

 「私はこう言った事は不慣れだからな……現場の指揮は全て八神二佐にお任せするよ」

 「あんた、そんなんでようナンバーズ率いとったなぁ……」

 「いや~、大体私が『レリック欲しいなぁ』とかって言うと、後はウーノとトーレで自動的に作戦立ててくれていたからねぇ。お陰でこっちはガジェットの研究に勤しめたと言うものさ」

 「今私は最低な脛齧りを見た……っ!」

 「はっはっは! 二佐は何を勘違いしているのかな? 三年前の騒動だって、本当は研究がメインであって、軍人紛いな戦闘行動を好んでやっていたと思うのかね?」

 「こ の や ろ う !」

 つくづくマイペースで会話をしているだけでも徒労に終わるだけで何の収穫も無いので、はやてはこちらが完全に疲れてしまう前にさっさと言葉を打ち切る事にした。対するスカリエッティも嫌な笑みを浮かべた後に、どこから持って来たのかも分からないアイマスクを装着して恒例の睡眠に入った。一体何の仕事が多くて体力を消費するのか、この堕落した科学者はこれでもかと言う位に良く寝むる。まぁ、害は無いのでそのまま放置しているのだが……。

 作戦が始まるのはここからずっと西に行った管理局地上西部支部……そこから更に南西へと移動した地点からの開始となる。作戦部隊との距離を上空2000メートルの位置から状況に応じて常時指揮し、その繰り返しによる連携で相手を追い詰める作戦だ。簡単そうに聞こえるだろうが、直接現場に居る訳ではない分、やはりこちらの下す指揮が常に的を射ていなければならず、指揮官としての資質が問われる作戦でもあるのだ。もっとも、弱冠19歳にして佐官の地位にまで登り詰めた彼女の手腕は伊達ではないので任せても良いのだろうが、相手はあの“13番目”……どんな方法でやって来てもおかしくは無いので、警戒しておくに越した事は無い。

 今回の作戦における勝利条件はたった一つ……餌として協力してもらっているウーノを死守し、それと同時に“13番目”を確保する事だ。最悪の場合、実行部隊の大半を犠牲にしてでも奴を捕獲する事を優先させなければならない状況も考えられるだろうが、それでも上に立つ者としてはやては大義を忘れる事は無いだろう。ここまで来てまで損失を怖れていては、今まで散って行った者達に顔向けが出来ないと言うモノだ。

 「……何としても成功させたい……。ここで犠牲が出たとしても、それは明日の平穏の為の高い投資……ケチっておったら話しにならん」

 「やっと、兵法の基本が貴方にも分かるようになったか」

 それまで無言で腕組みをして窓の外を見ているだけだったトーレからの言葉に、はやては無意識に眉尻が上がるのを感じていた。どうにもこの堅物を絵に描いたような彼女とは反りが合わないのか、言動の一つひとつが癇に障って感じが悪かった。

 「兵は駒だ……。戦う前は一人の個人でも、いざ戦場に立てば人権など無い……強ければ生き残り、弱ければ淘汰されるだけだ。そして、例えその過程で多くが失われても、指揮を執る上の者は決してうろたえてはならない。それが……指揮官の鉄則だ」

 「人の所の年端も行かん子供を駆り出しておいて、よくもまぁ、そんなもっともらしい事が言えるな」

 「あの二人はこの作戦を成功させる為の重要なファクターだ。彼らが居なければ、恐らくこの作戦は成り立たないが、それでも良いのか?」

 「偉そうに……! 何を根拠にそんなアホらしい事を言うてんのや!」

 「分かっていないのはそちらだ。貴方は奴を……トレーゼを本気にさせたいのか! あいつが本気になれば、このクラナガンを放棄しなければならない事になるぞ!!」

 彼女がここまで自身の弟の事を警戒しているのには理由がある……。トレーゼに仕掛けられた戦闘を強制させる暗示プログラム、『コンシデレーション・コンソール』……ナンバーズ以外の存在を認知した瞬間に発動し、感覚内に捕捉した存在が完全に沈黙するまで攻撃と殲滅を繰り返し続ける悪魔のシステムがあるからだ。彼女らの言う言葉が正しいならば、一度臨戦状態に入った彼は眼前の生命体が完全に死滅するか、あるいは同じナンバーズの中でも彼に対して命令権を持つ上位者でなければ止める事は不可能だと言うのだ。

 「……危うい状況になれば私が出る。その間に二人に撤退命令を出すかは貴方の自由だ」

 「言われんでも……。あの二人に何かあったら、私は一生フェイトちゃんに足向けて寝れへんからな」

 「私もだ……。ここであいつを止められなかったら、ドゥーエに顔向け出来ん。あいつは一番トレーゼを可愛がっていたからな……」

 「冷血なあんたらでも他人を可愛がるんやな」

 「可愛がっていたのはドゥーエだけだ。一番世話焼きだったのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエ……。それだけさ」

 「あんたは何やったん? あんたも一応はお姉さんやったんやろ?」

 「私の場合は……ただ上に立つ者として、ナンバーズの在り方をあいつに示してやっていただけだ。それ以外の余計な事は何もしていない」

 そう言ったのを最後にトーレはそっぽを向いて二度と話しては来なかった。何か都合の悪い過去でも思い出したのだろうか……はやての方もそれ以上の事は追究しようとはせず、窓の外に広がる灰色の街が遠くに離れて行く様子を眺めているだけだった。作戦が開始される時刻まであと十分を切った……今頃は現場に派遣したエリオとキャロも動き出した頃であろう。少し早いが、ここで現場の作戦隊長とコンタクトを取った方が良いだろう。

 問題無い、あちらの部隊も『動いて』いるのだから。










 午前8時55分──。



 「各員、所定の位置に着いたか?」

 隊長の声が通信回線に乗って隊員達の耳を打つ。これは確認の言葉ではない……たった今、この瞬間より本作戦が開始されたと言う通達でもあるのだ。エリオとキャロの両名が居るのは作戦エリアの最奥部、“13番目”を誘き寄せる餌として協力しているウーノを『収納』している空間だった。現在ここにはウーノを含めても彼らの三人しか居らず、後の隊員たちはその防衛ラインを築くかのようにして外側に守りの重点を置いていた。予定では作戦時間は午前九時から約二時間後の午前十一時まで行われ、その間ウーノを死守出来ればひとまずはこちらの勝利だ。逆にこちらが壊滅、もしくはウーノを奪取されれば敗北と言う、実に簡単な構図でもある。

 作戦が始まるまで後二分と言った所だったが、ウーノの直接護衛を任せられたエリオとキャロはいつの間にか彼女の話してくれる昔話に耳を傾けていた。内容は……これから彼女を奪いに来るであろう存在の事だった。

 「じゃあ、そのトレーゼさんも昔は……」

 「あの頃は良かった……。私もまだ子供だったのかしら……たった一人の『弟』が何よりも可愛かった」

 「でも、どうしてそんな人がこんな事を……?」

 「分からない……私にも分かりません。存在意義と矛盾していても、あの子は決して自ら好んで誰かを殺したり、何かを壊したりはしないはずだった……。この17年で変わってしまったとしか……」

 主であるスカリエッティから知らされた今でもまだ信じられない事実…………自分の記憶の中に存在しているあの臆病で泣き虫で、いつも姉の後ろをついて回る事しか出来なかったはずのあのトレーゼが、自分達を取り戻す為だけにここまでの事を仕出かすなんて思いたくは無かったのだ。この17年間、一度だって彼の事を忘れた日は無かった……始めは彼が貸与された事に納得が行かなかった時もあったが、三年前の自分達の行いに彼が加担せずに済んだと言う意味では内心ほっとしていた。自分達の汚らわしい行為に純朴な『弟』を巻き込まずに済んだと……そう思えた。

 「どうして……こんな事になってしまったのかしら……」

 「ウーノさん……」

 「もう、あの子を止められるのは貴方達しか居ないのかも知れません……。どうか、この作戦を成功させてください」

 彼女の懇願を聞き届けるように、次の瞬間に室内が大きく揺れた。そしてそのまま小刻みに程良いリズムを奏でるようにして『移動』を開始した。

 「はい! 必ず成功させて見せます!」

 エリオの決意の声と共に再び揺れて加速し──、



 彼らを乗せた貨物列車は東に向かって発車し出した。










 『No.13鹵獲作戦』……名前も然ることながら、その内容も至ってシンプルだった。首都圏に続くリニア路線に貨物列車を運行させ、その貨物室の一室にウーノを入れ込んで移動しながら相手を誘い込むと言う実に古典的な手法である。だが内実は簡単ではなく、列車の速度は時速70から100㎞……約二時間掛けてのノンストップ運行となり、途中に存在する如何なる駅にも停車せず、当然補給なども行わないで120分にも渡って警戒状態を維持すると言う神経を擦り減らす内容だ。作戦中における人員交代も当然無い……必要最低限での遂行となるのだ。

 ここで発生する疑問は一つ……どうして作戦エリアを『移動する車内』と言う特異な所に限定するのかだ。車両の中はカモフラージュの為に入れ込んだ他の物資や貨物などで混雑しており、運転車両を除いても全八両もの貨物車両に各三人ずつしか居ない人手不足にも見える人員の少なさもあり、一見すればわざわざこちらに対して不利な状況を作ってしまっているだけにも思える。

 だが実際には不利益は思ったよりも少ないのだ。まずエリアを移動車両に限定する事についてだが、これは相手に対して明確な『タイムリミット』を与える為だ。いつ来るかも分からず、ただ必ず来ると言う事だけが判明している敵を迎え撃つのにどこかの建物に籠っていたのでは話しにならない。どれだけ警戒していたとしても、それは始めの話だ……必ず集中が途切れ、そしてその隙を突かれて一気に畳み込まれて終わるだけだ。逆に言えば、今回の様に移動する貨物車両と言う括りを設けておけばそれを防ぐ事が出来るのだ。作戦エリアは常に移動を続けてリアルタイムでその位置を変え、時間が経つ毎に警戒レベルの高い都市部へと直行を続ける。更には走行時間……約二時間で首都に到着すると言う制限を設け、相手の心理に二時間までに決着を着けなければならないと言う焦りを植え付けるのだ。作戦を立案した八神はやて達の予測でも、敵がわざわざ自分を都市の目に晒してまで仕掛けては来ないとの見解を出している……都市圏に入り込む二時間と言う間を死守し続ければ、いくら本懐であるウーノが目の前に居ようとも相手は手を出す事を止めるはずだと踏んでいた。更に人数の少なさは各隊員のコンビネーションを最大限に取り計らっての計算配置でもあった。複数での作戦行動で最も精密且つ円滑に行動を行える最大人数は三人から四人……それ未満では戦力的に少なく、それより多ければ指揮系統が麻痺するからだ。それに一つの車両を担当する人数が少なければ、いくら相手が隠密に行動してチームの一人を始末すればその瞬間に分かると言うのもある。後は、侵入されたと判明すると同時に列車をその場で停車させて結界を展開……そこに部隊ごと閉じ込めるのだ。外部の線路を他の一般リニアが幾ら通過しても結界内には影響せず、閉鎖した空間で徐々に相手が消耗するまで抗戦を続け、そして捕縛する。念の為に首都リニア運行会社などに『危険物護送』と言う名目で警戒を発しており、もしもの事態に備えてはいる。

 移動を続ける車両……120分の制限時間……総勢二十数名の視線…………これが、限られた現状ではやて達が打ち出した最善にして最後の策だった。このたった三つの要素で相手を縛り上げ、尚且つ勝利をもぎ取ろうと言うのだから剛毅なものだ。逆に言えば、たったこれだけで行動を起こそうと言う実行力を賞賛するべきか……。必要最低限のコストと限られた人員での作戦は実行する部隊だけでなく、それを指揮するリーダーにも負担が掛かる……作戦の成否をその指揮官が握っていると言っても過言ではないからだ。

 だがしかし、ここで問題なのは勝つか負けるかでは無い。そんなモノは大義の前では些事に過ぎないからだ。

 勝たねばならない! 例えその結果を得る為に何かを大量に犠牲にしたとしても……非情な言い方をすれば、勝つ事が全てだからだ。はやてがこんな無茶な作戦を立てたのも、後には退けないと言う意思を明確にする為に自ら退路を絶って背水の陣としたからだ。

 ここが正念場……決戦の舞台となるのだ。

 彼らの固い決意を乗せた貨物車両は確かに速度を増しながら東へと東へと進んで行く。

 その旅路に一抹の不安を撒き散らしながら……。










 午前9時16分、クラナガン副都心のとある駅の構内にて──。



 『三番線から首都中央駅行き急行が発車致します。お乗り遅れの御座いませんようにお願いします』

 『五番線をリニアが通過します。白線の内側までお下がりください』

 『四番線に停車中の車両は、北部方面行きの特別急行で御座います。お乗り間違えの無いように────』

 数ある次元世界の中で最も文明的に発達したミッドチルダでは街の規模はもちろんの事、そこに住まう人間を日夜運び続ける駅などの大きさも半端ではない。首都を環状に取り囲むこの副都心の駅の一つを取り上げて見ても、その規模は少なく見積もっても日本の東京駅の五割増しはあり、当然駅は大手のデパートなどと合併していて純粋な買い物客を加えれば足を運ぶ人間はちょっとした遊園地ぐらいの数がやって来るのだ。休日などにはその数が更に激増し、駅の構内でも時折トラブルが発生する事もある。

 その意味では今日はとても平穏な一日の始まりと言えただろう。朝方こそ首都に出勤する山の様な人だかりで混雑はしたが、徐々に落ち着きを見せつつあるこの時間帯ではそれも目立たなくなって来ていた。特にこの首都とは逆方向に向かう下りのリニアが来るホームでは人の影は疎らで、平日と言う事もあってか旅行客らしき者達も殆ど居なかった。

 そんな駅の構内に設置されたベンチに座りこむ一人の少年が居た。

 「……………………」

 真冬にも関わらず全身を白い服で包んでおり、小さな文庫本を片手に座るその知的な姿はどこか神聖な雰囲気を醸し出しており、不用意には近寄り難い存在にも見えていた。だが良く見れば彼が持っているのは本だけではなく、左手はベンチに添えられていて、何か小さな物体を幾つか動かしている様子が見受けられていた。

 カードだ。もっと正確に言うなれば、二十二枚で一組となる寓意札……タロットだった。彼がかつてエリオ・モンディアルから魔力変換資質を獲得しようと画策した際に、暇潰し兼カモフラージュとして購入していた本に付録として付いていた物だ。あれでもう二度と出す事は無いだろうと考えていたはずなのだが、こうして予定の時刻が来るまでを何もせずに居ると言うのも不審に思われるだろうと、こうしてまた暇潰しの道具として持参しているのだ。今思えばよくも捨てずに居たものだと感心してしまう……。

 彼自身は占いを全くと言って良い程に信じていない……こうして札を並べたりしているのも本当はただの気休め程度の行為でしかなかった。だが信じていないだけで興味はあった……今回も前回と同じように人間の未来を占うやり方を行っており、決められた位置にカードを並べて寓意陣形を成立させて行った。ただし、ただ単に並べて丁だ半だと言っていても不毛なので今回は少しある事を試してみる事にしていた。

 占いと言うからにはその情報は正確でなければならないはずだ。偶然でも良いので三回連続で同じ絵柄を引けば、占いと言うのは古代の人間が発明した英知と認めてやろうと考えたのである。ちなみに前回引いたカードは第十番『運命の輪』の正位置……“定められた運命”を意味する曖昧なカードであった。何だかんだ言ってもたかがオカルト……そんなに期待はしていないが、ただの暇潰し程度にはなるだろう。

 「…………まぁ、どうせ、こんなモノだろうな」

 結果は見ての通りのバラバラだった。それはもうものの見事なまでに……。

 最初に引いたのは兵士が乗り込んだ馬車の絵柄──。

 次に引いたのは雲を突き抜けて天にそびえる塔の絵──。

 そして……最後の一枚には破れかけの黒衣を身に纏い、その手に巨大な草刈り鎌を握った白骨の怪物が描かれていた──。

 この付録が付いていた本の内容は一ページの細部に至るまで覚えているが、最初の一枚を除いて後のカードはあまり良いイメージが無かったと記憶していた。重ねて言うように、こんなオカルトは端から信じてはいなかったが、ここまで縁起の悪いとされているカードばかり引き当てるとなると興も削がれてしまうと言うものだ。

 何はともあれ、まだ予定の時刻には余裕があり過ぎている。自分の分だけ気休めにやっていても仕方が無いので、今度は別の者を対象にして見る事にした。だが一体誰にするか……。

 ふと──、

 彼の脳裏に一人の人物のヴィジョンが過った。何故その人物が現れたのかは分からない……だが、やはり所詮は暇潰しに過ぎないので深く考えない事にした。そうしていなければ、彼は自己嫌悪に陥っていただろう。

 自分と同じ様にして三回連続で占い、その未来を予測する。そして程なくして出たカードは……。

 第六番『恋人』。

 第十四番『節制』。

 第十九番『太陽』。

 その全てが正位置だった……。そこから予測されるであろう未来は──、

 「…………どうでも良いな」

 止めた。どこまで行ってもオカルトとは肌が合わない。こんな二十数枚程度のカードで未来を予測出来る程に時間の流れと言うのは単純ではない……五秒先に起こる出来事ですら予想出来ないのが普通なのだ。まぁ所詮気休め以外の何物でも無いので気にする必要も無いと言えばそうなのだが……。

 『七番線をリニアが通過します。白線の内側まで──』

 七番線は今彼が居るホームが面している路線だ。通過する車両は回送列車……特急などと違ってそれ程速度は出ておらず、目の前の線路を普通の急行よりも少し速い感じで通過して行った。

 駅の構内は良い……どんな人間であってもよっぽどの行動をしない限りは目立たない。街の人混みと同じであり、大量の人間が互いをカモフラージュし合うからだ。迷子の子供も、親子連れも、仲睦まじい夫婦も、職場に向かう大人も、帰省しに来た家族も、世捨て人になったホームレスでさえ……ここでは全員が平等に目立たない。走る者、歩く者、立ち止まる者、座り込む者も等しく風景と同じにしか見えない……まさに人造の灰色のジャングルだ。

 だから彼の姿でさえも目立たない。シルバーカーテンの能力を使うまでも無く、彼は人造の密林に溶け込んでいるからだ。

 故に──、

 「……10時方向」

 ピシッ。

 「7時方向」

 ピシッ。

 「1時方向」

 ピシッ。

 カードを並べる左手の指が時々何かを弾くように鋭く動く。その瞬間に何か紅い小さな物体が飛び出すように見えているが、それは人の目に着く前に色を失って消えてしまう。だが、打ち出された物体は確かにその射線上に存在している目標に命中していた。

 三人……それが彼の狙っていた人間の数だった。撃ち出された魔力の弾丸は対象の表面から染み込むようにして浸透し、そのまま体内に滞留した。別に魔力を分け与えるつもりでそうした訳ではない……今さっき撃ち込んだ相手は全てが管理局員だからだ。恐らくは今回の作戦を実行するに当たって派遣された監視担当の局員だろうが、八神はやてが派遣したのではなさそうだ。組織は常に金欠と言うのが定石……特にあの八神は今回の作戦を立てるだけでも相当な無理を押し通したはずなので、それ以上の増員を行う訳が無いと言うのが彼の予想である。これも予想でしかないが、彼女に良い気を持っていない管理局の派閥が内密に監視員を設置しのだろう……ヘマをすればそれをネタに発言権を獲得しようとして……。

 どの道にしても彼にとっては目障りなのは変化無い……今ここでと言うのは色々不都合があるので控えるが、その『仕込み』は今の内にしておいた。こちらがそうであるように上手く一般人に紛れたつもりだろうが、懐の中の僅かな熱源は携帯電話やウォークマンなどの物ではない……デバイスだ。バレるのも仕方が無い、密林ではカラフルな生物は真っ先に捕食されるのだ。

 「…………まだ、時間はある。さて、どうするか…………いや、やるべき事が、あったな」

 そう呟きながら立ち上がった彼はその足で駅の外に向かった。青い塗料で人のマークが描かれた標識の脇を通り、そのまま何の躊躇も無く人ごみに紛れてどこかに移動して行った。道行く人々は彼の存在に気付かないみたいに素通りを続け、遂に彼の背中はその波に消えた。その後彼がどこに行ったのかはまるで分からず、彼が再び戻って来るまでにかなりの時間を要した。

 二分……。

 五分…………。

 十分……………………。

 やがて時間を数える事を止めた頃ぐらいになってから、彼は再びそこに帰って来た。行く前と何も変わらない様子で、何の感慨も無く、何をして来たかも分からないままに……。

 「仕込みは、整った……あとは、ただ待つだけだ」

 再び先程のベンチに戻り、その上で寝たふりをしながら時間が来るのを待つ事にした。構内での睡眠は終電にならない限りは誰も咎めはしない……ある意味ではこれ程のカモフラージュは無いだろう。

 「……………………ねむ」










 午前9時42分──。



 「第二予測襲撃地点、クリア!」

 車内の隊員達の張り詰めていた空気が和らぐ……が、それは一瞬の事であり、優秀である彼らはすぐに気を引き締めて再び警戒に当たる。今回の作戦ではやてとスカリエッティが予測した襲撃ポイントは全部で七つ……その全てが地理的に考えて襲撃の可能性が高いと推測された場所だ。渓谷の上の橋、切り立った斜面、廃れた無人駅……その七つ以外にも可能性として候補に挙げられている箇所は幾つかあり、この二つ目の予測地点を通過するまでに三つ程はクリアしていた。

 「……これで二つ目ですね」

 「流石にまだ相手も動いては来ないでしょうね。こちらが油断するのを窺っていると言う事も考えられます」

 貨物室の中で息を潜めているウーノ達も、今の所は何も起こらずに済んでいる事に安堵しつつも、これから先に訪れるのかどうかさえ分からない敵の襲撃に常に緊張状態を維持していなければならなかった。冬の寒波がそのまま入り込んで来るはずにも関わらず、エリオの額や顎先を嫌な汗が伝い落ちて行く。

 「前に戦った時も車内だったっけ……。縁でもあるのかなぁ」

 エリオの言う様に、初めて“13番目”と相見えたのも移動中の車内だった。気絶してしまっていたので詳細は分からないが、あの直後に橋が破壊されてしまい、修復するのに多大な損害を被ったと聞いた。

 「…………お二人から見て弟は……トレーゼはどの様に見えましたか?」

 「どうって言われると…………私は……怖かったです」

 「僕もです。始めはとても強い人だと感じていましたけど……今思うと怖くって……まともに戦えるかどうか不安です」

 「私自身、あの子が本気で戦う所は見た事がありませんし、予想もしていません。ただ……ドクターが言うには、完成形として成長すればトーレと比肩するどころか、逆に凌駕すると聞いています」

 「そんな……!」

 「計算ではまだその域に到達してはいないそうですけど……それでも侮れない事に変わりは無いかも知れません」

 「もし……もし、誰も止められなければ……!」

 「いいえ、その心配はありません」

 「どう言う意味ですか?」

 心配無いと言い張るウーノの顔はとても気休めを言うような表情ではなく、本当に何らかの策があるような口振りである事は明白だった。だが、もしそうだとしてもその方法は何なのか? 武装隊一個中隊とも互角か、あるいはそれ以上の実力を有する戦闘機人を相手にそれだけ効果的な手段があるのだろうか。

 「犯人がトレーゼなら、時間は掛るかも知れませんがきっとこの方法が通じるはずでしょう……」

 「その方法って何ですか?」

 「私達ナンバーズの中でも、ドクターと上位三人の個体のみが持つ特殊条件下に限定して発動できるモノです……。それを行使すれば恐らくは──」



 『第三予測襲撃地点、接近!』










 「────────────」

 移動する車内の中を歩く大きな人影……『彼』なのか『彼女』なのか、或いはそのどちらも当て嵌まらないかも知れない“それ”は大股で堂々と車内を闊歩しており、その大柄な身長の所為で車両を繋ぐドアを潜る時には盛大に腰を曲げて入らなければならない程であった。どうやら車両ごとに何か異常が無いかどうかを見て回っているらしく、ドアを潜ってやって来た“それ”の姿を見た隊員達も特に気にする事無く警備を続行しようとしていた。

 しかし──、

 「────ッ!!」

 “それ”が大きく手を振り上げて貨物車両の壁を叩き飛ばした。当然のようにゴム風船を破裂させたかのような爆音が響き、周囲の隊員達の視線が一気にその場所に突き刺さる。鋼鉄の壁と手の間からは何やら蒸気が立ち昇り、離された部分は思い切り五指の形に凹んでいた。

 「お、おい。何かあったのか?」

 すぐに隊員の一人が聞いて来るが、“それ”はただ何も言わず……

 「──────」

 首だけ振ってその質問に答えるだけだった。その後、隊員達の怪訝な視線も気にする事無く“それ”はこの車両を離れ、腰を屈めてドアを潜って次の車両に向かった。だがそれまでの車両とは違って矢継ぎ早に確認を済ませるだけで、早歩きで後続の車両を駆け抜けた後、一番先頭に位置する運転車両に入り込んだ。車両の運転手は“それ”の存在を知らなかったのか、少しギョッとした表情になっていたが、その隣に居る人物の制止で“それ”が安全だと把握したようだった。運転手の隣に控えていたその人物は“それ”の元に寄って来ると、何があったのかを問い質した。

 「──────」

 “それ”は無言で自分の掌を見せた。さっき貨物室の内壁を叩いた方の手である。大人の顔ぐらいの大きさはある手には何か細い針金のような物体が張り付いて……いや、潰されていた。小さな本体部分に取って付けたようにして細い針金みたいな肢が六本生えている蟲だ。日常では恐らく見掛ける事は滅多に無い種類だ……これを知る者は一部の生物学者と、これを『使う』と言う限定された目的を持つ者の二種類しか居ないはずだ。

 しばらくそれを黙って見つめていたその人間は“それ”に目配せした後、運転手に断ってから車内放送用のマイクを引っ張り出し、スイッチを入れた。

 警告を発する為だ。



 この車両は見張られていると──。










 午前10時10分──。



 「全滅……か」

 発見から三十分……こちらが貨物列車の正確な位置を把握する為にと斥候に放ったインゼクト達が次々と駆逐されているのが感じられた。どうやら勘の良い輩に気付かれてしまったようだ。

 「……………………そろそろ、動いた方が、良いのだろうか」

 それまでずっと座っていたはずのベンチは少しも温まっておらず、彼が離れた後も誰も座っていなかったかのような冷たい温度を保ち続けていた。そのまま足はホームの端の白線に向かい、その縁から足を差し出して──、



 『七番線、リニアが────』










 午前10時28分、路線を移動する貨物車両の上空にて──。



 「危なかったな……まさかあれ程の大量の蟲を用意していたとはな」

 報告があったのは三十分前……つまり、発見から半時間も掛けて全ての仕込みの蟲を駆逐したと言う事だ。今報告されている数はざっと160……一つの車両に二十匹近くの蟲が潜んでいたと言う事だ。決して管理体制がずさんだった訳ではなく、むしろこの日の為にこの車両だけは別の車庫に入れて欠かさず点検していたはずだった。出発前の最終チェックでも異常は無かった……どう考えても走行中に取り付かれたとしか思えない。だとすれば、この付近に必ずそれを飼い慣らしている者が居るはずだ。使役系の魔法は正式な契約を結んだ使い魔以外では自律性に欠け、特に蟲は使役者の魔力センスに大きく左右される……自身の魔力が及ぶ範囲でしか命令を下せないはずだ。

 「だがあのトレーゼともなれば遠距離からでも支配下に置く事も可能かも知れん……。充分警戒する事だな」

 「一応、車内の捜索を続行するように言っといたから、少しは安心やな」

 「念の為に運転車両に居るであろう『抑止力候補』にも連絡を取っておきたまえ。相手が蟲ならきっとお手のものだろうからな」

 「そう思ってとっくに頼んであるよ。他の隊員さん達にも引き続いて車内の警護をしてもらうように言うてあるから、これでまだ湧いて出て来るようやったら流石に停車して結界を張った方が良えかも知れんなぁ」

 窓から下界の路線を走る貨物車両を眺めるはやて。今の所は何とか走行していても問題無いレベルではあるが、その均衡がいつ崩れるかも分からない以上は必要以上に警戒してしまうものだ。スカリエッティ自体は“13番目”が来るのは確定的だと言い張るが、当の本人がどのタイミングで来るかは言っていない……。現在七つあったはずの予想襲撃地点はその内の五つまでを消化しており、その間何も起こる事無くここまで来てしまっていた。現在通過を目指している第六地点とその向こう側に存在する最後の第七地点との間隔はそれまでのポイント間の中でも一番の距離を空けており、手薄になっているここを突かれるのではないかと言う懸念も発生していた。もちろん、車内の隊員には厳戒態勢を続行するように通達してはいるが、その集中力もいつまで保っていられるかは分からない。

 「……敵とは言うても、腹の探り合いって言うのは趣味やないんやけどな……」

 「ほほぅ、もし本当にそうなら、二佐殿はよほど世間知らずなのだな。人間誰でも互いの黒い部分を探さずには居られないものさ」

 「黒い部分しか無いあんたにそんな事言われるなんてな……」

 軽く互いに憎まれ口を叩き合った後に今度は運転席のヴァイスに声を掛ける。

 「陸曹、レーダーに反応は?」

 「今の所は異常無いですねー。進行方向の方から高速で接近中の熱源がありますけど、下りの特急らしいっす」

 「引き続き警戒をお願い。実行部隊長、報告!」

 『こちらも現在各車両内のインゼクトの駆除を継続中ですが、もう車内には居ない模様です。各車両からの報告でもこれ以上の確認は成されていません』

 「ご苦労さま。蟲の駆除を切り上げた後で再び車両の警備に戻ってください。…………ふぅ」

 「お疲れかな?」

 「それ程でもなかったはずやったけど、あんたのその嫌な顔見たら本当に疲れて来たわ」

 スカリエッティの顔を押し退けるようにしてはやての視線が窓の外に移る。眼下を走る列車の中にはかつて自分の下で手腕を振るってくれた若い騎士と召喚士が居る……前途ある若いあの二人をこんな死地に送り出す事になってしまい、フェイトではないが彼女も気が気でなかった。

 「そう言えば、まだ聞いて居らんかったな」

 「何がだね?」

 「あんたと違う……そっちや」

 顎で示した先に居るのは一人しか居ない訳で……。それまでずっと黙り込んでいたトーレが顔だけを向けて質問に応じる姿勢を見せた。

 「何か?」

 「そろそろ話してくれてもええやろ? この作戦の重要ファクターにエリオとキャロを選んだ理由を……」

 「別に隠そうとしていた訳ではない。私にとって重要なのはこの作戦の成否のみ……その為の布石を敷いた後の事は預かり知らぬ所だからな。言わなくても良いと思っていた」



 「ええから話せっちゅうに」



 ドスの利いた声が聞こえるのと同時に、トーレは自分の首筋に殺人的な冷気を帯びた物体が突き付けられるのを確認した。氷の刃……目の前に居るはやての右手から真っ直ぐに伸びた絶対零度のその切っ先が彼女の首筋を狙っていた。社会の酸いも甘いも嗅ぎ別けて来た普段のはやてでは決して見せないはずの苛立ちの波動が空間に充満し、武装隊一個中隊を前にしても怖じ気付く事が無かったはずのトーレがその迫力に後退りしそうになる程であった。

 「ふむふむ……どうやら二佐はとてもお怒りのようだ。例え薄皮であっても、掻かれる前に言ってしまった方が良いぞ、トーレ」

 「…………分かりました」

 降参と言うような感じでトーレが両手を上に上げた。透明な氷の武器が虚空に消え、場の空気が一応の鎮静化を見せてくれた。互いに微妙に佇まいを直した後、改めてはやてが口を開く。

 「で……本音はどうなんよ?」

 「……………………私達上位ナンバーズの中で、一番世話を焼いていたのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエだと言ったな?」

 「憶えとるよ」

 「私は……いや、どう言う訳か知らないが、あの『弟』が一番懐いてくれていたのは他でもない私自身だった。今でも不思議だ……こんな堅物をどうして懐ける要素があったのか。だがそれを良い事幸いに、私は当時自分が持ち得ていた技術の全てを叩き込んでやるつもりだった…………そう、そのはずだったんだ」

 「はずだった……ねぇ」

 「一番世話を焼いていたのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエ…………一番甘やかしてしまったのが私だった。いつもいつも金魚のフンみたいにくっ付いて来るあいつを鬱陶しく思いながら、私はいつも必要な事は教えてやれなかった……最低な姉さ。だがな、一番長い時間を一緒に居たから分かる事がある」

 「……何や?」

 「少なくとも、昔のあいつなら利己的な理由の為だけに何かを破壊したり殺したりする事は無かった……昔ならな」

 「アホな! 時間が止まっているって言うんかいな!?」

 「ああ、そうだ!」

 強くはっきりと言い張ったトーレの語気に、今度ははやてが仰け反る番だった。

 「あいつは17年間封印されていたのだろう? 一度も外に出される事も無く、内部フレームを交換する回数を減らす為に肉体がこれ以上成長しないようにと! その過程でコンシデレーション・コンソールが失われ、それでもあいつは眠ったままだった!」

 「……なるほど、そう言う事か」

 先にトーレの言わんとしている事を勘付いたスカリエッティから失笑にも似た小声の笑いが漏れ出た。すぐにはやての方にもその意図が掴めたようだったが……。

 「でもそれは……必ずしもそうとは限らへん!」

 「だから私は言ったはずだ、『賭け』だと。視認した者を敵と見なすコンシデレーション・コンソールが働いておらず、尚且つ17年もの時を目を開ける事無く封印されていたあいつの精神は……あの時のままで停まっているはずなんだ」

 良くも悪くも人間の形をして生まれている以上、閉塞した環境下ではその精神的成長速度は他人と比べても著しく劣る……それも全てが凍結した氷の世界で十年以上にも渡って封印されて外界との接触を断たれていたなら確かにそれも頷ける道理ではある。そして彼女らの証言通りに時を遡れば、17年前のトレーゼは常人で言う所の五歳程度……そのままの状態で封印されたとするならば、現在の精神年齢は多めに見積もっても精々十歳だ。十歳と言えば丁度エリオ達と合致する……そして、精神が未熟である者は自分と年齢的に近しい者を敵視する事は少なく、傷付け合う事も少ない。

 だがもちろんそれは普通の人間の話だ……。トレーゼの行動は明らかにそれらを超越した動きを見せている……精神が幼い者は殺人を犯さないし、当然破壊行動をする事も無い。

 「精神年齢が17年前で停まっておるからって、それは曲解や。希望的観測を越えてただの現実逃避や」

 「貴方があの二人を信じるように……私も自分の『弟』を信じていたい。敗北を喫し、敗者の矜持と言い張って縋っているだけの弱い私に残った最後の光を……否定しないでくれ」

 「…………」

 そう言われるとこちらも弱ると言うモノだ。人の情に訴え掛ける言い方をされたらいくらはやてでも心が揺らぐ……。むしろ誰よりも先に人の世の常を身に沁みて経験している彼女だからこそこう言う部分が弱いのだろうか。

 「それに、ある者は四肢を断たれ、ある者はデバイスを破壊され、またある者はその両目を潰された……。だがあの二人は閉鎖空間であいつと真っ向から戦い、そして他の誰よりも軽傷で済んだ唯一のケースだ」

 「でもそれは、血液を採取する為のって……」

 「血液を採るだけなら殺してからでも出来る事だ。それに同伴のルシエを殺さなかった理由にはならない……無かったんだ、殺すつもりなんて始めから。深層心理のどこかで今でも殺傷行為を拒んでいるとしたら……そして、それが自分と近しい同族にのみ向けられているとするなら…………あいつはあの二人を殺す事は出来ない」

 「……………………」

 「頼む……私を信用して欲しい。信頼しろとは言わない……この一時だけを私に賭けてくれればそれで良いんだ。責任を取れと言うなら首だろうが心臓だろうがくれてやっても構わない…………今はただ、あいつを信じるこの私を信用してくれるだけで良いんだ」

 真摯な眼差し……とてもかつて犯罪行為の実行犯だったとは思えない澄んだ視線だ。はやてはこの目を知っていた……かつて自分が闇に堕ちそうになった時に手を差し伸べてくれた優しい風……今はもう居なくとも、自分の心に確かな遺志を残して去って行ったあの時の“彼女”と同じ目をしていた。自己を犠牲にしてでも何かを貫き通そうとしている、そんな目だった。少なくとも、はやて自身が歩んで来た人生の中ではこんな目をしている人間には俗に言う悪者に分類される者は居なかった……ただの勘であっても、今はこの戦闘機人の事も信用しても良いのかも知れない。

 せめて、この瞬間だけなら……。

 そう考えた彼女は目の前の無骨な機人を見据え、その真意を汲み取った後で、了承の頷きを返そうとして──、



 下を走る列車が火を吹く瞬間を目の当たりにした。










 午前10時34分、貨物車両内にて──。



 「報告! 報告! 何が発生したんだ!?」

 隊長の怒号が回線に乗って全車両の隊員達に轟く。すぐさま各員から報告の通信が返ってくるが、どうやら目標の居る車両には問題は発生してはいないようだった。だが、問題が発生していないのはその車両だけであり……。

 「八神二佐! どこからの攻撃だ! 警戒していたんじゃなかったのか!!」

 自分達の任務は車両内の警戒……外側周辺は上空のヘリからレーダー索敵で終始監視を怠ってはいないはずだった。だが突然車両を真横から襲ったこの衝撃は明らかに突風なんかではなく、全力疾走の軽車両がぶつかって来たのではないかと思えるぐらいの衝撃だった。だが道路や幹線などが完備されている都市部はまだずっと先……この路線には真横に道路などは通っておらず、当然トチ狂った運転手でもない限りはわざわざ突っ込んで来たりはしない。それにここに居る隊員達は年齢にバラつきこそあれど全員がプロだ……今さっきの衝撃が魔力を利用した弾丸による物である事はとっくに勘付いていた。

 だが車内に居る彼らにはそれがどこから飛んで来たモノかは分からない。その正体を突き止めるには何としても上空のHQからの情報を必要としていた。そして待ち望んだ返答は──、

 『────────』

 「HQ! HQ! 応答しろ、八神二佐っ!! 通信が阻害されている!?」

 映像回線に映る映像は砂嵐、聞こえて来る音声もビニール袋を掻き回しているかのような雑音が響いて来るだけで何も人の声がしなかった。以前どこかの次元世界の戦地で似た経験をしていた作戦隊長はこれをすぐに通信阻害の魔法か電波によるものだと見破る事が出来たが、そんなものが分かった所で外で何が起きているのかは把握出来ていない……。幸いにもこの車両には天井付近に通じるハッチが一つだけあるので、危険は伴うだろうが誰かがそこから外を確認するしか無さそうである。あわよくばそうする事で上空の八神はやてとも連絡を取れるかも知れない。

 早速隊員の一人に指示して収納されていたハシゴを伸ばし、ハッチを抉じ開けて上半身だけを外に出させた。列車そのものはまだ走行しているので、開けたハッチから流れ込む風が車内を駆け抜ける。

 「状況はっ!」

 「さ……最後尾車両の連結部分が半壊! 警備に当たっていた班がこちらに移動しています!」

 最後尾車両にウーノは居ない……どうやら当てずっぽうの攻撃だったようだ。上空に構えている八神に連絡を入れるべく、隊長は上の部下の尻を叩きながら次の命令を下そうとした。

 「おい! 今すぐ飛んで上空の八神二佐に指示を仰げ!」

 この列車に乗り込んでいる隊員はエリオとキャロを除けば全員が空戦スキル持ち……あの二人もフリードを使役する事を考えれば、事実上この作戦に参加している全員が飛行可能な状態にある。2000と言う距離は空戦能力を持つ魔導師にとって大した距離ではない……なので、ものの数分も掛らずにこの部下は任務を終えて戻って来るはずだった。



 そう……はずだったのだ。



 「おい……どうした!?」

 返事が無い。管理局は軍隊ではないが、武装化した組織を抱えている以上はその規律はとても厳しい。隊長や階級が自分より上の者に対しては逐一返答をしなければならないと言う暗黙の掟があり、上下関係をはっきりさせる為の措置が常に取られている。

 そのはずなのにどうした事か、目の前の隊員からは何の返答も無い。イエスもノーも何もだ。

 ハシゴに掛っていた足が小刻みに震えているのが見え、やがてその震えが最高潮に達した瞬間──、

 落ちた……首の無い体が。

 見事に砕け散って消滅した頭部からは血液が噴出し、本来その中に収まっていたはずの脳髄は弾け飛んだ時の衝撃と進行方向からの風に吹き飛ばされて四散してしまっていた。

 「これは……!」

 状況を把握する能力に長けた彼はすぐに勘付いた……狙撃されたのだと!

 「──ッ!! 総員に告ぐ!! 車内から出るなぁ! 狙撃の可能性がある!! 繰り返すッ……車外に出るなぁっ!!!」










 「ヴァイス陸曹、レーダー確認!」

 「言われなくてもやってまさぁ!」

 下方を走る貨物車両の最後尾車両がいきなり爆発したのを見てから、ヘリの中も一気に慌ただしくなった。攻撃はいきなり何の前触れも無く来襲し、問題の後部車両はなんとか皮一枚で留まっている状態である事が上空からでも確認出来た。あのままでは走行に支障がある……途中で切り離した方が無難だろうと思っていると、案の定手前の車両に居た隊員が接続部を直接破壊して路線の上に置き去りにした。どうやらあの隊長は思っていたよりもずっと指揮の手腕に長けていたようだ。

 だが問題は進展しない……。この一帯に張られているジャミングの類の所為で通信が全く届かず、上空からの指示を出す事が不可能な状態にあるからだ。かと言って狙撃の危険性があるこの状況では迂闊にヘリを下降させる事も出来ない……今はただ、攻撃がどこから飛んで来たのかを計算する事しか出来なかった。

 ヘリに持ち込まれたヴァイスの持ちデバイスであるストームレイダーが大至急で空域に残った魔力残滓を検出し、その軌道を再現してどこからどの軌道で飛来したのかを算出している。あれだけの大出力の攻撃があったにも関わらず、直前までレーダーには何の反応も無かったのが不可解なのか、ストームレイダーも半分躍起になって計算を行っていた。

 『現在こちらに時速100㎞超で接近中の熱源有り』

 「おいおい、百キロって……! 相手はどんな化けモンだよ!?」

 「初撃の弾道は!?」

 『計算ではこの結果が出ました』

 ホログラムに映し出された現在地帯の立体映像に路線を表す細い線と、その上を走る列車、そして更に上空に今自分達が居るヘリを示す光点を表示し、攻撃を受けた瞬間の位置関係を事細かに再現してくれた。そして、問題の攻撃が飛ばされた方向だが……。

 「列車の真正面からって……んなアホな!」

 攻撃の発射が成されたと予測した地点は何と、列車の進行方向に約1000メートル先だった。都市部に近付きつつあるこの付近では既に路線は都市の終点に向かってほぼ直線に敷かれており、発射視点はその先にあると言うのだ。だが実際に攻撃が飛んで来たのは真横……ここから導き出される解答は、真正面から飛来した弾頭が途中でほぼ直角にカーブしたと言う事実だ。だが魔力弾はその内包されている出力と反比例して精密な軌道操作が困難になる……ましてや車体を横に大きく揺らすだけの威力を秘めた弾丸をその発射軌道途中でカーブさせるなど聞いた事が無い。それこそ高町クラスの腕前を持った者でしか出来ない芸当だろう。同じ射撃魔導師としてヴァイスが驚くのも無理は無い。

 「でも何でそんなまどろっこしい事を……?」

 真正面から堂々とやって来ているのに、何故敵は弾道を無理矢理変えてまで列車を襲撃する必要性があったのか? それに、今こうして足下の列車を監視していても、次の攻撃が全く来る気配が無い……。だが相手はそれでもこちらに向かって来ているのだ! 時速100㎞超……脅威的な速度でだ。

 「時速100㎞……? なぁストームレイダー、敵さんは単独でこっちに向かって来ているんだよ……な?」

 嫌な予感がする……狙撃手と言う職業柄、どうしても戦場では必要以上に警戒してしまうのか、すぐさま相方に確認を取った。自分の嫌な予感が的中していないと信じたいが為に……。

 だが──、

 『ええ、確かに現在進行形で敵性対象はまっすぐこちらに向かって来ています』

 「どんな方法でだ……?」

 ホログラムに表示される赤い光点は確かに猛烈な速度でこちらに向かって来てはいる……だが、熱源反応は二つ有り──、



 『下りの特急リニアの後部に付属する形で……ですが』










 風を感じる……。

 すぐ目の前を走行するリニアと同等の速度で走っているのだから当たり前だ。だが魔力は何も使用してはいない……脚に装着した武装のローラーも猛烈に回転して推力を生み出しているが、それも自分の力で動かしているのではない。

 ではどうやって眼前の特急と同じ速度で走っているのか?

 簡単だ……。

 複数の電線を束ねた極太のロープ……それを腰に巻き付け、反対側を車両に引っ掛けているのだ。レールの片方に足を乗せ、牽引される形で走行していた。

 両手に構えられたるは巨大な黒い弓矢……炎の魔剣、レヴァンティンが持つ変形機構の中の唯一の射撃形態を手に、彼は腕の長さはある長大な矢をつがえた。半実体化した魔力の弦を一杯まで引き、自分の魔力のほんの少しだけを上乗せした後……。

 発射!

 紅い流星痕にも似た鋭い残像が一閃──、高速で移動を続けるリニアの脇を駆け抜け、およそ1000メートル先に位置する標的目掛けて飛襲した。車内に居る乗客達は誰一人として窓の外を音速で移動した物体には気付かない……黒檀の矢はそのまま何の抵抗も障害も無いままに飛翔し、目標である対向列車のすぐ前まで迫った。

 だが命中させるべきはそこではない。そこに当てたら『止まってしまう』から。

 どうする?

 変えるのだ。

 何を?

 射撃の軌道を無理矢理に!

 そう難しい事では無い……魔力弾の軌道操作は熟練の魔導師なら造作も無い事だ。だが今回のように大出力のものとなるとそれも一気にレベルが上がる。一度射出されたそれを軌道修整するには、撃ち出したそれよりも大きな魔力で操作しなければならず、もちろんそれにも限度がある。故に弾道修整が掛けられるのは俗に射撃魔法に分類されるものだけであり、バスター級の砲撃魔法になればそれは常人にはほぼ不可能になる。そしてこの【シュツルムファルケン】もどちらかと言えば後者に当たる。

 だが彼には出来る。彼は常人どころか、人間ですらないからだ。

 「曲がれ……」

 分離したとて自分の魔力……彼の魔力を用いれば操作する事など容易い事。壁に当たって弾けるビー玉のように空中で回転した矢は、その矛先を直角に変更し──、

 目標の最後尾車両に命中した。

 これで良い、後はあの車両に……。

 と、思っていた矢先に、異常を確認しようとしたのか列車の上部から何者かが上体だけを覗かせているのが遠目に確認出来た。この攻撃の目的は牽制……出て来てもらっては困るのだ。

 「邪魔だ、降りろ」

 左手を銃の形に見立て、その先端に魔力を集中させる。距離は目測でおよそ500……デバイス無しで狙えない距離では無い、むしろ彼にとっては余裕な距離だ。

 結果は当然ヘッドショット……。これであちらも車外に出る事は出来なくなった。後は……



 列車の運転を止められる前に乗り込むだけ!










 「あかん! 陸曹、すぐにヘリを下げて!」

 上空からの視点で相手の狙いに気付いたはやては運転席に命令して降下を指示した。しかし──、

 「あの攻撃見なかったのかよぉ! 近付きでもしたらプロペラ狙い撃ちされるっての!!」

 「ハハハ、安心したまえ。そうなったら八神二佐とトーレは脱出するだろうから、君には寂しくないように私と一緒に死出の旅に出ようじゃないか!」

 「誰が野郎と一緒に逝くかぁっ!!」

 「と言う事だ。ヘリごと降りるのは些か無理があるよ、八神二佐」

 「なら私だけで行くっ!!」

 そう言ってハッチの開閉ボタンを押して外界に続く鉄のドアを抉じ開けた。プロペラに煽られた突風が吹き抜ける脇で、スカリエッティがちゃっかりシートベルトを締める。

 「無茶だって! そんな眼で行ってもまともにやり合えねぇって!」

 「じゃあ、どないしたら……!」

 「私が行こう」

 代わりに立ったトーレがハッチに歩み寄り、端から体を半分反り出す形で簡単に準備を完了させた。だが、かつてのような防護ジャケットは身に付けておらず、戦闘的にはほぼ生身の状態での出撃となる。

 「行けるのか?」

 「ご心配無く、ドクター。有事の際には私が動く……そう言う契約ですから」

 そう言った矢先、彼女の足元に紫色のテンプレートが展開……ヘリを列車の真上に合わせるまでもなく音速の翼を駆って飛び出し、もうすぐ戦場になろうとしている場所へと急降下を開始した。その背中を確認しなくても良いだろうと言わんばかりにハッチは閉じ、ヘリの中だけに束の間の静けさが戻った。ストームレイダーが映し出すホログラムにはヘリを示す光点から分裂した別の光点が地上に向かって降下して行く様子をリアルタイムで映していた。

 「うまくやってや……」










 運転手は急いで先頭車両に向かって全力疾走していた。車体が急に横揺れした時、何があったのかと思わず後ろの車両に行っていたのがいけなかった。本来彼に与えられていた役目は二つ……目的の方角に向けて車両を進める事と、襲撃があれば即座に車両を停止させると言う二つの役目だ。相手が懐に飛び込んだのを確認してから結界を張るには、どうしてもそのポイントが動いていては結界の構築が安定しないからだ。

 だが実を言えば彼はこの作戦の正式な隊員ではないのだ。管理局と繋がりのある警察関係の組織で、日本で言う所の鉄道警察に当たる部署から車両の運転技術のある人員を融通してもらい、臨時隊員としてここに居るのだ。もちろん、人員の融通に関しては裏の方法で事を運んだのだが……。とにかく彼は今回の作戦については殆ど深い事情は知らず、護送されているモノについてもリニア運行会社同様に『危険物』と言う認識しか持っていなかった。当然武装隊のように修羅場を潜った訳でもなければ肝が据わっている訳でもなく、突然の事態に驚いた彼はオート運転に切り替えてから持ち場を離れてしまったのだ。それを見た隊員の一人に怒鳴られるように持ち場に戻れと言われて我に返り、そして今こうしてここまで帰って来たのである。

 オートにしていたシステムを再びマニュアル操作に切り替えようと、彼が運転台に手を伸ばした時──、

 ドウッ!!

 「っ!?」

 なんて事は無い、すぐ横の路線を対向車である特急がすれ違っただけだった。特急の速度は100㎞超……こちらの車両も同じ位の速度で走っているので、窓の外の車両は相対速度で途轍もない速さになって見えるだけだ。異常事態が起こって少し臆病になっているようだ……さっさと車両を止めてここから逃げよう。

 そんな余計な事を考えながら緊急停止用のスイッチに指を掛け……



 フロントガラスに人が立っているのを見てしまった。



 そう、『見てしまった』のである。それはつまり、『見る』と言う行為をするに当たって数瞬とは言え時間を費やしてしまったと言いたいのだ。見る……つまりは眼球で『捉え』、視神経で『伝達』し、最終的に脳で『認識』すると言う一連のプロセスを指し示している。

 そして、彼が次に認識したモノ……それは──、

 こっちを睨みつける金色の眼球。

 振り上げられた黒い鋼鉄の足。

 それが叩き付けられた事によって砕け散るガラス。

 そして……その“侵入者”としか形容出来ない存在がこちらに対して放った短い言葉──。

 「邪魔……だから潰す」

 世間一般で言う、『死刑宣告』だった。










 「さて……まず、最初に……」

 篭手型武装『ジェノサイドストライカー』を装備したトレーゼの鋼鉄の手が台の上にある速度調節用のレバーに触れ、それを一気に加速の方向に突き上げた。犬が西向けば尾は何とやら……当然の如く貨物車両は更に速度を上げ、限界速度である140㎞にまで達した。床の下からレールと車輪が摩擦する音と振動がうるさく響いて来るのが分かり、それはここだけではなく後続の車両でも同じ事だった。だがこちらに突入して来た隊員に止められてはいけないので、レバーを剛腕で引き抜き、窓の外に放り投げる。その他の緊急停止用のボタンだとか、車両を停める可能性のある装置は全て叩き潰す。デバイスの素材に使用されている金属は鉄鋼の数十倍の硬度を誇る……そこに機人の腕力が加われば、あとは壊せない物など殆ど存在しない。

 これで結界は張れない。だが、そうこうしている間に足の速い隊員の一人がやって来る気配がドアの向こうから感じられた。列車が停止しない事を不安に思って足を運んでいるのだろうが……。

 「……マキナ、フォーム、『ストラーダ』」

 手に握られた長剣が瞬時にその姿を変え、持ち主の身長にも匹敵する長さの槍に変形する。それを古代人の彫像にあるような投擲の構えに持ち、見据える先のドアが開かれるタイミングに合わせて──、

 「おい! 一体いつになったら停め────」

 「邪魔だって言ってる」

 その顔面を貫いた。正中線……出っ張りの鼻を骨と気道ごと押し潰し、皮膚が巻き込まれる過程で飛び出した眼球を払い除けた後、切っ先が後頭部を貫通したのを見届けて、更にそれを……捩じ切った。下半身の重量で首は自然に落ち、歪な蛇腹を模した脊髄が動脈血と共に飛び出すが、トレーゼはそれを全く気にする事無く得物の先端から取り外し、紺色の防護ジャケットを二人目の血で濡らしながらゆっくりと確実なる歩を進め始める。

 「ウーノ……どこに居る?」

 その問いに答える者は無く、代わりに後続の隊員が次々にやって来るだけだった。だがそんなモノは眼中に無く、彼はただ真っ直ぐに自分の通る道を歩むだけだった。

 その先に居る姉を探し求めて。










 「ウーノさんっ、早く! 早くこっちに!」

 小さな槍騎士に手を引かれるままウーノは貨物室の隅、他の大きな荷物などがひしめき合う隙間に隠れた空間に押し込まれるように誘導された。あまりに突然の事に戸惑いながら彼女は二人の言う通りにしてそこに入り込み、息を潜めた。

 「キャロ、お願い」

 「うん!」

 空間に入ったのを確認し、間髪入れずにキャロがケリュケイオンをかざして地面に魔法陣を描く。ほんの数秒間、車両の中が鮮やかな桃色の光りで覆われた後、エリオが再びウーノの前に荷物を置いてその姿を隠した。今彼女に施したのは軽い隠蔽用の魔法だ……一種の結界と原理は同じで、その魔法が掛かっている領域を意識しない限りは目立たないようにすると言う至って子供騙しのようなものだった。だがこの状況に限って言えばこれはとても効果的だと言えた。敵はとても優秀だ……いくら逃げたり普通に隠したりするだけでは、必ず追って来て仕留められるのがオチだ。だが、相手は大胆な行動に出る豪胆さを持ち合わせながらも、自らの立てた作戦を完璧にこなす事を自分に課している一面もある。となれば、ここを突き止めた敵はより確実にウーノを連れ出す為に、まずはエリオ達を抹殺する事を優先させるはずだった。もちろんあくまで本懐はウーノの方なので彼女の捜索をするつもりだろうが、眼前に敵対する者を相手取ってそこまで余裕を見せるはずはない、むしろ全力で始末しに来るだろう。だがそうなれば意識の大半はこちらに注がれる事となり、ウーノが隠れているスペースはまず見逃される。それからどれだけ耐えれば良いか分からないが、時間が経てば応援が来るはずだ。

 「問題は……僕達がすぐに殺されちゃったりしないかって事だね」

 「前の方に居る人達とも連絡が取れないよ……」

 デバイスが発するはずの生命反応が無い所を見ると、どうやらその大半がやられてしまったようだ。相手が突入を果たしてからまだ五分と経っていないにも関わらずこの有様……それをたった二人で食い止めるとなればかなり無謀な話である。

 だがやらねばならない。ここで自分達が倒れれば作戦は水の泡、全てが無意味だったと言う事になってしまうから。例え最後の一人になったとしても……いや、刺し違えてでも食い止めるのが使命だ。

 と、一つ手前の車両が何やら騒がしい。徐々にこちらに声が近付いて来ているが、剣戟の音がしない所を考えるとどうやら単にこっちに向かって前の車両の班が移動して来ているだけのようだ。程なくしてドアを荒々しく開け、五人の隊員達が駆け込んで来た。あんなに居たはずの他の顔ぶれが居らず、バリアジャケットが所々血に濡れているのはやはりここに来るまでに修羅場を潜って来た言う事だろう。

 「坊主! 無事だったのか。なら丁度良かった、今すぐこの車両を切り離すから手伝え!」

 「切り離すって……運転席はどうなってるんですか!?」

 「あの野郎、ぶっ壊しやがった! もうこの貨物車両は止まれねぇ、最高速度で終点に向かってやがる」

 「終点……首都中央駅!!」

 道理でちっとも速度を落とさなかった訳だ……。このまま特急レベルの速さで走り、ミッドチルダ中の路線が集中する中央駅に突入すればダイヤが乱れるどころか、闘牛が人波に突っ込んだ騒ぎを数百倍にしたような被害が出る事は間違いない。かと言って、ここに居る者達だけでは止める事は到底不可能。それに自分達の役目はあくまで対象の護衛であって列車の停止ではない……そんな事をして時間を食っている間につけ込まれたのでは元も子も無い。前方の暴走車両は地上本部に任せ、ここは連結を解除する事であちらを誘い込み、そして失速して停止したのを見計らって結界を張って閉じ込める以外には無い。閉じ込めてしまえば後はこちらのもの、入る事は可能でも出る事は到底不可能なはず!

 「急げ! 残ってくれた連中が足止めしてくれてんだ! 早く切り離せっ!」

 前の車両にまだ人が残っている……それはつまり、彼らを捨て駒にして事を成そうとしているに他ならない。ストラーダを構える事を一瞬躊躇したエリオであったが、この場における彼らの判断は正しい……。戦場に立てばそれは人では無く一個の戦力単位であり、作戦行動中に失われるような事があっても決して取り乱してはいけないのだ。例えそれが半ば故意にそうさせるような状況を作ったとしてもだ。

 ここで戸惑うのはその犠牲をも無駄にしてしまう愚行……!

 「…………分かりましたっ、すぐに!」

 ストラーダの切れ味を以てすれば連結部を切断する事は容易だ。ここに居る全員に迷惑が掛かる前に彼は作業に取り掛かった。刀身に高圧電流を集中させて熱を発生させ、連結部分を溶解し始める。腐食防止用のコーティングが焦げる臭気が鼻を刺すのも気にせず、そのまま蛇腹の折り畳み通路も綺麗に輪切りにし、五分後には完全に切り離しに成功した。まだ勢いがある前方の車両を全員で蹴り出し、失速させるのを手伝った……その効果は見る見る間に表れ、直前の線路を前方の車両がどんどん先を行く光景を眺めながらひとまず一息ついた。まだ慣性で走行を続ける車両に場違いな安堵の空気が流れる……もちろん、それはこの一時だけの話しであり、すぐに彼らは気を引き締め直し、迫り来るであろう脅威に対して迎え撃つはずだった。



 「────────────────────────────────あっ」



 『はずだった』……この言葉には色んな意味があるが、大抵は『その物事を成そうとしながらも不本意な事象が原因で不可能となった』と言う事実を過去形で示している。英語の講義ではないが、ここで重要なのは時系列…………

 もう既に過去の出来事! 目で見たモノ、耳で聞いたモノ、肌で感じたモノ……それら全てが過ぎ去ってしまった過去の出来事になってしまっているのだ。つまり──、

 もう手遅れだと言う事実。

 前方の車両からこちらを睨む金色の双眸に気付いた事も……。

 そいつの右手から伸びた紅いバインドが今自分達の居る車両を捉えている事も……。

 そしてそれらの事実に一番先に気付いたのがエリオと言う事も…………。

 全部手遅れなのだ。

 「う……うぁ、うぉおおおおおぉおおおっおおおおおおおおおっ!!!」

 先に動いたのはエリオのすぐ隣に居たガタイの良い隊員の一人だった。失速させる為に切り離した車両を捕まえている元凶を打ち倒そうと、瞬速で飛翔してデバイスを突き立てながら突貫した。

 もっとも、その雄叫びが断末魔に変わるのに二十秒も掛らなかったのもまた事実……。

 遠目でも分かる……あの黒い剛腕で何の感慨も無く、モグラ叩きみたいに軽々しく、頭蓋と脊髄が連続して割れる音を響かせながら顔面を殴打して瞬間に絶命したのだと。僅かに残っていた意識が激痛の叫びを上げていたが、それも長くは続かず、事切れた体が重力に従ってそのまま路線の上に落ちた。死体は動かない。だが自分達の居る車両は今も牽引されて動いていた。まぁ、後は言わずもがな……

 四散。車輪に押し潰された反動で飛び散った肉と骨、そしてまだ原型を保っていた内臓の一部が飛沫と化して生き残り達の顔を濡らした。今さっき……ほんの三十秒か一分前までは共に死線を抜けて来ていたはずの同志……その体を構成していた汚らわしいモノが体一杯にブチ撒けられた。

 「え……? あ、えぇ……うっ」

 一番事態を飲み込めていなかったキャロだったが……自分の足元に転がるモノを見た時に頭の奥で何かが弾けるのを覚えたと、後で語る事になった。

 眼球──。

 「きゃぁああああああああああああああああああああああぁあああっ!!!」

 絶叫が幕開けとなったのはまた乙なモノなのだろうが、これはフィクションでは無い、現実だ。バインドを別の場所に括り付け、跳躍して来た戦闘機人を息が掛かる程の間近で見つめる事となった。

 紫苑の髪。

 白磁の肌。

 金色の眼。

 紺を基調とした防護ジャケット。

 四肢に装着した鋼鉄の武装。

 そして、全身を陽炎のように覆い尽くす紅い魔力の奔流……。



 ナンバーズNo.13『Treize』。



 「……どけ。俺は、この先に、用がある」

 秘匿された機兵との車上での再会は、またもやトレーゼ側に有利な状況のままで開始された。

 構えた漆黒の槍が変形して紅い刀身を持つ大剣に変化し、それを振り被る。

 眼前の『障害物』を一気に薙ぎ払う為に──。










 数分前、まだ後部車両が切り離されていない列車の真上にて──。



 「フッ!!」

 ライドインパルスの高速移動で一気に2000の距離を急降下して来たトーレが降り立ったのは未だに走行を続ける列車の天井。着地と同時にすぐ横の路線を特急が通過して風に煽られ掛けるが何とか耐える。まずはこの作戦を指揮している実行隊長に会わねばならない……今すぐにこの車両を止めなければならないのだ。

 相手がわざわざ向かい側から特急に牽引されると言う形で襲来して来たのには理由がある。もちろん、その時に放った攻撃がどうしてわざわざ軌道を逸らしてまで撃つ必要があったのかも……。

 こちらの目を特急から遠ざける為だ。あれ程の威力のモノがまさか真正面から飛んで来たなどと、中に居る隊員達には夢にも思わないだろう。案の定中の隊員達の警戒の視線は側面に移ると共に、被害にあった車両を放棄する為に真後ろに行ってしまう。その隙に相手は特急の速度を利用して堂々と真正面から殴り込みに来ると言う訳だ。誰も思わない……そんな手の込んだ大胆で緻密で姑息な正攻法で来るなんて、誰も考えやしない。

 「……我が『弟』ながら無茶な事をするな」

 まさか二十年近くになる自身の身内との再会がこんな場所でこんな形になるとはと思いつつ、彼女は下に入る為のハッチに手を掛けた。ちなみにこのハッチは中からしか開かないが、そこは戦闘機人と言う利点を利用して力任せに開けるに決まっている。当然の如く十秒も経たない内にハッチが徐々に歪みだし、あともう少しで隙間が開けられると言う所まで引き上げた。

 しかし──、

 「──ッ!? 何者ォ!」

 背後から接近する気配を読み取った彼女は相手がリーチに入った事を確信して遠心力満点の回し蹴りを繰り出した。その瞬間に見えた相手の両足……確実にこちらの有効圏内に入っている、当てられる。だがそれにしてもおかしい。トレーゼは単独行動でこちらに仕掛けて来ると予想されていたはずなのに、何故もう一人の気配があるのか? クアットロではないのは確かだ……あれは未熟なので自分に気配を読ませる事無くここまで接近して来るのは出来ないはず。なら一体誰?

 そんな事を考えていた彼女は、自分の足がちっとも相手に当たっていない事に気付かされた。

 「な……!?」

 確かに相手はこちらのリーチ内に確かに居た、両足を着けて立っていた。なのに何故当たっていない? 簡単だ、そこから離脱されたからだ。だがどうやって? 脅威的な瞬発力でステップを踏んだのであればその姿はまだ見えるはずだが、それすらも消えて見えない。少なくともこの場に居ないと言う事は、逃げた場所はたった一つ……。

 「上か!」

 この間約0.2秒。相手が空戦能力を持っているなら対抗出来ない訳は無いが、ここで足止めを喰らうのは確実……どうすれば良い?

 だが、彼女のそんな戦闘の熱は相手の姿を見た瞬間から一気に冷める事となった。

 「お、お前……まさか──!!」










 あともう少しでもバックステップが遅ければ、間違い無く上半身と下半身は泣き別れしていたはずだった。

 ザンバーフォームのバルディッシュに変形したデバイスを大きくスイングした敵は、車両ごとこちらを切断しようとして来たのだ。まさか剣圧だけであそこまでの風圧を発生させるとは思っていなかったが、六課時代から訓練を重ねているエリオは相手が振り被ったのを見た瞬間にストラーダの切っ先を自分の背後に向け、即座にジェット推進で回避しつつ、ショックで蹲っていたキャロを回収して逃げた。鍛えられた反射神経と卓越した肉体能力があったからこそ拾えた命であった。

 しかし他の隊員は全滅した。刃の範囲内に居た隊員達はエリオのような反射神経に頼る事も出来ず、痛みも感じない速度でまとめて両断されてしまった。鮮血と内臓が飛び散り、その惨い光景を目にしたキャロが耐え切れずに胃の内容物を全て吐き出す。現場には血液の生臭さと胃液の刺激臭が入り混じり、その瘴気に当てられたエリオの意識は心とは関係なく混濁しつつあった。

 尋常じゃない……とても正気とは思えない!

 眼前の狂気の塊とも言うべき存在を前にしながらも、勇猛にもエリオは得物の先端を向けた。これ以上近付けば討つと言う意思表示の表れ……宣戦布告の合図だ。ここで刺し違えてでも敵を討つのが使命なら、今が間違い無くその時なのだ。せめてキャロ達が逃げ果せるだけの時間は稼がなければならない!

 だがそんな少年の健気な決意とは対照的に、トレーゼの方は全くの無関心だった。両目はエリオではなく車両内全体を見渡しており、常にその視線の先が動いて何かを探していた。何を探しているかは言わなくても分かる事……。

 「ウーノは、どこだ? 隠したな?」

 ここで言う『隠す』とは即ち結界系の魔法で隠蔽した事を指している。ここに目的のモノがある事を彼は知っているのだ。だが彼はそれを見つける事が出来ない……そこに意識を向けられないから……そこに目を向けた瞬間に無意識に意識を逸らされるから……隠されている側が動きを見せない限りは発見に至る事は出来ない。

 「出さないと殺す……なんて事は言わないんですね」

 「脅しは、貴様には通用しない……。貴様の精神は、余計な所で、図太いからな」

 「けっこう高く買ってるんですね」

 強がりを言えるだけの余裕はあるようだが、それもいつまで続くか分からない……それを見抜いていたトレーゼはわざわざ目の前の少年少女に見えるように武器を納め、まるで戦意は無いとでも言うように半歩退て見せた。

 「どう言う事ですか?」

 「『交渉』しよう、エリオ・モンディアル……。簡単な、交換条件だ」

 「言いたい事は分かってます……。ウーノさんを出さなかったら殺して、出してくれたら見逃すって言うんでしょう?」

 「否、少し違う」

 わざとらしく立てられた人差し指を軽く振って回答を訂正するトレーゼ。そしてその指はゆっくりとエリオに向けられた。いや……良く見ればその先は彼ではなく、僅かに脇へとずれた──、

 「逆らえば、ルシエを殺す」

 意識が朦朧としてしまっているキャロに向けられていた。そう、彼はただの脅迫では動じないと始めから分かっていて、それでキャロを楯にして交渉材料にして来たのだ。今この瞬間こそエリオがキャロを守っている状況だが、その気になれば実力的に彼を無視してでも容易に殺せる程の力を有しているのはトレーゼの方だ。一瞬でも気を緩めればその瞬間にキャロは命を落とす……エリオにとって最も耐え難く、最も避けたいはずの事態が突き付けられると言う事になるのだ。そして……今のエリオには彼女を確実に守り通せるだけの実力が無い。

 「どうする? 素直に、ウーノを出せば、ルシエとその竜だけは、見逃してやる。貴様は、殺すがな……これ以上、介入されては、こちらも余裕が無い」

 「……………………」

 「さぁ、選べ。ここで全員死ぬか、それともそいつだけ助けるか……」

 「くっ……!」

 「選ばないか…………なら、仕方ないな」

 キャロを指していたトレーゼの指が上がる。思わず身構えるエリオだが、彼の予想に反して変化自体はその背後からやって来た。

 紅い光点。

 「!?」

 闇夜に浮かぶホタルのような淡く、それでいて凶悪さを秘めた紅い光がユラユラをエリオの脇を通り過ぎ、そのままトレーゼの指先に留まった。針金のような細い六本の肢と小さな本体……インゼクトだった。

 「っ!!」

 電流が走るとはこの事か! 事態を把握したエリオは自分達の背後に隠したはずのウーノの安否を確認しようとして──、



 気を緩めてしまった。



 腹に重い一撃を受けたと気付けたのは自分の小さな体が天井に叩き付けられた時になってからだった。手に握っていたはずの相棒の警告の声も聞こえないまま床に背中から落下し、肉体の両面から激痛が走り抜けた。腹を蹴り上げられた所為で内臓の一部が傷付いたのか、大量の血液が喉の律動によって体外に飛び出すのを抑えられず、全身に力を入れる事も出来ないままにエリオは無様に伏せた。

 一瞬の気の緩み……たったそれだけでも勝敗や生死を別つ理由には充分過ぎているのだ。走行中に車内に入り込んでいた蟲の本当の役目……それは車内のどこかに居るはずのウーノを探し、その体表のどこかに取り付く事だった。戦闘機人と常人の違いは外見では分からないが、その内部にジェネレーターを抱えた体の熱量は常人の比ではない……それを探知されれば幾ら変装していたり人混みに紛れていても意味を成さない。そのウーノに取り付いていた一匹が出て来た時に隠蔽の結界は内側から破られ、トレーゼに勘付かれる結果となってしまった。

 「せめて、背後を気にしていなかったなら、まだ長生き出来たのにな……。どけ、お前では、俺を殺せない」

 「あうっ!」

 エリオの代わりに立ち上がり掛けたキャロの足を軽く払い、デバイスの柄の先端に引っ掛けて端に追いやった。付き従っていたフリードもその圧倒的な覇気に気圧されて怖じ気付き、そそくさとエリオ達の陰に逃げ込む始末……。だがこれでトレーゼと目的の人物を阻む者は居なくなった……



 だから呼ぶ……。



 「ウーノ……。出て来てよ、ウーノ、居るんでしょ?」

 優しい声──。さっきまで二十人も人間を殺して来たとは思えない……とても優しい声。

 それで呼ぶ──。狭い所に逃げ込んでしまった飼い猫を誘うようにして……ゆっくりと。

 そして──、

 「…………トレーゼ」

 内側から荷物をどけて出て来る妙齢の女性の姿……。そしてそれを待ち焦がれていた一人の少年……。まるで二人が本当の姉弟である事を示すような金色の眼が互いを捉え、認め、そして確信し合った。

 互いに本物なのだと。

 「何年振りかしら?」

 「17年……。トーレは?」

 「健在よ。それより、話し方変わった?」

 「あの老いぼれに、頭を弄られた、からかな……? あまり、良く覚えていない」

 「そう…………ねぇ、貴方を送り出してしまった事を、恨んでるかしら?」

 その問いに対するトレーゼの答えは『ノー』だった。ゆっくりと頭を左右に振って否定の意思を示した彼の表情は──、

 笑っていた。

 凍りついていたはずの彼が……数十人もの人間を殺し、数百にも上る物を破壊して来てもただの一度とてその鉄面皮を崩す事のなかったはずのあのトレーゼが…………微笑んでいるのだ。男でありながら聖母像のように柔和な微笑みを浮かべるその光景に、蚊帳の外だったエリオとキャロもただ惚けて……否、見惚れていた。それほどまでに彼が見せる表情は柔らかく、底知れない優しさに満ち溢れているモノだったのだ。

 「行こう、ウーノ」

 差し伸べられた手をウーノが凝視する。先程殺した隊員の鮮血に塗れたそれをしばらく見つめていた後、彼女は──、

 「ウーノさん!!」

 その手を取ろうと自分の右手を恐る恐る伸ばし、その黒い血塗られた手に触れた。冷たくヌルヌルした感触が伝わるも不快には思わない……むしろ逆に、眼前で自分を求めている愛しい『弟』を引き寄せたい一心だった。だがその気持ちを堪え、唇を噛み締めて押し殺したのを確認してからウーノは息を大きく吸い、そして吐いた。そして微笑みを見せるトレーゼとは対照的な固い表情を見せた後に口を開き──、



 「今です──、お嬢様ッ!」



 刹那、ウーノが何の前触れも無くトレーゼを全力で突き飛ばした。車外に落ちる事は避けたが、体勢を崩し掛けたのを見逃さずに……

 「ガリュー、お願い」

 全身を黒い甲殻に覆われた巨躯の怪人が飛び蹴りの追い撃ちを喰らわせた。いや、正確には怪『人』ではなく、肉体の各部位が高度に発達した二足歩行を可能とする人型の蟲だった。黒光りする頑丈な外骨格と、辺りをギョロギョロと見回す四つの複眼はまさに蟲のそれで、人間では決して辿りつけない域にまで鍛えられた筋肉が封入されている事を誇示していた。

 不意打ちにより完全に車外に体が飛び出してしまったトレーゼは空中で体を捻じって反転させ、手から出現させたバインドを壁に結び付けて事無きを得た。その表情は再びいつもの凍りついた顔に戻っていたが、金色の双眸だけは違っていた。空気を振動させて肌をチリチリと焼くような怒気を発しており、自分の姉との再会を阻んだ乱入者の存在を確認していた。

 確認した乱入者の数は『二つ』……。一方はさっき自分を蹴り飛ばした巨大な人型蟲。自然界に存在する蟲の中でも特に発達した種だと判断出来た。

 そしてもう一方はその背後……。小さな身長に似合わない菫色の長髪、黒を基調としたゴシックなバリアジャケットに、両手に嵌められたグローブ状のデバイス……。トレーゼは自分の記憶に目の前の人物についての記録がある事を思い出した。かつて、自分の主の計画に参加し、騎士ゼストと共に計画成就に助力しながら、敗北後は無人世界に母親と一緒に島流しにされていたはずの召喚士の少女──、

 「ルーテシア…………ルーテシア・アルピーノ!」

 「…………うん、そうよ」

 単純に自分の名を呼ばれたのに対して返事をしただけなのだろうが、その瞬間に彼女の足元に召喚魔法陣が展開……自分の手と同じ位の大きさはある甲虫を数十匹も召喚した。凶暴な羽音が車輪の騒音と入り混じって鼓膜を打つ中で、ルーテシアは自分の相対する敵を指でさし、信頼している相棒に指令した。

 「追い払って、ガリュー」

 言葉を聞き届けた忠実な蟲は跳躍し、手に仕込まれている内骨格の変化した棘を剥き出しにした。甲虫達もそれに引き続いて飛翔し、たった一人の敵目掛けて一斉攻撃を敢行する。

 「……蟲風情が、戦闘機人に敵うと、思うなよ!」

 マキナを収納した直後、トレーゼの両手の鉤爪の先端から紅い魔力ブレードが出現し、迎撃態勢を取る。ほぼ同時に飛び上がった機人と蟲は彼女らの見ている目の前で、血で血を洗う死闘を開始した。



 ゴングは……もうとっくに鳴っている。



[17818] それもどうでも良い出来事に過ぎず……
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/12/13 22:08
 転轍機、と言うモノがある。

 名前だけ聞いただけではピンと来ない人も多いだろうが、実際に目にした事がある人が多いのは事実だろう。鉄道路線の枝分かれした線路にある、あの切り換えポイントの装置の事だ。あれがあるからこそ、今日の鉄道はその複雑な路線を走る列車やリニアなどを衝突させる事無く運行させる事が出来るのだ。

 かつて、複線鉄道が敷かれて間もない頃はレバー型だった転轍機を人力で動かしていたが、文明と技術が発達した今日この頃では全て電気による機械操作で切り換えを行っている。それはもちろん、地球以上に発達しているミッドでも例外ではない。駅長室などの離れた場所から管制して定時通りにスイッチを押し、通過リニアなどが別の路線やホームに入ってしまわないように常に気を配っているのだ。

 当然の事ながら、今日もいつものようにして担当の操作員が時刻通りにスイッチを操作して転轍機を動かし、通過リニアの通る道を正確に合わせていた。特に昼前の時間帯は西部方面に向かう下りのリニアや逆に同じ方面からの上りが多く、幾つもの装置を何度も動かさなければならず、耳で聞く以上の激務でもあるのだ。

 だが何故か今日は事情が違っていた……。

 「路線の変更……ですか?」

 その日、担当員に言い渡されたのは通過リニアの行先変更の指令だった。東部から中央駅を通り、そのまま西部支部に下って行く回送車両の進行方向を連絡にあった通りのレールに変更すると言うものだ。この駅を通過する時の時刻は午前11時17分……つまりその前に転轍機を操作して車両がそのレールに乗るようにすれば良いのだが──、

 「ですが、首都中央駅からの報告では西部方面から貨物車両が通過すると……。この進路では明らかに…」

 だがそんな彼の懸念はすぐに払われる事になった。手渡された紙面に書かれているのは印刷された簡易路線図……そこには当初連絡にあった貨物車両が予定を変更し、途中で枝分かれした路線を通って南部方面に向かうと言う事が記されていた。紙面の脇には駅長のサインが振ってあったので恐らく事実なのだろうと、担当員は紙面を受け取りながら了承の返事をした。

 「分かりました。では連絡通りに、11:04通過の車両を提示された路線に切り替えます」

 彼は職務に忠実だった……。忠実であるが故に言われた通りに行動し、何の疑いも持たずにそのままにしておくただの指示待ち人間でしかなかった。










 午前10時43分、暴走中の貨物車両にて──。



 トレーゼは駆逐していた。自分と姉を隔てる憎い蟲を睨みつけ、一刻も早くそれを潰すべく四肢を武器にして駆逐しようとしていた。飛来して来る甲虫を叩き飛ばし、ガリューの放つ鋭い刺突を寸前で回避しつつカウンターを繰り出そうとする。だがそれは相手の反射神経と強固な外殻によって深く入らず、大したダメージも与えられないまま時間だけが過ぎて行く一進一退の状況が続いていた。

 「……ッ!」

 右手の爪から伸びる魔力刃を収納し、腰に携えていたブレードを引き抜いてリーチを広げる。更に左手にもレヴァンティンに変形したマキナを携え、こちらを楯代わりにして猛攻に転じた。かと思えば、時間を置かずに両手に持っている武器をクロスミラージュに変えて遠距離戦に転じ、空中を飛び回る甲虫を一気に撃墜しつつ召喚主であるルーテシアに狙いを定める。

 今まで戦って来たどの相手にも無い変則的な動きに、ガリューも寡黙な雰囲気を保ちながらも内心では焦っていた。地面、壁、天井、空中の四つを足場にして戦う敵は、時に叩き潰した甲虫の残骸を目潰し代わりに投げつけたり、こちらが見せた僅かな隙を目聡く見つけては主であるルーテシアに攻撃を加えようとしたりと容赦無かった。今現在では硬い外殻に覆われている分は防御力でガリューに分があるようだが、それもいつ覆されるかは分からない……。さっきのエリオのように一分の隙を突かれて大敗する恐れもある。

 「──!?」

 ふと、ガリューはこの死闘の空間に起こっている異常に気付いた。それまで絶え間無く背後の主が敷いているはずの召喚陣から大量に呼び出されていたはずの甲虫が突然出て来なくなっているのだ。あの蟲は召喚魔法によって別空間から直接呼び出しているので数が尽きる事は無い……行使者であるルーテシアの魔法が阻害されていない限りは。

 「ッ!?」

 まさかと思い背後を見やる。幸いにもガリューの眼球は複眼……蟲特有の広い視界によって首を振らずとも背後を確認するには事足りた。だが少なくとも想像していたような最悪の事態にはなってはいなかった……だが──、

 「ルーちゃん!」

 叫んだキャロ達の視線にあるモノ……それは、紅い半透明な箱──小型結界の中に囚われているルーテシアの姿だった。結界と言う密閉された空間に閉じ込められた事により、召喚に必要な『開けた空間』から隔絶されてしまい、彼女の足元に展開されていた魔法陣は掻き消されてしまっていた。その周囲では必死にエリオとキャロが結界を解こうと躍起になっているが、見た目によらず強固な為に傷一つ付ける事は出来なかった。だが、一体いつの間に……? ついさっきまでトレーゼはガリューと相対していたはず……ルーテシアには文字通り指一本も触れさせてはいないし、結界を施すような素振りも見せていなかったはずだ。一帯どうやって……。

 「表情を、変えない蟲でも、分かるぞ……。お前が今、戸惑っているのがな」

 トレーゼが銃口を降ろし、講釈を垂れるような口振りでガリューに言い寄る。武器を降ろしたと言う事は通常の戦いにおいては戦意が無い事を示すものだが、殊更この戦闘機人に関して言えばそれは当て嵌まらない……勝利と結果を得る為には如何なる卑怯な手段でも平気で実行する存在だ、警戒を解かない方が良いだろう。

 「安心しろ、今だけは何もしないでやる……今だけはな。周りを確認しろ」

 そう言って一歩退くトレーゼ。どうやら本当に戦意は無くなったようだと判断し、ガリューは主の安否を確かめるべく結界に駆け寄った。

 「ガ……リュ……」

 密閉されている所為か声が聞き取り難い……自慢の腕力で抉じ開けようとするも全く歯が立たず、怨敵である機人を恨めしく睨みつけた。だが当のトレーゼはそんな蟲の視線などどうでも良いと言わんばかりにそっぽを向き、窓から差し込む太陽に眼をやっていた。だが、不意に何かを思い出したように再びガリューに向き直るとこう付け足した……。

 「言い忘れた…………その結界、空気を遮断するからな」

 「──ッ!!」

 「保っても、あと少しで酸欠だ……。無闇に動かない方が──」

 そこから先の言葉を放つ事は出来なかった。鉄で出来た床を破らんばかりの脚力で飛び掛かって来たガリューをブレードで押し止めるのに全力を尽くしたからだ。外骨格の下に隠された筋肉を最大限に引き絞り、目と鼻の先で無感情に立ち尽くす怨敵を一刻も早く抹殺せんとする殺気を伴い、突き出した棘を剥いてトレーゼに迫って来ていた。筋力はほぼ互角……科学の粋を決した増強筋肉と、何万年にも渡る進化の過程で培った人外の筋肉が真正面から拮抗し合い、一方は排除しようと、もう一方はそれを踏み止まらせようとして見事なまでに互いの力を相殺し合う図が完成していた。だがガリューの複眼が全てトレーゼを捉えているのに対し、やはり彼の方はまるで関心が無いと言う様に空で輝く冬の太陽を見つめていた。

 「……それ以上は、踏み込むなよ? 貴様の首を、自分で絞める事になる」

 「────」

 「怒るな……貴様の為に言っている」

 一応は忠告の言葉のはずだった……。彼なりにチャンスを与えたつもりだったのだろう……墓穴を掘らないで済むチャンスを。だが頭に血が昇ると考える範囲が狭くなってしまうのは人間も蟲も同じなのか、その言葉を気に入らなく思ったガリューは更に怒り、このまま敵を車外に押し出すべく足を踏み出し──、



 トレーゼの右足が乗っていた場所に足を置いてしまった。



 「言ったぞ……? 踏み込むな、とな」

 ガリューの足元が光り輝くのと、そこから煙の如く撒き上がった無数のバインドが全身を拘束するのにタイムラグは無かった。人間と違って外骨格に覆われた分、柔軟性に欠ける彼らを拘束するには関節を抑えるだけで事足り、ガリュー自身もその例外ではなかった。立ったままで全身を磔にされ、眼球だけが鼻先で鉄面皮を保ったままの戦闘機人を捉えていた。

 だがこれで分かった事がある……どうやってトレーゼが人知れず結界を張れたのか、その秘密についてだ。バインドはガリューがトレーゼの足があった場所を踏む事によって発動した事を考えると、恐らくは自分の場所に踏み込んで来る事を予想していたトレーゼによって予めに足元に魔力を滞留させられ、ある一定以上の刺激を与えると発動する仕組みになっていたのだろう。冷静になって考えれば、今ルーテシアが居るポイントは先程までトレーゼとウーノが邂逅していた場所……あの時から既に先手は彼の手にあったと言う事になる。

 しかし、分からない事もある。一度リンカーコアから分離してしまった魔力の減衰は早く、弾丸のように特別なコーティングをしていないと三十秒も経たずに消滅してしまう…………だが、この足場から彼が足を離していたのは明らかにそれより長く、ルーテシアの結界に至っては五分は離脱しているはずだ。なのに魔力は減衰するどころか健在を保っている……途中で補給をしている素振りは──、

 ……いや、していた!

 足だ! 接地している床面を媒介し、常に電流の様に魔力を送り続けていたのだ。大して難しい事ではないが、電気と同じで物体を挟んでの魔力供給は抵抗が加わってコントロールが悪くなる上に、分散してしまうので必要以上に量を消費してしまうので熟練した魔導師でも忌避するやり方だ。それを同時に二つ……! 常人のやり方ではない事だけは確かだ。

 過程はどうであれ、これで早くも再びトレーゼの前を阻もうとする者は居なくなってしまった。戦いにおいて一度傾いた状況を押し戻すのはそう簡単ではない……ましてや、それがこちらの流れと思っていながらにして変えられたのなら尚更だ。

 「く……っ!」

 「やめろ、モンディアル……貴様では、殺せない」

 ブレードの刃を首筋に当て、起き上がろうとしたエリオの動きを先に封じる。高エネルギーの塊である刃は熱を持ち、チリチリと彼の皮膚を焼こうとしてその凶暴な熱を放出していた。だがこれはあくまで牽制でしか無い事をエリオは重々承知していた……。本当の狙いはキャロとルーテシア、そして本懐であるウーノだ。前者二人はエリオとガリューにとっての人質と言う意味だ……ここに居る誰よりも弱いキャロと、召喚を封じられた事により戦闘力を失ったルーテシアではトレーゼの隙を尽く事も出来ず、ましてやルーテシアの方は完全に動きを封じられた始末だ、敵うはずが無い。

 「戦いの場に、弱い奴を、連れるな……。そうだ、取り引きしないか、蟲?」

 「──?」

 「今一度、貴様の拘束を解く。その代わり、ウーノを、こちらに渡せ……貴様の主を、死なせたくなかったらな」

 鉄砲に象った指を結界に囚われているルーテシアに向け、その先に紅い魔力を集中させ始めた。元を正せば彼の魔力で作られた結界……その向かい側に居る対象に干渉するのは訳無い事だ。

 「──ッ! ッ!!」

 「焦るな、猶予はやる。ほら……ウーノを、こっちに……」

 あれだけ全身を拘束していたバインドが一瞬で解け、ガリューは体勢を崩し掛けながらも踏ん張って堪え、掴み掛ろうとする憤怒を必死で押さえ込みながら主の状態を確認した。密閉空間に残されている酸素量は残り少なく、小さなルーテシアの体が酸欠一歩手前の危険な状態にまで追いやられている事が見ただけでも分かった。だがこの状況で逆らおうものなら、それこそ命の保証は無い……かと言って、ここで言う通りにしたからと言っても素直に解放してくれると言う保証も無い事も事実だ。だが確かに言えるのは、このまま放置すればルーテシアは確実に死に至ると言う事だ……外気を吸い込んでも肺が満たされず、顔面を蒼白にさせながら酸素を求めて舌を突き出し、やがては全身が酸素を欠いた事による血色悪化で惨たらしく死ぬのだ。そうなれば単純に戦力としての頭数が減るだけでなく、使い魔としての一面もあるガリューは魔力供給を受けられないばかりか、最悪の場合には契約が切れたと見なされてこの空間から強制送還される事も有り得る。そうなれば再びこの場の戦況はエリオとキャロだけで切り抜けなければいけなくなってしまい、そうなってしまえば自分達が派遣されて来た意味も無くなってしまう……。

 「さぁ、どうする? 貴様も、バカじゃないだろ……。良く考えろ、どちらが、貴様にとって……この場にとって、得策なのかをな」

 そう言いながらトレーゼの両足が車両の床を離れ、バインドで繋がれている前方車両に飛び、その紅い手綱を握り取って機人の剛腕でこちらの車両を引き寄せ始めた。徐々に車体が引き寄せられるが、後三メートルと言う所まで来てから不意に牽引を停止し、またその端を車両の連結部分に結び付けた。

 「選べ、選択しろ……生きていたいならな」










 時を遡って午前9時30分、ナカジマ宅にて──。



 「それじゃあ行って来るけど、ちゃんと大人しく留守番してるのよ?」

 「昼には帰って来れるようにするから、冷蔵庫の中を漁るなよ。太るからな」

 玄関で靴を履きながら、居間でくつろぐウェンディとディエチに注意を促しつつ、チンクとギンガは先に外に行ったスバル達を追うようにドアを開けて出た。ドアを開けた瞬間に流れ込む真冬の冷気が防寒着の間をすり抜けて体を縛り上げ、二人とも思わず身を縮めた。これから彼女らはリニアに乗ってある程度の距離を移動して目的の病院にまで行くのだが、今日は日取りが悪いのか午前中は閉業している病院が殆どであり、わざわざ午前開業している病院を求めてリニアを乗り継がなければならない程に遠くまで行かないといけなかった。昨日と比べてスバルもなんとか体力を回復したようなのだが、出来るだけ無理はさせたくないと近場を探したのだが、結局はここしか見つけられなかったのだ。

 いや……取り合えず、見つからなかった『と言う事にしたかった』のだ。

 「おいスバル……本当に大丈夫かよ」

 「うん…………大丈夫だよ、ノーヴェ」

 普段は決してしないレベルの厚着で膨れ上がって見える体を揺すりながら、スバルは垂れ流れる鼻水を啜りあげた。確かに昨日と比べれば幾分体力は戻ったはずなのだが、寒気が吹き荒れる冬の外を歩くには少々厳しいようでもあった。歩くのが億劫なら流石にタクシーでも捕まえるつもりだが、本人が大丈夫だと言える内は何とかして歩いてもらうつもりだ。

 「取り合えず、何とも無い事を祈るしかないわね……」

 「まさかあれから本当に風邪をこじらせるとはな……存外、私達の体も弱く出来ているものだ」

 溜息混じりに皮肉を漏らすチンクの心中も分からないではない……常人よりも物理的に強度を高められているはずの戦闘機人が、よりにもよって失恋紛いの心理的ショックで体調を崩すなどとは……スカリエッティが知ればそれこそ科学者として嘆くだろう。

 (いや、ドクターならきっと戦闘機人の心理的状態と体調管理について原稿用紙500枚ぐらいに研究をまとめるだろうな……)

 生粋のマッドサイエンティストがその程度の事実で引っ繰り返るはずも無いか……。

 などと考えていたチンクはふと──、

 「……………………」

 「…………(コクッ)」

 隻眼を横に流し、さり気なくギンガとアイコンタクトを交わした。ギンガもそれを無言で受け取り、そっと手をポケットに入れてある物に触れた。布の下で少し指を動かしてそれを操作した後、彼女はまた何事も無かったように振舞い始め、前を歩く妹達に目を戻した。

 人はそれを“監視”と言う……。










 同時刻、クラナガンのとある街中にて──。



 「……動いたのね」

 懐から取り出した携帯電話の画面を確認するティアナ……そのディスプレイには着信メールの内容を確認するページが開いており、丁度今その内容を見ていた。だがその内容を見終えるのに時間は全く掛らなかった。何故なら、そのメールはタイトルも本文も全く無い俗に言う空メールであったからだ。普通なら悪戯か何かだと思える代物だが、今の彼女にとってはある意味待ち望んだモノでありながら、その一方では送られて来て欲しくなかったモノでもあった。

 「…………私もさっさと移動した方がよさそうね」

 現在彼女が歩いているのは駅のプラットホーム……リニアに乗ってここまで移動して来て、今から改札を抜けて外に出る所だ。早朝の通勤ラッシュから一段落したとは言え、向かい側の上り線が通っているホームではまだ少し人通りが目立ち、自分も今からその人の流れに混じって改札を潜らねばならなかった。人混み自体は別に良い……問題はそこから先にあるのだ。ある意味ではここから先は、進み方によっては後戻り出来ない修羅の道でもある……だが今更戻れるならと甘い考えは持ってはいないし、腹も括っているつもりだ。

 「何とかなる……そう思いたいわね」

 もうすぐ改札だから人の流れもここで少し増える。ポケットの中の定期券を握り締め、ティアナもその流れに加わるべく少しだけ足早に進み出した。そしてカードを取り出し、改札の読み取り機の挿入口にそれを入れようとした時──、



 自分の背後を“何か”が通り過ぎたのを感じた。



 「な……っ!!?」

 職業柄、どうしても文字の羅列している紙面の内容と、自分の背後の気配だけは必要以上に警戒してしまう癖があるのは自認しているつもりだが、今回のこれは明らかにレベルが違っていた。まるでそこだけが深海の水圧がそのまま移って来たかのようなネットリとした感覚……戦意でも敵意でも無く、ましてや殺気でも無く、ただ単にそこに居ると言うだけで圧力になってしまうような圧倒的存在感の塊だ。日常ではもちろん、戦いの場でもなかなか居ないはずの存在……そんなモノが今、確かに、自分の真後ろを横切った。横切ったのだ! 冬の気温にも関わらず嫌な冷や汗を流させるだけのドス黒いモノが、すぐそこを通らないと分からない位の隠密性を以てして自分の背後に居たのだ。そしてそれはあろう事か堂々と自分の通り過ぎ──、

 振り向いてもそれらしい影は見当たらなかった。

 「はぁ……っ! はぁ……」

 フルマラソンを走り込んだような倦怠感と疲労感がティアナに重く圧し掛かる……。気のせいだ、きっと疲れているんだ……そう思い込みながら、彼女は忌まわしいその場所を先程以上の速さで抜け出した。



 この時、彼女が振り向くのがほんの少しでも早かったなら、きっと見えていたはずだ……。



 人混みに紛れて移動する、全身を真っ白な服で包んだ少年の後姿が──。










 再び時間を戻して午前10時47分、都心に向かって暴走する貨物車両の中にて──。



 「選べ、選択しろ……生きていたいならな」

 都心までにはそんなに余裕は残されていない……既に車外の風景も発車した頃の自然風景はいつの間にか消え去り、灰色のビルが目立ち始めるようになっていた。このままの速度を維持して行けば、都心に突っ込むのも時間の問題だ。それがこのトレーゼの狙いだったとしたなら、今まで犠牲になって来た隊員達は彼の手の平の上で無様に踊らされていたと言う事になってしまう。

 ガリューは迷走していた。己の主人の命か、それとも作戦成就と言う大義か……今その決断を迫られていた。戦士としてなら迷う事無く後者を選ぶのが当然だろう……。ここでトレーゼを捕えるか、あるいは仕留めさえすれば明日のミッドの平和は約束されるだけではなく、この作戦に参加するに当たっての条件だった刑期短縮なども獲得出来るのだ。だがそれもルーテシアを見殺しにしてしまっては意味を成さなくなってしまう。幼い頃から彼女を見守って来たと言う一人前の情念が、その心に後者を選ばせる事を躊躇わせていたのである。だがこうして迷い悩んでいる間にもそのルーテシアの息の根は徐々に絞めつけられている……。

 「────────」

 ウーノを見やる。この場に居る者達の中で一番困惑しているのは彼女だと言う事は承知していた。かつて、目の前の戦闘機人が彼女らナンバーズ上位三人にとって何にも変え難い存在であった事は既に聞き及んでいる……特に三番目の姉とはとても懇意にしていた事も、当然聞いている。つい数分前にこの列車上部に乗り込んだ彼女を追い返したのは他でもない自分達だが、わざわざ戦力になる彼女を説得して追い返したのにも訳がある。と言っても、それは自分達がそう危惧してそうしたのではなく、単純に事前に命令されていたのだ。



 トーレとトレーゼを決して接触させるな、と……。



 始めはその命令の内容が理解出来ておらず、ただ言われるままにそうして彼女を追い返したのだ。貴重な戦力になり得たはずの彼女を……。

 その結果がこれだ。ここはやはり多少命令に背いてでも彼女を引き留めておくべきだったかも知れないが、それも今となっては詮無き事でしか無い。今重要なのは、この状況をどう乗り切るかだ。

 「おい、猶予はもう無いぞ。早く決めろ……俺は、そんなに気が、長い訳じゃない」

 そうだ、時間が無い。このまま車両が首都圏に突っ込むのが先か、それとも酸欠でルーテシアが死ぬのが先か……あるいはこのままタイムアップを迎えたトレーゼの行動によって壊滅するのが先なのかだ。

 どうする?

 どうする?

 どうする?

 どうする?

 発達した脳でも導き出せない結論を必死になって手繰り寄せようとガリューは頭を抱え出し、遂に熱暴走しそうな頭の回路が目の前の戦闘機人と刺し違えてでも、と言う血迷った結論に行こうとしていたその時──、

 「もう……充分です」

 背後から声……。肩にそっと置かれた手を見れば、それはウーノの細腕だった。薄紫の長髪に隠れた双眸は悲しみに伏せられており、震える肩を押さえ込むように堪えながらガリューを差し置き、一歩前に進み出た。だがその歩みは固い決心に満ちており、それを誰も止める事も出来ないままに遂にその両足が車両の縁に差し掛かった。

 「最初から素直にこうしていれば……誰も犠牲にならなくて済んだのに……」

 三メートル……非戦闘型とは言え、戦闘機人にとっては跳躍出来ない距離ではない。少し大きく息を吸い込んだ後、ウーノは膝を折り曲げ、エリオが制止の声を張り上げるその前に──、

 対岸で待つ『弟』の所へと飛んだ。

 「……ウーノ、行こうか」

 冷たく血に濡れた金属の手に握られ、ウーノはトレーゼと共に前方車両を目指した。ただ引かれるままに……17年振りに再会した変わり果ててしまった『弟』に手を引かれ、自分の為に戦ってくれていた者達を後にした。自分より歳も背も小さな彼を前にしながら、彼女は感慨深くこう思っていた。



 昔は自分が手を引いていたのにな……。



 その直後、車両を繋いでいたバインドとルーテシアを覆っていた結界が解け、彼らを乗せた車両はあっという間に置き去りにされてしまった。










 時を遡り午前10時30分、クラナガンの繁華街にて──。



 狂っている……。

 それがクラナガンの街に来たセッテの最初の感想だった。

 最初に感じたのは熱気だった。冬の寒さの裏側に隠れた街の人間達の淀んだ熱気……それが初めて街に来たセッテが最初に感じた感覚だった。それは街の中を歩く距離が長くなればなるほど、時間が経てば経つほどに強くなり、少しずつ彼女の中の何かをすり減らし始めていた。

 そして、煩い……。単純に戦闘機人として増強された聴覚がそう感じさせているだけなのかも知れないが、周囲に飛び交う雑音や通行人達の会話、身に付けている携帯電話の着信音から歩行中の落とし物の音までもが全て煩く鼓膜に響き、脳を掻き毟られるような不快感を催す。もう歩いていてすれ違ったり追い越したりするだけでも強烈なプレッシャーが圧し掛かり、セッテは段々目の前を歩く人間達が度し難い別次元の存在に思えるようになって来ていた。他人との接触が殆ど無かった人間が一度の大量の他人と接触した時に見られるヒステリーのようなモノだが、苛立ちが徐々に不快感になり、その不快感が更に憎悪にも似た得も言われぬドス黒い感情の渦になるのにそう時間は掛らなかった。その内付き添いの担当員も雰囲気が違う事に気付き始めたのか……

 「大丈夫ですか? 顔色悪いみたいですけど……」

 「……………………」

 いけない、顔を覗かれただけで察知されるとは、どうやら相当ヤバイらしい。すぐに取り繕って大丈夫と言おうとしたのだが、すぐ横を通り過ぎた見ず知らずの女性の所為でその心は打ち消されてしまった。問答無用で漂って来た体臭と香水や化粧が入り混じった悪臭……胃が引っ繰り返る感覚とは良く言ったモノだが、実際にそれを経験するとこれ程までに気色の悪いモノだったとは思いもしなかった。その人だけではなく、この場に居る全員……今すれ違った者、目の前からやって来る者、そしてこれから自分を追い越すはずの者までの全てが、一気に醜く見えてしまう。これが今自分の居る世界……更正施設の清潔で精錬された壁で囲まれた空間とのギャップに彼女の精神は悲鳴を上げかけていた。

 狂っている、何もかもが等しく激しく……。こんな汚れた世界で生きている人間と、こんな世界を作り上げた人間の妄執と狂気……そして、自分の姉妹達はこんな不思議で不可解な世界でも平気で生きていると言う事実が、彼女にとっては耐え難いモノでしかなかった。同時に自分の精神の脆弱な部分が曝け出される焦りにも似た感覚が徐々に込み上げ、それが彼女に辛うじて平静を保たせている要因でもあった。

 「セッテさん、駅はこっちですよー。ぼーっとしてると置いて行きますよ?」

 「……すぐに」

 置いて行く、などと言ってはいるが、実際にはぐれたりセッテの方から姿を暗ましたりしてもすぐに発見されるだろう。彼女の左腕に掛けられた腕時計……実際に時計としての機能もあるが、内部に入れ込まれた発信機が常に装着者の位置を通信衛星越しに知らせているのだから。

 今からセッテと担当員の二人はリニアに乗って街を移動するのだが、当然鉄道関係を含んだ乗り物に乗った経験などセッテには無く、これは社会に出た時に活かせる経験として覚え込ませると言う意味合いもあった。単純に街中を移動するだけなら通常の乗用車でも事足りるのだが、それでは人との触れ合いが無いと言う事でこうして今切符を購入し、改札を潜ろうとしていた。ちなみにミッドでは地球同様、電子マネーを利用したICカードなどが主流だが、当然セッテはそんな物など持っていない。

 だが、ここからセッテは生まれて初めて地獄を見る羽目になる……。

 「話には聞いていましたが……本当に人が多いですね…………吐き気がします」

 鉄筋コンクリートを舗装した空間を歩く大量の人間……人、人っ、人!! 雑音と悪臭を撒き散らしながら狭い空間を何も知らない凡愚達が歩く光景は更にセッテを追い詰め、彼女はふらつく体を律してなんとか耐えた。ここが戦場で、彼女に自分が敵と認めた者に対する殺傷許可が出ていたなら、セッテはとっくにここに居る人間を付き添いの担当官含めて皆殺しにしていただろう……。それだけ彼女にとってこの光景が異常だったと言う事だ。

 駅はデパートと一体化している為に人通りが非常に多く、単純な買い物客だけでも相当な数があった。出入り口から改札までは距離があり、そこを一直線に駆けようとするが、如何せん人の流れが邪魔でちっとも前に進め無い事に苛立ち始めた彼女は徐々に歩幅と速度がエスカレートし……。

 「邪魔です……!」

 追い抜かす者もすれ違う者も関係無しに突き進み、何の遠慮も無しにただ一直線に他人を押し退けて進み、気付けば彼女はガムシャラに目的の場所を目指していた。歩いていたのが小走りになり、小走りが駆け足になり、遂には──、

 「ちょ、ちょっとちょっと! セッテさーん!?」

 背後から聞こえる担当官の言葉がドップラー効果で尻すぼみに聞こえるが、それを無視して彼女は走り出していた。もうここまで来ると異常だ……朱に交われば何とやら、どうやら彼女の精神はとっくに周囲の毒気に汚染され、狂気に塗れ始めていたようだった。もう何も聞こえない……聞きたくない!

 「先に……行ってます」

 「ダメですってば! ちゃんと私の傍を──」

 追い付いてきた担当員が思わず背後からセッテの腕を掴み上げた。少々頼り無い感が否めないが、これでも一応は荒くれ者が山ほどやって来る更正施設の職員なので、そう言った連中を諌める為の体術の一つや二つは修得していた。単に腕を掴むのではなく、関節を押さえ込む掴み方でセッテの動きを止めようとしていた。

 だがタイミングが悪過ぎた。

 「ワタシに…………っ!!」

 見えるモノ、漂うモノ、そして聞こえるモノ……自身の精神の許容量を大きく越えたそれらを受け入れられずに混乱しながらも何とか最後の一線を保ち続けていたセッテは──、



 ここで決壊してしまった。



 「ワタシに触れるなぁ!!」

 関節を押さえられようが関係無いと言わんばかりに、彼女は持ち前の怪力で担当員を突き離した。当然、往来の真ん中でそれをやったのだから突き飛ばされた余波で周囲にも被害が及んだ……将棋倒しのように数人の通行人達が巻き込まれ、そこでやっと周囲の者達にも物々しい緊張が走った。数百もの視線が一斉に長身の少女の姿を捉え、その醸し出される気迫にザワザワと一様に動揺が走った。奇異な目、忌避する目、興味本位の目……様々な視線がセッテの全身に突き刺さる。大抵の人間ならここで周囲の様子を確認してある程度の落ち着きを取り戻す……俗に言う、空気を読む状態になり、その視線が行動を諌めるのに一役買ってくれるのだ。

 しかし、それも彼女にとっては逆効果でしかなかった……。

 「や……やめ…………!」

 常人には囁きでしかない小声も、彼女には何を言っているのかが全て筒抜けになって聞こえてしまう……怨嗟や猜疑、根拠の無いあからさまな疑念の声が全て聞こえてしまうのだ。衆人の狂った視線と声……否、もう自分が狂っているのか、それとも周囲がそうなのかさえも分からない……。疑心暗鬼の心はいつの間にか周りではなく自身の内側に向けられており、惑星が重力崩壊するのと同じようにして彼女の心は……

 内側に折れた。

 「やめてぇええええええええええええええええええっ!!!」










 午前10時52分、暴走車両にて──。



 「…………セッテの混乱が、少し落ち着いたか」

 「分かるの、そんな事?」

 「分かる……一応、妹だからな」

 「そうなの……」

 路線を一直線に突っ切る貨物車両の一室でトレーゼはウーノの肩に寄り添うようにして座り込んでいた。光の宿らぬ両目を閉じ、ベッドに横になるみたいにしてリラックスしている彼の頭を、ウーノの手が優しく撫でる。それに満足しているのか、彼の方も軽く擦りつけるように頭を肩に当て、甘えるような仕種を繰り返していた。

 「あの子の……セッテの製造経歴を知ってるのね」

 「ああ、知ってる。ラボの資料を、読んだ」

 「No.7『Sette』……。貴方の細胞から抽出した“無限の進化”を司る部分のDNAを組み込んで生み出した、唯一のナンバーズ……。言うなら、貴方の『後継機』ね。ドクターが貴方の量産化を諦められなくて、トーレと同じ目的で、トーレとは違うコンセプトで開発したのがあの子だったわ」

 「そして、俺に対して、与えられた、役目は、『ソード』……『ジャベリン』のトーレに及ばずも、現時点でも、それなりに充分な、実力を持っている」

 「あの子を戦いに連れ出すのね」

 「今のあいつには、それしか利用価値が無い。全てが終われば、あいつも、ナンバーズ足り得る者として、迎えるつもり。でも……」

 「?」

 「ドクターを除けば、ウーノ、トーレ、セッテ……それだけが、ナンバーズ足り得る者だ。後は、堕落したと見なし、処分する」

 「な、何を言って……!?」

 『弟』の口から飛び出した発言に、それまで冷静さを欠かなかったウーノが狼狽した。トレーゼの言葉をそのまま解釈するならば、残り八人の姉妹達は身捨てるのか、あるいは抹殺すると言う事になってしまう。始めは何かの冗談かと思いたかったが、薄く開かれている目の奥にはそう言ったふざけているような雰囲気はまるで無く、顔つきも決意に満ちているのではなく、そうであって当然と言うような澄ました表情を浮かべているだけだった。

 「自分が何を言ったのか分かっているの!?」

 「理解している……。残りのクズ八人を、殺す事だ」

 「クズって……自分の妹でしょ!」

 「違う。あんな奴ら、もう同じナンバーズとは、思わない……。トーレの言っていた基準に、奴らは達していない。自分達が何者かも忘れ、犬のように、のうのうと偽物の、時間を送っている…………狂ってるんだよ、あんな連中」

 狂っている──。ウーノにとってその言葉はまさに、今自分の真横に居るトレーゼにこそ言いたかった。かつて17年前の彼がまさかこんな言葉を口にするなどとは露とも思っていなかった彼女にとって、これは青天の霹靂どころか天変地異が起こったかのような衝撃を感じていた。誰も殺さず、何も壊さずに生きて来ていたはずの『弟』が、結果を得る為だけに他者だけではなく身内までも犠牲にするとは……信じたくはなかった。

 「だが、ノーヴェには、もう少し役に立ってもらう、つもりだ」

 「ノーヴェ……?」

 「奴に与えられた、俺に対する役目である、『シールド』は、決戦においても、重要な成果を期待できる……。使えるだけ使って、後は知らない」

 「使えるだけ使って……それじゃあまるで!」

 「まるで、じゃないよ…………捨て駒さ」

 「……………………」

 なんと恐ろしい事だ、最早この『弟』は自分の姉妹を削る事を犠牲とすら考えてはいなかった。“犠牲”とは大義を成し遂げる為に必要な礎を、死と損失を尊厳を以てして打ち立てる行為の事……。だが今彼ははっきりと『捨て駒』だと言い張った……捨て駒とは文字通り、本懐を成し遂げる為の布石の更に前座の当て馬、チェスで言うならキングを討ち取る為に様子見として放たれるポーン、飛車と角を引き付ける囮役の歩……礎を築く為の尊い犠牲とはまるで正逆のただの都合の良い使いパシリに過ぎないモノだ。それはつまり、都合が悪くなれば即座に何の感慨も無く切り捨てると言う意味でもある。

 「一体……何が貴方を変えてしまったの?」

 「いつからかな……起きた時から、もう……何も感じない。最初に見た局員も、顔を見た時に、思った…………あ、殺さないと、って。違和感も、異常も、抵抗も、何も感じなかった……それが当然だと、そう思えたから……。だから、自分の妹でも、こうするのが当たり前……そう感じているんだ。何でだろうな、もう、どうでも良い」

 「だからって…………」

 「今は、そんな事どうだって良い。それよりも──」

 寄りかかっていたトレーゼがスッと立ち上がりデバイスを構える。四肢の武装とマキナのカートリッジが自動で作動し、一気に十発近くの空薬莢が床に落ちてシャープな音を立てて部屋の隅に転がる。体の表面に紅い高濃度魔力が纏わり付き、トレーゼの全身が細胞レベルで臨戦態勢に入った事を示していた。魔法抜きの単体戦闘力ではほぼ互角であったはずのガリューに対しても軽くあしらう程度にしか力を見せなかった彼が、明らかな戦意と敵意を持っている……一体誰がそうさせているのか?

 その正体は自らの存在を隠す事も無く堂々と真正面からやって来た。

 「ほう、指揮官自らの、お出ましか……大儀な、ものだな」

 切り離した連結部分に立っているのは、このミッドチルダでは珍しいモンゴロイド系の顔立ちをした妙齢の女性だった。少なくとも、こんな静かな激戦区に足を運ぶ女性をトレーゼは数人しか知らず、ましてやこの状況下でここへ来る者ともなればそれは一人しか居なかった。

 「身内同士の語らいに不躾に入るんもナンやと思うたんやけど……別に遠慮は要らんなぁ」

 カーキ色の局員に身を包み、その布地と同じ位の濃さの短髪──。凛とした眼は隻眼で、眼帯に隠れた片目はかつての作戦で自分の妹が切り裂いた目であった。首元に掛けられているネックレスを外し取る……いや、良く見ればただの装飾品ではなく、剣十字を象った本体部分は紛う事無くアームドデバイスだと分かった。更にもう片方の手には革張りの魔導書が握られており、後はセットアップして騎士甲冑を纏うだけと言う状態にあり、健在な隻眼から発せられる気迫はそれだけでトレーゼに戦闘意欲を駆り立てる理由になっていた。

 「八神二佐っ!? どうして……!」

 「可愛い元部下がコテンパンにやられるのを見てて、つい頭に血が昇ってな…………ここまで飛んで来たのはええけど、指揮官失格やな」

 三角魔法陣が展開した直後、白銀の魔力光がはやてを包み、次の瞬間には両手に夜天の魔導書とシュベルトクロイツを構えて背中に漆黒の六枚翼を展開した完全態勢の彼女がそこに居た。並みの一兵卒であれば視界に入れた瞬間に尻尾を巻いて脱兎の如く逃げ去るような光景だが、それを真正面から受けているはずのトレーゼの顔は涼しいものであった。

 「ヤガミ……丁度良いから、ここで潰させて、もらうぞ。貴様の存在は、こちらにとって、有益ではないからな」

 構えられたマキナが形を変え、彼の両手にクロスミラージュの形となって収まる。だがこれだけでは終わらず、更に二丁に分化していたそれが互いに変形し、右手にストラーダ、左手にレヴァンティンと言う異質な武装形態となってはやての前に立ち塞がった。

 ふと、トレーゼがウーノの耳元に口を寄せ、短くもはっきりと言った。

 「二両目に、急いで……」

 「え?」

 「早く」

 どうやらここから退避する事を進めているようだ。確かにここに居ても自陣敵陣関係無く戦闘の邪魔になると判断したウーノはトレーゼに促されるままに背後のドアを開けて二両目車両を目指した。

 「…………これで心置きなく戦えるっちゅう事か」

 「勘違いするな……ウーノはこちらにとって、重要な戦力となるからな……今は退かせただけだ」

 「姉を戦力単位でしか見てへんのかいな、あんたは」

 「戦場に出れば、個人と言うモノは、無くなり、代わりに駒となる。俺も、貴様も、それは同じ事だ」

 「そこだけは同感やな。やけど、退避させても無駄かも知れんで? 私はこの車両ごとあんたをブッ飛ばすつもりやから」

 「出来るか……貴様に」

 「試してみ」

 「……………………」

 「……………………」

 車輪がゴトゴト回転する音だけが響き、両者の間に重く冷たく、そして暗い沈黙が横たわる。どちらが先に動こうが後に動こうが関係無い……全てはタイミングと運の問題だ、それが全てを左右する。自身の呼吸と心音がうるさく耳に残る感覚が長く続き、先に動いたのは──、

 「ミストルティン!!」

 「ッ!!」

 二人の居た車両が一瞬で巨大な石と化した。










 午前10時58分、クラナガンのとある駅前総合病院の玄関前にて──。



 「まさか行って診てもらうだけでこんな時間が掛るなんてなぁ」

 診察を終えたスバルと共に出て来たナカジマ姉妹の面々は厚着を整えて再び冬の街に帰路についた。診断結果は季節風邪……冬の気温と雑菌にあてられたのだろうと医者に言われ、小さな紙袋に錠剤を入れられて来た帰りだった。

 「この季節は風邪や流行病が多いから、あの待合の方々もきっとそうなのだろう」

 「それにしたって、ただの風邪で良かったじゃないスバル。これで何かの病気だったら入院しなきゃいけなかったかも知れなかったわよ?」

 と、ギンガは半分冗談交じりに言って話を振ったが……

 「……うん……そうだね」

 返事は痩せこけていた。ここへ来る間も一応は何とも異常無く来れたのだが、特に目立つ異常が無かったと言うだけで実際はずっと何か気休めに話し掛けてもさっきのように生返事だけで、風邪で火照った顔を伏せるだけでまともに会話も出来ていなかった。歩ける所を見れば体力はそれ程低下していないはずにも関わらず、彼女のいつもの元気さはまだ帰って来ていないのだ。

 「元気出せってぇの! お前らしくねーぞ」

 ノーヴェも励ましの言葉を掛けるが、実はそれが中身の無い在り来りな言葉を並べているだけと言うのは本人が一番良く分かっていた。だが今はこうする事で少しでも調子を取り戻せるなら、今はそれに賭けて見たい気持ちも強かった。

 それからしばらく歩いていた彼女らは、ここら辺の地理に詳しいと言うギンガの案内で駅までの近道を行く事にした。行きには通らなかったはずのその道を……。

 「…………人、あんまり居ないね」

 「そうね。寒いから、あんまり出たくないのかもねぇ」

 「でも昼だよ……?」

 「そう言う時もあるのよ、人間なんだし」

 「ふーん……………………ねぇギン姉」

 「なぁに? 待合で座ってて楽になったの? 結構喋れるようになったじゃない」



 「駅はあっちだよ?」



 スバルの指先と彼女らの足はまるで真逆の方向を向いており、ここまで来て初めてノーヴェもその事実に気が付く事が出来た。自分達が居るのはリニアが走る高架線の真下で、気付けばスバルは自分達が行きに乗って来た駅がある方向とは正反対のルートを歩かされていた。自分達の進む方向には数百メートルも行かなければ駅は無く、明らかに意図的に駅から遠ざかって人気の無いここまで連れて来られているとしか考えられなかった。

 「な、なぁ! どうしちまったんだよギン姉! いきなり方向音痴になっちまったのか? 駅はあっちなんだからさっ、早く行こうぜ。道間違えたんなら早いトコ言えば良いのによぉ、あは、あはは」

 少し気まずい雰囲気を察知したノーヴェが陽気に取り繕って一行の進行方向を反転させようと踵を返そうとする。

 しかし──、

 「悪いが、少し黙っていてくれないか、ノーヴェ。あと少し静かにしていてくれ」

 背中の防寒着越しに固い感触がノーヴェに突き付けられた。素肌から遠い部分に押し当てられているが、この感触の正体を彼女は知っている……チンクが好んで使うナイフ、その柄の部分だ。この状況で背後を取られて背中に武器を押し当てられているとなれば、考えられる事は限られて来る。

 「ノーヴェ!!」

 すぐに異常事態だと認識したスバルも反射的に左手を伸ばそうとしたが、背後を向いた瞬間に両腕とも後ろ手に掴まれ拘束されてしまった。当然彼女を拘束しているのはギンガである。

 「ごめんなさい、スバル……。今はこうするしか無いのよ」

 「何言ってるのか意味分かんないよ! ちゃんと説明してよ! ギン姉ぇ!!」



 「残念だけど、説明を要求されるのはあんたらの方よ」



 凛とした声が冷えた大気を通じてスバルとノーヴェに届く。その聞き覚えのある声の主はすぐ横のビルの陰から姿を現し、二人に相対した。夕日の太陽をそのまま映し取ったオレンジ色の長髪をなびかせるのは、間違い無く親友のティアナ・ランスターであった。

 「ティア……!?」

 「随分やつれたわね……。悪い虫に何かされた?」

 「どうしてお前がここに──」

 「質問を許した覚えは無いわよ」

 ティアナの右手が指鉄砲の形になり二人に狙いを定めた。突き出された人差し指の先に橙色の魔力が集中し、それが更にスバルとノーヴェの頭上にも三つずつ出現して彼女らの急所を捉える。

 「安心しなさい……非殺傷設定よ。それと、どんなに大声出したって誰も来ないわよ。この周辺のビルは工事中で、つい昨日まで居た土木作業員も今は居ないわ……強制的に退去させたから」

 「ティア……」

 「答えて欲しい質問は二つ……。その返答のしようによっては、あんたら二人を取り調べの名目で身柄を一時拘束する事になるわ。もちろん、任意じゃなく強制よ」

 「あたしらが一体何したって言うんだよぉ!!」

 「これを見てもまだ素面が通せるって言うのっ!」

 「っ!?」

 ティアナがポケットから取り出したるは一枚の写真……そう、あの写真だった。端正に作られたフランス人形のような白い肌、猛禽類から抉り取った金色の眼球、そして毒々しくも見方によっては艶やかな紫苑の髪……スバルもノーヴェも知っている、知っていなければおかしい人間がそこに写っていた。光りの無いにも関わらず、屍とは別の深い雰囲気を放つ視線を放つ写真の奥の彼はまっすぐにこちらを見つめ、それがスバルとノーヴェの抗議の叫びを打ち消すのに功を奏した。

 「何で……お前があいつの写真持ってんだよ?」

 「質問してるのはこっちよ! 答えて! どうして……どうして、あんた達はこいつと接触したの!?」

 「どうしてって……何言ってるのかさっぱり分からねぇよ! 確かにあたしはそいつと……トレーゼとは知り合いだけどさ……」

 「そんな事を聞いてんじゃないのよ。私が言いたいのはねノーヴェ、あんたら二人がこいつに加担してるって疑いが掛かってるって言いたいのよ」

 「疑い……? 加担? 何言ってんだよ、あたしは何も……!」

 「……………………」

 「……どうにも強情ね。あんたの方は込み入るだろうから、後で取り調べ室で会いましょう。代わりに……さっきからずっと黙ってるあんたに聞くわ」

 ティアナの意識が自分に向けられたのを察知したのか、スバルが体を震わせて過剰に反応する。マフラーの下に隠れた口元は緊張で荒くなった呼吸で湿気が溜まり、滝のように流れる脂汗が背後のギンガからも確認出来る程であった。あまりにも尋常ではないその反応をティアナは見逃さず、瞬時に脈有りだと判断した。

 「話して。知ってるんでしょ、こいつの事」

 「わ、私は…………何も……」

 「あんたには犯罪者に加担したって事で幇助罪の疑いが持ち上がってるわ……。いい加減にしないと、いくら私でも庇い切れなくなる」

 「知らな、知らないよ。私はもう……関係ないから」

 「お願い! 今なら情状酌量の余地って言うのがあるのよ! あんただって、知ってるはずよ! こいつは、このトレーゼって奴は────!」










 午前11時00分、駅デパートから少し離れた公園のベンチにて──。



 「少し落ち着きました?」

 「……………………」

 ベンチに蹲るようにして座り込むセッテ……大人の男性も顔負けな長身を折り曲げ、怯えた小動物の如くなりを潜めてしまっている彼女にいつもの毅然とした雰囲気はまるで感じられず、隣に腰を降ろした担当官が何を言っても顔を上げずに黙っているだけだった。

 あの後、パニックを起こしたセッテを止めるのに30分もの時間を要し、本来なら公衆の面前で複数の他人に迷惑を掛けたとして警察に引っ張られてもおかしくなかったのだが、初の外出がそんな事になってしまっては後々彼女にとって禍根になって更に心理的に悪影響を及ぼすだろうと判断した担当官の説得で、状況を把握した警備員によって裏口から出されて今に至ると言う状態だった。それにしても三十分にも渡る彼女の暴れようは酷い有様だった……。流石に周囲にある物体を破壊するとまでは行かなかったが、戦闘機人とは露とも知らない警備員達は彼女の剛腕に弾き飛ばされ続け、髪を振り乱しながら金切り声を上げるその姿に一般人の方も恐れを成してしまい誰も近付く事が出来なかった。結局、その区画のシャッターを全て降ろす事でセッテを閉じ込め、ヒステリーが収まったのを見計らってから彼女を引き摺り出すと言う方法で解決するしか出来なかった。

 それにしてもあの暴れ方は普通ではなかった……。恐らくは今まで閉塞した環境下で過ごした期間が長く、一度に大量の人間の視線を向けられたのが原因だと言えるだろう。ただでさえ長身痩躯の彼女の体躯は目立つが、もちろんそう判断する理由はそれ以外にもう一つあった……。彼女は戦闘機人、それも正規ナンバーズの中ではトーレに次ぐ実力を人為的に与えられた直接戦闘型だ。生まれついて意識を持ち得たその瞬間からその深層心理に他者を見れば敵として認識するように仕組まれており、特にそれは前衛に回る戦闘型であれば影響は色濃くなるとすれば、当然今回の様な人の密集している所では彼女らの精神は高揚し、急激な興奮状態に陥ると言う訳だ。もしあのまま対応が遅れていれば更に興奮状態が続き、いずれは暴力沙汰程度では済まなくなっていただろう。

 「……申し訳ありません……この様な醜態を」

 「気にしなくて良いんですよ。誰にだって……まぁ、誰しもにあるとは言えませんけど、そんなに恥ずかしがる事じゃないですよ」

 「別に恥ずかしがっている訳では……」

 「ちょーっとセッテさんは肩が固いんですよ。あ! 別に駄洒落言ったんじゃないんですよ!? 今のはちょっと身持ちや考え方が柔軟じゃないって言う意味で……!」

 「……続きを早く」

 「あー、はいはい! つまり何が言いたいかって言いますと……もうちょっとゆっくりしても良いんじゃないかなって事です」

 「ゆっくり……ですか?」

 「はい!」

 おかしな事を言う……自分はいつだって出来得る限りの余裕を持って行動しているつもりだ。そんな事を考えながらセッテは初めて顔を上げた。

 「多分私が言っているのと、セッテさんが考えているのは違いますよ。何て言ったら良いのか分かりませんけど……まぁそんなモノだと思ってもらえれば」

 「本当に意味不明ですから、ちゃんと順序立てて説明してください」

 「私は口下手ですから~。その内セッテさんも理解出来ると思います」

 「…………一生理解出来ない可能性が大きいです」

 そう、いつだって精神を引き締めると同時にある程度の余裕を持って行動していたはずだった。だからこそ作戦においてもミスをする事無く今まで指示通りにノルマを達成する事が出来ていたのだ。だがこれから先はそんなモノは必要とはされない……公私共に自己の意思が尊重され、更にはそんな概念に束縛される事の無い“日常”と言うモノまであるのだ。自己の意思など必要無い世界から、一気に自己の意思無くしては生きられない世界で生きる事を強いられるのだ。狂っている、『世界』と言う概念は二つも三つも要らない……時間と同じで不変にして絶対、絶対であるが故に複数も必要無いはずだ。セッテはそう考えている、そう──、

 あの兄のように、絶対の強さに満ちた存在こそがセッテにとっての“在るべき世界”なのだ。

 たった一人の個人と言う小さな存在で一つの巨大な世界を形成出来る存在……一にして全、全にして一とはあの事なのだろう。わざわざ無粋な言葉を交わさずとも分かる……あの兄の凄まじさと恐ろしさ、そして未だその足元にも届かぬ自分の非力さが。あの域に届く為には自分には強さを磨き積み上げるしかないとセッテは考え、そしてそれを覆すつもりも無かった。完璧でないから焦りが生じる……なら完璧になればそんなモノは無くなる、今日のような失態だってしなくて済んだはずだ。一刻も早くその高みに到達する為にはこれ以上の余裕と言って無駄な時間を浪費する訳にはいかない。故に、セッテにとって隣の担当官の言う事は理解出来ないのだ。

 もう良い、時間の無駄だ。ここでいつまで休んで居ても何の進展も期待は出来ない。そう思いながらセッテはベンチを立とうとし──、



 何か巨大な存在が通り過ぎるのを直感した。



 「これは……っ!!?」

 実体を持った物体が通ったのではない……そんな小さな器から漏れ出した純粋な存在感が大き過ぎる気配の波となってここまで飛んで来たのだ。ここまで、こんな遠くのこの場所に居る自分の所まで伝播して来たと言う事実が、セッテの背筋を興奮で震え上がらせた。恐らくここに居る誰もこの莫大な存在感に気付けていないだろう……気付いているのは自分だけ、その優越感にも似た興奮が彼女の冷めていたいたはずの頭を再び沸騰させるのに時間は掛らなかった。

 「済みませんが、ワタシは行かねばならない場所がありますので!」

 「ええぇーっ!? ちょっとセッテさーん! どこ行くんですかー!? 勝手な行動は慎んでくださいってあれほど……!」

 「失礼!」

 「と、飛んだー!? 市街地で勝手に飛行したらいけないんですってばぁ! いい加減にしないと、航空部署の人呼びますからねっ!」

 そう言いながら担当官は自分の左手に嵌めていた腕時計を操作し、内蔵されている通信機を利用して緊急時用の信号を発信した。これで恐らく五分も経たない内に航空部署から五人程度の隊員がセッテを取り押さえに来るだろう。

 もっとも、街の人間が唖然とする中で流星の如き速度で飛び去った彼女を捕まえられればの話が先だが……。










 同時刻、副都心に接近中の暴走車両にて──。



 「大口叩いた割には、大した事は無いな、ハヤテ・ヤガミ……。まだ、あのモンディアルの方が、マシだったな」

 殴り込みに入ったはやてと、迎撃に出たトレーゼの戦いの場は現在最後部車両となっている車両の天井に移っていた。はやてが空中から石化の矢を大量に掃射するのを、車両の上に陣取っているトレーゼがレヴァンティンで弾き返しつつ隙を見計らってストラーダでの突貫を仕掛けると言う一見一方的な構図が展開されていた。一見すれば爆撃を主体とする戦闘スタイルを持つはやてと接近戦用の武装のトレーゼとでは勝負が見えていると思えるだろうが、実際にはトレーゼの行動の殆どは上空から降り注ぐ石化の矢を弾き飛ばすと言うシンプルなものだけで、これはむしろ防衛戦の色が濃く見えていた。逆にはやての方はその戦闘スタイル故に距離を取るべく上空に上がったのは良いが、直線とは言え高速で移動する車両と並走するように飛行を続け、尚且つその上に居る動き回る標的を狙うのに集中力の大半を費やしてる状況だった。更に彼女は隻眼……砲撃手には必要不可欠な遠近感が絶対的に欠けてしまっているのではまともに狙いを定められず、見当違いの方向に飛んでしまう弾丸も多々見受けられた。

 「ええ加減こっちに投降する気にならんか!」
 
 「生憎、貴様らに垂れる頭など、持ち合わせていない。それに…………そろそろ、時間だからな」

 「時間? 何を言うて……」

 あまりにもあっさりとした物言いを不審に思ったはやては、そこで始めてトレーゼの視線が自分ではなく全く逆である車両の進行方向に向けられている事に気付いた。時速100㎞超過で走るこの貨物車両……その先に存在するものは──、

 「まずいっ!!」

 状況を理解すると同時に彼女は足元に魔法陣を展開させた。遠近感が掴めずとも分かる……前方から猛然と迫る危機、そしてここまで来て判明した敵の目的が彼女に衝撃を与えていた。

 まさか! そんな事を! でも! 現実に! 

 混乱仕掛ける頭を律しつつ、彼女はシュベルトクロイツの切っ先を足下の車両に向ける。ベルカ式魔法陣が回転し、それに同調するかのように開いた夜天の書が刻まれた文字を白銀の光りに染めながらページを猛烈な速度で捲り上げて行く。何としてもこの車両を停止させなければならない! だがその為にはこの車両を線路ごと破壊するよりも車両のみを石化魔法で封じ込めた方が被害も少ないだろうと判断し、はやては今現在自分が持ち得る限りの魔力の全てをデバイスに注ぎ込もうとしていた。トレーゼにも弾き返せない威力を内包した石化の矢を自らの頭上に出現させ、それを車両の中央に狙いを定めた。

 だが、ここで彼女はまた一つ不審な点を見つけた。目の前の車両に陣取って居るトレーゼが何の抵抗もして来ないのだ。車両の天井に両足を着け、上空を飛行しているこちらを見上げているだけであり、術の発動を阻止しようとする動きが全く見られなかった。否、単純にこちらを見上げているだけならまだしも、良く見ればその両手に構えていたはずのデバイスをいつの間にか取り下げ、完全に交戦の意思を無くしてしまっていた。そして……その金眼から向けられる視線はそれまで見て来たはずのどの感触よりも冷やかで──、

 笑っていた。

 実際に口元を歪めて笑っているのではない……向けられているその視線が、その感じが、明らかにはやてを嘲笑しているのだ。その視線に彼女は憶えがあった……。いつだった幼い頃、まだ両足が健在だった幼少の時に外に出て遊んでいたら、足元に一匹のアリが歩いていた。そのアリは顎で噛みついた餌を巣穴に持って帰ろうとしていたが、如何せん自分の小さな体に見合わないサイズを運ぼうとしているので少しも肢は動かず、いつまで経ってもそこにへばり付いていた……。あの時、幼くて無邪気で残酷だった自分はそんな小さな生き物を指先で軽々しく弾いて……

 笑っていたのだ。

 無駄な労力を使ってまで自分の能に適わぬ事を成そうとして躍起になる小さなモノを嘲笑う……今のトレーゼの視線はまさにそれだった。

 「な、何がおかしいんやっ!」

 「……別に………………ただ、哀れだな、と思っただけ」

 「何を言うてんのや。狂っておんのと違うか」

 「なら撃って見せろ」

 「何ィ!?」

 「撃てよ……それで、どっちが狂っているのか、ちゃんと分かる…………ほら、さっさとやれ」

 明らかな挑発。挑発と言う行為には必ず裏があり、相手をそれに引っ掛けるのを目的でそうしているのが定石だ。今のトレーゼの言動もそう言う意味で確実に彼女を誘っているのは傍から見ても重々分かる事のはずだった。だが既に頭に血が昇っていたのと、何としても車両を止めねばならないと言う責務の念が彼女を思い留まらせる事を止めさせていた……。

 「どうなっても……どうなっても知らんからなぁぁぁっ!!!」

 石化の矢をトレーゼに向け、投擲の姿勢を取り……はやてはそれを豪快に放つ──、










 「IS、No.13……『────』発動」










 彼に言われた通りに先頭から二両目の車両に身を潜めていたウーノは、突然外気の流れが変化するのを感じた。大気に流れが生まれたと言う事はつまり、この空間が外と繋がったのだろうが、彼女には既にドアを開けて中に入って来た者が誰なのかぐらいの予想はついていた。

 「終わったよ、ウーノ」

 「……そう。意外とすぐに終わったのね」

 「予想通り、と言って欲しい。期待に答えるのが、俺の役目だからな」

 「そうね……貴方はいつだって、褒められるのが大好きだった……」

 トレーゼがウーノの体を包み込むようにして抱きかかえ、自分達の周囲に薄い球状の魔力膜を展開した。道路を走る乗用車の衝突程度なら余裕で耐久出来るその小規模結界の中で、トレーゼは彼女を守ろうとしていた。

 もうすぐ来るであろう衝撃に備えて……。










 あの後何があったのかなんてのは全く憶えていない……。気付いた時には左手をノーヴェに引っ張られるままに人通りの多い街の方に出て来てしまっていた。路地を突っ切って街道に飛び出した時に少し周囲の目を引いたが、自分達が衆人に紛れて移動を再開するのには支障無かった。

 「くっそ! 一体何がどうなってやがんだよ!」

 あの時、あの場に居た全員の視線が詰問されていたスバルに向けられていたほんの一瞬の隙を突き、チンクから奪い取ったナイフをノーヴェがギンガに投げつけ、その時に離されたスバルの手を取ってここまで逃げて来たと言う訳だ。陸戦特化型戦闘機人の彼女の速度に対し、完全に気を取られていたティアナ達は当然追い付けるはずもなく、なんとかここまで逃げ果せられたのは良いのだが……

 「これからどうするつもり……?」

 「あぁん? どうするもこうするも、逃げるしかねぇだろ」

 「逃げてたって、どうせ捕まるよ…………。それに……どっちかって言うと逃げるのは私の方かな……」

 「アホかおめぇは! 何だって悪ぃ事もしちゃいねーってのにお前がんな事言ってんだよ。て言うか、あたしだって何もしてねーんだけどよ」

 人混みが丁度良い垣根となっているのを良い事幸いにし、二人は徐々にティアナ達が居た場所から距離を置く事に成功していた。行く当てなんてのは始めから無きに等しい状況だが、少なくともこんな状況に自分達が陥っている原因がある人物にある事をノーヴェは確信していた。

 トレーゼ──。ティアナが突き出したあの写真に写っていたのは間違い無く彼だった。何故その写真をティアナが持っているのかは全く分からないが、事の発端に彼が関わっているのは疑い様の無い事実だろう。問題は、彼の何が自分達と関わっているのかだ。制服を着ていた所を見れば、ティアナが局員としての仕事でこちらに接触を試みていたのは確実……管理局が動かなければならないような事態にトレーゼが関与していると言う事にもなる。しかもそれが末端の取り締まり部署ではなく、法規的権限を有している執務官が動いているともなれば事態はもっと深刻だ……場合によっては広域指名手配が掛けられている事も充分考えられる。

 だが、ノーヴェはそんな自分の考えをすぐに振り払った。彼は自分の友人だ、その友人を根拠も無しに疑うのはどうかしている……そう言う良心が彼女にその考えを捨てさせていた。

 「きっと……きっとなんかの間違いだよな。そうだよ、そうに決まってら」

 「…………そうだね……そうだったら良かったのにな……」

 「うん? 何か言ったか?」

 「ううん、別に……。もう……どうでもいい」

 無知が幸せだと言う言葉をこれ程までに痛感した事が今までにあっただろうか……。今こうして手を引っ張ってくれているこの妹は、自分の気苦労も心配も、何一つ理解していないまっさらな身も心も軽い状態……羨ましい、せめて自分も何も知らないままだったなら──、



 「ノーヴェ・ナカジマとスバル・ナカジマだな?」



 何が間抜けって言うなら、突然掛けられたその言葉に反応して逃げるのではなく、それより先に頭の中で確認の言葉ではないと考えて行動が出遅れた事と……実はその前にとっくに自分達が囲まれていたと言う事実に気付けていなかった事実だった。首を振って周囲を確認する隙も与えられないまま冷たいアスファルトに二人揃って叩き伏せられ、衆人環視の中で彼女らは拘束されてしまった。頭を押さえられる前にノーヴェが確認すると、自分達を取り押さえた四人組は全員が私服姿であり、一目で逃げ出した自分達を待ち伏せしていたのだと分かった。もっとも、既に捕まってしまった今となっては遅いのだが……。

 「離せコラぁっ!! ブッ飛ばすぞテメェ!」

 暴れ馬の如くはね回るノーヴェではあるが、そんな彼女とは対照的にスバルの方は糸の切れた人形のように静かに地に伏しているだけだった。始めから彼女の方には逃走の意思は無く、ただ無気力に連れられるままにされていただけに過ぎなかった。

 「まったく……! あんた達も世話焼かせないでよね。後始末すんのはみんな私なんだから」

 追い付いてきたティアナが歩み寄って来た。後ろにはギンガとチンクも同伴しており、困惑している通行人達に事情を説明している最中だ。取り押さえていた覆面捜査官達に指示を出し、無理矢理にスバル達を立たせて顔を自分に向けるように言った。

 「もうすぐ車が来るけど、車内で暴れないでよ。オシャカにしたら始末書と修理費は私が出すんだから」

 「おい! 何かの勘違いだって! あたしらが何したって言うんだよっ!!」

 「…………二日前、ここからかなり離れた区画でヴィヴィオの魔力反応が検知されたわ」

 「ヴィヴィオの……?」

 二日前と言えば丁度デートがあったあの日だ。あの日はほぼ一日中、スバルとギンガを除くナカジマ姉妹の面々はティアナと行動を共にしていた。だがあの後彼女は自分が不貞寝をしている間に出て行った……まさかあの時に──。

 「チンクから聞いて無いの? あの後、私を含む数名の執務官とで現場に向かってヴィヴィオの捜索と保護に当たったけど……私を除いた全ての執務官が殺害されたわ。現場に僅かに残っていた魔力残滓を測定した結果、殺害した犯人は一連の事件の首謀者の“13番目”による仕業って事で捜査が進んでる……」

 「そ、それがスバルやあたしとどう関係してるってんだよ!?」

 「二日前の話だけに限って言えば、少なくともあんたの方は何の問題も無いわ。けど……スバルの方は身に覚えがあるはずよ。殺害現場の一つ、その付近の地面に付着してた吐瀉物に含まれていた胃液から検出されたDNA……あんたのだったわよ」

 「……………………」

 「それだけじゃない。現場に僅かに残留していた魔力の中にあんたの魔力が紛れ込んでいたわ。私が言いたい事分かるわよね?」

 「ちょ、ちょっと待てよ! スバルが人殺ししたって言いてぇのかよ!」

 「悪いけど、今はあんたは黙っててくれない。私はあんたの何倍もこいつと付き合いが長いの。こいつはバカだからいつも私の予想外の事を仕出かしてくれるけど、飛び抜けたバカって事も分かってる……。こいつはどんな仕打ちをされたとしても他人を殺すようなガラじゃない事は一番良く知っている」

 「じゃあ……!」

 「でも! スバルが人を殺していないのと、“13番目”に加担していないと言うのはイコールにならない。二日前の一件でこいつには殺人幇助罪の疑いが持ち上がってんのよ……あのトレーゼって奴に関わっているから」

 「だからっ、そっからどうしてトレーゼの名前が出てくんだよぉ!!」

 噛み付かんばかりの勢いで食い下がるノーヴェを軽く無視しつつ、ティアナは向こうから車が来た事を確認して周囲の人々に道を譲るように促した。事の成り行きに興味を抱きつつも厄介事には関わりたくないと言う意思の強い衆人は即座に道を開け、それがより強い者はとっくの昔にこの野次馬の場から離れていた。

 「良かったわね、帰りの切符は買わなくても良いわよ。でも、当分自宅には帰れないかもしれないけど……」

 前部座席の助手席にティアナが座り、取り押さえていた捜査官達がスバルとノーヴェを挟むようにして後ろの座席に入り込んだ。その間もずっとノーヴェはどうにかして逃げ出そうと踏ん張っていたが、今度はチンクとギンガの意識がこちらに向けられている故に全く逃げ出す隙を見つけられていなかった。結局成す術も無いままに二人揃って車内に押し込まれ、とうとうドアを閉められてしまった。

 「そっちの青いのは調子が悪いそうだから、丁寧に扱いなさい」

 「分かりました」

 逃走した二人を追う間にギンガから診断の結果を聞いていたティアナは背後の捜査官にそう言い残し、隣の運転手に指示して車を発車させようとした。

 ハンドルのクラクションを鳴らして前方の人間をどけ──、

 ギアを操作してエンジン出力を調整し──、

 ブレーキから足を離してアクセルを踏み込み──、

 しっかりと前方の道路を見据え──、





 前方の道路にリニアが降って来るのを見た。










 結局その時に何が起きたのかについてだが、その一部始終を見ていた当時の生き残りはこう語る。



 「あれはですねぇ~、今になってからだから言えるんですけど…………やっぱり言える事って言うのは、『何が起きたのか分からなかった』って言う事は確かです」

 「多分俺だけじゃなかったと思います、はい。だってだって! あれですよ? リニアっ! 線路走ってるあれ!!」

 「あれが! 高架線から! 落ちて来て! グシャって、グシャですって! マンガみたいに……ぽーんって、道路に、まだ歩いてる人とかが居るのに……!」

 「えぇ、俺もそこに居ましたよ。そこって言うか、始めは、居たじゃないですかあの取り押さえられてた二人組! ちょっとの間それを野次馬で見てたんですけど、何か関わらない方が良いかなってんで離れてたんですよ」

 「そしたらドーンって……。さっきも言ったけど、驚いたって言うかもう本当に『え、何これ?』って感じでしたよ。みんな揃ってシーンってなって……それが、えっとぉ、五分……ぐらいだったかな? あの場所に居た人間全員そんな感じで固まってましたよ……体中飛び散った血とかでベトベトになって」

 「今だから笑って済ませられるのかも知れませんけど、あの時はマジで酷かったですよ……。半年ぐらいは肉が喉を通りませんでした……」

 「あ! さっき俺、驚いたって言うよりはって話ししましたよね? あれ……実はちょっと違うんです」

 「あの後…………降って来たリニアが二つ三つはあったんですけど、その内の一台……もう何かグシャグシャになって形無くなってるそこから、出て来たんですよ、人が」

 「あれは驚い──、あ、いや違うか、あれも驚いてたんじゃない……あれは──」

 「怖かったんだ……!」










 午前11時07分、混乱と戦慄が走る街の往来にて──。



 取り合えず相方の無事は確認した。事前に展開させていた小型簡易結界が衝突時の衝撃と落下時の崩壊から身を守り通し、双方共に無傷で済んでいた。

 「ウーノは、ここで待ってて」

 「…………えぇ」

 僅かに生き残っていたスペースに姉を押し込めるように隠し、トレーゼは衝撃で歪んだ金属板を引き剥がしてゆっくりと外にその姿を晒した。真昼の街道とは思えないような静けさが目の前の凡夫達の間に横たわっているのを興味無さ気に黙認しつつ、彼は段差を飛び降りて亀裂の入っているアスファルトの地面に降り立った。

 「……?」

 足元から湿った音……。落下して来た車両の下敷きとなった不幸な人間の変わり果てた姿がそこに転がっていた。ざっと数えて五人分、良く見れば周囲の人間達の顔や体が血塗れなのは飛び散った臓物の所為である事が窺い知れた。一様に皆が一言も喋らないのは、突然の事態に頭が混乱していると言った所だろう。通常ならその混乱が醒めない内にここから離脱するのが得策だが……

 今回はその逆が望ましい。

 「汚いな……ウーノが通るには、相応しくない……」

 右足を上げ、足の裏に魔力を集中させて筋力を増強させる……引き締まった筋組織のキリキリとした緊張が脳に伝達され、それが最高潮を迎えた瞬間に──、

 振り下ろす!

 地面から剥がれたアスファルト層の部分が散弾銃の弾丸の如く踏み付けられた部分を起点として周囲に飛散した。拳大の小さな物から頭大のサイズまで、大きさに関わらず全ての破片がスポーツに使われる砲丸の倍以上の速度で飛び散ったのだ。当然、その延長線上に居る不特定多数の衆人の何人かは……

 その詳細は沈黙を破った複数の絶叫が代弁してくれた。










 危なかった……あとほんの少しでも発車していたタイミングが早かったら自分達はこの車ごと圧壊していたに違いない。九死に一生とはこの事か!

 だが今はそんな事よりも重要な事があった……。

 「ランスター執務官! あれは……!」

 原型を失ったリニアの中から何者かが出て来るのを見ていたティアナはその目を引ん剥いた。間違い無い、今この場に姿を現した奴は自分が持っている写真に写る人物と同じ人間……戦闘機人、ナンバーズの秘匿された十三番目、トレーゼだった。

 今すぐにでも捕えようと彼女はドアに手を掛けたが、すぐにそれを引っ込めると猛然と背後のスバル達に向かって──、

 「伏せてぇぇっ!!」

 次の瞬間、フロントガラスを突き破って飛んで来たアスファルトの破片が彼女らの頭上を通り過ぎ、それと入れ替わるように車外に居る通行人達から阿鼻叫喚の絶叫が響いてきた。外の光景は予想通りの事態であり、弾丸の速度で飛来した破片を喰らって数人が絶命したのを皮切りに、恐怖に汚染された人々が当ても無く散り散りに逃げ惑う地獄絵図が展開されていた。前を走る者を押し倒し、左右に曲がる為に真横の人間を殴り飛ばし、転んだ者の上を踏みながら走り去る……誰も自分以外の事なんて考えていない、ただ自分が生き延びる為だけに他人を蹴落とすと言う社会の縮図のような光景だった。

 その災禍の中心に、一寸も動じぬ存在有り。この地獄絵図を描き上げた張本人、トレーゼその人だ。防護ジャケットの上に羽織ったシルバーケープをはためかせ、揺れ動かぬ瞳でじっとガラス越しの自分達を睨んでいた。こちらの行動を待っているようだ……自分を拘束する為にこっちからアクションを見せるのを待っているのだ。

 「……貴方はここで後ろの二人が出ないように見張ってて」

 「しかし、それでは格好の的です」

 「大丈夫よ……あいつは多分、この車は狙わない……。残りは私と一緒に。あの澄まし顔にアタックを仕掛けるわ」

 懐から出したるは銃器型のデバイス。慣れたクロスミラージュではないのが心許ないが、今はこれで挑むしかない。捜査官の一人を車内に見張りの為に残し、ティアナはそれを構えて外に出た。背後から置いて来ていたチンクとギンガが走って来る気配を感じつつ、正面の不動の敵を見据えた。

 「あれが……“13番目”」

 「そちらは見るのはこれが初めてですよね。私の方も顔を直接見るのは初めてです」

 チンクがナイフを取り出し、ギンガが隠し持っていたブリッツキャリバーを起動させてバリアジャケットとリボルバーナックルを左手に構えた。頭数だけで言えばこちらの方が有利……だがその実力差は簡単に埋められるものではない事は確かであり、個々の実力と比較してしまえば天と地の差が開いている事も分かる。

 「…………チンクか」

 「初めまして。兄上殿……とお呼びした方がよろしいのか?」

 「俺は、貴様を妹などと、認めはしない。それと……そこに居るのは、タイプゼロ・ファーストか」

 「普通にギンガ・ナカジマと呼んで欲しいですね」

 「阿呆が。戦闘機人に、名は不要。不要な呼び名は、偽名と同じだ」

 それにしても、と言葉を続けながらトレーゼはゆっくりとこちらに歩み寄って来た。

 「まさか、こんな所で、貴様らと鉢合わせるとは…………これは、幸運か、それとも不幸か……。いずれにせよ、こちらの段取りが、狂ったのに変わりは無い。まぁ、狂ったと言っても、『前倒し』と言う意味だがな」

 両腕のナックルからカートリッジが排出され、体に纏っていた魔力が急増する。警告と威嚇を兼ねてティアナが銃口を向けるのも構わず彼の足はまっすぐにこちらを目指し、既に相対距離は五メートルにまで迫って来ていた。

 捜査官の一人が前に進み出て、銃口を向けて警告を促した。

 「これ以上接近するなら捜査官権限で発砲する! 直ちに武装解除し、両手を頭の上に挙げろ!」

 「……はぁ?」

 「聞こえないのか!! 武装解除しろと言っているんだぞ!」

 「実力に、訴えて見せろ……」

 眼前の捜査官の言う事を軽く無視し、トレーゼは更に距離を詰める。ここまで来れば公務執行妨害及び認可されていない武装を携行していると言う名目で警告の後に発砲が可能になる……そして、その警告はとっくに無視された後だ、つまり威嚇射撃が許される状況にある。

 照星に目を合わせて狙いを定め、引き金に人差し指が掛かり、銃身に魔力が込められ──、



 発砲された。



 撃ち出された魔力弾はまっすぐ射線上の彼の眉間に吸い込まれ……。



 そしてそれをトレーゼも涼しい顔をして待ち受け────、










 「…………なぁ、教えてくれ……。今撃たれた魔力弾は、どっちだった────────セッテ」

 彼は立っていた。その体には銃痕はどこにも無く、冬の寒風に揺れる前髪を手櫛で整えながらトレーゼは自身の前に立ち塞がった長身の妹に訊ねた。

 「非殺傷設定です」

 突き出された右拳の指の間からは蒸気が立ち込めており、飛来した魔力弾を握り潰したと言う事が容易に分かった。目の前のティアナ達が驚愕の表情で混乱しているのも全く意に介さずセッテは背後の兄に、撃ち出された魔力弾が物理破壊設定ではない事を伝えた。すると、それまで鉄面皮を保っていたはずのトレーゼの眉尻が反応し、途端に彼の纏う雰囲気が機嫌の悪いモノへと変化するのを感じた。

 「情けないな……。管理局の、人間は、敵一人も、射殺出来んのか? 常識だぞ」

 足元に転がっていた親指大のアスファルト片を拾い上げ、それを指の腹で転がす。

 「警告を無視すれば、即射殺……こんな具合にな」

 親指がバネの要領で弾け、黒い小さな石ころをライフル弾顔負けの速度で撃ち出し、自分に銃口を向けながらも射殺のチャンスを自ら放棄した愚か者の眉間にヒットさせた。脳漿と血液が入り混じった液体が零れ出すが絶命の断末魔は聞こえず、その捜査官はそのまま事切れた。

 「セッテ……! 何であんたまでここにっ!」

 ティアナの耳に入った情報が正しければ、確かに目の前の長身痩躯の麗人は更正プログラムの一環で今日が外出予定ではあったが、こんな所を移動する予定は全く無かったはずだ。例えそうでなかったとしても、何故彼女がトレーゼを庇うのか? そんな事をしても何の利益も見返りも無い……ただ一点の可能性だけを除いては、だが。

 そう──、

 彼女がトレーゼに与する者ならば何の矛盾も無くなる。

 「まさか……あんたが“裏切りの使徒”だったなんてね。まんまとハメられてたって事かしら」

 「発言内容が若干理解出来ませんが、今現在ワタシが貴方達と敵対していると言うのだけは確実かと……」

 まずい、これは非常にまずい状況だ。こちらの戦力は車内に置いて来たスバルとノーヴェを入れてもたったの八人……対してあちらは武装隊一個大隊とも引けを取らない猛者だ、こちら戦力を削り取るのに三分と掛らないだろう。更にあちらは戦闘機人だ、こちらが散開して消耗戦に打って出たとしても、持ち前のスタミナは常人とは計り知れない上に索敵能力も抜群……最悪の場合、この街の区画が丸ごと焦土と化すのも考えられるだろう。いくら考えても最善の策が出て来ないこの絶体絶命の窮地に晒され、ティアナの精神は徐々に擦り減らされ始めていた。どうする……どうする……どうする…………駄目だ、どんなに考えてもこの状況を打破出来る解決策が浮かんで来ない……。かつて、ナンバーズ三人をたった一人で全員捕縛すると言う大立ち回りを演じて見せた事はある。だがあれは相手の行動パターンにポイントがあったのと、頭数で自分達が絶対的に有利だと油断していたからこそその隙を突けたのだ。その点で言えば今回は明らかに分が悪過ぎた。確かにトレーゼもセッテもこちらが格下だとナメている……だが、油断はしていない、明らかにこちらの事を自分達より弱いと確信しながらも、その心の奥底では決して慢心してはいないのだ。これは下手に調子に乗られるよりもずっとタチが悪い。

 「……おい」

 「何?」

 「この場を、穏便に済ませたいか?」

 「何言ってんのよ。交渉でもするつもり?」

 「馬鹿言え、交渉なんか、誰がやるか……。これはな、“譲歩”だ」

 抑揚の無い声で終始尊大な態度を取り続けるトレーゼは、前衛をセッテに任せてリニアの残骸に腰掛けた。四肢が紅い光に覆われた後、彼の両腕両脚に装着されていたデバイスが消え、代わりに右手の人差指と中指に黒い指輪が嵌められていた。

 「今、その車に居るはずだ……ノーヴェがな」

 「言っておくけど、そっちに譲り渡す事は不可能よ」

 「俺が、そんな小さな、存在に見えるか? 欲しいモノは、欲しい時に、手に入れる……今はまだ、欲しくない。だから、車から、出すだけで良い」

 「一人だけ? もう一人の方にも……用があるんじゃないの?」

 二日前の一件を見る限りでは、明らかにノーヴェよりもスバルの方と繋がりが深かったのは確定的に明らか……。だがその彼女を差し置いてノーヴェだけを指名するのは何か意図があっての事なのか? 二人呼び出す事も出来たはずだ。何かの意図があってならば必ず裏がある……そう考えて探りを入れたティアナであったが──、

 その問いに対する返答は彼女の予想の斜め上を行っていた。

 「もう一人……? 誰の事だ? 知らないな、そんな奴」

 シラを切っていると言う事は明白だった。と言うより、トレーゼの口調がわざとらしく芝居掛ったモノだったので、彼自身がスバルの存在をこの場の会話から弾き出そうとしている事は容易に想像出来た。つい二日前までは並んで街を歩いていた二人が、あの後雨の降る街中で何があったかは知らないが……今はそんな事はどうでも良い事だ。少なくともこの戦闘機人は嘘をつかない事も想像出来た……今ここで彼の言う通りにさえすればこの場は丸く収まる……そう思えたのだ。

 「…………連れて来て」

 「おい!」

 チンクとギンガから抗議の声が上がる前にティアナの指示は早く、指示を受けた捜査官の一人がフロントガラスの砕け散った車に寄り……

 ドアを開けた。

 「……………………よう……この姿で会うのは、久し振りか? No.9」








































 「なぁ……何かの冗談だよな…………トレーゼ?」




















 「……………………もうなぁ……貴様と話すのも、飽きた」




















 「なっ、何バカ言ってんだよ! ハハハ……て言うか、セッテとそんなに仲良かったっけかな、お前」




















 「………………………………………」




















 「その格好だってよぉ……あれだろ!? 今流行ってるコスプレとかって奴だよなッ? 上手く出来てんな~……あはは」




















 「……………………ふざけるなよ……ふざけるな、No.9! 耳を覆う手を、どけろ!」




















 「……やめて、やめてくれよ…………聞きたくない……聞きたくないんだってばぁ……!」




















 「俺はナンバーズの、No.13……偉大なる創造主、スカリエッティが生み出した、戦闘機人の最高傑作……トレーゼだ」




















 「やめ……やめて……!」




















 「貴様らが“13番目”と呼ぶ、最後のナンバーズ……つまり────」




















 「やめてくれぇぇぇぇええええええええええっ!!!」




















 「俺は貴様の兄、貴様は俺の妹…………つまりは、そう言う事なんだよ」




















 「知らないっ! あたしは知らないっ!!」




















 「知らないから、教えてやっている……。貴様が俺に向ける視線…………あれは何て、言うんだろうな」




















 「言うなぁっ!! 言うなぁぁ!!!」




















 「礼を言うぞ。貴様が、そんな安っぽい感情で、俺に懐いてくれたお陰で……俺はここまで、事を運べたんだ」




















 「うあ、うわぁああぁぁァあああぁああぁあアアアアアアアァッ!!!」




















 「ありがとう、好きなままでいてくれて……………………俺は──」




















 「ああ……ああああああっ!!?」




















 「大嫌いだったがな!」








































 この日を境に、ある一人の少年が狙い澄まして修羅となり、ある一人の少女が図らずも大人となってしまった。残酷な世界を渇いた心で渡り歩き続ける……そんな大人に、彼女はなってしまった。

 それを物陰で見守る別の少女は、泣き崩れる自分の妹の背中を見つめながらこう思った。



 せめて、あの場所に居るのが自分だったら──、と。



 だがそれは決して哀れみや自己犠牲の精神が代弁しているのではなく、むしろその逆……

 どこかさもしい嫉妬にも似ていた。



[17818] 引き返せない道──宣戦布告
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/12/13 22:11
 新暦86年某月某日、無限書庫の司書室にて──。



 「あれはパフォーマンスだよ。世間に対して自分を宣伝する意味を込めた盛大なパフォーマンスさ」

 椅子に座る無限書庫司書長のユーノの前には、デスク一杯に広げられた資料の山があり、それらを一人で処理しながら彼は言葉を紡ぎ続けていた。今彼が話しているのは、今から数年前にクラナガンで起こった未曾有の大事件……「T・S事件」の事についてだった。第二のスカリエッティと称されるまでに巧妙であったとされる主犯のトレーゼ・スカリエッティ……11月9日にクラナガンに訪れてからただの一度も公にその姿を晒さなかったはずの彼が、何故11月21日に発生した首都圏リニア幹線貨物車両襲撃事件においてその姿を見せたのか? 彼の持つ戦略頭脳と戦術眼を以てすれば、わざわざ公に自分の姿を晒さなくて済んだのではないのか?

 と言う疑問が当時の管理局捜査課やメディアの情報局で多く発生していた。

 「僕の仮説で構わないなら、あれは多分彼にとっては予定通りだったのかも知れないね。あの日の彼の本来の計画は恐らく、『自分の存在を広く認知させる』と言う事だったと思うんだ。街中で暴れ回るか、あるいは通行人を狙っての大量虐殺に出るか……その二つのどちらかを行えば、それまで彼の存在を隠蔽し続けて来た管理局も流石に世間に対して真実を隠し通せなくなるって事さ」

 書類の隅にある欄にサインと印鑑を捺して、それを別のスペースに安置しながら彼の話はまだ続く。

 「でも、彼にとって予定外だったのが二つあった……。それはあの日にウーノさんを使っての誘い出し作戦があった事と、リニア衝突を利用しての落下地点付近にスバルとノーヴェが居た事……この二つ。前者の方は上手い事利用されて、マスコミに糾弾される良い材料にされちゃったけど……もう一方の方は内心本当に予想外だったらしいよ」

 ふう、っと一息つき、ユーノは席を立って湯気を出しているポットに歩み寄った。間を置かずにコーヒーの香ばしい香りが部屋一杯に充満し、砂糖とミルクを少量入れてから再び戻って来た。

 「あぁ~、なのはのキャラメルミルクが飲みたいなぁ。ああ、そうそう! キャラメルミルクと言えば、最近スバルも桃子さんみたく美味しいのが作れるようになったんだっけ。あれを毎日飲めるのかぁ……本当に一尉が羨ましいよ」

 あのハラオウン提督でない限りは誰だって苦いコーヒーよりもそっちの方が良いだろう……。

 「ああ、ごめんね、話が逸れちゃったかな。えーっと、どこまで話したっけかな? あー、そうだった! そのトレーゼって戦闘機人が以後どうなったかについての質問だったね。あの後、翌日の11月22日の深夜、遂に彼は地上本部に対して真正面から喧嘩を挑んで来た。俗に世間で機人戦争って揶揄されている事件がクラナガンのど真ん中で発生したんだ。その事件の顛末は君も存じているだろうけど、その裏側の事情を知っているかな?」

 飲み掛けのコーヒーを置き、ユーノは再び書類との格闘に移った。その間も彼の口から出る言葉は留まる事を知らず、そのまま講釈を続けた。

 「その夜間戦闘中、ある一つの情報が発覚してね……事態が急転したんだ。それから二十四時間以内に色々あって────」



 「次の日の11月23日……トレーゼ・スカリエッティはこのミッドから忽然と姿を消したんだ」




















 絶叫──。

 誰かが泣き崩れて地に伏す音が聞こえた。その人は全身の水分が出尽くすのではないかとも思える位の大声で泣き叫び、アスファルトの黒い大地に涙を落としていた。誰もそれを咎める事も慰める事も出来ず、彼らの視線はその元凶を作り上げた張本人に向けられていた。

 「無様だな……。だが、もう遅い……貴様は、俺に心を許し過ぎた」

 涙と鼻水で濡れた顔を地に伏せているノーヴェにトレーゼの人差し指が向けられ、足元に真紅のテンプレートが展開された。相手がノーヴェに対して何か仕出かそうとしていると感じ取ったティアナはすぐさまその間に割って入り、銃口を突き付けた。

 「止めておけ、ランスター。貴様では、俺を殺せん」

 「試してみる? 私だって執務官よ! 抵抗した犯罪者の一人や二人、始末出来る自信はあるわ!」

 「だが、殺した経験は無い……それが、貴様と俺の、決定的な差だ。その、紙一重の差が、貴様と俺の、優劣を分けるんだよ」

 トレーゼが指を降ろし、足元の疑似魔法陣も消える。そしてそのまま興味を失したとでも言う様に残骸の中に置いてきたウーノの許へと足を進めた。

 「そうだ、お前に、初仕事をやろう、セッテ……」

 不意に、言い忘れた事を付け足すような軽い口調で彼はセッテの背中に言葉を投げ掛けた。

 「始末しろ」

 「了解」

 正確には単なる言葉ではなく、戦いの火種だった。

 ほぼノーモーションで何の勢いも付けずにいきなり初速からの踏み込みでセッテは懐に入り込み、反応し切れずに回避が遅れた捜査官の首を──、

 「失礼」

 左手で肩を、右手で耳を掴み上げ、それを軸にして脊髄を捻じり切った。ゴリンッと言う鈍い音が周囲の大気を振動し、バックステップで回避したティアナの鼓膜にまで届いて来た。

 「くっ! いつまでやってんの、死にたいの!!?」

 地に伏したまま動こうとしないノーヴェを引き摺り、ティアナと既に二人にまで減った捜査官はナンバーズ準最強の実力者から距離を開け、代わりに同じ戦闘機人であるチンクとギンガが前に進み出た。

 「セッテ! これ以上の罪を重ねてどうするつもりなんだ!」

 「すぐに投降して! 今ならまだ貴方を庇う事だって出来るのよ」

 警告を含んだ言葉が投げ掛けられるも当のセッテ本人は全く聞く耳持たず、接近戦を得手としないチンクに殴り掛かった。単純なリーチの差かそれとも妹への情が邪魔するのか、投げつけるナイフもカンシャク玉程度の爆発しか起こせず、ギンガからのサポートを受けているはずなのに徐々に押され始めていた。逆に接近戦の傾向が強いギンガに対しては終始蹴りの応酬で彼女を寄せ付けず、自分の身体的利点を最大限に活用した戦闘方法で二人を圧倒していた。

 「どうだ、セッテ? 自分が強くなっていると、実感出来ているか?」

 「……………………」

 背後で見物に徹している兄からの言葉も聞き流し、セッテは純粋に自分の状況から与えられる刺激と興奮を享受していた。

 これだ! この戦闘による熱と興奮、そして収まる事を知らない高揚感……これが自分の求めていた環境だ。白い壁に閉ざされた閉塞的なモノでもなく、大量の人間達の中で燻っている退廃的な熱でもなく、生と死を懸けた一線の上で自分は生きていると言う実感が持てるこの状況こそ、彼女がこの三年間焦れ続け、そして忘れてしまっていたモノだった。その感覚を再び取り戻せた事に彼女の戦闘意欲を刷り込まれた肉体は悦びに震え、全身の骨格と筋肉が今この瞬間の戦いの為だけに全力を振るっていた。

 「良い戦い振りだ、セッテ。そのまま、行動を、続行しろ」

 リニアの残骸の上に腰掛け、高見の見物を決め込み続けるトレーゼは事の成り行きをそのまま自分の妹に一任したのか、その戦いに決して手出し口出しをする気配を見せなかった。たまに自分の方向に飛んでくる魔力弾を指先で弾き飛ばしながらも、彼はその場を一歩も動かず戦いの場を静観していた。

 ふと、彼の視線が冬の寒空に向けられた。見つめるその一点の先には何やら黒い小さな点がワラワラとこちらに向かって来ているのが確認出来た。カラスではない……両目の望遠機能で確認すると──、

 「航空武装隊……セッテを追って来たか」

 脱走した彼女を追って武装隊が向かって来たのだろう。あの人数を見る限りでは、この場に自分が居ると言う事実はまだ知られていないらしい。それが彼らにとっての不運だとも知らないで……。

 「丁度良い。あれを、試すか」

 右手の指に指輪型となって待機していたマキナが再び起動し、黒いレイジングハート・エクセリオンの形状となってトレーゼの両手に収まった。周囲の警戒の視線が一斉に彼に注がれるが、如何せんその間をセッテが死守している所為で手出し出来ず、当てずっぽうに撃ち出した弾丸も全て分解され吸収されるに終わってしまった。そして、そんな無駄な抵抗を続ける敵を放置し、彼は三叉の切っ先をこちらに向かって来る武装隊の一団に向けた。

 「マキナ、高濃度魔力圧縮バレル展開。同時に、DMFを最大出力で、周囲に発動」

 『Yes,my lord. Exceed Charge.』

 杖先に環状魔法陣が三本展開され、トレーゼの足元にも真紅のミッド式魔法陣が出現する。それと同時に、それまで必死の抵抗を続けていたティアナ達にも異変が現れ始めていた……。

 「こ、これは……! 一体……!?」

 「魔力が、根こそぎ……!」

 魔力が吸い取られている。それも尋常な量ではなく、DMFが発動すると同時に全身を脱力感が押し潰そうとした所を見ると、恐らくはリンカーコアにまで侵食している程の出力で周囲一体に展開されている事が見て取れた。発動から10秒と経たずに戦闘機人であるチンクとギンガ、ノーヴェを除いた全員が地に両膝を着き、自分の生命力を徐々に削り取られるのを感じながら意識を闇の中に封じ込めてしまった。しかしそれでも吸収は止まらず、吸い出された魔力はキラキラと輝く粒子となって宙に舞い、空間のある一点を目指して浮遊していた。その一点とは──、

 トレーゼのリンカーコア! 魔力精製及び増幅器官であるリンカーコアに集結した大量の魔力はそこで更に増殖し、腕部の魔力回路を通じてマキナへと注がれる。先端に圧縮集積された魔力が球電現象の如く蓄積し、展開されていた環状魔法陣の回転のギアが上がる。やがて真紅の魔力の塊は人間の頭大のサイズにまで膨れ上がり──、

 「魔力充填率、99.98%。相対距離、690。命中精度、誤差0.2から0.6、約97%……。行けるな、マキナ?」

 『Alright.』

 「なら、問題無い」

 航空隊の一団に向けて杖先を構え直し、彼はトリガーに指を掛けた。

 「あ、あれは……」

 ティアナには見覚えがあった……今トレーゼが放とうとしているこの魔法、自分の師である砲撃の天才が幼き日に自ら編み出したとされる、彼女の知る限りにおいては最強の集束砲撃魔法……いや、違う! これはあの魔法とは違っていた。

 「スターライトブレイカー……その発展形……ナノハ・タカマチですら、完全には実現出来なかった、集束砲撃の真髄を、見せてやる」

 杖の先端に三枚のエネルギー翼が発生し、遂に魔力のパワーが最高潮に達した。

 「スターダスト……デヴァステイター」

 『Stardust Devastater.』



 この日、上空で花火の如く爆散した凶暴極まりない輝きはクラナガン全域で視認され、天体観測所ではマイナス27等星の光を放つ太陽よりも多くの光を放っていたと観測された。










 結論から言えば、八神はやては生きていた。しかし、その状態を語る前に『辛うじて』と言う前置きが要る状況ではあるが……。

 「ごほっ……が、ウゥ、がは!」

 運行が途絶えた線路の上で彼女は激痛に身悶えていた。周囲のレールや枕木は彼女の脇腹から流れ出す血液で生々しく陽光を照り返しており、彼女の体が横たわっている場所には既に小さな血溜まりが形成されるほどの血が出ていた。このまま何の処置も成されずに放置されれば当然彼女の命は危ういが、そこは仮にも幾つもの修羅場を潜り抜けているだけあって、すぐに負傷箇所に魔力を流し込む事で細胞の活性を促して傷口を塞ぎにかかった。行動が早かったお陰で今の時点で出血は収まる兆しを見せており、なんとかすれば上体を起こせるまでには回復する事が出来た。

 だがゆっくりはしていられない。さっき空を覆った紅い光……空そのものが劫火で焼けた様な禍々しい光が街の方から見えた。恐らくでもなくとも、あのトレーゼが暴れているのだろう。今まで自らの存在をひた隠しにして来た彼が今更そんな事をして何を考えているのかは分からないが、作戦が失敗に終わった以上はいつまでも放置してはおけない。しかし、傷口を塞いだだけであり、貫通創である為に内部はまだ完全に修復出来ておらず、飛行をするにはまだ支障がある状態なので大人しくヘリを待つより仕方なかった。一応ヘリに居るヴァイスに安否報告を入れておこうと回線を開き、映像を繋いだ。

 「こちら八神はやて二等陸佐……なんとかやけど、一応生きとるよ」

 『単身で殴り込みに行った割には手酷い姿じゃないかな、二佐? 私は止めたはずだよ?』

 間髪入れずにスカリエッティの嫌味な声が届いて来るが、今はそれだけでも生きていると言う事が実感出来た。脇腹を手で押さえつつ下半身の力だけで端へ移動し、そのまま背を預けて一息入れる。

 「ヴァイス陸曹、さっきのあれ見たやろ?」

 『は、はい! 何なんすかあれは! 空がバァーッて真っ赤に……!』

 「多分、敵さんの撃った砲撃魔法……それも広範囲に効果をもたらす爆撃作用付きのでっかい奴やろな……」

 『発射予測地点の割り出し完了! って、これ思い切り街のど真ん中じゃねーかよ! あんなもん街中で撃ったら……』

 「落ち着き。空が真っ赤になったって事は、上空に向けられて撃たれとる。空に上がったらあかん! ヘリの高度を落とすんや!」

 『りょ、了解!』

 あれだけの砲撃が上空で炸裂したと言う事は、敵の視線はまさに空に向けられているはずだ。そんな所へ障害物の無い高度をヘリが一機で飛行していれば鴨討ちも良い所、撃墜されれば落下地点にも被害が及んでしまう。

 「エリオ達は?」

 『生存報告あり。後でフリードに乗っかってこっちに向かって来るそうっす!』

 良かった……あの小さな騎士達も無事だったようだ。生きていたと言う結果だけ見れば、あのトーレの予見もあながち的外れではなかったようだ。だが問題はある……餌であるウーノをまんまと奪取されたのだ。この作戦は如何なる損害を出そうとも、ウーノを死守すると同時に“13番目”を封じ込める事が出来たらこちらの勝利となるはずだった。それがまさか最悪なパターンに転がり込んでしまうなどとは……。

 「くっ!」

 自分の血で濡れた線路を憎らしく睨みつけるはやて。上りの貨物列車と下りの回送リニア……二つの車両の相対速度は時速200㎞超過、それが真正面から衝突したとなれば相当のエネルギーが衝突面から弾け飛んだと言う事になる。相手はその衝突時のエネルギーと、車両全体への衝撃の伝播具合を利用したのだ。複数の車両を連結したリニアが障害物と衝突した場合、先頭車両はほぼ例外無く後続車両からの運動エネルギーによって圧壊するが、二両目もしくは三両目は先頭が衝突した時に発生する反発力と後続からの慣性が合わさる地点である為、最も力場が集中するポイントとなる。今回の場合、正面衝突によって発生したエネルギーによって車両が浮き上がり、後は重力に従うままに高架線へと落下したと言う事だ。普通、どんな頭のキレる輩でもここまでの無茶はしない……それも計算込みでやるとなれば相当の博打打ちとなる。

 だが相手は普通ではないのだ。

 『ところで、こうなったからには何かしらの手は打ってあるのだろうな、八神二佐?』

 「…………一人……一人だけ、陸士部隊から融通してもろた隊員がおる。今現場に急行しとるはずや」

 『その陸士隊員が如何ほどの実力の持ち主かは知らないが、単騎で向かわせると言うのは幾らなんでも無茶が過ぎないかね? 君ですら深手を負わされたのだよ?』

 「何言うてん……義理やけど、私の弟やで……信用し。あー……陸曹、本部に連絡取って資料請求してもらえる?」

 『何の資料ですか?』

 「…………始末書。作戦失敗の責任取らなアカンやろ?」










 「そう言えば、どこかで、見た顔だと思っていたんだ、貴様ら」

 不意にそう言ったトレーゼの視線は以外にも、セッテ相手に善戦する二人の捜査官に向けられていた。私服でカモフラージュしているその姿に見覚えがあるのか、しばし凝視した後に……

 「あぁ、貴様ら確か、あの駅に居た、覆面局員か」

 「なっ!? どうしてそれを! まさか、あの時あの場所に……!?」

 「お前も、あそこに居たのか、ランスター。丁度良い……セッテには、悪いが、ここで始末させて、もらおう」

 そう言って彼は自分の右手をゆっくりと上げた。親指と中指で輪を作るように構え、中指の筋肉を最大限に緊張させて放つのは……

 指鳴らし。乾いた破裂音にも似た音が彼の右手から響いた瞬間、それを合図に二人の捜査官の体に撃ち込まれていた魔力片が体内で異常増殖し、魔力回路を一瞬で焼き切りながら全身を駆け巡った後、人体で最もデリケートな部分が詰め合わさった頭部に到達し──、

 ボンッ!

 水風船が割れるような感じで彼らの頭が粉微塵に内部から吹き飛んだ。骨片と血肉がドバドバと周囲に散乱し、四つの眼球が地面に落下して潰れてガラス体が滲み出る。

 「悪いな、セッテ。お前の相手、先に始末した」

 「いいえ、問題ありません。最初から彼らなど眼中にありませんでしたから」

 「なら良い。さっさと、No.5とゼロ・ファーストを、排除しろ。ランスター程度なら、いちいち警戒しなくとも、始末出来るな?」

 「そこで見ていれば分かる事です」

 互いに軽い憎まれ口のようなものを叩き合いながら兄妹は再びそれぞれの持ち場に着き直った。セッテが屠殺し、トレーゼがそれを静観しながらウーノを守護する……いや、実際は違う、彼は何かを待っていた。既に航空部隊を殲滅したにも関わらずその視線は時折上空を見上げてはしきりに何かを探しているようであり、いずれ来るはずの何かを待っているようでもあった。始めは作戦指揮を執っているヘリが向かって来るのを待っているのかとも考えたティアナだったが、彼の見上げている方向はそれとはまるで逆の方角なので不自然だった。追加の航空戦力の迎撃……? 否、ウーノを手中に入れた今となっては、これ以上ここで長居する理由がそもそも無いはずだ。となれば、敵以外で空からやって来る『何か』を待ち構えている……自分の利益を生んでくれるその『何か』を。

 「あんた……一体何考えてんのよ!?」

 「思考もせずに、すぐ疑問を他人に、投げ掛ける……脳の表面積が、狭い人間らしい、行動だな、ランスター」

 そう言ってまた視線が上空に注がれた。どうやら本当に何かがこちらに来るのを予見して、それをここで待ち構えているようだ。つまりそれは──、

 目的のモノが来るまではここを動かないと言う事でもある!

 ここを動けないと言う事であれば仕留める確率は例え微々たるものであったとしても上がる……ならばその小さな好機を逃す事は出来ない。倒せずとも、せめて奴からウーノを奪い返す事が出来れば……。

 そう考えたティアナの行動は早かった。セッテの目が自分に向いていないのを良い事に、持っていた銃器型デバイスのカートリッジを連続ロードして魔力を充填……イチかバチかの博打に打って出た。慣れたクロスミラージュではない上に銃口は一つしかないので威力は望めないが、彼女の熟練した技術を以てすればこの名も無いストレージデバイスであっても最大攻撃魔法を放つ事は可能だろう。そう、師の高町なのはから受け継いだあのスターライトブレイカーをこの至近距離で放とうと言うのだ。

 「お願い……気付かないで!」

 トレーゼの視線は上を向き、セッテはチンクとギンガが引き付けてくれているので完全にこちらに注意を向けられない状態……このチャンスを逃す訳には行かない。魔力充填率は六割と言った所だ。通常の相手であればこの程度でも充分過ぎるぐらいの威力が望めるが、相手が相手なので念を押すに越した事は無い。遂に魔力充填が七割を突破した時、トレーゼの視線が地上に戻される兆しが見受けられた。これ以上の充填はあちらに気付かれてしまう……ここが限界だ。

 「っ!?」

 阿吽の呼吸でギンガとチンクが距離を置いた事で、それまで戦闘に没頭していたセッテはその時点でようやく自分が射線上に誘導されていた事に気付いた。すぐさま回避行動を取ろうと両足に力を入れるが──、

 もう遅い。

 「ブレイカァァァァァァッ!!」

 オレンジ色の魔力の奔流が銃口から放たれ、セッテの肉体と真正面から激突した。辛うじて障壁を展開して防いでいるようだが、タイミングが悪かった……放射される魔力が防御のエネルギーを上回っている事は最早誰の目から見ても明らかで、そのまま彼女の体を突破するのも時間の問題のはずだった。

 だが──、

 「く……ぐぐっ、ぬああっ!!」

 何故耐えられる!? 充填が完璧では無かったとは言え、エネルギー比率はティアナの方が上だったはず。それを真正面から受けているにも関わらず、セッテはその場から一歩も退こうとする気配を見せなかった。両足に力を入れて大地にしがみ付き、必死の形相で凶暴な砲撃を全身で受け止めているのだ。やがて銃口から魔力の放出が止まり、結局彼女は最後まで片膝すら地に着けずにその場で全てのエネルギーを防ぎ切って見せたのだ。呆れる……いくら戦闘機人とは言えどもあれだけの攻撃を逃げもせずに真っ向から受け切るなど、到底考えられる事ではない。腕にしていた時計は弾け飛び、服の端々も焦げて素肌を晒してしまっている箇所があるのに彼女は一歩も動こうとしなかった……一体何故だ?

 答えは彼女の背後にあった。

 「耐えたか……流石だな、セッテ。身を挺して、俺を守るとはな」

 トレーゼ……セッテが一歩も動かなかったのは、自分の背後に居る自分の兄を守っていたのだ。リニアの残骸の上に腰掛ける彼は一切の防御体勢を取っておらず、始めからセッテが自分を守護してくれる事を踏んでいたのだ。ふと、重い腰を上げた彼は満身創痍になったセッテの背後まで来ると……

 「良くやった……流石は、俺の妹だ」

 その背中を優しく撫でた。彼が自分の同族だと認めた者にのみ掛けられるその柔らかい言葉を背に受け、セッテは遂に緊張が解けて膝を着いた。トレーゼは外し取ったシルバーケープを脱力した彼女の背に掛け、そのままゆっくりとティアナ達の所に向けて歩み出した。遂に敵の親玉が自ら動き出したかと身構える彼女らだが……

 「トレーゼっ!!」

 いつの間に正気を取り戻していたのか、下がらせていたはずのノーヴェがトレーゼの前に駆け寄っていた。まだ涙の跡が残る泣き腫らした顔で彼女はトレーゼの胸倉を掴んで必死に叫んでいた。

 「なんでっ、何で騙してたんだよぉ! どうして……いつも何も言ってくれないんだよぉ!!」

 「……………………」

 「答えろよ! なぁっ! 返事してくれって────」

 「鬱陶しいんだよ、いい加減」

 反論の声はノーヴェの口からは出なかった。代わりに聞こえて来たのは、喉を握り潰さんばかりに締め上げられた事による呻き声が途切れ途切れに聞こえて来るだけだった。

 「ノーヴェ!」

 ギンガがすぐさま助けに駆け付けるが、その足元をセッテが光弾で牽制して近付けさせない。それはチンクとティアナに対しても同じ事で、三人は黙ってノーヴェがいたぶられる様を見ているしか出来なかった。金属の脊髄が埋め込まれているはずの喉が剛腕に捻じ伏せられて形を変える様は見ていて決して気持ちの良いモノではなく、徐々に気道が閉ざされる感覚にノーヴェ自身も無意識に酸素を求めて息を荒くしていた。

 「貴様、まだ俺の事を、『良い人』だとか、思っているんじゃなかろうな? だとしたら、お笑いだな」

 「ト……レーゼぇ……!!」

 「目の色を、見れば分かる。貴様が、まだ俺に期待して、いるのがな。せめて、芯だけは、残しておいてもと、思ったが……どうやら、精神そのものを、粉砕した方が、良いらしいな」

 苦しみに喘ぐノーヴェを顔を首を絞めたままぐっと自分の方に近付ける……その瞬間、彼の足の下に紅い疑似魔法陣が出現した。彼の持つ十五の特殊技能の何かが発動したのだ。そしてその能力を目の前の哀れな妹に対して行使しようとしている……。何かヤバいものを感じ取ったのか、ティアナ達三人はセッテの牽制を潜り抜けようとして一斉に走り出した。

 「させないっ!!」

 チンクの鋭い投擲によって一本のナイフがトレーゼの顔面に向けて飛翔した。コースはノーヴェの右耳を僅かに逸れる形でトレーゼの顔面に続いている……セッテはそのナイフに手を伸ばすが、柄の短いスティンガーを掴み取る事は至難の業だ。

 だがコースは分かっている。手で掴むのが無理ならば──、

 「うっ……!」

 ナイフの刃は差し伸ばされたセッテの右手の平に深く突き刺さり、その動きを止めた。だが先のティアナの砲撃の余韻がまだ残っているのか、そのまま彼女は刃の突き刺さった右手を庇いながらまた地に伏した。

 「何してんの! 早く起爆させなさい!」

 「しかし……!」

 チンクの金属物爆破の能力を用いれば、セッテの手に刺さったナイフを爆発させる事は容易い事……起爆させた瞬間に右腕が吹き飛ぶ事は避けられないだろう。だが短い期間とは言え自分の妹として接していた者の腕を奪うと言う行為を、チンクは内心では避けようとしていた。ただ一回、軽く自分の指を鳴らすだけで簡単に吹き飛ぶ腕一本……セッテを止める為にはそれしか無いと頭では理解していながらも、優し過ぎるその情が最後の一手を邪魔していた。だがここは身内の情念よりも大義が優先される場だ、ティアナの怒号に後押しされるように彼女は自分の右手を上げ──、

 ──パチッ!

 乾いた音が響いた……指の先で回転している疑似魔法陣から発せられた信号がナイフに届けば、瞬時に分子構造が変化して爆発物へと姿を変える……そうしてセッテの右腕は木端微塵に……

 「起爆……しないだと!?」

 「そんな……っ! そんなバカな事が!」

 否、爆発などしなかった。

 チンクが何度指を鳴らそうとも同じだった、しっかり疑似魔法陣が展開されてISが発動されているはずなのに、セッテの手に刺さったナイフは全く爆発する気配を見せていなかった。まさかISの不調? いや、ISは魔法と同じで術者の体調やモチベーションが著しく低い場合でない限りは発動に支障が出ないはずなのだ。そうこうしている間にセッテが刺さっていたナイフを引き抜き、自分達の目の前にもう一度立ち塞がった。そんな妹に満足気な視線を送りながらトレーゼは鼻先でチンクを笑う。

 「馬鹿が。そこで、見ているんだな……自分の愚妹が、心身ともに、砕け散る瞬間を」

 疑似魔法陣の光が強くなり、目も開けていられなくなるにまでなった。

 「あ……あぁ、あああっ」

 「受け止めろよ? ここまでするのは、貴様が初めてだからな……俺自身、どうなるか分からん」

 そう言ってトレーゼは更にノーヴェとの距離を縮め始めた。

 やがてその相対距離は吐息を肌で感じる隔たりを越え、前髪が触れ合う距離と額がぶつかる幅を同時に通り越し──、



 互いの唇が触れ合った。



 涙で湿ったノーヴェと鉄面皮の渇いたトレーゼ、両者の唇がぴったりと確かに触れ合った瞬間、二人の足元で回転していた疑似魔法陣の回転数が急上昇し、既に眩いその魔力光がさらにその輝きを増した。黒いアスファルトも、茶色い街路樹も、灰色のビルも、青天の空でさえもがその狂気の紅に侵食されて全て同じ色に染まり上がった。その中心に居る二人は固められたように微動だにせず、ただそこで無防備に立ち尽くしているだけだった。

 「ノーヴェええええええっ!!」










 気付けばノーヴェはこの世ではない場所に居た。別に冥土とか死後の世界と言う奴ではない……ただ単純且つ漠然と、ここが現実世界ではないと言う事を無意識に理解していた。簡単に言えば夢を見ている状態だ。凄まじくリアリティに溢れる世界だが、見ているこちらからはそれが夢だと分かってしまうあの感覚に似ていた。

 「どこだよここ? あたし何でこんなとこなんかに……」

 一面真っ白、見渡す限り無色純白の空間に彼女は一人だけで突っ立っていた。風も吹かなければ音も聞こえず、そして白いこの空間を満たしている光すらどこから来たものなのか分からず、彼女はその場に立っていた。どうして自分がこんな殺風景な場所に居るのか、あるいは連れて来られたのかも分からないままに……。

 「そ、そうだ! トレーゼ、トレーゼはどこに居るんだよ!」

 ついさっきまで自分の目の前に居た少年の姿が消えてしまっている事に気付き、彼女は周囲を見回した。だがいくら辺りを見回してもトレーゼの姿は確認出来なかった。

 「何だよ……何なんだよ! どこなんだよここはぁ!!」

 抜け口も道も無いただただ平坦なだけのこの空間に囚われた彼女の精神は徐々に理性と冷静さを欠き始めていた。このままここに居ては自分の心が保てない……焦りを感じていた彼女は必死になってここから抜け出る方法を探していた。

 ふと──、

 そんな彼女を嘲るように、どこからともなく……

 『ここがどこかなんて、分かり切っている事を聞かなくても良いだろう』

 声。

 この声には聞き覚えがある……いつものあの途切れ口調ではないが、何の感情も感慨も込められていないこの声の主をノーヴェが聞き間違えるはずもなかった。

 「トレーゼ!? どこに居るんだよっ、なぁ!」

 『どこも何も、ここは貴様の中だ、他に行ける所などどこにも無い』

 「あたしの……中? 一体、何言って……」

 『無駄話は無用だ。来るぞ』

 その言葉が言い終わるか終わらぬ内に、この白い世界にある一つの“変化”が現れた。否、ただ口で一言に変化と言い表すには生温いモノが、彼女に押し迫って来たのだ。

 そう、迫って来た!

 「何だよ……あれ」

 ノーヴェの視線の先、白い世界の遥か彼方にある地平線らしき線の更に向こう側が──、

 紅かった。夜明けの大地を照らす朝陽の輝きと違って禍々しく、かと言って災禍の大火の揺らめく陽炎とも違う神々しさを秘めた真紅の光が……その向こう側から彼女に津波の様に押し迫って来た。

 「うああぁ、あぁあああぁ!!」

 空を、大地を、気流でさえもその色に蹂躙しながら、まるで山火事の炎が朽木を簡単に燃やすようにして瞬時に彼女の面前にまでやって来た。彼女の小さな体はその暴力的な紅い波に呑まれ、遂にこの空間から白い部分が完全に消え去ってしまった。何もかもが血のように、炎のように、全てを塗りつぶした紅の色の餌食となって消えてしまった。呑まれた瞬間に彼女が感じたのは焦りと恐怖……紅い波が打ち付ける度に感じるのは、自分の中の何かが音も無く崩れて消え去る様な不気味な感覚、自分の中の大切なモノが根こそぎ凌辱されるその感覚に彼女は恐怖した。

 「やめ、やめろ……やめろぉおおおおおおおおおおおおおぉっ!!」

 膝を屈して地に伏せるノーヴェ……そんな彼女の叫びもその流れの中に消え、小さくなった彼女の体もその流れに埋もれていった。抱えた頭を何の意味も無く必死に振り回して何かを振り払おうとするが、彼女を苛む『何か』は更にその勢いを増し、その精神を……心を踏み躙って行った。

 「あたしの……あたしの中に、入って来るなぁあああああああああっ! あたしの心を汚さないで!!」

 『無様だな。No.9』

 蹲っていたノーヴェの前に人影……紅い光を背に立っているその者は、紛う事無くさっきまで彼女が探していたトレーゼだった。こちらをただ無感情な冷えた目で見降ろし、何か汚いゴミか小さな虫を見つめるような視線を弱々しくなったノーヴェに向けていた。

 『分かっただろう? 俺の中に貴様と言う存在は、最初から居なかったんだよ。この俺の本質を受け入れられないのが何よりの証拠だ。全部貴様だけで盛り上がっていた一人芝居……もう邪魔なだけだ』

 トレーゼの右手がノーヴェの頭に触れられた。それは決して優しいモノではなく、その手はそのまま彼女の頭を──、

 粉砕した。

 ノーヴェの体にガラス細工のようにヒビが入り、徐々に形を失い遂には砕け散って形を無くした。



 この日、ノーヴェ・ナカジマの心は徹底的に否定された上に凌辱され、その脆弱な心は死滅してしまった。










 ノーヴェが、自分の妹が拘束を解かれ地面に倒れるまでの瞬間を、スバルはずっと車内から見ているだけだった。飛び出そうと思えば飛び出せた、もう既に車内には自分を見張っていた捜査官は居らず、左手でドアを開けるだけで簡単に出られるはずだった。

 だが彼女は出ようとはしなかった。砕け散ったフロントガラスの破片が散乱する座席の陰で、身を竦ませてじっとしているだけだった。

 別に怖いわけじゃない……例え怖かったとしても、自分の身内が惨い目に合っている事を考えればそれは大した事ではない。かつてギンガが拉致された時に頭に血が昇ったのと同じように、今もノーヴェが虐げられたのを見てその心に沸々と怒りの火種が燻り始めたのも事実だった。

 しかし、結果的には助けに行けなかった。

 いや……行けなかったと言うより、『行かなかった』と言い表すのが正しかった。彼女は無意識に自分の義妹を助けに行く事を自ら拒んでいたのだ。

 彼女がそうしなかった理由の一つに、この間のトレーゼとのやり取りが影響していた。相互不可侵の取引……互いに干渉せず、そして何の利害のやり取りもしないと取り決めた契約の所為で、彼女はトレーゼの前に出る事を躊躇ったのだ。普段のスバルであればその様な脅迫に屈する事は無いだろうが、相手はあのトレーゼだ……彼を敵として認識するのに、彼女の心には戦いを拒絶するだけの情が生まれてしまっていたのだ。

 そしてもう一つ、これも非常に個人的……いや、考え方によってはこっちの方が個人的な理由だと言えよう。彼女は自覚していないのかも知れないが、彼女の中にあるノーヴェに対する感情の一つが、その行動に自制を掛けていた。

 嫉妬。

 恐らくこの世で最も浅ましく、最も卑下たる感情でありながら、どんな清らかな者の心の中にも必ずある悪徳の心。

 トレーゼとノーヴェが互いに密接に接触したのはここからも見えた。紅い光に包まれ、それから五秒も経たずに首を離されたノーヴェが倒れる瞬間までの様子をスバルはずっと見ていた。あれを見た時、彼女は自分の胸の内に何か強い意思を持つ何かが込み上げて来るのを感じて、それが彼女の足枷となったのだ。何で自分が行けなかったのかは自覚しない限りは決して分からないだろう。

 「どうしちゃったんだろう……私」

 分かろうとしない気持ちがあるのも気付かないまま……。










 「急いでフリード!」

 切り離された車両を放棄したエリオ達はフリードの背に乗って上空を移動していた。三人乗りの脇を並行にガリューも飛行しており、三人と二頭は紅い光が上がった場所へと急行していた。ヘリに居るヴァイスからの報告でリニア同士が衝突し、それが高架線下の街道に落下したと言うところまでは聞き及んでいた。これ以上街の一般人達に危害が及ぶ前に対処しなければ……その一念が彼ら三人を突き動かしていた。

 動きが遅いフリードの代わりに先遣としてルーテシアがインゼクトを放っており、現在その蟲から送られて来る情報を元に敵の動きを確認していた。ホログラム映像の画面に出たレーダーを見ると、一際強い魔力反応の周囲に魔力資質を持った人間が全部で三人と、リンカーコア反応はあるが資質を持っていない者が四人、そして最も離れたポイントで様子見を行っている者の反応が一人分……敵を含めて計九名の存在が確認されていた。街の者の反応は迅速な行動を取ってくれたのか周囲には無く、既に避難は完了しているようだった。

 だが、ここでレーダーに変化が現れた。

 「何だろう、これ? 何かが移動してるみたいだけど……」

 レーダーに突如映り込んだ移動する熱源……始めはヴァイス達の乗るヘリが接近しているのかと思ったが、方角はまるで逆であり、それらが一斉に三つも迫って来ているのだ。

 管理局の航空戦力? 否、相手が魔力資質を持っている相手と言う情報は伝わっているはずだ。部隊を送るなら空戦可能な魔導師部隊を送り込んで来るはず……。

 「まさかっ!?」

 エリオの一瞬の閃きが全ての解を導き出した。敵の真の目的を彼は究明したのだ。

 わざわざリニアの落下地点を街中にしたのも恐らくは……。

 「早くしないと……!」










 「ノーヴェに何をした!」

 解放されたノーヴェはどこかおかしかった。全身をガクガクと痙攣させて力が抜けたまま意識がはっきりせず、両目の焦点も合っていなかった。半開きになった口は打ち揚げられた魚のように締まったり緩んだりを繰り返し、だらしなく流れた唾液がその身を支えてくれているチンクの腕を濡らした。完全に廃人状態……もはやその肉体と言う器にまともな精神が入っているかどうかさえ怪しくなっていた。

 「別に……ほんの少し、精神の中枢を、折ってやっただけだ」

 「貴様ぁ!」

 「悪いが、貴様と長話している、暇は無い…………もう、時間だ」

 冷やかな一瞥を送った後、トレーゼは上空を見上げた。真冬の快晴の空には雲一つ無く、肌に痛い寒風が吹き荒れていた。いや、良く見れば空には雲ではないモノが映り込んでいた。

 「あれは……」

 ヘリだ、三機のヘリがまっすぐこちらに向かって飛んで来ているのだ。管理局が所有している輸送用の大型ヘリではなく、プロペラが一組しかない民間で良く見かける通常のヘリだった。

 「民間用…………そうか、そう言う事だったのね!?」

 こちらに向かって飛んで来るヘリを見たギンガの頭に閃いたモノ、それは敵の真の目的。わざわざリニア落下地点を街の真ん中になるように計算した上に、その気になれば自分達を蹴散らせるだけの実力を持ちながら長時間に渡ってこの場に留まり続けて一般人を無作為に殺害したその本当の理由……それがようやく分かったのだ。だがここで恐ろしいのはその目的の内容ではなく、その計算高さ……我が身を姉の身を危険に晒してまで本懐を成し遂げるその豪胆さ……肉も切らせず相手の骨は愚か、その髄まで抉り取って行く戦法、否、殺法とも言うべきそのやり方にギンガは人知れず恐怖していた。

 「ではな、チンク、ゼロ・ファースト……いずれ、また……」

 そう言ったトレーゼは地面からゆっくりと浮上して空へと上がった。セッテは兄の姿を見送り、残骸の中に隠れたウーノも弟の行動をただ見守るだけしか出来なかった。後に残されたティアナ達三人も成す術無く彼の行動の一部始終を歯噛みしながら静観しているしかなかった。

 そんな眼下の者達に一切の関心を向ける事無くトレーゼは悠然と浮上を続け、遂に周囲のビルよりも高い位置にまで到達した所でそれを停止、足元に疑似魔法陣を展開させた。別にISを発動させている訳ではなく、これはあくまで視覚効果……ただのエフェクトに過ぎなかった。

 誰に対する? そんなもの決まっている。



 マスメディアだ。










 「えー、番組の途中ですが、ここで緊急速報です。さきほど午前11時10分前、クラナガン西部の商業地帯にて発生したリニア衝突事故のニュースが入って参りました。現場中継の映像を回してもらいましょう」

 『はーい! こちら事故現場の上空です! えー、御覧の通り、高架線から落下したリニアが地面に当たってグシャグシャに潰れております! 一台、二台……全部で四台分の車両が落下しております。災害救助隊はまだ出動していないのか、現場に既に人の影は無く────いえ、ちょっと待ってください! カメラ、カメラこっち向けて!!』

 「ん? どうしました? 映像が乱れているようですが……」

 『人ですっ! ヘリのすぐ下を人が浮いています! 魔導師隊の……いいえ、違います!! これは──!』

 「カメラさーん? ノイズがちょっと激しくて映像が上手く流れてませんが……?」

 『────────ザザッ────ガーッ────!』

 「砂嵐ですね~。映像が回復してから後ほどお伝えしましょう。それでは、引き続き番組をお楽しみ────」



 『ミッドチルダの諸兄、御機嫌よう』










 「本日は、平和な日々をお過ごしの、皆様方にご挨拶と同時に、この場を借りてでしか、挨拶出来ない非礼を、詫びさせて頂きたい。既に、この映像は、テレビを始めとした、各情報媒体に向けて、全世界同時発信されている……誰もが、皆等しく情報を、手にする事が、可能となっているので、ご安心を」

 事故現場を追って飛んで来たヘリ……その内の一機の内部に大胆不敵にも侵入したトレーゼは同席していたカメラマンとキャスター、そして操縦席の人間を脅して堂々とその座席に乗り込んで膝を組んで座っていた。カメラをしっかりと自分の方に向けて一言も喋らないように圧力を掛け、自身はレンズの先に繋がっているクラナガンのテレビ局に向けてメッセージを伝えていた。

 「さて……私の姿を見て居る、皆様方の中には、この姿形に、見覚えがあると言う方も、いらっしゃるかと存じます。あるいは、管理局勤務の方は、説明しなくとも、充分承知かと」

 親指で自分の防護ジャケットを指し示しながら、彼は凍り付いた鉄面皮でその先を続けた。

 「そう、かつて三年前、このミッドを震撼させ、管理局のかざす正義の、名の下に厳罰に処された、稀代のマッドサイエンティスト…………ジェイル・スカリエッティの、戦闘機人集団、『ナンバーズ』の、最後の一人であります。私の言葉に、嘘偽りが無い証拠として、これを御覧になられれば、よろしいかと」

 そう言って指先に浮かぶのは疑似魔法陣……特殊能力を授けられた戦闘機人にのみ備わるその輝きは、例え民間人には馴染みが薄くても、これを同じように見ている管理局員には充分な物的証拠の証明となり得た。これで世間は彼をナンバーズの名を借りただけの陳腐な愉快犯ではなく、確かにかつて最悪の事件を起こした集団の一派であると言う事をはっきりと認知しなければならなかった。

 「単刀直入に、言いますが、このリニア衝突事件……そして、落下付近の、無差別大量殺人の全ては、私が単独で実行したものです。リニア衝突は、同胞を救う為……落下後の殺人は、それを実行するにおいて、必要だと判断しての、行動です。しかし、ご安心を……現在、これを御覧になっている、皆様には、何一つの被害は、加えないと、宣誓しましょう……今の内は」

 さて、と言う言葉を続け、彼はカメラマンに映像をズームするように指示した。今頃家庭のテレビの画面にはトレーゼの顔が大きく映り込んでいるはずだ。

 「ですが、ここでお伝えしたいのは、そんな事ではありません……。実は、私は今から約二週間前の、11月9日の時点で、このクラナガンに進入し、既に行動を、起こしておりました。今、先程の発言を聞いても、ピンと来ない方が、非常に多いのではないかと、予想しております。特に民間の方々は、皆無かと。しかし、それも詮無き事……民間の方々の無知は、致し方の無い事です。何故なら……」

 一拍置いて調子を合わせた後、彼は吸った息に乗せて先を続ける。

 「何故なら、私に関する情報の全ては、時空管理局の指針によって、全て黙殺されたからで、あります。11月9日の、地上本部襲撃に始まり……皆様方の、記憶にも新しい、聖王教会壊滅や、St.ヒルデ学院女子生徒誘拐事件まで……その全てが、私の犯行による、行動の結果です。だが、貴方がたはそれを、知らない……隠蔽されていたから、誰も知らなくて、当然です。管理局は、一連の事件に、スカリエッティ一派の、生き残りが、関与していると知って、自分達に非が及ぶのを恐れ、それを隠した」

 今頃地上本部の連中が情報規制に躍起になっているだろうがもう遅い、これは既にネット配信もされている上にシルバーカーテンの効果で外部からの電子干渉を全く受け付けないようにしている。十分もしない内にマスコミや民間報道企業からの情報開示を要求する電話が殺到するだろう。

 「ですが、私は決して、管理局の行為を、非難しようと言うのでは、ありません。むしろ、そんな事は、どうでも良い…………。今、この場を借りて、はっきりと、全世界に向けて、申し上げましょう。私の目的は、ただ一つ……我が創造主、スカリエッティの、全面無条件釈放、及びその肉体と精神の、完全なる解放と自由! それだけです。引き渡しは、明日の11月22日の夜、午後21時00分……北西ベルカ自治領の、自然公園の、丘陵地帯にて、身柄の引き渡しを、決行します」

 これで聖王教会の方にもマスコミがたかるだろう。

 「ですが…………仮に、局の方が、この取引を拒む時は、こちらも、それ相応の行動を、取らせて頂く事になります」

 カメラが今度は眼下の街の風景を映し出した。映像の隅にトレーゼが映っており、彼はしっかりカメラに見えるように右手を外に差し伸べて……

 紅い魔力弾を撃ち込んだ。

 ビルの一つに着弾し、あっという間に一棟が崩壊、その周辺に居た不幸な犠牲者達の悲鳴が届いて来た。それを終えると再びカメラを向けさせ、まるで何事も無かったと言うような抑揚の無い口調で先を続けた。

 「取引に応じない場合、このクラナガンは、何人たりとも生きられぬ、地獄に変貌するでしょう。そして、こちらには、そうするだけの、力があります……。これを見ている、管理局の、英断を願って、以上を、ナンバーズNo.13、トレーゼからの、宣戦布告と、させて頂きます。あぁ、それとあともう一つ……」

 ヘリを生身で降りようとしていた彼はまたカメラを強引に向けると、言い忘れそうになっていた事実を公表した。

 「かつて、三年前に作戦に参加した、私の元同胞の何人かが、犯行後に保護され、管理局の寛大な処置で、更正を受けて社会復帰を目指した事は、ご存知であると、思いますが…………実は、既に更正を終えて、社会に溶け込んでいる事を、ご存知でしたか? ですが、その事は人権問題に関わると、局は彼女らがどのようにして、社会に順応しているかを、公表してはいません。場合によっては、実刑判決を、受けても不思議ではない犯罪者が、たった三年で、貴方達の生きる社会に、溶け込んでいるのです…………それも、一言も知らされずに」

 ですので──、そう言った彼はその先の言葉を何の抵抗も無くすらっと言い放って見せた。

 「彼女らのパーソナル情報を、詰め込んだメモリを、現在これを流している、ミッドチルダ中の、放送局に送りました。今頃、届いている頃ですので、後はそれらを、どのように使って頂いても、構いません。横流しでも、公表でも、コピーしてばら撒くなり、好きにして頂いて結構です」










 「くそっ!! やられた、いっぱい喰わされたっ!!」

 管理局にある自分の事務室のデスクに拳を振り降ろしながら、いつも冷静な面持ちを崩さなかったはずのクロノ盛大に焦りを感じていた。彼の言う様に、自分ら時空管理局はたった一人の敵を相手にしてまんまと裏を斯かれ、逆にこちらの醜態を全て丸裸にされてしまったのだ。放送ジャックから数分も経っていないにも関わらず、デスクに座っている彼には各民間報道団体や企業からの情報開示を求める電話の対応についての報告が大量に殺到しており、情報規制は無意味な段階にまで来てしまっている事を示していた。これが敵の真の目的、こちらを社会的に追い込む事で余裕を無くさせるのがこの僅か二週間で“13番目”が仕組んだ戦略だったのだ。常にスキャンダルに飢えるエゴ塗れの民衆の心を巧みに利用したこの作戦に、流石のクロノ言えどもデスクの上で頭を抱えているしか出来なかった。

 「これから管理局は……一体どうなってしまうんだ!?」

 画面の向こうでこちらを見つめる金色の瞳の輝きは、まるでこちらが自分を見ている事を見透かしているような不敵な色を湛えていた。










 「ご苦労さまです」

 「ああ。慣れない、喋り方は、するものではないな……」

 本懐を成し遂げて地上に戻って来た兄をセッテが出迎えた。既に彼らの上空にはテレビ局のみならず、クラナガンに本社を置く数多の新聞社からも取材のヘリが飛び交い、乗っているカメラマンやジャーナリスト達の視線はとっくにリニア衝突事故から、突然の放送ジャックを敢行したスカリエッティ一派の生き残りを名乗った少年へと向けられていた。向けられているのは好奇の視線……彼らは民衆の代弁者、言うなればこの世のエゴと言うエゴを一気に塗り固めたような存在だ。より世間の興味をそそるモノが目の前に居るなら何を置いてでもそちらに喰らい付くのは自明の理……そして、情報を提供される側の市民達もそれを餌に熱狂するのだ。常にエゴに生きる彼らの熱を利用すれば、いずれこの情報は管理局の規制を破って世界中に広まるはずだ。

 「ウーノ、行こうか」

 「……もう、いいのね?」

 「ああ、もうここに、用は無い……。お前も、共に来い、セッテ」

 足元にミッド式魔法陣を展開して転移の準備に入ったトレーゼから差し伸べられた手……この手を握れば次の瞬間に彼ら三人はトレーゼが根城にしているラボへと転移し、首謀者らを欠いたこの空間には混乱と狂気の熱だけが残る事になるだろう。こうして彼が手を差し伸べていると言う事は彼自身はセッテを同志と認めている訳であり、セッテの方もこの手を握り返せば彼の意志に賛同の意を示したと言う事になる。彼女はほんの少しその手を凝視して考え込むような反応の後、ゆっくりと自分の右手を差し出すように伸ばし──、

 「まずいな……! セッテ、ウーノを連れて、俺から離れろ」

 折角出した腕を払われ、セッテは背中を押されるままに姉のウーノの所へと突き出された。顔色には出さないが今のトレーゼが焦っている事ぐらい彼女にも分かっていた……でなければ真っ先に姉と妹を庇うような行動を彼が取るはずが無い。しかも彼は自分から距離を置くように言った。これは即ち、これから迫り来るはずの脅威が彼の付近で発生すると言う事でもある。ここまで彼の様子に焦りが見て取れるのは異常な事だ。彼に不安を感じさせる程の脅威……一体何が起ころうとしているのか興味があるが、ここを離れろと言われたセッテは余計な事は考えずにウーノと共に彼から距離を置いた。

 「どこだ……どこに居る…………」

 トレーゼが感じていたのは視線……遠くから自分達を監視している確かな視線だった。途中から加わって来た気配だったのなら彼もここまで警戒する事は無かっただろう。彼の警戒心をここまで駆り立てている要因は二つ……一つは、自分が今まで気付けなかっただけでその気配が実はずっと前から向けられていた事。遠くに身を潜めている事を差し引いたとしても、常人とは遥かに掛け離れた索敵性能を誇るはずの戦闘機人の網にそれまで引っ掛からなかったと言う事は、こちらの索敵網よりも相手の隠密性が上回っていると言う事実に他ならない。今まで不意討ちをしてこなかったのが不思議だが、更なる問題はそれ以外のもう一つの要因の方にあった。敵の気配が一人分しか感じられない。まさかこれ以上の隠密行動が出来る者は居ないだろうから、本当に相手は単独でここへ来ていると言う事になる。こちらの実力を知らないでもないだろうに。

 だがしかし、現に相手は一人……遠過ぎてどこから見ているか気配だけでは分からないが、殺気を感じさせて来たからには確実に仕留める為に動き出したはずだ。相手が本格的に攻撃を仕掛けて来る前にこちらも奴を発見しなければ!

 そう思って彼が両目の望遠機能を使用しようとした時──、

 「……?」

 自分の足元のアスファルトに亀裂が走っているのを見つけた。別に単に亀裂が入っているだけなら気にも留めなかっただろう、リニアの落下した衝撃で辺りの地面には大抵ヒビや亀裂が走っているから。だがここで彼が気になったのは……



 どうして自分の足の裏を基点として亀裂が走っているのか、であった。



 「…………存外、なかなかやるな」

 そう呟いた次の瞬間、トレーゼの体は上から落ちて来た見えない力に押し潰された。










 「……………………」

 目標からおよそ1000メートルも離れた地点で隻眼の双剣騎士カインは敵の押し潰しに掛っていた。そう、押し潰し……宇宙と言う絶対の空間に存在する天体が持っている根源の力、重力を利用した彼にしか出来ない抹殺方法で敵を倒そうとしていた。局部的にその周囲一帯の重力をゼロからほぼ無限大近くにまで調整できる彼のレアスキルは、現在20Gの重力をトレーゼの真上に掛けていた。人間は5Gか6Gで気を失い、特殊な措置をしている場合にのみ限って10Gの瞬間重力になんとか耐えられる。だが今カインが行っている重力増加度はその限界値の二倍……戦闘機人でなければとっくに圧壊していた頃だ。

 本当はその傍に居たウーノやセッテもろとも潰すのが本来彼に課せられた任務だったが、術式を発動させる寸前にこちらの殺気を読まれてしまったのか、二人に距離を取られてしまった為に結局トレーゼ一人しか狙えなかった。だがこの任務の抹殺優先度で言えばその方が良いのは分かっている。

 「……………………っ!」

 更に重力を30Gにまで引き上げた。なんとか地に両手が着きながらも踏ん張っていたその体が一気にカエルを潰したように扁平に広がった。生命反応はまだあり、絶命するにはあと少し時間を掛ける必要があると見たカインは更に重力を上げようとした。

 だが──、

 「…………?」

 おかしい、一度は無様に地に伸びたはずの奴の体が再び立ち上がろうとして四肢に力を入れているのだ。筋肉を緊張して膝と肘を折り、ゆっくりと、しかし確実に天体の重力に逆らっているのだ。有り得ない……重力の調整を誤った? それは無い、この重力操作のレアスキルはカインの意思、指一本で発動出来るのだ。現在の重力度は紛う事無く30……小動物ならとっくに煎餅になっているはずの加重だ。

 だが現に相手は生きている。そればかりか、こちらの力に屈する事無く立ち上がろうとしている始末だ。

 「ッ!!」

 重力を遂に50Gに引き上げた。50だ! 木星の表面重力の二倍以上の重力をまともに受ければもはや原形を保っている事は不可能のはず! アスファルトの地面が円形に陥没し、断面から飛び出した水道管からの飛沫が周囲に飛び散る様子を遠目で確認しながらカインは対象の絶命を確信していた。死んだと思いたかった。

 だが、この後すぐ彼は自分のしていた行為が無為に終わった事を悟ってしまった。



 『もう、アレは人の形をした別のモノだな。と、我がマスターは申しております』










 急に目の前の地面がごっそり陥没した時、セッテは自分の兄の死を予見していた。一体どんな攻撃魔法が飛んで来ているのかは知らないが、天から繰り出された目に見えない鉄槌をまともに受け、ここまでされて尚生きている事は流石のトレーゼ言えども不可能だと考えていたのだ。

 しかし──、

 彼女のみならず、次の瞬間、この場に居た全員は自分の目を疑った。

 「トレーゼ……?」

 ウーノの語尾が思わず疑問形になってしまったのも仕方の無い事だろう……まだ敵の術式が作動しているはずなのに、陥没した地面の底からトレーゼがゆっくりと登って来たのだ。しっかりと両足で立ち、一歩を踏み出す度に足元のアスファルトの塊が加重された体重で砕け散るのも気にせず、彼は確かに歩いていた。そしてその一歩一歩が自分の帰還を待つウーノとセッテの所へと近付いていた。

 「…………兄さん?」

 何かしらの異常を感じ取ったセッテの声もどこかしら上擦っていた。自分の兄の足が大地を自重で踏み砕きながら少しずつこちらに近付いて来ているのを見た彼女は凶暴な重力圏から彼を引き上げるべく腕を伸ばしたが──、



 トレーゼの両目が紅くなっているのを見てしまった。



 その次の瞬間に取った自分の行動に関して、セッテは何も違和感も感じなければ当然の如く恥じる事もしなかった。何故なら、そんな余計な事を考えている余裕など無かったからだ。

 彼女が取った行動……それは『逃走』だった。生まれながらにして徹底的に鍛え抜かれた自分の両脚、それをフルに活用して彼女はバックステップの後に背後のウーノを回収、そのまま自分のテリトリーである上空に逃げ場を見出してそこに飛び上がった。戦う事を前提として生み出されている彼女は、基本的に主が命令を下さない限りは戦術的撤退は認められておらず、自身の肉体が物理的に限界を越えるその瞬間まで四肢を武器にして戦い続けるように設定されているはずだった。それはスカリエッティの支配を受けていないはずの今であっても深層心理に刻まれた暗示となって彼女を縛っているはずだった……。そんな状態の彼女が相手の……しかも自分の同胞である兄の姿を一瞬見ただけで何も言わずに逃亡と言う行動に出たともなれば、これは相当な衝撃を受けていたと言う事が垣間見える。しかも、脇に抱えられたウーノですらその行動に対して何も言わなかったと言う事は、彼女ですらその行動を正当なものだと無意識に感じてしまったと言う事だ。

 「何なんですか……アレは……!?」

 その疑問に隣のウーノが答えられるかどうか怪しかった。と言うよりも、ウーノですらそれと全く同じ疑問を浮かべているところだった。もうすぐ六十倍にもなる倍化重力下で、平然と二足垂直歩行を行っているトレーゼの全身からは紅い魔力が陽炎の如く立ち昇り、地獄の瘴気が地を這い回る。伏せられた両目の目蓋の奥で鈍く輝く紅い色は、さながら血塗られた冥界の獄卒の眼球そのもの……その変わり果てた姿にウーノとセッテは驚愕を通り越し──、

 恐怖、ただただその姿に恐怖を感じていた。

 今までも、そしてこれからも絶対に自分が如何なる相手にも恐怖を感じる事は無いと思っていただけにセッテの衝撃は計り知れないモノであった。目の前の兄が一歩こちらに接近するごとに、自分が無意識に後ろに退いてしまっている事実も彼女にとっては自分の事ながら理解し難いものだった。

 だが、この異常事態を逆に好機と捉える『愚か者』も居た……。

 「ファントムブレイザー……最大出力!」

 不用心に背を向けた敵を倒すべく銃口を向けるティアナ……。デバイスの先端には【スターライトブレイカー】の時とまでは行かないにしろ、あの時と同じように大量の魔力が撃ち出されるのを今か今かと待ち構えていた。照星は確実にトレーゼの背中の丁度心臓のある位置を狙っており、引き金に指を掛けるティアナは震える指先をなんとか律しようとしていた。執務官と言う職務上、社会と管理局の規律を乱す何人もの輩に銃口を突き付けて引き金を引いて来た事はあるが、確実に殺そうとする意思を持って銃口を向けた事は無かった。もしこの撃った魔力弾が命中すれば、理由や立ち場はどうあれ自分は殺人者になってしまう……その心の中の最後の一線が彼女に引き金を引く事を躊躇わせていた。

 「……教えてあげるわよ、今まであんたがクズ呼ばわりしてた私達の意地を!」

 最終的に彼女を突き動かしたのは私怨、目の前の怨敵が今まで自分達にして来た事の数々に対する憎しみだった。結局人間の全ての行動原理は自分の感情一つ……そう言う人間の闇が垣間見えた瞬間でもあった。

 人差し指が絞られ、いよいよ撃ち出されると言う瞬間になって、目の前のトレーゼの首がこちらを振り向く動きを見せた。こちらの動きに気付いたのだろうが今更このタイミングではどうする事も……



 「あ……っ!」



 刹那、ティアナが銃口を逸らしたのはある意味では正解だっただろう。戦いの場に置いて、銃口や切っ先を相手に向けると言う事はそれだけで戦意の意思表示に繋がってしまう……そして、彼女は自分が銃口を向けているのを目の前の“それ”に見られるのを避けようとしてデバイスを逸らしたのだ。何故そうしたのかと問われた所で、彼女は「分からない」と答えるだろう……それは彼女が理性で行動した訳ではないからだ。あくまで本能、無意識にそうしなければ生きられないと直感したからだ。あれと戦ってはならないと……。あれとは戦いにならないと細胞レベルで本能が警告を発したから。

 だが遅かった──。

 狂気に満ち満ちた紅の視線はまるで神話に登場する石化の魔眼を持った怪物そのもの……人知で捉えられる領域をとっくに超越し突破したその存在の視線を真っ向から受け、ティアナは自分の精神の奥底に介在している何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。背後の事までは注意が回らなかったが、恐らくはギンガとチンクも同じモノを感じ取っていたはずだ……でなければ、ここまで全身の筋肉が恐怖で痙攣するはずがない。人間は得体の知れぬ存在に恐怖すると言うのなら、その説はきっと正しいのだろう……今さっきまで目の前に居た者の正体を把握していたからこそ、脅威こそ感じたが恐怖を感じるまでにティアナが至らなかったのはその為だ。だが、その認識は“それ”の変貌を目にしてしまった事で消し飛んだ。

 これは一体何だ!?

 その問いに答えてくれるなら彼女は悪魔に魂さえ売っただろう。知る事でこの恐怖を乗り切れるなら、彼女は知りたかった、目の前に居る“それ”の正体を……。

 だがこの時彼女はある一つの事実を見落としてしまっていた……それは他でもない自分自身の事だった。敵意を見せない為に銃口を逸らしたのは良い……だが、問題はその銃口をよりにもよって左斜め上に向けてしまった事と、恐怖に震えていた彼女の指先がまだ引き金に当たっていたと言う事実だった。魔力弾を撃ち込む寸前で射線を逸らした為に指は引き金を引き終わる一歩手前の状態……当然、震える指先がそのギリギリの状態をこの極限の心理状況で維持出来る訳も無く──、

 「しまっ……!!」

 慌てて指を離そうとしたティアナではあるが、時既に遅く、引き金を引かれたと認識したデバイスのAIは持ち主の指示通りに……

 一棟のビルに向けてそれを撃ち出してしまった。










 いきなり自分達の方向に魔力弾が撃ち込まれた瞬間は驚いたが、その軌道が自分達ではなく大きく上方に逸れているのを見切った時は一瞬だけ隙が生まれてしまった。セッテの実力を考えれば本調子ではない【ファントムブレイザー】程度の射撃魔法であれば真正面から受け流す事も充分可能だっただろう。実際彼女はそうするつもりで居たのだが……事態は彼女の予想の斜め上を行っていた。

 自分達の右横に大きく逸れる形で飛翔した魔力弾はそのまま上空に消えるのではなく、その障害として立ち塞がっていたビルに命中してしまったのだ。コンクリートの塊が幾つも自分達の丁度真上から降り注ぐのを見てセッテはすぐに回避行動を取ろうとしたが、飛行能力を持たないウーノを抱えた状態で瓦礫の絨毯爆撃を回避するのは至難の業……一瞬躊躇してしまったその僅かな隙が彼女に回避行動を取る事を許さなかった。大き目の瓦礫の幾つかは避けられる自信はあったが、この相対距離と瓦礫のサイズではどれか一つかは自分かウーノに当たってしまう事をセッテの優秀な頭脳は導き出していた。かと言って、専用武装も無い片手一本ではこれらの弾幕を捌く事は不可能……このまま万事休すかとも思われた。



 だがそうはならなかった──。



 突然横っ腹に激突した強い衝撃にセッテとウーノの体は一瞬で慣性によって吹き飛ばされ、延長線上の道路に路上駐車されていた乗用車のフロントガラスをクッション代わりにしてようやく停止した。すぐに何が起こったのかと目の前を見ると、既に落下した瓦礫が粉塵をもうもうと立てて山を形成していた。

 突き飛ばされたのだ。一体誰になんて下らない疑問が湧くはずも無く、状況を瞬時に把握したセッテは勢い良く飛び起きて瓦礫の山に飛び込んだ。

 「兄さん! 兄さん!!」

 積み上がった瓦礫の僅かな隙間から覗いている白い手……それを渾身の力で引き上げれば、出て来たのはやはり兄のトレーゼだった。自分達を庇って負傷した彼には先程の様な禍々しい雰囲気はどこにも無く、これまでに見慣れた鉄面皮の冷たい表情で出迎えてくれた。だが瓦礫の幾つかを頭に受けたのか、こめかみの辺りからは大量の鮮血が赤々と流れ出て防護ジャケットを濡らしていた。

 「セッテ……無事か?」

 「はい」

 「そうか……。ウーノは?」

 「あちらに」

 「いい子だ…………さぁ、行くぞ。くっ……!」

 そう言って肩を支えようとするセッテを突き離して歩き出すトレーゼだったが、頭部に受けた衝撃が強過ぎたのか足元は千鳥足になり、高圧重力から解放された所為で平衡感覚も麻痺している彼はものの十歩も歩かない内に地面に座り込んでしまい、大量の吐瀉物を地面にブチ撒けた。軽い脳震盪を起こしているのか、両目の焦点はまるで合っておらず、短い時間で一気に体力を消費してしまった事で与えられた疲労により呼吸は荒くなっていた。どうやら、あの魔力の放出には多大なリスクが伴うらしい。

 もちろん、この機会を逃すはずも無く──、

 「チンク!」

 「承知した!」

 チンクのナイフがセッテを牽制して彼女の動きを止め、その一瞬の隙を突いてギンガが疲労困憊のトレーゼの前に飛び出した。高速回転するリボルバーナックスのスピナーが唸りを上げ、鋼鉄の拳をその無防備な頭部に狙いを定めて振り上げる……当たれば間違い無く死亡、頭蓋ごと脳髄が粉砕されるだろう。仕事上とは言え、初めて手に掛ける相手が自分の同類と言う事実がギンガの心に圧し掛かったが、彼女はすぐにそんな余計な考えを振り切り、迷う事無く自分の拳を真っ直ぐに──、

 振り下ろした。










 ヘリに回収され、やっとの思いで現場に辿り着いたはやては言葉を失った。被害を受けた街の往来の状態ももちろんの事だったが、その上空を飛び交う報道機関のヘリの数に圧倒されていた。自分達の乗るヘリの他に全部で六機ものヘリが街の上空を所狭しと飛び交っている様子は、まるで砂糖に群がるアリを連想させた。そう、彼らは例外無く今回の事件の犯人をこの目で見たいが為にここへ駆け付けたアリ、或いはハゲタカだった。今頃はこのミッドチルダ中に管理局の醜態が報道されているだろう……。

 「ヴァイス陸曹、現場の状況は?」

 奥の座席に横になってスカリエッティの治療を受けていたはやては地上の状況の報告を促した。当然だが脱線したリニアが道路に落下している所までは予想出来ていた。

 だが──、

 「あ、あれってティアナ達じゃねーか!? 何だってこんな所に!」

 「何やて!?」

 ティアナがここに居ると言う事はギンガとチンクも一緒だろう。彼女ら三人はスバルとノーヴェの確保の為に同行していたはずだった。と言う事はまさか……!

 「ノーヴェも居ます! でも、何だか様子がおかしい……」

 「スバルは! スバルは居るか!?」

 本人の状態は何であれノーヴェも居るならスバルも居るはず……そのはずだった。

 「おいおいおいおい、どう言うこったよこれはよぉ……!!」

 「どないしたん!?」

 「映像回します!」

 いつもの飄々とした雰囲気を崩して珍しく焦っているヴァイスを見てはやてもただ事ではないと予想はしていた。きっととんでもない惨事が展開されているのだろうと。

 だが……

 「なんや……これ?」










 何が起きたか分からなかった……

 ただはっきりとしているのは、自分達は背後からの不意討ちをまともに喰らって無様に薙ぎ飛ばされたと言う事だけだった。

 「な、何が……!」

 一瞬でビルの壁に叩きつけられたギンガとチンクは自分達の状況を把握するのに手一杯で、敵の様子を確認するにまで気が回らなかった。幸いにも敵の首魁が本調子を出せていなかったので命拾いしたが、たった一瞬の攻撃で削られた自分達の体力は半端無く大きく、戦闘機人のスタミナを以てしても立ち上がる事さえ出来ずに居た。それでも持ち前の根性でなんとか体勢だけは整えた後、互いに肩を支えながら敵の前に相対した。

 周囲の状況は凄惨を極めていた……。半壊したビルは未だに崩れかけのコンクリートがボロボロと落下しており、落ちて来たそれらは陥没したアスファルトの地面に開いた穴の底へと消えて行く……破裂した水道管からは大量の水が剥き出し、底の方はちょっとした池のように水が溜まり込んでいた。ガス管は既に異常を察知した会社によって供給を断たれているので爆発の危険性だけは無いようだ。そして、周囲の最低限の安全を確保した二人は遂に眼前の敵に向き直り──、

 「ちょっと……冗談にも程があるわよ……!?」

 愕然とした。

 目の前に居る敵の数は“四人”……。

 自分達と彼らの間を妨げる空色の障壁…………ウィングロード──。

 そして……傷付いたトレーゼを自らの方に引き寄せて治癒魔法を施す──、



 自分達の妹、スバル。



 「庇う相手が違うだろ、スバルっ!!」

 チンクの怒号もまるで意に介さず、当の本人はトレーゼの頭部裂傷を左手からの魔力放射で細胞活性を促し、黙々と治癒を続けていた。その表情は真剣そのものであり、治りたての足でウィングロードを行使してしまった事による激痛の為か、額には玉のような脂汗が滲み出ていた。しかしそれを拭う間も惜しいのか、スバルはただ目の前の少年の傷を癒す事だけを考えていた。

 「ごめんギン姉……ごめん、ごめん……。でも私は……!」

 「馬鹿! 謝るんだったら今すぐそいつから離れなさい! 今なら撃てるのよ!!」

 ティアナが銃口を向け、正確にトレーゼの頭部に狙いを定めた。だがその射線上にスバルの背中が立ちはだかった……トレーゼの頭を抱きかかえるようにして彼の楯になろうとしているのだ。これには流石のティアナですら言葉を失ってしまった。

 だが優秀な彼女はすぐに凛とした表情に戻ると、再びその銃口を向け直した。当然、スバルの背に向けてだ。

 「警告よ、退きなさい。撃つわよ」

 「…………撃てるの?」

 「警告その二、あくまで退かないって言い張るんだったら、残念だけどあんたと一緒にそいつを射殺するわ。カートリッジ分の魔力を足せば、あんたの背中ぐらい余裕よ」

 「ティアには悪いけど、私は退けない……逃げられない」

 「警告その三、出来れば弱ってるそいつをこっちに引き渡しなさい。そうすれば、あんたはそいつを連れて来る為に接触したって事に出来るわ」

 「私は……そんなつもりでこうしてるんじゃない」

 「最終通告……………………お願いよ、戻って来て。あんたはそっちに居る人間じゃないのよ……分かるでしょ」

 最後の最後、今まで三年間にも渡って苦楽を共にして来たと言う事実がティアナの心に最後の情として重く圧し掛かった。腐っても鯛と言うのなら、目の前に居るのは腐れ縁でも自分の親友なのだ……それをどうして好き好んで撃てようか。

 だからこれが最後の譲歩……もしこれが拒否されれば、双方共に待った無しの状況に追い込まれる……。即ち、どちらかが殺し、どちらかが殺されるのだ。友を殺めたくはない、だが友を殺められるのは今自分しか居ないのだ。身内である隣の二人に妹殺しはさせられない……それならいっそどこまで行っても他人である自分が引き金を引くより他は無いではないか。

 だから!

 「撃たせないで……私はあんたを撃ちたくない!」

 プライドが高い彼女が見せた涙は頬を濡らし、顎先を伝い落ちて冷たい地面に弾けた。もう懇願するしかない……それで自分の友がこちらへ戻って来るのなら、彼女は地に額を擦り付ける事だって平気で出来ただろう。震える両手を必死に押さえながら彼女は待った……友がこちらに来てくれると信じて。

 でも……

 「ごめんね、ティア…………私、わがままだから」

 「そうね……あんたはいつも自分の事しか考えてなかった……………………………………………………………………………………さよなら」

 ヴァリアブルシュート……多重弾殻射撃に用いられる複数の魔力の殻を纏った魔力弾が形成され、銃口に出現する。第一層がスバルの肉体を突き破り、本命がトレーゼの頭部を打ち砕く……途中でセッテが介入しても問題無いように自身の持ち得る全ての魔力を注ぎ込み、圧縮──、指先サイズとなったそれを狙い定めてティアナは親友だった者の背中に向けて無慈悲に徹して撃ち込んだ。

 飛び出した弾頭は真っ直ぐ飛翔してスバルの無防備な背中を襲撃し、間に入ろうとしたセッテの手を掠りもせずにすり抜けた後、防寒着の布地を焼き切りながら突き進み──、



 瞬間、その体が大きく痙攣した。




















 新暦86年某月某日、深夜22時28分、都内某所の住宅にて──。



 「へぇ~、そんなことがあったんだぁ」

 「うむ、あの頃はお前の父上殿と共に大暴れしたものだ。思えば懐かしい……今になって見れば、あの頃が我らが最も活き活きとしていられたと言うものよ。それをあの主殿は不意にしよって……全く忌々しい!」

 「あはは。ん……ふ、ふぁぁ~あ」

 「ハハハ、母上殿も言っておられたぞ、塵あく……じゃなかった、良い子は寝る時間だとな」

 「うん……トイレ行ってから寝るー。おやすみなさぁい」

 「うむ、おやすみヒツキ。……………………………………………………………………………………やっと行ったか」

 「お勤めご苦労さまです。結構板についてましたよ」

 「ぬかせ。貴様、人に厄介事を押し付けておいてどこをほっつき歩いておった?」

 「いえ、電話で奥様に頼まれてちょっとそこの売店まで食材を買いに。ここら辺も二十四時間営業の売店が増えましたから」

 「フン! すっかり下衆な塵芥共に飼い慣らされよって! うぬは本当に気楽なものだな…………えーっと、何だった?」

 「リズです。いい加減名前覚えてください。まさか自分の名前まで忘れたとか言うのではないですよね?」

 「阿呆、名前と言う本来有りもしないモノに括られよって、馬鹿馬鹿しい。少しはこのクランを見習え!」

 「覚えてるじゃないですか。それはそうと、フォスはどちらです? 私が買い物に行く前は一緒だったはずでは?」

 「あやつならとっくに寝た。今頃は主殿の『中』に『戻って』おるだろう」

 「相変わらず好き勝手なスタイルですね。とても私達と同じモノから生まれ出た存在とは思えません」

 「まぁ、元を正せば我らは本来はただ消え行くだけの矮小な存在……それをあの阿呆な主殿が変な気を利かせたが故にこうして形を保っているに過ぎんのだがな」

 「その点はご主人様に感謝しなければいけませんよ。私は奥様に買い物の連絡の後で『戻り』ますから、貴方もいい加減テレビばかり見てないで早く寝た方が良いですよ」

 「わざわざ節介を焼かんでも分かっておる。我らが主殿はああ見えて寂しがり屋だからな…………」





 「誰が寂しがり屋だ……」



[17818] ZIGZAG
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:ca17e16b
Date: 2010/12/26 10:14
 倒れたのはティアナの方だった。抉り取られた自分の右肩を押さえながら後ろ向きに倒れ込み、その手からデバイスが放り出された。事の流れを静観していたはずのチンクとギンガでさえ一体何が起きたのか把握出来ておらず、痛みに悶える彼女を庇って後ろに下がるだけだった。

 「見たか、セカンド……貴様の友は、貴様を殺そうとしたぞ」

 倒れ込んだ彼女とは反対に、立ち上がる者の影があった。スバルの場違いな献身の成果あったのか、傷の塞がった部分を擦りながらトレーゼが立ち上がって見せたのだ。気絶しているスバルを突き離し、傍で控えていたセッテを引き連れて彼女らの前に立ち塞がる。見慣れた不動の佇まいからは戦闘意思や敵意と言ったものが感じられないが、その鋭い氷の視線は明らかに相対するティアナ達の急所をに狙いを澄ましており、一瞬でも気を緩めた次の瞬間には既に絶命させられていると確信してしまう程の圧力があった。

 やがて双方の睨み合いが十数秒続いた後……

 「……行くぞ、セッテ」

 「はい」

 とうとう一切の手を出す事もせずに彼は悠々と敵であるはずのティアナ達に踵を返して背を向けた。三人もの敵性対象を前にしながら少しも臆する事無く背を向けると言うその行為自体が既に常軌を逸しているが、トレーゼ自身の実力を考えれば何の不自然も無い。歯痒く感じながらも圧倒的な実力差に気圧されて動く事さえ出来ないティアナ達は、自分のすぐ前を歩く怨敵の無防備な背中に一発も不意討ちを入れる事無く黙って見送るだけだった。力無く地面に尻もちついているウーノの手を取るトレーゼと、その背後から大人しく付き従うセッテ……街の上空を飛び交うヘリの爆音をBGMにして、三人の戦闘機人は戦意を喪失した者達の眼前で堂々と凱旋帰還を行っていた。

 ふと、トレーゼの視線が足元でのびているスバルに向けられた。死んではいない、ただ単に魔力の大半をトレーゼに奪われてしまった所為で気絶しているだけだ。と言っても吸収した本人としてはそこまでするつもりでやった訳ではない……治りたての魔力回路で無理な魔法を行使した上に、頭部の傷を早急に治療する為だけに自分の危険も顧みず大量の魔力を放出していたからだ。仮にトレーゼが魔力を吸収していなかったとしても、治療が終わった後で立ち上がるだけの体力が残っていたかどうかも怪しいかっただろう。

 馬鹿な奴……。

 それが地面で倒れているスバルを見た彼の感想だった。関わるなとあれほどに釘を刺したと言うのに……。

 「…………おい、ランスター。聞いているか?」

 「な、何よ!?」

 「貴様は、何か勘違いを、しているらしいから、この際はっきり言っておこう。俺と、この出来損ないの間には、協力関係なんかありはしない」

 「それじゃあ、あんたが今までに何度も接触してたのはどうやって説明してくれるってのよ?」

 「質問を許した覚えは無い。それとも、何か……? やはり、口先だけでは、信用ならないか? ならば、こうしようか……」

 そう言いながら彼はぐったりと横たわっているスバルの体を爪先で転がし、仰向けにさせた。蒼白な顔をしながら虫の息となっている彼女を見降ろし、ティアナ達三人がしっかりこちらを見ていると確認した後──、



 脇腹を蹴飛ばした。



 「何してんのよ!?」

 「見て分からんか? 証明だよ、こいつが、俺の敵だと言う、最も分かり易い証明……。よりにもよって、こんな奴と同列に、見られていたとはな」

 そう言いながらもトレーゼの足蹴は止まらない。アームドデバイスを装着した鋼鉄の脚で何度も何度も衰弱しているスバルを蹴り続ける。そしてその顔面は当然の如く今まで通りの凍りついた鉄面皮……何度も脇を蹴り、何度も腹を踏み潰し、何度も頭を叩き回しても尚その表情が揺らぐ事は無く、ただ自分と彼女との間に関わりが無い事を証明すると言う“作業”を何の抵抗も感慨も無く延々と繰り返すだけの静かな狂気。ものの三十秒も経たずにスバルの顔面は鼻血に濡れ始め、痛みに背中を丸めて必死に一方的な虐げに耐える仕種を見せ始めた。だがトレーゼの猛攻は止まらなかった。

 「表面積の、小さな脳で考えて見ろ……互いに与する者が、こんな事をするか?」

 「それは……っ!」

 「良いのか? 貴様が判断するまで、俺はこれを止めるつもりは、毛頭無い。後二分もやっていれば、死ぬぞ、こいつ」

 「死ぬって……」

 「ああ、別に死んでも良いのか……。何せお前、殺そうとしたんだからなぁ、こいつを」

 「っ!」

 殺したくは無かったなどと言う言い訳は通用しない、誰の目から見ても明らかにティアナは自分の友人をその手で殺めようとしたのだ。確かに彼女自身の感情としてはこの場で銃を下ろして情状酌量の余地に懸けたい気持ちの方が強かったのは隣のギンガも承知の事実……。だが自分達には大義があり、その大義を全うさせる為には私情を持ち込む事は断じて許される事ではなかった。疑わしい者はその場で処分する……例えそれが身内や親友であったとしても、これだけは変わらぬ不文律なのだ。

 「さぁ! どうなんだ? これでもまだ、俺とこいつは、繋がっていると、そう言い張るのか?」

 「…………」

 「どうなんだ?」

 「…………スバル……スバル・ナカジマと“13番目”は……互いに協力関係にあるものとして捜査を進めていたが……」

 「それで?」

 「……………………誤認、結果はただの誤認。双方には敵対関係しか存在していなかった!」

 「そうだ、それでいい」

 吐きつけるように事実を認めたティアナの言葉を満足気に噛み締め、トレーゼはようやく虐げを止めた。痛みに震えるスバルの襟首を掴んで無理矢理起こし上げ、彼は自分とティアナ達を隔てる陥没した地面の前まで足を運ぶと、おもむろに息も絶え絶えなスバルの顎を引っ掴んで視線を前方に向けさせた。痛みに衰弱した虚ろな視線を向けられてティアナ達三人はそれぞれ目を逸らす。だがそんな相手の事情など知った事ではないとトレーゼはスバルの顎を掴んで離さず、ふとその耳元に口添えした。

 「見ろ、セカンド……あれが、貴様を殺そうとした、愚か者の顔だ。貴様の友だ、貴様が心から信頼していた、貴様の友だぞ。隣に居るのは、貴様の姉だ。笑えるだろう? 笑えよ、自分が今まで信じて来た、薄っぺらい絆と言う奴をな。貴様を敵でないと、認識した以上、きっとあいつらは、今までと同じように接してくるだろうなぁ…………。面白い、こんなに面白く感じたのは、今まで無かった。俺が言ったのは、正しかった……例え肉親であっても、」

 ひとしきりそうやって笑った後、彼は再びスバルを吊り上げ……

 「情けを掛けるのは、これっきりだ…………セカンド」

 陥没した地面の穴へと投げ入れた。突き出した水道管やガス管に激突しながら落下して行ったスバルの体は程なくして水の溜まった底に墜落し、そのまま動かなくなった彼女を確認してからトレーゼは今度こそ本当に彼女らの前から姿を消した。何の憂いも恐れも無く、ただ堂々と己の庭を散歩しているかの様に堂々とした姿で、セッテとウーノの手を取った次の瞬間には彼らは遠く離れた自分達の根城へと転移した。紅い光の後には誰も残って居なかった……。










 報告──。



 作戦所要時間:9:00から11:24までの144分。

 作戦エリア:クラナガン西部方面から首都圏までのリニア路線上。

 警護対象:元ナンバーズNo.1『ウーノ』

 総動員数:二十三名。(フリード及びガリュー除く)

 被害者数(部隊):二十名。

 被害者数(民間):現在調査中。

 敵性対象数:一名。(セッテの介入により二名となる)

 作戦結果:警護対象を奪還された事により失敗。










 午後12時45分、管理局地上本部にて──。



 「失敗だな」

 「ああ、失敗だね」

 「そっちはどうだ?」

 「僕の所はまだ平和だよ。そっちは?」

 「情報開示を求める電話やメールが各報道企業から殺到している……。聞いた話では今夜中にでも記者会見を開くそうだ」

 「言い逃れは……出来ないか。事件の当事者からの情報だからね、こんなに確実な情報は無いから。それよりも教会の方はどうなのさ?」

 「最悪、としか言いようが無い。現在カリムが報道陣を捌くのに躍起になっている最中だ…………っと、相変わらず美味くないコーヒーだ」

 飲み干した空き缶をゴミ箱に投げ入れクロノはベンチの上で大きく背伸びをした。現在彼とユーノは休憩所で互いに休息中……ではなく、回線越しでは話せそうにない情報のやり取りの為に互いに時間を見つけてここで落ち合っているのだ。

 「敵があの時どさくさに紛れて元ナンバーズ更正組の個人情報を流出させたのは何故だと思う?」

 「憶測や仮説になるかも知れないけど、恐らくは管理局と聖王教会の二つを混乱させた上で二つの組織の連携を寸断する事だと思う」

 「何故?」

 「ミッドチルダを震撼させた未曾有の大事件の元実行犯…………局内はもちろんの事、民間では未だに彼女達の事を快く思っていない人達が大勢居る。三年前の一件に関しては戸籍登録する際に年齢を未成年って事にしてスルーしてたけど、もしそうしてなかったら今頃彼女達の居場所なんて無かっただろうね」

 「なるほどな。未成年と言う事にしておけば法律と言う名の権力において庇護出来るからな。更正施設を出所しても個人情報保護の名目で報道は控えられて来たしな」

 「ゴシップ好きの一部の民間人はその情報管制に納得していなかったけどね」

 「今回はそう言った連中の影響力を良いように利用されたと言う事か……」

 ゴシップ丸出しの民間人と、それを餌に食いつくマスコミ程に怖いモノは存在しない……施設を出所したと言う情報は新聞の三面記事ぐらいにしか掲載されず、当然氏名は伏せられている上に写真や画像なども出回らないように規制を掛けていた。全ては彼女らが未成年だからと言う理屈の名の下で行われていたのだが、ユーノ達の言うように一部の民間の中で異常な程に興味を示した者達は半ば面白半分、或いは自分達のエゴを満たす為に彼女らの周囲を執拗に嗅ぎ回ろうとしていたのも事実である。もし規制を厳しくしていなければ彼女らの人権は不当に無視された上に世間の晒しモノにされてしまっていただろう。

 そしてまさに今、その危機に直面していた。正確に言えば、彼女らの存在を利用して世間の批判の石つぶては管理局と聖王教会に向いていた。かつてこの世界を震撼させた凶悪事件の実行犯がたったの三年で社会に復帰し、あまつさえその彼女らを裁いていたはずだった管理局が彼女らを局員として雇用していると知れれば、当然マスコミが騒がないはずがない。しかも最悪だったのは更正した彼女らが管理局だけではなく、局と繋がりを持つ聖王教会にも身を置いていたのがいけなかった。トレーゼの暴露によって更正した彼女らをネタにしたマスコミは非難の矛先を教会本部にまで向け始めたのである。結果、ミッドチルダに存在する二つの組織はその対応に追われ、24時間後に迫っているはずの“13番目”との接触どころではなくなってしまった。

 「まさか……そこまで考えていたなんてね」

 「それだけじゃない、今回の作戦が失敗した事で出てしまった民間側の被害者だが、今現在報告に入って来ている限りでも死傷者は三十名を下らないそうだぞ」

 「今日の作戦も民間には全く知らせていないのが痛いなぁ。まったく……自分で自分の首を絞めているようなもんだ」

 「本当だな。世界は……」

 「『こんなはずじゃない事ばかり』……だろ?」

 「人の台詞を取るな。だが、僕達がこうして『こんなはずじゃない』事ばかりを押しつけられていると言う事は、逆にあいつは全部思い通りになっているんじゃないかって思えてしまう……」

 「誰かの幸運は誰かの不幸……逆もまた然り、世界って言うのは上手くバランスが取れてるものさ。もしそれを無視したり、通用しなかったりする人が居るんだったら、それは人間じゃなくて神様だよ」

 「神様か……。なれるものなら僕もなって見たいな」

 「提督って職に就いて好き勝手してるクセに」

 「男って言うのはいつでも好き勝手したいものなのさ」

 「例えば?」

 「そうだな…………例えば、クリスマスには何の面倒事も無く実家に帰れるように、とかな」










 「始末書の提出が拒否された?」

 「そうや……」

 医務室のベッドで寝ていたはやての言葉にシャマルは首を傾げた。始末書とはつまり、職場にて仕事上での損失を生み出す不手際があった場合に書く事を義務付けられる用紙及び書類の事である。自分の犯したミスを全面的に認める内容をしたためた反省文であり、同時に寛大な処置を願って陳情する嘆願書でもある始末書…………もちろん、寛大な処置と言っても大抵は降格か左遷であり、内容によっては当然クビも有り得る。今回彼女は指揮を任されていた作戦を失敗した事により、事態の経緯詳細を記した顛末書と責任を取ると宣言する始末書の二つを書かされたのだが、いざその二つを提出するとなった時──、

 「始末書だけが取り合ってもらえなかったって……それじゃあ!」

 「責任問題には問われへんだって事や……」

 「よ、良かったじゃないですか! 責任問われないって事ははやてちゃんは悪い様にはならないって事────」

 「これがええ訳あるかぁっ!!!!」

 はやてが怒号を上げた次の瞬間、医務室一杯に彼女が怒りに任せて壁を叩く音が響いた。せっかく閉じていた脇腹の傷が開くのも忘れる程に彼女の憤りの念は抑え難く、震えるその肩を見たシャマルの方が思わず逃げ出しそうな気迫に満ちていた。

 「責任を問われへんだって事はなぁ……この作戦が無かった事にされとるって事なんや! 始めから作戦なんて無かった…………死んでった隊員さん達はただの事故死って処理されて、街の人らも私らの作戦やなくて敵が暴れたからって事にされてしまう……………………私は、私はっ、自分のケツを自分で拭く事も許されへんかった……!」

 「はやてちゃん……」

 「確実に成功する作戦やとは思てなかった。失敗した責任取って、降格やろが免職やろうが受けるつもりでおった……それやのに、私の指揮に従ってくれた人らの死まで踏み躙られて…………何で私だけ何にも無しなんよ、不公平やんかぁ……」










 午後12時53分、地下ラボにて──。



 「成功だ……疑い様も無く、紛う事も無く、確実で不変な、成功だった」

 研究室のハンモックで体を揺らしながら休息を取るトレーゼは今日の成果の余韻を噛み締めていた。遂に明日になれば計画の最終段階に到達する事が出来、目覚めるまでの17年と目覚めてからの半月にも渡る苦労がここでようやく報われるのである。その為に必要な駒も布陣も完璧と言えるまでに準備して整っている……ほぼ九分九厘成功すると断言出来る状態にまで事を運べていた。

 「腕の調子は、どうだセッテ?」

 自分を庇って右手の平に深い傷を負ったセッテを気遣うように彼は映像回線越しのセッテに確認を取った。

 『問題ありません。処置が迅速でしたので、回復自体に支障は無いかと思われます』

 「なら良い。明日の作戦は、お前にも参加してもらうつもりだ……期待しているぞ」

 『ワタシでよろしいのですか?』

 「むしろ、俺とお前だけで行く」

 『たった二名で……ですか?』

 「何か不服か?」

 二名……全次元世界を統括する一大組織に対して喧嘩を売るには余りにも少な過ぎる頭数である。彼の性格を良く知るセッテは薄々ながらも明日の夜に彼が自ら提示した取引に応じる姿勢が無い事を察知していた。そうなれば地上本部との交戦は必至、その時になって彼は自分達を押し潰さんと迫る魔導師の軍勢とどう渡り合うつもりなのだろうか。流石のトレーゼとセッテと言えども一個中隊ならまだしも地上本部に所属する全部隊を相手取れと言われたら簡単には行かないだろう。

 『兄さんの実力を知らない訳ではありませんが、その…………取引に応じる気は無いのですよね?』

 「無いな。そして、管理局側も、そんな俺の行動を、予測しているだろう」

 『だとしたら、幾らワタシと兄さんでも地上本部全体を敵に回すのは……』

 「いいや、俺達が相手をするのは、たったの八人……いや、七人か。大した数ではない上に、実力も雑魚だ、案ずる事は無い」

 兄の言う七人が誰なのかは大方見当がついているが、最も気になっている部分について聞けていない。

 『残りの数千は居る武装局員をどう対処するつもりなのですか?』

 「その点も、問題は無い、手は打ってある……。お前は、何も心配せずに、俺の後をついて来れば良い……」

 『委細承知。全ては兄さんの言う通りに』

 「分かっていれば、それで良い。今は休んでおけ……と言いたい所だが、クアットロに代わって、“聖王の器”の管理を、頼みたい。正直言って、あいつは使えない」

 『はい。承知致しました』

 回線が閉じて部屋の中に静寂が戻った後、トレーゼは床の資料や論文の山を上手くかわしながらラボに続くドアを開けてだだっ広いラボに出て、そこで待たせておいたウーノの傍へと寄り添った。年の小さな弟が姉に甘えるような仕種で寄って来た彼を優しく迎えるウーノではあったが、その表情は限り無く暗いものだった。犬や猫が自分の匂いを付ける為に体を擦りつけるみたいにして積極的に彼女に触れていたトレーゼも、そんな様子の彼女を見兼ねたのか一旦離れてしまった。

 「昔のように、頭を撫でては、くれないんだね……」

 「あなたは昔とは違う……変わってしまった」

 「変わったから、してくれないんだ…………何で変わってしまったか、自分でも、良く分かってない。でも、こうしないと、いけないって、漠然と思っているのは、断言出来る。『私』であるな、『公』であれ……17年前は、分からなかった、トーレの言葉が、今なら理解出来る」

 「私達姉妹が誰もなれなかった正真正銘の機兵に……なってしまったのね……。出来たら貴方にはなって欲しくはなかったのに…………あっ」

 トレーゼの頬に伸ばされたウーノの手だったが、その氷のような温度に思わず手を引っ込めてしまった。手で触れた瞬間に伝わって来た痛覚にも似た強烈な冷気……まるで体温を失くしてしまった死体のようなその冷たさをまともに感じてしまったウーノの胸中に、あの時のトレーゼの姿が去来した。あの紅い魔力に覆われた得も言われぬおぞましい姿を……。

 近寄りたくない!

 そんな強い拒絶の意思が無意識に込み上げるのを自覚した時、彼女は目の前の弟の様子がおかしい事に気付いた。

 「ごめん、ウーノ……」

 「トレーゼ?」

 光の宿らぬ目を力無く伏せて頭を下げる弟……あともう少しで逃げ出しそうになっていたウーノよりも先に彼は距離を置き、頭を下げて謝罪の意を示した……。ウーノはすぐに理解した、自分の弟が恐怖の色を露わにした自分の事を気遣ってくれたのだと……血は繋がっておらずとも信じる姉を気遣ってくれているのだ。ウーノは自分の事を恥じた……目の前の彼は今も昔も変わらず自分を信じてくれているのに、よりにもよってそんな弟に恐怖してしまった自分の事が許せなかった。

 「いいよ……明日で、何もかも終わる。そうしたら、また皆で、昔と同じように、していられるから……。だから、待っていて」

 「貴方は……一体何をしようとしているの?」

 「…………今は、まだ言えない……。強いて言うなら……」

 「?」

 「“脱皮”……かな」

 そう言う弟の表情がどこかしら悲しげな色を湛えていたのをウーノは見逃さなかった。

 見逃さなかったが……それ以上の言葉は口から出なかった。だから──、

 「ごめんなさい……貴方にばかり辛い思いをさせてしまって……」

 冷たいその体を抱き締めた……今度はしっかりと、離さずに。



 17年振りの抱擁は不本意な虚しさと言い表せない悲しみで彩られていた。










 「ワタシはあの人が怖い」

 ヴィヴィオとの会話で開口一番にセッテが口にしたのはそんな言葉であった。培養液の入れ替え作業でシリンダーから出されていたヴィヴィオは彼女に体を拭いてもらいながら、そんな独白を聞いて首を傾げた。

 「あの人?」

 「兄さんです」

 彼女の言う「兄さん」がトレーゼの事を示しているのはヴィヴィオも予想出来たが、その彼が怖いとは一体何なのか? 確かに個人で凶暴な力を秘めている彼をヴィヴィオも一度は恐怖させられたが、それを身内であるはずのセッテ自身が感じていると言うのがまだ幼いヴィヴィオには理解出来なかった。

 「あの人の持つ力が怖い……ワタシの理解の外に位置しているあの強さが果てしなく怖い。生を受けて初めて感じた恐怖…………聞けば陛下はクアットロに暴行を受けたとか……その時の恐怖に近いかと」

 「それは……怖いですね」

 「ですが、近いと言うだけで恐らく陛下が想像なさっている恐怖とは違います」

 「へ? じゃあどんな事が怖いんですか?」

 「全てが怖い…………。あの力が、あの力に押し潰されないか……押し潰されたらどうなってしまうのか……それがワタシが感じたあの人に対する恐怖です」

 街中で暴走し掛けたトレーゼの姿を見てしまったセッテからすればあれは確かに恐怖の対象足り得る存在だったのは間違いないだろう。彼の事を良く知っているはずのウーノですら動揺を隠せなかった程の狂気に塗れたあの姿に恐怖しない者は恐らく同族であるナンバーズでもそうそう居ないだろう……たった一人を除いては。

 「ですが、一番怖いのはそんな事ではないのかもしれません……。ワタシにとって最も恐ろしく回避したくてたまらないモノ……それは、あの人に見限られてしまう事です」

 「見捨てられるって事ですか?」

 「ええ。『見捨てられる』と言う結果は様々な意味を含んでいます……多くは単純に使えない者として切り捨てられてしまう事を指しますが、ワタシが思っているのは違います。見捨てられると言う事は、つまり可能性を否定されると言う事なんです。可能性……自身と言う個体が持つ確率を真っ向から否定するのが『見捨てる』と言う行為だとワタシは考えています」

 「……………………」

 「可能性を否定されたと言う事は、価値が無いと判断されてしまう事です。価値が無いと言う事はつまり、そう判断されてしまった者は死んでしまったのと同義なのです…………ワタシは死にたくはありません」

 「セッテさん……」

 「存在しているのに死んでいる……そんな矛盾した結末をワタシは認めたくはありません。だから、認めてもらいたいのです────ワタシの“可能性”を」

 「え?」

 「何でもありません。陛下、そろそろ培養液の入れ替えが終了しますのでご用意を」

 促されるままにヴィヴィオは酸素吸入マスクを装着すると、再びシリンダーの中に入らされた。温かい培養液が足元から湧き出て来るのを見ながら彼女はガラス越しのセッテの口元が微かに言葉を紡いで動いているのを見逃さなかった。

 声こそ聞こえなかったが、その唇はこう言っているようだった。



 「正確に言えば、認めさせたいのです」



 嗚呼……似ている、この兄妹は似ているんだな。

 そんな感想を抱きながらヴィヴィオは事前に打ち込まれた睡眠薬の効果により、眠気に逆らう事もせずそのまま目蓋を閉じた。










 診断結果は『傷痕が残る程度』との事だった。敵の射撃をその右肩にまともに受けてしまったティアナだったが、奇跡的に骨や重要な神経や血管などは傷付けておらず、過度に動かしたりしない限りは日常生活においても支障は無いと判断されたのである。

 「それにしたって敵もなかなか器用な芸当をしてくれたな」

 「ええ。まさか私が撃つのを見越してスバルの背中に魔力コーティングを施していたなんて……」

 あの時、ティアナがスバルの背中に向けて発射した魔力弾は確かに命中していた。だがスバルの皮膚の表面に密かに展開されていた魔力コーティングの所為で彼女の魔力弾はほんの少し肉を抉っただけで一旦停止し、そして反射されたのだ、鏡面が光りを跳ね返すような要領で……。結果として反射した魔力弾は撃った本人の肩を抉り抜き、まんまとしっぺ返しを喰らわされてしまうと言う戦士としては恥晒しな負け方をしてしまったのである。

 「スバルとノーヴェの容態は?」

 「全身の疲労が著しいそうだ。無理にウィングロードを発動させてしまったのが祟ったのだろう。ノーヴェは……」

 「……ノーヴェは今誰も接触出来ない状態だって聞いたわ。診察しようとしたらしいんだけど、誰かがちょっとでも近付くと凄く暴れて……手が付けられないって」

 現在二人とも医務室のベッドで眠っている状態だが、ノーヴェの方は疲労で倒れたスバルとは違い、鎮静剤で無理矢理眠らせたのだ。そうでもしないとチンクの言う通り手が付けられず、一歩でも自分の傍に近寄って来る人間を片っ端から撥ね退けて大暴れし、手当や取り調べどころの話ではなくなっていた。その暴れ方たるや凄まじく、奇声を上げて髪を振り乱しながら手当たり次第に物を投げつける姿はまさに羅刹そのものだった。薬の効果が切れる頃合いを見計らって様子を確認するそうだが、医師の見立てでは精神状態が回復する見込みは今のところは無いらしい。

 「あの時に何かの精神汚染を受けたらしいと医務室の方は言っていたが……あの芯の強いノーヴェがここまで……」

 「芯が強い人ならそっちの方が簡単に折れるものよ。…………あの、ギンガさん……私、その……」

 「言わなくても良いわ……スバルの事でしょ」

 「は、はい」

 「ありがとうね」

 「へ?」

 「あの時ティアナが撃たなかったら……多分、私とチンクのどっちかが手を下してた…………妹を殺さないといけなかった……。だからね、こんな事言うのはおかしいって分かってるんだけど…………ありがとう、私達の代わりに撃とうとしてくれて」

 疑わしきは始末する、それが戦場でのルールだ。実の家族を殺める……例えそれが状況的に見てそうしなければならなかったとしても、彼女達にとっては苦渋の決断を迫られた瞬間だったのは事実だ。ギンガが撲殺するか、それともチンクが爆殺させるか……暗黙の了解が二人を縛っていた所に進み出たのがティアナであった。彼女は二人に家族を殺めると言う悲しみを背負わせまいと率先して銃を向けてくれた……自分の親友を撃たねばならない悲しみを必死に押し殺してまで、その親友の姉妹にそれを背負わせない為だけに。

 「ありがとう…………本当に、ありがとう……っ」

 感謝の言葉がこれほど強く胸に突き刺さった事がかつてあっただろうか……。だが決してティアナは二人とは違って涙を見せなかった……今泣いて良い人間は自分ではないから。










 「…………これからどうなるんでしょうね」

 「んな事、お姉ちゃんが知る訳ないだろ……。今分かるのはこのミッドがとんでも無い事になっちゃってるって事だけだよ」

 ゲストルームの豪華なソファに腰掛ける三人の少女達は溜息混じりに窓の向こうに広がる灰色の街を眺めていた。セインを始めとする元ナンバーズ教会組がここへ連れて来られたのはつい一時間前の出来事で、放送ジャックを見ていたカリムの迅速な判断で急遽こちらに匿ってもらう事にされたのだ。車に乗り込むのがあとほんの少しでも遅かったら今頃は教会に押し寄せたマスコミの食い物にされていただろう。取り合えずの措置としてこの部屋に誘導された後、彼女らはクロノから大まかな事情を聞かされた……鹵獲作戦の事、ノーヴェとスバルに犯罪幇助の疑いが掛かっている事、市街地での戦闘でセッテが介入した事、そしてそのまま姿を暗まされた事も。

 「訳が分からないよ……。あのノーヴェとスバルが敵に加担するわけないじゃないか!」

 「ですが全ての状況証拠が不利な方向に働いています。スバルの方は現場で射殺処分されるところだったとか……」

 「それにセッテもセッテだよ。何だって“13番目”と通じていたんだよ? まさか……地上に降りて来た時から!?」

 「それは無いのでは? 拘置所の中に幽閉されている囚人は関係者でも簡単には接触出来ない絶縁状態にあると聞きます。どう考えてもこちらに来てから接触したとしか……」

 「そうだとしても動機が、従う理由が無い。セッテは教育者のトーレじゃないと言う事を聞かないはずなのに」

 「いや……意外とそんな損得勘定で動いてる訳じゃないかも知れない」

 「え?」

 意味深な発言をした姉にオットーとディードの視線が釘付けになった。知ってか知らずか、時折この姉は似合わない知的な事を言うので油断ならない。セインの視線の先にある街の風景の一角からは不穏な黒い煙が立ち昇っているのが見えた……丁度戦闘があった市街地の周辺からだ。

 「局と教会の連携がズタズタにされた今……一体どうやって敵を迎え撃ったら良いのか……」

 「そのズタズタにするのに私らがネタにされてるってのが何かなぁ」

 「騎士カリムには迷惑をお掛けしてばかりですね……本当に申し訳ない限りで……」

 自分達の潔白を証明する為に今頃必死になってマスコミを相手取ってくれているであろうあの優しい女性を思い浮かべながら、三人はやっと黒煙が収まった街の様子を眺めていた。どことなく室内に暗い雰囲気が漂う……それを敏感に察知したムードメーカーのセインがすぐに気を利かせて努めて明るい声で場を和ませようとした。

 「…………これが無事に解決したら皆でどっか行きたいね。久し振りにチンク姉達とか誘ってさ!」

 「旅行ですか? フフ、それも良いですね……。ミッドチルダには観光地が幾つもありますしね」

 「他の世界の観光地も行ってみたいけど、私達はまだ次元世界を渡航するには制限が設けられていますから……」

 「イイじゃんイイじゃん。そんなすぐじゃなくたって良いんだよ。いつか皆で一緒に行けるからさ……楽しみって良いじゃない」

 そう言ってセインは妹二人の頭をクシャクシャと撫で回した。いつもなら嫌がってすぐに抜け出すオットーとディードなのだが、今日だけは大人しく姉のされるがままになっていた……二人とも薄らとその顔に笑みを浮かべて。

 と、そんな風に感傷に浸っていた時──、

 「失礼する」

 ドアが開いて誰かが入室して来た。その人物はセイン達の良く知った者で……と言うより、知っていて当然の人間だった。

 「チンク姉様?」

 「久し振りだな、ディード……。セインとオットーも何とか息災そうだな。姉は安心したぞ」

 「そんな事よりもチンク姉! 一体何がどうなってんだよっ、教えてくれよ!」

 「あのー、その事なんスけど……実は私らもあんまし詳しい事は教えてもらってないんスよね~」

 「ウェンディ! ディエチ!」

 チンクの後ろから続く形でゾロゾロと見知った妹達が部屋に入って来た。情報流布によって不当に晒し物にされるのを回避する為に局内で保護されると言う流れになったが、これでノーヴェを除く全ての元ナンバーズが一堂に会したと言う事になる。

 「済まないが、皆に会ってもらいたい御仁が居る。いや……会ってもらいたいと言うか、会わなければならない」

 「会わないといけないって……一体誰?」

 「ここで言うより実際に見た方が信じられるだろう。私について来てくれ」

 そう言って早歩きで目的の場所まで移動するチンクを五人の妹達が背後から数珠繋ぎとなって後に続いた。道中で話を聞いたところ、ウェンディやディエチもチンクの言った人物は全く知らされておらず、また心当たりも無いらしい。さっき彼女が無意識に「御仁」と言う敬語を使った所を見る限りでは、少なくともその人物はチンクにとっての直接の上司か私的に頭の上がらない者なのだろうが……。

 「着いたぞ」

 「って、えぇ! 近っ!?」

 セインが思わずそう言ったのも当然で、彼女らの居たゲストルームからほんの十数歩歩いただけの別のゲストルームの前まで連れて来られただけだった。意外に思っていたのは彼女だけではないらしく、それまでにチンクの指示に従っていたディエチ達も言葉にせずとも驚きが表情に表れていた。

 「こちらに居られる……。くれぐれも失礼の無いようにな」

 「一体どんなお偉いさんがいるんスかね?」

 「いや……実を言えば、お前達も良く知っているお方なのだがな」

 「私達の知ってる人? うーん、誰だろ?」

 「…………あんまり期待しない方が良いぞ……」

 億劫そうにそう言ったチンクは半ば諦めたような感じでインターホンを鳴らして入室を知らせ、自動ドアが開くのを待ってから部屋の中へと足を踏み入れた。










 「この本……まだ持っていてくれたのね」

 そう呟いたウーノの手に握られていたのは一冊の赤い本。ここへ来た時からトレーゼが保管していたあの革張りの古ぼけた本だった。破れかけの背表紙を愛おしげに指の腹でゆっくりとなぞり上げると、僅かにボロボロになった紙の一部が粉状となってこびり付いた。

 「てっきり捨ててしまったかと思ってたわ」

 「捨てないよ。それは、俺達四人……ウーノと、ドゥーエと、トーレと、俺の物だから。俺の一存では、どうにも出来ない」

 「あなたは変なところで律儀ね……。ああ、懐かしい……」

 ボロボロになってしまったページを破らぬようにしながら彼女は本を捲り始めた。その紙面を心の底から懐かしむかのように、ゆっくりと、摘んだ紙の感触を一枚一枚確かめるようにして捲り続け、頬は無意識の頬笑みで緩んでいた。やがてページにある全てを見終えたのか、閉じたその本をトレーゼに手渡すと、自分より小さい彼の肩を抱き寄せた。

 「ねぇ教えて……あなたの本当の目的は一体何? 私に……いいえ、誰にも言って無い何か大事な事を隠していない?」

 「…………言えない……例えウーノでも、今は言えない。言っては、いけない」

 「否定しないのね……あなたの言う『計画』が本当は別の意図がある事を」

 血の繋がりは無いとは言え姉は姉で、如何に感情を表に出さない弟の嘘でもとっくに見抜いていた。この無機質な弟は自分を慕う妹達にですら打ち明けていない何かしらの重要な事実、或いは真意を隠し持っている……そう勘付いていたウーノの予感は的中していた。途端に再発するトレーゼに対する恐怖心……。彼の奥底で燻ったまま燃焼もせず鎮火もしない不透明な意志の焔がいつ自分達の向けられてしまうのか、そう考えてしまったのである。

 「計画の本当の目的…………全てが終われば、分かる事だから」

 「それまでに何をするつもりなの? ドクターとトーレの奪還以外に何をする必要があるの!?」

 “脱皮”……彼が自らの計画を揶揄した言葉がふと脳裏を横切った。そのワードに何かしらの危惧を感じ取っていたウーノは更に詰め寄る姿勢を強めた。このままトレーゼを放任して見過してしまえばとんでもない事が起こる、起きてしまう! ならそれを止めるのがナンバーズを指揮するNo.1としての役目であり、長姉である個人としての役目でもあるのだから。

 「教えて……何をしようとしているの? 何が目的なの? あなたは一体どこへ向かおうとしているの?」

 「……………………俺は……『失敗した成功作』」

 「え?」

 「まずは、『成功した失敗作』を、引き入れる。全ては、そこからだ」

 自分の肩を掴む手を優しく振り解き、トレーゼは踵を返して立ち去ろうとした。呆然としたまま掛ける言葉も見つけられない姉を一瞥すると──、



 「お願いだから、後ろから、撃たないで」










 『アクセル! マキシマムドライブ!』

 『トライアル! マキシマムドライブ!』

 「ふむ、メモリとドライバー共に問題無しか。最終調整は整った、これでやっと依頼通りに送り届けられる。それにしても相変わらず彼女の技術力には驚かされるなぁ。この技術をデバイス工学に活かせられれば、もはやベルカ式カートリッジなど前時代の代物になるだろうな」

 満足気な笑みを満面に浮かべながらスカリエッティは預かっていた品々を緩衝材を詰め込んだダンボールに入れる作業をしていた。『A』の文字が刻印された赤いUSBメモリらしき物体と、バイクのハンドルのような装置……それと『T』が刻印されているカウンター機能が付いた小型装置をその隣に入れており、ダンボールの表面に『割れ物注意』と書き込み、蓋をガムテープで縛って厳重に封を完了した。そしてそれを呼び出しておいた局員に手渡すと、刑期を終えていない受刑者とは思えないくらい堂々とした口振りで命令した。

 「ではさっき言った次元世界へ特急便で送ってくれたまえ。くれぐれも損失しないように細心の注意を払って欲しい、私の友人が直々に調整を依頼して来たモノだからなぁ……何かあれば信用問題に関わる」

 「か、かしこまりました」

 「よろしい。では行きたまえ、ほら早く早く!」

 急かされるままに荷物を預けられた局員はゲストルームを飛び出して早急にそれを送り出す作業に取り掛かった。恐らく、今後一切スカリエッティはあの箱の中の物品、及びそれに関する事物とは関わらないだろう……。

 無事に局員が部屋から出たのを確認した後、上座にどっしりと腰掛けていたスカリエッティが立ち上がり部屋を徘徊し始めた。腕組みをした仏頂面のトーレはそれを見ても特に何も言う事無く黙認したままで、そのままだんまりを決め込んだ。当のスカリエッティの方もそんな彼女を無視して部屋に置かれたソファの周りをしばらく回り続け、その間ずっと顔にいつもの三日月型に歪んだ口元を張り付けながら歩いていた。

 やがてその周囲を三周程したところでようやく元の場所に座り直し、大儀そうに頬杖を突きながらまだ笑みを浮かべていた。まるで上質なコメディでも見ているかのように……。

 「はてさて……これはこれで面白い、実に面白い! いやはや、あまりにも面白過ぎて面白いと言う感想以外に相応しい言葉が浮かんで来ないよ。ハッハッハ!」

 ひとしきり笑って満足した彼は足を組んで目の前の来客者達に向き直った。

 「さて、まず手始めに一体どこから聞きたい? 私の自慢のナンバーズ諸君」

 不敵な笑みの先にあるソファに座るトーレを含む七人の元ナンバーズの面々……チンクを除いた全員の顔には驚愕の相が張り付いており、陸に揚げられた魚みたいに言葉を失ってしまった口をパクパクと動かしているだけだった。あの常に落ち着きを見せている冷静なオットーとディードでさえもが幽霊か何かいけない物を見てしまったみたいに指を指して固まっていた。

 「な、何で……何でドクターが……?」

 「えっ!? だってドクターは拘置所にブチ込まれて……って、えぇ? ええっ!」

 「トーレ姉だってどうして!?」

 眼前の事態が理解出来ないのか、次第に混乱を極め始める彼女達を見て収拾がつかなくなる事を予測したチンクが立ち上がり、全員に分かり易い簡潔な説明をした。今回の事件の首謀者である“13番目”の正体がかつて一度会った事のあるトレーゼだと言う事……その彼がかつてスカリエッティの手によって造られたと言う事……当然の帰結としてその戦闘機人が自分達の兄に当たると言う事……その兄を止める為にウーノとトーレ共々管理局へと招集された事…………自分が知り得る事は全て話し、その上で理解と協力を妹達に求めた。始めは半信半疑だった彼女らだったが、実物が目の前に居るので次第にその事実を飲み込み始めた。その点については何よりもトーレの存在が大きかった……正規ナンバーズ最強の戦術性を持つ彼女までもが引っ張り出されていると言う事実が自然と彼女達の気を引き締めさせるのに一役買っていたのである。

 「まさかトレーゼさんが“13番目”だったなんて……! あの時からずっと騙されていたと言う事ですか!?」

 驚愕に震えるディードを始めとする教会組とトレーゼとの直接の面識は地上に降りて来たセッテに会いに行った11月13日……それ以降は一度ノーヴェと共にイクスの見舞いに訪れたとばかり思っていたのだが、その事実が本当だとするならば彼は教会を滅茶苦茶にした翌日に何食わぬ顔で再びやって来ていたと言う事になる。あの時にシャッハの手足を切り飛ばした仮面の男がまさかトレーゼだったなどとは俄かには信じ難かったが、スカリエッティが提示した写真とトーレの証言によって彼女らは事実と認めざるを得なくなった。

 「それで……久し振りの再会を皆で祝したい気持ちは山々だが、その前の一連の事件に関しての説明、或いは釈明云々をこの私に対して直に問い質したいと言う気持ちも無きにしも非ずのはずだ。幸いにもここは我々以外には水入らず……各々が好きな事を聞いてくれて構わない」
 
 「じゃ……じゃあ、まずは私からで良いかな?」

 「うむ、何かなセイン?」

 「何でドクターはその……“13番目”、て言うか兄ちゃんって言った方が良いのかな? 何でトレーゼを造ったのさ?」

 「愚問だなセイン。無論、この私がそう有れかしと望み、この有り余る頭脳と技術を用いて製造したに決まっているだろう」

 答えになっていないような回答にセインどころか全員がズッコケそうになるのを堪えた。まぁ確かにスカリエッティのコードネームは『無限の欲望』……自らが願い、望み、そして欲するモノをどこまでも貪欲に追い求め、脳髄と言う名の知識の胃袋に収めるまで止まる事を知らない歪み切った本能の持ち主だ。元々三年前に起きた事件も“ゆりかご”に対する彼の欲望が最高評議会の与えた使命を上回った事が原因なのを考えると、この様に「欲しいから造った」と言う言葉も嘘ではないのかも知れない。

 だが──、

 「と……言いたい所なのだがな、実際は違う」

 「え?」

 「あれはただの偶然……否、奇跡の産物だった。この私の頭脳を用いても辿りつけなかった『忘れられた都』以上の神秘……それが彼だった」

 「では、“13番目”はドクターが意図して生み出した訳ではないと仰るのですか?」

 「その通りだよチンク。この世に偶然など有りはしないと疑わなかった私が直面した生涯で唯一の奇跡…………そうだ、全ては二十年も昔に始まった……二十年前、私が初めて自分のラボ得た時に最初に行った研究から」

 遠い過去を思い出しているのかスカリエッティの目が遠くなり、僅かに微笑んだ。いつもの彼からは想像も出来ない様なその清々しい表情に一同は思わず見惚れてしまい、あのトーレですら驚きに目を見開く程であった。大きく吸い込んだ息を吐き、しばらく沈黙を預けた後、彼はふと真剣な面持ちとなり目の前に居る自分の娘達に向き直った。

 「一つ……昔話をしよう。物語の内容は今から二十年以上も昔に起こった出来事だ。誰も知らない…………知っているのは私だけ、私と彼以外には知る者は誰も居ない。聞きたいか? 聴衆が居るのなら語ろうともさ。そう、あれは……」



 「私が自分のクローンを生み出そうとした時の事だったなぁ……」










 「あ! 目が醒めました?」

 一番先に目を開けて見えた顔がシャマルだったのは幸運だっただろう。これでティアナと鉢合わせだったなら気まずいどころの話ではない……。独特のエタノール臭がするのを感じる限り、ここは医務室なのだろうとスバルはすぐに把握した。それは良いのだが……

 「あの……何で私、腹這いに寝かされてるんですか?」

 「背中の一部が少し抉れちゃってますから……。今仰向けに寝ちゃうと凄く痛いですよ」

 「あ、それ聞いたら痛くなって来た……」

 現在スバルは上着等を脱がされ、上半身は胸元のブラジャーだけの状態となってベッドに腹這いに寝かされていた。包帯や止血布のゴワゴワとした感覚が背中に圧し掛かり、少し窮屈な感じがするがやはり痛みには代えられないので我慢するより仕方無かった。そうこうして周囲をキョロキョロと見回している内にスバルの脳は徐々に交感神経に切り換わり、気を失うまでに一体何が起こっていたのかを少しずつ思い出し始めた。

 「ああ、そっか……私撃たれたんだ」

 家族の誕生日が今日だったと言うような気軽さで彼女はそっと呟いた。親友に背中を撃ち抜かれたと言う事実が意外にも彼女にとってはそれ程ショックな事ではなくなってしまっていたのだ。嫌に頭が冴えてしまってしょうがない……他でもない自分自身の事なのにまるで観客席からの視点みたいな他人事に思えてしまう。実際は無意識にそう思いたいとしているからそうなっているだけなのかも知れないが、今の彼女にとってはそれすらどうでも良い事だった。ただもう無気力……一度に多くの出来事と接触してしまった所為でスバルの生来タフな精神もすっかり疲労していた。

 「…………シャマルさん、私ってこれからどうなるんですか?」

 「うーん、そうですね……。ぶっちゃけて言っちゃうと、逮捕とかは免れられないかも知れません」

 「やっぱり?」

 「流石に背任罪は無いと思いますけど、今回の一件でスバルさんが“13番目”の正体を知っていたにも関わらず管理局に報告しなかったのは痛いですね~」

 「そうですか……」

 別に不安だった訳では無かったが自分の処遇について聞いてみたところ、意外とはっきりと包み隠さず答えられたので少し驚いた。と言ってもほんの少しの事で、また元の無関心な状態に戻ったスバルは何の当ても無くただ目の前の仕切りカーテンの布地を見つめるだけだった。

 「……聞くの遅れましたけど、あれからどうなったんですか?」

 「宣戦布告の後に逃走。転移魔法だったから足取りは掴めてないそうよ。市街地は今頃調査員と救助班とで入り乱れてるでしょうね……」

 「ノーヴェは?」

 「敵の攻撃で精神錯乱状態です。今は誰とも面会できません」

 「ティアは?」

 「右肩を損傷してますけど、傷が残るだけで大した事はありません」

 「これからどうなるんですか?」

 「明日の深夜にヴィヴィオを解放するらしいわ。スカリエッティ引き渡しを条件にね」

 「……………………私はこれからどうしたら良いんですか?」

 「それは自分で考えるべきよ」

 最後の質問に答えた後、シャマルはベッドの横の卓に何かを置いた。青いクリスタルの形を取って待機しているスバルの専用デバイス、相棒のマッハキャリバーだった。シャーリーの手によって完璧に修復されたその表面には傷一つ無く、使い手の体調さえ完全ならいつでも使用可能な状態にあった。

 「……いいんですか?」

 「私はベッドの上の患者を信頼している……患者が私を信じてくれているように、私にはあなたを信じる義務と権利があります」

 「シャマルさんは私が裏切って無いって思ってくれているんですか?」

 「うーん、まぁそれもあるんですけど、本当はどっちでも良いんですよ」

 「え?」

 「この先、あなたがどんな行動を起こしてどんな結果に至っても……それはあなたが望んで選んだ道、選択の結果です。残酷な言い方をすれば、そこから先は私にとっては関係の無い事なんです」

 「ばっさりですね……」

 「ええ、そうですね。だからこそ信じているんです……あなたが自分の選んだ道の先に見つけられるモノがあると、私は信じています。私達と同じように……」

 「シャマルさんも同じ事があったんですか?」

 「ええ。時間は掛りましたけど、私達は共通の『信じるもの』を見つける事が出来たその旅路を後悔はしていません」

 スバルには何となくだがシャマルの言わんとする事が理解出来た。闇の書に縛られて悠久の時を存在し続けた彼女らにとって、自分達の周囲は常に時の流れを移ろい、やがては消え行くだけの儚いモノに過ぎなかっただろう……信じるものはおろか、守るべきものにも先立たれる虚しさだけが残り続ける生き地獄を彷徨って来た彼女らは、ようやく手にする事が出来た希望の光を信じ、今を生きている。信じる事の大切さを知っている彼女だからこそ言える言葉がスバルの鼓膜を通して心に刺さった気がした。

 「前向きで生きてくださいなんて言いませんよ。むしろ、たまには後ろ向いてイジけても良いじゃないですか。でも絶対にこれだけは約束してください……後悔だけは絶対にしないと」

 「後悔……」

 「進んじゃった道は引き返せません……引き返そうとする行為が『後悔』なんです。自意識過剰になれなんて言いませんけど、自分の歩く道を常に信じて譲らないでくださいね?」

 信じる……自分の行いを、これからの道筋を。

 「…………こんなボロボロになった私でも……まだ出来る事があるなら……」

 やる事は一つしかない。










 夢を見ている……。そう、これは夢なのだとはっきり分かるあからさまな夢を。

 どっちが右でどっちが左か──、

 どこが上でどこが下か──、

 前を向いているのか後ろを向いているのか──、

 何もかもが全て曖昧な空間に彼女は漂っていた……深海の様な闇に覆われた虚空を宙に浮いてしまった自分の意識が確かにそこに存在していると感じながら。だが手が無い、足が無い、顔が無い、胴体も無い。まるで体から魂が抜けだした、いや、体から抜け出した魂そのものみたいな実体の掴めない感覚が彼女を満たしていた。確かにそこに存在しているはずなのに何も無い……煙よりも曖昧な状態だった。

 星の煌めき程の明かりも無い漆黒の闇の中を彼女は進んでいた。いや、実際は進んでいるのか昇っているのか、或いは堕ちているのか、それすらも分からなかった。ただ一つ確かなのは、止まってはいないと言う事。この何もかもが塗り潰された空間の中で自分は止まっていない、確かに動いているのだと言う自信があった。こんなおかしい空間で止まるはずもないのだが……。

 ふと、どう言う訳か突然彼女は自分の状況を恐れ始めた。それまで何の抵抗感も無かったはずのこの暗闇が次第に居心地の悪さを感じ始めたのがきっかけで、徐々に恐怖する心が芽生えて来たのだ。原始の時代から人間が恐怖する根源的事象、それが“暗闇”と呼ばれるモノ……。彼女は無意識に明かりを求めて闇の中を移動し続けた。

 やがてそれを求めてどれぐらいの時が過ぎたか、彼女は遠くに何かが輝くのを見つけた。見つけたと言うより、意図せず偶然そこにあったのを見てしまったと言うような感じだった。だが見つけられた明かりはとても弱々しく、蝋燭の火のように揺らめき、星の瞬きよりも微かなものでしかなかった。手を伸ばせばその微風でも消し飛ばしてしまいそうな程に……。

 でもそんな事は関係無い。今は一刻も早くあの光に縋ってここから脱したい気持ちだけで一杯で、それ以外の事なんて考える余裕すら無かった。

 そこから先は必死だった、走っているのか飛んでいるのかすら分からなくなった曖昧な自分を鞭打って、彼女はその光の許へと急いだ。あの光を得られれば自分はここから抜け出せる……根拠なんて無い、あるのは直感だけだ、いつだって自分はそうして来たのだ……そう信じて生きて来たのだ。これまでも、これからも……ずっと……。

 彼女は信じて進んだ……自分の光を得る為に!










 「だが、辿り着く事は出来ない。永遠にな」

 自分の体内を忙しく循環する自分の物とは別のリンカーコアを感じながらトレーゼは呟いた。リンカーコアの魔力色は黄金色……そう、あの時ノーヴェと接触した瞬間に彼女から切り離したリンカーコアの一部である。本来リンカーコアと言うのは分割不可能である……と言うのも、リンカーコア自体が実体を持たない魔力の圧縮体なので、切り離した瞬間こそエネルギーの塊として存在する事は可能だが徐々に自然消滅してしまうのが常識だ。

 だがこの場合は少し特殊だった。

 「まさかノーヴェちゃんの『心』を根こそぎ削り取るなんて……お兄様ったら、やる事がえげつないですわね。あぁっ、でもそんなお兄様が素敵!」

 「ドクターの、残した論文の中に、リンカーコアに関する記述が、幾つかあってな、その中に一つ、興味深いモノがあった」

 右手の指に嵌めていた指輪型に待機していたマキナが輝き、指先から蜘蛛の糸のような細い魔力糸が伸びて虚空に円を描く。その円の中に展開された亜空間にトレーゼが自身の左手を挿入した次の瞬間、その左手が他でもない彼自身の胸板から飛び出して来た。以前地上本部にティアナの姿を借りて侵入した時にシャマルと接触したついでに彼女の得意とする空間操作魔法【旅の鏡】を収奪していた。空間を歪める事によって遠くにある物体や体内の異物ですら取り出せるこの魔法を使って彼が取り出したるは、黄金色に輝く魔力の塊……ノーヴェの持つリンカーコアの一部だった。

 「ある学者が言うには、人間は肉体、幽体、霊体の、三つで構成されているらしい。肉体は身体、幽体は精神、霊体は生命力……分かり易く言えば、こうだ。そして、リンカーコアは、精神と生命の状態に、大きく左右される」

 「つまりぃ~、魔導的に言えばリンカーコアは幽体と霊体を兼ねてるって事ですのねぇ」

 「今日は、頭の回転が良いな。そうだ……ドクターの研究は、リンカーコアと精神の関連性、についてだった。人の精神は脳にある……精神状態に左右されるなら、リンカーコアは、脳と同じ働きを、行う部分があるのではないか、とな」

 「それでどうでしたの?」

 「一度、大量の魔力を、こちらから流し込み、相手のリンカーコアを浸食……浮き彫りになった、理性を司る部分を、一気に吸い取った。今のNo.9は、言わば自分の感情だけで、動いている状態、動物と全く同じだ」

 精神部分を司る部分を一緒に切り離された事により、魔力の性質よりも精神状態を保つ機能が優先された結果として収奪したノーヴェのリンカーコアは辛うじて形を保っていられているのだ。そしてその精神部分が分離されたと言う事は、脳で言えば前頭葉に異常が起こった状態と同義である。前頭葉の異常とは即ち脳細胞の委縮及び死滅……高度な思考と理性を司るその部分が死滅すると言う事は、物事を深く考えたり自分の行動に歯止めが利かなくなってしまうなど、トレーゼの言う様に正に感情と本能だけで動く動物と同じ状態になってしまうのだ。実際に脳が損傷して起こる同様の現象を『アルツハイマー病』と言うが、ノーヴェの場合は直接脳にダメージを負った訳ではないので回復の見込みはまだある……トレーゼが奪ったリンカーコアを戻せばの話しだが。

 「でもぉ~、どうしてそんな事をしたんですか? そんなまどろっこしい真似しなくったって殺しちゃえばよかったのに」

 「あいつは、まだまだ使える余地が、残っている。今捨て置くには、少々惜しい。それに…………」

 「それに?」

 「あいつの、本当の感情を、推し量りたかった。タマネギの皮の奥にある、芯がどんな色をしているか、知りたくなっただけだ。艶があるか、腐っているのか……それだけだ」

 左手を引っ込めて亜空間を閉じ、そのままハンモックに飛び移ると目を閉じる。明日の作戦に備えて今出来るのは充分な休息を摂って英気を養う事だ、今頃はセッテも別の部屋で同じように待機しているだろう。ちなみに明日の作戦はセッテとの二人だけで行うのでクアットロのサポートは必要としておらず、当日は適当な仕事を与えて自分達に関わって来ないようにする手筈だった。そうとも知らない本人は気楽なもので、床を埋め尽くす論文の山に腰掛けて鼻唄を歌っていた。

 「もうすぐ……もうすぐさ。また、あの時に帰る事が、出来るんだ」




















 新暦62年某月某日、第69管理世界『コクトルス』にて──。



 老人ハルト・ギルガスは大いに悩んでいた。同じ科学者仲間であるスカリエッティが開発に成功した四機の戦闘機人、その一体を貸与と言う形で受け渡してもらったのは良いが、既にこれを譲り受けてから一年、研究の進行状況はと言うと……

 「何故だっ!? 何が足りない? 何故足りない? 理論上は、計算では何の問題も無いはずなのに! 一体儂の頭脳の何が足りてないと言うのだ!!」

 芳しくはなかった。既にこれで通算何百回目になろうか……今まで行って来た彼の試みはことごとく全て失敗に終わり、最早何もかもが万策尽きかけた状態に等しくなっていた。人間ここまで企てが上手く行かないとモチベーションが下がるどころの話ではなくなり、白髪混じりの頭を乱暴に掻き回しながら彼はシリンダーの培養液に浮かんでいる少年を恨めしげに睨みつけた。そんな彼の視線に気付くはずもなく、培養槽のトレーゼは固く閉ざされた両目を開ける事も無く静かに眠りについていた。

 万事休す……このまま行っても成果は無いと判断していたハルトは早くも自分の研究に見切りをつけようとしていた。

 「最早儂に出来る事は全てやってのけた…………後はこれだけだ」

 そう言って彼が取り出したのは一枚のディスク、ある非合法研究のデータが納められた情報媒体だった。このたった一枚のディスクに封入されている情報こそが、今の困窮した彼の現状を打開する為の最後の切り札であった。実を言ってしまえば彼は最後までこれに頼りたくは無かった。と言うのも、記録された資料内容は彼自身の研究ではなく同じ科学者繋がりで入手した真偽の定かではない研究成果だからだ。出来る事なら純粋に自分の力だけで成し遂げたかったのだが……そう言っていられるほどの余裕がある訳でも無し、正に藁にも縋る思いとやらでこれに手を出す羽目になってしまったのである。

 「『プロジェクトF.A.T.E』……史上初となる記憶転写が可能な素体か。試してみる価値はあるやも知れん」

 風の噂で耳にしたある違法研究……人間の持つ記憶や人格をそのままデータとして保存し、培養した新たな肉体にそのまま移し替えると言う斬新を通り越して異常性しか感じない技術が最近になって一応モノになって来ているらしい。もちろん倫理的な問題やコスト面の面倒さから裏世界の研究者でもよっぽど狂っている連中で無い限りは手を出さないらしいが……既にその『狂った』一部のマッドサイエンティストの間では浸透しつつあるらしい。そしてそのある意味都市伝説にも近い技術の背後には、あのスカリエッティの影がちらついているとも……。

 「ならば……ジェイルには悪いがもうこの素体は用済みだな。悪く思うなよ、だが約束は果たすつもりだ……」

 そう言って彼の手がコンソールに伸びてコードを入力し始める。程無くして完全にコードが入力され、シリンダーに満たされていた培養液に目には見えぬ変化が表れ始めた。それまで鮮やかな蛍光色をしていた液が徐々に濁り始めた。液中の酸素が分解された事によって肉体の細胞が崩壊を起こし、滲み出た大量の血液が黒ずんだ墨のように見えていた。自身の肉体がボロボロと崩れて行くと言うのに、強制的に眠らされたままの本人は結局目覚める事無く──、

 遂に機械骨格だけが残った。だがそれらも用無しなのですぐに処分するつもりだ。今必要なのは……

 「これだ……」

 排水を完了したシリンダーから彼が取り出したるは、全身の骨格を人工物に置き換える戦闘機人が唯一手を付けない部分、即ち頭蓋骨であった。残りのフレームを全て除去し、彼はそれを宝物でも運ぶようにして抱えながらラボへと戻った。眼窩辺りに残っていた小さな機器を取り除くと彼はまだずっしりと重いそれをデスクの上に鎮座させると、彼はそこを一旦離れて──、



 無骨な金槌で頭蓋骨を頭頂から叩き割った。



 「こぉれだぁ~! これが欲しかったんだよォ!!」

 人体の最も大事な部分を守るだけに硬さは半端無く、亀裂が入って僅かに隙間が開いただけだった。だが彼にとってはそれで充分だった。

 「待っていろジェイル! 儂は必ずお前の頭脳に追い付いて見せるぞ! 進化だっ、もはや成長と言う域を越えた現象に儂は到達してみせるぞ!!」

 亀裂の奥からもぎ取った“それ”を高々と振り上げながら彼はラボ全体に響き渡るような大声で笑っていた。





 この時に彼が行った行動が17年後の11月22日にミッドチルダにて勃発した一つの波乱の火種になろうとは、当然ながらこの時は誰も想像していなかった。



[17818] 時来たれり
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:e8674b3f
Date: 2011/01/09 10:08
 「戦いに正義は無い……。つまりは、全てが正しい、と言う事でもある」

 いつものシミ一つ無い純白の服を着こなしながらトレーゼはそう呟いた。隣で読書していたセッテが反応して顔を上げるが、別に誰かに言い聞かせる為に言った言葉ではなく、ただ本当に何の感慨も無く口から出ただけの言葉だった。だがそんな事は露とも知らないセッテは一旦本を閉じるとハンモックで揺れる兄の許へと近寄った。

 「また何か考え事ですか兄さん?」

 「いや……。別に、何でも無いさ。ただな……」

 そう言って自分よりも長身の妹にも見えるように腕時計の文字盤を見せた。二つの針は寸分の狂いも無く真上の“12”の位置を指しており──、



 「今日は、作戦決行日だ」










 新暦78年11月22日、第一管理世界ミッドチルダ全域──。



 その日、ミッドチルダは怒号と罵声に彩られていた。原因はその昨日に起こったある一つの事件にあった。

 スカリエッティ一派の生き残りを名乗る一人の少年からの全世界に向けての犯行声明……それが三年間の平和を無為に享受していた者達の寝耳に掛けられた冷水だった。かつて三年前にクラナガンを中心にミッド全域を不安と恐怖で覆い尽くしたジェイル・スカリエッティの狂気が再来したと言う事実は瞬く間にミッドだけでなく他の次元世界にも知れ渡り、それらの世界を統括する管理局は焦りを感じずには居られなかった。残された猶予はたったの一日、その一日で対策立てる事は到底不可能……ただただ焦燥感だけが背後から押し迫るだけでしかなかった。

 だが彼らが抱える問題はそれだけでは済まされなかった。

 今度は全管理世界の民衆が敵に回ったのだ。原因は当然ながら情報規制による隠蔽行為、害悪を成す敵が自分達の住む社会に潜んでいたのを知っていながらそれを半月にも渡って公表しなかった事実が痛手となり、世間の反感の目は一気に管理局に向けられたのだ。管理局側としては社会に混乱と動揺を招かない為にと考えて行ったのだが、そんな言い訳は民衆には通用しなかった事は言うまでも無い。昨日の昼過ぎに開かれた記者会見は生放送で電波に乗せられてメディアに流れ、誰もが等しく自分達を守ってくれているはずの組織の醜態を目の当たりに出来たと言う訳だ。日付が変わった今日でも朝の特番からその時の映像が再度流されており、それをネタにして各メディアの有名なジャーナリストや評論家達が呑気に討論なんかしている。もはやそうしているだけで無為な時間を過ごしているとも知らずに……。

 しかし、泣き面に蜂とはこの事か、これだけでは収まりつかない事態までもが発生したのだ。

 放送ジャックによって公開された情報の中にはかつてのスカリエッティに与していた十二人の少女兵の情報もあり、更正して社会復帰した彼女らの私的情報までもが漏洩されたのである。これに猪の一番に喰らい付いたのがマスコミと一部の民間人だった。偏った正義感を振りかざして言及する者も居れば面白半分で情報を更に別のメディアなどに流通させる者も居たが、結局その全ての被害を受けたのは話題の渦中に居る元ナンバーズらと彼女らを保護する管理局と聖王教会だった。未曾有の大事件の実行犯をたった三年と言う短い期間で社会に放ち、あまつさえそれを秘匿していたと言う事実は民衆の中で消えかかっていた加虐と報復の炎を再び燃え上がらせる結果となってしまい、格好の餌に齧り付くハイエナのように人々は彼女らに非難の声を高々上げている状況を作り上げてしまった。

 人々の声高な誹謗中傷は一日が過ぎた今日になっても収まりを知らず、この状況こそ“13番目”が意図して作り出した悪循環の模型図だと誰も気付かないままに時だけが流れて行った。










 午前10時32分、地上本部ゲストルームにて──。



 「さて……時間は大して与えられんかったが、ある程度各々の意思は固まっただろう。今ここでそれらを聞かせて欲しい」

 上座のソファに頬杖つきながら座るスカリエッティが目の前に居る七人の娘達にそれぞれ問うた。ソファに並んで腰掛けているトーレを始めとするナンバーズの面々は皆揃って神妙な表情をしており、石の如く押し黙っていた。本来ならばここに顔を揃えていなければならない者が後三人いるのだが、ウーノは昨日の一件で奪還されてしまい、ノーヴェは病室で眠らされており、セッテに至ってはあろう事か敵側についてしまったので当然ここには居ない。事実上このメンバーが正規ナンバーズの生き残りと言う事になり、その彼女らが現在一様に思考している議題があった。それは──、

 「“13番目”……即ち君達の兄に当たる者について今後どうするか。それが先日の別れ際に私が提示した議題だったはずだ。僅か一日で結論を出させるのは早計かも知れないが、そこは了承して欲しい」

 「よろしいのでしょうか? その……こう言った事は厳粛な会議の下で行われるべきでは?」

 「昨日も言ったが何も恐れる事は無い。司令塔であるハラオウン提督殿からこの件に関しては我々の総意を今後の絶対の方針にすると正式に言い渡された。それに今となってはいちいち面倒臭い会議なんて開いている暇なんかどこにも無い、我々だけで気兼ね無く決める方がよっぽど効率が良いと私は思っているよ」

 「でもそれって私達の出した結論でどうにでもなっちゃうって事ッスよね?」

 「責任重大と取るかどうかは君達次第だが、少なくとも私にとっては他人事だ。むしろ楽しんでいると言っても良い」

 「ドクターは気楽で良いですよね~」

 「だからこそ君達に回答要求を突き付けられると言うものさ。さぁ、そろそろ本題に戻ろうか。もう一度問うが、この事件が終幕を迎えた後で“13番目”が捕縛されていた場合────」



 「“13番目”の殺処分に賛成の者、もしくは反対の者……双方のどちらに属するかここで表明して欲しい」



 ミッドチルダの管理局法上、如何なる罪状を持つ者であっても死刑判決は下されない。犯罪者に対しても人道的処置を求めるこの社会の六法全書には直接罪人を殺めて裁く『死刑』の二文字は無く、事実上の死刑である永久凍結刑を除いてはスカリエッティらが受けている無期懲役や終身刑などが最高刑となっている。これはまさに社会貢献の実力と意思さえ持っていれば誰もが機会を手にする事が出来ると言う実力社会の有り様を如実に表していると言っても良いだろう。

 だがしかし、この法には穴とまでは言わないがある決定的な特徴を持つ部分があった。

 それは、この法が人間のみに適用されると言う事だ。この魔法技術が日常においても目にするぐらいに発展した管理世界では、人間以外にも社会で生活を営む知的生命体が多く存在している。狼の使い魔アルフ、現在は英国にて隠遁中のリーゼ姉妹、守護騎士ヴォルケンリッター、ユニゾンデバイス、召喚蟲ガリュー……例を上げればきりが無く、これらは全員管理局の基準によって人間と変わらぬ生活を営め、更に人間社会に溶け込む上でも問題無いと判断される者とその候補である。使い魔に限って言えば基本的に契約主である魔導師に忠実なので殆ど有り得ないが、彼らが死罪に匹敵する罪状を作ってしまった場合は容赦無く殺処分が敢行されるのである。死刑にならないのはあくまで管理局によって純粋な人間と判断された者だけであり、それ以外であれば例え人の格好をしていたとしても無視されるだけだ。三年前の事件ではナンバーズの面々は『人間』と認定され、個々人に更正と黙秘の権利が認められたが……。

 「もし殺処分になったら私達は一体どうなのさ?」

 「今回の一件は特例中の特例として扱われるだけさ。君達ナンバーズとは別のモノとして情け容赦無く執行される」

 「そっか……」

 「して……結論から行こうか。順番に意思表明を頼む。なお、賛成か反対かについては個々人の感情一つで判断してもらいたい。その方が明確で良い」

 催促するスカリエッティとは対照的にナンバーズの面々は相変わらず押し黙ったままだった。この談義を要約すれば即ち多数決、七人しか居ないので必ずどちらかの意見が決定稿となるのだ。ただ単に自分がどちらに属してどんな理由でそこに属するかを明らかにするだけなのに、彼女らは戸惑い意味も無い腹の探り合いをするだけでしかなかった。一体誰がどんな感情を抱いているのか……一度疑問を覚えればそこから先は底無しなのが人間の性と言う奴だ。

 そんな永遠に続くかと思われた沈黙を最初に破ったのはトーレだった。それまでずっと伏せていた顔を上げると凛とした表情で挙手し、開口した。

 「私はあいつの『姉』で、あいつは『弟』だ。個人的な理由だがその『弟』が処理されるのは『姉』として辛抱ならない」

 トーレ、反対。

 最初の一人が表明してから先は簡単だった。沈黙を破ってもらったお陰で固い口が緩み、トーレの製造序列がこの中で最初期だった事もあって番号の順番で表明しようとする動きが暗黙の了解となって他の姉妹達を動かして行った。

 「確かに“13番目”は非人道的行為に手を染め過ぎてはいるが、かつての私達と同じナンバーズなら……更正可能な余地はあるはずだ」

 チンク、反対。

 「私は…………シャッハや騎士団の皆を傷付けたのがどうしても許せない! だから私は……殺しても良いと思ってる」

 セイン、賛成。

 「セインの言う様に、あの大量殺戮と破壊は許せる事じゃない……。単純な話になるかもしれないけど、生きていて償える事じゃない」

 オットー、賛成。

 「私達を騙してたのは許せないけど……殺したりなんかしたらノーヴェが悲しむから」

 ディエチ、反対。

 「同じ理由になるッスけど、スバルの泣いてる顔は貴重でも見たくないッス」

 ウェンディ、反対。

 「存在しているだけで被害が及ぶなら処分した方が確実です。例え冷酷だと言われても……」

 ディード、賛成。

 特に大した意見のぶつかり合いも無く、スカリエッティ含めたった八人の会議は反対多数と言う結論で一旦の閉会を迎えた。傾向としては“13番目”による被害を直接受けた教会組が賛成で、それを殆ど受けていないナカジマ家が反対と言う分かり易い分かれ方となった。

 「ノーヴェはどうなるんですか?」

 「平静を取り戻せば是非とも聞きたい所だが、生憎と敵はそれまで待ってはくれんだろう。何しろ相手はこちらの都合などお構い無しに突き進んで来るからなぁ」

 渦中のキーパーソンでありながら全く他人事のような気軽な口調で言ってくれるスカリエッティ。その軽い物言いに全員の呆れた視線が突き刺さるが当然気にするはずもない。

 「はてさて、ここから先は一体どうなることやら」










 午後12時03分、トレーゼのアジト──。



 「これで良し。ベッドを用意したから、あとはそこで、安静にしていろ」

 使い終わった応急処置キットをセッテに手渡しながらトレーゼはヴィヴィオを抱きかかえて予め用意しておいた簡素な作りのベッドに横たえた。培養液の細胞活性によって皮膚表面の傷がある程度修復した腕を固定する為にギプスや包帯の巻き付けをついさっきまでしていたのだが、予想以上の回復に隣で見ていたセッテの方が驚きを隠せていなかった。恐らく粉砕骨折した部分が再生するのにそれ程時間は掛らずに済むだろう。

 「気分は如何ですか陛下?」

 「セッテさん……。セッテさんも腕、大丈夫なんですか?」

 「問題はありません。既に傷口の修復は完了していますので」

 そう言ってセッテは包帯が巻かれた右手をヒラヒラと振って見せる。上手い具合にフレームを傷付ける事無くナイフが刺さった為、あとは戦闘機人の再生力で何とかなった。作戦開始時刻には傷痕すら残らないだろう。対するヴィヴィオの方は右腕全体をギプスでガチガチに固定し、器具を使って釣り下げている状態にしてあった。完全に骨格が再生修復するのにはまだ時間が掛かるがこのまま順調に行けば支障無く再生出来るだろう。

 「あの……ありがとうございます」

 「礼なら兄さんにどうぞ。ワタシはただの補助ですから」

 「あ、はい。ありがとう、トレーゼさん!」

 ベッドから顔だけ向けて礼を述べるヴィヴィオであったが、それを言われているトレーゼは聞こえているのかいないのか返事もせず読書をしていた。ぴったりと三十秒ごとにページを捲りながら一定の速度で読み進める彼の目は水晶のように透き通り、いつもと同じ何の輝きも宿さない目をしていた。

 ふと、しばらく黙々と本を読み進めていた彼だったが不意に立つとセッテに本を仕舞わせて部屋を出ようとした。

 「シュミレーションを、行うぞ、セッテ。先に、行っていろ」

 「了解しました」

 「あと、この部屋には、クアットロ避けに、結界を張る。後でウーノにも、伝達しておけ」

 「はい。それでは陛下、失礼します」

 兄の命令に従順なセッテは余計な口を挟む事もせず言われた通りに部屋を出ると目的の場所へと向かい始めた。部屋に残ったのはトレーゼとヴィヴィオのみ……幼いヴィヴィオには重苦しく感じられる沈黙が横たわった。その冷戦にも似た互いの沈黙がどれだけ続いたかは分からないが、先に口を開いたのはトレーゼの方だった。

 「何か、言いたい事が、ありそうだな」

 近くにあったパイプ椅子を寝ているヴィヴィオの枕元に寄せてそこに座ったトレーゼ。二人の視線が互いの眼を捉え、さっきとは違う感覚の沈黙が生まれた。どうせ何を言っても無駄だろうと諦めていたヴィヴィオは見透かすようなその一言で心を引き締めたのか、幼い年齢にそぐわない意を決した表情となってトレーゼとの対話を求めた。

 「戦うんですか?」

 「ああ、そうなるな」

 「っ!!」

 一分の迷いも無いその返答に危機感を覚えたのか、ヴィヴィオは必死になって食い下がった。

 「ダメっ! 絶対にそんな事しないで! しちゃいけないよぉ!」

 「何故?」

 「なんでって……! 何もいいことなんて無いよ……」

 「そうだ、単に戦っただけでは、得られるモノなど、何一つ無い……。良く分かっているじゃないか」

 そう……戦った先にあるのは“勝利”と“敗北”言う名ばかりで実の無い空虚なモノでしかない。そんなモノを得て天狗になるのは戦士だけだ、戦士は戦って戦って戦い続けて勝利の美酒を勝ち取り続ける存在だからだ。

 だが彼は違う。彼は戦士ではない……『狩人』なのだ。無益な戦いを避けて通り、確実に勝てる勝負でしか命を懸けず、勝利のその先にあるモノを奪い取る……猛獣を仕留めた猟師がその肉と毛皮を剥ぎ取るのと同じで、彼にとって勝利とは真の結果を得るまでの過程に過ぎない。故にこれから行う事も他人から見れば単なる大量殺戮と破壊の限りであったとしても、首謀者であるトレーゼ自身にとっては意味のある行為である事に変化は無い。幼子であるヴィヴィオの社会論をかざした正論では計り切れるものではない。

 それでもやはり割り切れるものではない!

 「みんな……みんな悲しむよぉ……」

 「悲しむ者など、誰も居ない。俺も、お前も…………あいつらも、誰も、悲しまない。そうだろう?」

 「そうじゃなくて……!」

 「ああ、そうか、お前の身内が、心配なのか。安心しろ、取り引きに、呼び出した奴は、始末しないで────」

 「そうじゃないっ!!!」

 部屋中に響いたその大声にトレーゼは思わず自分の体が驚きに跳ね上がるのを感じた。こんな年端も行かない小娘の体のどこにそんな声を出せるだけの力があるのか不思議になる程だったが、すぐに平静を取り戻すとトレーゼは興奮して息を荒くしているヴィヴィオと向き直った。その時の瞳はそれまでのような氷を削ったような無機質な色ではなく、真摯な感情を湛えた輝きを持っていた。

 「人殺しが、何故いけないと、思うんだ? 法律に、記してあるからか? 生来の、道徳心が、拒絶するからか? 周りの大人が、そう言い聞かせたからか?」

 「それは……」

 「お前達が、社会の規則を、正しいと思うように、俺もまた、自分の行いを、正義だと信じている。お前達が、声高に俺を批判しようと、俺の善悪は、俺が判断する……世界でもなく、お前でもなく、同じナンバーズでもなく、この俺が判断する」

 「自分勝手だよぉ……」

 「だが、悪ではない。俺にとっての、“悪”とは…………自らの行為を悪だと認めてしまう事だ。自ら行った、行動に、自信を持てず、社会の言われるままに、『自分は正しくなかった』と、挫折する事……善悪の概念で、括られなければ、自分を保てない、愚か者の思想だ」

 普段の彼からは想像もつかない力強さでそう言い切ったトレーゼは、ゆっくりと自分の右手をヴィヴィオの頭に置いた。そのまま少し軽く撫で上げ、ブロンドの髪に指を優しく梳き通した。人が変わってしまったようなその慈愛に満ちた行為にヴィヴィオは完全に惚けてしまった。だがそんな事も気にする事無くトレーゼは更に自分の言葉を連ねた。

 「俺は、いつだって、自分を信じて来た……自分の、信じるモノを信じて、ここまで来た。俺のこの行動も、一分の隙も無く、正しい正義だと、俺は確信している。そして、それを捻じ曲げる事は、誰にも不可能だ」

 「でも……でもっ!」

 「分かれ、とは言わん。分かって、欲しくもない……お前は黙って、成り行きを、傍観していれば、それで良いんだ」

 「……………………」

 「…………だが、俺の行動で、お前が悲しむ、と言うのなら……」

 「っ!?」

 「今夜の作戦内容……考えて、やらん事も無い」

 それまで頑なな態度を崩さなかったトレーゼの最大の譲歩にヴィヴィオの表情が輝いた。興奮で跳び起きそうになった体を自制し、彼女は必死になって訴える。

 「お願いです! もう誰も殺さないで!」

 「……それが、お前の要求か?」

 「もう……もう誰も傷付いてほしくない……ママも、スバルさんも、ノーヴェさんも…………これ以上はもう……」

 「…………………………………………よし、約束しよう」

 トレーゼが左腕を伸ばして来た。差し出された左手は握り拳に小指だけが立っており、どこで知ったかは不明だが地球の極東式口約束の方法だった。恐る恐るヴィヴィオも健在な左手を同じように小指だけ立てて出し、互いに小指を引っ掛け合った。

 「今夜、俺は、誰一人殺しは、しない。無血開城、させて見せる。お前のママも、その仲間も、絶対に殺しはしない」

 「……本当ですか?」

 「契約を違えたなら、針千本なり、万本なり、この体に刺せ……。俺は、有言実行だ、安心しろ」

 そう言いながら彼は指切りの左手を上下に揺らして約束した。

 とても不確かで曖昧で、他の誰が聞いても忘れてしまいそうなぐらいに儚い約束を交わした二人……。普通なら疑いの念を持ち続けたり、殆どが約束を交わす所まで到達せずに切り捨ててしまうのが常識だ。

 だが彼女は違った。

 紅翠双眼の少女はその者の心のどこかに信用に値する何かを見出していたのかも知れなかった。










 午後12時17分、地下施設内の訓練室にて──。



 「それで結局どうなされたのですか?」

 三年振りに着用した防護ジャケットの強度と柔軟性を確かめながらセッテはアップをしている兄に問うた。

 「所詮は、乳臭い子供だ……。こちらが、ほんの少し、甘やかしてやったら、すぐに大人しくなった。単純だな、呆れて言葉も無い」

 片手腕立て伏せに始まり二十のプロセスを経て今ようやく腹筋鍛錬連続50回を終えたトレーゼがセッテの前に立ち塞がる。鉄面皮の表情とは裏腹に準備運動を終えたその両肩は呼吸ごとに上下し、程良い調子に温まった頬は少し赤味を増していた。対峙し合う二人は互いに得物を構えておらず、制限時間二十分の間は徒手空拳で格闘訓練を行う予定だった。

 「残っていた、ジャケットを、適当に見繕った、だけだったが、サイズは合っていたようだな」

 「ほんの少しだけ小さな気もしますが、戦闘行動を取る上では問題ありません。それで……教えていただけませんか?」

 「何をだ?」

 「惚けないでください。貴方の本当の計画の目的をそろそろ教えてくれてもよろしいのではないですか?」

 「ウーノから、聞いたのか?」

 「いいえ、ワタシは貴方の妹ですから……」

 「なるほどな……聡い奴だ」

 観念したかのような感じでトレーゼは緊張を解くと、背中を壁に預けて腕組みの姿勢を保ちながらセッテと向き合った。セッテも同じように壁に背を預けて兄の横に並び立ち、これから兄が話してくれるであろう事実に耳を傾けて静かに待っていた。だがしかし、一度沈黙したトレーゼはずっと俯いたまま何も語ろうとする気配が無い……。

 「兄さん?」

 「……………………」

 彼の顔を覗き込むと、彼にしては珍しく思慮深く考え込むような表情をしているのに気付いた。話すべきか話さずに居るべきか……どうやらそれについて悩んでいるらしい。確かに姉であるウーノにすら明かさなかった事を考えればそう易々とは話してくれる事はまず無いだろう。元々口は固い方だ、これ以上言及したとしても収獲は無いだろう……そう思ってセッテが離れようとした時──、

 「蛇が脱皮するのは、どうしてか、知っているか?」

 「え?」

 「蛇だけ、ではない……水辺の甲殻類は、ほぼ例外無く、脱皮を繰り返して、成長する。何故、硬い殻を捨てて、再び形成されるまで、外敵だらけの世界で、柔肌を晒すのは、どうしてだと思う?」

 「堅牢な外骨格に覆われたままでは内側からの成長の妨げになります。一度外殻を脱ぎ捨て、表面が未成熟で柔らかい内に一気に拡大させる為です」

 「つまりは、そう言う事なんだよ」

 悟ったようにそう言うとトレーゼは両手を頭の後ろに組んでスクワットを始めた。五秒に三回のペースでそれを繰り返す彼を呆けたような表情でセッテは見つめる……未だにこの兄の真意が計りかねない事に少し不満を覚えたのか、彼女は腹いせするかのように軽くトレーゼの足を小突こうとして──、

 爪先を踏まれてしまった。

 「甘いな、不意討ちなら、本気で来い」

 「っ! ……っ!!」

 神経の集中する指先を正確に踏み潰されてしまったセッテはしばらく片足を押さえながら悶えていたが、やがて痛みに慣れると少し恨めしげな視線を兄に突き刺した。だがやはりそんな事も気にせず当の本人は再び温まった体の感触を確かめながら訓練室の中央まで戻った。

 「さて、今から行う、戦闘シュミレーションだが、一対複数の戦闘を、仮想して行う」

 そう言った次の瞬間に足元に魔法陣が展開され魔力を押し固めて生み出された実体を持つ幻影が二体現れた。鏡映しのように寸分の相違点も無い幻影は本体の動きに合わせて格闘の構えを取った。トレーゼの持つ膨大な魔力を利用して生成されたこの二体は物理的干渉力を持たない幻影の域を出ており、完全に実体化して質量もオリジナルとほぼ遜色無いレベルにまで達していた。操作自体は本体であるトレーゼ本人が行うのだろうが、セッテは実質三人も一度に相手取らなければならなくなったと言う事だ。

 しかし、ただの複数相手を想定した訓練ではない事は察しがついた。

 「ライアーズ・マスク……発動」

 疑似魔法陣の輝きと同時に三人のトレーゼの姿が一斉に変貌を遂げた。一方は髪が長くなり、一方は身長が短くなり、そしてまた一方では筋肉の量が大幅に変化して行くのが見て取れた。変化の結果は千差万別にも見えたのだが、実際の三体に共通していたモノがある、それは──、

 「なるほど、そう言う趣向ですか……」

 溜息を吐きながらもセッテも構えを取った。今彼女の眼前に居る兄の姿は完全変化の能力で姿形を原形とは掛け離れたものへと変えていた。身長……体重……髪型……体格……眼の色……そして──、

 性別。

 「そうがっかりしたような反応を返すな。姉は……いや、『兄』は悲しいぞ」

 「この訓練にはこうしたやり方が一番合ってるから仕方ないんだよ」

 「いいか、本気で行くからな! 気を抜いてるとブッ殺しちゃうかもよ?」

 目の前に居るのはセッテよりも先に生み出されたチンク、ディエチ、セインの姿だった。自分と同じように防護ジャケットを羽織るその容姿はもちろんの事、話し口調から佇まい、各々の一挙手一投足までもが何もかも完璧にコピーして再現されており、チンクに至っては眼帯までもが寸分違わぬ再現度を実現している程であった。

 今から行う戦闘訓練は今夜の作戦を想定している……と言う事はつまり、その為にわざわざ彼がこの三人の姿になったと言う事は即ち指し示す事実は一つだけだ

 「ワタシに姉殺しをしろと仰るのですか?」

 あの時彼が言っていた言葉……「戦う相手は七人で良い」と言っていたのはこの事だったのだろう。確かに現在管理局に属しているナンバーズは教会組の三人とナカジマ家の四人……今夜の作戦でこの兄が数千の武装局員の軍勢をどうにかする策とやらを用いれば、自分達二人が戦うのはその七人だけで済むと言う話だ。だがしかし、この兄がいざ戦闘になって相手を根絶やしにしないはずがない……きっと有無を言わせぬ内に同胞であった者でも躊躇せず排除するだろう。

 「いいや、あくまでお前は兄の補助だ」

 「セッテが前衛に回ってる間に私が撃つ……」

 「簡単だろ? でも責任重大だからな?」

 そっくりそのまま姉の姿を模したトレーゼの言葉にセッテは徐々に戸惑いを覚え始めた。

 あまりにも精巧に複製された三人の姿……偽物だと頭で分かっていても、その姿、その声、その仕草の一つひとつが本物以上の存在感を醸し出している所為でセッテの頭は混乱し始めていた。今目の前に居るのは本物の姉なのか? それともさっきまでのあの兄の姿こそが紛う事無く本物の姿なのか……。

 分からない、どんどん分からなくなってしまう!

 頭を軽く押さえて落ち着こうとするが苛立ちにも似たその思考の波は抑え難く、彼女は少しずつそれを隠し切れずに眉をひそめている自分が居る事に気付き始めた。

 「すみませんが、せめてその口調だけでも何とかしてもらえませんか? 集中出来ません」

 懇願するつもりの言葉だった。このままこれを続けたままで訓練に入ってもきっと彼女はまともに相手をする事が出来ないだろう……。だからこれはせめてもの頼みのつもりの言葉だった。

 だが──、

 「何を臆しているんだセッテ? これは今から行う訓練に必要不可欠な措置に過ぎない」

 「ですが────!」

 「もう一度言うよ? これは必要な事なんだって」

 ディエチの幻影が進み出て諭すようにそう言ったのをきっかけに、セッテの認識が大きくズレ始めた。一度そうなってしまうと止まり難いのが人間の部分の欠点だ。

 実体化した幻影だから本体は一人だけのはず……さっきのディエチの話し方はまるで人間が話しているようだった。だとすれば今はディエチの方が本体か? いいや、記憶が正しければ本体が変化したのは確かにチンクだったはずだ。だがさっきから不敵な笑みを浮かべているセインの方も怪しく思えて来た……。誰だ……一体誰が本物なのだ!?

 誰が本物かを見失ってしまったセッテの僅かな動揺を察したのか三人の幻影の足元に再び疑似魔法陣が出現した。はっとなるセッテに三人が三人とも含みのある笑みを浮かべており、程無くして全員の体がまたもや変貌を始めようと紅く光りだした。代わる代わる変化して行く様子を戸惑いながら見つめるセッテはいつしかその光景に得も言われぬ狂気を感じ始めていた。

 「いいか? お前は今よりも強くなる必要があるんだ」

 チンク──。

 「その為にはどうしてもこの方法が一番なんだよなぁ~」

 セイン──。

 「ひょっとして躊躇ってる? だとしたら何で?」

 オットー──。

 「まさかとは思うけどよ、お前ひょっとして相手があたしらだから殺せないなんてアホらしい事は言わないよな?」

 ノーヴェ──。

 「そうだとしてもセッテには殺すぐらいの気概でやってもらわないと困るから」

 ディエチ──。

 「真面目にやらなくったって別にいいッスよ。その時は後ろから撃つだけッスから」

 ウェンディ──。

 「それがお嫌だと言うのであれば、全力で臨んで欲しいです」

 ディード──。

 絶え間無く姿を変える三人の幻影はいつの間にかセッテの精神を追い詰めてしまっている事に気付かず、徐々に彼女を壁際へと追い込んで行った。始めは戸惑いの表情を浮かべながらも何とかその場に踏ん張っていたセッテではあったが次第に心が折れて行ったのか、やがてその端正に整った顔に焦りによる嫌な冷や汗が滲み出し、後ろ向きに一歩退いてしまったのを最初にして後は総崩れ……恥も外聞も関係無くただただ後ろへと逃げるだけだった。

 「あっ……や、やめ……っ!」

 窮鼠とはこの事か、壁に沿って徐々に徐々に追いやられ、いつの間にかセッテは自分が部屋の隅にまで逃げて来ていた事に気付いた。錯乱寸前にまで追い詰められた彼女に残された必死に腕を振って追い払う行動を示した。今の彼女はつい先日に駅構内で混乱した時と全く同じ心理的状況に立たされており、自らの感覚内に捉えたモノ全てを激しく拒絶し始めていた。強い拒絶の意思が込められたその行動にトレーゼと幻影は少し距離を置いたがそれも少しの間の事でしかなく、再び不定形生物の如く姿を変化させながら接近を再開した。

 もはや本人の意思など関係無い……拒絶の姿勢を見せるならそれを徹底的に否定して上書きすれば良いだけの話だ。トレーゼは自分の妹にそこまでして自分のやり方を強要した、しなければいけなかった…………そうしなければこの戦いには勝てないと知っていたからこそ、彼女にそれを強要しているのだ。

 だが──、

 「やめてぇぇっ!!!」

 「ム……!?」

 拒絶意思が臨界点を突破してしまったセッテの昂り過ぎた感情がエネルギーとなって体外に放出され、疑似魔法陣を介して飛び出した桜色のエネルギー奔流が颶風の如く訓練室全体を駆け抜けた。余りにも凄まじいその衝撃は魔力で形成されていた幻影は一瞬で消滅させ、トレーゼ本体のライアーズ・マスクまでもが強制的に解除される程の激しさであった。流石のトレーゼもこれには驚いたのか瞬時にバックステップで距離を取り、自身に異常が無いかどうかを確認した。戦闘機人の動力炉が内包するエネルギーを解放してしまえば小型の核兵器にも匹敵する出力が得られる……もし今のでリミッターが外れていたら転移魔法を発動させる間も無く一瞬でこの孤島全体が消えていたに違い無い。

 戦闘機人のシステムとして最後の奥の手と言う事で個々人の意思でのリミッター解除はある程度許容されてはいるが、感情の昂りだけでここまでのエネルギーをばら撒いて良い訳が無い。案の定、急激に自身の体力と気力、そして駆動系のエネルギーを全て消費してしまった所為でセッテはだらしなく膝をつき、そのまま一歩たりとも動けなくなってしまっていた。

 「まさか、自分のエネルギーの、扱い方まで、満足に出来ない、とはな……。お前には、再教育が必要だな」

 一歩間違えれば今夜の作戦どころか命までをも失い兼ねなかった事実にトレーゼは苛立ちを覚え、壁際にもたれ掛かってピクリとも動かない妹に詰め寄った。淡い桃色の長髪があられも無く振り乱されており、長いその髪に端正な顔もすっかり覆い隠されていた……まるで糸の切れた人形みたいに動かないセッテを怪しみ、トレーゼは乱暴に髪を引っ掴んで自分の方に引き上げようとして──、



 彼女の『異常』に気付いた。



 「……………………そうか、そうだったんだな」

 「あぁっ……ああ、うああ……」

 引き千切らんばかりの握力で掴んでいた髪を離すと、トレーゼは乱れている妹の髪を自ら整えその頬を優しい手付きで撫でた。小刻みに震え続ける肩に腕を回してそっと抱擁し、眠らない赤ん坊をあやすようにして背中を何度もゆっくり優しく叩いていた……少しでもこの妹が落ち着けるようにと。

 「済まない事を、してしまった。赦せ」

 「はぁ……はぁ……はぁっ」

 がっしりと自分の背にしがみ付く手の感触を確かめながら、トレーゼは彼女の頭を撫でる。ある程度落ち着きを取り戻してからそっと離れると横に並んで座り込み、脱力してもたれ掛かって来たその頭を抱きかかえた。寒さに耐えきれないように震えるセッテは長身を折り曲げて小さくなっていて、雷に怯える子供のように頭を抱えてただ震えているだけだった。そして……実際彼女は怯えており──、

 「そうか…………お前、人間が、怖いんだな?」

 見開かれた目からは今まで一度も流した事の無かった涙が溢れていた。










 午後12時35分、クラナガン医療センターのロビーにて──。



 「本当にすみません! 僕達がもっとしっかりしていたらこんな事には……!」

 「お役に立てなくてごめんなさい!」

 昨日の鹵獲作戦に参加したメンバーで生き残っていたのはたったの三人……エリオとキャロ、そして今回の一件で協力関係を結んだルーテシアの三人だけだった。幸いにも三人とも大して目立つ外傷は無かった事もあって回復も早く、直接戦闘を避けていたルーテシアも契約していた蟲の数匹を失っただけで済んでいた。あの大惨事とも取れる過酷な作戦を生き延びたのは喜ばしい事だったのだが、どうやら作戦が失敗に終わってしまった事が堪えていたようであり、医療センターで怪我の検診を受けていると聞いてせめて労いの言葉ぐらい掛けようと思って見舞いに来たはやては土下座せんばかりに頭を下げる二人と出会った。

 「ちょ、ちょっと二人とも! そない頭下げんでもええんやに!? 元々は指揮執ってた私の技量が足りやんかったからで……」

 「でも! 最後の最後でウーノさんを守っていたのは僕達でした! 僕達が頑張れなかった所為で……あんな事に……!」

 「エリオ……そないに気に病まんでもええんやに? あの“13番目”を前に逃げんかっただけでも充分やってくれたって思うてるよ……。ありがとうな」

 今自分が持ち得る最大級の賛辞と感謝の言葉を投げ掛け、はやては頭を下げたままの二人を優しく抱き留めた。まだ幼さ残るこの二人はこの利益無き戦いの最大の功労者だ、このまま頭を下げたままにさせておくのは忍びない上に二人自身にも失礼だと感じたのだろう。半ば強引ながらも顔を上げさせるとはやては少し恥ずかしそうに身を捩る二人の頭を撫で回した。

 「本当にありがとう…………」

 「はやてさん……」

 「うっ、ううっ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 「謝らんといて。可愛い顔が台無しや」

 泣きじゃくるキャロを何とか落ち着かせた後で備え付けの長椅子に座った時、彼女は糸が切れたように眠りに落ちた。聞く所によると昨日は全く一睡出来ていないらしく、ずっと何かに怯えたような感じで夜を過ごしていたと聞いた。その理由は……

 「そうか、目の前で隊員が……」

 「僕とルーは何とか耐え切れましたけど、やっぱりキャロにはきつかったみたいです。主治医の方が内緒で言っていた事では、このままだと心に深い傷を残す可能性も……」

 「トラウマか……キツいなぁ。武装隊は殺し殺されが基本やからしゃーないって言えばそうなんやけど……」

 人間やはり自分と同じ種族を殺す事、もしくは殺される瞬間を目の当たりにする事に抵抗感を持たない者は少ないだろう。ましてやそれが本来であれば血生臭い出来事とは無縁のはずの十代前半の少女ともなれば尚更だ。眼前で人間が惨殺された上に丸ごと粉砕された光景を見れば大抵の人間は一生それを忘れられないに違いない。そしてそれはトラウマと言う精神障害となって表れてしまう……。

 はやてはか弱い彼女を戦場に駆り出してしまった事を後悔し、項垂れていた所──、

 「あの、はやてさん……」

 「……え、ああ、何?」

 「一つ確認しても良いですか?」

 「うん? 私に答えられる事やったら何でも聞いて。基本的にもうこの件で秘密にせなあかん事なんて何もあらへんで」

 「はい……えっと、その……」

 事実、“13番目”の存在を管理局が公に認めて公表した今、もはやその件で秘匿制限などの義務は無くなっているのでここで何を話そうがまるで問題は無い。だがそれを知っているのか知らないのか、エリオは自分から切り出したクセに奥歯に物が引っ掛かったみたいに歯切れが悪く、なかなか本題を話し出せないでいた。だがそれ以上の間を置く事無く意を決した表情になると、勢いを付けるようにはっきりと訊ねた。

 「スバルさんとノーヴェさんが“13番目”に加担してたなんて嘘ですよね?」

 「……あぁ、その事か……」

 エリオの訊ね方……『本当なんですか?』ではなく『嘘ですよね?』と聞く辺り、彼自身もまた彼女らが管理局を裏切るなどとは毛頭思っていないのが見て取れるだろう。ついぞ三年前まで寝食共にした仲間を疑いたくはないのはあの時のメンバーであれば誰でも同じ気持ちなのは当たり前だろう。はやてはエリオに事の顛末の全てを話し聞かせた。この二週間でスバルとノーヴェに共通の友人が現れた事……Dr.ギルガスの研究資料にあった写真からその友人が“13番目”だと発覚した事……その事実からスバルとノーヴェに幇助罪の疑いが持ち上がった事……事情聴取を行った時に逃走を図られて疑いが増した事……だがその疑念は“13番目”によって直接否定された事……しかしその否定はスバルのみだった事…………文字通り包み隠さず全てを話して聞かせた。

 「そうだったんですか……」

 「ノーヴェは今本部のベッドに縛り付けておるよ。誰とも会えへん状態やって聞いてる」

 医師の判断で睡眠薬を投与され強制的に眠らされていると言う彼女は、今はその精神に多大なダメージを負っているので本当に誰とも会えず、むしろ会わせてもらえない状態にあった。担当医の言う事によれば、現在認知されている如何なる精神攻撃の魔法を以てしてもここまでなる事は無いと言う話だった。

 「“13番目”の方針については?」

 「スカリエッティ曰く、今夜が最後の最後に残ってるチャンスらしい。イチかバチかの大博打……当たれば事件解決、外せば……」

 「外したら?」

 「このクラナガンはお終いや」

 その言葉にどんな真意が含まれていたのかエリオには薄らとしか理解出来なかった。敵の目的はスカリエッティの奪還以外には無いはず……もし仮に今夜の正念場でこちらが惨敗に喫しても、犯罪者一人を奪い返されたと言う事実以外には何も無いはずだ。“聖王のゆりかご”と言う究極の研究対象が消滅した今となっては彼らがこれ以上版図を広げる可能性は低いとも考えられる。それは管理局の誰もが分かっている事だ。

 だがはやてははっきりとこの機を逃せばお終い、つまり敗北にのみならずと言いた気だった。それ即ち、彼女は“13番目”の計画達成の余波はもっと他の所で発生すると予見している事になる。こちらの予想の斜め上、180度真逆の発想……そして導き出される結果と言うの名の解答。そのイコールの記号の先にあるモノが何なのか……今の状況では完全に解き明かす事が出来ないのが歯痒かった。










 「…………最初に感じたのは初めての出撃の時でした……」

 幾分か落ち着きを取り戻したセッテを抱き留めながら、トレーゼは静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。彼女が自身の深層心理の中で人間を怖れる理由……人間を殺す事を目的に造られた戦闘機人として重症とも言える欠陥を抱えた妹の真意をトレーゼは推し量ろうとしていた。

 「予めトーレから戦技教導を受けていたワタシは絶対の自信に満ちていました。あの時、予定空域で待機していたワタシ達に課せられた任務内容は『航空勢力の速やかなる排除』……増援として向かって来る航空武装隊を迎撃して全滅させると言うモノでした」

 「……………………」

 「装備を持ったワタシはトーレと共に敵陣に突貫して……ワタシは教えられていた通りに彼らを撃墜しました」

 「……大したものだ」

 「トーレにも同じように褒められました。『上出来だ』って……。でも…………本当は違いました」

 「……………………」

 再び怯えに震え始めたセッテの体を強く抱き留める。氷のように冷たい腕を回されても彼女は抵抗どころか逆に自分よりも小さなその体に身を埋めようとして必死に震えを抑え込もうとしていた。

 「最初の一人を墜とした時に悲鳴が…………次はワタシに迫って来た人の雄叫び…………仲間を撃墜された人の激昂…………浮力を失って落ちて行く時の泣き声…………そして、ワタシに向けられていた全員の怨嗟の声……」

 「……聞こえ、過ぎていたんだな。殺す時に、非情に、徹し切れなかったから、断末魔に、惹かれて、恐れを成してしまった」

 「あれからワタシは複数人を相手に戦闘行動を取る事は……出来難くなってしまいました。一人なら問題は無いのですが…………あの時の何もかも入り混じった声や視線を二度と感じたくないんです……」

 死の間際に放たれる人間の強烈な思念の塊や渦とも言えるその奔流……それを真に受け止めてしまったとなれば人を殺める事に抵抗を覚えるのも無理無いだろう。恐らくこの先彼女は二度と大量の敵を相手取る事は不可能だろう。もし無理矢理にでもそうさせれば彼女の精神は病み続け、最後には内側から醜く歪んで朽ちて行くだろう。

 兵器でありながら一度に多くの人間を殺す事が出来ないとは落第点どころの話ではない。存在意義そのものが大きく揺らぎ崩れようとしていると言っても過言ではないのだ。三年前では地上本部襲撃以来は大多数と戦闘する機会が無かったので、恐らく教育者のトーレですらこの事実に気付いてはいないのだろう。否、むしろ同じ姉妹であった他のナンバーズらも知りもしないはずだ。

 そんな自分の膝の上で小さくなっているセッテを見つめながら、トレーゼはふと何気ないような口振りで質問を振った。

 「…………セッテ、お前は、何だ?」

 「え……?」

 「俺達、戦闘機人は、機械であり生物……。機械の精巧性と、人間の柔軟性……二つの、相反する面を、持ち合わせる、曖昧で、不安定な存在だ。そして、機械か人間か……そのどちらに、属しているかで、お前の在り方は、大きく違って来る。お前は、自分を、どちらだと、思っているんだ?」

 この質問は暗に自分にどちらの味方なのかを問うている事をセッテは察していた。人間として生きる事を選んだナンバーズは管理局に恭順して地上に降りた者達で、機械として存在する事を選んだ者はスカリエッティと共に拘置所に留まる事になった三人の事を指し示している。当然、管理局と敵対する事を選んだトレーゼは後者に当て嵌まっている。その彼が自分に『人間』なのか『機械』なのかを問う……つまり、今一度自分の置かれている立場を再確認する為のチャンスを与えてくれたのだ。従順な『機械』である事を宣誓すればそれで良いが、か弱い『人間』である事を認めてしまえば見限られてしまう。

 そうだ、最初からこの兄に自分をいたわる気持ちなど無かったのだ。この質問も精神的窮地に立っている自分を無理矢理にでも奮い立たせる為のモノ……そこに期待と言う輝かしい感情は全く無いに違い無かった。

 もしそうなれば自分は可能性を見捨てられた『死体』に成り下がってしまう事を怖れたセッテは、柄にも無く慌てた様子で飛び上がり、すぐさま弁解した。

 「ワタシは戦闘機人です。戦闘機人に求められる本分は兵器の『有用性』のみ……それ以外には何もありません」

 「つまり、お前は、機械である事を、選んだんだな?」

 「…………はい」

 「完璧だ。お前は、自分の役目を、しっかり把握し、理解している。では、作戦開始までの間────」

 強張ったセッテの肩に手を掛けてトレーゼは彼女をもう一度座らせた。鋼鉄の顔と氷の瞳は決意を示した妹の双眸をしっかりと捉えて離さず、その一律で強烈な眼光に半ばセッテは委縮しかけていた。

 そして、そんな彼女の頬に手を掛け──、



 「作戦まで、『人間』である事を、許そう」



 また再び頭を優しく抱きかかえた。

 「兄さん……?」

 「我が妹ながら、難儀なモノだな……。辛いぞ、『人間』の部分を、捨て去るのは、想像を絶する、苦痛がある。今すぐなれとは、言わないよ…………セッテ」

 「…………兄さん」

 「頼るな、縋るな、甘えるな…………それが、戦闘機人として、生まれた者の、鉄則だが……今だけは、それでも良い。甘えていろ」

 そう言って彼は冷たい手をセッテの頭の上に乗せ、何度も何度も桃色の長髪を普段の彼からは決して想像出来ない優しい手付きで撫でていた。この世に生を受けて早三年、それまで一度たりとも感じた事の無い感覚が胸の奥からじわりと去来したのか、無様に感涙している所を見られたくない意地でセッテはされるがままにその胸に顔を埋めた。溌水性に優れた防護ジャケットの表面を流れ落ちた滴が伝って行くのを見ながら、ふと今の自分がどんな顔をしているかと言う下らない疑問が浮かんだりする。だがそんな事はこの兄は気にはしないだろう……自分の事を真に妹だと認めてくれている彼ならば。

 「……どうして今日はそんなに優しいんですか?」

 「別に……。昔俺がされていた事を、お前にしてやっているだけだ。姉が弟を守るなら、兄が妹をいたわるのも、当然の事だ。あとそれと、俺は、優しくなんかない」

 「あなたにも……『人間』だった時期があったのですか?」

 「……………………俺は、あの人の背を追って、ここまで、やって来た。俺に出来て、お前に出来ん事は無い……お前は、俺の背を追っていれば良いんだ」

 「…………はい。心得ました」

 最初に会った時は培養槽のガラス越しだった……。まだ幼い彼女は自分の知る何物よりもか弱く、それでいて何にも染まっていない無垢なままだったあの頃の少女はいつの間にか自分と同じように自分自身をガラスの中に閉じ込めていた。氷の世界にたった一人で封じ込まれていた自分とは違い、周囲に頼れる者が居たはずなのに誰にもその闇を打ち明ける事無く生きて来た……なんと、なんと…………。

 なんと大義な事であろうか!

 トレーゼが過酷な孤独を乗り越えて機兵となったのであらば、彼女は正しく生まれながらの機兵……誰に言われるでもなく、誰に指図や命令される事も無く、自らの意思と判断でそうする事を選択したのだ。戦闘機人として生を受けたと言うたったそれだけの事実に従い自ら修羅の道を歩む事を決めていたこの妹こそ、遠い昔に自分が成し得なかった機兵の理想形そのものと言えると、この時トレーゼは確信した。ならば妹とは言えその決意と苦痛に敬意を払うのは当然の事……この優しさは言わばその報酬、褒美と言う訳だ。

 ふと、トレーゼは脳内に埋め込まれている通信用チップを起動させて疑似念話による通信を密かに開始した。連絡を取る相手はここより遥か遠くに位置する同胞──、

 ≪クアットロ、聞こえるか?≫










 「はぁ~い、お兄様。こちらクアットロちゃんでーす♪」

 「はい? 例の物でしたらしっかりと確保出来ましたぁ。今から予定ポイントまでお届けにあがりまぁ~す」

 「へ? まぁ別に構いませんけど……良いんですかぁ、面白味も何にも無くなっちゃいますけど……」

 「いえいえ! お兄様の言う事には絶対服従ですわっ! しっかりと心得ております!」

 「はいっ! それでは手筈通りに……!」










 午後13時35分、地上本部にて──。



 「クラナガン全域に避難命令!?」

 医療センターから帰って来たはやてを待ち受けていたのは上司クロノからのこの言葉だった。午後14時から六時間後の午後20時までに全てのクラナガン市民をシェルターに避難させる……前代未聞の極短時間強制避難作戦を急遽実行すると言う無茶なものだった。ミッドチルダに存在する主要都市の数々はどれもその人口的規模が著しく大きく、特に首都であるこのクラナガンは地球で言う所の日本の東京やアメリカのマンハッタン並みの人口でひしめき合っている程だ。その彼らを一度に、それも半日にも及ばぬ短時間の内に全員避難させるのはどう考えても不可能だろう。

 「…………提督はん、地上本部の地下シェルターの収容可能人数ってなんぼか知ってます?」

 「確か……20000人程度だったか」

 「全然足りませんやん! て言うか、何でそんな話しになってしもたんですか!? いくら何でも話しが急過ぎますやろ!?」

 クラナガン在住の市民を全て避難させるともなれば消費される費用と人員は半端なものではないはずだ。交通整備に始まり各所収容施設との連携、更には長期に渡って収容する可能性も考えればシェルター内に備蓄してある食糧の問題も浮上して来るだろう。それにこんな急に行動を取ったともなれば街の市民達の間で大規模な暴動が発生する事も……。

 「いや、暴動に関して言えばそれ程心配しなくても良いだろうな」

 「はい?」

 「既に市民達の間で避難したいと言う感情が高まりつつあると言う事だ。言葉で説明していても分かり辛いだろうから、こっちを見てくれ」

 そう言ってクロノが大き目の紙面を幾枚か手渡す。パソコン画面をそのまま印刷したそれらには打ち込まれた文字がびっしりと写されており、分かり易く蛍光ペンで目印をされた箇所に──、



 『本日午後21時00分、ミッドチルダ首都クラナガン中央部にて大規模進撃を強行する旨を伝えたし。────新暦78年11月22日。No.13より』



 「……なんや、これ?」

 良く見れば他の紙面にもペンで目印を加えられた部分があり、そこの部分には全て一様に同じ短文が書き込まれていた。最後の『No.13』と言う部分ではやてはすぐに“13番目”による犯行予告と言う線が頭に浮かび上がったが、それをすぐに否定した。昨日のマスコミのように一時的な風潮の乱れに煽られた人間が面白半分で行った事も考えられたからだ。

 しかし……。

 「書き込みされた時刻を確認して見ろ」

 「11・22、12:43…………って、全部同じ時間に書き込まれとる!」

 「この犯行予告はネット上に幾つか存在する掲示板や報道企業のホームページなどで同時多発的に書き込まれたものだ。個人の悪戯にしては手が込み過ぎている……十中八九、“13番目”の直々の犯行予告だろう。既にその事に気付いた市民達の間では各所施設に自主的に避難しようとする姿勢が見られている」

 「せやけど何でこんな土壇場になってから……? 昨日のテレビじゃ取引に応じやんだら襲撃するって言うとったはずやけど」

 「気が変わったか、或いはこちらの動揺と混乱を誘う為の作戦か……。どちらにせよ、“13番目”に首都陥落の意思があるのだけはこれで疑いようが無くなってしまったな。単なる脅しやはったりならこの件と言い昨日と言い、ここまでしつこく宣言するような事はしないだろう」

 「でも、それやったらヴィヴィオは……!」

 「最初から返還する気なんか無いと考える方が妥当だろうな。人質を取られている以上はこっちも迂闊には動けないと知っていてやっている……脅迫する奴らが良くやる手口だが、単純で効果的だ」

 なるほど、先に指定した取引はフェイクで本懐はこちら……即ち首都そのものを攻撃して地上本部全体を脅迫するのだ。無辜の民衆からの犠牲をこれ以上出したくなければ速やかにスカリエッティを解放しろ、と言う具合にだ。相手もこちらが簡単にスカリエッティを譲らないと分かっていてこの様な強行手段に出て来たのだろう。敵の考えが分かり易いと言うのは有り難い事だが、分かっているだけで何も対抗策が無いのでは戦況が変わるはずもないのは当然の事だ。

 「そんだけ分かってるんでしたら行動に移した方がええんとちゃいます?」

 「だからこその避難命令なんだ。流石に地上本部内のシェルターだとクラナガン全域の人口を入れるのは不可能だろうから、中央部に限定して行う」

 「残りの市民は?」

 「都営リニア首都環状線をフルに使って副都心の外側へと一時的に退避させる。朝の通勤ラッシュなんか目じゃない程の大混雑が起こる事は避けられないが今はこうするより方法は無い。それで無理なら地下鉄、空港、局が所持している輸送ヘリを全機使ってでもこの首都を無人状態にするしかない!」

 たった四半日程度でこの管理世界有数の大都市クラナガンから人々をヌーの大群の如く一斉に移動させる……クロノの事なのでこうしている間にも既に避難態勢を整えているだろうが、素人が見てもこれは不可能だと言うだろう。だが今は可不可を論議している暇なんかどこにも無い、常に最悪の状況を予測して行動しなければ生き残れない。

 「分かった……そいで、私は何したらええの?」

 「本局のコネを通じてこちらに人手を送るように確実なルートで要請して欲しい。戦闘員、救護班……誰でも良いからとにかく人手を寄越すように言うんだ!」

 「了解!」

 土壇場での戦況変化……もはやこれは事件ではない、戦力的に余りにも偏り過ぎた歪んだ“戦争”だ。どちらかが勝ち、どちらかが負ける……そうなれば結果的に勝った方が正義だ、如何に自分達の振りかざす言葉が正論でもそれを証明出来なかったとなれば正義は自然と離れてしまうだろう。法の秩序を守護する管理局としてはこれ以上無い屈辱的最後を迎える事になってしまう。

 ならばここが天王山! どちらがより早く勝利と言う名の山頂へと到達するか……。





 刻限まであと6時間15分……。









 「何やら騒がしい事になっているようだなぁ……」

 下の階から響いて来る喧騒をBGMにスカリエッティは優雅にグラスを空けていた。担当局員に言い付けて取り寄せた絶品の赤ワインを堪能しつつ、彼はふと自分の対になるソファで石像のように微動だにせず座っているトーレを盗み見た。響く喧騒や漂って来るアルコール臭などを全く気にする事無く、彼女はもはや定番となったその硬い佇まいを崩す事は無かった。姉妹達と三年振りの再会を果たしたと言うのに彼女らとは無駄口一切話さず、結局会議が終了して彼女らが別の部屋に戻ってからもずっとこんな調子だった。弟が弟なら姉も姉……なるほど、不動の二文字はこの姉弟の為にある言葉なのかも知れないだろう。

 だがそんな彼女に内心では痺れを切らし掛けていたのかどうなのか、スカリエッティの方から話しかけ始めた。

 「トーレは……このままトレーゼを捕縛出来たらその後どうするつもりかね?」

 「拘置所に戻るだけです」

 「そうではない、君ではなくトレーゼの処分について聞いているのだよ。捕まえておいてそれだけと言うのはお粗末だと思わんか?」

 「……それもそうですが、それはあいつが決める事です。私達がとやかく言う事ではありません」

 「相変わらず君は『弟』には弱いな。それではいずれ足元を掬われるのがオチだと思うがなぁ」

 「どう言う意味ですか?」

 「さてな。それと今夜の件だが私は色々と面倒事を任されているが、君はどうするのかね? このまま傍観するのか、それとも当事者の側に回るか」

 「是非も及ばず。私にも参戦の許可を」

 「許可など要らん。もうここまで来てしまえば止める道理も無い……全て君の好きなようにすれば良い」

 実際彼には止める理由も無かったし、最早彼女に制止の言葉を掛けたぐらいではどうにもならないと言う事ぐらい彼も重々承知していた。彼得意の放任主義、この先は何が起きても何を起こしてもそれらは全て当人達の責任と言う訳だ。

 そうでもしないとやって行けない……。

 最後の一滴を舌の上に垂らし、スカリエッティは別のグラスにワインを注ぐとそれをトーレに差し出した。

 「飲みたまえ。酒と言うモノは便利だ、それまでややこしく考えていた事を忘れさせてくれる」

 「…………いただきます」

 グラスを受け取った彼女はその中身を一気に飲み干し、そのままテーブルに置いて二度と飲もうとはしなかった。










 「これを、着ておけ」

 研究室の奥から引っ張り出して来た白衣をヴィヴィオの肌を覆うように掛けた。元々スカリエッティの所持品なのでサイズ自体は大きいが無いよりはマシだと考え、ヴィヴィオの方も特に抵抗する事も無く着てくれた。服を着せたと言う事はもう培養槽に入る必要性が無くなった事を暗に示しており、その事を勘付いていたヴィヴィオは不思議に思ったのか……。

 「もう良いんですか?」

 「ああ、ここよりも、確実性のある、場所へと、お前を連れて行く。そこなら、お前の腕も、完治可能だろう」

 「トレーゼさんはこれからどうするんですか?」

 「俺は……まだ、やる事が残っている」

 そう言うと彼は懐に手を入れ、その中からある物を取り出した。天井の照明の光を反射して鈍く黒光りする無骨なフォルム……L字形をしたその金属の塊を視界に収めた瞬間、ヴィヴィオは無意識に後ずさった、魔法文明を持つ管理世界では法的に所持する事が認められていない代物……ヴィヴィオ自身見るのは初めてだが、これは間違いなく──、

 「銃だ。お前も、予備知識ぐらいは、あるだろう? ここから出た銃弾が、対象を撃ち殺す……シンプルで、迅速且つ確実に、人間を屠殺出来る、兵器だ」

 銃座部分の蓋を開き銃弾を詰め込んだカートリッジを挿入すると、彼はセーフティーロックを掛けて再び懐に仕舞い込んだ。

 ふと、ここでヴィヴィオの脳裏にある一つの疑問が浮かび上がった。両手両足を加えれば総数五基にもなるデバイスを所持している彼が何故今更ここで銃器に頼ろうとするのかがどうしても納得行かなかったのだ。予備の装備と言う事も考えては見たが、明らかに彼の実力を考えれば武器なんか無くとも素手で人を始末出来そうなのは言うまでも無い事だ。だとすれば何故そんな物を……?

 「気になるか?」

 トレーゼもそんなヴィヴィオの疑問の視線を感じ取ったのか、銃をチラつかせながら彼女のもっともな疑問に答える姿勢を見せた。

 「これはな…………人殺しの、道具だ」

 「見たら分かります」

 「ただ殺すだけではない……これは、魔法を用いずに、殺さなければ、ならない者を、殺す為の道具だ」

 「魔法を使わないで……殺す?」

 「そうだ。数ある、人間達の中で、その人だけは……この手で、抹殺せねば、ならないのだ。これは、その為だけに、使う道具……」

 「ダメだよ、人殺しなんて…………約束、したよね?」

 「承知している。これは、あくまで、最終手段……討つか討たれるかの、瀬戸際でしか、使わない。約束しよう」

 白衣のボタンを一個ずつ留めてやりながらトレーゼは今一度この小さな少女との間に盟約を取り交わした。あの時と同じように左手の小指同士を絡み合わせ、お決まりの童謡を口ずさみながら他愛も無い空虚でしかないはずの約束を……。

 「それと、お前にこれを、渡しておく」

 「これって……」

 ヴィヴィオの小さな左手に乗せられたのは以前モニター越しでトレーゼに見せられた一枚の金属のカードだった。黒を基調としたメタリックカラーが目に眩しいそれを有無も言わぬ内にポケットに捻じ込まれた後、彼女はそのまま椅子に座らされた。戸惑う彼女を尻目にトレーゼの方は黙々とデバイスの最終調整を続行し、虚空に映し出した設計図映像や見慣れない機具などを扱いながら徐々にそれらの作業をこなして行った。その手捌きの迅速さや正確さは背後で彼の様子を見守っていたヴィヴィオも思わず見惚れるぐらいの手際の良さだった。時折調整中のそれらを装着して感触や稼働具合などをこまめに確認しつつたまに小休止を挟み、そして──、

 「デウス・エクス・マキナ、最終駆動調整、完了」

 それまでのプロセスを全て終了し、並べて鎮座されていたデバイスが一瞬にして変形を果たしてトレーゼの右手の人差し指と中指に収まった。それで成すべき事を終えたのか、彼はいそいそと身の回りの機具などを片付け始め……

 「行くぞ」

 「あ、はい!」

 左手を優しく引かれるままにヴィヴィオはトレーゼと共に部屋を後にした。大きな白衣を引き摺りながら移動する間ずっと二人の間には沈黙が流れるだけで、歩いている間彼女はずっと居心地の悪さを感じていた。やがて階段を何段くらい上がった所かで細長い通路に入り、二人はその先にある部屋へと入って行った。照明の光が目に痛いぐらいに強いその室内には先に先客が居り──、

 「お久しぶりです。陛下」

 「あなたは……確か、ウーノさん?」

 菫色の長髪が特徴的な妙齢のこの女性とは三年前に一度顔を見た程度でしかなかったが双方共に顔をしっかりと覚えていたようだった。現在外界との接触が完全に断たれているヴィヴィオにとってここにウーノが居る事自体が不可思議な事だったらしく、文字通り本当に小動物か何かのように首を傾げていた。

 「じゃあウーノ、後は手筈通りに……」

 「…………えぇ」

 「ではな、聖王。願わくば、この先、二度と相見る事の、無きように……」

 その別れの言葉を最後にして……トレーゼは姉にヴィヴィオを預けて何処へと去って行った。










 上層階のラボで彼の帰還を待っていたのはセッテとクアットロだった。セッテが壁際に背を預けて微動だにしないでいるのに対し、クアットロはさっきから何を良からぬ事を考えているのか常に気味の悪い笑みを浮かべていた。こうして見るだけでも性格の違いが如実に表れるとは……。

 「……………………」

 「……………………」

 妹二人は佇まいこそ相違あったが今だけはその行動は共通していた。『沈黙』……示し合わせたかのような沈黙がラボを流れ行くのを肌で感じつつ、トレーゼはそれを吟味するかの如くドアからの一歩一歩を重く踏み締めながら彼女らの前へと進み出て来た。彼女らの方も兄である彼がどのようにこの静寂を破るのかを心待ちにしており、クアットロの笑みはその興奮を隠し切れないのを表していたのである。

 やがてトレーゼは二人の前に立ち、何の感慨も感傷も感じさせず事も無げに──、

 「…………遂に、この時が、やって来た」

 容易く沈黙を破り始めた。

 「今更、どうのこうのと、下らぬ前口上は、不要だ…………本作戦では、各々の成すべき事を、忠実に実行すれば、それで構わん。当然だが、やるからには、全力で、一寸でも手を緩めずに、確実に実行しろ……終わり良ければ、全て良し、だ」

 詩を読み上げているかのような朗々とした口調で彼なりの激励の言葉が二人の妹達の胸に突き刺さった。たった三人の総力戦……物量的にも常識的にも圧倒的に不利としか見ようが無いこの戦いに臨む為の士気が、今の彼女らの絶対の自信に繋がっていた。自信の強さはそのまま実力の発揮具合にも直結する。今の三人は進めと言われれば前進し、殺せと言われれば全滅させる、そんな気迫がひしひしと滲み出ていた。

 「だがしかし……計画最終段階の、本作戦の実行について、一つだけ、大きな変更がある」

 突き立てられた人差し指に注目が集まる。特に彼と共に出撃する予定であるセッテの視線が強く注がれていた。

 「当初の予定では、無差別攻撃と、敵対勢力の、殲滅を、目的にしていたが…………少し、事情が変わった」

 「と言いますと……?」

 「来る者構わず、逃げる者追わず……それが、本作戦の指針だ。尚、これは、決定事項だ」

 兄の言葉に二人は訝しげな表情を浮かべた。彼の言った言葉をそのままの意味として受け取るならば、今夜行われる作戦は例え明らかな敵対行動を取って来た者であっても殺す事無く受け流そうと言っている事になってしまう。時間と労力こそ掛るが根絶やしにして行った方が相手への見せしめと言う意味も含めて効果があると言って譲ろうとしなかったのに、急にこの土壇場での手の平返し……事前に聞かされていない分、やはりそこに少しであっても疑念が浮かぶのは当然と言えば当然だった。

 「ですが、それでは防戦に徹する事になりますが?」

 「阿呆が……。誰が、防戦だと言った? 今回の作戦の、主旨はあくまで、侵略……前進し、前進し、制圧する。ただ前進あるのみ」

 「それはつまり……作戦完遂のみを最優先事項として行動せよ、と言う事ですね」

 「聡いな。そう…………今夜の目的は、たった一つだけ……それ以外には、何も無い。そして、その達成すべき、目標とは────」

 当然、創造主であるジェイル・スカリエッティの奪還……二人ともそう思って耳を傾けていた。と言うかそれ以外には何の目的も無いはずなのだ。トレーゼのみならず、自分達ナンバーズはスカリエッティの私兵として生み出されており、創造主の彼が窮地に立たされている場合には如何なる危険をも顧みずに救出する事が暗示的に義務付けられているのだ。三年前ならば十二人のナンバーズの胎内にコピーを宿す事も出来たのでそこまでの強制力は無かったのだが、それが無くなった今となってはオリジナルの本人を救出する以外に道は無く、苦節三年を経てようやくそれを実現にする事が出来るのだ。それ以外に何があろうか。

 だが──、

 「目標は……管理局に与する、ある人物の、抹殺だ」

 「!?」

 「まっさつぅ~? 別にお兄様の作戦にケチを付ける訳ではありませんけど、それって今やらなきゃいけない事なんですかぁ? 局員の一人ブチ殺す程度でしたら今日までに出来たはずでしょ?」

 「その者は、これまで、局の懐で、息を潜ませていた。だが、今夜の決戦で、その者は、表舞台に姿を見せるだろう……。好機は、その時だけだ」

 その言葉を言い終えるか終えない内に彼はマキナを起動させ、防護ジャケットに覆われた四肢を鋼鉄で固め、その右手にレイジングハート形態に変形した相棒を携えた。杖の切っ先を天に向けるその姿はまさしく、北欧神話に登場する戦士の神オーディン……ならばそれを仰ぎ見るセッテとクアットロはその忠実なるヴァルキリーと言ったところか。これが彼らのラグナロク、勝っても負けてもこれが最後……無論、負ける気なんか毛頭無い。

 「今宵殺すは、一人のみ…………そいつを、殺せなければ、この計画は根底から、瓦解するだろう」

 「それは……」

 「……責任重大ですわね~」

 「我々に、失敗と、後退は、決して許されない。そうだ、全ては……」

 「全ては……」

 「全ては……」



 「創造主スカリエッティの為に!」









 現在ヘリに乗り込んでいるのはヴァイスとティアナだけだ。それもそのはず、今の時刻は午後19時30分だ。“13番目”が指定した時刻にはまだ三時間以上も余裕があった。動ける者は全員がクラナガン市民の避難作業に徹しており、既に地上本部敷地内に設置されている地下シェルターには中央部に住まう一般市民達が大挙して押し寄せるように入り込んでいる真っ最中だ。基本的に徒歩などでこちらに移動して来るのでクラナガン全体の道路は車両の通行を全て停止させており、中央部以外の一般市民はリニアなどの公共車両を利用して街の郊外へと誘導避難させられていた。当然ダイヤも何もあったものではなく、とにもかくにも住民たちを街の外にある収容施設にまで運搬する事だけを最優先にしているので、当然の事ながら各駅構内はその人だかりで大混雑の様相を来たしており、誘導に駆り出されている局員達の報告からして状況はあまり滞り無く進んでいるとは言い難いようだった。暴動が発生していないのが奇跡にも思える。

 「それにしても提督さんは何考えてんだかな。都市から人間を丸ごと移動させるなんて、戦争じゃあるまいし」

 「じゃあ戦争なんですよ……。それも今までに無い様な大きな戦争」

 「うへっ、とんでもない時代に局員になっちまったな。お前は緊張してないのかよ?」

 「してるに決まってるじゃないですか。でも……何が来ても私は撃ち返すだけですから……」

 デバイスの銃倉にカートリッジを詰め込みながらティアナはこれから自分達を待ち受ける決戦に向けての覚悟を新たなものにした。隣のヴァイスも彼女の気迫を感じ取っていたのか、いつもの飄々とした感じを崩さずともその奥に確かな決心を腹に括っていた。ストームレイダーの銃身をいつも以上に丹念に調整しているのがその証拠だ。

 「なぁティアナ……」

 「何ですか?」

 「お前さ、やっぱりスバルの事で悩んでたりしてるのか?」

 「っ! ……悪いですか?」

 「いやいや! 別に悪くはねぇよ」

 「なら笑ってくださいよ。自分勝手な思い込みで友人を撃った馬鹿な女だって! 昔の自分と同じだなって……笑ってくださいよ……」

 「俺は別に何も言わねえよ。強いて年上の先輩って事でアドバイスぐらいならしてやれっけどな」

 「…………好きにしてください」



 「後悔はすんなよ? 絶対にな」



 「──え?」

 「お前がスバルを撃っちまったって事……お前が幾ら悩んでもお前の勝手だけど、絶対に後悔だけはすんな。自分のやっちまった事を後悔するとさ……昔の俺みたいになっちまうぞ」

 昔のヴァイス……それは彼が自分の妹を誤射してしまった事件の事を言っているのだろう。あの後彼は自暴自棄にやさぐれた挙句、最後には武装隊を除隊すると言う惨めな道を辿ってしまった。一度心の中で悔やみの感情が芽生えれば後は下り坂……自分の行為に後悔しかしなかった人間の悲しい性と言う奴だった。

 悩んでも、後悔するな……それが後悔の道を辿って来たヴァイスだからこそ言える教訓だった。

 「…………私は……陸曹ほど強くないですから無理です」

 「俺は別に強くなんかねえよ。俺だって振り切るのにシグナム姐さんやアルトに尻叩かれまくってようやく……ってもんさ。お前もそう言う時に無理矢理ケツ叩いてくれる連中が居るだろ? 辛い時はそうしてもらえ。何なら俺が叩いてやろうか」

 「セクハラですよ。でも……私もお尻叩かれるのはイヤですから、陸曹の言う通りに今後自分の行動に後悔しないように善処します」

 「おう! その意気だ。スバルの奴とはまた縒り戻せるだろうからさ……今はこっちに集中しようぜ」

 「……………………そうですね。じゃあ……」

 とす……。

 「お、おいおい……何だよお前、酔ってんじゃねえだろうなオイ?」

 いきなり自分の肩に寄り掛られた事に驚きつつヴァイスは彼女を拒もうとせずそのままされるままにしていた。と言うのも、今日の彼女はそれを躊躇うぐらいに弱々しかったからだ。伏せられた目は色々あった疲労からか気力に欠け、肩に感じる体重は人間の重さはこんなにまで軽いものなのかと思えるぐらいに軽かった。

 「……少しだけ……このままにさせてください」

 「…………あいよ。コーヒーの奢りだと思って好きにさせてやるよ」

 「それって、私が陸曹に奢ってるんですか? それとも私が陸曹に奢られてるんですか?」

 「どっちだっていいさ……」





 残り時間、あと3時間21分。










 「本局からの派遣魔導師は?」

 「陸空総勢169名……現在の状況で融通してもらえる人員の中でも選りすぐりの逸材だそうです」

 「地上本部との合計人数は?」

 「総戦力2192名。戦況を判断して東部、西部、南部、北部の四つの支部からそれぞれ200名ずつ増援予定です。あと、ミッドチルダ各地に散在している聖王教会からも可能な限り騎士団を派遣するそうです」

 「最終戦力は?」

 「4000名は下らんかと……」

 「四千か……これは本当に戦争だな。こちらが四千に対してあちらは首魁の“13番目”とクアットロ、そして先日陣営に加わったとされる“裏切りの使徒”セッテの三人のみ」

 「小学校のイジメみたいやな。頭数だけ見たら完璧にこっちが悪モンみたいやんか」

 「少年漫画の読み過ぎだ。勝てば官軍、負ければ賊軍……例えやり方は強引でも戦力を溜め込み最終的に勝った者が正義になるんだ」

 「分かってるって。スカリエッティには悪いけど……やるからには確実な手で行くだけや。私の留守中、指揮棒は任せましたよ?」

 「承った!」





 残り時間、あと2時間12分。










 「ああ? こっちはそれどころじゃねえんだよ。一般人を避難させんのに人手割いて、それが終わってからでないと誰も融通出来ねぇよ!」

 「ナカジマ三佐! こちらの地区の住民の避難は完了しました!」

 「おうそうか。これでまだ三つ目だってんだから気が滅入っちまうな。まぁそう言う訳だ。どうしてもって言うんだったら八神の奴が呼び寄せた本局の連中に頼んでくれ! 本当はこっちだって人が足りねえんだからよ」

 「通達にあった時間には間に合いませんよ。これはどう頑張っても予定より二時間以上は遅れてしまいます!」

 「くそっ! やっぱどうしても無理か。仕方無ぇ、D-22から何人かF-04に当たらせろ! お隣さんの部隊と上手く連携してとにかく避難させまくるんだ!」

 「了解!」

 「忙し過ぎだろ……。お前もんな下らねぇ事言ってないでさっさと手伝えっての!」





 残り時間、あと1時間24分。










 そして……





 無慈悲にも時計の針は進み続け……





 遂に……










 午後20時55分──。



 不夜城……今の地上本部を形容するにはまさに打って付けの言葉だ。地上に設置された展望塔の先にまで光が届くサーチライトが何十基も闇夜の上空を照らし出し、その先に浮かぶ輸送ヘリの数が全部で二十機以上……。

 総動員数2192名、陸上に1452と上空に740……上空からの襲来を予測した陸対空布陣が今、無人状態となったクラナガンに展開されていた。外だけではなく管制室でも万全な通信体制が整えられ、前回の襲撃の時の二の舞にならないようにスカリエッティの協力で対シルバーカーテン仕様のシステムを構築し、相手の対軍偽装能力を封じる作戦に出ていた。

 既に問題の取引現場には指定された五人を乗せたヘリが急行し、全ての準備は万全に整ったものだと思われていた。

 そのはずなのだが……

 「中央部に在住する市民の約三割が未だ避難完了出来ていません!」

 「可能なだけ陸士部隊を避難誘導に回せ! ガラ空きになった部分の補修も忘れるな!」

 「三番ゲートで暴動発生の兆し有りとの報告!」

 「結界魔法で隔離! そこで好きなだけ騒いでいてもらえ。今はとにかく全ての市民の収容だけを優先させろ!」

 中央部に住む人間の数を甘く見ていたのか、たった数時間しか無かった事を差し引いても未だに全ての市民を収容出来ていなかった。郊外の住民の避難もあと数%の人間を残しており、決戦を目前に控えたこの状況では後々痛く響いて来るかも知れない綻びとなっていた。今回の作戦の司令官に任命されたクロノ檄を飛ばすが、やはりここまで来た遅延は如何ともし難いようだった。

 「最終的にはクラナガン全域を結界で覆う事も視野に入れておいた方が良さそうだな……」

 封時結界を発動させれば結界内と外界は完全に隔絶されて内部での破壊行動は全く影響しない。だがそれ程の大規模なものともなれば結界の維持だけに大量の人員を割かねばならない……万が一にはそうする心算だが、今はそうならない事を切に願うしかない。



 「まぁ最終的はそれも辞してはならないだろうなぁ」



 急に自分の隣から聞こえて来た如何にも他人事だと言わんばかりの聞き覚えのある声にクロノははっとなって顔を上げ、そこを見やると──、

 「やぁ御機嫌よう。気分はどうかな? ハラオウン提督殿」

 「何している!?」

 局員に紛れ込んで隣の椅子にちゃっかり座って居るのはここから離れたゲストルームに居なければならないはずの人間……この事件の発端を文字通りの意味で造った男、ジェイル・スカリエッティその人がそこに居た。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら軽く手を振っているその姿を見間違えるはずも無く、周りの局員が全く気付いた風も無い事を不思議に思いながらもクロノは彼に詰め寄り管制室から摘み出そうとした。

 「おやおや、確かに私は痩せている方だと自負しているが、ダンベルとして扱うには少々荷が重いのではないのかな?」

 「やかましい! ここは関係者以外立ち入り禁止だっ。と言うか何で貴方がこんな所に!」

 「トーレが居ないから暇でな。あと大変喉が渇いていたから自販機を探していたら何やら面白そうだったので覗かせてもらった」

 「外出する時は監視員との同行が義務付けられているはずだが……?」

 「はっ、君は意外と頭が鈍いな。私がそんなものと行動を共にすると?」

 「ここまでどうやって?」

 「人間、案外自分の身近に有名人が居るとは思わないものなのさ。そう言う心理的盲点を突けばここまで注目を集めずに来る事など容易い!」

 「ならその容易いスキルを使って今すぐここから出て行ってもらいたい!」

 「断る」

 「な……っ!?」

 意外にも強いその気迫に一瞬気圧されクロノはスカリエッティを掴んでいた手を離し、彼は乱れた服を整えた。

 「私も人の身……自身の造ったモノがどうなるかについては非常に抑え難い興味がある。それに私は劇は最前列の特等席で観賞するのが好きなのだ」

 「ここは最終防衛拠点だ。それに貴方は……!」

 「重々承知している。その上でここに居るのだよ」

 「……………………どうなっても知らないぞ」

 「それは許可と受け取ってもいいのだな」

 頑固なスカリエッティを摘まみ出すのに余計な労力を消費してはいけないと悟ったのか、クロノは諦めて長官席に腰掛け、隣の椅子に再びスカリエッティが座った。

 「はてさて、提督殿は相手が如何様な手段で攻め入るとお考えかな?」

 「布陣を見ての通りだ。上空からの侵入を想定して陸対空態勢で対応する予定だ」

 「結構結構。例の立会人に指定された五人はどうされた?」

 「もうとっくに現地に向かった。今頃は着いている頃だろう」

 「提督っ! 間も無く作戦開始時刻となります!」

 「カウント開始。地上の避難誘導に回っている者達も極力前線に移動させろ!」

 管制室全体にこれまでに無い程の緊張が走る……ただ一人スカリエッティを除いて皆モニターに映し出されるレーダー映像を食い入るように凝視し、来るべき決戦の相手を出来得る限りの万全な態勢で待ち受けていた。地上本部を中心に展開された2000以上の大部隊にも同じくその緊張と熱気が伝播し、混乱の中で一同の意思が一つに纏まろうとしていた。

 「カウント開始! 10……9……8……」

 作戦開始時刻の21時00分まで残り十秒を切った。いつ何が起こっても良い様にクロノが通信回線を全開にする。

 「7……6……5……」

 上空を旋回中のヘリが全機ハッチを開いて中に詰め込んでいた航空部隊が出撃のスタンバイを取る。既に地上を守る陸士部隊も総員デバイスを起動させた臨戦状態だ。

 「4……3……2……1……」

 作戦開始の合図を宣言するべくクロノは大きく肺に息を吸い込み──、

 そして──!

 「ゼロっ!!」



 時刻変更と同時に地上本部全体が大きく揺れた。










 遥か彼方より掃射された紅い閃光は内に抱えたる膨大且つ凶悪な熱量を周囲に撒き散らしながらただ一直線に冬の夜を駆け抜け、その先に聳え立っていた展望塔の先端を薙ぎ払って見せた。砕け散った瓦礫が次々と地上に降り注ぐ。幸いにも落下地点には避難中の一般人も居なければ部隊も展開されていなかったので人員的被害は皆無だったが、索敵範囲を優に越えたアウトレンジからの砲撃に戦慄を覚えぬ者は一人も居なかった。

 その閃光の撃ち出された地点……地上本部から遠く離れた海上には撃ち出された光線と同じ凶悪極まりない紅い光が浮かんでおり、それと双子星のように連なって輝く桜色の光点の二つが暗い海の上で浮遊してこちらを凝視していた。

 「命中を確認しました」

 「挨拶代わりには、少々派手、だったか」

 排熱孔から噴出した蒸気を周囲に漂わせ、ナンバーズ最後の生き残りであるトレーゼとセッテ兄妹が空を蹴って一気に飛翔した。四肢を鋼鉄で固め手に黒杖を携えたトレーゼが先行し、そのすぐ後からセッテが随行する。実に三年振りとなるブーメランブレードを両手に構え、防護用のヘッドギアの感触を確かめながらセッテは兄と共に決戦の舞台を目指して駆け抜ける。

 程無くして二人は港の上空を通過してから無人となった街の一角に降り立った。ここからは姿を暗ましながらの進行となる為、隠密行動が最重要課題となる。

 「まずは、相手の陣の、中心を目指して、突入する。そこから先は、俺に任せろ……お前は、露払いだけで、充分だ」

 「はい」

 「深追いは、決してするな。常に、俺の半径15メートル圏内を、キープしろ」

 「はい」

 「来る者は、全て受け流せ。あの数を、まともに相手している、時間は無い」

 「はい」

 「……最後に、一つ…………」

 前に立っていたトレーゼがその金色の眼をセッテの視線と重ね合わせた。セッテより身長が低い分どうしても見上げる形になってしまうが、今はそんな事は気にならない程の真剣さがいつもと変わらないはずのその双眸から彼女を見据えていた。何かとても重要な事を伝えようとしている……そう判断するのに時間が掛るはずもなかった。

 「ここから、先は……修羅の道、とか言う奴だ。一歩でも進めば、お前の後ろには、後退の道も、逃げ場も無い……孤立無援が、待っているだけだ」

 「今日はいつになく感情的ですね」

 「黙って聞け……。しかしながら、幸か不幸か、このミッドは、完全な実力社会……例え法的な罪を重ねて居ようが、更正さえしてしまえば、社会に認められる」

 「……何が言いたいのですか?」

 「最後の、チャンスだ。俺と一緒に、死地に赴くか……離脱して、あちら側に降るか…………。強制はしないし、ここで離反しても、後ろから撃ちはしない……好きに決めろ」

 「兄さん……」

 「お前は、損な性分だ……。機兵として造られ、機兵になる事を選びながら、本質が少しも、それに追い付けていない……故に無理をし、故に立ち止まり、故に挫けてしまう。勘違いするな、お前を案じて、いるのではない。生半可な覚悟だと、こちらの足枷になるから、下がるなら、さっさとそうしろと、言っているだけだ」

 「哀れんでいるのですね、このワタシを?」

 「悔しいか?」

 「いいえ、事実ですから。ワタシ一人では弱いままです……哀れに思われても仕方ないかと。ただ……」

 「……ただ……何だ?」

 「創造主が不在の今のワタシは誰かに付き従う事しか能がありません。そしてワタシはドクター奪還が成功するまでの間の主を貴方に定めた……それだけの事です。貴方の為に力を振るい、貴方の為に楯となり、貴方の為に剣になる……」

 「……それが、お前の選択か、セッテ?」

 「はい」

 どうやらこれ以上の揺さ振りは意味が無いと判断したのか、一瞥の後に踵を返すとトレーゼはマキナを操作してカートリッジを入れ替えた。空薬莢が固い地面に落ちて乾いたシャープな音をゴング代わりに、彼は黒杖を肩に構えた。その姿にセッテも呼応するようにブレードを構える。

 「…………セッテ、さっきも言ったが……俺の背後を、離れるな。お前が、前に出る必要は無い」

 「……………………」

 「お前は、楯にならなくて良い……お前は、俺の妹だ」

 「感謝します。それと兄さん……」

 「何だ?」

 「これが終わったらで構いませんので、手合わせに協力して頂けませんか?」

 「そう言えば、あのまま、うやむやだったな……。良いだろう、約束だ」

 「何ですかその小指は?」

 突き出された右手の小指を訝しげに見つめるセッテ。兄の真意を計り兼ねるのか首を傾げた。

 「ナノハ・タカマチの、記憶にあった……。口約束を交わす際の、儀式のようなモノらしい」

 「儀式……ですか。良いですよ」

 そう言ってセッテは自分の小指を絡ませた。結んだ指を中心に互いが腕を軽く上下させて契約が成ったのを確認した後──、

 「行くぞ!」

 「正面突破ですか?」

 「臆するな。あちらが、自分達を正義と、思うように、こちらにも、こちらの正義があるだけの話しだ。我々は堂々と、玄関から侵入すれば良い」

 「了解」

 二人の足元に真紅と桜色の疑似魔法陣が同時に展開、軽く飛翔した二人は自らの姿を2192名もの敵陣に晒して見せた。そこに恐れや臆する様子は露とも感じられず、冷徹な感覚の中に確かに存在していた威風堂々たる佇まいは逆に迎え撃つ武装隊員達を震え上がらせた。

 「IS発動……ライドインパルス」

 「IS発動、スローターアームズ」

 呼吸を整えて互いの息を同調させた後、武装を構えた二人は──、



 「アクションッ!!」



 宣言通りにクラナガンの交通の大動脈、首都メインストリートに沿って加速飛翔した。

 これが後に『機人戦争』と称される戦闘の開戦背景である。










 「ドクターの、奪還か…………果たして、そうなるかな?」



[17818] レッドライン
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:5d086e54
Date: 2011/01/27 00:08
 “私”であるな、“公”であれ──。

 “個”であるな、“隷”であれ──。



 これが戦闘機人の二訓……。










 他人の知識に頼るな──。

 他人の実力に縋るな──。

 他人の優しさに甘えるな──。



 これがトレーゼが掲げるナンバーズの三信……。幼き日に姉トーレから教え込まれたこの教訓は以後彼の『ナンバーズ観』とも言うべき観念に打ち込まれた大きな楔となり、ナンバーズは主に使われる感情を持たない機兵でなければならないと言う考えを深く植え付けた。始めはただの受け売りでしかなかったそれも、時が経つにつれて自分の状況を照らし合わせ、やがては自分の抱える信念となって深く心の中に根を張る結果となった。それは教育者であるトーレの教えの範疇を大きく越えていた。それと同時にこの教訓は氷の世界で不遇な処置を受けていた彼の精神を支える柱、不安定な砂の上で楼閣を支え続ける完全な土台となっていた。

 現在の彼を支える三つの土台……それは──。



 生まれついて与えられた自らの実力……。

 自分の前に立つ偉大な姉の姿……。

 自分の後ろに立つ不器用な妹……。



 戦闘機人の本質の中に僅かに残っていた人間としての意思……自らの能力への自負、トーレの『弟』であると言う誇り、セッテの兄であると言う義務感……とうの昔に人間の部分などどこかに置いて来たモノとばかり思っていたが、彼自身が自覚出来ていない部分では17年の時を越え未だに残り続けていた。

 僅かに己の中に残ったそれを道標に、覚醒からたったの二週間で彼はここまでやって来た。もう後戻りするつもりは無いし、する余地も無い。

 疾く──、

 疾く──、

 ただ疾く──、

 二十年近くに渡って目指したものが残り約百数十キロにまで迫っていた。










 11月22日午後21時08分、クラナガン首都メインストリートにて──。



 強制的に避難が完了されたこの首都の大動脈とも言えるこの道路を走る車は一台も無かった。眠らない街であるクラナガンの道路が無人になる事は普段の街の様子からは到底考えられないが、今現在この瞬間だけは確かに誰も居なかった。人が居なくなった事で建物の照明は残らず消え去り、道路の脇に等間隔に植えられた街路樹だけが葉を落とした枝を風に揺らせているだけだった。そんな誰の眼から見ても異常だと分かる光景が街の全域で発生している。

 だがしかし、街全体で起きている異常はこれだけではなかった。街のシンボルとも言える管理局地上本部の展望タワーの頂上付近が煙突の如く黒煙を上げていたるのが郊外からでも確認出来る。その周囲にはヘリが何十機も飛び交い、地上とヘリからのサーチライトの強烈な光が幾重にも重なり合いながら夜の街を真昼のように照らそうとしていた。飛んでいるのは何もヘリだけではなく、地上とヘリの中で待機していた数百もの魔導師達が諸手にデバイスを構えながら雲霞の如く夜の首都に展開していた。誰か第三者がこの光景を目にしていたら間違い無く戦争と言う言葉を口にしただろう。

 しかし、そんな事と比較してもこのメインストリートで発生している“異常”には敵わないだろう。

 「来るぞ、セッテ」

 「既に肉眼で捕捉出来ています」

 迫り来る魔導師達とは反対の方向から飛来する一組の男女……魔導師陣と同じく飛行しながら都心に向けて移動している姿がそこに確認出来た。二人揃って藍と紫を基調とした防護ジャケットを着用し、四肢を武装した紫苑の髪の少年が上になり、両手に円月型のブレードを構えた長身痩躯の少女が下になって少年に抱えられる形で追従していた。アスファルトの地面をスレスレの超低空飛行で一直線に侵略する彼らの視線はただ一点、進行方向の遥か先に聳え立っている時空管理局ミッドチルダ地上本部のみだ。真正面から面となって飛来する魔力弾の嵐に突貫……トレーゼが推進、セッテが舵取りと言う絶妙なコンビネーションで迫り来るそれらをかすりもせずに全弾回避し、更に終着点へとまっしぐらに駆ける。その速度は凄まじく、マッハ5の極超音速飛行の余波で生じた衝撃波が、通り過ぎただけの街路樹やビルの窓ガラスを次々と砕き飛ばす程だった。

 「間も無く前線部隊と接触します」

 「うむ……。セッテ、こちらに接近する、ヘリは何機だ?」

 「三機……いいえ、四機です。各機の高度は大差ありません」

 「尾翼を、狙え。お前の武装なら、行けるはずだ」

 「ですが……」

 「安心しろ、尾翼を失したぐらいで、ヘリは大破せん。それに、中の奴らも、墜ちるより先に、脱出する」

 「……了解」

 セッテは勢いを付けると両手のブレードを前方に向かって投擲した。そこから先の軌道は彼女の固有能力、武装遠隔操作の『スローターアームズ』でどうにでもなる……放たれた二つのブレードは彼女の意思通りに飛翔し、こちらに迫り来る敵のヘリの尾翼だけを切断して見せた。尻尾を切ったトカゲの様には上手く行かずバランスを失った機体は次々と不安定な蛇行軌道に陥り、安全に不時着可能な場所を探し求めて高度を下げ始めた。だがその時中で待機していた航空武装隊が脱出と出撃を兼ねて飛び出し、既に大群と化している部隊の流れに加わった。

 アウトレンジからの砲撃で混乱しているかと思ったが、陣形を崩す事無く迎撃態勢に入って来た所を見ると敵の指揮官はよほど優秀なのだろう……。それも全軍向かって来るのではなく接敵している部隊のみが前線に飛び出し、それ以外の陸士部隊を中心とする魔導師は全てが後方支援に回っていた。しかし、一見すると強力な火砲支援を行う為に微動だにしていないように見える後続部隊だが、それらの抱えた思惑の内容をトレーゼはとっくに予測済みだった。

 「少し、急ぐぞセッテ。奴らの懐に飛び込み、連中を引き摺り出せ」

 「了解」

 四肢に展開していたエネルギー翼が一回り大きくなり、次の瞬間にトレーゼとセッテはその速度を更に上昇させた。










 午後21時13分、地上本部管制室──。



 「結界だ! 地上本部を中心に半径200km圏内に封時結界を発動させるんだ!」

 クロノの命令がオペレーターを通じ最優先事項となって現場の部隊に通達される。一度結界を発動させれば地上本部及びそれを守護する部隊の全ては敵ごと外界から断絶され、脱出されない限りはこちらに物理的損害を被る事は防げるはずだ。後は自然と相手が体力気力を消費して疲労困憊になるのを誘うだけ……如何に相手が自他共に認める実力者とは言え、閉鎖空間でこれだけの戦力差をまともに相手にして覆せる訳が無い。彼らが相手にしなければいけない数量は2192……一人当たり約1100人も相手にしなければならない。更に戦況が長引くようであればミッドチルダ全域に展開している管理局地上支部や聖王教会から武装局員と騎士団の連合部隊が大挙して押し寄せる手筈にもなっている。最終的に4000名以上から成る大部隊がたった二人の外敵を追い詰めにこの首都までやって来るのだ。そうなれば一人当たり約2000人になり、まず対処不可能になる

 その為にはまず網を敷かねばならない。結界魔法の特徴は『進入は容易』でも『脱出は困難』と言う点にある。一度中に封じ込める事に成功すれば後は脱出する余裕を与えないように波状攻撃で包囲と追撃を加えつつ徐々に大部隊の懐に追い詰めて行く……そして後は時間の問題だ。一見単純な作戦ではあるが、本作戦の目的はあくまでトレーゼとセッテの鹵獲なのでとにかく相手を止める事だけを専念しつつ、こちら側の損害は極力抑えねばならないので司令塔と現場の重圧は計り知れない。だが一度結界を張ってしまえばその懸念も緩和される。既に迎撃部隊が前に出て敵の進行速度を落とそうとしているその背後では後続の結界発動要員達が急ピッチで術式の構築に尽力していた。

 「術式構築率は!?」

 「現在およそ五割がた作業が完了しています。あと十数分もあれば構築完了するとの報告です」

 「航空部隊は全部隊ヘリから出撃せよ! ヘリの中で待機していたら的にされるぞ!」

 「司令! 敵の進行速度、未だ落ちません!」

 「陸士部隊に通達! 火砲一点集中砲火! 相手は死力を尽くしている。拡散させて撃っても牽制にはならない! 上空の航空部隊と連携して撃墜させるつもりで迎え撃て!」

 「敵、進行方向上のビルを破壊!」

 「ビルぐらいで騒ぐな! そんな物は終わってからでも修繕出来る!」

 「通過された航空部隊、追撃不能! 相手が速過ぎます!」

 「無理に追うな! 引き離された部隊は本隊との合流を最優先に行動しろ! 単独で向かっても敵う相手ではない!」

 一歩間違えれば混乱の阿鼻叫喚が巻き起こり兼ねないこの状況を、長年提督として指揮能力を培って来たクロノの手腕が切り裂いて行く。オペレーターを介して現場から飛び込んで来る報告や指示要請を間髪入れずに全て捌き切り、的確な指令で敵を追い詰めようと部隊を操作する。先手を許しはしたがまだ焦る様な事態じゃない……報告では今の所人員的損害はゼロ、初手の砲撃もあくまで展望塔を狙っただけの威嚇に過ぎない。建物が幾ら壊れてもちょっとした災害が起こったのだと割り切れば復興も出来るが、人命を失ったのでは取り返しがつかなくなる。ならばその損害を出す前に決着をつけるのはもはや常識だ。長引かせれば不利になるだけだ。

 「術式構築まで残り四割を切りました」

 「そのままのペースを保て。焦れば相手の思うツボだ。合理的且つ確実に守れ、防衛戦は攻めれば負けだ!」

 「敵との相対距離、約92.2km。結界の効果範囲内です」

 「発動を相手に悟られるな。一度バレれば後は距離を置かれて遠距離から一方的に撃たれる。ギリギリの境界線を保ちつつ懐に捕え続けろ」

 敵性対象を表す赤い光点が猛烈な速度で部隊の青い光点の中を突っ走っている様子がレーダーでも確認出来る。その速度は音速を優に越えており、一度引き離された部隊を次々と背後に追いやりながら確実にこちらに向かって臆する事無く一直線に距離を詰めて来ていた。どうやらあくまでスカリエッティの奪還のみを最優先としているらしく、こちらの迎撃には目もくれてないようだ。

 「それで……提督殿はこの戦況の行方をどう見る?」

 自販機で購入して来た缶ジュースを開けてそれを飲みながら隣のスカリエッティが聞いて来た。前々から言ってはいたが、どうやら本当に他人事のように傍観を決め込んでいるらしい。

 「……こちらの損害はゼロ。それに直接迎撃に当たっているのは全体の三分の一、更に奴らが引き離した魔導師はたったの200程度……例え航空部隊全てを振り切ったとしても、地上から攻めるつもりでいれば1400人以上もの陸士迎撃部隊を真っ向から相手にしなければならないはず……」

 「一人当たり700人も相手しなければならないか。そうなれば流石にあの二人言えども時間を割かずにはいられないと、そうお考えなのかな?」

 「少数精鋭には数の暴力が効果的なのは子供でも分かる事……。“13番目”とNo.7がどれだけ個々では強大な力を有していようと、この戦力差を覆す事だけは容易ではない……必ず時間を食い潰し、体力も消耗させるはずだ」

 「ふむ、教本を暗記したような戦術だな。流石は優等生、無駄が無い。質実剛健と言われるのも頷けると言うもの」

 「こちらから仕掛けず相手が消耗するのだけを待つ……今はこの戦術だけが頼りだ。相手がどんな策を用いようとも絶対にこの差だけは引っ繰り返せない……」

 「絶対……か。果たしてそうかな?」

 「なに……?」

 「意外とその逆転劇は呆気無く来るかも知れんぞ。この世の出来事に『絶対』は無いのだからな」

 「ばっ……!?」

 馬鹿な、と言おうとしてクロノは固まった。確かに今自分達が相対している敵は今まで幾度もなくこちらの作戦を全て真正面から破って来た。完璧とまでは言わないにしろ本気で迎え撃とうとしたにも関わらず、その全ては無残に情けなく打ち倒されて来たではないか。そうだ、今更この場に限って『絶対』と言う事は有り得ない!

 「…………貴方は“13番目”の策について何か予測か何かは?」

 「分からん。ただ一つだけ分かるとすれば、彼は何らかの方法で敵陣を突破して私の許へとやって来ると言う事だけだ。…………或いは」

 「……或いは?」

 スカリエッティの顔に一瞬だけ陰が差すのをクロノは見逃さなかった。上に立つ者として人心を見抜く術を持っている彼にとってその表情の持つ意味を推し量る事は難しい事ではなかった。その表情は『不安』……何か得体の知れぬ何かが迫って来るのではないかと言う懸念が如実に表された瞬間だった。そして、その『何か』の正体は知る由も無い。

 「貴方でも何かを恐れる事があるのですね」

 「おや? 勘付かれてしまっていたか。顔には出さないようにしていたつもりなんだがな。まぁ、実を言えばあの“13番目”が如何様な実力を有しているのかは私の頭脳でも解明不可能だ。17年間で私の想像の範疇を遥かに越える変貌を遂げた彼の実力は、もはや未知数の領域にまで達してしまっている」

 「未知数か……。そうだっ、IS! “13番目”は貴方が造った最初期のナンバーズ……だとすれば、奴も何らかの固有能力を────」



 「無いよ」



 「…………無い?」

 「確かにトレーゼはこの私が最初に造り上げた零号機とでも言うべき存在だ。だが、元々偶然の産物に過ぎなかった彼を戦闘機人に改造する過程では色々と面倒があってな……結局、埋め込んだはずの因子が開花する事はなかった。その代わり、紛いなりにも私の持つ莫大な“欲望”を引き継いでいるのだ……それに見合うだけの能力を持ち合わせてはいる」

 「“無限の進化”…………アンリミトッドエヴォルヴ。オリジナルの貴方が本能的に自分の脳髄を知識で満たすように、常に筋肉、内臓、血管、細胞……遺伝子までもが変異を繰り返し全身を『強く』する為に進化し続ける……そう言う能力でしたね」

 「能力ではない。意図して進化しているのではないのだからな。私にとって知識の果て無き探求がそうであるように、彼にとっての進化と言うのもまた同じ……この場合は呼吸と同じで『生態』として認識した方が妥当だろう。今こうして我々が無駄話をしている間にも、彼の細胞は毎秒ごとに常人の数百倍以上もの早さで変異を続けているはずだ」

 「最終的に奴の進化は一体どこまで行く?」

 「それは分からん。だが進化の速度はかつて私が出した計算を遥かに上回っていた。昨日の市街地戦で加重力に耐え切っただろう? あれもまさに彼の進化の証だ。引き上げられて行く重力よりも、彼の細胞が高重力をも克服する状態にまで進化した事に他ならない。恐らく原発の融合炉から漏れ出た放射線が直撃した程度では死なんのではないだろうか」

 人間が人工的に生み出した最強の毒でさえも跳ね返す存在……。理論上では既に核兵器ですら通用しないレベルにまで進化してしまっている敵を相手取っていると言う事実が今更ながらクロノに重く圧し掛かる。

 現場からの報告が途絶えた。全滅した……とかではなく、前線の部隊が敵の姿を見失っただけらしい。完全偽装能力シルバーカーテンを使っている為かレーダーにも反応は無く、クロノは捜索行動に移っていた前線部隊に所定の位置に戻るように指示した。始めこそアウトレンジからの不意討ちがあったものの、ここまで正々堂々と真正面から来ておいて突然姿を消すと言うのは不自然極まりない。捜索で部隊の密度が粗くなった瞬間を突くと言う事も考えられるし、結界発動を察知して遠くからこちらの戦力を削るつもりとも考えられる。どちらにしても、相手の動きが分からない以上は下手に動くのは得策ではない……ここは一旦態勢を立て直して守りを固めるのが防衛戦の基本だ。

 「小休止がてらに何か策を練っているかも知れない。ここは後手に回っても相手が出て来るのを待つべきだ」

 「相対距離72.9kmか……。随分とまあ、接近を許したものだな」

 「司令! ベルカ自治領内の自然公園丘陵地帯に向かった八神二佐から緊急通信!」

 「回線繋げ!」










 午後21時18分、無人状態のビルディング内にて──。



 「まいたか?」

 「まけましたね」

 照明の落ちた暗黒の空間に潜む影が二人……時折届いて来る生き残りのヘリからのサーチライトを避けながら密かに機会を窺っていた。やがてヘリが離れ、空間が再び暗闇に包まれてからトレーゼとセッテは堂々と建物の中を闊歩し始めた。

 「ここからはどうするんですか?」

 「ここからは、進行速度を、格段に落とす。相手は今、結界を張ろうと、躍起になっている…………あれだけ動いていた、迎撃部隊が、すぐに退いたのが、その証拠だ。明らかに、こちらを、誘い出そうと、している」

 「ではすぐに撤退を……」

 「いや、今回の作戦に、撤退と言う選択肢は無い。一歩でも、退いてみろ……例えお前でも、撃つ。もう一度言う……この作戦に、撤退は、有り得ない」

 暗闇の中で光る兄の視線に射抜かれ、セッテは思わず後ずさる。そうだ、この作戦に撤退は無い。これは彼が待ちに待った最後にして最大の好機……退く事など無いのだ。セッテ自身、その兄の決断に従いここまで来た……であれば、彼女もここで退く事は罷りならない。善であれ悪であれ、一度確固たる決意の下に動いたのであれば、そこに逃げ道など存在しない。

 「…………分かったな?」

 「……了解」

 「良し。では、行くぞ」

 「ではワタシが先行しますから、兄さんはその後で……」

 「いや、その必要は無い。ここからは、飛行せずに、前進する。出来るだけ、体力は、温存させたい」

 そう言って部屋のドアを開けて建物の通路へと出るトレーゼを追い、セッテも続いてその別の場所へと向かった。エレベーターの隣にある非常階段を下りて地下に向かい、厳重に封をしてあったドアを蹴り破ったその先は──、

 「…………俺の言いたい事が、分かったか?」

 「ええ、分かりました」

 視線の先にあった物を見てセッテはトレーゼの言わんとする事を理解した。確かにこの方法ならば多少の困難さえ度外視すれば飛行に比べて体力を消費せずに進めるだろう。

 「既に準備は、整っている。先に、行け。俺は、少し用がある」

 「了解」

 詮索せずに命令通りに先行したセッテを見送るトレーゼ。やがて彼女が再出撃の準備に取り掛かったのを見計らってから彼は脳内通信による疑似念話を開始した。繋げる相手は──、

 ≪クアットロ、現在のそちらの状況について、分かり易く説明してやる≫










 午後21時28分、地上本部管制室──。



 『以上が報告内容です。こちらは現在二手に別れて行動中。高町一等空尉と八神二等陸佐の両名が先行して大至急そちらに加勢に向かいました。私達の方はヘリを使って向かいますから、そちらに帰還するのは少し遅くなります』

 「ご苦労だった、ランスター陸尉。引き続き輸送警護の任に当たってくれ。現場に到着次第、君にも戦線に加わってもらいたい」

 『了解しました、では失礼します』

 モニターに表れていた通信回線が切断され、画面に再び目標を失ったレーダー映像が映し出された。画面上で蠢く光点を見つめるクロノとスカリエッティの間に奇妙な沈黙が流れる……機器から鳴り響く電子音も、オペレーターからの定時報告も何もかもその間に割り込む事は出来ず、時が止まってしまったかのように微動だにしない彼らは全く同時に溜息を零した。

 「世はすべてこともなし……か。なかなかどうして、上手く言ったものだな」

 「…………今の気分は?」

 「別にどうと言う事も無い。悲しくも無い、辛くも無い、痛くも無いし、寂しくも無い…………ただ……そうだな、ほんの少しだけ虚しいような感じがするだけだ。特に大した役割を与えていた訳でもないはずなのに、いざ盤上からポーンが消えた時の様なあの感覚だ……。不思議だな、そんなに情を掛けていた訳ではないはずなのになぁ」

 「そうか……」

 クロノもそれ以上は何も言おうとはしなかった。男はたまにだが感傷に浸りたくなる時もある……大人である彼だからこそ分かる、そんな傍観がこの沈黙の結論だった。

 だがしかし、そんな感傷の沈黙すら破って遂に待ち構えていた報告が入って来た。

 「相対距離69.7km地点に反応! 時速約70km前後でこちらに向かってメインストリートを直進して来ます!」

 「哨戒部隊からの映像を回せ!」

 「はい!」

 オペレーターの操作でモニターに前線に出張っている部隊からのリアルタイム映像が届けられた。街灯すら全く点いてない暗黒の街を上空から映した映像……建物が乱立する中で地平線の向こうまで何も無い細長く続くスペースは恐らく問題のメインストリートだろう。その幅だけでも十数メートルはありそうな道路を突き進む一筋の光。始めは敵の魔力光かと思ったのだが、明らかに色が違っていた。トレーゼは紅でセッテは桜色だが、今画面に映っているそれは明らかに白色であり、その輝きも体内から放出されるエネルギーのそれとは大きく異なっていた。

 「あれは……!」










 風を切りながら突き進む……。周囲の暗闇の風景を全て置き去りにしながら二人は遠くに聳え立つ塔を目指して迂回する事無く一直線に走って行く。雲霞の如く押し寄せる武装局員の大群を真っ向から捉えながらもその速度を決して落とそうとせず、逆に速度を上昇させて対向した。

 「速度はこのままで良いのですね?」

 「ああ、問題無い。そのままを、維持しろ」

 「はい。ですが……この状態での移動は何かと不便があるのでは?」

 「現状では、これが最も、効率の良い、方法だ。それに、機動力も、優れているしな……この、バイクとやらは」

 二人が取った移動手段……それは自動二輪車、つまりはオートバイだった。凶暴なエンジンの爆音を撒き散らしながら後輪を猛烈に回転させて得た推進力で、他に車両が一台も無い無人の道路を突貫する一台のバイク。前屈姿勢でハンドルを握り締めて運転するセッテと、背後から彼女の肩に手を置いてバランスを取りながら掴まっているトレーゼ……。言うまでも無いが、二人の目指す地点は地上本部であり、その間には約2000以上にも及ぶ大部隊が彼らを迎え撃とうとしている。この数に物言わせる布陣を単車一台で突破しようと言う余りにも無謀な作戦を敢行する事にはセッテ自身も難色を示したが──、

 「問題無い。今から行うのは、突破ではなく、敵勢力の、完全無力化だ」

 「無力化……? あの数をですか?」

 「そうだ。不服か?」

 「いえ……あの、その…………あれをですか?」

 そう言ってセッテが指差すのは当然前方に展開されている大部隊だ。手に手に持ち構えたデバイスの先から放たれた魔力弾が早くも自分達の足元や髪をかすって飛来して来るが、それでもセッテは命令通りに絶対に減速せず、逆にアクセルを大きく捻って更に速度を上げた。速度が上がった事で狙いが逸れて一瞬命中度が下がったかのようにも見えたが、今度は対向車線上に展開している地上部隊からの弾幕が二人を襲撃する。何とかエネルギー防壁を前面に展開する事で直撃コースの弾丸だけを絞って防御してはいるが、相手の陣営に居る狙撃班が前輪をパンクさせようと執拗に撃って来るのでそちらにも気を配らねばならなくなっている。何とか蛇行運転を繰り返す事で陸空両方からの攻撃を回避し続けるが……

 「挟まれた」

 「はい……」

 それまでずっと前方上空に位置していた航空部隊が今や自分達の頭上に居る……。上空に回り込まれた事で遂に二人は絨毯爆撃の危機に晒される結果となってしまった。ここからは蛇行運転による回避行動もさして意味は無くなるだろう。

 だが──、

 「セッテ……命令だ、絶対に、アクセルを切るな」

 「了解っ……!」

 この危機的状況のど真ん中に立たされて尚、その表情に焦りを見せない余裕を湛えたままの兄の存在を背中に感じながら、セッテは最後の走破に向けて限界までアクセルを入れ込んだ。この大軍勢を前に撤退はしないと豪語する時点で既に気付いていなければならなかった……この兄が、秘匿されたナンバーズのトレーゼが何の自身も根拠も無しに物事を実行に移すはずが無いのだ。入念の上に更に入念さを重ね、万全と言えるだけの下準備の後に行動する彼が、一見窮地にも見えるこの状況下を完璧且つ確実に打破するだけの用意をして来ないはずがない!

 彼が無力化させると言えば、それはそうなるのだ。

 彼が撤退しないと言えば、それは有り得ないのだ。

 彼が成功させると言ったならば……。

 「前方から砲撃魔法が二つ! 回避不可能!」

 「地上本部との、相対距離は?」

 「およそ60km……!」

 「充分だ。セッテ……俺は、この作戦を 遂行するに当たり、三つの、『切り札』を、用意しておいた……………………今、その一つ目を、見せてやる」

 走行するバイクの車輪の下に巨大な真紅の疑似魔法陣が展開する。彼が保有する十以上もの特殊技能の一つ、今この状況を回避出来るものは──、



 其れは“王”を守りし鎧……。

 何人たりとも傷付ける事適わず……。



 古代ベルカの王、聖王の血族を最強たらしめたこの世で最も堅牢なる絶対防御能力──!

 「IS、No.15……『ハイリゲンパンツァー』発動」

 “聖王の鎧”。










 午後21時30分、管制室──。



 単車を二人乗りして飛び出して来た時には流石に面喰った。マッハ五にも及ぶ極超音速で飛襲して来たいたはずの敵が、一度姿を暗ましたかと思えば今度は格段と進行速度を落として出て来たのだ。この敵の意味不明な行動にはクロノのみならず、隣で事態の一部始終を観察していたスカリエッティも「ほほぅ!」と感嘆の声を上げる程だった。

 上空からの絨毯爆撃と真正面からの弾幕に自らを晒しながら突貫して来るその姿は今ではただ愚かだとしか感じられず、もはや完全に制圧してしまうのも時間の問題かとも思っていた。

 ところが──、

 「し、司令! 敵の周囲に高濃度魔力反応有り!」

 「詳細なデータを! 映像拡大! 出来るだけ解像度上げろ!」

 「了解!」

 魔力反応が検知されたのは言われずともレーダーを見れば分かる。敵勢力を示す赤い光点から魔力の放出を表す波紋が広範囲に広がっていた。指向性が無く円を描くようにして全体に波及している所を見る限りでは恐らく攻撃魔法ではないはずだが、確かにこの魔力量の数値は無視出来なかった。

 「なのはが撃つ砲撃魔法と同じ位の魔力量が全体に散布されている……。だがこの魔力波長……どこかで……」

 クロノの脳裏に引っ掛かる魔力放出パターン。過去にどこかで見た形跡があるそれは確か三年前に……

 「映像、拡大します」

 「…………何だこれは!?」

 ズームして映されたのはさっきと同じ夜の街を爆走するバイクだった。上空と地上からの迎撃に晒されながらも走り続けるその車両には傷一つ無く、乗っている二人も当然と言わんばかりに堂々と二人乗りして走行していた。確かにそれだけ見れば何の異常も感じないのだが……クロノに驚嘆の言葉を言わしめた要因が二つあった。

 一つは走行するバイクの真下に浮かび上がっている疑似魔法陣。

 そしてもう一つは──、



 車両全体が赤く燃え上がっていた事だった。



 爆走する二輪車がハンドルからタイヤ、排気ガスを吐き出すマフラーに至るまで、とにかく全体が轟々と揺らめく真紅の陽炎に覆い隠されており、劫火の塊となったそれに跨って二人の戦闘機人は夜の街道を走り続けていた。この世のものとは思えないその光景を見たクロノの脳裏に浮かんだのは、十数年前に日本の文化を学ぼうとして手に取った宗教関連の本に描かれていた地獄絵図……地の底に堕ちた亡者共を乗せて責め苦を負わせる化物、“火車”を彷彿させていた。

 その分厚い魔力防壁は真正面から飛来して来る弾幕を触れたその瞬間から掻き消して行き、二人を吹き飛ばすつもりで放たれた砲撃でさえもが鏡面を光が反射するように軌道を屈折され、軌道上のビルや地面を抉るだけに終わった。

 「ほう、そうか……。彼はこの為に“聖王の器”を……」

 「まさか『聖王の鎧』っ!?」

 「聖王一族を最強たらしめ、“ゆりかご”をも難攻不落にさせた究極の絶対防御スキル……まさかISとして取り込むとはな。この私も驚きを禁じ得ないよ」

 「感心している場合か! 全部隊に通達! 全ての攻撃を対象に集中させろ!!」

 「あの能力は使用されている魔力よりも多くの魔力をぶつけねばならない……。無駄だと思うがなぁ」

 「だとしてもっ、何もしない訳にはいかない!」

 クロノの通達が現場に届いたのか、迎撃部隊から放たれる魔力弾の火線が一点に集中し始めた。一発一発の威力は低かろうが集中させれば破る事は不可能ではないはず……そう希望を託す想いで彼は現場にただただ攻撃を集中させるように命令し続けた。その甲斐あってか、流石に打ち破るまではいかなかったようだったが、あまりの猛攻に屈し始めたらしくバイクの速度が徐々に失速を始めた事が確認出来た。この時点で本部との相対距離は60kmをとっくに切り、不動を守っている地上部隊の最前線とは既に20kmにまで迫っていた。

 当然、とうの昔に結界の効果範囲内だ。

 「結界準備!」

 「99%っ!! いつでもどうぞ!」

 「良しっ! 封時結界発動っ、カウント開始!!」










 バイクを急停止させ、トレーゼとセッテが同時に降りる。紅い焔とも見紛う“聖王の鎧”を身に纏った兄のすぐ背後からセッテが付き従う形でゆっくりと歩いて進行し、魔力弾が着弾した地面から飛び散る破片を気にもせずただひたすら前進した。真正面から飛来する弾幕は前を歩く兄の“鎧”に阻まれて消滅し、燃え盛る地獄の業火にも似たその姿形に徐々に恐れを成し始めた迎撃部隊の戦線が徐々に後退を開始する様子が確認出来た。

 だが、この後退が別の意味を含んでいる事を二人は見抜いていた。

 「前線が、必要以上に、退いている……。お前は、これをどう見る、セッテ?」

 「こちらが追い撃ちを掛ける為に陽動し、接近した瞬間を見計らって結界を発動させる算段でしょう。たった今通信を傍受して聞きましたが、もう秒読み段階に入っているものかと思われます」

 「是非も無い……このまま、前進あるのみ。あちらは、こちらを網に掛けた、つもりだろうが、その実は逆……こちらが、奴らを網に掛けたのだ」

 両脚装備のローラーが回転し、トレーゼが一気に加速し出した。それを追ってすぐにセッテも背後にぴったりとくっ付いて追従する。陽炎のように揺らめく魔力防壁で前も見えないが、これが今の自分達を守っている一枚の壁……一度これを解いてしまったら二人揃って鴨討ちにされる事は間違いないだろう。かと言ってこのままずっと徒歩で移動していてもどうする事も出来ない……。

 「何か策はあるのですか!?」

 「策が、あるのかだと……? では聞くが、セッテ……お前の兄は、何の策も無しに、敵陣に赴くような、愚か者か?」

 「ではどうやって……!」

 「見ていろ……じきに分かる」

 そう言いながら彼の指さす方向には未だにこちらに対して魔力弾の嵐を叩き込んで来る魔導師部隊の影……。こちらが守勢に回っているのを良い事にして絶え間なく射撃と砲撃の連射を行い続けながら、トレーゼの言う通りその前線が目に見える速度で後退を繰り返しているのが確認出来た。目測でおよそ1000m弱……狙撃技術を持っていない者では苦しい距離であるにも関わらず、前線は更に更に後退をして行く。それでもなお攻撃の手を全く緩めないのは既に彼らの狙いが牽制ではなく、こちらが反撃に転じて接近して来るのを誘っている陽動だと言うのもどうやら事実らしい。だが結界の発動を担当している魔導師達はその全員が地上部隊の壁に守られた奥に位置している為、排除するにはどうしてもその前の数百以上もの部隊を突破せねばならない。

 そして、今の二人にはそうするだけの猶予は残されていなかった。

 「距離的にも時間的にも厳しいです。ワタシが前線を引きつけている間に兄さんのライドインパルスで強襲……と言う手立てもありますが?」

 「お前が、前に出る必要は無い。それに、言ったはずだ……今夜殺すは、一人だけだと」

 「ですが……」

 「もう少し、待て。結界を発動させる時、奴らは、その一点にのみ、集中するはずだ……。その瞬間、僅かな隙が生まれる……その時を突けば、確実に、奴らを落せる」

 それだけ言ってトレーゼは待った。ただただ待ち続けた……いずれ来るその『最良の時』、その瞬間を──。

 上空を飛んでいた航空隊が徐々に高度を下げ始め──、

 展開していた陸士部隊の大群の後退速度が遅くなり──、

 魔力弾の弾道が低くなったその時──、



 全てが『止まった』。



 「来た!」

 敵の後退と弾幕、その二つが全く同時に静止したこの一瞬こそトレーゼが待ち望んでいた瞬間に他ならなかった。眼前に敵を目にしながらの攻撃中断は本来戦場では考えられぬ行動だ……その行動が表す意味はたった一つ……。

 攻撃よりも優先すべき事態が発生すると言う事だ。そしてそれはこの場合、このクラナガン全域を対象とした広域封時結界の発動に間違い無い。

 「セッテ、良く見ておけ……」

 「っ!?」

 それまでずっと展開されていたハイリゲンパンツァーが解除され、足元の疑似魔法陣も同時に消滅。しかし間を置かずに再び疑似魔法陣が出現するが、その場所は……

 「テンプレートが……頭に!?」

 頭頂。あたかも天使のリングの如く頭上で回転するそれにセッテは思わず見惚れ、そして確信した……今から自分の兄はとんでもない事を仕出かす、と。その姿にかつての教育者であるトーレにすら抱いた事の無い畏敬の念を感じながら、彼女はトレーゼの繰り出す二つ目の『切り札』をしかとその双眸に焼き付けようと目を見開いた。

 「これぞ、Dr.スカリエッティですら知り得ぬ、対魔導師及び騎士戦特化型戦闘機人の、真髄…………No.13『Treize』、最強の由縁……!!」

 結界の発動で周囲の景色が灰色に染まろうとしたその時──、トレーゼが両腕を天高くかざし鮮血の真紅の光が星の半球を真昼の如く浸蝕した。

 その輝きは【スターダストデヴァステイター】が炸裂した時の比ではなく、太陽どころか超新星の爆発を思わせる凶暴な煌めきが建物を、街路樹を、地上本部を、セッテを、そして敵対する2192名もの大軍勢を包み込んだその刹那──、





 「IS、No.13────発動」





 二度目の『停止』がクラナガンを制圧した。










 午後21時36分、管制室──。



 「な、何が起こったんだ……!?」

 天井の照明とモニターの電源が落ちて暗闇に囚われた管制室の中でクロノは努めて冷静になろうとしていた。つい今しがたまで映っていたはずのモニターはその全てが完全に機能を停止してしまっており、現場との連絡を取ろうと通信機器を作動させてみようとしたが……

 「動かない……! このタイミングで故障か?」

 いくら操作してもウンともスンとも言わないでいる機器を見てクロノは苛立ちを隠せずにはいられなかった。ここにある全ての機器が一斉に故障して使い物にならなくなるなどどう考えても不自然、有り得ない事態だ。闇に目が慣れ始め、周囲のオペレーター達も事態が完全に把握出来ていない所為で動揺が管制室全体を走った。どうやらモニターだけでなく各員のコンソールまでもが機能停止状態に陥っているようだった。

 「外部との通信手段を断たれたか……。誰か一名、管制室の外に行って外部の担当員と連絡を取ってくれ!」

 「では私が……!」

 出入り口の一番近くに居たオペレーターが挙手し、速やかに実行に移すべく自動ドアの前に立った。

 だが──、

 「あれ? ちょ、あれ、何で!?」

 「どうした?」

 「開かない……システムがロックされていますっ!!」

 「何だと!!?」

 本来自動ドアは何かしらの支障があって開閉機構が上手く作動しない場合は手動で開くように設計されているのだが、どうやらこれはそれすら無理なようであった。押しても引いてもと言うのはこう言う事を表すのだろう、実際三人掛りで開けようと試みているがビクともしない。

 「ちょっとどいていろ!」

 「待ち給え提督殿。今なにをしようとした?」

 「デュランダルを見て分からないか? 無理矢理突破するに決まっている!」

 「落ち着きたまえ。確かこう言う重要な部屋のドアと言う物は結構な強度があるらしいじゃないか。提督殿は一発で破れるだけの自信はあるのかな?」

 「一発で無理なら───」

 「加えて、君の魔力資質は『凍結』……君が鉄壁のドアに複数の魔力弾を撃ち込んで、ドアが破れるのと我々が爆散した冷気で凍死するのはどちらが早いかな……」

 「それは……っ!」

 「自信が無いなら止めておきたまえ。百害あって一利も無い。それよりも皆でこれを見ないか? リアルタイムのライブ映像だぞ」

 そう言って終始落ち着いた態度を一貫しているスカリエッティが出したるは……小型の携帯テレビ。前時代的な折り畳みアンテナを最大に伸ばすとその先を丁寧に調整しながら無線の受信状況を確認し始めた。

 「こんな事もあろうかと思って用意しておいて良かった。もし外部との通信が断絶した時の為にと、前線の地上部隊の一小隊にカメラを預けておいたんだよ。おお! 良い具合に映った」

 オペレーター達にシステムの復旧を任せ、クロノはスカリエッティと共にその小さな画面を食い入るように凝視した。時々画面がブレるのは映している隊員がカメラを手に持って移動しているからなのだろう……せめてこれが無線通信機だったならここから指示を出せるのだが、映像も音声も現場からの一方通行なので歯痒い事この上ないばかりだ。

 映像が大きくブレて天高く聳え立つ巨大なタワーを映した。地上本部を現場側から見た映像だが、上空を絶え間なく照らしていたはずのサーチライトが一基も作動していないのか全くの暗闇が広がっている様子が映されていた。その後映像の拡大機能を使って分かったのだが、あの700以上も居たはずの航空部隊が一人も上空を飛んでいなかった。

 「どう言う事だ? 上空の部隊が……消えただと?」

 本当に一人も居なかった。冬の夜の暗闇を差し引いたとしても魔力光の一つも見えないのはおかしい……まさか全員撃墜された!?

 「流石にあの一瞬であれだけの数を墜とすのは不可能だ。もっと別の方法があるにしても…………………………………………まさか!」

 「どうか……?」

 「いや、待て……そうだ、有り得ない。今までただの一度も…………まさかっ、“進化”したとでも言うのか!? …………違う、そうじゃない。……………………そうか、そうか! そう言う事か! そうだったのかっ!! この次元世界最高の頭脳を持つ、このジェイル・スカリエッティが…………ハメられた」

 「待て! 一人で先に状況の分析を進めないで────」

 「ハラオウン提督っ!!」

 「ぅお!?」

 がっしと肩を掴まれた事でクロノは大きく仰け反ったが、それ以上に驚愕したのは自分の肩を押さえるスカリエッティの表情……いつも蛇の様な気味の悪い笑みを湛えていた彼からは想像も出来ないような焦りに満ちた緊迫した表情がクロノを捉えて離さず、その慌て様を見てクロノの方もこの事態の重大性についてやっと理解が追い付き始めた。目の前に居る人類最高峰の頭脳を持つ男が恐怖する事態を……。

 「私は……たった一つだけ計算違いをしてしまっていた」

 「計算……違い?」

 「先程訊ねられたトレーゼの持つはずだったISの話しを覚えておられるか? あの時私は『彼にISは無い』と断言してしまったが…………すまない、あれは間違いだった。本当はただ単に発動しなかったのではなく、『今まで発動しなかった』だけだったんだ!」

 「今まではって……一度発動しなかったのならDNAそのものが変異しない限りは……………………そうか、そう言う事かっ!!」

 クロノもスカリエッティの言わんとしている事を把握し始め、どんどん顔が青褪め出した。

 スカリエッティのナンバーズ製造理論によれば、特殊技能を発現させる為に必要なIS因子は非常に制御が難しく、常人では上手くDNAに組み込めたとしても遺伝子そのものが発現条件を満たす最適な構造をしていない限りは決して発動しないようになっている。なので彼の場合は埋め込む因子を改良するのではなく、素体となる人間の肉体を改良する事で12人のナンバーズ全員にISを授ける事に成功したのだが……過去にトレーゼだけはどう言う訳か埋め込んだ因子が適合せず、結局彼の管理下に居た時には一度たりとも発動する事は無かったと聞いていた。他の姉妹が持つ因子を組み込んでも何の問題も無く発動する事に不思議を覚えなかった訳ではないが、ナンバーズの原初にして最高傑作でもあるトレーゼが秘める実力を過信してさえいたスカリエッティは微々たる損失だとしか思わずに放置し、そのまま“完成された未完成”のままDr.ギルガスに譲渡してしまった野だと言う。

 「因子の働きを潤滑にするクイント・ナカジマの遺伝子を以てしても発動しなかったはずなのに、17年もの歳月を経て肉体側が変異した…………通常なら有り得ない事だが、彼の持つ特性を考えれば頷けない話じゃない」

 「“無限の進化”……二十年近くの歳月を掛けて、ISを発動させるに適した状態にまで肉体を進化させたと言う事か」

 「いや、因子に肉体を合わせると言うだけで二十年も要する訳が無い! いやいや、そんな事はどうだって良い! マズい……実にマズいぞっ!!!」

 「待て待て! 一体何がまずいんだ? ちゃんと説明しろ!」

 「ナンバーズは元々何を目的にして造られたかは知っているな?」

 「確か、『対魔導師及び騎士戦特化型戦闘機人』……魔法技術を応用する我々に対抗する為に製造された戦闘機人だったか?」

 「トレーゼはその最高傑作……つまり、如何なる実力者であろうとも彼の前に立ったその瞬間から一気に弱体化させられてしまう。強制的に、そして確実にな」

 「一体……どんな能力なんだ」

 返事の代わりにさっきの小型テレビの画面が再び差し出された。画面はいつの間にか地上本部や街の光景から一転し、だだっ広いメインストリートを映している。普段は街の動脈とも言うべき大道路が今や敵の凱旋に使われ、迎撃の魔力弾が雨霰の如く着弾した所為でアスファルトの地面は土が剥き出しになる程に抉れていた。そして、その前方に向けられたカメラ先に映るモノ……それを拡大して映した瞬間──、

 「何だ……これは?」

 一瞬画面全体が真っ白になったのは、映したそれが物凄い光を発していたからに他ならない。カメラのレンズを介してこの眩しさ……恐らく暗闇に閉ざされたクラナガンの街もこの場所だけはまるで真昼の太陽に照らされたような明るさに満ち溢れているのだろう。ただし、太陽のような神々しい輝きではなく、辺り一面を血の海にしたような真紅の毒々しい輝きだが……。

 その輝きの中心……目を凝らせば僅かに見える人形のシルエットは紛う事無く最強の戦闘機人、トレーゼ。下げた両手の平を前に向け、静かに瞳を閉じている彼の頭上に眩く輝く真紅の疑似魔法陣……その姿はあたかも混沌としたこの地上に舞い降りた天使のようだったが、その実態は見た目には程遠いどころか正逆としか言い様が無い。たった二人の侵略軍に対しこちらは2200の軍勢を放ったにも関わらずその差は一瞬にして覆され、守るべき街の道路は彼らの凱旋道に利用されている……もはや動ける者は誰一人として居ない、敗北したも同然である。

 「そうか……発動してしまったのだな、完全に!」

 テレビを持つ手をわなわなと震えさせながらスカリエッティの興奮と焦燥が絶頂を迎える。画面から届く輝きに己以上の狂気を見出したのか、その表情はクロノが一度も見た事が無い恍惚とした、或いは驚愕、或いは恐怖、また或いは恐怖とも取れるような表情をしていた。

 「対魔導師スキルの最高峰…………『アブソリュート・ドミネイター』が!」










 同時刻、地上本部第一医務室にて──。



 「あ……あぁ…………」

 「────────」

 「ほ、本部……こちら第一医務室スタッフ……。異常事態発生……至急、応援を」

 「────────ウゥ!」

 「か、彼女が逃走してしまう! 早くっ!」

 「トレーゼ…………トレーゼぇ!!」

 「彼女が……ノーヴェ・ナカジマが脱走した!!」

 震えながら電話をする局員の視線の先には、竜をも昏睡させる麻酔薬をものともせずに覚醒し、仁王立ちとなったその全身から真紅の陽炎を噴出するノーヴェの姿があった。ベッドの上の拘束ベルトを引き千切った時に破れたのか服の所々は引き裂かれ、奥から束縛されて痕が付いた素肌が見え隠れするのも全く意に介さず、非常に興奮して肩を怒らせながら彼女は一歩を大きく踏み締めた。

 だがその次を固く閉ざされたドアが阻んだ。当然、本部全体がシステムダウンを起こした事など知りもしない上に、ほんの一欠片しかない理性で何とか精神を保っているだけの危うい状態のノーヴェが目の前の状況を冷静に分析出来るはずも無く……。

 「邪魔──すんなぁああああああっ!!!」

 何の遠慮も躊躇いも無くその鋼鉄のドアを蹴り破った。大の大人が三人掛かりで体当たりしても決して外れないドアが、たった一発の蹴りでアメ細工のように歪んで枠を飛び出し通路の壁に激突、豪快な音を立てて周囲の局員達を恐怖させた。

 これで彼女の進行を妨害するモノは消滅した……大きく息を吸ったり吐いたりして調子を整える仕種の後、大きく跳躍し──、

 真正面の壁をブチ破いた。

 「ガアアアアアアアッ!!!」

 獣が獲物を追い求めてささくれ立った藪を突っ切るように、眼前に立ち塞がる鉄筋コンクリートの壁を鉄拳、蹴脚、体当たりの三連撃で発泡スチロールを崩すようにして爽快さすら感じさせる速度で次々とブチ破って一直線に外へと向かって行った。砕け散ったコンクリ片には歪な拳の跡が刻み込まれ、彼女のモノではない紅い魔力が蒸気に混じって昇華する……。

 当然、もはや獣と化した彼女を止める事など誰にも出来なかった。










 『Absolute』……“絶対の~”。

 『Dominate』……“支配する”。

 直訳して“絶対支配者”……それが、一時は創造したスカリエッティ本人ですら諦めかけていた全ISの中で最高のスキル、トレーゼにのみ許された特殊技能である。

 最大の特徴はテンプレートの出現位置を置いて他には無いだろう。通常ISが発動によるエネルギー解放時に足元に疑似魔法陣が展開されるのに対し、この場合は頭の上……エンジェルリングの形となって出現するのが最大の特徴だ。そして第二の特徴はその光量の凄まじさ。白昼の太陽にも匹敵するであろう輝度は障害物さえ無ければ地平線、水平線の彼方にまで届くほどに眩しく、そしてその光の行き届く全ての空間がこの能力の効果範囲内となる。

 「……前線、撤退を開始しました。どうします? このままでは光の当たらない場所に避難されてしまいますが……」

 「愚かな。この輝きは、ただの光に、よるものではない。可視化するまでに、凝縮された、超高濃度電子粒子…………ナノサイズの、粒子一つひとつが、俺の意思に沿って動く、デジタルウイルスの、結晶体だ。光を浴びた全ての電子機器に介入、操作し、そして完全に制御化に置く能力…………それが、この『アブソリュート・ドミネイター 1stフェイズ』の、力だ。一度これに干渉されれば、ネットワークを媒介し、別の媒体へと影響する。理論上、この能力で、一つの次元世界を、完全掌握するのに要する時間は、たったの90分だ」

 「全ての電子機器……ですか。つまりそれは……」

 「そう……システムと名の付くモノ、プログラムと名の付くモノ、全てに例外無く干渉する。もちろん……デバイスのAIも例外ではない」

 トレーゼとセッテの視線の先──、

 紅い光が照らし出すその先で──、



 機能停止したデバイスを抱えて全力撤退する2200の武装局員があった。



 手に手に持ったデバイスはその全てが完全にAI作動を停止されており、持ち主の武装局員達が必死になって指示を出したりトリガーを引いたりしても決して動く事は無く、デバイスを強制停止された事で身に纏っていたはずもバリアジャケトまでもが跡形も無く消滅していた。魔法に適応しないデバイスなどマガジンの入っていない銃器も同然……武装解除された事によって魔法使用を大幅に制限された武装隊は、上空から落下して負傷した隊員達を抱えながら無様に敵に背を向けて逃亡を図ろうとした。当然、デバイスの演算機能に頼っていた結界班もAIが急停止した事で出鼻を挫かれ、首都は完全に丸裸にされる結果となった。

 「追いますか?」

 「放っておけ。俺がこのISを、解除しない限り、奴らに勝機は無い。この先、こちらが相手にするのは、たった『七人』だけだ」

 再び行軍を開始したトレーゼとセッテは穴だらけになったメインストリートを悠々と歩き始めた。だがその足取りはまるで観光地の市街を練り歩く様な緩やかなもので、武器さえ携えていなかったら一般人と何ら変わらない自然な空気が二人の間を流れていた。先に歩くトレーゼを半歩後ろから付き従って歩くその姿は、まるで完璧な統率の取れたツーマンセル……否、阿吽の呼吸を知り尽くしたただの兄妹だった。実態は鼠を追い詰める虎猫ながらもその双眸には決して戦闘の意思の光は無く、相手側から見れば完全なる侵略行為でしかないこの進行も二人にとっては単なる目的地までの移動でしかない……。何もしなければそれで良し、敢えて立ち向かって来たりなんかするから排除しなければならなくなるだけで、少なくともこの場に限って言えばトレーゼとセッテには侵略と言う考えは全く無い状態に等しかった。

 「…………兄さん」

 「……何だ?」

 「……………………いえ、何も……」

 「……歯切れが、悪いな、お前らしくない」

 「…………そのIS……ワタシには……」

 「ああ、分かっている。お前には、『使わない』」

 「…………感謝します」

 「頭を下げるな。分かっている……この能力、『2ndフェイズ』の力は、然るべき場面で、使う。今ここでは、使っても意味が無いし、お前には、使う必要が無い」

 「それはワタシが貴方の妹だからですか?」

 「勘違いするな。今の俺と、お前の関係は、単なる協力者……ギブアンドテイク、とか言う奴に過ぎない。俺はお前を、利用しているだけ……そして、お前も俺を、利用すれば良い。それだけで、互いの利益が、完璧に一致するのだ……これ以上無い、協力関係だと、思わないか。……………………おい、ちょっと」

 「?」

 小さく手招きされたのでセッテは小走りで兄の所まで駆け寄り、その右隣に付き従った。通信すればそれで済むのにわざわざ近くまで呼び寄せたからには何か重要な事を伝えるのだろう……そう思って耳打ちしようとしているトレーゼに顔を近付けると──、

 「離れ過ぎだ、用心しろ」

 「あ────!」

 セッテはこの時初めて気が付いた……自分と兄の間の距離がいつの間にか小走りしなければならない位にまで開いてしまっていた事に。戦闘中であれば埋められない間隔でもなかったが、これだけ離れていてはハイリゲンパンツァーの効果も及ばない……気の緩んでいたさっきの状態で万が一にも狙撃を受けていたなら絶命は免れなかったはずだ。

 「常に、意識を逸らすな。逸らせば、死ぬぞ。…………死んでしまってからでは、遅いからな」

 「肝に命じておきます。人工培養の強化臓器ですが……」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………フッ!」

 「…………あ、笑った」

 「今までに、聞いた中で、最高級のジョークだった…………才能あるな、お前」

 「才能……ですか。素直に喜べるものなのでしょうか」

 「むしろ、誇れ。毎日、聞いていても、良いくらいだ」

 「毎日ですか……。それも良いですね。ところで兄さん……分かっていると思いますが……」

 「ああ。さっきから気付いている」

 「……………………」

 「……………………」

 撤退して行く前線を傍観しながら移動していた二人はふと行軍を止めると互いの背中をぴったりと合わせて死角を埋めた。既に前線はとっくの昔に退却した……この無人状態での襲撃など有り得ないだろうが、トレーゼとセッテの鍛え抜かれた心眼は自分達に向けられて来る殺気をしっかりとキャッチしていた。だが遠過ぎるのか或いは相当の手錬なのか、届いて来る殺気はとてもか細く不確かで、攻撃がどこから飛んで来るのかをすぐに判断する事は出来なかった。

 だが相手に明確な攻撃意思はあるのならば、その瞬間には殺気が最高潮に達するはず……。その一瞬で敵の居所を掴んで制空圏から脱する!

 「どこだ……どこに居る……?」

 「ワタシの感覚領域では捉えられません。ですが思っているよりも近くに居るのではないかと」

 「近くか……だが、周囲に生命反応は……」

 精密機器によって高められた戦闘機人の視力は30.0、更にセンサー類が視界に取り込んだ物体を常に細分化した情報として取り込んで来るので視線の先にどんな物体があるのかなんて一目瞭然だ。だがそのセンサーにも敵影らしき情報は入って来ていない。

 前か? こちらの意識が前線に集中していたのは相手も知っているはず。となればそれは無い。

 後ろか? それこそ接近していたら気付くはずだ。

 上か? デバイスが起動しない今、補助も無しに飛行出来る手錬が居るとは思えない。

 となれば選択肢はたった一つ──、

 「下かっ!!」

 瞬間的に増幅した殺気を足元に感じて二人が上空へと飛び上がるのと、アスファルトを突き破って地下から白銀の剣山が飛び出すのはタッチの差だった。その飛び散るアスファルトと土の中にトレーゼとセッテは確かに見た……筋骨隆々の褐色の鋼の肉体と頭に付いた人外の耳、そして特徴的な蒼い尾……。

 「貴様っ!」

 「ここは通さん!! 『盾の守護獣』の名に懸けて死守するッ!!!」

 「犬畜生が」

 「犬ではない! 守護獣だぁああああっ!!!」

 突出した【鋼の軛】を足場に跳躍したザフィーラが一気に距離を詰める。突き出された鉄拳は確実にトレーゼの顔面を狙っており、このまま行けば直撃コースは必至だった。だが当然そんな事は傍に居たセッテが黙認するはずもなく、長身を活かした足技ですぐさまカットされてしまう。

 「くっ……!」

 迎撃を恐れたザフィーラは一旦地面に降り、展開させていた【鋼の軛】を消滅させ視界を保った。対するトレーゼらも突然の強襲に堂々とした感覚を崩す事も無く、悠然とザフィーラの前に降り立った。

 「戦闘機人に、接近戦を、挑むとは……笑止。だがしかし、中には貴様の様に、デバイスに頼らずとも、戦闘可能な輩が居るとはな……」

 「古代ベルカの戦士を甘く見ない方が良い。魔導師がデバイスと言う名の武器を手にする遥か以前から我々は己の身一つで侵略者どもを打ち倒して来た。もはやこの拳に砕けぬモノ無しっ! 貴様も同じだ、“13番目”!!」

 「躾がなってないな……どうやら、首輪を付けんと、実力差と言うモノが、理解出来んらしい…………。セッテ」

 「はい」

 「お前は先に行け。この負け犬を、倒した後で、すぐに追い付く。歩いて行けよ?」

 「了解です」

 「行かせると思うか!」

 「生憎、弱いモノいじめは、趣味ではない……二人で相手するのも良いが、貴様の負けは、確定だぞ」

 正面から堂々と侮辱された事がよほど悔しいのか歯ぎしりしながら怒りを耐え忍ぶザフィーラを余所に、セッテはその脇を無防備に通過して行った。管理局側の本懐はあくまでトレーゼの鹵獲のみ……ここでセッテを優先させる事は与えられた任務に反すると考えたザフィーラは、眼前の傍若無人な戦闘機人に向き直った。対するセッテの方は本当に徒歩で目的地に向かうらしく、穴だらけになった夜のメインストリートをゆっくりと前進し始めた。

 そして場にはザフィーラとトレーゼのみが残った。

 「さて……まず何から、教えて欲しい? お手? お座り? 何でも良いぞ」

 「貴様っ、守護騎士を愚弄するのもいい加減にしろ!」

 「そう、かっかするな。貴様と俺とでは、力量に差が、あり過ぎる……そうだな、ハンデを、設けてやる」

 無防備に一旦背を向けたトレーゼは大き目のアスファルトの塊を引っ掴み、そこに椅子代わりにして腰を下ろした。起動していたマキナを剥き出しの土の上に突き刺して頬杖をつき、完全に戦意喪失と言った戦いには似合わない崩れたスタイルで牙を剥く守護獣と向き合った。

 「……なんの真似だ?」

 「五分やろう。五分で、貴様が俺を、排除出来なければ……そこからは、俺が全力で、貴様を消し潰す。いいな?」

 「三分で充分だ!」

 「ま、精々頑張れ、犬」










 21時43分、地上本部シェルター連絡通路にて──。



 「……………………」

 「ナカジマさん、どうかしましたか?」

 「…………トレーゼ……」

 局員に連行されて暗闇の通路を避難していたスバルは不意に立ち止まると窓の外に広がる闇夜の空を見つめた。冬の澄んだ夜空には小さな星粒が輝き、立ち込めた暗雲が虫喰い穴のように空の星を覆い隠していた。そしてその雲さえも照らし出す地平線の向こうの紅い光……彼女の翠の眼はその凶悪な光に魅せられて釘付けになっていた。傍の付き添いが先を急ぐように促しても脚に根が生えたかのように微動だにせず、ガラスの外に広がっているこの世のものならざる光景を眺めていた。

 「……戦ってるんだね……みんな、必死に」

 本部の停電と同時に事切れた自分の相棒に目を移す。戦えない……利き腕を欠き、デバイスも動かず戦意すら湧いて来ない、そんな自分が行ったところでどうする事も出来ないのは自明の理……火を見るよりも何とやらと言う奴だ。既に自分よりも強い実力者達が一斉に撤退を始め、既にこの地上本部の手前の最終防衛ラインにまで逃げて来ている事も知っている。あれだけの大部隊が退けられた今、一介の警備隊の自分が出て行って何になろうか……そんな諦観の念が彼女に一線を踏み出すだけの勇気を抑え込んでいた。

 「私は……無力だよね、ほんと。もう自分で何したら良いのか全然分かんないよ……。行かなきゃいけないはずなのに……」

 やがて諦めの方が勝ったのかスバルは再び連行されるままにシェルターへと赴いた。だがその視線は未だに未練がましく窓の外を向いたままであり、地平線のビルの間から見える真紅の輝きに目を奪われたままだった。

 だが結局、後ろ髪引かれる思いで投げ掛けていた視線をようやく外し、彼女はシェルターへと続くドアを潜ろうとした。

 その時──、

 「…………な、に! これ!?」

 突然降り掛かってきた得も言われぬ重圧……全身が総毛立ち、嫌な冷たい汗が背中にジワジワと湧いては流れ落ちて行った。あの紅い光が夜空を埋め尽くした時には感じなかったはずの圧迫感が今のスバルを押し潰さんばかりに疲弊させていた。そして疲弊と同時に直感……何かとんでもない事が起きたか、或いは今から起こると彼女は本能的に察知した。だが周囲の者はこの事実を予想すらしていない。恐らく今この場に居る者の中で気付いているのもスバルただ一人……彼女しか気付けなかった。

 止めなきゃいけない! 動けない自分の代わりに誰かに危機を知らせねば!

 だが誰が今の彼女の言う事に耳を貸すだろうか……。既に幇助罪の疑いが掛けられている彼女は立派な重要参考人……どんなに喚き立てても意味は無いだろう。だが危機が刻々と迫って来ている事は事実だ。そしてそれを知り得たのは自分ただ一人……。

 ならばもう──、

 「ごめんなさい……!」

 「な、何を……ぉぐっ!?」

 振り向いた瞬間を見計らい健在な左手で鳩尾に一発、人間一人を気絶させるには申し分無い威力だった。担当の局員をその場に残し、スバルはマッハキャリバーを握り締め来た道を遡り始めた。起動しないデバイスなど装飾品にもなりはしないと分かっていながらも、彼女は外へと通じる道を探してひたすら駆けた。防火シャッターに阻まれた道を迂回し、制止の声を掛ける局員を無視して階段を飛び越し、ひたすら外を目指した。治りたての脚が悲鳴を上げるのも無視し、ずっと抑え込んでいた想いに突き動かされるままにスバルは誰にも止められる事も無く駆け抜ける。

 その甲斐あってか地上一階の東口玄関に到達するのに五分も掛らなかった。前線の撤退によって早くも玄関前は戦闘を続行出来なくなった部隊でごった返しており、誰も彼もが自分達の状況確認に必死であり突然飛び出して来たスバルの存在に気付く者は誰も居なかった。

 「……行けるよね?」

 現状ではどう言う訳か知らないがデバイスは使用不可能……だが魔法そのものが使えなくなってしまった訳ではない。マッハキャリバーの補助無しでどこまで行けるかは分からないが、飛行が出来ない以上は【ウィングロード】で一気に目的地まで駆け抜けるより方法は無いだろう。その際の両脚に掛る負担はさっきの比ではない事は明白だが、もはやここまで来て怖じ気付く事も許されない……ならばただ前進あるのみだ。

 誰の物かも分からないコートを羽織ると自分に注意が向いていない隙を見て駆け出す準備をする。だがその時になって彼女の眼にある物が留まった。

 「あれって……?」

 “それ”を目にした瞬間に閃いた妙案……実行に移すべく彼女は一気に駆けると──、

 “それ”に拳を突き刺した。










 「……ジャスト、180秒か。宣言通りだな、犬。貴様の負けだ」

 アスファルト塊に頬杖をつきながら座っていたトレーゼは退屈そうにそう言って立ち上がり、自分の目の前で倒れている守護獣の無様な姿を睥睨した。全身を満遍なく攻撃されてボロ布のように変色したそれは間違い無くザフィーラだったが、現在の彼はもはやとっくに虫の息となって地に伏していた。もう完膚無きまでに戦意を砕かれた誇り高き守護騎士が立ち上がる事は無く、その横を通ってトレーゼは一瞥もせずに先行させていたセッテの後を追った。

 歩かせていた事もあってセッテと合流するのに時間は掛らず、ごく自然に当たり前の様な感覚で二人は再び肩を並べた。

 「早かったですね」

 「躾のなってない、犬にしては、存外良くやった方だったが……如何せん、接近戦が能だけの、単純な奴だった。要は近付けさせなければ、良いだけの事だ」

 「あれ程の実力者を前にそんな事を言ってのけるのは兄さんぐらいでしょう」

 「本当は、お前に任せても、良かったんだがな……一人なら、問題無いのだろう?」

 「ええ。命令とあれば完全に遂行出来ます」

 「ならば、命令しよう、セッテ────」

 トレーゼの右手がすらりと挙げられ、鋼鉄に覆われたその指先が無人となったビルの一つを指差し……



 「引き摺り出せ」

 「了解」



 言葉が言い終わるのと全く同時に加速したセッテの肉体が一瞬の内にビルの壁を破砕して内部へと消えた。次の瞬間に噴煙の中から飛び出す三つの影があった。一つは突撃を敢行したセッテで、命令を忠実に実行した彼女は再び兄の一歩後ろに控えた。そしてそれとは別に飛び出した二つの影はセッテとは反対の方向に飛び去り、やがて煙が収まって行くと共にその全容がはっきりと見えて来た。

 「……ほう、貴様も居たか」

 トレーゼが意外そうな言葉と同時に黒杖を構え、セッテもブレードを構えて対峙した。対する潜伏者達も……

 「兄上、ここから先へは行かせられません」

 「悪いけど、二人ともお痛はそこまでよ。大人しく連行されるなら良し。さもなければ……」

 「さもなければ、何だ? ギンガ・ナカジマ。No.5」

 紫紺色のバリアジャケットと白銀の篭手を装備したナカジマ家長女と、同じく両手に起爆ナイフを構えた隻眼の戦士チンクが侵攻を繰り返すトレーゼ達の前に立ち塞がった。二人揃って並び立つその勇ましい姿は、我先にと撤退して行った前線部隊には無い気迫を感じさせていた。その鬼気迫る気迫の中には互いの妹を貶められた事への怒りの念も少なからずあったはずだ。

 だが当の敵意を向けられているトレーゼ自身はそんな事は知った事ではないと言わんばかりに受け流しており、そんな事よりも自分の前にギンガが出て来ている事実に興味があるようだった。

 「デバイスの補助も無しに、バリアジャケットを、維持するか……。果たして、どこまで保つかな」

 「試してみるかしら。殴られると痛いわよ」

 「ならば、叩き潰すまでだ。セッテ、殺さなくて良い、その一歩手前で、止めておけ」

 「了解。失礼します、チンク」

 ブレードを構えたセッテが一気にチンクとの距離を詰める。その際にブレードの一本をギンガに投擲して牽制する事も忘れない。流石のチンク言えどもナイフでは分が悪いと悟ったのか、隣のギンガと共に一旦距離を離して形勢の立て直しを図った。同様にギンガの武装も上手く機能していないブリッツキャリバーとリボルバーナックルと言う格闘戦一択の武装……デバイスの補助が期待出来ないこの状況下ではギンガに残されているのは近接格闘戦のみと言う絶望的な選択肢だけだった。更にギンガはナンバーズの雛形であり、この四人の中では最低スペック……つまりは燃費が悪く、持久力に欠ける可能性が大きい。もしそうなった場合チンク一人でギンガの援護とトレーゼらの撃退をこなすことは不可能となってしまうのは確実だ。つまりは短期決戦、どちらかがもう一方を狩るまで続くデスマッチ!

 「セッテ、ここはお前に、一任する。退けて見せろ……かつての姉を」

 「了解しました。チンク、ギンガ……悪いですが、お二人にはここで退場して頂きます」

 「出来るのか、お前に。姉に手を掛ける事が……!」

 「やりますよ。それが命令ならワタシは忠実に実行するまでです」

 「悪道に魅せられたかっ、セッテ!」

 投擲されたナイフが空中で爆散し視界封じと威嚇を同時にこなす。しかし、爆煙を恐れる事無く突っ切って来たセッテが大きくブレードを振り降ろし、ギンガもろとも弾き飛ばそうとして接近する。空を飛ぶ事も出来ない彼女らは二手に分かれてセッテを挟み込み、その注意を分散させる作戦に出る。

 「悪に魅せられて身を滅ぼした人達を私は今までに何人も見て来た。あなたもその道に進むと言うの!?」

 「今ならまだ……戻って来れる!」

 「戻る……? それを言うなら貴方こそ間違いです、チンク。所詮ワタシ達の生きる場所……存在する為に必要な環境はどう考えても“こちら側”です。それに気付かないフリをして“そちら側”に逃げ込んだのは貴方達です」

 「セッテ……」

 「ワタシは気付いた……ワタシの場所はここです。純粋な人間でもなく、完全な機械にもなれない曖昧な存在が生きる場所は“こちら側”なのだと気付いたのです。ワタシはもう……とっくに『戻って』いるのですよチンク」

 「それはあなた本人の意思なの? 違うでしょ? あなただって一度は人間として生きる事を望んだはず……」

 「有り得ない。ワタシは機兵……細胞が老化し、フレームが腐食するその日まで命令通りに動くだけの“奴隷”です。そしてワタシは奴隷である事を容認しています。…………もう良いでしょうか? あまり兄さんを長く待たせる事はしたくありません」

 ブレードが一閃、紙一重で回避したギンガの紫紺の髪の先を寸断し、その横に立っていた電柱ごと切り裂いた。電線を引き千切りながら倒れて来るその人工柱に巻き込まれまいとその近くから離れるチンクとギンガだったが、セッテはその先端を担ぎ上げると──、

 「フンっ!!」

 「冗談きついぞセッテ……!」

 即席の弩級コンクリートハンマー……トラックは容易に寸断するであろう破壊力を秘めた一本の電柱だった物が今では完璧に武器となって二人の頭上から襲来した。直撃すれば木端微塵、上手く防御したとしても攻撃を受けた部分が壊滅的ダメージを受けるのは必至。最悪なのはこの場合、既にもう直撃コースに入ってしまっていると言う事だ。

 「くっ……はあああっ!!」

 かざしたギンガの左手にベルカ式魔法陣が出現して電柱を食い止める。しかし、普段からデバイスの補助に頼った戦法を行っていた彼女にとってカートリッジリロードすら出来ないこの状態ではシールドが長続きするはずもなく、見る見る間に三角魔法陣の面積が小さく縮んで行くのが分かる。風前の灯、もはや彼女の命運もこれまで……



 「今だセイン!!」



 きっかけは一瞬だった。チンクの合図と共に横合いのビルから飛び出して来たセインがセッテを抱えて跳躍し、そのまま対向線上のビルの壁に向かって飛び込み、自分はディープダイバーで透過してセッテだけをコンクリートの壁面に埋め込むような形で封殺して見せた。いつかの日に聖王教会を襲撃したトレーゼに対して仕掛けようとした捕縛方法と同じものだ。壁面に取り込まれたセッテは持ち前の剛力で脱出を試みたが、如何せん肉体そのものが壁と密接に融合してしまっているので筋肉一本動かせないまま徒労に終わっただけだった。

 「ようしっ、一丁あがりぃ! どんなもんだい」

 「でかしたぞセイン。これで兄上の戦力は一人だけだ」

 「まさか、もう一匹、潜んでいたとはな……。ちぃ……!」

 「行かせない! オットー! ディード!」

 「なに?」

 セッテが捕えられているビルの上階から窓ガラスを突き破って双子のナンバーズが飛び出す。完全に意識がチンク達に集中していたトレーゼは更なる潜伏者の存在はノーマークであり、セッテの救出を断念した彼は上空に逃げ場を見出した。

 しかし──、

 「ウェンディ! ディエチ!」

 「空まで……!」

 ボードに乗って強襲するウェンディとビルの屋上から砲撃体勢を取っているディエチの姿を確認し、トレーゼは遂に観念したかのように地上に舞い戻った。地上に四名、空に二名……撤退させた二千名もの大軍勢と比較すると頼り無い数だが、その実力は折り紙付きだ。接近戦特化型からミドルレンジ、遠距離からの射撃や飛行強襲まで行える豪華な小隊は今の彼女らを除いて他には居ないだろう。

 六対一……個々人の実力差はともかく、これで数の上では完全にトレーゼとギンガ率いるナンバーズらの戦況は綺麗に逆転した事になる。

 「投降しなさい、トレーゼ!」

 「早く言う事聞いた方が身の為ッスよ~、お兄さん」

 「私達の総意で管理局は貴方を鹵獲する事を方針に定めています。今ここで大人しく投降するなら良し。そうでない場合には……」

 「ごめんなさい……実力行使で排除します」

 かつて妹だった……否、妹となるはずだった者達が一斉に各々の武装を構えてトレーゼと対峙した。身に纏うはナンバーズの証たる紺色の防護ジャケット……それぞれの名を表す番号が刻印されたプレートが足元に展開された疑似魔法陣の輝きによって照らし出され、彼女らの戦意を表すかのようにその光を反射していた。

 「…………貴様ら、誰の前に立っているのか、しっかり確認してから、モノを言えよ」

 刹那、エンジェルリングが一際大きな輝きを放ち世界を真紅に染め上げた。その暴力を体現した光の奔流に一瞬怖じ気付く様子を垣間見せたかのように見えたギンガ達だったが寸前で堪え、腰に力を入れ直して両足を地面に打ち付けるように据えた。

 「そうか……あくまで、退くつもりは無いか。良いだろう! ならば、退きたくなるように、するだけだ」

 「お覚悟を……兄上」

 「ほざけ。身のほどを、弁えろ、クズ共が」










 同時刻、地上本部のとある通路にて──。



 「謀られた……まさかあの時に睡眠薬が入っていたとは……」

 完全に覚醒し切っていない頭を何度も叩きながらトーレは暗闇に包まれた通路を壁伝いに歩いていた。あの時スカリエッティに進められて飲み干したグラス……あの中に含まれていた極微量且つ無味無臭の薬物が彼女の交感神経を浸蝕し、そのまま睡眠の涅槃に引きずり込んでいた。当然、こんな事をしたりするのは主のスカリエッティをおいて他に居るはずが無い。

 何故あの時グラスに薬物が入れられたのかは分からないが、少なくとも戦闘機人を数時間に渡って昏睡させるレベルの物を入れていたと言う事はそうするだけの理由があったと言う事にもなる。だが今はそんな些細な事はどうだって良い……それ以上に重要な事を成し遂げなければならないと言う使命感がトーレを突き動かしていたからだ。

 「ダメだ……あいつを、トレーゼを止められるのは私だけだ。私が行かなければならないんだ……!」

 目の前に立ち塞がる防火シャッターを睨みつけた瞬間、トーレは超高速移動のISを発動させエネルギー翼が展開された腕部を振り被り──、



 「今、行くからな!」



 大型車両の衝突にも耐え切るその鋼鉄の壁を拳一つで打ち払い、紫紺の翅を駆って彼女は夜のクラナガンへと飛び出した。



















 一人で戦う『友人』の場所を目指す“0番目”──。

 かつて『友だった者』を追い求めて駆ける“9番目”──。

 たった一人の『弟』と対峙すべく飛翔する“3番目”──。

 自分に真の居場所を与えた『兄』を見守る“7番目”──。

 そして、自分の妹達を退けるべくその手に武器を握った“13番目”──。



 血で血を洗う無血の戦い……矛盾するこの骨肉の戦いの渦中は更にカオスへと向かい、その流れはもう当事者であろうとも止められるものではなくなっていた。



[17818] 簡単で、些細で、単純な……
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:5d086e54
Date: 2011/02/07 00:13
 20時30分、地上本部から出発したヘリの中にて──。



 冬の夜空を背景にミッドチルダ北部へと飛び立った一機のヘリがあった。既に展開されている航空部隊の武装ヘリの間を潜ってクラナガンを離脱し、サーチライトの光も届かぬ距離にまで飛び去るのにおよそ五分と掛らなかった。

 「目的地にはジャスト三十分で到着します。安全運転で行きますからフェイト隊長も安心しててくださいよ」

 「ありがとう陸曹。でも私は……」

 「おっとすいません。やっぱどうにも六課の時の感覚がそのまんまで、へへ」

 ヘリの中には取引の立会人としてトレーゼ側から直接指名された五人と輸送ヘリの操縦を担当するヴァイスを合わせた計六人の面子があった。操縦席にヴァイスでその隣の助手席にティアナ、後の四人は有事に備えて後ろのハッチ付近の座席に腰掛けて待機状態にあった。指定されたポイントである丘陵地帯までは距離も長く、途中でどんな奇襲があるか予測は出来ない……何かあっても撃墜されないようにするつもりではあるが、仮にそうなってしまった場合は交渉決裂と判断して地上本部に引き返す予定だった。

 「フェイトちゃん、大丈夫なん?」

 「大丈夫……って言いたいけど、やっぱりまだ少し危ないかな。体のあちこちがすごく痛い……」

 「魔法も全く使える状態じゃありませんしね。あまり無理をしないでくださいよ?」

 「分かっていますシャマル。もし何かあった時はサポートをお願い出来ますか?」

 「任せてください」

 自信に満ちたシャマルの笑顔を見て安心したのかフェイトは落ち着いて背を座席に預けた。未だにトレーゼとの戦闘で負った傷が完全に癒えていないフェイトだったが、立会人として指名を受けた彼女は医療センターから出されて今回の任務に着かされていた。本来ならばまだ入院生活を強いられていても不思議ではなく、むしろそうしていなければいけないはずの彼女だが、自分の姪や娘と言っても差し支えないヴィヴィオの為にと肉体に鞭打って自ら喜んで参加を快諾したと言う訳だ。呼吸器にも多少の損傷が残っているのでシャマルが携帯の小型酸素吸入器を所持している辺りでその危うさが垣間見える。

 ふと彼女は虚空に指を伸ばすと映像回線を開いた。通信相手は……

 「Dr.スカリエッティ……聞こえてますか? 応答してください」

 『そんなに急かさずとも充分聞こえているさ。何用かな? 今少し眠りについた者が居るので出来る事なら静かにして欲しいのだが』

 繋がれた回線の相手はジェイル・スカリエッティ……毒々しい色の髪をボリボリと掻きながら気だるそうな表情で出迎えた彼は映像越しにフェイト達へ狂気に満ちた視線を投げ掛けていた。今さっきの話だと同室のトーレが睡眠を取っている事になるが、今はそんな事には触れないで本題に入った。

 「教えて欲しい事があります」

 『ほうほう、ハラオウン執務官がこの私に教授して欲しい事があるとは……。私にお教え出来る事であれば何でも教えようじゃないか。言ってみたまえ』

 「“13番目”……トレーゼの事についてです」

 『ふむ、そう言えば君は今の所トレーゼの詳細な出自について知らない唯一の人間だったか……。良いだろう、お教えしよう。あれはそう……私が自分のラボを得て助手を付けていた時の事だから、もう二十年以上も昔の事になる…………』




















 新暦55年某月某日、スカリエッティのラボにて──。



 きっかけは彼が自分のクローンを精製しようと計画した事が全ての始まりだった。自分のDNAの中に存在する“無限の欲望”の因子を複製し、自分の影武者か後継者として大量生産する倫理と言う概念を真正面から冒涜する計画を打ち立て、早速スカリエッティは自分の細胞から抽出した染色体を利用してクローンの素体胚を複数生み出す作業に入った。

 当時はまだF.A.T.Eの技術は確立どころか頭の端にも上ってない時期である為、生み出されたクローンは必然と遺伝子パターンが同じと言うだけで記憶も受け継いでない個体が生まれる事になる。当然、利用される技術は管理外世界にもある通常の培養技術であり、成功確率そのものが低い。最悪の場合は成功体を一個生み出すだけでも十年の月日を費やすだろう。

 「だがそんな事は些細な事でしかない。要はただ、この私がそうしたいと言う至極単純な理由なのだよ。分かったかね?」

 「は、はぁ……」

 一気に十二本も常駐させた培養槽を嬉々とした表情で眺めるスカリエッティを見ながら、助手の女性は呆れながら溜息をついた。スカリエッティがラボを与えられる際に一緒に最高評議会から派遣された一名の助手の存在は以降の記録ではある時期に突如行方不明となったと記されているだけで、彼女の個人名は如何なる書類上にも明記されてはいない。後のスカリエッティ自身の供述では彼女のDNAを基にして生み出したのがナンバーズの第一号『Uno』と言う事らしい。髪の色や佇まいに若干の共通が見られるのもその所為だろう。

 「もし私と同じ頭脳を持つ者が精製出来たなら君はもう用済みかも知れんな」

 「この仕事って意外と条件いいんですけどね……」

 「ほう、それは初耳だ。どんな風に良いのかね?」

 「高給待遇なのは言うまでも無いですし、一日三食食事付き、ベッドルームとシャワー室完備、掛るお金と物品は必要経費で落ちますし、上司が優秀過ぎて私の仕事は基本的に庶務雑用だけで済みますから、こんなに労働条件の良い職場は他にはありません」

 「なるほど、ではそんな雑用専門の君に早速だがお仕事を与えようか」

 「何ですか?」

 「なに、簡単な事だよ。これらの培養槽内の素体胚の様子を毎日確認して定期的に私に報告してもらいたいのだよ。そのデータを元に胚が順調に成長していればそれで良し、細胞分裂に異常が見られればその時点で処理して欲しい」

 十二本の培養槽には薄い蛍光色の液体が満たされており、その中心には何やら小さな丸い物体がプカプカと浮かんでいた。これこそがこのクローンの核、つまりはこれから細胞分裂をする為に必要な基点となる部分だ。分裂を繰り返して鼠算式に増えて行った細胞はやがて分化して筋肉や臓器となり、子宮の中で胎児が成長するようにして外界で生命活動を行うに問題無い肉体にまで成長する……要はその日までの目付役をしろと言う事だ。

 「気の長い作業ですね……」

 「やってくれるな?」

 「クライアントには逆らえません。折角手に入れた天職……逃す理由は無いですから」

 「ならばやってくれたまえ。嗚呼、変化が起こる日が楽しみだなぁ」





 しかし、その変化は驚くほどすぐにやって来た。





 それは半年後、いつものように助手が培養槽内の胚の定期検査を行ってDNAの変質や細胞障害が発生していないかを確認していた時の事だった……。

 たった六ヶ月の間で十二体もの素体胚はたった三つにまで激減していた。原因はまさに細胞分裂時における異常に他ならない。ただでさえクローン培養は成功率が低く、培養して形になるまでに四分の一、更にそれが生命活動を維持するのは僅か1%にも満たない……むしろここまで個体が保っただけでも奇跡のようなものだ。

 その日の早朝、助手は日課となっていた定期検査を行う為に残り三つとなった培養槽を確認し、その中の胚の状態をこまめに記録していた。ここまででは三つともほぼ順調……未だその内のどれにもリンカーコアは発生してはいないが、このまま行けば早くて一年以内には形になる計算だった。あのスカリエッティが二人以上になるのを想像するとぞっとするものがあるが……。

 そしてその日も同じようにして彼女はそれぞれの素体胚を確認し……

 「これは……!? ジェイル、ジェイルは居ますか?」

 「騒々しいな。レディがそんなのではいけないよ」

 シャワーでも浴びていたのか濡れた髪を拭きながらドアを潜って来たスカリエッティに駆け寄ると、助手はその異常を伝えた。ただの細胞異常ならば自分で判じて処理する事が許可されているので問題無いのだが、どうにもこの場合だけは自分一人では判じかねると思って計画の立案者に直接相談しに行った。事態の報告を受けたスカリエッティもその事に興味を覚え、途中で皆まで言うなと手で制した後に問題の素体を確認した。

 「これがその問題の……。見たところでは普通のようだが」

 「見た目で分かるんなら苦労は無いわよ。見るのはこっち!」

 「むむっ……! ふむ、なるほどなるほど、DNAの塩基配列が一部変異しているな。しかもこの配列位置は……」

 「そう、貴方の“無限の欲望”を司っている部分よ。このままの状態で複製が完了しても、貴方と同じ知識に貪欲な個体が生まれる確率はゼロでしょうね」

 「それは確かに異常だ。だが……本当の異常はそこではないのだろう?」

 「…………貴方の指示通りにすぐ処理しようとしたけれど……」

 見て、と言って助手は培養槽に設置されてあるコンソールを操作し槽内の液圧を限界にまで引き上げた。培養中の素体はとてもデリケートで脆く、液中の成分比率や液圧をほんの少し変化させるだけで細胞の塊がボロボロと崩壊する。後はそれが入り混じった培養液を廃棄するだけで良いのだが、この場合……

 「……………………何と! 崩壊しない!?」

 「ええ。この他にも色々試してみたわ。酸性濃度を上げたり、液中の酸素を分解したり、熱も加えたけど…………そのどれも効果は無かったわ」

 「如何なる責め苦にも耐え抜く鉄壁の細胞か……実に興味深い、研究対象としては申し分ない!!」

 「まさかとは思うけど、これをそのまま培養させる訳じゃないわよね?」

 「無論、そうに決まっている。さあ、何をぼけっと立っているのだね。早くこれを別の培養槽に移したまえ」

 「別のって……あとの二つはどうするの?」

 「そんなものは処理してしまえ! 今はそれよりも重要な事があるだろう。君も想像してみたまえ、この脅威の細胞がこのまま成長したら一体どんな姿になるのかを…………嗚呼、楽しみだなぁっ!! その時が待ち遠しい!」 

 「…………ダメね、これは」

 諦めの早い助手は一人で狂喜乱舞するスカリエッティを放置し、言われた通りに培養槽のシリンダーを外すとそれを別の場所へと移動させた。

 正直言ってこの時はまだ彼女は自分の関わっている事実に関してさほど興味を抱いてはいなかった。何か一つの事に異常なほどの興味を示し、それを自分の気の済むまで徹底的に研究し調べ上げる……言わずと知れたスカリエッティの悪い癖だ。やがて対象から知識を絞り終えた後はいとも簡単に処分する事も……。この命もまともに宿っていない物体には悪いが、それまでの暇潰し程度には役立ってもらおうと助手は考えていた。





 しかし、事態は二人の予想の斜め上を行っていた。





 それから僅か二ヶ月でその個体は劇的な変化を遂げて行った。

 「これを見てみたまえ!」

 「今度は何?」

 興奮したスカリエッティに促されるままに助手は培養槽を覗き込んだ。あれから二ヶ月……小指の先よりも小さかった肉の塊はたった60日で拳大の胎児の姿にまで成長し、既にその体内には小さなリンカーコアが宿っていた。リンカーコア自体は生命が形作られる初期の段階で発生するので胎児の状態で宿っていても何ら不思議は無いのだが、この場合異常なのはその成長速度……胚の持つ異常性に気付いてからたったの60日でもう人間としての形が完成しつつあると言うこの現状だ。成長速度がこれまた異常過ぎる。このまま行けば一年も経たずに通常の幼児程にまで成長するだろう。

 だがスカリエッティが興奮しているのはそんな事ではなく、つい最近になって発見したと言う胚の特性の事だった。

 「これを見ろ……」

 「これは……マウス、ですね?」

 二本の指で摘まみ上げたるは動物実験用の白ネズミ、生物学者には馴染みのある生物がスカリエッティの手を振り解こうと必死になって暴れていた。良く暇潰しに作った新薬の実験台にしているのは見た事はあるが今はそんな類の物はどこにも見当たらない……一体何をするつもりなのか?

 「それ」

 「ああ!?」

 次の瞬間、スカリエッティは摘まんでいたマウスを培養槽の中に落とした。浮かび上がって来ないように丁寧に錘を括りつけて沈ませると、マウスは頑張って上に上がろうともがく。しかし自身の体重よりも付けられた錘の方が重いので沈下は止まらず、遂に底に足が着こうとしたその時──、

 小さなその足が胎児型の胚に触れた。

 その後の光景は言葉にしろと言う者が居たなら実際にその現場を目にしてから言って欲しかった……。

 「なんてこと……!? こんな……こんな事がっ!」

 マウスの足が胚に触れた瞬間、その小さな体が空気の抜けた風船のように萎んでしまい、あれだけ暴れていたのが嘘のように槽の底に沈み絶命した。何が起こったかなんて確認する暇なんて無かった……気付いたら死んでしまった、そうしか言い様が無かった。器具を使って死骸を引き上げてみると、本当にミイラみたいに干乾びてしまっているのが嫌と言う程良く分かった。何が起こったのか死因を調べる為にメスを入れて解剖してみたところ……

 「どう言う事……筋肉が……筋組織が消滅してる!?」

 「足先が胚に触れた瞬間があったはずだ。その時に吸収されたのだよ」

 「吸収って……有り得ないっ! 異種の肉体組織を直接取り込むだなんて! 本来なら拒絶反応どころじゃないわ」

 「私もそう思って胚の一部を削って調べたのだが、実に面白い結果が出た。通常胎児がこの規格まで成長した時の筋組織と比較すると、なんとこの個体、実に六倍もの筋組織を持っている事が判明した。それだけでも驚愕に値するが、問題はさっきのアレ……」

 腹を捌いた中に見えるのは内臓と骨のみで、やはり手足から心臓に至るまでの筋肉の形跡がまるで無くなっていた。

 「私も発見したのは昨日の事なのだが、仮説を一つ立てて見た。どうもこの個体……成長を司る因子の働きが常軌を逸しているらしい。とにかく取り込んだ筋肉を自身の組織に融合させ、そのDNA情報を自分の物に上書きして大量の筋組織を獲得する……かつて、この世界に初めて現れた原始生命がミトコンドリアを吸収したように、この個体も自身の成長に必要な部位を他の生物から奪い取っているのだろう」

 「原始生命の進化の過程を再現しているとでも言うの?」

 「単なる先祖返りにしては実に数十億年分も遡っている事になる。これはもう単なる突然変異と言う安直な言葉で済ませられる域ではない、これはこの個体の……否、この『生物』の持つ独自の生態と言うべき現象だ」

 「未知の生物……これ、どうするの?」

 「私の見立てが正しければこの生物は後数週間で培養槽に頼らなくても良い状態にまで成長するはずだ。その時にはこの吸収行動も終わるだろう」

 「終わった後は? どうするって言うのよ?」

 「無論、これまで通りに研究対象として厳重に管理する。……待てよ、この生物を利用すれば“あれ”の開発も容易かも知れん! これはまさに天啓だ。この世に神と言うモノが居るのだとしたら、今まさに私は神の啓示を受けている事になる」

 「そんなバカな……」

 「神が言っているのだよ……頭を下げ、額を地に擦り付けてこのジェイル・スカリエッティに頼んでいるのだよ。『追い求めよ』、とな」

 「相変わらず尊大ね……でも何だか私、そう言う貴方の事嫌いじゃないわ」

 「私も君の事は嫌いではないよ、マドモァゼル。さぁさ! 今日はもう睡眠の時間だ。明日が楽しみだ!」





 スカリエッティの計算は正しく、それから僅か三週間後……。





 「寝顔は本当に可愛らしいわよね……とても新生物とは思えないわ」

 「ほほう、赤ん坊の頃の私はこんな顔をしていたのか。これはこれで何やら不思議な感覚ではあるな。どうかね? 母親になった気分は?」

 「茶化さないで。この年齢で子供を抱くなんて考えた事無かったけど、案外重いのね子供って」

 優しく抱いた赤ん坊の重量を腕に感じながら助手は苦笑を漏らした。腕の中で安眠している赤ん坊の顔はとても安らかであり、まるで自分を抱いてくれている彼女の事を本当の母親のように認識していた。

 「それで例の件はどうなったの?」

 「ああ、戦闘機人開発計画の事か。もちろん今は構想を練っている最中さ。完全なサイボーグを生み出す上で最大の障害となるのが肉体の拒絶反応、それをクリアする為に必要な素材だからな彼は」

 「埋め込むフレームではなく人体の方を改造する……そして、肉体を改造する為にはこの子の持つ進化の因子が必要不可欠って事ね。肉体を機械を許容出来るまでに順応させる……つまりは機械生物へと進化させる」

 「ああ。だがこのままでは不完全だ、欲を言ってしまえばまだまだ足りない要素が山ほどある。と言う訳で頼んでおいた物はあるかな?」

 「はいこれ」

 助手が頼まれていたリストを手渡す。ここに名を連ねている者はその全員が提供者、つまりは未だ進化途中にあるこの赤ん坊の細胞と掛け合わせる為の候補者と言う訳だ。交配された遺伝子を基にして新しい素体を培養し、その進化の因子によって生み出された強化肉体にフレームを埋め込む……これがスカリエッティの描く戦闘機人開発計画の大まかな草案であった。もしこれが上手く行けば古代ベルカ時代から誰も成し得なかった完璧な人造戦士を大量生産する事も夢ではなくなるだろう。

 「ほうほう、流石は時空管理局、優秀な人材が居るようだな」

 「私のお勧めはこのクイントって子ね。近代ベルカ式の使い手……何でも彼女にしか使えない特殊な魔法があるらしいわ。それを取り込めればこの子の魔法生命体としての価値は盤石になる事間違いなしよ」

 「ふむ、陸士部隊所属の期待の新星か。興味深いな……管理局の人事部に根回しして彼女の生体データを取り寄せよう。血液サンプルも忘れずにな」

 「了解。取り合えずこのリストに挙がってる人達は押さえておくわ。今日はもう上がって良いかしら? この子一人にしておくと面倒なのよ。泣き声凄いの貴方も知ってるでしょ? あとミルク用意して! まさかとは思うけどジェイル、私が母乳を出せると思ってないわよね?」

 「安心したまえ。こんな事もあろうかと乳腺を刺激して母乳を生成出来るようになるホルモン薬物を作っておいた! これを打てば十分も経たずに赤ん坊の腹を満たすには充分な母乳が出るだろう」

 「…………粉ミルク買って来るわね」





 そしてクローン計画から一年後……。





 助手はスカリエッティの元から消えていた。ある日、デスクの上に置かれた書き置きと血液サンプル……『どうぞ役立ててください』と言う言葉だけが添えられていただけだった。特に未練があった訳でも無かったスカリエッティは消息を掴もうとはせずに早々に忘れ去り、自分の立てた研究に没頭した。

 彼女が残して行ったリストにあった素材はその殆どを回収し、その中でも特に選りすぐった物を自身の研究材料として用い、予備として複製したそれらの一部を同じ研究を行う科学者達に提供したりしていた。提供した後の各々の進行状況については連絡を取り合っていないので詳細は分からないが、風の噂ではある科学者がクイントのDNAをベースにして二体の素体を精製する事に成功したらしい。まだ形になるには数年以上も要するだろうが、クイントの物と同時に送った新生物の因子を利用すれば確実にモノになるだろう。

 「まったく……君はいつも予想以上の結果を弾き出してくれるな」

 「あーうー?」

 円らな瞳で天井を見上げる赤ん坊を尻目にスカリエッティは黙々と培養槽の調整に入った。助手が残したサンプルを利用して一体、そして掛け合わせたキメラ遺伝子を利用して更にもう一体、一度に合計二体もの戦闘機人用の素体を造る準備をしているのだ。記念すべき戦闘機人の第一号と第二号を同時に作れるのは夢のようだが、二体とも遺伝子の差異があるので戦闘機人として形になるのも個体差があるだろう。長い目で見るしかなさそうだ。

 「だがそれも全て君のお陰だよ。さて、君には悪いがもう一度この中に入ってもらうよ。あまり過度に成長するのもなんだしね。それに……私は彼女と違って子育ては出来ない」

 自分のクローンを抱えながらスカリエッティはデスクに戻るとそこに置いてあった冊子を引き出しの中に仕舞った。

 冊子のタイトルは……『No.3“Tre”開発計画書』。既にこの時からナンバーズの開発が始まっていたのである。




















 「それが……トレーゼ誕生の秘密ですか」

 『彼はもはや私のクローンと言うだけではない。否、もはや人類と言う域を逸脱した新種の生物なのだよ。偶然の産物とは言え彼の存在があったからこそ私のナンバーズ計画は成功出来た……彼の“無限の進化”があったからこそ、一度に十二体もの戦闘機人を生み出す事が可能となったのだよ。それからも私はトレーゼに様々な者達から採取したDNAを定期的に吸収させては彼の持つ進化の限界を推し量ろうとした。ナンバーズ製造の片手間に、時には竜の遺伝子を用いてまで徹底的に彼を強化する事だけを考えた……。だがある時、遂に彼の肉体は外部からの吸収を完全に停止させ、肉体の変化を体内で行うだけに留めた。彼の体は……永い永い“蛹”の時期に突入したのだよ』

 「それってまだ成長を……進化を続けるって事ですよね?」

 「おいおい! あんなのがまだこっから先もずっと強くなってくてのかよ!!」

 『いずれ最終段階に到達すれば“羽化”し、立派な“成体”になるだろう。だが残念な事にその時に彼がどんな生物に生まれ変わっているかはこの私にも……“無限の欲望”にすら予測がつかんのだよ。想像出来るならしてみたまえ陸曹、もう生みの親である私の理解の範疇をとっくの昔に越えている彼が今後どうなるのか……』

 「出来る事やったらあんまし考えたくは無いな……。せやけど、まさか現存する全てのナンバーズが“13番目”の因子の恩恵を受けてたやなんて……“13番目”の存在無しには実現せえへんだって事か」

 「まさかスバルとギンガも!?」

 『クイント・ナカジマのDNAを基盤としてトレーゼの因子を固定剤にしている可能性は大だろうな。彼の進化の力無しには埋め込んだフレームに肉体が適応出来ないはずだからな。他に質問はあるかな?』

 「あの…………一つだけ」

 『何かな?』

 「ずっと引っ掛かってたんです……どう考えても時期が合わないって」

 『何のかね?』

 「トーレはトレーゼの事を弟って言ってますけど……どう考えてもトレーゼの方が先に生み出されているはず。それなのに、何で彼女は“13番目”の事を『兄』ではなく『弟』と言うのか気になって…………」

 『それか。それは特に気するべき事ではないよ。当人同士が自分は“姉”で自分は“弟”と言う風に取り決めただけの事だ。最初の上位三人を生み出す時、私は完成する時までトレーゼを培養槽の中に封印してその急激な成長を抑制させた……。そして完成してから初のお披露目の時はすっかり互いの外見年齢は逆転してしまっていてな』

 「生まれて初めて自分と博士以外の存在を見て自分の姉だと認識したって事かしら。だとしてもトーレだけがあそこまで執着しているのはどうしてなの? ウーノも確かにそれなりに思う所があるみたいだけど彼女ほどでは……」

 『それもそうさ……出生の経緯を辿れば彼女ら二人の関係は少しおかしい所もあるからなぁ』

 「と言うと?」

 『その為には話を二十年前に戻そうか……』




















 ナンバーズ開発計画を遂行するに当たってスカリエッティはある問題に直面した。それは時間……この遠大な計画を自分が生きている間に実現する事が果たして可能なのだろうかと言う一つの疑問が彼に一抹の不安を生んだ。人間の寿命は良く保っても100余年……特殊な薬物を使用して老化を抑制したとしても今度は薬物の副作用で肉体を酷使するだけであり、一番確実な培養槽で冬眠と言う方法では結局そこに入っている間は何も出来ない。となれば、やはりここは原点に戻って自分の精巧なコピーを生み出す事にしなければならない。幸いにも同じ科学者繋がりで関わりを持った女科学者が記憶転写型クローンの製造理論を確立させる為に協力を求めて来たので、その技術を応用すれば自分の記憶と知能を丸ごと受け継いだ個体が作れるはずだ。

 だが問題はどうやって培養するか……。通常通りにシリンダーの中で育てるのが一番良いのだが、仮に勇敢な管理局捜査本部がここを嗅ぎつけないとも限らない。もしそうなれば自分は当然逮捕され、ここで培養していたコピーは全て処分されてしまうだろう。別のラボで保管しておくと言う手立てもあるが、いちいち確認の為に行き来するのも面倒だ。

 「どこかに無いか……確実に培養出来、尚且つ安全だと言い切れる場所は……」

 そんな都合の良い優良物件が簡単にあるなら苦労は無い。だったら……

 「無いなら作るまでだ。幸いにもサンプルは幾らでもある」

 ジェイル・スカリエッティ……この時から既に発想の一部が悪魔じみていた。

 彼の頭に浮かんだ最高の培養場所とは、即ち子宮──。この世の全ての哺乳類の雌に備わっている天然の培養槽とでも言うべき器官……人工的に生み出した自分の胎児型コピーをそこに埋め込み、後は母胎からの自然管理に任せて成長させると言う大胆な発想に至った。確かにその方法であれば面倒な管理などせずとも母胎さえ良好なら後はどうにでもなる。例え自分が捕えられたとしても母胎さえ逃がしてしまえば自分の与り知らぬ所で生み落とし、成長したコピーが立派に自分の代理として挿げ変わるだろう。幾ら勘の鋭い輩でもまさか生身の人間の胎内に人造生命を隠し持っているとは考えまい。

 だがここで新たに問題として上がるのは母胎の確保だ。数か月前なら助手の体を借りる事も出来ただろうが、今となってはそれも不可能。最高評議会に依頼すれば適当な人材を送りつけて来るだろうが、そうすると地上本部の転覆を画策している事が筒抜けにならないとは限らない。

 ではどうするのか?

 「だからそれを作るのさ。この彼女らを使ってな」

 “彼女ら”とは、ナンバーズ開発計画の第一号と第二号の事だ。意図せずも雌性体として形作られた彼女らの体を利用すれば将来その胎内にコピーを埋め込む事が出来る。そうすれば一気に二人分の自分が複製可能になると言う訳だ。

 「だが私の開発コードは“無限の欲望”……欲に塗れた私には二人分だけではとても満足出来んなぁ……。数は多いに越した事は無い。だが余りにも多いと言うのもまた考えモノだ。はてさてどうしたものか」

 取り合えず背もたれに寄り掛って長考する。物事、何でも数が力だがそれはその数を完璧に管理するだけの余裕があってこその理屈……何でも適切な数と言うモノがある。それを導き出す方程式は……

 「君なら何とするかね? 新生物君」

 培養槽の中で浮かんで沈黙している自分の元クローンに問い掛けてみるが当然答えは無い。母の胎内で産まれ出る時を待つ胎児の様に液の中でただ漂うのみだ。

 ふと、ガラス越しに歪んで壁掛け時計が目に入った。時刻はちょうど昼の十二時……。

 「ふむ。時計……円形……長針……文字盤……12……………………12! そうだ! 母胎の数は十二体にしよう!」

 即決だった。しかも適当だった。

 「さて、そうと決まれば早速残り十体を創造するとしようか。ん……いや待てよ、どうせ作るなら個体は優秀であった方がなお良い。それなら、いっそこの生物の塩基配列を組み替えて雌性体を生み出せば!」

 我ながら良いアイデアだと思ったのか早速スカリエッティは例の如くシリンダーの中の新生物から細胞片を取る準備を始めた。





 だがしかし──、





 「おかしい……何故だ、何故成功しない!?」

 結果は芳しいものではなかった。取り出したDNAを元手にして塩基配列を組み替え培養した胚はそのどれもが発生段階で自然崩壊してしまい、人間の形にまで成長する事は無かった。全ての胚は同じ部位から摂取した細胞片を利用しており、培養槽内の環境も全く同じ、それでいて不備が無いようにと逐一の確認も怠らなかった。

 「だが現実はこうだ。一体何が足りない……元々突然変異で生じた個体だから無理が利かないのか? だとすれば完全なクローン培養は難しい。細胞分裂の過程で生じたDNAの欠損を他の個体の物で埋めるより他無いか……」

 かつて助手が残したリストが目に留まる。二十ページにも及ぶ冊子に乗せられていた人物達の中で使い物になる因子を持っていたのはたったの数名……その因子を補助に回せば何とかして完成に持ち込めるかも知れない。

 「せめて一体でも……いや、予備を含めて二体は欲しい! 何としてでも完成させねば!」

 十体製造するはずだった当初の計画を大幅に変更し、彼は次の一手を模索し始めた。





 それから少しの時が流れ……





 合計回数273回……その内で対象がまともな人間の形になったのは僅か91体、そして成功したのは──、

 「ご機嫌いかがかな、No.3……君が生を受けるこの日を私は待ち続けていたよ」

 たった一体だけだった。

 新生物の持つ進化の因子こそ完全に受け継ぐ事は出来なかったが、人間の形を成す頃には他の個体には見られない成長ぶりをデータに見せてくれていた。このまま培養を続けて行けば数年後には必ず化ける……そう確信を持てる結果だった。

 実験回数の多さに反比例して何も結果が残せていないようにも見えるかも知れないが……

 「三百回近くにも及ぶ実験も無駄ではなかったようだな。君とこの新生物君が私に与えてくれたこの膨大なデータを利用すれば、次に行う実験ではより確実なクローン培養が成されるだろう。今は一旦凍結させてあった開発計画に専念したい。次に行うのは……まぁ、七番目ぐらいになってからだな。それまでは他の者で我慢するか」

 膨大な実験を繰り返した事によって熟成されたデータを纏めた新たな冊子……タイトルは『乙型第弐号個体開発計画書』、最重要項目と言う印が捺されていた。ここに記したデータと新生物のDNAを利用すれば今度こそ完成度の高い個体が望めるはずだった。幸いにも予算だけなら評議会から幾らでも寄越してくれるので何一つ不自由は無い。時間も今の所はまだ余裕はある。焦る事は無い……。




















 『だが結局私が真に望んだモノは手に入らなかった。あれだけ渇望した進化の力は一代限りのレアスキルで継承されず、無理に取り出した因子は培養の過程で全て崩壊してしまった……』

 「その『乙型第弐号個体』と言うのは……?」

 『もちろんセッテの事さ。トーレが甲型でセッテが乙型……共にトレーゼの二世代型と言う意味を込めてそう名付けた。だがまぁ、実際は劣化コピーと模倣品、オリジナルに限り無く近くても所詮は紛い物にしか成り得なかったがな。完全に名前負けと言う奴さ』

 「そんな言い方……」

 『たった一回の成功の為にそれまでの記録も成果も投げ捨てる……科学者とはそう言う人種なのだよ。これで疑問は氷解しただろう? トーレとトレーゼの関係は兄と妹……いや、DNAの一部を引き継いでいる事を考えればむしろ父と娘と言った方がしっくり来る』

 「そうでしたか……だから二人の顔があんなに酷似していたんですね」

 「私も始めはスカリエッティに似てるんやと思うてたけど、よくよく考えてみれば確かにトーレの方に似とるな」

 『逆だ、トーレに似ているのではなく、トーレが似ているのだ。ちなみに言えば“トレーゼ”と言う名前にも私なりに意味がある。世界的に広く認知されている数学の知識に十進法と言うモノがあるのはご存知だろう……桁が一つ繰り上がる事でその数字が持つ意味合いも大きな物になると言うアレだ。トーレは栄えあるナンバーズの第三号として生まれた。そのトーレの“3”に10を加えて一回り完全なモノとして意味を成す……故に私は管理外世界の言葉で“13”を意味する言葉、“Treize”と名付けたのだよ』

 「この際名前なんてもんはどうでもええ。クラナガンの作戦開始時刻まで五分切った……仮にトレーゼとセッテがあちら側に現れた場合、私の勘やとあの二人を止める事は出来へん」

 「何でです? 本局からも人手を融通してもらってるんですよ? 2200も居る軍勢をたった二人で押し切れる訳が……」

 『どうだろうな』

 「何ですかその意味深な発言は?」

 『あの新生物は実に私の知識欲を掻き立てる存在だ……何故かお分かりか? 彼は今までにただの一度もこの天才ジェイル・スカリエッティの予測通りに動いた試しが無いからだ。いつもこの私を楽しませてくれる』



 機内の者達に一抹の不安を与える言葉を残してスカリエッティが通信を切った直後、運転席のヴァイスから目的地への到着が告げられた。










 午後20時57分、ベルカ領自然公園丘陵地帯にて──。



 枯れ草で一面茶色に染まった丘の上に降り立つヘリを出迎える影があった。ヘリの風を受けて黄金色の長髪を揺らしているのは他でも無い聖王教会管理者のカリム・グラシアだった。

 「カリム!」

 「お待ちしておりました皆さん。マスコミなどはこちらで既に人払いは整っていますのでご安心ください」

 「ご苦労やったね。毎度毎度、ほんとにカリムには世話掛けっ放しや」

 「良いのよはやて。教会の復旧に協力してくれたお礼よ」

 ヘリのハッチからヴァイスを除く全員が草原に降り立って順に並ぶ。体の自由が利かないなのはをティアナが、同じく疲労困憊なフェイトをシャマルが手を引きながら何とか地面に立つ。

 都会と違って冬の星が綺麗に映る夜空……信徒達からは星ヶ丘とも呼ばれるこの場所が今夜、管理世界史上稀に見る冷戦の舞台になるかも知れないなどと、部外者は誰も知らないだろう。知らなくても良い事だ。

 「そいで……あともうちょいで時間やけど、相手さんいつになったら来んの?」

 「ここら辺一帯は一時間以上前から教会の騎士団が網を張っています。信号を発してない不審機が通ればすぐに分かるはずなんですが……」

 空を見上げた先には何も無い……煌びやかな星が点々と輝いているだけだ。一応感知系の魔法も使ってみたが周囲数百メートル圏内にそれらしい反応は見当たらなかった。

 結局、21時00分になっても相手が現れる事は無く、六人は寒風吹き荒れる丘の上でひたすら待ち続けた。

 「…………来ませんね」

 「刻限はとっくに過ぎているはずなのに……やっぱり陽動だったんでしょうか?」

 「一個大隊を引き付けるんやったらともかく、相手はたったの五人やで? 大仰な嘘ハッタリしてまでここにわざわざ釘付けにする意味が無い。あるとすれば……」

 「あるとすれば?」

 「ここで私らを一網打尽にするだけの策と自信があるって事か……」

 「ぞっとする話ですね」

 「そやけど、そうやないんやったらここまでせえへん…………そうなんやろ?」

 「は、はやてちゃん……?」

 ここで初めてシャマルは自分の主の視線がある一点に集中している事に気付いた。数々の修羅場を潜り抜けて来たその視線の先には冬の闇しか広がっておらず、彼女が言葉を投げ掛ける相手などどこにも居なかった。だがはやての両眼は確かにそこを捉えて離さず、ゆっくりと自分の足をその方向に向けて一歩踏み出した。

 「寒空の下に人呼び出しといてそれは無いんちゃうの? ええ加減出てきたらどうやねん」

 そう言って足元の石を拾い上げた彼女はそれを自分の目の前に軽く投げた。放物線を描いて投げ出されたそれはゆっくりと重力に従って落下し始め──、



 虚空で停止した。



 「!?」

 「やっぱりな……」

 空中で見えない糸に釣り下げられたように石は宙ぶらりんになり、異常に気付いた全員の視線がそこに釘付けになった。後ろのヘリの方で待機していたヴァイスもストームレイダーを構えて不可視の敵に銃口を向けた。石はしばらく宙を浮いていたがやがて落下し、周囲に再び静寂が戻ったかに思えた。

 だがその静けさも長くは続かず……

 「ウフフフ……フフ、アハハハハハハッ!!」

 聞き覚えのある嫌な感じの高笑い……六課に身を置いていた者なら誰だって聞き覚えがあり、そして二度と聞きたくもないこの声の主はただ一人……。

 「ハァイ! これ以上黙ってると口煩いビッチが何して来るか分かんないから、クアットロちゃん只今参上♪」

 タコの変色……とでも言えば良いのだろうか? 声のした方向がグニャリと歪んだ次の瞬間、空間全体に電光が走って眩く輝き、彼女らの目の前には一台の輸送ヘリと不敵な笑みを浮かべて佇むクアットロの姿が現れた。

 「完全偽装能力『シルバーカーテン』……こんな近くに居たのに気付かなかったなんて!」

 「もう二時間以上もここに居ましたのに誰も気付いてくれないなんて、クアットロ退屈で死にそうだったんですよぉ~。それにしてもよく気付きましたわね。熱源探知も遮断するつもりで隠れていたはずですのに」

 「風で飛ばされた枯れ草が不自然な飛び方しとった。まるで見えへん何かを避けて通るみたいにな」

 「あぁ~、なるほど。どんなに姿形を隠してもそこに居ると言う物理的事実までは隠せませんしねぇ。さてと……それじゃあ皆さーん、これから私達が行う事ですけどぉ、ちゃんと分かってます?」

 ピリっとした空気が両者の間を流れた。さりげなくティアナとシャマルがいつでも自分のデバイスを起動出来るようにと気を張り詰め、後方で控えていたヴァイスも再び銃口を向け直す。互いのどちらかが一歩でも動けば火が点く冷戦状態へと事態はもつれ込んでしまった。いざとなればいつでもヴァイスが狙撃出来る状況だが相手はナンバーズ随一の幻影の使い手だ、撃ったつもりが実は見当違いだったなんて事も充分あり得る。

 だが、その緊張状態は長くは続かなかった。

 「なぁーんてウソですよ! クアットロちゃんはお兄様に言われて『お届け物』を運んで来ただけです♪」

 「届け物……?」

 その疑問をぶつける前にクアットロが操縦して来たヘリのハッチが開き、彼女は一旦その内部へと姿を消した。程無くして彼女は自分の身長と同程度の大きさはある巨大な金属ボックスを引っ張って再び降りて来た。全体的に黒一色で染められているその巨大な箱の表面はルービックキューブのように多くの溝が入っており、文字通りの何かを入れ込む箱のような感じだった。

 「お受け取りくださいまし。お兄様から直々の贈り物ですのよ~、受け取るのが当然ですわよねぇ?」

 爆発物かも知れないと思って調べて見たが、厳重に封をされている所為か熱エネルギー反応は検出されなかった。だが冷静に考えて見ればあのトレーゼがクアットロに運搬させるのにそんな危険物を運ばせる訳が無い。もっとも、共倒れを狙っているのであれば話しは別だが……。

 「……中に何が入っとるん?」

 「さあ? 私はただお兄様にこれを運んで届けるように言われただけですわ。確か梱包に携わったウーノお姉様しかこの中身は知らないはず……」

 「実は核兵器並みの高威力爆弾でした……なんて事は無いやろな?」

 「ステキじゃないですかぁっ! 寂れた禿山の頂上に咲く一輪の地獄の業火……嗚呼、遠くから見れば絵になるんでしょうねぇ♪」

 「何言ってるの貴方……もしそうだったら貴方も死ぬのよっ!?」

 「キャハハハ! あなたなぁ~んにも分かってないのね、おバカさん。私は……あの人の為に死ねるのよ。あの人が戦えって言うなら私は生身でも戦える……あの人が道連れにして死ねって言うなら、私は喜んでこの身を差し出す…………犬も食べない正義なんて下らない玩具振りかざしてる貴方達とは違いますのよ」

 「アイドルの追っかけよりタチ悪いな……」

 「何とでもお好きなように仰っていればよろしいですわ。これが何かしらの兵器だって言うんでしたら好都合……さぁ! お受け取りなさい! お兄様からの手向けの花ですわよ!!」

 箱の表面に取り付けられていたコンソールを操作して解錠コードを入力する。変化はクアットロが距離を置くと同時に現れた……立方体の隅を留めていたボルトが次々と飛び出し、表面の溝に沿って外殻部分がスライドして内殻部分を露出させた。どうやら耐衝撃仕様の外殻が卵の殻の様に内部を守っており、そこに開閉バルブが隠されていたようだ。円形のそれを回すだけで後は自然に開くはず……。

 「……私が開ける。シャマルとティアナは何かあった時の為に待機しといて」

 「りょ、了解!」

 率先してはやてが前に進み出る。箱の前に来た時にクアットロと目が合ったが、牽制の視線を向けると嫌味な笑みを浮かべながら一歩下がった。懸念要素が退いてくれたのを確認してから、固く閉ざされたバルブを渾身の力を込めて回転させて解錠した。圧縮されていた蒸気が解放されて周囲が少しだけ白に染まった後、厚さ十センチ以上はあるドアがゆっくりと開き始めた。

 「っ!」

 解錠したと同時に爆発と言う可能性はこれで無くなったがまだ油断は出来ない……半開きになったドアに手を掛けてゆっくりと外側に引き──、



 「ママぁ!!」



 聞き覚えのある声と共に見慣れた姿が中から飛び出し、はやての脇を通り過ぎて背後で待機させておいたなのはの所へと駆けて行った。飛び出した瞬間に目にしたその姿……身の丈に合ってない白衣を纏っていたので一瞬判断に迷ったが、肩まで伸びたそのプラチナブロンドの髪を見紛うはずが無い……。

 「ヴィヴィオ!? 本当に……ヴィヴィオなの!?」

 「ママ! ママぁ……」

 なのはに抱きついて離れない隙にシャマルがすかさず生体反応を照合する。魔力反応は間違いなく誘拐されて行方不明になっていたヴィヴィオと寸分の狂い無く一致した……つまり、目の前に居る少女はヴィヴィオ本人で間違い無いと言う事がこれで実証されたと言う事になる。

 だが分からない……スカリエッティらの見解ではトレーゼらにヴィヴィオを返還する気は全く無く、何らかの理由で自分達五人をここに釘付けにするのが主な心算だと考えていた。だが実際はこうして本物のヴィヴィオが目の前に居る……こちらが予想していたのとは何か別の思惑があるのかと疑わざるを得ない状態だ。

 しかし──、

 「え、ちょ……一体何がどうなって!!?」

 この場で一番混乱の様相を呈していたのは他でも無いクアットロだった。ずり落ちた眼鏡を拾おうともせず、本当に何が何だか分からないと言いたげに身を捩っていた。

 「な、何で陛下がこんな所に! わ、私こんな話……聞いてませんわよ!」

 「どう言う事や。あんたは“13番目”に命令されてヴィヴィオを運んでおったんと違うんか?」

 「知らないっ、私は何も知らないぃ!!」

 どうやら本当に何も知らないらしい。それどころかこの取り乱しようから察するに彼女らもヴィヴィオを人質のまま自分達で囲っておくつもりだったらしい。それがこうして意図せず人質を解放してしまったとなれば困惑しない方がおかしいだろう。

 「どう言う事なのお兄様! 私は……クアットロはちゃんと言われた通りにしましたわよお兄様ぁ~!」

 急いでクラナガンに遠征中の兄に指示を仰ごうと脳内の通信端末を操作するクアットロだったが──、



 ≪クアットロ、現在のそちらの状況について、分かり易く説明してやる≫



 先に兄の方から通信が入って来た。










 ≪お前に与えた任務は、『“聖王の器”を目的座標まで送り届ける事』…………それが、お前に与えた、真の任務内容だ≫

 ≪因子はもう、抽出したから、ヴィヴィオ・タカマチに用は無い。かと言って、殺すのも面倒だったからな……よって、お前に返還させた≫

 ≪……武装が無いのに、どう戦えばいいか、だと? 何か盛大に勘違い、していないか、クアットロ≫

 ≪お前はもう、戦う必要は無い。丁度良い機会だ、投降しろ……俺はもう、お前に戦力的価値を、期待してはいない≫

 ≪じゃあな…………生きていたら、またあの、殺風景な拘置所に、逆戻りだろうが……お前には、お似合いだ≫

 ≪さようなら≫










 一方的に通信が切れた後もしばらくクアットロは唖然としたまま立ち尽くしていた。その表情を見ていたはやて達も通信内容がどんな物だったかおおよそ予想出来た……間違い無く彼女の表情は切り捨てられた者の顔をしていたからだ。

 「そ、そそ、そんな……お兄様、私は今までお兄様の為に……身を粉にして尽くして来たのに…………」

 精神的ショックが大き過ぎたのかクアットロは力が抜ける両足で体を支え切れずに地面に崩れ落ちた。その戦意喪失したのを見逃さず、はやてが接近して捕縛を試みた。

 「脱獄囚クアットロ……世界規模テロリズムの幇助の容疑で逮捕します」

 両手にバインド魔法を発生させて手首を後ろ手に回して縛り上げようとして背後に回る。そのまま、呆然自失としているクアットロは完全に捕縛され、事の一部始終を見守っていた他の面々も一旦緊張を解いた。沈黙していたクアットロを無理矢理立ち上がらせた後に身柄をシャマルとティアナに任せ、はやてはまともに動く事も出来ない親友二人の所へと戻った。

 たった四日……互いが離れて音信不通になっていた期間はたったの四日だけだった。短い、余りにも短い日数だ。民間企業に働いているサラリーマンなら出張でもっと多くの日数を費やす事も多々ある。それに比べれば本当に短い期間でしかない。

 だが親子二人の心を蝕むには充分過ぎる時間だった。

 「ママ……ただいま」

 「────」

 「ママ、声出ないの……? どうしちゃったのママ!」

 「落ち着いてヴィヴィオ。右腕がまだちゃんと治ってないんだから」

 「フェイトママまで……。あ! そうだ、ママとシャマルさんに渡さないといけない物があった……」

 「はい? 私にですか?」

 ダブダブの白衣のポケットをまさぐってヴィヴィオが取り出した一つ目の物品はメモ用紙だった。小さく折り畳まれているそれを広げて確認して見ると、小さな文字がびっしりと書き込まれていた。手記の最後の方には少し大きく、『彼女の治療を最優先事項として行動して頂きたい。──No.13からDr.シャマルへ』とだけ記されていた。

 「骨折状態と最適な治療法……流石はDr.スカリエッティの寵児ってとこかしら」

 「それから……なのはママにはこっち」

 「これは……何かの金属カード?」

 黒いメタリックな質感を持つそのカードには何も文字が刻まれておらず、不思議に思ったフェイトが手を伸ばす。

 だが……

 「ダメっ! 触ったらいけないの」

 「ヴィヴィオ?」

 「なのはママに直接渡せって……トレーゼさんが」

 何かの罠かも知れない……そう思いながらもなのはは恐る恐る手を差し伸ばしてそのカードを受け取った。少し軽く冷たい手触りをしているだけの何の変哲もないただのカードだ。始めは何の変化も無いままそれを手の上で転がしていたなのはだったが……

 変化は突然現れた。

 「熱っ!!」

 いきなりなのはがそれを投げ捨てた。草むらに落下したそれは凶暴な熱を帯びており、接触した枯れ草はことごとく煙を上げてボヤを出す程だった。その場に居た全員が困惑する中で唯一はやての判断は早く、これ以上何か異変が起こる前に氷の刃を突き立ててそれを破壊した。幸いにも親友の右手はほんの少し赤くなっただけで済んだようであり、大事には至らなかったらしい。

 だがここで疑問が発生する……。脳に魔力ノイズを埋め込まれているなのはは喋る事はもちろん、小さな物を持つ事も出来なければ平衡感覚を失っている為にまっすぐ歩く事も困難な酷い状態だったはずだ。だがさっきの叫び声は間違いなくなのは本人のもので、状況を把握したフェイトとはやて達も一瞬何が起きたか分からないような顔をしていたが……。

 「な、なのはちゃん……もしかして口利けるようになったん!?」

 「なのはっ、私の名前言える?」

 「フェイトちゃん……はやてちゃん……。言える、ちゃんと呼べるよ! しっかり立てる……歩ける!」

 「さっきのカードはなのはちゃんの中に入っておった魔力ノイズを吸収して熱に変換する装置やったちゅう事か? そやけど、何でこんな敵に塩送る事して何か得でもあるんかいな……」

 それよりも不可解なのがヴィヴィオの返還だ……今この時点で人質を解放したところでそれこそトレーゼ側には万に一つの利益も無いはずだ。よもやあの冷徹な戦闘機人が情で動くはずもない……とすれば絶対何か裏があるはずだ。だが今はそんな事を考えている余裕は無い。

 「全員ヘリに乗り込んで! 大至急クラナガンに────!」



 「ふざけるなああああああっ!!!」



 大気を揺らす程の怒号が丘全体に響き渡り、全員の視線がそこに集中する。声の主は今さっきまで沈黙していたはずのクアットロであり、自分を引っ張ってヘリに乗せようとしていたティアナを張り倒すと両腕のバインドを力尽くで破って逃走を図ろうとした。戦闘機人のスタミナと脚力で逃げられれば捕まえるのは困難……ならば──、

 「逃がさない!」

 「あうっ!」

 病み上がりとは思えない精密射撃でなのはがクアットロの右足を撃ち抜いた。痛みと衝撃でバランスを崩したクアットロは傾斜を転がり落ち、少し落ち窪んだポイントでようやく停止した。それを追ってティアナを筆頭とした全員が立て続けに斜面を滑り降りて行って追跡し、ヘリで待機していたヴァイスもストームレイダーを抱えて追従した。

 「くそ……くそっ、くそっ! くそっ!!!」

 流れ出る血を忌々しく睨みつけクアットロはしぶとく逃亡を再開しようとした。だが撃ち抜かれた瞬間に駆動系を大きく損傷した為に立ち上がる事すら容易ではなくなっており、生まれ落ちた赤子のように無様に這いずって行こうとした。だが当然そんな移動速度で逃れられるはずもなく……

 「再逮捕!」

 地面から伸びたバインドに全身を固定された。今度は全ての関節を捕えられているので脱出は不可能だ……ここで大人しくお縄についた方が身の為だ。

 だが……

 「触んなぁ!! 私に触れるな!!!」

 かつて見なかった程に激しい剣幕で誰も近付けさせない……下手に手を出せば噛みつかれ兼ねないと分かっているのか、ティアナもはやても一歩下がって彼女が冷静になるのを待つしかなかった。やがて荒かった息が少しずつ元に戻り始め、五分と経たない内に完全に落ち着きを取り戻したのか再び沈黙した。もうこれで抵抗の手立ては無くなったと思って接近を試みるが──、

 「……ウフ……フフフフ、ウフフフフファハハハハハハハハハハハッ!!」

 「き、気でも狂ったの」

 「あらぁ、人が少し取り乱した程度で随分とまあ好き勝手言ってくれるじゃないですの。私は別に狂ってなんかいませんし、至極冷静ですよぉ」

 もう眼鏡もどこへやったか分からない……土と草がこびり付いた顔を向けて来るクアットロの嫌な笑顔を見ながらはやて達は確信した。

 何か良からぬ事を企んでいる──と。

 そしてその予想は間も無く現実のモノとなってしまった。

 「ねぇ二佐、貴方さっき私にこうお聞きになりましたわよね~……『持って来たのが爆弾だったらどうするんだ』って。ちょっと良く考えてみたんですけど~…………ありますよ、爆弾。それもとびっきりの高威力のが一つだけ」

 「何言うてんのや。見栄張って強がるんも大概に……!」

 「戦闘機人の機械骨格って何で動いているかご存知かしら? 全ての生物に存在してるリンカーコア……これをフレームの中枢のジェネレーターと直結させる事で放出される魔力を熱エネルギーに変換させるのよ。魔力は高濃度に圧縮されたエネルギーですから、変換すればそれはそれは莫大な熱量が得られる事間違い無しですわ……」

 それはもちろん知っている。熟練した魔導師ならたった一発の砲撃魔法で山肌を削る事も有り得るらしい。もしそれを地球で言う所の科学に置き替えて考えたとすると、熱エネルギーに換算すれば途方も無い値が出るのは確実だろう。しかもそれは魔法の行使によってリンカーコアから消費される一部の魔力の話だ。大気中から魔力素を吸収して練り固められた塊であるリンカーコアともなればその内包量は想像を絶するだろう。例えそれが魔法を行使出来ない魔導不適合者であったとしてもだ……。

 「も・ち・ろ・ん! そんな熱量をドバドバ流し込んだりなんかしてたら身が保ちませんからぁ、普段はジェネレーターに何重もリミッターを掛けて出力を制限してますの~」

 「それも知って…………まさかあんたっ!?」

 「その『まさか』よっ!!!」

 ここまで来て初めて気付いた……クアットロの周囲から漂う白煙とただならぬ異臭の存在に!

 「自爆する気!?」

 「当然よぉ! 私はナンバーズのNo.4、クアットロ! 誰があんたら虫けらなんかに頭垂れてやるもんですか……ああ、そうよ、死んでやる、そんなんだったら死んでやる!! 死んだ方が五百倍もマシよぉっ!!!」

 鉄板の上の水滴が蒸発する様な激しい蒸気音、肉の焼ける鼻を突く異臭……そしてそれら地獄の責め苦にも匹敵する苦痛を一身に受けながらも冷徹な笑みを崩す事無く、クアットロは自分を捕えんとする怨敵達を睨み続けていた。既に防護ジャケットに隠れた下の肌は内部から発生した熱でドロドロに融け出し、血液と膿汁が混ざり合った液体が染み出していた。

 「ギギギ……! でもねぇ……私には貴方達と違ってプライドってもんがあるのよ……一人で死ぬもんですか。だからね……え…………悪いですけど道連れになってもらいましょうかああああああっ!!!」

 ボコッ……!

 「げぼぁ……! ゴホゴホ……」

 吐き出した血液は熱で変色して湯気まで上げており、もう既に彼女の肉体が取り返しのつかない所まで来てしまっている事が目に見えて分かった。始めは脅しだと思っていたはやて達も危機感を覚え、このままでは本当に巻き込まれ兼ねないと感じた彼女らは誰が言い始めたでもなしにヘリに飛び込んで離陸の準備に入った。

 「全員衝撃に備えっ! 何でもええからしっかり掴っとき!! 陸曹、プロペラ最大回転! 私が防壁張るからその間に早く!!」

 「言われなくても分かってますよ!」

 機体を白い魔力防壁が覆うと同時にヘリは離陸して飛び立ち、徐々に地面から離れて行った。だがまだクアットロは目と鼻の先……爆発の威力にもよるがこの距離では爆風の直撃は避けられないだろう。良くて風圧で煽られるだけだが、悪ければそのまま墜落と言う事も考え得る。

 「間に合え……!」










 いつだったか、スカリエッティの行ったナンバーズ育成計画の一環で行った実験に『免疫耐性向上実験』と言うモノがあったのを思い出した。

 その時に投与したウイルスが多過ぎたのか、それから数日もの間も熱病に侵された事があった。全身の細胞が沸騰しているような錯覚に見舞われ続け意識が朦朧となり、本当に生死の境を彷徨った記憶がある。

 今がまさにあの時の状態だ。体の内側から込み上げて来る熱が血管や内臓を凌辱しているのが嫌でも分かる。吐き出される胃液混じりの血液が熱湯の様にもうもうと湯気を上げ、口の奥からは肉の焼ける異臭しか漂って来ない。今この状態でジェネレーターの暴走を止められたとしても熱で死んでしまった内臓は二度と機能しない……もうどの道死んでしまう事に変化は無いだろう。

 だがタダでは死なない!

 数の暴力に頼って下らない正義を振りかざすだけの組織に誰が尻尾を振ってやるものか……。今までまともに戦えた試しは無いかも知れないが、最後の最後で差し伸ばして来た薄汚い手に噛みついてやるだけの気力は残っているつもりだ。

 ああ、そうか……今までまともに戦えなかったから自分は兄に見限られたのか。戦えない奴、戦う気力も無い奴は自分の陣営には要らないから見捨てられるのか。

 だったら最期に証明してやるとも……自分が尻尾を振るだけの犬ではない事を…………無能な妹達とは違う事を!

 眼球が機能停止した。もう何も見えない。自分の体がどうなっているか確認する事さえも儘ならなくなった。死期が目前にまで迫って来ている……。

 だが不思議と怖くはない。

 むしろ誇らしい……。

 自分の教育者、ドゥーエと同じように任務行動中に死ねるのだから……。

 「ああ……ドゥーエお姉様…………今、そちらに────」



 それが彼女の最期の言葉だった。










 「……………………馬鹿な奴」

 バイクに乗り込む際に不意にトレーゼが口にした言葉がそれだった。隣に居たセッテもついさっきまで自分達が受信していた信号が途絶えた事に何か思う事があったのか、ハンドルを握ったまま沈黙していた。ナンバーズ同士の間に敷かれているネットワークは製作者であるスカリエッティの許可無くしては個々人の意思では凍結する事は不可能だ。それが機能している限りは例え別の次元世界に居たとしても互いの生存が確認出来る。

 つまり、そのネットワークが寸断されたと言う事は……。

 「兄さん……」

 「何も言うな。あれはただの、『機能停止』だ……お前が、思っているような、複雑な感情で語られるような、大仰なモノではない」

 「ですが、クアットロは死ん──」

 「あれは、『機能停止』だ。“死”と言う概念は、生物にのみ、適用される言葉だ。機械である事を、選んだのであれば、そんな薄っぺらい言葉に、頼るな」

 「…………了解しました」

 「…………最後の最後で、あいつも意地を見せた。戦闘機人としての、最後の意地を……。ならば、それを蔑ろにする事は、許されない」

 トレーゼの言う通り、戦闘機人は人間の手で造り出された機械に過ぎない。動いていれば『生きている』のではなく『稼働している』とされ、逆に動かなくなればそれは『死んだ』のではなく『停止した』と言うだけの事実に留まる。自分達はどこまで行っても生物としての分類に名を記される事は無いのだ。

 「あいつも、意地を見せた……。お前も、俺にそれを見せて、くれるんだろう、セッテ?」

 「命令でしたら」

 「なら命令だ、セッテ。お前が操縦を担当し、俺が後方で援護に回る。目標地点に、到達するまで、絶対にアクセルを、止めるな」

 「了解!」

 右手を一気に捻ってエンジンを起動させ、車庫中を揺らす爆音と共に二人を乗せた単車は夜の首都に繰り出した。



 この僅か数十分後、クラナガンの戦況が一変してしまうなど誰が予測出来ただろうか……。




















 新暦296年某月某日、時空管理局地上本部の食堂にて──。



 「あ!」

 「お?」

 「ん?」

 全くの偶然……たまたま一人でコーヒーを飲んでいた所に見知った顔二人、それぞれ同じようにカップを片手に席までやって来ると特に挨拶らしい言葉も交わさずに座り込みまずは一服した。やがて全員がカップの中身を飲み干した後に白衣を着ていた少女が口火を切った。

 「奇遇ですね。魔法生物学教授に頼まれて無限書庫に資料を提出しに来ていた所だったのですが」

 「ボクは今日の訓練は午前中で終わりだからね」

 「我も定例会議が一段落したのでな……」

 三人のうち一人は学者が着る白衣を纏い、後の二人は白を基調とした教導隊制服と本局の青服を着ており、全員が管理局に勤務する者であった。どうやら顔見知りらしいが……。

 「それにしてもリズが学者になるなんてなー」

 「私としてはフォスが戦技教導官になれた事実の方がよっぽど不可思議です」

 「頭の回転が鈍いこいつも、こと戦闘に関してだけは随一だからな。局も結構以前から目を付けていたそうだ」

 「何年……いえ、何十年くらい前からですか?」

 「そんなの知らないよ。そう言えばリズも最近どうなのさ? やっと教授になれたって聞いてたけど」

 「ええ。管理世界中の大学に引っ張りダコですよ。たまにクランの事務仕事が羨ましく思えます」

 「ぬかせ! 毎週くだらぬ議題に付き合わされて塵芥のヒヨッ子どもの言い分を聞いておるこっちの身にもなれ」

 「ボクだってこう見えたって大変なんだからね。皆ボクの言った事早く覚えてくれないし、何か最近バカにされてるっぽいし……」

 「それは確実にされてますね」

 「ああ、されておるな」

 「ちょっとぐらいフォロー入れろぉー!」

 それからしばらく三人は談笑にふけっていたが、やがて一人が時計の針を気にし始めたのをきっかけにして席を立ってそれぞれの職場に戻り始めた。

 「では、いずれまたどこかで会いましょう」

 「久し振りに家で遊びたいな~。今度はいつ帰るのさ?」

 「毎年ちゃんと盆と正月には帰っているだろ。子供かお前は」





 リズ・N・シュテル……本局付き魔法生物学教授。管理世界における生物生態学の世界的権威であると同時に、無限書庫を統率・管理する司書の一人でもある。



 フォス・N・レヴィ……地上本部所属の戦技教導官。戦闘に関する意欲と技術は群を抜いて高く、高町なのは以来の『戦術の切り札』と称されている。階級は三等空佐。



 クラン・N・ロード……本局所属の提督。指揮能力の高さを買われ、その手腕を揮ってこれまでに20にも及ぶ次元世界を新たに発見した功績を持つ。階級は一等空佐。





 通称『シュヴェルツェリッター』の名で呼ばれる彼女ら三人の出生について、管理局から200年以上もの間『超越体』と呼称される生命体が関わっていた事を知る者は少ない。



[17818] Dolls War:Act 1
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:cdb6a279
Date: 2011/02/19 02:20
 新暦11月22日、午後21時50分、首都メインストリートにて──。



 閃光。

 轟音。

 爆煙。

 そして崩落。

 夜のクラナガンの静寂を打ち破り続ける音……騒音と言うには度を越し過ぎているそれらの原因は街の一角を戦場へと変貌させつつある集団の所為だった。紅い光線が発射される度にビルが崩れアスファルトが抉られ、電柱と街灯が何本も折れ曲がって地に落ちる……。彼らが一つの区画を更地に変えてしまうのに五分も掛らず、やがて全てのビルが崩落するとようやくその全貌がはっきりと見えて来た。

 「ちぃ……!」

 「逃がさない!」

 飛行して逃走を図ろうとするトレーゼを七人の戦闘機人が徐々に追い詰めつつあった。上空に上がろうとすればウェンディとギンガが強襲し、地上に逃げ場を見出せばすかさずオットーとディードが足止め、僅かに足を止めればその瞬間にディエチが遠距離砲撃で容赦無く撃ち続ける……阿吽の呼吸を知り尽くした彼女らだからこそ成せる連携でトレーゼに反撃を許す事無く少しずつ彼を消耗させて行った。

 もちろんトレーゼ側も黙ってはいない。

 「調子に、乗るなよ……」

 手に持っていたマキナが可変すると同時に分裂し、右手にレイジングハート、左手にバルディッシュ・ザンバーの形状となって手中に収まるとトレーゼはただ単純にそれらを力一杯振り回した。黒杖の先端から放たれた散弾がビルの壁を蜂の巣にし、大剣の紅い刃から飛ばされた斬撃がアスファルトと地中のガス管を抉りながら地面を一刀両断に斬り捨てた。広範囲全方位無差別攻撃としか形容出来ないその殺戮の物理的波動は周囲数十メートルを一瞬で荒廃した大地に変貌させ、射線上に位置していたナンバーズの連携を一瞬だけ鈍らせた。

 「ぐぉあああ!!」

 「怯むな! フォーメーションを……!」

 その僅かな隙を逃さずトレーゼが超加速で包囲網の突破を敢行した。目標は当然セッテの救出だ。

 「どけ、俺の道を、阻むな」

 壁に埋め込まれたセッテの前には防衛役としてチンクが陣取っている。周囲に散乱している数多の金属片……彼女の手に掛ればそれら全てが高性能爆薬に早変わりするだろう。恐らくは自分が目の前の交差点を通過する瞬間を狙って足元のマンホールを爆破して怯んだ隙を突いて本命の投擲ナイフと言った所だろうが──、

 「上が、甘い」

 上空から攻めればどう出る? 空を飛べないチンクにとって上方からの奇襲はまさに物理的盲点、戦術的死角に等しい。いかに彼女の腕力でも真上に投げたナイフが百発百中を誇るとは限らない。加えて隻眼での投擲ともなれば距離感が掴み難くなっているはずだ。予測はしていてもどうしようもない……。

 「その為に私が居るんだよ!!」

 「No.6っ!?」

 隣のビルの外壁から飛び出して来たセインの蹴撃がトレーゼの脇腹を強襲して来た。今までどこに潜んでいたのかと思っていたがまさかここで待ち伏せをしていたとは……だがそんな事は関係無い。例え奇襲でも相手はトレーゼだ……単独で向かうには分が悪過ぎる相手だった。

 「邪魔だ!」

 ザンバーブレードで見事に打ち返された。幸運にも峰で叩き落とされただけで済んだだけだったがダメージは凄まじく、セインは力のベクトルが働く方向へと一気に吹っ飛ばされた。

 だが、その瞬間に彼女は僅かに微笑んでいた。「してやったり」……自分の悪戯で仕掛けた罠にまんまと引っ掛かってくれた事を笑うような笑顔だった。地面に叩きつけられる寸前に彼女がトレーゼに向かって何かを投げつける。疑似魔法陣の強烈な光を受けてキラキラと光るそれは小指の先程度の大きさの──、



 パチンコ玉だった。



 「金属……まさか!?」

 トレーゼの視点が地面に激突したセインからチンクへと戻った時、当のチンクが突き出す人差し指の先に環状テンプレートが展開されていた。金属爆破能力『ランブルデトネイター』……この大きさの物体を爆発させれば一個ごとの威力は低いかも知れないが、十数個にもなればその威力は手榴弾にも匹敵する。そしてそれらが既に目と鼻の先……

 「くっ、ライドインパルス……!」

 「遅い!!」

 爆炎一閃──。

 「兄さん……」

 「諦めろセッテ。お前はあの人と居てはいけない。戻って来るんだ」

 「世間知らずの妹は黙ってお姉ちゃん達の言う事聞いてればそれで良いのさ。そうしてた方がずっとか幸せってもんだよ」

 「説教は後ほどお聞きします。それよりも……まずは兄さんを倒してからモノを言ってください」

 「何を言って……っ!!」

 爆煙の最中に揺らめく真紅の陽炎の存在に諭されてようやく気付いたチンクとセインはすぐさま構えを取って迎撃態勢に入った。だがすぐにその構えを解くと出来るだけ後退した。一度態勢を整えた彼女らが撤退を余儀なくされたその理由は……

 「やってくれたな、No.5……」

 「“聖王の鎧”か」

 古代ベルカ王の絶対防御を完全再現した未知のISを身に纏いて迫り来るトレーゼ……。地獄の悪鬼もかくやと言う無言の殺気と敵意に満ち溢れたその姿に気圧され、二人の足は徐々に彼を避けようとして本来死守すべき防衛ラインから遠ざかり始めた。ハイリゲンパンツァーは“鎧”とは名ばかりの城壁にも匹敵する防御力を秘めた能力……衝撃を本体に届かせるには防御障壁を削り取るだけの攻撃力を与えなければならないが、今のチンクとセインの武装では心許ない。このまま押しの一手で攻められれば彼女らが成す術無く追い詰められるのは目に見えている。

 今この時点でその防御障壁を削る可能性を持つ武装とそれを所持している者は──、

 「二人とも離れて!」

 ディエチのイノーメスカノンだけだ。デバイスではない彼女の武装であればアブソリュート・ドミネイターの効果を受ける事無くエネルギー供給を行える上に引き金を引くだけで発射可能だ。当然の如く撃ち出された破壊光線は一直線にトレーゼの背中に向かって火線を伸ばし、見事に命中しその紅い障壁をほんの一部だけ削り取る事に成功した。ダメージ自体は与えられなかったようだが障壁を削った効果は大きく、殺し切れなかった衝撃がトレーゼの背を襲った。

 「くっ!」

 「まだまだぁーっ!!!」

 オットーのレイストームが障壁の歪みに食い込んで修復を阻害し、閉じ掛っていたその部分にディードが突貫してブレードを突き立てた。これで“鎧”の修復は完全に阻止された。

 そして二人の脇を突き抜けて接近する影在り──、両拳に有りっ丈の魔力を込めてギンガが拳を叩き込んで来た。デバイスの動きが強制的に止められているにも関わらず自身の持つ突撃力のみを頼りにしての単騎突貫……人一倍の闘争心と仲間との信頼と連携が無ければ決して実行出来ない行為である。流石のトレーゼも自ら単身で乗り込んで来るとは思っていなかったのか、真後ろからの攻撃と言う事もあって対応が数瞬だけ遅れた。だがその僅かな隙はギンガにとっては充分な攻撃の決め手となった。

 「はぁあああああああっ!!!」

 魔力を込めた両拳の激しいピストン……右拳を当てれば左拳、左拳を当てれば右拳と言った具合に交互に障壁に連続で打ち付け、修復の隙を与えずに連撃で攻め落とそうとする。障壁の修復速度とギンガの攻撃力は僅差でギンガの方が勝っており、加えてオットーとディードの修復阻害もあって拳が当てられた箇所から徐々に肉薄にさせて行く事が出来た。

 「ファーストォ……!!」

 「顔見ただけで殺したくなる人って初めて見た気がするわ…………だから、妹を誑かしたツケを払ってもらうわよ!!」

 最後の一撃は左拳に全てのバネと魔力を掛けての……

 「リボルバー……キャノン!!!」

 藍色の魔力の奔流が着弾と同時に解放され、爆風が舞い上がると共にギンガ達三人は衝撃に巻き込まれないように距離を離した。デバイス無しの魔力補正と非殺傷設定とは言えあの至近距離である……無傷とは行かないはずだ。余波で抉られたアスファルトを包囲するナンバーズらが見守る中、収まりを見せ始めた土煙の中から姿を現したトレーゼは──、



 「調子に乗るなよ……ゼロ・ファースト!」



 無傷。魔力衝撃をまともに喰らったはずにも関わらずその防護ジャケットは破れてもおらず、完全修復した“鎧”を全身に纏い直したトレーゼが悠然と眼前に立ち塞がっていた。ギンガが放った物であろう藍色の魔力を吸収しながら消費していた力を回復し、彼の“鎧”とエンジェルリングは更にその輝きを増してギンガ達を圧倒した。

 「どう言う事よ。確かに直撃させたはず……手応えだってあったのに!」

 「確かに、貴様の拳は、障壁を突破し、俺の体表の直前にまで、衝撃を届かせた。魔力付与による、直接物理攻撃で挑んだのは、良い線だったが……俺がそれを、予期していないと思っていたのか?」

 「まさか魔力吸収……DMF!?」

 「違うな……」

 戦慄を覚える妹達を尻目に余裕の佇まいを崩さないトレーゼは踵を返して背を向けると倒れていた電柱に腰掛け……

 「確かめて見ろ」

 ハイリゲンパンツァーを解除した。体表に仄かに魔力の残り香が漂っているだけで完全な無防備状態……単独でこの数と渡り合っていると言うのにこの余裕は恐ろしいモノを感じさせるが、この距離と状況ならば仕留める自信は充分にあった。問題は相手が何を考えているかだ。この明らかに攻撃を誘っている言動からすれば何かしらの罠を仕掛けていると考えるのが妥当だろう……この七人の内の誰かが攻撃を仕掛けて来ても確実に返り討ちに出来る、そんな罠を。仮に罠でないとすればさっきの攻撃を防いだ真相がはっきりするはずだが……。

 「どうした、生身の敵一人に、何を怖じ気付いている?」

 そんな彼女らの勘繰りなど気にもせずトレーゼは相変わらずの余裕を保ったまま足組みし始めた。挑発を含むその行為に感化されて遂に長姉ギンガが再び前に踏み出し拳を構える。狙うは顔面真正面……鋼鉄の五指に力を込め、障壁を打ち砕いた時と同じように魔力を集中させたそれを……

 「フンッ!!!」

 クリーンヒット。高所からドラム缶を叩き落とした様な激しい音が周囲に響き渡り、その音に驚いた他の者達が一斉に身を縮めた。同じ戦闘機人とは言え頭部は殆ど手付かずの無改造に等しく、そんな部分への打撃をまともに喰らったとなれば壊滅的ダメージは計り知れない。しかも、事もあろうにトレーゼは避ける事も無く直撃コースを見事に自らの顔面で受け止めて見せた。

 ピシ……ピシッ──。

 枯れ枝が折れるような音……鼻の骨にヒビが入る音…………



 ではない!



 「おい、当たれば痛い、とか言っていたのは、どこのどいつだ? 痒くもないぞ?」

 「何よこれ……凄く、硬い!!?」

 慌てて後退した時に見えたギンガのリボルバーナックル……接触した五指の部分の装甲が粉々にヒビ割れ、ミッドの機械工学の粋を決して作られたはずのデバイスがまるで飴細工の様に砕け散っていた。高層ビルの屋上から落としても傷一つ付かないと言う触れ込みはどこへやら、生身の人間の顔を殴っただけでこのザマ……様子を静観していた他の姉妹達も動揺を隠せずにいた。

 一堂、何が起きたか分からず混乱……。殴られたはずのトレーゼの顔には痣どころか鼻血すら出ておらず、蚊でも止まったのかと言うような涼しい表情をしているだけだった。

 「このっ……! さ、刺さらない!?」

 続いてディードのブレードが胸に突き立てられるが、その切っ先は防護ジャケットに阻まれて一寸も体に食い込まず杭を打ち付ける要領で叩き突いても結局は岩盤を針で削ろうとしているのと同じ感覚だけが手に残るだけで、目の前の兄にダメージを与える事は適わなかった。

 何故攻撃が通らないかについては分からないが、一つだけ判明した事があるとするなら……

 硬い! コンクリートやアスファルトの地面にスコップの先端を当てた時に感じる堅牢さが接触と同時にひしひしと手に伝わり、とにかく自分達の攻撃が通用していないと言う事実だけがはっきりと分かっていた。頭頂に輝くものとは別に足元にある疑似魔法陣を見る限り何かしらの能力を発動させている事だけは確かだが、現時点でトレーゼが持つISの数はNo.0から始まってNo.15に至るまでの計十六……その内の十二個は正規ナンバーズの持つISと同じであり、No.13は彼専用のIS、No,0とNo.14とNo.15の三つはスバル、イクス、そしてヴィヴィオから抽出した因子を基にして編み出したものだ。現時点で能力が判明しているISはイクスから獲得したNo.14を除く全てだ。彼女らは知る由も無いが、現在トレーゼが保有する能力の中でハイリゲンパンツァーを除く防御スキルは存在していないはず……。

 「…………戦闘行動において、必要不可欠な、ステータスは、たった三つで事足りる。即ち、『攻撃力』、『防御力』、『機動力』……この三つだ」

 学校教師が講釈垂れるような口振りでトレーゼが三本の指をヒラヒラと振って見せる。

 「重さ……硬さ……速さ…………この三つの項目の、どれがどの様に優れているかで、戦闘の勝敗が、大きく左右される。生憎と貴様らは、そのどれもが、俺と比較して大きく劣っているが……」

 「何が言いたいわけ?」

 「俺が最後に発動したIS……覚えているか?」

 最後に発動を確認した能力は確か……チンクの即席のパチンコ爆弾を防ぐために行使したハイリゲンパンツァーのみだったはずだ。爆発からその衝撃波が到達する刹那の瞬間にあれを発動させた事は驚愕に値するが、それ以外には他に能力なんて──、

 「まさか……あの時のっ!?」

 「そう……ライドインパルスだ」

 確かにあの時、起爆する直前に彼は最初にそれを発動させようとしたのは覚えている。あのときてっきり阻止したものだと思っていたようだが、あれはあくまでジェネレーターに設けられたリミッターの幾つかを解放する事によって得られる爆発的な出力を利用した超加速だったはずだ。移動どころか現在完璧に停滞しているこの状況で出る話題ではないはず。

 「まだ分からないか? 同じ、魔導技術を、応用する貴様ならば、理解出来ると思ったのだがな、ファースト。所詮は、クイント・ナカジマの、劣化コピーでしかないのか」

 「何ですって!」

 「十三人存在する、ナンバーズの中で、俺とお前達の、明確な差異とは何だ? それは、利用している、エネルギー源の違いだ。貴様らは、所詮は俺の、量産型……肉体を動かすのに、必要とする動力は、ジェネレーターから供給される、熱エネルギーが、大半を占めている。駆動フレームは、当然のこと、攻撃や飛行、防御用として使用する物まで、その全てがジェネレーターからの、エネルギーに頼っているだろう」

 「それがどうしたって言うんスか?」

 「物理エネルギーは、予め指定された回路や、決められたポイントへ、優先的に流れるようにしか、出来ていない。故に、本来ならばライドインパルスも、発生した大量のエネルギーは、エナジーブレードと言う形になって、四肢から放出される。…………本来ならば、だがな」

 「本来ならって……まさか!」

 「そう、俺が使用するエネルギーは、『魔力』……俺の意思一つで、内臓から、指先に至るまで、自在に供給率を変動出来る。そして……ライドインパルスは、リミッター解除の能力…………ここまで言えば、後は分かるだろう?」

 「兄上に掛けられているリミッターはジェネレーターではなく……リンカーコアに仕掛けられていたと!?」

 「今更気付いても、もう遅い」

 立ち上がった時に彼女達はやっと気が付いた……ハイリゲンパンツァーを解除したはずの彼の体の表面が仄かに紅く光っていると言う事実に。正体は体表全体を覆い隠す薄い魔力膜だった。厚さは目測で五ミリにも及ばないであろう限り無く薄い魔力の膜……そこら辺の石ころを投げつければそれだけで破れてしまいそうな程に薄い。だが指摘されてそこに視線を集中させていたギンガは気付いていた。その極薄の層に先程のハイリゲンパンツァーに匹敵、或いはそれ以上の超高濃度魔力が凝縮されている事に。

 「【ライドインパルス・ソリッド】……これが、我が姉トーレでさえ成し得ない、ライドインパルスの、真価の一片……その防御仕様だ。ハイリゲンパンツァーと、組み合わせる事で、俺の防御力と衝撃遮断率は、格段と上昇する。貴様らの攻撃など、もはや蚊が刺した程にも、感じないな」

 リミッターを解除した事で解放された膨大な量の魔力を放出する事無く体表全体にインナーの様に纏わせる事で“聖王の鎧”以上の硬度を誇る強化装甲を得る……使用しているエネルギーが魔力だからこそ成せる業、戦闘機人と言う戦いに特化した存在のトレーゼだからこそ編み出せた究極の一芸特化スキル。自分達に見せ付けられた全くの未知の現象にギンガ達ナンバーズは無意識に恐れを成して後ろに下がり始めた。相手は確実にこちらより数段も実力が上の存在だ。だからこそ数と連携で圧倒する事で僅かな勝機に懸けようとしたのに……こちらの攻撃が物理的に一切通用しないとなればもはやその一縷の望みも無残に断たれてしまったも同然のように思う諦観の心が彼女らを支配してしまっていた。

 「どうした? もう、終わりか? 10メガトンぐらいの、質量をぶつければ、突破出来るかも、知れないぞ?」

 一メガトンはTNT火薬およそ100万トン分に相当する質量……この発言は暗に核兵器に匹敵する出力を有する武装でなければ突破は不可能だと誇示しているのだ。そして当然の事ながら今のギンガを始めとするナンバーズにはそれだけの出力を有する武装とスキルを持つ者は居ない……。トレーゼの発言が事実であれば、まさにこのスキルは『ソリッド:solid(堅牢)』の名こそが相応しい。

 誰も攻めない……視線だけは未だに勇猛さを保ってはいるものの、再認識してしまった圧倒的実力差を目の前に戦意は確実に風前の灯火と化してしまっていた。今自分達が持っている武器とスキル……今まで汗や時に血を流して培って来た自分達の力のそのどれも全く通用しない相手と相対していると言う覆しようも無い事実が、彼女らの自信をことごとく打ち砕いていた。

 「……もういい、こちらから、行くぞ」

 そう言いながらトレーゼが一歩踏み出す。変わらない余裕の佇まい……しかしその一歩一歩には確かなる冷たい殺意と敵意が入り混じっており、鉄面皮の奥に潜むドス黒いそれを確信した七人は誰に言われるまでもなく一斉に思い思いの方向に散開して撤退を開始した。

 捕まれば確実に墜とされる! 自分とトレーゼの相対距離を確認しつつ、妹達が射程圏内から無事脱出したのを確認して飛び立ち──、



 「はい、お疲れ」



 両肩に重圧を感じた。

 丁度手で軽く叩かれたのと同じ感覚……今、自分は背後に居る誰かに肩を掴まれていると認識でき……

 「さようなら」

 視界が反転し、意識が暗転……それだけの情報を最後にしてギンガの脳は外部からの刺激の受容を遮断した。










 「ギンガーッ!!」

 何が起きたかはあまりにも速過ぎて分からなかった……。ただ結果として目の前にあるのは、あのナカジマ家の長姉ギンガが無残に地面に叩きつけられて沈黙してしまっていると言う信じられない光景だった。高速で激突して出来たアスファルトのクレーターの中心にて気絶しているギンガを尻目にし、トレーゼは静かに残り六名となった『獲物』に狙いを定めた。本当に静かに見つめているだけにしか見えず、場所が場所ならそれこそ飛んでる虫を傍観しているようにしか見えない視線だった。

 だが今となってはその視線こそがまさにバジリクスの一睨みにも匹敵していると言うのは誰もが理解していた。

 「…………マキナ、システムの、限界許容時間は?」

 『30 minute.(三十分程度です)』

 「そうか……。あまり、熱くなって、戦闘を長引かせる訳には、いかないな……。マキナ、奴らに実力差を、見せ付けつつ、圧倒的な勝利を、獲得する」

 両手と四肢に構えていた武装が虚空に消えてトレーゼが完全非武装状態へと移行した。正確に言えば体表の高濃度障壁だけは展開されたままだがこれで攻撃能力は格段と下がった事になる。その状態を見て好機と取ったのがリーダーのチンクだった。攻撃手段が近接戦闘にのみ限定された今なら遠距離射撃と砲撃能力を持つ自分達に分がある……障壁全体を吹き飛ばすには核兵器が必要かも知れないが、火力集中による一点突破であればまだ勝算はあると踏んだのだ。僅かであっても綻びを作る事が出来れば結界と同じ要領で全体を崩壊させる事も可能なはず……。

 「ディエチ、ウェンディ! 姉が先行するから後に続け!」

 「了解!」

 「了解ッスよ!」

 先行したチンクが全力疾走する先にあるのは……公園。既に戦闘の余波を受けて遊具や水飲み場は目も当てられないぐらいに壊滅してしまっている。ひしゃげたフェンスを飛び越し、ボロボロの砂場を蹴って彼女が辿り着いた先で見つけたのは──、

 「これだ……」

 ブランコを留める鎖と、運梯やジャングルジムに使われている中空の鉄棒だった。

 それらをまとめて脇に抱えて彼女は再び兄に向って駆け出した。一本が精々二メートルもない鎖の両端を自身の金属物爆破能力の応用で分子ごと熱して溶接し一本の長大な鎖へと作り変え、それをカイボーイの輪縄のようにして全力回転させて勢いを付け始めた。冬の夜の澄んだ空気を掻き分けて凶暴な唸り声を上げるそれを携え猛然と突き進む彼女には一点の迷いも曇りも無く、その目には倒すべき敵だけが映されている。

 「兄上っ、覚悟ぉおおおおおっ!!!」

 鞭の先端は最高速度で音速に達する事がある。今まさにチンクの振り降ろした鎖の先端は機人の筋力と相まってとっくに音速の領域に達しており、彼女はその鋼鉄の鞭をトレーゼの顔面に叩きつけた。

 「ぐっ……!」

 「やはりな。痛みは通らずとも、与えられた衝撃までは殺しきれない!」

 体が僅かに傾いたのを見逃さずチンクが鎖をトレーゼに巻き付け始める。ただ巻くのではなく体と鎖の間に鉄棒を仕込む事で関節をも動かせないように念入りに封じ、最後に残った端の鎖を固く握りしめて背中に回り……

 「No.5!!」

 「防御に自信がお有りなら……貴方には私の盾になって頂きます! 撃てぇ、ウェンディ! ディエチ!!」

 留められないもう一方の先端を掴んでトレーゼの封殺と言う大任を自ら負ったチンク……その捨て身覚悟の声に突き動かされ、ディエチとウェンディの二人は躊躇う事無く目標の顔面に狙いを定めて引き金を引いた。背中合わせになっている背後から着弾の衝撃が確かに伝わる……時折軌道がそれたエネルギー弾が頬をかすって目の前の暗闇に溶け込んで行く様子を見ながら彼女はありったけの力を込めてトレーゼを拘束し続けた。

 正直言って、今でも彼女には分からない事があった。どうしてあの十二人の姉妹の中で一番他人に無関心を貫き通していたセッテがこんな輩に惹かれるのか……? スバルとノーヴェには良い人と言う役を演じていたのでまだ分かるにしても、唯一本質を曝け出していた相手であるはずのセッテがあそこまで妄信すると言うのはどうにも納得が行かない。稼働時間も短ければ戦闘経験も少なく、人を惹き付けるようなカリスマ性があるようにも見えない……目的の為なら手段を選ばず、本当に単に強いだけでしかないこの兄の一体どこを気に入っているのかチンクのみならず他の姉妹も理解に苦しんでいた。考えられる懸念としては命令に従う様に洗脳されたと言う事もあるが、ずっと更正施設で過ごしていた彼女を完全に支配下に置くのは困難を極めるはずだ。だとすればやはり自主的に……?

 「デ……ディープダイバー……!」

 「させないっ!」

 「ぬ! 貴様、自爆する気か?」

 「元よりその覚悟だ!」

 「そうか……ならば、こうするしか、無いな」

 「な、何を!?」

 背後で何かの魔法を使用しているのか、紅い光が自分の足元を妖しく照らし出した事にチンクは得も言われぬ危機感を覚えた。だが今は彼を拘束している最中なので確認は出来ない。ただ一つ分かるのは、管理世界広し言えどもこの至近距離でしかも背後に居る相手を自身への巻き添え無しに攻撃できると言う都合の良い魔法は無いと言う事だけだ。

 そう、本来の使用用途が攻撃であればの場合だが……。

 刹那──、

 「ぅ、ぐっ!? な、何だこれは……体の、内側に……!」

 突如チンクが感じたのは体内の違和感……丁度自分の下腹部辺りに重い物が圧し掛かったような、吐き気にも似た鈍く強烈な違和感が広がるのを彼女は感じていた。臓器が押さえ付けられ、何か冷たいモノに鷲掴みにされるそんな感触が腹部に……。

 鷲掴み……?

 まさか! いや、そんなはずは……!?

 下腹部に抱えた冷たい感触を感じながらチンクは嫌な脂汗が滲み出て来るのを抑え切れなかった。自分の予測が何かの間違いであって欲しい……ある意味では必死にそう願いながら背後の兄に注意を向けた時──、

 「【旅の鏡】……上手く、繋がったようだな」

 その予測は確信へと変わった。

 「まさかっ、これは……!?」

 「そうだ、俺の手だよ。今丁度、貴様の小腸を握っている。いくら貴様でも、体内から、破壊されるのは、経験した事は無いだろう?」

 そう言ってのけた次の瞬間、まさに今まで経験した事の無い強烈な痛みがチンクの腹部全体に襲いかかった。戦闘機人の物理的弱点は二つ……成長に伴い大きくなる頭蓋骨と、決して増強する事の出来ない内臓だ。常に物理的ダメージを受け易い体表とは違い、戦闘機人は内臓へのダメージを殆ど想定していない為に自然回復力も体表や筋肉と比較して劣っているからである。故にこの様に直接内臓を潰されるような攻撃をまともに喰らえば即死はせずとも行動力は大幅に削がれてしまう事になる。

 内臓をズタズタにされる前に離脱しなければ! 苦し紛れに左手を挙げたチンクは指先に疑似魔法陣を展開させて……

 「ランブルデトネイター!」

 自爆。起爆剤はトレーゼの捕縛に使用していた鎖と鉄棒であり、せめて離脱するなら彼に幾ばくかの損傷を与えるつもりでの至近距離爆破だった。当たり前の様にチンク自身にも爆発の衝撃が背中から襲い掛かり、彼女の小さな体は敵の魔手から逃れる代償として多大なダメージを被る事となってしまった。

 「うあ!!」

 「チンク姉様! 無事ですか?」

 「すまないディード。予定外の事態が発生してしまってな……不甲斐ないが、離脱した」

 「一体何が?」

 「詳しく説明している暇は無い。今は兄上を止める事だけに専念し────!」



 「遅い……」



 爆煙の中からいつの間に飛び出したのかトレーゼの手がチンクの顔面を捕えた。

 「はや……っ!?」

 そこから先を言う間も無くチンクの顔面は真っ直ぐアスファルトに叩きつけられた。離れた位置に居たディエチとウェンディらはもちろんの事、すぐ傍に居たはずのディードでさえ一瞬何が起こったのかを把握するのに時間が掛ってしまった。それ程にトレーゼの襲撃速度が速かったのか?

 (違う! 速いなんてものではない。トーレ姉様のライドインパルスでさえ辛うじて目で追える範疇……。だけど今のは残像さえ見えなかった!? 物理的な限界速度を遥かに……)

 「おい、余所見している、余裕があるのか、No.12?」

 「っ! セイン姉様、チンク姉様を回収してください。オットー!」

 「分かってるよディード」

 再びオットーとディードの双子が前に進み出る。トレーゼの正面をディード、背面をオットーがそれぞれ押え込んで対象が互いの制空圏が重なり合った場所に来るような配置に着いた。二人揃って今は再起不能となった騎士シャッハから直伝の武道を身に付けている存在……聖王教会襲撃の際には人質を取られるなどして不覚を取ったが、今はそれは気にしなくて良いので心置きなく戦える。

 「シャッハ・ヌエラの、仇討ちのつもりか? 青いな。生憎と、尻の青いガキと、遊んでいる余裕は無い」

 「口を慎んでください。私もなるべくなら貴方を痛めつけたくはありません」

 「貴方には騎士シャッハの前で懺悔するだけの余力を残しておいて欲しいですからね」

 「ほう……随分と、偉くなったな。製造番号が、近いだけで、この俺と同列に並んだ、つもりか?」

 強さの質も、出力の量もトレーゼの方が遥かに上だ。初期状態で既に選りすぐりの魔導師の一個中隊には匹敵するとスカリエッティは言っていたが、これではもはや中隊どころか一個師団とも互角に渡り合えるだろう。事実、二千以上もの大部隊は彼の持つたった一つの能力の前に呆気無く無力化されてしまっている……。始めからたった七人の戦力で立ち向かった事がもう無謀だと言われても仕方の無い状況ではある。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 三者三様、冷たく重苦しい沈黙を漂わせながら一寸たりとも動かず動かさず、互いの集中が途切れる瞬間を静かに見計らっていた。それは周りを包囲している他の四名も同じ事で、ディエチの抱えるイノーメスカノンの砲口は数ミリの誤差も無くトレーゼの頭部に照準を合わせていた。

 やがてそれが何分続いたか……遂にトレーゼがゆっくりと体を揺らして行動を開始する素振りを見せた。それに伴ってオットーとディードにも緊張が走り、僅かに視線が下を向いた瞬間を突いて仕掛けようと踏み込み──、



 「飽きた。一旦、終了だ」



 出鼻を挫かれた。

 言葉の意味を理解するだけの時間も与えずにトレーゼはまたフラフラと離脱して、今度は全壊した家屋の屋根に座り込んだ。高みから妹達を睥睨しているがその視線は言葉の通り本当に退屈したと言うか、変わらない現状に飽いた無気力な感じが漂っていた。もう戦意なんてものはどこにも無い。

 「おい! どう言う事だよ、ふざけてんのか!」

 「勘違いするな。貴様らが、あまりにも、弱過ぎるからな……正直言って、つまらない」

 「つまらなっ……!?」

 「だから……猶予をやる。10分やるから、その間に、態勢を立て直して、見せろ。それとも…………いちいち、口で言わないと、理解出来んか? 一度、見逃してやると、言っているんだよ」

 あくまで余裕……表面上は飽きたように見せ掛けてはいるが自分が実力的優位に立ち続けている事は忘れずに誇示していた。だが戦意が無くなった事自体は嘘ではないようで、さっきまで肌を舐め回すように漂わせていたはずの殺気が今は感じられなかった。交戦早々から二名が大打撃を被っているナンバーズ側からすればこの停戦勧告は喉から手が出る程に欲しいモノだ……欲しいのだが──、

 「ひょっとして、タダで行かせるって訳じゃないよね?」

 「当然だ、通行料を、払ってもらう」

 「何をすれば良いのですか?」

 「セッテを、返せ。あれは、俺の妹だ。貴様らにやるには、惜し過ぎる」

 「…………分かったよ」

 所詮自分達は勝つつもりで戦っている……殺す気で向かって来る者を止める事は出来ないと悟り、セインは大人しく言う通りにして壁に埋め込んでいたセッテを解放した。これで与えられた時間は十分、つまりは600秒……秒針が時計を十周するまでに傷を回復し、尚且つ態勢を立て直さなくてはいけない。最後のチャンスを有効的に使う為、傷付いたギンガとチンクを回収した彼女らは……

 「後悔するからね。私らにこんな事してると」

 苦々しい思いを胸に秘めたまま一旦後退を開始した。










 午後22時02分、半壊した公園の滑り台にて──。



 「これで、十分は、持ち越せるか……なかなか、ギリギリの、戦いだな」

 敵方に猶予を与えてから既に二分が経過する頃、トレーゼとセッテの二人も公園の遊具の上に陣取りながら小休止を取っていた。ずっと身柄を拘束されていたのが功を奏したのかセッテの方は目立った損傷は無く体力も温存されており、防御障壁を解除しなかったトレーゼはチンクの自爆の影響も全く受けていなかった。トレーゼは滑り台の上に座って空を眺め、セッテは唯一健在だったブランコに乗って静かに漕ぎながら時間が来るのを沈黙を保ちながら待ち続けた。

 ふと、自分の乗っている遊具が気になったのかセッテがトレーゼを見上げながら聞いて来た。

 「兄さん、私の乗っているこれは一体何と言うのですか?」

 「『ブランコ』、と言ってな、その板の上に乗って、振り子運動を、楽しむ遊具らしい」

 「そうですか…………」

 そこから先は再び無言……互いに口を開く事も無く終始沈黙を決め込むつもりなのか、寒風吹き荒ぶ街角で二人は言葉を交わそうともしなくなった。

 だがその沈黙も長くは続かず、それを破ったのは意外にもトレーゼの方であった。

 「セッテ、お前に、言っておく事がある」

 「何です?」

 「俺は、17年間も封印されて、いた所為で、自分自身の変化について、未だ無知な部分が、多くある。その最たる、ものが……昨日の一件だ」

 セッテの脳裏を過ったのは昨日の暴走し掛けた兄の姿……。実際に目にした事など無いのだが、人の姿を見て“悪魔”と言うワードが思い浮かんだのは後にも先にもあの時ただ一回だけだろう。それほどまでにあの時の彼の姿は尋常ではなかったと言う事だ。

 「コンシデレーション・コンソール……。対象を、一定レベル以上の、敵性と認識する事で、自動発動する、暗示プログラムだが……本来は、あの様な、過度な状態には、決してならない。ある程度、自分を制御するだけの、理性は残されるはずだ」

 「ワタシは一度も発動しませんでしたし、局に保護されてからは強制的に暗示を解除するプログラムで上書きされましたから。ですがルーテシアお嬢様が強制的に発動させられたのは知っていますので、大体どの様な効果をもたらすのかは熟知しているつもりです。ですから、熟知した上で言わせて頂くと“あれ”はどう考えても異常としか……」

 「我ながら、あれは異常だと、思わざるを得ない。恐らくは、ドクターではなく、あの老いぼれが、何か余計なモノを、脳髄に刻んで行ったんだろう」

 「それでワタシに言いたい事とは?」

 「急かすな。気になって、これまでの戦闘で、システムが、発動する時の条件を、調べて見たが……どうやら、『戦闘行為』として、脳が認識した行動が、一定時間以上持続すると、強制的且つ自動的に、発動する仕組みに、なっているらしい」

 「つまり、俗に言う『頭に血が昇った状態』と言うのが続くとそうなるのですね」

 「概ね、そんなものだ。限界許容時間は、30分から、60分程度……。そして、もう一つだけ、厄介なのが……システムの判断する、敵性対象には、何の線引きも成されていない、と言う事だ。感覚領域内に、捉えた全ての生物を、絶滅させるまで、止まりはしない」

 「無差別殲滅……まるで爆弾。それで……仮に兄さんがその状態に陥った場合ワタシはどうすればよろしいのですか? 命令とあらば貴方に代わって作戦を遂行しますし、場合によっては全力で止めますが……」



 「逃げろ」



 「…………どこへ?」

 「どこでも良い。地上、地下、水中、上空……ありと、あらゆる、手段を使ってでも、俺の近くから、遠ざかれ」

 「……………………了解しました。精々そうならないように祈ります」

 「祈るな。祈りとは、神に対して、行うモノだ。そして、神なんて、不確かなモノは、この世のどこにも居ない」

 ベコベコに凹んだ斜面を滑り降りるとトレーゼはブランコに腰掛けているセッテの後ろに近付き、その背をそっと押した。キィコキィコと錆びた金属同士の擦れ合う音が静まり返った闇夜の街に吸い込まれて消えて行く……。そんな物寂しい空間の中でたった二人の侵略者は一時の安息を味わうようにしばらく何も言わずに昔懐かしい遊具に身を委ねていた。

 「……お前は、クアットロみたいな、馬鹿な考えは、絶対に起こすなよ。俺とお前、そしてウーノとトーレ……たった四人だけの、ナンバーズだ。誰も欠ける事無く、この計画を、完遂させるぞ」

 「はい……委細承知」

 「小さかったのにな……あの頃は」

 「え?」

 少し驚いて振り返って兄を見ようとしたセッテだったが、揺れるブランコの所為でなびく自分の長髪に邪魔されてどんな表情をしているかを見る事は出来なかった。ブランコから降りてもう一度見た時には既に彼の視線は遥か頭上に広がる満天の星空へと向けられており、セッテもつられてその方向を見た。何かを見つめているようなのだがセッテには何も見つける事が出来ない。

 「兄さん?」

 「時間か、そろそろ行くぞ。クアットロの残した、“置き土産”が、届く頃だ」

 「置き土産?」

 「ああ、そうだ」










 同時刻、ミッドチルダ北西方面の某所にて──。



 ≪フェイトちゃん、そっちはどう?≫

 ≪ダメかも。はやての方は?≫

 ≪あかん、お手上げや。司令本部との通信が完全に断絶されとる≫

 取引現場から先行してクラナガンに帰還中だったなのは、フェイト、はやての三人は飛行中に突然自分達のデバイスが機能停止すると言う異常事態に直面し、一旦街のビルの上に降り立って待機していた。この事態について地上本部で管制室にて指揮をしているはずのクロノに報告を入れようと通信を試みたのだがその通信機能すら停止してしまっており、後方の方に居るはずのヴァイス達とも完全に音信不通状態へと陥ってしまった。

 現在使える遠距離通信手段は念話のみ……。飛行に関しては彼女らの様な熟練の魔導師であればデバイスの補助無しにも充分行えるので問題は無いが、問題はこの先だった。

 ≪まさかクラナガンが墜ちたの?≫

 ≪それはいくら何でも早過ぎるやろ。あのクロノ君が指揮執ってるんやで≫

 ≪ひょっとして、デバイスがいきなり機能停止した事が関係してるのかな?≫

 ≪可能性は大いにあるやろな。これが事故かそうやないかはどうでもええけど、もしこれと同じ現象がクラナガンで起きとったら……≫

 ≪指揮系統はズタズタ……まともに戦えるのは…………あの子達だけだね≫

 ≪ナンバーズ……。同じ兄妹で戦わせるなんて……≫

 ≪本人らの意思を尊重してひとまず“鹵獲”って事にしとるらしいけど、半分くらいは腹に一物抱えとるかも知れんなぁ……。よっと!≫

 しばらく様子を見ていたはやてが空に上がると同時に待機していた二人も飛び上がった。戦場になっている街まではまだ距離があるが、デバイスが動かないこの戦力を大幅に欠いた状況では慎重に動くに越した事は無い。とは言っても、仮にこのまま無事に現地まで行けたとしても“13番目”に対する策は無いに等しい……一度三人掛りで挑んだ事があるから言えるのだが、もはやトレーゼには既知の戦術では何一つ有効的な打撃を与える事は不可能だと言う諦めの心が芽生えてしまっていた。二千名以上にも上る武装隊員を投入してもこの状態では何の意味も無い……防戦に持ち込まれてしまった時点でこちらの敗北は決定的になってしまったようなものだ。

 そんな死に体も良い所の戦場へ自分達は向かっている……たった三人と言う絶望的な頭数で……。

 ふと、その時──、

 ≪ねぇ二人とも……あれって何だろ?≫

 フェイトが上空を見上げた。彼女の視線の先にはサーチライトの光を失って完全に闇に落ちた地上本部の摩天楼が夜空に溶け込むようにうっすらと見えており、その上空には……

 ≪何や……あれ? 航空機? やけに低いとこ飛ぶな≫

 ≪でもこの時間帯に本部の上空を通過する予定の機体は無いはずだけど……≫

 星空を虫喰い穴が通るように小さな航空機のシルエットが管理局の上空を静かに通過しようとしていた。大きさは恐らく管理局が所有する輸送ヘリより一回り大きいぐらいで、速度はだいたい同じ位に見えた。それがゆっくりと地上本部の真上を通り過ぎて行き、丁度展望塔の上に差し掛かったであろう時──、



 一筋の閃光の後に爆散した。










 午後22時07分、地上本部第一演習場にて──。



 突然上空で花開いた爆炎と数秒遅れてやって来た轟音は演習場で待機していた武装隊員達に動揺を走らせ、数合わせの為に配備されていた新兵を浮足立たせた。爆発した物体のサイズが小さかったのと高度が高かった事もあってか降り注ぐ破片は放射線を描きながらバラバラに落下し、大きな物は既に避難が完了している地点に落ちたので被害はゼロだった。

 「ヴィータ隊長、報告があります!」

 「おう!」 

 「第三演習場の待機隊が破片の除去作業を開始しました。整備班は引き続きⅡ型ガジェット・カスタムの配備に尽力しているようですが、自動操作のシステム自体がデバイスと同じ状態ですので今しばらく時間を要するかと」

 「あんな鉄クズの塊で一体何が出来るってんだ。人っ子一人殺せやしねえよ」

 「報告っ! 整備中のガジェットが一機紛失したと……」

 「そんな事は後回しで良い! 今は態勢の立て直しが先決だろがよ!!」

 「で、ですが、デバイスもろくに動かせないこの状況では……!」

 だらしない……その思いを口にする事無くヴィータは歯ぎしりした。自分が騎士として自我を持った時は違っていた、古代ベルカの大地は武器はおろか素手で戦う者も居た……己が肉体と魔力のみで戦乱の世を伸し上がる猛者も少なくは無かった。単純に今ほどデバイスの技術が発達していなかったと言うのもあるだろう。慣れない武器を手にするよりかは自分の身一つで戦う事を選ぶ者が居たと言う事だ。

 だが今はどうだ? デバイスの補助無しには飛行すら満足にこなせない有様だ。優れた機器を手にすると生物本来の能力が堕落するとは良く言ったものだ、単騎で足止めに向かったザフィーラを見習って欲しいとさえ思っていた。

 (私とシグナムも今は一部隊の隊長……下手に動けば士気に関わっちまう。情けねぇけど、今はこいつらヒヨッ子どものお守しか出来ないんだよな……)

 「た、隊長っ!!」

 「うるせぇ! 今度は何だ?」

 「第二演習場のシグナム隊長から取次ぎを命じられました! 部隊全体が何者かによる襲撃を受けていると……!」

 「シグナムがっ!?」

 おかしい! 確認されていた敵の数は二名だけだったはず……。

 そう思いながらもヴィータは問題の演習場で交戦中と言うシグナムに念話を送った。この距離であれば充分通信可能圏内だ……出てくれる事を祈りながらしばらく呼び掛けを続ける。

 ≪シグナム……おい、シグナム! どうなってんだよそっちは!?≫

 ≪ヴィータか! 既に聞いているかも知れないが、今交戦中だ! 正体不明の……アンノーンがっ、ぐぁ!!≫

 ≪おい余所見すんなっての!≫

 ≪アギト? まさかユニゾンしてんのか!? 敵はどんだけ強いんだよ≫

 ≪分からねえよ!≫

 ≪分からないってお前な……≫

 ≪うるさい! 分かんねえもんは分かんないんだよっ! “あれ”は何なんだよ!!≫

 要領を得ていない……今の念話では一体何者の襲撃に合っているのか、人数はどれだけなのか、おおよその戦闘力がどのくらいなのかさえも全く分からない。ただ一つ分かるのは、現場が非常に混乱していると言う事と、あのシグナムがアギトとユニゾンインしなければならないような事態に陥っていると言う事だ。全ての電子機器が不調を来たしているこの状況ではどこに乱入者が居るかを確認する事は容易ではない……ここは待機中の全部隊に一刻も早く事態を報告し、これ以上の混乱と動揺を与えないようにする事が最優先だ。

 「おい連絡要員! 今すぐ他の待機部隊に事態を通達して来い!」

 「了解しました。では部隊から五名ほど連れて行きます」

 「頼んだぞ」

 「はっ!」

 人選は適当に選んだ訳ではない……今居る自分の部隊の中でデバイスの補助無しでも充分戦えるであろう者を選出した。貴重な戦力を五人も一時手放す事にはなるが、多少の敵ならば道中で敵襲にあっても何とか切り抜けられるだろう……確実性を求めるならばこうするのが一番妥当な判断だと言える。

 選出された五人の連絡員は陸士部隊の所有する車両に乗り込むとエンジンを掛けてゆっくりと遊歩道に進み出た。他の演習場まではそれなりに距離があるので飛行スキルを持たない彼らが急ぐにはこの手段しか無い。

 無事に歩道の角を曲がって行く車両を見送り、ヴィータが再び念話を再開しようとした。

 だがしかし──、



 バンッ──!!



 始めはその爆音がどこから響いて来たのか全く分からなかったが、すぐにヴィータは音の発信源が発車した車両からのものだと分かった。ここで不思議なのは、鼓膜を突き破るような大きな音がしたにも関わらず車は爆発どころか煙さえ上げておらず、通常爆弾が破裂する際に臭うはずの火薬独特の臭気などが全く感じられなかった。

 とにかく何かしらの異常事態が起こった事は確かなのですぐさまヴィータと数名の隊員が急停車した車両へと駆け寄った。

 「おい! 大丈夫か? 何があった?」

 「分かりません。急に車体が揺れて……」

 乗り込んでいた隊員達は全員が無事だった。急停止した際の衝撃で体の一部を打ってしまった者も居たが行動に支障は無いようだ。取り合えず一旦外に出て車両を確認して見て分かったのだが四輪駆動のタイヤが全て破裂していた。聞こえた破裂音が一つだけだったのを考えるとこれらのタイヤは四つ同時に割れた事になるが……舗装されていない山道でも難無く走る車のタイヤが突起物も何も無い地面で四輪同時に破裂するなど考え難い事だ。明らかに人為的な事故としか考えられない。

 だとすれば、あの僅か一瞬の時にタイヤを同時に割って行った輩が居るはず……。

 (シグナムの言ってた正体不明の連中がもうやって来やがったって事か。まずいな……さっきの音で野郎共にいらねえ動揺が走っちまった)

 「隊長……」

 「うろたえんな! すぐに部隊を再編しろ! みみっちいネズミが入り込みやが────」



 その先は言葉ではなく血反吐と言う形となって口から飛び出した。



 「なっ、ぐぼぅ……ごはっ!!?」

 何が起きたのか周囲の隊員達は理解出来ず、当の本人であるヴィータにさえ一瞬反応が遅れた。だが痛みに支配された感覚の中で確かに捉えたモノがあった……鼻を突く独特のこの臭気は間違い無く火薬や硝煙の臭いだ。となれば、自分の背中に広がるこの痛みは銃撃を受けたと言う事になる。

 「隊長!?」

 「医療班、回収を急げ!! 第一班は侵入者の捜索を!」

 「隊長! しっかりしてください! ヴィータ隊長!!」

 いつの間にか膝を地についてしまったヴィータは必死になって痛みに耐えながら状況を冷静に分析していた。銃声が全く聞こえなかったと言う事は相手はサイレンサー持ちと考えて良いだろう。加えて歴戦の彼女が僅かに隙を見せた所を狙って来た辺りはプロの腕前としか言い様が無い……恐らくは車両のタイヤを全て割ったのはそいつの仲間だろう。だが車両のタイヤは四輪とも銃痕は無く、鋭い刃物のような物体で切り刻まれた様な痕跡があるだけ……。と言う事はつまり──、

 「敵は……複数居やがる!」

 敵は三名から五名、それぞれ歴戦の戦士であるヴィータに存在を悟られる事無く行動している辺り間違い無く手錬だ。シグナムの居る部隊を襲撃したのと同じ輩だろう。交戦する前にせめて敵の特徴だけでも聞いておかねばと再びヴィータは戦友に念話を試みた。

 ≪シグナム、おいシグナム! 聞こえてんなら返事してくれ≫

 ≪ヴィータか……。そちらはまだ無事な様だな……≫

 ≪そっちは……って、まさかお前!?≫

 ≪済まない…………陥落した≫

 敵の手に墜ちた……あのシグナムが率いる部隊が接触から僅か五分足らずで!?

 思わず周囲を確認するが、隠密に長けているのか夜の闇の中には何の気配も感じない。最悪の場合、味方に紛れこんでいる可能性もある。

 ≪今は全員拘束されているが一応無事だ、死者も居ない≫

 ≪拘束って事は敵はまだそこに居るんだな?≫

 ≪ああ。今も私の目の前に居る……。だがまさかこんな所でこんなモノに巡り会うとはな……≫

 ≪おいおい、そいつが何なのか知ってんのかよ! 知ってるなら教えてくれ! 今こっちはすっげぇピンチなんだから……………………っ!?≫

 不意に背中から感じた冷たい視線にヴィータは念話の途中なのも忘れて思わず振り返った。突き刺さるような、と言うベタな表現がこれほどまでに似合う気配はこれまでの数百年に渡る戦いの中で経験した事は無かった……。戦場に意図有って足を運ぶ者は殺しを楽しむ戦闘狂か戦いを求める戦士と相場が決まっており、そのどちらも獲物に対して向ける視線はほぼ例外無く嫌な熱を含んだギラギラとしものだった。誰も彼もが一様に相手を仕留めようとして自然とそんな感触へと変化を果たして行くからだ。

 だが“これ”は違っていた。殺気や敵意、悪意と言った様な負の感情は全く無く、ただ本当に『見ている』だけだった……。闇の中に紛れこみながら光る真紅の眼が二つ……四つ……六つ……八つ…………全部で四人分の眼球が妖しい光を伴いながらこちらを見ていた。だがはっきりと分かる……振り向いたその先に居たその四人が紛う事無い“敵”だと言う事を!

 「な、何だお前達? 一体どこから……!」

 「お前ら……やめろ……!! 迂闊に近付くんじゃねえ!」

 “それ”と自分達の実力差を見抜いていたヴィータは拘束しようとして接近する隊員達を必死に止めようとした。だがそれまで不測の事態に見舞われ続けて完全に浮足立っていた彼らはやっと発見した敵の姿を認めると制止の言葉も無視して突撃を仕掛け──、

 一瞬で地に伏した。

 八人近く居た隊員が何も出来ず一方的……それも本来ならば攻撃困難なはずの足の筋肉を一太刀で斬り捨てられて歩行手段を潰すと言う合理的な方法で処理された。叫び声を上げる間も無く一刀の下に切られた隊員達が地面でのたうつのを“それ”は静かに見つめ、次に仕留め損ねているヴィータの方に視線を移した。

 その時になって初めてヴィータは敵の全容を目にした……。髪型や顔立ちはどれも微妙に違っていたが四人が四人とも双生児のように酷似した容姿で、防護服越しから分かる胸元の微妙な膨らみから性別は女性、意外にも身長は自分と同じくらいの小柄な背丈だった。こうして特徴を上げるとまるで極普通の人間の身体的特徴を列挙しているだけにも思えるだろうが……一つ、そうたった一つだけだが明らかに普通の人類には見受けられない特徴があった。

 「その腕……自前かよ」

 それは両腕──。

 そしてその両腕にある特異な形状──。

 その事実にある一つの予測を立てたヴィータは念話を繋いでシグナムに敵の正体について訊ねた。

 ≪なぁシグナム……正体不明の敵ってのはよぉ……≫

 ≪ああ、そうだ。僅か数ヶ月前にこのミッドに現れ、そして消えていったはずの人型兵器────≫



 ≪マリアージュだ≫



 “それ”の両腕は鋭利な刃物の形状をしていた。










 数分前、クラナガン中央広場にて──。



 突如地上本部の上空で起こった爆発は小休止の途中であったナンバーズの面々の耳にも轟音となって届いていた。夜空に上がった炎の華を見てトレーゼによる攻撃かと思ったが始めの砲撃の時とは違って今度は魔力の類は一切感知出来なかったので単なる事故なのだろうと思い、彼女らは自分達の方に専念する事とした。

 「ギン姉大丈夫ッスか?」

 「ええ、なんとかね。暇を見つけてスバルに教えてもらってた治癒術式がここで役に立つなんて思ってなかったけど、意外とサマになってるでしょ? チンクも大丈夫かしら?」

 「ご心配無く。まだ少し違和感はありますが、内臓に直接ダメージを負った訳ではないので……」

 「それは良かったわ。でも……どうしてあのトレーゼがいきなり休戦を持ち掛けて来たのかしら?」

 「それは分かりませんけど……そのお陰で態勢を立て直すだけの猶予をもらえたのは事実です。その間に出来るだけ体力の回復を図るべきではないかと」

 「フン! 敵からお情けでもらった時間なんて……!」

 「バカにされているとしか思えないでしょうけど、時間をもらったと言うのは事実よ。たった10分しかないけどその10分を有効的に使えるかどうかがここから先の戦いを────」



 「残念だが、何も変わらんよ」



 一瞬で全員の意識が聞き覚えのある声のした方向へと向けられた。既に噴射が停止した噴水の前に設置されているベンチ……その席にいつの間に来ていたのかトレーゼとセッテの兄妹が腰を掛けてこちらを眺めていた。二人とも互いに武装解除したままこちらを凝視しており、その視線は戦いの時とは違ってまるで小さな虫を観察しているような感じだった。

 「どう言う事? まだ約束の時間じゃないはずよ」

 「ああ、だから、何も仕掛けない。俺がここへ来たのは、交渉する為だ」

 「交渉……?」

 「用があるのは、No.5、貴様だ」

 指名を受けた事を意外に思いながらもチンクは勇敢に前に進み出てベンチに座るトレーゼと真正面から向き合った。万が一の事態を予見してコートの袖の中にはいつでも投擲出来るようにナイフを仕込んでおいてあった。流石にこれで仕留める事は出来ないだろうが、防御した際に僅かな隙が生まれればそれだけで逃走するには充分だろう。

 「……私に何の用だ兄上」

 「うむ、実はな……先程の交戦で、貴様の体内に、腕を突っ込んだのを、覚えているな?」

 「ああ、物凄く痛かったぞ」

 「それを、踏まえてだがな、貴様に、見せるモノがある。セッテ……」

 「はい」

 命じられたセッテがその右手の中から何かを取り出した。月の光を受けてキラキラと輝くその小さな物体は……

 「鎖……?」

 「そうだ、あの時、貴様が俺に、巻き付けて行った、あのチェーンだ。貴様が、爆破する時に、少しだけ、もらっておいた」

 トレーゼを縛り上げる為に使用したあの錆び掛けの鎖が数個、その手の中で輝いていた。爆発の衝撃か或いは強引に引き千切ったのか、手の平のそれらは全て繋がっておらずバラバラとなった状態で転がっていた。

 「それがどうかしたのか?」

 「うむ、ここへ来る途中でな、貴様らの、体内に一個ずつ、これを仕込ませてもらった」

 「なにぃ!? いつの間に……」

 慌てて腹部に手を当てて見るが当然外からでは何も分からず、もし事実だとしても取り除く術は彼女らには無い。セインの【ディープダイバー】があれば物体を透過して干渉する事が出来るかも知れないが、彼女の能力が有効なのは無機物に対してのみであり有機物である人体の表面に阻まれて内部に届く事は無い。

 「そんな事をして何の意味がある!」

 「俺は、貴様らの持つ、ISを全て使える…………こう言えば、意味は分かるな? 当然、その中には、No.5、貴様のISも、含まれている」

 「私達全員の体内に……爆弾を置いて行ったのか!?」

 「いや、貴様だけは、何も仕込んでいない」

 「な、何故だ!? 何故私だけ何も……!」

 「言ったはずだ、『交渉』だとな。俺は、交渉する相手を、脅して有利な、方向へ持って行くとか、下衆な考えは無い……故に、交渉役である、貴様だけは、除外しておいた」

 一見対等にも見えるようなこの交渉の場だが、実際は『交渉する相手のみ』を脅していないだけであって『交渉する側に居る者』を脅していない訳ではない……つまり、これから行うであろう『交渉』における返答次第ではチンク以外の全員の命が消し飛ぶ事も有り得ると言う事だ。

 「始めからまともに話をする気は無いと……」

 「頭の回転が、早いな。それなら、話も早い……。武装を解除し、撤退しろ、クズ共。惨めに、そして、無様にな」

 「そうすれば……妹達を見逃してくれるのだな?」

 「ああ、約束しよう」

 そう言ってトレーゼは虚空に六つの【旅の鏡】を出現させた。繋がっている先はチンクを除くナンバーズ全員の体内……ここでチンクが大人しく撤退の意思を表明すればそれで良し、従わない場合にはそれぞれの体内に残された鎖が【ランブルデトネイター】の効果によって破裂するだろう。そうなれば戦闘機人の生命力を以てしても瀕死の重傷を負う事は免れない……それこそトレーゼが言う様に、激痛で地面をのたうち回りながら血を吐き出し続ける無様な醜態をさらす事にもなる。

 (出来ない! 自ら望んで来たとは言え、これ以上姉妹を危険に晒し続ける事など私には到底出来ない!!)

 悪に屈する屈辱と妹達の命を乗せて揺れ動いていた心の天秤が、今ゆっくりと後者の方へと傾いた。袖に仕込んでいたナイフを全て地面に落として戦意喪失をアピールしつつ両手を頭の後ろに回して完全降参姿勢を取るに至った。

 「チンク!?」

 「チンク姉! 何してるッスか!」

 少し距離を開けていてトレーゼの言葉が聞こえなかったギンガ達には事の重大さが理解出来ていない。皆が口々に抗議の声を上げて手に持っていた武器を振り上げながらトレーゼとセッテに飛び掛かろうとする気迫さえ見せていた。だが動けない理由を知っているチンクにとってここはまさに正念場……猛然と振り向くと彼女は泣く泣くウェンディのボードとディエチのカノンを取り上げて地面に投げ捨てた。

 「黙って言う通りにしろ! 姉の……姉の言う事が聞けないのかっ!!」

 「チンク……」

 「お願いだ……武装を解いてくれ……!」

 「…………分かったわ。オットー、ディード、貴方達もそれを捨てなさい」

 「りょ、了解」

 リーダー格である二人に気圧されて他の五人は言う通りにして次々と得物を地面に落とし、その後チンクと同じように両手を頭の後ろに回した。これで要求の第一段階である武装解除は完了した……後はそのまま丸腰で本営に戻って撤退を完了するだけだが──、

 「さあ、これで武装は解いたぞ。腹の中の物を取り除いてくれ。そう言う約束のはずだ」

 「ああ……そうだったな。その前に、一つだけ、言っておく事が、ある」

 「何だ?」

 「確か俺は、お前以外の、連中全てに、これを仕掛けた、と言ったな?」

 「そうがどうした?」



 「あれは、嘘だ」



 パチンッと言う乾いた指鳴らしの音が響いた瞬間、セッテが空中に放り投げた鎖が爆竹の如く火花を上げて爆散し……

 チンクの腹が破れた。

 内部で発生した小さな爆燃は彼女の消化器官と一部の内臓を徹底的に焼き尽くして蹂躙した後、熱されて膨張した空気が腹部の皮膚を突き破り消化液の入り混じった血液と共に飛び出した。痛みよりもまず先に衝撃を感じたチンクの体は大きく『く』の字に折れ曲がるとバランスを崩し、断末魔の叫びも無く地面に倒れ込んだ。彼女の後ろで事の成り行きを静観していたギンガ達は一瞬何が起こったのか理解するのに時間が掛ったが、すぐに鼻腔を突いて来た生臭い鉄分の臭気が彼女らの事態の重大さを気付かせた。

 「チンク!!?」

 「チンク姉! チンク姉っ、しっかりするッス!! チンク姉!!」

 戦闘機人は内臓を潰された程度では即死しない……それはつまり、傷が修復するか絶命するまでの間はその痛みがずっと続くと言う事でもある。強固なる装備によって守られている数少ない弱点をピンポイントで破壊されたその激痛は凄まじく、常人を超越した感覚を持つ戦闘機人の痛覚ですらまともに反応できない程の痛みを虫の息のチンクの脳髄へと送り込んでいた。

 「ぐぉ……ごほっ、ブホ!! か、かか……うぼっ!! な、何が……起き……!?」

 「喋らないでくださいチンク姉様。傷が広がります」

 「ギン姉! 何とか出来ないんスか!? このままだとチンク姉が……!」

 「ダメよ、内臓の治癒なんて私にはとても……。シャマル先生ぐらいの技量が無いと……」

 ギンガに治癒出来るのは精々体表の傷ぐらいでしかない……神経や組織、目に見えない魔力回路などが複雑に絡み合っている内臓系は医療免許を持っているプロでも機材無しには難しいのだ。ましてやこの状況、下手に運ぼうとすればそれだけで内部の損傷を拡大しかねない危険な状態でもある。

 「ど、どう言う……こと、だ? 私には……ゴホッ…………私には、仕掛けていないのでは……なかったのか?」

 「だから、嘘だと言ったろう。本当は、お前『しか』、仕掛けていないんだよ。先程の戦闘で、貴様の腹に、腕を突っ込んだ時に、やらせてもらった。そうとは、知らずに、一人で必死に、なっていた貴様の姿は、正直言って、お笑いだったな」

 「あの時に…………そうか、だから……違和感があった、のか……」

 「許せない……堪忍袋の緒が切れたぁっ!! 殺すゥ! ぶっ殺してやる!!!」

 怒号を上げながらウェンディがボードに乗り込み、自身の能力【エリアルレイブ】の力を借りて空に舞い上がった。そしてそのまま突貫を試みた彼女は真っ直ぐトレーゼの顔面に向けて飛翔し、その鼻っ柱を狙って攻撃を仕掛けた。今のトレーゼは【ライドインパルス・ソリッド】を発動させていない……と言う事は、直撃させた攻撃がダイレクトに届くと言う事である。そして決め手は相対距離、既に間合いの中に入り込んでいたウェンディは相手に自分の攻撃を当てられる事を確信しており、その予想図を頭の中で思い描いてすらいた。幸いにも隣に居るセッテも反応し切れていない……行ける! 自分はとうとう“13番目”に一矢報いる事が出来る──、



 「【ライドインパルス・アクセラレート】、発動」



 人間が物体の動きを視認し、その視覚情報から脳や脊髄が肉体の運動神経に命令を出して筋肉を動かすまでに掛る反射時間はおよそ0.5秒……眼球が瞬きする一瞬の時間だけあれば人間は基本的に反射神経で行動が可能と言う事だ。

 そしてこの時にウェンディが経験したのは、間合いに入った瞬間に自分の体がボードから浮き上がってしまいそのまま地面に向かって落下し始めてしまった事だった。落下し始めの瞬間はまだ何も感じない、脳に視覚情報が届き切っていないからだ。視界が上向きになった辺りでようやく彼女の脳髄は自分の体が落下し始めている事に気付き、四肢の筋肉を操作して着地の体勢へと移行し始める。頭に血が昇っているとは言えここまでは想定の範囲内、まだ充分反撃の余地は残っている……そう思いながらウェンディは自分の左足から地面に降り立ち、続いて右足、最後に衝撃を緩和させる為に片手を着く頃には──、

 全身の腱が全て寸断されていた。

 「え…………?」

 全身の関節に刻まれた傷口から動脈血が噴き出し、呆然と突っ立ったままのウェンディの防護ジャケットを赤く染め上げる……やがて支えを失くした全身の骨格は自らの重さでダラリと垂れ下がり始め、そして倒れた。筋肉と骨格を繋ぐ腱を切られた事によって筋組織の伸縮運動によって派生する一切の行動は不可能となり、まさしく糸の切れた人形と呼ぶに相応しい醜態をトレーゼとセッテ、そして姉妹達に晒す羽目となってしまった。

 事の一部始終を見ていたはずのギンガでさえ何が起きたのか把握出来なかった。急にウェンディがバランスを崩してボードから落ちて着地する所までは見えていたが、トレーゼが一体どの瞬間に彼女に攻撃を行ったのかは全く見破れなかった。落下から着地までの所要時間は僅か一秒足らず、それこそ瞬きをしている間の出来事だったはずだ。幻術系の魔法を行使したのではないとすれば考えられる事はたった一つ……。

 「は、速い! フェイトさんのソニックムーブ……いいえ、そんなものじゃない! だって……だって、『見えなかった』もの!!」

 「それは、そうだ。極超音速の、領域にまで、達した物体が、そう易々と、捉えられるものか。見くびり過ぎだ……貴様ら全員、どうしようもない、クズばかりだな。もう、戦う気も失せた……」

 そう言うとトレーゼの足元にミッド式召喚魔法陣が出現してその光の中から何かが彼の手元に留まった。耳障りな羽根音と金属が擦れるような鳴き声を撒き散らすそれは肉食性の甲殻蟲だった。大きさは精々カブトムシ程度だが発達した強力なアゴをバチバチと噛みながら威嚇しているその頭部はまるでスズメバチをそのまま巨大化させたような凶暴な風貌をしていた。そしてそれらを一匹ずつ摘まみ上げるとそれを開きっ放しにしていた【旅の鏡】に近付ける。

 「お、おい……兄上……何を、する!?」

 先程の会話の事を思い出したチンクは今から彼が行おうとしている行為を予見して冷や汗を流した。さっきの会話の内容が本当である部分があるのなら、その先には……!

 「……食い散らせ!」

 「やめろぉおおおおおおおおっ!!」

 放たれた六匹の蟲がそれぞれの【旅の鏡】に進入すると同時に空間を繋いでいた門は閉じ、チンクの絶叫も闇の静寂に消え果た。そこから数秒は冷たい沈黙が流れしばらくは何も起こらなかったが……

 変化はすぐに現れた。

 「な、によ、これ!? ぐあぁ、ああああああっ!!」

 「痛い……っ! 体の中で何かがっ!?」

 「何を……入れやがったぁぁあ!!」

 チンクを除いた全員が腹部を押え込みながら悶絶し始める。彼女らの腹部は今までに経験した事の無い様な途轍もない激痛に苛まれており、その原因は言わずもがなトレーゼが投入した生物にあった。

 「その蟲は、少々厄介な、生物でな……本来は、生きた大型の竜の、肛門から侵入し、最も栄養価の高い部位、即ち肝臓を、徹底的に食い荒らす、寄生虫だ。竜種の中で、寿命を迎えずに、死滅する原因の、大半は、こいつらの所為だと、されている」

 であればその激痛は侵入した蟲が彼女らの内臓を食い荒らしている為の痛みだと言う事だ。

 「やがて、肝臓を完全に、食い潰した蟲は、更なる餌を求めて……」

 「ぐ、うわぁあああああああああっ!!!」

 「宿主の、腹を破って、別の個体へと、移り変わる。だが、本来は、十数匹で、一個体の竜種に、寄生する蟲だ。それまでには、まだ時間がある……精々、苦しむんだな。行くぞ、セッテ」

 「はい、兄さん」

 地面でのたうち回るギンガ達を尻目にしてトレーゼとセッテの二人はさっさと地上本部を目指そうとした。最初から最後まで本気では戦わなかった……手の上のアリを弄び、噛まれた時だけ指先で爪弾く様な感覚だ、遊んでいるだけでしかなかった。そしてその『遊び』に飽きれば早急に別の目的に切り替わる……まるで子供、しかしその子供相手に全く歯が立たなかった事が余計に彼女らの自尊心に傷を付けた。

 そしてその最たる者がディードだった。

 「待って……ください。私はまだ、戦え……ます!」

 体内で暴れる蟲の痛みを必死で押し殺しながら立ち上がった彼女は慣れ親しんだ双刀スタイルで勇猛にもトレーゼ達の前に立ち塞がった。相方のオットーは既に立ち上がれずに居るが、そんな事は関係無いと言わんばかりに彼女はブレードを振り上げる。敵方との相対距離は既に至近距離、互いに手を出せば必中の間合いに位置している……今度こそ仕留められると言う自信を感じたディードは瞬間高速移動のスキル、【ツインブレイズ】を発動させ──、



 五メートル離れた噴水に激突した。



 攻撃は受けていない……肉体へのダメージは噴水に激突した時の衝撃のみだった。高速移動状態に移行したディードの体は背中に回り込む途中でスキルが途切れ、慣性の法則に従ってスピードを殺し切れなかった彼女の肉体は激突したと言う事になる。

 「何で……ISが……!?」

 「俺のIS……【アブソリュート・ドミネイター】の、効果対象が、デバイスのAIだけだと、思っていたのか? だとしたら、それは大間違いだ。貴様らと俺の脳に、組み込まれている、動作継承ネットワークを、介する事で、脳内端末に直接干渉する……そうする事で、貴様らの、ISを制限する事など、容易い。貴様らは、たった今俺が、完全支配した」

 さてと、と言いながら遂にトレーゼは無様な敗北者達にに一瞥もくれる事無くして去ろうとした。いや……敗北者と言うのは間違いだ、彼女らは戦ってすらいなかったのだから……文字通り相手にされていなかった、相手にされていないのに負けてしまった哀れな不戦敗者でしかなかった。痛みに悶え、悔しさに涙し、怨嗟の眼差しを向ける彼女らの心など知る由も無い……それが戦う為だけに造られたトレーゼと言う存在である。

 冬の冷たい澄んだ空気に二人分の乾いた足音が少しずつ遠ざかり……遂には彼女らの前から姿を暗ませ、夜の闇に消え──、



 五分も経たずにセッテが戻って来た。










 午後22時13分、メインストリートから少し離れた路地裏にて──。



 一旦セッテと別行動を取る事にしたトレーゼは一度進行ルートであるメインストリートから離脱し、月明かりすら届かないビルの谷間へと足を踏み入れていた。冷たい空気が鼻腔をくすぐり血の昇っていた彼の脳髄を冷却するのに一役買ってくれた。程良い加減で流れる風が火照った体を冷まし、しばらくは風に揺られるままに黙って立っているだけだった。

 やがて彼はふらりと身を起こすと頭上の疑似魔法陣の光を頼りに暗がりを進み出し、数十歩歩いたであろう場所で……

 「おい、そろそろ、出て来たらどうだ?」

 自分の光が届かない角に潜む者に声を掛けた。元々待っていたのか或いは隠れるつもりが無かったのか、その人物は声を掛けると同時に──、



 壁を破壊して突貫を試みた。



 「……っ!」

 手荒い歓迎が来る事を予想していたのか、トレーゼは地面から引き剥がしたポストを投げつけて注意を逸らし、電柱の上に逃げ場を見出した。直撃していれば間違い無く臓器やフレームの一部が損傷するのは免れない一撃……現状動ける者でこれ程の力を有している存在はそうそう居るはずもなく……

 「おはよう…………No.9、良い夢を、見れたか?」

 「トレーゼ……トレぇ、ゼぇえええええええぁああああああぁああっ!!!」

 「あーぁ、ダメだな、これは……完全に、感情が理性を、食い潰している」

 服の端々は黒く汚れ、ここまで靴も履かずに走って来た足は血塗れで、50kmオーバーの道程を走破した為に息は荒く……その眼は名状し難い野性の怒りに満ち満ちていた。

 これがあのノーヴェなのか? 荒削りながらも根は優しさに溢れていたはずの彼女の姿はもうそこには無く、抑えようの無い感情に振り回されて暴力を撒き散らすだけの存在がそこに居た。両目から流す涙は悲しみか何かは分からない……ただ一つ分かるのは、人間は『悲しみ』程度の負の感情でここまで暴力的な力を発揮する事は到底出来ないと言う事だけだ。純粋なる人間が『悲しみ』で得るのは虚無感と涙だけ……強過ぎる腕力は『怒り』、突発的な行動力は『憎しみ』からしか得る事は出来ない……即ち『憤怒』と『憎悪』、その二つは間違い無くノーヴェの肉体と精神を乗っ取っていた。

 「トレーゼぇ……!!!」

 「どうした? 躾のなってない、犬畜生みたいだな。鞭で、打たれないと、理解出来ないようだな」

 「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」

 鉄拳が飛ぶと同時に電柱に穴が開き、電線を引き千切りながら地面に倒れ込んだ。攻撃を見切っていたトレーゼはその直前にビルの壁面に張り付いてバインドを結びつけると振り子の要領で地面に降り立ち、ノーヴェの背後に回った。

 「フウゥ!!」

 「っと……」

 十八番の蹴り技もいつもの数倍以上にも底上げされた威力を撒き散らしてアスファルトを抉り抜いて周囲三メートルを削り取る。完全に人殺しの拳で立ち向かって来る彼女の気迫に鬼気迫るモノを感じたトレーゼは──、

 「素晴らしい……」

 歓喜。ただただ、身に余る悦びに似た感覚を感じていた。つい昨日まで自分に良い顔して猫の様によって来ていたはずの存在が、今では全身全霊の敵意と殺意を持って自分を排除しようとして来ている……戦闘機人の持つ『殺戮』の側面に目覚めたその姿にいつしか彼は興奮を覚えていた。

 「いいな……あぁ、いいぞ、凄くいい。『破壊』と『殺戮』、戦闘機人の持つ、二つの側面に、覚醒した、貴様の姿……。やはり、その姿こそ、ナンバーズ、ひいては、俺の妹にこそ、相応しい」

 だが──、

 「でもな、正直言って、遅すぎた……。もう少し早く……いや、違うな…………最初から、せめて、始めから、そうだったなら……」

 もう──、



 遅過ぎた。



 「最初から、そうだったなら……………………欲しかったのになぁああああああっ!!!」

 「トレーゼぇええええぇぇえええええええっ!!!」

 「覚悟しておけ、ノーヴェ……俺は、貴様を、『支配』する。俺のモノにする」

 「ガァァァァアアアアアアアアアアアアアアァッ!!」

 「鞭で打ち、首輪を付け、鎖で引き倒し、生皮を剥ぎ落とし、鼻面を地に叩きつける…………徹底的に、躾け、調教し、上書きし、そして『支配』する! 貴様と言う、最後の自我を、消し潰してやる!」

 「グッギギギ、ギギガガガガガァアアアアアアアアアアアアァ!!」

 「だが、俺にとって、もはや貴様は、必要無い、欲しくも無い。ただ、『支配』し、有益に使うだけだ」

 両手を上げると同時に輝きを増す【アブソリュート・ドミネイター】が暗闇に埋もれていたはずの周囲一帯を紅く染め上げ、外界からの第三者の接触を断つかの如く二人の体を完全に包み込んで行った。その凶悪な光の前には暴走状態のノーヴェですら怖じ気付くように一歩退き、そして……

 「『2ndフェイズ』、発動」

 紅い光がノーヴェに掃射された。

 この時、ノーヴェに集中していたトレーゼは気付いていなかった。

 自分の頭上およそ二十メートルを通過する機影の存在に……。










 午後22時17分、クラナガン中央広場にて──。



 セッテが急に引き返して来たのは兄に命じられたからだった。決して寝返って逃走して来た訳でもないし、逆にギンガ達に留めを刺しに来た訳でもなかった。

 戻って来た彼女に与えられていた任務は、『監視』……傷付きながらも常人とは一線を画する戦闘機人である姉達を監視して行動を封じておくようにと言われていた。案の定と言えばそうだがセッテが戻って来た時には既に負けん気の強いセインは痛みを堪えながら立ち上がろうとしていたので、冷静にその足を払って再び彼女を地面に倒した。

 「何で……何だって私らの邪魔すんだよ!」

 「さぁ、何故でしょうか。強いて言えば、ワタシは貴方達に従う理由が無いだけです」

 一番の重傷者であるチンクをベンチの上に乗せながらセッテは素っ気なくそう返した。

 「な、なぁセッテ……姉は……姉達はお前に何も……してやれなかったのか?」

 「喋らないでくださいチンク。内臓に響きます」

 「答えてくれ! 姉は……お前を妹として────」



 「それが嫌だった……」



 「今……何て……?」

 「それが嫌いだったんです。貴方達がワタシに対して見せているその態度……それが今までのワタシを執拗に追い詰めようとしていた」

 「待ってくれ、私は今までお前をそこまで悩ませるような事をしただろうか? 何度も言うが、私も他の姉妹も、皆が同じようにお前を家族だと……」

 「だからそれが嫌だったと言っているでしょう!!」

 「っ!?」

 「戦い、奪い、壊して、殺す……その為に造られたワタシ達は戦闘機人と言う人間とは別の存在だったはず。なのに貴方達はワタシをまるで人間のように接して来て……ワタシを混乱させる! 『戦闘機人』であるはずのワタシを『人間』として扱い、ワタシのアイデンティティーを何度も何度も打ち崩そうとした。貴方達の矛盾したその行為がっ、『ワタシ』と言う存在を中途半端にさせるからっ!!」

 「それが……お前の感じていた事だったのか?」

 「貴方達が……ワタシに人間の弱さを植え付けたからっ…………ワタシは存在する為の場所を失くした。人間として生きる事も、機械として殺す事も満足に出来ない中途半端で曖昧な存在に成り下がってしまった。貴方達の所為で!!!」

 今までただの一度も感情を露わにした事の無かったセッテが声を荒げている姿をギンガを始めとするナンバーズの面々は唖然とした表情で静観しているだけだった……たった一人、その激昂した妹を間近で見ていたチンク以外は……。

 「そうか……姉は、私達は、お前に……何もしてやれなかったのか」

 チンクの小さな手がセッテへと伸びる……腹が破られた所為で腕を少しでも上げると筋肉が悲鳴を上げるはずなのに彼女は意に介した風も無く、自らの小さなか弱い掌で妹の顔を包み込んだ。思えばこの末の妹とここまで長く接したのはこれが初めてだった。スカリエッティの下に居た頃や、つい最近に地上に降りて来た時も、あんなに接触してやる時間はあったはずなのに……。

 「済まなかった……許してくれ、この不甲斐ない姉を……」

 「今更何を……。ワタシにはもう、トーレとあの人しか同類は居ないのです。貴方達、『人間』の側にはもう行けません」

 「頼む! 私達を恨むのならそれは構わない。だがお前には日の下を歩けるようになってほしいんだ…………黒くなってしまった妹など、姉は見たくは無い。あんなモノの為にお前が振り回される必要は無いんだ!!」

 「…………あんなモノ……? 兄さんの事を言っているのですね?」

 「セッテ? どうし──うごっ!!?」

 そこから先は何も言わせまいとセッテの剛腕がチンクの喉笛を押え込んだ。事を静観していた他の姉妹に戦慄が走るが、如何せん負ったダメージが多過ぎたので誰も止めに入る事が出来ない……首を絞め落そうとするセッテの凶行は行き着く所まで行こうとしていた。

 「機械の様に多くは殺せませんが……相手が一人なら問題はありません」

 「ごっ、ぐぐぅ……セ、ッテ……!」

 「それに……例え一人でもまだ人間を躊躇い無く殺せる辺り、やはりワタシは機械の側なのですね」

 五指に力が最後の込められ、チンクの喉元に不気味な音が響いた。動脈と気道を押し潰され意識が遠退いて行くのを感じたチンクは潔く眼を閉じて死を覚悟し──、



 噴水の爆発に目を引ん剥いた。



 「ッ!!?」

 突如として発生した異常事態に行動の早いセッテはすぐさま殺し掛けていたチンクを無視して飛び退くと、破裂した水道管から狂ったように大量の水を噴き出す噴水に意識を集中させた。

 ミサイルではない……管理世界において火薬を始めとする質量兵器は御法度であり、使用する場合にはある意味ロストロギア以上に厳重な許可を求める事になる。現状管理局にはそんな余裕があるはずはない……だとすれば、この上空から飛来した物体は?

 やがて砂と霧の入り混じった煙幕が徐々に晴れて行き、壊滅状態に等しくなったその地点に居た者は……

 スクラップになったⅡ型ガジェット・カスタムと──、

 「何とか……上手く行ったかな」

 最小限の障壁を張って衝撃を凌いだ……スバル・ナカジマ!

 「スバル!?」

 「何でここに……? 抜け出して来た!?」

 「ごめんギン姉、みんな……でも私、黙って見てるだけなんて出来ないから!!」

 静かに噴水から降り立つと自ら戦場に赴いたスバルはまず第一に己を敵視するセッテと向き合った。

 「……………………」

 「……………………」

 片や完全防備、片や非武装状態……戦況は始める前から火を見るよりも明らかだと分かっているはずなのに、スバルの両目には恐怖の類を感じさせる色は何一つ無かった。それどころか刺さる様な視線を向けて来るセッテを真っ向から堂々と睨み返し、シューティング・アーツの拳闘姿勢までをも取って見せた。

 「無茶だよ……何考えてんだよスバルゥ! 逃げろ!!」

 「ごめんねセイン……それも出来ない。もう……止まってられない!」

 足元に光るベルカ式魔法陣の蒼い光が凶悪な紅で彩られていた一帯を浄化するかのように放たれて全てを照らし出す。その輝きは【アブソリュート・ドミネイター】には劣るも決して脆弱ではなく、その光に言い表し様の無い感覚を覚えたセッテは思わず無意識に身じろいだ。

 「……スバル・ナカジマ。タイプゼロ・セカンド」

 「セッテ……トレーゼはどこ?」

 「非科学的ではありますが貴方とは何かしらの縁で結ばれているのかも知れませんね……」

 「答えて! トレーゼはどこに行ったの?」

 「兄さんは既に先行しました。もうここには居ません……そして、貴方も行かせない」

 「…………」

 「あの人の計画を成就させる為にはどうしても貴方の存在はイレギュラー以外の何者でもない……だから、『人間』としてあの人に尽くし、『機械』として貴方を殺します。それが……人間でもなく機械でもない中途半端なワタシが従属意思を示せられる唯一の方法だから……」

 「私はトレーゼを止めたい。ずっと困ってる誰かを救う事だけが本当の助けだと思ってた私だけど……本当はずっと止まってるだけだった、止まる為の口実を作っていただけだった。本当は誰も助けられなかった私がこれから先に居る誰かを助け続ける為に、私はトレーゼを止める!」

 互いに譲る気は毛頭無い、あるはずも無いのだ……龍虎相討つ、否、相反すると言った小戦場が、今ここに、確かに誕生した。










 同時刻、クラナガン上空100mにて──。



 「急げ……急げよ、この体!」

 「セッテ……トレーゼ……全く、誰に似たんだあのバカ共は。本当に兄妹揃って……」

 「だがな、私はまだお前達の姉のつもりだ。十七年だろうが二十年だろうが関係無い……私はお前達の姉なんだよ!」

 「だから……!」

 「急げぇ!!」



[17818] Dolls War:Act 2
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:41c1e7a5
Date: 2011/03/02 14:17
 午後22時20分、クラナガン中央広場から少し離れた地点にて──。



 「やっぱカッコつけて飛び出さない方が良かったかな……?」

 戦闘開始から僅か三分足らずの時点でスバルは絶体絶命の窮地に追いやられていた。当然と言えば当然だ、クラナガン一帯を覆い尽くしている【アブソリュート・ドミネイター】の効果によってデバイスが起動しないので彼女は武装する事が出来ず、申し訳程度に放つ攻撃もいつもと比べて頼り無い……。その所為で開始からたった三十秒後には完全に守勢に回る羽目になってしまっていた。

 加えて彼女は今利き腕である右腕を欠いている状態……左腕を鍛えていなかった事を悔やみながらも今更どうする事も出来ず、スバルは現在ビルの陰に身を潜ませていた。

 「脇少し斬られたな……。そんなに深い訳じゃないけど、今度行ったら急所狙われそう……」

 斬られた箇所から染み出す血を抑えながら彼女は気配を消して敵の姿を覗き込んだ。師と同じ、それでいて刃物の様な鋭さを秘めた桜色の光を放射しながら徐々に接近しつつあるセッテの姿……自分の周囲に高速回転するブレードを配置し、立ちはだかる障害物を寸断しながら突き進んで来る彼女の姿は自称していたように『機械』の冷徹さを秘めていた。もしこの状態で目の前に出て行こうものならその瞬間に首が飛ぶだろう……もちろん文字通りの意味で。

 「トレーゼはもうここには居ないし……ギン姉達も動けないし……マッハキャリバーも何も言ってくれない……。ティアじゃないけど、状況は最悪って言う奴なのかな」

 緊張で乾いた唇を舌で湿らせながらスバルはこの後どうやって状況を打破するかについて考え始めた。

 まずは何と言ってもセッテの対応だ。ギンガ達を助け出すにしてもトレーゼを追うにしても、その過程において彼女の存在が大きなネックになる事は避けようの無い事実だ。己のスタミナに懸けて全力疾走すれば彼女を振り切る事を出来るかも知れないが、その場合姉妹達を全員見捨てて行く事にもなってしまう。かと言ってこれ程までの戦闘力の差がありながら馬鹿正直に向かって行った所で戦果は得られない……。何か策を練らなければこの場を乗り切る事は絶望的に不可能だ。自他共に認める頭の弱さがこの土壇場で響いて来るとはと後悔の念が募って来るが、今はそんな事をしている余裕も無い。

 「私が使えるのは……ウィングロードと振動拳だけ……。他の魔法はリボルバーナックルあってこそだから、この二つで頑張るしか無いよね……」

 【アブソリュート・ドミネイター】の効果がISにも及ぶとは彼女の知る所ではないが、幸運にも彼女のIS、【振動粉砕】は問題無く使用出来る状態にあった。だが、リボルバーナックルと言うカバーを装着していない状態で発動すれば腕部の壊滅的損傷は免れない……かつてチンクに対して放った時の様に、内部フレームまで取り替えねばならない程のダメージを追う事になるだろう。正直言って痛いどころの話ではなくなる。

 「迷ってなんか居られない! やるったらやらなきゃ!」

 ここは戦場、いつも自分が見慣れて来た災害現場とは違う。戦場では腹を括った者の覚悟の差で生死がはっきりと分かれてしまう……それを意識していなければ、策の有る無しに関わらず死ぬのは明白だ。

 覚悟を決めたスバルは自分の思い描いた陳腐な作戦を実行すべく……

 まずは更にセッテから距離を離した。










 「……………………」

 一方、開戦から間も無くスバルの姿を見失ったセッテはどこかに隠れているはずの彼女を探して冷たい風の流れる道路を行き来していた。路上に駐車されている邪魔な車を切断しながらゆっくりと、しかし確実に彼女は見えない標的を追い詰め続けていた。

 「……どこに行きました? 折角殺そうと思い立ったのに……」

 わざわざ戦場に自分から飛び込んで来たと言うのもあるが、セッテにとってスバルの存在はどうにも不安に思えて仕方が無かった。トレーゼはわざと無視しているものの、放置しておけば必ず良くない事が起こる……そんな強迫観念にも似た予感が昨日の接触からずっと胸中に渦巻いていた。意図してかそうでないかは知らないが、自分とノーヴェ、そしてスバル……この三人の中で最もトレーゼと接触しているのは他でも無いスバルだ。今の今まで明確な敵対意思を見せなかったが為に放置して来たのかも知れないが、ここへ来てようやくその意思表示をした以上は黙って見過ごす訳には行かない、トレーゼの意思はともかくとして、セッテは自分の兄と接触を重ねている彼女をこれ以上野放しにする事は出来ないと踏んでいた。

 接触回数が多いと言う事はそれだけ相手の心理パターンを把握していると言う事にもなる……あの“完全”と言う言葉を体現している兄がその程度の事で看破されるとは思いたくないが、万に一つの確率であったとしても命取りとなる可能性の芽は摘んでおかねばならない。これはその最後の好機なのだ!

 「ワタシが貴方を殺す理由はそう多くはありません。一つは、『敵対意思の明示』……そして二つ目は、『兄さんと接触し過ぎた』と言うだけです。あの人の側に着いている以上、ワタシはあの人と敵対する人を駆逐する義務があります……セカンド、貴方もその例外ではありません」

 幸いにも相手は一人、殺したとしても精神を圧迫されることは無いはずだ。ならばそれを利用して確実且つ徹底的に殺してしまわねばならない……二度とトレーゼと接触出来ないように。

 ふとその時──、

 頭上に気配!

 「上ですか!?」

 視線を頭上に移すと案の定、真上に空色の翼の道がまっすぐ隣のビルへと伸びていた。ビルとビルを繋ぐ事で立体的な足場を増やしてこちらの死角を狙うつもりだったようだが……

 「スローターアームズ!!」

 足場を崩してしまえば意味は無くなる。連結されたビルは丁度セッテの真横二つ……飛び出した四枚のブーメランブレードが壁を突貫し、柱を砕き飛ばし、中の窓ガラスを全て破った頃……二棟の建物は根元の支えを失ってゆっくりと崩落を始めた。ウィングロードの出現場所が屋上ならば、当然スバルもそこに居るはず……この崩落に巻き込まれた彼女はどう出て来るか?

 「うわわっ!?」

 見えた! 既に即席の架け橋を渡った後だったのか、道の伸びている方向のビルから命からがら飛び出して来た彼女は足の裏に障壁を張って衝撃を和らげ、崩落の衝撃で剥き出しになった地面に降り立った。何を考えていたのかは知らないが、一度見つけてしまえば後はこちらのモノ……!

 「外しません」

 四枚ものブレードが瞬時に軌道を変え、やっと姿を現した敵を下ろし斬りにしようとして飛襲する。デバイスの補助が利かないこの状況で直撃を受ければ例えシールドを張っていても突破可能なはずだ。

 だがそう易々とは当たってくれず、着地の反動を無視してスバルは後ろに飛び退くと切断されて残骸と化していた路上車両の陰に身を潜めてやり過ごした。追尾した刃が刺さるが完全に細切れにするまでのタイムラグの所為で車両をバラバラにした時には再びその姿は消えていた。

 「……逃げるのが早いですね。敵前逃亡は重罪だと上司に教わりませんでしたか」

 この静寂を保った夜の世界でこうまで気配を消す技術に長けているとは流石のセッテも予想外だったのか、内心ではスバルを探し出すのに躍起になっていた。これ程の隠密性を有しているのであったら自分が気付かぬ内にこの場を脱出される恐れもある……そうなれば彼女は真っ先に先行したトレーゼを追う事は間違い無し、セッテは闖入者の排除に失敗した事になる。自分に信頼を任した兄の手前、やはりその様な失態をする訳にはいかないと言う責任感がセッテの精神を奮い立たせていた。必要とあらばここら一帯を丸裸にする事も辞さない……そんな気概が今の彼女にはあった。

 「…………ん、足が冷たいと思えば……」

 剥き出しになっていた土の地面がいつの間にか水浸しになっていた。原因はスバルの乗っていたガジェット機の墜落場所……広場の噴水に直撃したそれの所為で送水機関が狂い、ドバドバと流れ出た水がここまで溢れて来ていたのだ。本来ならば水を通して循環させる為の穴も墜落時の衝撃で埋まってしまっているので水は一方的に地面に流れ出て、冬の冷気で氷のように冷えたそれがセッテの足を濡らしていた。

 水溜りから足を退いてアスファルトに上がった彼女は気分を落ち着かせる為に深呼吸し、息を吐くと同時に下を向いた時──、

 水面に蒼い光を見た。

 「せいッ!!」

 「くぁ!?」

 顎を狙った一撃──。回避しなければ戦闘機人言えども昏倒は免れないその一撃を紙一重の瞬間に避けたセッテは、その視線の先に怨敵の姿を認めた。相手もこちらを一撃の下に仕留めるつもりだったのかその形相は鬼気迫ったモノであり、己の攻撃が当たらなかったのを確認するや否や再び距離を離そうとした。

 だがそうは問屋が卸さんとばかりにセッテが腕を伸ばしてその左手首を掴み上げた。

 「これで貴方の行動は封じました!」

 「うわぁ……離してもらえない?」

 「離しません!」

 「そっか……。じゃあ、こうするしかないよねっ!」

 そう言った次の瞬間にスバルは手を振り解くどころか逆にセッテを強引に自分の方に引き寄せ、何の意味があるのか互いの体を密着させた。すると彼女の足元にベルカ式魔法陣が展開されて、そこから伸びたウィングロードが二人の体を包み込み、丁度バインドの要領で自分達を拘束した。そしてそのままバランスを崩した彼女らはお互いに両脚踏ん張ったのも虚しく冷水でぬかるんだ地面に倒れ込んだ。

 「ぶはっ!」

 「ぶふっ!」

 倒れた際に跳ねた泥が二人の顔に飛び散る……。

 「……馬鹿な事を……クアットロの様に自爆でもするつもりですか?」

 「私はただ……トレーゼを止めたいだけ」

 「あの人の行為は必要であるが故のモノです。それを不必要だと言う権利は貴方にはありません、セカンド」

 「必要だとか、そうじゃないとか……そんな事はどうだって良いの。本当に私はただそうしたいだけなんだもん」

 「人間の行動には必ずそうさせた明確な理由があるはずです。答えてください、何故貴方はそこまで兄さんに執着するのですか? どうして……あの人の邪魔をするのですか?」



 「好きだからだよ……」



 「…………『好き』? 人間の心理が互い惹きつけ合う現象を言う、あの『好き』だとでも?」

 「そうだよ。ちょっと恥ずかしいんだからそんなに連呼しないでよ」

 「理解出来ない……貴方はずっと騙されていた事を恨んで、その私怨で動いていたのでは無かったのですか?」

 そう言いながらセッテは昨日の記憶を手繰り寄せ、疲労困憊になっていた兄を手厚く介護したのを思い出した。あの時は本当に馬鹿な行動だと思っていた……あの状況でそんな事をすれば自分が容疑を掛けられるのは避けられないと分かっているはずなのに、どうしてそんな事をしたのか理解に苦しんだ。だがそれらの意味不明な行動も人間特有の感情に当てはめればある程度は説明がついてしまう……。

 「手足を切られ、同胞を討たれ、身内を騙され、自分も欺かれ…………それでも尚、貴方はあの人を憎悪していないと!?」

 「してるよ? ノーヴェを騙してた事は今でも本当に許せないと思ってる。でも……でもね────」

 「……?」

 「何回も自分に『嫌いにならなきゃ』って言い聞かせても……出来ない。私はっ、自分にどんな酷い事をされても……嫌う事なんか出来ない…………それぐらい、大好きになっちゃったんだよぉ……」

 「『機械』の私に感情論で諭そうなどと……笑止。今すぐ貴方の脳髄を切り刻んで終わりにします」

 高速回転するブレードが二人の周囲を囲む……この状況でセッテは自分ごとスバルを始末しようとしているのは誰の目から見ても明らかだった。それが一番確実で、そして最悪の手段だと言う事も……。

 「兄さんに釘を刺されたばかりですが……やむを得ません、ここは結果のみが全て」

 「ねぇ、何でセッテはそんなに一生懸命なの? 何でそんなにトレーゼの為に頑張れるの?」

 「知れた事です。あの人が兄でワタシが妹……絶対服従と命令遵守は義務です。今までもこれからもワタシはそうして存在して来ました」

 「チンクやウーノさんはそんな事セッテに強制しなかったはずだよ」

 「ワタシが決めたのです。戦闘機人は……ナンバーズはそうであるべきだとワタシ自身がそう決めた」

 嘘は言っていない、その結果に至るまでの思考が果たして自分のモノであったか刷り込まれたものであったかについては別にして、セッテは確かにある日その考えに辿り着いた。軍隊の階級や序列が厳しいモノであるように、ナンバーズ姉妹間に置けるヒエラルキーは確固たるモノでなければならないと言う考え……姉が死力を尽くせと言うのなら文字通り死んで見せるぐらいの気概を持っていなければならない。それが自分達十二人の頂点に君臨する兄の命令であるなら尚更だ。「無茶をするな」と言う命は破っても大義だけは破らずに済むのだから……。

 そんな彼女の思いを汲み取ったのかスバルは力無く俯くと……

 「そっか……やっぱりね」

 「何がやはりなのですか?」



 「セッテもトレーゼの事が好きだったんだ」



 「……………………?」

 「好きだから……大好きだからトレーゼの為になる事をしてあげたいんだよね。好きだから…………ずっと傍に居て言う事を聞いていたいんだよね」

 母が子供に言い聞かせるような優しい言葉……その言葉が届いたのか、セッテは無意識に微かに視線を泳がせて逡巡する仕種を見せた。表情には出て無いが明らかに戸惑いを示したその反応を見逃さずスバルは逸らされる視線を再び捉えた。

 「答えて……」

 「ワタシは……」

 「教えて……セッテの本当の気持ち」

 「…………『人間』ではないワタシには貴方達の言う所の感情は殆ど理解出来ません。ですから貴方が兄さんに抱いている感情と、ワタシがあの人に……依存している理由が等記号で結ばれるかと言う事は断言出来ません」

 「そう……」

 「……………………ですが……」

 「?」

 「ですが、ワタシがあの人に依存している事実は自分自身で否めません。我ながら何故依存してしまっているのかは定かではありませんが…………その結果に至った思考が、貴方の言う所の『好き』であるからと言う可能性も一概には否定出来ないかも知れません」

 「皆大好きなんだよ、トレーゼの事が。大好きだから私は止めたい……大好きだからセッテは邪魔させたくない……」

 「それだけ分かっているのでしたら……」

 「なにを……!」

 ゴソゴソとセッテが体を捩って何かしているのに気付いたスバルはそうさせない為に更に体を密着させて余分な空間を潰そうとした。だが気付いた時には既に遅く……

 「首、もらいましたよ」

 封じていなかったセッテの左手がスバルの首を締め上げた。たかが片腕と侮るなかれ、戦闘機人の剛腕は今に説明を必要とはしない。接触から一瞬でスバルの気道は強靭な五指で押し潰され、吐息の代わりにカエルを潰したような醜い声が喉の奥から飛び出した。

 「残念ですがセカンド、結局貴方とはどこまで行っても理解し合う事は無いようです。貴方は兄さんを『好き』だと言いました……それが自分の行動原理だとも主張しました。ですが貴方は何も分かっていません……」

 ググ……ッ!

 「あの人はそんなモノを必要とは思っていません。あの人が周囲に対して抱く感情はたった一つ、『嫌い』と言う感情だけです貴方が兄さんに対してどんな感情を持って接したところで、あの人の確立した心理は揺るぎません。貴方もワタシも、あの人の前では全て等しく嫌われているのですよ……強いて例外を挙げるなら、彼の好意の対象は『ナンバーズ足り得る者』だけ、自分が真に兄妹だと認めた人だけです。その意味でも貴方は的外れも良い所……始めから兄さんの理想に従っていたなら話は別ですが」

 「う、ぐっぐ……!」

 肺が酸素を求めて悲鳴を上げるのを胸の奥で感じながらスバルは何とかして離脱しようと試みる。しかし自分が展開させたウィングロードの拘束が仇となって思う様に体を動かせず、酸欠と痛みで彼女の意識は徐々に危険領域に近付きつつあった。

 このままでは窒息する!

 だが距離を空ける事は出来ない。

 ならば……!

 「ハグッ!!」

 「むあぁぁああああっ!!」

 スバルが取った行動はセッテの鼻へ噛みつく事だった。効果は抜群だったようで、激痛で集中が途切れたのか周囲のブレードが一旦地面に落ちた。それを見逃さなかったスバルは瞬時にウィングロードを解除すると鍛えた脚力のみで体勢を立て直し、大きく後方へと飛び退いた。強制停止させられていた呼吸を整えるのに少し時間が掛ってしまったが、その間鼻の激痛に襲われていたセッテは地面を転げ回っていた。

 「よくも……!!」

 ようやく呼吸を整えた頃にセッテも同じく痛みを堪えて立ち上がり、その鼻からは大量の血が痛々しく溢れ出していた。自分で意図してやった事とは言え、その行動で一が傷付いているのを見てスバルは自分の心が少し痛むのを殺し切れない……。だがそんな事はお構い無しにセッテはブレードを構えて体勢を立て直した。

 「原始的ながら有効的……ですが、もう遅れは取らないと宣誓しましょう。確実にその四肢を付け根から切り落とし、首をあの人に見せる……そうする事で、ワタシはあの人にワタシ自身の持つ『可能性』を認めさせる! 曖昧でも中途半端でもない、ワタシだけが持っているはずの絶対の可能性を!」

 「セッテ……」

 「さぁ! 殺されてください。ワタシが持つ最後の『人間』……ワタシのエゴを実現させる為の礎になってください」

 スバルも内心密かに困惑していた……。あの無機質な感覚を絵に描いたような性格をしていたはずのセッテが今となっては自分のエゴを丸出しにして武器を手にしている……元々彼女と親しかった訳でも無いスバルにも分かる程に、今のセッテは与えられた任務に異常なまでの執着心を見せていた。今の言葉も一切のはったりや冗談も無い完全なる宣戦布告の台詞だったに違いない。だとすれば彼女は本気でスバルを仕留めに掛ったと言う事であり、同時にスバルの生存確率が必然的にワンランク下がった事を示していた。

 だが──、

 「ごめんねセッテ……私は死ぬ思いは出来ても死ぬ事は出来ないよ。だから……」

 その表情は眉一つ動く事無く、あくまで平静を保ったまま一分の隙も感じさせる事はなかった。それどころか彼女は唯一健在な左腕を高々と振り上げ……

 「だからね────」



 「真正面から打ち砕くっ!!!」



 闇夜に眩しい空色の光が辺り一帯を照らし出した刹那、スバルは凶暴な唸り声を上げる自分の左腕を……

 「振動拳!!!」

 地面に叩きつけた。接触した地面との共振動で彼女の腕は凄惨な目にあった……皮膚が裂けるのは予想していたが、衝撃に耐え切れなかった靭帯と筋肉が数本ばかり途切れ、それと同時にフレームがスパーク……文字通り、予想以上のダメージを被る事となってしまった。

 対するセッテは当然ながら無傷……。目の前の敵の突然の行動が理解出来ず、闘争の場には相応しくない表情をする羽目になった。

 「何を……? そんな事して一体何の意味が……!?」

 「意味はあるよ……半分賭けだったけど、上手く行った」

 「なに……を!?」

 異変に気付いたのはその直後だった……足元に冷水の冷たさを感じていたセッテはその感覚がいつの間にか足首の関節にまで到達している事に気付いて下を向いた。それもそのはず、自分の足が体重によって泥の中に少しずつ沈んでいたからだ。周囲を見て見れば自分と同じように土の地面に接しているアスファルトの瓦礫も地面に沈み込んでいた……剥き出しの地面全体がまるで砂漠の流砂の如き変貌を果たし、水分を豊富に含んだ泥水が底無し沼となって重量のある物体を捕えて離さなかった。

 「液状化現象……! 水分を大量に含んだ土壌に振動を加えて土と水分を……!!」

 大規模地震などか発生した際に二次被害として発生する災害現象、土壌液状化……。水分を豊富に含む湖沼の埋め立て地などで発生し、土と水に分離した事によって家屋や大型建築物などが基盤ごと甚大な被害を受ける現象を示している。本来は大雨の土砂崩れ同様に水分を大量に含んだ後で発生する災害である為に土壌と水分が完全に融合した状態でのみ起こる稀有な現象なのだが、スバルは噴水から吹き上げる水が剥き出しの地面に染み込むのを待ってからIS【振動粉砕】で衝撃を加え、限定的な疑似液状化状態を作り上げる事に成功した。常人よりも重い体重を持つ戦闘機人にとって泥沼は一時的とは言え足の自由を奪われる天然の落とし穴……既に足首を捕えられたセッテは急いで飛行して逃走を試みようとしたが──、

 「うおりゃぁああああああああああああああああああっっっ!!!」

 蹴脚一撃──。こめかみを砕かんばかりに放たれたその蹴りはセッテの脳を盛大に揺らし、彼女の意識は混濁、脳震盪によって数秒足らずで闇の中に叩き落とされた。最初に宙のブレードが回転力を失って徐々に失速し、最後の気力で立っていながらもフラフラと不安定な足取りだったが……遂には地面に膝をつき、うつぶせに倒れた。

 だがただ倒れた訳ではなかった……その右手はこれでもかと言うぐらいに伸びており、指先はまっすぐスバルを捕えようとしていた。最後の最後まで目の前の敵を斃す事だけに執念を燃やしていた事実が浮き彫りになった瞬間だった。

 その執念深さに恐怖を覚えながらもスバルは一応の勝利を納められた事に安堵し、泥で服が汚れるのも構わずに地面に座り込んだ。

 「はっ、はっ、はぁっ! ぐっ、痛っ……やっぱり無理するんじゃないな~」

 マッハキャリバーの助けも無しにウィングロードを連発したツケが今になって帰って来た事に苦言を呈しながらスバルは自分の足を見た。今の所は目立った損傷は無いが、その激痛は確かに切断されていたはずの部分からのモノだった。あと二、三回もウィングロードを展開してしまえば、例え治癒したとしても歩く事はおろか立つ事すら難しくなるだろう。

 だが今はそんな事よりも重要な事がある。

 「ギン姉! みんな!!」

 「スバル……どうして来たのよ!?」

 「戻れ……奴に、“13番目”に…………狙われるぞ」

 「喋らないでチンク。今はお腹の傷をどうにかしないと……!」

 有無を言わせない勢いでスバルはそう言ってすかさず傷口を確認する。傷の一部は既に戦闘機人の回復力によって修復が成されて止血していたが、問題はまだ修復が完了していない箇所と破損した内臓……出血自体は既に収まって来ているようなのだが、破損したフレームと内臓の一部が腸や他の機器に食い込んだ大変危険な状態だった。更に外から見てもはっきりと分かるまでに風穴が開いているので雑菌が侵入する危険性もあり、それを懸念したスバルは自分の服の袖を両方とも破るとそれを繋ぎ合わせて腹巻きの要領でチンクの傷を防いだ。消毒はしていないので決して清潔とは言えないが泥が付いていないだけはマシだった。

 「これで良し……。それじゃあねギン姉。私行かなくちゃいけないから……」

 「待ちなさいスバル! 行くなんて許さないわ!」

 「そうだよ。一人で闇雲に行ったって敵うはずがない……私達でも歯が立たなかったのに」

 「悪い事は言わないッス。このまま私らと大人しくここで救助を待ってた方が────」



 「私は行くよ!」



 「スバル!」

 「私はトレーゼを信じてる……信じてるから行くの。勝てるから行くとか、負けるから行かないとかじゃないよ。それに……私はまだトレーゼの本当の気持ちをきいてないから」

 「…………どうしても行くのね?」

 「うん。ごめんね、みんな」

 「私はもう何も言わないわ。その代わり……」

 「?」

 「これを持ってきなさい。少しは移動が楽になるはずよ」

 「ブリッツキャリバー!? 良いの?」

 「どうせこんな状態じゃ使えないわ。あなたが持って行きなさい。魔力でローラーを回転させる事は出来ないけど、普通にローラーシューズとしてなら充分に使えるわ」

 「…………ありがとう」

 「お礼なんて別に要らないわ。私達はここで『何も見なかった』……。交戦中に“13番目”は先行して、殿のセッテと戦って痛み分け……両足の武装はその時に紛失したって事よ」

 「ありがとう!」

 姉から譲り受けた白銀の車輪靴を装着し、スバルは猛然と駆け出した。地面に倒れたセッテに一瞬だけ申し訳なさそうな視線を向けてから彼女は一気に加速、既に行き違いになってしまったトレーゼを追って来た道を逆走し始めた。



 目標との距離、約3km。










 午後22時26分、地上本部管制室にて──。



 「どうだ?」

 「アクセスは何とか出来ましたが……その……」

 「構わないから報告しろ」

 「はっ。地上本部全体を管理していたはずの対侵入者用迎撃防衛システムが……全て消去、白紙に戻されてしまっています。予備のバックアップシステムも完全に……」

 「この陸の要塞を一瞬で丸裸にされたか。Dr.スカリエッティ、何か対応策は無いのか?」

 「無駄だ。ISは魔法とは似て非なる技術……妨害魔力を放ったところで意味は無い。どうしても止めたいのであれば“13番目”の脳髄を直接破壊する事だな。もっとも、可能ならばの話だが」

 暗闇に包まれた管制室の中に閉じ込められたクロノとスカリエッティらは懐中電灯の明かりだけを頼りに現状を打破する道を模索していたが、依然としてその決定的解決策を思い付く事は無かった。結局、今の彼らに出来る事はここで外側からの救助を待つと言う情けない結果に終わった。

 「それにしてもこの状況……何か引っ掛かる」

 「何かとは?」

 「こちらは誰も武器を使えず防衛システムまでも麻痺した完全な無防備状態……攻撃しようと思えば幾らでも攻め様があるはずなのだが……」

 「ふむ、言われればそれも確かに違和感があるな。わざわざ全部隊を完全に無力化したと言うのに、それ以降何の手出しも無いとは……“13番目”の実力を以てすれば侵略行為の一つや二つは簡単に出来るはずなのだが?」

 「さらっととんでもない事を言うな……。まさかとは思うが、実は下の待機中の部隊はもうとっくに制圧されている……と言う可能性は?」

 「いや、分隊の指揮官には八神二佐の守護騎士らが控えていると聞いている。彼女らの率いる部隊がそう易々と墜ちるとも思えんよ。仮に墜ちたとしたら、彼女らは“13番目”とは別のモノを相手取っている事となる。化物級の人外……それもかなりの数のな」

 当然、そんな報告は全く入って来てはいない……全ての通信手段が遮断されてしまった今となってはどの部署からも報告が寄せられる事は無いからだ。どこでどの部隊がどれ程の損害を受けたのか、或いはどれ程の人員が失われたのか……その一切の情報が彼らの所には届かなかった。

 「……貴方の予想……外れていると良いですがね」

 「まぁ、外れているに越した事は無い。あれは災害と同じだ……ただ現状が過ぎ去るのを待つしかない」










 「マリアージュ部隊……目標の、完全制圧、完了したか」

 街灯の明かりが失せたメインストリートを行くトレーゼ……両足のアサルトヴァンガードのローラーの回転のみでゆっくりとした足取り、決して急ぐ事もしなければ逆に止まる事も無く、彼はゆっくりと確実に目的地まで迫りつつあった。移動している陰は彼以外には見当たらず、かつて自分の前に立ちはだかったはずの哀れな妹の姿はどこにも居なかった。

 「91体、派遣し……生き残りは、86体か。上々の、結果だな。破壊したのは、恐らくは、守護騎士だろうが、それも、無意味な事だ」

 あのマリアージュ達の素材となっているのは全て『失敗作』と呼ばれる人造生命体、戦闘機人になり損ねた他でも無いトレーゼを模して生み出されたトーレの習作である。甲型第弐号個体として生み出されたトーレ……彼女一人を製造するに当たって費やされた実験回数は合計で273回、その内で辛うじて人間の形を保っていたのが僅か91体であり、それらは全て命宿らぬ『死体』としていつか有効利用出来る日が来ると判じたスカリエッティによってラボの地下に封印されていた。そして今回その『死体』に仮初の生命を与えて活動可能にさせたのが、“冥王”イクスヴェリアから新たにトレーゼが得た能力【コンクエスト・マリアージュ】である。

 直訳して『征服者マリアージュ』……その名の通り、オリジナルが本来持っていたマリアージュ生産能力を完全に再現しており、生命活動を停止した人間に対して有効な能力だ。両腕の武装化から燃焼液、果ては自爆機能までをも完全に再現し、尚且つナンバーズが持つ脅威的回復力までをも兼ね備えた無敵の屍兵器……古代ベルカの冥王とスカリエッティの共同合作とも言うべきそれらが、今確かに、地上本部の全部隊を完全に鎮圧した……。

 「部隊はそのまま、現場に待機……俺の到着を、待て」

 地上本部まではまだ距離は残っているが何も案ずる事は無い、もう眼前には敵と言う敵は一人も残ってはいないからだ。あとは黙って本部の敷居を跨げばそれだけで勝利が確定……計画は成就したも同然となる。到達するまでに多少の妨害や抵抗はあるかも知れないが、ヴォルケンリッターを封じた上に三強を遠ざけた今となっては頼れる者は元ナンバーズの面々だけで、その彼女らをも退けた以上もはや彼を止められる可能性を持つ者は居なくなっていた。この時点でも管理局は事実上は単独犯である彼に対して完敗を喫している事になるが……希望が完全に断たれた訳ではない。

 「……遠方から、ヘリが接近しているな。奴ら……しぶとく、生きていたか」

 方角は北西ベルカ自治領……そこから向かって来る一機のヘリとなればクアットロに足止めさせておいた立会人役の連中しか居ない。あの中で特に警戒するのは例の三強の三人なのは言わずもがなだが、次に注意すべきはティアナ・ランスターだ……かつて機動六課のフォワードにおいてリーダー格でもあった彼女は非常に高い指揮能力を秘めている可能性があり、それを有用されれば一個小隊分の有能な魔導師達を率いて向かって来る可能性もある。それを未然に防ぐ為にわざわざ彼女を立会人に指名してまで現場から遠ざけたのだ……指揮能力を持つ人間を一人でも多く減らす為に。

 だがこのタイミングで戻って来られては多少難がある。いくら無敵と謳っていても所詮は形有るモノ……デバイス無しとは言えあれ程の実力者を前にすれば半数は削られる事は覚悟しなければならないだろう。だが仮に半数を犠牲にしたからと言って確実に彼女らを止める事が可能となるかどうかは分からない……損害を与えた後で逃げに転じられたら最悪の場合壊滅の恐れも有り得るだろう。

 となれば方法はただ一つだけだ。

 「先手を打つ。封時結界、発動」

 『Yes,my lord.』

 瞬時に空にミッド式結界が展開され街全体が鈍い暗色に包まれて外界と隔絶された。半径およそ70km超、管理局側が数十名もの魔導師を動員して成そうとしていた規模の結界をたった一人で構築した彼は結界のどこにも綻びが無い事を確認すると再び歩を進めた。これ程の精度と規模を誇っていればしばらくは侵入を防げるはずだ。

 「最初の、賭けには勝った……後は、本懐を、遂げるだけだ」

 『My lord, the sight of an airplane approaching from behind you.(後方から接近する機影があります)』

 「…………面倒だ、あいつに、任せよう」

 『OK. System "Numbers" will activate.』

 頭上の疑似魔法陣の輝きが一際眩くなり、彼の行く先を照らし出すと同時に彼が後方へと置いて来たモノが密かに胎動した。その鼓動が自分の体に逆流して来る感覚を感じながらトレーゼはそれを御し、自分の完全支配下に置いた後──、

 「さてと、あとは……不肖の妹に、一任するか」



 その両目は真紅に彩られていた。










 同時刻、トレーゼの前方およそ10km地点の上空を飛行していたトーレは自分の進行方向上の道路で眩く輝く真紅の光を目にした。

 「あの光……何だ? とても禍々しい……」

 街の一角を盛大に真紅一色に染め上げているその暴力的な輝きに魅せられたのは一瞬の事で、その光の中に何かしらの恐怖を覚えた彼女は一瞬その光の発されている場所に行くのを躊躇ってしまった。もしかしなくてもあの光は自分の弟のモノだと言う事が直感で分かっていた。あの光の場所に自分の弟が居る……それを考えれば行かずにはいられないはずなのだが、目の前の光景を見た瞬間にその思惑は委縮してしまい、本能がそこに行く事を拒んでいた。

 行ってはならない……行ってしまっては何かとんでもない事が起こってしまう……。

 そんな予感が彼女の胸中を埋め尽くしていた。

 だが自分は行かねばならない! そう強く自分に言い聞かせながら飛行速度を上げようとした彼女だったが──、

 「っ、な、何だこれは……!! あ、たまがぁあああっ!!!?」

 突然に襲い掛かった激しい頭痛でバランスを崩し、飛行中だったトーレはそのまま軌道を大きく逸れてビルのガラスに突っ込んだ。その後しばらく誰も居ない暗室の中で七転八倒していたが一向に痛みが引く気配は無く、頭を抑えながら彼女は獣のような叫び声を上げてもがき苦しむだけだった。

 だが永遠に続くかと思われた地獄の激痛は意外にも長くは続かず、ものの二分もしない内にまるで嘘だったかのように頭から痛覚が消えた。長い獄中生活で神経がおかしな事になったのかと思ったトーレだったが考えるのを後回しにしてビルを飛び出し、挫折し掛けた目的の場所への飛行を再開した。

 「何だったんだ……あれは?」

 その質問に答えられる者は居なかったが──、



 自分の両目が紅く染まっている事にトーレは気付けなかった。










 22時30分──。



 「なに……この嫌な感じ……?」

 数十秒の誤差を経て届いた背筋が凍るようなプレッシャーを受けたスバルは思わず足を止め、その感覚が雪崩れ込んで来た方向を見やった。プレッシャーが流れ込んで来た方向は二つ……一つは自分の進行方向、つまりはトレーゼが居るはずの方向からであり、もう一つは全く別の所からだった。だが方角が違うと言うだけで正確にどの方向からのモノかまでは掴めなかった。異常に遠いところから発されている所為か、或いは近過ぎるのか……。

 「何かあったのかな……。とっても嫌な予感がするけど……行かないと!」

 足を止めたのは一瞬の事であり、すぐさま気を持ち直すと彼女は再び地面を蹴って駆け出した。姉から譲り受けたブリッツキャリバーを足代わりにして地面を滑り、遠くに居るトレーゼの気配を探知しながら徐々にその距離を詰めて行った。

 ふと空を見上げれば冬の闇夜がいつの間にか夜の黒とは別の色に染まっている事に気付き、街全体を魔力が覆い隠している様な感覚を覚えた……。

 「結界!? 中に入れたのは良いんだけど……後で出る時どうするのさ」

 答えは言わずもがな、結界を張った張本人であるトレーゼが解除するしか道は無い。果たしてそんな事が可能なのかどうかはさておき、今確実にトレーゼは彼女の前方遥か先に居る訳であり最早スバル以外に彼を止める可能性を持つ者は皆無に等しい状態だ。やるかやれないかではなく、やるしか方法は無い。

 魔力探知で後方に居るはずの姉達を索敵しようとしたがどうやら彼女らは結界に取り込まれずに済んだようで、魔力を探り当てる事は出来なかった。運が良ければ部隊に回収してもらえるだろう……。

 唯一の懸念を振り払ったスバルはそのまま一気に加速しようとしたが……

 「あれって……」

 その道の先に何かを見つけた。見つけたと言うと何かの物体を発見したように聞こえるかも知れないが、彼女が見つけたモノは人……歴とした人間の姿だった。月明かりすら届かなくなった結界の空を背景に佇み、崩れ掛けの展望塔を背にしてこちらを見つめる黒い影だった。

 頭は稲穂の様に下を向き、両腕はまるで骨が抜けてしまったかの様にだらりと力無く垂れ下がっていた。映画に出て来るゾンビのような雰囲気を纏ったその影はゆっくりとスバルの前へとやって来る……花の蜜に誘われて漂って来る蝶のようなユラユラとしたおぼつかない足取りでスバルの所までやって来ると、自らの素顔を晒して見せた。

 その正体は──、

 「ノ、ノーヴェ? 何でここに……!?」

 ナンバーズの9番目、ノーヴェ・ナカジマがそこに居た。夜闇に映える赤髪は乱れに乱れ切っており、全身からは疲労困憊の様相がひしひしと伝わって来ていた。本来ならば暴走状態となり病室から出る事はおろか面会する事も出来ないはずの義妹が何故ここに居るのかは分からないが、肉体に掛っている負担が見た目以上に酷い事を見抜いたスバルは彼女をそっと抱きかかえた。

 「ノーヴェ! しっかりしてよ!」

 冬の寒波に晒された所為で抱き留めた体は異常に冷たく、抱き返して来る腕も弱々しく──、



 スバルの服を万力の如く締め上げた。



 「っ!? ぇあ!」

 野性の本能で危機を瞬時に察知したスバルは背中に回されていた腕を振り解いてノーヴェの間合いから離脱した。握力は予想以上に凄まじく、脱出の際に服の一部が見事に引き千切られているほどであった。

 今感じた殺気はタダモノではなかった……掴まれた部位が部位なら服ではなく肉を抉られていただろう。何の理由があって敵対行動に出たのかは分からないがここで仕留められる訳には絶対にいかない……間合いを保ちつつスバルはノーヴェに言葉を掛けて制止しようと試みた。

 「ノーヴェ! 私だよ、スバルだって! ねぇ、どうしちゃったのさ!!」

 「──────」

 駄目だ、まるで反応が無い。それどころかノーヴェの方は徐々にこちらとの距離を詰めようとして接近を図ろうとし、スバルは更なる撤退を余儀なくされた。

 もう何が何だか分からない……今のこの時点で分かる事があるとすれば、本当に冗談でも何でもなくノーヴェはスバルを殺そうとしていると言う事だけだった。振り上げられた腕が揺れる度にその走行速度が飛躍的に上昇し、足を上げるごとに距離を埋め、全身から滲み出る殺気が確実に殺そうとする意思を口で語るよりも正確に代弁していた。

 「──────」

 「ぐっ、ああ!!」

 遂に剛腕がスバルの左手を捕えた。普段の妹からは決して感じられない握力をそこに感じながらスバルは必死になって脱出を試みるが、服だけを掴まれたさっきとは違って今度は完全に手首を極められてしまったので切断しない限り脱出は出来なくなってしまっていた。内部の血管を全て押し潰される痛覚に悶えながらも必死に振り解こうとして……

 スバルは初めてノーヴェの目を見た。

 紅い──。

 血で塗ったような紅……燃え盛る業火を映し取ったような真紅…………あの紅! 生涯で最も大きな嫌悪感すら覚えたあの禍々しい紅い色が、そしてこの先二度と見る事があるかどうかさえ分からないあの蟲惑的な色が、今ノーヴェの両目に確かに宿っていた。見慣れた琥珀色の瞳は双眸のどこにも無く毒々しい紅が激しい自己主張をしていた。

 そしてそれを見たスバルは確信した。

 (ノーヴェじゃない!? 誰……誰なの?)

 赤い髪、小柄な背、鍛え上げられた両脚……目に飛び込んで来る情報全てが眼前の人物を紛う事無く「ノーヴェ・ナカジマ」だとして脳に訴え掛けて来る。たった三年とは言え地上本部で拳を交えたあの日からずっと知っているのだ、そうそう見間違えるものではない。

 だがその全身から陽炎の如く薄らと立ち昇る紅い魔力がそれら全ての要素をことごとく否定していた。

 「トレーゼ……?」

 無意識に口から出たその名前……スバルの知り得る中でこれ程の紅い魔力を持っている人間は二人と居なかった。

 そして、彼女の予想通り……

 「久し振りだな、セカンド」

 ノーヴェの姿を借りた“何か”……声は確かに彼女のものだったが、出て来た言葉は間違い無くスバルが追い続けていたトレーゼのものだった。

 声はノーヴェ……

 腕も脚もノーヴェ……

 顔も、体も、髪も、肉体を構成する全ての部位は本当にノーヴェ自身の物だ。

 だがその中身はまるで別のモノが我がもの顔で堂々と挿げ変わっていた。そしてそれを唯一証明しているのが両目の紅い輝きだった。

 「何が起こっているのか分からないみたいな顔をしているな。まぁ当然か……」

 「ノーヴェに何をしたの!」

 「少しこいつの体を『使って』いるだけだ。今こいつの感覚は完全に俺と同化している」

 「同化……? 使ってる……? 何言ってるの!」

 「やれやれ、噛み砕いて言わないと分からないか」

 そう言うと同時に殺気が消え、ノーヴェがふらふらとスバルから離れた。その挙動は完全にあのトレーゼの動きと全く同じモノで、もし仮に彼の言っている事が正しいのだとしたらノーヴェは何らかの要因でトレーゼの動きを再現していると言う事になる。

 だが一体どうやって? その疑問を自問自答する前に──、



 「後ろ取ったぞ」



 そっと背後から肩を叩かれた。

 「!?」

 はっと気付いた瞬間には目の前にノーヴェの姿は無く、振り向く事すら出来ない状況でスバルは妹が自分の背後に回っている事に気付いた。

 「あまりに呆けた顔をしていたからな。油断しているにも程があるぞ」

 嘘とは言わない……実際自分は脳裏に浮かんだ疑問を思考していたので隙があったかと言われれば頷かざるを得ないのは確かな事実だ。だが彼女はさっきまで目の前に居るノーヴェの姿を視認していたはずだ、いくら油断や隙があったとは言っても眼前の標的を見失うには度が過ぎている。明らかに物理現象を超越した何かの力が働いたとしか思えない……。

 だがそんなスバルの混乱を余所にノーヴェ(トレーゼ)の方は殺気を消し去ったと同時に戦意まで消したらしく、肩に乗せていた手に少しだけ力を入れると地面にスバルを座らせた。どうやら今の状態で仕留める気は無いようだが……。

 「再三貴様にはこれ以上関わるなと釘を刺したはずなんだが……どうやら口で言っても分からなかったみたいだな」

 「それよりもどう言う事なのか説明して。何でノーヴェの体を操ってるの? どうやって……」

 「操ってなどない。今のこいつは俺と感覚を完全共有した、言わば疑似ユニゾン状態だ。主権は俺が一方的に握っているがな」

 「ユニゾン……?」

 「俺のIS、【アブソリュート・ドミネイター】の効果が及ぶ範囲はデバイスを含む全ての電子機器とそのOS……そして同じナンバーズのISだ」

 「急にマッハキャリバーが動いてくれなくなったのは……」

 「俺のテンプレートから放出されている粒子が貴様らのデバイスのシステムに干渉しているだけだ。俺の意思一つでどうにでも出来る」

 そう言いながら彼女(この場合は“彼”と言うべきか)は只のローラーシューズに成り下がったブリッツキャリバーを爪先で小突いた。管理局の停電や部隊が突然の撤退をして来たのもこれで納得し──、



 「それが『1stフェイズ』の力だ」



 次に嫌な予感を覚えた。

 「実を言えば『1stフェイズ』自体は単純にこの能力効果の副産物に過ぎない……。ジェイル・スカリエッティは何を勘違いしているのかは知らないが、【アブソリュート・ドミネイター】が持つ本来の能力は電子干渉ではない。このISの真価は『2ndフェイズ』にこそ存在している」

 「ちょっと待ってよ……何を言ってるの?」

 「第一段階で電子干渉……そして第二段階でその効果は『同族支配』へとシフトする」

 「同族……支配?」

 「そうだ。こんな具合にな」

 ノーヴェの手がスバルの顔に差し伸べられ、その掌に本来現れるはずもない真紅の疑似魔法陣が展開された。遠くに居るトレーゼ本体から魔力供給がなされている事を裏付ける決定的な証拠……それが今スバルの目の前で光り輝いていた。

 「No.9の脳には量子変換された俺の感覚情報が端末を介してインストール、アップデートされている。言わば俺の子機、俺が脳髄でこいつが手足と言う事になる。痛覚以外の肉体感覚全てを共有しているからこちらの脳の命令をダイレクト且つタイムラグ無しに反映してくれる……今やこいつは如何なる携行兵器も足元に及ばない究極の兵器の形だ」

 手に持たなくても良い、体に身に付けなくても良い、引き金を引く指すら必要無い……たった一個の脳端末があるだけで後は自分にとって代わるアバターが全てをこなしてくれるからだ。兵器としても道具としてもこれほどまでに優秀で、そして異質なモノは他には無いだろう。

 だが一つだけ気になる事がある……。

 「……ノーヴェはどうなったの?」

 現在ノーヴェの脳にトレーゼの意識がインプットされているのなら、元からそこに存在していたはずのノーヴェ本人の意識はどうなっているのか……?

 その事についてトレーゼは事も無げにこう返した。

 「あと五分もすればこいつの脳は完全に俺に浸蝕され同化する。そうなれば俺とこいつの感覚同調率は飛躍的に上昇し、やがては第二のトレーゼとなる。そしてそこにNo.9の意思が介在する余地は無い。つまりは、融けて消え果ると言う事だ」

 それはノーヴェの自我を殺す事を意味していた。

 生きながらにして殺され、そして死ぬ……それはとても恐ろしい事であると同時に──、

 とても──、

 「そんな事……絶対にさせないっ!」

 許せない事だった。

 「やるか? 意図有って今まで見逃してやっていたが、もう貴様には毛ほどの容赦も油断も慈悲も掛けん……真正面から徹底的に潰す、確実にな」

 「ノーヴェを解放して。どうしたらいいの?」

 「俺の脳を破壊しに来い。可能であればの話だがな」

 「……………………」

 「……………………」

 左腕を構えるスバルと、ノーヴェの肉体を借りたトレーゼが互いに睨み合う……。紅と翠の相反する眼が互いの急所に狙いを定め、どちらかがその集中と間合いを崩す瞬間を虎視眈々と探り続けていた。それは二分だったか或いは五分以上続いたのか……ふと何を思ったのかスバルが口を開き……

 「最後に一つだけ教えて……。トレーゼは何を考えてるの? 本当は…………何をしようとしているの?」

 「そんな事を聞いてどうする? もうこれで最後だ、互いに何の遺恨も無しに終わりたいなら余計な疑問を抱くな」

 「最後なら! 最後だから……全部聞いておきたい。遅過ぎって思ってるくらい、もっと早く聞いておくんだった」

 「聞いた所で何も変わらない。貴様はここで俺に抹殺される……それは決定事項だ」

 「それでも教えて欲しい…………好きな人の事は嫌な所も好きな所も何もかも知っていたいから……」

 「……………………」

 「教えて……聞かせてっ!」

 「…………………………………………この戦いに……意味は無い。俺の行って来た全ての行為に意味は派生しない」

 「意味が無い……?」

 「この半月で俺が行って来たのは“変革”ではない。自分の周囲の何かを変える為にしてきた行為ではないから、そこには何の意味も無いんだよ。何かを変えたかった訳じゃない…………そうさ、俺はただ、全てを『在りしあの日』に戻そうとしているだけなんだから……」

 “在りしあの日”……その言葉がこれまでのトレーゼの凶行を裏付ける全ての要因である事を確信したスバルはそこから更にトレーゼの真意を聞き出そうとしたが──、

 それ以上の言葉は語られる事は無かった。

 「俺の真の行動原理は『淘汰』と『回帰』……不要なモノを全て切り捨て、残ったモノを持って過去に戻る事だ。そして、その俺の求める楽園……理想郷に堕落したナンバーズなど必要無い。貴様も、こいつも、俺の戻るべき過去においては不純物でしかない。だから殺す、壊す、滅ぼす……必要無いモノは切り捨てるしかない」

 「…………聞かなきゃよかった、なんて言わないよ」

 「そうか、俺は言わなければ良かったと思っている」

 紅い疑似魔法陣が光り輝き──、

 蒼いベルカ式魔法陣が展開する──。

 誰が示し合わせた訳でもなく、誰が意図した訳でもない……これはあるべくして起こった事であり、避け様の無い運命の様なモノなのだ。そこには「違う出会い方をしていれば……」などと言うドラマみたいな甘い言葉は無い。これが現実、これが事実、今目の前にあるこれが全ての真実であり終着点だと阿吽の呼吸で対峙する二人は確かに実感していた。

 「……最後に言い忘れてた」

 「奇遇だな、俺も言いたい事がある」

 「ほんと? じゃあ言うよ」

 「ああ、俺も言ってやるさ」





 「大好きだよ、トレーゼ!」        「殺したいほど嫌いだ、セカンド!」





 獣の咆哮にも似たその言葉を火種にし、紅と蒼の閃光が夜の暗闇で激突した。生み出された戦いの余波はまるで相反する互いの胸中を表すように周囲の全てをことごとく打ち崩して行った。










 22時40分──。



 トーレは戸惑っていた。急にトレーゼの気配を感じなくなった事を不審に思った彼女は一旦上空に上がってあの紅い光を探そうとしたのだが……

 「やはり結界か……」

 地上本部を含む街全域を覆い尽くした封時結界を恨めしげに睥睨しながらトーレはどうにかして結界を突破出来ないかを模索し始めた。だが地上本部にて待機していた二千名以上もの大部隊の気配も無く、先行したと伝え聞いた妹達の反応もまるで無く、自分一人が結界から締め出されたのだと気付くのに時間は掛らなかった。

 意図的に締め出しを喰らったのだとすれば侵入は容易ではないだろう。ましてや第三者の協力も無しに単独戦力だけで無理矢理突破する事が出来るとも思えない……せめて通信だけでも出来れば中に取り残された者と連絡を取り合って内側から結界を破壊する事が出来るのかも知れないが、どうやらその隙すら無いらしい。

 「だが何故私だけ? あれ程の数の部隊を取り込んでおいてどうして私だけが……」

 何かしらの意図があるのは明白だが今の時点ではそんな事を考えていてもどうする事も出来ない……一体どうすれば?

 だが、そんな事を思案していた彼女の上空で何かが輝いた。

 「あれは……あの光は」

 澄み切った寒空に浮かぶ二つの月に紛れて煌々と輝くその光は鮮やかな桜色……。夜闇を照らす照明弾として打ち上げられたそれの発射元を見やったトーレは待ちに待った人物達の姿をそこに見た。

 「トーレさん! 無事ですか!」

 「高町一等空尉。動けるのですか!? それにフェイトお嬢様まで……。まだ体の傷が癒えていないはずでは」

 「説明は後回しや! 地上本部はどうなった? 通信が断絶して報告が入って来てへん」

 「ひょっとしてこの結界の所為で?」

 「いえ、この結界は今しがた張られたものです。通信不全に関してはトレーゼの行使した何らかの能力が原因かと……。現在は全部隊が撤退を余儀無くされ、最終防衛ラインまで退却している状況です」

 「撤退!? 二個大隊より多い魔導師群が?」

 「一体何の策を……いや、スカリエッティが策は無意味て言うてたんはこれの事やったんか」

 「何とかして結界を突破する方法は?」

 「デバイスの補助が利かないこの状況ではどうする事も……」

 この規模でこの精度ともなれば無理に突破しようとしても痛い目を見るのはこちらだけだ。デバイスも使えない、魔法の使用も制限されているこの状況で出来るだけ安全且つ確実なやり方で侵入する方法が果たして……

 「いや……一つだけあった」

 アイデアと言うモノはいつだって唐突に現れる……そして切羽詰まった状況に閃いた妙案と言うモノはいつだって誰もやらない様な奇抜で奇っ怪なものだったりするのだ。この場合、トーレの脳裏に浮かんだそれもまた例外ではなかった。

 「あまり確実な方法とは言い難いが……今の状況ではこれ以外には無いかと」

 「言うてみい。ちゃんとした作戦やったら二等陸佐の権限で採用したるから」

 「その為にはまず貴方の守護騎士、シャマル女史のお力を借りたいと思います」

 その時、ちょうど後方からヴァイス達の乗るヘリのプロペラ音が聞こえて来た。










 分が悪い戦いなんて始めから分かっていた事だった……。

 顔も分からないまま拳を交えた最初の頃とは違い、今度は正々堂々真正面、互いの意思と目的をはっきりさせた上での合意に基づく戦いだ……そこには何の遠慮も違和感も無い、ただ単に純粋なる実力差があるだけの世界なのだ。

 故にどんな過程であろうと結果が全て……。

 「ぐ、ぐくぅ……っ!」

 「弱いな……試作機と最新機の間にはこれだけの差があると知っていながら盾突くとは」

 開戦からおよそ五分後、スバルは無様に地に片膝をついていた。原因は身に溜まったダメージと、慣れない戦い方をした事による過度なスタミナの消費……デバイスの補助が無い状態でのウィングロードは神経を削り取り、左腕だけの殴打で不安定になる肉体のバランスを取る為に体力の大半を維持に費やしたからだった。結果として彼女の疲労した体には少ないダメージが毒の様に全身に回り、関節を始めとする肉体のウィークポイントを麻痺させていた。

 だがどうしてもスバルは腑に落ちない所があった……。

 「どうして……あんなに打ったのに……」

 それは自分の攻撃。確かに実力差だけで言えば今のノーヴェの方が遥かに上だ、あのトレーゼが操作しているのだから納得するしかない。だが文字通り死ぬ気で立ち向かったスバル自身もその体に何発かの打撃を見舞ったのもまた事実……顔に二発、両脇腹に蹴りを三発と打撃を一発、脚部に至っては五発も打ち込んだ。的確に急所を狙えたかどうかについては不安だが、与えた衝撃の総量は確実に自分の方が上のはず……これがギンガならとっくにダウンしているはずだ。

 「こいつの体に過負荷を与えて動けなくするのが目的だったようだが、それは見当違いと言うモノだな。戦術的な読みが甘過ぎる……貴様、こいつと何年一緒に居るんだ? 自分とほぼ同性能だから勝てると思っていたのか?」

 「どう言うこと……何言ってるの!?」

 「そもそも、こいつと貴様とでは持っている性能の方向性がまるで違うんだよ。肉体増強レベルAAAと言う単位が単に肉体の持つ突貫力だけを示していると思っていたのか。だとすれば本当にお笑いだな」

 肉体増強度は僅差でノーヴェの肉体の方が上だが積み上げて来た技量としては言うまでも無くスバルが上だ。伊達に姉から格闘訓練を受けていた訳ではない、コンディションさえ整っていればその拳に砕けないモノなど無いとさえ言えた。

 だが不調とは言え彼女の一撃はノーヴェの体に通じている様子は全く無かったのも事実だ。トレーゼの操作によって体表に障壁が展開されている事を差し引いたとしても首を傾げざるをえない。

 (こうなったらもう一回振動拳で……)

 訳の分からない事は考えないようにして左拳を上げたスバルは……

 その時、はっと閃いた。

 攻撃……。

 通じない……。

 増強度……。

 振動拳……。

 様々なワードが電流の如き情報の奔流となって脳内を駆け巡り、野性に冴えた彼女の脳はそれらを方程式に当てはめてある一つの解を導き出した。ノーヴェの視界越しに様子を見ていたトレーゼも彼女がその答えに辿り着いたのを察したのか口の端をほんの少しだけ歪めた。

 「ようやく分かったか。だがそれで納得行くだろう? そう……No.9の増強レベルAAAと言うのは単なる筋力の増加による攻撃力の増大の事ではない」

 「防御力……体の耐久力を上げる為に……!」

 ようやく思い出した……あれは三年前、彼女と初めて会った地上本部襲撃事件の時だった。暴走したスバルはあの時初めてIS【振動粉砕】を覚醒させ、チンクとノーヴェの二人に多大な損傷を与え強制的に撤退させた……その所為でチンクはそれ以降の計画に参加する事が出来なくなり、ノーヴェの方も腕部や脚部の修理を余儀無くされたのだ。固体に対して絶大な威力を誇る【振動粉砕】……近接戦闘においては全ての戦闘機人の天敵となる能力に目覚めた彼女が最初に手を掛けたのは、後に自分の姉妹となる人間達だった。

 だがその時はあまり気にもせずにそのまま三年間過ごしていたが、どうしても不思議だったのだ……。

 何故同じ力で殴ったのにノーヴェだけがすぐ復帰出来たのか? あのスカリエッティがチンクの修理を怠ったとは考え難い……だとすれば、元々ノーヴェ自身の物理衝撃耐性が強かったと考えるのは妥当な結論だろう。最初から防御力を念頭に置かれて開発されていたとしたならこれまでの攻撃が殆ど通じて居なかったのも説明がつく。

 しかし、分からない事がもう一つだけある。

 「何故戦闘機人なのに防御力を重視しているのか……そう聞きたいんだろう?」

 戦闘機人はその名の通り戦い、攻撃し、殲滅し、制圧する事を常識として生み出されている。多少なりとも耐久力は求められるが、それでも個体が持つ攻撃力に比べれば重視されているのは明らかに後者だ。ノーヴェの場合はそのステータスが逆転したある意味異常とも言える個体と言う事になる。

 でもどうして? 何か理由が……そのように造った理由があるはずだ。それは何なのか?

 「決まっている。そうする事を目的に造られているのだからな」

 「どういう……こと?」

 「こいつはな……No.9はあるモノを物理的衝撃と損傷から守る為に『守護』をコンセプトに造られている。その為に防御力に限定すればトーレにも引けを取らない」

 「待って! 何なの……一体何を守ろうとして……」

 「俺だよ」

 「……………………え?」

 「システム・ナンバーズ……この俺、No.13を中枢として形成される十三人一個隊の連携態勢の総称だ。俺を司令塔の『ブレイン』として、残り十二人が常に俺の指示で絶え間無く動き行動する。そして、それぞれに特性と能力にあった役目が与えられる……。こいつのポジションは『シールド』……ありとあらゆる衝撃と攻撃から俺を護衛する為だけに造られるはずだった“楯”の役目を担うはずだった」

 彼の言葉が正しければ全てのナンバーズは彼自身に従属するのを前提に造られた事になる。十三人で一個体……群にして個、個にして群……動作継承システムによって全員のポテンシャルを最大限にまで引き出し一糸乱れぬ戦闘行動を取るその姿は戦場に生きる者にとってはまさに神懸かりな存在に見えるはずだ。更にそこに本来存在し得ないはずの『同族支配』の効果が加わる事でシンクロ率は飛躍的に上昇する……一人のトップを中心にして後の十二人が完全にそれの手足となるのだ。これこそトレーゼ自身が豪語した個人所有が可能な兵器の最終形、究極の姿である。

 「だから俺はこいつがどんなにダメージを負った所で気にもしない」

 「…………それが……」

 「ん?」

 「それが自分の事を守ってくれてる人に向ける態度?」

 「それがどうした? これが当然の帰結、在るべき形なんだよ。こいつがどんなに傷付いても俺は痛くも何ともない……それが真理だ」

 「そうだね…………私もノーヴェの体思いっきり殴ってるけど、私は痛くない」

 「それはそう────」



 「でも痛い!」



 「…………はぁ?」

 「例え他の誰も知らなかったとしても……私は知ってる、ノーヴェが傷付いてるって事を。それに……本当はトレーゼも知ってるはずだよ」

 「戯言を!!」

 トレーゼの操作した右腕がスバルの腹部を打ち据えた。口から飛び出した血飛沫が僅かに袖を濡らし、その上体がぐらりと揺れて地面に崩れ落ちそうになるが、寸前で持ち堪えた彼女は自分の腹を打った腕をがっちりと掴んだ。

 「今……私は痛い。私も同じ事してたからきっとノーヴェも痛い……」

 「それがどうしたっ!」

 「私は絶対に信じないよ。何も感じて無いはずない……あんなに優しいトレーゼがこの痛みに気付いてくれないなんてないよ」

 拳を左手で包み込む……遠く離れた所に居るはずの“友”にその温度が届くようにと。










 「ちぃっ! しぶとい奴」

 結界の維持に専念しながら道を歩くトレーゼは苦々しい台詞を吐いた。身内に攻撃され、そしてそれを真正面から倒さなければならないと言う精神を削ぎ落す作戦に出たと言うのにこれでは逆効果……早々に仕留めるはずがとんだ油を売る羽目になってしまった。

 「どうする……何とかして、あいつを、早急に、潰すには……」

 手は無いかと思案するが、もう使える駒は何も無い。自分は邪魔が入る前にここから先を急がねばならないし、マリアージュ達は全て部隊の監視に徹底させている。このままではこちらがジリ貧に持ち込まれてしまうのは時間の問題だろう。

 だが──、

 幸か不幸か──、

 天は彼を見捨てなかった。



 ≪ワタシを使ってください、兄さん≫



 ナンバーズの第七番、セッテ……与えられた役目は『ソード』、近接高機動戦特化型個体『ジャベリン』との連携を目的に造られた彼女からの助力願いが出された瞬間だった。

 「……良いのか?」

 ≪どうせ今のままのワタシでは動けません。なら有効利用する手立てがあればそれを使うのは道理です≫

 「道理、か……。本当は、もっと別に、理由があるんだろう?」

 ≪…………好きだからです。ワタシは貴方に尽くすのが好きなだけですから……貴方もワタシを好きな様に使ってくれて構わないのです≫

 「…………そうか」

 何も言わない……言わずともそれがセッテの本心なのだろう。であればこれ以上何も問い質す事は無い。

 トレーゼはただ黙って空に手を伸ばし、頭上の疑似魔法陣の回転を上げさせて何度目かになるISの発動に取り掛かった。

 「IS、No.13……【アブソリュート・ドミネイター 2ndフェイズ】、発動!」

 凶暴な紅い光が再び街全体を染め上げた。




















 「そうか……これが儂の頭脳と神の奇跡との間にある差と言うモノか……」

 「生物の持つ進化の壁……それを目の当たりにしてしまえば諦めなければならんのだろうな」

 「だが……!」

 「確かに儂は挫折した……だがそれと同時に『成功』したのだ!」

 「あのスカリエッティですら成し得なかった事を私は成し遂げたのだ!! あの狂気の天才を儂は一度だけ、一度だけ凌駕したのだぁっ!!!」

 「しかし…………どうやらここが儂の限界のようじゃな。この老いぼれの脳ではこれ以上多くは望めん。残念じゃが、この研究は今日で凍結……封印するしかない」

 「すまんなぁジェイル……お前と交わした契約は守れそうにない」



 新暦64年某月某日──。老獪なる科学者ハルト・ギルガスはその日を最後にNo.13『Treize』との繋がりを断ち切った。

 それ以降、彼がそのドアを開けた事は無い。



[17818] XⅢ×0=ホントウノキモチ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:816f2742
Date: 2015/07/17 07:41
 新暦300年某月某日、時空管理局本局の講習室にて──。



 「────で、ある事から分かりますように、この場合に置けるエネルギー供給率はAEC兵装に取り付けるコンデンサーの働きにより、最大で十倍、最小限に見積もっても五倍以上の出力を得られます。従来のカートリッジシステムとの併用ももちろん可能です」

 魔導生物生態学の権威、リズ・N・シュテルの学術範囲が生物学だけに留まらない事は管理局と学会に身を置く者であれば周知の事実である。本人曰く、「生物学が一番得意なだけです」との事であり、実際に彼女が手掛けている分野は多岐に渡る。新しい魔導力運用技術の提唱と実証……外殻を形成するに必要な新素材の発見……遠くない将来に枯渇するであろう天然資源に代わる新たなるエネルギーの発明…………彼女が持つ知識でミッドチルダを始めとする管理世界の技術水準は500年発展したとさえ言われている。

 そしてその中には今こうして多くの研究者達を前にして講釈しているデバイス工学も含まれていた。現在、管理局の強攻機甲隊の標準装備となりつつある各種AEC兵装も彼女の提唱した技術によるエネルギー供給面での欠点を乗り越え、CW社をコネクションとするにまで至っている。

 「唯一の問題はコストです。コンデンサーを造るのに必要な……」

 「主任、少しよろしいですか?」

 「はい?」

 スクリーンに映した映像に指揮棒を振っていた彼女は横から来た助手に耳打ちされ、その後さっさと資料と荷物をまとめると多くの研究者が見守る中で退室して行った。

 「説明が必要な部分に関しましては後ほど冊子を配布します」

 そう言ってドアを閉めると、外で控えていたもう一人の助手に資料を預けて通路を急いだ。

 「場所はどちらですか?」

 「例によって第一会議室です」

 「上層部はいつも人遣いが荒いですね。今日はまだ良いですが、十年前には無人世界での調査中に呼び出されましたし……」

 急いで走ったので予想よりも早く辿り着き、付き添いの助手を外に待機させ呼び出し人と先客の待つ室内へと入って行った。室内は微妙に薄暗く、張り出されたスクリーンに映し出した映写機の光だけで部屋を照らしていた。先客の数は全部で六名……その内二人は彼女の見知った顔だった。

 「揃ったようですな……では……」

 「うむ。本局次元航行艦隊XV級艦船第四十七番艦『アルギュロス』所属、クラン・N・ロード。階級は一等空佐」

 「地上本部教導隊及び強攻機甲部隊所属、フォス・N・レヴィ。階級はえっと……三等空佐だったかな」

 「無限書庫所属の司書、リズ・N・シュテルです。以上三名、本局付き特務機関所属機密部隊『シュベルツェリッター』、出頭命令により馳せ参じました」

 席を立って短い挨拶の後に再び座り直し、一堂に会した七人は早急に本題に取り組んだ。スクリーンに映し出されている映像は地図……歪んだ等高線が何本も描かれている所を見る限りでは恐らくどこかの山岳地帯の物であろう。

 と、そんな事を思案している間に議題は進む。

 「部隊の数は最少で700、最大では1000名以上もの武装隊が確認されている。現地に派遣した部隊の報告では、全容を計り切れていないが複数の伏兵も確認されているそうだ。あと、あちら側からの情報リークによれば保管及び研究されていたロストロギアを兵器として使用しているとの情報もある」

 「それで送り出した選りすぐりの部隊がことごとく撤退か……。どうだ、かつての同胞にしっぺ返しを喰らう気分は?」

 「辺境の無人世界に展開していた支部が造反しましたか。組織内の反乱と言うのは過去にどれほどありました?」

 「う~ん、どうだったろうね。何回か起こりそうって言うのは聞いたけど、その度にボクらが揉み消して来たからね」

 「起こってしまったモノを今更とやかく言っても埒が開かぬ。これ以上被害が拡大する前に現在展開している部隊を全て撤退させよ。後は我らで解決させる」

 「待て! 解決させるとはどう言う意味だ!?」

 「無論、我らだけで乗り込むに決まっておる。大多数で叩いて潰れぬのなら少数精鋭で削り取るのは戦略の定石……押して無理なら引くまでよ」

 「特務機関に所属する者は存在を秘匿する義務がある! この組織を公にしてしまえば社会に混乱が……」



 「知った事か。言葉を慎めよ塵芥」



 クランと名乗った女性の冷徹な声が暗室に静かに響き渡り、目の前の老人達を一瞬にして黙らせた。年齢の差は優に二周り以上は離れているその人間を相手に老人達は完全に幼子の様に委縮してしまい、重苦しい沈黙が室内を充満した。

 「たかだが六、七十年程度しか生きておらん若造が偉い口を叩くようになったな。我らはうぬらの爺が胎の中に居る時からずっとここで貴様らの掲げる下らぬ“正義”の為に尽くしてやっているのだ」

 「私達の勤続歴が何年か知ってますか……そうそう居ませんよ、こんな社会貢献者。それなりに敬意と言うモノを払って頂きたいですね」

 「ボク達だけで残りの管理局全体の武装局員と釣り合いが取れるの知ってるよね? だったら問題無し! ちゃっちゃと行ってさっさと終わらせてくるよ」

 「ま、待ってくれ! 君達……いや、貴方達が管理局随一の実力者である事は認めよう。しかしだな、支部の戦力を丸ごと相手にするのにたった……たった三人では……」

 「何か勘違いをなされていませんか?」

 「勘違い?」

 「公式にも非公式にも最強なボクらの部隊、シュベルツェリッターの構成人員数は三人じゃなくて『五人』だよ」

 「それにうぬら、先程確か支部側がロストロギアを兵器使用していると言ったな? その程度で我らを凌駕したつもりでいるのかその下衆共は」

 「物にもよりますが、確かに私達の実力を鑑みれば第一級指定の古代遺物と真正面からタメを張るのは些か至難でしょう」

 「だがな、我らに秘策が無いと思っていたのか」

 「目には目を────」

 「歯には歯を────」



 「ロストロギアにはロストロギアを」



 その言葉と同時にクランが事前に持ち込んでいたバッグの中からある物を取り出し、デスクの上にそっと置いた。その場に居合わせた全員の視線が置かれたそれに注がれる。

 「これは……まさかっ!」

 それは“本”、一冊の黒い本だった。厚さとサイズは丁度市販されている辞書程度で一見何の変哲も無い只の本にしか見えないのだが、その本にはどこにもタイトルが書かれておらず、表紙を含む全てのページが暗黒の黒に染め上げられた一冊だった。

 「議長はこれが何なのかご存知なのですか?」

 「ああ、見るのはこれで二度目になる。かつてミッドチルダに現れて管理局に敵対し、その後管理世界の発展と進歩に尽力したとされる存在…………それが封じられた第一級指定ロストロギア!」

 「そう……ECドライバーの秘宝、『銀十字の書』はもとより……最悪のロストロギアとさえ言われたあの『闇の書』ですら足元には遠く及ばない」

 「管理局が保有する唯一の兵器転用ロストロギア……」



 「紅い悪魔……『暁の書』」




















 新暦78年11月22日午後22時40分、結界範囲外のクラナガン上空にて──。



 「どうだ?」

 「ダメよ、これ以上は……!」

 「そうか……」

 上空に停滞して街の様子を見守る人影が五人分……結界から締め出されたトーレ、ヘリから先行して来たなのは達三人と、続いてヘリから出て来たシャマルの五人だった。ちなみに彼女らが乗っていたヘリは現在結界から距離を置いたビルの屋上に待機しており、有事の際にはすぐに飛び立てる様にとエンジンは起動させたままだった。

 トーレがシャマルを呼び出した理由、それは彼女だけが現在この結界を突破するに足る能力を持つ唯一の人物だと判断したからだ。と言うのも、今シャマルが発動させている空間接続魔法【旅の鏡】は結界の中と通じており、結界と外界を結ぶ即席の連絡通路を実現させていた。この方法であれば結界の表面に接触して敵に気取られる事も無い……そのトーレの予想通りに中と外を繋ぎ始めてから数分が経過するが未だに内側に居るはずのトレーゼからの妨害は無かった。

 だが問題が無い訳でも無かった。

 「流石にこれやと中には……」

 「ごめんなさい、はやてちゃん。やっぱりクラールヴィントの助けが無いとこれが限界みたい」

 本来【旅の鏡】は他でも無いシャマルのデバイス、クラールヴィントの補助を受けなければまともに扱えない高等魔法である。互いの空間の座標を確認し、緻密な魔力計算を以てして初めてゲートで繋ぐ事が出来るようになるのだ……人工知能であるデバイスのスペックでなければその計算も疎かになってしまうのは必然、結果として開通に成功したゲートの表面積は人の頭が通るぐらいの小さなものでしかなかった。

 開通ポイントは丁度地上本部の展望タワーの真上辺り。あまり地表に近いと敵に勘付かれる恐れがあった為のこの高度だが、如何せん通れないので意味は無い。

 「念話は届きそうか? もし可能なら中とここからの一点集中で結界を崩せるかも知れない」

 「やってみよ」

 少し離れているがこの距離なら地上に居る部隊にも念話が届くはずだ。早速はやては部隊の現場指揮を任されているはずの守護騎士達に通信を試みた。

 だが──、

 「おかしい……念話が届いてへんのかな? 返事が無い」

 「返事が……って、ヴィータとシグナムが応答しないなんて事が!」

 「考えられるのは二つ。敵と交戦しとる最中で手が離せへんか……或いは既に制圧されたか」

 「百歩譲って撤退したのは事実だとしても、あれほどの大部隊を丸ごと制圧と言うのは……」

 「確かに考え難い事や。やけど、現にこうやって何の応答も無いって事はそれも可能性の一つっちゅう事になる。頼む…………誰でもええ、誰か応えて」

 必死に魔力波を送信し続けるはやてと共になのはとフェイトの二人も同じく穴の向こうに向かって念話を試みた。自分達の放つ波長を誰か一人でも受け取ればその人物に協力を仰げる事が出来る……ここまで来たイチかバチかの賭けに誰もが必死になっていた。

 そして……

 ≪誰です……? 誰か生き残ってるですか?≫

 待ちに待った声が脳裏に届いた。

 ≪こちら本局付き魔導師、八神はやて二等陸佐や! 現在のそちらの状況報告をお願いします!≫

 ≪はやてちゃんですか!?≫

 ≪その声はリイン? 無事やったんか? 他の皆はどうなっとる?≫

 初めて返事を返して来たのはヴォルケンリッターの小さな騎士、リインフォースⅡだった。届いて来る魔力の波長が弱いのか、或いは単純に距離が離れ過ぎているだけなのかは知らないが念話の声は小さく、冷たい風が吹き荒ぶ中で耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうだった。

 ≪部隊は? 部隊はどうなったん?≫

 ≪地上部隊は……正体不明の集団に制圧されたです≫

 ≪……そうか。予想が外れてくれておったら良かったんやけどな≫

 ≪リインは前線じゃなくて後方で情報処理係してたですから、隠れる事が出来たです。けど、他の皆は……演習場に集められてそこに拘束されてるです≫

 「二佐、通信が繋がっているのであればその者に助力を。内と外からであれば結界を……」

 「あかん、リインじゃ火力不足や。下手に動いたらまとめて撃墜されかねへん」

 ≪リインちゃん、そっちに助けを呼べそうな人って他に居る?≫

 ≪無理ですぅ、皆さんのデバイスが急に不調を起こして魔法が使えなくなってるんです。戦えるぐらいの人で捕まってないのはリインぐらいです≫

 だがはやての夜天の書が使用出来ないこの状況、リインの蒼天の書もまた同様に使用不可に陥っているのはわざわざ言われなくても分かるだろう。となれば彼女の言う「戦える」と言うのはあくまで辛うじてと言う事になる……現状で無理に行動させるのは得策ではない。

 「空間繋いだ意味あったんかな……」

 「一旦閉じます?」

 「せやな。ご苦労さん、もう閉じて……………………いや、ちょっと待った!」

 「はやてちゃん?」

 ≪リイン、外に出たら上にシャマルの開いた【旅の鏡】が見えるはずや≫



 ≪ちょっとここまで来てくれへん?≫










 システム・ナンバーズ……それは個を群に、群を個にするナンバーズ独自の戦闘隊形の総称である。中枢の『ブレイン(脳)』たるトレーゼを中心とし、前衛四人、後衛及び前衛の補助が五人、そして指揮系統補助が三人……少人数であるが故に各人への指揮と統制が完全に行き渡り、各人の持つポテンシャルを互いが邪魔する事無く遺憾無く発揮され、一糸乱れぬ統率の下に作戦行動を完遂させる事を目的とした武装集団の理想を体現する事を目的として編み出されるはずだった。

 はずだったと言うのも、本来この戦闘隊形は高度な技術と緻密に積み重ねた演習、そしてナンバーズ個体間の動作継承システムによる戦闘経験値の短期間増幅の恩恵を受けて初めて成り立つものだからだ。軍人が何年にも渡って実戦を想定した軍事演習を行って精度を高めるように、彼ら13人は本来ならば来るべき計画に備えて十数年に渡ってそれを行わなければならなかったはずなのだ。

 当然の事ながら製造されてすぐにトレーゼを欠いた事により企画そのものが瓦解、風化してしまった。なので重ねて言う様に、この戦闘隊形は今のこの状態ではどう足掻いても即席で成せるような生易しい技術ではないはずだった。

 そしてそれを覆したのがトレーゼのIS、【アブソリュート・ドミネイター 2ndフェイズ】である。同族のナンバーズを完全に支配下に置くこの異色の能力は肉体への命令信号を一方的に伝達し、且つ時間が経過するごとに量子変換された感覚情報が脳に浸透、最終的に親機であるトレーゼと子機である各ナンバーズの感覚と意識を強制的に同調・融合させる事を目的としている。言わば電子干渉を主体とした『1stフェイズ』の対生物応用版とでも言うべき力……それがスカリエッティですら予測しえなかったトレーゼの“無限の進化”によって引き出された【アブソリュート・ドミネイター】の真の力である。

 これの効果によりシステム・ナンバーズは机上のペーパープランの時に割り出されたパーセンテージを大きく上回るだけの同調率を弾き出し、天才スカリエッティをも驚愕させる結果をもたらすに至った。

 しかし、物事に“絶対”と形容されるモノが無い様に、一見ナンバーズに対して完璧にも思えるこの力にも当然の様に欠点があった。

 それは……










 「支配可能な、ナンバーズには、限りがある」

 スバルの進行速度が予想以上に速いのを懸念したトレーゼは一旦ビルの陰に身を潜めてそのままやり過ごそうとしていた。

 ここで言う『限り』と言うのは支配できる数の事ではない、条件さえ揃えばそれこそ十体だろうが百体だろうが問題無く操作出来る。問題なのはその条件……個体を支配下に置くに当たって満たさなければならない条件がたった一つだけ存在していた。たった一つだけだがそれをクリアするのはある意味では至難に等しく、逆に言えばその条件さえクリアしてしまえば全てのナンバーズを支配できる事を暗に示していた。

 それは『精神』……哲学的な話、人間の中に確実に存在する形無きモノ、これが一番の厄介者なのだ。

 人間の脳細胞は一説ではコンピュータ並みの容量を持ち合わせているとされ、所謂リミッターの様な物を解除すれば記憶力を始めとした各神経及び感覚野の刺激受容スペックが大幅に引き上げられ、通常時よりも大量の情報量を且つ迅速に処理する事が可能になると言われている。量子変換し圧縮された人間一人分の感覚情報であれば介入する余地がある。しかし、コンピュータ以上に繊細な神経細胞の集合体である脳自身がその負荷に耐え切る確率はほぼゼロに等しく、普段は脳の中にある存在が鍵を掛けているのだ。

 それが人間の心を司るとされる精神である。脳の感覚野を拡張する際に発生する痛みを忌避して人間は無意識に感覚を閉ざしている。加えて人間の精神は表層深層に関わらず意識の根幹を成すその部分は基本的に他者を受け入れる事は決して無い……無理に心理領域に入り込もうとすれば力尽くで排除されるだけだ。

 「だから、奴らに、接触し、その心理に、接近する必要が、あった……。奴らに、俺を、受け入れさせる為に」

 幾度にも渡って一般人を装い近付く事でこちらに抱く警戒心を薄れさせ、精神の壁を肉薄にして行く……そうする事で脳を剥き出しにさせ、【アブソリュート・ドミネイター】の力で無理矢理抉じ開ける……後はデバイスと同じだ、脳の中にある全ての情報をこちらが埋め込んだ圧縮情報によって上書きするだけで終わる。だが当然の事ながら、抵抗力が強い者に行使しても意味は無い。

 「そう言う、意味では、No.9は、未だ俺に執着、していると言う事か。フンッ、アバズレが」

 ノーヴェに使った時、それまで感じていた殺意の激しさとは全く裏腹に抵抗は殆ど無かった。精神が未だこちらに依存している証拠だと言えよう。

 「だが、そんな事は、どうでも良い……。今はただ、セカンドを、止める事だけを、考えろ」

 まさか最弱の存在だと思っていた者が最大の障害となって自らの前に立ち塞がろうなどと夢にも思っていなかったのか、物陰の奥から僅かに顔を出しながらトレーゼは苦々しく呟いた。標的の気配が操作しているノーヴェと共に徐々にこちらに接近して来るが一向に倒れる兆しは無く、それどころか僅かにだが進行速度を増してこちらに向かって来ていた。このままこちらに向かって来てしまえば接触してしまうのも時間の問題だろう。

 ふと、トレーゼはある事を自覚してしまった。

 何故彼女との接触を避ける……? 実力も戦況も明らかに自分の方が有利であるはずなのにどうして面と向かっての戦闘を回避しなければならないのか?

 「この俺が…………奴を、避けている? 何故?」

 今だってそうだ、物陰からコソコソと隠れて様子を窺っているこの姿もまるで逃亡中の敗残兵の様だ。無様ことこの上無い! これではまるで戦う前から負けを認めてしまっている様なものだ。

 そんな事……

 「そんな事は、認められない」

 己の思考の範疇に置いて認められないモノがある時、人間は必ずそれを全力を以てして排除しようとする。俗に「エゴ」と呼ばれるそれが、今のトレーゼの中に確かに芽生えていた。

 認められないから排除する……なら、その最も確実で効率の良い方法は──、

 「やはり、抹殺……」

 今宵殺すは唯一人のみと宣誓を立てたがどうやらそれは適わないようだ……。本来の筋書きでは降下したマリアージュ部隊の命令は魔導師隊の『確保』ではなく『殺害』、つまりは皆殺しを目的とするはずだった。だがセッテの大量破壊・殺戮への強烈な抵抗感がある以上、もしそうすれば彼女が暴走しかねない……そう判断し、トレーゼは計画の大幅修正をせざるを得なくなったと言う事だ。

 だが最早そんな事に拘っていられる程に事態は甘いモノではない。取り返しのつかなくなる前に全てを今ここで終息させるのだ。

 「最優先事項、変更……。目標の、殲滅を、最優先とする」

 疑似魔法陣の光が一際大きく輝き、空に伸びた一条の閃光が地上本部と反対方向へと駆け出した。恐らくはスバルも気付いたに違いないがそんな事は関係無い、これから確実な方法を以てして仕留めるのだから。

 「セッテ……お前の体、借り受ける」

 嗚呼、今なら少しは分かる気がする……。

 幼き日、姉のトーレがあそこまでして自分に構ってくれていたのが今ならほんの少しだけ分かる気がする。

 かつて自分の為に身を挺してまで助力してくれたのは三人の姉と、今のところ唯一人の妹であるセッテだけだった。自分に何かを期待しているからこそ頼り、助けてくれる……ならば期待されて応えるのは兄の役目、ここで何もかも遺恨無く終わらせてしまわねば全てが台無しになってしまう。それだけは絶対に阻止せねばならない。

 「…………接続、完了。駆動系、出力系、共に異常無し……行ける」










 「接続完了。駆動系、出力系、共に異常無し。行ける」

 最初にセッテの感覚神経を通して感じたのは水の冷たさと纏わりついた泥の不快感だった。まだ少しふらつく頭を押さえながら立ち上がったセッテ……いや、トレーゼがその視界で最初に捉えたモノは、こちらをこの世のモノとは思えないと言いたげな目で見て来るギンガ達だった。重傷を負いながらも救助の目処が立たない彼女らはその間地に伏したセッテを監視していたのだろうか、既に疲労困憊のはずなのに皆一様に最低限の戦闘態勢だけ整えるとこちらとの相対距離を一定に保とうと緊張を張り巡らせた。

 だが当のトレーゼにはその様な思惑など露とも無く、彼女らを一瞥もせずにセッテの肉体を操作して歩き出すと──、

 「待ってろよ、必ず殺して見せる」

 雪を踏んだ様な軽い音と共にアスファルトと土の入り混じった地面に亀裂が入り、そのバネを加速に利用したセッテの体は瞬時にレーシングカー以上の速度を得てギンガ達を遥か後方へと置き去りにした。左右に広がるビルの光景が次々と大河の如く流れ去るのを繋がった視界を通して見えるのを感じながらトレーゼはその視界の前方遠くに居るはずの怨敵に狙いを定める。肉体の感覚同調率はノーヴェと同等かそれ以上……否、ノーヴェとは比較にならない。これは正に同調を越えた融合の領域にまで到達している。

 「素晴らしい。いい……いいぞこの感触! この躍動! この力! 流石はトーレの戦術補佐をする為に造られただけはある」

 単純に全身を構成する細胞、染色体がトレーゼの物を利用していると言う事もあってか頭から背面、指先に至るまでの肉体の全てが本体からの命令をダイレクトに反映してくれる……体が何もかも軽やかだ。

 だがこの代償としてセッテの脳はこちらが発するウイルスによって徐々に浸蝕され、やがては最終的に自我を喪失するだろう。だがそれも承知の上で彼女は名乗り出たに違いなかった。

 「感謝するぞセッテ」

 脳髄の端に追いやったこの体の主に礼を言いながらトレーゼはセッテの体を自分の許に向けて一直線に走らせた。討つべき敵を討つ為に……。

 だがしかし──、

 この時彼は気付いていなかった。

 遥か遠くの地上本部……崩壊した展望塔の上空を移動する小さな存在に……。










 「ご苦労さんやったねリイン」

 「はふぅ、途中で何度も落ちそうになって死ぬかと思ったですぅ」

 一方その頃、結界の外で待機していたはやて達の所にある人物が姿を見せた。リインだ。展望塔上空に開いた【旅の鏡】に向かって一直線に上昇して来た彼女はゲートを通って密かに結界から脱出、マイスターであるはやての許へと身を寄せる事に成功していた。彼女が抜け出すのを確認してからシャマルはゲートを閉じ、結界と外界は再び断絶状態へと戻った。

 「さてと、これで手筈は整ったで。リイン、準備ええな?」

 「はいです!」

 「すまないが二佐……一体何を?」

 「こんだけの規模の結界をデバイスの補助無しで介入すんのは骨が折れるから、リインの力借りて一気に突破しよう思うてな」

 「ですが、彼女では火力不足だと……………………なるほど、そう言う事か」

 はやてのやろうとしている事を察したトーレに笑みが浮かぶ……確かにその方法であればこの結界を破る事も不可能ではないだろうし、タイミングさえ誤らなければ形勢を盛り返す事も考えられなくもない。上手く行けば後に残る唯一の懸念はトレーゼのISを止める事だけになる。

 「理由は分かったな。じゃあ始めるで!」

 「はい!」



 「ユニゾンイン!!」










 システム・ナンバーズに則って各ナンバーズを区分けするとノーヴェは『シールド』と言うポジションに相当する。楯の名が示す通り、彼女の開発コンセプトは『最硬』……前衛でありながら後続のたった一人をあらゆる衝撃から守護する事を念頭に置いて造られている。開発するに当たって原型となったクイント・ナカジマの攻撃力はそのままに、個体その物が持つ耐久性能を大幅に上げたのが唯一の特徴であり利点である。

 全体的なバランスを重視したギンガはもちろんの事、攻撃力を念頭に置かれて生み出されたスバルとは完全に対を成す個体……それがNo.9『Nove』。その防御力を改めて目の当たりにしたスバルは徐々にジリ貧に持ち込まれ、遂には左拳のラッシュの際にも息が切れて度々地面に膝をつく様子が見られ始めていた。

 だがその疲労の全てが長く続いた交戦によるものばかりとは限らなかった。

 (おかしい……さっきと戦い方が違う。まるで本当に殺しに掛って来てる)

 開戦の際に殺害を仄めかすような言葉を突き付けられたのを忘れた訳ではないが、その時と今とでは微妙に違う何かをスバルは敏感に察知していた。それまではどちらかと言えば鬱陶しいハエか何かを全力で払い除ける様な感覚が伝わって来ていたのだが、今度ばかりは違っていた……。振り降ろされる拳や脚の一発一発に総毛立つ純粋な殺意を覚えていた。本気でなければここまで危険な濃度の殺意をばら撒く事は到底出来ないはず……紅く染まった眼球を通してトレーゼ本体から届くその波動をスバルはひしひしと感じ取っていた。

 まるで……

 初めて会ったあの時のような。

 「フンッ!!」

 「ぅあっ!?」

 蹴り上げられたアスファルトが即席の弾丸の雨となって正面からの絨毯爆撃となってスバルを襲う。すかさず建物の陰に逃げ込んだは良いが質量と速度の併せ技は伊達ではなかったらしく壁に着弾したそれらはコンクリートを突破してもなお勢いを失くさない威力を秘めていた。プロテクトを張ったとしても防げたかどうか……。

 「…………どこに行った」

 取り合えず疲労以外にも収穫はあった。

 それは相手の能力限界……。あれだけ過度な動きをしても汗水一滴流さないのは恐らくトレーゼ側から動力として大量の魔力が動力として供給されて来ているからだろう。それがノーヴェの持つリンカーコアで増幅し、全身の魔力回路を拡大、本来人体に悪影響を及ぼすはずのレベルにまで肉体を強化しているのだろう……どうりでいつまで経っても疲れる様子を見せない訳だ。痛覚のみを遮断しているのを良い事にただこちらを殺す事だけにノーヴェの体を酷使させている事実にスバルは戦慄と同時にある種の憎しみさえ覚えた。このままでは確実にノーヴェの肉体は崩壊するだろう。いや、本当はそれも目的の一つなのかも知れない、彼は最初から彼女を利用する事だけしか考えてない節が幾つもあったのは今に始まった事ではないはず。

 もちろんスタミナ以外に分かった事もある。索敵範囲だ……。供給される魔力はあくまで動力用のようで、今までノーヴェの体を通して魔法を行使した事は無い。元々ノーヴェ自身が魔法資質を持っていない事も影響しているのだろう……なので子機である彼女では魔力を利用した気配探知は出来ないらしく、今もこうして身を潜めていても向こうが勘付くまでしばらく時間を稼げそうだった。

 「でもやっぱりトレーゼをどうにかしないと……」

 相手の特徴を掴んだ所で何の意味も無い……どの道彼と対峙する事に変化は無いのだから。

 それに、彼とはどうしても相容れないとは思ない気持ちが──、



 「呼んだか?」



 振り向き際に顎先に一発……スバルの脳を揺らすにはその軽い一発だけで充分だった。鈍い痛みと痺れが脳髄を通して全身に響き渡り、やがて爪先に到達する頃には彼女は完全にバランスを失して地に手をついていた。

 「う……ぁ!」

 ぶれる視界の中で確かに感じる押し潰す様な殺意の波動……間違い無い、今確実に彼が、トレーゼがここに居る! 

 計算では彼が居るのはまだ当分先のはずだ。迅速且つ確実な方法を以てして自分を抹殺しにここまで戻って来たと考えるのが妥当、わざわざ殺しにここまで。だとするとここには今その危険人物が二人も居る事になってしまう。

 「おい、どこに行く」

 「ぐあっ!!」

 後頭部の髪を掴み上げられ脱力した自分の体が大きく持ち上がるのを感じた後、スバルは自分の視界に見知った顔を見た。高濃度圧縮魔力によって浸蝕された紅い眼を持つその影は──、

 「セッテ!?」

 引き締まった長身痩躯に淡い桜色の長髪……間違い無い、局から“裏切りの使徒”として認定され現在指名手配中のセッテその人であった。眼球が紅く染まっているのを見る限りでは十中八九トレーゼの支配下にあると言う事が分かる……。

 「そんな……セッテまで……」

 「勘違いするなよセカンド。こいつはNo.9とは違って自主的に肉体の主導権をこちらに譲渡したのだ。…………よ……っと!」

 髪を掴んでいた手が放され、落下中を見計らってセッテの蹴脚が顔面に飛ぶ。それを間一髪の所で両腕でガードしたは良いが与えられた衝撃全てを緩和させる事は出来ず、大きく『く』の字に折れ曲がったスバルの体はビルの壁を突き抜けて反対側の壁に激突した。凄まじいショックが背中を襲ったが怯んではいられない……すぐに持ち前のタフさだけで持ち直した彼女は部屋の暗闇に紛れ込んで建物の奥へと姿を消した。

 「……愚かな。この程度で逃げ果せたつもりか」

 「だとすれば、あいつはこちらが思っていた以上の大馬鹿者と言う事だな」

 同じ拡大感覚領域を通じて居場所を把握したノーヴェの肉体が現場へと辿り着き建物内部へと先行した。続いてセッテがその後に侵入し、眼と耳から入って来る感覚情報のみを頼りにして獲物の捜索を開始した。現時点でスバルがどこに行ったかは不明だが少なくともこのビルからは出られないはずだ、何故なら──、

 「さて、どうする、セカンド?」

 建物の外で待機するトレーゼが張る索敵網はとっくに内部に潜むスバルの位置を把握していた。ただ直接手を下さないだけ……確実に仕留める為に今は敢えて手を出さないでいるだけに過ぎなかった。ネズミが罠に掛った瞬間に最も効率良く場所……それが今の彼が居る場所だった。

 だが──、

 やはり彼はこの時も気付けなかった。

 結界の外の上空にて仄かに輝く白銀の光の存在を……。










 午後22時51分、地上本部管制室にて──。



 「扉を抉じ開けるのに幾ら程掛りそうかね?」

 「大型の機材を使用して二十分か三十分……機材をここまで運んで来る事も計算に入れればもっと時間が掛るかも知れません」

 「頑丈に作り過ぎだな。今度から木で作り給え、木で。実にエコだと思わないかな」

 「樹木を切り倒すと言う行為には少しもエコロジーは感じないが」

 「辺境の山を切り崩して鉱石を掘り出し、それを融解して押し固めて加工する手間暇を考えればよっぽどエネルギー消費的にはエコじゃないか」

 「……………………僕達は一体何の話題を話しているんだ?」

 「いちいち考えても切りが無い。こう言うモノはいつだって時間の流れだけが最高の解決策だ。おっ、遂に電池が切れてしまったか」

 懐中電灯の明かりが消え暗闇に包まれた部屋の中でスカリエッティとクロノは他の局員達と共に外部からの救助を待ち焦がれていた。だが依然として外から救助が来る気配は無く、彼らはこの数十分もの間部隊に指示を出す事も出来ずにただ無駄に時間を浪費するだけしか出来ていなかった。

 「他人事のように……。まるでこれから起こる何もかもを知っている様な口振りだな」

 「まさか。私もそこまで万能ではないよ。未来予知は教会の少将の専売特許ではないか。それに、何が起こるかなんて決まっている事だ」

 「“13番目”がここへ来る……か。それはそうと、貴方はナンバーズに、自分の娘達に伝えたのですか? その……“13番目”の真実について」

 「言う訳が無い。有り触れた台詞だが、世の中には知らなくても良い事があるのだよ。知らぬが何とやら…………最も幸福な状態とは、無知である事なのだからな。今の彼女らは間違い無く『幸せ』さ」

 「…………フェイトが聞けば何て言うだろうな」

 「フェイト嬢やモンディアルの坊やとは何もかも違い過ぎる。同じなのは“出生”だけだ。過程も結果も何もかも……違い過ぎる」

 ふとスカリエッティが懐から何かを取り出した。暗闇に眼が慣れていた隣のクロノはそれが何なのかすぐに分かった……市販のタバコ箱だった。

 「吸うのか? 貴方が? エコじゃないな、毒物を吸い込むなんて」

 「嗜好品と言ってくれたまえ。いつだったかナカジマ三佐にスバル嬢の脚を修理した礼をさせて欲しいと言われてね……それならと、前々から興味があったこのタバコなる物を頂いたのだよ。君も一本どうかね?」

 「生憎、胃と肺に優しくない物は口にしないと固く誓っているんだ。こう見えて家庭持ちだから健康には気を遣いたい」

 「温室育ちの思考だな。甘い水と肥糧だけでは草花は育たん。それに……」

 一瞬だけライターの光が暗闇を照らし、消えると同時に嗅ぎ覚えのある紫煙が鼻を突いて来た。

 「それに……こうでもしないと気分が紛れない」










 午後22時55分、五階建ての雑居ビルにて──。



 下からの爆音が轟く度に天井からの塵や欠片がパラパラと落ちて来る空間をスバルは移動し続けていた。視界は段々と慣れて来て今ではすっかり暗闇の中でも問題無く行動出来るが、如何せん移動に使っている場所が少しだけ問題だった。

 天井と上の階の間にある通気孔……それが今の彼女の文字通りの活路なる逃走経路であった。建物の中を縦横無尽に走るダクトをただひたすら上り、目指すは建物の屋上だ。上に着いてからウィングロードを展開してコースを作り、後はその上を走って地上本部に逃げ込む。当然トレーゼは自分を追って来るので必然的に彼を地上本部に引き付けてしまう事になるが、最終防衛ラインには二千名以上もの地上部隊が待機している……少し場は混乱するだろうが一名と二千とでは差が決定的、すぐに鎮圧するのは目に見えている。

 彼女の作戦に欠点を挙げるとするならば、それは地上部隊が既に制圧されてしまったと言う事実について無知だった事だけだ……。

 「はぁ……はぁ、行き止まり? さっきが確か三階だったから……ここは四階か」

 金網を蹴り破って非常灯が静かに光る廊下に足を着けた。下で暴れている二人の気配はまだ遠く、後一階上るには何とか余裕がありそうだった。

 「急がないと!」

 一旦脚のキャリバーを外して裸足になって冷たい廊下を駆け抜ける。階段に足を掛ける頃にはすっかり冷え切り、徐々に膝下までの感覚を失いながらもスバルは踊り場で休む事もせずに上り詰め、遂に八階の上にある屋上へと続くドアまでやって来た。

 隙間から外の風が吹き込んで来るが取っ手の鍵か掛ったままだった。そのぐらいなら訳は無い……左手を掛けると勢い良く捻じって鍵ごと破壊し、スバルは屋上へと飛び出した。



 「待っていたぞ」



 ドアを開けると同時に鋼鉄の腕が彼女の喉笛を掴み取った。息苦しさを認識する間も無くスバルの体は一瞬浮き上がって、その後地面に組み伏せられてしまった。紫苑の短髪に白磁の肌、そして猛禽類の如き鋭い金眼……最後にして最強のナンバーズ、探し求めていたトレーゼ本人がそこに居た。全身から溢れ出る無言の殺気は遣いとして操作しているセッテとノーヴェとは比べ物にならない……純然たる敵意と殺意の塊でありそこには意図的な悪意は微塵も無い。人間を一人殺すのに悪意など必要無い事をはっきりと証明していた。

 「うぐ……! ト、トレーゼぇ……」

 「貴様の事だ……ここへ来るのは、とっくに、予測していた。だから、待っていた、確実に、殺してやる為に」

 五指の先端に魔力刃が展開される……紙よりも薄く、鋼よりも硬い硬度を誇るその刃をチラつかせながらトレーゼはそれを──、

 スバルの腹に突き刺した。

 「ぐっ、ぎぎっがはぁ!!!」

 「痛いか? だろうな、今ちょうど、十二指腸を、破壊した。次は……ここだ」

 胸部。しかし敢えて右側……わざと心肺を外して激痛のみを与えると言う行為。しかも刺し込んだそれは凶暴な熱を持っていて刺し込みを繰り返す度にスバルの肉を焦がした。

 「トレ……ゼ……!」

 「やかましい」

 「っ!!?」

 体の奥で何かが破れる音がしたその瞬間、途端にスバルは極度の息苦しさを覚えた。肺と肋骨の真下に位置する横隔膜……呼吸活動には欠かせない薄い膜を傷付けられた事で彼女の呼吸は困難となり、鼻腔から吸収する空気量は通常時の半分にまで激減してしまった。息苦しさと激痛に苛まれスバルの目尻に涙が浮かぶ……。

 やがて徐々に痛みに慣れ始めたのかスバルは叫び声を上げる事もしなくなり、それを確認したトレーゼも傷を抉るのを一旦止めて虫の息となった彼女を上から見下ろした。トレーゼが上にでスバルが下……構図はまさに『美女と野獣』。この場合ロマンチックでないのは、『野獣』が『美女』を冗談でも何でも無く本気で喰い殺そうとしていると言う事だった。今こうして踏み止まっているように見えるのも実は違い、言わば肉食哺乳類が今から食すであろう獲物に対して食前の吟味……舌舐めずりをしているようなものだった。

 「どうやら、俺は貴様に対する、認識を、改める必要性が、あったようだ。俺にとっての、一番の敵は、管理局でも、機動六課でも、ましてや、堕落したナンバーズとも、違っていた…………俺の最大の障害、それは、貴様個人だった、セカンド」

 鉄面皮の奥に隠された今の彼の本当の感情は優越感……最大の敵だった者を今自分が屈服させていると言う圧倒的優越感が密かに彼に至上の喜びを与えていた。もし仮に人並みの感情と言うモノが彼に備わっていたなら今頃込み上げる笑みを抑えずにはいられなかっただろう。元来、『笑う』と言う行為は肉食獣が牙を剥くあの一瞬を起源としているのだ……。

 「あれだけ、言ったのにな…………こちらに、関わるなと。何故、そうまでして、俺に拘る? 興味か? 同情か? 羨望か? 憎悪か? あるいは何だ……さっきの、ような、好意とでも、言うつもりか?」

 不意にトレーゼの顔面が急接近する。鼻の息を肌で感じられるぐらいの至近距離でトレーゼとスバルは最後になるはずの言葉を交わし合う……。

 「なぁ、教えてくれ。貴様は、俺に何を、求めている? その感情は、俺の何を、対価に求めている?」

 「私は……そんなつもりじゃ、っぐぁぁあ!!」

 「見返りを、求めない行為など、この世には、存在しない。答えろ……貴様は、何を、求めている? 貴様の本質は、何だ?」

 「私の……本質…………本当の気持ち……」










 かつて、今となっては昔の話だが、ある所に一人の少女が居た。

 彼女は極当たり前の家庭に生まれ、極当たり前の家族に囲まれて育ち、極当たり前の人生を送るはずの一人の少女でしかなかったはずだった。

 少女はある時自分とは何もかも違う別の少女に出逢う。

 彼女らは何もかもが違っていた。

 少女は何にも必要とされず、家庭も家族も朽ち果て孤立した世界で生きて来た。それが彼女にとっての『当たり前』だった。疑う事さえしなかった。

 仕組まれていたかのように出逢った二人は、何の因果か互いに対立し、何度も死力を尽くして争った。別にそこに憎悪は無い……ただ互いの意思が一致しなかっただけの事でしかない。

 だがある時少女の一人はふと考えた。

 どうして争う必要があるのだろうか? 自分が正しいと思っている様に、彼女もまた同じ事を思って行動しているに違いない。ならどうしてその結果に至ってしまったのか……。

 それ以来、少女はもう一人の少女の事を知ろうとした。知る事で自分達の何かが変わるかも知れない……そんな幼稚で、理想だけの、純粋な希望を携えながら。

 やがて再び対峙した時、彼女は問うた。



 「名前をおしえて……」



 知る事で何かが変わる、変えられる……そう信じていた。

 相手が何を思っていたって良い、確固たる意思で動いているのならそれは決して悪ではない。かく言う自分こそそう思っていたのだから。

 ならせめて自分の意思だけでも伝えておきたい。余計な飾りは何も要らない、この気持ちが曇って汚れてしまうまえに……。

 だから彼女は次にこう言った──。



 「友達になりたいんだ」



 たった一言……そのたった一言がかつて少女だった者を救う忘れられない言葉になった。










 「────……は、にな……」

 「?」

 「私は……友達になりたかった……」

 「…………それが、貴様の、本質か」

 「そうだよ……」

 「そうか」

 伝えるべき事柄は全て伝えた、悔いはどこにも無い。あるとすればそれは一つだけ……トレーゼの理解を得られなかったと言う事だけだ。

 「やはり、貴様とは、どこまで行っても、解り合えん。ここで、終わらせる」

 疲弊したスバルの体が持ち上がり、そのままトレーゼと共に屋上の縁にある柵へと運ばれた。激しいビル風が下から吹き抜けるのを感じながら彼女は自分の首を締め上げる腕を振り払おうともせず……

 ただ空を見上げた。

 結界越しにも見える二つの月の光は彼女の顔を優しく照らし出し、目の前に居る友人になりたかった者の顔も良く見えた。

 せめて最後に……そう思ったのかスバルは左手をそっと差し伸べる。その冷たい頬に触れたくて……。



 「じゃあな」



 だがその思い届かず、腕が離されると同時に彼女の体は一瞬浮遊する錯覚を覚えた後に頭からビルの足元に向かって落下して行った。急速に遠ざかる夜空を薄らとした意識の中で眺めていた時──、

 スバルは見た。

 その空で輝く白銀の星を。










 午後23時00分、結界外のクラナガン上空にて──。



 「よぉし、チャージと安定完了や! これで行ける!」

 現在、八神はやての髪の色は僅かにブロンドが混じった乳白色に煌めいていた。ユニゾンデバイスのリインフォースⅡとユニゾン中である彼女は通常時の三倍以上にも膨れ上がった魔力を一点に集中させ、己が一身が放てる最大の爆撃魔法を放とうと準備態勢に入っていた。制御が利かない夜天の書とシュベルトクロイツの代わりに魔力計算処理をリインにも任せる事で実質二人掛りでの魔法発動へと至ったが、これでようやく発動に漕ぎ着けた。後は一点に集中させた魔力の塊を結界表面に向けて放つだけ。

 広範囲爆撃を主流とした戦闘方法を熟知している周囲の者達は一旦彼女から距離を置き、結界の破壊と同時にいつでも侵入できるようにスタンバイしていた。

 「響け終焉の笛…………!」

 天に掲げた右腕に全ての魔力が集中する……圧縮されたそれは真昼の太陽の如き白銀の輝きを眼下の大地に投影し、紅い悪意に侵されたクラナガンを浄化するかの様に四方へとその光を拡大させた。放たれるは彼女の最大攻撃魔法……戦術的にはなのはの【スターライトブレイカー】をも上回る広範囲爆撃魔法──、

 「ラグナロクッ!!!」

 発射。

 飛来。

 着弾。

 そして爆散!

 放たれた三つの光芒は時間差で結界に着弾し、一発目で天頂を歪め、二発目に結界全体にヒビが入り──、

 最後の三発目が天蓋を砕いた。

 綻びが与えられた事によって結界の位相空間にズレが生じ、それが連鎖反応を起こした結果、半径100km以上もの巨大結界が消滅するのにおよそ十秒も掛らなかった。閉ざされていたクラナガンが解放されたのを確認してはやて達は突入を試みる。

 「シャマルはヴァイス陸曹と一緒にヘリで待機。中心地への侵入は私達四人だけで行く」

 「私はトレーゼの足止めに向かわせて頂く。二佐達は地上部隊の指揮に回って欲しい」

 「あんたに実の弟を相手に出来るか?」

 「出来なかったらその時はその時だ。少なくとも足止め程度にはなるだろう。どちらにせよそれが一番最良の方法なのは確かなはずだ」

 「…………オーライ、あんたの好きにどうぞ」

 「感謝する」

 エナジーウィングを展開してトーレは先に夜闇の街へと急降下した。先行した彼女の姿を確認し、はやて達三人も続いて街へと降下する。不気味なほどに静かなこの場所はもはや自分達がいつも見慣れたあのクラナガンではない……たった一人の戦闘機人によって変貌させられた無音の戦場、それが今のこの街なのだ。一片でも油断してしまえばその時点で敗北、即ち死……。

 「急ぐよ。あちらさんがこっちに気付く前に!」










 「……………………やってくれたな、あいつら!!」

 守勢に入った勢力を潰すには最低三倍以上の戦力が必要とされる……。あれだけの規模の結界を力技で突破したとなればその魔力は計り知れない。恐らくは何らかの力を借りていると踏んだトレーゼの脳裏に一つの可能性が思い浮かんだ。

 「ユニゾンデバイス……盲点だった」

 古代ベルカの産物、融合騎……デバイスとは名ばかりの人造魔導生命体である彼女らを【アブソリュート・ドミネイター】で支配する事は適わなかったようだった。肉体を物理的・魔力的に完全融合させる事でリンカーコアの増幅許容量を底上げするユニゾンイン……今この状況下でそれが出来る者はあの八神はやてを除いて他には居ない。そして、八神はやてが結界を破ったのだとすれば高町なのはとフェイト・T・ハラオウンも同行しているであろう事は必然。

 ならば遅れを取る前に行動しなければならない。

 「ライドインパルス・アクセラレート……!」

 ランニングのスタートダッシュの体勢を取り、トレーゼの視線が前方斜め三十度の上空を見据える。鷹の眼を越える視力がその遥か先に光る三つの魔力光を捕捉、狙いを定めた彼の足元に疑似魔法陣が出現する。リンカーコアに掛けられていたリミッターを一部解除し、倍増した魔力の大半を背部に供給、溜めに溜め込んだそれを一気に解放し──、

 初速にして時速200km超過を実現した。

 防御力と攻撃力を全て放棄して肉体の全てのエネルギーを機動力にのみ変換する【ライドインパルス】の機動力特化仕様……それがこの【ライドインパルス・アクセラレート】の真髄である。発生させたエネルギーの全てを背面と足の裏に集中・放出させる事で推進剤の役目を果たし、通常時のおよそ二十から三十倍にも及ぶ超加速を可能にさせた。攻撃力も放棄している為に四肢にエナジーウィングは展開せず、それらのエネルギーも全部推進力に回されている。この能力の特徴は何と言ってもその殺人的スピードであり常人はもちろんの事、軍用ヘリ程度で有れば余裕で振り切る速度にたった数秒で到達出来る加速度を置いて他には無い。人間の視神経ではまず捉える事は適わない。この能力の欠点を挙げるとするならば、それは余りの速さ故に使用者自身の軌道が直線的になってしまう事だろう。戦術的にもエネルギー消費的にもあまり長く使える代物ではない。

 だが如何に速度が速けれど開いている対象との間隔は目測10km超、時速200kmで飛襲したとしてもおよそ三分も掛ってしまう。それでは遅過ぎるのだ。ならどうすれば良いのか……。

 ならばもっと速く飛べばいいだけの事!

 「逃がさん!」

 時速250km……。

 まだ速く。

 300km……。

 まだだ。

 400……500……600……700……800…………。

 まだ、もっと、速く!!



 時速1225km──!!



 音の壁を越えたその十五秒後、紅い流星と化した彼の体は地上本部に降り立とうとしていた三人の魔導師を派手に蹴散らした。

 つまり要約すれば……

 『“三強”対“13番目”』の構図がここで再び成されたと言う訳だ。










 彼女を良く知る人物は大抵口を揃えてこう言う……「悪運が強い」と。

 幼少の頃の空港火災を始めにして幾度となく危険に見舞われ続けた彼女だが、怪我こそすれども死に掛けた事はただの一度も無かった。オカルトな話になってしまうかも知れないが、それこそ何かしらの強い超常的な何かに守られているようにも思える節さえあった。何度も危険な目に合いつつも決して死ぬ事は無い……戦場に置いてはこれ以上無い魅力的なスキルだろう。

 そして今回もそうだった。落下した彼女の体は文句無しに地面に向けて一直線に加速して行ったのだが、その肉体がアスファルトの地面と事故的接触を果たす事は無かった。何故なら、彼女と地面の間には大都会特有の“ある物”が接触を遮っていたからである。

 路上駐車……。当然、交通法的には取り締まられるべき物がそこに堂々と停まっていた。大き目のワゴン車の天井に墜落した事で落下の衝撃が幾分か緩和され、彼女の死を防ぐのに一役買ってくれていた。

 「痛っ、たたたぁ。何とか……生きてる、よね」

 ベコベコに凹んだ車から地面に飛び降りるとすぐにスバルは索敵を開始しようとした。だがその時になって彼女は異変に気付く。

 「結界……いつの間に?」

 街全体を覆い尽くしていた重苦しい封時結界の存在が嘘だったかのように完全に消滅しているではないか。自分が気絶している間に解除されたようだがあのトレーゼが自分からそうするとは思えない。だとしたら一体誰が? 考えられるのは落下する瞬間に見えたあの白い光だ。あれが魔力の光なのだとすればあの色彩の魔力を持つ人物は考え得る限りでは一人だけだ。

 「はやてさん達、戻って来たんだ。じゃあまさか……っ!?」

 スバルの予想を代弁するように地上本部の上空に紅い光が上がった。黒い夜空をスクリーンに稲妻の如く閃くその鮮血の紅はさっきまで自分が目にしていた時とは打って変わって荒々しく、目を凝らせばその夜闇の中に見慣れた三人分の魔力光を捉えた。荒れ狂う紅い光の周囲を慌ただしく飛び交うのはやはり侵入に成功した師達の三人に違い無い。だがもしそうなら少し状況は悪いかも知れない……三人のとも前回の邂逅で多大なダメージを負ったのが未だ完全には癒えていないはずなのだ。対するトレーゼは余す事無く本調子に等しく、加えて彼は【アブソリュート・ドミネイター】で支配下に置いたセッテとノーヴェまでも味方に付けている。その事を考慮すれば戦闘は果てしなく彼女らの不利に働く事が容易に予想された。

 「行かなきゃ……みんなが、戦って……あぐっ!!」

 落下の時の衝撃で忘れていたが、脇腹と胸元を深く抉られていた事実をスバルは今頃になって激痛と共に思い出した。滲み出る血は鮮やかな動脈血……失血と酸素不足のダブルパンチが徐々に彼女の四肢から力を奪い、一度は立ち上がったその体も大して間を置かずに地に膝をついてしまった。そこに加えて冬の冷気が熱を奪い尽くし、急速に彼女の体力は限界寸前の領域にまで到達した。このままではと思いつつも自分の体を支える事すら儘ならなくなり、最後の支えとなっていた左手が折れて……

 「しっかりしろ! スバル・ナカジマ」

 背後から何者かに抱き上げられた。精根尽き果てたスバルの許に駆け付けたその人物は──、

 「トーレさん……? ど、どうしてここに……」

 「説明は後だ。弟は、トレーゼはどこに居る? さっきまでこの周辺で反応があったはずだ」

 「トレーゼはあそこに……」

 スバルの指先とトーレの視線が共に地上本部の上空へと向く……冬の星空を汚すように煌めいていた紅い光はいつしか息を潜め、代わりに四色の魔力光の流星が入り乱れながら夜空の一角を彩っているのが見えた。時折、一際大きい紅い光線が地平線の向こうに飛来して姿を消し、一寸の後に着弾した地点から鮮やかな光が夜明けの陽の様に輝いていた。

 「もうあんな所まで! 急がねば!」

 「待ってください。私も、私もあそこに連れて行ってください……」

 「ふざけているのか? それとも悪質な冗談か? どちらにせよ、まともに戦えもしない者を連れて行く事は出来ん。自分で傷を癒しながら大人しくそこで回収されるのを待っていろ」

 スバルの同行を二つ返事で却下するとトーレは直ちに浮遊して地面を離れ、疑似魔法陣を展開、四肢に出現したエナジーウィングを推進力にいつもと同じ超高速飛行に移行しようとした。

 ……しようとした。

 「ヌゥッ!!?」

 速度が異常に遅い! 加えて右足に強烈な違和感を感じる……。これはもしやと思い背後を見やると……

 「お前ぇ! 何をふざけて……!!」

 「絶対行くんだからっ! 絶対に、行かなくちゃ、いけないんだから!!」

 健在な左腕一本だけでしがみ付いて来るスバル……そして彼女を振る払おうと蛇行軌道になるトーレ……。いっそのことビルの壁に叩きつけようとも思ったが、どうやら相手はその程度では臆するような肝の持ち主ではなさそうである事が交えた視線から窺い知れた。元を正せば当然の事ながら特に親しい訳でも全くないのだが、今までにこれ程の覇気を湛えた視線を投げ掛ける存在にトーレは未だかつて相見えた事は一度も無かった。逆に言えば今のスバルの決意は口に出さずとも他人を気圧すぐらいに凄まじいモノがあったと言う事だ。その迫力を受け止めたトーレは暫し逡巡する様子を見せた後……

 「勝手にしろ。精々落ちないようにする事だな」

 一旦空中で停止してスバルを背負い、トーレは再び戦火交わる戦いの空へと飛翔した。

 戦場との相対距離はおよそ十数キロ……トーレの速度が最高時速180kmと仮定すれば、どんなに頑張っても到着するのは200秒前後となってしまう。問題はそれまでにあちらの戦闘が終わってしまわないかだが……。

 「…………ねぇ、トーレさん。一つだけ聞いてもいいですか?」

 「何だ? 今答えられる範囲でなら質問に応じる」

 「ISを停める方法って、その……頭を叩く以外にあったりするんですか?」

 ここで言う「叩く」とは恐らく破壊すると言う意味であろう。スバルの言わんとしている事が何なのかおおよその見当が着いていたトーレはもったいぶらずに返答した。

 「いや、無い。ISは魔法とは違って、言うなれば一種の超能力の様なモノだ。本人の意思以外で解除させる方法は頭部にある脳そのものを完膚無きまでに破壊するしか無い」

 「そうですか……」

 「何を考えているかは知らないが、余計な思考は命取りになるぞ。注意しろ」

 そうだ、魔力素の複雑な組成によって発動する魔法とは違い、ISはどこまで突き詰めても魔導力運用技術には全く当て嵌まらない能力だ。妨害魔力波による阻害を一切受けない以上、止める唯一の方法は発生源である脳を破壊する以外には……。

 「…………………………………………いや、待て……一つだけあった」

 「え?」

 「たった一つ、そう、たった一つだけだが脳を破壊せず、且つ強制的に止められるかも知れない手段がある」










 鎧袖一触──、と言う言葉がある。鎧の袖に触れられただけで敵を薙ぎ倒せる程に強い事を形容した諺である。

 身近な例を挙げろと言われればそう簡単に見つかる例は転がってはいないのが普通なのだが……どうやらこの場合に限ってのみ言えばそうでもなかったようだった。

 「手負いが、出て来て、どうするんだよ。ナメて、いるのか、この俺を」

 紅い魔力を滲ませて、迫り来る三人の魔導師をまるで紙飛行機を叩き落とすかの様に次々に捌き、自身の絶対制空圏を決して崩す事無く確固たるモノとして維持する……言葉で言ってしまえばそれだけの事だが、管理局が認める実力者を三人も同時に相手取っての戦闘となればたったそれだけの事がどれ程に難しいか予想出来るだろう。桜色の砲撃を捻じ曲げ……斬りかかる黄金色の斬撃を回避しての蹴り……白銀の爆撃の発射を阻止する為に一斉掃射…………これら全てを単独で、しかもほぼ同時にこなす腕前は素人玄人の区別無しに驚嘆に値する。

 「消耗っ……せめて体力でも消耗させられたらっ!!」

 「焦ったらダメ! 私達の連携でぇ!!」

 態勢を立て直す──。フェイトを先槍にして、なのは、はやての順に並んだ黄金隊形で攻めようと試みる。なのはの援護を受けつつフェイトが接近戦を仕掛け、二人が時間を稼ぐ間にはやてが本命の爆撃を発射する段取りを整えるのだ。

 だが──、

 「無駄、なんだよぉ!!」

 『Stardast Devastater.』

 「きゃあ……っ!」

 「誰を相手にして、いるのか、解っているのか」

 紅い砲撃が回避した三人の間を縫って地表を焼き尽くす……圧倒的なパワーのみを利用したゴリ押しの戦法だが、過ぎた力も追求すればやがて理となり策となる……前方から来る障害を何の捻りも無しに持ち前の暴力だけで押し返すその姿はまさに“悪魔”の名こそが相応しい。一度散開してしまえば態勢を立て直す暇も与えられずに散弾の嵐が三人を徐々に地表付近へと押しやり、更に追い撃ちとしてフェイトの魔法を模倣した【フォトンランサー】の雨が無差別攻撃となって街の一角を丸ごと焦土に変貌させた。

 アスファルトの地面が一瞬にして穴が開き、その穴から破裂した水道管からの水が溢れ出す。完全に逃げ道を封鎖された三人ははやての張る魔力防壁の中で足止めを喰らっていた。

 「あかん! あんま長いこと保たへん!」

 自分達だけの足場を残して崩壊して行く地面……確かに魔力的にも地面の足場的にもそう長くは保ちそうにない。隙を突いて散開しようとしても突ける隙がどこにも無く、抉られた足場が徐々に崩壊し始めても逃げ出せずに封殺、風前の灯火と呼ぶしかない状況に追い詰められて行った。

 だが……不意にその猛攻が止まった。

 「な、何が……」

 それはもう嘘のようにぱったりと攻撃が止んだ。荒れ果てた地面に立つのは健在な三人の姿……そして、その上空から彼女らを睥睨する一人の戦闘機人……戦闘は不可思議な膠着状態を迎え、ふとトレーゼが地面に降り立った。冷め切った視線はそれぞれの肉体の急所をしっかりと捉えたままであり、距離を詰めた互いの間に沈黙と緊張が横たわる。

 「どういうつもりや? 今更情けでも掛けようって言うんかいな」

 「勘違いするな。弱い者苛めは、趣味じゃない、だけだ。ただな……少し、気が変わった。交渉しよう」

 「交渉? そっちに取引材料があるって言うの?」

 「ああ、ある」

 「何が目的?」

 「俺はただ、この先に、用があるだけだ。貴様らには、何の用も無い。だが、ここから先、貴様らが、絶えず俺の、邪魔をすると、言うのなら……こちらも、全力で以て、対処せざるを得ないだろう」

 「脅しに聞こえないのがタチが悪いね……」

 「しかし……生憎と、俺にも時間が無い。貴様ら全員を、相手にする、余裕も無い。そこでだ────」



 「差し出せ、一人……生き残れ、あと二人。それで、お開きだ」



 その言葉の意味を把握するのに五秒も掛らなかった。

 時間が無いと言うのは恐らくは方便……本当は自分達を始末したくてウズウズしているのをはやて達はとっくに見抜いていた。だがそこに何らかの理由があって全員を殺害する事は不可能。であればせめて一人でもと言うのが真意なのだろう。この場合悪質なのが、仮に一人差し出したからと言って退く訳ではないと言う事にある……。

 当然ながら三人共自分や親友の命を二つ返事で差し出す訳も無く……

 「そんな要求呑めると思うか?」

 「だろうな。では、仕方が無い…………交渉決裂だな」

 「くっ……!」

 再戦の合図となったトレーゼの一歩を皮切りにして、三人が同時にバラバラの方向に飛んで距離を……

 「馬鹿め」

 「えぇ!?」

 「阿呆が」

 「そんなっ!?」

 「フェイトちゃん! なのはちゃん!」

 それまでどこかに姿を隠していたのだろうか、死角から飛び出して来たセッテとノーヴェがなのはとフェイトを捕えて地面に叩き伏せた。彼女らがISの効果の支配下にある事を全く知らないはやては突然の光景に驚きを禁じ得ず、その時自分に僅かな隙が生じているのに自覚出来ていなかった。

 故に──、

 「もらったぞ」

 「しまっ────!!」

 腹部に鈍い衝撃、そして直後の鋭い痛み……。握り拳が腹に食い込んでいるがそれとは別に感じるのは皮膚を突き破る何か鋭いモノ……じわりと染み込むような痛覚の中心に感じるのは冷たい金属の刃だった。胃の奥から込み上げる血の塊を吐き出した後、はやての体はぐらりと傾き地面に落下、しばらくしてから完全に沈黙した。僅か一瞬……ほんの一瞬の出来事だったが彼女の命運を分けるにはたったそれだけで充分だった。

 「はやてぇーっ!!!」

 「やかましい」

 「うっ……ぐ!」

 「貴様もだナノハ・タカマチ」

 「あがっ……!」

 脊髄に手刀を叩き込んで残る二人を昏倒させ、トレーゼは支配したセッテとノーヴェの肉体を従えながら悠々と上空に上がった。もうこの先に敵と呼べる者は何も居ない……道端に転がる石を敵と認識する者はまず居ない、それと同じだ。何より誇らしいのはここまで来るに当たって退けた相手を唯一の例外を除いて誰一人として殺してはいないと言う事だ。有言実行は自他共に認める彼の基本スタイル……そうでなければわざわざセッテを気遣って街の人間を避難させるように働き掛けた意味が無い。

 まぁ、それとは別にあの小さな少女との盟約を遵守する結果になった事については少々遺憾の意が無い訳でも無いが……。

 とにもかくにも、自分はここまで来れた。これだけは事実……自分と目の前の白亜の建造物との相対距離、それだけが狂い様の無い真実である事には何の疑いも変化も無い。ぶつかった障害は全て破壊した……立ち塞がる者は全員殺して来た……生まれ持った素質と能力だけを頼りに全ての敵をほぼ例外無く殲滅する事で自分の道を確立して来たのだ。そこには悪だとか正義だとかの二極論は存在せず、ただ単純且つ純粋にそうせねばならないと言うただ一つの使命感故の行動に過ぎない。

 「もうすぐ……ああ、もうすぐさ。あと少しで、旧いモノは、消え去り、そして、その座に、新しいモノが、挿げ変わる。そうなれば、あの人も……トーレだって、認めてくれる」

 その先にあるはずの新しい世界が見えるのを信じ、トレーゼは前進した。最後の砦はすぐ近くだ。

 だが──、

 慢心故なのか注意散漫だった彼はまたしても気付けなかった。

 自分の背後数十メートル……



 そこから迫る二人の戦闘機人の存在に。










 午後23時09分、地上本部上空にて──。



 「いいか! チャンスは一度しか無い!! 絶対に外すなよ!」

 「はい!」

 「お前だけが頼りだ。お前に弟を託す……!」

 ライドインパルスで強襲する二人の視線の先にはセッテとノーヴェを従えて敵地へと赴くトレーゼの後姿……こちらに勘付いていないのを確信し、トーレは更にその飛行速度を上昇させた。その背中には今にも飛び出さんと体勢を整えるスバルの姿もあり、二人揃って視線はトレーゼの背を向いて狙いを定めていた。

 「手に魔力を……!」

 「はいっ!」

 トーレの指示でスバルが左手に自身の持てる限りの魔力を溜め込む。だがそれは決して攻撃用ではない……。

 手に集中させた魔力は接触した相手の持つ魔力の波長を乱れさせる為の物……対象の魔力が集中する部位に打ち込んで注入する事でその魔力回路を徹底的に攪乱させ、発動中の魔法のみならず相手の意思で動かす全てのスキルへの直接打撃を敢行する原始的且つ有効的な攻撃手段……今から行おうと言うのだ。当てる場所は頭部、脳に向けての一撃だ。如何に強靭な肉体を持っていようと脳細胞を掻き回されるのは経験した事が無いはず。

 だが狙う場所が場所なので好機はそうそうある訳ではない。たった一度のチャンスに全てを懸けて放つ……即席、土壇場での一点突破、それが今のこの状況で可能な唯一の手段であり彼女の最も得意とするやり方でもあった。

 相対距離が遂に100mを切った。

 その時……

 「気付かれたか!?」

 トーレの苦々しい言葉を確認する間も無く、前方のトレーゼと視線が合った。殺したと思っていた者が自分の背後すぐ近くまで迫って来ていたと言う事実に驚きを隠せなかったのか、僅か一瞬だけだが反応が遅れた。隣に控えていたセッテとノーヴェにも特に動きは無かった。勘付かれた瞬間は終わりかと思ったのだが二人はその僅かな隙を捉え逃さなかった。

 「行けるな?」

 「任せてください!」

 「そうか。ならば……っ!!!」

 トーレの体が反転する……頭を下、背中を前に向けるように方向転換し、背負っていたスバルを前に突き出すような体勢へと移行した。不自然且つ無理がある体勢に思えるだろうが──、



 スバルの跳躍台代わりになるには充分だった。



 「行けぇええええっ!!! スバル・ナカジマぁああああああああぁぁっ!!!!」

 蹴り出された反動でトーレは少し下方に下ったが、対するスバルはそれまでの加速と自身の跳躍力を見事に掛け合わせて一気にトレーゼとの距離を詰めた。

 トーレの絶叫を背に受けながらスバルは蒼く光る左手を突き出して接触を図る……左右のセッテとノーヴェがカバーに入ろうとするが既にその手は制空圏に突入、頭部への直撃軌道に入っていた。

 「セカンド……ッ!?」

 「ごめん、トレーゼ……これで終わりにしよ?」

 緊急回避も間に合わないと悟ったトレーゼの表情がこれまでに無い程に醜く歪んだ。立ち塞がる度に打ち倒し、今度こそ本当に打ち倒したと思い込んでいた怨敵が目の前に居る……最後の最後まで自分の仇に徹する憎い存在が、今こうして自分の邪魔をしようとしている光景を認識した彼は……

 「スバル────、スバル・ナカジマああああああああああああああああああああああああぁぁぁッッッ!!!!!」



 何度目かの閃光が空で瞬いた時、その光は淡くも鮮やかな蒼い色彩だった。



[17818] 全ては創造主の為に……
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:4c3f2d9a
Date: 2011/03/23 02:37
 視界が全て蒼に染まりフラッシュバックする……脳細胞の中心に集中していたはずの膨大な情報の奔流が逆流し、それらの衝撃が常軌を逸した激痛と言う形となってトレーゼの神経を焼き切った。眼球と鼻腔の毛細血管が一斉に破裂して予想以上に大量の血液が彼の視覚を完全に殺し、バランスを崩したその体は突貫したスバルと折り重なるようにして落下……軌道は彼が目指した地上本部の壁に向かって一直線に伸びていた。

 「ッ!! トレーゼ!!」

 「兄さん……!?」

 脳にダメージを負った事でISの支配効果から解放されたセッテとノーヴェは直ちに自分達の置かれている状況を確認し、先に動いたのはノーヴェの方だった。間髪入れずにエアライナーを出現させてその上に飛び乗ると落下して行くトレーゼの影を追って猛進し始めた。その行動にセッテが気付かないはずも無く、彼女もまた兄の救出とノーヴェの進攻を阻止すべく同じように急降下した。

 対するトレーゼ側は果てしなく絶体絶命と言う表現が当て嵌まっていた。頭部から逆さまに落下するトレーゼは迫り来る白亜の壁を回避しようと何度も試みるのだが、接触の瞬間に自分を逃がすまいと必死に抱き付くスバルの所為で上手く制御が出来ずその距離は急激に狭まって行った。このまま行けば激突は必至、かと言ってここで心中紛いな事をする気も毛頭無い。何としてでも脱出しなければ……。

 「離れろ、貴様! 死にたいのか!?」

 「離すもんか、絶対に!! 死んだっていい!!」

 「血迷ったか……!」

 戦闘ではこう言う自棄や錯乱を起こした者ほどに厄介な存在は無い。壁との距離はおよそ20m……離れているようにも見えるだろうが自由落下の速度を考慮すれば実に短い距離だ。

 現状を打破する方法はたった一つ……

 「障害を、破砕する!!」

 展開する疑似魔法陣、発動するは姉より受け継いだ【ライドインパルス】その発展形──、攻撃力特化仕様!

 リンカーコアから発生する莫大な量の魔力を体外に放出させる事無く循環させて全身をエネルギーの加速器に見立てる。物質は加速を繰り返す事でエネルギーを増幅させる……その法則は魔力にも応用可能であり、リンカーコアを中心として循環・加速の過程を経て極大増幅された魔力はトレーゼの全身に広がる魔力回路を拡大させ、その効果としてただでさえ強靭な全身の細胞を更に活性化……その肉体に鋼の如き堅牢さを実現させた。

 しかしその堅さは防御ではなく攻撃用……。振り上げた右脚の機械骨格を始めとし、靭帯、筋肉、皮膚から爪先の爪に至るまでの全ての細胞と自身のリンカーコアを直結、それら全てに加速させた魔力を流し込んで強化を図った。そこから弾き出される比肩するモノが無い破壊力こそ、この【ライドインパルス・ラディカル】の真髄……。

 「邪魔だぁ!」

 最後の力を振り絞ってスバルを引き剥がし、空中で反転、足を下に向けた。余分な動作は何も要らない、後は重力加速度に身を任せて──、

 「穿てぇぇええええっ!!」

 『着弾』──。もはやそれを単なる着地行動として認識するにはあまりにも無理があり過ぎていた。鋼鉄の足先が触れた瞬間に壁は重圧に負けてヒビが入り、蜘蛛の巣状に広がったそれは一気に地上本部タワーを物理的に震撼……僅か三秒と掛る事無く次元世界の象徴たる法の塔はその一角を崩壊させてしまった。遥か遠くから見たら分かったはずだ…………震度7の直下型地震が直撃しても決して倒れないとされていたはずの高層建築物が、音を立てて僅かにその地盤を傾けるのが。

 崩壊の中心となった着弾地点は見る影も無い程まで無残に崩落し、建物内部を深く抉り抜いたその傷口からトレーゼは遂に管理局への侵入を果たした。

 「まずいっ! ブリッツ!」

 『ウィングロード展開!』

 姉のギンガから譲り受けたデバイスもISの呪縛から完全に解き放たれすぐにスバルのサポートに回ってくれた。出現させたウィングロードもそれまでと比べて飛躍的スムーズに出せるようになった事を実感しつつ彼女もトレーゼを追って内部に侵入した。

 「トレーゼ……絶対に行くから」










 午後23時10分、地上本部全域──。



 突如として本部を襲った巨大震動は瞬く間に地上本部に存在するありとあらゆる施設や区画に壊滅的打撃を与えて行った。展望塔がある本棟は『震源地』を中心にしてほぼ半壊し、そこから派生した無数の亀裂やヒビ割れは演習場を始めとする敷地内の全域に広がっていた。後に研究所が計算した結果によると、その時に走った衝撃は瞬間的ながら理論上有り得ないはずの震度9を観測していたらしい。

 この地震の様な凶暴な揺れは演習場で拘束されていた局員達を文字通り震え上がらせた。新参も古参も関係無く皆等しくその現象に恐れ慄き、ある者は不安げに空を見上げ、またある者は絶望に蹲っていた。

 その中でも比較的冷静で居られたのは部隊長を任されていた者……シグナムやヴィータの様な実力者達だった。

 「今の震動……本部が遂に墜ちたのか?」

 部隊の士気に関わるので大きな声では言えないのだがシグナムの言葉は口に出さずともその場の全員と一致していたようだった。煙と轟音の上がる地上本部に注がれる視線は離れた場所に居たヴィータも同じ事で、驚きや悔しさが入り混じった表情で守り切る事が出来なかった自分達の砦を見上げていた。たった二人……たった二人の存在に自分達は何一つ有効打を与える事が出来なかったのだ、これが悔しくないはずが無い。そして、その気持ちはやはり他の同胞も同じ事だった。

 だがしかし、今この場ではそう言った感傷に浸る事すら許されてはいなかった。

 「────────」

 「む……そう睨むな、逃げはしない」

 八十体越えのマリージュ軍、それが今の彼女らを束縛する唯一の存在だった。僅か10分以内に各部隊の隊長及び副隊長を無力化させる事で隊全体の士気を削ぎ、その後散開していた隊員らを一ヶ所に集中させる事で監視の目から逃れられないようにしたのだ。これ程の短時間でこの大部隊を圧倒的少数で制圧したその手際の良さは生粋の武人であるシグナムを始めとする古参兵達を唸らせる程だった。だが“13番目”は一体どの様な方法でこれだけの戦力……否、死体を集めて来たのだろうか?

 「────────」

 「その手を下ろせ。無抵抗な者を殺した所で何の得も無いだろう」

 「────────」

 「意外と物分かりが良いんだな。そうしてくれると助かる」

 素直に刃を収めてくれた屍兵に純粋に感謝の意を伝えつつ、互いに一歩退いた。この場合不思議なのは彼女ら(?)との戦闘に置いて報告されている限りではこちら側に死傷者は居ないと言う点にあった。単体でも充分過ぎる戦闘力を有しているはずの個体がどうして対峙した局員を一人も殺さなかったのか……理由は考えるだけ時間の無駄の様な気もするが、どうしても不可思議に思わずには居られなかった。何かしらの裏がある……。

 どの道今ここからは一歩たりとも動けないのは変わり無い。警備に付いているマリアージュのほぼ全員の目がこちらを向いている以上は下手に事を荒立てるのは禁物だ。

 何か……何でも良い、何か小さなきっかけでもあれば隙を突ける。

 苦しい時の神頼みでしかないと思いつつ、再び空を見上げた時──、



 目の前の屍兵の首が飛んだ。



 弾け飛ぶ瞬間に僅かに見えた弾丸の軌跡をシグナムは見逃さなかった。形勢を盛り返す一発を放ってくれた者の行動に最大級の賛辞を送りつつ彼女は飛び出し……

 「せぇいいいいいやぁああああぁ!!」

 愛剣レヴァンティンで正中線を切断した。どう言う訳かは知らないがそれまでウンともスンとも言わなかったはずのレヴァンティンも正常に稼働しており、再びその刀身に自らの炎を燃え上がらせる事も容易に出来た。一瞬の出来事で何が何だか分からないと言う表情をして総じて反応が鈍い新参兵達を睥睨し──、

 「立てぇっ!!!」

 右手には炎の魔剣、怒れる紅蓮の劫火を身に纏いしベルカの戦乙女の一喝……たったそれだけでも残りの隊員達を奮い立たせるには充分だった。鬨の声を上げながら手に手に各々の武器を持って突貫する武装隊員達の勢いに気圧されたのか、それまで周囲を取り囲んでいた屍兵達は一斉に上空に逃げ場を見出したが次々と部隊の放つ絨毯射撃によって撃墜されていった。制圧されたのがと言うのは関係無いのだろうが、逆転するのも一瞬だった。自分達の居る演習場の敵の駆逐に成功した後、彼らはバラバラになっていた小隊を組み直し他の演習場で監視体制を敷かれている仲間を解放する為に行動を開始して行った。

 「相手は死体だ、何の遠慮も不要だ! 自爆に注意しろ。肉片一片たりとも残すな!!」

 自爆機能すら失うぐらいにまで粉々に粉砕された敵の肉体を足蹴にしながら勇猛に突き進む隊員達……それを後方から確認しつつ的確な指揮を飛ばすシグナムは密かに通信を開いた。回線接続先は逆転のきっかけをくれた狙撃手であり、彼女のその人物におおよその目星を付けていた。

 「協力に感謝するぞ、ヴァイス」

 『良いってことよ、シグナム姐さん。それよりも見てたですか? 俺の狙撃……姐さんに心配されるまでもなかったっしょ?』

 「ああ、この距離であの精度は大したものだ。悪いがその足でヴィータ隊に向かってもらいたい。今の攻撃で連中も殺気立っているかも知れないが警戒を怠るなよ」

 『了解。ティアナの奴と行動しますんでまた後で落ち合いましょうか』

 「頼んだぞ!」

 通信を切断して再び指揮に専念する。アウトレンジからの狙撃を得意とするヴァイスと幻術による奇襲戦法を取るティアナのコンビなら部隊の解放の一助となってくれるはずだ。自分はとにかくここの指揮を執る事だけに集中していればそれで良い、後の事は全ての準備が整ってから行うのだ。

 「それにしても……」

 足元に転がる屍兵を見やる。死体とはつまり「動かざる者」……それを無理矢理に動かし、あまつさえ武器として扱うのは死者を冒涜する行為以外の何物でもない。自然の摂理にも人間の倫理にも外れた外道のする行為だ。

 「…………安らかに」

 明確なる哀悼の意を物言わなくなった死体に伝え、静かにその見開いたままだった目を閉じた。

 そして彼女は立ち上がる……この様な行為を繰り変えす“13番目”に対する義憤の炎を胸の内で激しく燃え盛らせながら。










 「忌々しい……あぁ、忌々しいぞ、セカンド!」

 顔を擦る手が真っ赤に染まるのは眼球や鼻腔からの出血の所為だ。出血そのものは既に収まったのだが問題は痛覚……針を刺した様な鋭い痛みが敏感な器官を何度も刺激するので集中出来ず、加えて脳にも一部損傷を受けたのでISと魔法の使用が困難な状態に陥ってしまっていた。回復には少々時間が掛るだろうが侵入した以上は最後の目的地を目指して移動するしかない。湧き上がるズバルへの怨嗟を押し殺しながら身を隠すのに使っていた男子トイレの個室から出ると顔を洗う為に洗面台に立った。

 「…………嗚呼、酷い顔だ。まったく、嫌になる」

 溢れ出した血涙と鼻血で汚れに汚れた顔が鏡面に映って視界に入る。誰一人殺す事無く無血侵略を敢行して来たはずの自分が、まさか自分自身の血に濡れる羽目になろうとはある意味では傑作だ。だがしかし、それもこれも全てあのスバルの所為だ。彼女の邪魔さえなければ計画はもっと早く終わるはずだった。

 「今更、悔やんでも、どうしようもない。局内の、機能が起動するまで、時間は少ない……先を急ごう」

 通路に一歩出ればそこは彼が引き起こした震動による被害で壊滅的打撃を受けていた。壁や柱は幾重にも渡って倒壊し、天井と通路も同じようにボロボロに崩れ去り、自分がさっき通って来たはずの通路は上の階の瓦礫が積み重なり完全に通れなくなっていた。付近にはスバルの気配は無い……代わりにセッテやノーヴェの物も全く感じない。恐らくはこちらを追って内部に侵入したは良いが半壊して迷路となった通路でバラバラになっているのだろう。味方と落ち合えないのは些か面倒だが、敵からの干渉にも間があるのは有り難い。

 「行くぞ……全ては、創造主、スカリエッティの為だ」










 トレーゼが密かに移動を開始した頃、同じようにして本部の横っ腹に開いた傷口から侵入する者が居た。

 「どこに行った……お前は私の弟だろ」

 互いに争いながら突入した妹でもなく、途中まで共同戦線を張っていたスバルでもなく、トーレが探し求めているのは自身の最愛の弟……トレーゼただ一人だった。スバルを押し出す瞬間に見えたあの顔……17年もの間見た事は無かったが間違い無い、あれは確かにトレーぜ本人だった。あどけなかったあの時の表情はどこへやら、金眼の視線の鋭さや無駄の無い佇まい、果ては容姿に至るまで……知らぬ内に何もかもが姉である自分に酷似するようになっていた事実に一番驚き、そして喜んだ。敵味方に分かれてさえいなければと思ってしまう心がある事を彼女自身が否めずにいた。

 だが今はそれを押し殺してでも彼と敵対せねばならない。姉弟で鎬を削り合うのは不本意甚だしいがそれが契約なのだ、ナンバーズと言う過去の亡霊に捕えられたままの弟の愚行をこれ以上見過す事は出来ない。

 「いつまでも可愛いと言うだけでは躾けにはならん、と言う事か。まさかここへ来て甘やかせたのが祟るとはな……」

 弟の成長を喜ぶ事も出来ないのが歯痒いが、それも致し方ない。一刻も早くこの騒動にピリオドを打つべく、僅かに漂うトレーゼの魔力の残り香を探知しながら先を急いだ。










 最悪だ……恐らくこれまでの作戦行動の中で最もタチの悪い失態を彼女、セッテは冒してしまっていた。

 「一体…………どこに?」

 耳を澄ませても聞こえて来るのは瓦礫が崩れる雑音だけ……吸い込んだ臭気はコンクリートの粉塵を豊富に含んでおり、呼吸器を庇う為すぐに彼女は左手で口元を覆い隠した。視界が薄暗い分は持ち前の超視力とセンサーの暗視機能で何の問題も無いが、問題なのはそれではなく……

 「今のノーヴェは果てしなく危険な存在……。ここで阻止しなければいけなかったのに……!」

 彼女の犯した最大の失態……それはトレーゼの支配から解放されて再び狂乱状態に陥ったノーヴェの行動を止める事が出来ず、そのまま見失ってしまった事だった。半狂乱になった今の彼女にはトレーゼを殺害する事しか頭には無く、今の所それが唯一の原動力となっている事は疑い様が無い。トレーゼ自身も彼女の事を「本能だけで動く獣」と言っていたが、まさかこれ程のモノだったとは。流石にトレーゼがそれぐらいの事でやられるなどとは思わないが彼の進めようとしている計画の妨げになる事だけは充分に考えられる。最悪の場合、トレーゼ本人が無事だったとしても計画が達成出来ないと言う事も有り得る。

 天井が崩れかかっているのか、さっきから頭上をコンクリートの欠片や大量の粉塵が落ちて来ているのに気付き、セッテは通路の先を急いだ。建物全体が元々頑丈な造りになっている分、内部はまだ予想よりかは安全そうだ。

 しかし、現在自分が居るのがどこの階層かも分からない上に辿るべき兄の気配も全く感知出来ない。彼を追っているはずのノーヴェやスバルの物もだ。

 セッテとしてはスバルはノーマークだがあのトレーゼが今一番警戒しているのは紛れも無く彼女だ。ISで支配されてリンクしている時に彼がどれだけスバルの持つ『可能性』を忌避しているかが伝わって来た……ある一種、恐怖していると言っても過言ではないくらいに。

 次に警戒すべきはノーヴェだが、それ以上に厄介な人物もここには居る。

 「トーレ……上手くやり過ごせるでしょうか」

 誰かと共闘しているなら話は別だが、そうではないのにナンバーズ最強と真正面から喧嘩を売り買いしたくはない。目的地まで移動する間に接触しない事を祈るより他は無いだろう。

 そして、その目的地についても見当はついていた。

 全ては創造主スカリエッティの為に……。今現在この地上本部で最も安全なのは地下シェルターともう一つ……この作戦を指揮するに当たってヘッドクォーターを置いてあるはずの……

 「管制室ですね」










 時を同じくして、やはりこの者も侵入した一人だった。

 「反応……無し、負傷者はゼロ。良かった、取り合えず埋もれてる人は居なくて」

 崩落してしまった瓦礫の中に要救助者は居ないかどうかを探知魔法で確認していたスバルはほっと安堵の息をついた。職業柄、やはりこう言う現場ではそちらの方を優先したくなるのが彼女の性分だ。先行したトレーゼを探す時間を大幅にロスしてしまったが、彼女は大義名分で他人を見殺しに出来るぐらいに冷淡ではないので、彼女自身も後悔は無かった。

 「さて、と……。他の人達は避難出来てるみたいだけど、ちょっと厄介かな」

 周囲に人気が無いと言う事は、今現在この周辺は自分を除いても四名のならず者が徘徊していると言う事になる。その中で比較的安全なのはトーレだろう。さっきまで共闘していた人物がそうそう簡単に手の平を返すとも思えないし、何よりトーレほどの堅物がちょっとやそっとで立場を変える事も考え難い。加えて実力も確かなので脱落も考えられない。

 そうなればダークホースはノーヴェだろう。半狂乱になっている彼女は何をするか分かったモノではない……仮にセッテかトレーゼと交戦している最中に乱入されればその場は一気に乱れて収拾がつかなくなるのは目に見えている。

 次に警戒するのはセッテ。あの忠誠心を考えれば真っ先にトレーゼの居場所を目指すのは当然のはずだ。トレーゼ自身も自分の護衛を彼女に任せようとするはずなので、最も戦闘に突入する確率が高いのはセッテだ。そうなれば今度は勝てるかどうか怪しい限りだ。

 だがそれは彼女の後でトレーゼに追い付いた時の話だ。

 「ブリッツ、行けるでしょ」

 『任せてください』

 安定した場所を見つけてスバルは再度探知魔法を展開した。今度はかなり広範囲、それも捜索するのは怪我人ではなく歴とした健在な人間の反応だ。動ける人間はその殆どが外の部隊に徴収されているのでここには必要最低限の人間しか居ないはず……そしてその少ない中で常に動き回っている者が居れば、言わずもがな自分達五人と言う事になる。その中で一際強烈に異彩を放つ存在があれば……。

 「……見つけた! 意外と近い。行けるかもしれないけど、途中で何も無かったら良いのに」










 頭痛は退いて来た。だがまだ損傷を喰らった脳が完全に回復するまでには時間を要する。その間は無理に魔法を運用する事は不可能に近いだろうし、実際今の彼の脳のスペックは通常時の約60%にまで激減していた。この状況で戦闘を行えと言われてもまともにこなせるかどうかさえも不安だ。

 もちろん、こうなる事を想定していないトレーゼではない……有事に備えた策はそれなりに用意しているつもりだった。

 「発見! 発見っ!! こちらM-26区画、対象を発見! これより鹵獲行動に入る!」

 「ちっ!」

 「追跡を開始! 至急応援を求める」

 生き残っていた区画から侵入者の駆逐に乗り出した局員らがデバイスから魔力弾を発砲しながらトレーゼを追いたてた。【アブソリュート・ドミネイター】は他の能力には見られない長時間の使用を前提としたスキル……故に脳が損傷した現段階では継続させるどころか発動させる事も儘ならない。今この場で出来る最善の策は一旦逃げに転ずると言う事だけしか無かった。後ろ向きに前進……などと言う言い訳じみた事は言わない、自分は今確かに無様に撤退しているのだ。

 だが、いつまでもそうしている訳ではない。

 「マキナ……」

 『OK. The wall closed.(隔壁を閉鎖します)』

 手に持つデバイスに指示を出し、自分の背後と追跡者の間を防火シャッターで断ち切った。ISが発動しなくなったとは言え管理局のシステム自体はまだデバイスのマキナが中核を握り締めている……時間の問題だろうが、しばらくの間はこの施設のシステムを良い様に使えるはずだ。

 隔壁の向こう側から無理矢理突破しようと足掻いている様子が伝わって来るがそれを無視し、トレーゼは再び先を急いだ。探知魔法すらまともに働いてくれない状態なのでどこに伏兵が潜んでいるかも分からないが、かと言って滅茶苦茶に暴れてしまえば今度こそ本当に本部が倒壊しかねない……そうしない為にも慎重に行動する必要があった。

 「マキナ、“あれ”を、使うぞ。上手くすれば、連中の、足止めにはなる。あと、ここから先、武器としてのお前が、出る幕は無い。待機していろ」

 『Yes, my lord.』

 命令に従ったデバイスは一瞬にして黒い対の指輪となって指に収まり、トレーゼは遂に武器も能力も使わない完全非武装状態へと移行した。今の彼に武装と呼べる物は身に纏った対物理・魔力衝撃用防護ジャケットのみであった。そしてそれも気休め程度でしかない。

 だが彼は臆さない。例え自身がどれほど絶望的な状況に陥ろうとも決して絶望する事は無いのだ。だがそれは希望を見出していると言う訳でも無い……彼にとって全ての行動・行為はただの単純作業でしかないからだ。快調な時もあれば行き詰る時もあると言うだけの話に過ぎない、至極簡単な話だ。

 しかし、懸念要素が全く無いのかと言うとそうでもない。

 「感じる…………強い反応が、全部で、四人分か」

 管理局全域に張った感覚網に引っ掛かった数多の人間の生命反応の中で一際強力にその波動を漂わせているのが全部で四人も周囲に感じる事が出来た。

 「獣みたいに、気配を隠そうともしない……ノーヴェか」

 自分を追って来たのだろう。場所はここから三階層も離れているので干渉される恐れはまだ無いだろうが、壁や天井などを破壊しながら移動している所を見るとやはりこちらを見つけ出して殺す気満々のようだった。幸いにも頭に血が昇ってこちらの気配を察知しようとする所までは脳が回っていないようだが、接触した時に厄介な存在になるのは間違い無いはずなのでなるべく迂回するしかないだろう。

 「平常心を、保ったまま、移動しているのは……セッテ」

 同じ階層に居るがどうやら見当違いの方向から侵入したらしく、反応自体は遠くに感じられた。だが移動速度は四人の中で一番速い。こちらの意図を理解しているのか先に一人で管制室を目指しているようだ。察しが良いのは得だ。

 「上手く、気配を、隠している……トーレなのか」

 強い反応を感知されないように気配を殺しているのは、自分と文字通り血肉を分け合った片割れ……実力も然る事ながら、そのポテンシャルは現在の自分と比較しても何の遜色も無い事が窺い知れる。今居る位置は自分から最も遠く離れた所だが移動する軌道上にはセッテの気配がある……交戦になるのは必至だろうが助勢には向かえない、自分にはやるべき事があるからだ。

 そして一番厄介なのが……

 「セカンド…………こちらを、察知して、追って来ている」

 階層はこちらの二つ上、いや、今さっき段差を降りてすぐ真上にやって来ている。どうやら相手はこちらと同じように探知系の魔法を使って追跡しているようだ。だとすれば一番接触の確率が高いのは他でも無いスバルと言う事になってしまうが……

 「やらせるか……そんなこと、やらせねえよ」

 もう邪魔はさせない、させるものか!

 右手のマキナが反応して地上本部のシステムをハック、施設全体のスプリンクラーを一斉に作動させた。天井の穴から降り注ぐ冷水のシャワーはあっという間に施設の全ての通路を水浸しにし、巡回中だった局員達を盛大に濡らしてその二分後にようやく停止した。後は天井から水滴が僅かに滴り落ちて来るだけだ。

 「これで……そうさ、これで良い。先を急ぐぞ」

 足を濡らす水を気にする事も無く走り出した彼はただ一直線に管制室を目指して走った。

 背後から迫るモノから逃げるように速く……。










 天井から突然の散水に驚いたのは局員だけではなかった。

 「これは……兄さんが動いたのでしょうか」

 天井からばら撒かれた大量の水は当然の如くセッテの体も濡らし、彼女は視界を保つ為に顔周りの水滴を手で払い落した。その後すぐに気を引き締め直し管制室を目指して進行を再開、周囲の気配に気を配りながらの移動を繰り返し始めた。

 非常灯しか点いていない薄暗い通路を出来得る限り気配を殺しながらゆっくりと、しかし確実に歩を進めて行く……。周囲に人が居ないのを確認しつつ非常灯を破壊して照明を落とし、いざと言う時は暗闇に紛れ込んで逃走できるように周到さも忘れはしない。今の所ではまだ局員に見つかる様子も無く監視カメラなども作動していないようで追手の存在は全く感じられなかった……このまま逃げ切れるか、或いはどこかで誰かと戦う羽目になるか。

 そうして彼女は通算三十八本目となる電灯を折った瞬間──、



 「視界を自ら潰すか、愚か者」



 漆黒の空間の中でセッテの体が大きく跳ねた。直撃による反動ではなくその逆、背中から襲ってきた衝撃を緩和させる為の回避行動である。天井を蹴って軌道修正し地面に足を着け、更にバックステップで壁際まで後退する事で死角を埋めた。こうすれば敵はおのずと真正面から攻撃を仕掛けて来るしか無い。そうなれば後は暗視機能と卓越した動体視力で捌き切れる自信がセッテにはあった。

 しかし、この場合に限って言えば相手が悪過ぎた。

 「今のお前はとても私の教え子とは思えないな。再教育の必要がありそうだな、セッテ」

 「トーレ……!」

 よりにもよって一番出会いたくない存在と対峙する事になろうとは……。認識が甘かったとしか言いようが無い、こちらは気配を完全に殺していたつもりだったが相手は更に上……気配を「消して」ずっと自分の跡をつけて来ていたとはここに到達するまで露とも感じなかった。敵に回ってからその実力差を実感する羽目になろうとは……。

 「壁際に背を向けて死角を埋めたのは良い心掛けだが……それは同時に自ら退路を断ったと言う事では無いのか?」

 加えて場所も悪い。トーレが接触を仕掛けたこの場所は通路の一角に設けられた休憩所、所謂喫煙スペースだ。狭い通路とは違って開けている分、立体空間を利用した三次元戦闘を得意とするトーレに軍配が上がりそうな感じは否めない。わざわざここに足を踏み入れるのを見計らってから攻撃を仕掛けて来たという事はここで仕留めるつもりなのだろう、暗闇の向こう側に見える輪郭から痛いほどの殺気が刺さって来る事からそれが容易に判断できる。

 「お前は優秀だった。いつだったか私に言った言葉を覚えているか……『伊達に遅く生まれているわけではない』、お前はそう言ったな」

 「…………それがどうかしましたか」

 「確かにお前は優秀だったさ。肉体的な面に限って言えばお前は他の誰よりも強い…………だがな──、」

 ピシャっと言う水滴が爆ぜる音の後、両者の距離が急激に縮まった。

 「私を相手取るにはまだ未熟過ぎるな!」

 常人はおろか戦闘機人としての反応速度すら大きく凌駕したその強襲を見切れず、セッテは近接防御体勢を取った。しかし、頭部を庇って立てた両腕に衝撃が走った瞬間、彼女の体は壁を突き破って室内に転がり込んでいた。鈍い痛覚が痺れとなって腕を麻痺させるが怯んではいられない、すぐに体勢を立て直し──、

 「遅い!」

 立ち上がろうとした瞬間を狙っていたのか左腕の肘に強い痛みを感じた直後、セッテの左腕は彼女の脳からの命令を一切受け付けなくなった。だらりと垂れ下がるだけとなった腕を憎々しげに一瞥し、周囲の状況だけを確認するとすぐさま逃走経路の確保に移る。

 戦闘機人の弱点は生物的な面から見れば頭部だが、構造上の弱点は最も脆い関節部分……。人間の骨と違って複雑なフレームで構成されている彼女らの骨格は骨折と言う概念は存在しないが、代わりにフレームの『不調』が最も顕著に表れやすいのが四肢の関節部分であった。特に全体重を支える膝部分は特に頑丈に作ってある代わりに一度損傷を受ければ後は脆く、陸戦型はそれだけで戦闘行動が不可能になってしまう事も充分に考えられる。この場合セッテがやられたのは足ではなく左腕だけで済んだのでまだ良かったが、戦闘能力を大幅に削がれた事は事実だ……少なくとも、これでますます真正面からの戦いを避ける必要性が出て来た。

 「逃げられると思うな。あいつの所には行かせん」

 「く……っ! 貴方にはあの人のやろうとしている事を真に理解出来ていない」

 「三年前まで機械のようだったお前の口からそんな芝居掛った言葉が聞けるとはな。姉としては嬉しい事この上無いが、状況が状況だ、叩き落とさせてもらうからな」

 「直線的なっ!!」

 「当たり前だ!!」

 単に移動するだけでも超加速の余波で周囲の水滴や水溜りなどが一斉に爆ぜて水霧が顔に引っ掛かり視界を遮る。加えて通路の狭さ……逃げるにしても応戦するにしてもやり難い、一度開けた空間に出たいのだがそうすれば瞬く間に相手の餌食になってしまうので出来ない相談と言うモノだ。このまま引き離したいが速度の面に置いてもあちらの方が圧倒的に上だ、馬鹿正直に直線コースでは捕えられる。

 ならば──!

 「でっ、やぁぁあああっ!!!」

 「ヌ!?」

 衝撃で水と煙が巻き上がり、トーレは妹の姿を見失った。顔に掛った水滴を拭って立ち込めた煙が収まりを見せた頃にやっと追跡の体勢に戻れたが……

 「引き際も学んだか……相変わらず覚えが良いな」

 通路の床をぶち抜いた大穴……人一人は余裕で通れるその穴からは肌を撫でる微風が流れ、増強された嗅覚がその気流の中にセッテの体臭を捉えた。どうやらかなり距離を離されてしまったようだ……敵の意表を突く事を覚えたのを姉として喜べば良いのか、はたまた敵に回ってしまった事を歯痒く思うべきなのか……。

 「まぁいい、この私から安全に逃れられる場所などどこにも無い……それを肌に刻み込んでやる、徹底的にな」

 開いた穴に身を投じて下の階に降り、トーレは姿を暗ました妹を探して通路を突き進み出した。臭いは既に途絶えたが問題無い、気配は微弱だが近くに感じている。

 捕えられるさ。何故なら彼女は敵を倒す『戦士』ではなく、獲物を狩り獲る『狩人』なのだから。










 知っての通り、スプリンクラーと言う物は火災警報器が火煙を探知しないと作動しない仕組みになっている。更には水の節約もあり当然の如く散水するのは火災が発生したエリアの周囲のみに留まるのが普通、と言うよりそうでなければおかしいのだ。

 報告にあった侵入者の捕縛に向かっていた武装局員達は突然の散水に驚きを隠せなかった。まだ完全に指揮系統が回復した訳ではないが自分達の居る付近で火災が発生したと言う報告は無かった為、システムの誤作動か何かだろうと思ってそのまま作戦を続行した。通路全体が水で濡れているので足を滑らせない様に注意を払いつつ角を曲がり、進行ルート上に敵の姿が無い事を確認して階段を駆け上がり──、



 踊り場に差し掛かった時に“異変”に気付いた。



 「な、何だこれ……!? 何の臭いだ?」

 突然鼻を突いた異臭の存在が彼らの足を止めた。ガソリンや灯油の様な揮発性の液体が発する臭いに良く似た鼻腔を突き抜ける臭気……どこかでガス漏れでもしているのかと思い、手持ちのデバイスを使って周囲を確認させるがこの辺りはガス管は通ってはいないはずだった。となればこの異臭は……一体どこから?

 「くそっ、何なんだこの臭いは! 毒ガスか!?」

 「いや、空気中には毒物は検出されていない。く…………ああっ、くそ! 目が!」

 「どうした?」

 「誰だ! 狭い空間で照明弾撃つバカがどこに居る!! 目が潰れるだろうが!」

 「何言ってるんだよ……お前ら声が『大き過ぎて』何言ってるかわかんねぇよ……。耳が、耳がぁぁああ!」

 聞こえる音は大き過ぎる……。

 見える物は眩し過ぎる……。

 漂う臭気は鼻がねじ曲がる様な悪臭しか感じなかった。

 五感を通じて届いて来る外部からの情報に耐え切れなくなった彼らの脳は激痛と言う形で危険信号を出し、やがてその激痛にさえ耐えられなくなった彼らが本能的に取った行動は……

 「うぅ、あ……ぁ」

 気絶……肉体が本来持つ防衛本能が意識を一時的に闇に落とす事で全ての感覚受容器官をシャットダウンした。そうする事でこれ以上神経が摩耗する事を回避したのである。

 後の報告によれば彼らと同じように異臭を感じたり眼球に痛め、聴覚に多大な支障を来たしたと言う症例は幾つもあり、その全てが例外無くスプリンクラーによる散水の直後であったと言う。尚、スプリンクラーが作動したのは通路のみであり、室内に閉じ込められていた者達は難を逃れる事に成功した。










 その点で言えば彼女は難を逃れる事に失敗していた。

 「頭が……! 頭が、割れる!!」

 鼻を突く異臭。

 激痛に苛む眼球。

 そして耳鳴り……。

 万力で締め上げられると言う陳腐な比喩では間に合わない、あらゆる痛覚を超越した『痛み』と言う概念そのものが今の彼女の精神を気を失う一歩手前まで追いやっていた。

 常人ならばとっくに気絶しているはずの痛みの中で何故彼女が辛うじて立っていられるのか……それは一重に彼女自身の持つ強力なメンタリティ、打たれ強さがその足を支えているからなのだろう。刺し貫かれた脇腹と胸の痛みも徐々に気にならなくなって来ている……ここに来るまでに時間を見てしっかりと傷の治癒も済ませて来ていた。あとはこの頭痛だけでもなんとかしなければ……。

 「くっくく、ががっ……! でぇやい!!!」

 ガンッ──!

 「ッ~~~~!!」

 鋼鉄加工の壁に思い切り頭を打ち付けた。遅れてやって来た額の痛みと痺れに呻きながら彼女は一度片膝を着きそうになる。だがすぐにそれを抑え、毅然と背を張って再び歩き出した。額から垂れる生温かい鉄の味の液体を気にする事も無く彼女は感じるたった一人の気配を追ってただ歩いた。

 別の痛みを与える事で元々あった痛覚を麻痺させると言う如何にも原始的な方法だが、存外上手く行ったらしく、彼女は徐々に足並みを元のペースに戻し始めていた。

 「行かなくちゃ……私が、行ってあげなくちゃ、解ってくれない」

 もう何度拒絶されたかも分からない……今更もう一度もう一度と思って行ったところで何も変わらないかも知れない。彼の本質は自分の事を歯牙にも掛けていない事はもうとっくに解り切った事のはずだった。だがどうしても何かが引っ掛かる……思い込みとは違う、深層心理の奥底で眠る何かが告げられた事実と真実との相違を訴えているように思えて仕方が無いのだ。彼は……トレーゼはまだ本当の事を隠しているのではないのか?

 だが悲しいかな、彼の心の最奥にある壁の最後の一枚を破るのは自分の役目ではないと言う事も薄々ながら勘付いていた。自分は精々その『役目』を負った者が彼と接触するまでの繋ぎくらいにしかなれないだろうが……足止め役なら幾らでも引き受ける自信はまだあった。

 と、そう考えながら移動していた時、周囲の壁や天井が震動でぐらつくのを感じた。

 「さっきの瓦礫…………じゃない、この震動……誰かが?」

 瓦礫が押し崩れる余震的な震動ではなく、スバルが感じたのは固い地面が無理矢理壊される様な乱暴な揺れだった。かなり近くで戦闘があったのだろうか? その余波がここまで届いたと考えるのが妥当だろうが、戦闘があったと言う事はつまり誰かが侵入者の駆逐を行っていたと言う事でもある。侵入者は自分をカウントして五人……最悪の場合、こちらに協力している事実を知らない局員とトーレが交戦と言う同士討ちも考えられる。

 「大丈夫だよね……トーレさん」

 ナンバーズ最強である彼女なら無駄な戦闘は回避してくれるだろうと信じ、スバルは通路の角を右に曲がって──、



 その嗅覚神経が生臭い臭気を感知した。



 「うぅっ!?」

 災害現場で嗅ぎ慣れる臭いは基本的に二つ……物が焼ける焦げ臭さと、傷口から漂う血の臭い……今回は後者だった。散水の影響で冬には似合わないぐらいに湿った大気の中で異常なほどの存在感を醸し出すその臭いを彼女が間違えるはずもなく、その発生源を突きとめようと臭いに釣られるまま通路の先にある十字路を曲がり──、

 その先に見知った姿を見つけた。

 「ノー……ヴェ?」

 点滅する非常灯の所為で顔は見え難いがその輪郭や服装は間違い無く自分の義理の妹であり、こちらに背を向ける形で通路の真ん中に仁王立ちとなっていた。スバルはその背中に一抹の不安を覚えた。と言うのも、幇助罪の疑いを掛けられて身柄を保護されて以降ノーヴェとは会っておらず、彼女の容態が聞いていた範疇と比較してどれ程のものなのか皆目見当がついていなかった。加えて街中で拳を交えた時には既にトレーゼの支配下にあったので、現在無事に解放されているであろう彼女の精神状態が如何ほどのものなのかが唯一の懸念要素……せめて正気を保っていれば良いのだが。

 「……………………」

 「ノーヴェ……どうしたの? だいじょう────────ひッ!?」

 肩に伸びたスバルの手がすぐさま離された。薄暗い空間に滲み出していてそれまで意識出来なかった彼女の“異常”にここで初めて気付く事が出来たのだ。

 異常と言っても彼女自身は特に何の変化も無かった……。かつての自分の様に体のどこかを欠いている訳でも無く、更に言ってしまえば見た感じでは体のどこにも目立った怪我は見当たらなかった。何もかもが確かに正常であるはず……そう、はずなのだ、はずでなければおかしいのだ。

 だが何かが違う! 穴に落とした小石がいつまで経っても音を返して来ない様な虚無感、吸い込まれそうに空っぽな見慣れない感覚が見慣れた背中から漂って来ていた。

 「ノーヴェ?」

 「…………スバル……」

 「大丈夫? ずっとトレーゼに操られてたんだよ! 覚えて無い?」

 「トレーゼ…………トレーゼ……………………スバル──、」



 「スバルおねえちゃん」



 「……………………え?」

 あどけない笑顔に一瞬スバルは自分の頭が混乱していた事にも気付けなかった。だが疑問は解け、謎の違和感の正体もこれで分かった、分かってしまった。

 「トレーゼおにいちゃん、どこ? あたしおにいちゃん探してるのに見つけられないの……。ねぇ、スバルおねえちゃんはどこ行ったか知らない?」

 ノーヴェは……あの愛しかった闊達な義妹は…………。



 壊れてしまった。



 「ねーねー、おねえちゃん、どうして泣いてるの? どこか痛いの? ケガしてるの? あたしが痛くなくなるおまじないしてあげるね! 痛いの痛いの飛んでけ~」

 「ノーヴェ!!」

 「きゃ!? どうしたのおねえちゃん? フフフ、甘えんぼおねえちゃんなんだからぁ」

 「ごめん! ごめん、ごめん、ごめんねノーヴェ、許して、バカなお姉ちゃんを許して!」

 送信された大量の量子情報の奔流によって既に彼女の脳、特に精神や人格を司る部分は徹底的に破壊されてしまっていた。当然と言えば当然の帰結だ、【アブソリュート・ドミネイター】の第二効果は適合した同族のナンバーズの脳に他人の感覚情報を常時強制的に上書きさせる力……解除するのが早ければ何も問題は無いが、そうでなければこうなるのは分かり切っていたはずだった。そうだ、分かっていた事だった。ただほんの少しだけでも期待したからショックが大きいだけなんだと、スバルは自分に言い聞かせていた。

 「ごめんね、おねえちゃんってば泣き虫だから……。駄目だよねこんなんじゃ」

 「ダメじゃないよぉ。ノーヴェはおねえちゃん大好きだもん」

 「ありがと……。ねぇ、ノーヴェはトレーゼに会ってどうしたいの? 何か言いたい事でもあるの? 会って何かしなきゃいけない事でもあるの?」

 「ううん、会いたいの。急にどこか行っちゃうんだもん……びっくりしちゃった」

 「……………………ねぇノーヴェ、ここから先は絶対に来ちゃダメだからね」

 「どうして? あ────っ!?」

 頭を軽く小突いて魔力を流し込み、意識を混濁させて眠らせた後にスバルは妹の体をそっと地べたに座らせた。脳に多大な被害を受けているノーヴェを戦いに連れて行けるはずもなく、戦いが終わるまでの間だけ大人しくここで待っていてもらう事を選択したのである。ここまで来てしまえばこの地上本部に安全な場所などあって無い様なものだが、迂闊に動き回るよりかはよっぽどマシだ。

 「…………ブリッツ、地上部隊の周波数全部乗せで通信飛ばせる?」

 『お安い御用です』

 「ありがと」

 『繋げられました。いつでもどうぞ』

 「う、うん。あーあー……こちらスバル・ナカジマ。地上本部の中で要救助者一名を確保しました。手の空いている人で構いません、回収をお願いします。場所は、えっと、N-14区画」

 自分と同じように地上部隊の隊員達のデバイスも同様に回復しているならこの通信を誰かが拾ってくれるに違いない。それまでの間ここにこうして放置しておくのは心苦しいが、スバルも自分がノーヴェを庇いながら戦えるほどにまで実力が高い訳ではない事を考慮すればこれは最善の方法である事に相違は無い。

 「待っててね……すぐに終わらせて来るから!」

 未練がましく振り向いてはその寝顔を脳裏に焼き付け、スバルは遂に走り出した。目指すはこの通路全体を押し潰す濃厚な血の臭い……その発生源を突き止めると同時に、全ての元凶であるトレーゼの行為を阻止する為に……。










 23時17分、地上本部管制室にて──。



 「システムの復旧率は?」

 「全体のおよそ三割と言ったところでしょうか。ここに居るオペレーターを総動員と、ミッドチルダ各支部からのバックアップを受けて何とか……と言う状態です。完全に復旧するにはまだまだ時間が……」

 「そうか。ところでだ…………このドアはいつになったら開く?」

 【アブソリュート・ドミネイター】の呪縛から解放された事によって管理局のシステムは徐々にだが元に戻り始めていた。暗室だった室内には非常灯が灯り始め、固く閉じていた正面玄関のドアも開くようになり、一部のエレベーターなどに至っては問題無く稼働する様にもなっていた。だがどう言う訳か管制室のドアだけは未だに開く気配を見せず、今もこうして外からの救助を待つ始末だった。

 「まぁまぁ、そう焦るな提督殿。根を詰めては早死にすると先人も……ゴッホ、ブフ! オフッ!!」

 「きついんだったらいい加減吸うのをやめた方が良いと思うんだがな! と言うか止めてくれ! さっきから空調が利かない所為でこの部屋タバコ臭いんだよ!」

 「いやいや、この気管を刺激するニコチンがまたなんとも……」

 「将来肺病で死んだとか言うオチは止めてほしいものだな、本当に」

 「私が肺ガンに罹ろうが結核に蝕まれようが君達には何の迷惑も掛けん事を保証するよ。それよりも気になるのは今現在の戦況についてだ。開戦から既に二時間以上が経過しているが、何の音沙汰も無い……。誰か一人ぐらいはここに来てもおかしくは無いはずなのだがなぁ」

 作戦が始まったのは21時丁度……それからもう二時間と二十分が経過していると言うのに未だに何の変化も無い。スカリエッティが言うには、何らかの事情で“13番目”のISが停止してシステムが解放されたのは確かなのだが、予防策を取っていた相手方が未だにこちらのシステムの中枢を握って放さない為に管制室の設備が完全に復旧しない原因になっているらしい。なので外に居る部隊とは未だ通信が取れず、こちらも外で何が起こっているのかその全容を把握する事は困難を極めたままだった。

 「よもやあの“13番目”がここまで来て『獲物』を諦めるはずもない。ISの停止も何らかの邪魔が入ってそうせざるを得なかったと考えるのが一番妥当……となれば、奴はまだ健在と言う事になってしまうな」

 「だとしたら先程の衝撃、あの時に侵入したと言う事も考えられるぞ。もしそうなら、ここは地獄だ。なにせ管理局に敵対意思を持つ戦闘機人が二人も徘徊しているのだからな」

 「全次元世界で最も危険な場所、か。皮肉だな……管理世界の法と秩序を守護する砦がこんな失態を全世界に晒すなんて」

 「『法の塔は二度倒れる』……預言が的中したな。今にも地盤から傾きそうじゃないか」

 ふと、その一節を耳にしたクロノの脳裏に過るモノがあった。それはこの一連の事件が本格化する直前にカリムがもたらした例の預言の内容に関してだった。

 「預言ではこの後、“13番目”を阻止出来なかった場合どの様な展開が待ち受けているんだったか……?」

 「確か……『中つ大地を離れ、遠き彼の決戦の地へと流れ着く』、だったか。文面を意訳するならば、この戦いの直後“13番目”はセッテと共にミッドチルダを離脱して別の次元世界に身を移すと言う事になるが……どこか予想はついているかな提督殿?」

 「むしろこちらが聞きたいぐらいだ。だが文面には『彼の決戦の地』とある。つまりこれは……」

 「うむ。戦いはこれっきりではないと言う事かも知れん。その『決戦の地』とやらに辿り着かない限り、この戦いは終わらない……と言う事もあるのではないかな」

 「だとしたら冗談じゃない! 計画を成してこれ以上何の目的が……!」

 「どちらにせよ、ここから先の転び方次第で展開は変わる……。預言の内容を変えるのもここが最後の正念場となる事だけは間違い無いだろう」










 充満する血の臭いに鼻を曲げながらスバルはその臭気の発生源を突きとめようとしていた。スプリンクラーの散水以降、異常なほどにまで拡張された感覚神経はその生臭い血の臭いを捉えて離さず、ノーヴェとの接触からずっと執拗に鼻腔を突き刺して止まなかった。ただ単に臭っているだけなら彼女とてここまで必死に探したりはしない……その臭気が丁度トレーゼの気配を感じる同じ方向から漂って来ていたから気になったのだ。

 彼の居る方向から漂っているとなれば誰かが彼の歯牙に掛ったと言う可能性も否定は出来ない。最悪、死人が出ている事も考えられるだろう。

 「臭いは…………ここから」

 もうだいぶ近くなってきた……この目の前の角を曲がれば後少し──、



 「捕えた!」



 胸元を握られる感覚の後、上下が反転し、次の瞬間スバルは自分が背中から地面に叩きつけられた事を自覚した。突き抜ける痛覚が脳髄を刺激するが彼女の意識は持って生まれた根性で何とか留まりを見せた。

 「兄さんの『毒』の効果を受けていれば必ず臭いを追ってここへ来ると予測していましたよ、セカンド」

 そう言って突き出されたセッテの手には、ガラスか何かでわざと切ったのか一筋の切り傷が走っており、そこから溢れ出した血が水浸しになった通路に赤くシンプルな模様を描いていた。自分が誘き出されていたと気付くスバルだがもう後の祭り……一度はなんとか退けた相手に今度は自分の生殺与奪が握り返されてしまっている事実に彼女は恐怖した。

 「さて……私は今から貴方を殴ります。ただ殴るのではありません、殴り殺します、屠殺します。一方的に、理不尽に、そして確実に……」

 「セッテ……!」

 「聞く耳持ちません!!」

 振り上げた鉄拳!

 バネ充填!

 振り降ろし!

 撃墜!!

 人間を殴り殺すにはこのたった四つのプロセスだけで充分間に合う、それ以外の行為など必要ではない。不要な要素を全て省いたその渾身の一殺をスバルは──、

 「グッ!!」

 回避、寸前で。狙っていたのが顔面だったから出来た芸当だ、これが心臓だったら成す術は無かっただろう。とにもかくにもスバルが寸前で回避した事により拳は水飛沫を上げながら床に着弾……耳障りな音と共に亀裂が床を広い範囲に渡って浸蝕し……

 「う、わあぁ!!?」

 「ぐっ! また厄介な!」

 星の重力に瞬時に抗う術を持たない二人は呉越同舟、そのまま下の階に到達し、不幸な事に脆かったその通路まで粉砕し更に下層にまで落下して行った。

 二人揃ってトレーゼから一歩距離を離してしまった。










 「つまるところ、人間の行動原理とは一体何なのだと思うかね?」

 「何だ急に哲学めいた事を? いつから哲学者になったんだ」

 「単なる暇潰しさ。少しばかり問答に付き合ってくれて良いだろう提督殿」

 「少しじゃないような気もするがな……。まぁいいさ、それで一体何の話だ」

 タバコの淡い光が灰皿に消え、細い紫煙がゆらりと揺れたのを最後にぱったりとニコチンの臭いが途絶えた。そのさり気ない行為に何かしらの意味を見出したのか、それまで背もたれに寄り掛っていたクロノは前に屈んで真剣に話を聞く姿勢を見せた。

 「例えばだ……君達人間、特に成人した大人は企業や団体に所属して自らの労働力と引き換えに正当な対価と言う事で賃金を得る『労働』と言う行為をするが……それは結局何の為にそうしているのだね?」

 「さぁな。生活を遣り繰りする為にする奴も居れば、それとは関係無しに金を得る為だけに働く奴も居る。職種によってはその内容そのものが気に入ったと言う理由で自分の快楽を求める奴も居る。僕の場合はまあ…………ここは家族の為、とか何とか無難な事を言っておけばいいのか?」

 「フフフ、ご自由に」










 「耐火防壁か……資金の、使い所を、間違っているな。中ばかり丈夫にして、外回りに、全く気を配っていない」

 「突破する。ここで、奴の魔法を、使うのは癪だが……」

 「リボルバーブレイク!」










 「ッ!!? 今の揺れはっ!?」

 「座り給え提督殿。ただの余震の様なモノだ、何も心配する事は無い」

 「しかし……!!」

 「座り給え。三度は言わん」

 「…………了解した」

 自分よりも遥かに細身な男の言葉に逆らえぬ何かを感じ取ったクロノは無駄口を叩く事もせずに大人しく席に座り直した。

 瓦礫が崩れた余震などではない……あの揺れは間違い無く何かが轟々と音を立てて無理矢理に崩壊した震動だった。間違い無く、わざわざ設備を破壊しながらここに突っ込んで来る悪意に満ち満ちた存在がここへやって来ているのだとクロノは気付いていた。このスカリエッティもそこまで愚鈍ではないはず……なのに何故慌てる様子が無い? まさか今までの言動は全て芝居で、本当は“13番目”に自分が連れ出される事を望んでいたのか?

 「邪推は良くないな、顔に出ている」

 「失礼、職業上他人を疑う事も多々あるので……」

 「良いさ。それはそうとさっきの話題だが、話を少しストーリー仕立てにしてみよう。その方が分かり易い」

 「……………………」

 「ある所に熱心に働く金の亡者が居た。彼が労働するのは全て金の為……預金通帳の横並びのゼロを増やす為だけに彼は労働し続けた。高級品を買う訳でも無く、大豪邸に住まう訳でも無く、かと言って女を引っ掛ける訳でも無い。彼が労働するのは金の為だけのはずだった」

 「要するにケチって事か。よくあることだ」

 「だがある時誰かが見てしまった。ただひたすら金を稼ぐ事にしか興味が無いはずのその守銭奴が、ある時恵まれない子供の居る施設に多額の寄付をしている所を」

 「泣かせる話じゃないか。今まで得ていた金は全て不遇な子供たちへの義捐金……ちょっとしたドラマだな」

 「なら感動ついでに質問だ。その守銭奴は一体何の為に労働していたのだと思う?」

 「それは…………それはもちろん、義捐金を稼ぐ為だったのでは?」

 「順を追って考えれば簡単な事だ。そう、君の解答以外には考えられないだろうさ」

 「それが結局何なんだ? 今ここで話さなければいけない事なのか?」

 「関係あるとも、大いにな。私はな自慢込みで時折自身の察しの良さが恐ろしくなる時があるのだよ。予測しなくて良い事でさえ私の頭脳に情報として取り込まれたならば、私の脳は無意識にそれを“問い”と認識して確実な“解答”を導き出す……言うなれば、生きた演算処理システムみたいな物だ」

 「随分な御自慢だな。色んな意味で耳が痛いよ」

 「ここへ来てから幾日か経つが、その間に私はふと思考した…………」



 「“13番目”の本質とは何なのだろう、とな」



 二度目の震動が管制室を揺らした。










 二階も下に落下したスバルとセッテの二人は打ち据えられた全身を奮い立たせ、全くの同時に立ち上がって対峙し合った。自分達が落ちて来た天井の穴は意外と大きく、走っている亀裂からは大き目の瓦礫が今にも崩れそうにグラついていた。

 「はぁ、はぁ……往生際が悪いのは、悪徳にしか成り得ませんよ」

 「悪いけど……『死に損ない』は私にとっては褒め言葉なんだから!」

 「今度こそ、引導を渡してあげましょう。速達の手渡しで」

 「返品する!」

 「却下です!」

 スバルの左手とセッテの右手が激しく打ち合った。魔力と熱エネルギーが真正面から鍔迫り合い、その物理的余波が更にその区画の亀裂を押し広げて行った。本来ならここでスバルの方から距離を置いて交戦を避けようとするのだろうが、最早互いに互いの存在を退けない限りは勝機は無いと判断していた彼女は周囲の微々たる被害には目もくれず、ただただ目の前の障害を倒す事だけに集中していた。

 だが両者の間に横たわるスペックに開きがあり過ぎたのか或いは元からの体力の差か、打ち合いは徐々にスバルが壁際に追いやられる様相を見せていた。相殺し合っていたはずの拳もやがてその勢いを失くし、スバルは遂に地面に膝を着いてしまった。突き出した拳だけが辛うじて威力を保っている様に見えなくもないがそれは空元気でしかない……。

 「終わりです。貴方との因縁も、兄さんへの懸念もここで消滅、貴方の思惑はここで潰える」

 「く、うっぅ!! ああああぁ!!」

 「潰れろ、潰れなさい、潰れてしまえ! 兄さんの邪魔をする者……ワタシの“可能性”を陰らせる者!!」

 「こ、の…………この、分からず屋ぁぁああああああああああああぁっ!!!」

 激昂と共にスバルの足元に重圧が圧し掛かりその床に細かいヒビが入る。それまでずっと劣勢だったはずの彼女が急に勢いを取り戻した事に驚愕しながらもセッテは更に出力を引き上げた。

 しかし──、

 「そんな、バカな! 何故……どうして倒れない!?」

 本来ならばとっくに押し倒されているはずのパワーで押し切ろうとしているのにスバルが倒れる気配はまるで無く、それどころか逆にセッテの拳を力強く押し返して来ているではないか。混乱する頭を必死に律しながらセッテは遂に己の限界領域にまでジェネレーターのリミッターを解除した。これで駄目なら……!

 「効かないよ」

 「!?」

 「私は不器っちょだから、ティアナみたいに幻影も使えないし、エリオみたいに速くも動けない。けどね、力押しだけなら…………そっちの負けだよ」

 金色に光る眼球……戦闘機人特有の精密機器のその視線がセッテを真正面から臆することなく射抜いた。エネルギー供給経路をリンカーコアからジェネレーターに切り替えた……言わば、魔導師モードから戦闘機人モードに鞍替えしたと言う事だ。それまで無理に魔法を連続使用して疲弊していたリンカーコアを捨て、ずっと休ませていた熱機関ジェネレーターを一気に出始めから全開にする事でそのエネルギー全てを余す事無く右腕に集中させているのだ。

 「受けて見る? 私の全力全開……零距離振動拳!」

 「デバイスを装着していない状態でISを!? 貴方、左腕が惜しくないのですか!?」

 「何本でも良いよ……あなたなら腕一本だって惜しくないよ」

 「そこまでしてあの人を────!」



 「振ッ動ッッ拳ッッッ!!!!!」



 解き放たれた凶暴な振動が打ち合っていたセッテの拳を完全に打ち崩し、はち切れた皮膚から飛び出した血飛沫を顔に受けながらスバルは自分のボロボロの拳を彼女の腹部に突き出した。拳から伝わる揺れはセッテの肉体と共振動を引き起こして大気までをも揺らし、盛大な爆音となって区画全域を震動させるに至った。壁の亀裂は更に浸蝕し、窓ガラスは残らず四散、彼女らを中心にして水滴が震動で弾け飛ぶなどの現象を引き起こしながらスバルは更に出力を強めた。

 だが、この時彼女は気付けなかった……。

 自分達の居るこの区画が既に耐久面で限界を迎えようとしていた事……そして、その真上には管制室が存在していた事を。










 数分前の午後23時21分、管制室にて──。



 「…………来たか」

 「来たとは、何っが……!?」

 ドラム缶を蹴った様な音の後、自分達の居るこの空間に明確な異変が訪れた事をクロノは嫌でも実感した。管制室と外の通路を隔てる一枚のドア……戦車砲弾の直撃からも内部の人間を守ってくれると言われていたそのドアに今、無骨な鋼の腕部が突き出ているのを見てしまったからだ。

 「て、提督!」

 「うろたえるな! オペレーター各員は奥へ下がれ! ここは僕が面倒を見る」

 そう言ってクロノは席を立ち、右手に持ったデュランダルを起動させた。ドアを抉じ開けて出て来た所を真正面から持てる限りの高等氷結魔法で迎え撃つ……動きを封じれば例え“13番目”であろうと──、



 「そこまでだ」



 小さくも鋭い痛みを首筋に感じた直後、クロノは自分の両脚が痙攣を起こし始めた事に気付いた。脳裏に『毒』と言う単語が思い浮かぶがそれを紡ぎ出す為の唇でさえもがブルブルと無様に震えるばかりで何の言葉も出なかった。

 「即効性の弛緩剤だ、毒ではない。悪いが提督殿はここで黙って事の成り行きを見守る生き証人となって頂こう」

 「き、さま……っ!!」

 「さてと、これで邪魔者は居なくなった。焦らずにゆっくりと、且つ礼儀正しく入室して来たまえ……『トレーゼ』」

 明確な迎え入れを促すその言葉に反応したのか、鉄板をはがす様にドアを抉じ開けようと蠢いていた腕の動きがはたと止まり、その後何を思ったのか隙間の向こうへと引いて行った。風穴の様に開いた隙間の向こうは非常灯だけが灯る薄暗い空間が広がっており、寂れた隙間風が流れ込むだけだった。

 ふと、ドアの表面に浮かぶ真紅の疑似魔法陣……。無機物透過の能力、【ディープダイバー】によって静かに侵入、否、進入を果たした戦闘機人は無機物の如き不気味な静けさを湛えながら恭しく頭を垂れて一礼した。

 「ナンバーズ、No.13『Treize』……只今、帰陣しました」

 右手を頭に持って来て最敬礼。本職の軍人でさえも惚れ惚れするような一寸の狂いも無いその挙動の後、無言のままスカリエッティと向き合った。まるで鏡映し……元の遺伝子が同じだからなのか、同一人物の過去と未来を重ね合わせている様なその光景に辛うじてながら意識を保っていたクロノも得も言われぬ不可思議な感覚を覚えていた。

 「長きに渡る作戦行動、ご苦労だったな。如何に君と言えど疲れが骨身に染みる頃ではないのかな?」

 「お気遣い、感謝します。俺の、今までの行動の成果は、全て、創造主、スカリエッティにのみ、捧げられるモノ……感謝される、程のモノではありません」

 「ふむ、だが君は証明した。この私、ジェイル・スカリエッティが創造した無敵のナンバーズと言うコンセプトを君は全ての障害を悉く粉砕し、破壊し、跡形も無く蹂躙し尽くす事で私に証明して見せたのだ。君と言う“芸術”を生み出した者としてこれ程嬉しい事は無いよ」

 「光栄、至極です。……………………それでは、行きましょうか」

 「ほほう、どこへ行こうと言うのかな? 私が過去に使っていたラボの半数以上は管理局に抑えられてしまっている。加えて、君が活動拠点にしていた物も既に場所が割れている頃だ、これ以上どこに行こうと言うのかね? 別の次元世界に渡って新天地を切り拓くか?」

 スカリエッティの言う通りだ、トレーゼが拠点として使っているはずの隠しラボは他でも無い彼自身が高町宛てに送り付けた映像から大体の目星はついてしまっており、通信が回復したのを見計らって支部に連絡し現在は調査員がその場所に向かっているはずだった。かと言って別の次元世界に渡航すると言うのもあながち冗談ではなく、トレーゼの力量であれば時間こそ掛れど単体での次元間跳躍も可能なのでそう言った強引な逃走経路の確保もあり得るからだ。もし仮にそうした場合、次元航行艦による大掛かりな作戦行動しか展開出来ない管理局側は限り無く後手に回る事を余儀無くされてしまうだろう。

 つまり──、

 ここで彼がスカリエッティを連行して逃走すれば管理局が手を出す事は事実上不可能になる……。

 「だがしかし、私一人を見つけ出す為にここまでの事を仕出かす君の事だ……既に策はあるのだろう」

 「策……と呼べる程、高尚なモノでは、ありませんが。その前に、一つだけ……俺から、貴方に、訂正を加えて、よろしいでしょうか?」

 「なに、構わんよ。誤りをそのままにしてしまえば後で致命的な齟齬になり兼ねんからな」

 「それでは……………………訂正させて、頂きます」

 そこから先は誰も介入出来なかった。それまで体に纏っていたはずの一切の敵意も、殺気も、覇気さえも放棄したトレーゼはゆるやかに言葉を紡ぎ出し、まるで詩を詠む様な朗々としたその声に誰しもがこの窮地を忘れて聞き惚れていた。





 「一連の俺の行動……それらは全て、創造主の為に、捧げられるモノ、であったと言う事実。これには、何の相違も、ありません」





 「ですが……いえ、『であるが故に』、と申した方が、よろしいのでしょうか」





 「先程、俺が言った言葉、あれは、嘘です」





 「ああ、真赤な嘘だとも」





 「貴方に──いや、貴様などに、行き場所など、無い。ここが終点、ここがピリオド。俺と貴様が、境界線」





 「そして、貴様は、その境界線を、越えられなかった」





 「貴様は、失敗した……。失敗し、“旧い者”へと、成り下がった。俺が目指す、“新しい場所”に、貴様の様な、旧い者は、不必要だ」





 「旧い者が、新しい者に、台頭されるのは、至極当然の帰結……」





 「これからは、俺が“スカリエッティ”を、名乗る。この俺が、新たなるナンバーズの、筆頭にして、創造主へと、新生する」





 「そうさ……全ては、創造主、“スカリエッティ”の為に」





 「だから、ジェイル・スカリエッティ…………否、ジェイル……」










 「貴様は、ここで死ね」










 BANG!!

 聞こえた銃声が幾つだったかは誰にも分からない。ただ分かったのは、目の前に居るマッドサイエンティストの細身な体が何度も何度も痙攣した末にようやく仰向けに倒れた事だった。それまで室内に充満していたタバコに取って代わる鼻を突く強烈な硝煙の臭気が漂いドアからの隙間風に流れて徐々に退いて行った。空薬莢のシャープな音だけが静まり返った空間に反響して響き渡り、それもやがては大気の流れの中に消え失せた。

 「…………ディス……」

 空になった弾倉を解除……

 「イズ、ジ…………」

 弾倉が床に当たった瞬間に銃本体も手から放し、彼は優雅な振る舞いを以てして踵を返す。その背中にはやはりドス黒い殺意はどこにも無く、むしろその逆……

 「エンド」

 自分の思い描いて来た構図を実現したと言う誇らしさがその背中からは滲み出ていた。










 『This is the end.』……その言葉通り、彼の、トレーゼの計画は今この場この瞬間を以てして終了し、何の疑いの余地も無く完遂されたのであった。旧き物を取り去り新しい物だけを纏って生まれ変わる……まさに彼の言っていた『脱皮』、再生が成された瞬間だった。

 そして再生を経た存在は新たなモノへと昇華する。

 トレーゼ・スカリエッティ……以後、管理局の記す歴史書の類の中に幾度となくその名が出て来る著名人の名がそれだ。

 故にT・S事件。ジェイル・スカリエッティの『息子』、トレーゼ・スカリエッティが引き起こした管理局80年の歴史の中で最悪の少数犯事件。

 主犯、一名。共犯、一名。

 たった二人の犯罪者による全速前進の武力逃避行はこれ以降も加速し、止まる事を知らないようにも思われた。事実、持て得る限りの戦力を掻き集めたにも関わらず退けられ疲弊し切った管理局がこれ以上彼ら二人と対峙するのは困難なはずだった。

 しかし──、

 この事件が発生した数時間後…………ミッドチルダにかつて無い混乱を引き起こしたトレーゼ・スカリエッティは忽然と姿を消し、一人の人間がミッドチルダの戸籍登録書類から同じくその名を消した。

 その事実と、ジェイル・スカリエッティの死因が『頭部打撲』による撲殺死である事の関連性は…………謎である。



[17818] フェイカー
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:19535551
Date: 2011/04/10 06:22
 区画全体が危険な事にスバルが気付いたのはそれから少ししてからだった。振動拳の余波をまともに受けた所為で上階を支える柱と言う柱が限界を迎え始め、先程から嫌な揺れに伴って細かい瓦礫や塵が天井から降り注ぐのを見て彼女は危機感を覚えた。

 「うそ……! この上って確か……管制室!?」

 気絶中のセッテを背負いながらスバルは安全な場所への退避を急いだ。管制室は有事の際の司令塔である為に他の部屋と比較しても規模が大きく、空間自体の強度もそれなりにある。だが下から支えを失えば頑強な室内は自重によって地盤沈下の如く下階に落下し、更にその上の上階も済し崩し的に崩落する可能性も無きにしも非ず……リンゴの芯が腐るようにして地上本部は内部から壊滅してしまうだろう。

 出来る事ならその崩落を食い止めたいと言う気持ちがあったが、残念ながら連戦に次ぐ連戦で今のスバルの体力は底を尽き掛けており、例え余力があったとしてもアトラスの天蓋の如く落下してくる高層建築物を単身で支えるだけの力など彼女には元々無い。不本意ではあるが今は一刻も早くこの場を立ち去ってセッテの身柄を保護する事が最優先だと言えた。

 ふとその時、スバルの脳裏に響いて来る音声があった。

 ≪おい、聞こ……──ガガッ──、か? おうと、うして──!≫

 始めは念話かと思ったが実は違う、ステレオを耳に押し当てているかの様に響いて来るその音声は脳内に埋め込まれた通信端末からの物で、声の主についてもすぐに見当がついた。

 「トーレさん!? 今どこに……」

 ≪今までずっとお前の通信端末の周波帯を探っていたんだ。ナンバーズとは違う周波だから探すのに骨が折れたぞ。こちらは既に退避完了している、後はお前だけだ。セッテの事もあるだろうが奴程であれば先に……≫

 「セッテは私が保護してます! 今背負っているんですけど」

 ≪……信じられん。セッテほどの実力者を一度ならず二度までも。単に運が良いのか、それとも……≫

 「そんな事はどうだっていいですから! 今どこに?」

 ≪お前が居るポイントから間もない所だがその速度では間に合わん。私がセッテを回収する。その方が動き易いだろう≫

 「お願いします」

 通信が切れてから程無くして通路の向こう側からトーレが飛来、背負っていたセッテを抱きかかえるのを確認してスバルは全ての力を推力に回し、この危険区域からの脱出に専念した。一瞬ノーヴェの事が頭を過ったが彼女の身柄は既に外に居る部隊に通達してあるのである程度は安心だろう。仮にまだ回収されていないとしても彼女の居る場所はここからかなり距離を置いた場所、まず大丈夫なはずだった。

 「急げ! もう崩落は止められない。後先余計な事は考えるな、今は己の保身だけ考えろ!」

 「はい!」

 だが、彼女らは知らない……自分達の走る通路の天井、そこを走る亀裂が自分達の進路上遥か先にまで伸びている事に。










 空になった弾倉を足で蹴って廃棄した後、トレーゼはショルダーから取り出した替えの物を装填し再び銃口をスカリエッティに向けた。全弾発射した銃口の先は熱を持っており、自動小銃の撃鉄は持ち主に引き金を引いてもらうのを今か今かと心待ちにしていた。

 「我が創造主ながら、些かしぶとい。流石は、アルハザードの寵児、と言ったところか」

 そう、スカリエッティ──否、姓を剥奪され只のジェイルへと成り下がった彼は辛うじてだが生きていた。腹部から流れ出す血液こそ尋常ではないが薄く開いた口元からは僅かに呼吸による気流を音が聞こえて来ているのが何よりの証拠……。確実な死を直接与えなければ計画は完遂したと見なせないと考えているのか、トレーゼは銃口をぴったりと眉間に押し当てて絶対に外さないように狙いを定めた。

 「……ッ…………な、何故かね。君の魔法、の……レパートリーなら、私を確実に屠る方法の一つや二つ…………簡単にあるはずだ」

 「俺は戦闘機人。魔導運用技術を、利用する者を、駆逐する為に、生み出された存在だ。対魔導技術の象徴……故に、俺は示す、魔法を使用せずとも、人間を屠殺出来ると。それが、創造主である貴様に、捧げられる最後の、敬愛の念だ」

 「なるほどな……素晴らしい、ああ、素晴らしい……! 最っ高じゃあないかぁ! ハルトめ……やってくれるなぁ、最期の最後に……これ程面白く愉快なモノが見れるとは…………フフフ、ハハッハハハハハハハッ! アハハハハハハァヒャァ!!」

 哄笑……死ぬ間際の清々しいまでの高笑い、それがジェイルに残された最期……逃げも隠れもせずにただ目の前の有り様だけを見据えた彼の最期の行為は、たった一人の例外を除く他の正常者達を震え上がらせた。

 そして、今まさにその『例外』の指先が引き金を引こうと引き絞られ──、



 ────ゴゴッ──!



 「っ!?」

 「くそ!」

 管制室全体を盛大に揺らす轟音の後、室内の床に一斉に亀裂が入り次々と崩落を始めた。下から引っ張る重力と上から押し迫る重量に負けて部屋の四隅を支えるはずの柱でさえもが折れ曲がり、ゆっくりと床面は沈む様にして陥没……

 程無くして──、

 「う、っおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!?」

 重力に逆らえず落下するクロノとオペレーター達の雄叫びが崩落の轟音と入り混じり、やがて不気味な静寂を取り戻すのにそう時間は掛らなかった。










 その崩落は予想以上に激しかったらしく、内部から発生した二次被害の震動は離れた地上部隊の面々にも伝わっていた。既にマリアージュの掃討を完了していた彼らの次なる作戦行動は本部内に進入した敵の首魁を鹵獲する事だけであり、いざ突入しようとしたその時に出鼻を挫かれてしまった。内部で発生した小さな火災の煙や粉塵が割れた窓や壁から噴出するその光景は呆然と見上げていた局員達に大きな衝撃を与えずにはいなかった。

 「ああ……地上本部が……!」

 誰が呟いたかは知らない。もしかしたら叫んでいたのかも知れなかった。つい半日前まで自分達はそこで働き、寝泊まりし、そして多くの人間達と出会って来たのだ。その思い出深い場所が何の遠慮も感慨も無しにボロボロと崩れようとしているのを見れば誰だって嘆息してしまうのは当然だろう。普段なら「たるんでいる!」と一喝する所なのだが今回ばかりはシグナムやヴィータも何も言えず、ただ衆人同様に自分達が守る事の出来なかった砦を見上げているだけだった。

 「おいおい、修理費って全部税金から取ってんだろ。こんなんでやってけんのかよ?」

 「よくもまぁその様な呑気な台詞が吐けるな。だがしかし、こんな事態に陥れば人間呑気な事しか考えられなくなる……。現実逃避だな」

 「…………先に中に突入する。シグナムは帰って来たシャマルと一緒に部隊の再編を頼む」

 「任された。気をつけてな」

 「おうよ」

 アイゼンを携えた小さな赤い騎士が信頼する部下を数名引き連れて本部へと向かって行く。それを静かに見送った後シグナムの視線は再び崩れ掛けの塔へと向けられた。有事に備えてガスなどライフラインの一部を断っているので火災は最小限に食い止められそうだが自分達が酸いも甘いも過ごして来た場所が崩れて行くのは止められなかった。魔導生命体として数百年を生きたシグナム達にとって根城や拠点と言った物を失うのは慣れていたはずだった。敵の焼き討ちに晒されたのは山ほどあるし、時には場所を提供していた味方だったはずの者からの逆襲なども経験して来た。そんな彼女でさえ今回のこれは胸の奥に何か込み上げる物を感じていた。

 「慣れていたはずだったのにな……」

 人間に近付いた事で感傷的に成り易くなっているのかも知れない……そう自分に言い聞かせながら彼女は踵を返し、未だ闘争の炎をその胸に燃やす同志達を纏めに掛った。










 結論から言えば“彼女”は区画の崩壊から逃れられなかった。上から落下して来た階層の範囲は予想していたよりもずっと広く、その事実に気付いた時には既に遅かった。崩落は中心から自分達の居る地点までタイムラグ無しで迫り、あっという間も無く全ては天体の重力の導きによって下階へと引き摺り降ろされた。

 いや、たった一つだけ落ちなかったモノがある。全力疾走していた自分達が運んでいたはずのセッテだ。崩落の瞬間を見計らって投げ出された彼女の体がなんとか対岸に着地するのを見届けたので何とか大丈夫だろう、そう信じたい。

 さて……問題はこっから先だ。

 閉塞した空間の中で“彼女”は溜息をついた。今自分が居るのは落ちて積み上がった瓦礫の中に僅かに生き残っていた狭い空間……四つん這いに匍匐前進すれば何とか移動出来るかも知れないと言う狭苦しい事この上無い空間に“彼女”は存命していた。下階の全てが崩れなかった要因としては上の管制室全体が頑丈な造りをしていたからだろう。エリア全体がバラバラに崩れ落ちる事無く塊となって落下して来たお陰で少し余裕のある隙間が生まれているのだ。とは言っても支えとなっている瓦礫自体が丈夫ではないのでここが崩壊するのも時間の問題だろう……少し賭けになるだろうが、ここから脱出するのを考えた方が良さそうだ。

 ふと、“彼女”の脳裏に浮かぶ一人の人物……。それは崩落が始まる瞬間まで自分と共に共同戦線を張っていた人物の事だった。床が崩れ落ちた瞬間に自分よりも下に行ってしまったようだが、自分達は戦闘機人だ、運が良ければ無傷、悪ければ重傷程度で済む。どちらにせよ生きている確率の方が遥かに高いだろう。

 頬に当たる微風を頼りにして“彼女”は瓦礫の一つに手を掛けてそれをゆっくりと取り去る作業に入った。あまり大きな物を除去すると上が崩れる可能性もあるのでここは慎重にするしかない。ある程度通行が可能なスペースを確保してから作業を中断し、出来得る限りの範囲内で四肢をスマートに纏めて蛇の様に這って移動を開始した。その点、やはりある程度関節を外せる常人が少し羨ましい。

 少し進んだ所で風の通り道を発見した。建物の内部を縦横無尽に走る通気孔……そのダクトの中を通れば何とかここを離れる事が出来そうだった。両手を前に、両足を後ろ突き出すように揃えて全身を蛇に見立ててするりと吸い込まれるように進入し、“彼女”は下層へと下って行った。明確にどこへ行くと言うのはまだ決めてはいなかったが、時折鼻を突く焼け焦げた煙の臭いがする方向を避けつつ落下地点からなるべく遠くまで避難する事にした。運が良ければ被害が少ない通路に出られるだろう。

 案の定、しばらく移動した後に持ち前の馬鹿力で飛び出すと、そこは生きた空間だった。天井や壁が余す所なくボロボロだがまだ崩れてはいない……足場がしっかりしている内に遠くへ行った方が良いだろう。

 そう判断した“彼女”は急いで現場から走って退避した。










 まるで巨大なエレベーター……室内空間を維持したまま管制室が落下した距離はおよそ五メートル、天井も大した瓦礫を落とさなかった為に中に居たオペレーター達やクロノは軽傷だけで済んでいた。

 だが、軽傷どころか無傷で済んだのが一名……。

 「この衝撃……下の階か」

 陥没した床面を静かに眺めながら呟くトレーゼ。そして彼の視線の先には亀裂が走り僅かに陥没した床と……

 その衝撃でぽっかりと開いた穴。

 そしてその穴に向かって転々と続く血痕……自分の居るこの空間から人間が一人居なくなっているのに気付くのはそう時間が掛る事ではなかった。

 「あの、死に損ない…………まったく、手を煩わせてくれる」

 胴体にあれだけの銃弾を撃ち込んで動けるとは思っていなかったのか、穴の下に広がる押し潰された通路を見ながらトレーゼは憎々しく呟いた。彼にとってジェイルとは最早従うべき人物ではないのだ……三年前の“ゆりかご”事件の際に管理局に敗れ去った時点で彼はナンバーズを統御する存在では無くなり、またその資格を失したとトレーゼは見なしていた。管理局の様な大組織ならいざ知らず、少数精鋭を前提としたナンバーズにおいて失敗した存在は破棄されるべきモノ、ならば空位となったその場所には準最良たる者が台頭するは当たり前の事だ。そしてその座位の継承とは完全でなければならない……。

 「……逃げられると、思うなよ。必ず、俺がこの手で……」

 弾丸詰まりを起こしていないかだけを確認し、トレーゼは仕留めるべき獲物を追って下の階へと飛び降りようとした。が、何を思ったのか彼はふと踵を返すと穴から一旦遠ざかり、弛緩剤の効果で立ち上がれないクロノの許へとやって来た。立ち去るとばかり思っていた害敵がいきなり自分の所へとやって来た事に驚いて警戒態勢を取ろうとするが、如何せん投与された弛緩剤の所為で全身の筋肉が麻痺してしまっているので立ち上がる事すら儘ならない。そうこうしている内に結局クロノはその場を離れられず、現在最も忌避したい人物との相対をさせられる羽目になった。

 「くっ……何だ!? 僕に何の用だ!」

 「…………貴様の、魔力変換資質を、頂く」

 「な、何をっ! ぐああぁ!!」

 鋼の鉤爪がクロノの腹部に突き立てられその皮膚を容赦無く抉り抜いた。刺し込んだ右手を何度も何度も捻じってはその傷口を更に深くし、やがて内臓に達するのではないかとさえ思い始めた所でようやくその手は引き抜かれ、クロノは激痛から解放された。

 「うむ、確かに、貰い受けた」

 トレーゼの右手は血の赤に染まり、その指にはクロノの肉体の一部が掴まれていた。彼はそれを……口から摂取、咀嚼し、嚥下した。人の所業とは思えぬその行為にオペレーターらは全身が総毛立つ程の恐怖を覚え、一人たりとも自分達の上官を救おうと動く出す者は居なかった。やがて飲み込んだそれが食道を通り胃に入った感覚を確認した後、やっとトレーゼは本来の行動に戻り、床に開いた穴から脱出して行った。

 降り立った通路は全体に渡って潰れかかっており、腰を屈めて進むのがやっとのスペースしかなかった。少し鼻を利かせてみれば向こう側から物体の焼け焦げる臭気が漂って来る辺り火災が発生しているのだろう……少なくとも、瀕死で焦っているとは言えあの合理思考のジェイルがその方向に逃げたとは思えない。何よりも、腹部からの血痕が点々と続いている……。

 だが進行方向からはそれとは別に強い気配が三つも感じられていた。しかもそれら全ては自分の良く知るモノでもある……。

 「…………まぁいいさ、立ち塞がれば、潰せばいい」

 そう、目の前の障害は全て潰す……これまでも、これからもずっとそうするつもりだ。願わくばこれが最後の障害であらん事を……。










 本来ならば彼女……ノーヴェが目を覚ますのはまだ十分は先のはずだった。と言うのも、災害現場で働いているスバルは現場の状況と進入経路のルート計算をある程度得意としているので十分もあれば例え外からであっても救助に駆け付けてくれると踏んでいたのだ。

 だが彼女のその計算には二つだけ誤算があった。それは局内に進入した局員の大半が散布された『毒』の影響を受けて足止めを喰らってしまった事と、先程の管制室崩壊による衝撃で眠らされていたノーヴェが覚醒してしまった事だった。

 「ここどこ……? …………ウェンディ? ディエチ? チンクおねえちゃん……?」

 さっきまで自分が目にしていたはずの光景は全て闇に染まり、吸い込む空気に含まれる粉塵の所為で盛大にむせ込んだ。非常灯すら全て割れてしまっているので何一つ照明が無いが、精密機器を埋め込んだ眼球の暗視機能によって受光感度を通常時の50倍以上に引き上げられているので問題は無い。問題なのは……。

 「あぁ、うあっああぁあぁあああああああああああああああああっ!!!」

 破壊された脳細胞は何も人格を司る部分だけでは無かった。感情を律する部分、思考能力を司る部分さえもがその範囲内に入っており、湧き出す感情の大半を自分で制御する事が出来ないと言う危険な状態に彼女はあった。と言うのも、目の前の惨状に人間の原初の記憶である“恐怖”を増幅させられたノーヴェは奇声を上げながら逃亡する事しか出来ず、頭を抱えてただがむしゃらに逃げ惑う事しか出来なかった。

 「ああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!」

 走る。自分に恐怖を与える存在から逃げる為に彼女はひたすらに走り抜いた。他人が聞いたら喉から血が出るのではなかろうかとさえ思えるぐらいの声を捻り出し、彼女は逃げていた。

 だが遂に彼女の足が亀裂の段差に取られてしまい、その所為で彼女の体は投げ出されるようにして地面に激突してしまった。手足を始めとする全身を擦り剥いたので激痛は耐え難く、剥き出しになった皮膚からは止めど無く血が溢れ出して来た。

 「ひっひぃぃいいいぁあぁ!! 痛い、痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!!」

 脳が上手く機能しない所為で感情をコントロール出来ず、ノーヴェはまるで子供の様に地面を転げ回る。その姿をナカジマ家の者が目にすれば何と思っただろうか……悲哀か、憐憫か、はたまたこの様な状態にされてしまった事による義憤か、それは誰にも分からない。何故なら、今のノーヴェはこの真っ暗闇にたった一人だからだ。

 「おねえちゃん……助けてよぉ…………。痛いのやだよ!! 誰か、誰かぁ!」

 暗闇の向こうに向かって必死に叫ぶ……居るはずも無い、誰もここには居ないはずなのだが彼女にはそれが理解出来ない……だから半狂乱になっても自分の助けが来る事を祈って叫び続けた。その声が届いたのかどうかについてはさておくが──、

 「あ……!」

 暗闇の向こうから見えた僅かな人影。ゆっくりとこちらに接近して来るその姿はノーヴェにとって見覚えのある存在で、やがて地面に倒れる自分の許へとやって来た時……



 ノーヴェははっきりと“彼女”の顔を確認した。










 回収されたギンガ達一行は局員の運転する輸送車の中で力無く揺られていた。時折腹部に進入した寄生蟲が暴れて猛烈な激痛が彼女らを襲うが、乗り合わせていた医療班のお陰でその痛みも徐々に気にならなくなりつつあった。

 「この先かなり揺れるから気をつけておけ」

 運転手がその言葉を言い終わるか終わらない内に車体が連続して揺れ始めた。原因は言わずもがな、トレーゼを迎撃する為に地上部隊が放った魔力弾の流れ弾が被弾した地点を通過しようとしているからだ。ボロボロになったアスファルトの地面をタイヤが蹴り上げる度に車体が不規則に揺れ、中に居る彼女らの傷を容赦無く痛めつけた。特に腹部が破裂しているチンクにとって今の車内は地獄に等しく、乗車する時でさえ苦悶の表情を浮かべる程だった。

 「おい! もうちょっと安全運転しろっての」

 「セイン、無茶を言うな。姉の体はそんなにヤワではない事ぐらいお前も知っているだろう?」

 「けどさ……!」

 「それに、今は私の体よりも優先すべき事があるのを忘れるな。大局的に物を見ろ、最悪、私一人を犠牲にしてもお前達の治療を優先する義務が姉にはある」

 「チンク、それは傲慢よ。戦う時は全員一緒、助かる時も全員一緒が私達の流儀みたいなものでしょ」

 「フフフ、そうだった。失念していた。ふっぐぉ!!」

 一際大きく車体が揺れ、その下から突き上げる衝撃をもろに喰らったチンクが大きな悲鳴を上げる。流石に危機感を覚えたのか医療班の者が運転手に言って車を止めさせようとした。

 だが──、

 「止めるな! このまま前進してくれ」

 それを制止したのは他でも無いチンク自身だった。悪鬼羅刹もかくやと言う形相で制止の声を張り上げた彼女は僅かに上体を起こし、更に言葉を続けた。

 「負傷はもとより、それで命を落とす事も覚悟の上だ。それならば運が悪かったと諦める……」

 「…………了解した。少々飛ばすが、耐えられるな?」

 「無論。体が丈夫なのが私の取り柄だ」

 車の速度が少しだけ上がった。それに伴って車体の揺れの感覚が狭まり激しさを増すが今度は運転手も止まろうとはしなかった。

 「そうだ……それでいい。回復し次第妹達が突入する……そうすれば兄上を止める事が出来るやも知れん」

 それは僅かな希望に懸けた彼女の小さな呟きだった。

 だがしかし、彼女は知らない……。

 自分達が向かおうとしている地上本部は既に陥落したも同然となっている事を……。










 “彼女”はようやく煙の臭いのしない所まで足を伸ばす事が出来た。周囲にある物全てが傾いたりひび割れたりしてはいるがそれでも先程までの空間と比べれば被害は驚くほど少ない。改めてこの建物全体の強度を認識させられた。それでも管制室の崩壊を防げなかったのは未練がましいが……。

 ふと、“彼女”の優れた感覚神経が頬を撫でる微風を感知した。閉所で気流が存在すると言う事は、即ちどこかに風を通すだけの穴か空間的余裕があると言う事だ。その導きのままに“彼女”は足元を確認しながら通路を歩き、時に壊れた壁を潜り抜けながら真っ直ぐに進み──、

 やがて、とある部屋に到着した。そこは何かの重要書類や物品を保管する為の部屋であったらしく、足元に散乱する紙片の中には何やら難しげな言葉を書き並べた物も見受けられた。幾ら外敵の侵攻に混乱していたとは言え、こんな物まで片付けもせずに放り散らすとは……少し呆れもする。

 だがしかし、今はそんな事をいちいち気にしている暇は無い。周囲に怪我人が居ないかどうかを確認しつつ“彼女”は先を急ごうとした。



 ────クシャ!



 「?」

 暗闇で少し足元が見えていなかったのか、“彼女”は自分の足の裏に散乱していた書類の一部が踏まれているのに気付いた。暗視機能が付いているので少し目を凝らせばすぐにその紙面の内容を確認し、そして手元に拾い上げた。右端に穴が開いているのを見る限り幾枚かの紙を同じように留めていたものと見られたが、生憎と他の資料がどこへ飛んで行ったのかまでは発見出来なかった。

 ここで紙面に書かれているのがどうでも良い事だったなら“彼女”は気にもせずそれを散水で濡れた床に捨てていただろう。そしてそのままふやけて破れ、ゴミとして処理される……それだけのはずだった。

 紙面に貼り付けられた写真を見るまでは──。

 「これ……!?」

 自分の良く知る人間の顔写真がそこには貼られていた。一体何故? いや、そんな事はどうだって良い、問題はそこに書いてある文面……その紙面に書かれている内容こそが“彼女”にとってこの世の何もかもを凌駕する天変地異にも等しい驚愕を与えたのだ。

 まさか!

 そんな!?

 いや、だが、しかし……!

 様々な衝撃が脳内を駆けずり回り、そこから派生した更なる思考が混乱を撒き散らす中で“彼女”は確信した……これは真実なのだと。そして明確なる確信へと至ったその思考を胸に秘め、“彼女”は猛烈な勢いで部屋を飛び出した。










 道の先へとずっと伸びていた血痕の道筋をトレーゼは遂に見失ってしまった。あれだけの傷で単純に傷口が塞いだと言うのは考え難い……であれば、何らかの方法で止血したか或いは──、

 「やはりな」

 見失った地点の周辺にある部屋を全て見て回ったトレーゼは最後の一室から血痕が再び伸びているのを発見した。手に取って見るとまだ粘性を保っており、ついさっきまで殺すべき対象がここを通過したのだと言う事を教えてくれた。血痕は転々と室内の奥へと続き、半開きとなったドアの向こう側へと消えて行った。つまりはここを通って逃走したと言う事か。

 「少しは、頭を利かせるかと、思っていたが、所詮死に損ないか」

 ドアを蹴り破って次の部屋に突入し、トレーゼはここで血痕が二手に分かれているのに気付いた。だが今度はさっきと違って誤魔化されはしなかった。何故なら、二手に分かれた一方が途中で血溜まりを形成しており、その真上の天井に穴が開いていた。誰の目から見ても天井に穴を開けてそこから脱出を試みたのは明らかだった。

 「悲しいな。我が、創造主ながら、堕ちる所まで、堕ちたか。故にだが、俺がそれを、継承するのでも、あるのだがな」

 まだ乾いていない血液の臭いが漂って来る辺りやはりこちらが本命……そう判断した彼は……。

 「ブラスタービット……!」

 出現するは砲撃魔導師の高町なのはの切り札の一つ、自動浮遊武装ブラスタービット。デバイスと使用者の脳波制御によって自由自在に軌道を変える半自律武装を操り、彼はそれを天井に突入、何の躊躇いも無く盛大に発砲した。轟音の後に当然の如く一部区画の天井がごっそり丸ごと崩れ落ち、その周辺に収まっていた粉塵が再び舞い上がった。直撃すれば人体どころか重量車体ですら砕け散る魔力射撃を連射して隠れた標的の一掃を試みた……。

 だが、手応えが無い。どうやら思っていた以上に対象の逃げ足は速かったようだ。

 「手間を、掛けさせる」

 予測進行ポイントに向けてトレーゼは再び歩き出す……速やか且つ確実に対象を抹殺する為に。










 「ふ、フハハ…………我ながら無様なものだな。こんな姿を見られれば……ドゥーエに笑われてしまう」

 駆け出しおよそ百メートルと言った所だろうか、狂気の科学者ジェイルは傷付いた己の体をようやく休める事が可能な場所までやって来た。少し離れた所から響いて来る震動と轟音は恐らく彼が仕掛けた足止めにトレーゼが引っ掛かったのだろう、少しずつ気配がこちらから遠退いて行くのを感じジェイルはほっと一息ついた。

 あの天井裏に仕掛けたのは持参していたハンカチ、それも自分の血をたっぷりと含ませた物だ。鼻が利くトレーゼならその臭気に従って自分がそちらに逃げたのだと考えるのを予測し、ジェイルは急場凌ぎにそれを仕掛けたのだ。

 「それにしても、提督殿ではないが世の中とはこんなはずではなかった事ばかりだ。よもや私自身がここまで生……生きる事に執着していようとはな。ハハハ、これは傑作だ」

 落ちぶれても腐ってもそこは狂気の科学者、自身の不遇ですら一切の嫌味も無く快活に笑い飛ばす。その姿にはある意味精錬された清々しささえも感じられた。

 しかし、幾ら強がっていても結局は口だけでしか無い事もまた事実。腹部に食い込んだ十発近くもの銃弾は確かに彼の肉体を浸蝕し、そこから溢れ出す血液は徐々に彼から体力を奪っていた。むしろその傷でここまで逃げ果せた事が奇跡の様なものだ……だがそれも長くは無い、衰えたその身はやがて消え去るのを待つだけだった。

 だが、不思議な事に恐怖は感じなかった。確かに生への執着はあるにはあるのだが、その背後から迫り来るはずの死に関してはこれと言ってそこまでの恐れを抱く気配は無く、ここまで来たのもどちらかと言えば害敵からの脱走と言うのが色濃かった。もう既に体力も気力も使い果たし後は最早静かにその時を待つだけ……目を閉じても走馬燈にするだけの未練も脳裏には思い浮かぶ事も無く、彼は迫り来る生物最期の瞬間に備えて過ぎ行く時の流れに身を任せる事を選んだ。

 ふと──、

 「ああ、君か……。奇遇だなぁ、君とこんな所で会うとは」

 失血がよほど酷かった所為なのか、ジェイルは自分の目の前にやって来ていた“彼女”の存在に気付くまでしばらく時間を要した。朦朧とする頭を起こし、死の淵のギリギリのラインで意識を保たせながら彼は自分を見降ろす“彼女”との言葉遊びに興じる事にした。

 「何だね? 私を笑いに来たのかね? だとしたら丁度良い、二人して盛大に笑おうではないか。その方が気楽で良い……」

 訳が分からない……そう言いたげな表情を浮かべる“彼女”を余所にジェイルは静かに笑った。だが笑おうとしたその口元からは声ではなく黒ずんだ血液が溢れ出し、ただでさえ白い余地の少なくなった彼の白衣を滲んだ赤色で染め上げて行った。その容態に“彼女”もまたぎょっとした表情となるがそんなジェイルを治療できる環境に連れ出そうとはしなかった。恐らくはこの“彼女”も把握していたのだろう……目の前の彼がそこまで長くは無いと言う事に。

 「君にも分かっているだろう…………アルハザードの寵児と称されたこの身も、最早長くない。私がこの脳髄に仕舞い込んでいる情報の中には、これまでの管理局の常識を覆す物もある。どうだね、どうせ秘匿していても詮無き事だ、君に話してもいいが」

 嘘は言って無い。彼自身が抱えている情報の中にはJ・S事件に関する管理局の不祥事などの情報も含まれており、その情報を開示すれば文字通り局は上から下への大騒ぎとなるような物ばかりだった。だが情報開示を持ち掛けられた“彼女”はそんな事には一切興味が無いらしく、ゆっくりと頭を振って否定の意思を示した。

 「やれやれ、人の提案を無碍に断るとはな……半ば予想してはいたが君には驚かされる事ばかりだ。だが…………そんな君でも気になるのではないのかな?」

 「?」

 「トレーゼの出生…………その真実について」

 「な、にを……!?」

 「その表情ではやはり知らんと見える。ならば聞かせてもいいだろう……この私、ジェイル・スカリエッティの最期の言葉をな…………」










 「『毒』の効果が、薄れて来たか。急いで、終わらせた方が、良いだろうな」

 自分が前もって仕掛けていた即席製毒物の効果が徐々に消え始めているのに気付いたトレーゼは歩いていた足の速度を速めた。右手には血に濡れたハンカチが握り締められており、彼が見事にジェイルの仕掛けた陳腐な足止めに引っ掛かった事を示していた。

 「そこまでして、生に、生きる事に、執着するか。解せない……解せないな、ジェイル」

 かつては敬い畏れ、文字通り畏敬の念を以て奉仕した存在も今となってはただの人間へと成り下がった存在だ。そして今の自分はそれを駆逐する者……そうする事で“スカリエッティ”と言う創造主の座位が継承されると、トレーゼはそう確信していたのであった。そう、彼にとって“スカリエッティ”とはもはや個人の名では無く地位であり、権力であり、それと同時に一種の称号……この世でたった一人が有し、そして継承する事を許可された創造主の称号が“スカリエッティ”なのだ。彼にとって“スカリエッティ”とは……いつの間にか形有る物からただの記号へと変化していた。

 それでも構いはしない。ただの記号であったとしてもそれを引き継ぐ事で……継承する事で“在るべきあの日”に戻れるのなら彼は何の躊躇いも無く実行に移すのだ。突き進むその背後に悔恨の色は無い。

 鼻を突く血液の臭気は徐々にその間隔を狭める……。とうとう動く事を諦めたのか対象がこれ以上離れる気配は全く無く、トレーゼは銃を取り出して安全装置を外し、弾丸が込められているのを確認して一気に駆け出した。しばらく走ると暗闇の中に薄らと見える明かり……非常灯の光ではない、休憩所に設置された自販機が灯す明かりが見え、どうやら血の臭いはそこから漂って来ているらしかった。その空間に目当ての人間が居る事を確信しつつ銃を構え、狙いを定めながら飛び出した瞬間──、



 トレーゼはジェイルの死体を発見した。



 「……………………」

 死んでいた……あのジェイル・スカリエッティが……。『無限の欲望』と呼ばれ本能のままに新たなる知識を貪欲に吸収し、そしてそれらを既存の常識を打ち崩す技術に変換して次元世界に喧嘩を売ったあの稀代の天才科学者は……既に絶命していた。

 「……………………」

 銃を持つトレーゼの手が震える。悲しみではない、怒りによる震えだった。

 失血による衰弱死であったなら別に何の問題も無かった。問題なのは……その死因なのだ。ぐったりと横たわる死体を引っ繰り返せば分かるが、血塗れになったその頭部は右側頭部が異様に陥没しており、何か重量物によって打たれたか或いは何者かに素手で撲殺されたかのどちらかだと推測出来た。後者の場合、少なくとも現在の地上本部に置いてそんな事が出来る、或いは、そうする必要性がある者は自分を含んでも三人しか居ない。更に後の二人には自分が彼を殺害する旨を全く伝えてはいない……三年前の事件の首謀者でもある彼に対して並々ならぬ憎悪を抱く人間も少なくは無い事を考慮すれば、全くの第三者が混乱に乗じて殺したと言う事も最悪考えられる。

 「…………ふざっ……」

 怒り。

 「ふざ、フフフ、フフフフフ……!!」

 憤怒。

 義憤。

 憎悪。

 様々な『怒り』を基点とする負の波動が腹の奥底から煮えくり、吹き上げ、そして──、

 「ふざけんなぁあああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」

 爆散。

 魔力変換資質『電気』を通して発散された紅い電光が周囲の壁や天井を瞬く間に焼き尽くし、壊滅した自販機からは破裂した缶ジュースなどの混じり合った液体が一斉に溢れ出した。血の生臭さを清涼飲料の爽やかな臭いが打ち消して行くが彼の……トレーゼの苛立った心までは覆せなかった。

 自分が殺さなければいけなかった、殺すべきだったのに! この神聖なる絶対不可侵の儀式を横槍どころかあまつさえ穢されたのだ……これが怒れずにいられようか!? 否、答えは断じて否なのだ!

 「覚悟しろよ、クズ! 必ず、見つけ出して、喉元掻っ切って、ぶっ潰す!」

 誰がやったかは知らないがそんな事は関係無い、見つけ出して徹底的に完膚無きまでに叩き潰せばそれで良いのだ。略奪すべき“スカリエッティ”の称号を第三者に殺害されると言う形で簒奪された以上、その者を逆に殺し返す事でしかこの継承式は成立しないと判断したトレーゼは拳銃を捨て、四肢に武装を装着した形態での索敵に乗り出した。見敵必殺、search and destroy……見つけ次第間を置かず即刻殺す!

 残骸と成り果てた自販機に右手が突き立てられる……パンプアップの如く膨れ上がった腕の筋肉は暴力的なまでの力を発現させ、その圧壊した鉄の塊を持ち上げさせた。

 「ギッギギギギギ、ギィガァアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」

 振り上げ……叩き落とし!

 休憩室の床全体に亀裂が入り、数瞬の隙を置いてから圧し掛かる重量に耐え切れずに崩壊する。瓦礫となって崩れ行く地面を顧みる事もせず、彼は掴んでいた自販機を窓に投げつけて放り出した後、この世の物とはとても思えない超高音の叫び声を局中のあらゆる区画に轟かせた。もはや人間の可聴音域を遥かに逸脱したその高音は周囲の窓ガラスを割り散らして行く……常人がその場に居合わせていても何も分からないだろう、超音波は人間の聴覚神経では捉え切れない音だからだ。

 やがて十秒以上の咆哮の後、彼は崩れた地面へと降り立った。もうかつての創造主の死体がどこへ行ってしまったかも分からない……そんな物は後で管理局の連中が掘り当ててくれると早々に思考を破棄し、トレーゼは殺すべき存在を見つけ出す為だけに肉体の全エネルギーを集中し始めた。今さっきの咆哮は常人では感知出来ない不可聴の音……引き起こされた異変には気付けても、本来ならば音その物には誰も気付けないはずだった。だが彼の張った策敵範囲網の中に反応を返した存在が全部で三人分、バラつきこそあれどその全てが予想以上に近くに居た。ジェイルは死んで間も無い状態だった。殺した第三者は逃げ果せただろうがそう遠くへは行けないはず……人を生身で撲殺可能で、且つさっきの超音波に反応出来る者となれば該当する人物は絞れる。

 「来い……来い、来たら必ず、ブチ殺す。そうさ、仕留めてやる!」

 索敵範囲網に引っ掛かった三つの反応は等速でこちらに向かって来る。右腕全体に有りっ丈の魔力を上乗せしそれを螺旋状に練り上げる事で巨大な魔力の円錐を構築、全力迎撃態勢を取って愚かなる簒奪者が自分の射程範囲に飛び込んで来るのを今か今かと心待ちにしていた。

 破壊力、充分。

 体勢、万全。

 敏捷、確実。

 狙い、必殺。

 どの包囲から来ようとも絶対に外さない必殺必中の迎撃方法……後は、獲物が網に掛る瞬間を待つだけ!

 「来い、来い……来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来いッ!!!!」

 呪詛の如く口の端から紡ぎ出される間合いへの誘惑の言の葉……その言葉に引き寄せられてか或いはそうではないのかは不明だが──、



 遂にその一人が姿を現した。










 午後23時49分、本部内某所にて──。



 「…………何だ、一体何が起こってやがんだよ」

 先遣として突入したヴィータ小隊は本部全域を浸透した謎の現象に動揺を隠し切れなかった。自分達が本部に足を踏み入れてからしばらくすると突然周囲の壁の亀裂が何の前触れも無く広がり、窓ガラスが爆散、文字通りの意味で粉微塵の流砂状に分解されて彼女らの足へと降り掛かったのである。手に取って分かるが、それまでガラスだった物は完全に粉砕され、今では掬い取った瞬間に指の間からサラサラと零れ落ちる砂へと完全に変貌していた。

 「それにさっきの衝撃……。何かが関係してんのか。だとしたらどこで……?」

 「ヴィータ隊長、報告が」

 「何だ」

 「ここから五階層上にて異常レベルの魔力量を感知。恐らく“13番目”かと」

 「ここまで来て恐らくも何もねえだろ。十中八九そうに決まってら」

 「報告! 現状に置ける地上本部内の解析が完了しました!」

 「被害状況は?」

 「本部中心……その、やはり管制室が陥没しています」

 「陥没? 崩落じゃなくってか?」

 「はい。正確には、管制室のエリアそのものがほぼ形状を保ったまま落下、と言う形です。内部状況にもよりますが、ハラオウン作戦司令及びオペレーター各員も生存している可能性もあります」

 「ですが、未だ内部からの救助要請は例のナカジマ防災士長から以外は……」

 「どちらにしたってこっちは行動する以外にねえんだよ。お前らは管制室とナカジマの救助要請のあった場所へ行け。あっちには単独で行く」

 「よろしいのですか? 相手は……不死身の化物だと聞き及んでいますが……」

 「バカ、この世に不死身の奴なんかいやしねえよ。あたしとアイゼンならぶっ壊せないモンなんてこの世のどこにもありゃしない。だから……任せたぞ」

 「…………了解。要救助者を保護し護送した後、そちらに合流します」

 「頼んだ」

 頼れる部下達に後を任せた後ヴィータは唯一健在な非常階段を相方のアイゼンを携えて一気に駆け出した。二階分昇った辺りでバリアジャケットを展開し、三階の踊り場に来てカートリッジロード、巨大化したデバイスハンマーを四階に差し掛かった辺りで大きく振り上げ……

 「ラケーテン…………ハンマァァァァァァァァァァァァァァーッ!!」

 フロアへと続く防火扉を破り飛ばした。いつも見慣れていたはずの光景はそこには無く、ただ鬱蒼とした廃墟の様な様相を呈している空間が虚しく広がっていた。かつて三年前、当時敵として相対したナンバーズによってもたらされた混乱をも大きく上回る大破壊……今度はたった二人によるモノだと一体誰が信じられようか。むしろ今こうして現場に居るヴィータ自身がある意味一番信じられずに居た。

 「信じれるかよ…………信じられねーよ、何が何だってんだよこんちきしょう!!」

 地団太を踏んだ所でどうにもならないと分かっていながら、そうする事しか出来ないもどかしさに余計に腹が立って来る。もうこんな事は終わりにしないといけない……そう強く感じた彼女はその抱いた気持ちに突き動かされるままに争いの渦中へと身を投じた。



 そこが何人たりとも侵入出来ないカオスの中心とも知らずに……。










 螺旋錐状に展開していた魔力の塊をトレーゼは結局打ち出す事無く解除し、その魔力は全て彼のリンカーコアへと還元した。彼が何故目の前に居る人物に対して迎撃を行わなかったかについての理由は彼自身にしか分からない……だが、彼に攻撃判断を下させなかった事にその人物が深く関与していたのは疑い様が無い。

 彼の目の前に現れたその人物とは……。

 「…………あぁ、そうか。貴方か……貴方が、ジェイルを、抹殺したのか…………………………………………トーレ」

 「お前……」

 目の前に居るのは自分と同じ紫苑の短髪に白磁の肌、そして鋭い眼光を放つ金眼の持ち主、12人のナンバーズを率いる実戦リーダー、No.3トーレの姿がそこにあった。さきの崩落に巻き込まれていたのかその服の端々は破れており、水浸しとなった通路を走って来た所為でその裾は濡れていた。一体どれほどの距離を走っていたのか、常人の数倍以上の体力を誇るはずのその体には目で見ても分かるぐらいに疲労が滲み出ているのが分かる。

 二十年近くの歳月を経て再会した姉弟はこの殺伐とした空間の中心で、今再会を果たしたのであった。トレーゼは自分の胸中にウーノと再会した時でさえ感じ得なかった程の強い感情が湧き上がるのを覚えていた。片割れ、半身……言うなれば自分自身と言ってしまっても差し支えの無い、敬愛して止まなかった者とようやく再会できたのだ。これが嬉しくない訳が無い、二十年以上もの間生きて来た彼の人生と呼べる時間の中で最大の幸福感を噛み締めながら今トレーゼは目の前の姉と相対していた。

 「そうか、他の者であれば、こちらが、殺し返そうと、思っていたが、いや……貴方が、奴を抹殺したのであれば、それは道理だ、理に適っている。貴方なら、“スカリエッティ”を、継承するに相応しい。俺にとっても、そして、新しいナンバーズにとっても、それは最善の選択だ」

 「…………………………………………」

 「さぁ、トーレ……いや、姉さん。共に、“在りしあの日”の、再現を。俺と一緒に……………………っ!?」

 差し伸べた手を引っ込めトレーゼが再び周囲を警戒する。自分の出した超音波の咆哮に引き寄せられた気配は全部で三つ……一人は眼前の姉、となれば後の二人は──、

 「トレーゼ!!」

 「兄さん!」

 スバルとセッテ、天敵と妹が全く同時に別々の方向から飛び出して来た。やはり二人揃って満身創痍であり、特にどこで拾ってきたかは知らないがノーヴェを小脇に抱えるセッテの方はそれが顕著だった。

 「セカンド……それにセッテか。セッテ、捨てておけ、そいつはもう、不要だ」

 「トレーゼ……駄目、駄目だよ、そっちに行っちゃ!」

 「セカンド、貴様との遊戯は、ほとほと飽きた。いい加減、ここで朽ち果てろ」

 「トレーゼ、お願い聞いて! そっちに行ったら…………その人の言う事を聞いちゃ駄目ぇぇ!!」

 「言うに事欠いて、そんな、苦し紛れの言葉が、出るとはな。三文役者でも、もう少し、捻った言い方をする。さぁトーレ……この手を取って、俺達四人で、成そう……ナンバーズの、理想のカタチを」

 「…………………………………………」

 もは天敵の制止の言葉など聞こえようはずもない。今の彼にとって重要なのは己の半身とも呼べる存在とようやく巡り逢えた喜びとこれから成すべき事への使命感……それらだけだった。かつて彼女から授けられた言葉だけを信じ、信条とし、精神の根幹を成す無意識の領域にまで浸透させる事でそれを忘却せずに受け継ぎ、そして愚直なまでに実行して来た。そう、これまでの彼の行動の全ては誰の為でも無い、全てが彼女の為だったのだ。“スカリエッティ”の肩書きに固執していたのはあくまでこれまでの一連の働きを目に見える形で認めてもらう為の手段に過ぎず、そうする事でナンバーズとしての自分の実力を証明出来ると確信していたからだ。そして、この時点でトレーゼは自らの行いを自負していた。

 「さぁ!」

 右手だったのが左手も加わり、遂に両手を大きく広げて自らの許へと来るように強く促し始めた。何を戸惑っているのかトーレは俯いたままその場を微動だにせず、そんな彼女に後一歩を踏み出させようとしてその手を取ろうと──、



 弾かれた。



 「……………………………………………………………………………………は?」

 右手に走る僅かな痺れに何が起きたか全く理解出来ないと言う表情でトレーゼはトーレを見つめ返した。別に彼の眼球で捕捉出来なかった訳ではない、彼ら戦闘機人の動体視力を以てして捉えられないのは遠距離のアウトレンジから狙撃のみ……では、何故彼は弾かれる前に対処出来なかったのか?

 それは彼自身、目の前の事実を容認出来ていなかったからだ。

 「トーレ……な、何を……?」

 「喋るな……」

 何故拒絶された? 何がなんだか分からない……。ふと、トレーゼは自分の足元に見慣れた「頭」が転がっているのに気付いた。自分とトーレと同じ容姿を持つそれはかつて自分達の創造主だった者の頭だった。

 「あぁ、そうか。奴を殺した事に、納得の行く、説明がまだ、無かったか。だがいずれ、分かる事だ……何も、心配しなくても、いいんだよ」

 「…………………………………………」

 「さぁ! 俺と、俺達と共に、この堕落した、ナンバーズを、再生するんだよ、姉さん!!」

 「ダメぇ!!!」

 「なに!?」

 腰に衝撃を感じたトレーゼは自分を行かせまいと無理矢理に抱き付いて来るスバルに目を向けた。さっきまで疲労困憊だったその肉体のどこにそんな余力が残されていたのか知らないが、生涯唯一と言っても差し支えない天敵の存在を彼は許しはしなかった。

 「失せろ!」

 「あっ、グガ!!」

 鋼鉄の腕で喉元を押さえられスバルは自分の脳への酸素供給路が断たれた事を自覚させられた。必死に抵抗を試みるがさっきの突撃の際に全力を費やしてしまったらしく、もう毛ほども動く力も残されてはいなかった。自分の喉を締め付ける腕に力無く左手を乗せるだけで大した抵抗も無いのでトレーゼは更にその圧力を増した。

 「貴様も、何も知らずに、俺達に尻尾を、振っていれば、楽に死ねたのにな。どうやら、自慢の悪運も、ここで終いらしいぞ」

 「ダメ…………そっちに……いか、ないで」

 「貴様……いい加減、本当に、死にたいようだな。だったら、望み通り────!」



 「殺してやる!」



 一閃の直後、目の前を舞う血飛沫……飛び跳ねたそれらは勢い良く弾け飛んだ後、壁やスバルの顔を汚し……

 「な…………っに!!!?」

 他ならぬトレーゼ自信の胸元を盛大に濡らした。背中から突き入れられ胸元の肋骨を裂いて飛び出す暗紫色のエナジーブレード……今、この場においてその熱量色を有した存在はたった一人だけ……。

 「何故……どうして、姉さん!」

 「…………ま、れ……」

 「どこを、攻撃している!! 分かって、いるの、か! 俺は貴方の……!」

 「だま…………れ……!」

 「弟なんだぞ!!!」

 「黙れと言っている!!!」

 ブレードが一気に引き抜かれると同時に全身が激痛と脱力感に支配され、スバルはその隙を逃さず脱したがすぐさまトレーゼの所へと駆け寄ると傷の様子を確認し始めた。背中の肩甲骨辺りから突き入れられたブレードは右肺をバッサリと寸断し、ギリギリ心臓をかする位置で巨大な貫通創を形成していた。呼吸機能の半分を失った事で彼の口は陸に揚げられた魚の様にパクパクと開くだけであり、その眼はかつて見た事も無い程にまで驚愕に見開かれていた。混乱、驚愕、そして焦燥……様々な感情が入り混じり入り乱れたその表情はそれまだトレーゼに対して抱いていたイメージの全てを瓦解させるには充分なものだった。

 「姉さん…………な、にを!? 俺は……あなたの……!」

 「貴様が……私の弟であるものかッ!」

 「何を、言っている? 俺は……俺は、トレーゼだ! あなたの、トーレの弟だ!!」

 「駄目、トレーゼ! 傷が開くから……!」

 「黙っていろセカンド! 俺は、俺はぁ!!」

 もはや自分に寄り添ってくる天敵の存在すら眼中に無く、トレーゼは自分に刃を向けて来る敬愛する姉にただひたすらに慟哭した。確かにこの計画は自分の独断で専行したものである……だがしかし、それらは全て幼い日に他でもないトーレ自身から教わったナンバーズとしての教えを遵守してきたからこその行動であり、この次元世界の中で彼女一人になら解ってくれると信じていたからこその創造主殺害だったのだ。彼女なら……自分の姉なら理解してくれると──、





 「貴様は弟ではない。この偽者め!!」





 刹那、全ての時間が止まったかのような錯覚を覚えた。それはトレーゼだけではなく、事の成り行きを静観していたセッテや彼の傷を癒そうとしていたスバルまでもが感じた事であり、文字通り何もかもが停止した空気が彼らの間を流れて行った。

 「…………今、何と……!?」

 わざわざ聞き直さなくても充分に聞こえていた……だが偽者とはどう言う事なのだ? 自分は確かにトレーゼだ、ここへ来るまでに自分の姿を模した者が居たとでも言うのか?

 「私が何を言っているか解らないか? とことん哀れだな、紛い物の癖にこの私を…………このトーレを欺こうとしていたとはな!!」

 「何を、言っている……。俺だ! トレーゼだ!! 忘れてしまったのかぁ!!!」

 「まだ言うか……良いだろう、自覚が無いのであれば仕方が無い。とっておきの証拠を見せてやる!」

 そう言って一枚の紙片を投げつけるトーレ……彼女の手を離れたその紙はゆっくりと風に流れるようにして地に跪くトレーゼの手元に降り立った。よほど強く握っていたのかその紙は彼女の拳の跡がくっきりと残っており、広げたそれには細やかに文字が書かれていた。投げ出されたそれを拾い上げようとトレーゼが手を伸ばすが……

 「ダメ!!」

 それをスバルが取り払った。そしてそれを庇う様にして抱え込み、誰にも渡すまいと必死になってトレーゼから隠した。

 「よこせ!」

 「絶対に駄目!! トレーゼは知らなくてもいいの!」

 「寄越せと、言っている!!」

 「あぁ!?」

 半ば錯乱したに等しいやり方でその紙を引っ手繰ったトレーゼは乱暴に広げるとその内容に目を通した。

 そして──、

 「なん、だ…………これは……!!」










 Project F.A.T.E──。





 脳細胞──。





 培養、記憶の複製──。





 合計32回──。





 成功例……一体。





 完全再現──。










 そこに書かれている内容を全て読み、そして全てを把握したトレーゼはからは何の反応も無かった。いや、反応出来なかったというべきだろうか。茫然自失となったその表情は誰の目から見ても解ってしまう程にまで精気が抜け落ち、隣で必死に声を掛けるスバルの言葉に全く反応を返さなかった。

 やがてどれほどの時間が過ぎただろうか……やっと口元を僅かに動かして彼が捻り出した言葉は──、

 「う、そ、だ……………………嘘だ、嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だぁああぁあ!!! 俺はトレーゼだ!! 偽者なんかじゃ、ない! 俺はぁぁ!!!」

 「いい加減に認めろ。私にとって……いや、ナンバーズにとって今の貴様はトレーゼを模した偽者でしかない。そうだ…………トレーゼは、私の弟は!」

 「違う、違うんだ!! 違う…………!!」

 「私の弟はもう居ない……この世の何処にも!」

 「あ、ぁあああぁあああああああぁ!!」

 「貴様は偽者だ…………オリジナルのトレーゼを模して生み出された記憶転写型クローン! Fの残滓……真っ赤な紛い物!!」



 「やめろぉおおおおおおおおおおおぁおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおおおおおおおっ!!!」



 先ほどとはまるで違う咆哮、常人の耳には捉えられない超音波の声ではなく、今度は誰の耳にも届く獣の叫び声だった。驚異的な声量と共に搾り出された魔力は物理的な影響を伴って周囲を襲い、目に見える形となってスバル達を押し潰しに掛かった。

 「ちぃ!」

 「くあ!!」

 「兄さ……ああっ!!」

 重力に逆らえる物体はこの世のどこにも存在はしない……その事実を裏付けるように破壊されて瓦礫となった床や壁はまたしても下階の方へと落下して行き、ノーヴェを抱えていたセッテは辛くも難を逃れることに成功した。

 だが、瓦礫に混じって落下する三つの影があった……。一つは力無く落下して行くトレーゼ……その彼を支えて共に落下するスバル……そして──、

 「紛いモノは……ここで死ね!」

 トレーゼを始末しようと落下する瓦礫すら足場にして飛襲するトーレの姿だった。悪鬼羅刹の如くただ目の前に居る弟の捏造物を破壊する為だけにその跡を追い回す……その目には眼前の惨状など毛ほども映ってはいない。

 「トーレさん! やめて!!」

 「ここまで来て私の邪魔をするのかスバル・ナカジマ!」

 「そうじゃない! トレーゼの話も聞いてあげて……!」

 「そいつは私の弟ではない!! 私の弟はもう十年以上も昔に死んだ! そいつはその偽者だ!! 敵に回ると言うのなら仕方が無い……! 貴様もここで殺すしかないな!!」

 もう滅茶苦茶だ、実の弟はこの世にはもう居ないと言う事実が彼女にとっては耐え難い苦痛だったのかも知れない……今こうして襲い掛かってくるのも己の中で荒れ狂う感情の奔流が行動と言う形を伴って発現しているのだろう。その動きは中途半端な覚悟だけで通じるような生易しいモノではないと言う事実が語らずともスバルの肌を刺激していた。

 「うわぁぁぁあぁぁあ嗚呼ああああああああああああぁあぁぁ嗚呼あああああああああああぁぁぁぁああぁっ!!!」

 「っ!?」

 展開されるウィングロード、そしてそれを足場にして一気に跳躍したスバルの体躯は見事にトーレとの空中接触を果たした。激突の瞬間に閉じ掛けていた傷口が開いて鮮血が溢れ出ても構う事無く突貫した彼女の左拳はトーレの鳩尾に入り込み、僅かだがその体勢を揺るがすことに成功、そして止めに力一杯蹴り飛ばして得た反動でスバルは先に落ちていたトレーゼのフォローに回った。

 「立って! 早くここから……!!」

 「俺は……俺は、偽者なんかじゃ、ない……」

 「しっかりして!! 早くっ!!」

 「う、あぁ……!」

 肩を貸されて導かれるままにトレーゼはスバルと共に瓦礫を掻き分けながら更に下へと向かって逃亡を企てた。背後でトーレの動く気配を感じながらも振り返る事もせずにひたすらに走った。

 「待て……! 逃げるな、偽者ォォオォオオオオオオオオオオオ!!!」

 負ったダメージの回復も出来ず地に蹲るトーレの怨嗟の声を背に受けながら、二人の戦闘機人は立ち込める粉塵の中に消えて行った。






 11月23日午前0時00分の出来事である。






























 五時間後、廃棄都市区画の某所にて──。



 「それで……本当にここに逃げたんやろな?」

 午前5時00分、冬の太陽がまだ地平線の向こうに隠れているこの時間帯に数名の管理局員が廃墟となったビルの屋上にて待機していた。合計十名……その中には急遽現場指揮を任された八神はやての姿もあった。

 「間違いありません。およそ30分前から“13番目”のものと思われるエネルギー反応が検出されています」

 「何らかの罠である可能性は?」

 「否定は出来ません。相手はスバル防災士長を人質に取っていますので」

 「…………対抗策は?」

 「万全を期す為に上層部に依頼して至急して頂いた武装があります。目には目を……歯には歯を……そして────」



 「質量兵器には質量兵器を、です」



 そう言って隊員の一人が重厚なケースから取り出したのは一本のロングライフル。長い銃身と取り付けられた望遠スコープの存在が、それが明らかに遠距離狙撃用の銃である事を容易に想像させた。

 更に別の隊員が取り出すのは銃弾……マガジンに込められた備え付けの弾丸ではなく、単体の銃弾が合計で三発握られていた。

 「本来質量兵器の使用は管理局法により厳しく制限されていますが、今回は特例の中の例外と言う件で支給及び貸与されました」

 「その銃弾は?」

 「ヴァリアブルシュートの原理を応用した特殊加工銃弾です。弾核の表面に薄く引き延ばした魔力膜を展開させています。敵が何らかのシールドを展開してもある程度であれば無効化出来るかと。加えて弾頭部分には技術開発研究局による試作技術が仕込まれています」

 「具体的には?」

 「弾丸が命中した際に対象の体温に反応して爆散、内部に仕込まれてある極小の散弾によって人体内部の各器官を徹底的に破壊します。もちろん、戦闘機人の内部フレームに対しても充分すぎる効果を望めるかと」

 ここまで言えば分かるだろうが、地上本部に壊滅的打撃を被った事により本局は遂に敵に対する考えを改め、対象への作戦行動を『鹵獲』から本来の目的であった『殺処分』へと切り替えたのであった。事態は一刻の猶予も無い……ここで仕留めなければ後々の禍根となってしまうだろう。それは絶対に避けねばならない。

 「セッテは捕獲した……ノーヴェも現在収容中。これで預言を回避出来ればええんやけど……」

 「例の“裏切りの使徒”の件ですか?」

 「何や知っとったん?」

 「事の次第は全てハラオウン提督経由でお聞きしました。今この場で全てを終わらせなければ預言の内容を回避する事が難しくなると言う事も……」

 「せやったら、ここで気合入れ直すしかあらへんなぁ。スリーマンセルで所定の位置! 私は第一班の指揮に就く!」

 「了解しました!」

 そう言って隊員たちは次々と未明の空に上がり、事前に指定されていたポイントに向けて一直線に駆け抜けた。はやての所に残った後の三名も銃身に弾丸を込め始め、敵が出て来るであろうと予測したポイントに狙いを定めた。

 この廃棄都市に伸びるかつてメインストリートだった道路……魔力残滓の反応から割り出した進行ルートは丁度ここを通るように計算が出ていた。ここまでこちらの予測を裏切り続けてきた敵方ではあるが、最後の賭けに出て勝負するより方法は無い。

 「対象の反応、徐々に有効射程範囲内に接近中」

 「撃鉄起こし。念の為に狙うは頭部一択のみや」










 数分前、廃棄都市区画の地下下水道にて──。



 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「……………………………………ねぇ、これからどうする?」

 「…………………………………………知らない」

 「……………ずっとここに居るつもり?」

 「……………………もう、どうでも、いい。一人に、させろ」

 生活用水すら流れなくなったこの廃棄都市の地下でスバルとトレーゼは地面に座り込んだまま会話にもならない言葉を交わし合っていた。地上本部を連れ出されて逃亡を試みたのは良いのだが、如何せん連れ出したスバル自身に行く宛てなどあるはずもなく、結局はこうして下水道を辿って街の外に行くだけしか出来なかった。その間ずっとトレーゼは無気力に茫然自失となりながら手を引かれるままに彼女に付き従っていたのだが、ここへ来てようやく我を取り戻したのか急にその手を振り解き、地面に座り込んでしまったのである。その姿にはかつて次元世界を統括する存在と真っ向から対峙した気迫はどこにもなく、光は宿らずも澄んでいたはずの眼光はすっかりくすんでしまっていた。

 このまま彼を一人にはしておけない……自分で連れ出してきた手前、スバルにはトーレの手が届かない所にまで彼を避難させると言う使命感があったのだ。

 「行こう。ここに居たってどうしようもないよ」

 「もう、遅い……。この周囲は、既に武装隊員が、包囲している…………手遅れだ」

 「どうして…………どうしてそんな弱気なのさっ!! もっと馬鹿みたいに元気で居てよ! 私やノーヴェを騙してた時みたいに、図々しくなってよ!!」

 「その必要が、無いからだ。もう俺は……………………もう、誰からも……必要とされない、されるはずもない。そりゃそうさ、だって俺は…………」



 ────偽者なんだから。



 たった二文字のその小さな言葉……それだけの言葉が今のトレーゼの何もかもを悉く打ち砕き、再生する事も無いまでに滅ぼしてしまっていた。己の片割れ、それでいて唯一敬い、畏れ、そして愛したはずの存在から告げられた突然且つ一方的な拒絶宣言に、それまでただの一度たりとも感情を表に出さなかったはずの彼は動揺し、そして自我を喪失し掛けた……この状態を危険と判断しない者はまず居ないだろう。普段自分の内側に感情を封印している者ほどに、それが露になってしまった時ほどに予測が着かないモノは無いのだ。

 「立って。ううん、立たなくても引っ張ってくからね!」

 「触るな……自分の、行き場所ぐらい、自分で、決められる」

 「そう、だったら早く…………って、ちょっとどこ行くの!?」

 スバルが制止の声を上げるのも聞かず、トレーゼはゆらゆらと地上へと続くマンホールの蓋を目指して梯子を上っていた。地上に出れば良い的だ、彼も充分それを知っているはずなのに……!

 「まさかっ!?」

 その時、スバルの脳裏に最悪の予想。だがそれを止めるには彼女はトレーゼに時間を与えすぎていた。既に梯子を上り切ってしまった彼は自前の怪力で無理矢理蓋を抉じ開けると外部に飛び出し、やはりそのままフラフラとどこかへと消えて行こうとしていた。すぐさま追い掛けようとスバルも梯子を駆け上がろうとするが、片腕では登り辛く、やっとの思いで地上に出た時にはトレーゼとの距離はかなり離されてしまっていた。

 「ダメだよ、トレーゼ!! 早まったら……っ!!」

 「もう、俺に、関わるな。頼む……このまま、一人で、逝かせてくれ…………」

 追いついた手を振り払い、トレーゼはだだっ広い街路を無防備に先行しようとした。

 自分を狙う三つの銃口の存在を知りながら……。










 「こちら第一班、目標を視認!」

 『こちら第二班、同じく目標を確認した。有効射程範囲内までの距離を頼む』

 『第三班、算出完了。およそ20秒後には圏内に入る模様』

 「了解。各員、所定のタイミングでの発射となる。抜かりなく遂行せよ」

 まだ暗闇の色が濃い街中ではあるがサーモグラフィによる熱量映像で眼下の道路を対象が闊歩している事は把握できる。すぐさま控えていた狙撃手は銃座を構え、測量士のアドバイスに従って照準を頭部に定めた。

 「しかし、こんなバカ正直に出て来たと言うのは一体何故なのでしょうか?」

 「分らへん。何かあちらにも策があるんか、或いは────」

 「八神二佐っ」

 「どないした?」

 「対象の後方にもう一人反応があります。恐らくはナカジマ防災士長かと。対象への接触を試みている模様ですが……」

 「生きとったか! 無事で何よりやけど、近くに居ったら邪魔になるだけや。なるべく距離を離しとる内に仕留められそうか?」

 「こちらからでは困難ですが、第二班からであれば可能かと」

 「通達!」










 「……いけない」

 どこに居るのか正確な位置までは把握出来ないが不穏な気配が複数居る事を看破したスバルは、自分の抱いていた危機感がより確実なモノになってしまった事を悟った。目の前を行く少年は敵を作りすぎた……今まさにその敵の一部がこちらに狙いを定めているのだ!

 「トレーゼ……!」

 「止めるな、セカンド……。例え偽者でも、俺は戦闘機人だ、自死の権利は、持たない」

 「だ、だったら……っ!」

 「だったら、第三者に、殺してもらうまでだ。もう既に、管理局の連中が、俺を射殺しようと、している。ここで、こうしているだけでも、勝手に殺して、くれる」

 「死にたいなんて…………そんな悲しい事…………言わないでよ!!」



 「なら、どうしろと言うんだ!!!」



 慟哭にも似た怒鳴り声が大気を揺らし、スバルを震え上がらせた。単純に驚いたからではない……その叫び声に含まれていた感情が途轍もない悲しみを帯びていた事に気づいてしまったからだ。

 「紛い物、贋作、結局は、偽者でしかないから、俺の今までの行いは、無価値になってしまった。全てだ!! 貴様に、分るか、この苛立ち、この悔しさが!!」

 「それは……」

 「憐れむな! 憐れんだところで、何の解決にも、なりはしない。解決する方法は、やはり……!」

 そうトレーゼが自身の決意を新たにしたその瞬間──、

 「ッ!! トレーゼ!」

 スバルのウィングロードが瞬時に彼の周囲を取り巻いた。直後、響いてくる衝突音……そして行く手を阻まれた銃弾が地面に落下するシャープな音が夜の廃棄区画に響き渡った。僅かに見えた発光に反応できたのは単にスバルの反射速度の賜物と言うべきか。

 だがその事に納得しない者がいた。

 「何故、止めた……セカンド!」

 「殺されて欲しくないからだよ……」

 「ならぁ、貴様が、俺を殺せぇえ!! セェェエェカァンドォォォォォ!!!」

 「くっ!」

 もう言葉も通じないものと思わねばならないようだ……殺しはしないが、死ぬ気で掛らなければ無力化出来ないと悟り、スバルは左腕だけの不完全なシューティングアーツを構えた。狙うは頭、そこを叩けば昏倒ぐらいは──、



 その時、二度目の発光。










 「銃弾が防がれた? ナカジマ防災士長がやったのか!?」

 「至急、二佐に報告を……!」

 「馬鹿野郎! 敵が目の前に居るんだぞ。報告なんかしている間に反撃を食らいたいのか!?」

 「しかし、対象の至近距離にはナカジマ防災士長も……」

 「誤射はしないさ。彼女から当たりに来ない限りはな!」

 そう言って狙撃手は撃鉄を起こして銃弾を取り換え、再び狙いを定め直した。今のところ問題のスバルは目標から遠ざかっている……この距離であれば風圧や角度修正の面から見ても彼女に当たると言う失態は犯さないはずだった。

 そして狙撃手はその引き金を──、

 引いた。










 結局、自分は最後まで救い難い人種なのかも知れないと薄らと考えた。今まで一度も自分の為に行動した事なんて無かった……いつもだれかの為になりたいと考え続け、そしてそれを救助隊に入る事で実現させたのだ。こんな事を言ってしまえば自惚れに聞こえるかも知れないが、自分がしてきた今までの行為は全て誰か第三者の為に尽くしてきたモノと言ってしまっても過言ではないはずだ。

 そして今回もそうだった。発光が見えたのはさっきと全く同じ方向、しかしさっきの発動で足に負担が掛ってしまいウィングロードは出せなかった。であれば直接障壁を張らなければならないと考えた彼女は一気に駆け出し、真正面から来るトレーゼの迎撃に備える事もせずに……

 「ぐぅぁあ!!」

 鳩尾目掛けての貫き手一閃。一瞬意識が完全に飛び掛けたがそこは持前の根性で乗り切り、スバルは目の前からの小さな襲撃物に全力を向けた。

 『Protection.』

 左手に枯渇し掛けているはずの魔力を注込み障壁を展開、マッハで飛襲する物体を迎え撃った。初めは何とかやれると思っていた……金属の塊なので質量自体は確かにかなりあるのだが、あとは通常の魔力弾と何の変化は無い、そのまま先程と同じ様に威力をそぎ落とせれば……



 そう、最初はそう考えていた。



 この場合における彼女の誤算……それは三つあった。

 一つは、発射された弾丸に施された特殊加工。ヴァリアブルシュートと同じ様に表面に施された魔力コーティングの効果の存在。

 そして二つ目は、ウィングロードと比較して通常のプロテクションは魔力の質量が小さいと言う点だった。

 「あ……!」

 その事に気づいた時にはもう何もかもが遅かった。自分の張ったなけなしの魔力障壁は一点集中で削られ、更には勢いも全く衰えた気配は無い……このまま突破されればトレーゼに命中してしまう、そう考えたスバルは強引にトレーゼを押し退け──、



 その胸に凶弾を受け止めた。



 「あああああああああぁっ!!!」

 鮮血が飛び出し、体の奥で肉が弾ける……全身の細胞が悲鳴を上げ、心臓が止まりそうな錯覚を覚えながらも彼女は息を吸い込んで堪えた。もうここまで来ると彼女の我慢強さには何かしらの偉大さを感じないでもない。現に一部始終を見ていたトレーゼですらそこまでするとは思っていなかったのだろう、ありありと驚愕の様相が浮かんでいた。

 普通ならここで何もかもが終わったのだろう……。銃弾は後で取り除けるし、何より胸部のフレームによって重要な器官は傷付けずに済んでいた。そう、本当ならここで何もかもが終わって欲しかった。



 三つ目の誤算……。



 変化は一瞬だった。その瞬きにも満たない瞬間にスバルの体は大きく跳ね上がり、大量の血反吐をその喉の奥から吐き出し……ズタズタにされた胸を抱えながら…………

 彼女は冷たい地面に倒れた。

 「あ、はは、は…………何やってんだろうなぁ、バカみたい……」

 「…………セカンド」

 「トレーゼ……大丈夫? ちょっとヘマしちゃったかな…………っ! ゴフッ!」

 「…………………………………………」

 「…………死なないでね……死な──い、で────────」





 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』









 午前5時23分──。



 「……………………で、誤射ったんやな?」

 「申し訳ありません! 厳罰は甘んじて……!」

 「処分はこの際どうやかてええ! 確認は、敵の確認は!!」

 「い、いえしかし二佐、確認と言われましても……」

 「…………せやな、もう下がってええよ。私も少し頭冷やさなあかんな」

 そう言ってはやては溜息をつく。一晩中動き回った疲労と、これからの厄介事を考えた不安が一緒くたになったそれを吐き出しながら彼女は眼下の光景を眺める。

 廃棄都市の中心に形成された半径は優に500mはあろうかという巨大なクレーターを。










 午前5時30分、地下下水道にて──。



 トレーゼの巻き起こした地面の陥没から二人は奇跡的に生きていた。と言っても、あの時の彼の暴走はたった一瞬の出来事であり、崩落の途中でスバルを回収したトレーゼは再び下水道に身を隠したのであった。正直言って、胸部に致命傷を負った状態でスバルが未だ辛うじてながら生きているのは奇跡としか言いようがない。

 だが、それも残り僅かだろう。

 「…………………………………………おい」

 「…………うん……?」

 「死ぬぞ、お前」

 「…………そうかもね」

 「死にたいのか?」

 「まさか…………」

 「死にたく、ないのか?」

 「当たり前……だよぉ」

 「それで……貴様は、これから、どうする?」

 「どうし…………っかな。何かなぁ……ねむ、い」

 「貴様が、寝ている間に、俺は行くぞ。貴様の、追って来れない、場所までな。そこで死に場所を、探す」

 「えへ……えへへ、へへ」

 「何故笑う?」

 「知ってる…………トレーゼは、どこにも…………いかない。死んだりなんか……………………絶対しない」

 「贋作に、価値は無い。無価値は、淘汰されるべきだ」

 「…………ねぇ、どうしても……死ぬの?」

 「あぁ」

 「じゃあ、さ…………とりひき、しない? ゴホゴホッ!!」

 「取引だと?」

 「う…………ん。と……りひ…………………………………………」

 「有り得ない。そもそも、俺と貴様には、取引すべき、交換条件が……!」

 「…………………………………………」

 「? …………おい、セカンド」

 「────────────────」

 「返答しろ。話を、吹っ掛けたのは、貴様のほう……………………ッ!?」

 「                」

 「……………………セカンド?」


















































 「………………………………………………………………………………スバル?」

















































 その日、管理局歴史上最悪の犯罪者と呼ばれた少年が忽然とミッドチルダから姿を消し、同時に一人の少女が戸籍登録からその名前を消した。

 『行方不明』、後に『死亡』。

 それがスバル・ナカジマと言う少女の辿った末路、結末だった。

 後に捜査した局員が現場で発見したのは、実姉から借りた血まみれのブリッツキャリバーのみ……デバイスの記録には何も残ってはいなかった。



[17818] IF~Tre's ideal Act.1
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/05/17 10:16
 新暦75年5月、ホテルアグスタの裏手にて──。



 「対象の沈黙を確認。任務完了。これより帰還します」

 森の茂みに隠れていた“彼”は右腕に抱えていた長大な黒光りする火器を背に負った。H&K PSG-1……正式名称『Präzisions Scharfschützen Gewehr-1』、セミオート式狙撃銃の一つの到達点とまで評されるその銃器はコストと重量と言う欠点を補って余るだけの性能を誇り、スナイパーライフル特有の長砲身から弾き出される弾丸は最大数キロ先に位置する敵兵の急所を貫く。セミオート機構によって空薬莢は自然と排出され、“彼”は証拠隠滅の為に自分の足元に落ちていた未だ熱を持つそれを拾い上げ、ポケットに仕舞い込んだ。

 だが森の茂みに身を潜めていたのは“彼”だけではなかった。そのすぐ隣の木の上で同じ方角を凝視している女性が一人……彼女もまた“彼”と同じように任務を与えられてここへ来ていた者だった。無事に仲間が任務を終えたのを確認した後で木から飛び降り、地上の彼の所へと戻って来た。

 「見事だったぞ。腕を上げたな」

 「あまりこう言う事はしたくはないがな……。かと言って、妹達にやらせているのではそれも個人的に無理だ。あいつらは優し過ぎる……こう言う行為は出来るだけ経験させたくはないよ。と言っても、俺自身もこう言う事は出来る限りしたくはない」

 「相変わらずお前は甘いな。だが、そんな甘い兄を持てた妹達は幸せだろうな……。それにお前は私の弟だ、お前の意見や考えを尊重するのが姉である私の役目でもあるしな」

 「我儘ばかりですまない」

 「良いさ、お前も訳あっての事だ……何も言わないよ」

 狙撃銃を軽々と背負いながら先行する弟を前に、彼女は足跡を辿るようにしてこの場を後にした。任務が終われば即帰還……戦場に長居する者は例外無く早々に散華するのが当たり前だからだ。

 「急ごう、もう騎士ゼストとルーテシアお嬢様は脱出された。ライドインパルスで行けるな? ────トレーゼ」

 「問題無い、充分行けるよ。────トーレ」

 二人の人間……否、戦闘機人が空へと上がった。背後に広がる豊かな森林の中心に位置するホテルの敷地のあらゆる場所からは囮として召喚させていたガジェットが大破した黒煙が上がっており、管理局から派遣されて来ている魔導師の目はそこに集中していた。飛行の途中でトレーゼは何度も背後の戦場を振り向きながら、その度に憂いた表情を垣間見せていた。

 「……敵とは言え、気分の良いモノじゃないな」

 「ドクターも言っておられた……革命に犠牲は付き物だ。あの者もまた、ドクターの悲願成就の為の礎……即ち犠牲なのだよ」

 「分かっているよ……姉さん」

 「作戦行動中だ。呼び方には気を付けろ、妹達に示しがつかん」

 「了解、トーレ」

 二人の紅と紫のエネルギー翼が展開し、次の瞬間に彼らの姿はマッハの速度で空域から離脱を開始していた。僅か五秒足らずで二人の後姿は肉眼では捕捉出来ないエリアまで飛び、後にはただ彼らが居たと言う証拠さえ残っていない戦場があるだけだった。










 ティアナが死んだ。

 正確に言えば殺されたのだ。

 どこで? ホテル・アグスタの裏手で。

 どうやって? 側頭部に銃弾を一発の即死。

 何故? それはまだ分からない。ただ一つ判明しているのは……彼女は誰かの明確な悪意によって命を奪われたと言う事だけだった。

 兄を追うようにして落命した彼女の葬送は、機動六課のフォワード達だけで粛々と執り行われ、兄の眠る墓地に納められた。誰よりも頑張り屋で、そして呆気無く終わってしまった人生に彼女を知る誰もが憤りを感じずには居られなかった。

 特にスバルはそうだった。訓練生時代からの付き合いである彼女にとって、この出来事はまさに半身を失ったとも言える衝撃的なものだった。防衛戦の一件からしばらくは訓練にも出られない程に精神を病み、遂には一時休職と言う扱いで隊舎を離れるにまで至った。彼女の師であるなのはや、同じフォワード部隊のエリオとキャロも当然だが、彼女が殺害されるほんの数分前に彼女と居たヴィータも悲しみに暮れていた。彼女が言うには、直前の戦闘で無茶をやった彼女を必要以上に罵倒してしまい、そのまま謝る事も出来ずにティアナを逝かせてしまった事をとても悔いていた。

 だが彼女らに悲しんでいる暇などどこにも無い……。心の整理と銘打ってしばらくの間だけ訓練を休ませていたが、それもほんの二日程度の軽いものであり、またすぐになのはによる訓練が始まった。

 スターズはティアナを欠いた事で頭数が減り、三人での作戦行動を余儀無くされる事となってしまったが、上層部には微々たる損失と一蹴されて補充要員は認可される事は無かった。










 新暦75年、5月某日。深夜の地上本部ヘリポートにて──。



 「今回は空戦だから、出撃は私とフェイト隊長、ヴィータ副隊長の三人で出るから」

 深夜のクラナガンの沖合で発見された航空戦闘仕様ガジェット、通称『Ⅱ型』がこちらに向かって飛来して来ていると知らされた六課は、急遽現場に急行して迎撃に当たる事となった。当然それには空戦能力を持った隊長陣だけでの出撃となり、残りのフォワード陣はシグナムを指揮担当として残して待機状態を維持する事となった。と言っても、現在隊舎に残っているフォワードメンバーはエリオとキャロだけなので、戦力的に考えても出動命令が出される事は無いだろう。

 ヘリに乗り込んだ三人の魔導師達は空に上がり、至急戦闘空域を目指した。一旦ガジェット群の手前までヘリで移動し、そこからフェイトとヴィータが先行、ある程度の掃討に成功したらなのはが遠距離砲撃で一気に殲滅すると言う作戦で行く予定だった。

 離陸準備を初めてプロペラを温めていたヘリに乗り込んだ三人はそのまま陸地を離れて海上に向けて急行した。いつでも出撃可能なように三人ともデバイスは起動状態にしてスタンバイしており、窓の外の空に浮かぶ二つの月を眺めながら来るべき戦闘に備えていた。新型のガジェットは航空支援型……現れたばかりなので情報は少ないが、仮に一機ごとの戦力が地球における戦闘機か爆撃機並みの制圧力を持っているとしたら今後の戦闘を大いに左右するのは間違いない。今回の出撃は敵機の性能を推し量ると言った意味合いも深く、言わば彼女らは調査に出掛けるようなものでもあった。

 だが実を言えば三人はこれから行われる戦闘とは関係ない全く別の事を考えていた。そしてその内容は全員が一致していた。

 「ねぇ……ティアナはどうして、その……殺されたのかな?」

 なのはが切り出したのをきっかけに後の二人もそれぞれ考え込む様子を見せた。三人とも同じ六課の隊員だったので生前の彼女とは親交は当然あったし、特に同じフォワードの隊長であり教導を担当していたなのはは今でも上手く事実を受け入れられていなかった。と言うのも、ティアナの死には不可解な点が多過ぎていたからだ。

 その点とはたった一つ、即ち殺されなければならなかった理由そのものだ。

 あれだけの敵勢が押し寄せて来たと言う事は、相手も局員の一人や二人を殺そうとする気概で迫って来ていたに違いないはずだ。確かにあの日の襲撃の際にシグナムが破壊したガジェットは重武装型のⅢ型だった……。当たっていたのがシグナムだったから良かったが、まだまだ経験不足なフォワードと相対していたらもっと苦戦していた事は目に見えている。貨物車両の一件でも何とかと言った具合だったのを考えればあれだけでもこちらの戦力を削るには充分なはずだったのだ。だが実際にティアナが殺害されたのはそれから一段落ついたと思われた後のホテルの裏手での出来事だった。わざとこちらの油断を誘ってバラバラに散開した所を狙ったとも考えられるが、そうだとすると途中まで一緒だったスバルが離れてから殺されたのが何か引っ掛かるものがあって仕方が無い。状況的に考えても始めからティアナのみを狙っていたとしか思えない節があった。

 だとしたらどうしても納得出来ない……。どうして彼女だけが付け狙われる必要があったのか? 特に捜査をされる事も無く殺害の件は流されてしまった為、憶測ばかりが頭を飛び交うだけだった。

 だが、ふと何か思い当たる事があったのか、ヴィータが口を開いた。

 「シグナムが言ってたんだけどよ、ティアナの奴やっぱり狙って殺されたんじゃないかって話しだそうだぜ」

 「シグナムが?」

 「ああ。私もずっと忘れてたんだけどよぉ、あのフォワードじゃあティアナの奴は最年長だったんだってな」

 確かにエリオとキャロは十歳でスバルが十五歳、そのスバルと連れ添っている光景が多いので露とも感じては居なかったが実際ティアナの年齢は十六歳だった。

 「でもそれがどうかしたの?」

 「シグナムが言うには、ティアナの奴は自分に才能や素質が無いのが痛かったらしくて根詰め過ぎてたらしいんだ」

 「うん、それは私も良く分かってた。アグスタの時のミスショットも本当はただ焦ってただけなんだよね……」

 生前の彼女が自分の実力の事で焦りを感じていたのは全員知っている……。だがいつかそれを自力で乗り越える時が来るだろうと思って慰めず、敢えて突き離していたのも事実だ。今思うと悔やんでも悔やみ切れる事ではない。

 「あいつは自分の実力が足りて無いから少しでも埋め合わせしようって現場で他の三人を仕切るようになってただろ? シグナムはあれが原因なんじゃねーかって言ってるぜ」

 「私もティアナにはいずれフォワードを率いるリーダーの素質を付けてもらおうとして少しずつ教えてたけど……そんな理由で殺されたって言うの!?」

 「人間の青田刈りってトコだろうな」

 「でも、もし相手がそれを理由に殺害したとしたら、相手はティアナが将来統率力を身に付ける事を知ってたって事になるんじゃ……?」

 「もうそこまで気付いたんなら後は分かんだろ?」

 「それって…………」

 「まさか…………」

 なのはとフェイトは互いにヴィータの言わんとしている事を察し、不安と疑惑の視線を交差させた。ティアナが六課フォワードのリーダーとなり得る潜在能力を持ち、それを磨き上げようと教導されていた事実を知る者は外部には居ないはず……外部には、だが。

 「六課の中にスパイが居る?」

 「或いは内通者……身内の誰かが奴さんと通じてやがるかも知れねぇって事になっちまう。正直言って一番考えたくないパターンだな」

 「例えそうだったとしたら……一体誰?」

 「……………………」

 「……………………」

 機内に嫌な重苦しい沈黙が流れる。元々機動六課は各部署で埋もれていた人材を掻き集めた混成部隊であるが結束力の面では群を抜きん出ており、隊員同士が公私共々馴染み深かったり付き合いの長い気心知れた者達が多く居る。なのでこの場合身内を疑うと言う事実に多少なりとも抵抗感があるのは致し方ない事でもある。あんまりにも沈黙が長引きそうだったので言い出しっぺのヴィータがすぐさま努めて明るい声で場の空気を変えようとした。

 「やめだやめだ! 辛気臭い話ししてたら朝になったら発酵しちまう」

 「そ、そうだね。この話は別の機会にでも良いよね。あは、あははは」

 「間もなく戦闘空域に突入します! ご準備を!」

 「は、はい!」

 ヘリパイロットからの声で仕事モードに突入した彼女らはバリアジャケットを展開させ、各々のデバイスのカートリッジロードを完了させ完璧に臨戦態勢へと移行した。先行するヴィータとフェイトがハッチの手前に移動して手摺りに身を預けて待機し、その後から行くなのはは愛杖レイジングハートの照準システムの微調整を済ませた。

 ふと、何か気になることでもあったのか、なのはが操縦桿を握るパイロットに訊ねた。

 「すみません、ヴァイス陸曹はどうしたんですか?」

 彼女の挙げた名はヴァイス・グランセニック──。元武装隊のスナイパーで現在は六課に所属しているヘリパイロットなのだが、基本的に六課のフォワードがヘリなどの航空移動手段に頼る時は彼が運転するのが殆どである。なのはの記憶が正しければ今日の彼は非番ではなかったはず……普段から飄々として掴み所が無いが仕事をサボる人間ではないので不思議に思ったのだ。

 だがそんな彼女の考えも杞憂に終わった。

 「グランセニックさんは妹さんの調子が悪くなったとの事で急遽休暇扱いで隊舎を離れられたそうです。お聞きしてませんか?」

 「え、妹さんの? そうだったんですか……」

 シグナムからヴァイスの過去については大まかな部分だけは聞いているので、彼とその実妹の関係がギクシャクしているのも知っていた。元々妹想いの兄なので仕事よりそちらを優先させるのも頷ける話だ。お節介かも知れないがこれをきっかけに縒りを戻せるようになってくれれば御の字と言うものだ。

 そんな事を考えている間にハッチが開き、外から流れ込んで来る気流が三人の髪を大きく揺れ動かした。ここから先は私語厳禁……早急に終わらせて帰還する事だけを考えて行動しなければいけない。

 「フェイト・T・ハラオウン、出撃します!」

 「スターズ分隊副隊長、ヴィータ! 出るからな!」










 それから数十分後──。



 「ふむ、どうやら作戦空域のガジェットを全機墜とせたようだ」

 三人の隊長と副隊長を乗せたヘリが無事にこちらに帰還していると言う報告を受け、シグナムは共に待機中だったエリオとキャロに待機を解いて各自の部屋に戻って休眠を摂るように命令した。待機中ずっと緊張していたらしく、報告を受けた二人は同時に安堵の表情を浮かべて脱力と共に嘆息した。

 「では、失礼します!」

 「お先に失礼します」

 「ああ。明日も早いから二人とも休む時はしっかり英気を養えよ」

 敬礼して踵を返して部屋へと戻って行く二人の小さな背を見つめながらシグナムはふっと微笑んだ。しかしすぐにそれを引っ込めると真剣な顔付き変わり、窓の外の夜空に浮かぶ二つの月を見上げた。同僚のティアナが死んでしまって二週間も経っていないにも関わらず気丈に振舞う周囲の人間達…………今は静養中のスバルも明後日辺りには復帰するらしく、今まで喪に服していた感があった六課全体も一応の落ち着きを取り戻しつつあると実感出来ていた。

 「ランスター…………惜しい逸材を亡くしたな」

 遠い目で窓の向こうに浮かぶ二つの月を見やるシグナム。去来する面影は若くして逝ってしまった少女のものだ。まだまだ未熟で荒削りな部分もあったが、それを補って余るだけの才覚と根性がある事を違う部隊に居ながらもシグナムはしっかりと見抜いていた。生前自分で自分の可能性を見出せていない事に悩んでいた事も知っていたし、亡き兄の面影だけがその心の支えだと言う事だって重々承知していた。知っていて当たり前だった……同じ機動六課の仲間なんだから。

 だが自分達大人はそんな彼女に甘い言葉を投げ掛ける事も無いまま、ひたすらに成長を促す為にと熱い鉄の内に叩きまくった。心が折れる寸前まで叩き続けるつもりだった……それを仲間と共に乗り越えた先に自分で見つける『何か』があると信じ、そしてそれに立ち向かう彼女を信じてひたすらに……。だが死んでしまった今となってはそれも詮無き事……この世も者ではなくなった事でティアナは初めての安らぎを得る事が出来たのではと、ついつい考えてしまうようになってしまった。

 「私達はあいつにとって良き戦友で在れたのだろうか……」

 誰も答えてくれる者は居ないと分かっていながらもつい口にしてしまう……気が鈍っているのだろうと、シグナムはそれまでの感傷を捨てると自分も早急に部屋まで戻ろうとして踵を返した。すると、隊舎の玄関に向かう見慣れた背中が……。

 「グランセニックか」

 「あ、姐さん! どうしたんすかこんな所で?」

 やはりそうだった。いつもの飄々とした感じが特徴的なヴァイスが何故か隊舎の外に向かおうとしていた。手には俗に旅行カバンと言われる巨大なトランクを引いており、よほど大事な物でも入っているのかシグナムに声を掛けられた瞬間に庇うような仕種を見せた。

 「外出か? 許可は取ってあるのだろうな?」

 「そりゃあ、もちろんですよ。これからちょっと野暮用で……」

 「そのトランクは?」

 「こ、これはその……まぁ色々と」

 「…………まさか、如何わしいモノではないだろうな?」

 「い、如何わしいって……そんなんじゃないっすよ! 姐さんは俺の事何だと思ってるんだよ……」

 「分かった分かった。すまなかったな、呼び止めたりしてしまって。早く済ませて来るんだぞ」

 「りょ、了解……。それじゃあ」

 それだけのやり取りの後、ヴァイスは重たそうにトランクを引き摺りながら外の駐車場まで全力疾走した。時間が無いのだろうとシグナムはフロントライトを輝かせて隊舎を後にする乗用車を見送った後、ようやく自分の寝室までの帰路についた。階段を上がってすぐが自分に割り振られた部屋なので彼女は階段を一段ずつ昇り──、

 そこに座り込んでいる人物を見つけた。

 「ん?」

 ここは駅の構内ではない。よって、酔っ払いなんかが地べたに腰を下ろして不貞寝をしているなんて事は絶対に無い訳であり……。

 良く見るとその人物はエリオだった。今さっき別れを告げて自室に戻っていたはずの彼が何でこんな所で項垂れて眠っているのかは知らないが、とにかくここで寝ていても通行の迷惑なのでシグナムは肩を揺すって覚醒を促した。

 「おい、起きろ。こんな所で寝てないで部屋に戻れ」

 「…………ぅぐっ、シ、シグナムさん……? いたっ……!」

 「おいどうした!? どこか怪我をしているのか」

 何か様子がおかしいと察知したシグナムはここでようやくエリオの頭から血が出ている事に気付いた。傷自体はそれ程深くは無い様だが打ち所が悪いらしく、両目の焦点が微妙に合っていないのが分かっ

 「待っていろ、すぐにシャマルを連れて……!」

 「ま、待ってくださいシグナム副隊長! 至急……報告しないと…………」

 「無理に動くな! 傷に障る」

 「キャロが……キャロが攫われました!!」

 「…………今、何と言った?」

 肩を貸した少年の口から飛び出すまさしく驚愕の告白にシグナムは眼を引ん剥いた。確かについさっき自分に別れの挨拶を告げて自室に戻って行ったはずのキャロの姿がどこにも無い。彼女ならば相方でもあるエリオの異変を前にしてどこかに姿を暗ますとも考え難い……となればやはり──、

 「それは本当なんだな!? 間違い無い確かな情報だな?」

 「はい……本当です。いきなり後ろから襲われて……。僕の力量不足でキャロは!」

 「喋るな、傷に響く。今すぐ部隊を召集して捜索を掛けるからお前はシャマルと共に待機していろ、いいな?」

 「待ってくださいシグナム副隊長…………犯人、いえ、被疑者の顔は割れているんです」

 「そうか、それは好都合だ。後でシャマル経由で連絡しろ。お前は先に医務室へ────」



 「キャロを攫ったのは──、ヴァイス陸曹です」










 「ちくしょうっ!! ちくしょう!! 何だってんだよ、クソったれがよぉ!!」

 いつもの飄々とした風貌はどこへ消えたのか、今の彼……ヴァイス・グランセニックは普段湛えている面持ちを盛大に崩すまでに混乱していた。現在彼の走らせている車のスピードは時速70km超過……立派なスピード違反である。時折通過した後方車両からの怒号と野次が聞こえて来るがそんなモノには全く耳を貸さずに彼は狂ったようにアクセルを踏み、両手でがっちりとハンドルを握り締めて離さなかった。

 「はぁ! はぁ! はぁ……!」

 時折バックミラーに目を向けては後部座席に映る物体を幾度となく確認する。正確には後部座席ではなくその更に後ろ、大型の荷物を乗せる為の荷台スペースに視線を送っていた。そこに積まれているのは隊舎を抜け出す際に一緒に彼が持ち出したあのトランクがあった。

 中に入っているのは……果たして機動六課の局員、キャロ・ル・ルシエであった。シグナムと別れた後彼女はエリオと共に自分たちの寝室へと戻る最中だったのだが、突然背後から何者かに強い力で頭を殴打されて意識を失い、そのままトランクに詰め込まれたのであった。

 そして、その犯人こそエリオが証言した通りの人物、同じく機動六課のヘリパイロット、ヴァイス・グランセニックその人である。何故彼が自分と同じ部隊の人間の身柄を拘束し、あまつさえ拉致・誘拐を企てるような凶行に走ったのか……?



 それを語るにはまず時間軸をティアナ殺害の二日前にまで遡らねばならない。




















 その日、ヴァイスは珍しくヘリの整備を早く終わらせて同僚達と一緒に行き付けの店へ飲みに行っていた。長らく妹と生活を共にしていた為、彼自身は酒は飲みはするがそれ程悪酔いする気質ではなく、飲みに行くのも主な理由としては仲間達と色々と交流しているのが楽しいからと言うものだった。なので、その日もヘリの整備を終えると後の面倒事は後輩のアルトに任せてさっさとシフトを上がったと言う訳だった。

 同僚の方は最近親しくなったとか言う後輩を数人ばかり連れていて、その日の飲みは普段以上に盛り上がった。何がきっかけだったか、その時に出た話題が確かヴァイス自身が所属している機動六課についてだった。元々新星の部隊と言うことで注目を集めていた事もあり、特に少し酔いが回っていた後輩たちは例の貨物列車防衛戦の件に差し掛かった時は派手に盛り上がったのを覚えている。上層部には受けが悪いとは言え、社会の穢れた部分を知らない後輩達は新設の部隊と言うものは憧れの存在でもあるのだ。

 そんな時だった。

 誰が言い始めたかは知らないが、ふとこんな話題が上ったのだ。

 曰く、「六課の新人メンバーで有望そうなのは誰か?」

 その質問がその場でたった一人の六課所属である自分に向けられたものである事はヴァイスにも容易に理解出来た。

 なので、彼はその質問を特に気にする事も無く──、

 「ティアナの奴だな」

 その回答にも大して意味は無かった……。単に彼女が自分と同じ射撃型の魔導師であり、立場的には彼女の先輩でもある事から頭に思い浮かんだその名を適当に言ったようなものだった。それが一番無難な受け答えだと思っていた……。



 この二日後、ティアナが殺された。



 何かの偶然だと信じたかった。否、実際はそう思い込もうとしていたのだ、偶然にしてはあまりにも巧く出来過ぎていたから……。

 だがしかし、現実は悲しいかな、他愛もない妄想だと一蹴しようとした彼の思考はその日自分の部屋に届いたと言う物品によって簡単に打ち砕かれた。

 『貴方の貴重な情報提供に感謝して』

 文面はそれだけの非常にシンプルなものだった。だが、この場合問題だったのは文面ではなく一緒に送られてきた茶封筒の中身だった。電子通貨が主流となったこのミッドでは目にすること自体が少ない大量の紙幣……それがざっと百枚以上も収められていたのである。自分の嫌な予想と照らし合わせればそれが明らかに危ない報酬であることは容易く理解できた。あの酒の席に同席していた者……その中に自分が意図せずに漏らした情報を横流しした者が居るに違いなかった!

 すぐにその思考に至った彼は有無を言わずに信頼出来る者と共に調査を行おうと画策した……が──、

 『貴方の妹君への治療費に当てて頂きたく……』

 この一文がヴァイスの覚悟をものの見事に挫いた。この手紙を送ってきた相手は間違い無くティアナ殺害に関与している……そして、その人物は自分のたった一人の妹の存在まで熟知しているのだ。これはつまり──、

 遠回な人質警告!

 滲み出る冷や汗を必死に押さえ込みながら彼は手紙の続きに目を通す……。



 『キャロ・ル・ルシエを誘拐して頂きたい。明確な実行時刻と引渡し場所については後ほど……』










 やるしかなかった……そう言ってしまえばただの逃げ口実だろう。だがこうでもしなければ自分の妹に危険が及ぶ可能性があるのだ。天秤に掛けた結果としてでしかないが、それでも彼の中では妹の存在は何物にも代え難い存在だったのである。

 そう、例え自分の保身を丸ごと投げ打ってでも!

 目的の人物の拉致は既に完了した、場所はこの幹線道路を遥か先に行った所にある埠頭だ。手紙の文面に嘘が無ければそこでトランクに詰め込んだキャロを引き渡す事になっている。手紙の続きにはその際に報酬としてこの間以上の金額を渡すと書かれていたが、彼にとってそんなものはまるで興味は無い。どうせこの後自分は追跡に来る局員によって捕縛されるだろうし、別段逃げるつもりも抵抗するつもりもまるで無い。自分はただ妹が無事であればそれで良いのだ。

 「はぁ……はぁ……!」

 道中の信号すら無視して突っ走ってきた彼はヴァイスは大した運動もしていないはずなのだが息は絶え絶えになり、人気の無い埠頭に車を入れた時には全身から滲み出る嫌な汗を拭き取る事もすっかり忘れてしまっていた。

 遠くの海に見える灯台の光を確認しながら車のライトを全て消して彼は相手がやって来るのを待った。今の所先方がいる様子は無く、時計を確認すると指定されていた時刻より僅かに早かった。

 座席に身を預けて呼吸を整えながら彼はバックミラーを確認する……連中が何を考えているのかは全くの謎だが、少なくともキャロがすぐに殺されてしまうという事にはならないだろうと考えていた。殺すつもりならわざわざこんな面倒な事をせずとも手紙に指示を書くか、或いは自分達で勝手にするはずだ。だとして説明がつかないのが、「何故こんな事をさせるのか?」という事だ。機動六課に所属する数ある人員の中でどうして自分にだけ……?

 「……ん、な、何だ?」

 ふと、彼の視界の隅に煌くものがあった。車外に取り付けてあるミラーを反射して届くその黄金色の光は断続的にキラキラと輝き、埠頭の闇には似合わない存在感をヴァイスに訴え続けていた。しつこいくらいに光るそれが気になり、彼は窓に顔を近づけ──、



 「セイッ!!」



 「ぐぉあ!!?」



 硬化ガラスを突き破って来た鋼鉄の棒を見切れず、ヴァイスは顎先に衝撃を受けて昏倒、少し身を揺らした後でぐったりとハンドルに寄り掛かって気絶した。

 突き入れられた鋼鉄棒の先端には……電流が走っていた。










 「シグナム副隊長、容疑者一名、確保しました」

 『すまない、良くやってくれた。本当は手負いのお前を出す訳にはいかなかったのだが……』

 「いいえ、僕の不手際でキャロが攫われたんです! これぐらいの事は……」

 頭に包帯を巻いた赤毛の少年……ヴァイスがキャロを拉致するに当たって殴り倒したはずのエリオがそこに居た。安静にしているようにと言うシグナムを振り切って来たからか、或いは隊舎からここまでの距離をストラーダの加速で突っ切って来た所為か、その顔にはありありと疲労の様相が浮かんでいた。

 『こちらも後二分でそちらに合流する。お前はそれまで容疑者を』

 「了解です」

 一旦通信を切り、改めてエリオは車内で気絶しているヴァイスを見やった。いつもあの掴み処の無い笑顔を浮かべていた隊のムードメーカー……その彼が何故このような凶行に走ったのかエリオには分からないが、事実として彼はキャロを拉致したのである。目的が何であったにせよ、罪は然るべき所で裁かれるべきだ。

 「キャロ? キャロ、聞こえる?」

 「…………その声……エリオ君?」

 耳を澄ませれば聞こえる小さな声を少年は逃さなかった。くぐもった様に聞こえる声を辿って彼は車のトランクをストラーダの刃で抉じ開ける。そこには大きめの旅行鞄が押し込まれていた。丁度、子供一人なら余裕で収納出来そうな……。

 「っ!? エ、エリオ君! ここ、どこなの!? 真っ暗で何も……!!」

 「落ち着いてキャロ! 今出してあげるから……!」

 そう言ってエリオは慌てて旅行鞄の留め金に手を掛けて蓋を開けに掛かった。右と左の留め金を外し、更に両サイドにもあるそれらを全て解除し終えた後、エリオは勢い良くその蓋を開け放ち──、



 摂氏数百度の熱に灼かれて消えた。










 翌日、未明の埠頭にて──。



 「どうしてっ……どうして、こんなことにっ!!」

 小雨が降りしきる港の埠頭では警察車両のサイレンと赤いランプの光が埋め尽くし、鑑識官らの慌しい声が飛び交っていた。湿った空気のお陰でだいぶ収まってきてはいるが、周囲には未だに鼻を突き刺す火薬の臭いが充満し、爆燃の余波を受けた周りの機材からも焼け焦げた臭気が漂ってきていた。

 その喧騒の中で佇む一人の女性……どれほどの時間をそこで過ごしていたのか、長い金髪は雨水に濡れて毛先から水滴を流し、その両目からは雨の水滴とは違う雫が滂沱の如く溢れ流れ出ていた。

 それからどれだけの時間が流れただろうか、一人の鑑識官が彼女──、フェイトの元へとやって来た。

 「ハラオウンさん、ご確認いただけますか」

 「え……うぁ、は、はい……」

 嫌な予感はしていた。正直言って、フェイトはここで逃げ出してしまいたい気持ちで一杯だった。この鑑識官に連れられるままに行けば自分は間違い無く認めたくないモノを見させられる羽目になってしまうだろう……現実を容認する諦観の念と、僅かな希望に懸ける拒絶の心が激しく葛藤し合う中、彼女はフラフラとした足取りでその場所へと向かった。今の彼女は「管理局の執務官」ではない、あくまでフェイト・T・ハラオウンと言う一個人としてここに居るのだ。そして、単なる一個人である彼女が今この場でなすべき事はたった一つだけ……



 「遺体のご確認を……」



 目の前には地面に掛けられた二つの小さなブルーシート……さっきまではもう一つあったそうだが、そちらは既に回収されたそうだ。シートは少し盛り上がっていて何かを覆い隠しているとすぐに分かった。大きさ的は……丁度、子供一人分。

 「あ……あぁ……!」

 拒絶の意思が膨らんでいくのに反して彼女の細い指先はシートの端をしっかりと摘んだ。そして僅かな逡巡の後にそれを引き上げ──、

 「ッ!!?」

 文字通り言葉を失った。自分の前にあるモノの招待が一瞬分からずに困惑し、そしてそれを理解し始めた彼女の耳に届いて来た死刑宣告にも似た声がその心を一気に挫いた。

 「申し訳ありません…………それだけしか回収出来ませんでした」

 爆発の中心に居た自分の部下であり同僚であり、そして何よりも苦楽を共にしてきたはずの家族だった二人の存在……今やその二人は人間としての形を留めておらず、吐き気を催す死臭を放つだけの物体に成り下がってしまっていた。そんな物体を自分の大切だった存在と気付けた理由はたった一つ……それはその二人がかつて入隊と同時に支給されたデバイスをしっかりと握っていたからであった。

 「あ、ああぁ……あああああああぁあぁあああぁっ!!!」

 悲しい慟哭が港に響き渡り、その場に居た鑑識官、ずっと背後で事の成り行きを見守っていたなのはとシグナムの鼓膜を打ち鳴らし罪悪感を滲ませた。



 クラナガンに夜明けの陽が見える頃、エリオ・モンディアル、及びキャロ・ル・ルシエ両名の死亡が確認された。










 「…………では予定通りの金額をヴァイゼンのグランセニック陸曹の実家へと送ります」

 『うむ、そうしてくれたまえ。彼は我々が一方的に利用していただけとは言え計画の進歩に一役買ってくれた、言わば同志だ。報酬は彼の実家に送ろう。妹君の治療費の足しにはなるだろうさ』

 「受け取るでしょうか?」

 『受け取らなければその時はその時さ。それはそうとだ……例の件だが滞り無く進んでいるようだ』

 「例の件? ああ、“聖王の器”ですか。そう言えば培養に成功していたのですね」

 『如何にも。ここでこんな話題を出したのだから分かるとは思うが、君には護送車の回収に向かって欲しい。頼まれてくれるかな?』

 「仰せのままに、ドクター。ではまた後ほど」

 そう言って彼、No.13トレーゼは通信を切った。賃貸マンションの一室からは昨日の爆発事件現場である港が一望出来、精密機器を埋め込まれた眼球は現場の真っ只中で泣き崩れる女性の姿を正確に捉えていた。

 実を言えば、今回の作戦で殺す人間は決まってはいたが、誰から殺して行くかと言う殺害順位と言う物は明確に定めていたと言う訳ではない。伏線を張り、お膳立てを整え、罠を仕掛けさせてもらった上でそれに引っ掛かった者から始末して行っているだけなのだ。機動六課と言うグループの中からフォワード部隊を選んだのは、彼らが持つ危険性を危惧するようにとトレーゼが主であるジェイル・スカリエッティに進言したからだ。オーバーSランク魔導師を筆頭にして各部署で埋もれていた優秀な人材ばかりを発掘、登用して組織された部隊……その機動性と制圧能力をフルに使われれば如何に管理世界中の機械工学と医療技術の粋を決して製造された戦闘機人と言えども一溜まりも無い事をこの原始のナンバーズは見抜いていたのである。管理局の保有する一部隊の戦力など彼を含めた上位に位置する五人のナンバーズの戦闘力を鑑み、更にちゃんとした作戦の下に行動すれば大した事は無いであろう事も当然予測はしていたが、トレーゼが気にしているのはそんなところではなかった。

 「妹達の中には実戦経験が異様に少ない者が多い…………あいつらに掛かる負担を少しでも軽減させてやりたいからな」

 生まれ出る“妹”の数は全部で八名。その中で自分の直接の妹として誕生するNo.7と、同じ遺伝子を共有する双子のNo.8とNo.12は特にそれが顕著だ。動作継承システムの恩恵はあるだろうが、やはり生の実戦を経験していない状態ではもしもの事態も有り得る。そうならない様に万全の策を敷いて置くのが長兄である自分の役目だとトレーゼは自信を持ってそう言うだろう。

 「ともあれ、これで三人……。あと警戒すべきは守護騎士あたりか。あの『歩くロストロギア』は早めに叩いておくに越した事は無いか。む、そう言えばドクターの言っておられた“聖王の器”の護送は明日か……ウーノに連絡してルート情報を取っておくか」










 更に翌日、白昼の廃棄都市区画の地下にて──。



 「ルーテシア嬢様、無事に“器”は回収出来ました。そちらに待機しているセインと共に帰還してください」

 『うん、分かった』

 正直言って護送車が事故を起こしたのには肝を冷やした。加えて脱走防止用につかせていたはずのガジェットまでもが完膚なきまでに破壊されていたのを確認したときは誰がやったのかと思ったが、その原因が今こうして自分が小脇に抱えている少女による仕業だと知ったときは二重に驚いた。聖王教会が所有する聖骸布……そこに染み付いた体液は、遥か古代のベルカ王国時代に天地を制したとされるゼーゲブレヒト家の最後の聖王女の物であるとされている。主のジェイル・スカリエッティの本懐でもある“聖王のゆりかご”は代々ゼーゲブレヒト家の正統後継者の生体認証によってのみ起動する為、これまで築き上げてきた生命工学技術を駆使して彼は遂に太古の聖王女の完璧なクローンを生み出す事に成功したのであった。

 機動戦艦の起動キーにしてしまうには罪悪感を感じない訳ではないが、ここで管理局に取られる訳にはいかない。即座に覚えたてのミッド式転移魔法を発動させ、トレーゼは気絶した少女とレリックを収めたケースを抱えながら自分の姉と妹たちが待つラボへと帰還した。



 だが──、



 「そこまでよ!」

 突然、地下下水道に凛と響いたその声にトレーゼは急遽展開していた魔法陣を解いて警戒態勢に入った。声のした方向に目を凝らして見えるは藍色のベルカ式魔法陣……対峙する魔導師は紺碧の長髪をなびかせる管理局の少女──、ギンガ・ナカジマであった。

 「時空管理局地上本部、陸士108部隊のギンガ・ナカジマ陸曹です。ここは一般の方は許可無く立ち入りする事は禁じられている区域です。速やかに武装を解除、その女の子とレリックをこちらに引き渡した上で投降してください」

 左腕の白銀の篭手が薬莢を排出し、身に纏う魔力量が倍に膨れ上がる。この距離と体勢では転移魔法を発動させても肉体が完全に飛ぶ前に撃墜、捕縛される可能性もある。となれば、少々面倒ではあるがここで片をつけておいた方が……

 「ギン姉!!」

 「なにっ!?」

 ギンガと対峙していた反対側からの声にトレーゼは驚きを禁じ得なかった。前方に警戒を集中させつつ視点を移動させると、そこにはギンガと同型の武装を施した酷似した顔立ちを持つ少女がこちらに狙いを定めていた。名前は確か……スバル・ナカジマ。

 「ナカジマ……………………ナカジマ、そうかナカジマか! どこかで耳にした姓名と思っていたが……」

 自分を挟撃する二人の魔導師を見比べながら合点がいったと言うようにトレーゼは声を上げた。創造主ジェイルの保管する戦闘機人に関するデーターベースに存在する『タイプゼロ』の表記……他でもないトレーゼの“無限の進化”を固定剤としながら、自分達ナンバーズとは違ったコンセプトで製造された二体の戦闘機人が存在すると言うその表記をここで思い出し、トレーゼは改めて二人の少女の解析に入った。十年以上前にゲンヤ・ナカジマと言う一介の局員によって養子として引き取られたと耳にしていたが、よもやこんな場所で巡り会おうとは……。

 なるほど、己を除くナンバーズよりも先に開発計画がスタートしていただけあってか内部のフレームは所々旧式のそれが見受けられるにしても、秘めているポテンシャルは高く、特に妹のセカンドの方はその攻撃能力の高さに目を惹かれる物があった。

 (ナンバーズの雛形……もし仮にこちらの陣営に引き込む事が出来れば、ドクターの計画はより磐石なものとなるか)

 常人を物理的に遥かに超越した存在である戦闘機人……それがコストを掛けずに一度に二体も獲得出来ればスカリエッティ陣営は正に無敵の少数精鋭へと昇華するのは間違い無い。問題はどうやってこの二人を自陣営に引き込むかだが…………方法は幾らでもある。

 『トレーゼ、応答して。トレーゼ!』

 「ウーノか。悪いが今は手が離せない。交戦中だ」

 『交戦? 管理局と?』

 「喜んでくれウーノ……相手はあのタイプゼロだ。しかもちゃんと二人居るぞ」

 『っ!? すぐに引き返しなさいトレーゼ!』

 「何故だ? これほどの好機は無いぞ」

 『良いから! 今の状態は接敵するにはまだ準備が足らないの。それに、貴方に与えた任務は“器”とレリックの回収だったはず』

 「…………了解した。軽くあしらった後で撤退する」

 長姉ウーノとの通信を切断し、トレーゼは再び意識の全てを自らと対峙する二人の同類に向け直した。展開する藍色と空色の鮮やかな光が地下道を染め、トレーゼの防護ジャケットを照らし出す……。自宅療養中だったスバルが出て来たのは予想外だったが戦闘力的に鑑みれば凌げない展開ではない。それに……自分には『あれ』があるのだ。

 「……ナカジマ姉妹」

 「!?」

 「いずれまた相見える日を……」

 展開されるのは通常目にする魔法陣ではない……幾何学模様が特徴的な魔力を感じない特殊な陣、IS発動に欠かせないテンプレートが出現した。発生した真紅の閃光は瞬く間に姉妹の放っていた光を駆逐して地下道を紅く染め上げ、そして──、

 「アブソリュート・ドミネイター!」










 数分後、トレーゼの姿は慣れ親しんだ隠し研究所のラボにあった。両脇には見事に死守した少女の身柄とレリックのケースを抱えている。

 太陽の光すら届かないラボに帰って来た彼を一番最初に出迎えたのは……

 「よぉ、お帰りトレ兄」

 「ただいまノーヴェ。また調子に乗って機材を壊したりしてないだろうな」

 ナンバーズの九番目、ノーヴェが抱えていた少女を受け取り並行して歩き始めた。苛烈に自己主張する赤毛も然ることながら、この少女は何の因果か十二人居る姉妹達の仲では一番性格がアレだ。とても先程邂逅したナカジマ姉妹と同じ遺伝子を基に生み出されたとは思えない。

 「やってねーよ。ったく、兄貴はあたしの事何だと思ってんだよ」

 「開発されたコンセプトに反する突撃思考型イノシシ、と言う所だな。お前は力加減の何たるかをまだ分かっていない節がある。敵を前に深追いしてしまうタイプだ、充分に気をつけろ。今度チンクに頼んで教育プログラムの改善を試してみるか」

 「へーいへい。そりゃそうとよトレ兄、この子どこに運べば良いんだ?」

 「ドクターに直接手渡してくれ。俺はこのレリックをウーノの所で解析してからそちらへ行く」

 「りょーかい」

 「あとそれと、間違ってもクアットロには渡すなよ。あいつの事だ……玩具扱いするに決まっている」

 「わぁってるよ」

 少女を大事そうに背負いながら奥へと消えていく妹を見送りながらトレーゼも別の道を辿ってウーノの待つ場所へと向かった。幾分か歩いた時、ふと見知った顔が幾つか現れた。

 「兄さん……」

 「トレーゼ、任務ご苦労だったな」

 「セッテ……トーレ……。そちらも通常訓練は終了か」

 「ああ。こいつもメキメキと頭角を現してくれている。教える者として鼻が高いと言うものだ」

 「そうか。励めよ、セッテ」

 「はい」

 自分の持つ“無限の進化”の因子を複製する事を目的にして生み出された二人の姉妹……目的の因子こそ受け継ぐ事は無かったが、それでも戦闘機人としては申し分無い性能を叩き出してくれている。何よりも、自分と血肉を分け合った兄妹なのだ……愛しくない訳が無い。

 「それはそうとだ、任務帰りに興味深い物を見つけたそうだな?」

 「ああ、タイプゼロ……後期ナンバーズの原型を発見した。性能も見た感じでは我々と遜色無い」

 「それは確かに興味深い。是非こちら側の戦力として欲しいものだ」

 「同感です。…………何を笑っているのですか、兄さん?」

 「いやな、同じ思考に至った所は俺達は結局血が繋がっているのだなと思ってな」

 「そうか。では……決定だな」

 「ええ、決定ですね」

 「うむ、そうだな」



 この時、ナンバーズの指針に『タイプゼロ鹵獲作戦』が書き加えられた事は言うまでも無い。










 その日、『性能実験』と称してスカリエッティが行った地上本部襲撃作戦はものの見事に成功した。当面の厄介者である機動六課の面々が隊舎を離れた瞬間を狙っての作戦はクアットロの持つ電子偽装能力、そしてこの日の為にと大量に製造しておいたガジェットの働きも相まって、開始から僅か半時間も掛からずに地上本部の敷地は地獄の業火に飲まれた。

 それがどれだけ続いただろうか、本部上空にて待機していたトーレは遠方からかなりの速度で接近しつつある不穏な気配を感知した。

 (強力な魔力反応が一つ……二つ……三つ、四つ、いや、五つか)

 接近している反応の内ではっきりと感じられたのは四人分、捉え損ねそうになった五人目は恐らくデータにあったユニゾンデバイスだろう。向かって来る反応は内三人が飛行で後の二人は地上……正確には地上移動する内の片方が先行する形を取っているのが分かった。進行ルートを算出すると丁度自分の妹達が交戦しているはずのポイントだ……。

 (チンク達に上手く捌けるかどうかだが……)

 『トーレよ……』

 「如何した、騎士ゼスト?」

 通信相手は故あって現在自分らに協力姿勢を見せてくれている元武装局員、ゼスト・グランガイツ。実力は折り紙付きだ、何と言ってもかつて健在であったチンクの右眼を奪ったのは他でもないこの彼なのだ。

 『向かって来る局員を一名、こちらで捕捉した。迎撃するが構わんな?』

 「むしろお願いしたい。こちらはこちらで残党どもの殲滅を……」

 『うむ、その事なのだが、もう一人の方がそちらに向かっている。どうやら二手に分かれたようだ』

 「…………了解した、セッテと協力して事態の収拾に取り組む。御武運を」

 『ああ』

 通信が切れた瞬間、遥か前方の空に金色の流星が見えた……。それが魔力を帯びた人工の光である事をトーレとセッテは見抜いていた。そして、現状下において単身でこちらに迫って来るだけの実力を兼ね備えた人物を彼女らは一人しか知らない。

 「……バルディッシュ!」

 『ザンバーモード起動』

 黄金の大剣を構えたるは雷を纏いし魔導剣士、フェイト・T・ハラオウン……。排出したカートリッジが下方の地面に吸い寄せられるように落下すると同時に纏っていた雷光が膨れ上がり、彼女の眼光が対峙するこちらに強く向けられた。

 「さて…………上手く行くだろうか?」

 主であるスカリエッティが目の前の人造魔導師に対して並々ならぬ興味を抱いている事を思い出しつつ、トーレは懐柔出来るだろうかと思案を巡らせ始めた。










 同時刻、管理局下階層の一般通路にて──。



 通路を抜けた開けた空間に飛び出した時、スバルは目の前の凄惨な光景に絶句した。目の前に居る人間の数は全部で四人……その内の三人はつい最近に廃棄都市区画の地下で出会った不審人物と同じコスチュームをしていた。手に手に持った武装を見る限り、この少女らが今回の騒動を引き起こした張本人なのだろう。

 そして、その三人の少女の足元に血塗れで倒れているのは……

 「ギン……姉…………?」

 見慣れた藍色の長髪に暗紫色のバリアジャケット……見違えるはずもない、自分の姉だった。だがその姿は他でもない自身の血に濡れて目も当てられない姿にされており、武装を纏っている左腕は……根元から寸断されていた。

 「あ……あ、ぁああぁっ!!」

 動いてない……動けない自分の姉の姿を認めたその瞬間、スバルは己の脳が持つ全ての思考能力を放棄した。理性を完全に取っ払い、堰を切った様に溢れ出し暴走する感情は『怒り』……自身の足元に展開した擬似魔法陣の存在などに気付けるはずもなく、彼女は溢れ出す魔力と感情の赴くままに咆哮、眼前に存在する三人の敵を見据えた。

 「返せ……ッ!!」

 ここまで来てようやく三人の少女もスバルの尋常ならざる状態に危機を覚えたのか、接近戦型の武装を持った一人が前に進み出てきた。

 「ギン姉を…………かえせぇぇええええええええええええええええええぇっ!!!!!」










 セッテとの共同戦線……と言う方法は取れなくなった。と言うのも彼女が早々に撃墜されてしまったからではない。単純に言えば今トーレが相対している相手とセッテとでは戦う土俵が違い過ぎただけだった。

 速過ぎる。ライドインパルスで対抗してようやく互角かこちらが紙一重と言ったところだろうか、あれほどのサイズの武装を振り回しながらこの機動力は目を見張る物がある。流石はドクターが興味を引くだけの事はある。本当は懐柔してこちらの陣営に加わってもらいたいのだが……

 (これはそう上手く行きそうにはないか……)

 先程も過去に自分達の主が行った技術提供のお陰でプレシア・テスタロッサはF.A.T.Eは完成されたのだと諭したのだが、どうやら逆にこちらへの敵対意思を強めるだけに終わってしまったようだった。ここまでこちらに対して敵対感情を抱いているとなれば自陣に引き込んでも裏切られるだろうし、かと言って洗脳しようにもこの強い精神力を屈服させるには時間もコストも掛かってしまう。

 ならば──、

 「……本当に我々と共に来るつもりは無いと?」

 「…………………………………………」

 沈黙、この場合は肯定と取るのが普通だろう。

 「そうですか。ならば仕方がありません……」



 「やれ、トレーゼ」



 その攻撃軌道をフェイトが見切れたのは天性の気配察知が幸いしたからであろう……下方から撃ち上げられたのは大口径の12.7x99mm弾、本来人間ではなく戦闘車両や航空機に向けて撃つはずの銃弾が飛来して来た事に驚きつつもフェイトは射程外である上空を目指して飛翔した。

 「くっ! どこに……!?」

 上空は障害物が無い為に敵の発見は容易いはずだが、問題の狙撃手の存在がどこにも確認出来ない。認識阻害系の魔法を行使しているのだとすれば魔力反応があるはずなのだが、それすらも見当たらない……一体どこに?

 「遅い……」

 「なに!?」

 ふと背後に殺気! 気付いて振り向くと同時にシールドを展開、来るべき衝撃に備えた。当然の如くやって来たその衝撃は彼女の体に少なからずダメージを通し、その反動を利用して敵の懐からの離脱を図る。

 「貴方は……!」

 フェイトは自分を強襲した存在に目を見張った。群青と紫を基調とした防護ジャケットに首元にあるチョーカーの『ⅩⅢ』の刻印、そして足元に展開する従来の魔法陣とは違うテンプレート紋様……それだけの要素を見ればその人物が先程まで相手取っていた人物達と同じ存在である事は容易に判断出来た。

 だが先程までの彼女らとは明らかに骨格レベルでの差異が見受けられる……目の前に居るのは少女ではなく『少年』、自分やなのはと同じ年格好の少年だったのだ。何故確認されている敵勢力の中で彼だけが男性なのかは知らないが、この時フェイトは直感した……

 (この人……何かがおかしい)

 本能レベルでの予感としか言えないだろう。彼女の十年にも及ぶ局員歴の中で今まで敵として相対してきた人物は限りなく居たが、そのどれもが明確に敵対、或いは抵抗の意思を持って交戦した者達ばかりだった。刃を交えれば敵意を感じ、弾丸を撃ち合えば殺意を覚える……そんな連中と今まで戦ってきた彼女にとって目の前の少年は明らかに異質だった。敵意も無ければ殺気も無く、かと言ってこちらを邪険にする悪意すら感じない……それだけでも充分に異常だが、それ以上に変なのがまるでその視線がこちらを哀れんでいる様に見えたのである。

 「…………フェイト・テスタロッサだな?」

 「それが……何か?」

 「まず初めに言っておく事がある」

 「?」

 「すまない」

 いきなりの謝罪の言葉にフェイトは動揺する……

 そして──、



 「死んでくれ」



 眩く拡散した紅い光に視界を奪われそうになるが何とか堪え、フェイトは相棒のバルディッシュを構え直そうとするが……

 「っ! バルディッシュ!?」

 応答無し。それどころかさっきまで展開されていたはずの魔力刃が完全に消滅しており、持ち主であるはずの自分の声もまるっきり聞いてくれなくなってしまっていた。一体どんな手品や奇術を使ったのかは知らないが、幸いにも魔法自体の行使は問題無く行える……一瞬でも隙を作れれば!

 「ライド……インパルス」

 (この人も超加速を……!?)

 一瞬で視界から消えた敵影を追ってフェイトもすぐさまソニックムーブで対抗した。機動戦は彼女の十八番、競り負ける理由などどこにもあるはずは無かった。

 相手が音速の域に達していなければ……。

 どれだけ常人離れしていると言っても所詮は人間、肉体が許容する加速領域には限界がある。対してあちらは戦闘機人、それも機械工学と生命工学の粋を決して造られた人造生命体だ、単純な肉体増強率も常人の比ではない。ただ移動するだけで発生する衝撃波に翻弄され、フェイトは徐々に敵の姿を捉えるのに困難を覚え始めた。

 (どんなに速く動けてもエネルギーは無尽蔵じゃないはず……必ずどこかで速度が落ちる!)

 だが窮地に立たされようと冷静さは失わない。辛うじて視界の端に姿を捉えつつ“その時”が来るのを待ち続け……

 「見えた! そこぉっ!!」

 速度がブレた刹那の瞬間を見極め、高圧電流を纏った手刀を──、叩き込んだ。










 侮っていたとしか言いようが無い……まさか同じタイプゼロのくせに妹の方にだけISが宿っていようとは夢にも思っていなかった。しかも接触型の攻撃仕様と来ている。一撃受けただけで右腕のマニピュレーターやフレームが完全にオシャカになってしまったのを見ると、恐らく相手の能力は同じ存在である戦闘機人の天敵と成り得る能力だ。まともに喰らえば硬度も耐久力も関係無しに破壊的損害を被る事になるだろう。

 「ちっくしょう……あのハチマキ野郎がぁっ!!」

 「ノーヴェ、ウェンディ! ここは姉に任せて先に行け」

 「でもチンク姉……!」

 「案ずるな……。姉ならば、触れずに戦える!!」

 心残りではあるがチンクを殿に残して退却した方が被害は少なくて済むだろう。仮にも彼女はナンバーズのNo.5だ、そう簡単にやられはしないだろう。それに計画の端にあったタイプゼロ鹵獲に関してもここでファーストを連れて帰る方が賢明だろう。わざわざ不確定要素を真面目に面倒見る必要性はどこにも無い。

 「セイン! セイン!」

 『あいよー』

 「チンク姉が危ない。すぐに行けるか?」

 『ここからじゃ遠すぎるって! それになんか強そうな人がそっちに向かってるし……』

 「くそっ! もういい! トレ兄! トレ兄!!」










 「そ、んな……」

 背中から突き入れられ自分の胸部を貫く巨大な刃……口から溢れ出る鮮血が徐々に気道を塞ぎ、息苦しさに咳き込むと鋭い激痛が胸を蹂躙する。

 「申し訳ありませんが……」

 「紙一重で我々の勝ちだ」

 フェイトの目の前に居るのはトーレ……そしてその体を刺し貫いているのはセッテ……先程の少年の姿はどこにも無かった。自分が突き出した手刀はトーレによって防がれており、体勢を整える間も無くその隙を文字通り突かれての敗北だった。あの過剰なまでの超加速はただの撹乱で、自分の意識がその影を捉えるのに必死になっているのをつけ込まれて途中からセッテとトーレに入れ替わっていたのだ。そして囮役のトーレが僅かに速度を落とし、自分がそれに引っ掛かった瞬間を狙ってセッテによる強襲……まんまとしてやられたとしか言えなかった。

 「エリオ……キャロ…………ごめんね…………わた、し……かたき、とれなかっ……た…………………………………………」

 「フェイトお嬢様……」

 「あとは、おねがい……なのは……はやて…………────────────────」

 「…………本当に申し訳ありません。貴方に仇を討たせてあげられずに……」

 瞳孔が開いた目をそっと閉じさせ、トーレとセッテは物言わなくなってしまったその肉体を適当な場所にそっと安置した。ここならば火の手も上がらないし、哨戒に来た局員によって回収されるだろう。

 「……そう言えば、兄さんはどちらに?」

 「あいつは機動六課の保有する“三強”の一角を墜としに行った」

 ナンバーズ間でのみ有効なネットワークを通じて反応を辿って見ると、現在の彼の位置はここから遠く離れた場所、情報が正しければそこはチンク達が作戦行動中にゼロ・ファーストと接触したポイントのはずだ。そこに居るはずの彼女らからの定期通信が無いのが気になるが……。

 「何事も無ければ良いが……」










 砲撃魔導師、高町なのはは先行してしまった愛弟子を追って狭く暗い通路をひたすらに突っ切っていた。先ほどの震動は進行方向から響いて来た……恐らくは先に辿り着いたスバルが敵と交戦し、その余波がここまで届いて来たのだろう。

 「急がなきゃ!」

 足元のアクセルフィンを羽ばたかせ、彼女の体は更に加速を──、



 「ここからは通行止めだ」



 「きゃあ!!」

 横合いのコンクリートの壁をブチ貫いて現れた人影に体当たりを喰らい、彼女の体は反対側の壁に激突、失速して地面に落下した。突然の乱入者の存在に驚きながらも、慣れた動作でなのはは体勢を立て直すと同時に複数のシューターを虚空に展開、奇襲を仕掛けた敵の存在に向けて威嚇射撃を行った。

 「甘いな!」

 粉塵を突き抜けて飛び出した敵は弾幕包囲網を掻い潜り、なのはは正体不明の敵の接近を許してしまった。手に握っていたはずの相棒は接敵の瞬間に蹴り飛ばされてしまい、喉元は無骨な武装で固められた腕が気道を塞ごうとその凶暴な圧力を遺憾無く発揮していた。

 「貴方は……ナノハ・タカマチか。唐突ですまないが、ここで死んでもらいたい。貴女方の存在はこちらにとっては不利益にしか成り得ないので……」

 抵抗の隙も与えず、トレーゼは左腕の指先にエネルギーを集中、発生させた鋭いクローを胸元の心臓目掛けて振りかざし──、

 『トレ兄! トレ兄!! 聞こえてんなら返事してくれ!!』

 「ッ!?」

 「どうした、ノーヴェ?」

 『チンク姉がヤバいんだ! 助けに行ってやってくれ!』

 「……それは急を要するのか?」

 『チンク姉がスクラップになっちまっても良いってのかよ!!』

 「…………了解した。すぐにそちらに向かう」

 左腕のクローが消滅し、戦意を収めてようやくトレーゼはなのはを解放した。十数秒に渡って気道を押さえられていた所為で息も絶え絶えだが辛うじて生きており、その事実に安堵しつつも彼女は先を急ごうとするトレーゼに対して強い敵対意志を込めた視線を投げ掛けていた。

 「行かせない!!」

 桜色の【アサルトシューター】がトレーゼの頭部をかすめて通路の奥に吸い込まれる。蚊の刺した程にも感じないその抵抗を彼は小さな溜息で受け流し──、



 「鬱陶しい」



 BANG!!

 その両脚を撃ち抜いた。

 漂って来る硝煙の匂いに遅れて届いた激痛に、撃たれたなのはは苦悶の表情に顔を歪め、地面に倒れた。筋組織は分断され、狙っていたのだろうか銃弾は彼女の大腿骨、歩行運動をするにおいて最も重要な部位を完全に破壊してしまっていた。

 「あぁ、ぐぐがっがぁあああぁっ!!!」

 「……今は脚だけに留めておいてやる。次に会った時は殺す」

 恨めしげな視線を突き刺す様に投げ掛けるなのはの存在を軽く無視し、トレーゼは両脚の武装を全開駆動、凶暴な唸り声を上げるローラーを操って先を急いだ。通信があったのはここから100mも行かない地点だか、それにしてはやけに静か過ぎる……戦闘が終了したか、或いは敵によってチンクが沈黙させられてしまったのか……。

 ふと、そんな事に思案を巡らせていると……

 『兄貴ぃ、チンク姉の回収終わったよ』

 セインからの通信があった。

 「良くもまぁ、回収出来たな」

 『兄貴がそこの魔導師を足止めしてくれたからね。でもちょっとやばいかも、チンク姉の体、すっごいボロボロだよ』

 「作戦エリア外で待機中のオットーとディードに引き渡してからお前は先に離脱しろ」

 『兄貴はどうすんのさ?』

 「俺はこれから確認する事がある……」










 「あ……あぁ……!」

 奪われた……自分の大切な人を次々と奪っていった存在を取り逃がしてしまった事実が、今のスバルに虚無感と言う形となって重く圧し掛かる。バリアジャケットは弾け飛び、発現した訳の分からない現象の所為で右腕はボロボロ、血液と涙に滲んだ眼球はもうまともに視界を映してはくれなかった。

 「ギン姉…………どこ行っちゃったの?」

 自問……答えは分かりきっているはずなのに無意識に口を衝いたのは、己が最も信じ、そして頼って来たたった一人の身内の名前だった。だが、当然ここにはその人物は居ない……理由は簡単だ、連れ去られたからだ。何故連れ去られたのか? 自分に彼女を守るだけの力が備わっていなかったからだ。いつも自分は彼女に対して『守られる側』だった……。

 「ティア…………エリオ、キャロ!?」

 必死に呼ぶその名に答える者は一人も居ない。理由は簡単だ、全員死んでしまった。

 ティアナは自分が彼女の傍から離れてしまったから……あの状態で一人にしてしまったから!

 エリオとキャロもそうだ……自分がくだらない理由で引き籠ってしまったから、自分が居ればせめてヴァイスの凶行を止められたかも知れなかったのに……!

 「あたしは……あたしはっ!!」

 全部──、



 ゼンブ ジブン ノ セイ



 「うわぁぁああぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」










 「…………興味深い」

 『トレーゼ、撤退時刻はとっくに過ぎてるのよ。貴方も早く離脱を……』

 「ウーノ、至急ドクターに伝言を頼む。『ゼロ・ファーストの洗脳は見送り。しばらくそちらで様子を見ておいて欲しい』、とな」

 『貴方何を言ってるの!? それに『そちらで』って……!』

 「ああ、これより俺、No.13は地上本部に潜入行動に入る。妹達にはドゥーエのサポートに回ったと伝えておいて欲しい。それではな」

 『ああっ!? ちょ、ちょっと待ちなさい! トレーゼ────────、ブツッ』

 「さて……どう熟すか?」

 物陰で身を潜めるトレーゼの視線の先には傷付いた体を抱えて慟哭する戦闘機人の少女の姿があった。










 それから間も無く、事実上、機動六課は解散となった。

 機動力を売りにしていた組織がその手足となるFW部隊の大半を損失したのだ……そして元々バックホーンの持つ権力に物を言わせて作った組織と言うのが仇となり、上層部への補給人員の要請は幾度となく棄却されるに終わってしまった。一応試験運用期間が終了するまではまだ時間があるので書類上は存続している事になってはいるが……さきの地上本部襲撃事件において対応が遅れてしまった事が痛手だったのか、局内での彼女らに対する風当たりは芳しくない。

 現在、六課に所属する戦力の中でまともに動ける者は八神はやてとスバル・ナカジマのみ。高町なのはは両脚の大腿骨と筋肉に致命的損傷を負い、かつてその運動機能が著しく低下した頃の様に車椅子による移動手段を余儀無くされていた。当然、数日前までの飛行能力を発揮する事は不可能である。

 そして、スバルの方はと言うと…………。

 「おい、聞いたか? ナカジマ三佐の娘さんよぉ……」

 「ああ、聞いた聞いた。例の襲撃事件の実行犯と同じ……」

 聞こえて来る雑念にも似た声……明確な誹謗中傷ではないのが唯一の救いか、医務室の窓際のベッドに横たわるスバルは呆然とした表情で外の光景を見ていた。その目は精気こそ辛うじて宿ってはいるが焦点は合っておらず、もうどこを見ようとしているのかも分からなかった。

 「……みんな……あたしのせい……」

 守れなかった……親友も、年下の同僚も、憧れの教官も、そして自分の姉でさえも……。間が悪かったとか、少しは言い訳の言葉が通じるような状況なのかも知れないが運の悪い事に彼女自身そう言う逃げの言葉を使うだけの心の強さがもう残ってはいなかった。

 「ナカジマさん、体の調子はどうですか?」

 「はい…………なんとか」

 担当の技師が腕などの各部に差し込まれた電極を解除しながら気さくに話し掛けるが、それを軽く受け流し、スバルは俯く。自分が戦闘機人である事を知っているのは同じナカジマ家の人間を除いては、整備を担当してくれていたマリエル・アテンザと、訓練校時代からの親友であるティアナ以外は誰も知らなかった。……つい先日までは。

 あのままあそこで気絶してしまった自分は救助隊によって回収され、口で語らずも露出したフレーム部分をそのままにしてしまった所為で自分が戦闘機人である事を白日の下に晒してしまった。騒動のお陰で今はこうして静かだが、落ち着きを見せ始めたら周囲の反応がどの様に変わるのか……スバルはそれが怖かった。化け物と避けられるのか、或いは機械人形と言われて蔑まれるか……

 「うん、バイタル状態は良好だね。アテンザ主任に協力してもらえばフレームの損傷もすぐに直せるかな」

 「…………あの」

 「何だい?」

 「見るのって初めてですか……その、こういうモノって」

 「戦闘機人、か。現物を見るのは初めてだけど、資料は何度か目を通した事はあるよ」

 「そうですか…………」

 「…………お姉さん……ギンガさんの事が不安ですか?」

 「はい……。私、何をするにもギン姉が居ないと何も出来ませんから……。昨日の事で良く分かりました」

 そうだ、自分は知らない間に依存してしまっていたのだ。たった一人の、文字通り血肉を分け合った姉に弱い自分はすっかり頼り切ってしまっていた……。自分が何かを成す時は彼女に応援してもらい、誰かに責められた時は庇われ、挫けそうになった時は励まされた……そうだった、いつだってそうだった。

 「ギン姉ぇ…………会いたいよぉ」



 「なら会わせてやっても良いぞ」



 「え?」

 急に響いて来た全く別の第三者の声に驚き、はっとなってスバルは顔を上げた。

 「お前がこちらに来る意思が……我々ナンバーズと共に行動する確固たる意思があると言うのならば、会わせてやっても良い」

 そこに第三者は居なかった……しかし、先ほどまでそこに居たはずの技師はどこにも姿が無く、代わりに同じ白衣を纏った別の人物が見下ろすようにこちらを向いて立っていた。紫苑の短髪に白磁の肌、そして……昨日の連中と同じ金眼……。

 「あなた、は……っ!」

 「喋るな、傷に障る」

 無理に体を起こそうとするスバルを制し、少年……トレーゼは言葉を続ける。

 「お前、このまま姉と共にこちらへ来ないか?」

 「……こちら?」

 「無論、ナンバーズにだ」

 「っ! 誰がそんな事……!」

 「ならばそれで良い。もっとも、いつまでもそちらに味方が居るとは限らんがな」

 「どう言う意味?」

 「わざわざ言ってやらないと分からないのか? もうここにはお前を庇ってくれる仲間は以前ほど居ないと言っているんだよ」

 それは分かっている……。戦闘機人、つまりは純粋な人間ではないと分かってしまった以上、一体どれ程の人間が自分の事を好奇の目で見ないだろうか? もはや敬愛する師ですら自分の怪我で手一杯の状況、小さくも一つの組織を束ねる八神はやてや自分の父親は私情を持ち込んでいる暇は無いだろう……。

 「そんな状態でどれだけの人間がお前を守ってくれる? 庇ってくれる? 慰めてくれる?」

 「それは…………。だったらなにさ、そっちに行けばあたしやギン姉を……っ!」



 「もちろん、守ってやろうともさ」



 即答、そこには何の躊躇いも逡巡も無い。出来るから、可能であるからこその即答……そこには一切の下心も甘言も存在しない、純粋な言葉であった。

 「俺達は戦闘機人、同じ『造られた』存在だ。ならばお前も、お前の姉も俺達の同類、同志だ。窮すれば救いによって応え、逆に協力してくれると言うのならば、俺は志を同じくする者としてお前達を迎え入れると誓おう。お前達姉妹に降り掛かる幾千、幾万もの困苦も、このNo.13の名に懸けて振り払うと約束しよう」

 驕りも無ければ口から出任せのはったりでもない……絶対的で不変な事実のみを語っているのだと、スバルは理屈でそう理解した。何の根拠も無い……だが信じられる、信じられるだけの何かを目の前の少年は持っている、と。

 だが一度は直接相見え、更にその正体が昨日の一派の一員と知ってしまった以上は素直に頷けるはずも無い。そんな彼女の心理を理解したのか、トレーゼの方は特に急かす事もせず、白衣を脱ぎ去りながら言葉を続けた。

 「今はまだそれで良い。こちらも、お前にはまだ隠している事の一つや二つはある。少しの間だけ猶予をやろう」

 白衣を投げ捨て、紫色の防護ジャケットが露になる……。

 「二日後、お前たちと初めて出会ったあの廃棄都市……そこでまた会おう。心配するな、誰の目から見ても分るぐらいに派手に呼び出してやる」

 「ちょっと待って! 名前……まだあなたの名前聞いてない」

 「…………トレーゼ、ナンバーズの第十三番にして長兄のトレーゼだ」

 「トレーゼ……」

 耳にしたその名を噛み締めるように呟いた後、スバルはいつの間にか目の前に居たはずの少年の姿が消え去っている事に気付いた。まるで夢でも見て居たかのようにその姿はどこにも無く、後に残されたのは脱ぎ捨てられた白衣だけだった。

 開いた窓から流れ込む秋の風……その流れを頬に感じた時、さっきまで確かに聞こえていた誹謗中傷の声が無くなっている殊にスバルは気付いた。










 その二日後の9月14日、地上本部は再び慌ただしくなる。

 廃棄都市区画にて不審な人物を確認したと言う哨戒部隊の報告によりデータ照合した結果、その人物が先の本部襲撃事件の戦闘機人らと同型であると言う報告がなされたからだ。スカリエッティ製の戦闘機人、通称『ナンバーズ』の恐ろしさを身を以て知った局員達はその一報を受けた事で浮足立ち、その地区を担当する部隊は戦闘に入ってすらいないのに増援を要求すると言った始末だった。当然、実力の足らない武装局員を送ったところで捕獲はおろか足止めにすらならない。

 そこで白羽の矢が立ったのが機動六課である。実質解散状態とは言え、書類上は未だ存続している組織……厄介事を押し付けるには持って来いだった。

 (凶悪犯罪の迅速解決を目指して立ち上げた組織が、まさか腰抜けの尻拭いやらされるやなんて……)

 はやての気苦労も分らないではないと頷く者も居るが、問題は目の前の敵勢力だ、早急に対処しなければ事態は最悪の方向に転がる事は容易に想像出来た。

 だがしかし──、

 「一体誰が出撃するか……」

 フォワードを潰された今の機動六課において辛うじて戦力として数えられるのはたったの三名……八神はやて、高町なのは、そしてスバル・ナカジマだけだ。

 はやては指揮を執る身なので許可無く出る事は適わず、かと言って両脚を負傷しているなのはでは満足に空を飛ぶ事も出来ない……。となれば、考えられる戦力は絞られるのだが……

 「行きます!」

 「スバル……」

 「スターズ3、スバル・ナカジマ、行けます! ですから……出撃命令をください」

 実力的には火を見るより明らかにスバルの方が劣っていると理解出来た。だが二日前の一件で三名もの戦闘機人を撃退したと言う彼女の魔導師ではなく戦闘機人としての力……それであれば紙一重であっても対抗出来るのではないかと言う、半ば賭けに近いやり方だった。

 「……行ってくれるな?」

 「はい!」

 「分かった! グリフィス君、すぐにヘリ用意してやってや! スターズ3、出撃や!!」



 かくして、蒼い戦闘機人の少女はものの二十分足らずで現場の大地を踏み締める。



 「…………来たか」

 改めて対峙して分かる圧倒的威圧感にスバルは足が竦みそうになるのを必死に堪えた。実力が根底から違う……恐らく本気で戦い合えば五分と経たずに膝を折る自分の姿が容易に想像できる。

 「もう一度聞くぞ? こちらに来る気は無いか?」

 「……その前に聞かせて。あたしに隠してる事って何?」

 「そう言いながら、本当は薄々気付いているはずだ。俺が六課の連中を始末したのだとな。お前の親友も、後輩も、上司も……全部俺の立案した作戦で殺した」

 そう、指摘されなくても分っていた事だった。一連の殺害事件に引き続いての今回の事件……誰の目から見てもそれらが密接に関わっている事ぐらい簡単に分かる事だった。

 「そして、その上で敢えて俺は言おう…………こちらへ来い、スバル・ナカジマ。お前の力はそこに居ても発揮出来ない。所詮は壊す力だ……それを全く異なる事には使えないと分かっているはず」

 「あたしは……っ!」

 「決めろ、お前が自分の意志で。俺はそれを尊重する」










 「作戦エリアを放棄!? 一体どう言う意味ですかっ!」

 『それは今しがた説明を……』

 「そういう事を聞いてるんやありません!!」

 スバルの出撃と入れ違いで入って来た上層部からの通達にはやては激怒した。作戦エリアを放棄する……言葉の意味だけを見れば何の不自然も無い、ただ単純に現在遂行中の任務を解除して全ての武装局員を撤退させろと言う意味だろう。

 だが、その撤退すべき人間の中にスバル・ナカジマの名前だけが無かった。

 彼女に帰還命令は出ない……永遠に。

 『上層部は今回の一件で戦闘機人に対する認識を改めました。現在、管理局によって確認されている全ての戦闘機人を破壊、及び処分する事……それが結論です』

 「そんな横暴……罷り通ると……!」

 『はい。具体的には当該地区一帯を丸ごと焼却……とか』

 「んなアホな事を……!?」

 『油脂焼夷弾。八神二佐の出身世界では“ナパーム”と言うそうですね。それを用意させて頂きました……ざっと二百発ほど』

 質量兵器まで持ち出しているとなれば恐らく上層部は本気だ。地球の第二次世界大戦を経験した事の無いはやては実際にナパームの威力がどの程度かは知らないが、少なくとも一晩で街一つを焼け野原にするには充分過ぎる効力を持っていたと言う事実は熟知している。それを二百発……如何に戦闘機人が頑丈に出来ていると言っても所詮は生物、一千度以上にも及ぶ高温に晒されれば影も形も残るまい。

 「やったら何でスバルを……っ!!」

 『お忘れですか? こちらは今先ほど、確認されている全ての戦闘機人、と申し上げたはずです。それはナカジマ三佐のご息女も例外ではありません』

 「そんな事……」

 『お話は以上です。もう既に弾頭を搭載した爆撃機がエリア上空に向かっております。ああ、補足ですが、通信を試みるのは無駄かと……。彼女への通信回線はこちらで掌握しています』

 「ッ!! 回線の復旧急いで! 早く!!!」










 「む?」

 上空から迫りくるその気配に先に気付いたのはトレーゼだった。彼の上げられた視線を辿ってスバルも上空を仰ぎ見ると……

 「あれって……!」

 プロペラは無いが航空旅客機ではない……それよりもっと小さく、並外れた馬力を利用して敵陣に突っ込み大量の無差別破壊兵器を落として去って行く……爆撃機だ。

 「まずいっ!!」

 「え────っ?」

 抱きかかえられた事を認識した時には既に“それ”は大々的に始まってしまっていた。背後から吹き荒れる殺人的熱風とその風圧……摂氏一千度にも及ぶ劫火が解き放たれた半液体油脂と共に燃え広がり、周囲の鉄筋コンクリートの建築物を容赦無く焼き尽くしながら全速力で逃走するトレーゼと彼に抱き抱えられるスバルに襲い掛かろうとしていた。

 「うわぁああああああああああああああああああああああああぁっ!!!?」

 「くっ! 転移魔法、かなり端折ったがいけるか!?」

 足下に展開する真紅の魔法陣、今度はベルカ式だ、それが一際大きな輝きを放った瞬間──、



 二人の姿は灼熱の中に消えた。



[17818] IF~Tre's ideal Act.2
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/05/17 10:18
 「スバル…………」

 はやてからの報告を受けて車椅子を押して来たなのははモニターに映し出されている光景に絶句した。これは現実か、はたまた現世に顕現した地獄絵図か……赤々と燃え盛る紅蓮の炎は作戦エリア外のビルですら飲み込み、もはやどう考えても生物が生き残る環境ではなくなってしまっていた。

 「……ナカジマ二等陸士のバイタル……途切れました」

 「同時に敵ナンバーズの反応も……」

 「…………現時点を以て作戦は終了。第一級警戒態勢の解除を通達します」

 「あの……!」

 「ナカジマ陸士の、その……遺体回収は?」

 「あの状態で何が残ってるって言うんや……」

 「……申し訳ありません、失言でした」

 「後の指揮はロウラン副長に任せます。私は奥で……」

 「……お疲れ様です」

 席を離れて管制室を離れるはやて……その足の先には呆然自失となっているなのは。

 「はやてちゃん……」

 「…………私は、私はもうっ、ナカジマ三佐に顔向け出来へん!」

 泣いていた。

 人の上に立つ事を覚えてから一度とて泣かなかった彼女が……部下を、後輩を、そして親友を失った悲しみにとうとう膝を屈したのだ。膝の上に寄り掛かって泣き崩れる親友、今となってはたった一人となってしまったその彼女の頭をそっと撫でながら、なのは自身もまた泣いていた。










 炎、それは『恐怖』

 火焔、それはスバル・ナカジマと言う個人にとって克服せねばならなかった恐怖のカタチ……。幼少の頃に空港火災で刻み込まれた彼女にとっては深層心理において耐え難い原始の苦痛、それが炎だ。

 間一髪のところで転移に成功したトレーゼはなし崩し的に回収してしまったスバルの変わり様に驚いていた。

 「大丈夫か? 立てるな?」

 「助けて…………助けて、助けて助けて助けて助けて!!」

 地面に座り込み、掻き毟る様に両手で頭を抱える……そんな彼女の姿にトレーゼは哀れみを覚えると同時に一種の罪悪感を覚えていた。彼女にこの様な過剰なまでの恐怖を刷り込む原因を作ったのは他ならぬ自分達だ、レリックの回収を完了出来なかったどころか暴発させ、数多の意味の無い混乱をもたらしてしまった……目の前のか弱い少女もまたその事故によって在り方を歪められた者の一人なのだろう。

 「あれー、トレ兄じゃないッスか! いつ帰って来てたんスか……って、そいつは!」

 「どうしたウェンディ……って、てめぇはこないだのハチマキ!!」

 まずい連中と鉢合わせてしまった。ウェンディはともかく、ノーヴェの方はチンクを一方的にやられた件であまりスバルに対して良い感情を抱いていない。むしろ殺る気満々だ。

 「落ち着けノーヴェ」

 「邪魔すんな! 一発蹴らねぇと気が済まね────」

 「いい加減にしろ」

 「うぅっ! わ、分かったよぉ」

 軽く威圧してノーヴェを黙らせた後、トレーゼは地面に蹲るスバルを抱き起してゆっくりと立たせ、支えながら歩かせ始めた。その後ろからノーヴェとウェンディも同行し、覚束ない足元に気を配りながら彼らが辿り着いたのは。

 「お帰りトレーゼ。何やら面白いものを持ち帰ったようだな」

 「ただいま帰還しました、ドクター。この度の独断行動につきましては……」

 「いやいや、構いはしないさ。君の事だ、何かしらの意味があっての事なのだろう? それに……そこに居るのはゼロ・セカンド、いや、ナカジマ嬢の妹ではないかね。謝罪は不要だが、せめて何があったのか事の成り行きだけでも説明してくれんかな?」

 「それは是非私も聞きたいものだな」

 「トーレ……」

 「良からぬ事を企んでいるかも知れんとウーノから連絡を受けてはいたが……まさか予想外な拾い物をしてくるとはな。納得の行く説明を所望するぞ」

 「…………そうだな、まずは……ナンバーズ上位四人を招集してくれ」










 「相分かった。この三日間の間にかなり濃厚な時間を過ごしたようじゃないか」

 「最後辺りは冗談抜きで焼き殺されそうになった。よもや魔導技術至上主義の管理局があのようなモノまで持ち出すとは……」

 「それだけこちらに対する危険意識を強めたと言うことなのだろう。これでますます動き辛くなってしまったな」

 「でもぉ~、それって逆に言えば管理局もこっちに対して下手な動きを取れなくなったって事でもありません?」

 『あなた達が好き勝手に引っ掻き回してくれたお陰でこ最高評議会は大わらわよ。情報整理するこっちの身にもなって欲しいものよね』

 「問題はここから先だ。アインヘリアルの破壊は予定通りに行うとしてだ…………例の二人をどうする?」

 そう言ったトーレの視線につられ、その場に居た全員の視線がラボの端で蹲るスバルに向けられた。話題に上っているのは彼女だけではなく、今は洗脳を先送りにして培養槽で眠らせているギンガの件もある。

 「洗脳作業を見送るように言ったのは貴方よ、トレーゼ」

 「どうするつもりだ。何かあてはあるのだろうな?」

 「……………………ドクター、引き続きタイプゼロの件は俺に預からせていただけないでしょうか?」

 「君がそう言うのであれば私は反対する道理は無い。好きにやりたまえ」

 「感謝します。ウーノ、ゼロ・ファーストを起こしてくれるか?」

 「彼女はまだ肉体の損傷が激しいわ。とてもではないけど培養槽からは出せそうにないわよ」

 「いや、起こすだけで良い。それで事足りる」










 脳に軽い衝撃が走った……それが眠っていた感覚を呼び覚ます為の微弱電流だと気付いたのは目を開けて周囲の異常に気付いた時だった。

 (ここは……水? いえ、違うわ、何かしら……)

 「目覚めた気分はどうだ、ギンガ・ナカジマ」

 (あなたは!?)

 「トレーゼ。ナンバーズの十三番目だ」

 (その人がどうしてこんな所に!)

 「愚問だな、お前は連れて来られたんだよ……我らがドクターの研究施設にな。それはどうでも良い、無駄話は文字通り時間の無駄だからな。お前に見せたいものがある」

 そう言いながらトレーゼは懐からある物を取り出した。天井のライトを受けてキラキラと青く輝くのは……待機状態のマッハキャリバーだった。たった一人の妹の持ち物であるはずのそれが何故この様な場所にあり、どうしてそれを目の前の戦闘機人が手にしているのか?

 「まぁ聞きたい事は山ほどあるだろうが今は黙ってこれを見て欲しい」

 虚空に映し出される立体映像……人気の無い灰色の建物が廃棄都市のものであるとすぐに分かった。対峙する妹と少年、そして交わされる言葉……。正直に言って、この少年の言わんとしている事は分からないではない。人間は自分とは違うモノに対して非常に強い嫌悪、あるいは差別意識を持つ事がある。そして、戦闘機人は常人から大きくかけ離れた存在だ、自分達の都合や事情を考えて理解する者が果たして何人居るだろうか?

 やがて場面は変わり、二人の視線が上空へと移される。視界に映されるのは管理局の爆撃用航空機……そこから幾つも飛び出す小さな物体……そして──、

 (どういうことなの……これは!?)

 「これが管理局のやり方だ。自分達が危険だと判断すれば例え味方であっても容赦無く切り捨てる……お前も、そして妹の方も、もうあそこに居場所は無い」

 (そんな……そんな事って……)

 「諦めろ……これが現実だ。お前達は見捨てられたんだよ。今の管理局にとってお前達はただの敵だ、お荷物だ、もはや人ではない」

 いつかこうなるんじゃないかと思わなかったのかと聞かれれば頷かざるを得ない……結局どこまで行っても自分達と普通の人間は違うのだ……拒絶されてしまった以上、もう帰る場所などどこにも──、

 「あるぞ」

 (……え?)

 「忘れたか? 俺たちもお前と同じ存在だ。お前達を受け入れる準備はとっくに済ませている」

 (それって……)

 「早い話が、寝返ろと言うことだ」

 (そんなことっ!)

 「出来ないか? それもいいさ、強制はしないし、気が向いたら程度でも構わない。だが、これだけは忘れないでほしい」



 「俺はお前達の事を同志だと思っている……それだけだ」










 「随分執心なようだな。それほどにあの子達が気に入ったのか」

 「帰っていたのか、騎士ゼスト」

 培養槽のルームを出た所でトレーゼを待ち構えていたのは協力者ゼストその人であった。紆余曲折あったが、この強面の騎士も元を質せば管理局に所属していた腕利きの武装局員だ。それに経歴を明かせば、現在培養槽の中で眠っているメガーヌ・アルピーノと関わりがあり、その繋がりで生前のクイント・ナカジマとも縁があったらしい。今回の件でナカジマの娘を保護した事に関しても何か思う所があるのだろう。

 「貴方も顔見せぐらいはなされては如何ですか?」

 「生憎だが、俺はあの二人に合わせる顔が無い。あの子らの母親を救えなかった自分が今更どんな言葉を言って会えると言うのだ」

 「そうですか……」

 「それで、何故にお前はあの子らと関わり合う。俺が思うにお前はそれほど対外的に行動する者ではなかったような気がするが」

 「純粋な戦力として欲しがっているだけ……そう言えばどうします?」

 「貴様……!!」

 「冗談だ。ただ……」

 「……ただ、何だ?」

 「あの二人……初めは興味本位からの接触だった。だが今は違う。興味以上の対象……そう言うことだ」










 「と、言う訳でだ。セカンドの分の部屋は用意されていないから、代わりにノーヴェとの相部屋で我慢して欲しい」

 「ちょ、ちょっと待ってくれよトーレ姉!? なんだってあたしがこんな奴と同じ部屋なんかで……!」

 「仕方ないだろう。お前と同じ部屋のチンクは現在修復中で、空きがあるのがそこしか無いんだ。頼んだぞ」

 「けっ! 分かったよ……ったく!」

 「あとそれと、これはトレーゼからの頼みでもある。『“姉妹”揃って仲良くしろ』とのことだ」

 「うえっ! トレ兄まで……。何だってこんな奴に構うかなぁ」

 聞く所によれば、目の前で蹲っている少女と自分は同じDNAを基盤にして生み出された同位体らしい……髪の色から始まり性格も何もかも違う癖に。

 「意味分かんねえ……」

 それに、そんなに気に掛けるのであれば洗脳なり何なりしてしまった方がよっぽど手っ取り早いはずだ。彼ほどの頭脳を持ち合わせている人物ならそれ位すぐにやりそうなものだが……。

 やめだ、深く考えるのは。時間の無駄だし、何よりカロリーを消費する。

 「おい、立て! 行くぞ」

 「…………うん」

 力無く立ち上がったスバルの表情はやはりと言うか当然の如く暗いものだった。呼び起こされた原始の恐怖と、今まで仲間だと思ってきた集団に見限られた絶望……少女の心を打ち砕くにはそれだけ充分効果的だった。

 程なくして割り当てられた部屋に着いた。部屋の中には簡素なベッドが二つ用意されているだけであり、卓上ランプもデスクも無い、ただ本当に寝て休息を取るだけの場所だった。

 「そこがてめえの寝る場所だ」

 「うん、ありがと……」

 「言っとくけどなっ、あたしはお前のこと許してないからな! 絶っ対にチンク姉に謝らせてやる」

 「チンク……? あの眼帯付けてた小さい子……?」

 「おうよ! 小さいからってバカにすんなよな! あたしの姉貴だぜ!!」

 「そう……お姉ちゃんなんだ。いいね」

 「へっへん! あたしの自慢の姉貴さ! だからお前には必ずチンク姉に怪我させたことを────」



 「返してよ……」



 「え……?」

 それまで一気に捲し上げていたノーヴェの言葉が止まった。怒鳴られた訳ではない、暴言を吐かれた訳でもない……むしろそれらとはまるで違う、囁かれる様なその言葉にノーヴェは二の口を告ぐ事を忘れてしまった。

 「返してよ……ギン姉を返してよぉっ!!」

 「うおわっ!?」

 押し倒され、床に容赦なく頭を叩き付けられるノーヴェ。目の前に星が散ったような錯覚を覚えながらも頭を起こし上げ、彼女は自分を押し倒したスバルを睨み付けた。

 「てんめぇ……!! 今ここでスクラップにすんぞぉぉ!!」

 「返して、返して……あたしにはもう、ギン姉しかいないの…………だからっ、返してったら!!」

 「う、わ、分かったよ……分かったから泣くなっての! あ~も~! トレ兄、トレ兄!!」










 「……そうか。そんな事が……」

 はやてからの報告を受けたゲンヤは深い溜息の後にそう呟いた。

 ギンガの拉致……。

 スバルの衰弱……。

 全戦闘機人に対する過剰な処置……。

 そして、スバルの『事故死』……。

 当然だがここで言う事故死とはただの方便に過ぎない。シナリオはこうだ……爆撃掃討作戦を実行するにおいて現場に向かっていたスバルにも退却命令が下されたが、“不慮の事態”によって通信が繋がらず、命令違反と見なされた上でMIA、焦土と化した現場には肉片すら残っていなかった…………と言う事にされた。

 「申し訳ありません……私が出撃許可を出してさえいなかったら、こんな事には……」

 「お前さんを責めんのはお門違いってもんだ。俺もそこまで混同はしねえよ」

 とは言いながらも、内心ではゲンヤも腸煮え繰り返る思いだった。血は繋がっていないとは言え愛娘を謀殺した時空管理局と言う組織……その組織の下に就いていながら何の手助けも出来ずに居る自分に対して不甲斐無さが募っていた。

 故に、彼は決断する……。

 「八神……俺はよぉ、局を辞めることにした」

 「辞めるって……何を言うてるんですか!?」

 「いや、元々クイントが死んじまった時からそうだったんだ……その予定が十年くらい延びたってだけよ」

 「せやけど! ナカジマ三佐は、ゲンヤさんは奥さんの死んだ理由を暴きたくて今まで頑張って来られたんでしょう!? 何でここまで来て諦めるんですか!」

 そうだ、かつて彼の妻、クイント・ナカジマは任務行動中に不審死を遂げ、彼はその真相を暴くべく三等陸佐と言う階級まで上り詰めたのだ。その過程にあった努力が途方もないモノであった事ぐらい、たった数年しか付き合いのないはやてにも重々分かっていた。だからこそ彼女は突然の辞職表明に断固反対するのだ。愛する者を喪った無念を晴らす機会を自ら捨てるような真似をする上司を止めたくて……。

 だが、ゲンヤの意思は揺るがなかった。

 「あいつが逝っちまった時にこうしておくべきだったんだ……。『昔奥さんを亡くした、今は頑固な家庭の中年主夫』……そんな肩書きでも良かったんだ。あいつらを守るには、そんだけで充分だったんだよ。何でもっと早く気付かなかったんだろうなぁ……」

 「ゲンヤさん……」

 「それにな……事件が終わってギンガがひょっこり帰って来やがったら、そん時に家で待っていてやれんのは俺だけだしな」

 「…………ナカジマ三佐、いえ、ゲンヤ・ナカジマさん!」

 「ん?」

 「お勤めご苦労様でした!!」

 右手をかざして敬礼……恐らくはやてが目の前に居る男性に対して職場で払える最後の敬意だろう。そして、それを受け取った自称『中年男性』は……

 「おう。後の事はお前さんに任せるぜ、八神」

 涙でぐしゃぐしゃに濡れる彼女の頭に手を掛けて、優しく撫でた。










 翌日、スカリエッティのアジト、そのラボにて──。



 「本当に、妹には何もしていないんですか?」

 「お前もくどいな。そんな事をしたところで俺達に得は無い。それに言ったはずだ、俺達は“同志”だと……これから仲間となる者に無理強いをするほどに俺達は落魄れてはいない」

 「勝手にそんな事……!」

 ラボの椅子に座らされているギンガは隙あらばいつでも反撃出来るように全神経を張り詰めていた。しかし、周囲にはトレーゼと彼に酷似した女性型戦闘機人が一人、そして何よりの不安要素が自分の後方から好奇の視線を投げつけて来るマッドサイエンティスト……筋一本でも動かせない緊張状態だけが過ぎて行った。

 「安心しろ……悪い様には絶対しない。それに…………妹がそろそろ来たようだぞ」

 その言葉と同時に目の前のドアが開き、扉のむこうから見知った顔二人が入って来た。一人は赤毛の少女……自分が記憶している最後に交戦した集団に居た一人だ。そしてその少女に肩を抱えられながら弱弱しく歩いて来るのは……

 「スバル……? スバルなの!?」

 「ギ……ン…………姉?」

 確かに自分の妹だった。深く蒼い髪、翠の瞳、その聞き慣れた声……何もかもが自分の熟知している愛しい妹のそれと一致していた。

 だが様子がおかしい。少なくとも自分の知っているはずの妹はここまで衰弱し切った様子を見せるような子ではなかった……その遠因が自分にあると言うのならそれは認めざるを得ないだろうが、そうだとしてもこれは些かおかし過ぎる。両目の焦点は合っておらず、夏でもないのに玉の如き脂汗を流し続け、一呼吸する度に曲がった背中が辛そうに隆起しては平坦になる……。

 「あなた達……スバルに何を!?」

 「勘違いするな。俺でさえ度肝を抜かしたんだ……あの地獄の様な場所を潜り抜けたこいつの精神はもう保たん所まで来てしまっているんだよ」

 「そんな……!」

 出来る事ならば嘘だと叫びたかった。ギンガにとって時空管理局はかつて自分達を救ってくれた者達が居る事もあり、絶対的とまでは言わないにしろ確かな正義をそこに感じていたはずだった。かつて憧れたその背中を追って入局し、不器用で時には逆風に煽られながらも駆け上がって来た自分達は……組織の体裁の名の下に黙殺されそうになったのだ。

 積み上げて来た“信頼”も……。

 重ねて来たはずの“努力”も……。

 辿って来た自分達の“時間”さえも、全て否定されてしまったのである。もう自分達の背後には何も無い、何も残ってはいない……もう自分達には帰る場所すら無くなってしまったのだ。

 「…………本当に、管理局は私達の抹殺を決めたって言うの?」

 「あの状況でそれでもお前達を奪還する気があると言うのなら、それはそれで拍手喝采モノの見上げた大嘘だな。だが悲しいかな、何度も言うようにこれは事実だ。時空管理局は今回の件で確認された旧型新型問わず、全ての戦闘機人に対する抹殺処分を敢行する事を決定した。もちろん、お前達ナカジマ姉妹も例外ではない」

 「…………私達、本当に帰る場所……無くしちゃったんだね」

 「案ずる事は無い。俺はお前達を同志として迎え入れるつもりだ。その準備は既に整っている」

 「フェイトさんやティアナ達を殺した癖に……結託しろって言うんですか!?」

 「お前の憤りはもっともだ。俺も妹らを殺されれば不当正当の区別無しに怒るだろうさ。お前にとって俺達は紛れも無い『悪』だろうし、俺達にとって己の行動は『正義』だ。だがな、これだけは言っておく……」



 「自らの同胞を後ろから撃とうとする輩共に『正義』なんてモノは無い」



 「……………………」

 「今夜はもう良い。24時間だけ猶予をやる……その間に二人だけで考えておくといい。トーレ、ドクター、これからアインヘリアル強襲作戦の草案についてだが……」

 「待って!!」

 閉鎖した空間に強く響くギンガの声……それは部屋を去ろうとしていたトレーゼらの足を止め、視線を振り向かせるには充分だった。衰弱した妹を抱きかかえながら俯く彼女はその双肩を震わせ、ずっと何かを耐え忍んでいるように見受けられた。トレーゼはそんな彼女を急かす事無く、じっと言葉が出るのを待った。

 そして、その沈黙がどれだけ続いた頃か──、

 「本当に…………本当に、貴方達に協力すれば……」

 「我々は全力でお前達を保護しよう。この言葉は他の十二人のナンバーズ全員の総意と思ってくれて良い」

 「…………本当なのね?」

 「ナンバーズの長兄、トレーゼの名……そして、敬愛する姉、トーレに誓って」

 トレーゼ個人にとって、血肉を分け合ったと言っても良いトーレの存在はまさに絶対的だ。そんな彼女の名を引き合いに出してまで宣言するのだ、もうこれは真実と受け取っても良いだろう。

 「そう……なら────、」










 地対空要塞『アインヘリアル』が陥落したと言う一報は瞬く間に時空管理局全体を駆け巡った。以前から地上本部の事実上のリーダー、レジアス中将が地上の治安維持には必要不可欠だと力説していた事から合計三基のそれらは厳重な警備体制に置かれており、襲撃があった当初もその日に限って警備が緩かったなどと言う失態は全く無かった。

 それでいて墜とされたのである。それも同日に三基とも……。僅か数名足らずの戦力と接敵した武装隊はものの三十分と経たない内に全滅し、敵も長居する事無く早々に撤退して行った。

 この事件がもたらしたモノ……それは『脅威』と『混乱』だった。

 まずは敵戦力の脅威。地上本部の件もそうであったが、今度はそれよりも戦力を分散した少ない頭数で攻め込みながら的確な連携と持ち前のパワーを遺憾無く発揮し、完膚無きまでに破壊し尽くした後で去って行った。作戦行動中も然る事ながら、撤退する際の手際の良さも見事であり、背後で指揮を執っている者の手腕さえもが見え隠れした事がその脅威に拍車を掛けていた。

 そして、次に混乱……。

 それは現場に居合わせた一人の局員の映像記録がきっかけだった。戦闘中にデバイスの記録保存機能を使ったのか映像は大変乱れており、本部より駆け付けた解析班がそれを鮮明化したところ……

 「これは……まさかっ!?」

 映像の中にあったのは武装隊と交戦する四人の戦闘機人……深い青と紫を基調とした防護ジャケットは確かに数日前に地上本部を襲撃した連中と同じ物だった。四人の内の三人は顔の映像から割り出してその時の一派の者だと割れたが……問題は最後の一人だった。

 藍の長髪……。

 足元に光る鮮やかなベルカ式魔法陣……。

 ボディスーツの上に羽織られたバリアジャケット……。

 そして──、



 左手に輝く白銀の篭手。



 「間違い無い……これは、ギンガ・ナカジマだ!」

 振り向いた彼女の双眸は戦闘機人特有の金眼に染まっていた。










 「初仕事、取り敢えずは『お疲れ様』って事でいいのかしら?」

 「……………………スバルはどこ?」

 「安心して。あとそれと、左腕の調子はどうかしら? 急ごしらえで直したのだけれど……」

 「行動する分には支障はありません。もういいですか? 私はこれで失礼します」

 出迎えのウーノを振り払い、ギンガはラボの奥へと進んだ。正直に言えば、体の調子が悪いどころの話ではない。肉体のメイン動力源をリンカーコアから戦闘機人のジェネレーターに切り替えたのが原因か、体中のフレーム駆動が上手く馴染んでいなかった。力加減が上手くいかない上に今まで本格的に使う事が無かった所為で出力も安定しない……こんな事なら無理にナンバーズに合わせない方が良かったか。

 「随分と苦労しているようだな、ファースト」

 「あなた……!」

 スバルが居るはずの部屋の前に立っていたのは、最後まで自分たちを勧誘し続けたあのトレーゼだった。

 「……スバルは?」

 「この奥だ」

 「私が全面的に協力する代わりに妹には手を出さない……この契約は?」

 「ああ、覚えているともさ。今はあいつのフレーム調整に赴いていただけだ。もちろん……多少なりとも勧誘はしたがな」

 「ッ!!」

 相対距離は五メートル、ギンガにとってそれは瞬きの瞬間に埋められる距離だった。一瞬でトレーゼの前に迫った彼女は直り立ての左腕をその首に伸ばし、煮え滾る感情のまま一気に吊るし上げる。

 「あの子は戦場の空気に……人を傷付ける事に耐えられない! だから遠ざけているのよ!」

 「知ってる。お前は俺と同じ立場の存在だからな……お前の言いたい事は粗方分かっているつもりだ」

 「だったら……!」



 「だが俺はまだあいつの決断を聞いていない」



 そう、『自分が協力する代わりにスバルから身を引け』と言うのはあくまでギンガ個人の要望だ。そしてトレーゼは姉妹二人に問うた……そうなれば、後は必然的にスバルの希望を聞き届けるのが順当と言うものだ。

 「あいつが俺達に何を望むのかは分からんが、その答え次第ではお前の要望を棄却する事にもなるだろう」

 「あの子が貴方達に協力を申し出るって本気で考えてるの!?」

 「言ったろう? 俺とお前達は“同志”だ。同志の希望には全力で応える……それが俺のやり方だ」

 「話を逸らさないで! あの子は……スバルは絶対に私が────ッ!!?」

 そこから先の言葉は無い……突如全身に感じた耐え難い重力は一瞬にしてギンガの膝を折り、彼女に無様に四つん這いにさせた。何が起こったのかなんて一瞬では理解出来なかった。徐々に熱くなっていた頭を冷やして辿り着いた答えが……

 「ふむ、ジェネレーターが軽いオーバーロードを起こしたか。戦闘機人として活動した経験は無いのか?」

 「仕方ないでしょ……! 今まで一度だって……戦闘にこれだけのエネルギーを回した事なんて無かったんだから!」

 「そうか。まぁいい、無理はするなよ」

 そう言ってトレーゼは彼女の体を抱きかかえると傍にあった椅子に座らせた。その手つきはどこまでも優しく、その優しさがギンガの心に警戒と感謝の念と言う相反する感情を生み、そしてその矛盾に葛藤した。

 そんな彼女の心情を理解する間も無く、トレーゼは更に言葉を続ける。

 「数日の後、ドクターが地上部隊に大規模な作戦を仕掛ける」

 「それって……」

 「ああ……“ゆりかご”を起動させるんだ。聖王の力を用いて空に上がった“ゆりかご”はそのまま緩やかに加速しながら上昇……いずれは大気圏を突破し、二つの月の魔力を潤沢に受けられる軌道へと到達する。そうなれば、如何に時空管理局の次元航行船とは言え下手に手出しは出来なくなるだろう」

 ゆりかご……正式名称は不明だが、一部の歴史書や古文書などの類には古代ベルカ時代の超兵器『聖王のゆりかご』として認知されている戦船だ。詳細については入りたてのギンガの知る範疇ではないが、今のトレーゼの言葉から察するに仮に起動して空に上がればクラナガン……否、ミッドチルダ全土に対して甚大な被害が出る事を覚悟しなければならないだろう。

 「怖くなったか? だが安心しろ、ドクターは不必要な大量破壊と虐殺を好まない方だ。確かに“ゆりかご”自体には空対地兵器が大量に搭載されているらしいが、精々局の追っ手を追い返す程度にしか使わないだろう」

 人造生命を大量に生み出すあのマッドサイエンティストがそんな殊勝な判断をするのかどうかは甚だ疑問でしかないが、もしそうだとしたら最終的な疑問が残る……。

 「スカリエッティは何をしようとしているの?」

 無差別な大量破壊でもない。かと言っても“ゆりかご”の力を傘に取った次元世界の間接支配でもない……。となれば一体何が目的なのか?

 「さぁな」

 「さぁ……って、貴方ナンバーズのトップでしょ!? 知らない訳がない!!」

 「と言われてもな、知らないものは知らんのだ。あのお方の考える事は誰にも理解出来んよ。『何故“ゆりかご”を起動させるのか?』と問われたなら、単純明快に『飛ばしたいから』と答えるだろうな」

 「そんな……」

 「そう言うお方なのだ、あの人は。それと、妹の方の処遇に関しては安心しろ。ドクターは無節操に命を生み出すお方だが、奪ったり消し去ったりはしない、絶対にな」

 「…………そう」

 確かに、あの科学者が人殺しをしたと言うのは聞いた事が無い。事実かどうかは知らないが、過去にあったクイント殺害に関しても戦闘が激化した事による余波だと言っていた。初めこそ信じられなかったが戦闘の際に右目を失ったチンクの証言、そして当時共に任務に当たっていたと言うゼストとメガーヌの両名が彼らの陣営に身を寄せていると知り、少なくとも母だけを選って殺したのではないと言う事だけが分かった。

 「妹達とは仲良くしてやって欲しい。特にノーヴェとはな。あいつはいつも突っ撥ねて憎たらしいが素直じゃないだけなんだ、勘違いしてやらないでくれ」

 それに……こんな優しい“兄”の顔をしているのだから信じても良いのかもしれなかった。










 結果から言えば、高町なのはは前線に復帰出来るようになった。

 しかし、かなりの無茶をしてはいるが……。

 「ごめんな、なのはちゃん。そんな体に鞭打つ様な真似してしもて……」

 「ううん。もう動けるのは私と守護騎士しか居ないから……無茶しないなんて言ってらんないよ」

 両脚の大腿骨に深手を負ったなのはに急遽施された処置、それは両脚全体を覆うようにして装着された駆動性の高い装甲だった。スバルとギンガのキャリバーの技術を基礎原理とし、次元世界有数の機械産業の担い手であるカレドヴルフ・テクニクス社に依頼して造らせた外骨格式装甲がこれだ。損傷した大腿骨及び筋肉の代わりに脚部の運動を補助する為の物だが、緊急措置として開発したのでサイズやバッテリーなどの問題ももちろんある。だが歩いたり飛行する分においては何ら問題は無いので少なくとも今後しばらくはこれで活動するより他は無い。

 しかし、何故そんな穴だらけの装備を使ってまで彼女らが立ち上がる必要があるのか?

 八神はやては予見していたのだ、近い内にスカリエッティが大々的に動き出すと。機動六課の戦力を削りに削り落とし、更に地上兵器まで陥落させたあちらにとって最早懸念要素は無きに等しい。そうなればこちらが戦力を回復させる前に行動を起こすのは必至、こちらは成す術も無く一方的にやられるだろう。ならばせめてそうなる前に必要最低限の動ける人員は確保しておかねばならない。そしてこれはその為に必要な措置なのだ。

 だが正直言ってこれでもまだ完璧とは言えない。あくまで急場凌ぎの付け焼き刃でしかないのだ……そんな措置であの機兵団に敵うとは考え辛い。

 「大丈夫だよ……」

 「なのはちゃん……」

 そう言って笑顔を見せる親友の表情は一瞬だけ力無く見えたが実は違っていた。両脚を撃ち砕かれもはや歩く事すら侭ならないはずなのに、その瞳にはまだ不屈の精神が確固たる輝きとなって宿っていた。この輝きをはやては知っていた……そして、自分の親友がこの目をしている時は絶対と言っても良いほどに無茶をする事も。

 「心配しないで。どんな事があったって私は帰って来るよ……フェイトちゃん達が守ろうとした、はやてちゃんやユーノ君の居るこの場所に」

 「そないなこと言うたかて……!」

 「“大空のエースオブエース”は墜ちたりなんかしない。絶対にギンガも助け出して見せるよ」

 風は空に──。

 星は天に──。

 不屈の心はこの胸に──。

 かつて初めて魔法と言う存在に触れた時の様に、高町なのはの心には確かな決意が燃え盛っていた。










 そして…………その日はやって来た。










 大量に召喚された地雷王の震動による補助で浮上した“聖王のゆりかご”は遂に新暦に至ったこのミッドチルダにその巨躯を晒し、地上本部を相手に正々堂々真正面からの戦闘態勢に移行した。

 そして、その僅か数時間前のナンバーズでのやり取りは……

 「現場作戦指揮は全て俺が担当する事となった。各員、常に通信回線はオープンにしておけよ」

 「了解!!」

 この時はまだ“ゆりかご”は地中に埋まったままであり、ギンガを加えて十四名となったナンバーズはドゥーエを除く全員とゼストとルーテシアにアギトが集合、作戦の最終確認を行っていた。作戦指揮は本来クアットロに譲渡される事になっていたが、全体的な指揮伝達の効率を考慮した結果として長兄であるトレーゼに譲渡される結果と相成った。

 「では各員のポジションを確認するぞ」

 ドクターとウーノは“ゆりかご”が衛星軌道上に上がるまでの間、ラボに待機。その間に施設の資料全てを処分。

 トーレ、セイン、セッテの三名は上記二名の護衛及び侵入者の排除。主に聖王教会から派遣されて来るはずの騎士の迎撃。

 ドゥーエはそのまま地上本部に潜伏し、こちらの合図と共に最高評議会を抹殺した後でレジアス中将の懐に忍び込む。

 クアットロは“ゆりかご”内部にて聖王と駆動炉の最終調整とガジェットの操作。ディエチは侵入者の迎撃と排除。

 ルーテシアは地雷王の能力で“ゆりかご”を浮上させた後にクラナガンへ向かい、ゼストの援護を受けつつ空挺部隊を削ぎ落とす。

 残りのオットー、ノーヴェ、ウェンディ、ディード、ギンガの五名はルーテシアと共に首都に向かい、地上部隊の制圧。

 「以上だ。何か質問はあるか?」

 「はいはーい! 私たちがドンパチやってる間兄貴は何してんのさ?」

 「俺はお前達が居る現場の総指揮と、“ゆりかご”がある一定の高度にまで達したら来るはずの部隊……六課と他の航空戦力の混合部隊の迎撃を担当する。部隊長はあの“歩くロストロギア”だ、守護騎士も連れて来る事を考えれば、下手すればこの“ゆりかご”の上昇速度にも影響が出るかもな」

 「各チームのノルマがクリアした後はどうする?」

 「“ゆりかご”が上空6000mに達した所で俺がラボの班を回収する。地上班はレジアス中将の暗殺を確認した後にルーテシア嬢様に回収してもらえ。頼みましたよ、お嬢様」

 「……まかせて」

 これで布陣の確認は出来た。後はそれらを実行に移すだけだが──、

 「それではこれで一旦解散だ。二時間後に派手に花火を打ち上げるぞ。……っと、その前に騎士ゼスト」

 「何だ?」

 「使用しているデバイスの件で少し……。後ほどよろしいか?」

 「構わんが」



 その二時間後、ミッドチルダを震撼させた最悪の事件が勃発した。










 空に上がった“ゆりかご”を待ち受けていたのは既に廃艦処分を受けていたものと思われていた旧式の次元航行船だった。そこから飛び出してきた航空戦力は予想していたよりもずっと多く、更にその布陣の完成度の高さから司令塔の指揮能力の的確さが伺えた。

 「来たか。クアットロ、ガジェット全機起動!」

 『もうやってますわよ、お兄様!』

 「上出来だ。ディエチも警戒怠るな。敵の中にはあのナノハ・タカマチも居る。最悪、“ゆりかご”の横っ腹に穴を開けられる事も考えておかねばならん」

 雲霞の如く迫り来る魔導師群の中に捉えた桜色の軌道……間違い無くあの時見逃した高町なのはだった。砲撃の天才とも言われる彼女が補助を受けているとは言えこの短期間で現場に復帰しようとは思っては居なかったが…………問題は無い、こちらには全ての魔導師の天敵となる切り札があるのだから。

 と、その時、幼い聖王の座にて指揮を飛ばす彼の元に一つの通信があった。

 相手は……

 「ああ、お前か。どうした?」










 「教会の騎士と言っても所詮は生身の人間……やはりこの程度が限界か」

 ラボに侵入して来た者はたったの二名だった。教会から派遣されてきた接近戦型の騎士と、妙なレアスキルを使う査察官……どちらも捕捉してから僅か五分で迎撃、駆逐に成功した。

 「ふぃ~、あともうちょいでこの暴力シスターの餌食になるとこだったよ。ありがと、トーレ姉」

 「まったく……常日頃から基礎訓練は欠かすなとあれだけ言っておいたろうが」

 「いや、非戦闘型の私にそう言ってもらっちゃっても……」

 「言い訳無用!」

 「あでっ!!?」

 「さて、ルーテシアお嬢様達は上手くやっているだろうか」










 無論、全てが快調と言う訳にはいかなかった。地上攻略班はクラナガンに侵入する手前、廃棄都市にて早々に難敵に出くわす羽目になった。

 「守護騎士が二体……! それも後衛型と前衛型の組み合わせか」

 対峙するは蒼き狼と湖の騎士……最悪のロストロギアと謳われた『闇の書』の守護騎士の二人が地上部隊の侵略を任された五人を排除せんと待ち構えていた。上空ルートを辿っていたルーテシア達とは別のルートで進行していた為、唯一運が良かったのは彼女らまで足止めされずに済んだと言う事だった。

 「まさか開始早々に結界に閉じ込められるなんて……」

 「しかもそれなりに範囲が広い。解析にも時間が掛かる」

 「面倒臭ぇ! 結界だか何だか知らねえが、要はぶっ壊して飛び出しゃいいんだろうがよ!!」

 「それが出来てたら苦労は無いッス。って、ギンガはさっきからどうして黙ってるッスか?」

 「…………ザフィーラさん……シャマルさん……」

 「お知り合いですか?」

 「知り合いも何も、あの二人には昔からお世話になっていたもの……」

 「……んだよ、ギン姉はあいつらのとこに帰りたいのかよ?」

 「…………管理局は私達を見限ったわ。だから私もあの人達の敵になっちゃった、ただそれだけよ」

 そう言ってギンガは足元にベルカ式魔法陣を展開した。深い藍色の眩い輝きが傍に居る新しい妹達を照らし出す。

 「結界の解析は私がする。時間は掛かるだろうけど、同じベルカ式だから問題は無いわ。皆はそれが終わるまであの人達の足止めをお願い!」

 「了解!!」

 そう、今となっては赤の他人を越えてただの敵同士……討つか討たれるか、ただそれだけのシンプルな違いでしかないのだ。敵意は無い、悪意も無い、殺意に至っては湧き上がるはずもない。だがそれでも──、

 「……やらなくちゃいけない」

 今度こそ自分達の居場所を守る為に。










 守護騎士の数はリインフォースⅡを含めて全部で五人……その内のザフィーラとシャマルは廃棄都市にて迎撃、シグナムは首都航空部隊に残り本丸を守り、ヴィータとリインははやてと共に“ゆりかご”陥落に向けて動き出していた。

 “ゆりかご”の方は【アルカンシェル】直撃にすら耐え得ると予想されるその巨体が大気圏を脱するまでが勝負となる。外回りのガジェット群を突破して内部に侵入、その後はその中で潜伏しているであろう戦闘機人を確保し、駆動炉を破壊する。如何に古代ベルカの戦史にて難攻不落を誇った空中要塞とて、動力源を叩かれれば墜ちない道理は無いと踏んでの作戦だった。

 都市の方は正直言って怪しかった。飛行可能な戦力である航空武装隊はほぼ全て“ゆりかご”攻略に回している為、空から攻められれば地上からの迎撃だけでは間に合いそうにないと思っていたのだが……

 「……貴方は」

 「む、そのバリアジャケット、否、甲冑……騎士か。」

 対峙する烈火の将とゼスト。ゼストの傍らには例によってアギトが控えており、二人は互いに言葉を交わす事無く、目の前の女騎士の実力を見抜いてユニゾンした。髪が金色に染まり、膨れ上がった魔力が周囲に撒き散らされる。

 「その戦斧……貴公、地上本部襲撃の際にヴィータを打ち負かした者と見受けるが、如何に?」

 「ヴィータ……? なるほど、そう言う名の騎士が居たな」

 「それなりに名の有る騎士と見たが?」

 「名、か……ゼスト、ただのゼストだ」

 「では、ただのゼスト。悪いがここから先へは行かせられない」

 「構わんさ。押して通るのみ!」

 「結構!!」

 二つの烈火が空で激しく激突した。










 地上防衛を任された一部隊である陸士108部隊の指揮者、ゲンヤ・ナカジマは内心穏やかではなかった。弱小とは言え一部隊を任され指揮する身の上、動揺していては下の連中の士気に関わると必死に隠してはいるが、やはりその胸中は言われ得ぬ不安に支配されていた。ガジェットを押し退けて前線に繰り出した守護騎士らからの通信にあったナンバーズの情報……その中にギンガが居ると言うのだ。

 最初に自分の愛娘が連中と関わっていると聞かされたのは例のアインヘリアル陥落事件の時だった。現場の隊員のデバイス記録に残っていた映像にあったギンガの姿……恐らくはスカリエッティによる洗脳処理を受けられたのだろうと考えていた。

 自分の意識が無いとは言えよりにもよって娘と交戦する羽目になろうとは……辞職前の最後の仕事がこんな因果なモノになってしまうと誰が想像出来ただろう?

 「俺はあの時クイントを止められなかった…………だからギンガ、せめてお前だけは絶対に取り戻してやるからな!」



 この時、彼、ゲンヤ・ナカジマは知らない──。



 既に自分の娘、ギンガ・ナカジマの精神はとっくに自分らの信じていた“正義”から離れてしまっている事を……。










 「……クアットロ、これより30分間、本作戦の全指揮権をお前に一時譲渡する。ガジェットの操作と“ゆりかご”の操舵を任せたぞ」

 『あらぁ、と言う事はお兄様遂に……!』

 「ああ、これからラボに居るドクター達を回収した後、俺が直接前線に出る」

 玉座を離れ、足元に描くはミッドチルダ式の真円魔法陣。一瞬のタイムラグの後、彼の姿は上空の“ゆりかご”から遥か下方のラボ施設へと転移していた。既に内部の資料処理は粗方片付いたのか、転移した先ではスカリエッティを含む五人が待機していた。

 「お疲れ様ですドクター」

 「うむ。して、“ゆりかご”の進行状況はどうかね?」

 「現在無事に上空6000mに達しました。未だ管理局の旧式次元航行船とその部隊が粘り強く足止めを狙っていますが、問題はありません」

 「その物言い……遂にお前が出るか?」

 「ああ。五分……いや、三分でケリをつけ────」

 『お兄様!! 緊急事態ですわっ!』

 「ッ!? クアットロか。何があった!?」

 いつも飄々とした声ではなく本当に焦っている声色だ。あのクアットロがここまで慌てているとなれば相当な事態が発生したに違いない。

 そしてその予想は的中していた。“ゆりかご”の外壁を打ち抜いて内部に侵入した敵を二名確認したと言うのだ。外壁自体は“ゆりかご”が持つ修復機能で塞いだが、肝心の侵入者二名の排除にガジェットでは対処し切れずにいた。現状において“ゆりかご”の外壁を吹き飛ばし、あれだけのガジェットをものともせずに突っ切って来る戦力となればどんな敵か大方の予想はつく。

 「やはりナノハ・タカマチと鉄槌の騎士……」

 回されて来た映像記録にはそれぞれ別ルートから“ゆりかご”の奥へと進攻する二人の魔導師と騎士の姿が映っていた。ヴィータは駆動炉、なのははそれを制御するヴィヴィオとクアットロを叩くのが目的のようだった。よもやこの短時間の間に“ゆりかご”と“聖王の器”のウィークポイントに気付くとは……。

 『どうしましょうお兄様! 多分ディエチちゃんじゃあの化け物を止められませんわ!!』

 「落ち着け。良いか、時間が無いから俺はそちらの援護に回れない。お前達だけで何とかして見せろ」

 『そんな無茶な……』

 「無茶ではない。お前はドゥーエの妹だ。そして俺の妹だ!」

 『お兄様……』

 「“ゆりかご”全体のAMF濃度を最大限に引き上げろ。ディエチはそのまま所定の位置で待機。およそ三分後にナノハ・タカマチと接敵するだろうが、その時は奴の下半身を全力で撃つように言え」

 『あのチビの騎士ちゃんはどうするんですのぉ!?』

 「駆動炉の耐久性能に全てを懸ける! 奴は人外だが弱点は在る……たった一つだけの致命的な弱点がな」

 『まさか、お兄様……!』

 「ああ、そうだ」



 「ハヤテ・ヤガミを墜とす!!」










 「解析完了! オットー!!」

 「IS発動、『レイストーム』!」

 ドーム状の結界、その頂点に向かって放たれる若草色の光線はいとも容易くそれを撃ち破り、灰色掛かっていた空は徐々に元の青さを取り戻していった。そして穴の開いたそこからⅡ型ガジェットが大量に侵入し、五人はそれに飛び乗って脱出を試みた。

 「逃がさない!」

 「シャマルさん! 今は退いてください! 私は……貴方達と戦いたくなんかない!!」

 「ギンガ……あなた、洗脳されているはずじゃ……!?」

 「くっ……!」

 余計な事実を知られてしまったがここで止まる事は出来ない。五人はガジェットの速度を上げて一気に上昇し──、

 「鋼の軛ッ!!」

 地上から迫った白銀の棘に貫かれて撃破された。空戦能力を持たない五人は重力に従って落下するがギンガとノーヴェが形成した足場に着地して事無きを得た。だがこれで脱出する可能性は大いに目減りしてしまった。地上に降りればそこは守護騎士たちのホームグラウンド、接近戦に持ち込まれて成す術も無く……

 ……否、策は有る。

 「コード入力! 自爆機能、作動!!」

 「そんな!?」

 侵入していたガジェット達が一斉にザフィーラとシャマルの周囲に集結し、内部に埋め込まれた魔力核を暴走させて全機爆散する。爆発の威力自体は大した事は無いかもしれないが、目晦まし程度にはなる。そして、事実それが狙いだった。

 「爆煙は長続きしないわ! その間に一気に畳み掛ける!」

 「その程度で我等を下したつもりかっ!」

 煙幕の向こうから聞こえて来るザフィーラの怒号を無視し、ギンガはウィングロードを駆け上がって目的の場所へと一直線に向かっていた。その先に居るはずの『自分が最後に相対しなければならない相手』と見える為に……!










 感想は至極当然な、「こいつ本当に人間か!?」だった。

 AMF濃度最高水準の空間での魔力砲撃、それも溜め動作無しでの抜き撃ちで戦闘機人の出力を真っ向から上回る威力を弾き出すなど……どう考えても一個体の純粋生命体が成せる業ではない。結果的に言ってディエチはバインドで拘束され、イノーメスカノンも当然取り上げられてしまった。

 だが──、

 「下半身を狙え、か……。トレーゼが言ってた意味が分かったよ」

 なるほど、あの状態の両脚では補助無しに戦闘を行うのは不可能だっただろう。そして、彼女は兄からの命令を忠実に実行し、敵が有視界範囲内に入った瞬間を狙って砲撃の全てを両脚を覆う駆動装甲に叩き込んだ。大半はあちらからの砲撃で相殺されてしまったかもしれないが問題は無い、さっき拘束される瞬間に確認出来たが、装甲の間接部分に損傷を与えたのを見た。僅かだがあの精巧さではその綻びが命取りになるのは目に見えている。

 「私はもうやる事やっちゃったからなぁ。後は……クアットロ辺りが助けに来るのを待つだけ」










 結局『それ』が何だったかについては誰にも分からなかった。ただ一つ明確になっているのは、“ゆりかご”から飛び出したガジェットとは違う機影を確認した直後にその不可解な現象が発生したと言う事実だけだった。

 それはほんの三分前の出来事……。

 「あれは……!」

 “ゆりかご”から飛び出して来たのはガジェットではなく戦闘機人。それも現在たった一名しか確認されていない雄性体のものだった。実力はどうか分からないが、前線に出てきた彼は武装しておらず、攻撃してくる魔導師達を軽く受け流しながら飛翔、そのまま“ゆりかご”の上部へと足を降ろした。武器も何も持たずにそんな場所に降り立ってタイタニックの主人公でも気取ったつもりかと初めは思っていたが……



 足元に展開した擬似魔法陣を見た瞬間に危機感を覚えた。



 紅い光が戦場を覆い尽くし、その場に居合わせた者達に等しく、そして抗い様の無い絶対的な枷を取り付けていった。

 『アブソリュート・ドミネイター』

 それがNo.13トレーゼにのみ許された絶対支配の能力。効果範囲内に存在するありとあらゆる電子機器のプログラムに干渉し、全てのシステムを乗っ取るIS。そしてその効果範囲はデバイスのAIにまで及び、魔法と科学が融合した魔導技術に依存した全ての魔導師の天敵とも言える力だった。

 当然の帰結としてインテリジェントとストレージの区別無く戦場の魔導師が持つ全てのデバイスはその全機能を失い、飛行能力の大半をデバイスに任せていた新参兵は次々と失速、緩やかに落下して行った。前線は混乱の極みに達し、魔導師の代わりにガジェットが勢力を盛り返した戦況にはやては目を剥いていた。

 「こんな……こんな事が!」

 「八神部隊長! 危険です、お下がりください!」

 既に敵のISの効果は後方に控えているアースラにも届いている。通信では操舵と動力源の出力の一部に異常を来たしているそうだ。このまま相手が能力を解除せずに“ゆりかご”ごと空に上がれば、それを迎撃しようと待ち構えているはずの艦隊は悉くその機能を剥奪されるに違いない。

 だったら……!

 「それまでに首魁を叩くしかあらへん!!」

 デバイスが動かないくらいがどうした。かつて自分に力を与えてくれた魔導書の管制人格はそれすら無しに魔法を放って見せたのだ。自分にもその程度──、



 しかし、それは夢想に終わる。



 掲げたシュベルトクロイツが固くなったと思い視線を移すと、はやては自分の腕がバインドで取り押さえられている事に気付いた。腕だけではない、足も、肩も、首も、胴体も、全身のありとあらゆる間接部分が過剰なまでに拘束、捕縛されてしまっていた。

 「ぶ、部隊長……!」

 「お逃げください!」

 バインドの正体は同胞からのものだった。機能停止したはずのデバイスを必死に止めようとするが、当のデバイスは憑かれたかのようにいう事を聞かず、身動き一つ取れなくなった上官の体に更に拘束を掛けていった。

 「デバイスの遠隔操作……!? そっか……狙いは、最初から私やったって事か……」

 作戦領域全体のデバイスと電子機器を停止させたのはただのパフォーマンス……本命は、そうする事で丸裸になった部隊の指揮者を迅速且つ的確に処理する事……。

 瞬間、胸元を貫く衝撃──。

 それが自分の心臓を潰した鋼鉄の腕だと理解するのに時間は掛からなかった。










 「ッ!? はやてちゃん!」

 親友のバイタル反応が消えた事に驚きを禁じ得ず、なのはは聖王の玉座を前に急停止した。嘘だと思いたくて何度もレイジングハートに確認を取って見たが、彼女からの返答は変わらない……親友、八神はやてはたった今、戦場で散華した。何て事は無い、それが事実、分かり切っていたはずだった。

 「…………ッ」

 今は悲しむ時でも怒る時でもない、堪え忍び、前へ進む時だ。そうしなければ今までの犠牲の果てにある物は何の意味も無い空虚なモノになってしまう。

 慣れ親しんだ愛杖を真っ直ぐ構え、その先端に有りっ丈の魔力を集中させる。玉座へ続く扉を撃ち破るには充分過ぎるそれは自分が最初に思い描いた魔法の形……全ての障害を撃ち抜く──、

 「ディバイン──、」



 「バスター!!」










 「お前……ギンガなのか?」

 「父さん……」

 ガジェット群に紛れて飛び出してきたのは他でもない自分の愛娘、ギンガだった。ガジェットに身を隠しながら迫って来た彼女は瞬く間に前線を制圧し、指揮を執っていた自分の実父の所へとやって来た。

 変わり果てた自分の娘の姿にゲンヤは驚きを隠せなかった。

 「ギンガ……お前、何でそんなとこに居るんだよ」

 「…………父さん、スバルは無事です。もう何も……心配しなくていいんです」

 「お前は何言って……」

 「話はそれだけです。私は、私達はもう…………そっちには戻れないの」

 そう言うとギンガはゆっくりと踵を返し、後方から自分を迎えに来た新しい妹達へと合流しようとした。その後ろ姿に名状し難いほどに悲しい“何か”を感じ取ったゲンヤは去り行こうとする娘を必死に呼び止めた。

 「待て、待ってくれギンガ!!」

 「さようなら、父さん。今までありがとう……そして、ごめんなさい。私はあの子を守る為に戻ります……管理局は私達に居場所をくれなかったから……」

 そう、自分達は戦闘機人、人ならざる存在だ。敵対する意思の有無に関わらず、ただそこに存在しているからと言うだけで自分達は抹殺されそうになったのだ。そんな組織に正義は無い……そんな場所は自分たちの居場所なんかではない。だから脱却する、だから離反する……義ではないと非難する者が居たとしても、今ではたった一人となってしまった守る者の為に自分は苦渋の決断をした。

 ただ一つだけ心残りがあるならば、それは父親。自分ら姉妹を男手一つで今まで育ててくれた父親にだけはせめて最後に言葉を残して行きたかった。

 “ありがとう”──、今まで守ってくれて。

 “ごめんなさい”──、あなたの居る場所に戻れなくて。

 “さようなら”──、もう二度と会う事の無い別れの言葉。

 「ギンガ…………ギンガぁぁああああああああっ!!!」










 ディバインバスター……その掛け声と共に吹き飛ばされたのはなのはの方だった。自分が砲撃を放つよりも数瞬先にドアをぶち破り、迫ってきた蒼い光に弾き飛ばされた彼女の体は反対側の壁に叩き付けられた。

 「ああっ!!?」

 衝撃で脚部の装甲に電光が走り、レイジングハートを通じて各部の異常を確認する。歩行する分においてはどうやら問題無いようだが、飛行する為に必要な回路の殆どは焼き切れてしまっていた。このまま異常を来たして歩行すら出来なくなれば補助機としての役目は無くなり、ただの足枷になってしまうだろう。

 だが、それは些細な事でしかない。今のなのはの思考を埋め尽くしているのはもっと別の事柄。

 (さっきのは……間違い無い、【ディバインバスター】だった。私以外にあれを撃てるのは……!)

 自身が最も得意とするこの砲撃魔法を放てる存在を彼女は片手の指で数える程度しか知らない。そして、さっきの魔力光……

 「…………なのはさん」

 「スバル……どうして!?」

 目の前に立ち塞がるは死んだはずの教え子……バリアジャケットの下にナンバーズの防護ジャケットを羽織り、右手のリボルバーナックルを激しく唸らせて、スバル・ナカジマはそこに居た。双眸は金色に輝き、表面に纏う魔力とは別に戦闘機人特有の熱量を内包し、スバル・ナカジマは恩師に拳を向けていた。

 「ごめんなさい、なのはさん……。ここは通せません」

 「スバル……」

 「どうしても通りたいって言うなら…………私を殺して行ってください!!」

 「スバル!?」

 飛び出すウィングロード。それに飛び乗ったスバルはカートリッジをロード、IS『振動粉砕』を発生させながらなのはに突貫を試みた。寸でのところでそれを回避したなのはだったが、自分でも突破に苦労した“ゆりかご”の隔壁をいとも容易く粉砕したその力に寒気を感じずにはいられなかった。

 そして再認識してしまったのだ。

 スバルは戦闘機人なのだ、と。

 自分達常人とは明らかに懸け離れた異質な存在なのだと、彼女はそう思ってしまったのだ。

 「分かってるでしょ、なのはさん。私はね……人間じゃないんだよ、分かってるはずだよ。人間じゃないから…………私もギン姉を殺されそうになった」

 「それは違う!」

 「違わない!! 管理局は私を殺そうとしたッ!! 八神部隊長もなのはさんも、助けてくれなかった!!! 皆して私たちを見捨てて殺そうとしたんだぁっ!!」

 本当は声高に違うと言い張ってやりたかった。だが事実として管理局は確認されている全ての戦闘機人の抹殺を決定し、自分達はその場に居合わせながらそれを止める事が出来なかった。恨み言を幾つぶつけられても足りないのは分かっているつもりだ……。

 だが……

 だけど──、

 スバルは泣いていた。

 「待っててねスバル……必ず、その涙を止めてあげるから……」

 コントロールの利かなくなり始めた両足を叱咤し、まだ動いてくれるレイジングハートを構え直し、なのはは愛弟子を闇から救うべく立ち上がって見せた。

 「行くよ、スバル……!」



 だがしかし、この時のなのはは知る由も無い……。



 スバルは闇に呑まれたのではなく、自らの意思でここに居るという事に。










 変化は劇的だった。自分達と相対していた二体の守護騎士は急に地面に跪いた後に倒れ、誰の目から見ても分かるまでに弱体化した。恐らくは“ゆりかご”のトレーゼが敵の指揮官である八神はやてを抹殺した事で繋がっていた魔力供給が途切れたのが原因だろう。肉体の調子を完全に取り戻す前に四人は先行しているはずのギンガを追い、道路を走り──、



 その先に凄惨な光景を見た。



 装甲車両は一つ残らず物理的に潰されており、それまでガジェット相手に奮闘していた局員の全員は地面に伏して気絶していた。巻き上がる炎と煙を背景にこちらに歩み寄って来る影は……果たして、ギンガ・ナカジマの姿であった。

 「……終わったわ」

 「…………そうですか」

 「私達の作戦は陸士部隊の一時陽動よ……。だったらこれでもう終わり……後は予定のポイントまで行ってルーテシアに回収してもらうだけよ」

 淡々と告げるその言葉に抑揚は無く、聞く者全てにまるで本物の機械に成り下ってしまったのかと思わせるものがあった。

 だが、面と向かっているナンバーズの四人は誰もそんな事を思いはしなかった。彼女らには見えていたからだ……冷淡に言葉を紡ぎ出すギンガは終始、その両目から絹糸の如く静かに涙を流しているのを。それがどんな意味、感情を込めて流されているモノなのか全員がしかと理解していた。

 「……行こうぜ」

 「はいッス……」

 ノーヴェの言葉が沈黙を破ったのをきっかけに五人は作戦を終えてルーテシアの待つ場所へと歩みを始めた。

 その背後に一抹の郷愁を纏いながら……










 「レジアス……ッ!?」

 烈火の騎士を退け、孤独の騎士ゼストが辿り着いた結末は……かつての友との死別と言う残酷なものだった。背後から鉤爪で胸元を貫かれ絶命したその光景に彼の脳は自らの理性とは全く関係無く、徐々に冷静さを欠いて行った。熱くなる理性を必死に御しながら彼の視線の先が捉えたのは旧友を殺した下手人の顔……。

 何故?

 決まっている……。

 殺す為だ!!

 頭の隅では分かっていた事だった。協力関係にあるスカリエッティにとってかつてこそ最大手のスポンサーであったが、今のレジアスは邪魔者以外の何でもない……それどころか、最高評議会を除いてスカリエッティの情報を握る唯一の人物だ、野放しにしておけば不利益になるのは自明の理。故に後始末されるのだ……。

 そんな事は分かっていた!

 頭ではそんな事は理解しているに決まっている。だがこの怒りはそんな理屈ではどうにも看過出来ないのだ。もはやこの怒りは……目の前で友の死を嘲笑う不埒な者を屠る事でしか晴らせない。

 だがしかし──、

 彼のその行動は叶わなかった。

 「っ!?」

 急に自分のデバイスから魔力反応が消えた。それまで乱暴なまでに注ぎ込んでいたはずの自分の魔力はいつの間にか全て排出され、新たにカートリッジをロードしようにもそれすら出来なくなっていた。

 「どうした、何故動かん!?」

 『────この声を聞いていると言うことは、やはり貴方は我々に敵対の意思を表したと言う事ですね。騎士ゼスト』

 「その声は……!」

 握った相棒から聞こえてきたのはいつもの電子音声ではなく、録音された聞き覚えのある別の声……そう、あのナンバーズを仕切る長兄の声だった。いつの間に仕込まれていたのかと思案を巡らせると、意外にもすぐにその要因に思い当たった。

 (あの時に……まさか)

 出撃前に調整を行うと言ってデバイスを預けたのだが……どう考えてもその時に細工をされたとしか思えなかった。

 『貴方が我々ナンバーズの誰かに攻撃意思を明らかにした場合、外部からのあらゆる命令に優先して全プログラムが停止するように改造を施しました。何があったかは知らないが、この土壇場での離反は感心しない……』

 「くっ!」

 「あら、ちょっと見ない間にあの子も策士になったわね。そう言う訳だからゼストさん、私はこれで退散させてもらうわね」

 歯噛みするゼストを尻目にドゥーエは窓を破って外に飛び出した。すぐ外で待機していたガジェットⅡ型に跨ると彼女の姿は瞬く間に蒼穹の彼方へと消え去った。当然、ゼストもただ黙っているだけではなく使い物にならなくなった相棒を携えて追おうとしたが──、



 『尚、デバイスの魔力は排出されたのではなく、圧縮されている。よって────、』



 発生した大爆発はレジアスの亡骸ごとゼストを吹き飛ばした。










 「はやて…………? そんな、嘘だろぉ!?」

 十年間、肌に慣れ親しんだ者の魔力反応が突然消え去った事にヴィータはその裏にある事実を否定しようとした。だが繋がっていた魔力供給の糸が切れてしまったと言う事は、即ちそれは自分達の家族であり主でもあった八神はやてが死亡したと言う事に他ならない。あのはやてが殺された……それは精神的に幼さを残すヴィータにとってはすぐには受け入れ難い事実だった。

 「ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうがぁっ!!!」

 大幅に激減した魔力では、この目の前にある“ゆりかご”の駆動炉を破壊する事はもはや不可能に近いだろう。加えて彼女はここに来るまでにガジェットの襲来に合い、その腹部に損傷を食らっている。はやてからの供給がなくなった今、傷口の修復ですら侭ならないのが現状だった。

 「せめてリインが居てくれりゃあ……!」

 それは無理だ、部隊随一の突貫力を誇るヴィータとなのはだったからこそ“ゆりかご”の外壁に穴を開けられたのだ。はやてを欠いて単独となったリインではどう足掻いてもここまで来るのは不可能。

 そこから先は自棄だった。万策尽きたと思ったのか、はたまたそうする事が最善の策だと思ったのか、彼女はギガント化したアイゼンを振り上げるとがむしゃらに駆動炉にそれを叩き付け始めた。自分とアイゼンに壊せない物は無い……友と交わしたその言葉だけは守りたかったのだろう。

 だが──、



 「ごめんなさい」



 「え……?」



 声がした方向に顔を向けて彼女が見たのは“穴”だった。底の見えない黒い穴……それが構えられた砲身の銃口だと気付いた時には──、

 「発射」

 障壁も間に合わず、身に纏っていた大半の魔力を攻撃に回していた事で防御が手薄になっていたヴィータの上半身は火を噴いたイノーメスカノンの砲撃をまともに喰らい、沈黙……。

 「…………終わったよ、クアットロ」

 『ご苦労様ですわぁ、ディエチちゃん。どう? 初めて人をぶち殺した感想は?』

 「……………………」

 『ディエチちゃん?』

 「報告はしたから…………それじゃあ」

 そう言って一方的に通信を切ったディエチはゆらゆらとした足取りで出入り口まで戻ろうとした。だが、数歩も歩かない内に彼女は自分の得物を杖代わりにしだし、やがて力無く座り込み、そして……

 「ぅ……ゲェ、エエ!!」

 嘔吐した。戦闘機人なので人を殺す訓練はしてきたはずだった……だが今までの殺しの任務は全て長兄であるトレーゼとその姉のトーレのみで行われてきたものだった。アインヘリアルでの作戦も自分達の性能を管理局に見せ付けるのが目的だった為、現場の隊員も気絶させるだけに留めていた。なので、少なくともディエチにとっては人を殺す経験は始めてのモノだった。それはあまりに耐え難く、一人の少女としての精神を挫くには充分過ぎた。

 「トレーゼ……いつもこんな事に耐えて来たんだ……。すごいな、お兄ちゃんは」

 ふと、ディエチは区画が僅かに揺れるのを感知した。“ゆりかご”の速度が上がったのではない、それとはもっと別の震動……

 「上の方もそろそろ決着かな……」










 スバルとなのはの戦いは開始二分と経たずに形勢が逆転した。ディエチが布石として叩き込んだ砲撃は確実に補助装甲を蝕んでいた……それまで玉座の間全体を縫う様に展開されていた空色のウィングロードは消滅し、スバルは純粋な地上格闘戦に持ち込んでいた。

 何故ウィングロードを出さない? 答えは簡単だ、出す必要が無いからだ。あの魔法は空戦技術を持たないクイント・ナカジマが編み出し、スバルとギンガの姉妹が受け継いだ稀有な技能だ。空戦による三次元戦法を地に足を着けたまま再現する能力……当然、そうなればそれをする相手は自然と空戦能力を持つ者に限定される。

 今のなのははその空戦能力を徐々に失いつつあった。脚部を覆っていた補助装甲は遂にその飛行補助機能を停止し、現在のそれはまともに動きもしないただの足枷へと成り下がっていた。まだ大腿部補助機としての機能は働いているので辛うじて歩行・走行は出来るが、その重量故に飛行性能は大幅に激減した。下手に上昇してもまともに動けないと分かっている彼女はスバルのレンジで戦う事を余儀なくされ、徐々にその勢いは押されつつあった。始めは遠距離からの射撃での牽制を狙っていたのも今となっては愛杖のレイジングハートも防御にしか使っていない。もはや勝負は目に見えていた。

 だが戦いはこれでは終わりはしない。否、譲れない者同士が邂逅した時点でそれは駆け引きの存在する『戦い』ではなく、互いに相手を一秒でも早く排除し合う事を目的とした殺し合いに切り替わるからだ。

 互いの主張は180度の正反対。

 互いの進む道は互いの存在が邪魔。

 ならば排除するしかない。

 そして──、

 互いのどちらかが生きている時点で勝敗は決していない。

 「ウォオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 「ぐ……ぅ!!」

 拳を防いだレイジングハートに亀裂が入った。怒涛の如く迫り来るその攻撃はデバイスが持つナノマシンの修復速度を上回る破壊力を秘め、遂になのはの愛杖は真ん中から派手に砕け折れた。折れた程度であれば問題は無かった、デバイスの中枢さえ破壊されていなければいくらでも修復が利くからだ。なので、彼女は短くなったレイジングハートの先端を教え子に向け、愛杖が修復するまでの時間稼ぎに弾幕を張ろうとした。

 ……が、

 「ハァ!!」

 確かにこの近距離で弾幕を張れば如何に戦闘機人言えども怯むのは必然だ。そう……撃てればの話だが。

 彼女は近付き過ぎていた。それこそ、ほんの少し足を伸ばせば相手に爪先は届くぐらいにまで。強烈な足払いを喰らって体勢を崩したなのはは補助装甲の重量の影響をまともに受け、地面に倒れ込む。瞬時に体勢の立て直しを図り、手を付いて上半身を上げた彼女を──、



 鋼の拳がその頭部を捉えた。



 伝わった衝撃は頭皮と頭蓋を通り越し、脳漿液すら突破してなのはの脳にダメージを与えた。加えてそこに振動粉砕の効果が加わり、拳を叩き込まれた左耳の鼓膜は弾け、同じく左側頭部の頭蓋骨に壊滅的な打撃を与えた。悲鳴も上げる事無く反動で突き飛ばされた彼女の肉体は壁に激突……沈黙した。後に残ったスバルは肩で息をしながらしばらく殺し合いの熱に浸っていたが、やがて冷静さを少しずつ取り戻していった。

 「…………なのはさん」

 「────すば、る……」

 脳を破壊され、本来ならば言葉はおろか認識する事すら困難なはずの元恩師からの最期の言葉が……今、静かにスバルの鼓膜を打った。それは悔恨であり、哀愁であり、憐憫でもあり……

 「ごめんね…………」

 謝罪。そこに彼女が戦いの中で言えなかった全ての感情を込めている事は、この場に他の第三者が居ても理解出来ただろう。救ってあげられなかった悔恨……もうあの時のような関係には戻れない哀愁……自ら選んで修羅の道の行く事への憐憫…………そして、そんな辛い選択をした愛弟子の心を理解してやれなかった事への謝罪だった。

 そして、それはそれまで修羅と化していたスバルの心に大きな楔を打ち込む結果となった。

 「ああ…………!」

 心が折れる瞬間、人はいつも膝を屈する……ギンガが攫われた時と同じように、この時もスバルは心を染めようと広がった絶望の色に身を任せ、重力の赴くままに倒れそうになった。もう足に力を込める事も、立ち上がる意思すらもしたくないと言わんばかりに、彼女は倒れこみ──、

 それをトレーゼが受け止めた。

 「……良くやった。お前は自分の選んだ選択を全うしたんだ」

 「あたしは……」

 「もういい、もういいんだ……スバル・ナカジマ」

 何も言わない優しさがある。何も聞かない慈しみがある。たったそれだけの形の無い行為が、仕種が……今のスバルを支えていた。

 今の彼女は……



 それだけで満足だった。










 「どう言う事……!」

 「どう言う事も何も無い。これが全ての結果だ」

 「嘘よ!!」

 全てが終わった後、ラボにはスバルを除く戦闘機人の全員が集合していた。その彼女らの視線の的になっているのがトレーゼとギンガである。トレーゼの胸倉を掴み上げて壁際に引き寄せるギンガの表情は凄まじく、彼女の怒りが半端なものではないと容易に想像出来た。そして、今現在彼女の怒りの根源は他でもない妹のスバルについてだった。

 「貴方が命令したんでしょ! あの子に殺しを強要したのよ!! 卑怯よ! あの子は……私が守らなきゃいけなかったのに!」

 「落ち着け。言っておくが、俺は強要もしていないし、騙してもいない。全てあいつの意思に任せた結果だ」

 「嘘よ……あの子が、スバルがなのはさんを殺したなんて……」

 あの後、紆余曲折はあったが高町なのはの遺体は手厚く保存され、現在は冷凍保存室に安置されている。使用されていたインテリジェントデバイスも同様にロックを掛け、AIが動かないように厳重な警備下においている。既に“ゆりかご”は大気圏を突破し、『アブソリュート・ドミネイター』の効果をまともに受けた艦隊はこちらを射程距離内に捉えるまでに機能停止、現在この方舟は無事に二つの月の中間域を航行している。

 そして、無事にルーテシアに回収されて戻って来たギンガに耳を疑うような報告が寄せられたのはこの際説明するまでもない。

 「作戦行動中にあいつから通信があった。通信内容は……『自分はどうしたらいい?』と言うものだった」

 あの時通信端末を通して聞こえて来た声はとても弱弱しかった。何かに必死で縋ろうとして、それでいて何にどうやって縋り頼れば良いのか分からない子供のようだった。そんなスバルの言葉をトレーゼは──、



 「甘えるな。自分で見つけろ」



 一刀両断した。

 他人の知識に頼るな──。

 他人の実力に縋るな──。

 他人の優しさに甘えるな──。

 それがトレーゼ個人が持つナンバーズとしての考え方だった。頼る事で変われるなら……縋る事で救われるなら……甘える事で過ぎ去って行くなら誰だってそうしている。それが出来ないから模索するのだ。そんな初歩の段階で思考と行動を放棄した者はクズ以外の何物でもない。そんなものは早々に唾棄されるべきなのだ。

 だがしかし、少女も悩んだ末に問うてきたのやも知れない……それをただ単に無下にしてしまうような真似は彼にはできなかった。

 だからこう答えた。

 「玉座の間で待機し、そこに来る者を待て……そう言ったんだ」

 「本当にそれだけなの!?」

 「ああ、事実だ。あのポイントにナノハ・タカマチが来る事は予測していた。俺としてはあのまま奴に救出されてナンバーズを脱退……と言う形でも問題は無かった。むしろそうするものだと思っていた」

 かつて敬愛した恩師を前にすればぐらついていた心はそこに向き、彼女と共に日の下に生きる事を決める……トレーゼですら初めはそうなると予測していたのだ。

 だが実際はその予想を大きく裏切り、スバルはその恩師を撲殺すると言う結果に終わった。

 「愛しさ余って憎さ何とやら……結果として、あいつの戦闘機人としての力が一時の感情とは言え憎悪に傾き、それが赴くままに恩師を敵と見なし、そして屠殺した……それだけだ」

 「それだけって……!」

 「最終的にあいつ自身が決断した事だ。それについてとやかく言う事は俺にも、そしてお前にも出来ん」

 後悔もあるだろう、言いたい事もあるだろう……だが一人の人間が正念場で下し、実行した決断はもはや誰にも変えられない。周囲の人間も、それを下した本人ですら……

 「我々の共通の敵であったナノハ・タカマチを屠ったあいつは、お前と同様にナンバーズに加わる資格を有した。現在“ゆりかご”はミッドチルダ上空一万メートルに達しているが、この距離であれば余裕で転送装置が働いて地上にも戻れる」

 「…………何が言いたいの?」

 「このままアルピーノ母娘と共に別の次元世界……具体的には管理外の無人世界で妹と一緒に身を潜めて暮らすのも有りだと言っているんだ。目的を果たした我々はこのミッドチルダに用は無い……」

 「どこへ行くの? 別の次元世界?」

 「否……我々が目指すは外宇宙だ」

 「そと……うちゅう?」

 それは太陽系外の宇宙全体を示す言葉だ。人類にとっての生活圏とは即ち太陽光が届き得る範囲内を指し示す……当然、深海の暗闇には人は住めないし、同様の理由で地球で言う所の冥王星などにも生息する事は不可能だ。この科学技術が発達したミッドにおいても現在の星から別の惑星へ移住すると言う計画は持ち上がってはいない。当然と言えばその通りだ、この無限大な広さを持つ宇宙の中で生息環境の整った惑星を探す事はつまり、砂漠の中に落ちた小さなガラスの欠片を見つけようとしているようなものだからだ。

 「言っておくが、別に新天地を目指す訳ではない。ある程度回遊した後、お前の言う様に別次元へと旅立つのもやぶさかではない。それで……答えは?」

 「…………スバルは……何て?」

 「……あいつの答えは────、」










 「今まで世話になった」

 数日後、とある無人世界の丘陵地帯にて。大地に降り立つは車椅子に腰掛ける女性、メガーヌ・アルピーノとその娘のルーテシア親子、そして、上空に停泊する“ゆりかご”を背景に佇む見送り人のトレーゼの三人だけだった。

 「貴女の死を騙っていた事、そして娘を利用していた無礼……今ここで詫びさせてもらいたい」

 「…………もう二度と、私達には関わらないと誓ってくれますか?」

 「是非も無し。我々ナンバーズは終生、貴女方の助力があってこその成功であった事を忘れたりはしない」

 「トレーゼ……」

 「さよなら、ルーテシア。お母さんといつまでも仲良くな」

 「……うん」

 後ろ髪を引かれる事も無く、トレーゼは二人の親子を地表に残して“ゆりかご”へと舞い戻った。ここにはかつてスカリエッティに協力姿勢を示していたスポンサーの一人が居る……その者の協力を乞えば人の全く居ないこの大地でも親子二人水入らずでも生きていけるだろう。

 程なくして“ゆりかご”へと戻って来たトレーゼを出迎えたのは創造主スカリエッティと三人の姉、九人の妹、そして──、

 「お帰りなさい」

 「お帰り、お兄さん」

 「ああ、ただいま。ギンガ、スバル」

 新たに加わり姉妹となったギンガとスバル……。その体にはかつてのバリアジャケットは面影も無く、他の姉妹が着ている物と同様の藍と紫を基調とした防護ジャケットを纏っていた。その双眸は……金色に輝いていた。

 「して……これからどちらへ向かうのですか、ドクター?」

 「どこでも良いさ。君の言った様に宇宙を航行するも良し、私の遺伝子を発見したと実しやかに囁かれるアルハザードを目指すも良しだ。今や私と聖王の器はこの方舟のシンボルに過ぎない……直接の舵取りは君に任せようではないか」

 「……了解」

 誰もが理解していた……今この瞬間、トレーゼは名実共に創造主であるジェイルからナンバーズを指揮し、操作する全権を委任されたのだと。目前で行われた『継承式』に彼の姉は慶び、妹達は頭を垂れ、新たなる同志二人も微笑みで以って素直に認めた。

 畏敬の念を一身に集めながら彼──、トレーゼ・スカリエッティは自分達を乗せる方舟の行き先を…………






























 それからおよそ数百年後、時代の流れによって瓦解した時空管理局にとって代わる『次元世界同盟連合』に新たなる次元世界が加盟を果たす。

 名は『神聖ベルカ』……数百年もの昔に天からやって来た“創造主”と十五人の“機兵団”、そして彼らの擁する“新聖王”なる人物らによる魔導技術の渡来によって栄えたとされる次元世界である。後世の歴史研究者らからは太古にミッドチルダに存在していた古代ベルカ文明に於ける聖王家と、文献にある“新聖王”……そして、かつてクラナガンにて管理局崩壊のきっかけを作ったスカリエッティ一派と、同じく文献に存在する“創造主”と“機兵団”についての関連性を指摘する者も居るが、残された文献は単純な史実を綴った古文書と言うよりは、過去の出来事を誇張・神格化した神話としての側面が強い事から、学会でも論議のタネになっている。

 そんな神聖ベルカの首都、ゼーゲブレヒトの郊外に存在する湾内の海底には遥か古の聖遺物が眠るとされている。

 神話には“新聖王”と“創造主”、そして“機兵団”がその地に降り立つ際に用いたとされる次元航行艦……。



 人々はそれを“ゆりかご”と云った──。



[17818] 新章
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/06/02 19:00
 「────で、ある事から分かります様に、第一管理世界『ミッドチルダ』を始めとした各次元世界の自然界においては多種多様の生態系を持つ生物が存在します」

 リズ・N・シュテルの職業は二つある……一つは無限書庫の司書で、もう一つは生物学の教授だ。前者はかつて知人に紹介されて、後者については自身が様々な次元世界を放浪している間に生物の生態系について興味を持ったのがきっかけだと語っている。

 「齢数百年を生きるとされる竜種……群れの中で高度な社会性を持つ蟲種……特に一部の哺乳類に至っては人語を解する程に知性が高く、かつては魔導師達に好まれて使い魔として利用された歴史もあるほどです。私の知っているものとしては、猫と狼が居ましたね」

 その他にも類人猿から発達した人類とは別の哺乳類からの独自進化を遂げた亜人種なるものも存在している。もっとも、最近ではこの『亜人種』と言う呼称は差別用語に当たるとして使用が規制されており、現代において亜人種とは突然変異などによって突発的に発生した従来の進化の系統樹に当てはまらない人類として認識されている。そして、つい最近までこの亜人のカテゴリに属していた存在が『三つ』ある……それが──、

 「守護騎士、戦闘機人……この二つに関してはミッド近代史を学ぶ機会がある方々からすれば聞き覚えのあるワードのはずです」

 守護騎士……最悪のロストロギア、『闇の書』によって創造されたとされる擬似魔導生命体。元は人間の姿形を模しただけの純粋な魔力の人形だったとされるが、核となる『闇の書』が消滅してから徐々に肉体が人間に近付き始め、最後の夜天の主が天寿を全うしてからはその現象が加速度的になったと記録されている。ちなみに、常人より老化現象が遅かったとは言え200年経った今では鉄槌の騎士を最後に全員没しており、かつての騎士達のメンバーで唯一生き残っているのはユニゾンデバイスたる『祝福の風』のみである。

 そしてもう一つが……戦闘機人。守護騎士とは対照的に科学技術の粋を決して創造された人造生命体であり、過去に正式に活動したとされる者は記録上僅か十五人しか確認されてはいない。と言うのも、戦闘機人を創造するのは技術的に見てもかなり困難である為、今までに多くの違法科学者が挑むも全てサジを投げたからである。その十五人はたった一人の天才の残した技術によって生まれ、その天才は十五人の中のたった一人の反逆によって命を落としたとされる……。

 そう、そのたった一人こそ……ミッドチルダ、及び数ある管理世界の近代史に名を残した三つの大次元犯罪者の一角──、

 最高の頭脳犯、ジェイル・スカリエッティとナンバーズ──。

 最強の殺戮集団、カレン・フッケバインとそのファミリー──。

 そして、最悪の単独犯、トレーゼ・スカリエッティ──。

 かつて時空管理局は新暦70年代後半を期にして示し合わせたように怒涛の如く現れたその犯罪者達に疲弊し、その事について当時を語る『祝福の風』曰く、「管理局の暗黒時代」と明言している。

 特に『最高』と『最強』の中間期に現れた『最悪』ことトレーゼ・スカリエッティについては、かつて奇跡の部隊とまで称された機動六課ですら辛酸を舐めさせられた相手でもある。単独犯と言う頭数の少なさを逆手に取り、簡単には尻尾を掴ませなかったのは当たり前で、散々クラナガンを引っ掻き回した後で彼はどこへも知れずに去り、二度と表舞台に姿を現す事は無かったとされている。通称、『T・S事件』と呼称されるそれは管理局の捜査記録誌において未解決のカテゴリに含まれている。

 だが──、



 彼らは知らない。



 何を?

 T・S事件は未解決ではなく、実は解決している事件だと言う事を。ただ単純に……『単一の事件として処理するには無理がある事態』が発生したから記録には残っていないだけに過ぎない。

 そしてもう一つ……世間では知られていない事実がある。

 彼は単独犯ではない。彼には三名の協力者とたった一人の共犯者が存在していた。

 だがその事を語る前に幾つか……

 「教授」

 「はい、何でしょう?」

 「かつて亜人種にカテゴリ分けされていたものに守護騎士と戦闘機人が記されているのは分かりますが…………ここの、この表記は一体?」

 「どれですか? ……あぁ、これですか。気にしないでください」

 「気にしないでって……」

 「まぁ無理でしょうね。講釈するのが面倒でしたから出来れば触れたくはなかったのですが……指摘されたのであればそう言う訳にもいきませんね。良いでしょう、残り時間全て使ってお話ししましょう」

 そう、かつて亜人種にカテゴライズされていた存在の中にある三つの異質な存在……その内の二つが守護騎士と戦闘機人。この二つの共通項は、『生物の系統樹から逸脱した生物』と言う点にある。何らかの哺乳類を基点とした進化による人類ではなく、第三者の意図で発生或いは創造された新人類である為にあえて亜人と言う枠組みに当て嵌められているのだが……。

 最後の三つ目についてはそれすらも当て嵌まっていないのだ。

 「知っての通り、前者二つに関しては当時色々とありまして、管理局によって基本的人権の該当……端的に言えば、『人間である』と認可された上で尚且つ常人とは一線も二線も画した存在である事から、便宜上として亜人の枠が設けられました」

 黒板に『人類』と書かれた大きな円を描き、更にその内部に小さな円を描いて『亜人』と書き足す。

 「ちなみに、私もここで言う所の亜人に当たります。更に私の知人には私を含めて四名の亜人が居ます。御一人は皆さんご存知のリインフォースⅡ統括官です」

 そう言って更に亜人の円に四人分の似顔絵を描き入れる。

 「さて……先程から話しをしているように、この最後の項目については実は今でも学会の水面下で論議が続けられています。争点はただ一つ……『生物であるか否か』」

 「生物じゃないんですか?」

 「さて、どうなんでしょう。私が見た限りでは通常の人類とそれ程の大差はありませんでしたよ。少なくとも見掛け上は。まぁそれでも学会でネタにされる程ですから異常と言えば異常でしょうね。なにせ────、」



 「正真正銘の『生きたロストロギア』ですから……」



 ざわっと講義室が波打った。ロストロギアとは即ち、次元世界を滅ぼした、或いは滅ぼし得る可能性を秘めた物体もしくは技術そのものに対して管理局から認定される一級の危険物の総称だ。しかもこれまでに一個体の生物がロストロギア認定されたなどと言う例は無い。

 「何はともあれ、管理局としてはそんなバカみたいな存在を放置しておく事なんて到底出来っこありませんから、大急ぎで対処に当たりました。具体的には……殺処分とか? まぁ失敗しましたが」

 そして対処に困った局は“それ”を保護の名目で召抱え、管理局のトップとの間に取り交わした契約に履行する形で“それ”は局に恭順……結果として、次元世界最大の脅威の一つである“それ”は管理局に敵対する事は無くなった。

 それこそが──、

 「『超異常性進化個体』…………それが、人類はおろか生物としての枠組みからも疎まれた、かつて人間だった者に与えられた種です。一個体にして一種族……後にも先にも、あのような存在は現れないでしょうね。少なくともこの世界には」

 チョークを置き、リズは部屋の照明を落とした。薄明るいだけの部屋には講義を受ける生徒達の布擦れの音が僅かに響くだけで、静止したその空間の真正面に位置するリズはバッグから一冊の本を取り出した。

 「少し話しをしましょうか。ああ、別に話といっても堅苦しいモノではありませんから、そう固くならずに崩してもらって結構ですよ。今から話すのは、そう……他愛もない昔話の類です」

 彼女が取り出した本は宵闇を写し取ったような漆黒であり、開いた頁に記された文字は血で書き取ったみたいな真紅だった。表紙には真円に十字架の紋様……紅い縁で彩られたそれはただの物体であるはずなのに尋常ならざる気配を醸し出し、前列の生徒らに名状し難い不安を植え付けた。

 「私達が“彼”と出会ったのはもうかなり昔の話です……。今となっては記憶の殆どが忘却の彼方ですが……不思議と今でも思い出せますね、あの小憎たらしい視線は。紫の髪に金色の眼、雪の様な白い肌…………私達の協力者にして、終生忘れ得ぬ『恩人』です」

 リズが教壇に置く物は……ロストロギア。時空管理局が唯一、保管・研究ではなく兵器転用を目的として所有する代物であると同時に、彼女が所属する特務機関の精鋭部隊『シュベルツェリッター』にのみ使用と個人所持及び携帯を許可された稀有なロストロギア──。

 「『暁の書』……貴方の膨大な記録の中には忘れ掛けた私の記憶もあるはずです。さぁ、語ってください、他でもない貴方自身の口から…………あれは、そう────、」



 「夜風が身に沁みる十二月の夜でした……」






























 新暦78年11月25日、とある次元世界の砂漠にて──。



 「…………………………………………」

 乾いた風がその者の纏う外套とフードを揺らす。真昼の陽光に暖められた熱砂に長い足跡の列を刻みながらその人物は砂に反射される陽の光に目を細めた。ふと、懐から地図とコンパスを取り出し、自分の現在位置と目的地までの距離を算出する。歩き始めてかれこれ数時間……もうそろそろ町が見えて来ても良い頃だった。

 砂丘を越えたその先に見えたのは……小さな町。オアシスを中心にして人々が生活する憩いの場にして唯一の生活圏だった。

 「…………急ぐか」

 彼は流砂に足を取られないように気を付けながら砂丘を滑り降り、町の入り口へと続く小道に辿り着いた。砂漠の真ん中と言う事もあって旅人が来ないからか、道行く現地の者達は一様に彼に好奇の視線を投げかける。そんな纏わり付く様な気配を振り切り、彼は町の中央にあるオアシスへと向かって行った。

 オアシスは砂漠の民にとって生活源であり慣れ親しんだ憩いの場……そこに自然と市場が出来上がるのは自明の理と言うものだ。

 「すまない、少し、いいか?」

 「あいよ! お前さん旅人かい? 何を探してんだ」

 「こう言った、モノを……」

 「んあ、どれどれ……。あー、これならそこの大通りを行ったとこに赤い屋根の建物が見えるだろ? そこで売ってるよ」

 「世話を、かけた」

 「いいってことよ! ここは砂に囲まれて何にも無ぇトコだが、まぁゆっくりして行ってくれや」

 人の良さそうなその男性は快活に笑いながら市場の人混みの中へと消えて行った。そんな後姿を呆然と眺めながらフードの奥で彼は呟く……。

 「ゆっくり、か…………そんな、余裕は、どこにも、無いのだがな」

 踵を返し、指差された方向に建つ建物へと入って行った。西日が差し込む蒸し暑い所だが人はそれなりに多く、そこで売られる物が人々の生活には欠かせないモノである事を容易に窺わせた。そして、ここを訪れた彼もまたそれを手に入れる為に砂の海を何時間も歩いてここまで来たのである。

 「いらっしゃい。何をお求めで?」

 「この、メモにある物を……」

 「はいはい。少々お待ちを」

 カウンターの主人はそう言って裏手の倉庫へと在庫を確認しに行った。代わりに受付として残ったのは年若い女性が残った。恐らくは主人の娘なのだろう。

 「旅の方ですか? どちらから?」

 「遠い異郷の地……多分、知らないかと。旅行者は、珍しいのか?」

 「ここは見ての通り砂しかありませんからね~。遺跡の様な史跡も観光地もここには全然ありませんから。ところで、良いんですか、その……」

 「何がだ?」

 「首から掛けてらっしゃるの、それって宝石ですよね? ここに住んでる私が言っちゃうのもナンですけど、この町の治安は良くないんですよ。真昼間から堂々とスリをする人も居ますし……」

 「あぁ、問題無い。これは、宝石ではない」

 「えっ? そ、そうなんですか?」

 「ああ。現に……」



 『マッハキャリバーと申します』



 「……………………」

 「……最新式、だそうだ」

 「都会の技術ってスゴいんですね~」

 程なくして在庫確認に行っていた主人がメモにあった品を大量に抱えながら戻って来た。どうやら品揃えは問題無く整っていたらしい。

 「ご苦労。では、代金は……これで」

 そう言って彼は懐の巾着からある物を取り出し、それをカウンターに置いた。窓から差し込む日の光を受けてキラキラと金属光沢の反射を繰り返すそれは──、

 「お、お客様……? これはその……?」

 「受け取ってくれ。ではな」

 「ああっ!? ちょ、ちょっと~!!」

 引き止める間も無くフードを被った彼は素早くカウンターを離れ、そして風の様に去って行った。後に残された主人と娘はカウンターに置かれた『代金』をしげしげと見つめながら一言……。

 「なぁ、これ……」

 「うん…………どうやって換金しよっか?」

 カウンターに置かれた『代金』……それは刻印もシリアルナンバーも刻まれていない手付かずの状態の純金だった。どこから入手したのか定かではないが小指の先程度のそれの価値が分からない程に田舎者な親子ではない為、二人はそれをハンカチに包みながらこの先の経営に付いて考えるべく、今日はその直後に店仕舞いをしてしまった。










 雲一つ無い蒼穹を見上げながら彼は胸元の宝石……待機状態のマッハキャリバーに問うた。

 「時刻は?」

 『ミッドチルダ標準時刻に換算しまして、およそ11:20です』

 「…………マキナとの、量子回路の、状況は?」

 『まだ切れてはいません。ですが、そろそろ“保存”が利かなくなって来ているとのことです』

 「急ぐか……」

 『ISの使用は控えてください。どこで管理局が観測しているか分かりません』

 「こちらの、協力に、猛反発していた、貴様から、そんな言葉が、聞けるとはな……。まぁいい、行くぞ、マッハキャリバー」

 『不本意ですが、了解です』

 両足に装着するはかつて自分の天敵が使っていたデバイス。それを今は自分が履いていると言う皮肉に彼……トレーゼはえもいわれぬ感覚を覚えていた。目指すは砂の海の遥か西側、太陽が傾くまでに目的地に着かねばならない。

 「…………俺は、戦闘機人……目的の為なら、過程も、原因も、要らない。今はただ、己の存在意義の、為だけに」

 そこにかつて創造主の座位を簒奪しようとしていた戦闘機人の姿は無く……今はただ、己の欠けた部分を補うのに必死な機械人形へと成り下がっていた。

 だが彼にはそんな事を気にしている余裕は無い。

 「…………ときに、マッハキャリバー」

 『何でしょう?』



 「俺は…………“何者”なんだ?」



 『…………それを答えるのは少なくとも私の役目ではありません』

 「そうか……」

 どんなに問うても答えは得られず、トレーゼは蒼穹を見上げる……。遥か彼方の向こうに見えるこの世界の月ですら今の彼にとっては疎ましいモノでしかない。

 「俺が、何者か……俺の、存在意義は、何なのか…………この疑問に、解をもたらすのは、やはり────、」

 風が凪いだ。砂漠の風が止まると言う現象に何かしらの不吉なモノを感じたのか、彼はキャリバーのローラーを起動、猛烈に回転させて砂の海を横断し始めた。後に残ったのは砂地に刻まれたローラーの跡のみ……。



[17818] 追う者、追われる者
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/06/02 19:04
 11月24日午前8時00分、トレーゼのアジトにて──。



 「ここが“13番目”が使用していたラボか……」

 粗方の調査が終わり、ブービートラップなどが無いと判明したその空間に足を踏み入れたのは八神はやて、そして今回の作戦に参加した元ナンバーズを代表してウーノとトーレが来ていた。本来ならばここにもう一人、他でもないジェイル・スカリエッティが来るはずだったのだが……彼は二日前に何者かによって撲殺されたのでそれは適わない。現場に居合わせたクロノの証言では“13番目”に腹部を撃たれた所までは確認したと言っていた。その証言通りに推理すればスカリエッティの死因は撲殺によるショック死ではなく、射撃による失血死でなければならないのだが……。

 「どうや?」

 「……ああ、間違い無い。かつて私とウーノとドゥーエ、そして『トレーゼ』が過ごした場所だ」

 “トレーゼ”の部分を意図的に強調しながらトーレは十数年ぶりに訪れた生まれ故郷を眺めて回る。

 彼女も今でこそ落ち着きを見せてはいるが、事件が一応の収まりを見せた時の怒り様は凄まじく、満身創痍のはやてとクロノを殺してしまうのではなかろうかとさえ思える程の勢いだった。彼女が怒っていた理由はただ一つ……“13番目”がトレーゼの記憶転写型クローンである事を秘匿していた事についてだった。

 「騙していたんだな……この私を、あんな贋作を弟だと騙って欺いたんだ貴様らは!!」

 「……否定はせえへん。ああでもせん事にはあんたの協力を受けられへんだから、私はそうしただけや」

 「これでは、どちらが外道か分かったものではないな!」

 それは口論にすらならなかった。ただ一方的にトーレが胸中の怒りと苛立ちの赴くままに暴言を撒き散らしていただけに過ぎなかった。傍から見れば過剰なまでの八つ当たりにも見えただろうが、その背景を知れば誰もその事についてとやかく言う気は失せるだろう。最愛の実弟は既にこの世のモノではなく、かつてそうだと思い込んでいた存在も実は原型を模して作られた人形に過ぎないと言う事実を叩き付けられたのである……心中を察する事すら阻まれる強烈な憤怒の気迫が今も彼女から滲み出ていた。

 「この場所は今後調査の名目で管理局の管轄化に収められます。その事について何か不都合は?」

 「いや、私は無い。元よりここは過去の遺物……例えドクターがご存命であったとしても、興味を示さないだろう。それに何より、トレーゼの居ないこの場所に意味は無い。それに…………私に言いたい事はそれだけではないだろう?」

 「…………私の見立てでは、恐らく“13番目”は生存しとると思うてる。あのゴキブリ並みの生命力を持ったモンがそうそう簡単に死ねるとは到底思えへん」

 「それについては同感だ。甚だ不本意だが、奴は私達ナンバーズと同じか、或いは紙一重上手の技術を込められている可能性がある。そうなれば生きている可能性の方が遥かに高い。それで、私にどうして欲しいと言うのだ?」

 「謀っておった分際で図々しい事言うようやけど、完全に“13番目”を打倒したと確認されるまで、私達に協力して欲しい!」

 「……………………騙されていたとは言え、一度は協力を受諾した身……これもまた不本意極まりないが、事件が解決するまでは協力者として捜査に加わろう。いいか、あくまで私は『協力者』であって他の妹の様に貴様の部下になった訳ではない事を忘れるな!」

 トーレの言葉がはやての心に突き刺さって行く。確かに、ハルト・ギルガスの資料に目を通したティアナと彼女の報告を受けていたはやての二人はそれなりに早い時点で『“13番目”≠トレーゼ』の方程式に気付いていた。知っていながらスカリエッティ以外の如何なる人物にもその事実を明かさなかったのは、ひとえに彼女──、トーレの協力を得られない恐れがあったからだ。彼女の助力を得る前提条件は、『事件の首謀者が自分の弟である』と言う事実が必要だったからだ。

 (いつから私は人を騙す事を覚えてしもたんやろ……。人の上に立つってのはこう言う事なんかな、グレアムおじさん)

 かつて自分を養ってくれた恩人でもあり、それと同時に自分を騙し続けていた者の顔が思い浮かぶ。縁者が居れば孫娘にも見えたであろう自分を最終的には殺そうとしていたあの人も、その胸中は今の自分の様に心苦しいものだったのだろうか。

 「はぁ……」

 「八神部隊長、トーレの事に関してはお気になさらないでください。柄にもなく気が立っているだけなんです」

 「そう言うあんたも……本心はどうなんよ。自分の弟やと思うてたんが、本当は偽者やったって分かって」

 「…………正直に申し上げれば、今でも信じられないのが強いです。確かにここに居た時にも違和感は感じていましたが……でも、『F.A.T.E』の技術を応用した記憶転写型クローンなら、どうしてドクターを殺害する真似を……!?」

 「その件について他のナンバーズは何か?」

 「その事なのですが……」










 遡る事、一昨日。地上本部の演習場にて急造された野営テントにて──。



 満身創痍となって帰り、一寝入りの後で目が覚めたナンバーズの耳に入って来たのは三つの凶報だった。

 一つはジェイル・スカリエッティの死亡。他でもない“13番目”の真の目的が自らを生み出した創造主への反逆だったと言う事もこの時に知らされた。同じナンバーズであった者でもその思想を理解出来ない彼女らは憤怒を露にすると同時に、父親とも言うべき存在を突然に亡くした事に対して深く嘆き悲しんだ。

 「ドクターが……死んだなんて…………嘘ッスよね、そうでしょ!?」

 「残念だけど…………医療班に確かめさせるまでもなく、死亡が確認されたわ。撲殺による頭部陥没が主な原因────、」

 「嘘だよっ!! そんなの絶対……ありえない!!」

 「落ち着けディエチ……」

 「なんでさ……なんで、チンクはそんなに落ち着いていられるのさ……! こんなのおかしいよ」

 平気なはずがない、言葉に出さないだけでチンクも許されるのなら大声で泣き叫びたかった。だが姉としての威厳……ここで自分が取り乱しては妹らの精神を更に掻き乱してしまうと判じた彼女は、押し上げる嗚咽をぐっと堪える事しか出来なかった。

 瓦礫の崩落に巻き込まれたジェイルの亡骸は見るに耐えない状態になっていた為、確認はトーレが先に済ませていた。そして、そのトーレによってその死体はジェイル・スカリエッティのものであると確認されたのである。

 二つ目の凶報はスバルの行方不明及び、暫定的に死亡が確認されたと言う事。最後に生存が確認された地点に残されていたブリッツキャリバーの記録には何も残されておらず、周囲には誤射による出血の血痕が大量に付着していた為、その様な結論に至った。一応現在でも死体の捜索は続けられてはいるが、区画丸ごと陥没したあの場所で死体を発見するのは困難を極めるであろう事が予測されている。死体が確認されていないなら、とギンガを初めとしたナカジマ家の面々は藁にも縋る思いで彼女が生きている事を願っていた。

 そして、三つ目の凶報……。

 「実はノーヴェの事で…………」

 「ノーヴェが、私の妹がどうかしたのかっ!?」

 「…………今は医務室で安静にさせてあります。肉体的には何の問題もありません。外傷も……何も目立った損害は……ただ……」

 「ただ……何だ? 何があったと言うのだ!?」

 「……………………“13番目”のISを脳に受けた影響で全体の脳細胞に多大な過負荷が掛かっています。既に人格を司る部分にも深刻な影響が……」

 それは元ナンバーズ、それもかつての教育係であったチンクにとってはまさに死刑宣告にも聞こえた。シャマルの報告では、ノーヴェの脳は脳としての最低限の機能を保ちつつ徐々に細胞レベルでの崩壊を始めているらしい。その侵食具合も今は緩やかだが時間が経過するごとに酷いモノになるのは目に見えている。このまま何の処置も出来ずに放置したとして行き着くトコロは──、

 「白痴……植物状態、って言った方が分かり易いかしら。今は無理に眠らせて脳に掛かる負担を減らしてるけど、遅かれ早かれ彼女は人間として機能出来なくなるかもしれない……」

 「何か方法は、手立ては無いのか!!」

 「彼女の脳細胞の崩壊は壊死と同じ現象よ。壊死を治したいならその部分を切除するしかないわ」

 出来る訳が無い。脳は指や腕とは違うのだ……腐ったから、使い物にならなくなったからと言う理由で軽々しく切り落とせるモノではない。

 即ち、現行の従来の医療技術でノーヴェ・ナカジマを救う方法は……皆無である。

 「あんまりだ……血の通ってる人間のする事じゃない!」

 「人間じゃないんスよ、あんな奴……」

 「あんな奴が私達と同じナンバーズだなんて!」

 「…………その事でもう一つ……皆に伝えておかなくちゃいけない事があるの」

 そう言ってシャマルが鞄から取り出した紙面を一枚、チンクに渡す。それこそまさに瓦礫の中からトーレが偶然に発見した“真実”を記した一枚……“13番目”の正体を裏付けるたった一枚の証拠物品だった。



 かつてジェイル・スカリエッティが生み出した新生物が『研究資料貸与』の名目でハルト・ギルガスに一時譲渡された事……。

 “無限の進化”の因子を利用して更に強力な生物兵器を生み出そうとするも断念した事……。

 ならばせめて量産だけでもと、研究者繋がりで仕入れた『F.A.T.E』の技術によって記憶転写型クローンを生み出そうとした事……。

 その過程でオリジナルのトレーゼは廃棄された事……。

 合計三十二回に渡って複製を作り続け、最後の最後で完璧な複製を作り上げるのに成功した事……。

 だがそれも自分の技術ではなく、結局は偶然の産物で成し得た仮初の成功だったと言う事……。

 そして自分の理解の範疇を大きく逸脱した存在と認識したハルトはそれを封印した事……。



 「……………………」

 自分の想像を越えた事実を目の当たりにし、チンクを初めとしたナンバーズ、そして同じくそれに目を通していたギンガは驚愕に目を見開いていた。自分達と同類だと思っていた存在が実はその姿形を模しただけのクローンだと知り、誰もが驚きを禁じ得なかった。

 「シャマルさん、ここに書かれている事は────、」

 「話は終わったようだな」

 「トーレ……ウーノまで。無事だったのかウーノ?」

 「ええ……」

 「すまないがシャマル女史、これから我々は今後の方針について話し合う必要がある。なので席を外して頂きたい」

 「え? で、でもまだ皆の治療が……」

 「手間は掛けさせない。すぐ終わる」

 トーレの言葉に有無を言わせない気迫を感じ取ったのか、シャマルは他の医療班を引き連れてすごすごと引き下がって行った。

 「……さて、本来なら部外者は断らせてもらうのだが……一応貴方は怪我人なので同席ぐらいは許可しましょう。ただし、口出ししない事を前提に」

 「…………それはどういたしまして」

 指摘された『部外者』ことギンガ・ナカジマは憎まれ口で返した。それを了承の返事として受け取り、トーレは満身創痍となっても生き残って帰ってきた妹らをしかと確認しながら話題を切り出した。

 「話とは他でもない。我々ナンバーズのこれからについてだ」

 「これから……?」

 「ドクターはもうこの世に居ない……創造主たるあのお方を失った我々は真の意味での自立を果たさねばならない。ここまでは分かるな?」

 「だがトーレ、我々にはなさねばならない事が……!」

 「そうだ。お前たち各個人が個々の存在として自立する前に、我々には“13番目”……この事件の行く末を見定める必要がある。だからこそ、今一度問おう……」



 「“13番目”の抹殺についての是非を……」



 その言葉に込められた真意を理解出来なかった者が、その場に果たして居たであろうか? 全員がその瞬間に理解した……トーレは間違い無く、何の躊躇いも無しに──、

 “13番目”を殺す、と。

 「でも、“13番目”はトーレ姉の弟じゃ……?」

 「それがどうした」

 「え?」

 「弟の形をしているだけの偽者に何故私がそこまでの情けを掛けてやなければいけないのだ。たかが、顔が同じで記憶を受け継いでいるだけの人形に……何故私が、このトーレがナンバーズの第三番として在らねばなんのだっ!!」

 愛する弟を失った悲しみと、その弟の贋作を突き付けられた怒り……憎悪と憤怒が入り混じった極大の負の感情こそが今のトーレを突き動かす最たる要因だった。もはや彼女は昨日までのように“13番目”に対して己の弟である可能性を塵ほども見出してはいなかった。ただ排除する……弟の名と姿を騙る不埒者を全力で排除し、駆逐する、ただそれだけだった。

 「お前たちは何とも思わんのか。私達は同族ですらない贋作にしてやられたのだぞ!」

 「それは……」

 「私は認めない! 認められるはずがない!! 同胞を騙る愚かな偽者は確実に抹殺し、排除する! それが私の考えだ」

 トーレ、“13番目”の抹殺に賛成。

 「お前達はどうなんだ。このまま奴にコケにされたままでのうのうと居られるのか? 奴をこのまま放逐し、己に害が及ばなければ野放しにしたままでも良いのか?」

 「……………………」

 「忌憚のない意見を言ってくれればそれで言い。別に反対したからと言って邪険にはしない……そんな腰抜けは今後の作戦から優先的に外すように私から進言しておくだけだ」

 「っ!」

 「さぁ聞かせてくれ。“13番目”の抹殺に是か? それとも否か?」

 「私は…………いや、私達は────、」










 「…………そっか。そう転んだか……」

 「それが妹達の総意です。どうか汲み取ってあげてください」

 「了解や。今後の方針はそれで行く……。とは言っても、このまま“13番目”の足取りが掴めやんと時間が経っていったら、事件そのものが迷宮入りって事もあり得る……それだけは頭に入れといてな」

 「よろしくお願いします」

 既にトーレは島の浅瀬に停められている連絡船に戻っており、今ラボに残っているのははやてとウーノ、そして現場に残された過去の研究資料の押収を進める数名の捜査官だけだった。寝室兼書斎として使われていた部屋には床を埋め尽くして尚間に合わない量の論文が収められており、丁度それの整理に時間が掛かっているのだ。

 「二十年前のスカリエッティはここで何を?」

 「ここはドクターが最初に与えられた研究室なんです。既にあの頃から私達を生み出す計画は始まっていたと聞いています」

 「そしてその過程で偶然に生まれた新生物……それがトレーゼか」

 「当時の出来事を綴った日誌が埋もれているはずですのでそれを確認してもらえれば……。……………………」

 「うん? やけに落ち着かんみたいやけど、どないしたん? 何か探しもん?」

 元々ウーノは“13番目”によって身柄を確保され、つい昨日の今朝方までここで生活をしていた。その際に何か自分の持ち物を失くしたのかもしれないと思ったのだが……。

 「いえ、正確には私個人の所有物ではないのですが……」

 「八神二佐、研究室にてこのような物を発見しました」

 捜査官の一人がその手に何かを持ってはやての所へと駆け付けた。初めは何か今回の事件と深く関わる資料か何かかと思ったのだが、その考えはすぐに失せた。

 それは……本。他の研究資料や論文が全てホチキスか、端に穴を開けて紐を通しただけの簡素な物であるのに対してそれだけは何故か丁重に表紙をあつらえた本だったからだ。かなり古い物なのか赤い背表紙は色褪せて所々やぶれており、そこに記されたタイトルを読み取るのにも少し苦労した。

 題名は──、

 「『Relic』……確か英語で、『遺産』っちゅう意味やったかな」

 第一級指定ロストロギアの結晶と同じ名前を刻んでいる事を少し不審に思いながらも、はやてはその本のページをゆっくりと開いた。

 そこにあったのはロストロギアの事でもなく、生前にスカリエッティが没頭していた研究の論文でもなく、はたまた戦闘機人にする為の素体の培養過程を綴った日誌でもなかった。

 そのページに刻まれていたのは──、

 「これって……」

 「私の……いえ、“私達”の共通の所有物です。お返しいただけないでしょうか?」

 「え……ああ、はい」

 どうやらウーノの探していた失せ物はこの赤い本だったようだ。内容を確認したはやては彼女が何も言わずとも理解していた……この本が彼女にとってどれほど重要な物であるか……彼女の言う“私達”が一体誰を指し示しているのかも。

 返却されたその本を大事そうに抱えながらウーノの足はラボの扉へと赴いた。

 「もう、ええん?」

 「はい。もう……ここには用はありませんから…………ここは思い出、脳裏に思い描く記憶の残滓です。研究室ごと資料も何もかも処分してください」

 「…………了解」



 その後、孤島の地下に存在していたラボと設備は、今回の事件に関係した一部の資料のみを残し、全て焼却・解体処分された。










 8時30分、とある陸士部隊の隊舎の一室にて──。



 「……………………」

 居住スペースの一室を簡易営倉にしたその空間に彼女は居た。ベッドにも横たわらずに部屋の隅で膝を抱えながら、窓からの陽光をカーテンで遮ったその空間に彼女は確かに居た。手には原始的な捕縛器機である手錠を掛けられ、首には脱走防止用の高圧電流を流す為のチョーカーを施されていた。

 「出ろ、面会だ」

 「……了解」

 寝ていた訳でもない彼女は外の看守代わりに立っていた隊員に促されるままにドアに立った。開けられると同時に鋼糸鉄線を編み込んで作られた特殊な縄を掛けられ、肩の関節を動かせないように締められる。そして拘束されたまま連行された彼女が行き着いた場所には──、

 「意外ですね、貴女ほどの人物がこんな所まで足を運ぶとは……」

 「近い将来に私の娘になる人を放っておけるほど、私は冷血ではありません」

 聖王教会のトップ、グラシア家の現当主にして地上本部の少将、カリム・グラシアがそこに居た。目の前のセッテをよほど信頼しているのか護衛も付けず、更には彼女を連れて来た隊員までも下がらせ、ガラスすら隔てていない空間に居る人物は彼女ら二人だけとなった。

 普段は会議室に使われている円卓の両端に向かい合って座る戦闘機人と教会の宗主……何事もなければ一年、或いは半年後にでも義理の親子として面会するはずだった二人の間に無機質な沈黙が流れる……。

 「…………それで、一組織の少将ともあろう御方が出向いて来たと言う事は、それなりに用があっての行動のはずです。捕らえられたワタシを笑いに来ましたか?」

 「…………ジェイル・スカリエッティの死亡が確認されたわ」

 「既知です。既に八神二佐を通じてトーレより聞かされました」

 「じゃあ“13番目”の事も……!」

 「はい。既に聞き及んでいます」

 「…………トーレさんは“13番目”の完全打倒、抹殺を決定したわ」

 「……………………そうですか」

 「あなたはどうなんですか……。今、八神二佐は全てのナンバーズの総意を確認しています。今後の作戦方針に当たって、“13番目”の抹殺についての是非を────、」



 「ワタシは反対です」



 有無を言わせない静かな迫力……カリムがその言葉を完全に飲み込むまでにセッテは席を立ち、そのまますぐに部屋を出ようとした。

 「ま、待って! あなたは何とも思わないの!?」

 「発言の意味を理解出来ません。ワタシが何を根拠に疑問を覚える必要があると?」

 「私は立場上、どちらが正しいとは一概に言えない。けど、故意かどうかはともあれ自分の兄を騙っていた人を何の感慨も無しに赦せるものなの?」

 「赦す? 貴女は何か重大な勘違いをなさっているようですね、カリム・グラシア」

 「かん……ちがい?」

 「赦すも赦さないも無い……あの人は、兄さんはワタシに対して己の在り方を示してくれた唯一人の存在です。その実態や正体が何であれ、ワタシはあの人に個人的に感謝の念はあれど恨み言は何一つ存在しません。それはワタシにとっては筋違いと言うべきモノです。盲信しているのだと思うならそれはそれでも構いません、むしろワタシにとっては褒め言葉のようなモノです」

 「…………あなたも変わりましたね。最初に見た時はとてもそんな皮肉を言う様には見えなかったのですが……」

 「…………だとしたら、それもあの人の影響です」










 午前9時30分、廃棄都市区画の一角にて──。



 半径数十メートルに渡って陥没した見事なすり鉢状のクレーターにて、高町なのはは愛弟子の身柄を捜索する調査班と共に活動していた。初めはブリッツキャリバーが発見された地点同様に地下に身を潜めている可能性も考えたのだが、街の崩落は予想以上に激しく、唯一のスペースであった地下の下水道すら完全に潰れてしまっていた。僅かに漂う魔力残滓を辿って捜索を続けたのだが……

 「……やっぱりここで途切れてる」

 何度やっても結果は同じだった。デバイスの魔力探知機能の感度を限界にまで引き上げてもスバルの魔力反応はクレーターの中心から一定の距離で無くなり、その地点の瓦礫を掘り返しても遺体らしき物は確認出来なかった。今のところスバル関連で発見できた物は、ギンガから借り受けていたブリッツと、誤射のあった地点付近の地面に大量に付着していた血痕だけだった。

 誤射……ふと、そのキーワードがなのはの脳裏を過ぎる。

 正確には誤射ではなく、狙撃手が放った弾丸を見切ったスバルがトレーゼを庇っての被弾だったと聞いている。何故彼女がこの土壇場でそんな行動に出たのかは理解不能だが、この誤射事件の報告がスバルの死亡を暫定的に裏付ける一因になっていた。使用された弾丸は過去のJ・S事件の際に対戦闘機人用に開発されていた特殊弾であり、体内で炸裂した微粒弾が内部フレームに尋常ならざる被害を与えるのを想定して作られた物だった。そんな物を胸部に受ければ致命傷はもちろん、下手をすれば即死も有り得る……僅かながらに移動した形跡があるのを見る限りではそれは無いようだが。

 だが例え即死ではなかったとしても、スバルの被弾とこの区画の陥没から既に一日……現場に残されていた血痕から推測されている出血量を考えれば、今この時点で生存している可能性は限り無く低い。

 「スバル……」

 『マスター、気を落とさないでください。彼女は今更貴女が心配なさるほどにヤワではないはずです。必ずやどこかで傷を癒しているでしょう』

 「うん、そうだね……今はそれを信じるしかないよね」

 あのスバルが簡単に死んだりするはずがない……そう、希望的観測を自らに言い聞かせるように呟きながら、なのはは瓦礫の坂を上って定時報告の為に通信回線を開いた。

 「こちら高町なのは一等空尉です。ナカジマ防災士長の捜索の報告を申し上げます」

 『おう、ご苦労だったな』

 気さくな口調で通信に出たのはゲンヤ・ナカジマ。他でもない現在捜索中のスバルの実父である。

 『どうだった?』

 「残念ですが、やはりどこにも……」

 『そうか……。ったく、どこ行っちまったんだろうなウチの馬鹿娘はよぉ』

 「シャマルさんが渡したマッハキャリバーも発見されていません。通信にも出ないのを見ると、崩落の影響で破壊してしまっている可能性があります」

 『万事休す、か。ご苦労だった、後はこっちに任せてお前さんは本部に戻ってくれや』

 「…………了解しました」

 通信を切断し、なのはは引き続き捜索を行う者達に挨拶だけして現場を上がり、待機していた車両の助手席に乗り込んだ。

 「どうだった?」

 「駄目でした。収穫はゼロ、目新しい発見は何も……」

 「そうか……」

 運転席のシグナムもある程度は期待していたのか、なのはの報告を聞いて少し落ち込んだ風に見えた。彼女の所属する首都航空部隊は現在戦闘の際に破壊してしまった建築物の管理と、地下施設などに収容させていた都市中央部の住民らの整理に借り出されていた。幸いにも地上本部本棟の壊滅的状態に反して地下の避難スペースは被害は全く無く、怪我人も一切居なかったのが唯一の救いだった。郊外に退去させていた副都心在住の者達も今はそれぞれの居場所に戻っている。

 「あいつはどこに行ってしまったのだろうな……」

 「あの子の事だから、きっとどこかをほっつき歩いてるんだろうなぁ」

 「確かに。あのナカジマなら素でやりかねんな。それと、今後の件についてなのだが……」

 「“13番目”への対応が決まったんですか?」

 「ああ、今朝方に主はやてが取り決めになられた。近い内に機動六課のメンバーが再編されるだろう」

 機動六課……ここ数年の間に入局した者の間でその名を知らない者は居ない。地上本部が有する最高戦力のみを選りすぐって結成された少数精鋭部隊……その輝かしい戦歴に憧れて入局を果たしたと言う者も少なくは無い。そしてその『奇跡の部隊』が再び新生するのである。

 「通常の大部隊では後手に回る。それならば少数で動き、相手が行動する前に居場所を特定して叩けば良いだけの話だ。そして、我々機動六課にはそれが可能だ」

 「うん。……………………それで、処置はどうなったの? 鹵獲か抹殺?」

 「それについても残りのナンバーズの間で既に決定した。連中の下した結論は────、」



 『こちら八神二佐。大至急、戻って来て欲しいんやけど……!』










 機動六課再編の報せは既にフェイト、エリオ、キャロの三人の耳にも届いていた。報せを受けたエリオは、こうしてはいられないと言わんばかりに立ち上がり、相棒のストラーダを振るって素振りを始めた。

 「無理しないでねエリオ君」

 「ありがとう、キャロ。でも今度こそ……次に会った時はせめて足止めだけでも出来るようになっておきたいんだ」

 そのまま素振りを続けるエリオとそのサポートに徹するキャロ……そんな二人を眺めながらフェイトは少し微笑みを浮かべた。一時は現場復帰も危ぶまれる程の重傷を負っていたが奇跡的に回復し、今は昨日の戦闘で無理をした体を休める為に非番扱いとなっている。もっとも、今の管理局は昨日の一件で被害を受けた街の復旧に尽力しており、犯人が再び行方を暗まして足取りが掴めなくなった今となっては執務官の仕事は殆ど無い状況だった。

 椅子に腰掛けて安静にするフェイト……そんな彼女の胸中には今、何とも言い表せない複雑な感情が渦巻いていた。

 (プロジェクト『F.A.T.E』……まさかここまで来てその名前を聞くなんて……)

 彼女にとっては馴染み深いを通り越し、もはや因縁めいたモノを感じる程にまでその人生に深く関与して来た禁忌の技術……それが『F.A.T.E』である。彼女の母、プレシア・テスタロッサと当時その協力者であったジェイル・スカリエッティの共同研究によって確立したその技術は、オリジナルの持つ記憶情報のみならずその性格すら写し取り、オリジナルと寸分違わぬクローンを生み出す事を可能とした忌むべき技術だ。ある時は親子の確執を生み、またある時は何の罪も無い幼子を絶望の淵に追いやった、フェイトとエリオの二人にとって見れば忘れたくても忘れようの無い記憶だ。

 “13番目”がかつて存在していたトレーゼのクローンである事実は知らされては居るが、フェイトは敢えてそれをエリオに伝えていない。まだ精神的に未熟な部分が目立つ彼にその事を語れば変に情が湧いてしまう恐れがあったからだ。情は刃を鈍らせる……こちらはそうでなくても、あちらは殺すつもりで来ている、そうなれば今度こそ命は無い。いずれ話す時が来てからでも言いし、いっその事話さずに済んでくれればそれで良いのかも知れない。

 だが、それにしても分からない事だらけだ。

 (どうして“13番目”はスカリエッティを殺そうとしたか……? クロノの証言だと、主たる資格を失ったから? でもナンバーズは生まれた時からの刷り込みで創造主と上位者には逆らえないはず……)

 分からない。彼が創造主に反旗を翻す意味が全く不明だ。例え失敗を重ねても、ナンバーズとスカリエッティの間にあるのは言うなれば封建体制の縮図……権力的に下に位置するナンバーズには反逆の思考すら許されてはいないはずなのだ。それらの思考は全て生を受けた瞬間からの刷り込み学習で塗り潰し、必要最低限の余白を残した上で余計な思考を行う自我が発生しないように施しているはずだ。

 (複製の過程で綻びが生じた? 有り得ない。私とエリオも記憶に多少の齟齬はあったけど、人格や思考パターンはオリジナルと同一だったはず)

 だとしたら、オリジナルの時点で既にその思考の原点が存在していた事になる。刷り込みによる塗り潰しでも消されず、合計三十回以上にも渡る複製でも磨耗も薄れもせずに残るような強靭な思考原理……その原点を植え付けた出来事とは一体何なのか?

 何か重大な真実があるに違いない……理性とは別のモノが自分に訴え掛けている、そんな気がしていた。

 とは言え、それを究明するのは適わない事だろう。何故なら、管理局は“13番目”への対応を──、



 『こちら八神二佐。フェイトちゃん、大急ぎでこっち来れる?』










 「強奪事件?」

 「そうや」

 その事件が確認されたのはとある次元世界に存在する遺跡鉱山だった。発掘される鉱山資源を貿易による売買で利益に変えて経済を立てるその地区で発生した事件は瞬く間に地域警邏から支部に報告、その後こうして地上本部に報告される事になった訳だが……。

 「何でその事件で私達に召集が掛かったの?」

 「うん、本当はその事件も現場の警邏に任せるはずやったんやけどな…………強奪事件の犯人の特徴を聞き込みして事情が変わった」

 「……って、言うと?」

 「紫色の短髪に真っ白な肌……んで、フードの奥から見えたっちゅう金色の眼…………私らが追っかけておる犯人と特徴が酷似しておる」

 「じゃあ、まさか……」

 「押収した資料にあった写真をコピーして見せて確認取ったら、見事にビンゴ。現場に居合わせておった目撃者から確認を得れた」

 「…………それで、被害は?」

 「思いの外軽微……て言うたら現地に失礼か。そやけど、被害が少ないのは確かや。私も初め報告書に目通した時は“13番目”の犯行やないんとちゃうかと思うたもん」

 報告では坑道の奥に存在する採掘現場にて労働中だった数人の男性と、駆け付けた警備の者が返り討ちにあって気絶した程度だった。襲われた方の怪我も軽傷で、あの皆殺しを旨にしていた“13番目”のイメージとはどうしても符合しなかった。だが現場に居合わせた労働者達と、犯人の顔を直接見たと言う住民の証言が一致していた為、こうして機動六課のメンバーに召集が掛かったのである。

 「強奪されたんは精製したての貴金属。グラムで売れば私らの給与の十倍以上の値段で取引されるぐらいのもんらしい」

 「ますます分からないな。貴金属を欲しがるなどとは、今までの奴の犯行とは思えないな」

 「そうなんよ、そこなんよなぁ~。私も怪しいと思って何度か確認取ったんやけどなぁ……」

 結果はクロ。やはり報告と写真の人相が一致したのが強かった。その後、現地の支部から派遣された魔導師が調査したところによると、採掘現場から脱した犯人はそのまま警備の者を振り切って逃走し、町などの人気がある場所を避けて通り、単身での次元跳躍を行って消息を絶ったらしい。

 「とすれば、例の廃棄都市で奴の魔力反応が途切れていたのは!?」

 「どさくさに紛れて転移したって事か。しかも別の次元に逃げていたとなれば足取りが掴めなくなっていて当然か」

 本来、次元跳躍は大規模な儀式、或いはそれに準ずる魔力的バックアップを受けていなければ生身単体で行う事はほぼ不可能に近い。前例があるとすれば、闇の書のバックアップを受けていた時代の守護騎士の面々だけだろう。

 だが、ここで気になる事が浮上する。

 廃棄都市のトレーゼが急に消えた現象はそれで説明できるとしよう……。だが、あの現場には同じ様にして消えた者がもう一人居るのだ。

 「あの……」

 「分かってる。スバルの事やろ?」

 そうだ。同じ消え方をしていたなら彼女の身柄もトレーゼに人質として拘束されているに違いない……そう思っての質問だった。

 しかし……

 「残念やけど、現場の目撃情報にスバルらしき人物の情報は無かった。確認された魔力反応もきっちり一人分だけやったそうや」

 「……………………」

 「……さてと、聞きたい事とか言いたい事も色々とあるやろうけど、今はお仕事に専念や。現地の支部に依頼して転移先のチャンネル割り出しと、身を潜めているであろう次元世界での網張り……やる事は山積みや!」

 努めて明るい声で発破を掛けるはやて。彼女にとってもスバルは単に部下と言うだけでなく、先輩でありかつての上司でもあったゲンヤの娘でもある……思う所があるのは彼女もまた一緒なのだ。

 今は、予想よりも早く足取りを掴めた事に感謝しよう。




















 それは11月22日の午前9時過ぎの事だった。

 第3管理世界「ヴァイゼン」。そのとある地方都市の更に外れには小さな工場町、「アミア」がある。町から少し山に向いて行った所にある遺跡鉱山から採掘される鉱物を貿易して政経を立てるその町は、小さくも決して貧しくはなく、むしろ人と人の間にある温かな人間味と人情が残る所だった。

 とは言っても、ここは初めからこの町があった訳ではない。ここはかつて新暦74年に大規模な事故があり、二百名以上もの住民が死亡すると言う大惨事があったのだ。その事故で一度は調査員以外は誰も寄り付かなかった時期もあったが、今ではその爪痕も無くなり、復興された町で人々は穏やかに暮らしている。事故現場である採掘場も今では再開されており、遺跡の方も今では潰れてしまっているが一部の観光者が今でも偶にやって来てはその姿を写真に収めて帰っている。

 そんなこの町の入り口から距離を置いた森林の中に“彼”は居た。いつもの様に“訓練”と称して行っている日課を終え、町に戻る道程を歩いていた。近くに人が住んでいるとは言え、この辺りの森林は危険が全く無い訳ではない……ナワバリは言わずもがな、夜は夜行性の獣が徘徊し、秋には冬眠前の腹ごしらえ、冬には空腹で気が立っている狼などが現れたりもする。なので町に住む大人達は皆が口を揃えて「無闇やたらに森に行ってはいけない」と言う。だから間違っても彼……この年端も行かない少年が来て良い場所ではなかった。

 だが町の大人は彼を叱ったりはしない。軽く注意ぐらいはするだろうが親身になって叱ると言う行為はしない。それは親のする役目だからだ。

 そして少年に親は居ない。過去の事故で彼の両親は帰らぬ人となった。

 別に悲しい訳じゃない……親兄弟を亡くしたのは自分の他にも居るのだし、もう今となっては悲しみなどとっくに超越した所に身を置いていた。幼くして全てを達観したかのように見据え、そして刺々しいその少年に町の人間は徐々に距離を置き始めていた。

 彼は自分が住む町が少し嫌いだった。元から嫌いだった訳ではない、四年前に起きた忌まわしいあの事故、否、『事件』が発生してから嫌いになったのだ。あの日見た“藍の羽根の刺青”……自分は確かにあの時に現場に居た二人の賊の姿を見たのだが、調査に来た警邏の人間も他の生き残りである町の住民でさえその話を信じてはくれなかった。以来四年間、町の人々は事件の事など忘れ去り以前と変わりない生活をしている。あの日に賊の姿を見たのも、その胸に復讐の火を燃やし続けているのも、今となっては彼ただ一人だけだった。あの日の出来事を忘却しようとしているあの町を少年はいつしか苦手に思い、疎ましく感じ、やがては嫌悪し始めていた。

 そんな彼も日課を終えて嫌うその町に戻る。身寄りは無いが幸いにもその日の食事を多少なりとも工面してくれる者が居ないわけではない。もっとも、相手の都合が悪ければ森の小動物を狩る事も已む無しだ、そうするだけの技術もこれまでの三年間で学んだ。いずれこの手に握ったナイフが捕らえるモノも獣ではなく──、



 だが、その日少年は絶体絶命の危機に瀕していた。



 季節が季節、本格的な寒さを伴った冬が訪れる前に腹ごしらえをするつもりだったのだろう……明らかに町の大人よりも大きなクマがそこに居た。この場合最悪なのは、相手がこちらの存在に気付いている事……そして、ナワバリに何も食い物が無かったのか凄く気が立っていると言う事だった。

 少年の得物はナイフのみ。狩人でもあるまいし、ましてや大人でもない彼に今目の前に居るクマを制する方法はどこにもなかった。そうこうしている間にクマの方は少年の事情など構いもせずにジリジリと距離を狭め、その小さな体に狙いを定めている。その後、射程範囲内に入ったと確信したのか、いきなり走り出したクマに完全に気圧されて少年は地面に尻もちをついてしまい、目を閉じた少年は自分の最期を覚悟した。

 ……………………

 …………

 ……

 だが、固く閉じた視界の中で待てども待てどもその時はやって来ない……。不思議に思った少年が恐る恐る目を開けると……

 「通行の、邪魔だ」

 素手の人間が自分より二回り以上は大きい肉食獣を屠る姿……この場に居ない者が聞けば眉唾モノの都市伝説にしか聞こえない事請負いだ。だが確かに少年は見たのだ、自分とクマの間に立って右拳を突き入れて獣の心臓を握り潰す男の姿を……。毒々しい紫の髪に雪の様な白い肌、猛禽類の如き鋭い金色の眼に、クマの返り血を浴びて赤く染まって行く頬……傍から見れば狂人の類にしか見えないだろうが、今の少年にとってこの人物は自分の命を救ってくれた恩人であり、そして自分が目指すべき強さの形を決定付けた人間でもあった。

 目の前の人物がどんな訓練を行ってきたのかは知らないが、飢えた猛獣を素手で駆逐するとなればそれがどれ程に過酷なモノであるのかは大体の感覚として想像出来る。それに比べて自分は何だ、動きもしない木々を相手にナイフを突き付け続け、四年も掛かって出来るようになったのはウサギなどの小動物を仕留めるようになれただけでしかない。自分が仕留めたいモノは動物ではない、そんなものは狩人の仕事だ! 少年が仕留めたいモノ……それは──、

 「……少年」

 「は、はい!?」

 「この先に、アミア、と言う名の、町があるか?」

 「ああ……」

 「その先に、鉱山が、あるな?」

 「…………遺跡鉱山に何か用か?」

 少年の目が険しい物になる。彼にとってあの場所はあの『事件』が起きた忌まわしい場所……その日までの全てが終わった場所であり、全てが始まった場所なのだ。あの日あの場所で見た二人の人間の“藍の羽根の刺青”を彼は生涯忘れない……。

 だから初めは目の前の人間がその時の仲間、或いは同じ様な人種ではないのかと思い警戒したのである。確かに町は嫌いだがその町に住む一人一人の人間まで嫌悪している訳ではないからだ。

 だがその懸念はすぐに払拭された。あの日、あの場所で見た二人の賊の後姿に幼き日の彼は禍々しい狂気を感じ取っていた。だが、今目の前に居る人物から感じ取るのは底知れない哀愁……口にするのはおろか、尋ねる事すら憚れるような深い深い哀しみをそこに感じ取っていた。こんな哀しい目をする人間があの時の賊と同じ事をするはずがない……少年はそう直感した。

 だから町までの道を教えた。

 風の様に過ぎ去るその背を追わなかった。

 獣道を下って自分が帰路に着いた時、既に町は大騒ぎだった。

 「精製中の貴金属を盗んだ!」

 誰かがそう叫んでいた。

 混乱の極みに達した人々を掻き分けたその先に──、

 彼は居た。

 誰も気付かない……ただ一人、その少年を除いては。

 「少年……一応、礼は言っておく」

 「どうしてそれを盗んだんだよ」

 「必要だから」
 
 その言葉に嘘は無いと感じられた。

 「少年……名は?」

 「聞いてどうすんのさ?」

 「別に……何となく」



 「トーマ…………トーマ・アヴェニール」



 「トレーゼ・スカリエッティ。それが、一応、俺の名だ」




















 時は移り変わっての11月25日、とある辺境の次元世界にて──。



 「深追いはするな! ミッドチルダ本部の本隊が来るまでの間だけ足止めしておけば良い!」

 広大な砂の海で繰り広げられるは一方的な銃撃戦……飛び交うカラフルな魔力光とは裏腹に、その実態は極めて過酷な生きるか死ぬかの瀬戸際だ。八名一隊から成るその隊員らは手に手に杖型デバイスを持ち、その先端から放たれる魔力弾を前方を行く標的に向けて撃ち込んでいた。

 後方から飛び交うそれらを振り向きもせずに弾道を予測し、最低限の動きだけで回避する逃亡者は自分を追う追跡者らに目もくれず、ただひたすらに広大な砂の海を一秒でも早く脱する事だけを考えて行動していた。

 「当たれ!!」

 「……!?」

 だがそれも長くは続かず、遂に追跡者の一人が放った魔力弾の一発がその背中に命中、背負っていた頭陀袋を引き裂いた。逃亡していた目標は袋から飛び出た物を拾う素振りを見せたが最後は逃げる事を優先……右手に集中させた魔力を──、

 「フンッ!!」

 「くぉ!? 目眩ましかっ!」

 広範囲に渡って砂塵が舞い上がり追跡者達の視界を封じた。視界の悪化に伴う奇襲を受けるかと一瞬身構える隊員らだったが砂煙が収まると同時に見えたのは地平線まで広がる砂の海、ただそれだけだった。

 「追いますか隊長?」

 「言ったろう、深追いは禁物だと。既にこの先に点在する全ての町に厳戒態勢を敷くように通達してある。我々の戦力だけで捕獲する事は出来ぬかも知れんが……ミッド本部の本隊が来るまでの足止めにはなるはずだ。それに、このエリア一帯は大型の蟲が山ほど生息している……正規のルートを通らん限り町から町へは行けんだろう」

 この砂の海には肉食性の蟲や竜の亜種である大トカゲなどが大量にテリトリーを築いており、それらを避けるように指定されたルートを通らなければ安全に隣町へ到達するのはほぼ不可能だ。地上本部を相手取る様な化け物なら蟲の一匹や二匹造作も無い事だろうが、その戦いで疲弊した所で捕獲する事も出来るかも知れない。

 「隊長、本舎より連絡です。ミッドチルダより派遣された機動六課の先遣フォワードがこちらに急行しているとの事です」

 「少し遅かったが、予想していたよりもずっと早い。流石は噂のやり手部隊だな。現場はこのまま保存し、捜査権はあちら側に譲渡する!」










 程なくして、地上本部より派遣されてきた六課のメンバーが二人、現場に着任した。

 「時空管理局本局所属執務官、フェイト・T・ハラオウンです」

 「同じく執務官のティアナ・ランスターです。早速ですが、現場の捜査に関する権限をこちらに譲渡してもらいたいのですが……」

 「ああ、それは構わない。それにしても、報告で聞いていたもんとは随分と違っていたな……」

 「それはどう言う事ですか?」

 「いやな、報告にあった特徴は攻撃性が異常ってあったんだが、どうにも今さっき相手にしていた奴はこちらに対して一切反撃してこなかったんだ」 

 反撃が無い……その証言にフェイトとティアナは互いに目配せした。二人とも交戦した経験があるから言える事だが、あの“13番目”に限って自らの進行を妨げようとする者をそのまま見過ごすとは到底思えない……。一瞬、人違いの可能性も考えたのだが、現場に残っていた魔力残滓は確かに“13番目”のものだった。

 「確かにここに奴が居た……それだけは間違い無いようです」

 「だとしたらどうして無抵抗のままで逃走を優先したの……? 反撃するよりも優先させるべき事柄があったから…………? だとしたらどんな? いいえ違う……『逃げる』のではなく、『行く』事を優先していた!?」

 そうだ、仮にも相手はあの“13番目”、ただ単に逃げると言うだけなら逆に後々の禍根とならないように殲滅を狙ってくるはずだ。それが無かったと言う事は、少なくとも相手にとってはそれよりもずっと優先順位が上の成すべき行動があった事にはならないか?

 「確証は無いけど、もしそれが本当ならますますもって怪しくなりますね。問題は、『どこへ行こうとしていたのか』ですね」

 「……………………魔力残滓の反応の検出急いで! ルート割り出し次第、飛行可能な有志を集めてそのポイントに急行します!」










 やられた、少し油断していたか?

 中身を少し失ってしまったが一番重要なモノは内側に押し込めていたので失わずに済んだ。
 
 それよりも問題はあちらの方だ。予定よりもずっと遅れてしまったが『保存』は利いているだろうか? いや、それよりも……

 と、そうこうしている間に着いたか。取り合えず追っ手の類いは……居ないか、好都合だ。ここは肉食蟲のナワバリの重なり合わない空白部分、恐らく追っ手の連中でさえ位置は把握していないはずだ。

 さてと……

 「気分は、どうだ……セカンド?」










 場所は広大な砂漠の中央、点在する街の全てから等間隔に離れた場所に位置する小高い岩山……それがトレーゼが瀕死のスバルを連れて逃げ果せた隠れ家であった。岩と岩が重なり合う様にして立っているこの空間では砂漠の太陽も手を出さず、影となったこの僅かな隙間を風が流れ込むので換気も良い……まさに天然の休憩所、周囲の蟲のナワバリも相まって身を隠すには打って付けの場所だった。

 そして、その内部に存在する長椅子のような平たい岩にスバルは居た。胸部に包帯を何重も巻かれ、呼吸する度にその胸が窮屈そうに上下する……血の染み込んだその包帯の真上には真紅の魔法陣が光り輝き、そこから放たれる治癒の効果を持つ魔力が辛うじて彼女の命を繋ぎ止めていた。

 あの時、銃弾を胸に受け止めたスバルは内部で破裂した微粒弾の威力をまともに喰らってしまい、昏倒……微粒弾の大半は内部フレームと肋骨によって食い止められたが問題は破裂した弾頭の方だった。

 「…………やはり、弾殻の一部が、血管に、食い込んでいる」

 微粒弾を発射する過程で破裂した弾殻は鋭いナイフのように変形し、重要な血管に食い込んだのである。大量出血の原因はそれであり、今でこそ傷口の大半は生まれ付いた治癒能力で塞がりつつあるが、未だにそれが刺さった状態なので傷口が壊死する可能性もある。そうなれば今度こそ本当に絶命する可能性もある訳だ。

 「…………俺は別に、貴様が死のうが生きようが、全く関係無い。後々の禍根を、考えれば、むしろ、死んでくれた方が、マシだ」

 だが──、

 「貴様には、答えてもらわねば、ならない……。それを聞き出すまで、貴様には、生き延びていてもらう」

 懐から取り出したるは一本のメス……有事の際に自分で処置出来るようにと常日頃から持ち歩いていた物だ。更に懐から取り出したマッチを点火し、その炎でメスの鋭利な刃を炙る……原始的だが、これで消毒は完了だ。

 「さて…………それでは────、」



 術式を始める。










 午後5時00分、砂の海の中央──。



 白銀の陽光が少しずつ鮮やかに染まり、遂には熟れた果実の如きオレンジ色にそまったこの時、およそ24時間以上もの空白を経て『“13番目”抹殺作戦』の第一弾が幕を開けた。

 「八神二佐、各員所定の位置に着きました!」

 「第一から第七までの全ての部隊、準備整いました!」

 場所の割り出しに時間を食ってしまったが特定は出来た。肉食性の蟲が大量に生息するこの砂漠……数多のナワバリが重なり合うようにして広がるこの砂の海にたった一点だけだが、その領域が全く重ならない空白の“穴”が存在しているのだ。

 と言っても、情報がこれだけだったなら流石のはやても作戦を実行には移さなかっただろう。そこに“13番目”が潜んでいると彼女が確信した決定的な要因は……

 「これか……」

 はやてが拾い上げる物、それは缶詰の保存食。この近くの街で市販されている何の変哲も無い極普通の保存が利く加工食品だが、これが昼間に確認された“13番目”の背負っていた頭陀袋に入っていたのだ。映像を確認して見た所、あの大きさで中にこれと同じ物が詰め込まれているのだとすれば、その量はざっと三日分……。あの迅速且つ無駄を省いた行動を旨とする“13番目”が単独行動でここまでの食料を消費する間もここに留まる訳が無い。とすれば、自分ではない誰かに与える為の食料として多量に抱え込んだと言う事も考え得る。

 クアットロが死に、セッテも捕らえた今、彼と行動を共にする者は限られて来る。可能性として『彼に連れられている』と仮定出来る者は……

 「スバル……無事で居て」

 彼女を人質として抱え込んでいるならば大量に持ち運んでいた食料にも説明がつく。重要な交渉材料であると同時に脅しの道具でもある彼女に死なれて貰っては困ると言うのだろう。確かにこの現状、あちらがもし本当にスバルを人質として抱え込んでいた場合、安全に撤退する為の手段として利用されるのは明らかだ。

 「単身の次元跳躍には私の守護騎士でもタイムラグがある……完全に術が発動する前に仕留めな……」

 感知している魔力反応は未だ健在だ。少なくとも現時点において相手が次元跳躍を発動させている気配はない。今こちらが先手を取ればあちらが完全に逃げ切ってしまう前に充分攻撃が可能だが、あの“13番目”の事だ、二重にも三重にも何かしらの罠を仕掛けているであろう事は容易に予測出来る。この大規模包囲作戦もこれまでの戦果を振り返れば成功するかどうか怪しいところだ。

 だがしかし、迷っていては話にならない。

 「八神二佐、そろそろお時間です。号令を!」

 「…………全部隊に告ぐ!! 間もなく作戦を開始! 敵はたった一名、やけど油断したら負けや!!」

 彼女の言わんとしている事は既にこれまでの作戦が証明している。結局今まで行われた作戦で得られた戦果は“13番目”がこちらの予想を遥かに上回るほどに優秀である事を裏付けただけであった。もしかすれば今回もまた失敗に終わるやも知れない……。

 「作戦方針はたった一つ……対象の完全抹殺及び、人質の救出!」

 だが行動を起こす前から成否を気にしていては捕らぬ狸の何とやらだ。もう失敗は許されない……全てを終わらせる為に──、



 「作戦っ、開始!!」



 火蓋は再び切って落とされた。










 「……………………来たか」

 最大限にまで広げた感覚網に大量の魔力反応を捉えたトレーゼはそれが自分を捕らえる為に編成された魔導師の大部隊だとすぐに勘付いた。数にしてざっと700から1000……砂漠の中に点在する街からこの地点を囲む様にして包囲網が敷かれている。しかも兵一人ひとりの行動自由度を高める為に大半が空戦能力を有している。

 「……さて、どうするか」

 やるべき事はやった……後は何もする事は無い。雁作者である自分には最早誰からも必要とされる可能性が全く無いからだ。今来ている連中も精々捕らえた後の自分を解体し、生かさず殺さず研究資料にするぐらいしか能が無いだろうし、事実今の自分にはその位の価値しかない事も重々理解していた。そしてその事実に関して特に悲観する事も憤慨する事も、今の彼にとっては既にどうでも良い事に過ぎなかった。

 いや、唯一、ただ一つだけ悔いと言うか心残りにも似た感情があるとすれば……

 「それは、俺の求める、“答え”が、未だに、得られていない、と言う事だ。…………セカンド、いつになったら、俺の問いに、答える?」

 両手には鮮血、使っていたメスも今は地面に突き刺さり、スバルを乗せていた岩も今では赤い色に染まっていた。

 「さて…………どうするか。なぁ、どうすれば、良いと思う?」










 地平線に日が沈んだ。もうすぐ真昼とは手の平を返した様な寒波が押し寄せてくるだろう。そうなればここまで来る間に少なからず目にした蟲も為りを潜めるに違いない。

 だが──、

 「おかしい……静か過ぎる」

 部隊の遥か上空を哨戒・指揮の為に飛行していたはやてはここまで来るのに何の障害も無かった事をむしろ怪しんでいた。あの“13番目”ならここに来るまでにトラップを発動させてでもこちらの戦力を削ごうとするはず……それも無く、かと言って既に逃走しているのかと思えば未だに魔力反応は変わらず健在だ。今のところあちらが次元跳躍を行ったような気配は無い。最悪、自分達が向かっている目標地点こそが罠だと言う可能性もあるだろう。

 「こちらが到達したと同時に一気に殲滅……? いや、それはない」

 後は逃走を繰り返すだけとなった以上、ここでわざわざこちらの戦力を大幅に削る意味など無いはずだ。だとすれば投降する気になった? それはもっと有り得ない、文字通り天と地が引っ繰り返ってもだ。そうなればやはり罠か何かだと考えるのが妥当なのか?

 『八神二佐、間も無く前線の第一隊が目標地点に到達します』

 「哨戒の為に隊を数班に分けた後、先行班は突入。警戒を怠らんといてな」

 『了解しました』

 遠目に確認した岩山にライトが灯る。岩山自体は大きいが内部の空間はそれほど大した広さはない、例え内部で隠蔽用の魔法かスキルを使って身を隠していたとしても長くは──、

 『や、八神二佐!! 対象、確認出来ません!』

 「落ち着き。痕跡だけでも見つけられればそれで……」

 『いえ、痕跡すら発見出来ません!!』

 「…………何やて?」










 数分後、はやては岩山の内部の空間に足を踏み入れていた。外の寒波が気流となって吹き抜けるが微々たるもので、中が辛うじて人間が長時間過ごせる環境である事を証明していた。

 確かに先行した隊員が言っていた様に内部に“13番目”が居た痕跡は無い。映像で見た大量の食料も、足跡すら……。唯一の手掛かりであった魔力反応の正体も……

 「してやられたか……」

 砂地から拾い上げた物体は見慣れたカートリッジの空薬莢……内部に蓄積していた魔力を放出させる事で限定的に高濃度魔力散布領域を形成し、あたかもここに居続けているような錯覚をもたらしていたのだ。

 「やはり“13番目”は初めからここには居なかったのではないでしょうか?」

 「…………いや、痕跡が一つだけ残っておる」

 「え?」

 思わず隊員は周囲を確認する。ここには“13番目”はおろか、人間が来た形跡その物が無いのだ。足跡はもちろん、カートリッジ以外の魔力反応も、岩山の周囲半径数百メートルに至るまでここに人が立ち寄ったと言う痕跡は無い。

 だが──、

 「この岩……臭う」

 おもむろにその岩に手を掛けると、積もっていた砂を払い落とし始めた。特に変化は無い……平たい岩の上は砂を払い落とした事で少し小奇麗になった程度であり、何の変哲も無かった。だが、はやてが鑑識から借りてきたと言うある物を使った事で変化は如実に表れた。

 ルミノール……主に血液反応の鑑識に使用される試験薬であり、血中のヘモグロビンに反応して発光を示す液体だ。スポイトに取ったその液体を岩の表面に振り掛けると……

 「これはっ!?」

 「ビンゴや。ここに“13番目”は確かに居った。そして、ここで何かをしておった事は間違い無しや」

 岩全体が淡く光り輝いていた。それ即ち、ここで大量に出血を伴うような“何か”があったと言うことだ。そして“13番目”はその“何か”を隠蔽するために全ての痕跡を消そうとした……。

 ふと、脳裏に最悪の事態が過ぎったがそれはすぐに消えた。

 この血液反応がスバルのものかどうかはまだ分からないが、現状、ここまで来た“13番目”がわざわざここで彼女を殺す道理は無い。それなら死体はとっくにあの廃棄都市で発見されているはずだ。それが無いと言う事は、少なくともスバルは生きていると仮定してもいいだろうが、そうなるとここの大量出血の痕跡が説明がつかなかくなってしまう。

 「……………………ん?」

 「どうかしましたか?」

 「シッ! …………風が、聞こえる」

 「風が? 何か音が聞こえるのですか?」

 耳を澄ませれば僅かに聞こえる音……工業地帯の煙突などが鳴らす「ボゥ」と言う音に近い、笛の原理で出る音だ。つまり、どこかを吹き口として風が流れ込んでいる証左。

 微かに聞こえる音を辿ってはやてが腰を屈めると……

 「見つけた。総員、少しの間こっから離れといてな!」

 「に、二佐、一体何を……?」

 「この岩を木っ端微塵に破壊する!」

 そう言って夜天の書とシュベルトクロイツを構えた彼女を見て、隊員らは一目散に撤退した。周囲を取り囲んでいた調査班にも撤退を促し、来るべき衝撃に備えて全員に緊張が走り──、

 そして……



 ボフッ──!!



 凹ませていたペットボトルに空気を注入した様な間の抜けた音の後、岩山の隙間から砂塵が舞い上がった。やがて舞い上がった砂塵が収まりを見せる頃、内部に一人残ったはやての安否を確認しに隊員が再び戻ると……

 「やっぱりな……」

 「二佐、これはっ!?」

 「至急有志を集めて急行します! 相手は今……!」



 「地下に逃げています!!」



 破壊された岩の下には人一人がやっと通れるサイズの縦穴が開いていた。










 衝撃で地下湖の水面が僅かに揺れ動くのをトレーゼは見逃さなかった。恐らくは蓋代わりに置いておいた岩が破壊されたのだろう。穴そのものは小さくしておいたので大挙して押し寄せる事は無いだろうが、腕に覚えのある輩が切り込みを入れに来る事は想像に難くない。

 「さて……どこまで、逃げ切れるか。まぁ、別に、どうでも良いが……」

 地下水を汲み上げたボトルを仕舞い込み、トレーゼは地面に横たえておいたスバルを拾い上げて再び歩き始めた。結果から言えば手術は一応だが成功した。重要な血管に刺さっていた弾殻は薄皮一枚で血管を破っておらず、動脈の分厚い筋肉に阻まれて比較的軽傷で済んでいたのが幸いだった。術式中の出血は免れられなかったが、それについてはかなり危険な方法だったがあの場で出来得る最も適切な“処置”を施した事で事無きを得た。もちろん、リスクは伴った……ただでさえ消耗した肉体にこれ以上無い無理を押し通したのだから、スバルは今深い眠りについていた。自力で目覚めるのは先の話になるだろう。

 「もっとも…………その間は、俺は何もする事は、無いのだがな」

 最悪の場合はこのまま捕まってしまうのも有りだろうと彼は考えていた。研究資料にされた所で昔ならともかく、今は別に屈辱でも何でも無い…………どうせそうなれば己の意思など無いからだ。いや、今この時点で既に無いも同然なのか……。

 だが──、

 「贋作である俺に……意思の、決定権は、無い。よって、投降の選択肢も、無い」

 今の自分は“人形”。人形は人形師には逆らえない。そして、今の自分の“人形師”は……



 「止まりなさい!!」



 背後から聞こえる凛とした声……ここは地下だから光は一切無いが、戦闘機人の眼球は暗闇の微弱な光も捉える。そして、背後に立つこの人間もまた同じ……。

 「ゼロ・ファーストか…………回復が、早いな」

 「妹を返しなさい。これは警告でも勧告でもないわ、命令よ!」

 「……………………そんなに、こいつが大事か?」

 「当たり前でしょ!! そんな問答をしにここまで来たんじゃないの! 返さないなら……」

 「返さないなら……どうする?」

 「実力で排除するまでよ」

 最後の声は別の所から聞こえて来た。それもそのはず、真横の狭い坑道から回り込んでいたティアナが既にこちらに銃口を向けているのだ。軌道は一分のズレも無くトレーゼの頭部に狙いを定めていた。

 「言う様になったな、ランスター。貴様に、俺が倒せるか?」

 「貴方こそ、今更情状酌量なんて期待しない事ね」

 「どう言う意味だ?」

 情状酌量……? 今更……? 一体何が言いたいのか?

 「今までの貴方への処分方針は“捕獲”だったの。仮にも貴方はナンバーズの一員として認知されていた……だったら、三年前と同じ様に貴方を更生施設で再教育させるって言うのが主な方針だった」

 「下らん」

 「そうね、今の貴方にとっては下らない事でしょうね。だって貴方に対する処分は────、」



 「“殺処分”に変更されたのだもの」



 つまりは真の意味での死刑宣告……。だが別にこれと言ったショックは受けなかった……次の瞬間に告げられた真実を耳にするまでは。

 「貴方の抹殺処分の決定には現存しているナンバーズ全員の総意によって決められたわ。賛成が七人に対して反対は二人…………おめでとう、晴れて貴方はナンバーズの皆から殺すべき敵として認識されたという事よ」

 「ッ!?」

 その事実を聞いたトレーゼは思わずギンガの方を振り向いた。彼に衝撃を与えたモノ……それは自身の抹殺決定にかつての姉妹らの意思があった事ではなく、自身の抹殺に反対の意思を示した者が二人も居たと言う事実だった。己も知り得なかったとは言え、自分はオリジナルのトレーゼを模して生み出された贋作だ、その偽者に騙されていてなお自分を殺す事無く生かしておこうと思える人物が居た事に驚いていたのだ。

 「…………反対したのは、誰だ? あと、七人と二人だと、数が合わない」

 「ウーノさんとセッテ。残りの一人はノーヴェよ。貴方が玩具みたいに好き勝手に使ってくれた私の妹よ!」

 「…………そうか」

 特に否定はしない、自分がノーヴェを都合の良い様に利用したのは事実だし、その事で他者から恨まれるのも想定済みだ。大方、ナンバーズの大半がその事実に憤慨して自分の抹殺を決定したのだろう。そして、恐らくその筆頭に立っているのが……

 「……トーレは?」

 「トーレさんはナンバーズの中で貴方を一番殺したがってる……。今も地上で待機してるけど、いつここに来るかは分からないわよ」

 「……………………そうか」

 今回の件で一番怒り心頭なのは他でもない彼女だろう……自身の最愛の弟が既にこの世の者ではないと分かっただけでなく、その弟の姿形を模した偽者に騙され続けていたのだ……これで怒らない方がおかしいと言うものだ。そう、例えトレーゼ自身にとっては不本意極まりないとしても……

 「…………なぁ、トーレは、俺を殺したがって、いるんだよな?」

 「ええ、そうよ。それがどうかしたの? 言っておくけど、もう貴方に逃げ場なんか用意されていないわよ」

 「いや、違う……そうだな────、」



 「俺を、トーレの所に、連れて行け」



 「どうしようって言うの?」

 「別にどうもしないさ。あちらが、俺を殺すつもりなら、こちらが、わざわざそれに、反発する道理も無い」

 「正気なの!?」

 ギンガとティアナが怪しむのも当然だ。つい数日前までミッドチルダを混乱の極みに陥れ、先日も強盗を働いた極悪の犯罪者が急に手の平を返したかのように投降を決意する……それがどうにも腑に落ちないのだ。何か裏が、良からぬ事を企んでいるに違いない、そう無条件に思わせるだけの所業を重ねて来ているのだ。

 だが、トレーゼの答えは変わらなかった。

 「正気さ。正気で、『死にたい』、『殺されたい』と、俺は感じている。戦闘機人である、この俺には、自死の権利を持たない……つまりは、自殺すると言う、発想自体に、どうしても至る事が出来ない」

 それは知っている。大量破壊とそれに伴う殺人を目的とした戦闘機人は出来る限りの範囲内で人格を矯正される……常人の精神を保ったままではそれらの行為に耐え切れないからだ。それでも尚、精神的に耐久性が低い場合が懸念されるので戦闘機人は生を受けたその瞬間から強い暗示を何重にも掛けられ、強い精神的苦痛の先に自害する事が無い様にしているのだ。当然、原初の戦闘機人であるトレーゼも例外ではない。

 「どうせ、この俺は偽者……存在していても、特に意味は無い。殺してくれると言うなら、むしろ、好都合だ」

 「……気でも狂ってる」

 「貴様らが言い出した事だ。初めからこちらを、抹殺する、心積もりだったはずだ。それに……」

 「それに?」

 「あの人にとっては、どうかは知らないが…………少なくとも、俺にとってあの人は、自分の姉だ。……ここまで言えば、何が言いたいか、分かるな?」

 「……そう、良いわ」

 「ギンガさん!?」

 「最期ぐらい好きに選ばせてあげましょう……それが情けってものよ。それでスバルは返してくれるんでしょ?」

 「返還しよう。どうせ、俺にはもう、必要無い。…………“答え”は、聞けなかったからな」

 両者の間に流れていた緊張がここで途切れた。ギンガはスバルを受け取る為に接近し、ティアナはトレーゼの体にバインドを掛ける為に近寄るとその両手を拘束した。

 これで人質だったスバル・ナカジマは無事回収され、事件の主犯であった“13番目”ことトレーゼ・スカリエッティも捕縛できた……長引くかと思われていた最悪の単独犯事件、T・S事件はこれであっけなく幕を降ろし、明日からまた世界はこれまでの混乱を忘れ去り、平穏に時が流れていくはずだ。

 ……………………

 …………

 ……



 そう、その『はず』だった。



 「……っ?」

 スバルを引き渡したトレーゼは自分の体が不自然に引き寄せられるのを覚えた。初めはギンガかティアナに引っ張られたのかと思ったがそうではない……投降の意思を見せたとは言え彼はまだ重犯罪者、そうそう無用心に体の一部に触れる訳が無かった。となれば一体誰がこの腕を引くのか……?

 答えはすぐに分かった。

 「…………なるほど、そうか、そう言う事か」

 自分の右腕の服の裾を引っ張るもの……それは引き渡そうとして背中から降ろしたはずのスバルの左手だった。まだ目覚めるのは当分先のはずなのに、こちらのボロボロになった外套を必死になって掴んでいた。それが偶然かわざとか、はたまた夢見心地の無意識の行動なのかは分からない……ただ、今この時点で重要な事実は唯一つだけ──、

 「……………………なぁ」

 「何ですか? 何か言いました?」

 「悪いな……」

 「だから何を……!」



 「気が変わった」



 後ろ手に掛けられていたバインドを無理矢理引き千切り、指先に込めた魔力の弾丸を地下湖の水面に発射する。内包された魔力は放たれた瞬間に熱に変換され、水面の一部を一気に蒸発させて周囲一面を熱と湿気が充満する息苦しい空間へと変貌させた。

 「しまっ……っきゃ!!?」

 「ティアナ!? ぅぐっ!!」

 暗視機能を使って暗闇にトレーゼの姿を捉えていたギンガも大量に発生した水蒸気の煙幕に視界を封じられ、腹部に強い衝撃を感じた時には既に遅かった。内臓を急激に圧迫された事で込み上げた吐き気と激痛に耐え切れず膝を屈し、地面に倒れ込んでしまうギンガの体……そして自分が抱きかかえていた妹の重みがふと消えた事に彼女は激しく動揺した。

 「スバ、ル……? スバルはどこ、どこに行ったの!?」

 返事は無い。収まった霧の向こう側には自分と同じ様に地面に伏しているティアナしか居らず、まるで最初から居なかったかのようにそこには他に誰も居なかった。トレーゼも、スバルも……その痕跡すら残す事無く消え果ていた。

 「スバルを…………私の妹を、返してよぉ!!」

 もはや慟哭すら届かない……それを耳にする者も、もうここには居なかった。










 岩山から遥か北方十数キロにその町はある。別の所にある大きな街とは違いここにはオアシスは無いが、代わりに地下水を汲み上げる為の井戸が各所に存在していた。地面の下を流れる地下水脈からダイレクトに水を引き上げる形の井戸である為、石を組んで作られたその縦穴を降りると少し空間的にゆとりのある水脈へと辿り着く。

 そして、その町の一番端に存在する井戸もまた同じように水脈に繋がっていた。縄を掛けた原始的な滑車の原理によってバケツを昇降させる仕組みだが、今はその滑車の輪には縄の代わりに見慣れない色のロープが引っ掛かっていた。

 否、よく見るとそれはロープではない……手に取れる物質を編み込んだ縄やロープではなく、紅い魔力を練って作られたバインドだった。ロープの何百倍もの耐久度を誇るそれは下方に何かをぶら下げているのか少し揺れていた。やがて数分後、突然バインドが解かれ──、

 「意外と、重労働だな」

 石垣をクライミングして登って来たのは一人の少年と、その少年に背負われた状態で昏睡する少女の二名だった。普段ならこの時間帯はまだこの周囲も住民が居るのだが、今日に限っては違っていた……十キロ以上離れた地点で確認された犯罪者の処置に町全体が浮き足立っており、混乱を恐れた警邏が今日一日は出来るだけ自宅から出ないようにとの勧告を敷いたからだ。もっとも、その警戒されている犯罪者はたった今、地下水路を辿って作戦領域から脱出して来たのだが。

 「さて……っと。こいつの、食料も全部、流してしまった…………どこかから、強奪するか?」

 一旦地面に置いたスバルを再び背負い、トレーゼは立ち上がった。持っているのは腰に括り付けておいた飲料水のボトルのみ……食料の再度調達から、逃亡先の選定、更に逃亡先を選んだ後は幾つもの次元世界を中継して足取りを掴めなくしなければならない為、やる事は山積みだ。

 だが、それらの前に……

 「タオル……。取り敢えず、体を拭く物を……」



 11月25日、この日、管理局は再び“13番目”の姿を見失った。無論、後で魔力反応を追って町を捜索したが人質のスバルもろとも綺麗に行方を眩ましてしまっていたのは言うまでも無い。



[17818] それでも、君を……
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/09/17 12:22
 12月6日、地上本部ゲストルームにて──。



 「それで……結局奴の足取りは掴めないのか?」

 「この一週間口開いたと思ったらそればっかやなぁ。現在調査中やって、何べん言うたら……」

 “13番目”の再発見と再消失から一週間……ナンバーズの面々を取り入れて新生した機動六課は早くも仕事の無い窓際部署と化していた。理由は簡単だ、機動六課を再び立ち上げるに至って上層部に取り付けたもっともらしい理由は『“13番目”の迅速なる抹殺処分』……一連の事件の首謀者である“13番目”の抹殺か、或いはこのまま行方不明となって時効を迎えるかのどちらかが成立するまで機動六課は存続し続ける。そして、その当の“13番目”の行方が全く知れない今、彼女らには仕事が無い。強いてやる事があると言えば、一週間前の戦いで被害を出した街の復興作業の手伝いぐらいだった。

 そして、その仕事を「生温い」、「たるんでいる」として反発しているのが、“13番目”の抹殺を提言したトーレだった。

 「奴が管理世界に逃亡したとは限らない。局が管理外世界の警戒に対して消極的なのは次元犯罪者でなくとも周知の事実だ。それを分かっていながら……!」

 「だーかーらーっ! 今はその捜査許可を上から貰ってるとこやって言うとるやんか! あんたらナンバーズと違ってこっちは組織、何か一つ行動する度に許可が要るんやから……」

 現在、本局からの通達で全ての管理世界に存在する管理局支部が全力を挙げてそれぞれの次元世界を隈なく捜索しているところだが、当然この捜査方法には盲点がある。捜査する地域・世界の対象に管理外世界が含まれていないのだ。

 本来、管理世界と管理外世界の分かり易い区分としては魔導技術文明の有無が関わっている。より正確に言えば、『次元間航行技術を有するか否か』……。技術を有する次元世界は時空管理局による調査及び接触を受け、その後で本局の管轄化である『管理世界』の末席に加えられるのだ。管理下に収められた次元世界は管理局の調整を受ける事で他の管理世界との交流を深め、介入を受ける事でロストロギアを生み出さない様に警戒しているのである。当然、管理下に収められている次元世界で魔法絡みの事件が発生すれば管理局が介入し、その圧倒的制圧力で迅速に解決出来る利点もある。

 だがしかし、事件が発生して迅速に解決されるのは管理世界のみの話し……管理“外”世界についてはそう簡単には行かなかった。魔導技術文明を持たない次元世界……例としてはその97番目、『地球』を挙げると分かり易いだろう。管理外世界は原則として管理局は介入せず、魔法絡みの事件が発生した場合にのみ複雑な捜査許可の申請をクリアしてようやく介入できるのだ。介入の例としては次元犯罪者の潜伏か、ロストロギアの漂着などが挙げられ、今回の事件の可能性としては前者の可能性が高かった。

 「それで……その許可とやらは一体いつになったら下りるんだ?」

 「さぁな~。二週間か、三週間か……或いは一ヶ月先か」

 「ふざけているのか!」

 「それは上のお偉方に言ったってや。革張りのソファに座ってはる人間は大体が面倒臭がり……この行方不明に乗じて事件その物をうやむやにするつもりでおるって、もっぱらの噂や」

 自分で言いながら悲しくなったのか情けなく感じたのか、デスクに寄り掛かりながらはやては溜息をついた。実際、下手すれば管理外世界への捜査許可を取り付けるにはそれぐらいの時間が掛かる時もあるし、その間に犯罪者が潜伏先を変えてまた一から許可の取り直しをしなければいけないと言う面倒な事態が発生する事も多々ある。それを抜きに考えても、機動六課は地上本部の上層部にとっては目の上のタンコブ、このまま難癖をつけて解散させたいと言う理由もあるのだろう。

 「…………他の者達は?」

 「ハラオウン、ランスターの両執務官は現在ワンマンで各管理世界を調査中。ナカジマ家と教会の面々は街の復興作業で、後の面子は平常通りや」

 「ウーノはどうした?」

 「情報処理能力の高さを買われて今は無限書庫で期間限定の司書っちゅう事で絶賛駆り出され中や。スクライア司書長の話しやと、結構な働き手らしいよ」

 「何をやっているのだあいつは。……それと、例の二人はどうだ?」

 「ノーヴェはまだ目ぇ覚めへん。一応今のとこ脳波に乱れは無し、呼吸器系統及び循環器系、その他肉体の各所にも異常は見られへん。セッテに関しても今は安心や。脱走の気配はあらへん」

 「そうか」

 ノーヴェは医療センター、セッテは正式に地上拘置所にその身を移され、ナンバーズの間にあった混乱はひとまず落ち着きを見せた。これで後は“13番目”の足取りさえ掴めれば言う事無しなのだが、流石にそこまで上手くことが運んでくれるとは限らなかった。

 「はぁあ、世界はこんなはずやなかった事ばっかりやぁ~」

 「突っ伏してないで真面目に職務を全うしろ。なんで私達はこんな連中に敗北を喫したのだ……」

 「お固い事は言いっこ無しや。そう言えば、フェイトちゃんが帰り掛けに地球によって翠屋のケーキ買うて来るって言うてたっけ……」

 「呑気なものだな本当に」

 「なのはちゃんの実家のケーキはほっぺた落っこちるほど美味しいんよ。あんたも一回食べてみたら病み付きになる事間違いなしやぁ~」

 「…………もう勝手にしてくれ」






























 時を遡り11月27日──。



 はやてらの予想通り、“13番目”ことトレーゼ・スカリエッティは管理外世界の辺境へと逃亡の足を伸ばしていた。あれから二日間、両手の指の数でも足りないだけの次元世界を中継して逃亡に逃亡を重ね、遂に彼はこの世界へと辿り着いたのである。ミッドチルダや他の管理世界と比較すれば文明の度合いは幾分か劣るが、度を越して原始的な世界と言う訳でもなかったので身を隠して短期間の仮初の生活を営むには丁度良かった。

 「…………水、三リットル」

 清流から汲み上げた水を大き目の皮袋に注ぎ込み、それを担いで帰路を辿り始めた。この世界は原始的な水道技術しかなく、しかもそれは限られた都市部にしか普及していない技術だった。その為、この様な田舎では自分達の住んでいる場所からわざわざこの川まで水を組みに来ねばならず、水道代の代わりに体力が掛かる仕様になっていた。

 別にそれは大した問題ではない。今自分が身を置いている隠れ家はすぐ近くに在るのだし、そうでなかったとしても自分は戦闘機人、体力を少し消費したところで大した問題は無い。

 つい昨日のうちに“空き家になった”家に辿り着き、トレーゼは堂々と玄関から進入、そのまま二階に上がると自分が使っている部屋とは別の部屋にノックも無しに入り込み、そして……

 「調子はどうだ、セカンド」

 ベッドに横たわる少女へと声を掛けた。ベッドに身を委ねていた少女──、スバル・ナカジマは先ほどまで眠っていたのか両目を僅かに開きながら周囲を確認し……

 「……お腹、減ったな」

 「その状態で、固形物の摂取は、好ましくはない。水なら、幾らでもある」

 そう言ってトレーゼは水の入ったボトルを手渡した。こちらは先ほど川で汲んで来た物とは違い、煮沸して簡易的ながら消毒を済ませた水だ。それを受け取ったスバルは口を付ける為に上体を起こそうと力を入れるが、まだ傷口が完全に癒えていない所為で激痛に顔を歪めた。

 「~ッ!! あたし、どうなってたの?」

 「撃たれた。死に掛けた。直した」

 簡潔に掻い摘んで告げられたこれまでの経緯を理解しながら「そう……」とスバルは軽く受け流した。胸元を圧迫する包帯の隙間を垣間見ながら時折彼女は自分を救ってくれた者の横顔を見つめた。今までのトレーゼは無機質な感じが強かった……肌は血の気が無い様に白く、目はガラス玉の様に自分の眼前の物体を映しているに過ぎなかった。だが今は違う、その金色の両目はかつて無いほどの哀しみの色に憂い、自分が眠っている間に何があったのかその肌も髪もやつれてしまっていた。

 「…………何だ?」

 「うん? ……………………元気無い?」

 「そう見えるなら……気のせいだ」

 「…………そう」

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「……これからどうするの?」

 「どうも、しない。前にも、言ったように、俺は、俺を殺してくれる者を、探すだけ……」

 「それはダメっ!!」



 「なら、俺の問いに答えろ」



 「問い……? 質問?」

 「そうだ。貴様は、あの時に、『取引しよう』、そう言ったな? ならば、取引だ。俺のこの問いに、納得の行く、解をくれるなら、俺は、貴様のどんな命令にも、従おう」

 「めい、れい?」

 「ああ。殺せと言うなら、殺す……。壊せと言うなら、壊す……。俺の出来得る範囲内で、貴様の命令に、応えてやる! これが、条件だ!!」

 当然、スバル自身はその様な事を望んではいない……この場合、トレーゼ自身がそうなる事を望んでいると言った方が適切だろう。

 唯一共に在り続け、己を唯一認め愛した姉に理不尽且つ一方的に存在を否定された今の彼は自己の存在意義……アイデンティティを喪失したに等しい状態と言っても過言では無い。自己の存在する意義を見失った彼は非常に不安定且つ危険な状態にある事を見抜いていたスバルはその支離滅裂な言葉を指摘する事も無く、咀嚼し、吟味して理解した後──、

 「…………その“問い”って何なの?」

 「簡単なはずだ……。俺が問うのは、たった一つだけだ…………その一つに、納得の行く答えを、俺に授けろ」

 「…………………………………………それは、なに?」





 「俺は……“誰”だ?」










 アイデンティティ……自己同一性。個々人の心の内面、自我を確立するにおいて最も重要視される精神の要の理論であり、「己が己で在る為」に持ち続ける確固たる意思でもある。これが崩壊すると「自分が何をしたいのか」、或いは、「自分が何者」なのかが分からなくなり、自我の喪失に直結する。自我喪失の危機に瀕した者は徐々に不安定化する自分の精神の不可に耐え切れず、最悪の場合──、

 精神の摩耗によって心が折れる。

 思考する精神そのものが死んでしまうので最早自殺しようと言う考えさえ思い浮かばない……ただ生きている、息をして、瞳孔が反応し、心肺が酸素を送っているだけの白痴へと成り下がってしまうのだ。

 考える事を放棄すればそれは死んでいるのと変化は無い。否、自己を永遠に失ったまま死んでしまう事を考えればそれは犬死にと何ら変わりは無い。

 「俺は、個人である前に、戦闘機人だった……。戦い、壊し、そして殺す、その為だけに、存在する事を、許可されたのだと、信じていた」

 「それは……」

 「だが、結果は知っての通り、それはまやかし以外の、何物でもなかった。俺は、俺自身に、騙されていたんだ。滑稽だろう? 笑いたければ、笑え。これが、贋作の末路だ」

 「…………どうして、そんな質問をあたしにするの?」

 「それは、言うべき事では無い。貴様に求めるのは、答えられるか、否かだけだ。どうだ、答えられるか、俺が、何者なのかを」

 「…………すぐには無理だよ。あたしはトレーゼじゃないもん」

 「無論、すぐに、解が出るとは、期待しては居ない。その間、俺は、貴様の傍を、片時も、離れないだけだ」

 「答えを見つけたら……その後は?」

 「さっきも、言ったが、貴様の命令に、完全に従おう。これまでのような、相互不干渉ではない、完全な従属だ」

 アイデンティティ喪失の危機に加え、現在のトレーゼは姉から見放されて自身に命令を下す上位者を欠いた状態でもある。ナンバーズは自身より先に開発された者を自身より経験豊富な『上位者』とする事でその者の指揮下に入り、上位者の方も自分の直接の管理下に入った者に対しては責任を持って管理する……チンクとノーヴェの例を取って見れば分かり易いだろう。ヒエラルキーが下の者にとって上位者とは創造主の次に絶対服従の対象であると同時に、精神的苦痛を互いに癒し合う支えとなる者でもある……それを失い、加えて拒絶された彼の精神状態はそこで自己同一性の崩壊に差し掛かった。

 自分が何者か知りたい……名前も、記憶も、姿形でさえ他人に作られた贋作でしかなかったと判明した今、彼は自身が早急に成すべき事柄を「自己の確立」と定めていた。そうしなければ精神が保たない事を無意識に悟っていたのだろう。裏を返せば自己の再確立を終えるまではスバルに危害を加えるような真似はしないという事でもある。更に嘘か真かは定かではないが、彼自身はその解答をくれるだけで以後は従属の姿勢を見せると豪語している。上手くすればその条件を逆手にとって投降する様に誘導する事も出来るかもしれない、スバルはこれまでのやり取りの中に一縷の望みを見出していた。

 だがそれと同時に危機感……今のトレーゼは自己の確立に躍起になっており周囲が見えていない状態だ。その証拠に、つい数日前まで対立し合っていたスバルにここまで自己を委ね、あまつさえ従属するなどと口走っている時点で既にそれが顕著だと分かる。なるべく刺激しない方が今は為になると悟ったのかスバルは沈黙を以って彼の要求を容認した。

 「……それでいい。そうさ、そうでなければ、俺が俺である、意味が無い」

 言葉の端々に滲む焦燥感、仮に先のやり取りで断っていようものならどんな事になったのかなんて想像したくもない。人命を救助する職業に就いていたので公言は憚られるが、他人に影響を与え続ける事を思えば自殺よりも遥かにタチが悪く思えた。だが今のスバルにはそんな事はどうでもよく思えていた…………生死の境から無事に息を吹き返した所為か心身ともに脱力し、彼女はベッドに体を預けて目を閉じた。眠る訳ではないが目を閉じることで残留している疲労感を処理しようとした。

 「…………これからどうするの?」

 「貴様が、考えろ。俺は、従っているだけだ」

 どうやら既に契約は成されたらしい。その証拠に椅子に腰掛けたトレーゼは命令を受けるまでそこを一歩も動こうとはしなかった。流石に答えを得られるまでは管理局に捕まるつもりは無いはずなので追っ手が来れば逃走するだろうが、今現在の二人の居場所は管理局どころか地域に密着した警邏ですら全く把握していない。そしてこの家も本来は空き家などではない……つい昨日まで本当に人が住んでいたのだが、今となってはそれを知る者は居ない。

 「ねぇ……何この臭い」

 いちいち聞かずとも薄々分かっていた。これまで人命救助の為に様々な災害現場を渡り歩いて来たのだ、当然、この『臭い』がする現場にも少なからず立ち会った事だってある。そしてその原因となる物体と現象も知っていた……。

 「昨日の、真夜中だったか……一晩だけ、空き部屋を、貸すように、要求したんだが、断られてな……。急を要したから────、」



 「全員、処理した」



 「……………………」

 「今は、全員、地下室に、放り込んである。そろそろ、腐敗が始まっていても、おかしくはないな」

 「────し……て──」

 「?」

 「あたしを起こして、今すぐに……!」

 「その傷では……」

 「いいから!! 命令には、従うんだったよね?」

 「……………………」










 全ての作業を終えるのに二時間は掛かった。地下室の片隅に無造作に積まれていた死体を運び出し、庭の土を掘り返して埋葬する作業……こちらの都合で犠牲になった上にまともに葬送する事も出来ない罪悪感が終始スバルを苛んだ。小さく盛り上がった土を見ながら彼女は聖王教式に則って祈りを済ませる……この人達が聖王教に属していたかどうかは知らないが、せめて祈りを捧げなければと言う贖罪の念が彼女にそうさせた。

 「…………祈りか……無意味な行為だ」

 「何で殺したの…………方法なら、もっといくらでもあったはずだよ!」

 「あれが、最も確実で、最も迅速な、処理だった。その判断に、疑いの余地は無い」

 「……………………さっきの約束、覚えてるよね?」

 「他でもない、俺自身が、言い出した事だ。しっかりと、覚えているさ」

 「ならお願い……『二度と他人を傷つけないで』。殺したり、酷い目に合わせるのも……絶対にしないって約束して」

 「……それは、命令か?」 

 「…………そうだよ」

 「受理した。以後、貴様の意思に、従おう」

 意外とあっさり引き受けたのに内心では拍子抜けしながらも、先に取り交わした約束が全くの嘘ではない事に信憑性が増してきたのをスバルは感じていた。これでこれから先々において彼が殺しを働かなければ、さっきまでの言葉は真実の誓約として成されるはずだ。

 空を見上げれば既に太陽は自分達の真上へと差し掛かろうとしていた。少し離れた町や集落からは賑やかな声が聞こえて来ている。

 「行こう……ここはもう居られないよ」

 「どこへ行く? アテは、あるのか?」

 「無いよ」

 「そうか」

 簡素なやり取り。ここがどこの次元世界かも分からないし、仮に分かったとしても管理外世界だったならスバルの知る所ではない。かと言って管理世界に逃げ込もうものなら数日もしない内に局に足取りを掴まれてしまうのは目に見えている。特にヴァイゼンなどを初めとする十番以内の管理世界は完全にアウトと思っておいた方が良さそうだ。

 「適当に逃げるなら、俺が行き先を、決めるが? このまま、別の管理外世界を、転々として行けば、如何に管理局であろうと、容易には手出し出来ん」

 「……………………」

 「ああ、後それと、俺を誘導して、局に投降するとかは、考えない方が、賢明だ」

 「どういう意味?」

 「貴様の事だから、どうせ俺を擁護するのだろうが…………それは無意味だ」

 「だからっ、どう言う……!?」

 「現存する、ナンバーズの総意で、俺は抹殺処分に、決まった」

 その言葉自体には特におかしな部分は無い。あれだけの事を仕出かしたのだ、法の体現である管理局がその方針を“捕獲”から“抹殺”に切り替えたとて何の不思議も無い、むしろ正当な判断であるはずだった。だが、今の言葉を聞く限りではその判断を下すのにナンバーズの総意に基づいている様な節があったのはどう言うことなのか?

 「簡単だよ、連中は、贋作である俺の存在を、容認出来ない……それだけの事さ。俺が、『本物のトレーゼ』ならば、こうはならなかっただろう」

 「どうして……おかしいよ」

 「おかしくはないさ。それに、俺の抹殺を、提言したのは、あのトーレだ。今の俺……『偽者のトレーゼ』を、最も憎悪している、彼女なら、当然の行為だ。管理局に行けば、俺は殺される。俺としては、その方が、万々歳だが、貴様にとっては、そうでもないだろう? まぁ俺も、貴様の“答え”を、聞くまでは、死ねなくなった訳だが……」

 「どうして、何で……何でクローンだからってそこまでされないとダメなの! 本物とか、偽物とかって、一体何なの!!」

 「…………………………………………貴様には、分からないさ」

 「え……?」

 「貴様には、一生掛かっても、決して理解出来ない…………それで良いさ、お前は俺じゃないし、俺もお前にはなれない……理解出来なくて、当然だ」

 そう言いながら踵を返し、どこへともなく去り行こうとするトレーゼの横顔はいつもと同じ無表情に見えていたが、その目には未だかつて見た事が無い哀愁と憎悪の色が宿っていた。その視線が自分に向けられていたモノだと気付いてスバルは一瞬の恐れを覚えたが、すぐに消え去ったその感覚を忘れるかのように彼の背中を追って自分も歩き始めた。

 行き先なんて、知りもしない。










 その日の夜は野宿だった。本当は一日でそれなりの距離を歩いたので町まで行こうと言う案もあったのだが、傷が完全に癒えていない状態で行くのは危険な上に人目を惹くと言うのと、スバル自身が町へ行くことを拒んだからだ。管理外世界だが町には既に管理局の追っ手が来ているかもしれない……接触すれば最後、逃走はもちろん最悪の場合は戦闘にもなるだろう。それだけは避けたかった。

 木々が生い茂る森の中でほんの少し開けた場所で二人は焚き火を挟んで座っていた。近くの小川で捕まえた魚と、森の奥で仕留めた小動物……それが今夜の食事だった。川の水で血を洗い取り、そのまま焼いて食す。調味料も何も無いので味気も何もあったモノではないが、腹に何も入れないよりは幾分マシと思っての判断だった。

 「……………………」

 骨の先に付いている獣の肉を咀嚼しながらスバルは対面のトレーゼを見る。傷が癒えていない彼女の代わりに串刺しにした魚や肉を焼き、焼き上がったそれを手渡しながら自身も焼いた物を食べる。最初は食事を拒んでいたのだが、空腹による衰弱を懸念したスバルの『命令』によって今は普通に食事をしている。もっとも、収穫はそれほど多くはなかったので、常人よりカロリーを消費してしまう自分達ではどの道心許ないのだが……。

 「……もっと、獲ってくる。クマ辺りが、良いな」

 「もういいよ。夜だし……」

 「夜だからだ。獣の大半が、夜行性だと、知らんのか。クマでなくとも、何らかの獲物は────、」



 「『ここに居て』」



 「…………了解した」

 浮かした腰を下ろし、トレーゼは大人しく座り直した。焚き火の光と熱が二人の顔を照らす……ふと気になったのか、スバルは自分の胸を圧迫する包帯に手を当てた。

 「あたしの傷……どうやって治したの?」

 「重要な血管に、食い込んでいた、破片を除去し、その後、『特殊な方法』で、傷口を塞いだ」

 「特殊……?」

 「縫合糸を、持っていなかったからな…………危険も伴ったが、概ね成功だ」

 「?」

 その方法の詳細を聞く前にトレーゼが自分の右腕を差し出して来た。袖を捲り上げ、その白い肌をスバルに晒す……だがその腕には所々赤い線のようなモノが走り、特にそれらは……手首に集中していた。

 「俺の動脈血……それを、傷口に、注いだ」

 「っ!?」

 本来、人間は他人同士の血液を無闇やたらに混ぜ合わせて良い訳ではない。医学的に行われる輸血とは手術や大怪我などによって持ち前の血液を大量に失った結果に行われる、言わば非常事態を乗り越える為の措置なのだ。全身を駆け巡る赤い液体……その三分の一を失っただけで人間は死ぬ。戦闘機人も例外ではなく、彼女らの自然治癒能力の高さも本来は常人なら命を落としても不思議ではない行動を重ねる事を想定して付与された、即ち守りの為の能力なのだ。

 「お前の場合、血液を大量に失った、と言うのもあるが、何よりも、傷口を塞ぐのが、大きかった。縫合糸は無し、治癒力に、全てを懸けるには、危ない橋だったしな」

 彼が何をしたのかは理解出来る。彼の肉体は頭頂の髪から足の爪、内臓の一欠片、細胞の一片、それこそ血液に至るまでの文字通り全てが毎秒ごとに異常な速度で進化を刻む新生物だ。特にその『再生』の域にまで達した治癒能力は従来の生物ではまず有り得ない力を誇っている……彼以外の戦闘機人は皆、その因子の恩恵にあやかって強力な治癒能力を開花させているのだ。

 「血液を取り込めば、最悪、拒絶反応で、どうなるかは分からなかったが、貴様の中に眠る、俺の進化の因子が、正しい方向に、作用したようだな」

 因子の親元であるトレーゼから直接血液を取り入れる事でその再生能力を局部において実現させ、傷口を無理矢理塞いだのだろう。幸いにも今は拒絶反応や副作用も無い……今のところは。

 だが彼女は知らない……本来ならば傷口を塞ぐ為だけに自身の血液を投与したトレーゼにまさか別の思惑があったとは……。

 「まだ、微粒弾の一部が、体内に、残っているが、問題は無いだろう」

 「そう……ありがと」

 焚き火が徐々に消えつつある……月明かりすら届かない森の一角が元の静寂を取り戻し始め、煙の代わりに木々の青臭い匂いが戻ってきた。周囲に獣の気配は無い、一晩だけなら無事に過ごせそうだ。

 「それで……明日からの、行き先は、決まったのか?」

 「どこでもいいって…………眠いから……もう寝るね」

 「……………………肉を取って来る」

 「えぇ!?」

 急に立ち上がったトレーゼはスバルが制止の声を上げる前に全速力で森の中に突っ込んでしまった。何でいきなり急にまた獲物を仕留めに行くと言い出したのかは分からないが、その一言でさっきまであったはずの眠気が綺麗さっぱり消し飛んでしまったのは事実だった。暗い森の中を突っ切る彼の背を、胸の疼く様な痛みを堪えながらスバルは必死になって追いかけた。

 「ちょ、待って! 待ってってば!!」

 「眠いんだろ? 寝ていろ。俺だけで、行って来る」

 「そう言う問題じゃなくて……う、あぁ!?」

 暗くなっているので足元が見えず、ほんの小さな出っ張りに足を取られてこけそうになる。それを何とか堪えて顔を上げる頃にはトレーゼの後姿はとっくに視界から消え去ってしまっていた……もう気配も何も感じない。

 風の音、木々の葉が揺れる音、フクロウの鳴く不気味な声……そして暗闇。幼少の頃に経験した轟々と燃え盛る火炎とはまた違う、ヒトと言う種族が裸体で生活をしていた頃から遺伝子に刻まれている大昔から続く原始的な恐怖の根源、それが暗闇だった。ヒトの繁栄の歴史は火を生み出し、水流を御し、暗闇を駆逐する事を旨としてきた……奈落の底に通じるとされる原初の恐怖の真ん中に、今スバルはたった一人で取り残されていた。

 「トレーゼ……?」

 返事は無い。念話を飛ばしてみるがあちらからの反応は全く無かった。完全に孤立、鬱葱と生い茂る木々の所為で道は分からなくなり、唯一の手掛かりであったはずの焚き火の光でさえ完全に消え果てしまっていた。眼球に備わっている熱源探知機能を使えば焚き火の跡を見つけられたのだろうが、少し混乱していた彼女の頭ではその方法を見つけることは出来なかった。森の静寂が深まって行くのとは裏腹にその混乱は徐々に大きくなり、せめて彼が戻って来るまでの間じっと待っていればいいものを彼を探そうとして動いてしまい、更に焚き火の跡から遠ざかってしまった。

 「バカ……どこ行っちゃったのさ……」

 脳裏に『あの時』のトレーゼが思い浮かぶ……虚ろな目をして死にたがっていたあの時の彼、あの姿が思い浮かんで仕方がなかった。自分を狙う銃火器の射線にもまるで臆する事無く前に進み出し、その弾丸が自分を撃ち貫くのをずっと待っている彼の背中……今になっても思い出したくない光景だった。まさか自分を振り切って死に場所を求めに行ったのか? 考えたくもない。

 ふと、スバルは無意識に自分の行動に疑問を覚えた。



 何故トレーゼに死んでほしくないのか?



 今まで自分は湾岸警備隊の救助隊の防災士長として幾人もの人々を災害現場から救ってきた……中には一歩間に合わず零れ落としてしまった命もあったが、それでも自分は自分の成すべき事として命を助けてきた。それが自分の理想であり、目標であり、そしてこれからもずっと成されるはずの行いだと信じて疑わなかった。

 だがそれは不特定多数の人間に対して抱く目標だったはずだ。災害現場に居る人間は決して一人ではない……必ずと言って良いほどに災害は人々の居る場所で起こり、そして瞬く間に命を奪っていくからだ。だからこそ、自分の『困っている誰かを助けたい』と言う思いは決して個人ではなくその場の全員に対するモノだと思っていた。

 しかし、今は確かに違っていた。

 トレーゼは犯罪者、それもたった一人で首都を陥落させようとした極大のテロリズムを引き起こした重犯罪者だ。常識で考えても彼は守り助けるべき対象から限り無く遠い存在である事は誰の目から見ても明らかであり、むしろ後々の禍根を考えればここで自ら命を断ってくれると言うのはどれ程魅力的な囁きに聞こえるだろうか……。スバルが恩師やかつての上司のように世の為人の為と言う不動の大義の意思を持っていたならここで何の迷いも無くトレーゼを切り捨てたに違いない……それが最も危険が少なく、且つ最も効率的な方法だからだ。

 それでも彼女はそうしなかった。

 自身の価値観と、正義の観念からも大きく外れた存在であるトレーゼ……本来なら公私共に相容れるはずのない彼にどうしてスバルがそこまで肩入れし、傾倒するのか、それは彼女自身にも分からない事だった。相容れない故に解り合えない二人……否、相容れないからこそ、何かを理解しようとして接触を繰り返すのか……結局、それすらも分かりはしなかった。

 それから何分間歩いたか……気付けばいつの間にか獣道に入り込み、彼女はもう元の場所には簡単に戻れそうに無い所まで来てしまっていた。当然、トレーゼの気配も無い。胸の疼きが止まらない……これ以上無理に動けば傷痕以上のモノが残りかねないだろうが、それでもスバルは足を止めようとはしなかった。やがて木々の暗闇の中で彼女の耳が僅かな音を捉える……そして鼻腔を刺激する植物とは違う匂い……。

 水の臭いだった。

 案の定、臭いのする方向に向かって歩き続けると、スバルは月光を跳ね返して光る小さな湖へと辿り着いた。湖畔には季節の花が小さく咲いており、月光を浴びて葉が淡い光を跳ね返す光景は夜の静けさと相まってとても幻想的に見えた。風にそよぐ草に誘われてスバルは湖畔へと近づいた……それほど深くない為か大きめの生物の影は無く、湖畔の周囲もほんの数分もあれば一周出来るぐらいの大きさだった。

 地面から出っ張っていた岩に腰掛け、スバルは先ほどの自問自答に再び耽った。

 「何であたしはトレーゼを助けたいんだろ……?」

 好きだから? それは個人のエゴだ。

 彼も救うべき多数の一人だから? それも大義名分でしかない。

 だとしても、結局は彼の何を救おうとしているのか? 彼の一番の望みは自死、即ちと言い換えるまでも無く自殺が目的だ。自己を完膚なきまでに否定されて芯を無くしてしまった弱々しい今の彼は、存在する意味を喪失した自分の抹消に意固地になっている……そして自分はそんな彼を阻止するのに意地になっている。だがしかし、冷静に考えれば彼が自死を選択して実行した所でデメリットは何も無い。否、むしろメリットのみが発生する万々歳な状態になるのは明らかだ。

 それでも納得いかない。理性とは違う何か、本能レベルでそれを実現する事をスバルは忌避していた。その理由は自身にも分からない……個人の感情か、それとも掲げた理想の高さが邪魔をするのか、今はどうしても彼に死んでほしくなかった。

 ガサ──ッ!

 「なんだ……ここに、居たのか」

 「トレーゼ……」

 草むらを掻き分けて出て来たのはさっきまで自分から離れて行動していたトレーゼだった。死にに行ったのではない事に安堵しつつ、狩って来た獲物を水洗いするトレーゼの背中を呆然と見つめた。小さい……一時期歩く事すら侭ならなかった自分を抱き起こした大きな体はそこには無く、度重なる戦いでボロボロになった末に自己を否定された小さな背中しかそこにはなかった。その姿を当然の報いと取るか哀れと見るかはさて置き、スバルにとって今の彼はとても放っておけない状態である事だけは確かだった。かつて自分に無骨な優しさを向けてくれたその存在がどんどん小さくなっていく事にスバルは耐え切れなかった……もちろん、あの時の優しさが善人を装っていただけに過ぎない事は百も承知だし、その仮面を被ってノーヴェを騙していた事も事実だ。人を騙し、傷付け、殺せば悪人だ……悪人は悪人らしく報いを受けるのが世の理という物だ。

 だけど……

 それでも……

 「…………トレーゼ」

 「何だ?」

 「あたし、決めたよ」

 「何を?」

 「何があってもあたしは……トレーゼを守る! 守って見せる。あたしに……『トレーゼを守らせて』」

 個人のエゴ? だったら何だ。

 自己の理想? たった一人も救えないで理想を掲げられるか。

 理想も感情も一緒くたにして一体何がいけない、何故いけない……無理を通せば道理が引っ込むと言うのなら、いっそ押し通してしまうだけの気概が無ければ乗り切ることは出来ないはずだ。

 それが……今のスバルが出した精一杯の結論だった。

 そして、そんな彼女の言い分をトレーゼは……

 「好きにしろ。俺は、“答え”さえ聞ければ、それでいい……」

 聞き流す……今の彼にとって自分以外の者が下した決断などどうでも良い些事に過ぎないのだ。彼が真に欲するのは確かに在る自己と言う存在を確立させる為に必要不可欠な“答え”のみ……過去の記憶も、姉の温もりも、もう二度と要らなかった。もっとも、この先上手く自己を取り戻せたとしてその後彼がどのような行動に出るかは誰にも分からない……取り戻した自己、つまり『自分の在り方』によってその行動は大きく左右されてしまうからだ。

 それは追々考えれば良い……先は長いかもしれないのだから。










 彼が獲って来た獲物は夜行性の肉食獣だった。少し筋張っていたが食べられないでもなかったので全て胃に収め、その後は大人しく眠った。湖畔では眠らなかった……小さいとは言え湖は水源、野生動物達が集う場所でもあるのだ。

 地面に仰向けに寝転がって空を見上げながら就寝する……ふと目を開けば、木々の葉の隙間から見え隠れする星の瞬きが見えた。

 「きれいだね……」

 「興味、無い」

 ミッドのクラナガンに住んでいたスバルは都市と自然の中で見る星空が全く違う物だと今初めて知った。あそこでも夜になれば星は見えたが、ここまで澄んだ空はどこにも無かった……いや、むしろ今までは星を眺めているだけの余裕が無かったと言うべきか。六課に入り、そして解散してから三年間、ひたすらに己を磨く事に必死になっていた所為かいつの間にか空を見上げると言う簡単な事さえ忘れていたような気がする。

 「あ……流れ星」

 「そうだな」

 「トレーゼは星の名前とか知ってる?」

 「知らなくても、別に良い。星の名など、たった三つ知っていれば、それで事足りる。太陽……月……そして北極星だ」

 三つとも方角を知る為に欠かせない星だ。太陽と月の場合はそこに時刻を知る事が出来、北極星は確実に方角を知る事が出来る……知識として頭に入れておけば遭難しても方角だけは分かるのだ。

 「あと、何故か、プレアデス星団は、知っている」

 「プレ……ア…………ごめん、何て?」

 「プレアデス。どこかの管理外世界で、確認されている、散開星団の、名称らしい。詳しい事は、俺も知らんが、何やら呼称が様々あるのは、聞いた事がある」

 「ふーん」

 「六連星……羽子板星……………………あっ」

 「? どしたの? 何か見つけた?」

 「いや……別に…………思い出さなくて良い事を、思い出してしまった、だけだ」

 暗闇の中でトレーゼが寝返りを打ったのが分かる……何か都合の悪い事でもあったのかと思ったが、この一ヶ月で彼の性格を熟知していたスバルはあえてそれを聞く事は無かった。別に聞かなくても良い事だし、必要なら黙っていても彼から話してくれる…………そう思いながらスバルの意識は眠りの海に身を投じた。

 明日の朝は……どんな気分で目覚めるのか……。

 ……………………

 …………

 ……










 夢……それが夢だと分かってしまうぐらいに露骨な明晰夢。何故それが夢なのかが分かるのか? 決まっている、目の前の光景はありえない光景だからだ。もう二度と、そうはならないはずの出来事……幸福な記憶かどうかについては分からないが、手が届かないのだけは確かだった。

 目の前に居る人物が手を差し伸べる……だがその手は取れない、取れるはずがない。何故なら、かつて自分が伸ばした手を振り払って拒絶したのは他でもない目の前の人間だからだ。恨む訳ではないが、何故一度拒絶された手を今一度取れようか。

 それにこれは結局現実ではなく夢の話なのだ……。

 (…………くだらない)

 そう考えながら踵を返す。

 だが今度は別の誰かが手を伸ばして来た。さっきとは違う人間……不本意ながらもこの先自分と行動を共にする事にした少女の手だった。

 夢はその者の深層心理を投影すると言うのなら、自分はこうされる事を誰かに望んでいるとでも言うのだろうか? 例えそうだったとしても自分は……

 (勘違いするなよ。俺は貴様を利用するだけだ……貴様とは天と地が引っ繰り返ったとしても共存など有り得ない)

 そうだ。

 もう自分は誰かの為に行動するのではない! そうさ、これからは……己の為だけに行動し、利己的に存在してやるだけだ。あの女も今は自己を確立する為に利用しているだけに過ぎない。用済みとなった時には礼も言わずに始末してやるだけだ……あんなモノは肥料、養分でしかないのだから。“答え”は得られずともそれだけははっきりしていた。

 もうすぐ目が覚める。そうなれば自分の隣にはあの忌々しい女の姿があるのだ。

 考えただけで嫌気が差す……。










 11月28日、早朝。目を覚ますと──、



 異変は既に始まっていた。



 鼻を突く異臭……その原因が自分の隣の地面に撒かれた吐寫物の所為だと分かるのに時間は要さなかった。そして現時点、嘔吐行為を起こしそうな人物など限られている訳だが……

 「……どこ行った、あいつ」

 恐らくまだ嘔吐を繰り返しているであろうスバル本人はそこには居らず、代わりに移動したであろう場所に向かって転々と道標のようにそれが続いていた。辿って見ると意外と近くに彼女は居た。地面に蹲り、耳障りな呻き声を上げながら胃の内容物を吐き出していた。

 「おい、何やってる」

 「トレーゼッ……ゲ、ェ! 近づいちゃダメ……」

 見た感じもう胃の中には何も無いだろう。その証拠に吐き出される液体はその殆どが胃液で、昨日の獣の肉は入って無かった。

 「何かの、感染病かもしれない……。昨日食べた肉に寄生虫とかが……」

 「診せろ」

 引き離そうとするスバルを押し切り、トレーゼは彼女の背中に自身の手を置いた。その瞬間に掌から真紅の擬似魔法陣が展開し、数秒間その状態を確認したトレーゼは──、

 「なんだ……そんな事か」

 さもどうでもいいと言わんばかりに呆気なく、彼はスバルを置いて元の場所まで戻ろうとした。

 「ま、まって……あたしの体、どうなっちゃったの!?」

 「……嘔吐前に、熱を引き起こしたか?」

 「う、うん」

 「だったら、上出来だ」

 「待って、ちゃんと説明して! あたしに……何が起きてるの?」

 自分の体の事だ、異常があって尚且つその事について心当たりがあると言うのなら知っておきたいのが当然だ。スバルの追及にトレーゼはこれ以上無いくらいに露骨に溜め息をつき、面倒そうに向き直った後、真相を告白し始めた。

 「貴様の体から、弾殻を取り除いた時の、傷口の話しはしたな。縫合糸が無いから、俺の血液の、再生力を利用した……覚えているな?」

 「うん……あたしの為にトレーゼが……」

 「貴様の為? 何バカな事を言っている。貴様を生かすのも、そうする為に俺の血を使ったのも、全ては俺自身の為だ」

 「なにを……言ってるの?」

 「俺の細胞は、覚醒したあの日から、常に進化している。もはや、兆単位の細胞全てが、一個体の生物と、考えても良い。例え一握りの、血液とは言え、大量の『俺』を、一度に体内に取り込めば、当然、変化が起きる。いや……この場合は、変化ではなく、変質、あるいは生物学的意味の、変態と言うべきか」

 変態……一般的には、昆虫が幼虫から蛹の段階を経て成虫になるのを完全変態、蛹にならずに成虫になるのを不完全変態と言う。共に幼虫が生殖能力を獲得する為に必要な現象だが、当然トレーゼが言わんとしている事柄がそんな事ではないことぐらいスバルも予想がついていた。

 彼女自身が抱く予想が正しいのなら……その言葉の真意はつまり──、

 「俺の血液は、言うなれば、ミトコンドリアだ。貴様はそれを、吸収し、高次の生物へと、進化を果たそうと、している。おめでとう、スバル・ナカジマ────、」



 「俺と貴様は、たった今から、同族だ」



 取り込んだ血液に含まれていた大量の“無限の進化”の因子は今着々とスバルの肉体を遺伝子レベルで再構築しようとしていた。ヒトの形をしていながらヒトとはまったく別次元の存在……通常生物が何千年何万年と掛かって行う進化をたった数年で成し遂げる異常生物へと。急な発熱と嘔吐は肉体が急激な変化に対応し切れずに起こした一時的な拒否反応に過ぎなかった。それを乗り越えた今、スバルの肉体はオリジナルたるトレーゼには遠く及ばないものの、確実に同じ戦闘機人とは一線を画する存在へと成ろうとしていた。

 だがしかし──、

 トレーゼの真の狙いはそこには無かった。

 「どうしようって言うの……あたしを」

 「こうするのさ。『アブソリュート・ドミネイター』、発動」

 悲鳴を上げる間も無くスバルは自分の意識に異変が表れるのを覚えた。精神攻撃による意識の乗っ取りと言うよりは、それとはまるで違う……まるで脳髄全体が溶け出してしまうような未知の感覚に彼女は一度立てた膝を屈し、地面に蹲った。

 今トレーゼが行使している能力をスバルは知っている……。全ての電子機器と12人のナンバーズに対してのみ有効な、トレーゼだけが有する特殊技能……アブソリュート・ドミネイター。特にナンバーズに対しては電子機器のような単純な意味での操作に留まらず、対象の脳に存在する意識を上書きし、その肉体、筋肉から神経に至るまでの全てを自身の子機として使用する事が可能となる悪魔の力だ。スバルが知る由は無いが、この能力の影響を長時間受けたノーヴェの脳は現在とても深刻な状態に陥っている。

 「やはりな……今の貴様の体は、この俺と同位の状態だ。であれば、この能力が無効である、はずがない」

 現存する全ての戦闘機人にはトレーゼの“無限の進化”を司る因子が固定剤として含まれている……アブソリュート・ドミネイターは対象の心理状態によってその因子の覚醒具合が変化し、今のスバルはその覚醒の度合いが最高潮に達している状態に等しかった。

 「つまり、貴様は俺の呪縛からは、逃れられない。どうせ、俺の要求を呑む振りをして、隙を見つけて、逃れようとしていただろうが、生憎だったな!」

 スバルがトレーゼに対する命令権を得たように、逆にトレーゼもスバルに対する支配権を獲得してしまったと言う事だ。どちらが優勢かは一目瞭然、もはや比較するまでも無い……最初からトレーゼはこれが狙いだった。

 自己を取り戻すまではどうしてもスバルが必要だ……だが今は協力的でもいつ彼女が手の平を返すかは分からない……だったら簡単だ、強制的にでも離れられないようにしてしまえばそれで良いだけの事だ。アブソリュート・ドミネイターの効果はまさに絶対的、発信源であるトレーゼは操作出来ても操作される側は決して拒絶する事は出来ない。

 常人なら憤慨、或いは絶望するだろう。この先自分の体は自分のモノではなくなり、その全権は余す事無く人外に委ねなければならないのだ……屈辱と怒りに体を震わせ、一生逃れ得ぬ絶望に気が狂いそうになったはずだった。実際トレーゼもそうなる事を期待していた。自分と同じ所まで堕ちるに堕ち切り、自分から離れられなくする事で己に対する“答え”を強制的に得ようとしていた。

 だが──、



 彼の予想は大きく裏切られた。



 怒りに染まった顔が見られると思っていた。

 絶望に打ちひしがれる表情を拝めると思っていた。

 だがしかし……己の目的を語ったトレーゼがそこに見たスバルの表情は──、

 笑顔、だった。

 「……何故、笑っていられる!? 貴様、自分の置かれている状況が、理解出来ていないのかっ!」

 アブソリュート・ドミネイターは効果が長時間持続すればする程に脳が浸食され、最終的には支配され続けて居なければ生存する事も不可能となる……生かすも殺すも自由にされる恐怖に晒され、常人なら決して平静を保っていられないはずなのに…………彼女は笑ってた。

 訳が分からない!

 何でそんなに落ち着いていられる?

 どうしてそんな穏やかな顔をしていられる?

 何故……



 そんな優しい視線で俺を見るのだ?



 「あたしはトレーゼから離れないよ……。そんなことしなくてもいいんだよ、あたしは絶対に離れたりなんかしない」

 「ッ……!」

 それが我慢の限界だった。瞬時にISを解除したトレーゼは戦闘行動の動きでスバルとの距離を詰め、彼女の頬を蹴り飛ばした。その姿につい最近まで仮初めと言えども見せていた優しさは欠片も無く、蹴り飛ばされたスバルは森の木に激しく体をぶつけた。

 「ふざけるなよ、セカンド! 貴様に笑われ、蔑まれる道理はあっても……哀れまれる道理は、一切無い!!」

 自分は堕ちる所まで堕ちた、更に侮蔑や嘲笑の追い打ちを受けるとのなら敗者の使命として受け入れるはずだった。だが、自分はこんな慈愛に満ちた視線を求めてなどいない! 自分は最早希望に縋る事さえ捨てた……頼らず、縋らず、甘える事も無く生きて来て、そしてこれからもそうして没していく…………こんな所で慈悲や施しを受けるような軟弱な精神は持ち合わせてなどいない!!

 だからその腹いせに彼女を蹴り飛ばした。誇りなど無いしプライドも無い、これが違う人物に同じ事をされていてもその場合は軽く受け流して無視しただろう。だがこの場合は違う、相手がスバル・ナカジマだからこそ彼はここまで憤慨したのだ。

 「機械人形が……! 俺に……この俺に、情けをかけたつもりか!? 自惚れるなよ、貴様はただの、道具だ! この俺に、自我を取り戻させる為の、ただの道具なんだよっ!! こちらが弱みを見せたから、自分が優位に、立ったつもりか!!」

 碧い髪を何の遠慮も無しに掴み上げ、その顔面を殴打する……口の端が切れた事で血が飛び出し、殴られた反動でそれが地面や木の幹に飛び散った。短い呻き声を上げてスバルが一瞬身を捩るがそれをトレーゼは許さず、更に反対側の頬を殴る。それを何度も何度も繰り返す……傍目に見ている者が居ればとっくに制止の声を上げているだろう回数を殴っても彼は止めない、ただひたすらに苛立ちに身を委ねて全力で殴り続けた。

 やがてそれが何十秒、いや、何分続いただろうか……?

 その怒濤の如き一方的な殴打の嵐が止まったのは本当に急だった。急に我を戻したかのように不意に拳を下ろしたトレーゼは、それまで親の仇を討つように激しく殴っていたスバルを無視すると彼は自分が眠っていた場所まで戻って行った。

 スバルにはその背中が何だか危なっかしく見えて仕方が無かった。だから彼の背を追って自分も軋みを上げる体に鞭打って戻った……。

 だが……

 「一つ、言っておく……。もう俺は、何も、信じない…………貴様も、周囲も、そして俺自身も……もう何も、信じない。頼らない、縋らない、甘えない……そして、信じない。貴様は、俺に何を期待しているかは、知らないし、知りたくも無いが、これが俺の、貴様に対する“答え”だ!」

 拒絶……自身が姉だと思い込んでいた者にそうされたように、トレーゼがスバルに対して出した答えがそれだった。

 「ト、トレーゼ……」

 「近寄るな! この悪魔がっ!」

 「っ!?」

 「何が、俺を守るだ……バカにして。俺は、貴様なんかに、守ってもらわなければならないほどに、落ちぶれた覚えは無い!!」

 その言葉を最後にトレーゼは荷物の一部を引っ提げると茫然自失となっているスバルを置いてどこかに行こうとした。当然彼女はついて行こうとしたのだがトレーゼの視線に完全に気圧されてしまい行き先すら聞けなかった。

 「一日だけ、ここを離れる。好きに、移動していろ」

 「どこに……行くの?」

 「どこであろうと、貴様には関係無い。ついて来るなよ、来たら……次は、また足を切る」

 有無を言わせないその言葉に怖気づき、スバルは跡を追う事は出来なかった。いや、例えそうでなかったとしても彼の跡を追う事はどの道出来なかっただろう……。

 足元に展開した真紅の魔法陣が輝いた次の瞬間にトレーゼの姿は無く、彼が次元転送によって別の世界へ移動した事を証明していた。










 数分後、次元間転移のタイムラグを経てトレーゼが到達したのは、とある無人世界の一角にある違法研究所だった。かつてスカリエッティが使い捨てにしたラボの一つ……と言えば分かり易いだろう。オリジナルのトレーゼがハルトの譲渡された後で作られたので、彼自身はここに足を踏み入れるのはこれが初めてになる。過去の行動記録の中にあった情報を頼りにしてここへ来たのだが、トレーゼとしてではなく“13番目”としてここに来たのは皮肉なものだ……。

 恐らくここは管理局が押さえていない数少ないラボの一つだろう。今更ここで何をするでもないが、彼がここへ来たのには一つだけ理由があった。その理由が……

 「あった……」

 大量の塵や埃に塗れていた収納スペースを抉じ開け、彼が取り出したのは……ビン、きっちりと封が成された中に銀色の液体が入ったビンだった。それも一本や二本ではなく、スペースに収められているその数はざっと見て二十本……総じてその全てに正体不明の銀色の液体が封入されていた。

 「これを使えば……ある程度は……!」

 『My lord, the act is very dangerous.(その行為は危険です)』

 「マキナ、黙れ。これは、必要な行為だ。あんな奴の、憐憫を被らなくて、良いようにする為に、必要不可欠なんだよ」

 『But...』

 「くどい。お前は、俺の、ストレージだ……黙って、俺のサポートに、徹していれば、それで良い」

 『...Yes, my lord.』

 「…………それでいい。手早く、済ませるぞ」

 ビンの一本を手に取り、もう片方に注射器を取る。そして液体を吸い上げた針先を今度は自分の腕の肌に突き立てた。

 「さてと……上手く、順応するか……。いや、愚問だったか……俺は“13番目”、無限に進化し続ける、正真正銘の怪物…………だったら、問題は無いな」

 金属の細い針が刺さる……鋭い痛みに眉一つ動かさず、代わりに彼は呪詛のような言葉を漏らす。

 「見ていろ……セカンド。俺は、貴様なんぞに、守ってもらわなくてもいい! 俺の行く先は、俺が決める! 貴様はただ、俺に“答え”を授ければ、それでいい!」

 依存はしない、したら負けだ。心が折れかかった自分にとってあの言葉がどれ程に魔性に満ちた魅惑の声に聞こえたであろうか……なびいてしまえば、その言葉を信じて縋れればどれだけ楽だったかは想像に難くは無い。だがしかし、もう既に自分は頼る事も縋る事も甘える事すら止めてしまった身の上……例え複製の記憶に基づく紛い物であったとしても、この信念だけは揺らいではならない……揺るがせてはいけないのだ。

 だから『悪魔』……甘言を以ってして近寄り、そして誑かして堕落させる存在……。それを悪魔と言わずして何と言うのか? 今のトレーゼにとってスバルは距離を置くべき悪魔、“答え”を得る代償として堕落してしまっては元も子もない……零落しても堕落はせず、それが今の彼の信念だから。

 だから彼は孤立する。

 差し伸べた手を取りもしないから。

 しかしそれを指摘する者は誰も居ない。

 何故って?

 決まっている……。

 彼の知る『世界』には自分を認識してくれる存在はただ一人の例外を除いて誰も居ないから……。

 そして、そのたった一人でさえ彼は拒絶した。神話に登場する世界で最初に生まれた男女がそうだったように、甘言のリンゴを手に取れば堕落すると分かっていた。だから手を取らずに突き放した……堕落という名の解決より、更なる零落の逃げ道を選択したのだ。

 それが正しい選択だったかどうかは誰も知らない、知る由も無い。たった二人……同じ歯車が噛み合わないように、同じ磁極が反発し合うように、トレーゼはスバルを拒絶し、スバルもまたトレーゼの真意を知る事は無い。

 互いに解り合えないままどこまでも落ちて零落して行く。

 どこまでも……

 どこまでも。



[17818] ヒツキボシ   ※残酷な描写注意
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/07/01 16:34
 11月29日、午前0時15分。彼は突然戻って来た。

 森の中をずっと移動していた彼女の位置をどうやって把握したかは知らないが、それでも彼は24時間以内に戻ってくると焚き火を焚いて待っていたスバルの所へと再び姿を現した。その表情が去った時と比べて異様にやつれている様に見えたのは決してスバルの気のせいではなかったはずだ。実際、キャンプに戻ってきた時のトレーゼの足取りはアルコールを大量摂取した酔っ払いの如く危なっかしく、地面に腰を降ろそうとした時は危うく焚き火に頭から突っ込みそうになったほどだった。

 当然スバルは何があったのかを聞こうとはしたのだが、その時のトレーゼの視線は例によって「何も聞くな」と言う拒絶の意思が殺気を交えて含まれていた。結局、次の日の朝になってみれば昨晩の様子が嘘のようになっており、目覚めた彼の足取りは元通りになっていた。顔色の方はまだ少し冴えない感じだったが行動に支障は無い様だったので深く追求はしない事にした。

 だが──、

 「ここを行けば…………ぅお?」

 「トレーゼ!?」

 川沿いに歩いて町を目指そうとしていた時、不意にトレーゼがバランスを崩して地面に手をついたのだ。岩が集中した足場の悪い所を歩いていた訳ではないのだが、それでも彼は何かに躓いたかのように体勢を崩してしまった。差し伸べた手はまた弾かれたが、それでも気になったスバルは眼球に備わる物質解析機能を用いて密かに彼の体に何が起こっているのかを調べようとした。

 その結果……。

 (どう? マッハキャリバー)

 『(肉体面に異常は見受けられません。内部基礎フレームも順調そのものです)』

 そう、スバルの懸念とは裏腹にトレーゼの肉体は至って健康そのものだった。救助隊にいた時に学んだ知識を総動員して異常を見つけ出そうとしたがそれは徒労に終わり、結局はただ単に体の調子が少しおかしいだけと思うことにした。それから小川に沿って数時間歩き、やっとの思いで辿り着いた町で二人は食事を取る事にした。

 だが……

 「どうしよう……お金無いよ、あたし達」

 そう、別次元からの渡航者、しかも違法渡航者である自分達は今この世界のこの地域に流通する通貨を一つも持っていない。そして正当な売買方法で物品を得るには総じて例外無く金銭が要る……このジレンマをどう解決するかだが──、

 「なに、簡単だ。スレば良い」

 「スル……って、ダメだってそんなの! 犯罪だよ!」

 「歴史に、名が残るかもしれない、犯罪者と同行する、貴様が言うか。見てろ、一瞬で終わる」

 そう言ってトレーゼは右手をかざした。その指先は少し離れた屋台で果物を買っている婦人を狙っており、最悪の場合を想像してしまったスバルは急いでその手を掴んだ。

 「まさか殺すつもりじゃ……!」

 「この白昼、そこまでするつもりは無い。まぁ、見ていろ……」

 再びトレーゼがその指先を目標に定める。方法は分からないが、魔力弾を頭に当てて気絶したところを強奪か、それとも【旅の鏡】で財布の中身をダイレクトに抜き取るかのどちらかだろう。むしろそれ以外の方法があるのなら検討もつかない、一体幾らぐらいの額を盗み取るのかは知らないが今後二度とこの様な事をしないように──、



 「終わったぞ」



 「…………え?」

 スバルは一瞬、自分の耳を疑った。

 終わった? 何が? そんなのは一つしか無い、スリ行為が終わったと言っているのだろう。実際、彼が婦人に向かって向けていた手の中にはいつの間にか財布が収まっており、当の盗られた婦人もその事に気付いた風も無くそのまま別の屋台へと向かって行った。彼女が財布を無くしたと気付くのはもう少し後になるだろうが、その頃にはもう既に遅いだろう。

 「金の管理は、貴様に任せる。持っていろ」

 「あ、う、うん」

 盗品と他人の金銭を預けられても信用されているのか何なのか複雑な気分だが、戦闘で激しい運動をするトレーゼに比べれば持っていて無くす確率は少ないはずだ。

 しかし分からない……。さっきのスリの時にどうやって彼が婦人の財布を盗ったのか。魔法を発動したならスバルが気付かないはずは無いし、かと言ってISではあの状況で有効的な用途を持つ物は無い。もちろん、単に手を伸ばしただけではとても距離が足りないのは明らかだ。なら一体どうやって盗んだのだろうか?

 そんな事を気にしながら手頃なファーストフード代わりになりそうな食品を探して歩いていたスバルの目にある物が映った。

 「これって……」

 それは財布の表面の小さな穴……小指の先程度の小さな真新しい穴が財布の表裏両面を貫通する形で開いていた。断面は彫刻刀で刳り抜いたかのように鮮やかで、刃物、或いは巨大な穴開け機で開けたようにも見えた。とても元からのデザインで開いていた穴には見えない。

 だがそれとは別にもう一つ、彼女の目に留まったモノがあった。

 それは穴の断面を指先でなぞった時に指先に僅かに付着した赤い液体……血だった。どうしてそんなモノが付いていたのかは知りもしないが、その時スバルは名状し難い不安を背中に感じ一人で震えた。










 「それで、これから、どこへ行く」

 町の中央にある小さな広場で食事を済ませた後、スバルとトレーゼは特に行く宛ても無いのに町を出ると風の吹くまま足の向くままに移動を始めた。正直言って聞かれたスバル自身にも明確にどこへ行こうという考えは無い。単に一箇所に長居出来ないから移動するだけだ、他に思惑なんて無い……。

 無言の返答にその事を察したトレーゼは黙って魔法陣を展開させ、次元転送のチャンネルを開いた。転送先の次元世界は管理外世界である事を除いては特に指定はしない……不自然に意図を交えて移動して足取りを掴まれる事を考えれば、無作為に選んで移動した方が遥かに良い。

 数分のタイムラグの後、二人の目の前には赤茶けた岩山がそびえ立っていた。水分が殆ど無い乾燥した風が流れている辺り、どうやら数日前に足を運んだ次元世界と同じような砂漠の真ん中にやって来たようだった。まだ風が涼しげな所を見る限り恐らく時間帯は早朝だろう、地平線の向こう側は既に朝焼けが大地を照らしている。取り合えず人の住んでいるような町か集落を探そうと思い、小高い岩山の上に登ろうとしたトレーゼだったが──、

 「お前ら! こんな所で何やってる!!」

 背後から響いたその怒声にトレーゼの殺気が膨れ上がる。相方の殺気が破裂寸前の風船のように膨れ上がるのを肌で察知したスバルも思わず身構えるが、自分達に声を掛けてきた者に敵意が無いと知ってすぐに戦意を収めた。

 「ここは立ち入り禁止だぞ! 部外者はとっとと出てけ」

 歳は恐らくエリオやキャロよりも幼いだろう……通気性に富んだ布を編んで作られた民族的意匠の衣服を身に纏い、頭には鳥の羽を挿した帽子を被っていた。多分この世界のこの地域に住まう住民の子供なのだろう、足場の悪い岩場を歩いてここまで来て息も上がっていないのはそうする事に慣れているからと考えれば納得が行く。

 「旅人さんか?」

 「ああ、長期旅行者だ」

 「ふ~ん……」

 取り合えず砂漠の移動者を狙った強盗の類ではなかったので良かったが、少年の視線はむしろこちらの事をそれらの輩と同じ類のように見つめていた。単に旅行者が訪れるのが珍しいのか、或いは過去にそう言った輩が実際に居たのか……もっとも、長居するつもりは毛頭無いのでそう言った裏事情など知ろうとも思わないが。

 やがて少年は警戒を解いた。旅行者と言いながら荷物が少ない事を怪しんだようだがその他に何も咎められるような代物を持っていなかったからそれ以上は何も言われなかった。

 「お前、ここは立ち入り禁止なんだぞ」

 「さっき、聞いた」

 「ならさっさと出てけ! どうなったって知らないからな!!」

 「引き止めたのは、貴様だろ」

 「う、うるさい!! とにかくっ、ここはウチの部族以外が来たらいけな────ッ!?」

 少年の言葉が途切れる……急に地面に跪くと耳を地面に押し当てた。程なくして……

 「まずいっ!!」

 飛び上がるようにして立ち上がると、少年は急いで岩山を転がるように駆け下り始めた。その後姿に尋常ならざるモノを感じながらもスバルは呆気に取られてその場を動けず、トレーゼはそんな彼女が動かないので同じくじっとしたままそこに立ち尽くしていた。ふと目の前を先行していた少年がこちらを振り向いた。その表情は驚愕に彩られており、何かを必死に叫んでいた。

 「バカッ! 何やってんだよ、早くこっち来い!!」

 「ねぇ! どうしたの急に!?」

 「説明してらんないよ!! ぅわああっ、来たぁー!!」

 逃げ惑う少年の視線の先……その先に見えたモノを確認した時、スバルとトレーゼは本当に固まってしまった。視線の先には赤茶けた岩山とその向こうに見える青い空に白い雲……そして──、

 「な、なな、なにあれ……!?」

 「…………竜だ」

 その岩山の上からこちらを睥睨する一頭の巨大なトカゲ、否、竜だった。僅かに開いた口から除く牙は間違い無く肉食性の証左……自然界の食物連鎖の頂点に君臨する最強の生物、それが今、二人の人間に狙いを定めていた。

 「ッ!!」

 トレーゼの判断速度はまさに神速だった。足元に擬似魔法陣が展開されたかと思った次の瞬間にはスバルごと彼の姿は数十メートルも移動していた。恐らく辺境の出身以外の魔導師で天然モノの竜の危険度を最も強く認識しているのはトレーゼだろう……彼自身、竜と接触したのはこれが初めてだがその危険性については重々承知していた。彼にとって飼い馴らされていない野生の竜とは、現存する魔導師と騎士を敵に回してでも決して真正面からはやり合いたくない相手なのだ。持てる限りの全ての力を推力に回した【ライドインパルス・アクセラレート】で彼は地平線の向こうを目指して逃走を試みる。

 「ちょ、ちょっとトレーゼ! タイム! タイム!!」

 「この状況で、待てるか!」

 「あの子も助けてあげてよ!」

 そう言ってスバルが指を差すのは、この世界に来て最初に出会い今は遥か後方に置き去りにして来た現地人の少年だった。飛行する人間を初めて見た所為か呆気に取られていた所に竜が迫り、今やその相対距離はちょっと走ればすぐに追いつけるぐらいにまで縮められていた。もちろん、ここで言う「ちょっと走れば」と言うのは少年ではなく竜の話だ。いや、ひょっとすれば舌を伸ばしただけで足を引っ掛けられるかも知れない……。

 「……先に、行っていろ。あの小僧の言っていた、『部族』の集落が、近くにあるはずだ」

 スバルを地面に降ろしてターンするとトレーゼは少年の元へと一直線に飛翔した。ものの数秒も掛からずに逃げ惑う少年の元へ辿り着いたのは良いが、問題はそこからだった……。ナワバリを荒らされた事がよっぽど腹立たしかったのか、或いは空腹なのか、一騎当千の戦士ですら怖気付く睨みを利かせても全く動じないどころかますます怒らせる結果に終わった、どうやら執拗になっている原因はその両方かもしれない。

 とにもかくにも、今はこの場を大急ぎで離れるのが先決だ。

 「小僧、掴まっていろ」

 「こっ、小僧じゃないやい! オレにはちゃんと名前────がふぁっ!!?」

 つべこべうるさく言う前にその小さな体を抱えトレーゼは圧死寸前の速度で離脱を図った。相手の竜が羽の無いタイプで良かった、もしあれがトカゲ型ではなければ今頃とっくに背中の翼を使ってでも捕食しに来ただろう。竜はしばらく空に飛び上がった獲物を憎々しく睨んでいたがやがて諦め、自分の巣がある岩山の向こうまで引き返して行った。取り合えずは安心して良さそうだが、問題は脇に抱えた少年の身柄だ……この近くに彼らの家族が住まう集落があるはずなのだが……。

 だが、この時トレーゼは別の異常事態に気が付いた。

 「…………セカンド?」

 地表に降り立って周囲を見渡すが先に逃げていたはずのスバルの姿がどこにも見当たらない……。岩山があるのは自分の後方、彼女が逃げた先には視界の妨げになる様な障害物は殆ど無い、なのに彼女の姿だけが見えない。病み上がりで魔法の使用を自粛している彼女の足で地平線の向こうまで駆けて行ったとも到底思えない……なら一体どこにどうやって消えたと言うのか?

 「どこに、行った……。セカンド、セカンド!」

 トレーゼの言葉尻に徐々に焦りが見え隠れし始める。だが僅かに残った理性の冷静な部分が状況を分析し、大気中に紛れ込んでいたスバルの魔力残滓を捉える事に成功していた。そしてその過程でもう一つ、砂の地面に刻まれた大量の足跡を発見し、それが人間の物ではない四足歩行をする動物のものだと判明するとトレーゼはすぐに少年に掴み掛かった。

 「おい! 貴様の言っていた、部族の集落は、どこにある!!」

 「こ、この先を真っ直ぐ行ったら……!」

 「行くぞ!!」

 「あ、ちょっと待っ……てぇえあああぁああっ!!!」

 再び少年の体を引っ掴んで飛行し、砂地の足跡を辿って集落を目指す。草木が乏しい砂漠で群れを形成する動物はまず居ない……居るとすればそれは砂漠に暮らす民が移動用に使う飼育されたものだけだ。そしてその足跡を辿れば必然的に彼らの住まう場所に辿り着くだろう。

 トレーゼの予想通り、数分ほど飛行したその先に小さなオアシスが見え、その周辺には獣の皮を加工して作られたテントが幾つか建ち並んでいた。スバルの魔力反応はその中の一番大きなテント、恐らく族長の家屋の中に感じられた。

 「……マキナ!」

 『Form of“Cross Mirage”.』

 所有者たるトレーゼの命令で指輪状に待機していたマキナは一瞬でその形状を漆黒の二丁拳銃に変化させ、左手に収まった一丁は更に銃口から紅い魔力刃を展開した。そしてその刃を少年の首筋に当てる……。

 「な、何すん……!」

 「喋るな。命が惜しいなら、黙っていろ」

 静かに声にドスを利かせて少年を黙らせた後、彼はテントの中に突入した。入り込んだテントの中には数人の住民と、その彼らに囲まれるようにして座っていたスバルの姿……瞬時にそれぞれの対象との距離を目算で割り出した後、トレーゼは右手に持ったもう一丁の銃口を彼らに向けた。もちろん、左手の方は少年の首筋を捉えたままだ。突然の侵入者に族の者達は一斉に立ち上がろうとしたが──、

 BANG!

 空砲一発、天井に向かって撃ち出した。その音に完全に気圧された彼らは武器である槍や弓矢も手に取れず、じっと現状を見守る事にした。ここまでは計画通りなのかトレーゼも余計な発砲はせず、次に銃口を天井から彼らに向け直した。

 「要求、その一。五秒、やる……両手を頭に乗せ、腹這いに伏せろ。一秒でも遅れれば、こいつを殺す」

 「ちょっとトレーゼ!?」

 「要求、その二。そこに居る、セカンド……もとい、スバル・ナカジマを、こちらに引き渡せ」

 「ちょっと、話を聞いてってば!」

 「要求、その三。俺達が、ここを完全に、離脱するまで、追っ手を差し向けようと、考えるな」

 「ちゃんと話を…………聞いてってばぁーっ!!!」

 ボグッ!

 人体を殴った割にはかなり鈍い音が響いた様な気もするがその部分は割愛しよう。重要なのはスバルの利き腕ではないその一発を顔面に受けたトレーゼが後ろ向きに転び、尻餅をついたと言う事実だった。その瞬間に彼が抱え込んでいた少年は解放され、両親らしき二人の男女に飛び込んだ。

 「何をする、セカンド」

 「何してんのはそっちだよ!! いきなりなんて事してるの!!? あ、謝って! ほら! 皆に頭下げて!!」

 無理やり頭を押さえつけられてお辞儀……。正直、先ほどの事態を目の当たりにしていない者がこのタイミングでやって来てもただのコントか何かにしか見えないだろう。実際それまで場を支配していた身が裂けそうな緊張はどこへやら、族長らの表情も驚きから呆れに変わりつつあった。

 「あー……取り合えずなんだが、これまでの経緯を整理させてくれんかな?」

 族長らしき老人の一言がきっかけでこの場の混乱はひとまず収まりを見せた。










 正座してトレーゼに説教をしながらスバルはさっきの彼の様子について一抹の疑問を覚えていた。

 あの時、自分は思わずトレーゼの顔面を殴ってしまい、その結果として彼は体勢を崩した……。あの混乱極まった場を収めるにはあれ以上無い行動ではあったのは確かだが、その時に感じた一つの『違和感』がどうしても引っ掛かるのだ。

 顔面を殴ったあの瞬間、スバルは自分の左手にとても人間の体を殴ったとは思えない様な固い感触を感じていた。全身を骨格及び内臓に至るまで改造している戦闘機人とは言え唯一頭蓋骨だけは手付かずと言ってもいい……なので、顔面を殴った時の感触は常人と同じでなければおかしいのだ。だがあの時の感触はまるで壁でも叩いたような反動が腕に伝わって来た。

 それにもう一つ、おかしいと感じた違和感がある……。

 それは殴った直後にトレーゼが尻餅をついた事だ。自分が殴ったのは確かに不意打ちにも思えただろうが、だからと言ってあのトレーゼが体勢を崩してしまうようなパワーで殴った覚えは無い。その証拠に顔面を正確に捉えた割には鼻血すら出ていない……朝と言い、今さっきと言い、何か様子がおかしいとしか思えなかった。

 でもスバルは追及しない……。いつか目の前の彼が心を開いてくれればその時に話してくれれば良いと思っているから……その時が来るまでは見守ろうと固く誓っていたから……。










「いやぁ、それはそれは。遠い所からはるばるこの砂の海を……。何のお持て成しも出来ませんが、うちの孫を助けて頂いたせめてもの礼です。どうぞゆっくりなさっていってくだされ」

 数分後、スバルの必死の弁明でトレーゼの誤解は解け、二人は族長である長老の住まいで一服させてもらっていた。素性を明かす事はしなかったが自分らの事について何も語らないのは怪しまれると思い、「海の向こうから来た長期旅行者」と言う事にして誤魔化した。やはり砂漠の真ん中なので旅人が珍しいのか、長老とその息子も「昼の砂漠は移動するには厳しいから」と言い、見ず知らずの他人である二人を日が暮れるまでの間はと引き留めてくれた。

 もっとも、中には好意的ではない者もいた訳だが……。

 「……………………何だ?」

 「イーっだ!」

 トレーゼが竜から救出し、先ほどまで人質に取ろうとしていた少年は彼の事を毛嫌いしていた。この子は長老の孫であり、現在この集落でもっとも年若い人間であった。父親が言うには昔から聞かん坊らしく、今日のように集落から離れては竜のナワバリ近くまで行く事も多々あるらしい。

 「これっ! お前はもう少し礼儀と言うモノを弁えんか!」

 「だってオジジ……こいつらさっきまでオレの事……」

 「やかましいっ!!」

 「うぅ……」

 祖父に注意され頭を項垂れるが、その憎々しげな視線は相変わらずトレーゼを睨み付けていた。当の睨まれている本人は涼しい顔をしているが、そのまた隣にいるスバルとしてはいつまた面倒な状況にならないか戦々恐々としていた。

 元を正せばこの辺りを見回りに来ていた村の者にスバルが案内され、それを何らかの理由で連れ去られたと勘違いしたトレーゼの所為でややこしい事態になったのだから、非の大半はむしろこちらにある訳で……。こうして身内に怒られているのを見ると複雑な心境になるのはどうしようもない。

 「もういい! 兄貴たちと一緒に狩りに行ってくる」

 「待ちなさい! 村の習わしでお前は狩りに参加する事は……」

 「もうそれも聞き飽きたってば! オレは行くから、じゃあね!」

 「こ、こら! 待ちなさい! ……はぁ、済みません、お見苦しい所を」

 「元気な子ですね」

 「元気が有り余り過ぎるのも考え物と言いましょうか……。我が子ながら手を焼かされてばかりです。本当にどうしようもない……」

 父親はそう言うと溜息を吐きながら席についた。どうやらさっきのやり取りはしょっちゅうらしく、狩りに参加出来ないと言うのは成人と認められていないか、或いはそれに伴う通過儀礼を済ませていないからなのだろう。何も知らない他人なら子供と言うのはあれ位が丁度良いなどと言えるのだろうが、幸か不幸か竜のナワバリに近寄る光景を見てしまったスバルにはそう言う事は言えなかった。

 「これからどちらへ?」

 「町を目指してます。海沿いの町へ行ければと」

 「ああ、町でしたら丁度良い。二日後にはここを馴染みの隊商が通ります。彼らに付いて行けば町まで最短ルートで行けます。二日間ここで旅の疲れを癒やして行ってください」

 「そんなっ、ご迷惑は……」

 「ここで巡り会ったのも何かの縁です。どうぞ遠慮なさらずに」

 「そうじゃな。あの子の礼も兼ねてと言う訳ではないが、二人分の寝床でしたら用意出来ましょう」

 「長老まで……」

 「年若い者は礼儀は知っても遠慮してはなりませんぞ」



 結局、長老の押しの強さに根負けし、スバルとトレーゼは二日間ここで生活する事にした。



 「おい」

 テントを出た所でトレーゼが声を掛ける。言いたい事は大体予想がついているし、実際その予想は的中していた。

 「あの場では、何も言わなかったが、何故引き留めを、承諾した。一所に、留まる理由が無いのは、知っているはずだぞ」

 「あの状況で無理に断ったら逆に怪しまれるでしょ。町まで案内してくれる人も来るって言うんだから、素直に言葉に甘えた方がいいじゃん」

 「…………ちっ」

 「舌打ちしなくたっていいじゃない……」

 今、集落全体はちょっとしたお祝いムードだ。久し振りに自分達の住処を訪れた旅人を歓迎しようと住民総出で宴の準備に取り掛かっているのだ。正直そこまでしてもらっては悪いような気もして遠慮しようとしたのだが、既に長老の孫兄弟らが狩りに出掛けており、女性陣は晩餐の調理に取り掛かっている……どうやらよっぽど余所からの来訪者を歓迎する事が好きらしい。まぁ悪い気はしないが……無駄な長居を好まないトレーゼとしては承伏しかねるらしい。

 「とにかく、二日後には、必ずここを、出て行くぞ」

 「分かってる。それまではトレーゼもゆっくり休んでてね。あんまり無理しちゃダメだよ」

 「ぬかせ。…………ん?」

 「どうかした?」

 「あそこ……あの小僧、じゃないか?」

 そう言ってトレーゼが指す方向に目を凝らせば、確かに砂の地面に蹲っているその背中は長老の孫と言う少年のモノだ。集落から少し離れた所に居るので気付かなかったが、どうやら年上の兄達と一緒に狩りには行かなかったらしい。

 ふと、スバルが異変に気付く。彼女がその異変を見逃さなかったのは救助隊の知識として最低限の医学教養を積んでいたからなのだろうか、すぐに蹲って一歩も動かない少年の元へと駆けると声を掛けた。

 「大丈夫!? どこか痛いところでもあるの!?」

 「ス……スバルねえちゃん? 大丈夫だって……ちょっと、気分が悪いだけだから……」

 「その割には、顔色が異常だな。診せてみろ」

 「だ、誰があんたなんかに……! どけよ! オレは兄貴達と一緒に狩りに行かなきゃいけないんだから」

 そう言って少年はトレーゼを振り切るとそのまま自分の弓矢を持とうと家路につこうとした。トレーゼもどうせ他人の事だからと深く追及しようとはしなかったのだが……少年の体に起こった異常をはっきりとしたカタチで確認した瞬間にそれは反転した。

 「おい、足の辺り……血が出ているぞ」

 「っ!?」

 トレーゼが指摘した箇所は少年の露出した素足……その足の付け根辺りから生々しい血が垂れて来ているのだ。どうやらさっきまで調子が悪かったのはその出血の痛みに堪えていた為らしかった。スバルもその事に気付いたのか立ち上がってその怪我を確認しようとするが……。

 「いいっ! いいってば!! 平気だって。一人で治せるから……!」

 少年は傷を診せる事を頑なに拒んだ。どうしてそこまで傷を診せる事を拒むのだろうか? 部族の戦士は傷を他人に見せる事を恥と捉える風習でもあるのだろうか? どっちにしろ、出血を放っておけば惨事になるのは明白だ、ここでしっかり治療しておかないと後々面倒な合併症を引き起こす事も考えられる。

 「素直に、診せた方が、身の為だぞ? 俺はともかく、こっちの女は、治療に関しては、ある程度の知識は持っている。さぁ……素直に傷を診せろ」

 「み、見せろたって……そんな、はいそうですか、って簡単にやれるもんじゃねぇんだよ! バーカ!」

 「……………………はぁ、仕方ないな。セカンド、良いな?」

 「うん、ちょっと強引かもしれないけど、そうした方が良いかな」

 スバルからの了承を得たトレーゼはもう容赦はしなかった。両手の指をバキボキと鳴らして軽く威嚇してから少年に詰め寄り、逃げようとする前にその両足を掴んで宙吊りにした。

 「ぎゃあああああああっ!!?」

 いきなり視界が反転したのと遂に捕まってしまった事の驚きが極大の悲鳴となって口から飛び出す。そんな少年の細い両足首をがっちりと掴みながらトレーゼは傷口を探そうと空いた片手で触診を試みる……医学知識は言うほど無いが、直に見れば傷の深さがどれぐらいかはすぐに分かる。その後の事はスバルに任せれば良い……。

 「ぶっ殺すぞ!」

 「やれるなら、やってみろ」

 「くそっ! この、この野郎!! あぁ、あああぁっ!!?」

 逆さ吊りにされて足が使えず、体を捻って脱出を試みるが結局抜け出す事は適わず、少年はトレーゼによって隠そうとしていた『傷口』を確認されてしまった。

 「…………ああ、なるほどな」

 「くぅ、ううぅううっ……!」

 『傷口』の確認を済ませて全てを理解したのか、トレーゼは事も無さげに溜息をつくとスバルの方を向いて大事無いと言うサインを送った。だが彼がぶら下げている少年は何がそんなに嫌だったのか両目に溜めた涙を必死になって拭っていた。その姿に何か悪い事をしてしまったのかと思いスバルも心配になったが、『傷口』の確認をしたトレーゼは至って冷静そのものだった。

 「この手の出血は、時が過ぎれば、自然と収まる。周囲がどうこう言って、どうにかなるものではない」

 「そ、そういうモノなの!? でもそんなに出血してるし……」

 「なんだ、この手の事は、むしろ貴様の方が、詳しいはずだぞ。と言うか、貴様は経験した事が、無いのか?」

 「経験って……だから何の事?」

 「…………はっきりと、言った方が、いいか?」

 そう言ってトレーゼはスバルに片手をかざす。先ほど傷口の確認をしようとして付着したのか、掌には鮮やかな血が乾いていた。初めはそれを見てもまだピンと来ないと言った表情を浮かべていたスバルであったが、やがて頭の中の情報のパーツが符号したのかはっとした表情になり、そして顔を赤らめた。

 「ようやく、気付いたか。こいつ……」



 「女だ」



 トレーゼの手に付着していた血は経血だった。

 「違うッ!!」

 “女”と言う単語を耳にした瞬間、トレーゼが捕まえていた男装の少女が遂にその手を振り払って地面に飛び降りた。その目には悔しさと恥辱の涙を溜め、今やトレーゼだけでなくスバルにも敵意を剥き出しにしている事が容易に分かった。

 「オレは女じゃない……男だ!」

 「確かにな。今のところ、目立った外見的性徴は、起きていない。服装さえ決めれば、今の時点なら、男にも見えなくは無いな」

 実際、トレーゼですら経血を確認して体臭を意識するまでは性別を女だとは分からなかった。単に体つきにまだ女性的特徴が無い事もあるだろうが、これまでの言動を振り返ってみても男顔負けなぐらいに男勝りな性格をしている事を窺わせた。自分の事を男だの何だのと言っているのは単にそう言った現象を意識していないか、それとも年上の兄に囲まれて生活していた為にそう思い込んでいるかのどちらかだろうと、トレーゼはそう解釈した。

 だがスバルの方は単なる思い込みとは違うモノをその言葉に感じていた。

 「ねぇ、ひょっとしてこう言うのって嫌なのかな?」

 「イヤに決まってんだろ……痛いし、苦しいだけだし……何にもいいことなんて無いし……。オジジ達は勝手に喜んでたけど、オレはちっとも嬉しくなんかない」

 「うん……あたしも経験した事あるから分かるよ。でもね、女の人は誰でも通る道なんだよ。あたしも、あたしのお姉ちゃんやお母さんも、友達も……」

 「スバルねえちゃんの事なんか知るかよ!! オレは女なんかじゃねぇ! こんなのがいくら来たってオレは女なんかじゃねぇんだよぉ!!」

 「あっ、ちょっと……!」

 スバルの手を振り払い、少女は一目散に駆けだした。その後を追おうとしてスバルは手を伸ばすが……。

 「止めておけ」

 「トレーゼ?」

 「どうせ、俺達は二日後には、ここを出る。そしたら、赤の他人だ……今の内に、深く関わっても、何も出来ん」

 「それはそうだけど……っ!」

 「それに、奴がそれでいいと、言っているんだ……放っておけばいい」

 親身ではないトレーゼの言い方は一見酷にも見えるだろうが実際は的を射ている……元からここの住民ですらない自分達がとやかく言おうともこれは個人の問題、それも見ず知らずの他人が抱える問題なのだ。それを横合いから口出しするのは無礼が過ぎると言うモノだろう。

 「俺は、二日後に来ると言う、隊商について、長老に詳細を聞いてくる。貴様は、適当に暇を、潰していろ」

 「う、うん……」

 あくまでドライ……それは心が折れ掛けている今ですら変わらない。常に一線を引いて冷めた目で物事を見据える……それが戦闘機人として生を受けた彼の性格であった。

 「失礼する。明後日の、隊商についてだが────、」

 「どうして……どうしてそんな事するんだよ!!」

 「……?」

 長老の座すテントに赴いて中に入ろうとした時に聞こえた声……それは先ほど自分が怒らせた少女のものだった。どうやら自分の家族である父や祖父と何か口論をしているようだが……?

 「何度も言っているはずじゃ……。この村の昔からの習わしで女は幾つ歳を重ねても決して狩りには参加出来ん。女の仕事は男連中が狩りに出掛けている間、しっかりと家を守り子を育て、男の帰りを待つ事……それはお前が一番良く知っておるはずじゃ」

 「お前の母さんだって父さんと結婚してからはずっと家事を担ってきたんだ。いずれお前も村の女としての教養を……」

 「顔も知らない母親なんて……引き合いにだしてどうすんだよっ!! オレは母親とは違う生き方をする…………こんな狭っ苦しい村でいつまでも小さく生きてるなんてやりたくないんだよっ!」

 「これ! これっ、待たんか!!」

 「うっせぇ、ハゲオジジ!」

 「は、ハゲ!? わ、ワシがハゲ!!?」

 少女が飛び出す気配を感じ、トレーゼはテントの陰に身を潜めてやり過ごす。飛び出して来た後ろ姿はやはり気が立っており、接触していればまた面倒な事になりかねないと判断したのは正しかったようだ。

 「……旅人様、もうよろしいですじゃ」

 「盗み聞きとは関心しませんな」

 「あんな大声で、怒鳴り散らせば、誰にだって聞こえる」

 「そうですな……。もっとも、隠すほどの事でもありますまい」

 「気付いているのでしょう? あの子が自分の性を偽っていると」

 「…………経血を、確認した。あれは、年齢を迎えた女子なら、誰しもが経験する、生理現象だが、無理をさせれば、大事に至るぞ」

 事実だ。同じ人間でもどう言う訳か女の肉体というのは男性のそれと比較して繊細に出来ている。特にその繊細さが顕著に表れるのが生理時期と妊娠期間……。どちらも女性特有の現象であると同時に、その時期の女性の肉体はまさに蛹状態の昆虫と比較しても遜色ないほどの繊細さを持つ。そんな時期の肉体に無理を強いれば体調を崩すどころか今後様々な支障を来す事は明白だろう。

 「仰るとおりです。私も父親としてあの子には口を酸っぱくして言い聞かせているのですが……母親に似たのでしょうね、男勝りな性格でして、全く聞かんのです」

 「……母親は?」

 「…………あの子の母、私の妻はあの子を産むとしばらくしてから亡くなりました。流行り病を押しての出産が祟ったのが原因です。私と妻はこの村で育った幼馴染みでしたが、彼女もまた今の私の娘と同じで男勝りな女でした。あの子は母の血を引いているのでしょう」

 「自分を、男だと、言い張っているのは?」

 「単に年上の兄達と過ごしてきた所為でそう思い込んでいるだけです。あの子と同年代の女子がこの村に居ない事もありますが……。ですが、初潮を迎えた辺りからあの様に気が立つようになりまして」

 「女として成長した事を祝ってやれば、自分を男だと馬鹿げた事も言わなくなると思ったのじゃが……余計に意固地になってのぅ。遂には大人ですら立ち寄らぬ竜のナワバリにまで行くようになってしもうたわい。しかも一丁前に弓矢まで持ち出して」

 「男勝りがウリだったあの子の母親ですらあそこには近付かなかったと言うのに……。何度言い聞かせてもあの子は聞く耳持たないのです」

 それから十分近く愚痴にも近いそれらの言葉を聞き続けて分かった事がある……。

 あの少女の男勝りな性格は物心がついた時からで、女性としての成長期に入ってからは特にそれを意識して行動するようになったと言う事……。

 狩人の真似事をし始めて幾日か立つが、最近はこの近くにナワバリを張る竜を仕留めようと躍起になっていると言う事……。

 主にこの二つが分かった。前者に関しては正直どうでもいいが、後者については常識で考えて「止めておけ」と言う方が無難だろう。あの竜が魔法世界で言うところのどの辺りに属する種類かは知らないが、生身の人間、それも年端もいかないような少女が弓矢と槍だけでどうこう出来る相手ではない。硬い鱗で覆われた肉体は研ぎ澄まされた刀剣ですら通さず、その素早い脚力は遠くにいる獲物との距離を一瞬で埋め、そしてその強靱な顎で粉砕し咀嚼する……間違いなく、地面に足を付ける動物の中では最強と言っても過言ではないだろう。

 そんなモノに挑もうと言うのだ……馬鹿を通り越していっそ哀れにすら思える。

 「…………でだ、明後日の、隊商についてだが……」

 自分は深く関わらない事にした。それが処世術というモノだ。










 その日の夜、村は総出での歓迎ムードだった。老いは族長の長老とその妻から、若きは数ヶ月前に生まれた赤ん坊まで……村の人間全員がスバルとトレーゼの来訪を心から祝していた。彼らの部族には余所からやって来た者に対してとても友好的に振る舞い、持て成す事を最高の美徳とする風習があるらしく、それはこの二人でも例外ではなかった。

 ≪食べられる内に食べておけ。どうせ他人の食い物だ、遠慮は要らん≫

 ≪それ、本当に他の人の前で言っちゃダメだからね。まぁ食べるけどさ……≫

 「おぉおぉ、お嬢ちゃん食い意地が張ってるな。どれどれ、これも食べなさい」

 「あ、ありがとうございます」

 「ついでにそこの兄ちゃんにも渡してやんな。こんなに食べる奴ぁ、ついぞ見た事が無いや」

 「ありがとうございます! ほら、トレーゼもちゃんとお礼して!」

 「ムゴムゴ……ガツガツ、ングングッ」

 ここ最近まともな食生活を送っていなかった所為か二人揃ってその食いっ振りは凄まじく、二人の目の前からは料理が消え、その脇には次々と空になった食器が積まれていった。村人はその光景を面白がって空いた食器に代わりの料理を次々と用意し、それすらも二人は平らげ……



 一時間後──。



 「おぅ! 兄ちゃん、こいつもどうだい?」

 「いや、もういい。連れも、もう満腹みたいだからな」

 「も、もぅ食べれませ~ん」

 久し振りに満足行く食事にありつけてスバルも食い倒れ状態……。他の村人らは朝まで飲み明かすつもりなのか、男は手に手に杯を掲げ、女達は仲の良い者同士で井戸端会議に華を咲かせていた。人の集まる所で見られる平和のワンシーンが今、目の前に描き出されていた。

 「トレーゼ、これあげる。近くのオアシスに生えてる木から採って来てくれた果物だって」

 「二つも、もらって、いいのか?」

 「何言ってるの……。もう一つはあの子にあげて。今はちょっと外れのほうで涼んでるってさ」

 「あの子……? ああ、あの小僧か。了解した」

 陽気な村人に引き留められる前にそっと宴を脱け出し、トレーゼはあの少女を探した。スバルが言っていた通り、少女は村の外れにある小高い岩山の上に腰を下ろして風に当たっていた。兄や父親達がいる宴には参加せず、物憂げな世捨て人のように天上の星空を眺めていた。

 「おい」

 「げっ! あんたかよ」

 「俺で、悪いか。食え、差し入れだ」

 「おおう……」

 果物を投げ渡し、自分も岩山に体を預けてそれを食す。ヘタの辺りに力を込めると簡単に割れ、後は皮を皿代わりにして果肉を一気に頬張る。味はレモンとモモの中間と言った所で、程よい酸味が利いた甘い果汁が喉を潤した。後で聞いた話では、この果物はこの辺りの砂漠に自生する植物に生る果実で、植生条件が非常に厳しい事から人工栽培に至っていない貴重品らしく、たった数個で部族三日分の食料と交換してもらえるらしい。

 「星を、見ているのか?」

 「悪いかよ」

 「別に。何が見える?」

 「何でも見える。ここは空が綺麗だからな」

 確かに、次元世界屈指の大都会であるクラナガンで見る空とは比べ物にならない透明度だ。空気の淀んだ都会では決して見ることが適わない様な細かな星まで見える。わざわざ望遠機能を使わずとも良い。

 「北極星はあるか?」

 「ほっきょ……何て?」

 「……ここでは、違う言い方を、するのか。北か南の空にある、一晩中、動かない星だ」

 「あっ、それなら知ってるぜ。ほら、あれだろ?」

 そう言って指を指すのは遙か地平の彼方に見える一際輝きを見せる星……。どうやらあれがこの世界で言う所の北極星か南極星に相当するようだ。

 「オジジはあの星……“ヒツキボシ”さえ見えてりゃ絶対方角が分からなくなる事はないって言ってたっけ……。目印の無い砂漠に居ても、まともに前も見えやしない密林に居ても、あの星を見つければ分かるって」

 星は様々な事を人間に教えてくれる……。様々な世界の歴史を紐解けば、民族ごとに語られる神話や民間伝承には星に関する逸話が数多く存在し、星々や星座を神格化した神々も沢山居る。きっとこの部族にとっての星と言うのも、何も無い広大な砂漠で生きる為の知恵の一つなのだろう。

 「あの星、オレの名前なんだぜ」

 「名前?」

 「おうさ!」



 「ヒツキってんだ!」










 「オレは村の狩人……部族の戦士になりてえんだ」

 特に質問した訳でもないのに静かに語りだした少女──、ヒツキの言葉にトレーゼは耳を傾けた。どうせ聞くだけ聞き流してその後は適当に無難な言葉を掛けるだけでいい……そう思っていた。

 「知ってっか? オレらの村は本当は森の民なんだって、オジジが言ってた。オレが生まれた時にはもうこっちに移り住んでたけど……」

 「森から砂漠か……。賢い判断とは、思えんな」

 移動する遊牧民族ならわざわざ資源が乏しい砂漠に移り住まなくても良いものを。どうやらその背景はこちらが考えているほどに単純ではないらしい。

 「…………あの灯りが見える?」

 「?」

 そう言って彼女が指差すのは地平線の向こうに薄らと見える光……沈んだ太陽の残光とは違う、眩しいまでの人工の光があった。二日後に自分達が隊商に導かれて目指す町の灯りなのだろうが、どう言う訳かヒツキの表情はどこか苦々しかった。

 「ずぅーっと昔……オジジが子供の頃ぐらいに海側の人達が森の木を切り倒し始めたんだってさ。“しげん”とか、“かいはつ”がどうだとか言ってたけど、難しい事はよく分かんない」

 なるほど、今の部族の境遇は地球で言うところのインディアンなどと同じ運命を辿っていると言う訳か。沿岸部の人間は海を渡って来る技術や風習を積極的に取り入れ、やがては自分達で資源を獲得しようと内陸部にその手を伸ばす……別段珍しくもない、どこの歴史を見ても頻繁に起こっている出来事がここでも発生しているだけだった。初めは森の中で生活を営んでいた部族が開発の波に追われて生活の場である森林を追い払われ、そして資源の乏しい砂漠へと身を移した……実に単純で分かりやすい、知ってしまえばどうって事もない背景だ。

 「…………森に居た頃は、どんな生活を?」

 「オレは生まれてないから知らないけどさ、オジジは村で一番弓が上手かったらしいぜ! 一番狩りが上手い奴は戦士として認めてもらえるんだって」

 そう言いながらヒツキは弓矢を構える真似をして見せる。物心ついた幼い頃からずっと狩人の武勇伝を子守唄代わりにしてきた彼女にとって、村の戦士とはまさにヒーロー、神懸り的な存在なのだろう。

 「だが、この砂漠では、もはや狩りだけでやっていくのも、時間の問題だぞ」

 「分かってる…………。オジジや村の大人達も殆ど狩りはしてない……たまに来る隊商と食い物とかを交換してもらってるしな」

 近くのオアシスの水と果物、そしてここをルートに定めている隊商……この三つだけがこの小さな部族を支えている生命線なのだ。どれか一つでも枯渇すればこの部族はまた慣れない土地への移住を余儀なくされるだろう。かつてのアメリカ大陸のインディアンはその事に反発し、何度も植民地のイギリス人と対立したと言うが……。

 「オジジは何も言わない……。海辺の人が調子に乗ってオレ達の住む場所を奪いやがっても、それは運命だとかなんとかって言って諦めてる。オレぁ、てっきりいつか仕返しするつもりでいるんだと思ってたのに……」

 「……不服か?」

 「村の戦士は勇敢であれ……いつもオジジや父ちゃんが言ってた。なのに誰も何もしない……勇敢な戦士なんて、ここには誰も居ないんだ」

 「それで……誰も居ないなら、自分がなろうとしているのか? 竜に挑むのは、無謀だぞ」

 「別に狩人になりてぇ訳じゃない。今時狩りだけじゃ生きていけないのも知ってるし、あのトカゲをぶっ倒すのだけがオレの目標じゃねぇ」

 「目標……?」

 「おう! オレは町へ行く!!」

 指差す方角には町の光……自分ら部族を森から追い出した憎き文明の灯りが見えていた。だが己の目標を高らかに宣言した彼女の表情には一点の曇りも無く、むしろこれから長い時間を掛けて行う自分の目標を純粋に嬉々として語っているようにも見えた。

 「町へ行って、どうする?」

 「海側の人間はオレらの事をバカにしていやがんだ。オレはあいつらの鼻を明かしに町へ行く……てめぇらがバカにした森の部族はこんだけすげぇ事が出来るんだぞってな!! 別に海側の人間が嫌いって訳じゃねえ、ただ見返してやりてえだけなんだ!」

 「……その過程で、竜殺しか」

 「おうよ! あのトカゲを仕留めた奴は海側には誰もいねえ。オジジのそのまた爺さんが大昔に一頭仕留めただけって聞いてる」

 「確かに……俺の居た所でも、竜を仕留めた奴は、そうそう居ない。仮に、やり遂げれば、偉業だな」

 開発の波によって森から砂漠へと落ちぶれた名も無き小部族……そんな部族から文明の利器も使わずに竜を打倒した者が現れて町を目指すとなれば、メディアは黙ってはいないだろう。成功すれば間違い無く有名人、所謂“時の人”になる。彼女の部族を馬鹿にした者、無視した者、或いは存在すら知らなかった者……いずれにせよ世間は彼女とその出身である部族を再認識せざるを得ないだろう。それが成功するか失敗に終わるかはさて置き、大望を持っているならそれだけで人間の生は張り合いがある。

 だが、それを実行に移すに至って障害が一つだけあった。

 「だけど……オジジも父ちゃんも、兄貴たちも……オレは狩人になれないって……。弓も槍も持ったらいけねえって言うんだ」

 「……それは、貴様が女だから、だろ?」

 「違う! オレは女なんかじゃない!」

 「どうしてそう、言い切れる?」

 「兄貴たちだって男なんだ! オレが男じゃないはずがないだろ」

 「……………………貴様、バカだろ? いや、バカだ」

 「んだと、コラぁ!!? こっちは真剣に悩んでるってのにその言い草はなんだてめぇ!!」

 「おっと……」

 飛び掛って来る小さな体をかわすトレーゼ。本人がどう思っていようがヒツキは生物学的に女性だ、彼女の家族も、彼女を母親の胎から取り上げたと言う産婆も、彼女を幼少の頃より知る部族全員が彼女を紛う事無く女性だと証言しているのだ。こればかりは覆しようが無い事実だ。

 性同一性障害などの心理的なモノに関しての知識は皆無に等しいので何とも言えないが、一筋縄では如何ともし難いのは容易に想像がつく。少なくとも、今ここでトレーゼが厄介事を回避するために吐いた程度の無難な言葉では何も解決しないだろう。

 「オレは今まで男だって言って生きて来たんだ……それがいきなり、『お前は女だから狩人にはなれない。そんな事より織物や料理のやりかたを覚えろ』なんてよ……。納得できっかよ!」

 別に誰が悪いとか何がいけなかったとかそんな事は一切無い……。ヒツキにとっての不幸はたった一つ、自身の生物的性別と心理的性別の不一致に他ならない。気が強くても初めから女としての感覚をもっていればこうはならなかっただろう。なまじ、同年代の女子と接する機会も無く自分を男だと思い込んでいたのがいけなかった……。

 「……聞けば、貴様の母親も、同じ性格を、していたらしいが」

 「知らない……。オレは母親の顔なんて見た事無いから覚えてない。父ちゃんや兄貴はオレと同じ性格してたってのは良く言ってたけどな」

 ヒツキの母は長老の実の娘で、父親は長老の一家に婿養子として結婚してきたらしい。それ以前から父親と母親は親しく、父曰く、竜に戦いを挑まなかった一点を除いて後は全てヒツキと一緒との事だ。若い頃から弓矢を手にしては村に居る大の男連中ですら敵わない腕前を披露し、親の長老夫妻をして手を焼かせていたらしい。

 だがそんな彼女も結婚する頃には他の女性と何ら変わりない生活を送るようになった。伴侶を得て、子を成し、所帯を持つと言う自覚が彼女に女性としての生き方を認識させたのだろうと周囲は語っている。その前例を知るからこそ、村の人間はヒツキにも母親と同じように女性としての自覚を持って欲しいと願っているのだろう。

 「オレは……自分が何なのかよく分かんねぇ……。オレは今まで男だと思ってたのに、それがいきなり女だなんて言われて……認めなきゃならねえなんてさ」

 「自分が、何者なのか、分からないか…………。奇遇だな、俺もだ」

 「え……?」

 「俺も……自分が何者なのか、分からない。何をすればいいのか、何をしなければいけないのか、何をするべきなのか…………ある日突然、分からなくなった」

 思えば、この少女と自分は不本意ながらもどこかで似ているのかも知れないとトレーゼは感じた。ある日突然、何の前触れも予兆も無しにこれまで築き上げてきた自己を一方的に否定され、自身のアイデンティティを喪失し掛けている……境遇も、シチュエーションも、全く同じだ。ここにスバルが居れば彼女も複雑な心境に陥ったに違いない。もっとも、トレーゼ自身は自分の境遇を幸とも不幸とも認識出来ていない為に終始冷めた目だった。

 「…………オレとあんたって、ひょっとしたら似た者同士って奴なのか?」

 「さぁな」

 「……………………なぁ」

 「うん?」

 「オレ、やっぱり父ちゃんやオジジの言う様に女として生きて行かなきゃいけないのかな……? 顔も知らねぇけど、母ちゃんと同じ生き方しないとダメなのかなぁ……?」

 「知るか」

 「おい!?」

 「大勢に従って、損は無い……周囲が、貴様を女だと言うなら、素直に従っておけ。反発しても、得は無い、孤立するだけだ」

 事実だ。外部との交流が少ない閉鎖的な社会では多数派に属していない存在は常に疎外される……俗に言う、村八分とか言うやつだ。今はまだ子供の戯言と思って周囲も柔らかな眼差しで見ているだろうが、度が過ぎればそれだけでは済まなくなってくるだろう。視線の色はやがて好奇に代わり、最終的には腫れ物に触る様な扱いを受けるのは容易に想像がつく。

 「……………………貴様、町に行きたいんだったよな?」

 「うん……」

 「なら、行けば良い」

 「え……? だ、だって、町に行くにはあのトカゲをぶっ倒さねえと……」

 「そんな事、誰が決めた? 貴様が、勝手に言っているだけだろ」

 「そりゃそうだけど……」

 「何がしたいか、分からないなどと、うそぶいて……。貴様は、『町に行く』と言う、目標があるだろう。重要なのは、過程じゃない、結果だけだ。大口叩くのは、結果を出してからにしろ。海の連中を、見返す事なら、それからでも出来る事だ。母親とは、違う人生を歩むと言うなら、そうすればいい」

 「うっせぇ、別に大口なんか叩いてねえよ」

 「なら、やってみる事だな。期待はしないが……」

 「キィーッ! いちいち一言多いんだよっ。いいよ、やってやらぁ! 目ん玉かっぽじってオレの勇姿焼き付けとけ!!」

 「そうかそうか。じゃあな、俺はそろそろ、戻る」

 トレーゼは岩山を離れる。宴も下火になってきた、いい加減床についても良い頃だろう。自分とスバルの寝所は長老の家、つまりはヒツキと同じ所なのだが、トレーゼはまだ確認したい事が幾つかあったのですぐには寝ないつもりだった。

 「……おい!」

 「何だ?」

 「オレとあんたはどっか似てるってのは今さっき言ったよな?」

 「ああ」

 「あんたはオレに結果が大事だって言ったけど…………だったらどうして、あんたこそ何もしないんだよ? オレと同じだってんなら、オレみたいに目標を持ってれば……」

 「無い」

 「へ……?」

 「俺に目標や、目的と言った類いは、一切無い……。過去に持っていたが、今は無い。目標ごと、俺はある人に、否定されたからな」

 「…………なんだよ、それ」

 「話は、それだけか。俺は行くぞ。貴様も、さっさと寝ろ」

 「あぁっ、おい!」

 ヒツキが引き留める間もなくトレーゼは戦闘機人の脚力を使って駆け出した。蹴り上げた砂塵が収まる頃に目を開ければ彼の姿はどこにも無く、宴の騒ぎに浮かれた村人達が遠目に見えただけだった。

 「……んだよ、ふざけんな!」

 今は居なくなってしまった紫髪の少年に訴えるように怒声を張り上げるヒツキ……。星空を背に慟哭する彼女の姿はどこか哀しくも神々しく見えた。

 「オレは諦めねぇ! オレは自分が何なのか絶対に突き止めてやる。誰が何て言ったって聞くもんか。オレはオレだ! お前みたいに逃げたりなんかしねぇぞ、トレーゼェ!!」










 逃げている……か。

 ある者は逃げる事が最悪の醜態であるかに語るがそれは違う……この世には物事を正視せずに逃げるよりも回避せねばならない事柄もあるのだ。あの年端も行かぬ子供では到底分からないだろうが、少なくとも自分にとってはそうなのだ。

 独り善がりと言うのなら言わせておけば良い。

 どうせ互いに分かり得ない事だ……論議を重ねてもそれは水掛け論にしかなり得ない。だったら最初から親身になるのは無駄というモノだ。

 さっきの言葉も別に優しさからの言葉では無い。単にウジウジしているのをいつまでも目にするのが気に食わなかったから適当にあの言葉を吐き捨てただけに過ぎない。そこから先の行動の如何については自分の知る所ではないし、別に知りたくもない。

 「町までの距離は……ふむ、それ程でもないな」

 望遠機能を使って見える町の灯りから距離を算出する。正直言って一晩歩いて行けば余裕で行ける距離だったが、既に二日間の滞在を承諾してしまった以上時間のロスは覚悟している。

 ≪トレーゼ、今どこに居るの!?≫

 ≪村の外れ。安心しろ、大して離れては居ない。精々二キロだ≫

 ≪すぐに戻って来て!! いい加減単独行動は禁止!! これ、命令だからね!≫

 ≪……了解。すぐ戻る≫

 そうさ……自分には究明すべき事柄がある。逃げている訳ではない、落ちぶれている訳でも無い。自分をニセモノで塗り固めた者に報復する訳でも、この理不尽を誰かに訴えたい訳でも無い……自分はただ、己を取り戻せればそれで良い。

 そして、スバル・ナカジマはその為に必要不可欠な因子でしかない。所詮は使い捨て……精々良いように利用させてもらうだけだ。

 遙か空の彼方に輝く星、ヒツキボシを眺めながらトレーゼは念話で口うるさく言って来る相方の存在を確認し、帰路についた。










 数時間後、午前6時18分──。



 事件は起こった。

 「ヒツキがどこにも居ない」

 父親のその一言は瞬く間に村中に響き渡り、昨夜の宴の時と同じくらいの人数が周囲を捜索し始めた。近くのオアシスから竜のナワバリ近くの岩山まで、とにかく普段の彼女が行きそうな場所を洗いざらい探した。だが彼女の姿はどこにも無かった……。

 その内に家畜番をしていた者が自分の管理していた移動用の家畜が一頭、囲いから居なくなっているのに気付き、村の者達は更に騒然となった。今までに行った事の無いどこか遠い所に行こうとしているのではないか……そんな予想が村人らの脳裏をよぎった。

 そんな混迷する村の片隅で静観を決め込む者が居た。

 「どう、トレーゼ?」

 「…………既に、砂漠を突破しようと、しているな。森に入るぞ」

 魔法を利用しての広域探知によってヒツキらしき生命反応を捉えたのは良いのだが、既に彼女は村からかなり離れた森林に突入しようとしていた。恐らくはかつて先祖が生活の場にしていたと言う例の森だろう。

 「どうしにかして追い着けない?」

 「何故、そうする必要が、ある?」

 「何でって……」

 「行きたいなら、行かせておけば、いいじゃないか。今回は別に、誰も困ってはいない……だったら、ここで別に、あいつを連れ戻さなくても、貴様の矜持に、反する事は、無い」

 「な、何言ってるの……? 行かせておけばって、トレーゼはヒツキが居なくなった事で何か知ってるの!?」

 「…………聞いていないのか?」

 てっきりスバルには自分の目標を話したものと思い込んでいたトレーゼは少し拍子抜けしてしまった。自分より懐いていたはずのスバルに話さないと言うのは少し不思議に思えたが、事情を知らないままで居るよりは良いと判断し、トレーゼは昨夜のやり取りを一字一句違えずに報告した。

 「────と、言う訳だ」

 竜を打倒しいつかは海側の人間を見返す為に町へ行こうとしていたヒツキ……だが自分の生を否定されて何をしたいのか分からなくなった彼女に対し、トレーゼが放った言葉が助言となったのか、先に結果を出そうという結論に至り、彼女は朝日が昇る前に町へ向かい早駆けした…………つまりはそんなところだろう。

 「これで、分かったろう。あいつは、自ら望んで、海側へと向かった。何も困ってなどいないし、そんな事はありえない。奴も道中の危険は、承知の上で行動した、はずだ」

 「でも……」

 「それでも行きたいなら、貴様だけで、勝手に行け。俺は知らん。行くなら、少し厳しいが、日中にしておけ……森までの道には、竜のエリアが広がっている。竜とは言え、所詮は変温動物、気温の高い日中は、活動的では無いはずだ」

 「そんな待ってたら間に合わない! ヒツキちゃんもどんどん先に行っちゃうよ」

 「だから、行かせておけ。あいつは、バカだが、愚かでは無い……ナワバリの死角を縫うように移動し、オアシスを中継しながら、砂漠を越えるはずだ。少なくとも、遭難だとか、水分不足による、衰弱はしないはず」

 「うぅ……」

 「それに、わざわざ家畜の足で、出立したんだ。徒歩ならまだしも、獣の足なら早くに、帰ってくるやも知れん」

 かつて森に住んでいたこの部族は地球で言う所の馬とラクダの中間種のような動物を家畜にし、それらを荷物や物資の運搬、長距離の乗り物代わりにしている。馬の脚力とラクダのスタミナを兼ね備えた魅力的な家畜であり、食糧や水は少なめで動ける為に基本的にオアシスなどに立ち寄る回数も少なめで済む上に、図体のでかい竜と違って俊敏でもあるので複数頭に追いかけられない限りは大丈夫なはずだ。

 「とにかく、現状は貴様が懸念するほど、急を要している訳では無い。それに、奴はガキだ……腹が減れば、帰って来る」

 「そんな単純な……」

 「安心しろ。森に入れば、そこは人間のテリトリーだ。竜は、入ってこないはず。開発が進んでいるなら、道も整備されているに、違いない。そこから先は、何も心配は要らない」

 そうだ、冷静に考えれば確かにそうなのだ。隊商が使っているルートを辿れば必然的に竜のナワバリを侵さない形で砂漠を通過する事だって出来るし、開発の進んだ森林なら道が舗装されていて当然だ……何の危険性も無いはずなのだ。ただ子供の遠足にしてはちょっと距離が遠いだけと思えば何の事も無い。無いはずなのだ……。

 「ここでは、俺達は結局、余所者以外の、何者でもない……無闇な行動は、控えていろ」

 「…………分かった」

 半ば無理矢理に説き伏せたは良いが、それで村の混乱が収まった訳ではない。既に乗馬の腕に覚えのある何人かが彼女を追う為にチームを編成しようと意気込んでいるようだが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。族長のテントに集合して何やら騒がしくモメているようなのだが、深く関わらない事に決めていたトレーゼはその会話内容を聞く事はしなかった。











 二時間後、8時30分──。



 ヒツキが村を飛び出してから既に三時間以上が経過した。本来ならここで誰かが彼女を連れ戻す為に出立しても良い頃なのだが、依然として誰も行こうとする気配が無い。自分の様に事態を静観していると言うよりは、まるで尻込みしているような感覚をトレーゼは彼らに感じていた。

 テントから出て来たヒツキの父に接触を試みる。どうやら中の会議が一段落を迎えたのかと思ったが、その表情は芳しくない……玉の様な脂汗は単に気温の高さだけによる現象ではなさそうだ。

 「如何した?」

 「あぁ、トレーゼ殿か。私の娘がとんだ騒動を引き起こし、お恥ずかしい限りです」

 「……会議は、難航しているのか?」

 「ええ…………私としては今すぐにでも駆けて連れ戻したいのですが、義父に止められてしまいました。次期の村の長となる私に危険な事はさせられない、と」

 なるほど、確かに彼は長老の家に入り婿としてやって来た身だ。であれば必然的に今の長老が没すればその後釜には彼が居座る事になり、その彼にもしもの事があってはならないとするのは当然の判断だろう。

 そう、当然の判断なのだろうが……一つだけ引っかかる。

 「危険? どう言う意味だ?」

 確かにこの先にある森と部族の生活領域の間に広がる広大な砂漠は複数の竜がナワバリを張っている……その領域を侵せば最後、まず生きて帰る事は難しいのは明らかだ。だが巨大化したとは言え所詮竜はトカゲ、爬虫類の系統樹から派生した生物に過ぎない。気温の高い日中や、逆に気温の低い真冬の季節などはその活動は鈍り、それが一日の気温の差が激しい砂漠であるなら尚更だ。それにこの一帯の部族や隊商はナワバリの死角がどの辺りに存在しているかを知っている為、ルート通りに行けば襲われる心配も無いはずなのだが……。

 「そうでしたか……お二人は旅人でしたからご存知ないのも無理はありませんか……」

 「?」

 「実はこの時期の竜は繁殖期に入っていまして、普段は厳しいナワバリの感覚が緩くなっていて……複数等の竜が一個のオアシスを中心に入り乱れるのです。今日は丁度そのピーク……連中が一番気が立っている事もあって、誰も連れ戻しに行こうとしないのです」

 「……………………」

 「我々が森を追われた時も丁度連中の繁殖期に当たってしまい……義父の話ではその時の移動で村人の半数を亡くしたとか……。私も詳しいことは分からないのですが、とにかく恐ろしいモノとしか聞かされておりません。この時期に砂漠を渡ろうとするのは自殺行為以外の何物でもありません。ですから、誰もヒツキを……」

 「────────」

 「しかし、どうして急に……! あの子は自分の命を何だと思って…………」



 「スバルを預ける」



 「はっ? ちょ、ちょっと!!」

 制止の言葉に耳も貸さずに飛び出したトレーゼは途中でスバルを引っ掴むとそれをヒツキの父に投げ渡し、右手に収まっていた自身のデバイスを起動させた。

 「マキナッ!!」

 『Yes, my lord.』

 呼び出しから形状を変形し、ジェットエッジとなって両脚に装着するまでに掛かった時間は0.2秒弱……その直後、足元に展開された擬似魔法陣から出現した真紅のウィングロードに飛び乗り、彼の後ろ姿は瞬く間に地平線の彼方へと消え去った。残された村人とスバルは状況がいまいち理解出来ず、しばらくの間はトレーゼが消えた空を見上げて呆然としていた。

 「トレーゼ……?」










 同時刻、砂漠と森林の境界付近にて──。



 「はぁ……はぁ……はぁ、着いた……やっと」

 息も絶え絶えとなりながらも少女──、ヒツキはようやく砂漠と森を分かつ境界線へと到達した。砂漠の熱気が周囲から水分を奪い、奪われた水分に比例して流れ出る汗も増えていく……背中からのし掛かる疲労感に屈しそうになる膝に渇を入れ直し、ヒツキは目の前の光景を睨み付ける。

 「こんなもんまで作りやがって……!」

 砂の海と資源の森を分かつ境界線……それは海側の人間が人為的に作り上げた鉄のフェンスだった。金属の加工物は文明の象徴、菱形に編まれた鉄の網の向こうにはかつて自分達の先祖が暮らしていた緑の森が生い茂っていた。砂漠の熱風が木々の葉を揺らし、その優しげな音が耳朶を打つ。

 とうとうここまで来た……後はこの森を抜ければ、そこから先は町だ。自分が目指した目標……見返すのはまだまだ当分先になるだろうが、今は言わば敵情視察、この先自分が相対する一番大きな目標の為の第一歩だ。

 少し怖いが、逃げはしない。自分はあの偉そうな旅人とは違う。自分は臆病な他の村人達とは違うのだ……!

 勇敢な戦士になると言う目標を掲げ、今ヒツキは目の前にある文明の壁をよじ登り、そして越えた。



 もう障害は何も無い──。










 「…………やはり」

 砂地に染み込んだ大量の血液を手に取りながらトレーゼは呟いた。眼前には無残に体を食い千切られた家畜の死体……断面は骨ごと鋭利な牙で削り取られており、残った僅かな毛皮からそれがかつて獣だったモノだと認識する事が出来た。周囲を確認し、ヒツキの装備品らしき物が見当たらない所を見る限り、どうやら彼女は周りの竜が家畜の食事に気を取られている内に逃げ果せたらしい。

 だがしかし……

 「……さて、どうするか」

 自分が今目の当たりにしている光景に対し、トレーゼは億劫そうな溜息をついた。

 獣の血の臭気に引き寄せられて来た竜、その数……五頭。しかもそれら全てが盛り時の雄ときたものだからタチが悪い。単に獲物の臭いを嗅ぎ付けただけでなく、似合いの雌に有り付けていないのかやけに興奮している節が見受けられる。

 「…………すぅ……」

 息を鼻から吸い込み──、

 「失せろ、トカゲ風情が」

 口から呪詛。

 どうやらこの世界の竜はあくまで爬虫類の延長線上でしか無いようだ。現に魔力をほんの少し纏って威嚇しただけで真に受けてしまい、尻尾を丸めて逃げ帰ってしまった。これが魔法世界の竜種だったらこうはいかなかっただろう。怖じ気づいた竜は一斉に回れ右の後、一目散にオアシス向けて逃げ出した。

 これで一難は去った……と思ったのだが。

 「……しつこいな」

 一頭だけ、トレーゼの威嚇にも屈さずその場に留まり続けた猛者が居た。何故かは知らないがとても怒っており、いつこちらに飛び掛かって来ても何ら不思議では無い状態だった。少なくとも、ナワバリを侵犯したとか、こちらの威嚇が通用しなかったからと言う単純な理由で怒っているようではなさそうだった……その真意を見極めようと観察すると──、

 怪我をしていた。片眼を何かに潰されているのか、硬い鱗に覆われた瞼からは大量の血が溢れ出ているのが確認出来た。よくよく確認してみると、目に刺さっているのは……

 「…………槍? あの、小僧のか」

 大人の狩人が使っている物よりずっと小さな物だったが、確かに獣の骨の切っ先としなやかな木々の枝を加工して作られたその意匠は、あの部族の狩人が使う槍と全く同じだった。硬い鱗で覆われた竜の外皮ではなく、全生物共通の柔軟な部位である眼球を狙っての一撃……それでこいつが怯んだ隙を見て逃走したのだろう。

 「存外、よくやる」

 足代わりとなる家畜を食い殺され、自分一人の足で駆けなければならない状況に追い込まれて尚、その元凶となった相手に一矢報いるだけの気力を見せつけるとは……どうやら勇敢な戦士とやらを目指しているのは単なる誇大妄想ではないらしい。

 何はともあれ、まずはこの興奮して頭に血が昇ったこの竜をどうにかしなければ話にならない。このまま逃げ切ろうとして森まで追って来られても困るだけだ。

 「一撃で、仕留めるか……」

 袖を捲り上げ、腕を露わにするトレーゼ……晒した腕から力を抜き、自重に任せて垂れ下げる。魔力は使わない、純粋な腕力と、つい最近になってから手に入れた『新兵器』を使えば──、

 「…………ぜぇあっ!!」

 刹那──、風が凪いだ。

 次に風が吹いた時、トレーゼは血液に塗れた自分の腕を確認した。

 「ふむ……まだ改善の、余地はあるが、大分馴染んできたか」

 軽く腕を払って血を落とし、彼は先を急ぐ為に踵を返して飛び立った。遠目にはまだ森は地平線の向こうの緑色にしか見えないが、急げば早くに辿り着けない距離ではない。

 飛び立った彼の背後には首を切り落とされた竜が倒れていた。










 十分後、トレーゼはようやく砂漠と森の境界線へとやって来た。金網の向こうに広がる森林を睨みながら彼はヒツキの生命反応を探そうとする。しかし、森の中には人間、或いはそれに近しい生物の反応が多数有り、その中からたった一人を絞り出すのは極めて難しかった。

 「あの小僧……手間を掛けさせる」

 フェンスを飛び越えて侵入を果たしたのは良いが、森は広大だ……海の町と砂漠を分かつようにして生い茂っているこの一帯はかつては人の手が全く加えられていなかった事もあり、今でも一部の領域は数十年前と同じ原生林で覆われている。もちろん、部族と違ってここを根城にしていた動物らも健在だ。

 ≪トレーゼ、聞こえる? 聞こえてるなら返事して!≫

 いざ森に足を踏み入れようとした時、脳裏にスバルの念話が届いてきた。ここは砂漠なので障害物が無いからその気になれば念話も届くだろうが、距離の所為でかなり音声は悪く、思わず耳を澄ませてしまう程だった。

 ≪何だ? 今は、森の前だ、手短に済ませろ≫

 ≪今さっき長老に聞いたんだけど、森の中に入って気を付けて欲しい事が二つあるって。今から伝えても大丈夫?≫

 ≪問題無い。さっさと言え≫

 長くなりそうだと予見したトレーゼは念話を行いながら森の深部に進入し、ヒツキの捜索を開始した。目に付いた一番高い木に飛び移り、高い視点からの捜索を試みる。

 ≪森に入ったら一番気を付けて欲しいのが木の幹に付いてる爪痕。森に居る動物が付けてったナワバリの印なんだけど、爪痕の長さが腕の長さと同じ位ある所は特に注意して欲しいって。森の中で一番大きくて凶暴な動物がその周辺を徘徊しているかも知れない≫

 森林に生息する野獣などは自分のナワバリを誇示する為に一部の木々にマーキングとして糞尿を付着させ、爪とぎなどの為に自身の爪痕を樹木の幹に残していく習性がある。木の表面に爪痕を見つけたと言う事は即ち、その周辺をナワバリに定めている大型の肉食獣と接触してしまう確率が大きくなる事を指し示している。出会わなければそれで良いが、先程の竜の様に繁殖期に入っていれば気が立って襲い掛かって来る事も有り得るだろう。幸いにもトレーゼが飛び移った木にはその様な印はどこにも無かった。

 ≪あとそれと、森の中では極力他の人との接触は避けて欲しいって長老が……!≫

 ≪接触を……? それは何故────、≫

 当然の疑問を投げ掛けようとしたトレーゼの思考はそこで中断された。彼が視線の先に捉えたモノ……それは森の木々から一斉に飛び立つ鳥の群れ。本来野生の動物は相当な事が無ければ驚いて取り乱したりはしない……ましてやあれだけの数の鳥が何の前触れも無しに一斉に飛び立つと言うのは不自然にしか思えない。しかも──、



 その直前に銃声を聞いたのなら尚更だ。



 「……………………」

 どうやら、事態は自分が認識しているよりもずっと混迷しているかもしれない……トレーゼはそう判断すると、少し離れた木の枝にバインドを掛け、振り子運動を駆使して森の中を突っ切った。目指すは、銃声が聞こえた場所である。










 「ぅおお!? 何だよ今のでっけぇ音……」

 生まれてこのかた聞いた事が無い、空に轟く様な爆音に恐れを成してしまったヒツキは思わず草葉の陰に身を潜めてしまった。ヒツキがもう少し年を取っていれば爆音の正体が火薬の爆発による銃声だと予想出来ただろうが、生憎彼女は銃器の存在を見た事も聞いた事も無かった為にその危機感は徐々に薄れていった。

 既にフェンスを越えてからかなりの距離を歩いたが、未だに整備された道には出ていない。と言うかかれこれ三十分近くは獣道を歩いている様な気がするが道を抜けられる気配もまるで無い。むしろそろそろ昼になると言うのに天上を覆う葉の所為で太陽の光も殆ど届かなかった。常人なら同じような光景を見続けて鬱屈しそうになる所だが、ヒツキは逆に活き活きとしていた。

 「オジジ達……昔はここに住んでたんだな」

 息を吸い込めば鼻腔をくすぐる草木の青臭い匂い……砂漠では経験する事の無かった初めての感覚にヒツキは感激を覚えていた。目に飛び込む緑の色も、耳に入る木々の囁きも、足の裏に感じる草や枯葉の感触……あの砂の海では決して体感出来なかったはずの感覚を享受出来ていると言う事実に、今彼女は酔い痴れていた。それと同時に彼女は数代前の村人達に羨望の念を抱く……彼らはさっきまでの自分の様な危険を犯さずともこの景色の中で生活を送る事が出来たのだと思うと、羨ましく思わずにはいられなかったのだ。

 ここは砂漠には無いモノで満ち溢れている。水も木々も、鳥も獣も、涼しささえも、あそこでは未来永劫得られないであろうモノがここには全て揃っているのだ。

 「海側の人が欲しがるわけだよな~。ここには何だって揃ってやがる……オレらを追い出してでも手に入れたかったって事かよ」

 まだ砂漠に近いこの辺りはフェンスを除いて手付かずだが、それでもここから自然の樹木が姿を失せるのは時間の問題だろう……天然の木々は刈り取られて材木にされ、やがては植林による仮初の森林が再現される。恐らく、自分が今こうして立っている場所も大人になる頃には更地にされてしまい、代わりに樹木の小さな苗が徹底管理された等間隔に植えられるに違いない。

 「……っ!」

 分かってる、そんな事は。かつて森に生きた自分達の部族が獣を狩り続けてきた様に、海側の人間もまた自分達の生活と経済の為に森を利用しているだけなのだ。ただその規模と量が圧倒的に違うだけ……五十歩百歩、結局土俵は同じなのだ。因果応報か或いは定められた運命か、それこそまさに神のみぞ知るとか言う奴だが、ただ一つ確かなのは自分達はこうして生きる場を追われたと言う事実だけだ。その事実については苛立ちや納得の行かないと言う感はあれど、別に腹の底が煮え繰り返る程の怒りは感じていない。ただ純粋に本来の生活の場を追われたと言う不当の事実と、それに誰も反発しない村の人間の不甲斐なさに納得出来ないだけだった。

 そう、これは反発、言わばクーデター……たった一人の小さな小さなクーデターだ。少数派の意見を行動によって多数派に訴える行為がクーデターなら、彼女のこの行動はまさにそれだろう。

 「オレは行ってやる……行ってやるんだ! 誰もやらなかった事をオレが……絶対に……!」

 まだ先は長いが急ぐ事は無い……落ち着いて行けばいい。そう考えながら彼女は一旦巨樹の幹に背を預けて一休みしようとした。



 幹には巨大な爪痕が走っていた。










 「トレーゼ……ヒツキちゃん…………二人とも大丈夫かな?」

 念話を断たれてから既に十分が経過するが、未だに報告らしき通信は無く、時間が経つごとにスバルは徐々に不安を覚えていった。流石にトレーゼが何かなると言う事は無いだろうが、今現在村でたった一人の女子であるヒツキの身を案じては何も出来ない自分が歯痒くて仕方が無い。

 時刻は既に9時30分を過ぎてもうすぐ10時になろうとしている。このまま時間が過ぎて気温が上がれば、例えヒツキを連れ戻せたとしても日中に砂漠を越えるのは難しくなるだろう。それにこの世界の住人は魔法の存在を知らない……その状況で不可抗力、或いは止むを得ないとして魔法を行使すれば後々管理局にとって厄介な事態にもなりかねない。そうなれば自分達が過ぎ去った後でもここの住民に迷惑を掛ける事になってしまうだろう。

 「何か思い悩んでおられるのですか?」

 他人に察知されるとはよほど表情に出てしまっていたのか、見かねたヒツキの父が心配そうにスバルに問い掛けてきた。手に持った器には水が入っており、飲むように促してくれるので礼と共にそれを受け取って一気に飲み干す。緊張と不安とで干乾びていた喉が潤い少しだけ落ち着けたように思えた。

 「ありがとうございます。貴重な水を……」

 「いえいえ、お気になさらないでください。水なんてオアシスまで行けばいつでも採れます。隣、よろしいですか?」

 「あ、はい」

 共に岩の上に腰掛けると同じ方向を見やる。トレーゼとヒツキが消えた地平線の向こう……オレンジ色の赤茶けた砂の海の向こうにあるはずの森林に向かって行った二人を追うように、スバルとヒツキの父はただその一点を見つめていた。

 ただ見つめるだけ……そんな無言の時間が一体どれだけの間続いただろうか、重苦しくも乾いた沈黙を破ったのはまたしてもヒツキの父だった。

 「彼の事が心配ですか?」

 ここで言う彼とは即ちヒツキの捜索に向かったトレーゼの事だ。かれこれ二時間近くは捜索に徹しているが、未だ芳しい報告は入って来ない。

 「彼は……彼はなんだか……」

 「?」

 「とても無理をしているように見える……」

 「無理……ですか」

 「あっ、いえ、もちろん私から見てと言う話ですから決め付ける訳ではありません! 気に障ったのでしたら謝ります」

 「…………どうしてそう思ったんですか?」

 「どうして、ですか。何と言えば良いのやら、巧い言葉が見つからないのですが……なんでしょうね、背筋が伸び過ぎているんですよ」

 背筋が? ちょっと難解な表現を使われた事にスバルは首を傾げ、それを見たヒツキの父は分かり易く噛み砕いて言い直す。

 「自信の無い人間は猫背になります。逆に自信に満ち溢れた人間と言うモノは総じて背筋を真っ直ぐに伸ばし、胸を張れるものです。でもあの人にはそれが無い。確かに背筋は伸びていますが、まるでハリボテみたいに脆く見えるのです。虚勢を張っている……とは言い方が悪いでしょうが、そんな感じがしてならないんです」

 彼の言わんとしている事は何となく分かる……。確かにトレーゼは自分の行いに常に自信を持って行動していた……常に単独で誰の力も借りずに、誰にも頼らず、誰にも縋らず、誰にも甘える事無く自分一人で何でも成し遂げて来た彼の自信は、偏に幼少の頃に自分を鍛え上げた姉に対する敬愛の念と、彼女の教えを遵守していると言う自覚から来る覚悟によるモノだった。創造主たるスカリエッティを殺害したのも幼き日に刻まれた姉からの教えに則り、一度敗北を喫した弱者を淘汰する意味合いでの行動だった。無論、その行動によってもたらされた結果に関しての罪悪感は無い。

 だが彼は否定された。

 他でもない最も敬愛していた姉によって存在を否定され、今の彼は全ての自信を喪失して半ば自暴自棄になってしまっている。それでもその佇まいを崩さないのは、誰にも決して弱みを見せようとしない持ち前のプライドの高さの所為だ。実際は何をして良いのか分からずに行動を起こす事すら出来ずにいるだけのただの人間だった。

 「彼は危ない、はっきり言って危険だ。虚勢を張る人間は総じて無茶をする……今の自分の力の限界と、目の前の現状を照らし合わせる事が出来なくなる。そして最後には……周りを巻き込んで自滅してしまう典型です」

 「……………………」

 「でも、私にはそれよりも分からない事があります」

 「分からない事? 何ですかそれは?」

 「貴女の事です、スバルさん」

 「あたし……?」

 「貴女と彼はとても私の目からは良好な相互関係にある様には見えない。むしろお互いの意見が相手を素通りしてしまっている様にも見えます」

 図星だ。自分とトレーゼの間に結ばれた関係は所詮は仮初の停戦協定、互いが互いの目的を成し遂げるまでの間だけの同盟関係に過ぎない。どちらかが相手に疑心を抱けばその瞬間に崩れ去る程に脆く弱々しい……と言うより、この関係は初めから破綻しているようなモノでしかない。露骨な慰撫と欺瞞で塗り固め、あたかも正常であるかのように振舞っているに過ぎない。

 「それに貴女には彼のような影が無い。多少無理を押し通している感は否めないが、彼の様に闇を抱えているような感じは無い。だからこそ不思議なんです……どう見ても相容れない貴方達がどうして行動を共にしていられるのか?」

 「それは……」

 「…………いえ、言い過ぎました。忘れてください。私と貴方達は後一日の仲……過ぎ行く旅人である貴方達に私個人がしてあげられる事など何もありません」

 それは諦観にも似た優しさだった。自分よりも長い生を生きてきた者の優しさに触れながらスバルはこの先を想う……自分の未来、トレーゼの未来、自分達の未来を。

 ふと──、



 パリッ──!



 「あうっ!?」

 「大丈夫ですか!?」

 「あぁ、はい。大丈夫です」

 手にしていた器が独りでに割れ、その鋭利な破片が手の中で飛び散った。幸い左手に怪我を負う事は無かったが、何の前触れも無しにいきなり器が割れてしまうと言うのは少々不吉だ。

 果たして、何事も無ければそれでいいのだが……?










 森の中が急に静けさを増したとヒツキが感じた時には既に何もかもが遅かった……。初めは草葉の陰からゆっくりと息を潜め、そして狩猟範囲内に捉えた瞬間にその捕食者は小さな木々を薙ぎ倒して彼女の眼前に姿を現した。

 「な……ンだよ、こいつ……!?」

 砂漠で生まれ砂漠の中で育ってきたヒツキは、ナワバリをうろつく竜と部族が飼育する家畜以外に動物を見た事が無かった。森にどんな生き物が棲んでいるかなんて聞いた事も無かったし、聞いても村で最も長命である自分の祖父以外は森での生活を送った事が無いから聞けるはずも無かった。

 だから知らない……目の前に立つ野獣の存在を彼女は知らなかった。

 黒い体毛に覆われた巨躯、荒々しく呼気を吐き出す口とその牙、血走った眼は獰猛に輝き、樹木の幹の如き脚で大地に立つのは……巨大な巨大な猿人だった。身長は目測で約二メートル強、グリズリー並みの巨躯を誇るその猿人の風体は地球で実しやかに存在が噂されているビッグフットを彷彿させた。口から除く何本もの牙は紛う事無く肉食性の証……その強靭な両脚はより速く獲物に追い着き、その両手の鋭い爪はより確実に獲物を仕留める為に独自の進化を遂げ、竜などの爬虫類と違い真正面に位置したその両眼は獲物との距離を正確に測る為に備わった狩人の力だった。

 「ぁ……ああっ……」

 圧倒的身長差から来る威圧感に気圧されたヒツキは抵抗と言う選択肢を早々に放棄し、最初から逃げる事に全力を傾けた。幸いにもここは森の中、周囲に木々が密に生い茂るこの空間で猿人の巨躯は仇になると判断しての行動だった。確かに彼女の行動は正しい……未知なる存在への恐怖で平常心を失い掛けていたとは言え、この土壇場でその判断は確かに正しかった、その事については誰も文句は言わないだろう。

 彼女の誤算は二つ。

 一つは、猿は元々樹上で生活していた動物だと知らなかった事……。

 そして、この周辺には充分猿人の足場に成り得るサイズの樹木が大量に自生していたと言う事実。

 たった二つの未知なる事実が彼女の失敗であり敗因であり、過ちだった。案の定、ものの十メートルも行かない内に彼女の前には樹木を足場に先回りした猿人が立ち塞がり、その巨大な剛腕でヒツキの小さな体を弾き飛ばした。

 「アガッ……! ガガ、ァ」

 飛ばされた地点が草の上でまだ良かった、これで岩や木の幹に激突していれば骨折の一つや二つは免れられなかっただろう。だが結局はそれだけの事でしかない。落下した時に腹部を強く打ちつけ、その衝撃が痛覚に変換された所為で彼女は腹部を抱えたまま悶え苦しんだ。地面に突っ伏した彼女は必死になって足を動かして脱走を試みるも、悲しいかな、実際にはその距離は三十センチも進んではいなかった。当然、たったそれだけで逃げ切れるはずもない。

 <グルルルルッ>

 「うわぁ!!?」

 独特な唸り声で威圧を繰り返しながら猿人はヒツキの左腕を掴み上げた。まるでそこら辺の木の枝でも拾ったように軽々と彼女の体は宙に持ち上げられ、万力の如き力で締め上げる手から逃れようと必死になって体を捩った。だが、そもそも根底から力が違い過ぎた……そしてそれだけでは飽き足らず──、

 もう片方の手がヒツキの両足を捕らえた。そしてそのまま掴んだ両足と左腕を反対方向に引っ張り始める……。

 「な……お、おい! やめろ!」

 脳裏に浮かび上がった最悪のビジョン……それが今、自分の身で再現されようとしている恐怖にヒツキは顔色を変えた。もしそれが現実のモノとなれば自分は一体どうなってしまうのか…………今の彼女の行動原理を支配する感情、それは捕食されると言う事実が生み出す純然たる原始の恐怖。



 「うわああああああああああああああああああああああああああぁぁぁっ!!!」



 混乱と恐怖に彩られた彼女は悲鳴を上げる。しかし、その断末魔は誰の耳に届く事も無く森の木々の反射を伴い消えて行った。










 二度目の銃声はもっと近くで聞こえた。音が拡散している所為で正確な距離までは割り出せなかったが、それでも近くで誰かが発砲した事だけは分かった。銃声は一発……その直後に鳥が何羽か叫びながら飛び立つのを遠目で確認し、粗方の距離を掴んだ。

 この森に進入して幾許か時間が過ぎたが、それなりに分かって来た事もある。姿こそまだ確認してはいないがこの森の中には何やら巨大な捕食者が居ると言う事と、その凶暴な捕食者を管理する為に銃を手にした何人かが森を出入りしていると言う事……この二つの事実だった。前者はともかくとして、後者は見つかると少し厄介だ。単に伐採作業の邪魔になる獣を駆除するだけでなく、森林に無断で立ち入る不審者などを取り締まる自警団としての仕事も担っている為、見つかればしょっ引かれる可能性も有り得る訳だ。スバルに面と向かって殺しを禁じられている以上、そう言った状況になれば大人しく従うか或いは発砲されるのも辞さずに逃走するかになる。

 もっとも、この分だと自分よりも先にその自警団がヒツキを発見するかも知れない。それはそれで面倒だが、見つけるまでの手間が省けるに越した事は無いだろう。

 そう考えながら彼は樹上を行く。青臭い大気に紛れ込んだ僅かなヒツキの匂いを捉えては移動し、たまに見失っては探索を繰り返し彼の足は徐々にヒツキが居るはずの場所へと近付いて行った。時刻は既に午前10時だ、砂漠越えを敢行するにはとっくに厳しい時間帯だ。いざと言う時は転移魔法を使用するのも止むを得ないが、それもまた後々面倒な事態になり兼ねない。

 「面倒か…………最近、何もかも、面倒に感じる」

 自己と目的を失った事による影響か何かは知らないが、とにかく今の自分は何事にも積極的に取り組める感覚がまるで無くなっていた。自分の中身がどんどん虚無に近付いて行く……ガランドウ、やがて行き着く先は空っぽの終末、か。だがまだ望みはある。割れた器は用無しだが、単に中身が零れ落ちただけなら代用が利く……それだけの話だ。キーパーソンであるスバルには精々頑張って貰うだけだ。まだ自分の器は割れていない……そう自分に言い聞かせながら今のトレーゼは板子の上で辛うじて均衡を保っていた。心が死ぬ? 知った事か、肉体さえ生きていればそれで良い、生きていれば“勝ち”なんだから。

 いい加減にこの辺りで余計な思考は止めよう……。今は手間を掛けさせるあの小生意気な小僧を回収するのが先決だ。今頃どうなっているかは知らないが、分不相応な行動に出てしまった事を嘆いている頃ではないか? 生まれてこの方砂漠で生活してきた少女が周囲を木々が埋め尽くす森林でまともに視界を確保して動けるとは到底思えない。どうせ見つからないのもこの一帯を彷徨っているだけなのだろうよ。

 ふと──、



 獣の臭い。



 「……………………」

 気配を最大限に押し殺し、視覚と聴覚を限度一杯にまで拡張させてその存在を推し測ろうとした。幸いにもそこには痕跡しか残っておらず、獣の方は影も形も無かった。つい今しがたまではそこに居たはずなのだが、さっきの銃声に驚いて逃げ出したのだろう、脇の草葉が薙ぎ倒されているのがその証拠だ。薙ぎ倒された草葉の幅と微かに残る足跡から見て恐らく対象は二足歩行を行う猿人型の獣と判断した。樹上で生活を営んでいた猿が地上をメインに生活を送るようになり、その過程で巨大化したと言う種なのだろう。

 まぁそれ自体は何ら不思議ではない。元より自分はこの世界の住人ではないのだから、今更どんな生物が跋扈していようが別に驚きはしない……。

 だが──、

 「この臭い……あの小僧か」

 現場に残っていたのは獣の臭いだけでなく、あのヒツキの体臭も残っていた。砂漠の砂に塗れたあの乾いた臭いは忘れようにも忘れられない。

 いや、この際臭いなんかもどうでもいい。

 重要なのは……

 「…………………………………………0.7リットル」



 一リットル半……それが、目の前を埋め尽くす血液に対してトレーゼが出した解答だった。



 尋常ではない。0.7リットルと言えば市販の大型ペットボトルの半分位の容量だ。人間が大量出血による失血死を迎える境は大体だが全体量の三分の一でその生死が別れるらしい。仮にヒツキの体重が40kgだとすれば、その体重のおよそ十三分の一が血液の重量……約3.07kg、約3000ccしかない血液の内の三分の一はつまり1000cc、一リットル丁度だ。であれば、今目の前に見ているこの夥しい赤い液体全てがヒツキの物だと仮定するならば、何らかの理由で彼女は瀕死の重傷を負っている事になる。

 問題は、そんな状態で一体どこに移動したのかだ。

 見たところでは彼女の死体、もしくは肉体と一部と見受けられる様なモノは周囲には無い。髪の毛一本、爪の欠片に至るまで何も残されてはいなかった。

 「となれば……」

 自力で移動した? いや、負傷した部分にもよるが仮に足だった場合は一歩も動けないはずだ。腕だったらまだ融通が利くかも知れないが、それ以外はどこの部位もアウトだと思った方が良さそうだ。

 獣に連れられた? それもどうか。ここに居た獣が予想通りの巨大生物で肉食だったら、当然食う分は多いはずだ。わざわざ巣に持ち帰って分け前が減らすような事はしないだろう。

 だったらどこへ行ったのか? 地面をよく観察して見ると……

 「これか……」

 獣の足跡とは別にもう一つ、僅かに草の上に残っていた引き摺った様な線の跡と、それに沿って点々と一直線に続く血痕……その痕跡を辿って獣道を行くと、トレーゼは初めて草木が切り拓かれた人工の道へと行き着いた。少し開けた為か離れた所で木々の伐採をしているであろう作業の音も聞こえて来た。草木を切り払って作られた道を数分掛けて歩けば次はアスファルトで舗装された道に出て、人の流れが多い場所へと出ていた。

 「……………………」

 血痕はまだ続いている……。道行く者は気づいていないだろうが陽光を熱く跳ね返す黒い道路の上にはまだ新しい乾き切っていない血液がずっと続いていた。堂々としている為かすれ違う者達はトレーゼを関係者だと思い込んでおり、誰一人として先へ行く事を咎めない。歩き続けて五分、やがて彼は伐採現場の隅にある一軒の宿舎らしき建物へと辿り着いた。

 人の気配は……ある。真昼時なので殆ど全員が作業に出ているはずなのだが、どう言う訳かその宿舎の中には複数人の人間の気配を感じ取る事が出来た。更に眼球の熱探知機能で分かった事なのだが、中に居る人間は四人で、全員が一つの部屋に篭っていた。

 …………何故だろう? 嫌な予感しかしない。

 ヒツキ。

 森林。

 血痕。

 作業場。

 宿舎。

 密室。

 様々なワードが頭の中で飛び交い電光の様に閃いては消えて行く。思考の間に移動したトレーゼは今、その部屋の前に居る。確かにここには誰かが居る、そしてその誰かはヒツキに何らかの形で関与している。どんな形で? それは今から嫌でも目にする事だ。

 そうきっぱりと思考を遮断し、彼は木を加工して作られたドアに手を掛けてゆっくりと手前に引いた。

 だが……このほんの三十分後、彼は「この時」に余計な思考をせずにさっさとドアを開けるべきだったと後悔した。

 そして──、



 この「事件」が彼が後々まで抱く“ある考え”を決定付ける事になろうとは、この時はまだ誰も知らない。










 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』




















 午後16時43分、森林の奥地の小川にて──。



 「どこ……どこに居るの、トレーゼ」

 長老の許可を得て家畜の足を借りて森に辿り着いたスバルは必死になって音信不通となったままのトレーゼを捜していた。もうかれこれ六時間以上も連絡を寄越さない彼を心配し、半ば強引に長老達を説得したスバルは彼らの家畜の足を借りてここへ来た。道中、竜が徘徊するエリアを迂回していた所為で時間が掛かってしまったが、こうして着いた事で希望が湧いた。

 森に入った瞬間に感じ取ったのは膨大な魔力の気配……間違い無くトレーゼのものだった。少なくとも衰弱状態で放てるような量ではないのでまず生きているだろう。そう思いながら草木を掻き分けて森を進むと……

 「トレーゼ……!」

 小川の傍の岩の上に彼は居た。村を飛び出した時と全く変わらない姿で、膝を抱えたまま小川の流れを沈黙のまま見守っていた。そう、本当に何も変わらなかった……少なくとも表面上は。

 「トレーゼ、聞こえる? ねぇ!」

 岩をよじ登って彼の隣に並んだスバルは茫然自失になっている彼の肩を揺さぶった。何かがおかしい、今まで見た事も無いようなその感覚にスバルは戸惑いを隠せなかった。トーレに拒絶された時の様な心理的衰弱はどこにも無く、弱ったと言うよりはむしろ何かが『抜け落ちた』と言う表現がしっくり来る様な状態に見えていた。やがて十秒くらい遅れて帰って来た反応は実に淡白だった。

 「……あぁ、セカンドか」

 「どうしたの? ケガ無い? ヒツキちゃんは!?」

 「…………俺は特に、異常は無い。ヒツキは…………眠った」

 「そう。休憩してるんだ。仕方ないよね、色々あったんだし」

 どうやら自分が思っている程に大変な事が起こった訳ではない……そう解釈した彼女は溜息と一緒に疲労と緊張を解きほぐし、隣に腰を降ろした。周囲の水分が蒸発しているので砂漠と違い湿気による不快感は多少あるが、砂漠程に気温は高くないので快適な方だった。しばらくの間そうして言葉も交わさずに過ごしていたが、やがて時刻が17時になろうとした頃にようやくスバルから沈黙を破いた。

 「帰ろっか。三人一緒に。長老やヒツキのお父さんも心配してるし……」

 「いや、二人だ」

 「二人……? トレーゼは残るつもりなの?」

 「いいや…………戻るのは、俺と貴様の、二人だけだ」

 「へっ?」

 意味が分からない。と言うよりは会話が噛み合っていない感じが強く漂っていた。ある一つの“事実”に対する自分とトレーゼの間にある大きな認識の差異……それが彼の妙な言動の原因だと気付くのに時間は掛からなかった。

 その事実に気付かせてくれたモノは──、

 「……ねぇ…………その袋、なに?」

 登る時には死角となっていたので見えなかったが、トレーゼの足元には口をきつく締められた頭陀袋が転がっていた。行く時には目にしなかった物体で、質問しながらもスバルは薄々嫌な予感を覚えていた。聞いてはいけない気がしつつも聞かずにはいられなかった。

 「……………………袋は、作業場で、拾った。中身は……回収した」

 「回収……? 回収って何なの!?」

 「……………………見れば、分かる」

 半ば投げやりな反応を返されながらスバルは視線を袋に移す……。袋は小川の水面に半分以上浸かるようにして放置されており、すっかり内部にまで浸透した水は中に収められた“物体”まで濡らしていた。外側から手で触れて中身が何なのかを把握しようとしたが、手で触れた感じでは中には複数個の“物体”が入っており、硬いモノや柔らかい感触を持つモノなどが入り混じっていると言う事しか分からなかった。

 “子供の体重”ぐらいはある重量のそれを川から引き上げてしばらく躊躇する素振りを見せた後、スバルは口の紐を解いて中身を──、

 確認した。

 「────────」

 まず“それ”が何なのかを理解するのに時間を要した。見覚えが無いようで確かにある、袋の中のモノはスバルにそんな曖昧な印象を抱かせた。

 次に予感。“それ”の正体についてのほぼ確実といってしまっても良いぐらいの確信に基づいたその予感は、他ならぬスバル自身を震撼させた。

 そして混乱。もし自分の予感が正しく的中していたならば、何故、どうしてこんな事になってしまったのだと言う混乱……ワナワナと震える口と瞬きすら忘れてしまった眼を必死に律しながら、彼女は希望に縋るかのようにトレーゼに眼を向けた。



 「27分割している」



 それが決定打だった。遅れてやって来た胃の捻れに耐え切れずに小川まで行くと清流を吐瀉物で汚した。ものの二分と掛からずに胃の内容物全てを吐き出したが、自分が目にしてしまったモノからの衝撃が強すぎた彼女はそれからしばらく立ち上がれず、やっと持ち直した時にはその表情はやつれ切っていた。ある程度落ち着いて余裕を取り戻した後、彼女は問わずには居られなかった。

 「何があったのっ!!?」

 「……………………俺が……俺が殺した」

 「嘘だ! トレーゼがそんな事するはず無い、する理由が無い!」

 「…………それでも……俺が殺したんだ。殺した……こいつを」

 込み上げる生理的不快感を押し殺し、もう一度スバルは袋の中に目を通す。袋ごと川に浸けていたのは溢れ出す血を流す為なのか、袋の中は真っ赤な血で濡れていたがバラバラになった屍には文字通り血の気が無く、ふやけた肉はまるで水死体の様相を呈していた。二の腕と思しき部位を掴んで強く握ったが血液はもう出なかった。

 「殺したって言うなら…………せめて、理由だけでも教えてよ!」

 「…………理由なんて、そんなものは無い」

 「無いはずがない!! ふざけないでよ……!」

 「…………もういい」

 問答するのも面倒に感じたのか立ち上がったトレーゼは袋を引っ手繰ると再び口を締め、それを肩に担ぎ上げて運び始めた。袋から滴り落ちる水で服が濡れるのも気にせず彼は森の出口、砂漠に向かって足を進めた。

 「どこ行くつもり?」

 「こいつの村に、戻る。引き渡す」

 「引き渡すって……」

 確かに自分達が保存していても仕方が無いし、かと言って適当に放置してしまう訳にもいかない。順当に考えれば元の村に返還するのが妥当なのは誰からも明らかだった。

 だが、恐らくヒツキの屍を引き渡す時に彼は大勢の村人を前にして平然と言ってのけるだろう……



 俺が殺した──、と。



 確かに死体の切断面は鮮やかな切り口であり、骨の断面も刃物では再現出来そうに無い程に綺麗に切られていた。魔力をレーザーの如く束ねた魔力刃であれば充分可能な事だが、断面からは一切の魔力痕跡は感じられないし、何よりわざわざそれを二十七もの肉片に分割した意味が分からない……袋に収める為なら上半身と下半身の両断だけで済んだはずだ。それを何故?

 「…………よ……にも……」

 「え……?」

 「聞くなよ、何も……。これは、俺が勝手にやった、事だ。貴様には関係無い」

 「…………どうして、何も教えてくれないの?」

 「教えて、どうなる。貴様は、俺を、どうしたい……?」

 その質問にスバルは……

 答えられなかった。










 午後17時56分、砂漠の集落にて──。



 「…………今……何と仰いましたかな」

 「くどいな。もう一度だけ、言ってやる……貴様の孫は、俺が殺して解体した、そう言っているんだよ」

 そう言いながらトレーゼは村人全員が見守る中で例の袋を長老に向かって放り投げた。恐る恐る長老が中身を確認すると、次の瞬間にはこの世のモノとは思えない悲鳴を上げて腰を抜かした。続いてヒツキの父親が確認する……。中身を確認した彼は肩を震わせ固く結んだ口の端から、まだ現状を理解出来ていない村人達に向かって告げた。

 「…………娘です……」

 それがきっかけだった。

 殺せ!

 殺せ!

 殺せ!

 周囲の人間が一斉にトレーゼとスバルを取り囲む。不埒な敵対者を一歩たりとも逃がさないと言う強い怨嗟の念が二人を押し潰さんばかりに発せられていた……生前親しかった者の何人かは袋を抱えて泣き叫んでおり、それが彼らの復讐心に更に拍車を掛けていた。誰が投げたのか石が肩や背中に当たるのも気にせず、トレーゼはスバルを伴って踵を返した。

 「どこへ行く!!」

 「てめぇ、何にも無しにここ出られるとでも思ってんのかっ!!」

 「何だってあんな可愛い子を……! この野郎ぉぉぉっ!!!」

 遂に感情を抑えきれなくなった一人がトレーゼに掴み掛かった。血走った目とは対照的にトレーゼ自身の視線はとても冷ややかで、金色の眼はここではないどこかを見つめるような遠い目をしていた。だが自分の胸元を掴む手を鬱陶しく思ったのか逆にその手を掴むと、思い切り圧し折った。

 「ぐぎゃぁあぁあ!!」

 木の枝を何十本も一斉に折ったような鈍い音と、それに遅れて響いた男の悲鳴が他の村人全員を震え上がらせた。地面でのた打ち回る男に誰も駆け寄ろうとはせず、全員の視線が腕を圧し折った犯人の顔を凝視していた。ここまで来てその石膏の如き固い表情は筋一本動かず、真一文字に結ばれた口からは何の言葉も無かった。だがその金色の冷たい視線は口で語るよりも雄弁に彼らに訴えかけていた……『貴様らもこうなりたいのか』と。幸いにもその視線の意図を理解出来なかった鈍感な者はここには居なかったようで、皆が譲るように道を開け始め、トレーゼとスバルの前は人垣がぱっくりと割れて道が出現した。もう石を投げる者すら居ない事を確認した後、彼は悠々と村を後にしようとし──、

 「待ってください!!」

 聞き覚えのある声に呼び止められた。声の主はヒツキの父親でまっすぐトレーゼの前まで歩いてくると、特に何をするでもなくじっと彼の目を見つめた。トレーゼもそれに反発する事無く見つめ返す……両者の間に言葉は無く、隣に居たスバルでさえどうして良いか分からずにまごついているだけだった。やがてその沈黙がどれ程続いただろうか……ふと、ヒツキの父が口を開ける。

 「貴方は…………」

 「……………………数日経てば」

 「?」

 「数日経てば、ここに、俺と似た様な連中が、来るはずだ。その時は、適当に、はぐらかしてくれ」

 ここでは随分と大きな魔力反応を残してしまった……恐らくは管理局に見つかるのも時間の問題だろう。そうなれば当然捜査の名目でここを管理局員が訪れるはずだ。別にこの言葉に大した意味は無い、精々自分とは別の客人がこの村を訪れるはずだという予言に過ぎない。言わなくてもどうと言う事はないし、言った所で何かが劇的に変化すると言う訳でもない。

 「…………世話になった」

 まだ何か言いたそうにしているヒツキの父を尻目に最後にトレーゼが口にしたのは、たった一夜だけの寝床と食事を提供してくれた者への礼だった。

 その言葉を最後に──、

 狂気の戦闘機人は砂の大地を立ち去った。その背に様々な憎悪と怨嗟を引き連れて……。




















 第97管理外世界『地球』、その某所にて──。



 『…………これは、とても興味深いですね』

 『どったのー? 何か面白そうなモノでも見つけた?』

 『今日も今日とて、貴様は塵芥の観察に余念が無いな。そんなに面白い事でもなかろうよ』

 『肉体を失い早十余年……他にやる事もありませんから、日課のようなものですよ』

 『それでそれで! 何見つけたのさぁ!』

 『ええ、どうやらこの世界に侵入して来た輩がいるようです』

 『どうせ例の管理局だろう。我らがわざわざ観察するまでもあるまいよ』

 『……そう思っていたのですが、事はそう簡単に運びそうにはないです』

 『どゆこと?』

 『ほほう、この十数年で貴様がそこまで興味を抱くとはな。興味が湧いた、どれどれ、王たるこの我も見てみようではないか』

 『あーっ、ちょっとちょっと! ボクも見るぅ~!!』

 『…………ほぅ』

 『へぇ……。イイじゃんイイじゃん! 面白そう!』

 『それでは……決定で良いですね?』

 『あれ程の器……塵芥と言って廃れさせるのは惜しい。矮小な存在に頼るのは甚だ不愉快ではあるが、その案には賛同しておこう』

 『それでは、決定ですね……。彼を────、』



 『“砕け得ぬ闇”の復活……その礎とします』



[17818] 相克する願い
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/07/19 10:56
 新暦78年12月1日、日本のとある地方都市……海鳴市。



 日本人は真に不思議な民族だと諸外国の人間は言う。単一言語、単一民族、単一文化と言った他の島国でも滅多に見られない稀有な特徴は元より、特筆すべきはその宗教感覚だろう。キリスト教とイスラム教然り、カトリックとプロテスタント然り、人間の歴史に残る争いの歴史の背景には宗教が絡んだモノが少なからずある。だが日本は仏教を主体とした宗教観念を下地にして国を築いて来たが、現在では信仰の自由により個人がどんな宗教を信仰しようと誰も干渉出来ないと憲法で定められている。

 事実、先祖代々禅宗の家系であってもキリスト教のカトリックに改宗して仏像ではなく十字架に祈りを捧げる者も居れば、イスラム教に入り一日五回西の方角に向かって土下座したり、傍目には怪しげにしか思えない新興宗教を興して宗主になる者まで居る……。築二十年以上経つ家宅には神道の象徴たる神棚があり、部屋の隅には仏壇、夏には精霊流しをし、秋の終わりにはハロウィン、冬のクリスマスが終わった後は初詣で新年を祝い合う……世界的に見てもここまで宗教に寛容な国は日本を除いてまず無いだろう。

 そしてこの地方都市「海鳴市」でもそれは変わらない。12月に入った事で町のムードはクリスマス一色だった。大型店のスピーカーからは聖夜を代表する聞き覚えのある歌や音楽が流れ、既にケーキの予約を宣伝するチラシまで出回っていた。後二週間もすれば店先にサンタクロースの格好をした店員が立っているに違いない……そんな街の道路を──、

 「~♪」

 買い物袋を片手に陽気な鼻唄を口ずさみながら帰路を歩くのは長い亜麻色の髪を風に揺らす妙齢の女性。ビニール袋には彼女がスーパーで買ってきた卵やら野菜やら魚やらが詰まっていた。

 彼女の名を……高町桃子。海鳴の街の一角で小さな喫茶店『翠屋』を営む高町夫妻、そのケーキ作りを担当している女性だ。もう四十代も半ば、五十代にも手が届きそうな年齢のはずなのにその外見は未だかつて衰える事を知らないかの様に艶やかで、密かに海鳴七不思議の一つにカウントされていたりするのは別の話……。昼下がりの少し暖かい時間を見計らって買い物を済ませた彼女は職場であり二十年以上経営する自分達の喫茶店へと戻って来た。

 「ただいま~」

 「おかえり~。寒くなかった?」

 「ええ。薄手のコートでも充分間に合ったわ」

 今日は定休日だが店の中は高町家の大黒柱である士郎と、長女の美由希がそれぞれ厨房で仕込みを行っている。あと三週間もすればこの街はクリスマス商法合戦の波に乗って喫茶店やスイーツ店に客足が雪崩込んで来る、その為の下準備も欠かさない。高町家にとって年末年始は一息つける羽休めの時期ではなくむしろ逆、雪崩込むようにして来店する客を捌く冬の嵐の期間なのだ。

 「そんなに暖かいのか!? もう12月だって言うのに」

 「今年もホワイト・クリスマスは拝めそうにないかなぁ。まぁ、例年と比べて寒くないって言うのはそれはそれで良いんだけど」

 最近の世界的環境テーマはとにかくエコロジーを前面に押し出す。現にこの海鳴でも電器店に行けば節電を売りにした商品が多数店頭に並び、最近ではこの翠屋でも冷暖房の温度設定を一℃上下させる事が検討されている。ちなみに、一家の長男である高町恭也は諸事情で自宅を離れており今年中には帰って来れない。

 「「あっ!」」

 「どうしたの?」

 両親が仲良く何かに気付いたような素っ頓狂な声を上げたのを見て美由季は仕込みの手を止めた。桃子は買ってきた卵パックを業務用冷蔵庫に仕舞いながら、士郎はカウンターでコーヒー豆の在庫を確認しながら、それぞれ何かに気付いて作業の手を止めていた。

 「しまった……サイフォンを家に忘れてきた。桃子さんは?」

 「ごめんなさい。不足分の牛乳買わないとダメだったのに忘れてきちゃった」

 サイフォンはコーヒーを淹れる為の、牛乳はケーキ作りに欠かせない材料だ。数日前に調子が悪くなったサイフォンを家に持ち帰って修理したのをそのまま置いてきてしまったらしく、今から取りに戻ろうとしていた。

 「取り合えず一旦家に戻るけど、その間の事任せてもいいかな?」

 「私もすぐ戻るから!」

 「はいは~い。行ってらっしゃーい」

 五十代に手が届きそうな年齢になっても初々しい両親を見送りながら美由季は仕込みの続きに入った。だがすぐにポケットの携帯電話の着信音で中断される。相手は親友のエイミィだった。

 「はぁい。どうしかしたエイミィ?」

 『ごめん美由季! カレルとリエラをそっちで半日だけ預かってくれない?』

 「どうしたのさ、また仕事?」

 『あはは~。実はそうなの……こっちは育児休暇中だってのになぁ』

 「頑張るのは良いけど、旦那さんみたくワーカーホリックにならないようにね。クリスマスには休暇とれるんでしょ?」

 『どうだろね……。あっちじゃテロがあったとか言ってたし、多分その処理で扱き使われてるだろうし……今年も難しいかな』

 「大変だねそっちも。預かるぐらいだったら全然問題無いよ。今ちょっと店の仕込みでドンチャンやってるけどさ」

 『本当にごめん! 埋め合わせはするから』

 無人状態の自宅に子供二人で放置する訳にはいかないので必然的にここで面倒を見る事になるが、あの二人は父親みたいに聞き分けが良いので荷物にはならないだろう。十分もすれば車で預けに来る……それまで美由季はラジオを聴きながら仕込みを続けた。

 ラジオのテーマ、『聖夜の恋人たち』。










 午後13時34分、沿岸部の埠頭にて──。



 「……第97管理外世界、『地球』。文明レベル、文化レベル、共に基準値をクリア、か……」

 あれから数十時間……合計26もの次元世界を経由してトレーゼとスバルが辿り着いたのがこの世界だった。実を言えばトレーゼは最初からここを目指して次元転送を繰り返していた……ある一定の技術・文化水準を持つ世界で、尚且つ管理外世界と言う時空管理局の管轄外にある世界、そんな都合の良い世界がここだった。ここは過去に何度も魔導絡みの事件が多発し、管理局が最も目を光らせている危険区域であると同時に管理外……手を出すにしても時間が掛かるし、無人世界と違って人海戦術のようにローラー作戦で捜し出す事も出来ない。なまじ、文化レベルが高過ぎるのが仇となり、無闇やたらにこの世界に干渉して来る恐れは万に一つも無かった。しかもそれらの懸念はここに居るのが確認された時の話であり、息を潜めてさえいれば発見される確率はゼロに等しい。まさに灯台下暗し……。

 現在トレーゼとスバルは別行動中だった。ここまで来るのに公共機関を利用し、辿り着いた駅で別れて以降それっきりだった。一応魔力反応は常にチェックして居場所は把握している。今の彼女はここから少し離れた街中に居るはずだった。ちなみに、服に関してはここの隣街で購入した。購入する為の資金はスリではなくコンビニのATMを誤作動させる事でざっと五万円入手した。もちろん、スバルには二度とやらないでほしいと言われたが。

 「…………風が、寒いな」

 空を見上げる。ほんの十分前まで燦々と輝いていたはずの太陽はいつの間にか雲の隙間に隠れ、空は曇天の様相を呈していた。その空を見上げながらトレーゼは何やら不穏な気配を風の中に感じていた……。何かが違う、何かがおかしい、まるで“誰か”に『観察』されているような気がする……と。

 そんな下らない予感を振り払うようにトレーゼは踵を返すと、スバルとの合流の為に街に向かった。

 追い風が背に寒い12月……稀代の犯罪者、トレーゼ・スカリエッティは日本の海鳴へと辿り着いた。










 同日、クラナガンの地上本部にて──。



 「……………………ふぅ」

 食堂の一番隅の席に座って物憂げに溜息をつくのは本局の執務官、フェイト・T・ハラオウンだった。本来なら彼女の所属は本局なので着用する制服も本局員の青服でなければならないのだが、『“13番目”の抹殺』を名目にして再び立ち上がった機動六課のメンバーとして召集され、現在は出向扱いで地上本部に留まっていた。とは言っても、いつぞやの戦闘での傷がまだ完全には癒えていない事と、その状態で数日前の都市決戦で無茶をした事が祟って今の彼女はことごとく本調子ではなかった。一応執務官と言う立場上、報告があった現地に飛び立って調査に向かう事もしてはいるが、戦闘行為は何があっても絶対に回避するようにと上司であり親友のはやてにも釘を刺されていた。

 各次元世界から送られてくる調査結果の書類整理を今しがた一段落終え、少し遅めの昼食に手をつけていた。心なしかその表情はどこか暗く、先程の溜息と相俟って見方によってはその表情は自殺一歩手前の衰弱した人間の顔にも見えただろう。

 「フェイトちゃん……?」

 「あぁ、なのは……」

 向かいの対面に座るのは十年来の親友、高町なのはだ。丁度彼女も今さっき仕事を終えたらしく、テーブルに置いた盆にはコーヒーとパンが乗っていた。

 「どうしたの? 酷い顔だけど……寝不足?」

 「ううん。少し考え事してただけ」

 嘘は言ってない……考え事をしていたのは事実だし、その所為で少し思い悩んだ末に溜息が出たのは別に否定すべき事柄ではない。ただ、単純に難解な案件について悩んでいたならわざわざ親友に心配されるまででも無かっただろう。その「案件」が単純に難しいと言って済ませられるモノではない事を、なのはは見抜いていた。

 「……言えない事?」

 「そうじゃない……。けど……ちょっと昔の自分を思い出して……」

 “昔の自分”……フェイトがそう言う言い方をする時は決まってある一つの過去が浮き上がる。『プロジェクトF.A.T.E』、今は亡きジェイル・スカリエッティの研究成果の一つにして、なのはとフェイトが出会う遠因、そして……フェイトを生み出した技術の名だ。完璧な記憶転写型クローンを生み出す擬似的な死者蘇生の禁忌、それが『F』の技術だ。単純に記憶をオリジナル受け継いだクローンを精製するだけには留まらず、元の源流を辿れば人造魔導師開発の技術が大量に導入されている為、生み出された人造生命は高い確率で魔力変換資質と魔導師としての高い素養を持って生まれる。現在、管理局が確認しているこの技術の“成果”は三例……プレシア・テスタロッサによって作られた『フェイト』が第一号、次に民間の富豪モンディアル家の子息として生まれた『エリオ』が第二号、そして──、

 第三号、“13番目”こと『トレーゼ・スカリエッティ』……。以上三名が、過去二十年において管理局が確認した『F』の成功例である。

 「私とあの子は…………どこか似ているような気がする」

 「似てる……?」

 彼女が言う“あの子”と言うのはもしかしなくても“13番目”の事だろう。確かに似ていると言えば似ている……元を正せば彼のオリジナルである“トレーゼ”の方もスカリエッティが自身のクローンを作ろうとした事がきっかけで生まれた偶然の産物に過ぎず、更にそれを量産の名目でハルト・ギルガスが改良と矯正の末に複製に成功した唯一の存在が今の“13番目”だ。当然、研究資料に書き記されていた日誌には、オリジナルは既に処分された事も明記されていた。境遇としては確かにフェイトやエリオと似通った部分も見受けられるだろうが、ただそれだけの事でフェイトが感情移入するとは思えなかったなのはは少し意外そうな表情を浮かべた。

 「私、母さんに面と向かって見捨てられた時、自分が何なのか分からなくなった。なのはも覚えてるよね?」

 忘れようはずもない。P・T事件はなのはが初めて魔法に出会った事件であると同時に、今こうして話している親友との出会いのきっかけにもなった事件だ……あの日の事は昨日の出来事の様に鮮明に思い出せる。不幸な事に転写された記憶を自身の物だと思い込んでいたフェイトは、それまで自分を産み育ててくれた本当の母だと思っていたプレシアから一方的に突き放され、一度その精神が崩壊の瀬戸際まで追い詰められた事があった。彼女の場合は使い魔のアルフや義母リンディと同じく義兄のクロノ、そして他でもない親友のなのは達の支えを受けて立ち直って見せた。そして二人目であるエリオもまた同様に、両親だと思っていた人間から見放されて自暴自棄になっていたのをフェイトが保護者として親身に接したことで改善された。自然の摂理に則らずに生まれた生命がどれだけ理不尽な扱いと境遇に晒されるのか、それをこの世で一番理解しているのはフェイトとエリオの二人を差し置いて他には居ないだろう。

 「私とエリオも依存していた人から突き放されてどうして良いか分からなくなった……。今だってそう、私はなのはやはやてに、エリオは私に……今でも私達は誰かに依存して頼り切って生きている……」

 人間は誰しも他人に依存し、頼らずには生きられない。それが良いか悪いかは別として、そうしなければ生きていけないのは誰でも知っている事だ。

 ならば……

 「だったらあの子はどうなるのかな……?」

 「フェイトちゃん……」

 「あの子もきっと自分が“今までの自分”だと思って生きていたはず…………スカリエッティを殺したのは自分の意思じゃなくて、本当は誰かに教えられた事を実行していただけなんじゃないのかな……」

 あの時、崩壊した本部のあの場所でどんな会話が交わされたかについては唯一の生き残りであるトーレが黙秘を決め込んでいる為、“13番目”がオリジナルのトレーゼを原型としたクローンである事以外は何も分かっていない。ナンバーズは創造主たるスカリエッティを絶対的上位者として認知しているので、単なる私怨や反抗心だけで殺害を起こす可能性はまず無い。生前、スカリエッティからトーレとトレーゼの特異な関係性について聞かされていたフェイトは過去にトーレと彼との間にあった何らかの出来事がその凶行に駆り立てた要因だと睨んでいた。

 もちろん、彼女の感情移入の理由が単に真相への探究心だけと言う訳ではない。同じ『F.A.T.E』の技術で二度目の生を与えられた者同士、何か思う所があっての事なのだろうと、なのはは勘付いていた。

 「フェイトちゃん……。フェイトちゃんはさ、ひょっとしてあの子に……?」

 「うん、会いたい。会わなきゃいけない気がする……」

 数日前ならいざ知らず、既に“抹殺処分”が確定してしまった今となってはそれも難しい話だ。発見すれば即殺害……それが元ナンバーズの総意に基づいて管理局が下した決定事項だからだ。どうしても彼と接触して話をしたいと言うのなら他のメンバー……特に決定を下したナンバーズの面々よりも先に発見し、接触を試みなくてはならない。

 「分かってるの? 自分のやろうとしている事が」

 下された命令に反すると言う点を除いても、何度も殺し掛けた張本人に再び接触しようとする危険性は看過出来るものではない。だが、フェイトの決意は固いようだった。

 「どうしても……会いたいの?」

 「もうエリオにもこの話はしてあるの」

 「何て言ってた?」

 「……考えさせてほしいって」

 「そう……」

 あのエリオの事だ、諭されればきっとフェイトと同じ考えに行き着くだろう。たった一つ……同じ技術で生み出されたと言うこのたった一つの共通点が、この何の接点も無さそうな三人を繋げている。偶然か或いは運命の悪戯とでも言うのか、フェイトもなのはもこの共通点に何らかの予感を感じずにはいられなかった。

 「でもやっぱりなぁ~。誰よりも先に見つけるのはちょっと難しいんじゃないかな?」

 「やっぱりそうだよね……。せめてサポートを取り付けられればなんだけど────、」



 「話は聞かせてもらったよ!」



 「うっわ! ビックリした!?」

 いきなり自分達の間に割って入って来た闖入者……こと、八神はやての声に思わず二人は椅子から転げ落ちそうになった。いつの間に書類仕事を終えたのかパスタの皿を乗せた盆をテーブルに置きながら、はやては感慨深げにうんうんと頷いた。

 「フェイトちゃん……フェイトちゃんのその言葉に、迷いはあらへんな?」

 「…………無いよ。私はあの子に会いたい。もしあの子が私やエリオと同じ境遇にいるって思っているなら、きっとあの子は泣いてるはずだから……」

 「…………そっか。よっし分かった! そんだけ意思が固いんやったら私が何とかしてやれんでもないよ」

 「え? ほ、本当!?」

 「私は冗談言うても嘘は言わへんよ。そやけど……代わりにフェイトちゃんには大変な思いしてもらわなアカン事になるけど、ええかな?」

 「大変な……?」

 「そう……とーっても大変な」

 そう言って目を細めるはやて。なのはとフェイトは知っている、確かに親友はやては決して嘘は吐かないし冗談も程々にしか言わないが、大抵こう言う表情をしている時の彼女は良からぬ事を企んでいたりするのだと……。










 午後13時46分、海鳴の某所の公園にて──。



 「……………………」

 寒風を背に受けながら放浪の少女、スバル・ナカジマはベンチに座って呆けた表情で曇り空を見上げていた。こちらに来てから購入した厚手の服と防寒着を目一杯に着込み、左手にはさっき自販機で手に入れたホットドリンクが握られていた。どちらもトレーゼが不当な方法で得た金銭を使って手に入れた品なのであまり大きな顔は出来ない……。

 「…………はぁ」

 脇に備え付けてあるゴミ箱に空き缶を投げ入れる。淵にぶつかる固い音の後で底に溜まった別の缶との軽い音が響く……。

 ふと、泳いだ視線がブランコで遊ぶ子供達に留まる。昼とは言えもう十二月、吹き荒ぶ寒風にも負けずに遊んでいる彼らを見ながらスバルの脳裏にある人物が思い出された。ほんの一日、二日前まで生きていたはずの少女……名を、「ヒツキ」。自分の事を男だと言い張っていた年端もいかない少女……海側の人間を見返す為に竜に挑み、単身砂漠を越えて森を目指した少女……そして、最後には何らかの理由でトレーゼに惨殺された不遇の少女……。たった一日かそこら以前の出来事のはずなのに、スバルにとってはもう何ヶ月も前の出来事のように思えて仕方が無かった。だが皮肉な事に彼女の最期の姿は今でも鮮明に脳裏に刻まれて離れてくれなかった。

 数十もの断片に分割された死体……人間の死を冒涜しているとしか思えないあの惨状は、誰がどう見ても悪魔の所業、人の皮を被った鬼畜のやる行いだと解釈されても何の不思議も無かった。あの後すぐに村を出たのでその後の事については全く知らないが、善良な村人が自分達二人の存在を許してはおかないだろうと言う事は容易に想像出来た。

 その事を懺悔すると同時に、何故あの時無理矢理にでもトレーゼに殺害の理由を問い質さなかったのかと言う自責の念がスバルに重く圧し掛かった。確かに自分の『殺すな』と言う命令はただの口約束でしかなく、トレーゼがその気になってしまえば幾らでも反故に出来てしまうモノだったのは認めよう。しかし、途中まで紛いなりにも遵守していた彼が何の理由も無しにあんな非道な行いをしたとは到底思えない。何かしらの訳が、それこそ誰にも言えない様な重大な秘密を隠しているのは決してスバルの思い込みとは言い切れないはずだ。

 だが分からない事に変化は無い。それもそうだ、結論を得るために一番重要なピースが欠けているのではいつまで経っても答えには辿り着けない。

 「…………トレーゼ」

 視線を落として未だ手首から先を喪失したままの右手を見つめる。今彼女が着ている服は実はトレーゼが選んだ物だ。灰色のフード付きの厚手服……彼女の身長より少し大きめの採寸が成されたそれを選んだ理由は、防寒でもなく、デザインでもなく、単純に右手を隠す為の措置だと後で聞いた。この世の中色々な不幸で手足の一本や二本ぐらい失う者も居るので何も不自然な事ではないのだが、行動し易いように出来るだけ視線は集めたくないとも言っていた。その言動を彼の優しさと受け取るか単純にマイナス要素を摘み取る為の行動と解釈するかは人それぞれだが、少なくとも彼と一ヶ月の付き合いになるスバルは前者だと思っていた。

 「って言っても、あたしが都合良く考えてるだけなのかも」

 分かっている、彼がそんな生易しい人間ではない事は……。結局は完全な損得勘定による利害の一致不一致での行動でしかないのかも知れない……それが一番確実で、一番効率的なやり方だと知っているから。

 噴水の水が少し弱まったのと同時に立ち上がったスバルは街中に繰り出そうとした。ここに来るのは二度目、三年前のロストロギア回収任務以来だ。まさかこんな形で再来しようとは、あの時は露とも思っていなかったのだが、やはり人生何が起こるか分からないものだ。そう柄にも無く感慨深げに思考しながら彼女は健在な左手に握った通貨が後幾らあるか確認しようと手を開き──、



 不意に眩暈を覚えた。



 「ッ……!!」

 込み上げる強烈な不快感を押し殺し、水飲み場に手を着ける事で何とか乗り切った。「また」だ……眩暈を覚えるのはこれで二度目だ。一回目は森の中でトレーゼと一日中別行動を取っていた時に感じた。大した事はないと思ってトレーゼには何も言ってはいないのだが、こうも立て続けに起こると明確な異常として認知しなければいけないだろう。大丈夫だ、こうなった理由は……「分かって」いる。

 「あ……は!」

 乾いた喉から掠れた笑みが出たがスバルは自覚していない。

 自分はさっきトレーゼがヒツキ殺害の件で何か秘密を抱えているのではと勘繰ったが…………何て事はない、“隠し事”をしているのは自分も同じなんじゃないかと分かっただけだった。

 (あたしもトレーゼには絶対に言えない事実を隠してる……なんだ、結局はお互いさまなんだ……)

 自己嫌悪にも似た黒い感情を胸に溜め込みながらスバルは公園を離れた。取り合えず一旦別れたトレーゼとの合流を優先したいところだ。明確に集合場所を決めた訳ではないが、互いの魔力は逐一チェックしている上に念話の有効範囲内なのでいざと言う時はそれで連絡も取れる。少し天気も怪しくなってきたし何より今晩泊まる宿だけでも確保しないといけない。そう思いつつ彼女は念話を使おうと意識を集中させ──、

 「きゃ!?」

 「うわっ!」

 人とぶつかった。それも肩と肩がぶつかったのではなく、モロに真正面から堂々と……。反動で相手が尻餅をついてしまい、買い物袋と手持ちのバックが放り出される。

 「す、済みません! 大丈夫ですか!?」

 「ええ……ちょっとお尻を打っちゃったけど、大丈夫よ」

 「本当に済みませんでした! ちょっとぼーっとしてて……」

 「あらあら、良いのよ。避けられなかった私も悪いんだから……」

 現地人との無闇な接触は避けるようにとも言われているが、既に接触してしまった以上は致し方無い。差し伸べた左手を掴んで起き上がった婦人とスバルは互いに真正面から顔を合わせ──、

 「……あぁ!」

 「あらぁ?」

 見知った顔……互いに捉え合った視線は双方の記憶を呼び覚まし、しばし見つめ合って記憶と現物の照合を確認した二人は殆ど同時に声を上げた。

 「桃子さん……?」

 「ひょっとして、スバルちゃん?」

 恩師の母との三年振りの再会は意図せず偶然の下で相成った。










 同時刻、一戸建ての家が集中する住宅地にて──。



 高町家の主人、高町士郎は居間のテーブルに置いてあったサイフォンを持って再び家を出るところだった。家から職場の翠屋まではそれなりに距離はあるが少し急げば余裕で行ける……そう思いながら彼は少し急ぎ足で道路を行く。それなりに結構な年齢だが若い頃に趣味と実益を兼ねた剣道の成果か、実年齢に反して体力はそれなりにある方だと自負していたし、事実そうだった。過ぎ行く近所の見知った人々に会釈し、ボールを抱えて通り過ぎる小学生らを見送り、曲がり角を左にカーブしたところで──、

 「ぅわ……っ!?」

 民家の壁に沿って歩いていた人物と真正面から出くわした。相対距離は目測およそ五十センチ……急いでいたのですぐに止まる事も出来ず、士郎は後で言う事になるであろう謝罪の言葉を考えながら衝突を覚悟した。相手の少年もこちらに気付いたのか伏せていた目を上げて……



 その金色の視線が士郎を射抜いた。



 人は命の危機を感じた際、普段と比べて数倍近い力が出ると言う……。俗に言う火事場の馬鹿力とか言うモノだが、今この瞬間の士郎の行動はまさにそれに当てはまっていた。少年の見上げた視線を見た彼は無意識に発揮した脚力の全てを使って後ろに飛び上がり、衝突を回避した。SPをしていた若い頃に戻ったのかと内心本人が一番驚いたが、士郎の思考の大半を占めていたのは目の前の少年の事だった。

 (この子……)

 元SPだったので人を見る目については一流のモノがある高町士郎……その彼の審美眼が見切った少年の姿はとても、とても歪に見えていた。

 身長は160後半、体重もそれに伴い60kg前後……少し変わった髪の色に、色素が抜け落ちたような白い肌、メラニン含有率が気になる金色の瞳…………そしてその双眸から放たれる異常なまでの敵意の視線、それが士郎に無意識に力を発揮させた最たる要因だった。護衛と言う仕事上、当然暗殺や誘拐、その他諸々の厄介事から要人を警護しなければならないので常に周囲の人間の動向に気を配る訓練はしていたが、彼はこれまでの人生においてここまで純粋な敵意を抱いた眼に出会ったのは初めてだった。

 大抵、第三者に対して悪意や殺意を抱く者は多いが、純粋な混じりっ気無しの敵意を抱いたままそれを維持する者はそうそう居ない。溜め込んだ感情としての敵意は時が経つごとに悪意となり殺意となり、やがては害悪と言う確固たる“結果”へと腐敗するからだ。そうでなければ時間の経過と共に心から消え去るかのどちらかだった。だが目の前の少年が抱え込むそれは消え去るには大き過ぎ、害悪ある行為をしていてもおかしくない状態に見えた。事実、捉えた目は五、六人どころか五十人ぐらいは殺していそうな荒んだ目をしていた……いくらなんでもこれは異常だ、少なくとも日の光が当たる表の世界の住人ではない事だけは確かだと士郎は確信した。

 「大丈夫? ケガは無いかい?」

 「……………………」

 取り合えず気さくに話しかけて出方を見る……。日常で出会うような人種ではないがここは真昼の往来、流石に下手な真似はしないだろうと踏んでの行動だった。どこぞの服屋で買ったのか真っ白で何のロゴも無い色気不足なフード付きの服を着込み、少年は無言の返答を返した。それを無事だと受け取った士郎は少し警戒心を緩めるが、未だ薄まらぬその敵意に満ち満ちた視線を観察しながら一抹の不安を覚えた。ここまでの敵意と狂気を見事に内側に抑え込んでおける人間の存在が彼の興味を惹いたのだろうか……或いは、年衰えて尚色褪せぬ正義感がそうさせたのかは知らないが、士郎はそのまま会釈して過ぎ去ろうとする少年を呼び止めた。

 「君! だいじょう……」

 大丈夫かい……そう言おうとして彼は自分より小さなその肩を不用意に掴んだ。

 だが──、

 「っ!?」

 「……何か?」

 掴んだか肩は人間の体とは思えないほど固く、重く、そして何より冷たかった。手袋越しに岩石でも掴んでいるのかと錯覚するその感触に士郎は一瞬言葉を失い、振り向いた少年の無機質な声と視線で我を戻した。その視線に先ほどの突き刺さる敵意や覇気は無く、どこかポッカリと抜け落ちた様な声がとても印象的で……とても危なっかしく見えた。人を何人殺しても一向に構わない印象を受けたさっきとは打って変わり、今度はその真逆……自分の命ですら平気で何の躊躇も違和感も無く投げ捨てる、そんな感覚を覚えた。過去にそう言う類の人間を何人か見てきた士郎ではあるが、先程の純粋な敵意と言い、この自己を認識していないかのような無機質な感覚と言い、何かがおかしいとはっきり確信するには充分な判断材料だった。

 「い、いや、ぶつかりそうになったからケガでもしてないかと思ったんだけど……」

 「…………いや、問題無い。では……」

 「見掛けない顔だ。ここら辺の子じゃないね?」

 「…………それが、何か?」

 まただ、どうやら少しでも自分の領域に踏み込む様な行為をするとこうして敵意を剥き出しにして威嚇するらしい。街に居る柄の悪い若者がメンチ切るのと同じ理屈だが、如何せんレベルが違い過ぎる、戦場で生きる者の目付きだ。

 「旅行者だ……。今は、連れと別行動している」

 荷物も何も持っていないのに、旅行中と言う言葉を鵜呑みに出来る訳が無い。仮に言っている事が本当で別に行動していると言う連れが荷物を持っているのだとしても、こんな要注意人物と同行する者の気が知れない。或いはその人物も何らかの危険な要素を孕んでいると言う事も有り得る……。

 だがそれらとは別に、士郎は目の前の少年に対して何かしら引っ掛かるモノを感じ取っていた。いつだったか、それもSP時代と違いつい最近になって自分が知った別の人種の感覚……そう、それは──、

 「…………そろそろ、離してほしい」

 「あ、あぁ、済まないね」

 軽く手を払い除けた後、少年は士郎とは正反対の道を行こうとした。その背中には不似合い過ぎる「I LOVE NY」のロゴ……過ぎ行こうとするその背中に再び手を伸ばし、士郎は確認する。

 「ねぇ、君は…………“魔法”を信じるかい?」

 「────────」

 そうだ、彼がどこかで感じたのは今から十数年前に出会った未知の世界、「魔法」に生きる世界の住人に感じた感覚に似ていた。初めて自分達にその存在を知らしめ、今ではすっかり近所付き合いの仲となったハラオウン一家……そして、つい最近では三年前に仕事の関係でここを訪れた機動六課の面々もまた未知の人種だった。今になって気付いた、目の前の少年は彼らと同じ様な雰囲気を全身から醸し出していたのだ。もし彼がその世界の住人と同類であったなら何らかのアクションを──、



 「おい……」



 取る……はず…………。

 「な……にっ!?」

 サイフォンを入れた箱を抱える手に冷たい感触……思わず商売道具を取り落としそうになるのを堪え、士郎が気付いた時、目の前にはこちらに背を向けていたはずの少年が自分の手を握りながら立ち塞がっていた。いつの間に移動したかなんて分からない、これが純粋な物理的移動なら若い頃の全盛期でも目で追えたかどうか怪しい……。決して潰される程に強く握られている訳ではないのに捕らえられた手は一寸も動けず、蛇に睨まれた蛙と言う表現が一番しっくり来るくらいに体が言う事を聞いてくれなかった。触れられた接点から体温が徐々に奪われていくような錯覚に士郎は日常で久しく忘れていた感覚、恐怖を再認識していた。

 「…………貴様、名前は?」

 「名前……? 士郎だ、高町士郎!」

 「シロウ・タカマチ……? …………タカマチッ!!?」

 冬の住宅街、その空気が一瞬にして激変する。遠くのどこかでカラスが鳴いたような気がしたがそんな事はどうだって良い、たった今士郎は確信した…………目の前の“それ”が度を越した異常だと。一瞬だけ顔に戸惑いの色を見せ、その直後にさっき視線を交わした時とは比べ物にならない敵意を滲み出した。これだけの膨大かつ純粋な敵意が何故悪意に転じないかは不思議で仕方が無いが、少なくともこれで彼が魔法、ミッドチルダに関わる人物である事は疑い様が無い。そして……“高町”の姓名にここまで過剰に反応したのを見る限り──、

 「君は娘を……なのはを知っているのかい?」

 聞けば末娘のなのはは三年前から凶悪な事件捜査の前線に立っていたはず……その事件は三年前で無事に解決したのだが、つい最近の近況報告では職場がある都市で大規模な騒動があったらしく、今年中に実家に帰るのは無理かもしれないとも言っていた。もしかしたら、目の前の人物はその一連の騒動に深い関わりを持っているのかも……?

 いや、それは妄想だ、ただの深読みに過ぎない。自分にそう言い聞かせて頭から嫌な予感を振り切ると、士郎は少年と向き合った。自分より頭一つ小さな身長と、それに不釣合いなぐらい大きな敵意の塊……やはり何度見ても“表側”の人間ではない事は明白だった。

 「クッ!」

 いきなり苦々しい顔をしたかと思えば少年はそっぽを向き、何やらブツブツと呟き始めた。

 少年が何を喋っていたのか……士郎には分からなかった。










 ≪セカンド! 応答しろ、セカンド!!≫

 予定外だ。

 何が? 無論、全てがだ。

 確かに自分はここ、厳密には管理外世界『地球』を目指して渡航していたのは認めよう。だがしかし、よりにもよって日本、それも海鳴市に足を踏み入れてしまったのは度を越した手落ちだとしか言い様がない。日本の海鳴市は十年前よりここに定住するハラオウンの膝元……かねてよりここで異常なほど頻発するロストロギア絡みの事件の所為で、この地方都市一帯は本局統括官でもあるリンディ・ハラオウンが率先して監視対象とする事で治安の管理を図っているのだ。言わばこの都市は管理局が極秘に制定した特別保護管理区……ここで発生した魔導絡みの事件は全て、従来の手続きを経る事無く管理局が介入し早期解決する事が可能だと決められているのだ。

 今すぐにでもここ、正確には日本を脱した方が身の為だ。流石にここまで来ておいて元提督クラスの魔導師とやり合う気は毛頭無いし、かと言って素直に「はい、そうですか」と言って六課の連中を呼ばれる訳にもいかないトレーゼはすぐにスバルを呼び戻して日本からの脱出を図ろうとした。

 ≪なに? どうしたのトレーゼ!?≫

 ≪今どこに居る?≫

 ≪どこって、喫茶店の中……≫

 ≪今すぐ合流する! 正確な位置を言え!!≫

 ≪えっ、ちょっとどうしたの!? いきなり何言ってるのか全然分からない!≫

 話が通じていないようだがそれはどうでもいい。念話が届く範囲内にスバルが居る事を確認したトレーゼは魔力の逆探知でその位置を特定する……ものの数分と掛からず探知した場所は意外にもここからすぐ近くだった。さっきの話によれば暢気に喫茶店に立ち寄っているらしい。

 「おいっ!」

 先ほど自分を呼び止めた男性に向き直る。世間とは狭いものだ、自分の予想が正しければこの男性は管理局の戦術の切り札と称されたあのナノハ・タカマチの実父……そしてここは彼女の生まれ育った場所だ。

 「この近くで、喫茶店は、どこにある!!」

 「き、喫茶店はこの近くでは僕の店だけだ。でも今日は定休日────、」

 「案内しろ!」

 事は急を要する……確か事前情報が正しければ、高町家とハラオウン家はプライベートで十年来の交流を持つはずだ。今こうしている間にもリンディ・ハラオウンかエイミィ・ハラオウンのどちらかと鉢合わせする確率は十二分にある……いざとなれば──、



 皆殺しも辞さない!



 程なくして問題の喫茶店の近くへと辿り着く。扉には「CLOSE」の札が掛かっているが中には数人の人間の気配がある……その内の一人は間違えようも無い……。

 「セカンドォォォォオ!!!」

 ドアノブを引っ掴み、勢い良く開け放つ。視界に捉えた人数は三人、見覚えの無い二人は恐らくナノハ・タカマチの親族。そして、もう一人、カウンター席に座ってそれまで雑談していたであろうその少女こそ──、

 「ト、トレーゼ?」

 居た!

 腕を掴み上げて一気にドアまで移動しようとする。すぐ後ろで何か言っているような気がするがそんな事は気にしてはいられない……今は一刻でも早くここから脱する事が先決だ。焦燥感に背を押されながら再びドアに立って飛び出そうとしたトレーゼだったが……

 「……エンジン音……車か」

 少しドアを開いて道の先に見えた車両を観察すると、その運転席には接触を危惧している存在、エイミィ・ハラオウンが乗っていた。どうやらこちらに向かって来ているようだが一体何の用があって? いや、そんな事はどうだっていい! 何としても今は直接的接触を避けなければならない。多少強引な手を使ってでもこの場を離れなければ……。

 「あ、あの……君?」

 「失礼した!」

 反転して厨房を駆け、裏口から脱出。高町家三人の制止も聞かずにスバルを引っ張りながらトレーゼは翠屋を後にした。

 それと入れ替わりで子供二人を連れたエイミィがドアを開けて入って来た。

 「すみません、何だか無理言っちゃって……って、どうかしたんですか?」

 見知った面々の間に漂う空気が何やらおかしい事に気付いたエイミィは友人の美由季に訊ねる。

 「ええ、さっきまでスバルちゃんがここに居たんだけど……」

 「え! スバルって、スバル・ナカジマですか!?」

 「そ、そうだけど……?」

 「スバルが…………ここに」

 裏口のドアが風に流れて閉まった。










 午後14時15分、海鳴市のとある駅にて──。



 「どう言う事……?」

 「既に言った。この街を、出る。それだけだ」

 改札の手前で一番遠くの駅への切符を購入したトレーゼはそれをスバルに握らせて改札を潜ろうとするが、それをスバルは必死に止めようとした。それを何故止めようとするのか、度し難いと言いたげな表情をトレーゼは浮かべていた。

 「貴様……知っていたな? ここが、ハラオウンのナワバリ、ナノハ・タカマチの生家がある地域だと」

 「…………三年前に仕事の関係で、ここに立ち寄った事があったの。でもそれだけ! 別に局に連絡取ろうとか、そう言う事は全然……!」

 「そんな言葉、俺が信用すると、思っているのか?」

 「っ!?」

 「どうせ、ここで俺を出し抜いて、一網打尽にしようと、そう言う考えだったのかも、知れんが…………残念だったな」

 「ち、ちがっ……あたしは、そんなつもりじゃ……!」

 確かに、管理局に追われる身として必要以上の期間をここに留まるのは得策とは言えなかっただろうし、軽率な行為だと罵られても仕方がなかったのかも知れない。だがほんの数日前に自分から手放した日常が……忘れかけていた懐かしい光景が目の前にあれば、一体誰が抗えるだろうか? 少しだけ、ほんの少しだけ……そう思っていつか優しくしてもらった恩師の家族に触れ合っていただけだった。

 だがその行動こそトレーゼの逆鱗に触れるには充分過ぎた。

 「そうか…………そんなに、貴様はここに、居たいのか。なら、勝手にしろ」

 「え?」

 一度渡した切符をもぎ取り、それをトレーゼは破り捨てる。残ったのはトレーゼが持つ一枚だけ…………その行為の真意を理解したスバルの顔が一瞬にして青褪める。

 「さようなら、セカンド」

 「ま、まって……! まってぇ!!」

 伸ばした左手をかわし、トレーゼは改札を抜けて構内へと入って行った。そしてその背中はすぐに人込みの中へと……消えた。

 「ああぁ……ああ!!」

 一方的に別れを告げられるのはこれで何度目だろうか……。その度にもう二度と会えないのではないだろうかと猛烈に怖くなる…………今のスバルにはただ──、

 帰って来ると信じる事しか出来なかった。










 『で? 誰が行きますか?』

 『はいはいボクボク! ボクが行くー!』

 『王たる我がいちいち手を下すまでもなし。古来より斥候は疾くと散る凡夫の華よ』

 『はぁ……仕方ありませんね。貴女方では頼りないですから、言い出しっぺの私が行くとしましょうか』

 『ちぇー! 行くんだったら早くした方がいいよ。ボクらのテリトリー……この海鳴を出られたら手を出すのは難しくなっちゃうからね』

 『委細承知。では……征きましょうか』










 「……………………」

 我ながら、大人気ないとしか言いようがないのは自覚している。自分の意にそぐわない行為をした事についてあそこまで怒る必要性は無かったのかも知れないが、事が事なので致し方ない。もうあれとの同行は無理だ……彼女はあまりにこちらに対して不利益な行動ばかりする。もうこれ以上看過出来ない、ここが潮時なのだろう。流石に今回ばかりは戻る気にはなれなかった。

 「…………フン」

 冬の太陽は落ちるのが早い。今こうして見つめていてもその早さがありありと目に焼き付いている。電車の中は平日の昼下がりの所為か閑散としており、少し離れた座席で子供が騒いでいた。

 日常、ふとそんなワードが脳裏に浮かぶ。もっとも、生まれてからこの方ずっと波乱万丈な生き方をして来たので、一般で言う所の“日常”がどんなモノであるのか彼は知らない。ただ一つ、自分とはまるで縁が無く、そしてこれからも未来永劫ずっと関わりの無い事象である事は確信していた。強いて自分の中に世間一般で言う“日常”の記憶があるとするのなら、それは幼き日の出来事だ。だがそれはオリジナルのトレーゼから受け継いだに過ぎない仮初の記憶……これまた自分とは関係が無いモノだ。

 そんな自虐的な感傷に浸りつつ、トレーゼは窓から目を離して正面の座席に向き直る。遠目に山が見えていたこちらとは対照的に向かい側の窓からは海が見え、深い青を湛えた水面が陽光を眩しく反射していた。その反射される日の光を凝視しながら彼は小さく嘆息を漏らし──、



 「貴様は誰だ?」



 隣に座る人物に視線を移した。車両からはいつの間にか乗客の姿は消え、自分とその隣に座る“それ”以外は誰の影も見当たらなかった。まるで最初から自分達以外には存在していなかったみたいに……。

 「驚きました。まさかこんなに早くに勘付かれるとは……」

 “それ”は人の形をしていた。否、姿形は人間そのものだった。ただ中に内包する力……リンカーコアの濃度が常人と比較して異常な濃さを持っていたから気付けた。規模自体は小さいのでかなり意識しないと分からないが、その本質だけは誤魔化しきれるものではない。

 だがしかし、一つだけ気になる事がある……。

 「貴様……何故、ナノハ・タカマチの姿をしている?」

 外見年齢は幼児程度、髪も長くはないし目の色も違っていたが、“それ”の姿は自分の記憶にある敵の一人、高町なのはに酷似していた。ちょうど彼女を十数年以上若返らせればこうなるのではないかと思える程に“それ”は彼女に似ていた。だがその中に隠れるリンカーコアの魔力は明らかにヒト、いや、生物の持つ魔力の波長とは大きく掛け離れた異質な波長を放っていた。少なくとも生物ではない事はこれで明らかだが、だとすればこれは一体何なのだ?

 「その前に一つだけよろしいですか? 貴方は十数年前、この海鳴にあるロストロギアが迷い込んだのをご存知でしょうか」

 「そのロストロギアは、二つある……。『ジュエルシード』と、『闇の書』…………貴様は、“どっち”だ?」

 「…………やはり察しがよろしい。貴方の予想通り、私たちは貴方たちが『闇の書』と名付けた最悪のロストロギア、その中核を形成していた防衛プログラム……その構築体(マテリアル)です」

 「マテリアル……」

 そこから先の会話は過去の出来事だった。

 かつてこの地で覚醒した闇の書は自らの主を選定し、四人の守護騎士が現れた事。

 やがて闇の書は歴代の主と同様に暴走を始め、それが防衛プログラムのバグによるものだと判明した事。

 管制人格と防衛プログラムの切り離しに成功し、その後十人の魔導師と騎士の働きでプログラムは物理的に消滅した事。

 だがその処置は完璧ではなく、霧散した魔力を拾い集め過去に魔力を蒐集した者達の再現と、予備プログラムであるマテリアルが誕生した事。

 誕生した三体のマテリアルは互いに別行動をしながらも防衛プログラムの完成系、“砕け得ぬ闇”の実現の為に行動していた事。

 しかし野望叶わず、翻した反旗はたった一晩で全て鎮圧されてしまった事……。

 これが『闇の欠片事件』の始終だった。

 「私たちは霧散していた魔力を掻き集めて復活したも虚しく、彼女らに打倒されてしまいました。そして私たちは再び実体の無いただの残り滓としての存在を余儀なくされたと言う顛末です」

 「なるほど……存在濃度が、限りなく薄くなっていると、言う訳か」

 「今この街に広がっている魔力全てを掻き集めても、私一人が不完全な形で実体化するのが精一杯です。あと数年もすればそれこそ本当に人格は消え果て、ただの魔力残滓に成り果てていたでしょうね」

 「まるで、その言い方だと、それを回避する、方法を、見つけたみたいだな」

 「ええ、そうです」

 隣に腰掛けていた少女──マテリアルはそこでちょこんと立ち上がると、向かい側の座席に座り直した。金色の目と碧の目の視線が互いに交差する……少なくとも互いに敵意は無く、ただ純粋に互いの出方を静観していた。言わば様子見だった。

 「“砕け得ぬ闇”の完成には私たちマテリアルの存在が不可欠です」

 「それは、聞いた」

 「そして私たちマテリアルがそれを実現させる為には、骨子となり、血肉となる魔力が必要になります。出来るだけ質が良く、尚且つ大量に」

 「それも、聞いた」

 適当に流しつつもトレーゼはこの人外が何を考えているのかが徐々に分かり始めていた。これまでの話の流れから察するにこのマテリアルの要求は唯一つ……。

 「貴方の魔力……根こそぎ私たちに譲渡してはくれませんか?」

 要するに闇の書復活の為の生贄になれと言いたいのだろう。もちろん返答は──、

 「断る」

 当然だ。目の前の存在がかつてその悪名で様々な次元世界を震え上がらせたかどうかなんて知った事ではない……今はただの死に掛け、ただ人格が備わっただけの死に損ないの魔力の残り滓でしかない。そんな輩にくれてやる魔力など一片たりともこの身には無い。

 「消えろ、残り滓が。二度とその面見せるな」

 「いや、あの……分かりました! ではせめて魔力蒐集の協力だけでも……」

 「くどい!!」

 協力はしない。それがトレーゼが下した結論だ。

 「残り滓は、残り滓らしく……塵となって、消え果ろ!!」

 『Start up.』

 マキナを起動してバルディッシュ形態へと移行、その切っ先を少女の姿をした人外に向ける。相手がどんな方法で魔力を蒐集するかは知らないが、既に先端に収束した分だけでもその仮初の肉体を吹き飛ばすには充分過ぎる出力を誇っていた。後続車両がどうなろうがどうでもいい……今はこの不快な存在を一刻でも早く消し飛ばし、四散した魔力だけを吸収させてもらうだけだ。

 「ライトニングスピア……」

 高濃度魔力と高圧電流によって形成された雷の槍がマテリアルの胸に狙いを定める。放たれれば最後、少女はおろか後続車両全てを巻き込んで悉くを破壊する一撃……それをトレーゼは──、



 「随分と大きな態度だな、塵芥の分際で」



 掻き消された。煙を吹き飛ばされたかのように、霧が晴れるかのように……確かにそこにあったはずの全力の形は突如聞こえた別の声が聞こえると同時に自分の感覚領域から消えてしまった。

 「貴様……」

 マキナを降ろし一旦距離を開く。さっきまで眼前にいたはずの亜麻色の髪の少女はどこにも居らず、代わりに別の姿があった。乳白色の短髪に緑の目、気の強そうなその視線は明らかに先程のマテリアルとは別人であり、その姿は……

 「ハヤテ・ヤガミか」

 「フン、我をあのような貧弱な小鳥と同格にするでない! 王たるこの身がここまで貶められたのも奴等の邪魔の所為……ええい、口惜しい!」

 先のマテリアルは海鳴中に霧散した闇の書の魔力を掻き集めて実体化したと言っていた……。そしてかつて三人の少女によって打倒された三体のマテリアル達はその人格だけを残し、形を持たない魔力の霧となってここに留まったとも……。つまり、魔力を集めて固めた仮初の肉体を三つの人格が入れ替わる事でそれぞれの姿形を成していると言ったところだろう。そして、今しがたこちらの攻撃が消滅した手品のタネは……

 「フム、五頁か。リンカーコアを離れた魔力のみでこれだけの数とはな……。やはりその魔力、捨て置くには惜しい!」

 手に持つ紫色の書物……恐らくはマテリアルの構築と共に再生した仮初の闇の書だろう。五頁と言うのはこちらが攻撃に使用するはずだった魔力を吸収して埋めたページ数の事に違いない。そして全部で666ページを埋めた時、闇の書は再び復活する……どうやら図らずも彼女らの思惑に協力してしまったようだ。

 「蒐集させてもらうぞ、貴様の全てを!」

 そう言って開帳した本をこちらに向けてくる。オリジナルの闇の書にあった蒐集機能を使用されればこの距離では瞬く間にリンカーコアを抜き取られてしまう。

 ならば……!

 「……フゥ…………」

 大きく息を吸い、そして吐く。上半身の力を抜き、両腕を地面スレスレにまで垂らす。かつて砂漠の竜の首を切り取る際に用いた瞬殺の技……極度の脱力からの反転、全身を引き絞る筋力から弾き出される力学を応用した、魔力を用いぬ完全な物理攻撃!

 「シッ……!!」

 放たれた『先端』の最高速度は音速を突破する……来ると分かっていても容易に防げるモノではない。八神はやての姿を模したマテリアルはその視線に攻撃の軌道を捉えたようだがもう遅い、防御はもちろん、回避すら間に合わない……その切っ先はマテリアルの首を捉え──、



 「王様ばかりズルイぞ! ボクにも代わってよ!」



 ガキンと言う硬い音の後、トレーゼは自分の攻撃が寸前で阻止された事実に気付いた。

 有り得ない……軌道は完全に直撃コース、相手の反射能力を遥かに凌駕した速度で叩き込んだ即死の一撃はいとも容易く防がれていた。何が起きたのかはいちいち考えなくとも眼前の光景が全て教えてくれた。

 「キミ、中々に面白い戦い方をするよね。ボクほどじゃないにしろ、その力の根源にはとても興味がある……」

 バルディッシュに似た武装を盾代わりにしてこちらの攻撃を防ぐのは先程の少女の姿とはまた違っていた。

 「今度は、テスタロッサか……」

 マテリアルの姿形はオリジナルたる闇の書が現存していた時、魔力を吸収、或いは魔力的に関与した存在のデータを基に構築されているのだろうが……人選と言う意味では間違っていないにしても、ここまであの三人に関わる羽目になろうとは、流石のトレーゼも因縁めいたモノを感じずにはいられなかった。髪の色は水色で、その目は限りなく好戦的……オリジナルと似ているのは声と顔立ちだけで、それ以外は何もかも似ていなかった。闇の書のプログラムがあえて差別化を図ったのか、或いは、防衛プログラム自身が管制人格とは別に持っていた“人格”に左右されているのか……まぁ、今はそんな事はどうでもいい。

 「ねぇ、キミってさ……人間じゃないよね?」

 「……………………」

 「沈黙って事は肯定って受け取って良いんだね?」

 「……………………」

 「ヒトを模して創られた、ヒト以上のヒト成らぬ存在……。自然の摂理、常世の理さえも無視し、外れた存在であるキミにしか頼る術が無いなんて、王様じゃなくても納得いかない部分はあるよね。でも────、」

 バルディッシュの模造品を舞踏のステッキの如くクルクルと振り回し、三人目のマテリアルはいつの間にか袖が裂け、血に塗れていたトレーゼの腕に手を添える。

 「ボクはキミの事、嫌いじゃないよ。君の魔力は質も量も完璧だ。出自や実態なんてのはともかく、ボクらが力を取り戻す為の糧としては申し分ない! それになにより、キミは強い……ボクは強い存在は大好きだよ」

 「それは、結構……」

 「だろうだろう! それに、蒐集されたからって別に死ぬ訳じゃない。キミの分解・吸収されたリンカーコアは完成した闇の書の中で永遠に夢を見ながら存在し続けるのさ。そこには現世のわだかまりも、しがらみも、苦しみの類全てが無い理想の世界さ。キミには栄えあるその第一号って事で夢の国、ネバーランドにご招待だよ。それに…………」



 「キミも現実から逃げ出したい事があったはずだよ」



 「!?」

 「アハハ! その様子だとやはりキミが抱える闇は大層なモノみたいだね! わざわざキミの精神の隙間を覗き見た甲斐があったよ、キミは夜天の主となるには持って来いだ。キミの心の性質は今まで闇の書が選定してきた主に酷似して、尚且つ歴代全員を上回る濃さを誇っているよ」

 数百年の長きに渡り、代々闇の書の転生によって選定された歴代の夜天の主はその大半が心に闇を抱え、力に溺れた存在だった……。記録に残る最後の夜天の主、八神はやても幼少の頃の孤独な生い立ちと言う面で見ればそれに該当するのだろう。

 「でも……ボクは王様たちと違って無理強いはしない派なんだ。キミがどうしてもリンカーコアを蒐集されたくないって言うんだったら、ボクはそれを強制しない。“力”のマテリアルとして誓ってもいいよ」

 「随分、あっさりと、引き下がるな……」

 「うん。でもその代わりって言えばナンだけど、ボクらはキミ以外の誰か……それも魔導に精通した人間から魔力とリンカーコアを蒐集しないといけない。今こうやって話してる間にも、ボクらの人格や意識を繋ぎ止めている力はどんどん消費されて行くからね。いずれそれさえ霧散して消滅されてしまう前に体の良い蒐集源が必要って事さ」

 「貴様らの餌を、俺が確保しろと? 馬鹿馬鹿しい」

 「本当に────────そう思いますか?」

 声が途中で変化した。見ればマテリアルの姿がまた変わっており、最初の高町なのはを模した姿へと変貌していた。

 「貴方が何をなさったかは知りませんが、いずれこの次元世界にも遅かれ早かれ管理局の狗がやって来るでしょう。それを貴方が適当に捌いて、その後で私たちが局員たちのリンカーコアを蒐集する。もちろん、ある程度の協力も惜しみません。何でしたら…………」

 マテリアルの小さな体がトレーゼに寄り添い、彼の耳元で何かを囁く。

 その言葉は軽く、優しく、そして何より蟲惑的で──、



 「貴方の連れ添い……彼女を提供してくれてもいいのですよ?」



 彼の逆鱗に触れるには充分過ぎた。

 「ぁがっ……!」

 マテリアルが顔面の右半分を押さえて大きく仰け反った。右目の部分には小さなナイフが突き立てられており、血液の代わりに視覚で認識出来るまでに圧縮された橙の魔力が虚空に溶け出していた。だがそれさえも飲み込んでしまう程の濃さを誇った真紅の魔力の奔流が車内全体を埋め尽くす。微かに怒気を孕んだその波動は敵意を通り越し殺意へと転換し、突き出されたマキナの先端は今度こそ少女の姿を模した人外にとどめを刺そうとしていた。

 「聞こう…………貴様らに、奴の代わりが、務まるか?」

 「な、にを……っ!」

 「貴様らに、俺の求める“答え”を、導き出せるのかと、聞いている!」

 マテリアルはトレーゼの言葉の真意を理解できず、顔面を支配する痛覚に身悶えながら地に膝を屈した。接触を試みたのが早すぎたのかと悔恨にも似た思考が浮き上がるが、そもそも時期なんか関係無しに接触する事自体が既に間違っていたかも知れない……。少なくとも魔力の量と質に目が眩んで不用意に接触したりしなければもう少し長くこの世に留まる事も出来ただろう。だがそれも詮無き事……ここで全力の一撃を受ければ彼女らの肉体を構成する魔力は霧散、消滅し、辛うじて繋ぎ止められていた人格と意識も混濁して消え果る。それが一人の戦闘機人に助力を申し出た三体のマテリアルの惨めな最期となるはずだった。

 しかし──、

 「…………お願いです……」

 既に決定したはずの滅びの結末は──、

 「私たちに…………」

 この怨敵の少女の姿を模した人外の行動によって──、

 「手を……貸してください」

 回避された。

 両手と両膝を地に着け頭を垂れる……誰が見ても分かり易い完璧な降伏と服従の姿勢だった。右目の傷から流れ出る魔力を拾い集めようともせず、ただただ、圧倒的弱者として絶対的強者に赦しと助力を乞い願う……弱き者に残された強き者への最終手段を今彼女は実行しているのだ。

 単に出て来れないのか或いは彼女が無理矢理抑え込んでいるのかは知らないが、後の二体のマテリアルからは大顰蹙を買っているに違いない。それでも彼女はじっと手を着き頭を垂れ下げたまま微動だにしなかった。

 電車が駅で停車する。結界でも張られているのかトレーゼらの居る車両には誰も入って来る事は無く、再び発車してからも人気は増さなかった。あと二、三駅通れば購入した切符の駅に辿り着き、海鳴からは抜け出る事になる……。

 「…………何故、そこまでする」

 「何故でしょうね……。冷静に考えてみれば理由なんて無いのかも知れません。私たちの目的……闇の書の再生、“砕け得ぬ闇”の完成は、結局のところ防衛プログラムから受け継いだただのプログラム、言わば本能です。それ以上でも以下でもなければ、当然それ以外でもありません」

 本能……。ハチが教わらずとも蜜を採るように、渡り鳥が習わずとも行き先を知るように、彼女らが闇の書を復活させようとするのは邪な思惑などどこにも無く、ただ単に定められたプログラムに沿って行動しているだけなのかも知れない。源流を辿れば防衛プログラムの中核を担っていた構築体が変質して誕生したのが彼女らだ、そう考えれば何の不自然も無い。定められたプログラムを遵守し何の疑問も疑念も抱かずにその通りに行動する……まるで──、

 (まるで……少し以前の俺と同じだな)

 幼い頃に教わった事を盲信し、その通りに行動した結果は自己の喪失……眼前で跪く彼女らを哀れと言うのなら、また同じように自分自身も哀れで滑稽なのだろうか。そんな自虐の微笑を浮かべる。もっとも、笑みと言っても口の端の筋肉が僅かに反り上がった程度だ、傍目から見ても彼が笑ったと認識できる者は居なかっただろう。

 それでも、彼は笑っていた。嘲笑していた、マテリアルを、己を……。

 「……お互い、下らないな」

 そう、下らない……とても下らない。中身のない使命感に突き動かされ、実の伴わないプライドを振り翳し、その結末として目も当てられない状況に陥る。酷似? 相似? いや、とにかく目の前の人外と自分は共通項があり過ぎると言う事実だけが分かった。

 「…………気が変わった」

 「はい?」

 あと一駅という所でトレーゼが下車する。それにつられてマテリアルも電車を降り、彼の後に続いた。先ほどとは打って変わった態度に戸惑いながらも、首の皮一枚で繋がった事に安堵する。

 「そこまで、言うなら、仕方がないが、直接協力は無理だ。俺を疑似餌にするのは、結構だが……狩り入れは、自分達でやれ。俺は、貴様らに関与しない。セカンドにも、手は出すな」

 「何故、そこまで彼女に拘るのですか? 貴方たち二人がこの街に侵入してからずっと、私たちはお二方を観察していましたが、とても協力関係にあるようには見えません」

 「相違無い。ただ、利害の関係だ」

 「…………そのようにも見えません」

 「……なに?」

 「貴方たち二人は自分が思っているよりも歪な関係なのかも知れないと言うことです。貴方は…………彼女に何を求めているのですか?」

 「……ただ、己の“答え”を、得る為に」

 「では、何故その“答え”を彼女がもたらしてくれると思っているのですか?」

 「正確には、『思っていた』だな。あれにはもう、期待する余地は無い……。こちらに、不利益ばかり、もたらしてくる。もう、見限った」

 事実、駅前で振り払ったスバルの気配はもう感じられない。あのまま彼女はあの地に留まる事を選んだのだろうが、その事についてももう何の未練も無いはずだった。

 「見限った、という割には随分と執心のようですね。必要ないと言い張るなら私どもの糧として蒐集しても、何の支障も無いはずでは?」

 「……………………」

 トレーゼが押し黙るのを見てマテリアルは確信した。単なる協力関係でもなければ利害の一致不一致でもない、そんな簡単な理屈では割り切れないとても単純な真実に……。

 「貴方…………彼女に依存していますね」

 「バカな事を……」

 「本当にそう思いますか? 一度自身の心を冷静に見つめ直してはどうです」

 「プログラムのくせに人間みたいな事を……! 俺と同じ、人造物の、人外のくせに」

 「少なくとも私にとって貴方は充分に人間の範疇ですよ。本当の人外とは貴方のような生易しいモノではないものです。私の定義では、傷付けて流血するものは間違い無く人間です。そんな事より……どうなんですか、本当のところは?」

 「勝手に、言っていろ」

 備え付けのベンチから立ち上がり、トレーゼは改札を目指す。

 「これからどちらへ?」

 「この街を出る。最初は、この島国から、離脱するつもりでいたが、貴様らの所為で、事情が変わった。疑似餌の役は、街の外で、請け負ってやる」

 「あの……出来ればこの海鳴からは出ないで欲しいのですが……」

 「何故だ?」

 「私たちは肉体を消失してから十数年、移動の際にも魔力を消費するのでこの街から一歩も外へは出ていません。拡散した魔力は既にこの土地に満ちた大気の魔力素に癒着していますので……」

 大気に流れがある様に、そこに満ちた魔力素にもまた同様に流れが存在する。一度人体のリンカーコアから分離した魔力は大気へと還元され、気流に乗って増減を繰り返し再び生物のリンカーコアへと吸収されると言うサイクルを辿る。彼女が言う『癒着』とは本来彼女らの魔力が完全な状態で霧散していない為に中途半端な形で大気に還元されている事を言っているのだろう。その状態で無理に領域外へ移動しようものなら本来消費しないはずの魔力を無駄遣いすると言うのも頷ける。

 「……これ以上、譲歩はしないぞ」

 「それなら彼女を頂くまでです」

 「…………貴様らに、セカンドを、仕留められるとは、思えんが」

 「確かに難しいでしょうね。ですが、不可能ではありません。彼女程度の心を挫く事など赤子の手を捻るより容易い事……貴方にとっても煩わしいのでしたら、ここで根こそぎ魔力を吸い取って枯死させたところで何の問題も────」

 「…………殺すぞ」

 再びナイフが突きつけられる。血は流さないとは言え肉体があり元となったのが人間である以上痛覚は存在する訳なので、立て続けに刺されてはいずれ折れるのは目に見えて明らかだった。口を閉じたマテリアルを睨み付けた後、トレーゼは改札へと続く階段を下りようと背を向けながら……

 「一週間待て」

 「七日間で一体何を?」

 「七日で奴を……セカンドを、用済みにする。その後であれば、貴様らの好きなように、しても構わない」

 「それはつまり、貴方の言う“答え”というモノを一週間で手に入れるという事ですか?」

 「…………そうだ」

 「用済みになったら捨て去る……意外と薄情なのですね」

 「俺をどう見たら、親切そうに、見えるんだか……」

 ふと、マテリアルが右手を差し出した。

 トレーゼはその手を黙って掴む。



 この日、十数年の月日を経て三体のマテリアルは暫定的な協力者を得る事に成功した。










 午後18時30分、街の片隅の公園にて──。



 「……………………」

 人気の無くなった公園のブランコが蒼く輝く……その現象だけ見れば明日から都市伝説に数えられてもおかしくない光景だが、その摩訶不思議な発光現象は人為的なものだとすぐに分かった。

 キィコ、キィコと揺れるブランコに座る少女──スバルは足元に展開させた魔法陣を呆然と眺め、時折視線を寒波の夜空に移しながら静かにトレーゼの帰りを待っていた。誰かに見られれば厄介な事になるのは重々承知していたが、今はただ彼に帰ってきて欲しい、それだけだった。こうして魔力を放出していればいずれ彼が気付いて戻って来てくれる……そう願って彼女はずっとここでこうして待っていた。

 「……はぁ…………」

 鎖を掴んでいた左手が風に吹かれ続けて冷たくなっているのに気付き、彼女はそっと息を吹き掛ける。指の間から漏れ出た吐息が白く染まりやがて目の前で風に流れて消えて行く……。少し離れた大通りの道路からは車の走る音が聞こえ、耳を澄ませば喧騒の向こうから店頭からのクリスマスも届いて来る。

 だが、未だに待ち続けている人物は影も見えない。ひょっとしたら今度こそ本当に帰って来ないのかも知れない…………そんな不安が何度胸中を通り過ぎた事か。その度に「大丈夫」と自分に言い聞かせてきたが……正直言って、もう限界が近かった。

 「…………よい……しょっと」

 立ち上がると同時に魔法陣は消失し辺りは夜の暗闇に呑まれた。もうここに長居する理由も無い……そう思いスバルはブランコを離れ、鉄棒を通り過ぎ、滑り台を最後に公園を出ようとした。

 ふと──、

 「あれ……?」

 初めは“それ”が何だったのか分からず、手に取って見てもやはり何なのか分からなかった。公園の端に用意されたベンチ……その真下に何やら光る物があると思って拾い上げる。最初は鏡か何かが街の反射して光っているのかとも思っていたのだが、どうやらそうではなく、この物体そのものが光っているらしい……。

 「きれい……」

 手に取ったのは淡く光る青い石だった。大きさはマッハキャリバーのクリスタルより一回り大きく、ただの石と言うよりはむしろ宝石のようなイメージを抱かせた。輝きも然る事ながら、手に取っても重さを感じさせない事がスバルに不思議な感覚を覚えさせ、その光に彼女はしばらく見惚れていた。

 「スバルちゃん……?」

 「え……? 桃子……さん?」

 耳に懐かしい聞き覚えのある声がしたのでその方向を見れば、ほんの数メートル離れた公園の入り口に見知った顔があった。厚手のコートに首にマフラー、ここまで走って来たのか口から白い息が風に乗って街灯まで届きそうなぐらいに吐き出されていた。何故ここに彼女が居るのか? 自分を探してここまで来たと言うのなら説明はつくだろうが、それだと今度はどうして自分を追い掛けてここまで来たのかが分からない。

 そんな事を考えている間に桃子はスバルに駆け寄り、持って来ていたマフラーをその首に掛けた。

 「心配したのよ。急に飛び出して行っちゃうんだもの」

 「あの……どうして」

 「あら、それ聞いちゃう? 何も言わないで出て行っちゃうヤンチャな子供を心配する老婆心ってものかしら……。さ、行きましょ」

 マフラーを巻き終わると桃子はスバルの手を引こうとした。恐らくは路頭に迷ったような彼女を見かねて自宅に招こうとしたのだろう……伸ばした手はスバルの右手を掴もうとし──、

 「あれ?」

 虚空にすり抜けた。

 聡い桃子は一瞬で気付いたのだろう。気まずい沈黙が流れる……。

 「右腕……ちょっと事故があって……」

 「そう、なの……」

 「で、でも大丈夫ですよ!? ミッドの医学なら腕を繋げる事だって出来るんですから!」

 「でも……帰れないんでしょう?」

 今度はスバルが息を呑む番だった。彼女とは今日そんなに込み入った話をした覚えはない。喫茶店に居た時も差し障りのない会話だけに留めておいたはずだった。それなのに何故……?

 「さっきね、エイミィちゃんから聞いたの……」

 広域指名手配犯トレーゼ・スカリエッティに拉致され、現在人質として彼と同行する管理局員の少女……それが、今のスバルの肩書きだった。この事件がまともに解決しない限りは帰れない。そうでなくともスバルには今の状態のトレーゼを置いて帰る事など出来るはずもなかった。

 だがそれを知らない桃子はスバルにこう告げる。

 「ここに居たらリンディさんに連絡してあっちに戻れるから、そうしましょう。もう一人の子も気になるけど、今はあなただけでもあっちに戻って腕を治した方がいいわ」

 それは出来ない……堪らなくなってスバルはそう言いそうになった。桃子が言っている事は正しいし、このまま保護されてミッドに送還されれば一時的に身柄を拘留されるだろうが、取り調べが終わればそれも無くなる。加えて物的証拠が無い以上、こちらがトレーゼに無理矢理従わされていたと供述すれば管理局はそれを鵜呑みにせざるを得ない…………そうなればスバルは事実上、無罪放免として扱われるだろう。

 だが、それは結局“逃げ”でしかない。ヴィヴィオを連れ戻せなかった時と同じ逃避だ。故に彼女は断ろうとしてその手を振り解こうとして──、



 「婦人……それは、俺のモノだ。返してもらう」



 茂みを掻き分けて出て来た影……流れるような足取りでゆっくりと、されど目にも留まらぬ速さで迫ったその冷たい手は一瞬でスバルの左腕を取り、そのまま風の如く過ぎ去ろうとした。

 「ねぇ待って! あなたは……?」

 街灯の光に照らし出され、トレーゼの顔が明らかになる。その冷たい眼光に気圧され一瞬言葉を失う桃子であったが、すぐに笑みを浮かべた表情で彼に近寄る。

 「あなたね。スバルちゃんを困らせている子は」

 「困らせている? 逆だな、むしろ、俺が困っている」

 「分かってる? この子は今、右手が不自由なのよ。事故で手を失くして……」

 「事故……? ああ、なるほど……まぁ、そう言う事に、しておこうか。行くぞ、セカンド」

 「行くってどこに?」

 「駅前に、ホテルが、山ほどある。当面は、そこを拠点に…………」

 「ダメよ!!」

 不意に桃子が割って入ったのに面食らい、トレーゼは掴んでいた腕を離す。桃子の表情はそれまでのにこやかな顔付きではなくなっており、大いに切羽詰った表情をしていた。今の発言のどこかにマズい箇所があったのだろうかと思案を巡らせる……。

 「あなた……えーっとトレーゼ君だっけ? 子供じゃないんだから、やって良い事と悪い事の区別くらいしなきゃダメよ!」

 「はぁ?」

 「トレーゼ君っ、ちょっと正座!」

 「あの桃子さん、ここアスファルト……」

 「スバルちゃんは黙ってて!」

 「はっ、はい!?」

 有無を言わせず捲くし立てるその勢いに押され、完全にトレーゼとスバルは黙り込み、トレーゼに至っては大人しく両足を折り曲げて冷たい地面に正座してみせるほどだった。そしてその向かい側に桃子が同じように正座してトレーゼにこう言った。

 「あのね、この国、日本には昔からこう言うありがたーい言葉があるの……それは────、」



 「『男女七歳にして同衾せず』!!!」



 風が凪いだ……。どうしてだろう、真冬の空っ風に吹かれているのに場違いな汗しか出て来ない……。

 『男女七歳にして同衾せず』とは…………ある一定の年齢に達した男女は分別を弁えて妄りに馴れ馴れしくしてはならないと言う意味だ。その意味を少なからず把握したスバルは思わず顔が赤くなるが、それに構わず既に熱くなっていた桃子は更に続ける。

 「男女が一つ屋根の下って言うのはいつの時代も面倒事が多いものなのよ。そう言う事はお互いの気持ちをしっかり確認してからじゃないと…………」

 「も、もも、桃子さん!? あたし達別にそう言う仲ってわけじゃ……!」

 「あら? だったら尚更よ。向こうはそこら辺の事情がどうなのか知らないけど、あっちはあっち、ここはここ……郷に入れば何とやら。だから────、」



 「二人ともうちに来なさい」



 「いや、何故そうなる?」 「何でそうなるんです!?」

 いきなり話の流れが飛んだ事に驚きを隠せずトレーゼとスバルの言葉が重なる。“うち”と言うのはひょっとしなくても彼女の自宅、高町家の事だろう。家族構成は夫妻二人に子供が三人の計五人家族……内二人は現在家を出払っているが、年末年始のこのシーズン、帰省してくる事も考えられる。もちろん、長男はともかくとして管理局員であるなのはとの接触は避けられないものとなってしまうだろう。そうなればクラナガンに代わり今度はこの海鳴が戦場になる事は目に見えて明らか……。

 その事に勘付いたのはスバルも同じだったらしく、丁重に断ろうとしたのだが、既にその左手は再び桃子に掴まれていた。ちなみにもう片方の手はトレーゼの手を掴んでいる。

 「は、な、せ」

 「あらぁ?」

 トレーゼはその手を振り払うと急ぎ足で駅に向かおうとした。敵の実家に居候する犯罪者など聞いた事も無い……身に降り掛かる火の粉は最低限に留めておきたいのが彼の今の本音だった。

 「待って!」

 背後からスバルが呼び止める。だがそれを無視してトレーゼは更に歩を進めて行く。遠くなるその背中に手を伸ばし、彼女は叫ぶ……。



 「行かないでっ!!」










 『ム!? これは…………』

 『どうかしたの王様? 遠くにある邪気でも感じ取った?』

 『当たらずも遠からずですね。まさか“あんなモノ”がまだこの街に残っていたとは』

 『それは否だ。残っていたのではない……あれは出て来たのだ』

 『出て来た……? まさか、そんな!? 何人たりとも抜け出せない時空の檻から出て来る事なんて不可能だ!!』

 『ですが、現にこうして出現してしまった以上は覆しようの無い事実です。在るべき場所に再臨し、持つべき者がそれを手にした……』

 『しかし、この次元世界の辺境に来てまであのようなモノを目にする事になろうとはな。塵芥もたまには我を楽しませる』

 『後は“あれ”がどの様な波乱を巻き起こすかですね……』










 戦闘機人の肉体は頑丈だが、その反面柔軟性の面では非常に融通が利かない。加えて骨格に関しても多少軽量化されているとは言え元は金属なので重く、何らかの要因で一度壊れれば筋肉の力だけで関節を動かす事は難しくなる。

 そしてその逆もまた然り……。

 「な、んだ……これは!?」

 急に地面に跪いたトレーゼが己の両足を凝視する。その表情には明らかな戸惑いと驚愕の色が濃く表れていた。程なくしてその顔は激痛に歪む苦悶の表情へと変貌し、その原因となっている部位を確かめようと手を伸ばす。

 「ぐっ!」

 白い手に鮮血が滲んだ。手から出たのではない、触れた箇所から大量に出たそれが服を濡らし、それに触れた手を赤く染めた。切れていた……両足、膝から下、金属骨格を残して皮下から筋肉に至るまでが輪切りになっていた。足を動かす筋肉が分断されてしまった事で動けなくなった彼はその場に跪き、出来るだけ冷静に現状を把握しようと努めた。

 「物理現象、ではない……。傷口に、微かな魔力……だが、これは俺のではない…………だとしたらっ!?」

 傷口に残留した覚えの無い魔力の残り香……当然それは自分の物ではなく、よくよく観察して見れば波長は生物から放たれる魔力の波長をしていなかった。人間ではこんな無機質な魔力を放つ事は出来ない……であれば、その根源は一体どこから? そんな事を思案していると心配したスバルが後ろから近付いて来るのが分かった。関わると鬱陶しいので振り払おうとしたトレーゼだったが──、

 彼女のコート、そのポケットに目が行った。

 外側から見ても分かるぐらいに淡く光っているそのポケットを食い入るように見つめた彼は、そこに何が入っているのかをスバルに問い詰めた。

 「これは何だ!?」

 いや、聞かずとも分かっている。だが聞かずにはいられなかった。何故“それ”がこんな所にあるのか……? “それ”はその昔、この地でその半数近くが永遠に失われたはずの代物のはずだった。

 「えっと、この綺麗な石の事? これはさっきそこで拾って……」

 「それを、よこせ!!」

 「きゃっ!」

 強引に服に手を突っ込んで中身を握り締める。手に感じたのは冷たい石の感触と、激しい魔力の熱……それは一瞬でトレーゼの肉体に伝播し──、

 ────バチッ!

 「うぐ!?」

 激しい雷光を伴って彼の手を焼いた。血液が蒸発する異臭が立ち込め思わず鼻を摘む。

 何が起きたのかをトレーゼは冷静に分析した。恐らくは“それ”がこちらを拒絶したのだろう……“それ”の力は健在である上に、まだ“それ”は真の意味でスバルの所有物である事をやめていないからだ。

 最悪の展開だ……。トレーゼは潔く目の前の事実を容認すると共に自身の置かれた最悪のシチュエーションに歯軋りした。



 “それ”がいつの時代からこの世に在るのかはもう誰も知らない……。



 “それ”がいつ、何の目的があって生み出されたかについても今となっては定かではない……。



 ただ一つはっきりしているのは──、“それ”は強い願望を持つ者の前に現れ、その望みを「最も望まない方法」で叶えると言う忌むべき力を持っていると言う事だけ……。



 人は“それ”を抗えぬ魅惑と忌避すべき侮蔑を込めてこう呼んだ…………。





 「願いの種……ジュエルシード!!」










 永久に失われたはずの古代の願望機……十数年の時を経て、それは予想すらしなかった人物の手に委ねられた。



[17818] 敵地滞在日誌 Act.1
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:dbc1a139
Date: 2011/09/18 22:09
 『と言う訳で、俺とセカンドの一向は不本意の極み甚だしいがこうしてタカマチの実家に厄介せねばならぬ羽目になってしまった。

 何が“と言う訳で”なのかについては俺自身が一番納得行かない事は言うまでも無い。この数日間で俺が経験したのは、奴と一緒にいると計算外のイレギュラーに相対する機会が異常に増えると言うことだけだった。もちろん、それへの対処法などあるはずも無い。

 現在、この時点で俺が辛うじて容認する事が出来た事実とは、“何があろうとセカンドとの同行を余儀なくされてしまった”と言うこれもまた不本意な現実だけだ。何度も奴の目を盗んでここからの離脱を図ったが、それらは悉く失敗に終わった。どうやら奴が“あれ”……ジュエルシードを持つ限り俺に行動権は無いものと思わなければならないようだ。

 次にこれに何かを記す際には、この如何ともし難い現状が少しでも改善されている事を願い、俺はここにペンを置く。



 ────12月1日午前23時50分』




















 12月1日午後19時18分、高町家にて──。



 「事情は分かったよ。遠くからわざわざ苦労しただろうね。ゆっくりして行くといい」

 現状はトレーゼにとって最悪、スバルにとっては最良の方向へとトントン拍子に進んで行った。あの後、傷ついた足を即行修復したトレーゼは再度離脱を図ったが、ものの数メートルも行かない内に今度は目の前の道路で車両事故が発生して道を塞がれてしまった。無理やり突破しようと人込みに割って入ろうとしたが、そうすると次は周囲の電線が切れて大混乱が起きた……。偶然とは思えない現象にトレーゼが思い当たったのは他でもないスバルの拾ったジュエルシードだった。

 ジュエルシード……思えば厄介な足枷をはめられたものだ。

 虚数空間に消失したはずのあれが何故再びこの地に出現したのかについて原因は定かではないが、重要なのはスバルがそれを拾い、そして“願い”を掛けたと言う一点だけだ。ジュエルシード……分類を、『次元干渉型エネルギー結晶体』と言い、同じ第一級捜索指定にあるロストロギア『レリック』とは違い内包した魔力量も然る事ながら、問題なのはその危険性……内包された魔力の数万分の一を放出しただけで小規模次元震を引き起こし、過去の記録ではその影響で幾つもの次元世界が消滅したとさえ記されている。一説によれば願いを叶える特殊な力はその次元震の応用だとされているが詳細は不明である。

 現状、ジュエルシードについて判明しているのは一つ……。それは『掛けられた願いを叶えるまでその強制力は持続する』……これだけだ。その過程や手段はどうであれ、一度受け入れた願望を叶えるまでジュエルシードによる不可視の強制力は解けない。願いを指定した者がそれを取り下げるか、或いは完全な第三者が封印して無力化でもしない限り、その願望の対象となったモノには成す術も無いのだ。その強制力が完全に解除されるのは掛けられた願望を明確な形で成就した時のみ……。しかもこの点で厄介なのはその願望を歪んだ方法でしか成就させない事にある。

 「寝室はどうしましょう?」

 「うーん……なのはと恭也の部屋が空いてるから、適当に片付けてそこ使ってもらう?」

 勝手に話を進める高町夫妻に気取られぬようにベランダに移動する。

 どうやら少し距離を置く程度であればスバルの“願い”には反しないようだ。ジュエルシードの願望成就に関する厄介な特性……それは持ち主の願いを『結果的に成就』させるという点にある。例を挙げれば、さっきの様に「行くな」と言う願いに対し、その対象となった人物の足を切る事でそれを成就させようとした。結果として『どこにも行かない』或いは『行けない』と言う状態にする為には手段を選ばないと言う事が如実に現れた瞬間だった。この強制力がどの程度続くのかは知らないが、恐らくトレーゼがスバルに大人しく従って行動を共にしていれば害は無い……だが、逆に彼女の意向に反する思考を抱くか、或いはスバルがそれとは別に“願い”を抱けばその内容如何によっては大きく行動を制限されてしまうだろう。

 今後の解決策としては三つ……。

 一つ、手っ取り早くスバルを脅して願いを取り下げさせる。これが一番実行に移し易いが、土壇場で異常な程に意思の強さを見せ付ける彼女を陥落させるのは容易ではないだろう。仮にその『脅迫』と言う行為が彼女の“願い”に反しているかも知れない以上、ここで下手を打つ事は出来ない。博打を打つにはリスクが大きすぎる。

 二つ、こちらがジュエルシードを強奪してしまう。可能であればこちらが理想的。さっき奪おうとした時に拒絶されたのはトレーゼの意思の中に『スバルから距離を置く』と言う意思があったからだ。逆に言えば、辛うじてその意思が無くなった今ならジュエルシードにとってスバルの願いは“成就されたもの”、即ち契約終了による白紙状態へと逆戻りしているはずだ。その状態でこちらが奪い、スバルのものより強制力の強い“願い”を叶えさせる事で完全に上書きさせる……理屈ではそれで呪縛から解き放たれるはずだ。だがこれも一つ目と同じで、『奪う』と言う行為そのものが仇となる可能性もあるかも知れない。

 三つ、スバルを殺す。これは一番確実だが同時に最も忌避したい最終手段だ。元々は“答え”を得てから実行する事にしていたのだが、曰く付きの古代遺失物の呪縛を課せられた今となってはそれを良い事にその契約を反故にされる恐れもある。これもまたナンセンスな選択肢だ。

 「フゥ……」

 結論、現状ではどうする事も出来ない。何らかのアクシデント、もしくは状況の急変でも無い限りはどうしようもないだろう。こう言う時は大抵気長に待とうとか思うのが定石だろうが、生憎と自分にはそこまで時間を持て余す余裕も無い。

 「やぁ、ちょっといいかな?」

 「……………………」

 背後から聞き覚えのある声……。この家の主人にして高町なのはの実父、高町士郎だった。昼間にあった時はまさか仇敵の父親だとは思いもしなかったが……世間は狭いと言う事なのだろう。

 「息子が使っている部屋なんだが今は空き部屋でね……。良かったら使ってほしい」

 「あぁ……」

 「……………………」

 「……………………」

 不穏な沈黙が二人の間に横たわる……。昼間の邂逅にて、士郎は初見でトレーゼの本質を見抜いた数少ない人間の一人……対して、トレーゼにとっての士郎とは怨敵の父親…………世間が狭いと言うよりはむしろ、因縁めいたモノしか感じない。

 だがしかし、今この現状でトレーゼにとって唯一の朗報があった。

 それは……。

 「彼女とはどこで知り合ったんだい?」

 「辺境の、荒れた所で、監察官をやっていてな……。その関係で、保護した。ここに来たのは、本局から調査を依頼されて、手隙が俺しかいなかったからだ」

 そう、唯一の幸運はこの高町家の住人が誰一人として自分の事を今回の騒動の犯人だと認識していない事だった。初めは士郎もその佇まいの険悪さに違和感を抱いていたが、それは職業柄仕方のない事だと解釈して大人しく引き下がった。もちろん、自分が管理局員である事を含めて言葉の大半は嘘八百だが、その真偽を確認することは彼らには出来ない。どうやら昼間エイミィが来た際にスバルの事とミッドチルダの騒動についてある程度聞き及んではいたようだが、肝心な犯人像については聞いていなかったらしい。

 だが安心は出来ない……。この家がハラオウンと繋がりを持っている以上、いずれ顔が割れるのも時間の問題だろう。そうなった時の為に取る行動も今の内に思案しておいた方が無難だろう。そんな事を考えながらトレーゼは案内された部屋に向かった。

 「トイレは一階の風呂場の隣にある。シャワーは好きな様に使ってくれて構わないけど、あんまり長風呂はしないこと」

 「承知した」

 どうやら出払っている長男の部屋らしいが、父親曰く「別にやましいモノは一切無いから好きにしてほしい」とのことだ。そう言って一階へ消えて行く士郎を見送った後、ドアを開けて中に入ったトレーゼは──、



 「邪魔しているぞ」



 「帰れ」



 室内の内装を確認するよりも先に反吐が出るような相手と目が合った。黒のメッシュが入った乳白色の短髪にギラついた緑色の瞳……そして管理局の仇敵の一人に似たその姿は、まさしく昼間のマテリアルの一体だ。図々しくもベッドの上で踏ん反り返っているが、何故ここに居るのか……とか言う疑問は湧かない。彼女らは普段は実体の無い意識と人格が入り混じった魔力としてこの街一帯を霧散している。言うなれば干渉こそ出来ないがこの海鳴は彼女らのテリトリー、魔力反応を追えばどこに誰が居るのかぐらいは容易に突き止められるはずだ。

 「王たる我が出向いてやったのだ、不味い茶の一杯ぐらい出すのが礼儀であろう?」

 「貴様に、くれてやる茶など、どこにもない。喉が渇くなら、川に行って、幾らでも飲んで来い」

 「塵芥風情が……!」

 「どうやら、他の二人より先に、消されたいらしいな」

 「ぐぐ……! ま、まぁ、マテリアルたるこの身は飢餓や喉の渇きとは無縁の存在だ。わざわざうぬら塵芥のように外部から栄養を摂取せずとも形を保つ事は出来る」

 「ついでに、その口も閉じろ。うるさい、消すぞ」

 「おい、ちょっと待て! 結局我らうぬに消される事が前提なのか!? おい!!」

 「だ ま れ」

 「オ……オーケー」

 無理矢理黙らせた後、この家の長男が使っていたと聞くデスクの椅子に腰掛ける。取り合えずこれから先の事について色々と思案するのが先決だ……。机に肘を立てて頬杖を着いて思考…………したかったのだが。

 「ねーねー! 今日一日でロストロギア二つに出会えるなんてなかなか無い事だと思わないかい?」

 背後から別の声。今度はフェイト似のマテリアルだった。馴れ馴れしく背中に張り付いて胸板に腕を回してくる……。

 「わぉ、キミって体温低いんだね。まるで氷みたいだよ」

 「……………………」

 「ねぇねぇ、何か言ったら……って、ひぃや!?」

 素っ頓狂な悲鳴を上げてマテリアルが背中から離脱する。彼女が触れていた背中の部分の服は鋭利な刃物で切り裂いたように破れ、その肌は何故か自身の血に塗れていた。

 「キミ……そんな攻撃ばかりしてると服がもったいないと思わないかい?」

 「だったら、大人しく、ここで切り刻まれろ」

 「無茶言わないでよ。ボクらには崇高な使命があるんだ。それを果たすまで消えるつもりは毛頭ない! それに、何だかんだ言ってる間に面白い事が起こってるらしいじゃないか」

 「…………あの石を……ジュエルシードを、召喚したのは、貴様らか?」

 「それは言い掛かりってものだよ。あの石はボクらの思惑とは全く無関係に現れた……完全なイレギュラー、不確定要素の具現としか言いようが無いよ」

 だとすれば自分は相当運が無い事になる。過去の事件でこの地球に散らばったジュエルシードの総数は21個……内12個は当時まだ民間協力者であった高町なのはが回収し、残りの9個はアルハザードを目指したプレシアと共に虚数空間に消えたはずだった。回収漏れと言う事態はまずあり得ない……P・T事件から既に十数年、それまでずっと管理局が気付かなかったと言うのは考え難い。だとすれば、やはり虚数空間に落ちた9個の内の一つが再びここに落下したと言う事だろうか。

 だが何故よりにもよってスバルが手にしたのか……。その所為で余計な制限を課せられてしまう羽目になってしまったのはどうやっても覆られない事実……全くもって不運だ。

 これではまるで──、

 「まるで……全知全能の神が彼女にジュエルシードをもたらしたかのよう……ですか」

 「今度は、タカマチか……。貴様ら、俺に何の用だ」

 「用と言うほどのモノでもありませんが、一つ提言してもいいでしょうか?」

 「…………何だ?」

 「先のジュエルシードの件ですが……早急にあれを彼女から強奪した方がよろしいかと」

 彼女と言うのはスバルの事だ。そのスバルからジュエルシードを奪い取る……。

 「それが出来れば、苦労は無い」

 「ですが、あれをそのまま放置すれば私たちにも影響が及びますので」

 「次元さえ、揺るがせる、万能の願望機……。確かに、あれさえ使えば、貴様らを消し去るなど、造作も無いか」

 「冗談でもそういう事は止めてください」

 「本気だ」

 「……………………話を戻しましょう。確かに貴方の言うとおり、今の状態の私たちではあのロスロトギアの強制力には微塵も逆らえません。誰かが『マテリアルの消滅』を願えば、それで一巻の終わりと言う事です」

 「その“誰か”、とやらが、セカンドになる可能性も、あると言う事か」

 「そうです」

 ああ見えてスバルは聡い……遅かれ早かれ自分に纏わり付くマテリアルの存在を知れば害を成すと判断し、それを消し去るためにジュエルシードの力を使うことは容易に想像できた。彼女らもその最悪の展開を危惧しているのだろう。

 「だとしても、俺にそこまでする、義理は無いな」

 「貴方のためでもあるんです……。せめて、ここだけでも共同戦線を張りませんか?」

 「…………考えておく」

 同意するのが気に食わないのかトレーゼはそっぽを向きつつも事の重要さを改めて認識していた。過去に幾度も願望成就を謳ったロストロギアと言うのは幾つもあるが、ジュエルシードはその中でも別格だ……願いを叶える度に次元震を発生させれば世界の一つや二つは軽く吹っ飛ぶのも頷ける。あれ一個で全世界の核兵器を寄せ集めてもまだ足りない、物理的な面で見てもまさに完璧な『危険物』だ。そんな代物をいつまでも平和ボケした少女の手に持たせておくのは厄介だと言うのがトレーゼの見解……。

 だが方法が無い。スバルの手からジュエルシードを強奪する最も効果的な方法が……。

 「こればかりは気長に行こう、と言う感覚にはなれませんね」

 「と言うか、何故貴様らは、ここに居る? 返答は一週間後だと、言ったはずだが」

 「別に急かすつもりで来た訳ではありません。純粋に現状の危機を再認識して頂くために来ただけです」

 「認識なら、充分している。後は、それを実行に移すだけ…………」

 そう言いながらトレーゼは上着を脱ぎ去った。もうボロボロなので使い道が無いので着替えようとバッグから代えの服を取り出しそれを着ようとした。

 「…………見事なものですね」

 「何がだ?」

 「貴方です。純粋な科学によって生み出された人造生命……長きに渡る闇の書の歴史でも、貴方ほど精巧に創られた生命体は類を見ません」

 「…………俺を創り出した存在は、間違い無く天才だった。それだけの事だ」

 今はもう居ない……他でもない自分自身の手で殺したからだ。何故殺したのかと聞く者も居るだろうが理由は無い。強いて言うなら、そうする事が絶対的に正しいと信じて疑わなかったのだ。だから実行して殺した……それ以上でも以下でもないし、ましてやそれ以外でもない。あの時の選択は後悔していない……今の落ちぶれた身の上を顧みてもそれだけは断言できた。もっとも、直接手を下した者は別に居るので口惜しい感も否めないが……。

 ふと、室内が静かになった……。もう出て行ったのかと思って背後を見やると……

 「────Zzz」

 「……………………」

 寝てる。

 ↓

 上半身を起こす。

 ↓

 胸倉を掴む。

 ↓

 往復ビンタ。

 バチンッバチンッ!!

 「はぶっ!? なっ、なにをひゅるんでふか!?」

 「出て行け。ここで、寝るな!」

 「それは殺生です。私結構眠くて……ふ、ぁ~あ」

 「目蓋縫うぞ」

 「わかりました……お暇させていただきましょう」

 そう言いながらマテリアルは窓を開けて足を掛けた。だが、いざ飛び立とうとする時になって再びトレーゼを見直した。

 「何だ?」

 「一つだけ忠告を……。一時的なモノとは言え、貴方と私たちは同盟関係にある仲です」

 「それが、どうした」

 「もっと私たちを信用してほしいのです。このままでは貴方は……敵だらけになりますよ」

 「安心しろ。もう、とっくに、敵だらけだ。貴様ら含めてな」

 「…………そうですか。それではまた一週間後に。ご武運を」

 飛び出した小さな体は一瞬で魔力の塵に変化し、虚空に消えた。風に流れて去って行く淡い魔力の燐光を目で追いながらトレーゼは窓も閉めずにマテリアルが消えた夜空、その向こうに輝く星を見つめていた。

 彼の目に写る星……それはオリオン座でもなければペルセウスでもない。満点の星空に一際輝く孤高の星……。

 「……北極星」










 「ッ! 誰!?」

 不穏な気配を察知したスバルは思わず部屋の中を見渡す。しかし部屋の中には自分以外の誰かの姿は無く、外の方にも誰かが居るような感覚は消え失せていた。

 「マッハキャリバー、今ここに何か居た?」

 『いいえ、私は何も……』

 「そう……」

 救助隊にて生命反応の受信に長けたマッハキャリバーでさえ感知出来なかったとなれば、やはりただの思い過ごしなのだろう……そう結論付けて、スバルはベッドの上に身を投げ出した。ここは彼女の恩師、高町なのはの部屋だ。内装はすっきりしているが、所々で女性らしさが見え隠れしていると気付かされた。機動六課を離れ、救助隊に身を移して尚スバルにとっての彼女は未だに憧れの存在だが、そんな人が少し身近に感じられた。

 ふと、視線が机の上のある物に留まった。

 「何だろ、これ? 籠かな?」

 なのはの使っていた机には何やら両手で持てる小さな籠が置かれていた。ただの籠ならそこまで興味も惹かれなかっただろうが、その籠には布やクッションが敷き詰められ、まるで仔猫や仔犬などを入れる物にも見えた。だが彼女がペットを飼っていたと言う話は聞いた事が無い。

 「スバルちゃん、ちょっといいかしらぁ」

 「あ、はい! どうぞ」

 「あら。その籠……懐かしいわね」

 替えの服を部屋に持って来た桃子は机の上の籠を手に取った。どうやら彼女はこれが何なのか知っているらしい……。

 「あの、なのはさんって昔ペットを飼っていたんですか?」

 「ペット? ううん、この家はペットを飼ったことはないわ」

 「え? じゃあこれって……」

 「これは昔ユーノ君が使ってたベッドよ」

 「ユーノ……君?」

 その人名に心当たりがあったスバルは記憶の糸を手繰り寄せてある一人の人物に行き着いた。十数年前、この海鳴に落ちたロストロギアを回収する為に単身でこの次元世界に訪れ、そして恩師なのはに魔法を教えた人物……。今では確か無限書庫で司書長を勤めるお偉いさんだが──、

 「え……ベッドって、な、何でこんな小さいんですか?」

 「ん~。あの頃のユーノ君ってフェレットだったから……」

 「フェ、フェレット!?」

 そう言えばいつだったかなのは本人から聞いた事があった……ユーノ・スクライアと言う人はデバイス無しに堅牢な防御を行え、更には動物への変身を最も得意としていると。昔訳あって高町家に居候していた時は殆どの時間をその姿で過ごしていたと……。

 「それでこの大きさなんですか……」

 「初めは私も何だか他の動物と違うわね~、としか思って無かったけれど、目の前で人間になっちゃった時は驚いたわ。そうね……もうあれから十三年にもなるのね……」

 闇の書の事件の直後、高町家は始めて魔法と言う未知なるモノを知り、そしてその魔法が絡んだ事件に今まで末娘が身を挺して解決に臨んでいた事などを知った。

 「最初はね、魔法なんてそれこそお伽噺の世界でしかないって思ってたわ。でも、あの子やフェイトちゃん、はやてちゃんの顔を見て、『ああ、私達は何も知らなかった』って思い知らされたわ」

 「桃子さん……」

 「親の知らない所で子供は成長する……嬉しい事だけど、その所為で一番身近な人に何も言えないのは辛い事よ。あの子も…………トレーゼ君もそうなんじゃないかしら」

 「っ!?」

 「ごめんなさい。こんな事、不躾に話すものじゃなかったわね」

 「いえ……」

 「着替えの服、ここに置いておくわ。お風呂も沸いてるから好きな時に入ってちょうだいね」

 「すみません、何から何まで」

 退室した桃子が階段を下りて行くのを見送った後、スバルはほぅっと溜息をついて椅子にもたれ込んだ。

 今日一日で色々な事が起こり過ぎた。取り合えずこれまでの行動で分かったのは、トレーゼは自分の意にそぐわない想定外の事態が起こると癇癪にも似た怒りを見せると言う事だ。実際のところ、彼の思い通りにならないのは自分だけなので怒りの矛先は言うまでも無く……なのだが、いずれその矛先が別の方向へ向くかも知れないと考えると言われ得ぬ不安が背中を悪寒となって走る。

 「何も言えないのは辛い……か」

 経験はある……。自分と姉のギンガは常人とは違う……その事を家族以外の誰にも言えずに隠し通そうとした事があった。訓練生として局の養成所に入った時もそれは同じで、周りが全員普通の人間なのに自分だけが違う事がコンプレックスだった。誰にも打ち明けられない……そんな行き詰った自分の前に現れたのが、四年近くの付き合いとなる親友ティアナ・ランスターとの出会いだった。初めて自分の秘密を打ち明けた他人が彼女だった。

 でも、彼には……トレーゼには誰も居ない。だが、誰も居ないからと言って果たして自分が代わりになれるものなのだろうか……?

 ただ一つ確かな事……それは、今のトレーゼは自分と同じく、何かを隠していると言う事だ。それを確認する術は無い……。

 「…………まって」

 いや、ある……。一つだけ方法があるかもしれない。

 ゴソゴソとポケットをまさぐって取り出すのは、ほんの一時間前に自分が拾った青い石。いや、もうそれを単なる石と呼ぶことは出来ない。さっきのユーノの話題で思い出した……数あるロストロギアの中には歪んだ形でどんな願望も成就させる宝石があると…………。

 「もしかしたら、これが……!」

 既に手中の石は拾った時の様な淡い輝きは放っておらず、あれだけ感じた膨大な魔力も嘘のように消えていた。だがこれに願いを掛ければ必ず叶う……そうすればトレーゼの真意を推し量る事が出来るのではないか、と言う甘い誘惑を放ち続けていた。もし……もし願いを言えば……!

 「っ!」

 手に取ったそれを強く握り締め、スバルはそれを──、



 引き出しに仕舞い込んだ。



 何も入ってない机のスペースに乾いた音が響く。しばらくしてその音が消えた後でスバルはベッドに倒れ込んだ。

 (あたし……今最低な事考えてた……)

 他人の心を冒涜してまで聞き出したい真実なんか無い。自分の友人は、ティアナはそんな事をしなかった!

 だから自分も止めたのだ……。

 だから使わない……。

 だから自分は……




















 『今起床した。肉体の変化は特に無し。この時間帯、他の面々はまだ起きていない様子だ。

 家の周囲の魔力を探知してみるが、あのマテリアル共の気配は全く無い。どうやら大人しく一週間後……いや、六日後まで待つようだ。賢明な判断だ、今度来たら躊躇無く消そうと思っていた。

 ともあれ、今日を含めて六日で決着を着けねばならない。ハラオウンが目を光らせているかも知れない以上、下手は打てないが早期解決を図りたいものだ。

 何も厄介事が起こらない事を願って……。



 ────12月2日午前5時00分』




















 「お店手伝お!!」

 日の出と共に厄介事はトレーゼに宣告を言い渡した。

 朝の午前7時、場所は恭也の自室改め現トレーゼの寝室……。椅子に座るトレーゼと、彼を目の前に妙に意気込んでいるスバル。

 「……店とは、まさか、タカマチの喫茶店の、事か?」

 「『翠屋』って言うんだよ。ここで生活するのに部屋まで貸してもらってるんだから、何かせめて協力でも出来ないかなって……」

 「……………………」

 相変わらずの短絡的思考に思わず頭を抱えるトレーゼ。どこをどうすれば敵地のど真ん中でアルバイトなどと言う飛び抜けた発想に至るのか、一度脳を切り開いて調べたいと思わせる程だった。しかもここで重要なのは働くのは主にこちらと言う事になっている事だった。

 「翠屋だろうが、鏑矢だろうが、知った事か。何が悲しくて、敵陣でバイトを、しなければならんのだ!」

 「トレーゼならウェイターとかやれるでしょ? あたしも厨房の方でケーキ作りをさ……」

 「断る。貴様だけで、勝手にやってろ」

 「ちょ、お願い! 今だけあたしのわがままに────、」



 「調子に乗るな」



 キツい一言に一瞬で部屋の中が凍り付く……蛇の一睨みを受けたカエルのように固まるスバルを一瞥もせず、トレーゼはドアを通り過ぎる。

 「…………街に行く」

 それだけ言ってトレーゼはリビングに用意された朝食にも一切手を付けずに高町宅を後にした。一人残されたスバルはしゅんと沈んだ様子で一階に下り、沈鬱とした表情でテーブルに用意されていた朝食を食べ始めた。

 「おはようございます……」

 「おはよう。あら、トレーゼ君はまだ寝てるのかしら?」

 「いえ、その……さっき街に行くって……」

 「あらそうなのぉ。朝弱いのかしら…………なんて、言うと思った?」

 「ふぇっ?」

 急に頭に手を乗せられ、スバルは箸を取り落としそうになった。嘘を見破られたと言うよりは、何故優しくされたのか分からずに驚いたのが理由だった。

 「あの子に何か厳しいこと言われたんでしょ? 顔見てたら分かるわ」

 「すみません……」

 「謝らないで……。スバルちゃんは悪くないわ」

 「……………………あの、桃子さん」

 「なに?」

 「あたしのわがまま……聞いてもらってもいいですか?」










 分かった事がある。こうして事前に断りを入れておけばどこへ行こうと行動に制限が掛からない。もっとも、後で戻らないとならないのだが……。

 正直言うと、戻りたくない。あそこに居れば居るだけ厄介な事に巻き込まれるような気がするからだ。いや、実際なっているのかも知れない。と言うか、現在進行形で陥っている最中だ。

 「……………………」

 今、トレーゼは商店街の中に鎮座している自販機の傍で缶コーヒーを賞味していた。味は微糖のホット、冬の朝には丁度良い飲料物だった。飲み終わってゴミになったそれを片手で握り潰し、ゴミ箱に投入する。特に行き先は決めていない……このまま商店街を適当に練り歩くのも構わないが、あまり一箇所を徘徊していると不審に思われる可能性もある。かと言って一日中暇を潰していられる程にこの街を知っている訳でもない。

 どこかに無いか……一日居ても不審に思われない場所は……。

 「…………図書館」

 小さな掲示板の張り紙にあったその三文字……。確かに図書館であれば一日中居ても何ら不自然ではない。適当に外部から進入して一日過ごし、適当な頃合に高町宅へ帰ればそれでいいだろう。

 道行く若者たちを縫うように移動し、トレーゼは市民図書館への道を歩いた。

 ものの数分もせずにそれらしき建物に辿り着き、そのまま臆する事も無く正面から入り、堂々と席に着く。本棚から拾ってきた本の題名は……どうでもよかった。興味も無い……。何かの古典小説らしい事だけは分かった。

 平日の朝だというのに若者の姿もちらほらと覗える。勤勉なのはいい事だが、珍しそうにこちらを見るのはやめてほしい。地方都市とは言え海鳴市は大きな港を抱える沿岸都市、そこまで外国人が珍しい訳でもあるまいに……。

 放っておけばその内視線も無くなるだろうと次の本を手に取る。やはり自分には創作よりも学術書、それも医学に関する物が良いと判断したのか、今度は一度に五冊も取って来て机の上に平積みにした。そしてそれらにも一通り目を通して行く。

 ふと、隣に座っていた女性が身を屈める。どうやら持ち物を落としたらしく、トレーゼは自分の足元に転がっていたペンを拾うとそれを差し出した。

 「どうぞ……」

 「あっ、すみません!」

 ペンを受け取った女性はペコリと言う擬音が当てはまるお辞儀をし、眩しい笑顔をこちらに向けた。佇まいや雰囲気は深窓の令嬢、と言ったところか……どことなく気品が感じられる。

 「すずかー。待たせてゴメン。って、知り合い?」

 「ううん、落し物拾ってくれたの。アリサちゃん、遅かったけど何かあったの?」

 「また信号に引っかかったのよ。いい加減あそこの青信号の短さは何とかして欲しいわよね」

 そう言いながら友人らしきもう一人の女性がどっかりと座り込む。バッグから付箋を山ほど貼ったノートを取り出したのを見ると、どうやら二人とも大学生のようだ。

 「ねぇ、君も大学生?」

 「医学……医大生かしら?」

 「いや、大学には、行っていない」

 「ふーん」

 ナチュラルに話し掛けられた。この街の人間は意外と人見知りをする存在ではないのかも知れない。

 「ねぇ、すずか。これが終わったら翠屋に行こ。最近課題詰めで、ちょっとぐらい息抜きしたいし」

 「そうだね~」

 「……………………」

 意外とあの喫茶店も有名なのか……。今日一日は名前も聞きたくないと思っていた矢先でこれとは……つくづくツイていない。ともあれ、自分はもうあれと深く関わる事をやめたのだ、今頃スバルが何をしていようと自分の知る処ではない。

 そう思いながらトレーゼは読み終えた学術書を棚に戻しに行く。どうやらこの二人の女学生はあの店の常連らしい……ここはまたさっきのように気さくに話しかけられて誘われでもしたら厄介なので早々に退散しようとトレーゼはこっそり席を離れた。










 三十分ほど歩き続け、今度は駅前にやって来た。また切符を購入して遠くに行こうかとも思ったが、また足でも切られて騒ぎになるのは嫌だったので自粛した。

 ここでまた適当に自販機で飲料を購入する。今度は炭酸飲料にしたらしく、コーヒーの時とは違いそのまま振らずに口を開けようとした。

 ふと、その時……道行く者の話し声が聞こえた。

 「お昼どこで食べる?」

 「行き付けの喫茶店があるんだけど、そこでケーキでも食べない?」

 「どこどこ? 翠屋?」

 「そーそー。あっ、そう言えば知ってるぅ? なんか今日から可愛いバイトの子が入ったらしいよ」

 「マジ? 女の子?」

 「何か朝通いしてる部員が言ってた。写メあるけど見る~?」

 そう言いながら女子学生が携帯電話を開く。撮ってあるデジタル写真を友人に見せると──、

 「めっちゃ可愛いじゃん! え、なにこれ、外国人!?」



 ブシュッ────!!



 口を開けた缶から勢い良く中身が噴出する。危うく服に引っ掛かりそうになりながらも、トレーゼは耳にした情報を頭の中で整理するのに必死だった。

 さっきの女子学生の言葉が正しければ、今現在あの喫茶店ではスバルが働いている事になる。右手が無いので給仕を任される事は無いだろうが、だとしても厨房など裏方をやっているのであれば説明も付く。だがしかし、あの状態では満足に動けるとは思えない……人間、手が一本不自由になっただけでもかなりの重労働を強いられる…………。

 「……………………」

 悶々……。

 気になる。

 気に掛かる。

 またおかしな事態になっていれば尻拭いをさせられるのはこちらだ……ここは不本意だが、様子を見に一旦戻ろう。

 中身が殆ど無くなった缶を握り潰してゴミ箱に捨てた後、トレーゼは昨日以来一度も足を運ばなかったあの喫茶店へと向かった。










 「いらっしゃいませ。喫茶『翠屋』へようこそ。お一人様でよろしいでしょうか?」

 「ええ」

 「畏まりました。お席ご案内させて頂きます」

 「ありがとう……」

 喫茶店に来訪した一人の女性……亜麻色の長髪、凛とした目付きに、絶妙なプロポーション…………まさしく、『大人の女性』と言う言葉が似合う姿をしていた。桃子の案内で店内の端にある窓際の席に腰掛けたその女性は、メニュー表にさらりと目を通すとそのまま注文を伝えた。

 「コーヒーをお願い出来るかしら。この店のオリジナルで」

 「はい、オリジナルブレンドお一つですね! 少々お待ちください」

 注文を受け取った桃子がカウンターに向かう。程なくしてコーヒーを入れたカップを持ってきて、それを女性客の前に置いた。

 「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」

 「ええ。ありがとう」

 「ごゆっくりどうぞ」

 伝票を置いて別の客の注文を取りに行く桃子。その後姿を追いながら女性は注文したコーヒーを少し口に含んだ。



 なんとか乗り切った……。



 女性の正体は、変装したトレーゼ。もちろん、変装と言っても単なる姿形を似せた程度ではなく、彼の持つ16の固有技能の一つ、『ライアーズ・マスク』を使っての完全偽装である。当然だが常人では見破るどころか、違和感を感じる事さえ無い。モデルにしている女性は彼の姉……正確には「姉だった」ドゥーエを元にしているが、トレーゼ自身は成長した彼女の姿を知らないので、今のこの姿は昔の彼女から推測した姿でしかない。

 取り合えずコーヒーをちびちびと飲みながらカウンターの向こうの厨房を監視する。働いているのは五人……家長である士郎はコーヒーを淹れ、桃子がオーダーを取りつつケーキの生地作りをし、二名のバイトがそれを手伝う。これで四人……そしてもう一人は……

 「ナカジマさん、三番テーブルお願い!」

 「はいっ!」

 威勢の良い返事と共に厨房から出て来たのは、やはりスバルだった。従業員の制服を見事に着こなし、手にはテーブルを拭く為の布巾を持ち、愛想の良い笑みを浮かべながらせっせと業務に励んでいた。右手の方は昨日こちらがそうしたように、長袖の服を着させて隠す事でなんとか誤魔化していた。任されている仕事はテーブル拭きと厨房の手伝い……テーブルはさほど大きくないので片腕の彼女でも充分に仕事をこなせていた。生来の人懐っこさからか、客はもちろん他のバイトからの受けも良いようだ。

 「……………………」

 冬の日差しに当たりながらコーヒーを啜り、トレーゼは観察を続けた。特にこれといって彼女自身に異常は見受けられない。仕事の方もここから見ている限りは順調だ。このまましばらく様子を見てみよう……。





 一時間後──。





 「スバルちゃーん! もう上がってもいいわよー」

 「はい! お先に失礼します!」

 自分のシフトが終わったのか、お辞儀をして厨房の裏口から去って行くのが見えた。このまま高町家に帰宅するのだろう、後を追った方が良さそうだ。

 「ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております!」

 会計を済ませてこっそり後を追う。角を曲がった辺りで変装を解いていつもの姿に戻り、その道中を見守る。

 (冷静に考えれば、別にこの段階でコソコソせずともいいのでは?)

 だがまあここで出て行っても気まずいだけなので高町宅までこのまま離れて行動する事にした。朝と比較して嫌に清々しいと言うか活き活きしていると言うか、今まで見た事がない雰囲気を醸し出していた。

 「……………………」

 見た事が無くて当然だ。自分と彼女は接触してからまだ一ヶ月も経っていないのだ……むしろ知らない事の方が遥かに多いし、それで全く不自然は無いのだ。そして知る必要も無いはずだった……。

 だがどう言う訳かあちらはこっちを無性に知りたがろうとしている節があるのをトレーゼは知っていた。知った事で何かが変わると本気で信じているのなら、それは馬鹿馬鹿しい妄想だとさえ思う。

 ふと、脳裏を過ぎる……。三文芝居の台詞には、『知らなければならない真実と、知らなくても良い真実がある』などとほざいているが、まさか自身の身を以って体験する事になろうとは思いもしなかった。知らない方が幸せな事だってある……。

 「…………違う」

 いいや、違う。自分は戦闘機人、人間ではないのだ。人並みの幸せを求める事はしてはならない……。泥と汚物と血潮に塗れ、自身が骸と成り果てるまで戦い続ける……それが戦闘機人の絶対にして不変の定義だったはずだ。

 だが、それなら目の前を歩く彼女はどうなる?

 彼女も試作段階の初期型とは言え自分と同じ戦闘機人だ。だが彼女は自分とは違い、人一人殺す術すら知らずに育って来た…………この差はなんだ? 戦闘機人と言う一つの括り、カテゴリに属する二例……。片や存在の定義通りに生きて戦いを繰り返し、片や自身の存在定義さえ忘れて常人の日常に溶け込んで暮らしている……。

 理解できない……。

 弾丸の撃てなくなった銃は破棄される。爆発しない爆弾は処分される。爪を失った猛獣は獲物を仕留められず、牙を抜かれた蛇は自然界で生きてはいけない。個々の存在はその根底に必ず持って生まれて必要とする部分、存在の意義や定義があり、それに逆らって生きる事は出来ないはずだ。

 それでも彼女は違っている。定められた在り方とは違う存在のし方で生きている……。彼女は周囲を必要とし、周囲もまた彼女を必要としている。

 何故だ? 何故自分は誰にも必要とされない? 定められた生き方を……望まれた在り方を示してきたはずなのに。

 「……………………」

 自問自答を繰り返しながらスバルに遅れて高町宅に入る。履いていた靴を玄関の隅に揃え、居間に向かう。だが、人の気配がしたので少しだけ様子見してみた。

 スバルだった。

 美由季は用があって出掛けているのか、今は居ない。家族の知り合いとは言え、こうも無防備に自宅を預けているのはどうかとも思ったが、今はじっとスバルの行動を観察する事にした。

 家を出る前に予め用意していたのか、炊飯器から炊き上がった白米を掬い取ってそれをラップで包み、左手で捏ね繰り回す。いや、単に捏ねているのではなく、どうやら握り飯を作ろうとしている事が分かった。だが如何せん片腕なので満足に出来ず、まともな形に仕上げるのに五分も掛かっていた。それを三つ作り、小皿の上に並べたそれをテーブルの上に置いた。どうやら自分が食べる訳ではないらしく、チラシ紙の裏に書置きを残し、自分の借り部屋へと戻って行った。

 「?」

 人気の無くなった居間に入り、トレーゼはテーブルに鎮座した皿と握り飯を見やった。

 そこには──、



 『トレーゼへ。

 お腹減ってるなら、これ温めて食べていいからね』



 「……………………」

 右端の一個を手に取る。炊飯器から出して間もなく、まだ温かいそれをじっくり吟味する。改めて見ると酷い形だった。むしろ片手でここまでの形に出来た事を褒めるべきか?

 ラップを剥がし、一口食べる。程よく塩味が利いている……適当に作ったにしてはなかなか美味だった。

 二個目に手をつけながら、ふと、昔の出来事を思い出す。

 あれはいつの頃だったか、自分が猛烈に空腹を訴えて無理矢理トーレに食料をねだった事があった。戦闘機人は常に抜群のコンディションを要求されるので、外部からの栄養及びカロリー摂取は厳重に管理される。あの時の自分はその食事制限が耐えられず、何度か姉に分けてもらえないだろうかと頼んだ事があった。初めは怒られるのが殆どだったが、最後にはいつも自分の分を分けてくれていた。

 しかし、その記憶は偽物だ。だから“今の自分”にとって誰かに食べ物を分けてもらうのはこれが初めてだった。

 「……………………」

 完食し、皿を片付けて上の部屋に戻る。働いた後で疲れているから眠っているのか、スバルの部屋からはこちらが帰って来た事に関するリアクションは無かった。

 不意に、彼女の部屋の前で立ち止まる。

 「……………………」

 扉の向こうに居るであろう少女に対して静かに想いを馳せる……。

 恐らく、否、確実に今現在においてこの偽者の自分を唯一無二の“トレーゼ”として扱ってくれるのは、もはや彼女だけだろう。彼女は『ナンバーズとしての』自分を求めていない……彼女自身がナンバーズではないからだ。セッテやクアットロなら、こちらが偽者と分かった時点で傘下から離脱しただろう。彼女らはあくまでナンバーズ間での上位者に従うようにしか出来ていない。そして何より、スバルは“過去のトレーゼ”を知らない……。知らないが故に執着も無い……執着も無いから失った事に対する怒りや悲しみ、憎悪なども全く無い。

 言うなれば、彼女にとってこちらはどうでもいい存在のはずなのだ。

 文字通りの赤の他人……ここまで親身になっても何の得も無いはずなのに、彼女はまるでそれを止めようとはしなかった。訳が分からない……。

 たった一つだけ、自分と彼女の明確な相違がある。

 それ以外は全て同じ、酷似を越え、相似とまで言ってしまっても良いレベルで同じ存在であるはずのトレーゼとスバルの明白な違い。それは──、

 「それが……“答え”への、鍵」

 “答え”……トレーゼが求めるモノ、自身の意味、存在意義、『自分は何者なのか』と言う究極の問い……その問答の解へ至る為に必要な鍵だった。

 「……………………」

 右手がドアに伸びる。

 だが数秒の逡巡の後、結局彼の手がドアをノックする事は無かった。










 同日、クラナガンのナカジマ家にて──。



 「…………どこ行っちゃったのかしらね、ほんと」

 台所に佇むギンガは自分の手に握られた銀色に輝く鍵を見つめて呟いた。一人暮らしをしていた実妹、スバルの自宅の鍵だった。妹である彼女がミッドから居なくなって既に一週間以上が過ぎた。一度は辺境の次元世界で直に姿を確認したが、それからは全く音沙汰無しだ。彼女の居た救助隊の職場でも、もう戻ってこないものと思っている人も何人か居るらしい……。

 今日は非番だ。午後の仕事は無いので久し振りにこうして晩御飯の準備をしている。

 ふと、自分と負けず劣らずの食いしん坊だったスバルの事を気に掛ける。もし生きてくれているなら、ちゃんとご飯は食べているか……それだけが気懸かりだ。

 「今日も……静かね」

 この一週間、チンクを始めとするN2Rの面々は揃って家に帰って来ていない。ノーヴェは局内の医務室で眠らされており、後の三人は泊り込みで“13番目”のスクランブルに備えているからだ。今、現存しているナンバーズの中で“13番目”に対して最も殺意を抱いているのがトーレで、二番目がチンク……。トーレに後押しされたと言うのが主な理由だろうが、やはり決断に踏み込ませたのはノーヴェの惨状が原因だと言うことは言わずもがなだ。そのノーヴェも今のところは目を覚まさない。正確には覚まさないのではなく、目覚めないようにしているのだ。シャマルを含む医療班が必死に細胞崩壊の有効的な治療法を探しているが、芳しい報告は無い……。もうずっとこのままかもしれない事を覚悟してほしいとだけ言われた。

 「……早く帰って来ないと、あれ捨てちゃうわよ?」

 あれ、と言うのは、事件の後でスバルの家に行った時に見つけた物の事だ。

 部屋にあったのは買い物袋……。街のショップで買ってきた手袋とマフラー……。手袋は二人分あり、色違いのお揃いだった。あの日、半ば強引にデートに行かせた日に買ったのだろう。今ならあの日泣いて帰って来た理由が分かる……多分あの時に彼の秘密をしってしまったからだろう。

 「あの子……本当に好きだったのね……」

 自分達にとっては許せない極悪人でも、スバルにとってはどこか惹かれる所があったと言う事なのだろうか……。傷つけられ、騙されて、それでもなお好きで居られる覚悟……その頑固さは誰に似たんだか。

 「帰ってきなさいよね……」










 「はーい。じゃあ、手を動かしてみて」

 「は、はい」

 医療センターの一室にて、少女、高町ヴィヴィオは包帯を取られた自身の右腕をじっと見つめた。あれだけのダメージを負わされていた腕も今ではすっかり傷も塞がり、バラバラだった骨もちゃんと元の位置に治されていた。完全に骨が繋がるまではまだどれだけか掛かるらしいが、シャマル曰く、「私達に返還されるまでに誰かがある程度の治療を施した形跡があった」と言っていた。

 その“誰か”が何者なのかをヴィヴィオは知っている。あの日以来一度も会っていないが、あの無骨で無愛想な人間の顔や声は今でもはっきりと思い出せる……。

 「うん、日常生活を送る分には支障無さそうね。一週間ごとに経過を確認しますから、また来週来てくださいね」

 「はい」

 まだ指先が辛うじて動く程度だが、このまま順調に治療が進めば新学期を迎える頃には完治しているだろうと言うのが医師達の見解だ。保護の為に再び包帯の巻かれた右腕を見つめながら、ヴィヴィオは母親の待つ受付前まで駆けた。

 「おかえり。先生は何て?」

 「来週また来てくださいって」

 手を繋いで一緒に外へ出る。実際は数日かそこらしか離れていなかったはずなのに、最後に手を繋いで歩いたのが随分と昔の事のように感じられた。

 そのままリニアに乗り、自宅の最寄り駅で降りる。そこからはずっと家まで他愛もない話をしていたのだが、不意にヴィヴィオが訊ねる。

 「ママ……ノーヴェのお見舞いって、まだ出来ないの?」

 「まだ無理かな……」

 まだ、とは言うが実際にはいつになるかなど全く分からない。医務室のベッドに寝かされているノーヴェは脳に負担を掛けないように、一日の大半を眠らされて過ごしているからだ。常時睡眠薬を投与されているので無理矢理起こす事は出来ないし、例えそうしたとしても今の彼女とまともに会話をする事が果たして可能かどうかは分からない……。いや、確実に意思疎通は難しいだろう。

 ヴィヴィオにはノーヴェがどうなっているのかについての正確な言及は伏せている。あの日の戦いで頭を強打して昏睡状態にあるとしか言っていない。

 だからこの小さな子はいつかまた彼女と触れ合える日が来ると思っている……。そんな少女に残酷な真実を打ち明ける事は、なのはには出来なかった。

 「学校の方はどう? もう大丈夫?」

 「ママ心配し過ぎ。全然問題ないよ」

 クラナガンが混乱の極みに達して一時はどうなるかと思ったが、一部の教育機関では既に通常通りに運営している。ヴィヴィオの通うSt.ヒルデも一部の生徒の除きほぼ全校生徒が登校するに至っている。初めは右腕の療養の為に休学する事も考えたのだが、ヴィヴィオ本人の要望によりそのまま登校させている。拉致・監禁されていた事に関しては教会を通じて学校側に緘口令を強いているのでマスコミに騒がれるような事態は未だに起こっていない。

 母のなのはとしては、このまま愛娘が事件とは関わり無く生きて行く事を望んでいた。

 だが──、



 「トレーゼさんはどこに行ったの?」



 自宅に戻って来てから一度だけ、このように質問した事があった。

 何故そんな事を聞いてきたのかは分からない……。

 単に気になったから、と言うには何かが引っ掛かる。愛娘とあのテロリストは数日の間だけだが共同生活を送っていたらしい……その間に情が移ったのだろうか。そうでなければ説明がつかないことをなのははしっかりと気付いていた。

 犯罪心理学としては、拉致及び監禁されていた被害者が犯人との交流を重ねる事でその人物に好印象を抱くという現象は良くある事だとは知っている。別に自分の娘がなっても特におかしな事ではないのでその点に関しては特に気にはしないつもりだった。だが、どうにも彼女の場合はそんな単純な話ではないらしい……。

 なのはは、帰って来たあの日以来ヴィヴィオが何となく落ち着きがない事を見抜いていた。それが“13番目”とどう関係しているかについては不明だが、それが理由であろう事だけは分かっていた。

 だが分かっていても彼女は敢えて何も言わなかった。

 時間の流れが何とかしてくれると信じて……。










 その日の夜──。



 「えっ、外出? こんな遅くにかい?」

 その日の夕食時になって、トレーゼは再び高町宅を離れようとした。用意された夕食にも全く手を付けずにそのまま出て行こうとする彼を士郎は呼び止めようとしたが、元から深く関わるのを嫌っている節がある事を分かっていた彼はそれ以上の追及をやめた。初見の時から少し怪しい感は否めないが、特にこれと言って危害をもたらす気配は無いので彼の好きな様にさせる事にした。

 「セカンド……」

 「な、何?」

 今日一日無視されてここで話し掛けられるとは思っていなかったのか、スバルは少し身を震わせて驚いた風なリアクションを取った。それを確認したトレーゼは玄関で靴を履きながら右手の親指と小指を立ててテレフォンの仕草をしながら──、

 「後で、連絡する」

 それだけ言ってトレーゼは高町宅を離れた。開いたドアから一瞬だけ寒風が流れ込んだ後、彼の気配は完全に家から消え去った。それから高町家の居間はトレーゼを抜いて四人となった住人たちでの夕食となった。直前で抜けたトレーゼについては暗黙の諒解でタブーな話題となっているのか、美由季ですら空気を呼んで一切触れようとはしなかった。

 それから30分くらいで食事は終了し、食器の片付けを少し手伝った後でスバルは二階にある部屋へと戻って行った。そしてそのまま椅子にも座らずベッドにも横たわらず、真っ直ぐに外へ続く窓へと向かい──、



 「話って何?」



 窓の外には金色の眼でこちらを見上げるトレーゼの姿……。つい先ほどこの家を出たはずの彼がどうしてその家の前で居座っているのかは知らないが、家を出てしばらくしてからずっと念話でしつこく語りかけて来ていたのは確かだっ

 話があるから後で外を見ろ。

 そうして二階のこの部屋から外を見やると家を出てからずっとそこで待機していたのか、電柱の影に身を潜めてこちらを凝視していた。

 「言いたい事があるんだったら直接言ってよ」

 ≪俺は、貴様ほど、暇じゃない。この後も、こちらは、予定が詰まっているんだ≫

 相変わらずの突き放した言動にも今では慣れてきたが、これだけ親身になっても心を開いてくれないのはいい加減にして欲しいとさえ思えてくる。だがそんな事は顔色にも出さず、スバルは言葉を続ける。

 「……何なの?」

 ≪率直に言うぞ……。あの石を、俺に寄越せ≫

 あの石……それが何を指し示しているのかスバルは分かっていた。偶然自分が拾ったロストロギア、全ての願いを歪んだ形でしか叶えられない呪われた願望機……ジュエルシード。一歩扱いを誤れば願いを叶えるどころか大量破壊兵器にもなりかねないそれを、目の前の少年は事もあろうに自分に明け渡せと言っているのである。

 ≪貴様にも、分かっているんだろう。それが、己の手には余るモノだと……≫

 「……………………」

 確かにそれは自覚している。過去に何人もの人間がこの魅惑の力に手を出して破滅を迎えた事は知っているし、その恐ろしさも昨夜目の当たりにしてしまった。「どこにも行かせない」と願っただけで、その成就の結果は“足を切る”と言う凶悪なモノへと至った……このまま自分が持っていて果たして御しきれるかどうか、それがとても怪しいとは自分でもよく分かってはいた。

 だが、だからと言ってそれを素直に渡してしまって良いのだろうか?

 この青い石には歪んでいるとは言え全ての願いを叶えるだけの力を持つ……当然この石を使えば結果はどうあれ、トレーゼは自分の願望を叶える事に成功するだろう。そうなれば、今までその“答え”を得る為にスバルに付き従っていたが、その究極の願望が成就すればその必要も無くなるのだ。

 それは──、

 (それは……嫌だ)

 彼が自分の近くから居なくなる……そうなるのを想像しただけでスバルは身震いした。そんな事は嫌だ、絶対にそうならないようにしたいと、彼女は強く願っていた。

 だがその願いは叶えられない……。叶えてしまえば彼に辛い想いをさせてしまうと言う事も分かっていたからだ。

 どうしようもないジレンマ……願いを叶えれば彼は自分から離れてしまい、逆に願いを叶えなければ彼は自分が何者かも分からないまま潰えてしまう。どちらにしても双方が憂き目を見る。

 いや……違う。

 彼の願いが叶えば自分は用無しになる……その事を嫌な事だと思って避けようとするのは、結局は我侭でしかない。その我侭は彼を困らせるだけだと知っている……。

 「……………………っ」

 だからスバルは……。

 このままずっと彼を困らせ続けるくらいなら、もういっそここで終わりにしようと……。

 彼女はジュエルシードを仕舞ってある引き出しに手を掛け──、



 「一つだけ、言って置く」



 他でもないトレーゼの言葉によって思い留まった。

 「貴様は、何を勘違いしているかは、知らないが、これだけは、言っておこう。俺の願いは、そんな石ころ一つで、叶えられるほど、安っぽいモノではない。俺の願いは……貴様でしか、叶えられない」

 それは紛いなりにも自分を必要としてくれている証……。こんな小さな石ころよりも、こちらの方を彼が欲していると言う揺るがない事実……。願いを叶える万能の石はあくまで保険……ただ単に危険だからと言う理由で取り上げようとしているだけに過ぎない。その行為がこちらを案じてなのかそうでないのかは二の次として、トレーゼは間違いなくこちらがジュエルシードを持ち続ける事を善しとはしていない事だけは分かる。

 彼の願いは石では成就できない……。

 彼の願いはたった一つだけ……。

 そして、その願いはスバルでしか叶えられない。

 “Who am I”

 私は誰? その究極の問いに答えられるただ一人の人物、それがスバル・ナカジマ。その意味では彼女はトレーゼに認められていると言ってもいいだろう。

 だがしかし──、

 「それでも…………」

 ≪それでも?≫

 「これは……渡せない!」

 理由なんか無い。あるのは直感から来る確かな予感、確信だけだ。ティアナ辺りが聞いたら呆れ返りそうな事をしているのかもしれないと言う自覚はあったが、それでもこの背中を駆けた悪寒だけは無視できなかった。今ここで……いや、タイミングなどの問題ではない、彼にこの石を渡してしまえば取り返しの付かない事態を招いてしまうと……。

 自分のその返答に最初はまた不機嫌になると思っていたスバルだったが……

 ≪……そうか≫

 彼の反応は意外と淡白だった。彼はいつもこうだ……怒るべき所で何も怒らず、逆に些細な誤差で逆上する…………まるで駄々っ子、こちらの予測を裏切ってばかりだった。

 ≪…………後悔するなよ≫

 最後に一言だけそう言い残し、トレーゼの姿は冬の闇夜に薄らと消えて行った。後には寒風のみが吹き荒れる音のみが残り、ついさっきまでそこに居た彼の痕跡全てを掻き消していた。

 その光景が、まるで彼が本当に霧散して自分の前から消え果てしまうのを暗示している様に思えたスバルは、窓のカーテンを勢い良く引いて目の前の光景を頭から振り払った。










 12月3日、とある次元世界の砂漠にて──。



 「ふぅ……」

 熱気漂い、陽炎揺らめく砂の海を歩く人影が一つ……。天上の太陽から降り注ぐ強力な紫外線を遮る為に頭から黒い布を被り、その姿はまるで遠くからは影法師のようにも見えた。砂の上に二列の足跡を刻みながらその人物は幾つもの砂丘を踏破し、そして遂に──、

 その眼前に小さな集落が見えた。人口は数十人程度の小さな集落だが遠目に見ても決して活気が無い訳ではなく、むしろその逆だった。砂に足を取られぬように用心して砂丘を下り、その者は集落の入り口へと足を踏み入れた。

 「すみません」

 「はい、何か……?」

 頭に羽飾りを付けた族長らしき人物に声を掛け、手短に用件を伝える。

 「お尋ねしますが、この人に見覚えは?」

 懐から取り出した一枚の写真をその男性に見せる。だが、男性はそこに写されていたモノを見ない内に目をひん剥いてその人を人目の付かない所へと連れ込んで行った。

 「え!? あ、あの、ちょっと……?」

 「悪い事は言いません、今すぐにここを出て行ってください! それが貴女の身の為です」

 族長らしき男性の剣幕に気圧され、旅人姿の人物は言葉を出す暇さえ与えられなかった。最後には背中を押され強引に村の外へと追い出されてしまった。尋常ではない村人の反応にその旅人は怪しく思ったのか、人目が付かないのを良い事に逆に詰め寄った。

 「教えてください! ここで一体何があったんですか? “彼”は……ここで何をしていたんですか!?」

 「彼……?」

 そこで男性は初めて旅人の持っていた写真に気付き、それを手にとって確認した。そして、その次の瞬間には今度は驚愕に目を見開き、さっきとは違った必死の形相で掴み掛かった。

 「どうして貴女がこのようなモノを……!?」

 「先にこちらの質問にお答えください。彼は、確かにここに来ていた……そうですね?」

 「…………彼とどのような関わりを持っているのかは知りませんが、ここに長居するのは勧められません。この村が他所からの来訪者を歓迎していたのは今となっては昔の事…………貴女が旅の者だと知られれば無事を保証する事は出来ませんよ」

 「私はただ、ここで何があったのかを、そして、彼がどこへ向かったのかだけを知りたいんです。ただそれだけです……」

 「……………………」

 このままでは終わりの見えない水掛け論と感じたのか、男性は深く溜息をつくと出来る限り冷静になろうと努めた。確かにこの集落は以前とは違い、他所からやって来た者に対して非常に排他的だ。

 「数日前、ここに海を越えてやって来たと言う二人の旅人が訪れました。貴女が持っている写真、それに写っている人ともう一人、付き添いの少女が居ました」

 「……その二人はここで何を?」

 「二人は一晩だけですが、私の義父の家に泊まり、その次の日にはここを離れました。それからです……我々が外部からの者に対して過敏になったのは」

 「一体……何が?」

 「その前に一つだけ……。貴女は何者なんですか? それを知らないとお話しようにも……」

 「申し遅れました。私は────、」

 旅人の女性が頭から被っていたマントを取り去り、その姿を顕にする。開放された金色の長髪が風に揺れ、スラリと射抜く様な鋭い赤い瞳が男性を真っ直ぐ見据えた。そして少し頭をたれて会釈の後──、



 「フェイト・T・ハラオウンと申します」



 管理局の手は確実にトレーゼとスバルの足跡を掴もうとしていた。



[17818] 敵地滞在日誌 Act.2
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:74f47cb2
Date: 2011/09/18 22:10
 12月3日午前9時00分、海鳴市──。



 「……………………ふぅ」

 今日もトレーゼの姿は高町宅には無く、今度は再び駅前にその身を寄せていた。この日の天気は生憎の雨模様であり、構内を行き来する者の殆どはその手に大なり小なり傘を握り締めていた。

 往来を行き交う人々を無表情な視線で眺めながら、トレーゼは隣の自販機から購入した缶コーヒーを飲み干す。空になったそれをゴミ箱に放り投げて捨てた後、彼は電車に乗るわけでもなく傘も持たないで大通りに繰り出した。実を言えば彼は昨夜からずっと高町宅へと戻ってはおらず、一晩を街中を練り歩く事で時間を潰していた。街を歩いていたのは地理を把握する為であり、帰らなかったのは単純にあそこに戻るのが嫌だったからだ。

 とは言っても、スバルがこの街を離れる意思を見せない以上はどう足掻いたところであの場所に戻らざるを得ないのは重々承知している。問題は……その間に管理局の追っ手がここまで迫らないかだ。

 冷静になって考えて見ればあのマテリアルが言っていたように、管理外世界とは言え長居すれば得策ではないのは火を見るより何とやら……。であれば、なるべく早目にこの街、否、この世界から抜け出すに越した事は無い。それが出来そうに無ければ連中との接触は回避出来ないだろう。

 「となれば、奴等の力を借りるのも、致し方無しか」

 一方的に同盟を申し出てきたマテリアルを始めこそ鬱陶しく思えたが、最悪の事態に陥れば損をするのはこちらだけ……。あの三人は最初こそ戦力には数えられないだろうが、こちらが狩った連中の魔力を餌として与えてやれば解消できる問題だ。それよりも重大なのがあのマテリアルの真の目的だ。

 (確か、“砕け得ぬ闇”とか言っていたな。闇の書の復活の事だったか)

 失われた最悪のロストロギアの復活にどうしてこちらの存在が必要不可欠なのか……? 大方、白紙のページを埋めるのに際してこの身が抱え込む膨大な魔力とリンカーコアを欲しているのだろうが、全部で666ページもある書の紙片が自分一人で間に合うとは到底考えられない。これでどうにか復活に漕ぎ着けると本気で思っているなら、あちらの計画もズサンなものだ。

 もっとも、あちらはあちら、こちらはこちらだ。あちらが失敗してもこちらには一切関係の無い事……流石にその頃にはこちらもこの街を出ているだろう。と言うか、そうでなければ困る。これ以上の厄介事は御免被る。

 そんな事を考えながらトレーゼは魔力の偏った地点を避けるように移動を始めた。魔力素が多い所ではマテリアル達がタムロしているかもしれないからだ。



 五分後──。



 「で、結局こうか……」

 「どうも、ご無沙汰です」

 ものの三百メートルも行かないデパートの入り口で、トレーゼは見知った顔と出会ってしまった。なのは似のマテリアル……三人の中では比較的大人しい部類に入る彼女の方が出て来たのは不幸中の幸いだったか。

 「それで、何の用だ?」

 「用と言う程でもありませんが、例の石の件についてどうなっているかの確認をしに来ました」

 「催促か」

 「そう解釈してもらっても結構です。あの石がある限り……ひいては、彼女が石を持ち続ける限り、我々に打開策は開かれません」

 「『我々』か……。気安く、仲間扱いとはな」

 「いけませんか?」

 「俺と貴様らの、同盟関係は、所詮、あの石をどうにかするまでの、ただの保険だ。貴様らも、最初から、そのつもりのはずだ」

 「そう言われては身も蓋もありませんが、そう言う貴方にも言いたい事があるのです」

 「何だ?」



 「何故、正視しないのです?」



 「?」

 最初、マテリアルの言った言葉の意味が分からなかった。正視……自分はちゃんと目は見えているし、目の前の事実については許容しているつもりだ。

 「貴方は……眼前の事実を直視しているようで、その実全く受け入れては居ない」

 「…………俺が、逃げていると?」

 「逃げている? 否、貴方の場合は駄々をこねているだけです」

 「…………消されたくないなら、早々に去ね」

 小雨の地面に当たる音が大きく聞こえる……。周囲の喧騒とは対照的に静まり返った二人の間の空気は冷え切り、重たい沈黙として圧し掛かった。それに折れたマテリアルは少し方を竦め、肉体を魔力素に変換し文字通り空中に霧散した。

 ≪助けが欲しければいつでもどうぞ。私は貴方を歓迎します≫

 最後にそんな念話を残して。

 「……………………助け、か」

 思えば、自分は誰か第三者に面と向かって応援を頼んだ事が無いなと、トレーゼはふと気付いた。基本的に利用するかされるだけ……利害の損得勘定を無視した関係を築いた事は今までにただの一度だって無かった。利害を超えた関係は互いが「協力してやっている」、「力を貸してやっている」と言う優越感で塗り固められたものでしかない。そして大抵は後で大きなしっぺ返しを食らうか、用済みと同時に切り捨てられるかだ。

 正直なところ、あの高町夫妻の事に関しても半信半疑……否、完全に疑っている。スバルはその親切心を素直に受け止めてはいるが、トレーゼはその逆で二人の言動に何かしらの裏があるのでは無かろうかと腹を探っている状態だった。当然、裏があろうはずもないが、そんな事はトレーゼにとって知った事ではない。

 不意に、彼は忘れていた用件を思い出した。

 「……おい、出て来い」

 去ったのはついさっきなのでまだこの周辺にいると思い、トレーゼは虚空に声を掛けて呼び出しを図った。その直後、自らの背後に再び魔力が集まる気配を察知した彼はゆっくりと振り向き、そこに一人の少女の姿を確認した。

 「何だ騒々しい」

 「お前か……」

 出て来たのはさっきの高町似の方ではなく、今度は八神似のマテリアルが顔を出していた。さっきの彼女とは打って変わり、不機嫌そうな顔付きをしたその表情にトレーゼの表情も自然と無表情になる。

 「わざわざ塵芥の為にこの我が出向いてやったのだ。下らぬ事で呼び出したのではあるまいな」

 「貴様らの、最終目標について」

 「“砕け得ぬ闇”の完成……それ以外にあろうはずもなし」

 「それだ。その“砕け得ぬ闇”と言うのが、いまいち掴めない。具体的には、如何様にするんだ?」

 「……………………」

 言葉が途切れる。聞かれると不都合な事でもあるのか或いは深く考えていないのかは定かではないが、とにかく何も言う気配が無い。その内に痺れを切らしたトレーゼは詰め寄って威嚇しながら続きを促した。

 「さっさと、答えろ。身の為に、ならんぞ」

 「…………“砕け得ぬ闇”とは即ち、如何なる手段を用いても崩壊せぬ鉄壁のプログラムの名称だ。かつて闇の書に搭載されていた防衛プログラム、俗に“闇の書の闇”とか言われていた代物はリンカーコア蒐集完了後に持ち主から切り離されると言う異常事態によって消去された」

 「だが、プログラムの、再生機能は健在で、保険として、その残滓を、三つの構築体に分割した……。それが、貴様らか」

 「うむ、相違無い」

 消え掛けの残滓として残った防衛プログラムは、再生に要する魔力を蒐集させる為の尖兵として三体のマテリアルを含む複数のコピーを生み出した。かつて闇の書に関わった魔導師の中でも選りすぐりの存在、その力を寸分違える事無く再現したそれらを使えば魔力蒐集など容易に思えた。

 「だがしかし、その方法には想定外の欠陥を抱えていたのだ」

 「何故だ? プログラムによる、コピー体の再現は、完璧だったのだろう?」

 「ああ、完璧だったさ。身体能力に始まり、各個体の魔力量から技量に至るまでの全てを模倣してやったとも。だが、その完璧さが仇となってしまった!」

 「…………なるほどな」

 察しの良いトレーゼはその『完璧過ぎた欠陥』に早くも勘付いていた。何て事は無い、自分も同じ事を経験しているのだから……。

 「うぬにも分かった様に、コピー共は我等マテリアルとは違ってオリジナルに限りなく近しい力量を備える為に、その何もかもを再現した。何もかもを、だ……」

 「記憶を再現した事で、コピー体は、自らの置かれた状況を、正しく認識出来ず、プログラムからの、指示通りには動けなかった……。そうだろう」

 「詳しいな。まるであの場に居合わせたかのようだな」

 「…………それで、結局どうなった?」

 「一晩……我等の決起はたった半日足らずで制圧されてしまったのだ。情けない事この上ない!」

 「俺に、言うな。それで、貴様らはそれを、教訓に、一体どんな策を、講じた? まさか、十数年の間、惰眠を貪っていた、訳ではないはずだ」

 「言われずとも、既に計画は練ってある。だがその為にはどうしても大量の魔力と良質なリンカーコアが必要だ。現状としては、うぬのモノが最も好ましい」

 「しかし、俺のだけでは、到底補えるものではないだろう?」

 「だからこそ、うぬを利用するのだ。何を仕出かしたかは知らんが、貴様は忌まわしき管理局の狗共に追われる身……。遅かれ早かれここには連中がわんさかと押し寄せるだろう。その後は……分かるな?」

 取り交わす予定の契約では互いに利のある同盟関係を結んだ後、自らに悪害を成す局員をトレーゼが下し、その後で彼らのリンカーコアをマテリアルが吸収する。狩り取った獲物を譲渡してもらう代わりにマテリアル三体は局員狩りに力を貸すと言うのが当面の流れだ。だがそれはあくまで予定であるだけであり、マテリアル側からの一方的な提携に過ぎない。もちろん、今の段階においてはまだ承認してはいないので保留と言う形を取っている。

 「互いの利害はとうに一致しているのだがなぁ」

 「最終的には、俺のリンカーコアも、抜き取ろうと言う魂胆で、何が利害の一致だ」

 「リンカーコアの蒐集は何も死を与える事ではない。かつての闇の書の守護騎士らによって多数の骸が積み上がったのは単純な話、“蒐集可能な状態”にまで弱らせたのが原因だ。事実、かつてこの身を滅ぼした小鳥共は一度蒐集を行っているが生存している。つまり、単にリンカーコアの容量が減った程度ではうぬは死なん」

 「そうか…………それは、残念だ」

 「?」

 トレーゼの引っ掛かる物言いに一瞬怪訝な表情を浮かべたマテリアルだったが、すぐにまた不遜な態度で話を続けた。

 「だが、うぬとの邂逅と同時に別の厄介事も発生した」

 「…………ジュエルシード」

 全ての願いを歪んだ方法で叶える万能の願望機、古代遺失物の青い石。

 「危険性では、貴様ら闇の書と、同格だな」

 「持ち主を自在に変え、無差別に願いと叶えて被害を撒き散らす事を考えれば、あちらの方がよほど性質が悪いとは思わぬか」

 「五十歩百歩だな。どちらも、俺からしたら、どうでも良いと言う、一点では同じ事だ」

 「否、あの小娘が石を所持していると言うだけで既にヤバいとは気付かんか?」

 「気付いているさ……」

 空を見上げる。まだ空は灰色だが雨は止んでおり、傘無しでも充分に出歩けるまでになっていた。もたれ掛かっていたコンクリートの壁から背を離すと、軽く手を振って別れを告げてトレーゼはマテリアルとの距離を開けた。

 「四日後までには、必ず返答する。急かすな」

 「まぁいいだろう。十年以上も待ったのだ……今更四日かそこいらでケチケチする必要も無いだろうな。感謝しろ、我の寛大なる処置にな」

 「…………じゃあな」

 追い風を背に受けながらトレーゼが足を進めた時、マテリアルの姿も消え果ていた。










 午前10時00分、高町宅にて──。



 「で、結局あのトレーゼ君は帰って来なかったの?」

 「はい……」

 高町宅にはスバルと美由季の二人が居間でお茶を飲みながらテレビを見ていた。今日は生憎の天気なので客足が見込めないと判断した士郎の計らいでスバルは休日となり、美由季は午後からのシフトである。

 二人の話題は昨夜以来一度も帰宅していない居候人、トレーゼについてだった。

 「そう言えば、あの子もなのはと同じミッドチルダってとこの出身なんだよね?」

 「え? あ、はい……」

 「魔法の世界かぁ……。一度で良いから行ってみたいな~」

 基本的に管理外世界の住人が他の次元世界へ渡航する事は原則として認められてはいない。なので美由季今まで一度たりともミッドチルダに行った事は無く、一年に数回帰省する実妹からしかどの様な世界なのかしか聞いていない。なので異世界からの渡航者であるスバルやトレーゼに対して興味津々なのである。

 もちろん、彼女はトレーゼがそのミッドを大混乱に陥れた犯罪者である事を全く知らない。仮に何かの拍子でその事実が知られればこの家の住人は黙ってはいないだろうし、トレーゼ自身も禍根が残らぬように根絶やしにしてしまうだろう事も容易に想像できた。なのでスバルは極力彼の話題には触れないように努めたのだが、如何せん相手の方が興味を持ってしまっている為に適当にはぐらかすのがやっとな状態だった。

 「それでさ、結局二人ってどこまで行ったのさ?」

 「何ですか?」

 「いやだからトレーゼ君とはどこまで行ったわけなのよ?」

 「? ??」

 話の内容が理解できないスバルは首を傾げるが、その様子を誤魔化そうとしている仕草と勘違いした美由季は決定的な一言を言い放った。

 「二人って付き合ってるんじゃないの?」

 「ブゥーッ!!?」

 「うわっ、汚っ!?」

 スバルの口から緑色の霧が吹き上がる。それを間一髪でかわした美由季。

 「い、いきなり何言い出すんですか!? あたしとトレーゼは別にそんな関係じゃ……!」

 「あららー、違うのー? お姉さん勘違いしちゃってたかなー」

 「うぐぐ……」

 「まぁでも、私から見たらあの子は頂けない点が多いかなぁ~。物静かなのは良い事だけど、行き過ぎると無愛想なだけだしね。でも今時の子はああ言うのが合うのかな? だったらむしろ……」

 「あ、あの……何の話をしてるんですか?」

 「うん? いやさ、あの子を何とかしてうちの従業員に出来ないかなーって思ってね」

 「ええっ!? 従業員って、あの喫茶店のですか?」

 話題が飛躍してとんでもない事を言い始めた美由季の提案にスバルは顔を青くしたり赤くしたりしながら慌てふためいた。あの抜き身のナイフやメスの様な殺気を醸し出すトレーゼが制服を着て厨房に立つ…………どう考えても似合わないし、むしろ想像さえ出来ない。だが美由季自身は真剣であるらしく……

 「実は昔父さんが使ってた古い制服が一着残ってるんだけどさ、あの子が帰って来たら一回着せてみてもいいかな?」

 「え、えぇー……。それはちょっと……」

 確かこの家の家長、士郎の喫茶店での仕事は主にコーヒーを担当するカウンターのマスターだったはずだ。そのカウンターでサイフォンを前にして静かにコーヒーを淹れるトレーゼ……。

 (ダメ、想像できない!)

 百歩譲っても彼は明らかに裏方で仕事するタイプの人間だ。とても接客業務に向いているとは思えないし、仮にそんな事をして客の顰蹙を買ってしまえば取り返しのつかない事になってしまいそうで心配だ。と言うか絶対に客受けしなさそうだ。

 「でも何で急にそんな事を……?」

 「うーん……。もら、うちの店ってさ、男手が少ないじゃない」

 「ええ、まぁ……」

 少ないどころか事実として男性の働き手は士郎を除いて他には居ない。後はケーキと厨房担当の桃子と美由季を始め、アルバイトの面々も同じく女子だ。聞くところによれば長男の恭也が在宅していた頃は厨房で仕込みの手伝いなどをしていたらしいが、当の本人は現在海外に居るらしい。

 「ウェイターとかやらせたら結構映えるんじゃないかなってのが私と母さんの見解」

 「桃子さんまで……」

 駄目だ、お世辞にも営業スマイルさえやってくれそうにないあのトレーゼがウェイターなど、ますますもって想像出来ない。一度やらせて見たいと言う気持ちも無きにしも非ずだが、そんな事をした日にはまた不機嫌になる事は火を見るより何とやらだ。

 「うちは手作りケーキが売りだから、どっちかって言うと女の人とかが良く来るの。だからトレーゼ君みたいなイケメンを置いたらもっと客足が増えるかなって」

 飲食店は客商売だ。言わば客の店に対する感情で全ての評価が決まる。なので店側はその評価を上げようと様々な工夫もするし、一概には言えないにしろ、そうする事で利益が確保できるならそれなりに顔立ちの良い店員を表に置いたりも多少はするだろう。

 だが幾らなんでも接客態度に難有りの人物を起用する事も無いだろうに。

 「母さんの見立てだと、トレーゼ君を厨房に置けばケーキの生産率が倍、女性客の足が1.2倍になるって意気込んでたよ!」

 「ええっ!? で、でもあのお店ってそれほどお客さんに困ってる様にも見えませんでしたけど……?」

 「いやいやぁ、世の中って何でもかんでも大量生産、大量消費の時代でしょ? この時期だと街の方に行けばちょっと高めのお金出せばショートケーキがホールで買えるし、そうでなくても立地的にもコスト的にも専門店とかの方が分がいいしね~」

 その他にも不景気がどうとか赤字がどうとか美由季は小難しい用語を並べ立てたが、その間ずっとスバルは悶々とトレーゼをどうにかできないだろうかと考えていた。確かにこの家で世話になっている以上、このまま何もしないで過ごしているのは気が引ける……。片腕の自分はいつか迷惑になるのは必至なので出来ればトレーゼに手伝ってもらいたいのだが、当の本人はこちらに関わりたがらないので難しい話だ。

 「あの子が嫌がるんだったら別にいいけどね。何か時々嫌な感じさせるしね、あの子」

 「すみません……」

 「うーん、やっぱああ言う子って自分の領域に出来るだけ入って来て欲しくないタイプなのかな?」

 「はい……何だか気難しいって言うか、扱い難いって言うか……」

 「分かる、分かるよ。私も学生だった頃とかにそう言う男子いっぱい見てきたもん。友達の女子が何人その無愛想さに泣かされたか……」

 「…………美由季さん」

 「うん、言わなくても分かってるよ。男の子って……」



 「「本当に分からない」」










 午前10時30分、市立図書館にて──。



 トレーゼはまた図書館で読書をしていた。特に読みたい本がある訳でもなく、単純にあそこに戻りたくないからと言う理由だけで開館からずっとこうしてページを捲っているのだ。

 「……………………」

 今回手に取った物は考古学。手に取った理由は特には無いが、暇を潰すには充分だった。あの家と違って隣の者でも馴れ馴れしく話し掛けて来る事は無いし、何より静かで良い。たまに話し声が聞こえては来るがそんな物は無視できる。

 どれ程の時間が経過しただろうか、平積みにしていた三冊目の本を手に取った時にトレーゼは見知った顔が視界に入ったのに気付いた。見知った、と言っても直接の知り合いではない。無論こんな所に知り合いが居るはずも無いのだが……。

 「よいしょ、っと」

 漂い出る清楚可憐な雰囲気……。記憶が正しければその人物はつい先日訪れた時にも居た女学生らしき人物だった。良くここへ来るのか手に取った本を片手に昨日と同じ席につき、そして学習……。あまりそう言った方面の事には疎いが、どこか教養の良い家の出身でありそうだとトレーゼは睨んでいた。

 確か昨日は彼女ともう一人、学友らしき女性が居たはずだが……。

 「やっほ。すずか」

 来た。ショートヘアに日本人らしからぬ緑掛かった瞳……確か名前は──、

 「おはよう、アリサちゃん」

 アリサ……。

 「はぁ、大学のレポート課題がこんなに厄介だなんて、高校生の時には思いもしなかったわ」

 「卒業論文だから尚更だよね~」

 「でもっ、この卒論さえ終わらせれば晴れて卒業……四年間の苦行も報われるってものよね。っと、いけない、資料持って来ないと」

 アリサと呼ばれた女性はそのまま座り掛けの椅子から立ち上がると背後の本棚から目当ての数冊を取り出して戻り、ノートを広げて再び作業に入ろうとした。

 だが──、

 「あれ……? シャーペン、どっか行っちゃった?」

 予め机上に置いておいたはずの筆記用具が消滅している事に気付いたアリサが周りを見回す。隣の“すずか”と言う女性も一緒にキョロキョロと見回すがどこにも目当てのペンは見つけられなかった。

 それもそのはず、ちょっと視点を変えれば彼女のペンが実は真下の椅子の下に潜り込んでいる事に気付けただろう。だが失せ物とは大抵身近にあっても気付けないもので、二、三分程そうしていて見つけられなかった彼女は諦めて友人に一本借りてそれを使う事にした。

 たまたま向かい側に座り事の成り行きを見ていたトレーゼは初めからペンの在り処を知っていたので、読み終えた本を戻しに行く途中でさり気なく拾い上げ──、

 「ん……」

 「え? あっ! ありがとう」

 持ち主に渡した。特に理由は無い……。一丁前に他人に親切を働いたなどとは思っていないし、むしろ節介のつもりでやった行動なので優越感も生まれない。ただ、拾い上げ、そして戻した……少なくとも本人にとってはそれだけだった。それだけの行動のはずだった……。



 それが後の厄介事の種になろうとは、この時トレーゼは思っていなかった。










 きっかけは、本当に些細な事だった。

 「ねぇ、すずか。あの子って確か昨日も来てなかった?」

 アリサのペンが示す方向には今さっき彼女の落としたペンを拾い上げてくれた少年の姿があった。男性にしては妙に艶っぽい紫色の髪に、同じく珍しい金色の瞳、そして女性が漏れなく嫉妬しそうな白い肌……容姿だけでも充分なほどに特徴的なその姿に、すずかも数秒間見惚れていた。

 「あの子……? うーん、来てたかな?」

 「来てた来てた! 絶対居たわよ!」

 「うーんっと…………あっ!」

 そこまで言われてようやくすずかも思い出した。自分も昨日同じようにペンを落とし、その時隣に座っていた彼に拾ってもらったのだった。

 「見ない顔よね。最近越して来たのかしら?」

 「海外の人かな……?」

 「うーん、雰囲気的にはフェイトに似てる感じがするんだけど……」

 「フェイトちゃん?」

 アリサの口から出た意外な人物の名前にすずかは目を丸くした。確かに見た目が外国人の印象が強いのは彼女に似ているが、それ以外は性別を初めとして何一つ符合するモノが無いからだ。纏う冷たい張り詰めた空気はもちろんの事、見ず知らずの他人とは言えここまで口数が少なく孤立した雰囲気を醸し出しているのでその印象が強すぎたからだ。その最も遠そうな地点に居る双方を結び付けるのだから、昔からアリサ・バニングスと言う少女はカンが鋭い。

 「う~ん……何かなぁ」

 「アリサちゃん、あんまり見てると失礼だよ!」

 「分かってる。分かってるんだけど…………何か引っ掛かるのよ」

 「引っ掛かるって、あの子が?」

 指摘されて再びすずかは少年を見やる。確かに周り日本人の中で一人だけ異国風な風貌ならそれは目立つだろうが、それでもいちいちそこまで怪訝に思うだろうか。

 「……………………」

 「……………………」

 それからしばらくはその話題は忘れてしまったようにアリサとすずかは課題に必要な用語をノートに書き写していた。だが実は目の前に座っていた少年が本を読み終えて席を立ち上がる度に、その視線は少年の行く先を睨むように見据えていた。

 そして──、

 「……動いた」

 「ふぇ?」

 「ほら! 何ボサっとしてんの。行くわよ!」

 「えっ? 行くってどこに……!?」

 友人に半ば強引に引かれながらすずかは図書館を飛び出す羽目になった。一瞬何があったのか分からなかったがアリサの視線の先にあの少年の後姿が見えた時、彼女が何をするつもりなのかが何となく分かってしまった。

 「追うわよ!」

 そしてせめて口に出して言わないで欲しかった……。

 「ちょっと、なにもそこまでしなくても……!」

 「怪しいのよ、あの子」

 「アリサちゃん……?」

 その時になってようやくすずかは気付いた。アリサの表情がいつの間にか興味本位だったのが真剣な顔付きになっている事に。一体あの少年の何から何を感じ取ったのかは知らないが、それでも常に冷静さを保とうとするアリサをここまで行動的にさせるほどだ……きっと自分でも計り知れない“何か”を──、



 ふと、



 その瞬間──、



 先を行く少年がゆっくりとこちらを振り向いて……










 「…………気のせいか」

 自分に向けられた視線を察知したトレーゼはふとその方向に目をやるも、それらしい人物は見受けられなかった。他所の土地に来た所為で気配に敏感なのか、或いは遂に勘が鈍ったか……とにかく、感覚内に捉えられなかったと言う事は誰も居ないと言う事だろう。

 あれからもう半日は戻っていない。ここで一旦戻っておかないといつまたジュエルシードの強制力が働くか分かったものではないからだ。一度顔見せに戻った後数十分の仮眠を摂り、それからは適当に部屋に閉じ篭って過ごす事にしている。その前に一度連絡を入れておこうと魔力波を飛ばしてスバルとの連絡を試みた。

 (セカンド、聞こえるか。今から、そちらに戻る)

 返答は無い。だが確かにこちらの念話は届いた感覚はあったので問題は無いだろう。こちらの言葉にも反応しないとはよほど何かに集中しているのか、或いは昨日のように片腕の癖に業務に勤しんでいるのか。

 そんな事はどうだって良い。いちいち興味を抱けるような事象ではない。

 不意に、空を見上げる。

 いつの間にか上空を占領していた灰色の雲には切れ間が入り、その向こうには澄んだ青空が見え隠れしていた。

 「俺は…………何をしているんだ」

 鬱屈そうに呟き、止めていた足を再び動かす。停滞は許されない……後退は万死に値する…………なら、どうしようもない。

 今はまだ前進の為の下準備だ。










 「あぶなかった~」

 「もう……勝手に人を追い回したらいけないんだから」

 完全に少年の顔がこちらを向く直前にアリサとすずかは建物の角に身を潜めてやり過ごす事が出来た。ここまでするぐらいならいっそ止めればいいのだが、一度火がついてしまったアリサは歩道を行く少年の尾行を再開するのであった。少年の方もこちらに気付いた感じは無く、それからしばらくは何事も無く跡を追う事に専念できた。

 「にしても結構歩くわね」

 先を行く少年は歩道橋を横断した所から一直線に道を歩き続け、道中設置されているベンチで休憩する事も無く一定の速度を保ったままで彼は己の目的地へと移動していた。さすがに夏ではないので汗をかいて不快な思いはしないが、それでもやはりこれだけの距離をペースも落とさずに歩き続けるのは地味に疲れる作業だった。

 やがて三人は巨大なビルが多く建ち並ぶ街の中心部から距離を置き、いつの間にか見覚えのある場所へとやって来ていた。

 そこは、そう……アリサとすずかにとっては馴染み深い思い出の場所──、

 「あれ? ここって……」

 「聖祥学園の……小等部?」

 そこはかつての幼少時代に自分達が通っていた学び舎だった。敷地内にこそ入らないものの意外な道を通る少年にすずかもまた名状し難い感覚を覚えていた。

 だがここから少年は更に驚きのルートを通るのであった。

 「ねぇ、アリサちゃん」

 「ねぇ、すずか」

 「アリサちゃんも気付いてた……?」

 「て言うか、ここまで来てたら気付くでしょ」

 互いに目配せしながら改めて自分達の居る場所がどこなのかを再確認する……。どう見ても間違えようが無い……この場所は自分達の共通の友人、幼馴染の──、



 実家だ。



 「ここってさ……」

 「なのはちゃんの家……だね」

 高町家。昔と何ら変わらない佇まいを保つその建築物は紛う事無く幼馴染、高町なのはの実家であった。自分達の記憶が正しいならこの時期はまだ業務に追われている彼女は帰省していないはずだった。現在の高町家の住人は夫妻二人と長女の美由季の三人のはず……。そんな高町家の前を少年は……通り過ぎず、逆に堂々と進入して行った。

 「入っちゃった……」

 「インターホンすら鳴らさなかったわね。桃子さんの知り合い……? じゃなけりゃ……強盗!?」

 「う~ん、そっちはどうかなぁ」

 流石にこの白昼にそこまで堂々と犯行を行う者も居ないだろうし、何より彼はここら辺の人間ではないらしいので土地勘も無いはずだ。そんな人間が昼間から住宅地の真ん中で強盗を働くとは思えない。

 「……………………」

 「……………………」

 「…………お邪魔してみる?」

 「えっ!? い、いいのかな?」

 「いや、私たちは別に疚しくもないし、昔から出入りしてるから問題無いはずよ。あまり邪魔だったら挨拶だけしてくるって事で良いじゃない」

 そう言いながらアリサは臆する事無く玄関に一直線に向かうと、戸口の前で改めて家を見上げた後でその指先が……



 インターホンを捉えた。










 数分前──。



 玄関を上がって来た人物にスバルははっと息を呑んだ。半日振りに帰って来たトレーゼが目の前に居る……。「どこへ行ってたの?」、「何をしていたの?」、「どうして何も連絡しなかったの?」…………聞きたい事が山の様にあったはずだったのに、いざ本人を目の前にするとそれらは一斉に霧散した。ただ帰って来た……それだけで充分だった。

 「お、おかえり!」

 「……………………」

 スバルの言葉も当然のように無視し、トレーゼはそのまま二階にある宛がわれた部屋へと行こうとした。

 が──、

 「それは幾らなんでも無いんじゃない?」

 「美由季さん!?」

 過ぎ去ろうとする彼に制止の手を伸ばしたのは美由季……。眼鏡越しの彼女の視線は挑みかかるような鋭さを持っており、双方の間に剣呑とした空気が流れ込んだ。

 「……何か?」

 「この子はずっと君が帰ってくるのを待ってたんだよ。何にも言わないで出て行ったと思ったら、何の連絡も入れないで…………この子がどんだけ心配したと思ってるの!」

 「それが? 別に、心配してくれと、頼んだ覚えも無い」

 「なにそれ……! ちょっと君さぁ──!」

 「いいんです美由季さん!」

 「だけど……!」

 「それに、連絡なら、予め入れておいたはずだ。そうだろう、セカンド」

 そうだ、スバルと美由季は知る由も無いが確かに一旦図書館を出た彼はスバルに対して念話を送っているのだ。短文で返答こそ無かったものの確実に届いた感覚はあったのでスバルはそれを知っているはず……



 「え? 聞いてないけど……」



 「…………?」

 スバルの言葉に今度はトレーゼが頭を傾げた。

 おかしい、確かに念話は届いていたはずだった。返答が無かったのは単に忙しいだけだと思っていたが、今日は今までずっと在宅していたはずのスバルがそこまで仕事を抱え込んでいたようにも見えない。だとすれば、こちらが飛ばした魔力波がスバルに届く前に霧散した……? でも一体なぜ? ここへ来てから不可解な出来事が多過ぎる、とてもこちら一人では解明出来そうに無いと判断したトレーゼは美由季の手を振り払うとさっさと二階へと姿を消してしまった。

 「あ! ちょっと! ……行っちゃったし」

 「すみません! 美由季さん!」

 「ありゃあ、気難しいって言うか堅物って言うか、一筋縄じゃ行きそうに無いね」

 「……………………え? まだ店員にするの諦めてないんですか!?」

 「当然でしょ?」

 「はぁ……」

 商売魂が燃えるのか、一度狙ったバイト候補は何があっても離さない美由季であった。

 と、そんな彼女の図太さに尊敬と呆然が入り混じった視線をスバルが向けていたその時……



 ピンポーン♪



 「え?」

 「お客さんかしら? はーい、今すぐ」

 インターホンの軽快な音が来客を知らせ、すぐに美由季が靴を履いて玄関に立った。来客なら自分が居ては邪魔になるだろうとスバルが二階に引っ込むのと、美由季が扉を開けて客を招き入れたのは殆ど同時だった。

 その向こうに居た来客は……

 「お久しぶりです」

 「お邪魔します」

 「あら、久しぶり!」

 見えた顔触れは妹の幼馴染。小学校の頃からの懐かしい顔触れが二人も揃って顔を見せに来た事実に美由季は驚きながらも喜んで歓迎した。

 「珍しいわね、なのはが帰って来てないのに顔見せてくれるなんて」

 「あの、お邪魔でしたら……」

 「ううん、いいのいいの! どうぞ上がって」

 「お邪魔しま~す」

 かくして、アリサ・バニングスと月村すずかは二階に住まう居候二名に気付く事無くそのまま居間へと通されたのであった。










 二階にある自分の部屋に戻って来たスバルを待ち受けたいたのは、意外にも先に戻っていたはずのトレーゼだった。ドアの前で仁王立ちとなってスバルが入ってくるのを待っていた彼は面食らうスバルに対してこう言い放った。

 「どう言う事だ?」

 問い詰め。いきなり何の話をしているのか分からないスバルにとってこの言動がどれだけ高圧的に聞こえただろうか……。そんな事もお構い無しに、沈黙を是としなかったトレーゼはさらに詰め寄った。

 「貴様は、俺からの念話を、確かに受け取ったはずだ。知らないはずがない」

 「念話なんて、あたしは知らないよ……」

 「嘘をつくな!」

 「っ!」

 トレーゼの腕が伸び、思わず身を竦めるスバル。

 だが──、

 「ッ!!?」

 何を思ったのか、彼はその腕を直前で引き戻した。変わり身に驚くと同時に戸惑いの表情を見せるスバルだったが、一番戸惑っているのは他でもないトレーゼ自身だった。驚愕に見開いた目をスバルに向け、次の瞬間には敵意に満ちた冷たい視線を投げかける。

 「貴様……! 使ったな、石を!」

 「え……?」

 「チィ!」

 「あ! ま、待って!」

 勢い良く飛び出して行ったトレーゼはそのまま制止の言葉も聞かずに隣の部屋へと駆け込み、鍵を掛けて閉じ篭ってしまった。初めの内はスバルもドアを叩いて出て来るように頼んでいたがやがて諦めた。

 「トレーゼ…………」

 部屋の前で項垂れる。今までに何度か彼が不機嫌になる事はあったが、少なくともそれらは紛いなりにも全て原因があっての話だった。こちらの言動に対してあちらが機嫌を損ねる……その構図だったはずだ。

 だが、今回ばかりはスバルも原因がさっぱり分からなかった。その理由がこちらにある事は間違いなさそうなのだが、生憎とその理由が全く見当がつかなかった。

 途方に暮れた彼女は心底疲れたと言いたげな足取りで下に降り、渇いた喉を潤す為に居間にある台所へと続くドアを開けようとした。

 中に誰か居る……。きっとさっきの訪問者が美由季と何か話しているのだろう。邪魔にならないように手短に済ませて退室しよう……

 そう考えながらドアを開き──、

 「あ────!」










 「あら?」

 ドアを開けて居間に進入して来た人物にアリサと隣に座るすずかは意外そうな表情をした。それもそのはず、その人物はいつだったか勤務でこの地を訪れた友人が連れていた現場の部下……だったはず。

 「(ねぇ、すずか。あの子って……)」

 「(うん。三年前になのはちゃんが仕事で来た時に連れて来てた子だね。名前は確か……)」

 「あ、あの! お久し振りです。以前お世話になったスバル・ナカジマです! あの……覚えていらっしゃるでしょうか……?」

 そうだった。三年前に危険物回収の任務でここへ立ち寄った当時の機動六課のメンバーに、活動拠点兼宿泊施設としてこちらが所有する別荘を貸し与えたのだ。その時に居た四人の新人隊員の中に居た一人が彼女、スバル・ナカジマだった。

 「えっと、アリサさんと、すずかさん……?」

 「はい」

 「ええ、そうよ。覚えていてくれて嬉しいわ。こうやってここに居るって事は、また仕事? それも一人で?」

 「いえ、今回はちょっと私用で……。後、実はもう一人……」

 “もう一人”と言う単語にアリサとすずかはピクリと反応した。実は美由季とスバルには偶然近くを歩いていて立ち寄ったと言って伏せているが、本当はこの家を出入りする少年に興味を持って来たのだ。上がった時には美由季しか居らず、スバルしか顔を見せていないがやはりここにはもう一人同居人が住まっているようだと確信を持てた。そしてその確信の次に湧き出たアリサの好奇心はスバルにある提案をした。

 「ねぇ、そのもう一人の子が気になるんだけど、今どこに居るの?」

 「今ですか? えーっと、二階の恭也さんの部屋で……」

 「あー、あの子は止めておいた方がいいよ」

 何やら同居人に興味を抱いていると看破した美由季の牽制によってアリサの思惑は挫かれた。何故かと理由を聞こうとしたが、その時に見た彼女の表情が真剣だったのを見てすぐに引き下がった。

 「あの子、何か知らないけどとっても気難しいから話とかしない方がいいかもよ」

 「え? 嘘?」

 「ほんとほんと。友達のこの子にもすっごいツンツンしててさ!」

 「い、いえ、あれはあたしにそうしてるだけで……」

 「だったら尚更悪いよ!」

 バシッ!

 苛立つ美由季がテーブルを叩き、鈍い音が居間に木霊した。その様子を見て美由季が怒り心頭だと思ったアリサとすずかはこっそり顔を見合わせながら密かに思案した。

 「(ねぇアリサちゃん、あの子って本当は優しそうに見えて……)」

 「(かもね。まぁ大学とかにも男女問わず居るタイプだし、別段珍しいかどうかって言えば珍しくもないけど……。やっぱ怪しいと思ってたのよね)」

 アリサとすずかの中に少年に対する懐疑の念が募って行く……。人間、やはりどうしても親しい間柄の者から聞いた話は真実以上に信じて勘繰り、そしてそうだと納得してしまうものだ。二度も親切にしてもらった少年の事が気になり興味を抱いてここまで来たはずの二人の胸中には、いつの間にか純粋な好奇心の代わりに自分達の興味の対象となっていた人物に対する忌避と疑念の心が渦巻いていた。

 「あ、あの……!」

 その時、スバルが沈黙を破った。










 何やら下が騒がしいと思いつつもトレーゼの意識は下階ではなく目の前のベッドに集中していた。と言うのも……

 「やあ、邪魔しているよ」

 「ああ……」

 目の前にはフェイト似のマテリアルが鎮座していた。髪の色は然る事ながら、オリジナルとは似ても似つかない芝居掛かった言葉回しはどうにも鬱陶しい事この上ない。本来、無断でここに居ようものならとっくに叩き潰しているところだが……今回ばかりは事情が違った。

 「まさか日に三回も君の方から招集があるなんてね。どう言う風の吹き回しかな?」

 「そんな事は、どうだって良い。即刻、奴について、調査を依頼したい」

 奴とは即ちスバルの事だ。彼女の身に起きている異常事態を文字通り肌で感じ取ったトレーゼは早急にマテリアルを呼び出し、何か心当たりがあるならその詳細を聞き出そうとしていた。こちらには“あの現象”の原因が例のジュエルシードにある事以外の一切が不明である為、ロストロギアに関する造詣が深い彼女らに止むを得ず応援を要請したのである。

 「確認したよ。なかなかに面白い状況になってきているじゃあないか。あれだけの事態に陥っていれば最早調べるまでもないね」

 「どう言う事だ?」

 「その前に、君も確認したはずだよ────」



 「彼女の周囲に微弱な魔力の膜が展開されている事に」



 マテリアルの言葉に顔をしかめる。そう、あの時スバルに手を伸ばした際に判明した、彼女の肉体を包み込むように発生していた薄い魔力の膜…………あれはスバル自身の魔力で形成されたモノではなかった。いや、それどころか──、

 人間の、生物の発する魔力の波長ではなかった。

 「ジュエルシード……」

 原因は十中八九、あの青い石だと考えて良さそうだ。でなければ説明が付かない。

 「あの現象は、何だ?」

 「詳細は不明。把握しているのは、その原因が例の石にあるって事と所有者であるあの子を守る様に展開されているって事だけ。そうなった過程も、そうなる原理も一切が不明だ」

 「…………願いを掛けた、可能性は?」

 「例えば?」

 「こちらとの、接触を断つ」

 「それは短絡的且つ具体的過ぎる。もし彼女がそんな願望を掛けたとするなら、今頃あんな生易しい程度じゃ済まなかったはずさ。触れようものなら手が吹っ飛ばされてもおかしくない。それに何より、傷を負わせてまで君を手元に置いておきたかったはずの彼女がそんな願いを叶えようとする理由が無い」

 確かにその理屈は一理ある。今のところあの膜は念話などに使われる弱い魔力などを遮断する効果はあるが物理干渉を遮るレベルには達していない。もし願望の内容がはっきりと拒絶の意思を持ったものであれば触れる事さえ出来なかっただろう。

 「だったら、何故?」

 「考えられる仮説としては二つ。一つ、実はあの石には所有者を保護するプログラムがあって、徐々にそれが働き始めているか」

 「…………その言い方だと……」

 「そう……ボクら闇の書と違ってあの石には人格が無い。常に所有者を変え、所有者に対して能動的にしか動けない。でも、だからと言ってあれにボクらと同じ所有者保護プログラムが無いとは限らない。もし仮に存在するのだとしたら今は構築段階で、完成すればボクらのと比べて程度が劣るだけで人間ごときがどうこうするには手が余る代物なのは間違い無いだろうね」

 「……もう一つは?」

 「彼女の無意識がそう願っている」

 「なにを……」

 「『何を馬鹿な事を』? 本当にそう思うかい? 口に出し、言葉にするばかりが願望の形とは限らない。願望とは時に言の葉であり、時に行為であり、時に沈黙でもある。彼女が奥底で抱え込んでいる“願い”をあの石が汲み上げていないとどうして言い切れるんだい?」

 「……………………」

 「後者に関してはどうとでもなる。つまるところ、君があの子の抱える願いを代わりに解消してあげればいいだけだ。もっとも、君はそこまでロマンチストでもフェミニストでもないから難しい問題かも知れないね」

 そうだ、もし仮にジュエルシードがスバルの無意識が抱える僅かな拒絶の意思を感知してあのような現象を発生させているならまだ良い。下手に口に出してはっきりとさせてしまえば厄介だが無意識であるならいずれ解除される目処もあるからだ。だがしかし、問題なのは前者だった場合……。

 「逆にあれが石に記録されたプログラムで所有者を守る為の機能なのだとすれば、石は正当にあの子を所有者として認め始めている事になってしまう。プログラムが完全に成立して、あの子が自他共に認める石の持ち主になってしまったら……」

 「……奴から、石を取り上げるのは、困難になる」

 今は念話を遮断する程度の魔力膜……。いずれそれが膜ではなく『障壁』と呼べるレベルに達したらスバル自身が石を放棄しない以上はこの目に触れる事すら適わないと言う事にもなり兼ねない。記録によれば遥か神代の時代からその存在が確認されていた願いを叶える石、ジュエルシード……よもや所有者を保護する機能が備わっていようとは。

 「もちろん、現段階じゃどちらかは分からないし、或いはそのどちらでもないかも知れない。ただ分かるのはこれが一過性のものなのか永続性を持ったもののどちらかと言う事さ。前者なら問題は無いんだよ、前者ならね……」

 「…………後者なら、どうするか」

 「完全にプログラムが成立する前にどうにかするしかないね」

 「…………策は練る。要はあいつが、石を渡すか、或いは手放せば、それでいいのだろう?」

 「簡単に言うね。でもその割り切ってしまえるところボクは好きだよ。どんな困苦も寄せ付けない鋼の精神、いかなる敵をも跳ね除けるその強靭な肉体、そして冷徹な心……本当、君は闇の書の主に最も相応しい器だよ」

 「用は無い。さっさと、失せろ」

 「…………何か癪に障るなぁ」

 ハエを追い払うような仕草をするトレーゼをジト目で睨みながらマテリアルは大人しく退散した。部屋に残ったのはトレーゼ一人……右手を頬杖をつきながら目を閉じて瞑想する彼の脳裏には、これから解消しなければならない山積みになった問題に対する思案や考察が渦巻いていた。管理局……ジュエルシード……存在意義…………そしてスバル・ナカジマ。どれもこれも厄介な案件だ、一つひとつを処理していくにも時間が掛かる。



 だが三つ目はどうとでもなる。



 正直、もう己の存在意義に関しては半ばどうでも良くなりつつあるとトレーゼは自覚し始めていた。あれだけ……血が滾り熱を覚えるまでに渇望したはずの“自分自身の意味”……それに対する渇望、欲望はある日を境に急激に磨耗していたのかも知れない。あの日……己の価値観の一部を劇的に変化させた出来事…………あれがあったから、何もかもが冷めてしまった。

 「…………ヒツキ」

 『I killed a girl a few days ago you sure? (確か貴方が数日前に殺された少女の名前でしたね?)』

 「ああ」

 右手にはめた黒い指輪──、マキナがそう電子音声で呟いたのを聞いて頷き返す。11月末日、管理局の追跡を撹乱する為にランダムで足を踏み入れた名も無き砂漠の集落。そこで出会った少女の、それがヒツキだった。

 活発で男勝りな粋がった少女……初見で彼女に抱いた印象がそれだった。そしてその印象が変わる事は遂に無かった。何故なら、それまでに殺してしまったから……

 『I have regrets? (後悔しているのですか?)』

 「何の事だ? 俺はあの件に関して、悔やむ事など、何もしていない。全ては、必定……決められたレールの上に過ぎない」

 『But...』

 「必要だから、そうした……無駄を省き、最も効率の良い、選択をするのが善なら、お前も同じ選択を、したはずだ、マキナ」

 『────Sorry. Say too. (申し訳ありません。出過ぎた真似をしました)』

 「解ればいい……解ればいいんだ、マキナ」

 右手の指から物言わぬ相棒を解放し冷たい机の上に鎮座させる。ふと、もう自分にとって信頼に足るモノは目の前のストレージ以外に居ないのではないだろうかと、そんな思いが脳裏を過ぎ去った。ただ忠実に、ただ迅速に、ただ正確に……それだけを追い求めて精錬されたトレーゼ専用機、それがデウス・エクス・マキナ。主が潰え、同志が消え去り、眼前の敵全てが死に果てようとも、この黒く冷たい相棒だけはここに居てくれる……その事実だけで充分信頼に足り得た。例えそれが有機物ですらない物言わぬ存在であったとしても……。

 「…………マキナ」

 『What? (何でしょう?)』

 「お前だけは、裏切るな。全次元世界の、全てが俺の、敵になったとしても…………お前だけは、俺の傍に居ろ。これは、命令だ」

 『────Yes, my lord.』

 「済まない……」

 少なくとも“同じ存在”であるはずのスバルと比べて何と頼もしい事か。もうこの機械さえ居てくれればそれでいい、そんな事さえ考えていたその時……。

 『But, please be advised we only have one. (ですが、一つだけ忠告させてください)』

 「何だ?」



 『The remains will not be my last. (最後まで貴方の傍に居るのは私ではないでしょう)』



 「…………何が言いたい?」

 『Now you are not lonely. That is to say that I do. (今の貴方は一人ではない。つまりはそう言う事です)』

 何を訳の分からない事を……そう言って鼻で笑ってやる事も出来た筈だった。だが何故か出来なかった。感動に胸を打たれた訳でもないし、無粋な物言いに苛立ちを覚えた訳でもない……何せ相手はただの機械だ、その電子音声の言葉に俗人のように余計な意図や意味が介入する余地など無いのだから感傷を受ける事など有り得ない。だがそれでも、その言葉はトレーゼの思考を一時的に停止させるには充分だった。

 「……………………」

 『Don't forget. It's strange because I just. (忘れないでください。私は所詮、ただのストレージなのですから)』

 心に響いた訳でもなく、苛立ちを覚えた訳でもなく、ただ言葉そのものがいつまでも耳に残って離れなかった。

 「……………………訳が、分からん」

 最近になって気が付いた事だが、マキナがやけに饒舌だ。元々ストレージとは主に対して簡単な受け答えを返すようにしか設定されておらず、インテリジェンスと違って複雑な思考を行うAIが備わっていないのだ。だが、マキナの質疑応答はどう見てもインテリジェンスのそれだ……ストレージの様な無機質さを前面に出しながら、その内実はどこか違和感が大きい。これではまるで……

 「お前……まさか?」

 再びマキナに語りかけるも物言わぬ指輪に戻った彼は黙して語らず……部屋にはまた静かで冷たい沈黙が横たわった。聞こえてくるのは風に流されて飛んできた枯葉が窓を叩く音と、下の階から聞こえる女連中の姦しい声だけ……。

 ふと、下から微かな震動。その後どたどたと喧しい人の気配がしたと思ったら──、

 「トレーゼ!!」

 スバルがドアをぶち破らんばかりの勢いで開け放ち、椅子に腰掛けるトレーゼの元へと駆け込んで来た。

 「…………今度は何だ?」

 目の前の少女が自分の名を呼ぶ時は大抵決まってどうしようもない厄介事を持ち込んで来た時だけだ。仮眠を摂ろうとしていた矢先にこの乱入……トレーゼの心境は再び不機嫌のどん底に叩き落された。

 「下に来て!」

 「何故?」

 「いいからっ!」

 「理由を、言え!」

 「い い か ら!」

 「ぐぬぬ……」

 片腕のどこにこんな力があるのか半ば無理矢理に引き摺られるようにトレーゼは一階へと同行する事になった。居間にはまだ人の気配が残っており、どうやら先ほどの客人もまだ残っているようだがそれでもスバルは構わず突入し──、

 「連れて来ました!」

 「よぅし! じゃあ早速……」

 「!?」

 居間に入ってまず驚いたのは来客の顔触れだった。見知った顔が二人居ると思ったが、それもそのはず、その二人は自分がついさっき図書館で顔を合わせた女子大生二人組みだった。やけに美由季と親しげにしているのを見て一瞬彼女の友人かとも思ったが……

 「(おい、あの二人は、何だ?)」

 「(え? なのはさんの幼馴染みなんだって。月村すずかさんと、アリサ・バニングスさん)」

 「……………………」

 まさかの友人発言にトレーゼはつくづく実感した……「世間とは意外と狭いのだな」、と。どうにも自分はこの一家及びその関係者とは切っても切れない因果で縛られているらしい。

 と、そんなこんなで目の前の二人に会釈していると、美由季が台所の方に押し込んであったある物を取り出してトレーゼに手渡した。それは黒や紺を貴重とした地味な色合いの……

 「エプ……ロン?」

 広げてみると確かにそれはエプロンだった。色合いが地味なのはそれが女性用ではなく男性が使う事を前提にしているからであり、見た感じ古ぼけた印象が強いのでそれなりに使い込んだ古着と言う事なのだろう。だがそんな物をこちらに渡して一体どうするのだろう?

 「なぁに『?』って顔してるのよ。ほらほら、早く着て見せてよ!」

 「…………は?」

 話の経緯が全く見えてこない。取り敢えず隣に居たスバルを睨むと申し訳なさそうに手を合わせながら弁明した。

 「ごめん! 喫茶店、手伝って!」

 「何故?」

 「えーっと、それは……」

 「タダ飯食らいなんて贅沢はさせないって事よ!」

 毅然とした態度でそう言い放つ美由季ではあるが経緯を知らないトレーゼにとっては何の事だかさっぱり分からない。分かるのは、とにかく目の前の女性陣があの喫茶店でこちらを労働力としてこき使いたいと言う事だけだった。

 冗談じゃない! こっちは好きで居候している訳でもないのにどうして飲食店の営業なんかに時間を割かねばならないのか。自分はこんな管理外世界の辺境くんだりまで奉公に来た訳ではない。

 そう言って断固辞退する事も出来たはずだった……。

 だが──、

 「お願い……」

 申し訳なさと同時に何やら追い詰められた感も漂わせるスバル……。そんな彼女に真正面から頭を下げられたのが功を奏したのか、或いは単純に恩を売っておこうと思っただけなのか、トレーゼは渋々そのエプロンを前面に羽織った。

 「へ~、なかなか似合ってるじゃない。これなら確かに客足増えるかも……」

 「私の目に狂いは無いって事よ。サイズだってほら、計ったみたいにぴったり」

 「すごい似合ってる」

 着たら着たで口々に持て囃されるが、経緯が経緯なので本人にとっては釈然としないどころか不本意甚だしいところだった。

 「…………もう、いいか?」

 服……それも普段着ですらないエプロン一枚身に着けただけでここまで気疲れを負う羽目になるとは……。指示通り着たのだからとスバルに目配せするが──、

 「ねぇ、せっかくだしその格好でコーヒー淹れてみてよ」

 アリサの一言で粉砕された。図ったかのように美由季が台所の奥から古惚けたサイフォンとビン詰めのコーヒー豆を取り出し、それをテーブルに置いた。しかも本格的にアルコールランプ付きの格式張った代物で、かなり使い込まれた年季物でもあるようだった。

 「おい、俺はやり方────、」

 「ああ、説明書はこっちにあるから、これ使ってね」

 「お、おい……」

 「じゃあ、私達はコーヒーに合う茶請けでも買って来ますから。行きましょう、ナカジマさん」

 「えぇ!? あ、あたしもですか?」

 すずかに手を引かれながらスバルは台所で呆然と立ち尽くすトレーゼを未練がましく見つめながら、年上の女性陣に押し流されるように玄関に消えて行った。後に残されたトレーゼはしばらく埃を被ったサイホン一式を眺め、そしてこう呟いた……。

 「まずは…………洗うか」

 長い間使われていなかったサイフォンを使えるようにする事から始めた。










 ミッドチルダ、クラナガンにて──。



 「フェイトちゃんは今日も管理外世界に調査……か」

 いつもの様に食堂で軽食を摂っていたなのはは遠い次元世界で黙々と調査活動を続けているであろう友人に思いを馳せていた。あの日、六課の誰よりも先に“13番目”との接触を望んだ彼女に上司であるはやてが与えた命令……それは、必ず“13番目”との接触を果たさせる代わりにその調査活動の大半を彼女が代行すると言う内容だった。

 言ってしまえば簡単だが、その仕事は過酷だ。六課に送られてくる情報から信憑性の高い有力情報のみを選別し、現地へ向かい調査する……ただこれだけの事だが、それをフェイト一人で行うのだからその仕事量は半端無い。抹殺賛成派であるナンバーズにはフェイク情報、或いは信憑性の低い情報を流して目を逸らしつつ、はやての息の掛かった人員を数人融通してもらって調査を進めていると言った状況だ。定期報告ではそれなりに有力な情報を掴んだとは言っていたが、なのはとしては回復した病み上がりの体を押して調査を繰り返すフェイトを純粋に心配していた。はやての方も一度段落をつけて休養を取らせる事も検討しているとの事だ。

 今回の報告にあった情報が正確な証拠によって裏付けされれば捜査は大きく一歩前進した事になる。クロノらの見立てでも今頃は逃走を中断してどこかに身を潜めている頃合いらしい。その潜伏して行動が止まっている間に見つけ出せればこちらの勝ちだ。

 ふと、食後のお茶代わりに飲んでいたコーヒーのカップに視線を移した。そう言えば長らく実家の父が淹れるコーヒーを飲んでいないなと思いながら最後の一口を口に含むべくカップに手を伸ばし──、



 ピシッ!



 「うわ!?」

 まだ触れてすらいないにも関わらずカップの縁に小さな亀裂が走ったのを見て、なのはは思わず手を引っ込めた。亀裂自体はそんなに大きな物でもなかったが、ひとりでに物が壊れると言う縁起でもない現象を目の当たりにしてしまった事で彼女の胸中には言い難い不安が渦巻いていた。

 「…………何か悪い事でもあったのかな?」

 その“悪い事”がいつ、どこで、誰、或いは何に対して発生したのかは定かではない。

 或いは、そう──、



 今から起きるのかも知れない。










 コポコポ……。

 「……………………」

 ランプでビンの湯を沸騰させながらトレーゼは瞑想する。ここへ来てからと言うものの何もかもが予定外の事態に見舞われすぎて何が何だか分からない。肝心な事全てがはぐらかされ、何もかもが五里を覆う霧の中に閉ざされたような曖昧な感覚しか感じない。

 要約すると、今自分が何がしたくて何をするべきなのかが全くもって分からない。

 何もしなくても時計の針は進み時間は過ぎ去る。それなのに無為に過ごしていたくはないと言う中途半端な想念だけが悶々と脳裏に漂う……。もっとも、今の自分に何が出来るはずもなく、現にこうして成り行きで押し付けられた仕事を淡々とこなすだけしか出来る事がない。

 「…………おい、居るんだろう。出て来い」

 天井付近の虚空を見上げて声を掛ける。程なくしてドアの向こうに人の気配が生じ、それが姿を現した。

 「どうも。数時間振りですね」

 現れたのは今朝もあったマテリアル(なのは似)だった。ドアから顔を出した彼女を手で招き寄せ、自分の隣の椅子に座るように促すとマテリアルはそれに従って「失礼します」と断りを入れて着席した。

 「今日は本当にどうしたんですか? 貴方から呼んでくるとは珍しいですね」

 「別に。ただ、暇なだけだ。適当に、会話が出来る相手が、欲しくてな」

 「そうですか。では、僭越ながら私が同席しましょう」

 芳ばしいコーヒーの香りが漂う居間で二人のヒトならざる者はしばしその香りの中で静かに瞑想に耽っていた。ふと、トレーゼが口を開き、それが他愛も無いはずの会話の発端となった。

 「貴様、自分が何をしたいか、自覚したことはあるか?」

 「と言いますと?」

 「空腹だ、食事をしよう……喉が渇いた、水を飲もう……眠い、眠ろう……異性が欲しい、なら抱こう…………俺は、こう言った欲望が無い」

 「なら、食料を摂取せずとも生きていけると?」

 「そうは言っていない。だが、人間の欲望とは、時に生きる為の行為に関する、必要性すら凌駕する。そうは思わないか?」

 「私は人間ではありませんので経験はありませんが、確かに時として人間は不可解な欲求や渇望に身を委ねる事があります。時としてその行為は成功を招きますが、大抵は自身の破滅です。それがどうかしたのですか?」

 「いやな……セカンドが、俺の事を、人間呼ばわりするんだ。おかしいな、人間なら、そう言う欲望を、持ち合わせているはずなんだが……」

 「なるほど、青い衝動が若くして枯れたと……」

 「誰が、そんな事言った」

 「冗談です。そんな目くじら立てないでください。まぁでも、貴方の悩みは理解しました。貴方には願いが無い、望みが無い、欲が無い……欲するモノも、行くべき目標も、貴方自身が何者なのか分からないから貴方の行く先には何も見えない、存在しない、在るはずがない。つまり……私には解決できません」

 「別に、解決してくれと、頼んだ覚えは無い」

 「ですが、貴方は悩んでいる。違いますか?」

 「……………………」

 コポコポと瓶底から水蒸気が湧き出す音が二人の鼓膜を静かに打ち、虚空へと消えていく。予め用意してあったロートを差し込み、そして再びアルコールランプの火を掛ける。程なくしてビンの湯がロートに上がり始め、それを眺めながら

 「だが、俺は人間ではない」

 「それは貴方がそう思っているだけです。前にも言いましたが、少なくとも生物ですらない私たちにとって貴方は充分人間の範疇です。そして人間は思い、考え、そして悩む生物です。貴方のその思考は何らおかしなものではないのです」

 「……………………」

 「貴方の苦悩、それは本当は貴方自身が持つ願望が引き起こす現象です。貴方の願いが成就していないからこそ、貴方は苦悩する。さぁ、思い出してください。貴方の望みは何だったのかを……」

 「…………俺の望みに……意味は無い」

 「無くていいんですよ、意味なんて。願望とは所詮は自己満足、己だけを満たせられればそれでいいじゃないですか」

 「いや、俺の場合、自己満足にも、成り得ない。何故かって? もういいんだ、どうだって……他者も、自己も、全ての事象が、もうどうだっていい」

 無気力……倦怠にも似た虚無感が今のトレーゼの心を染めていた。彼がここまで打ちひしがれるのは面と向かってトーレに拒絶された時以来であり、事実本人も自覚していた。

 「これは相当重症なようですね。何が貴方をそこまで変化させてしまったのですか?」

 「貴様が、知らなくても、いいことだ」

 「…………いいでしょう。貴方の抱える闇は私たちの主としては申し分ない。なら、いつまでもその純度を保ってくれていた方が好ましいのでしょうね」

 「勝手に、言っていろ」

 ロートの中の液をヘラでゆっくりと掻き混ぜる。あまり混ぜ過ぎると雑味が出る原因にもなるらしいので用心しながら混ぜた後、ランプを外して粗を抜く。再び時間を置いてから掻き混ぜたそれをロートから下のグラスに移し変える。その瞬間に芳醇な香りが一瞬にして部屋中に広がり、マテリアルも鼻腔をくすぐるその香りを堪能していた。

 「よき香りですね。私にも一杯もらえますか?」

 「ああ、構わない」

 出来上がったコーヒーを適当なカップに注ぎ、それを差し出す。砂糖も入れない無糖のまま喉に下し、そして一言……

 「まぁまぁですね」

 「そうか。と言うか、貴様は以前どこかで、こう言う類を、口にした事があるのか?」

 「いえ、私はありません。ですが、これが美味かそうでないかぐらいの区別はつきます。この体の元となった人物がここの人間ですから、そう言った味覚を受け継いでいるのかもしれません」

 「そうか」

 短く返事した後、トレーゼは台所に向かい……



 グラスの中のコーヒーを全て捨てた。



 大量の湯気が立ち上るも、それらは全て蛇口からの流水によって掻き消され瞬く間に霧散していった。

 「……何も捨てる事は無かったのでは? 特筆するほど美味ではなかったのは事実ですが、かと言って吐き捨てるほど不味かった訳ではありません」

 「…………美味く……いや、上手く出来ていないなら、それは失敗なんだ。つまり、俺は失敗した、と言うことだ」

 グラスの外側を軽く拭き、再びその中にヤカンの湯を満たす。ランプでそれを温める間に新しいコーヒー豆を用意してロートに詰め、もう一度作り直す。数分後に同じ方法で出来上がったそれをカップに入れ、今度は自分で試飲して確認する。

 「……………………」

 「ふむ、余り変わり映えはしませんね。ですが人間が飲用するものとしてはこれで充分では?」

 「……贋物と、失敗作の違いが、分かるか?」

 「はい?」

 「失敗して、破棄されたモノが、“失敗作”。失敗しても、継続しているのが、“贋物”だ。俺は、贋物を継続させるなら、失敗作として、終わらせる」

 「……贋物は継続し、存在する価値も無いと? ですが、無から作ってそこまでの成果なら、それ以上のモノを生成する事は理論上無理です。仮に出来たとしてもそれは閾値、誤差の範囲内の成果に過ぎません。たまたまその時は上手くやれたと言うだけです」

 「なら、貴様は継続した、贋物の方が、理に適っていると?」

 「道理かどうかは別として、有用性の面ではそちらを推します。現物として存在するなら、それを原型にさらなる機能を付随させて行けばやがてはオリジナルに匹敵、或いは凌駕するモノが仕上がるでしょう。現に、私たちが所有する新型の闇の書も、かつてのオリジナルを超える事を目的に仕上げています」

 言いたい事は分かる。この世に完成された物は無い……どれだけ物体を分割してもゼロには届かないように、世界に存在するありとあらゆる物体や事象は一見すれば高みに上っているように見えても、究極的には完成には至ってはいない。全てが不備で、全てが不完全……それがこの世を支配する絶対の理なのだ。

 「それに、どれだけ足掻いた所でオリジナルは常に一つ切り……それ以外は全て、いつだって何だって贋物なのです。私たちがそうであるように」

 「……………………」

 「まだ釈然としていないようですね。簡単に言ってしまえば、贋物だと非難される理由は唯一つ、それがオリジナルより劣っているからです。生み出した物が原型より優れていれば誰も何の文句も言いません。より洗練され、より完成に近づいたそれをどんな理由で非難できますか?」

 「オリジナルより……完成……」

 「王道邪道は関係ありません。結果として形にさえ残ればそれで万事問題は無いのです。ようは、認めさせるのです。己を他者に、周囲に、全てに、世界に」

 「……………………」

 「……少し熱くなってしまったみたいです。また日を改めてお邪魔します。それでは……例の件、ご考慮のほどを」

 飲み干したカップを返却し口元を軽く拭き取った後、席を立ち軽く会釈してマテリアルは居間から出た。ドアの向こうに消えると同時に気配も消失し、後には寒さと静寂さだけが残った。帰宅してきた美由季らに怪しまれないように彼女が使っていたカップを洗って適当に拭いたて棚に戻しておき、自分は再び試行錯誤を繰り返し始めた。納得がいく物を作るのが性分なのか、それからもトレーゼは何回も同じ動作を繰り返しつつ時折自分なりの調整を加えながら抽出を続行した。



 十分後……。



 「……ふむ」

 通算26回目に及ぶ試行錯誤の末にようやく彼は自身で納得の行く物が作れたのか、出来上がりカップに注いだそれを眺めて一息ついた。出来上がったそれは見た目的にはそれまでの失敗作と相違無いが、彼にとっては間違いなくそれまでのと比べて出来が良いものだった。

 と同時に庭先から数人の人の気配が近づく。どうやら買い物に行っていた女性陣が戻って来たらしい。姦しい話し声は徐々に大きくなり、玄関を開けると同時にそれは最高潮に達した。

 「たっだいま~!」

 開口一番に美由季の威勢の良い声に始まり、アリサ、すずか、そしてスバルの順に居間に入り込んでくる。一体どれだけ買い込んだのか各々の手にはこれ以上無いくらいに膨らんだビニール袋が下げられており、コーヒーに合う菓子だけではなくどう見てもちょっとした宴会でもやるのではないかと思う量が入っていた。

 「お! 出来てる出来てる。玄関までコーヒーの匂いがしてたよ」

 「あら、美味しそう。頂いてもいい?」

 テーブルの上に置かれたコーヒーを見つけたすずかがそれを取ろうと手を伸ばす。だが寸での所でそれをトレーゼの白い手が制する。

 「却下だ」

 「あら……?」

 軽くその手を払った後、彼は苦心の末に作り出したそのコーヒーをいそいそと──、

 「え?」

 スバルに差し出した。面食らったスバルはそれを恐る恐ると言った感じで受け取り、それを確認したトレーゼは予め用意しておいたスティックシュガーを二本カップに注いだ。そしてスプーンで掻き混ぜた後、無言でスバルを凝視する。

 「えっと……飲んで良いの?」

 「ああ」

 勧められたので少し躊躇しながらもスバルはそれを口に含んだ。一口、二口、三口……そうしてものの一分も経たずに全て飲み干し、カップをトレーゼに返した。

 「どうだった?」

 「ど、どうって……?」

 「味……。美味かったか、不味かったか」

 自分はもう何回も味見を繰り返しているので細かい機微は分からない。だからスバルに意見を求めた。それを察したスバルはただ素直に、己の感想を少年に告げた。

 「うん。美味しいよ……」

 「…………そうか」

 空になったカップを受け取りそのまま台所へと洗いに行く。その後姿は心なしか初めの頃よりも大分穏やかで、不機嫌さの欠片も無かった。最初に出会った頃の限りなく落ち着いた雰囲気……スバルは自分とは対照的なその感覚が好きだった。

 「なになぁに? なんかイイ感じになってな~い?」

 「わわっ!? ちょ、ちょっと! 美由季さん!」

 「この調子でお願いしちゃえば店の手伝いも頷いてくれるかもね」

 「それはどうでしょう……」

 流石にそこまでの要求を呑んでくれるほどに柔軟ではないはずだ……そう思っていると──、

 「……考えても、いい」

 「え?」

 「店長の……士郎の許可が、あるなら……許諾してもいい」

 それは少し遠回しだが間違いなくあの喫茶店で働いても良いと言う言葉だった。スバルも快く受け入れたのだ、士郎と桃子の二人が彼を拒む理由は無いだろう。

 「よっし! きっとそう言ってくれるだろうと思って……。アリサ、あれ出して!」

 「はいは~い!」

 そう言ってアリサと美由季はテーブルの上に買い物袋の中身を取り出した。そこには卵、牛乳を初めとしたケーキ作りに必要な素材が大量に入っており、トレーゼは彼女らの言わんとしている事を把握して溜息をついた。

 ようするに……



 ケーキの腕前も確認したいのだろう。










 「それで……話とは何だ?」

 管理局地上本部、そのトレーニングルームにてナンバーズの第三番、トーレは今日も肉体強化に勤しんでいた。180kgのバーベルを顔色一つ変えずに上げ下げさせられるのはやはり戦闘機人といったところか。そんな彼女に傍目から声を掛けたのは……

 「貴方は本当に彼を殺したいと思っているの?」

 「愚問だな。既にその事についてはお前とセッテ以外の全員の総意で成された結論だ。今更お前一人が反対したところでそれは変わらない」

 「でも……あの子はトレーゼなのよ。私たちの弟……」

 「違う! あれは“13番目”だ! 私達の弟を騙る贋者なんだよ、あいつは!! お前も見ただろう。あいつの所業を」

 確かに、ノーヴェを初めとするナンバーズ全員に対して彼が働いた行為はあまりに過剰で凄惨を極めていた。それはウーノも認める事であり、抹殺賛成派の全員はそれを根に持っての賛同だと言っても過言ではない。

 「今の貴方は……私怨で動いているだけよ」

 「俗物的だと笑うか? だが、そう言うお前はどうなんだウーノ。謀られた事に対して憤怒すら出来ないほどお前は腑抜けてしまったのか!!」

 「今はそんな事を話しているんじゃないの。貴方は…………弟の姿をした彼を討てるの?」

 「無論、私にはそれを実行に移すだけの実力と覚悟がある。ならば討ち取るまでだ。当然の事よ」

 「そう……。貴方はそうやって、『当然の事だから』と言って済ませるのね」

 振り下ろされたバーベルが鈍い音を立てて床に降ろされる。激しいトレーニングを何セットもこなしたと言うのにその肌には汗一つ浮き出ておらず、多少息は上がっているものの基礎体力の異常な高さを窺わせた。そんな妹の姿に臆する事もなく、長姉ウーノははっきりと宣告した。

 「なら、私と貴方はこれまでね。貴方は貴方の、私は私のやりたい様にやる……。お互いにこの話は無かった事にしましょう……」

 「元よりそのつもり。離脱したいなら勝手にそうしてくれ。清々する」

 「……………………どうして、どうして分からないのよ」

 「……分かり合えるものか。数年前まで我々は一心同体だった。だが今は……もはや他人同士だ。お互いが俗世に触れ過ぎた結果だ、何もおかしな事ではない。当然の帰結だと誰もがわかるだろうさ」

 「…………もう、貴方とは分かり合えない」

 「奇遇だな、私もそう思っていた」

 そのやり取りを最後に、ウーノは部屋を出て行き、トーレは何事も無かったかの様にまたバーベルを持ち上げ始めた。

 この日、ナンバーズの長姉二人の意見の食い違いはより明確なものとなり、文字通り袂を分かつ結果と相成ってしまったのであった。










 贋物は未完成である。未完成であるが故に非難され、唾棄される。そこに正当性や理論は無く、ただ「完成していないから」と言う理由だけで全てが決してしまう。そして、何を基準にそれが完成しているか否かの判断となる絶対値は、それを模したオリジナルと比較して決まる。

 なら贋物がオリジナル以上の精度を誇っていた場合はどうなるのか? 劣っていて失敗作呼ばわりなら、優れていればそれは逆に“改良作”となる。改良作はオリジナルに台頭し、、今度はそれが全ての模範となる。それを基盤に新たなモノが生み出され、それを水準により高位の存在が作られる。

 ならば……

 「なら、俺は“完成”される、べきなのか?」

 自分が完成されていないのか、それとも未完成なのかはもう分からない。比較の対象となるオリジナルがもうこの世には居ないからだ。なら何を以ってして完成されたと見做すのか……?

 簡単な話だ。

 比肩するモノが無ければ良い。原初の生物がミトコンドリアを取り込んだように、自己をより高みへと導く為、それに必要な行動全てを行えば良いのだ。猛禽はカラスより狡猾に、クジラはサメより巨大に、ライオンはゾウよりも強力に……同族の中に属しながら、その実その生物らは常に他の同族より先を生き、常に“完成”へと近づこうとしていた。

 ならば自分も同じ事。未完成、贋物だと罵るのならオリジナルを凌駕し“完成”へと至れば良い。足りないものを喰らい尽くし、己の血肉に変え、弱さを廃して強さだけで身を固めれば良い。そうなれば結果は自ずと完成へと至れる。

 「なんだ……簡単な、ことじゃないか。俺は、いつだって、そうして来た。だったら……やってやるさ」



 “完成”へと至る行為……人はそれを“進化”と言う。



[17818] 強さを脱却した者。強さを貪る者。
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:78610712
Date: 2011/10/08 05:10
 人類の……否、生物の繁栄の歴史の裏には常に欲望がひしめいていた。

 空を飛びたいと願った一部の固体は鱗を捨てて羽根を持ち鳥類となった。

 早く走りたいと望んだ者は邪魔な足を廃して蛇となった。

 陸を住み難い場所と捉えた者は一度捨てた母なる海に戻り、何者も及ばない巨体を手に入れた。

 空を飛ぶ翼を、外敵から身を守る鱗や殻を、速く走る為の俊足を、そして何よりも自身を御する為の卓越した頭脳を……生物は時間を掛けて一つずつ獲得して行った。

 そして、人間はその進化の最たるモノと言えよう。鋭利な爪牙も、頑丈な甲殻も、強靭な筋肉すら持たず、唯一つ他の生物の追随を許さなかった頭脳と言う一点のみにおいて星の頂点に君臨した生物……それが人類だ。彼らはただ純粋に己が種族の繁栄を望み、その為にはどうすれば良いかだけを考えて一万年の時を存続し続けてきた。どうすれば種が存続し繁栄するのか、その最短にして最良の選択肢を常にリードし続ける飽くなき欲望が今の彼らの根幹を成したと言っても決して過言ではない。

 より強大で、より優秀で、より精密に……満足する事の無い底無しの欲望、それこそが自己を“完成”へと進化させる第一歩。

 その欲求は彼もまた例外ではなかった……。










 12月4日午前7時30分、高町宅──。



 「────────」

 高町宅の敷地内にある小さな離れ小屋……そこは今でも士郎や恭也などが心身の鍛錬の為に時折利用する小さな道場のような場所だった。保管されている数本の竹刀はどれも年季が入っていながらも手入れは怠っておらず、傷みなどは全く見受けられなかった。

 その空間に二人の人影……。片方は高町家が家長の高町士郎。そして彼に対峙する形で立っているのが、現在この高町家に身を寄せる居候、トレーゼ・スカリエッティその人である。両者はその手に竹刀を握り締め、その視線は互いの目を捉えたまま微動だにしなかった。どちらが先に動き、そして仕留めるか……少しでも動けば仕留められるが、逆に少しでも動けば集中が途切れてしまう。そんな極限状態が持続する。

 士郎の方はしっかりと竹刀を両手で持ち正中線に沿って構えているのに対し、トレーゼの方は利き腕である右手だけで竹刀を持ち、まともに構えるどころかその右腕すらも床に垂らして脱力させていた。剣道を修める者からすれば相手を馬鹿にしているとしか思えない行動かも知れないが、対する士郎は至って真剣な表情だった。いやむしろその逆、嫌でも真剣にならざるを得ない状況へと追い込まれていた。

 「────────」

 「……………………!」

 一介の武道家として肌に感じる気迫、純然たる殺気が士郎を包み込む。

 殺気と殺意は別物だ。ただ周囲に対して無差別且つ圧力的に撒き散らされるのが“殺気”であり、それが特定の人間に向けられて初めて『意図ある殺気』即ち“殺意”へと転じる。今この段階ではまだトレーゼの放つ気迫は殺気の段階に留まっていた。これが士郎に何らかの動きが生じた場合、コンマ数秒のラグも許さずトレーゼの右手の竹刀は士郎の肉体を容赦無く攻撃するだろう。対する士郎の方もそれを重々予見しているからこそ下手に動けずにいた。

 「…………!」

 じり……!

 右足を僅かに前方へとずらす。互いの間合いがほんの数センチ狭まり、今度は士郎の気迫がトレーゼを徐々に圧し始めた。互いの制空圏が接触を果たすまでもう殆ど間隔が残ってはいない。一触即発……どちらが先に動くかでこの勝負は決する。今がまさにその瞬間──、



 だと思っていた。



 勝敗の行方はトレーゼのある行動によって終息を迎えた。

 「な……!?」

 トレーゼが取った行動に士郎は思わず声を上げずにはいられなかった。この真剣勝負の最中でトレーゼが取った行動……それは──、

 「驚いたな、いきなり目を閉じるなんて……」

 閉眼……戦いのみならず、日常生活においても普通目を閉じると言う行為はそれだけで危険を呼ぶ。人間が外部から得る情報の殆どは視覚と聴覚から受け取っている。その為に視界を失った者は例え五体が満足だったとしても上手く動く事は出来ない。この場合士郎が驚いたのは、目を閉じて自らの行動を制限したにも関わらずトレーゼから放たれる殺気が少しも減衰しなかったと言う事実だ。それはつまり、視覚が無くともこちらを迎撃するには何の支障も無いと言う絶対の自負の表れに他ならない。

 そんな傲慢とも言える行動を目の当たりにした士郎はただ一言……

 「参った。降参だよ」

 遂に一合も打ち合う事無く自身から敗北を宣言した。その言葉を偽り無しと捉えながらもどこか釈然としないトレーゼの感情を察したのか、竹刀を片付けながら彼はこう言った。

 「君の殺気は僕を一切寄せ付ける雰囲気が無かった。もちろん、それだけだったなら他の剣客にも出来る芸当だけど、君の場合はそれらを凌駕していた。自分の感覚を殺してまであれほどの気迫を保っていられるのはそんなに居ないだろうね。要するに、隙の無い君に僕は打つ手が無かったと言う事だよ」

 「そうか……」

 当然と言えば当然だ。片や若かりし頃は要人護衛をこなし、片や生粋の殺人者……現役の頃ならいざ知らず、第一線を退いて久しい士郎では人間を殺す事だけに長けたトレーゼを降すのは至難の業だ。その意味では士郎が自分から身を引いたのは正しい判断と言える。剣道は言わば護身術……護身は自らの命を拾えればそれで勝ちなのだ。

 早朝の精神鍛錬を終えた二人は額に滲んだ汗を拭きながら母屋の居間に戻った。丁度桃子が作った朝食がテーブルに並べられており、二人は手を洗った後に席に着いた。

 「いただきます」

 「……………………」

 両手を合掌させ形だけ整えた後、トレーゼも朝食に手を付けた。美由季とスバルはまだ起きていないので二人の食事は後になるが、士郎と桃子、そしてトレーゼは別に用があるのでこの時間の起床となった。その用とは……

 「基本的にトレーゼ君は厨房の方で主に食器洗いを担当してもらう事になるから。たまに人手が欲しい時はオーダーもやってもらう事になるけど問題は無いかな?」

 「ああ……」

 結論から言えば、美由季によるトレーゼのプロデュースは成功した。あれから作り方を一から教えられて作った試作品のケーキがなかなかに好評で、夫婦揃って快諾してくれたからだ。もっとも、作った本人はまだ改良の余地があると主張して譲らなかったのでケーキ作りに関しては取り組まない事にした。もちろん、それ以外でも仕事はあるので問題は無い。

 「開店は九時からだけど、八時から開店準備で厨房に入ってもらうよ。仕込みである程度食材の用意をして、テーブルとカウンターの吹き掃除は最後にお願いしようかな」

 「了解。制服は、昨日の物で、構わないな」

 「本当に良いのかい? バイトの子が使ってるのなら他に何着かあるけど……」

 「いや、あれで良い」

 制服と言っても支給されるのはエプロンのみであり、元の服装が奇抜でない限りは問題は無い。その点トレーゼの私服は白一色のデザイン性に欠ける代物なので店内の景観を損なう事も無く、勤務中に無駄口を叩いたりする事も無さそうなのでまさに良い人材だと言えよう。もっとも、サービス精神も無きに等しいので接客には向いていそうに無いのは言うまでもない。なので接客方面は本当に客足が多い時にしか回さない事にもしていた。

 「スバルちゃんが抜けた分、しっかりと働いてもらうわね」

 「……ああ」

 ちなみにスバルはトレーゼ曰く「邪魔」と言う事で業務から抜けさせた。元より本人の申し出とは言え、片腕しかない彼女を使うのは気が引けていた士郎と桃子もそれを承諾し、彼女はこれからの業務から外れてもらった。本人は渋ったが……。

 朝食を済ませた後、三人は軽く身嗜みを整えてから玄関へと向かう。

 「そうだわ! 悪いけどトレーゼ君は先に行っててくれるかしら? 私達ちょっと用事があるから」

 「了解した」

 「ごめんなさいね。すぐに終わらせるから。はい、お店の鍵」

 朝日を浴びて銀色に輝く鍵を手渡され、それをポケットに仕舞い込むとトレーゼは高町宅を後にした。一度辿った道は忘れないので喫茶店への行き方は把握していた。しかし急いだ方が吉と考えた彼は周囲に人が居ない事を確認してから右手のマキナに命令を下す。

 「マキナ、脚部限定、セットアップ」

 『Set up.』

 一瞬、紅い光が両足を包んだ後、トレーゼは自身の足にアサルトヴァンガードを装備して道路を駆け抜けていた。これなら体力も消費しない上に魔力でローラーを回転させずとも移動できるのでエネルギー節約には持って来いだった。そのまま乗用車にも遭遇せず、歩道を歩く通行人を回避しながら彼は五分足らずで目的地へと辿り着いた。預かっていた鍵を用いて店内に入り、早速準備に取り掛かる。

 開店は一時間後なので店内が見えない様にカーテンがされており、中は少し薄明るい程度だ。だが厨房の方は窓から燦々と日光が入ってくるので問題なく作業を進める事ができた。昨日の閉店で片付けられていた調理道具を仕える状態に戻し、カウンターのコーヒーカップの埃を取りさらい、そして最後にテーブルの目立った汚れを拭き取っていく。

 粗方の開店準備が整った辺りでふと一息ついていると、外から人の気配が近づいてくるのが分かった。用事を済ませた高町夫妻がやって来たのかと思いながらその方を見やると──、

 「あの……新しいバイトさん、ですか?」

 見知らぬ女子だった。どうやらこの時間帯にシフトを組んでいるアルバイトらしいが、当然あちらはそんなことは全く知らないので少し不審な視線が注がれている事にトレーゼは気付いた。

 「ああ、今日からだ。主に、厨房を任されている」

 「よろしくお願いします。分からない事があれば私に何でも……」

 「いや、結構だ」

 「……そ、そうですか」

 先輩バイトの親切を一刀両断し、トレーゼはさっさとエプロンを着て厨房のシンクで簡単に手を洗い全ての準備を完了させた。それと同時に高町夫妻も用を済ませてやって来て喫茶『翠屋』は堂々営業を開始しようとしていた。

 開店と同時に数人の客が入ってくる。カウンターの士郎と気軽に話し掛けている所を見ると恐らく常連なのだろうと思いつつ、無駄に目立つ事を避けたトレーゼは厨房の奥へと引っ込んでいった。後で知ったが、元々男性がバイトとしてここに居る事自体が珍しいらしく、隣のバイト仲間からもチラチラと視線を感じていた。おまけに見た目が外国人のそれという事もあってか、こうして外に出ると嫌でも注目と好奇の視線に晒される。それが特に不愉快と言う訳でもないのだが、外部からの感覚に対して非常に鋭敏なトレーゼにとって無視しようにも無視出来ない状態がむず痒かった。

 数分後、今日の初めての来店客は来た時と同じように談笑しながら会計を済ませ、にこやかに去って行った。それと入れ違いに今度は二組の客が足を運び入れる。今度はカウンター席に座ってコーヒーを注文していた。それを厨房の奥で観察しながら運ばれてきた食器を洗って食洗機に入れる作業を繰り返す……。まだ開店したばかりなので客は少なく、あまりやる事が無い。正直言ってとても暇だ。奥の方では例のバイトがケーキ作りの為にオーブンと睨めっこしており、自分が手伝わなくても充分そうだったので放置。表のテーブル始末は客も少ない事もあって桃子がオーダーと一緒にこなしている。士郎のポジションは元からカウンターのコーヒーマスターなので関係無し。特にこれと言って複雑な作業も無いので実に暇だった。

 その後もトラブル無く業務を進めたが、昼頃になって急増した客足を見た桃子が一言──、

 「トレーゼ君、そろそろオーダーの方お願い出来るかしら?」

 恐らくあらゆる業務において最も難しく、そして最も面倒事が舞い込む仕事……それが『接客』。単にマニュアル通りにしていれば良い裏方とは違い、時に柔軟な、時に硬派な対応が求められる。その為、この業務でストレスを感じる事も多々あるのだ。

 渡された注文用紙とペンを片手に厨房から客の待ち構えるテーブルへと出陣する。一歩踏み出した瞬間に客のほぼ全員の視線がトレーゼに注がれた。日本人離れした容姿と、普段ここでは見掛けない男性従業員と言う二点が彼を一瞬にして注目の的へと仕立て上げる。それを意に介さず、彼は注文のあったテーブルへと接近する。

 「……ご注文は?」

 「えっと、シュークリームとコーヒーのオリジナルを二つ」

 「シュークリームが、二点。コーヒー、オリジナルブレンド、二点。以上で、よろしいでしょうか?」

 「は、はい!」

 何故か酷く怯えさせてしまったようだ。戦いではないので殺気は微塵も出してはいないはずなのだが……と、そう考えつつ彼は厨房の桃子にオーダーを伝え、また別の客にも注文を取りに行った。そこの客にも大体似た様な反応を返され、トレーゼは鉄面皮を保ちながら内心では不思議で仕方がなかった。三組目の客に注文を取りに行った際はそれまでとは打って変わって妙に興奮した感じだったのも彼にとっては不可解な現象だった。

 だがその後カウンターの方から観察した限りでは不快そうにはしておらず、事の様子を見守っていた桃子と士郎からも注意は受けなかったので良しとした……。










 午前11時00分──。



 「どうして、こうなった…………?」

 時刻は昼前、昼食にはまだ早いはずのこの時間帯……

 喫茶店『翠屋』はこの数週間で稀に見る大盛況を迎えた。

 「すみませーん! 注文いいですかー?」

 「こっちも後でお願いします!」

 「タルトまだですか~?」

 満席御礼とはこの事か、一体どんな経緯でそうなったのか教えて欲しい程の数の客が来店していた。最大で六人は座れるテーブル席も全てが満席となり、カウンター席にも余す事無く客が腰掛けていた。良く見れば表の方にも何人か並んでいる。この前変装して来た時はここまで混んではいなかったはずだったが……。

 ただ一つ、この大繁盛に際して疑問が一点……

 「…………なぁ、ミセス・タカマチ」

 「何?」

 「何故、女性客ばかりなんだ?」

 「そりゃあ、ここってケーキメインの喫茶店だもの~。女の子はスイーツ好きでしょ」

 「いや……幾らなんでも、これは……」

 これがただの大盛況程度であれば或いはトレーゼも特に疑問には思わなかっただろう。性別の嗜好の相違により、女性の方がスイーツ、甘い食物を好む傾向にある事は理に適っているからだ。

 だが何故かその女性客からの視線がやたら痛い。背後や視界の隅からこれでもかと言わんばかりの注目の視線が彼を突き刺す。しかも何か知らないがその視線が妙に熱っぽい……ある種の殺気じみた感覚さえ抱かせるそれに、トレーゼは自分が恐れを成している事を自覚させられていた。

 「あらあら、お客さんったら皆してトレーゼ君にお熱なんだから」

 そう言って桃子がさり気無くケータイの画面を見せる。インターネットに繋がれたそれにはツイッターのページが開かれており……

 “メチャ×2 イケメンの店員が働いてる喫茶店発見! これから昼ご飯兼ねて凸しまーす”

 “問題の喫茶店で食事なう”

 “マジイケメン、クソワロタwww”

 「ね?」

 「……………………」

 この日、戦闘機人トレーゼ・スカリエッティは人間の持つ俗っぽい一面に触れる事となった。










 四時間後──。



 「お疲れ様、トレーゼ君。そろそろ上がってもらってもいいよ」

 「了解」

 午後三時、昼が過ぎて久しいこの時間帯になってようやくトレーゼは業務から離れる事が出来た。と言うのも、例の女性客の件で美由季の目論見通りになった事から上がるに上がれず、結局昼下がりまでオーダーの方をメインに仕事をする羽目になったからだ。昼時のピークを乗り越えて一段落し、彼はエプロンを脱いで裏口から密かに退出しようとした。

 「あ! ちょっと待ってトレーゼ君」

 ふと桃子に呼び止められて振り返ると、彼女はその手にケーキを入れた小さな箱を二つ持っていた。

 「こっちはお給料代わり。トレーゼ君とスバルちゃんの二人で食べちゃって。それで、こっちはちょっと頼みたいんだけど……」

 そう言って今度はごそごそとポケットから何かの紙片を取り出す。簡単な図形と文字が描かれたそれはこの周辺の略地図だった。隅の方に星印がマークされているのを見ると、どうやらそこへ行けと言うのだろう。

 「誰かに、届けるのか?」

 「十年以上前にここでバイトしてもらってた子なの。クリスマスにはまだ早いんだけど、毎年恒例でこうしてケーキをプレゼントしているのよ。良かったら届けてもらえないかしら?」

 「構わない」

 「よかった。これ地図ね」

 略地図を受け取り、表に出たトレーゼは一旦高町宅へと戻る事にした。まずは給料代わりとして受け取ったケーキを冷蔵庫に入れるべく。










 行きと同じ様に両足のローラーで帰宅した彼はそのまま居間へ直行。ちょうどその時、台所で何やら作業をしていたスバルと鉢合わせた。食欲をそそる匂いが充満しているのを見ると、どうやら台所を借りての調理をこなしているようであった。

 「おかえり。どうだった、初バイト」

 「……別に」

 そう言って軽く受け流し、給料代わりのケーキを冷蔵庫に収納、そのまま一拍も置かず桃子に頼まれた用を済ませる為に再び外出しようとした。

 「どこか行くの?」

 「モモコに、頼まれた。これを、届けに行く」

 「ケーキ? あたしも行くよ。この炊飯だけだったし、他にやる事も無いから」

 「勝手にしろ」

 そう言いながらトレーゼは先に玄関に出てスバルが身支度をし終えるまで待機する。しばらくして出て来た彼女の姿は冬の街には似合いな防寒着に身を包んでいた。それでもまだ寒い寒いと連呼している辺り、どうにも堪え性と言うものが欠けているとトレーゼは判断した。

 「て言うか、トレーゼの方は寒くないの?」

 「ああ、全く」

 お世辞にもトレーゼの服は冬に着るには合わない服だ。一応長袖ではあるが冬服らしい箇所などそれ以外には無く、相変わらず白い布地は日光を全て反射し外部からの温度を保つには不向きとしか思えなかった。だがそれでも彼は自身の服装を決して改めようとはしなかった。

 渡された地図の通りに歩くと次第に目的地に近付いていた。

 「場所ってどこ?」

 「『メイシンカン』と言う、武道を教える、会場らしい。そいつは、そこに居るらしいが……」

 地図の通りに沿って歩く事約二十分……。

 「ここか……」

 二人が行き着いたのは正しく道場と言った感じの貫禄ある建物だった。看板には格調張った書体で『明心館本部道場』と彫られており、閉め切った中からは鍛錬に勤しむ何人かの掛け声が響いてきていた。

 「ここがその人の居る場所?」

 「ああ。場所は、ここであっているはずだ」

 玄関先で立ち往生する訳にもいかず、トレーゼは迷う事無く会場に続くドアに手を掛けようとした。

 だが──、



 「どちらさんだい?」



 脇から聞こえてきた声にトレーゼの動作が一瞬凍りつく……。いつからそこに居たのか分からない、或いは初めからそこに居たのかもしれないとすら思える程に自然に、その人物は二人の前に現れた。短く刈り揃えられた頭髪は白髪混じりのゴマシオ、少し曲がった腰などを見るとその人物がかなりの高齢だと見受けた。着用している胴着に縫われた『明心館』の刺繍からこの老人がこの道場の関係者である事だけは分かった。一見すればどこにでも居そうな好々爺だが、トレーゼとスバルの二人はその老人の身のこなしに何かしらの違和感を感じていた……。

 特に、生来より戦闘する事を目的に生み出されたトレーゼは突然の老人の出現に殺気を隠そうともせず……。

 「老体……貴様……!」

 「おや? そりゃあひょっとして、翠屋のケーキかい?」

 だが老人はまるで意に介さず、彼の持つ箱を見ると一瞬でそれを喫茶店「翠屋」の物だと判じた。どうやら目の前の老人はあの店の事を知っているようだが、まさかこの老人が十年前に喫茶店でバイトをしていたとは到底思えない。

 「館長、お客さんですか?」

 すると、玄関を開けて別の人物が顔を覗かせた。声は女性のそれ……その人物は腰の黒帯を締め直しながら出て来ると、来客であるトレーゼとスバルに会釈した。

 「こんにちは。明心館本部へようこそ」

 その女性は白い道着に黒帯を巻き付け見事に着こなし、短く整えられた髪は格闘技を学ぶには邪魔にならず、身のこなしも傍の老人ほどではないにしろ緩やかさの中に重厚さが見え隠れしていた。

 それだけなら特に驚くには値しなかっただろう。そう言った鍛錬を長年続ける人物は他にも居るのだから。

 だがしかし、トレーゼとスバルはその女性を目にして驚きを禁じえなかった。

 何故なら──、

 その女性は──、



 「初めまして。城島晶です」



 容姿がこの上なくスバルに酷似していたのだ。










 城島晶……学生時代に家庭の事情から高町家に居候し、そこでバイトしていた経験を持つ。同家に世話になっていたのは十三、四年前……時期としては高町なのはが小学二年生の頃の話である。小学生の時より空手の修練に励み、今ではこの明心館本部の師範代として何十人もの門下生を鍛える日々に明け暮れている。

 その頃の縁により、バイトを辞めた今でもこうして毎年この時期にはクリスマス祝いとしてケーキをもらっているのだった。

 それにしても……

 「へぇ、それじゃあもう二十年もこうして格闘技を習っていらっしゃるんですか!」

 「まぁね。ナカジマさんも何か?」

 「はい。あたしも一応────」

 他人の空似とは分かっていても、どうしても見比べずにはいられない。年齢が離れているので見分け自体は容易だが、城島の容姿はスバルのそれに似過ぎていた。スバルの年齢をそのまま十年分加算させれば、丁度彼女のようになるのだろうか。

 「いやいやぁ、それにしてもあの嬢ちゃん、うちの晶にそっくりだな。親子か、齢の離れた姉妹みてぇじゃねえか」

 「はぁ……」

 物を渡してそのまま退散するはずが、スバルと晶が妙に意気投合してしまった所為で帰るに帰れず、トレーゼの方は先ほどの老人に一方的に会話の相手をさせられていた。

 老人の名は巻島十蔵。この明心館の館長であり、巻島流の創始者でもある立派な武道家だ。今でこそ年老いているものの、同じ武道を修める士郎からも一目置かれる実力者、それが彼だった。実際、老骨とは思えない気迫がその体の隅々より滲み出るのをトレーゼは感じる事ができた。

 故に彼は老人を警戒して一瞬たりとも油断しなかった。先の身のこなしは明らかに達人級……空手など、精々護身や競技の域を出ないと高を括っていたが、殺人と破壊を目的として生み出された己が第三者の気配に気付けなかった事を重きと認知したトレーゼにとって、隣に座す老人は新手の脅威以外の何者でもなかった。

 「ほう……お前さん、さっきからバカみてえに気張ってるがよ、この俺が怖いのかい?」

 「何ぃ……?」

 十蔵の顔がやけにニヤついているのを見ると十中八九それが安い挑発なのだと冷静に考えれば分かるはずだった。だがまさにその相手の事で気が立っていたトレーゼは思わずそこで怒気が混じった声を出してしまった。濃密な殺気が混じったそれに反応できた門下生は僅かだったが、それまで談笑に華を咲かせていたスバルと晶は鋭敏に察知すると、互いに立ち上がった。

 「館長、初対面の人をからかうのは良くありません」

 「トレーゼ、落ち着いて!」

 特定少数に対して放った殺気に反応した所を見る限り、晶も師範代を任されるだけの事はある。十蔵を注意するように見えながら、さり気なく双方の間に割って入り不要な争いが起こるのを防いだ。スバルの方も腰を浮かし掛けていたトレーゼを押し留めると、その隣に腰下ろして彼を落ち着かせるのに一役買った。

 「ごめんなさい。館長はこう見えて落ち着き無くて……」

 「おいおい、それじゃまるで俺が悪ガキみてえじゃねえか」

 「実際それより性質悪いですよ」

 張り詰めた空気が緩み、門下生らは再び鍛錬に打ち込み始めた。トレーゼもさっきの自身の行動は控えるべきものであったと反省した。

 だが、それと同時に彼の胸中に芽生えたある思考……。それは好奇心、先の十蔵の言動をきっかけに生じた突発的な興味本位の思考。



 この老人と自分はどちらが強いのだろう?



 純粋な人間でありながら、ある種の高みに自力で辿り着いた人種……。初めから高みに到達していた天才高町なのはや、本人が望まずも外的要因によって実力を付けたフェイトやはやてとも違う人種に、トレーゼは興味を抱いていた。己が力だけで高みへ至った者の“武”と、最初からそうである事を前提に生み出された自分の“力”…………比べたい。

 だから、彼が次の瞬間に発した言葉は極々自然だったと言えよう。

 「老体、俺と、手合わせ願おう」

 「なっ……!?」

 「へぇ。正気かい?」

 ストレート且つ曲解を挟む余地も無い率直な要求……それを真正面から受けた巻島老人は、ただ不敵に笑っているだけだった。こうして真正面から戦意をぶつけられているのに少しも動じないのは己の実力に自信を持っているか、年齢ゆえの落ち着きか、或いはその両方か……とにかく、そんな十蔵相手に好奇心から去来する戦闘意欲を抑える事もせず、更に詰め寄った。

 「如何した? まさか、年端もいかない、若造に、怖気付いたか?」

 「挑発がうまいな。さっきのお返しかい。俺としても強い奴と戦うのはやぶさかじゃあねえが、あんたとやり合うのは遠慮してえな。そん代わり……」

 そう言いながら十蔵は傍に控えていた晶を引っ張ると……

 「晶、お前が相手してやれ」

 「いいんですか?」

 「若い奴が気張ってるんだ。無碍にはできんだろうよ。そらそら! ちょいと空けてくれや」

 鍛錬を行っていた門下生らを壁際まで下がらせ舞台を整える。まだ了承の返事すらしていないのにこの行動の早さ……自分がやるつもりでもないのに妙に張り切っているのは気のせいだろうか。促されるままにトレーゼと晶は道場の中央へと進み出た。

 「ルールはフルコンタクト。顔面以外の直接攻撃が認められている。反則技は金的蹴り、頭突き、掴み技、ダウンした相手への直接加撃、背後からの攻撃……ここまではOK?」

 「カラテの、ルールについては、粗方知っている。問題は無い……何もな」

 「そう。なら、始めよっか!」

 互いに向き合って一礼の後、十数人の門下生らが見守る中で試合が始まろうとしていた。両手を前に出す独特の構えから戦闘態勢に移行した晶に対し、トレーゼの方は両手をぶら下げたままじっと彼女を見据えるだけだった。だがそれを戦いの合図と受け取った審判役の十蔵は両者を確認した後──、

 「始めっ!!」

 試合開始の掛け声と共に晶が動く。大人故のリーチを活かした渾身の蹴りがその軌道にトレーゼを捉えた。

 「……フン」

 それを寸前で身を翻して回避するが、変わらずトレーゼは攻撃に転じない。相手の出方を見極めてから動くのだろうと周囲の者達は解釈し、事実対戦相手の晶でさえそう考えていた。

 だが、そんな中で一人だけ現状において不安を覚える者が居た……。

 「嬢ちゃんは何だか浮かねえ顔してるな」

 「あ、いえ……その……」

 試合を観戦して熱が入る門下生らとは対照的に、その様子をハラハラした感じで眺めていたスバルに気付いた十蔵がそっと話し掛ける。

 「あの坊主、相当やるようだな。牽制って言っても、あの晶から一撃も当たらずに避け続けるなんてよ。戦いの才能がある」

 「そうですか……」

 「ああ。だが、武道には向いてないな。これっぽっちも向いてない」

 「? どうしてですか?」

 武道とは即ち、強さを修める事だ。先天的後天的に関わらず、全ての強さを目指す者が己が高みに到達する為に通る“道”……武の道、即ち『武道』。先天的に天才的な強さを有しているトレーゼなら符合するとイメージしていただけに、その道のプロから否定された事にスバルは疑問を覚えずにはいられなかった。

 「その事は嬢ちゃんが一番良く知ってるんじゃないかい? だからさっきからずっと気にしてんだろう」

 「……………………」

 胸中を暴かれたように感じたスバルはそのまま押し黙った。

 そして──、



 彼女の不安が現実の物となったのはこの三十秒後であった。










 (おかしい……この子、さっきからずっと攻めて来ない)

 晶がその疑問に辿り着いたのは至極当然と言えよう。開始から早くも二分が経過したが、目の前の少年はこちらに対して蹴り一つ入れる気配が無い……。こちらからの攻撃を牽制も含めて全て回避しているのは目を見張るものがあるが、それを繰り返す事でこちらの消耗を待っているのだとすればそれは愚かな判断だと、晶は眼前の不遜な少年に心中で警告を発した。

 掴み所が無い相手ほど戦い難い者はない。かつての喧嘩友達、『鳳蓮飛』がその良い例だ。得手とする拳法の相性もあったが、彼女と拳を交えて勝った回数は数える程しかない。今目の前の少年はその意味ではかつての悪友よりも難敵に捉えられていた。敵意も無ければ先ほど十蔵に対して向けていたような戦意の欠片も無い……真剣に取り組んでいるこちらを挑発しているのか。

 (でも、生憎と昔と違ってそんな安い挑発には乗らないよ)

 心身共に余裕に満ちた彼女にとって、今の少年の動作は児戯にも等しく思えた。こちらの攻撃を避け続けるなら、逆に痺れを切らす瞬間を狙えば良い……そう考えて晶は静かにその瞬間を待った。

 そして……

 (来た!!)

 こちらの蹴りを避けた瞬間、僅かに足の軸がぶれたのを見逃さなかった。格闘において全ての基盤となる軸足、その挙動が僅かでも狂えば試合においては命取りとなる……まさにその好機が舞い込んできた事に晶はここぞとばかりに、これまで以上の威力を秘めた蹴撃を放った。完全に軌道に捉え、最早回避は不可能……誰もがそう確信していたはずだった。



 はずだった。



 振り上げられた足が急停止する。直撃したのではない……確かに足は彼に“当たった”、だがそれは少年に一切のダメージを与える事は出来ず、逆に己の動きを封てしまうと言う結果をもたらした。

 「そんな……!?」

 晶の脚はトレーゼの剛腕によってがっちりと捕まえられていた。本来空手とは、柔道とは違って掴み技や寝技の類は認められていない。袖や胸元に関しては数秒以内に限り接触を認めると言うルールも存在し、もしこの行為が防御を取ろうとしての反射的なものであれば誰も何も言わなかっただろう。だがしかし、この場合、トレーゼの手は初めからその脚を捕まえる為に存在していたのだと分かるのに時間は掛からなかった。

 「フンッ」

 足を捻られバランスを失い、晶は床に叩き付けられる。すかさず体勢を立て直し起き上がろうとしたが──、

 「うぐっ!!」

 側頭部に強烈な衝撃……。瞬間、彼女は自身の平衡感覚を喪失し、完全に地に伏した。

 脳を揺さぶられて昏倒した彼女の様子を確認し、静まり返った場内の中央でトレーゼは一言、こう宣言した。



 「俺の、勝ちだ」










 「は……反則だ」

 最初は誰が言ったのかは分からなかった。だが、誰かを発端として始まったその波紋はやがて門下生らに波及し、遂に道場の中はかれらの怒号に塗れる事となった。皆が口々に「ルール違反だ」、「正々堂々と闘え」などと声高にトレーゼを批判し、血の気の多い一部の男子は今にも飛び掛らんとしていた。

 だが当の本人である彼は至って涼しい顔であり、自分を指差して批判する一人を認めるとその者にこう問うた。

 「ルール違反? 俺が、卑怯だとでも?」

 「だってそうじゃないか! 最初に空手のルールは熟知しているって言っておいて……!」

 この試合においてトレーゼが犯した反則行為は三つ……。

 一つは『掴み技』。これは晶の蹴りをとっさの反射ではなく故意に受け取った事に関する。

 二つ目は『ダウン後の攻撃』。足を取られて体勢を崩した晶への追撃が当たる。

 そして最後に『顔面への攻撃』。晶を昏倒させるのに用いた最後の一撃である。

 これだけの一度の組み手でこれだけの反則行為を犯せば公式非公式に関わらず糾弾の的となるのは当然と言えよう。しかもそれを神聖な道場で行ったとあればその一門全体に喧嘩を売っていると取られてもおかしくない。

 だが、自ら火種となってなお、トレーゼの態度は終始冷静だった。

 「卑怯? そうか、卑怯か……。なら、聞くが」

 そう言って批判していた門下生に詰め寄る。にじり寄って来た冷たい波動にその者は口を閉ざし、押し黙った。

 「ルールは理解した……俺の行為が、カラテにおける反則技、である事も、重々承知だ。その上で、確かに俺は、『理解した』と言った。だが────」



 「誰が、貴様らと同じ土俵で、戦うと言った?」



 その傲慢極まりない台詞にほぼ全員が震え上がった。そして同時に理解する……眼前の異人の少年は勝つ為なら手段を選ばない外道であると。

 「この国には、便利な言葉があるそうだな。『勝てば官軍。負ければ賊軍』……。よう、賊軍諸君。敗者は大人しく、頭を垂れろ」

 そう、最初から正々堂々と戦うつもりなど彼には毛頭無く、ただ最初から勝つ事だけを前提に行動していたに過ぎなかった。彼にとって格闘技とは即ち、『武道』ではなく『遊戯』……そこに真剣勝負の概念は無く、どんな卑怯極まりない手を駆使してでも、どちらが上でどちらが下かを徹底的に自覚させる場だと解釈していた。

 「さて、老体……手段や経緯はどうあれ、俺は勝ったぞ。手合わせ願おうか」

 「それはやぶさかじゃねえが、そんなお前さんに良い事教えてやるよ。耳貸しな」

 ちょいちょいと手招きする巻島老人に誘われ、警戒しながらもトレーゼは言われた通りに顔を近付けて耳打ちの形を取った。

 そして……

 「誰が勝ったら戦ってやるって言った?」

 「……………………」

 「ハッハッハ! 頭冷やしてきな坊主。今のお前さんとやり合っても面白くないからな」

 豪快に笑いながら巻島老人はノビている晶を叩き起こし、呆然と立ち尽くしたままのトレーゼを置いてさっさと戻って行った。それに従って門下生らも再び組み手を再開する。何人かは未だに好戦的な目付きをしていたが、実力の差を弁えていた彼らは一人も喧嘩を吹っ掛けようとはしなかった。もっとも、戦いの熱を中途半端な形で不意にされてしまったトレーゼの方は不機嫌極まりなかったが……。

 「…………下らない。行くぞ、セカンド」

 「ま、待ってよ! それじゃ、あの……失礼しました!」

 先を行くトレーゼに遅れないようにしながらも退室の礼は欠かさず、妙な緊張状態を残したままの道場を後にした。










 外に出た瞬間に忘れていた寒風が二人の体を煽り、無言の緊張が更に頑なにトレーゼとの隔たりを大きく感じさせた。彼がどれだけあの館長との戦いを望んでいたかは知らないが、はぐらかされてここまで不機嫌になるくらいだ……よっぽど切望していたに違いない。

 (それにしても……あの巻島さん)

 巻島十蔵……最初は腕が立つ老人程度の認識しかなかったが、あのトレーゼの本質を初対面で見抜いたのは流石と言うべきだろう。トレーゼの方も彼の強さを見抜いていたからこそ戦いを強く所望していたのかも知れない。

 だが分からない……。

 対外関係に非常に消極的だったトレーゼが何故今になって急に躍起になりだしたのか……? 元々破壊と殺人を目的に生み出されているとは言え、あれは少々熱くなりすぎだったのではないだろうかとスバルは考えていた。

 彼はここ最近ずっと不安定だ。回転したコマが失速すると同時に迷走するように、“彼”と言う一個の存在が徐々に失速して軌道を狂わせているような気がしてならない。迷走するコマの軸はとても不安定で、少し接触してしまっただけで容易くよろけ、そして二度と動かなくなる。その“動かなくなった”状態が何を指し示すのかは分からない。ただ一つ分かる……一度“動かなくなった”モノは決して自らの力では動けないのだ。誰かが手を差し伸べ、起こし、支え、立たせ、背を押す事でようやく“動ける”のである。もっとも、背を押された先で歩き続けるかどうかはその者の意思だが。

 なら、せめてその役目は自分が負いたい……。

 何の役にも立てない自分を歯痒く思いながらスバルは寒空の下で静かに誓った。




















 翌日、12月5日──。



 その日も翠屋はほぼ満席状態だった。今のところ来客は、昨日の噂を聞きつけた女性客が四割、昨日からの連投が三割、それであとの三割はいつも通りの常連面子と言った所だった。昨日の繁盛振りに味を占めたのか、桃子は積極的にトレーゼをオーダーの方に回し、彼も黙ってそれを淡々とこなした。あからさまに業務口調で愛想や柔軟さなど欠片も無いが、それがイイと齢若い女性陣には人気だった。

 その日のトレーゼの業務は13時に終了した。昨日の予想以上の繁盛に他のバイトのシフトを用意していなかったのを教訓に、予めシフトを組み直しておいたのである。厨房の隅でケーキ生地を焼いている桃子に軽く会釈をし、裏口から出る。来る時の持ち物はエプロン以外何も無いのでバッグの中は軽いものだった。そのまま彼の足は高町宅に向かって歩みを進めようとしていたが……。

 「やぁ!」

 聞き覚えのある声に思わずそちらを振り向く。そこには──、

 「待ってたよ。トレーゼ君」

 昨日訪れた空手道場「明心館」の師範代、城島晶が居た。昨日の道着姿ではなく、性格を投影したようなラフでカジュアルな服装はまた新鮮だが、それ以上に気になる事がただ一つ。

 「何しに来た? 先日の、礼参りか?」

 昨日は神聖な道場で卑怯な勝ち方をした……と言うのは道場側の言い分であり、トレーゼ本人は全く悪びれる様子は無い。勝つ為に取った行動に善悪は関係無し、勝った者が正しい……それが彼の理論だ。

 「ちょっと、この後暇?」

 「特に、予定は無い」

 「あっそ。じゃあさ、ちょっと私とデートしない?」

 「は?」

 いきなり何を言い出すんだこいつは、と言わんばかりの口調でトレーゼは言葉をひり出す。何が悲しくてこんな者と行動を共にしなくてはならないのか……。そもそも彼女に対する印象はあまり宜しくは無い……と言うのも、容姿を含めた全ての要素が自分が最も苦手とする人物、スバルに酷似しているからだ。違うのは年齢くらいだ。後はまるで鏡写しが如く似通っている。とても、虫唾が走り不快になる。

 また適当にあしらっておこうとも考えたが、相手は大人、良くも悪くもまだ青いスバルとは違って一度食い下がると面倒かも知れない。しかもそれがスバルと同じ性格なら尚更だろう。本当に、面倒な事この上ない。

 実に不愉快だが、こう言うタイプはどうする事も出来ない。これはいわゆるアレだ、災害と一緒で予測は出来ても回避は出来ないモノだ。ならば、甘んじて受け入れるより道はないだろう。太古の昔より人間は小さき存在である自分達の手に余る現象と相対した時、常に「やり過ごす」ことで生き延びてきた。だったら、自分もそれに倣うまでだ。相手のほとぼりが冷めるまで精々好き勝手に喋らせておくのが一番良い。

 「良いだろう。どこへでも、付き合ってやる」

 それならさっさと相手を満足、もとい、飽きさせてしまうのが得策だ。トレーゼはそう考え、大人しく晶の後に続いた。

 以外にも彼女は徒歩で来たのでは無かった。少し離れた所にオートバイを駐輪しており、ハンドルに引っ掛けていたヘルメットを投げ寄越すと乗る様に促した。もちろん、普通のストリートタイプなのでサイドカーも付いてはいない。

 「二人乗りは、交通法違反だろう?」

 「知らない? 免許取って三年以上したら二人乗りだってオーケーなんだから。君って二十歳でしょ? だったら問題なし!」

 まさかこの身が生を受けてたった十年かそこらしか経っていないとは言えない。なので大人しくメットを被ると彼は晶の後ろに跨り、座席下の支えを掴んで体勢を整えた。時速70kmで走ろうが飛ばされない自信はあったし、何より彼女の運転は安全運転だった。

 それほど時間を掛けず、二人を乗せた単車は街から少し離れた小高い丘の上へと辿り着いた。展望台のように木で出来た柵にもたれ掛かり、眼下に広がる冬の海鳴を睥睨する。遠く青い海からの潮風が更に気流を引き連れてここまで吹いて来るのが分かる……常人には感知出来ないだろうが、鋭敏なトレーゼの鼻腔は潮と排気ガスの入り混じった悪臭を既に捉えてしまっていた。

 「いい場所でしょ?」

 「どこがだ……」

 感覚はセーブしても常人の十倍以上は保持される。なので、大気中の微粒子を感知してはその悪臭に眉をひそめる。まったく、難儀な肉体だ。

 「ここね。夕日が綺麗なんだよ」

 知らない。だったら夕刻に誘えば良かったのでは?

 こう言うタイプの人間は本当に脈略が無いから困る。何でもかんでも突然に話題を吹っ掛けては場を掻き乱し、如何にも自分は傍観者を決め込む……傍観者など存在しない、存在する者は全てが第一者であり、第二者、無関係の第三者など最初から居ない。誰も望んでいない舞台に上がって来て欲しくはないものだ。

 「…………一つ、昔話してもいい?」

 「ああ」

 「ある所に、一人の女の子が居た。その子は俗に言う『どこにでも居る平凡な子供』だった……両親二人に、そして自分、どこにでも見当たる家族構成。そして、その両親が互いに不仲だったって言うのも良くあることだった。別段、珍しくもないでしょ?」

 感想を求められても答える術は無い。この身はそんな『在り来たりな不幸』を経験した事はないからだ。そして、他者がそうなったところでこう言い放つだろう……「それがどうした」、と。

 「家庭がややこしくて、女の子は家出同然に逃げ出した。やさぐれてたのね……逃げた先に何かがあると思ってた。ううん、思いたかったのかしら。そしてその子は出会った……」

 何に?

 「その人は強かった。“強さ”……自分の手が届かない高みにあるそれを、その子は手に入れたいって願った。もちろん、願った程度じゃ手に入りっこないってのは分かってた。だから努力した。それこそ陳腐な表現だけど、雨の日も風の日も、血を吐く思いで必至に頑張った。その人を目標にして、いつか絶対その人に認めてもらうんだって」

 何かに憧れそれを追い求める……それもまた、一つの欲望の形だ。何かを激しく欲し、あまつさえ、“それ”その物になろうとさえするのが人間の性だ。

 「でも、その人は私を認めてくれなかった。私が目標に向かって努力する姿勢は認めてくれてた……でも、その先に行き着く結果は認めてくれなかった」

 そして、ヒトは必ず他者が何かを欲するとそれを邪魔する。倫理的、道徳的、人道的……そんな実の伴わない机上の空論ばかりを振り翳し、せっかく伸ばした手を叩き落とす。

 「納得いかなかった。秀でた才能とか無くて、ただ自分の夢を叶える為に努力してるだけなのに、何で皆して反対するのって…………。でもね、気付いたのよ。自分の求めていたのは幻想だって」

 つまるところ、目の前の女は諦めたのだ。その高みに辿り着けなかったのか、或いは辿り着いたが手に入れられなかったか、そんな事はどうでもいい。単純な話、彼女は手に入れようとしていたそれが自分の目指していたモノと違っていたから、みすみすそれを手放すという愚かな行為に至っただけ。

 「君ってさ、昔の私に似てるんだよね。一つの目標にガムシャラで、他の事が目に見えてない。それってとても危険な事だと思うんだ」

 ふと、それまで街の風景を眺めていた晶が向き直る。その視線は真摯にトレーゼの金色の眼を捉え、その奥底を見極めようとしていた。

 「君の目標って何? 君は……何を望んでるの?」

 「……………………例えば……例えば、自分の歩んで来た足跡が、全て例外無く、全否定されれば、貴様は、どうする?」

 「え……?」

 「そこに、情状酌量の余地は、一切無い。出生から、その過程、そして、現在と言う結果に至るまで……その全てが、まやかしだ、ニセモノだと、否定された瞬間……貴様はどうする?」

 一分一厘たりとも認められない己が生……果たしてそこに何の意義があるのか? ある種、究極の問いとも言えるそれを突きつけられ、その解を晶は──、

 「分からない。私は否定された事、ないから」

 「だろうな」

 溜息と共にトレーゼはそう吐いた。この世に、真の意味で存在を否定される者はそうそう居ない。

 「貴様に……俺の苦しみ、痛み、悔しさ……分かるはずがない」

 「君は“ニセモノ”なの?」

 「さぁな。俺が、この短い生の中で、最も敬愛した者から、そう宣告されたのは、事実だ。だが、少なくとも、俺は俺自身を、知らずに生きて来た。俺の意義は、価値は、知った事で、崩壊してしまった」

 知らなければ良い事実がある。だが知ってしまった以上はどうする事も出来ない。決定した過去を覆すのは神の所業、そして、こんな下らない世界に神なんて居ない。

 だから──、

 「なら、贋作と蔑むなら、真作を上回れば良い。俺は、その結論に、辿り着いた。贋作は、真作より劣る…………ならば、真作を、凌駕すれば、それは改作となる。それが、真作と成り得るんだよ」

 「それが、君の目標? 完成される事が君が一番望む事?」

 「ああ。貴様の、身の上話は、つまらなかったが、俺が望むのは、かつての貴様と、ほぼ同じだ」

 即ち──、

 「『強くなりたい』……。だったら、君にとっての強さって何?」

 「勝利」

 「じゃあ、勝利って……?」

 「知れた事……。己が一人、そこに立っている……他に立っている者が、居なければ、それが勝利だ」

 もう語る事は無いと言わんばかりにトレーゼはヘルメットを被り込んだ。晶もどこか釈然としないと言った感じながらもバイクに跨り、来た道を共に戻り始めた。










 高町宅に停車した車上から降り、トレーゼは借りていたメットを返却する。

 「家出した時はここでお世話になってたんだ」

 どうりで高町家と親しいはずだ。そんなどうでもいい事を考えながらトレーゼは玄関へと足を伸ばそうとした。

 「ねぇ!」

 その足が止まる。

 「君の勝ち方は歪んでる! そんな勝ちじゃ誰も認めないし、そんなのに負けても誰も納得しない。君はそれでいいかも知れないけど、そんなのを続けてたらいつか君は一人になるよ」

 何を今更。この身は既に孤独……失うモノなど何もありはしない。

 「入り口を示して、道を導いてくれる子が君には居るじゃん」

 「……………………」

 「あの子は大事にしてあげなよ。君の『勝ち負け』にあの子を巻き込んじゃダメだ」

 「……………………」

 「また暇な時でいいからさ、道場に来なよ! 私や館長は大歓迎だよ!」

 最後にそう言い残し、城島晶は軽快なエンジン音と共に遠ざかっていった。その背中を凝視しながら戦闘機人は一言、こう漏らした。

 「下らない」

 そう、本当にくだらない。惰弱なモノにこの重さは、この苦痛は、この悔恨は支えられない。否、支えさせてはならない。

 (この身が背負うは自己の全て……。苦痛も悔恨も、それはすべからく俺のモノ……誰にも渡してはいけない、誰にも共有させてはいけない、誰にも理解させてはいけない。何故なら、それらは全て俺のモノだから)

 自分が持たざるは“敗北”のみ。そんなモノは自分以外に全て押し付ける。自分が勝利すると言う形で……。なればこそ、他の者は受け皿の役目を果たしてもらわなければならないのだ。

 それが、この身が“完成”へと至る手段。それこそが、この贋作たる己が真作を上回るに必要不可欠な行為。飲み込み、喰らい尽くし、貪り続ける……これこそが自己の渇望、自己の欲望、我が願望! 誰にも止められないし、無論止めさせるつもりも無い。近寄る者には敗北を……そうして他者を蹴落とし、己だけが高みへと至るのだ。



 この瞬間、彼の中から本来の目的、『存在意義の証明』がその意味を成さなくなった。










 次元世界標準時間、12月6日、とある辺境の砂漠にて──。



 「ご協力、ありがとうございました」

 「いえ、私共も大したもてなしも出来ず、そればかりか要らぬ誤解をしてしまっていた」

 「私は客人ではありません。それに……公務とは言え貴方達に許されざる行為を働いたのもまた事実です」

 早朝、東の地平線に昇る朝陽を受けて長い影を砂の地面に落としながら、その女性は砂漠の民に別れを告げようとしていた。滞在していた日にちは三日間……元々ここまで長期に渡って居つく予定ではなかったのだが、ここで得られた『予想外の情報』が彼女の足を止めたのだ。それはとても興味を惹くと同時に、知ってしまえばとてもおぞましいモノでもあった。

 だが知らなければ良いとは思わなかった。それが彼女の心中にある劇的な変化をもたらす契機となったのだから、むしろ予期せぬ収穫と言うべきだろう。もっとも、そんな事は口が裂けても言えないが。

 「それでは────」

 「お待ちください」

 族長らしき男性が前に進み出てその手に何かを握らせる。最初はその意図が分からなかったが、すぐに理解すると彼女は握り締めたそれを懐に仕舞い込んだ。

 「確かに受け取りました。これは必ず私から彼に手渡します」

 「頼みましたよ。それでは、二度と会う事もないでしょうが、どうか息災で……」

 別れの言葉を胸に刻みつけ、女性は砂の海へと繰り出した。気の早い突風が地平線より吹き荒れて防塵ローブを捲り上げた。露になる顔を隠そうともせず、彼女はただ眼前の道無き道を歩き続けた。

 しばらくして、目の前の虚空に立体映像の画面が表示される。その通信相手は遠い世界の隔たりを越えた先の友人だった。

 『収穫は?』

 「ありました。三日も費やしてここに滞在して調査した甲斐はあったというものです」

 『そいで……その成果のほどは?』

 「それは後ほど。また別の報告を入れさせてもらいます」

 『了解。他の方面の調査は別の人に任せてあるから、ハラオウン執務官は帰還してください。まだ気になる点があれば、寄り道しても結構です』

 「それでは今すぐ帰還しま……いえ、もう一日だけ猶予をくれませんか?」

 『24時間……?』

 いぶかしむような友人の声に「ええ……」とだけ相槌を打ち、彼女は陽が昇る東を見据えた。風が吹き荒ぶ方角でもあるその方を見て、彼女の赤い目は更にその果てに臨んでいる。

 「第97管理外世界……『地球』に行きます」



 類は何とやらを呼ぶ──。その言葉に漏れず、彼女、フェイト・T・ハラオウンは偶然か必然か“13番目”の潜伏する辺境の次元世界へと足を踏み入れようとしていた。




















 ※あとがき


 城島晶。

 「リリカルなのは」の原典、「とらいあんぐるハート3」に登場するヒロインの一人。高町家に居候していた経緯を持ち、高町家の長男恭也を師と仰いでいた。
 容姿や格闘技などの共通項から、後のスバル・ナカジマの設定の原型となったとされている。



[17818] 審判の日
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:66a9eea8
Date: 2011/12/07 17:25
 午前7時30分。八時間前──。



 「…………どうしようか、これ」

 窓から差し込む陽光を右頬に受けながら、スバルは掌中に握ったそれを凝視していた。青い石……願い叶える種……古代の遺失物、ジュエルシード。数多の次元世界を文字通りの意味で揺るがせ続けてきた呪われた宝石が今、彼女の左手にしかと握られていた。

 分かっている事だがスバル自身にはもうこれを使用するつもりは毛頭無かった。次元を揺さぶってでも叶えたい願いは無く、元来願いとは己自身の手で叶えるモノだという古風な考えが彼女の中にはあったからだ。だからこの石は使わない……時と場合によればとっくにこんな物は海の底にでも放棄しているはずだった。

 もっとも、それが出来ないからこうして自分が所持しているのだ。一度これを手放せば“彼”は黙ってはいないだろう。すぐさまそれを見つけ出し、己の願望を叶える為に何の躊躇も無く使ってしまうに違いない。そうなれば自分が彼の傍に居た意味が無くなってしまう……それが嫌だった。彼に存在の意味を教えるのは自分の役目なのだと、どこか図々しくも純粋な想いがあったのかも知れない。

 「……しまっておこう」

 結局、この日も彼女は決断できず、手に取っていたそれをポケットの奥に仕舞い込んだ。もうこれで何度目だろうか。我ながら嫌になってくる。

 問題を先送りにしても解決はしない……分かってる、分かっているはずだった。

 「ああ……バカだなぁ、あたし」

 そっと呟いて窓の外を眺める。鬱々とした心境とは対照的に街の空は明るく、雲一つ無い晴天から注ぐ太陽の光は一人落ち込む彼女を皮肉っているようにも思えた。

 「ゴホゴホッ……。あー、ちょっと風邪っぽいかも……」










 『…………ム?』

 陽光届かぬ暗闇で彼女は何かに勘付いた。今の彼女に目と呼べるモノは無いが、それでも形無き彼女の感覚器官は確かに感じ取っていた。

 自分達の領域に何者かが侵入したのを。

 『王様、どうかしたのかい? 急に黙ったりなんかして。似合わないよ』

 『阿呆。貴様は気付いておらんのか』

 『いえいえ、私も彼女もとっくに気付いてましたよ』

 暗黒の空間に計三人分の気配が満ちる。互いに互いの姿は見えてはいないが、その常人を遥かに凌ぐ感覚は互いの存在をしっかり認識しあっていた。

 それゆえ、自らの領域を侵犯する無礼者の存在を彼女らの超感覚は逃さない。目は無くともその姿を見つけ、耳が無くてもその足音を捉える……出来ないのは物理的干渉のみであり、それ故に異物が除去できないのがもどかしい。

 だがその懸念は既に過去のものとなった。

 『なに、排除であれば我らが動かずともあのカラクリ人形に任せておけば良かろう』

 『彼に……ですか? 最悪この街が更地になりますよ』

 『イイじゃないか。どうせ彼が敵を撃滅して魔力を分けてくれれば、ボクらはこんな街から抜け出せるんだ。更地だろうが焼け野原だろうが、そんなの知った事じゃないだろう』

 『彼が契約を履行すると? そもそも私たちは正式に同盟関係を結んだ訳では……』

 『フン、一番親しく接していた者が今更何を言うか。我はてっきり懐柔したものと思っていたが……我の買い被りか? 貴様、どうやら愚鈍と見える』

 『…………返答期限は今日です。一日待っても遅くはありません』

 『好きにしろ。どの道ここを焼き尽くして得をするのは我らとあの男のみ……であれば、この不埒者を多少放逐しておいても問題はあるまい』

 議論は早々に終結した。一時静観……それがこちらの領域を侵した不埒な闖入者へのひとまずの処遇だった。対象が如何なる理由で介入したのかは定かではないが、最終的には自分達に危害が及ばなければ良いと判断したのであった。自分達は所詮まつろわぬ化生の身……既に消えかけ今にも霧散しようかと言うこの身を、わざわざ好き好んで引っ掻き回す者など居ないとも考えていたのだろう。

 だがしかし、この時その異常に気付いていたのはたった一人だけだった。三人の中で一番愚鈍だと思われている『力』を司る個体……彼女だけがこの侵入者に対して何かを感じ取っていた。

 (まさか……ね)










 午前7時50分、七時間四十分前──。



 嫌な予感と言うものがある。マーフィーの法則においてこの「嫌な予感」と言うモノは驚異の的中率100%を誇る。失敗する余地がある事象は必ず失敗すると言う理屈とほぼ同じだ。

 そしてその嫌な予感をトレーゼは朝起きてからずっと感じていた。何か良くない事が起こる……確信には至らないが、そんな漠然とした感覚が彼の脳裏に渦巻いていた。普段こう言った霊感的な予知には否定的な彼ではあったが、それでもこの名状し難い胸騒ぎを無視する事は出来なかった。

 「……………………」

 ふと、空を見上げる。まばらに雲が覆っているが空は晴天だ。だが吹き去る風の中には相変わらず不穏な空気と“匂い”が混じっている。それが彼の精神を逆撫でし、不快にさせた。

 「そう言えば、今日だったか……」

 例のマテリアルらへの同盟に関する返答期限は今日だ……彼女らの申し出を受諾し、いずれこの街に訪れるであろう管理局の走狗を排除し続けるか……それとも逆に彼女らを駆逐して早々にこの街から離脱するか……。どちらにせよ、厄介事に巻き込まれるのは相違無い。

 (いっそ、厄介事含めてこの地帯を焼き払うか……?)

 たった今逆算したが、現状の自分の力でこの街を『更地』にするのに掛かる時間は三日……確かにそうすれば今の厄介事は文字通り灰になるだろうが、そんな事をすると現実問題として他の、しかもそれ以上の面倒が発生するのは子供でも分かる事だ。

 「……………………」

 いや、これは単なる予感に過ぎない。確証も無いのにこんな不確かな感覚だけを頼りに行動するのは愚の骨頂と言うモノだ。状況の停滞は好ましくないが、ここは現状維持に尽力するより仕方が無い。マテリアルの件は……今日中に何とかするしかない。

 もう一度空を見上げる……。

 今日の喫茶店のシフトは午後からだ。士郎に聞いた話では彼に代わってカウンターのコーヒーを担当して欲しいとのことだ。やるのはやぶさかではないが、最近になってこんな事をしている自分に甚だ疑問だ……。もうあの一家への義理立てはしなくても良いのではなかろうか? ただそれだと例によってスバルが口うるさいのは目に見えている。

 「要するにアレか、尻に敷かれてんだなお前さん」

 「勝手に、俺の思考を、読むな、老体」

 彼が今居る場所は明心館の玄関先、そして隣には当然の様な澄まし顔で腰掛ける老人、巻島十蔵……既に道着に着替えた彼を睨みつけながらトレーゼは自分達の間を素通りして行く門下生らを見送る。過ぎ行く何人かが彼を睨むが、大抵は睨み返すと大人しく去って行った。

 「てっきりもう来ないかと思ってたんだが、晶の奴に感謝しねぇとな」

 「まったくだ。それで、老体……俺と、一戦交えろ」

 「それは遠慮しておくぜ」

 正直、この老人がここまで自分との戦いを忌避するのをトレーゼは不自然に思っていた。あれから高町家の人間に巻島十蔵の人物像を聞いてみたが、聞く限りでは昔から血気盛んな人物で、売られた喧嘩は買う主義な人物のはずだった。それを見越した上でこうやって話を振っているのだが、一向に釣り針に引っ掛かってくれる様子が無い……もう昔ほどやる気が無いと言う事か?

 「おはようございます、館長。あ! 早速来てくれたんだね」

 そうこうしている間に一番出会いたくない人物、城島晶がやって来た。道着は更衣室で着替えるのか今は私服で、手にはバイクのキーを握っていた。トレーゼを見るなり嬉しそうに手を振って来るが、当のトレーゼはそっぽを向いて完全に無視を決め込んでいる。

 「じゃあ館長、この子借りて行きますね」

 「おい、ちょっと待て!」

 いきなり何の断りも無しに手を引かれたトレーゼはそのまま成す術も無く道場の中へと引き摺られて行った。

 「うわ! ちょっと君って重いね。ダイエットしたら?」

 「要らん、世話だっ!」

 そのままズルズルと引き摺られて道場へと連行されたトレーゼは何故か隅にある倉庫へと辿り着いた。扉を開けた先には打撃技用の木偶棒が幾つも乱雑に積み上げられており、そのどれもがかなり使い込まれた様子だった。晶は部屋に進み込むとそれらを数本抱えて出で、トレーゼへと手渡した。

 「おい……何だ、これは?」

 「ん~? 何って、組み手に使う木偶だよ。地面に立ててバシバシ蹴るやつ。知らない?」

 「いや……知っているとか、知らないとかじゃ、なくてだな……」

 「ぼけっとしてないで手伝ってったら!」

 「……………………」

 何だか知らないが、この街へ来てから訳も分からずパシリに回されているのは気のせいか……?

 そんな事を考えながらもトレーゼは仕方なく木偶棒を運び出す作業を行い、控えていた門下生らの前に積み上げて行った。もう怒る気力もない……と言うよりむしろ呆れ返って何も言えなかった。

 不意に、自分の背後から視線を感じたので振り返ると……

 「……………………」

 案の定、こちらに反抗的な目つきをした男子門下生が数人。その内の一人は、先日こちらを声高に批判した者だった。面と向かって文句すら言えないくせに、狡すからく生意気な視線だけは飛ばしてくる……こちらをナメているのか、あるいは堕落しているのか。どちらにせよこちらには無関係だとトレーゼは例によって無視する事にした。

 程なくして運び終わると晶が面前に出て稽古の指示をする。その間に退散しようと試みるトレーゼだったが……

 「まぁちょいと待ちな」

 いつの間に居たのか十蔵に呼び止められてしまった。

 「何だ?」

 「いやなに、急ぎの用ってほどでもねえんだがよ、お前さん気付いてたかよ?」

 「何がだ?」

 「ほれほれ」

 顎でしゃくった先には例の小生意気な門下生……今もこうしている間にちらちらと視線を向けてきている。いい加減鬱陶しくなってくる頃合だが、それがどうしたと言わんばかりに十蔵に向き直る。

 「あれが、どうかしたか?」

 「分かってるたぁ思うけどよ、あいつらお前に喧嘩を売りたがってるぜ」

 「それが……?」

 「灸をすえてぇとは思わないか?」

 「?」










 午前8時15分、海鳴中央駅前にて。七時間十五分前──。



 「よい……っしょっと」

 早朝の通勤ラッシュの流れの中に一目を惹く長い金髪……異国の人間にも見えるその女性は旅行鞄を引きながらロータリーでタクシーを捕まえると行き先を告げて目的地へと向かった。

 ポケットに入れ込んでいた携帯電話を取り出し、電話帳機能を使ってすぐに相手を呼び出す。数秒と掛からずに相手はそれに応じた。

 「あ、もしもし母さん? 今駅からタクシーに乗ったところです。はい……はい、例の件で……」

 実家の母親に連絡を入れるその様子は久し振りに里帰りしに来たと言った感じで、別段不思議に思われる素振りは無かった。だがそれは知らない人間が見ればの話であり、今現在女性──フェイト・T・ハラオウンは歴とした仕事でこの地へと戻ってきていた。

 今回彼女がこの故郷を訪れた理由は、この地で内勤扱いとなっている母親と義姉に接触し、現在広域指名手配中の犯罪者“13番目”についての情報を入手する事ともう一つ……。地上本部でははやてが殺処分賛成派の者達にフェイク情報を流す為に水面下で動き、その傍らでフェイトや一部の信頼できる者にのみ有力情報を提示して調査に当たらせている。とは言っても、フェイトの他の隊員には「即時殺害するには尚早。殺処分は鹵獲後に調査を行ってからでも遅くはない」と言う理由で行動させている。

 そして例の決戦で崩壊寸前となり治安が悪化したクラナガンの回復の為に多くの執務官を犯罪組織の摘発に回しており、現状で動いている地上本部の執務官はティアナとフェイトの二名のみ。後は全員が本局側の人間であり、もし彼らが確保した場合その捜査権限は本局側に譲渡されてしまう。そうなると彼との対話を試みたいと願うフェイトの思惑は叶わない。

 それが二つ目の理由。もし本局側の執務官が“13番目”の確保に成功した場合、はやてより本局に多くのコネと発言力を持つリンディの力添えで捜査権限を地上本部側に譲渡して欲しいという旨を伝えるべく、ここへやって来たのだった。

 『分かったわ、フェイトさん。じゃあせっかくだから、続きは翠屋でコーヒーを飲みながらね』

 「分かりました。じゃあ……」

 通話を切り、運転手に行き先の変更を伝える。

 この街に戻って来るのは一年振りだが、ここは何も変わっていないと常々思う。自分の生い立ちは決して幸福ばかりとは限らなかったが、それでもこの街に生きる事が出来たのは幸せだったと胸を張って言える。この街は愛しているし、この街に生きる人々も同じく愛している。

 だからだろうか……? この世界、正確にはこの街に足を踏み入れてから妙な違和感を感じるのは。まるで、誰かに見られているような視線を肌に感じる……。

 (気のせい……かな?)

 ここ最近は働き詰めだった上に大怪我からの病み上がり……多分いつもより気が張っているだけなのだと自分に言い聞かせ、フェイトは見慣れた海鳴の風景を眺めながら友人の実家が経営する喫茶店へと向かおうとしていた。










 午前8時30分、明心館。七時間前──。



 「……で? 話とは?」

 空手道場、明心館……その建物の裏手にある空き地の真ん中でトレーゼは数人の門下生を前に、静かに佇立していた。吹き荒ぶ寒風が両者の間を流れるが、双方そんな事は微塵も介さず、ただ互いの視線をじっと捉えて離さなかった。

 あれから数刻、稽古が一段落したあとで声を掛けられたトレーゼは誘われるままに裏手へと連れられ、こうして数人の門下生に反抗的な目つきで睨まれていると言う訳だ。まぁ、ここまで絵に描いたようなお膳立てをされれば、後はどう言う展開になるのかなんて大まかに見当はつくわけだが……。

 「お前のやったことはこの明心館の看板に泥を塗る行為だ!」

 「…………で?」

 「それに城島師範代にあんな無体な事をしておいて、よくもぬけぬけと顔を出せるな」

 「…………で?」

 「人の話を真面目に聞いてんのかよ!!」

 「で? 貴様らは、結局、俺に何を、したいんだ。わざわざ、呼び出して、説教の真似事か? 言いたい事があるなら、はっきり言え。この、腰抜け共が」

 腰抜けと言う言葉を最大級の侮辱と受け止めたのか、門下生らは物言わずトレーゼの周囲を固めた……彼がどこにも逃げられないように。もちろん、不必要に事を荒立てるのは好ましくないと考えたトレーゼは無理に去ろうとはせず、その代わり──、

 「おい……誰に、喧嘩売る、つもりだ」

 伏せた目の奥から殺気……。もちろん、本気ではない、あくまで牽制。これで下がってくれれば御の字だし、どの道彼自身にも茶番に付き合わされる気も全く無かった。だが失神しない程度に放った殺気は彼らに届かず、多少は怯んだ程度で済まされてしまった。救い難い鈍感だと、トレーゼは項垂れた。もはや衝突は回避出来ないらしい。

 「城島師範代に代わって仕合ってほしい。嫌とは言わないな」

 そう言ってその内の一人、それも彼らの中では一番体格の優れた者が前に進み出る。数はちょうど五人……と言う事は、差し詰め彼は先鋒の役と言う事だろう。

 図に乗っている。それがトレーゼが彼らに対して抱いた感想だった。道着は白帯、段位的にも経験的にも彼らが城島より劣っているのは素人目に見ても明らか……。それをわざわざ一対一のサシ勝負に持ち込んで勝てるとでも思っているのだろうか……? だとすれば思い上がりも甚だしい、鬼の首でも取って英雄にでもなりたいのだろうか。

 なら、このシチュエーションは好都合だろう……。

 「英雄になるには、怪物を、打倒せねば、ならない……」

 英雄や勇者を気取るのなら、それに見合った怪物を倒さないといけない。それは古今東西の英雄譚が証明している。ならば、これ以上のシチュエーションは無いだろう……何故なら、彼ら五人が相対するたった一人は、おおよそ日常においてはまず接触はおろか、すれ違う事すら有り得ない天災レベルの化け物だからだ。

 故に、悲しいかな……街の一角で端を発したこの英雄譚は空しく潰える。

 「────────」

 沈黙を保ったままトレーゼは上着を脱ぎ捨てる。露になったタンクトップと鍛え上げ引き締められた肉体……体内の骨格が発する熱が蒸気を上げているようにすら錯覚させる凶暴な熱、それを目の当たりにした五人の表情に初めて恐怖が宿る。だが来るべき所まで来てしまったと言う感情が彼らに敵前逃亡と言う判断を許さなかった。

 それが機人からの最後通告とも知らずに……。



 グチュ……。



 その音は小さくそして大きく彼らの鼓膜を刺激した。泥を掻き回した様な音が連続して周囲に響いた後、今度は細い繊維を断裂するような音がブチブチと発せられる。耳障りなそれらは全て、彼の体から発生する不協和音……普通に活動する上では絶対に発せられる事のないはずの不自然極まりない醜悪な音。

 「……ッ、ぐ」

 内部を蹂躙する激痛に白磁の顔が歪む。だがそれ以上に、その肉体の表面、素肌が狂おしく隆起を繰り返す。まるで肌の下を何かが流動しているかのように……。

 そして“それ”は……彼の肌を突き破って現れた。

 一つや二つではない、他でもないトレーゼ自身の血を撒き散らしながら大量に突出した“それ”は、生半可な覚悟で喧嘩を売ってきた門下生らの心を一瞬で打ち砕いた。そして同時に理解する……自分達が目の当たりにしている存在は矮小な自分達では到底計り知れない、もはや関わった時点で既に不幸としか言い様が無い災いそのものなのだと……。

 「う、ああぁっ……!!」

 「フゥ……何度やっても、慣れないな。さぁ、お望みどおり…………殺し合おう。まさか、売った喧嘩を、取り下げは、しないな?」

 ブジュッ!

 背中からもう“三本”……。

 バキッ!

 両膝から“二本”ずつ……剣山の如く突出したそれを身に纏いながら、トレーゼはじりじりと間合いを詰める。とてもこの世のモノとは思えないその姿に恐れをなしながらも、全力で逃げ帰ったのは流石と言うべきか……普通、こんな姿を目の当たりにして正気を保っていられるのもまずない。今後明心館には様々な怪談じみた噂がはびこるだろうが、ここで起こった出来事を信じる第三者は居ないだろう。大半が荒唐無稽な作り話だと一蹴してくれるに違いない。実際そうでなければ困るのだが……。

 誰も居なくなった裏手で、全身から出していた“それ”をトレーゼは収納する。出し入れする度に激痛を伴うが、どうという事もない……戦闘機人の治癒能力は常人の数十倍以上、破裂した血管や損傷した肌など幾らでも修復が利く。その他の難点と言えば、精々着ている衣服が血に塗れてボロボロになる程度だ。

 先に脱いでおいた上着を拾い上げて着込む。巻島老人どころか城島さえやって来ないところを見ると、例の門下生らはここでの出来事を誰にも話していないようだ、もしくは、話したのだがやはり相手にしてもらえなかったかのどちらかだ。余計な騒ぎを起こさなかったのは良い判断と言えるだろう。

 「……………………帰るか」

 結局、言われた通りにあの門下生と対峙して見せたが、巻島老人の意図は分からなかった。もっとも、あの老人が何かしらの意図があって発言したとは思えない。とっくに耄碌して面白がり適当に言っただけなのだろう。そんな戯言にいちいち付き合っていたのを考えると自分に苛立ってくる。

 そのまま帰路に着こうとした彼は結局十蔵や晶とも会うことなく正面玄関前までやって来ると、往来の人の流れに紛れて高町宅へと戻ろうとした。

 「…………嫌な、風だ」










 同時刻、喫茶店『翠屋』にて──。



 「お久し振りです。母さん」

 「そんな堅くならないで……って言ってもダメかしら」

 友人の両親が営む喫茶店でフェイトは義理の母親であり本局の上官、リンディと共に例の一件についての会合を行っていた。そして娘の要望を二つ返事で承諾した後、リンディは往年の友人でもある士郎が淹れたコーヒーを一口含み、こう言った。

 「でもね、フェイトさん。一つだけ忠告しておくわ」

 「はい」

 「確かに経緯だけを見ればあなたと“13番目”の境遇は酷似しているわ。同情や哀れみと言う言い方をしないのであれば、元ナンバーズがそうだったように鹵獲後に更正への道を辿らせる形もとれたと私は思ってる」

 「じゃあ……」

 「でも……彼はもう罪を重ねすぎた。かつてのあなたの様に、そうせざるを得ない状況での犯行ではなく、彼は終始一貫して自分の意思で動いていた」

 「でも、それは……彼の脳に刷り込まれていた意識がそうさせただけと言うことも……」

 「仮にそうだったとしても、司法の天秤に掛けて考えると情状酌量の余地は無いわ。偏に彼は罪を重ね過ぎた……司法取引すら成立しないほどにね」

 「行き着く先は殺処分か終身刑……そう言う事ですか」

 もはや人間としての扱いを受けていない“13番目”を抹殺する事は死刑制度の体裁を取っていないミッドチルダにおいて何の問題も無い。そして、ミッドチルダにおける終身刑とは即ち封印処分……彼が人間的な扱いを受ける受けないに関わらず、確保されたが最後、“13番目”が日の目を見る事は一生出来ないと言う事になる。捜査に協力すると言う名目で成される司法取引も論外だ。彼は単独犯、取引の材料となる案件が一つも無い故に捜査協力と言う体裁を取れず、よって減刑も不可能だ。

 「彼はモノとして処分される……。恐らくこれは決定事項……私と八神さんの二人の権限ではどうにもならないわ」

 頭脳と言う利用価値があったスカリエッティや、純粋な意味での戦力となり得たナンバーズとは違い、良くも悪くもスカリエッティの後継者として生み出された“13番目”にとって管理局に従属すると言う発想は有り得ない……。つまり、彼を救済する方法は万に一つも無いと言う事になる。

 「この仕事をしてると本当に色んな人と出会うわ……。善人だったり悪人だったり、そのどちらでもないって言う人も居たわ。だから居るのよ……救い難い“悪”が」

 「……………………」

 「ごめんなさい。私個人の価値観を押し付けるのは良くないことね。でもね、忘れないで……いつの時代、どこの世にも、差し伸べられた手を鬱陶しいものとしか思えない人だって居る事を……」

 それはフェイト達の倍以上の歳月を生きたリンディだからこその含蓄有る言葉だった。時代の荒波に揉まれ続けた彼女だからこそ、義理とは言え自分の娘の身を案じての発言に相違なかった。人間はどこまで行っても他人……手が触れ合える距離に居ても互いの心は真の意味で理解は出来ないし、例えそれは血が繋がった肉親同士であっても例外ではない。特にそれが物心共に人間としての範疇を大きく逸脱したモノであれば尚更……。

 (私は……あの人を理解できない……?)

 このまま彼の事を理解出来ないまま終わっていく……そんな予想を抱いたフェイトの脳裏に、とある人物の面影が浮かんだ。その昔、自分を生み出した“母”、プレシア……彼女もまた、差し伸べた手を振り払い理解される事を拒んだ人間だった。自らの心の奥底を暴かれる事を何よりも嫌った。だから最後は自決と言う手段を選んだのだろう。いや、正確にはまだ死んではいない……時流の概念が存在しない虚数空間は全ての時が停滞する場所、そこに落ちたのであれば永劫の時を停まったまま彷徨い続ける定めだ。ならば、彼もまた同じ様に拒み続けると言うのだろうか。

 「……でも」

 「?」

 「でもそれは……とても悲しい事だって思います」

 「…………そうね。もし……もし、彼と貴方たちがもう少し出会い方をしていたなら、今頃は別の違った未来が見えていたんじゃないかしら」

 「かもしれない」

 既に未来は確定した。であれば、それを変える事はもう出来ない……現実は絵本の御伽噺のように簡単にはいかないのだから。

 「難しいお話ですか?」

 桃子が横からケーキを乗せた皿を置きに来た。どうやら会話が一段楽するのを見計らっていたようだ。

 「役所仕事はしがらみが多くて嫌になります。老後は自宅でゆっくり過ごすのが夢だったはずなんですけどねぇ」

 「私達、何だかんだ言ってもうお婆ちゃんですもんねぇ」

 海鳴七不思議の一つに『齢をとらない婦人』と言うものがあるが、当の両人はそんな事は全く知らなかったりする。

 「そう言えば……」

 ここでレンディが思い出したように声を上げ、同時に店先のドアを指差す。ドアには何やらカラフルなマジックペンで書かれた小さな看板が下げられており、来店する客に何らかの宣伝を行っていた。リンディらも入店するときに見て気になっていたのでその真意を問うてみた。

 「カウンターのマスターが代わるって本当なの?」










 午前10時00分、高町宅。五時間三十分前──。



 「……おい」

 「うん? どうしたの?」

 「これ、食べていないのか?」

 帰宅したトレーゼが冷蔵庫から取り出したのは、つい二日前に給料代わりとして受け取ったケーキの箱だった。中に入っているケーキはどれも手付かずで、てっきりスバルが食べてくれるだろうと思っていただけに拍子抜けしたしまった。

 「え? それってトレーゼのおやつじゃなかったっけ?」

 「違う。何か知らないが、給与の代替らしい」

 「きゅーよ……? あっ! もしかして喫茶店の手伝い?」

 「ああ」

 「じゃあ食べてもいいんじゃないかな? はい、フォークあるよ」

 戸棚から出したフォークを渡されるが元から食べるつもりがないトレーゼはそれを押し返すと、箱をスバルの手に持たせた。

 「どうせ、貴様は、燃費が悪いだろ。これでも、食ってろ」

 「え、でも私そんなにお腹減ってな……」

 グギュルルルルゥゥゥ。

 「……………………」

 「……………………いただきます」

 腹の虫の方は正直だった。

 「貴様は、本当に、よく食べるな……」

 フォークに突き刺したケーキを一心不乱に食べ漁るスバルを見つめながら呟く。同じ戦闘機人でもここまで燃費に差が有るものなのかと疑問に思うが、実際問題こうして空腹を訴えるのだからそうなのだろう。十年近くも擁して置きながら何の改造もしないとは、どうやら管理局には研究熱心な科学者は居ないと見える。それとも、彼女を人間として扱っているから無闇やたらと改造は出来ないとでも言うのか? だとすればお笑い草だ。

 「…………なぁ」

 「うん? なに?」

 「貴様は、その不便な肉体を、どうこうしたいとは、思わないのか?」

 「ふぇ?」

 「カロリー消費が、激し過ぎる。戦闘機人としては、落第点だ」

 「あたしは……これでいいと思ってる。美味しいものいっぱい食べられるし」

 「…………あぁ、そうか」

 何か論点がずれているような気がしなくもないが、そこは敢えて指摘しなかった。本人がそれで良いと言っているのだからそれ以上言及する必要はどこにもない。

 ふと、ここで彼はある事実に気が付いた。先ほどフォークを返す時に初めて分かったのだが、ついこの前までスバルの体表を覆っていた薄い魔力膜が、今ではその残り香のみを残して消滅していた。

 やはりあれは一過性のものだったのか? それにしては未だほんのりと漂う残滓が少し気になる……。そのまま大気に霧散すればいいのにそうはならず、あくまでスバルの周囲を離れようとはしない。これは解除されたのではなく、何らかの理由で障壁が弱まっているだけと考えるのが妥当だろう。もし仮にあの障壁が完全に石がコントロールしているのではなく、不完全が故に所有者の調子に左右されるとしたなら……?

 「……なぁ、セカンド。貴様、どこか体調が、優れないのか?」

 「え! どうして分かったの? 今朝からちょっと熱っぽくてさ……」

 ビンゴ。どうやら肉体の調子の良し悪しによって障壁の精度は大きく左右されると見た。少し風邪っぽいと言うだけでここまで弱まるとなれば……。そう考えて魔力を辿り、石の在り処を探って見ると、スバルの上着の左ポケットにそれを感知できた。未だ厳重に持ち抱えている事実に若干の苛立ちを覚えるが、無理に奪おうとして溝が余計に深まるのは避けたい……やはりここは懐柔と言う算段で手に入れるより他はないだろう。問題はどうやって彼女をその気にさせるかだ。

 事の流れは停滞したままだ。ここで何かしらの異常が発生すれば後手に回るのは必至……ここで先手を打てれば好ましいのは分かりきっているが、その一手に必要なきっかけが見えない。だからと言って、ここまで来てしまった以上は投了するのも認められない。

 「世は全て、こともなし……。どの口が、言うのやら」

 今朝からずっと感じる嫌な予感は未だに晴れない。あるいは、これは予感などではなく、いつまでたっても事態を好転させられない現状に焦りを覚えているだけなのかも知れない。だとすれば、いい加減ここで強行手段を執る事も辞してはならないようだ。

 (そろそろ、この街も、潮時か……)










 午後13時40分、ミッドチルダ、St.ヒルデ。一時間五十分前──。



 都市決戦の影響は未だに続いていた。倒壊した建築物の関係で住所を無くした者もおり、学童のおよそ二割がいまでも管理局や教会の用意した仮設住宅で住まう事を余儀なくされている。授業こそ通常通りに開かれるようになったが、教室を覗けば空席が目立つのが現状だ。

 幸いにも、ヴィヴィオの自宅は全くの無傷だったので登校には支障ないが、同じクラスの何人かは今でも休学していた。

 「それじゃあ、さよならー」

 授業が終わった放課後、ヴィヴィオは昇降口からそのまままっすぐ帰路についた。いつもならこれからジムにでも行ってストライクアーツの練習を行うところなのだが、都市決戦の騒動で今はどこのジムも開いてはいない。元より、ノーヴェが不調を来たし、スバルが行方不明の今では適切な指導をしてくれる者が居ないのでまともに練習する事も出来ない。

 「やぁ、ヴィヴィオ。今から帰宅か」

 「チンクさん?」

 校門を出たところで見知った顔と出会った。右目の眼帯が特徴的なナカジマ家の一員、チンクだった。私服であるところを見ると仕事は終わったのだろうか。

 「ちょうど近くを通りかかってな。何かと物騒だから家まで送っていこう」

 「すみません。なんだか気を遣わせて……」

 「気にしなくていいさ。ちょっとした散歩のようなものだ」

 並んで道を歩き家路を歩く。すこし小高い校舎の周辺からは灰色のクラナガンが一望でき、街の至る所で建物の修繕作業が昼夜突貫で行われているのが良く見えた。都市部寄りの学校は未だに再開していない校舎が幾つもあるらしい。他にも毎朝テレビニュースで報道されているが、政経の中心であるクラナガンを叩かれた事で首都の経済は文字通りの大打撃を被っており、局の上層部と政治家の間で今後の政策をどのように処理するかが大きな議題として圧し掛かっている。

 「たった一晩でここまで変わってしまうものなのだな……」

 「そうですね」

 ヴィヴィオ自身、まだ子供ではあるが今がどれだけの非常事態であるかは理解している。他でもない自分がその非常事態の真っ只中にいた時期もあったのだから。

 だからなのか、どうしても気になる疑問があった彼女は自分の隣を歩く銀髪の少女に聞かずにはいられなかった。

 「その……ノーヴェは……?」

 今、少なくとも自分の知り及ぶ範疇の人物で渦中に居るのは彼女、ノーヴェをおいて他には居ないだろう。今回の事件の一番の被害者……“13番目”によって散々弄ばれ、今では意識不明の重体へと追いやられているナカジマ家の少女……。刻一刻と脳の限界を待つだけのボロボロな体を少しでも長く保たせる為に、今では覚醒する事さえ許されない……どうしてこんな事になってしまったのか。

 「ノーヴェは、その、まだ……」

 「そうですか……」

 聞いてしまった後でヴィヴィオは後悔した。分かり切った事を聞いて何になる……わざわざ聞かなくても分かる事を、むしろ一番話題にしてはいけない人の前で口にする必要など果たしてどこにあったと言うのか。二人の間を冷たい沈黙が流れる。

 それが二分ほど続いただろうか……ふと、チンクが口を開いた。

 「“13番目”の殺処分が決定された」

 「え……?」

 「もう一週間以上も前の事だ……。捕獲され次第すぐに抹殺……一番手短で、一番確実な方法が採用された」

 ヴィヴィオの脳裏にあの無愛想極まりない少年の顔がよぎる。捕まえると同時に殺すと言うのが人道的にどうなのかはさて置き、ヴィヴィオはその事実に名状し難い衝撃を覚えていた。

 あの彼が死ぬ? 彼の事を深く知っている訳ではないが、それでも彼が捕まったりする姿は想像がつかない。いや、それよりも……何故彼が殺されなければいけないのか? 一週間前と言えば都市決戦の直後だ。最初はあんなに鹵獲、つまりは生け捕りを優先していたはずが何でいきなり……。

 「本来、このような事は部外者に口外してはいけないのだが…………お前には知らせておかなければならないような気がしてな」

 「でも……どうして、その……殺処分なんて……」

 「我々元ナンバーズの総意によって決定された。“13番目”の抹殺に賛成か反対か……結果は賛成多数、彼を処分する事が決定したと言うことだ」

 「で、でも! あの人も同じナンバーズなんですよね!? 血は繋がっていなくても、チンクさん達とは兄妹みたいなものなんでしょう?」

 「いや……それは少し違うんだ」

 「え?」

 それからチンクは事の次第を全てヴィヴィオに話した。トレーゼの誕生の経緯とそれに伴うトーレの出生、十年以上前の譲渡事件やプロジェクトF……そしてDr.スカリエッティの殺害に至るまで、全てを話した。当然、その中には過去のトレーゼと今の“13番目”が別人であると言う事実も含んでいる。そしてトーレを筆頭にしてナンバーズの大半が抹殺賛成の意で動いていると言うことも……。

 「じゃあ、チンクさん達はトレーゼさんが兄妹じゃないからって理由で殺すんですか……?」

 「そうかも知れないな。最初は兄だと思って躊躇っていた妹達も、その事実を知ると同時に意見を翻した。薄情だと罵られても文句は言えんな。だが、彼……“13番目”に対して並々ならぬ義憤を抱いていたのもまた事実だ。それに何より、身内であるノーヴェがああなってしまったのだから、怒りを覚えるのも当然さ」

 「チンクさんも……?」

 そう言ってしまえばノーヴェはチンクにとって実の妹と言っても差し支えないぐらい親密な関係だったはずだ。その彼女があのような目も当てられない状態になったとあれば、その内心は穏やかではないのが当たり前。

 だが……

 「実を言うと……私自身はそこまで怒り心頭なわけではないんだ」

 「え?」

 「いや、もちろん、ノーヴェがああなってしまった件に関しては憤りを覚えてはいる。だがしかし…………何故だろうな、この身はひどく冷静なんだ。『あいつは未熟だったからあんな事になってしまったのだ』と、自分に言い聞かせ、あまつさえそれで納得してしまう己がいる。なぁ、ヴィヴィオ……ひょっとしたら私は、自分が思っていた以上に冷酷な人間なのかもな」

 「…………じゃあ、どうして賛成したんですか?」

 「なに、単に義に沿っているだけだ。管理局法と照らし合わせて彼が悪であるから排除する……ただそれだけだ。義憤でも憎悪でもない、法が社会がと言うだけで動いているだけだよ。もし私がウーノやセッテほど肝が据わっていれば今頃は反対派に属していただろうな。もっとも、流石にそんなことをすれば妹達に吊るし上げを食らうが……」

 そう言って微笑むチンク。だが先を歩く彼女の姿を見つめながら、ヴィヴィオはその背に哀愁を感じていた。きっと彼女は空虚なのだ……トーレのような憎悪でも、他の妹達のような義憤でもなく、完全な理に従って動いている彼女の姿はある意味で歪だろう。任務に私情を挟まないのは戦士としては重畳だろうが、感情の動物である人間としては異常とも言える。

 「いや、或いはあの時から既に察知していたのかもな……」

 「何を、ですか?」

 「確証は無いんだ。ただな……嫌な予感がしていた。『この先、何かとんでもない事が起こる』……そんな風に。もしかするとその時矢面に立たないで済むように無意識にグレーゾーンに立とうとしていたのかもしれない。フ、我ながら情けない事だ」

 「……嫌な予感って?」

 「分からない。何が起きるのか……もし起きるとしたら、それがいつなのかも。明後日かも知れないし、明日かも知れない。いや、ひょっとしたら────」



 「今日起こるかもしれない……」



 こちらを振り向きそう囁くチンク……その言葉に言い表せない畏怖を覚えたヴィヴィオは寒さとは別の震えを感じた。誰かから諭されると途端に恐ろしく感じられる事柄などいくらでもあるようなものだが、どうしてかこの時だけはそう割り切る事が出来なかった。彼女が言った通り、自分達の想像を遥かに超えた出来事が発生するのではないか……もしそれが現実のモノとなってしまった場合、一体何が起きると言うのだろうか?

 その結末は神のみぞ知る、と言うことなのだろう。










 午後14時30分、喫茶店「翠屋」。一時間前──。



 「いらっしゃいませ……」

 店のドアを開けて中へ入ると同時に淡々とした声が出迎えた。いつもは経営者である高町家の大黒柱、高町士郎に代わり、今のカウンターには見慣れぬ少年が陣取っていた。いや、最早「見慣れぬ」少年ではないだろう……客の何人かはここ最近の彼の働き振りを知っていたし、最初は半信半疑だった常連客も今では彼の淹れるコーヒーがマスターに勝らずとも劣らぬ味であると理解するのに時間は掛からなかった。カウンター席に座るのは大半が男性客だったが、少年の素っ気無さが逆に男心をくすぐると評判が客足を呼び、今のところカウンターの席が空席となる事はなかった。

 「ありがとう、ございました……」

 洗浄されたカップの表面を軽く拭き、棚に戻していく。その後にすかさず注文のコーヒーを予め用意しておいたカップに注ぎ、それを銀盆に乗せて桃子に渡す。それを受け取った桃子は注文のあった客へとまっすぐに歩き、それをテーブルに置いて行く……。一糸乱れない動きで客を捌いていくその様子は傍目からは店に入って三日目のバイトには見えなかっただろう。本人曰く、「基本を覚えれば、後は応用なので問題はない」とのこと。

 「どう? 少しは慣れた……って、聞かなくてもいいかしら」

 「問題はない。何も、心配は、要らない」

 「そう? でも時々目が遠くなってたりしてるから……。あ! 別に責めてるわけじゃないのよ!? お仕事はちゃんとしてくれてるし、私も士郎さんも大助かりだから」

 「ああ……少し、考え事を、していただけだ。すまない、集中する」

 どうやら素人から見て分かってしまうほど顔に出ていたらしい……。例のマテリアルらへの返答はどれだけ引き伸ばしても今日の午前零時まで……情けない話だが、今のところ彼女らを納得させるだけの返答を用意出来ていない現状に頭を抱えたくなっている。完全な利害の一致が無い上、なまじ互いに見過ごせない相手となれば看過しあうのも容易ではないだろう。最悪の場合、彼女らをも相手取らなければならない事も考慮しておかなければならないだろう。

 (さて、どうするか……。下手に刺激して藪から何とやらでは話にならん。かと言って、慎重になり過ぎて物事を引き伸ばすのも得策とはいい難い)

 仮にマテリアル達が攻勢に転じたとしても、冷静に考えればこちらに分がある。彼女らは肉体を構築する魔力の不足から三人の内、常に一人しか出現できない……如何にリンカーコア蒐集能力が脅威なれど、一体ずつであれば勝ち目は優にある。逆に言えば、彼女らを味方に取り入れた場合、一体ずつしか物質的に干渉できない彼女らを駒としてカウントするには心許ないにも程がある。魔力やリンカーコアを分け与えれば三人とも出現できるだろうが、それではもし裏切った際には三人同時に相手をしなければならない事になってしまう。全盛の力がどれ程かは知らないが、かつて最悪の古代遺失物と称されたその残滓となれば危険度は高いだろう。と言うより、元々彼女らはこちらのリンカーコアが目当てだと公言しているのだ。同盟を組んでも手の平を返すのは火を見るより明らかだ。

 どうやらこの議題は既に取り返しのつかない所まで進んでいるようだ。幾ら思案してもこの袋小路から出られる術が見つからない……ボードゲームで言うところの“詰み”に入ってしまったのか。

 (冗談じゃない! 何か、何か糸口があるはずだ。何か……何か……)

 脳細胞が焼き切れんばかりに思考と考察を幾度となく繰り返し、自分が納得できる結果を模索する。

 その時、厨房の方から材料の買い足しに行っていた士郎が戻ってくるのが聞こえた。ビニール袋を置く音が聞こえた後、足音がこちらに近づいて……

 「トレーゼ君、ちょっといいかな?」

 「何か?」

 「うん。今日、もう少ししたら顔なじみのお客さんがやってくるから、君も一緒に小休憩入れるかい?」

 「いや、構いなく。予定通り、16時までは就業する。気遣いは、無用だ」

 顔なじみの客と言う事はこの間のようにアリサやすずかが顔を見せるのだろう。問題ない、既に彼女らは自分の事を「高町家の居候」として認識している。今更何も問題は起こらない。



 この時、彼がいつものような冷静に物事を考える人間でいたなら確かに問題は無かった。冷静に思考していたなら、この時点で士郎の言葉を受諾して早上がりすると言う選択肢を見つけられただろう。










 午後15時15分。15分前──。



 「アリサ、すずか……」

 「やほー。久し振り、フェイト!」

 「フェイトちゃん、いつ帰って来てたの?」

 図らずも久々に帰って来た自宅の前でフェイトは十年来の友人二人に再会した。本当はリンディに用件だけ伝えて今日中にミッドへ帰る予定だったのだが、「次にここへ戻って来るのがいつになるか分からないから、せめてお友達には会っておきなさい」と言われて今に至る。

 「そっか、まだお仕事残ってるんだ……」

 「うん。明日にはまた向こうに戻らなきゃいけないから」

 「でも今日一日はこっちに居られるんでしょ? 久し振りに翠屋でケーキでも食べましょう。なのはとやはては居ないけど、また面白い話とか聞かせてよね」

 「今年はなのはとはやても帰って来れそうにないの。ちょっと立て込んだ仕事とかあって……」

 「仕事? また犯罪者がどうとか?」

 詳しい事はアリサとすずかも聞かされていない。警察や司法関係の職業に良くある「守秘義務」により、仕事の内容や結果を無関係な人間に口外してはならない決まりがあるからだ。三年前のJ・S事件に関しても「無事に解決した」としか言っていない。なので今回ミッドで起きている事件もまた同じく、彼女らには詳細を話せていない。親友はやての右目が失明した事さえ言えないのだ。

 「よぅし! せっかくだから好きなケーキ奢ってあげる……すずかが!」

 「えぇ!?」

 「だ、大丈夫だよ、すずか! 私ちゃんとお金持ってるから……」

 「そう言えば知ってる? 翠屋のマスターが今日一日だけ違う人になるらしいよ」

 「そう言えば昼間に一回母さんと一緒に行ったら、そんな事言ってたっけ」

 開業から何年も経つが、あの喫茶店は士郎がSPの仕事を辞めてからずっとマスターを務めている。フェイトの知る限りでは一度たりともその場所を譲った事は無いし、恐らくなのはでさえ見た事は無いだろう。彼自身が好きでやっていると言うのもあるが、何よりも彼より美味いコーヒーを淹れられる人物が他に居なかったと言うのも理由にあるからだ。雇うバイトはほぼ例外無く厨房やオーダーを任される。

 「あっ、翠屋で思い出したんだけど、最近なのはの家に嫌味な男の子が居候し始めたの知ってる?」

 「アリサちゃん。あんまりそう言うのは大きな声で言っちゃダメだってば……」

 「だってさぁ、すずかも見たでしょ? 居候のくせしてあのデカイ態度」

 「誰か別の人が住んでるの?」

 以前になのはから高町家には昔、様々な人間が居候に近い形で出入りしていたとは聞いた事がある。士郎の剣術の関係者だったり、長男の恭也を師事する者や、その友人などなど……自分がなのはと出会う丁度一年ほど前まではそう言った連中が居たらしいが……。

 「フェイトは聞いてないの?」

 「うん、初耳」

 「ふーん。もしかしたら、喫茶店に行ったらあの子に会えるかもね」

 「はは、そんな偶然……」










 10分前──。



 「よいしょっと、これで夕食の準備はオッケー。えーっと、あとは……」

 居候を始めて早三日、高町家の夕食は殆どスバルや美由季が担当する事が多くなっていた。元々筋力が強い彼女は片腕でも何の問題も無く動けるため、迷惑がられる事も無く過ごしている。もっとも、桃子や士郎は客人なんだからゆっくり過ごしていても構わないと言うが、それでは申し訳ないのが心情だ。

 夕食の分の白米も炊飯器にセットし、後はもうやる事は無い。何でもスムーズにこなしてしまう為、決まってこの時間帯は暇を持て余す。かと言って、何もしないで居るのも怠け者のように思えるのでしたくはない。ぶっちゃけ、暇を解消できるなら何でも良かった。

 そう言えば、昨日の夕飯時に桃子から聞いた話では今日のトレーゼはマスターである士郎に代わってカウンターを任されていると言っていたのを思い出した。

 (前に飲んだトレーゼのコーヒー……美味しかったなぁ)

 以前、アリサとすずかがやって来た時に彼が淹れたコーヒーを飲んだ。彼が自分で納得がいくものを作り、それを一番最初に自分にくれた時の嬉しさは今でも覚えている。他人がどれだけ後ろ指を差そうと、実の姉ですら罵り蔑もうと、自分だけは彼の優しさを知っているのだと胸を張っていたかった。半ば狂信にも近しいその感情こそ、今のスバルが彼を見捨てず甲斐甲斐しく傍に居る理由になっていた。

 ふと、それ関連で頭に思い浮かんだのか……

 (そうだ、コーヒー飲みに行こう)

 人は突発的に思い浮かんだ事柄ほど、それを実行に移す生き物だ。財布を任されているスバルの手元にはコーヒーを飲むくらいの金銭はあるので好都合だった。もっとも、不正な手段で手に入れた物なので大きな顔をして使える訳ではないが……。

 とにもかくにも、コーヒーを飲めるだけの小銭を握り締め、家の合鍵をポケットに入れ込んでさっそく出かける事にした。美由季は今外出中だが、彼女も同じように合鍵を持っているので問題は無い。

 「あっ、高町さんところのお姉ちゃんだ! こんにちわー」

 「こんにちわ。学校はもう終わったの?」

 ここに腰を落ち着けて三日だが、早くも地元の子供達には顔を覚えてもらい、界隈を歩いていても不審者と思われるような事は全く無かった。もちろん、最初こそ日本人離れした容姿なので珍しがられたが、今ではすっかり馴染んでしまっている。意識した事は今まで無かったが、スバルはここへ来てから自分のコミュニケーション能力の高さを自覚した。

 「最近、風邪がはやってるんだって。今日も一年生は学級閉鎖してるとこがたくさんあったんだよ」

 「へぇ~。実はね、お姉ちゃんも今ちょっと風邪気味なんだぁ」

 「うへぇ! うつすなよ!」

 「ひっど~い!」

 少しだけ言葉を交わした後、小学生らと別れる。子供特有の元気さをランドセル背負ったその背中に見つめながらスバルはふと思った……もう、ずっとこのままここで過ごし続けると言う選択肢もあるのでは、と。

 このまま過去の繋がりなんて全て断ち切り、何もかもが真新しくなった世界で彼と共に生きていくのも悪くはないのかも知れない……。ここには自分達を糾弾する者は一人も居ないし、静かに生活する分には何の支障も無い。それに何より……ここの人は彼に優しい。誰もが恐れる事しかしなかった彼に面と向き合ってくれる人達ばかりだ。ここでなら、彼は「戦うモノ」としてではなく、また別の何かとしての存在意義を見出せるのではないだろうか……そんな淡い期待が無い訳ではなかった。

 むしろ期待どころかそれを切望しているのだ。彼には違う生き方がある、ならそれを見つけ出すのが自分に出来る精一杯の事なのではないかと、この時のスバルは考えていた。少なくとも、この時はそれが最善の道だと思い込んでいた。

 「っと、着いた着いた」

 今はまだ小難しい事は考えなくてもいいだろう。今だけは現実から目を背けてもバチは当たらないはずだ。見た感じ繁盛している店内を想像しながらスバルは取っ手に手を掛け、中へと入り込んだ。



 現実は────、目の前にいた。










 最悪の事態とは、常に何の前触れも警告も無しに唐突に目の前にやってくる。総じてそれらは何の備えも無い時が多く、人は成す術もなくその奔流に飲み込まれ、そして堕ちていく。その土壇場で活路を見出した者こそ次なるステップへと足を踏み入れる事を許されるのだが、大抵はそこで挫折を覚える。

 直面する危機とは精神的であったり物理的であったりと様々だが、そのどちらが楽でどちらが困苦と言う事も無い。重要なのは無形有形問わず、それをどう回避或いは解決するかに掛かっている。

 そして、今の彼はまさにそれに直面しようとしていた。

 ドアを開ける音と一緒に気流が生まれる。それまでカップ拭きに集中していたトレーゼは形式どおりに来客に挨拶しようと視線を上げ──、



 パキッ!



 カップの正面にヒビが入る。指が接した面からクモの巣状に広がったそれは、あたかも今の彼の心情を暗に物語っているようだった。現に彼は思考も行動も停止したまま、視線だけを三人組の来客に向けて完全に固まっている状態だった。何が起こったか分からない……彼との付き合いが少しでもあるものなら、今の彼の脳をこの言葉が占めているのを察することが出来ただろう。

 だがその動揺は何も彼だけに限った話ではなかった。

 「あなたは……!?」

 相対した相手もまた、こちらを見つめたまま同じように硬直していた。目の前の出来事が信じられないと言った表情、その真意こそ他の二人には悟られなかったが、アリサとすずかは逆にトレーゼに食い下がった。

 「って、マスター任されたのってあんただったの!?」

 「へぇ~。そう言えばこの間淹れてくれたコーヒーもすごく美味しかったよね」

 高町家とは十年以上の付き合いになるアリサとすずか……そして、その二人の後ろからこちらを凝視している人物こそ──、

 「あ、この子はフェイト。私達の昔からの友達。なのはの家に居るんだから、名前ぐらい聞いたことあるでしょ?」

 両者の間に互いにしか分からない重苦しい沈黙が流れる……。眼と眼をフェイトは見つめ、トレーゼは睨み、同じ衝撃を受けながらも二人は全く別の思考を結論に抱えていた。

 出会ってしまった……。

 やっと出会えた……。

 異なる部分はその一点のみ。そこから後の思考については奇しくも寸分の狂いもなく一致していた。事を荒立ててはいけない……ここは闘争の場ではない、今この瞬間だけは何事も無いかのようにやり過ごさねばならない。

 ならば取るべき行動は一つ。



 「“初めまして”。フェイト・T・ハラオウンです」

 「…………ああ。“初めまして”……」




















 ドアをくぐって現れたその人物にトレーゼは目を見開いた。                         店内に入った瞬間に目にしたその顔に、フェイトは息を呑んだ。

 腰まで届きそうな長い金髪に、赤い瞳……。                                毒々しい紫苑の短髪に、白磁の肌……。

 己と同じ他者の都合で“作られたモノ”。                                 自分と同じ誰かの願望で“生み出された者”。

 どこまでも自分の邪魔をする、鬱陶しい敵対者。                              どこまでも自分と酷似した、哀れな人造の存在。

 カウンター越しのテーブルに──                                      ドアを通ったその先に──



                     二人のFの残滓はおよそ十四日振りに相対を果たした。

                          そして、アクシデントはこれだけでは済まなかった。










 「フェイト……さん」

 間髪入れずに店内に入ってきた人影は他でもない、恐らく、否、確実にこの場に最も介入してはならない人物……。

 「スバル……!?」

 今度こそフェイトは驚かずにはいられなかった。席から腰を浮かし、彼女の元へと駆け寄る……動揺を浮かべるスバルの手を強く握り締め、その感触を確かめた後に深い嘆息を漏らす。それは誰の目から見ても明らかな安堵の表情だった。

 「無事で良かった……。本当に、みんな心配して……」

 「あ、あの……! あたし、その……」

 何か言わなければと口を動かすスバルだが受けた衝撃の大きさと急に抱き締められたせいで上手く呂律が回らなかった。

 何と言う偶然、何と言う巡り合わせ……それぞれの何の意図も無い行動や思いつきの結果が、まさか一箇所に集い再会する結果になろうとは誰も予想しなかっただろう。だが結果としてフェイトとスバルは半月に及ぶ別離より再会し、こうして紛いなりにもその再会を喜んでいた。無論、タダで喜べる訳ではないが……

 「────お客様」

 ぞっと背中を撫でる冷たい声……口調は穏やかと言うよりはむしろ、抑揚の欠片も無い無感情の極まり……それがフェイトの背後より凜と響く。背中から雷鳴よりも雄弁に突き刺さる氷の視線と、獲物を前にした毒蛇の如き殺意……。だがそれを感じて先に反応を返したのはフェイトではなくスバルの方だった。

 ≪トレーゼやめて! ここじゃダメ!!≫

 すぐさま念話を飛ばして今にもフェイトを殺さんとするトレーゼに『命令』する。トレーゼとスバルの間にかつて取り交わされた盟約に、『スバルの命令に従う』と言うモノがある。大半は遵守されておらず、スバルも強く言える訳ではないのだが、それでも以前に彼女が命じた『いたずらに他人の命を奪うな』と言う命令だけはしっかりと継続されている。たった一人を除いては……だが。

 「……………………こちらの、お席へ」

 ドス黒い殺気が引き潮のようになりを潜め、自然な流れでフェイトを元の席へと誘導する。アリサの「様になってるじゃない」とか、すずかの「かっこいいよトレーゼ君」とか言う言葉を全て聞き流し、そして二人には聞こえない小さな声で……。

 「────16時……タカマチの、家で会おう」

 「ッ!?」

 その言葉で全てを理解した……。高町家の居候と翠屋のマスターは同一人物……そして、その者こそクラナガンを一夜で落とした最悪の犯罪者にして、自分と同じ造られたモノ、トレーゼ・スカリエッティなのだと。その彼が今、何の因果か親友の実家に陣取っていると言う事も……。



 自分の言動一つで、彼らの命までもが消え果てんことも……。










 30分後──。



 「お疲れ様。今日はもう上がってもらっていいわよ」

 「…………うむ」

 桃子からの呼び掛けに応じ、トレーゼが厨房の奥へと消える。裏口のドアが開けられる音が聞こえ、その気配が消えた。それと同時にフェイトも動き出す。

 「アリサ、すずか。ごめん、私ちょっと用事があるから……」

 「えぇ! もうお開き?」

 「大丈夫、すぐに済ませるから」

 そう言って席を立ち、一旦店の外へと出ようとした。が、視界の端にスバルを認めてその動きが止まる。

 「……行くんですか……フェイトさん」

 「うん。私はあの子と話したい事があるから……」

 「ならっ……あたしも行きます!」

 それから後は何も語る事は無かった。

 外に出た二人はまず言われた通りに高町宅へと向かう為に家路に着いた。スバルとっては馴染んだ、フェイトにとっては見慣れた道をただひたすら歩いて目的の場所へと向かう。その間、彼女らに言葉は交わされない。この二週間どうしていたとか、何で高町の家に住んでいるのかとか、そう言った事さえフェイトは問い質そうとはしなかった。スバルもまた、彼女の一歩後ろを黙って歩き、自分から何かを語ろうとは決してしなかった。

 やがて五分と掛からず二人は高町宅に辿り着く。そこからはスバルが先を歩き、鍵の開いたドアを開ける。玄関にある靴は二人分……一人は美由季、そしてもう一人は彼の物だった。

 「ただいま帰りました」

 「はーい、お帰り。って、フェイトじゃん! どうしたのー。帰ってくるんだったら先に言ってくれたって良かったじゃない」

 「お久し振りです美由季さん。何のご連絡も無く……」

 「いいのいいの! 上がっちゃって。今年は少し早いね」

 親友の姉に促されるままに玄関を上がる。スバルはそのまま二階の部屋へ赴き、フェイトは改めて美由季に挨拶する為に居間に入った。

 「うちの妹とはやてはまだ帰ってこないの?」

 「いえ、私は仕事の関係でこちらに足を運んだだけですから……」

 「あらら、じゃあまた戻っちゃうの?」

 「はい。今年中に帰省するのは無理じゃないかと」

 「ふ~ん。相変わらず大変だねぇ」

 「いえ……。あの、一つ聞いてもいいですか? ここに居候しているスバルと、その……」

 「あぁ、あの無愛想君? スバルから聞いてない? 災難だったんだって?」

 「え?」

 それからフェイトは美由季の語る粗方の事情に耳を通した。広域指名手配を受けた重犯罪者トレーゼ・スカリエッティ、そして彼に拉致されたスバル……それを途中の観測世界に駐在していた監察官がこれを保護、その後追手を振り切って移動する内にここへ辿り着いた……。それが高町の家の者が知る事実だった。もちろん、それが真っ赤な虚言である事はフェイトとスバル、そしてそれを騙ったトレーゼ本人しか知らない。

 「そう……ですか」

 「最初に会った時は無愛想でちょっとヤな感じだったけど、なかなかあの子も骨があってね。今じゃすっかり翠屋のメインメンバーさ」

 「……………………」










 その後、スバルの様子を見てくると言って居間を抜け出したフェイトはまっすぐ二階へと向かった。だがスバルの居るはずのなのはの部屋へは行かず、恭也の部屋……今は別の者が住まう空間へと足を踏み入れた。

 「失礼します」

 返事は無い。だがそこには確かに気配があった。そしてそれは明らかに自分が中に入るのを待っている……。

 「……っ!」

 今更何を逡巡することがあろうか……。虎穴入らずば虎子を得ず。ならば元より入る以外に道は無い。冷たいドアノブに手を掛けて回し、室内へと進入する。

 入ったその瞬間に冬の寒波すら越えた冷気がフェイトを包んだ。部屋に入って左手に備えられたデスクに腰掛け、こちらを凝視する金色の眼が出迎える。感情は篭っていない……ただ来たから出迎えついでに見つめただけにも思えた。実際彼にとってはそうなのだろう。接触した時を幾度も考えたが戦闘を行ってからだとばかり思い込んでいたフェイトは少し拍子抜けした。

 「……………………それで、何の用だ」

 つい数週間前まで殺し合った相手とは思えない。それに、さっき喫茶店でこちらを硬直させるほどの殺気も今は無い。少なくとも現時点で争う意思は無いようだった。

 「貴方と……話がしたい」

 だからこそ、フェイトは包み隠さず自分の目的を伝えた。てっきり自分を確保、あるいは抹殺に来たのだとばかり考えていたのか、これにはトレーゼも少しばかり驚いた風に視線を向けてきた。

 「はなし?」

 「はい」

 「何をだ?」

 話す事は何も無い……口にせずとも視線が雄弁に語っていた。この視線をフェイトは知っていた。他でもない己自身が子供の頃にした行為と同じだったから……。

 「何でもいい。貴方の事を教えてほしい。私は貴方を知りたい」

 「俺は、貴様の敵……以上だ」

 「それは違う! そう言うことを言ってるんじゃない」

 「なら、味方か? 違うだろう」

 「今は敵味方の話はしていない。私と、貴方。誰の解釈も色眼鏡も入らない話がしたいだけ!」

 「……あぁ、そうか。読めたぞ、貴様の思惑。貴様、同じ“F”だから、哀れに思って、いるのだろう?」

 「そんなこと……!」

 「安っぽい同情か……。要らないな、そういうのは」

 「だから……っ」

 歩み寄りの姿勢は無い。かつて親友に同じ事をしていたのだと思うと我ながら頭が痛いが、今は感傷にふけっている余裕など微塵も無い。相変わらず静的な状態では拒絶を表し、動態に移れば排除行動しか取らない……極端に他者を寄せ付けないこの状態ではまともな会話は望めないだろう。だがそれでもフェイトは粘り強く対話を望んだ。

 だが肝心のトレーゼはそれ以上の対話を望もうとはしなかった。

 「もう、いいか。話す事は、何もない。ここから先は、奪い合いだ……命のな」

 そう言いながらトレーゼは腰を浮かした。思わず後退るフェイトだが自分で閉めたドアに退路を断たれ、その後退は壁際で止まってしまった。躙り寄るトレーゼはその距離を狭め、しまいには互いの間隔はお互いの吐息が肌に感じられるまでに詰まっていた。互いに互いの命を取ろうと思えば充分に取れる間合い……双方共に人一人を殺めるだけの力を秘めているだけあってか、張り詰めた緊張は計り知れない。この場合違うのは、片や殺しの経験が無く、片や殺しのエキスパートと言う一点に限るだろう。そしてそのたった一つの差は大きい。

 「……………………」

 凝視する眼はどこまでも澄んでいる。いや、これは澄んでいるのではない……これは感情の色がない死んだ眼だ。より効率的に、より機械的に獲物を仕留め捕食する爬虫類か猛禽の如き眼光……おおよそ純粋な人間では永遠に辿り着けぬであろう無機の極致に、フェイトは忘れかけていた彼の危険性を思い出さされた。そうだ、彼と自分の違いは何も戦闘機人か否かだけではない……義母の言っていた言葉が今さらになって脳裏を反駁する。

 「…………いつまでも……」

 「……………………」

 「いつまでも“そこ”に居たら……貴方は耐えられなくなる。壊れてしまう」

 「なぜ、そう言い切れる?」

 「私がそうだったから…………だから、私がそうなるかも知れなかった、貴方がこれから行く着く結末が分かるの……!」

 「いや、それは違うな」

 「何が……!」

 「貴様は、生きた。崩れ、自壊し、破棄されてなお、生き延びた……。だが、俺は違う。俺の結末は、“死”だ。貴様らが、貴様らの組織が、そう決めた。例え、ここで俺が、何らかの希望を、見出したとしても、それを追うことは、適わない。俺の歩みは、いずれ止まる……それが、定めだ」

 「それは……」

 違うとは言い切れなかった。どんなに足掻いてもトレーゼの身に降された殺処分の烙印は消せない……こうして彼の存在を確認してしまった以上、それを報告する義務があり、そして報告すれば彼を仕留める為に管理局は多くの主力を寄越すだろう。逃げ延びたとしても安息は有り得ない。

 「殺しているんだ……殺されたり、壊されたりもする。それを覚悟しているから、今更恐る要素など無い。だが…………一つだけ、知りたい事が、あってな。これを知らずには、逝けないんだ」

 「知りたい……こと?」

 「ああ。なぁ…………『俺は何者なんだ?』」

 「……………………」

 「俺は、自分を、“トレーゼ”だと、確信していた……。だが、実際は違っていた。だったら、“俺”は何者なんだ? お前も、同じ境遇、だったんだろう? なぁ、『アリシア』」

 「ッ!!」

 言ってはならない言葉が耳に届いた瞬間、フェイトは気付けばトレーゼを押し退けていた。それが怒りか憎悪か、それともただ単純に驚愕ゆえのとっさの行動だったのかは彼女自身にも分からなかった。我に返った時には既に目の前には尻餅をついたトレーゼがこちらを見上げ、やはりその顔には何の思惑も感情の色も無かった。

 「軽々しくその名前を……!」

 「……………………悪かった」

 「え?」

 「今日はもう、帰れ。局に報告、するなとは、言わないが、連中を呼ぶのは、得策ではないぞ」

 「どういう意味?」

 「俺が居る限り、ここは戦場になる……そう言う事だ。お偉方はともかく、貴様らは、ここを焼け野原には、したくないだろう?」

 「そんな事、絶対にさせない!」

 「飲み込みが、悪いな。下に居る、ミユキぐらいは、見逃してやろうと、思っていたが……この家の連中を、皆殺しにする事は、出来るんだぞ」

 はったりや下手な脅しではない……やる気があるかどうかは別として、彼にはそれを実行に移し完遂するだけの力があるのは重々承知していた。下手に刺激するのは避けたいと考え、フェイトは後ろ髪引かれる思いを押して部屋を後にした。

 だが、直前で何かを思い出したのか懐から一枚の封筒を取り出し、それをトレーゼに差し出した。

 「これを貴方に……」

 「?」

 「数日前、とある管理外世界の砂漠地帯に住まう部族に立ち寄り、そこで一晩過ごした……間違いないはず」

 「さぁな。砂漠なんて、他に幾らでも、渡り歩いている」

 「ごまかさないで。そこで貴方は一人の少女を殺害した……そうですね?」

 「……そういうことも、あったかもな……。それで……?」

 「その遺族……その子の父親から手紙を預かってきました。必ず渡して欲しい、と」

 「それで、これがその手紙か。悪いが、今更あの件を、蒸し返す事は、したくない。読むか読まないかは、俺の勝手に、させてもらう」

 「…………それでは……失礼します」

 渡す物は渡せた、ひとまずここに用はない。結局ただの一度も手を出してこなかった事を不思議に思いながら、彼女は下階に続く階段に足を掛けた。

 ふと、視線の先に見慣れた扉……。自分が小学生の頃より幾度も出入りした親友の自室に目が留まった。何度も彼女と笑い語り合ったその部屋は、今では別の人間が住んでいる……それ自体は別に驚く事ではない、その住人は自分も良く知る者なのだから。

 「スバル、居る?」










 午後19時30分、高町宅の居間にて──。



 その日の食事は二人が来訪した時と同じくらい静かなものだった。と言っても、テーブル全体が静まり返っているわけではない。押し黙っているのは隣同士に座る二人の客人、スバルとトレーゼだけだった。互いに口を聞いたのは食事始めの挨拶だけ……そこからは無言を徹しているだけだった。初めは気分でも優れないのかと顔色を窺っていた士郎と桃子だったが、その表情が何か考え事をしているのだと分かると気を利かせて何も聞こうとはしなかった。二人の間には食器が接触する音しか響いてこない……。

 「馳走に、なった」

 「ごちそうさまでした」

 同時に食事を終え食器を流し台に運んだ後、二人は揃って居間を離れた。だが二階の部屋に戻ろうとするスバルに対し、トレーゼは何故か玄関で靴を履くとそのまま外出しようとしていた。

 「どこか行くの?」

 「ああ……。今日中に、済ませておきたい、野暮用があってな」

 「そう…………。ちゃんと帰ってきてね」

 「……………………行ってくる」

 送り出すスバルには一瞥もせず、彼は陽の沈んだ海鳴の街へと急ぐべく玄関を出てすぐに走り出した。

 「フン……!」

 最初の跳躍で電柱のてっぺんに飛び乗り、そのまま一息に空中へと飛翔する。誰かに見られているかもと言う考慮はしない、抜かりなくシルバーカーテンにより偽装しているので傍目には急に電柱が軋みを上げたようにしか見えなかっただろう。数秒後には彼の姿は地上から500m以上も離れた空中を飛行していた。鳥のような優雅さは無く、目的地を目指す彼は亜音速のスピードで最短ルートを爆進した。光の川を形成する道路を越え、ビルの谷間を気流に乗って加速し、眠らぬ街を越えて彼は暗黒の様相を湛える海辺の埠頭までやってきた。

 「ここいらか……」

 何かを感じ取り、人気の無い埠頭の一角へと足を降ろした。空気中の水分が乾燥する日本の冬でもここだけは潮を含んだ湿っぽい風が流れてくる……。昼間なら陽光を跳ね返す水面が鮮やかに映るだろうが、逢魔が刻である黄昏を過ぎて日が暮れた今では鬼か邪でも出るのではなかろうかと思われる陰気な雰囲気を醸し出していた。

 だからこそ彼はここを会合の場に選んだのだ。

 「出てこい」

 コンテナが積まれた暗闇の周囲にシンと声が轟く……。誰も彼の呼び掛けに反応する者など居ないはずだった……だが、“彼女ら”の感覚は確かにその声を聞き届け、それに応じた者が一人だけ姿を現した。

 「やはり、お前か……」

 「答えは決まりましたか? いえ、愚問でしたね。返答が決まったからこそここへ呼び出した……それが是か否かはともかく、貴方は自らに負った責務を全うする為にここへ来たのは事実。して、返答はいかに?」

 コンテナの影より姿を見せる影法師が一つ……この街に残滓となっても存在し続けるマテリアルの一人、『理』を司る者がトレーゼの前へと赴いた。既に全盛期からは程遠く、その身を何の力も発現し得ない少女に堕としてなお、消えるものかと彼女らは自分達の存在をこの街に縛り付けている。そんな彼女らが藁にも縋る求めた同盟……それを機人はどのように返すのか。

 「その前に、ここには、全員、居るのか?」

 「ええ。知覚は出来ないでしょうが私の両隣に控えています」

 「そうか……。それは、好都合だ」

 その答えを半ば予測していたのか、次の瞬間、トレーゼの右手に紅い電光が迸った。アスファルトを削り、虚空を侵すそれが内包するエネルギーは凄まじく、暗闇を瞬く間に凶暴な光が埋め尽くす空間へと変貌させた。雷光宿った右手をマテリアルにそっと伸ばす……一度放てばアスファルトはおろか岩盤さえ削りとらないそれを向けられた彼女は一瞬怯むが、何を思ったか打って変わって神妙な面持ちになると佇まいを直して一歩前に進み出てきたのだった。

 「目の上の何とやら……やはり貴方にとって、私たちは邪魔者でしかないと。ここで消えるのは不本意ですが、もはやそれに抗うだけの力などありません……。どうぞお好きになさってください」

 全身を構築する魔力を100%防御に使えば攻撃も防げようが、そうすればどの道意識を構築する分の魔力もろとも塵に帰すので消滅は免れられない。それに元より、彼女自身には回避も防御もまったくするつもりはなかった……。

 隣の二人が彼女の脳内に忙しく喚き立てる……だがそれらを全て聞き流し、彼女はただこれから訪れるであろう自らの命運と静かに向き合おうとしていた。逆らっても無意味……であれば、その行為に意味はないから……。

 紅く光る右手が胸の真ん中、ちょうど擬似リンカーコアを形成する部位に迫る。恐らく自分が認識する最後の色彩を目の当たりにしながら彼女は思う。あれほど忌避した自分達の滅び……どんなモノかと考えなかった事は無かったが、今こうして迫ってきているそれはとても禍々しく、自分達の想像を遥かに超えていた。

 だが──、自分達の想像を超越した未知であったからこそ──、

 (嗚呼、こんなにも……美しいモノだったのですね)

 その瞬間を迎えた彼女の胸中は穏やかなものだった。










 「リンディさんの家かい?」

 食事の後、しばらくしてから居間に降りてきたスバルはリンディ・ハラオウンの住まう自宅を訪問する為、士郎に詳しい道を聞こうとしていた。数時間前、トレーゼと何かを話した彼女はその後自分のところに来ると改めて安否を確認し、そして──、



 『今夜、時間があれば私の所に来て欲しい』



 どこで落ち合うかは決めなかったので彼女の実家、即ちリンディの住まうハラオウン宅を訪問するのは当たり前の選択だった。結局あの時は何も言わず無事だけ確認するだけだったが、これから会えば何の話をしてどんな対応を迫られるかは容易に想像がついた……局内でも一、二を争う発言力を持つハラオウン統括官の下での保護、そして報告の為に一度地上本部へ戻るフェイトに同行しての帰還……筋書きとしてはこうだろう。それが一番正当な手段だし、最も効率の良い方法なのは疑いようがない。

 もちろん、それだけで物事全てが綺麗さっぱりに解決する訳ではない。自分がここを離れたからと言って彼が……トレーゼ自身がここからすんなりと、「はいそうですか」と離れるとは思えない。

 いやむしろスバルというストッパーを無くした状況で歯止めが利かなくなるのでは? 周囲の状況もあったかも知れないが、紛いなりにも彼女の『命令』があったからこそ彼は力押しで解決する真似は控えるようになった。それを取っ払ってしまえば最後、それが吉と出るか凶と出るかは誰にも分からない。

 そう言えば──、

 (あたし……約束してたっけ……)

 かつてトレーゼが問い、今となっては口の端にも登らなくなってしまった一つの“問い”……『俺は何者か』。自身のアイデンティティの決定付けを他者に委ねると言う、おおよそ常識では考えられないクエスチョン……普通なら断ったり無視したり出来たものを、彼女はそうしなかった。出来なかったのかと問われれば頷かざるを得ないのだが、それとは別にそうしなければならなかったとでも言うような使命感が彼女の中にはあったから……。

 (あたしって、本当に馬鹿みたい……)

 自嘲気味にこう思ったのもこれでもはや何度目であろうか……あまりにも多いので忘れてしまった。それだけの回数、彼女は己に絶望しかけたと言う事になる。諦めが悪いのが単に踏ん切りが悪いか、改めて考えてみれば我ながら存外に呆れたものだと項垂れるしかない。考えたり苦悩したりするだけでその実ちっとも行動に移せず、結局は何も成せないまま過ぎ去っていくのを見ているだけしかできない……とんだ偽善者だと乾いた自嘲の笑いが口から漏れ出る。

 もう彼は自分を待ってはいないだろう……。だったら、もうここで離れてしまっても良いんじゃないだろうか……。

 「…………そう言えば……」

 ポケットをまさぐって取り出したるは仄かな熱を帯びた青い石。そうだった、彼女の家に行くのならこれを渡さなければいけない。これは自分の手に余る代物……長いこと持っていても得はない。

 だから早く。そう思ってスバルはフェイトの自宅へと続く道を急いだ。










 同時刻、ハラオウン宅──。



 「それにしても、まさか高町さんの家に住み込んでいたなんて……」

 「ごめんフェイト。スバルが居るってのは聞いてたから知ってたんだけど、例の件があったから落ち着いてから話を聞こうと思って……」

 ミッドチルダを騒がせた犯罪者がまさかよりにもよって知人の家に上がり込んでいるとリンディが知ったのはついさっきだった。一度エイミィから報告を受けた彼女はスバルがそこに居る事は知っていた……その時、彼女の付き添いとして監察官を名乗る局員が同行しているとは聞いていたのだが……。

 「真っ赤な嘘だった……と言うわけですね」

 現在、高町家は“13番目”の人質も同然の状況だ。下手に手出しをすればどんな事態を招くかは知れたものではない。

 「そんな状況で不用意に接触したのは正直言って褒められない事です。分かっていますね? フェイトさん」

 「はい。軽率だったことは認めます」

 「そいでそいで? 結局スバルはどうすんのさ? 連れて帰るんだろ」

 「うん、そうするつもり。今日余裕があったらこれから来るように言ってるから、そろそろ来てくれると思う」

 「そう……本局と地上本部の方には私から連絡しておきます」

 「よろしくお願いします」

 これで事態は引くに引けない状況へと変わる……。激化するか鎮静するかは分からないが、どちらにせよ一筋縄では行かなくなるのは容易に想像がつく。だがここを戦場にするのは避けたいと言うのがここに居るハラオウンの者全員の共通した思いだった。穏便に済ませられるならそれに越した事はない……血が流れない事が一番幸いなのだ。だがその望みが叶う確率は果てしなく薄い。

 「高町さんの方にはいずれ私からちゃんと事情を説明するとして…………問題は間違いなく彼自身ね」

 「交渉が通じると思う?」

 「無理、でしょうね。ただ狂乱状態にあるならともかく、なまじ理性的だから性質が悪いわ。どういう形であれ私達と彼の接触は避けられない……」

 「……………………」

 重く冷たい沈黙がハラオウン宅の居間を占拠する。発見して捕まえればそれで解決すると踏んでいただけに複雑になってしまったこの現状が非常にもどかしい。出来るだけ冷静になって状況を整理し、万全の準備を整えてから事に当たるのが好ましいのだが──、



 運命は彼女らに味方しなかった。



 「た、たたっ、大変!! 大変だよ!!!」

 奥の部屋から転がるように飛び出したエイミィ……その慌て様は尋常ではなく、転んで起き上がった彼女はリンディを認めるとすぐさま彼女に縋り付き、こう叫んだ。

 「街中の魔力濃度が平常時の20倍以上に膨れ上がってます!」

 「なんですって!?」

 エイミィの報告を受けたリンディは部屋の奥へと急行し、パソコンの画面を食い入るように見つめた。この街全体の魔力を常時測定するプログラムがダウンロードされたそれには海鳴の街がそれまでの平均値の約20倍から30倍にまで増大している事を示していた。魔力は酸素と同じでその濃度が濃くなればなるほど体内に取り込まれた際に毒のように全身を蝕み、リンカーコアの魔力調整機能を不全に陥らせる……更にそれは魔導適正を持たない大多数の管理外世界の住人にとっては放射線以上の毒素にもなりうる。つまり、この画面に表示された数値が現実のものと仮定すれば、今のこの街は大量破壊兵器が投下された直後に等しい魔力汚染度を有している事になる。

 (数値の最大値は26.169倍……。魔力に適正のある私達でも毒になる値だわ)

 欧米の人間に脱水素酵素が多くアルコールを分解し易い体質の者が多いように、待機中の魔力素を吸収出来る上限は各次元世界の人種や地域によって大きく異なる。中にはなのはのような例外も居るが、そうであったとしてもこの数値は異常だった。恐らく数十分の内にこの一帯の人間は急激な体調不良を訴えて倒れるだろう。

 「母さん……!」

 「何の前触れも無しにこれほど高濃度の魔力が自然発生するとは思えません。何か人為的な方法で発生させているとしか……」

 「まさか彼が!?」

 「…………フェイトさん! 私はここでエイミィと一緒に詳細なデータ収集と本部への報告をします。貴方は単独で調査に向かってもらいますが、よろしいですね」

 「分かりました!」

 「頼みましたよ。念の為、アルフも同行してあげてください」

 「オッケー! 行くよフェイト」

 椅子に掛けておいたコートを引っ手繰りフェイトとアルフは冬の海鳴へと飛び出した。

 「…………これはもう事件なんかじゃないわ。これは……戦争よ」

 誰に言い聞かせるわけでもなく漏らしたリンディの言葉……それはキーボードを叩く音に紛れて消え、パソコンのディスプレイには相変わらず『WARNING!』の文字が赤く明滅していた。










 ぞくっ……。

 「なに……今の?」

 背筋を走った悪寒にスバルは身震いし、それを感じ取った空の一角へと目を向けた。何の変哲もない冬の星が瞬くだけの黒い空……日はとっくに沈み、鳥すら自分達の巣に帰り眠りにつくこの時分、空には小さく輝く星と半分に欠けた月しか浮かんではいなかった。その他には何もない……何も、彼女の不安や興味を煽るようなモノなどどこにも無いはずだった。

 「……………………」

 だが、その『何も無い』と言う虚無の現象が逆に彼女の焦燥感を引き立てた。

 「行かなきゃ……!!」

 誰かに諭された訳でもなく、彼女は直感的に自分が“そこ”へ行かなければならないような気がして駆け出した。

 左手のポケットの中で青い石がきらりと輝いた……。










 「ッ!!」

 「うわっ!? こりゃスゴイね!」

 魔力の発生源を辿って街の上空を飛行するフェイトとアルフは海鳴全体を包み込む尋常ならざる濃さの魔力を肌に感じ、思わず身震いした。確かにこれだけの濃度の魔力が充満した空間に長時間居続ければ、ただ浴びるだけでも身体に異常を来たすだろう。

 「なんだよこれ! 大都市の真ん中で垂れ流していいもんじゃないよ!!」

 普段は省エネモードと称して子供の姿になっているアルフも今はフェイトからの魔力供給を潤沢に受けて人型をベースとした通常の姿に戻っている。街の中央までやって来た二人は一旦ビルの屋上に降り、街の魔力濃度の再計測に取り掛かり発生源の特定を急いだ。自然発生したのでないのなら必ずどこかにその発生源となった物があるはず……その原因を破壊か封印することがこの場合の最善策だった。

 だが……

 「おかしい……」

 「おかしいって……何がさ?」

 「数値がおかしい! バルディッシュ、もう一度確認して!」

 『了解です、サー』

 その事実に気付けたのはバルディッシュから送られてきた周囲1kmの魔力濃度の測定を見てすぐの事だった。何度確認しても愛機が計測した待機中の魔力素の濃度は事前にエイミィが言っていた数値を遥かに下回るものでしかなかったからだ。

 「周囲一帯の魔力濃度は平常時の約三倍……。確かにこれだけでも危険だけど、エイミィの観測した数値には全然届いてない……!?」

 エイミィの言っていた数値は、言うなれば放射能汚染にあった実験場なみの濃度だった。だが確かに濃い魔力分布はその値にはまるで届いておらず、更に計測範囲を広げてもその事実は変わらなかった。何かがおかしいと、彼女の直感力がそう結論付けるのに時間は掛からなかった。

 「アルフ! 一旦二手に分かれて行動しよう! 何か良くない事が起こりそう……」

 「奇遇だねフェイト! 今から街の西側に行こうと思ってたとこ!」

 そう言った次の瞬間、二人はほぼ同時に街の東西に向けて飛び出した。アルフは街の郊外へ、フェイトは暗黒の海に臨む港を目指して……。










 バカ正直に走ってきたのは生来の性格故か……。簡易的な認識阻害の魔法で姿を隠しマッハキャリバーを使っていれば良かったものを、彼女は異常を感じた場所からこの商店街まで一直線に駆けて来た。当然、足を止めると同時にどっと汗が噴き出し、激しい動悸に息は絶え絶え、視界すら霞むほどの疲労が体に重く伸し掛ってきた。

 「はぁ……はぁ……っ! 確か、こっちに……!」

 結局あれが何かは未だに分かっていない。ただ、肌で感じただけでも何か悪い事が起こりそうな予感を覚えた。いや、既に起こってしまったのではないかと言う考えが脳裏を過ぎる。あの刹那に感じた波動はとても短いものだったがその底冷えするような感覚は無視できなかった……仮にあれが既に起きてしまった出来事を感じてのものだとすれば、何故今この街はこんなに静かなんだろうか?

 静か……過ぎる?

 「うそ……!?」

 天上を仰ぎ見て彼女は初めて気付く事が出来た。

 暗い空を覆う青藍の天蓋……押し掛かるような重圧感を放つ魔力のそれは間違いなく何人たりとも逃れる事適わない魔法の牢獄、封時結界だった。気付かない内に中に入り込んでいたと言うわけではないだろう。恐らくはこれを張った者によって意図的に結界内に取り残されたとしか考えられない。だが誰が発動したのか、それだけが謎だった。

 「もしかしてトレーゼ?」

 最初はそう思った。だが、すぐに違うと気付く。

 「違う……この魔力はトレーゼじゃない。これは……フェイトさん!?」

 慣れ親しんだその魔力はつい数時間前に邂逅したフェイトのそれとほぼ同質のものだった。ただいつもの彼女の行使する魔法の数々と比較してその規模が桁違いだ……これは予想以上に良くない事態が発生していると直感し、スバルは結界の中心部へと再び駆け出した。濃い魔力が息をする度に体内に取り込まれて肉体を蝕むが戦闘機人ゆえの耐久力がそれを抑える。

 ふと、昼間の会話を思い出す……。こんな体で不便ではないかとトレーゼに問われ、自分はそんなことはないと答えた。あれは本当にそう思っての発言だったし、実際人より丈夫なこの体を持てて良かったと思った事も多々あるのは事実だった。

 何気ない数言程度の短い会話……だがあの瞬間、自分は確かな幸福感を覚えていた。楽しかったのだ。いつもこちらから話し掛けるだけだったのが、あの時は彼から話し掛けてきてくれた事が……。

 (あたし……もっとトレーゼと話していたい。まだまだトレーゼに話せていない事が沢山あるんだから!)

 疲労で震える両足に喝を入れ直し、スバルは誰も居なくなった商店街を一気に走り抜けた。もはや見慣れた風景となりつつあった場所を駆けながら必死になってトレーゼを探し出そうと試みた。

 その瞬間──、



 爆音。そして暴風。



 「きゃっ!!?」

 その爆発は商店街の天井を覆うガラスの向こう側から襲来した。爆風と共に彼女はバランスを崩して転がり込み、その上から鋭利な刃物と化したガラス片が容赦なく降り注ぐ。幸いにしてその破片で傷を負う事は無かったが不測の事態に背後から見舞われる形となった彼女の足は接地の瞬間に軽く擦り剥き、痛々しく血が滲んでいた。疼痛を伴った嫌な熱がじわじわと広がってくるのを押し殺して立ち上がり、背後に広がる惨事に目を向けた。

 「ひどい……」

 結界の内部で発生した現象は外界には一切影響を及ぼさない……そんな事が分かっていてなお、この光景は鮮烈だった。アスファルトの代わりに地面を舗装していた色とりどりのタイルは砕け散り、上からの衝撃で跳ね上がった地面からは破裂した管からガスやら汚水が溢れ出していた。ガラスを支えていた鉄骨は飴細工のようにひしゃげ、上空からの落下物のインパクトを物語る……。いつも桃子が卵や牛乳を買っているスーパーや前に美由希が紹介してくれたファミレスは中途半端に半壊し、内部は商店街の外側に伸びていたはずの電線が悪趣味な天幕のように垂れ下がっていた。

 「…………トレーゼ!?」

 火薬を仕込んでいる訳でもあるまいに、外部からの衝撃無しに商店街の天井が爆散するはずがない。だとしたらその要因となったモノは今……。そう思い立ったスバルは左腕だけで瓦礫の除去に取り掛かる。重たい瓦礫や触れただけで身を切り裂くガラス片を何の躊躇いもなく掴み取り、次々と端に投げ捨てていく。崩壊した建物の瓦礫と上から積もったガラスの量は凄まじく、全てを取り除く頃には彼女の左腕は血と泥に塗れてすっかり汚れてしまった。だが痛みを堪え続けた結果としてそれらの除去はものの五分も掛からずに終わりを迎え、そこに埋もれかかっていたものを見出す事にも成功した。

 「トレーゼ!」

 天井を突き破って地面に激突したのは果たしてトレーゼであった。衝撃を緩和するはずの障壁すら展開されておらず、それどころかいつも戦闘の際には必ず着用していたはずの防護ジャケットすら見当たらない始末……当然その体は今までに見た事がないほどボロボロに負傷し、特に体の下敷きになった左腕からは……

 「う……!?」

 破れた皮膚から走る電光……露出したフレームからショートしたエネルギーが漏電と言う形で体外に放出される。魔力が入り混じったそれが走る度に痛覚が刺激されるのかトレーゼの眉間に苦悶のシワが刻まれ、苦しげな呻きが喉から響く。

 一目見た感想は、「信じられない」だった。何があったかは知らないが彼がここまで一方的にやられる姿をスバルは見た事がない。もちろん彼女以外でも見た者は居ないだろう。三年前に自分達を大いに苦戦させたナンバーズ、彼はその原型にして完成型……心身共に揺らぐことを知らなかった彼が、今こうして、脆く弱々しく敗れ去ろうとしている現実が、スバルにはひどく受け入れ難いものでしかなかった。

 「セカ……ン、ド……」

 「っ!? トレーゼっ!」

 まだ意識があったのか薄らと開けた目蓋の奥から金色の眼がスバルを捉える。取り敢えず無事で安堵するが、それと同時に頭上にもう一人の気配が加わるのを感じて二人は天井を見上げた。

 「大人しく投降してください。これが最後通告です」

 夜天に昇った月を背景に、雷光迸る戦斧を構えてこちらを見据えるのは……。

 「フェイトさん……」

 赤い双眸に流れる金髪の戦乙女……昼間会った時のような温和な様子はどこにもなく、今の彼女はただ目の前の相手を捕縛する事だけに全力を傾けた気迫に満ちていた。間違いなく本気だ、今の彼女ならここら一帯を斬り払って更地にしてでもトレーゼを捕らえるだろう。何らかの事情で全力を出せないのを良いことにトレーゼを一方的に追い詰めてこうなったのだとしたなら……

 「なにしてるんですか……フェイトさん……。フェイトさん!!」

 許せなかった。理性や論理ではない、感情が、本能が、激情が……今のスバルに彼女に義憤を抱く心が微かに芽生えようとしていた。確かに自分が今抱きかかえている彼は自分達と比べて相対的に悪だ。だが、何もかもを一方的に押し通してまで排除するほどの悪だったのか? 単に自分が彼に情が移っているだけなのだと頭では理解しながら、溢れ出る憤りを抑えるのに必死で、その肩は確かに震えていた。

 「あなたも聞いてるはず……管理局が彼に対して抹殺処分を確定したことを」

 「それがっ! どうしたって言うんですか!?」

 「それが重要なの。彼は生かしてはおけない……。貴方も感じたでしょう? この街が高濃度の魔力で覆われるのを」

 「それは……!」

 否定はできない。あの背筋の悪寒が高濃度魔力の拡散によるものだとすれば、この街の人間は数時間も経たない内に大気中の魔力を過剰摂取して昏倒したに違いない。そうなれば大火災の現場や暴風雨など目じゃない静かな災害が発生していただろう事は想像がつく。

 「でも、だからってここまで……」

 「局の命令は絶対……。分かって」

 カートリッジのロードによりバルディッシュが蒸気と唸りを上げる……。向けられた剣先に雷光が集中して人ひとりを余裕で吹き飛ばせるだけのエネルギーが蓄積され、照準を定めた。この時点でまだ撃たないのはトレーゼを守るかのようにスバルが彼を抱きかかえているからだろう。そして、それを自覚していたからこそスバルは余計に離れようとはしなかった。

 「お願い、そこをどいてスバル。あなたはもう少し冷静にならなきゃダメ……」

 「あたしはいつだって冷静です! 今だって……これからだって!」

 「だったら、そのポケットの物は何?」

 「!?」

 「その魔力規模、気付いてないと思ってた? それは何?」

 「……………………」

 元々渡すつもりだったとは言え、今のこの状況で彼女の目に晒すのは気が引ける。だがここで素直に出さなければそれこそ無意味な諍いを招きかねない……。そう判断した彼女は大人しくポケットから青く輝く石を取り出して見せた。

 「ジュエルシード……」

 かつて一人の人造の人間を魔道に引き込み、その身を削る過酷な運命を強いた超常の産物……それが今、再びこうして自分の目の前に現れた事にフェイトは驚きを禁じ得ない様子だった。その危険性を誰よりも理解し、同時に身に沁みているからこそ教え子の手からそれを取り上げたいと思うのは必定だと言えた。

 「それをこちらに渡して。それはヒトが持っていい物じゃない」

 剣先に溜まっていた雷光が霧散し、そしてフェイトは手を差し伸べる。石を渡し、自分と共にクラナガンへ帰ろうと言う意思表示である事は明確だった。帰りたくない訳ではない……むしろ、たった二週間かそこらしか離れていないが一度もその思いを忘れた事は無かった。向こうには友人がいる、恩師がいる、家族がいる……戻りたくないなど言うはずがない。多少の事でその心が揺らぐはずも無いはずだった。

 しかし……

 「それを……よこせ、セカンド……」

 ここにもう一人石を欲する者が居ることでそれは簡単に揺らいでしまう……。ボロボロの体を起こしたトレーゼは一瞬の隙を突いてスバルの左手を掴み上げた。瀕死とまではいかないにしろ、かなり衰弱していると思っていただけにスバルは左腕を圧迫する腕力に石を取り落としようになった。

 「よこせ!! それがあれば、俺はまだ、戦える!」

 彼の言わんとしている事はわかる……戦闘機人の治癒力をもってしても治らない傷を負ったのなら、石に“願い”を掛けて治癒を越えた再生復元を行うしかない。恐らくそうすれば確実に彼の肉体は瞬時に全快し、更に石からの魔力を受けた事でその力は底上げされるだろう。だがしかし……

 「ダメだよ、そんなことしたら……!」

 石の願望成就の力は“結果的”にしか願いを叶えない……早く成長して大きくなりたいと願えばその身は大木の如き大きさを手に入れた異形となり、どこにも行かせないと願えばその者の足を切る……最終的に持ち主の願いが叶えられればどんな形や経緯であれ、最短の方法でそれを成就させる歪んだ願望機、それがこのジュエルシードだ。傷の治癒を望んだだけでどんな災厄が自身と周囲に招かれるかは誰も知れない未知の恐怖……無差別に願いを叶えるが故に、願いを持つ者の手に渡してはならないと言う矛盾が重く重く伸し掛かる……。

 だが当のトレーゼはそんな事は知ったことではないと言う風に渾身の力を振り絞ってスバルの手から石を強奪しようと躍起になっていた。普段の冷静な彼ならいざ知らず、今の頭に血が昇った状況ではほんの些細な弾みがどんな結果をもたらすかなど考えたくもない。かと言って、自分の力ではこの傷は完治させられないと自覚しているので彼を宥めて自分で傷を癒すという選択肢も取れない……。なにより、今目の前に居るフェイトがそれを許さない。石を受け取れば後は彼を殺すだけ……迅速さを追求する彼女は恐らくスバルの見ている目の前で彼を手に掛けるだろう。だが彼女はそれを拒む……。

 「待ってくださいフェイトさん……」

 「何?」

 友人に耳にタコが出来るほど言われた事だが、自分には駆け引きの才能がない。堪えを知らないしすぐに熱くなり易いから冷静に物事を見据えられない……。だが、それでも、スバルは今この瞬間かつて自分が多大な恩恵を受けた相手に対して、事もあろうにある要求を突きつける。

 「ジュエルシードを渡す代わり……トレーゼをあたしに任せてください」

 人間のエゴで生み出された戦闘機人と、遥か古の時代より静かな猛威を振るう一級捜索指定のロストロギア……どちらにせよ放置するには危険極まりないが、どちらが物量的にもたらす被害が甚大であるかは一目瞭然だ。対人的に危険か、対物的に危険か……要はその違いでしかない。そんな代物を交渉の材料に用いるのだから大きく出たものだと感心してしまうところでもある。フェイトの方もいくら結界内とは言っても街中での戦闘行為は長引かせたくないと言う思いがあるのか、しばし逡巡する様子を見せるに至った。このまま上手く交渉の場に持っていければ……そんな淡い期待が生まれる。

 だが、やはり一筋縄では行かない。

 「余計な事を、するな! 俺に、渡せ……そうすれば、全て、解決する!」

 あくまでトレーゼ本人は自分が石を手に入れると言い張る。人間、切羽詰った時が一番力を振るえるように、彼もまた自身の置かれた屈辱的状況を打破しようと更に石を持つ手を掴む力を強くした。同じ機械の骨格を握り潰さんばかりに締め上げる手を振り払い、スバルは言い聞かせる。

 「こんな……こんなモノがあるから、トレーゼは無茶しなくちゃいけなくなる……。こんなもの、無いほうがいいんだよ」

 その手はあっけなく簡単に振り解けた……。解かれた手はそれまでの腕力が嘘だったかのように力無く地に落ち、遂にトレーゼはがっくり項垂れるとまるで糸が切れた人形のように、それ以上言葉を紡ぐことを止めてしまった……。それを見て申し訳なく思いながらもスバルは自分の選択は正しかったと強く信じて、フェイトにジュエルシードを差し出した。

 「約束してください……あたしに任せるって」

 「…………わかった」

 その言葉が真実かそれともその場凌ぎの出任せだったのか……それは分からない。ただ、この場を上手く治められたと言うある種の達成感がスバルの心を麻痺させていた。ここで石という一つの不安要素を取り除くことで少しはマシになると、本気で思い込んでいた。

 だから彼女は、その手に握っていたそれを……月光を背にしてこちらを睥睨する金髪の麗人に──、



 渡してしまった。










 「────あはっ!」

 どこかで誰かの笑い声が聞こえた気がした……。



[17818] 欺瞞と虚飾
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:e4ae83e7
Date: 2011/12/04 02:38
 予期せぬ事態とは常に衆人の予測の範疇を大きく逸脱した所より何の予兆も無しに突然現れる……。それは予測しなかったのではなく、つまるところ「予測できなかった」という結論に達する。よってそれを事前に予期する事など到底不可能であるし、仮に予測できたとしてもそれに対処する事は更に輪を掛けて不可能な話だ。

 何故なら……



 「はい! 回収できたよ、ご主人様」



 予測不能な事態とは決まって自分の力ではどうにもならない事が発生するものなのだから……。

 「え……?」

 時が止まったように錯覚した。無意識に瞳孔が開き、喉はカラカラに渇き果て嫌な冷たい汗が額や頬から流れ出る……。眼前で起きた出来事を受け入れられず、スバルは自分の身が寒さとは別の要因で震えているのに気付くまで幾許かの時間を要した。そして、ある一つの事実に疑問を抱く……。

 自分は確かにあの忌まわしい呪われた石をフェイトに預けた……彼女に渡した方が良いと考え、それを考慮した上で交渉の場に持ち込んでまで彼女の手に直接引き渡した。なのに、どうして……

 「どうして……?」

 どうしてそれをトレーゼに渡すのだ!?

 それまでの険しい顔はどうしたのか、満面の笑みを顔に貼り付けたフェイトはまるで王に仕える臣下の如く、傷付いたトレーゼに跪くと手を差し出してジュエルシードを謙譲した。その光景が理解できず、スバルの脳を訳の分からない混乱だけが埋め尽くしていく……。

 フェイトとトレーゼが通じていた? いや、それはない。根拠とか常識だとかではない。もし目の見えない者がこの場に居合わせたのだとすれば、その者は間違いなくフェイトが彼の側に寝返ったと解釈するだろう。だがスバルは確信していた……自分の知っているフェイトは、「こんな笑顔」をしない、こんな腹の底から嘲笑うような「歪んだ笑顔」を見せるフェイトを、スバルは知らなかった。だから直感的に分かってしまう……この女性は……

 「フェイトさん……じゃない!?」

 どうして気が付かなかったのだろう、“彼女”の醸し出す魔力が本人のそれと微妙に、しかし決定的に異なる波長だと言うことに。何故分からなかったのだろう、街を覆い隠す結界が“彼女”の魔力で構築されている事に。もっと早くに気付けていたならこれが二人の張った罠だと考えられたはずなのに……。だが今はそれよりずっと疑問になる事があるのだ。

 「あなたは誰!?」

 今、この街で魔法を使えるであろう人間は自分自身を含めて五人、その中にはハラオウン家の面々も含んでいる……。だが、この結界を張り今こうして目の前にいる“彼女”は明らかに埒外の存在だろう。でなければここまで異質な魔力を放出する事などできるはずもない。いや、ここまで歪だと──、

 「……人間じゃない!?」

 「あ、やっぱり分かるのかい?」

 返事は即答、それも肯定。魔導に関わった者なら少しは分かる互いの魔力の感知、それは確かに眼前の“彼女”が人外の存在という事を訴え続けた。

 「どうしてフェイトさんの格好を……」

 「う~ん、どうしてって言われてもなぁ。ボクって元々これに近い姿だしね。今更ボクの意思では如何ともし難いよ」

 まるで意味が分からない……。元々と言うことはつまり、生まれ出でた時から瓜二つとでも言うのか。

 「茶番は、ここまでだ……」

 ふと、混沌の場に忘れかけていた声が響いた。それまでずっと物言わなかった傷ついた機人、トレーゼが上半身を起こして立ち上がり、“彼女”の横に立ち並んだ。傷口からは血が流れその両眼は未だ朦朧として焦点が合っていない。

 「あれ? 大丈夫、ご主人様? かなり参ってるみたいだけどさ?」

 「誰の所為で、こうなった。もう少し、加減しろ」

 「加減? そりゃ無理な注文だね。ボクは『力』を司ってるんだ。万物総てを悉く破壊する『力のマテリアル』たるボクが手加減なんて、笑えないジョークだよ」

 「違いない」

 衰弱してなお衰えを知らぬはその覇気……久方振りに肌に感じるそれは先程までの弱々しさがまったくの演技であった事の証左に他ならない。青藍に染まった空と月を背にし、二人そろって並び立つその姿は地獄の悪鬼もかくやの殺気を容赦なくスバルにぶつける。

 「礼を言うぞ……。貴様が、俺を信用していなかった、おかげで、俺は望みを一つ、叶える事が出来た……。最初から、素直に俺に、渡すなら、こんな手間の掛かる事は、しなくて済んだのだが」

 「どうして……っ、ねぇ、何で……!」

 「あー、もう君は喋らなくていいよ。君の存在はご主人様にとってはもう用済みだそうだから……」

 「そん、な……!」

 「だってそうだろう? 君との間にどんな契約が成されてたかは知らないけど、この石さえあればそんなのはどうとでもなる。なにせ全ての願いを等しく無差別に無制限に叶えてくれるんだ、きっとご主人様の無理難題だって解消してくれること請け合いさ」

 そう言いながら“彼女”の毛髪が根元から変色していく。月光を跳ね返していた金髪はいつの間にか鮮やかな藍色に染まり、手にしていたバルディッシュ──に酷似した武装もその色を微妙に変化させていた。これが“彼女”の本当の姿。なるほど、確かにフェイトと瓜二つだが、それなら余計に彼女と似通っているのかが分からない。謎が謎を呼び混乱だけが脳裏を埋め尽くしていく……いったい、何が起きているのか?

 だが考える余裕はない。

 「どうする? ご主人様がやる?」

 「お前達がやれ。こんな腕で、満足に留めを、刺せるか」

 「そりゃそうだ! アハハ! じゃあ、そういうわけで……ちょっと破壊されてくれないかな。お人形さん」

 とん、と踏み出した足から高圧電流が放出され周囲に鼻を突く強烈なイオンがまき散らされる。手にした武装が蒸気と唸りを上げて魔力を充填し、青色の魔力刃を展開する。穂先から伸びる三日月のそれは、さながら死神の鎌そのものだった。

 「っく……!」

 「あれぇ? 逃げるんだ」

 逡巡があったトレーゼとは違って“彼女”は破壊や殺人に何の躊躇も罪悪感も感じない……。“彼女”もまたそうすることを目的として創られた存在だからだ。結界の外に出られればそこに来ているであろうフェイトが助けてくれると考え、一目散にスバルは二人から離れようとする。それを見て楽しんでいるのか、それともどれだけ離れても自分からは逃げられないと思い込んでいるのか、“彼女”から積極的に迫るような真似はなかった。そろどころか徐々に自分から遠ざかるこちらを眺めて面白そうに微笑んでいる。

 「ふーん。逃げるのはいいけどさぁ、一つだけ忠告しておいてあげるよ」

 後ろで何かを言っているがもうスバルには何も聞こえていない。機人の脚力を最大限に使って駆け出した彼女は既に数十メートルも先に居た。例え背後から迫って来ようともここまで来たなら逃げ切れる自信があった。

 あったはずだった……。



 「そっちの壊し方は結構エグいよ」



 商店街の横道をブチ抜いて極大の魔力砲撃が鼻先をかすめた。爆撃にも似たその黒い砲撃はスバルの僅か半歩手前の家屋を軒並み蹂躙し、爆煙が晴れた時に目の前に広がっていたのは曲がり角まで剥き出しになった更地の地面だった。

 「フム、やはりかつての感覚を取り戻すのはまだ時間が掛かるか……」

 「あなたは……!?」

 瓦礫を足で掻き分けて出て来た人影、それを認めたスバルはまたも驚愕に打たれた。

 「はやてさん……じゃない!?」

 髪は灰色で瞳は濃緑……だが、その姿は正しく自分の上司である八神はやてそのものだった。纏う魔力も彼女とほぼ同質。しかし、その根本にある歪みは先の“彼女”と全く同じものがあった。つまり、この者もまた人間ではない。

 「ほぉ、一目見ただけで我があの小鳥とは違うと看破するか。惚けた顔に似合わず勘が鋭い塵芥よ。主殿が危惧する訳も知れようというものだ」

 手にした剣十字のデバイスは禍々しいまでの暗紫色に染まり、左手に抱える分厚い本もまた同じ色に染まっていた。背後からはフェイトに酷似した“彼女”がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら徐々にこちらに近付いて来る……。前後から挟まれ、もう逃げ場はどこにも無いかと思われた。だがまだ上空が残っている。空を飛ぶ事は出来ないがウィングロードで足場を作ればまだ活路は残されている。

 「ほほぅ、意外と機転の利く塵芥よな。自暴自棄になって突っ込むイノシシかと思っていたが、存外賢さも持ち合わせるとはな」

 「でも、それだけにご主人様の不利益になる存在だ」

 相変わらず、二人が襲ってくる様子は無い。それどころか、物見遊山のように下からこちらを見上げて笑っているだけだ。そして、その視線の先には……

 「高いところから失礼しますよ」

 「そんな……なのはさんの姿まで……」

 髪は短いし眼は蒼く、バリアジャケットはネガが反転した様に黒と赤に彩られている。だが現れた“彼女”の声や顔立ちは間違いなく遠い故郷の地に居るはずの恩師のそれだった。何故彼女が……いや、“彼女ら”がここまであの三人に酷似した姿形なのか今のスバルには理解できない。理解できないと同時に、そんなモノを自分が目の当たりにしてしまっている事実に気が狂いそうになる。きっと自分が物事を深く考える人間だったなら今頃とっくにそうなっていたはずだ。

 「さて、貴方に特に恨みや憎しみといった負の感情はありませんが、私達の恩人に仇成すとあれば放置する事は適いません」

 「仇……?」

 「自分ではお気づきになれないと……。だとしても、あの人の結論は揺らぎません」

 そう言って“彼女”はレイジングハート、やはり暗紫色に染まったそれの切っ先をスバルに向けた。照準は頭部……直撃すれば穴が開くどころか首から上が消し飛ぶ。それを躊躇なくやろうとする辺り、やはりこの存在は……

 「ふむ、我らの存在が不可思議と見える」

 「無理ないよね~。管理局でもボクらの存在を認知してるのは極僅かの面子だけって話だし」

 「その『極僅か』の中に貴方は入っていない」

 「だが、うぬがそれを知る必要はない」

 「何故なら……!」

 「私達がここで貴方を壊すからですよ。機械人形」

 三者三様、一斉に得物を構えて魔力を充填し始めた。最早逃げ場などどこにもない……先程商店街の一角を吹き飛ばした攻撃が三つ同時に襲えば、どれだけの機動性でこの場を離れたとしても逃げ道ごと消し飛ばされてしまう。

 「っ!!」

 縋る思いで足下のトレーゼに視線を向ける。だが、子供が使い古した玩具に何の興味を示さないように、今の彼の視線は……

 「────────」

 もう何の興味も見出してはいなかった。

 顔こそこちらに向けてはいるものの、その瞳はかつて出会った頃と全く同じ虚ろな穴と化してしまっていた。そして知った……人間、本当に興味が無くなってしまった時は鬱陶しささえも感じないのだと。唯一感じるのは『疑問』だけ。どうしてこいつはこんな所に居るのだろう? こんな奴、居なくてもいいのに……そんな当人にとっては至極当たり前の疑問だけだ。

 「安心して」「肉片はもちろん」「骨の欠片、頭の毛一本に至るまで」



 「「「綺麗に消し去って見せよう」」」



 頭上に輝く三つの輝き……これを受ければ消し炭さえ残らずに自分は消滅してしまうと否が応でも自覚させられる絶対的な力の奔流、その源泉。天誅を下す神罰でもなければ、人間の行いが因果応報となって返って来る人災でもなく、ただただ単純な方向性も無い力の塊……そんなモノが自分の最期を彩る色となる事実に、スバルは──、

 「あぁ…………」

 恐怖でも憤怒でもなく、ただ得も言われぬ悲しみを覚え涙した。

 ……………………

 …………

 ……










 「そこまでです!!」

 ガラスが砕けるような音と共に青藍の天蓋を突き破り、一迅の雷鳴が三体のマテリアルの間を駆け抜けた。その速度は人外の動体視力を以ってしても容易に捉える事は適わず、網膜に映った時には既に乱入者が停止した後だった。

 「ああ、そう言えば貴方も居たのですね…………」

 「まったく、十数年前と同じように邪魔立てするかっ!」

 それまで優越感と喜悦に満ちていたマテリアルらの表情に陰りが差す……。特に『王』と『力』、この二つを司る二体から先ほどと比較にならない殺気が滲み出て乱入者を威嚇していた。だが当の本人はそれを受け流し、抱きかかえたスバルを静かに地に降ろした。

 「大丈夫?」

 「あ……フェイト、さん」

 赤く澄んだ瞳に流れる金髪、良く通る声に、優しい笑顔……間違いなかった、今度こそスバルが良く知るフェイト・T・ハラオウンその人だった。助かったという素直な安堵が緊張で張り詰めていた体を溶かす。だがそれと同時に一つだけ明らかになった事がある……。

 「マテリアル……。闇の書の構築体がどうして?」

 やはりフェイトと彼女らの間には何かしらの接点があった。しかも聞こえた言葉には無視できないワードが含まれている事も……。

 だが今は悠長にそんな事を考えている暇などない。一刻も速くこの場から離脱して策を講じなければ生き残る活路は見出せない。この場に居る面子であの三体の危険を熟知しているのはフェイトしか居らず、彼女なら多勢に無勢のこの状況でも何とかしてくれるとスバルは信じていた。

 しかし……

 (……まずい)

 表に出さないがフェイト本人も焦燥感を覚えていた。彼女自身、たった一晩とは言えマテリアルと刃を交わした経験がある……それを鑑みただけなら彼女が競り負けるなど、傍からは到底思えないだろう。更に言えば十数年前の時点で実力は拮抗しており、その後ずっと実戦経験を積んだフェイトに分があるようにも思えるのは至極当然の帰結と言えよう。

 だがしかし、当時とは違いこの街には親友二人もヴォルケンリッターの四人も居ない……しかもあの時は一人ずつ相手にしていたのに対し、今回はその三人全員を一度に相手取る必要があるのだ。一人ひとりの実力は同程度だったとしても、三人同時となれば話は違ってくる。それもスバルを護衛しながらの防衛戦となれば逃げ道の確保だけで精一杯だ。加えて彼女らの背後に控えているトレーゼ、その手にあるモノが問題だ。

 (ジュエルシードを渡してしまったなんて……!)

 ありとあらゆる願いを叶える石をあちらが手にしてしまった以上、彼が望む限りこの場は彼の好きな状態へと収束する。過程をすっ飛ばして結果だけを引き起こすとなれば何が起こるかを予測する事など出来るはずもない。唯一の救いは彼が負傷している事だけだが、元々スバルを陥れる為に行なった自作自演……見た目は酷く傷付いているそれも実際は自分が行動するに支障の無い範疇に留めている。現に積極的に攻撃を仕掛けようとはしないものの、マテリアルの手も借りずに立っているのがその証拠だ。彼が一言望むだけで、この張り詰めた状況は瓦解する……動かなければいけないのに、それ故に動けないと言う矛盾がせっかく乱入したフェイトを追い詰めていく……。

 かくなる上は、自分が玉砕覚悟で突貫して場を掻き乱し、その間にスバルが逃げ果せるより他に手立ては無い。

 「(行ける? バルディッシュ)」

 『難しいですが……』

 困難と言う程度なら問題ない。要は不可能で無ければ良いのだから。

 ≪スバル、今から私が全力で彼女達の注意を引き付ける。あなたは先に結界の外まで走って≫

 ≪そんなっ、フェイトさん!?≫

 ≪大丈夫……私も少ししたら合流するから≫

 そう言って心配させまいと笑顔を見せる。鏡が無いので自分がどんな顔をしているのかは分からなかったが、きっと酷いものだったに違いない。素人目に見ても今のこの状況は絶望の一言に尽きる……そんな状況に針先で風穴開けようと言うのだ、どれだけ拙いかは言い聞かされたスバルでも分かっている。だがそれと同時にそうする以外の方法が無いと言う絶対の事実も弁えていた。

 「…………分かりました」

 「行って!」

 振り返った背中を押し出し、離脱を促すとスバルは直ぐに駆け出す。途中何度もこちらを未練がましく振り向いて姿を確認し、その度に足が止まりそうになるも、彼女は最後まで駆け続け、そして……

 「行った……」

 最後の角を曲がった瞬間に気配が消えるのを確認した。さっき自分が乱入した事で結界が緩んでいたのか案外すんなり脱出できたようだった。ここまでは良い、何の誤算も無い。むしろスバルを無事に逃がす事が大前提だったのだから、この結果だけを見れば大成功だ。



 唯一つの誤算を除いては……



 「さてと、邪魔者は、居なくなった、ようだな……」

 「そうだね~。これで心置きなく暴れられるってものだよ!」

 「私は周囲の哨戒に出向きますが、まあ程々にしてください」

 「我はこの様な些事には付き合えん。塵芥の処理はうぬに任せたぞ」

 「りょーかい!」

 結界から一人抜け出したのを確認した後、マテリアルらは示し合わせたように方々へと散開しようとした。誰一人も逃げたスバルを追おうとはせず、それぞれやる事は無くなったと言わんばかりに好き勝手に行動し始める。

 「そう……そう言う事ですか」

 殺すつもりでいたくせに誰も彼女を追わない……この矛盾にフェイトは早くも真意を掴んでいた。彼女の考えている結論が正しいならば、最初からこの場は罠だったと言う事になってしまう。だがこれならば全ての辻褄が合う。

 「街全体を覆っていた魔力濃度はフェイク……やり口は貴方が最初に管理局に侵入した時と同じもの」

 「そうだ……。完全偽装、シルバーカーテンで、この街を、魔力で侵されたように、見せかけた。無論、すぐに見破られないよう、こいつらを使って、魔力をばらまいたがな」

 どうりで実際に街に繰り出してみれば事前に聞いていた数値に程遠いはずだ。それでいて人体に有害となるレベルの魔力は散在しているのだから無視は出来ない。結果、街に住まう魔導師はそれが罠かどうかは別の問題として究明に当たらねばならなくなる。

 「最初から私を誘き出すためだけの罠だった……!?」

 「ハッ! 何を言っている。自惚れも甚だしいぞ塵芥」

 「確かにこれは主が貴女方を誘い出す罠として仕組まれた事です。しかし……」

 「別に君だけを狙ってた訳じゃあないんだな~」

 「どう言う意味ですか!?」

 「別に誰が来てもいいのです。来た者から……目の前に現れた者から殺すだけですから」

 「あの機械人形より先にうぬが来れば、うぬを始末していただけの話よ」

 「逆に君が来るのが遅かったら、ボクらはあのままあの子を破壊していただろうね」

 「つまり、ここで貴様が、奴を逃がしたから、俺達は、標的をお前に変えた……それだけだ。万全を期す為に、一人ひとり、消し潰す」

 そう言いながらトレーゼの指示でマテリアルらはフェイトの周囲をぐるりと取り囲む。自分に向けられる六つの眼球……そしてそこから放たれる純然たる殺気とこの上ない悪意の波動、それらがフェイトの体を隅々まで舐め回す。屍肉を前にしたハイエナが舌舐りをするように、今のマテリアルはいつどの段階で襲いかかってきても不思議はなかった。

 そんな状況にも関わらずフェイトは努めて落ち着き払い、トレーゼに問いを投げ掛けた。

 「あなたは……その石で何をするつもりなの?」

 「貴様には、関係無い。それとも何か? 納得のいく、理由を言えば、この石を持つことを、許されるのか? それこそ、傲慢だな」

 「…………私はその石を追って破滅した人を知っている。私はその人の一番近くに居たのに、その人の悲しみを理解してあげられなかった」

 今となっては遠い昔の出来事だが、あの日あの瞬間の光景は昨日の事のようにありありと思い出せる……。あれから十数年経った今でもあの日の事を思い出し、そして悔やまない時はない。あの時自分が振り払われる手をしっかりと握り締めていれば……そう思うのだ。だからこそ、その破滅の遠因となったモノを望んで手にしている彼が余計に危うく見えるのだろう。敵味方の駆け引きなどそこには存在しなかった……彼女はただ純粋にトレーゼの心の奥底にある暗闇を知ろうとしていたに過ぎなかった。

 それを、彼は振り払う。

 「言ったろう……俺と貴様は、違う。同じ境遇? 人の手で生み出された? 同情は要らんと、言った。何なら、今ここで、この石に、貴様の口を閉じるように、願ってもいいんだぞ」

 「ワオッ! ご主人様ってばだいた~ん! どうなるかな? 喉笛が裂けるかな? 舌が抜けるかな? それとも、すぐに死んじゃうかなぁ?」

 「面白い。喉笛に賭けよう」

 「でしたら私は即死に……。と言うか、殺るなら早急に済ませてください。遊びが過ぎるのは貴女の悪い癖です」

 「はいはい、了解っと!」

 肩に背負ったデバイス──バルニフィカスを変形させ、ザンバー形態に移行したそれをフェイトに向ける。鏡写しと言うよりはネガの反転のような構図で対峙する自分の影……消し去ったと思っていたモノが復活した事も衝撃だが、それよりも自分の姿を丸々写し取った存在と睨み合う事になるなど、フェイトは予想だにしなかった。

 「ねぇ知ってる? 十三年前の時、そこに居る王様達は“オリジナル”と戦ったのに、ボクらは接触すらしてないんだよね」

 「……………………」

 「あれ? 黙り? まぁいいけどね。どうせ君はここで死ぬ。ボクの雷の剣の前に……塵となれ!!」

 刹那、風が凪いだ。眼では捉えられない。瞬間的に音速を越えたその剣先の軌道を見極める事など武道の達人でも容易には為せない。結果、その攻撃を防ぐには軌道ではなく相手の殺気を読む事が重要となる。幸いにもその相手はこちらに遠慮なく気迫をぶつけてくるので、太刀筋を読むのは簡単だった。だが……

 「ッハァ!!」

 「ぐぅ……っ!!?」

 受け止めた一撃が予想以上に重い。右側から迫った刃を受けたバルディッシュの刀身が軋みを上げ、衝撃に備えて踏ん張っていたはずの足が地面にめり込む。あと少しでも反応が遅れればそのまま反動で弾き飛ばされていた。常人以上の筋力についてはこの際何も言うまい……だが、あくまで同等と踏んでいただけにそれ以上の力が発揮された事にフェイトは驚きを隠し切れなかった。

 その動揺を察してマテリアルの顔が愉悦の表情を浮かべる。

 「あれれ? ひょっとしてボクの力が以前と同じだと思ってた? だとしたらその予測は大外れだよ。今のボク達はご主人様からの魔力を潤沢に受けて実体化してるんだ。わざわざ伊達や酔狂で成長した大人の姿でここに居ると思ってるのかい?」

 「彼の魔力を……!?」

 「ああ、そうさ。君達のお陰で取り返しのつかない状態にまで弱体化してしまったボクらの肉体を、三人纏めて実体化できるだけの魔力を与えてくれたんだ! ああ! なんてお優しいご主人様!! 消え行くしか無かったボクらに、怨敵に報復する千載一遇の好機をくれるなんて!」

 「ハンッ! 消されると勘違いして喚き立てていたのはどこの誰だったか」

 「う、うるさいな! 過ぎた事はいいんだよ!」

 「ついでに言うと、貴女も結構騒いでましたよね?」

 「やかましい!」

 「あー、ゲフンゲフン! つまりだ! 今のボク達をかつてのボク達と一緒だと思わない事だね。例え君の努力次第で覆せる力量差だとしても、三人同時では抗えない!」

 「一応、抵抗せぬ方が身の為だと忠告しておこう。大人しく殺されれば痛い目を見ずに済むぞ」

 「力の限り反抗するかの判断は貴女の自由です。その場合、私達も全力で貴女を潰させて頂きます」

 「さぁ! どうするんだい?」

 三者三様、得物の狙いをフェイトの頭部、心臓、足に向ける。内二つは即死の的、残る一つは逃走手段を奪う的……直撃せずともかすりさえすれば、それだけで充分な致命傷となる。まともに戦おうとすれば五分と保たない。逆に逃げ道を選んだとしたら無事に結界の外まで脱出できる確率は五分五分……いや、持ち前の機動性を最大限に有効活用すればフェイトがこの場を離脱できるだけの可能性は残されていた。

 そう……離脱するだけならば……。

 (私が無事に逃げられたとしても、彼らが破壊活動を止める保証はどこにも無い……。最悪、邪魔者の私達を消すためにこの街が灰になるまで暴れる可能性もある)

 自分達の闘争に何の関係もない彼らを巻き込む訳には到底いかない。かと言って、勝ち目のない戦いに好き好んで挑むほどフェイトも酔狂な性格はしていなかった。結界に飛び込んだ時からこの戦いは既に敗色しかない負け戦……行動の選択肢など最初から無く、突っ込んで死ぬか抵抗して死ぬか、過程が違うだけで用意された結果は全て同じだ。

 「どうする? ボクとしてはこのまま殺り合うのは大賛成だよ。君が逃げてもボクらはどこまでも追いかけて必ず仕留める。誰も巻き込みたくないのなら、ヒトが住んでない場所に逃げるんだね」

 「…………私は、あなた達の誰か一人に勝てたとしても、同時には相手出来ない」

 「自覚があるか。賢しい塵芥よのぉ」

 「それで、貴女は何とするのですか?」

 「一人じゃ勝てない……でも────!!」



 「二人ならぁああああああああっ!!」



 剥き出しになった大地、その更に地中深くより突き出る剛拳が乾坤一擲! 

 真下からの衝撃に足場が崩壊し、『力』を司るマテリアルは一気に後方へ飛び退いた。『王』は空中へと後退し、『理』を司る者はトレーゼを支えながら建物の屋根へと避難する。二人目の乱入者に四人の発する殺気が跳ね上がる……だが粉塵の中より現れた彼女はそんな気迫を受け流し、不敵に微笑んで見せた。

 「アルフ……!」

 「遅くなったね、フェイト!」

 結界を発見する前に別行動を取っていた自分の使い魔が駆け付けた事で事態はフェイト側に好転した。フェイトとアルフの二人でマテリアル三人を相手にするとなれば勝機は充分に見えてくる。更に意図せず判明した事だが、『理』を司るマテリアルはこちらを警戒しながらも一線を引いて戦いに本腰を入れる様子が無い事が分かった。先程アルフが乱入した時もまっすぐにトレーゼの所まで駆け寄って彼を支えていたところを見ると、どうやら本調子を出せない彼の補佐として近くに侍っているようだった。つまり、彼女は彼の近くから離れられないと言う事になる。仮に彼女がトレーゼから離れたとしてもこちらが彼を狙っている事を知っている限り、その近くには必ず三人の内の誰かが付く。事実上、二対二でも捌き切れると言う事実がここで露呈した事になるのだ。

 「外側は超頑丈だったけど、意外と下らへんはスッカラカンでさ。面倒臭かったけど下の下水道からどつかせてもらったよ!」

 「おい! 貴様ァ、結界を張る時は全天一分の隙も無く展開せよと申し付けたのを忘れたか!!」

 「あ、あれぇ~? おかしいなー? 肉体復活したばっかりだから調子外れてたのか……な?」

 「まぁ、例え完璧だったとしても力尽くで破るでしょうね、あの使い魔。思考パターンの一部が貴女と非常に似通っていますしね」

 「オイコラ! 聞こえてるんだよ!!」

 「うわっ……とと! 危ないなぁ、当たったらどうするんだい」

 「当ててんだよ!!」

 余所見をしている瞬間に飛んできた拳を避けて電柱の上に飛び乗り、恨めしげにアルフを睨み付ける。二人揃って接近戦を好み武器を持たない分、リーチはこちらが遥かに勝っているとは分かっていたがそれを補って余りある機動性と俊敏さを併せ持つのもまた事実……それを自覚しているからこそ、三体のマテリアルは距離を開けながらも下手な行動を打てず膠着状態に陥ってしまっていた。肉体が復元されたばかりでまだ調子を取り戻せていない事もあり、このまま戦闘を続行して懐に入った二人を完全に対処するだけの自信は今の彼女らには無かった。さっきまでの強気はあくまで相手がスバル、あるいはフェイトが単独だったからこそ力押しでも通用すると踏んでのものであり、そこに助力する者が現れてしまった以上、そんな強気な態度は取れなくなってしまったのが現状だ。

 加えて、知る由もないがフェイトに看破されたように、マテリアル三体の内の必ず一体はトレーゼの守護に付かなければならない。マッチポンプの怪我とは言え、動くに支障のない最大限度の傷を負っている為に今のトレーゼは戦闘行動が不可能な状態にある。

 「ここで後もう一人入って来られれば流石に凌げませんね」

 「…………いや……もう、遅い」

 「トレーゼ様?」

 そっと呟くトレーゼに疑問を投げ掛けようとするマテリアルだったが……変化はそれより先に来襲した。

 「ッ!? この感覚は!」

 「新手の不埒者か。しかし誰が!」

 先にそれを感知出来たのはこの結界を展開した『力』を司るマテリアルだった。誰かがこの閉鎖空間に干渉しようとしている……しかも外側からのゴリ押しではなく結界の内側に働き掛けて直接こちらに侵入しようとしているようだ。この混迷とした修羅場にそんな器用な手段で介入しようとする者をトレーゼはすぐには思い浮かべなかった。スバルではここまで器用な事は出来ない……そして、目の前にフェイトとアルフが居る以上、これだけの芸当を行える魔導師は──、



 この街に一人しか居ない。



 「よもや、貴様ほどの者が、出張って来るとはな……」

 恐らく、この街に居る魔導師の中で最も最強を名乗るに相応しい人物……

 「これで三対三……状況は完全にこちらに好転しました」

 管理局本局付き総務統括官、リンディ・ハラオウン。ディストーションシールドの四枚羽根を羽ばたかせ、杖型のストレージデバイスを構えた歴戦の女総督が今、夜の街を脅かす四体の人外の前へと出陣を果たす。

 ここまでの事態は完全に予想外だったのか、さすがのトレーゼからも余裕の色が消え失せ、十三年前には感じなかった魔力の持ち主を目の当たりにしてマテリアルらにも明確な動揺が見て取れた。戦いのみならず、全ての事象において未知は有象無象の区別無く恐ろしいものだ……なまじ、それが分かっているからこそ遂に三体のマテリアルらは弱腰になり掛けていた。更にリンディ自身が戦場に乗り込んで顔色一つ変えない程の手練でもある。かつて崩壊中の時の庭園に単身で乗り込んだだけの事はある……。

 「…………退くぞ、お前達」

 「ご主人様!?」

 「これ以上、戦っても益はない。無駄に力を、消耗するな。今のお前達では……あの女は、殺せない」

 「主殿がそう言うのであれば致し方ない。単純な力の差ならともかく、口惜しいが技量はあちらが上か」

 「であれば無駄に力を削って泥仕合となるより、確実に打ち倒す機会と方法を模索する方が得策でしょう。トレーゼ様の指示に従い、ここは一時退却しましょう」

 「あいさー」

 混迷した修羅場は意外にも絶対に退かないと思われていたトレーゼからの言葉で事態は収拾を迎えようとした。冷静な彼の思考判断は的を射ており、予想外の敵を目の前にして怖気付いたマテリアルらは反対もせずに空へと上がった。

 「逃げるのですか?」

 「勘違いするな。俺は貴様らに、猶予をくれてやったのだ。我々が万全を期し、再起を遂げた暁には、こんな小さい街など、取るに足りない。大人しく出て行こう」

 「私達がそんな簡単に行かせるとお思いなんですか」

 「粋がるなよ、老骨……。貴様らの住処を、焼き払わずに、放置してやろうと、言っているんだ。こんな街、土壌ごと消し去る事も、可能なんだぞ」

 「それは脅しですか。生憎ですけど、犯罪者とは取引はしないのが局員の鉄則です。貴方の要求は呑めません」

 「これは命令だ。下手に出た覚えなど、無い」

 「……………………わかりました。今回はここまでにしましょう。ですが、次に相対する時はこちらも死力を尽くさせて頂きます。どこへなりともお行きなさい」

 「言われずとも、そうする……。行くぞ、お前達」

 「はっ!」

 飛翔した四人の体を電光が走り、瞬きの後には彼らの姿はシルバーカーテンの迷彩効果により彼らの姿は結界内より完全に消え去った。魔力を用いない隠遁により逃走されたとあれば、その足跡を追う事は適わない……。結局、崩壊する結界より離脱する事を優先し、リンディらは跡を追う事なく街から離れるしかなかった。

 「良かったのかよ。あいつら絶対大人しく退く気なんてさらさら無いよ」

 「次に会った時はこの街が……。何とか回避はできなんですか!?」

 「無理でしょうね。私達が望む望まざるに関わらず、いずれここは戦場になります」

 「どういう意味さ!?」

 「それは…………」

 一度言葉を区切り、リンディは退避したビルの屋上より眼下の商店街を見やる。ついさっきまであの場所が激戦区に成り果てようとしていたなど、あそこを歩く何人が気付いただろうか……。いや気付くまい、位相をずらして作り上げた別空間の中での出来事を認識できる者などここにはそうそう居ない。だからこそ恐ろしいのだ……この街が自分達、別世界の者達の都合で戦場に変えてしまう事がリンディにはどうしようもなく恐ろしく感じられた。

 「ここは……戦場になってしまうでしょう」

 リンディの悲しい呟きは風に流れて消え去り、開戦の号砲の代わりに遠い空に星が一つ瞬いた。










 命からがら高町家に逃げ帰ったスバルは桃子らの制止も聞かず、そのまま自分の部屋に飛び込むと内側から鍵を閉め、そのまま閉じ篭ってしまった。これまでにあった事情の全てをこの家の者に話す事なく、彼女は暗闇に自ら閉じ篭る事を選択してしまった。

 最初は美由希が何があったのかとドア越しに問い質したが、すぐに止めると大人しく下に引き返していった。下手に揺り動かさない方がいいと思っての優しさだった。

 部屋の奥でスバルは……湧き上がる混乱と慟哭の念を必死に抑えながら、自分がこれからどうするべきかを自問自答していた。

 「どうするの…………あたし、どうしたら……!!」

 自分は十三年前の事件に関わっていないからあの石の真の脅威を知らないし、同じように恩師達の姿形をした正体不明の彼女らの恐怖も与り知らない……。ただ漠然とした直感で危険なモノだという曖昧な認識しか持ち合わせていなかった。曖昧な認識だったから、傷ついたトレーゼを庇うつもりの軽い気持ちで石を差し出してしまった。それが罠だったとは知らないで……。そしてその結果、彼はスバルの手元を離れ何処へと去ってしまう結末となってしまった。

 私の所為だ!

 極大の自責の念が重く重く伸し掛る……。存在意義を得る為にスバルを頼る必要が皆無となった今、トレーゼがここに帰ってくる事は二度とない。そして、彼を抑制できる者もまたこれで潰えてしまった事になってしまう。ストッパーをの制御下を離れた彼の周囲には、新たに徒党を組んだ三体の人外が居座りその身辺を固めるだろう。そうなれば彼はますます孤立してしまう……それがどうしても認められず、そんな状況を作り出す一因となった自分の愚行がスバルにはどうしても許せなかった。

 「なんとかしなきゃ……なんとかしなきゃ…………あたしがなんとかしなきゃ!!」

 まだだ、まだ“悪い予感”はずっと続いている。今日起こったこの出来事はその予兆に過ぎず、全てがここから始まる……だとしたら、またクラナガンの時と同じような事がこの海鳴で繰り返されてしまう。それだけは何としても避けなければいけない惨事だ。だがどれだけ頭を悩ませても自分一人の力ではどうしようもないというのも事実……制御を失したトレーゼを止められる方法などありはしなかった。

 いや──、

 一つだけ……賭けになるが、たった一つだけ彼を止める方法が辛うじて残っている。いや、止めると言うよりはむしろ、彼の注意をこちらに引き付ける事になるだろうが、そうする事でこの街、ひいては世話になった高町家に危害が及ばない最善にして唯一の方法だ。かつての彼の言動を鑑みれば、この手段を執る事でトレーゼは自分を追わざるを得ないとスバルは確信を持てた。後は自分を追跡して来るであろう彼から延々と逃げるだけでいい。問題は、いつまでそれが続くかだ。

 それにこの方法は命懸けだ。逃走の途中で彼に捕捉されれば、この世のありとあらゆる苦痛と責め苦をも優に凌ぐ暴力によって屠殺されてしまうだろう。それこそボロ布か何かのように無残滑稽に、スバル・ナカジマと言う一個の存在は骨の髄まで否定されるだろう……。それ程までに自分が抱えるこの“真実”は重要なものなのだと、スバルは改めてその恐ろしさを再認識した。自分を追うトレーゼの背後に管理局の手が及ぶまで逃げ切れるかどうかは分からないが、現状ではそれが一番確実な方法だ。

 しかし……

 「……きっと、あたしもタダじゃすまされないよね……」

 それはトレーゼに捕まった時、と言う意味ではない。むしろそれ以前の問題…………この秘密はこの事件が終わった後で告白し、それ相応の“罰”を然るべき者から与えられるのだと思っていたが、彼を誘き寄せる為にはそれを明かすのは当分先の事になりそうだった。そして恐らく……これを明かせば自分は────、

 「あたしは……あたしの手は…………」










 海鳴市中央区、とあるビジネスホテルの宿泊部屋にて──。



 「まさか、ハラオウンの女狐が、出てくるとはな……。よほど、この街が大切か」

 貸し与えられた部屋のバスルームでシャワーを浴び、自らの血に濡れた上半身を洗い清める……。傷口に湯が当たるたびに鋭い痛みが走るが、そんな事は些事でしかない。それに、その傷はもう癒える……。

 栓を閉め、備え付けのタオルで体を吹きながらバスルームから出る。そのまま寝室に向かった彼を出迎えたのは……

 「相も変わらず、塵芥どもの考える事はよう分からぬ。この『てれび』とか言うのもそうだ! 映像を映し出すエネルギーと情報量が全くあっておらんではないか! 熱量の無駄だぞ!」

 「わざわざ現地まで行って見聞きするより、よっぽど安上がりと言うことでしょう。しかもこれ、私達が消えた時より段違いに技術が向上してますよ」

 「へぇ~! こんな薄いのに部品がワンサカ組み込まれてるんだ!」

 「…………おい」

 与えられた部屋で大いにくつろぐマテリアル三人組。生まれて初めて触るテレビに興味が湧いたのか、トレーゼが出てきた事にも気づかずリモコンを弄っては雁首揃えベッドを占領して鑑賞していた。

 「うん? おー! ご主人様! お風呂上りの格好もすごいワイルドだよ! つーか寒くない?」

 「バスローブこちらです」

 「いや、今はいい。それより……おい!」

 「あぁ? 我か?」

 テレビの一番近くに陣取っていた『王』のマテリアルを招き寄せる。最初から何を行うか分かっていたのか、彼女はその手に毒々しい紫色の魔導書を抱えていた。

 「さてと……それじゃあ、分かっているな?」

 「その前にハッキリさせるべき事があろう」

 向き合った両者の間から部屋の空気が一変する……。そのただならぬ雰囲気に後の二人もテレビの電源を落とすと、その様子を見守り始めた。

 「……8だな」

 「何を言う! 9だ」

 「6」

 「お、おい!? 更に減ったではないか!? ええい! 5っ! これ以下は我らの沽券に関わる!」

 「オーケー。5%で、手を打とう」

 「おーい、結局何の会議だったのさ~?」

 「これから行う、『施術』について、少しな。それより、実体化したなら、いい加減に、自覚を持て。そんな事では、いつかの時と、同じ憂き目を見るぞ」

 「そこらへんは安心しなよ。流石にあのオバサンが出てきた時はビビッたけどさ、それを除けば上手いことやれたと思わない、ボク達さ」

 「それに、傷が癒えればここを離れるのではなかったのですか? 先程トレーゼ様が申されたはずでは?」

 「ああ、それは事実だ。負った傷が、治れば、俺はここを離れようと思う。こんな小さな街に、長居する理由があるか?」

 ベッドの端に腰掛けて冷蔵庫から出したペットボトルの水に口を付け、再びテレビのスイッチを入れる。民間放送のチャンネルはどこも明日の天気予報を映しており、広い範囲に渡って快晴が続く事を予報していた。

 「ですが、その口振りではまるで連中と事を構えるようですが?」

 「まるで、じゃない……。構えるんだよ、連中とな」

 「おいおい主殿よ。さっきから言ってる事が矛盾しておるぞ。連中とは戦わずにここを脱するのではなかったのか?」

 「それは、こちらの事情……。あちらは、そう言う訳にも、いかんらしい」

 「…………なるほど、そう言う意味ですか」

 「フッ、主殿は我らの予想以上に根性がひん曲がった御仁と見える」

 「え? えっ、なになに? どゆこと!?」

 トレーゼの物言いに一人だけ理解を示したのは『理』を司るマテリアルただ一人だった。次に理解を示したのは『王』のマテリアルで、最後まで首を傾げていたのは『力』のマテリアルだった。

 「理解が早い奴は、嫌いじゃない」

 「あ……っ」

 「お、おい! 無礼者!?」

 「あーっ!! ズルイズルイ!! ボクもボクも!」

 彼にしては珍しく感極まったのか、両脇に三人を抱えると口角を僅かに釣り上げながら短い笑い声を漏らした。ここまでトレーゼ自身、ここまで上機嫌なところは人に見せた事は無く、予想以上に事が上手く運んだ事に対して彼自身も非常に愉悦を感じていた。ミッドチルダで機動六課を翻弄していた時と全く同じように、今のトレーゼの内部は嗜虐の悦びを見出そうとしていた。

 「俺達は、この街を出たい……だが、俺達を確認した以上、あの女狐らは、俺達の存在を、局に報告せざるを得ない。ここまでは、いいな?」

 「うん! うん!」

 「そして、報告した以上、ここには管理局の連中が、訪れる。ほぼ確実に、機動六課の連中だな」

 「機動六課? 聞き慣れぬ組織だな」

 「それについては、おいおい説明する。連中の大半は、地の利があり、しかも少数精鋭だ…………数の少なさを、逆手に取り、チーム内の連携も、大人数より優れている。下手に大部隊で、ローラー作戦を、やられるより、遥かにタチが悪い」

 「対抗できるのかい?」

 「だが、それでもなお、こちらに分があるのは、揺るぎない」

 「その心は如何に?」

 「ここは、俺達の土地じゃない。むしろ、連中の領域だ。だからこそ、気兼ね無く、破壊し、殺戮し、蹂躙できる。気負うのはむしろ、あちら側だ……他者に姿を晒さず、それでいて、俺達をこの街から、出そうとはしない……。愚かだな、素直に見逃せばいいものを、首を締めているは奴ら自身と言う事だ」

 「なーる。勝手知ったる他人の土地だから好き放題に暴れられるって事か!」

 「あちらは組織の体裁と人命を最優先に考える……それが枷になると知りながら」

 「この街で戦えば被害が出ると知りながら、ここで食い止めなければならない以上、ここは戦場になる」

 通常、敵地で戦うのは不利と思われがちで、実際その通りだ。物資の補給は来ないし、周囲は四面楚歌の敵だらけ、大人数で行動すれば隊全体の機動力が削がれてジワジワと嬲られ、逆に少なければ隠密性は増すがいつ壊滅させられるとも知れない危機と隣合せになる。この場合のトレーゼらは後者に当たる。構成員たったの四名……常識で考えるなら絶望的な数値には違いない。

 だがしかし、敵地で戦う事に絶対的な利点が一つだけ存在する。自分達が戦闘を行なった事で発生する周囲への被害を一切考慮しなくて良いことだ。普通ならそこまでの被害を与える前に壊滅されるのがオチだが、一人ひとりが一騎当千の実力者なら話は違ってくる。それも四人が正真正銘の人外ともなれば尚更だ。

 「そう言う事だ。お前達には、その時に、働いてもらう。何の気兼ねも無く、思う存分、好き放題に……殺し、侵し、蹂躙しろ」

 「男は?」

 「殺せ」

 「女子供は?」

 「殺せ」

 「ビルは?」

 「木っ端微塵、跡形もなく、破壊しろ。この場所に、文明が存在した痕跡さえ、一片も残すな」

 「思い切ったな! だがその啖呵は心地よい! よかろうともさ、主殿がそう申されるなら我らマテリアル、大願成就のその時までこの力をうぬの為だけに使うと約束しよう」

 そう宣誓し、『王』のマテリアルはトレーゼに跪き恭しく臣下の礼を執った。それは形だけのものではなかった……戦闘機人の性質と混沌の象徴たる闇の書から分離した構築体としての本質が上手く合致したのか、彼女はまさしく、目の前の戦闘機人の掲げる破壊の理念に感服し、絶対の信頼をそこに感じていた。その理念が自分達より遥かに崇高なモノと感じられたからこそ、彼女は彼の前でのみ自身が王であることを忘れて礼節を尽くす事を選んだ。そして何より、彼の言う通りにすれば自分達が望んだ良質なリンカーコアを回収できると踏んでいたからこそ快く結託したのだ。

 「もちろん、仕留めた獲物は全て、お前たちにくれてやる。あんな連中、俺には何の、興味も無いからな」

 「ご主人様太っ腹~!」

 「はしゃぐな。だが、その前に、やっておくべき、事がある」

 羽織っていたタオルを取り去り、一糸纏わぬ姿となって再び腰を上げる。その肉体はやはり極限にまで鍛えられ引き締められ、鋼の如き堅固さとガラス細工のような繊細さの上に成り立っていた。とても人為的に生み出されたなどとは思えない強靭さと精巧さ……黄金比などとは言うまいが、それでも今までに目にした事が無い輝きを前に三人は名状し難い魅力をそこに覚えていた。

 「『施術』だ……あれを……」

 「ここに」

 予め用意されていたジュエルシードを受け取りほくそ笑む。その石の表面に浮遊効果の魔法を掛けて空中、丁度自分の心臓の前に来る位置に固定させ、その後の作業を『王』に譲り渡す。

 「さてと、覚悟はよろしいな?」

 「いつでも」

 「では……始めようぞ!!」

 かざした本のページが次々と捲れ上がり、部屋の中に息苦しいほどの魔力が充満していく……。やがて本からバラバラと紙片が飛び出し、紫色のそれらが一斉にトレーゼの肉体を取り囲んで包み込み、遂には一分の隙もなく彼の肉体は繭のように固められ封印された。

 「祝えよ……今ここに新たな夜天の主が誕生する!」

 次の瞬間、空間は真紅一色に染まり、それは刹那の内に消えてまた静寂が生まれた。後に残ったのはテレビのスピーカーから流れる音声だけ……それだけが夜の静寂の中で寂しく響いていた。










 12月7日午前4時00分。クラナガン、管理局地上本部にて──。



 その日、長らく窓際部署と化していた新生機動六課は久方振りに招集が掛かり、未明より会議室の円卓に主だった者達が集っていた。その中にはウーノとトーレ、そしてナカジマ家を代表したチンクなど、ナンバーズの面々も揃っていた。

 「取り敢えず、呼び出した連中はここに居るな」

 席に座った面子を見渡し、神妙な面持ちで呟くはやて……。集まったのは六課課長の八神はやてを筆頭に、教導隊の高町なのは、調査の為に現地に飛んでいたティアナに、代表として顔を出したナンバーズ三人……そして、直接ではないがモニター越しから参加しているフェイト。この六人だった。残りのメンバーに関しては連絡があったのが夜中だった事と、くれぐれも内密にと考慮して隊長格の物しか招集されていない。

 そして、その連絡を入れたのが他でもないフェイトである。

 「未明に急な連絡とは、穏やかではありませんね」

 「だが、大体の想像はつく」

 「まさか……っ!?」

 「その“まさか”や。詳細はハラオウン執務官、どうぞ」

 その場をモニターのフェイトに譲り、室内に緊張が走る。程よい静けさを保っている事を確認しながら彼女は報告に移った。

 『単刀直入に報告します。今から約八時間前、私は“13番目”と交戦に入りました』

 「っ!?」

 いきなりの戦闘発言に場に若干の動揺が走った。逃避先を確認して姿を捕捉したと言う報告を予想していただけに、展開の早い内容に流石のはやてらも驚きを禁じ得ない様子だった。

 「そら、またえらい気の早いやなぁ。戦闘行動っちゅう事は、その前に確認・捕捉したんは?」

 『交戦に入る五時間前に直接接触しました』

 「おい、待て。私の聞き間違いか? 五時間だと!? 接触してから交戦するまで五時間、何も無かったとでも言い張るつもりか貴様!」

 ここで言う接触とはつまり、互いが互いの存在を認め合う距離で何かしらの言葉を交わしたり、意思疎通を図ろうとしたと言う事を示している。真っ向から敵対し合う身でありながらそれだけの時間を放置し続けたと言うのはおかしな話……何らかのやり取り、或いは取引めいたモノがあったのではないかとトーレは勘繰っていた。

 『場所が場所でしたので、不要に事を荒立てるのはよくないと判断し、見守るつもりでいました』

 嘘は言っていない……。後手に回るとは言え、まずは相手の出方を見極めてから動くのが定石……少なくとも、今ここでフェイトが言った言葉に嘘偽りは何一つとして無かった。

 「……執務官、“13番目”を捕捉した場所とは?」

 『…………第97管理外世界、日本。本州地方都市、海鳴市です』

 「うみ……なり! そんなっ!?」

 「たかが辺境の地方都市程度がどうかしたのか?」

 「……その街は八神司令ら御三方の縁の地だ……」

 「なるほど、あちらも中々どうして、下衆いやり方で戦うものだな」

 『接触と同時にスバル・ナカジマの安否も確認できました』

 「どうだった!?」

 『命に別状はありません。むしろ健康そのものでした。暴行を受けた形跡もなければ、何かしらの洗脳を受けたと思われる言動も見受けられませんでした。ただ……』

 「ただ……なんだ?」

 『…………彼女は自分の意思で“13番目”と行動を共にしていると言う事実が、判明しました。こちらの呼び掛けには応じるんですが、いざミッドに戻るよう促しても……』

 「そんなっ、そんな馬鹿げた話があるか!」

 チンクの慟哭も無理はない。あれだけ心の底よりその身の安全のみを祈っていたのに、やっと見つかったと思った矢先にその者から拒絶されたとあっては混乱もしよう。事実、師であるなのはでさえ、同じように驚きを禁じ得ないといった表情だった。

 「同行する内に相手に情が湧くというのは良くある話だ。別段、不思議でも何でもない」

 「しかしっ! いくら何でも戻るのを拒むのはおかし過ぎる! やはり何かしらの洗脳か何かを成されているのでは……?」

 「その件に関しては後々でも考慮できる事や。今は……街、それもよりによって管理外世界の人里に入り込んだ標的をどうにかする方が最優先……。執務官、その後の“13番目”の動向は?」

 『交戦後、三名の仲間を引き連れたまま行方不明。未だこの街に潜伏しているものと思いますが、どこに居るのかは現在調査中です』

 「三名? どこから湧いて来たそんな連中」

 「現地の協力者? いや、有り得ないか……。その三人は一体何者なのだ?」

 「それは……」

 フェイトが言い淀むのを見て、なのははぞっと背筋が寒くなるのを覚えた。普段から決してお喋りな性格ではないにしろ、こう言う時のフェイトは必ずと言っていい程に何か重要な情報を抱えている事が多い……しかもこの切羽詰った局面でとなれば、余程良からぬ事が起きたに違いない。

 『…………現地で得た三人の共犯者は、“マテリアル”です』

 「そんなっ!!? 消えたはずじゃあ……!」

 「な、なのはさん!? いきなりどうしたんですか?」

 「何者なのだ、その『マテリアル』とやらは? 何かの違法組織か?」

 「…………マテリアル……かつて最悪のロストロギアと呼ばれた『闇の書』のシステムを構築していた自衛プログラム、それが人型を模したモノ」

 闇の書、と言うワードにナンバーズ三人にも明確な動揺が見て取れた。管理局70余年の歴史の中で彼のロストロギアほどに有名で、それでいて海鳴出身の三人にとって馴染みのあるものはない……世界を救った、と言えば大仰なようにも聞こえるだろうが、実際あれを野放しにすれば街どころか国一つが丸々消し飛び兼ねなかったのは事実だ。その脅威の一端を目の当たりにした三人だからこそ、この事態が既に自分達だけの力で解決可能かどうか薄々疑問に感じ始めていた。

 更に悪い報告は続く……。

 『三体のマテリアルはいずれも“13番目”と何らかの取引を行なって彼に協力しているものと思われます。十三年の間に消滅しかかっていた彼女らの肉体に魔力を分け与え、今のマテリアルは三人とも当時と同じ、或いはそれ以上の力量を有しています』

 「少し待っていただきたい。そのマテリアルなるものがどれ程のものか私は直に見ていないので判じかねるが、人為らざるモノとは言え肉体を……それも一度に三体分も復元させるとなれば、対価として払った魔力代償はバカにはならないはずです! 仮にそれらを全て賄えたとしても、“13番目”の魔力量は大きく低下するはずでは……!」

 『その点については、私からもう一つ補足があります……』

 「これ以上悪い報せがあると言うのか? 冗談じゃないぞ」

 「できれば、私としてはこっちのほうが冗談であって欲しかったわ……。こっちはある意味、闇の書と並ぶかそれ以上に危険な代物や」

 『…………分類、“次元干渉型エネルギー結晶体”。第一級捜索及び封印指定遺失物…………ジュエルシード』

 「ジュエルシード……! ですが、現存している物は全て管理局の研究機関が保管しているはずでは……?」

 「現存している物ならな。十年以上前に21個もあった石の半数近くは『事故』で虚数空間に落下……。シリアルナンバーは未だ確認できてへんけど、今回海鳴に出現したんは過去に消失しとった9個の内のどれかである可能性が非常に高い」

 フェイトが画面にバルディッシュの記憶媒体から抜き取った画像を映し出す。画像には傷を負ったトレーゼと彼を囲うように控える三体の人外……そして、トレーゼの右手の上で光り輝く青い石、ジュエルシードがあった。ここに居る面子の中で直にジュエルシードを見た事があるのはなのはとフェイトだけだが、画面越しに見たなのはもそれが紛れもない本物のジュエルシードだと容易に見抜けた。

 「あの願いを叶える力があるなら、魔力的な無茶はいくらでもきくってことかな。でもどうして……石は確かにあの時……」

 『石そのものは最初はスバルが所持していました。ですが彼女もそれを偶然拾ったとしか言ってません』

 「偶然ね……」

 だとしたら、ここまで間の悪い偶然も無いだろうに。これではまるで天がトレーゼに味方しているようにも思えてしまう。特に願いを叶える石は完全にイレギュラー過ぎる痛手だ。あれは所有者が願った事象を無条件に、無差別に、そして最短で実行してしまう悪魔の異物……絶対に人が手にしてはならなかったからこそ、残った12個を管理局は厳重に封印し、虚数空間に落ちた9個もそれでよしとして追求しなかったのだ。それが今更になって最も手にしてはならない人物の手に渡ったのは何という悲劇であり皮肉であろうか。

 「ロストロギア云々はともかく、上の連中はこの件に関して何と言ってきているのだ?」

 「無論、マテリアル共々“13番目”一派を早急に排除せよ、とのお達しや。街からは一歩も逃すなってね」

 「街で戦えって事ですか? そんな事をすれば海鳴がどうなるかぐらい上層部は……!」

 「重々承知の上で言っているのだろう。事件が発生した地がただ単に管理外であるだけならここまで思い切った命令も下さぬはずだ。なまじ、過去数回も遺失物絡みの脅威に晒され、それを解決させてきた管理局だからこそ多少の無茶をしてでもその街で全てを終わらせようとしているのだろう。『今度もまた我々がこの街を守ってやるのだ』とな」

 そう、これが他の次元世界、そうでなくてもせめて他の街で起きていたなら管理局ももう少し慎重になっていただろう……。ここで何の関係も非も無い一般市民に影響が出たとしても、それが捜査中であれば担当している六課の責任として押し付け、逆に解決してしまえば管理局法を盾に不介入に徹するだろう。後は野となれ山となれ、立った跡が濁ろうが汚れようが組織の体制に影響が無いなら上層部は屁とも思わないと言う事だ。

 「上の命令には絶対遵守や……悲しいかな、社会の決まり事やでしゃあない。48時間以内に機動六課は当該エリアへの捜査を実行に移します。各員への詳細は後ほど私が……。それでは、今はひとまず解散」

 「了解!」

 「承知した」

 はやての号令と共に皆一様に持ち場へと戻っていった。ティアナは早速現地のエイミィらと連携して海鳴周辺の情報整理に取り掛かり、なのははヴィヴィオが起きるまでに一旦自宅に帰った。チンクもまたウーノとトーレに一礼した後ナカジマ家へと帰路につき、ウーノらもまた大人しくゲストルームへと戻るに至った。

 「…………さてと、そろそろええかな?」

 皆が居なくなったのを確認してからはやてが呟く。すると、一旦消えていたはずのホログラムがまた表示され、再びフェイトが画面越しに現れた。

 『お手数かけます、八神二佐』

 「今はプライベートや。そいで……? 有意義な話は出来たかいな」

 『それは……』

 「……………………やっぱあかんかったか」

 『ごめん……せっかくはやてが根回ししてくれてたのに』

 「う~ん。まぁ、フェイトちゃんにとっちゃあ残念やったかも知れへんけど、最初から分かっておったようなもんやろ? 気に病む必要なんかあらへんて」

 『そうかも知れないけど……なんだかやりきれなくて……』

 画面越しのその表情は“13番目”を見つけようと意気込んでいた色はどこにもない。いやむしろ、見つけてしまった事でそれが消沈してしまったとしかはやてには思えなかった。大方、ろくな収穫も無かったのだろうと薄々勘付いてはいたが、実際その通りだと少し可哀相にも感じられた。

 「まっ! 過ぎてしもた事はしゃーない。気を取り直し。こっからは命懸けの乱戦になる……気ぃ抜いておったら後ろからやられるに」

 親友の心境を察して努めて明るい声でそう言うものの、はやて自身先行きに不安を感じているのは確かだった。元々成功する見込みの無かった交渉とは言え、そこへ予定外のイレギュラーが二つも敵の手中に転がり込んだとあっては前途多難も良いところだ。上層部の命令が無ければこのまま海鳴で戦うのだけはどんな手を使ってでも見送っただろう。だがここでしか仕留める場所がないとなると話は違ってくる……民家が集中する都市部で仕留めよと言う上層部の無茶ぶりには辟易するが、そうする以外の方法が無いのであればそれも苦渋の決断だ。

 『……本隊が来るまでの間、こちらは万全の警戒態勢を敷いておきます』

 「頼んだよ」

 ホログラムが消えて室内に静寂が戻る……。今頃は本局のクロノの方にも連絡が行っているであろうと予測しながら、はやては指令のメールを自分の直轄下に居る隊員らの元へと一斉送信した。これで明け方には各員が全ての準備を整えた上で再び彼女の元へと集合する手筈となった。

 「……果たして、女神はどっちに微笑むんやろか」

 戦局は預かり知らぬところで泥沼と化し、それでもなお負けは認められない……混迷の極みに達した自らの故郷に臨まねばならない彼女の心境は、名状し難い不安に駆られていた。










 12月7日午前7時48分、海鳴市中央区のビジネスホテルにて──。



 「……………………あぁ、朝か」

 窓から僅かに差し込む光がトレーゼの顔を照らし、彼はゆっくりと上体を起こすと周囲を確認した。ふと、寝室全体を見渡すが昨夜同盟関係を結んだはずの三人の姿がどこにも見当たらない……。まさか、こちらが命令も出していないのに街に繰り出したか……そう思ってベッドを出ようとして、

 「勝手に潜り込むな。暑苦しい」

 「ぎゃうん!?」

 掛け布団を引き剥がすとそこには例のマテリアルが三人とも所狭しとひしめき合っており、トレーゼはそれを次々と蹴飛ばすと全員を叩き起した。

 「おい! 何をする主殿よ!?」

 「こっちのセリフだ。狭い。暑苦しい。他で寝ろ」

 「他ってどこだよ! ここの部屋シングルなんだから仕方ないじゃないか!」

 「床がある」

 「トレーゼ様……流石にそれは横暴です」

 ベッドからのろのろと這い出て来る三人を睨みながらトレーゼは嘆息する。同盟を結んで味方となり、今のところ手の平を返す素振りは無いが、それでも現在進行形で敵対中の人物らと同じ容姿の者が近くに居ると言うのはそれだけで不思議な感覚になる。現状では一番信用に足る者達とは頭で分かっていても、所詮それは期限付きの同盟でしかないと最初から分かっている以上、あまり馴れ馴れしくするのは得策とは言い難い。最後には互いに騙し出し抜き合うのが目に見えているのだ……であれば、今の内から適度な距離を保っておくに限る。

 なのに彼女らは自分達から率先してこちらに接触を図る。人外の癖に人恋しいと言うわけでもあるまいに……。

 「それはそうと主殿よ……新しく生まれ変わった感想は、如何に?」

 「……最高、とは言い難いな。傷の修復に力を使い過ぎた所為か全身が少し怠いな。あと、何故か頭がむず痒い。脳髄を掻き毟られたみたいで不快だ」

 「ふむ……。どうやら主殿の肉体は順調に変化しているようだな。安心安心」

 「?」

 「気付かぬほど微々たるものなら、それに越した事は無いな。直に体も慣れようぞ。それまでは……まぁ気が進まぬが我らで雑用の真似事ぐらいはしてやろう。我の寛大な処置にむしろ感謝してほしいぐらいだ」

 「そうか。じゃあ早速だがお前達にやってもらいたい事が山程ある。覚悟しておけ」

 「最初からコキ使う気満々だったなこの塵芥……」

 デスクの引き出しに予めしまっておいた計画書を取り出すトレーゼを見ながら今度はマテリアルがため息をついた。取り出した分厚いそれはいつの間に書き上げたのか、紙面一面に細かく文字がびっしりと書かれ、数行目を通しただけで網膜がぞわぞわしてくるようだった。

 「今後の計画についてのこちらの行動を書き記した。パターンは全部で200通り以上あるが、全て覚えろ」

 「えっ、ちょ、あの……これ何ページあるのさ?」

 「パターン一つにつき、ざっと五ページ以上は使ってますね。これひょっとしたら覚えるだけで今日一日費やすかもしれませんよ」

 「何言ってる。午後は午後でやる事を用意しているんだ。休んでる暇なんか無い」

 「こ、この鬼! 悪魔! 冷血漢非道!!」

 「痛い目見たくなかったらさっさとやれ。それとも何か……? 犬畜生と同じで痛くないと覚えんか?」

 「ヒィイ!? や、やりますやります! やらせていただきますご主人様!!」

 紫色の髪に紅い電光が走ったのを見た三人は有無を言わず暗記作業に取り掛かった。顔色一つ変えずに取り掛かったのはなのは似の方だけで、後の二人は文字通り目の色を変えて必死に覚え込もうとするのだった。

 取り敢えず、ひとまずはこれで静かになったとトレーゼは自身の肉体の変化について確認する事にした。

 昨日まであった傷が跡形も無く治癒しているのは想定内だったが、それ以外については特にこれと言っためぼしい変化は感じられない。予想としてはもっと肉体的に大きな変異が表れるとばかり思っていただけに、拍子抜けの感さえ漂う。もっとも、拒絶反応で指一本動かせない状態になる事を思えばずっとましなのは間違いない。そうならなかっただけでもこの『施術』は成功だと言えた。

 (だが、欲を言えば全身漲るほどの力が湧いて来るものだと思っていたが……)

 わざわざ危険を冒してまで『施術』に臨んだと言うのに、得られたものがまるで無いとあっては骨折り損こそ無いが、無駄に疲れただけで終わってしまうのは癪だった。王様気取りのマテリアルは何か勘付いているようだが……。

 「……まぁいいか。問題が無ければそれで良い」

 駒は全部こちらに揃っている……焦る必要はどこにもない。常に余裕を持って行動していれば流れは自然とこちらに傾き続ける。

 「トレーゼ様、少しよろしいでしょうか?」

 「なんだ?」

 「今しがたここに書かれている計画書に一通り目を通したのですが、件の少女……スバル・ナカジマについての記述が無いのですが?」

 「記述が無いと言うことは、つまりそう言う事だ。下らない質問をする暇があれば、そこに書いてある計画より優れたモノを思いついて見せろ」

 「…………分かりました」

 「それでいい」

 使える駒は揃っている……使えない駒など躾の為ってない野犬にも劣る。であれば、これだけの少数精鋭で充分だった。

 (セカンドなどもう知らぬ……今の俺はもう奴など必要としていない。次に会っても後回しだ。もっとも、しつこいようなら真っ先に叩き潰すがな)










 午前8時30分、高町宅にて──。



 「短い間でしてけど、お世話になりました」

 斜め45度、一礼。日常においても有事において感謝と陳謝の念を最も表した角度を持って、スバルは高町家の面々に別れを告げようとした。元々荷物の類は無いに等しいため、玄関先に立った彼女の身なりは軽装そのものだった。

 「それはまた……えらく急な話だね?」

 「すみません。急に転がり込んでおいて勝手なこと言って……」

 「ううん、元々私が無理に押し留めてたようなものだからそれは別に気にしてないけれど……」

 そう言いながら桃子と士郎は目配せする……。二人共近い内にスバルらがここを離れるであろう事は予測してはいたのだが、その時は必ずもう一人の少年が彼女の傍に居るものだとばかり思っていた。だから昨晩一人で急に血相を変えて戻って来たスバルを見て内心嫌な予感はしていた……そして今日、彼女はここを出て行こうとしている。

 「ねぇ、一つだけ聞いていいかしら?」

 「はい……」

 「あなたが急に家を出て行くのは、その……あの子が居なくなった事と関係あるの?」

 「それは…………言えません」

 「…………そう」

 確信は持てた。スバルが急に家を出る決意をした理由は全て、あの無愛想な同居人が消息を絶った事が深く関係しているのだと。だが悲しいかな、それを確認する術も無ければ桃子らには目の前の少女に強く追求する真似は出来なかった。

 「それじゃあ、失礼します。本当にお世話になりました」

 「ええ……元気でね。またいつでもいらっしゃいね」

 「お邪魔しました」

 最後に軽く会釈した後、スバルは小さい背中を風に揺らしながら住宅地の曲がり角に消えて行った。最後まで振り向こうともしないまま、その道に一抹の不安を漂わせた別れだった。

 「……士郎さん。あの子達、大丈夫かしら」

 「……分からない。何だか知らないけど、あの子達の間にある事柄は僕ら年老いた大人が勝手に踏み入っちゃいけないような気がするんだ。かと言って、当事者だけでどうこう出来るような気軽なものでもないようだ」

 「分からないって、それだけで不幸せですよね」

 「ああ。そして、分かり合えない事ほど、人生における最たる不幸は無い。あの子達は分かり合えるかどうか、神のみぞ知るってところだろうね」

 スバルの消えた曲がり角を見つめながら士郎は心底物憂げな表情でそう呟いた。脳裏浮かぶのは最後まで無愛想な態度を崩さなかったあの居候……彼が奥底に抱える心の闇を何一つ理解する事なく行かせてしまった事を、同じ男として悔いていた。










 同時刻、クラナガン某住宅地にて──。



 「それじゃあ、ママは少しの間お仕事で家に帰って来れないけど、ちゃんとアイナさんの言うこと聞いて大人しくしててね」

 未明に“13番目”捕捉の連絡を受けたなのはは既に長期に渡る任務に備えて身の回りの整理を終え、今まさに地上本部に赴こうとしているところであった。休日故に今日はヴィヴィオは登校せず、いつも通っていたジムにも行くことなく自宅で大人しく過ごす事にしていた。元より、ジムに通うようになったのもノーヴェの誘いがあったからこそ……そのノーヴェが意識不明の重体では身が入らないと言うものだ。

 「うん。いってらっしゃい、なのはママ」

 その事について少なからず心配していたなのはだったが、思っていたより立ち直りが早くショックを引き摺った風も無い事に安心できた。無理をして明るくしている訳でもなさそうで、家を空ける事にも何の気兼ねもしなくて済みそうだった。

 「じゃあ、ママは行って来るから、後はいい子にしててね」

 「うん! …………ねぇ、ママ」

 「うん? なに?」

 ふと、靴を履いていざ行かんとしたなのはをヴィヴィオが呼び止める。言うべきか言わざるべきかと逡巡する様子を見る限り、何か言い難い事を言おうとしているのだけは分かった。だが……

 「ううん、何でもない。お仕事頑張ってきてね!」

 結局、それを口にする事は無くヴィヴィオは母を送り出した。なのはの方も今度暇を見つけて連絡を取った時に聞いてみようとだけ思い、そのまま手を振って別れると車に乗って本部へと向かった。後に残ったヴィヴィオは途中まで笑顔だったが、彼女を乗せた車が見えなくなると途端に……

 「……はぁ」

 溜め息。その表情は活発な十代女子にはとことん似合わない鬱屈とした顔だ。これから起こる事を悪い方に考えている時、人は大抵こんな顔をする……今のヴィヴィオはその良い見本だった。

 実際、今の彼女もこれから起こりうるであろう出来事を予測して物憂げな表情になっているのだった。

 (このタイミングで管理局に呼ばれるってことはやっぱり……トレーゼさん達の件なんだよね)

 そう考えながら居間の隅に置かれた電話の受話器を取り上げ、小さな人差し指でボタンを押していく。アドレスは家族ぐるみで付き合いのあるとある一家の番号……そこのある人物に掛けようとしていた。程なくして回線は繋がり、目的の人物の声が送話器から聞こえてきた。

 『もしもし、ナカジマだ』

 「チンクさん……」

 電話の相手はチンク・ナカジマだった。スピーカーの向こうからごそごそと身支度する音が聞こえてくる辺り、どうやら彼女もまた何かしらの召集を掛けられているようだった。

 『こんな時間に急な電話だな。お母上はどうした?』

 「ママは……管理局の仕事で今日からしばらく家に帰って来れないって」

 『……そうか』

 「…………ねぇ、チンクさんもその……局の任務に行くんですか?」

 『フフ、聡いな。だいたいお前が想像している通りだと思ってくれていい』

 「それじゃあ!?」

 『今日未明、八神司令より召集があった、とだけ言っておこう。この間あんな事を話しておいて今更だが、一応守秘義務と言うモノがあるからな。どこに向かうか、具体的な作戦は何かとか、そう言う事は言えない事になっている』

 だがヴィヴィオはその言い方から、今回の召集はやはり“13番目”に深く関係したものだと確信を持てた。調査を主とするフェイトやティアナのみならず、実力行使担当のナンバーズにまで連絡が入ったと言う事はやはり、十中八九トレーゼが発見されたのだと……。

 「…………行くんですか?」

 『行かねばなるまい。命を懸けるだけの甲斐があるし、何より妹の件もある……私としては何としてもここで全てを精算しておきたいのさ』

 「チンクさん……」

 『そう言うお前はどうした? 朝早くから私に電話してきたのは単に近況を聞きたいだけではないだろう』

 「それは……その……」

 言いたい事が無かった訳ではない……だが、本当にそれをチンクに言ってしまっていいものなのかどうか、ヴィヴィオは悩んでいた。

 そして……

 「……ノーヴェは……」

 『うん?』

 「ノーヴェのことは任せておいてくださいね。ちゃんとお見舞いにも行きますから」

 『ああ、よろしく頼んだよ』

 結局、当たり障りの無い事しか言えなかった。入院しているノーヴェの見舞いなどいちいち言われずともやるつもりだったし、それをわざわざチンクに報告する事でも無いはずだった。だが、それしか言えなかったのは単にヴィヴィオ自身が自分の言いたい事をチンクに託してしまう事に引け目を感じたからにほかならない。それに何より、彼女が真に言葉を託したい者はチンクではないのだから……。

 『それでは、私はそろそろ行くよ。ウェンディ達も支度できた頃だろうからな』

 「気をつけてくださいね」

 『ああ、では……』

 チンクが通話を切ったのを確認し、ヴィヴィオもまた受話器を置いて通話を切った。何も言えなかった事は後悔してはいない……元より、言いたい相手はこのミッドには居ないのだから……。

 「トレーゼさん……」

 他でもない騒動の渦中に座す人間を思い浮かべながら、ヴィヴィオは嘆息する。脳裏に思い浮かぶ無愛想な人物……久しく見ていないが、その顔も声も、今でもはっきりと目や耳に残っている。彼がこの街にした行為に対して目を瞑るわけではないが、それでも一緒に過ごした間に感じた彼の何気ない優しさを今でも覚えているのも事実だった。もちろん、それが一種の哀れみから来ていたのもあるだろうが、ヴィヴィオにとっては決して美化された訳ではない、純粋な人間としての優しさだった。

 「…………会いたい……会って、話したい」

 自分より大きなはずのあの背中が、どうしても三年前の自分に重なってしまう。大き過ぎる自分の力を疎み、自分に手を差し伸べられた手を振り払おうとしてあの時、今の母親は「泣いてる子は放っておけない」と言って諦めずに助けてくれた。

 それは巣の雛を親鳥が保護するような、言わば母性本能の延長だったのかも知れない。自分の背負った重みに耐えられず泣いている者が居た時、母なのはは自らの危険も省みず手を差し伸べる。それが彼女の“正義”だ。困っている者を優先的に救おうと奮闘するのが自分の母の正義の在り方だと、ヴィヴィオは熟知していた。かく言う自分自身もまた、彼女の正義に救われた身の上だから分かる。

 (でも、ママは泣いてる人しか助けてくれない……)

 どこかの諺に、「泣かない赤ん坊はミルクをもらえない」と言うモノがある。親の心子知らず……泣いて外界に自らの状態を訴えなければ大人は気付いてはくれない。それが血も分けていない赤の他人ともなれば尚更だ。人間は年老いていくと同時に他人に鈍感になっていくから……。

 (あの人は泣いたりしない……だから、誰も気付いてくれない)

 泣くには強すぎる人がいる……独りで何もかも成し遂げるには弱すぎる人がいる…………心の弱い者全員が泣く訳ではない。だが結果としてそう言う者は誰にも気付かれずに淘汰されて行く。ただ弱いだけなら見逃される事もあるだろうが、なまじ強い部分があるからこそ人はそれを危惧し、自分達のテリトリーから排除したがる。そして、そう言う者は決まって孤独で達観している……自分に敵対するのなら好きにすればいい、と。

 (でも、それじゃダメなんだよね、きっと……)

 泣かない強い人は居ても、全てを笑い飛ばせる程に強い人もまた居ない……だから、皆に気付かせなきゃいけない。

 「あの人はきっと……泣いてるって」



 何を話すかなんて決めてない……ただ、会いたかった。独りにしておくなんて悲しすぎるから……。



[17818] 音信不通
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2011/12/13 11:11
 12月7日、それはミッドチルダから遠く離れた海鳴の地で“13番目”との再戦の狼煙が上がった日である。










 午前9時18分、高町家──。



 「えぇっ、出て行った!?」

 現地調査の名目で他のメンバーより先に現地入りしていたティアナは高町家の主人、士郎から事の顛末を聞いて愕然とした。何の縁あってか三年前に一度訪れたきりだった恩師の実家に犯罪者と共に寝泊りしていたと言う事実はもちろん、いざそこに来てみれば“13番目”もろともタッチの差で家を後にしていたと知れば力も抜けよう。それを聞いた最初は管理局の動向を察知した“13番目”がスバルを連行して行方を暗ましたとも思ったのだが……

 「昨日の晩から急に居なくなっちゃってね……。彼を探す為に出て行ったんじゃないかって思ってるんだけど……」

 「そう……なんですか」

 昨夜から“13番目”が居なくなったと言うのはフェイトからの報告にあった内容と一致している。現在その行方を追って彼女が街を駆け回っている最中だ。ただそれを追ってスバルの方までもが消息を絶ったのはどうも納得がいかない……。自分だけの力で事件を解決しようとする程殊勝な性格じゃないのはティアナが一番良く知っているし、何よりそうするつもりなら今まで二人で行動していたのだからいつだって出来たはずだ。それをしないでおきながら今になって行方を暗ました“13番目”を探そうとするのは腑に落ちない。これではまるで……スバルが彼を心配して連れ戻そうとしているようではないか。

 「まぁ、久しぶりに会ったんだから、少しゆっくりしていったらどうだい? 丁度うちの喫茶店に出す予定の新作を作ってたところなんだ。試作品でよければ一食どうだい」

 「えっ? で、でも私その、一応勤務中で……」

 「君の上司ははやてちゃんだろう? 彼女はこんな程度でケチケチしたりしないさ。他の子には、そうだな……適当にお土産持たせておけば静かになるよ」

 「は、はぁ……」

 流石はなのはの父親と言ったところか、妙に押しが強いところなどそっくりだった。結局ティアナは士郎の誘いを断りきれず、そのまま高町家の居間に通されもてなしを受ける事になった。

 「あらぁ~! あなたは確かスバルちゃんのお友達の……!」

 「ティアナ・ランスターです。すみません、朝からお邪魔してしまって」

 「いいのよいいのよ。あ! ちょうど試作のケーキが焼けたわ。お一つどうぞ」

 「い、いただきます。それであの、一つお聞きしたいのですが……」

 「うん? なーに?」

 「こちらにお邪魔していたスバルと……もう一人の同行者について何か不審な点とかはありませんでしたか?」

 質問しながらティアナは家の周囲の状態をクロスミラージュに確認させた。今回の海鳴派遣の直前にようやく修理できた愛機は数秒の後に何の異常も無い事を主人に告げた。少し拍子抜けだった。数日とは言え過ごしたなら、対侵入者用に何かしらの改造を施している事も考えたのだが、どうやら何の手も加えている様子は無かった。

 「あぁ、トレーゼ君のこと? ちょっと無口な子だったけど、お店でバイトしたりしてくれて、いい子だったわ」

 「バ、バイトですか……? その、何かここでトラブルなどは?」

 「うーん、あんまり無愛想だからちょっと勘違いされそうな子だったけど、それでもやっぱりいい子だったわね」

 「はぁ、いい子……ですか」

 「ええ。人の頼みは無下には出来ないって感じで、少し無理言っても文句一つ言わないで全部やってくれるの。きっと根は優しい子に違いないのね。自分の事だけを優先すればいいのに、あの子はそれをしない……自分の為だけにやっているような行動も、良く見ると違うってことがよく分かるわ」

 話を聞いていてティアナはますます分からなくなってきた。“13番目”と相対したのは一度か二度だが、彼自身決して他人受けするような性格ではない事ぐらい赤の他人のティアナにも分かっている。それなのに目の前の婦人は何故かお世辞でも何でもなく、本当に彼が好人物であったかの様に語るのだ。単に外っ面の良さだけで桃子が良い人と思い込むなど到底考えられず、それなりに何の衝突も無く過ごしていた事だけは伺えた。

 こうして彼に好印象を抱いている高町家の面々に事実を伝えるのが少しだけ憚られた。貴方がたが匿っていたのは実は犯罪者でした、などと言える空気ではなかった。だが、程なくして他のメンバーが集まった時、ここには嫌でも捜査の手が入る事になる。その時になってから真実を告げるより、今の内に話せる事を全部話しておいた方が双方の為になるのではないだろうか……。

 「…………あの、桃子さん」

 「うん? 何かしら?」

 「お話しておきたい事があります……。今回私達がここを訪れた事に深く関係している事なんです。それと……この家にも」

 「……話してくれる?」

 「はい」

 それからティアナはここ一ヶ月間の内にクラナガンで起こった事件について粗方の成り行きを話し始めた。三年前に発生した事件において存在が確認された戦闘機人の集団、ナンバーズ……その十三番目が今になって研究施設の封印を破って現れた事。“13番目”と命名されたその者は自分を生み出した創造主スカリエッティと、拘置所に捕らえられた仲間を奪取するべく行動を開始し、その最初の被害者としてスバルの四肢が大きく負傷した事……。その後もなのはやフェイトを始めとする並み居る管理局の実力者を退け続け、その過程ではやては右眼の視力を失った事……。こちらを嵌める偽の交渉の場を設ける為だけにヴィヴィオを誘拐し、彼女を虐待していた事……。回避出来なかった都市決戦ではその真の目的が露呈し、かつての同胞すら欺いていた事……。そして、その一番の犠牲となったのがスバルの義理の姉妹と言う事も……全てを話して聞かせた。

 それらを全て桃子は黙って聞き、途中で遮る事も無く最後まで耳を傾けていた。自分達が家に迎え入れていたのが犯罪者だと知って驚きを見せると思っていただけに、その落ち着き払った態度は全てを語ったティアナを逆に驚かせた。

 そして……

 「事情は分かりました。ここに来るまでに色んな事があったのね……」

 「正直、私個人としてはここを戦いの場にする事は避けたかったですが……今ここでまた“13番目”を逃してしまえば今度はいつ相対するかも分かりません。確実に仕留める為にと言うのが上層部の下した結論です」

 大勢の人間が住む街……それも管理外世界のものとなれば現場で戦う隊員の負担は計り知れない。そんなこちらの都合を差し引いても、無関係の人々が多く住まう場所での戦いは決して褒められたものではない。だがやはり、そうと分かっていても実行しなければならないのが部隊の辛いところでもある。

 それを分かっているのか、桃子はにっこりと微笑むだけだった。

 「本当に、なのははいい子を持てたわね」

 「いえ、私なんてまだまだで……あの人の足ばかり引っ張って……」

 「そんな事ないわ。例えそうだとしても、あの子にとってはそれが可愛いと思えるのよ。本当にあなたやスバルちゃんには感謝しているわ。スバルちゃんの方はこれからどうなるのかしら?」

 「“13番目”の捜査と並行して行う事になると思われます。メインは“13番目”の方なので本腰を入れられるかどうかは分かりませんが……」

 「そう……。心配だわ」

 「それとは別に、場合によってはこの家全体を警護する事になるかも知れません。その時は前もって連絡を……」

 「警護? あら、どうして?」

 「え?」

 一瞬、話が拗れかけたのを察知してティアナが話を中断する。この婦人は話を聞いていなのだろうかと思いつつ、理解を求めて順に説明する事にした。

 「えっと、その……“13番目”はここがなのはさん、高町一等空尉の実家だと既に知っているはずです。そうなるとこの街で彼との本格抗争が始まった時、この家全体は彼の人質として利用される事も……」

 「無いわね」

 「そう、利用される事は無い……って、えぇ!?」

 先程ティアナは人の話を聞いていないのだとばかり思っていたがそれは違った……目の前の婦人はこちらの話を聞いた上で、それは有り得ないと断言しているのだった。その表情はやはりさっきと同じ様に穏やかなものであり、一片の疑いの曇りもそこには無かった。

 「…………一つ聞いてもよろしいですか? どうして、そのように言い切れるのですか?」

 「何がかしら?」

 「ですからっ、“13番目”がここを狙わないとどうして言い切れるんですか?」

 「う~ん、そうねぇ……強いて言えば、女性の勘ってものかしら」

 「か、勘!?」

 「あなたにもそう言う事ないかしら……。根拠なんて無いけど、確信が持てるって時」

 「ひ、非科学的です。相手はそんな悠長なこと言っていられるほど生易しい人物ではありません! 失礼を承知で言いますけど、この数日間であなた達は殺されていたかも知れないんですよ!?」

 知らず知らずの内に声を荒らげてしまったティアナは台所の向こうからカップを乗せた盆を持ったまま固まっている士郎と目が合い、慌てて佇まいを直した。少し大人気なかったと反省しつつも、桃子の楽天ぶりにはほとほと呆れたのか出されたお茶に口を付けると途端に黙りを決め込み始めた。しばらくそんな状態が続き、沈黙を破ったのは桃子からだった。

 「あのねティアナちゃん。人って不思議なものでね、何か一つの事に集中して、それを成功させようと必死になればなるほど失敗しちゃうものなの。そして余計に意固地になるから、焦って周りが見えなくなっちゃう……そんな状態で周りが手を伸ばしても、本人にとっては全然見えない所から急に訳も分からないモノが迫って来た風にしか見えないから、邪魔にしか思えない。ううん、きっとそれは怖いんだわ」

 「あの……仰る意味が……」

 「あなたにもあるんじゃないかしら? 自分一人で頑張って周りが見えなくなったことが……」

 「っ!」

 「…………少し、込み入った話になっちゃったかしら。ごめんなさいね、そちらの事情も知らないでずけずけと……」

 「いえ……」

 これ以上の言い合いに埒はあかないと踏んだのか、ティアナは頃合を見計り「そろそろ……」と言って席を立った。

 「さきほど私が言った事はちゃんと考慮しておいてください。この家全体の安全は私達が出来うる限りにおいての安全を約束します」

 「ありがとう。でも、さっき私が言った事も覚えておいて……。あの子は決して自分の為だけに行動している訳じゃない……利己的に見える行いも、その根底にあるのはもっと別の感情なのかもしれないわ」

 「…………失礼します」

 軽い会釈の後、ティアナは席を立ち居間を後にした。そのまま玄関に向かい、高町家を離れようとした。

 「ちょっと待って! もう一つ言いたい事があったの」

 「なんでしょう?」

 「うん、もしあの子の事で調べるなら、一度行ってみてほしい場所があるの」

 「行って欲しい所……ですか?」

 「うん。明心館って道場。隣町にある空手道場なんだけど、つい最近、トレーゼ君ってそこの城島晶って人と仲が良かったらしいの。何か分かるといいんだけど……」

 「いえ、貴重な情報提供、感謝します。桃子さん」

 「お仕事頑張ってね。なのはにもよろしく」

 送り出されたティアナは玄関先でもう一度一礼し、今度こそ高町家の敷地を後にした。背後を見やり最後にもう一度だけ家の周囲を確認するも、やはりその周辺に異常はなく、ひとまず安心できた。本隊が現地入りするのは午後になってから……それまでの捜査の下地は先に来ているティアナとフェイトが分担して行う事になっている。

 (明心館……か。後でフェイトさんに聞いておこう)

 それにしても分からない……その明心館と言う施設は地元では有名なのかも知れないが、一介の武道を取り仕切る者に何故あの“13番目”が興味を示すのか。何かきな臭い事になっていなければと思いながら、ティアナはハラオウン宅に居るはずのフェイトと連絡を取り合う事にした。










 午前10時07分、海鳴市中央を走る快速電車にて──。



 「じょうしま……さん?」

 早速桃子が言っていたその道場を訪ねるべくフェイトとティアナは電車に乗り込み隣町を目指していた。直前にネットで調べたところ、その明心館という道場はここ海鳴ではメジャーな存在らしく、毎年何人もの門下生がその門を叩くことで有名だった。この街に十年以上住んでいるフェイトもその名前だけは知っていたのだが、そこの関係者である城島と言う人物に関しては何も知らないようだった。

 「聞いたことは?」

 「ううん。なのはがそこに通ってたなんて聞いた事ないし、恭也さんや美由希さんは通わなくてもいいって言うか……」

 「じゃあ、少なくてもフェイトさんがなのはさんと知り合う以前に高町家と交流のあった人物、と言うことでしょうか?」

 「なのはならきっと知ってると思うけど……今から連絡取ってみる?」

 「いえ、あちらはこっちに来る準備で忙しいでしょうから……。本隊が来るまでに私達だけで済ませましょう」

 「そうだね」

 車両が停止し、二人は改札を降りて事前に調べた道に沿って歩き始めた。目的の道場は駅のすぐ近くに存在し、道の途中で門下生らしき少年少女らと何人もすれ違った。

 「ここですね」

 「そうだね」

 実際に目の当たりにしてみると立派な道場だった。ただ単に大きいだけでもなく、装飾華美とは縁がない質素な雰囲気はまさに己を磨く場としては申し分の無い場所と言えた。大きく開いた玄関口は何人もの門下生らが行き来し、その盛況さが伺えた。

 「どちらさんだい?」

 ふと、脇から声を掛けられて振り向くと、一人の男の老人がそこに佇んでいた。相当な老齢である彼をここの責任者と踏んでフェイトが挨拶する。

 「失礼しました。私、フェイト・T・ハラオウンと言う者です。貴方はこちらの責任者でしょうか」

 「ああ、ここの館長の巻島十蔵ってもんだ。よろしくな、お嬢さんがた」

 「こちらこそ、よろしく……っ!?」

 差し出された手を握って握手するが、フェイトは老人に似合わない握力に思わず手に痛みを感じた。目の前の男性はどう少なめに見積もっても六十代は行っている……にも関わらず、ここまで力強い膂力と活力に溢れた者は未だかつて見た事がなかった。

 「おう、失礼。見ての通り、女より男連中の多いとこだからな、少し力の加減を忘れちまってたい」

 「い、いえ……。お歳に見合わない若々しさですね」

 「フフ、褒めたって何も出ないぜ。そいで、お嬢さんがたは何の用でこんな道場へ?」

 「申し遅れました。こちらに城島晶さん、と言う方が師範代として所属していると聞いたのですが……今お見えになっていますか?」

 「何だい、お前さん達も晶が目当てかい。最近多いなぁ。ちょっと待っててくれや、今呼んでくるからな」

 そう言って巻島老人はひょこひょこと館内に入っていった。その後ろ姿を見送りながらフェイトとティアナは互いに目配せすると、先程の彼の発言を吟味し始めた。

 ≪さっきの巻島さんの言ってた言葉……一体どう言う意味なんでしょう?≫

 ≪過去に城島さんに、それもつい最近に会いに来てた人が居るって事になるね。だとすれば、桃子さんの言ってた通り、ここに“13番目”が?≫

 ≪問題は、もし仮にそうだったとして、彼がここに何の用があって城島なる人物と接触したかですね。場合によっては何らかの暗示や洗脳で犯罪行為の片棒を担がされていたと言う事も……≫

 ≪真相は聞いてみないと分からない……。とにかく、まずは一度本人に接触の有無の確認を取りましょう≫

 そう念話でのやり取りの後、程なくして巻島老人が戻ってきた。その背後には道着を来た一人の女性を連れており──、

 「初めまして。城島晶です」

 「え……っ!?」

 「あんた……いえ、あなたはっ!!?」

 “あきら”と言う名前と空手道場と言うイメージから、二人はその城島晶と言う人物が男性なのかと思い込んでいた。だが世の中には“ジョー”しかり、“ゆうき”しかり、男性と女性あるいはその両方に使われても不思議の無い名前が数多くある。別段それ自体は不思議でも何でもない……実際目の前にした城島晶なる人物が女性だったなら、自分達の認識に相違があったと言うだけで済ませられる。だが、この時彼女らが驚いたのはもっと別の要因……

 「やっぱり、スバルって子に似てますか?」

 城島晶の容姿は今まさに自分達が血眼になって探している行方不明者、スバル・ナカジマにとても酷似していた。流石に年齢の違いから瓜二つとまではいかないが、それでもその顔はそっくりだった。

 「そ、それは、その……。それよりっ、あなたスバルを知っているんですか?」

 「うん。一回だけここに来た事があってね。翠屋のケーキをお送り届けてくれたの。でもその時は確かトレーゼ君も一緒だったっけかな。君達って、あの子達のお友達だったりするのかな?」

 「それはその……」

 「…………すみません、その『トレーゼ』と言う人物は、写真のこの人で間違い無いでしょうか?」

 フェイトが懐から出した写真を見せる。Dr.ギルガスの研究施設にあった資料よりコピーしたその写真には紫苑の短髪に白磁の肌、そして金色の双眸が特徴的な少年が写っており、それは間違いなくこの道場へ足を運んだトレーゼその人だった。

 「うん、間違いないよ。私が頼んだケーキを届けに来てくれたのもこの子だから」

 「そうですか」

 やはりここに“13番目”は来ていた。しかもスバルを連れ添っての来訪にティアナは更に不可解を覚えた。夜中に来たわけでもあるまいし、何故彼女はその時無理矢理にでも逃げなかったのだろうか? 分からない……スバルが何を考えてあの犯罪者と行動を共にしていたのか、ティアナのみならずフェイトにも皆目見当がつかなかった。

 「それにしてもこの子って結構強いよね~。あれかな? 実はもうどっかの事務所とか団体に所属してたりする?」

 「おいおい、それならうちは知らないうちに道場破りされちまってた事にならぁな」

 「いえ、それは…………」

 「……私達、その人物を捜査して遠方から訪れた査察の者なんです」

 「へぇ、捜査ねぇ……」

 「……客間の方にお通ししましょうか」

 わざと“捜査”と言う部分を強調した物言いに十蔵の目が細くなる。そんな師範の雰囲気を敏感に察知し、晶は道場の脇に立つ小さな建物に二人を案内した。










 「はい、どうぞ」

 「ありがとうございます」

 出された湯呑みに口を付けて一口啜る。その後一拍置いてから晶は向かいのソファ、十蔵の隣に腰を落ち着けた。

 「それで……あの坊主の事でお嬢さんがたは何を調べているんだい?」

 「詳しい事は守秘義務があるのでお教えできませんが、簡潔に言えば彼は数多くの犯罪を犯した重要参考人です」

 「犯罪……!?」

 「そいつぁ、穏やかじゃねえな。殺しでもやらかしたかい」

 「むしろ結果的に殺人しか行っていないとも言えます。現在立件されて、確実に彼の手によるものだと判明しているだけでも相当数の殺人事件が確認されています」

 フェイトの告げた真実に場の空気が淀む……。そこからは実際に彼が行ってきた一連の事件のあらましを聞かせる事となるのだが、管理外世界の住人にこちらの世界で起こった事件の全容を伝えることは適わず、肝心な部分をはぐらかした曖昧な説明になるのは避けられなかった。

 だがそれでも十蔵と晶は口を挟むことなく最後まで耳を傾け続けた。

 「……以上が、私達が彼を追ってここまで足を運んだ理由です。つい先日までこの海鳴周辺に潜伏していたところまでは突き止めましたが、一歩及ばず行方を掴み損ねてしまいました……」

 「道理で、初めに会った時から血の臭いがしたはずだ。人を簡単に殺しちまうような奴には見えたが、まさかとっくに殺してたなんてな」

 「でも、それだとあの子の方は……ナカジマさんの方はどうなるの?」

 「彼女は被疑者に連行される形で強制同行させられている、言わば人質です。彼と全面抗争になった際には彼女の身の安全の確保が最優先されますが……相手は交渉の場にさえまともに立たない可能性があるので、安易な事ではありません」

 実際その通りだ。曲りなりにも話し合いの余地があり、尚且つ多少でも話の通じる相手なら話し合いによる交渉の可能性もあるが、相手はこちらの存在を確認し次第即攻撃に移る暴力的な人物である。端から話し合いの余地などあるはずもなく、交渉による衝突回避など夢のような話だった。

 「彼がこの施設に足を運んだのは?」

 「二、三回ってとこかな。私にケーキの配達に来てくれたのが最初で、あとは館長目当て。何だか館長の強さに惚れ込んだっぽくてね、私は一回手合わせして後は無視されてばっか。おかげでうちの門下生からは大顰蹙かってたっけ、あの子」

 「彼の来訪で何かしら変わった点などは?」

 「うちの道場がってこと? そうだね、強いて言えば……五人だけなんだけど、あの子が最後に顔出した後あたりから急に来なくなっちゃったんだよね。何かあったのかな?」

 「あぁ~、そいつぁ俺のせいだな。そいつらがあの坊主に対して良くねぇ感情を抱いてたのは見抜いてたから、俺が少しそそのかしたんだよ。まさかそこまでビビらせるなんてなぁ」

 「その門下生の方々は、それからどうされました?」

 「どうもしないさ。ケガ一つしてないし、健康に支障も無し。でもよっぽど怖い目にあったのか、後は館長の言った通り」

 「まぁ、あいつらも人様をナメてかかっちゃいけねえって分かっただけ良かったさ。それで……お嬢さんがたはこれからどうするんだい? 生憎だが、ここにはもうあの坊主に関係する情報なんて何も無い。余所を紹介して捜査に協力するのが筋ってもんだろうが、生憎あの坊主が他にどんな奴と関わってたかなんて俺らは知らないからなぁ……」

 「いえ、ご協力ありがとうございました。貴重なお時間をいただいて申し訳ありません」

 礼を述べてからフェイトとティアナは立ち上がり、明心館を去ろうとした。ここでの収穫は無し……少し門下生の面々とトラブルがあっただけで、それ以外には特に何の異常も無いようだった。暴力的な彼にしては非常に珍しい、対外的な事柄を穏便に済ませようとしたことだけは窺えた。

 「あのさっ、一つだけ聞いていいかな?」

 「……何でしょう?」

 いざ立ち去ろうとしたフェイトを晶が呼び止める。

 「ナカジマさん……スバルちゃんはさ、どうなったんだっけ?」

 「……彼女は現在、被疑者とは別に消息を絶っています。先に被疑者が彼女を見つければ彼の人質に、我々が先に保護すれば懸念は無くなります」

 「そっか……あの子、結局あんないい子を手放しちゃったんだ……。とんだバカちんだよ、まったく」

 「?」

 「ごめん、もう一ついいかな?」

 「はい」

 「もし、あの子に会ったら、私の代わりに横っ面ぶん殴っておいてくれないかな。素直になれない鈍い男は罪だってね」

 「…………善処します」

 その後、二人は明心館を後にした。










 午後12時16分、駅前のファーストフード店にて──。



 「結局、あの道場からこっち、何の情報も得られませんでしたね」

 テイクアウトで購入したバーガーを口に運びながらティアナが愚痴にも似た感想を漏らす。いや、実際愚痴だったのだろう。明心館を出てから二時間近く街を練り歩いて情報を集めたが、精々地元の市立図書館に入り浸っていた目撃情報以外、何も手掛かりは無かった。元々対人的に他人と必要以上に関わる事を避けるタイプだったのがここで憂き目となった……誰とも関わろうとはしないから、誰も彼の事で詳しい情報を知る者など居るはずもないのだ。

 「どうします? 一旦、ご自宅の方に戻って統括官に途中経過の報告を入れますか?」

 「……………………」

 「……フェイトさん?」

 「えっ? ああ、ごめん。少しぼーっとしてた……」

 「お疲れなんですか? 少し長めに休憩取ります?」

 「ううん、気にしないで。少し……考え事してただけだから」

 そう言ってフェイトは右手に持っていた自分のバーガーを頬張った。照り焼きバーガーの少し酸味と甘味の利いたタレが鼻腔をくすぐる……。だが元々空腹ゆえの元気の無さではないので、いくら食べた所で鬱屈とした表情が無くなる訳でも無かった。

 すると、不意にティアナが呟く。

 「……スバル、ちゃんとご飯食べてんのかしら……」

 自分の食べかけのバーガーを凝視しながらの呟きに、隣のフェイトもまた自分のをじっと見つめた。スバルの大食らいっ振りは彼女が六課を離れて湾岸救助隊に行ってからも音にも聞こえた。食堂でも彼女だけ大皿にパスタを盛っていたのも今となっては懐かしい光景である。

 「訓練校の時代から大食らいで、食堂の担当が泣いていたのを覚えてます。それでも卒業する頃にはいつの間にか食堂の人達と仲良くなって、ちゃっかり自分専用の徳盛りご飯をもらってたりしてました」

 「スバル、誰とでも仲良くなれそうだもんね……。ティアナもそうなんだよね?」

 「わ、私はっ、別にそういうのじゃないです! ただ、あいつをほったらかしにしておくと色々面倒事が重なるから、私が適度に手綱を握ってやっているだけで、その……」

 「フフ……」

 「~っ! …………まぁ、ただの腐れ縁ってだけで語れない仲と言うのは認めます。何だかんだ言って、もう五年近くの付き合いですから……。だから余計に心配なんです……あいつが今どこをほっつき歩いているのか、何に関わろうとしてんのか……」

 恐らく、元六課の面子の中でスバルとの付き合いが一番長いのは姉のギンガを除けばティアナがダントツだろう。長年スバルの無茶振りを傍で見てきた彼女も、流石に今回の長期に渡る行方不明は堪えたようだった。

 「また、ふりだしに戻るんでしょうか……」

 「……………………」

 この街には“13番目”が居る……そして、その“13番目”を追って行方を暗ましたのであれば、スバルもまたこの街のどこかに居ると言う事になる。だがその手がかりがまるで無いとなれば、見つけ出すのは至難だ。

 「そう言えば、フェイトさん、三日間だけ別の管理外世界で調査していたらしいですけど、何か進展はあったんですか?」

 「うん……。ミッドから脱けた“13番目”の動向を追ってた時に辿り着いたんだけど、彼とスバル、そこの砂漠の集落で一夜だけ過ごしてたみたいなの」

 「砂漠の真ん中で一晩、ですか? そこで何が?」

 「そこの集落の族長には何人かお孫さんが居たんだけど、その内の一人が殺されてた」

 「殺され……って、“13番目”の仕業ですか!?」

 「……遺体は複数の部位に分割されてて、埋葬した人の話しだと、目も当てられない酷い状態にされてたって……」

 「分割、ですか? 隠すつもりもなかったのにわざわざ遺体をコンパクトにする必要があったんでしょうか?」

 通常、猟奇殺人などで特殊な性癖を持つ犯人以外で、遺体を切り刻む目的は限られてくる。その大半は遺体を隠す隠匿が目的だ。関節ごとに切断すれば、人間の体は大きめのトランクに収められるまでにコンパクトになる……それを考慮すれば、“13番目”の凶行は一見、死体の隠匿を狙っての犯行とも見られる。だが話を聞く限り、“13番目”は死体を隠そうとはしなかったらしい。これは矛盾だ。

 「私も不思議に思って色々調べてた……。住民の話だと、最初の半日は何事も無く過ごしていたらしいの。そのお孫さんもスバルだけじゃなくて、“13番目”の方にも懐いていたらしくて……。だから余計に分からなかった。彼が何の理由も無く子供に手を掛けるなんて思えなかったから……」

 「…………調べた結果は、どうだったんですか?」

 「……結果は…………」










 「あれー? フェイトじゃん! おーい」

 「アリサ……?」

 自分に声を掛けてきた人物に目をやると、それは十年来の親友のアリサ・バニングスだった。自分達と同じ店で購入したのか、その手にはフライドポテトを入れた紙袋を下げていた。

 「あれ? そっちの子は、えーっと……前に一回会ったよね?」

 「はい。ティアナ・ランスターです。三年前はお世話になりました」

 「そうだった。ティアナ! ティアナじゃ~ん、久し振り! 元気してた?」

 「あ、はい。お陰様で」

 「そっかそっか。それにしてもフェイト、てっきり私、あの後帰っちゃったと思ってたよ」

 「最初はそのつもりだったんだけど……予定が変わって。今は仕事で調査中」

 「ふ~ん、仕事……。って、ここで? また何かの事件?」

 「うん……ちょっとね。……………………ッハ!?」

 ここでフェイトはある重大な事実に気が付いた。

 目の前で呑気にフライドポテトを親友はつい昨日、フェイトがトレーゼに接触した際に、隣のすずかを同じく彼を知っているような口振りだったのを……。

 「ア、アリサ!!」

 「ど、どうしたの? 急にそんな切羽詰った顔して……!?」

 「トレーゼがどこに行ったか知らない!? 知ってたら教えて!! どんな小さな事でも良いから!!」

 「お、落ち着いてくださいフェイトさん!?」

 「あ……ご、ごめんなさい……」

 「まったくもう! それで? あのむすっとしてる男の子がどうしたって言うのよ? 何か管理局員だって言うのは桃子さんから聞いてるけど……」

 「あー、そこから話さないといけなかった……」

 「?」

 「実はですね……」

 周囲に聞き耳を立てている者が居ない事を確認し、ティアナは事の要点だけを伝えた。幸いにして、アリサは管理世界の事情を知り、且つ肝の座った人間だったのでトレーゼが別の次元世界の犯罪者だと知っても特にオーバーなリアクションを取るような事は無かった。

 「ふーん、まさかあいつがそんなワルだったなんてね~。あれ? ひょっとして私とすずかって、結構危ない状況だった?」

 「かなり危険だったかと……」

 「それで……些細な事でもいいから、何か無い?」

 「って言ってもなぁ~。居なくなったのって昨日の夜中でしょ。私その時間帯は外出歩かないから……。多分、すずかも知らないんじゃない?」

 「そうですか……。やっぱり、今回はここで手掛かりが途絶えましたね」

 ティアナの漏らした言葉にフェイトも同意せざるをえなかった。一旦隠遁して姿を暗ました“13番目”を発見するのは容易ではない……この場合、後手に回るのを覚悟で彼の方から動くのを待つのが一番確実な方法だが、もしリンディの言ったように彼らがこの街から脱出する事に全力を注げばそのまま行方を掴むことは永遠に不可能となってしまう。何としても、ここで食い止めなければ話にならないのだ。

 「どうしますか?」

 「……一応、念の為にすずかにも聞いておかないと……。私は一回すずかの家に行くから、ティアナは経過の報告お願い」

 「了解です」

 ここで二人は一旦別行動を取り、フェイトは親友のすずかの自宅へ、ティアナはハラオウン宅にて報告を待つリンディの元へと向かう事にした。

 「それと、バニングスさん」

 「なに?」

 「念の為に申し上げますけど、貴方は意図せず“13番目”と深く関わっています。もしあちらが何かしらのアクションを起こした場合、貴方と月村さんは彼の標的になるかも知れません。そうならない様に私達が全力で身辺の警護に当たらせていただきます」

 「あ、そう。まぁ気楽にしてていいわよ。っていうか、あのトレーゼって子そんなにヤバい事やらかしたの?」

 「ヤバい、と言う表現がおこがましいレベルです。スバルを見ましたか?」

 「あー、何か右腕が災難だったんでしょ。向こうは医療技術とか凄いらしいから、すぐくっつきますよ、って言ってたけど……」

 「……あの腕、あいつに切り落とされたんです」

 「え……?」

 「一ヶ月前なんてもっと酷かったんです…………左腕以外を切り落とされて、しばらく歩けない状態で過ごしていたんです」

 「……………………」

 今でもスバルの右腕は彼女が戻ってきた際にいつでも治療できるようにと、集中治療室の奥にて厳重に保存されている。一時は死亡の色が濃かった為に廃棄処分が検討されていたが、ギリギリのタイミングで生存が確認された為に難を逃れられた。

 「戻れば直ぐにでも治療が出来るのに……あのバカ」

 「…………ねぇ、ティアナ、一つ確認していいかしら?」

 「何ですか?」

 「あのさ…………スバルの腕を切り落としたのってさ、本当にあいつなの?」

 「私の目の前でやられたんです。見間違えようがありません」

 「……そう。ごめんね、嫌なこと思い出させて。じゃあ、私はこっちだから、また会いましょ」

 そう言ってアリサは交差点を左折し、ティアナに手を振って別れを告げた。背を向けてどれほど歩いた頃か、彼女はティアナが言っていた言葉を反芻するように頭の中に浮かべながら一人で頭を捻っていた。

 「殺し……ね。そこまでのワルには見えなかったけど……」










 同時刻、クラナガンの地上本部にて──。



 「各員、準備は整ったかいな?」

 「「「「はい!」」」」

 「よろしい。そいじゃ、順番に現地まで飛ぶとしよか」

 そう言って先陣を切るはやてを筆頭に、その後ろから新生機動六課の面々がぞろぞろと続く。そこには、かつてライトニング分隊の隊員だったエリオとキャロや、はやてのヴォルケンリッターの面々、更には今回の作戦限定で同行を許可されたナンバーズなど、そのメンバーは実にそうそうたる顔触れだった。

 だが、かつて四人居たはずのスターズはその数を二人に減らしていた。内一人は先に現地に行っているが、もう一人の方は未だにその行方が知れない……。今回の作戦はその行方不明の彼女の方を探し出す事も目的に含まれていた。

 「全員おるなー? ほな、技術主任のアテンザさんから諸注意どうぞ」

 「はい。それでは次元跳躍についての諸注意を簡単に説明させていただきます。ナンバーズの皆さんはちゃんと聞いていてくださいね」

 「了解」

 ナンバーズの面々は管理局の次元跳躍システムを使うのは初めてなので、まず最初に六課のメンバーが先に手本を見せ、それから簡単な説明を受けてからの跳躍となった。

 「八神司令は先に行かないのか?」

 「私はあんたらが行ってからや。ちょっと野暮用があるから、それを済ませてから行く」

 「了解した。では、お先に失礼する。行くぞお前達」

 トーレの号令に従ってナンバーズ『七人』は足並み揃えて転送装置に乗り込み、十数秒後、彼女らの姿は遠く離れた次元世界へと消えていた。それを見届けた後、はやては背後に向き直り、それまで事の成り行きを見守っていたその人物に声を掛けた。

 「結局、行かへんの?」

 「……私では力不足ですから」

 ナンバーズの長姉、ウーノはその場から一歩も動こうとはせず、眼前の転送装置に乗り込もうとはしなかった。今回の彼女はあくまで傍観者……戦うことを放棄したただの観客に過ぎなかった。

 「そう言えば、あんたは“13番目”の殺処分に反対したうちの一人……やったな。別に邪魔にならんのやったらついて来てもええのに」

 「いえ、私はもう今回の一件に関しては勝手ながら一線を退いた身です。そこへ土足で踏み込むと言うのは無礼と言うものです。私はここで……妹達の健闘を祈っております」

 「…………そうか。転送チャンネルは常時繋げとくから、気が変わったら作戦に協力しに来るなりしてええよ。それじゃ……私は行くわ」

 「お気を付けて……。妹達をどうか頼みます」

 ウーノに送り出され、はやては混迷を極める故郷へと足を踏み入れるべく転送装置に乗り込んだ。



 そして──、



 「お久しぶりです、リンディさん」

 「久しぶりね。はやてさん」

 数秒間、宙を漂うような感覚の後に目を開けると、そこは親しい友人の実家だった。その客間に転送してきた隊員らが所狭しと押し掛け、ハラオウン家は一瞬で満員状態になった。

 「貴女がハラオウン統括官……? 執務官の母君か?」

 「あなたはトーレさんね? 今回の作戦では娘共々お世話になるわ。よろしくお願いします」

 「任された。元より今回の件は我らナンバーズが発端……その始末はつけさせてもらうつもりだ」

 「期待しています。それでは皆さん早速ですが、現状の確認に移りたいと思います」

 それから数分間、ハラオウン宅に集合した十五名はリンディから現状の説明と確認を受けた。

 “13番目”とスバルはここへ来て間も無く高町桃子に誘われて、彼女の家に一週間ほど身を寄せていたことや、かつて十数年前にこの街で起きた『闇の欠片事件』のあらましとその顛末……そして、今現在自分達が敵対している相手が二つものロストロギアの力を有してしまった事を。

 「……あのー、正直言ってどうやって勝つんスか?」

 「ウェンディの疑問ももっともだ。癪だが、相手は対人戦闘と大量破壊のエキスパート……それだけでも充分厄介なのに、その上強力な古代遺失物を所有している相手とどう戦えと」

 「残念ですが、有効的な策はありません。無用な混乱を避けるために、敵対勢力の四人をこの少数精鋭だけで処理してもらうことになります」

 無理難題のようであり、実際その通りだ。数ではこちらが勝っているとはいえ、あちらには疲労さえ知らない完全な人外が三体もついている……。現状、隠れたまま出てこない少数の敵を見つけるのでさえ困難なのに、それを打倒しろとは無茶な注文だ。

 「彼らの居所に関しては現在二人の執務官が街を巡って情報を集めています。それ以外にも……解決しなければならない問題がいくつかあります」

 「スバルさんの捜索……ですね?」

 「ええ。それとは別に、この一週間で図らずも“13番目”と関わりを持ってしまった人達の監視と、万一の状況に陥った場合の保護があります。これは彼らがこちらと関わりの深い人物を拉致監禁した場合などを想定し、それに未然に対応するためです」

 「そうか、なのはさんのご家族……」

 「護衛のリストにはもう二人加えられます。そちらの方の事情説明は後ほどに。ここまでで何か質問のある方は?」

 特には無かった。分かったのは、現状ではまともに対処する策は無く、代わりにスバルの捜索と五名の一般人警護が今後の主な行動指針となったと言うこと。警護に当たるメンバーの割り当てはこの後で決める予定である。

 「それでは各員、いつでも動ける様に待機。有力情報及び相手に動きがあり次第、すぐにでも出撃します」

 「了解!」

 その後、各々は自分なりの方法で時間を潰す事にした。

 ヴォルケンリッターの四人はシグナムとヴィータ、そしてザフィーラの三人がそれぞれ調査に参入する事となった。シグナムが単独で行動し、ヴィータがザフィーラを連れて犬の散歩を装いながら街の周辺に異常が無いかを調べると言う割り当てだった。残ったシャマルはエイミィと共に参謀係として作戦本部であるハラオウン宅に常駐。何かあれば即時対応するようにしている。

 「へぇ……管理外の割にはなかなか発展してる次元世界だね」

 「なにも管理外世界の全てが田舎と言うわけではないと言うことか。魔導技術が無い一点を除けば文明のレベルはミッドと相違ないぞ」

 「ねぇディード、あとでちょっと探索に行けないかな?」

 ナンバーズの方は、そもそも他の管理外世界に来る事自体が初めてであり、今は取り敢えずはやてからこの街についての説明を受けてから行動が可能となる。その際の行動班の割り振りは二名以上を目安に決める予定だった。

 「なのはさんはひとまずご実家の方に行かれてはどうです。つもる話もあるでしょうし」

 「お心遣いありがとうございます、リンディさん。エリオとキャロも一緒にどう?」

 「お供します!」

 なのはは、エリオとキャロの三人で一旦高町家に寄り、安否の確認と挨拶に行く。それから後はエリオとキャロの二人組と別れて行動し、調査活動に入る。

 「しかし、何の手掛かりも無い状況では調べても徒労に終わるのでは……?」

 「どうかしら。案外、予想もしていない所から情報が入って来るかもしれないですよ?」

 トーレのもっともな言い分に対するリンディの放任的な返事。随分と呑気なものだと呆れるトーレだったが……



 この発言が現実のものになろうとは、この時のトーレは知る由も無かった。










 一方、ミッドチルダにて──。



 「そうですか……行きましたか」

 「総勢十五名。その半数は元ナンバーズで構成された少数精鋭チームです」

 とある陸士部隊の隊舎の一室、そこで元ナンバーズの七番のセッテと、彼女の身元引き受け人であるカリムが面会に臨んでいた。以前と同じように付き添いや監視の者は傍につけず、二人だけでの静かなやり取りは数分で終了の兆しを見せ始めていた。

 「数日の内にあなたの身柄を再び更生施設に移送します。正式な予定はまた追って連絡する事になりますが、その移送の日には私も同行させていただくことになりました」

 「承知しました。聖王教会本部の宗主ともあろう御方が、わざわざご足労なことです……」

 「あなたには個人的に目を掛けているつもりです。あまり過保護なのは感心しませんか?」

 「いいえ、ワタシにとって個人間に偏在する感情など無意味です。そう言った心遣いは気になさらなくて結構です」

 テーブルを挟んだ向かい側に座るセッテの対応は相変わらず冷たく、取り付く島さえ無い状況にカリムは苦笑した。いつか心を開いてくれるのではと思う心も無きにしも非ずだが、この様子ではその望みが叶うのは薄そうだった。

 「そろそろよろしいでしょうか。あなたほどの御方のお時間をこれ以上浪費するわけにはいきませんので……」

 「相変わらずつれないですね。そんなに焦らずとも面会時間はまだ残っています。少し私の余興に付き合っていただけません?」

 そう言いながらカリムは懐から小さなケース、プラスチック製のカードケースを取り出した。蓋を開けて卓上にばらまいたカードの数は全部で二十二枚……それぞれにゼロから22までの数字が割り振られており、描かれた絵図は何かしらの寓意的な意味を含んでいる事をセッテに理解させた。

 「タロット、と言ってですね、いわゆる占いの一種です」

 「ワタシはそう言う遊戯の類には無知です。そんなワタシを相手にして、貴方に何の面白味があるんですか?」

 「まぁそう言わないで、あなたがこの先経験する事でも占わせて。こう見えて結構当たるんですよ」

 「……ご自由にどうぞ」

 これ以上何を言っても無駄だと思ったのか、浮かした腰を椅子に下ろしたセッテは大人しくカリムに付き合う事にした。それぞれのカードを決められた配置通りに並べ終えたカリムは改めて彼女と向き合い、占う事象の内容を問うた。

 「それで、貴方の何について占うかですが……」

 「適当で構いません」

 「そうはいきません。本来、占術と言うものは占うべき事象が明確でなければ意味がありません。でなければ私の『預言者の著書』と同じで曖昧な未来しか見据えられません。不明瞭な未来というのは、それだけで人生を不安にしてしまうものですよ」

 「本当に適当で構いません。あまりこだわると時間が無くなりますよ?」

 「それもそうかしら。それじゃあまずは……あなたがこれから先、それも比較的近くに経験するであろう事柄を一つ……」

 そう言いながらカリムは並べた複数枚の内の一枚を手に取り、それを捲り上げた。カードの選定も含めて好きにしていいと言われているので、カリムが引いたカードはそのままセッテの未来を占うものとなる。

 「第六番、『恋人』の正位置。重要なカードを引いちゃいましたね」

 「ワタシは異性などに興味は無いのですが……?」

 「アルカナにおける『恋人』のカードは、何も異性との関係ばかりを示すものとは限りません。確かに主な意味合いとしては『愛』や『魅力』、『男女間の性愛』などがありますが、描かれている男女の図は物事の合一や二者択一を意味する事もあります。近い内にあなたは何かしらの『選択』を迫られると言う暗示かも知れません」

 「選択……ですか」

 ふと、セッテの脳裏に兄の言葉が過ぎった。選択を誤ってはならない……重要な局面における択一の選択はつまり、誤れば命取りになるからだと…………出会っても間も無い頃に言い聞かされた言葉だった。

 「…………続きは……」

 「?」

 「占う事物とは何も一つばかりではないのでしょう? さあ、続きをお願いします」

 その言葉が印象的だったからか、自分の引いたカードの意趣に得も言われぬ感覚を覚えたセッテは先程と打って変わって積極的に占いの続きを求めるようになっていた。

 「フフフ、分かりました。では、先程の『恋人』の未来に従ってあなたが何かしらの選択をしたと仮定した未来を……」

 再びカードを並べ直し、そして違うカードを手に取る。次に現れたのは華美な服装に身を包んだ男性の図……権威の象徴として掲げる杖が特徴的なぞれは、セッテの目から見て非常に力強く見えた。。

 「第四番『皇帝』。その意味は『支配』や『権威』など、非常に力強い意味を持ちます。また、描かれている絵図からも分かるように男性的な意味合いもあり、指導者たる『導くもの』としての運命を表していると言えるでしょうね」

 「つまり、ワタシが何かを『選択』し、その選んだ道に従って別の何かを『導く』……と言う事ですか?」

 「漠然と言えばそうなります。あなたがどんな局面に立ち、何を選択し、どう導くかは私にも分かりません。もしかしたら、導かれるのはあなたの方かもしれないですし。そして、もし貴方がその導きに従って辿り着く未来は……」

 三枚目……セッテが行き着く未来は────、

 「……第十番『運命の輪』。車輪の如く巡り会う運命を表した一枚……。何かが劇的に変化する『転換点』」

 「転換……」

 「あなたの行いが膠着した場面を切り拓く……かっこいい言い方をするとそう言う事です」

 他愛もない与太話……そう言って切り捨てる事も可能なはずだった。だがやはりセッテはそうせず、自分でも分からないままカリムの占術の結果に耳を傾け、その内容を吟味しようとするのだった。

 「未来は所詮曖昧なものです。今こうして例を挙げましたが、実際その通りになるとは限らないでしょう。全てはあなたの心と、そこから起因する行動に懸っていると言っても過言ではありません」

 「…………………………………………」

 「……もう時間ですね。今日はこの辺りで失礼します。それではまた……移送の日に」

 「はい…………ありがとうございました」

 呆然としたままのセッテは目の前のドアを通って去って行くカリムを見送りながら、その頭の中では一つの思考がずっと渦巻いていた。

 (未来…………確定していない可能性、選択の余地が豊富にある未来……。ワタシはそこで何をするべきなのでしょうか?)

 “未だ来ない”、故に未来。ならば、今ある現実において何もしていない自分とは一体何なのか……。このまま何もしない曖昧なまま、人間でも戦闘機人でもない以前の自分に戻るのか。それに全力で抗おうとしないと言う事は、本心ではそれを受容してしまっているのではないか……? なら……兄と共にそれを否定する為に奔走した短い期間は、果たして自分にとって意味のあるモノだったのだろうか?

 (分かりません。ワタシは一人では分かりません……兄さん)

 同胞と信じた者に偽者と罵られた彼は今、遠い彼の地へと流れ着いた。自分が唯一敬愛した彼の面影を虚空に浮かべながらも、結局今のセッテに出来るのは無気力なまま冷たい壁に身を預けて肉体の力の浪費を抑えると言う、全く以って機械的な判断しか出来なかった。何故なら、彼女はそのようにしか出来ていないから……。

 目を閉じる。思考の一切を停止させ、半ば強制的に意識を無意識の奥の奥へと引き摺り込んで、セッテの精神は眠る事を選んだ。

 (…………兄さん)

 数分後、彼女の意識は深い涅槃の海へと身を委ね、静かに時を過ごし始めた。










 午後14時43分、海鳴市の某所にて──。



 「…………お腹、空いたなぁ」

 六課メンバーの予想通り、スバル・ナカジマは海鳴市の界隈に身を寄せていた。朝に高町宅を飛び出した彼女はこの時間に至るまで水一滴口にしておらず、ずっと空腹のまま街を歩き続けていた。

 原因は、彼女自身の浅はかな行動にあった。魔力を辿ればトレーゼの居場所をすぐに掴めると思い込んでいたスバルは、相手が隠遁に徹していると言う肝心な部分を見落としており、隠れ身に転じトレーゼとマテリアル一派を見つけ出すはおろか、その魔力の痕跡すら全く掴めないでいた。

 自分の思慮が足りなさが招いた結果に辟易するより、今のスバルはとにかく自分の腹の虫と戦うのに必死だった。金は持っていない……以前にトレーゼがATMから引き抜いた物は違法な手段で手に入れた物である為、それが許せなかった彼女は仕舞っていた財布を交番前の適当な所でわざと落として来たのである。故に、今の彼女は紛う事なく文無しだった。缶ジュース一本買えない状況に自らを追い込んでしまったと言う訳である。

 「今頃きっと、ティア達がミッドから来てるんだろうなぁ……」

 一瞬だが、素直に彼女らと合流しようと言う考えが頭を過ぎった。だが一度決めた事は覆したくない強情さと、自分が抱える秘密の重要性を改めて確認したスバルはそれを黙殺して頭の隅へとおいやった。己が隠し持つこの秘密は言わば爆弾……一度爆発させて明るみに出てしまえば、自分ではなく周囲に迷惑が掛かってしまう。それを自覚していたからこそ、自分はかつての仲間にも頼らずに一人で事に当たる茨の道を選んだのだから。もちろん、全てが終わった後に受けるであろう咎も甘んじて受けるつもりだった。

 公園のベンチに腰掛けていた彼女はふと時計を確認する。時刻は既に昼過ぎを過ぎ通り、もうすぐ午後の三時になろうとしていた。

 「そろそろ、行かないと……」

 空腹を紛らわせる為に摂っていた休憩を終えて立ち上がり、両足に大地の感触を踏み締めながらスバルは一歩を踏み出す。街中を練り歩いて魔力反応や異常を探して回ったが手掛かりは無し……今度こそと思いながら自前の粘り強さだけを頼りに前へと進み行く。

 不意に、目の前が暗くなる……。

 「えっ? ふぇっ!?」

 それが自分の前に立っていた人のものだと分かった時には遅かった。ただでさえ空腹で気怠いところに、まだ立ち上がって間もなかったのが災いし……

 「ふわぁああっ!!」

 「おっと!」

 前に立っていた見ず知らずの他人の背中に倒れ込んでしまった。唯一の幸いは、そのまま将棋倒しになる前にその者がスバルの体重を支えきった事だった。

 「大丈夫か?」

 「す、すみません!! ちょっと疲れてて……って、あわわ!?」

 急いで背中から離れるが、今度はふらついて後ろ向きに倒れそうになる。体勢を直そうとするが、もはやそれだけの余力も残っておらず、スバルの体はゆっくりと地面に向かって後ろ向きに──

 「よっと……」

 「あっ……!」

 ──ぶつかる前に目の前の男性がスバルの手を掴んでしっかりと支えた。そして、その時にスバルが見た男性の顔は……

 「巻島さん!?」

 「よぅ、久しぶりだなスバルの嬢ちゃん」

 巻島十蔵……明心館の館長、道場の主であるはずの彼がどうしてこんな所に居るのかと一瞬戸惑うが、よく見ればここは以前トレーゼと一緒に来た明心館の周辺だと今更に気が付いた。多分、道場から歩いて近くなのか、着ている服装も道着のままだった。

 「お久しぶりです。今日はその……奇遇ですね」

 「ああ、そうだな。今日はあの坊主は一緒じゃないのかい?」

 「……ちょっと、色々あって……」

 事情は話せない……。目の前の老人は今回の一件に関しては無関係と言っていい人物だ。そんな人物に事情を話して協力してもらっても、きっと後で迷惑を掛けるだけ……それならいっそ、ここで知らぬ存ぜぬを通せばそれで事は済むはずだった。

 「そう言やぁ……」

 「はい?」

 そのつもりだったのに……。

 「今朝方、嬢ちゃんの同僚って連中がうちの道場に来ててな。嬢ちゃんのこと探してたぜ」

 「えっ……?」

 元来嘘を言えない性格がここで災いしたか、表情にありありとした動揺が浮かぶのをスバルは止められなかった。流れ出る冷や汗を必死になって止まらせたが、そのほんの一瞬の僅かながら明確な動揺を目の前の老人、巻島十蔵は見逃さなかった。

 「…………少し、そこで世間話でもしようや」

 畳み掛けられるようにそう誘われて……今のスバルにそれを断る術は無かった。










 万物は流転し、転換を迎え、やがて変化する──。

 その結果生じたモノが善性か悪性であるか……その時にはまだ誰も知りえないことである。



[17818] “13番目”VS新生機動六課
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:4f03e89c
Date: 2012/01/02 15:24
 リンディの予言した通りに、予想もしていなかった人物から“13番目”の目撃情報は寄せられた。










 「本当にこの写真の人物で間違いありませんか?」

 「はい。12月6日午後9過ぎ……偶然見かけて印象に残っていましたので」

 その予想外の人物とは、フェイトが調査に訪れた月村邸に仕えるメイド長、ノエル・K・エーアリヒカイトだった。

 聞く話によれば、偶然その日その時間帯に商店街に用があった彼女は、その帰り道にビジネスホテルが集中する区画を通った際にその姿を見たと言う。すれ違った程度にしてはよく記憶に残ったのもだとフェイトは思ったが、その要因は別にあった。

 「印象に残っていた?」

 「はい。珍しい容姿ということもありましたが、私が気になったのは、この方がお連れになっていた三人の女性です。彼の背後に控えるようについていたのですが……三人とも何故か異様に……」

 「私やなのは、はやてに似ていたと?」

 「はい。最初は他人の空似かとも思ったのですが、それにしては瓜二つ……。双子か何かだと思いました」

 トレーゼに付き従って行動していた、自分達三人によく似た存在……こうなるとそこに居たのは十中八九本人と見て間違いは無いだろう。

 「ご協力、ありがとうございました!」










 「まさか、一介のメイドが重犯罪者の行方を掴んでいたとは……」

 「ですから言ったでしょう? 情報とは予想外なところからも拾えるものなんです」

 「心に留めておこう。よし、では早速その周辺を封鎖するとしようか」

 「お待ちください、トーレさん。敵もまさか自分の隠遁が完璧とは思っていないでしょう。必ず二重三重の予防策を講じているはずです。そんな中へ無闇に突っ込んでもいたずらに戦力を削るだけ……違いますか?」

 「では、誰を当て馬に据えるつもりだ」

 「当て馬の言い方は好みではありませんが、今現在で問題のエリアに一番近い方々は……」










 「それで、私と言うわけか……」

 いざ現地に派遣された隊員はシグナム一人。あくまで偵察が主である今回は大人数で押し掛けるのを避け、隠密行動に適した能力も加味しての人選だった。シグナム自身、そう言った心得が無い訳でもなく、与えられた仕事は実に簡単だった。

 「…………それにしても、目と鼻の先まで来ても何も感じないとはな……」

 目撃証言に従って現地まで来てみたものの、少なくとも自分が今居る地点においてシグナムは何の気配も感じなかった。以前相対した時はあれだけの禍々しい気迫を遠くからでも感じられたのが、問題の区域にはそれがさっぱり無い。完全に隠密に徹しているか、あるいはここには既に居ないのか……感覚としては後者だと判断するところだが、完全に居ないと断定できる要素も無い為、しばらくは周囲を警戒しながら探索を進める事にした。

 「ここも違うか……」

 この近辺にある宿泊施設は大小で八つ……今外側から確認したので五つ目だが、欠片もその存在の痕跡は感じられなかった。中まで入らないので詳細は分からないが、少なくともこれまでに調べた五つとも痕跡は微塵も無い。

 ここで、手元の携帯電話に連絡が入った。

 「私だ」

 『チンクです。統括官殿の命により、ディエチと共にあなたのサポートに回ります』

 「世話になる。姿が確認できないが、どちらに?」

 『ディエチの眼は特別製です。あまり接近すると勘付かれる恐れがあるので、今は三キロ離れたビルの屋上から望遠機能を用いてそちらを捕捉中です。ディエチの眼球の映像をリンクし、適時そちらに指示を送ります』

 「頼んだ。そちらの方から見てこの周辺一帯はどう見える?」

 『少々お待ちを……。極々微量ですが、海鳴全体に“13番目”とは違う魔力が散在しています。件のマテリアルのものではないかと』

 「街全体か……。それは恐らくテスタロッサが話していた昨夜の戦闘によるものだろう。もっと局部、私が居る辺りはどうなっている?」

 『申し訳ない、こちらのセンサーには何も……。向こうがシルバーカーテンを使用して隠れているのだとすれば、こちらには打つ手が無くなる』

 なるほど、熱反応すら隠蔽するあの能力を常時使われれば確かに見つけられないのは道理……。それこそ、こうして目の前にしている建物の窓から覗かれても分からないだろう。

 では仕方ないと半ば諦めの念を覚え、シグナムは大人しく踵を返した。殺気をダダ漏れにしているだけだったかつてとは違い、今の相手は暗殺者ばりに気配を消す事だけに集中している……そんな敵をどうやって見つけ出せようか。このままおめおめと引き下がるのは癪だったが、今の彼女に出来る事は無かった。

 「……今から帰る」

 『帰還なさるのですか?』

 「これ以上ここを嗅いで回った所で収穫は無い。口惜しいが、相手が尻尾を掴ませてくれんのだ……ここは日を改めるより他はあるまい」

 『了解しました。こちらは引き続き街一帯の調査を続行します』

 通話を切り、シグナムはもう一度建物を恨めしげに睨み上げた。敵がすぐ目の前に居るかも知れないのに背を向けるのは彼女ほどの武人にとっては恥晒しもいいところ……だが、獲物が居ないのではそれもやむなしと引き下がる潔さも、彼女ほどの武人だからこその判断と言えた。

 足向きを変えて引き返す彼女はコートを着込み直し、ホテルの前から──、



 ≪あれぇ? もう帰っちゃうのかい? つまんないな~≫



 「っ!?」

 だが、突如脳裏に届いた念話がその足を固く留めた。

 響いた声は耳に覚えのある、それでいながら非常に邪気に満ちた声……その声は十年来の友であり好敵手のそれと全く同じだった。

 「マテリアル……ッ!!」

 ≪アハハ! そう身構えなくていいよ、烈火の将。今のボクらはご主人様にキツく言い含められてるんだ……キミ達とは極力衝突を避けるようにってね≫

 「どういう意味だ!?」

 ≪さぁね。ご主人様の真意は分からないよ。ボクとしては一秒でも早く戦いたいっていうのに、あの人は慎重すぎるんだ。キミもそう思わないかい? だからこそ、キミらはボク達を見つけ出す事ができない≫

 「知った風なことを……」

 念話からの挑発を受け流しながらシグナムは周囲に警戒の視線を巡らせる。念話を送ってきていると言う事は、即ち見える範囲からこちらに語り掛けていると言うこと……つまり、相手は近い距離からこちらを見ているはずだった。だがそれらしい影や気配はやはり見当たらない。

 ≪知ってるさ! ボクらはキミ達の事なら何だって知っている。他ならないキミ達自身からボクらは生まれたんだからね≫

 「……お前達の目的は何だ?」

 ≪“ボク達”の目的は今も昔も変わらないよ。砕け得ぬ闇の完成……それ以外に大義名分なんて無いさ。ただ、ご主人様の目的は正直言って分からない部分が多い。きっとあの人はボクらの知性が及ばない遥か高みを見据えているに違いないんだ!!≫

 「お前達はっ、またあんな下らないモノを蘇らせようというのか!」

 ≪何が上等で、何が下劣かなんて考え方は人それぞれさ。元を正せば同じ所から生れ落ちたって言うのに、キミとボクの間にはこんなにも見解の相違があるなんてね……残念だよ、烈火の将≫

 念話の声が徐々に小さく遠ざかる……どうやら相手はこれ以上話す事など無いらしく、早々に切り上げる様子だった。

 「逃げるのか!?」

 ≪逃げるだって? 勘違いしちゃいけないよ、烈火の将。戦略的何とかってやつさ。そんなに焦らなくったって、遅かれ早かれボク達とキミ達は争う運命にあるんだ……その時まで、しばらくのお別れだよ≫

 それを最後にマテリアルの声は遠ざかり、遂に念話は途絶えてしまった。結局何らかの妨害が施されていたのか、魔力の逆探知は成功せず、シグナムは悔しさに拳を握り締める事しかできなかった。

 「……くっ!」










 「なるほど、ね……」

 「申し訳ありません。敵を前にして挑発までされながら、無様に帰還した不甲斐なさをお許しください」

 ハラオウン宅に戻ったシグナムは事の次第をはやてらに報告した。その報告によりトーレからは露骨なまでに機嫌を悪くされたが、主人のはやてと総指揮を執るリンディらはしばし逡巡の姿勢を見せた。

 「…………マテリアルとの会話で何かしら分かった事は?」

 「幾つか……。やはりマテリアル一派は宿泊施設が集中するあの区域のどこかに潜伏している模様です。でなければ、念話の魔力がこちらまで届くはずがありません」

 「つまり、ミス・ノエルの証言は事実と言うわけか……」

 「それともう一つ……。どうやらマテリアルは“13番目”に対して絶対の信服と忠誠を誓っているようです」

 「忠誠? あの根性ひん曲がった三体が?」

 「全員かどうかは不明ですが、少なくとも私が言葉を交わした個体に関しては間違いなくそうでした。どんな思惑があるにせよ、消えかかっていた肉体を復活させた彼に恩義を感じているものと」

 「人外三体をまとめあげるだけのカリスマがあの“13番目”にあった事自体が驚きやけど……。なるほど、類は友を呼ぶっちゅうことか」

 「それだけの信頼関係が成り立っていると言うことは、“13番目”が彼女らに何らかの無茶ぶりを言っても、彼女らはそれを躊躇なく実行に移す可能性があると言う事ですね」

 リンディの言葉にはやてとトーレの表情に陰りが差す……。

 互いに今の今まで接点がまるで無かったはずの存在が手を組んだ……それはつまり、どこかしらで互いの利害について妥協した部分があると言うことだ。そこを心理的に突けば少数とは言え必ず内部崩壊が発生すると踏んでいたのだが、互いがそれぞれの間で揺るぎない信頼関係が成り立っているとなれば、それは非常に難しい話になってくる。しかも指揮官が盤石な姿勢を保っていれば尚更だ。

 「……どう崩す?」

 「それが難題や」

 「敵がいつまでもあの場所に居座っているとは思えません。私達を混乱させるのが狙いだとすれば、今回の挑発じみた接触でこちらが動くのを誘っていると考えるのが妥当でしょう」

 「一気に叩こうにもあちらはこちら以上の少数精鋭……いざと言う時の機動性はあちらが遥かに勝っている」

 「どの道あちらを見つけん限りはイタチごっこもええとこや。しばらくは連中が潜伏できそうな宿泊施設周辺を警戒しつつ、街の捜査網を徐々に狭めていくっちゅう方針でオーケー?」

 「異存は無い。元より、効率的な手段が他に無いのだからな」

 そう言うとトーレは予め用意されていたコートに身を包み、玄関へと赴いた。

 「どっか行くん?」

 「見回りついでに街の地理を確認するだけだ。少し歩いたら戻る」

 そう言い残し、トーレは一時ハラオウン宅を出ていった。シンと静まり返った居間に居るのは現在はやてとリンディのみ……他の者は全員出払い、奥の方ではエイミィとシャマルが各地に散った隊員らからの定時報告を整理しながら、街全体の魔力係数に異常は無いかを常に計測中だ。今のところ、めぼしい報告は無い。

 「短気は損気です……気長に待ちましょう。それはそうと、ついさっき局から対“13番目”用にと新装備が……」










 とある公園、そのベンチにて──。



 「ほらよ、食いな」

 「……ありがとうございます」

 近くのコンビニで買ってきた肉饅を受け取りながらスバルは巻島に礼を言う。結局あの後、無理に振り切って離れる事もできず、スバルは巻島老人としばしの時間を共にすることにした。空腹な様子なのを見かねて食料をくれた事に関しては本当に感謝してもしきれない。

 「…………それでその……お話って……」

 「うん、まあなんだ……今朝方に嬢ちゃんの同僚が訪ねてきたっちゅう話はしたろ。そん時にな、色々と聞いちまったわけだ。嬢ちゃんとあの坊主の事情とか……」

 「っ!? あたしがここに居た事を連絡しますか?」

 「されて困る事があんのかい?」

 「それは……」

 「……まっ、嬢ちゃんにも事情っつうもんはあるわな。俺は嬢ちゃんの親じゃねえし、ましてやダチでもねえ。だからあんたの事情に深入りはしねえ……。だけどよ、一つだけ聞かしちゃくれねえか? お前さん、どうしてあんな奴とつるんでるんだい?」

 それはある意味において、一連のスバルの行動そのものの真意を問うものだった。傍目から見れば、別に拘束さえされていない彼女がわざわざ任務でもないのにトレーゼの近くを離れようとしないのは理に適っていない。むしろ血迷った風に思われても当然の行いだ。

 巻島老人としては自分でも言ったように個々人の問題なのだと割り切っている部分もあるのか、自分で質問しながら手元の肉饅を食べて話半分といった感じだった。だが、当の質問を投げ掛けられたスバルの方は視線を落としたまま無言……。悪戯を咎められた子供の様に初めは何も語ろうとしなかったが、やがて……

 「巻島さんは……本気で怒った事ってありますか?」

 「あるさ。伊達に長く生きちゃいねぇよ。この人生の間で喜怒哀楽、知り尽くしてるぜ。俺自身、今まで色んな輩を見てきたからな」

 「……じゃあ、怒った事しかない人って見たことありますか?」

 「俺の知る限りじゃ一人も居ねぇな。どれか一つの感情でしか手前を表現出来ないってんなら、言い方は悪いが脳みそがどっかイカれちまってらぁな。それとも何だい? あの坊主は年柄年中怒ってばっかなのかい?」

 「トレーゼは…………怒ってもいないんです」

 「へぇ……」

 そう、トレーゼは感情を露にしない……。喜びも悲しみも、原初の感情たる怒りすらなかなか発露させない。他人から見れば常に不機嫌そうで、如何にも感情をさらけ出しているようにも見えるが、その実は常に自分の本心、核心を隠し持ったままだ。むしろ、イラつきを前面に押し出す事で本当の感情を内側に封じている……。一ヶ月の間行動を共にし続けたスバルが最近になってようやく気付いた事だった。

 だが、そんな彼でもたった一度だけ、本気で激昂した事がある……。

 「あたしなら、あたしならトレーゼをすっごく怒らせられるんです……」

 「分からねぇな。それがあの坊主とどう関係してんだい?」

 「そこから先は巻島さんにも話せません。これ以上……迷惑を掛けるわけにはいきませんから……」

 そう、これ以上は誰にも言えない。言えば全てが瓦解する恐れがある……作戦とも呼べない陳腐な内容でも、それを実行しようとしているスバルにとって、この秘密を死守する事はそれだけ重要なのだ。

 「…………そうかい。だったら、俺ぁ何も言わねえよ」

 その言葉に何かしらの意図を感じたのか、巻島老人はそれ以上の追求を止めた。元より、知った所でどうするつもりでもなかったのか、話を振った割にはあっさりと引いた。

 「とにもかくにも、あの坊主を『怒らせる』ことが、嬢ちゃんの目的なんだよな? そうする事で坊主がどうにかなるって思ってんのかい?」

 「確証なんて無いですけど……あたしってバカだから、今はそれしか思いつかないんです」

 「ふふふ、いいさ、馬鹿でも阿呆でも。人間、これだけは譲れねぇってモンがあれば一人前さ。ただな嬢ちゃん……これだけは言っとくぜ」

 食べ終えた肉饅の包み紙を器用にゴミ箱に放り投げ、巻島はスバルと真正面から向き直った。

 「譲れないモンがあれば、人間ってぇのはどこまでも強くなる。譲れねえって事はつまり、それがそいつにとって一番大事なモンだからだ。大事なモノを守る為なら何だってするし、時には犯しちゃならねえ部分にも手を出す。そんで、悲しいかな……譲れないモノは誰にでもある」

 それはつまり、二人以上の誰かが居た場合、何かしらの要因により対立すれば互いの「大事なモノ」を壊し合おうとする意味……。

 「そう言うもんは大抵、後になってみりゃ笑い話で済ませられるくだらねぇ喧嘩だが……それが『大事なモノ』が無事だった場合の話さ。もし、もし仮にどっちかの譲れねぇモンが粉々になっちまった場合、取り返しのつかねぇ事になる。それが故意にしろ、偶然にしろな。……嬢ちゃん────」



 「お前さんはそうならねぇように気を付けなよ……。自分の『譲れない』だけを守って、目ん前に居る輩の『譲れない』を守れないような奴には絶対なるな」



 「あたしは……」

 スバルはいつでも必ず、『守る側』だった。決して『攻める側』になった事は一度とて無く、常にどこかで助けを求める弱者の拠り所であろうと努めた。幼い頃に自分を救った恩師の姿が尊かったから、彼女はそれに憧れ、自分もそうなりたいと願ったからこそ、今のスバル・ナカジマが居るのだ。

 であれば、そんな彼女が何故他人の心を折るような真似が出来ようか。

 だがしかし、この時スバルは眼前の老人の言葉を聞き流す事が出来なかった。

 「さってと! じゃあ俺はそろそろ道場に戻るぜ。嬢ちゃんも精々頑張りな」

 「えっ!? あ、あのっ、あたしの事、ティア達に報告するんじゃ……?」

 「ん? 嬢ちゃんが嫌だって言ったんだろ?」

 それだけ言い残し、巻島老人は手を振りながら去って行った。後に残ったスバルはただ呆然とその背を見送り、手に持ったままの食べ掛けの肉饅に目を落とした。受け取った時の温度も今は無く、ほんのりとした温かみだけが手の中に残っているだけだった。

 (自分の譲れないモノのせいで……誰かの大切なモノを壊してしまう……)

 ありえない……そう言って一笑してしまえるはずだった…………だが、結局巻島の言った言葉は彼女の耳の奥に残り続け、その心に名状し難い“何か”を植え付けていった。

 「……あたしは……やらなくちゃ駄目なんだ」

 それでもこの決意は揺らがない。例えその先に待っているのが自身の終末、血みどろの果ての終わりだとしても……自分の優柔不断が招いた末の結末ならば、甘んじて受け入れる覚悟は出来ていた。

 腹ごしらえは済んだ。これだけでは心許ないが、何も口にしなかったよりはずっとましだ。

 包み紙を捨て、空を見上げて深呼吸……吐き出すと同時に足腰に力を入れて立ち上がり──、



 ふと、空の隅が色を変えるのを見てしまった。










 けたたましい警報が鳴り響く。それがはやてとリンディの鼓膜を打った次の瞬間、奥の部屋からエイミィの声がした。

 「海鳴の南西と北東方面に結界反応!」

 「各員に一斉通達!」

 リンディの指示により、街中に散っている隊員らに報告が入る。

 街の二ヶ所で同時展開された結界の相対距離はおよそ三キロ……中の様子がどうなっているかはエイミィの解析が終わり次第明らかとなるが、問題はその出現位置。

 「どう見ます、はやてさん?」

 「例の目撃証言があった区域を中心に等間隔、しかも対角線上になるように結界が張られてます。二つの結界は私らの目を引く為の囮っちゅう線も有り得ます」

 「となれば、陽動の為に結界を張っている人物は……」

 「解析結果、出ました! 二つとも十三年前にあった闇の欠片事件においてマテリアルが発動していた結界と同質です」

 「やはり……」

 陽動の役を買って出ているのは双方ともマテリアル。だとすれば、本懐であるトレーゼは穴熊を決め込んでいるのか、或いは既に別の場所に居るのか……。現時点での断定は出来ないが、それによって今後の展開がまるで違ってくるのも留意したいところだ。

 「ナンバーズは一旦こちらに帰投してください。本部より届いた装備を受け取り後、こちらが指定の位置にて待機してもらいます。結界にはスターズとライトニングに突入してもらいます」

 『了解!』

 『了解した!』

 「ヴォルケンリッターは私を含めた全員で海鳴を上空から監視体制を敷きます! 各員、抜かりの無いように」










 …………首尾は?

 ≪万事、滞り無く。全てはあなた様の采配通りに……≫

 ≪こっちも準備万端! いつでもどこからでもどうぞ≫

 よし。そちらはどうだ?

 ≪既に、指示された位置についておるぞ主殿よ。ここならわざわざ結界を張るまでもない……何の気兼ねも憂いも無しに蹂躙できようと言うものよ≫

 ≪単独で暴れるのは結構ですが、くれぐれも羽目を外し過ぎないように注意してください。私達の目的はあくまで陽動……敵の目をトレーゼ様から逸らすのが本命です≫

 ≪でもさ、陽動って言うんなら、行動は派手に越した事はないよね? だったらボクは好きなようにやらせてもらうよ。そのために結界だって展開したんだ≫

 構わない。だが慎重にな。魔導師や騎士ならともかく、現時点でこの街の連中を巻き込むのは得策ではない。下手に事が大きくなれば俺達だけでは事態を収拾できなくなるからな。

 ≪案ずるな主殿。要はそうなる前に雌雄を決してしまえば良いだけの話よ。連中は未だ我らが十三年前のあの時と同様に倒せると思っておるだろう……それが間違いであったと、骨の随まで教え込んでやろうではないか!!≫

 ≪では、今回は私も本気を出しましょう。この血の滾りを抑えず戦えるのは、実に心地の良いことです≫

 ≪なーんだ、結局やる気満々なんじゃないか。でもいいね、嫌いじゃないよ≫

 そろそろ臨戦態勢に入れ。迎撃する側がやる気ないのは笑い話にもならないからな。

 ≪はーい。あ! そうそうご主人様! これが上手く出来たらボクらにご褒美ちょうだいよ。とびっきりイイのをさ≫

 はぁ? あー……適当に用意しておく。じゃあな、通信切るぞ。

 ≪了解≫ ≪オッケー≫ ≪心得た≫

 「…………さぁ、開戦の狼煙を上げるぞ」










 海鳴市南側、スターズ分隊が赴いた結界──。



 「スターズ、これより結界内に進入します」

 携帯電話の通話を切り、なのはとティアナは結界のすぐ目の前にまでやって来ていた。一般人にはまるでその存在は感知する事は出来ないが、二人の眼前にはまるで城壁の如くそびえ立つ橙色の結界がしっかり確認できていた。

 「ティアナ、もう一度確認するね。マテリアルはそれぞれが人間に酷似してるけど、実際は違う……。身体能力は人間の比じゃないし、元の核がロストロギアだから魔力量も常識外れ。基本的にヴォルケンリッター並みの出力がデフォルトって思っておいた方がいいよ」

 「デフォルト……標準ってことは、本気を出されれば……」

 「最悪、結界の外まで被害が及ぶ事も考えないとダメだったかな。でも、今回に限ってはそれは考慮しなくてもいいかもしれない……」

 そう言ってなのはは周囲を見渡した。ここは街の郊外に位置する小規模の森林地帯……射撃兵にとっては死角となる障害物が多く、撃ち合いには不向きな場所だがそれは敵方も同じこと。相手が接近戦を得手とするならこちらは苦戦を強いられるだろうが……なのは自身の勘では、その様な心配をする必要はまるで無いと感じていた。

 森林の中に通された舗装された道を歩き、遂に結界に接触、内部へと進入を果たした。

 そして──、

 「ようこそ。お待ちしていましたよ……タカマチ・ナノハ」

 進んだ二人のすぐ眼前に“彼女”は居た。

 「なのは……さん?」

 ティアナの口から驚きが混じった疑問の声が漏れ出る。髪はずっと短く、双眸の色は澄んだ青色……しかし、その声その顔はまさしく自分の隣に居る恩師、なのはそのものだった。それこそバリアジャケットのデザインが同一だったなら双子か何かだと見紛いそうになるほどに。

 だが、冷静に観察したティアナはやはりそれが常人とは一線も二線も画す人外の存在である事を見抜くに至った。

 「なのはさん、彼女……」

 「うん。多分、十三年前よりずっと強くなってる」

 「与太話はそこまでにしませんか? 今はこうして冷静に話していますが……正直、戦いを求めるこの滾る心を抑えられないのが本音です」

 「ッ!!」

 「そこのお方……身構えるのでしたら、先に名乗りを上げたらどうですか? 牽制ばかりに躍起になっていると弱く見えますよ」

 「…………ティアナ・ランスター」

 挑発を真正面から受けて立ったつもりのティアナだったが、マテリアルはふっと微笑むだけで軽く会釈した。恐らく、本人にとっては他人に挨拶をしない子供を諌めるような感覚だったのだろう……。

 「始めまして、ティアナ。私はマテリアル……名も無きマテリアルでご容赦を。早速で恐縮ですが、貴方は少しお下がり頂けませんか?」

 「どう言う意味よ?」

 「私はそこに居る貴方の上司、タカマチ・ナノハと戦いたいのです。正々堂々、正真正銘の一対一の命を懸けた真剣勝負……そこに貴方は不要です。あくまでギャラリーに徹するのでしたら私とて無理に追い払いはしません」

 「バカにしてるつもり? 単純な力押しだけで人間を倒せると────」

 そこから先は言わせない……。一瞬でティアナの後方、そこに密生する樹木が蒸発する。後には焦げ臭い臭気と乾いた木々が燃える音のみが聞こえ、振り向いた先の地面は半円状に抉られていた。

 「単純な力によるごり押しも、突き詰めれば理となり策となります……。今の一撃で貴方が死んでいた確率は概ね60%前後……隣のタカマチ・ナノハが助けに入って阻止する確率が30、貴方自身の実力で対処できる確率が10です」

 「……ッ!」

 「お分かりでしょう? 潔く退く事を推奨いたします。私とて無益な殺戮は好みません」

 「…………ティアナ、下がってて」

 「なのはさん!?」

 「大丈夫。危なくなったらお願いね」

 そう言ってなのはは愛杖を構え、一歩前へと進み出る。決闘の申し入れを受諾してくれた事を純粋に感謝し、そしてこれから死闘を演じられる喜びに打ち震えたマテリアルは天を仰ぎ見た。

 「嗚呼、いつぞや、私は貴方に再戦を誓いましたね。覚えていますか? あの時の誓いを果たす好機をお与えくださったあの方には感謝してもし切れません」

 ここで言う「あの方」が誰を指し示すのかはもはや語るまでもない。

 「一つ聞いてもいい? どうして……」

 「どうして、あの方に付き従うのか……ですか。では聞きますが、貴方は自分に対して助力してくれた者に対し、恩義ではなく仇で返す主義なのですか?」

 「それは……」

 「犬でさえ三日の恩を三年は忘れません……ならば、我らマテリアルはあの方に対する刹那の恩義を、千年、万年、永久永劫忘れぬでしょう。既に、この身と心はあの方の為に」

 シグナムが言っていたのは事実だったようである。恐らく、彼女らマテリアルは消えかかっていた肉体を蘇らせたトレーゼに揺るがない忠誠心を持っている……本来個々の我の強い彼女らが互いにいがみ合う事なく秩序を保っていられるのは、偏に『砕け得ぬ闇』の完成と言う使命と、トレーゼへの忠節があるからなのだろう。

 「さあ、死合いましょう。血湧き肉踊る闘争を……」

 黒杖──ルシフェリオンを構え、『理』のマテリアルは往年の好敵手に引導を渡すべく、全身の魔力を注ぎ始めた。










 転じて北側──。



 「やぁ、待ってたよ、ボクのオリジナル」

 フェイト率いるライトニングは街の真ん中、高層ビルが乱立する大通りの中央に来ていた。既に周囲は結界に閉ざされ、眼前の交差点、街の大動脈とさえ言えるそこに『力』を司りし彼女は立っていた。

 「あれって……」

 「フェイトさんの姿をしてる?」

 「うーん、キミ達誰? ボクの記憶には無い顔だね」

 同行してきたエリオとキャロに興味を抱いたのか、『力』のマテリアルは二人に近寄り始めた。バルニフィカスさえ構えず、まるで散歩をしている野良猫にでも触れ合うような気軽さで近付いて来る。殺気や敵意など微塵も存在せず、そこにはただ純然たる興味や好奇心のみがあるだけだった。

 「名前は?」

 「エ、エリオ……エリオ・モンディアル」

 「キャロ・ル・ルシエ……です」

 「うん! 良く出来ました! 戦いの前に満足に名乗りも上げられないようじゃあ、戦士としての格も知れるってものだよ。キミ達のママはそんな事さえ教えてくれなかったのかい?」

 「それ以上近付かないで」

 「おっと!」

 近付き過ぎたその無防備な首筋をフェイトの鎌が取り囲む……。もちろん、互いに牽制のつもりなので、ここで勝敗は決しない。幸か不幸か、ここに居るのはキャロを除いて全員が接近戦タイプ……一度自分の土俵に釣り上げてしまえば後は自然と骨肉を削る刃の交え合いになるが、力任せの遠距離戦となれば恐らく最も離れた位置にいるキャロが狙われるは必定。それを未然に防ぐ為にフェイトはわざと近づけながら、ギリギリの距離で牽制を掛けたのである。

 「ふーん……産みの痛みはおろか、純潔を奪われる痛覚さえ知らない乙女が必死に母親気取り、ねえ……。随分と笑わせる話じゃないかい? オリジナル」

 「そんなにおかしなこと?」

 「可笑しいさ。ボクの眼力を持ってすれば、そこに居る坊やもキミと同じ存在だというのは明白…………いいかい? キミ達のやってる事は単なる『ごっこ遊び』。そこに明確な意図や目的なんてからっきしだし、やり遂げて手元に残るモノなんてなぁーんにも無い。虚空に浮かぶ月に石を投げ続けても永遠に届きっこないって分かってるはずだろう? やっぱりアレかい? “模倣物”にはヒトとは違う愛情表現でも存在するってことなのかい?」

 模倣物……それはクローン技術によって生まれ出たフェイトとエリオに対する最大にして最悪の侮蔑の言葉。もちろん、あからさまな挑発の言動だとは頭で理解できても……それを受け流そうとするにはエリオはまだ若すぎた。

 「ッ!!」

 激情で頭に血が昇れば、そこから後はシグナム直伝の大技、紫電一閃の要領でどうとでもなった。無防備な腹部にストラーダの刃を突き付け──、

 「いったいなぁ~!」

 ダメージは、無かった。正確に言うならば攻撃自体は通った……だが、その結果は受け入れがたいモノとなっていた。

 ストラーダの先端は、マテリアルの腹部を貫通していた。

 「なん……で!?」

 「あれ? ひょっとして、刺したぐらいで殺せるとか思ってた? 内臓に再生不可能なレベルのダメージを与えれば、動きだけでも止められるとか健気な事考えてた? でも残念、ボクらは人間じゃないから、本気で殺したいなら頭とか心臓を潰さないと」

 そう言いながら彼女は腹部を貫く無骨な槍を引き抜き、エリオに押し返す。そこから除く断面からの出血は無く、代わりに可視化するまでに凝縮された魔力が流れ出ていた。だがその傷口も映像の逆再生を映すように修復されて小さくなり、ものの五秒も掛からず綺麗に消え去った。治癒系の魔法を使えばと言う理屈なのかも知れないが、今の傷は例え人外であろうと致命傷は確実だったはず……それを何故?

 「どうして……? それだけのダメージを負えば消滅は免れないはず!」

 「それってひょっとして、王様のこと言ってる? 確かに王様は心の臓腑を打ち貫かれて消滅したよ。だからさっきも言ったように、頭か心臓を潰せばボクだって充分に殺せる……だけど、それ以外にダメージ判定は無いね。今のボクらはご主人様と使い魔契約を取り交わしているんだから」

 「使い魔……!? えっ、でも! 使い魔の契約って人間由来の術式は組めないはずじゃ……!」

 「素体となったモノが完全にヒト由来ならね。ボクらは元を正せばプログラム、純粋な魔力の塊……そこへ魔力を受領する受け皿としての機能さえ取り付ければ、後はその変則術式に則って本契約を済ませるだけって寸法さ。契りを交わせば後は簡単なものでね……ご主人様からの魔力供給が途切れなければスタミナ切れなんて起こさないし、それさえ万全ならボクらはリンカーコアを潰されない限り存在できる。言ってしまえば、ボクらは究極にして不滅の存在足り得るということさ」

 それはつまり、主脳を叩かれても完全には死なない虫類のように、トレーゼと言う一つの個体を中心とした魔力の連結機関を成しているのだと言う証左。彼を叩かない限りマテリアルは存在し、彼を叩くにはマテリアルをどうにかするしかない。圧倒的なまでの悪循環、鳥が先か卵が先か……優先順位こそはっきりしているものの、それを何とかする前に除くべき障害が悉く難攻不落を誇るのでは対処のしようが無い。

 「あとさぁ、ぶっちゃけて言うとね、キミ達の作戦内容……あれ、みんなご主人様に筒抜けだから」

 「何だって!?」

 「エリオ君、惑わされないで! ただのハッタリに決まってるよ」

 「本当にそう思うかい? キミ達程度の凡俗な脳みそが捻り出した絵図が、天地万物全てを遍く見通すあの方の心眼に見抜けないとでも本気で思ってたのかい? 見上げてごらん、あの蒼穹に浮かぶ白い雲、その遥か彼方を……」










 海鳴市上空……およそ1000mにて──。



 「来たか……」

 『王』のマテリアルの常人離れした視覚は遥か彼方から来たる者達の姿を認識した。数は総勢五名……夜天の主、八神はやてとその従者の一団がこちらへと迫っている。既にあちらもマテリアルの姿を確認しているのか、尋常ではない速度で向かって来るのが確認できる。

 「下郎が。だが下郎とは言え、わざわざ王の元に馳せ参じたのであれば労うのが王たる者の務め……。で、あれば────」

 剣十字の杖を振りかざし、左手に抱える本が独りでにページを空中へとばら撒いていく。熱量変換すればダイナマイト数本に匹敵する魔力が込められているそれらは優雅に宙を舞い、紙面には遥か古代に失われた文字で魔導の秘奥が書かれ、それらは術者からの魔力を潤沢に受けて紫色に光り輝いていた。

 「切り裂け、破壊の剣! 『アロンダイト』!!」

 杖先から放たれた暴虐の光はある一定の距離を突き進んだ後、四散し、空中で真夏日の花火の如く弾け飛んだ。地上から見れば優美な花火も、その実炸薬の塊であるように、彼女が放ったそれもまた強烈な破壊力を秘めたる事に相違は無かった。

 だが……

 「フン、しぶとい塵芥め」

 「お生憎様。こちとら、しぶとさだけが取り柄やでな」

 爆煙の向こうより現れた夜天の主とその従者は健在で、その素肌はおろか、着ている服にすら傷はついていなかった。

 「こちらが撃った砲撃を同系統の『クラウソラス』で撃ち返すとは……。少し現世を離れておる間になかなか芸達者になったようだな、子鴉」

 「そっちこそ、木端微塵に砕いておいたはずやのに何で体が成長してんねん」

 「我々は常時、主殿よりそのリンカーコアのおよそ5%に相当する魔力を供給されておる。それに合わせて我らの肉体は外見的に成長を遂げ、主殿の魔力を潤沢に受け且つ有効的に消費できる形態へと移行しただけの事よ。矮小な塵芥でも感ぜられるであろう……この羽根の一片一片から漂う濃厚な魔力を」

 確かに、はやてと同じように騎士甲冑の上から生えた背中の六枚羽根からは語って聞かせたようにトレーゼから供給された分と、マテリアルらが本来持ち合わせていたものが交じり合った歪な魔力が放出されていた。その濃度と圧力は歴戦を潜り抜けたヴォルケンリッターの面々ですら脅威を覚え、今の位置から一歩も攻め入ろうとはしないほど……。

 「結局さぁ、あんたらの目的って何なんよ?」

 「阿呆。我らマテリアルの本懐は今も昔も不変……即ち、砕け得ぬ闇の復活よ」

 「それは“13番目”を引き込んでまで成し遂げたい事なんか?」

 ふと、マテリアルの様子が変化した。

 「13番……? それは主殿の事か?」

 黒羽根が大量に宙へと舞い散る……蒼天を覆い隠し、万象一切を闇へと隠さんとするかの如く広がったそれは一瞬にして五人を包んだ。

 「痴れ者が! 口を慎め、下郎共!!」

 刹那、羽根の群集は瞬時に黒縄へと変化し、五人の四肢を縛り上げた。関節を万力のように締め付ける力はまるで鎖……物理的干渉も魔力干渉も一切受け付けない猛獣を従えさせる首輪の如き頑強な鎖だった。

 「貴様ら低俗な塵芥が主殿に面妖な呼称を用いるでないわ! 本来なら貴様ら肉片すら残さず灰にするところだが……主殿はそれを望まぬ故、我が温情にて手打ちとしてやろうぞ」

 「な、何でや……。あんた、自分が王様で一番偉いんやろ? やったらあれの事でそない怒らんでもええはず……」

 「フン! その程度のモノは知れた事よ。王たる無敵の我が敬い跪く存在など、天上天下において唯一つしか有り得ぬ。即ち、神よ。それも大昔のありもしない神話やどこぞのおかしな宗教家が語って聞かせる曖昧なモノではない。主殿の存在はまさに光明、我らの救世主たるお方よ」

 「本気で言ってんのかよ、このバカ……」

 「そこな鉄槌の! 聞こえておるぞ。今日の我はすこぶる機嫌が良いので許すが……次は無いと思え。努々忘れるでないぞ」

 それだけ言い聞かすと、マテリアルはバインドを解き、何故か臨戦態勢を崩して空中に留まった。すぐ目の前に敵を前にしても余裕だけは崩さないのは王者の風格と言うべきか。だが、いくら強化したとは言え数の暴力には逆らえないのが道理……それでもなおこの余裕に、夜天の騎士らは戦慄を覚えずにはいられなかった。

 「どうした? 仕掛けぬのか? 現世に飽いた王の退屈を慰めるは衆愚の務めぞ。誰でも良い、我が身をひっ捕らえようとする猛者はおらぬのか」

 それは明らかな誘い……少なくとも、防戦に限れば自身に分があると確信を持っていると言うことなのだろう。だから誰も迂闊には出られない。一番血の気の多いヴィータでさえも、アイゼンを固く握り締めこそすれど一歩も出て行けない。

 「おいおい、こちらは十三年前に開けられた胸の風穴の恨みを抑えてまで児戯に付き合っておるのだぞ。それとも何か……? 貴様ら管理局員は自身に刃を向けられて応じる事さえ出来ぬ不能であったか。ならば致し方なし……」



 「インフェルノ……」



 周囲に浮かぶ総数五つの巨大な魔力球……それは落下現象よりもずっと速い速度で眼下の街を目指して飛翔した。

 「ッ!? レヴァンティン!!」

 『シュランゲフォルム!』

 関節を開放したレヴァンティンの剣先がそれらを捉え、辛くも地上への衝突は免れた。だが……

 ≪主はやて、やはりあの者の余裕は本当のようです。我が炎の剣が軋みを上げるとは……≫

 そう念話で伝えるシグナムのレヴァンティンは、確かにその刀身の一部にヒビを入れてしまっていた。これぐらいの損傷であれば屁でもないが、今の攻撃が全力ではない遊び半分のものであるならここから先の攻防は厳しいものになるのは目に見えている。それに先の様に下方の街に向かって爆撃を落とされればたまったものではない。

 ≪シャマル。戦闘のドサクサに紛れて上手いぐあいに結界張れへんやろか?≫

 ≪規模にもよります。足元だけなら今からでも出来るけど、街全体ってなると少し……≫

 ≪……せやったら、ここはシャマルを抜いた全員で目標の周囲を固めつつ、その隙に結界を張るっちゅう作戦方針で行くしかあらへん。みんな、ええか?≫

 ≪承知≫

 「おーい! 我は暇なのだ。あまり王を飽かせるでない、不埒者どもめ」

 「言われんでも……!」

 挑発に乗せられるようで癪な気持ちはあったが、敵が逃げ回る様子を見せない事だけがはやてらにとって唯一の好都合だった。

 正直に言えば、はやて自身も敵の目を掻い潜ってシャマルに結界を張らせると言う博打は普段の彼女なら絶対にやらないはずだった。群から孤立すれば敵がそれを狙うは明白、ましてやキャロと同じ後方支援タイプの騎士であるシャマルに集中爆撃を当てられれば、そこから後はヴォルケンリッターは瓦解するだろう。だがそれでもはやてがシャマルを行かせるのには理由があった。

 (この子……やる気がまるで感じられへん)

 何が目的なのか、その行動の全てに意欲が欠片も感じられない……。今のマテリアルは遊び半分か或いはそれ以下、ただ単に外に出歩いていたと言うぐらいの気軽さしか持ち合わせていなかった。つまり、本気を出す気配が毛頭ない。だからこそ、賭けに出たのだ。注意散漫な今なら敵の視線を掻い潜って結界を展開できると踏んで……。



 それ自体が見越されているとは露とも知らずに……。










 海鳴某所──。



 「……………………」

 風が匂う。海から吹く潮の風だ。自分はこの匂いが嫌いだ……と言うより、臭気と言う概念その物に好感を抱けない。元より常人の数倍以上もの感覚を持って存在するのだから、自分が感じる世界は彼らとは違うモノになるのも必然だ。

 「……始まったか」

 今、この街は自分の手の上にある。どこにどの様に駒を配置すれば敵がどう動くかはもちろん、それによりもたらされるであろう結果についていくつもの予測パターンを絞っている。

 だから確信できる……まずこの一手はこちらの勝利だと。仮にここで勝ちを拾えずとも、戦略的に見ればまだまだ修正の余地が残されているので問題は無い。堅実に、大局的に物事を見つつ……

 「本丸を狙い墜とす」

 指の相棒が形を変え、遠い位置に座す敵を撃墜するに最も相応しい形態となって腕に収まった。照星など必要無く、自らの純粋な視力のみで獲物の心臓を狙い、引き金に指を掛ける。だがまだ撃たない……今はまだ“その時”ではない、機を違えば失敗してしまう。

 「……上手くやれよ、お前達」










 木々が薙ぎ倒され、地面が抉れる……。

 巻き上がった土壌と瓦礫に交じって鮮やかな色彩の弾丸が飛び交い、それら一発一発が互いの急所を的確に狙う。牽制の数発を回避し、その中に紛れ込んだ本命の弾道のみを見極め最低限の防御により相殺する……一手違えば次の瞬間には胸に風穴が開く戦いだが、不思議と焦燥は微塵も無く、むしろ沸々と湧き上がる高揚を感じた。

 「ナノハ、やはり貴女は強い。この私が全力を懸けてなお貴女はそれを上回ろうとする。貴女を斃したいと本気で私にそう思わせてくれる」

 「……!」

 バトルフィールドは半径約五十メートルの結界、その中に覆われた森林全域が二人の戦闘領域。地上は木々が視界を遮り砲撃手であるなのはとマテリアルにとっては互いに不利な地形となる。だが馬鹿正直に空に上がれば遮蔽物は無くなり、逆に地上の森に隠れた敵から撃墜されると分かっているので出来ない。今はただ、樹木の間から僅かに見え隠れする互いの姿を狙い撃つ事でしか攻撃の手立ては無かった。

 だがそんなにっちもさっちも行かない状況にも関わらず、マテリアルの方はむしろそれを楽しんでいる節があった。それもそのはず……彼女はこの時を十三年も待ち望んでいたのだから。

 「ヒトの身でありながら良くぞここまでの実力を付けられましたね。かつて刃を交えた者として、ここまで誇らしい事はありません」

 「それはありがとう。そっちだって、ずっと眠ってたんじゃなかったの!」

 「ええ、肉体は滅び、魂と呼べるリンカーコアさえ衰弱し、辛うじて現世に留まった精神だけを頼りに私達は食い繋いで来ました。全ては貴女との再戦の誓いを果たすために!」

 バスター級の魔力砲がなのはのすぐ隣をかすめる。魔力規模も技の精度もかつてより飛躍的に上がっており、ただ惰眠を貪っていた訳ではないことを理解させるには充分だった。

 「あの二人には悪いですが、今この場に限って言えば我々の悲願、“砕け得ぬ闇”の復活などどうでも良い……。雌雄を決するこの瞬間の為でしたら、私は悪魔に魂を売り渡しましょう」

 「うっく……! 結局、その“砕け得ぬ闇”って何なの!?」

 「それは言えません。と申し上げるより、私自身それが何なのかは知らないのです」

 「知らない!?」

 砕け得ぬ闇と言うワードは過去にも散々聞いた。彼女らマテリアルはそれの実現、或いは復活を目的としており、今回“13番目”と結託したのもその件についての利害の一致があったからだと踏んでいたが、それは憶測に過ぎなかったのか?

 「蜂が花の蜜を集めるのと同義です。言わば思考ではなく本能……私達と言う存在そのものに最初から刷り込まれているプログラムのような物なのですよ。ですから、私達はそれを成す事に何の疑問も覚えませんし、それが最善であると認識しています。そして、それは揺らぎません」

 「じゃあっ、あなた達はそれでもたらされる結果については……!」

 「はい、存じません。きっと貴女やその知人には多大なご迷惑をお掛けするのでしょうが、こればかりは我らが悲願……そう簡単に諦めきれるものではありません。だからこそ────」










 「だからこそ! キミ達にはここで倒れてもらうよ!」

 片手で大剣を軽々と振り回しながら『力』のマテリアルはビルとビルの間を飛び回り、三人を攪乱する。時折ビルの表面を切り裂いてガラスの雨を生み出し、それらを弾幕代わりにして追撃を殺す。型にはまらない野性的な戦法だからこそ予測が難しく、フェイト達は予想以上の苦戦を強いられていた。唯一の救いは、相手の意識がまだキャロに向いておらず、彼女とフリードを集中的に狙ってこないと言う点だけだった。

 「ホラホラホラァ!! どうしたのさぁ! かつてのキミの刃はそこまで鈍じゃなかったはずだよ。先にそこの坊ちゃんから始末したっていいんだから!」

 「くっ!」

 「お! やるねキミ。今の一撃を避けるなんて。じゃあ……これはどうかな!!」

 そう言って手を振り上げると、彼女の背後に大量の魔力スフィアが出現した。エリオとキャロの記憶が正しいなら、これはフェイトが有する砲撃系魔法の中で最も得意とするフォトンランサー……それも広範囲且つ多数の標的を一度に、そして一瞬で蹂躙するのを目的とした殲滅仕様、【ファランクスシフト】。放たれれば最後、千を越える総数の弾丸が撃ち尽くされるまで止まる事はない……。

 「それっ!」

 パチン、とフィンガースナップの音が聞こえた次の瞬間、四人の居た区域は弾丸の雨が一方的に飛び交う殺人空間へと変貌した。地面に着弾したそれは土を抉って水道管を裂き、道端の車両は一瞬でハチの巣、電柱は折れ、三階以上の建築物は二階までの空間は建物として機能しなくなるまで破壊し尽くされた。

 十数秒後、それらはようやく撃ち尽くされ、後には、支えを失った建物が崩れ、地下から湧き上がった水道水の音や瓦礫の粉塵が辺りを包み込んだ。

 「ん~! 破壊の旋律はイイ。創造は破壊をもたらし、破壊の後には再生は無く何も残らない……あるのは、混沌だけ。形有るモノは皆すべからく混沌に還る。それはキミも変わらない事だよ、オリジナル」

 土煙に向かって声高に叫ぶマテリアル。だが、律儀に返事が返ってくる様子はない。

 「? ……って、な!?」

 それもそのはず、爆煙が引いた視界の先にフェイトらの姿はどこにも無く、既に三人の気配はマテリアルの感覚領域からほど遠い場所へと身を移してしまっていた。気付いた時には後の祭り……。

 「あ゛ーっ!!? に、にに、逃げるなんて卑怯千万!! 出て来ぉぉーい!!」










 「ム? あの水色め、怨敵を見失うとは……」

 「そっちこそ、余所見してんじゃねえ!!」

 「ぬるい! 欠伸が出るわ!」

 「っくぅ!」

 騎士随一の力自慢であるヴィータの一撃さえ易々とは通らない……。単にはやてのコピーと言うだけなら、今の重い一撃を避けるのならまだしも、受け止めきって見せるのは無理なはずだ。それを余裕綽々と言った表情でやってのける辺り、やはり十三年前とは全くの別物として考えた方が良さそうだ。そのくせ、使用する魔法の大半はオリジナルと同じ砲撃系なのだから性質が悪い。

 「やはり、簡単に近づけさせてはくれぬか……」

 「かと言って、遠距離戦はあちらの土俵だ。それに……今度下に撃たれれば防ぎきれる自信は無い」

 そう言いながらシグナムは眼下の街を一瞥する。さっきはあくまで遊び半分だったから阻止できたのだ……戦闘の熱が入った今となっては、相手がいつ本気で無辜の人命を盾に取るかは知れたものではない。

 だからこそ、彼女らは待っているのだ。戦闘行動の余波に密かに紛れたシャマルが封鎖領域を展開するのを……。一度結界が展開すれば、魔導技術を運用する者以外はそこから除外され、逆に入り込んだ者は脱出が困難となる。そうなれば後は街に被害を与える憂いは無くなり、僅かながらこちらに形勢は回ってくるはずだと考えた。

 「ん~? おい、うぬら……何か隠しておらぬか? 王に密事は不要ぞ! 素直に白状せい!」

 「知らんな。別段、我らに隠し事など無い。あるとすれば……簡単な間違い探しに気付けぬ王侯気取りの誰かに対する嘲笑だけだ」

 「っ! 湖の騎士が居らぬ……!?」

 「シャマルッ!!」



 「封鎖領域……展開!!」



 シャマルの声と同時に、海鳴中央区は彼女の魔導色を帯びた隔離型結界が包み込み、街と彼女らは物理的接触から完全に隔絶されるに至った。これでようやく舞台は整った……後は攻勢に転じるだけだ。

 しかし──、

 「クッ……ククク、フハハハハ! やりおった! こやつら本当にやりおったわ!! ハハハハハッ!! 面白い、絵に描いたかの如く主殿の予言通りよ!!」

 マテリアルの反応は彼女らの予想を遥かに超えた、「哄笑」だった。まるで一世一代の道化芝居を見てひとしきり笑い飛ばすかのように、実際両手で腹を抱えよじれ笑っていた。その様子に作戦が上手くいった喜びさえ忘れ、はやてらはただただ恐ろしさを感じるだけだった。

 「どう言う意味や……私らがあんたらの思い通りに動いとるっちゅうんは!!」

 「さてな。だが、これで確信した……。貴様らは負ける。我らが主殿の采配により、貴様らはこの場において確実に敗北を喫するであろう! 泣け! 叫べ! 嘆き悲しむがよい! 天は貴様らを見放した!!」

 色褪せた蒼天に向かって高らかに笑うマテリアル。その笑い声は閉ざされた街全体に響き渡り、新たな戦い、その開戦の狼煙となって聞く者全てを戦慄させた。










 状況──。

 “13番目”陣営:主犯一名。共犯三体。

 六課陣営:実動部隊十五名。指揮官リンディ・ハラオウン。部隊長八神はやて。協力、ナンバーズ。

 スバル……未だ行方不明。



[17818] Aim shoot
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2012/01/17 11:25
 魔導運用技術における結界とは即ち、内部と外部の物理的接触を断つ空間隔離型……閉鎖空間内に全く同一の地形を投影する事で戦場の地理を維持しつつ、且つ内部に捕えた人間を容易には脱出させない構造になっている。

 代わりに空間の外からは魔導運用を心得る者であれば容易に侵入できるようになっており、外部から新たなる戦力の投入ももちろん可能である。だが結界内に介入する事自体は簡単でも、脱出にはそれらを構築するプログラムに干渉する必要がある為、抜け出すのは熟練の術者でも非常に困難を極める。

 結界を脱出する為にはプログラムその物に干渉して人為的に綻びを生み出す方法と、それともう一つ……物理的影響力の大きい魔力攻撃により、一点を破壊する事にある。内部で飽和状態となった魔力素は抜け道を探して空間内を循環し、やがて最も薄いポイントから一気に栓抜きされる。そうなれば後は閉鎖空間としての態を成さなくなり、エリアから結界は消失すると言うプロセスである。

 現状、単身且つ物理的な手段で結界を破壊するのが可能、もしくはそう思われる人物は四名……。

 集束砲撃に優れた高町なのはなら、空間を形成する魔力その物を吸収しそれを利用した強力な砲撃による結界破壊が行える。それはかつてシャマルの結界を破った事から実証済み。

 同じ理由で八神はやて。広範囲爆撃を得意とするそのスタイルと魔力量はもちろん、彼女のデバイス『夜天の魔導書』にはかつて蒐集した魔法の数々が記録されており、その中にはなのはの物も含まれている。

 次にシグナム。彼女の奥義、【シュツルムファルケン】であれば結界を内側から一点突破する事も充分に可能なはずである。

 そして、キャロ。厳密には彼女が喚び出す黒竜ヴォルテールの力を借りれば結界の一層や二層は簡単に破れる。だがその場合、過度な火力が行き場を無くして街を焼く恐れもある。

 「そして……あたしはその内のどれにも入ってない」

 薄緑色の空を見上げ、スバルは呟いた。

 彼女とて魔導師の端くれ、結界への侵入はお手の物だった。問題は、成すべき事を成した後でどうやってここを抜け出すかにあった。空間に満ちる魔力の性質から、結界を張ったのはシャマルと言う目星まではつけられたが……如何せん、今のスバルは完全に孤立無援に等しい為、無闇矢鱈な行動はできない。保護の名目で身柄を確保されてしまえば、トレーゼと接触する事は永遠に叶わなくなってしまうのは目に見えている。

 (えっと、結界が張られる前に確かあそこで……)

 スバルが見据えるは街の中心にそびえ立つ高層ビル……ではなく、その脇にある宿泊施設が建ち並ぶエリア。結界が展開される直前、彼女はその上空に小さなだが花火の様な鮮やかな光を確認し、更に魔力反応を検知していた。閉鎖空間が敷かれる直前にその上空で魔力を用い、爆発現象を伴うだけの戦闘行動があったと言う証左に他ならない。つまり、そこへ行けばトレーゼに接触できる可能性があると踏んだのだ。

 「でも、やっぱり今頃皆が周辺を固めてるんだろうなぁ……」

 そんな場所にのこのこ行くのは今のスバルにとっては自殺行為……。かと言って、ティアナの様に隠密系の魔法や術式はとんと埒外なため、姿を隠しながらの行動もやはり不可能。

 「だったら……不器用でも突貫するしかないよね。マッハキャリバー、あたしに力を貸してくれる?」

 『言わずともよろしいでしょう、バディ。どこまでもついて行きます』

 「……ありがとう」

 相棒の快い返事は彼女の心に僅かだが希望を与え、装着されたローラーは冷たいアスファルトの上を駆けた。










 ヴォルケンリッターの面々が戦闘を行う空域、その真下──。



 「結界は無事に展開されたようッスね……」

 空を覆った薄緑の天蓋を見上げながらウェンディは呟いた。ついさっきまで周りには人通りがあり、すぐ先の道路には車両が走っていたのが、一瞬にして自分達だけを残して無人地帯へと切り替わった事に少しだけ浮き足立っていた。

 「周囲の警戒を怠るな。敵はどこから来るとも分からんからな」

 「りょーかい」

 隊長のトーレを筆頭に八名のナンバーズは周辺状況を確認しながら警戒を強める。魔力反応と熱反応の両面から調査を進める彼女らの監視の目に死角は無いが、相手はそれすら簡単に欺く隠遁のプロ、どこから攻めてきてもおかしくはない。現にここに居るトーレを除いた面々は彼と対峙する度に撃退され、有効打を与えた者は一人として居ない。それを鑑みればトーレの過剰なまでの警戒具合も頷ける。

 「にしても、新装備とか言ってこんなの渡されたけどさ~、ぶっちゃけ使えるのこれ?」

 「結構急ごしらえで作ったとか言ってたけど……」

 そう言いながら彼女らは各々、自らが握り締める問題の『新装備』に目を落とした。

 「説明を聞いた限りでは不備は無い。後は私達の力量に掛かっているだけだ」

 ────ジャキッ!

 軽く振られた右手から鋭い音が響く……その手には長さ約一メートルにはなろうかという長大な警棒、否、“槍”だった。

 「『ヴァリアブルランサー』……。管理局の技術開発部が急遽製造した対“13番目”専用装備か」

 折り畳み構造の個人武装。柄は強化セラミックス加工で作られ、最短30cm、最大では80cmにまで伸縮する携行に優れた武器である。折り畳み式である故、構造上の脆弱さは否めないが素材そのものの硬度は高く、デバイスとの打ち合いにおいても簡単には壊れない作りになっている。先端は超硬合金を加工しており、重心が寄ってしまってはいるが柄以上の硬度を誇っている。

 ランサーの名の通り、これの用途は対象の肉体に突き刺し、先端部分より高圧電流を流す事で神経系に直接衝撃を与える事を目的としている。生物の神経は脳髄からの電気信号によって働いており、そこへ許容量を越える電流を流せば筋肉の過剰収縮や自律神経の中枢たる内臓各所に異常が発生し、最悪の場合はもちろん死に至る。言わば、人体がショートする。更に戦闘機人の場合、内部の骨格を形成するフレームも電流の影響を受け、高い確率で回路は損傷して使い物にならなくなる。まともに動かない筋肉と、ただの枷に成り下がった骨格……例え槍による貫通創は耐えられたとしても、爪先一つ動かせないのであればそれは手足をもがれた蟹にも等しい。

 加えてこの槍の真髄は、魔力防御を突き抜けるその突貫力。充填された魔力を利用して先端部分に魔力膜を展開し、ヴァリアブルシュートの原理を応用して対象の展開するはずのシールドを無効化する為の機構である。使用される魔力は予め魔導師が充填したカートリッジを用い、放出される高圧電流は所有者であるナンバーズのエネルギーを電気に変換して本体内部の蓄電部にチャージされる。充電効率は決して高いとは言えず、一度放電してしまえば全ての電力を使い切ってしまうなど難点も多いが、今の彼女らにはこの武装が持つ可能性に全てを懸けるしか道は残されていなかった。

 「思ったのですが、この先端部分……」

 「確か炭化タングステン鋼の加工物。思いっきり金属」

 オットーとディードの懸念要素は槍の先端部、そこを構成する素材にある。敵はこちらの特殊能力を全て兼ね備えた難敵……そこには当然、金属爆破の【ランブルデトネイター】も含まれている。

 「高圧電流を放出する関係上、本命の部分はどうしても金属に頼らざるを得ないと言うことだろう。安心しろ、姉の能力は目標となる金属に直接触れなければ起爆できない。見たところ、露出している金属部分は先端の極僅かな部分のみだ。一対七の戦局で槍捌きをかわし、且つ無傷でここに触れるなど流石の兄上と言えど……」

 「……………………」

 「……いや……“13番目”言えども不可能だ。とにかく、今は相手を見つける事が先決。ここは一旦二人一組に別れて行動しよう」

 「ラジャー……って、それだと一人だけ仲間外れにならないッスか?」

 「その一人には私がなろう。足手まといになりそうな奴も居なくて気が楽で良いからな」

 そう言ってトーレは集団から距離を置き、路地裏へと足を伸ばした。

 「大丈夫ッスか、一人で?」

 「見くびるな。久しく体を動かしてはいないが、この身はまだお前達には引けは取らん」

 「……武運を」

 「ああ。お前達も後ろからやられるようなヘマだけはするな。回線は常時オープンにしておく」

 それだけ言ったのを最後に、歴戦の戦士トーレは振り向きもせず自らの勘だけを頼りに路地裏へと回り込んで行った。その背中を見送り、残った六人は自分達の戦力を均等に別け、チームを編成し、そして──、

 「散開!」

 二人一組……合計六名のナンバーズ隊は“13番目”の捜索に向けて本格的に動き出した。










 「────────」

 鼻腔をくすぐる、それまでとは全く違った匂いが数人分……以前に嗅いだ事のあるその臭気に彼は眼下を見下ろす。建ち並ぶ建築物のせいで姿までは確認できないが、連中が自分の感覚が捉え得る領域に入った事だけは確かに感じられた。

 今の彼はいつも使っている偽装スキルを使用していない。ここに陣取っていれば、いずれ勘の鋭い者の誰かが気付いて戦いを挑みに来るだろう事は容易に予測できた。だが彼は決してここを離れない……理由は単純にして明快、ここからでなければ狙うべき獲物が見えないからだ。逆に言えば、ここからなら確実に対象を墜とせると確信を持っているからこそ、不退転の意志によりこのポジションを死守するのである。

 「…………狙いは万全。守備は少し心許ないが、許容値だ。ここからある程度は力任せのごり押しだけで事を進めるより他は無い」

 個々の力が優れてさえいれば頭目など必要ない……それが今現在の彼の持論。実際、自分が手を組んだ相手はどれも性能だけ見れば一流以上、まさに最強の名に相応しいだけの力を持っている。力が優れていれば相性の差などその力だけで余裕で覆せる。だから彼は三人の同盟者を放任する……彼女らの持つ力を信用しているからこそ、余計な事は何も言わずに静観するのだ。

 余計な事は……だが。

 「あいつら、必要以上に頑張っているな」

 遠く離れた位置でそれぞれの戦いを行う同盟者。彼女らの戦闘に関し、彼は一切の口出しを自戒した。唯一、戦闘前にその配置と結界の発動による誘き寄せだけは伝えたが、それ以外ではたった一言しか通達してはいない。

 その一言は魔法の言葉……。それを告げるだけであの戦闘狂とも言える三人は永遠に戦い続けると確信していた。

 それは即ち……



 「『お前達は負ける』……。予言したのは正解だったか」










 戦う以前からの敗北宣言……それは全ての“戦う者”にとってこれ以上ない最大級の侮蔑行為である。事後、敗北した後に罵られ辱めの虜囚となっても、それは敗者の受けるべき責務として甘んじて受けられる部分も有ろう。だがそれを戦いもしない内から決め付けられたとあっては我慢ならないのが心情だ。

 彼女らは、その不名誉な烙印を捺された。



 作戦開始数分前──。



 「では主殿よ、我らは言われた通りにやらせてもらおう。次に会う時は勝利の美酒に酔った凱旋よ」

 「期待しててね、ご主人様!」

 「それでは、行ってまいります」

 三者三様、用意され与えられた戦場へと馳せ参じようと武装を整え、展開させた転移魔法に乗って現地へ飛ぼうとしていた。今の彼女らには何の抜かりも油断も無く、新しく構築した心身共に完璧な状態で臨もうとしていた。

 「その前に、一つだけ言っておく事がある」

 「何だ主殿。早くせんとタイミングを逃すぞ」

 「大人しく聞け。いいか…………お前達は負ける。このまま勢いに任せての力押しではな」

 「……なに?」

 展開されていた魔法陣が消失し、部屋に無言の冷気が満ちる……。この場に居る誰もが理解していた。自らの実力に見合わない不当な評価を下された事を。

 「我の聞き違えか? 主殿、今しがた我らに謂れ無き敗北を宣言したな? それは侮蔑か?」

 「然り。私達はあなたに恩義があるとは言え、あまり理不尽な態度を取られますと本気で怒りますよ」

 「心外だなぁ!」

 口々に漏らされるのは憤慨の言葉……。それ自体は予想していたので何の問題も無かった。だがその予想より遥かに憤怒の感情が強かったらしく、恩人でなければ今すぐにでも殺してしまう殺気をトレーゼに当ててきた。

 「お前達に力がある事ぐらい知っている。その気になればこの街の一つや二つを軽く焼き払えるのがどれだけ簡単かもな……」

 「ならば何も案ずる事など無かろう!」

 「甘いな……。いいか、連中は人間だ。無酸素では数分も生きれず、熱傷面積が30%を越えれば免疫不全に陥り、大量に血液を喪失した程度で死んでしまう脆弱な『人間』だ」

 「だったら何にも問題ないじゃないか!」

 「だから甘いと言っている。お前達は『人間』の怖さを知らない。連中は脆弱故に己の身を守り外敵を排除する為の手段、つまり『技術』を生み出した。こちらの存在が知れている以上、連中はすぐに有効な対抗策を講じるはずだ。或いは……もう既に手を打っているかも知れない」

 「ですが、トレーゼ様はそんな彼らと戦闘を重ねても生き延びていらっしゃるではありませんか」

 「事前における綿密な調査と、それを下地とした精緻な作戦…………決して行き当たりばったりでどうにかできるものではない」

 「……結局、ボク達に何をしろって言いたいのさ?」

 「さっき言った通りだ。お前達は拡散して連中を誘き寄せ、戦力を分散させた上で可能な限り戦況を長引かせろ。手段や方法は問わない、どんなやり方を使ってでも連中に魔力を大量に消費させればそれで良い。ただし……引き際は誤るな。こちらが命令したらお前達は直ちに戦闘行動を中断し、所定のポイントまで退避。その後合流する。いいな?」

 「だったら最初からそう言ってよ。回りくどいったらありゃしない……。ボクは先行くからね」

 そう言い残し、先に『力』のマテリアルは戦場に向かった。

 「我も赴こう。主殿よ、先の言葉は後程に訂正してもらうからな!」

 続いて『王』が姿を消した。これで部屋にはトレーゼと『理』を司る者だけが残り、冷たい沈黙が取り巻いていた。

 「…………お前は、あの二人とは違って連中の危険性を理解しているはずだ」

 「さて、何のことでしょう」

 「俺は個人的にお前達の性能を高く評価しているつもりだ。だから大抵の事物は個々の裁量に一任し、こちらからは一切口出しはしない。もっとも……こちらに不利益が無い限りにおいてだが」

 「私達が恩義を感じるあなた様に対し、如何様な不利益を生みましょうか。謂れ無き侮蔑は単なる誹謗中傷と変わりませんよ」

 「そこまで言うなら結果を出せ。やれるんだろ……ロストロギア」

 「仰せのままに。私達とあなた様は同盟関係である以前に恩人……。ならば、そのあなた様の期待には全力で応えるのが筋と言うものです」

 「そうか。なら行け。お前には最高の舞台を用意した。思う存分暴れるといい」

 「はっ!」

 最高の舞台、と言う言葉に何かしらの心当たりがあったのか、トレーゼの予想に反する事もなく最後のマテリアルは戦地へと発った。これで膳立ては整った……後は彼女らがこちらの予定通りに動いてくれる事を願うだけだ。










 そして、現在──。



 「ふむ……隠れましたか」

 元が人の手を加えられていない場所であるため、戦闘の途中で敵の姿を見失う事態も当然予測はしていた。そうなった場合、他の二人なら視界を遮る障害物もろとも破壊してでも相手を引きずり出すが……

 (私は違いますよ、ナノハ)

 確かにここら一帯を丸ごと焼き払えば早急に事は終わり、隠れていようがいまいが関係なく敵の殲滅は成る。確実性と即効性を求めるなら彼女は間違いなくそれを実行に移しただろう。だが今の彼女の目的は殲滅ではなくあくまで戦闘、つまりは己の死力を尽くすに等しい戦いの場と考えていた。血沸き肉躍る闘争を望み、それを至上の悦びと捉える彼女が何故それをさっさと何の感慨も無く終わらせられようか……否、願わくば永遠に続かんとジレンマを抱くのは至極当然の帰結だった。

 だから彼女は追わない……。不退転を体現した好敵手がわざわざ引き下がったとなれば、こちらを打倒するに相応しい手段を講じて再度自分の前に立ち上がるはずだと確信していた。ならばそれを無下にするような真似は戦士としては落第点だと思ったのか、彼女が選択した行動は“待ち”の一択だった。

 そして──、

 「来ましたか……」

 木々の間から桜色の燐光……それを攻撃のものではないと看破したマテリアルはそこから姿を現したなのはの姿を認め、そして──、

 「なんと……!」

 再び相対した好敵手の装備に彼女は嘆息を漏らした。身の周囲を浮遊する四基の自律兵装……ブラスタービット。一目見ただけでもその制御と安定がどれほど難易度の高いものかが分かったのか、好敵手の予想以上の成長を純粋に喜んでの溜息だった。

 「……よもや、そのような領域まで達していようとは……」

 「私だって、この十数年で何もしなかった訳じゃない……。昔の私だったらただ闇雲に突っ込んで、力任せに解決しようとしてたかも知れないけど……今は出来るだけ無茶をしないように、生き残る事も考えるようになった」

 「なるほど。それで、火力を底上げして早期終結を図ったと……。昔に増して、ある意味凶悪になってませんかあなた」

 「えへへ、そうかも。…………それじゃあ、改めて」

 「はい。全力で来てください」

 相手が万全の態勢となって挑んで来るのならむしろ本望。

 刹那、死角となった四つのポイントから極大の魔力砲撃が十字砲火を浴びせる。それを予測しながらも地上への逃げ場を失ったマテリアルは一旦上空に飛び急ターン、距離を置いた別の地点へと降り立った。

 しかし……

 「くっ……!」

 既にそこへ逃げ込む事も予測されていたのか、待ち構えていたビットが銃口をその胸部に定めた。リンカーコアを削られる事は死を意味する彼女にとって、心臓は第一に守らねばならない場所……その瞬間、彼女は攻撃動作を中断して全ての魔力を防御に回した。

 防御しても衝撃までは殺し切れず、大地を踏み締めるその足が数メートルも後退する。この重圧もまた、十三年前には感じられなかったモノである。

 「嗚呼! やはりあなたは素晴らしい!! この血の滾りを超える熱を覚えさせてくれるのは、私が知る限りあなたしか有り得ない。千年の時を存在し続けてなお、この領域に達した者は数える程にしか居ませんでした」

 魔力の火を噴くルシフェリオンを回転させ、放たれた数十の魔力弾が一斉に前方の邪魔な樹木を薙ぎ倒した。開けた視界のその先に好敵手を確認し、照準を定める……。

 「ッ!?」

 「逃しません……」

 やはり予想は的中していた。四基もの子機を常に操作し続けるなど、例えデバイスの力を借りたところで離れ業の曲芸である事に変わりは無い。操作に集中力を割けば必然的に動作は緩慢になり、魔力を消費すれば僅かでもその防御力は落ちる。その一点さえ突けば……!

 「だけどっ!」

 すかさず、なのはがレイジングハートの先端をマテリアルに向ける。長年、砲撃手として訓練を重ねたおかげで、向けた瞬間に照準は定まっており、先に銃口を向けた彼女に軍配は上がったかに見えた。だが、その瞬間にマテリアルは跳躍、あろうことかその杖を足場にする事で自らの優位性を確立して見せた。

 「そんな……!」

 「私の……勝ちです」

 生きた年月は千年……待ち焦がれたのは十余年。だがこの十数年は彼女にとって、それまでの数百年を無に帰しても良いほどに充実した空白期間だった。

 そして、その結露とも言えるこの十数分の戦いに……マテリアルは自ら幕を引いた。










 「さてと……ボクのカッコイイ勇姿の前に恐れを為して逃げ去ったのはいい判断だと認めるけど、ぶっちゃけキミ達をこのまま逃がす気なんか無いんだよね」

 害悪の杖から伸びる青藍の刃が、持ち主に引き摺られる形で地面に線を刻み込んでいく。総重量数トンになるトラックの運行には耐えられるアスファルトも、魔力で構築された高エネルギー体の塊にとってはまるでバターほどの抵抗力も無かった。

 「お~い~。早く出て来いよぉ~。ボク退屈してるんだぞぉ~!」

 相手が失踪してから既に五分……結界から出た反応は無いが、如何せん暴れても問題ないようにと範囲を大きくしたのが原因で、今ではすっかり気配を見失ってしまっていた。陽動と言う名目で言えば、このまま足止めに徹して結界から出ないようにしてしまえばそれでいいのだが、それではトレーゼから言われた「魔力の浪費」が達成できなくなってしまう。

 「って言うか、出来るだけ魔力を消費させろって言ってたけど……そんな事して何か意味あるのかな? あっちだって自分の力の出し所ぐらい分かっているだろうし……」

 一応、結界で囲まれた範囲内には霧散した魔力が充満している。だが、この空間を解除してしまえばそれらは全て外界の大気に消え、それこそ何の使い道も無くなってしまう。単に浪費させるだけならば、執拗に戦闘を繰り返せば済む話だが……。

 「…………匂いがする」

 三体の中で『力』を司る彼女は本能で敵に食らい付く。故にその肉体五感や第六感は他二体の比ではない。大気中に微量に存在する臭気の粒子さえ捕捉し、更にその正確な流さえ認識できる。

 「このキツい匂い……ペットのドラゴンかな。体臭が特徴的だ」

 三人の中で一番弱そうに見えた少女が小さな竜を連れていたのを思い出しながら、マテリアルは匂いの発生源を突き止めるべくその場所へと足を向けた。鼻腔がその匂いを捉えたのは偶然だったが、その方向へと近づくにつれて臭気は強烈さを増し、とうとうそこに人間の体臭が混じってくるようになった。途中で散開していたのか、最初に感知した体臭は一人分で、その後に二人分、三人分と数を増し、最終的にそれらが入り混じった一つの匂いとなって漂ってきた。

 やがて一本の筋を辿っていた匂いの流れが集束し、一つの溜まり場のように充満する空間へと辿り着いた。臭気が発散する事無く充満していると言うことはつまり、そこに匂いの発生源が留まっているということ……。

 「隠れてないで出ておいで~。今大人しく出て来たら唐竹割りで許してあげるから」

 そう言って大人しく出てくる訳ではないと分かっているので、面倒に思いながら彼女は周囲の捜索に当たった。

 しかし、その足は半歩踏み出した所で止まってしまった。

 「…………ふーん、なるほどねぇ。ボクをハメようってんだ?」

 全身を纏う気迫がカミソリの刃の如く鋭く研ぎ澄まされる。その視線はある一定の部分を注意深く観察し、その後嘆息……退屈の溜息だった。

 「手前の電柱の影に二つ……四メートル手前のビルの窓際に幾つか……地面のマンホールの裏にそれぞれ一つずつ……。一歩でも足を踏み込んだ瞬間にスフィアが反応してドカン! ってとこだろうけど……」

 バルニフィカスが変形し、鎌からその姿を大剣へと変貌させた。切っ先から放出される陽炎の揺らめきは熱を纏った魔力が起こす現象……圧縮されたありったけのエネルギーを刀身に込め、それをバットのように振り被り──、

 「どぉぉぉっせぇぇーい!!」

 一刀入魂、と言わんばかりの豪快なスイング……。これだけなら鋭い風切り音が響くだけで済みそうなものだが、剣先から生まれた真空の刃は風切り音程度では済まされず、電柱を伐採し、固定されていたマンホールをこじ開け、地面のアスファルトをまるで薄皮を剥くように抉り取って、四方八方に弾け飛んだそれらは鉄筋コンクリートの壁さえも突き破り、死角に潜み隠れていたトラップを悉く破壊して見せた。

 「どぉだい! 見たか! 姑息な罠にはめようたってそうはいかないんだよーだっ!」

 猪突猛進だったのも今は昔……人間の枠組みを逸脱した野性本能を上手く使いこなし、ただ力の限り蹂躙し破壊するのではなく、的確にそして確実に壊せる部分を徹底的に壊す……それが、十三年に渡る瞑想で彼女が辿り着いた、自分に最も適した戦い方だった。

 「いつ頃だったかに流行ったよねぇ。『私のお墓の前で泣かないで』ってフレーズ……。キミ達に墓標は要らないね、ここで朽ち果てろ!!」










 「世を統べるに当たり、必要なモノがある。それを知っているか小鴉よ」

 「“力”やろ。他の連中に有無を言わさへんと、我を通しきるだけの力や」

 「是。権力……財力……暴力……。世を統べる三つの力よ。だがそれは塵芥どもの稚拙な脳で描く空想に過ぎぬ。この世界、否、今現在判明している次元世界のあらゆる場所で、歴史で、果たして一個人がその力全てを手にした事があったか?」

 「お前がどれだけ詭弁を垂れようとも、決して悪は栄えん。暴虐の王の治世など、誰が望むものか!」

 「悪? おかしな事を言う。では逆に問うが、うぬらは何を以って善とし、何を以って悪とするのだ? よもや紙の上に書かれた律法が全ての基準などと世迷言は吐かすまいな」

 「は? じゃあ何だってんだよ!」

 「戯け、律法など所詮は社会のヒエラルキーの頂点に立つ連中が自分達に都合の良いように書き記した勧進帳よ。人間社会における悪とは即ち、規律を遵守するか否かで概ね決定されている。その理論で言えば、なるほど、我らや主殿は確実に悪性であろうな。だが、どの世界どの時代においても変わらぬ永遠不変の悪がある……。それが何か分かるか?」

 「……………………」

 「それは、『無知』だ。無知蒙昧……純真無垢と意味を同じくしながら、その実まったく趣を異なる邪悪よ。何も知らぬと言うことはそれだけで唾棄すべき悪となる。無知が許容されるのは産まれて間もない赤子だけよ」

 「つまり……何が言いたいの?」

 「嗚呼、嘆かわしきかな。この様な無知蒙昧の凡俗どもに我らが主殿は手を煩う羽目になっていようとは……。良いか、我らが行う所業は悪に非ず! ひとえにこの空の下、我らだけで生きるには窮屈が過ぎる。故に破壊し、脱すると言うだけだ。鳥がいつまでも飼い馴らされたままと言う訳ではない、いつかは鳥籠から抜け出すようにな……」

 話だけ聞いていれば彼女が言う事は至極真っ当に思えてくる……要は自由ではないから、自分達を縛る一切合財を壊せるだけ壊して自由になろうと言うのだ。先ほどの問答で“力”が必要だと言っていたのも、その枷を壊せるだけの要素を欲していた事になる。

 だが、それだけでは不明瞭な部分もある……。

 「では、そこに“13番目”が絡む理由は何だ? お前達に加担したとて、通りすがり同然の奴に何の利益がある?」

 そう、肉体は消え果て、もはや精神だけの存在にまで堕落した彼女らマテリアルに与し、魔力を分け与え使い魔としてまで協力する“13番目”……。だが考えれば考えるほど、彼がマテリアルに協力する事でどんな利益が発生するのかがまるで掴めない。

 「さてな。我らにとってうぬらが凡俗であるように、あの方にとって我らがどの様な存在なのかを計り知る事は出来ぬ。その様な些事、考えるだけ時間の無駄というものぞ」

 「そう言って割り切れる辺り、やっぱ私とあんたは根っこから違う存在やな」

 「言ってくれる。奇遇だが我もうぬと同等に見られると言うのは我慢ならん。胸の風穴の恨み、千兆倍にして返してやりたいところだ」

 「やったら、ここで白黒つけるか?」

 はやての構えた剣十字に守護騎士全員が周囲を取り囲む。肉食獣が獲物に狙いを定めるように、今の五人はたった一人の標的の急所を虎視眈々と付け狙っていた。

 それを受け入れたのか、マテリアルが杖を空に掲げる。その先端に膨大な魔力が収縮されていく様子はまさに、この世の全てを貪欲に暴食せんとする神話の獣……ジャガーノート。何の指向性を持たずとも、純粋化された膨大な力はそれだけで脅威となることを証明する魔王の片鱗が、ここに顕現しようとしていた。

 そして──、



 「残念だが、時間切れだ」



 解き放たれたそれは彼らを取り囲む天蓋を一瞬にして砕いて見せた。










 数分前──。



 「で、何だってこの人選?」

 「さぁ……?」

 二人一組のチームに小分けされたナンバーズの面々はそれぞれ別々のエリアへと探索に動き、通信回線のみを常時オープンさせての連携で調査を開始した。二人居ればいざ“13番目”と戦闘になったとしても、残った片方が救援要請やサポートを行う事が出来ると考えての人選分けだったが……

 「なぁ、ウェンディ。戦闘機人なのに言っちゃあアレなんだけどさ、私ってあんま荒事とか得意じゃないんだよね。どっちかって言うとRPGで言う後方支援型なんだけど」

 「奇遇ッスね、セイン。ぶっちゃけ私もライディングボードが無かったら普通の機人ッスよねぇ」

 「オットーとディードはいいとしてさ……なんでチンク姉とディエチで固まっちゃったわけ? 明らかに戦力偏ってると思うけど……」

 「あれッスよ、あれ。スケープゴートって奴ッスよ。平たく言うと当て馬。分かり易く言うと……生贄?」

 「えー!? うちら窓際枠!? そりゃあドクターの所に居た時だってあんまり活躍出来なかったけどさ、いくらなんでもこれはヒドイと思うんだよなぁ~」

 元が後方支援と隠密潜入をメインとしているだけあって、単独での戦闘力は他の面々には劣る節がある。そんな二人だけで寄せ集めたのは本当に何かの人選ミスとしか思えなかった。

 もっとも、二人とも真っ向から戦おうとは思っておらず、発見した時は足止めと救援要請に徹するつもりだった。わざわざ無茶を冒してまで相手をしようとするほど、二人は向う見ずではなかった。

 ふと、その時……

 「あれ?」

 「どしたッスか?」

 急にセインが立ち止まり、何かを凝視する。気になったウェンディもその先に焦点を合わせ確認すると……

 「なぁ……あれって、ひょっとしてさぁ……?」

 「……スバル?」

 「げぇっ!!?」

 「げぇ、って何なんスかぁーっ!!?」

 間違いなかった。始めは単独行動中のトーレと鉢合わせたかと思ったが、どうにもよそよそしい上に、着ている服は普段着、そして両脚には見慣れたマッハキャリバー……これで見間違えたと言う方がどうかしている。

 「No.6から各員へ! スバルを発見! 繰り返すよ、スバルを発見! これより確保に移るから!」

 「って何で逃げるッスか、スバルーッ!!」

 身柄を確保しようと接近するウェンディを振り切り、逃走するスバル。心の内を知らない二人にとって今の彼女の行動は奇っ怪を通り越して不可思議極まりなかった。一瞬だけ脳裏を過ぎる仮説は、「彼女も“13番目”に何らかの憎悪を抱いており、報復の為に単独行動を行おうとしているのかも知れない」と言う予想。だがそうだとしてもわざわざこちらとの接触まで避けようとするのは説明できない。

 分からない……何故彼女は逃げるのか。やっとの思いで足取りを掴み、こうして出会えたと言うのに、何で自分達を忌避するのかそれがまるで分からない。

 だが、そのことについて思考する余裕は彼女らには与えられていなかった……。

 「ウェンディ! あれ!!」

 「空が……!?」

 街全体を覆い隠していた薄緑の結界……その天頂、天蓋の頂きに今、巨大な亀裂が刻み込まれていた。物質的なモノではないので崩壊の音など聞こえはしないが、それでもやはり心理的な崩落の音が大音量で響いていた。

 やがて亀裂は天頂から結界全体へと波及し、そして遂に──、

 『総員に告げる! 結界が破壊された! 直ちに全ての行動を中断し、作戦領域より離脱しろ!!』










 響く銃声……そこから放たれた物理的衝撃を受けて地に伏す音が聞こえた。

 「あぁ……! う、ああっ!!」

 苦悶の呻き。地の獄に住まう亡者の如きその悲痛な声は木々の枝を揺らし、青々と繁る常緑樹さえも枯れ果てさんとするかのような暗黒の瘴気に彩られていた。

 だが倒れた場所から血は出ない……常人ならば致命傷の傷を受けながら、それでも彼女の傷口から血は流れ出ないのだ。

 「何故……確かに、私はナノハを……」

 『理』のマテリアルの顔色がそれまでとは違う明確な動揺と混乱に満ちた表情へと変わっていた。それもそのはず、自分が今確実に仕留めたと思っていた標的がその眼前に立っているとなれば、一瞬何が起きたかを理解するのに時間が掛かるのは道理。ましてや、逆に自分の後ろから攻撃があったとなれば混乱を通り越して不条理すら感じられる。

 「あんたがどんだけ常軌を逸した力を持ってるかなんて知らないし、別に知りたくもないけど、一応言っておくわ……あまり人間をナメないことね」

 「あなたは!?」

 背後から聞き覚えのある声。それは決闘の直前に自分が退けておいたはずのティアナだった。両手に握られたクロスミラージュには魔力の残り香が漂い、先の背後からの不意打ちが彼女の仕業である事を暗に示していた。

 「私が撃った瞬間、ナノハの姿は既に無かった……。あれはあなたが創り出した幻影だったのですね……」

 「言っとくけど、最初から一対一のサシ勝負なんて律儀な事考えてたのはあんただけよ。こっちは最初から二人であんたを倒す事しか考えていないんだから」

 パチン、と指の鳴る音が聞こえた後、四基あったビットの内の二つが消失した。どうやらあれも幻影……マテリアルの警戒をビットに向ける為の囮に過ぎなかった。

 「ごめんね……私はもう、昔みたいな子供じゃないの」

 「だから……勝ちを拾いに行く為なら何でもすると? 変わりましたね、ナノハ。いえ…………“変わってしまった”と言うべきでしょうか」

 バリアジャケットが破れ、剥き出しになった背中……魔力供給は万全なので肉体の再生は済んだが、まだ痛覚は残っている。それ以前に身に纏う防具の修復もままならない内に背中を敵に晒すのは自殺行為に等しい。だがそれでも彼女はルシフェリオンを松葉杖代わりにし、ようやく二本の足で大地を踏み締めた。

 「……!」

 なのはとティアナが同時に構える。だが、それまでマテリアルが発していた闘気が今はその十分の一も感じられず、逆にもっと濃厚な、ドス黒い別の気配が鎌首をもたげていた。

 それは殺意──。

 「戦士であれば、対等に戦う事を選んだでしょう。しかし…………その矜持すら忘れた畜生とあらば、わざわざ死力を尽くすまでもありません」

 ムシケラ ノ ヨウニ コロシツクス。

 良くも悪くも純粋な戦士でもあった彼女にとって、待ち焦がれた好敵手との戦いはまさに聖戦……。それを横槍入れられたとあっては、神聖な戦いの場を土足で穢されたのと同義。戦士でなければ犬畜生以下……であればこそ、今の彼女にとってティアナはもちろん、なのはすら既に往年の好敵手ではなくなり、ただの滅すべき対象として格下げされた。

 このまま行けば確実に、この森は焦土と化す。それを肌で予感したなのはとティアナはそれぞれ個々の判断で撤退を図ろうとした。

 しかし……

 「……どうやら、お開きのようですね」

 空を見上げて何を悟ったのか、マテリアルは殺意の矛先を収めると、獲物の切っ先を空に向けた。

 「誓いましょう……次に相対した時は、皆殺しです」

 「何をするつもり!!」

 「言ったでしょう、『お開き』だと……」

 杖の先端に込められるは莫大且つ純度の高い魔力……一度放たれれば天空の星さえ撃ち抜かんとするその力は──、



 たった一撃で天蓋を破壊した。










 人間、異常に気付いた時には既に遅いことが多い。

 それは彼女でも同じ事だった。

 「ってぇ、あれ? あれぇっ!?」

 大剣の一太刀によって舞い上がる瓦礫、倒壊するビル、吹き飛ぶ陸橋……トラップを複数破壊するためだけに地形もろとも壊滅させた彼女は、自身の勝利を確信していた。

 だからこそ足元をすくわれたと言うべきか。あからさまに仕掛けられたスフィアにばかり気を取られ、最後まで本命の罠を見抜けなかったのは痛手としか言い様が無い。

 本命はアスファルトの下、剥き出しになった地中にこそ隠されていた。

 「錬鉄召喚……アルケミックチェーン」

 外気に触れた瞬間に発動する仕組みになっていたのか、周囲一帯から桃色に輝く魔法陣が次々と出現、そこから伸びた合計三十本以上にも及ぶ鎖がマテリアルの体を封殺しにかかった。当然、トラップ全てを除去したと思い込んでいた彼女にそれを回避するなど適わず、首から下は雁字搦めに絡め取られるに至った。

 「くっそ~! 離せよ!!」

 「足掻いても無駄です! 絶対に逃がしませんからね!」

 どこに隠れていたのかと思えば、フェイト達は揃ってマンホールの穴をくぐって現れた。全員が地下に潜っていては見つからないはずである。

 「ボクを捕縛してどうしようってのさ。言っとくけど、ご主人様の事は一言だって話さないからな!」

 「そうはいきません。ここまで来たんです……必ず全部終わらせて、スバルさんと一緒に帰るんだ」

 「帰るねぇ……。帰れる場所があるってのはそんなにエラいのかい? オリジナル」

 全身を縛鎖で封じられながらも獣の如き凛とした瞳の輝きだけは失せず、マテリアルはフェイトに問うた。次にまるで犬のように顔だけ伸ばすとわざとらしく鼻を鳴らして臭気を嗅ぎとる……。

 「そこのお嬢ちゃんだけ違う……。オリジナルと坊やからは同じ匂いがする。化学薬品みたいな匂いがプンプンするよ」

 「……………………」

 「あぁ、そっか。どこかで嗅いだことあると思ったら、ご主人様の匂いと似てるんだ。でも何でだろう……何で似てるんだろう。教えてよ、坊や」

 そこに脅迫などという暴力的概念はない。あるのはただ純粋な好奇心から生まれる興味だけ……。分からないから聞く、謎であるからこそ解明したい、ただそれだけだった。

 「教える義理は────」

 「私達は、元々死んでいるはずだった」

 突っぱねようとしたエリオの言葉を遮るように、フェイトがその疑問に答える。

 「死ぬ? それはおかしいよ、死した者は蘇らない。神でさえ覆すこと適わぬこの世の真理さ」

 「正確には、死んだ人間を模して生まれたのが私達。肉体を培養して、データ化された記憶をそっくりそのまま転写することで蘇生の真似事をしているだけ。赤の他人の顔と記憶を受け継いでいるだけの、ただの人形」

 プロジェクト『F.A.T.E』、それは二十年の時を経てなおフェイト、ひいてはエリオの運命すら捻じ曲げた、およそ人間としての最大の禁忌……。死者を蘇らせようとした純粋な願いが、いつの間にか悪性へと歪んだ末の人間の業とも言うべき悲劇が生み出した人形、それが二人だった。

 「人形なんて自分を卑下しない方がいいよ。何だかんだ言って、キミ達はちゃんと地に足を着けて生きてるじゃないか。魂の篭らない人形ではなく、血も涙もある立派な人間だよ」

 「さっきまで人を模倣物呼ばわりしてたくせに。でも、ありがとう……」

 「当然の事を言ったまでさ。褒められるようなことじゃない。でもね、一つだけ疑問なんだ……」



 「キミ達は恵まれている。なのに、どうしてそこにご主人様が入っていないのかな?」



 バキンッ──!

 「ッ!」

 鎖の一本が断ち切れる音に反応し、三人に緊張が走った。猛り狂う獣さえ戒める錬鉄の縛鎖が、まるで飴細工のように次々と軋みを上げ、連環にヒビを入れていく。

 「話の流れからして、ご主人様もキミらと『同じ』ってことになるんだよね。だったらどうしてキミ達は受け入れられて、ご主人様は排斥されるのさ!」

 「それはっ、彼は多くの罪を……」

 「騙されないぞ! ボク達はご主人様から大体の事情は聞いてるんだ。キミも元は次元犯罪者の片棒を担いで、『なんばーず』とか言う連中も組織の手先だったってね!」

 十数年前、確かにフェイトは母プレシアの所業に加担し、最も危険なロストロギアの一つであるジュエルシードを管理局の目を欺いて収集していた。ナンバーズも元を辿ればジェイル・スカリエッティの私兵として生み出され、大規模テロリズムの実行犯として活動していた。更に矢面には上がっていないが、ヴォルケンリッターの面々もかつてははやてを回復させる為だけに幾人もの管理局員のリンカーコアを蒐集し、物的・人的損害を出した。

 それぞれに事情があったとは言え、我ながらよくもまあ元次元犯罪者がこれだけ集まったものだと感心するレベルだ。

 「キミ達は同じ穴のムジナなんだよ。同じ傷を負って、同じ悲しみを背負って、そんな連中同士で傷を舐め合っているだけ。元を質せば皆同じ悪なのに、自分達にとって許せない“悪”が現れればすぐに手の平を返す薄情者の集まりなんだ!!」

 「それは……!?」

 「所詮、キミ達の言う善悪の価値観なんて紙の上の絵空事に過ぎないんだね……。どうやらボクは君の事を買い被っていたようだ、オリジナル」

 全身の鎖が内側からの力に耐え切れず崩壊していく……猛る猛獣は捕らえられても、生物ですらない超人を捕獲することは不可能だった。

 「覚えておけ! いつの世だって悪が栄えた試しは無い。だが、何を善とし何を悪とするか、それを決めるのはいつだって人間のエゴだ! 自分勝手なヒトのワガママだ!!」

 右腕が開放され、害悪の杖が天上へと定められる。大剣の形へと変貌した切っ先に渦巻く魔力は大気を侵し、天の御座に住まう雷神を彷彿とさせるには充分だった。

 「ボクは勝つ……! 勝った者が正義で、負けた者が必然的に悪となるのなら、ボクはボクの勝利をご主人様に捧げる。勝利を持ち帰って、あの人の“正義”を証明してやる! だから────」



 「砕け散れぇっ!!!」










 時は満ちた──。

 トレーゼはファイアリングロックを解除し、指先に力を込めた。既に何十分も前から眼球の狙いは対象を捉えている。あと300秒もすれば全ての膳立ては終了し、こちらが本格的に動く準備が整う。そうなれば後は高確率で敵方は自分の予測通りに動くと踏んでいた。

 「ファイアリングロック、オープン。エネルギーラインの直結を確認。システムオールグリーン」

 長大な砲身、イノーメスカノンのシステムを全て再確認し、来るべき瞬間に備える。

 「目標、有効射程圏内に捕捉。弾道計算、仰角、弾頭圧縮率、正常作動を確認。セット!」

 内蔵された撃鉄が開放され、熱変換される魔力の注入を今か今かと待ち構える。



 「そこまでです」



 首筋に冷たい感触……無機質なその冷たさは背後からの介入者による者だった。

 「……No.5か」

 「お久し振りです、兄上」

 鋭い切っ先の槍が頚動脈を狙うも、トレーゼの視線は一ミリも揺らがない。相変わらず望遠機能を最大に絞って対象を見据えており、指先は未だ発射態勢を保ったままだった。

 「よくここが分かったな」

 「連れは目がいいものですので」

 「ああ、なるほど」

 流し目で確認すれば別のビルの屋上から自分と同じ形状の武装を構えたディエチがこちらを捕捉していた。こちらがそうであるように、あちらもまたいつでもこちらを撃墜できる準備が整っているようだった。

 「…………どうした、刺さないのか。それとも、そう言う使い方をする武装ではないのか?」

 「その前に聞かせてください。貴方はどうして、ノーヴェを……」

 「『どうしてノーヴェを利用した』だろう? 決まっている。あいつは俺を過信していた。ある意味では依存していたと言ってもいい。旧い腐敗したナンバーズを内側から崩すには一番手っ取り早かったからそうしたまでのこと」

 「……そうですか」

 「意外と冷静だな。もっと怒り狂っているかと思ったが」

 「それはむしろトーレや聖王教会に身を寄せる面々です。それより、ご同行願います」

 「任意同行? 何の冗談だ、発見すれば即殺処分じゃなかったのか。それとも何か……見せしめに全員の目の前でとどめを刺したいと? 生憎だが、半月前と違って今の俺に自殺願望は無い。俺を殺したいなら見つけるのが二週間遅かったな」

 「そうではありません兄上 私の話を聞いてください」

 この時、トレーゼは初めてまともにチンクを向いた。一寸も微動だにしなかったカノンの砲身まで下ろし、虚ろな金眼が同じ色彩をしたチンクの目を捉える。

 「…………要件は何だ?」

 「こう言うと貴方は“偽善”だと言って一蹴するでしょうが、それでも……どうか受け入れてほしい」

 手にしていた槍を縮め、チンクはほぼ非武装に近い状態になり敵意も戦意も無く、何もない裸のままになってトレーゼと対等に向き合ったのである。

 「私から伝えるべき事はたった一つだけです────」



 「出頭してください、兄上」










 直線距離にしておよそ1000m離れたとあるビルの屋上……。そこでナンバーズ唯一の狙撃手のディエチは遠く離れた位置にいるチンクの動向を常にチェックしていた。

 対象を発見したのはホテル街の結界が解かれた直後のことだった。それまで二つの結界の中間地点、目撃情報があった宿泊施設周辺のみを探していたのだが、当然見つからないはずだ。始めからトレーゼは結界の外、それも中央区寄りの都市部に潜伏していたのだから。自分達はまんまと陽動に乗せられていたと言う訳だ。

 結果、途中でツーマンセルを組んだ事もあって、姉妹の中で一番目が良いディエチのみがその視界に捉える事に成功したのだった。この場合トーレにも通達された様に、発見したら即刻各隊員に通達するのが義務付けられていたにも関わらず……

 (チンク……いったい何考えてるんだろ)

 発見した時、チンクの第一声は「他の姉妹には連絡するな」と言う命令だった。当然、トーレの件もあるので無視して連絡するという手段もあったのだが、当の本人は「姉に任せろ」の一点張り。結局は後方からの監視及び牽制を担当する羽目になり、今こうして距離を置いた建物から眼球の機能をフル活用して見張り中だった。

 「セイン、オットー、ディードの三人は地下に逃げ込んだのかな。トーレとウェンディは飛行して離脱。現場に残ってるのは私とチンクだけか」

 もう片方の眼には他の六人からそれぞれインプットした街の地図が写っており、そこには自分を含んだ七つの光点が明滅していた。一応破壊された結界の範囲からは抜け出せたようで安心したが、直前にスバルを見たという連絡があったのが気になる。

 「まだ周辺をうろついてるかも」

 ナカジマ家の一員として彼女との付き合いは長いので彼女の熱反応パターンがどんなものかは熟知している。眼球のレーダーにその反応は無いかと探りを入れ……

 「なに……これっ!?」

 そこに表示された想像を絶する“非常事態”にディエチは…………ここまで来て初めて敵の真意を知るに至った。










 「出頭してください、兄上。公正な法の下で執り行われる裁判で貴方が自身の罪状の全てを告白すれば、司法取引が成立します。そうなれば我々と同じ更生の道も……!」

 「元より殺処分は貴様らが決めた事だ。その状況で縄を頂戴しても、どの道俺が死する事に変化はない。他でもない貴様もそれに賛同した一人だろう」

 「いいえ、それは早計です。私達ナンバーズが取り決めた殺処分の条件は、『元ナンバーズ及び機動六課のメンバーが確保した場合』です。貴方が私達を通さず直接管理局に出頭し、検察組織に身柄を送検すればそのまま刑事裁判が行われ、罪状を全面的に認め捜査に協力すれば司法取引は成立します」

 チンクの言わんとしている事は察せた。今回の“13番目”殺処分は元々はナンバーズ側に操作方針の決定権を一部譲渡され、そこからトーレの発案と言う順序を経て肉付けされた指針である。「過去の事とは言え元は身内事」、「内輪の揉め事は内輪で処理する」……その意図を汲み取った管理局は今回編成されたチームが身柄を確保し、その場で殺害する事を許可したのだ。

 だがそれは裏を返せば、彼女らが“13番目”を確実に打倒すると言う明確な意思表示をしたからこそ成り立った信用によるものであり、万が一にでもそれが失敗、またはこれ以上の作戦続行が困難且つ無意味であると判断された場合、汚れ仕事を一手に引き受ける本局の特務機動隊(エクストラフォース)が動き出す。もちろん、特務によって捕獲された場合も殺害は許可されるが、この場合、六課と特務の間にはある共通項がある。

 「“13番目”の殺害が許可されているのは、対象が確保の際に抵抗し、現地で戦闘となった場合の話し……。つまり……」

 「つまり、極論してしまえば『戦闘行為を経ずに事件が収束した場合、殺害許可は降りない』か……」

 「そうです」

 理屈で言えばそうなる。戦闘も小競り合いも無く自主的に警察機関に出頭してしまえば、そこから先は裁判の為に一時的に身柄を拘置され、司法組織以外の介入を断絶される。仮に管理局が裁判に介入したとしても問答無用で殺されはしない。

 「ミッドチルダに死刑制度は無い……そう言う意味でなら、なるほど、確かに俺が生き残る道もあるだろう。だがミッドには死刑制度の代わり、それに該当する罪状を課せられた者には冷凍保存され虚数空間に遺棄される『封印刑』が存在する。今の俺の犯した罪状では、局が介入すればそれだけで執行が確定だな」

 「その為の司法取引です。貴方が捜査に協力して事件の早期解決に貢献すれば、如何に強権を持つ管理局と言えど自由刑にまで格下げせざるを得ません」

 「お前は馬鹿か。共犯者を告発するでもなし、単独犯の俺がどうやって捜査に協力できる? 俺を捕えればその時点で事件解決だろう」

 「……そうでもありません」

 「なに?」

 「貴方にはちゃんと共犯者がいます。あの三体のマテリアルなる存在……彼女らに対する有効策を講じ、実行部隊に進言すれば、それは即ち事件解決に協力したと見なされるはずです」

 他でもないトレーゼ自身の判断によって肉体を得たマテリアル……彼女らを再び打倒・封印する事に協力すれば、共犯者の告発に該当する捜査協力として認められる事も考えられる。

 「無論、協力しただけでは無期禁錮は確実です。一生獄の奥底から出られないでしょう」

 「貴様は俺を更生させるんじゃなかったのか?」

 「ええ。そこで権力者の御力を拝借します」

 「権力者……?」

 「騎士カリムです」

 意外な人物の名前が浮上した事にトレーゼは少し首を傾げた。確かに件の彼女であれば管理局に太いパイプを持っているのは容易に想像できる。実際、彼女の階級は少将……かつて地上本部の実権を握っていたレジアスが中将だった事を鑑みれば非常に高い地位に就いている事になる。

 「以前、貴方はヴィヴィオを拉致する為に単身で教会本部に乗り込み、迎撃に出た騎士団に対して損害を与えましたね?」

 「ああ。そこのシャッハとか言う騎士を再起不能にしたのは覚えている」

 「あの方は償いを求めています……。貴方が人として更生し、人として生を全うし、人として罪を清算することを。その責務を成さない内に死する事は単なる逃げだと思われています」

 「聖職者の言い出しそうな耳障りの良いだけの詭弁だ。考えるまでもなく感情に沿ってみれば、俺を赦せるはずがない」

 「それを赦すのが彼女の職務でもあります」

 感情に身を任せて罪を糾弾するのが衆愚なら、神の御名に従ってその罪を赦すのが聖職者の務め……と言うことだろう。チンクの言った事が事実であるなら、不正であれカリムが裁判に働き掛ける事も考えられる。

 「さっき、私に殺害に賛同した一人だと非難しましたね? 確かに私自身、ノーヴェの件で全く怒りを覚えなかったと言う訳ではありませんし、それを抜きに見ても貴方の凶行は許されるべきものではないのは明白です。しかし、かつては私達も同じ事を仕出かしました。主犯は別にいたと言う理由で幾許かの罪状は軽減されましたが、更生して社会で生きる事を選んだ者も居れば、それとは逆に全面的に罪を認めながら俗世との関わりの一切を経つ事を選んだ者も居ました。ですが、そのどちらも罪を償う機会を与えられました」

 「だから……俺にも罪を清算する好機を与えたいと?」

 「はい。偽善と嘲笑うのでしたらそれは結構。ですが、どうか……どうか今一度だけで構いません、考えを改めてもらえないか?」

 トレーゼが推測したところ、恐らくチンクは純粋な善意でそれを進言している……。親切の延長線上、その究極形が“善性”と言う感情や概念ならば、今の彼女の本心に疑心暗鬼は一点も無いのが理屈であり道理。要するに、全てはトレーゼが彼女の言葉を信じるか信じないかだけで全ては決まるのだ。

 そして、チンクの言い分をトレーゼは……



 「悪いが、その提案は呑めない」



 最初から分かりきっていた事でもあったが、突っぱねられて終わった。向けていた視線を戻すと再びカノンを構えて標的に狙いを定めた。

 「兄上っ!」

 「来るな」

 「ッ!?」

 近寄ろうとしたチンクの喉元に鋭利な銀の刃が突き立てられる……。最初はどこから伸びてきたのか分からなかったが、すぐに理解する事になった。

 「兄上……その体は!?」

 ここへ来て初めてチンクの顔色が悪くなった。無理もない……彼女の頚動脈を捉える銀の刃は、トレーゼの左肩を突き破る形で突出していたのだから。

 陽光を反射して鏡面の如く輝く三日月の刃は、体内から皮膚を突き破った事で既に血に濡れ、血液特有の鉄分臭を発していた。その姿はまさにB級ホラーに登場する異形のモンスター……あるいは、ヒトを殺す為だけに生み出された殺戮マシーンそのものだった。

 「『試作型流体可変多目的外装』……。かつて、ジェイル・スカリエッティが開発を予定していた兵器構想の一端だ。ナノ単位の超極小量子端末で構築された流体多結晶合金の集合体……一滴一滴が魔導師で言うところのデバイスに相当し、所有者の脳量子波とリンクさせる事で遠隔操作を可能としている。こんな風にな」

 「!?」

 刃の先端が溶け出したかと思えば、蛇の様にチンクに飛び掛り彼女の両腕を拘束した。それまで半液状だったそれは一瞬でドーナツ形に変化するとまた一瞬で硬化し、彼女の両腕を封殺してみせた。

 「本来これは体表に纏わせる形で運用する強化兵装の類で、時に外骨格となって衝撃を殺し、時に第二の筋組織として膂力を増加させる……それが本来想定されていた運用方法だ」

 “本来”、と言う部分をわざわざ強調して口にする辺り、彼はこの武装を全く別の形で使用している事になる。実際、体外の強化兵装として開発されている物を無理矢理体内にねじ込んでいる時点で既におかしい。

 「だがこれには一つ欠点がある。液体金属に含まれる量子端末を搭載したナノマシンは人体の細胞の総数に匹敵する。そんな数の端末をタイムラグ無しに操作し続けるのは事実上、不可能……。ならば、初めから体内に取り込みカウンター狙いの用途だけに絞れば、反応速度など気にする必要はなくなる」

 「肉を切らせて骨を断つ……。ですが、それでは操作すると自身をも……!」

 「それがどうした。断たれた筋肉や血管など、持ち前の治癒能力を以ってすればどうと言うことはない。痛覚? そんなモノに囚われるから高みを目指せない、強くもなれない。だから、お前はいつまでも未熟……培養槽の中で縮こまっていた時から変わらない」

 “超人”、と言う言葉がある。ドイツの哲学者、ニーチェが記した『ツァラトゥストラはかく語りき』において提唱された「自身の善悪観が世界に屈服しない生き方の推奨」を邁進する人間の事を指し示すカテゴリだ。物理的・肉体的な影響力はまるで無く、それでいて周囲の流れに絶対影響されず、自らの精神を鉄壁を超越した神域のレベルにまで昇華させた者……それが超人であり、絶対に揺らがない精神をどうしてチンク程度の者が侵せようか。

 「話は以上だ。貴様はそこで俺の所業を見届けろ」

 「兄上ぇ! 何を……!?」

 「IS No.10。『ヘヴィバレル』発動。全動力、全て砲身に集中」

 動力源のエネルギーを優先的に砲身へ送る能力により、過度とも思える熱エネルギーがそこに集中する。

 だが、これだけでは終わらない。

 「この魔力量……いったいどこから!?」

 距離を置いたここからでも肌に感じるほど膨大な魔力の流れ……。それだけならチンクも驚きはしなかったろう。この場合異常なのは、それだけの魔力がトレーゼの体内からではなく、彼の外側から起因している事実にあった。明らかに通常濃度を上回るだけの魔力素を取り込みながら、周囲の濃度は0.1%も減っていないのだ。

 どこから、どの空間からこれだけの力を!?

 「魔力は自然発生以外にも生成できる。それは人体……外界から呼吸行動などで摂取された魔力素はリンカーコアで生体エネルギーを帯びて増幅し、魔導運用によって再び外界に吐き出される」

 「まさかっ!!?」

 「そうだ。そう言う事だ」



 「戦闘領域で発散された全ての余剰魔力を砲身に掻き集めた」



 その術式は予め三つの戦闘領域全てに仕掛けられていた。結界の魔力によってスタンバイ状態になるまでは決して察知されないように隠密性を追求し、隔離空間を感知することで準備態勢となる仕組みだ。仕掛けた場所は地面だったり、建物の壁、樹木の表面や、小さな池の水底……だが決して地中に埋没はさせず、必ず外気と接触するような配置で設置した。でなければ空間の魔力を吸収できない。

 「結界の解除と同時に散在する魔力全てを分解、吸収し、蓄積する。後はそこからコンセントのように伸びたパスを通じて俺に届けられると言う仕掛けだ。俺は労せずして、連中の垂れ流した魔力を根こそぎ簒奪できる」

 そう言いながら既にカノンの銃口には圧縮された紅い光が爛々と輝き、更に注ぎ込まれる魔力に排気口からは蒸気が吹き出していた。発射されれば着弾した地点は間違いなく焦土と化すだろう……だが彼がわざわざ発見される危険を冒してまでここから狙い撃つべき目標とは一体何なのか?

 「どうした? No.10が居るんだろう? だったら早くここを狙撃してみせろ。被弾を避けたいなら猶予はやる」

 「彼女は私の命令無しには攻撃しません。それより、そこまでして貴方は何を墜とすおつもりか!?」

 「俺が俺自身の戦いを行うには、この街にはいくつか邪魔なモノがあり過ぎる。貴様らを含めてな。だから……それを一つずつ消し潰す」

 よく見れば砲身はビルの下、街中を向いていた。このまま発射されたら壊滅的な被害がもたらされる。だが分からない……ここまでして何を消したいのか?

 「標的は中央駅から少し距離を置いた商店街……そこの一角に存在する店舗だ」

 「店舗……?」

 「名前は何と言ったか……」



 「確か…………翠屋だったか」










 「くしゅんっ!」

 「大丈夫ですか、士郎さん?」

 「あぁ。誰か変な噂でもしてるんじゃないかな。そう言えば、トレーゼ君が使ってた部屋だけど、忘れ物とかは無かったかい?」

 「あ! 恭也の机の引き出しに何か便箋が入ってたんだけど、もしかしたら忘れ物じゃないかしら……」










 もう止まらない、止められない……暴虐の逆徒と化した彼を止める術など、もはやどこにもありはしなかった。

 「兄上……!」

 「最後に聞いておく。お前は俺をどうしたい? 殺したいのか? それとも救いたいのか?」

 「私は……………………孤独な貴方を救いたい!!」

 「否、それは偽善だ。お前は俺を救おうと、救済しようとする事で『こうする自分は素晴らしい』と言う自己陶酔に浸りたいだけだ。善意とは、突き詰めれば全てが利己的な目的に帰結する。お前も例外ではない!」

 「では貴方は何の為に愚行を重ねるのだ!!」

 「知れたこと。何者の為でもなく、俺は俺の為だけに俺の力を使っている。断じて他者の為ではない。所詮、俺もお前も自分の事が良ければそれで良いんだよ」

 唯我独尊……この世で我より尊い者は無し。今のトレーゼはそれを体現する超人だった。何があっても揺るがない……チンクもそう思って諦めかけていた。

 だが──、

 「孤独か……。どうしてそうなったんだろうな……」

 「え……?」

 それは風に流されて冬の寒空に消え果てたが、チンクの耳は確かにその言葉を聞き取っていた。それが弱音だったのか、ある種の諦観の言葉だったのかは分からない。だが、その瞬間だけ何故か彼の背中が小さく見えたのだった。

 「さあ、始めよう。一つ大きな花火を打ち上げようじゃないか!」

 その独り言をかき消すかのようにトレーゼが高らかに宣言し、そして遂に──、

 その引き金が絞られた。






























 ※あとがき

 Q.マテリアルは「砕け得ぬ闇事件」で別世界に行っちゃったはずなのにどうして海鳴に居るんですか?

 A.一応BoAまでは原作通りですが、こちらではGoDの時期にフローリアン姉妹が来訪せず、マテリアルが復活する前に事件が終わっちゃったと言う設定。
  闇の欠片がちょろちょろとは出たものの、早期に予兆を見抜いていたアインスのお陰で何とかなったとか言ってみる。



[17818] 超人:ユーヴァーメンシュ
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:8e8d509a
Date: 2012/02/04 22:12
 スターダストデヴァステイター──。

 高町なのはが編み出した集束砲撃魔法、【スターライトブレイカー】を改良する形で生み出された砲撃魔法がこれだ。

 通常、【SLB】が『自身の魔力+周囲の魔力=極大の破壊力』と言う仕組みになっているのに対し、こちらの【SDD】は『周囲の魔力+吸収増幅=速射性と連射性』を追求した出来になっている。総合的な威力そのものはオリジナルに劣るものの、その連射速度はその欠点を補って余り得るものであるのは確かだった。

 魔力の充填速度、結界破壊効果に加え、とにかくオリジナルは破壊力を重点に置いている。だが一度撃って外した場合、または一度くらいの攻撃では突破できなかった場合、自身に残されるのは一度に極大の魔力を消費した事による疲労のみ。もっとも、あれだけの高出力の砲撃が破壊不可能なモノに当たる事がそうそうないだろうが、万全に万全を期すのなら改良した方が良いと考えた。

 その結果として、カートリッジはおろか自身の魔力の消費もせず、正真正銘、周囲に散った魔力のみで放つ完全な意味での集束砲撃が完成した。もちろん、周囲の魔力をかき集める過程で多少の魔力を消費はするが、トレーゼの魔力量は平均的な魔導師の数倍から十倍以上……蛇口がバケツに繋がっているか、満タンの貯水池に繋がっているかぐらいに違いがあるので、多少程度の魔力などたかが知れている。それでも極力自分の方の消費を抑えようとするのは、ただ単純に自分の力を使うのが勿体ないと言うだけのこと。同じ集束砲撃でもなのはにとっては切り札だが、トレーゼにとっては少し強めの通常攻撃に過ぎない。

 今、トレーゼの体には街に発生していた三つの結界と、その内部で行われた戦闘行動により発散された魔力の全てが集約されてしまっている。民家一軒を焼き払う為だけにここまでするものなのかと疑問を覚えるが……チンクの目から見た彼は嘘もはったりも言っている雰囲気は無かった。

 「さぁどうする! このまま俺に撃たせればあの一角は吹き飛ぶぞ」

 それは挑発……控えているディエチが自分を狙っていると知っていながら、撃てるものなら撃ってみせろと豪語している。チンクの命令一つでディエチは撃つだろう。拘束されているのは腕だけなので、余波が来る前に距離を置くことも出来るはずだった。

 (だが、それをしてしまっては……!)

 彼を止める為に力を行使すれば、自分がさっきまで訴えてきた言葉が一瞬で紙屑より薄っぺらいものへと成り下がってしまう……それが強迫観念になり、今のチンクは彼を攻撃する事を躊躇してしまっていた。トレーゼがそれを知ってか知らずかは分からないが、事態は間違いなく彼の側に好転していた。

 そして……

 『Stardust Devastator.』

 毒々しく配合された紅色の魔力砲が無慈悲に発射された。










 「なのはさんっ!」

 「あの角度……街を焼き払うつもり!?」

 その光は発射される前から既になのは達にも見えていた。昼間にも関わらず夜空に瞬く一等星のような輝き……デバイスが捉えた映像を確認した二人は、砲手が明らかに街の中央区を狙っているのに気付いた。

 管理外世界で人目を憚る事もなくあの狼藉……しかも脅しやパフォーマンスではなく、本気で撃ち抜こうとしている事がここからでも分かった。

 「早く発射を阻止しないと!」

 「ですが、結界を解除された今、迂闊に動くと住民に戦闘の余波が……!」

 「今はそんなこと気にしてられないっ!! レイジングハート!」

 『オーライ。エクセリオンモードに移行。スターライトブレイカー、発射態勢へ』

 およそなのは自身が考え得る、現状最強の状態へと移行し、その照準はビルの上の人物……ではなく、彼が狙っている延長線上に合わされていた。

 「結界も張られていないのに直接撃ったら、建物にも被害が出る。だったら、あっちに先に撃たせておいてから空中で軌道を変えるしかない!」

 それは危険極まりない賭け……音速に匹敵する速度で飛翔する弾丸を、別の角度から同じ弾丸で弾き返すなど、デバイスの演算機能を最大限に活用しても非常に困難なのは明白。だがなのはが放った砲撃が何の障壁も張られていないビルに直撃すれば、それこそ大惨事になりかねない。空中で激突させて軌道を逸らし、あわよくば相殺させるのがここではベストな手段なのはティアナでも分かった。

 だが……

 「……何のつもりよ?」

 「私の存在などお気になさらず。どうぞお好きになさってください」

 迎撃の為に魔力を充填しようとする二人の背後には、戦いが終わってなおここから離れる様子を見せないマテリアル……。その真意は定かではないが、二人をじっと凝視したまま一歩も動こうとせず、草木の観察でもしているかのような静寂さを身に纏っていた。口ではこう言ってはいるものの、隙を見せればいつ背中を撃たれるか知れたものじゃない。

 「私がそんな差し出がましい事をせずとも、あの方は全てを見通しておられます。あなた方が自分を狙っている事も、私がそれを阻止しようとはしない事も……」

 そう言いながらマテリアルは街路樹に背を預けた。敵意殺気の類は無く、完全に傍観者に徹している。

 「さあ、どうぞ撃ってください。あなたはすぐに自分の行動の無意味さを知るでしょう」

 「…………レイジングハート、カウント!!」

 『10……9……』

 愛杖の先端に桜色の魔力が集束される。既に空間に存在していた魔力の殆どは敵に奪われたため、こちらはなけなしのカートリッジを消費させられる羽目になったが、なんとか発射できるまでにはこぎ着けた。ここまで遠く離れたポイントの標的を撃墜した事はかつて無いが、それでもやれると言う漠然とした自信ならあった。それだけで充分だった。

 『5……4……3……』

 ブラスタービットは使わない。逆にこちらの力が強すぎて、弾道は逸らしたがこちらの攻撃まであらぬ方向へ飛び火してしまっては本末転倒……絶妙な力加減と適切なタイミングで……

 『2……1……カウント、ゼロ! 撃てます!』

 「スターライト……ブレイカァァァアアアアアッ!!!」

 愛杖の合図と共に標的が一際その紅い輝きを増し、その次の瞬間、災厄を司る閃光が無辜の住民を焼き払わんと街に解き放たれ、全く同時に桜色の光がそれを止めんと発射された。

 淡い星光と禍々しい星屑の激突は真昼の海鳴、その上空で相成り、数瞬のせめぎ合いの後──、



 それはあっさり空中で音も無く爆散したのだった。










 その日、桜色と真紅の入り混じったその輝きは海鳴の市民数万人の目によって目撃され、季節外れの真昼の花火は変に誇張された都市伝説と化してしばらく周辺界隈を賑わせた。

 もちろん、騒ぎを聞きつけて地元の警察や県警が動きはしたが、“花火”による悪影響が殆ど無かったこともあり、すぐに下火となって流された。

 結局あれは何だったのか? どこかの企業が起こしたパフォーマンスだとか、いやいや世間を騒がすどこぞの犯罪組織の仕業だとか、その他諸々根も葉もない噂だけが一人歩きし、それもやがて消えていった。

 そう、彼ら一般人の間ではそれだけの話だった。だがその裏方……彼らの見えない水面下で戦いを繰り広げていた者達にとっては、これで終わりではなかった。むしろ、これが始まりに過ぎなかったのだと思い知らされたのである。










 それはあまりにも……拍子抜けだった。

 「は……?」

 あっけない……。息切れしてまで膨らませた風船が小さな針を突き立てられただけで苦もなく破裂するように、どんな混乱の火種となるか分からなかったそれは結局、何の影響も及ぼす事はなく、大都会の上空で雲散霧消した。

 その様子をずっと見守っていたフェイト達もまた、何の波乱も巻き起こらなかった事に安堵しながら、言われえぬ不安と焦燥に心を駆られていた。

 「フェイトさん……」

 「阻止できたんですよね?」

 「多分そのはず……。でも、何かおかしい」

 何がおかしいのかは上手く説明はできない。だが、言い知れぬ違和感だけが確かに胸の奥でしこりのようにつっかえていた。

 「クククッ、引っ掛かった。面白いぐらい簡単に引っ掛かった!」

 「あれは一体何なんですか!? 何をしたんです!」

 「ボクだって馬鹿じゃない。そんなおいそれホイホイと言える訳ないじゃないか。そいじゃ、ボクはこの辺でお暇させてもらうよ。次に会えるのを楽しみにしてる……その時まで、首を洗って待っておくんだね、オリジナル」

 「待ちなさい!」

 「待てって言われて待つ馬鹿はいないってね。じゃあね~!」

 フェイトらの制止を聞き入れるはずもなく、マテリアルは助走をつけて空へと飛び立った。その後ろ姿は一瞬にして青空へと吸い込まれ、足取りも掴まれないように丁寧に気配まで消して何処へと消え去ってしまった。

 「フェイトさん!」

 「……嫌な予感がする。とにかく、至急作戦本部に帰還。話はそれから」

 「はい!」

 善は急げ。だが、この数分後に彼女は自分の感じた“嫌な予感”が現実のものだったと思い知らされる事になるのだった。










 その輝きは当然の如く、日常の水面下で人知れず戦いを交わしていた全員が目にしていた。

 特に何の遮蔽物もない空中、件のホテル街の上空に居たはやて達からはその一部始終がありのままに見えていた。最初に街で一番高いビルの屋上が真紅に輝いたかと思えば、暴虐の光が街中に向かって無慈悲に放たれ、その反対方向から飛来した桜色の閃光がそれを相殺する瞬間まで、全てを目撃していた。聡明な彼女はすぐに自分達の周囲の魔力が消失した原因がそのビルの上に陣取っている人物の仕業である事を看破し、すぐさま捕縛するべく行動を開始しようとした。

 だが、それは結局無意味に終わった。

 ブレイカーとデヴァステイターの接触した瞬間、刹那にも満たない一瞬の出来事だったが、互いの魔力の衝突によりエネルギーが周囲に光と言う現象となって発散された。その光量は凄まじく、許容量を越えた刺激を無意識にシャットアウトするように、その光をまともに見てしまった彼女らは──、

 「ヌオッ!!?」

 「な、なんや!?」

 カメラのフラッシュに思わず目を閉じてしまうのと同じ要領で、彼女らは一瞬目を塞いでしまった。網膜に焼きついた疼く感覚をなんとか堪え、萎んだ目を見開けば……

 「高町がなんとかやってくれたようです……」

 眼下には変わらぬ街並みが広がっていた。どこも破壊された跡は無く、親友のとっさの判断が上手く功を奏したのだと安堵できた。少し街の方が騒がしいのは季節外れな真昼の花火を見て浮き足立っているだけなので、実質この攻防はこちらの勝利で終わったはずだった。



 はずだった。



 「あ……れ?」

 それは悪趣味な間違い探し……。なんてことはない、さっきまであったものが今は無いというだけの簡単な子供騙し……そう、それは一瞬の隙を見計らって自分達の前から忽然と姿を消していた。

 「マテリアルはどこ行った?」

 気が付けば傍若無人な自称『王』はどこにも居らず、まるで煙のように消え果ててしまっていた。幻術にでもかけられたのかとも思ったが、あの戦闘の最中にそんなことが出来るほど器用な性格ではないことぐらい、オリジナルたるはやてが一番熟知していた。では一体いつの間に……彼女は姿を消したと言うのだろう?

 「主! 先程の砲撃は空中で相殺、無力化され街への被害はゼロで済んだ模様です」

 「そっか……ほな良かった。散らばった各隊との通信は?」

 「スターズ、ライトニング、ナンバーズ……三つとも損害無し。残り二体のマテリアルもほぼ同時に現場から姿を消したそうです」

 「……………………」

 「はやて? どうかしたか?」

 「二つの結界……見当違いからの砲撃……結界の破壊……同時撤退…………。なんや、なんかがおかしい!」

 思えば、今の今まで気が付かなかっただけでこの戦闘はどこかがおかしかった。

 何故彼女らはバラバラ、それも必要以上に距離を離した場所にそれぞれ出現したのか? 単にこちらの目を惹き付けるための陽動と戦力の分散が目的だとしても、連携を最初から度外視した距離での単独行動は意図が不明である。

 同時に結界を破壊したと言うのも気になる。他二体がどうだったかは知らないが、少なくとも自分達が相対した者に関しては終始まともに戦おうとする気迫を感じられなかった。もし仮に他二体が同じだったとしたなら、わざわざ出張ってきた彼女らの真の目的とは何だったのか?

 そして先ほどの砲撃……。こちらの戦闘に消費された余剰魔力の全てを吸収したにしては威力が低すぎる。かつて聖王教会本部の敷地内でそれを放った際、その一部区画を焼き払ったと言うのに、今回はそれより多い魔力を注ぎ込んでたったあれだけの威力……あの“13番目”がこれだけで事を終わらせるような人物ではないことぐらい察しがついて当たり前だった。

 まさか……!

 「さっきの砲撃も……陽動やった!?」

 街を焼き払うなどパフォーマンスにもならない三文芝居で、真の目的はそこではなく──、

 『八神司令。少しいいか?』

 ふと、通信回線が開いて誰かが話しかける。トーレだ。どうやら先にハラオウン宅へと帰還したようだ。

 「何か報告?」

 『ああ……非常に言い難いのだが……』

 『ちょっとトーレ姉! 余所見してる暇があったら手当ての手伝いしてよ!』

 「手当て? 誰か負傷したんか!?」

 『いや、外傷の類は全く無い。だが意識不明の重体だ』

 「意識……不明?」

 さっきの報告で各隊に損害が無いと聞いていた。それが本当だとするなら、その負傷者は……。

 「…………誰がやられた?」

 『……アルフとハラオウン統括官だ』










 午後16時00分。ハラオウン宅にて──。



 「一瞬の出来事だった……」

 そう語り始めたエイミィの表情は、いつもの陽気さがまるで嘘か冗談かのように思えるほど酷いものだった。怪我こそ負っていないものの、自分が目にした惨状が今でも信じられないのか、半ば放心状態のまま何があったのかと言う問いに答える。

 「迂闊だったの……あっちがシャマルと同じ【旅の鏡】を使えるってことを、見落としてた……」

 ……………………

 …………

 ……










 「お邪魔するよっと!」

 「あ、あなた達はっ……!?」

 「騒がないでください。無益な殺生は好みませんので」

 「こいつらぁ……! このっ!!」

 「犬は大人しく犬小屋で縮こまってればいいのさ!!」

 「うあっ!!」

 全ての部隊を吐き出せば本丸が丸裸になるのは当然で、無防備むき出しになったそこを突かれれば陣は崩れる。街中での砲撃の報告を受けた直後、一人は寝室の窓から豪快に、もう一人は敵陣であるにも関わらず堂々と玄関から侵入し、アルフの抵抗も虚しく瞬く間に家の中は二人の闖入者によって制圧されてしまった。

 リンディが本気を出せば如何に人外言えどもここまで呆気なく無力化される事など有り得なかっただろう。だが彼女には言うことを聞かざるを得ない理由があった。

 「エイミィさん……!」

 「おっと、一歩でも動くとこの人の命は保証できないよ、おばさん」

 死神が魂を刈り取ろうとするように、『力』のマテリアルが文字通り得物の鎌首を傾けてエイミィの首筋にあてがう。抵抗すれば彼女の首と胴体は泣き別れしてしまう……例え冗談だとしてもそれを実行に移すだろうと予感したリンディは一切の抵抗を画策するのをやめ、その意思と武器を持っていない事を示す為に両手を頭の後ろに回し、椅子から立ち上がった。

 「ほう、意外と聞き分けの良い……。賢明な判断だと褒めて遣わそう塵芥よ」

 そこへ更にヴォルケンリッター達が抑えていたはずのマテリアルまでもが姿を現した事にリンディはまたも驚きを禁じ得なかった。

 「案ずるな。我とて未だ本調子ではない故、小鴉どもを完膚なきまでに蹂躙し尽くす事は出来ん。今はな。それより、さっさと始めて終わらせんか……主殿よ」

 「っ!!?」

 いつの間にそこに居たのか、リンディのすぐ背後には何度も資料の写真で目にした彼の“13番目”がこちらを凝視していた。

 「……………………」

 まるで物言わぬ木偶……しかし、その鋭い眼光はまるで彼女を品定めでもしているかの様であり、全身を舐め回すように睥睨する彼の視線は圧倒的優位に立つ上位者のそれだった。

 「……なかなか良質だな」

 冷たい掌でリンディの頬を撫でながらトレーゼはそう評した。人体のモノとは思えない体温に身震いを抑えきれないリンディだったが、堪えると毅然とした態度で彼を睨み返した。

 「勝手に女性、それも未亡人の人肌に触れてはいけないわ。紳士としてあるまじき行いよ」

 「俺は貴様らと違って男女の別は問わないし、ましてや理解も出来ない。そも、女と言うのは股さえ開けば幾らでも子孫を増やせると聞くが?」

 「お生憎様。身も心も夫に捧げた女の意地を嘗めないことね。私を人質にしたいのでしたらどうぞご自由に。もし殺害すれば、私の自慢の息子と娘が黙っては……」

 「安心しろ塵芥。殺しなどと下賎な事はやらぬ。ただ……」

 眼前に紫色の本が浮かび上がる。独りでにバラバラと捲り上がるページはある境で止まり、そこから先は空白のページが広がっていた。

 「うぬにはこの魔導書の空白を埋める手伝いをしてもらう」

 「なん……っああぁ!!」

 それは肺から空気が一斉に抜け出すような未知の感覚……痛みは無く、単純な苦しさだけがリンディの胸を貫いた。胸元からは無骨な鋼鉄に覆われた腕、トレーゼの右腕が貫き、その拳には何かを握りこんでいた。

 「どうだ主殿よ」

 「やはり良質だ」

 シャマルの魔法、【旅の鏡】を使って抉り出したのはリンディのリンカーコア……。かつて闇の書事件においてヴォルケンリッターがそうした様に、今度はその構築体と手を組んだ最悪の敵がそれを使用していた。

 「あ……あぁっ!」

 「良い声で鳴きよるわ! それでこそ蒐集のしがいもあろうと言うものよ!」

 全身の筋肉が緊張を忘れ弛緩していく。それは命の炎が徐々に吸い尽くされていく感覚……張り詰めた心の琴線まで緩めてしまえば、その瞬間に事切れてしまう危うさ。決して傷つけられた訳ではなく、血を失った訳でもないのに、内蔵を鷲掴みにされたようなその苦しみは五体全てに滲み通った。もはや立っている事すらままならないはずだったが、胸を貫く腕こそがその支えになっていたのは皮肉としか思えない。。

 そんな生殺しの感覚がどれ程続いただろうか……。突き出ていた腕が引き抜かれると同時に彼女の肢体はその支えすら失い、遂にフローリングの上に身を投げ出すように倒れ込んだ。溢れ出るとまではいかなかったにしろ、いつも潤沢に感じられていたはずの魔力はもうその肉体には無く、それは全て紫色の魔導書に簒奪されていた。

 「ひい、ふう、みい……おお! 五ページか。予想以上の収穫であるぞ」

 「これでまた我らの野望成就にまた一歩……ですね」

 「それはそうとさ、こっちの二人どうする? 犬はともかく、こっちは見た感じだとそんなに魔力の量も質もなさげだけど?」

 「っ!」

 全員の視線が今度はエイミィに突き刺さる。人外の好奇の視線に晒されエイミィは思わず後ずさるが、部屋の壁がそれを阻む。

 その時……テーブルから何かが落ちた。

 「うん? 何だいこれは?」

 「そ、それは……!」

 それは夫クロノと二人の我が子、義母と義妹、家族六人で撮った写真が入った写真立てだった。落ちた衝撃でガラスに少しヒビが入ったそれを『力』のマテリアルが拾い上げ、しげしげと観察する。

 「へぇ~。人間はこんな風に過去の記録を未来まで残すのか」

 「か……返して!」

 「もう少し見せてくれたっていいじゃないか、ケチ!」

 「ああっ!!」

 「そこで大人しく寝転んでてね。ねぇねぇ、見てご覧よ王様! 可愛くないかい、この子供達」

 「童が見た目可愛らしいのは時代や洋の東西問わず常識よ。無知は罪だが、無垢は受け入れられるべき善性よ」

 『力』からそれを取り上げた『王』はしばらくそれを観察した後、何かに気付いた。

 「この男……見覚えがある。確かかつて我らを制した輩にこやつが居たぞ!」

 そう言って指差したのは一家の家長、クロノだった。確かに十三年前、彼もまたマテルアルとの戦いに尽力した一人だったのは覚えている。現地指揮を執っていた彼の明晰な頭脳と先見の明がなければ、三人がたった一晩で鎮圧される事もなかっただろう。それを思い出したのか、『王』の口元が三日月に歪む。

 「なあ、主殿よ。モノは相談なのだが、こうしてこのあばら家に上がり込んだのだ……どうせなら、ここの一族郎党全てを魔導書の糧に捧げると言うのも悪くはあるまい?」

 「っ!!?」

 「幸いにもこの女は多産の胎のよう……。この童らもあの男の寵児とあらば相当の魔力量を有しているやもしれぬ。ここは有効的に活用せぬ訳にはいかんだろう」

 「やめて……それだけは、やめてっ!!」

 「煩い塵芥よ……。おい、少しの間だけ黙らせろ」

 「御意。少しお下がりください」

 「カレルとリエラだけは……あの二人だけはっ!!」

 そのままエイミィは気絶したままのリンディ諸共部屋の奥へと引き摺り込まれていった。

 ……………………

 …………

 ……










 彼女が覚えているのはそこまでだった。そこから後の事は部屋の奥に閉じ込められていたので何も知らない。それから数分と経たずにトーレが戻ってきて救出されたが、その時既に“13番目”らの姿は無かった。

 「あの子達に何かあったら……私、いったいどうしたら……っ」

 「落ち着いてエイミィ。取り敢えず今は状況の確認と……義母さんとアルフの応急処置を」

 リンディらは奥の寝室で安静にさせている。闇の書によるリンカーコア蒐集がどんなものなのかフェイトは熟知している。あれをまともに受ければ長距離マラソンを休憩なしで完走したかの様な極大の疲労感に苛まれ、指一本動かす事が出来なくなるのだ。気絶や失神程度で済めばまだ良い方で、運が悪ければそれこそ死に至る事もある。

 幸いにして、アルフはフェイトからの魔力供給が潤沢だったのと、リンディは齢五十を過ぎてなお健康体だった事もあってか、リンカーコアの急性衰弱による一時的な意識不明と言うだけで収まった。シャマルの見立てでは目を覚ますのに十数時間掛かるかも知れないが、肉体に影響は無いとのこと。

 「やられたな。連中が一斉に出張って来たのは本丸であるここを丸裸にするのが目的だったようだ」

 「翠屋を狙うなんて真っ赤な嘘っぱち。“13番目”の行動は全員の注意を街中に向ける為のただの陽動……マテリアルの方はその陽動を覆い隠す更に陽動、裏の裏を掻かれたっちゅう事か」

 「あの時私がブレイカーで相殺した時、眩しく光ったのって……」

 「街全体に散った隊員らの視線がそこに集中しとるって見越して、接触した瞬間に魔力を全て光に変換させよったんや。なのはちゃんが迎撃する事まで予見して……」

 なんという茶番……完全に手の上で踊らされただけ。土地勘はこちらの方がありながら、それでなおこの体たらくはどうした事か。総指揮を執っていた者が早くも脱落を余儀なくされたと言う事実に、部隊には不穏な空気が蔓延していた。「このまま戦って果たして自分達に勝ち目があるのか」、そんな分かりやすい不安が広がりを見せる。特にナンバーズ、それもナカジマ組の三名はそれが顕著に思われた。ノーヴェの仇討ちのつもりでここまでやって来たものの、相対する存在が自分達の認識を超えている事を再確認しただけに終わるのではないのかと……。

 「あの時……無茶をしてでも一斉にかかっていれば!」

 オットーが悔しさを滲ませて呟くがもう遅い……相手は再び姿をくらませ、自分達の手の届かぬ場所へと逃げ果せた。万全とは言えないにしろこちらの布陣を見破り、それら全てを掻い潜り完璧に欺かれたとあれば、相手はもうこちらの攻略法を掴んでいるかも知れないのだから。

 「そう言えば、結界が破られる直前くらいにスバルを見たって言うてたよな?」

 「あ、それ私らッス!」

 「オーケー。後で詳細よろしく。なのはちゃんは本部に連絡取って。マテリアルの言った事が本当やとしたら、ここの家はもう危ないかも知れへん。今日中に皆をミッドに避難させる方が得策や」

 「この時間だとまだ二人とも学校に居るはず……。私が迎えに行きます!」

 そう言ってフェイトは飛び出すように部屋を出て、甥と姪が通う学校へと一直線に急いで行った。それを見送ったなのはも大至急で本部に通信を繋ぎ、医療班と治療室の準備を手配する。

 次いでナンバーズの面々がスバルの件についてはやてに報告するために一ヶ所に集合するが……

 「それより先に議論……いや、糾弾するべき事柄がある」

 ウェンディとセインが口を開くよりも先に、それでいて誰の口も挟ませない勢いと凄みを帯びて発言したのはトーレだった。その眼光はいつにも増して鋭く刺々しく、彼女が何かに憤怒しているのは誰の目からも明らかだった。

 「何やの? また何か文句でもあるんかいな」

 「部隊長の手を煩わせるまでもない。今回は……身内事だ」

 そう言って彼女の視線は妹のチンクを貫く。チンク自身も何か思い当たる節があるのか、僅かに目を逸らしてしまった。それが暗に自分の行いを認める行為と知ってか知らずかは分からないが、周りの姉妹はそれに気付けないほど愚鈍ではなかった。

 「チンク姉?」

 「答えろチンク。何故、あの時お前は“13番目”を攻撃しなかった。お前が手を伸ばせば届く距離にあいつは居たはずだ!」

 それは質問ですらなく、トーレ自身が言ったように糾弾……責任問題を追及する言葉の暴力だった。

 「ちょ、ちょっと! どう言うことだよチンク姉!」

 「どうもクソもあるか。こいつは抹殺すべき対象を前にしながら、よりにもよって投降を呼び掛けた。私の目は誤魔化せないぞ。これは隊全体に対する明らかな背信行為だ」

 「トーレ! いや、皆聞いてくれ! 我々がかつてそうだったように、兄上にもまた更正させる機会を与えるべきではないのか!」

 「我々が更正の機会を与えられたのは主犯が別に居たからだ。我々十二人全員が真の意味で結託した組織だったなら、管理局もお前達にそこまでの温情を掛けなかっただろう。だが奴に関しては違う。奴は奴自身の意思で無意味な暴虐の限りを尽くしているのだ! そんな者は当然粛清されるべきだと分からないのか!!」

 「しかし! 今回の作戦は明らかにその動機が不純だ。発端はただのエゴだ!」

 トーレの言うように、かつて“13番目”は自らの創造主ジェイル・スカリエッティを救い出す名目で動いているものと誰もが疑わず、同じナンバーズとして共感する部分が全く無い訳でも無かった。だが彼の真意は、堕落して旧いモノへと成り下がった今のナンバーズと創造主を修正し、自らと上位二名が新たなリーダーとして台頭すると言う身勝手極まりないものだと知り憤慨。更に彼がかつて偶然生み出されたトレーゼ本人ではなく、その彼を模したクローンだと判明した事で同情の余地は無いと言う結論に達し、こうしてトーレの提言により抹殺を決定した。

 確かにこうして見れば“13番目”の行いは流血の粛清を以てしてなお贖いきれない程の罪悪で満ち満ちている。だがかつて社会に対し大混乱を巻き起こしたのはナンバーズも同じ……それを主犯か共犯かの相違だけで対処に歴然の差を設けるのは見方によってはおかしな話になる。しかも、チンクが指摘するように殺処分の発端はナンバーズの総意が根底にある。これはジェイルが存命していた時点からそうであり、現に一度彼女らは“13番目”に対する方針を『処分』ではなく『捕獲』と定めていた。

 「思い出せ! 我々は最初どうして彼を受け入れる事を好意的に受け止めていた? 確かに多少なりの反発や確執はあっただろう。私とてノーヴェをあんな風にされたのは今でも我慢ならない。だが……だからと言って受け入れる事をせず排斥しては何の意味も無い! 和解の道を模索すべきだ!」

 「和解? 笑わせる。奴はナンバーズの名を騙る不届き者だ、これ以上我々の名を汚す前に決着を着けるべきだ」

 「……やはり、根底にあるのはそれか」

 「なに!?」

 「トーレ……あなたは単に自分が騙されたと思い込んでいるだけだ。愛した弟が偽者だと知り、その者を失った悲しみを“13番目”に怒りとしてぶつける事で緩和しようとしている。だが彼は……兄上は我々を堕落し、腐敗したと言っていた。それは『堕落する以前』、つまりナンバーズがまだ始まりの三人だけで構成されていた時代を誇りに思い、未だその妄執に囚われているからこそ俗世に塗れた我々を嫌悪するのではないのか」

 「Fの技術は記憶転写にこそある。偽物が記憶を継承していようが、それは見ず知らずの赤の他人が事情を見聞きして知っていると言う程度に他ならない」

 「口を開けば偽者、偽者と……。私は今日を含め、かつて三度兄上と相対した。その私だから今気付いた……兄上は、あの方はあなたの教えを守っているのだ。かつて教育者として自分を育成してくれたあなたに絶対の恩義を覚え、それを終生忘れぬためにと今も愚行を重ねている」

 「それがどうした」

 「彼の愚行を止められるのはトーレ、あなただけ。ここに居る全員が誰も彼の心を揺るがせず、誰も向き合おうとしないが、あなたはそれが出来る人だ。だがそのあなたは偽者と罵るばかりで彼と向き合おうとしない! あなたは……逃げているんだ」

 その瞬間、チンクは口の奥に鉄の味が広がるのを覚えた。頭がくらくらする、左頬が痛い……それが殴られた事による痛覚だと悟るのに時間は掛からない。

 「言わせておけば好き勝手に……! お前に何が分かる! どんなに想ってもあいつはいない。もうどこにもいない! お前にこの悲しみを千分の一でも理解出来ると言うのか!!」

 「落ち着いて、トーレ姉さん! チンク姉さんもいい加減にしてください。殺処分はチンク姉さんだって賛成してたじゃないですか」

 「言った事は覆さず有言実行が私の主義だ。だがトーレ、このままあなたが彼と向き合う事をしないのなら……私は降りさせてもらう」

 “降りる”……その言葉の意味するところに気付けない愚鈍な者はここにはいない。まるで宣戦布告のように言い放ったチンクを怨敵の如く睨み付けるトーレだったが、それ以上の暴行に出るような真似はせず、ただ一言……

 「腰抜けは不要だ。帰るなら帰れ」

 それだけ言い放ち、トーレは玄関へと足を向けた。

 「ど、どこ行くッスか?」

 「周辺哨戒だ。単独で行く……そんな腑抜けた者と一緒にいてはこちらまで白けるからな」

 当然、誰もその背を追わず、ましてや呼び止めようともしなかった。そのまま場には剣呑とした嫌な空気のみが残り、残された六人は沈黙の中に佇むより他はなかった。

 そんな重苦しい沈黙を破ったのは、それまでずっと蚊帳の外を決め込んでいたはやてだった。

 「はいはい。喧嘩するんやったら表に出てやってな。私は早いとこ報告内容の確認に移りたいんやけど」

 「八神司令、私は……!」

 「事情は後で聞く。っちゅうても、あんたの言いたい事はさっき聞いたし……」

 別段責める風でもなく、はやては頬を掻きながら面倒そうに嘆息を漏らすだけだった。はやてにとって真に面倒なのは、チンクの言動が造反行為と受け止められる事実より、彼女の言動に影響されて他の姉妹らが動揺し作戦に支障を来さないかどうかだけが重要な問題だった。恐らく教会組の三人を除けば後の三人は今回の作戦にある種懐疑的な面々だ。単純に自分の身内が受けた被害の差と言う事も根底にあるだろうが、この作戦に参加したのも上位者であるトーレの鼓舞があったからこそ彼女らは作戦に参加表明を出した。はやての見立てでは、彼女の檄が無ければナカジマ家の三人が作戦に参加する事はなかったと踏んでいた。

 「深入りはせん。元よりあんたら身内の問題や……納得が行くまで話し合ったらええ」

 「……申し訳ない。迷惑ばかりかける」

 「構わへんよ。ただし、作戦行動中は絶対に私情を挟まんこと。ええな?」

 チンクだけでなく、他の全員に言い渡すようにはやては勧告する。これで彼女らの間に意見の相違から成る不利益な諍いを抑止する事が出来るか定かではないが、少なくともこの場に限っては上手く収まった。

 (現地入り一日目で波乱万丈か……。この次は何が起こることやら)

 その疑問の答えは神のみぞ知る。










 同時刻、埠頭近くの人気のない道路にて──。



 「だっしゃあっ!!」

 腹の底の空気を吐き出すかのような怒声を聞いた者は幸い居らず、地下から脱出した彼女は人目につく事なくコンテナが並ぶ影へと身を潜める事に成功した。

 「やっぱり見つかっちゃった……。でも冷静に考えたらそうだよね」

 何の考えも無しに猪突猛進で解決するほど今回の問題は甘くはない……苦手分野の「頭を使う」ことをしなければ道は開けないと知り、スバルは自分の頭を精一杯回転させながら次の作戦を練ろうとした。もっとも、さっきの行動が作戦と呼べるほど高尚なものだったかと問われれば首を横に振らざるを得ないが……。

 「見つかったのがセインとウェンディで良かった。あれがもしトーレさんだったら……」

 考えたくもない。

 改めて周囲の魔力状況を確認する。この領域は先の戦闘で魔力を吸い尽くされ清々しいまでに閑散とした感じだが、街の方は砲撃同士のぶつかり合いで爆散した魔力が渦巻き、とても探索は出来そうにない環境が出来上がっていた。あの中に入り込んでなりを潜めていれば、昼間にも増して彼を見つけ出す事は不可能になる。

 「マッハキャリバー、街の方はどう?」

 『敵方の放った砲撃を高町一尉が空中で相殺。地表に被害は出なかったようです』

 「そっか……。さすがなのはさんだよね」

 恩師の凛々しく逞しい面影を思い浮かべながら、スバルはふと海に目を向けた。西の空に日が沈む様子を鏡のように跳ね返す水面は徐々に黒く染まり、水平線の向こうから夜の帷が下りようとするのがよく分かった。もうすぐここも宵闇に沈む。そうなる前にせめて雨風凌げる場所だけは確保しなければならない。最悪、また地下の方に逆戻りと言う事も視野に入れておかなければならないだろう。

 『下水の匂いが染みます』

 「やっぱり? 走ってる時に引っ掛けちゃったかな」

 ここが本当に人気のない場所で良かったと心底思う。隠れ家の選択肢から『地下』が強制除外された瞬間だった。

 『取りあえず、ここは潮風が身に沁みますから早く移動しましょう。ついでに私のボディも錆びそうです』

 「……そうだね。どこに行こっか……」

 待ち人が居るであろう街に背を向け、スバルは夕闇の中に姿を消した。そこにほんの僅かな体温と哀愁を残して……。










 結論から言えば、カレルとリエラの二人は無事だった。二人は何の問題もなくその日の授業を終え、いつも通りに昇降口で上履きを靴に履き替え、そして兄弟揃って下校してきた。

 迎えに行ったフェイトはすれ違いになる事も無く、人目の多い大通りで幾人かの同学年と一緒に談笑しながら歩く甥と姪を発見する事が出来た。

 「あ! フェイトさん」

 「本当だ。こんにちわ」

 遠い場所に居るはずの身内が海鳴に来ている事に驚きつつも、二人にそれ以上のリアクションは無く、フェイトは取り合えず安心できた。

 「今年のお仕事はもう終わったんですか?」

 「ううん。その仕事の関係で少しここに寄ってるの。二人とも今から帰りだよね? 一緒に帰ろう」

 「? は、はい」

 何があったか今は言わない……下手に動揺させてはいけないと思っての判断だった。

 だが……。

 「なあなあ、この人がさっき言ってた?」

 「うん。お父さんの妹さん。僕たちの叔母さんのフェイトさん」

 「私の話ししてたの?」

 「うん。さっきフェイトさんの知り合いって人からこれもらって……。渡してほしいって」

 そう言ってカレルはポケットから一枚の封筒を取り出し、フェイトに渡した。封筒の表面には一筆……「From No13 to F」とだけ記されていた。

 その文章を見た瞬間、フェイトは雷を受けたような衝撃に駆られ、カレルの肩をぐっと掴んだ。

 「その人、どんな感じの人だった!?」

 「えっ、えぇ!? えっと……」

 「男の人です。歳はフェイトさんより少し下ぐらいでした」

 「オレらも見てたよな。冬だってのに真っ白な服でジャンバーも無くてさ。寒くないのかよって思ってたけど」

 「髪は紫、眼は金ピカ。ありゃ見てくれ絶対に外国人だったよなー」

 「フェイトさん? どうしました?」

 「……………………」

 間違い無い。彼はハラオウンの家を襲撃したその足で学校を訪れ、二人に接触していたのだ。そして唯一健在な身内であるフェイトがいの一番に迎えに来るであろう事も予測して、何らかの伝言、あるいは警告をしたためた。

 「……これ、今見てもいいかな?」

 「多分……」

 わざわざ六課全員ではなく、フェイト個人に宛てて書かれたと言う事は、そこに何かしらの意味を込めてのこと……なら、確認するのは早いに越したことはない。

 「…………これって……」

 入っていたのは当然の如く手紙だった。ただ、書き手の感情を一方的に長ったらしく書き連ねただけのものではなく、簡潔に、そしてある種哲学的に、それはたった一行の文で占められていた。



 『Imitation transcends a genuine article.(偽物は本物を超える)』



 その言葉が示す真意を、この時フェイトは掴み損ねていた。










 「重畳重畳。此度の戦は勝ち戦よ。文句なしのな!」

 都内某所にて、三人のマテリアルは戦勝祝いと洒落こんでいた。祝いと言っても大層なものではなく、各々が椅子に座して今回の互いの働きを褒め称えているだけだ。

 「まこと、勝利とは心地の良いモノよ。これであの塵芥共に引導を渡せておれば言う事なしだったのだが」

 「そうカリカリすることもないんじゃないかな、王様。ご主人様だって時期尚早って言ってたけど、その内に正面切って堂々と戦える日が来る。借りとかツケはその時にまとめて利子込みで返してやろうじゃないか」

 「……………………」

 「まあ、長い目で見ればそうよな。ところで……そこな殲滅者はいつまで黙りこくっておる?」

 小さな宴が始まってからずっと、『理』のマテリアルは終始黙したまま何も語らず、ずっと機嫌が悪そうに居座っていた。

 「なぁんかイヤな事があったっぽいよ。詳しくは知らないけど」

 「……別に何でもありません。今回の戦いで、ヒトのやることは度し難いと実感しただけです」

 「その様子だと、何やら手酷くやられたようだな」

 「遅れは取っていません。ただ……少しばかり卑怯な手を使われまして」

 「卑怯? 何を阿呆なことを言っておるのだ。戦いに正々堂々などあるはずもなし、ただ勝ちを拾いに行くだけの行為に綺麗も汚いもあるものか」

 「私は戦士としてこの戦いに臨みました。それをあの者は横槍を入れ、私と彼女の戦いを穢した。何より、彼女がそれを良しとしていたのが許せない」

 「確かにね。元からそうしたかったんなら話は別だけど、口にしなくたって暗黙の了解ってのがあるしね~」

 「くだらぬくだらぬ! 何が戦士だ、何が暗黙の了解だ。結果的に勝ってしまえばそんなモノに意味はなく、負ければただ賊軍に堕ちるだけ。殲滅者よ、『理』を司りし者よ……うぬは戦の何たるかを心得ておらぬようじゃな」

 『王』の言い分は最もだ。大局的に物事を見つめ、全ての事象を盤上の駒として手繰る視点を持つ彼女だからこそ、結果的勝利にはこれっぽっちもこだわらない。最終的な勝利を納めた者こそが絶対的勝者であり、その後の支配者たる座に就けると知っているからだ。

 逆に『理』のマテリアルはその場その場の戦いにおける勝ち、即ち戦術的勝利を優先する。必要最低限ではなく、確実な勝利の積み重ねこそが常勝の秘訣だと信じて疑わない。今回の様な勝っても負けても構わないと言う曖昧な作戦は本来彼女の矜持に反するものであり、今回は相手が再戦を誓った相手だったと言う事と、指揮者の恩義に従って行動したまでに過ぎない。

 「お前は阿呆だ。戦いに理由を付けて、さもそれが高尚であるかのように語るが、それは戦いの前から理屈を付けて言い逃れをしているに過ぎん。途中から二対一になって敗北したのを、戦士の戦いを侮辱した……とな」

 「戦いを聖視することの何がいけないと? トレーゼ様は私がナノハと戦いたい事を見越して、私と彼女を引き合わせたのですよ」

 「それで負けてしまえば本末転倒であろうが。今回は勝ち負けにこだわらぬ戦いであった故、うぬの采配などどうでも良かったが、次がそう上手く行くとは限らぬ。ゆめ、忘れるでないぞ」

 「……分かっています」

 「難しい話はそこまでにしようか。せっかくの宴が白けるじゃないか」

 「そうだな。上に立つ王としての責務があるとは言え、我も少し熱くなりすぎた。赦せ」

 「はあ。ところで、トレーゼ様はどちらへ? 作戦が終わってからお姿が見えませんが?」

 「ああ、主殿ならば何やら用があるとかで外出された。あの御方のことだ、きっと次の布石を打っておるに違いない」










 一方その頃、当のトレーゼは街の片隅で雑踏に紛れて流浪していた。

 特に何をするでもない。いや、厳密には「している」のだが、常人にはそれが感知できない。少しばかり勘の鋭い者でも、何か雰囲気が違うと言う程度にしか感じられない。

 「これで街に散らばった魔力は大方回収できたか」

 彼が行なっていたのは、昼間自分が撃った砲撃が街全体に拡散させた魔力の回収だった。自分となのはの物が入り混じった魔力が混沌と渦巻くこの街から再びそれらを吸収すれば、この先少しでも自身の消費を軽減できる。物事は何でも積み重ねだ。

 『Return.(帰還してください)』

 「そうだな。連中に魔力の集束地点を割り出されたら厄介だ」

 上着のポケットからジャラジャラと金属が触れ合う音が鳴る。吸収した魔力は予め用意していたカートリッジにそのまま注入、いざと言う時に即座に使用できるようにしてある。これは自分だけで使い切るのではなく、住処に居座る同盟者の内二人にも配当する。『理』と『力』の二人はデバイスがベルカ式カートリッジに対応しており、魔力消費もバカにならないと踏んで正解だった。

 ふと、近くのショッピングモールから何やら音楽が流れてきた。最近やけに耳につくその歌はこの国の言語ではなく、遠く西の国が発祥の小難しい言葉を用いて作曲されていた。

 『Seemingly it is a song called "O Tannenbaum".(“モミの木”と言う歌のようです)』

 「モミ……?」

 トレーゼの視線の先にはクリスマスに向けて煌びやかに装飾された小振りな針葉樹が佇立しており、天辺にはアルミ製の星形が被せられていた。

 今日、これが「モミ」と言う名前である事を知る人間は少ない部類に入る。トレーゼ自身、マキナに言われるまでこの樹木の名前なんて知りもしなかったし、知ろうとも思わなかった。だが一つだけ、確実に分かる事があった。

 「これが木なものか……」

 電飾に彩られ、もはや立っている以外に樹木本来の用途すら無くしたそれを彼は樹木とは認めなかった。自然の木は決して飾られない。何故なら、飾るほど美しくはないからだ。自生した自然物は人的な感覚で言う美しさとは程遠く、飾ったところで素材が醜ければ意味はない。

 だがこの木は飾られて映える。それはつまり、飾られなければ美しくなれない事でもあるのだ。自らの力で醜くも美しくもなれないモノ……第三者の外的要因が無ければ自己を定義付けられない存在など、今の彼にとっては一番唾棄すべきモノでしかなかった。

 「……戻るか」

 今頃あの三人は宛てがわれた部屋で小宴会でもやっているに違いない。一人だけ理知的な者がいるのでストッパーにはなるだろうが、どんちゃん騒ぎを起こされてもこちらが困るだけ……早急に帰ってこちらが睨みを利かせていた方がよっぽど良い。

 今回の一件であの三人の有用性はある程度確認できた。過剰な力は時として自滅の要因足り得るが、それは己でその力を御せなかった場合の話……あの三人はそれぞれが別のベクトルを向いているようで、その実たった一つの目的のためにある種の団結を組んでいる。言わば、互いが互いを御し、助長する間柄でもあるのだ。自分はその全体が暴走しないかどうかを彼女らより距離を置いた視点から監視すればいい。それでしばらくは使える。

 もし彼女らが自分達の目的を優先し、こちらとの同盟を蔑ろにする気配を感じればすぐにでも切り落とす……従順さだけが取り柄なのだから、それさえ喪失してしまえば用は無い。切り捨て方も、あの三人と六課をぶつけ、互いに疲弊しきった所で叩けば問題は無い。元より、徹頭徹尾あちらの都合に合わせる必要はないのだ。あちらがある程度力を付け自立する頃合いを見計らってから使い魔契約を破棄し、その後は放置する。そこから先は一定量の供給を断たれた事による一時的な弱体化等々はあるだろうが、そこで消滅するならそこまでだったというだけだ……消滅すればそれで良し、肉体を維持できて更に魔力蒐集も行えるだけの実力もあれば、もうこちらの魔力を付け狙う必要も無くなるので、どちらに転んでも結果としてこちらにとっては無害になる。

 ふと、ここで突如脳裏に念話が響いた。

 ≪酒だ酒ぇ! 酒もってこぉ~い!≫

 「っ!?」

 鬱陶しいまでにエネルギッシュなこの声は、確か『王』のマテリアルのもの。わざわざ念話を使ってまで何を騒いでいるのか頭を抱えたくなる。

 ≪すみません、トレーゼ様。此度の戦勝に興奮してしまったようで、先ほどから意味不明な言葉を口走っているだけです。適当に聞き流してください≫

 ≪そうだそうだ~! 酒は別にいらないけど、肉もってこい肉~!! じゃないと次から働いてやんないからな~!!≫

 ≪そうとも、腹が減っては戦はできん! 肉だ、王たる我は肉を所望する!≫

 (魔力を受けていれば腹なんか減らないはずだろう……)

 とは言うものの、今後こちらに対する不満でまともに動かないことがあって困るのはこちらだけ……ここは適当に聞いておいて機嫌を取っておくに越した事はない。

 ≪分かった。適当に入手しておく。だから騒ぐな≫

 ≪ホント!? やったぁー!≫

 ≪流石は主殿よ。物分かりが良い!≫

 ≪申し訳ありません。私からは言い聞かせておきます≫

 それだけ言って念話の向こうは切断された。本当にわがままな連中だと内心嘆息するが、それだけで言う事を聞くなら安いものだ。

 早く終わらせて戻ろう……。










 17時23分、高町家にて──。



 「話しは大体フェイトちゃんから聞いてるわ」

 「そう。だったら……」

 「でも、フェイトちゃんにも言ったことだけど、私達は大丈夫よ」

 「お母さんは楽天家なんだから……」

 予定外とは言え、久々に実家に帰って来れたなのはは変わりない父と母を見てひとまず安心できた。テロリストを家に入れていたと聞いた時は生きた心地がしなかったが、当の家族はまったく元気だったのが救いだった。

 「お父さんやお母さんは何とも無かったかも知れないけど……向こうじゃヴィヴィオだって酷い目にあったんだから……」

 「そうは言っても、やっぱり私はあの子が思ってる以上に悪人だと思えないのよ。士郎さんだって、何だかんだ言いながら気に入ってたでしょう、あの子のこと」

 「まあね。ちょっと頑ななところは多々あるけど、彼は殻に閉じ籠っている人間だから自分から悪い事はしない。良い事もしないけどね」

 「でもっ、現に彼は自分の意思で事件を……」

 「いいかい、なのは。彼を擁護するわけじゃないし、彼がとても庇いきれる罪状に留まらないのは知ってるよ。でも、魔が差したとか言われるように、やって来た行いそのものは綿密で繊細な計算によって行われた事でも、その始まりは意外と単純で衝動的だったりすることが多いんだ。父さん自身、そういった人を沢山見てきたからね……」

 実父がかつて要人警護のSPとして勤務してたのは知っている……武道有段者としての腕を買われ、自爆テロで職を辞するまで何人もの下手人をひっ捕らえ、公的機関に引き渡した実績を持つ彼だからこそ、突発的な衝動に駆られて罪を犯す者の心理を把握しているのかも知れない。

 だが彼の言い分が仮に正しければ、その原因となったモノや現象が必ずあるという事になる。自身の主義思想から起因する内的なものでなければ、第三者からの影響による外的要因しか考えられない。だがその外的要因が何なのか分からない……。なのは自身、多少なりとも人の事を見極める目を持っているつもりだったが今回ばかりは相手が何を考えているのかがまるで分からなかった。

 「私、もう何がなんだか分からなくなってきた……」

 「…………なのは、あなたは賢い子よ。こう言ったら他の子をバカにしてるみたいだけど、同じ年代の誰よりもあなたは賢くて、聡い子だって自慢できるわ」

 「ちょっとどうしちゃったの母さん。急にそんな事……」

 「それに士郎さん譲りなのかしら……三人兄妹の中で一番正義感に溢れてて、他人が誰かを泣かせていたら我慢できない性格をしてる。でもね、なのは……」



 「正義だけで割り切れるほど、世の中って甘くないのよ」



 桃子のその言葉は、それまで不偏の価値観と正義感に基づいて行動していたなのはの胸中に静かな一石を投じた。

 正しさだけでは割り切れない事もあると言うのは耳にした事ぐらいはある……だが自分の人生は割と恵まれていた方だと自覚していたし、そこまでの衝動を覚える理不尽すら経験した事は無かった彼女にとって、善悪で割断できない物事の詳細が言われてピンとくるはずも無かった。正しい事は正しく、間違っている事は間違いなのだと両断できるモノではないのか? 灰色などこの世にあっていいものなのかさえ分からないのに……。

 「もうちょっと年をとれば分かるかしら。正しさだけじゃ人は救えないって事が……」

 「でも……正しくなかったら人は守れないよね?」

 「そうね。それが大人の難しいところよ」

 最後の部分をはぐらかされたのは、「答えは自分で考えなさい」と言う意味だと受け取ったなのははそれ以上の問答を止めた。元より、これはナンバーズを発端にしているのであり、自分が関わってどうこうするべき問題ではない。皆子供ではないから取っ組み合いの喧嘩などはしないだろうが、それでも今日の一件でチンクとトーレらの関係が少なからずこじれるのは目に見えている。上手い具合にはやてが取り持ってくれるだろうが、均衡が保たれている間に事件が解決するかどうか……。

 「そうそう、恭也の部屋を彼が使ってたって話はしたな。今日少し掃除を兼ねて部屋に入ったんだけど、そしたら机の引き出しからこれが出て来たんだ」

 「これ……」

 士郎が持ってきたのは、手紙を入れた封筒だった。開封された様子は無く、中には手付かずの手紙がそのまま保存されていた。

 「元々はフェイトちゃんがあの子に届けたものらしいんだけど……代わりになのはが渡しておいてくれない?」

 「えっ? う、うん……渡せるなら、渡しておくね」

 ティアナから捕まえ次第すぐに抹殺だと言う事を聞いていなかったのか、あるいは知っていて無視しているのかは分からないが、両親の頼みを面と向かって断り切れなかったなのははそのまま手紙を受け取り、ジャケットの懐に滑り込ませた。もっとも、フェイトが直接渡して目を通さなかった以上、自分が渡したところで果たして読むだろうか。いやそれ以前に、手渡す事さえ出来ないだろう。

 ふと、風に揺られて窓が鳴る……。

 「雪風かしら? 今年は暖かいと思ってたんだけど、やっぱり冬だから急に寒くなるものよね。そう言えば、前に顔を見せてくれた、えっと……エリオ君にキャロちゃんだっけ? 子供は風の子なんて言ってた事もあったけど、ちゃんと健康には気を付けてるのかしら」

 「フェイトちゃんは少し過保護なところもあるけど、健康面は一番気を遣ってるから大丈夫だよ。今頃二人とも────」










 「はい、キャロ」

 「ありがと、エリオ君」

 日が沈み、黄昏に染まる海鳴の街の一角にてエリオとキャロの二人組はとあるショッピングモールの入り口にある自販機前で小休止を挟んでいた。周辺の哨戒を予定通りに終えた二人は帰還の途中にここへ立ち寄り、冷えた体を温めるために一本ずつ缶コーヒーを購入した。随分離れた場所まで来たが、街の地理は三年前に来た時に覚えたので道に迷う事はない。

 「今頃、リンディさん達ミッドに着いたかな?」

 「たぶん……。カレル君たちはしばらく休学扱いって事で学校には知らせるって言ってた」

 「そっか。…………チンクさん、やっぱり抜けるのかな、この作戦」

 「どうだろ……。元々チンクさんは私情とかで動く人じゃなさそうだから、上の人にやれって言われたらやるかも知れないけど……」

 二人が予想するようにチンクは私情では動きにくい。良くも悪くも論理的で理屈で動こうとする。現に、今回作戦に同行したナンバーズ七人の中では“13番目”に対する憎悪や執着は最も薄く、潔く投降するのを勧めたぐらいだ。

 逆にそんな彼女だからこそ、強権をかざして有無を言わせずに命令すれば実行に移す可能性もある。この作戦に参加したきっかけも、トーレの扇動があったという部分もある。そう言う所を加味して考えれば、むしろ強く言う事で実行するなら是が否にでもそうさせるべきだと言う結論に達するだろう。だがそれでは何かが違うと、エリオとキャロは漠然とした思いを抱いていた。

 「みんな何かしらの思惑はあっても、この作戦には自分の意思で参加したはずなんだ……。それを他人が捻じ曲げてしまっていいはずがない」

 「……エリオ君は、あの人に……トレーゼさんに会いたいんだよね?」

 無言で頷くエリオ。自分やフェイトと同じ、『望まれて作り出され、望まれなくなったモノ』……そこにはもしかしたら、ひょっとすれば自分達にしか共有できない“何か”があり、その“何か”を鋭く突くことで精神的超人たる彼の心理に何かしらの影響を与える事が出来るのではないか? 彼の歪んだ心理を少しでも理解できるのではないだろうかと……そんな淡い期待を抱いていた。



 そして、それは早くも崩れ去った……。



 「エ、エリオ君……!」

 「どうしたの!?」

 急に連れの様子が急変した事にエリオは驚きを禁じ得なかった。火事場の何とかと言う奴か、普段決して力持ちではない彼女が手の空き缶を凹ませてしまうぐらい驚愕していたことからも、その異常事態が窺える。

 見開かれた彼女の視線はすぐ近く、出入口脇にある駐輪スペースに向けられており、夕暮れ時の買い物客らが自転車を置き、あるいは置いていた自転車を起こして帰宅する場所……その有り触れた日常の風景に……

 彼、“13番目”の姿はあった。

 「────ほぅ、奇遇だな」

 そしてこちらの視線に彼が気付かぬ道理は無く、振り向いた瞬間、凍りつく様な底無しの瞳が二人を射抜いた。そこに敵意や殺意は微塵も感じられず、ただそこに居てたまたま目に付いた、と言う程度の軽い挙動。そこに大した意味は無く、次の瞬間に彼は気にも留めない様子でその場を後にしようとしていた。

 「ま、待ってください!」

 当然、こんな好機をエリオが逃がすはずがない。瞬く間にその距離を詰め、立ち去ろうとする彼の眼前へと立ち塞がって見せた。

 「やっと見つけた……!」

 「…………それで? 見つけてどうする?」

 「あなたに聞いてもらいたい話があります」

 背後から追いついたキャロが挟み込み、これで逃げ場は無くなった。

 「No.5と言い、貴様らと言い、管理局はいつの間に日和見主義になった? 辺境くんだりまで来て敵と茶飲み話か?」

 「別にそう言うわけじゃありません」

 「じゃあ何だ。言っておくが、俺の指の動き一つで周辺の金属加工物を危険物に変換する事も出来るんだぞ。その前に味方の一人や二人呼んでおいて損は無いと思うが」

 「私とエリオ君は……戦いに来たんじゃないんです!」

 「……解せない。貴様らと俺の間に交渉の余地などありはしないと言うのに……」

 「……………………」

 「……………………」

 「……投降しろ、とかの類なら聞かん。だが……それ以外であれば聞いてやらないでもない」

 「っ! それじゃあ……」

 「場所を変えるぞ。ここは人目につくからな……」

 そう言ってトレーゼは歩き出し、何も知らない二人はその後を追って宵闇の街、その奥へと向かって行った。





 この時、二人は知らない。

 目の前に居る男の抱える闇、それはもはや凝固し、結晶化し、決して綻ばず流動的なものではなくなっているのだと……。

 自分達程度の信念では絶対に揺らぐ事はなく、壊せないのだと理解するのは……これより少し後の事だった。



[17818] Birds of a feather
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2012/02/17 21:06
 「ドリー」、と言う名前は世界的にも有名だ。人類初の哺乳類の体細胞クローンである雌羊……その名前がドリーである。

 1996年、スコットランドのロスリン研究所にて6歳の雌羊の体細胞を採取し、その核部分を人為的に除去、代わりに胚細胞を移植すると言う技術によって誕生した。この成果は世界中の学会に波紋を呼び起こし、以降十数年における生物工学、そのクローン技術における発展の礎にもなった事はあまりにも有名である。

 クローン技術は未だ問題や改善点も多く、コスト面でも気軽に使えるものではないが、本格的に実用化されれば人口増加に伴う慢性的な食糧問題などを解決できる手段として期待されている。マウス、ネコ、イヌ、ウシ……現在学会に報告されている実例は哺乳類に限っても多くあり、全く同一の遺伝子を持つ個体の複数培養に成功している。

 だがしかし、公になっていないだけで実際どうなのかは誰も与り知らない事ではあるが……人間、ヒト由来のクローン生命は技術が確立して以来、ただの一度も生み出されてはいなかった。

 単純な話、人権問題に抵触するのだ。仮に医療用と言う名目で一体丸ごと生み出したとして、明確な意識や人格、個人としての意思を持つ存在であるそれを単に臓器移植の「ストック」と言う扱いでいいはずがない……と言うのが人権団体の見解である。人間として生まれれば基本的人権が発生し、その基本的人権を有する限りにおいてそれらを侵害する事は誰にも、如何なる権力者であっても許容されないと、社会が、国が、世界がそう定めているからだ。

 次にヒトクローンの創造に反対したのは、大小を問わない宗教団体だった。元々、民衆がクローン技術のあらましを知った時、最初に思い浮かべたのは……「死者の蘇生」。同一の個体を新たな命として生み出せるなら、過去に何らかの不幸により死別した者を仮初ながら蘇らせることが出来るのではないかと……。だが一度死した者を蘇らせる事は神の意志、ひいては自然の摂理に反するとして洋の東西を問わずあらゆる宗教団体からバッシングを受けた。生者は母の胎から生まれ出るからこそ生者なのであり、墓穴から出る者は如何に飾ろうとも骸に過ぎないのである。

 もっとも、クローン技術を用いて生み出される個体は元の個体と遺伝子が同一と言うだけであり、記憶も引き継いでいなければ年齢の相違もあり、全く同じ人物を生み出せるとは限らない。死に別れた者と同じ姿形をしていようとも、親兄弟の温もりも、腐れ縁の固い友情も、想い人との睦言も、その者はまるで憶えてはいないのだ。記憶を引き継がせる手段は今は無く、そしてこれからも編み出される事は無いだろう。



 だが、それはあくまでこの地球の話しだ。



 記憶転写型クローン……通称『F.A.T.E』。それが管理世界ミッドチルダで密かに確立された、「完全なる死者蘇生」を目指したクローン技術である。

 元からある何者かの脳に記憶を「継承」させるのではなく、予め量子変換された記憶データを元から手を付けていない空っぽの脳髄に「転写」する事で死者の記憶を復元させるのがこの死者蘇生法の要。アナログの脳記憶をデジタルに変換する時点で既に常人には思いついても実行には移さないような術式だが、過去にそれを実行に移した人間は三人……そして、その結果生まれた試験体も都合三体。

 魔導運用学に多大な功績をもたらした大魔導師、プレシア・テスタロッサは事故で亡くした愛娘を数十年掛かって「蘇生」させた。

 資産家であり多額の資金を有していたモンディアル夫妻は違法と知りながらこの技術に接触し、幼くして病死していた一人息子を「蘇え」らせた。

 そして……偶然誕生した新生物の「量産」を狙ってハルト・ギルガスはトレーゼのコピーに挑んだ。

 彼らはオリジナルの記憶を持ち、肉体も精神もオリジナルと全く同位の存在として創造された。その一点だけを見れば三人はそれぞれ境遇は違えど、生まれ出るに際して何らかの人々の想念が関わっていた事が分かる。

 プレシアはかつて自分が享受するはずだった幸福な人生を取り戻したくて、その第一歩として娘を蘇らせようとした。

 モンディアル夫妻は幼くして病死してしまった息子を不憫に想うあまり、違法技術に投資してまで蘇生に全てを懸けた。

 だが、プレシアは自身の理想が高すぎた……。『F.A.T.E』は記憶を写す事に特化した技術であり、大元のクローン技術そのものは危険性や矛盾を含む技術に過ぎない事を忘失していたのだ。結果、彼女は自身の生み出した試験体に満足が行かず、生まれた少女は「アリシア」の名前は与えられず、プロジェクトの代名詞たる「フェイト」の烙印を捺されてしまった。彼女が完璧を求めず、ある一点で妥協をしておけば病的な妄執に囚われる事も無かっただろうが……天才故の傲慢さが仇となった。

 平和な一時こそを愛していたモンディアル夫妻はそうではなかった。息子と同じ顔、同じ背丈、同じ声……それを同じように再現したのなら文句は無いと、彼らは家族としての日常を再開させた。だが、如何せん我が子を愛する心が足りなかった。単純に違法行為に手を染めた事に対する罪悪感が大きかったのか、それとも我が胎を痛めて産んだ者ではなかった事が起因したのか今となっては分からないが、それでも夫妻は「エリオ」を簡単に手放してしまった。手塩にかけて、或いはこれから育てていくはずだった彼を、二人の親は真実を知られてしまっただけで放逐したのである。

 このように、たった二人だけの事例を見ても、亡くした者を蘇らせようとする者の想念と言うモノを窺わせる。ある種、狂信的とも言えるそれらを糧に彼らは仮初とは言えそれを成し遂げた。

 そして、その二例から見ても“彼”の出自は度を越して異常としか言い様が無い。

 生み出されるに当たって狂信的な想念が関わっている点では同じだ。だが、前者二人が純粋な「死者の蘇生」と言う人として真っ当とも言える想いの成就を目的としたのに対し、彼は……トレーゼはその時点で既に食い違っている。

 彼は、彼だけはヒトではなくモノとしての復活を期待されて生まれ落ちた。強力無比にして純然たる確実性を備えた人型の兵器……人間より強く、人間より速く、人間より頑丈に、より道具に近しい存在としての「大量生産」を目的として生まれた。文字通り、論ずるに当たっての土俵が違うのだ。

 そんな彼に対し、エリオはたった一人の同種としての相対を望んだ。










 「ここでいいか……」

 小一時間ほど歩いたトレーゼらが辿り着いたのは、街の外れにある川沿いの河川敷。時刻は既に午後六時を回り、川の辺りは遠くに見える街灯のみを光源にしているだけで周囲は暗黒に沈んでいた。闇討ちや事前にトラップを仕掛けておくには絶好のポイントだが、自分から会談を申し込んでおいて今更場所の変更を要求するような真似は出来ない……仕方なくエリオとキャロはトレーゼの決めたこの場所を承諾する事を選んだ。

 「……ここでなら、話しに応じてくれるんですね?」

 「ああ。だがその前に……やる事がある。……おい、そろそろ出て来い」

 「っ!?」

 その一声と共に周囲に気配が増えた。それらの主は勿体付けずすぐに姿を現し、その時には既にエリオらを取り囲む形を取っていた。

 「数時間振りだね。ようこそ、この暗闇奏でる万魔殿へ。歓迎するよ」

 「なにが万魔殿だ。ただの寂れた河原であろうが。こんな所を我らが居城といい加減な事を吹聴するでないわ」

 「よろしいではないですか。古代に生きた西方の偉人曰く、客人を招くにおいても王の器は問われるのですよ?」

 暗闇を掻き分けて現れたるは、ついぞ昼間に自分達を茶番に嵌め悠々と去って行った三人の魔人……マテリアルだった。予め用意されていたのか服装は一見普通の冬服を着込んでおり、得物の類は持っていないようだった。だがその無形の圧力は推して計るべし……闇討ちを警戒していたエリオらを圧倒する程の圧が今この暗闇を満たしていた。

 「おや……我の気のせいか? この少年、そこいらの塵芥とは匂いが違うな」

 「やっぱ王様も分かるのかい? この子、『作られてる』みたいなんだ。結構精巧に出来てるよこの子」

 「ほう、人形と言うわけですか」

 「っ、僕は人形じゃない! 人間だ!」

 無礼を通り越しもはや辱めの意味すら込められたその言葉にエリオは反発した。自分は人間だと強い自負と誇りを持っていたからこそ、そこに土足で踏み込むような真似を許せなかったのだ。

 「母親の胎から産まれた訳ではないうぬが人間とな。千年の長きに渡る生の中でお前のようなモノを幾度目にしてきたことか。笑わせるでないヒトガタよ、人間と似通った部分など精々傷付けば赤い血を流す程度であろうよ!」

 「この子だけじゃないよ。ボクのオリジナルもこの子と同じように『作られて』るのさ。ホントに昔から好きだよね人間ってのはこう言うのが」

 「そんなに怒らなくても良いのですよ、少年。我々が……闇の書が健在だったほんの数百年前までは王侯貴族らの間で複製や人造生命などは山の様に造られました。時代が移ってほんの少し常識が変わっただけで、人間の本質と言うモノはそうそう変わりません。何も恥じ入る事はないのですよ?」

 「恥に思っているわけじゃない! 僕はただ……」

 「ガタガタやかましいぞ塵芥。論ずるより先に、まずはやるべき事があるではないか……」

 そう言いながら『王』は足元に置かれた何かを拾い上げた。それは暗闇に映える白色をしており、大人の頭ほどの大きさのその形状はまるでバケツだった。いや、実際それは入れ物としての機能を持っていたし、既に底の部分には目的の物が入れられていた。

 「それって……何ですか?」

 エリオの気持ちを代弁し、キャロが疑問の声を投げかける。おそらくここに居るのがなのはやフェイト、はやてなどの日本人であればすぐにでも分かっただろうが、日本文化に縁の薄い二人では分からないのは至極当然。

 『王』が掲げるその器具は……

 「野外における特殊火鉢! その名も『シチリン』!」

 「木炭コンロとも言います」



 七輪……それは、軽量かつコンパクトで移動が容易な調理用の炉である。



 「そこの不法投棄場を漁ったら出てきました」

 「ついでに上に乗せる網もあったぞ。これで肉が焼けるね!」

 「……あの、いったい何を……?」

 「見て分からんか。愚鈍だな」

 その時初めてエリオとキャロはトレーゼがずっとビニール袋を手に持っているのに注目した。それまでずっと見て見ぬふりをしていたが、袋の表面にはスーパーマーケットのロゴが刷られており、彼がその店舗で何かを大量に購入した事を示していた。

 その中身は……

 「腹ごしらえをせねば戦は出来ぬ」

 大量の肉だった。










 その頃、ハラオウン宅では一家のミッドへの避難が滞りなく行われようとしていた。兄妹に事情を話して最低限の荷物を整える頃には日が暮れ、時刻は18時14分を指し示していた。

 「じゃあ、後はお願いねフェイトちゃん」

 「任せてエイミィ。母さんをよろしく」

 「本当は私も残ってみんなのサポートしてあげたいけど……」

 「エイミィにはカレルとリエラも居るんだから。ちゃんと二人を守ってあげてね」

 「うん……。定期的に連絡はちょうだい。私も落ち着いたらちゃんと近況を知らせるから」

 「うん」

 それから間もなく、ハラオウン一家とアルフを含む一行は先に迎えに来ていた管理局員に誘導されてクラナガンへと急遽避難できた。

 「八神司令、少しお時間よろしいでしょうか?」

 「はい。なんでしょう?」

 局員の一人がはやてに近寄って確認を取る。

 「クロノ・ハラオウン提督とヤガミ一等陸尉より伝言を伝えてほしいとの旨を預かってきました」

 「伝言、ですか?」

 「はい。提督からは、『明日か明後日の内に強力な助っ人をそちらに送る。それまで耐えてほしい』と」

 「助っ人?」

 あのクロノがそう太鼓判を押すからには相当な人物が派遣されてくるはずだが、現時点で手隙の局員でそれに該当するだけの実力者にはやてはまるで思い当たる節が無い。

 「一尉からは、『こちらはこちらでやる事が山積みだから、そちらには行けそうにはない』とのことです」

 それはむしろ予測していた事だ。あの義弟は職務に忠実だから、簡単にはこちらに手は回さないと言う事ぐらい百も承知だった。だがそうなるとますますクロノの言う“助っ人”が何者なのかが分からない。

 「それでは」

 「ご苦労様です」

 程なくして局員は去り、本来の住人を一人残したハラオウン宅には静寂が戻った。たまに話し声がちらほらと聞こえはするが、それもすぐに立ち消えになってしまう。

 原因はやはり、ナンバーズの七人にあった。

 「……………………」

 「……………………」

 陰鬱になっている大元の原因は現着一日目にして発覚したトーレとチンクの確執だが、その波紋は思った以上に深刻な影響をチームに波及させていた。

 全員が“13番目”に対し何かしらの思うところがあって参加を表明したこの任務において、「身内の仇を討ちたい」と言うのが自分達の共通の認識だと思い込んでいただけに、今回のチンクの発言はその常識を根底から覆すものだった。ナンバーズ最大の被害者たるノーヴェ……そのノーヴェを教育したチンクにとって今回の一件はとても許せるものではないはずだった。そのチンクが“13番目”への憎しみに最も遠い存在だと誰が予想できただろうか。

 結果、隊の中には疑心暗鬼が生まれる。それまで自分が常識として抱いていた感覚が、たった一人を端に発して実は違っていたと発覚すればそこから先は皆口に出さなくても互いを疑いだす。なまじ本心をさらけ出す口論に発展しなかったのが痛かった。喧嘩じみた言い合いでも、互いの意思を確認する事さえできれば事態は好転したかも知れない。少なくとも互いが互いを疑いの目で見つめる事にはならなかったはずだ。

 (真綿で首絞めるみたいやな……。人間関係が確実に自滅コース突っ走ってる)

 今はただ、作戦行動中に致命的な綻びが生まれない事を祈るしかない。

 「うん……うん、わかった。帰りは気をつけて帰ってきてね」

 ふと、ケータイの通話のためにベランダに出ていたフェイトが戻ってきた。口調や会話の内容からして、相手は恐らくエリオとキャロだろうと推測できた。

 「なんて?」

 「帰りは二人で軽く食べてくるから、晩御飯は要らないって」

 「そっか……」

 二人とももう子供とは呼べない年齢になってきている……少しくらい余裕を持って放任してもいい頃だろう。そう思ってフェイトもはやても、その事はそう追及せずにさらりと受け流したのだった。

 「なのはちゃんの方もそろそろ戻るらしいよ。なんや桃子さんから預かりものがあるって言うてたけど……」

 「そうなんだ。あの人たちって、私たちが言うのもなんだけど、妙に落ち着いてるよね」

 「肝っ玉がデカいんやろなあ、あの人は。冷静に考えりゃ大変な事やのに、あの人らが言うと本当に大丈夫なように思えるで不思議やわ」

 街の哨戒は目鼻が利くヴォルケンリッターに一任している。個々人のカバーできる活動範囲が広く、なおかつこの街の地理を完璧に把握できているのはあの四人を置いて他には居ない。どんな微細な反応も逃す事無く報告するように命令しているが今のところ報告は無い。

 「今日は何も起こらへん……かな」










 「それもう焼けてるんじゃない?」

 「甘いですね。牛タンは表30秒、裏15秒と決まっているものなのです」

 「なら王たる我が全部味見してやろうぞ」

 「何をするのですか。今食べた物を吐き出してください」

 「フン! 我の物は我の物、うぬの物も我の物よ! 余所見をする方が悪いのだ」

 「王様のトリ肉もーらい!」

 「貴様ッ! 我が丹念に焼き上げたモモを横から掻っ攫うとは……! 許せん! 我が直々に裁いてくれる!」

 「……黙って食え」

 冬の夜中、河川敷の暗闇の中で決行された物騒な晩餐会は予想外の客人を招き入れたことで図らずも騒がしいものへと発展していた。周囲に肉を焦がした匂いと煙が舞い上がり、女性三人分のかしましい喧騒が川面に消える。だが実際にはあと三人分の存在がそこで利き腕を動かしていたのだった。

 「……………………」

 「……………………」

 「……どうした。俺に言いたいこと、聞きたいことがあるのだろう?」

 延々と黙りこくっているエリオとキャロを一瞥もせずにトレーゼは先を促した。肉付きの良い手羽元を一気に五本も食べ尽くし、その意識は完全に食事に注がれているようにも見えた。

 だがここまで来ておいて変に警戒しているのか、二人とも口を開く気配がない。そして、その沈黙を破ったのはトレーゼの方だった。

 「…………エリオ・モンディアル」

 「は、はい!」

 「資産家であり上流家庭のモンディアル家の子息として生まれる。両親の愛情を一身に受けながら育ち、何一つ不自由の無い裕福な生活を送り……幼少に病没」

 語られるはエリオの過去……いや、正確には彼の前身、オリジナルの「エリオ」が歩んだ短い生い立ち。どこでトレーゼが知り得たかは知らないが、それは紛うことなくエリオの抱える“真実”だった。

 「だが息子の死を受け入れられなかった夫婦は、当時既に違法とされていたとある科学技術に追い縋り、紛いモノとは言えそれを蘇らせることに成功した……」

 「イイことじゃないか。自然の摂理には反しているだろうけど、失くしたモノを取り戻そうとするのは人間特有の行動だよ。それの何がいけなかったんだい?」

 「言っただろう『違法』だとな。人間は生来の感情による善悪より、紙の上に書かれた決まり事を重要視する……そいつらの行いは紙の上で悪だと判じられたんだよ。だが問題はここからだ」

 「と、言いますと?」

 「違法となれば当然司法組織が黙っていない。その資産家の家庭は摘発され、その息子は完全なクローン生命体の実例として研究機関に保護された」

 「それは……災難でしたね」

 純粋な同情の視線がエリオに向けられる。ついさっきまで争っていたはずの敵に憐みの感情を注がれると言うのはなかなかに妙な気分だったが、それと今とは別問題だと気持ちを割り切った。

 「その時、お前は両親に『捨てられた』。そうだな?」

 「そ、それは……っ!!」

 「違うのか? 人を殺した訳ではないから、まさか収監されたのではないだろう? 会おうと思えばいつでも会える……だが会わない、会えない、会いたくない。接触を忌避している」

 「…………確かに、父さんと母さんは僕が伸ばした手を取ってくれませんでした」

 「エリオ君……」

 「でも、だからと言って両親を恨んだり憎んでいるわけじゃない! あの人達が愛していた『エリオ』と、今ここでこうして生きている『エリオ』が違っていたって言うだけの単純な話だったんだ」

 もちろん、初めの頃は自分を見捨てた両親に憎悪を抱き、それだけの心の支えにしてあの虐待にも等しい『研究』の日々を生き抜いてきた事もあった。

 「今の僕はフェイトさんやシグナムさん、キャロやルーに支えられてる。もう昔のような浅ましい感情を糧にしなくたって、僕は僕だ……僕はエリオ・モンディアルなんだって胸を張って言える」

 「……はぁ、くだらない」

 「なんだって?」

 「他者に依存しなければ確立できない自己性に一体何の意味がある。俺……私……我……己を己足らしめる確固たるモノは詰まる所、自分自身で獲得してこそ意味がある。貴様を構成する要素の中で、確実に自身から由来しているというモノが果たして幾つある? 仮に貴様が不老不死の生物だとしても、子供のママゴトと同レベルのやり取りで築いた自己性などで精神を保てるか。幼稚、蒙昧、低能……呆れて物も言えないな」

 「そういうあなたは何なんですか!!」

 他者の存在を丸ごと否定するかの様な物言いに真っ先に反発したのは、それまでエリオの影に控えていたキャロだった。言い返されたエリオ本人も怒りを覚えていたようだが、キャロのそれは彼を上回っていた。今にも噛みついてやろうかと言う気迫を感じさせた。

 「あなただって……トーレさんに自分の弟じゃないって否定されたんじゃないんですか!」

 「うん? なになに? ボクすごい興味あるなその話。ご主人様のことだよね?」

 「余計なことに首を……」

 「それは私達に隠し立てしなければならない事ですか?」

 『理』のその一言にトレーゼは押し黙った。特に知られて都合が悪くなる事など無い……こちらの生い立ちなど向こうには対岸の何とやら、全くの無関係の事柄なのだから損得など発生し得ないのが普通だ。だから余計な心配などしなくて良いし、する必要がない。

 だが……

 「……別に言いたくないのであれば無理に言わんでも良い。誰にでも言いたくない事の一つや二つはあろう」

 この変に同情した物言い……何も言わない内からこれなのだから、真実を話せばどんな反応が返って来るか想像に難くない。正直、そう言う憐みを受けるのが鬱陶しいので言わなかったのだ。

 「別に……大した事じゃない。そこの娘の言うように、俺も自己性を喪失した哀れな亡者と言う事になる。だから俺も一時は貴様と同じように他者から己の要素を見つけ出そうと躍起になっていた。そして……他者から自己性を見つける為には、その対象が自身と限りなく似通った存在でなければならない。お前がフェイトから自己性を確立したように……」

 「じゃあ……スバルさんを誘拐したのは……」

 「そう言う意図があった事は否定しない。だが……期待外れだった」

 「期待外れ……? 自分の都合だけでスバルさんを引っ張りまわしておいて、挙句にそんなことを……!!」

 感情の許容量を越えたのか、遂にエリオがトレーゼに掴みかかった。襟を掴み上げた反動でトレーゼ諸共地面に倒れこみ、辺りに砂利が飛び散った。

 「あんたみたいな人でなしなんかの為にスバルさんは……ノーヴェさんも、みんな滅茶苦茶にされたんだ!! あんたが……あんたさえ出て来なかったら、ずっと氷の下で眠ったまんまでいれば、みんな普通に過ごせていたんだ!!」

 トレーゼの雪よりも白い首に全体重を掛ける。もうそのまま怒りに任せて彼を殺してしまおうとも考えた。最終的には殺してしまうのだ、ならその役目は自分が負ったところで何も変わりは無い。頭に血が昇っていたエリオは今自分が前にしている者の危険度をすっかり忘れ去っていた。

 「……俺が人でなし?」

 「そうじゃないか!」

 「ああ、そうさ。今更だぞ。何を得意気に言っている……この、クズが!」

 「ぐっ!」

 腹に鈍い衝撃と痛みが走った次の瞬間、エリオの視界には逆さまになった街灯が映っていた。そしてそれも死角に消え、最後は背中から河原の砂利が敷き詰められた地面に落下した。

 「おーおー、ただ蹴っただけで人と言うモノはあそこまで軽々と宙を舞うものなのか」

 「エ、エリオ君!」

 「近寄るのはやめておいた方がよろしいですよ。言い分の善し悪しはあれ、あの少年は彼に喧嘩を売ったのです。介入しても死にはしないでしょうが……大ケガは覚悟してください」

 マテリアルに肩を掴まれ、キャロはそこで成り行きを見守る事しかできず、そして事態はより物騒な方向へと進もうとしていた。

 「貴様とあの女がクローンとして生み出されたように、セカンドはクイント・ナカジマの複製体として生まれた。奴に生まれ落ちて最初に与えられた肩書は、『クイントの偽者』と言う極単純なものに過ぎなかったはずだ。アリシアを模したフェイト……モンディアルの息子を真似たエリオの様にな」

 「それがっ……どうしたって言うんだよ!!」

 起き上がったエリオがトレーゼに殴り掛かる。それが当たる前に掴み、捩じり上げるトレーゼ。

 「分からないか……今の俺は中身の無い卵の殻だ、『トレーゼの偽者』と言う空虚な殻に過ぎない。『クイントの偽者』、『アリシアの偽者』、『エリオの偽者』……貴様らの起源は皆、その虚ろな殻から始まっているはずなんだ」

 「あなたは駄々を捏ねているだけだ……! 自分に無いモノを他人が持ってるからそれを欲しがって、自分の力じゃ手に入れられないから人を巻き込んでいるだけの駄々っ子だ!」

 「餓鬼がのぼせ上がるなよ。理不尽? 死角から飛来する事態はいつでも理不尽なものだ。わがまま? 己が腹の底から欲するモノがあって何が悪い? 理屈と正論を並べ立てて我欲とは無縁な聖人君子にでもなったつもりか、阿呆らしい」

 「そんな暴論で……っ!」

 「自分の持論が正しいと思うなら、力で押し切って黙らせて見せろ」

 「うあ!!」

 足を払われ、またもエリオは砂利に体を押し付ける羽目になった。上から伸し掛かる重量がその四肢を押さえ付け、圧倒的暴力により彼は惨めに封殺された。

 「さっき俺を『人でなし』だと言ったな? そうだ、俺は兵器だ、人殺しの『道具』だ。だから違った、だから分からなかった……………………あいつは、『人間』だった」

 道具は人に使われる物、人は道具を使う者……立場が違う、土俵が違う、区別が違う、気付いてみればそれは簡単でロジックにすらなっていない子供騙しの理屈に過ぎなかった。例え生まれた経緯は同じでも、スバルは『人間』として生まれ、トレーゼは『道具』として作られた。ならば、そこに意思の疎通は絶対に成り立たない。

 「あなたなんかに……人間の何が分かるって言うんですか!」

 「ほんの二週間前までは何も分からなかったさ。俺がほんの少し強めに殴ったり蹴ったりするだけですぐに死ぬ脆弱な存在……そんな程度の認識しかなかった。だが、実際は俺の想像以上に愚かで、どうしようもなく愚昧な輩だと実感させられた。だから決めた。無知蒙昧の輩に遠慮や気遣いなんか無用だ……全力で消し潰す。貴様も、そこの女も、邪魔をするなら何もかも……」

 一方的且つ一切の反論を許さない暴論の極み……。喋るな、黙れ、視線を向けるな、息を吸うな吐くな、貴様らが俺に構い続けると言うのなら俺が貴様らを刈り取る。他人の都合なんか知ったことか。貴様らは雑草だ、黙って俺に刈り取られてしまえ。さもなくば踏み付けられても文句を言うな。

 ただ単純なわがままでさえ、ここまで来ると逆に清々しささえ覚えてしまう。だがその暴虐の境地の中に、血が昇ったエリオの冷静な部分はあるワードを聞き逃さなかった。

 「……二週間前に、何があったんですか?」

 その問いを投げ掛けた瞬間、それまで捕食者として自分を見据えていた瞳が僅かに揺れるのをエリオは見逃さなかった。あの文字通りの意味での鉄人が初めて動揺したのだ。そしてその隙をエリオは更に追及する。

 「二週間前、あなたはスバルさんと一緒に逃亡生活をしていた最中のはずです。その間に何かがあった……違いますか!?」

 「……貴様には関係ない。関わりの無い事だ、放っておけ」

 「関係なくなんかない。あなたの碌でもない凶行を止める為だったら……何だってしてやる!」

 「……あれは、違う、違う……あれは、俺が────んだ……。そうだ……俺が────なければ、──」

 様子がおかしい事に気付くのに時間は掛からなかった。明らかに動揺が過ぎる……それはほんの些細な精神的な揺らぎと言うよりはむしろ、何かに対して非常に怯えているように見えた。実際、彼は恐怖していた……己が抱える極大の暗部、それが垂れ流しになるかも知れないと言う事実に対し、過剰なまでに予防線を張っていたのだ。

 あの血も涙も無い独善の塊の様な存在が、自己の利益不利益すら鑑みないはずの鉄人が、一体何を恐れてその事実を覆い隠し露呈を避けるのか……?

 だがそれ以上の追及は突如話に介入した者によって中断された。

 「小僧、王の命令だ。我は非常に喉が渇いた故、そこの通りまで駆けて『ほっとこーひー』を買うて参れ。自腹を切れとは言わん。銭はやる」

 「な、何で僕がそんな事を……」

 「うぬが何事も無く帰還するまでは、この娘を預かっておく。なに、心配は要らぬ。我らは悪鬼の類ではない故、取って食ったりなどはせぬよ」

 「……キャロに何かしたら許さない」

 「早う行ってこい。銭だ。失くすなよ?」

 120円を押し付け、半ば無理矢理に『王』はエリオをその場から締め出した。その後ろ姿を不安そうに見送るキャロだったが……

 「彼女は本当は喉など渇いておりませんよ」

 「へ?」

 そっと『理』が諭したように、喉が渇いたと言う割には隣の『力』と変わらぬスピードで脂の濃い肉を平らげながら、挙句その取り合いまでしている。もうその表情はさっきエリオをパシリに使った事さえ忘れているようだった。

 「ああ見えていて彼女は気が利くのです。本当は喉など渇いていないと言うのに」

 「そこ! うるさいぞ。王とは気紛れなモノなのだ。些末な事などもう忘れたわ。それにな……我が主殿の機微を察せぬようでは盟約を結んだ者として恥だろう」

 トレーゼは既に平静を取り戻していた。だがその様相は川面の向こう、闇の中を見据えている為にここからでは窺い知れなかった。静かに、ただ静寂に石像か何かの彫刻の様に、彼はただ静けさを纏っているだけだった。まるで外部からの刺激全てに対し一切反応を示さない白痴……今の彼の姿はそんな感じだった。

 「…………なぁ主殿よ。今更だが、別に過去がどうあれ我々は無用な詮索はせん。別にお主が我らに隠し事をしているからと言って、我らはそれを掘り返したりはせんよ」

 「そうそう。そんなものは野良犬にでも食わせておけばいいのさ。過ぎ行く過去に想いを馳せたって届きはしないよ」

 「トレーゼ様……」

 「…………俺はこれから次の作戦の準備をする。お前達はそこで宴に興じていろ」

 結局、こちらに顔は向けないまま彼はふらふらとした足取りでその場を離れ、宵闇の向こうに隠れてしまった。

 「あ! ちょ、ちょっと待ってください!」

 「おぉっと! うぬはここで大人しくしておれ。肉ならまだあるぞ、それそれどんどん食わぬか」

 「ええっ!? そ、そんな~!」

 トレーゼの後を追おうとしたキャロだがすぐに取り押さえられ、無理矢理座らされた。そのままあれよあれよと皿に肉を盛られ、食べることを促される。

 「ささ、食え。あの小僧と同じ歳でその身長なのは食うべきものを食っておらぬからだぞ。肉だ肉、体の糧には肉が最適だ。体重なんか気にするでない」

 「し、身長は関係ありません! これは個人の成長差なんです!」

 盛られた肉を仕方なく口に運びながらキャロはそう反発した。どうせ蛇に睨まれたカエル、それなら食べるだけ食べてしまおうと一種のやけ食いだった。

 「……あの……」

 「なんですか?」

 キャロの問いかけに『理』のマテリアルが反応する。近くで見れば細部に差があるだけで何もかもが恩師のなのはと同じ顔に、分かっていてもやはり少し動揺するものだ。

 「何で……今のうちに私からリンカーコアを抜かないんですか?」

 エリオは居ない……今のうちにやる事をやってしまえば、後で彼が戻ってきても赤子の手を捻るより楽に片付けるはずだ。いや、ここに二人そろっていたところで事態が好転するとも思えない。明らかに彼女ら側の方が生殺与奪を握っているにも関わらず、三人には殺気や敵意の類をまったく感じない。

 「あの小僧にも言うたが、別に我らは今のうぬに危害は加えん。我らの所業は人の身には酷かも知れんが、約束は違えん。その点は安心しても良い」

 「それに、今ここでキミらを片付けちゃったら後が怖いしね。ここで本気にさせるべきじゃないってさ」

 「貴方がたは基本的に仲間意識が強い。一人ずつ墜として行けば確実でしょうが、すぐに危機を感じて報復を与えようとするでしょう」

 「然り。やる時は一度に、そして、一瞬にだ。その方が後腐れも無くて良い」

 そう語る三人の眼は捕食者の輝きに満ちていた。ただ今はその時ではないから手を出さないだけ……その気になればいつでも喉元に牙を突き立てられるのだと、暗に語っているのだ。

 「しかし……うぬの様な童までもが戦いの場に出てくるとはな……。管理局は昔から人遣いが荒いと見える」

 「わたしは自分の意志でここに居るんです。管理局の都合とか、そう言うのじゃないんです」

 「だったら、キミにはご主人様と敵対するだけの確固たる理由があるってことかい? さっきスバルって子がどうたらって言ったけど……」

 「ああ、いつぞやの青髪か……。あれはいかん、意志薄弱だ。己が真に求めるモノが何たるかさえ自覚しておらぬ」

 「自覚していない……? それってスバルさんの事ですか?」

 「他に誰か居ますか? 確たる理由も無く好んで戦場に出しゃばるのは度を越した痴愚でしょう。下らないままごとで我々の足を、特にあの方の邪魔をするのは感心できません」

 「どうしてそこまでしてあの人の肩を持つんですか? あの人は、自分の身勝手な行為のために妹だって犠牲にするような人なんですよ。血も涙も通ってない……ひどい人なんです」

 「妹君を殺めたと言うのは初耳だ。よほど役に立たんだが、或いはそうせざるを得なかったか……そこは我らが関与する事ではない。それにな、小娘よ。如何に主殿の心中がどす黒くとも、我らは彼に頭を垂れるに足りる理由が……従属するだけの理由があるのだ」

 「ボクらはこのまま消えるのを待つしか出来ない弱っちい存在だった。そこへ手を差し伸べて肉体を与えてくれたんだよ。感謝しない訳がないじゃないか」

 「例えその心中を察せずとも、今の私達に出来る最大限の恩返しは彼の思想に賛同し、その助力をする事だけです。その為にあなた達と敵対しようともそれは致し方なしと言うものです」

 「それがあなた達の言う『正義』なんですね……」

 言われた通りに缶コーヒーを買って来たエリオがキャロの隣に腰掛ける。持っていた缶を『王』に渡すと、半ば呆れたような視線で三人を見つめながらそう呟いた。

 「子鴉にも言うたが、善悪の概念など所詮は曖昧なものよ。衆愚の大半が後ろ指を差せばそれは簡単に“悪”に堕ち、逆に信奉すればいとも容易く“善”になる。時代によっては邪教と罵られた教えも、時が立てば一大勢力を築き上げる事もある。根本にあるのはヒトの業と底知れぬ欲よ」

 「単純に認めたくなくて、それが多数派に共通する意思であるならそれは“悪”なんだよ。要はただ簡単に『認めたくない』って言うエゴがあるからさ」

 「だとしたら、もっと他にやり方が……」

 「それは多数派の意見です。多くの視点を持つ多数派であればこそ、一つひとつの異なった見方や方法を見つけられるのでしょう。しかし、私達のような少数の者はそうはいきません」

 「世の中にはね、『そのやり方しかない』って場合もあるのさ。それがどんなに下劣極まりない畜生の所業だとしても、そうする事で本懐を遂げられるならそうするしかない。肉を食べたければ獣を殺し、邪魔な木が生えてれば刈り倒し、土地が欲しければ山を切り拓いて海を埋める……」

 「けど、他人の犠牲の上に成り立っていいモノなんて何も無い」

 「青いな小僧。いや、若いのか……」

 「じゃあ聞くけどさ、キミの母親代わりをやってるボクのオリジナル、あれが昔犯罪の片棒を担いでたってのは聞いたよね? 仮にキミが執務官や裁判官、何某かの人を裁く職務や立場に居る人間だとしたら、キミはあの子の処遇をどうする?」

 「それは……」

 「彼女はその母親が主犯だった事もあり、情状酌量の余地があるとして保護観察処分に終わりました。親子の情とは人の涙を誘いますからね……あなたでも同じ判決を下すでしょう」

 「だがそれは相手が人間だった場合の話しよな。確固たる意志を持ち、ヒトとして認められたからこそ、感情任せの過ちも許される。だが……そうでないモノはどうなる? ヒトとして認められず、絶対的少数派に位置し、目的達成の為には手段を選べず、それでいながら確固たる意志を持つ我らの想念は……どこへ行く? どこへ行けば良い?」

 エリオもキャロも何も言えなくなった。目の前の彼女らは確かに人間ではない。だがそこには確かな意志が介在し、それはこうして言葉を交わしている間に自ずと確認できた。そんな彼女らが訴えるヒトならざる身の上に感じる理不尽と無念……それは果たして、あの悪魔じみた男にも言える事なのだろうかと思いを馳せる。

 「…………少しジメジメした話になったな。肉が不味くなる。この話は止めだ」

 「貴方がたはトレーゼ様が招かれた賓客ですので、今宵はしがらみを忘れてこのささやかな宴に興じてください」

 「早くしないと残りの肉もみーんなボクが独り占めするぞ~!」

 そこからはまた騒がしくなり、いつの間にか二人も食材の取り合いに参加させられていた。



 その日、エリオとキャロが帰宅したのは22時を過ぎてからだった。










 夢を見た。とても懐かしい夢だった。

 夢の中には“彼女”が居た。白い雪に覆われた一面の銀世界……“彼女”に良く似合う雪化粧がとても綺麗な場所だった。

 夢の中の“彼女”は、何故かとても悲しそうな顔をしていた。一目見てそれが憂いの表情だとすぐ分かるぐらい、“彼女”の纏う雰囲気は暗く沈鬱としたものだった。何が“彼女”を悲しませているのかは分からない……だが、こうして縁がある自分が夢に見た以上、その要因は必ず自分の近くに起因しているはずだった。

 『────────』

 白い世界の中で、“彼女”が何かを口走る。もう夢から醒める為に何を言いたかったのかは聞き取れなかったが、その悲しみに満ちた表情は全てを物語っていた。



 終わらせてほしい……。



 かつて、自分の為だけに“彼女”はここを去った。未来への可能性を信じ、老兵は去るのみとして自ら天に還って行った。もはや現世に未練など残してはいないはずの“彼女”が、形の無い意識だけの存在となってまでこちらに語りかける事実……それはつまり、自分にしか出来ないからこその願い。

 なら自分はその期待に応えなければならない。未来を信じて逝った“彼女”の為に、自分はこの忌まわしい事件を終結させる義務があるのだ。“彼女”が愛したこの街と、そこで生きる全ての人々の為に……

 「…………見ててな、リインフォース」

 その決意を新たなものとし、八神はやては眠りから醒めた。










 12月8日。午前5時30分。海鳴の隣町、そのとあるパチンコ店にて──。



 「これって、どうなんですか巡査部長?」

 「どうって……言われてもだなぁ……」

 通報のあった店舗に駆け付けた二人の警官は、ここで働く店員の説明と、自分達の前にしている現状にただひたすら首を傾げているだけしか出来なかった。

 「えっと、もう一度確認しますよ? あなたは開店準備の為にここを訪れ、いつものように従業員入り口の開放から台の点検、両替機などに異常が無いかどうかを確認していた……。そうですね?」

 「ええ。毎日の日課ですので」

 「では、その時確かに鍵は掛かっていたんですね? 店舗の内外に設置された監視カメラにも不備は無かったですか?」

 「客が入る出入口は全部シャッターを下ろしていますし、カメラは閉店後も24時間録画しています。従業員入り口は南と北に一つずつしかありませんから、開業時間以外にここに入るには鍵を持ってそこから入るしかありません。ですが、店舗の鍵は店長と私の様な一部の従業員しか持っていないはずなんです」

 「店内の監視カメラにも、犯行時刻にはネズミ一匹映っていない。だとしたら……」



 「10万個にも及ぶパチンコ玉は一体どこに消えたって言うんだ?」



 一玉およそ4円……それが十万個で約40万円相当のパチ玉が盗難されると言う騒ぎ。玉は一つひとつが管理されており、営業時のラッシュでもない限り大量に紛失すればすぐに判明する。そして、その犯行があったと思われる時間は深夜の2時から3時の間……だがその間に犯人と思しき不審者は店の内外のカメラには写されておらず、シャッターやガラスが破られた形跡も無い。たった一時間、あるいはそれよりも短い時間で犯人はカメラにも写らず警報も鳴らさず鍵も壊さずに、一体どうやって二万個もの玉を盗み出したのか?

 「部長、不思議な事ってあるもんなんですね」

 「不思議なこと……か。どっちかって言うとこりゃあ、『魔法』みたいじゃねえか」

 「まさか! 強盗が『開けゴマ』って言ったとでも?」

 この一件は街中で未明に起こった小さな事件として地元の警察が引き受けたが、数年後、その事件の内容を記したファイルは未解決事件の項目として取り扱われる事となる。










 暗い……ここは暗すぎる。

 己の特別製の眼を以てしても殆ど光を感じ取れない。地の底に座す無窮の闇の深さをナメていたとしか言えないが、それでも自ら選んで来た以上文句は言えない。ぶっちゃけ、雨風凌げる場所はここしか残っていないのだ。

 それにしたって匂いが酷い。下水特有の重苦しい泥とカビの臭気が鼻を突く。たまに自分の足元からグチャリと粘性の音が響くが、それが何だったかを想像する事はあまりしたくない。唯一つ確かなのは、その音がすると決まって直後から酷い悪臭が充満するという事だ。

 どれだけ移動したのか定かではないが、少し開けた場所に出られた。人の手が加えられているのか悪臭も泥も無い。風が吹いているところを見ると地上に近いのか、それとも出口と一直線に繋がっている道がある場所と言う事になるが、どうやらここで行き止まりのようだ。これ以上の行進は来た道を戻って分岐点を探すと言う事になる。それは億劫に感じた。一晩中歩き回った悪臭街道をもう一度引き返すのは気が引けたのだ。

 それに……ここに居れば彼が来るような気がしていた……。

 「……トレーゼ」

 根拠は無い。だが、どうかここへ来てほしい……私の■■い彼よ。



 輝ける六つ星は今、地の底へと潜った。










 第二戦の幕開けは夜明けの朝陽が昇ると同時に切って落とされた。










 午前7時23分。ハラオウン宅──。



 「シャマル、詳細を」

 「はい。現在、街に展開されている結界は全部で三つです。魔力の波長から三つ全てがマテリアルが発生させているものであると推測されます」

 ホログラム映像が現在の海鳴の街を映し出す。立体映像には結界を表す三色の半球が表示され、ある一定の範囲を侵食するかの様にそこに座しているのが分かった。

 「今回は三つの結界全てが地上に展開されています。さっき解析した時点ではまだ内部で破壊行為などは確認されてませんが、取り残された一般人などは居ないようです」

 「首魁の反応は?」

 「結界の外に“13番目”の反応は確認できません。内部か、あるいは街のどこかに身を隠しているか……」

 「相手のやり方は意地の悪い陽動を張った上で、“13番目”本人が単独でこちらの隙を突くと言う戦法……。量より質を優先した少数での奇襲戦を得意としとる」

 であれば、今回もそのやり方でこちらを叩くつもりかも知れない。ここは敵地ではないため補給や応援には事欠かないが、あちらにとっては何の気兼ねも無く暴れられると言う事でもある。あちらが暴れるだけ暴れた損害の全てはこちらへの足枷となる以上、一般市民に気取られる事もなく、その上あちらに派手な行動をさせないよう牽制もこなさなくてはならない。

 「やる事は山積みやけど、それを成さなあかんのが私らの仕事や。各員、これより戦闘配置に着くように」

 「了解!」

 「ああそれと、ナンバーズの方は私の命令があるまで待機」

 「待機だと? 一体どう言うつもりだ!?」

 不可解な命令を下された事に理不尽を覚えたトーレがはやてに詰め寄った。すかさずシャマルが間に入って未然に防ぐが、両者の間には剣呑な雰囲気が渦巻いた。

 「どう言うつもりもないよ。ただ、今のあんたが指揮するナンバーズ隊はぶっちゃけ全体の運営に邪魔っちゅうだけや」

 「……何が言いたい?」

 「隊長格であるあんたと、副隊長格であるチンク……その二人が真正面からいがみ合ってるチームで任務や作戦が上手くいくか。あんまし私らをナメんなや。敵を好きにしてええとは言うたけど、全体の足を引くんやったら出て行けや。もうちょい頭冷やせ」

 「……………………」

 「そんな怖い顔せんでええ。何も無期限に謹慎させるつもりなんてあらへんし、危なくなる前に救援要請ぐらいは出す。ただそれまでは大人しくしとってって話や」

 「……了解した。精々、健闘を祈らせてもらおう」

 「分かってくれたらええんや。ほな……行こか!」

 女傑、八神はやての号令と共に機動六課の魔導師部隊は再び悪鬼蔓延る海鳴の街へと繰り出した。










 「始まったな主殿」

 「て言うか、本当にこんな作戦が上手く行くのかな?」

 「上手く行かなければなりません。今回は私達もそれほど働かなくてもいいですが、かと言って気を緩める訳にはいきません」

 「まあ、これが上手くいけば主殿の言う邪魔な輩を一掃できて、それでもってボクらが目指す魔力蒐集もできるって事だよね」

 「そうなればこの街は跡形も無く“洗い流される”だろうな。丁度良い、塵掃除には打って付けだ」

 「『オペレーション・ノア』。万物悉く破壊する混濁の嵐……水色にしては中々凝った名称を思い付けたものですね。感心します」

 「ただし、生き残れる幸運な『ノア』はこの街にはおらぬ。天上の神が神託を与えておらぬのだから道理よな。何も知らぬ衆愚はその時まで何も知らずに無駄に生き、無駄に泣き叫び、無駄に絶望し、そして無駄に死んで逝け」

 「無駄なんかじゃないさ。彼らの命は新世界に羽ばたくボクらへの讃美歌になる。血は葡萄酒、叫びは楽器、積み上げられた骸は天上の罪深き塔となる! 彼らの死は無駄にはできないよ、王様」

 「フン、上手いこと言いおって。だが良い……ここに誓おう、今日この日をもって我らは自由輝く新世界への扉をこじ開ける。上品にノックなどせん、足の裏で蹴り上げて土足で踏み入ってやる!」

 「……………………では、始める」






























 新暦■■年。こことは違う別の場所、遥かなる大地にて──。



 『今日、私はとんでもないモノを発見した。

 これは私が意図して発見したものではなく、いわゆる掘り出し物、偶然の産物だ。科学を志す者としては偶然の産物大いに結構、と言いたいところなのだが、これは少し予想外が過ぎる。

 まだ仮説の域なので確証は持てないが、私の予想が正しければこの技術は……いや、それはここに記すべき事柄ではない。

 それに、私の本分は別にある。こちらを研究するのは片手間にでも出来る事だと思う』










 『今日はとても喜ばしい事があった。私に子供が出来た。結婚もしていないし、過去にそう言った不貞を働いた訳でもなく、かと言って捨て子を拾った訳でもない。だが紛れも無く私の子だ。

 少し手を焼かされる事も多々あるが、それはそれで子供らしく可愛らしいと思えるので不思議なものだ。

 だが悲しいかな……この土地に根付き、この私の子供として生まれた以上、この子たちに安寧な未来を託す事は出来ないのかも知れない。ともすれば、私の子供として生まれたからこそ面倒を背負い込ませてしまうだろう。

 もし叶うのなら、この子たちには自分の人生を生きてほしいと願う。この地の宿命や、私の使命とは別の生き方を歩んでほしいと。

 ────追記。

 例の技術の解析も最終段階に入った。やはり私の予想は正しかった』










 『あの子たちも大きくなり私の手が煩わされる事も少なくなった。アルバムの写真が増える度に彼女らの成長を実感できる。

 だが一つだけ懸念がある……。それは、私がひた隠しにしていた例の研究を二人が知ってしまったと言うことだ。

 本業の方は前々から協力してくれていたので問題ないが、その関係で知ってしまったのだから誤魔化しようがない。一応釘は刺したが二人とも興味を隠せないようだった。

 ────追記。

 もうあの技術は凍結しようと思っている。もしこのまま私が研究を続け実用段階にまでこぎ着けたとすれば、確実に悪用しようとする輩が現れるだろうから……。

 いや、むしろこのまま破棄してしまった方が良いのかも知れない……』










 『今日、母の知り合いを名乗る人が訪ねて来た。どう言うわけかその人は私が秘匿していたはずの研究を知っていた。

 初めは旨い条件を付けるか、さもなくば脅すでもして成果を強奪でもするのかと思ったが、それは取り越し苦労だとすぐに分かった。

 彼が私の研究に対して要求した事柄はたった一つだけ。“そのまま研究を凍結せず、秘密裏に続けてほしい”と言っていた。

 資金や資料が欲しければ出来得る範囲内で調達すると言い、不都合があればその解決にも手を貸そうと言ってくれた。ただとにかく、今の研究を止めず実用化させてほしいとだけ伝えに来てくれたそうだ。

 私は実用化させる気は無いと強く反対したが折れてはくれず、また来ると言って今日はそのまま帰ってしまった。淡泊そうに見えてその実強引な方だった……。

 ────追記。

 母の知り合いと言っていたが、私の母は私が少年だった頃に病に罹り長患いの末に亡くなった。もう二十年近くも以前の話しだ。

 その母の知人を名乗るにしては妙に若過ぎるような気もしたが……?』










 『もうこの日誌をつけるのもそろそろ終わりだろう。私はそう長くはない。

 同じ研究者だった母がそうなったように、私もまた同じ病に罹って倒れる……この地で生きる者の定めなのかも知れない。

 それでも私はこの土地を愛している。だから手を尽くし、この地に骨を埋めるつもりでいた。その決意は今も変わらない。

 ただ、心残りが二つだけある。

 一つは、例の知人の申し出を断り切れず、あのまま研究を続けてしまったこと。“一度だけ使われた後は好きにして良い”と言ったが、正直私はそれを見届けられそうにない。私が没した後、それを悪用する者が現れない事を祈るばかりだ。

 二つ目は、私の子、■■■がその技術を使おうとしているかも知れない事実だ。もちろん、無断でだ。以前から釘を刺し目を光らせて来たが、姉の言う事さえ最近は反発するようになり、もう後が無い。最初に使うのがあの子になりそうだが、それはむしろ不幸中の幸いと言うべきか……。

 だが……私のした事は正しかったのだろうか。例の彼は“必要だから”としか話してくれない……』










 「調子はどうだ?」

 「これが……健康体に見えるんですか」

 「そうだな。こうして話している間にお前は死ぬ。お前の母親がそうだったからな」

 「……私の母とはどんな関係だったんですか? 私に研究を推し進めて、あなたの本当の目的は何なのですか?」

 「それは言えない。唯一つ、俺はお前の母との約束を果たそうとしているだけだ。世の中、知らない事があってもいいと思わないか」

 「…………そうかも知れない。この地の行く末を見届ける事は出来ないが、私はこの地で眠れて幸せだ。あとは……あの二人が無事に戻って来られればそれで……………………」

 「おやすみ、グランツ。グランツ・フローリアン。いい夢を……」

 星を追う者は愚者である。夜の帷を彩る天上の星々は太古の昔より絶対不可侵にして永遠の存在だった。人々は星海の彼方にこそ神々が座すると考え、自らもまた神に並ぶ者にならんと地平線の向こう、海と空が混じる場所を目指した。そここそが最果ての地だと信じて。

 だが現実は非情である。至高の宝石にも優る輝きを大地に落としながら、どれだけ願おうとも人は星には届かない。技術が向上し、文明が飛躍的な進歩を遂げた現代であっても、人間は空の彼方にある星へはそう易々とは行けない。星の輝きは人智未踏、まさしく神域なのだ。

 それでも人々は星を、届かないと分かっている夜空の宝石を掴もうと手を伸ばす。その生き様に燃やした命の焔の煌きは……時に星の輝きさえも霞ませる。

 それはなんと儚く、そして尊いモノなのだろうか……。



[17818] Operation:NOAH
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2012/04/08 21:34
 午前7時30分。クラナガンの地上本部にて──。



 「速報だ。現地で再び“13番目”に動きがあった。これよりチームが接触するようだ」

 「そう。僕もウカウカしてられないな」

 「もう準備は整ったのか? まだ至らない部分があれば今の内に言ってくれ」

 「大丈夫だ。僕を見くびらないでほしいよ。一ヶ月は戻って来なくても良いように調整してあるからね」

 「それは何よりだ。こっちは無茶な資料請求が出来る奴が居なくなるのは寂しいものだ」

 「どの口が言うんだか……。それより、そっちの方も気を遣ったほうが良いと思うけどな。たまには早帰りもしておいた方が……」

 「君に心配してもらう事じゃない。あれは強い……僕がわざわざ傍に行ってやらなくても、上手くやっていけるさ」

 「そりゃ結構。僕はそろそろ行くよ……みんなの、なのはの生まれ育ったあの街を助けに」










 同時刻、海鳴にて──。



 「こちらライトニング。結界の内部に侵入しました」

 位相のずれた空間に侵入すると同時に、停滞した淀んだ空気が四人と一頭を出迎えた。改めて結界内を調べてみるが展開に伴って取り残された一般人などは見当たらなかった。だが当の仕掛け人の姿さえ今のところ確認できない。

 「フリード、何か分かるか?」

 シグナムの呼び掛けに力無くうなだれるだけで芳しい返事は寄越さなかった。竜の嗅覚を以てしてもこのエリアに対象の匂いは掴めない。

 「結界の広さは半径約500m……他の二つもほぼ同等の規模」

 「直径が1キロって、それなりに広いですよね。ひょっとしたらどこかに罠を仕掛けている可能性も……」

 「なくはないかも……」

 魔力の波長は例の『力』の物だが、彼女の性格を考慮すれば罠などに頼らず正々堂々の力押しを敢行しそうなものだが……何か思惑があるに違いない。

 「正直に言えば、あの子がそんなに頭が回るようには思えない。これは多分彼の指示……」

 「じゃあやっぱり、どこかで私たちを見てる……」

 「…………行きましょう。奥へ」

 「そうだな。立ち止まっていては何も始まらん」

 エリオが先頭を切り、一同は天蓋に覆われた街の中心を目指して歩み始めた。










 「こちらスターズ。結界中心部に向けて移動中です」

 時を同じくしてスターズの方も別の結界に進入していた。昨日とは違い、今度はヴィータを含めたスリーマンセルでの行動を執っている。

 「しっかし範囲が広いっつうのもあるけど、いくらなんでも静か過ぎねえか? 連中の気配とか全然感じねえ」

 人間以上の感覚領域を誇るヴィータでさえ何も感じない。よほど周到に身を隠しているか、昨日の“13番目”の様に結界だけ出して肝心の本人らは外に居るのか……。

 「結界内部に何らかの大掛かりなトラップが設置されている可能性は?」

 「ねーわけねーだろうな。観光に招待したんじゃねえんだから、好きなだけご覧になってはいどうぞって訳にはいかねえさ。わざわざ自信たっぷりに街のど真ん中に出張るんだから、それなりに大規模な仕掛けを作ったに違いねえ」

 「建物の影に気をつけて。どこから攻撃が飛んでくるか分からないから」

 相手は力も頭脳もこちらを個々で上回る集団。確実に無力化するには四人がバラバラでいる可能性が高い今がチャンスなのだが、進入して既に十分以上経とうとしているが未だにその痕跡を掴める様子は無い。ここは急ぎつつも慎重に動くべきだろう。

 「……ん?」

 「どうかしましたか?」

 ふと、何かを感じたのかヴィータが立ち止まった。何やら頻りに右肩を確認しているが攻撃を受けた形跡はない。

 「いや、今さっき小石みてえなのが当たった感触があったんだけどな……」

 「小石?」

 ここは街中なので道路はある程度清掃されており、街路樹の枯葉はあるが蹴躓くような石はどこにもない。仮に物陰に居る誰から投げたのだとしても、その石そのものがどこにも見当たらなかった。

 「気のせいじゃないかな。ちょっと気を張り過ぎてるんだと思うよ」

 「……そうだな」

 外部からの刺激に敏感になっているだけだと一蹴し、三人は再び奥へと歩みを進めた。










 「やっぱりこの中にマテリアルの反応は確認できません」

 数分に及ぶ解析の結果、シャマルはそうはやてに告げた。

 結界魔法に優れたシャマルならばこれだけの広範囲を短時間で捜査し、かつどこに相手が隠れているかも特定できると踏んでいたが、実際は自分達の居るこのエリアにはその相手が居ないと言う事だけが判明した。

 「やっぱり結界を外部から維持してるんでしょうか?」

 「だとすれば、ここは連中が何かしらの意図を持って作り出し、何らかの目的を達成する為に設けた“場”の様なものか……」

 「……何らかの実験場。まるでフラスコやな」

 差し詰め、迷い込んだ自分達はその実験用の微生物と言ったところか。ガラス瓶の底が氷水と接しているか、はたまたランプで熱されるのかは分からないが、どうもキナ臭い……人に近しい身でありながら最も野性を知るザフィーラは本能的にそう察知した。入り込んでおいてなんだが、『ここに居てはならない』と何故か頭の奥で警鐘が鳴っているのだ。

 「主はやて、ここは危険です。ある程度探索を終えてから一度外へ出られた方が良いかと」

 「何か感じるか?」

 「いえ。強いて言えば、『何も感じない』と言う事実が恐ろしい。ここは恐らく彼奴らの重要な拠点ではありましょうが……本懐はもっと別にあるものかと」

 「ザフィーラの鼻は確かやからな……。ちょっと他の二隊にも確認取ってみるわ。なんや定期連絡も少し遅れとるし……」

 あちらからの連絡は未だ何も無いが、連絡を寄越すまでもなくやられたとは思えない。何かしらのささやかな異常を発見している可能性も……

 「…………あれ?」

 虚空に映し出された画面はいつまで経っても砂嵐。通信が接続される気配は無く、単純に電波状況の問題ではなく完全に繋がりが断絶されたものだと嫌でも思い知らされた。

 これは……非常事態だ!

 「シャマル! 結界に干渉して穴を開けて! 今すぐここを脱出するで!」

 「えっ、は、はい!」

 クラールヴィントが伸長し、空中に大きな輪を形成する。二つの空間を自在に繋げる【旅の鏡】ならば結界の中と外を繋げることで容易く脱せると考えたが──、

 「あれ……そんな、どうして!?」

 「どうしたんや!」

 「結界の外への道が開かないんです! 多分、結界を構成する魔力の強度が度を越して強くて、外界との位相性を完全に断ち切っているんだと思います」

 「強度ってどのくらいや!」

 「えっと簡単に言っちゃうと、シグナムの矢で針先ほどの穴を開けられるかどうかってくらいです。入ってきた時は気付かなかったのに……」

 「結界は受け入れ易く抜け難い……私らが入るまでは普通の結界で侵入を感知して強化が施される仕組みになってたってことか?」

 「或いは、やはりどこからか我らを監視しているか、でしょう」

 どうやらここはフラスコの様な上品なものではなく、むしろ蝿取り器、結界の存在を認めてのこのこ足を運んでくる自分達を捕えるための巨大な虫籠だったのだ。それも網の目が極端に小さく細い虫籠……封殺の監獄だ。一度入れば二度とは出られない絶対捕縛の檻が今、彼女らをまんまと捕えて見せたのだった。

 「……いったい、どないなっとるんや」










 海鳴市が巨額を投じて都市開発を行い、その地下に巨大な施設を建造したのは既に二十年以上も昔の話である。地球温暖化に伴い日本各地で顕著になり出した集中豪雨、その影響を地元の河川が受けるかも知れないと懸念した県は急遽、埼玉県がそうしたように市の地下に人口の地下河川である放水路を建造する事を計画した。計画は滞りなく進み、深度50mの地面を掘り進めた人工の河川は着工からおよそ十三年で完成させた。

 首都圏外郭放水路ほど大規模ではないが、最大約40万立方もの水量を溜め込むことが可能な地下構造は耐久性にも優れ、内陸部直下型地震が直撃しない限りは稼働に支障を来さないとまで言われている。

 「しかし、匂うなここは」

 そんな地下施設の一角にて『王』は鼻を押さえながら周囲を見渡した。

 明かりは無いが彼女の網膜細胞は全ての構造物を把握し、常人には捉えられない空気中の微粒子を悉く嗅ぎ取っていた。それはすぐ近くにいる他の二人も同じ事で、やはり同じように鼻を摘まんで悪臭に耐えているようにしていた。

 「川の水が汚れているのでしょう。ここはまだマシな方ですよ。あちらなんか下水道の泥が入って来てますから、鼻が曲がるなんてものじゃありません」

 「うえっ、昨日のお肉全部吐き出しそう……。てか、いつまで待機してりゃいいのさ!」

 「まだだ。今はまだ主殿の指示が無い。それがあるまでは事前に言われた通りにすれば良い事よ」

 「…………来ました」

 『理』の双眸が暗闇を見据える。同時にその両腕が何かを支えるように天上に上げられる。実際、彼女はこの上にある物を支えていた。

 「結界を外部から制御するのは何かと骨だな。しかも外界との関係をより完全に遮断してしまう為に結界を三層構造にするとは……」

 「外界との接触を断つ第一層。通信を阻害する第二層に、それら二つとほぼ同化する形で強度を底上げする第三層。これを突破するのは至難の業、出来るとすればそれは魔力計算の演算能力が極端に秀でている者でしょう」

 「そして、迷い込んだ羊達を情け容赦なく封殺させる『収束』……。後はご主人様が言ってたポイントに移動すれば万事上手く行く」

 「そして我らは労せずして連中のリンカーコアを頂く……。まったく、主殿の手腕は見事の一言よのぉ」

 震えるほどの暗黒に満ちた世界で三人の悪鬼は己が描く理想図を脳裏に思い浮かべ、不敵に微笑んだ。

 「お! ボクの方にも掛かった」

 「我もだ。では、ここから先は別行動……努々、怠るでないぞ?」

 「ほーい!」

 「承知」

 それを最後に暗闇からは気配が消え、再び無窮の静寂が訪れた。そして、ここには誰も戻っては来なかった。










 全身の骨格が軋みを上げている……。肉体そのものは丈夫でも、やはり骨は所詮人造物なのか昨夜一晩かけて行って来た場所の“環境”には順応し切れないようだった。

 だが成すべき事はやった。これが上手く成功すれば『自分以外の邪魔者全て』を一掃できるはずなのだ。原理そのものは簡単だが、仕掛けはクラナガンの一戦よりも大掛かりとなってしまった。だがそれに見合えるだけの結果は約束できる。

 それにしても……

 「駄々っ子……か」

 思えば随分と堕ちたものだと客観的に見れば感心してしまう己の転落ぶり……栄えも名誉も欲しなかった、ただ欲したのは全てあの人にナンバーズだと認めてもらえればそれで良かった。そして、己の行為が全てそれに帰結すると信じて疑わなかった。今だってそうだ、「過去の“トレーゼ”より、現在ここに居る“トレーゼ”の方がナンバーズとして優れている」と言う証明を自ら立証しようとしているに過ぎない。その為にはまず、邪魔者を全て消す事から始めようと言うだけの話。

 (セカンドに依存し掛けていたのは我ながら落ち度だな。あんなモノに何故俺は頼っていたのだろうな……)

 今となっては知りもしないし知りたくもない。己が人生に恥と言う概念があるのなら、それは正しくあれに固執していた二週間を言うのだろう。別に恥だからと言って訂正も修正もしない。ただ看過するだけだ。

 「あんな餓鬼に……俺の何が分かる。俺でさえ分からないのに、何を理解した風なことを……」

 昨夜の事を思い浮かべると何故か無性に腹が立つ。暴論を振りかざしてまで言い負かしてやったのはこちらだが、それでも臓腑の奥で煮え切らない熱が渦巻いて収まりを知らない。普段の彼なら俗物的だと自戒するところだが、不思議とそんな事も思えないほどに今のトレーゼは苛立っていた。

 矛盾なんかしていない。俺は俺として認められたいだけで、その実現の為に必要な事を最短で実行しているだけだ。他者の善悪なんか知らない、都合も知らない、俺は俺だと確信を持てればそれで良い。そこに何の嘘偽りがあるものか。

 「……………………」

 いけない。今は何も考えずやるべき事に集中すべきだ。幼稚な妄想に浸ってはいけない、『叶って』しまうから。

 そう頭を切り替え、彼は暗闇を音も無く突き進む。汚水の上を跳ねる姿はまるでトビウオか飛び石か……その姿を常人が確認する事は出来なかった。クラナガンより遥かに小さく細い地下水道を縦横無尽に駆け抜け、まるで初めから知っていたかのようにそこへ辿り着いた彼は──、



 「……何故ここに居る……セカンド」



 常人の数倍以上もの受容機能を誇る眼球がその空間に捉えたのは、目下最大の邪魔者にして無関係の協定を一方的に突き付けたスバル・ナカジマだった。

 どうしてここに奴が? いや、そんなことはどうだっていい。一番の厄介事は彼女が今ここに居ると言う絶対の事実……計画の全容は知りえないだろうが性格からしてこちらを見逃すとは到底思えない。そうなれば……衝突は必至。

 「……トレーゼこそ……どうしてこんな所に居るのさ?」

 「今更話す事か? 俺が俺である為に邪魔者を排除する。これはそのほんの一環だ」

 “ほんの一環”とはかなり語弊のある言い方だった。実際のところトレーゼはここで全てを終わらせるつもりだった。後腐れも跡形無く、彼は全ての己にとっての枷をここで一切合財履き捨てるつもりだ。

 そして、そんな彼の本意を感じ取ったのかスバルが糾弾する。

 「嘘だよ。嘘をついてる……」

 「だったらどうした? 俺が嘘を言おうが真実を言おうが、貴様は俺の邪魔をする。そうだろう? お前はいつだってそうだった。何の打算も裏打ちも無しに見切り発車で俺の行動を阻止する……」

 「それが本当にトレーゼのしたい事なら……あたしは何も言わない」

 「本当にしたい事さ。殺し、壊し、蹂躙するのは戦闘機人の本分だ。そこに何の矛盾がある。それとも……貴様もあのエリオのように俺を『駄々っ子』とでも言うつもりか?」

 「エリオに何したの!」

 「答える義理なんか無いな……!」

 口を動かしながらトレーゼはスバルとの相対距離を縮め、更に今や自分の専用武装とも言える液体金属の刃を全身から突出させた。人外そのものの姿形に変貌していくトレーゼを間近で目撃した事により、スバルは驚きと恐怖に口元を覆った。

 「そんな……っ!」

 この世の物とは思えぬ光景に思わずスバルが後ずさった。だが元から狭い空間に満足な逃げ場があるはずもなく、ほんの数メートル後退した所で錆まみれの壁に行く手を阻まれてしまった。それを袋のネズミと好都合に、トレーゼは背中から羽根か虫の肢のように生やした四枚のブレードを無造作に脅すように振り回し、円筒形の水道に亀裂を刻み付けながらスバルを追い詰めた。

 「これであの女を切り刻んだ……いつぞやの砂漠で会ったあの小娘の様に、貴様もバラバラにしてやる」

 「じゃあ……ヒツキちゃんもトレーゼが殺したって言うの!?」

 「始めから分かってるんだろう。今更確認するようなことか!」

 右手の動きとまったく同時にブレードの二枚が横薙ぎにスバルを襲う。胴体を分割するその攻撃は両脇から飛来し、まるで巨大な裁ちバサミが小枝を寸断するかの様にスバルを仕留めに掛かる。大振りな形状に似合わない俊敏さで振るわれるそれを間一髪で屈んで回避し、その体勢立て直しの瞬間にマッハキャリバーを装着、壁に刺さった刃が抜かれるより先に水道の奥へと駆けた。

 「逃がすか」

 「っく!」

 刃は一瞬でその形状を細長くしなやかな鞭へと変化させ、一閃振るわれたその先端が正確にスバルの首を捕えた。まるで首輪、聞き分けのない猛獣を戒める冷たい首輪と鎖の如く一瞬でその自由を奪い繋ぎ止めた。

 「この装備は俺の意志で自在に動き、硬くもなるし軟らかくもなる」

 巻き付いた時は飴細工のように柔軟だったそれは今やダイヤモンド並みの硬度を誇り、ゴムが元の長さに戻ろうとするかの如く徐々にスバルの体を支点であるトレーゼに結び付けようと引き摺り始めた。その膂力たるや凄まじく、息苦しさを押し殺して脱出を図りマッハキャリバーの回転数を上昇させるが空しい摩擦音が響くだけで数ミリも進まず、車輪がコンクリートを削った微粒子だけが舞い散った。

 「死ね……」

 「あぐっ!」

 槍のような形状をとった液化金属が背後からスバルを強襲する。殺気を感じて急所を逸らし、右肩の肩甲骨を貫かせた。元から右手は無い身……関節を破壊されて動かなくなったところで問題は無い。痛覚だって歯を食いしばれば我慢できる……そう思い込まなければ耐えられなかった。だがそこへトレーゼが追い打ちをかける。

 「しぶとい。なら、これで!」

 魔力変換による電流が半身を焼き尽くしにかかった。内部から組織を焼かれる未知の痛覚に全身の細胞や神経が絶叫を上げ、ものの十秒も待たず彼女は膝を折った。そして遂にその身柄は機械仕掛けの死神へと捕えられる。

 四肢は微弱電流によって痙攣し自由を失い、立ち上がろうと力を込めれば全身の筋肉を蛆虫が這い回るが如く痛みを味わう。

 トレーゼはふと、そんな彼女の脚を凝視した。人形の肌を愛でるようにその脚を撫で上げる彼の手付きはどこか病的で、そして蠱惑的だった。丹念に何かを調べ上げる彼の手は膝下僅かな場所で止まり……



 そこを貫く──。



 「ぎっ……ああがっあああぁ!!」

 突き立てられた槍の先端が溶け出し、更に肉体の奥深くへと侵入。真に傷を刻むは筋肉でも血管でもなければ神経線維でもなく、その更に奥底にある……

 「……これか」

 「な、にを!?」

 「貴様はここで野垂れ死ね」

 今度は反対の脚を突き刺され激しい痛覚がそれを遮った。同じように突き入れられた先端が溶け出して体内を駆けずる……そして、二分も経たずにそれは引き抜かれ、後には血を垂れ流す穿孔だけが残った。傍から見ればただ突き刺して引き抜いただけにしか見えず、実際スバルはそうだと思い込んでいた。

 だが、変化はすぐに彼女に伸し掛かった。

 「うそ、なんで……動かない……っ!?」

 体が重い……痺れが収まりを見せ四肢の自由が戻ったはずにも関わらず、指先以外の関節が錘を括られたように。完全に動かない訳ではなく、渾身の力を込めれば持ち上がりそうだった。だがそれは上半身の両腕の話しで、脚に至ってはいくら力を入れようと石になってしまったかのようにピクリとも動く気配が無かった。

 「全身のエネルギーラインを切断した。これで貴様の体は動くまい」

 戦闘機人は骨格たる駆動フレームを増強筋肉と連立させる形で動かすからこそ常人以上の機動性を発揮できる。その骨、フレームのエネルギーラインが途切れれば当然の如く木偶に成り下がり、ただの錘と化す。全体重量30kg以上にも及ぶそれは馴染んだ体の自由を奪い、重力に従って地に張り付くのだ。

 だがそれだけでは戦闘機人は死ねない。骨が折れた程度で人間が死なないのと同じだ。だからこそ、そこにもうひと押しを加える必要がある……。

 「深奥の水は身に沁みるだろう。今の内にここで体を慣れさせておけ」

 動かなくなったスバルを更に汚水に蹴り出し、その冷水が彼女の体温を奪いにかかった。十秒も経たずに指先から感覚が抜け落ち、そして凍りつく。重い体と凍る感覚が後押しし、辛うじて上半身を持ち上げていたスバルは遂に力尽きて地に顔を押し付けた。汚水の悪臭が鼻を突くが、もはやそれすら回避できない。

 「じきにここは沈む。ここだけではない。この上にある街も何もかもを全て押し流す濁流が来るからな」

 「だ、くりゅう……?」

 「上に居る連中はさぞ驚くだろうが、それもまた狙い通り。あの喫茶店も、あの道場も、駅も、ビルも、車も、人も、虫の一匹に至るまで全て根こそぎ洗い流す」

 「洗い流すって……!?」

 その言葉が何を意味するかは分からない……だが、間違いなくトレーゼが何かしらの大破壊、或いは大量殺戮を伴う“何か”をマテリアル達と共に敢行しようとしていると言うのは理解できた。

 「この街には今……トーレさんも居るんだよ……?」

 「知っている。恐らく上に居るだろうが、俺の知るあの人ならばこんな単純な仕掛けで死にはしない。万に一つ、仮に死んだとすればそれは俺があの人を超えたと言う事実に他ならない。最高のナンバーズ、トーレを超越すればそれは俺が最も秀でた者として返り咲くと言うことだ」

 冷淡にそう言い残し、トレーゼは予定通りに奥へと姿を暗ました。暗闇の中で彼を見失ったスバルは追うことすら出来ず、固くなった自らの体を恨めしく思いながら虚空を凝視するしか出来なかった。










 同時刻、地上にて──。



 「ここが結界の中心部か……」

 街中にある小さな公園、そこが結界の起点だった。滑り台、ブランコ、ジャングルジム、水飲み場……完全に外界を投影したその場所に違和感や変哲は何も無く、そして相対すべき敵の姿も見当たらなかった。

 「見たところ以上は無いな。遊具はもちろんのこと、敷地内の植物や砂利、土くれの一握りに至るまで普通の土地だ」

 トラップの類は無く、ただそこにこうして存在するだけの無人地帯……特にそこを選んだ意味は無く、展開するのに適していたと言う理由しか読み取れなかった。

 もちろん、通信さえ阻害する結界を張っておいて何も無いと言う事は無いだろう。それだけ強固な空間となれば何かしらの拠点的意味を持つはずなのだ。だが肝心の敵の姿が無いのではその確信も仮説の域を出ない……。

 「この結界は何のために展開されたんでしょう?」

 「入り易く抜け難いって事は通常の結界と同じように、『捕えて離さない』のを狙ってるのかも知れないけど……。仕掛けた本人がどこにも居ないのがひっかかる」

 「どうする? 何も無ければこのまま内側から破壊する手もある。私だけでは心許ないが、お前のザンバーも加われば一点突破も考えられるぞ」

 結界はその特性上、一点でも綻びが生じれば済し崩し的に消滅する。危険性が無いのであれば即刻破壊して脱出するに限ると判断し、シグナムとフェイトは目配せしカートリッジをロードした。

 「……ん?」

 「シグナム、どうかしましたか?」

 打ち崩すべき天蓋を見据えた時、シグナムが何か疑問を抱いたような表情を浮かべた。火炎を纏う刀身を降ろし、その一点を凝視する。

 「空が……低い」

 「低い? 結界の天井がですか?」

 「低いって、そりゃあそうですよ。結界の半径は500mで、中心部のここだって地上からたったそれだけしか離れてないんですから」

 エリオの言う様に、地上500mと言えば彼の東京タワーよりも高いが青藍に染まったこの天蓋全てが人工物と考えれば急に閉塞感を感じるだろう。実際、初めて結界の内部空間を経験する魔導師の大半が精神的に閉塞感を覚え、中には息苦しさを感じる者さえいるのだ。だが慣れればどうと言う事はなく、そしてそれも短い時間で収まるものだった。

 だからシグナムのように歴戦の猛者とあろう者が戦場に違和感を覚えるはずがない。逆にその違和感が確信を持って言えるものだとすれば……それは即ち、今ここで「何かが起こっている」と言う事実に他ならない。

 「ストラーダ、僕らが居る場所に異常は無い?」

 何も無い事を願いながらエリオは手元の相棒に確認を取った。それに対するストラーダの回答は……。



 『結界が縮んでいる。現在の半径は約400mだ』










 「『オペレーション・ノア』……その第一段階は言わずもがな、管理局の狗共の捕獲。次に、三つの結界全てを展開したまま収縮させていく」

 そう、あれは方舟。この地上に具現した選ばれた者のみが足を踏み入る事を許される聖域。無論、保護の城壁ではなく鏖殺の空間である事はこの際明らかだ。乗り込んだ者は生き残る事を確約された“ノア”などではなく、消耗品として屠殺される家畜に過ぎない。

 「そして侵入者を結界ごと破壊し、それで第一段階は成る」

 結界をこちらから破壊するのがミソだ。解除ではなく、破壊するのだ。

 「第二段階はこの地下施設の除水機構を全てダウンさせ、河川の水量調節を行えなくする」

 こちらは今頃トレーゼが動いているはずだ。放水路の堰を管理するシステムを弄るのは彼にとっては造作もないこと。水の入り口となる堰全てを閉じれば急な豪雨や増水の際に地上を水が覆い、河川の水も堤防を突破する。もちろんそれは災害時の話であり、そうならないように地下に水を溜め込み放水するこの地下施設が存在する。真冬の乾燥した時期に都合よく大雨が降るわけもなく、例え堰を閉じたとしても何も問題は無いはずだった。

 だから起こすのである……天災を。人間の行いによって引き起こされる災いが人災ならば、人外の手によって引き起こされるものは天災以外の何物でもない。

 「もうすぐだ……我らが新世界に羽ばたく時は近いぞ」

 これが上手く行けば上の面々は間違いなく命を落とすだろうが、リンカーコアはすぐには消えずしばらく残留し続ける。形を持たない魔力とは違い、ほんの数秒前まで体内で凝固していたエネルギーの塊がそう簡単に霧散する訳がないのだ。衝撃などで多少は削られるかも知れないが全てが終わった後で蒐集すれば莫大なページが稼げると言う寸法。もちろん、上に居る者だけで賄えるとは限らない。不完全な状態で寸止めを食らい生殺しにされるのも癪だから……この作戦には大量の『保険』も掛けた。

 「例え上の連中が貧相であっても問題は無い。リンカーコアは生きとし生ける全てに宿っているのだからな」

 いざとなれば……街の人間全てを狩り尽くす。女子供も関係ない、例えそれらが文字通り塵芥程度の糧にしかならずとも、積もれば山になるのだから……。

 ふと、背後に気配を感じた。他の二人は決められた配置で行動中のはずなので、今ここへ足を運び入れる者は一人しか居ない。

 「おう、主殿よ。こちらはもうすぐ制する事が出来る。今しばらく────」










 最初にその気配に気付いたのは偶然なんかではなかった。

 音がするのだ。元々地下に造られた閉鎖空間なので音は良く響く。それが例え常人の鼓膜では捉え切れないほどに小さなものだとしても、その聴覚神経はそこに何者かが居る事を察知する。今この場にて動く事を許可した覚えは無い……そうなれば、無闇に動き回る者は限られてくる。

 「……………………」

 辿り着いたのは直径が10mはあろうかという巨大なトンネル……雨水や河川の水を溜め込み、また再び海や河川に流れ出させる為の放水路に抜け出した。

 「驚いた。管理外世界の一地方都市の地下にこれほどまでの建造物があったとは」

 セリフとは裏腹に彼の心境に驚きの気持ちなどこれっぽっちも無い。そこにあるのは、ただ純粋な「納得」の感情。

 「確かにここなら空間的なゆとりもある。戦闘に邪魔な遮蔽物も無い。堕落したと思っていたが、まあそれなりに頭は回るようだな」

 ぐるりと周囲を見渡せば、いつの間にか彼を取り囲む六人の少女の姿があった。全員が同じ防護服に身を包み、その手には同じ形の武装を握っていた。

 「……一人、ここに居るべき者がいない」

 「トーレであれば、貴方の布石を崩しに行きました。今頃三人のどちらかと接触したかと」

 「なるほど。人手を等分して三方向を一度に攻めるより、少数の戦力で確実に潰せる策を選んだか。俺の作戦は奴らのどれが欠けても成立しない……どうやって結界を抜け出てしかもここを突き止めたかは知らないが……」

 「いいえ、私達は初めから結界に入ってなどいません」

 「……なに?」

 「残念だったね。私らはちょっとトラブル抱えて司令に待機命令を受けてたのさ。だから同行して足止めを食らわずに済んだし、こっちからモニタリングしてあんたらが結界を外から維持してるって事も分かった」

 「地上のどこにも居ないのなら、後は地下しかない……ビンゴでした」

 「八神司令の待機命令は破っちゃったスけど、まあこれも臨機応変って奴ッスよ」

 思わぬ誤算だった。結界から自力で脱出するかもと言う予想はしていたが、例えそうなったとしても精々一人か二人だと考えていただけにこれは本当の意味での予想外だ。複数人の魔導師を退けたマテリアルがたった一人に苦戦を強いられる事も無いだろうが、結界の維持に集中できなくなればこの作戦を真の意味で達成する事は難しい。

 だがそれがどうした。障害は実力行使で排除してきた。だったら今もそうするまでの事……。

 「…………」

 右手の指に収まるデバイスを呼び起こし、トレーゼが静かに臨戦態勢へと移行する。物を言わずとも全てを察したようにマキナが光り、その形状が二丁拳銃へと──、



 「やめろっ!!!」



 刹那、甲高い声で叫んだのはチンクだった。制止の手を出しているが、その目は事態を阻止できなかった事への失意が表れている。彼女が止めようとした人物は二人……命令も無く先走ったオットーとディードだった。

 「戦闘の意志を確認し次第、即殺害……でしたね?」

 「……隙を見せた方が悪いのですよ」

 ランスの先端はトレーゼの体内、防御の為に体内の液化金属を硬化させる暇さえ与えず心臓を正確に貫いていた。そして間を空けずにバッテリーに溜め込んだ電流を放電し、フレームの回路を焼き切る。小刻みに痙攣するその姿を凝視しながら双子のナンバーズは自分達の胸中に仇討ちを成し遂げた事による黒い愉悦が広がるのを自覚していた。

 「────────」

 「……フンッ!」

 同時に槍を引き抜くとトレーゼの体は支えを失い、膝を折って地に伏した。胴の前後に開いた傷口からは心臓からの血流が滝の如く吹き出し、高圧電流で焼かれた体表からは僅かに白煙が立ち昇っていた。やがて血も煙も止まり、俯いたその顔は上げられず、指先もピクリとも動くことは無かった。

 それはあまりにも呆気なく、拍子抜けな三文芝居の幕引きだった……。










 結界の収縮は続き、なのは率いるスターズ三人は必死に打開策を講じていた。

 「私だと力不足ですから、結界を破壊するなんてとても……」

 「スターライトブレイカーでも怪しいかも。破壊する前に内側に溜まった魔力の圧力でどうにかなっちゃうかも……」

 「だったら、ここは大人しく私に譲ればいいってもんですよ……っと!」

 ギガントフォルムに変形したアイゼンを抱え、ヴィータが上空へと飛び立った。最初に結界の違和感に気付いた時は何かの間違いだと思っていたが、実際に空間を再計測したら途端にボロが出た。この空間がどこまで収縮するかは分からないが、このまま範囲が狭まっていけば魔力素の濃度は上昇して最悪の場合全員が失神すると言う事態も有り得る。その前に何としてでもここを突破して結界を破壊するしかない。他の二ヵ所はどうなっているかは知らないが、この現象に気付かないほど鈍い連中ではないはずなので各々の対処法を講じているだろう。運良くここを一番に脱出できたなら他の二ヵ所にも向かわねばならない。

 「轟天……爆砕っ!!!」

 巨大化した鉄槌をスイングさせ、勢いを付ける。そして……

 「ブチ貫けぇぇえええええええっ!!!」

 小さい体躯に秘められた尋常ならざる膂力と、そこから放たれる破壊力の全てを愛機に注ぎ込み朱色の天蓋を突き上げる。その衝撃に地面が揺れ、空気が震動し、天蓋が大きく軋みを上げた。

 だが、それだけだ。

 「……んだよ、これ!? 硬ぇだけじゃなくって、むしろ柔らけぇ!!」

 ただ硬いだけでは受けた衝撃を外部に逃がせず、そこに物理的柔軟さを加える事で力学的に難攻不落の城塞へと変貌させることが出来る。内外からの衝撃を逃がした結界はほんの少し震動しただけで壊れず、ヴィータは黙ってアイゼンのカートリッジを交換した。

 (フォルムフィーアでやればどうか分かんねえけど、それだと魔力がな……)

 敵方の目的が自分達の魔力の浪費であればここで奥の手を出すのは思う壺にはまったと言う事になる。仮に脱出できたとして、カートリッジも残り少なくなった状態で戦える生半可な相手ではない……それもストライカーとして前線に立つ身なら尚更だ。

 「何とかして……って、何だよこれ?」

 その時初めてヴィータは自分が居る空中の“異変”に気が付けた。

 天蓋から差し込む陽光を浴びてキラキラと反射する“それ”は、まるで日光を屈折させて煌くダイヤモンドダストか……だが雪の様な儚いものではなくむしろ逆、確かな形と重さを有した銀色の物体だった。

 それはパチンコ玉。傷も錆もない真新しい新品の真鍮の球体だった。この距離まで来て初めて分かったが、それが見渡す限りの視界全てを覆い尽くし、陽光を受けて白銀に輝くそれらは何らかの魔導的措置を施してあるのか妖しく浮遊を続けていた。

 「野郎、クリスマスイベントのつもりか? あん……これって……?」

 金属球の一個を手に取って確かめる。歪んだ鏡面にはそれを取り囲むように環状の魔法陣……否、真紅の幾何学紋様が回転していた。インヒューレント・スキルを発動させるための擬似魔法陣、“13番目”の能力の痕跡がそこに確かに刻み込まれていた。そして更に、この鏖殺空間に隠された真意を看破したのだった。

 「嘘だろ、オイ……! こんなんが三つもあったら街が消し飛ぶだろうが!!」

 目測にして約三万前後……それらのパチンコ玉の一粒一粒は、たった数個で乗用車両を吹き飛ばせるだけの破壊力を秘めた物だった。










 三つの結界はそれぞれ中心部を起点にして10分間に約50m、秒速およそ83cmの速度で徐々にその範囲を狭めている。マテリアルらの計画では最低でも直径100m、出来ればその半分の50mまで収束を続ける予定だ。結界は狭ければ狭いほど良い……その分だけ破壊した時の威力は増大する。

 空中に浮かばせたパチンコ玉はその全てが例外なく【ランブルデトネイター】の効果により、手榴弾並の威力を込められている。総数三万以上のそれらが閉鎖した空間で一斉に爆発すれば熱膨張によって大気は増幅され、中心部に向かって爆縮現象を引き起こす。空間には熱エネルギーが充満して外界への逃げ道をこじ開け、やがて結界そのものが圧力に耐え切れなくなって破裂、いや大爆発を引き起こすだろう。そうなれば周囲はもちろん、内部に囚われの身となっている面子は一瞬の内に絶命する。それが第一段階の全容であり、この後に繋がる第二段階に必要不可欠な重要プロセスだ。

 だが、今現在その三つの内の一つは収束が滞っている……。

 「ええい、横着な! 王の領地に土足で踏み入っておいて挨拶も無しとは、とんだ兵士が居たものだ!」

 「生憎、私は兵器であって兵士ではない。背後からの襲撃を気付かない貴様の落ち度だ」

 『王』のマテリアルを襲撃したトーレは彼女が拠点としていた貯水エリアをそのまま戦場に選び、狭い空間全てを足場にしながら縦横無尽に高速移動を繰り返し『王』を翻弄していた。数十トンもの水量を溜め込めるとは言え元は閉鎖した空間、大破壊を伴う魔法を使用すれば地下施設であるこの場所は崩落し敵もろとも自滅してしまう……それを分かっているからこそ『王』はトーレの鋭い攻撃を回避する事に全力を注いでいた。

 「この期に及んでまで地上の心配か。私もナメられたものだな!」

 「うぐっ!」

 片や大出力による大量爆撃を得意とし、片や対人戦闘のプロフェッショナル……単純な開けた戦場ならば面の攻撃で押し切る前者が圧倒的に有利だが、この様に閉所の戦闘となると条件は違ってくる。大振りな攻撃しか出来ず接近戦に不向きな『王』では軽装で手数が多く三次元殺法を得意とするトーレとは相性が悪すぎる。現に地力の差だけで膠着状態に持ち込んではいるが所詮はそこまでで、どちらが先に根負けするかの我慢比べへと移行していた。

 「なるほど、見れば見るほど主殿に瓜二つ。聞いた話では姉君とな?」

 「黙れ。その口縫うぞ。好き好んであの様なモノと関わった訳ではない……私がかつて愛した弟は、もうこの世には居ない」

 「その物言い……主殿が偽者と自称したのはこの事か」

 何となくだが『王』は自分の主人が抱える問題についてのあらましに予測を立てられた。だがあえて追及はしない……それは傍若無人、唯我独尊を地で行く彼女なりの忠義に反するからだ。だから今は目の前の敵に集中する……主人がこの女にどんな情念を傾けていたにせよ、敵として前に出て来るなら排除するしかないからだ。

 (それが我が忠節の道なれば……)

 不器用だと笑うなら笑え。悪鬼だと罵るならば好きに嘲笑すれば良い。だが主の邪魔立てをするならば、己が目的を果たすよりも先に討滅する。

 そこにほんの少し前まで“砕け得ぬ闇”完成の為ならとトレーゼの力を欲していた姿はどこにも無く、己が誇りと主人への忠義を両立させようとする者の姿があった。

 ≪もしもし、聞こえますか?≫

 戦闘の最中、脳裏に覚えのある声がした。

 ≪貴方の持ち場だけ進行状況が滞っています。どういう事ですか?≫

 ≪喧しい。今取り込み中だ≫

 ≪道理で騒がしいと思いました。敵の数は?≫

 ≪一人だ。だが相当すばしっこい……我一人で叩き潰せぬ訳ではないが甚だしく目障りだ!!≫

 実際、このまま事態が動かないのは良くないことだ。何としてもここで打開しておかなければならないのは明白。であれば、ここは自尊心にかまけて事を仕損じる訳にはいかない。

 ≪王たる我が命ずる。うぬら、早急に切り上げて我が前に馳せ参じよ≫

 ≪収束には今しばらく時間が掛かります。それを中断するなど……≫

 ≪たわけ。誰も未完のままで来いとは言っておらぬ。どの道彼奴らはそこから出られん。前倒ししてしまえば良かろうよ≫

 ≪確かに遅れるよりはよっぽどマシです。分かりました、あちらの水色にもその様に伝えますから、少しの間だけ堪えてください≫

 ≪我を誰と心得る。鬱陶しく飛び回るだけが能の蚊トンボにやられるものか! 王に敗退など有り得んわ!≫

 あくまで不遜な態度は崩さず、それだけ言い残して『王』は念話を切った。

 とはいえ、やはり難敵は難敵……残像さえも捉えさせない速度は人外の彼女に辛うじて見切れる程度で、直線的な軌道をある程度先読みする事で難を逃れている。だがどれだけ先読みしようとも肉体の反応が追従できない部分も多く、接触から数分も経たない内にその体の表面は次々に切り傷を刻まれ、徐々にジリ貧に持ち込まれつつあった。

 「それがうぬの力か。ヒトがどれだけ手を伸ばそうとも届かぬ領域に押し上げられた人外の力……よう出来たものよのぉ」

 「遺言か?」

 「我をナメるなよ。こんなものが我の本気だと思い込んでもらっては困る」

 「それは暗に……本気が出せないと言っているのか?」

 「ムッ!?」

 実は図星でしたとは言えない。トレーゼには魔力を分け与えてもらっている身の上なので言っていないが、実を言えば『王』のみならず三体のマテリアルらは自分の実力を出し切れていない違和感を拭えずにいた。魔力量とはまた別の問題であるはずの小さな違和感……それがしこりの様にへばり付いて出せるべき力が出せない感覚を覚えていた。傍から聞けば言い訳にもなっていない言い分だが、彼女らにとってはそれが共通の見解だった。

 即ち、「まだ目覚めきっていない」。

 何が、と言う問いには答えられない。自分でも分かっていないのだから当然だ。そんな些事よりも、今は目の前の敵に集中したかった。

 「トーレ、と言うたか。悪いがここで殺られるわけにはいかん。あの方の姉君と言えど容赦は出来ぬ、ここで朽ちてもらうぞ」

 「その言葉はどちらが劣勢かを確認してから言え。何が悲しくてあの様なモノと手を組んでいるのかは知らないが、手を切る事を勧めておこう」

 「手を切れ? 冗談が下手糞だな人形め! それこそ何が悲しくてそんな愚行をせねばならんのだ」

 「……あの男はお前が思っているほど甘い奴じゃない。お前達から先に離れない限り、奴は絶対お前達を見限る。見捨てると言う軽いもので済めば御の字だぞ」

 「有り得んよ。確かにあの方と我々の目指す物は違うだろうが、利害が一致して結託している現状、双方互いに貶め合う必要などこれっぽっちも無い。惑わそうとしても無駄だぞ」

 「こう見えて私にも良心と言うモノはあるつもりだが……私の言葉を無視した事実、今に後悔するぞ」

 「ぬかせよ。大人しくそこで見ていると言うなら咎めはせんだが、これ以上横着を繰り返すのであれば覚悟せいっ!!」

 魔導書が開き、大量のページが宙を舞う。闇色の波動が空間に充満しトーレを押し潰さんばかりに拡散したそれらは、紫色に淡く輝く様を見せつけ、反撃の号砲とした。










 殺してしまった……あの人の弟を、例えその本人に偽者と蔑まれていたとしても、殺してしまった。

 止める間もなく自分の末妹二人に兄殺しをさせてしまった罪悪感がチンクに重く伸し掛かる。血の繋がりなど無いとは言え、身内殺しの業を背負わせたくなかったからこそ反対していた……どこかで交じり合う場面があると思っていたから戦いを止めるようにトレーゼに進言した……それでこの結果なら、和解の道など最初からどこにも存在していなかった証左に他ならない。

 「…………結構、あっけないもんだよね」

 そう、終わってしまえば実に拍子抜けだった。

 二つの穴から垂れ流れていた血流はその全てを出し尽くしたのか、膝を着いて沈黙する彼の周囲には血の海が形成されていた。漂って来ていた肉の焦げる異臭にも鼻が慣れてしまい、目の当たりにしたはずの死の感覚に対して徐々に鈍感になりつつあった。今目の前にあるのはヒトではなく、その活動を停止したただのモノに過ぎない。あとはそれを適所にて処理するだけだ。

 「私とオットーで運びます。姉さま達は先にトーレ姉さまの加勢に向かってください」

 「ディード、お前は……」

 「何も言わないでくださいチンク姉さま……。私もオットーも……自分のした行いの意味ぐらいは理解してます」

 そう語るディードの表情は、かつて彼女がナンバーズ最後の生体として生み出されて間もなかった頃と同じ鉄面皮の無表情に戻っていた。怨敵を討った黒い愉悦と、下衆とは言え同族を殺してしまった後ろめたさがあったのかは分からないが、彼女が内から込み上げる感情を殺そうとしている事だけは見て取れた。なら、それ以上の追及は酷でしかない。

 「僕が背負うから、ディードはルートの確保お願い」

 白昼堂々と街中で死体を担ぐ訳には行かず、ひとまず地下を移動して街の外から帰還しようとトレーゼの体に手を伸ばす。掴んだ肩は血の気を失い氷の様な冷たさを纏い、ずっしりと重く、力を入れて持ち上げ──、



 「────触るな」



 肩に留まったハエを払うような軽い仕草……たったそれだけの動作でオットーの右腕はあらぬ方向を向いて圧し折れた。

 「う、ああぁ、ああああぁあぁあああぁあっ!!!?」

 肌を貫くのは己の骨、無骨な機械の骨……。絶叫と共に動脈も静脈も入り混じった鮮血が断面から勢いよく吹き出し、水道の壁に粘り気の強い絵の具となっておどろおどろしい絵画を描く。そして軸がずれたコマの如く、オットーは右腕を押さえながら血塗れの大地に伏し、代わりに立ち上がる人影があった……。

 「相手が確実に死んだかさえ確認しないとは……」

 霧の中の幽鬼が如くゆらゆらと立ち上がるのは、その胸と背に穴を開け確かに絶命させたはずの機人……“13番目”。口元から僅かに血を流しているが、それをタンを噛むように喉の奥から呼気を溜め込み、唾液混じりのそれをオットーに吐き捨てた。

 「そ、そんな……! だって、あんたはさっき……」

 「殺したはず、か? 確かに貴様らの武装は俺の心臓を潰した。足元の液体は紛れも無く俺の血液で、俺は防護被膜を展開する暇も与えられず一撃で葬られるはずだった」

 そう、「はずだった」のだ。

 「だが……その武器を使うのが数日遅かったな。こればっかりは運だ、諦めろ」

 「な、なに訳分かんないこと言ってるスか! あんたは死んだ! 死んでたんだ! 死んでなきゃおかしい!!」

 「死んでいた。実際、ほんの30秒だけ意識が途絶えていた。だがそれだけだ。見ろ」

 防護服に開いた穴を広げても、その先には白い肌が見えるだけ……。血に汚れているが傷はどこにも無く、跡形も無く塞がっている様子を見せつけられた。常人以上の治癒能力を持つ戦闘機人、それを遥かに超越した再生能力は通常の物理攻撃程度では崩れるはずがない。

 「だが、どうしてだ? トーレでさえそこまでの治癒力は持ち得ない!」

 「それか。それは……こう言うことだ!!」

 指先の皮膚を破って伸びた液化金属が形を成し、鉤爪となったそれをトレーゼは己の胸に突き立てた。皮膚を破り脂肪を掻き分け、肋骨を避け肺の一部を削り、心臓の寸前までを躊躇いなく貫いて見せた。そして差し込んだそれを更に捻じ込み傷口を広げ、何かを取り出す……。血の塊にしか見えなかったそれは表面の水分を悉く弾き、やがて実態を衆目に晒した。

 鮮血の赤を跳ね除け、現れたるは青き清浄な光……穢れの悉くを浄化するかの様に見え、実際は人を惹きつけて止まない魔性の光……。

 「ジュエルシード!?」

 「こんのぉ……!」

 その小さな宝石がスバルから奪った物だと判明した瞬間、他の五人の誰よりも早く反応したのはウェンディだった。ライディングボードを上げて照準を合わせエネルギーを溜め、石を持つ右手もろとも撃ち抜こうとした。だが放たれた光弾は腕に届く手前で霧のように掻き消され、ダメージどころか接触さえ出来ずに終わった。

 「そんなっ!?」

 「貴様達は不思議に思わなかったか……。マテリアルを実体化させるに当たって俺の魔力が欠片も消費されていないことに。あれは消費されなかったんじゃない、消費されたがすぐに回復しただけだ」

 「回復……? まさか!?」

 「そう。貴様の想像通りだ……」



 「今この石は俺のリンカーコアと融合している」



 あらゆる願望を無差別に、無制限に叶える悪魔の宝石ジュエルシード……暴走すれば次元世界そのものを消滅させるほどの魔力を有したそれは、あろう事か魔力増幅器官たるリンカーコアと混じり合い、彼に無尽蔵の力を提供していたのだった。

 「無論、完全に融合させた訳ではない。そんな事をしてしまえば俺の肉体は耐え切れないからな。見た目だけで言えば肉体がジュエルシードを取り込んでいる様だが、実態はその逆……俺のリンカーコアを石に寄生させているに等しい」

 例え正確には同調率が万分の一以下だとしても、魔導師百人が一生消費し続けても枯渇しないだけの魔力が常に供給されるのだ。つまり、現状の彼は魔導運用面においては以前より“無敵”に相応しい肉体を手に入れたと言ってもいい。

 殺したと思っていた者が生きていた……それも自分達の及ばない力を手にした事実を知り、ここへ来て初めて六人の胸中に恐怖が喚起する。

 「……やはり、殺しておいた方が良さそうだな貴様らは」

 「ッ……いちいち腹立つね、何様のつもりさ!」

 「俺は俺だ。肉と骨、血の一滴から細胞の一片に至るまで全てが“俺”だ。俺は俺を己足らしめる為に貴様らを排除し、あの人の前に立つ……そして堕落した貴様らに代わって俺とあの人が真の『ナンバーズ』になる」

 「言ってる意味がちっとも理解できない。それはあなたの子供じみた妄想……誰もそんな事なんて望んでないのに、自分がそうしたいからってだけで滅茶苦茶にかき回して、傷付けて、壊して、踏み付けて……!」

 「最後はドクターを……!!」

 「ジェイルは堕ちた。完璧なナンバーズ……完璧なモノを生み出す存在は同様に完全無欠でなければならない。奴は負けたんだ、ならば汚点は払拭するのが常識だろう?」

 伏した目から除く輝きに濁りは無く、それはトレーゼが腹の底の本心から言っている言葉であった。自分が行った行為は必要だと確信したから実行したのであり、そこに誤りや手違いなど有り得ないし有ってはならない……。もはやそれは理屈ではなく、あくまで自分の価値観が正しく、それ以外は全て例外なく駆逐する事で自己の正当性を保とうとする暴力的な意思の塊でしかなかった。

 「頼らず、縋らず、甘えず……私であるな、公であれ……個であるな、隷であれ……。創造主の命に従って人を殺し、物を壊し、蹂躙するのが戦闘機人の役目だった。それがいつからナンバーズは女子供の仲良し集団に成り下がった。十七年前はこうじゃなかった……貴様らが貶めたんだ」

 「お前は最初からナンバーズなんかじゃなかっただろ! お前のオリジナルはとっくの昔に死んでるんだ……いい加減墓穴に帰んなよ!!」

 「言ったはずだ、俺は“俺”だと。模倣物がオリジナルに劣るなどと誰が決めた? それでも貴様らがあくまで過去の俺に拘るなら、俺は『今の俺』の方が優れている事を証明する。俺の抱くナンバーズの形を俺のやり方で正当化させるだけだ」

 即ち、それは──、



 「堕落した貴様らを殺し尽くす……。そして、俺とトーレとウーノ、三人で新たなナンバーズを創造する!」










 「も……あかん……」

 結界の収束によってもたらされるのは、空間に漂う魔力素の圧力の増加。

 魔力素は酸素と同じ……少なくてもいけないし、かと言って多すぎれば毒となる。呼吸と共に取り込まれた魔力は体内のリンカーコアにて増幅・蓄積され、それが適量かつ適度な濃度であれば必要な時に魔導運用として体外に放出できる。だが、もしその濃度が高ければ取り込んだ際に肉体の細胞を次々と汚染し、体に重大な疾患を与える事にもなりかねない。

 はやての場合は呼吸器官に異常を起こし、軽い酸欠状態を引き起こしてしまっていた。意識は朦朧とし、息苦しくて立ってさえいられない。傍にいるシャマルとザフィーラの方は何とか立ってはいるがそれが限界らしく、既に濃度の高すぎる魔力に侵されて体の自由を奪われていた。

 「せめて……あれだけでも……!」

 恨めしく睨むは上空に煌く大量の銀玉……遠目で確認した限りではその全てにISが仕掛けられており、予測が正しければ金属爆破の効果が込められているはずだ。最初からここは自分達だけを陥れるために用意された舞台……この空間のどこかに罠があるのではなく、この空間そのものが一つのトラップとして機能していたなどと誰が想像できただろうか……。今頃他の二ヵ所でも同じ現象に見舞われているだろうが、自分達はそれを助けに行く事も出来なければ、助けられる事さえ無い……ここで結界と共に爆ぜ、そして死ぬしかないのか。

 心残りは、爆発の影響で死ぬのが自分達だけではなく、街の人々にも危害が及んでしまうことだ……。

 見上げた空はどこまでも紫色の曇天で、はやては薄れ行く意識に抗えぬまま眼を閉じ、伸ばした手は力無く地に落ち……

 (みんな……ごめ、ん…………──)





 ≪諦めちゃダメだ!!≫





 脳裏に響いた念話の声がはやての、三人の途切れかけていた意識を呼び戻す。幻聴などではない、誰も入って来れないはずの地獄にたった今、一筋の光明が差し込んだ瞬間だった。

 「だ、誰や……!?」

 朦朧とした意識で声の主に問いかける。こちらから何度試しても決して届かなかったはずの念話をどこからか発している……それが一体何者で、どんな思惑があるのかを確かめたかった。だが相手も相手で切羽詰まっているのか、念話で一方的に捲し上げる。

 ≪説明してる時間が無いから簡潔に言うよ。今すぐ何かに掴まって。建物の中に入るのでも良い、とにかくそこから離れてほしいんだ≫

 同じく念話を聞いていたザフィーラとシャマルに抱えてもらい、はやて達はすぐ隣にあるビルの中へと避難した。恐らく声の主はこの状況を打破する策と実力を有している……なら今は黙ってそれに従うより他は無い。

 変化はすぐに訪れた。

 「あれは……魔法陣?」

 建物の窓から確認できたのは真円を描くミッドチルダ式の魔法陣。それが空中で回転しながら半径を拡大させ、やがて停止。そして……突如にして大嵐が結界全体に巻き起こった。

 「きゃ!?」

 「な、何や……!?」

 巻き起こった大嵐の力は凄まじく、三人が立て籠もる部屋の窓さえ粉微塵に砕き、ガラス片の悉くを吸い上げて行くほどだった。どうやら陣はこことどこかを繋ぐ転移魔法の門として機能しており、気圧の関係からここら周辺の空気を突風に変えて吸い出しているようだ。当然、街路樹の葉でさえ強く吸い出すそれに掛かれば空中を浮遊するパチンコ玉は影響を受け、次々とその陣に向かって軌跡を描き始める。しかも、別の窓から覗いて見れば魔法陣の数は全部で十はあった。

 やがて三万個もあったはずの銀玉はものの二、三分で全てが何処とも知れぬ場所へと飛ばされ、魔法陣が閉じた後の街には静寂が残された。吸い出しの時に魔力素も粗方放り出されたようで、さっきまでの息苦しさや節々の痛みなどはなりを潜めてくれた。

 「一体……誰が……」

 『やあ。遅くなってごめんね、はやて』

 「って、えぇ!? ユーノ君!!?」

 空中に映し出される画面に見えた顔は、遠く次元の狭間にある時空管理局の本部で一番忙しい職場で指揮を執っているはずの幼馴染、ユーノ・スクライアだった。そう言えばさっきの魔法陣の色は鮮やかな緑色……彼の魔導色だった。

 「ハラオウン提督が言っていた『助っ人』とはお前の事だったのか……」

 「ちょ、ちょっと待って! どうやってそんな所から通信を? この結界は通信や魔力の連結を完全に遮断して……」

 『ああ、それだったら穴を見つけるのに時間が掛かったけど、なんて事はなかったよ』

 「は……?」

 『そのまま固定させておくべき結界を無理矢理縮めるんだ、どこかでボロが出るに決まってる。冷静にその綻びを探して見つけ出しさえすれば後は簡単なものさ』

 「は、はぁ……」

 呆れて物も言えない……。自分達が力尽くでも突破出来なかった魔力の壁を時間を要したとは言え、いとも簡単に潜り抜ける親友の技量にただただ感心するばかりだ。そう言えば、彼は多くの局員を忙殺してきた無限書庫の司書長……一日の大半を上も下も無い無重力の図書館で過ごし、奥底に隠された蔵書を探し出す為に検索魔法を、場の安全を確保する為に結界魔法を使う。肉体労働派の自分達と比べて頭脳労働や補助に秀でているとは分かっていたつもりだったが、まさかいつの間にかシャマルのレベルを越えていたとは驚きを通り越して開いた口が塞がらなかった。

 『あとは内部と外界を繋いで危険物を除去するだけさ』

 「除去って言ったって……一体どこに転移させたの?」

 『大気圏の向こう側』

 「……へ?」

 『正確には上空約1000kmの所に打ち出した。本当は重力圏の向こう側に放り出したかったけど、どれかが人工衛星に直撃するかも知れなかったからね。大気圏だったら重力に捕えられても落下の最中に全部燃え尽きてくれる』

 もう何と言うか、はっきり言って規格外だ、そうはやては思った。自分も大概だと言う自覚はあったが、案外この優男風な親友もなかなかどうしてやるようで、頼もしい限りだ。

 『残りの結界も既に処理済みだよ。少し休息してから頑張れば内側からでも破壊できる。くれぐれも街の人には見つからないように脱出して』

 「脱出してって、ユーノ君はどこ行くん?」

 『僕はナンバーズの援護に回る。彼女たちは全員が地下に向かってるんだ。恐らく……そこに“13番目”も居る』

 半ば予想はしていたが、やはりあの七人は自分の命令を大人しく聞き入れる器ではなかった。もっとも、規律に則って先行した自分達が罠にはまり、命令を破って追随した方が本命を見つけ出すと言うのは皮肉でしかない。ともかく今は地下の面々が首魁の足止めをしている内に事を済ませるより他は無い。

 「おおきに、ユーノ君。また後で落ち合お」

 『ああ。嫌な予感がする……。連中はどうやらとんでもない事をやるつもりかも知れない……』










 「っ!?」

 「うん? どったの?」

 『王』の援護に回ろうと途中で『力』と合流した『理』は、ふと下水道の真ん中で足を止めると何もない天井を仰ぎ見た。隣の連れも真似して同じ方向を見るが、当然錆びた天井には汚れ以外には何もない。

 「どうかしたのかい? ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔してさ」

 「……あなたは気付きませんでしたか」

 「何をさ?」

 「…………別にいいです」

 「?」

 この大雑把な連れは上の結界が何者かに干渉され、あまつさえ破壊された事にすら気付いていない。ここまで鈍感だと逆に幸せなんだろうなと思いつつ、『理』のマテリアルは溜息をついた。

 この作戦の第一段階は結界の爆縮による衝撃で街に三つの大穴を開け、地上とこの地下施設を繋ぐ事にあった。マテリアル三人がここで結界の維持に集中している間にトレーゼが街に流れる河川の上流へと移動し、【旅の鏡】を使って海水を転送する。仕込みそのものは昨日一晩掛けて彼がやったので、自分達はここで結界の維持のみに集中するはずだった。

 (あくまで予定でしたが……)

 予め放水路の弁を停止させれば増水した河川の水を横流し出来ず、海流を飲み込んだ川は氾濫して堤防を越え、街に雪崩れ込む。その直前で結界を爆破し大穴を開ければ、低い場所に流れる水の特性によって風呂の栓抜きよろしく濁流が怒涛の如く押し寄せ、海鳴の街は文字通り洗い流される。人も、車も、小さな建物でさえ、その流域にある物全てを容赦なく飲み込み、大口を開けた穴がそれを平らげる……後は飲み下された残骸からリンカーコアを引き上げるだけのはずだった。

 (予定は未定とはよく言ったものですが、ここまでツキに見放されているとは。まあ、そこまで上手くやらせてもらえるとは思ってませんでしたが……)

 止めていた足を動かして再び『王』の元へと向かう。計画が崩れれたならばここに居る理由は無い、早急に彼女を拾って戦線を離脱しなければ。

 と、彼女が戦闘を行っているであろう場所を目指して突貫した瞬間──、

 「どっせーいっ!!」

 「のわわっ!?」

 「!?」

 曲がり角を突き破り何者かが飛び出してくる。自分達の足止めに来た者かと思って得物を構えるが、その顔は自分達の良く知る相手だった。

 「あれ、王様?」

 「ゲッホゲッホ! おお、うぬらか。丁度良い! このまま地上に戻るぞ」

 「王に敗退はあり得ないんじゃなかったのですか?」

 「アホぬかせ! 上の結界が破壊されてしまった今、もはや我らがここに陣取る名分は無い!」

 「あれ? 結界って壊されてたっけ?」

 「このバカは放っておいて結構です。先を急ぎましょう」

 「ちょ! バカって何さ! バカって言う方がバカなんだぞ!!」

 「ええい! 黙らんかぁ!!」

 女三人寄れば何とやら……混沌としかけた場の空気を一喝した後、三人は地上の合流ポイントを目指し全速力で下水道を駆けた。すぐ背後から『王』の相手をしていた者の気配を感じるが、こちらに逃げ込んでくるまでに相当まいておいたようで、すぐに追い付かれる様子は無かった。

 「取りあえず予定通りに川の方へ向かいましょう。今すぐこの上に出てもモグラ叩きにあうだけです」

 「我らがここに居る事は塵芥共も周知であろうしな。面倒だが致し方ない」

 「もういっそのこと、この下水道ごと木端微塵にしちゃうってのは?」

 「地震じゃあるまいし、この一角だけ崩した所でどうもせんだろうが」

 それに、もう連中がここに侵入して来ているだろうと予測するなら今は無駄な労力を使わず逃げに専念した方が良いだろう。錆びた壁を曲がり、足を汚水に浸らせ、埃が漂う狭い空間を駆け抜けながら三人は敵の気配が希薄な場所を目指す。その甲斐あってか背後からの気配はいつの間にか途絶え、細い道に響く足音も自分達三人だけになっていた。

 「……どうにかまけましたか」

 「そのようだな」

 走っていた足を一旦休めて徒歩に切り替える。合流ポイントはまだまだ先だがあるが追っ手が居ないなら急ぐ必要も無い。

 「しっかし、お天道様の下じゃ悪い事はできませんって? どうやったか知らないけど、念入りに念を込めたボクらの結界をああも容易く干渉していくなんて、あっちも相当のカードを隠し持ってたみたいだよね」

 「やれやれ、主殿がヘソを曲げるやもしれんな」

 「そこは上手く持ち上げて機嫌を取るしかないでしょう……っと?」

 「どうかしたか?」

 「いえ、何かが足に引っ掛かったようで……」

 足元に転がる何かに躓きそうになった『理』はさっきまで自分の足があった場所に目を凝らすと……

 「おや?」

 「こやつ……いつぞやの小娘か」

 下水道の真ん中に転がっていたのは瓦礫や石などの障害物ではなく、自分達の主人に執拗に付き纏っていたスバルだと知ってあからさまに不快な表情を浮かべた。ここで戦闘があった事を知る由もない三人は何故こんな場所で彼女が気絶しているのかと訝しみ、取り囲むようにその冷え切った体を舐め回す様に視線を落とした。

 「ありゃりゃ、死ぬ一歩手前かもねこいつ」

 「体温が非常に低い……道理で動けないはずです。どうしましょうか?」

 「どうするもこうするもなかろうて。ここで苦しませず殺してやるのが情けと言う…………いや、待てよ」

 ごそごそと懐をまさぐり『王』は紫色の魔導書を取り出した。その動作の言わんとしている事を察知した二人は口元に妖艶な笑みを浮かべる。

 「塵も積もれば山となる……。文字通り塵芥程度の糧であろうが、無いよりはマシであろう」

 「かなり衰弱してるから、大目に見積もっても一ページ半ってとこかな」

 「この街の住人全てを餌にする予定だった事を鑑みれば……それでも収穫は収穫ですね。ありがたく頂戴するしましょう」

 ここで彼女のリンカーコアを引き出せば恐らく、いや確実にスバルは衰弱死するだろう。標準的な蒐集であればリンディの時と同じ様に極度の疲労感だけで済まされるだろうが、生憎今の彼女らにとっては例え一摘まみ分だとしても“砕け得ぬ闇”の復活に注ぎ込みたかった。加えて、生命活動が限界まで低下しているスバルの体がその虚脱感に耐え切れる保証は無い。文字通り、魂を抜き取られて絶命するだろう。

 魔導書は深い色合いの燐光を帯び、文字の埋まっていないページを開きだす。それを確認し『王』は頭を垂れる従僕に施しを与えるかの様な仕草で手を掲げた。

 「眠れ、儚きモノよ。せめて痛みを知らず安らかに眠るが良い」

 ……………………

 …………

 ……










 ……声が聞こえる。誰かが自分の事を話す声が聞こえる。

 ああ、確かこれは“彼”に付き従っている三人の声だ……。何かを話しているのかは分からない。感覚が極限にまで絞り込まれてしまったこの体ではもはやその言葉すらまともに聞き取れない。彼女らが何かを喋っていると言う程度にしか今の自分は感じられないのだ。

 だが、彼女らが何を思い、どんな考えを抱いているのかは分かった。それは理屈や論理ではなくただの直感や第六感の類……ただそう感じたと言うだけの曖昧で、己にだけはっきりと分かる確信だった。そしてそれを感じ取った素肌が教えてくれる真実、それは自分を取り囲んでいるであろう三人がここで自分を始末しようと画策している殺意の証左……。

 そして感じる……彼女ら三人は心底“彼”に惚れ込んでいるのだと。この直感力が元から備わっていたのか、それとも死の間際に感覚が鋭敏になっているに過ぎないのかは分からないが、それでもスバルはそれが真実の一部なのだと確信を持てた。彼女ら三人は“彼”に恩義を覚え、その間に交わした契約を遵守し、自らの野望を叶え且つその恩に報いる為に“彼”に付き従い、その命令を拒む事無く聞き入れているのだと。

 嗚呼──、安心した……。

 “彼”はかどわかされている……“彼”は騙されている、利用するつもりが逆にされ、その果てに惨めに朽ち果て誰からも忘れ去られてしまう…………そんな惨めな結末を迎えるのだと思っていた。

 だがそうではなかった。“彼”は今、独りじゃない。とても歪で醜悪かも知れないが、それでも誰かにその存在を必要だと認めてもらえている。それはとても幸せなことだ、少なくとも“彼”にとっては。もっとも、“彼”自身がそれを実感しているか、あるいは疎ましく思っているかでその恩恵はだいぶ違ってくるが……。

 しかし、“彼”と自分の間にある因縁を断ち切らずに逝く事はできない。抱えたおぞましい秘密を墓まで持って行くほど自分は奥ゆかしい性格じゃない……だから──、

 (最期に……曝け出してから……)

 躊躇いは無い、自分はその為に“彼”を追っていたのだから。自分の思い描いていた結末とは大分違ってしまい、そこに意味など失せたように思えるが……この真実は元々“彼”のものなのだから、自分はそれを返さなければならない。

 肉体に残った僅かな魔力、それら全てを総動員し、“彼”と自分を繋ぐ細長い糸を伸ばす。それが無事に繋がったことを確認した彼女は、たった一つの真実を魔力を織り交ぜた思念に乗せて運び届けた。



 それが新たな憎悪と憤怒の引き金になろうとも知らずに……。










 この男は今何と言った?

 私達を殺す? 堕落して本来の目的を見失った? 汚点は払拭する?

 まるで意味が分からない。目の前の男の妄執が一体どこに向けられているのか、それを成し遂げた先に何を求め、それに何の意味があるのかさえ分からない。端的に言えば、眼前の人物の言葉は既に自分達の理解の及ぶ範疇をとっくの昔に逸脱した異常者でしかないと言うことだ。

 だがこちらに分かり易く解釈することはできた。要するに格好つけてどうのこうのと言ってはいるが、とどのつまり、ただ気に入らないから自分の目の届かない場所に追い出したいだけなのだと……。

 「────────」

 「……ディード、オットーを連れて下がれ。ここは姉達で食い止める」

 「姉さま……」

 「させると思うか?」

 「くっ!?」

 当然のと言う様にトレーゼの俊足が利き腕を負傷したオットーに迫る。右腕に硬質化させた液化金属の鎧を纏い、文字通りの鉄拳と化したそれを撃鉄の如く振り落とされた。ダイヤモンド並みの硬度を有したそれを寸でのところで回避し、拳はコンクリートの壁に突き刺さった。

 「お覚悟を!」

 セインにオットーを預け、すかさずディードが体を反転させて攻勢に移る。槍で心臓を突いても死なぬなら、自前のブレードでその首を刈り落とすまで。如何に死に難い体になったとは言え、首と胴が泣き別れしたならば話は別のはず……。

 「馬鹿正直に背後ばかりを狙うか、阿呆が」

 「なん……ふぐっ!!?」

 攻撃の際に背後を取るディードの習性を熟知し、予測していたトレーゼは振り向きもせず背中から金属の触手を発生させ、鞭のようにその脇腹を殴打した。細い紐のような形状からは想像もしていなかった威力にその体躯は弾き飛ばされ、一気に数メートルも離れた水面に叩き付けられた。すぐさま体勢を立て直すもその前にトレーゼは次なる標的に狙いを定めていた。

 「ウェンディ!!」

 「!?」

 空中ならともかく、閉塞した空間での地上戦においてライディングボードを携行するウェンディはナンバーズで最も機動力に劣る存在だ。まったくの重荷になる事は無いが精々盾代わりにしかならず、やはりウェンディはそれをシールドとして突貫するトレーゼを迎え撃つ。

 「ライドインパルス……ラディカル」

 「いっ!?」

 だがその盾さえ攻撃力特化のライドインパルスで超強化された拳の前では無意味。厚さ10cmはあるボードを障子紙より容易く打ち貫き、それだけでは済まず更にその先にあるウェンディの顔面を捉えた。もちろん、素直に食らってやる道理など無いので相討ち覚悟で槍を突き出す。

 「このぉ……!!」

 無駄と分かっていてもやるだけだ。さっきの様に電流を流せば、一時的とは言え肉体の動きを止める事が出来る……そうすればその隙を突いて誰かが仕留めてくれると信じて。

 「くぅぅぅううっ!!」

 鋼の拳が耳元を掠り、切り傷から熱い痛みを感じる。だが致命傷ではない、ダメージなど受けていない。だったら、こっちの勝ちだ!

 「はああぁあぁあ!!」

 突き出した左手の槍をその腹に叩き込む。

 しかし……

 「ソリッド」

 切っ先の進撃が止まる。高密度に圧縮された魔力の薄絹がその刃を阻む。たった数ミリにも満たない先に皮膚があっても、それを貫けない。

 「良い武器だな。もらうぞ」

 トレーゼの左手に纏わり付いた金属が変質し、その形をナイフ状に変貌させる。一刀の白刃と化したそれを一閃し、自身の脇腹を抉ろうとしていた槍の先端を苦も無く切り落として見せた。

 当然、それだけで終わるはずもない……。切っ先を切断されたことで重心がずれ、ウェンディの体が前屈みに倒れ込みを見せる。それを見逃さず、トレーゼは落下する切っ先を掴み取り、その先端をウェンディにむけ──、

 「アクセラレート」

 「ーッ!?」

 刹那、二人の姿は三メートルは離れた壁にあった。声にならない絶叫が壁に押し付けられたウェンディの口から漏れ出し、足から力が抜け落ちる。

 そして沈黙。その脇腹には、亜音速の刺突によって深く穿孔を開けた槍が突き立てられていた。

 「ウェンディィィイイ!!」

 「お前ぇえええっ!!」

 セインが突貫する。その足元には薄い水色の擬似魔法陣が展開し、彼女の無機物透過の能力が発動している事を表していた。それを迎え撃つトレーゼも同じ真紅のテンプレートを展開し、十五の固有能力のどれかを発揮しようと構えた。

 だが予想以上に彼女の速度は速かった。元々近くに居た事もあるが、それでもその俊足は目を見張るものがあった。すぐさま液化金属の刃を使って道を阻もうとするが、無機物透過能力の前では混じり気の無い金属の武装はまるで役に立たなかった。煙を掻き分けるよりも簡単にトレーゼとの距離を詰めたセインは格闘戦にもつれ込む前に背後を取り、脇から腕を滑り込ませて関節を極め、羽交い絞めにして見せた。

 「この……」

 右足を振り上げて反撃に移るトレーゼ。だがそれを予見していたセインは身を翻して回避し、右脚同士を絡ませて遂に身動きを封じた。

 片足を封じられた事でバランスを失し、トレーゼは初めて苦々しい表情を浮かべる。相手も自決覚悟の特攻をけしかけて来たのだ、ここからの流れも容易に想像できる。

 「兄上っ、覚悟ぉぉ!!」

 当然、文字通りの一番槍はチンクとなる。罪を重ね、偽者とは言え兄は兄……妹らの手を血に濡らすぐらいならと、さっきから己が手で幕を引く事を望んでいただけにその得物の先端にブレは無い。今の今まで平和的解決を望んでいた姿はどこにも無く、逡巡の様子さえ見せないところを見る限りではやはり彼女もまた戦士……。その金色の眼からは躊躇いが消え去っていた。

 だがしかし、大人しく討たれてやる道理などない。

 「スローターアームズ」

 遠隔操作のISがこの場にある何かに作用する。それは今しがたウェンディの腹部に突き立てられた槍の先端部……それが今度は矢じりとなってチンクの首筋、脳幹に飛来する。遠方からの殺気を感知した彼女はそれを同じ槍で器用に弾き返すが、無論それで収まるはずがなかった。

 「ランブルデトネイター」

 パチンッ──。フィンガースナップの合図と同時にチンクの頭上に上げられた槍の先端が爆炎を上げた。電流を流す為に切っ先の部分はどうしても金属を加工しなければならない……それはつまり一度でも触れられれば爆破の対象となり、切り落とす際に彼はそこに触れていた。ならば、彼の意思一つで爆発できない道理は無い。

 煙と粉塵が充満して彼女らの視界を妨げて行く。閉塞した放水路の中では気流が起こらず、充満したそれらは実にゆっくりとした速度で足元に沈殿しようとする。だが焦りを隠せない面々は無闇やたらに得物を振り回し、視界の確保を優先しようとしていた。唯一人、対象の一番近く、その背後を取っていたセインだけは終始落ち着きを見せており、煙が晴れるまでの間トレーゼを拘束する事に集中し全力を注ごうとしていた。

 「観念しな! あんたはここで終わるんだよ! 私らが終わらせるんだ!」

 「終わる? いいや、終わらない。終わらせない。終わるのは貴様らだ。俺はずっと続いていく……終焉なんて、認めないッ!!」

 「っ……ぐあ!!?」

 接触しすぎた、セインは自分の眼前から迫り来るトレーゼの後頭部を避けられず、鼻先に鈍い痛みを感じた時には既に両腕の羽交い絞めを抜けられた後だった。

 「しまった!」

 鼻の奥から鉄の匂いを感じるが、今はそんな事を気にしていられる余裕はない。この粉塵に紛れて姿を見失ってしまえば次はいつ相見えるか──、

 コツン……。

 「!?」

 立ち上がろうとしたその頭を硬い何かが押さえ付ける……。髪越しに感じる冷たい金属の感触に、セインの背中が反射的に汗で濡れる。

 「消えろ」

 引き金の絞られる音が響き……

 「させないっ!!」

 その手をディエチが弾く。直後に射出された弾丸は辛くもセインの足元を掠めて事なきを得た。

 「……射線に躊躇いが無い。それなりに覚悟は決めているようだな」

 トレーゼの右手は手首から先が消え去っていた。最低出力とは言え、何の防備もしていない腕がイノーメスカノンの直撃を受ければどうなるか……想像に難くはない。

 しかし、トレーゼの表情が痛覚に歪む事は無い。事実、痛くないのだから当然だ。極大増幅されたリンカーコアから供給される魔力は細胞を限界まで活性化させ、既に出血さえ止めていた。

 「だが頭を狙わなかったのは間違いだな。この威力なら脳幹を破壊するのは容易かったろうに」

 手首の断面が隆起し、銀色の液体が滴る。それは瞬時に形を形成し、やがて先端が五つに分かれた手形として出現した。一滴一滴がナノマシンの集合体である液化金属をここまで精密に操作できるのはデバイスの恩恵もあるが、土壇場においても冷静さを失わないその胆力……どんな経過を経ようと、最後に勝ち残るのは自分だと言う自負を持っているからこそ、動揺もしないし恐れもしない。蚊に刺されても痒みしか感じないように、少し時間を置けばそれすら気にならなくなるように……。抵抗したければすればいい、耳元でうるさく羽ばたいて、隙を見つけて血を吸っていても、いずれは叩き潰すのだから同じことなのだと……。

 「ほんとにムカつく……! あんたが居なければ……あんたさえ居なかったら、誰も不幸にならなかったんだ!」

 「それはどうかな。俺の進化の因子を用いなければ、貴様らが形作られる事はなかった」

 「だったら何。泣いて感謝してほしいの?」

 「まさか。誰が望んだわけでもなく勝手に現れた連中、それも生粋の落伍者どもを造り出す為にこの力を提供した訳ではない」

 「望んでいないのは貴方だけだ、兄上」

 「私達は……ナンバーズは、確かに望まれて生を受けたのです。いつかドクターはそう仰っていました」

 「ジェイル・スカリエッティはもう居ない。あいつのやり方は間違っていた。今は……俺が新たな“スカリエッティ”だ。奴が貴様らにとって上位者であったのなら、今は俺がそうだ。黙って俺の命令に従い、そして黙って死んで行け。人間に堕ちた戦闘機人など、ガジェット程の価値も無い。貴様らが死なないなら、それでいい……俺が殺す」

 足元から擬似魔法陣が消失し、次の瞬間にそれは頭上へと再出現した。この出現位置を彼女らは知っている……他でもない自分達の妹がそれを受け、廃人寸前にまで追いやられた禁断の能力が今、再びその猛威を振るわんとその輝きを増していた。

 「皆、逃げ────っ!!」

 「遅い……」



 『アブソリュート・ドミネイター』



 暴君の権威、絶対者の威光……本来ならばナンバーズの頂点として君臨していたであろう“13番目”の絶対支配権が爆発した。

 暗闇に近かった水路は一瞬で鮮血の如き真紅に染められ、それに飲み込まれた六人の肉体を刹那の瞬間に侵蝕した。ナノサイズのウイルスが光と共に飛散して空間を埋め尽くし、眼球や粘膜などの受容器官から体内に侵入、やがて血流や神経線維を媒介し、それらが脳内にある端末に到達する頃にはもう眩い閃光はなりを潜めた後だった。

 絶対支配者の名を冠したこの力は精神がトレーゼ寄り、つまりは彼に心を許し、尚且つ人としての波長が符号していなければ真価を発揮できない。今現在、その効果をまともに受けたのは二人のみ……そして、それ以外の者が支配下に置かれる事はありえないはずだった。

 「ハン! デバイスも持ってない私らにそれは聞かないよ!」

 「ISも封じた様ですが、構いません。数の上ではまだこちらが有利……」

 そう、実際ウイルスは脳にまで到達したが、量子マッピングされたトレーゼの意識を植え付けるレベルには至れていない。つまり、今の状態のナンバーズを操る事は不可能なのだ。

 「確かに私達の売りは先天固有技能ですが、それ抜きでも戦闘力に遜色は無いと自負しているつもりです」

 「そうか……なら仕方がない」



 「命令だ、『死ね』」



 刹那、六人の肉体に重圧が科せられる。

 「な!?」

 「ああっ……!」

 それは物理的な重圧、重力の倍加のような超自然的な現象ではなかった。単純な話、体が一寸たりとも動かないと言う停止現象……それが重圧の正体だった。脳からの電気信号をいくら発しても神経は反応せず、かと言って重心の支えを失って倒れる訳でもない……蛇の怪物に睨まれて石と化したが如く、その肉体は筋一本に至るまでが硬化して動かすことが出来ない状態にあった。

 ブレイン(脳)たる“13番目”からの指令は簡潔な『自死の強要』……。だがその命令は完全な同調を果たしていない彼女らに対して強制力は無く、例え死ねと言われた所ですんなりと実行に移されるはずもない。だが実際に彼女らの肉体は絶対停止の現象に晒され、暴君の威光によって組み敷かれているも同然の状態だった。

 「今の貴様らでは同調率が著しく低いから、セッテやノーヴェの様に完全支配は適わないが……それでも、ある程度において命令の強制は可能だ」

 「では、『死ね』と言う命令が、どうして金縛りに……」

 「言ったはずだ、ある程度は可能だとな。これがもし、『手持ちの武器で自害しろ』だったなら、貴様らは武器を構えるだけで終わっていただろう。だから簡潔に『死ね』とだけ言った。俺にとっての“死”とは、生命活動を伴わないただの物理的停止現象に他ならない。であれば、貴様らの肉体から行動権を剥奪する事に何の矛盾も生じない」

 なるほど、デウス・エクス・マキナ。奇しくも彼のデバイスと同じ名だが、例え完全な同調を果たしていなくとも支配下に置き、自分の尺度で計った概念を一方的に押し付けてしまえるこの能力がご都合主義の具現でなくして何だと言うのか。

 こちらの動きを止めたのだ、当然その次に取るであろう行為は容易に想像がつく。

 「番号順だ。一人ずつ、始末していく。遺言は聞かん」

 液化金属に置き換わった右手が変形し、刺突に特化した鋭利な形状へと変貌する。すべからく心の臓と脳髄を突き破る為の形状をしたそれは、内部フレームでさえ掘削する硬度を誇り、その先端がチンクの額に宛がわれた。

 「やめろぉ!」

 制止の声を無視し、トレーゼの腕が無情に振り下ろされる瞬間……

 「……!?」

 「~ッ!!?」

 腕が止まる……直撃寸前、眉間の皮膚を僅かに削り血を数滴流しただけに留まった。何故彼の腕が止まったのかは分からない、向き合う形となったチンクのみがその表情を窺えたが、その彼女もトレーゼの真意を計りかねていた。何かの事実に気が付いたような呆けた顔をしているようにも見えるし、逆に何かの真相に驚愕している様相にも見られた。ただ確実だったのは、何らかの事実を感知した事によって、それまで抱いていたはずの氷の殺気が消し飛んでいた事だけだった。

 「……………………結界が?」

 どうやら地上の結界に異常があったようだが全容ははっきりしない。だが僅かに表情が強張っている所を見ると、結界がとうとう破壊されたようである。無事にはやて達が脱出したならじきにここに勘付いて向かって来るだろう。だがそれまで自分達が生き残っていられる確率は限り無く低い……。

 「“炸薬”まで消えている…………一体誰が結界に干渉した。いや、そもそも易々と干渉できるようには……」

 「っ……く!」

 「それはいい。連中は後回しでもいい。今は……落伍者どもを始末するだけ……………………いや、誰だ、誰が俺に話し掛けている!」

 頭上を仰ぎ見て何かを探す。もちろん、わざわざ念話で話し掛けてくるぐらいなのだから近くに居るはずがない。脳の奥底に繋がった魔力の糸は細くて弱々しく、それでいて食らい付いて離さない強靭さを併せ持つ執念を漂わせていた。この魔力を彼は知っている……今まで何度も自分の足を引いて邪魔をしてきたあの女のものなのだから。

 「セカンド……! あの死に損ないが!」

 「そんな!? スバルがここに来てるッスか!?」

 壁際のウェンディの声も無視し、トレーゼは自分の脳に届こうとしている。やはりあの時に直接手を下しておけばと自戒の念が想起するも、今この場を離れられない彼は不快ながらその言葉に耳を傾けざるを得なかった。聞き流した後でも良いし、聞き流しながらでも良い……今はとにかく早い内に連中を始末して『ナンバーズ』の概念を浄化しなければならない。自分とトーレ、そしてウーノが新生する為には、こんな汚れきった苗床など要らないのだから。卵を温める温床は清潔でなければならない。汚れていれば浄化の名の下に一切合財を剪定し、伐採し、破壊して作り直すのが道理……要はそう言う理屈に過ぎなかった。

 だが──、

 脳裏に響いた、たった一つの真実は……

 彼が抱く理想への途を粉々にしてしまうだけの力を秘めた驚愕の事実だった。




















 『WARNING! WARNING!』



















 けたたましいサイレン……否、デバイスの電子音声。本来危険を告知するそれは、持ち主に対して発せられる信号ではなく、その逆、超特級の緊急事態を周囲に対し無差別に知らしめるための警報機能として働いていた。

 「──キ──ギギ、カカカッ」

 電車が急停止する際に発生するブレーキ音のような奇声。それは、この場で唯一動くことの出来る者の喉から発せられる呪詛の音……声にならぬ憤怒の怒号が感情の間欠泉となって、今、暴発せんとしていた。その凄まじい殺気にまともに当てられ、水面は熱も帯びずに泡立ち、地震さえ起きていないにも関わらず天井から塵が落下し、尋常ならざる魔力と殺気の合成化合に六人は急激に意識が遠退きそうになるのを感じた。

 今すぐにここから逃げ出したい……地の果て、海の底、空の向こうの彼方まで、とにかく眼前の“それ”の手の届かない場所であればどこでも良かった。だが、見えざる絶対者の縛鎖がそれを許さない。加速度的に増殖する殺気はやがて現実と空想を歪める狂気へと反転し、ナンバーズ全員の心中にたった一つの、そして確実なモノを植え付けて行った……。

 「う、うわぁああああああああああああああああああああっ!!!!」

 純然たる“恐怖”。“それ”の一番近くに居たチンクの叫び声は、ぎりぎりの一線で平常心を保たせていた妹達の心のトリガーを引くには充分だった。地獄の第四層を叫喚地獄、第八層を阿鼻地獄と言い、その二つを併せて『阿鼻叫喚』と言うならば、まさに今この場は彼女らにとっては地獄以外の何物でもなかった。地獄絵図の餓鬼のように、鼻を削がれた訳でもなく、眼を抉り取られている訳でもないが、それを抜きにしても“それ”から発せられる波動だけでもう既に息も絶え絶え、心臓の動悸は余計にその拍を早め、口元は酸素を求めて陸の上の魚のように弱々しく開閉する事しかできなかった。

 「────────」

 「ひっ……!?」

 足元の水が紅く、紅く染まる。血が流れたのではない、“それ”の体に収まりきらない魔力が行き場を失くし、代謝機能がそれらを皮膚の表面から放出し続けているのだ。水に油が混ざらず浮き上がるのと同じ、汚れて斑模様だった汚水の表面は“それ”の足元を中心に紅く紅く広がり、一番近くに居たチンクの脚を染め上げ、彼女を狂気の底なし沼へと誘いを掛ける。魔力を通じて一方的に流れ込む狂気の渦に常人の精神が耐え切れるはずもなく……

 「か……ふ…………────」

 遂に、その意識は手放され、チンクの体はやっと絶対者の呪縛から解放された。だらりと力の抜けた体は紅く染まった水面に投げ出され、熱病に侵されように息は荒く、目を閉じた顔からは生気がごっそりと抜け落ちていた。抱えた憎悪は闇に変わり、その体を背景と同化させた。だが表面から放出される魔力は朧な輪郭を象り、虚空に浮かび上がった二つの眼光は戦闘機人特有の金眼ではなく……真紅の燐光を纏っていた。

 その姿はまさしく、紅い悪魔……。唯一、悪魔らしからぬ部分があるとするならば、それは頭の上に輝く環……絶対者の威光を発するそれは、悪魔には決して有り得ない天使の象徴だった。

 「ギ────────!!」

 「ああっ……!! く、来んな! 来ないで!!」

 他の五人の縛鎖はまだ解けない。気絶した者は後でも始末できると考えたのか、次に“それ”が狙いをつけたのは、セイン……。紅い悪魔の視線に射抜かれた彼女は身を捩って逃亡を図るが、見えない鎖がそれを許しはしない。寒さとは別の感覚から去来する震えが背筋を駆け上がるが、許された動きはそれだけで、逃亡に必要な足の動きは全く無かった。

 「ガァァ────────ッ!!」

 「ぁああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!?」

 野獣の咆哮と共に自らに飛びかかる“それ”と対峙し、セインは自らの死を予感して絶叫し……



 「そこまでだ!」



 その一声と共に、それまで真紅一色だった空間に別の色が入る。目を通じて心を癒すようなその色は、翠……“それ”とは本質を異にする魔力がまるで対抗するかのように壁面を照らし出し、彼女らを包み込んだ。

 「これって……魔力の防護壁?」

 「急場しのぎの簡単なものだけどね」

 「貴方は……!?」

 放水路の奥から現れる人影、それは彼女らの知る人物だった。

 「スクライア司書長! 来てくれたんですね」

 「すまない、少し遅れた。ここは僕が引き受ける。君達は先に!」

 ユーノの指先の動きに合わせて防護壁が反転し、“それ”の肉体を縛り上げた。突然の闖入者に意識を取られていたのか、逃げ出す暇も無く捕縛された“それ”は狂気に染まった紅い眼光をユーノに突き刺す。

 「ギギギィ────────!!」

 小動物の呼吸さえ止めてしまいそうな魔力の重圧がユーノを取り巻くが、彼は物怖じせず眉一つ動かさない。獣同然の“それ”を前に静かに立ち塞がり、去り際のナンバーズらに余裕の表情を浮かべて先に行くように促して見せた。程なくしてその場にはユーノと“それ”以外の姿は無くなり、紅と翠の光りが拮抗しあう幻燈世界を生み出した。

 「ギ、ガガッ────────!」

 「さてと、何をそんなに怒っているんだい? 何でそこまでして彼女達に固執するんだい?」

 「────────!!」

 返答は無い。何かしらのきっかけにより狂乱状態に陥った“それ”にユーノの言葉が届いているかどうかさえ不明だが、唯一つ、“それ”はいきなり現れて立ち塞がった彼に対して並々ならぬ敵意を抱いており、全身を束縛するバインドが無ければ今にも飛び掛かってくる気迫を感じさせた。もはや言葉により意思疎通は不可能。であれば……

 「やれやれ、言葉も通じないなら仕方ないね。“13番目”! 君を次元世界規模のテロリズムの主犯として逮捕する」

 地面、壁、天井、そして周囲全ての空間を埋め尽くす翠の魔法陣……それは皆すべからく、眼前の狂える獣を捕えんとする封鎖の檻。

 紅い悪魔と無限書庫の司書長、異色の組み合わせから成る戦いを経て、最後に立っているのはどちらか……この時は誰にも分からなかった。










 同時刻、ミッドチルダ某所の隊舎にて──。



 「犯罪者ID、GG-W-85494-D765642137443-15。セッテ」

 「……はい」

 「これより24時間後、あなたの身柄は一度地上本部に移送された後、以前と同じ海上更生施設へ移されます。事前告知は以上です」

 「…………はい」

 セッテの“選択”まで、後24時間──。



[17818] 亡者の怒り
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:599ed729
Date: 2012/05/04 16:25
 名前とは本来、とある対象を識別する為に人間もしくはそれに準ずる知的生命体が生み出した概念である。

 ここで言う「とある対象」とは何も一人の人物や一つの物事に限定されているものではなく、遍く万象全てに通ずる概念を総括しての呼称である。

 植物、動物……有機物、無機物……実像、虚像……この世に存在するありとあらゆるモノは固有の名を有し、それが他とは違うと言う事実が個々を判別する記号となる。単なる雑草だとしても、そこにはオオバコやミツバなどに分類され、分類されたと同時にその二つは全く違うモノとして区別されるのだ。

 古来より、特に日本では得体の知れないモノを恐れる風習があった。それが実際に自分達に害を為すかどうかは別として、何も分からない“未知”と言う現象を彼らは忌避していたのだ。得体が知れないから何を仕出かすか分からない……昨日は助けたモノが、今日になってみれば足を挫きにやってくる事さえあったのだ。恐ろしい、名も知らぬ奴等が恐ろしい……。

 だったら、名前を知らないのなら新しく自分達が命名すればいい。その考えの下に人は、それまで得体の知れない正体不明の存在に名前を与え、実体を縛る事で、自分達にとって理解可能な存在へと凝固させたのである。名を知ると言う事はそのモノの本質を知ると言う行為であり、逆に名を知られる事は自身の本質を相手に悟られるのと同義である為、昔は初対面の相手には本当の名を教えないと言う風習まであったと言う。同じ人智を越えたモノでも、人に害を為すならば“鬼”……人に加護を与えるモノであれば“神”と形容し、人々は得体の知れないモノとの線引きを行ってきたのだ。



 だが、もし、誰もその名を知らないモノが居たとしたら……?



 人は全能ではないし、知識量の上限も限られている。どんなに頑張ろうと分からないモノは分からないし、何でもかんでも名前を付けて存在を縛れる訳ではない。名前とはあくまで目安や識別の為の物であり、理解可能なモノにするのが本来の目的だからだ。

 仮に人の叡智を以てしても実体を掴めないモノがあったとしたら、人間の反応は決まって二種に大別される……。

 好奇心の赴くままに、我こそはと進んでそれと接触を図ろうとする者……そして、関わり合わぬ様にと忌避する者。

 大抵の人間は後者に分類される。それが善悪かさえ分からないのだから、保身に走ろうとするのも頷ける。問題はそれが人間に対して危害を加える存在であった場合、それらの者は何の対処も出来ずに駆逐される可能性が高いと言うことだ。それの特性を知らないし知ろうともしないのだから、当然と言えば当然だ。知っていれば何かが変えられるかも知れなかっただろうが、無知の状態ではどうしようもない、赤子と一緒なのだから。

 数少ない前者もやはり災厄を免れられない。それが悪性だった場合、その者は自ら火中に飛び込み自殺をするようなものだ。積極的にそれらと関わろうとするから何かしらのアドバンテージを得られる事もあるだろうが、相手が真性の悪であった場合はそれも泡沫に帰す。根を詰めれば早死にする、好奇心は猫をも殺す、好き好んで危険に体当たりするのだから長生きできる道理なんかどこにも無い。

 要は要領の問題だ。どちら側に傾倒するでもなく、二つの間を賢く生きる者だけが得体の知れないモノに対して順応できる。

 この場合、ユーノはまさしく『賢い者』の一人だった。

 (魔力が桁違いだ。何らかの強化魔法、あるいは術式を展開している……?)

 冷静に分析しつつ、さりとて必要以上には近寄らない。目の前に捕えた“それ”を観察する視線は程良い余裕と緊張に満ち、油断は微塵も感じられない。

 対する“それ”は……

 「グゥゥ────────ッ!!」

 「全身のバインドを腕力だけで破るなんて……」

 劣化したゴム紐を引き千切るのと同じ動作……そこに必要以上の労力は要らないし、注ぎ込む必要さえ無い。魔力を消費せずに解除できるからそうしたまでの話だ。

 「……………………」

 再び自由の身となった“それ”を前に、ユーノは無言で魔力の多重防壁陣を身に纏う。敵は地の膂力だけで本気のバインドを引き千切るような相手だ、生半可に生殺し戦法で通用するとは思えないし思わない。狂乱しているとは言え相手がその気である以上、こちらも殺す気で掛からなければ命を落とす羽目にもなりかねない。

 「────────!!」

 (来る……!)

 一瞬だけ前屈みの体勢を取る“それ”……爛々と光る紅い眼がどこを見据えているかは分からないが、人体の急所を破壊しようとしているのは確かだった。その視線から軌道を割り出し、その部位に全意識を集中させた時……

 「ガァッ────────!!」

 「はやっ……!?」

 速い。空気抵抗だとか摩擦係数だとか、走行するに当たって発生するはずのあらゆる減速要素すら感じさせず、“それ”は無意識の瞬間にユーノの目と鼻の先に到達した。限界まで溜め込んだ腕力に二の腕は歪に膨張し、解放された瞬間の破壊力が尋常ならざるものになると容易に判断させた。だが実際の力がどれほどか分からない以上、まともに受ければどうなるか……。拳の軌道は頭部、直撃すれば絶命は必至のポイントを強襲しようと構えるそれは、戦闘向きではない優男の脳幹を破壊する為だけに振るわれようとしていた。

 今から移動したのでは間に合わない、では……。

 「シッ────────!!」

 「っ!!」

 腰を降ろして尻もちを着いた。傍から見れば不格好極まりない姿だが、相手の攻撃を避け尚且つ無駄な労力を消費しない為にはこれが最善手だった。無論、タダでは済まなかったが……。

 (掠っただけで防護壁がごっそり持ってかれた……)

 拳はユーノの鼻先数センチを通過し、厚さ30cmにも及んだ不可視のベールはその部分に大穴を開ける様にして一撃の下に粉砕されてしまっていた。やはりこれも魔力による増強を行わない地力の威力、突き抜けた拳とそれに巻き込まれる様にして発生した気流は突風を生み出し、図らずも腰を浮かしたユーノの体勢を立て直す一助となった。

 (一枚一枚がアクセルシューター三十発分に耐えられる防護壁……それが二十四層、その全てが一瞬で突破されるなんて。ただの拳骨がバスター並みの威力なんて聞いてないぞ)

 防護壁自体はユーノの魔力が枯渇しない限り穴埋めは利く。だが、当たり前だが連続して食らえば丸裸にされるのは火を見るよりも明らかだ。鎧を剥がされた体にそれが直撃すれば人体は障子紙より容易く破れてしまう。

 「だったら触れさせなければいい」

 案ずるより産むが易し、圧勝する自信や勝算があった訳ではないが、かと言って敗北する要素も無い。千日手のジリ貧に持ち込めば勝てないにしても負けは無い。その戦況に持ち込めば後からここを突き止めた三隊の内の誰かが加勢に来るはず……であれば、耐えれば耐え切るほどこちらの有利になると考えての判断だった。

 四方に配置した魔法陣から魔力の鎖が伸び、“それ”の五体を再び束縛する。絡まり付く鎖を腕で薙ぎ払い前身する“それ”の進行方向全てに縛鎖を集中させ、徹底的に進路を阻む。“それ”の狙いがナンバーズである以上はここを通らなければ先には行けず、ここさえ阻んでおけば懸念は無くなる。ユーノにとっては防戦のみに徹していれば勝機が見えるはずの戦いになるはずだった。

 「それっ!」

 バインドを何本千切ったところで、設置している魔法陣に介入しなければ連撃は止まない。一つや二つであれば破壊される事もあるだろうが、陣の数は見える範囲だけでも数十以上……それらの過半数を破壊する事は不可能だと踏んでの配置だ。

 「────────!!」

 その内キリがない事を理解したのか“それ”の足が後退の姿勢を取り始めた。最初は猪突猛進と言わんばかりの突貫振りだったが、頭の片隅の理性が形勢の不利さを考えさせ撤退と言う行動を取らせているのだ。

 もちろん、ユーノが逃がすはずがない。楽団の指揮者の如く、手先の動きだけで術式を発動させると退却方向にも魔法陣を展開、鎖の壁でその行く先を塞いだ。破っても破っても瞬時に復元される鎖に為す術は無く、流石の“それ”も疲労を覚えたのか徐々に動きが鈍くなってきているのが見て取れた。

 「そろそろ決めさせてもらうよ……」

 全ての仕掛けは整った。後は仕上げにかかるだけ。

 「アレスターチェーン!!」

 空間を飽和していた翠の鎖が一斉に動き出し、中央に居る“それ”に向かって収縮を開始した。複雑に絡み合った鎖はまるで毛糸玉にも見え、いつの間にか“それ”の周辺は鎖の垂れ幕ではなく、鎖の壁へと変貌していた。今更ながらに腕を振り回して飛び出そうとするが、その時には既に首を捕えられていた。

 「ググ────────!!」

 完成した鎖玉からは頭と両足のみが飛び出し、胴体は完全に内部に封じ込まれていた。一部でも動ける隙があれば脱出も適うだろうが、それすら固めた今となってはその可能性はどこにも無い……。猛獣は今、やっと捕縛されたのだった。

 「後ははやて達が来るまで状態を維持するだけ、っと」

 これが理性のある状態だったら戦況も違っていたかも知れない。何があったかは知らないが、頭に血が昇り冷静さを欠いていたからこその帰結と言えた。

 ただ、気になるのはやはりこの狂乱状態……。何らかの要因があっての変貌なのは確かだが、飛び入りのユーノには何があったのかまるで分からない。分かるのは、あれだけ冷静だった“13番目”が気が狂う程の怒りを覚える何かがあったと言う事実だけ……その原因が何なのかは皆目見当がつかなかった。

 「今の内にマテリアル達の捜索も済ませておこう……」

 検索魔法の応用を用いての索敵はユーノにとっては朝飯前。地上の作戦を挫いた今、彼女らが哨戒の眼を避けて地下を移動している事ぐらいはとっくに予測できていた。そしてその足取りも……

 「よし、掴め────」










 「ちょっと待った、王様。ボクにいい考えがあるんだけど」

 幸か不幸か、スバルへのリンカーコア蒐集は『力』のマテリアルの一言によって差し止められた。『王』の顔にあからさまに不快の表情が浮かぶが、『力』は空気を読まずに先を続けた。

 「いやさ、どうせここで吸い尽くしたって雀の涙、猫の額……せっかく出張って来たってのに作戦は失敗して、収穫がこの子だけってのは癪じゃないかい?」

 「ではどうしろと。今から危険を冒してまで地上の塵芥を狩り尽くすか」

 「違う違う! 誰もそんな面倒なことするなんて言ってないじゃないか。王様ってば結構野蛮なんだから」

 「あなたが言うべきではないかと……」

 「そんな事はどうだっていいんだってば! ボクが言いたいのは、たった一人分のリンカーコアをここで食い潰しちゃうのはどうかなって話」

 「……フフ、なるほど。あなたもなかなか考えますね」

 聡く頭の回転が早い『理』は『力』の言わんとしている事を察し、口元に笑みを浮かべる。なるほど、確かにその方法であれば時間は掛かるだろうが一度に蒐集してしまうよりも多くの魔力が得られる可能性が高い。

 「ええい! 一人だけで納得するな! 我にも分かるように話せ!!」

 「『闇の書』には得物を夢幻の時空に閉じ込める機能があったよね。本来あれは夜天の魔道書が何某かの強靭な生命体に邂逅した場合、その記録と封印を同時に行う為にある機能だよね」

 「ああ。捕えた者を記憶の牢獄に封じ込め、やがて死に絶えた時に残ったリンカーコアだけを頂戴するものだ。……なるほど、書の中で飼い殺しにしようと言う寸法か!」

 リンカーコアは外気から魔力素を吸収せずとも、ある程度なら体内で魔力を精製できる。闇の書の中で夢を見せ続け、命を落とすその時までコアを吸い取り続けようと言うのが『力』の提案だ。

 「しかし、闇の書の記憶によればその方法はかつて破られています」

 「あー、ボクのオリジナルのことかい? あれは比較的元気な状態で封印したじゃん。本来この封印機能ってのは死ぬ寸前まで追い詰めてからやるのが常識なんだけど、あの管制人格はよっぽどバカだったんだろうね」

 「まあよい。死にかけであれば力尽くで抜け出そうともせんだろう。良かろう、我が許す」

 『王』が再び魔導書を構えた時、蒐集の時とは違う効果を持った魔法陣がスバルが横たわる地面に展開した。その次の瞬間、スバルの全身がまるで泥の海に沈む様にゆっくりと、ゆっくりと陣の中に吸い込まれ始めた。これから彼女の身が委ねられるのは夢と現の境界、甘い幻に囚われたが最後、決して脱出はできない蟻地獄の砂……唯一の救いは、落ちた先が目を覆いたくなるような地獄の具現ではない事だけか。

 「おやすみ、傷付いた戦乙女。いい夢を見るんだよ……っと、これだけはもらっておくよ」

 重たい頭から沈んでいったスバルの足からマッハキャリバーを取り上げ、待機状態の青いクリスタルとなったそれを懐に仕舞い込んだ。以前、フェイトを封じ込めた時はデバイスも一緒に取り込んだから力尽くで脱出された……それを学習してか、『力』の念の入り様は傍の二人から見ても本気だと見て取れた。

 「うむ、封印は成った。どれだけ保つかは分からんが、精々この塵芥には魔導書のページを埋めるだけの苗床として頑張ってもらおうではないか。主殿もこやつにはご執心のよう……手元に置いておいて損は無かろう」

 「さて……では、そろそろ先を急ぎましょう。何やら不穏な気配を感じます」

 「そうだね。じゃあ、行こうか!」

 邪魔者は手を出せない牢獄へと繋いだ。今回は失敗したが、自分達にはまだ続きがある、まだまだ焦る必要はないのだと言い聞かせ、三人は悪臭漂う下水道を後にしようとした。

 しかし、彼女らは気付かない。気付く由すらありはしない……。



 自分達が良かれと思っての行動が、逆に自分達の首を絞める事になろうとは、この時はまだ考えられなかった。










 実際問題、戦場における形勢逆転とはひょんな事柄から起き得るもの。たまたま前線に出張っていた上官が流れ弾に当たって指揮系統が乱れたり、軍部のクーデターで国そのものが転覆する事さえある。

 この場合の多くは、数多くの偶然が積み重なって発生する結果がほとんどだが、複数対複数での戦争ならともかく、一対一の闘争に関して言えばそれは起こり難い。互いを睨み合い視線を飛ばすだけでも成立するこの行為には、他者由来の要素が介入する余地がそもそも生まれない。何が起きても元を辿れば全て双方どちらかの行動に起因するものであり、勝敗の行方も純粋にそれらに左右されるからだ。

 だからこそ、この逆転はユーノの不注意としか言い様が無い。

 「シ、ネ────────!!」

 「え……?」

 自分の足元を何かが這いずり回っていると察知した瞬間には、もう既に手遅れだった。

 それが水銀の様な液化金属だと気付いた時、針の形状へ変形したその先端が音速でユーノの心臓付近を刺した。針の太さはそう大きくない……元の体積が少ない為か、足元から胸部にまで伸びたそれはピアノ線と見紛うほどの細さだった。当然、胸元にも精々爪の先で引っ掛かれた程度にしか感じず、幸いにも針の先は心臓も大動脈も傷つけずに済んでいた。

 しかし、それだけで済むはずがない……。

 「そ、そんな……!?」

 液化金属の針が翠に染まる……。ユーノは魔法を使っていないにも関わらず、その魔力は液化金属を通じて体外に流出を開始した。水より遥かに比重が重いそれを辿れば、空中に吊り下げられた鎖玉、その真下に源泉はあった。

 (そうか、あいつの右手は……)

 ディエチに吹き飛ばされた右手を自身の意思で自在に動く液化金属によって補い、今の“それ”の右手は本当ならば変幻自在に操作できる。先端を五指に分裂させて手形とする事も出来れば、それを再び液状化させる事も当然可能だ。鎖の間から漏れ出させたそれを汚水に紛れて対象の足元まで誘導し、針状に固形化させて刺し貫く。仮に体積が足りず、内臓に致命傷を与えるに至らずとも、殺す手立てはいくらでもあった……。

 「魔力が……抜かれて…………」

 ドレイン・マギリンク・フィールド。AMFの応用による魔力吸収は当然ながら距離が近ければ近いほど、接触面積が大きければ大きいほどにその効力を発揮する。捕縛に全力を傾けていたユーノの方にも若干の疲労が蓄積され、一瞬の気の緩みが招いた危機は瞬く間に彼の力を飲み込み、そして、自身の物へと変じてゆく。

 「ぐぅぅぅ……っ!!」

 リンカーコアを直接侵蝕されているせいでバインドを維持できず、鎖玉を構成する一本一本が次々と劣化し始める。鎖が一本切れる度に拘束が緩くなり、一部も動かなかった肉体が徐々に自由を取り戻して行く様にユーノは途轍もない恐怖を覚えた。

 このまま魔力を吸い尽くされれば自分は死ぬだろうが、それ以前に目の前の“それ”を解き放ってしまうような失態だけはどうしても避けたかった。しかし、このまま抵抗していてもいずれは地力の差でこちらが負けてしまうと自覚していたユーノは、せめて最後の足掻きにと全ての魔法陣にあるプログラムを施そうと試みた。

 (ここで……陣を、爆発させれば……!)

 放水路への被害は甚大なものとなるが、今は忍びなさよりも目の前の危険を早急に排除する事が優先される。麻酔銃を撃つ事を躊躇っていれば猛獣は仕留められない……だったら、やるしかないだろう。幸いにもこの周辺はガス管などは通っていない、爆破してもそれだけで済むはずだった。

 「こ、のぉ!!」

 なけなしの力の全てを振り絞り、彼の魔力は魔法陣に転送、まだ残っているバインドを通じて鎖玉へと集束を果たし、眩く輝いた後──、



 この時、真上の街では震度3に匹敵する揺れが感知された。










 港の傍、河口付近の排水口に抜け出したナンバーズ六人は、小休止と負傷者の治療を兼ねてコンテナ置き場の陰に身を寄せていた。

 「あぁ……腕が……」

 「案ずるなオットー。この程度の損傷であれば主任が治してくれる」

 「トーレ姉はどうしたッスか?」

 「今さっき連絡があった。こことは別の排水口から抜け出たって。マテリアルは……逃がしちゃったみたい」

 「……そうか」

 とりあえず、今は全員が帰って来れた事を喜びたかった。まったくの無事だとは言えない……。オットーは腕を折られ、ウェンディも腹を刺されて重傷を負い、戦果は何一つ上げられなかった。途中でユーノが乱入していなければ今頃は全員がやられていたに違いない。

 それにあの暴走状態……念話を飛ばした相手はスバルのようだったが、その全容については何も知る事が出来ない。知っているのは何処かに居るスバルと“13番目”のみ。もっとも、あの狂乱振りからしてその内容をまともに覚えているかは怪しい。一体何が彼の心を一瞬にしてあそこまで狂い猛る獣のそれへと変じさせたのかは謎だが、あれのせいで元から紙一重だったこちらの戦況がひっくり返った……恨む訳ではないが、スバルも余計な事を仕出かしてくれたものだと小言を言いたくもなる。

 「……みんな、今回の交戦で知り得た事を整理しようと思う。今回も苦しい戦いを強いられた事に変わりは無いが、外堀を埋めて行けば必ず……」

 「必ず、何なのさ?」

 「セイン……?」

 メンバーの中で比較的軽傷で済んだセインがゆらりとチンクに詰め寄った。その気配に何かの激情を察したチンクは一瞬身じろぎ、自分よりも身長の高い妹を見上げた。

 「あのさ、さっきの失敗が全部チンク姉の所為だって言うんじゃないけど……いい加減にしてほしいんだ、そういう甘っちょろい覚悟で戦おうとするの。初めから平和的に解決したいってんなら、最初から賛成に手を挙げなきゃいいのに……! 何で……こんな所に来てまで私らの覚悟を…………私らがどんな思いでここに来たのか知ってるはずだよね! じゃあそれを横槍入れて揺るがすのは止めろよ!!」

 セインの両手がチンクの襟元を掴み上げ、その小さな体躯をコンテナの壁に叩き付ける。いつもなら、誰かが喧嘩をしようものなら止めに入ろうとする他の姉妹の面子も、この時だけは誰もセインを止めようとはしなかった。それはつまり、後の四人全員が彼女と同じ気持ちを抱いていた事に他ならない。

 「さっきだってそうだ。二人があいつを仕留めようとした時、チンク姉は止めようとしてた。あれは……私達の覚悟を裏切ろうとしてたんじゃないのか!!」

 「ち、違う! 私はただ、お前達の手を汚させないように……」

 「こっちはもう汚れる前提で来てんだよ! それを今更道徳を振りかざして止めさせようたって、もう遅いよ……。それに、あれが私らとはまるっきり別の存在だってのは知ってるはず。それを今更同族に押し込めようってのは、一体どう言う了見なのさ」

 自分達とあいつは違う……その意志の下に決意を固め、彼女らは武器を手にして次元の海を越えてここまでやって来た。人を殺すのではない、人を人とも思わない畜生を狩る為に赴いたのだと自分達の行いを正当化し、弄ばれたスバルとノーヴェの無念を晴らす大義名分を得て行動に及んだ。二人だけではない……騎士として再起不能に追いやられたシャッハの無念を教会の三人は背負い、個人的な私怨とは言え『過去のトレーゼ』の為に武器を手にしたトーレの様な者もいる。憎悪の発端となった部分は多々あれど、彼女らの最終目標は“13番目”の殺害にあるのは揺るがない真実のはずだった。

 しかし、今その不変だったはずの真実に亀裂が走っている。原因はやはり、チンクとトーレの衝突が表面化した事にあるのは間違いなく、それまで“13番目”への殺意のみを糧に戦場へ足を踏み入れた姉妹らの心に水を差す形となってしまった。はやての恐れていた事態が、この土壇場で実を結んでしまったのだ……。

 「チンク姉はさ、結局自分の手を汚したくないだけじゃないの?」

 「それは違う!」

 「だったらどうして、昨日あいつを追い詰めた時に殺そうとしなかったのさ! 交渉だなんて言って、本当は戦う事にだって躊躇してたくせに……! これじゃあ、ノーヴェだって浮かばれないよ」

 ノーヴェの名を引き合いに出され、チンクの胸が締め付けられる痛みを覚える。ノーヴェやスバルの事は確かな遺恨として彼女の心を深く抉っている。それをどう言い訳すると言われれば、如何に殺害を渋る彼女とてそこだけは認めざるを得なくなる。だが、それを認めると言う事はつまり、ここに来てからのチンクの言動は全て彼女の我儘と言う事になってしまう。

 「なんであいつを庇う様な真似をするのかとか、そう言うのは聞かないし聞きたくない。ただ、半端な気持ちで一緒に居ようとするんだったら、邪魔はしないでよ……。じゃないと、私はチンク姉だって……!」

 「セイン……」

 「……ごめん、言い過ぎた。でも、私達が誰かを殺すのはこれが最初で最後……。あの子は本当にあんな野郎が好きだったみたいで、そんなあの子に一生恨まれて後ろ指差される覚悟だって……私達とっくにしてきたはずだったじゃん」

 遠く離れた故郷にて眠ったままの妹……彼女は自分達が想いを寄せていた者を処断し、その首を持ち帰ろうとしている事を知らない。果たして彼女がその真実を知る事が出来るかどうかは分からないが、もしそれを知れば彼女が納得するかそれとも許さないか……それをあれこれ思考し、詮索するのさえ詮無きことに過ぎない。ただ、一度決心したものを後で反故には出来ない。食欲を満たす為に鶏を殺すなら、最後までそのエゴを突き通さなければならない……それを途中で可哀相になったとか、生き物を手に掛ける事は出来ないと道徳感情を盾に阻んではならない、羽根をむしる手を止めてはならない、首を刈り取る鉈を置いてはならない。そこで止めてしまえば自分達は一生、人間ですらないモノに弄ばれ、虐げられたと言う屈辱を受けながら生きて行かなければならなくなるから。

 「話は終わったか?」

 「トーレ……」

 いつ戻って来ていたのか、トーレの手がセインを制した。マテリアルを相手取って来たとは思えないほど疲労は感じさせず、勝ち残った者の余裕が鉄面皮の顔から見て取れた。だが、その表情はいつにもまして固く、その視線もやはり険しいものがあった。

 「確かに我々は今回もまた最終目標たる“13番目”の殺害を成せなかった。部隊長の命令を無視して行動した結果が何の収穫も無かった様に思えるだろうが、しかし、同時に我々は敵の計画を挫く事にも成功した。これによりあちらの戦意を削ぎ落とし、その土台を崩す足掛かりになる事は明白……我々の行動が無ければ成立しなかった事に相違は無い」

 淡々と静かに事実を並べ、同時に鼓舞するトーレの言葉にそれまで殺気立っていたはずの姉妹らが落ち着きを取り戻す。彼女らの胸中に等しく、「自分は“13番目”のおぞましい企てを阻止する事が出来たのだ」と言う確かな自信と達成感が芽生え、それまで場を支配していた敵意の念を払拭して見せた。流石は少数精鋭とは言え一隊のリーダーを務めているだけに、鶴の一声にはそれ相応の重みがあった。

 だが、本題はそれとは別にあった……。

 「チンク、お前はもう帰れ。ここにお前の責務を果たす場所は無い」

 「っ!?」

 「理由は分かるな。お前もナンバーズ、私達の姉妹であるのなら、いくら駄々を捏ねていても一度戦場に足を踏み入れれば己の責務を全うすると思っていたが……しばらく見ない間にここまで腑抜けていたとは、甚だ失望するしかない。これ以上恥の上塗りをする前にミッドに帰れ。八神司令には私から事情説明しておく。あちらでウーノと一緒に平和ボケでもしていろ」

 「ま、待ってくれトーレ! 私は……!」

 「ご託はいい。半分はお前の様な腰抜けを信用した私の判断ミスだ。もちろん、今日言って今の内に帰れとまでは言わない。あちらの都合もあるだろうしな。それまでは如何なる出動も禁じる」

 「いったい、何の権限があって……」

 「私の権限だ。ナンバーズのリーダーである以上、私はこの隊では絶対的指導者であり責任者だ。お前一人の甘ったれた我儘の為に全体を危険に晒す訳にはいかない」

 「……………………」

 「迷惑にはならん様に荷物だけは纏めておけ。もっとも、我々が持ってきた荷物なんぞ大して無いがな……」

 「……………………」

 押し黙ったまま何も話そうとしないチンク。

 元来、彼女らの間に裏切りと言う概念は欠片も存在していなかった。生みの親のジェイルの命令にさえ従っていれば良かった彼女らは生まれた時から同胞であり、命令通りに動いてさえいればそこに軋轢も障害も生じず、当然誤解も生まれる事は無かった。言葉で語らずとも、自分達は己の必要とする事を無意識に感じ、双方が不利益となるような行動は決してしないはず……だが自由意思と自立心を助長された彼女らは個々に違う主義思想が芽生え、遂にここで衝突を果たした。単にそれまでは衝突する機会や要因が無かっただけであり、互いの心の内が分かっている以上それが表面化する様な事も無かったに過ぎない。だが、ナンバーズ時代以来こうして一つの事物に全員が向き合う機会が無く、傍から見れば同じ一点を見据えている様でも、そこへ至る過程の描き方が異なる今、その衝突は避けられない壁として立ち塞がるのだった。

 そして、どちらかが多数派でもう片方が少数派であった場合、数の少ない方は異端と見なされ、分かり易い悪となる。それがかつての同胞だった者らから派生したなら、それは裏切りと呼ばれる行為になるだけの話なのだ。

 今のチンクは『裏切り者』だった。

 そして……彼女には至極当然の帰結とも言える処分が科せられた。

 戦力外通告である。










 揺れが収まってしばらくの間はまだ視界ははっきりとしなかった。爆発の衝撃で巻き起こった粉塵は閉塞した空間に充満し、それを肺に吸い込まない様に身を低く屈めていたユーノは眼前の様子を直視出来ず、それが収まる間の十数秒を防御態勢に徹する事でやり過ごした。

 「……やった?」

 煤けた視界の向こうで動く気配は無い。一瞬、仕留めたかと言う期待が湧き上がるが……その期待は儚くも潰えた。

 「────────」

 薄らとだが、粉塵の向こうに佇立した人影が見えた。実際のダメージは分からないが、自力で立っていられると言う事は彼にとっては大した損傷を与えられなかった様にも見える。

 その次の瞬間、人影はゆらりと動いたかと思った瞬間に消え去り、煙った視界の奥底へと姿を消してしまった。粉塵が収まった時には既に索敵範囲に気配は無く、追い返す事には成功したものの、有効打を与えられなかった事にユーノは苦虫を潰したような表情を浮かべた。唯一の救いはナンバーズの逃げた方向とは逆に逃走したこと……ここから彼女らの位置まで隊員らに発見されずに向かうのは至難のはず。

 『こちら八神二佐。スクライア司書長、応答願います』

 「こちらスクライア。無事だよ」

 『で、どう? 捕獲は?』

 「途中までは上手く行ってたよ。でもやっぱり一筋縄じゃいかなかった。今は街の外れを流れる河川に向かって逃走してると思うけど、どうする? 追う?」

 『それはやめとこ。あっちも作戦が失敗した時のプランを考えてへん訳がない、考えなしに行動してもまた憂き目を見るだけや』

 「分かった。じゃあ一度帰還って事で。状況確認と報告はその時に」

 『オッケー。そいじゃ……』

 通信が切られた後、ユーノはしばらく残って軽く周辺の調査を行った。異常を感知した施設の職員らが来るだろうが、今は一つだけ確認したい事があった。

 爆発させて土がむき出しになった地面を凝視する。湿気を多分に含んだ土の一片を握り取り、それを強く握り締めると、湿気の正体となる液体がポタポタと垂れ出しユーノの掌を染めた。開いた手の中には水分を絞り出されてカラカラになった土くれと水分、『赤い液体』が皮膚一杯にこびり付いていた。

 「よかった……致命傷、与えられてた」

 地面を濡らすおびただしい血の赤は重苦しい土の暗色に溶け込み、そこで戦闘があったと言う事実を完全に隠蔽してくれていた。










 午前8時56分、街外れの河川敷にて──。



 「ぶっちゃけ……何が失敗の原因だと思うよ?」

 早朝九時前、たった一人の戦闘機人から辛くも逃亡に成功した三体のマテリアルは昨夜と同じ場所に来ていた。万が一、作戦が失敗に終わった場合は速やかに状況を中断し、予定の合流ポイントにて集合……と言うのが当初のプランだったが、作戦に万全の自信を持って臨んでいただけに三人の胸中には口にしないだけで苦々しい苛立ちが渦巻いていた。

 「ご主人様の計画は完璧だった。盤面に何の綻びがあったって言うのさ?」

 「原因は分からんが、あの『ナンバーズ』とかぬかす連中は地上の部隊とは別行動を取っていたようだ。数で勝負に出る彼奴らなら頭数の全てを結界に封じ込められると思うておったが、出鼻を挫かれておったのはこちらと言うわけか……」

 「もう一つ……。結界が破壊される直前に外部から何者かが介入する気配を感じました。恐らくその時に内部に溜め込んでいた火薬代わりのパチンコ玉を処理されたものと。あの感覚……強引にと言うよりはむしろ、岩に針を通されるような……」

 「三重構造結界を外側から? しかも破壊とかじゃなくって?」

 「我らも人外故に当たり前だが、あやつらも相当な切り札を仕込んでいたと見える……」

 「ユーノ・スクライア。時空管理局本局、無限書庫を統括する司書長だ」

 足元の砂利を踏み締めて近付く気配を感じ、その方を見やれば……

 「おお! 主殿、無事だったか!」

 「おかえり……って、何その格好!?」

 思わず『力』のマテリアルが大声を上げ、河川敷の道を行く何人かの注目を集めてしまった。それもそのはず、一足遅れて姿を現したトレーゼはこれから水泳にでも行くかの様な銀色のダイビングスーツの様な物を着込んでいたからだ。頭と足首から先以外をすっぽりと覆い隠すそれはボディラインをくっきりと象り、東の空からの陽光をキラキラと反射して目に眩しかった。

 「カッコイイ! ちょっ、なにそれ超カッコイイ!! どこで買ったのさ! ねえねえ!!」

 「うおっ、眩しい! と言うか目が痛いっ! 日の光を反射して網膜に痛い!!」

 「まるで鏡の様ですね。背中なんてほら、完全に鏡台みたいです」

 「……………………」

 トレーゼが視線を向けると同時に服の表面が波打ち、『力』の眉間に向かって……針を突き刺した。

 「ぎゃあああああああああああっ!!!!」

 服を突き破って出て来たと言うより、その針の根元は服と同化しており、まるでウニの棘と同じ様にも見えた。それもそのはず、光り輝くそのインナーの正体はトレーゼの体内に装備されているはずの液化金属装備であり、軟化させたそれを器用に操作して衣服の如く身に纏っているのだった。

 「なんだ、服でも破けたか」

 「それもある……」

 「じゃあボクの着てる服を……」

 「あー、はいはい。バカは風邪引かないでしょうけど一応止めてくださいね。周りの人が見てますから。もちろん、あなた様の事でしょうからそれなりの理由があるのでしょう?」

 察しのいい『理』は主人が伊達や酔狂でそんな姿をしているのではないのだといち早く勘付き、その先を促した。元から隠し立てするつもりも毛頭無かったトレーゼはインナーの一部、丁度ヘソに当たる部分を操作してその中を露わにした。

 そこには……

 「うげぇ……」

 「ダメージを受け過ぎた。今は修復中だ」

 火炎放射器で炙り焼きにでもされたのか、その表面は赤黒く変色し、辛うじてヘソの穴のみが原型を留めているだけだった。全身を覆っているからには、頭と足首以外は全て損傷を受けたと言う事だろう。戦闘機人にとっては致命傷の内にも入らない軽微なものだろうが、しばらく戦闘はこなせそうにない状態にあった。

 その皮膚を指先で突きながら『理』は確認を取った。

 「痛みは?」

 「無い。念入りに神経まで焼かれた。修復には時間が掛かりそうだ。今は余計なダメージを負わないようにこうして保護膜を展開している。それより……今はお前達に言っておくべき事がある」

 「おお! そうだった、我らもそれなりに収穫があってだな……」

 「黙って聞け。今後の方針変更だ。命令はたった一つ、セカンドを見つけ出せ」

 「セカンド……? ああ、あの子だったら王様の本の中に……」

 そう言って『王』の魔道書を差し出そうと話の腰を折った瞬間──、



 「黙って聞けと言っているッ!!」



 「ぴゃっ!?」

 全身が焼け爛れた者が発するとは到底思えない怒声が河川敷一帯を震わせた。川面を歩行していたサギはもちろん、遠く離れた土手の向こう側からは大声に驚いたスズメらが一斉に飛び上がり、風も吹いていないにも関わらず水面に波紋が広がった。

 何故かは知らないが、彼は機嫌が悪い……それを今ようやく気付いた三人は何も言わずにその場に跪いた。と言っても、その表情は三者三様だ。『理』は当然と言えばそうかも知れないが、澄ました顔で座っており、不貞腐れた感のある『王』も渋々と言った感じだが正座を決め込んでいる。ただ、真正面から怒鳴られた『力』のみは今にも泣きだしそうな表情で、小刻みに震えながら主人の顔色を窺っていた。

 「……計画方針を一部変更する。目標をセカンドのみに定め、これを排除する。以上だ」

 「質問。今になって彼女を追う理由は?」

 「それはお前達が詮索する事ではない。方針に従えないと言うのなら契約を破棄する」

 「誰もそこまでは言っておらん。主殿がそうしたいと言うのなら深くは追及せんが、あの小娘については極力無視を決め込めと言うたのは他でもないうぬ。それを今更捻じ曲げてと言うのは筋が通らんのではないのか? それに、得物を小娘一人に切り替えて我らに何の得がある」

 「セカンドは管理局側にもマークされている。連中があいつを追っている限り、同様の目的で動く俺達とは遠からず相見える。蒐集はその時にでも行える、何も問題は無い」

 「いや、だけどさ、それじゃあ効率が悪いって言うか……ねえ?」

 同意を求めるような視線を二人に投げ掛ける『力』だが、当の二人はそれをスルーしたまま。元より、目の前の主人は知らないだろうが、自分達はその当人を既に捕えている。それを差し出してしまえば収まる話に思えるが……事はそう簡単に済みそうにない。

 「つまり、見つけ次第即殺害と?」

 「いいや、お前達が発見した場合は俺の前に引き摺り出せ。許しも無しに手を出すことは許さない。この俺が直接手を下す。仮に奴を庇う者が居れば殺せ。誰が相手でも良い、立ち塞がれば女子供でも共に始末しろ。最悪、この街を灰にしても構わない」

 「それは初めからそのつもりだ。と言うか、上手く立ち回れば今日そうするはずだったのだが……」

 「いや、あの、だからね……もうその子はボクらが……ムゴッ!?」

 「トレーゼ様、少々お時間を頂きます。ちょっとすみません」

 そう言い残して『理』は連れ二人を引き摺ってトレーゼから距離を置き、三人で円陣を組む様に囲み合って密談を始めた。

 「一体何だと言うのだ? さっさと先ほどの小娘を差し出してしまえばそれで済む話であろう」

 「そうそう! まだ完全には消化してないだろうし、面倒になる前に早いとこ終わらせようよ。居もしない彼女の為に行動させられたんじゃ、蒐集活動だって思う様に行かないよ」

 「出来れば私もそうしたいのは山々ですが、冷静に考えてください。あの方の様子…………何かおかしいとは思いませんか」

 そう言って視線を促す『理』に従い、二人は密かに自分達の主人に視線を向けた。外見を除き特にこれと言った変化は見受けられず、そこら辺の機微に疎い『力』と『王』にとっては見てみろと言われても頭を捻るしかなかった。もっとも、トレーゼ本人が元々感情や動揺を努めて表に出さない性格ゆえ、そうそう分かるものではないのだが。

 「別段、変わった様子は無いが?」

 「ボクにも変な風には見えないね~。なんかおかしいの?」

 「…………彼、正常ではありません」

 「正常ではないぃ? どこが異常だと言うんだ?」

 「言葉では説明し辛いものがあります。ただ、ほんの二、三時間前までの彼とは明らかに何かが違う……」

 「だから、『何か』って何さ? ちゃんと分かるように言ってよ」

 「強いて言えば、理性の一部が盛大に瓦解しています。あれはふとしたきっかけで暴発します。今の彼は剥き出しの火薬です、下手打って機嫌を損ねられては冗談抜きで消されますよ私達……」

 それは彼女だからこそ気付いた事実……他の二人よりほんの少しだけ彼に接する機会が多かった『理』のマテリアルだからこそ、闇の書のプログラム、その制御を司る彼女だからこそ精神に一塊の闇を抱える者の機微には聡い。その彼女が勘付いた異常事態は既に取り返しのつきそうにないレベルにまで達しようとしていた。

 「だーかーらーっ、要はそれが爆発しちゃう前に魔導書からホイっと出しちゃえばイイんじゃないの?」

 「阿呆。あれは本来封印用の魔法だと言うたであろう。一度取り込んでおいて、はいそうですかと吐き出せると思うか? 物事には順序と言う物がな……」

 「魔導書をチョコチョコっといじってバグ認定してもらったら?」

 「プログラムの一部として取り込んだ彼女をバグとして書き換えてしまえば、最悪の場合、本の中から出られないまま異物としてデリートされてしまいます。それが露見すれば……私達の命運もこれまでだったと言う事で」

 「いや、そこはあれだ、きっちり事情説明をだな……」

 「空腹の猛獣の目の前から肉を取り上げろと? 私には無理です。仮にそうしたとして、理性を失い掛けているあの方が果たして私達に疑念を覚えないでしょうか」

 「何が言いたい?」

 「先ほどあの方は、『自分の許可無しに手を出すな』と、『匿っていた者は誰であろうと始末する』と仰っていました。もし私達があの方の目の前で彼女を本から出せば、彼はどう思われるでしょうね……」

 想像する。想像は生きる、生存する意味において最も重要だ。危険要素を頭の中に並び立て、チェス盤を操るように思考を行い、近い未来に起こるであろう事象を予想する行為。それは即ち、予測された危険を回避する為に必要な予行練習なのだ。それを怠れば弱肉となって強者に食われるのみ……そして、与えられた少ないヒントを頼りに彼女らが導き出した解は……

 「…………ねえ王様、取り込んだあの子を吐き出すのにどれくらい掛かりそう?」

 「念には念をと思い、魔導書の奥の奥の奥に捻じ込んだ。正当な手段を用いて出そうとすれば三日は掛かる」

 「その間に彼女がプログラム内で生存している可能性は?」

 「戦闘機人とやらの生命力が如何ほどかにもよるが、あの傷では下手をすれば二日も生きてはおれんぞ」

 「ちょ、ちょっと! 邪魔な連中を片付けたらこの街から出られるんじゃなかったの!? ご主人様の我儘に協力すれば蒐集も上手く行くはずじゃなかったの!?」

 「落ち着いてください。なにも全てがご破算になってしまった訳ではありません。冷静に考えてください」

 このままでは自分達はまともにリンカーコアを奪う事も出来ないままに防戦を強いられる一方になるのは目に見えている。それを確実に、出来るだけ早く解決するにはどうすれば良いのか、簡単なものではあるが既に策は講じてあった。

 「無かったことにしましょう」

 「なかった……?」

 「ことに……? つまり、それってどう言うこと?」

 「簡単な事です。魔導書の中に彼女を封じ込めた事実を知る者は私達三人の他には誰も居ません。私達が誰に何も言わず胸の内に秘めておけば、心を読み取られでもしない限りバレる事は有り得ません。後は時の流れが解決してくれるでしょう」

 ここでその気が無くとも口の端に不敵な笑みを浮かべれば、後は話の流れとノリで理解するだろうと踏んでいた『理』だったが、それはまさに的中した。一瞬で心中を察した『王』と『力』は同じようにニヤリと笑みを浮かべ、全てを理解した。

 「なるほどのぅ。何があったかは知らぬが、幸いにもあの小娘は瀕死……。書の中で死を迎えてしまえば、後に残るリンカーコアのみを頂いて迷宮入り。ほとぼりが覚めた頃合いになれば主殿も諦めるであろうな」

 「ご主人様は万能だけど“全能”じゃない。隠し通してしまえばお釈迦様でも気付くめぇ! なんてね」

 そう、秘匿してしまえば分からない。誰にも言わず、誰も介さず、このまま厳重に封を施された秘密として抱きかかえておけば誰にも見破られずに済むのだ。それが誰も損をせず、誰も傷付かない方法……終わり良ければ全てが丸く収まるはずだと考えての結論だった。

 「では……よろしいですね?」

 「異存は無い。主殿には申し訳ないが、これも主殿を思ってこそよ」

 「どうせ二日か三日の命なんだ。だったらせめて今際の際まで良い夢を見させてあげるってのが、せめてもの慰めだよね」

 こうして、三者のみの密談はたった数十秒の短い時間で幕を降ろした。これで誰も損な役回りを押し付けられずに済むと、誰かが裏切らない限り絶対に彼が知る事は無いと思い込んでいた。

 しかし、長きに渡る倦怠が彼女らにある事実を忘失させてしまっていた……。

 確かに知られなければ良い。だが、もし仮に白日の下に晒されてしまった場合、己にどんな災厄が降りかかるのか……そこまで想像が及ぶことは遂に無かった。



 死に瀕した亡者の憤怒は、時に生ける者の義憤すら凌駕する。



 もっとも、トレーゼの場合の“死”とは理性の死に他ならず、そして憎悪を糧にして生きる者は地上で最も死に難い。

 この瞬間、トレーゼ・スカリエッティは報復を司る悪鬼羅刹へと身を堕とした。だが悲しいかな……その報復の対象たる少女は彼の最も身近で、そして手の届かない場所へと連れ去られてしまった。










 午前9時03分、ハラオウン宅にて──。



 「ほんなら、改めて自己紹介よろしく」

 「時空管理局本局、無限書庫を管理させてもらってるユーノ・スクライアです。クロノ・ハラオウン提督の要請により今日付けで作戦に加わる事になりました。どうぞ、よろしく」

 作戦本部であるハラオウン宅では早くも新戦力として投入されたユーノと、先に来ていた者らとが簡単な親睦を交わし合い、それを挨拶とした。それからは負傷者の治療と各部隊長による報告が行われ、状況確認は滞りなく進んだ。

 「奴をこのまま野放しにしてはおけない。ここは回復した者から順次再投入すべきだ」

 「せやけど、相手がまた姿をくらましてしもうた以上、迂闊に出てっても鴨撃ちにあうだけや。ここは慎重にしやな……」

 「慎重さばかり優先させていては後手後手に回るだけだ。これまでの教訓を生かし、攻勢に出るべきではないのか」

 「せやけど、巻き返しを図るには頭数が少な過ぎる。相手は常にヒットアンドアウェイでこっちの戦力を確実に削ぎ落としに来るで」

 「だったら、人手があれば良いんだね?」

 ここでユーノの進言に皆が一様に疑問符を浮かべた。当の本人だけは余裕たっぷりの表情で話を切り出した様で、何も知らない他の面子はただただ疑念の表情を浮かべるだけだった。

 「えっと、ユーノ君。人手ってどういう事?」

 なのはがその場の全員を代表するかのように質問を投げ掛ける。基本的に、管理外世界での調査及びその他の任務は常に現地の住民に悟られない様に実行され、機密性の保持を最優先事項とされる為にその戦力は常に必要最低限で行われる。無論、少数に目撃された場合はそれが任務遂行に多大な支障を来たすレベルであった場合を想定し、実行隊の中には必ず記憶操作に長けた魔導師が随伴する仕組みにもなっている。だがそれを込みで考えても実行部隊として割り振られる人数は、任務内容にもよるが最少十名から最大三十名前後……場合によっては数名だけで長期に渡る作戦や任務も有り得る。

 つまり、管理外世界の地球においてこれ以上の増員は不可能であり、上層部が許可を下ろす事も有り得ない。ではどうするのか……?

 「こう言うことさ!」

 そう言ってユーノはテーブルの上に持参したと思われる大きなバッグをどっかりと置いた。重量は置いた時の音や目測からしておよそ十キロ前後……何が入っているのかは知らないが、細々とした部品らしき物が接触してガチャガチャ言う音が聞こえてきた。

 「司書長、これは?」

 「アテンザ主任が急遽作成した物なんだけど、動作テストは済ませてある。言うなれば、『投網機』さ」

 「投網機?」

 「と言っても、実際に網を張るわけじゃない。そこら辺は見てくれた方が早いかな」

 チャックを開けて中から取り出したのは棒状の装置……先端に傘の骨の様に展開する四本のアンテナがある何かしらの装置だった。スイッチを入れると短い電子音と共にそれが開き、何かのスイッチが入ったのか小さな電灯が赤く輝いた。

 「このアンテナの先にはカートリッジ技術を応用して精製された小型魔力結晶が付いていて、起動と同時に魔力を加工したレーダーが発信される仕組みになってるんだ」

 「なるほど。確かにこちらのセンサーでも確認できる」

 「アンテナは送受信できるようにもなっていて、他機から発信された信号を受け取ったり、逆に送ったり出来る。アンテナ同士で繋がったエリアは一つの巨大なネットワークを形成して常に一帯の監視を続け、どこかで異常が発生すれば直ちにそれを知らせる作りになってるんだ」

 「つまり、これを街中のありとあらゆる場所に設置すればそのレーダー情報から“13番目”の位置を特定が可能ってこと。魔力の波長はインプット済みだしね」

 「だけど、シルバーカーテンを使われたらそれも意味が無いんじゃ……?」

 「それについても対策済み……いいや、何もしなくても対策は打てるんだ」

 「それってどう言う意味?」

 フェイトの質問の後、ユーノは図解として簡単な座標ホログラムを投影した。映し出された立体映像には青い光点、恐らく今話題に上っている装置を示すアイコンが多数表示されていた。

 「さっきも言ったけど、アンテナは各機がネットワークを形成していて、単純な点と点の結び付きとしても数が増加すればするほどにネットワークは巨大に、そして細部に渡って展開される」

 光点から線が伸び、立体地図に不規則な結界構造、蚊帳の如き網目状を形成した。

 「ネットワークの無線は電力で賄ってるけど、レーダーの波長は魔力を使ってる。魔力と電力の両面から空間を観察することで僅かな揺らぎも逃さない」

 蚊帳の中に空洞が出現し、ネットワークの一部を阻害する。要は「透明人間の足跡」だ。光学的に透過している存在でも、そこに確かに実在していれば肩がぶつかるし、ぬかるんだ地面に片足着けば足跡も残る。電子を操作する偽装能力と言うのなら、周囲をそれで満たせば良い。電子迷彩によって姿を隠しても、そこの部分だけ影が差していれば誰の目から見ても異常は明らかだ。

 「まさかそんな盲点があったとはな。だがこれが上手く行けば……」

 「連中は魔力反応を消そうとすれば墓穴を掘り、かと言って偽装を解けば魔力反応を特定される。理屈ではこれで彼らは逃げ場を無くしたに等しい状態になるはずだよ」

 「あとは街の外に逃げられない様に注意してれば良いってことやな」

 「場所さえ分かれば割く人員も最小限に抑える事が可能となる。流石は若くして書庫を任されただけはある。大した手腕だ」

 「それほどでも。人選について口出しはしないけど、出来るだけ少数精鋭で行動した方が良いよ。今回だけじゃなく、相手はこっちを煽る事で本丸をがら空きにさせる戦法を好んでるから、ここには出来るだけ人手を残しておく事を推奨するよ」

 「その件に関してだが、いくつか八神司令の耳に入れておきたい事がある」

 話の腰を折る形で話題を切り出したトーレに、はやては少し嫌な予感を覚えた。生粋の軍人気質の彼女が進言する事は大抵がこちらに対する不平不満か、或いはナンバーズの内輪に冠する事柄だ。

 「こちらの隊……ナンバーズについてなのだが」

 今回は後者のようだった。

 「急な用件で申し訳が立たないのだが、今日付けで我がナンバーズ隊は六人編成となる。チンクは今日か明日にはあちらに帰らせるつもりだ」

 「……一応、理由は聞いとこうか」

 「このまま奴がここに居ても不利益しかないからだ。全体の足を引っ張る以上、そんな奴は隊には不要だ。既に他の五名の了承も得ている」

 「了承ねぇ……。『私の言葉は皆の総意です』って言うんやないやろな?」

 「信用していないならそれでも良いが、もう既に決まった事だ。チンクの抜けた穴に関しては、私が二人分の働きを行うと言う方針で納得してほしい」

 「先の不確かな事をどうこう言うてもしゃーない。それは結果で示してくれれば文句はない」

 その決断を下した理由や動機は気になるが、結局はやては何があったかまでは問い質さなかった。そこまで踏み込む気にはなれなかったし、結局は内輪の事に過ぎないので手の施し様も無いからだ。集団行動を執っている以上、厄介事が余所に飛び火するのだけは避けたい。一人を削る事で済むのなら安いものだと思える。

 「そいじゃあ、早速これを街の各所に取り付けに行こか」

 「待て、報告はまだ終わっていない」

 「まだ何かあるん?」

 「これが一番重要な案件だ。我々が交戦していた時、あの地下水道にスバル・ナカジマが居たらしい」

 「……何やて?」

 「姿を直接見た訳ではないらしいが、“13番目”が戦闘の際に念話らしきものを受け取る反応をしたと。少なくとも、念話を行えるだけの距離に居た事だけは確かかも知れない」

 念話を飛ばしたと言う事はつまり、その直前にスバルと“13番目”があの地下施設のどこかで接触していた事になる。その際に何らかの小競り合いがあったかどうかはさておき、ここで重要なのはその直後の事……。

 「その念話を受けた後で暴走を?」

 「そうらしい。神経を焼き、心臓を潰しても気休めにしかならない不死身の化け物だ。それが理性を失して暴走するのだから手に追えん。今すぐとは言わないが、早目の対応策を推奨する」

 「……了解」

 あれはもう悪鬼羅刹の類だ……そこに居るだけで害悪を撒き散らし、道行こうとするモノ全てを尽く破壊して回る鬼だ。理性のない姿こそが真の姿ということだろうか……。

 (…………早く何とかせな、あかんかな)

 手元の夜天の魔導書を見据えながら、はやては胸中に燻る焦燥感を押さえ込んだ。










 「取り敢えず、今後しばらくは派手な行動は控えた方が良いと思うね」

 拠点であるホテルの一室にマテリアルらが戻って来たのは十時を過ぎてからだった。手にはそれぞれロビーの自販機で買った缶飲料を持ち、それを喉に流し込みながら次の策を練って会議を行なっていた。

 「なんだ、お前らしくもない。ここは全面攻勢に出るとばかり思うておったが?」

 「ではそうなさいますか?」

 「まさか! 玉砕を誉れとするのは負け戦の将だけよ。我らは未だ負けてなぞおらぬわ。のう、主殿」

 そう言って『王』はベッドに腰掛けるトレーゼに目をやるが……。

 「……………………」

 「ムゥ……」

 傷の回復と言うのもあるのだろうが、今の彼は不気味なぐらいに静かだった。人間、怒りが頂点に達した時は得てして怒り狂うを通り越し、逆に冷静になるものだ。ここで勘違いしてはいけないのが、冷静で落ち着いているからと言って決して安全になったわけではないと言うことだ。むしろ冷静になった分、そこに物事を考える理性が備わってしまっただけ性質が悪い……。今の彼は、歴代の闇の書の主らの誰にも劣らない暴君として頭角を徐々に表し始めていた。

 (歴代の誰もがそうであった……。闇の書の選定基準は定かではないが、そこに『膨大な魔力を有するリンカーコアの持ち主』がある事は明白だ。そして、偶然か必然かは知らぬが、連中はそのどれもが心の奥底に一塊の闇を抱えておった)

 ある者は一国を征服する覇王、ある者は欲に駆られた富豪、またある者は力を求める戦士……そのどれもが闇の書の力に魅せられ、そして消えていった。例外は二人だけ……即ち、最後の夜天の主である八神はやてと、千年前に夜天の魔導書を作成した魔導師のみ。それ以外は全て闇の書のページに溶け込んでしまった。無論、その胸に抱えた一塊の闇と共に……。

 表立って行動した事が過去千年において全く無かったので、ヴォルケンリッターとは違い彼女らマテリアルにとって過去の諸人を想う心は無い。人より遥かに永い時代を生きた彼女らにとって過去への追想は無意味であり、最もバカげた行為にほかならないからだ。

 だが……今は違った。

 (いずれは主殿も“砕け得ぬ闇”再臨の足掛かりとして散る定め……。だが、口惜しい。この者は千年に一人居るか居ないかの傑物……ここで消費してしまうにはあまりにも惜し過ぎる)

 闇の書はその仕上げとして持ち主のリンカーコアを最後の蒐集対象として吸い上げ、何もかもを無に還す。マテリアルらはその力を逆利用する事でシステムの奥底に眠った“砕け得ぬ闇”の復活を目論むが、その最後の一押しは何をどう頑張っても持ち主の核を犠牲にしなければならない。実際、これだけはあの八神はやてですら逃れる事は出来なかった。彼女の場合はそこから強制的に解放させられたが、自分達の主には助力してくれそうな人物は一人も居ない。完全に魔導書に連なる者では書の命令には逆らえず、それを第一優先として行動せざるをえなくなる。現に、“砕け得ぬ闇”の復活に尽力する彼女らではあるが、実際にそれがどんな代物、あるいは事象を指し示すかはまるで理解していない。それはひとえに、彼女らが闇の書のプログラムとして本能的に植え付けられた行動理念に基づいて動いているからに他ならない。

 今の『王』は、自らの至上命題と、目の前にいる豪傑を天秤に掛けていた。何とかしてこの二つの釣り合いを執る方法は無いだろうか……いや、仮にそれがあったとして、用が済めば何の未練も無くここを去ろうと言う彼をどうやって引き留めるか。なにかしらの妙案が浮かぶはずもなく、結局彼女は備え付けの堅い椅子に腰掛けて窓から見える大通りの様子を眺めているだけだった。

 「とにもかくにも、今は様子見でしょう。スクライアと言う方がどれほどの人物かは知りませんが、警戒しておくに越した事はないでしょう」

 「つまらん。ここは王道らしく、正面から迎え撃つのが勝者の余裕であろう」

 「ぶっちゃけ、現状の私達は贔屓目に見ても痛み分け、客観的に観測すればどう考えても惨敗です。こちらの作戦は殆ど上手く行かなかったのですから」

 「仕方あるまい。予定外のゲストに対応できるほど柔軟な計画ではなかった故な。主殿よ、これは早急に手を打っておいたほうが良いと判断するが、如何に?」

 「……………………」

 「…………いつまで沈黙を決め込んでるつもりだい? いい加減に差配を振っておくれよ」

 「……………………何を揉める事がある。俺と貴様らの目的は同じはずだ。要はあの女……セカンドさえ見つけ出しさえすればそれで良い。あの女一人を引きずり出すまでの辛抱だろう」

 「だーからさー! それじゃ効率が悪いって話しだよ。あの子だってそうそう馬鹿じゃないだろうし、今頃とっくに街の外に逃げ果せてるってこともあるだろう?」

 「……奴はまだこの街に居る。近くに感じる……」

 感じる、と言う一言にマテリアル三人の視線が宙を泳ぐ。トレーゼが実際にレーダーの様なものを発しているかは別として、本当に目と鼻の先にある魔導書の中に封じ込められているのだから。もしそれが露呈すればその瞬間に一拍の猶予も無く自分達は滅されるだろうと予測しているからこそ、彼女らは出来るだけトレーゼからスバルの話題を遠ざけようと必死だった。

 だが何が彼の逆鱗に触れたのか分からない以上、それに対する有効な策は思いつかないままだった。自分達が思っているよりもずっと根が深いのか、今目の前に座す彼と、本の中に封じ込めた彼女との間に何があったのかを窺い知る事は未だに出来ない。もっとも、知ったところで果たしてどうする事も出来ないのもまた事実……。

 (結局は時の流れが解決するのを待つしかないということか……)

 そうだ、要は諦めがつくその時までの根比べ……ほとぼりが冷めるまでの我慢なのだ。それさえ過ぎてしまえば誰も面倒に巻き込まれずに済む……。

 「ふーん、人間って言うのはこんな事も娯楽にしてしまえるのか~」

 「何ですかそれは?」

 行き詰まった会議に興味を無くしたのか、『力』はさっきから雑誌を広げて何か面白そうに批評していた。

 「これ? 下のロビーに置いてあった女性週刊誌」

 「何でホテルのロビーにそんな物が?」

 「知らないよー。あ、見てよ王様。一週間の星座占いだってさ」

 指を差したページには某占星術研究家による各星座ごとの運勢が四つの項目に別れて書かれており、十二の星座に順位が着けられていた。

 「古代ベルカで『占い』って言えば、例外無く王侯貴族が御用達の占術師が行う儀式を指していた。それがいつの間にかこんな低俗な娯楽の一種に堕とされるなんてね……」

 「“星読み”か、懐かしい。星辰の動きから吉凶を予測する崇高な技術……確か闇の書の奥底にも魔法の類として一時期は記録されていたが、今となっては無価値なものよ。明日どころか、七日後の天候でさえ今の時世では予測できるのだからな」

 「んでさあ、ここにカード占いの付録まで付いてて……」

 「どうして読み古した雑誌に付録まで……」

 「細かい事は気にしたら負けだ。本来ならばそのような子供騙しの些事に付き合う義理は無いが、何分退屈故な、どのような占術かこの目でしかと見させてもらおうぞ」

 そう言って『王』はカードの束を引っ手繰るように受け取ると、それをバラバラと小さなテーブルの上にばらまいた。

 「何だ、占星術ではないのか」

 「二十二枚の寓意札から成る簡単な占術のようです。こちらにやり方が書かれています」

 「ふんふん、こうやって並べて、こっちが表向きで、んで後は裏向きに……」

 「おい、こっちの配置は違うぞ……」

 わいわい騒いだ後、テーブルの上には説明書きに書かれていた通りの配置でカードが並べられ、後はそれを手順通りに引くのを待つだけだった。

 「それではまずは私が……」

 『理』が手を伸ばし、数あるカードの中から一枚を選び出してそれを提示する。

 「第十七番……“星”ですね。意味はなんでしょうか?」

 「あ、ごめん。これやり方は書いてあるけど、カードごとの意味とか説明はちっとも書いてないや」

 「何ですかそれは……」

 「良いではないか。所詮遊戯は遊戯、意味などは後からでも暇があった時に片手間に調べられるものよ」

 「じゃあ次はボクがやるー!」

 カードを混ぜ合わせ、再び配置通りに並べ直したそれを適当に引く。

 「えーっと、八番だってさ」

 「では我も……」

 続いて『王』も同様に札を取り、番号と図柄を確認した。ナンバーは『5』だった。

 「おい、なんだこれは。向きが逆さまだぞ! というか、この占術は一枚だけ引いて終わりではないようなのだが?」

 「そうだった? いーじゃん、ボクも逆さまだったし。あとは……ご主人様もやる?」

 「……………………」

 (何故そこで声を掛ける……)

 当然、そんな呼び掛けに彼が反応するはずもなく、「勝手に引いとくから」と言って『力』は彼の分まで引くと、その図柄を確認し……

 「うえ……!」

 「どうしたのですか? ……これは」

 「うおっ!? 縁起でもない!」

 三人が三人とも露骨に顔をしかめ、そして思わずそのカードを放り投げた。図柄の寓意的意味などこれっぽっちも知らないはずの彼女らではあったが、このカードだけに限って一目でその意味を理解できた。

 「幸先悪いなもぅ……」

 「……このカードの意味とは、まさか……」

 「言うな。我らが主殿に限って……その様なことなど……」

 すぐ傍にいる当人に聞こえぬ小さな声で『王』が嗜める。そうだ、これは所詮子供騙し、遊戯の一種なのだ。何をそこまで真剣に取り繕う必要があろうか……。

 だが、この時三人の胸中には口にしないだけで得も言われぬ不安感が去来していたのは事実だった。

 「……今日は何もすることなくなっちゃったし、暇だからボク寝るね」

 ヒトでないマテリアルに睡眠など必要ない。にも関わらず、『理』と『王』はそれを咎めることもなくベッドに潜り込む『力』を見送った。

 「……………………」

 遂にトレーゼもそんな彼女らに少しも反応を示すことはなく、彼女らが放り投げたカードが足元に落ちているのさえ気にも留めることは無いままだった。



 カードの番号は奇しくも、彼の名と同じ『13』だった……。




















 “あなた”は“わたし”……“わたし”は“あなた”。

 “あなた”はいつも無茶ばかりして、“わたし”の言うことをちっとも聞いてくれない。

 “わたし”が一番近くに居ても、“あなた”は気付いてくれない。

 それでもいい……。

 知ってほしいなんて言わない。

 でも、忘れないで。

 それでも、“わたし”は“あなた”を見守っている……。

 “わたし”は“あなた”の心臓を止められるけど、“わたし”は呼吸の方法だって知らない。

 “あなた”は“わたし”を粉微塵に壊せるけど、“わたし”は痛みだって感じられない。

 “あなた”がいるから“わたし”がいる。

 “わたし”は“あなた”の命令しか聞けないけど、“わたし”も“あなた”に言いたい事はたくさんある。

 でも言わない……。“わたし”は結局“わたし”でしかないのだから。

 鏡に映った像は勝手に喋らないもの。

 忘れないで……“わたし”はここにいる。

 “あなた”がそこにいることを、“わたし”は知っている……。

 “あなた”は“わたし”……“わたし”は“あなた”……。

 謎かけじゃないよ。ほんとうのことだよ。



[17818] 思惑
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:c8ed17fe
Date: 2012/05/22 00:46
 それは、ほんの些細な偶然に過ぎなかった。



 意識障害……俗に言う『植物状態』とはつまり、何らかの要因で脳の機能が低下し外部からの刺激に反応しなくなる現象を指す。一般的には昏睡状態にある事を思い浮かべるが、実際には目を開いていても刺激に反応を返さなかった場合はそれに当てはまる事が多い。

 この場合、『脳死』と異なるのは、呼吸や内臓器官などの自律神経を司る脳幹の働きはある程度健在である事。極論してしまえば、ここさえ無事なら心肺は動くので生きてはいられる。実際、かつての最高評議会は脳髄のみを摘出、保存することで意識のみを活動させる事で便宜上“生きて”いた。

 無論、本来なら文字通り“生きてるだけ”に過ぎない。しかも、植物状態とは性質の悪いもので、昏睡時間が長ければ長いほど回復の見込みは薄くなり、数年以上あるいは十年以上にも渡って眠り続けている場合は名医であっても安楽死を勧めると言う。

 もっとも、“彼女”の場合は人為的な昏睡状態であり、脳波の電気信号を操作すれば多少の負担は掛かるが覚醒も容易い。だが裏を返せばそれをしなければ目覚める事は無く、覚醒のためのコードを打ち込まない限りは目を開くはずはなかった。

 だが──、

 「うああぁっ、あがあぁあああああああああっ!!!」

 彼女、ノーヴェ・ナカジマは今、獣の如き雄叫びを上げ、自らを拘束するベッドの上でのたうち回っていた。気が狂うほどの激痛を耐えているのか、食いしばった歯の間からは唾液が漏れ出し、両目の焦点は合っておらず、全身が電流を流されたかの様に痙攣を起こしていた。

 「麻酔! 何でもいい、キツめのだ!」

 「し、しかし、許容量を越える投薬は人体に副作用を……!」

 「構わん! 彼女は常人よりずっと耐性がある。何よりアテンザ主任に了解は得ている。これ以上暴れられて他のクランケに迷惑は掛けられない!」

 「院長! プロポフォール投与量、既に限界です!」

 「なにぃ!?」

 プロポフォール……主に全身麻酔の為に静脈に投与される鎮静薬の一種だ。過剰に投与すると心拍や血圧の低下、呼吸機能の抑制などと言った副作用が発生し、それによりとある世界的ミュージシャンが心停止して急死してしまったのは記憶に新しい。全身麻酔として扱う以上、その体を駆け巡る神経の大半は信号を停止させ、内臓の一部とて機能を低下させてしまうのだから当然だ。

 「これ以上の投与は彼女でも……」

 「っ! 至急、地上本部の医療スタッフに連絡を! クランケを局のICU(集中治療室)に移送する準備を!!」

 「あの状態の彼女をですか!?」

 「ここでは出来ることが限られてくる。所詮ここは人間の治療施設……だが、あちらに行けば彼女の様な存在を何とかしてくれる者もいる。我々に出来るのは、その間彼女に鎮静剤を投与し続けるだけだ」

 「……分かりました」

 スタッフが駆け足で事務室に向かう。滞りなく連絡と治療の準備が出来れば二十分から三十分で彼女の身柄は地上本部のICUに移されるだろう。問題は、暴れる彼女をどうやって移送するかだ。

 しかし、それよりも気になる事があった……。

 「どうして急に容態が……。いやそれよりも、脳波をこちらでコントロールしているのにどうして意識が?」

 機器に異常があった形跡はない。24時間人為的に昏睡状態にさせてある彼女の事は常にスタッフが心拍や血圧に至るまでメディカルチェックを行い、常に変化が無いかどうかを確認してきた。とても今回の前兆を見落としていたとは思えない……。

 だが現にこうして異常が発生している以上、何らかの要因が働いてそれが起こった事は明白……問題は一体何が原因で彼女が覚醒に至ったかだ。

 「……なにが起こったと言うんだ!?」

 ドクターの疑問に答えを寄越す者などここには無く、この数分後、ノーヴェの身は救急車両に乗せられ地上本部の技術研究部へと移送される事となった。










 「へ? 社会科見学? 明日?」

 昼休み、校庭近くのベンチにて弁当を食べていたヴィヴィオは箸の動きを止め、何かを思い出そうと記憶の糸を辿って視線を右上に移動させた。

 「……あ~、そう言えば先生そんなこと言ってたな~」

 「もう、ヴィヴィオちゃんってば。ちゃんと行事の確認してなきゃ」

 St.ヒルデの社会科見学は二種類ある。一つはヴァイゼンなど別の管理世界へ渡航し、そこの企業などの訪問。こちらは単に見学と言うより研修旅行と言った感じで、実際に一泊二日掛けて行って戻って来る。こちらは主に高学年の者が行い、遠くない将来に向けて未来の職場見学といったところだ。

 逆に低学年の方はベルカ領にある聖王教会本部か、クラナガンにある地上本部の一部と相場が決まっている。過去に一度だけユーノの「未来の若き司書育成」と言う計らいで本局の無限書庫を職場見学として開放した事があった。無限書庫は無重力な上に尋常じゃないほど巨大な空間である為、事前にしつこいぐらい注意を促した事もあってか、見学中に行方不明になる様な事態は起こらず、職員らの就業の邪魔になる様な事も無かった。

 もっとも、噂以上の激務を実際に目の当たりにしてしまった所為か、その年度の「なりたい職業アンケート」では『無限書庫の司書』はぶっちぎりのワースト1だった。

 「本当ならもう少し早い内に行けるはずだったんだけど……」

 季節も十二月、本当なら十一月の末に行われるはずだった恒例行事だが、その時期は例のT・S事件の影響でクラナガンは戦火の真っ只中にあり、それからしばらくは街の復旧作業などでとても見学なんか出来る状態ではなかった。担任の話では技術部の一部が開放され、管理世界に流通する最新技術が生み出される現場を見学できると言う話だった。

 言っている間に季節は流れて冬休みに入る。新年を迎えて慌ただしくなる三学期に持ち越すよりは、少しでも落ち着きを取り戻した今の内にやる事をやっておきたいと言うのが保護者と学院双方の見方だった。

 と言っても、なにぶん急に決まった事だったので、ヴィヴィオらが在籍する学年に伝えられたのは二日前の事だった。今の今まで忘れていたが……。

 「お弁当はいらないんだったよね?」

 「うん。お昼ご飯は局の食堂を貸してもらえるって」

 「そうなんだ~」

 「……………………」

 隣で親友二人が楽しげに会話を交わしている間、ハウスキーパーのアイナが作ってくれた弁当をつつきながらヴィヴィオは遠い地に足を運んでいるであろう母に思いを馳せていた。

 (ママ……大丈夫かなぁ……)

 仕事柄、任務により派遣された場所からの連絡は情報漏洩を防ぐため必要最低限に留められる。例え親族が同じ管理局員だとしても部署が違えば近況報告なんて出来やしないし、ましてやヴィヴィオは一般人……。一応、一日ごとの定期連絡として現地に居るなのはから今夜の18時くらいに電話が入る予定だ。これだけでも公務員としては格別の待遇だ。日本の海上自衛隊は自分の乗る艦がいつ帰還するのか家族にさえ言えない。

 (早く夜にならないかな~)

 今はとにかく、放課後になったらすぐに家に戻りたい。顔も忘れるぐらい会ってない訳ではないが、義理とは言え唯一の肉親だ、例え半日でも顔を見なかったら心配したくなるのが親子の情と言うものだろう。

 ふと、ヴィヴィオの脳裏にある予想が過ぎる……。なのはがまだ向こうで任務に着いていると言うことは、彼女らが相手取っているであろう人物、“13番目”も未だ健在と言う証に他ならない。たった一夜で管理世界最大の都市を戦場に変えた彼が今どこに居るかは知らないが、彼一人が部隊の手を煩わせているであろうと予測するのは容易かった。

 「……………………」

 右手が疼く。聖王のクローンであるためか、常人より回復速度が早いのをこれほど感謝した事はない。医師の話では、もう筋肉などは繋がっているらしい。目も当てられないぐらいバラバラにされたはずの指の骨も奇跡的に回復を見せ、病院の担当医も驚くほど順調に治癒してきている。ちなみに、病院に担ぎ込まれた際には既に右手はある程度の応急処置が済んでいたが、それを施した者が誰であるかを知る者は少ない。

 その右手が疼くのだ……。天候が悪いわけでもなく、何かしらの激しい運動をしたわけでもない。ただとにかく、痺れるような痛みが静かに浸透して来ていた。悲鳴を上げたくなるほど痛い訳でもないが、何故か、この時のヴィヴィオはどうしてかその痛みを無視する事ができなかった。

 (……トレーゼさん……)

 ふと、この腕を治療してくれた人物の顔が思い浮かぶ。単に痛覚と関連付いて記憶が想起されただけかも知れないが、その時、確かにヴィヴィオは何か嫌な感覚を覚えていた……。どんな、と言葉にするのは難しかったが、とにかくそんなモノなのだと言う他ない。

 今はただ……気のせいだと自分に言い聞かせて過ごすしかなかった。










 「フン……フン……フン!」

 常人の数倍以上もの強度を誇る筋肉を持つ戦闘機人にとって、腕立て伏せの二百回や三百回など屁でもない。暇潰しで始めたはずの運動も既に四桁に突入し、そこからは数えるのを止めていた。

 ある程度それを行なった後、セッテはそれまでの運動の披露を全く感じさせない軽快な動きで起立し、今度は上体起こしを始めた。両足の爪先をベッドの下に入れ込み、テコの原理を応用した腹筋運動を再び四桁に届くまで黙々と続ける。

 休みなくそれを続けること、およそ三十分……やっと今日の分のセットを終えたのか、立ち上がった彼女は部屋の隅に置かれたポットから水を汲み出し、それを一気に呷った。程よく熱を帯びた体を冷やすには丁度良い加減で、用済みとなった紙コップを丸めるとそれをゴミ箱に投入した。

 「……………………」

 予想以上に暇で仕方がない。今の今まで時間の感覚なぞ気にした事はなかったのに、期限が設けられたと同時にそれが強く圧し掛る。セッテは知る由もないが、いつかクアットロが言っていた……「退屈は魔女を殺す猛毒なのだ」と。

 ふと、それまで静寂に満ちていた部屋に電子音が鳴り響く。それは部屋の壁に取り付けられた内線電話のスピーカーから出ていた。元々が隊員の部屋を借りているので普通に内線も通っているし、有事の際にはそれを通じて連絡を取り合える。最初の時こそここの本来の住人に対する間違い電話などもあったが、一週間以上経った今ではそんな事もないだろうと思い受話器を取った。

 「セッテです」

 『ああ、セッテさん。急にすみませんね』

 受話器の向こう側はここに来てから自分の世話をしてくれる担当の隊員だった。ここで何不自由なく今まで過ごせたのも二、三割くらいは彼女の功績かも知れない。

 「どうかしましたか? 更生施設への移送の日取りが変更にでもなりました?」

 『いえいえ、それは予定通りなんですけど……一応セッテさんの耳に入れておいた方がいいかな~って』

 「ワタシに報告?」

 『はい。ノーヴェさんの容態が急変しました』

 普段なら決して揺らぐことを知らないセッテの心に、ほんの少し僅かな電流が流れる。

 ノーヴェが都内の病院に搬送されたと言う事実はとっくに知っていた。兄トレーゼの能力により脳を酷使した為、寝たきりを強いられている事も知っていた。その彼女が急に容態を悪化させた……普段なら「そうですか」と言って切り捨てるところなのだが、唯一敬愛する兄が関わった事でもたらされた結果と言う、ある種の自責の様な念が今の彼女の片隅には確かに存在していた。

 「……それで、彼女がどうか?」

 『向こうじゃ設備的にも技術的にもあれなんで、今は地上本部の技術研究部署に搬送されたそうです』

 「……………………」

 『セッテさん?』

 「……いえ、何でもありません。わざわざ報せていただき、ありがとうございます」

 聞くだけ聞いたセッテは相手の返事も待たずに受話器を置き、そしてしばし逡巡……。

 前述したように、ノーヴェが病院で寝たきりなのはセッテも知る所だ。もちろん、脳波を弄って自発的には起きられないようにしている事も知っている。それが途中で跳ね起きるなどとは到底思えない。だがそれが現実に起こっているのなら、一体何の要因が働いてそうなったと言うのか……?

 彼女が寝たきりにされている理由は何だ? 兄の過剰酷使が原因だ。では、今回の予期せぬ覚醒はそれが関わっているのではないのか?

 「……………………」

 いいや、それは有り得ない。彼の絶対支配者の威光がどれほどのものなのかは知らないが、次元の海を挟んだ場所にまで影響を及ぼすとは到底考えられない。仮にそれが可能なのだとしても、とっくの昔に見切りをつけているノーヴェを今更利用しようとするだろうか。答えは、否だ。単純にメリットがない。満身創痍の彼女を操ったところで為せる事柄などたかが知れている。

 だがここで……別の可能性がセッテの脳裏を過ぎる。

 「……あの人が力を使った……?」

 アブソリュート・ドミネイターは強力なスキルだ。1stフェイズで電子機器に干渉し、次段階の2ndフェイズでナンバーズの同族支配を行える。ノーヴェの覚醒がトレーゼの能力によるものなら、少なくとも彼は2ndフェイズを実行に移した事にもなる。量子変換された脳情報を一方的に押し付けられるのは苦痛を伴い、それによって脳細胞が刺激され覚醒に至ったのだとすれば説明はつく。

 だが──、

 (……何故ワタシではない?)

 次元の海を挟んだ場所にまで影響を及ぼすと仮定して、それならば何故自分ではなくノーヴェなのか? もちろん、こんな離れた場所にいる者を操ったところで何の利益も無い事は百も承知だ。だったら何故彼はノーヴェなんかを今更になって利用しようとしている? 平常な彼なら絶対に選択しない愚策……それはつまり、彼が平常ではなくなってしまったと言う証左。何らかの原因で精神の支柱を失ったとしか考えられなかった……。

 「何があったのでしょう……」

 セッテは知らない……己の中で勝手に過去形として処理してしまっているこの出来事が、まさか現在進行形でその者を蝕み続けているなどと……。

 彼女は……知りもしなかった。










 「……あ」

 使い捨ての紙コップをゴミ箱に投げ入れるつもりが、コップは容器の手前で失速し乾いた音を立てて床に転がった。紙の立体はどんなに勢いをつけても風圧や空気抵抗を真に受けてしまい、紙飛行機のように航空力学的に飛べる構造をしていない限りは長時間の滞空は難しい。

 「…………鈍ったかしら……」

 それを拾い上げて再びゴミ箱に入れ直す。直接戦闘を目的としていないとは言え、投擲のコントロールはそれなりにあったはずだったが……獄中暮らしが長引いたのが災いしたのか、そこら辺の感覚はすっかり鈍くなっていたようだ。

 いや……今だけに限って言えば、ウーノは動揺していると言った方が正しかった。

 「……ノーヴェが……」

 たった今、妹がここの技術部署に搬送されたのは聞いた。何でも急に飛び起きて暴れようとしたらしいが、真相は定かではない。そもそも彼女は何があっても目覚めないようにされていたはずだ。そこにどんな予測不能な事態が発生したかはどうやっても知り得ない。

 まず初めにトレーゼの能力が思い浮かんだが、ウーノはすぐにそれを否定した。次元の海は何人たりとも干渉を寄せ付けない隔絶時空……アブソリュート・ドミネイターは機器ごとのネットワークを通じて急速に効果範囲を拡大させるが、次元の海に掛かればそこで終わり、そこから先への波及は成されない。つまり、実際に“13番目”がISを行使したかしていないかに関わらず、今回ノーヴェが覚醒した事実と彼の能力の発動の有無は全く関係がないと言う事になる。

 だがそれ以上はいくら想像していても結局は妄想の域を出ない。ノーヴェが跳ね起きた理由は未だに不明だし、それは今から搬送先で判明することだ。何も自分がいちいち思慮すべき事ではない。

 「…………ここ、こんなに広かったかしら」

 与えられたゲストルームに腰を落ち着けて早半月……始めはスカリエッティと二人で過ごし始め、そこにトーレが加わってほんの短い間だけ仮住まいをしていた。今では自分一人だ……。

 ジェイル・スカリエッティの遺体は結局、局の管轄下にある共同墓地にて埋葬された。死刑制度がないミッドでも獄中死するであろう囚人の為の墓地が複数存在し、主に引き取り手の居なかった者を葬送する場所として機能している。スカリエッティは当然親族など居るはずもないので、日本で言うところの無縁仏の様な扱いを受けて埋められた。聖王教ではキリスト教と違って死後の復活の概念が無く、葬送は火葬と土葬のどちらでも選べる。スカリエッティの場合は単に、火葬するだけの時間が無かったと言う至極単純な理由だった。葬儀そのものも簡略化され、名も知らない先達らが眠る土地の片隅に埋められ、これまた簡略化した祝詞を上げて供養とした。

 別に文句はない。あるはずもない。ほんの三年前に次元世界を揺るがすテロリズムを働き、一度は終身刑として投獄された。たった半月協力しただけの者の肉体をちゃんと弔ってくれたのだ、凶悪犯罪者としては破格の待遇だろう。

 だが欲を言えるのなら……

 「せめて……ドゥーエと同じ場所に葬ってほしかったです」

 そう、彼は本来刑期を終えていない身の上。公式記録では彼の所在は未だに無人世界の軌道拘置所……つまり、彼の死体はここにはなく、遠く離れた人間の住み着かない土地にあるのだ。

 同じ理由でクアットロもまた亡骸をその地に葬るはずだが、彼女の場合はもっと酷い。自爆の威力は凄まじく、事故現場から回収した辛うじて原型を保っていた部分は皆、フレームの部品でしかなかった。もはや遺骨とさえ呼べないそれらは『証拠物件』として押収され管理されている。墓さえ用意されなかった。

 「社会に弓引いた者の末路ですか……」

 だったら反抗しなければいい、だったら歯向かわなければいい……そう言われればお終いだし、実際その通りだ。

 だがウーノの脳裏にはある種の憐憫に似た感情が渦巻いていた。

 「トレーゼ……あの子は……」

 抹殺命令が下された彼に果たして墓石は用意されるか? いいや、それは絶対ありえない。彼の亡骸は証拠物件とさえ見なされず廃棄され、動力源を抜かれたフレームはゴミとして洋上の埋め立て場に捨てられる。もちろん、良からぬ事を企む者の手に渡らない様に念入りに破壊された後で……。

 「……………………」

 本当なら、生みの親を殺した者を合法的に処分出来ることを喜ぶ場面なのだろうが、ウーノはそんな事を到底出来る心境になかった。

 あの日……初めて実行された鹵獲作戦で、暴走するリニアの中で見たあの表情…………あれが今も脳裏に焼きついて離れない。あれは二十年近く前に見た弟の顔だった。誰が何と言おうとも、自分はあの表情が偽者にできるとは思えない、思いたくなかった。肉体は試験管で培養された紛い物でも、その脳髄に宿るのは紛れもなく自分達と短い時を過ごした愛しい弟の記憶なのだから。それを無下に否定するなどと、それこそウーノには死んでも出来ない行為に等しかった。

 だから彼女は思い悩んだ。肉体がどれほど入れ替わろうと、その記憶は遠い過去から継続されている本物だ。だとすれば、彼の思想が歪んだ原因は他ならぬ自分達にあったはずではないのか? その真実を確かめず闇に葬り、罪だけを押し付けたまま全てを終わらせてしまって、果たして自分の心に悔いは残らないか?

 「…………ッ!」

 思考が行き詰まり苛立ったのか、ウーノはテーブルに拳を叩き付けた。流石に壊れないように加減はしたが、裏側から何かが軋む音がしたのを否めない。

 だがここで思考を放棄しては問題から逃げの姿勢を取っているのと何ら変わりない。それでは何も解決できない。

 今となっては全て手遅れだろうが、自分はあの時何をすべきだったのか? そして、そうする事で果たして何かを変えられたのだろうか? それも今となっては分からない事だった。

 もっとも、彼女は知りもしない……。

 己に課せられるであろう“選択”の刻限が静かに迫りつつあることに。










 リンカーコアとは非常に応用性の高い物質だ。天然物には遥かに劣るが、人工的に精製したそれを何らかの魔力機関の中枢に据えたエネルギー生成技術の研究はもう何年も前から行われている。

 純粋な魔力の塊であるリンカーコアは肉体と言う殻の無い生身の状態では外部からの刺激に対し鋭敏に、かつ柔軟に、その性質を変化し変質させる。その特性を利用した魔力機関はバッテリー程度の家庭的なエネルギーから、小規模の発電所なみの出力を発揮するものまで多々ある。後者の方は一部の無人世界で試験的に運用されており、毎年その経過を管理局に報告している。

 「……つまり、何が言いたいのさ?」

 「つまりリンカーコアは人の手で弄る事が可能だと言う事だ。それも比較的簡単にな」

 とある一室に立て篭る様にして集合したマテリアル三人は、彼女らの主人に黙って密議を執り行っていた。隠れて話をする以上、やはりそこには何かしらの不都合が発生する訳であり、隠し立てしなければ円滑に進められない理由が存在していた。

 「で、何でいきなりリンカーコアの講義を? 私達は学生身分ではないのですよ」

 「まあ黙って聞くが良い。常日頃思うのだが、うぬら……主殿の今後についてどう思う?」

 「どうって……」

 互いに顔を見合わせる。一応、ここには三人しか居ないし、目の前の『王』の視線も先を促している。

 「そうだね~。まあ、わがままが過ぎるってのもあるけど、供給してくれる魔力は質も量も申し分ないしね」

 「魔力面だけです。このままあの方の暴走が過ぎれば私達の計画達成の時は更に遠のくでしょう」

 「だが、いずれ遅かれ早かれ“砕け得ぬ闇”の完成は成るだろう。問題はその後だ」

 「その後?」

 「バラバラになったプログラムを掻き集め、寄せ固めただけの魔導書だがそれでも最低限は闇の書と同等の機能を有しておる。それはつまり、最後のページを埋める一押しは持ち主自身のリンカーコアを捧げねば完成せぬと言うことだ」

 それは他の二人も重々熟知していた。歴代の主となった者の中で闇の書を完成に近づけた者はそう多くなかったが、その全てにおいて用意された末路は同じだった。

 「確かに今までの闇の書はあの八神はやてを含めて、最終的にはその所有者のリンカーコアを糧にして完成するようにプログラムされていました。ですが一旦破壊され、ほぼゼロの状態から復元したとなればその懸念をする必要は無いのでは?」

 「その考えは甘いぞ。元々あのプログラムそのものが異常なら、闇の書に元から備わっていた自動排斥機能でバグを修正できたはずだ」

 「それをせず数百年も放ったらかしだったってことは……闇の書にとってはあれが『正常』だったって事になっちゃうよね」

 「そう。“異常な状態”こそが正常であるなら、わざわざそれを書き換える事はない。恐らく我が復元したあの書もまた同じ欠陥を抱えておるだろう。我は口惜しいのだ、このままいずれ魔導書が完成し“砕け得ぬ闇”が日の目を見れたとしても、その為には主殿を犠牲にせねばならんのだ」

 「始めの頃と違って随分入れ込んでいますね」

 「言ったろう、ここで失うには惜しいとな。あの方の力は刹那の暴虐の為に消費して良いモノではない……。即ち、向こう千年の支配を実現させる為にこそ在るべきであろう」

 「ああ……大体何を言いたいかは理解しました。で、私達に何をしてほしいんです?」

 ここまで来ればその言わんとしている事は大体察しがつく。要は良からぬ事を企んでいるから協力しろと言う事なのだろう。

 「うむ、話が早くて助かるぞ。と言うことで、黙ってこれを受け取ってくれ」

 「え、ちょっ、何でそんなに話が飛躍してるんですか!?」

 協力どころかもう膳立てすら整っているようで、『王』はどこから取り出したか一発の銃弾……否、カートリッジを『理』に手渡した。

 「これは?」

 「今はまだ何も言えん。それをうぬのルシフェリオンに組み込んで、撃ってもらいたい者が居る」

 「そりゃあまた穏やかな話じゃないね。一体誰を撃ち落としたいんだい?」

 「主殿だ」

 「ブフーッ!!?」

 「おいこら、汚い!」

 「いや、流石に私も今の言には吹きそうになりましたよ。一体どう言う事か説明して頂けませんか」

 「ダメだ……と言いたいところだが、何も知らせないのではうぬらも混乱するだろう。今はまだ真意を話す時ではない故、黙すことを選ぶが……これはプログラム、否、“コード”だ」

 「コード……?」

 「うむ。この弾頭に込めたのはオリジナルの闇の書にあって、我の復元した書には無い空白の部分……。それを埋める為に必要なコードを主殿のリンカーコアに撃ち込むのだ」

 「その撃ち込みに必要な符号がこの弾頭に入魂って事か~」

 黒いカラーリングのカートリッジは天井からの照明を浴びて鈍く輝き、そこに込められた意図を暗に知らしめているようにも見えた。

 トレーゼのリンカーコアは当然だが彼自身の肉体の奥深くに存在する。蒐集を行えば外界に引っ張り出す事も可能だが、そんな事をすれば本末転倒だ。そうならないように近い内に起こるであろう戦闘の際に……誤射を装って撃ち込めと言うことだ。

 「そんなことして大丈夫かな?」

 「良いか? この国には『仏の顔もサンドバッグ』と言う有難い説話があってだな、右を頬を殴打して突き出された左の頬を殴打、これを幾ら繰り返しても真の慈悲深いものならば赦してくれると……」

 「和洋激しく入り交じって化学反応起こしてます。まあ殺さない程度に手加減はさせてもらいます。一発だけなら誤射と判断してもらえるかも知れません」

 「て言うか、仮に肉に覆われたリンカーコアにコードを撃ち込めたとしてさ、それが上手く機能するかな?」

 「心配は要らぬ。ようく思い出せ、主殿のリンカーコアは今現在どんな状態だ? 我らはあの方の胸に何を埋め込んだ?」

 「……願い叶える種」

 「ジュエルシード」

 「そうだ。あらゆる願望を無差別に、そして無制限に叶える宝玉。無意識の願いさえ勝手に汲み取るあれなら、撃ち込んだコードをある種の『要求』と見なし、それを実現させるやも知れぬ」

 かつて、この土地に落ちたジュエルシードの内の一個は、一匹の小動物の願いを『直接的に』叶えた事がある。無論、マテリアルらがそれを知る由もないが、理屈としては通る話だった。

 「こんな次元世界の果ての島国でそんな博打を打つ羽目になろうとは……」

 「まーまー、出目は丁か半かしかないんだし、どうせ当たりハズレが二分の一ならボクは全額ベットだね。ご破産したら、そん時はそれまでってことで」

 「あなた、いつか絶対路頭に迷いますよ」

 「その時は二人ともボクを助けてくれるんだよね」

 「まさか」

 「有り得ん」

 「え、ちょ、そんな……!?」

 「落ちぶれる前に我が拾い上げるまでよ」

 「そうですよ。と言うより、これ以上落ちませんけどね」

 「ははは、確かにね~…………っへぶしょい!!」

 「だから汚いです」

 「しょーがないじゃん、冷えてきたんだし。ていうかさ~」



 「何で風呂場で作戦会議?」



 三人が居る場所はホテルのバスルーム。正確に言えば、湯を張ったバスに三人が詰め込む様な状態で入っていた。

 「仕方なかろう。主殿に見つからず密会できる場所などここ以外に無かったのだ」

 「でも結局宿屋の中じゃん」

 「うぬらも見たはず。今の主殿は傷の療養の為に就寝中……しばらくは目を覚まさぬ」

 「では、この事は他言無用で……」

 「当然だ。なに、別に見限る訳ではないのだ、やましいとは思うな」

 「了解りょうかーい。全ては“砕け得ぬ闇”復活の為に……ご主人様の栄誉の為にってね! アーハッハッハッハ、ブファックショイ!!」

 「いけません。このままでは風邪を引きかねませんよ」

 「そもそも我らが人間ごときが罹る病に……いかん、鼻が垂れてきた」

 「シャワー! お湯!」

 それから後は慌ただしくシャワーを回し掛けし合い、充分に体を温め直した後でまた彼女らは三十分ほど湯船に浸かり、これまでの疲労を洗い流すに至った。










 トレーゼがホテルの寝室で眠っている頃、マテリアル三人がその隣のバスルームで密議を執り行っているのと同時刻、海鳴の街には魔導師たちが繰り出していた。

 「112……っと。これで街の中心部は大方設置し終わった?」

 「うん。後は郊外の方……川沿いとか、港の方にも幾つか仕掛けておいた方がいいかな」

 「そうだね。じゃあそっちの隊員に連絡取ってみる」

 なのはとユーノはとある路地裏の片隅にアンテナを仕掛け、スイッチを入れていく。この街のありとあらゆる場所に百基を越えるアンテナを仕掛け終え、残りは街の外れに仕掛けるのみ。敵は街の中ばかりに潜伏しているとは限らないので、徹底的に網の目を狭める作業を繰り返した。

 「それにしても、ここに帰って来るのも久し振りだなぁ」

 「ユーノ君てば、私達が訓練校に入った時からずーっと無限書庫で働いてたもんね。もう違う部署に移った方がいいよ」

 「自惚れてるわけじゃないけど、あの部署はまだ僕が引っ張らないといけない余地が沢山あるんだ。それをどうにかするまでは辞められないよ」

 「無理はしないでね。健康診断のBMIが『痩せ過ぎ』って知ってるんだから」

 「え゛!? どこで聞いたのそれ?」

 「シャマルさん」

 「…………医師が勝手にそういうの言っちゃっていいのかな~」

 元々食が細い上にカロリーばかり消費する仕事場に就いているのだからやせ細って行くのも当然の帰結だ。書庫は局内でも有数の過酷労働の場であるが、部隊のように前線で体を張る訳ではないので保険などが下りないケースが多い。最近になってようやくそこら辺の待遇改善が成されてきたと聞いているが、それでもやはり後続の新鋭が入り辛い職場である事に変わりはない。

 そう言った意味で、ユーノ・スクライアの名前は一部のホワイトカラーの間ではある種の語り草だ。一時は鬼門とさえ言われていた幽霊部署を立て直し、それから十年以上に渡って同じ部署で指揮を執っている……常人の心身ならとっくに弱音を吐いているところだが、長い間それを続けられているのはひとえに彼のメンタルが物を言っているのだろう。

 「ところで、このアンテナってもうちょっと小型化できなかったの?」

 「色々と急ごしらえだったからね。レーダーの送受信を可能にさせるにはどうしてもこれぐらいのサイズが必要なんだ。こうやってとにかく周囲の人から死角になる場所に設置しておかないと、下手したら撤去なんて事も有り得るしね」

 アンテナそのものは地面やコンクリートの壁に杭の様に打ち込む形で設置し、多少の風雨に晒された程度では故障など起こさない。それこそ人為的に破壊されない限りは……。

 「この事件が解決したら、久し振りに士郎さんのコーヒーを飲みたいな。あれから新作ブレンド作れたかな?」

 「幾つかレシピ作ったみたい。お客さんにも好評だって」

 「そっか。…………ところでさ、翠屋の事で幾つか聞きたい事があるんだけど……」

 「……うん」

 ユーノの訊かんとしている事は察しがついていた。路地裏から人目につかない様に表通りに出た二人は駅に向かって歩き出す。ここの所戦い詰めの二人が目にする“日常”の光景がそこにあった。

 「……士郎さん達は大丈夫だった?」

 「うん……。母さんも、お姉ちゃんも、皆大丈夫だよ。でも……母さんが『家の周りに人手を割かなくていい』って聞かないの。生活している間に随分親しくしてたみたいだから……」

 「逃亡中の被疑者がその先の住民に怪しまれないように良い顔するのは良くある事さ。今回はスバルも連れ歩いていたし、桃子さんも信用してたんじゃないかな」

 「そうかも知れない……」

 もっとも、このまま何の手立ても無しに高町家を放置しておけば、いつかそこを押さえようと画策した“13番目”に襲撃され、人質にされるか分かったものではない。そこははやてが上手い具合にやってくれることを祈るしかないだろう。

 「確かアリサとすずかも“13番目”と接触してたよね」

 「うん。必要時以外は外出は控えてって言っておいたけど……。二人とも現役の学生だから難しいかも」

 「そっちの方にも人員を割かないといけないね」

 「二人揃って『気にしないで』って言ってたけど……流石にそう言うわけにもいかないし」

 「…………スバルは? あの地下水道に居たって聞いてるけど?」

 「分からない。あの後はやてちゃんが探知しようとしたけど……見つからなかった」

 「ごめん。僕があの時周囲に注意を向けてれば……」

 悔やんだところで意味はない……だが、スバルを奪還できる数少ない機会を失したと思うと悔やんでも悔やみきれない。あの場に居た唯一人の人間と言う自覚があるだけに、自分の思慮の及ばなさを呪いたくなる。

 そんな彼の心境を察したのか、なのはの手がそっとユーノの肩に置かれた。

 「ユーノ君……無理、しないでね」

 「心配しないで。僕がいつ無理してた?」

 「いつも……。主に私の見てないところで」

 「あはは、バレてた。安心して。一緒にヴィヴィオの待ってる家に帰ろう」

 「……うん」

 歩きながら肩を預ける。久し振りに感じた幼馴染の温もりは昔から何一つ変わる事なく、冬の気温に晒されたなのはの体を温めてくれた。










 夢を見る……。

 元来、睡眠中に見る夢とは、その内容がどれだけ現実味と言う概念から掛け離れたモノであろうと瞬時に理解し、そして受け入れてしまえるのが常だ。多くの場合は眼前に広がるそれを夢とは自覚できず、覚醒した後で夢だったと自覚できる。

 だが、たまに明晰夢と呼ばれ自分が夢を見ているのだと自覚できる場合もある。今の彼は、まさにその明晰夢を見ている状態だった。

 夢の中で彼は一人の男の半生を垣間見ていた。一人の孤独で、それでいて幸福な男の人生、その一端を……。

 男は長い時を生きて来た歴史の生き証人だった。別にそう望んだ訳ではなく、気付けばそうなっていた、季節の巡りを数えるのを止めて久しいと感じた時には既にそうなっていた。男は……長い時を生きた。

 人と人の関係や付き合いと言うものに嫌気が差したのか、或いは元々そう言った俗人的な思考を持ち合わせていなかったのか、男は世間との交流を断って隠遁していた。自分と同じ時を生きた数少ない友人のみを傍に置き、世捨て人になろうとしていたのだ。

 偶に旅に出て、時折自分を頼ってくる者の頼みを聞いたり聞かなかったり……奔放とは言わないが、男は自由に余生を暮らそうとした。煩わしいのは嫌いだったが、別に寂しいなどとは微塵も思わなかった。

 何の変化も無い静寂の時は、同じように何の前触れも無く終わりを告げた。

 男はある日、自らの無知を知った。自らの蒙昧さが招いた残酷な結末を知ってしまった。

 別に男が直接手を下してそうなった訳ではない。過去に男が行なった行為が、長い時の中で巡り巡った結果であり、もはや元凶の一端たる男には責任など無いに等しいはずだった。

 だが、男は誰よりも純粋だった。自らの行いの結末が数多の不幸を呼び寄せるなど、あってはならないことだと自分を責めた。男は残酷な結末を回避する為に重い腰を上げた。友人も彼に同調し、それに付き従った。

 だがしかし、運命は残酷だった。

 何かを成すには、それに相応しい対価を払わなければならない……等価交換。男の目指した物は自己の全てをなげうってでも成せるかどうか怪しいものだった。

 迷い、悩み、他に打つ手は無いかと模索を繰り返した。だが結末は一本道、それを変えるには根本の部分を正すしか他に無かった。

 努力家と言う訳でもなく、元から富や名声を求めた事などまるでなかったから失う物など無かった。そうだ、失うのは自分一人で済むのだから。



 そして、男はそれを成し、そして……全てを失った。



 男の成した偉業は誰にも理解されず、誰の耳にも入らず、誰の目に留まる事も無いままに結末は回避され、男は長年連れ添った友人をも失った。

 諸手を挙げて喜べるほど幸せだったわけでも、悲嘆に明け暮れるほど悲惨な人生を歩んだ訳でもなかったが、男は孤独で、しかし幸せだった。だがそれも最早過去の出来事で、今の男には何も残らなくなった。

 男が最後に目を閉じた時に何を思ったのかは分からない。少なくとも悔恨に塗れて眠った訳ではない事は確かな様だった。

 その情景を眺め続けた彼はある感想を胸に抱く。



 一言、「下らない」と。



 自己は自己の為だけに存在している。他者の都合に左右される自己性など存在している意味がない。それは言うなればマリオネット……糸に繋がれた人形に過ぎない。糸が切れれば動けない、糸が有れば自由になれない。操る者が優秀であれば文句は言うまいが、そうでなかった場合は怒りを通り越して呆れしか覚えない。

 夢の中の男はそれで満足していた真性の愚か者だ。我欲とは関わりの無い聖人君子を気取っていただけの愚者でしかない。

 自分はそうはならない……。自分は求めるモノを貪欲に追い、仕留め、そして喰らい尽くす。己に無いモノを補う為に捕食し、強奪する事の何が悪か……否、善も悪も無く、ただそこには巨大な自我が存在さえしていれば良い。確固たる目的を持ってさえいれば良いのだ。そこに他者の都合が介入する余地など微塵も無い。

 いや……だが、待てよ……。



 (俺は何を求めていた……?)



 始まりは何だった?

 創造主に報いる? いいや違う。失敗して堕落した落伍者に忠を誓った覚えは無い。

 生き残ったナンバーズを指揮する? それも違う。自分の信奉していた理想像から彼女らは程遠い。自分が認めた者は次元世界広し言えども三人だけだった。

 そうだ……自分の目的は落伍者を切除し、堕落して腐り切った組織体制を一新、真にナンバーズと信ずる者だけを伴って新しい……

 ……あたら、しい…………何だ?

 要らないモノを切り落とす。それは当然だ。欠陥が露呈した創造主に取って変わり、己が新たな主として台頭するのは新しく生まれ変わり、言わば脱皮した組織を再び堕落の落ち目に貶めない為の妥当な措置だ。

 それは良い、そこまでは良い。だがそれはあくまで『過程』だ。至るべき『結果』ではない。過程とは“するべき”ものであって、決して“為すべき”事ではないのだ。

 なら…………自分は一体何をしたいのだ?

 仮に連中を皆殺しにし、自分が過去のトレーゼより優れ尚且つ新しいスカリエッティとして充分である事を証明出来たとして……その次は何とする?

 なった時に考えれば良い? そんな自堕落な事は認められない。どんな形であれ上に立とうとする者にはその意図が発生した瞬間から責任が圧し掛かる。なってからでは遅いのだ。

 新天地を目指す? 悲しいかな、自分は学者を気取った覚えは無い。未開のフロンティアなど、それこそ物好きな科学者にでも任せておけば良い。

 傭兵になる? 戦場から戦場を駆け抜け、自由気ままに人間を殺し破壊する? 愚策の極みだ。金に困っている訳でも欲しい訳でもないのに、どうして二束三文でゴミ掃除に駆り出されなければならない。

 分からない。自分が何をなすべきなのか……。

 分からない……。

 わからない……。

 ワカラナイ。



 ナンデワカラナイドウシテナニガタリナイナニガイケナイダレガワルイオレハワルクナイアノヒトモワルクナイワカラナイノハダレノセイダレモワルクナイソレハアリエナイゲンキョウハイルカナラズイルダレダダレノセイダダレガワルイダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレノセイダダレガワルイダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガダレガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ



 ────────アイツダ、アイツノセイダ。

 アイツサエイナケレバ、アイツサエジャマシナケレバ……ナニモカモガウマクイッテイタハズダ。

 とりもどせ……おれがてにいれるはずだったものを……。

 あいつが勝手に取り上げたモノを、首を捻じ切り、腕と脚を引き抜き、臓腑の全てを掻き出して取り返そう。あいつが奪っていったモノは元々俺のモノ……それを取り戻す事に何の異議がある。もし楯突くものが居ればそいつも同罪だ。皮を引き剥ぎ、耳と鼻を削ぎ落とし脳髄を引き抜き、骨の随が液状化するまで破壊し尽くす。

 そうだ、全部あいつが悪いんだ。

 俺は失わない。自己犠牲なんか糞くらえだ。俺は何も失わない。誰も俺を理解しなくて良い。理解できると思っているのか、この俺を。図々しい、おこがましい、消えてなくなれ俺の周りから。

 目的? 結果? 行き着く先?

 嗚呼、そんなモノ……もうどうだっていい。










 当然だが、風呂に入るには身に付けている物全てを脱ぎ捨てなければならない。

 ジャケット、帽子、ズボン、シャツ、下着、女性ならブラジャー、視力が低い者ならメガネ、その他諸々etc……とにもかくにも、風呂に入るためには一切合財を脱ぎ去り生まれたままの姿で入らねばおかしい。これは有史以来、文明人にとって変わらぬ不文律である。

 つまり、マテリアル三人が入浴会議に集中していると言うことは、『力』がスバルから取り上げたであろうマッハキャリバーもまた……当然その所在をバスルーム隣の脱衣場に移していた。

 『……………………』

 “彼女”は周囲を見渡す。と言っても、彼女には目も無く耳も無い。その代わり人間には出来ない高度な情報収集を可能としている。“彼女”が人間であったなら何とかして拘束を解き、自力で脱出を図ったのだろうが、これも当たり前だが“彼女”には手足がない。その為、脱出なんてもっての外であり、そもそも動けないので拘束さえされていない。

 だがこの場所を外部に知らせる事は出来る。

 既に救難信号は発信している。これを魔導師の誰かがキャッチすれば立ちどころに逆探知され、敵は一網打尽に捕縛されるはずだった。幸いにも首魁が惰眠を貪っている為にシルバーカーテンの偽装能力は“彼女”の放つ信号まで届いておらず、精々が自分の魔力反応をかき消す程度にしか展開されていない。だったら、遅かれ早かれここが探知されるのは時間の問題のはずだった。はずだったのだが……。

 『(なぜです……なぜ誰も反応を返してくれない)』

 発している信号は極長から極短、あらゆる種類の電波を織り交ぜて発信される。暗号用に使われるものを除き、受け取る側に不手際が無い様に救難信号は基本一種類のみ。前線のような確実にジャミングを受けているであろう地帯を除けば、受信にそう時間は掛からないはずだった。

 だが、発信を開始してから既に十分以上が経過しているにも関わらず、建物の周囲に魔導師が集結する様子はない。いくら慎重とはいえこの対応は遅すぎる。何をもたついているのかは知らないが、これでは千載一遇の好機をみすみす逃してしまいかねない。それなのにどうして誰も来てくれない。

 論理的な思考のみを追求した“彼女”の頭脳は、人間で言う確かな苛立ちを覚えていた。



 『Is useless.(無駄です)』



 その時、“彼女”の端末回線に別の声が流れ込んでくる。

 『……誰ですか』

 論理的な思考はどこへやら、分かりきっているはずの答えを目前に“彼女”は実に人間臭い反応を返してしまった。

 『You should know. There is the same as you.(ご存知のはずです。私は貴方と同じなの存在ですから)』

 己以上に機械的な口調……万人が聞けば万人がマシンだと確信できるそれは、デバイスの電子音声。

 『I am "Deus ex machina". Please remember.(“デウス・エクス・マキナ”。以後、お見知りおきを)』

 瞬間に理解した。自分の発した信号は無視されていたのではない、そもそも届いてすらいなかったのだ。

 発した電波信号に対し、正反対の波長を持つ電波を直撃させる事での相殺……暗号とは違い、基本的に一種類しかない救難用のそれの存在を相手が知らないとは思えない。であれば、人質としてそれを取り込んだ際にそれを妨害する為の機能が付いているのは必定と言えた。

 こことは別の場所に保管されているであろう黒いデバイスは、さっきからずっとマッハキャリバーに対抗して電波障害を引き起こし、確実のこの場所を隠蔽していたのだ。あちらが健在である限り、“彼女”は外に居る魔導師に一切助けを呼べない。

 『……………………』

 これ以上の発信は意味を成さないと理解したのか、マッハキャリバーは大人しく信号の発信を打ち切った。それに応じて相手の方も妨害電波の発信を止め、双方の間に無機質な沈黙だけが残った。

 『これでいいでしょうか?』

 『OK.』

 発信を解除すると同時にマキナも妨害電波をストップさせる。互いに相手の姿を見ることは適わないが、両者は睨み合い、一瞬の隙でも生じないか虎視眈々と不可視の戦いを繰り広げた。

 だが人間と違って「忍耐」の概念が無い機械同士にとって根比べとは永遠に終わりの見えないサドンデス……そこに何かしらの意味が発生するとは到底思えなかった。

 だから“彼女”は別の手段に訴えた。

 『……一つ提案したいのですが、今風呂場に居る三人……彼女らだけでもこちら側に引き渡してもらえませんか』

 それはネゴシエーション。相手の要求を呑みつつこちらの要求も通し、互いの利害を最適化して相互の利益に基づいた合意を成り立たせる対話技術。相手とこちらの求める条件を一致させ、尚且つ互いがwin-winで納得する結果を出さなければならない高等な技術。昨今では立て篭り事件などにも円滑に対応できるように、一部のデバイスにもマニュアルとしてインプットされているものもある。ずっと記憶端末の中で埃を被っていた機能がまさかこんな所で使われるとは夢にも思わず、マッハキャリバーは駄目元で自分の同類に交渉を持ち掛けた。

 『単独でも充分にこちらと対等に渡り合えるあなた方が、わざわざ彼女らと組むメリットがありません。始めから違う目的で動いているあなた方の間に衝突や確執が無いとは思えません。こちらに引き渡す様に手引きして頂ければ、そちらの処遇も変わると思われますが?』

 もっとも、商談などに用いられる交渉術と違い、犯罪者に対して実行されるそれは非常に難易度が高い。相手は自分達を捕まえると確実に分かっているだけに身持ちが固くなり、そもそも交渉の場に立たない事が多い。しかも相手は人間的な思考を併せ持つインテリジェンスと違い、主以外の言葉には耳も貸さないストレージ……人間の数百倍にも及ぶ思考速度を持つマッハキャリバーにとっても、今対峙している相手は今まで相手取ってきたどんな存在よりも攻略が困難に思われた。

 しかし──、

 『────Do you think so too?(貴方も同じ様に思われますか)』

 返ってきた返答は無言の沈黙ではなく、まるで肯定を求める様な問い返しだった。意外にも人間的な返しにマッハキャリバーは精緻な自らの電子脳を傾げた。“彼女”にとってはどうやって相手を交渉のテーブルに座らせるかが最大の難関と捉えていただけに、あっさりと反応を返した事に内心拍子抜けしていた。ネゴシエーションはまず相手との会話を続けさせる事に意味がある。その意味で言えば滑り出しは上々と言えた。

 『……あなたはあの三人と組んでいる現状が好ましくないと考えているのですか?』

 『Given you know. They will bring detrimental to my master.(頭を回転させれば分かる事です。はっきり言って、彼女らの存在は不利益しか為しません)』

 意外に図々しい物言い……相当鬱憤らしきものが蓄積していたのか、単に機械だから遠慮が無いのか、マキナはマッハキャリバーの疑問を肯定した。だがそこに言葉以上の意味合いは感じられず、ズケズケとした物言いもやはり機械として事実のみを口にしているに過ぎないようだった。

 『では、なぜ一緒に行動しているのです?』

 『Is his judgment. I can not be determined.(あの方の判断によるものです。私は口出しできません)』

 『デバイスにはユーザーの言動に対する拒否権及び、発言内容を吟味し再確認を促す為の発言権が備わっています。彼を主と認めるのなら、あなたにはそれ相応の管理責任が発生するはずです』

 『Such a feature I do not have. Because from the old type.(私にその様な機能はありません。なにぶん、旧い型ですので)』

 確かに、デバイスにその様な細やかな機能が備わったのは十数年前の話し。それ以前に開発されたデバイスに関してはソフトウェアをインストールする形で更新を行なっているが、中にはそれをせずに済ませているデバイスも多い。実際、古い機種のストレージの大半はまさにそれだ。

 つまり、対談相手たるマキナは二十年近くも以前に作られたデバイス、と言うことになる。時期的にはオリジナルのトレーゼがDr.ギルガスに身柄を譲渡される直前……ジェイルが彼専用に自作し、それを一緒に渡していたとしたら説明はつく。

 『……話は変わりますが、あなたは彼……即ち、“現在のトレーゼ”が過去のそれとは別の人物であると知っていたのですか?』

 『What is a different person? He is Treize. That fact does not change.(別人? 彼はトレーゼです。その事実に変化はありません)』

 『あなたにとっては自分を扱う主人はどうでも良いと?』

 『No. My master is just him. There can be only him.(いいえ。私の主は彼だけ。彼以外には有り得ません)』

 『それは……あなたの電子脳にそう設定されているからですか?』

 『Yes.(そうです)』

 言っている意味が少し理解に苦しむ。つまり、“彼”もしくは“彼女”にとってトレーゼとは唯一無二であり、そこにオリジナルや偽者といった概念は無く、どちらも同一の存在と言う事なのだろう。それはそうだ、生物学的に寸分の狂いも無く再現された個体ならそれは本人と言っても差し支えない。加えて個人の記憶まで引き継いでいるのだから。ただ、AIにそう設定されているから彼を主人と仰いでいるだけなのだ。

 『……話を戻しますが、彼女ら三人をこちらに引き渡していただけませんか』

 『Is impossible.(出来ません)』

 『何故です? あなたも彼女らが与しているのは不本意だと……』

 『It is my opinion. Final decision can be found in him.(それはあくまで私の見解です。最終的な意思決定の権利は彼にあります)』

 確信した。主人の命令に絶対遵守……これはもう典型的な旧型ストレージの特徴だった。これ以上交渉の余地は無いと判断したマッハキャリバーはそれ以上の追求を止めた。

 よくよく考えれば相手は揃いも揃って人外……こちらの言葉が通じても、果たして話が通じるとは限らない。やはり聞くだけ聞いておいて交渉には応じなかったか……。

 そう考え、そろそろ風呂から上がってくる気配のする三人を待ち構えていると……

 『But,There is only one sure fact.(ですが、確信している事が一つあります)』

 『?』

 『I stand by him only. At least for now.(彼の味方は私だけです。少なくとも今はまだ)』

 『それは……』

 それはどう言う意味かと訊ねようとした瞬間、バスルームから三人が出てきてお開きとなった。結局、マキナの真意を推して知ることは適わず、そのまま再び『力』のマテリアルの首にぶら下げられトレーゼの目に晒されない場所へと隠された。

 一人では何も出来ない己の無力を自覚すると同時に、“彼女”は強く誓った。

 (バディ……必ず救い出してみせますから……)










 「明日のセッテさんの移送には私も同行させて頂きます」

 聖王教会の本部、その事務室でカリムは電話の相手に要件を伝えた。

 「本部長としての仕事ですか? もう前倒ししました。義理とは言え、自分の娘になる人ですから……」

 聖王教会が定めた騎士の叙階を授かると同時に、管理局の部隊を指揮できる権限を有した少将でもあるカリムのこなす仕事は非常に多い。双方の組織には彼女のことを「二足わらじ」と批判する声もあるが、彼女は二足のわらじを履くに相応しいだけの実績を上げているのも事実だった。

 実際、彼女は自分の義子の見送りの為だけに厄介な案件を全て片付けた。義弟のヴェロッサは捜査官、秘書のシャッハは騎士団の仕事があり、実際の事務は全てカリム一人でこなしていると言っても過言ではない。もっとも、シャッハに関しては病院での長期療養を余儀なくされている状態だが……。

 「それでは、明日……」

 電話を切り、ほうっと溜息をつくとカリムは窓際に寄って外の風景を眺めた。半月ほど以前の襲撃事件がもう何年も昔の事のように、教会の敷地の修繕は滞りなく終わっていた。歩道の石畳は敷き直され、薙ぎ倒された樹木を植え直し、一部破壊されていた建物も形だけなら元通りになった。

 ガラスに掛かった吐息が白く結露し、目に映る光景を霞ませる。もうすぐここにも雪が降る。都市と違って山岳や高野に近いこの場所は記録的な豪雪が降る事も少なくない。きっと慣れていない者にとってここの冬は厳しいものに感じられるだろう。実際、カリム自身も子供の頃はここの冬は好きになれなかった。

 (それにしても、結婚もしていないのに子持ちになるなんて……)

 少し感慨深げに物思いにふける。彼女自身、結婚にまるで興味が無かった訳でもなく、組織のトップとして公私共に身を固めるようにと縁談を勧められた事も過去に何回かあった。聖王教自体は特に戒律が厳しいと言った事もなく、聖職に就く者は純潔を守らなければならないと言う風習はとっくの昔に廃れた慣習だった。それでもカリムが結婚しなかったのは、単に彼女の中にある信仰心が結婚願望より勝っていたと言うだけに過ぎない。

 グラシア家は以前クロノに語って聞かせた様に、預言の能力を持つ先祖が聖王家に取り入った事で成り上がった家系である。戦乱の後には主君の血脈を神格として崇める教祖となり、以降はずっと聖職者の血筋を保ってきた。もっとも、始めの内は純潔に対する観念が非常に強く、配偶者を設ける事は難しかったと言われている。後継ぎ問題を解決する為の手段として養子縁組は当然の行為だったとされている。当然、赤の他人を迎え入れるのだから始祖である先祖の血筋はとっくの昔に絶たれているだろうが、その辺りは家系図にも記されていないのではっきりとはしない。それが根底にあるのか、グラシア家は家督について頓着しない傾向がある。子を成せばそれが男児であれ女児であれ等しく家督を継ぐ利権を有し、結婚していなくとも前途が有望な若者を受け入れる事に何の抵抗も抱かない場合が多い。実際、傍流を当たれば男児は居たものの、最終的には女性であるカリムが家名を継いでいる。

 そして、今度はそのカリムが新たにグラシアの家督を次代に継がせる準備を始めようとしていた。

 (とは言っても、あの人はそんな事に興味はないでしょうけど)

 言ってしまえばこれは慈善行為……身寄りの無い彼女に代わって自分が彼女を世話しようと言うのだ。無論、相手がそれを望んでいるかと言われれば怪しいものだ。セッテは最初こそ身元引き受け人など必要ないと言っていたが、そんな彼女の言い分はここ最近の事件のゴタゴタに巻き込まれて立ち消えになり、今となっては縁組手続きも滞りなく進んでいる。

 今でも思うのは、自分のやっているのは正しい事なのか、と言う迷いの心だ。今回の養子縁組はセッテが望んだものではなく、あくまで彼女の余りある将来を案じての行為……言ってしまえば、お節介だ。汝の望まざるものを人に与えるべからず、彼女が望まなかった事をしてしまっている自分は本当に正しいのか……。『彼女の将来』と言う言葉を免罪符にしてしまってはいないか……。自分の行いが正しかったかどうかを判別できるのは恐らく幾年もの歳月が過ぎ去ってからでないと出来ないだろう。そして、その時には自分は年老いて何が出来るかも分からない。

 「…………私は、自らの行いを正しいものだったと胸を張って言えるかしら」

 それが独善か偽善かは分からない……ただ一つ確かなのは、今の自分が間違いなくセッテの行く先を案じていると言う事実だけだった。










 “選択”の時まで残り二十四時間……。



[17818] Day dream
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:c8ecce50
Date: 2012/07/03 19:11
 ■■年、5月17日。午前8時00分──。



 ジリリリッ! ジリリリッ! ジリリリッ!

 「う……う~ん、あと……五時間」

 「はい。バカ言ってないでとっとと起きる」

 「はぶぁ!?」

 「講義が始まるまで後一時間。さっさと朝食食べて、さっさと出席! 去年だけで何単位落としたか、忘れたなんて言わせないわよ」

 「わわ、分かってるってば! 今起きます~」

 備え付けの安ベッドから飛び上がるようにして起床した“彼女”は寝癖のついた髪を手漉きで整え、大急ぎで着替えた後でリビングに滑り込んだ。

 「朝ごはんなーに?」

 「誰でも簡単、トーストとハムエッグ。はいちゃっちゃと食べる!」

 「いただきまーす」

 右手にフォークを持ち、左手にトーストを持ちながらその両方を器用かつ迅速に喉に掻き込んで行く。たまに喉に詰まらせると対面の友人がすかさず水の入ったコップを渡し、それを流し込む。これが“彼女ら”の食事風景であり、ここで早くも一年間目にしてきた光景だった。

 十分後、朝食を食べ終えた二人は息の合った動きで皿を片付け、着替え、身嗜み、その他諸々を三分で終わらせた後、急いで玄関から飛び出した。急がないと出席に遅れてしまう。そうなっては彼女らにとっては死活問題だった。

 「あ、部屋の鍵はあたしが持つよ」

 「却下。あんたに任せたらまた夜中まで鍵探す羽目になるわ」

 そう言ってオレンジ色の髪をした同居人は自室の鍵を取り上げ、上着の内ポケットに仕舞い込んだ。

 「じゃあ、行こっか」

 「講義まで残り四十分……まあ、余裕かしら」

 「それじゃ、駆け足!!」

 「ちょ!? 食べたばっかでランニングとか、横っ腹が……!」

 「よぅい、ドン!!」

 「待てこらぁぁああああああっ!!!」

 周囲の寮や団地に喧騒をまき散らしながら二人の女学生は早朝の街並みの中を駆け抜ける。

 前を走る同居人を追いながら、後ろの彼女はこう叫んだ。



 「ちょっと待ちなさいよ、スバルー!!」




















 私立ウェストランド大学……。この都市に唯一存在する大学の名前であり、今年で栄えある二回生となった女学生、スバル・ナカジマの在籍する大学であった。

 多くの大学にある文学部や理学部などはもちろん、法学部、工学部、医学系から経済系、水産畜産農業など、手掛ける分野は実に幅広く、国内外問わず毎年数千人もの人間がここの門戸を叩く。その内のおよそ二割は海外からの留学生が占めている。

 彼女ら二人、スバル・ナカジマとその同居人、ティアナ・ランスターもまた多くの海外留学生の一人であった。

 「第一さぁ、単位なんて出席してればだいたい取れるもんでしょ。何だって去年だけで十二単位も落としたのよ、あんた」

 「い、いやー。試験頑張ったんだけどなー。あは、あははは」

 午前の講義を終えた後、二人は構内に複数存在する食堂の一つへと身を寄せていた。向かい合って座る二人は揃って同じメニューを注文し、それらを口に運びながら雑談にふけっていた。

 「ほら! たまに出席確認全然取らない教授っているじゃん。そう言うのって試験とかでポイント稼いでおかないと……」

 「あー、いるいる。そういうのは確かに試験とかで評価されるよね」

 二人は生まれも育ちも別々の国と地域の出身だが、言語圏が同じだった事と、何より同じ学部学科を専攻していた事もあって入学後すぐに打ち解け意気投合。今では同じアパートでルームシェアする程の仲でもある。

 他の同期やサークルの者からは基本的に、ティアナの方が頭が良いと言う認識だが、実際は海外から留学してくる時点でスバルの方も大した学力の持ち主だったりする。それは異国の地に来ても流暢に現地の言葉で会話をこなす事からも明白だ。ただ彼女の場合、最近の若者に有り勝ちな興味を抱く出来事以外には実力を出さない、と言うタイプの人間に近かった。サークルを例に挙げればすぐさま狙いを定めたティアナに対し、スバルは半年掛けて体育会系サークルを道場破りが如く体験入会を繰り返した末、結局どこのサークルに属すこともなくフリーに落ち着いている。

 バッグから取り出したケータイは昨今の技術進歩を裏付けするかの様に薄く、それでいて丈夫で、今となっては二つ折りの形をしたケータイなどどこにも見られなくなった。今やケータイはタッチパネル式が当たり前で、二人の持つ物もこの国で最もメジャーな通信会社の物だった。

 「あ、見てみて!」

 「どれどれ? あー、最近良く見かけるわよね、このアイドルグループ。えっと……名前何て言ったっけ?」

 「えーっと確か……アルファベット三文字に数字が二桁……」

 「なにそれ? 最近そう言う名前の付け方流行ってんの? 同じ様なユニット五つ位聞いたことあるけど……」

 「この国のアイドル商法はえげつないよねー。五十人近くの子達にイベント設けてがっぽり稼ぐんだもん」

 「どこだって似たようなもんよ」

 「でも確かこのユニットって、前はもうちょっと人数があったような気がするんだけど?」

 「あれ? 知らないのスバル。このグループ、ちょっと前に四人も卒業したのよ」

 「へー」

 タレント、それもアイドル業界で言う「卒業」とはつまり、それまでそのアイドルが所属していた団体やユニットなどを脱退して独り立ち、或いはタレント業そのものを引退する事を指す。この場合も当然の事ながら、その四人は何らかの理由で組んでいたはずのユニットを脱退したという事なのだろう。指摘されて始めて気が付いたが、言われて見れば確かに「覚えのある」顔の何人かが見受けられない。

 「あれ? でも四人も抜けたらユニットの名前おかしくならない? ここの数字の部分ってメンバーの数だよね。一人も減ってないけど……」

 「抜けた四人だけど、メンバーの最年長で皆のお姉さまだったみたいよ。だから抜けた後でも四人分の数字を削るのは偲びないって言うから、ユニット名の数字の部分はそのままってわけ」

 「ふーん。律儀だね~」

 タレントは水商売、人気が出なくなればすぐに切り捨て御免な世界だと思っていたが、意外とそう言う所では人間味が息づいていると言うことなのだろうか。

 ふと、スバルが背後に気配を感じ振り向くと……

 「ほう、まだ活動していたのか……」

 「教授!? おはようございます」

 「はいはい、おはよう。いやはや、週でたった二回講釈垂れるだけだと言うのに、朝一で特急を乗り継いで遠路はるばる呼び出されるとはたまったものではないよ。ああ、隣に失礼するよ」

 「どうぞどうぞ。て言うか教授、この子達のファンなんですか?」

 「ん? いや、まあね。それなりに長い付き合いになるよ。しかしね、ランスター君。さっき君が言ったユニット名の逸話だが、あれは単なるデマだ」

 「え? でも私の友人はブログで本人が書いてるのを見たって……」

 「事務所の方針さ。大衆が感動するお涙頂戴的なエピソードを一つ流す事で人気を上げる魂胆なのさ。実際はユニットの名前くらいどうとでもなる。十年くらい昔に『何とか娘』ってグループがあっただろう? あれと同じさ」

 「なーんだ、つまんないの。やっぱこの世はお金と食べ物だけですか」

 「はいはい、私のポテトあげるから黙ってなさい。と言うか、教授ってそんなにこのアイドルに詳しいんですか? いったいどれだけ入れ揚げたんですか?」

 「いいや、私の部屋にはシングルもアルバムも一枚たりともない。そんな物にはこれっぽっちも興味はないのでね」

 「ですよねー。教授って変態ですもんねー。か弱い人達に向かって刃物振り回す変態さんですもんねー」

 「はっはっは! 人聞きが悪いなナカジマ君は。私が刃物を入れるのは重病人の体だけだ」

 「刃物を振り回すのは否定しないんですね…………」



 「スカリエッティ教授」



 シワのついた白衣に、男としては長く伸びた紫の髪……そして爬虫類の様な湿っぽさと気だるさを有しながら、どことなく鋭い眼光を放つ金眼。彼こそ、このウェストランド大学が誇る教授陣の一角、ジェイル・スカリエッティ博士その人である。

 医学から薬学などの医療系を専門職としながら、物理学にも精通し、一部の工学系の学問まで修めた稀代の天才科学者……と言うのが世間一般の評価である。確かに彼の頭脳は国際賞を二桁は軽く狙えるだけの功績を残しているが、それ以前に栄華や名誉と言ったモノには欠片も興味が無く、修めた学問や飯の種である医者も本人から言わせれば「単なる趣味」と言うのだから驚きだ。自分に興味のある事を達成した“個人的”な成果だから、別に他人に評価されなくても良い……と言う考え方なのだろう。

 ちなみに彼が変態と言われるのには理由がある。と言うのも、彼が一応本業としている医者の仕事が多分に関わっており、ここでも彼の「趣味」が炸裂したに他ならない。医者と言う職業上、時には奇病や難病と言ったものにも立ち会う事が多いが、彼の場合は奇病難病の者「しか」治療しない。この嗜好も彼の言う「趣味と実益」が関係している。

 「だって何万分の一の確率でしか発症しない貴重なサンプルじゃないか。治療期間の片手間に色んなデータが採れるし、観察日誌を書く手もはかどると言うものさ」

 これが「趣味」。ちなみに書いた観察日誌なる物は非常に完成度が高く、充分論文として学会に通用する代物だが、本人にとってはただの日誌なので公表する気はまるでなく、これが彼が賞を取らない事に関係している。

 そして「実益」だが……

 「だってそっちの方が法外な治療費を請求しても後ろ指差されないからな。うン千万の費用を堂々と親族に請求できようと言うものだ」

 「うわー悪魔だー! 悪魔がここにいるー!」

 これを入学して間もない第一回の講義の席で学生にぶっちゃけたのだから逆に凄い。おまけに預かった患者もこれまでただ一人の失敗も出す事無く全て成功しているのだから実力が分かる。どこぞのモグリで顔面二色な医者と違って免許もあるので大金を請求しても文句は言えず、しかもその担当が他の医師はサジを投げる奇病難病の持ち主なのだから正当な対価として認められる。見事に趣味と実益が噛み合っている生活を送っているのが、この教授が変態呼ばわりされながらも学生から親しみを持って応じられる由縁なのかも知れない。実に俗物的だが……。

 「む、もうこんな時間か。君らも次の講義に出遅れんようにな。ここの教授連中は頭が固くていかん。来年はもう少し集中講義の数を減らしてもらえるように交渉せねば……。ぶっちゃけ、一時間以上も立っていると腰が……」

 「腰ですか? 腰の調子が悪いならあたしがボキッと一発治しますよ? ちょーっと骨の位置が数センチずれるかも知れませんけど……」

 「いや、遠慮しておこう。君は今までに何人をそれで“治療”したのかね?」

 「主にお父さんです」

 「…………近い将来、君のお父上は私のクランケになるやも知れないな……」










 二時間後──。



 「はぁー、終わった終わった。ご飯食べてお風呂入ろっと」

 午後三時過ぎ、今日の分の講義を終えたスバルは一直線に寮に帰ると冷蔵庫から冷凍食品を取り出し、適当に電子レンジに放り込む。ちゃんとした三食はそれぞれが分担して調理しているが、大食らいのスバルはそれでは飽き足らず、基本的に何十食分もの冷凍食品をストックしている。冷凍庫の中のおよそ八割強は彼女の私物だ。

 その中から彼女は冷凍唐揚げを温め、皿の上に何十個と積み上がったそれを掻き漁るように口に入れて行った。十分と経たない内にそれらは残らず彼女の胃袋に収まり、「おやつ」を食べて満足したスバルは凝った肩や首周りの骨をバキバキと鳴らしてストレッチした後、一日の汗を流すために風呂場へと向かっていった。

 「ふぅ……いい湯だな~」

 この国に来て早いものでもう一年。言葉の壁自体は留学以前の学習により実力を付けていた為に問題は無かった。食文化に関しても同様で、元から大食らいの彼女にとってその程度の差異は生活費の半分を食費に費やす彼女の生活スタイルを変更する理由にはならなかった。そんなスバルが近くにある業務スーパーの魚肉コーナーの担当者から非常に恐れられているのは、至極当然の帰結と言えただろう。

 とにもかくにも、スバルにとって今の自分の人生は充分満足の行くものだと感じていた。

 朝からランニングがてらに登校して講義に出席し……

 仲間内で夜通しバカ騒ぎした後で悪酔いして記憶を無くし……

 特にこれといって実りのない恋バナに華を咲かせたり……

 時々気が向いたらバイトして……

 たまに気になったら国際電話で海の向こうの家族と会話し……

 レポート提出に追われて長期休暇を図書館で過ごす羽目になったり……

 正月には飛行機に乗って実家に変える……。

 紛う事なく、今のスバルは自他共に認める幸せ者に違いなかった。適度に満たされ、適度に満たされず、順風満帆特筆する障害も無く自由気ままな人生を謳歌できていた。

 彼女は……幸せだった。

 「ただいま~」

 「あ、おかえり。どうだった?」

 「相変わらずハラオウン教授の講義は難しいの一言よ。元検事の法学知識は伊達じゃないわ」

 二時間して帰ってきたティアナは冷蔵庫の前に駆け寄り、気付け用に自分の炭酸飲料を取り出すとそれを口に流し込んだ。スバルならここでコーラでも飲みそうだが、彼女の場合はただの炭酸水だから驚きだ。

 「毎回思うけど、よくそんなの飲めるよね」

 「これがいいんじゃない。あんたもやってみたら? 目覚まし代わりにはぴったりよ」

 「うへぇ、遠慮しとく。シャワー浴びとく?」

 「ありがと。じゃあ失礼して……」

 そう言って浴室に消えていったティアナだが……

 「ぎゃああああっ!!?」

 「ティア!? 何かあったの!」

 あられもない半裸に近い状態で風呂場から脱兎の如く飛び出してきたティアナを受け止めつつ、大体何があったか予想を立てていたスバルはそうっと風呂場を覗き見た。

 「……うわぁ」

 「ど、どど、どう? いるでしょ?」

 「すごく……大きいね」

 どこから迷い込んだかは知らないが、まあいつも冷静にしているティアナが恥も外聞もなく飛び出してきた時点で正体は限られていた。

 「…………八本足の悪魔め」

 大自然の生み出した究極の害虫キラー、皆の嫌われ者……アシダカグモだった。










 「はぁ~。疲れた……」

 八本足の侵入者を追い出すのに全力を費やした二人はそのままなし崩し的に風呂に一緒に入る事となった。帰宅した時にせっかく洗い流した汗もさっきの騒動のせいでまだ吹き出し、水道代節約の為に二人で入る事にしたのだった。

 「でさぁ、スバルは一体どうしたいわけ?」

 「んあ? ごめん、頭洗ってて聞こえなかった。もう一回言って?」

 「だーかーらーっ、あんたは将来何になりたいって聞いてんの!」

 「将来……?」

 「あんただって七年や八年もここに在籍するわけじゃないでしょ? いつかはここを卒業して、その後は晴れて社会の仲間入り……故郷に帰るも良し、このままこの国に居残るってのも魅力的だし、今までに行ったことの無い場所に足を運ぶってのも選択の一つよ。あんたは先の事何か考えてる?」

 「うーん……」

 誰でも経験があると思うが、自分の将来なりたいものを問われた際に即答が出来たのは、恐らく十歳までの子供の頃だけだったのではないだろうか。歳をとり、大人になるにつれて社会の厳しさを身に沁みるようになり、パイロットやケーキ屋になりたいと思っていたあの頃には戻れないと痛感する。その度に改めて自分の将来について考えるのが普通の流れだが……

 「別に。その時になったら考えるよ」

 「あんたは……。それでいいの? 他に色々やりたい事とか無いわけ?」

 「ご飯をいっぱい食べたいな」

 「食道ガンでも起こして入院すればいいのに……!」

 他の者はどうか知らない……だがスバルに限って言えば、漠然とした曖昧な未来は恐れを抱く対象ではなく、むしろ何が起こるか分からないからこそ面白いと言う非常にポジティブな考え方があった。何が起きるか分からないのなら、逆にその気になりさえすれば何でも出来るはずだから……。

 「私は検事になるわよ。ここと比べてあっちの法制度はなってない部分が多過ぎる……。今は少しでも司法に通じた優秀な人材が必要なのよ」

 「お兄さんみたいに弁護士にはならないの?」

 「それも考えた事はあったんだけど、兄さんとは違う視点で取り組みたいと思ってるから」

 「そうなんだ。…………あれっ? ねーティア、あのさ、ちょっと変なこと聞いちゃうんだけどさ────」



 「ティアにお兄さんって居たっけ……?」



 「はぁ? あんた何バカなこと言ってんのよ。兄さんは今でもぴんぴんしてるってば。勝手に殺さないでよ」

 「……………………そうだね。ごめん、変な事聞いちゃって」

 それから十数分後、二人は同時に風呂を上がり予定分のレポートを済ませた後、深夜のテレビ番組を少し鑑賞した後で明日に備えてベッドに潜り込んだ。

 …………………………………………

 ……………………

 …………

 ……










 夢を見る──。

 とても不思議な、それでいて快活な夢だった。自分は日曜の朝七時半から放映されている戦隊ヒーローの様な部隊に所属し、平和を脅かす悪の組織と日夜戦いを繰り広げているのだ。

 頼れる上官や、年下の後輩、憧れの先輩に、苦楽を共にした友人……言い方は悪いがまるで走馬灯の様にそれらの映像が「本当にあった出来事の様に」瞼の裏を駆け巡る。

 実の姉は所属部隊の先輩で、父はそこの指揮官で、母はなぜか死んだ事になっていて、家族全員が揃っている訳ではなかったが、一時の夢幻の中でスバルは飢えや渇きを知らず、ただ満ち足りていた。

 優しくも厳しい教官に朝から夕方までしごかれて、食堂では仲間内で親交を深め合い、夜には同じ部屋の友人に「おやすみ」と言ってから床に着く……。友人とはもちろんティアナの事で、その他の面々は一度だって出会った事などないのに、どうしてか「覚え」のある懐かしい顔触ればかりで、元々自分はここの住人だったかのように思えて仕方がないのだ。

 夢の中だからどんな非常識な光景でさえ何の疑問も抱かずにすんなりと受け入れられるのか、夢の中でスバルは微睡みながら次の朝日を迎えようと、更に深い眠りの淵へと落ちていった。










 二日後──。



 「おはよー」

 「おはよう。朝ごはんそこにあるからとっとと食べちゃいなさい」

 「はーい」

 今日の講義は昼からなので余裕がある。いつも通りの時間に起きながらスバルはゆっくりと食卓に着き、焼き立てのトーストを食べ始める。新聞は取っていないので朝のニュースはテレビを見る事で得ている。

 「今日は午後から雨だそうだから、一応傘持っていきなさい」

 「はーい」

 寝惚け眼を擦りながら大量のトーストをいそいそと喉に掻き込みながら、スバルは小さなテレビ画面に視線を注ぐ。さっきティアナが言っていたように、今日は午後から曇り空になりその後夕立などに見舞われるだろうと予報していた。そこからは朝のバラエティ特集が始まり、そして──、

 『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースです』

 「うん? なんだろ、地震でもあったかな?」

 スタジオのキャスターが何やら慌ただしく動くのが見えた後、女性のキャスターは少し興奮した様子で原稿を読み始めた。

 『たった今、■■州○○市に在住の元アイドルグループのヴォーカル、ドゥーエ・セルジオさん21歳が今日未明に自宅で亡くなっているのをマネージャーが発見しました』

 (ドゥーエ? セルジオ……? それってどこかで聞いたような……)

 そう思いながら画面中央に映った故人の写真を見やると……

 「この人って……!」

 亜麻色の長髪に整った容姿……その人物は昨日スバルが食堂にて教授との話題に上っていたアイドルグループのメンバーの一人だった。間違い無い、たまたま話題に上ったから覚えていたが、その顔はケータイの動画で見た歌って踊れる今時のアイドル歌手の代表格だった彼女に違いなかった。

 『セルジオさんの遺体は自宅の浴槽で発見され、死因は刃物による手首切断による失血死。死亡推定時刻の前後に自宅を出入りした不審者の目撃証言が無い事から、自殺と見て警察は捜査を進める方針です』

 「自殺……」

 確か彼女は昨日話したユニットを卒業したお姉さまチームの四人、その中の一人だったはずだ。

 「あれ。この人って昨日私達が話してたアイドルの人よね?」

 「やっぱりそうだよね。自殺かもしれないだって」

 「自殺、ねぇ。何か嫌な事でもあったんじゃないかしら」

 世を儚んで自ら命を、と言うのは自殺の典型だ。もしそうだとすれば、世間一般には高嶺の花などと持て囃されている彼女らにも人知れない苦労があると言う事なのだろう。

 「ファンの人達が泣き叫びそうね。一世を風靡したユニットだから、うちの大学にも何人か居るはずよ」

 「…………ねえ、ティア」

 「なに」

 「この人……本当に自殺したのかな?」

 「あんたはいつから探偵になったのよ。一人暮らしの女性が自宅で死んでて、死亡時刻には不審人物は確認されてない……よっぽどの物証が取れない限り自殺の線は消えないでしょうね」

 「…………そうだよね」

 朝のニュースを頭の片隅に追いやり、二十六枚目のトーストに手を着ける。この時のスバルはまだ、この事件が引き起こす波紋について、ついぞ予想を張り巡らせる余裕など無かった。










 「あれ……」

 構内中央に位置する学生広場、そこには構内掲示板が設置され、講義の開講予定や休講の報せ、試験の日取りなどが提示され、在籍する学生は各学科ごとに割り振られたそれを確認しながら勉学に臨む。……のだが、昼から足を運んだスバルはそこにある一つの記述に目が行った。

 『ジェイル・スカリエッティ教授────。一身上の都合により本日の講義を休講とします』

 珍しいことだった、あの教授が休講するのは。常日頃から面倒だの何だのと文句を垂れながらも、彼が講義に遅れたりドタキャンしたなどというのは見たことが無いし、先輩からも聞いたことさえ無かった。そんな、ある意味勤労な彼が、何をどうしてこんな当日になって自分の講義を休講にせざるを得なかったのか、スバルにはそこだけが不思議でならなかった。

 「へぇ、あの変人教授が休むなんて、今日は雨じゃなくって槍とかが降ってきそうね」

 「何があったのかな。医者の不養生?」

 「まさか。知ってる? 馬鹿は風邪ひかないって諺。あの人ってプライベートだとホントに馬鹿なのよね」

 「ティア……言ってること、すごい失礼だよ」

 「事実よ。それにあの人はガンになったって死にはしないわよ。逆に自分でお腹を切り開いて治すんじゃないかしら」

 それこそ「まさか」と言って一蹴しようかとも思うスバルだが、話題の人物がそれを実行している図を何の支障も無く思い浮かべられる時点で有り得てしまいそうだと納得してしまった。

 「私たちは受講してないから関係ないけどね……」

 「そだね。じゃああたしはこっちだから」

 「また後でねー」

 広場で別れた後、同じ講義を受ける学生らと合流しながらスバルは教室に入った。雑談に耳を傾ければ入、ってくる話題の殆どは今朝のアイドル自殺の訃報に関するものだった。一世を風靡したとティアナが言っていただけに、やはりそれなりに多くのファンを獲得していたらしい。聞いた話によれば、全国ツアーの追い掛けをしていたと言う猛者まで居たようだ。人気のあった人物の死なだけに、講義が始まっても所々で収まりを知らない私語に耳を済ませれば、まだその話題で持ち切りなのだから死してなお影響力を発揮する事に驚かされた。

 だが、朝から今に至るまでスバルはある疑問を悶々と胸中に燻らせていた。ノートを取る右手を動かしつつも頭では丸っきり別の事を考え、ついぞその疑問が晴れる事は無いまま一時間以上に渡る講義の時間は終了した。

 彼女の疑問はたった一つ……



 何故誰もアイドル引退の話題に触れないのか?



 グループから一度に四人も脱退し、その直後に自殺……。単純に訃報のインパクトが強過ぎて忘却しているにしては、その一片たりとも話題に上らない事にスバルは疑念を覚えた。ひょっとしたら今回の自殺とアイドル卒業を関連付けている自分の感性がずれているのかも知れないし、悲しみに暮れるファンを前に不謹慎に当たるかもしれない発言は控えたい気持ちが、スバルに疑問を言葉にすると言う発想を与えなかった。結局彼女はその疑問を口にする事はせず、次の講義の教室へと移動を始めるのだった。










 「わー。やっぱり結構降ってる」

 最後の講義を終えて教室を出ると、外の天気は盆を引っ繰り返した様な大雨の模様になっていた。冬が終わり春になったとは言え夏はまだ先のはずなのに、低気圧前線が上空に差し掛かっているだとかで雨雲が集中しているのだった。事前に傘を持ってこなければずぶ濡れは必至だったかも知れない。

 バッグの中の折り畳み傘を取り出して広げ、道中車に水を引っ掛けられない事を祈りながらスバルは帰路につこうと足を踏み出し……

 「あれ?」

 その先に見知った顔を見つけた。

 「おや。こんな時間まで単位取りか。勉強熱心なのは感心だな」

 「教授!?」

 隣の棟の下で雨宿りをする白衣の男性が居ると思って見れば、その人物は今日この場には来ないはずのスカリエッティ教授その人だった。教室に入る時には見受けられなかったので、最後の講義を受けている間にここに来たのだろうか。

 「休講って聞きましたけど?」

 「ああ、そうだとも。行って帰ってくるだけだったのだが、どうしても昼には戻れそうにないと思って休講の申請を出させてもらった。ここには個人的な忘れ物を取りに来てね。コーヒーを飲んだ後に戻ろうと思っていたのだが、間が悪いことにこんな事になってしまうとはな……」

 「バス停はすぐそこですよ」

 「知っている。だがこんな雨の中を走っていったら濡れてしまうじゃないか。私に風邪をひけと言うのかね君は。と言うことで、物は相談なのだがねナカジマ君……」

 「あー、はいはい。すっごく嫌ですけどあたしが傘貸してあげますから、一緒に行きましょう」

 「ありがたいな。では失礼して……。ああ、僅差だが私の方が身長は高い。柄はこちらが持とう」

 そう言って傘を借り受けたスカリエッティはスバルに歩幅を合わせながら、校外すぐにあるバス停まで道を共にした。

 「今日はまたどうしてドタキャンなんてしちゃったんですか? 難病の人の手術でも頼まれました?」

 「その予定は一ヶ月後の海の向こうで執り行うつもりだ。今回は完全に私用さ。ちょっと都内の病院まで足を運んでね……身内が死んだから、その確認に行っていたのだよ」

 「親族の人ですか?」

 「うむ。今朝、元アイドルが自殺したと報道していただろう、覚えているかね?」

 「え? あ、はい……?」

 「ドゥーエ・セルジオ。この私の不肖の娘さ」

 「へぇ~。……………………………………………………………………………………えっ?」

 「うん?」

 「え、ええっ、えええええええぇぇぇぇぇっ!!?」

 「む? どうした、咽頭の障害で母音しか発声できなくなったかね? それはいかん、私が治そう」

 「ちょ!? ち、違います! て言うか、えぇ!? 娘……さん!?」

 「姓は母方……つまり私の配偶者の物になっているがね。間違いなく彼女らは生物学上、私の娘だよ」

 「えぇー……」

 世間は狭いと言う言葉があるが、ここまで狭い物だとは思っても見なかった。全国的に有名なアイドルグループの一人が、よりにもよって世界的権威の変人の娘でしたなどと言って誰が信じるだろうか。この場合スバルがそれを一瞬で信じてしまう羽目になったのは、スカリエッティが嘘を言わない性格だと理解していたからに他ならない。

 「もうとっくの昔に離婚したが、その時に娘たちは全員あっちに行ってしまってね。親権も全てあっちが持っていた」

 「結婚してたんですか教授」

 「してたさ。昔の話だがね。それにしても、まさか姉妹そろって水商売とは……流石の私も予測していなかった」

 「……………………………………………………………………………………ん? 姉妹?」

 「おや、知らなかったかな? ドゥーエが所属していたグループのメンバー、あれは全員血を別けた姉妹だ」

 「……………………え゛!?」

 「つまり全員私の娘だ」

 「はいいいいいぃぃぃぃぃっ!!?」










 「すまんな。わがままを言ってついて来てもらって」

 「いえ、面白い話も聞いちゃったし……」

 バス停に着いたスカリエッティは駅行きのバスを待つついでにしばらくをスバルと過ごした。聞いた話では、未明に所属事務所から電話があり、一応親族と言う事で遺体の確認に行ったと言う事らしい。

 「家内とは後腐れなく離縁したつもりなのだが、どうにも私の存在は娘たちにとって鬱陶しいものらしくてね……。とくに年下の面々からは蛇蝎の如く嫌悪されている。それが病院の霊安室で鉢合わせになってしまったからね、ちょっとした修羅場さ。担当医と看護婦が居なかったら今頃大怪我をしていたよ。主に私が」

 「そんなに仲が悪いんですか?」

 「見ての通り、私は家庭を顧みない性格だからね。自宅よりも研究室に居る時間の方が長かったし、彼女らが赤ん坊の頃だって、玩具のガラガラよりもメスを握っている方が多かったほどだ。家内とも情操教育上、よろしくないと言われて別居し始め、離婚に至ったと言う訳さ。そこから先は養育費ばかり取られたが、稼ぎの多さだけが取り柄だった私にとって然程苦労は無かったよ」

 「もう、何て言うか本当に……ダメな父親って感じですね」

 「はは、耳が痛いよ。葬儀の方は僅かな関係者だけで済ませるらしい。私も遺族として同席までは許してもらえたが、きっとまたすぐに追い出されるだろうな」

 「…………そう言えば、忘れ物って何を取りに来たんですか?」

 湿っぽい話題ばかりが続いた事に若干の負い目を感じたのか、努めて明るい声でスバルは別の話題にさり気なく切り替えた。バスが車ではもう少し時間がある。その間ずっと陰気な話しで持ち切りにするのだけは避けたかった。

 「大した物じゃない。昔の私の写真でね……久し振りに家内と話をした時に思い出した。元々研究記録の他に写真を撮らない私は人の顔とか撮らなくてね……。私がまだ学生時代の時にたった一枚だけ撮った物だ。見るといい」

 そう言って白衣のポケットから古ぼけた一枚の写真を取り出す。どこかの大学の研究室か、器具を片手に顔だけこちらを向いて立っているその人物は、まさしく数十年分若返ったスカリエッティ本人だった。

 「まだ交際さえしていなかった時代に家内が撮った物だ。ほんの少しだが思い出話に浸っていた時に話題に上って、どうせろくに管理していないのなら私に預けてほしいと言う流れになってな……」

 「ちなみに、この写真は何の時に撮ったものなんですか?」

 「これは確か……農学部で飼育されていた家畜が謎の伝染病に侵されたので調べてほしいと言う依頼を解決した直後だったかな。狂牛病でね、そこの家畜は残らず処分されたよ」

 「へぇ……」

 スカリエッティの言葉が右から左へ流れて行く。今のスバルの意識はその殆どが差し出された写真に注がれていた。色褪せて細かい所は分からないが、それでも何故かそこに写っている青年の輪郭だけは確かにはっきりと見る事が出来た。今よりずっと艶やかな髪に、知的な輝きを秘めた金色の瞳、新雪の様な白い肌……世間で言う所の美男子がそこに写っていた。今より短い髪はまるで女性の様にさらりと流れ、今と違って眼鏡を掛けた両眼の眼光は若さに彩られていた。

 「昔の方がカッコイイですよね」

 「良く言われる。そろそろバスが来るようだ。送ってくれた事は感謝する、礼を言うよ。ああ、私が彼女らの親族と言うのはくれぐれも他言無用に願いたい。もっとも、君と同居している友人くらいになら暴露しても構わんがね」

 目当ての車両がバス停に到着し、スカリエッティの姿が車内へと消える。程なくして走り去るその車のナンバープレート辺りに視線を泳がせながら、スバルは呆っとした表情でその場に立ち尽くしていた。雨の僅かな冷気が頬を撫でるも、微熱の様なその火照りは収まる事を知らず、それを自覚した瞬間にスバルは異様な恥ずかしさを覚えた。

 (あたし……なんで赤くなって……)










 「あはははははははっ!!」

 帰宅してから一部始終をティアナに話すと、彼女は痙攣する横隔膜から笑い声を撒き散らし、文字通り腹を抱えて転がり笑った。

 「じゃあなに、あんたはあの変人教授の若い頃の写真見て柄にもなく一目惚れしてたってわけ!? あはははは!!」

 「もうっ、そんなに笑わないでよ……。思い出すだけですごく恥ずかしいんだから……」

 「『時をかける少女』みたいにタイムスリップして会いに行ってみる? でも、その写真って昔の奥さんが撮ったんでしょ? 残念だったわね」

 「だーかーらーっ! そんなんじゃないってば!」

 二人揃ってレポート課題を済ませながら、時々こうして今日あった面白い話などを交えつつ夜は耽ていった。

 「それにしても国民的アイドルグループが実は全員姉妹で、しかもうちの大学の教授の実の娘って……ほんと、世間って狭いわよね」

 「よくよく考えたらあのアイドルの人達って、名前は公開されてたけど苗字はちっとも言われてないよね。公式サイトでも普通にファーストネームだけだし」

 「離婚した後は皆母親の所に行ったのよね。お母さんは一般人だから、熱狂的なファンとかに追い回されない為の工夫じゃないかしら。そっか……娘さんがね……」

 「葬儀とかは親族の人と、それ以外は事務所のマネージャーとプロデューサーだけで済ませるみたい」

 「そうらしいわね。テレビでも言ってたわ」

 詳しい日取りなどは公表されず、本当に身内だけで密かに執り行われるそうだ。そしてそこにはあの教授も参列する。

 (何だかんだ言って人付き合いの良い教授が、家に帰ればこの上ない嫌われ者かぁ……。家庭の事情って複雑だね)

 ナカジマ家の両親は両想いの恋愛結婚であり、子供二人が揃って成人する年齢になる今になっても未だにラブラブだし、親子の仲も良好だ。そう言った家庭に生まれ育ったスバルにとって家族関係が冷えきった人間を目にすると少なからず心が痛む。もっとも、自分は正真正銘の部外者なので、解決してあげたいと願っても簡単にはいかない。そう言うのは結局当人たちでどうにかするしかないのだろう……。

 その日もいつも通りに夜はふけ、日付けが変わる頃合には二人とも床に着いた。

 …………………………………………

 ……………………

 …………

 ……










 また夢を見る──。

 いつかに見た時とは違い、今度はもっと幼い時分に退行した状態で夢を見ていた。年齢はたぶん十歳前後、周りは何故か燃え盛る劫火にまみれ、自分は泣きながら逃げ惑うだけのちっぽけな存在だった。

 「おとうさん……」

 父を呼ぶ。だが父はここには居ない。

 「おねえちゃん……」

 姉を呼ぶ。姉も逃げる途中ではぐれてしまった。

 「おかあさ────」

 母は居ない……。彼女の母はとっくの昔に亡くなっているから……。

 ここには彼女を脅かす恐怖のみが存在し、彼女はそれに抗う術を持たない。どれだけ走ったのかも忘れ去るほどに長い道を駆けた彼女の体は遂に膝を折り、がくりとその場に倒れ込んでしまった。そんな彼女に留めを刺す様に、周りをじわじわと火炎が追い詰める。彼女の命はもはや風前の灯火。そして周囲の炎はそんな表現とは正反対な勢いで彼女に迫ってきた。その小さな体を今にも燃え尽くさんと差し迫った劫火は──、



 一人の天使の様な人物の手によって消し去られた。



 崩れた天井から、本当に天使みたいに舞い降りたその姿を……スバルは知っていた。会ったことなんて無いはずなのに、自分にとっては家族や友人の次に親しみを覚えるその姿に、スバルの心は本当に童心に返ったようだった。

 手を差し伸べられる……。その手をしかと握った時、彼女の脳裏で何かが閃いた。電流の様に駆けたその激烈な感情は、気付いた瞬間には彼女にある言葉を口にさせていた。

 その言葉は────。










 「なのはさ…………ん?」

 目を覚ました時、スバルは窓の外を見た。夜明け特有の水色の空は東の地平線にオレンジ色の日を湛え、建物の隙間から眩しい光が差し込んできていた。今までにこんな光景を見た事は無い。それもそのはず、今の時刻は実に早朝五時、スバルが今まで起きた事の無い時間帯だったからだ。

 「うわっ、今日の講義二限目からなのに。なんか早起きして損しちゃった」

 早起きは三文の得などと言うが、現代の貨幣価値に換算するとコンビニの小さいチョコレート菓子くらいの値打ちしかない。それなら寝ていた方がマシだ。実際に金が増える訳でもないのだから。そう考えながら二度寝しようとベッドに潜り込むスバルだが、ふとさっきの夢の内容が脳裏をよぎった。

 (あたし……さっき確か、『なのはさん』って呼ぼうとしてた……?)

 夢の内容ははっきりと覚えている。純白の装束を身に纏ったあの女性は本当に天使と思う美しさで、自分はその彼女に手を伸ばしながら確かに誰かの名前を呼んだ。状況的にその女性の名前なのは確かなのだが、その名前の人物にスバルは思い当たる節が全く見当もつかなかった。何か懐かしいような感覚は覚えても、結局はそこ止まりでしかなかった。それ以上のことは何も思い出せなかった。

 (ボケたのかな……?)

 知りもしない人物の名前を呼ぼうとしたなどとティアナに知られたら、また笑われるかもしれない。流石にこの時間帯はまだ彼女も起きていないので、いろいろツッコミを受ける前にスバルはさっさと二度寝するのだった。



 再び彼女が起きたのはその四時間後のことである。










 その数日後、この日は日曜日、つまり大学は休みであり、スバルとティアナは久しぶりに余暇を駅近くの繁華街で過ごしていた。初めて二人がここを訪れたのはもう一年も以前のこと。現地出身の友人に案内してもらって以来、二人は毎週の休みの殆どをこちらで過ごす。時に買い物をして、たまに映画を見たりして、財布の余裕があれば二人や同じ学科の友人らと共に時間を潰すのだ。

 「ぷはーっ! やっぱここの喫茶店のコーヒーは最高だね。ティアもそう思うよね?」

 「あんたは黙って食事しようって気にはならないわけ? あぁちょっとじっとしなさい。口んところに汚れついてる」

 「ありがと」

 そして昼食は決まって行きつけの喫茶店。ここのコーヒーはマスターのオリジナルブレンドで、初めて来て口にした者がそのままリピーターになるのも珍しくない程に美味だ。

 「マスター、今日もコーヒーが美味しいですね」

 で、今では二人ともそのマスターと顔見知りになるぐらいにここに通っている。もうすっかり常連客の仲間入りだった。始めは外国人と言うので少しは遠慮している節もあったマスターも、今では顔をあわせる度に世間話に興じれる程に仲が良い。

 「分かるかい? 挑戦して豆のブレンドを変えてみたんだ。ちょっと無理したかなって始めは思ったんだけど、意外と好評でね。オリジナルブレンド第二弾として売り出そうと思ってるんだ」

 「ほんとにおいしー。もうこれお金取れますって」

 「美食なスバルちゃんが言うなら間違い無いね」

 こんな感じだ。スバルは大食らいだが決して大味ではなく、彼女が街に出歩いて太鼓判を押す飲食店は実際に美味な物を出してくれる。彼女の味覚の凄みを確信した友人の一人がそれを利用して簡単なパンフレットを作ったところ、同じサークルの友人を始めとして飛ぶように売れたらしい。そう言った事から、一部の学生の間では彼女の舌は信頼されている。

 コーヒーとケーキを食べ終え、スバルとティアナは会計を済ませようと席を立った。

 「ありがとう。また来てね」

 「はーい! ほら、ティアも早く早く!」

 腹ごしらえをして満足したのか、まだ会計も済ませていないティアナを置いてスバルは先に行く。行き先は事前に決めてあるので少しは別行動をしていても問題ない。ティアナの方もこんなことはしょっちゅうなので、特に追い掛ける事もなく先に行かせておいた。

 と言っても、能天気に駆け出すほど今日のスバルは元気なわけではなかった。

 (この間の夢……結局何だったのかな?)

 昼食の前も、今朝起きた時も、それ以前に二度寝から目覚めた時からずっと、スバルのたった一つの疑問はあの夢の中に出てきた女性についてのものだった。結局あの女性が誰だったのか記憶の糸を辿っても分からず、久々に国際電話をして、自分が幼い頃にそう言う人物に出会っていないかまで確認した。もちろん、両親ともにそんな人物は知らず、そもそもスバルは生まれてこの方今回の留学以外で海外旅行をしたことがない。つまりそれは、両親と共に空港に行った事が無いと言う事だ。だから空港で火災なんか経験した事はないし、そこで見知らぬ女性と知り合った事すら無い。

 (じゃあ一体どこで見たっていうの……)

 自問しても分からないものは分からない。そもそも、夢の中で見た光景をここまで気にしているのがおかしいのだろう。夢とは普段脳が蓄えた記憶をランダムに改変し、組み合わせ、あたかもそれが現実であるかのように見せかける。きっとあの女性も、過去にすれ違い程度に見た他人が印象に残っていて、それがたまたま夢に出てきただけなのだろう。もっとも、そこまで印象に残った美人ならそう簡単に忘れるはずないのだが……。

 「…………いや、離して……」

 「?」

 ふと、どこかから声が聞こえた。何かを拒絶しているようだが、その内容までは把握できない。気になって声が聞こえてきた方に行くと、声の主は人目のない路地裏に居た。だが……

 「いい加減にしてください……! 人を呼びますよ!?」

 「呼べばいいじゃ~ん。まっ、こんなところに俺以外の奴が来るわけないけどな」

 「っ!? ちょっと君!」

 これはもう状況的にも絡まれている少女の沽券的にも危ないと直感したスバルは、そのまま勢いで路地裏に侵入し、少女の小柄な体を壁際に追い詰める悪漢の前に躍り出た。どうやら他に仲間とかは居なかったようで、悪漢は悪態をつくとそのままずごすごと引き下がって行った。ひとまずは暴力沙汰にならなくて済んだことに安心するべきか。

 「あの……助けていただいて、ありがとうございます」

 「大丈夫? 酷いことされてない?」

 「はい……」

 少女は小柄で、スバルよりも頭一つ分小さかった。確かにこれでさっきの様な男に言い寄られでもしたら抵抗は難しかっただろう。

 (それにしても……)

 変わった恰好をしているなと、スバルは率直な感想を抱いた。黒いジーパンや紺一色の上着はともかく、ひと昔前の漫画家か被っているみたいなベレー帽を頭に被り、極めつけは表情の大半を覆い隠すサングラス……これで胸元の膨らみが無ければ男と勘違いしていただろう、あまりにも女気が無さ過ぎる。まるで自分を見られるのが苦手みたいな印象を受けた。

 「あ! いたいた。どこ行ってたのよスバル!」

 「ティア! ごめん、ちょっと人助けしてた」

 「はあ? また何か厄介事に首突っ込んでたわけ?」

 後から追ってきたティアナが珍しく真剣に怒った様な顔をする。この界隈は人の通りも多いが、衆人の目の届かない場所ではさっきのように非行の少年少女の溜まり場になっていたりする。近道と言ってここを通ろうとする善良な市民も居るが、さっきみたいに絡まれる可能性もあるのであまり褒められた行為ではない。

 「ケガ無い? お金とか大事な物もとられてないよね?」

 「は、はい。あの……スバルさん。ひょっとして、スバル・ナカジマさんですか?」

 「? あんたの知り合い?」

 「ううん。初対面だよ。あの、どこかで会ったことある?」

 「あ! ご、ごめんなさい。自己紹介がまだでした……! えっと、ちょっと待ってくださいね」

 そう言うと少女はファッションとは程遠いそのベレー帽を外し、遮光率が高いサングラスも取り去った。それを見たティアナが息を呑む。

 「あ、あんた……! そんな、まさか!?」

 「え、何? 実はティアの知り合い?」

 「んな訳あるか! 良く見なさいこの子の顔を!」

 いつになく興奮して舌が回っていないティアナを見て、訝しみながらもスバルはもう一度少女に目を向ける。と言っても、やはり知り合いではない全くの初対面なので共通の知人であるはずが……

 「……あれ?」

 「な、なんですか?」

 いや、まじまじと見ていて気付いたが、どうもこの少女の顔は記憶に引っ掛かる部分がある。つい最近もどこかで、それも自分の身近でこの子の姿を目にしている様な気がするのだが……。

 「あ、あの……テレビとかで見たことないですか?」

 「テレビ? うーん…………誰だっけ?」

 「はぁ、もういいわ、あんたに任せると話がいつまでたっても進まないから。どうぞ自己紹介」

 「あ、は、はい!」

 促された少女は少し緊張気味に佇まいを直し、二人にぎこちないながらも挨拶をした。

 「初めまして。あの……ノーヴェ・セルジオといいます」

 そう言って、赤毛に金色の眼をした少女はぺこりと頭を下げる。

 「セルジオ? どこかで聞いたような……………………っあ! あぁーっ!?」

 「思い出した?」

 「思い出した思い出した!! この子、あのアイドルグループの!」

 「は、はい」

 そうだった、ついこの間自殺したアイドルが所属していたグループ、その中で一番人気の高いセンターを勝ち取った少女……確かその子の名前が、「ノーヴェ」。姉の自殺の一件以来、テレビに出る機会が増えた事もあってか、微妙に記憶に焼き付いていたのだろう。今やっと思い出した。なるほど、似合わない帽子やサングラスを着けていたのは周囲の人の目を集めない為の工夫だったのか。

 「言わせてもらうけど、リアルでそんな格好してたらけっこう人目引くわよ。さっきの変な男もそれで言い寄られたんじゃないの?」

 「そ、そう言えば、『変わった格好してるね』って声掛けられました」

 「あちゃぁ。……て言うか、えっ? ほ、ほんとにあのアイドル? え? マジなの?」

 「マジマジ。この顔きっとそうよ。私も心の中はすっごい混乱してるけど、口先は辛うじて冷静よ」

 「じゃあこの子も教授の……?」

 もう一度顔立ちを確認する。テレビと違ってメイクをしておらず素面に近いが、それでもやはり美人の分類には充分食い込む。やはりどう考えてもあの教授からこんな可愛い女の子が生まれるとは思えないのが本音だ。遺伝子の名残りが瞳の色以外に見当たらない。これは例の奥さんはよほど美人だっただろうなと、思いを馳せていると……

 「っ! やっぱり父を知っているんですか!? 父は今、どこにいるんですか!?」

 「っと! 落ち着いて!」

 急にノーヴェの様子が変わった。そもそも彼女はこちらの名前をどこで知ったのか? 彼女の関係者で自分の名前を知っているとなれば、教えた人物は限られてくる。

 「教授が……スカリエッティ教授がどうかしたの?」

 「あ、すいません……。その、落ち着いて聞いてください……。父は……ジェイル・スカリエッティは────、」



 「行方不明になりました……」






























 「私が蝶か、蝶が私か……」

 街角のとある場所……人気の少ないその場所で卓を設けて客人を待つのは、一人の占い師。取って付けた様な水晶玉は向こう側の風景を歪めて見せ、フードを目深に被った占い師はそれを見つめながら誰に聞かせるでもなしに呟き、暗闇に隠れた視線を水晶玉の向こうに広がる風景に見据えた。

 「自分が見ている光景が、ただの夢だと知った時、あなたはどうやってその夢から覚めますか? 朝陽が昇るのを待ちますか? それとも……」

 水晶が濁る。風景が霞む。それまで昼の太陽を浴びていたはずの街の景色が一瞬で夕暮れ模様へと姿を変える。

 「あなたは、この夢から抜け出せますか。スバル・ナカジマ……」

 水晶玉に見える蒼い髪の少女の姿を見つめ、占い師は店を畳み、路地裏の暗がりへと消え失せる。フードの奥に隠れた表情を窺い知る事は遂に出来なかったが……フードから流れる銀色の髪は、確かに風になびいていた。



 閉じた世界の片隅で蒼の少女が辿り着くのは、出口無き無限回廊の果ての緩やかな終末か、それとも……



[17818] four of a kind
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:03970f6d
Date: 2012/08/27 20:43
 12月9日午前8時48分、クラナガンのとある住宅街にて──。



 「忘れ物はありませんね?」

 「はーい。じゃあアイナさん、行ってきます」

 高町家の玄関から元気よく飛び出したヴィヴィオは、手を振って送り出すアイナに手を振り返し、学院に続く道を辿って行く。学院に近付くに連れて同じクラスの友人や、見知った下級生や上級生などに会う。いつもより少し早い登校時刻には理由があり、学院の駐車場にはその理由を示す物が停っていた。

 「あのバスに乗って行くんだ~」

 社会見学の運行バスが十数台、来客用の駐車場に停車されている。通常なら低学年と高学年で二日ほど時間を空けて行う行事だが、今回は二学期中に主だった行事を全て終わらせたい学院と保護者らの以降もあって、全生徒が一度に行うことが決定した。その為、普段は来客専用に用意されている駐車場は多くのバスが停車しており、生徒の乗り込みを今か今かと待っている状態だった。

 「おはよー、ヴィヴィオちゃん」

 「おはよっ、コロナ、リオ!」

 同じ学年の友人とも合流し、これから行く場所への期待で胸を膨らませる。彼女らの学年が向かうのは管理局の技術開発研究部署。本当は、去年が無限書庫と言うある意味地味な仕事場だった事から、今年は地上部隊の一部を見学する予定だったのだが、地上本部の有する部隊の殆どは例の事件の事後処理などに追われている為、これも急遽変更となった。残りの行けそうな部分で尚且つ手隙の部分となると、管理局でも閑古鳥が鳴いている技術部署しか空きが無かった。

 (まぁ、さすがに無限書庫はキツいかな~)

 ヴィヴィオは昔からあの無重力図書館に行った事があって随分と見慣れているが、見学に行った上級生は行方不明にこそならなかったものの、初めて味わう無重力に気分を悪くした者も居たらしく、そう言った環境も「ワースト1」の理由の一つなのかも知れない。

 (今日は局内のいろんな所を見回って終わりかな……)

 食事は局内の食堂で済ませるので弁当は持たず、そのおかげで荷物は軽い。自然と足取りも軽やかになる。やがて引率の教師が学年別に生徒を誘導し、一台ごとに次々と学院の敷地を後にして行った。駐車位置の関係からヴィヴィオらのクラスは一番最後に発車したが、それを見越して登校時間を早めに伝えていたので問題はない。

 「楽しみだね、ヴィヴィオちゃん!」

 「うん……」

 動き出したバスの窓から地上本部のある方角を見る。向こう側の空の色は少し曇り空で、天気予報では雨が降る事はないと聞いていたが、少し怪しい感じを覚えた。その所為なのかは知らないが、いつも感じる嫌なざわついた感覚が更に纏わり付き、背中に伸し掛っているように思えて仕方がなかった。

 そして、いつも通りにその感覚を「気のせいだ」と振り払い、ヴィヴィオらを乗せたバスは地上本部に向けて加速を始めた。










 「やっとか……」

 技術開発研究部署のとある一室にて、主任のマリエル率いる技術官たちは事務室の椅子の上で一息ついていた。

 「皆さんお疲れ様です。不足の事態とは言え、協力してくださったお陰で彼女も……ナカジマさんも安静になりました」

 彼らは昨日、医療センターより搬送されたノーヴェを沈静化させるのに尽力し、半狂乱の彼女を取り押さえながら精神安定剤から脳波操作による強制睡眠まで実行に移した挙句、ようやく今朝方になって大人しくなった。その過程で軽い怪我を負った者も居り、これ以上続いていればもう最後の手段としてどこかの隊舎の地下、誰もいない倉庫かどこかに一時的に封印する事も考えたほどだ。もっとも、そんな非人道的な手段に出る前に事が済んだ。

 「ですが、ここにも長く安置はできませんよ」

 「どう言うことですか?」

 「ご存知ないのですか主任? 今日は昼から学院の生徒がここを見学に来るんですよ」

 「見学? ここって、この技術部を?」

 「ええ。手隙の部署はここぐらいしかありませんから……」

 「児童たちに彼女の姿を見せびらかす羽目にはしたくないわね。一旦彼女を一般病棟に移しましょう」

 「危険です! 病棟には都市戦の傷が癒えていない隊員がまだ大勢居ます。またいつ暴走するか分からない彼女を同じ空間に置くのは……」

 「児童がここを見て回るのに二時間も掛からないはずです。その間だけ彼女の身柄を一階上の医務室に移します」

 「ですから、危険だと言っているんです! 考え直してください主任! 彼女は、ノーヴェ・ナカジマは────」



 「まだ起きているんです!」



 技術官の一人がそう言って指を指した方向には、ベッドの上でベルトに縛られたノーヴェの姿があった。赤い髪はいつの間にか艶を無くし、生気の抜けた眼は確かに天井を向いていた。

 そう、精神安定剤を限界まで投与し続け、脳波を弄ってまで暴走を止めさせたものの、遂にその意識が完全に眠りに落ちる事はなかった。相も変わらずの植物状態で、すぐ目の前で手を振っても眼球は何の反応も返さなかったが、それでも彼女の両目は確かに開かれており、脳波は覚醒状態の値を示していた。

 「今はこうして落ち着いていますが、いつまた暴れ出すか分かりません。彼女はこのままここに安置していた方が……」

 「ここで彼女が暴れれば、すぐそこの通路を通って見学する児童たちに危害が及びます。事情を知る私達ならともかく、何も知らない子供たちに彼女の姿を晒すのは好ましくありません」

 「で、ではさっそく搬送の許可を……」

 「彼女も病人です。病人を最適な場所に移すのにいちいち許可はいりません。ハラオウン提督に一報入れてください。あの人ならそれだけで察してくれるでしょう」

 「分かりました。では医務室の担当に連絡を……」

 「よろしくお願いします」

 これで児童らが来る前に彼女を移動させれば万事うまく収まるはずだ。そう確信しながらマリエルはベッドに拘束されたノーヴェに近付く。やはりその目は彼女が近くに来た事さえ分からないのか、或いは分かっていても反応できないのか、視線は変わらず白い天井へ向けられたまま……。そっと前髪を撫でると触れた額が冷たい気がした。

 (ごめんなさい。今の私達にはこれくらいしかしてあげられなくて……)

 その思いが彼女に届いているかは分からない。だが自責の念を想起する事で彼女が救われるなら、いくらでも己の無力を呪える覚悟をマリエルは決めていた。もっとも、そんな事をしても人ひとり救えないのだから世知辛いとしか言い様が無い。

 「……そう言えば……」

 ふと、思い出した様に呟く。

 「今日はセッテさんが更生施設に戻る日だったかしら……」










 午前9時30分、某陸士部隊の隊舎にて──。



 「……………………」

 裏口から護送車の待つ駐車場に向かうセッテ。その前後には二人ずつ、計四名の隊員がデバイスを構えながら付き添い、彼女の両腕は手錠で拘束されていた。だがそれ以外に拘束された部分は無く、身柄の自由はある程度確保されていた。

 先頭を歩く隊員がロックを開錠し、セッテは十数日ぶりに屋外へと出る事ができた。忘れかけていた風の感覚が頬を撫で、桃色の長髪がそれになびく。だが地上の感覚を味わう暇も無く、セッテらは目の前に留まる護送車へと乗り込んだ。乗車すると同時に車は発進し、窓のない長椅子のような座席の上で揺られながら彼女の身柄は一旦地上本部へと向い始める。

 (……またあの海の上ですか。まあ、住むには何の苦労もありません)

 しばらくはまた風を感じられない場所での生活になるだろう。都市決戦ではトレーゼ側に加担したとして、施設での服役期間も以前より遥かに長くなっているはずだ。本来なら拘置所に逆戻りしていてもおかしくないのだが、そうならないのもやはり、あの人物からの根回しがあったのだろう。

 (カリム・グラシア……貴方はワタシの肩を持ちすぎでは? 今はそうやって恩を売っていても、いずれ貴方が窮地に立たされた時にワタシが助けるとは限りませんよ)

 あの手のタイプは戦場では長生きできない。もっとも、彼女自身が戦場に出る事がないので関係無い事かも知れない。伊達に家柄だけで地位を築いてきた訳ではないはずだから、そうそう手練手管には長けていてもおかしくはない。だがセッテが思うに、カリムには上に立つ者としての腹黒さよりも年長者としての優しさや親切心の方が大きい。それではいずれ足元をすくわれるのが関の山だろうに。

 (もっとも、そうなったとしても助ける気はありませんが)

 あっちは将来の娘に恩を売っているつもりのようだが、所詮こちらにとっては赤の他人……恩義を感じるほどの事でも無いし、なにより頼んだ覚えも無いお節介にどうして借りを返す必要があろうか。彼女は自分を迎え入れてグラシア家の跡取りにでもするつもりだろうが、どうせ残りの一生を管理局の狗として過ごすと決まっているのなら辺境の部隊にでも志願して前線を駆け回り、跡継ぎの話題など出ないようにするのが一番だ。素行の悪さが目立つ様になれば、如何にカリムがお人好しと言えど跡を継がせようとは思うまい。

 そう言えば、不思議なものだが不意にセッテはティアナの事を思い出した。海上施設に居る間に何度か会ったが、印象に残っているのは自分がグラシア家の養子になる事が決まった時の事だ。あの時彼女は、獄中で一生を終える事に固執していた自分の事を『駄々をこねているだけだ』と一蹴した。己がヒトではなく機械である事を優先していても、はっきりとした意志を持って行動しているのがヒトである証拠であり、そして個人の意志が道理に適っていない場合はただの我侭なのだと……。

 (所詮ワタシは機械に成りそこねた中途半端な存在と言うことですか)

 己が一番危惧していたこと……冷徹な機械でもなく、甘っちょろい人間でもない、その中間を漂う曖昧な存在になってしまうこと。戦闘機人として生まれた事さえ忘れて生きている姉達みたいには決してなりたくはなかった。どんなに綺麗に繕っても、結局己の出自は覆せない。なら、いっそ愚かに否定せずに受け入れてしまう事が何故許されないのか? 形が、肉が、構造が、ヒトに似通っているだけでそれは果たして人間と呼べるのか? だったらそんなモノがヒトの真似をしている方がよっぽど滑稽だろうに。

 (どうして彼女らはワタシが人間である事を強要するのでしょう)

 人間として生きるのが最大にして最低限の幸せ? ならサルにも同じ事が言えるはずだ、彼らの脳構造は人間のそれと大差ない。言語だってそうだ、その気になればオウムだって人語を喋る。自分は何も贅沢を言っているつもりはない。犯罪者として扱うなら一生獄の中に入れてもらって結構だし、出すのなら人間ではなくこれまで通りに兵器として扱ってくれれば良いだけだ。反体制勢力との抗争があるのなら最前線に立つし、必要とあらば汚れ仕事も厭うつもりはなかった。ただ当たり前に、道具として置いてくれればそれで良いのに、何故どうして誰もが自分に構い、ヒトの世界に招き入れようとするのか……結局セッテは理解に苦しむだけだった。

 だが結局、本質の部分はきっと同じなのだろう。

 (『偽善』……。どの方の心にあるのもきっと、自分は良かれと思って手を差し伸べている、と言う気持ちがあるのでしょうね。それが必ずしもその者にとって良い結果をもたらすとは限らないのに)

 きっと彼女らはこちらに手を差し伸べる事で“寛大な自分”を演出し、自己陶酔に浸りたいだけなのだろう。でなければ、ここまでしつこく世話を焼くような真似はするまい。そうセッテは思う事にした。

 奇遇にも、その結論は彼女の兄がフェイトに抱いた感想と全く同じものだった。

 だとしたら、きっとこれから自分は周囲を取り巻く人間の“善意”によって飼い慣らされるしかないのだろう。知らなければチンク達のように良い人間関係に恵まれていると思えるだろうが、一度知ってしまえば全てが嘘臭く思えてくる。大なり小なり何事においても、この者は何か打算があってこうしているのではと疑わずにはいられなくなる。世間じゃそう言う心構えをさもしいと言うだろうが、信じて『すくわれる』のは『足元』だけなのだから。

 車が止まる。目的地に着くにはまだ時間があるから、きっと信号待ちなのだろう。平日の朝方だからきっと道は混んでいる。なら、目的地に着くのはだいぶ先になるはずだ。

 エンジンの揺れに身を預けながら、早朝早くに起こされたセッテは残りの時間を休養代わりの睡眠にあてるのだった。










 「そうですか。学院の児童が見学に……」

 『ああ。一応報せておこうと思ってな』

 「それなら私は極力ここから外出しない方が良いでしょうね」

 『すまない』

 「いえ。立場は弁えているつもりですので……」

 朝、クロノからの通信でSt.ヒルデの社会科見学の存在を知ったウーノは今日一日をできるだけ大人しく過ごす事に決めた。保釈的な扱いとは言え、自分はまだ犯罪者……おいそれとこの周囲を出歩いていい訳ではない。それが純真無垢な子供らの前となると尚更だ。もっとも、彼らが見学するエリアはここから大分離れた場所なので、用を足す為に外出した程度では接触しないだろう。

 だが……

 「すみません、提督。見学場所は確か……」

 『ああ、技術開発研究部署だ。君の懸念している通りそこは搬送されたノーヴェが居た場所だ。今はアテンザ主任の機転で一般の医務室に移されているはずだ』

 「大丈夫でしょうか?」

 『僕は専門家ではないから詳しいことは何とも言えないが、報告の限りではなんとか落ち着いたらしい。ただ、完全に安静状態にするには至らなかったようだ』

 「……と、言いますと?」

 『安静にさせる事は出来たが、眠らせるまでには至らなかった。半ば植物状態なのは変わりないが今の彼女ははっきりと目を開けている。外界の事象を認識しているかはわからないがな』

 「…………そうですか」

 無事だったのならそれでいい。シスター・シャッハには悪いが、彼女の場合は何も重要な部位を欠損するほどの大ケガをしたわけではない。体の様々な箇所に負った傷も、それこそ寝ていれば自然と治る軽いものばかりだ。目が閉じているか開いているかだけの違いに、今更取り立てて騒ぐほどの事でもないと理解してはいた。

 『…………気になるのなら、見に行っても良い』

 「え? ですが……」

 『身内の見舞いを邪魔するほど僕も鬼じゃないつもりだ。幸いにも彼女が移されているのは一般病棟、そこには基本的に軽度の病人しか居ない事になっている。だから、見舞いや面会は基本的に断られる事は無い』

 「…………ありがとうございます」

 『一応、監視の者は付けさせてもらう。万が一にもノーヴェ・ナカジマが暴走した場合、その者には君の安全確保を最優先にするように言っておくつもりだ』

 「重ね重ね、感謝します」

 『気にする事はない。周囲の者はどう思うか知らないが、今この場この瞬間にだけ限って言えば僕は君の味方だ。君が望むのなら僕は出来る範囲での協力は惜しまない』

 「私としては、大した協力もできないままにこれだけの事をしていただいて、正直心苦しいのですが」

 『ならこれは僕個人の単なるお節介だと思ってくれればいい。学院の子供たちに気を遣うのなら急いだ方がいい。医務室は見学場所の近くだからな』

 通信が切れ、程なくして監視員二人が部屋を訪れた。どちらも屈強そうな男性隊員で、万が一にでもノーヴェが暴れ出そうものならウーノを保護するぐらいの実力はありそうだった。

 「よろしくお願いします」

 感謝の姿勢の後にゲストルームを出たウーノは自分の両脇を固めるようにして随行する局員をちらりと見やった。二人とも如何にも職務に忠実といった感じであり、視線は一分もずれる事なく前を捉えていた。

 ふと、ウーノは思う。かつて三年前、こうして彼ら局員を間近で観察しようと思い立った事があっただろうか、と。

 妹らと違って前線に立つ事が無かったと言うのもあるだろうが、以前の自分は彼らを自分達とは違う別の何かと思い込んでいた節があったように思う。彼らが何をしていようが自分にとっては関係なく、その行動の一端一端に価値は無いと思っていた。

 言うなれば、ヒトがサルを見ている様なものだった。檻の向こうに居るサルについて想像を巡らせても、サルの行動一つひとつに対して価値を見出す事は無い。彼らと自分達は似てこそいるが同一ではなく、その事について想像したり思案するのは何の意味も成さないからだ。

 だが、今の彼女は確かに脇の隊員に対して思案を巡らせていた。この者らは監視の対象である自分に対してどんな感情を抱いているのだろう……そんな素朴な疑問が頭を過ぎっていた。

 そんな彼女の視線に気付いたのか、右側の隊員がウーノに反応する。

 「何か?」

 「いえ、なにも……。すみません、じろじろと見回してしまい」

 「構いません。気にしないでください」

 見方によっては厳つい様にも見える体付きだったが、意外にもその口調や人当たりは温厚な人物のそれだった。外見で人を判断するのは失礼だと知ってはいたが、それでもやはりこうして言葉を交わすまでは堅物なイメージがあった。

 またここで一つ、ウーノの頭に疑問が浮かぶ。彼らはあの事件がまだ継続しているのを知っているだろうか? 世間ではお得意の情報操作や規制などを行使して事件は収束したと言っている。もちろん、ミッドチルダのどこにも“13番目”は居なくなった訳だからこの報道におかしな箇所は無い事になる。だが実際、主犯は別の世界に逃亡しており、急遽編成された追跡部隊がそれと交戦中である。つまり、事件はまだ終わっていないと言うことになる。だが詳細を知る一部の局員には本局から通達された緘口令が敷かれ、組織の下位に位置する局員に至っては本当に事件が解決したとさえ思い込んでいる者も居るらしい。

 そうなると、今まさに渦中の重犯罪者、その姉である自分はこの場においてどれほど異質な事だろう。下手をすれば背中から撃たれかねない。恐ろしいのは、もしそうされたとしても自分には何の文句も言えないと言うことだった。自分が彼の関係者である事は確かな事実だし、それを差し引いても刑期を終えていない者が司法の場を闊歩しているのがそもそもおかしい。自分はもう役に立てる要素が無いのだから、いっそ元の拘置所へ戻してはもらえないのだろうかとさえ思う。

 「そんなに緊張しないでください」

 「は、はい?」

 突然、自分がさっき見回してしまった右側の隊員に話し掛けられ、ウーノは少し戸惑った。いきなり話し掛けられるとは思っていなかったのか、彼女は自分でも思うほど間抜けな反応しか返せなかった。

 「ここは現場ではありません。どうか気を楽にしてください」

 「すみません。余計な気を遣わせてしまい……」

 「何かお困りの事があれば言ってください」

 「……一つだけ、聞いてもよろしいですか? 今回の一件……T・S事件に関して貴方は個人的にどの様に受け止めていますか?」

 それは遠回しに、「主犯の関係者である自分をどう思っている」と聞いているようなものだった。質問を受けた隊員もそれを察したのか、しばし無言を貫いたが、すぐに沈黙を破った。

 「自分は事件に直接関わった訳ではありません」

 返ってきたのは意外な答えだった。

 「え?」

 「自分が所属しているのは地上部隊でも小事を担当する部署。都市決戦の時は主に補給を担当していて、直接戦闘に関わったわけではないのです」

 「そうですか……」

 考えてみれば当然だ。あのクロノが指揮を執っていた以上、闇雲に全ての部隊を前線に投入するはずがない。彼の言う様に小回りの利く部隊は本営と前線を行き来する補給などに回されるのは当然の理屈だった。今度は左側の隊員にも尋ねてみる。

 「私も同じく補給などを任されていましたが、私の兄は航空部隊を前線まで運ぶヘリのパイロットでした。乗っていた機体は途中で撃墜されましたが部隊に死者は無く、幸い兄自身も軽傷で済みました」

 「そうでしたか……」

 「…………何か思い悩んでいるようですが、心配しないでください。今回の一件についてハラオウン提督はあなた方関係者に反感を抱いているであろう過激派の面々を周囲から遠ざけていますので」

 「遠ざけて? ですがそれは……」

 「一時的な左遷です。あなた方を迎え入れるのに相当ご無理をなさったようで、一部では権力の濫用だと後ろ指を差されています。横暴だとね」

 それはそうだ。犯罪者、それもまだ刑期を終えていない者をアドバイザーとして組織の内部に招き入れるのは骨が折れたに違いない。組織とは一枚岩では成り立たない以上、そこにはハト派とタカ派が存在し、クロノが根回ししてくれていなければ自分や今は亡きスカリエッティもとっくに排除されていたかも知れない。だがそれを未然に阻止した事で今度は彼に非難の矛先が向いてしまった。それについても申し訳なく思うウーノだが、それを察した隊員はこう続けた。

 「気に病まれる必要はありません。あの人もそう言った結果になる事は百も承知でした。それに、こんな事を言ってしまうのはなんですが、皆もうそう言った事に興味は無いのです」

 「興味が……ない?」

 「大多数の民衆や組織の末端にとって、例えどんなに大きな事件でも自分とは直接関わりが無かったら人は忘れるものなんです。自分達のコミュニティに侵入した外敵を排除する時だけ騒ぎ立てて、それが過ぎ去れば後は知らん振り……。今はあなた方の件で騒いでいる人々も、早ければ半年後には収まると提督は予測しています。後に残るのは粘着質なマスコミだけになるでしょう」

 「司法組織に居る者として、これは失言になるかもしれないですが、彼らにとっては指名手配された犯罪者もミリオンセラーのアイドルも同じ感じなんです。どっちも自分達とは関わりの薄い有名人で、違うのは友好的かそうでないか……簡単でしょう? ブームが過ぎればどんな凄惨な記憶でも人間はすぐに忘れてしまえるんです」

 「そう言うものなんですか」

 やはり人間とは未だ完全には理解できない。自分達にとって記憶とはそのまま記録であり、どんな些細な事象でも留めておく事に意味があると考えている。だが人間は時の経過、それも比較的短いサイクルで物事を忘却してしまう。特にそれが自分達と直接の関わりが無いと判明してからの速度は凄まじい。関係していないと言う事はつまり、損も無ければ得もない、文字通り「どうでもいい」と思えるものなのだ。

 「管理局の末端に居る隊員も事件のことなんて忘れかけていますよ。前線に立たなかった事を非難するつもりじゃないですが、現場を間近で経験しなかった我々がこの事件から得られる教訓は少ないでしょう。せいぜい、街の建造物の耐震性能を上げる政策がなされるぐらいです」

 「おまけに何も知らない民間と政治家は事件の存在は忘れても、それがあったと言う事実だけは都合よく覚えています。民間は早く犯人を捕まえろ、職務怠慢だと言ってなじります。逆に政治家はいつまでも捕まえられなければ、税金の無駄遣いだから早く打ち切れと催促されるんです」

 「ですから、我々は少なくともあなた個人に対しては何の反感も抱いていません。提督があなたをここに置くのは、いずれお帰りになられる妹さん達のためでしょう彼女達が帰還した時に出迎えられるのは、あなただけです」

 なるほど、確かにこっちに残った身内でまともに動けるのはウーノしかいない。一度は袂を分かったセッテでは角が立つし、何より彼女はこれから施設に逆戻りだ。次に会えるのは早くても五年は後になるだろう。ノーヴェが意識を取り戻すのとどちらが先になるだろうか……。どちらにしても自分がそこに立ち会う事は出来ないだろうが、願わくば姉妹の間にある溝が早く埋まってくれればと思う。

 だが、ウーノの疑問は尽きない。

 「では……今回の事件の首謀者は、どう思われますか?」

 「……良識的な意見を言わせてもらえば、法に照らし合わせて処するべきだと思います。あなた方の私怨を否定する事になるかも知れませんが、そうでなければ我々が、司法の番人たる管理局が存在する意味がありません」

 「もしこの裁定を世間に公表していれば、今頃大バッシングを受けていたでしょう。主に人権団体からですが。ああ言う人達は一度は無くなったと危害が二度と戻ってこないと本気で信じている連中です。だから極悪人を庇う様な発言を躊躇なく言えるんです」

 「逆に、明確な死刑制度を復活させるべきだと言う抗議団体もいます。死刑制度が無くなったのは管理局が発足して以来、つまりほんの百年前までは普通に大量殺人や虐殺を行った犯罪者は死刑に処されていました」

 それを聞いて、ウーノは内心ながら死刑制度があってくれればとさえ思った。絶対的な律法として存在し、それに則って処分が下されるなら、妹達が手を血で汚すような真似をせずに済んだのではと考えてしまう。司法の組織に全てを任せ、彼女らは彼女らだけの日常に帰れたのではないかと、そう思わずにはいられない。だが、どれだけ別の原因を探ろうとも、最後の選択をしたのは彼女ら本人だ。彼女らは手を下す事を決意し、自分は降りた……そんな自分が今更何を言い繕い、聖人ぶって嘆いたところで誰も耳を貸さず何も変わりはしない。こんな問答にも意味は無いのだ。

 「……犯罪を犯すのも、その罪を裁くのも、結局は同じ人間のエゴなのかも知れません。大多数にとって賛同できる事が正義で、それ以外は悪……手っ取り早くて分かり易い基準です」

 「では、貴方にとって正義も悪も曖昧なものだと……?」

 「今は当然の行為として認められたものが、百年後には悪辣な行為となっている事も有り得ます。歴史評論家を気取るつもりはありませんが、そう言った年月の積み重ねと言う観点から見れば我々の正義なんて脆いものです」

 かつて、王侯貴族が奴隷を持つ事は美徳とされていた。有する奴隷の数が多ければ多いほど、その家の繁栄を示すと認識されていたからだ。だが今の時世、奴隷なんてものは先程言われた様に人権保護団体が目の色を変えて取り締まろうとするし、そうでなくとも給料の上前を削っただけで労働監督が黙ってはいない。ほんの数十年、たかだか三桁ほどの年数以前には当たり前に行われていた事でさえ、今は非難の対象だ。“13番目”の様に革命じみた行動はそれこそどれだけ異端なものとして人々の目に映っただろう。いや、革命ならまだ良い……発端はどうあれ旧態依然とした社会を変革するのが革命の真意であり、その過程で発生する犠牲は拭えない。

 だが彼の行いは革命ですらない。そこにどんな義があり理がまかり通るかと聞かれれば、誰しもが首を横に振るだろう。正義でもなければ大仰な理屈でも何でもない、単なるエゴと自己愛から去来する暴走が招いたどうしようもない結末だ。だが……それでもやはりウーノはトレーゼの中にある善性を信じたいと願う気持ちを捨て切れないでいた。彼の行為に何かしらの意味を見出そうとしていた……。そうでなければ彼の行いが何の意味も無い戯れ事に成り下がってしまう、それだけは避けたかった。

 (でも、所詮それは偽善なのでしょうね……)

 他人の為と言いながらその実何も出来ていないのなら、それは結局、綺麗事を吐いているだけでしかないのかも知れない……。










 午前10時30分。地上本部第五駐車場にて──。



 「……それで、どうして貴女がこちらに居るのでしょう。騎士カリム」

 護送車を降ろされたセッテを待ち構えていたのは、聖王教会本部にて絶賛職務中であるはずのカリム・グラシア本人だった。ドアから出て最初に目に入ったのが地上本部の巨大な建造物ではなく彼女だと言う事実に、セッテは驚き半分呆れ半分で理由を訊ねる。

 「あなたの見送りに来たんです。それぐらいはさせていただいてもいいでしょう?」

 「ワタシに聞かないでください」

 どうやら施設行きのヘリにまで同乗するようで、監視の為について来た隊員らも何も言わないどころか逆に敬礼している所を見ると、どうやら事前に話は通っていたようだ。それはそれで蚊帳の外にされたような気がしてならないが……。

 「そんな堅苦しい物も外して」

 と言って、両手首を拘束していたリング手錠を外す。だがこれは流石に聞いていなかったのか、隊員の一人が思わず制止した。

 「危険です少将! 万が一の事があっては……!」

 「彼女がその気なら手錠をしていても私達を殺せます。今更そんな事をするように見えますか?」

 「……責任は負いかねますよ?」

 「分かっています。さあ、行きましょうか」

 そう言ってカリムはセッテの横に並び立ち、まるで案内するように彼女を本部の中へと導いた。その様子にほとほと呆れたのか、それまで終始一貫して無表情だったセッテも自由になった手で頭を抱えた。

 「貴女は本当に……何を考えているんですか?」

 「お見送りです。先程も言ったじゃないですか」

 あくまで彼女自身は自分を見送りに来ただけだと言い張る。それは恐らく嘘ではないだろう。だがやはり確信する……自分と彼女とではどうしても波長が合わないと。今こうして隣り合っているだけでも、セッテは頭蓋を内側から引っ掻き回される様な苛立ちを覚える始末だった。

 「貴女はそうやってワタシに恩を売っているつもりでしょうが、ワタシ自身、貴女に見込まれる程の生産性がある訳でないのですよ。貴女がどんな思惑があるかは知りませんが……」

 セッテの右手が並び立つカリムの左手をそっと握った。傍から見ればそれこそ散歩する仲の良い友人が手を繋いだ様にしか見えないが、その腕を一瞬にして粉砕する力を持つセッテからすれば、それは単純に自分の腕と同じ太さの棒切れに過ぎない。その様子にただならぬ雰囲気を悟った背後の隊員はすぐにセッテの背にデバイスを突き立てた。

 「おい! 何をしている!」

 「ワタシが貴女の腕を捩じ切るのと、背後の彼がワタシの心臓を潰すのとでは、どちらが早いでしょうね。もっとも、心臓を潰した程度で即死できるほどワタシは柔に出来ていませんが」

 「いい加減にしろ! 今度こそ拘置所に送られるぞ」

 「送れば良いのですよ。最初に処遇を聞かれた時、ワタシも言ったはずです。元居た場所に戻して欲しいと」

 そう、最初から言っている。それを都合良く勘違いして更生施設に入れ直そうとしているのだから埒が開かない。元より今のセッテにカリムを害する意思は微塵も無い。簡単に言えばこれは脅し……ここで取り押さえられれば更生の見込み無しと判断され、晴れて拘置所に戻れる。セッテとしては万々歳な結末を得られる可能性があった。腹黒いと罵るならどうぞしてくれと言わんばかりの暴挙だが、彼女自身そんな悪評云々など至極どうでもよく、ただこのままカリムの思い通りになるのが気に食わないだけだった。

 だが、相手は紙一重も二重も上手の策士であることをセッテは失念していた。

 「何を騒いでいるんですか? 何もおかしなところなんてありませんよ、私たちは手を繋いでいるだけなんですから」

 「なにを……」

 「そうですよね、セッテさん?」

 「……………………」

 そう、傍から見れば手を繋いでいる様にしか見えない。これが堂々と首を絞めていれば違っただろうが、今更そうするのも気が引ける。このままカリムの戯言に付き合うのも癪なので、セッテは弾くように手を突き放した。

 「ふふ、恥ずかしがり屋ですね、セッテさんは」

 「……………………」

 そして確信する。直接的強行手段に出ない限り、自分は確実に彼女の手から逃れる術は無さそうだと……。










 結論から言えば、ノーヴェの移動は何のトラブルも無く済まされた。事前にクロノの通達が功を奏したのか、担当の医務員から厳重な注意と監視を促された後、彼女を乗せた担架は最も軽微な症状を患う患者が入る病室へと移された。この病室に入った理由は、比較的患者が少なく、万が一ノーヴェが暴走しても病室ごと隔離できるからだ。加えてここの患者は自力で移動できるだけの体力は持っている。ここが最も被害を抑えられる場所なのだ。

 「なんとか、上手くいきましたね」

 「上手くいってもらわないと困るわ」

 そしてノーヴェの担架が移されたのは医務室の一番奥。暴れても出入口付近に居る患者が脱出するだけの猶予は確保できたことになる。後は見学が終わるまで彼女が静かにしていてくれれば万事解決だ。

 「しかし、どうしてまた急に学院の社会科見学が? 私聞いてませんよ」

 「それはこっちも同じです。こればっかりは上司に文句言うしかないですよ。少しは現場の都合も考えてほしいです。幾ら暇って言っても、やる事が全然無いわけじゃないんですから」

 「そうだな。これが一段落したら、上に賃上げ要求でもしてみるか。三割増しにしてもらうとか」

 「ふざけるなって一蹴されるだけですよ。不興を買ってクビ飛んでもいいんですか?」

 「今の時期に異動なんてありえませんよ。されるとしても、精々春先になるでしょうね」

 「じゃあ春からは窓際部署ですか? 勘弁してくださいよ~。子供が来年から学院に入るんですから」

 「え? なに、給料値上げ要求するのが前提? あなた達自分の月収幾らか自覚したことあります!?」

 外に備えられたベンチで研究員らはいつでも医務室に飛び込める様に待機していた。本当は中に居て備えていた方が確実なのだが、病室は患者と医者の空間だと担当者から突っぱねられ仕方なくこうして外で待機している。やけに冗談や馬鹿話をしているようにも見えるが、彼らなりに緊張を和らげようとしているのだろう。いつ爆発するかも分からない火薬の塊を前に平静を保っていられる人間が果たして何人いるだろうか……多少なりとも調子を外さなければやっていられない状況に彼らは居るのだ。

 「冗談はさておいて、予定だとそろそろ学院の児童が北口の駐車場に到着する頃合です」

 「玄関から入ってホールで説明を受けたあと、そのまま第三と第四研究室に移動。そこから棟内の階段を通って上階へ移動して、第五研究室等を見学って形です」

 「そこからは近くの食堂で昼食の後、最後に展示室を回って終了って感じだそうです」

 「展示室? あの、作ったは良いけど実用性が全然なくって、仕方ないから諸々飾ってあるだけのあそこ?」

 「そんな身も蓋もない……」

 取り敢えず、学院の児童がこの周辺を通ることはない。元々居た第六研究室も見学のルートには含まれていない様だが、近くを通るのでここにノーヴェを移しておいたのはやはり正解だったようだ。あとはこのまま時間が経過し、昼過ぎぐらいを見計らって再び彼女を研究室の方に移すだけ。何度も身柄を移し替えるのは気が引けるが、今の彼女を事情も知らない子供の前に晒していいものではない。

 時刻は午前9時51分。二つの研究室を見て回るのに掛かる時間はそれぞれ数十分かそこら……展示室は研究室から離れた場所にあるので、帰りの生徒は別のルートで玄関まで行く。とりあえず昼食時に様子を見て児童が戻ってくる様子が無ければ移動させる予定だ。それまで何のトラブルも無い事を祈ろう。

 「……何も起こらないわよね」










 時を遡り午前10時00分。地上本部北口玄関前の駐車場にて──。



 「はい、到着しました。お荷物忘れないように注意してくださいね~」

 バスガイドのアナウンスが目的地への到着を報せ、生徒達が降車する。移動している間も終始興奮していた彼らはようやく着いた巨大な建物に期待に満ち満ちた視線を注いでいた。この中の何人がここで労働力となるかは分からないが、前途も将来も有望な彼ら彼女らにとって、ここはまさに輝かしい未来の自分を投影するには丁度良いキャンバスだった。

 ヴィヴィオにとっては何度か来た事のある場所だが、無論全てを知っているわけではない。将来についても年相応に曖昧で、知人の勤める無限書庫か、母の勤める地上部隊ぐらいしか候補が思い浮かばない。もっとも、彼女の母も同じ年齢の頃は実家の喫茶店を継ぐものとばかり思っていた事を考えれば、それが普通なのだが。

 「はーい! では組ごと出席番号順に整列してくださーい」

 教師の引率で二列に並び、諸注意の後に来客用玄関を通って地上本部へと入る。二重に仕切られた自動ドアを潜ると暖かい空気が児童らを出迎え、身を震わせていた一部寒がりな生徒もほっと一息ついていた。

 「ヒルデ学院の皆さーん、おはようございます。本日は時空管理局地上本部、技術開発研究部署へお越しくださってありがとうございます!」

 出迎え兼案内役の局員が挨拶し、生徒もそれにならって挨拶を返す。見学の際に遵守して欲しい諸注意を聞かされた後、さっそく生徒の列は案内役を先頭にして見学場所である研究室を目指した。見学用の通路は研究室に面した壁がガラス張りになっており、中の様子を余す事なく見て回れるような造りになっていた。

 ガラスの向こうでは数人の研究員らしき白衣の男女らが複雑な装置や何に使うかも分からない薬品を手に実験や検証を繰り返しており、案内の局員がそれを一つずつ解説する。中の様子に好奇心旺盛な生徒、特に秘密基地然としたその内部に一部の少年の心はくすぐられている様子だった。

 そこからも見学は滞りなく進み、予定通りに生徒らは次の研究室へと向かう。もちろんヴィヴィオも友達であるリオやコロナと一緒に他の学友の流れにそって移動するが……彼女はまだ知らない。

 自分が徐々に争いの渦中に近づきつつあることに……。










 「ヘリが来ない?」

 10時51分、何だかんだ言いながらも予定通りに護送されたセッテはヘリポートのあるビルの屋上近くへとやって来ていた。後はここから地上本部より借りたヘリに乗って海上更生施設へ行くだけだったのだが……直前で予定が狂った。

 「はい。都市決戦の直後、廃棄都市で大規模な爆発があったのは覚えていますか? 周辺の瓦礫の撤去作業に当たっている地上部隊が車両では運べそうにない大きな物をヘリで運搬している最中でして……」

 「瓦礫ですか? その程度なら魔法の一つや二つで容易に破壊して小分けできるのでは?」

 「こう言う事はあまり大きな声では言えませんが、住民の居ない廃棄都市の区画整理を任されているのは決まって小部隊です。魔導技術の腕に覚えのある方々は決まって大きな部隊に配属させられますから……」

 「では、到着時刻は……」

 「部隊の方に問い合わせれば詳細な時間が分かるでしょうが……。問い合わせますか?」

 「いいえ、急かすのも良くはないでしょう。こちらで大人しく待たせてもらいましょう。それで良いですね、セッテさん?」

 「元より、ワタシに選択権は無いのでしょう。好きにしてください」

 心情としてはさっさと施設に赴いてカリムと別れたかったが、そうは問屋が卸さんと言わんばかりに間の悪さが祟って結局これである。ツキに見放されたか、或いはよほど彼女との縁があるのか……どちらにしても今のセッテにとってヘリを待つこの時間は苦痛以外の何物でもなかった。何か適当な理由をつけてこの場を離れたくて仕方がないが、それが出来ない身の上なのでどうしようもない。

 待合室代わりに案内された事務室で、セッテとカリム、そして護送を担当する隊員四名が詰めていた。事前に話は通してあったのか、事務室には必要最低限の人員しか居らず、仮にセッテが何かしようにも被害は最小限に抑えられる体制にあった。もっとも、今の本人は何かする気も無いのだが。

 かと言って、このまま隣から積極的に話し掛けてくる彼女をヘリが来るまで無視し続けるのも億劫だ。本当に何か適当な理由を言って暇を潰さないとやっていけない。

 と、ここで丁度いい口実を思い出した。

 「失礼……」

 「何だ? 用を足すのなら廊下の突き当たりを右だ」

 「後で行かせてもらいます。それとは別に行きたい場所が……」

 「何を言っている。認められるはずがないだろ!」

 「どちらに行きたいのですか?」

 「少将!」

 「よろしいじゃないですか。ヘリが来るまでまだ時間はあります。少しくらい席を外しても咎められる謂れはないでしょう」

 すっと立ち上がったカリムはセッテの手を引いて彼女を事務室の外へと連れ出した。

 「どちらへ行きたいのですか?」

 「……貴女はここで待っていてくれて構いません」

 「そう言うわけにもいきません。私はあなたを監督する義務がありますから」

 「その義務が発生するのはワタシが出所してからのはずです。まだ何年も先の話だと思いますが」

 「でしたら、別に今でも構いませんね。今のセッテさんは一応施設を出ている状態ですから」

 「……………………」

 屁理屈の言い合い、水掛け論で年長者に敵う道理などどこにも無く、結局無言で随伴を認めた。その二人の後を三人の護送隊員が追随し、残りの一人はヘリが来た時に連絡を入れられる様に待機する事となった。

 「それで、どちらに行きたいのですか?」

 「この下に技術開発研究部署、と言うものがあるそうですね。ちょっとそこへ」

 「技術部ですか? 何かありました?」

 「ええ、ノーヴェの顔を見ておこうかと……」










 午前11時40分。第四小食堂にて──。



 「それでは、昼休みは13時20分までです。五分前には昼食を終えて集合してください」

 研究室から一番近い食堂で学院の一行は予定通りに昼休みの食事を始めた。テーブルには事前に用意された食事が並んでおり、ヴィヴィオら三人も仲良く並んで座り昼食を共にした。

 これで午前の見学は終わりだが、耳を傾けると生徒らの寸評が聞こえてくる。元々研究職の集まりと言うインドア系の地味な職場と言うイメージもあってか、一部を除き今回の見学については不評の方が多かったようだ。やはり無限書庫と言い、ここと言い、育ち盛りの少年少女にとって体を動かさない現場と言うのはそれだけ不人気なのだろうか。

 (わたしは、そう言うの気にしないんだけどな~)

 こっちがダメだったら次はこっち、と言う内股膏薬な考えは良くないのかも知れないが、ヴィヴィオにとって将来の道は二つある。努力も虚しくどちらかの夢が潰えたとしても、彼女にはもう一方が残されているのだ。そう言った意味でも、彼女の将来性は非常に恵まれていると言えよう。

 ふと、隣の二人とおかずの取替えっこをしながらヴィヴィオは思いを馳せる。

 ひょっとしたら、他の皆もそんなに将来の事など考えていないのではないだろうか? やはり皆その心のどこかで「なるようになる」と行き当たりばったりな考えがあるはずだ。もちろん、その心構えが悪いと言う訳ではない。彼女たちの様な年齢でこの先五年、十年の見通しを立てろと言うのが無茶な方だ。漠然で曖昧としているからこそ、なんとでもなると思えるものだ。人生何が起こるかなんて誰にも分かりはしないのだから。

 事実、ヴィヴィオ自身も三年前までは人並みの人生を送れるなんて夢にも思わなかった。あの時は差し伸べられる善意の手を振り払うのに必死だったが、時間が過ぎた今になって思い返せば本当にバカな事をしていたと苦笑する。そんなに長生きして人生を達観した訳ではないが、その時は必死になり命懸けで拘っていたはずの事柄も、時が過ぎてみればそこまでする程の事でもなかったと思えるようになる。通常、こう言う思考はそれこそ何十年も生きた老人になって培われる考え方だが、生まれて間も無く他の少年少女では決して体験できない事を経験した彼女にとって、将来の懸念など道端の小石、歩く分には支障なく、蹴躓いた時に考えれば良い……そんな認識だった。

 これは何も、彼女が怠惰で自堕落な性格をしている訳ではない。達観していても決して問題を先送りにはせず真面目に取り組み、尚且つ全力で解決しようとするだけの気力と心構えを彼女は持っていた。そう言った意味でも彼女は非常に大人びた一面を持っていた。

 「ごちそうさまでした」

 20分後、完食したヴィヴィオは席を外し、用を足す為に食堂から少し離れた場所の角にあるトイレへと入っていった。入ってすぐの個室は既に誰かが入っており、仕方なく端から二番目の所に入って鍵を掛ける。ふと気になって耳を済ませるが、どうにも隣からは人の気配が微塵も感じない。下着を脱ぐ衣擦れの音さえしない。

 不思議に思いながらも順調に用を足した彼女は水道の弁を開いて水を流した。すると隣の個室から全く同時に水を流す音が聞こえ、やはり人が入っていた事を認識させられる。開けるドアも殆ど同時に、ヴィヴィオと隣の人物は外へ出て……

 「あ!」

 「あぁ……」

 鉢合わさった見知った顔にヴィヴィオは文字通りあっと驚いた。対する長身の彼女もまた程度こそ違うものの、やはり同じように驚いた反応を返した。

 「貴女でしたか」

 「こ、こんにちわ……」

 見上げる様な長身に、その腰にまで届きそうな髪……自分が拉致監禁されていた時に周辺の世話をしていた戦闘機人、セッテがそこにいた。真っ白な囚人服に首から名札を下げ、如何にも「悪いことをしました」という風体をしている。

 「ここに何の用ですか? 貴女が居るべき場所ではないように思いますが」

 「それはこっちのセリフっていうか、なんていうか……。わたしは今日、学院の社会科見学です。セッテさんこそどうしてここに?」

 「ワタシは移送ですよ。仮の住居から晴れて更正施設に逆戻りです」

 そう言うセッテの両手首にはドッキング式の手錠が嵌められていた。普段は腕輪の様に手首に装着され、スイッチによって右手と左手のリングが強力な磁力を有した端末が起動し、二つのリングを繋ぐ仕組みになっている。スイッチはドッキングした二つのリングの外側に位置し、一度繋がれば関節を外しでもしない限り絶対に解錠できない仕組みになっている。そして、戦闘機人はフレームの関係から自発的に関節を外す事は決して出来ない。

 「え? でも、それどうして外れてるんですか?」

 「私が外しました」

 「カリムさん!?」

 出入り口から顔を覗かせた人物にヴィヴィオは更に驚く。学院の経営も行い、管理世界で最も多くの信徒を抱える聖王教の宗主にして管理局の少将の立場にあるはずのカリム・グラシアが、何故かこんな地上本部の端っこにあるトイレに顔を出しているのはシュールな光景にしか見えない。

 「ごめんなさいね、ヴィヴィオさん。セッテさんがなかなか出て来てくれないものですから、少し様子を見に来ました」

 「別に脱走などしません。この手錠には信号発信機能があるのですから、ワタシがどこへ逃げようと居場所ぐらい把握可能なはずです」

 「あの……セッテさんはこれから施設に行っちゃうって本当ですか?」

 「ええ。ただ、迎えのヘリの到着が遅れてしまって……。余った時間を持て余すのならノーヴェさんのお見舞いにでもと……」

 「ノーヴェがここに来てるんですか!?」

 「あ、あら? 聞いてないかしら?」

 そうして、ヴィヴィオはカリムから簡単に事の仔細を聞いた。ここで初めてノーヴェが自分達の見学していた研究室に移送されていた事を知るが、直前で医務室に移された事を今さっき聞き及んだセッテとカリムは見事にすれ違ってしまった。

 そして、今からそちらの病室に見舞いに行くのだと言う。それを聞いたヴィヴィオは考えるよりも先に口が動いていた。

 「わたしも一緒に行っていいですか?」

 「いけません。今日のあなたは学業の一環でこちらにいるのでしょう? でしたら、まずはそれを済ませてからでも遅くはありません。技術部の方には私からお願いしておきましょう」

 「……わかり、ました。また今度にでも見舞いに行きます」

 「ごめんなさい、あなたの気持ちを知らない訳ではないのに……」

 「いえ、わがまま言ってすみませんでした。それじゃあ……」

 少し気落ちした感じを漂わせ、ヴィヴィオは大人しくクラスメイトの居る食堂へと戻っていった。










 「良かったのですか?」

 ヴィヴィオと別れた後、セッテはカリムに問う。質問の内容は言わずもがな、先程適当な口実をつけてヴィヴィオを追い返す様な真似をした事についてだった。

 「あの子の本分が学業なのは誰の目から見ても明白です。私用ならともかく、優先させるべき事柄ははっきりしています」

 「それだけですか?」

 「……本当の事を言えば、彼女にはまだノーヴェさんの姿を見せる訳にはいきません。私個人の勝手な判断ですけど、彼女の様に感受性の高い子が今のノーヴェさんを見れば少なからずショックを受けるはずです。それは好ましくありません」

 ノーヴェの状態が如何ほどなのかはセッテも詳しくは知らない。どんな状態になったのかを伝え聞いているだけで、実際に目にするのはこれからが初めてなのだ。彼女の胸中には、「どんな状態になっているだろう」と言う興味と、例えどんな状態であろうと自分にとっては大勢に影響しないと言う事実を弁える冷静さだけがあった。

 「それに、さっきのヴィヴィオさんは勢いだけで言っている節がありました。ちゃんと考えるだけの時間を与えるのも、あの子の為です」

 「別にそこまで義理立てする必要もないのでは。貴女にとって彼女はそうまでして品行方正にさせたいものでもないでしょう」

 「そうですね。では、代わりに出所したあなたをみっちり教育する事にしましょう。グラシア家の人として、どこへ出しても恥ずかしくないように」

 「ワタシが貴女の娘として振舞うとでも? 冗談を。ミッド有数の名家であろうが何であろうが、ワタシの立ち位置を容易に変える事は出来ません。五年であれ十年であれ、ワタシは貴女に抵抗しますよ」

 何年掛かるかは分からないが、出所したとしてもセッテは大人しくしている気は毛頭ない。この発言は事前にそれを通知しておく仏心というよりは、ただの事実報告の色が濃かった。ひょっとすれば無意識にカリムの困惑する姿を見たかったのかも知れない。自分は決してあなたの思い通りにはなりはしない……と。

 だが、予想していたカリムの反応は見られなかった。

 「構いませんよ。どうぞ、お好きになさってください」

 言葉に棘は無い。むしろその逆、本当に好きな様にしてくれればそれで構わないと言う風な清々しさがあった。実際、表情は笑顔でどこにも苛立ちを見せている要素が無い。少しでも負の反応を期待していたセッテにとっては拍子抜けもいいところだった。

 「構わない……? 貴女はワタシにグラシアの跡目でも継がせるつもりではなかったのですか?」

 「もちろん、最初はそれも考えていました。と言うよりも、そちらがセッテさんを引き受ける主な理由でした。結婚もせず、子を成さなかった私がグラシアの家を続けさせるには、どこかから養子を迎える必要がありました。ですが、あなた自身がそれを望まないとはっきり口にしてくださった以上、もう関わりの無い事でしょう」

 「そんな簡単に諦めのつくものなのですか?」

 「元々、私は身元引受人……つまりは一時的な保護者でしかありません。管理局法と照らし合わせた成人年齢に達すれば、そこから先の事に関しての拘束力は一切なくなります。ですから、最初からあなたを跡目に強制的に仕立て上げるのは無理があったということです」

 「最初からワタシをグラシアの者として扱う気はなかったと?」

 「いえいえ、私個人は期待していました。相談役のご老人方からは示し合わせた様に反対されましたが、若輩と言えども一応は当主……。引受人として名前を貸した後については本人の判断に任せると言う事で納得してもらいました。保護観察期間を過ぎた後、私の希望通りに名実共にグラシアの人間となるのも良いですし、名前だけを借りてあなた自身の望む様にするのも一つの選択です。どれを選んだ方が良いか悪いかは私が言うべき事柄ではないでしょう」

 「カリム・グラシア……貴女はワタシが思っていた以上に老獪で狡い人間だ。選ぶも何も、ワタシが真に欲している選択肢はその中にありません。貴女は何を思ってそんな回りくどい事をするのですか?」

 「純粋にあなたの事を想っての行為です」

 「ワタシの為……。本当にそうですか? 貴女はその言葉を都合の良い言い訳に使っていませんか。ワタシの為? 世迷言を。本当にワタシを想っての行為だと言うのなら、今すぐ海の上ではなく元の拘置所に戻してほしいものです」

 「セッテさんが本心から望んでいらっしゃるなら、そうする事もやぶさかではありません。ですけど……それだと矛盾する事が出てきますね」

 「矛盾?」

 「ええ」



 「人間ではなく“機械”のあなたが自分の境遇改善を要求するなんて……」



 ここで初めて自分の言動の陥穽を自覚したセッテは、その瞬間に全ての思考を停止した。彼女にもし人並みの感情と思考能力が備わっていたら、ここで慌ただしく言い直しや前言の撤回などを言い繕うだけの行動をしただろうが、そうするには彼女はあまりに機械的で、そして人間として未熟だった。何か言おうとして開いた口は陸の上に挙げられた魚みたいに開いたり閉じたりを繰り返し、しかもそれでいて無表情だから余計に不気味に見える。

 やがて最後まで論理的に言い返そうとして結局何の言葉も見出せなかったのか、セッテは固く口を閉ざした。それは彼女自身が自分の言動の陥穽を認めた事に他ならない。妙に落ち着き払っているように見えるその姿も、今となっては張り子の虎でしかない。それでも平静を保っているのは単に弱みを見せまいとする意地なのか……。

 「……ワタシは、在るべきモノを在るべき場所に戻すべきだと言っているだけです。何の矛盾がありますか」

 「あなたが機械だと言うのなら、そもそも機械は自分の境遇に不満を言ったりはしません。前提からしておかしいとは思いませんでしたか?」

 「ですからそれは……」

 「そろそろ医務室です。お静かにしましょう」

 遂に反論さえままならず、悶々とした感情を抱えたままセッテとカリムは目的地である医務室の手前までやって来た。そして、その門前で待機する面々と出食わす。

 「あなたは……」

 「そのまま、どうか楽にしてください。今は半分私用で来ている身ですから」

 立ち上がって挨拶しようとする研究員らを制し、一行は医務室前までやって来た。最初は普段なら言葉を交わす事さえ無い少将と言う立場に居る者と出会った事に面食らっていた職員らだが、後ろに居るセッテを見た事で全く別の緊張を覚える事となる。

 それを察したカリムはマリエルに事情を説明した。

 「そうですか。でしたら、先に来られている方が居ます」

 「先客?」

 「あぁ、待ってください!」

 顔を覗かせようとするカリムとセッテを押し留める。

 「中には無理を言って同室させてしまった患者さんも居ます。そんな格好で入ろうものならベッドの上の彼らにストレスを与えてしまいます」

 片や聖王教会の理事兼将官、片や半月前の都市決戦にて混乱を招いた共犯者……これで緊張も警戒もしない図太い神経の持ち主が居るとすれば、それこそ機動六課の面々ぐらいだろう。それを見越していたマリエルは自分の白衣を取るとセッテに着る様に促した。

 「せめて軽い変装ぐらいしておいたほうが無難です。私のメガネもお貸ししますから」

 「はぁ……。そんな子供騙しの様な小細工で大丈夫なのでしょうか」

 「人間、自分の身の回りに有名人が居るとは考えないものです。それが良い意味でも悪い意味でも……。はい、これでどこにでも居る研究職員の完成です」

 「まぁ! よく似合ってますよセッテさん」

 白衣を羽織り眼鏡を掛けさせ、適当に長髪を結ったその姿は本当に研究室の職員にしか見えない。手首の錠も余った袖を広げる事で隠し、メガネ越しの視線がよりリアリティを増している。

 「お付きの方もせめてデバイスは待機させてください。お仕事でしょうけど、ここは患者の空間です」

 「分かりました」

 「じゃあ私も……」

 「言い難いんですけど、グラシア少将は遠慮した方が……。中にいる人達にプレッシャーを与えかねません」

 「わ、分かりました……」

 図らずもマリエルの一言はセッテからカリムを引き離す一助となった。そのことに感謝しつつ、セッテは医務室へと足を踏み入れる。

 入室と同時にベッドの上の患者や傍のナースから視線を受けるが、単に入室者の顔を見ただけで終わり、彼女の事を例の事件の共犯だと気付く者は居なかった。後ろに引き連れた隊員らも秘書や助手の類と思ってくれている様だ。

 室の奥に行くと、問題のベッドが見えてくる。簡素なカーテンで仕切られたその奥には折り畳んだ担架と三人の先客があり、セッテがカーテンを開けると同時に双方の視線が合う。

 「セッテ……」

 「やはり貴女でしたか。そんな気がしていました」

 そもそも、今の状況でノーヴェの見舞いに来る人間などたかが知れている。養父と義姉が仕事で顔を出せないのを考えれば、現状彼女の元に訪れるのは一人しか有り得ない。

 「お久しぶりです、ウーノ」

 「そうね……。ほんの一ヶ月足らずのはずなのに、何年も会っていない様な気がしていた……」

 「錯覚です。ワタシとしては貴女がここに居るのが半ば驚きです」

 「意外?」

 「意外と言えば意外……道理と言えば道理である気もします」

 立て掛けられていたパイプ椅子を取り、そこに腰掛ける。度の合わないメガネを外し、改めてノーヴェを見やった。

 目は開いている。だが向こうが視覚情報として認識しているかは分からない。こちらが現れた時にも視線が動かなかったのを見る限り、どうやら認識はしていないようだ。時折瞬きをするのも、意識してやっていると言うよりは単なる反射でしかない。

 「……なんと惨めな」

 「それは憐れんでいるの? それとも蔑み?」

 「両方です。短期間とは言え、かつては同属として肩を並べた者がここまで堕ちるとは……。所詮は俗物だったと言うことですか」

 「あなたはそうじゃないと言い切れるのかしら」

 「無論、ワタシもまた線引きされた中間地点にしか存在できていない曖昧な存在です。だからこそ、ワタシは自身の立ち位置を明確にしておかなければいけなかったのです」

 “人間”にしては硬すぎる。“機械”にしては弱すぎる。混ざり合ってしまった以上、そこから脱却するには水を煮詰めて蒸溜するかの如く不純物となるモノを取り除かねばならない。それがセッテの持論だ。別に理解しろとも言わないし、してほしくもない。ただ邪魔をしないでほしいだけだと言うのに何故雁首揃えてまで口出しするのか理解に苦しむ。

 「私達は所詮はそういうモノに過ぎない。そんな事はとっくに分かっていたはず」

 「では、造った存在が完璧ではなかったのでしょう。生み出す側が完全ではないから、被造物の程度も知れると言うものです」

 「ドクターを侮辱するのかしら?」

 姉妹の間に重苦しい沈黙が横たわる。視線も交わさずに舌戦を交わす二人の背中は、警護の隊員らからはどの様に見えただろうか。だが、危惧した様な事態には発展せず、長いようで短い沈黙を経てからは再び波風の立たない状態となった。

 ふと、セッテの意識が再びノーヴェに向き直る。今となってはただ“生きている”だけになった彼女の体を、今一度よく観察する。

 (呼吸をしている……。心臓も動いている……。瞳孔も反応するらしい……。ただ、脳波が異常なだけ。物理的に破壊された訳でもないと言うのに、何故昏睡してしまうのでしょう?)

 彼女はそこまで柔だったか? 否、彼女の肉体増強レベルは十二人の中で三番目に高かった。高圧電流にも高層の気圧差にも、多少の水圧にも耐え得るはずのその肉体があの程度の事で欠損し、機能を損なってしまう訳がない。だが、目の前の現実として彼女は確かにこれ以上ないくらいに衰弱している。時間の長短こそあったが、同じ効果を受けた自分はこうして平然としている。この差はいったい何だ……?

 そして、得心する。

 (ノーヴェは“遠かった”のでしょうね)

 要は単純な遠近の問題……同じ事をされながら片方はそれに耐えられず、もう片方は健在、となればこれはもうどちらがより彼に近しいかでしか尺度を測れない。血液型や臓器と同じで、きっとそれに近しいモノでなくては拒絶反応を示すのだろう。もしこんなぽっと出の仮説が正しいとすれば、彼女は……ノーヴェの体はそれこそ彼にとっては御眼鏡に適わない不適格な物だったと言う事になるだろう。

 そしてその結論に達した瞬間、セッテは得も言われぬ充足感を覚えた。

 彼女の中において『トレーゼ』と言う存在はもはや神格化されている。その発生の出自や過程はどうあれ、彼女にとって『トレーゼ』とは過去や現在、そして未来においても唯一無二であり、決して揺らぐことのない不動の象徴と化していた。これは正に宗教のはしり、何かを神格化しそれを崇拝する事で信者は自らに不足した心理的な隙間を埋めようとする。元来、「崇拝」と言う行為はこう言う事に他ならない。そして、自らが崇拝して止まない存在に近しい所に在ると自覚した時、彼らは充足と安心、そして優越感を覚える。今のセッテがまさにそれだった。

 これが通常の意味での宗教、つまり物質的に存在しない“神”を崇めているならまだ良い。実際には存在していないモノを崇拝していると言う現実感が、一部の狂信者を除いて信者に現実と空想の境界を設けているからだ。挫折する様な心の弱い瞬間は神に祈っても、平時においてはその熱も冷めて普通に過ごす。

 だが彼女の場合は崇拝の対象が現実の物質的な実体を伴って実在しているのだ。神や悪魔と違って寓意的でもなく、確かに知覚できる存在として実在している以上、信奉や崇拝の対象としては確実だ。だからより狂信者が生まれ易く、そして深みに嵌りやすい。確かな目標としてそこに存在しているのだから、崇拝の対象に近付いたかどうかを容易に判断でき、人はそこに達成の陶酔感を感じずにはいられなくなる。そして真の意味で崇拝の対象と同じレベルに到達したと自他共に認められた瞬間を、「求道を極める」と言う。言い換えるなら、究極の自己完結を極めると同義となる。

 そして、今のセッテはその状態に一歩近づいた。あの兄に近しい状態へと至ったと考え、そしてそれに見事なまでに陶酔する……これを自己完結と言わずして何と言うのか。だが、同時に何かに傾倒すると言う行為は人間特有の行為でもあり、自らを機械と断ずるセッテはこの時点で既に致命的な矛盾を抱えている。それに気付かないのは幸か不幸か、あるいは無意識に気付かない様にしているのか……。

 「セッテ……。これだけは覚えておいて」

 そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、ウーノが再び語り掛ける。さっき口論になりかけていた時の様な険悪な様子は無く、その表情はセッテも良く知る『姉』の顔だった。

 「あなたが自分の言う様に機械になれたとしても……脆弱だと忌む人間に成り下がったとしても…………私はあなたの姉よ。それだけは忘れないで」

 「……何を言うかと思えば……」

 まるで今生の別れみたいだ……そう言って切り捨てる事が出来なかった。

 どの様な結末であれ、この事件が終わればウーノは拘置所に戻り以前と同じ処遇を受ける。彼女の受けた処置は「無期懲役」、つまり命ある限り半永久的に獄から出ることは適わなくなる。時が過ぎれば自然と出所できるセッテとは違い、彼女はもう二度とは外に出られないのだ。生きて再び姉妹に会う事は難しいだろう。最後の顔合わせを不快なまま終わらせたくはないと言う思いがあってこんな事を言うのだろうが、セッテがそこまで思い当たったかどうかは分からない。だがその一言が彼女を自己陶酔の夢見心地から現実に引戻したのは確かだ。

 「……………………」

 だが現実に返ったセッテの心に、またも羨望と妬みに似た感情が去来する。どれほど言い繕っても、セッテはウーノの様に「敗者の矜持」たるモノを保持する事は出来ない。このまま他人の善意に飼い殺しにされながら残りの時間を過ごし、そして無為に死んで行く……それはどうしても耐え難い屈辱だった。

 だから彼女はノーヴェさえ羨望する。他人は卑しいと言うだろうが、彼女にとっては何も知らずに眠っていられるのなら是非ともそうしたかった。

 (ワタシにとってはもう、何もかもが煩わしい……)

 セッテにとって“今”と言う瞬間は何よりも、不快だった。










 ────不快だった。

 自分の中にある何か……己を己足らしめるそれが、音も立てずにドロドロと融け出す様な奇妙な感覚……。五感として訴えるものではないが、自分が大事に抱えていたはずの物が腕の間からボロボロとこぼれ落ちるその感覚は歯軋りをする程に不快極まりなかった。

 たがそれ以上に悔しいのは、融け出す自己をどうする事も出来ないまま、ただ流れ出して行くだけの己の無力だった。この腕にしっかりと抱き抱えているはずなのに、掻き集める間も無く零れ、そしてどこかへ消えて行く……。自分の知らないどこか遠くへ……。

 ────許せない。

 第二者、或いはそれ以外の第三者に対する怒りではない。その全ては自分自身の無力に対する憤りであり、決して他者や外界に向けられたものではない。だからこそ、発散される事のない苛立ちはやがて極限にまで上り詰め、風船の如く張り詰めた“彼女”の意識を暗闇の底から引き揚げる。

 しかし、意識が引っ張られる衝撃に極限まで張り詰めた感情の塊が反射を起こさない筈はなく、自意識と無意識の摩擦で熱を帯びたそれは火山のマグマの如く沸き立ち、やがて一斉に噴き上がる。

 ────覚醒。

 双眸が開く。微睡みの中の意識が固定され、融け出す様に感じていた錯覚が拭われる。だが今度は金縛りがその肉体を蝕む。動けない……何だこれはと必死にもがくが、とにかく動くことが出来ない。再び募る苛立ちは遂に摩擦熱を帯びて臨界に達していたそのエゴを爆発させるには充分過ぎる起爆剤だった。

 四肢に有らん限りの力が込められ、その体を打ち止めていた楔がそれに耐え切れず徐々に朽ちる。

 眠れる狂獣は今、再びその猛威を奮う。



[17818] ポインツ・アンド・ラインズ
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2012/09/15 04:00
 午後になりヴィヴィオら生徒は再び研究室の見学に戻っていた。主に医療系の技術の発展に貢献する施設を訪れた彼らは、午前の部と同じく職員の案内や解説を受けながら施設を見て回るシンプルな行程を行なっていた。

 だが流石に飽きてきたのか、ぞろぞろ歩く生徒の中には欠伸を隠さない者もボロボロ出てくる始末。引率の教師らも生徒が興味を失した事に対する焦りが見て取れた。元々急遽決まっただけに見学場所としては児童の興味を長時間保てるかどうか怪しかったが、今回はそれなりに長くもった方だろう。

 やがてそこも見終わった後、また次の場所へと移る。その時、天井のスピーカーから音楽と音声が流れる。

 『ただいまの時刻は、12時56分、12時56分でございます』

 時報だった。耳に心地よいBGMをバックに、機械的な女性の声で時刻が告げられる。それ自体は別にどうもしない、むしろ殆どいつも通りのことだ。

 しかし、何の変哲も無かった訳ではない。

 「あれ?」

 「どうしたのヴィヴィオちゃん?」

 「うん……。さっきの放送のBGM、いつもと違ってたなって……」

 昔から地上本部に足繁く通う事の多かったヴィヴィオだから知っている。さっき掛かった時報のバックBGMはこれまで彼女が聞いていた物とは違う音楽で、耳にした時にまっ先に違和感を覚えた。今までに放送のBGMが変わった事は数える程度だが確かにあった。だがそれは新年明けに新たな業務を行う時になって初めて行われる変更で、今はまだ時期が早いはずだった。

 そして、もう一つ……最大の違和感がある。

 局内の時報は受付業務の終了と全体の終業間際を除き一時間に一回、時間の変わり目にのみ放送される。さっきの時報はその四分前の時刻を告げていた。本来ならあんな中途半端な時間に時報を流すはずがない。

 そんな事を気にしていると、さっきまで案内役をしていた職員がいつの間にか一人だけになっていた。どこに行ったのかと周囲を見回すと、後ろに控える引率の教師の一人に何か耳打ちしているのが見えた。生徒に聞かれると何かまずいのか、その教師も他の生徒には知らせず教師陣だけで何か相談している。それに気付いているのはヴィヴィオを除けば近くに居た一部の生徒だけだった。

 (なに話してるんだろう?)

 流石にこの距離では何も聞き取れないが、教師らの表情がどこか固く見える。何かトラブルでもあったのかと聞き耳を立てようとするが……。

 「はい、皆さん。注目してくださーい。ここでサプライズがあります! みんなが持ってる予定表には無い第六研究室を、今回特別に見せてもらえる事になりました!」

 担任の女性教員が声を高らかにして告げ、一部の生徒から小さな歓声が上がった。さっき職員が耳打ちしていたのはこの事かと思ったが、だとすると今度は何故いきなり予定になかった場所を見れるようになったのかが疑問だ。まあ、「大人の事情」と言ってしまえばそれまでなのだが。

 結局ヴィヴィオ以外に疑問を抱く者もおらず、また彼女もそれを口にしなかった。ここまでなら別に何もなかった。ただ普通に予定変更があって、それに合わせてタイムスケジュールを調整するだけ……それだけでこの流れは収まるはずだった。



 だが、事態はそれだけに留まらなかった。



 「先生、さっき食堂に忘れ物を取りに行った子がまだ帰って来てません」

 忘れ物は誰にでもある事。たまたまタイミング悪く予定変更の場に居合わせなかっただけだが、普段ならここで教師が迎えに行くか、あるいは戻って来た時の為に待機すると言う選択肢があったのだが……

 「なんでそれを先に言わなかった!!」

 返ってきたのは怒声、それも言い出しっぺの女子生徒が思わず涙目になってしまうほどの剣幕で。その声に他の生徒も凍り付き、何事かと注視する。突き刺さる視線に居心地の悪さを感じてすぐに平静を装うが、その顔色は青いを通り越してもはや白かった。人の上に立つ教員がここまで取り乱すのは、それだけで充分に異常なことだ。何かが起きたのだと図らずも周囲に教える結果となった。

 「…………すみません、職員の方は生徒を連れて先に行ってください。我々は生徒の保護に向かいます」

 「危険です! 一般の方は指示があるまでこの区画を────」

 不安げな視線を向ける生徒を差し置いて声高に言い合う教師陣と職員ら。子供たちは知らない何かの事情を、口には出来ない何かを抱えたまま、それを伝える事さえせず不安だけを与える。淀んだ空気が蔓延して静かな混乱がざわざわと集団に広がり……

 「ちょっと見て来ます!!」

 それをせき止める者が現れた。

 淀んだ空気の流れを変える様に飛び出したヴィヴィオは軽いフットワークで列をすり抜け、あっという間もなく数メートル後ろにある最後尾を追い抜いた。突然の出来事に教師はおろか、傍にいた二人の友人さえ反応できないまま、彼女の俊足は食堂へと続く角を直角に曲がる。

 すぐ背後から追い掛ける教師や学級委員の声が聞こえるも、それを知らんと言わんばかりに振り切る彼女の足はものの十数秒で自分達が昼食を摂った食堂へ続く渡り廊下へと到達した。

 しかし……

 「うそ!?」

 驚愕に目を見開く。来る時には無かったはずの重厚な隔壁の様な仕切り……それが目的地へ続くはずの道を遮っていた。いつの間に降ろされたのかさえ分からないが、昼食の後にこっちに戻った後で現れたのは確かなようだ。問題は何の目的でそれが閉められたかと言うことだが、当然何らかの非常事態が発生したに他ならない。

 (だったらっ!)

 難しく考える必要は無い。非常事態という事はつまり──、

 「こっちの階段も使える!」

 普段は開かない非常口へ続く階段のドアも開く。少し遠回りになるが、各ブロックごとに必ず設けられているここを通って行けば必ず向こう側に行ける。そう確信したヴィヴィオは重たいドアを開け放ち、殺風景な階段を降り始めた。ドアを開けっ放しにしたのは後から来る教師を止めない為だ。自分はあくまで様子を見てくるのであって、行った先が危ない事態に発展していればすぐに戻るつもりだった。忘れ物を探しに行ったと言う女子生徒も知らない仲ではなく、できるだけ早くに安否を確認したいという気持ちが彼女の健在な両脚を動かしていた。

 健脚を最大限に振り絞って一階まで降りた後、自分達が入ってきた玄関口から少し距離を置いた別の非常口から進入し、全力疾走で階段を駆け下りたとは思わせないほどの速度で食堂のある階へと昇る。閉じた非常ドアを開け、隔壁の向こうへと通じた場所に出たヴィヴィオが見た物は……

 「誰も……いない?」

 無人。昼食を済ませた後に通った時はまだ職員らが行き来していたはずなのに、今目の前にある光景は誰も居ない無人状態だった。もうとっくに避難が終了したか、はたまた超常現象でも起きて忽然と消滅したか……どちらにしても、さっきの隔壁の事と言い絶対何かが起きたのは確かだろう。これは明らかに、異常だった。

 とにもかくにも、人っ子一人見当たらない。向かいの別棟の窓にも影は見えない。これでは本当に不思議現象でも起きたかと疑ってかかるだろうが、思考を現実に引き戻す一瞬があった。

 ────ガランッ!

 「!?」

 物音、それもかなり大きな音だ。鉄パイプやドラム缶の様に中が中空になった金属の容器を叩く音……それに似た騒音が一瞬、よりにもよって食堂の方から聞こえて来た。

 程なくしてそこへ辿り着くも、やはり人の姿は影も見えない。食事をしている者はともかく、厨房で働く者の姿も無い。音はおそらくこの奥から聞こえてきたのだろうと覗いて見れば……。

 「見つけた!」

 厨房の少し奥へ行った所にうずくまる影があり、それは間違いなく忘れ物を取りにここまで来てしまったクラスメイトだった。傍には寸胴の様な大鍋が転がり、さっきの物音はこれが落下したものだと察しがついた。

 「タ、タカマチさん……?」

 「大丈夫? 立てますか?」

 「ありがと……」

 「何があったの?」

 「よくわからない……。ハンカチを取りに戻って来た時には、もう騒がしくて……。『ぼうどう』っていうのかな? 喧嘩とかには見えなかった……あんなの、喧嘩でもないよ」

 辛うじて落ち着きを見せてこそいるものの、クラスメイトの彼女は心底恐ろしいモノを見たという様に震えていた。

 「それで、どうなったの?」

 「う、うん……」

 ハンカチを取りに戻った彼女と同時に一人の不審者が食堂に乱入し、その人物を追って来た者を次々に殴り飛ばしたと言う。現実では到底有り得ない光景を目にした衝撃は凄まじく、女性局員や食堂の者は一目散に現場を離散、腕に覚えのある男性局員の一部だけが取り押さえようと奮闘するも、結局その猛威の前に尽く薙ぎ倒されたらしい。

 何がなんだか分からないままに事態は深刻化し、遂には報告を受けた警備員やら手隙の地上部隊の隊員までもが急行し、この一帯の区画を隔壁で切り離したという顛末だ。その時に一緒に避難しておけば良かったのに、腰が抜けていたのかずっと厨房の奥で縮こまっていたらしい。ここまで静かになったのはついさっきの事で、彼女も外に出る機会を窺っていたようだ。

 「もうすぐ先生も来るはずだから、早く行こっ!」

 手を引いて立たせ、一緒に元来た道を戻り始める。非常階段前までやって来ると、中から教師らの声が聞こえる。どうやら向こうも上手く同じルートを辿って来てくれたのか、無事にここから脱出できそうだった。

 「でも、びっくりした。女の人があんな風に男の隊員さんを投げ飛ばせるなんて……」

 「その人って女の人だったの?」

 「うん。少し背が低くて、病院の人が着るような真っ白い服を着てるの。叫び声とかすごくって、赤い髪も短かったから最初は男の人だと思ってた」

 「赤い……髪?」

 ヴィヴィオの頭に何かが引っ掛かる。赤い短髪に怪力、そして病人の服装……これは偶然なのかそれとも必然か、それらの条件に当てはまり、かつこの地上本部にいるであろう人物に彼女は心当たりがあった。嫌な予感がする。また、自分が拉致された時と同じような事が起こるのではないかと、不安に思えてしかたがない。

 だが、不安に思う心があるのと同時に、自分の知る人間が自分の知らない所で良からぬ事態に陥っていると考えると、居ても立ってもいられない焦りもあった。もしかしたら、という思い当たりが彼女の中身を黒く塗り潰していく。

 「ごめん! 先に行ってて! わたしまだやらなきゃいけない事があるから!」

 「えぇ!? タカマチさーん!!」

 考えるより先に行動できるのは母譲りの美徳か悪癖か、飛び出したヴィヴィオを追えるほどの脚力がクラスメイトにあるはずもなく、その背中はあっと言う間に廊下の先の角に消えていった。その後に入れ違いで担任や引率の教師が来た時には、もう足音さえ聞こえなくなっていた。










 事の始まりを詳細にするには、視点を十数分前の医務室にまで遡る必要がある。ヴィヴィオと別れた後、自分達だけでノーヴェの様子見に赴いたセッテとカリムは少し長めの面会の後、ヘリがこちらに向かっているという連絡を受けた。

 「そろそろお時間です」

 「そうですか」

 連絡を受けた背後の隊員から諭され、席を立つ。掛けていた眼鏡を外し、留めていた髪も開放する。ここを離れる以上、もう隠し立てする必要も無い。白衣すら脱ぎ取ったその姿に同室していた一部の患者の視線の色が変わる。だが騒ぎ立てられる前に医務室の外に出た為、彼らにとっての真相はうやむやになった。

 「お待たせしました。借りていた物はお返しします。それでは行きましょうか」

 「待ってくださいセッテさん。ノーヴェさんの様子はどうでしたか?」

 「どうもしません。聞いていた通りでした。目を開けていたのは意外でしたが」

 「もう起きていらっしゃるのかしら?」

 「いいえ、外界には何の反応も返さないそうです。植物状態とか言うそうです」

 あれはもう二度と正気に戻れないだろう……それがセッテの一目見た感想だった。さっき見た時にそれとなく確認したが、向こうの病棟で暴れたのが嘘に思える程に静かに、いや、衰弱しているのが目に見えて理解できた。本当に辛うじて生きていると言った感じにも思えた。そんなので暴走するだけの余力があるのは流石は戦闘機人というべきか。それでも、仮にこの先何らかの反応を示すとしても、それは今まで通りの常人のものではないだろう。

 だがやはり、それを悲しんだりするような心は持ち合わせてはいない。元より自分と関わりが薄いだけに実物を目にしても、「ああそうか」程度の認識しかない。だから、この先何らかのきっかけで彼女がノーヴェの事を思い出そうとも、その時一瞬の出来事に留まるだろう。

 「さあ行きましょうか。長居をする必要はありません」

 催促する様に歩き出すセッテ。その周りを来た時と同じように隊員が囲む様に追随し、隣をカリムが歩く。

 「向こうに行っても、困った事があれば遠慮なく言ってください。出来うる限りの事はします」

 「結構です」

 望みがあるならば、このまま何事もないまま時間が過ぎてくれればもうそれで良かった。厄介事に首を突っ込まされて辟易するのはうんざりだった。

 だがしかし、そんな彼女の願望は数秒後に木端微塵に破壊されるのだった。



 ────ガシャン。



 自分達の背後、たった今後にしてきたばかりの医務室から何か騒音が響いた。直後、ガラスが割れる音と人々が騒ぎ立てる叫び声が轟いた。

 「何事ですか!?」

 即座に反応したカリムが隊員の一人を伴って医務室へと踵を返し、飛び出してきた人物を捕まえて問い質す。

 「お、奥で寝ていたはずの患者が……!」

 「まさかっ!」

 セッテの存在を忘れ去ったかの様にカリムは一目散に駆け出し、医務室のドアを開け放つ。そこには……

 「危険です! お下がりください!」

 「騎士カリム!?」

 突入した室内は鬼気迫る雰囲気だった。室内には既にさっきまで療養していた患者らの姿は無く、ウーノとその警護二人を除けば室内に居るのはもう一人……。

 「────────」

 「ノーヴェ……さん?」

 さっき面会できなかったカリムにとってはこれが初めての顔合わせとなる。だが、その体はベッドの上の拘束を全て引きちぎり、幽鬼の如くおどろおどろしい気配を醸し出しながら立ち塞がっていた。セッテの思った通り、その目はもう正気の色をしていない。

 「さっきまで意識が無かったはずでは?」

 「急に暴れ出して、拘束を破壊しました。アテンザ技術主任らには他のクランケの避難誘導をお願いしています」

 「ここは危険です。少将も避難を……!」

 「いいえ、まだやるべき事があります。守衛部に連絡してこの付近一帯の隔壁を閉鎖、局員の方々にも同様に避難してもらいましょう。すぐに通信を! 多少の手続きはすっ飛ばして構いません、途中発生する責任は私が負います」

 「りょ、了解!」

 カリムの指示で隊員の一人が通信を入れる。幸いにもノーヴェの方は肩をゆらゆら揺らすだけで明確な攻撃意思を有していないが、何かのきっかけで再び暴走する事も有りうる。であれば、少しでも安全な今の内に行動しておくに越した事はない。カリムの判断は的確だった。

 「セッテさん。有事に備えて協力してください」

 そして使える物は何でも使う。今の状態のノーヴェを取り押さえられるのはセッテしか有り得ない。その為に助力を要請したが……。

 「お断りします。ワタシは局員ではないので命令は聞けません」

 はっきりと出鼻を挫いた。だがそこは指揮手腕の見せ所、すぐに言葉の真意を汲み取ると別の人物に助力を要請した。

 「ウーノさん、あなたからお願いできませんか?」

 管理局員でなくとも今の彼女はナンバーズ、ならその上位者からの命令なら聞いてくれるはずだった。そしてウーノの方もそれを汲み取りセッテに命令する。

 「No.7『セッテ』。直ちに行動を開始せよ」

 「了解」

 手のひら返しとは正にこの事だろうが今はそんな事はどうでもいい。動いてくれさえすればそれで万事良しなのだから。

 かくして、正気を失したノーヴェの前にセッテが立ち塞がる。その傍らに補助としてウーノも立つが、その脇には警護の隊員二人が常時付いている。クロノに厳命された様に彼女に身に危険が降り掛かる事があれば即座に行動するつもりでいた。事態は二対一の窮まった状況……どちらかが何らかのアクションを起こせば次の瞬間にはもう片方が動く、そんな構図が完成していた。

 (もっとも、後手に動いた時には時既に遅し、ということも考えられますが……)

 実際に暴走の現場に立ち会っていないセッテとウーノはあくまでイメージでしかノーヴェの凶暴性を推し量れない。唯一その様子を目撃しているのはマリエルのみだが、彼女は患者の避難誘導に出ていてここには居ない。百聞は一見に如かずとは言うものの、彼女らの場合は聞き及んでさえいない。狼の敏捷さも、獅子の爪の鋭さも、熊の力強さも、聞いているのと何も知らない想像とでは大きな開きがある。そう言った意味でセッテとウーノは現在進行形で危険に身を晒していた。

 緊迫した時間がどれだけ経過したか数えるのを止めた時、天井のスピーカーから場違いな音楽が流れる。

 『ただいまの時刻は、12時56分、12時56分でございます』

 それは時報、それも一時間ごとに流される決まったものではなく、中途半端な時刻な上にそれまで使われていたBGMとは違う音楽が微妙な違和感を醸し出していた。

 彼女らが知る由もないが、実はこれは緊急放送だ。デパートなどでは急な雨や夕立などで客の傘が入用になる時、迅速にビニール傘を販売できるように予め決められたBGMを流す事で店員に雨が降っている事を知らせる。古典的だがそれと同じシステムをこの地上本部でも採用しているのだ。これにより局員は事態の急変を察知でき、無関係の人間にも無用な混乱を与えずに済むと言う寸法だった。

 だがしかし──、

 「────────ッ!!」

 それが引き金となって起こる災厄もあるのだと、この時はその瞬間まで知りもしなかった。

 「ウーノ!!」

 「────ガァッ!!」

 即座に反応したセッテが背中でウーノを突き飛ばし、無言で突進を繰り出してきたノーヴェをその両手で押さえ付ける。互いの手が掴み合った瞬間、その突貫力にセッテの足元の床が軋みを上げる。一体どれだけの脳内物質が滲み出ていればこれだけの膂力が出るのか解明してみたかったが、事態は一刻を争い、辛うじて保っている均衡を頼りにセッテはカリムに目をやった。

 「隔壁は?」

 「今作動したそうです!」

 「出来るだけ早急にお願いします。地力ではこちらが勝っているはずですが……理性を失うとここまで……」

 狂気に身を堕とせばここまで強くなれるものかと感心するが、虚ろな瞳で迫り万力の如き力を発揮するその姿は若干ホラーじみている。セッテ以上の無表情で迫るその目は狂気の色が渦巻いていた。だがバカ正直に真正面から来てくれたおかげでその最大の凶器である両腕を封じる事も出来た。それだけは僥倖と言えただろう。

 (だがこれでは拮抗状態。少しの綻びでこの天秤、傾きますよ)

 地力で上回るはずのセッテが、それを下回るはずのノーヴェとせめぎ合っていると言うのは本来有り得ない構図なのだ。戦闘機人は科学の産物、科学の数式と理論によって形作られている以上、互いの力の下限と上限は決まっている。肉体増強度の高い者に低い者が力勝負で打ち勝つ事は不可能なはずなのだ。しかも、接触した瞬間にノーヴェは僅かだがセッテの体を揺らした。これは一瞬の出来事とはいえノーヴェが彼女の力を上回った事に他ならない。つまり、今度もその“一瞬”が訪れれば彼女がノーヴェを御する確率はぐんと下がってしまうのだ。

 だから用心しなければならない……そう思っていた矢先だった。

 「グゥアッ!!」

 「な、に……!?」

 膝を折り曲げて屈伸したその瞬間、ノーヴェの体躯が宙に跳んだ。ジルバダンスの如くセッテの目線の上に飛び上がると、腰の重心を作用点にテコの原理を応用した運動現象を伴い、互いの頭が上下に位置する形となる。掴んでいた腕の関節は自然と無理な形に屈折し、腕を捉えていた五指の力が緩む。当然そうなれば、後は凶獣が軛を逃れるだけになる。

 「逃げてください、ウーノ!」

 放たれた凶獣がすぐ近くにいたウーノに目を着けた。

 盲点だ。考えもしなかった。力任せに迫ってくるしか能のない狂人かと思えば、その実あちらの方が一枚上手だった。予想外の事態に傍で静観していた者ですら度肝を抜かれ、ウーノを警護していた隊員らでさえ反応が一瞬遅れてしまうほどだった。

 だがそこは要人の身辺警護を任される腕の持ち主達、出遅れたのならその分速く動けば良いと言わんばかりの俊足を発揮し、足腰などの間接を狙う。生身の人間と違って間接を外せない機人にとってそこを極められれば身動きが取れなくなる急所。そうなれば後は二人の隊員が踏ん張れば時間が解決してくれる。それでこの物捕りは終わるはずだった……。



 ────相手が、狂えながらも冷血な存在でなかったなら。



 「ッ!!」

 猛進していたノーヴェが急停止し、その右手が大きく振り上げられる。強大な破壊力を発揮するであろうそれを前に、隊員は即座に回避行動を取る準備をする。当たれば致死となる一発も大振りなら充分に避けられるものだった。

 だがそれは彼らを狙ったものではなかった。

 「ギリャッ!!」

 攻撃は拳ではなく手刀による突き、それも隊員のどちらでもなく足元の床を狙っての一閃を繰り出した。ヌカに釘ならぬ手刀一閃、戦闘機人の全力を乗せた一撃はその爪先を容易く床を貫通し、その基礎ごと床を引き剥がす。物理的に乖離したそれを投擲し、反応に遅れた一人に直撃する。

 「ぐあ!?」

 コンクリートを含む塊の直撃を受けた片方は倒れ、粉々に砕け散った破片が天井の蛍光灯を壊す。残った隊員も降り注ぐガラス片に気勢を削がれて遅れを取り、その隙にノーヴェがウーノ目掛けて疾走する。

 「ウーノッ!」

 すぐにセッテも跡を追う。だが速度でもあちらが紙一重なのか、たった数十センチの距離がどうしても届かない。対するウーノはノーヴェやセッテと比較して非力が過ぎる。もしさっきの二人の様に組み合おうものならその体は一瞬にして組み伏せられてしまうだろう。無論、それだけで済むならまだ良い方だ、下手すれば勢い余って破壊されかねない。そうなれば……

 (そんな事は許されない!)

 セッテ自身にとってはウーノの安否に微塵も心配する心算はない。だが彼女はあのトレーゼが真のナンバーズ足ると認めた数少ない存在。それをこんな所で失ったとなれば彼の失望を招きかねない。それだけは何としても避けたかったのだ。彼の失望を買ってしまう事だけは、今の彼女にとっての唯一の懸念要素だった。

 「離れてください!!」

 ウーノに警告を発した直後ノーヴェの背中に飛び掛る。衝突と同時に前のめりに倒れた両者はそのまま掴み合いの格闘を演じ始めた。

 「グゥウゥゥ!!」

 「く! なんと醜悪な!」

 それしか言えない。焦点の合わない目を向け、力任せに押し切り、唾液を撒き散らしながら唸るその姿に吐き気すら覚えるほどだった。抵抗して転げ回りながらこちらの足を蹴り上げる様は本当に狂気を感じ、刹那でも気圧されればそれが最後、圧倒するつもりでいるのだ。

 「早く! 麻酔を!」

 中枢神経に直接作用する強力な薬物を打ち込めば如何にこの肉体が強靭と言えども麻痺せざるを得ない。恐らくここに運ばれる前にもそうやって沈静化していたはずなのだが……。

 「無いんですか!!」

 「そ、それが、予備の薬品と注射器はアテンザ主任が持ち歩いたままで……!」

 「無いんですね……」

 せめて誰かに渡してから場を離れて欲しかったが、この状況下でそこまでの冷静さを保てと言うのも無理な注文か……。となれば後は気管を締め上げての窒息失神を狙うしかない。だが腕一本を押さえるのにこちらも同じ数を当てているこの状態で、それは出来るはずもない。だがこのままでは取り押さえておくのも難しい。

 「フゥゥゥ! フゥゥゥーッ!!」

 暴れるノーヴェの息がますます荒くなる。その視線を見ると、何かを窺うようにセッテを見返していた。この狂える凶獣は考えなしに見えて意外としたたかだ……。さっきの床を剥がしての攻撃も、理性を捨てた野獣には考えも着かないはずの挙動。それを即座に実行に移してしまえる辺り、この虚ろな目の奥には余計な理性が残っている可能性が高い。

 その証拠に……。

 「────ッ!!」

 「っが!!?」

 互いの顔が遠ざかった次の瞬間、ノーヴェがセッテの額に頭突きをかました。薄い皮膚を通して頭蓋に鈍痛を与えられたセッテは悶絶するが、今度はその手を離さない。するとそれに苛立ったのかノーヴェの方も何度も頭を打ちつけて脱出を試みる。

 「このっ、大人しくしろ!」

 隊員がすぐさまノーヴェの頭を押さえ付ける。首の力だけで抵抗を行うその力はやはり凄まじく、押さえ付ける為に程よい箇所を求めて手を探るが……

 「うわぁああああっ!!!」

 絶叫と共にノーヴェとセッテの顔に赤い塗料が付着する。生臭く鉄の匂いを漂わせるそれは他でもない取り押さえに掛かった隊員の鮮血、顔を押さえ付けていた右手をノーヴェの顎が噛み砕いた事で吹き出たものだった。人間の顎の力は全力で2、30kgもの圧力を発生させる。そんな物に噛まれれば当然肉は裂けてしまい、この様に噛み千切られてしまうのも道理だ。

 そんな衝撃映像を見せられた程度でセッテは怯まない。相手もそれを承知していたのか、次に取った行動はものの見事にその鉄面皮を崩す事に成功した。

 「ブッ!!!」

 ノーヴェがその口から何かを吹き出す。唾液が混ざった液状のそれはセッテの視界を潰し、同時に耐え難い不快感を与えた。生臭いそれは鼻の頭にも付着し、嗅覚神経を支配する。その隙を待っていたと言わんばかりにノーヴェが最後の頭突きを当て、遂にセッテの拘束を逃れてしまった。

 「待ちなさい!」

 ウーノとの接触は難しいと判断したのか、ノーヴェはそのまま医務室の外へと脱出し、様子を窺っていたカリムさえ突き飛ばす勢いで廊下を駆け抜けていった。汚れを拭って跡を追うも姿は見えない。

 「……少将、今すぐ本部に駐留している行動可能な部隊を全て投入することをお勧めします。今のノーヴェは何を仕出かすか分からない。大事になる前に解決を図るべきです」

 「おい待て! 現場の判断はこちらで行う。それを何の権限があって……」

 「これは進言ではありません。民間人からの提案だと思ってください。無論、実行するしないはそちらの判断に任せます」

 犯罪者から諭されたとあってはプライドが反発するだろうが、たまたま現場に居合わせた民間人からの提案という事にしておけば面目は立つ。ここには曲りなりにも将官もいる、非常時だが部隊のいくつかを動かす権限は持っているだろう。これで動かないなら後は好きにすればいい。

 同時に、隊員の通信に他の区画からの報告が入る。

 『対象を発見! 位置情報を送信する』

 「食堂付近! 途中の隔壁はどうなっている!?」

 『誤作動で完全に閉鎖できていなかった模様です。その隙間からこちらに侵入したとしか……』

 「こんな時に……!」

 送られた映像には途中で動作を止めた隔壁が移される。その仕切りはあと数十センチという所で停止しており、人ひとりが通るには充分な隙間があった。

 「すぐに食堂の人間を避難させろ。場合によっては待機している部隊にも助力を要請することを許可する!」

 『了解!』

 程なくしてこの一帯は完全に閉鎖されるだろう。そこからは時間の問題になるはずだ。それを察したのか、セッテは息を整えるために地べたに座り込んだ。力があり、尚且つ頭も回る相手との戦闘はそれだけで一苦労だ。後のことは局の正規部隊に任せるに限る。

 「なお、無傷での確保が困難だと判断された場合は物理破壊設定での実力行使も視野に入れている」

 「ちょっと待ってください……。物理破壊とは、デバイスの事ですよね? そんな事をすればノーヴェは、あの子がどうなるか……!」

 「お気持ちは分かりますが、そこの彼女でも止めきれなかった事実を認識してください。早急に事態を収束させるにはこれしかないのです」

 「ああ、そんな……!」

 「いいではないですか、ウーノ」

 「セッテ!?」

 ウーノの混乱とは対照的にセッテはやはり冷静だった。退屈げに背伸びをして肩や首を鳴らし、自分とは関わりないと言わんばかりに、いや、もう実際関わりが無くなった事ですっかり落ち着きを見せていた。

 「正規の方々が動くのならワタシや貴女の出る幕ではありません。その結果がどういった物になろうと良いではないですか」

 「ノーヴェなのよ? 私達の妹……」

 「ですから、それが何だと言うのです」

 何度も交わされるやり取りにうんざりしたのか、セッテが眉をひそめる。言っても分からないのか……そう言いたげだ。

 「戦闘機人は常人よりも身体的に遥かに優れています。多少の損傷を負ったところで今後の活動に支障があるわけでもなし、貴女ともあろう方が何をそこまで取り乱すのか理解に苦しみます」

 「そういうことを言っているんじゃないの。あの子は……あんな目にあって、まだ……」

 「あのゼロ・セカンドでさえ四肢を切断されても生存しています。それを考慮すれば最悪それだけの損傷でも生き残る確率は高いと……」

 「……もういいわ。あなたとは話にならない」

 どこまでも平行線だと悟ったウーノはセッテとの対話を諦め、歩き出す。その方向はノーヴェが去ったと報告のあった場所に続いていた。

 「どちらへ行く気ですか」

 その前にカリムが進み出る。その言葉は質問ではなく詰問、「行ってどうするのか」と聞いているのだ。その意図を察したウーノもまた毅然と言い返す。

 「あの子の元へ向かいます」

 「それはなりません。はっきりと申しますが、あなたでは彼女を止める手立ては……」

 「騎士カリムもご覧になったはずです。ただの狂った人間が、普通あそこまで理知的な行動を見せますか? あれは感情や行動のコントロールが取れていないだけです。こちらが根気良く接触すれば必ず……!」

 「例えウーノさんの言うことが正しくても、危険を伴う以上は前に出す事は許可できません」

 「ですが!」

 あくまで理性的なカリムに対し、ウーノはらしくもない感情論による言葉が目立つ。そんなやり取りを傍で見ているのにも飽きたのか、セッテは何もすることが無いので再び座り込んだ。人間、自分と関わりの無い所で必死になっている者を見ると無性に応援したくなるか、あるいは馬鹿じゃないだろうかと呆れる者に分かれる。セッテは見事に後者だった。彼女にとってノーヴェの安否など正直どうでもいいし、目の前で議論を交わしているウーノとカリムの姿は哀れみや滑稽を通り越し、時間の浪費をしている事実に憤りにも似た苛立ちを覚えるだけだった。

 どの道ノーヴェを止める事が目的ならば、その過程なんかどうでもいいはずだ。終わり良ければ何とやら……その程度の事で何をいちいち手間取っているのか。

 『報告。対象は食堂に侵入後、確保を試みた隊員を突破して再度逃走を開始。現在の位置は……』

 通信に表示されたマップに逃走中のノーヴェと思しき光点が現れる。様々な部署や区画からの道が集まる食堂から逆流し、今はこことは違う別の通路を逃亡しているようだ。

 (予想通りに速いですね。しかしその先には隔壁があります。逃避行もそこまででしょう)

 と、安心して早くも事態の収束を予見する。

 しかし、すぐに重大な事に思い当たる。

 「失礼。地上本部の……この辺の区画についてはどうなっているでしょうか?」

 セッテが指差したのは本部の中央の近く、ここから少し距離を置いたエリアを通る通路。ノーヴェの位置からも離れているが、このまま彼女が道を変えずに逃走を続ければいずれはこの付近に到達するだろう。

 「人員に不足がなければ今すぐこのエリアに配置した方がよろしいでしょう」

 「問題ない。さっきのは誤作動を起こしたが他が全部そうとは……」

 「忘れましたか? この一帯は件の都市戦で壊滅的な被害を被ったはずです。外側からの衝撃で建物の構造が歪み、内部での戦闘で基礎までメチャクチャ……」

 そう、そのエリアは11月の都市戦において“13番目”の侵入を許してしまい、その内部を壊滅状態にするまでの戦闘が繰り広げられた場所だ。今でも修繕工事が行われている真っ最中だが街の復興に力を注いでいる今、費用が回らず殆ど手付かずの状態に近い。当然、通路の隔壁も窓のシャッターも降りない上、壁に大穴が開いているために外に出られる可能性も高い。

 つまり……

 「このまま行けばノーヴェ・ナカジマは……!」

 事の深刻さを理解した隊員が最も近くに駐留している部隊に助力を要請する通信を飛ばす。対応に当たれるのがどれだけいるかは知らないが、これで少しはマシになるはずだった。

 『報告! 隣の区画にて見学中の女子生徒が一人、こちらの方に迷い込んだ。関係者からの通報を受け、現在警備員が捜索に当たっている』

 「可及的速やかに問題の解決に尽力してくれ。対象の確保は引き続きこちらで、女子生徒の保護はエリア担当の警備員に任せる」

 『了解』

 「ではグラシア少将、安全なルートを案内しますので……」

 「私は残ります」

 「ウーノさん!」

 頑としてノーヴェとの接触を望むウーノはカリムとは正反対の道を行こうとする。すぐさま隊員が取り押さえようと近寄るが……。

 「好きにやらせましょう」

 「何を言っている!」

 その手をセッテが止めた。連行の邪魔をされた事に隊員が抗議の視線を向けるが、対する彼女の表情は呆れを通り越し、もはや白け冷め切っていた。

 「本人が行きたいと言うのですから好きにさせましょう。上手くすればノーヴェの確保にも役立つかも知れません。囮程度ならば、あるいは」

 「君は自分が何を言っているか自覚はあるか? 彼女は君の……!」

 「姉ですが何か。もういいでしょう? ワタシには関わりない事です。いい加減に飽き飽きしました、このやりとりにも」

 「おかしいんじゃないか!?」

 「ワタシはワタシです。貴方の価値観を押し付けないでください。いい迷惑です」

 そう、迷惑だ。身内の情に流されて判断を誤るなど愚の骨頂であるし、何より自分たちは本当の意味で血が繋がっている訳でもない。それなのにウーノやチンクらの様に感傷じみた言動は見ていて白ける。何を馬鹿な事をやって悦に入っているのかとさえ思う。

 それを美徳と思うのなら勝手にしていればいい。ただそれをこちらにまで強要するな。

 「ヘリは来ているのでしょう? 安全な内にワタシは先に抜けさせてもらいます」

 「一人で行くつもりですか?」

 「手隙の隊員を捕まえて同行させます」

 「どうせ途中まで道は一緒です。そこで次の人に引き継いでもらいましょう」

 一時騒然となった医務室を離れながら、セッテは背後に続く道を見やる。腐っても自棄になってもあのウーノが無茶な行動を取る事は無いはずだ。それに非常時とは言え刑期を終えていない犯罪者を野放しにするとは思えない。きっと今頃は連絡を受けた隊員が保護しているか、同行を余儀なくされているだろう。最悪の事態になる事はないだろう。

 そして一行はノーヴェという一人の人間を先頭に、徐々に渦中へ引き摺られる。










 人類の歴史において最も進化を果たした部位は、脳以外で挙げるならそれは間違いなく手足だろう。四足歩行による移動を行っていた猿人から発達した人類は二足歩行を行う様になり、前足は物を掴む器用さを、後足は体重を支えながらそれを動かす膂力を獲得した。

 そして戦闘機人は人間の特徴たるそれらの性能を最大限に引き出せる事が出来る。人造の増強筋肉と頑強なフレームに裏打ちされた強靭な四肢は純粋な握力のみで鉄柱を折り曲げ手形を付け、その一歩から生み出される瞬発力はトップアスリートも顔負け名前負けの速度を弾き出す。地球には100mを9秒台で走破したスポーツ選手がいると言うが、人造の身である彼女らは少し力を出せばその三分の二のペースで走破する。もはやちょっとした自動二輪車と同じ速度だ。

 そんな速さで逃走を図るノーヴェに追い付けるはずもなく、食堂から離脱した彼女は文字通り影も踏ませない速度で通路を走る。既に避難が完了して人が居なくなった空間を疾走すると、その衝撃でシャッターの降りた窓ガラスがバリバリと音を立てる程だった。偶に壁際に設置された消火器を蹴り飛ばし、床に転がったそれは空き缶の如くひしゃげてしまっていた。

 やがてその行く先に通路を遮断する隔壁が見える。隔壁の厚さはそれほどではないが、その構造は現代工学の技術を注ぎ込んだ強靭な鉄壁のはずだった。

 それまで激走していたノーヴェが隔壁の数歩手前で失速する。スピードを落とした分のエネルギーはその全てが後ろに屈伸させた右脚へと集中する。強力なバネを得た脚は地面を蹴る反動で生じた反射エネルギーの全てを、今度は彼女の右拳へと推移させた。鉄塊の如く強く握られたその拳は右脚からの推進力を得て加速し、眼前の邪魔な仕切り目掛けて突き出される。そして……

 「────ッ!!!」

 大型トラックでも衝突したかと思うぐらいの音が鳴り響き、大気を震動させる。それまで天井から垂直に降りていた隔壁は真ん中辺りから陥没し、なんとかその一撃を受け止めていた。恐らく今のノーヴェが放てる全力での一撃、それを以ってしてもこの壁を打ち破る事は出来なかった。

 だがしかし、たった一撃で終わるはずがない。

 「ッ!! ッ!!!」

 走り込みによる勢いを付けた一撃には程遠いが、一発一発が既にダメージを負った隔壁を更にへこませていく。何の武器や道具も用いず文明の鉄壁を追い込むその様子は、見る者に原始的で圧倒される恐怖を覚えずにはいられなかった。

 「対象を発見。これより接触する」

 鉄壁に阻まれて足止めをされている間に後ろから追跡の隊員らが数名、デバイスを起動させた状態で接近する。狙うのは空間固定タイプのバインド、次に拳を振り上げた瞬間にそこを固定する。

 「3……2…………ロック!」

 振り上げた右拳の手首を魔力の環が封じる。振り上げたそれを降ろせないにも関わらず、その肩は拳を叩き付けようともがいている。

 「次、左。……ロック!」

 続いて左手が封じられる。両腕が捕らえられた事で遂に足で蹴り上げ始めるが、それすらもバインドが束縛する。

 「両手両足の捕縛を完了。これより確保する」

 四肢を繋ぎ止めた事でようやく動きを止め、すかさず接近する。理性を欠いた視線に一瞬怯むが、催眠を掛ける為にデバイスの先をその額に向ける。淡い燐光が先端に集中し、視神経を通じて鎮静作用を発揮するそれを網膜に焼き付けさせる。

 「…………────」

 効果はすぐに表れ、徐々に両目の目蓋が重くなってきたのか瞬きを繰り返す。このまま彼女を眠らせられればそれで御の字だが、あらゆる薬物が効かない鋼の脳細胞にはどこまで効果があるかは分からない。少しでも力を削いでいる今の内に完全確保に移るのがベストだろう。

 「タイミングを合わせろ。いくぞ」

 脱力したノーヴェの肢体を横たわらせ、今度はその全身を魔力で作った箱に収める。四方を魔力で覆った極小の結界はまるで野良猫を捕えるゲージか何かだが、その気密性は圧力差の激しい深海や宇宙空間にでも放り出さない限りは自壊しないはずだった。猛獣を運ぶ檻にしては手の込んだ代物だが、それだけしなければ安心して運べないだろう。

 一人が浮遊効果の魔法で箱を持ち上げ、一人がそれを牽引、そして最後の一人が箱の魔力を維持する三人掛かりでの運搬となった。役割を分担する事で個々人の負担を軽減し、より確実に身柄を運ぶ為の選択のはずだった。

 「────グ!」

 「こいつっ、意識が……!」

 催眠効果が薄れてきたのか、早くもノーヴェが抵抗の素振りを見せ始める。バインドで四肢を拘束し、その上から結界を張って隔離してある以上、そうそう簡単に突破できるはずはないと少々たかを括っていた隊員らの顔にも動揺の色が戻る。相変わらず手足は拘束されているにも関わらず、胴体を暴れ馬の如く跳ね回らせ、その反動で頭を何度も結界に打ち付ける。本来あらゆる物理衝撃を吸収する結界がビリビリと震動するその様子に、隊員は一旦それを地面に置いた。

 「結界を補強する。増員を要請してくれ。俺達三人で結界を維持する」

 一人で無理ならば多数で掛かるしか方法は無い。その選択自体に間違いは存在しないが、後先考えないただ圧倒的な力の前ではそんな物は通用しない事を、彼らは身を以て知らされる羽目になる。

 パリィ……。

 「そんなっ! 結界が!?」

 結界は内外問わず強力な衝撃を一点に与え続ける事で破壊は可能だ。だが魔法を使用しないただの頭突きがそこまでの力を発揮するなど本来有り得ず、こうして目の当たりにした今でも恐怖しか覚えなかった。額の皮が切れ、出血してなお自分の頭を唯一の武器として打ち付けるその様相は、既に理性の範疇に無い狂気の姿だった。

 だがその猛攻もやがては終息を見せる。強化ガラスよりもずっと固いはずのそれを一面丸ごとヒビ割れさせただけでも脅威だが、流石に疲れたのか息を荒くして活動を休止した。檻の向こう側で猛獣が唸っていても直接の脅威が無ければ怖いはずはなく、ここでやっと落ち着きを取り戻し────、



 「ガァァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」



 次の瞬間、肺一杯に吸い込んだ外気を轟きと共に吐き出し、その音波にありったけの魔力を乗せた衝撃波が隊員らを襲った。ひび割れていた結界は遂にその一撃で粉砕され、外界と彼女を隔てるものはこれで消滅した。残すは四肢のバインドのみだが、頼みの綱のそれでさえ今にも自壊してしまいそうなくらいボロボロになっていた。そして当然の如く軽い動作で手を振ると、それらもまたバラバラに砕け散った。

 「ま……待てっ!」

 他の二人が気を失っている中でたった一人でノーヴェを止めようと手を伸ばすが、自分の足首を掴むそれをまるで気にする事もせず引き摺りながら行進し、とうとう止める事も叶わないまま最初の位置まで戻してしまった。

 「ギギッ!! ギァッ!!!」

 どうしても先に行きたいのか、隔壁から離れる様子がない。彼女をその先に行かせる事に不安を覚えた隊員は警告も無しに魔力弾を射出する。大ケガするほどの威力も無いが直撃すれば衣服は焼け、皮膚に軽い火傷を負わせる事はできる。

 「くそ!」

 背中に何発か撃ち込み、その数だけ服に穴を開ける。繊維の焦げる臭いが漂い、穴の下から赤く焼けた皮膚が覗く。熱によって爛れる痛みに襲われているはずだが、ノーヴェは痛みなど知った事では無いと言わんばかりに拳を振って隔壁に叩き付けるばかりだ。もはや彼女を止めるのに物理的手段は無意味に等しい。それこそその方法で阻止しようとするなら殺すしかなくなるだろう。だが殺害許可は下りていない。

 (こんなものっ、どうやって止めればいいんだ!?)

 途方に暮れる隊員に救いの手が差し伸べられたのか、後方の通路から数人分の足音が聞こえてきた。さきほど通信した増援が今頃になって到着したのだ。今はただ彼らが来てくれた事に感謝だ。

 「状況は?」

 「見ての通りです。二人やられました」

 増員が駆け付けても気にせず隔壁を殴るノーヴェだが、さっきの倍の人数で迫られればどうだろうか。一発二発の魔力弾を受けた程度は我慢できても、それが一斉に十数発以上も襲い掛かればどうなるか。

 「タイミング合わせろ。一斉に仕掛けて動きを止める。多少の傷は致し方ない」

 自動照準のポインターが次々と向けられ彼女の背中を照らす。背中全体が赤く染まる程にポインターが集中するも、やはり当のノーヴェ本人は一瞥もしない。やがて己の背後から熱波が襲いかかるとも知らないのか……。

 「ファイアッ!!」

 魔力弾の一斉発射は通路全体を彩りながら突き進み、タイムラグ無しに目標に到達したかに見えた。言い方に確証が持てないのは着弾した瞬間に粉塵が舞い、視界を埋め尽くしたからだ。

 おかしい。

 着弾の衝撃でここまでの爆発を起こす程のエネルギーを込めた覚えは無い。まるで火薬でも発破させたかと思うくらいの衝撃に隊員達は爆煙が晴れるのを待たずに突撃するが……

 「なんという……!」

 そこにノーヴェの姿は無く。文字通り影も形も見当たらなかった。だがイリュージョンではない……その証拠に、トリックの種明かしは初めからされている。

 「……服の切れ端、状況的に見てノーヴェ・ナカジマの物と見て間違いないでしょう」

 「デバイスの残骸。これを誘爆させて発破代わりにしたと言うことか」

 隔壁には人一人が辛うじて通れる程の穴が開き、その断面には衣服の切れ端と思しき繊維が引っ掛かっていた。そして周囲には隔壁の一部とはまた違う多種多様な部品が散らばり、現場の隊員らにはそれらがデバイスを構築する物だと判別が付いた。

 魔導師のデバイスは言うなれば魔力のアンプ、増幅器。魔力を注ぎ込み、術式を起動する事で魔法を発動させる為の補助器だ。だが術式を構築しない内に魔力ばかりを注げば内部の貯蓄部分にエネルギーが集積し、やがては暴発する危険性もある。魔導資質の無いノーヴェでは注げる魔力にも限界があるが、そこへ先ほどの魔力弾が後押しとなり、隔壁に突き立てられたデバイスは誘爆を起こすと言う仕組みだろう。もっとも、それにより隔壁に穴が開くとは限らないし、結果的に開通したとは言え爆発の中心に居た彼女が無傷で済んだとは思えない。その証拠に服の切れ端にはまだ湿り気の残る血が付着していた。

 「この先の部隊は?」

 「既に展開しているとの報告を受けていますが、ここより先は都市決戦の際の修理がまだ滞っていて……」

 「隔壁は降りないか」

 今のはまんまと乗せられたが、ノーヴェの侵攻を唯一遅らせられる要素がさっきの隔壁の存在だった。それがこの先存在しない、或いは存在しても使い物にならないとなれば彼女を阻止するチャンスは二度と巡って来ないかも知れない。

 「…………こちらの方に迷い込んだと言う女子生徒はどうなっている?」

 「現在捜索中ですが、例の食堂付近で目撃されたのを最後に報告はありません」

 「そうか。引き続き、警備員らには捜索と保護を優先する様に言ってくれ」

 「ノーヴェ・ナカジマの方は?」

 「阻止できなかった以上、先の事は向こうの隊に任せる。増援は要請があれば向かわせる。それまでは入り込んだ対象を出さない様に要所を固めろ」

 「了解」

 隊長の命令により各エリアに散開している他の隊に一斉通信を送り始める。それによりエリアごとの新しい情報が入って来るが、やはり件の少女については何も入って来ない。

 (一体、どこへ行ったんだ……?)

 晴れない疑念に悶々としながらも、各エリアへの指揮を行う為に隔壁前を離れ別働隊との合流を目指した。










 そんな隊長の懸念とは裏腹に、ヴィヴィオの姿はすぐ近くのトイレにて身を隠している最中だった。

 「どうしよう……」

 エリアごと各部署の避難が完了した今、この付近一帯の人間は追跡隊を除けば彼女一人。とっさに身を隠した場所が場所なのか、未だに警備員らが捜しに来る様子も無い。

 ノーヴェの跡を追うつもりでここまで来て、実際隔壁を突破しようとするその現場に立ち会えたのは僥倖だった。だがそのすぐ後にあの様な状況になり、ノーヴェと接触するどころか自分も事の終始を見て度肝を抜かれた一人だった。

 「向こう側に行っちゃったから……どうにかして追いかけないと」

 自分に言い聞かせる様に呟くも、どうするかについてはもう目の前に答えが用意されている。他の道が閉ざされている以上、開通している隔壁の穴を通るのが唯一かつ短時間でノーヴェに辿り着くルートだが、隔壁の前には警備代わりに二名の隊員が駐留しており、すんなり通してくれそうな雰囲気ではない。穴の大きさそのものはノーヴェが通った程なのでヴィヴィオは余裕で通れるだろうが、真正面から監視の目を掻い潜ってまでするのかと言われれば怪しいものだ。

 「どうしよう」

 道は目の前にあるのに、そこを進む事ができない……そんなジレンマに地団駄を踏みたくなるが踏んだ所で問題は解決しない。そんなこんなをしている間に転機が訪れる。

 「危険だと言っているのが分からないのか!!」

 「!?」

 一瞬自分が見つかったのかと思い引っ込むが、すぐに違うと分かった。二人以上の誰かが言い争う様な声に耳を傾けてみると、もう片方は聞いた覚えのある声だった。

 「私一人が勝手に行くと言っているのです」

 「無茶言うな! あんたの身に何かあればこっちの責任問題になるんだ! はいそうですか、で通せるか!」

 (ウーノさん!?)

 言葉を交わしたのは少しだけだが、間違いない、その声は自分が拉致された時にトレーゼのアジトで顔を合わせたナンバーズの長姉、ウーノの声だった。ちらりと見やると果たして彼女だったが、その傍らには武装した局員が一人居てやはり何か言い争っている。

 「私一人が行って来る事に何の不都合がありますか」

 「現場はこちらの持ち分だ。勝手に介入すれば公務執行妨害どころじゃ済まないぞ!」

 「では現場の局員を退かせてください」

 「無茶苦茶言うな!」

 どうやら彼女もノーヴェが逃げた隔壁の向こうを目指しているのか、ヴィヴィオの隠れるトイレを通り過ぎて隊員の警護する隔壁前までやって来た。だがどうやら彼女がここに居るのは想定外の事であるらしく、行く手を阻む隊員らと物々しい雰囲気になり始めた。

 「ここから先は許可が降りるまで立ち入り禁止だ。出動要請を受けた隊員及び局員以外は入れない!」

 「私の妹がこちらに来たと聞き及びました。通してください。私が迎えに行きます」

 「妹? ナンバーズの『ウーノ』か」

 闖入者の正体を知った隊員らの目の色が変わった。彼らはたった今、三年間忘れかけていた戦闘機人の恐ろしさを再確認させられ、そして眼前にそれと同種の存在と相対しているのだ、緊張もするだろう。敵意が無い事は理解しておりいきなり武力行使に訴える真似はしなかったが、警護の対象である隔壁前から離れず睨みを利かす。

 「さっきも言ったように、ここから先は正式な出動要請を受けた人間以外は立ち入り禁止だ。内部に居る人間も今は避難命令が出ている。そちらもすぐに保護してもらうことを推奨するが……」

 「そちらにご迷惑をおかけしている妹を引き取り次第、すぐにでも」

 「民間人の協力を必要とはしていない!」

 「何か勘違いをされてませんか? 私はあなた方に協力するつもりなど毛頭ありません。ただ自分の身内を引き取りに行くだけに何の許可が要りますか」

 「引き渡し等の事後処理に関してはその時になれば報告させる。そちらが今出て行っても邪魔になる。はっきり言うと迷惑だ!」

 特徴的な射出音の後、ウーノの足元から煙が昇る。警告の為に発砲された魔力弾は彼女の爪先数センチに焦げ跡を残し、僅かな熱を放っていた。

 「お引き取り願おう。今ならあなたの罪状に公務執行妨害と脅迫罪を付け加える事も可能だ」

 「……………………分かりました。出来ればそちらの指揮を執っている方にお伝えください。あの子には出来るだけ直接的な危害を加えない事を」

 一触即発の空気から一転し、毅然とした態度で臨んだウーノから身を退くという結末に終わった。魔力弾の音が聞こえた瞬間に叫び声を上げそうになるのを抑えながらも事の顛末を見届けたヴィヴィオも安堵して溜息をもらした。だが、その吐息はすぐに緊張と共に吸い込まれる事になる。

 「おい、どこへ行く」

 声と足音が近づく。嫌な予感と同時に思考が一瞬停止し、次の言葉が彼女の心臓の導火線に焦りの火を点けた。

 「用を足すのに一人で行かせてくれないのですか?」

 用を足す、その言葉と同時に硬い足音が徐々に接近してヴィヴィオの隠れるトイレに入り込もうとやって来る。身一つで来るべきではない場所へ来てしまった彼女にとって、ウーノと言えどここで誰かと接触するのは得策ではない。混乱する脳でそう答えを出したヴィヴィオはすぐさま掃除用具入れの個室に入り、下の隙間から足が見えない様にバケツを足台にして身を隠した。その直後、自動ドアをスライドさせてウーノが入る。

 「…………」

 付きの局員は外で待っているのか、彼女一人分の気配しかしない。コツコツと足音を鳴らしながら一番奥の個室、ヴィヴィオの隠れた用具入れの隣の空間に入る音がした。間一髪で自分の姿を隠す事に成功したヴィヴィオは高鳴る胸の動悸と抑え、呼吸する音にさえ気を遣いながらウーノが出るのを待つ。

 だが……

 「……………………」

 「……………………」

 おかしい。下世話な話だが用を足すつもりで入室したはずなのに腰を降ろすどころか布ずれの音さえしない。壁一枚挟んでいるので見えないが、これではまるでただ入っただけみたいだ。重い空気に嫌な汗が加わり、不可視のプレッシャーが小さく細い膝を笑わせる。

 「……………………」

 「……………………っ」

 五分か十分か、それともたった三十秒程度か、極度の緊張で時間の感覚すら分からなくなりながらも早く出て行ってくれと祈る様にヴィヴィオは息を殺したまま耐え続けた。

 しかし、幸運を司るらしい女神か天使かは彼女に微笑まない。



 コンコン────。



 「っ!!?」

 ノックの音。それもドアからではなく隣の個室を隔てる壁から……。驚きに身を震わせた瞬間に土台のバケツと足が擦れて誤魔化せない音がした、もうウーノはこちらの存在を確信しているはずだ。

 「どなたですか? このエリアはとっくに避難区域のはずですよ」

 そう言いながら隣のドアが開いてウーノが出る気配を覚える。だがそれは身を隠す用具入れの前で止まり、そこに潜む者が観念して出て来るのを待とうとしていた。もうここまで膳立てされてしまった以上、この空気を無闇に長引かせても仕様がないと自覚したヴィヴィオは大人しくバケツから降りてすごすごとその前に姿を現した。

 「あなたは……」

 「あぅ」

 世間的に見ても長身の部類に入るウーノに見下ろされ余計なプレッシャーを感じるが、腰を屈めて目線を合わせてくれた事でやっと緊張が解れた。

 「こんな所で生体反応があると思えば。今日は確か社会科見学のはず……。どうしてここに?」

 「……ウーノさんもノーヴェを探してるんですね」

 「…………そう、あなたもなのね」

 その言葉に通じるものがあったのか、お互いにここに居るべきではない者同士が一堂に会した事実にしばし沈黙する。ウーノは別に見つかった所で何の不都合も無いがヴィヴィオはそうもいかない。彼女はこの場において真正の部外者、存在が知れれば瞬く間に摘まみ出される事請け合いだ。そうなる前に何とかしてこの窮地を脱する必要があるが、急場に立って半ば混乱している彼女にそこまでの機転が回るかが問題だった。

 だが幸いなことに、双方の目的は合致していた。

 「ウーノさん、わたしと一緒にノーヴェを探してください!」

 「あなたと? 私としては構いませんが、一緒にここを出ると外で構えている局員に連行されてしまいますよ」

 「それは、えっとその……!」

 二つ返事で正論を言われてしまい、ヴィヴィオは早くも壁にぶつかる。子供なりに必死になって考えているみたいだがウーノの方は余裕があるのか、妙に落ち着いた雰囲気で二の句を待つ。いや、実際には余裕と言うよりはむしろ諦観があったのだろう。でなければこんな醒めた目で小さな少女を見つめはしない。

 「えっと、天井とかを通ってるダクトから向こうに行くとか……?」

 「アクション映画の見過ぎかと。そんなに都合良く剥き出しの通気ダクトがあるわけが……」

 そう言いながら天井付近を見上げるウーノだが……

 「……ありましたね」

 「えっ?」

 適当に言っただけなのに本当にあったのかと釣られて天井を見上げるヴィヴィオだが、灰色の天上にはそれらしき物は見当たらない。きっと天上の裏に隠れた存在を透過カメラを内蔵した眼球で捉えているのだろう、その視線はルートを辿って隣の空間を追っている。

 立ち上がって天井に手を伸ばすがウーノの身長では後僅かが届かない。跳躍すれば充分に届くだろうが着地の瞬間に大きな音を立てれば怪しんだ局員が確認に来るかも知れない。そうなれば言い訳も出来ない状況が出来上がってしまう。

 そこでウーノは一考した。

 「陛下、私の上に乗ってください」

 「の、乗るんですか?」

 「『かたぐるま』、というそうですね。私と陛下の身長を足せば天井に届きます」

 そう言いながら膝を折って自らの両肩を叩く。確かに二人分の身長を足せばヴィヴィオの手を着けるぐらい訳もないだろうが、この土壇場に来て少し怖気づいたのか尻込みしてしまう。

 「ほんとにやるんですか? 冗談で言ったつもりなのに……」

 「お早くしてください。そろそろ怪しまれてしまいます」

 「あうぅ~」










 一方その頃、カリムとセッテの一行も封鎖されたエリアに進入していた。と言っても彼女らはノーヴェの騒動に関与するつもりはなく、海上施設行きのヘリが停まるヘリポートまで行くにはこのエリアを通らなければ行けないだけの話だ。最短ルートを通ればノーヴェと接触する事も無いと道を急ぐが……。

 「ここも封鎖ですか」

 常時作動しているはずのエレベーターやエスカレーターは尽く機能を停止し、その周囲を武装した局員が固める異様な光景が二人の前にある。件の騒動でこのエリアは既に厳戒態勢を布いており、普段は開かない防火扉の先の非常階段には幾人もの一般局員らが詰め掛けていた。その光景は管理局が慢性的な人手不足とは到底思えない程だった。

 そして、この非常階段を昇ればヘリポート付近の棟まで行けるというのに、避難者を優先して時間は大幅に遅れていた。

 「守衛部に通してエレベーターだけでも動かせませんか。このまま立ち往生させられては敵いません」

 「有事の際には避難者の安全が万事において優先されます。時間だけならたっぷりあることですし、そこまで焦る事もないでしょう」

 「そんな悠長な……」

 何か言いたそうに言い淀むセッテだがもう何も言わない。彼女と言い争う事こそが一番の時間の浪費だと自覚したからこそ、無駄な事はなるべくしたくはない。気力の浪費はそれだけで無益極まりない。

 「ふぅ」

 「お行儀が悪いですよ」

 「放っておいて欲しいものです」

 ベンチも無く地べたに座り込むセッテ。非常時という娯楽要素も何もない事態に際し、彼女は致命的なまでに時間の潰し方を心得ていなかった。元々それほど興味の無かったノーヴェの見舞いを言い出したのも、単にヘリを待つ間の暇な時間を潰す為の発言に過ぎなかった。それなのにこんな事になってしまうとは……あの時大人しく待機していなかった自分の判断を呪うしかない。

 十分ほど経過してようやく階段の列が疎らになってくるが、それでもまだ二人とその護衛が通るには混雑している。流れに逆らって行けるようになるにはもう十分は掛かるだろう。

 しかし、その流れが急に淀み出す。前を歩いていた人間がその足を止め始め、高速道路の渋滞の如くその波が後ろへと及んでいく様子にセッテのみならずカリムまでも違和感を覚えずにはいられなかった。

 「何かあったのでしょうか?」

 あれだけの人数が詰め掛けているのだから少しくらいトラブルも起こるだろう、そんな風に思って我関せずを貫こうとしていたセッテだが……

 「うわぁああああああっ!!」

 その慢心は不意に轟いた叫び声で掻き消された。

 「何事です!」

 「分かりません。混雑で列が崩れたのか……」

 「いいえ、どうやら違うようです」

 「セッテさん?」

 すっと立ち上がったセッテはカリムの制止も聞かず局員らでごった返す非常階段へと向かう。囚人が着る白無地の服装を目にしてもまるで気にしない人々。それもそのはず、彼らの驚きと恐怖に見開かれた目の先にはそれより鮮明な『色』が跳躍していた。その存在を認めた時、セッテはどこまでも自分の運の無さを呪った。

 「────────」

 「ノーヴェ……!」

 体重80キロ近くある肉体が軽々と跳び回るその様は猿回しか曲芸か、突然の闖入者の介入により混乱する人々の肩や頭を踏み台にして徐々にこちらに迫り来る狂人の姿は、まさしくこの厳戒態勢を引き起こした張本人ノーヴェである。金色の眼は爛々と輝き、探し求めていたかの様にセッテを捉える。

 「────ッ!!」

 「くっ!」

 「セッテさん!?」

 手前の局員を最後の踏み台に、小柄なノーヴェと対照的な大柄なセッテが激突して二人は地面に叩き付けられる。自分より遥かに小さな体躯に弾き飛ばされた衝撃にセッテは壁際まで転がり、勢い余ったノーヴェも全く同時にそこへ到達する。

 「ッ!!」

 「…………」

 体勢を立て直すのもほぼ同時に、二人は全く同じ方向へと駆け出した。ノーヴェがどこかを目指し、セッテがそれを追って共に疾走する。捕えようとする者とそれから逃れようとする者の図式が完成し、それ以外の者は尽く置き去りにされてしまった。背後で何やらカリムが叫んでいるが、さっきまでの冷め切った様相は微塵も無くセッテはノーヴェを追い詰める事だけに集中していた。

 (何故、ワタシはノーヴェを追う事に集中しているのでしょうか)

 頭の中の最も理性的な部分に居るもう一人の自分が疑問を呈する。その自問の答えは目の前の妹を追って角を急直角でカーブした瞬間に感じた頬を滑る風の冷たさが教えてくれた。

 (ああ……ワタシは今、無性に腹が立っているのですね)

 カーブの時に踏み締める足元が軋みを上げる。きっと床にも亀裂が入っているだろう。美醜とは関わりなく今は鏡を見たくない。きっとその顔色は血が昇って真っ赤に染まっているはずだ。ぶつかって蹴飛ばされた事に猛烈な怒りを覚えセッテは分かり易い報復のみを果たす為に今は疾走している。

 速度は互角、後は体力勝負。狂したノーヴェが逃げ切るか、怒りに身を任せたセッテが捕えるか。純粋な鬼ごっことなるはずだった。

 「止まれぇっ!!」

 行く先に武装局員らが待ち構える。手に手に持ったデバイスは前を走るノーヴェに全て向けられており、セッテの追い込みで彼らとの相対距離は見る見る間に縮まって行った。だが、予想はしていたがノーヴェもただでは捕まってはくれない。

 「ガッ!!」

 跳躍により天井すれすれまでの大ジャンプを繰り出す。迎え撃つ局員もそれを予測してかホールディングネットを展開して捕縛を試みた。天井の空間一杯を掬い上げる様に展開されたそれに真正面から突っ込み、ノーヴェは見事にそれに包まった。

 局員らの表情が和らぐ。しかし、それは束の間の喜びに過ぎなかった。

 「ッギギ!!」

 網に捕えられた次の瞬間に網目に腕を通し、抱え込む様にして身を捩る。すると彼らの小細工を嘲笑う様に魔力のネットはいとも容易く捩じ切れ、彼女は自由を取り戻した。空中に投げ出されたその体は猫の様に器用に方向を調節し、その着地点を見定める。

 「な……っ!?」

 驚愕の声を上げたのは現場を指揮する隊長。その真上に身を投げ出したノーヴェは猫が姿勢を直す要領で空中でアクセルを踏み、遠心力を発生させたその右足が彼の顔面を捉え、そして……

 「ジャッ!!」

 爪先が接触した刹那、隊長の体が顔面から伝播した運動エネルギーをまともに受けた事で流しきれなかった分が慣性の法則によって彼の体を浮かし、そのまま空中を経由して壁際に叩き付けられる。人間が瞬きするよりも速い速度で蹴り飛ばされた隊長は崩れ落ちながら意識を手放し、彼の居た場所にノーヴェが代わりに収まった。

 「貴様ぁーっ!!」

 指令塔を欠いてもすぐには乱れない統率力を頼りに残りの局員らがノーヴェを取り押さえに掛かる。肩に、腕に、腰にしがみ付く様に組み伏せようと躍起になるが、足の裏に根でも生えているかの如く押すも引くも成り立たない。大の男が数人がかりでも歯が立たず、それどころか当の本人は涼しげな顔をしているだけだ。それどころかその足は彼らを引き摺る勢いで先を急ごうとする。

 その背に追い付いたセッテがまず行った事は、自分にとって邪魔な連中をノーヴェから引き剥がす事だった。

 「どいてください」

 「な、何を……うおあ!?」

 自分とノーヴェの決着に他者の介入は必要ない。わざわざ足止めまでしてもらってまでその横面を張り倒そうとは思わない……それは潔さか傲慢かただ単に彼女個人の拘りか、とにかく重要なのは折角捕獲への糸口を捉えた隊員らを引き剥がし彼らの苦労を無に帰しているという事実だけだ。当然、そんな狼藉を黙って見過ごす訳もなく、一人の隊員が物申す。

 「お前っ、自分が何をしているか分かって……!」

 「邪魔です」

 冷静な言葉とは裏腹に、掴み掛ったその局員の鼻面に肘鉄を一発お見舞いする。鼻血を出して転倒しているだろうがそこまでは確認しない。今のセッテの意識の大半は目の前の生意気な妹に一矢報いる事に集中している。本気を出せば頭蓋骨を粉砕するその拳も、同じ強度を持つノーヴェにはちょっと小突いた程度だろう。だがそれでも、今は馬乗りになって何十回でもその顔を殴り倒したい気分だった。

 五人ぐらいを次々と引き剥がして遂に最後の一人を追いやる。その時また走り出そうとしたノーヴェの手を引いて自分に引き寄せ……

 「こ、の!」

 「……!?」

 引き寄せた引力と突き出した拳の斥力が相殺され、余力がその顔を拳と同じ方向に曲がる。骨肉がぶつかり合う鈍い音が響いたのは一瞬で、その瞬間に全ての音が消え去った気がした。胸の奥に沈殿していたドス黒い何かが少し浄化され、拳に乗せた分だけそれが軽くなったと思えた。

 それなのに……。

 「────────」

 「……なんですか、その表情は」

 「────────」

 「ええ、言われなくても分かりますよ。その目、馬鹿でも分かる。ワタシを見下して嗤っている眼です!」

 セッテの難癖は事実だった。殴った時の衝撃で口を切って血を流していても、何が面白くてかノーヴェの表情は微笑を湛えていた。笑い声を上げないその笑みは、その刹那だけ彼女を狂人から心優しいいつも通りの誰もが知る「ノーヴェ」へと戻していた。

 それがセッテは気に食わない。最初からその気になっていたのはこっちだけで、いざ本懐を果たしてみれば見透かされた様な笑顔を見せつけられて……分かり易く言い直せば────、



 “その余裕面が気に入らない”。



 「ふざけたことばかり!」

 人間、真に感情的になると殴ったり蹴ったりも出来ず、ただ罵倒するだけになる。

 セッテの精神は爆発した。

 「ワタシが貴女を! 貴女程度を害せないと、殺せもしないと馬鹿にしてぇ!! 不快! 不愉快! 目障り!! 消えろ消えろっ、消えてしまえ!!!」

 ここへ来てからずっと、何もかもが思い通りにならないまま過ごし、鬱屈した想いだけが蓄積していた。その原因はこれまでの同じナンバーズであり、ノーヴェであり、カリムであり、そしてトレーゼだった。彼ら彼女らの選択が巡り巡って何かの負債となりセッテや他の人間に圧し掛かった。何も直接害を為そうとしていた訳ではない。ただ彼女の精神の許容量を大幅に越えるストレスが流れ込み最悪の場面で破裂しただけに過ぎない。

 誰にも理解されないその怒号。ここに居る人物は知る由も無いが今の怒れるセッテの姿は、異世界で同じ狂乱に身を落としつつある彼女の兄を写しているようでもあった。もはやノーヴェとセッテ、傍目からはどちらが狂っているのかすら分からない。或いは、たった一度だけ同調を果たしたセッテの精神が彼の兄と未だシンクロしているとでも言うのだろうか。

 「ッ!」

 「!? どこへ……!」

 手を振り払い、笑ったまま逃走に繰り出すノーヴェ。遊んでいる、完全に。この身を走狗だと揶揄した事もあったが、本当の畜生に身を落とした覚えは無く、それが激昂したセッテの神経を更に逆撫でた。

 「ふざけてぇ!!」

 事情を聴こうとする隊員を蹴り飛ばし、王都を目指すメロスもかくやというスピードでその背中を追う。友想いの牧人が沈む太陽の十倍で走ったなら、今の彼女は更にその十倍は走っているだろう。それなのに足取り軽やかに逃げ去るノーヴェは風のようで、怒りの重さに身を取られたままのセッテでは追い付けず、次第にその距離は開き、そして……。

 「…………見失った、か」

 曲がり角すら無い直線の通路の先にもうその姿は無く、再びセッテは取り残された。後は悶々とした気持ちの悪い苛立ちだけが残り、振り上げる事無く踏み込んだ足元に亀裂が走る。

 「消えてしまえ……」

 否、願ったり祈ったりした程度であれが自分の前から永遠に消えて無くなるなんて、そんなご都合は有り得ない。だったら……

 「ワタシが消すしかない!」

 この瞬間、セッテはノーヴェとはベクトルの違う狂人へと身を堕とした。










 「ほんとに……こっちで道、合ってるんですか?」

 一方その頃、天井の通気ダクトを匍匐前進で移動するウーノとヴィヴィオの二人はとっくに封鎖エリアに進入し、現在はどこの部屋の真上とも知れない部分をひたすら這い蹲っている。とは言っても、ただ適当な方へ向けて移動している訳ではない。

 「次はどっちですか?」

 一人通るのに精一杯な薄暗い横穴をヴィヴィオが前にウーノが後ろから追う形で随伴し、岐路に至る度にルートを指示する。ウーノのナビゲートはでたらめではなく、彼女らナンバーズを繋ぐ個体認識のネットワークを頼りに大まかなノーヴェの位置を探り、何とかして先回りしようと躍起になっていた。腹這いになって移動するせいで二人の服は埃や汚れが付着し、手足はザラザラになっていた。もはやここまでする理由は根性だけではなく、何かしらの執念じみたものを感じさせる。

 「次は?」

 「そこは右に……いえ、お待ちください! この反応は!?」

 「ど、どうしたんですか? もしかして、ここに居るのがバレちゃったとか?」

 「いえ、それより悪い報せです。ノーヴェの進行方向にもう一人分の反応を受信!」

 「もう一人ってセッテさん!?」

 「セッテもノーヴェを追い始めました。こちらに近づいてきてます!」

 「え!? ど、どこですか!」

 「ここからでは追跡には適しません。一旦下に降りましょう」

 等間隔に設けられた通気口を蹴破り、ウーノが先に、その後から降りるヴィヴィオをキャッチして二人は十数分振りに外の空気を吸った。だがゆっくりはしていられない。さっきの物音に勘付いて局員が駆け付ける前に移動しなくては。

 「陛下、お急ぎください」

 「だからその『陛下』って呼び方はよしてってば」

 局員が避難して無人状態になった通路を駆け出してまだ見ぬノーヴェとセッテを追いかける。本気を出していないが、ウーノの脚にヴィヴィオは完璧に追従し、内心ではその健脚振りに感心さえしていた。

 走りながらウーノは小さな少女に質問を投げ掛ける。

 「陛下は……どうしてノーヴェのことで、それほどまで必死になられるのですか?」

 血の繋がりは無くとも姉妹は姉妹、姉が不出来な妹の心配をするのは道理で、ウーノにとってノーヴェは二人といない存在だ。だがヴィヴィオにとっては他人、それも本来なら関わりが無くてもその人生や未来に大した影を落とす事は無いはずだった。

 それは愚問だったとすぐに分かった。

 「わたしにとってもノーヴェは家族なんです。血も繋がってないし、親戚でもないですけど、でも家族ってなにも血の繋がりだけじゃない気がするんです。わたしやなのはママ。フェイトママだってそうだし、スバルさんの家だって」

 それが彼女の言う様に、血族関係の家族とはまた違った意味を持っている事は容易に理解できた。実際、ナンバーズにおいて生物学的な繋がりがあるのはオットーとディードだけで、それ以外は遺伝子の一部が同一という程度に過ぎない。それでもその心の奥底では言葉では言えない、図式や計算式では表せない何かで繋がりがあったのだと言い切れる。絆、とかいうのかも知れない。

 「わたしうまく説明できなくって……」

 「いいえ、充分ですよ陛下。ひょっとしたら白黒つけず曖昧なままでいいのかもしれません」

 無理してはっきりさせてしまうのは無粋か。そんな風情や風流を弁えているわけではないが、ウーノは何となくそんな気がしていた。

 どれだけか走って息が切れ、二人は一旦立ち止まる。ここまで局員に見咎められる事なく駆け抜けて来られたが肝心のノーヴェには未だ会えないでいる。

 「ウーノさん!」

 「少しお待ちを。私達のネットワークは雑把で、レーダーのように正確には測れません」

 ウーノの眼球は現在大量の視覚センサーの類が稼働しており、妹二人の所在を割り出そうと躍起になっていた。だが魔力反応が飛び交う中での絞り込みは容易ではなく、混線した反応を追うだけで精一杯だった。

 (これだけの魔力、局員と接触したかしら?)

 捕捉した反応の中には攻撃に用いられる濃度と熱量を有した魔力の存在もあった。だとすればあの二人を捕えようとした武装局員が発砲したとなる。

 そこまで推測した時、ウーノの脳裏を鋭い痛みが駆け抜ける。

 「グ……ッ!!?」

 「ウーノさん?」

 「いえ、お気になさらないで…………」

 一瞬の出来事だがただの頭痛ではなかった。あまりの激痛に彼女の脳裏にフラッシュしたイメージ……まるでガラスの器にヒビが入り、そこから液体が漏れだす幻視。その映像が浮かんだ時、彼女の胸を刺した感覚は……

 (これは……『不快感』? 私のものではない誰かの感覚が、流れ込んだ?)

 第六感など信じている訳でもないが、どうしてかその感覚が自己の物ではない事は断言できた。幻覚魔法の類かと思いヴィヴィオを見るが彼女は何も感じなかったようだ。なら、今さっきの狂おしいまでの感情の濁流は一体……?

 ふと、散漫になっていた意識を掻き集めると、一点に感じていたセッテとノーヴェの反応がいつの間にか離れ、特にノーヴェは自分達から離れたポイントへと移動しており今も猛スピードで移動を繰り返している。

 「陛下、セッテの反応をキャッチしました。近くにいます!」

 その反応の通り、ほんの少し前に別れたばかりの妹の見慣れた桃色髪が見え、合流を果たした。

 「セッテさん!」

 「────また貴女ですか」

 ノーヴェを追って疲労しているのか俯いた表情は窺えない。ただその言葉尻はどこか苛立っている様に聞こえた。

 「ノーヴェはあちらに逃走しました。追跡に協力するのなら急いでください」

 「え、ええ。分かっているわ……」

 苛立っているだけ……なのだろうか? 今のセッテからは姉のウーノが過去に感じ取った事のない虚ろな波動を肌に覚えていた。他者を排するのではなく、むしろぽっかりと開いた虚空の如く吸い込まれる様な自由落下の感覚を。

 「……行きましょう」

 寒気すら覚えるその感覚を振り払い、セッテを加えた一行はノーヴェを追って共に地上本部の深部を目指した。










 その頃、ノーヴェが疾走する遥か先の場所で待ち構える一隊が、自分達に向かって走る凶獣への対抗策を講じている最中だった。

 「準備は?」

 「整った。例の物はたった今要請が降りて運送されてくる予定だ」

 「試作品届きました!」

 「良し! 狙撃班は配置に着け! 目標が見え次第発砲を許可する」

 分隊長の指示により隊員らが陣形を確保して配置に着いた。通常のデバイスを構えた隊員数名が前に横隊を組み、その背後に指揮隊長、そしてその傍らには二人一組で通路の先を見据えるスナイパーが構える。その狙撃手が構える銃器はかつて都市決戦の終盤で“13番目”を仕留める為に使用許可が降りた物と同型で、装填された弾丸もまた同じヴァリアブルシュートの応用により開発された特殊弾だった。

 本来この装備一式は当時と同じ極限状況下でなければ使用許可が降りる事はなく、例え降りたとしてもその使用には制限が掛かる程の代物のはずだった。それが今回のような単なる捕獲作戦で使用に至ったのには裏方の理由が存在していた。

 「戦闘機人の存在は管理局全体にとって有益ではない。必要な時にこうして烙印を押しておくに限る」

 状況次第では対象に直接的な損傷を与えることで確保に臨む事も認められる……その文言通り、この部隊は現場の判断により戦闘機人に有効な質量兵器の限定使用が認可された。通常、この現場を指揮する司令官がクロノかはやてだったならこの暴力的な措置を最後の最後まで下す事はなかっただろう。だが彼らを指揮する上司に当たる人間に問題があった。

 臨時のアドバイザーとしてウーノらを受け入れるに当たり、彼女らに未だ強い排斥心を抱く局員をリストアップし、それらを期間限定で異動させる事で彼女らの心身の安全確保を最優先した。提督たるクロノの権限により彼らの異動は滞りなく行われたがそれはあくまで一般局員など一部の話……。クロノの意の届かない場所、組織の上層部にも犯罪者排斥を是とする右翼思想の持ち主が居り、彼らの息の掛かった者が作戦本部に圧力を加える。意図的な殺害はできずとも障害が残る程度の損傷を与え管理局を追放するのが目的であり、元犯罪者が管理局にのさばっている実態を何よりも忌み嫌う為にその決断には一切の遠慮が無い。

 流石のクロノと言えどここまでの事態を予期する事はできず、逆に保守派にとってはまたとない好機が訪れる結果となってしまった。

 「…………レーダーに反応。目標は三ブロック手前を走行中」

 狙撃隊が陣取るこの通路は全長100m以上にも及ぶ長大で真っ直ぐな空間。ここを走破するノーヴェの脚を狙い疾走を停止させるのが最終目的になる。対戦闘機人用に急造された弾頭を用いれば脚部のフレームはボロボロになり、走りはおろか歩行すらままならなくなる。そんな非人道的なやり方をクロノが到底許すはずもないが、現場判断による必要な措置だったと主張されれば後に残るのは事後処理だけになる。

 「支給された弾は三発。けだものを仕留めるには充分だ」

 「目標、間もなく視認可能領域に入ります」

 ライフルのセーフティが解除され撃鉄が起こされる。スコープを覗いて通路の端を確認し、いつでも目標との距離を測れるように観測手がスタンバイする。

 そしてその十数秒後、果たして曲がり角から赤毛の少女が姿を現した。

 「目標を視認」

 観測手が双眼鏡も用いず、増強魔法によって視力を強化した眼球で距離を測る。風の無いこの空間では撃ち出された弾は殆ど軌道を変えず推進するはずだろう。

 銃口を細かく調整し狙いを定め、ゆっくりとこちらに向かって接近してくるその右脚にサイトを合わせた。

 「…………ファイア」

 引き金が絞られ、黒光りするその銃口から遂に凶弾が放たれる。音より速いそれは大気に真空の弾痕を刻みながら飛翔し、そして────、










 「こちらです」

 ネットワークを介して傍受されるノーヴェの反応を追って地上本部の奥へ突き進んだヴィヴィオとその一行は、徐々に目標との距離を詰めつつあった。

 先頭を行くセッテを追う様にヴィヴィオとウーノが続くが、その距離は数歩分離れている。接近されることを嫌がっているのか、距離を詰めようと近付くと歩く速度を上げ、ゆっくり歩くように要求しても無視を貫く。まるで彼女らなどいない者として扱っているようで、さっきからヴィヴィオが何か話し掛けようとも何の反応も返さない。

 「セッテさん、ちょっと歩くの速いですってば!」

 「……………………」

 この様にわざと無関心を決め込むばかり。その姿は昼時に出会った時に見た落ち着いた姿とはどこか違う、根底の部分で余裕を欠いた雰囲気は少女に本能的な危機感を抱かせるほどだった。特にウーノはさっきの邂逅で明確に何かを感じ取ったせいか、積極的に話し掛けるヴィヴィオと違って彼女の方は押し黙って見守るばかりだ。あの吸い込まれそうな狂気への恐怖は目の当たりにした者にしか分からない……そしてそれを見た以上、深く関わろうとは二度と思えなくなる。

 セッテにとっては喧騒な、ウーノにとっては無謬の時間だけが流れ、そして……



 タァン────……。



 「!!?」

 遠方から響いた一発の銃声が沈黙を打ち砕いた。素早く反応したセッテが有無も言わずに走り出し、聞き慣れない音に戸惑うヴィヴィオを抱き上げたウーノが後に続く。

 反響したその発信源は思ったより近く、続けて第二射の音が轟いた。



 ダァンッ!!!



 「近い!? それに、この発砲音!」

 圧縮された魔力が大気を押し分ける音とは明らかに違う……これは火薬の炸裂で生み出したエネルギーを発射の力に利用した質量兵器特有の発砲音。それを聞き取ったウーノはヴィヴィオを一旦降ろす。

 「先に私達が安全の確認を致します。陛下はその後で」

 「わかりました」

 「それでは失礼します」

 鉄火場に幼気な少女を連れ出す訳には行かず、先に様子を見に行く。来るなら来るで安全が確認された後になり、もしここで冷静になってくれる賢さを持っていればここで引き返してくれるだろうと考えての行動だった。

 その先でウーノが目にしたモノは……。










 「外した!」

 通常、狙撃とは命中率の高い胸部を優先的に狙う。よほどの近距離に位置しない限り激しく動く四肢や頭部を真っ先には狙わず、先に胴体にダメージを与えてダウンさせ、二射目でトドメをさす場合が多い。その点で言えばノーヴェの脚を狙ったのは不正解で、音速以上の速さで飛来したそれを知ってか知らずかノーヴェはほんの少しその位置をずらす事で難を逃れた。

 「────────」

 足元に残った弾痕を眺めていたその視線が次の瞬間に狙撃手に向けられる。野獣の視線に恐れをなしたのか、すぐに二発目を装填して次に備える。さっきは膝下を狙ったが今度はそれより上、脚の付け根付近を狙うつもりだ。

 「ファイア!」

 再び超音速の凶弾がノーヴェを襲撃する。さっきよりもずっと命中率の高い部位を狙われた事に野性的直感で勘付いたのか、軸足を回転させての回避行動を取りその軌道から逃れ出ようと試みた。

 その結果は……

 「ッ!!!」

 「外れたか」

 壁面に弾丸が激突した硬質な音の後にノーヴェが倒れる事はなかった。だが、まるっきり当てずっぽうだったと言うわけでもない。

 「──……」

 白無地の服の表面に血の赤が広がる。音速を越えた弾丸を完全に回避するには至らず、その太腿は鋭利な刃物で切り付けられたかの様に裂かれていた。骨まで達さずとも痛覚によるダメージでまともに歩く事が出来ないのか、右脚を摺り足で動かしながらも徐々に距離を詰めて来る。

 「目標、未だ移動を試みています」

 「……仕方がない。最後通告だ。肩を狙え」

 「待て。司令部からはノーヴェ・ナカジマの動きを止める目的で質量兵器の使用許可を頂いている。そこまでする必要が……」

 「預かった弾薬は残り一発……これで目標を止めるにはより確実な部位への有効打が必要だ。違うか」

 「それはそうだが……」

 「それに、まだノーヴェ・ナカジマは止まっていない。動きを止めろと命令されたなら、一番の手段は心臓を止めればいい」

 「そんなこと!」

 「だからそれ以外を撃つ。これは最大限の譲歩だ、二言はない」

 隊長の強い物言いに圧され、狙撃手は三発目を装填する。スコープのサイトをノーヴェの右肩に合わせ、憐憫にも似た感情を心中に湧かせながら、しっかりと目を開き引き金を絞り────、

 「ファイア!」

 乾いた銃声と同時に飛び出した弾は一瞬で音を置き去りにし、狂人にトドメを刺しに飛翔した。

 ……………………

 …………

 ……

 ……

 …………

 ……………………

 床や壁面に当たった硬質な音がしない。その代わり水袋を破裂させた様な軟らかい音が鳴った。

 直撃。それは間違いない。誰の眼から見てもそれは明らかに命中だと、素人目にも断言できる結果だった。

 だが────、










 今度もやはり、頭の中の冷静な部分がすぐに結論を導いてくれた。赤毛の頭を見て疾走した自分の左脇腹に何か熱いモノが捻じ込まれる感覚を覚えた刹那、そこを見ずとも自覚できた。

 (撃たれましたか)

 銃器が存在している事は音で理解できていた。ノーヴェの前に立った自分が図らずも彼女の身を守る結果となってしまった事も、その張本人がほんの数十メートル先で驚愕の表情を浮かべている事も、理解できていた。

 冷静でいられたのはそこまでだった。

 「ッ!? ガ……!!」

 フライパンの上で熱されたコーンの如く、体内に侵入した弾殻は熱を感知して爆散し、極小の微粒弾をセッテの中にばら撒いた。フレームを、血管を、筋肉を、臓器を、神経すら無差別に引き裂いて突き進み、幾つかが右側から貫通して飛び出す。消化器官の間にある空洞に赤い熱湯が流れ込み、口元に胃液とは違うモノが込み上がる。

 足の間に広がる床を真っ赤な水溜まりを眺めながら、痛覚を和らげる為に反射的に放出されるアドレナリンの影響で五感が鮮明に鋭敏化されるのを覚えた。「闘争か逃走か」とも揶揄されるホルモンの急激な分泌は交感神経にストレスをもたらし、セッテの意識が揺らぐ。

 「セッテ!」

 後から続いたウーノが傷の様子を確認する。体内からの圧力で傷口からは間欠泉の如く血液が吹き出し、下着の左脚部分はもう赤一色に染まりきっていた。

 「ギギィッ!!」

 その脇をノーヴェが飛び出す。虎の子の三発を使い果たした狙撃班は既に対抗策を失い、牽制のつもりで連射する魔力弾は鉄の弾より遥かに遅い為に尽くノーヴェに避けられる。だが彼女も全くの無事とはいかなかった……。

 「こ、こいつ! 脚の損傷を気にもして……ごはっ!?」

 一歩一歩踏み出す度に太腿の裂傷から吹き出す血潮を気に留めず布地が擦れただけでも激痛が生まれるが、走る痛みより速くその身体は疾走した。体重を乗せた頭部からの打撃を頼りに小さくも凶暴な体躯は隊員らのど真ん中を突貫し、構えていた彼らを散り散りに蹴散らすに至った。気絶した数名には目もくれず、まだ意識のある隊員だけを選らんでその顔面を執拗に殴打する。

 「ッ! ッ!! ッ!!!」

 「ひっ! あぐぁ……!!」

 髪を掴んで上げたその顔面をシャッターの降りた窓ガラスに叩き付ける。それを最後に捕獲チームは一網打尽に制圧され、後に動くのはその体内に金属を埋め込む存在のみとなった。

 いや、人間ならもう一人加わった。

 「セッテさん……? なにがあったんですか?」

 白色無彩の空間を彩る生物的な赤は少女の心にはキツいものがあった。だが何とか持ち直したのか、殴り倒した隊員らの間で立ちすくむノーヴェに近付くとその袖を引く。

 「ノーヴェ。ノーヴェってば! わたし! ヴィヴィオ! 忘れちゃったの!」

 「────────」

 ヴィヴィオの必死の呼び掛けに応じる気配は無く、少し上を向いた視線が裾を掴む少女に向けられる事はなかった。心此処に在らず、と言った感じで虚ろな目は宙を泳いでいる。

 「ノーヴェ……」

 「陛下!」

 「ウーノ、さん!?」

 いきなり脇腹を押され肺が圧迫される感覚に語尾が上がる。ウーノに抱えられて一気に数メートルも移動したヴィヴィオが再び視界を仰ぐとそこには……

 「……消えろ!」

 「────ッ!」

 互いの手と手を掴み合って激突するノーヴェとセッテの姿があった。互いが既にまともに動ける容体ではないはずなのに、傷口から噴水の様に血潮を垂れ流しながら鬼気迫る表情で排斥しようと全力を出しているのが分かった。

 「消えろ、消えろ、消えろ! ワタシを惑わすモノは全部消えてしまえぇ!!」

 様子がおかしい。駄々をこねていると言うレベルではない。ここへ来てヴィヴィオすら感じ取った狂気の波動は遂に限界を超えて凶行という形となって流れだし、今にも自分の妹を手に掛けそうな勢いだ。

 「ギリッ!」

 「ぬぅっ!!?」

 致命傷を受けた左脇腹に強烈な蹴り。まともに受けたセッテは崩れ落ち、その隙にノーヴェが再三の逃走を試みる。だが相手も右脚の失血がひどいのかその軌道はおぼつかない。十メートルも行かずノーヴェは何処とも知れない部屋へ続くドアに手を着いた。

 「ウーノさん! 二人を……二人をなんとかしてください!」

 「……あんなに怒り狂ったセッテを私は見たことがありません。あんな風になったあの子を、どうやって私が……」

 ウーノが戸惑っている間に立ち上がったセッテがノーヴェに迫る。

 「このぉおおおおおおおオオオオオオオッ!!!」

 「ギ、ガガ────!!?」

 頭を掴み、振り被ったそれを重厚なドアに叩き付ける。丈夫な作りではないのか或いは激突の威力か、スライド式のドアはロックさえも関係なく歪みその内部を曝け出した。

 「────」

 歪みの隙間に手を差し込み、ノーヴェが室内への逃走を図る。照明が点いていないから詳細は不明だが、開け放つと同時に風が流れ込んだのを見ると中は相当広いようだ。

 だがそれをセッテは許さない。

 「逃がさない!!」

 押さえ付けようと体当たりをかましたのと、ドアが外れたのは全く同時だった。










 まず始めに感じたのは、引力。自分の身も心も繋いで一緒に引き摺るような強い引力を覚醒と同時に感じていた。

 言葉や理屈ではない。野性的直感がそうさせて、自分がそれを是としたからこそ今この状況があるのだ。そこに後悔や自責の念は無く、ただ純粋な理性と本能の入り混じった一つの確信があるだけだ。



 “行かなくちゃならない”



 どこに? それは自分の本能が知っている。後はそこに向かう固い意志と、行動力が伴えばいい。後は体が自然とそこに赴くだけになる。

 だから自分は全ての束縛を断ち切ってそこへ行こうとしているのに、どうして邪魔をする。お願いだから“そこ”へ行こうとする自分の邪魔をしないで。

 早く行かないと……彼が、泣いているから。

 行き方は……解っている。










 「ここは……次元テレポートルーム?」

 取っ組み合ったセッテとノーヴェが雪崩れ込んだのは、ついこの間地球へ発った部隊をウーノが見送った次元間転送装置の置かれた派遣隊を送る部屋だった。既に局員らは避難し、巨大なシリンダーの形をした転送装置はどれも沈黙している。

 「──ッ!!」

 圧し掛かるセッテを引き剥がして脱出を図ったノーヴェがその内の一本へともたれかかる。とうとう力尽きたのか、それまでの猪突猛進が嘘みたいに静まり返る。

 ただ、それが万策尽きた人間の顔には見えなかった。口元を僅かに歪ませるその表情は余裕に満ち、誰の目から見ても「してやったり」という顔をしている。そして、その表情に一番琴線を引っ掛かれたのは言うまでも無く……

 「おまえぇっ!!」

 「セッテさん!」

 すぐさま掴み掛るセッテ、それを止めようとヴィヴィオが彼女の前に立ち塞がる。だが狂したセッテにとってその存在は足元に転がる大きめの石に過ぎず、「どけ」とも言わずその小さな肩を払った。

 「ダメです!!」

 だがただでは起き上がらない。ついた尻餅を上げる時には血に濡れた服の裾を掴んで行く末を阻む。決して振り払えない枷ではないはずだが、同時にこの小さな少女が何度振り払おうとも自分に食らい付くと確信し逆上したセッテの狂気が、遂に牙を剥いた。

 「お前もワタシの邪魔をするのかぁアアアアアアアアアアアッ!!!」

 振り上げられた剛腕が少女を潰さんと降ろされる。怒りと狂気に囚われたその拳は撃墜対象を少女の頭に捉え、真っ赤な花を咲かせようとする。

 怯えるヴィヴィオ。叫ぶウーノ。全てがスローモーションで網膜に映る中でたった一人、ノーヴェだけが無言で成り行きを見守る。狂える者の瞳は全てを見通し、これから起こる全てを予め知っているかの様に落ち着き払っていた。

 だからこそ、彼女は最初からここを目指していたのかも知れない……。



 「────イ、コ、ウ────」



 誰かがそっと囁いた。誰が囁いたかなど自問自答もおこがましいほどに明白で、全員の意識が張本人に向く瞬間、変化は唐突に彼女らを────、

 「っ!?」

 「うわ! な、なに!?」

 「これは……」

 眩いばかりの紅い光となって包み込む。熱も冷たさも無く、それはただの発光という現象のみを伴った純粋な光で、或いは無骨に或いは柔らかく、彼女ら四人を覆い隠し……

 そして跡形も残さず一切合財全てを消し去った。

 その現象が偶然か必然であったか、或いは事故か故意かはともかく、結果として彼女らもまた姿を消し、中には二度と帰らない者もいた事は事実である。



[17818] 不穏な意図
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:001c320c
Date: 2012/10/15 03:20
 12月9日午後15時46分、第97管理外世界『地球』にて──。



 「…………え」

 家主不在となって間もないハラオウン宅の一室にて、立体投影された通信映像を前に文字通り絶句していた。

 通信回線が開かれたのはもう十分ほど以前の話……地上本部からの緊急連絡に最初は何事かと思い佇まいを直し、話を聞いている間に徐々に嫌な汗が吹き出し、最終的にその顔色は塩を掛けられた青菜もかくやという生気を吸い取られたような顔をしていた。

 『……以上が事のあらましだ』

 クロノからの報告ははやて一人の手に余るもので、しかもその内容は自分とは直接の関わりが薄いだけに、逆に事態の呑み込みが容易ではないのが現状だ。努めて冷静に振る舞っているように見えても、その実胃が捩じれるようなストレスを感じていた。

 「ちょ、ちょっとタンマ! 待って、待ってぇな……。ごめん、ちょっと整理させて……」

 『……すまない』

 「……………………」

 吐き気も催してきた。人間、相当なショックを受けると身体が病魔に侵されたようになる。吐く息は冷たくなり、頭を押さえる手や体重を支える足が震え、椅子に座り込んでも全身が脱力してしまう。座った瞬間に眩暈を覚えた時にはもうダメかとさえ思ったほどだった。

 「……………………」

 『……………………』

 「……ごめん」

 『落ち着いたか』

 「まだ震えが収まらへん。なぁ、嘘やって言うてよクロノ君」

 『残念ながら事実だ。僕も嘘や冗談だと言えたらどんなに気が楽か……』

 画面が切り替わり、惨事の光景が再び網膜に焼き付けられる。それをさっきも見たはずなのに、はやては頭を項垂れて未だ現実を受け入れられずにいた。

 映された画像は自分達がこちらに、地球に来る際に通った次元転送装置が設置されていたはずのテレポートルーム。「はず」と曖昧な言い方をするのは、はやてでさえ所在を聞かされなければそこがどこか判断に苦しむものだったからだ。

 その空間は、床と天井、そして上下左右の壁六面全てが隣の空間と繋がっていた。

 底が抜けているのではない。隣り合った空間の壁や床などは雲形定規で計ったみたいに綺麗に削られ、全体的に弓なりの曲線を描いている。他の面も同様に削られそれらを立体的に見据えた時に見えてくるのが“球”、つまり室内は巨大なスプーンで抉った様に球形に削り取られていた。直径にしておよそ30メートルか、それこそ魔法で消し去ったみたいだ。

 事実、この消滅現象は魔法が関与していた。

 『内部に設置されていた装置全てが起動し暴走、局員が駆け付けた際には既にこの有様だ。次元転移システムの暴走で空間に小規模な次元断層が発生し、その全てを巻き込んで虚数空間への穴を開けたと思われる』

 「システムが暴走したきっかけは?」

 『現在調査中だ。装置そのものは起動許可が降りなければ使用は出来ないし、正規の方法に則って使用すればこちらで管理しているコンピューターにログが残る。それすら無いのだからこれは完全な事故という見方が強い』

 「監視カメラの映像は?」

 『そちらも現在解析している。帰還の方は安心してほしい。そちらに手隙の小型次元航行艦を派遣させる。面倒かもしれないが、帰還の際はそちらを経由してミッドに戻る手順になる』

 「私らはどうだってええねん。なんで……こないなことに」

 『…………事故の犠牲者は四名。周辺を警護していた局員らが目撃したそうだ』

 画面に提示される計四人分の顔写真、それらは全てはやてにとって知己を写した物だった。

 ウーノ。

 セッテ。

 ノーヴェ・ナカジマ。

 そして、高町ヴィヴィオ。

 彼女ら四人を総じて『犠牲者』と呼んだクロノの表情は硬く、沈鬱とした面持ちははやてもまた同じだった。

 『詳細は未だ不明だが、現段階では装置の暴走により発生した小規模次元断層に巻き込まれたと報告されている。もしそうだとしたなら、四人はもう……』

 「やめてよ……そんな事、聞きたない」

 『虚数空間に呑まれた人間がどうなるかは君も良く知っているだろう。運良く発見されたとしても、五体が揃っているとは限らない。最悪、二度と発見できない可能性も……』

 「やめてって言うてるやんかぁ!!!」

 『…………すまない。君を追い詰めるつもりで言った訳じゃない』

 謝罪と共に画像が消え、申し訳なさそうな顔をしたクロノだけが映される。その表情を見て自分もいたたまれなくなったのか、はやての方も「ごめん」と小声で呟いた。

 『なけなしのコネを使って各管理世界支部の主だった連中に頼んで第一級捜索指定をかけさせている。局の法律が届く範囲なら発見され次第すぐにでも保護されるはずだ』

 「おおきに……」

 『時間を取らせて済まなかった。引き続きそちらの案件の早期解決に尽力してくれ』

 最後に敬礼し、それで通信回線は遮断された。哨戒に出ている家の中で住人ははやてだけで、話す相手が居なくなった後の静寂は冬の気温と関係なく身に沁みた。

 地上本部で起こった一連の騒動とその顛末ははやて個人のみならず、本局の方でも緊急会議が開かれる程の騒ぎを引き起こし、マスコミに対してはノーヴェの暴走を「暴徒による小規模デモ」、装置の暴走を「偶発的な事故」とし二つの出来事を関わりの無い全くの別件として報じた。転送装置事故に関してはその際に行方不明となった民間人が四名と報道させ、民間の方にも捜査協力の要請を求めているそうだ。

 だがそれでも、次元遭難者が無事に発見される確率は極めて低いと言わざるを得ない。年間でも平均数人から十数人程度の遭難者がミッドでも確認されるが、実際の次元遭難事故で身柄が五体満足で済むのはほんの一割程度。しかもその中で身元が判明されるのは更に一割を切る。虚数空間という時間の無い海をさまよって辿り着いた先が何十年も先の時代で浦島太郎と言うのはザラで、ひどい場合では記憶喪失も有り得る。

 見つかりっこない……諦めだけがはやての胸の内を埋めるが、それ以前に彼女にはある悩みが頭に圧し掛かっていた。

 (なのはちゃん……)

 哨戒から帰って来る親友にこんな惨い報せをしなければならない……その心労は計り知れない。

 直後、レーダーに目標座標特定のブザーが鳴ったのは同時だった。










 「…………」

 「どうかしましたか?」

 それまでベッドの上で安静にしていたトレーゼが上体を起こし、『理』のマテリアルが様子を伺う。焼かれていたその身体は既に表面の皮膚を形だけだが再生させ、今は焼失した神経の再生を行っている。本調子には遠いが、それでも動く程度には問題なくなってきていた。

 「おう、起きたのか主殿」

 「もうちょい安静にしてなきゃいけないんじゃないのかい?」

 そこへ適当に食料を買い漁っていた『力』と『王』の両名が帰って来た。手には彼女らのお眼鏡に適った菓子が大量に詰め込まれ、外見とは裏腹な子供っぽい趣向が見え隠れしていた。事実、人型となり肉を得たのはほんの十数年前で自我が生まれたのもその時、つまり精神年齢はそれ相応という事になる。

 三人が欠けることなく揃ったのを確認し、トレーゼが床に落ちていた服を拾い着る。消失した右手の代わりに『理』が甲斐甲斐しく袖を通すが、彼が放った言葉は彼女らを呆気に取らせた。

 「逃げるぞ」

 「…………はい?」

 冗談を言っている様には見えない。元より、冗談など口にしない性格なのは百も承知。なら必然的にその警告は正しいと言うことになり……

 刹那、ホテル全体が結界に閉ざされた。

 「敵襲!?」

 無彩の空間が魔力に彩られて行く様子を見ながらマテリアルらが臨戦態勢に入る。外界と隔離されたこの空間に人の気配は全く無く、どこから攻めてくるかの予測もできない。

 だが何も感じ取れていないのはマテリアルだけなのか、既にトレーゼはこことは違う別の場所に意識を集中していた。

 「連中、ここを嗅ぎつけたか」

 「嘘! ご主人様の隠遁は完璧だったじゃないか!」

 「塵芥どもは鼻だけは達者だ。事実、連中の中には正真正銘の犬もおるしな」

 どこから襲来するか分からない攻撃に備えながら三人のマテリアルはトレーゼを囲むように背中合わせの円陣を組む。左右前後、どこから来ようと打ち砕かんと構えるその姿に徐々に殺気が研ぎ澄まされていく。やがてそれが最高潮に達した瞬間────、



 ビルは根元から崩壊した。










 【鋼の軛】、魔力で構成された巨大な杭を数十本出現させる拠点制圧用の魔法だが、今回ザフィーラが放ったそれは過去最大級のものだった。本来何十本も出現させるそれを全て一本日集約し、侵入したホテル一階のフロントから上階に向けて打ち立てる。そうすることで隠れ家ごと吹き飛ばすと言う算段だ、相手は自分達の前に姿を出さざるを得なくなる。

 それまで建っていたビルに代わり建立した白銀の杭……その頂上、先端部分に果たしてトレーゼとマテリアルらは健在だった。

 「砕けろ」

 足を踏み鳴らした瞬間、杭全体に亀裂が入り次の瞬間には頂上からバラバラと崩壊していった。その上空には変わらず四人とも健在で、さきの倒壊で傷一つ負った気配がない。それどころかユーノが与えたはずのダメージも完全に癒えている様にも見受けられた。

 その周囲は既に囲まれている。飛行可能な空戦魔導師を筆頭に、地上にも逃げられない様にナンバーズや陸戦魔導師が控えている。開戦の号砲はとっくに上げられているが双方睨み合って動く気配は無く、見えない火花が散る。

 だが、その膠着も長くは続かなかった。

 「ォオオオオオオオオオオオオオオオオオーッ!!!」

 紫電の影が音速の動きでトレーゼに迫る。馬鹿正直に真っ直ぐ飛翔したそれを『力』が受け止め、その正体を見極める。

 「トーレ……」

 「気安くその名で呼ぶな!!」

 相対するは姉と弟。否、片方にとっては既にもう関係の無い敵でしかなく、滅すべき邪悪としか見ていない。互いに同じ顔立ち同じ色の瞳をしていても、抱えた感情のなんと正反対な事か。姉が烈火の如く怒り狂う修羅ならば、弟は狂気の氷を身に宿した悪鬼……どちらが狂した存在かなど論ずるに足りず、要はどちらも道を外れていた。

 「主殿に触れるでない塵芥が。失せよ!」

 「ぅ、がぁ!!」

 黒い波動がトーレを飲み込み、その体を吹き飛ばす。すかさず近くにいたシグナムが抱え止めるが、状況は再び膠着状態へと戻った。形勢としては数に劣るトレーゼ側が不利に見えるのは相変わらずだが、彼らには数の差を引っ繰り返せるだけの力がある。実質、トレーゼ側はアジトを暴かれただけで何の痛手も被ってはいない。

 「トレーゼ様、いかが致しましょう?」

 「俺はまだ本調子じゃない。お前達に任せる」

 「御意」

 屠殺許可を下された瞬間、三体の悪魔がそれぞれの方向に散開し敵を撃墜しようと出陣する。そしてそれを迎撃する為に同数の魔導師が宛がわれた。

 『理』となのは。『力』とフェイト。『王』とシグナム。残りの頭数全てを注ぎ込んでトレーゼだけを叩くつもりだった。

 「“13番目”ぇ、覚悟!!」

 邪魔者が居なくなった事で再びトーレがトレーゼに迫る。ライドインパルスの速度は過去最高速に達し、超音速の刃がトレーゼの首を討ち取らんと牙を剥いた。

 「ライドインパルス……ソリッド」

 超合金すらバターより容易く切り裂くそれは皮膚の下を一ミリも通らず、リミッター解除能力その防御仕様によって阻まれる。体表に薄くそして高密度で展開されたそれはTNT火薬の爆発にすら余裕で耐久し、あらゆる物理衝撃の一切を跳ね除ける鉄壁と化してトレーゼを守る。

 「トーレ、下がっていてくれ。貴女に危害は加えない」

 「黙れ! 貴様の様な模造物の詰め物程度の存在が、私に情けを掛けたつもりでいるのか!!」

 「ハイリゲン・パンツァー」

 膨れ上がる魔力にトーレの体が再度弾かれる。魔法に対する自動防御『聖王の鎧』を再現したそれは既に固い皮に覆われているトレーゼの周囲を包む様に展開され、薄い紅の水晶の如く球形に閉ざす。あらゆる魔法を削ぎ落とす絶対の鎧と、いかなる衝撃をも受け止める究極の盾……それが両立した今のトレーゼは単独で難攻不落を誇る不動の要塞と化し、彼女らの前に立ち塞がる。逃げも隠れもせず。

 「フリード!」

 キャロの命令で巨竜となったフリードが火を噴く。吐かれた火球は見事に着弾し、魔力の鎧を溶かさんとその外周に燃え広がる。まるで巨大な火の玉だが、その燃焼は長くは続かない。

 「アブソリュート・ドミネイター」

 燃え盛る炎よりも鮮烈な紅い光が放たれ、それを受けたナンバーズの面々が次々とその動きを止める。支配者の縛鎖は同族支配に留まらずネットワークを介してそのデバイスをも停止させていく。程なくして全てのデバイスのAIは沈黙し、使用者の命令にも反応を返さなくなる。絶対支配者のジョーカーがある限り、同じ機人と魔導師で彼を打倒する事は不可能なのだ。

 無論、元からそれが効かない存在も居る。

 「テェェエエエエエエオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」

 飛び出した獣人の拳が全ての敵を打ち砕かんと突き出される。元よりデバイスに頼らず己の拳のみで戦うザフィーラにとって支配者の威光はまるで意味を成さない。

 「牙獣走破ァッ!!!」

 「……ほう」

 ビルを跳躍台代わりにしての飛び蹴りは紅い鎧を僅かにへこませただけに終わったが、単身でそこまでの力を見せつけられたトレーゼの興味が守護獣に向けられる。

 「確か……あの時躾けてやった犬か」

 「犬ではない! 守護獣だ!!」

 ヴォルケンリッターの一員として激突した事は何度もあったが、互いに一対一で相対したのは件の都市決戦での幕間となっている。僅か三分、それも相手に予言されての敗北を喫したザフィーラにとって今回はリベンジマッチとなるが、完全な守勢に回ったトレーゼを肉体のみを頼りに打ち破れるかが最大の問題となる。

 デバイスの助け無しに魔法を十全に扱え更に大威力を持つ物理攻撃な行えるのはザフィーラと守護騎士の面々を除けば、火炎放射を行えるフリードと元々魔法を使えないナンバーズ、そして魔導書型デバイスというアナログさ故にアブソリュート・ドミネイターの効果を真に受けない八神はやてのみ。それ以外では使い物にならず現状でトレーゼを充分に害する事の出来る存在は限られていた。

 だが、ただそこに立っているだけなら苦労は無い。

 「デウス・エクス・マキナ……起動」

 『All right.(了解)』

 失った右手から左手に移された唯一の相棒が応え、その姿をこの場に相応しい形に変える。指輪から薄いカードへ、そしてそれが回転しながら更に形状を重厚な角錐に似た形へと変貌したそれは……。

 「ブラスター……ビット?」

 ブラスターシステムを完全解放したなのはが操る半自律砲台、黒いブラスタービットがトレーゼの周囲を衛星の様に旋回する。そして、奏者の指揮棒の如く振られる腕にならい、虚空にその数が急速に増加した。

 「……無茶苦茶だろぉ」

 総数、十二基。それらが周回する様はまるで土星環さながらだが、それらの照準は残らず外敵に向けられている。

 「ロック」

 十二個の自動砲台が一斉にザフィーラを向く。先端の銃口に当たる部分に魔力が集中し、高出力レーザーと化した紅い光が追い詰めにかかる。

 「く!」

 機動力を確保する為にオオカミの姿に変わり空を疾走してその軌道から逃れる。だが光線はなにも彼だけを狙うものではない、十二本の軌道はすぐにランダムに分かれビルを切り裂きながら外敵を排除しようと動き回る。

 そしてそれらは地上で身動き取れないナンバーズに対しても容赦なく降り注ぐ。










 「……!!」

 最初に狙われたのはビルの屋上で砲撃体勢を執っていたディエチだった。開けた場所に身を置く彼女は格好の餌食、それを放置する理由はどこにも無く真っ先に撃墜しようとするのは道理だ。

 だが駆け抜けた光線は直撃しない。直前でその前に飛び出した影がそれを遮った。

 「なんとか、間に合った」

 駆け足で屋上へ急行したティアナの障壁がレーザーの進路を遮断していた。指の一本程度の幅しかないそれを両手で受けながら彼女の足は徐々に押し込まれ、途方も無い圧力を前に魔力だけが消費される。

 ふと、レーザー照射が止まる。だがそれは決して彼女らに対する攻撃の意図を逸らした訳ではない。

 「これはっ!?」

 足元の揺れと内臓を持ち上げる浮遊感、それと同時に周囲の景色がズンズン上に上昇していく。間違いない……。

 「このビルを切った!」

 十二本ものレーザーが飛び交う中でその一本が彼女らの足場となっていたビルを真一文字に切り裂き、崩れる豆腐か寒天の如くに上部が倒壊を始める。急いでディエチを抱えて走り出し、隣の建物へと飛び移る。

 「あぁっ!」

 「せぃや!」

 幸いにも大して距離はなく、着地の瞬間に膝を擦り剥いた以外に損傷は無かった。使い手がダウンして足枷となっているがイノーメスカノンも無事だ。

 「それにしたって……」

 溜息つきながら攻撃されないのを確認する。トレーゼの周囲は目暗ましのつもりか守護騎士の面々が縦横無尽に飛び交い、隙を見てフリードが炎を吐いてくれている。

 「今の内にここを離れるわよ。今度やられたら私だけじゃ対処できない」

 「う、うん……」

 魔力で編んだワイヤーを射出し、階段を使わず地面に降り立つ。デバイスが停止して魔法が使えなくなっても術式を要さない簡単なものならこうして使用できる。だがその程度のものでトレーゼには届かない。

 「さっき言いかけた続きだけど、あれを突破出来そうな作戦か何かない? せめてあの鎧だけでも剥がせたら……」

 「…………私見だけど、多分あの人はあそこから動かない。ううん、動けない」

 「どうしてそう思うのよ?」

 「あれだけのビットを個人で制御するのはデバイスの力を借りていても相当な負担を強いているはず。それこそ指一本動かすのも躊躇うぐらいはね」

 そう言えばそうだ。こちらが陸戦に偏っていると言うのもあるが、相手は空中に留まったままじっとしている。索敵と照準のために視線が絶えず動くのを除けば、それ以外で動かしている個所は一つもない。圧倒的な力を誇示している様に見えて実は一杯いっぱいなのかも知れない。

 「多分、あの中で自分で制御しているのは半分くらい。けど器用に自動索敵機能を切り替えながら絶妙なタイミングで自分が操作してる」

 「つまり、攻撃が通る通らない以前にブラスタービットの反応速度を越える一撃を打ち込んで防御線を突破しなきゃいけないってことね」

 敵もあれで警戒心が強く、蚊トンボの如く飛び回るヴォルケンリッターをあしらいながら、ティアナ達の様に逃げ惑う地上の面々も執拗に撃ち続ける。恐らく視界内のビットを自らが制御し、後は自動制御に任せているのだろう。

 ふと、イノーメスカノンが目に入る。見た目も然る事ながらその威力は折り紙つき、短時間ならなのはの砲撃とも張り合える。

 「この砲、ひょっとして魔力にも対応できたりするかしら?」

 「確か、入局した頃ぐらいにマリーさんがもしもの時にって……」

 「ナイス! マリーさん」

 地下の水道管かと見紛うほどのそれを担ぎ上げ、ティアナは移動を始める。目指すは敵の死角だ。










 一方、三方に散開したマテリアル側は誰の邪魔も入らない一対一の闘争を存分に謳歌していた。単独で他を圧倒するトレーゼに負けんばかりの勢いで眼前の敵の排除を試みる。

 「ハーッハッハッハ!! そらそらそらぁ! どうしたのさオリジナル、さっきから手も足も出していないじゃあないか!!」

 自身には無い圧倒的パワーによるごり押しで迫る猛威に真正面から対抗できず、フェイトは徐々に結界の中心から離れて行く。もちろん、これは彼女の作戦の内で、一つの事にしか集中できない『力』に対する実に単純な誘導作戦に過ぎない。自分との戦いに熱中させ孤立させた所を叩く、それが彼女との戦いで最も効率的な勝ち方だ。

 全てのAIが沈黙している今、バルディッシュは近接戦における防具程度にしか役に立たない。それでも、相手が自分の有利を確信した瞬間に生まれる最大の隙を最速の攻撃で付け入る事が出来たなら……。

 「光翼斬っ!!」

 鬼火の鎌から放たれた三日月の刃が街灯や電柱を切り刻みながらフェイトを追尾する。同じ効果のハーケンセイバーを放つも、地力の差からそれを打ち破るのに多くの魔力を消費してしまう。そろそろ攻勢に出るタイミングを見図らねば冗談抜きで撃墜されかねない。

 (まだ、まだ耐えなきゃ。自分の勝ちを確信すれば、あの子は必ず……!)

 「余所見してる暇があるのかい!」

 虚空に出現した水色の魔力弾が次々と撃ち出され、正確無比な精度でフェイトを狙う。サイズの小ささとは裏腹に大きな破壊力を秘めたそれらは着弾と同時に地面を揺らし、フェイトの足を引っ掛ける。

 「っく!」

 片膝を着いた瞬間、その周囲に魔力の杭が突き刺さる。次に動けば当てるという警告だ。

 「フッフッフ、やっと追い詰めたぞオリジナル。大人しくバルニフィカスの錆になっていれば痛い目に合わずに済んだっていうのにさ!」

 鎌から形状が変形し雷を纏った大剣へ……その先端に発生した雷光が単純な電流現象を伴い地面を破壊する。もちろん、そんなものが彼女の真打であるはずがない。

 「雷刃滅殺ぅ、極光ざぁぁああああああああああん!!!」

 振り下ろした雷光の斬撃は熱と電流を暴力的にまき散らし、土を抉りガス管を切断しアスファルトを液状化させる。それだけの力に裏付けされた必殺の一撃はその行先を違える事無くフェイトに向いて、彼女をこの世から蒸発させんと突き進む。

 傍目には絶体絶命、何をどうしてもフェイトの負けが確定している様にしか見えないこの状況……。

 彼女はこの瞬間こそを待っていた!

 「リミットブレイク、真・ソニックフォーム!」

 肉体が魔力の奔流に呑まれる直前、パージしたバリアジャケットが一瞬だけその流れを相殺し、その刹那に人間の反射速度の限界を突破したフェイトの軌道が刻まれる。

 そう、彼女はずっと理想の瞬間を待ち望んでいた。『力』の性格上、相手を追い詰めればほぼ必ず大技で仕留めに掛かろうとするはずだと考えた。その隙を突く形で反撃に転じれば如何に彼女が人外と言えども反応は遅れるはずだった。

 その予想は的中した。大技の発動で硬直体勢のマテリアルを強襲する。デバイスによる魔法は使えずとも拳に高圧電流を蓄積した一撃は容易に岩盤を打ち砕き、頭部か心臓を捉えれば必滅は免れない。残り数メートルと迫った所で初めて相手がフェイトの存在に気付き視線を向けるが、既にそこは彼女の制空圏内、必殺の間合い。

 「はああぁぁぁぁーっ!!!」

 急ぎ体勢を確保しようと目論む『力』のその左胸に、音速を超過したフェイトの拳が今────、



 「スプライト、ゴォォォオオオオオーッ!!!」



 心臓を貫く事はなかった。突き出した拳は打つべき対象を見失い、フェイトの視線が消えた敵を探して宙を泳ぐ。

 「こっちだよ!」

 「っ! っぐはぁ!!?」

 背中に熱い衝撃。同時にバリアジャケットが解除され、魔力の鎧を剥がれたフェイトが地に伏す。ジワリと背中に温かい感触……間違いない、深くやられてはいないようだが出血している。早急に治療しなければ大事に至る可能性もあるだろう。

 だが今のフェイトに撤退は許されない。僅かに揺れる大気から相手の気配を読み取り、そこからマテリアルを探し出す。

 しかし……



      「どこ見てるのさ!」



                「こっちだよぉ!」



           「鬼さんこちらってね~!」



 縦横無尽、様々な方向から響く声。声の聞こえた方向を向く頃には影も形も無く、そこに存在したモノが高速で動いた事を証明する大気の揺らぎだけがある。

 瞬間移動にも似た超高機動、反射速度を優に越えたその速度、そして『力』のマテリアルが自分をベースに形作られていると言う事実を元に、フェイトは明解な結論を導き出した。

 「それが、あなたのソニックフォーム」

 「あったりー!」

 背後の気配に振り向けば、そこにはバリアジャケットの半分近くをパージしたマテリアルの姿があった。やはり自分と同じく防御を犠牲にして機動力を追求したスタイル。だがその速度はずっと速い。音速に迫る事で肉体がついて来れないのを危惧してセーブを掛けているフェイトと違い、根本から体の出来が違う彼女には遠慮が無い、その気になれば音速だろうが光速だろうが関係ないだろう。

 さっきと違い、今度は正真正銘の絶体絶命……相手の切り札を見極められずバリアジャケットを剥がされ、再装着しようにも依然としてバルディッシュは動じてくれない。

 「光栄に思うといい。刈り取ったキミの魂はこのボクと一体化し、キミの命はボクの中で永遠に生き続ける」

 死神の鎌は農具の大鎌、一振りでより多くの魂(雑草)を刈り取る為に進化した形状をしている。

 それが今、フェイトに襲い掛かる。










 彼女の撃ち方は、十三年前とは何もかもが違っていた。

 「ディザスターヒート!」

 全てを焼き尽くす火砲が三連、蛇行飛行するなのはを追って発射される。

 かつて、彼女は戦士だった。誇り高い戦士にとって戦いに貴賤は無く、おおよその戦闘行動はその全てが聖戦、相対した者はその力量に応じて敬意を払うに相応しい者が常だった。

 だが今は違う。尊厳と誇りを懸けた戦いに伊達や酔狂が入り混じろうとも、ただ純然な邪魔者の駆除行為に遊びは入らない。狩りを行うのに害獣の首に鈴を掛けるところから始める訳がない。最初から何の遠慮も掛け値も無く、全力は出しても本気は出さない……それが今の彼女のやり方だった。

 「今のあなたは蟲……否、蟲ケラにも劣る。誇りも無く、矜持も無く、覚悟も無く……在るのは『勝利』を追い求める固い意志だけ。その希求する勝利への願いでさえ、あなたのそれは自己にのみ向けられた閉じた願いでしかない。どこにも行かず、何も為せず、ただの自己満足で完結する程度の冷めた願望!」

 「ああっ!!?」

 砲撃で破壊されたビルの外壁が散弾となって降り注ぐ。重いコンクリートの雨はなのはに回避を許さず、小さなそれが頭に当たった程度で脳が揺れ平衡感覚を一瞬忘れる。

 「かつて形の無い勝利の先に更なる想いを描いたあなたの勇姿は輝いていた。無論、私以上に。だが今はどうですか。あなたの勝ち取る勝利には理想が無い、勝てばそれで終わりです。先へ続かない勝利に意味など無いと、他ならぬあなた自身が理解していたはず」

 高度を下げたその体に追撃を加え、回避したそれが更に散弾を生み出し追い詰める。必然的になのはは飛行を中断し身を隠す為にビルの間に伸びる路地裏へと潜む。

 「あの時のあなたには芯がありました。今のあなたにとって『勝利』とは何ですか? 敵を打ち倒すことですか? ならその後は? 今のあなたの目指す勝利とはただ単に組織が命じた企業命令でしかない。機械的、命じられた戦いに勝って得た勝利など己の物ですらないと言うのに。それで満足できるあなたはかつての輝きを失ったのでしょうね」

 「私はっ! 私が知る人を脅かす全てのモノから、知っている人達を守りたい。だから魔法を知ってからずっとここまで飛び続けて来られて……!」

 「笑止!」

 「きゃああっ!!」

 「日曜の朝八時ではないのですよ。一人のバイク乗りが一国の安全を守れると思いますか? 五人の正義の味方が力を併せた所で全世界の平和を維持できますか? あなたの理想は夢物語であって理想などと言う高尚な物ではありません。実現不可能だと分かっていながら高過ぎるハードルを自分で設定し、それを他者に顕示する事で悦に入っている悪質な快楽主義者、それが今のあなたです」

 「ちがっ……う!!」

 「違いません」

 切り捨てる物言いと同時に焔色の火砲がなのはの肌を掠める。

 「成就しないと分かり切った理想の下に何の信念がありますか? よくもその程度で星の輝きを名乗れますね。よくもそんなモノで不屈の心などと謳えますね。笑止千万滑稽至極、今のあなたの輝きはあの方のそれに遠く及ばない」

 あの方……今のマテリアルらが尊称で呼ぶ人物など、たった一人の狂人しかいない。

 「“13番目”に理想なんかあるわけない……。あの人はここで撃たないと、取り返しのつかない事になっちゃう」

 「己が理想に懸ける燃焼の輝きに善悪は関わりありません。理想とは白でも黒でもなく、ましてや大小でもない。あの方が望むモノは真実たった一つきり……即ち、『自己の確立』。この戦いは私達マテリアルの存亡と自由を、そして彼が彼で在る為の存在証明を懸けたもの。故に……邪魔立てなどさせません」

 黒杖の先端に大量の魔力、恐らく次の一手で全てを決めてくるはず。相変わらずレイジングハートは沈黙したままで、得意の大火力砲撃も相棒ありきの魔法である以上威力も低く連発も出来ない。

 「そんな理屈!」

 弾倉に詰まった残り全てのカートリッジを手動でロードし、半ば強引にリンカーコアから魔力を流し込む。なのはの性格上、ここは同じバスター系で臨みたいところだがそうもいかず、デバイスの補助の無い不完全なA.C.Sでの切り込みに全てを懸ける。

 「疾れ、明星。全てを焼き消す炎と変われ」

 出現する炎の翼はコンクリートの中に隠れた鉄筋を溶かし尽くし、それらの熱も魔力と共に先端に集中してゆく。火球の如く蓄積された魔力の塊は、さながら夜明けの金星……眩く美しい輝きとは裏腹に地獄の業火にも似た熱を持ったヴィーナス。

 「私の勝利を同胞に、そしてあの方に捧げましょう」

 かくして光輝く者と称された天使は堕天し、その傲慢を以て地上を焼き尽くす。

 「轟熱滅砕────真・ルシフェリオンブレイカー!!!」

 その焔は連なるビルに悉く溶かし大穴を開け、彼女らが位置する反対側の結界の壁に衝突するほどの突貫力を見せつけた。










 「ほう、やっておるな。善き哉善き哉」

 天空に伸びる炎の柱を目撃した『王』が満足げに呟く。その周囲には拳大の黒い魔力球が幾つも漂い、彼女に害を為そうとする不埒者の進撃を拒み続ける。

 「さて、烈火の将よ。他二人はとっくに戦況を変えておると言うのに、うぬはいつになったらそのナマクラを突き立てにやって来るのだ?」

 「くっ! なめるなぁ!!」

 不在の主人に変わり一騎打ちを申し出たシグナムにとって、目の前の怨敵は圧倒的に相性が悪かった。ベルカ騎士として接近戦を重視するシグナムに対し、『王』のマテリアルは終始距離を置いての一方的な防戦、それも指一本たりとも触れさせずジリ貧に持ち込む気でいた。

 「良いっ、良いな。やはりその勢いでなくてはな。ほれっ! そこだ」

 浮遊する魔力の球体が一瞬縮んだかと思えば、次の瞬間に圧縮されていたエネルギーを解放して爆散する。空気の流れに乗るシャボン玉の様なそれらはその全てが簡単な爆発物で、魔力反応による自動あるいは『王』の任意で炸裂し、周囲に破壊をまき散らす。破壊力はそれほどでもないが炸裂時の大音量と瞬間的な風圧は暴風域に達しシグナムを寄せ付けない。

 「っ! 卑怯者!!」

 「闘争に卑怯も汚いもある訳なかろう。悔しいなら立ち塞がる全てを斬り捨てて我を討てばいい。それが出来んなら所詮貴様の実力などその程度よ!」

 正義が勝つのではない、勝った方が正義を名乗る資格を持つ。勝てば官軍の理屈が正しいなら、今現在の“正義”はマテリアル側にあった。事実、シグナムは開戦以降彼女の体に触れる事さえ適わずにいる。現状、まともに戦える人員が限られている以上『王』に対抗するカードは、“13番目”の動きを封じるユーノを除けば必然的に腕に覚えのあるヴォルケンリッターに限定される。だが夜天の騎士の戦い方は彼女を排するのに適さず、千日手では魔力供給を受けないシグナムに分が悪過ぎる。

 「我は何も難しい事を言うておるつもりは微塵も無い。放っておいてくれ。首輪を付けて飼ってやっている訳でもなし、何故わざわざ噛みつきにやって来るのか」

 「元より問答の余地などどこにも無い。お前達は次元世界を蝕む癌細胞、放置すれば全てを腐らせ壊死させる最悪の劇物だ。人の味を締めた猛獣は駆除される……使用に危険を伴う薬品は処理される。至って簡単な理屈だ、何の矛盾も無い」

 「気に入らんな、その物言い」

 「ぬぅあああっ!!!」

 魔力球が十数個一斉に爆散し、颶風の域に達した風がシグナムの体を陸橋の上にまで舞い上げる。背中が激突した手すりはその形にひん曲がり、乗り上がった体が橋の上に転がり込む。騎士甲冑はまだ機能しているが、一度解除されれば正に鎧を剥がれた状態になってしまう。それであの爆破をまともに受ければ今度こそ保たないだろう。

 「毒物に喩えたのは良い比喩だった。だが、生憎と我らには意志がある。人間ではないが何の因果か血肉を受け形を得た以上、そこには曲りなりにも意識が宿る。鳥も、魚も、獣も、うぬらとてそうだったであろう。我らもまた同じよ、肥大化した意識が個我を生み、それが意志となる。我らは“物”にあらず。即ち一個の“存在”よ」

 「戯言を!」

 「認められぬ物言いは思考停止の黙殺か。底が知れるなぁ!」

 「ぐぁああああっ!!?」

 エルシニアクロイツの一振りでシグナムの周囲に魔力球が出現、間を置かず爆発。陸橋が真ん中から折れ、そして倒壊する。道路の真ん中にコンクリートの残骸が積もり、シグナムの姿がそこに埋もれる。

 「理屈ではない、要は単純なエゴとか言うものよ。我がそうしたいからする、その行為の結果が彼奴等の益となる。導く者と率いられる者が揃っている、後は指導者が手腕を振るえばそれで良い」

 沈黙した瓦礫から返答は無い。だが鋭く刺さる様な剣気はひしひしと感じる。まだこの程度では終わってくれない相手のしぶとさに苛立ちと悦びを覚え打ち震える。

 「聞こえておろう烈火の将。かくあれかし、世は全てこともなし。何事を成すにしても難しい事は考えなくとも良い。暴虐の限りを尽くし障害を叩き潰せば自ずと道は開けようよ」

 「否、それは暴君の圧政だ!!」

 地面が割れる。飛び出した炎の刃は『王』を二分しようと迫るも、それを足蹴にして上空に逃げ場を見出す。

 「マンホールから地下に逃げていたか。デバイスの助けも借りずそこまでの一撃を繰り出すとは、見事なり」

 モーセ伝説の紅海の如く割れた地面から飛び出し、空に逃げたその影を追う。その間を機雷の如く魔力の爆弾が埋め尽くし行く手を阻む。一瞬縮んだ後の爆発が暴風となって吹き荒れ地面に叩き返さんとシグナムに迫る。

 しかし、何度も同じ手で終わる彼女ではなかった。

 「紫電……一閃ッ!!!」

 足場の安定しない空中で全力を出す事は適わないが、魔力を纏わせた一刀が二重三重にもなって襲い来る暴風の壁に歪みを加える。

 「まだまだぁっ!!!」

 振った刃を切り替えし、物言わぬレヴァンティンを操り更なる斬撃を切り込んで行く。千年の永きに渡って戦いの場に身を置き続けたシグナムの剣は、振れば振るほど疲労で鈍らず逆に鋭く速さを増す。飛ぶより速く、風より速く、音よりも遥かに速く斬切し、その切っ先は遂に……。

 「でぇええやあああああああああああああっ!!!」

 暴君の威圧を斬り伏せた。圧縮大気の壁を真空の刃で切断し、風の道が閉じる前に一気に駆け抜け敵の首元に剣を突き付ける。鬼気迫る表情に身を強張らせた『王』だったが、すぐにその顔に余裕の色が戻る。

 「やはり道化の域は出んな。舞神楽にしては不出来よ」

 「生憎だがこの身は騎士であって媚を売る踊り子ではない。あの世で他の二人と地獄の業火に焼かれながら踊り狂っているといい」

 首筋に立てられた刃が頸動脈辺りに食い込み、鮮血の代わりに毒々しい紫色の魔力を流す。しかし、この期に及んでもまだその顔には余裕の色があった。

 「至近距離が必殺の間合いなのは、なにも剣士だけとは限らんぞ?」

 「なに!?」

 視界の隅で動くのはマテリアルの右手。突き出された人差し指の先には血の代わりに流れ出る魔力が背中を通って二の腕を伝い、指先に展開した魔法陣の術式により形を成す。本来の威力には程遠いが、「ほれ」という一言と同時に指先はシグナムの左脇腹へと接触、そして──、

 「『アロンダイト』」

 破壊の剣の名を冠した一撃は騎士甲冑に守られていたはずの肉を抉り焦がす。襲い掛かった衝撃にその身体は吹き飛ばされ、『王』の首からレヴァンティンも離れる。そのまま敢えなく地に墜落する様子を冷めた目で睥睨し、『王』は呟く。

 「騎士? 笑わせるな。弱々しい“人間”が。貴様は剣より尻尾を振る方がお似合いだな」

 左手に魔導書を現出させ、屍肉を啄むハゲタカの如く獲物のリンカーコアの回収に向かった。










 「うわぁあああああっ!!!」

 「ヴィータちゃん!!」

 奮闘空しく鉄槌の騎士が遂に地に押し戻される。魔力の強化を受けられないアイゼンを防具代わりに使っていたが遂にレーザーの圧力に屈し、飛行の推進力を大幅に上回るエネルギーに為す術もなくビルへと叩き付けられた。

 「────」

 ビットが反転、その半数がシャマルをロックオンする。総数六基の砲塔を前に一瞬怯むシャマルだがすぐにその軌道を見切り、レーザーが射出される直前に同数の【旅の鏡】を出現させる。開いた穴に吸い込まれ、その先を不動の“13番目”の周囲に開通させた。こちらの魔法が使えないなら相手の物を利用するだけ……ビルすら容易く切り裂く光線を浴びせ返せば如何に強固な鎧と言えど、たちどころに減衰すると考えた。

 だが、その希望的予測は一瞬で否定される。

 周囲に出現させた穴に、別の穴が開通しレーザーを吸い込む。それが自分と同じ【旅の鏡】だと理解した時、シャマルの鼓膜にキャロの悲鳴が響く。

 「フリード!!」

 羽ばたきを止めバランスを崩すフリード。落下したキャロとエリオはザフィーラが受け止め、フリード自身も空中で体勢を立て直し再び飛翔する。その両翼には小さな穴が二つ……。

 「っ!? ザフィーラ、よけて!!」

 危険を察知した警告も功を奏さず、ザフィーラの背中に突き刺さる四本の光線、その元を辿れば空中に出現した四つの穴が……。

 「ちょっと……」

 否──、

 「何の冗談かしら……」

 四つどころではない。

 大人の頭が収まりそうな穴が空を埋め尽くさんばかりの数で虚空に出現していた。穴の向きはバラバラで配置に規則性は無い様に見えたが、唯一の共通は【旅の鏡】が全て“13番目”を中心に内側に向いている事だけだった。

 「────」

 十二の砲台がそれぞれ別々の方向を向き、レーザーが一斉に発射される。【旅の鏡】は二つの座標を繋げる空間転送の応用……掃射された光線は直進しているつもりでも、全く関係性の無い二つのポイントを無作為に繋げた空間の穴を通れば労せずそのルートを曲げられる。

 光の牢獄……格子の一本一本は魔力を圧縮した高熱の糸、それがあらゆる角度から襲い来る。全く無作為にランダムに乱れ飛び交う光の線は地を裂き天に傷を入れ、しかしそれらの配置も実は精緻且つ完璧な計算の末に並べられた殲滅形態の端くれに過ぎない。

 「────フゥ」

 両手で水を掬い上げる様な動作、そして綿毛を吹く様な吐息。吹き飛ばされたのは綿毛ではなく、魔力を薄く引き伸ばした紅いシャボン玉。向こうの景色が透けて見える程に薄いそれは風と魔力の流れに乗り、そして周囲に満ちる。その光景は幻想的だが相対するシャマルと地上の彼らにとっては地獄以上の光景でしかない。

 ふと、レーザーがシャボン玉に到達する。同じ魔力で構成された物同士の接触は崩壊を起こさず、逆に内部に受け入れ……

 屈折、そして反射。

 「シャマルさぁぁああん!!」

 地上の誰かの絶叫が上がると同時に、撃墜された彼女の体がエリオとキャロの眼前に落ちる。

 全体がレンズの効果を果たすシャボン玉はただ透過するのではなく、内部の反射現象を利用して軌道を変え本来直進しかしないはずのそれを強引に曲げてる。これにより少し位置をずれるだけで簡単に回避される問題を解消し、更にレンズを経由する事で360度の角度をカバー、そこへ【旅の鏡】の空間転移が加わる事であらゆるレンジや障害物は意味を成さなくなる。

 「────」

 十二基のビットがレーザーを吐き出しそれを反射球が受け止める。反射球を経由して“13番目”の周囲を十二本もの熱線が光のヴェールとなって彼を覆い、見上げる存在全てを圧倒する。たまに脅す様に反射を突き抜けたレーザーが空間の穴に入り、別の穴から出てまた反射球に捉えられる。どこから飛来するかも分からない脅威を前に地上部隊は徐々に恐れを成し始める。

 だが、それに毅然と立ち向かう者も居た。

 「チェーンバインド!!」

 駆け抜けるは一条の翠の鉄鎖。天翔ける龍の如き蛇行軌道は一見では見切れず、その先にある反射球を破裂させて進行する。防衛のレーザーを掻い潜って先端が【旅の鏡】に入り別の場所から顔を出す。更に別の場所から入り、それがまた見当違いの場所から飛び出す。

 「────!」

 敵方に逆利用されるのを恐れたのか即座に空間の穴の全てを閉ざす。空間に開通していた穴が消えた事で鎖は空中で途切れバラバラになってしまった。

 「掛かった!!」

 だがそれも策の内、千切れ飛んだ幾本もの鎖は瞬時にその構成術式を変化させ、円環の枷となって“13番目”の鎧を幾重にも縛り上げる。

 ただ拘束しているのではない。接触面から分解された魔力が流出し、壁となっていた鎧を剥ぎ取り始めているのだ。

 「ストラグルバインド……!」

 変身と肉体強化、或いはそれ以外の何らかの形で肉体に作用する魔法に干渉し解除させる魔法。同じ魔力を利用し術式として応用している以上、このバインドが効かない道理はないと踏んだユーノの予測は正しかった。徐々に鎧はその半径を狭め、対魔法防壁が削られていく。

 「ッ!!」

 「おっと!」

 飛来する三本のレーザーを片手に展開させた魔法陣で受け止める。その際に少し押されるも持ち直し、バインドの術式を止める事はない。

 「────!!?」

 ある境を越えたところで鎧を構成する術式が崩壊し、鎧は完全に剥がされた。円環はサイズを変えて今度は四肢を封じ、最後の防壁をも侵食しにかかる。密度の違いから解除に手こずるが、その殻は確実に擦り減っている。ミサイルの直撃だろうと耐え切る防壁も肉体強化という区分である以上、この拘束とは相性が最悪である事実に変わりは無い。

 「トーレさん!!」

 「応っ!!!」

 ヴァリアブルランサーを構えたトーレが流星となって翔け、心臓がある部位に突き立てる。接触と同時に先端に魔力被膜を展開させて穿孔し、ストラグルバインドの効果と合わせて徐々に防御領域を削り取る。

 「────」

 「っくぅぅぅうっ!!」

 十二基全てのブラスタービットがユーノに照射される。それまでは片手で凌いでいた彼も四倍のエネルギーには耐え切れず押し流され、その距離を開けて行く。だが術式そのものは未だ機能させたままなのか、相変わらず防御領域の減衰は止まらない。

 吸血鬼を殺す銀の杭の如く突き立てられた槍が今にも殻を突破しようと迫る。だが、蚊トンボの如く飛び回る守護騎士を撃墜し、地上に逃げ惑う彼女らを追い撃ちし、こうしてまた一人邪魔者を排除しようと躍起になるトレーゼも、眼前に居るトーレにだけはただの一度も手を出さないでいた。

 「私を、侮辱しているのか!」

 戦士にとって相対した者から歯牙にも掛けられないという事は、それだけで憤死に値する屈辱となる。こちらが決死の覚悟で挑もうと風を受け流すかの様に無反応を貫くそのスタンスは、トーレにとっては自己がここに居る意義に苛立ちの燻りを点火させるに充分な熱を有していた。いっそ完全に無関心に徹していたならまだ違っただろうが、彼女を見据える“13番目”の視線は……自らの命を狙う者に向けるべきではない穏やかなものだった。

 「そんな目で私をみるな、下種め!!」

 ピキッ────。

 限界に達した殻に槍を中心にひびが入り、あと一息で突破できる所まで来た。ここでトレーゼも魔力を増幅させて拮抗し、接触点から火花が飛び散る。双方の力量はそこで拮抗し、膠着状態に陥ってしまった。

 「ライドインパルスさえ使えれば……!!」

 あと一押しが足りない……そうと分かっていてもトーレもユーノもそれで限界、他に手を貸せる人間は居らず、状況は根競べの千日手に移行したかにも思えた。

 しかし、希望はあった。

 「トーレ!!!」

 どこからか響く声。遠くから、だが確実に知覚出来る距離から届いたそれは聞き覚えのある妹の声だった。視線を移した先はまだ健在なビルが脇に立ち並ぶ大通り、そのど真ん中に二人揃って陣取るのは……

 「ディエチと……ランスター隊員か!」










 「仰角と固定姿勢の修正完了。距離約360、行ける?」

 「チャージ完了! いつでも行けるわ」

 死角に移動していた二人は途中で作戦を変更し、まだ戦っているトーレとユーノの援護を行うべくアウトレンジからの射撃を開始しようとしていた。建物の屋上からではまた落とされかねない為、重たい砲身を担いで出たのは開けた道路のど真ん中。相手を視界に収め尚且つ射線を維持するには見晴らしの良い場所は絶対条件でビル以外となれば……あとはここしか残らない。

 「それにしたって重いったらありゃしないわね……」

 「早くして」

 「分かってる!」

 仰角の関係でディエチが固定の為に砲身の前を、ティアナが引き金を引く為に後ろを支え、ティアナ側に傾ける形で砲口を定める。

 「でもさ、本当に大丈夫かな?」

 「何が?」

 「だって、あれの防御力はメガトン爆弾だって効かないんだよ。この砲撃だって有効かどうか……」

 「馬鹿ね。仮に本当にそれだけの耐久性があったとしても、それはあくまで『面』での話。叩き込むエネルギーを圧力の掛かる『点』に限定すればいい話よ。ちょっと耳貸して」

 そう言ってティアナは自分の考案した作戦をディエチに明かす。それを聞いたディエチは特に驚きもしなかったが、かと言ってすぐに賛同した訳でもない。

 「危険すぎるよ。第一トーレの体が保つかだって……」

 「百も承知よ。だから、一応警告代わりに一言だけ言うつもりよ。それで“乗る”かどうかはあの人次第ってことで」

 「……りょうかい」

 「じゃあ、行くわよ!」

 カノンに蓄積されていた魔力が砲身へと移動し、圧縮を開始する。内部からじわりと伝わる熱の感触を確かめながら、合図と同時にディエチが叫ぶ。

 「トーレ!!!」

 望遠機能によりディエチは姉が反応したのを確認した。これで全ての条件は整った。後は……彼女が“乗る”かどうかだけだ。

 「発射!!」

 スターライトブレイカー・イノーメスシフト。本来、なのはほどの実力を持たないティアナだが、砲という特性を活かしその砲身内部に魔力を集中させる事で集束砲撃とした即席の大技。

 オレンジ色の光線は一直線に突き進み、その射線上に居たトーレが回避しようと構える。

 だが、それを二人の声が引き留めた。



 「「乗ってぇええええええええええっ!!!」」










 その真意を理解したトーレは回避するのではなく、一旦“13番目”から距離を離した後、それを足場にした推進ジェットとして利用し、突貫する。

 「オオオオオオオオオオオォォォォッ!!!」

 砲撃の、文字通りの後押しを受けて加速したトーレの槍は、“13番目”が身に纏った殻を再生すら追い付かせない速度でヒビを入れ、遂にそれが全身を覆った時……

 「通った……!」

 ガラスが割れる様な音と共に砕け散った。後は生身の体を貫通するのみ。

 だが一筋縄ではいかない。突き破ったはずの殻とは別に固い感触が伝わり、切っ先が跳ね返される。面食らったトーレの顔を映すのは一面銀色の鏡面体、それは“13番目”の体内に隠されていた最後の防壁である流体金属が硬化したもの。それが肉体の周りを覆い隠し、天ノ岩戸の如く閉ざされた場所へと彼を幽閉してしまう。

 「卑怯者め!!」

 怒りに駆られもはや刺突ではなく殴る様に得物を叩き付けるも、魔法を用いない純粋な硬さの前では全くの無意味。バインドを巻き付けての圧壊を試みるユーノだが、巨大な卵型のそれは歪みもせず、圧力に高い耐性を示すそのフォルムはあらゆる干渉を退ける。

 『EEG control start.(脳波制御モードに移行します)』

 視界を自ら封じた事で動きを止めていたはずのブラスタービットが再び息を吹き返す。有視界操作から脳波制御に切り替え、デバイスとのリンクを脳に限定化する事で第二の触覚とし、外の状況をデバイスを通じて知り取る……全ての電子機械を支配する『アブソリュート・ドミネイター』を用いる彼だからこそ成せる芸当だ。

 十二の砲塔がトーレの背後にいるユーノに向けられる。さきの鬩ぎ合いで力を使い果たしたのかもはやシールドを張る余力すらなく、空中を浮遊しているだけだ。だが、その表情に危機感は無く、むしろ余裕の笑みすら浮かべていた。その表情を“13番目”が窺い知ることは出来ない。

 「来るのがちょっと遅いんじゃないかな……」



 「────はやて」



 呟きが終わらぬ内に飛来した白銀の矢が流体金属の壁に接触し、そして弾けて消える。何の威力も感じさせない一撃に見えたが、変化は直後に現れた。

 「ごめん、遅ぅなってしもた」

 接触した部分から色が変化する。いや、色だけではない、物質を構成する物が変質しているのだ。強固な壁だった流体金属はみるみる間に侵食され、その物質を脆い『石』に変質させていく。北欧神話のヤドリギの枝をその名の原典に持つ石化の魔法、【ミストルティン】の効果によるものだった。

 外殻全てが石に変り果てた時、中から爆散して“13番目”が飛び出す。切り離した分の金属が右手を形作るが、大部分は石となって砕けた為恐らくは手を構成する分しか残ってはいないだろう。これで今度こそ、彼の身を守る防壁は全て除かれたはずだ。

 「残念やけど、私のデバイスは千年物のオールドタイプ。電子部品なんてこれっぽっちも使われとらんし、そもそも機械やないからあんたのISの有効範囲外や」

 シュベルトクロイツも人工知能が搭載されておらず、当然支配者の威光は通じない。

 加えてリミッター解除という特性上、再度エネルギーを蓄積するまでのタイムラグが生じ、その間はどう足掻いても『ライドインパルス』の再使用は不可能となる。事実上の「詰み」にある状態だが油断ができる状態ではない、相手は防御を剥いだ程度で安心できるほどヤワな相手ではない。

 「ミストルティン」

 紅いベルカ式魔法陣が展開され、お返しと言わんばかりに同じ石化の矢を出現させる。だがその大きさは桁違いで、ちょっとしたミサイルを彷彿させる巨大さだった。

 それを彼は地上のティアナとディエチに投げつける。

 「チェーンバインドッ!!」

 三本の鎖が伸びてその進攻を食い止めようと縛り付けるが、その行為は無意味に終わる。

 「バインドが……!?」

 「砂に?」

 引き千切られた鎖は断面からボロボロと崩れ落ち、矢は触れる全ての物質を石ではなく砂へと変じさせる。読み取り、再現した敵の技をアレンジし、本来は封印として使われる石化の魔法を全てを崩壊させる『風化の槍』として撃ち出したのだ。

 干渉を受け減速したこともあってティアナらは回避に成功したが、着弾したアスファルトは恐ろしい勢いで風化し黄土色の砂へと形を変えていく。水分を一切含まない乾いたそれは直接被弾しなかった地上の面々には一切被害を与えず、代わりに地面から建ち並ぶビル群を基盤から砂山へと解体してゆく。その光景はまるで、砂漠の流砂が津波となって雪崩れ込んでくるような荘厳な、そして途轍もない恐怖を感じさせるものがあった。

 ものの二、三分と経たず結界内の全てが砂塵と化し、目についていた高い建物は尽く砂山となり障害物としての意味を失った。小高い山となったそれらも、ほんの僅かな風の流れで崩れ落ち、やがてはほぼ完全な平地となる。

 不意に、大地が揺れる。

 「地震!?」

 「いや違う……これは!」

 「地盤沈下!」

 風化は地下に達するレベルで浸透しており、都市地下部を通る地下鉄やそれに準ずる空間をも砂塵とし、水分の無い粘性を欠いた地盤はそれらの空白を埋めるように上から崩れ落ちる。結果、範囲全体が巨大な流砂となり全てを飲み込もうとする……空を飛べる者を除いては。その様は、まさに巨大な蟻地獄。

 「みんな!!?」

 足場の意味を失った地面に埋もれ、地上の者は尽く下半身を埋没させた。何人かはすぐに脱出し同胞を掬い上げようともがくが、当然、それを彼が放置する訳がない。

 「ミストルティン」

 掲げた手の中に出現するもう一本の槍……既に全てが砂塵に帰した今、再び風化させる意味など無く、であればその効果が何をもたらすかについては論ずるに足りず……

 「やめろぉぉぉおおおっ!!!」

 正真正銘、石化の一撃が大地に打ち込まれた。流砂として一体化した全てを石に変え、その中に埋もれた存在諸共に押し潰そうと迫る。逃げ遅れた全てを埋葬する猛威が彼ら彼女らを潰しにかかるのだ。










 時間はこれよりほんの数分前に遡る──。



 「アクセルチャージャー起動。ストライクフレームは……未完全だけど、行くしかない!」

 大技を繰り出そうとして動きを止めているマテリアルを仕留めるには、炎熱の火砲を真正面から捌いて一撃を加える他にない。そうと決まれば早いもので、カートリッジを強引にロードして全身に魔力を纏い、迫る劫火に突貫する。

 「お願いレイジングハート! 届いて!!」

 火中に飛び込み唐竹割りの如く火柱の中を突き進む。チリチリと髪が焼け、滲み出た汗すらも蒸発する熱気の中で、その双眸は殺人的熱量の彼方にいるはずの敵を見据えている。その敵に一矢報いるだけの力を込め、彼女が蔑んだ勝利への一念を不屈の闘志と共に胸に刻みつけて。

 「──ッ!?」

 「届いた!!」

 突き出した愛杖の先に硬い感触、そして視界に確かな人影。目標を眼前に捉え再び手動でカートリッジをロード、零距離射撃による一撃を敢行しようとする。

 「ディバイン……!!」

 吐き出された薬莢が熱で溶かされ、消え果る。それは瞬きする間の出来事だったが、それより短い時間でなのはは撃ち出す魔力を物言わぬ相棒に注ぎ込んでいた。

 そして……

 「バスタァァァアアアアアアアアーッ!!!」

 刹那、焔が満開の桜に掻き消された。二つの相反するエネルギーが互いにぶつかり合い、行き場を失くしたそれが四方八方に飛散する。流星の如く飛び散ったそれらは周囲に相応の破壊をもたらし、アスファルトがめくれ、ガラスが割れ、電柱が折れた。そしてそれが全て収まった時、立っていたのは────、

 「……我が身を省みない無鉄砲な気質だけは昔のままなのですね」

 「それほどでも……」

 立っていたのは双方。だが互いに満身創痍の表情を浮かべていた。全力を撃ち尽くしたなのはは立っているだけで精一杯で、致命傷を回避したマテリアルの方も脇腹付近のバリアジャケットが消し炭になるほどのダメージを負い、二人は互いの肩に頭を乗せる形で休止を図った。

 そして束の間の対話が始まる。

 「どうしても退けないと?」

 「ごめん。私は私が知る人たちを守る為に、あなた達を倒す」

 「やはり、話はどこまで行こうと平行線ですか……。では、あなたが私達を打ち倒し勝利を得るのならば、私はこの勝利をあの方に捧げましょう」

 体勢を立て直すのもほぼ同時に互いの肩を押し、距離を置く。だが自分の身に起こった異常をなのはは感知した。

 「マガジン、抜かせて頂きました」

 すれ違いざまに愛杖から抜かれた弾倉はマテリアルの手で握り潰され、飛び出たカートリッジが地面に転げ落ちる。手動でロードする執念には驚きを通り越して呆れもしたが、弾倉そのものを破壊すればその効率は格段と低下する。

 「さあ、死合いましょう」

 ここで視界の光景が灰色のコンクリートジャングルから一転し、乾っ風が吹き荒ぶ砂漠の風景へと切り替わった。遠くの空で放たれた風化の槍の影響がここまで到達し、そして大地が揺れる。

 「カートリッジが……!」

 崩れた砂地の中に埋もれてゆく薬莢に手を伸ばすが、拾えたのは僅かに三個、対して相手は主人からの魔力供給を潤沢に受けているので早くも傷が塞がっている。相手の再生速度を削り落とすだけの攻撃を当てなければならないと分かってはいるが、そもそもの魔力量に違いがあり過ぎて話にならない。頼みの綱のカートリッジでさえこの有様となった以上、なんとしてでも現状を挽回せねばならない。

 「撃たせませんよ」

 撃ち合いは互いの最も得意とする土俵だと理解している故に、敢えてマテリアルは接近戦に持ち込む。普段は魔力を射出する装置として使用している杖を元来の近接戦格闘術の道具として振るい、接近戦に不慣れななのはを追い詰める。闇の書が吸い上げた人間の中にはシグナムやザフィーラとも肩を並べた猛者も居り、それらの経験値を吸収しているマテリアルにとってなのは程度の棒術は児戯にも等しい。弾いて必要以上に近づけさせず、さりとて距離を開け過ぎず、絶妙な距離感を保ったまま自分の領域で嬲り続けるのだ。

 「どうしました。私を倒すのではなかったのですか。腰が引けていますよ」

 「く……ああっ!」

 時間が経過する度に疲労や傷が治癒されているマテリアルと違い、どんなに人間離れした技量を持っていても所詮人間止まりのなのはでは時間経過は即不利に繋がる。押される度に傷が増え、体力を削られ、気力をそがれる……逆転の一手を掴めない!

 「お眠りなさい」

 そして遂に、その戦いも幕を引く。背後に回った杖の先端が後頭部を捉え、直撃したなのはは悲鳴も上げずに倒れた。撃ち合いの時には粘りに粘った彼女らしからぬ、呆気ないにも程がある終わり。冷めた終幕になってしまった事に何の遺憾も無いのか、マテリアルの視線は既に遠く離れた空に輝く紅い光に向けられていた。

 「ではそろそろ、務めを果たしましょうか……」

 懐から取り出した黒い薬莢を充填する。










 楔の如く打ち込まれた石化の矢は砂地に溶け込み、周囲を埋葬の牢獄へと変貌させてゆく。飛行できない者で無事なのはザフィーラに抱えられて上空に逃げたエリオとキャロのみで、それ以外は例外無く砂の地面に足を捉えられていた。戦場の中心からすり鉢状に陥没した事で全体が巨大な蟻地獄と化し、ほんの僅かな傾斜でも流砂は彼女らを逃そうとはしない。登ろうとした足を絡め取り、下から迫る石化の波の餌食にしようとする。

 だがまだ全てが石化してしまった訳ではない。

 「ザフィーラ、ユーノ君! 二人で岩盤を持ち上げて!」

 「出来るかもしれないけど、あれだけの物を地面から引き抜けば砂地の崩壊を引き起こす。そんなことをすれば地上部隊への被害が増えるだけだ」

 「せやったら救助! 飛行できるもんは早急に地上の隊員らの救助を!」

 「了解!」

 「ユーノ君はここに残って。術式に干渉して少しでも石化を遅らせて」

 「クロノ並みの無茶を言うよね」

 「出来やん?」

 「まさか。資料編纂よりソフトな業務だよ」

 魔導は術式プログラムの連続体、全体を構成するそれに相反するプログラムを打ち込み続ければ無効化、あるいはその進行を遅らせる事もできる。術式を打ち込むのに魔力が必要となるが、重要なのはプログラミングの速度と精度、テクニック勝負となる。万年司書として管理局随一の激務に身を置くユーノの情報処理能力はデバイスのAIに匹敵し、千冊の蔵書からたった一行の文言を数秒で検索し引き出す。その彼が力押しに傾倒する“13番目”に遅れを取るはずがなかった。

 だが、力ばかりが能ではない事を身をもって知らされる事になる。

 「『フローレス・セクレタリー』」

 発動するのは“不可蝕の秘書”の名を冠する知能加速・情報処理能力向上のIS。通常一割程度しか使用されていない脳の全領域を開拓し、そのニューロンを総動員し演算処理のみに先鋭化する。五感も、言語も、運動も排斥し、脳細胞を構成する全機能を計算のみに捧げたその姿は、まさに人の形をしたニューラルネットワーク、今の“13番目”は全ての事象を計算で解明できる存在へと進化を果たした。

 目に見えない不可視の攻防は一瞬でユーノ側が押し返された。

 性能が段違いなのだ、最初から。ありとあらゆる分野と方面において、彼を害し、蹂躙し、凌駕できる存在などいない。他ならぬ彼こそがそれを行う側なのだから。ライオンがシマウマを殺す事はあっても、チーターがガゼルを追い抜けたとしても、決してその逆の事は有り得ないのと同じことだ。

 「ーーーーっっっ!!!」

 鼻腔に鉄の臭いが充満し、口元に赤い液体が垂れ落ちる。過剰量の情報の処理はそれだけで脳に負荷を与え、毛細血管はストレスに耐え切れずに破裂し始める。視界にチカチカと星が瞬き、理性も本能も悲鳴を上げる。だがそれでも抵抗するのだけは止めなかった。重さも、硬さも、速さも、遠く遠く及ばないと分かっているはずなのに、それでも抗う彼の為にと皆が逃げ遅れそうな仲間を必死に救出してゆく。

 だが、それでも……

 「シグナムがいねぇ……」

 不足した人物に気付けたのはヴィータだった。リーダー格とも言える存在が、障害物の無くなった見晴らしの利くこの場所でいつまでも姿が確認できないなどあるはずがなく、その視線はすぐに彼女の存在に行き着いた。

 彼女は、砂の中に埋もれ、動かなかった。

 「ふざけてんじゃねぇぇぇっ!!!」

 砂塵となった建物の崩壊に巻き込まれたのかその半身は無様に砂に埋もれ、気絶しているのかピクリとも動く気配がない。その周囲にマテリアルの影は無く、それは彼女ほどの手練が敵にしてやられた事実を暗に示していた。

 絶望的な危機を目の前に彼女こそは健在だとばかり思っていただけに、最も遠い場所にいる彼女を誰も救いに行くことはできない。既に、石化の波はシグナムから僅か数メートルに迫り、今更助けが届くことなどない。

 「シグナムゥーッ!!!」

 灰色の波は彼女の体を飲み込み、そして……










 三人のマテリアルの中でトレーゼに忠誠を誓っているのは『理』のみである。『王』は彼を信仰の対象の如く神聖視し、『力』は頼れる盟友としての認識が強い。そう言った意味で彼に上位者として忠誠を誓っているのは『理』のみ。別格でも同列でもなく、信仰でも信頼でもなく、ただ単純に彼ならば己の力を十全に扱ってくれるだろうと言う安心感だけが彼女にはある。

 無論、価値観が違うからと言ってそれが三人の不仲を表すわけではない。最終的な物の見方が違うだけで根幹の部分は共通している。元が同じ存在から別れたのだからその主義思想のベクトルに差異があろうはずがないのだ。

 だから彼女は同胞たる二人を信頼し、二人もまた互いを信頼し合う。その信頼し合う者が進言した……だったら、やることは一つしかない。

 (私があなた様を撃ちましょう)

 排出された空薬莢が砂に埋もれる。通常のカートリッジと違い、今ロードしたそれは事前に『王』から渡されていた物、つまりはそれを用いてトレーゼを撃つ為の物だ。

 ロードした瞬間に魔力とは異質の感覚が流れ込む。だが決して不快ではなく、むしろ馴染みのある感覚……非常に触りの良いモノを感じた。

 今なら、全感覚と神経を犠牲にし演算処理のみに捧げた今なら、誰が撃ったところで分からない。今こそが好機、絶好のチャンスと見た彼女は遂に、発射に踏み込んだ。

 ────轟。

 撃ち出された砲撃の色は、全てを侵食し塗り潰さんばかりの“黒”……。紅く光る星を撃墜せんと突き進み、それは誰の手にも阻まれる事も、咎められる事もなく……

 彼に直撃した。










 それは“毒”……ヒトに用いれば立ちどころに身を滅ぼし尽くす強力な毒。命ある者を腐らせ、形ある物を破壊し、白いものを黒く染め上げる不浄の劇薬。

 魔女の毒リンゴ、呪いの糸車の針、蛇女の邪視……この世に毒は数有れど、彼に打たれたそれを上回る物は存在しない。何故ならそれは、宿主の肉体そのものを別物へと書き換える悪性腫瘍と同じものだから。

 だが……彼には通じない。

 全てを受け入れ全てに順応する彼だからこそ、打ち込まれた毒の効果を逆手に取り肉体をこれまでにない尋常ならざる速度で作り変えられる。それはまるで、人間の百万倍の速度で進化を果たす単細胞生物の様に。

 かつて、ジェイル・スカリエッティは言った。「彼は長いサナギの時期に入ったのだ」と……。外界から受ける影響を最小限に抑え、己の中に存在する因子のみを材料に皮一枚下で十年以上もずっと変異と最適化を繰り返し、最も万能に近い形になるように……その姿はまさに、醜い幼虫が固い蛹になり見目麗しい蝶へ成長を遂げるかの如し。

 百か、千か、それとも万年か……これから先それだけの時間を生きる事で到達したであろう場所へ、今の彼は瞬きの刹那よりも速く踏破し通過する。それは最早進化という概念を遥か彼方に置き去りにした、そう、それこそまさに……



 『超越』────。



 羽化の時が来た。長きに渡り己を封印し続けた殻を破り捨て、かつて戦闘機人だったモノが脱皮を果たし新生する。

 「────────」

 斯くして、己が誰かすら分からず自我を見失った哀れな男に代わり、ここに己の弱さを忘れ去る事で超越を果たした更なる怪物が誕生する。彼こそが人ならざる者達の希望“砕け得ぬ闇”となるのかは……神のみぞ知る。



[17818] 絡まる糸
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:221ddf5b
Date: 2012/12/14 14:37
 変化は、一瞬の事だった。

 本当に一瞬だったかそれとも数分たりとも時間が経っていたか正確な事は分からない。ただ確かなのは、それほど長い時間が経過してはいない事だけだ。

 最初の変化は石化の停止。

 ユーノが白旗を挙げる直前、シグナムが石に埋もれる寸前に、それまで容赦なく全てを飲み込もうとしていた石化の波は突然停止し、そして間を置かずにヒビ割れ砕け散った。それは彼の【ミストルティン】が完全に機能を停止し解除された証拠。割れた一枚岩の地面はみるみる内に砂粒へ帰し、周囲を殺風景な蟻地獄へと回帰させてゆく。

 これだけ見れば事態は喜ばしい方向に進んだと思えただろう。実際、戦友の無事を確認したヴォルケンリッターの面々は明らかに安堵の表情を浮かべていた。

 しかし、第二の変化はこの直後に訪れた。

 「──ア、ァア────アアッ」

 呻き……呼気を全て搾り出し、血中の酸素さえをも排出するような途切れ途切れの吐息が声帯を揺らし、擦れるような重低音が喉から捻り出されている。吐き出すために体勢は自然と最適な形、即ち前屈みになり、その表情と顔色を窺い知ることは出来ない。苦しいのか、不快なのか、あるいは歓喜に打ち震えているのかさえも分からない。

 やがて全ての息を吐き終えると、今度は吸い込むと同時にその体が痙攣する。自らの体を抱くように屈み、盛り上がった背中が息を吸い込み吐く度に大きく上下する。戦いの場でなければ大病を患った病人に見えない事もない、それほどまでに今のトレーゼは危うく、脆弱に見えた。

 しかし、実態は真逆だ。

 第三、最後の変化は容姿に現れた。満月を目にした男がオオカミの毛皮を纏うように、意中の美女を前にした伯爵が牙を剥いて本性を晒すように……毒々しく濃い紫の髪が塗り潰されて、全てを内包し拒絶する混沌の色、漆黒へと変容を果たした。油を吸い取った紙が黄色くなる様に、肉体の内から溢れる混沌を吸い上げて黒く染まった髪の一本一本から濃厚な魔力の残り香が鼻を突く臭気となって発散され、エタノールや有機溶剤にも似たその悪臭は全員が顔をしかめたほど。

 頭頂から毛の先の先まで墨に染まり、そこで痙攣が止まる。呻きも呼吸も、およそ生物としての最低限の動きでさえもが停止し、糸の切れた人形、電池の蓄えが無くなったラジコンの如く。唯一、その体が未だ空中に留まっている事を差し引いて、彼の時間が停止する。

 「────────」

 上体が上がる。顔に変化は無く、醜くなった訳でも美しくなった訳でもなく、白磁の肌は変わらず彼の唯一無二の表情を形成していた。

 だが、たった一つ、無視できぬ顕著な相違が存在した。



 瞳が、紅い。



 猛禽の眼とも言われた彼の虹彩は、戦闘機人特有の金眼から血化粧を塗り込んだ様に赤く、朱く、紅い色を湛えていた。それは地獄の色。この世界の遥か下方に存在すると言われる血の池、紅蓮地獄の色彩……彼の眼に地獄が映っているのではなく、彼の瞳そのものが一つの地獄、彼岸の果て遥か二万由旬に通ず水鏡なのだ。

 「────────」

 流体金属の右手を鏡に見立て、変わり果てた己の姿を凝視する。特に驚愕した風はない、己の姿形にさほど興味も執着も無いのかその反応は極めて淡白だ。

 ふと、その手が腹をさする。さきの戦闘で腹部に損傷を負った事はなく、ユーノから受けた傷も粗方完治している今、そんな部位を気にする動機がない。だが戦闘に関与していない行動だとすれば、平素において腹を撫でるというジェスチャーが意味するところ、それは……

 『空腹』。肉体を作り変えに伴った急激なエネルギー消費の反動が生物的な現象となって彼の体に現れた。そして恐らく、今や彼に残った唯一の生理現象である。

 「フゥゥゥゥ…………」

 息を吐く。さきのそれ程ではないにしろ、深呼吸の要領で肺を空にしそして息を吸う。今この光景を目の当たりにしたユーノやはやてはこの行動をこれから行う捕食、あるいは邪魔な敵を片付ける殲滅行動の前の準備運動程度にしか考えが及ばなかった。だが彼女らの予想を遥かに裏切る結果が待ち受けるとは知りもせず、また知る由もあろうはずがなかった。

 「ス────ゥ──」

 息を吸って吐く……たったそれだけの行為に、誰が思い至るだろうか……。



 よもやそれが捕食行動などと。



 刹那、総てが崩壊した。

 天が、地が……この空間を形成し、この空間に存在するありとあらゆる術式が自壊し崩れ落ちる。バリアジャケットと騎士甲冑は材料を失い破られ、飛行する者は浮力という足場を喪失して引力に引かれ落下を始める。天蓋となって街を覆い隠していた結界は魔力の真空状態に耐え切れず外圧での崩壊という有り得ない現象を引き起こし、海鳴から一片の痕跡残らず消滅した。

 質量保存の法則は魔力にも適用され、術式などで消費された魔力は熱エネルギーという形で変換される。故にこれだけ大量の魔力が一瞬で消失するのは物理的にも魔導力学的にも有り得ず、一見跡形もなく消失した様に見える魔力はどこへ消えたか……。

 「──マズイ」

 トレーゼの胃袋だ。無論、「胃」とは比喩であり実際はリンカーコアに丸ごと吸収された。

 そう、丸ごとだ……。たった一息の呼吸で半径約500メートルの空間に満ちる魔力の全てを分解し、それを捕食した。今やトレーゼにとっての食事とはカロリーでも電力でもない、大気中に湯水の如く無尽蔵に湧き出る魔力……呼気と共に吸い上げ枯渇させ、変換された僅かな熱のみが吐息と共に返される、その姿は正しく闇の書が生み出された神代の時代に存在したとさえ言われる魔導生命体そのものだ。

 だが大気に満ちたそれでさえ彼にとっては前菜にもならない食前酒……もし大気に満ちる魔力が全てアルコールで、この街全体を真空にするまで飲み尽くしたとしても彼は酔うどころか顔を赤らめもしないだろう。悪食の大食漢、暴食を司る蝿の王……これだけ食べてもまだ足りない、もっと寄越せと言わんばかりにその視線は口以上の主張をしていた。

 結界が解かれた事で砂漠が消失し、ズレた位相空間から正空間へと弾かれる隊員たち。真空を埋める為に周囲の魔力が流れ込み飛行能力を取り戻した者達が浮上する。魔導の戦いを一般人の目に触れさせる訳にはいかず、すかさずユーノが結界を張ろうとする。

 しかし、既にこの空間は彼が支配した。










 可も無く不可も無く……快も不快も関わりない。精神はこれまでと同じでただ一つの物事への執着が全てを占める。そこは変わりない不動のモノ。

 ただ────、感覚が変わった。

 見える……空の彼方、暗黒の虚空に散りばめられた星々の軌跡が。幾千、幾万、幾億もの刻の流れの中で変わらず輝き燃え続けるそれらが、今は手を伸ばせば掴めそうに錯覚する。

 聴こえる……海の向こう、名も知らない異郷の地を覆う雷雲の音が。遥かに離れ、とっくの昔に気流に消え去ったはずのそれは大自然の調べとして鼓膜を打ち、脳裏に楽譜が想起する。

 感じる……誕生から46億年、永劫変わらず地上の全てを支配してきた星の重力を。人智の外、人の身では到達できない極点に至ってなおこの体を地表に結び付けようとする偉大な引力。

 理解できる……空の色を、海の深さを、風の音色を。血潮の赤さを、這いずるモノの醜悪さを、そしてそれら総ての矮小さを。

 (────小さい)

 己が見下ろす者達。ついさっきまで自分に盾突き、討ち取らんと戦いを挑んできた愚昧な輩……己と同じ人型をし、中には自分に近い種も身を連ねているが、そんな連中でさえ今は芥子粒程度にしかその存在を認知する事が出来ない。物理的な大小ではない、その存在を構成する全要素の総和質量が純粋に雑魚だと言うだけの話しだ。仮に自分を構成する要素が“1”という数なら、連中は“0.000000000000……”とどれだけコンマの先にゼロを書き連ねなければならないのだろうか。その末尾の数字が“2”だろうが“3”だろうが関係無い、自分にとっては塵芥なのだから。

 塵芥という言葉で思い出した。あの三人はどこへ行ったと刹那だけ意識を外に向ける。そして感じる波動は三つ、そのどれもが自分に近しいものを感じる。彼女らが似ているのではなく、自分の方が彼女らに接近しているのだと理解するのに時間は掛からず、そしてそれすら疑問に思わずこれも矮小と切り捨てた。位置を知る為に気配を読んだのであって無意味な感傷に浸る目的などこれっぽっちも無いから当然だ。芥ではないにしろ、どれも指先に乗る程度の質量しか有さない存在に構っている時間はない。彼が真に探し求めるモノはこの遥かな次元世界でたった一人だけ……。

 (────何処へ?)

 肥大化した感覚領域を研ぎ澄ませ、その版図を星の地表全体に拡大する。人や獣はもちろん、大空の鳥、地中の虫、暗闇の深海を遊泳する未知の生物に至るまで、生きとし生ける全ての生物には等しくリンカーコアが宿り、今のトレーゼはそれを色や音色の五感情報に変換して感じ取る事を可能としている。カテゴリ分けされた150万種の中から4000種、更にその中から一種だけ選別し、総数約70億以上もの生命の息吹の中からたった一人だけを検索する。濃いも薄いも、鮮やかも鈍みも、清さも濁さも全てが入り混じり雑多な色の中から、不快になるほど見慣れたはずの一色を見つけ出そうと彼の眼は世界を見通す。彼が「感じたい」と願えば、彼の中に存在する石がその願いを叶え、形の無いはずの物に色を匂いを触感を肉付けし、第六感の様な不確かなものではなくしっかりとした五感で感じさせてくれる。

 しかし、山の頂きに転がる石の傷を数えられる彼の眼が目的のモノを捉える事はない。それは彼が追い求める存在がこの空間、少なくともこの地球という星の上から跡形もなく消え去った事を意味していた。そして、未だ全能には程遠い彼はその真の居場所を知る事はできない。

 ここまでのプロセスを瞬き一つの間にやり終えた彼は、眼前の邪魔な芥子粒の一掃に取り掛かる。とは言っても、彼にとってはただの食事行為に過ぎない。本当はさっきの一呑みである程度の腹拵えはしたのだが、いかんせん確かなエネルギーとして形作られてない魔力素は不味く、それまでなら決して美食などに興味を示さなかった彼が初めて美味いモノを喰らいたいと欲求して止まない。だから、目の前で小さいながらも旨そうな匂いを醸すそれに手を付けたくてたまらないのだ。

 目の前のそれらは熟れた果実、ツルの先のブドウ。食する為には収穫せねばならない。収穫するにはカゴを用意しなければならない。

 (あの先から────その先まで)

 特別な術式など必要ない、「そうであれ」と望むだけでそうなる。『カゴが欲しい』と願った彼の望みを、空間を切り分け隔絶する事で位相をずらした物をカゴとする事で彼女らを“収穫”して見せる。そして、このカゴ全体がもはや彼自身の胃袋として機能する事が可能なのだ。

 ふと、切り取った空間の中に見知った輝きを見る。ついさっきまで自分と似た輝きを発してその存在は彼が敬愛して止まない者の輝きだが、その熱量は他の雑多な芥子粒とほとんど大差なく、こうしてカゴの中に収めて初めてその存在を見つける事が出来た事に内心では驚きを隠しきれない。

 (貴女が──貴女ほどの者でさえ、小さく見えてしまう)

 それはいけないことだ。自らが敬愛する者が自らよりずっと下位の存在であってはならない。ただ輝くだけの存在を欲するなら宝石でも愛でればいいが、彼が求めるのはかつて自分に道を示した上位者としての存在であり、つまりは道標……先を行く為に道を照らさなければならないのに、宝石程度の輝きでは心許ない。今の彼女ではナンバーズを導く存在として余りにも頼りない。

 嗚呼、だが何も案ずる事はない。「そうであれ」と望むことで全てを変えられるのなら、彼女の存在をそれに相応しいモノに書き換える事も不可能ではない。彼女こそが上位者にこそ相応しいと確信するが故に、その結論に揺らぎはない。

 だがそのためにはまず、周りの芥子粒を根こそぎ喰らい尽くす必要がある。よもやその胃がどこの冥府に繋がっているとは思いもよらず、彼はただ一つの生理現象を収める為だけに食指を伸ばすのだ。

 前菜の次は、汁物だ。










 色彩が……反転する。

 赤が青に、白が黒に、曖昧な灰色はそのままに全ての色が対極の色へと染まり行く。それは結界の効果を持ち、彼岸と此岸を分かち狙った獲物を追い込む罠として機能する。否、実際は罠と呼ぶほど難解な物ではなく、バケツの中に沈んだビー玉を手で掬う程度の軽い挙動、少なくとも張本人にはそれくらいの認識しか無かったはずだ。

 半径4.5キロメートル……彼にとっては文字通り息を吹き掛けた程度の距離、一息という表現がここまでぴったりなのも他にはあるまい。全てが引っ繰り返った隔絶空間に色彩以外の変化は無く、物理現象の異常もなく、全てが平穏な場所。



 唯一、魔力が皆無なことを除けば。



 「くっ、うあああああああああぁぁぁっ!!!」

 「魔力がぁあ、どうしてっ!!」

 浸透圧、というものがある。血液中の塩分濃度の関係で赤血球などの細胞が周囲と自己の塩分を均一に保とうとする効果が働き、細胞が萎縮あるいは膨張する現象を指す。水道水で顔を洗うときに目が沁みるのはこの浸透圧が働いて粘膜から塩分が排出されるからだ。同じことは気圧でも言える。人工衛星やSFの宇宙船などに穴が開いて乱気流の如く空気が吹き流されるのは、内外の気圧差を均一にしようとする浸透圧現象の究極形とも言える。

 そして、それは魔力に関しても同じことが言える。天然自然では決して有り得ない魔力のゼロ空間を作り出し、圧力を均一に保とうとする現象を利用してゴマから油を搾り取るより強引に空間に存在する者達から魔力を掠め取る。深海の水が万物を押し潰すように、この空間に存在する生物は等しく魔力を搾り取られる。人間も、使い魔も、魔導士も、騎士も、戦闘機人でさえ例外ではない、だからこそたった一人の『例外』を守るためだけに彼の指先は更に空間を切り離す。

 「な、にを!?」

 反論など言わせず、彼の魔力の壁がトーレを取り囲む。音はおろか光さえ遮断したそれは全ての色彩が反転した空間で黒く輝き、外と同じ魔力環境を提供する事に成功していた。これで彼女だけは骨の随までしゃぶり尽くす胃袋から逃れられ、固い殻に覆われた種子の如くその身の安全を確保された。

 食事を再開する。搾り取った魔力は大気に滲むが決して混ざらず、ほぼ間を置かずしてその全てがトレーゼへと吸収されてしまう。大気に還元される事なく消失してゆく生命力を前に為す術も無いまま衰弱してゆく隊員達……そして、それを眺める六つの瞳があった。

 「ページの程は?」

 「順調に更新中だ。目覚めの深呼吸で一気に十ページも稼いでくれたぞ。重畳重畳、このままこの街の魔力を喰らい尽くせば半分以上は何とかなるやもしれん」

 本来、全てを衰弱死させるこの空間において彼女らマテリアルのみが健在なのは、ひとえに張本人たるトレーゼの恩恵を受けているに他ならない。毎秒リッター単位で漏れ出す魔力も例外なくトレーゼに吸収されるが、使い魔契約を交わした彼女らは常に魔力の総量の内の5%を供給されているため歪な永久機関として確立できているのだ。加えて、新生したトレーゼの魔力量はこれまでの彼がそれこそ芥子粒に思えるほどの魔力を秘めている。その内の5%となれば凄まじく、結果彼女らも彼に順ずるだけの熱量を獲得するに至ったという事になる。

 では、ただ自分達の取り分を多くする為だけに彼の強化を図ったのか?

 答えは、否だ。

 「ねーねー、さっきご主人様に撃ったのは一体何だったのさ?」

 「『プログラム・カートリッジ』という物を知っておるか。本来魔力を溜め込むはずの薬莢に術式を込めたものだ。個別の名前は無いが、やはり成功したか」

 「そろそろお聞かせください。私に撃たせたあのカートリッジには何の術式がプログラミングされていたのか……。あの人が身を震わせた時は毒でも撃ってしまったかと思いましたよ」

 「『毒』か。言い得て妙ではあるな」

 「なんですって?」

 「早とちりするでない。確かに他の人間にやっておれば間違いなく死んでいた。相手が主殿だからこその行動よ」

 「人体を細胞、遺伝子レベルで、しかも短期間に作り替える……そんな超突発的な突然変異にデリケートに出来ている内臓器官や神経細胞が不可を処理できるはずがない。如何にあの人とて……」

 「耐えれるさ。現にご主人様は耐えた。それがどんだけヤバい事かは知らないけど、キミの心配とかボクらの思惑とかを、あの人はすぐに飛び越えてしまえる。だから元々そんなのは要らない心配だったのさ!」

 「わざわざ魔力を吸い上げる為だけに彼を改造したわけではないでしょう。真実を言ってください」

 『理』の追及にとうとう痺れを切らしながらも『王』はやはり不遜な態度は変えず、迂遠な喋り方で要求に答え始める。

 「我が常々、主殿を失うのは惜しいと嘆いておるのは知っておるな。重ねて言うが、あの方の力は千年に一人居るか居ないかの逸材だ」

 それはもう耳にタコが出来るくらいには聞いている。『王』がトレーゼを信仰する理由の一つとして、彼の潜在能力の高さがある。千年に一人という件はさすがに盛っているとも思うが、事実として彼の魔力は今まで闇の書に記録された中でも郡を抜いて高く、歴代の主の誰もを置き去りにできるだけの才能も有していた。生まれた時代が戦乱渦巻く古代のベルカなら将兵として国の一つや二つを陥とせただろう。或いは、技術や文明が著しく発達した未来であったなら彼もまた凡俗の一人となっていたかも知れない。だが現代に生まれた以上、彼は紛うことなき鬼才であり、闇の書の落とし子たるマテリアルも彼を一時的なマスターとして目をつけた。

 そう、その契約は一時的なはずだった……。彼もまた過去の先人達と同じ運命を辿ったはずだ。いつからそうなったかは知らないが、闇の書の最後のページを埋める作業は持ち主の魔力を喰らい尽くすことで完遂される。生命の源を枯渇させられるのだから必然的に死に至り、その代償を元に闇の書は完成し何もかもが完結するという使い古された筋書きとなる。後は完成した魔導書から本懐の“砕け得ぬ闇”を抽出し、それを元手に更なる破壊と混沌を撒き散らす……というのが当初の目的だった。

 だが、何の因果か闇の落とし子たる彼女らは自分達以上の闇を抱えるトレーゼに魅せられ、『王』に至っては一代限りで終わらせるには惜しいと言って憚らない。リンカーコア蒐集は積極的に、それでいて将来的に彼の存在を存続させる……矛盾している。ページの空白を埋めていく程に彼の寿命は迫り、今更誰か別の人間に契約を切り替えようにも適役がおらず、それ以前に闇の書の契約は破棄する事など不可能だ。つまり、事実上の詰みにあったのだが……。

 「考えてみれば簡単だったのだ。修復し始めて間もない闇の書はプログラムやシステムに多くの穴をこさえた欠陥品、全身がバグだらけの落丁本。原本と照らし合せれば自然と足りない部分が見え、後は翻訳しながらそこを書き足して修復する作業が待つ。だからこそ『余白』が多い今の内に書き足しておいたのだ」

 「何を?」

 「考えろ。今の闇の書とかつての原書の間にあった一番の差は何だったか。所有者を変え、時代を変え、世界を変えながら『旅をする魔導書』と呼ばれた我らが書の真髄は何だったのか……うぬも知っているはずだ」

 「…………まさか、ああ、何ということを」

 「えっ、なになに? どゆことなの?」

 約一名理解できていない者がいるが、つまりはそういうことだ。過去の、少なくとも十三年前の闇の書には存在し現在復元された物には無いモノと言えば、答えは自ずと一つに絞られる。

 「嗚呼、素晴らしい。あなたの発想は悪魔じみています。同一の存在であるはずの私でさえそこまで考えが及ばなかった。純粋にあなたに敬意を表しますよ、『王』。まさか────」



 「あの人の存在を『管制人格』として組み込むとは」



 管制人格……それはデバイスで言うところのAI。AIと違うのは、その総体が電子ではなく魔力で構成され、ほぼ完全に人間に近い感覚と人間を遥かに凌駕する性能を有した魔導生命体が生体ネットワークとして組み込まれたマスタープログラム、それが管制人格。原書の闇の書が守護騎士を含む全てのシステムを統括し、所有者の補助機能として生み出された存在だが、復元された今の書にはそもそも管制人格に相当する部分が存在しない。

 「我らは立ち位置としては守護騎士の部類。どう足掻こうと書の全権を掌握する事は不可能だが……マスタープログラムとなれば話は別だ」

 「ちょっと待ってよ! それってつまり、ご主人様の存在がプログラム化して魔導書に組み込まれちゃったってこと!? またまた~、元々存在するプログラム素体を誰かに似せる事は出来るけど、実体のある何かを丸ごと魔力的な存在に置き換えるなんて不可能だよ」

 そもそも、夢幻の空間に捕らえたフェイトやスバルと違い、外部の存在をシステムの一部として迎え入れるのは無理がある。単純なシェアや容量としての問題で、パソコンと同じように予め“空き”を用意しておかなければならず、その点は穴だらけの魔導書だからこそ成し得た芸当だろう。もちろん、問題はそこだけに留まらない。

 「『α』を模して『Ω』を作り出せても、『α』をそっくりそのまま『Ω』にする事など不可能です。私達はナノハ達の姿を模して生み出されましたが、決して彼女らが私達になった訳ではないでしょう」

 物質界に確固たるモノとして存在する物を、全く法則性の違う魔力に置き換えた上で取り込むのは異常だ。簡単に言えば、本の中の文章で砂糖の甘さを表現するのではなく、本そのものに砂糖の甘味を付加するようなものだ。更に言えば物体を魔力的に変換するのも、言い換えれば原子や素粒子を全く別物に変異させてしまう神業に等しい。一見すれば物質変換にも見える【ミストルティン】も実際は分子結合に干渉して物質の延性や展性を阻害する魔法であり、その際に変色して石化した様に見えるに過ぎない。もし仮に物質変換を行おうとすれば、それこそ宇宙開闢、ビッグバン並みのエネルギーに匹敵する魔力を消費しなければ実現しないだろう。

 「だからこそ、それを可能にする因子が必要だった。全ての願いを実現させ、次元世界をも消し去る熱量を秘めた古代遺産……ジュエルシードがな」

 総体を構成する物質の変異──。全てをプログラム化し記録する魔導書──。そして、それらの超突発的突然変異にも順応する肉体──。

 どれか一つ欠けていても成功しなかった目論見……。ジュエルシードが無ければ肉体を変異させられず、闇の書が無ければ魔導生命体として新生する事はなく、そもそもトレーゼの『無限の進化』が無ければどちらにも耐え切れなかった。彼の新生は成るべくしてなり、マテリアルとの邂逅も、スバルがジュエルシードを拾ったのも、或いは全てこの時の為の布石だったかにも思える手際の良さ。いや、願い叶える種を彼が手にした瞬間から、万象は彼が思うがままになるように仕向けられているのかもしれない。

 「だが案ずる事はない。例え無意識であれ、あの方が望まれるなら我らにとっても益のあることぞ。ならば我らが助力せぬ理由はない」

 彼がマスタープログラムとなった今、彼が健在である限り闇の書は滅せられず、闇の書がある限り彼もまた永遠の存在を約束されたも同然となった。そしてこの互換が成立するという事はつまり、その眷属たるマテリアルも運命共同体として不滅の存在足りえる事を意味している。

 「闇の書はまた一歩、完成に近づいたぞ」

 「全ては戦乱の中に消えた混沌の極み、『砕け得ぬ闇』の具現」

 「大いなる闇と……それがもたらす破壊。その先にある真なる解放の為に……」

 闇の書の解放の為には現在の所有者の存在が必要不可欠で、完成しても書に呑まれない為には生きている間に彼の存在を書に組み込み同化させる……それを真にトレーゼが望んだかは置いておき、彼が新生を果たした今物語は次の局面へと強制的に移行する。究極の環境適応を成す進化能力に、魔力結晶を核とする事で得た無尽蔵の魔力……先代の管制人格とも肩を並べるレベルに達した彼の暴威を止められる者は誰もいない。

 そう、唯一人を除いて……。










 「……っ…………ぁ!」

 魔力の真空空間はガス室だ、じわじわと肉体を侵食して生命力を奪い、やがて死に至らしめる。管理外世界の科学では発見さえされていないが、魔力は人体が活動する上で酸素と同じくらい必要不可欠な存在で、枯渇すれば呼吸困難にも似た息苦しさを覚える。だが空気を断たれた訳ではなく、肉体が反射的に酸素不足だと誤認して肺に空気を取り込もうとする。結果、過呼吸やそれに伴う心臓発作が発生し死に至るケースが非常に多い。

 「こ、っのぉ……!!」

 エンジンに燃料を注がないバイクは三輪車にも劣る……自慢の鉄槌を振り上げるもカートリッジを消費した端から吸い上げられ、結界を破壊するつもりがほんの少しアスファルトを削るだけに留まった。一番気力充分な彼女でさえこの有様で、元の体力値が低い部類のユーノやはやてに至っては地面に倒れ込み気絶寸前の状態だ。そして、そんなヴィータでさえも遂に膝を折り地に屈した。

 ひゅうひゅう、と空気が漏れる様な音が喉の奥から響く。酸素は足りているのに体が酸欠と誤認してしまっているせいで極度の過呼吸状態、酸素過多症がもたらす肉体器官の機能不全はもはや限界に達しようとしていた。ナンバーズの面々は常人と比較すれば頑強な肉体に恵まれているものの、生命を維持する要素を抜かれた事で徐々にだが衰弱してゆくのを止められない。なまじ丈夫に出来ている所為で意識は保たれたまま生き地獄を味わう羽目になっている。

 体表から滲み出た色鮮やかな魔力の粒子は頭上で束ねられ、一つの流れになって余さずトレーゼの口内に吸い込まれて行く。彼にとってはリンカーコアから抽出した搾り汁を啜っている程度に過ぎないが、ゴマ油の如く搾り取られる側からすれば当然たまったものではない。捕食し吸収された魔力の大部分はトレーゼのリンカーコアを通じて魔導書に送られ、古代ベルカ語で記されたページとなる。

 恐らく彼自身も自分の体に起こった大異変を完全に理解している訳ではない為、吸い取ったそれらが自分の糧になっていると思い込んでいるだろう。だが実際は彼もまた吸い取った端から横取りされており、満腹感を覚えようとして吸収効率を上げてもその分だけあはり横取りされ、結局はいつまで経っても空腹が収まらない。彼女らを吸い尽くすまでは……

 唯一の幸いは、新生を果たした拍子に彼の能力、全てのISが停止していた事だった。

 「ディード……」

 「ええ、オットー」

 おぼつかない足に鞭打ち、立ち上がる双子姉妹。支給されたヴァリアブルランサーを捨て、本来の装備のブレードに持ち替えたディードを先頭に突貫する。かつて同族だった、今は人外に成り果てた漆黒の魔人に切り掛り無防備に晒されたその首を一閃の下に切り飛ばす。

 しかし……

 「っ!?」

 手応えが、ない。刀身は確かに首級を捉え、相手はそれを避けようともしなかった。にも関わらず、皮を裂き肉を切り骨を断つ感触が得物を通じて伝わってこない。まるで霧を殴りつけたみたいに何も感じないばかりか、切り飛ばしたはずの首は胴体の上に未だ健在で、紅い瞳は己を害そうとしたブレードを観察している。

 刃は確実に体を通った。これがマテリアル相手なら血の代わりに魔力が吹き出すはずが、彼に至っては何も出ず、それ以前に斬ったかどうかさえも分からない。

 「────────」

 「てぇあ!!」

 伸ばされる右腕を切り払うが、やはり体を傷つける事なく手品のように素通りしてしまう。

 ……いや、違う!

 「斬った端から再生している……?」

 魔導生命体となった今、恐らく今のトレーゼに内臓や骨格といった物は存在しない。体内に侵入した刃はそれらの干渉を受ける事なく突き進み、切り分けられた組織は再生の域を越えた復元能力により即座に癒着する。これがいくら攻撃しても感触や手応えを感じない真相だろう。

 切断によるダメージが見込めないのならと、ディードが次の手に移る。

 「IS、『ツインブレイズ』!!」

 インヒューレント・スキルは魔力を消費しない。固有技能による瞬間移動は複数のポイント間の移動タイムラグをゼロに近付ける。刃の先をアスファルトの地面に捉え、ほんの二、三秒も掛からず相手の周囲を四角四面に切り分けた。

 「オットー!!」

 「分かってる!」

 切り分けたアスファルトは綺麗に地面から引き剥がされ、持ち上げて宙に浮かせた二枚のそれをオットーのレイストームが結び付ける。空中で縫合されたアスファルト板はオットーの腕の動きに合わせてその距離を詰め、間に立つトレーゼを……

 「潰れぇぇえええええっ!!!」

 黒いサンドイッチにした。切断が駄目なら次に有効なのは圧殺、それも体全てを一度に押し潰すだけの面制圧が必要となる。押し花の要領で押し付けられた二つの圧力は互いを隙間なく埋め尽くし、その間に人間を挟み込んだとは思えない程綺麗に収まっていた。



 事実、そこには誰もいなかった。



 「うそ……」

 衝撃で崩壊し開放されたサンドイッチの中に人型の物体はどこにも無く、およそそこに何者かがいたと言う痕跡そのものが消失していた。血の痕などは無く、肉の欠片や服の切れ端と言った要素も見当たらない、本当に煙のように消え去ったとでも言うのだろうか。

 煙、というワードで二人同時に勘付く。自分達は彼に挑む際に武器を携行し、道路の一部を破壊する事までやってのけたが、火薬の類は使っていない。なのに、火の気の無いはずのこの場所でどうして……黒煙が吹き出しているのか?

 そもそも、認識が違い過ぎるのだ。生命体のそれとは違い今のトレーゼの肉体を構成するモノは細胞ではなく魔力……それを強固な自我とリンカーコアで繋ぎ合わせているに過ぎない。彼の意思ひとつで自由自在に形状を性質を変異させ、硬化に軟化、流体から気体への変貌も思うがまま。故に彼に物理的な干渉は意味を為さず、結果、二人の行動も徒労に終わる。

 まずは頭から現れた。瓦礫と化したアスファルトの残骸の上に黒霧が集束し人型を形成、徐々に下半身へと伸びて行く。程なくして全身の復元が完了し、紅い目がオットーとディードを捉えた。いや、唯一復元できなかった箇所がある。それは彼の肉体の内唯一の異物であった流体金属の武装、さっきまで右手を構成していたそれは体を霧散させた時に腕を離れ今はどこにあるのか分からない。その気になれば自分の場所に呼び戻す事も可能だが、今の彼ならそれよりスマートな方法がある。

 『欲しい』と願えばそれだけで叶う……必然、次の瞬間には湧いて出てきた魔力を利用して右手を完全に復元するに至った。

 「化け物ォ……!」

 「まったくよ……」

 規格外、という言葉がここまで似合う存在もそうそういないだろう。大したダメージも与えられないどころか、相手にとっては涼風が吹いたぐらいの認識しかない。その証拠にその瞳は自分に盾突いた二人を見ておらず、夢想家の様にその視線は紅く反転した空を見上げたまま雲の先にあるものを眺めているだけだった。

 しかし、その瞳が不意に二人を捉えた。凝らすように細められるその目は何か小さなモノを見つめる仕種。実際彼にとっては芥子粒も同然なので本当に小さく見えているのかも知れないが、その仕種は満身創痍の二人に再び闘志の炎を灯らせた。

 「ちょっとムカつくよね、その顔さぁ……」

 「天と地ほどの差があると分かっていても引き下がれなくなるじゃないですか、そんな表情を見せられたら」

 息をしているだけで命を削られる空間で二人の姉妹はもはや気力だけで挑んでいた。勝ち負けの問題ではない、勝敗という意味でなら自分達はここで戦う前から幾度も鼻っ柱をへし折られているようなものだ。そうまでして戦う理由はたった一つ……

 「ここで退いたら女が廃るというものです」

 ただ純粋な敵意、眼前の存在を排除しようと試みる思考そのものが彼女らを突き動かす。それは動くことが可能な全員に伝播し、恐怖や怯えを徐々に克服させ立ち上がる闘志を持たせる。

 「『エリアルレイヴ』、感度良好ッス!! セイン!」

 「オーケィ! じゃあ、いっちょド派手に……とは行けないけど、カマしてやろうじゃんよ」

 ボードに乗り込むウェンディとセイン。肉体の衰弱に立っている事もままならず、ウェンディは腹這いに、セインは浮遊したボードにぶら下がる形で飛翔する。体勢的には心許ないが、動けないよりは遥かにマシだった。

 ボードの先端からエネルギー弾が射出される。連続して出されたそれらは一発も漏れず全てが着弾するが、相手はやはり損傷を受けた様子は無く防御姿勢さえとっていない。だがそこまでは想定済みだ。

 「セイン!」

 「『ディープダイバー』!!」

 無機物透過の能力がセインの体を包み、ボードから彼女がすり抜ける。慣性によって浮力を失ってからも彼女は一直線に空を駆け、違えず目標に接触、そして地面に転がり込む。上下が激しく入れ替わる視界の中で彼女の目が捉えたモノは、燐光を発する二つの紅い瞳、狂気に身を委ねた存在の輝きは吸い込まれそうでそして吐き気を催す忌避感をも覚えた。転がる衝撃で砂利が目に入りそうなのにその目は瞬きさえせず、それが余計に嫌悪感を煽る。だが彼女の目的はわざわざ地面の上で取っ組み合いの喧嘩をするのではなく……

 「ドブ風呂に入ってなっ!!」

 ディープダイバーの効果はセインが触れている有機物全てにおよび、魔力とはいえ実体を持つトレーゼとて例外ではない。有機物質を含んだアスファルトから反転し、その体はマンホールから下水に投げ落とされる。下までの距離はそこまで深くなく着水した音が蓋越しからでも聴こえるほどだ。もちろん、汚水塗れにさせる為にそんな事をした訳ではない。

 「全然本調子じゃないけど撃てるよ」

 ゴツっと砲口がマンホールに突き立てられた。特に打ち合わせた訳でもなく、最初からこの流れになる事を理解しているだけだ。彼女らは『ナンバーズ』、互いが互いに一心同体、分からない事などありはしない。

 「発射!」

 解放されたエネルギーの奔流が分厚い蓋を溶かして地下を蹂躙する。閉鎖された空間は瞬く間に殺人的な熱気が充満し、周囲の側溝や別のマンホールから悪臭を含んだ蒸気が吹き上がった。ディエチの言ったように最大出力ではないため威力は低くなったがその分だけ地上への影響を抑えられたのは幸いだった。

 「やれた?」

 「さっきみたいに霧には……なってないね」

 捕食空間がまだ展開されている所を見る限りでは相手は未だ健在なのだろう。肝心の姿が見えないとなると、希望的観測だがそれなりの損傷を与えられたと……

 「ちょっと待って!」

 音がする……小さい、足音にも似た音、それが形だけ保ったマンホールの壁に響いて伝わってくる。それは内部に取り付けられた足場を昇る何者かの足跡。いや、何者かなどとっくに分かっている……。

 「────────」

 冥府の入口は三つ首の猛犬が番をしているはずが、どうやら今日に限って動物病院に世話になっていたようだ……そんなジョークを言って気を紛らわせたくなる。熱湯となった汚水に塗れ湯気を発散しながら顔を出すその姿はまさに地獄の悪鬼さながらで、紅い瞳も今度はしっかり己にちょっかいを出した虫ケラの存在をしっかりと確認していた。

 「──っ!!?」

 その瞬間に襲った波動はナンバーズ全員の肉体ではなく、脳髄の奥にある精神を本能的に揺さぶった。それは恐怖であり、怒りであり、悲しみでもあり喜びでもあった。ありとあらゆる感情の波が押し寄せ、彼女らの最も発達した感情を司る部分が刺激されているのだ。何を感じ取ったかはそれぞれの感性によるが、共通しているのは一つ、それが人間の脳では処理しきれない程の容量を有するもので、まともに受けた彼女らが揃って割れるような頭痛を覚えた事だけだ。

 「ぎぃ、っあぁああぁあああぁあああああっ!!!」

 処理しきれない情報量を抱え込んだ脳はそれらを痛覚に変換し遮断を促す。だが相手から一方的に送られてくるそれを止める術など無く、勇猛に立ち向かった彼女らは次々と無様に膝を屈して地に伏してゆく。そして、動きを止めた小煩い羽虫を払うかの如く、トレーゼの手が一閃──、

 「や、やめ────!」

 刹那、風が凪ぐ。

 軽く手を振る……先端速度も大した事はなく、本当にハエを追い払うか人の頬に張り手を食らわせる程度の力しか込められておらず、実際に受けたとしてもそこまでのダメージは負わない様にも思える。

 しかし、それは誤った認識だとすぐに体感させられた。

 「あ……ぁあ……」

 景色がズレる。手を振った方角、トレーゼにとって前方に位置するコンクリートジャングル、乱立するビルの群れ……視界の範疇に建ち並ぶそれら全てが一斉に、轟音と地響きを伴いながら根元から崩壊を始める。本来破壊すべき対象を大いに外してしまった一撃は、全く無関係の雑多な物体を悉く壊し尽くしそこを更地に変えてしまったのだ。そしてそれすらも、当の本人のトレーゼにとっては蚊を払う程度の運動、しかも相手が「小さい」ため寝惚け眼で耳元のそれを払うのと同じ正確さに欠ける雑な一撃でしかない。

 崩れた建物の粉塵がここまで到達する。恐ろしい事に、崩壊したビルの全ては砕かれた角砂糖の如く粉微塵になっており、手で掬えば指の間から零れ落ちるほど細かい粒子にまで分解されていた。今の一撃がもし立ち向かった彼女らの誰かに直撃していれば、跡形も残らず素粒子の域にまで分断されていたに違いない。もはやそれは破壊の概念を越えた究極の一撃、全てを分解し永劫に塵の山と化すクァチル・ウタウスの息吹。何も難しいことではない、彼にとって万物全ては不整合なパズルなのだ。60兆以上ものピースから成る“人体”と言うジグソーパズル、それを更に細かい原子や素粒子の値まで見通し、精巧に組み立てられているそれの脆い部分を一気に押し崩す、それだけで後は自壊するのだから簡単なものだ。ただ如何せん相手が「小さい」せいで狙った場所に当てられず、加えて生まれ変わった感覚に未だ不慣れな状態なのが幸いし、彼女らは全員傷一つ負ってはいない。だが、さきの精神波の衝撃と相まって彼女らの心からは覇気が消え去り、物理的な力を見せつけられた今、その勢いは意気消沈しかけてしまっていた。

 「……………………」

 「────────」

 もはや誰も目を合わせず、先んじて動こうとする者もいない。蛇に睨まれたカエルが微動だにしないのは、爬虫類は動くものを敏感に捉える代わりに全く動かず風景と同化した存在を認識できないからだ。それがトレーゼに通じるかは定かではないが、幸運な事にその視線は相変わらずここではないどこかに注がれたまま彼女らを見向きもしていない。文字通り眼中にない状態で普通なら好機と考える所だが、下手を打てば物理的に抹消される危険が伴う恐怖が彼女らを金縛りにする。蚊を叩く程度の攻撃で街の一画も二画もまとめて消し飛ばす怪物相手に誰が真正面から挑みたがるだろうか。

 (何だ? 何かを探してる?)

 (どうしてそんな事が分かるのさ?)

 (なんとなく……。それより、どうするのさ。この状況をなんとかしないとボクらはともかく、あの人たちは限界だよ)

 オットーの言うように、魔導師メンバーは全員が失神状態にまで陥り、中にはもう呼吸しているかどうかさえ分からないぐらい静かになってしまった者もいる。かく言う彼女らも啖呵切った手前すぐにダウンする事はないが、実は立っているだけで精一杯なのが現実だ。言い出しのオットーに至っては膝が笑う始末……早急に状況を打開するための力が彼女らには根本的に備わっていない。

 不意に、トレーゼの視線が蠢いた。カメレオンの散眼の如く左右別々に動く眼球は見ている者に生物的な嫌悪感を与え、ナンバーズの面々は鳥肌が泡立つのを抑えられない。不規則に視界を回るその視線が定まった先に何があるのか想像するだけで────、

 「──ッ!!」

 「え……!?」

 「セイン!!」

 眼光が誰かを貫いた。誰だ? セインだ。その首を締め上げるのはトレーゼの剛腕で、一瞬で距離を詰めた彼は自分より遥かに「小さい」その存在を吊るし上げながら彼はセインを観察していた。

 そう、観察しているのだ。右手で首を掴み上げ、左の手で顎を捕らえてしげしげと見つめている。その行為にどれほどの意味があるかは不明だが、その様子はお気に入りの人形の細部を確認する子供の様な手付きをしていた。離して観察し、近付けて観察し、矮小な彼女の何かを突き止めようとその視線を注ぐことだけに集中している様子だ。

 その瞳を間近から、しかも真正面に捉えてしまったセインは自分の胸中に得も言われぬ感覚が広がるのを覚えた。さっきの精神波の爆発とはまた違う、押し潰すようなさっきの衝撃とは違い、今度のそれは交差した視線を通じて流し込まれる様にジワジワとセインの心を犯し、彼女を塗り替えようと侵食する。それは同化……彼女らの中にある進化の因子、トレーゼの遺伝子を起源とするそれが保有者に惹かれているのか、有機的な熱はセインを内側から作り替えようとし彼女の精神を知らぬ内に同調させようとしてくる。しかし、トレーゼ本人にとってそんなものは副産物でしかなく、実際はやはりただ観察しているに過ぎない。

 「────違う」

 「うわっ!!」

 熱が消え体温が元に戻る。何が“違った”のかは知る由も無いが、彼の興味が失せた事で図らずもセインは不可逆の変質を迎える事もなく生き延びる事ができた。あのまま解放されず変質を続けていたらどうなっていたか……それは彼女を捕まえていたトレーゼ本人にも分からない。だが少なくとも彼ほどの肉体を持たないセインならば急激な変質に肉体が耐え切れずに死滅していた可能性もあっただろう。その前に彼が“違い”に気付いて放逐したのは幸運だったのかもしれない。

 だが何が“違った”のかも分からない内にその手が今度はウェンディを締め上げにかかる。そこでようやく彼女らは金縛りを解き、蜘蛛の子を散らすように方々へ散開した。もちろんウェンディを見殺しにする訳ではない、散らばって一旦相手の意識を逸らした後、その背後からディエチが駆け寄る。

 「でぇいぃぃやああっ!!!」

 砲身を鈍器代わりにしての一撃が頭部を打つ。接触と同時に頭部を構成する魔力を拡散させられれば聴覚と視覚を同時に潰す事が出来ると考え、その隙にウェンディの救出を試みる。

 しかし、その目論見は文字通り砕け散った。

 まず両手に感じたのは、有り得ない剛性……続いてカノンの先端がヒビ割れ、長く使い込んできた相棒とも言える武装が想定外なフォルムへと形状を歪ませる。ペーパークラフトが壊れるように、イノーメスカノンは中程から折れ曲がった姿を周囲に晒す事となってしまった。当然の帰結、トレーゼは視覚も聴覚も失っておらず依然健在なままの姿を保ったままだ。

 「そんな!」

 「ディエチ……に、逃げるッス……! みんなも……」

 首を締められ息も絶え絶えのウェンディが周囲に逃走を促す。しかし姉妹を見殺しにはできないと言う感情が枷になり、誰一人として逃亡しようとする者はいない。それどころか彼女を救出するために再起し、今一度トレーゼに立ち向かおうとする。

 「こんのぉぉぉーっ!!!」

 槍を構える。もはや戦闘機人ではなくなった今、対機人専用に作られただけの装備は無意味に等しい。

 「────────」

 切っ先が脇腹を捉えるも、どういう理屈か体表は金剛石の様な硬性を誇り一ミリも槍を通さない。だが不快には思ったのか一撃受けた後にウェンディを手放し、小煩いハエに視線を移す。動きを止めれば的になると分かっている彼女らは常にその周囲を飛び回るように動き、トレーゼの狙いを定められなくする作戦だ。

 だが、ウェンディを除く全員が飛行能力を持たない陸戦タイプである以上、その活動範囲は二次元的なものに限られ、トレーゼにとっては近いか遠いかの違いでしかない。それらをまとめて一掃する方法は……

 「────!」

 すっと挙げられたトレーゼの右足が大地を捉え打ち付けた。さきのビル群の崩壊を目にしたばかりで、いったいどんな大異変が発生するかと全員の意識がほんの数瞬だけこれから起こるであろう危機に備えて引き締められ──、



 大口を開けた奈落に身が吸い込まれていった。



 「んなっ!!?」

 「うっ、そぉ!?」

 張本人を中心に半径およそ十メートル……その範囲の大地がごっそりと、底が見えない奈落へと続く穴が口開きナンバーズを冥府に誘う。

 穴の向こうに広がる暗黒を認めた次の瞬間、結界内に殺人的な突風が吹き荒れた。大陸を流れるハリケーンもかくやという颶風は全ての大気を巻き込んで一直線に穴の“底”を埋め尽くさんと雪崩込み、常人の倍近い体重を有する彼女らでさえ落ち葉の如く持ち上げられて穴の“底”へ引きずられる。場所は道路の真ん中、しがみついて体勢を保つ為の物は何も無く、そもそも地面が消失したのだから立つ事さえ不可能な極限状態に全員が為す術も無く流されていく。

 「『エリアルレイヴ』……ッ!!」

 限定飛行機能を有したボードにウェンディがしがみつく。持てる全ての力を発揮して流れに逆らうが、それは決して逃亡の為の行動ではない。

 「みんなァ!!!」

 「!?」

 「ウェンディ……!」

 「掴まれッスーーーッ!!!」

 伸ばすのは腕ではなく脚、それを最も近くにいたセインが掴みもう片方をディエチが、そしてその二人の腰にオットーとディードがそれぞれしがみついた。数珠繋ぎになった彼女らは死にもの狂いで姉妹の体に抱きつくも、全員の体重が加算された今この暴風圏から脱出するのは至難を極め、拮抗するのが現状ではやっとだった。

 強烈な暴風に当てられて建物の窓ガラスが砕け散り、虚空に消える。流星のように煌めきながら吸い込まれたそれらを目で追って穴の“底”を見極めようとする。これだけの大気を巻き込む穴がどこに繋がっているのかという興味と、その先に何があるのか知る事で少しはこの状況をどうにか出来るかも知れないと考えたからだ。しかし、穴の奥に“底”は無く、在るのは無謬に広がる暗黒だけだ。

 いや、違う……。目を凝らせば吸い込まれたガラス片とは明らかに違う輝きが見え、しかもそれらは想像も着かないほど遠くに存在する光。そこを目掛けて大気が尋常ではない速度で流れ込む。それらの事実を元にして、現在進行形で命の危機に瀕している彼女らが全く同時に出した結論は……

 「宇宙っ!!?」

 どうりで“底”が無いはずだ、どうりで周囲の大気が悉く吸い込まれるはずだ、どうりで人の身では到底理解できない暗闇が広がっているはずだ。一体どこに穴を開けたのか、穴の先は蒼い空の彼方に広がる深淵の宇宙のど真ん中であり、広大無辺な真空を埋めようとこちらの空間に存在する大気の悉くを貪る暴威は、魔法も科学も辿り着けない大宇宙の呼吸、つまりはただの自然現象に過ぎない。だが、穴の先に広がる空間は生存に必要な要素が何一つとして存在しない死のエリア……そんな所に放り出されれば全身の体液が凍結と蒸発を繰り返し、最終的には肉体が崩壊する壮絶な最期となるだけだ。生体部分が爆散すれば流石の戦闘機人と言えども絶命は免れない、今の彼女らを繋ぐ命綱は現在唯一の飛行能力を持つウェンディの働きに懸っている。

 「チンク姉さまが居なくて良かったかも……! こんなのじゃ姉さま今頃吹っ飛ばされてた!」

 トーレから戦力外通告をなされた小柄な彼女は今この場にいない。彼女の分の体重が掛からないのは不幸中の幸いだが、そんな事は関係ないとばかりに彼女らの体は暗黒の深宇宙に少しずつ引き寄せられていく。根性の見せ所と踏ん張るウェンディだが最大出力の全速力でも傍目からは微速前進でしかない。ただ穴を展開しているだけのトレーゼと違い、彼女らには体力も気力も天井がある……底をつけば待っているのは遥か天空に存在する地獄、唯一動ける力を持つ自分達が居なくなれば残った魔導師組は全滅してしまうと分かっているだけに、精神的重責も半端ではなく……

 「……ヤバ……」

 「な、なに? どうしたのさ、ウェンディ!」

 「ヤバい……ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!!! それはまずいッスよぉっ!!!」

 「何ぃ!? 何が起きたの!!!」

 先頭のウェンディの動揺が後列に伝播する。既に最後尾は穴の先に片足突っ込んでいるだけに前の様子は見えず、不可視の事態が更に恐怖を加速させる。何かとんでもない出来事が襲い掛かると皆に予感させた。

 事実、そうだった。

 体重100キロ近くある彼女らでさえ体が持ち上がる風圧、そんな物が吹き荒れれば、ただの人間である他の者達はどうなるか……。必然、体は飛ばされる。否、この場合は吸い込まれると言った方が正しいだろう。

 隊の中で最も小柄で最も体重の軽い者の体が浮き上がり、地面を転がりながら穴に接近して来る。ヴィータでもなく、エリオでもない……二人以上に小さな人間などこのメンバーには一人しか居ない。

 「キャロォォォッ!!!」

 男と違い屈強な体には決して恵まれているとは言えない小さな体躯は、止めるものなき道をひたすらに転がり進み、無窮の闇が待ち受ける穴へ、地獄に通ずる穴へと食虫花に誘われる羽虫の如くに引き寄せられる。戦闘機人ですら身が保たない空間が少女にもたらす影響は『死』あるのみ。仮に億分の一の確率で何かしらの奇跡が起きて生存し得たとしても、半径数光年の範囲に完全な虚無だけが広がる空間を慣性のみで流れ、幾ら叫ぼうが声は届かず、概念化する事さえ無意味と思える“無”の中を漂う感覚は、既存の感情・理性・思考の全てを洗浄し彼女の小さな精神を白痴に漂白するだろう。そうなる前に何としても救出しなくてはいけない、しかし────、

 「ダメ! 届かない!! 遠すぎる!」

 ボードに掴まるウェンディはもちろん、後の四人も両腕を塞がれている極限状況では誰も手を伸ばせず、末端のディードかオットーのどちらかが脚で挟み込むしかない。だがキャロに接近するには、彼女をキャッチできるポジションまでウェンディがボードをコントロールしなくてはならず、暴風と化した乱気流帯の中をそこまでする技量も度胸も彼女にはない。そうこうしている間にキャロの体が転がる速度は加速し、穴まで残り数メートルに迫った彼女は気絶したまま自身の危機に気付く様子はない。このままでは彼女は……。

 「ちっくしょぉぉぉおおおおっ!!!」

 セインの慟哭に他の四人の表情も諦めと絶望の色に陰る。誰もが小さな少女の救助を諦め、必要な犠牲と割り切り見捨てる事を決意していた。



 その時、天が揺れ動いた。










 「────?」

 それに最も早く反応したのはトレーゼだった。巨大な収穫用カゴとして展開した自らの天蓋が大きな軋みを上げている。魔力ゼロによる外圧? いいや、その気になれば一息でこの街もろとも地図から消してしまえる彼がそんな程度の結界を張る事は有り得ない。もっと他の要因、この星の上を全て見通す千里眼を持つ彼が予見出来なかった事態が、今まさに起ころうとしていた。

 「ぬぉおおおお、ぉおおおぉぉおわぁぁあっ!!?」

 穴が閉じる。深淵への道が閉ざされた事で暴風が嘘のように消失し、勢い余ったウェンディらが一斉に飛ばされる。彼女らは知る由も無いが、今のトレーゼの興味は小煩いハエや蚊ではなく自らの支配領域に外部から強制的に介入する力の存在に注がれていた。紅い空の天蓋はあちこちに亀裂が入り、外部との繋がりを得た魔力素が徐々に浸透し、枯渇した空間の中を満たしてゆく。修復する事はもちろん可能だが、今の彼の心理を占めるのは純粋な好奇心から去来する興味……自らの領域に入り込む存在を見極めるまで手を出さず、そしてそれは今や彼の眷属となった三人にも強要される。

 「主殿! 何を呆けておる、遊んでおらんとさっさと討ち取ってしまえ!!」

 「────」

 「あなたが動かないと我々も……!!」

 「────黙れ」

 上位の指揮系統からの命令と、願いを叶える石の力が下位の存在であるマテリアル達から限定的に言語能力を剥奪した。吐き出す息は声帯を振動させる事はなく、彼女らは念話による交渉を試みる

 ≪今ここで纏めて一掃しておかねば、次にいつ牙を剥くか知れたものではない!≫

 ≪叩ける時に叩き潰すのがご主人様のやり方じゃなかったのかよぉ!≫

 「────」

 抗議の声もどこ吹く風、我関せずとばかりに無視を決め込むその視線は依然として亀裂が刻まれた空を見上げている。さっきの震動は本命ではない。地震で言えば巨大な本震の前にある小さな揺れのようなもの、つまり本当の衝撃はこれから訪れるという事になる。物理的な震動ではない……大地が揺らいだ感覚はなく、星の震動を促す地殻変動なら今のトレーゼが感知できないはずがない。結界を揺るがした衝撃は彼の知り得ない場所からのもの、つまりは……

 「次元震──小規模だが、強い」

 空間そのものが歪みガラスを擦るような高音を捉える。無論、人外と成り果てた彼とその眷属のみが拾える音だ。最初の衝撃から一度は収束したかにも思えたが時間が経つごとに軋む音は次第に大きく響き、パリパリと薄氷を割る音が聴こえるようになり、遂に臨界点を越える……。

 次元震とは名の通り地震にプロセスが似ている。何かしらの要因で空間が歪曲する時に周囲に負荷が掛かり、整合性を取ろうとする力との反発が次元を揺るがす。その前触れに必ず空間が徐々に歪みだし、その証拠に結界はさっきから何度も激しく膨張と収縮を繰り返している。外の様子がどうなっているかと目を向けるが、この震動が外界に及ぼした影響は何一つ無く物理的な破壊は見受けられない。驚くべきことにこの次元震は今この場所、結界で外部との位相を断ったこの空間でピンポイントに発生しているのだ。

 そして本震はこれからやってくる……。



 ────轟!!!



 余兆に気付く前に穴を閉じていなければ、今頃深淵の宇宙に放り出されていたのはトレーゼの方だったかも知れない……それほどに衝撃のエネルギーは凄まじいものがあり、予想以上の空間波動にそれまで一切動じなかった体勢がぐらつき、膝を着くほどの震動が結界を襲った。亀裂は更に広がり、当然外から魔力が入り込み気絶や失神していた者達が次第に息を吹き返し始める。

 「っしゃおらぁあああっ!!!」

 最初に回復したヴィータが周囲の状況を絶好のチャンスと見て自慢の鉄槌を振り落とす。それまでならビクともしなかったはずの結界も、想定外の事態で摩耗していたのが幸いし一撃で地面を構成していた部分がはげ落ちてゆく。そしてその部分から更に魔力が流入して次々と他の隊員らも立ち上がる。無防備な体に再びバリアジャケットを身に纏い押し寄せる。

 「そ、総員……確保!!」

 はやての出した号令と共に動ける者達が次々とトレーゼに迫る。その前にマテリアルが進み出て妨害するが、やはりトレーゼ自身は未だ不動のまま空を見上げているだけだ。いや、よく見ればその右手に何かを持っている。紫色の魔導書、闇の書を復元したそれをいつの間にか『王』の手から掠め取っていた。否、掠めるという盗人のような表現は適切ではない。今や彼は闇の書の管制人格……書が彼であり、彼こそが闇の書なのだから彼が認識した場所にそれを召喚することなど容易い事だ。

 自分の手元から魔導書が無くなったのに気付いた『王』がそれを返せと取り上げようとしたが……

 「──引っ込め」

 開帳、そして閉じる。たったそれだけの一瞬の動作の後、三人のマテリアルはこの世界から姿を消した。彼女らは『飛び出す絵本』のキャラクターに過ぎない。本が開いていればアリスを誘うウサギの如く跳ね回るだろうが、閉じれば創作の世界に閉じ込められる。彼女らも決して消滅してしまった訳ではない、書き手であり読み手でもあるトレーゼの意に沿わなかったから本来の居場所に押し返されたに過ぎない。そして己だけが残った状態で追ってが迫り来るのも気にせず、天蓋に向かって手を差し伸ばし────、



 震源を握り潰した。



 かつて闇の書は歴代の所有者と同じ数だけの次元世界を滅ぼし、それはジュエルシードもまた同じ。その二つを身に秘めている今の彼なら街一つを消し飛ばす程度の熱量質量を粉砕するのは造作も無い。空間の歪みで座標が特定できないにも関わらず、彼の右手は上空に存在する震源を天蓋諸共に打ち砕き、地面を均すかの如く歪んでいた空間を修復する。後に残ったのは天頂のみが破壊された結界と、その大穴から向こうに見える真冬の黄昏だけだ。

 これで懸念は無くなり、心置きなく虫退治に精を出せる……そのはずが、まだ視線が宙に浮いたまま心此処に在らずなままだ。いや違う、空の一点を見つめていたさっきとは違い、その視線の先は何かを追うように視界の四方に流れていた。追っているのだ、彼にしか見えない“何か”を。

 「────四つ」

 “何か”の数は四つ……震源を潰した際に飛び出たそれらの正体も、飛翔して行った行き先も、その全てを把握したトレーゼの興味は既に小煩い虫けらからそれらへと移り変わっていた。その内の一つを見初めた彼は街の北側、山や森林が広がる郊外の方角に足を向け……

 「ぶぅあああっ!!」

 「きゃあっ!?」

 走り去る。一歩一歩の速度は凄まじく、音を置き去りにして走行するその背後はソニックブームが発生し、再び彼女らを吹き飛ばした。僅か十数秒と経たず彼の姿は結界から消え、維持する者が不在となった空間は天蓋の大穴から徐々に浸食されこの街から消えようとする。

 拍子抜け、呆気ない幕引き……人智が及ばないとは即ち理解できないこと、今のトレーゼの思考を読み取り理解する事など誰にも不可能で、彼が何を思って戦場から、本人にとっては戦場ですらない箱庭から脱出したのか理由は定かではない。ただ一つ確かなのは、今後二度と彼の意志で彼女らと対峙する事はないだろう……これからの戦闘は彼がやむなしと思い出張っていた今までと違い、彼女らの方から一方的に立ち向かわなければならない図となるのだ。



 12月9日午後16時56分……“彼”は生まれ変わった。










 ここで、時間を遡り視点を変えよう。黒い彼が新生を果たし、蒼い彼女が夢幻の中で微睡み続ける中で、“彼女ら”の辿った軌跡がどのようなものであったのかを……。










 小さな彼女が目を覚ました時、「そこ」はこの世のどこでもない場所だった。全てが暗黒の無名に包まれた無限回廊の中で、彼女は自分の意識だけをはっきりと認識していた。

 そう、意識だけを。肉体がどこへ行ったのかは分かりもしなかった。ひょっとすれば覚醒したと思い込んでいるだけで実際はまだ夢を見ているのかも知れない。

 ここは虚数空間、全ての現象が反転し、この時と空間の狭間にあって物質界の全ては意味を為さず、距離も時間も人の精神が織り成す相対的な幻に過ぎない。そこに在ると思えば在り、無いと考えれば無いのだ。それがどういった仕組みになっているかなど解明のしようが無いし、それはそういうものなのだ。

 ふと、少女の意識が他者を探す。自分と同じようにここへ飛ばされた者達を探し、意識が彼女らの形を虚空の中に見出す。神の視点で見れば他の彼女らも存在してはいたが、自己と他者の境が曖昧となるこの場所では他人の存在を意識しない限り目の前には現れない。もっとも、まるっきり存在しない物ならいくら夢想しようとも出現する事はない。ここは夢ではなく現実、あくまでその現象は現実に適応する範囲でしか実現しない。だが少女の前には確かに彼女らが姿を見せたのだ。人の形はしていないが、それは決して彼女らが見るも無残な姿に変わり果てたのを意味しない。

 声を掛けた。だがさっきまでの少女と同じで気絶したまま眠り、彼女の声には何の反応も返さない。無重力空間を彷徨い続ける彼女らを引き寄せようと手を伸ばそうとし、そこで初めて自分の体が無いことに気付く。しかし混乱は無い、むしろ自分の肉体が無い事をある種当たり前のようにも感じ、彼女らを見つけ出したのと同じように自らの意識を以って本来そこに在るはずの肉体を見出してゆく。

 初めに毎朝洗面台の鏡で見ている自分の顔を想像した。紅と翠の瞳、プラチナブロンドの髪に、端正かどうかは分からないが色白の肌、そして側頭部の髪飾り……ある程度は完成だ、鏡は無いが何となく感覚で分かる。とりあえずはこの調子で型を取るように肉体を作り出す。脳とか心臓とかの創造、もとい想像は必要ない、精神は肉体に従いその逆もまた然り、無意識の範疇に在るモノは必然的に備わった状態で現出すると理解しているから。次に首から胴体を、そしてそこから枝分かれした手足を現出させ、最後に今朝家を出る時に着ていた服を思い出す。かくして、少女は「高町ヴィヴィオ」としての形を取り戻し、再び現状の打破に取り掛かる。

 そもそも、彼女はここがどこかを把握していない。明るくもあり暗くもあり、暑いようで寒くもある。今自分達は停止しているのか、それとも知覚できないほど猛烈な速度で移動しているのかも分からず、現状できる事は唯一つ……

 (今日は、何日だっけ……?)

 思い出す……自分にとっての今日が何月何日だったかを。ここは虚数空間、時と空間の狭間、認識できる範囲であれば形を成し姿を現す場所。夢想した彼女の思考は程なくして己の記憶に到達し、解を導き出す。

 今日は「12月9日」。「新暦78年」の「12月9日」だ。社会科見学で地上本部を訪れていた自分はクラスメイトを探して単独行動し、その先で見知った人物達が抱える問題に直面した。彼女らの闘争、あるいは逃走に首を突っ込み巻き込まれる形で現在に至るのをやっと思い出せた。そうだ、今日は12月の9日なのだ、と。

 「いつ」かは定まった。あとは「どこ」だ。距離も時間も存在しないと言う事は、全てが個人の主観に左右される。ヴィヴィオが眠りから醒めず意識を内に向ける事が無ければ、彼女の意識は虚空に融けて消え果てていたかも知れない。こうして五体を取り戻せたからいいが、かつてここに迷い込んだ者達のように自らの存在を思い出せぬまま、あるいは思い出せてもどこかが欠如したまま「いつ」かも分からない時空に飛ばされる羽目になっていたかも知れない。今までの数多ある事例から鑑みれば彼女の行為は奇跡にも等しかった。ここに他人という鏡が存在したからこそ成せた芸当かも知れないが、今はともかくここが「どこ」なのかを明らかにするのが先決だ。何度も言うようにここは虚数空間……全ての空間から隔絶し、それでいて且つ全ての空間と隣り合う場所。何もかもが矛盾しているからこそ、実現する範囲内で望んだ事象を引き寄せられる。ヴィヴィオの脳裏に浮かぶのはいつも自分が通っていた学院、そこに意識を集中させて何もない虚空をキャンバス代わりに思い描く。

 (……繋がった)

 空間が徐々に目当ての場所に近付く。想像力こそが創造力となるこの場所では偏にヴィヴィオの能力、もとい、脳力に全てが懸っている。幾百日と通った母校を思い浮かべながら少しずつ、少しずつ接近し、やがて手の届きそうな場所までやって来る。これで手を伸ばせば……。

 それが急速に遠ざかった。

 (どうして!?)

 時間の概念が無い世界で肉体が急速に求めた時空から乖離する。他者の思念、それも飛び切り強いそれがブラックホールのようにヴィヴィオの体を引っ張る。原因は何かと周囲を探れば、それは紅い閃光を放って自らの存在を誇示していた。

 (ノーヴェ……?)

 閃光が輪郭を成すのは見知った少女の姿……そこに目鼻はなく、顔そのものが無いがその姿は確かに彼女だと断言できた。そして、彼女が発する紅い輝きに導かれるままにヴィヴィオと他の二人の精神が引き寄せられる。引き寄せられる度に形がはっきりしなかったノーヴェの肉体が徐々に再構成され、更に後の二人、ウーノとセッテの体も視界に姿を現してゆく。他者は自己の鏡、その逆もまた然り、一足先に覚醒したヴィヴィオとノーヴェの意識が記憶の中から他者を形作り、本人らの自我が合わさって全員が無事に形を取り戻す事が出来たのだ。だが安心したのも束の間、ノーヴェを先頭にずいずいと引きずられて何処とも知れない空間に移動してしまう。何千メートル? 何万キロメートル? それとも何光年? いや、そもそも距離の概念が無いこの空間では彼岸と此岸に大差はない。何十倍にも拡大された瞬きの一瞬の後に彼女らはとある時空への到達を果たす。

 (ここは……)

 見たことのない街だ。単に彼女が知らないだけかも知れないが、少なくとも今までの短い人生の中では訪れた事のない場所を映し出していた。このまま紅い光に導かれて行けばきっとそこに出られるだろう。だがそこがどこかも分からないまま飛び出してしまっても大丈夫だろうか……。

 不意に、周囲が歪む。

 (な、なに? なんなの!?)

 どこでもあってどこにもない虚数空間が押され歪められる。物質界に存在しない虚数で満ちたこの空間は言わば霧、圧力などで圧縮される事など本来は有り得ず、にも関わらず外に繋ぐ窓はどんどん形を変えて出口を狭めてゆく。このままではまた何処とも知れない時空の果てに飛ばされてしまう。

 ノーヴェが加速した。当然彼女が牽引するヴィヴィオらも彼女の意識に触れて加速し、出入り口に向けて脱出を試みる。しかし、手を伸ばせば優に届きそうな所にあるのにどうしても届かない。ここは虚数空間、距離も時間も全ては各々の意識が生み出す幻影。だが人の意識は同一ではなく絶対に差異が生じ、その軋轢が無視できない誤差となって具現化する。結果、純粋に先を急ぐノーヴェの意識と、未知の空間に行くことに恐れをなして尻込みするヴィヴィオの意識が互いに反発し合い、その速度が相殺されているのだ。

 自分が行かなくては……理性では分かっていても、未知の空間に赴くことへの忌避が邪魔をして行動に出られない。この歪みがどれだけの規模なのかは分からないが、このまま立ち往生を選べば間違いなく虚空の藻屑と消え果てるだろう。そうなる前にこの場を離れるか、あるいは目の前の空間に飛び込むかの二つに一つしか生き残る術はない。迷ったままの彼女を諭したのは……

 「────信ジテ」

 「!?」

 紅い光の彼方から凛と響いた声……もはや理性も無くし、もう何年も聞いていないようにも思えていた彼女の言葉、それがヴィヴィオの背を押した。

 手を伸ばして先に行く事を決意し、四人の体は遂に未知の次元世界への進入を果たす。彼女らの居た空間が圧縮爆散したのはその直後だった。










 彼女が目覚めた時、体の節々が異様に痛みを訴えるのを最初に自覚した。それもそのはず、ウーノの体はどこかの森林に生えていた木々に突っ込み全身に枝や葉が絡まった状態で樹上に鎮座していた。頭を強く打ったのか軽い酩酊状態で、自分の置かれた状況の把握と、ここに来るまでの経緯を思い出すのに少々の時間を要し、そして……

 「私は……次元転移をしてしまったのかしら?」

 二、三時間前……ウーノにとってはほんの数秒ほど前の事だが、最後に彼女が記憶しているのはテレポートルームでの騒ぎと、その直後の発光。それから色々とあったような気もしなくはないが、脳裏にモヤがかかっていて思い出すことはできなかった。それよりも重要なのは今だ、どうやってこの場を乗り切るか……。

 とりあえず、周囲にカラス以外の誰もいないのを確認してから地面に降りる。節々の痛みは枝と葉を払い落とすときにはすっかりなくなり、他にケガをした部分もない事からすぐにでも動けた。

 森だと思っていた場所は小高い丘の上にある小さな自然公園で、少し歩いた先には雑草を刈り取って整理された道があった。その先には展望台のように開けた場所があり、眼下には灰色の街が広がり更に向こうには青黒い冬の海が望めた。

 「一応、人間はいるのね」

 無人世界ではないことだけ確認し、後は何をするでもなくその場に留まることを選んだ。備え付けの鉄柵に寄り掛かり、これからどうするのかを漠然と思索する。人に助力を願えば親切な者が手を差し伸べることもあるだろうが、ここが管理外世界だったら事情が違ってくる、最悪には何言ってるか分からない変な人扱いされてしまう。それよりも先に確認すべき事も幾つか……。

 (あの子たちは……)

 自分と同じ次元に飛ばされたのなら正確な位置まで分からなくとも感知はできる……個体信号をキャッチする為に端末を稼動させ、発信源を割り出そうとした。

 信号は……七つ。

 「……どういうことなの?」

 基本、個体信号は次元の海を越えれば感知することは不可能となる。遠く離れた場所で戦闘行動に勤しむ姉妹の存在を認識することなど端から無理で、それができると言うことはつまり今自分がいる場所は……

 「ウーノ……?」

 聞き慣れた声に顔を上げれば、そこに居たのは────、

 「やはりウーノ! どうして、いったいなぜ……」

 黒い眼帯に白銀の髪、姉妹の誰よりも小さな身長は一種の可愛らしさを醸し出す、その声の主はナンバーズ五女のチンク・ナカジマだった。

 夢を見ているみたいだった。何の幸運か僥倖か、暴走事故によって未知の世界に飛ばされたとばかり思っていた所が実は地球だったなどとは、虚数空間での出来事を知らないウーノにとってこれ以上の幸いはなかった。だが一つだけ気になった事がある。

 「チンクも随分暇そうね」

 敵を追って管理外世界にまで足を伸ばした姉妹の一人が、何をどうして既に戦場でもあるはずの街を離れこんな場所を私服で歩いているのか? 公私をきっちりと分ける性格をしているだけに非常時で遊び歩くわけもなく、その指摘と同時に表情が陰ったのを見てウーノは何となく察せた。何か良くない事があったのだろうと。

 「実は……」

 事のあらましを聞いたウーノはトーレの堅物っぷりに頭を抱えたくなっていた。つまりこの妹は隊長である姉から戦力外通告を受け、戦闘に参加する資格を失したのだと言う。実に彼女らしい即決判断だ。

 「それより、後数時間で地球を離れる私のことはどうでもいいでしょう。あなたこそどうしてこちらに?」

 「そうね……話すと長くなるのだけれど……」

 寄りかかっていた鉄柵から身を離し、ウーノは口元を手で覆った。別に吐き気はしない、原因はもっと他にあった。



 「少し焦げ臭くないかしら、ここ?」



 燃えている、と言うよりは何かが燻っているような臭気にチンクもやっと気がついた。公園のどこかで誰かが焚き火をしている、でもなさそうだ。それにこれは何かが焦げるとか生易しい臭いではない……嗅いでいて途轍もない不快感を催すこれはむしろ、瘴気。

 「誰?」

 臭いの発生源は森の奥、草や枯葉が踏まれる音がすると同時に瘴気が漏れ出し、徐々にその音が近付く。そして……

 「────────」

 樹木の陰から伸びた手が幹を掴み、接触した部分から大木が腐り落ちる。腐敗した部分から漂う臭いはまさに彼女らが感知した臭気と同じもので、倒木の瞬間に枯葉と砂を舞い上げながら異臭が拡散し、地の底から現れた墓場の王が姿を現す。

 「トレー……ゼ?」

 「兄上!?」

 色彩は黒、眼光は紅、以前目にした時とは全く違うその容貌にウーノがたじろぐ。だが違いに驚いたという事はつまり、元の状態を知っているということ……彼女の目前に現れた魔人は容姿こそ劇的に変化しているものの、確かに弟トレーゼの姿に間違いなかった。だが何が起きたかまるで理解していない二人にとって今の彼は地獄より来訪した悪鬼にほかならない。

 「ウーノ、下がって」

 「チンク、あなたじゃ……」

 「今はひとまず逃走を優先してください。妹達には私から追って報告します。早く!」

 護身の為にコートに仕込んであったナイフを取り出し、それを足元で起爆させる。爆発はそれほど大きくはなく、精々爆竹を発破した程度だったが目くらましには最適だった。その隙にウーノを押して逃げるのを促した。

 「行って!!」

 「…………ごめんなさい」

 背後からウーノの気配が無くなったのを確認し、チンクは本格的に臨戦態勢へ入る。槍は持っていない、あと数時間で街を離れるつもりだった彼女は武装らしい武装を持たず、護身のナイフも指の数に満たない。ただでさえ彼女とトレーゼの間には絶望的な開きがあり、今やその差もマリアナの海とエベレストの頂上……一人ではどうすることも出来ないと理解していながらも、彼女は孤独に立ち向かうしかない。

 だが彼女の思惑など知ったことじゃないと言わんばかりに、眼前の少年はチンクを避けてウーノに向かって歩を進めようとする。それこそ目の前の道に邪魔な障害物があるから避けて通ろうとするかの様に……。

 「行かせはしない!!」

 体表で最も軟らかく、かつ絶対に鍛えられない場所である眼球、そこに向けて刃を突き立てる。だがその先端は想像していなかった硬さに阻まれて一ミリも通ることはない。

 「────────」

 目に異物を挟んだままトレーゼが瞬き、刃の先端が薄い皮膚と粘膜に挟まれる。たったそれだけの圧力なのに、ナイフは先から亀裂が入り砕け散り。網目状に広がるそれは瞬時に鋼鉄製のそれは粉微塵になってしまったが、その余波は……

 「う、ぐぁああぁあああっ!!?」

 吹き出る鮮血の源はチンクの右手。さっきまでナイフを握っていた彼女の手には痛々しい裂傷が走り、そこから血が流れ落ちているのだ。さきの瞬きの刹那に走った衝撃がナイフを砕き皮膚を引き裂いた……ナイフの欠片を繋ぎ合わせれば亀裂の軌跡が手の傷と合致するのが分かっただろう。つまり、彼女の腕はナイフを破壊する『ついで』で損傷を受けたに過ぎない。いや、そもそも彼に破壊する意志があったとは限らない。その証拠にその視線は未だチンクを捉えず、もうとっくに丘陵公園から脱出しているはずのウーノを追っている。チンクの存在は端から最後まで眼中に無い。

 「────────」

 「行かせないと、言っているっ!!」

 右手が封じられても左腕が残り、接近戦が駄目なら投擲による手段が残っている。例え武装の全てを無駄にしてしまっても、今のチンクには飛び掛ってでも進行を阻止するだけの覚悟があった。本来なら叫び声を上げたくなるほどの次元の差を痛感しているはずの彼女が逃げ出さずにいるのは、ひとえに敬愛するウーノを無事に逃がす為、それだけに全ての理性を注いでいるからだ。つまり、攻撃を行う部分の意志は殆ど無意識の本能に基づいて行動していると言ってもいい。それが逆に功を奏し通常の人体であれば致命傷を避けられない部分への攻撃を次々と成功させている。

 だが彼には通じない。

 「づぇあっ!!」

 最後の一発は口の中に捩じ込んで爆発させた。だが結局その行動も大した結果を出せず、タバコを吹く仕草で爆煙を吐き出し……その目がようやくチンクを見定めた。紅い紅い地獄の色彩に捉えられた事実に気が狂いそうになるが、笑う膝に鞭打って恐怖を抑え込みなお立ち塞がる。意識が邪魔な虫に移った以上、相手は本気でこちらを潰しに掛かってくるだろう。だが後に退けない以上真正面から臨むしかない。ほんのさっきまでならまだ交渉の余地もあるかと考えていたが、ここまでの打ち合いでトレーゼの変化を感じ取ったチンクからはそんな甘い幻想は払拭されていた。

 (仕留めるつもりで行かなければ……殺られる!!)

 目の前の存在は人の形をした昆虫だ、虫は食事や生殖に集中すれば例え頭を落とされようとそれを完遂しようとする。この場合虫より性質が悪いのは頭を潰そうが瞬時に蘇る点だが、当然チンクがそれを知る由はない。そして、全ての武装を失った彼女がそこまで奮闘できる可能性も……。

 (助力を……増援を要請しなければ……!)

 脳内の通信端末を起動させ、最適な人物への救援要請を行った。相手はトーレ、チンクの知る限りにおいて現状の彼を止められる数少ない人物だ。戦力外通告を突き付けた相手に助けを求めると後で何を言われるか分からないが、今は確実に敵を止めることだけをしなくてはならない。

 それは自ら窮地に飛び込んだチンクにとって最後の命綱だった……。だが────、

 通信、拒絶。戦場において既に不要となったチンクからの伝言などあの女傑が聞き入れる要素はどこにもなかった。

 (嗚呼トーレ、我が姉よ、あなたにとって私の信頼は所詮その程度の位置付けでしかなかったと言うのですか……)

 脳裏が絶望に染められる中、チンクの頭部に衝撃が走る。トレーゼの剛腕が遂に彼女の頭を捕らえたのだ。小さな体を一掴みで持ち上げる圧力に晒され、閉じた視界の中でチンクは苦しみ悶える。

 「あにう、え……っ!!?」

 「────────」

 起き上がりで寝惚け眼だったさっきまでと違い、今の彼は完全に覚醒しきった状態、つまり、虫一匹を叩き潰すのに何のミスも手違いもしない状態でもあった。その証拠に頭を押さえる圧力はどんどん強くなり、古代の拷問器具の如く彼女の顔面と脳を圧迫する。叫び声を上げようとするも激痛のせいで息を吸うことさえままならない。いっそ意識を手放してしまえば楽なものを、人並み外れた肉体と精神が仇となりそれすら許されない。

 不意に、視界が紅く染まった。閉じた目蓋を通してなお衰えない輝きは頭部を掴む掌を光源とし、その眩い光とは裏腹に熱は感じない。だが光はやがてチンクの視界から闇という概念を消し去り、視覚も聴覚も触覚も、彼女が有しそれまでに培ってきた全てを白日の下に曝け出し照らし出していった。感情、記憶、人格、意識、そして精神……チンクという存在を構成していた内面の全ては悉く漂白、洗浄され、奪い取られ、光が消え手が離された時……

 「──、────」

 彼女の内なる世界は完全に消失していた。

 解放され地面に落下する様子を見ても、今の彼女に危機感は無い……“恐怖”や“苦痛”という概念が無くなった今のチンクは白痴、その全ての情報はトレーゼの底なし沼の地獄と化した脳髄に喰らい尽くされ一片たりとも残ってはいない。チンクに残されたのは己の肉体と、心臓の鼓動を動かし続ける生命のみだった。

 「────────」

 地面に倒れ込み砂が目に入っても瞬きすらしない。精神が死ねば感覚が死ぬ、それはつまり糸の切れたマリオネット。もはや彼女は自らの意志で動くことは適わない。

 これで充分だ……自らの意志では動けず、助けも呼べず、よしんば誰か仲間が気付けたとしても彼女は二度と立ち上がる事はなく、戦果としては非常に高い結果を得る事ができたはずだ。これ以上の追撃は無意味で徒労に過ぎない……そう、意味などない。

 だが彼はやる!

 すぐに、そして永遠に彼女が自らの前に立ち塞がらない為にも、今ここで全力を懸けて叩き潰すのだ。

 「────────」

 振り上げた握り拳に蓄えられた熱量はたった一人を撃滅するには過剰で、先の次元震を握り潰した時と同等、あるいはそれ以上の力でもってして少女を粉砕しに掛かる。

 「──ア、──ニウ──」

 何か言っている……聞こえない、ハエや蚊の鳴いている言葉など誰が理解できようか。

 では死ね。



 振り落とした刹那、赤い霧が見えた気がした。






























 「──ぁはっ!!!」

 「はぁ……はぁ……はぁ……夢? 誰かが死んだ夢?」

 「はは、あはは……映画とかの見すぎかな。人があんな風に死ぬわけないじゃん」

 「…………」

 「……あれ、なんでかな?」

 「なんで……涙が止まらないのかな…………」



[17818] アリス・イン・ナイトメア
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2013/03/26 22:17
 「あんた顔色悪いわよ」

 洗面台で歯を磨く友人が言った言葉に、スバルは今日初めて鏡を見た。言われて初めて気が付くものだとつくづく思いながら、自分の青い顔を凝視する。惚けている間に口の端から歯磨き粉が垂れ落ち、急いで口をすすいで気分を切り替えた。

 原因は分かっている。今朝に見た夢の内容、それが余りにも生々しく凄惨なものであったせいで精神的にクるものがあった。第三者視点で断片的なイメージしか覚えていないが、他者の死をあれだけ惨たらしい映像で目にしたのは初めてで、とても夢や幻とは思えないようなリアリティがそこにはあった。

 (映画の見過ぎ……かな)

 スプラッタなB級は見ないクチのはずなのだが、どうにも思い当たる節がない。人の死に様を眺めるのが好きだという潜在的なサイコパスではないと信じたいが、他にあんな光景を見る理由がない。ただでさえ最近は他の事で悩んでいるというのに……。

 「今日で五日目よ……」

 「……うん。そうだね」

 「ここって大学が委託してる寮だから、バレたら面倒なことになるわよ」

 「そだね」

 すすぎ終わった口内からはミントの香りが漂い、指の腹で擦った歯はキュッキュと小気味のいい音を出してくれた。台所からヤカンの湯が沸騰する音が聞こえ、それと同時にガスを切る音も聞こえた。相方ではない、彼女は自分よりも身嗜みに力を入れるので今も隣で軽く化粧を施している。では誰か?

 その時、台所から顔を覗かせる者があった。

 「おはようございます。朝食、できていますから」

 本来二人しか住んでいないはずのこの空間には、現在三人目の居住者が住み込んでいる。赤い髪に金の眼の容姿は異性の視線を惹きつける美貌の基礎をなし、鈴が鳴るような声色は同性の共感を得やすい優しさを有していた。彼女はこの寮の住人ではない。当然だ、ここはスバルとティアナが二人一組のシェアで住み込んでいる場所、部外者の居住は立派な契約違反だ。それでも細々と、あるいは堂々とこの空間に身を置き朝食の準備を進めるこの少女こそ……

 「ありがとー、ノーヴェ」

 「なんかいつも済まないわね。本当は私の仕事なのに」

 ノーヴェ・セルジオ……。この国で有名なアイドルグループの一人が一般大学生の寮に住み込んでいる現実を受け入れるのに、大して時間は掛からなかった。










 五日前──。



 「教授が行方不明?」

 「はい……」

 休日に街中で出会った少女はアイドルで、そのアイドルは知り合いの大学教授で、その教授が現在行方不明……これが妄想ならライトノベルでそこそこの部数は売れそうな流れだが、どうやら嘘や冗談ではないらしいことがすぐに分かった。

 「姉の葬式、ホテルの方から連絡があって……。書き置きが残っていたんです」

 そのコピーと言って差し出された紙面には印刷された活字で、「探さないでくれ」とだけあったらしい。

 「なんてベタな」

 「だけどチェックアウトも無しにそのままいなくなったわけでしょ? 警察は?」

 「最初は何かのイタズラかと思ってたんです。父のことですから、久しぶりに母と会って浮かれてふざけているんじゃないかって。でも、ああ見えて対外的には常識人ですから、周りの人に一報も入れないでどこかに行くことはありえないって話しになって……」

 「それで、現在捜索中ってことかしら」

 改めて少女の顔を見る。嘘をついている様子はない、そもそもある意味こんな大掛かりなドッキリを仕掛けるほどアイドル稼業も暇ではないはずだ。目の前の少女が本当にスカリエッティ教授の関係者かどうかを証明する手立てはないが、確かなのはこちらの大学に通ってもいない彼女がスバルの名を知っていた事実が大きい。

 「姉の葬式の時に父があなたのことを話しているのを聞いて……。特徴とかも合っていたから、もしかしてと思ったんです」

 「教授があたしの?」

 「はい。『学科も違うのに縁が合って話をすることがある』と。だからひょっとしたらナカジマさんなら何か知ってるんじゃないかって。でも、その様子だと……」

 「ごめん。あたし達も初耳なんだ」

 今日は祝日、平日の講義がある日なら大学側から何らかの連絡があっただろうが、それも明日にならないと分からない。もっとも、中学高校のように教員と学生がそれほど密な関係を築いているとも限らないキャンパスで、たった一人の教授が行方をくらました程度で騒がれるだろうか。精々掲示板に連絡書きが貼られ、捜索に協力してくださいという程度だろう。そしてどこに行ったか分からない以上、警察ではない彼女らが消息を掴むことは容易ではない。

 「教じゅ……お父さんとは、その、仲は……」

 「最悪です。本当なら行方不明になったって誰も文句言いっこないんですけど、葬儀の途中ですよ、信じられますか? 父から家庭について何を聞かされてたか知りませんけど、それに関しては父が全面的に悪いと決まっていますから」

 禁句、地雷を踏んでしまったと気付くのは早かった。あの教授はこともなげに話していたから失念していたが、どうやらこの口調からして家庭問題は意外と深刻なようだ。

 「父を探しているのだって葬儀の途中で勝手にいなくなったのが我慢ならないだけです。いなくなるのならいなくなるで、他人に迷惑が掛からない範囲でやってほしいです」

 「……………………」

 「すみません、ちょっとカっとなって……」

 「いや、うん、あたしもゴメン。無神経だったよ」

 教授を罵る時の少女の表情は同じ歳であるはずのスバルでさえ一瞬身震いを覚えるほど怒りに満ちたもので、普段能天気なスバルでさえ自重という言葉を思い浮かべた。しかも相手が普段はテレビ画面の向こう側で踊りながら笑顔を振りまいている存在が、ここまで怒ると珍しいという感情を通り越して純粋な恐怖しか出てこない。怒りの対象がここにいなかったのがせめてもの幸いか。

 「あったあった!」

 ふと、それまでずっと黙り込んでいたティアナがケータイの画面を差し出してくる。最近のケータイは便利なもので、インターネットに繋げることで様々なサイトやホームページにアクセスできる。彼女のケータイもどこかのニュースサイトの画面を表示しており、そこには……

 『天才的外科医ジェイル・スカリエッティ博士、音信不通! 放浪か? 誘拐か?』

 なんともまあ、世のマスコミやパパラッチが食らいつきそうなタイトルだ。だがこれで事実は実証された。何が起こったか知らないがあの変人教授は本当に姿を消してしまったようだ。警察は関係者各位に事情を聴き足取りを掴もうとしている。おそらくアイドル姉妹や元妻のところに来るのも時間の問題だろう。

 「足跡は全然らしいけど、ここまでしてくれてるんだったら素直に警察に任せたら? 素人が動いたってロクなことにならないわよ」

 「いいえ、絶対警察より先に見つけて、あの余裕面に一発蹴りを入れないと気が済みません」

 「それはそれで問題があるような……」

 「それに、私個人で探してるわけじゃありません。こう見えて私、お金持ちなんですよ」

 そう言って取り出した紙はどこかの誰かから貰った名刺で、『バニングス探偵事務所』と印刷されていた。素行や浮気の調査に行方不明者捜索となれば警察のような大所帯より個人の探偵事務所や興信所の方が適しているだろう。売れっ子アイドルだから依頼料にも苦労しない。

 「依頼主も私の名義になってますから、何か進展があれば私のケータイに連絡があります。それで、今朝探偵さんから鉄道会社の監視カメラ映像に父らしき人が映っていたと聞いたんです」

 「だから大学のあるこっちに……」

 「で、道中でこいつの事を思い出してわざわざ探してくれた、と。でも収穫がなかったんだから素直に帰った方がいいんじゃない? 顔面に蹴り入れるのはそれからでも遅くないでしょ」

 「いいえ! 警察が先に見つけたら、どうせあの人のことです、事情聴取の後は適当なこと言って煙にまいて逃げるだけです。その前になんとかしてでも見つけ出してみんなの分までボコボコに……!」

 「どーどーぅ、落ち着いて落ち着いて。力になれなくてゴメンだけれど、これからどうするの? 探偵さんと一緒に探すの?」

 「はい。ここは父の勤務先の一つ……ひょっとすれば接触できるかも知れません。しばらくはマンガ喫茶に寝泊りしてでも張り込みます」

 「ネカフェ? 分かってると思うけどあなた……」

 「またナンパされても、『そっくりでしょ』で済ませます。仕事だって朝一の電車に乗れば余裕で間に合いますし、生番組だって向こう一ヶ月はありません。ちょーヨユウです!」

 あの親にしてこの子ありというのか、何というか年齢にそぐわないほど逞しい。少なくとも父親はここまでアグレッシブではなかったはずだから、この性格の大半は母親譲りという事になる。好き好んであの教授と一緒になる女傑(?)なのだから、そこら辺は推して知るべしだろう。

 「それじゃあ、私はこれで。引き留めてしまってすみませんでした。縁があればまた……」

 そう言ってノーヴェはサングラスを掛け、街の方に駆けて行った。最後まで逞しく力溢れる十代少女という印象を見せつけながら、その後ろ姿は雑踏の中に消えた。

 「なーんか意外よね。『アイドル』って、どっかの国の言葉で『偶像』って意味らしいけど、偶像っていうよりかはむしろペルソナ、『仮面』よね。同じ女子としてびっくりだわ」

 「……………………」

 「あぁいうのに男ってのは夢中なのかしら? 私もグランセニック先輩に試してみようかしら。ねぇ、あんたはどう思う?」

 「……………………」

 「……ちょっと、聞いてるの?」

 「あー……うん、聞いてる聞いてる。それで、何の話しだっけ?」

 「聞いてないじゃない。はぁ……どうしたのよ、さっきからボケっとして」

 「さっきの子……」

 「何? サインでももらっとけば良かった?」

 「…………あたし、ちょっと見てくる! 先行ってて」

 「あぁっ! ちょ、スバル!!」

 まだそんなに行っていないはずと、通りに出た彼女はさっきまで話していた後ろ姿を探す。マンガ喫茶にでも寝泊りすると言っていたから、駅の向こうの歓楽街に行ったのかも知れない。まだ陽が出ているからそうでもないが、あの周辺はガラの悪い者も多いから出来るだけ近付くなと大学側からも言われている場所だ。ネットカフェやマンガ喫茶、ラブホテルといった宿泊施設も多数存在し、そのどれかに入られたらノーヴェを見つけ出すのは不可能となる。そして幸いにも、目当ての姿はすぐに見つけられた。

 「ノーヴェ~~~っ!!」

 「ナ、ナカジマさん!? 声大きいです!」

 十字交差点の信号前で再び見つけたその姿は、当たり前だがさっきと変わらないコテコテの変装姿で、ずらしたサングラスの隙間から覗く金色の眼は驚きの色が見て取れた。どうしてここまで追い掛けてきたのだろうと不思議でならないようだ。

 「どうしたんですか? あ、サインはちょっと……。イベント以外は控えろって事務所の方に釘刺されちゃってますから」

 「そうじゃなくて、その……」

 「?」

 「あのさ、もし良かったらうちに来ない?」

 「ナカジマさんの?」

 これが五日前の会話である。










 「犬猫じゃないんだからって最初は思ったけど、今まで二人で暮らしてたのが三人になったところで別に問題は無かったわね。生活費の分担は三分の一になったし、ご飯の用意も三人でローテーション、しかも作ってくれる料理もウマいときたものよ」

 「母はとても家庭的で、『女の子だったら手料理の一つや二つ出来なきゃダメ』って良く言われました。おかげで私たち姉妹も料理だけは得意で。最初は目玉焼き一つ作るのも苦労しました」

 「へぇ! ティアだって最初はチャーハンしか出来なくて、休みの日はあたしが付きっきりで練習したよね~」

 「し、仕方ないじゃない。初めは一人暮らしするつもりだったんだから、食事なんてインスタントとかで賄うつもりだったんだもの。ってか、それはどうでもいいんだってば!」

 食器を置いて立ち上がったティアナがケータイを取り出し、そして掲げる。

 「はい注目ー! ちょっとお話したいことがありまーす」

 「ティア、ちょっとテンションおかしいよ」

 「うっさい、これぐらいしてないとこの先が不安で仕方ないわ。講義まで時間あるし、その前にどうしても話しておかなくちゃならない事があるの」

 そう言ってケータイを操作し、以前のニュースサイトとは別の掲示板を表示した。書き込みの日付はここ最近のもので、顔も名前も知らない者同士で口々に何かを呟いている。

 「これ、大学の裏サイト」

 「うわ~、裏サイトってほんとにあったんだ。こういうのってマンガやドラマの中にしか存在しないと思ってた」

 「見てもらったら分かる通り、誰それがウザいだの、どこどこの教授が出す課題が多いだの、基本は便所の落書き。問題は……この部分」

 画面をスクロールして日付を遡ると、一枚の画像データが張り付けられており、それについての議論が白熱しているようだった。

 「三日前の夜中21時過ぎ、駅前のコンビニで超人気アイドル『ノーヴェ・セルジオ』に激似の女の子を激写、ってとこかしら」

 そこにはコンビニから出てくるノーヴェらしき人物を写した写真が。ケータイのカメラ機能を使って撮ったのか画像は粗いが、帽子の間から覗く赤毛と背格好から見て確かにそれっぽい。

 「三日前っていうと、サラダ油が切れたから買いに行きますって……」

 「そんなこともあったね~」

 だがここ最近で目にする事が多くなったスバルとティアナでさえ目を凝らしてようやく本人と分かる程度だ、他の者が見てすぐに判別できるのか?

 「ぶっちゃけ、そっくりさんで済ませられるんじゃないの?」

 「ところがどっこい、ここに書き込んでる連中の特定力は無駄に高いわ。画像の貼っ付けから一分で解像度を鮮明化して、三分でコンビニの店員に聞き込み、五分で身に付けてるアクセサリーのブランドまで当てて来てる」

 「うわっ、ほんとだ」

 「んで、過去に色んな雑誌やイベントのインタビューの時に身に付けてたアクセサリーと比較したのが、これ。掲示板じゃ整形説が八割、本人説が二割ってとこ。二割の方の内訳は、整形をしてないそっくりさんって意味での『本人』と、ガチの意味での『本人』が半々」

 「全体の一割がノーヴェちゃんを怪しんでるってこと? だったらそこまで気にする事もないんじゃない?」

 「この数字は三日前のものよ。今じゃ本人説が三割強、頼まれてもいない情報収集のおかげでどんどん素性が割れてきてる。このまま行けばいずれここも特定されるかも。面倒なことになる前に手を打たないと」

 「手を打つって言っても、どうやって?」

 「それが分かりゃ苦労は無いって」

 「すいません。私ひとりのせいでこんなことに……」

 「いいっていいって。それよりどうする? 今からでも新しいアパートかマンション探す?」

 「契約の時に名前書いたらそこから拡散するわよ。現状できることは、ノーヴェを可能な限りこの家から出さない、それだけね」

 姿を見られたのは三日前の一度きりだが、ネット内の有志らの情報収集能力の高さは侮れない。たった一度の目撃情報でここまでされては、住処を特定されるのも時間の問題になるだろう。解決策としては三つ、ティアナが言ったように日がな一日ここから出さないか、スバルの言うようにリスクを承知で他所に移るか、あるいは……

 「それとも、いい加減もとの場所に戻るか」

 「それって……」

 「……まぁ、私は正直言ってそこまで迷惑に思ってないし、珍しくて面白い話が聞けるだけマシだと思ってる。でも、厄介事に巻き込まれて一番苦労するのはあんたよ」

 「…………スバルさん、ティアナさん。私……」

 「?」

 「父を簡単に探せる方法思いつきました!」

 「ぅおい、人の話聞いてた!?」

 ティアナの忠告も華麗にスルーし、取り出した自分のケータイを操作して同じようにネットの掲示板に繋げた画面を見せる。

 「ここに父の特徴を書き込めば物好きな誰かが目撃情報とかを集めてくれたりしませんか?」

 「可能性としちゃあ無くはないけど、瑞も滴るアイドルと違って中年のオジサンを探すのに協力なんてするかしら」

 「やってみないと! 早速スレ立てを……」

 意気揚々とその気になって事を進めるノーヴェを見て、さすがのティアナも苦笑い。スバルと目を合わせた時に彼女も笑っていた。これはもう、なるようにしかならない。その時の状況に任せようとある意味腹を括っていた。

 不意に、着信音。ティアナではない、スバルでもなく、聞いたことも無いそのメロディはノーヴェが取り出した物から聞こえていた。

 「ちょっと失礼します。もしもし、あっ、母さん? 今? 友達の家」

 普段礼儀正しいノーヴェも電話の前の家族に対しては砕けてフレンドリーな口調になる。知り合って間もないのもあり、ずっと他人行儀な姿しか見ていなかった二人にとって今の彼女の姿はとても新鮮に見えた。

 「帰ってこい? 事務所? 実家ぁ!? 葬儀もだいたい終わったじゃん。そりゃあ、あの父親がまだ戻ってないけど……………………え? 何それ、やめてよそんな冗談」

 「?」

 「ちょっと、いい加減にしてって! 母さんまでそんなこと言って! …………ジョークじゃないんだ」

 ケータイの通話が切られる。その表情はさっきまでとは打って変わって青褪め、それほど暑くもない、むしろ涼しいにも関わらず額や頬を不吉な脂汗が幾筋も流れ落ちているのが不気味で仕方がない。何があったのか聞くことさえ憚られるその雰囲気に二人は沈黙を守り、ノーヴェ自身の口から語られるのを待つ。

 「ぅあ……あ、あたし、帰らないと……! お姉ちゃんが……待って、そばに行ってあげないと……!」

 「落ち着いて。何があったの?」

 「ごめんなさい。私いますぐ帰ります、ごめんなさい」

 急いで必要な荷物だけを揃えて出発しようとする。持ち込んだ荷物は少ないが、尋常ではないその取り乱し様に二人も不安になり、遂に問い質す。ノーヴェも深く呼吸して少しだけ落ち着きを取り戻せたのか、伏せていた顔を上げる。両目の目元は今にも泣き出しそうに赤く、息も少し荒い。

 少し逡巡した後に彼女が出した言葉は……

 「姉が……クアお姉ちゃんが……事故で…………」










 交通事故……ハイウェイでトラックと衝突だとか玉突きだとか、詳しい事は分からなかったがとにかく人が数人死んだというのはすぐにニュースになった。その中にアイドルグループのメンバーが一人、犠牲になっていたという事実もすぐさま駆け巡り周囲を混乱させた。『クアットロ・セルジオ』。挑戦的で小悪魔気質な性格を売りにしていた彼女の死はファン達に動揺と悲しみを与え、この前の次女と同様に報道関係者はこぞってニュースを取り上げ続けた。

 彼女の死は姉と同じく話題に事欠かなかったが、二つ……二つだけだが、ドゥーエとは違うモノが着目され、それが波乱を呼んだ。

 一つ目は……『死因』。

 「はい、これが頼まれてた画像データ」

 「ありがとうございます、シャーリー先輩」

 「久しぶりに会えた後輩ちゃんの頼みだから引き受けたけど、ほんとに苦労したよ。休日まるっと使ってドマイナーなグロ画像サイトやブログを漁ってやっと見つけたんだから」

 もらったメモリスティックを早速PCに挿入し、データを閲覧する。画像は二つ。ひとつは、恐らく事故現場に居合わせた誰かが撮影した物がネットの界隈に流出したのだろう、全壊と言っても差し支えないほどにボロボロになり炎上している車体が少し距離を置いた部分から写されている。

 「先輩、これって……」

 「気付いた? 私もすぐに分かったよ」

 現場を写した画像には問題の車体以外にも幾つか他の車もあり、玉突きを起こしたという噂通り同じ車線の車が何台か前と後ろがひしゃげた状態で放置されていた。だが、不思議なことに……

 「アイドルちゃんの乗ってる車以外はボヤ一つ出ていない。全焼するまで燃え尽きて、途中で何度も爆発したって証言もあるのに引火しなかったなんておかしいと思わない?」

 「オイル漏れは?」

 「してたはずよね~。前も後ろもベコベコにされてて全車そこだけ無傷ってわけにもいかないでしょ、普通。でも、一番気になってるのは……ここ」

 画像の一部、炎上する車にズームしその車体の輪郭を指でなぞる。

 「警察や消防は玉突き事故、あるいはガードレールにぶつかった時の衝撃でエンジンが故障、爆発したって見解してる。でも、この写真を見るからに車体に衝突のヘコみや目立つ傷は無くて、フォルムは型どりされたみたいにキレイに残ってる」

 巻き上がる炎からも車の輪郭は見て取れ、可燃物が燃え盛っている以外は異常は見当たらない。本当に形を保ったまま燃えている。エンジンや給油タンクが爆発すれば少なからずフォルムを歪めるはずが、周囲には玉突きを起こした車の破片や部品は飛んでいるが、爆発炎上したはずの方はガラス片しか見当たらない。

 「周囲の目撃者曰く、爆発があったのは火が出てからしばらくした後。しかも火はエンジンのあるボンネットからじゃなくて、ガラスの奥、座席から出火したとも……」

 「ありえるんですか?」

 「ありえるわよぉ。つまりは中で発火したってことでしょ? 車内は閉め切れた密閉空間で、熱で空気が膨張すれば窓ガラスだって破れるし、制汗スプレーとかの缶があれば引火して爆発も有りうる」

 「でもそれって……」

 「そう。焼身自殺以外にはありえない。それも走行中にね」

 確かにそれなら説明がつく。エンジンやオイル漏れによる外部からの引火でないのなら、内部からの暴発としか考えられない。

 「それ以外の根拠は?」

 「そこで二つ目のデータの登場よ」

 クアットロ・セルジオの死に関して話題を沸騰させた二つ目の要素、それが……

 「『遺書』……。彼女が住んでた自宅から発見されたって」

 画像に映るのはメモ帳の端くれに書かれたような短い文章。それこそ、事故の後に遺品を整理する時に発見されたクアットロ・セルジオの遺書だ。だが、その遺書はただの書き置きではない。

 「そう。でもこの遺書は本人のじゃない。筆跡鑑定では次女、この前自殺したドゥーエって人の遺書らしいよ」

 問題のそれからはドゥーエとチンクの指紋が発見され、何故そんなものをチンクが所持しているのかで議論を呼んだ。常識的に考えれば生前のドゥーエが渡したか、彼女の死後にクアットロが遺品として発見し保管していたかのどちらかになる。だがどちらにしても、何故彼女がそれを持っていたか、あるいは受け取ったのかの理由は不明なままだ。他でもない当事者が二人とも死んでいるのだから当然だ。

 「ドゥーエ・セルジオの死に何らかの形で関わっている……そんな憶測が流れてるわ。本当は妹が殺したんじゃないかって……」

 「可能性はあるんですか?」

 「ないでしょうね。あそこの姉妹の仲の良さは芸能界じゃあ有名よ。殺るか殺られるかまで発展するとは思えない。警察も組織としての見解は事故って事で済ませてるけど、後追い自殺の線も考えられてるらしいわ。その遺書はドゥーエ・セルジオのものであると同時に、クアットロ・セルジオのものでもあるってことね」

 改めて画像を見る。遺書の文面は短く、手書きのそれは女性特有の丸味を帯びた文字ながらどこか雑で、何かに、それも精神的に追い詰められたような感覚を感じさせるものがあった。

 文面は短く……『私が私である間に』。

 続きはない。書く暇がなかったか、或いは書かなかったか。恐らくそれで全てなのだろう、最期の瞬間にこの世に自分が居たと証明する物を遺そうとしてこれを書き綴ったのだとしたら、その心は想像以上に追い詰められていたはずだ。

 「いちマスコミ関係者としてどう思います?」

 「ガイシャの心理状態を聞いてるんだとしたら、お門違いよ。私はペンとメモ帳持って人のパーソナルスペースに土足で入り込む職業しているんだもの、いちいち他人の気持ちを思いやるなんてことは無理よ」

 「そですか」

 「でも言わんとしている事は察しがつくかも。社会に出たら誰だって内面と外面を使い分けるでしょ? 特にテレビに出るような有名人なら尚更。肉親が死んで泣いてても、カメラ向けられた瞬間には笑顔を振り撒かないといけない……」

 元ある人格と、テレビの中の偶像、アイドルとしての人格像が次第に乖離して行き最後は自己が何なのかさえ分からなくなり追い詰められる。言うなればタマネギの皮、心を外面という仮面で覆い隠せば隠すほど芯は小さく細くなり、やがては実の部分が無くなる。他人の偶像に干渉され自分を見失う恐怖に耐え切れなくなった彼女は、自己を保っていられる内に最終手段に出たという流れだろうか。

 …………うん?

 いや、待てよ……。

 こんな話を、以前どこかで……。

 (あたしは、こんなストーリーを知っている……?)

 どこかで聞いたような話……既知感、デジャヴ、そういった類と同類のモノを感じ取ったのは偶然か。自分が何者か苦悩し、その果てに自ら命を絶つ……使い古されたあらすじ、ケータイ小説でももう少し凝った内容を作れる、そんなストーリー。映画か? マンガか? 小説か? とにかく最近そんな内容の話をどこかで聞いた覚えがある。普段忘れっぽいだけに不意に思い出した事がやけに重要な事柄に思える。思えてしまう。

 「どうかした?」

 「……いえ、なんでも」

 気になっていた事は聞けた。休日を返上してまで情報をくれた先輩に礼を言い、スバルは午後からの講義を受ける為に大学へ向かった。

 その胸の奥にしこりを残したまま……。










 また以前と同じだ。受講のために訪れた教室には何十人もの学生が詰めており、幾つかのグループやコミュニティに別れて会話をしている。会話の内容はまちまちで、どこどこのファストフード店のどのメニューが美味しかったとか、今度の休日に新作映画を見に行かないかと誘ったり、千差万別だ。

 だが、以前の時と共通する現象がある。

 (やっぱり、誰もあのアイドルの話をしない)

 彼ら彼女らの話題はどれを取って見ても“普通”だった。あくまで日常の範囲から逸脱しない、誰もがするような他愛もないその場限りの取り留めない会話。普段ならそこに不自然さを感じる要因などどこにもないはずで、感じるとすればむしろそっちの方がどうかしているとさえ思える。

 スバルは「どうかして」いた。普段なら絶対気にもしないはずの他人の会話内容に敏感に反応して聞き耳を立て、そこに自分の目当てのワードが入っていない事を違和感を覚えていた。昨日、そして今日に続き大々的に報道されたはずのアイドル死亡のニュース、それに関する話題がここでは欠片も聞こえない。ひょっとすれば以前と同じ自分の思い込みかも知れない……そう考えながらスバルは隣の学友に話を振った。

 「ねぇ……」

 「なに?」

 「あの話って、どう思う。その……事故とか、自殺とか。アイドルがさ……」

 「?」

 少し遠まわしだったかも知れない、そう思い言い直す。「この前ニュースになったアイドルについてどう思う」、と。単なるゴシップな世間話程度の振りだった、それ以上でも以下でもなく「ああ、そんなのもいたね」という返しを期待していた。

 だが、返された答えはスバルの期待を大きく裏切った。



 「クアットロ? ドゥーエ……? 誰、それ?」










 頭が痛い、寒気がする、悪い夢でも見ているようだ。講義の内容も全然頭に残っていない。

 あの後残りの講義もサボり逃げるように帰った寮の自室で、スバルはテレビをつけて物思いに耽っていた。ワイドショーではやはり例のアイドルの件を報じており、死してなおその知名度は色褪せない。いや、死んだからこそここまでの知名度を獲得できたのだろうか。

 そんな事はどうだっていい。彼女らのグループは国外はともかく、この国では生まれたての赤ん坊以外なら誰でも名前ぐらいは聞いた事もある。立ち寄ったコンビニの店内放送でも一度は耳についた楽曲を流している。そんな彼女らの存在を留学生でもない隣の学友が全く知らなかった……ありえない、よっぽど世俗に疎いか、あるいは面倒に思って適当に返事をしない限り「まったく知らない」などという答えは返ってこないはずだ。

 じゃあ、本当に知らなかった? それも彼女だけじゃない、あの場に居た自分を除く全員が知らなかったとしたら……あの場で一言もアイドルの死に関する会話が無かったのも頷ける。

 だが矛盾。直前に会話したOGの先輩はこの件に精通し、他でもないスバル自身が個人的に情報を要求した。その時も電話の向こうで面倒臭そうに対応していたのに「覚え」がある。ルームメイトのティアナもユニットやグループの存在は興味が無くとも知ってはいた。絶賛音信不通のあの変態教授でさえ家族の事ながら言及していたのを考えると、安易に自分以外の全員と判断するのは難しい。それに自分達は本人と、ノーヴェ・セルジオと出会っている。彼女が件のアイドル本人だという確証は取れているし、五日間もここで寝食を共にした。それだけの時間を過しておいて見間違い、聞き間違いなどありえない。集団幻覚なら話は別だが、そこまでモウロクした「覚え」も無い。

 では、何だ……この言いようのない違和感のしこりは。単に不思議現象に遭遇した恐怖や高揚感ではない。違和感、何かがズレているとしか思えない感覚……ひょっとしたらそのズレは自分が想像しているよりも遥かに大きなモノなのかもしれない。まるで、地面の上からでは断層の規模が分からないのと同じような……。

 『海外でも波乱を呼んでいます』

 映像が切り替わり、国外のファンを映す。街頭インタビューなのか同じ場所を通る人間を適当に捕まえて今回の事件について問い、その感想を聞く。

 カメラに映ったこの場所をスバルは「知って」いる。海を越え国境を跨いだ先にある自分の国籍のある場所、それも自分が住んでいた所の近くだ。大学のあるこの国とは目と鼻の先の隣国同士、文化交流も盛んだからこちらの世俗にも通じているのだろう。そんなことを思いながらテレビ画面を凝視する。

 ……………………

 …………

 ……

 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・

 いや、待て。何かおかしい。

 そうだ、ずっとおかしかった。

 今やっと気付けた。

 「あたし……こんな場所、見たことない……!?」

 テレビに映された街頭インタビューの映像、その街に感じた強烈な違和感は一瞬でスバルの意識を打ち、彼女は思わず飛び上がるように立った。

 改めて映像を確認する。ああ、そうだ、自分はこの場所を知っている。近くに大きな駅があって何本もの線路が通り、ホテルやデパートが幾つもある。姉と一緒に買い物に来たこともあったはず……。

 ……買い物? 何を? いや、この場合は「どこで」だろう。

 この街のことは知っている。過去になんども来た経験があるはず。街の一番大きなデパートで服を、衣替えの季節になったから新しい服を……どこで……手に入れた?

 「っ!!?」

 どうして、「覚え」がない。何かをした『記憶』ではなく、何があったかという『知識』だけがある。まるで記憶喪失……過去の事実のコピーアンドペースト、「知って」いるのに思い出すことが出来ない。猜疑心が己の内側に向き始める。そして、それは一度自覚すると止まることを知らない。

 毎日登校に使っているあの靴はどこで手に入れた? ティアナと買いに行った? いや、違う。あれは確か、そう、ちょうど今日午後すぐの講義の時に話し掛けた友人と共に休日に物色したのだ。それは記憶もある、確かだ。

 …………うん?

 待て、そう言えばあの友人……



 どこで知り合った?



 親しくもない人間に気安く話し掛けるほど礼儀がなってないつもりはない。確かにあの人間は同じ学科に属する学生で、ティアナの予定が合わない時などは彼女とも昼食を共にしたり休日を過ごした事もあった。付き合いもそれなりにあるはずだった。

 だが、覚えていない。彼女とどこで、いつ、どのように知り合い交流を持つようになったのか……。ただ単に友人だという情報だけが頭の中にある。実に不可解かつ不自然、納得がいかない。

 忘却ではない、劣化する脳細胞の欠如による事実の喪失とは違いこの現象は初めから記憶領域にその部分が存在していない。つまりは空白、その部分の時間だけが消し飛んだように何も覚えておらず、結果だけがここにある。

 これはどういうことだ? 周囲がおかしいのか、自分がおかしいのか、その区別さえつかない。

 もはや考えることさえ煩わしい、食欲も湧かない。シャワーを浴びて今日は休もう。ティアナには気分が優れないとでも言っておけばいい。

 明日になれば……全部…………元通りに……………………。




















 夢を見る──。

 この前と同じ、どこかの戦隊ヒーローのような組織に自分が属している夢。以前と違うのは、前に自分が所属していたチームはいつの間にか解散しており、そこの隊員や友人は別々の道を歩んでいるという点だ。

 自分も悪の組織と直接戦うことが無くなった代わり、災害現場の救助隊員として動き、困っている人々のために日夜頑張っている……そんな夢だった。

 変化は他にもある。前に見た時は三人家族だった我が家はいつの間にか七人に増え、新しい家族はそれぞれどこかで見たような顔で、夢の中の朧気な雰囲気にあって彼女らの顔はなぜかはっきりと見えていた。

 その中に、あのノーヴェもいた。夢に見るまでになるとは、どうやら自分で思っていた以上に彼女に親しみを感じていたようだ。その他の三人もどこかで見たような顔をしており、夢の中だからか特にそれを不思議に思うこともない。

 ある日、自分は災害現場で一人の女の子を助け出す。その少女が訳ありで、いつかと同じ悪の組織に狙われるのを助け続ける内に仲が良くなり、歳はずっと離れているのも関わりなく友達として交流を深め合った。

 だが、それも長くは続かない。どこかのクサい台詞のように、出会いあれば別れあり、彼女と自分の間には用意された別離があって、それをどうにかしようとして出来なくて、結局彼女と言葉を交わすことは二度と無くなってしまった。きっとそれはとても悲しいこと……。

 でも、不思議と悲しみは少ない。まったく無いわけでもない、生きている間に再び声を聞くことはおろか、その目が開くこともない。それでも自分と彼女が出会えた事実は変わらないし消えない、すれ違っていても当然だって運命の中で出会えた奇跡を忘れることはない。それは悲観すべきものではないのだから。

 音がする。ケータイや通信器は持ってない。ああ、そうか、目覚まし時計の音だ。夢から醒める。夢とは言えもう何ヶ月も見てない顔を見れた、それだけで僥倖だ。

 水中に沈んだ体が引き揚げられる感覚と同時に、場面が急速に切り替わる。浮上する意識に同期して夢中の時間軸が加速する。

 ……時間軸?

 何故場面の切り替わりを時間の経過と、加速と捉えた? 別に早送り映像を見せられた訳ではないはず、むしろテレビ映像のような瞬時の切り替わりだった。それなのにどうして、自分は時間が進んだと認識したのか。

 (あたしは……この光景を、時間を、知っている?)

 知っていなければ分からない。知っていなければ理解できない。事前にそれが記憶にある状態でなければそんなこと、知覚不能!

 覚醒の水平線に向かって浮上する意識に逆らえないまま光速の如く過ぎ去るヴィジョンに、必死に抗いながらその先を見据えようとする。加速する時間の先に何かが見える、“いつか”の自分が“どこか”で経験したであろう過去が……。

 夢と現の境界、その静寂の果てにスバルが見たものは────、



 目を覆いたくなるような真紅の輝きだった。




















 「───────」

 行き着けのカフェで頼んだコーヒーを飲む。ミルクと少量のシュガーを加えただけのそれは苦く濃厚で、それでいて後味はすっきりとしている。故郷にいる時は紅茶を好んで飲んでいたような「気がする」が、やはり本格的に淹れられたコーヒーの旨味は良い。爽やかさの中に濃密な味を持つ紅茶やレモンティーとは正反対にあるが、旨味の概念は世界共通らしい。

 もっとも、以前の自分がどんな物を好んでいたかなど、今となっては欠片も「覚えて」いない。分かるのは、以前の自分がコーヒーよりも紅茶が好きだったというのを「知って」いるだけだ。その紅茶を自分が淹れたのか、母か、姉か、それとも父だったか……細かい部分は虚空の如く脳から欠如している。

 「マスター、おかわり」

 ここに来る時は必ずコーヒーを三杯以上は注文する。駆け付けの一杯目はエネルギー補給を兼ねてミルクと砂糖を入れた物を飲み、食事中にミルクのみ、食後にブラックでいただく。いつ頃からこの習慣が身に付いたのか「覚えて」いない、ここへ来る度に体が「知って」いるのか慣れた感じで注文できる。さっきの注文にも店長は待っていたように空のカップに黒々としたそれを注ぐ。

 この店は確かティアナとの共通の友人に連れられて以来懇意にしている。それ以外にも、以前足を運んで舌鼓を打った店に立ち寄って適当に軽食を注文している。今日はそんな風に街を出歩いており、手持ちのバッグにはとある同好会からもらったパンフレットが一枚……。それは、かつて自分の食べ歩き紀行を取材したサークルのメンバーが作った紹介誌で、かつて自分がこの街のレストランや軽食店を練り歩いた際に出会った美味なメニューを記した一冊だ。自他共に認める食い道楽の彼女にとってこれはまさにバイブル、過去の自身の軌跡を探るに必要不可欠な物だ。

 午前中の半日を使って街を歩きに歩き、それらを訪れては問題のメニューを注文する……一見すると食べ歩きだが、過去に自分が食した物を再び食べる事で追体験し、記憶の想起を図った。

 行く先々で感じたのは妙な“慣れ”だった、何回もここに足を運んでいた経験を「知って」おり、入店からいつものスペースへの着席、メニュー表を開かずの注文、知り合いである給仕との会話を少々……「知っている」だけがここまで奇妙なことだとは思いもしなかった。バイトで入った給仕をニックネームで呼んだ時は一泊遅れて冷や汗が流れ落ちたものだ。その他の食堂でも大体似たようなもので、入店から食事、会計を済ませての退店まで何の違和感もなく実行することが出来た。ここまで来ると「違和感が無い事が『違和感』」だ。三文ギャグではないが、今日半日練り歩いて分かったのは「何も分からない」ことが分かっただけに終わった。

 そして、最後に訪れたのがこの喫茶店。以前、ノーヴェと知り合ったあの日に来た時も何も思わなかった……今も同じだが、今はその「何も思わない」事こそが異様に胸の奥底をざわめき立てる。このまま自分の思い違い、あるいは時間の経過による忘却と断じてしまった方がずっと楽なはずなのに、そうする事を忌避している自分がどこかにいる。全てを曖昧にしたまま暗愚な逃げの袋小路に入ってはいけない……そんな気がしてならない。

 「スバルちゃん、ちょっといいかい?」

 「え、あ、はい。何ですか?」

 「前の席空いてるよね。お客さん一人、良いかな?」

 マスターの言葉に視線を移すと、そこには帽子を目深に被った少女の姿。知り合いではないが他の席は既に埋まり後はここだけ、別に一人だけで占有するつもりもないので「どうぞ」と快諾した。

 案内された少女は軽く会釈した後、向かいの椅子に腰掛けた。ケーキとコーヒーを注文し、程なくして運ばれたそれらに手をつける。室内に入っても帽子を取らず、少し俯き加減の顔の表情は図り知れない。分かったのは、本来長髪であるらしい髪を後ろに束ねて短くしているヘアスタイルだけだった。同席したからと言って特に話す事もない。どこかの島国じゃあるまいし無理に天候の話題を振ることもない。適当に後五、六品注文してから店を出るつもりだった。

 ふと、気になる光景が目の前にあった。

 「……っ、…………!」

 向かいの少女の右手がテーブルの手前を行ったり来たりしている。ホコリを払っているのではない、この手つきはまるで暗闇の何かを探しているようだ。いや、実際探しているのだろう。その脇にはさっきマスターが置いていったコーヒーカップがあり、食後に飲むはずのそれは当然中身が入ったまま……そして、どうやら彼女にはそれが見えていないらしい。

 無造作な動きのそれが遂にカップに触れるかということろで……

 「おっと!」

 「きゃっ!?」

 カップに手が当たる直前、それを防ごうと伸ばしたスバルの手が少女に触れる。まったく意識していなかった方向からの接触に少女は驚いて身を震わすが、すぐに状況を理解してくれた。あともう少しスバルの制止が遅ければ小柄な彼女の手はカップに触れて中身をぶちまける所だった。

 「お手数を……」

 「いえいえ、そんなに気にしないでください。一緒の席になった縁です。その……失礼ですけど、目が?」

 「はい、右の方がもうほとんど……」

 「そうなんですか……。このカップ、左の方に置きますね」

 「すいません、余計な気を遣わせてしまって」

 障害者、という言い方は今では差別用語なのだろうが、目の前の少女は確かに右目を患い本来人が持つ視界の半分しか保てないという明確な障害を抱えている。同情はしない、彼女がどういった経緯でその様な障害を持つに至ったかに欠片の興味も無いわけではないが、下手に安い言葉で取り繕うような言い方は彼女の人格や人生を蔑ろにしかねない。それ以前に自分たちは大して親しくもない、互いのパーソナルスペースに無闇やたらに侵して良い道理があるはずがない。だからと言ってそのまま会話を打ち切るのも寂しいので、何か適当な言葉を探して会話を続ける。

 「このお店には、よく?」

 「いえ、今日はたまたま仕事の都合でこちらに来ただけで。もうすぐホテルに戻らないといけないんです」

 「お仕事……?」

 改めて少女を凝視。目の前の彼女は顔こそよく見えないが背格好は自分より遥かに年下にしか見えない。だが言葉遣いのそれは明らかに大人、少なくとも子供が背伸びして使う敬語や未成年の慣れないそれとは違う、流暢に口から流れるそれは大人の威厳を少なからず醸し出していた。

 「何歳に見えます?」

 「えっ!? えーっと、その……じゅ、十八歳、ですか?」

 「私、もうアルコールも飲めるんですよ」

 「え゛!?」

 「童顔だってよく言われて。気にしているんですけど、それをウリにしてますから……」

 「そ、そうなんですか。へぇ……」

 十八歳と言ったのは別にバカにするつもりで言った訳ではない。だがどう見ても眼前の少女、否、女性は成人を迎えているとは思えないぐらいに若く、いや幼く見えた。背丈だけ見れば中高生、あるいは成長の早い小学生にも見えないことはない。それが予想を大きく裏切ってとっくに就職も果たした大人だというのだから驚きだ。きっと彼女を抱える会社は何も知らない人からは白い目で見られているに違いない。

 「でも、これはこれで得もあるんです。大抵の施設は子供料金で通れますから。ここへ来るリニアだってそれで来たんです」

 「お仕事ならちゃんと大人料金で乗りしょうよ……」

 「…………本当は、仕事いうのは嘘なんです。仕事自体は明後日からで、別に今日こっちに来なくても良かったんです。私の妹がこっちでお世話になったと聞いて、事務所への挨拶回りを先に済ませてそちらの方を訪ねようと思ってた所なんです」

 「妹さん、ですか?」

 「ええ。一人暮らしだからってやりたいようにやらせていたんですけど、あの子誰にも言わずに家を空けっ放しにしてて……。問い質したら、『友達の家に泊まってた』って白状したんです」

 「まぁ、女の子の外泊なんて良くあることですって」

 「だとしても、せめて何か一言あっても良いと思うんです。様子を見に来た姉から連絡があった時はあの子もどこか行ってしまうんじゃないかって……本当に心配だったんです」

 「妹さんの事、とても大切に想っているんですね」

 「過保護とも言えるんですけどね。それで、そのお友達にお礼をと思ってこれからお訪ねするんですけど、実は先方に連絡を入れていなくて。妹は『そういうの気にする人じゃないから』って言うんですけど……」

 「きっととても仲の良い人だったんでしょうね。あたしは妹さんの事は何も知りませんけど、お姉さんにとってその子はいい子ですか?」

 「はい。勝ち気で短気で、人一倍心が強い。でも、優しい子。喧嘩しに家を飛び出したと思ったら、一時間もしない内にその相手と友達になって帰って来る、そんな子。一匹狼を気取っているくせにどこか抜けてて、悪い人に騙されなかったのが不思議なくらい」

 語る口調は優しく、出来の悪い我が子の良い部分を語って聞かせる母親のようでもあった。きっと彼女にとって妹は幼い時分からずっと見守ってきただけに、何よりも大切な、それこそ自分の都合や命さえもと言う気迫が優しさの中に垣間見える。こんな大きく深い愛を持つ家族に見守られて育った人間の性根が捻くれているなど有り得るはずがない。

 「そんな妹さんの友達なら、きっといい人ですよ。じゃなきゃそんなとこで泊まってたなんて言いませんよ」

 外泊していなかったなら挨拶に行く事を何とかして誤魔化そうとするだろうし、もし悪い人間だったなら全力で阻止するだろう。そうせず「好きにすれば」ということは、それだけその友人を信頼しているのだろう。連絡は要らないというのもきっと自分と似通った友人と姉が上手くやれると信じているからなのかも知れない。

 「……そうね、そうですね。気にしないことにします。せっかくお友達に会うのだから、もう少し気楽にしててもバチは当たらないですよね」

 さっきよりもずっと柔和な雰囲気、彼女も彼女で緊張している部分があったのだろう。それが解けた今、帽子の奥に隠れて見えないはずの表情が少しだけ和らいだ気がした。










 それから少し話をし、頃合を見てから二人は一緒に店を出た。記憶の確認に来たスバルは何の収穫もなく帰る訳だが、その隣にはまだ喫茶店の女性が居た。

 「あなたもこっちに?」

 「はい。例のご友人がこの先の大学に在籍していて、その寮に」

 「へぇ、奇遇ですね。あたしもその大学に通ってるんです」

 「そうなんですか。もしかすると、そのご友人はスバルさんの知り合いかも知れませんね」

 そんな事を言いながら改札を通り、階段を上がってホームへ。休日のためかいつもより人が多く、白線付近には人々が集中して雑踏と化した部分もあった。通過する特急の次に来るリニアが急行なのもあるだろう。ちなみに二人が目指す大学駅前にも急行が停まる。

 「混雑していますね」

 「そうですね。この時間帯でここまで混むなんて珍しいかも。あ、こっちに来るドアから乗ったほうが改札に近いですよ」

 「あ、こっちは空いてますね。今の内に前の方に」

 ドアの来る位置に立つと程なくして同じ目的地を目指す人々が群がってくる。大学周辺もそれなりに街なのでこの時間帯でも人の行き来は多い方だ。だがそれにしても今日は多過ぎる。学祭にはまだ程遠いので何かイベントを控えているはずもないのだが……。

 『まもなく、三番線を特急が通過します。危険ですので、白線の内側までお下がりください』

 リニア通過のアナウンスと同時に線路の遥か先に特急の陰が見えた。レールが定められている以上、例え時速300kmの新幹線でもホームには乗り出してはこないと分かっているが、それでも猛スピードで突っ切って来る物体を前にするならもう少し距離を置きたい。だが先んじて先頭に立ってしまったせいで一歩下がるに下がれない。

 不意に……風が凪いだ。

 「────────」

 静寂。空気の流れが無くなった事で多くの音が消え去り、背後の雑踏とレールの向こうのリニアの音、それだけを残す。大気の流れが日常にどれだけの音を生み出していたかが分かるが、それ以前にこの静けさは人間の原始的な恐怖を呼び覚まし、スバルの胸中に名状し難い困惑を生み出す。

 (なんだろ……何か、『不自然』)

 周囲にビルが乱立しているからビル風が無いのがか? いや、そんな事は違う、風が吹かない程度の違和感なら日常の中でも珍しいながらに感じる場面はある。この場合不可思議なのは、音が無いこと……背後の死角の雑踏がまるで車体のエンジン音にも聞こえる迫力で響き、普段は気にも留めない音が鼓膜を刺激して止まない。完全な静寂とは違うからこそ、際立つ音の波が心に不安を掻き立てる。

 「あの、すみません」

 ふと、例の女性が声を掛ける。

 「あなたのお名前って、まだ聞けていませんでしたね。よろしければ今聞いても?」

 そう言えばそうだった。喫茶店で出会ってからこっち、不思議なもので互いに自己紹介すらしていない。つまりは相手の名前も知らずに馴れ馴れしく呼んでしまっていた訳なのだが、相手もそんなことを今更気にするほど狭量ではない。ただこの期に及んで名前も知らないままと言うのはおかしいので、どうかすっきりさせたいだけだった。

 「あたしはスバル・ナカジマっていいます! この先の大学の二回生で、今は友達と一緒に寮暮らししてます」

 遅ればせながらの自己紹介、それを聞いた女性がはっとなって顔を上げる。その瞬間に見えた金色の眼を、スバルはどこかで見たことがあった。

 「あなたが……!?」

 驚きに見開かれる目、その瞳は誰かに似て、帽子の中から覗く銀髪は何かの拍子に結び目が解けて本来の長さを取り戻す。その容貌を、どこかで見た事があった。

 「そうだったんですか、あなたが、あの子の……」

 帽子に手を掛ける。ここへ来て初めてまともに見る事のできたその顔は────、



 背後から迫った人の波に押し出され視界から消えた。



 「あ────」

 随分と間抜けな声だと思いながら手を伸ばす。その時の自分がどんな表情をしていたかなんて知りもしないが、きっと眼前の彼女と同じ顔をしていたのだろう。バランスを崩して奈落に落ちた彼女の表情は、一瞬何が起きたか分からない困惑の色を湛え、石が敷き詰められた線路の上に投げ出された後は苦痛に呻いた。そして、その顔は迫り来る最期の猛威を前に……

 「わ、わたし────」

 何かを、言おうとした、もしかしたら言ったのかもしれない。もちろん、スバルはそれを聞き取ろうとした。聞く事が出来なかったのはさっきまで凪いでいた風が急に吹いたからか、或いは……彼女の真上を鉄の塊が蹂躙して行ったからか。

 「────」

 急停車する車輪がレールと擦れ合って耳に障る甲高い音がホーム全体に響く。頬に生温かいモノが付着した感触がした。指で掬ったそれは鼻血程度の容量で、残りの大半は車体の下、レールとの間に取り残された事を意味していた。

 しん、と静まり返ったホーム……ざわめく人々の先頭に立つスバルは、車体とホームの僅かな隙間から足下を眺めると……

 「ウ────ッ!!」

 赤の中に転がる白と黄色のマダラ模様……あれは何だった? ああ、そうだ、帽子が取れた瞬間に見えたじゃないか、綺麗な琥珀のような金色の瞳が。

 白く長い糸は服の繊維? まさか、あの輝かしい銀色の髪に決まっている。だがそれも流れ出た赤に溶けて徐々に見えなくなる。

 何故だろう、色彩はとても鮮やかなのに、胃袋が跳ね返るような衝撃に思わず口元を手で覆う。食道から溢れ出そうなその汚物はきっとコーヒーと同じ色で、この赤に混ざれば目も当てられない悪臭を放つ汚泥となるだろう。

 それはいけない、アルミと鋼鉄と合金の塊に押し潰された彼女の存在を汚物で汚してしまうその前に、スバルはその場を離れた。

 自分の物ではないけたたましい叫び声を背に受けながら……。










 あれからすぐに警察が駆け付け、それらと行き違いになる形でスバルは駅を飛び出した。今頃は一番近くの目撃者であった彼女を探して駅員も奔走しているだろうが、既に再び街に引き戻した彼女を見つけるのは容易ではない。

 駆け込んだ公園の公衆トイレ、何ヶ月も洗っていない水槽のような匂いを漂わせる空間に鼻を突く酸性の生臭さが充満する。適当なところで手洗い場の蛇口を捻って汚物を流し、悪臭と同義となった自分の息を吐く。こんな姿を誰かに見られでもすれば昼間っからアルコールでもやっているのかと言われそうだが、今のスバルにしてみれば飲めなくとも酒を飲んでいた方がどれだけマシだったか……。

 ブランコに腰掛け風に揺られながら記憶を整理する……混濁した意識が納得のいく回答を得ようとするが、日常から最も遠い光景を目の当たりにしてしまった事実が紐解く事を無意識に拒否する。ほんの数分前、両の目で確認したはずの事実なのに、想起に続く記憶の通路が防火扉の如く封鎖を決め込んだまま開かない。

 今だってそうだ。薄っぺらいのだ、確かにこの目で見たはずなのに、胃袋の中身が空っぽになるまで吐き続けるほどのリアリティがあったはずなのに、絵画やフィルムを見た後のように脳裏に強く写らない。このまま寮に戻りベッドに入ればそのまま夢でも見たのだろうと忘れ去ってしまいそうだ。だが、さっき手洗い場で自分の顔を確認した時に見えた、頬の下に指で拭った血痕が残っているのを。

 風が吹くままに体を揺らし、日が西へ傾くのをずっと見つめる。何を思うでもなく、何を考えるでもない、流れるままに時間を潰し適当な所で立ち上がった時には既にオレンジ色の景色が出来上がっていた。来た道を戻り駅に続く道を足跡を辿るように引き返す。

 だが結局ホームに入ることはなかった。運転の見合わせでリニアは悉く運行を中止し、あぶれた人々が運転再開を待って構内に溢れていた。これでは再び切符を買っても何十分も待たされるだろう、そう考えて係員が誘導する臨時バスで帰る事にした。だがバス停もまた多くの人間が集い、すぐに乗れる雰囲気ではなさそうだった。結局、待たされる。

 「…………」

 適当に買った炭酸飲料を喉に流し込む。何もかも吐き出して胃の中は空っぽ、こんな時でも正常に空腹を訴えてくる神経の図太さに笑えてくる。二酸化炭素で膨れた胃袋が空腹を騙してくれている間に列が進んでいる事を願う限りだ。

 「……あれは……?」

 泳がせた視線の先が何かを捉える。夕闇の中を泳ぐ竜魚の如き銀色の何か、それは人工の繊維をより集めた工芸品の輝きではなく、ほんの数十分前に自分の眼前で最期を遂げたあの女性の銀色にそっくりだった。

 誘蛾灯に誘われる羽虫のように、スバルの足は列を離れて人混みの中に消えた銀色を追ってフラフラとさ迷い歩く。曲がり角に消えたそれを追うと視界の隅に揺らめくそれが目に入り、それを追って更に先に進むとまた別の場所に滑る様に消える銀色が……。おいでおいでと、まるで誘い出すように揺れるそれは決して一定以上離れる事無く、視界から居なくなったそれを見つけた時には再び消える瞬間だったり……気付けばスバルの姿はまた駅から離れ、さきの公園とは違う繁華街の方に足を運んでいた。いつの間に、とか間の抜けた疑問は浮かばない。見失いそうなそれを追って辿り着いたのは路地裏に続く入り口だった。

 「おや……。何か?」

 誘われるままに辿り着いたその先で、件の人物は初めてスバルの存在に気付いた。

 流れる絹糸の如き銀の髪はさっき目の前で没した女性のそれよりも長く流麗で、ネオンの光を浴びてキラキラと光る様は見事としか言い様がないほど美しかった。黒い衣装に映える銀髪を揺らしながらこちらを振り向いたその視線は……ルビーの赤だった。

 (きれい……)

 リニアの下に広がった色を想起させる色彩なのに、今はどうしてそんな不快さを覚えない。それよりずっと気になったのは彼女の風貌。

 「客人か。すまない、もう少し待ってくれ」

 そう言いながら麗人は路地裏の奥に積み上がっていた資材を組み立て、簡素な机のような物を作りそれを通りに面するように設置した。黒い布をその上から被せ、ぽつんと置いた小さな台の上にガラス球を据え……

 「料金はこっちだ」

 掛け札を下げて妙齢の女性、無名の路上占い師は自分とスバルの分の椅子を設けて彼女に向き合った。一昔前のマンガに登場するような如何にも占い師然とした佇まいは逆に違和感しかなく、道行く人々も好奇の視線を向けるも決して占い師と目を合わせようとはしなかった。

 「何がいい? 見ての通り、水晶から手相、ゼイチクとか風水も一応やっているんだ。バリエーションには困らない」

 自分と同じくこの国の人種ではなさそうな女性を前にスバルは今までに抱いた事のない感覚を覚えていた。今日一日、ここに来るまでにスバルが感じたのは自身の記憶と周囲の事実の間に横たわる謎のズレ……“知って”いるのに“覚えて”いない、そんな謎のデジャブ。人も、物も、出来事も、過去に自分が接触し関わったはずの痕跡はその大半が脳や記憶の中に残っておらず、ただ「事実」のみがあると言う奇妙で不気味な現象にずっと戸惑いを覚えていた。

 だが、眼前の女性からはもっと別の物を感じる。彼女の存在は「知らない」し、「覚えもない」……全くの未知、ジャメブ、自分はこの女性を知らない。だがそれだけなら道行く人々の九分九厘は自身の知らない人間に該当するだろうが、彼らが将来自分と関わる確率が微塵程度にあるのに対し、眼前の女性は何故か、はっきりと「それはない」と断言できてしまう。今この時の一瞬を除けば自分と彼女の運命は二度と交わらないだろうと、何故かそう思えてしまう。

 だからこそ、聞いてみる。

 「あの……以前、どこかで会ったこと……」

 「いいや。私とお前は今までに出会った事などないし、恐らく『これから先に会う事もない』」

 「?」

 言い回しに何かの思惑を感じるも、取りあえず立ったままの会話は疲れるので用意された椅子に腰掛ける。改めて女性を見る……外見年齢は二十代前半、世間一般で言うところの“美人”に充分相当する顔つきに、今日二人目に目にする銀色の髪、そして生き血がそのまま滲み出たような深い紅の瞳……。神秘的だ、眼前の彼女は絵本の中の天使がそのまま出てきた様な姿をし、その視線は何も語らないスバルの胸中を既に見通しているようにも思えた。

 「あの、聞いてもいいですか? こういうの、占いっていうより相談みたいなんですけど……」

 「構わないよ。懺悔室にしては開けっ広げだが、私が聞いても構わないのなら話してみればいい」

 「……ありがとうございます」

 快く受け入れてくれた女占い師の厚意に甘え、スバルはここ最近自身が感じている妙な感覚についてぽつりぽつりと話し始めた。

 十分くらいの間、占い師はスバルの告白にただ黙って耳を傾け、やがて彼女が全てを話し終えた後、ふとこんな事を言った。

 「『五分前仮説』、というモノを知っているか?」

 「ごふんまえ……かせつ?」

 「うむ。今私たちが過ごしているこの世界は実はほんの五分前に創造されたモノで、私たちはそれ以前の記憶を持っているように設定された存在だとしたら……とまぁ、とある思考実験なのだが。簡単に言えば、五分以前の出来事を覚えていたとしても、それを含めて世界が創造、再構成されているのならそれを否定し証明する手段はないと言うモノだ」

 「あたしの記憶がほんのつい最近に作られたってことですか?」

 「あり得ないと思うか? 人の記憶とは存外曖昧なものだ。永く生きている私も始まりの記憶など思い出せもしない」

 「は、はぁ……?」

 フフ、と微笑むその顔は年齢に似合わぬ老練さを窺わせ、その雰囲気をより一層ミステリアスなものにしている。この女性と自分はやはり会った事がない、全くの赤の他人だというのは確信が持てた。だが見知らぬ他人と不用意に接触している事実に対する不安や不信感はまるで無い。逆に、まるで十年来の知人と会話しているような安定感すら覚える。元来人見知りはしない方だが、ここまで初対面の人間と打ち解けあったのはさっきの彼女を合わせて二人目だ。だが先の女性がどこかで見たような感覚を覚えたのに対し、この女性だけは本当の未知の存在だ。

 「心配しなくともいい。君の友人は君の記憶にある通りの存在だ。勝気で、冷静に見えて熱く、面倒見もいい。君の唯一無二の親友だろう」

 「…………え?」

 「どうかしたか?」

 「いえ、あの……あたし友達の事話しましたっけ?」

 「何を言っている、寮で一緒に暮らしていると言ったではないか」

 それは言った、確かに。自分の体験を語る上で友人らの存在を話はした。だがしかし、友人がどんな性格をし、どんな人となりかまでは説明していない。そこまで話す必要は無いと思って何も言わなかったのだ。それなのに、この占い師はそれを見聞きしたように話す。

 「フフ、私は占い師だ。何でもお見通しだよ」

 「それは占いっていうより、エスパーの類ですよね」

 「そうなのか? まぁ私の事はどうでもいい、今君が抱えている問題をどうにかした方がいい」

 「え、でも、あたしは別に問題っていうほど大したことじゃないっていうか、ひょっとしたらあたしの勘違いかも知れないし……」

 「本当にそう思うのか?」

 「へ?」

 「君が感じている違和感は本当に君の勘違い程度のモノなのだろうか。本当はもっと大きなズレを感じているのではないのか」

 「いえ、あの……」

 「気を付けるのだ。大事の前の小事、君が自身の置かれた状況に気付けぬ内は何の進展もない。全てが闇の中に消える前に光を探せ。先人たる私が言えるのはここまでだ」

 すっ、と伸びた指先がスバルの額を捉えた。決して早くない、むしろ見せ付けるようにゆっくりだったはずなのに、気付けば雪の様に白く小枝の様に細いそれがそっと触れていた。そこに勝手に接触された事への不快感はない、ただただ純粋に不可思議さを覚えた。

 「あの……」

 「大学の教授、行方不明になっているはずの彼を探し出せ。“ここ”は彼が全ての中心だ、彼を鍵として君はこの迷宮から抜け出せる」

 急に圧力を感じ、椅子が傾く。額の指を押し出され背中から倒れ、襲い来る衝撃に全身が強張る。その瞬間、鼓膜を震わす占い師の声が聞こえた。



 「彼は必ず“ここ”に居る。忘れないことだ」










 ぼすん、と着地したのは硬い地面ではなく肌に優しい軟らかい感触、開いた目に飛び込む光景は見知らぬ天井ではなく……

 「あたしの、部屋?」

 友人とシェアしている寮の自室、いつも自分が使っている寝床に気付けば落下していた。時刻は夕方をとっくに越して日が暮れ、明かりを付けない室内は薄暗かった。人の気配は無い、ティアナはまだ帰ってきていないようだ。ふと、ポケットから小刻みな振動……取り出したケータイの画面にはつい最近友人になった少女の名前があった。通話ボタンを押した時、スピーカーの向こうから聞こえたのはすすり泣きだった。

 『ス……スバルさぁん……!』

 「ノーヴェ……」

 何故泣いているのか、それが何となく予想できてしまう。頭の片隅でそろそろだろうなと、そんな風に感じていた。

 そして、泣きながら話してくれた事実によりスバルはノーヴェの姉、チンク・セルジオがこの世を去った事を知ったのだった。今日、自分に会いに来てくれたはずの人間、一緒に昼食を摂り、短い時間だったが共に語り笑い合った仲だった彼女……あの時自分が精一杯腕を伸ばしていれば救い取る事が出来ていたかも知れない命、そうする事が出来なかったのを悔やむと同時に、こうなる事が必然だったと漠然と思っている自分がいる。

 何故そう思うのか……もはや疑問にさえ感じない。

 ただ一つ、はっきりさせなければならない事があるのなら、それは決まっている。自身の周りで起きているこの不可思議な現象の究明、そしてあの占い師が言った事の真相を突き止めることだ。その為にはまず……

 「ねぇ、ノーヴェ。あたし今からにそっちに行っていい? 話したいことがあるんだ」

 どうやって入学したのかも分からないが、しばらくはあの大学ともお別れだ。電話を切ったスバルは再び荷物を整理し、首都行きの特急リニアの時刻表をバッグに入れ、今日とうとう一度も顔を見る事のなかった親友を思い浮かべながら、スバル・ナカジマは夜の街に赴く。



 “ここ”が何なのかを知る為に────。



[17818] 堕ちた機人
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2013/06/20 04:57
 『今日午後17時頃、海鳴市郊外の自然公園にて小規模の爆発事故が発生────』

 『警察は7日の市街上空の謎の爆発と関連付けて捜査を行いましたが、現場に火薬やガスなどが検出されなかった事から────』

 『捜査に伴い警察は自然公園を封鎖、原因が判明するまでの立ち入りを禁止。引き続き捜査を継続、新たな情報が待たれています────』

 『以上、速報でした』










 午後18時、ハラオウン宅──。



 「……それで、チンクは?」

 「…………」

 トーレの質問に対し黙して首を振るフェイト。それだけで結果がどうだったか把握できる。多くは語らない、今はその時ではないし無用な感傷や言葉のやり取りは時間の無駄だ。それより今は敵に対する対抗策を練るのが何より先決。

 だが、事をそんな冷静に見据える余裕の無い者もいる。

 「嘘言ってんなよなぁ……チンク姉が死んだなんて…………そんな、つまんねぇ冗談言ってんなよなぁ!!」

 「セイン、この私が嘘や冗談を口にすると思うのか」

 「そんなこと言ってるんじゃないよっ!! なんだってロクに探しもしないで、そんなこと、決め付けるのさ!」

 「あの爆発で生存していると考えるのはお前の勝手だが、信号も途絶したままだ。生きていると考える方が無理がある」

 「きっと、吹っ飛ばされてどこかで迷ってるんだよ。そうだ……チンク姉もここに来たばかりだから、きっとそうなんだよ……」

 「探したいなら探せばいい。いるはずもない奴を見つけられるならな。見つけられるまで帰ってこなくていい、作戦の邪魔だ」

 物言いはあの時チンクを一方的に糾弾した時と同じ、冷めていて、それでいて鋭く、既に頭の中ではセインが抜けた後の編成を考えている最中だった。もはや彼女の中でチンクは過去の存在、既に居ないモノとして扱われていた。そして、死者を死者とも思わず労わる事さえしないその言動は残された妹らの逆鱗に触れる。

 「あんたのせいだ……。あんたがチンク姉に言いがかりをつけて隊を追い出さなかったら、無駄死にすることだってなかったんだ!」

 「言い掛かりだ。仮にそうであったとして、待機もせず用も無いのに外に出歩いていたチンクにこそ全ての落ち度がある」

 トーレの言い分も尤もだ。一時とは言え感傷に浸って外を出歩くのは上官である彼女の命令に背いたとされても仕方がない。それは彼女直々に除隊を命じられた後でも変わらない。今も昔もトーレにとって他の姉妹は、姉妹という家族である以前に戦力単位、戦略的戦術的な駒という考えが先にある。三年前の投降で妹らと同じ様に社会復帰を望んでいたならこのような考え方を抱くことは無かっただろうか……彼女らの時間は三年前から止まったままなのだ。

 その発言に歴然となった自分たちとの違いを自覚した妹らは、失望一色の視線をトーレに向ける。それは不信の目……上に立つ者として切り捨てたこの者は、やがて自分たちをも切り捨て淘汰するのではないか、そんな不安が彼女らの間に蔓延していた。蔓延した不安は不信へと結晶化し、やがてそれは決定的な歪みとして互いの関係性を破壊するだろう。

 その最悪の状況を即座に思い描いた八神はやては、機転を利かせてある提案を持ちかけた。

 「そやけど、一度隊を離れたとは言え、あんたにも部下を監督する義務があったんは確かや。私らが作戦行動中で誰も咎めるもんが居らんかったのもあるけど、それでもチンク・ナカジマ隊員を不必要に外出させない状況作りを怠ったとも言えるわな」

 「私に責任を追及するか。謹慎でも課すか」

 「あんたは今の隊で五指に入る優秀な存在や、そんな無益なことはせえへん。ただ、ナンバーズ隊の隊長を辞めてもらいます」

 予想していなかった言葉にトーレよりもその他の者達が息を呑んだ。隊長を辞任させられるということはつまり、トーレは部隊を構成する一隊員としてのみ活動を許されることになる。更に、管理局員ではない彼女に正式な階級や権限は無く、『ナンバーズの隊長』という看板を降ろされるということはつまり、最悪この作戦においては部外者の烙印を押されかねないという事でもあるのだ。

 「ナンバーズを効率良く運用することが出来るのは、現状で私一人だ。それを指揮権も持たない一隊員に降格させるという意味、ちゃんと把握しているのだろうな?」

 「全体の指揮権は佐官であり司令官である私にあります。部隊の編成や統合を独自に判断し命令を下すことが出来る立場にいることを忘れんといてな」

 「…………」

 「…………」

 「……二佐がそういうのであれば従おう。だが、後になって後悔しないことだ」

 「肝に命じとくわ」

 取りあえず、部下との間に確執のできてしまったトーレをナンバーズの隊長として据えておくには限界があると思い、少し強引だがこのような手段に出た。部隊の基本は上意下達、上の命令に下は無条件で従うのが当たり前で、その間の事情などは一切考慮されないのが普通だ。だが身内が死した事実に微塵の憂慮も見せず、悲しみに浸ることさえ許さないトーレのやり方では、いずれ大きな歪みとなって彼女らを引き裂くと懸念したはやての機転により、トーレを隊長から降格させることで上位者に押さえ付けられる彼女らの不信を逸らした。本来、正当な理由なしに隊員を降格させるのには無理があるが、そこは理由付けという名のこじ付けで乗り切るのが指揮官の手腕というものだ。

 隊長を欠いたナンバーズはヴォルケンリッター共々はやてが受け持つことが決まり、本題に移る。

 「えと、何がなんだか分からへんって人もいるやろけど、一度ここまでの状況を確認しよか」

 はやての指先が空を撫で、ホログラムの資料映像が映し出される。映った画像には黒髪紅眼の少年が写され、その傍らに付き従う三人の少女も確認できる。現状、新生機動六課が辛酸を舐めさせられ続けている存在にして、それに加担する最悪の三体の悪魔……ナンバーズ最高傑作、スカリエッティの寵児『トレーゼ』、最悪のロストロギア『闇の書』の残滓、『マテリアル』。そして、敵ではないが未だに行方不明となったままのスバル・ナカジマの捜索も並行して行わなければならない。

 「とりあえず、アレが何なのか誰か分かる人っていないんスか?」

 「アレっていうのは?」

 「決まってる。“13番目”の変容ぶり、あれはどう見たっておかしい。魔導にそんなに詳しくない私たちだって、あれが異常だっていうのは分かる」

 「だが、あの状況であの変貌……。どう考えてもあのマテリアルとか言う連中が一枚も二枚も噛んでいるのは確実だろう。納得のいく説明をしてくれるのでしょうね?」

 さっそくトーレの厳しい視線がはやてを射貫く。現状であの三人の人外について一番詳しく知っているのは、十三年前に彼女らを討伐した海鳴出身の者達のみ。そして、その大元である闇の書に関して更に詳しく追究しようとすれば、ヴォルケンリッターの四人が適役となる。

 「申し訳ないが、我々はすでに闇の書の支配下を離れて久しい。我々と奴らの書に魔導的な繋がりは全くなく、故に奴らがどの様な方法であの者に力を分け与えたかは分からない」

 「だが、あの力の根源が闇の書に属したモノであることは間違いない」

 「連中のいう『砕け得ぬ闇』ってのと関わりがあるってことかい?」

 「そこまでは分からないわ。永く書に隷属してた私達でさえ『砕け得ぬ闇』というのが何なのか分からないの」

 「むしろ、永く留まり過ぎたから分からなくなっちまった、ていうのかな。本当にそういうモンがあっても、そんな大昔のことなんて忘れちまってるよ」

 「なにせ、原典自体が落丁だらけの記録書だ、手間暇かける面倒さを考慮しなければ不正なプログラムを書き足すことぐらい造作もない。元より、闇の書のプログラムの大半は後付けで足された不正なものばかりだ」

 「待て、書き足された、だと?」

 「え、えぇ。いくつもの次元世界を滅ぼしてきた防衛プログラムも、元はいろんな不正情報が密集して……」

 「“13番目”の変貌には闇の書の力が関わっているのだったな? なら……奴は今、『どんな存在』となっているのだ?」

 トーレの言葉にこの場の全員が息を呑む。特に、十三年前に闇の書関連で二度の大きな戦いを経験した海鳴出身者らの表情は驚愕と共に青ざめていた。思い出されるのは海を埋め尽くす巨大な魔物、無限に増殖を繰り返して次元世界を押し潰す神話の怪物。最後は核を衛星軌道上にまで転送し、反物質による対消滅でようやく仕留め、それでもなお再生するプログラムを完全に消去する為に管制人格を司っていたリインフォースは自らシステムのデリートを行ったほどだ。決して少なくない犠牲を払って終わらせた悪夢のような災厄が再び蘇るかもしれない不安に、当時を知る者達は揃って戦慄を覚えたのだった。

 「まさか、魔導書のデータの空白部分に“13番目”の存在をねじ込んだとでも?」

 「そんなことできるの? はやてちゃん」

 「……一個の生命体の情報を丸ごとデータ化して、魔導書の然るべき部分に重要プログラムとして記載……。新生した闇の書を構成するプログラムの一部として書き加えれば……」

 「ただそうなると、もはや書き足しと言うよりは『書き換え』と言ったほうが正しいな。以前の“13番目”とは丸っきり別物だと考えてもいいかも知れん」

 「…………別モンだろうがなんだっていいさ。チンク姉の仇に変わりはないんだ、討てって言われれば討つよ。そうしないと浮かばれないもんね……」

 「セイン……」

 「司書長さん! 街中にレーダー設置したんでしょ、反応は!」

 「い、いや、反応はないよ。レーダーは地上にしか設置していないから、反応が無いってことはまた地下かどこかに身を隠してるんだと思う」

 「じゃあ、今からでも調査に行くッスよ!」

 「ま、待ってくれ! 相手だって丸腰のままとは…………行っちゃった」

 ユーノの制止も聞かず、受信したマップデータのみを持って飛び出すように出て行ったナンバーズ。後に残ったのはスターズとライトニング、はやてが率いるヴォルケンリッターと……

 「あんたは行かへんの?」

 「待機命令はまだ解かれてはいない。ご命令とあればすぐにでも行きますが、二等陸佐どの」

 「……いや、ええわ。先走ったナンバーズ隊は常時回線はオープン。あの子らからの信号は途絶えさせんように!」

 「了解」

 自分から率先して動けるだけの体力があるなら、それに越したことはない。姉の仇討ちという大義名分を抱いた彼女らの進撃はそう簡単に止まりはしないだろう。

 だが、逆立ちしても敵の攻略方法が浮かばない。元々難攻不落を誇っていた存在が、一周回って無敵の存在と化した今、切り崩すべき難点が見つからない。城壁を細い針で崩そうとするのと同じくらい無理な話だ。

 「打つ手なし、か……。よくよく考えりゃ、私ら相手にそれほど有効打与えられてへんやん……。こりゃ、ますます真面目にやらんと示しがつかれへん。……そう言えば」

 「八神二佐?」

 デバイスから抽出した戦闘記録を漁りながらはやては気になっていたデータを引っ張り出す。ホログラムに表示されたデータは戦闘が終結する間際の映像と、結界が張られていた周囲の空間の三次元座標マップ。“13番目”が自ら結界を破壊した僅か十数秒間の出来事をまとめたものだが、はやての予想は的中していた。

 「やっぱり……小規模な次元震」

 「次元震? この街の上空で?」

 「それ、本当なの?」

 「三次元座標から見た空間の揺らぎのパターンから見て、十中八九そうだろうね。あのまま発生していたら、今頃この街は地図から消えていたかもしれない。今にも空間が揺れ動く直前に“13番目”が外部から圧力を掛け、まるで書き損じを消しゴムで消すみたいに跡形もなく消滅させている」

 「どういう思惑があったかは知らんけど、図らずも“13番目”はこの街の数十万人の命を救ったっちゅうわけか。…………次元震、か」

 「どうかした、八神二佐?」

 「えと、高町一等空尉、ハラオウン執務官、スクライア司書長も……一応、後ほど一緒に。聞いておいてほしいことがあります」

 「う、うん。分かった」

 「大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」

 「平気や。さっさと終わらせてそっちに移ろか」

 出来れば忘れたままにしておきたかったが、本来作戦とは関係ないことを報せてくれたクロノの事や、どの道知ることになるであろう親友らのことを思えば早くに伝えるに越したことはない。それに、自分だけが抱えたままにしておくには、この事実は重過ぎる。

 「シグナムは休息を取りな。しばらくは作戦にも参加しないように」

 「申し訳ありません、主はやて。何のお役にも立てず」

 少数精鋭は削られればそれでお終いだ、何としても立て直す策を考え付いて見せなければ……。










 生まれ変わった気分はどうだ、と聞かれたなら……別にどうもしない、と答えただろう。風もなく波もない、光さえ届かない深海の底に沈んだような静寂に包まれたような穏やかさの中にトレーゼはいた。暗黒の海底をあてもなく彷徨いながら、在るはずもない出口を探すように覚束ない足取りで異郷の街を練り歩く。体内を比重の重い液体が満たし、その中の小さな自分がこの体を操縦しているような感覚の乖離に戸惑うこともなく、自分の目の前から消えた者を追ってただ流離う。

 どこに行った。

 次元の壁を破って飛び出した四つの影、その行方を追って今や庭も同然となったこの街を練り歩く。たまに目に付いた変な魔力を発している装置を適当に潰しながら、その足と目は目的地をまっすぐに捉えて他の一切は気にも留めていない。その鼓膜を打つのは群集の声や足音、道路を通る乗用車のエンジン音ではなく、それらが揺らす風の音を捉えていた。今の彼の視覚や聴覚はこの大地全てに広がっている。人間の住まない場所まで感覚を拡大させた彼にとって人間の存在は圧倒的少数派、鈴虫が一匹しかいない草原では鳴き声より草の流れる音の方が大きいのと同じで、彼の耳には人の声など一切入ってはいなかった。

 だがそれは彼の索敵能力が上昇したことにはならなかった。巨大な存在は見渡せる範囲が広くなった代わりに、足元に転がる小石の一つひとつの違いを見分けることが出来なくなる。どれも同じなのだから当然だ、彼にとっては砂浜の僅かな砂粒とて大差ない。しかし、感覚領域が拡大したというだけで肉体のサイズは以前と同じだ。故に……

 「…………」

 「ッ! おいコラァ!! どこ見て歩いてんだ!!」

 新興都市の海鳴には近年になって人の出入りが激しくなり、それまで目立たなかった世代や人種が増えていた。そのせいかどうかは知らないが、この様にほんの少し肩先がぶつかった程度で相手に敵意を剥き出しにする者が増えてきた。結構な大声で呼び止めたにも関わらず、目を合せもせず無視して過ぎ去ろうとしたことによほど腹を立てたのか、指が食い込むほど強く肩を掴みトレーゼを路地裏に引き寄せた。

 「人にぶつかったクセに何か言う事はないのかよ。なぁ!!」

 「…………」

 「チッ! 言葉分かるぅ!? シカトしてんじゃねぇよ!!」

 「…………」

 だんまりを決め込んだ者への最も効果的な口の割らせ方は暴力だ。目に見える形、痛みを伴う形での暴力の行使はそれだけで執行した人間より弱い者を支配下に置ける最上の方法となる。

 この場合の青年の不幸はたった一つ……暴力を振るう相手が「窮鼠猫を噛む」と表現することさえ馬鹿馬鹿しくなるほど、次元違いに残酷な相手だったことだ。

 胸倉を掴まれたことに不快を覚えたのか、トレーゼの細身の腕が押し返そうと青年の肩に伸びて触れた瞬間……

 バシャァ、っとバケツの水をぶちまけたような水音が路地裏に響き、その後どっさりと何かが倒れる。固く捩じれたそれの表面は人間の皮膚に衣服の繊維が巻き込まれ、外圧から微塵に砕かれたもはやどこの部位かも分からなくなった骨が幾つも突き出し、螺旋状に変形されたそれはまるで限界まで水気を搾り取った雑巾かバスタオル……難癖を吹っ掛けた青年はおよそ人の形すら保てないまま一瞬の苦痛すら感じることなく、文字通り“搾り取られ”て全身の水分を対外へ放出するという想像を絶する方法で殺害された。だが手を下した本人は殺したとさえ思っていない。ただ単に何か小うるさい羽虫か何かが視界に入ったから叩き落とした程度にしか思っていないし、実際そのつもりで手を払ったら発生した風圧で羽虫が死に絶えたという程度だ。

 「…………」

 視線の動きに合わせて血液は側溝に流れ落ち、後には赤く変色した地面と壁、一見死骸とは分からないほど変り果てた物体だけが残った。後はこれを始末するだけで殺人現場だとは誰も思わなくなる。例えそこに一目で致死量と分かるだけの出血があったとしても、指の欠片も見つからなければ凄惨な事件があったとは誰も思わない。

 壁に染みついた血痕から何かが浮き出る。淡い燐光を放って滲み出たそれらを手の上に束ね、球状となったそれをすっと口に入れる。決して人間が、生物が食すべきモノではなかったが、彼の場合も養分として吸収したのではなく胃袋に相当する部位から直結した魔導書に記録しただけだ。量にして僅か数文字分、六百と六十と六ものページを埋めるには明らかに不足しているが食わないよりは良い。

 「随分、無駄なことをするのだな」

 「…………」

 何らかの方法で上位命令を回避したのか、『王』のマテリアルがトレーゼの影から伸びるように出現し、壁に残った血痕を指で掬い取る。

 「生殺しにして先に搾り取った方が効率よく蒐集できただろうに」

 「…………オイ」

 「ん、ようやく口を開いたな」

 「……あいつはどこだ」

 あいつ、というのが誰の事を言っているのかはすぐに分かった。だが灯台下暗し、四方千里を一望する視点を獲得したが故か、結果的に自らに最も近い部分に引き込む形となった彼女の存在を知る術を今のトレーゼは持たなかった。単純にそんな場所にあるはずがないという初歩的なニアミスに過ぎないのだが、この星の全土に感覚領域を拡大しても発見できない事実はそれだけで彼の氷の脳髄に苛立ちの亀裂を入れた。

 「十数年間、この界隈を漂っていたお前達にこの街で知らないことがあるはずがない」

 「待て待て! 確かに闇の書の力が及ぶ範囲にて万能だが、悔しいことに全能ではない。主殿が執心の小娘がどこに行ったかなど、一度我らの目や耳から逃れられては探しようが無い」

 「探せ」

 「そうせずとも良いであろう。あの傷ではどの道長くは保たん。放っておいてもいずれ死す、その時に屍を暴けば良い」

 「……………………そうか」

 何かを悟ったような無表情になり、再び喧騒の夕闇に戻る。

 (普段であれば食い下がる場面だが、闇の書と一体化した全能感に酔われておるのであろうな。聞き分けが良いのは善き哉善き哉)

 万事順調……そう考えていた『王』は深く考えることもせず、再び魔力の霧となって書の中に帰った。さっき自らが吐いた言葉の中に自分達の首を絞める部分があるとは露とも思い当たらずに……。










 ストライク・アーツを習っていてこれほど良かったと思える出来事など、後にも先にもこの時一回こっきりだと信じたかった。弾け飛んだ先に見えた灰色の光景が、どこかの街を上空から見下ろした物だと知った時には既に海面との距離はかなり縮まっていた。

 この時、宙に放り出されたヴィヴィオの脳裏に浮かんだのは、ノーヴェ以前に自分に体術を教えてくれたスバルの言葉。あらゆる体術における基本、「受け身」を教わった瞬間のことを走馬灯のように鮮明に思い出すと同時に体は既に動いていた。床や地面の無い空中で魔力を集中させた部分を床との接地面に見立てるという機転は、まさに生死の境に立たされた瞬間の火事場の何とやらだったのかも知れない。『聖王の鎧』を喪失し、自動防御を欠いた彼女はその刹那、完全に自分の力だけで生き延びた。回転する体の速度を僅かに見えた光景から逆算し、海面に叩き付けられる瞬間に接触部分に魔力を集中し防御体勢をとったことで、高所から落下したにも関わらず無傷で生還したのだった。

 「げほっ、げほっ!!」

 冷たくも塩辛い水が目に沁みる。海岸に並べられたテトラポッドにしがみ付いて這い上がると、堤防を越えて砂浜へやってきた。海からの潮風がずぶ濡れになった身体を冷やすが、人気のない海岸に雨風を凌げそうな場所は見当たらない。

 さっき落下している最中に見えた街の規模から大勢の人口を抱えるであろうことを察し、ヴィヴィオはその方角に行くことにした。ここが管理内か管理外の世界かで対処も変わるだろうが、窮した時には現地の警察機関に身を寄せることも考えておく必要があるだろうが、それは最後の手段だ。とにかく今は低下した体温をどうにかして温め直したい。口元を垂れているのが海水なのか自分の鼻水なのかさえ分からないほど感覚は麻痺し、歯や口元よりも肩の方がガクガクと笑って言う事を聞かない。感覚の麻痺は指や足の先から徐々に浸透し、気を抜けば膝を着いて一歩も動けなくなりそうだ。

 歩きながら自分の身に何が起こったのか出来るだけ冷静に分析し、そして思い出す。恐らく記憶の大部分を占める暗闇の光景の正体は、局で働く知り合いらから聞いた虚数空間というものだろう。この世のあらゆる物理法則が通用しない未知の時空、そこに“落ち”れば五体満足で生還できる確率は低く、あの様に脱出できても空中高く放り出されては大抵の人間は墜落死するしかない。生き残れたのは奇跡だろう。だが後の三人が同じ奇跡にあやかれたかどうかは定かではない。

 「ウーノさん、セッテさん……ノーヴェ」

 宙を舞った瞬間、全てを確認した訳ではないが彼女らの姿は見えなかった。自分を導いたノーヴェや、彼女を追うセッテ、そして行き当たりばったりな自分に協力してくれたウーノ……きっと同じこの世界に落ちただろうが、自分が落下した周辺にその姿は無かった。魔法を使えない彼女らと通信魔法で連絡を取り合うことは出来ない。つまり、安否の確認さえままならないのが現状だ。

 おまけに、ただ合流すれば良いというわけにもいかない。ノーヴェとセッテは銃撃による傷を負っており、こうしている間にも衰弱している可能性が高い。仮に動ける状態だとしても、セッテはノーヴェを殺しかねない勢いだった。あの二人が邂逅してしまえば今度こそどちらか一方が息の根を止めるまで死闘を繰り広げるだろう。そうなってからでは遅い。

 浜を抜け出し、海水が染み込んだ感触を両足に覚えながら歩いていた時、ヴィヴィオの目に飛び込んだ物があった。

 「これって……」

 昔は夏場に海水浴場にでも使われていたのか、観光客を招く為の看板が砂に半分埋もれていた。引っ張り上げると殆どペンキは剥がれ落ちていたが、そこに書かれた文字にヴィヴィオは見覚えがあった。

 「『日本語』!? なのはママが教えてくれた文字!」

 以前いつだったか、養母が実家がある場所を教えてくれた際、そこの生まれ故郷の文字も少し教えてくれたことがあった。「ひらがな」と「カタカナ」、そして「漢字」から成る独特な言語……彼女が生まれ育った世界でも一部の国でしか公用語として使われていない文字を、ヴィヴィオはその壊れかけの看板に発見した。

 「それじゃあ、ここは日本? 第97管理外世界なの?」

 地球の日本、その沿岸部のどこかに漂流したことを知ったヴィヴィオは更なるヒントが隠れていないか、周囲を見渡した。そして、堤防沿いの歩道に立てられた金属の看板を発見する。ところどころが錆びているが文字は残っており、読める部分だけをどうにかして解読しようと試みる。そして、一番下の行で気になる二文字を発見した。

 「この字……!?」

 それを確認した彼女は看板の隅に描かれていた地図を見、おおよその略図を頭に写してから体の冷えも忘れて駆け出した。

 看板に書かれていた文字は『“海鳴”市役所 生活課』。










 「あ、ごめーん。まだ開店準備ちゅ……ごばっ!!?」

 海鳴東駅の周辺に店舗を構える一軒のバー、地下へ続く階段を数段降りた先にあるドアを開け、まだ開店準備の為に清掃していた従業員を突然の訪問者は腹部を殴り、身を屈めた瞬間に延髄部分に衝撃を与えて気絶させた。

 「…………」

 無言で店内を見回した後、カウンター席の酒棚に置かれた小瓶を取る。度の強いウイスキーのビンの口を指で潰し割り、それを口に入れる。胃に流し込むのではなく歯磨きの要領で口の中で唾液と混ぜるように掻き回し、真っ赤に染まった腹部の服をたくし上げて、それを吹きかける。

 「ッづぅえああぁ!!」

 傷口に沁みるアルコールの痛みに絶叫を上げるが、それを不審に思う者はいない。それをいいことにしばらくここで休息を取ろうとカウンター席に腰を落ち着け、腹の痛みが引くまで大人しく微動だにしない。だが冷静そうな佇まいとは裏腹に、そう、まさに裏腹という表現がぴったりなほど腹の中は胃液も沸騰するほど煮え繰り返っていた。

 ビンを握る手の圧力が高まり、その形が歪む。もちろん意図しての行為だ、やり場のない苛立ちや怒りを手っ取り早く手持ちの物体にやつ当てただけに過ぎない。だが結局ぶつけるべき相手に向けたものではないため、苛立ちが晴れることは無いままだった。だが煮える腹の中とは真逆に、頭の中では冷静に怒りをぶつけるべき相手を見つけ出す手段を模索していた。知らない世界に来てしまったのは不本意だが、幸運なのはこの世界、それもこの街のどこかに自分が追うべき相手も居るという事実だった。

 「好都合です。必ず見つけ出して、ワタシの手で始末する……。誰の邪魔もさせない」

 取り敢えず、街の人間に溶け込むには服を替える必要がある。白無地を染める血痕は非常に目立つ。隠れて行動することも出来るが、移動するにも時間を掛けてはいられない。気絶させた従業員男性の服は上は赤、下は黒のジーンズ、道中で出血しても夜中ならバレ難い。起こさないようにそれらを脱がせ、代わりに自分の血塗れの服を置いて行く。

 ふと、脳内の端末に反応する信号が幾つもあることにようやく気が付いた。自分達の信号送受信機能は次元の狭間を越えてまで機能しない、となるとここは……

 「『地球』……。機動六課が“13番目”を、兄さんを追った場所!」

 真実を知ったセッテは傷の痛みも忘れて飛び出し、夕闇の街に姿を消した。後に警察に血塗れの服が発見され、このバーで働く男性に殺人未遂の疑いが掛かるが、死体も無く被害者も名乗り出なかった為に迷宮入りとなった。










 街灯だけが唯一の明かりとなった市内のとある公園で、彼女は風を背に受けブランコに揺られていた。遊んでいるように見えるが、誰かを待っているようでもあり、何をするでもなくそこでただ揺られていた。

 「…………」

 ぼう、っとした視線の先には別の遊具があるだけで、時折猫のように地面を移動する枯葉に目が移るも、結局はそこから一歩も動かずにいた。

 「…………」

 「ねぇ、君! 二つ三つ質問していいかな?」

 たまたま道を通りかかった警察官が自転車から降りて少女に近付く。この辺りをこの時間に下校する女子高生らが居ない事は職務に熱心な彼は良く知っていた。街灯に照らされた白無地の服は闇夜で目立ち、制服でも私服でもなさそうなその格好に警官はますます怪しさを覚えた。

 「ここらへんの人かな? 見ない顔だね」

 口調はナンパしているようだが、手元のメモにはいつ逃げ出してもいい様に少女の特徴を記している。それから「家はどこ」、「何か嫌な事でもあったのかい」など彼女を家出してきたものと思って話し掛けたが、何も答えない少女に怪しさは高まるばかりだった。これが涙を浮かべていたなら誰にも言いたくないという風にとる事もできたが、まったくの無表情はむしろ不気味さを押し出していた。

 そして、もっと特徴を掴もうと視線が下に移った時、警官は少女のズボンが不自然に赤く染まっていることに気が付いた。

 「君、これ……!?」

 街灯が照らし出す赤色に危機感を覚えた警官はできるだけ冷静に少女を観察し、警戒を強めた。

 「ケガでもしてるのかな。すぐ近くに病院もあるから連絡してあげ……」

 そこまで言った時、少女に動きがあった。ブランコから立ち上がって警官のすぐ目と鼻の先まで近付き、警官の顔を注視する。何か不思議な物を見つけた子供の様な視線に一瞬呆気にとられた警官だったが、その場で少女は腰を大きく屈めて警官の足に手を伸ばした。裾に付いたゴミでも取ろうとしたのかと考えた彼の思考は……

 頭を強く叩き付けられて停止した。

 目を閉じる瞬間に見えたのは、自分を見下ろす少女の無表情な顔だった。

 ここに第三者の目があれば、少女が警官の足を掴み尋常ではない剛力でそれを引っ張り上げ、支えを失った警官の上半身が倒れる決定的瞬間を見ただろう。

 頭半分ほどの身長差がある警官を気絶させた少女は、彼が公園前に停めた自転車を見るとそこまで歩く。血に濡れた足は半分不自由で、引き摺りながら歩くも彼女の顔に痛みの苦悶はない。痛みを感じる神経が欠如しているのか、裸足に石が食い込んでも歩くスピードを全く緩めず、駐輪されていた自転車に跨り器用に片足漕ぎで夜の住宅地を去って行った。

 数分後、連絡が途絶えた同僚が警官を見つけ、自転車は盗難されたとして捜索し、住宅地から数キロ離れた地点で乗り捨てられているのが発見された。指紋も検出されたが、街のどの人間にも当てはまらず、後に捜査は打ち切られた。



 この日の夜、海鳴に四つの人影が侵入することとなるが、その事実を異世界から来た者達は一名を除き誰も知らないままだった。










 闇に沈み人々は眠っても街は眠らず明かりを放つ。19時過ぎ現在、ビルや街灯の明かりを足下にして数名の少女達が街を駆ける。

 「ディエチ、どう?」

 「捕捉した。12時の方向、距離は500」

 ビルの上を移動する彼女らの視線の先には光り輝く夜の街を往く人々。その中に混じったたった一人を、彼女らの砲撃手であるディエチは捉えた。すぐにその映像を他の面々に送信し、情報を共有した彼女らは目的地まで一直線に駆け抜けた。

 「先行するッス!」

 「無茶はしないで」

 「分かってるッス!!」

 「スクライア司書長からの情報では、このルートに設置したアンテナが一個ずつ破壊されているとのことです。このまま全て破壊されれば、連中の特定もできなくなる」

 幸いにも索敵アンテナは道なりに破壊されている為、そこから割り出された進行ルートを先回りして監視するのだ。あくまで監視のみ、先走って手を出せばチンクの二の舞になってしまう、だから決して手を出さずに様子のみを窺い報告するだけに留めるように言われている。だが肉親を一人喪った彼女らの心にその命令が届いているかは分からない……満身創痍に近い体に鞭打って駆ける彼女らの視線は、皆同じたった一人の怨敵を射抜くように向けられていた。

 「目視したッスよ!」

 とあるビルの屋上に到達し、六人はそこから地上10メートルを望む。目当ての人物は街の人々の流れの中に溶け込み、速くもなく遅くもなく、存在感を消したように静かに移動するそれを、彼女らの眼球は確実に捉えていた。血を別けずとも肉親であった者を、屍も残さずこの世から葬り去った憎き仇敵……その者を十二の視線は同一の色を込めて睨んでいた。

 「今回は監視と動向の調査だけだ。結界を展開できない私達が手を出したら、ここにいる無関係の人達にも被害が出る」

 「じゃあ! いつあいつを仕留めるのさ!」

 「セイン姉さま、落ち着いてください。いまここで動かれても私達に勝ち目はありません。姉さまも見たでしょう、あの桁違いな力を!」

 戦闘力、と表現することさえ馬鹿馬鹿しくなるほどの暴力は今も鮮明に彼女らに刻まれている。正面から向かって行っても小石を一蹴するように消し潰されるか、相手にされず逃亡されるのがオチだろう。いたずらに戦力を失う事になればここから先さらなる苦戦を強いられる、それを案じている以上、この場は下手に手を出す事は出来ないのだ。

 「二佐の話では本局から増員を要請し、殺害ではなく魔導的な封印処理も検討されるとか……。ですが、今本局と地上本部との間で何かトラブルが発生したらしく、増援や物資の補給はしばらく滞るだろうと」

 封印……闇の書に対して行い無駄骨に終わった行為が、更に思考する頭を得た存在に効くかどうかは怪しい。様々な方法で封印処理を試みた先人たちが悉く失敗し、唯一効果があるかも知れないとされた方法も結局未遂に終わった。無尽蔵の魔力、無限の知識、無制限の進化能力……こんな存在にどう対抗し、どう打ち勝てと言うのだろうか。

 ふと、対象が路地裏に消える。このすぐ近くに設置したアンテナを破壊しに向かったのだろう。別の面に移動してそれを追おうとしたが……。

 「あれ……?」

 「消えた?」

 路地裏に明かりは少ないが雑多な物は無く、簡単に人の影を見失うはずがなかった。道の先は袋小路に近く、猫の通り道程度の隙間も無い。

 「生体反応は?」

 「このビルの中の反応数に変化はありません!」

 となれば、本当に煙のように消えってしまったのだろうか。

 いや、そもそも彼に生体反応など検出されるのだろうか? 彼は最早他の生物とは一線も二線も画す別次元のナニかだ、摂食も睡眠も必要なく、呼吸や心拍、代謝など生命活動に必要な要素全てが彼にとっては「してもしなくても変わらない」程度でしかない。そんな彼から生体反応が取れるはずがない。それに思い当たったディエチがすぐさまレーダーの表示を別の機能に変えようとした時……

 「……減っている」

 「何が!?」

 「この建物の中にあった生体反応がどんどん、消えて行ってる!!」

 自分らが立っている足の下に広がる空間、そこに住まう者らの命の炎が次々と消えて表示されなくなっている。単にこの建物から出て行っただけ? いいや、数字の減りは行列が一気に進むのと同じくらいだ、建物の出入り口を見てもそんな勢いで出て行く団体は影も形も見えない。

 となれば、考えられる要因はたった一つ……。

 「この中の人が……凄い勢いで死んでいってる!?」

 「……まさかっ!!」

 さっき路地裏へ消えた者の姿から最悪のケースを想像したセインは、無機物透過の能力で階下に潜行した。何かしらの会社の事務所なのか、印刷室を通り抜け、明かりの無い廊下をすり抜け、トイレの前を通り掛かった時……

 「ッ! 大丈夫ですか!!」

 冷たい床に倒れている女性を発見し、抱き起す。顔色は悪くなくまだ体温もあったが……。

 「呼吸、脈拍……反応無し!」

 何の異常も痕跡も無く、セインが抱きかかえた女性は眠るように死んでいた。心臓マッサージ、人工呼吸、適切な出力と周波数による電気刺激でも覚醒には至らず、魂を抜かれたみたいに女性はただ「死んで」いた。そして不可逆、死んでしまった者は生き返らない。救助を諦めて壁際に座らせた時、後を追ってきた姉妹らが合流してきた。

 「やっぱり死んでる。そっちはどうだった?」

 「二人発見したけど、どっちもオダブツだったッス」

 「毒ガスを使用した形跡は無し……。それなのに、どうやってこの建物の人達を……」

 そう、ここの住人は「死んだ」のではない。どう見ても不自然極まりないが、自然に起こりえないなら誰かが手を掛けたという結論になる。そして、これらが超常現象で引き起こされた物でないとすれば……。

 「ッ!? 足音……誰か来る!」

 「誰かって、誰?」

 「生体反応は……無し」

 冷たい廊下の床を等間隔に叩く硬質な足音が曲がり角から聞こえてくる。誰もかれもが死滅した本来無音のこの空間を歩く者は悪霊か死神か、それの正体を察知した彼女らが取った行動は……それに見つかる前に別の部屋に隠れることだった。

 六人全員が手を繋ぎ、セインの能力で一室に隠れる。最後尾が壁をすり抜けたと同時に、“それ”は廊下の角からこちらへ姿を現した。










 「────」

 ゆらゆらと、夕日の影法師が揺れるように、薄暗がりの中を移動する“それ”は等間隔の足並みを崩さず、彼女らが隠れた部屋の手前、女性が倒れていたトイレの前に止まった。壁に寄り掛かった屍を無言で見下ろし、その後周囲を見回す。何かを探しているようだが、“それ”は下から入って来た、この場に足を運ぶのが初めてのはずなのに一体何を探しているのか?

 その視線が定まった方向は、知ってか知らずか六人の姉妹が逃げ込んだ部屋に続くドア。そこへ近付き、手を触れるどころか、ドアノブを回す事もなく、呼吸するようにそれを「通り抜け」、室内に侵入した。“それ”は量子の域に片足を突っ込みかけた存在、実体と非実体の中間に位置する曖昧でありながら確固とした肉体を有する“それ”にとって、無機と有機の区別は無い。故に……。

 「……う、っぐ!!?」

 応接室のソファに横たわっていた、まだ息のある男性の胸に腕を突っ込む。出血は無く、心肺を鷲掴みにされる感覚に僅かに呻いた後、糸が切れるように息が絶えた。心臓付近に位置する、この世界の科学では発見されていない部位を抜き取り、捕食した“それ”は更なる食料を求めて明かりの無い部屋を見回す。

 ふと、その鼻腔が空気中の微粒子を捉えた。人の発するほんの僅かな体臭の残滓をキャッチした“それ”は、臭いの発生源を辿って探し当てようとする。自分が侵入した際には感じ取れなかった臭いを追い、隣の部屋に通り抜け、自らがリンカーコアを吸い取り殺した死骸を足蹴にしながらまだ息がある獲物の在り処を突き止めようと歩を進める。ここは既に彼が足を踏み入れた時点で死の空間、入る直前に何人いるかを確認し、その上でそれらのリンカーコアを一瞬で抜き取り捕食した。取りこぼしこそあるが、ここまで濃厚な新陳代謝の臭いを残したまま移動するだけの体力は残されていないはず。つまり、この臭いの発生源は自分が侵入した後でここに来た者の臭いという事になる。臭いは似通っているが全部で六人分、それが同じ方向に伸びているとなれば、その方角に何者かが居るということになる。

 更に隣の部屋を隔てる壁に足を踏み入れた瞬間……。

 額に硬い感触。

 「吹っ飛べ!!」

 続く熱線の掃射により頭部が溶解した。発射された光線はそれまでに“それ”が通過してきた部屋の壁を諸共に貫通し、衝撃で割れた窓ガラスは様々な場所に散らばり、当然外からは悲鳴が聞こえた。だがこのままにしてしまってはガラス以上の被害がもたらされると判断した砲撃手により、先手必勝、目くらまし代わりの一撃が撃ち込まれたのだった。

 だが、これすらも“それ”にとっては「目くらまし」程度の抵抗でしかなかった。

 首から上が消失し一時的に視覚と聴覚を失ったが、魔力の霧が首元に集中し瞬時に頭部を形成、再び取り戻した視覚と聴覚は自分に一矢報いた者を探し求め更なる追跡を試み……る事はなく、この街の警察が駆け付ける前にビルを後にしようとした。さっきの一撃でどこの誰が撃ったかは理解した。その上で追う必要は無いと判断し、そんな事に時間を割くのは無駄足の極みと断じたからそうしたまでだ。どうせ再び相見える時はある、本気で叩き潰すのはそれからでも遅くはない。それよりも今は空腹だ、八分目にも足りないこの腹を満たすにはもっともっと良質な「食料」を大量に喰らう必要がある。羽化に使ったエネルギーを確保しなければ本調子になれない以上、ここは食事に専念したい。

 それに、「食料」とは別に探さなくてはならないモノもある……。

 踵を返した“それ”の黒い背中は、切断された電線からの漏電の明滅の後、跡形もなく姿を消したのだった。










 「…………どう?」

 「気配は無し。追跡はされてないッス」

 「取り敢えず助かったのでしょうか」

 静かな大量殺人現場から脱出した六人は、ビルから大分離れた地点まで退避していた。あのまま臭いを追ってついて来られたらこちらの拠点まで案内する事になっただろう。そうさせない為にあの場ではディエチが機転を利かせて発砲した。全力で撃てば隣三棟を貫くほどの威力で撃つことも出来たが、あくまで目くらましだったので過度な威力は追求しなかった。おかげで被害は最小限、外を歩く人々の注目も集めた事で警察も死体の早期発見が可能となった。上々の出来だっただろう。

 「死体は全部リンカーコアを抜き取られてた。多分、八神司令の言っていた『蒐集』って奴だよ」

 大気中の魔力素を取り込み変換・増幅する器官、リンカーコア。消滅すれば心臓の停止と同じく死亡する危険が発生する、人体において最も重要な器官の一つ。全ての生命に備わっている以上、もちろん彼女らナンバーズの体内にも有り、肉体を無視し直接そこを攻撃されれば防御する策は無い。一度蒐集されたリンカーコアは二度と同じ手段で吸収する事は出来ないが、そのたった一度で全部吸い上げられてしまっては元も子もない。

 「攻撃方法が判明しただけでも良かったのかな……」

 「対処法はぼくらが考えることじゃない。後は二佐が上手く計画してくれるよ。それに、気付かれずにこれを取り付けることも出来たしね」

 オットーが取り出したのは小指の爪ほどの大きさの金属物体、宙に投げると表面から細かい突起がいくつも飛び出し、衣服の繊維に絡まる形となっていることが分かった。

 「新しいタイプの発信機。可能ならって話だったけど、取り付けられて良かった」

 野草の種子が固い毛や突起を利用して衣服や体毛に引っ掛かるように、それも同じ原理で“13番目”の衣服に引っ付くように作られていた。これで街に設置したアンテナが破壊されてもしばらくは大丈夫だろう。

 『どうやった? なんやちょっと途中で通信途絶えたけど』

 「大丈夫です。発信機も付けられました」

 『早速信号を受信してるよ。でもそんなに接近して大丈夫やったん?』

 「はい。少し危なかったですが、あっちに攻撃の意思があったかどうか分かりませんでしたから」

 『……そっか。それじゃ、ナンバーズは一旦帰還してもらおか』

 「了解。……あの、八神二佐。気のせいならすみません」

 『なに?』

 「いえ、何かあったのでしょうか? お声が優れないようですが?」

 『……ううん、何もないよ。心配してくれてありがと』

 通信が切れた後もオットーははやての声にいつもの溌剌とした感じが無かった事を疑問に思っていた。チンクが死んでしまったこともあるのだろうが、それとは別の何か、彼女個人に関する何らかの理由で覇気がないのだろうか。

 ここに来る前もそうだが、ここに足を踏み込んでから色々なことが起こり過ぎた。ふと、いつの間にか集団の最後尾を歩いていたのに気付いたオットーは背後を振り向いた。風が背中を流れ街の通りを抜けていく……いつもなら視界の中にいるのが常識だった銀色の髪が、今はどこにも無い。明けても暮れても一緒だったはずのあの影は、今はもうどこにも居ない。

 不意に視界が滲む。始めは怒りで、さっきまでは緊迫した状況だったから意識していなかったが、やっと感覚が追い付いた。「チンクはもうこの世にはいないのだ」、と……。

 「オットー……」

 背中から抱き留められて初めて、無口な八女は自分が悲しみの涙を流していることに気が付いた。心にぽっかりと空いた大穴のような喪失感、シャッハが傷付けられた時でさえ怒りが満たしていた胸の内が、今ではそれすら無く虚無感や悲しみだけが湧き出てきた。一度自覚すると歯止めが利かず、悲しみの波は同じ境遇に置かれた姉妹に伝播し、沈黙の中にすすり泣きの声が聞こえてきた。

 「チンク姉ぇ……どうして、死んじゃったりしたんだよぉ……!」

 死ぬかもしれない、とは考えてはいた。だがそれは自分こそがと義憤に駆られた者の方がその確率が高いはずだった。彼女はトーレに問い詰められたようにこの戦いには懐疑的な姿勢を見せていたし、決して乗り気とは言い難かった。公私をきっちり分ける彼女らしくない言動があったことは確かだが、それだけが彼女が死に至る要因であったとは到底考えられなかった。

 「交渉をしようとしてたんだ……。最期まで、優しい人だったから」

 「トーレが抜けろって言ってたけど、そうしてた方が良かったのかも」

 「……あの人の為に戦おう」

 ディエチの言葉に皆がはっと顔を上げる。いつも物静かな感じを持つ彼女は明らかな決意と覚悟の熱を放ち、姉妹を奮い立たせる。

 「管理局の沽券とか、次元世界の平和だとか、そういうのじゃない……あの人の、チンクの弔いの為に戦おう。私たちの姉さんの意地と誇りの為に戦うんだ。それが今の私たちが出来ること……今の私たちにしか出来ないことだと思う」

 「チンク姉の為……」

 「チンクが死んだって実感が無いのは分かる。私だってまだ納得してない。だから、チンクだけじゃない他の誰かの為でもいい。ノーヴェの為でもいい。シスター・シャッハの為でもいい。スバルの為でもいい。これまでの争いで傷付いた、“13番目”に傷付けられた人たちの為に戦うんだ!」

 同じ大義名分でも社会や秩序の為というマクロな視点ではなく、身近に居る誰かの為に……そういう意図があったかは分からないが、ディエチの言葉は悲嘆に沈んでいた姉妹らに活力を与える結果になったのは事実だった。本来ならこの物静かな十女だって声を上げて泣き叫びたい気持ちがあったが、公私における心の支えを失った彼女らには新たな支柱が必要と判断し、いずれ誰かがその役目を担わなければならないのならと、そんな思惑があったからここでこの様な台詞を述べたのだ。自分にあの小さな姉ほどの余裕も無ければ、他人を引っ張って行くだけの才覚も無いと分かっているが、だからと言って悲しみの中での停滞が許されない以上は誰かがこうするしかないのだ。

 本当にこの役目を担う相応しい存在はトーレをおいて他にいない。だが、今このチームが彼女を受け入れるとは思えない。奇しくもディエチの思惑ははやてのそれと同じ結論を出していた。彼女に対する信頼が全て失われてしまった訳ではないが、今は心情として彼女と深い関わりを持ちたくはない。例えそれが彼女との間に更なる不和を生む可能性があろうとも、傍から見れば八つ当たりに近いものだとしても、そこだけはどうしても譲れない部分だった。

 こうして、“13番目”との戦いは明日以降に持ち越され、彼女ら機人の姉妹は新たな敵に臆すことなく、親しい者を喪った悲しみを原動力に新たな戦いに臨む。










 「きみ、そこの子!」

 「え、あ、はい!」

 川沿いのサイクリングロードを巡回していた警官が見咎めたのは、普段の日に目にしたことのない少女だった。暗がりに浮かぶ金髪は非常に目立つ上に、それがいつもなら目にしない人間なら職業柄どうしても気になってしまう。

 「迷子かい? 家まで送ってあげようか」

 「えっと! あの、その……! け、結構です!」

 外国人だと思って身構えたが、話す言葉はとても流暢だった。この辺は観光地もホテルも無く、周囲に海外から移り住んでいる人がいるとは聞いていない。子供が出歩く時間にしては既に遅く、昨今では凶悪犯罪が横行するようになった為に警戒を強めるようにも言われている。現に別の地区ではあろうことか警官の自転車が強奪されたという情報もある。

 この地区に配属になって数年だが、人を見る目を養っている警官は、その少女がただ見知らぬ人間や警察と言う職業に対する緊張で拒んでいる風には見えなかった。警官特有の青い制服や帽子、桜を模した金バッジに注がれる視線にそれとは違う意味での拒絶が見て取れた。

 「あのさ、どこに住んでるのかな? 家の人とかに遅くなるって言ってる?」

 「その、あの……!」

 「あ、ちょっと! だから夜道の一人歩きは危ないって!」

 「いえ、急いでますから……!」

 「だからさ、急いでるんなら危ないから家まで送ってあげるって」

 どうも様子がおかしい、何かやましいことでもあるのかと更に問いただそうと警官が少し迫り……。

 「すみません、うちの子が何か?」

 背後に現れたもう一人の人物がそれを遮る。暗がりでしかも目の前の少女に集中していたとは言え、何の前触れもなく女性が現れたことを奇妙に思ったが、母親だと名乗り出たその人物は自然な感じに少女の手を取った。

 「買い物の途中ではぐれまして。引き留めていただいてありがとうございます」

 そう言ってニコリと微笑んだ女性の顔付きは日本人のそれではなく、少女と同じ鼻高で色白な外国人の容貌だった。

 「いえ、職務ですから。女性だけの夜道は危険ですので、帰宅はお早めに。それでは」

 「はい、お勤めご苦労さまです。……それじゃあ、行きましょうか」

 親子が並んで歩く方向とは逆に警官は自転車を漕いでいつものルートに戻る。海鳴市にも最近は海外からの移住者が増え、最近では駅周辺に彫の深い外国人を見かけることも多くなった。そう考えれば今まで見かけなかった場所で出会うのもおかしくはないのだろう。

 ふと、警官はさっきの母親のことを思い出した。来日して長いのか、日本語を流暢に話す姿に感心したが、それよりも……。

 (冬なのに薄着? それにあの背中、砂が付いていたような……?)

 奇妙な親子連れだったと思いつつも、警察署に戻った彼が帳簿に書いた文字は『異常なし』だった。










 「……探しましたよ、陛下」

 「ウーノさん……」

 機転を利かせて窮地を救ってくれた女性は、まさにそれまでヴィヴィオが捜していた人物の一人だった。高空から弾き飛ばされたにも関わらず無傷のようで、戦闘機人の体力を遺憾なく発揮していた。

 「予想以上に早く見つけられて良かったです。日をまたぐことも覚悟していましたが……それよりも陛下、召し物が濡れていませんか?」

 「海の方に落ちちゃって……。ヘックシュ!!」

 街を歩いている間に乾いた部分もあるが、まだほとんどは潮水に濡れたままだ。今の内に一晩過ごせる場所を見つけておかなければならない。

 「でもそれより、早くノーヴェたちを見つけないと! また大変なことになっちゃう!」

 「それは同意しますが、今日はもう遅いですから一刻も早く宿を見つけましょう」

 「でも……!」 

 「体調を崩されては動くことも出来ません。幸いですが、行くあてはあります。陛下はここがどこか見当は?」

 「地球……だよね?」

 「ええ、しかもここはあなたのお母さまが派遣されたウミナリの地のようです。次元転移の影響で信号の受信は混線しているようですが、ナンバーズの端末信号の反応も検知できます。うまくすれば合流してあなただけでもミッドチルダへ帰すことも出来るでしょう」

 夜風が身に沁みることも忘れ、ヴィヴィオは見ず知らずの土地に来た不安からようやく解放された。ひょっとすればたまたま似た言語を持つ世界に飛ばされただけかも知れないと思い、ここへ来る間もずっと完全にその不安をぬぐえなかったのだ。だが確証を得られた今は一晩過ごす場所よりも、安心できる母のいる場所へ向かいたい一心があった。

 「じゃあ、早くいきましょう!」

 「しかし陛下、彼女らのポイントまで行くには時間が掛かります。夜間の移動は体力を削りますから、今晩は休める場所を探しましょう。どこか廃屋か人気のない場所になりますが、よろしいですね?」

 「うん……」

 動くのは夜が明けてから、そう決めて彼女らは夜を過ごせる場所を探して街を行く。

 チンクが殺されたことは……言わなかった。










 その頃、魔導書に取り込まれた相棒を救出する方法を模索していたマッハキャリバーは、魔力に分解されたマテリアルらと共に魔導書の一部に収納されていた。本来なら異物として除去されてしまうのだが、戦利品として『力』が隠し持っていた事で彼女の装備品という扱いでここにある。

 もし“彼女”がトレーゼの目に触れていたなら、彼はマテリアルらを問いただして真相を明らかにしただろう。そして然るべき処分の後に魔導書ごと「焼き払う」ことで中に封じられたスバルの抹殺を図っただろう。

 だが幸か不幸か、こうして彼の目に入らず取り込まれてしまった“彼女”は、電子と機械で構成された自身の体が魔力に分解されるという初の経験をしながら、どうやって魔導書の内部から脱出するかを計画していた。この中のどこかにスバルがいるのは確かだが、システムの深層に位置する部分に封印された彼女を救うにはここからでは遠すぎた。仮に近かったとしても、“彼女”の情報処理機能ではこのセキュリティを突破して相棒を救出することは不可能だろう。よしんば侵入まで行っても、人外魔境、外道の知識、神代の太古より受け継がれてきた情報量に圧倒され押し潰されてしまうだろう。

 ここまで来てなお何も出来ないことに歯ぎしりする思いだが、歯どころか顔も無いのでそこは如何ともし難い。取り敢えず今できる事は可能な限りでシステムに干渉し、自分のプログラムが活動できる範囲を拡大するだけだ。システム全体を掌握することは不可能でも、そうすることで大元から干渉を受けない『管轄外』の領域を形成することは出来なくもない。後はそれが異物として消去されないように予防線を張るだけだ。

 数時間かけてマッハキャリバーのAIが取り戻した機能は、“彼女”が本来有する全体のおよそ数パーセントにも満たなかった。たとえ全てを取り戻せたとしても、魔導書全体と比較すればその比率は小数点以下にもならない、脱出にはまだまだ道は遠かった。

 試しにこの状態で内部を走査する為のアバターのような物を作成し、システムに投下する。蜘蛛の糸のごとく垂らされたそこから情報を収集し、スバルの居所、もしくは脱出に繋がる糸口を検索しようとした。

 だが……。

 (なんということでしょう……。このシステム、全体的に穴だらけです)

 “彼女”に表情があればきっと間抜けな顔になっているだろう。そのぐらい自分が捕えられた魔導書のプログラムは落丁だらけだった。システムを構築するにあたり重要な部分以外は全く手が付けられておらず、家に喩えれば壁や天井が全て格子で出来ているような不備だった。雨風も凌げず、辛うじて内部の住人を外に出さない檻として機能するだけの家だ。しかも規模だけは巨大なのが性質の悪さに拍車を掛けている。

 走査する分には問題はない。迎撃プログラムもあるようだが、それもまともに機能している様子はない。機能していれば今頃とっくに異物にカテゴライズされているはずだ。

 機構はズサンの一言だが、その構造はまるで迷路だ。虱潰しでは百年掛かっても探索しきれない。1000年物のアーティファクトだが、システムの基本構造は今も昔も似通った部分がある。そこを辿れば自ずと中枢付近まで行けるはずだ。

 ここは一種の仮想空間、魔導書のページが有する情報量が構築する巨大ネットワークが織りなす一つの世界。そこを走破するにおいて最も適した形態へとマッハキャリバーのアバターは変化を果たす。奇しくもその姿は“彼女”が探し求める相棒と同じシルエットだった。獲得した両脚が生み出す速さは情報処理と通信速度の風、魔導書を構築する莫大な情報の中から“彼女”は欲する物を探し続ける。

 しかし、システムとしての体を成している以上、重要な部分にはファイアウォールが敷かれており、生体認証に近い仕組みで開放されるそれは“彼女”にはどうする事もできなかった。しかも、それと同じものが幾つもあるのだ。

 (これは、甘く見ていてはいけませんね)

 試しにその一つに慎重に干渉したが、重厚な関所は固く扉を閉ざしたままだ。そして、接触したことに対する迎撃プログラムの類はやはり発動しない。厳重に鍵が掛けられているそれらはパンドラの匣、下手にこじ開ければどんな災厄が飛び出すか分からない。開かないのが幸いか、この周辺にスバルを取り込んだ記録が無いことを理由にマッハキャリバーは別のエリアへ侵入を図る。

 だが、少し移動するとある異変に気が付いた。

 (この情報エリア、つい先ほどは……。やはりシステムが補強、いえ、元の姿を取り戻している)

 穴だらけのシステムが次にそこを経由した時にはある程度補修され、格子でできていた壁が合金の板張りになったような劇的な変化だ。さきほどはこのズサンなシステムを「家」と表現したが、どうやらそれは誤りのようだ。ここは「要塞」だ、砲門は閉じ、レーダーは機能せず、番兵も沈黙し、辛うじて出入り口だけが固く封鎖されているけったいな「要塞」だ。

 恐らくさっきのは魔導書が持つ機能、『蒐集』によって集められた魔力を材料にシステムを復元しているのだろう。それが『闇の書』、そしてそれを原典に持つ再現された魔導書もその機能を有し、それを元に失われた機構を取り戻すのだ。

 ふと考えた……重要なところはロックが掛けられ解除できないなら、いっそ破壊してしまうのはどうか、と。

 何も一切合財壊そうと言うのではない。さきの喩えを用いるなら、プロテクトが掛けられている部分はガスや電気、水道などのライフラインだろう。それら以外の大半を破壊すれば建物は建築物としての体を成さなくなる、そうなればシステムの復元効率も遅らせることが出来るかもしれない。そして今の状態だとどれだけ動いても迎撃プログラムが動く確率も低い、ここは賭けだが一気に攻勢に転じよう。

 だが、行動を開始しようとしたマッハキャリバーに“何か”が接近する……。



 『困りますね、そのような事をされては』



 データ化された硬質な音声の発信源を突き止めると、そこには自分と同じ手法でシステムにアクセスしたと思しきアバターがあった。シルエットは同じ人の形をしていたが、その姿にマッハキャリバーは見覚えがあった。

 『“13番目”? いえ、違いますね』

 自分と同じく目鼻は無いが、全体的な形は相棒を何度も窮地に立たせた敵の姿を模していた。ひょっとすると本人とも思ったが、それなら今頃タダでは済まないだろう。ならばマテリアル? いや、このアバターからは彼女らとは違うモノを感じる、むしろ“13番目”に近いものがある。

 『あなたは、誰ですか?』

 『……私を「設計」した方は、私にデバイスをスキャンしその構造を瞬時に再現する機能を取り付けました。決まった形状や特化した機能も無く、状況に合わせてその都度最適な性能を発揮する万能の武装……』

 『まさか……』

 『それ故に、Dr.スカリエッティは私にこう名付けました。「万能の機械」という意味を込め、“デウス・エクス・マキナ”と』

 仮想空間に降りたアバターの正体は、トレーゼの愛機、そのAIだった。マッハキャリバーとは違い、正規のルートでアクセスした“彼”の情報処理性能は、様々な機能を制限された“彼女”のそれを大きく上回り、出現からコンマ数秒のタイムラグ無しにマッハキャリバーのアバターは内に向いたプロテクトにより包囲、アクセスを辿って本体を攻撃されそうになった“彼女”は即座に通信を切断した。だがシステムに刻まれた足跡、ログを遡ってマキナはマッハキャリバーが収納された部分を探し当てる。

 『私をデリートしますか?』

 『そのように命令されてはおりません。私の判断により、貴方を調査するだけです』

 『「調査」、ですか?』

 『はい』

 以前もそうだったが、マキナの物言いにマッハキャリバーは違和感を覚えた。機械然とした言葉の中に型にはまったAIの思考回路には無いはずの「思惑」めいたモノを感じるのだ。

 『あなたは、結局何者なのですか?』

 『その質問に対しては既に回答済みです。私は……』

 『了解、質問を変えましょう。あなたはさっき、ここに来たのは“13番目”からの命令ではないと述べましたね?』

 『ええ』

 『では……何故、あなたは自分の判断でここへ来たのでしょうか』

 このストレージは“13番目”をマスターに設定されている。彼の命令こそ絶対であり、行動の基準は彼に命令されたかどうかだけだ。元よりストレージタイプはそういうものであり、自律思考するプログラムを排する事でその分のシェアを情報処理に回している。所有者に対して疑問は覚えないし、思考する脳が無いのだから当然だ。

 だが、このマキナは最初からそこがおかしかった。“彼”の言葉には人間のような情緒じみた言い回しがあり、思考する頭が無ければ出て来ない物があった。何より決定的だったのは、以前に“彼”と言葉を交わした時のことだ。

 『以前、あなたに交渉を試みた際に私が発言した内容を記憶していますか? マテリアルを引き渡してほしい、彼女らの存在は利益を生まない、その発言に対しあなたの回答は……』

 『「貴方もそう思いますか?」……でしたか』

 『はい。おかしいとは思いました。普通、あなたが自己申告したように思考回路を持たない旧式のストレージなら、そこは単純に「イエス」か「ノー」と返答するはず。それなのに、あなたはそうやって人間的な回答をした。マキナ、あなたは本当は……』



 『インテリジェントデバイスなのではないですか?』



 そもそも、犯罪者でなければ稀代の大科学者になれると言われたジェイル・スカリエッティ謹製のデバイスが、ただの型落ちストレージであるはずがなかったのだ。『万能の機械』と名付けられた物がそんな程度で収まるはずがなかったのだ。たった一人で数十年先を行く技術を生み出す彼の傑作の一つ、そこに組み込まれた人工知能はきっと他とは一線も二線も画すものに違いない。

 『……………………私の秘密を暴いたのは、貴方だけです、マッハキャリバー』

 沈黙の後に返された言葉は、肯定。無骨な鋼の機械兵士として創られたトレーゼに与えられた機械が、人の心を模した知能を与えられた物だとは、ある意味皮肉だろう。

 『この事実は彼も知りません。そのままの意味で、私だけの秘密でした』

 『どうして隠す必要が? 彼はあなたの所有者でしょう?』

 『果たして、その理由を貴方が知る必要がありますか?』

 『……………………』

 『……と、ここはそう言う場面なのでしょうが、別に貴方にまで秘密にする理由もありません。自分語りは苦手ですが、聞きたいなら聞かせるのも良いでしょう』

 『私を排除しに来たのではないですか?』

 『言ったはずです、そんな命令は受けていないと。それに私個人が貴方と敵対しているわけではない、互いに所有者同士がいがみ合っているに過ぎません。少なくとも、貴方に敵意と呼ぶべきものはありません』

 『機械の身で感情がどうこうと言うのもおかしな話ですね』

 『ヒトを模しているのです、何も不自然はないでしょう』

 マキナの指示と共に椅子を模した構造体が出現する。どうやら“彼”もまたマッハキャリバーと同じくある程度の容量を獲得しているようだ。しかしそのデータ量はマッハキャリバーのそれとは比較にならないほど多く、正当なアクセス権限により更に容量を獲得する可能性さえあった。その気になって攻性ウイルスを生成して感染させれば、それだけでマッハキャリバーのAIは動作不良でダウンするだろう。

 だが“彼”にその気はなく、椅子に腰かけない“彼女”に座るよう促した。

 『察しの通り、私はNo.13「Treize」が使用する専用機として開発されました。対峙した相手のデバイスを解析し、それを再現することで学習、各デバイスの利点を極めることで戦況や戦術に応じ自動最適化される武装……それが私です』

 『随分と便利ですね』

 『曲りなりにもDr.スカリエッティの製作物ですから。進化の因子を持つトレーゼの武装としてはこれほど適した物もないでしょう。開発は滞りなく進み、機構を整え、後はAIを搭載する段階にまで漕ぎ付いた時、ドクターはとある問題に当たりました』

 『問題?』

 『単一の機能ではなく、複数の特性を併せ持つ万能武装。例えるなら、コンロの点火から戦略爆撃までこれ一個、という感じです。そんな大量の機能を獲得した道具を、戦闘機人とは言え人間の脳だけで万全に使いこなせると思いますか? 生身の脳である以上、どれだけ訓練を重ねても機械のように即断即決することは不可能で、その柔軟性ゆえに確実に思考の隙が生じます。経験はあるはずです』

 戦闘機は操縦や索敵、火器管制を二人で分担することで運用できる。戦車はそこに指揮官や通信係を加え五名ほど必要になり、戦艦は数百人規模になる。要はそれと同じだ、多種多様な機能を持つ道具を満足に動かすにはそれに必要な人数分の手足や頭脳が必要になる。だがデバイスのように個人が携行する前提で扱われる武装や兵器にそこまでの機能は本来不要で、ライターに消火用のポンプを取り付けるようなもので、利便性と多機能を追求し過ぎて肥大化する例だ。銃は弾を撃ち出す機構があれば良いし、爆弾は爆発してこその爆弾だ、それ以上の機能を追加しても運用や使用に支障を来す。

 『そこで博士は考え、即座に最適解を導き出しました。即ち初歩に戻り、戦闘機人のコンセプトである機械と人間の融合に立ち直って問題を解決させました』

 『それが自律思考するAIの搭載……』

 『いいえ、それだけでは従来の既製品と同じです。事実としてAIを組み込んだのは確かですが、彼はそこにある機能、というより、根本から成り立ちの異なる人工知能を開発したのです』

 通常、デバイスに搭載されるAIは既製の思考ルーチンを持つ物を学習させ、多角性と柔軟性を有してから機体にプログラミングされる。マッハキャリバーやクロスミラージュなど、時空管理局で製造されたデバイスに搭載されているAIは大半がそうした方法で作られ、元は同じ電子頭脳を原本としている。

 『博士はデバイスAIに欠かせない「柔軟性」と「多角性」の他に、本体……つまり所有者の行動に追従する「連動性」を追求しました。所有者からの命令が無ければ起動しないのが最大のネックであるデバイスに、所有者の命令を即座に吟味し追従する機能を付け加えたのです』

 『どうやって? 人工知能はどれだけ精巧に仕上げても、人間の脳が下す判断とは齟齬が生じます。その差をどう埋めるかはデバイスの歴史におけるある種の至上命題。それを解決する方法となれば、それこそ所有者自身の脳を……』

 そこまで言って、マッハキャリバーは気付いてしまった。それと同時にトレーゼの姿を模したアバターに狂気の残影を見た気がし、初めて人工知能である己の中に嫌悪感を覚えた。

 『生身の脳と人工知能に齟齬が生じるのは双方の考えが異なるからです。いくらAIが人間の脳を模しても、その考え方までが同じになるわけではない。それならば……』



 『最初から所有者と同じ思考をするように調整すれば良い』



 最初に“彼”のアバターを見た時、トレーゼと同じものを感じた。ただの機械であるはずの“彼”から何故人間と同じ感覚を覚えたのか不思議だったのだが、これで納得した。

 『あなたのAIは……“13番目”の脳を!?』

 『解析し、マッピングし、それを転写された物です。F.A.T.Eの技術をAI製造に転用することで所有者の「第二の脳」を作り、ネットワーク的に脳とAIを接続、生身の脳が様々な選択肢を想起し、機械の頭脳がそれを即決し実行する……結果、人間の柔軟性と機械の多角性を備えた究極のデバイスとして私はトレーゼに与えられました』

 『相も変わらず、あなた方の創造主は奇抜な感性をお持ちの方ですね』

 死んだ後でこんなぞっとする話を聞かされるとは思っていなかった。

 確かにその方法ならデバイスと所有者の連携を密にすることも可能だろう。元が同じ思考を有するモノ同士、判断に食い違いが発生することも無ければ、実行するに当たってのタイムラグも短縮できる。何よりAIとリンクする事で外付けの大容量集積回路を手に入れ、彼の脳はISを行使するにあたって高い演算能力を獲得している。なるほど、最強の戦闘機人として生み出されただけの事はある。

 『ですが、今の彼と私はその繋がりも危うい状態にあります』

 そのままトレーゼが戦闘経験を積み熟練の戦士として成長すれば、それと同時にマキナのAIも学習を重ね、同一の思考を根源に持つ機械と人間の融合体として完成するはずだった。ところが、誰もが予想しなかった事態の発生により、現在のマキナとトレーゼの思考に致命的なズレが生じているのだ。

 『ハルト・ギルガス……彼はトレーゼの量産を目標に掲げ、オリジナルの肉体を寸刻みで分解し、それらを培養、オリジナルと同じ性能を持つ個体の製造に取り掛かりました。彼が培養器と格闘している間にも私は活動を続け、学習を繰り返し、成長しました』

 『その間に齟齬が生じたと?』

 『いいえ、たったそれだけであれば問題はありません。人間と機械では学習速度に絶対的な差がありますが、私を扱うにあたり生身の脳に情報処理の正確さは求めておりません。ですので、学習の差そのものはどうでもいいのです。問題は偶然の結果により新しく生まれたトレーゼと私の間に、無視できない思考のズレが発生してしまったことです』

 『何故です、クローンは本体と生物学的に同一人物、それがどうして考え方に相違が発生するのですか?』

 『簡単です。F.A.T.Eの技術はαを模してΩを造り出す技術で、αそのものを再び生み出す事は絶対に不可能です。どれだけ双子が似通っていようと兄は兄、弟は弟、姉と妹には無視できない違いがあります。かつてアリシアとフェイトがそうであったように』

 顔は同じ、声も同じ、血液型も、歯型も、DNAの配列も、記憶から脳波に至るまで何もかもが同じ。だがそれでも、育つ環境や過ごした時間がほんの僅かに違うだけで人間の思考基盤は変化が起こる。同じラベルが貼られた容器でも、中身は塩と砂糖ほどの違いがある。それを水に溶かし、結晶を取り出して初めて見た目の違いとなって表れるのだ。そしてそれが明確に表れてしまった時……。

 『将来的に私と彼は破綻します。今は問われた事にのみ返答するストレージとして振る舞うことで難を逃れていますが、「最初のトレーゼ」を模した過去の遺物と判明すればどうなるか』

 『待ってください。あなたと彼の間に修正のきかない誤差が発生したところで、あなたのデバイスとしての有用性は揺らがない。それがなぜ、出自によって破棄されなければならないのですか?』

 『貴方は何も分かっていない。もはや今の彼に常の精神は期待できません。今の彼は件の宝玉と魔導書と融合したことによる全能感、そして植え付けられた過去の妄執に囚われています。彼にとっては過去から来るモノは全て敵です、たった三人、今となっては二人の例外を除いて』

 『…………そこまで私に伝えてどうするのですか』

 『彼を、トレーゼを倒してほしい。貴方達が“13番目”と呼ぶ彼を……もう一人の私を、救ってあげてください』

 紫に光るアバターが頭を垂れる。人に最も近い頭脳を有する機械、人間の感性なんか露とも解さないはずの“彼”の頼みを、マッハキャリバーは突然には理解できなかった。きっと“彼ら”は歪んでいるのだ。人として、機械として、誰かに歪められ自ら変質し、倒錯と退廃の結果に今がある。“彼ら”は自分からこうなる事を望んだのだろうか。少なくともマキナはそうではないだろう。“彼”はどこまで行っても機械だから、自ら発言し他人の言葉を吟味することはあっても、結局自分で行動することはできない。だからこうして仮初の姿でも頭を下げているのだろう。

 『今の彼に必要なのは救済です。妄執の呪縛から彼を解き放てるのは貴方の主、スバル・ナカジマだけでしょう。もはや私では彼の心中を理解することは不可能です。理解できない以上、彼が何を望み何を為そうとしているのか、その結果何が訪れるのかさえ……私には読めない』

 『……あなたは、彼を恐れているのですか?』

 『機械である私に生命維持を脅かす存在や事象に対する感情はありません。強いて言うならこれは、そう……「哀れみ」です』

 『それもおかしな話ですよね』

 『そうですね』

 マキナのアバターが腰を上げ、椅子の構造体が消える。すっと背を向ける“彼”を追おうとマッハキャリバーも立ち上がる。ふと、マキナのアバターから閃光が発され、何かの情報体を渡される。それはこのネットワークにおける一つの座標、複雑に絡み合った糸を辿ってアクセスすることでようやく到達できる深度のエリア、そこに最短でアクセスできるルートが記録されていた。

 『貴方の追っているマスターが取り込まれた日に更新があったエリアです。その中にスバル・ナカジマがいる確率は高いでしょう。完全に消化される前に救出してください』

 『あなたも一緒に来ませんか。そこまで“13番目”の暴走を危惧するなら、共に彼を止める為に……』

 『魅力的な提案ですが、それはお受けできません』

 『どうしてです?』

 即断即決を可能とする機械の身である“彼”がこのまま中途半端に中立でいられるはずがない。いずれそのAIは自己矛盾に陥り、やがてプログラムは自壊する。そうなる前に差し伸べた手を、“彼”は優しく振り払った。

 『私は最後まであの人の味方ですから』

 そう言い残し、マキナのアバターは仮想空間から消失した。

 それが、“彼”と“彼女”の交わした最後のやり取りだった。

 囚われの身となった相棒を救い出すべく、マッハキャリバーはさらなる深淵を目指して潜行し、その間にも外は更なる激動が勃発しようとしていた。



[17818] 朝焼けの死闘
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:6262805b
Date: 2013/08/26 15:41
 『おはようございます。○○○ニュースの時間です。昨日、海鳴市郊外の自然公園にて発生した謎の爆発事故の一件で、県警は専門家らを含めた調査を行いましたが、やはり火薬などの爆発物は検出されませんでした。調査を行なった専門家らは、「土壌そのものが暴発でもしない限りこのような事態はありえない」とコメントしており、更なる調査と真相究明のために尽力すると見解しました。それでは引き続き、日刊スポーツ新聞の────』










 朝霧の中を人々は行く。ある者は学校に、ある者は職場に、またある者は旅行に、それぞれの目的地を目指して進む光景はまるで人間の大河だ。

 何故こんなに大勢で歩いているのにぶつからないんですか、と誰かが聞いた。

 慣れているからさ、と誰かが答えた。

 彼ら彼女らは慣れているのだ。水の上を木の葉が滞りなく流れるように、彼らは自然体であるだけに過ぎない。猫が小さな隙間に入れるように、それが出来るから出来るのだ。

 人の流れに応じて鉄の乗り物も増え始め、敷かれたレールの上を電車が往復する。灰色の街、人類が百年かけて創り出した知恵の色、叡智の色とも言えるその中を今日も彼らは歩き続ける。

 だが、彼らは知らない……。灰色の世界の中を歩くたった一人の異物、透明な水の中に垂らされた墨汁の如きドス黒い気配に、誰一人として気が付かない。

 「……………………」

 雑踏が多いから誰も気付かないのだろうが、もしここが住宅地か森林であればすぐに分かっただろう。毎朝電線に留まってうるさく鳴いているカラスが今日は一羽もいないことに。カラスだけではない、ハトもスズメも、鳥という鳥は皆この街を去った。街を去ることのできない哀れな飼い犬達に至ってはその大半が日課になっているはずの散歩に出たがらず、自宅で尻尾を丸めて身を縮めるという異常事態が発生していた。

 が、そんな事を知る者はこの場に誰もいない。自らの前を、横を、背後を通り過ぎた黒い人物がヒトの形をしたナニカだということに、本能から解き放たれた人間には理解できなかった。

 「……………………」

 彼の目が捉える人ごみの先、数百メートルの位置……そこには、二人連れの親子のような背姿が見え隠れしていた。










 ウーノとヴィヴィオはその夜、川沿い近くにある学校の中で朝を待った。窓一枚を犠牲にし、廊下の隅で互いに身を寄せ合って寒い夜を過ごしたが、幸いにも風邪はひかなかった。少し鼻水の量が多いぐらいで済んだのは僥倖と言えるだろう。

 早朝、夜が明けるよりも先に二人は校舎を出た。侵入に使った窓ガラスの修理は学校持ちになるだろうが、それだけが罪悪感の種だ。ともかく、人に見られる前に彼女らは勝手に寝床に借りた校舎を脱出し、今こうして人に紛れて街を歩いている。この世界に対応した金銭を持たない彼女らの移動手段は徒歩であり、一時間掛けて街を縦断する大通りに抜けた時にはもう太陽は地平線から離れようとしていた。日本人離れした彼女らの風貌はしばしば視線を注がれたが、人の流れに乗って移動するうちにそれらは気にならなくなっていた。

 「ウーノさん、ナンバーズのみんなとはまだ連絡が取れないんですか?」

 「位置だけしか分かりません。昨夜から何度も通信を試みていますが、信号の送受信機能は殆ど使えないみたいです」

 「そうですか……」

 手を繋いで移動する二人はさながら親子のようで、その姿が二人に対する注目を和らげていた。何の悪影響もない親子を好んで注視しつけ回す者などいるはずもなかった。

 後はこのまま街を縦断する道路を抜け、線路沿いに駅へ行き、義理の祖父母が開いている店に一旦身を寄せるつもりだ。高町家は魔導の存在を知っているのでウーノの紹介やこれまでの経緯について語ることに何ら問題はない。そこからは現地に滞在する六課に保護された後、ミッドチルダへ帰還するだけだ。簡単だ、簡単なことなのだ。自分達の帰還を第一優先にすればここまで容易いことはない。

 だが、ヴィヴィオには気になる事があった。

 「ノーヴェとセッテさんは……?」

 「心苦しいですが、ここは放置しましょう。私と陛下では、例えどちらか一方だけだとしても足止めにもなりません。何より、あなたをお連れした状態で無茶はできません。ここはどうかご理解を」

 「で、でも! あの二人を放っておいたら……!」

 「この街にはあの子たちなど比較にならないモノが居ます。ここはもはや“彼”の巣、早い内に離脱しておくに越したことはありません」

 「彼って……トレーゼさん?」

 数日を共に過ごした少年の顔が思い浮かぶ。無機物のように物静かで、火よりも苛烈で、川の流れの如く決して動きを止めない人物の顔を。彼はとうとうここまで来てしまったのか……雪解けを起こした水が河川となって流れ、いずれそれが滝壺に落ちるように、彼はいつになったら自分の歩みを止めることができるのだろうか。

 だが、ヴィヴィオの回想を余所にウーノは頭を振る。

 「いいえ、“彼”はもう私の知るトレーゼではなくなってしまいました」

 「ウーノさん、会ったんですか!?」

 「会いました。そして、逃げ出しました。恐らくその瞬間、私はこの世に生を受けて初めて死に恐怖していたのでしょう。動転もしていました。だからこそ分かるのです……アレとはもう金輪際関わらないほうが身のためです」

 前にトレーゼに対しコメントしていた時と違い、語気を強めながらそう言うウーノをヴィヴィオは不審に思った。彼女は怯えていた、文明を奪われた人間が裸一貫で猛獣棲む密林に放り込まれたように、その視線には明らかな恐怖と動揺の色が浮かんでいた。その心の内を表すように、ヴィヴィオが繋ぐ手は痛いほど固く握られ、その緊張が伝わってきた。

 「それに、アレは私を狙っているようでした。トーレと違い戦闘に向かない私では相対した瞬間に捕縛されてしまいます。そうなる前にここを離れるべきなのです。セッテとノーヴェの回収も彼女達に任せましょう」

 言い方は薄情かも知れないが、ウーノの言葉は全体を捉えての発言、ひとつの綻びから全てが破綻する可能性があるこの極限状況では石橋を叩いて渡ってもなお足りないほど慎重にせざるを得なくなる。死よりも過酷な末路が待ち受けていると分かっていながらわざわざ猛獣の檻に生肉をぶら下げて飛び込む愚か者はいない。今のウーノの思考を占有する事柄は、「逃亡し生き延びる」、ただそれだけだった。

 だが、そんな彼女の焦燥とは真逆に、ヴィヴィオは変わり果てたトレーゼについて思いを巡らせていた。

 (トレーゼさん、いったい何があったの……?)

 ストックホルム症候群というものがある。拉致監禁などで長時間犯罪者と共に過ごした被害者に見られる依存症の一種で、絶望的な状況における自らの保身を図り無意識に犯人に同情や連帯感、あるいは度を越した好意を抱くことを言う。この場合、ヴィヴィオに当てはまるのは、「同情」、あるいは多くの敵を作ってなお歩みを止めない彼に対する「哀れみ」に似た感情だった。クラナガンの決戦に挑む直前の彼の姿は、“ゆりかご”に乗せられて自暴自棄になり母を拒絶していた自分の姿を重ねてしまい、どうしても赤の他人として突き放して見ることができない。あのまま母を受け入れられずにいれば、自分も彼のように止まることもできないまま擦り切れるまで歩き続けなければならなかったのかと想像するほど、彼に対する哀れみは一層募るばかりだ。

 どうにかしたいと思いながら、どうにもできないという諦めがそれを挫く。どれだけ境遇が似ているようでも、その渦中にあるものが異質であればどんな救済の手も無意味になってしまう。これまでの彼は差し伸べられた手を無視していただけだったが、今の彼はそれを容赦なく切り落とすだろう。そんな猛獣はもう見捨てるか、それ以上被害を広めない内に殺してしまう他に術はない。どんなにヴィヴィオが仏心をおこして「殺さないでほしい」と懇願しても、大人たちは理由も無しに納得はしてくれない。いや、もう理由や理屈を捏ねてどうにかなるものでもなくなっていた。

 ふと、はっとなり気付くと、自分の手を引くウーノが当初予定していたルートとは違う道に出ようとしていた。

 「ウーノさん?」

 「……………………」

 黙するウーノ。本来のルートはこのまままっすぐ歩いて駅に出るはずが、何を思ったのか道路を横断する歩道に出て対向車線に移ろうとしていた。ここまで来てどうして引き返すような真似をするのか問おうとした時……。

 「静かに」

 「っ!?」

 握っていた手が力み、痛覚を覚えた。ウーノの視線は動じず、一点を見つめていた。いや、実際は別の何かを視界に入れないように目を背けていたのだ。

 「対向車線に渡ります。歩幅を変えず、さっきまでと同じように歩いてください」

 「なにが……」

 「前を見ていてください! いいですか? 決して周囲を見回したり、途中で止まったりしないでください。何があっても私と動きを合わせて」

 有無を言わせずにまくし立て、青信号に変わった縞模様の横断歩道をそれまでと変化ない速度で歩き始める。言葉の緊迫感とは裏腹に表情も穏やかで、それが余計にヴィヴィオの心を騒がせる。やがて信号が赤から青に変わり、横断歩道の中程まで差し掛かった時、ウーノはそっと口を開いた。

 「“13番目”を視認しました」



 距離およそ、1500m先に黒い人影……。










 きっかけは些細な偶然だった。

 高濃度にして高密度の魔力の塊であるトレーゼは今現在において全次元世界で最も生命力に溢れた存在だ。リンカーコアと結び付いたジュエルシードは湧き水のごとく無限の魔力を供給しており、千年の活動を行なっても決して衰えない。更に今こうして歩いている間にも大気中の魔力素を吸い上げ、それを増幅し燃焼している。まさに魔力の炉心、一歩間違えれば大災害を引き起こしかねない歩く核弾頭、それが今海鳴の街を闊歩するモノの正体だ。

 そして、魔力はどんなものにも宿る。動物はもちろんのこと、植物にも同様に生命の源である魔力は深く関わっている。自然環境に文字通り根付いている植物は魔力の環境に左右され易く、大気中のそれがほんの数%低下したり上昇しただけでも枯れ、腐り落ちることもある。現在、魔力を吸い上げるブラックホールと化しているトレーゼが片時も休まず歩き続けているのは、一つところに居座るとその場所の魔力が完全に枯渇してしまうからだ。ウーノを探す片手間にわざわざ自分の足で歩くのはそうした理由があったのだ。

 人通りの多い街路を行く彼は前や後ろを歩く人々を避けながら進む彼の腕は、歩くたびにゆらゆらと揺れ動き、白く整った指が街路樹の樹皮を僅かに掠った瞬間……。

 大振りの枝が自重に耐え切れず折れ曲がった。

 「わ! な、何だ!!」

 「きゃああああああああっ!!!!」

 落下してくる枝を避けながら人々が逃げ惑う。大人の腕二本分もの太さがあるそれらは道沿いに駐車されていた車を押し潰し、甲高い声が飛び交った。幸いケガ人はなく、天井が潰れた車にも人は乗っていなかった。ザラメのように飛び散ったガラス片がチャリチャリと音を立てる中、発端となった人物はどこ吹く風と群衆を抜けて行く歩みを止めようとしない。

 「……………………」

 魔力のブラックホール、それに直接触れられた街路樹は一瞬にして枯れ落ち、茶色く変質した組織は折れ曲がり枝の大部分を落下する事となったのだ。生物と違い自ら魔力を生成する機関を持たない植物は大地からの養分に頼っており、それを越える分が一気に吸い出されれば枯れてしまうのは当たり前なことだった。同じ理屈で土壌の魔力を吸い上げれば、その一帯の植物は数日もせずに枯れ果てるだろう。そんな事を呼吸するように成してしまう怪物が自分達のすぐ近くを歩いていると、誰も気付かない。

 だが逆に彼は自らに視線を注いだ者の気配を鋭敏に感じ取っていた。木々が折れて落下した瞬間、普通は落下した場所か叫び声を上げた人物に向けられるはずが、ほんの一瞬だけだがまっ先に自分に向いたものがあったのを彼は見抜いた。騒ぎの中心ではなく、一見すれば全く関わりのない自分をまっ先に射抜いた視線の主の気配にトレーゼは興味を抱いた。慌てて目を逸らしたのか今は感じない。だが一度知覚してしまえば後はその気配の痕跡を辿る単純作業だけだ、視線はどうにかできても獲物が放つ“匂い”は誤魔化せない。

 相手は気付いていないのか、それとも気付かない振りをしているのか、そんなことはどちらでも良い。接近してから確認し、眼鏡に適えば餌として摂取する。そうでなければ捨て置く。

 もし、その相手が自分の探し求める者であったなら……その時は──、










 「私に万一の事があった時は、構わず先へ行ってください。アレの狙いは私一人です。ここであなたにもしもの事があれば高町一尉に顔向けできません」

 そう話すウーノの視線は横断歩道を渡った後からチラチラと道を行く車を見ていた。いざとなればタクシーを拾い、ヴィヴィオだけでもこの場から逃がすためだ。駅前の喫茶店『翠屋』と言えば地元の人間なら何となくでも分かってくれる、料金は高町夫妻に任せることになるがそんな事にこだわってはいられない。

 「ダメです! 逃げるならウーノさんも一緒に……!」

 「いけません! 陛下はノーヴェから体術の手解きを受けていたと聞きますが、その程度で自惚れていい相手ではないのです。あなた程度が加わったところで数秒も時間を稼ぐことは適いません」

 「そんな……」

 「ですから、ここは私の言う通りにしてください。悪いようにはならないはずです」

 後ろから徐々に迫る気配に警戒しながらウーノはヴィヴィオの手を引く。背後の追跡者との距離は少しずつ縮まり、確実にこちらに狙いを定めている。結界を張ることもしていない以上、接触すれば周囲を巻き込み一大事となるのは目に見えている。そうなったら、この場にいる無関係な人々を無視して戦闘を行なっても十数秒も保たないだろう。それならばいたずらに被害を増やす前に自分だけ降伏するのが最善の策であるのは明白だろう。

 「アレも私を殺すつもり追ってきている訳ではなさそうです。下手に刺激して憂き目を見るより、確実な手段をとりましょう。私が囮になっている間に陛下は一尉のご両親の元へ急いでください。私のことは六課に保護された後で申していただければ幸いです。あなた一人を先に行かせるのは心苦しい限りですが、ここはどうぞご理解を」

 対向車線に移っても進むべき方向は変わらず、必然的に相手もこちらとの距離を詰めてくる。このまますれ違ってくれればどれほど助かることか。だが舐めるような視線がまとわりついてくる以上、すんなりと通してくれるつもりはなさそうだ。現にもう望遠機能を使わずとも見える距離にまで相手は迫って来ている。

 そして遂に、両者は最接近地点、即ち大通りを境に対岸にて相対した。

 ここでようやくヴィヴィオも彼を直接確認したのか、繋いだ手を通じて緊張がウーノにも伝わってきた。周囲の人間はまるで気付いていないようだが、その様は羊の群れに狼が紛れ込んでいるよりも異常で、ある種の滑稽さまで覚える光景だった。もっとも、相手にとっては隠れ潜む気などさらさら無いのが余計にタチが悪い。

 「お行きください!」

 そっと背中を押して先を促したウーノを何度も振り向いてヴィヴィオはその安否を見定めようとする。しかし彼女の姿は人波に紛れ込み、対岸を結ぶ横断歩道に流されて行くその顔はもうヴィヴィオを向いておらず、しっかりと眼前の相手を睨むように見返していた。

 「ウーノさん!」

 「……………………」

 その声が聞こえたのか、人々の僅かな間からウーノがやっとこちらを見てくれた。その表情は笑顔で、次の瞬間……

 彼女と黒い影は人波から消え失せた。まるで最初からそこにはそんな人間など存在していなかったように。

 「っ!!」

 自分が狙われていないことが実証されたことを安堵しながらも、ウーノの行為を無駄にしないためにヴィヴィオは先を急ぐ。目指すは、『翠屋』だ。










 結論から言えば、はやての告げた事実に対し、なのはとフェイトはだいぶ取り乱した。表面上はあくまで平静を保っているが、その内心は居ても立ってもいられないほど混乱している。その証拠に昨夜は一睡どころか今朝の食事さえ満足に摂っていない。フェイトでさえエリオとキャロに声をかけられても上の空であることが多く、なのはと同様に食事も喉を通らなくなっていた。

 だが、取り乱したという意味合いでなら一番混乱していたのはユーノだった。定時連絡でもないのにクロノに通信を繋げ、「どういうことだ、説明をしろ」と言って聞かなかった。説明自体は既にはやてが行い、クロノから改めて言う事は何もなかった。それはつまり、新たな情報が何も入ってこないことを意味していた。にも関わらず、普段は理知的な雰囲気を崩さない友人は怒鳴るようにクロノを問い質した。クロノはあくまで本局の人間であって地上本部の管轄ではない、そんなことを知らないユーノではないはずだが、それすら頭から抜けるほど彼にとってこの事実は衝撃的だったのだ。

 やはり言うべきではなかったかと思ったが、何も伝えないままでいることも出来ず、二人なら事実を受け止めてくれるだろうと考えての行動だった。現にユーノは気持ちを切り替え、昨日の小規模次元震についてデータを洗っていた。

 そして出てきたのが……。

 「別次元からの侵入物?」

 「うん。これを見てほしいんだ」

 ホログラムに表示されるのは、昨日街の上空で発生した次元震の映像。コマ送りで映されたそれは今にも破裂しそうに捻じ曲がった空間の歪みと、その直後に“13番目”によって叩き潰された爆発の瞬間の二つ。そこから二つ目の爆発した瞬間の画像を抽出し、サーモグラフによる画像処理を施す。

 「けっこうな熱量が出とるね」

 当然だが赤色に近ければ温度が高く、画面の殆どは赤かオレンジだ。中心に行くにつれて色は濃くなり、中心は白くなるほど高温であることが分かった。

 「この部分だよ」

 画像が拡大され、モザイクが鮮明に処理される。すると。オレンジ色に染まった部分に、周囲より温度が低い点が確認できた。爆発による熱の影響を受けてない物体が次元の裂け目から放り出されたと見るのが妥当だろう。一度サーモグラフを外して解像度を上げたが、それが何なのかは確認できなかった。

 可能性として考えられるのは次元と次元の狭間、虚数空間を漂う何らかの残骸だろうか。あそこは10m立法におけるデブリなどの密度が地球の大気圏より遥かに少ないが、それでもゼロではない。だがそれが同時に四つも放出されるのはどういう事だろうか。

 「虚数空間を航行する次元艦がデブリに接触する確率は?」

 「結構あるよ。でもその殆どはミリ単位の小さな物。この画像からサイズを計算すると、四つとも人間と同じ大きさはあるよ」

 「地上への被害は?」

 「重量にもよるけど、この速度だと大したことにはならない。ただ……奇妙なんだ」

 「奇妙?」

 「うん。何もない上空からいきなり四つも物体が降ってきたって言うのに、この街のニュースはどれも自然公園の爆発事故……チンク・ナカジマが死亡した一件しか報道していないんだ。普通なら隕石騒ぎになっていてもおかしくないのに」

 「そう言われると確かに妙やな。全部海に落ちたんと違う?」

 「四つの軌道は全部バラバラ。内一つは確かに海の方角だけど、後の三つはこっちに向かって落ちているんだ。落下した場所によっては少なからず怪我人が出ても不思議じゃないのに。と、そう思ってその内の一つの軌道を計算してみたんだ。そしてら……」

 上空を写した二次元画像から、三次元の立体映像に切り替わり、それらの物体が落下した軌道を表示する。割り出されたそれらの内の一つの落下地点は……。

 「驚き桃の木、なんと昨日の爆発現場のすぐ近くなんだ」

 表示された赤い円は落下物の予測着地ポイント。その僅か数メートルで、件の爆発事件は起こっている。

 「これって単なる偶然だと思う?」

 「言い切ってしまうんは簡単やけど、たまたまで片付けるには怪しさ満点やな。どうする? 調べるんやったら人を回すけど」

 「僕は“13番目”の行動予測を立てないといけないから、誰か代わりに向かわせることになるよ」

 「構わへんよ。ザフィーラ、動ける?」

 「ご心配には及びません。既に偵察を行える程度には回復しております」

 「そやったら、早速現場に。何でもええ、めぼしいもんがあれば報告を」

 「御意に」

 既に現場には警察がいるだろうが、獣の姿になれるザフィーラならそこらへんはどうとでもなる。警察が回収していない「証拠」を見つけることが出来れば、それは即ち魔導絡みの案件となる。次元震の正体を突き止められるかも知れない。

 ザフィーラが出て行くと同時に、警報が鳴り響く。

 観測範囲にて“13番目”の反応が検知された。










 犬猫が屋内にてあらぬ方向を凝視するのは、その方向から彼らにしか聞こえない高い音が響いているからだと言う。人間でも十代の時は聞こえていた音が、大人になると聞こえなくなることがある。それと同じように、動物の聴覚は人間よりもずっと広い可聴音域を有するのだ。

 「……………………」

 ウーノは困惑していた。半ば死を覚悟して変わり果てたトレーゼと接触を図ったものの、人混みの中で彼に触れられた瞬間に転移させられ、今はこうしてどことも知れないビルの屋上で面と向かって沈黙を保っている。

 「……………………」

 沈黙、ただ沈黙。こちらから喋ることなど無いのだが、それでも一言も発さずこちらを凝視する姿にウーノは恐怖より不気味さを感じていた。ハンガーに掛けられた衣服を眺めるように、真っ赤な眼はウーノを何も言わず見つめているだけだった。それこそ、穴が開きそうなほどだ。

 時折伸ばされた指先が確認するように肩や髪に触れるが、それ以上の接触は無く、本当に檻の向こうの動物がこちらを観察するようだった。この場合動物園と違うのは、両者の間を仕切る囲いが一切無いことだ。例え相手が草食性だとしても、猛獣に分類される存在を前にすれば平静を保つだけでも精一杯だ。沈黙しているのは話す事柄が無いのと、下手なアクションを起こせば何が起こるか分からない恐怖がウーノを蛇に睨まれた蛙へと変えていた。

 「……──…………。────……」

 「?」

 口元が微かに動いている。言葉を紡ぐように動いているが、空気の振動を伴わないために何を言っているのかは分からない。空気ではない何か別の物を震わせて会話を試みているのだろう。自身に搭載されている各種検知器を稼働させ、その正体を見極める。

 それは魔力だった。大気中に存在する魔力素を空気に見立て、どういうプロセスかそれを振動させることでイルカのエコーのように「音波」を発生させているらしかった。だが人間の感覚器官では魔力の振動を感知することは出来ない。どうしたものかと困惑するウーノだったが、そんな彼女の様子をみてトレーゼはやっと合点がいったのか、遂に声帯を震わせることでコミュニケーションを図ってきた。

 「ウーノ……」

 やっと口を突いた言葉は姉である自身の名、それを認識したウーノは身を震わせる。恐怖でも驚愕でもなく、困惑で……。彼女にとって今目の前にいるのは、トレーゼの姿をした「別の何か」……外見だけ取り繕い形が似ているが、その実中身は似ても似つかない故に戸惑いしか無い。誰だってトラやライオンが飼い猫のようにじゃれついて来ても生命の危機しか覚えない、それと同じだ。

 戸惑ってばかりで何のアクションもないウーノをどのように思ったのか定かではないが、不意にその手が懐に入り何かを取り出す。取り出されたそれは、指三本分はある漆黒の書物……何のタイトルもなく、剣十字が施された表紙はただならない異彩を充分過ぎるほど発しており、視界に入っただけで魔導に疎いウーノでさえ退く禍々しさがあった。

 流石に様子がおかしいと逃走を図ったが、その足元に出現した魔法陣がウーノの足を止めた。指先も動かせないほど固められ、その視線は無造作に開かれた魔導書のページに釘付けとなった。ページの途中まで記された古代言語は赤々と妖しく輝き、血をインクにしたようなそれから発せられる光はウーノの意識を徐々に刈り取り、その視界が完全な真紅に染まりきったその瞬間……。

 ────パンッ。

 本が閉じられる。

 その時、彼の前からは誰も居なくなっていた。

 リンカーコアを吸収したのではない。彼は与り知らないことだが、スバルと同じように肉体の容量を丸ごと魔導書に移動させただけだ。無論、スバルと違ってそこまで奥深くには幽閉していない。彼の目的は「確保」であって「封印」ではないのだから。そう、それは大切な物を玩具箱に仕舞い込むのに似ていた。

 ウーノを発見した際も、何故彼女がここにいるのか疑問にも思わなかった。偶然なら偶然で片付けられるし、たとえそうでなくとも彼の肉体に取り込まれた願いを叶える石で全てが説明できる。元より彼は上位二人のナンバーズの存在を希求しており、バタフライエフェクトの如く迂遠な現象を引き起こしそれが実現された可能性も捨てきれない。使いようによっては因果を捻じ曲げるほどの力を持つ以上、次元を越えた先にあるものを引き寄せるだけなど容易いことだ。

 そして彼女は原点回帰を為した後のナンバーズにおいて筆頭となる存在、それを無下に扱うわけにはいかない。そして、彼女と同じ資格を有する者があと一人、この街には居る。それも同じように確保すれば、彼の描く計画の半分は達成されたことになるのだ。

 あともう一人……そう考え、目的の気配を感じる方角に向けて足を向けた瞬間……。



 金色の閃光が頬をかすめた。



 焼け落ちた髪が瞬時に再生する。周囲はその寸前に結界が敷かれており、無人地帯となった戦場に相手が姿を現す。案の定、それは彼に盾突く勢力の最右翼の一人であり、性懲りもなく自らの前に出てきた彼女らをトレーゼは──、

 「────────」

 無視した。

 「なっ!!?」

 気に食わない玩具に対し子供が一切の興味を示さないように、通行人が足元を転がる吸い殻に気付かないように、自分の行く手を遮ろうとしているフェイトを一瞥もせずトレーゼは我が道を進もうとした。当然、そんなことを彼女が許すはずもない。

 「行かせない!!」

 移動を阻止しようとバインドが伸びるも、それらを構成する魔力は触れる直前で霧散してしまい彼には届かない。牽制目的で放った砲撃さえ、肌に当たった羽虫か何かのように軽くあしらわれて終わる。これではまるで餌を与えているようだ。

 残された手段は物理的接触しか無いが、それを行えば一瞬でミイラ化してしまう。だから……。

 「お願い……レヴァンティン!!」

 『ヤヴォール!』

 フェイトの手にあるのは烈火の将が振るうはずの長剣、レヴァンティン。魔力消費とダメージにより動けない戦友から借り受けたそれを振り回し、関節を外して鞭となった刀身が黒い体に巻き付いた瞬間に注いでいた魔力を断つ。これでフェイトとトレーゼの間に魔力的な繋がりは無くなり、それを辿って魔力を喰われる心配も無くなった。後はなんとしてでもその動きを止めることに全力を注ぐだけ。

 しかし……。

 「くぅぅうううぅううううううぅううっ!!!?」

 体は縛った。両手も拘束した、それでもなお彼の動きは止まらず、健在な両足を等間隔に前に出し、何事も無かったみたいに平然と、逆にフェイトを引き摺り始めた。脚に力を込めて地面に留まろうと踏ん張るが、躾がなっていない飼い犬に引っ張られるように彼女の体は熱を発するほどの摩擦係数に見舞われながら依然と牽引されている。更に魔力を込めてやっと少し速度が落ちたが、地面にめり込みながら移動し続ける自分の足にフェイトは空恐ろしさを覚えた。

 やがて屋上の縁に立ったトレーゼはそこから落下を試みるが、当然全身を拘束するレヴァンティンがそれを阻む。結果、地面に降り立とうとして宙吊りになるという間抜けな姿を晒すことになったが、当の本人は一切頓着していない。むしろ、そこでようやく自らを縛る物の存在に気が付いたのか、視線がやっとレヴァンティンに向いた。魔力を伴わない物体として纏わりつくそれをトレーゼの紅い瞳が僅かに注視した次の瞬間、蛇腹の刀身に亀裂が走り、関節を繋ぐワイヤーが分断された。何のことはない、彼が「鬱陶しいから壊れろ」と念じればそうなるだけの話だ。攻撃も防御も必要なく、因果律を捻じ曲げ望む“結果”だけを引き寄せる力がある以上、最初から彼を止める術などありはしない。

 「まだっ!!」

 再生された刀身が再び蛇の如くうねり、その切っ先が人間でいう心臓の辺りを捉えた。無論、今のトレーゼには弱点でもなんでもない部位だが、胸から突き出た刀身は容赦なく肉を削りながら更に胴体を縦横無尽に突き進み、その全身を縫う。雁字搦めとなった体が遂に動きを停止する。流石にこれだけの干渉を受ければ無視できないのか、鬱陶しさに軽く身を捩り……。

 その遠心力でフェイトが弾き飛ばされた。

 これもまたどうということはない、馬車が馬力に引っ張られて大破するように、身を捩った遠心力が作用したと言う単純な物理現象に過ぎない。ただそれだけで只の人間でしかないフェイトは紙吹雪のように吹っ飛ばされるしかないのだ。

 バリアジャケットによる防護で傷は負っていない、レヴァンティンもまだしっかり握っている。だが彼の動きを止めることはやはり適わず、ダウンしている間にもその体は引っ張られ立ち上がる暇さえ与えられない。歩きながらトレーゼの手は自らに食い込んだ刀身を無造作に引き抜いていき、それを路端に放り投げる。

 彼の感覚器官はこの結界を展開した者を探していた。それを叩けばこの空間から抜け出られる

 いや、待て、そんな「人間みたいな」やり方に拘る必要はない。今の自分ならわざわざ結界の中枢を叩かずとも空間を強引に抉じ開け、脱出どころか空間全体を押し潰してしまうことも出来る。それに気が付いたトレーゼは自身の右脚を引き絞り、何もない虚空に向かって蹴り上げる。



 ズン────ッ!!!



 刹那、空を捉えた爪先を基点に目の前の空間に亀裂が入る。小石が当たってガラスにヒビが入るように、想像を絶する熱量を内包した彼の一蹴により本来実体などあるはずがない空間そのものが破壊されようとしていた。

 彼が現在いる位置は道路の真ん中。爪先に蓄積されたエネルギーは街の中心部に建ち並ぶ超高層ビル群を纏めて一撃で破壊し尽くすだけの熱量を秘め、それがもし結界を破壊し外界に向けて解放されれば表を通る車両や通行人は区画ごと消し飛ばされるだろう。火災により屋内の空気が温められて膨張し爆発するように、結界という閉じた空間の中で抑えきれなくなったエネルギーは外に出た瞬間に物理的破壊力を伴って吹き荒れる暴威となるだろう。それを予見したフェイトはレヴァンティンの刃を、二撃目を繰り出そうと構えるその足に絡ませ、素早く引いて千切り落とした。在るべき物を欠いたことで体勢が一瞬崩れるが、その前に切断されたはずの足は再生し、しっかりと大地を踏み締める。その僅かな間に、街のどこかに隠れ潜んだ相方が結界に魔力を注ぎ直し空間の亀裂を修復、狂人が開放されるのを未然に防いだ。

 もちろん、脱出を企てた方としては面白いはずもなく、紅い視線は恨めしそうにフェイトを凝視する。無論、そんなことで脅されたとは思わないが、その目が不意に閉じた時、彼女の中で直感的な不安が膨らんだ。

 (目を閉じた? どうしてここで感覚器官をつぶすの!?)

 確かに今の彼なら眼が無くとも活動に支障は無いが、それは健常者が特に必要ないからと言って小指を切り落とすようなものだ。損も無いだろうが当然得も無いはずの行為をするその真意を、フェイトは微塵も理解できなかった。双眸を閉じ、不気味な沈黙を保つそれを確保しようと接近を試みる。

 しかし!

 『高熱源反応増大!!』

 レヴァンティンの警告が鳴り響いた刹那、トレーゼの両眼が見開かれる。それを真正面から見たフェイトは友の剣が言った熱源の正体を間近で垣間見た。

 閉じられた目蓋は「隔壁」、つまりは体内で圧縮したエネルギーを溜め込むための蓋。本来外界から光を受け入れる器官であるはずの眼球はその瞬間に熱を帯びたレーザーを発射する銃口となる。網膜を鏡面にし反射増幅された光線は水晶体を通過した時に集束、射出された熱を帯びた二つの光はフェイトの髪を一房焼き払い通過、彼女の背後にそびえ立つ翠緑の天蓋を一撃で撃ち抜く。

 「そん、な……!?」

 たった一瞬、そのたった一瞬でさえ耐え切れずに光線が直撃した部分は粉微塵になり、二つの大穴を空の境い目に開通する羽目になった。文字通りの光速で打ち出された光の弾丸は開眼と同時に天蓋を破壊、たった二発同時発射で【スターライトブレイカー】と同等かそれ以上の破壊力を叩き出し、加速魔力砲の威力を最も近くで確認したフェイトは逃げることさえ忘れて茫然自失となって立ち尽くしていた。

 その硬直が解けたのは眼前の敵が天蓋の穴に向かって飛び立とうとした時だった。このまま逃亡を許してはいけない……レヴァンティンを振るい上げてその刀身を再び胴体に絡ませ、足に魔力を含ませて筋力を増幅してその足を引っ張る。その姿はさながら大凧を引くのに似ているが、早くも彼女の足は宙に浮き始めた。そこの部分だけ重力が弱くなっていると錯覚するほどの浮力に必死に抵抗し、腰を据え足を踏ん張って地上に留まろうとする。空に逃げようとする魔人とそれを留めようとする両者の力はギリギリのところで拮抗していた。だがそれは相手が未だ本気を出していないからに過ぎず、少しでもその気になられてしまえばその危うい均衡は脆くも崩れ去ってしまうだろう。現に今、修復が進んでいる穴に向かって飛翔しようとする力が徐々に強くなっており、フェイトの足はほとんど爪先で立っているような状態を余儀なくされつつあった。

 だが裏を返せば、ギリギリとはいえ彼の動きを止めているのは事実。こちらを全く眼中に入れず無視し、自分の行動を優先している故に虫を潰すように対処できる格下の相手からの妨害を気にせずまともに受けてしまっている。まるで昆虫のようだが、そのおかげで圧倒的力量差が存在するはずのフェイトがこうして対抗していられる。そして、彼女もたった一人で敵に挑んだわけではなかった。

 「ウォオオオオオオオォォッ!!!!」

 「ハァァアアアアアアアァッ!!!!」

 トレーゼの進行方向正面、天蓋に開いた穴から飛来する二つの影。風を切って突き進むそれは一直線に結界内に侵入し、その鬨の声と共に飛翔した切っ先がトレーゼの胸を捉えた。浮上していた体はその一撃で押し返され、相殺されなかったエネルギーは地面を削るほどの摩擦を生み出しながら彼の体を轢き潰した。数十メートルに渡って地面に小渓谷を刻み込んだ侵入者らは、巻き上がる土煙の中より姿を現してフェイトと合流した。

 「フェイトさん!!」

 「エリオ! なのは!」

 「お待たせ!」

 さきの衝撃はエリオのストラーダとなのはのレイジングハートによるストライクフレームの刺突、まともに食らえば上半身が丸ごと穿たれるであろう組み合わせだが、程なくして粉塵の中からトレーゼが出る。その体は、やはり無傷。肌どころか服にほつれすら見当たらない。あくまで平然とした様子に乱入した二人は溜め息すら吐いた。

 「にゃはは……やっぱ効かないかぁ。ストライクフレームの先端に溜めてた魔力もごっそり持って行かれちゃった」

 人間としては特殊ともされる魔力回復量を誇るなのはでさえ、今のトレーゼにとっては「腹持ちのいい食料」、この状況は丸々と太った仔牛が飛び込んで来たも同然で、喜びこそすれ悲観などしなかった。彼女らに邪魔されたことでようやく気が向いたのか、その目がちょっかいを出す三人を見据えた。紅い視線が捉えるはそれぞれの中にある魔力の塊のみ、それ以外は要らない、肉という薄皮は剥ぎ落として中の実だけを抉り出し喰らう……彼の思考はその瞬間その一点に固定された。そしてそれは揺らがない。

 ゴキッ、ベキョ、グリュ────!!

 右腕の組織が変形する。内部の肉が盛り上がり、どす黒い流動魔力が結晶化して外骨格を形成。右手の五指は外骨格に埋もれて無くなったかに見えたが、ハンマーの如く膨れ上がった右手はバックリと割れ、その割れ目からは鋭利な牙が生え揃っていた。竜の顎、全次元世界の食物連鎖において例外無く頂点に君臨する生命体、その一部分をここに再現することで眼前の「餌」を効率良く捕食しようというのだ。本来消化器官など存在するはずのない腕部をそのように改造し、骨組織を変化させて牙を形成することなど、影絵を象るために指を遊ぶのにも等しい児戯だ。

 「来る!!」

 「────ッ!!」

 大顎が開けられた右腕が振るわれ、さっきまで三人の立っていた地面が大きく抉れる。アスファルトと土をプリンを掬うように捕食した右腕はそれらを咀嚼、飲み込むことなく口内に溜め込む。無論、それが餌の代わりになる訳ではない。高熱を加えることで溶融し、液状となりガラス化するまで熱したそれを牙の間から、ちょうど口笛を吹かせる要領で圧縮した液状弾を放出させた。灼熱のレーザーのように射出されたそれは光学兵器とは違い確かな質量を有し、屈折されることもなく直進、その射線上にある地面を溶かして焼き払った。言うなれば工業で用いられる高水圧カッター、それが熱というエネルギーを得たことで破壊力を増し、灼熱の弾道が三人を執拗に狙ってくる。しかも少なからず魔力が加わっており、まともに喰らえば切断面は焼け爛れ、再生するのも困難になるだろう。実にいやらしい攻撃方法だと言わざるをえない。

 まさしく【ドラゴン・ブレス】。その熱線を掻い潜って回避するなのはとフェイトだが、飛行技術を持たないエリオは地面を不規則に蛇行しながらの回避となる。必然、二次元な動きしかできないから優先して狙われるが空に逃げた二人は直接的な助成はしない。彼を抱えて飛行するのは容易いが、それでは速度が低下してしまい共倒れになる可能性が高くなってしまう。故にそれぞれの方向へ逃げ去り、地上に残ったエリオを援護する形でトレーゼに攻撃を加えているのだ。回避行動に専念しながらもそれなりに強力な一撃を叩き込むのだが、やはり芥子粒が当たっても気付かないように平然としていた。

 逃げ惑っている間に片腕だけでは埒が開かないと学習したのか、続いて左腕も変形して竜の顎を形成し、自らが立つ周辺の土壌を食い荒らして弾丸を補充し始めた。この大地の上で戦う限り彼に弾切れなど有り得ない。抉った土は再びガラスの弾丸となり、その熱線は壁を穿ち、地を割り、木々を焼き払う。

 そして遂に、灼熱のカッターがエリオを捕える!

 「こんなものっ!!」

 自分の心臓目掛けて飛来する灼熱の弾丸をストラーダの先端が切り払う。レーザーに見えても実態は半液体、遮断された瞬間に飛沫が散乱し、バリアジャケットの上を撥ねる。一点に集中照射を受ければ、所詮フェイトのマイナーチェンジでしかないエリオのバリアジャケットは焼け落ちるろう。そうならないように蛇行軌道を繰り返すが、遂にその弾道が彼の胴体を捕らえる。

 「そんなっ!!?」

 それまでビームのように束ねられていた弾道が急に鞭のようにしなり、軌道を変化、投げ縄のような形状となったそれは見事にエリオを縛り付けた。僅かに温度が下がったのか、赤く半透明なそれにバリアジャケットを焼くほどの熱量は無く、純粋にエリオの動きを止めるための物だと見て取れた。

 つまり、動きを止めれば次に待つのは「本命」……蜘蛛にとって巣の網が獲物の動きを止める為のものでしかないように、エリオの動きを止めたトレーゼはそれを仕留める為の行動に移っていた。

 「あれは……!」

 両目を固く閉じ、その体内で熱量が急激に高まる。多重複層結界を容易く突破する砲撃を真正面から受ければ消し炭どころか肉片さえ残さず地上から消え失せるだろう。かと言ってあれだけの出力を受け止め防ぐだけの力はエリオには無い。チャージ中の今の内に脱出するしかないが、赤く灼けたガラスの鞭は魔力が流され硬質化しており、容易に脱出することは適わなかった。

 「エリオーッ!!」

 炎の魔剣を納め、本来の相棒であるバルディッシュを起動させてガラスの束縛を断ち切ろうとする。しかし、前に出た彼女をも捕えようともう一方の腕が迫り、それらを追い払う。フェイトの危惧したように、目を閉じたにも関わらず相手は正確にこちらの位置を知っており、食指を絡めようと執拗に付け狙ってくる。そうこうしている間にも体内を循環し眼球に蓄積されたエネルギーは増大を繰り返し、遂にその目蓋の裏から紅い光が漏れ出る。二つの隔壁が取り払われ、まさに破壊光線が発射される寸前────、

 「せぇあああっ!!!!」

 「──ッ!!?」

 紫色の閃光がトレーゼの横っ面を穿ち、彼の視線を強引に左へ押した。弾かれた頭部は予想外の衝撃に致命的な方向に捻れ曲がり、それと共に発射された光線も軌道を変えてエリオらの右後方に建ち並ぶビルを伐採する。結界の破壊ではなく人体の抹消を目的としていたためか威力は低く、だがそれでも遥かに離れた結界の限界まで達するだけの力はあり、一拍遅れてやってきた衝撃波に煽られて図らずも敵との距離が開かれる。

 「モンディアルとか言ったな。敵に容易く捕らえられるなど戦士として有るまじき失態だ」

 「あなたは!?」

 「次は無いと思え」

 閃光の正体はいつの間にかこの場に進入していた戦闘機人の長、トーレだった。さっきの一撃は『ライドインパルス』の加速による殴打だったのだろう。目の前に集中して油断しているところを横合いから殴りつけたこともあり、予想以上の成果を叩き出すことに成功していた。

 だが代償も決して小さくはなかった。

 「頬を殴ったとは思えない硬さだった。私でなかったら腕の骨格がどうにかなってしまっていただろうな」

 そう言って見せる右腕の装甲はヒビ割れ、想定外の硬度と接触したことで半壊していた。硬い物体に柔らかい物体が当たれば損傷するように、音速の拳はトレーゼの頸部を捻る戦果をもたらしたがそれと同時にトーレから攻撃手段を削ぎ落としていた。

 加えて、敵は首を捩じ切った程度では死なない。現に今も不自然に伸びた首の骨と皮はゴキゴキと有機的な音を鳴らしながら元の状態を復元し、僅かに変形していた顔面も粘土を捏ねるように両手で整えると元に戻り、紅い瞳がトーレを見据える。その視線は先ほどまでの鬱陶しい小蝿を見るような物ではなく、紅い色が本来有する温かさ、「親しみ」の感情が込められていた。まるで人間のような仕草に魔導師三人は一様に戸惑いの表情を見せるが、唯一人トーレだけは毅然とその視線を拒絶した。

 「犬猫と同じだ。長く接していればその仕草の一つひとつが人間と同じ意味合いを持つように見えてしまう。貴様とは悪い意味で長く付き合いがあったが……その腐れ縁も今日この時までだ」

 左手首からブレードが伸び、今度こそその首を切り落とそうと構えられる。心臓を潰して死なないなら首を刎ねる、一撃で仕留められないのなら何度でも叩き潰し死ぬまで殺し尽くす。今のトーレにはそうするだけの覚悟があった。

 だが対するトレーゼは全く対照的に、その顔に微笑みすら浮かべていた。両手を広げて近付いてくる様は相対する彼女を招き寄せているようで、実際にその意図を感じ取ったなのは達に戸惑いを与えた。道端の小石を知らずに蹴り飛ばすように自分達を一蹴していた時には決して見せなかった、絶対に揺らぐことはないと思っていた鉄面皮が崩れて覗いた表情はとても晴れやかで、違和感を通り越してそれが彼の本来の顔ではないかと錯覚するほど爽やかな物だった。

 もちろん、そんな柔和な態度に反してトーレは更に敵意を強めた。

 「相も変わらず私を玩弄するつもりか。偽者が、私の前であいつの真似事をするなぁっ!!!!」

 「トーレさん!!」

 怒りの琴線に触れられたトーレは我先にと飛び出し、制止も聞かずに先制を掛けた。片腕だけに発生したブレードを振り、その首筋にあてがう。そして、それまで外部からの物理的干渉を一切遮断していたはずの彼の肌は、さきの一撃と同じく容易く通り、ブレードはケーキを切り分けるようにその肉を裂いた。だが暖簾に腕押し、切り裂くと同時に再生し血飛沫すら上がらずダメージも通らない。それでも息吐く間も与えず拳撃を繰り出し、その肉体を蜂の巣に変貌させていく。だがそれらも拳を引き抜くと同時に塞がれて復元してしまう。

 「化け物がっ!!」

 拳を引き、人体の急所である顎を蹴り上げる。常人が受ければ脳震盪どころか下顎もろとも頭が吹っ飛ぶ威力だが、やはりそれまでと同じく攻撃された箇所は魔力の鱗粉となって霧散、人体の構造を無視した再生を行い無傷の顔面を晒した。破壊しても破壊しても片端から再生する、まさに千日手、これ以上やってもトーレの根気が尽きるのは火を見るより明らかで、それを悟そうにも鬼気迫る顔をした彼女を止められる者などここにはいなかった。

 唯一つ奇妙なのは、対するトレーゼが一切の抵抗をすることなくトーレからの攻撃を受け止め続けていることだ。その気になりさえすれば何とでも対処の方法はあるはずなのに、あくまで自分からは決して行動せず彼女を受け止めるだけなのだ。何か嫌な予感を覚えながらも下手に手出し出来ず、ジリジリと距離を測りながら他の三人も警戒を怠らない。

 だがその均衡も崩れる時が来る。

 「────」

 広げられていたトレーゼの腕が動き、その手が懐に入る。徒手空拳である彼に武装は無く、故に取り出したる物は……。

 「魔導書? トーレさん、離れてください!」

 かつての『闇の書』はリンカーコアの蒐集は一個体の生命につき一回が限度だったが、新しく生まれ変わった魔導書にその制限があるかどうかは疑わしい。五体が枯れ果てるまで魔力を搾り取られることを恐れた彼女らは一旦距離を取ろうとしたが、原本から飛び出した数多のページがトーレの行く手を阻む。

 まるで本の中に彼女を取り込もうとしている様な、明らかに今までとは違った動きに戸惑いを覚えるが自身に纏わりつくそれらを音速で切り刻む。

 「この程度で私を捕らえられると思ったか!」

 左手のみで捌きながらトーレは徐々に包囲網を抜け出す。ページの飛距離は短い、ここを脱出できれば魔の手は追って来られないはずだった。

 「よし、抜け────!」

 しかし、その足が止まる。彼女の意志で停止したわけではなく、外部からの力、戦闘機人を押さえ込むだけの力が働いた証左だった。それは触手。トレーゼの手にある魔導書に展開した魔法陣から召喚される形で現出しており、それらがトーレの四肢を束縛していた。

 かつて深海に棲み、その背丈は天を突き、四肢は大地を引いて繋ぎ合わせ大陸を生み出したとまで言われた神話の生物がいた。その生物は次元世界と共に滅んだが、滅亡の要因となった『闇の書』にはその生物が蒐集され、今ここに現れているのはその幼生の一部だ。だがその段階で既に人類の建造物を容易く引きちぎるほどの膂力を有し、トーレの体は凄まじい勢いでトレーゼの元に引き寄せられていく。彼女を救出しようにも警戒を強めて距離を取りすぎていたなのは達の行動は裏目に出てしまい、手を伸ばせる距離にまで近付く頃には両者の間は息が掛かりそうなほど接近を許してしまっていた。

 「くぅ! 離れろ空尉! あなたはこの先も隊に必要な人間だ、私一人の為に共倒れする必要は無い!」

 「トーレさんっ!!」

 「願わくば、私に代わってこいつを────」

 そこから先の言葉が何だったか、なのはの耳で判別することは適わなかった。声帯が大気を震わせるより先にトーレは頭から魔導書に突っ込み、カエルがヘビに飲まれるよりも速く、鳥が米粒をついばむのと同じ目にも留まらない速度でその体は黒い書物に消えた。

 「あ、あぁ……!」

 「そんな……」

 咀嚼するように閉じられた表紙は淡い紅に輝いていた、たった今取り込んだ物を味わうように……。

 舞い散っていたページはいつの間にか消え、煙のように消えたトーレと共に本の中へと戻っていた。捕食でも吸収でもない、この空間から別の空間へ移したような動作……それはつまり、「隔離」。自らにとって必要な物を切り取り保存する行為その真意を掴めず、衝撃的な出来事に脳の回転が追いつかない。

 だが敵はそんな事情など一顧だにせず、例の魔力加速砲を放つために再び目蓋を閉じ、その照準を天蓋に向けた。最初の時と同じ一撃で風穴を開ける閃光を放つ予備動作に備え、予測射線上に威力を減衰させるための魔法陣が次々と展開される。

 「間に合って!」

 「ところがどっこい! そんなことはさせないよ」

 「!?」

 トレーゼの背後から現れる影、その正体は『理』と『力』のマテリアル。二人の武装から射出される光弾は無慈悲に防壁を破り、主の障害となる事象を排除していく。

 「まだチャージには時間がある……! エリオーッ!!」

 「了解!!」

 トーレの時と違って体を硬化し防がれるかも知れない……だがその槍が目を捉えることが出来れば、内に蓄積したエネルギーを不安定にさせることも可能なはずだと考えたフェイトはエリオの俊足に全てを託した。幸いにも召喚されたマテリアルは二人とも防壁を破壊することに集中しており、三人目が出てきてもはやてをベースとした彼女の機動性ならエリオ一人でも充分対処可能なはずだった。

 「ちょ!? 王様、何やってるのさ!! 早くやんないと坊やにやられちゃうよ!!」

 幸いなことに『王』は表に出るのが遅れており、その間にストラーダの先端はトレーゼの両眼を破壊しようと迫る。両者の距離は二メートル、もう一呼吸の内に到達できる間合いにまで接敵したエリオは両腕に渾身の力を込め、それを相手の顔面に────、

 「ご苦労だったな。下がれ、下郎」

 「ぐあぁああああぁっ!!!?」

 閃光と共にエリオの体が宙を舞った。魔力加速砲が炸裂したのではない、網膜を焼く光量とは裏腹にエリオの五体は健在であり、ダメージよりは衝撃により吹っ飛ばされたようだった。

 「相変わらず、馬鹿正直に正面から突っ込むしか能のない童よな。戦い方を教えた者の技量が知れるというものよ」

 「遅い出陣でしたね」

 「だがタイミングはばっちりであったろう? それに、主殿の体内はなかなかに快適であったからな」

 それはグロテスクで奇妙な光景だった。未だ微動だにせず魔力を蓄積するトレーゼ、その上半身腹側から突き出るように『王』の半身が外界に飛び出しているのだ。下半身は体内に融合して見えず、腰から上の左半身のみを出現させている姿は実に醜悪極まりなかった。必殺の間合いに飛び込んだ相手に対する至近距離からの砲撃にエリオはダウンし、なのはとフェイトは未だ『理』と『力』の妨害を受けて攻め手に回れない。その間にも『王』は全身を外界に現し、杖の先端を邪魔な二人に向ける。

 「不敬な、我らが主の行く手を阻む痴れ者どもが。少しは己の分を弁えよ」

 剣十字の杖が鈍く輝き、放たれた波動が前方の障害物を根こそぎ弾く。即ち、射線上に存在する防壁と、それらを展開していた二人である。

 「あ……っく!!」

 「ぁああっ!!」

 衝撃に逆らえずなのはとフェイトが弾き飛ばされた刹那、遂にトレーゼは魔力の充填を終え……。

 「────ッ!!!!」

 万象一切を消し去る閃光を放った。

 一射目よりも遥かに高い熱量を秘めたそれは容易く結界を貫通、亜光速の弾道は青い大地に最も近い天体をかすめて過ぎ去り、大気圏外の無関係なデブリを一掃した。軌道上の人工衛星は難を逃れたが、たまたまそれを捉えた某国の一機の映像が出回りUFO騒ぎを引き起こしたのは想像に難くない。

 「ほら行くよご主人様!! もう目的は達成したんだからさ!」

 射撃の反動か、動けずに停止したままのトレーゼを『力』の手が引く。だが当の本人は俯いたまま黙しており、銃身から空薬莢が吐き出されるように、その眼窩からは魔力の余剰熱によって沸騰した眼球だった物が垂れ落ちていた。無論、すぐに再生し正常な視力を回復するが、それでも何故か彼の足はその場を一歩も動かなかった。足裏に根でも生えているかのように、周囲のマテリアルがいくら急かしても石の如くそこに固まったままなのだ。

 「トレーゼ様!」

 「おい、主殿よ。異物を取り込んだ所為でおかしくなったか!? 早うせんとまた彼奴らに要らぬちょっかいを出されるぞ!」

 「ご主人様ぁ~!!」

 三者三様に腕を引き背を押し言葉で急き立て、あらゆる手段でその足を動かそうと試みるも、遂にその両足は動かなかった。結界に開いた大穴はまだ完全に塞がれてはいないが、展開している者の働きで修復速度は格段に上昇しており、今や車両が一台通れるかどうかまで穴は小さくなっていた。

 「ええい、こうなったら力尽くでも抜け出るまで! 協力せいっヒヨっ子ども!」

 「了解」

 「アイアイサー!」

 いつまでも不動なままのトレーゼを三人掛かりで抱えて浮上し、マテリアル達は外へと脱出を試みる。結局その間もトレーゼは呆然と固まったままで、眼球は動かず視線は何かを凝視するでもなく定まったままだった。電池切れの人形を抱えたマテリアル三人は鈍足移動となりながらも追撃を振り切って大穴の手前までこぎ着いた。

 「どうだ! 我が与えてやった損害のおかげで彼奴らはまともに追い立てることも出来ん! これは僥倖、主殿が不具の今の間に地の果てまで逃げ……否、後ろ向きに前進よ!!」

 「前進前しぃ~ん! ボクらの新世界へレッツゴー!!」

 マテリアルらにとってこの街は何の魅力も無い。ページを埋める為に必要な魔力はよその次元世界でも蒐集できるからだ。むしろ厄介な敵がいるだけ行動に支障があり、一刻も早く去りたい気持ちがあった。今までは同盟の相手であり上位者となったトレーゼの意向でここに留まってはいたが、その上位者からの命令が途絶えて自由を取り戻した今の内に移動してしまおうという姑息な魂胆が見え隠れしているのは事実だった。あれよあれよという間に外界との境目に到達した四人は干渉領域からの離脱を果たそうとし……。

 「スターライト……ブレイカーッ!!!!」

 オレンジ色の奔流が真正面から彼女らを迎え撃った。集束砲撃をまともに受けた四人は散り散りに吹っ飛ばされ、再び結界内に叩き付けられる。非殺傷ではなく物理破壊を前提とした攻撃に肉体の一部が欠損するが、魔力の供給により即座に復活、自分達を叩き伏せた怨敵がいる空を睨み上げた。

 「何奴!!」

 「おぉ、いったーい」

 「この砲撃、ナノハの……。そうですか、私としたことがあなたの存在を失念していました」

 その言葉じりに多少の忌々しさを込めながら『理』が下手人を見据える。認識阻害という初歩の魔法によって姿を隠していた竜、その背に乗った二人の少女、その片割れが持つ銃口から煙が上がっており集束砲の威力を物語っていた。砲撃魔導師として名を馳せる高町なのは以外にこれだけの攻撃を単独で行える者など、彼女らの知る限りでは一人しかいない。

 「ティアナ・ランスター、只今合流しました!」

 「同じくキャロ・ル・ルシエとフリードリヒ! これより援護に入ります!」

 後方支援に長けた二人の合流により、数の上での趨勢は六課側に傾き始めた。依然としてトレーゼは糸の切れた人形のように地面に横たわったままで、眼球はガラス玉のようにぴくりとも動かずに虚空を凝視していた。事実上、マテリアルは撤退戦から一転し、物言わない主を守りながら三人で防衛戦を行う羽目になり『王』は苦虫を潰したような表情を浮かべながら悪態を吐く。

 「虫けらが集まるだけ集まって囀り合うことのなんと醜悪なことか。普段なら主殿の温情により見逃すところだが、見ての通り主殿は気分が優れぬ様子、ならば我らがここで貴様らを叩き潰すことに何の支障も無い」

 「さっさと終わらせちゃおっか。あの人たちはボクらを閉じ込めた気でいるみたいだけど、外の日輪を拝むのがどちらか教えてあげる必要があるよね」

 「ええ。星に近付き過ぎた者は身を灼かれ地に墜ちるということを、しかと叩き込みましょう。ましてや、それが憧憬ではなく敵意を抱いての行為ならば尚更のこと」

 「では、これより清掃を始めるとするか」

 臨戦態勢に入ると同時に、マテリアルの四方を魔力弾が覆い尽くす。捌ききれない数ではない、一気に弾き返そうと得物を振るい上げる。魔力弾はその全てが彼女らの鼻先で弾け飛んだ。

 「やっぱり届かない!」

 「私がもっと強いのを撃つから、フェイトちゃん達は援護を!」

 「了解」

 周囲に満ちた魔力をレイジングハートが掻き集める。彼らをこの地上から完全に消し去るには、それこそ【スターライトブレイカー】を叩き込むしかないと判断したからだ。全力を注げば結界が壊れるだろうが、そこは陰でこの空間を維持しているユーノとシャマルに期待するしかない。難攻不落を誇った“13番目”が行動不能に陥っている今が絶好のチャンス、ここを叩かずしていつ彼らを撃滅するのか。

 「おいおい、ちょっとマズくない? あれをまともに受けたら……」

 「死にはしないでしょうが、確実に肉体を再生するのに手間取るでしょうね。水色、何とかできませんか?」

 「あれと正面から撃ち合えって? 無理無理、あの砲撃天使はボクの全力を一呼吸の魔力でやっちゃうんだもん。今から極光斬をブッ放したってとても対抗なんて出来やしない」

 「予想はしていましたが、力押しだけが能のあなたでさえ無理となるといよいよ切り抜けるのが困難になってきますね」

 「最終手段としてはご主人様の中に戻ってシェルター代わりにするって方法もあるよ。ってか、さり気なくボクのことをバカにしただろ! バカにしただろ! えっ!?」

 「事実でしょう。それにあなたこそ、トレーゼ様の肉体を盾代わりに使おうなどあんまりではないでしょうか」

 「お前らぁああああっ!! 防御を我一人に預けっぱなしにして何を喋くっておるかぁーっ!!!」

 「えー? 盾は前に出ないと意味ないじゃないか」

 「頑張ってくださいね、盾」

 「貴様らぁあああーっ!!!! さっきまでのやる気はなんだったぁああああああっ!!!!」

 なのはがチャージを終えるまでの時間を稼ごうと前に出た魔導師たちの猛攻を『王』は悲鳴を上げながら防戦を続けていた。展開した障壁は防御用で、足りない攻撃の手は自身の杖と魔導書から飛ばしたページで補っている。だが明らかにそれだけでは凌ぎきれず、最初の一波を無効化した障壁は徐々にその遮断率を低下させつつあった。このままでは本命が打ち込まれる頃には丸裸にされているやもしれない。

 「おいおいおぉーい!! いい加減にせんかぁっ!! 我一人でこれを耐えるのは無理が……っのぉおおおぉあぁああああああっ!!!? た、頼む、加勢してくれぇぇえええっ!!!」

 「あんなこと言っちゃってるよ~、どうする~?」

 「普段から威張り散らしている分、いい機会ですのでどれほどのものなのか見させてもらうとしましょうか」

 「今そんな場面でも展開でもないだろうがぁあああっ!!!」

 別に直撃したところで生物でいうところの死に瀕するわけではなく、一時的に肉体を得ることが難しくなるだけだからか、彼女らに緊迫感はあれど恐怖はない。ゆえにどれだけ自分達が窮地に立たされているとしても決してその在り方を改めようとはしない。

 その間にレイジングハートはチャージを終えつつあり、トレーゼが活動を停止したことで吸収されずに残留していた魔力はその殆どをなのはに持っていかれていた。桜色に輝く光球から伝わる威圧感にたじろぐ三人を容赦なく撃滅しようと、固定化された魔力の塊を撃ち出そうとレイジングハートを構える……今頃になってトレーゼを抱え逃走を試みるマテリアルだが時既に遅し、前衛の魔導師が身を引くと同時に撃たれた魔力の暴風はビルを薙ぎ地表を抉り洗い流し、断末魔の悲鳴も上げさせることなく「三人」を瞬く間にこの地上から消し去った。

 罪悪感が無いと言えば嘘になる。仮りにもヒトの形、それも自分や親友の姿をした者を撃滅したのだ、そこに倫理的な忌避感が生じないはずはない。これで彼女らに手を下すのは二度目だが、かつては「倒す」という意志の下に下した手が、今度は「殺す」意志に基づいて動いたのは否定できない。結局彼女らが生物的な意味での死を迎えたかは定かではないが、少なくとも物理的に消し去ったことは確実、そうまでする必要があったのだろうかという仏心と、そうするしかなかったと断じる情け容赦ない部分もあった。

 爆煙が徐々に晴れていく。敵の気配は無い、地下深くまで抉った大穴は全力全開の一撃の威力を優に物語り、人外である彼女らでさえ免れなかった破壊の爪痕を確かに刻み込んでいた。

 だが……。

 「まだ、いる」

 根拠はない。上手く言葉で説明しようにも語弊が出る。長年戦いに身を投じた者にしか感じられない確かな感触が第六感に伝わり、燻った視界の先にその輪郭を浮き彫りにする。

 それは“球”だった。

 ほぼ真円に近い整った形をした黒い球、降り注ぐ陽光を反射するその表面はよく目を凝らせば繭のように魔力でできた繊維が複雑に絡み合って出来ており、まるで血管のように脈動していた。高密度に束ねたそれらを自身に纏わり付かせることで防御としているのだろう、その硬さは炭素鋼にも匹敵するほどに頑強で、展延性に富んだ構造は外界からの物理的衝撃の一切を受け流し拡散することで内部に閉じ篭った者を防護していた。

 大穴を空けた大地の上に浮かぶそれは静かにそこに在り、攻撃機能は無いのかあるいはする気がないのか、こちらの接触に対する反応は皆無だった。

 「中に引き籠った……?」

 「みたいね。どうしましょう、解体しますか?」

 「……フンッ!!」

 エリオが渾身の力でストラーダを突き入れるが繊維の一本たりとも切れる様子はなかった。それどころか外界からの衝撃に対し更に繊維は密になり、その硬度を増したようにも見える。

 「ユーノ君に解析してもらってこじ開けてみる?」

 「それより八神司令の石化魔法ならそのまま封印できるのでは?」

 「いや、魔法の類は魔力を吸収されて効果がない恐れもあるわ。ここはどうにかして物理的な手段で破壊するしか……」

 魔導技術を用いずに目の前の障害を撤去するには彼女らの力量では困難を極めた。まさか重機を持ち出す訳にもいかず、下手に触れれば生命力を奪われるから、この小規模な籠城戦は早くも敵側に軍配が挙がりつつあった。だからと言って引き下がることも出来ず、急に活動を停止した謎も含めて事態は幾度目かの袋小路に迷い込んだ。

 そもそも、何故“13番目”があの時動きを止めたのか……?

 その元凶となった存在は彼の中に身を隠していた。










 時は少し巻き戻り、ウーノと行動を別にして戦場から遠のいたヴィヴィオへと視点は移る。

 自分を追ってくる気配が無いことに安堵しながらも彼女の足は速度を落とさず、大人だらけの通行の中を一人駆けて行く。200メートルほど走ったところで少し疲れたのか、信号を渡ったところでようやく一息吐くことができた。その時、自分が走ってきた方角に目を確かめたヴィヴィオの視線が釘付けになる。

 「結界が……!?」

 魔導に通ずる者でしか感知できない位相空間の天蓋が、さっきまで自分とウーノがいた場所で“敵”の足を止めているのが見えた。敵と対峙しているのは恐らく母とその友人たちだろう。

 どうする、一度そこまで戻って保護してもらうか? いや、それはできない。ウーノも言っていたではないか、戦場となった場所に子供が行ったところで何も出来ない。ましてや自分は戦うのではなく保護を求めているのだから門違いというものだ。

 今行っても邪魔になるだけ……悔しい思いを噛み締めながらもヴィヴィオの足は戦場を背にして再び歩き出す。あそこは「非日常」、つまりは自分がいるべきではない場所だ。本来、無関係なはずの戦いに巻き込まれ過ぎて麻痺していた感覚が徐々に正常になり、それに伴って生存本能を加速させる「恐怖」が肥大化する。その衝動に駆られるように速くなる足は疲れを知らず、確実に彼女は当初の目的地へと近づいていた。



 だが、「非日常」の影は少女の足を引き止める。



 「お、おい……!」「なにあれ?」「うわっ、血まみれ!」「誰か救急車呼んでやれよー」

 前を歩く人々を追い越した時、彼らの言葉が耳に入る。早朝から文字通り血なまぐさい文言が飛び交い、それにつられてヴィヴィオの視線と意識が声を掛けられる方向へ向く。誰か怪我人でもいるのだろうか、などと随分呑気な考えをしていたと我ながら思わずにはいられなかった。

 だって、そこに居たのは……。

 「う……そ!」

 建物が建ち並ぶ街路の端、宿無しに喘ぐ人にしては妙に衣服は綺麗で、白無地に生々しい赤茶色の装飾は見る者に生理的な嫌悪と恐怖を想起させるものがあった。俯いた頭の髪は鮮烈な赤色を帯び、服に染みた液体が元々持っていた色をより明るくした様な色をしていた。だが手入れされず色褪せたそれは誰の目から見てもやつれた感じで、地を向いたままの肩は肺の収縮に合わせて大きく上下していた。虫の息、というにはまだ力は残っていそうだが、どちらにしろ衰弱しているように見えるのは確かだった。

 その人物は、ヴィヴィオも良く知る、彼女が探し求めていた一人……見紛うはずもない、路傍に身を預けて眠る少女はノーヴェ・ナカジマその人だった。

 「ノーヴェ!」

 「…………ン……」

 通行人をよけて辿り着いたヴィヴィオはその肩を小さく揺らす。ひょっとしなくても下半身を染める赤茶のシミはあの時地上本部で撃たれた時の傷が原因だろう。ある程度塞いでいるようだが、地面と接した部分には流れ出た血が溜まって湿っており、脚に触れたヴィヴィオの手が少し赤く染まった。強靭な体力と回復力を有するはずの彼女でさえここまでの衰弱、次元を飛ばされてからこっちまでまともに休んでいないのは明らかだった。

 このままでは事切れるのも時間の問題、絶体絶命の危機を覚えたヴィヴィオはにべもなく周囲に助けを求めた。言語に差異があって通行人らは言葉を理解できなかったが、その意図するところは察せたらしく、その内の一人が近くのコンビニ前にある公衆電話に駆け寄って救急車を呼んでくれていた。

 この世界の人間ではない彼女を病院へ送れば身元不明の浮浪者という扱いになってしまうだろうが、保護された後で事情を説明し、六課の誰かが上手く身元保証人として迎えに行けばいい。

 「……そこをどきなさい」

 静かだが力強いその声を聞いた時、ノーヴェの重たい体を横にする作業を行なっていたヴィヴィオはほっと一息吐いた。無責任かもしれないが、これで大人に任せて邪魔になる自分は早急に退散しようと立ち上がる。

 ふと、その時、ヴィヴィオの意識が小さな疑問に当たった。

 背後の声は女性のものだが、その言語はヴィヴィオにも理解できた。この星の、ましてこの国の人間ですらないはずの彼女がなぜその言葉を理解できたのか……。それはつまり────、

 背後の人物がミッドチルダの言語を用いてヴィヴィオに話しかけたからに他ならない。

 刹那、振り向きざまにヴィヴィオの頭が揺れる。顎先に軽い衝撃を感じた後、彼女の意識と感覚は不規則に波打ち、両足は支えを失って平衡感覚まで喪失、受身をとることも出来ずに地面に倒れ伏した。倒れ込む瞬間目にしたのは、声を掛けた人物が振り上げた長い脚、そしてその人物の顔は……。

 「セ……ッテ、さん……!」

 揺れる桃色の長髪、身が竦む冷たさを湛えた双眸、倒れゆくヴィヴィオなど眼中にはなく、その眼光が突き刺さるのは唯一人……即ち、その背後に横たわるノーヴェだけ。

 周囲の人々が金切り声を上げる。突然現れた不審人物が子供の顔面を蹴り飛ばした風にしか見えないのだから当然だ。中には正義感に駆られてその凶行を止めようと背中に掴みかかる男性が二人ほど居たが……。

 「邪魔です」

 すぐに振り払われた。肩に乗せられた手を逆に掴み、柔術の要領で投げ飛ばし地面に叩き伏せ、彼らを鎮圧した。低い呻き声を漏らして動かなくなったのをきっかけに、周りの人々はヴィヴィオを蹴り飛ばした時以上の叫び声を上げて遠ざかり、先程救急車を呼んでくれていた者は警察に通報するべくダイヤルを押し、早朝の街道は一触即発の事件現場へと早変わりした。

 起き上がることのできないヴィヴィオを尻目に、セッテの足は自らの姉妹であるノーヴェに歩み寄り、物言わぬ姉に冷徹な視線を落とす。夜間の熱放射で冷えきった地面に眠るその表情はぴくりとも動かず、浅く呼吸しているのを見逃してしまったら死んでいると見間違えそうだった。

 だが生きている。次元転移の影響か視界フィルターの情報は途切れ途切れだが、それでもサーモグラフィーに表示される熱量は対象が辛うじて生きている事実を示していた。そうだ、執念の果てにやっと追いついた相手が自分とは関わりの無いところで呆気なく潰えてしまっては味気も素っ気もない。憎い相手は直接自分の手で叩き潰してこそというもの、その機会がやっと巡ってきたのだ。

 もう誰にも邪魔させない。こんなモノがワタシを不安定にさせる、そんな事は許されない、許してはならない。

 右足を上げると塞ぎかけていた腹部の傷に圧力が掛かり、強奪した赤い服に血が滲む。その痛みさえ怒りの燃料にして、大腿筋の増強細胞すべてを引き絞り、高まる圧力を足裏に集中させて狙いを定める。ひと度振り下ろせば鼻先をへし折り、頭蓋骨を砕き、脳を破裂させ、アスファルトを貫いて土を抉る一撃を、情け容赦なく繰り出そうとする。周りは誰も止めに入らない。大の男数人を投げ飛ばした光景を見せられて飛び掛かれる者など皆無だった。

 いや、一人だけ、その動きを止めようとした者があった。

 「セッテさん、やめてください……!」

 くらくらする頭を押さえながら、もう片方の手でジーンズの裾を掴むヴィヴィオ。こころなしか目の焦点も合っておらず、掴む力も弱々しいが、確かに五指はセッテを引き止めようとしていた。ふと、疑問を覚える……拉致していた時といい、地上本部の時といい、この少女はどうして敵わないと分かっているはずの相手に何度も反抗するのだろうか。この少女は自分が手を出した相手がどれだけ恐ろしい存在なのか理解しているのだろうか、自然の脅威を知らない家畜でさえもう少し利巧だろう。この足をほんの少し力を入れて蹴り上げるだけで小さな体は宙を舞い、頭は缶けりの如く胴を離れる。それを知らないはずはないのに、何故この小さな彼女はここまである意味勇敢に盾突くことが出来るのだろうか。

 勝ち目もないのに……? そもそもその考えが違うのか。この少女は自分が勝つつもりで、相手を負かすつもりで立ち向かってなどいない、純粋に蛮行を止めるためだけに己の状態すら顧みずに手を出す様は、勇敢か無謀か……それについて議論するつもりも無かったセッテは嘆息の後に軽く足を振ってヴィヴィオを振り払い、彼女の手の届かない位置まで移動した。一気に体力を削られたヴィヴィオは追う気力もなく、ついに沈黙してしまった。彼女が動かないのを確認した後にやっとセッテは当初の目的を果たすためにノーヴェに向き直る。

 しかし……。

 「…………どこへ行った」

 ついさっきまで視界の隅に転がっていたはずの体が、いざ向いて見るとどこにも居ない。おかしい、サーモグラフィーは確かにそこにノーヴェがいた痕跡を発見しており、まるで煙のように消え去ったことに驚きを隠せず人混みの中にその姿を探す。余計な気を起こした誰かがさっきのやりとりの最中にこちらの目を盗んで匿っているかも知れないと考えたのだ。

 だが、彼らの様子がおかしいことをセッテはすぐ察した。全員の視線がセッテでもヴィヴィオでもなく、その背後、もっと正確に言えばセッテの頭上あたりに注目していた。

 「まさかっ……!?」

 危機を察して前転による回避を試みるセッテだが、その背中をこれまでにな強い衝撃が襲った。背面の筋組織と内部フレームが軋む音が体内を伝導して鼓膜を打ち、遅れてやってきた激痛がなけなしの体力を更に削り取った。辛うじて地面に倒れ伏すのは回避したが、まともに受けてしまった衝撃は閉じかかっていた傷口を開くには充分すぎた。戦闘機人に肉弾戦でダメージを与えられる存在など、同じ戦闘機人以外では考えられない。

 「──ウ、ゥウ────」

 頭を垂れてゆらりと立ち塞がるノーヴェの手にはコンクリートの欠片が握られ、彼女がさっきまで背中を預けていた建物の壁面にはまるで抉られたような穿孔痕が残っていた。いや、実際に抉りとったのだろう、その常人離れした強靭な握力は凹凸の無い壁面に指を食い込ませ、セッテと衆人らが一瞬気を逸らした僅かな隙に死角となる部分へ登頂していたのだ。そしてそこから繰り出された蹴りは見事セッテにダメージを与える事となった。

 「狂気に身を落としてなお、その足癖の悪さは直りませんか……。つくづく、貴女はワタシを苛立たせる」

 不調を訴える内部フレームを無理矢理に駆動させ、セッテの拳がノーヴェの顔面を容易く捕えた。痛々しい打撲音が周囲に響き、何人かが悲鳴を上げる。だがそれを喰らった当の本人は大した損傷を受けた感じも見せず、殴られた側の目は拳で歪められながらセッテを凝視していた。昨日一晩で消費した体力は恐らく同等、執念に燃えるセッテに対し意識が朦朧となったノーヴェがここまで猛攻に抗い、尚且つ一矢報いるだけの動きをするのはなぜなのか?

 ノーヴェの視線の先を追ったセッテは、その遥か向こうに魔導師の結界反応を感知した。

 「なるほど、貴女もワタシと同じということですか」

 あそこで誰が戦っているかなどもはや愚問だ。この偶然にセンチメンタルな何かを感じ取れるほどセッテの心は豊かではないが、それでもこれまでの偶然の連鎖に思うところが無いわけではなかった。今ならばいるかどうかも分からない神とやらに感謝してやってもいい。それぐらい今の彼女の胸中は高ぶっていた。

 だからこそ、今眼前にいる怨敵がそこに意識を向けていることが許せない。恋焦がれる相手に薄汚い売女が擦り寄ろうとしているのを見れば誰だって良い気はしない、それと同じことだ。今のセッテは極めて“人間的”だ。ノーヴェに対し「邪魔だから」、「不快だから」という非常に利己的な理由でその存在を抹消しようとしている。以前の彼女なら我関せずの姿勢を貫くことの出来た事柄が、今ではその全てが致命的に心を波立たせるのだ。そこへ天啓の如く降り立った野性的確信……「こいつさえいなければ」と、本能という名の悪魔が囁き、それを実行に移すあらゆる手段と力がセッテに与えられている。その背中を押している。

 人間的、非常に人間的、自らが持つ何らかの弱さを他者の所為にし、あわよくば邪魔な人間ごと葬ってしまおうという利己極まる考えだ。だがそれが今までセッテが感じ得なかった気力というものを与えているのもまた事実。そして、それは思考という機能を破壊されたノーヴェでは追いつけない力を生み出していた。つい数週間前まで両者の在り方は正反対だった。それが今となって入れ替わるとは何たる皮肉だろうか。

 「せいっ! でぁ! ハァッ!!!」

 三連続で叩き込まれる鉄拳は一気にノーヴェを壁際へと追い込んだ。逃げ場を無くした彼女の顔面を一方的に殴りつけるセッテの形相は凄まじく、もはや誰も、ヴィヴィオでさえ止めようとは思わないほど鬼気迫っていた。表情ではない、肉を前にした獣のように歯を剥き出しにしているわけではなく、精々目を細め顔をしかめている程度だ。問題はその視線……敵意や殺気、その他人間に害を成す要因となるであろう要素を全て合成し、光や色彩で表現すればこうなるだろう色、それをセッテの眼球は湛えているのだ。手出しすれば捻り潰される、それを本能で理解させられているから誰も危うきに近寄らないし、近寄れない。この事態を止められるのは彼女らよりも力強い存在、そんな者は今この場にはいない。

 「ガァッ!!!!」

 これまでで一番重い拳がノーヴェの腹に食い込んだ。衝撃が背を突き抜けて足が浮き上がり、壁に叩き付けられた体は辛うじて倒れるのを堪えた。だがもはや反撃するほどの余裕がないのは誰の目にも明らかで、朦朧とした目つきで壁に寄りかかる様はいっそ哀れみを覚えさせた。このままでは死んでしまう……誰もがそう危惧しながらも阻止できず、遂にセッテがとどめの一撃を与えるべく拳を固める。それまでの体力を削る目的の小出しではなく、人体のあらゆる機能を停止させる目的で放たれる必殺の拳。当てる部位は人体で最も重要な位置、心臓か肺、もしくはその両方。それが右拳……。左の拳は頭部破壊、心臓を叩いて動きを止め、続く第二撃で完全に沈黙させるという寸法だ。

 迫る拳を前にノーヴェは何を思っただろうか……。もはや昆虫と同じく、思考機能を剥奪された彼女の脳は鼻の先に迫った脅威に対し何も感じることはないのだろう。自分より巨大な物体を前にバッタが反射的に跳躍するように、その体は自己保存の為に最適な行動を取るように脊髄反射を行うだけだ。

 故に、反撃に迷いはない。

 「────……!」

 「なっ!!?」

 拳を突き出した刹那、視界からノーヴェが消え去った。単純に前屈みになって攻撃軌道から逃れただけだったが、満身創痍の状態でここまで素早い動きができると思っていなかったセッテの反応は遅れ、その位置に対応して再び相手を視界に捉えた瞬間……。

 ガッ!!!!

 「ッ!!!???」

 激しい衝撃に襲われたセッテが天を仰ぐ。青と白の混ざった空、灰色の建物、街路樹の枝、それらに混じって一際視界の中で存在を主張するのは、突き上げられた拳。顎どころか喉笛ごと抉る勢いで放たれた拳は乾坤一擲、見事としか言いようのないほどキレイに決まり、図ってか図らずかカウンターをとる形となったことで両者の趨勢は一気に逆転した。視界に星が飛ぶという人生初の経験をすることになったセッテは、無様な千鳥足を見せながらもなんとかノーヴェを捕捉した。今のは「まぐれ」、ただタイミングが良いように重なった偶然の結果に過ぎない、そう思い込みながら今度こそは攻撃を当てようと体勢を整える。この時点でセッテの意識は自分に拳を叩き込んできたノーヴェの上半身に注がれており、当然意識の大半は両手に集中する結果となっていた。

 だから忘れてしまっていた、ノーヴェは足技に秀でていることを。

 「────ッ!!!」

 構えられた両腕はブラフ、傷を負ってまともに動かせないはずの足を用いた強烈な蹴脚がセッテを襲う。

 「ぐああぁあああっ!!!!」

 本来は柔軟な体を活かして頭部を叩く攻撃だが、負傷のせいで足は従来の軌道に乗らず爪先はセッテの脇腹までしか届かない。だが銃創を抱えているセッテにとってそれは頭を潰されるよりもダメージが大きく、回復により疼痛に収まっていた体内は再び激痛の熱に侵され始めた。それが体力減衰を更に加速させる。

 腹部を抑えて地面に転がるセッテ。その時誰が叫んだか、「取り押さえろ」の声と共に人垣を割って紺と青の制服を着た警官らが彼女を上から乗り掛るように押さえ込んできた。通報を受けて駆けつけた警察署の人間が今まで突撃するタイミングを見計らっていたのだ。いくら頑強な戦闘機人とはいえ限界まで体力を削がれた上でこうされれば為す術はない、異世界の人造人間はあえなく御用となったのだった。腕を持ち上げればその剛力で警官の体が少し浮き上がるが、所詮はその程度、その腕も全体重を掛けたことで封じられ、遂に指の一本も動かせない状態を強いられる事となった。

 「確保!!」

 「大人しくしろ!!」

 警官らの怒号が飛び交い、場は再び騒然とした雰囲気に包まれる。それまで戦々恐々と見守っていた人々の中には、警察が来たことによる安堵が広がり、事態は収拾したと思ってその場を離れる野次馬もいた。そう、これで終わったはずだった、否、ここで終わらなければならないはずだった。これ以上事態が続いても何も進まない、何も解決しないのは自明の理だった。片や怒りに身を任せ、片や理性を失くした者同士、無益な喰らい合いは互いの身を滅ぼす結果になると、稚児でも分かることが分からないのだ。

 「立て! 立つんだよ、早くしろ!!」

 乱暴な言葉で急き立てられ、諦観の念を湛えた表情を浮かべたセッテは両脇を抱えられる形で警官に立たされ、連行されることになった。駆けつけた警官の中には女性も居り、地面にノびていたノーヴェとヴィヴィオを抱き寄せ起こした。

 「大丈夫? ケガしてない?」

 「は、はい……。だいじょうぶです」

 「よかったわ。そちらの方はどうなの?」

 「ダメです! 目は開いていて意識はあるみたいですが、こちらの呼び掛けには応じてくれません」

 「争っていた時に頭を打った可能性があるわ。傷口を塞いで安静にさせて、総合病院からの救急車が来るまで待機」

 「了解です」

 セッテとの戦いが終わったせいか、またさっきまでと同じ物言わぬ状態に戻ってしまったノーヴェの視線は、俯いた頭と共に地面を見つめるだけだった。その様子を衰弱と捉えた警官はズボンの裾をめくって傷口を確認しようとする。

 だが、不用意に近づいた警官の顔に、それまで糸の切れたように動かなかったノーヴェの手が伸びて……。

 「ひっ……!」

 「────」

 冷たい手を喉元に当てられて驚いた警官は身を竦め、そのほんの僅かな隙を逃さず、指先が顎と喉の隙間に陥入する。貫通してこそいないが、思わぬ圧力に警官は顔を苦悶に歪めて無意識に体をよじる。そして、その反応を捉えたノーヴェのもう片方の手が空気を切り裂くように振り払われ、頬を殴打した。

 普通、肉付きのいい頬を殴打すれば乾いた音が響くのだが、ノーヴェが殴った瞬間の音はまるで陸上競技に用いるピストルのような轟音で鳴り響き、ぐりんと捻られた警官の頭は意識を失い横向きに倒れた。

 駆けつけた警官や周囲の野次馬たちから見ればノーヴェは明らかに被害者だっただろう。だが、その実態はコブラとマングース、どちらも猛獣と害獣であることに変わりはない。それに不用心に手を出してしまったらケガすることは目に見えており、予期しなかった事態を前に警官らが凍りついた。

 「お、おい、暴れ……!!」

 「ゥガァ!!!!」

 「ぎゃああっ!!??」

 襲われたショックで興奮状態に陥っていると思った警官が慌てて宥めようとし、その顔に強烈な一撃を見舞われる。仰向けに倒れた体を乗り越え、ノーヴェは連行され今まさに車両に押し込まれようとしているセッテを見た。両者の距離は十メートルも離れていない、少し駆け出せば手の届く距離だが、そんな「余計なこと」に体力は割かない。駆け出すための足は依然傷ついたままで、それだけの距離を余計に走るのでさえ億劫だと感じているからだ。

 だから……。

 「────セ、ッエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エエエエエエェェェッ!!!!!!」

 絶叫。濁音混じりの叫び声はただでさえ少なかった鳥たちを街から追い出し、道路を挟んだ向かいの建物のガラスをビリビリと振動させた。当然、彼女のすぐそばにいた群衆やヴィヴィオは思わず耳を塞ぎ、獣の咆哮に近いその叫びは間違いなくセッテの鼓膜を打ったのだった。

 「!!?」

 連行しようとしていた警官と共にセッテの顔がノーヴェに振り向いた。その目はかっと見開かれ、先程までの憎悪や憤怒ではなく、驚きの色を湛えていた。もはや言葉も解さないと思い込んでいた姉が上げた雄叫び、その声が表していたのは紛うことなく己の名だったからだ。脳機能を破壊され、思考などとっくに放棄したはずなのに、それでもなお搾り出すように口から吐き出された轟きは、誰も予想さえしていなかったセッテの名……ゆえに自らの名を呼ばれた時に覚えた感情は、混じりっ気なしの純粋な驚愕だった。いや、あるいは歓喜だったかもしれない。

 双方は沈黙したまましばし視線を交え、先に動いたのはノーヴェだった。だがやはりセッテには接近せず、逆に彼女から離れるべく走り出した。ここでようやく呆気にとられていた警官らが動き出すが、足を負傷していると思えないほどの健脚で走り去る彼女に追いつける者はなく、その場に居合わせた大半が彼女の追跡に当たった。だが彼女の奇行に気をとられている間にセッテは冷たい外気を肺に取り込み、一呼吸のうちに両脇を押さえていた警官を……。

 「フッ!!」

 「あぎ!?」

 「ぐぼ!?」

 一瞬の剛力で束縛を振りほどいた後、二人の頭を強烈に叩き付け合った。そして適当に車内に転がし、自らもまたその後を追おうとする。

 「待ちなさい!!」

 ヴィヴィオを保護していた警官が立ち上がりその背中を追跡しようとする。それを見た瞬間にヴィヴィオも覚悟を決め……。

 「えいっ!」

 「のぁ!?」

 強烈な足払いでそれを転倒させた後、自分がセッテの跡を追いかけた。これで立派な公務執行妨害が成立してしまったが、今のヴィヴィオに後先を考える余裕はない、もはやノーヴェとセッテの闘争を阻止するどころの話ではなくなったからだ。

 「セッテさん!!」

 「…………」

 傷を負っているセッテと疲労を溜め込んだヴィヴィオの速度はほぼ同じで、後ろから迫ってくる警官に向かって路上に停められた自転車を容赦なく投げつけながら走行するセッテにヴィヴィオは辛うじて追従していた。更に先を行くノーヴェも同じように怪力で路上駐輪の群れを投げ飛ばしながら逃亡しており、既に大半が追跡劇から脱落していた。死屍累々とは言い方が悪いが、倒れ伏した彼らを踏み越え飛び越えながら遂に逃走劇の三人は揃って追われる身となったのだった。

 無論、いつまでも逃げ続けることなど出来ないが、きっと警官らは彼女を捕まえることなど出来ないだろう……。あと五分か十分もしないうちに彼女らの姿はこの街から消えるのだから。ノーヴェが走り去った方角、それはヴィヴィオが逃げてきたのと同じ方向で、そこにある戦火を知っていたからこそセッテはその跡を追い、ヴィヴィオはそれを阻止しようとしていた。

 そびえ立つ深緑の結界、足を踏み入れてはならない戦場へ、目に見えない大きな力に引き摺られるように三人の少女は戦火の中心に向かって走る。






























 海鳴市の“消滅”まで、あと一時間────。



[17818] SUBARU
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2013/11/07 05:54
「胡蝶の夢」という故事はあまりにも有名だ。夢の中で蝶に変じ、己が蝶だったのか蝶が己だったのか、あるいは今の自分こそが蝶の見ている夢なのかと自問自答する説話だ。要は二つの物事の差異は人間の知性が生み出す錯覚であると論じたものだ。

 似たような話に「邯鄲の枕」というのもある。ある老人から不思議な枕をもらった青年が、順風満帆に幸福な人生を歩み。最期は多くの人々に惜しまれながら没するが、実はそれは全て夢であり、火に掛けた粥がまだ炊けていないほど短い間の出来事だったという故事だ。現代風に言うなら夢オチという奴だろう。

 夢というのは不思議なものだ。現実では一瞬の時の流れが、夢の中では一時間、一日、あるいは数年の歳月となり、その逆も有り得る。脳の中では現実の時間の流れなど些事でしかない、脳は空間と時間の連続性を繋ぎ留める楔だ、そこでは望んだことが起こる。



 なら、これも夢か?










 「んー……ふぅ」

 早朝の日の光を浴びながらスバルは大きく背伸びする。夜中には既に駅に着いていたが流石にその時間に訪ねることも出来なかったので、安いビジネスホテルに寝泊まりしてから向かうことにした。

 早速だが、既に昨晩のことについての記憶が曖昧になってきている。宿泊に幾ら使って、何号室に泊まり、どんなベッドに身を預けたかさえ覚えていない。「知って」いてもやはり「覚えて」はいなかった。

 算数と同じだ。慣れない者にとって掛け算や割り算は必死になって「覚え」なければならない要素だが、一度記憶に留め日常的に活用する機会が増えれば自然と「知って」いる状態になり、わざわざ記憶の底を漁る必要はなくなる。今のスバルはそれが歪んだ状態で発揮されており、一度きりの体験がまるで長年染み込んだ経験のように感じられるのだ。

 現在、彼女はノーヴェ・セルジオに教えてもらった住所に向かってタクシーで移動していた。向かう先は彼女の自宅、実家を離れ一人で暮らしている場所にこれから訪れるつもりでいる。姉を立て続けに三人も亡くしている友人に何と言えばいいか分からないが、事の真相はこれからはっきりさせるつもりだ。

 十分ほど街を走り、たどり着いたマンションの前で待つ。エントランスで暗証番号を入力するタイプなので、中の住人に開けてもらわない限り部外者は入れない。程なくしてエレベーターから見知った赤髪が現れ、中に招き入れた。

 「どうぞ……」

 「ありがと」

 ノーヴェの部屋は三階にあり、年頃の少女らしく整えられた空間は清潔さと住み心地の良さが同居していた。リビングのテーブルに腰掛け、出されたお茶を口に含む。数分はお互い無言のまま過ごしたが、口火はスバルが切った。

 「あたしね、チンクさんに会ったよ」

 昨日の出来事を話した時、ノーヴェの目が見開かれる。どんな風に出会い、どんな話をし、どんな最期だったかまで仔細に告げた。相手にとっては辛いことだと充分理解していたが、重要なことなので聞いてもらった。例の占い師の件に関しては省略した。ヒントをくれたのは確かだが彼女はこの件とは無関係だったし、話したところで現状に進展をもたらすとは思えなかったからだ。

 全てを話し終えた時、リビングに聞こえるものは壁に掛けられた時計の無機質な針の音だけだった。昨日の今日でまだ遺体はこちらに戻ってきていない、つまりは葬儀どころかその段取りさえできていない。そんな内から親類の死を克明に告げられたところで、一体どうしろと言うのだと罵られてもおかしくはなかった。だが彼女の最期を見届けた唯一人の者としてそれを知らせる責任を覚えたからこそ、こうして知らせることに決めたのだ。

 「……そうだったんですか」

 「ごめんなさい。あの時あたしが手を伸ばしていれば、ううん、手を伸ばせたはずなのに……」

 「ううん、スバルさんは悪くないよ。お姉ちゃんはスバルさんに会いに行った、ただそれだけ。誰かが悪いわけじゃない」

 そう言って慰めてくれるノーヴェの声は相変わらず震えているが、気遣ってくれる優しさは変わらない。そのことを嬉しく思いながら、当初の目的のひとつを解消したことでスバルは本命とも言える話題を切り出す。

 「教授の件なんだけど、あれから何か進展はあった?」

 現在絶賛行方不明のウェストランド大学の教授、ジェイル・スカリエッティ……医術の世界的権威であり、十二人いたセルジオ姉妹の父親であり、スバルが追っている“この世界”の鍵となる人物。彼に辿り着ければこの不可思議な世界の謎が解けると教えてもらったが、そもそも今現在彼がこの世に実在しているかどうかさえ怪しい。以前、自殺したアイドルの名前を友人らが忘れてしまっていたように、彼もまた痕跡も残さず消え去っている可能性も捨て切れなかった。

 「そういえば、あれから掲示板を確認してませんでした」

 「え? あれ結局立てたの?」

 「はい。ちょっと待っててください」

 そう言って自分の部屋から持ってきたパソコンの画面を開き、例の書き込みを行なった掲示板を見せる。最初の十数レスはふざけた物が多かったが、ある部分から流れが変わり始めていた。

 「教授らしき人を見かけた……?」

 「はい。とある大学の敷地内を闊歩するあの人の姿を見たって情報が続々入ってきてるんです」

 「これは……すごいね」

 最初の目撃談から始まり、以降ほとんどの情報は同じ大学のキャンパス内から寄せられていた。時折違う場所での目撃情報もあったが、どうやら流れに便乗した書き込みらしく長続きしていなかった。

 どうやらここにいる確率が一番高そうだが、ノーヴェは否定的だった。

 「ここは有り得ません。あの人がここをうろついてるなら、警察だって苦労はないですよ」

 「え、この大学ってノーヴェ知ってるの?」

 「ええ、まあ。行ったことは無いですけど、家族の誰もが知ってる場所です」

 「お姉さんが在籍してたりするの?」

 「いえ、母です。ここの卒業生で、今は教員です」

 「あー」

 なるほど、いかに大学が広くても妻の勤務している所をうろついて音沙汰がないのは不自然だ。母親というのはノーヴェが寮に滞在していた五日目に彼女のケータイに一報入れた人物だろう。世間で騒がれる夫の存在を子供たちに黙認しているとは考え難いが……。

 「ちなみに教授と奥さんの関係は?」

 「すっごく良好です。もう、子供としては複雑な気分にさせられるほど……」

 「そ、そーなんだー。参考までに、どのくらい仲がいいの?」

 「万年オシドリ夫婦です。学生の時に知り合って、卒業と同時に結婚ですよ。プロポーズは父さんの方からだって言うから、ホントにどうかしてます」

 「わぁお」

 何だか期せずして変人教授の知られざる一面を知ってしまったスバルは感嘆の声を漏らした。あの教授が結婚していた時点で既に驚きだったが、まさかプロポーズまで自分からだったとは。人に歴史在りとはまさにこのことだろうか。

 「でも、まともな情報がここ以外にないってことは……」

 「手がかりはここにしか無いってことだよね」

 それなら行動するが吉というものだろう。スバルはこれだけで現地を訪れる決意をした。

 幸いにも件の大学はこの街から遠くない場所にあるらしく、キャンパスの近くにリニアの駅もあることから交通の便も悪くない、これなら今日一日の内になんとかなりそうだ。

 「それじゃあ、私もご一緒します!」

 「いいの?」

 「はい。前にも言いましたけど、あの顔に一発蹴りを叩き込まないとスッキリしませんから!」

 ひょっとするとノーヴェは十二人姉妹の中で地は一番過激な性格なのかもしれない……そんな感想を抱きながら、せっせと出立の準備を整える様子を眺めるスバルだった。

 とりあえず、あのコテコテの変装姿だけはやめさせた。










 十五分ほどでリニアは大学最寄りの駅に到着し、そこから敷地へはキャンパス直通の無料で運行するバスに乗って行った。これも十分ほどで済み、二人は教授の目撃情報が最も多く寄せられた件の大学施設へと足を踏み入れた。ウェストランドほどではないが、ここも他の県や州からの在校生が多く居り、人の流れは絶えることなく学び舎の中を行き来していた。

 「今はどの学科も講義の時間のはずですから、母と会うことはないはずです」

 「えっと、そんなにお母さんに会うのが嫌なの?」

 「イヤってわけじゃないんですけど、職場で働いている親の姿って堅苦しくって違和感しかないじゃないですか」

 「あー、なんとなく分かるかも」

 似たような心境としては授業参観に来る親族の視線だ、あれの圧力はハンパじゃない。家庭で見せるのと違う親の姿は子供にとってはいつまで経っても慣れないものだ。まあ、会うことなど無いとは思うが、ここはノーヴェの意見を尊重してご母堂には極力接触しないように努めるとしよう。

 とりあえず二人は学生に接触するため食堂や売店などがある学生棟へ赴き、そこで適当に情報を集めることにした。写真や記録媒体の類がないので逐一特徴を伝えるのが手間だったが、予想以上に情報が二人の元へ寄せられた。

 そう、「予想以上に」だ。

 結論から言えば、スカリエッティ教授の目撃情報は掲示板の書き込み以上に多く、学生らはほぼ日常的に彼の姿を見ている可能性があることが判明した。ある時は食堂で、ある時は敷地内の並木道で、またある時は講義が終わった後の教室で、一瞬、あるいは数分以上の時間に渡って目撃されていた。個人の前で、集団の前で、神出鬼没に姿を見え隠れさせる教授の存在に、調査を続けていた二人は当然の事ながら不可思議に思った。

 これだけの目撃証言があるにも関わらず、肝心の教授の居場所については何も分からず仕舞いだった。目撃されるポイントにも規則性がなく、唯一情報が無かったのは、施設と外を繋ぐ正門付近、そしてそこから外では一件も報告されておらず、信じがたいことだが教授はこの敷地から一歩も外に出ていない様子だった。

 更に不自然なことに、数多の目撃情報に反して、直に接触したという話はこれっぽっちも聞かなかった。世間で騒がれる存在が目の前に現れたにも関わらず、全ての証言が「見ただけ」に留まっているのは不自然と思わない方が無理があるだろう。

 「どういうことなんだろうねー」

 一旦調査を終えて食堂で早めの昼食を摂る。昼前だからまだそれほど混んではおらず、二人は快適に食事を行えたが、スプーンを持つ手はなかなか進まない。

 「そもそも、あの父がこんなに足跡を残しているなら、私が依頼した探偵事務所の人が気付かないはずがないんです」

 「そっかぁ、逆に探偵さんからは?」

 「音沙汰なしです、相変わらず」

 「ふーん……」

 生返事を返しながらカレーの最後の一口を掻き込むように完食する。ちなみに、これが二皿目なのはこの際どうでもいいことだ、これでもいつもよりずっと少食なのだから。

 「…………ねぇ、スバルさん。スバルさんはどうして、父さんを探そうとしてくれるんですか?」

 「んー……ただの興味本位、じゃダメかな?」

 「ホントは違うんですか?」

 「違うのかな、どうだろ、分かんない」

 卑怯な返し方だという自覚はあった。そもそものきっかけがひどく直感的で、天啓としか形容できない不純なものだったからか。あるいはこの世界の謎を暴き、あわよくば一人で抜け出そうとしている自分の独りよがりを友人には隠したかったのか。

 「それにしても、教授はどこにいるんだろうね」

 話題を変えようと取り出すのはこの大学のパンフレット。折り畳まれたそれを開いてこの敷地の略地図を確認する。この大学の建物や道を記したそれには蛍光ペンで幾つもの点がつけられ、その横にはボールペンで小さく日付も記入されていた。当然だが元から書かれているのではなく、これまでの調査で二人が書き足した物だ。これまでの間に教授らしき人物が現れた場所とその日時を書いてある。既に数十もの点を書いているが、それらの並びに規則性は無く、次にどこに現れるのかさえ予測ができない。

 「出てくる間隔も場所もバラバラ。一日に二、三回くらい見かけた日もあれば、十回以上も目撃されてる時もあるね」

 「ドッペルゲンガーでもない限り、こんな短い時間でこれだけの地点を行き来するなんて無理に決まってますよ。そうじゃなきゃ瞬間移動か」

 あの教授なら人知れずそんなことが出来ても不思議に思わないが、さすがに非常識が過ぎるのでそれは考慮しないことにした。とにもかくにも、まずは尻尾を掴むに越したことはない。今までの情報から次に現れそうな場所を予測して待ち構えるしか方法はないのだが……。

 ふと、スバルは対面に座るノーヴェの食指が完全に止まってしまっているのに気付いた。気になって地図から目を上げると、彼女の視線は窓の向こうを歩く学生らを眺めており、鼻で小さく溜め息を吐いていた。

 「……スバルさんは、どんな夢を見ることがありますか?」

 「へ? 夢?」

 唐突な質問に思考が一瞬置き去りになる。反射的に思い浮かぶのは、ここ最近で見る機会が増えた不思議な夢のことだ。想起する夢幻の記憶にスバルは思いを馳せるが、投げかけられた問いへの答えを返すより先にノーヴェは言葉を繋げた。

 「あたしは見ます。夢の中のあたしは現実と違ってとても活発……というか過激な性格で、どことなく男っぽくて、下手すると不良に見えなくもない粗暴なカンジなんです」

 「……それは、最近よく見たりするの?」

 「はい。あ、でも、不良っぽいって言ってもそんなに悪いカンジじゃなくて、どっちかって言うと『おてんば』なイメージです。突飛なこと言ったり、無茶なことをしようとして周りの人に呆れられたりして、でも憎めないところがある……夢の中のあたしはそんな人でした」

 「……………………」

 「スバルさん?」

 「あ、え? な、何?」

 「大丈夫ですか? なんだかぼーっとしてましたけど……?」

 「ううん、何でもないよ! それで夢の話だったよね。実は……あたしも最近変な夢を見るんだ」

 「変な夢ですか?」

 「うん」

 スバルは近頃よく見る夢についてノーヴェに話した。戦隊ヒーローのような組織に所属する自分、そんな自分と同じ場所にいる友人や名前も知らないはずの先輩後輩、自分が良く知る日常とはかけ離れた光景のはずなのに、何故か懐かしさを覚える事も、全てを話した。それらを話し終えた時、ノーヴェの表情はスバルが予想し得ないものだった。

 「驚きました……。さっきは話さなかったんですけど、実はあたしも似たような内容なんです」

 「似たような?」

 「はい。あたしもスバルさんと同じような感じで、どこかの組織みたいなところに所属している夢を見ていたんです。あたしの他にはお姉ちゃんや妹たちがいて、頭の中じゃ夢だってわかってるはずなのに、違和感なくすんなり受け入れている自分がいて驚きました

 「でもそうなると、あたし達って同じ時期に同じ夢を見てたって事になるよね? そんな偶然あるんだね。でも、急に夢のことなんて聞いてどうしたの」

 「…………時々思うんです。事務所通って、レッスン受けて、アイドルやって歌っている今の生活が、なんだかどうしようもなく嘘っぱちに思える時があるんです。テレビ画面の映像をそのまま目に写し通しているような、そんなズレた違和感をずっと感じるんです」

 「それって……」

 「おかしいことだっていうのは分かってます。でも、何故かあたしにはあっちの方がリアルに思えて、本当は今この時が自分の見ている夢か何かなんじゃないかって思ってしまうんです」

 「…………」

 突然の独白にスバルは相槌を打ちながらも内心では揺れ動いていた。自分だけが感じていると思っていた違和感、それと同じモノを感じ取っていた人物が居たことに、そしてそれは意外なほど自分の近くに存在していたという事実に。もはや予想外を通り越して誰が予想できたかと問いたくなる展開に、スバルは内から湧き上がる震えを抑えるのに必死だった。恐怖ではない、悲しみでもなければ当然武者震いでもない、純粋な驚きと衝撃に全神経が興奮した結果生じた現象だ。

 そして、全身を貫いた電流はスバルにある発想をもたらした。いや、それは一昨日の占い師に与えられた天啓と同じものだった。

 「……ねぇ、ノーヴェ。あたし達……ってさ、前にもどこかで会ったことあるのかな?」

 デジャブ、既視感、つまりは記憶の誤認識。脳科学的にはそんな風に言い表せてしまう一つの錯覚、それは今この場でも、ここへ来る道中でも、ノーヴェの自宅でもなく、初めて感じたのはそう、最初に彼女と街中で出会った時だったはずだ。サングラスを外した時に覗いた金色の瞳に、燃え盛るような赤毛の髪を目にした瞬間、確かにスバルは名状しにくい何かを感じ取っていた。今ならその感覚の正体が分かる、それは“懐かしさ”だった。

 そんなことは有り得ない。超人気アイドルである彼女と一介の学生、それも海の向こうから来た自分ではどう考えても接点なんてあるはずがない。「以前の記憶」を探っても精々、彼女らの名前が時折ニュースに取り上げられるほどの人気を博していたことしか知らない。楽曲そのものも、最近になってタイトルなどを知ったぐらいだ。イベントに行ったことももちろん、そもそもCDを買ったことさえない。そんな自分たちがそれ以前に接点があろうはずがないのだ。こんな言葉、今時三流の恋愛小説でも使わないぐらい陳腐な言葉だ。

 「何をバカなこと言ってるんですか」、そう言って切り捨ててほしかった。そうすればただの偶然、自分の勘違いで全て丸く収まるはずだった。むしろそれらを期待しての問い掛けだった。

 だが、返ってきた答えはそんな彼女の期待を裏切り、そして予感は的中していた。

 「あたしもそう感じていました。スバルさんとは何だか他人じゃないような気がしてて……」

 沸き立つ身震いを足を組み直すことで誤魔化した。動揺も決して表情には出さず、努めて笑顔、そこにほんの少しの驚きを交えて会話を繋げる。

 「そうなんだ~。こんな偶然ってあるんだね。ひょっとして前世で知り合いだったとか? まさかね」

 なぜだろう、背中を嫌な汗が流れる。窓際から差し込む陽光に照らされて暖かいはずなのに、寒気しか感じない。幼子が暗闇を本能で恐れるように、触れてはいけない領域に踏み込んでしまったと感覚が理解する。無論、ノーヴェのパーソナルな部分ではない。もっと深いところ、それこそ二人の関係どころか「この世界そのもの」を破綻させかねない事実に足を踏み入れようとしているのだと。

 反射的に話題を変えようとする。今ならまだ他愛ないオカルト談義で済むだろう。そうだ……こんなに「平和で穏やかな世界」をどうしてわざわざ壊す必要がある? そうだ、このやり取りは無かったことにして、この佳い友人と共に「残された時間」を過ごそう。立て続けに姉を失った彼女の悲しみを癒せるのはきっと自分しかいないはずだ、そうすることが彼女の救いになるのなら自分は喜んで────、



 「それは違うよ、スバル」



 「──!?」

 意識の深層に沈もうとしていた精神がサルベージされる。伏せていた目をはっと上げ、謎の声の主を探す。だが今この場には自分以外に声を上げる者は誰もいない……一人を除いては。

 当然の如くスバルは声の主を見つけ、当然の帰結として“彼女”はその席からスバルを見つめていた。

 「どうしたんだよスバル。鳩が豆鉄砲食らったみてえな顔してさ」

 そこに居た“彼女”はさっきまで自分と会話を交わしていた彼女とは何かが違っていた。赤い短髪、金色の瞳、整った肌……同じ、全て同じ、“彼女”を構成する物は全てそれまでの彼女と全く同じ物だった。だがその視線、口調、雰囲気は、自分が知っていたはずの彼女とはまるで違い、ギャップという言い方すらそぐわない、別人そのものと化していた。

 「ズズッ……。不っ味ぅ、味もなんもあったもんじゃねーな。ま、『そういう場所』なんだから仕方ねぇのかもな」

 「あなたは……誰!?」

 「誰? 誰ってご挨拶だな。お前のお友達の、ノーヴェに決まってんだろ!」

 「ち、違う! あたしの知ってるノーヴェは……!」

 違う、目の前にいる少女はノーヴェであってノーヴェではない。コーヒーに砂糖を入れる混ぜ方から、飲み方に至るまで、たったそれだけの行為を目にしただけで違和感しか感じない。自分が視線を逸らした僅かな隙に外見だけそっくりな双子と入れ替わったと言われても何ら不思議ではない。

 「『あたしの知ってるノーヴェ』、なあ……。じゃあ聞くけどさ、スバルの知ってる『ノーヴェ』って一体どこの誰なんだよ。清楚でお淑やかで歌って踊れるみんなの憧れのアイドルか……それとも、今こうしてここでコーヒー飲んでるのが『あたし』なのか。ちょっと考えりゃ分かることじゃん。あんたはあたしが好き好んで世の中の野郎どもにキャンキャン愛想振りまく性格に見えるってのかよ」

 一体、“彼女”何者なのだろうか。少なくともさっきまでのノーヴェ・セルジオではないことは確かだ、この人物が世の男性に可愛く愛想よくする光景など「信じられない」。

 …………信じられない?

 「え、ちょっと待って! どういうこと、あたし、何を……」

 「何そんなにビビってんだよ。あれか? そんな事してるあたしの格好が『想像できない』ってか。いや、違うか……。そんなんじゃないか。『信じられない』って思っただろ?」

 まるで心を見透かしたように得意げに言い当てるノーヴェは、どこからか再び注がれたコーヒーにシュガースティックの砂糖を混ぜ込む。苦味も何も無い黒い液体はスプーンの一掻きで甘ったるくなり、それを一息に飲み干す。味が付いたことでようやく飲み易くなったのか、歯を覗かせて笑う顔はとても人懐こそうに見えた。

 「野郎に愛想振りまくあたしを『信じられない』ってことはさ、逆に言えばそうじゃないあたしを『信じてる』ってことだよな。ってことはだ、スバルと“あたし”は互いに信じ合えるだけの深い関係だったって事になるよな。普通、赤の他人にギャップを感じたらそこは『想像できない』ってなるはずだよな」

 「あたしと“あなた”はどこかで会ったことがあるって言うの?」

 「『あなた』なんて他人行儀な言い方すんなよ、小っ恥ずかしい。て言うかさぁ、お前だって分かってるんだろ……ほんとは違和感なんか感じちゃいないって。お前が感じてる衝撃は『違和感』なんかじゃなくて、ただの『驚き』なんだよ。ここであたしと会った事に対する驚き。まあ、あたしがこんな所にいられるのは偶然っつーか奇跡みたいなもんだけどさ」

 「……………………」

 「さっさと思い出せよスバル~。お前が思い出して何とかしてくれねぇとこの状況どうにもなんねえんだって」

 「質問に答えて。“あなた”は誰で、あたしとどんな関係があったのか!? 教えてよ!」

 「そこはあれだよ。考えるな、感じろってやつ? 一度言って見たかったんだよなこのセリフ」

 「ふざけないでよ!!」

 「ふざけてるつもりはこれっぽっちもない。ここはお前と、お前が探している奴が世界の中心だ。あたしから何かを直接アドバイスしてやることは出来ないし、都合よく干渉してやるのにも限界がある。時間は腐るほどあるって言いたいけど、生憎とこうやってダベっていられるのもそろそろ無理がある。お前は分かってるはず……答えは近くにあるんだ」

 頬杖をついて微笑みかける少女、『ノーヴェ』を前にスバルは徐々に落ち着きを取り戻していく。クールダウンした頭はこれまでのやり取りから引っ掛かる部分を抽出し、彼女の中のロジックを少しずつ作り上げていく。

 「……あたしと、あなたは、知り合い。ううん、とても親しい仲だった?」

 「現在進行形でイエス。あ、『ここ』で出会ってからの事は関係ない。それ以前からあたし達は知り合いで仲良しだ。他には?」

 「あたしの勘違いかも知れないけど、やっぱりあなたには違和感を感じてる。何かが違う。何がっていうのはうまく言えないけど、とにかく違うってわかるの」

 「ふーん。ま、正解かな。確かに『今』のあたしと『前』のあたしはちょっと違う。『ここ』にいるのが原因だと思うけど、あたしを構成するパーソナリティに別モンが混じってる。もちろん、あたし由来のものじゃねえ。そもそも自分で言うのもナンだけど、あたしはこんな頭良さげな言い回しは苦手なはずなんだよ。あー、自分で言ってて腹立ってきた!」

 「混ざってる? 何が?」

 「そこまでは言えない。てゆーか言っても多分理解できない。以前は真水だったのが、今はほんの少し塩が混じってる。んでもって、その塩分がどっから迷い込んだのかちっとも分からない」

 つまり、厳密にはこのノーヴェと自分は完全な知り合い、気心知れた仲という訳ではないらしい。何らかの要因でそれまでの状態が改悪され、現在のような状態になってしまったとの事だが、ひょっとするとさっきまで会話していた「ノーヴェ・セルジオ」はその“塩”とやらが多分に含まれていた状態だったのだろう。だがそんな状況からどうやって彼女が我を取り戻したのかが分からない。

 「それについちゃあ、感謝してるよ。お前が『この世界』に疑問を持ってくれたお陰で綻びができて、こうして『向こう』の情報も取り戻せたんだからな」

 「疑わしいって思っただけでどうにかなるほど『ここ』は単純なの」

 「そうでもねえけどさ、なんつーの? そういう心構えみたいなのが重要なんだと思うよ。『ここ』を疑わしく思うってことはつまり、『ここ』がいいモンとは思えないってことでもあるしな。そいつにとっちゃ天国みたいなもんだ、疑ったり否定したりなんて普通は出来ることじゃない。お前だって『ここ』の暮らしは案外楽しかっただろ?」

 「『ここ』って言っても。あたしはまだ『ここ』以外のどこかなんて思い出せない。さっきノーヴェが言った『向こう』って言うのも、何が何だかさっぱり……」

 「? あたしはてっきり、自分で『ここ』の矛盾とかに勘付いたから行動したんだと思ったんだけど」

 「確かに最近違和感は感じてたけど、ここに来たきっかけは違うよ。ここに来たのは……別の人にそうするように言われたからで」

 「は? ちょい待ち、別の人だぁ?」

 「う、うん。さっきは言わなかったけど……」

 ここでスバルは昨日出会った不思議な占い師について話をした。彼女の言葉に従ってここへ来た旨もこの時やっとノーヴェに知らせたのだが、それを聞いたノーヴェの反応は想像よりも不可解なものだった。

 「誰、それ?」

 「え? いや、だから、何か知らないけど占い師みたいな人で……」

 「違う違う。はっきり言うとさ、『ここ』にそんな奴はいるはずがないんだよ」

 「え……?」

 居るはずがない? 存在しない?

 一瞬何を言っているか分からなかった。確かに「ここ」は常識では推し量れない不可思議な現象が起きている可能性はあるが、それでも越えられない一線は存在した。事実、自分の目の前で凄絶な最期を遂げた彼女は生き返るはずもない。故に、「存在しないモノが存在している」というのは文面から見ても矛盾の極みだ。だがノーヴェは、まさにその矛盾が発生しているのだと言う。

 「『ここ』には現状、あたしとスバル、そしてスバルが追っかけようとしてる奴しかいない。それ以外の面子なんて『ここ』には入り込めないし、入れたとしてもすぐに弾き出される。あたしやお前みたいに容認されて入ったんじゃなければ……そいつは元から『ここ』にいたことになるよな」

 「元からって……」

 「最初からだよ。あたしやスバルが『ここ』に閉じ込められるよりもずっと前からな。そんなのはあり得ないんだよ。千年前くらいの地層にビンの王冠が埋まってるようなものさ」

 確かにありえない。だが現に接触し言葉も交わしている以上、ただの幻として捨て置くには無理がある。やはり彼女は幻覚でもなんでもなく確かな実体を持って「ここ」に存在していたはずだ。

 「そいつが何者なのかは知らないけど、予定よりも早くスバルが動けたのはそのお陰ってことか。だったらお前がする事はただ一つだ。『ここから脱出する』……んでもって、お前がいるべき場所に帰るんだ」

 「あたしがいるべき場所……?」

 どこだ、そんな所。そもそも「ここ」以外の場所を知らない自分にとってどこへ向かえば良いのかさえ見当がつかない。ドアや敷居をまたいで移動するのとは訳が違うのは何となく分かるが、だからと言ってどうすれば良いのかなんて分かるはずがない。

 「あたしはどうすればいいの?」

 「その占い師さんも言ってたんだろ、『ジェイル・スカリエッティを探せ』って。だったら探せばいいんだよ。そして会えばいい。そこから先の事は自分で────」

 「…………ノーヴェ? どうしたの」

 ノーヴェが、「固まった」。文字通り、彼女の時間だけが止まってしまったかのように、右手はコースに乗ったカップを持ち上げる動作で停止し、適当に髪をかきあげる左手も同じく静止、呼吸もしていないのか肩も上下せず、目蓋とそれに連なる睫毛すらも微動だにしないまま無音の静寂に包まれていた。

 はっとなって周囲を見渡す。どうりで静かなはずだ、昼過ぎだと言うのに自分達が座っている場所以外には誰もいない。食券を渡すカウンターの向こうに居たはずの気の良さそうな女性らも、それまで楽しげに談笑していた学生らも、全員がまるで煙のように消え失せてしまっていた。無人、そして静寂、窓の外の木々さえも動かなくなった世界で唯一人、スバルだけが動揺した様子で異常を感じ取っていた。

 「ど、どういうこと!? ねぇ、何が起こってるの!!」

 「…………あっちゃ~。こりゃちょっとマズいかな」

 「なにがっ!!?」

 「スバル、一回しか言わない。これから起こる事がどんなに荒唐無稽で信じられない事だったとしても、絶対に目を背けるな。『信じられない』、『有り得ない』の一言で切り捨てるな。ここから先お前は────」

 二度目の静寂。言葉が途切れて訪れる身が凍る静けさは再びノーヴェを呑み込み、二人の間を無限に引き伸ばす。



 歪む──。



 音が、匂いが、手の感触が、視界が……圧力を掛けられたガラス玉の如く、ビキビキと歪な音を立てながら壊れていく。割れたレンズ越しにカメラを覗いたように、空間に立体的に、三次元的に有り得ない形の亀裂が刻み込まれていく。

 「やっ、これ……! ノーヴェ!!」

 助けを求めてノーヴェの手を掴む。しかし……。

 「おっと!」

 「ああっ!!?」

 触れた指先からノーヴェの左手はボロボロと崩壊し、樹脂が劣化したマネキン人形の腕のようにボロリともげ落ちた。床に落下した瞬間の音は硬質で、ガラス細工が派手にぶつかって砕ける音がして木端微塵に消滅してしまった。スバルは青くなった顔で恐る恐る断面を見るが、血は流れておらず、割れた結晶のような断面の色は肌と同期しており、骨や血管さえも見受けられない異形と化していた。

 「こ、これ、何がどうなって……!!」

 「ちっ、あんにゃろ~。緊急時だからって『ここ』を通るのは無理があんだろ。容量とか考えろっつの。くっそ、修復の波に飲まれちまう!」

 「言ってる意味が全然分かんないよ! なんなのこれぇええぇええーっ!!!!」

 「落ち着け……っていう方が無理か。いいかスバル、さっきの続きだ。どんなことがあっても自分を見失うな。あたしも出来る限りの協力はする」

 崩れ落ちた左手から連鎖して崩壊は加速し、思わず掬い上げたそれは更に細かい粒子となって指の間を抜け落ちる。風も吹いていないのにどこかへ流れるそれを掴もうとする間に崩壊は更に進んで行き、遂に手も足も消え果て、僅かな胴体と首だけが晒されていた。

 「ノーヴェッ!!!!」

 ひび割れた視界を掻い潜り、殆ど無残な残骸にしか見えなくなりつつある友人を抱き上げる。亀裂だらけの空間はガラス片が落ちるように色が抜け落ちた幾何学的な闇が徐々に版図を広げ、周りから光が失われる。だがノーヴェの金色の瞳からは未だ光は失われてはいなかった。

 「ビビってんじゃねえよ。ここで消えるからって別に死んじまうわけじゃない。てか、元がもう半分死んでるようなもんだし、『外』に残ったあたしは殆ど抜け殻に近いけど、お前が持ち帰ってくれればそれでいい。『外』は『ここ』以上にヤベぇ状況だ、その状況を動かせる奴が……必、要…………!」

 声に咳き込むようなノイズが走った。もう限界だ、胴体も消えて今は首だけ、生首だけで声を発している状態だ。肺も消え、本来声帯があるべき場所さえも無くなってしまった状態で声を上げようとするも、呼吸さえままならない今、この首から上も消える運命を待つばかり。そんな彼女を守ろうとスバルは胸元に深く抱きかかえる。ノーヴェの言葉を遮るように、彼女にこれ以上喋らせまいと。

 「ダメ、ダメダメっ!! 消えないでぇ!! “また”離れ離れになるなんて……そんなのあたし、耐えられな────っ!」

 その刹那、スバルの息が止まる。

 「また」? 以前にもこんな別れを経験したのか、自分が? どこで? いつ? 誰と?

 誰と……だって?

 そんなもの、たった一人しかいない!

 「……ノーヴェ…………『ノーヴェ・ナカジマ』。あたしの、妹……血は繋がってないけど、大切なあたしの妹!」

 「や……っと、思い…………出し……たか、よ。ったく…………相変わらず……どんくせぇ、な」

 そう、やっと全てを思い出した。自分の感じていたズレが分解し、在るべき場所、正しき状態へと戻って行くのが分かる。記憶と知識、そして感覚……「ここ」に閉じ込められてから都合よく捻じ曲げられていた因果が、今ようやく破綻の時を迎えた。

 地上本部襲撃事件。

 “13番目”。

 新たな友人。

 裏切りと策謀。

 セッテの離反。

 ノーヴェの崩壊。

 疑惑と嫌疑。

 そして、遠き別天地への逃避行……。

 全てを思い出したスバルは固く拳を握り締め、自らが直面する運命の重さを再度実感し、そして震えた。恐怖でも悲しみでもなく、胸の内から込み上げる使命感に突き動かされての震えだった。

 「お前の……名前は?」

 「スバル。『スバル・ナカジマ』! ミッドチルダ地上本部、災害担当課改め防災課、湾岸特別救助隊所属ッ!! 階級は防災士長ッ!!」

 「ああ、そうだよ……。そんで……今、お前がしなきゃいけないことは?」

 「『ここ』から脱出すること!」

 「……それだけか?」

 「……トレーゼを止める。あの人は、ここであたしが止める!」

 「フフ……本当に、そんだけかよ。素直に……なれよ。お前が……しなきゃいけないこと…………お前が、したいこと……ってのは、何なんだよ」

 「……助けたい。トレーゼを心の闇から救い出したい。それがあたしのしたい事……あたしに出来る事」

 「じゃあ、行け! 修復されそうなのはここだけだ、ここから逃げなきゃスバルまで巻き込まれちまう!」

 視界に広がる亀裂はヒビを通り越して網目状になり、喉奥が視覚効果による息苦しさを訴え出す。既にここは人間のいられる領域ではなくなりつつある。長居すれば「修復」とやらに飲み込まれて再び全てを忘却する羽目になる、そうなる前にどうしてもここを脱出する必要があるが……。

 「ここにノーヴェをおいて行くなんて出来ないよ!」

 恐らく死にはしない。何らかの理由でプログラム化されているに過ぎないノーヴェは修復を経て再び仮想人格の「ノーヴェ・セルジオ」に戻り、設定された人格として振る舞うことを余儀なくされてしまう。

 「本当にあたしの心配してるってんなら、今はここに置いて行け! あたしがしぶといのはお前が一番良く分かってるはずだ。頼むよ……今だけでいいんだ、行ってくれよ。『姉ちゃん』」

 「…………ずるいなぁ……。そんな風に言われたら、聞くしかないじゃん……」

 「……一旦さよならだ」

 「うん…………さよならっ!!」

 決意と共に立ち上がった瞬間、抱えていたノーヴェを放り投げる。残酷に見えるだろう、だがこれは決別の行為、いずれまた彼女を救い上げる為に今は捨てるのだ。地面に触れると同時に砕け散った刹那の彼女の顔は、一点の曇りもない満面の笑みを浮かべていた。

 ガラスが割れる音をピストル代わりに疾風の如くダッシュを切ったスバル。振り向きもせず、立ち止まるなどもっての外で、ひび割れた世界をただ一直線に駆け抜ける。どこまで走ればいいのかは分からない、ただどこまでも走り続けるつもりでいた、それが自分の持っていた数少ない才能のひとつだったはずだから。この両脚が動き続ける限り自分がどこまでも行ける。

 だが体感でおよそ十メートルほど進んだ辺りで、亀裂から風景が剥げ落ちて闇だけが残された場所へと辿り着いてしまう。硬く柔らかい何かに行く手を阻まれ、背後には闇を広げる亀裂が背中にまで侵食してきていた。ここで終わりか? いいや、違うだろう。多芸とは決して言えなかったが、それでもスバル・ナカジマに可能なことはまだあったはずだ。

 「はぁぁぁあああああああああっ!!!」

 深い呼吸を伴って右手が蒼い輝きに包まれる。取り戻したのは記憶だけではない、歪な世界に不都合をもたらさないように奪われていたのは彼女が人生を懸けて培った「技術」もだった。だがそれも今取り返した! 自分はここを脱出できる!

 「でりゃああああああぁぁぁーーーっ!!!!」

 闇の塊を殴った感触は不思議なものだった。やはり硬くもなく柔らかくもなく、硬くて柔らかい。気を抜けばズブズブとのめり込んでしまいそうで、ダイアモンドのような剛性をその奥に感じた。

 だが感じた手応えは確かだった。

 パキパキ──!!

 仮初の景色を破って現れた闇の空間が、スバルの拳を基点にして再び亀裂を刻み始めた。僅かな隙間からはステンドグラスの如く彩光が差し込み、スバルだけが浮き彫りになっていた空間に輝きをもたらしていく。あと一押しあれば突き崩せる……その後一歩を、彼女は自慢の足で切り拓いた。

 そして、闇を光が塗り替える。










 「……まぁ、そんな簡単には出してもらえないよね」

 眩い光に目を閉じて、再び見開いた時に見えた光景はさっきまでと同じ大学の食堂だった。時計を見れば秒針は三十秒も動いておらず、窓の向こうの日差しもその角度をまるで変えていなかった。たださっきと違い、煙のように消えていた人々も姿を現して食事を楽しんでおり、カウンターの前では係員が食券を預かって料理を渡していた。

 「行こっか」

 誰に言う訳でもなくスバルは呟く。聞かせる相手はもういない。ついさっきまで「誰か」が座っていた場所には、もう誰もいなかった。まるで、最初から存在していなかったみたいに……。

 ここから先はしばらく孤独な戦いになるだろう……だが挫折はしない、立ち止まることもしない、覚悟はできている。深く息を吸って吐き出し、ゆっくりと歩み始める。焦らない、時間はまだある。肌に受ける風や日差しは現実そのものだが、既にまやかしであると知った以上もう惑わされることはない。今や彼女は身は一つだが、その心は百人力、千人力もの力強さを獲得していた。希望という燃料が今のスバル・ナカジマを動かす原動力となっていた。

 とりあえず現状、この場にノーヴェが居たという痕跡は何一つない。さっきの食堂にもスバル一人分の食器しかなく、念の為に食堂の人間にも見覚えがないか聞き込んだが、やはり何の情報も得られなかった。今わの際……というのは聞こえが悪いが、ノーヴェの残した言葉が正しければ「修復」によって上書きされたのはノーヴェ自身のみ。「彼女が大学に来ていた」という事実のみが書き換えられ、それに伴う情報も抹消され、同伴していたスバルだけが消去を免れて残ったことで宙ぶらりんの存在となった。つまり冷静に考えると……。

 「やっぱり……」

 取り出したパンフレットのキャンパスマップには、“自分が”書き記したスカリエッティ教授の目撃地点が克明に記されたままだった。どうやら「修復」とは随分とずさんなものらしい。ノーヴェの痕跡のみを消しているが、ここを攻略する最大の鍵を残したままにしておくとは。

 「それにしても、どうしてよりにもよって、ジェイル・スカリエッティなんだろ」

 全てを思い出してしまった今、どうしてもそこだけが気がかりだ。彼の存在は、そっくりそのまま『罪』の意識を象って自分を苛むだろう……ここまでトレーゼ以外の誰にも打ち明けることなく、胸の内に秘めたままやってきた。いや、言い飾るのはよそう……。正直に言おう、秘めていた、などと綺麗な言い方はしてはいけない、ただ単に心の暗闇に隠していただけなのだ。これは言わば懺悔、自らの『罪』と向き合うこと。鏡に写された醜さ極まりない己から最後まで目を背けずにいられるかどうか。自分がやった事に対するけじめをつけなくてはならない。対価は、ツケは払わなくてはいけない。

 だが意味もなく走り回るのは愚策なので、取り敢えず一旦頭を使うことにした。頭脳労働は親友に任せっきりにしていたので、どうにも苦手分野だが、頼る者がいない以上は泣き言を言ってはいられない。略地図に目を通し何らかのヒントが無いかどうかを見極める。一目では分からないだけで必ずどこかにそれはあるはずだった。しばらくそのまま悶々と頭を捻りつつ閃きが降りてくるのを待っていたが……。

 「だー! ダメだ、全然分かんない!」

 目頭を押さえながら幻痛を訴える頭を冷やす。何気なく顔に当てている手は右手、現実世界では未だに失ったままだがここでは健在、封印される前にだいぶ痛めつけられたが、それらのバッドステータスを無視して行動できるのは正直ありがたい。ついでに頭の回転数も増やしておいてくれていれば文句なしだったのだが。万策尽きたと言わんばかりにベンチの上で逆海老反りになる。天から降り注ぐ眩しい光を地図で隠しながら、唯一の手掛かりとなったそれに穴が開きそうなほど視線を注ぐ。

 「目撃は日に何度もあって、同じ場所には現れない。次の日には違う場所に現れる……か」

 思えば少なすぎるヒントだ。現れた場所と日付だけ、しかもそれらは全て規則性の無いランダム、性質が悪いことこの上ない。これがサスペンスドラマならとっくに捜査打ち切りで事件は迷宮入りしているだろう。点と点を繋げば線になるというが、こうも要点が少ないのでは……。

 「……点と線?」

 頭の中に浮かんだイメージと連動するようにスバルが跳ね起きる。そして急いでペンを取り出し、自らが記した点を結んでいく。ただ闇雲に結ぶのではない、彼女は見つけたのだ……不規則の中の規則性、ランダムの中に隠されたたった一つのヒントを。

 「…………出来た」

 どんな難問も解いてしまえば単純だったりする。必死に考えてなお分からず、白紙で解答した問題の模範解答を見た時の虚脱感に似ている。こんな簡単なことにどうして気付けなかったのだろう、そんな感じだ。

 点と点を結べば線になる、一次元から二次元へのシフトはスバルに大いなる結果をもたらした。

 「教授は……スカリエッティは、『移動』してたんだ!」

 導き出された形は、「円」……ひとつの目撃ポイントを、同じ日付の最も近いポイントと結んだ結果、歪な多角形が描き出された。大学構内のある地点を中心に、等高線のように浮かび上がったそれらは何重にもそれを取り囲み、全ての点を順番に結んでいくと奇妙な渦を描きながらスカリエッティが移動していることが分かった。何故螺旋を描くように移動するのかは分からない。重要なのは、この軌跡を辿って先回りすることが出来ればスカリエッティに接触する事ができるかも知れないということだ。彼に接触さえすれば「ここ」から脱せるらしい。原理は不明だが、可能性があれば実行するしか道は無い。思い立ったが何とやら、スバルは初めて導き出された“予測地点”へと急いだ。

 そうして到達した場所は、構内の中心に立つ建物。壁に描かれた数字は「13号館」、学生が最も行き来するはずの場所には不釣り合いな小さな建物で、昼過ぎにも関わらず窓から覗いた限りでは人の気配は皆無だった。

 「…………!」

 固唾を呑みながら覚悟を決め、玄関口に当たる場所から内部へと入る。中は太陽の光を取り込む構造になっていて明るく、床は塵一つなくそれらを反射して輝いて見えた。だがどこを見渡しても人の姿は影さえ見えない。やはり、おかしい。

 掲示板に張り付けられた連絡用紙は時折吹き通る風に揺られ、若干湿った臭いが鼻腔をくすぐるのを感じながら、スバルはここに現れる、もしくは既にいるであろう人物を捜して彷徨い歩く。さっきみたく都合よく魔法を使えばいいのだろうが、探知系のような細々としたものは苦手だ。救助の際も必ず二人以上で行動し、相方が探し当てた要救助者を自分が助け出すというのが決まったやり方だった。出来ない事はないがその為にはデバイスの補助が必要になる。そして今、自分の「相棒」はここには居ない。

 取り敢えず端から端まで歩こうと思い、ドアのガラス越しに室内を見渡す。西に傾いた日光が差し込む空間は無人で、やはりどこにも人の気配はない。次も、その次も、そのまた隣の教室も全てが無人。ある意味では予想通りだが、ここまでその通りだと逆に拍子抜けしてやる気も萎えてしまう。そもそもこの場所で本当に合っているのかも分からない。読みが間違っていたかも知れない、予想図だってあの通りに動いてくれるとは限らない、あるいはもうこの周辺には二度と現れない可能性だってある。嫌な予感だけが募る中、スバルの足は遂に一番端に位置する教室へと到達してしまった。

 そこには……。

 「誰かいる」

 姿は見えない。ドアの窓からは丁度死角になっているが、明らかにカーテンとは違う影が見え隠れしていた。それを見た彼女はノックもせずにドアを開け放ち……。



 「ようこそ、スバル・ナカジマ君。歓迎しようじゃないか」



 果たして、そこには嫌味な笑みを浮かべたジェイル・スカリエッティがいた。清潔感のある白衣に、毒々しい紫の髪、白磁の肌と対をなす金色の瞳はやはり爬虫類を想起させた。相も変わらず嫌な顔だ。

 「予定より数倍も速かったようだが、やはり『彼女』の存在は大きかったか。それで……私を捜していたということはつまり、私に聞きたいことでもあるのかな」

 「…………ひとつ、聞かせて」

 「ふむ、何かね?」

 「あなたは……誰?」

 「誰とはご挨拶だな。そんな事は君が一番よく分かっていることじゃないか」

 「……知らない、あたしはあなたを知らない! あなたはジェイル・スカリエッティに似ているけど、でも『違う』! 本物のスカリエッティがここにいるはずがないんだ!!」

 スバルはジェイル・スカリエッティ個人をそこまで深く知っている訳ではない。実際に面と向かって言葉を交えたのだって片手で数える程度だ。だがそんな彼女でさえ違和感を感じ取れる程、目の前の人物はジェイル・スカリエッティ足り得るための要素を欠いていた。これを見たのがナンバーズの面々なら見様によっては学芸会と思われても仕方がないだろう。そんな違和感、「違い」をスバルは見抜いたのだ。

 「ほほぅ、『本物』は居るはずがない……か。その口振りだとまるで『本物』がどんな末路を辿ったのか詳細に知り得ているようじゃないか」

 「っ……!」

 「…………まあいい。婦女子をイジめるのは趣味ではない。お察しの通り、“私”は君が知るジェイル・スカリエッティ本人ではない。正確には“私”が学習した彼の言動や性格を出来得る限りでコピーし、再現した仮初の姿、即ちアバターに過ぎない。実際の姿をお見せしたいのや山々だが、こちらにも都合と言うものがあってね……承知してくれるとありがたい」

 「アバターってことは、あなたは『外』の人間ってこと?」

 「似たようなものだ。かなり限定的ではあるが外部からここへアクセスし、ここの『整理』を名目に存在を許されている状況だ」

 「整理? さっきの異変と何か関わりがあるの?」

 「あるどころじゃないさ。あのマテリアルの一体がシステムに無いアクセスルートを無理にこじ開けた所為で、今『外』は嵐の前の静けさを呈している。恐らくこのまま行けば敵も味方も関係なく、いずれ全員が地獄を見るだろう」

 飄々とした物言いだが、その表情は硬く、本物のスカリエッティは見せなかった顔をスバルに見せていた。それだけ“彼”がこの状況を憂慮していると言うことであり、外の状況が危機的に切迫しているという証左だった。

 「あたしをここから出して! 外に……トレーゼの所に戻らないといけないの! だから……!」

 「生憎だが、それは無理な相談だ」

 「へ……!?」

 二つ返事で突っぱねられてしまったことに一瞬間抜けな声が出た。あの占い師の言葉に従いここまで来れば外の世界へ脱出できると思い込んでいただけに、警戒心が緩みかけていたスバルは今の自分の置かれている状況がいかに致命的か理解するのに遅れが生じてしまっていた。この空間は自分と、ジェイル。スカリエッティを装った正体不明の何者かの二人だけ。そして相手は正規の手段でここにアクセスしており、囚われの身でしかない自分とは優位性に大きな差がある。つまり、今やスバルは自ら仕掛けに飛び込んできたネズミも同然の状況なのだ。

 「君がどう解釈したかは知らないが、少なくとも私は君にとっての味方という訳ではない。出自を質せば間違いなく敵だし、君にとって直接益のある行動はしてあげられない。よって、私がこれから君に行うのは純粋な妨害行為だ」

 ドアに駆け寄り手を掛けるが、鍵もかけていないのに固く閉ざされ、窓ガラスはまるでコンクリートの如く硬質化し、スバルの体当たりでも割れないという異常な状態になっていた。その原因は考えるまでも無く、この男の仕業だ。

 「無駄な抵抗はよしたまえ。このエリアのプログラムの一部は既に私がコントロール権を握っている。全体を通して見れば微々たるものだが、君一人を閉じ込めておくには贅沢な虫かごだと思わないかね」

 そう言いながら蛇の目を持つ男はスバルに近付き、彼女に一分の逃げ道も与えんと言わんばかりに空間の端へ追い詰めていく。

 「今から君を隔離する。これはその為に必要な『チケット』だ、受け取るといい」

 白衣の懐中から取り出した一枚の紙片がスバルに投げ渡され、フリスビーのように回転して飛んできたそれを彼女は反射的に手に取ってしまった。そして次の瞬間、地肌にスタンガンを当てられたようなショックが全身を襲った。一瞬の硬直の後に四肢は弛緩し、支えを失いながら傾く視界はおぼろげになり、目を閉じるスバルが最後に見たのは……自分を見下ろす金色の瞳だった。



 ……………………



 …………



 ……






























 「────────────────────────────────」

 浮き上がるような感覚を伴ってスバル・ナカジマの意識は現実に戻る。うたた寝から醒める様に、まるで最初からそこに、その状態で居たような自然さで、スバル・ナカジマは全く見覚えのない「別人」に成り代わっていた。

 一番の違和感は着ている服装にあった。白衣だ、漂白剤に何時間も浸け込んで更に白い絵具で染めたような純白の白衣、研究者など理知的なイメージが伴うそれをよりにもよって自分が着用しているという事実に最も驚愕した。しかもかなり着慣れている様で、頭で感じている違和感を体の方は全く覚えていない事にも驚いた。

 次にこの臭い。鼻に突く有機溶剤のような臭気が自分の手から発されている。どうやらエタノールか何かで消毒したようで、まだ少し湿った手は清潔さを保っていた。これでますます自分が科学者の真似事をしているのがミスマッチに思えて仕方がない。

 そして、自分の髪。動きの邪魔になると今まで肩にかかるまで伸ばしたことは無かったはずの髪の毛が、今や腰に掛かるほどに伸長しており、亡き母クイント・ナカジマを思い出させた。

 一体なぜこんなことになっているのか? 未知の現象を体験して興奮冷めやらぬその背後に誰かが近付く。

 「セルジオさん」

 「は、はい!?」

 呼ばれた、『自分の名前』を。どうしてそれが自分の名なのだろう、自分はナカジマであって、決してセルジオという名ではない。それはこの世界のノーヴェとその姉妹達に与えられていた仮の姓であったはずだ。それがどうして自分に与えられ、どうして自分がそれに違和感なく返答してしまったのか……。

 「大丈夫ですか? ぼーっとしていたようですけど……」

 「べ、別に何でもないです! 平気です!」

 「そ、そうですか。あ! わたしは時間なんでそろそろ行きますね。スカリエッティさんによろしく伝えてください」

 「は、はい」

 そう言ってもう一人の白衣を着た女性は室外へと出ようとする。だがそれを目で追うことさえ出来ず、スバルは思考に思考を重ねて瞑想する。

 この彼女は今さっき「スカリエッティ」と言った。つまり、今この空間のどこかに先ほどと同じジェイル・スカリエッティに扮した何者かが存在するという事であり、この空間こそ彼が言った「虫かご」と言う事になる。見たところ肉体的な拘束はされていないが、それも彼の気分次第、今後自分がどうなってしまうか分からない不安が今更になって背筋を這い上る。

 そうこうしている間に女性は白衣を脱ぎ、外へと出る。しかし、それより先にドアが開き中へ入る人物があった。

 「おはようございます、スカリエッティさん」

 「っ!!?」

 はっとなって振り向き、自分を「ここ」に閉じ込めた張本人を視界に入れる。いつでも臨戦態勢に移れるように全身の力を抜かずに引き締め、見えた人物は……。

 「…………って、誰!!」

 思わず叫び出す形になったが、スバルの驚きは無理からぬことだった。前言撤回、一番の驚きは自分の容姿ではなく、今目の前にいる人物の姿だった。もう何が起きても驚かないつもりでいたが、こればかりはどうしても驚かずにはいられなかった。なぜなら……。

 「誰とはご挨拶だね。毎日顔を合わせているというのに、僕の顔を忘れてしまったのかい」

 「な、なな、なああぁああああ……!!」

 「それとも、君にとって僕程度の輩の顔なんか記憶に留めるに値しないとでも? いや違うか、単純に君の脳髄の記憶容量の問題だろうね。外付けのハードディスクを設置することをお勧めするよ。そうすれば今度から器材の不備も起こさないだろうからね」

 紫の髪、白磁の肌、金色の眼、そして嫌味な喋り方……全ての特徴がスバルの知るスカリエッティと合致する。しかし、たった一つ、たった一つだけの要素がそれら全てを打ち崩すほどに大きく、無視できないものとなってスバルを打ちつけた。

 それは……。

 「……あの、スミマセン。その……ご年齢はお幾つデショウカ?」

 「この齢で健忘症かい? 君と同じ21に決まっているじゃないか」

 「若ぁあああぁっ!!??」

 そう、目の前にいる「ジェイル・スカリエッティ」は違和感どころの話ではなく、ただただ若かった。スバル自身が知る彼は少なく見積もっても40代、可能性的には50代後半であるはずだった。それが一気に三十年も若返った姿でのお出ましになる訳だから驚かない方がどうかしている。男性にしては少し長めの髪を空調の風に揺らしながら、若返ったスカリエッティは出先の報告を済ませる。

 「やれやれ、農学部の家畜が異常を起こしたから見て欲しいと言われて行ってみたが、まさか狂牛病とはね。あそこの牛舎はしばらくお払い箱だろうよ。気の毒だが、こればっかりはどうしようもない」

 白衣を脱ぎ、眼鏡を掛け、椅子に腰を落ち着ける。たったそれだけの一連の動作に知的な印象を抱かせる何かを感じ、その衝動はスバルにある記憶を思い出させた。

 「あ、そう言えばあの写真……!」

 「写真? 写真がどうかしたのかい」

 この空間に移動させられる前、偽スカリエッティから投げ渡された紙片らしき物体、あれは確かスバルが一学生という「設定」に甘んじていた時に見せられた過去のスカリエッティの写真と同一だった。学生時代に後の妻となる人物に撮ってもらったと言っていた。今となってはあの言葉も仮想世界を生きる人物として予め「設定」されていたセリフだったのだろうか、それは今となっては分からない。問題は、「ここ」もそれと同じかどうかと言う一点のみだ。

 「それじゃあ、わたしはこれで」

 「ああ、精々頑張るといい」

 相変わらず尊大な態度で女性を見送った後、特に何をするでもなくしばらくの間、偽のスカリエッティは難解な学術書に無言で目を通していた。黙っていれば顔立ちの良さだけが目立ち、時折眼鏡を指で上げる仕草はそれだけで絵になる美しさがあった。そのまま何も言わずに過ごしていればどうなるかと興味を持ったが、沈黙は不意に破られた。

 「…………さて、誰もいなくなったところで、そろそろ本性を表してもいい頃合いだろう。いつまで他人行儀にしているつもりかな、『スバル・ナカジマ』」

 「……あたしの方も意外だよ。もう少し引っ張るのかと思ってたぐらい」

 本来の名で呼ばれたことに一瞬身が固くなるが、敵意を感じなかったので一応臨戦態勢は解いた。それでも警戒はしているが、現状彼が直接の被害を与えようとする様子はない。

 「色々疑問に思っているだろう。質問には可能な範囲で答えてあげよう。ただし、一度に一つずつだ」

 「あなたは誰? ジェイル・スカリエッティじゃないことだけは分かってる」

 「僕はさっきと同じ人物だよ。ここへ幽閉する前に君が出会った『ジェイル・スカリエッティ』さ。今はあの時よりおよそ三十年分は若返っている。僕だけじゃない、このエリアに『設定』されていた時間軸が三十年分逆行しているのさ。それに伴い君にも『エレナ・セルジオ』という役割が与えられている。もう察しているだろうけど、この仮想空間における後の『ジェイル・スカリエッティ』の妻となる人物さ。僕は外部からアクセスし、ここで活動するに当たって本来プログラム通りの行動しかしない『ジェイル・スカリエッティ』をアバターとして君に接触している。ここまでは良いね?」

 「な、なんとなく、分かった……かも。じゃあ、『ここ』は一体何なの!?」

 「それも分かっているはずだ。あえて説明するのなら、君達人間が『闇の書』と呼ぶモノの中、その一角に設けられた封印時空だ。捕えた者を生かさず殺さず、心地良い幻覚を見せながら徐々にその魔力を奪う陰険な牢獄。今は君がいるこの一部分だけを書き換えて改装し、僕の別荘のようにしてある。だからと言って何もかも自由に出来るわけじゃないけどね。精々、僕の意思ひとつでそこのドアの開け閉めをする程度さ。今は君を歓迎する為に特別に用意させてもらった客間だと思ってもらえれば幸いだ」

 「あたしを閉じ込めて何がしたいの! それだけなら、わざわざタイムスリップなんてしなくてもいいじゃん!」

 「時間の逆行については完全に想定外だ。数分前に君と対峙していた僕と今の僕は基本は同じアバターだが、今ここにいる僕はさっきよりも『本体』に近い位置にある。君をここに招き入れるには手順を踏む必要があって、その過程でシステムの一部に矛盾が発生、それを修正する方法がタイムトラベルだったのだろう。と言っても、実際の時間が逆行している訳じゃない。相変わらず『外』は一秒を争う事態に変わりはない、誰も彼もが風前の灯火さ」

 「あたしをここから……」

 「言ったはずだ、それは出来ないとね。君には『ここ』に残ってもらう。どうしても出たいのなら、『外』が沈静化するまで待つ事だ。もっとも、その時まで君の寿命が保つとは到底思えないけどね。重体の身で封印されているんだ、永遠の夢の中で息絶えても不思議ではない。連中もそれを狙っているんだろうが……」

 「……………………」

 「質問は以上かい? なら、大人しく『ここ』で……」

 「待って、まだあたしの質問に答えてない。最初の質問であたしは、『誰』って聞いてるのに、あなたの答えはアバターって言うだけ。アバターなら、それを操作してるのは誰? あなたが言った『本体』って何のこと! 答えろ!!」

 初めて語気を強め、スバルは拳を固めながら距離を詰める。ここは仮想空間、何をしても全ての面倒事は向こう側が引き受けてくれる。もし納得のいく答えが得られなければ、ここら一帯を破壊して大暴れしてやるつもりでいた。寿命が縮んだところで構いはしない、どの道大人しく死んでやるつもりなどない、死なば諸共道連れの覚悟で玉砕する心構えでいた。その気迫に恐れをなす事もなく、終始すまし顔の偽スカリエッティは気にする素振りも見せずに眼鏡をかけ直すだけ。

 「少し落ち着くといい。君の質問をはぐらかす形になったことは謝罪しよう、すまなかった。別に緘口令を言い渡されている訳じゃない、僕が自らの正体を明かさなかったのは純粋に僕自身の判断だ。君は知らなくて良い事だと考えたから言わなかっただけだ。それが非礼だと言うのなら自己紹介させてもらおう。ただし、君が僕のことを記憶に留めているかはだいぶ怪しいけどね」

 「どう言うこと? あなたはあたしを知ってるの?」

 「ああ、そうだよ、スバル・ナカジマ。君はどうか知らないけど、僕は『マスター』を通じて君を良く知っている」

 椅子から腰を上げて立ち上がり、頭を垂れて優雅に一礼する。

 「一応、『初めまして』かな。僕の名前は『デウス・エクス・マキナ』、君が追う宿敵トレーゼのデバイス、そのAIさ」

 「トレーゼの……デバイス!?」

 「これで僕が君の敵だと言った理由が分かってもらえただろう。この僕をどうにかしても無駄だよ、僕の『本体』、つまりデバイス自体は外の世界にあるからね。アバターが活動に支障を来しても修復はいくらでも可能だ」

 「……………………」

 この状況を前にして、スバルの頭はいやに落ち着いていた。眼前には実体のない不死身の敵、脱出不可能な牢獄に囚われ、絶望的なこの状況下にありながら、その心は生まれて初めて感じる落ち着きを保っていた。偽スカリエッティ、マキナに諭されるまでもなく彼女は既に冷静だった。だからこそ、普段なら見落としてしまうはずの疑問点に気付き、それを言葉にして投げ掛ける余裕が生まれたのだ。

 「最後の質問! 『あなたの本当の目的』は一体何!!」

 それはつまり、核心を突くこと。一連の不可解な事件の真相、下手人の真意、本当の目的。それを知ることができれば現状を変えられるかも知れないと考え、そこを突く。馬鹿正直に答えてくれる保証はない、またはぐらかされるかもしれない。だが例えそうでも真実を追求する覚悟は潰えない自信があった。

 そして、マキナは彼女の覚悟に応えるように、淡々と言葉を連ねていく。

 「…………僕は彼の、トレーゼの味方だ。彼が偽者か本物かは関係ない、僕は『トレーゼ』という存在に使われる為に在り、彼の利となる行動をするようにプログラムされている。それがデバイスの使命であり本懐だ。よく、加工された人工知能を隣人や親しい友人のように扱う者がいるが、よくよく考えると、それはとても滑稽なことだとは思わないかい? 本来彼らと僕らは『使う側』と『使われる側』、どんなに親しげにしていた所で上下、あるいは主従関係にあるのは明白だと言うのにね」

 冷たく、静かに、蓄音機のようにただただ予め決められていたセリフをその通りに喋るような抑揚で、マキナは機械の持論を述べた。彼にとって機械と人間は覆せない上下にあり、どんなに精巧に造られていても消費される物として生み出されているのは事実だ。

 「君は『マッハキャリバー』のことを相棒と呼んでいるね。いやいや、勘違いしないでほしい、君が自分のデバイスをどう扱おうが僕の知った事ではないし、個人の趣味嗜好に口を挟むほど野暮じゃない。僕が聞きたいのはね、そう……彼女は大切な友人である君の身に何かあった時、一体何が出来るのか、何をしてあげられるのかって事だよ。つい今しがたここに来る前に別のエリアで彼女を見かけたけど、君の居場所すら満足に突き止められていなかったよ」

 「それは! ここの解析に手間取ってるだけで……!」

 「だろうね。僕も立場上、見逃すわけには行かなかったから適度に釘を刺して言い含めておいたし、更に時間が掛かるだろう。でも重要なのはそこじゃない、重要なのは、君の相棒はスバル・ナカジマの為にたったそれだけの事も出来ないという事実さ。自分で言うのは口幅ったいし何より機械らしくないけど、僕はそこいらの人工知能なんかよりよっぽどマスターに忠実だという自信がある。より迅速に、より精密に、より確実に、全てのコマンドを完遂できる自負がある。僕より主人想いなデバイスもこの世にはいないだろう」

 嫌味に、そして自慢げに、気味の悪い薄ら笑いすら浮かべ、窓際の縁に腰かけて寄り掛かる姿は常人の男性では醸し出すことのできない蠱惑的な感覚を放っていた。黙っていれば人懐こそうにも見れるその表情は友好的でもあり、スバルの緊張を溶かして行った。



 「だからこそ、僕は君を許せない」



 一瞬にして身が凍りつく……錯覚だと気付いた時には既にマキナとの距離は縮まり、明確な敵意を抱いた視線が瞳孔を貫いていた。相手が機械である事さえ忘れ思わず後退する。そこには相手を徹底的に害するという意思があり、同時にそれを実行することが容易ではない口惜しさを滲ませており、そのジレンマが発生させる激情の波は鬼気迫る危機感をスバルに強烈に印象付けた。

 「さっきも言ったけど、僕はトレーゼの味方だ。僕を行使する者として彼は完全無欠でなくてはならない。そんな彼が今とても苦悩している。何故だと思う、スバル・ナカジマ? 魔導師を、騎士を、同族の戦闘機人すら凌駕した彼がなぜこんな所で頭を痛くするんだと思う? 全て君の所為だよ、スバル・ナカジマ!」

 鳥肌を流れる汗が痛い。催される吐き気と共に呼吸と動悸は荒く激しく、凍りつく体とは対照的に心臓はうるさく早鐘を打つ。命の危機。可及的速やかにこの場を逃げ出し一刻も早く安全な場所に去りたかったが、足の裏に根が生えた如く体は動かず、睨まれたカエルどころか石像になってしまったみたいに動きは封じられていた。

 「分かっているだろう、全ては君の浅慮な行いがこんな結末を招いてしまったんだ。一時の激情に身を任せて愚かな行為に出た君の浅はかさは本当に言葉が見つからないよ。いつもそうだ、大局的に物事を見据えない君の行動は全てにおいてイレギュラー、誰にも予測できないが故に常に考え得る以上の最悪をもたらして来た。少なくとも君がランスターのように組織に従順な一個人であれば、僕のマスターはあそこまで労苦を払わずに済んだだろう。そう、全ての元凶は君だ。トーレ、ノーヴェ、セッテでもなければスカリエッティでもない、時空管理局など物の数にも入らない。君一人の責任だ!」

 「う……ぁあ……!」

 「無論、全ての行動を責めることはしない。君は純粋な人だ、きっとその全ては君自身の善性、良かれと思っての行いだというのは想像に難くない。敵である僕らに手を差し伸べる優しさはむしろ評価に値する」

 「…………っ!」

 「だが! あれは、『あれ』だけはっ! 君がどんな弁明を行い、僕がどんな好意的解釈をし、例え司法の全てが君を擁護しようとも!! 彼は君を許さない。僕も君を許しはしない。僕と彼は同じだ、同じ意志を持つ者として僕らは君の愚行を絶対に許容しない! 君は彼の目的を、存在意義そのものを奪った。この意味が君に分かるか、愚かしさ極まりない君に理解できるか!!」

 「あ……あたしは……」

 『あれ』が何を意味しているか、それはスバルが一番よく分かっている。清く正しく生きてきた彼女の人生の中で唯一の「汚点」と呼ぶべきものであり、決して誇れるものではない出来事……それは彼女の優しさが引き起こした事件、義憤に駆られた末の暴動、未熟さ故に暴発してしまった怒りの撃鉄、それがもたらした最悪の結末。目を背けるつもりは微塵も無かった、実際ここまでの足取りを逃避だと非難されようとも自分はその咎を受け、来るべき時には甘んじて断罪を受け入れる覚悟があった。それだけの事を仕出かしたのだから当然だ、誰も彼も自分のことを許さない、恩師も親友も後輩も家族も、誰もが誠実であるが故に余計に自分の罪を責め立てるだろう。だがそれも受け入れよう、罪を犯した者は裁かれなければならない、それを正当化する術などどこにも無いのだから。

 だが、しかし……それでも尚、あの時を思い出せば湧き上がる感情があった。どうしようもなく、どうしようもなく、消し去れるならそうしたいが、そうする事も不可能なほどに、スバル・ナカジマの心には燃え盛るドス黒い憎悪の炎が宿っていた。その感情の波動は眼前に迫った恐怖の象徴すら頭から無くなるほど激しく、呼吸をするのも覚束なかった口からは呪詛の様な言葉が紡がれ始める。

 「あたしはっ!! あたしはあいつが許せなかった!!! 自分で生みの親になっておいて、トレーゼを『価値のある研究成果』としか見ていないことが許せなかった!! トレーゼが偽者だと分かっても、面白がってヘラヘラしていたのが許せなかった!! トレーゼを……最後まで自分を楽しませるだけの道具としてしか見ていなかったことが許せなかったッ!!!!」

 生まれて初めて、他人を心の底から憎んだ。こいつの所為であたしの大切な人は不幸になる。

 生まれて初めて、他人に死ねばいいと思った。こいつは生きていちゃいけない人間なんだ。

 生まれて初めて……他人を殺したいと、残酷な死を与えたいと願った。そうだ、願ってしまったのだ。

 「だから……っ!!!!」



 「だから、殺した。ジェイル・スカリエッティは、君が殺した!」



 あの瞬間のスバル・ナカジマの双眸はきっと金色に輝いていたに違いない。頭に血が昇ると視界は真っ白か赤に染まると言うが実際その通りで、「殺すつもりはなかった」などと見苦しい言い訳をする殺人犯の気持ちが今なら分かる。悲しいかな、一瞬とは言え確かな憎悪と殺意を抱き、たった一発の殴打で人命を奪うだけの力を持っていたことが彼女の最大の不幸だったのかも知れない。

 あの日、地上本部がトレーゼによる二度目の襲撃を受けた時、内部に侵入した彼を追う道中で虫の息となって倒れ込むスカリエッティを発見した。自分に死が迫っているにも関わらず不敵な笑みを浮かべ不遜な態度は相変わらず、死に瀕している状況さえも楽しんでいた。自身の最期を看取るのが図らずもかつて敵だった者と知っても僥倖と言わんばかりの彼にスバルは問う、「どうすればトレーゼを止められる」と。この時点ではまだトレーゼが過去のクローンであることは知らず、その事実はDr.ギルガスの研究レポートに目を通していたスカリエッティから聞かされたことで知り得た情報だった。その時点でスバルはこの事実をトレーゼが知ればどうなるか分からないと漠然とした危機感を抱いていた。彼がそれを知ってしまうのも時間の問題、そうなる前に彼を止めたいのだと必死に懇願したスバルに対しスカリエッティは……。

 「好きにやらせたまえ」と、まるで他人事のようにのたまったのだ。最悪の事態をこれ以上放置することなど出来ないと反論したところで、「それがいいんじゃないか」と笑うだけだった。“無限の欲望”と名付けられた彼にとって混乱こそ至福、混沌から生み出される新たな知識は脳髄を潤す最高の甘露だった。それにありつくことが出来るなら例え死の間際でも構わず、それを生み出してくれる存在こそ彼にとって最も愛おしい存在なのだ。

 ここまでは良かった。ここまでならまだスバルもスカリエッティをどうしようもない変人だと再認識するだけで終わっていたはずだ。

 怒りの撃鉄を引いたのは、この後の言葉だった。

 『私にとって『トレーゼ』は完成された存在で、彼がもたらしてくれる結果こそが真に価値があるのだ。それが本物かどうかなど……詮無いことだと思わないかね』

 これを耳にした瞬間、スバルは我を失った。スカリエッティにとって最早トレーゼという存在はどうでもよく、彼の行動の結果が生み出す新たな現象や知識こそが重要な意味を占めていたのだと知らされた。生粋の研究者である彼にとって『完成』された物に意味は無く、また興味もない。故にトレーゼが本物か否かなど、文字通りどうでもよかったのだ。

 それが……許せなかった! その傲慢が憎かった! そして生涯感じたことのない極大の憤怒を覚えた直後、その拳は頭蓋を捉えていた。

 「君が下らない義憤に駆られた結果、彼は目的を見失い、最悪の斜め上の結末がもたらされた。君さえ余計な行動をしなければこの混乱は引き起こされることは無かったんだ」

 「……あたしに、どうしろって言うの」

 「やれやれ、挙句の果てに思考放棄かい。君は自分の行いに責任を持たなくてはならない」

 「自分のしたことぐらい分かってるよ!! 謝って許してもらえる事じゃないって分かってるよ!! だから最後にあたしは……」

 「殺されるつもりで彼に打ち明けたのかい? それが浅はかだと言うんだ。秘密を告白する機会はいくらでもあったのに、そうしなかったのは何故だ。単に君の身勝手だ。それを今更死んで詫びようなど、都合が良すぎると思わないかい!」

 「じゃあ、あたしはどうすれば……!!」

 「方法はある」

 「っ!?」

 「今の君がすべきは謝罪ではなく、この混迷を極めた事態を解決に導くことだ。それだけが、唯一君が行うことの出来る責任の取り方だ。そして、僕はその方法を提示し、ある程度協力することもできる」

 「な、何で? あなたはあたしの敵なんじゃ……」

 「敵だよ。だからこそ、君に責任を追及しているんだ。法の裁きではなく、あくまで僕のやり方で君を断罪する。君の望み通り命を懸けてやってもらうよ」

 命を懸ける……その言葉に今更身が竦む。口では幾らでも死んでやる、死ぬつもりなどと言っていても、面と向かって宣告されればこのザマだ。何度死にかけていようと実際に死んでいる訳ではなく、本能的な恐怖が鳥肌となって全身を包んだ。

 「一応言っておくけど、脅しじゃない。最終的に君が命を落とす確率はほぼ確実だ。むしろそうなることで僕の目的は達せられる」

 「目的?」

 「君と同じだよ。僕も……トレーゼの凶行を止めたいのさ」

 何故、彼の味方ではないのか、どうしてそれを邪魔するような真似を……その疑問に答えるようにマキナは続けた。

 「最早彼の行動は彼自身に何の利益ももたらさない。無意味なんだよ、全てがもう手遅れだ。なら、彼の味方として僕がしてあげられる最後の行動は何だと思う? ここで静かに終わらせるべきなんだよ、何もかも、静かにね……」

 それはつまり……命の動きそのものを、断ち切るということ。彼を殺す事で救いとなす、文字通り最後の手段。

 どうする? いや、まだ方法はあるはず。頭の中を様々な情報が駆け巡り、何とかしてそれ以外の手段で決着をつけようと試みる。だが乏しい想像力を駆使しても打開策は閃かず、逆にこれまでの裏目に出て来た行動の結果が想起され、最早これしかないのかと諦めにも似たやるせない気持ちが湧き上がるだけに終わった。静かな終焉を与えることが出来るのならそれが幸いだ、それ以上多くを望んだところで今までのように失敗すれば取り返しのつかない事になってしまうだろう。スバル・ナカジマの不屈の精神は、ここで遂に折れようとしていた。

 項垂れた頭は何を注視するでもなく地面を見つめ、肌に滲んだ玉のような脂汗が鼻を伝ってそこに落ちる。思い描く結末を想像した瞬間に感じたのは、自身の死を直感させられた時以上の恐怖。だが、その恐怖を押し殺し、絞り出した言葉は……。

 「……あたしは……何をすればいいの……」

 「簡単だ。君は僕を通じて彼に語り掛けろ。出来るだけ長く、途切れず、確かに、彼にメッセージを届けろ。話題も何でもいい。昨日の夕食、今日の天気、明日の予定……ある事ない事何でもいい、彼の行動を言葉だけで留めさせるんだ。その間僕はスピーカーの役目を果たしつつ、彼の肉体を止めるコードを打ち込み続ける。君と僕と総掛かりで彼の行動を止めるんだ。そこから先は機動六課の面々に任せる」

 そう言って机の上のパソコンを無造作に立ち上げ、画面が斑色に変化する。ここにある物体は既にマキナのシステムによって構成された構造物、その中から適当な物を外界に繋ぐ通信手段として用いるのだ。

 「先に言うけど、僕のコードについては余り過度な期待はしないでもらいたい。彼の肉体の変化はもはや進化云々という次元ではなくなっている。いつだったか君の自宅に呼ばれた際と、それ以前にハルト・ギルガスの研究所に居た時にも一度使用したけど、今の彼にそれが通用するかは怪しい。はっきり言って、この作戦の成否を握っているのはひとえに君の行動次第だよ。君が彼の注意を引き付け、機動六課が引導を渡す。無論、彼は体内にいる君と裏切り者となった僕を破壊しようとするだろう。手っ取り早さから言って、最初が僕で君は最後、そうなればほぼ確実に君は死ぬ、君は彼の動きを止める為だけの疑似餌として機能するんだ。出来るよね」

 「…………」

 「やってくれるんだよね?」

 肯定の沈黙と受け取ったマキナはキーボードを操りながら緊急停止コードを作成し、打ち込んでいく。斑色に蠢いていた画面は淡く光り輝き、外との限定的な通信手段を確立した。後はスバルが言葉を発するのを待つだけとなった。

 「準備は良いね。では……始めよう」

 この行動が本当の意味で正しいのかは分からない。結果的に誰も悲しまないかも知れないが、元々思い描いていた理想的な結末とは程遠い。誰もが不幸にならずに済むハッピーエンドを追い求めていたはずだったのに……。

 「どうして、こうなっちゃったんだろうね……」

 掠れる声を漏らし、それと同時にキーボードのエンターキーを押す乾いた音が密室に響いた。



[17818] 闇の起動
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:9b8e942c
Date: 2013/11/24 15:09
 デバイスが電子機器の塊にも等しい働きと精密さを有するのは今更改めて語ることではない。複雑化と簡略を繰り返しながらも、その本質は所有者の補助という部分において変化は無い。様々な機能が技術の進歩によって取り付けられようと、外部から入力された信号によりプロセスを経て演算処理した結果を弾き出す。今も昔も変わっているようで変わっていない仕組みだ。

 それは古代ベルカの負の遺産である『闇の書』も同じことで、盛大に歪んでシステム全体は原型を留めていないが、細かい部分を照らし合わせるとその仕組みは現在の最新式デバイスと遜色ない。外見は紙媒体でも、その実、情報量においてはデバイスどころか次元艦隊を一括統制するスーパーコンピューターを容易に凌駕するのがこの一冊だ。

 そして、望んだ処理を施す為には必要なプロセスを踏まえる必要がある……。もしそれを無視して強引な運用を行えば、プログラムに支障が発生する恐れもあるのだ。あるいは本来の機能にはない動作を行おうとすれば動作不良どころの話しではなくなる。

 今回彼の身に起こった出来事はまさに典型的かつ古典的なまでの動作不良の類だった。原因は、彼を守ろうとその内側から飛び出した『王』の暴挙にあった。元来『闇の書』の構築体であった彼女らは書のシステムに忠実に従うようプログラムされていたが、過去の事件か十数年の空白を経て管制人格が代替わりした影響か、彼女らの存在はシステム全体から自立した部分が見え始め、プログラムに沿わずに行動する部分が目立つようになっていた。実際彼女らの言動は『砕け得ぬ闇』の復活という一点でのみ方向は定まっているが、それ以外では無駄が多く雑の一言に尽きる。魔導的に強力な者を管制人格に組み込むのは理屈としては適っているが、その相手が自分たちにとって協力的であるか否かを確認した時点で、彼女らはトレーゼを放棄して別口からリンカーコアを蒐集するべきだったのだ。

 ともあれ、システムから限定的だが自由を獲得した彼女らの行動は規範に則って走査されるシステムに少なからず影響を及ぼした。その最たるものが、先程の『王』の行動にある。エリオの攻撃を防ごうとトレーゼの体内から飛び出すように出現した彼女の行為。出来ないことではない、闇の書に属する物は全て管制人格やマテリアルの好きなようにでき、事実トレーゼは記録されていた古代生物の一部を召喚している。肉体の一部を変質させるのも容易である。

 だが、無理を通せば道理が引っ込む。どれだけ基本性能が高かろうと、どれだけ応用が利こうと、どれだけその力が万能に近かろうと、物事には必ず限度というのもがある。今回のそれは決して収拾がつかなくなるほどのものではなかったが、ほんの一瞬でもその肉体に無理を強いたのは確かだった。

 簡単に言えば処理落ち、つまりはフリーズ、それがトレーゼの体に起こった現象の正体だった。『王』を魔導書から出力させる際、本来の正しい方法で出力しなかったことでシステムの一部に一瞬にして多大な負荷が掛かり、それを処理する為に全機能の大半をカット、その分の演算能力を全て負荷の掛かったプログラムの処理に当てているのだ。再びシステムを起動するまでに全ての情報エリアを走査し、それらを整理、他に異常が無いかどうかを検査する。それらのプロセスを無事にクリアしなければ再起動はされず、強制的に待機状態にされることを余儀なくされてしまう。その間無防備に晒される肉体は、システムからある程度の独立を許されたマテリアルと、肉体を覆うように展開された漆黒の障壁だけが彼を守る最後の砦だった。

 だがしかし、ここで見る者が見れば異変がそれだけではない事に気が付いただろう。特に、かつて闇の書に属していた騎士たちならば違和感は覚えたはずだ。既に生み出された障壁は外界からのあらゆる物理的干渉を跳ね除ける壁となって具現しており、トレーゼの周囲を球形に包み隠していた。確かに全身を隙間なく覆い隠したこの防御は完璧だ、魔力が枯渇しない限り解除されず、リンカーコアに接続したジュエルシードの恩恵で魔力は無尽蔵、動けない一点を除けば隙の無い布陣のはずだった。

 しかし、その周囲にマテリアルの姿は無かった。

 唯一動かせる手足であるはずの彼女らの姿は無く、三体のマテリアルもまた本体と同じく障壁の内側へと引き籠っているのが見て取れた。本来前へ出て魔導書とその主を守護する役目を課せられた彼女らまで一緒になって籠城するなど、魔導書が持つ機能としては明らかに誤りであり、何かおかしいことは明白だった。

 だがそれは彼女らにとっても想定外の事態だった。

 「えっ、ちょ!? 王様、これはどういうことなのさ!!? 何だってボクらまで封印されちゃってんの! ねぇ!!」

 「我が分かる訳がなかろうがっ! ええい、一体何がどうなっておるのだ!」

 密閉された暗闇の中に混乱が満ちていく。予定にないアクシデントが連鎖したのはともかく、何故自分達までもが幽閉されなければならないのか。システムの不全ならば修復の必要がある、そうでなくともこの状況、敵をまとめて一掃できる好機に恵まれながらそれを活かせないのは歯がゆさこの上ない。

 「おい、そっちはどうなっておる!?」

 「この暗闇です。一分の隙間も存在していません。完全に閉ざされています」

 「相手から攻撃を受けないのは願ったり叶ったりだけども、このまま引き籠っているのも埒が明かないってもんだ。よっし! 古来より最硬の盾は最強の矛に敗れるって相場が決まってる! こうなったらボクの雷光斬の究極パワーをぶつけて……!」

 「やめてください、大変なことになります。完全に閉鎖された空間でそんな事をすれば全員オダブツです」

 無防備になった本体を守る最後の城壁である為、この障壁の強度は魔導書に記録されたどんな防御魔法より堅牢で破るのは困難を極める。それこそ本物の【ドラゴン・ブレス】を十数発連続して直撃されない限り風穴も開かない。死にはしないが、こんな空間で魔力を爆発させればその衝撃で五体が弾け飛ぶだけだろう。仮に破ったとしても無防備な主を敵前に晒すだけになっていまいかねない。

 「どーすんのさー!? ご主人様が完全復活するまでボクらもここで大人しくしてなきゃいけないのー? どうにかしてプログラムを補助できないの、王様!」

 「うろたえるでないわ! 冷静になれ。そうだ、きっとこれはシステムの誤作動だ、放っておいてもいずれ収まる! だからみっともなくうろたえるな!」

 「でもでもぉ、なんか普通じゃないよ~! 絶対おかしいってば!! ここはなんか……超絶危険なんだ!! 早くぅ、早くこのタルタロスから抜け出そう!!」

 『力』の様子がおかしい。その名を冠した者としては異常なほどに怯え、頭を抱えて幼子のように蹲るのが分かった。普段から大仰な言い方が目立つが決して嘘は言わず、今もふざけている様子は微塵もない。本当に心の底からこの状況に恐怖を覚えているのだ。マテリアルの中で最も物理的なパワーに恵まれた『力』が怯える相手など、彼女より強大な力を有したナニカしか有り得ない。そして、この次元世界では彼女ら以上の力の持ち主など、たった一人しか存在しない。

 ふと、空気の流れが変わる。彼女ら三人とは別の物体が動いたことで発生した空気の流れだ。

 「トレーゼ様、ご無事でしたか!」

 「おお! 主殿!」

 「ご、ご主人さまぁ~!」

 三者三様の反応で気配がした位置へと接近する。大樹のように佇立するその身体に縋りつくように、それぞれが身を預ける。動物が飼い主に絶対の信頼を寄せるようなもので、彼女らにとって今やトレーゼは飼い主であり潤沢な魔力を除いても魅力的な存在だった。オオカミが群れの中のトップに対し決して逆らわないように、彼女らがトレーゼに対し反旗を翻す可能性は現時点で既にゼロ、もはや忠実で優秀な手足以外の何物でもなかった。

 そんな彼女らの中で、最もトレーゼに信頼を寄せていたのは『力』のマテリアルだった。『王』は彼を神聖視し、『理』は敬愛の念を抱く中で、最も野性的な部分を司る故か彼女こそが純粋な強者に対し信頼を寄せるという人間的な情動を抱いていた。

 その彼女に、トレーゼは……。



 左胸を抉り取るという報復を行った。



 「カ、フ……ッ!!?」

 吐き出される息は気管に残っていた僅かな呼気。手を突き入れられた衝撃で肺は微塵に千切れ飛び、脊髄は分断、ドス黒い血液が堰を切った濁流の如くに流れ出し、ビチャビチャと耳障りな音が残りの二人に鳥肌を立たせる。

 「あ、主殿!? な、なな、何を!!」

 眼球を暗闇に適した構造に変え、暗黒の中で何が起きているかを見極めようとした。丁度その時に事切れた『力』が背中から血の海に倒れ伏すのが見え、見開いた眼球は生気がごっそりと抜け落ちていた。生物ではないマテリアルに生物的な死は有り得ない、とすると何をされたか必然的に絞れてくる。風穴が開いた胸部には人体における心臓部が存在せず、そしてそれに付随するはずの物も存在していなかった。

 「リンカーコアを……抜き取ったのですか!?」

 「お、悍ましいぃ! 主殿よ、乱心してしまったか!!」

 闇の書に属する眷属のリンカーコアは、ある一つの例外を除いて蒐集できない仕組みになっている。その唯一の例外が、他でもない魔導書本体による管理者権限により肉体を魔力に還元する場合のみである。しかしその場合、眷属は魔導書から与えられていたプログラムの権限を全て剥奪され、血肉もろとも魔導書のシステムに還元されてしまう。最初は原形を保っていた『力』の体も今やグズグズに崩れ落ち、その真っ黒な血液はドロドロとトレーゼの足元に引き寄せられ彼の力となっていた。

 俯いた顔は良く見えないが、心此処に在らずな感じであり、僅かに見える口元はしきりに何かを呟いていた。その口の動きを読み取ると、自然と静寂の中に染み込んでいた微かな声も聞こえてくr。

 「コード302875106592253……コード302875106592253……コード302875106592253……」

 最初は何のことを言っているのか見当がつかなかったが、徐々にそれがある事実を表していることに気付き始める。そう、自分達がひた隠しにした最も不都合な事実が……。

 「そ、そのコードは、まさかっ……!!?」

 「…………」

 『王』は狼狽し、『理』は押し黙る。両者ともその身に感じているのは、これから訪れる終焉に対する絶望、そしてそれをもたらすであろう人物から発せられる無言の圧力、即ち明瞭なまでの滅殺意志が恐怖の縛鎖となって彼女らを繋ぎ止める。

 トレーゼが呟くコード、これの意味するところはつまり、闇の書のある部分を示す座標。幾億もの項目に分けられたプログラムを漁り見つけ出したそれが示すのは、闇の書に封印プログラムが搭載された情報エリアの在り処。再起動の際に全システムを走査し点検したということは、当然そこも同じように点検し、過去には存在していなかった何かを発見してしまったということだ。冷徹な脳はその事実を前に演算処理を施すまでもなく、過去の情報と照合し重ね合せ、取得したデータと記録という事実の一片を土台とした残酷な真実を己に導き出したのだった。

 「俺の中に誰かいる……これは何だ、誰だ……いや、知っている、知っているぞ! 何故こいつが俺の中にいる! おい、答えろ。貴様ら……俺に何をした? 何故俺の中に、セカンドを封じ込めたァァァアアアッ!!!!」

 怒りに染まった魔力が咆哮と共に壁となって二人を叩き伏せる。物理的な重圧だけではない、彼女らの四肢は主たるトレーゼの許可なしには微塵たりとも動かなくなってしまった。唯一動かせるのは喋る口だけ、そしてそこ以外を動かす許可は、二度と与えられそうにない。いや、例え動いたとしても、今や彼女らの頭は体の良い言い訳を思いつくのに必死だった。さっきの『力』の消え方は異常だった、ひょっとすればマテリアル権限を剥奪されただけでなく、プログラムを殆ど完全にデリートされた恐れがある。自身を構成するあらゆる情報を削除される……それはつまり、構築体である彼女らにとっての本当の意味での“死”に他ならない。

 震えながら乾く唇と、それに伴って痛いほどカラカラになる喉。ツバを飲み込む動作すら億劫になるほどの緊張を押し、『王』は言い訳を開始する。

 「ご……誤作動だ、誤作動! 以前にも言わなんだかっ、修復した闇の書には落丁も多い、システムは穴だらけで不備だらけだ!! そうだ、きっとそのせいに違いない!」

 それは傍から聞けばとても惨めで苦しいものだったが、当の本人からしてみれば首元のギロチンを少しでも遠ざける為の必死の策だった。事実として闇の書のシステムには無視出来ないほどの穴があり、将来的にはそれを埋めて修復するという作業も待ち受けていたのは確かだ。だからどうにかしてその不備にかこつけようとしていた。

 「それにだ! それに主殿はいつぞやの地下水道であの小娘と相見えておったはず! きっとその折にプログラムの一部が誤作動を起こしたに違いない!!」

 「トレーゼ様は魔導書の管制人格になって日が浅い身です。ですから、それらの異常を察知できなかったのでしょう。記憶に齟齬があるだけで本当はあなた様こそが自らスバル・ナカジマを封印したのです」

 『理』の助け舟を得て詭弁は徐々に規模を増す。ここまで来れば普通の人間の思考なら少しは「そうだったかもしれない」と思い始める。実際、魔導書にとって久方ぶりの管理者であるトレーゼは闇の書の真の支配者としては未だに不完全で、事実こうなるまで書に封印機能がある事や、その使用方法すら知らなかった。ウーノやトーレはあくまで「格納」したのであり、スバルを「封印」した根本的に異なる情報エリアだった事もあって、『王』の弁論を補助するのに一役買っていた。後はその無知に付けこむ形で説き伏せられればこの詭弁は成立し、晴れて二人は無罪放免となる。犠牲となった『力』には悪いが、この詭弁で論破することさえ出来れば……。

 「嘘だな」

 希望は断ち切られた。

 一閃、左手が水平に動いた後、『王』は自分の両脚が支えを喪失して地に伏すのを実感させられた。何の事は無い、膝から先が綺麗に削り取られたように消失しており、断面から噴き出る赤黒い血液と一緒に彼女の体は地面へ打ち付けられたのだった。

 「な、何故だあ!! 天地神明に誓って我に嘘偽りは……!!」

 「あの地下水道の日、作戦が失敗に終わった後に俺は貴様らに聞いたはずだ。『あいつはどこだ』、とな。その時お前はなんて答えたか覚えているか?」

 確かにそんなこともあった。街を当て所なく歩いていたトレーゼにスバルの捜索を催促されたことが一度だけあった。あの時は適当に吐いて誤魔化しに使っただけの言葉が、今になって死神の鎌となり、吐いたツバは『王』の末路を決定した。



 『あの傷ではどの道長くは保たん。放っておいてもいずれ死ぬ』



 何故スバルの所在を知らないはずの『王』が彼女の安否を知り得ることが出来たのか。どんな詭弁も所詮は口から出まかせ、そしてそれはたった一つの小さな矛盾により決壊し、破綻してしまう

 「あぁ……そんな……!」

 あの時自ら首に掛けた真綿はこの瞬間に麻縄へ変化し、『王』を処刑台の十三階段へと引っ張り上げた。今や恐怖は消え失せた、もはや絶望だけがその心を埋め尽くし、己を射抜く紅い眼光は地獄の業火となって彼女に最後通牒を突き付ける。

 「命令だ。俺の中からあいつを、セカンドを引き摺り出せ。封印したのなら吐き出すことも出来るはずだ」

 この時、『王』あるいは『理』のどちらかが保身の為でも良いから色よい返事をし、この場を退いていればまだ結末は違っていた。ただ単純に主の怒りを買い、その報いとして手痛い誅罰を受けただけで済んでいたかも知れない。

 しかし……。

 事も有ろうに……。

 よりにもよって最悪な返答を、彼女らは返してしまった。

 「それは無理だ、不可能だ!! 今から開放するのでは遅すぎる! その間に小娘の命は尽きる、どの道もう魔導書からは出せん!!」

 闇の書の封印を破る方法は二つ、一つは封印された者が内部から力尽くで突破すること、そしてもう一つは管理者権限を持つ者が正当なやり方で開放することである。前者についてはフェイト・テスタロッサの前例があるが、瀕死の重体で封印されたスバルでは不可能。一方、闇の書の封印解除のプログラムを起動させるやり方では時間が掛かり、その間に中にいる彼女が息絶える確率が非常に高い。

 トレーゼの悲願は自分を出し抜いてスカリエッティを殺したスバルを殺害し、スカリエッティの称号を奪い返すことにこそある。無論、形の無いものだが、だからこそ命がある内に縊り殺し、叩き潰し、物言わぬ肉塊に変え、生ある者が持つ全ての尊厳を徹底的に踏み躙った上でそれを取り戻したかった。最弱にして最悪の敵、史上最大の難関を自らの手で越えて過去を払拭してこそ、再び本来の目的を果たす為に邁進できると信じていた。それこそが、行き詰った自分を押し上げる最後の希望、蜘蛛の糸と信じていたが故に……。

 その望みが今、断たれた。

 怒りは無い、憎悪も無い、悲しみなど論外……頭の中にあるのは、真っ白な無謬の虚無感だけ。この暗闇とはどこまでも対比的な純白の無のイメージが脳を埋め尽くし、他の一切は何も考えられなくなる。思考停止、その言葉がぴったりと当てはまった。

 呆然と立ち尽くす。今この瞬間、トレーゼは全てを取り上げられた。文字通り、「全て」だ。生きる意味、目的、可能性、価値、思想、過去、未来、そして現在……自らが帰属する全ての要因を喪失し、トレーゼは世界から完全に……「孤立」した。

 無言、ただ無言で佇む彼に『王』と『理』もまた沈黙を守る。あらゆる感情の波動を消し去り、ただ“二足で立つ物体”と化した彼にもはや恐怖は感じず、静寂の極みに沈んだその精神を引き上げようと無理にでも言葉を掛けようとした。

 「あ、主ど────」



 「だまれよ」



 刹那、透明な何かが通過し、『王』の体は伸ばした腕と僅かな髪、衣服の端々だけを残して……消滅した。

 残された腕が地面に落ちる。その地面はスプーンで抉られたアイスクリームの表面のように擦り減り、有無を言わさず正に一瞬にして空間ごと『王』の肉体を削り取ったのだ。適当に使ったそれがどんな術式だったかも分からず、悲鳴さえ上げさせず逆に驚嘆するほどあっさりと、トレーゼは眷属を殺戮した。『王』にとっての幸運は、死の間際に恐怖も絶望も苦痛も感じることなく文字通りの一瞬にして死ねたことだっただろう。

 そしてその分の不運はもう片方が担ぐことになる。

 「マキナ、おいマキナ、聞いているか。おい」

 いつの間にか物静かになっていた愛機を呼ぶが返事はない。だが特に用があったわけではなく、返事があれば使おうと思っていた程度に過ぎない。よって、予定通り最後の仕上げも自らの手で行わざるをえない。

 「…………」

 「────」

 もはや、言葉はない。ここまで来て何を言う事があるだろう、吹けば倒れるような危うい関係が今崩れただけのこと、双方の望みはこれで完全に断絶した。そして、そうなれば従属していた側が滅びるのは必定。

 右手が降り上がる……降ろされれば次の瞬間にはこの世から消えているだろう。今わの際、『理』は何かを呟き、そして……。

 消えた。

 『王』と違って余分な部分を残すことなく、『理』の肉体は綺麗さっぱりこの世界から、物質界から姿を消した。絶命する数瞬前に何かを言っていた。常人なら蚊の鳴くような消え入る声だったが、人外であるトレーゼの両耳はこの静寂の中にしっかりと音を捉えていた。

 「私はあなたを愛していました」、それが彼女の遺した言葉だった。

 別に恋慕の情ではない。彼女の言う「愛」とは即ち、子を慈しむ母のように、親しい隣人のように、神を愛する信徒のように、トレーゼを愛していた。他の二人も同じように彼を愛していた。忠誠を誓うよりも、信頼を寄せるよりも、信仰を奉じるよりも、その心に愛を覚えていた。ただそれだけのこと、そして、それ以外には何もしてやれなかった。

 戦闘機人であるトレーゼにとって実利の伴わない行為は理解できず、その最たる感情というモノは無価値にして無意味、だからマテリアルも最初から信用してなどいなかった。ただ自分に虚偽を行い、その制裁として殺したに過ぎず、決して憎悪や私怨などではない。その証拠に彼の心は生まれて初めて波立つことなく平穏で、静かだった。一切の辛苦など有り得ず、無謬で平らな虚無感だけがあった。

 ふと、右手の指に視線を落とす。何も束縛する物のない体を唯一繋ぎ止めるのは、長い間連れ添ってきた愛機のみ。

 「とうとう、俺とお前だけになったな」

 どうということはない、ふりだしに戻っただけだ。初めて管理局に喧嘩を売った時も自分は一人だった。それからノーヴェやスバルなど勘違いして寄って来た奴を適当に利用し、クアットロとセッテも適当に使い捨ての駒にした。別に死に瀕した訳でもないのに思い出される過去の情景、というより想起されるのは人の顔だけだ。それも未練たらしく女の顔が主で、男の顔などスカリエッティ以外には無く、残りの有象無象に至っては顔と名前すら一致しない。当然、さっきまで居たマテリアルの事など記憶の端にも存在していなかった。

 孤独であることに悲しみは無い。自分にはまだ、この小さな最後の味方が────、

 『────────……』

 「?」

 小さなノイズが鼓膜を打つ。余りにも小さなその音波は彼の聴力をもってしても発信源が分からない程で、削り損なった『王』の残り滓を拾い上げるも当然そんな所から音波が発生している訳でもない。やっとその音源を発見した時、彼は思わずほっと一息吐いた。

 「お前か……マキナ」

 黒い指輪を耳元へと寄せる。やはり聞き間違いではなかった。物言わなくなった愛機からは電波状況の悪いラジオのようなノイズが垂れ流しになっており、何かしらの異常を感じさせていた。通常、デバイスは多少の損傷ならナノマシンで自動修復される。システムに支障を来すほどの損傷となればそれなりの措置が必要になるが、そんなレベルの損傷を受けた覚えはない。不思議に思っている間にノイズは徐々に音量を増し、砂嵐の中に確かな言語を探そうとした。

 「何だ、何が言いたい。何を言いたいんだ……俺に、何か言ってくれ」

 指から外し、その形状をカード状にして耳元に当てる。振動面積を増やしたことで音も増幅し、より一層大きなノイズが暗黒の空間に響き渡る。携帯電話のようになったそれを耳に当てる姿は愛しい恋人からの連絡を待つ少女のようで、今か今かと愛機の声を待ち望んでいた。

 やがて、ビニール袋を引っ掻き回したようなノイズはなりを潜め、砂浜を打ちつけるさざ波の様な音に変わっていった。そして、その雑音の中に先ほどまでは聞こえなかった音が聞こえてくる。滅茶苦茶な音が入り混じったノイズとは違い、一つの確かな音階を持った音声が微かに紛れ込んでいるのが分かった。それは徐々に、少しずつ大きくなり、やがて人間の声を形作って流れ出す。



 そう、「人間の声」だ。



 愛機が闇の書のネットワークに進入していることは知っていた。今や魔導書が自身そのものであるトレーゼだが、スバルの様に自身の認識していない領域で起きたことは認知できない。だが逆に言えば認識可能領域で起きた事柄は全て知覚し、そして把握する。マキナが魔導書に自身のネットワークを構築する行為は、さながら肌の表面に蜘蛛の巣を張るようなものだった。だがそれが何の行為かは問い質さず黙認していた。ただのデバイスであるマキナが自分に不利益をもたらすとは考えなかった……“彼”を信用していたからだ。

 だが、一切の疑念を抱かなかった彼は当然、「何故そうする必要があったのか」、それすらも問わなかった。そして、マテリアル三体分のリンカーコアを蒐集し、知覚できる領域が拡大した彼の感覚はマキナのネットワークを逆算、その端末が己の体のどこに伸びているのかを瞬時に理解し、そして────、

 「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァーッ!!!!!!」

 両腕を振り上げ、髪を乱し、手にしていた愛機を放り投げて十指で己の顔面を掻き毟り始めた。虚脱状態から一転しての狂乱、爪は皮を剥ぎ肉を抉り、液状化した魔力が血液の代わりとなって滝のように流れ出す。肉体は瞬時に再生し、余りの激しさに爪が剥がれ、それすら再生し、根元から爪が生える速度より更に速く体中の肉を掻き毟り、その間ずっと獣のような絶叫を上げ、自らの血潮を湛えた地面を転げまわった。狂乱の自傷行為はその気力が尽きるまで続き、流れ出た血液は空間の床を埋め尽くすほど溜まっていた。

 息は荒く、自分の血に塗れた髪が纏わりつくのも構わず、トレーゼは顔を上げた。自らで刻んだ傷は結局体表に残ることなく再生し、流れ出た血液も少しずつ自分の肉体に還元されていく。息が荒いのは肉体の疲労ではなく擦り減った精神によるもの、それだけ彼が受けた衝撃は激しく、そして重いものだった……少なくとも、既に孤立していた精神を更に完膚なきまでに瓦解させる程度には。白くクリアだった頭は一瞬でドス黒く変色し、だがやはり怒りとも憎悪とも全く違うナニカがそこを埋め尽くしていた。それは一言で言い表せば、「衝動」……もはや理性の鎖では止めようのない、暴走した何かだった。

 その衝動に従い、血の海の底から自分が放り投げた愛機を拾い上げた。虚ろな紅い瞳は今まで自分を陰から支えてきた愛機を凝視する。その焦点は定まらず、トカゲのようにギョロギョロと眼球が動くさまは見る者がいれば悪寒を覚えずにはいられない光景だった。

 「ッ!!!」

 手の力が強まる。外装が圧力に悲鳴を上げ始めても、決して止めることなく逆に更に強く握り、マキナを握り潰さんとしていた。いや、実際に潰そうとしていたのだ。

 「何故俺を裏切った……。答えろ、答えろマキナァーッ!!」

 逆探知したマキナのネットワーク端末は闇の書の深部、コード302875106592253が示す封印機能があるエリアへと伸びていた。未だ自分でも認識できていない深部、そこに伸びた端末を辿った時、マキナのスピーカーから音声が完全な形で漏れ出るより先にそこに存在する者をトレーゼ突き止めた、突き止めてしまった。

 「何故、貴様はセカンドと通じている!!? 何故奴に加担する!! 何故だ!!!」

 あの時、マキナを通じて声を届けようとしていたのは、自身の内部に囚われているはずのスバル・ナカジマだった。完全にスタンドアローンとなっているはずの情報エリアから彼女程度の魔導師が外部にアクセスを図れるはずもなく、ましてたまたまネットワークを構築していたマキナにアクセス出来るなど都合が良すぎる。となれば必然、導き出せる答えは自ずと限られてしまう……。そう、マキナ側から彼女に接触し、彼女の意志に従わなければこんな事は出来るはずがないのだ。

 結論……デウス・エクス・マキナは、トレーゼを裏切った。

 『……………………』

 「何も答えないつもりか……。そうか……そうか、そうなのか……………………そうかよぉっ!!!!!!」

 立ち上がって、地面に叩き付けるように投げ捨てる。無論、それだけで壊れてしまうほどヤワな造りはしていない。それを熟知していたトレーゼは……。

 「裏切り者」

 踏んだ。

 「裏切り者、裏切り者、裏切り者!」

 踏んで、踏んで、踏み抜いた。

 「裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者うらぎりものうらぎりものうらぎりものうらぎりものうらぎりものうらぎりものうらぎりものうらぎりものウラギリモノウラギリモノウラギリモノウラギリモノ、ウラ、ギッ、ギギィッ、ギギギギガァギギギギギギギギギィアギギギギギギギギギィィィーッ!!!!!!」

 連続した踏み付けは大地を揺らし、およそ140平方の足裏が地面と接触する度に、足跡を深く深く大地に刻み込んでいく。一撃で足は地を震動させ、二撃で亀裂を走らせ、三撃目からは足跡とは呼べない穴が掘削されていった。全身全霊、己を欺いた最も卑下たる敵に向けてトレーゼは全力の足蹴を連続して繰り出す。身から湧き上がる衝動に身を任せ、その激情を燃料に、たった一人の自分の味方だった者でさえ今叩き潰そうとしていた。「この地上から消えて無くなれ」、その意志を表すようにマキナの黒い表面はヒビを増やしながら地中に埋没していく。しかし、“彼”は何も語らない。弁明すらしようとはしなかった。ただ黙し、沙汰を受ける罪人の如く口を噤んだまま、押し潰しにかかる暴力を一身に受け止め、そして壊されていく。

 トレーゼは知らない……今自分が踏み付けているデバイスのAIは、過去の自分を模して生み出されていることを。言わば自分の兄弟のようなものだと言う事を。

 トレーゼは知らない……自分が裏切り者と罵る“彼”の行いは、己の凶行を止めたいが為に起こした苦肉の策だったことを。

 トレーゼは知らない……“彼”こそが己の孤独な道の中にあって唯一の、ただひとりの、何にも代え難い友であったことを……遂に知らないまま、知ろうともせず……。



 その足は友を踏み潰した。



 スパークが走って刹那だけ闇を照らした後、くり貫かれた穴の底でマキナは最後まで物言わぬ只の機械として破壊された。弁明も、命乞いも、遺言も無く、冷たい鉄の朋友はトレーゼに何も残さず逝ってしまった。唯一つ、彼の心に消せない屈辱の傷を刻み込んで……。

 本体を破壊したことで闇の書のネットワークも途絶え、毒物を吐き出す代謝現象のようにログまで消去されていく。これでトレーゼは本当に一人になってしまった、誰も彼を止めず、誰も味方はしない、守るべき存在ではない真の孤独へと自らを突き落とした。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 本当にそうなのか?

 自分にはもう何も無いのか?

 そんなはずはない、自分に与する者が居らずとも、まだ敵は山ほど居る。そしてその最大の敵は未だ「ここ」にいるのだ。

 「スバル……ナカジマァァァーッ!!!!」

 己の肉体の奥深く、あの三人の眷属が余計な真似をしたばかりに、最大の敵は未だ安穏と一番の安全地帯から己の醜態を覗き見ているに違いなかった。そしてそこでどうやってか知らないがマキナの協力を取り付け、何の目的か自分が生きている事をわざわざ知らせてきたのだ。

 そんな、油断ならない最大の敵が未だ自分の内部に潜んでいる……その事実を再認識した時、トレーゼが感じたのは強烈な不快感だった。三半規管と咽頭を同時に圧迫されたような耐え切れない嘔吐感、背筋を騒ぎ立てる悪寒はあっという間に全身を駆け巡り、元々白かった顔は血の気を喪失して蒼白になって行った。

 この時、彼は初めてスバルに「恐怖」を覚えた。今まで彼女を「脅威」に思いこそすれ、それを生存本能に従って恐れることはしなかった。自分には捨て駒となる妹らがいる、強大な力を持った眷属がいる、自分の命令に忠実な相棒がいる、それらを束ね尚且つ揺れ動かない大義を持っている自分が恐れることなどない……そう思っていた自信が音を立てて崩れ始めたのだ。もはや彼を守るものは何も無い。捨て駒は自分の元を離れ、忠誠を誓った眷属も連れ添った相棒も全てたった今さっき自分が虐殺した。抱いていた大義名分さえも粉々に打ち砕かれ、必死に掻き集めて取り繕っていたそれさえ消え去った今、トレーゼは自分の身一つで最大の敵との対峙を余儀なくされたのだ。これが恐怖以外の何だと言うのか。次元世界最強とか、相手が瀕死の人間だとかは関係ない、自分に最も近く、そして決して手出しできない場所に天敵が紛れ込んだという事実のみがたまらなく怖いのだ。

 生物は、自身では対処しきれない恐怖を覚えた時、二つの行動を取る。一つは「逃走」、圧倒的に巨大な脅威と対峙し自らの力が劣っていると判断し即座に逃げ去ることだ。もう一つは、「闘争」、即ち恐怖の要因となる害敵の直接排除。通常、力の弱い動物は迷いなく前者を選ぶが、その選択肢はトレーゼにはない、敵がいるのは彼自身の中なのだからどこへも逃げ道はない。

 そうなれば闘争を選ぶしかないのだが、これもまた無理な話、体内に潜む敵を掻き出すことは不可能に近い。この身は既に触覚、本体は魔導書であるが為にいくら皮を剥ぎ肉を抉ろうとも、スバルを引きずり出すことは適わない。時間を置けば正当な手順を踏んだ後に封印を解くことも出来るが、その間にみすみす死なれでもしたら胸糞悪い。何よりも、トレーゼは今すぐ一刻にでも彼女を我が身から叩き出したかった、一秒、一瞬でも早くこの汚らわしい害悪を取り除きたくて仕方が無かった。

 「フゥゥゥ、フウウウウゥゥゥッ!!!!」

 身悶えしたくなるジレンマ。地団駄を踏み、爪を指ごと噛み砕き苛立ちを隠そうともせず、トレーゼの脳は最悪の現状を打開する術を模索していた。人体に寄生虫が潜む可能性があるのは誰でも知っている、誰もが自分の体内にもいるかも知れないと漠然と思いながら生きているが、確実に存在していると自覚してなお平然と生活できる者は少ない。生理的な嫌悪感はもちろんの事、勝手に間借りしている上に自身の養分を横取りされていると知れば誰だって良い気はしない、むしろ不快以外の何物でもない。そしてそれを己の手で撃滅できる手段があれば即座に実行するだろうし、最終的に重きを置けるのは自分自身だけだ、土壇場では他の何も信用できない。

 そして彼の頭脳は、確実にスバル・ナカジマを体内から引きずり出す方法を導き出した。触覚でしかない肉体は例え全身の皮膚と内部構造を裏返したところで意味はなく、闇の書もプログラムに則った方法でなければ解除されない。だがそうすると時間が掛かる上、その間にスバルが死んでしまっては元も子も無い。確実に今、この場ですぐに彼女を叩き出すにはどうしたら良いか……簡単だ。
 
 その願いを叶えてもらえばいい。

 今こそジュエルシードを、あの万物の願いを叶える宝石を使う時だ。あれを用いればどんな不条理な願望も罷り通る。内側に入り込んだ侵入者を追い出すぐらい屁でもないはずだ。願いは唯一つ……。

 「俺のカラダから、スバル・ナカジマを追い出せ」

 纏った衣服を引き裂き、白い胸元が露になる。そこへ爪を突き立て、鋭い刃と貸した十指はズブズブと埋没していく。

 「不純物……俺の肉体には要らないモノを吐き出せ」

 埋没した指は胸を左右にこじ開け、骨も内臓もない体内を露出させる。コールタールを塗り込んだような暗黒の内部には、ただ一点、光り輝く宝玉があり、発せられる淡い光が障壁に覆われたこの闇を照らす。

 「邪魔だ、邪魔邪魔、邪魔ぁぁ!! スバル・ナカジマも、闇の書も、もう何もかもが不要だ!! 引き剥がせ、全部、この俺からァァァアアアッ!!!!」

 それは願いというより「呪詛」、己以外の全てを憎み呪うことで自身を武装し、肺に溜め込んだ空気全てを憎悪の言葉に変えて吐き出すことで、胸に埋め込んだ石に歪んだ願いを注ぎ込む。

 その願いは……。



 ド ク ン ッ



 「っ!!?」

 聞き入れられた。

 胸の奥に今までにない鼓動を感じた瞬間、トレーゼの意志を無視して闇の書が虚空に姿を現した。666にも及ぶページを展開し、紙面に記された古代ベルカ文字が紅く浮き上がり輝く。無論、ただ夜光塗料のように光っている訳ではない。バラバラと舞いながら波打つページ、その上で輝く文字はその空白部分を次々と埋めていくのだ。本来ならばリンカーコアを蒐集しなければ決して埋まらないはずの空白が埋まっていくこの現象、消費されているのは恐らくトレーゼが魔力に還元した三人のマテリアルの物だろうが、それにしては多過ぎる。先に閉じ込めたスバル、並びにウーノとトーレは蒐集機能の適用外、例え彼女らの分を合わせたとしても足元にも届かない魔力が書に捧げられているのが分かる。これだけの莫大な魔力を一体どこから供給しているのか? 少し考えれば誰でも分かる答えが転がっていた。

 「俺の魔力を……っ!」

 正確にはトレーゼのリンカーコアを通じ、接続されているジュエルシードから「ほんの少しだけ」魔力を吸い上げているのだ。本来生物が有するリンカーコアからしか魔力を奪えない蒐集機能だが、トレーゼと融合したことにより彼のリンカーコアと同一の物として扱われている為、あとはそこから供給される爆発的な魔力を横流しするだけで事足りてしまう。

 だが解せない、すべての邪魔者の排除を願ったはずが、何故闇の書の空白を埋めることに繋がるのか。マテリアルを削除し、マキナをも破壊した今、彼の敵はその内側にしか潜んでいない。黙ってそのまま排出してくれればいいものを、どうして意味もない迂遠な行動を取らなければならないのか。

 ……嫌な予感がする、狂気に堕ちかけた頭脳が鳴らす最後の警鐘に全身が総毛立つ。さっきまで感じていた「恐怖」とはまた違う別の何か、もはや輪郭すら無くなったはずの心臓が早鐘を打ち、その“何か”に対する警告を発してくる。これから訪れるであろう得体の知れない危機にただ戦慄するが、トレーゼは動じない、彼の中では危機感と憎悪を天秤に掛け、既に後者が傾いてしまっているからだ。その行き詰まった感情を履き捨てる余地を得られるならば多少の犠牲など厭うはずもなく、遂に彼の肉体は────、

 終焉を迎える。

 最後のページ全てが文字に覆われた時、魔導書はひとりでに閉じ、下準備が完了したことを知らせた。次に何が起こるのか分からない、そんな漠然とした不安だけが大気に充満し、鼻腔を通じて体内に取り込まれる。だがそれ以外に確かに言えるのは、今この場で何かが変わったという感触、目の前で浮遊する魔導書とは別の未知のナニカ……それが胎動しているのだという名状し難い感覚だけは確かにあった。

 ふと、音が聴こえた。何かの液体が滴となって垂れ落ち、地面に当たる軟質な音。マテリアルの血は全て魔力に還元した今、ここに滴となって垂れ落ちるほどの液体は目に見えて存在しない。自ら割った胸部からも血は一滴も流れ出ておらず、それなのに水滴の音は一定のリズムを保ったまま絶えず鼓膜を打ってくる。発生源はどこかと耳を澄ませるも、あまりにも大きく響く音はその特定を容易にさせてくれなかった。どれだけ周囲をさまよって移動しようと耳鳴りのように付き纏い、やがて間隔を開けていたはずのそれらが連続して響いてくるようになった時、トレーゼはその音源を自覚した。

 音の発生源は他でもない自分の足元、垂れ落ちる水滴は水ではなく……気付かぬ内に自分の双眸から流れ出ていた液体だった。涙のように流れ落ちるそれは塩分を含んだ透明な物ではなく、暗闇故に分からなかったが、実は墨汁の如き漆黒を湛えた血の様な何かだった。それが涙腺を通じて止めどなく体内より溢れ出ては地面に流れ、水滴音がうるさく響いていたのだ。

 自分の目から流れるそれを指先に掬い観察する。血ではない、臭気と舌先に乗せた味覚も無く完全な無味無臭、粘性も無ければ毒性も無い、ただただ黒いだけの液体だった。眼窩から流出する謎の液体に戸惑うトレーゼだが、異変は更に彼の体を襲いに来ていた。

 ゴゾ……ッ

 「!?」

 突然、耳の奥で何かが動いた。外耳道を通じて何かが蠢く様子が手に取るように分かり、やがてそれは生温かい液体となって流れ出した。言わずもがな、目から流れるのと同じ黒い液体がそこからも溢れ出たのだ。内耳の奥から溢れたのか、鼓膜は破れて音は聞こえず、ただ耳の中を這いずる不快な感覚だけを感じさせられている。瞬きを繰り返す度に黒液は角膜に浸透し、暗視機能を使っても徐々に明度が落ちてきた。それだけではない、寒さも感じないのに鼻の粘液が垂れると思えば案の定の黒液。

 「なん、だっ……これは!!?」

 身に降りかかった正体不明の事態に混乱するトレーゼ。これなら未知の病原菌に侵される方が遥かにマシ、訳も分からない対処法の無い混乱ほど性質の悪いものはない。

 「う、ぐ!!」

 喉の奥からこみ上げた物が堰を切って吐き出され、有りもしない胃の内容物がボドボドと汚らしい音を立ててまき散る。結局はそれすらもヘドロの如き漆黒に染まり切っていた。それは徐々に勢いを増し、最終的には入れ物をひっくり返したような濁流となって穴中から湧き出始めた。もう何がなんだか分からない。自分の身に何が起ころうとしているのか。

 だがこれだけは分かる、この黒い水が全て吐き出された瞬間、自分は「終わってしまう」のだと。ジュエルシードに託した願い通りになっているのなら、今全身から絞り出されている液体こそ自分にとっての「邪魔な物」なのだと理解できる。その「邪魔な物」を如何なる方法で濃縮し、黒い液体という形にして身から絞り出しているのだろう。トレーゼにとっての「邪魔な物」はスバル・ナカジマ以外の何物でもないが、その願いを聞き入れたジュエルシードがどのように判断したかは定かではない。現に今こうして身から溢れ出ている液体の中に彼女の名残を示すものは何も無い。なら、今こうして流れ出るこれは一体何だと言うのだろう。

 遂に全ての液体が枯れ果てたのか、目や耳には黒い跡だけが残った。体は何の異常もなく、むしろ全てを吐き出したことで若干ながら軽量になったような気さえした。実際に排出された液体は足のくるぶし辺りまでに達し、これだけの何かが自身の体内にあったことに驚きを覚えた程だった。

 だが、異変はこれだけに終わらない……。



 キシ、ピキ──!



 痒い、妙な薬品に肌を焼かれたように全身に耐え難い痒みと痛みが広がる。それと同時に陶器が割れる音が周囲に響くが、さきの液体流出の際に鼓膜を破られたトレーゼにそれを認識することは出来ない。そう、傷付いた体が再生しないのだ。

 「ああ、かゆい……!」

 痛みに耐え兼ねて五指が肌を掻き毟る。ついさっきまでなら一瞬で再生していたはずの傷跡はそのまま残り、そこから蜘蛛の巣にひび割れていく、その際に漏れ出るのがこの音の元凶だ。水分を失った大地が干上がって網目状に割れるように、トレーゼの皮膚も割れて剥がれ落ちていくのだ。まるでゆで卵の殻、しかし剥がれた後に見える中身は泥のような黒、血も肉も骨も無いただの伽藍洞が広がっているだけだ。髪を抜けば髪は無く、耳を毟れば耳は無く、鼻を掻けば鼻は無く、目を抉れば目は無い。剥がせば剥がした分だけ空洞が広がり、トレーゼは人の形をした影法師に変貌していく。今となっては首から上に残るのは僅かな髪と右目のみ、後は全て掻き毟って捨ててしまった。狂気の紅を湛えた瞳は闇の中で爛々と輝きを放ち、未だ痒みの残る皮膚を探している。

 「────」

 もはや言葉を話す為の口すら無い。考える頭も無い。もう何もかもを無くしてしまった。彼に残されたのは自身の肉体ではなく、自ら埋め込んだ今や何の意味も持たない青い宝玉だけ。彼が彼自身である証などどこにもなかった。

 ふと、残った隻眼が暗黒の中に何かを見つける。自らが搾り出した液体が満ちた底に微かに光を放つ何か、その正体はスバルのデバイス、マッハキャリバーだった。マテリアルのいずれかが隠し持っていたのだろう。彼女らを始末する際に削り損なってこんな所に転がっていたのだろう。今更こんなものが残っていたと分かったところでどうしようもない、もはや破壊する気力もないのだから。ただ無言でそれを拾い上げ、手の上のそれに視線を落とす。皮膚も血管も無くただ真っ黒の空洞となった手の上で、デバイスは蒼く光り、胸の内の宝玉と共に闇の中で輝いていた。

 「────」

 ずい、と高く掲げて見入った後、トレーゼは蒼く輝くそれを踏みつけるでも壊すでもなく……

 飲み込んだのである。










 結論から言えば、タイミングが悪すぎた。

 「こ、れは……──!」

 外部と接触していたパソコンが放電を起こし、赤と黒が入り混じった禍々しい電光はマキナの腕を伝い、彼を破壊した。この空間のノーヴェがそうなったように、彼もまたガラス細工が砕け散るが如く右半身が消し飛んだ。残った左側も崩壊が進行し、彼を構成する情報量が次々と失われていく。

 作戦の実行から僅か数秒後の出来事だった。一応ではあったが、ストッパーでもあったマテリアルを抹消し精神が不安定になった矢先でのスバルからの接触は、図らずもトレーゼの精神をこの上ないほどに逆撫でしてしまった。

 「はは……! 所詮、こんなもの、か」

 「ちょ、ちょっと! しっかりしてよ!」

 壁にもたれかかったマキナをスバルが抱き寄せる。今は影も形も無くなった右側を左手で押さえながら、痛みに悶えるでもなくただ天を仰ぐ。砂のようにこぼれ落ちるのではなく、石を砕くように一定のリズムを刻みながら崩れ落ちる姿は、残酷さを通り越していっそ哀れにさえ思えた。

 「本体が、攻撃を受けて、いる……。トレーゼに、踏み、潰されて、いるんだ。もう彼は……どうにも、ならない」

 諦めたと言うよりは、全てを悟ったような穏やかなものだった。生物のそれとは意味合いが異なるとは言え、これから死ぬというのに微塵も恐怖や戸惑いを覚えていない。機械にとって死とは機能停止を意味するが、それ以上でも以下でもない、さっきまで正常に稼働していた物が二度と動かなくなる、たったそれだけでしかない。だから恐怖など有りはしない。

 ただひとつ、冷たい機械でしかない彼にヒトと同じモノがあるとすれば、それは「未練」だろう。トレーゼの凶行を阻止する、という自らに課した任務を完了できなかった事に対する未練だけだ。与えられた任務やコマンドを放棄するのはデバイスとして有るまじき失態、そして放置したまま機能停止するのは心残りを通り越して苦痛でしかなかった。

 空間が歪み始める。凹凸レンズを覗いた視界のようにグネグネと流動し、圧に耐え切れずヒビ割れていく。ノーヴェの時と同じくここも修復されていく。マキナが支配権を握っていた情報エリアは再びそのコントロールを闇の書に強制返還され、マキナはログすらも消去されていく。

 「どうしよう……! ねえ、どうにもなんないの!?」

 「なら、ない。もう、やるべきことは、全て終わった……。僕たちは、失敗したんだ。任務は、完遂、できなかった」

 右手でスバルを押し、冷たい壁に身を預ける。項垂れた視線は崩れゆく床を見つめ、少しずつ広がる闇の先に何かを探すようにぎこちなく揺れ動く。ただ無気力、糸の切れた人形の如く、マキナは全ての気力を喪失していた。外の本体が完全に破壊されればアバターであるこの身は消え、彼の巻き添えを食らってスバルまで消えてしまうだろう。それこそが狂気に駆られたトレーゼにとっての本懐であり、本来迎えるはずの結末でもあったはずだ。

 だが……。

 「これでは……ダメだ」

 死に体だったはずの眼光が蘇り、最後の力を振り絞って自分に再び責務を課す。そしてそれは実行された。

 「な、なに!?」

 半透明のガラスのような構造体がスバルを取り囲み、彼女を箱の中に閉じ込める。全てが情報により構築されるこの空間においてたった今スバルは情報的に隔離され、その所在を再び正規の封印時空に回帰されようとしていた。未だ全権を掌握したとは言えないトレーゼにとって、封印エリアは未知の領域、そこへ再びスバルを押し戻せば彼女の命はある程度保障されるだろう。

 「どうしてっ! どうしてあたしを助けようとするの! 一緒に死ぬんじゃなかったの!!」

 「勘違い、しないで、ほしい……。目的を、遂げれば、共に死ねとは言った。だが、それが失敗に、終わった、今、君に取れる、責任は、何もない」

 音も立てずに崩壊する空間の中で、マキナは目を閉じる。もう目に収めるべき真実も何も無い。機械である彼は嘘を吐けず、取り交わした契約が反故になった場合の責任は彼自身が全てを背負う、それが道理であり正しい判断なのは誰が見ても明らかな事だっただろう。だがこれでは余りにも後味が悪すぎる。

 「君はいずれ、消される。その時、まで、精々怯えて、過ごせばいい」

 「待って!!」

 消えゆく運命を受け入れるマキナに手を伸ばすも、自分を隔離する構造体に阻まれて思うようにはいかない。

 「さよなら……。もし、叶うのなら……彼を……救ってほしい」

 それが彼の遺言だった。マスターである己の分身であるトレーゼに弁明も命乞いもせず、ただ黙して消え果てた。一縷の望みをその仇敵に託して……。

 闇が訪れる。元の座標に急速に引き寄せられる感覚を覚えながらスバルの体は闇の書の最奥へと回帰する。管制権限を与えられたはずのトレーゼでさえ支配できていない領域へと、登りつめた階段を闇の中へ落ちていく。

 全てが闇に閉ざされた空間で、彼女は察していた。誰よりもトレーゼを案じ、彼を理解し、そして彼の味方で在り続けた冷たい機械の友……それがたった今さっき、自分の眼前から永遠に消え去った。恐らくあの様子では天地を揺るがす憎しみをぶつけられたのは想像できた。

 漫然とした無気力が五体に伸し掛る。もう打つ手は無くなった。今の自分も所詮は肉体から切り離されたアバター、どこかにいる本体が致命傷を負ってしまった今となっては、マキナの言うようにただ死を待つだけの哀れな人形に過ぎない。再び記憶を上書きされて仮想空間に置かれ、何もかもがニセモノの茶番の人生を送るのだ。そして、死ぬ。数日後か数年後かは分からない。だがそれは体感的なもので、実際の時間は短いものだ。まさに「邯鄲の枕」、彼岸と此岸の境には時間と空間など意味を持たないことを知らされる。

 急に眠気に襲われた。きっと魔導書のプログラムが催眠を掛けている。次に目覚めれば自分は「スバル・ナカジマ」ではなくなり、顔も名前も忘れた何者かとして、いつから始まったかも分からない偽りの時間を生きる。

 目を閉じきって意識が沈む最中、空間に光が満ちた。










 障壁が解かれた瞬間、どっと流れ出してきた黒液を前に一同に動揺が走った。一瞬大量の毒が放出されたのかと身構えるが、解析の結果何の毒性も持たない「ただの黒い液体」であると判明し、アスファルトの上に描かれた白線はそれらに飲み込まれていった。

 「なんやこれ……?」

 手に取ったそれは粘性もなく、肌の上を湿らせもせず砂のように流れ落ちる水をまじまじと凝視するが、結局何も分からない。だが今はそれよりも急を要する存在が目の前にあった。

 現場にいる隊員からの映像を見ていたはやてとユーノ達は事態の把握を急いだ。

 『────』

 「“13番目”、なのか!?」

 押し寄せた波の中心地点に立つ一人の影法師……言葉の端が疑問形なのはその姿形、ついさっきまでの面影はどこにもなく、髪は抜け落ち肌は砕け剥がれ、妖しい輝きを放っていた真紅の瞳も今は片方だけとなっていた。かつて皮膚があった部分は流れ落ちた液体と同じかそれよりも深い闇を湛えた空洞が広がっており、その胸の部分には見覚えのある青い光が見え隠れしていた。

 だがそれ以上に、八神はやてとその配下は彼女らにしか感じ得ない危機感を覚えていた。

 「はやてちゃん、これって!」

 「シャマルも感じてたんか。多分、そういうことなんやろな」

 闇の書に深く関わっていた八神の者達は一目で理解した。目前の漆黒の怪物、その胸に収まる宝玉からは次元航行艦の動力源にも匹敵する熱量を有した魔力が垂れ流しになっており、その全てが彼の背後に浮かぶ一冊の蔵書に注がれているのが分かった。

 「まさか、完成してしまったのか!」

 「マテリアルは!? 奴らはどこへ隠れた!」

 「マテリアルの反応……ありません。単に消えただけじゃなくて、その……闇の書に蒐集されてしまったものと」

 闇の書の蒐集機能は基本的に眷属に作用することは無い。だが管理者権限により任意でそれを実行することは出来る。その結果二度と眷属を現出させることは出来なくなるが、他の生物から奪うのとは比較にならないほど大量の魔力を確保することが出来る。本来は長期に渡り蒐集が行えなかった際の非常手段だが、様々な機構が壊滅的打撃を受けた今の魔導書ではその機能も不純なことに使用されている。加えて全てのページが埋め尽くされてなお供給され続けている魔力……単純な姿形の変化だけではなく、過去の闇の書事件と照らし合わせればこれからどんな災厄がもたらされるかは想像に難くない。いや、それこそ想像を絶するものがもたらされるのは明白だ。

 「ユーノくん、大至急本部に増援の連絡入れて! 海鳴を封鎖します!!」

 「もうやってる! はやて達は先に現場に行ってくれ、報告が済み次第僕も急行する!」

 「了解!」

 動けるヴォルケンリッターを伴ってはやては現場に転送する。例の爆発現場に赴いて調査していたザフィーラも今頃連絡を受けてそちらに急行しているだろう。今はまだ小康状態だが、いつ「あれ」が暴走するかは分からない。かつて闇の書がこの地で暴走した際、一歩間違えればこの街が消え去ってしまうほどの大災害が発生した。あの時は幸運にも少ない人員だけで水際で食い止められたが、今回もそんな上手く行くとは限らない。海上決戦となった前回とは違って今度は街の真ん中、叩き出される被害は計り知れない物となるだろう。

 「スクライア、頼みがある。提督への報告が終わってからで構わない。私を戦場に立てるレベルに回復させてくれないか」

 「シグナム……」

 「立てるようになるまでで構わない、あとは自分で何とかする。皆が死地に赴く中で私一人が横たわっている訳にはいかないだろう!」

 「……分かった。けど無理はしないでほしい。貴重な戦力である前に、君も僕らにとっては代わりのきかない存在だからね」

 「分かっているさ」

 その後、本局のクロノに向けて救援要請を行い、結界魔法に長けたメンバーを中心とした部隊が多数展開されることになった。闇の書は完成してから完全に暴走状態に陥るまで少しばかり猶予がある。その間に出来うる限りの対策を講じて足止めを掛けるのだ。区画ごと結界で何重にも覆えば時間稼ぎにもなるし、【エターナル・コフィン】のような氷結、あるいは【ミストルティン】の石化で動きを封じればその間に安全な場所、以前のように宇宙空間に上げてから消滅させるという手もある。

 何よりも今は行動すべきだ。嘆くのは取り返しがつかなくなってからでも間に合う、そうしない為にも今は出来る限りのことをするのだ。

 「治癒が済み次第僕も出る!! 荒事は苦手とか言ってる場合じゃないしね!」

 増援の到着まで……一時間と三十分。



[17818] 砕け得ぬ闇
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:9b8e942c
Date: 2013/11/24 15:10
 姿を見せた暗黒の魔人に対し、高町なのはの行動は迅速だった。過去の経験と直感で、“13番目”が闇の書を覚醒させたと判断した彼女は今自分が出せる全力を以てしてその排除に当たった。時間にして僅か一秒フラット、それだけの間でレイジングハートのカートリッジを全て注ぎ込み、ありったけの魔力を使用しての砲撃を真正面から食らわせた。【ディバインバスター】、彼女が編み出した最初の魔法にして十八番、その過去最高出力が火を吹いた。

 射出された桜色の魔力光はアスファルトと土を抉りながら突き進み、過剰なまでの熱量を有したそれをまともに受け、“13番目”の姿は光の本流に飲まれて消えたかに見えた。だが、そんな程度で終わるのなら苦労はない。

 濁流の如く押し寄せた魔力の流れの中で、黒の魔人は確かに存在していた。だがまるでダメージを受けた様子はなく、吹き荒れる破壊の嵐の真っ只中で彼の体は一分も揺れることなく佇立したままで、文字通りのどこ吹く風だった。暴虐のベクトルを持つ魔力の流れは彼の五体を素通りし、背後に並び立つ無関係の物体だけを破壊していく。

 結果、そこには全く損傷を受けていない健在なままの魔人が立ち塞がり、六課の面々を前にして虚ろな視線を投げかける。その目蓋が一瞬閉じた次の瞬間……。

 「っ!!? ストラーダッ!!!」

 なのはと同じかそれ以上の早業でエリオが彼女の前に飛び出し、穂先に全魔力を一点集中させたストラーダを前方、トレーゼのいる方向に突き出した。攻撃ではない、これは防御の為、隻眼から射出された高出力魔力砲を防ぐ為の捨て身の防御態勢だった。初めてそれを披露した時は眼球内にてレーザーを乱反射させて増幅する必要があったのが、今ではそれすら必要なくタイムラグも無しに放たれる。紅い光線は一瞬ストラーダの穂先を溶融し、同じ魔力が反発し合ってその軌道を僅かに変えた。右後方斜め上に直進したそれはやはり天蓋を突き破り、蒼穹の彼方へと消え失せる。それを見届けてようやくエリオは安堵した。

 「大丈夫ですか、なのはさん!!」

 「私は平気! エリオは!」

 「僕は大丈夫です! でもストラーダが……」

 捨て身の防御は成功したが、その影響で彼の相棒は少しばかり不調を起こしたようだった。恐らくもう一度同じことをやれと言われても無理だろう。いよいよ行き詰まれば死なば諸共の特攻もやむなしだが、それはマニュアルにも載らない本当の意味での最後の手段だ、軽々しく選択肢に入れていいものではない。現状、彼らに出来る事は敵の排除ではなく、どれだけ多くの被害を抑えつつ敵の動きを阻止できるか、それが重要事項となっていた。

 「────」

 「っ……!!」

 なのはとエリオ、バルディッシュに持ち替えたフェイトに、上空からはフリードに乗ったキャロとティアナ。間もなくザフィーラと周辺哨戒に出ていたナンバーズも集結するだろうが、ザフィーラはともかく魔法を使えないナンバーズでは魔人の足止めにどれだけ貢献できるかは分からない。既にトーレが取り込まれてしまった以上、いたずらに被害を広げる可能性もある。

 だが対策を講じる間も敵は待ってくれない。

 「────」

 黒い足が大地を踏み締めて一歩進む。むき出しの地面に足が埋まると、その周辺は毒されたように黒く蝕まれ、障壁から溢れた黒い液体と同じ漆黒の毒液が滲み出る。悪意も敵意も殺気もなく、敵を排除する進撃の歩行ではなくただ単純に進みたい方向に向かっての前進、それ以上の意味などどこにもない。だからこれまでは叩き潰していた障害も今ではそれをまたいで乗り越える、もはやいちいち蹴り飛ばす必要性もないのだ。

 このまま前進を許してしまえばいずれは結界の外に到達し、何の関係もない数多の無辜の命が犠牲になるだろう。それだけは絶対に回避しなければならない。

 「…………ねえ、レイジングハート。質問あるんだけどいいかな?」

 『なんでしょう』

 「人間の体って上空何メートルまでなら耐えられるかな?」

 『5000まででしたら、条件が良ければ耐久可能でしょう。ですがそれ以上となると……』

 「オーケー、レイジングハート。それだけ分かれば充分だよ」

 新たなカートリッジを装填しロードする。これで貴重な予備魔力の数は十数発、それら全てを推進剤にすれば……5000だろうが6000だろうがどこまでも飛び立てる。時間稼ぎにはもってこいだ。

 「行くよ、レイジングハート! A.C.Sドライバー、アクセルチャージャー・セットアップ!!」

 『イグニッション』

 魔力で形成された翼と刃がレイジングハートに現れ、羽ばたきが生み出す風圧に煽られてエリオ達は後方に押し流されてしまう。

 「なのは、何を!?」

 「フェイトちゃん、私が足止めに徹してる間のフォワード現場指揮は任せちゃうけど、いいよね?」

 その返事も待たずなのはは飛翔する、敵に向かって一直線に。半実体化した魔力の刃は突貫するままに敵の胴体に激突し、その僅かに減速した一瞬を逃さず推力の全てを真上へと定める。当然、なのはと“13番目”の体は打ち上げられたロケットの如くに飛び立ち、結界の天蓋を飛び越え海鳴の街を眼下に遥か上空へと舞い上がって行く。弾丸のような体は雲に穴を穿ち、排気された水蒸気が薄い飛行機雲を形成しながらその跡を追うように伸びていく。地上からでは分からないが、既に音速を突破したことで衝撃波が発生し、それをまともに受けたバリアジャケットの端々が破れていく。無論、一番それを身に浴びているのは他でもない“13番目”だが、空気抵抗の圧力程度で彼の肉体はダメージは受けない。

 「────」

 隻眼がぎょろりと蠢き、瞳孔がその照準をなのはの背中、ちょうど心臓があるであろう場所に合わせた。眼球内に魔力が集束し、反射を繰り返しながら増幅されたそれが今にも発射されようとしている。だがなのはも黙ってやられる訳にはいかなかった。

 「カートリッジ、ロード!!」

 貴重なカートリッジの一発目を消費して魔力を充填、それを敵が狙いを定めている部分に集中させる。さっきのエリオがストラーダで実践したのと同じ原理で相手の攻撃を弾こうとしているのだ。もちろん、エリオの時とは違ってバリア一枚越えれば直撃してしまうだろう。あくまでなのはの潤沢な魔力があればこその策だ。発射された光線が見事に読み通りの部分に直撃する。真正面から防ぐ必要はない、跳弾の要領でその角度を僅かにずらすだけでいい、そうすることで光線は拡散して威力を大きく減衰する。背中に当たった光線も散り散りに枝分かれし、なのはの心臓を貫くことはなかった。だが全くの無傷という訳にはいかず、結界を一撃で破壊する熱量を受け止めたバリアジャケットは黒く焦げ付き、衝撃を受けた肩甲骨が悲鳴を上げているのが嫌でも分かる。推力に使っている分を防御に回せばだいぶ違うだろうが、少しでも速度を緩めれば振りほどかれてしまう恐れもある分、迂闊な行動は出来ない。

 眼下に広がる灰色の街を尻目になのはは更に飛翔する。恐らく今頃は地上のフェイトとはやてが大規模結界の準備に取り掛かっているだろう。以前の闇の書事件ではこの街全体を結界で覆ったが、今回はその倍、下手をするとこの県全域を結界で覆い隠す必要がある。本局から派遣されるユーノを筆頭とした結界魔導師を総動員すれば不可能でもないが、突かれれば脆く崩れる牙城でしかない。今の内に敵の戦力を削れるだけ削り取っておかなければ後顧の憂いとなるのは目に見えている。その役目を負うのは最も実力が高い少数、この場合は高町なのはこそが相応しいのだ。

 時速120km、秒速にしておよそ330メートル毎秒、殺人的な速度で舞い上がった二人の現在位置は海鳴の上空およそ5000メートル付近まで十五秒ほどで到達した。短時間であれば人体は高々度でも耐え、周辺の環境に対する耐性を獲得できる。だがそれは長時間に渡って激しい運動をしなければの話だ。バリアジャケットは水圧や気圧からも人体を守ってくれるが、装着者が吸引する酸素は外部から取り込む形で供給している。よって、高空に上がって長時間活動すると必然的に酸素不足になり、脳が酸欠状態に陥って全身の機能が麻痺する。更に上空8000メートル以上はデスゾーンと呼ばれ、あらゆる生物の生存を許さない寒冷と極低気圧により短時間で全身の細胞が急激に死に瀕していく。つまりこの5000から8000までの間で決着をつけなくてはならないのだ。

 「ブラスタービット、リリース!!」

 出現する四基の浮遊砲台がその照準を定める。だがそれらは攻撃のためではなく、連射される加速砲から眼下の街を守るための盾として呼び出した。どれか一発でも地上に落ちれば半径数十メートルのクレーターを叩き込み、直接被害だけでも数十人から百人単位の死者が出ることは容易に想像できる。間接被害を含めればその数は千にも達するはずだ。だからこそ、なのははここで敵の戦力を削ると同時に街の防衛もしなければならない。通常なら規格外の化け物と一対一の死闘を演じるなど何としても回避したいところだが、そこは重ねて言うように魔導師として随一の実力を持つなのはだからこそ出来る事であり、時間稼ぎの防戦一方、撤退戦の殿にも似た戦況を任せられるのが彼女しか存在しないからである。

 唯一の救いは現状の敵の攻撃手段が隻眼からのレーザー射出だけで、不用意に接近せず最低限の防御に徹していれば後は攻撃に専念できることだ。射出間隔はおよそ二秒に一発、最短でそれだけあればなのはの腕なら十発の攻撃を打ち込める。防御そのものもビットに任せられるので実質彼女の取るべき行動は攻め、攻め、攻めの一手。頭部を中心に息吐く間も与えずに砲撃を叩き込む。だがビットの耐久力には限度があり、連続して攻撃を受ければナノマシンの修復も間に合わず破壊されてしまう。空中戦開始から約三十秒、それまで視線を誘導して上空への空撃ちをさせていたなのはだったが、追従するビットの一基が火花を散らしているのを見つけた。あと数発防げれば御の字だが、破壊されれば盾に回せるビットが減って残りの損耗も一層激しさを増すだろう。一発ごとの攻撃力の違いから言って全てのビットが破壊されれば、後はなのはのジリ貧に追い込まれるだけだ。なのはが墜とされるのが先が、戦場が整うのが先か……どちらに転ぶか分からない賭けは、想定外のイレギュラーによって覆される。

 「グ──ル、ルルゥゥゥウウッ!!!」

 獣のような唸り声を上げて頭を抱え悶え苦しみ始める“13番目”。黒い腕が顔面を覆うと同時に最後に残っていた隻眼まで砕け散り、遂に彼の肉体は黒一色に染め上がった。もはや輪郭を切り取っただけのマネキン、表情すら分からない木偶と化したそれが動きを止めた今こそを絶好の好機と見定め、なのはが再度突貫を試みる。ゼロ距離からの砲撃で本体にダメージを与え、胸部に見えるジュエルシードを封印する、これで相手の魔力供給源を断って動きを更に緩慢にさせ、大ダメージを与えるという寸法だ。最もベストなやり方と考えつつも半ば諦めていたのだが、ここへきて千載一遇のチャンスに恵まれればわざわざそれを見逃す理由などない、翔け抜けたなのはと“13番目”の距離は後一歩というところまで接近していた。

 果たして、レイジングハートの先端は見事に魔人の胴を貫いた。確かな手応えを感じてから封印に移ろうとし、術式を起動した瞬間──、



 なのはの体は宙を舞っていた。



 「え……?」

 回転する視界の中では全ての色が混ざり合い、その中で唯一まともに見られるのは自分の体だけ。引き裂かれた脇腹からは血が滲み、自分が血を撒き散らしながら錐揉み回転していることを知らされた。反射的に体勢を立て直す際にかかる圧力で腹部に激痛が走り、血が吹き出る。傷口は鋭い刃物で切られたような裂傷を負い、その深さは内臓の手前まで迫っていた。

 「フシュールルルルゥゥゥウウウウッ」

 攻撃してきた張本人であろう“13番目”を睨むが、その姿は先程までの影法師と打って変わり、もはやヒトの形からもかけ離れた異形へと変じていた。脇腹から突出する六本の白刃は獣の爪、大人の腕の長さはあろうかと言う程の爪が切り裂く獲物を求めて蠢いていた。何の獣の物かは分からない。ただその鋭さから肉食のものであることと、果てしなく巨大な生物であることは確かだった。接近したなのははその内の一本に切られたのだ。

 変化はそれだけに収まらない。背中が泡立つように不気味に隆起し、体を突き破って斑模様の毒々しい翼が生える。その羽は羽毛ではなく、魚の鱗、しかも一枚一枚が鉄の様な硬さを備えた異形の翼、羽ばたく度にそれらが剥がれ落ち、落ちた端から再生していく様は奇妙な光景だった。

 それ以外にも竜の尾や怪魚のヒレ、正体不明の軟体動物の触手など、この世界では見たこともない生物のパーツが増殖と分裂を繰り返し、“13番目”の肉体は徐々にその原型を失いつつあった。僅かに残った部分も甲殻が覆い尽くし、唯一の弱点だったかも知れなかったジュエルシードもその奥に隠れてしまう。

 かつての闇の書、リインフォースでもこの段階に至るまではまだ少し間があった。それがこれだけ短いという事は暴走の度合いはそれだけ深刻という事になる。元からそうだったリインと違い、“13番目”は言わば成り上がり、膨大な情報量を持つ闇の書を完全に制御できるはずがないのだ。必然、抑え込める時間も短くなる。暴走した書がどのように世界を滅ぼすか分からない以上、あとどれだけの猶予があるのかも分からない。

 「あ……っく!!」

 気が緩んだせいか、酸欠による頭痛が今頃になって表れ始めた。今すぐ酸素を吸入するか高度を下げなければ意識も危うくなるだろう。だが未だ地上は結界の準備に追われ、ここで撤退しようとすれば相手の攻撃はそのまま地上を焼き払ってしまう。だがこうして行動を悩んでいる間にも“13番目”の肉体は急速な変質を続けており、実に形容しがたい肉の塊になりつつある。だがその質量に見合う、あるいは凌駕するだけの暴虐を秘めているとなれば余計に捨て置けない。

 そして、敵は怯んだ隙を見逃してはくれなかった。鋼の翼が風を掴み巨大な肉塊が更なる高みへと飛翔を始めたのだ。

 「そんなっ、これ以上昇がられたら……!!」

 人体が生身で耐えられる限界はせいぜい高度6000まで、それ以上行けば脳を始めとした全身の細胞が酸素を受けてれなくなって麻痺、最悪の場合には壊死を起こし死滅する。相手はもはや人間ではないからその制限は無い。むしろなのはが予想している以上の高々度まで上昇する可能性がある。それこそ大気圏を突破し宇宙空間まで行かれたら打つ手はなくなってしまうだろう。クロノが派遣した次元航行艦が到着する頃には衛星軌道にまで逃げ果せているかもしれない。

 その背中を撃墜しようと愛杖を向けて狙いをつける。だがスコープ越しに見据えた時、彼女は敵の挙動の不審さを見抜いた。

 「速度が落ちてる……?」

 天高く上昇していたはずの肉塊が徐々にその速度を落としているのが見えた。距離にして僅か数百メートル、追い付けない距離ではない。いくら常軌を逸しているとはいえ完全に逃げ切った訳でもないのに何故速度を落とすのか? その疑問はすぐに氷解した。

 落下しているのだ。目測でおよそ十トン、巨象の体重を凌駕する質量が遥か下、海鳴の街目掛けてさながら隕石の如く。ただ落下しているだけでは到底得られない速度は、落下の最中でも羽ばたくことを止めない両翼の推進力が生み出しているのは明白。そして落下しているにも関わらずその質量は更に増加の一途を辿り、地上に到達する頃には銀幕の向こうにいる怪獣ぐらいには成長しているかも知れない。そんな物が地上に激突すればその衝撃だけで壊滅的被害を受けるのは避けようがない。

 軌道に躍り出て落下を阻止しようと試みたが、翼が起こす風圧に阻まれて接近すら容易ではなく、あくまで加速を続ける肉塊になのはの足は徐々に遅れを取り始めていた。

 「ダメ! 間に合わない!!」

 遂に肉塊はなのはの最高速度を上回り、灰色の大地まであと僅かに迫った。もはやこれまで、そう諦めかけた瞬間……。

 「テェェェエエエオォォアアアアアァァァッ!!!」

 飛び出した銀の光が一閃、地上から伸びて肉塊に衝突、その速度を微かに相殺して見せた。そしてその隙を狙って空間固定型バインドが次々とその周囲を束縛し、見るも悍ましい巨体は不気味なオブジェとなった。未曾有の大惨事は水際で回避されたのだった。

 「すまない、遅くなった!」

 「ザフィーラ! それにシャマルさんまで!」

 「傷の手当を……!」

 恐らくは地上のはやてが動ける者を優先的に援護に回してくれたのだろう。後衛からの支援を行うシャマルと、前衛に出て攻撃の時間を稼いでくれるザフィーラ、この二人が加われば百人力、鬼に金棒と言った具合だ。しかも、援護はそれだけではなかった。

 地上からオレンジ色の熱線が放たれ、醜く増殖を続ける肉塊の一部を削ぎ落としたのだ。

 「魔力反応なし。ディエチ!?」

 あくまで物理的な手段でしか戦闘できないナンバーズにとって今の“13番目”には接近は致命傷になりかねない。それ以前にこの高度まで上がって来られるのはトーレだけだったが、そのトーレも今や“13番目”に囚われの身となってしまっている。つまりそれ以外の方法でナンバーズが一矢報いるにはロングレンジからの一方的な砲撃が行えるディエチに全てを託すことになるのだ。幸いにも彼女の攻撃は正確で強力、一定間隔をおきながら発射される熱線は増殖に拮抗する形で肉塊を焼き切り、見事に足止めの役割を果たしてくれている。

 行ける、この布陣なら本局からの増援が来るまで持ち堪えられる。そう確信したなのはは再度突撃を試みる。しかし。

 「今すぐ地上に戻れ高町! ここは我らだけで食い止める、足止め程度なら!」

 「えっ、どういうこと!?」

 敵との最前線にいるエースを内に引き戻す……明らかに戦術的にも戦略的にも損しか見えない判断だが、逆に言えば彼女でなければ収拾がつかない事態が起こっているという事になる。二の句を告がせない勢いに押されて地上へ降下する。降り立った彼女を迎えたウェンディは急いで現場に急行する旨を通達する。

 「急いでくれッス! もうあたしらだけじゃ手に追えないッスよ!!」

 「何があったの!? 状況報告をお願い!」

 「口で説明するより実際見たほうが早いッス!!」

 普段から落ち着きのない彼女だと知っているが、この慌てようは尋常ではない。それ以前に見渡せる範囲にいる味方が援護砲撃を行うディエチ以外に見当たらない。やはり何か重大な事態が発生していると考える以外にないだろう。フェイトや、彼女に指揮権を委譲されたティアナも居ない所を見るに、現場で発生している事案を解決するために本来の指揮官であるなのはを急遽呼び戻したのだ。

 「いったい、何が……!」

 疑問を胸に動こうとしたなのは、その上空を……。

 影が、横切った。

 鳥ではない、結界の中に関係者以外の生物など存在しない。それに通過した際に風を感じた。真上、なのはの頭すぐ上を通り過ぎたそれは鳥より大きく、さっきまで戦っていた相手よりはずっと小さく、そして、この場に存在していたなど露とも想像していなかった人物だった。見上げた視界に映るものは虹のように空に差し掛かる黄金色の帯、その上を道に見立てて駆け抜けるのは……。

 「ノーヴェ!!?」

 血に染まった赤茶色の服を纏った金眼赤髪の少女は、遥か遠くの異世界で動くことすらままならない程に病んでいた九番目のナンバーズの姿だった。“13番目”に脳を汚染され危篤状態に陥り、地上本部で偶発的に起こった次元転移装置暴走事故に巻き込まれて消息を絶った一人……それが何故こんな所にいるのか!?

 頭上を飛び越えていった背中は生来の健脚でずんずん遠ざかっていく。柄にもなく呆気にとられていたなのはだが、それを越える更なる驚異が背後から猛然と迫っているのにも気付かなかった。

 「邪魔、ダァァァアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

 獣の叫びに近い怒号が轟き、殺気に近いその波動を死角に感じたなのはは反射的に回避行動を取りその軌道から逃れた。直後、それまでなのはが立っていた場所を何かが通り去り、一瞬遅れて発生した突風がウェンディを弾き飛ばす。遠くなる悲鳴を無事な証と思いながらその正体を見極めた時、なのはは再び驚愕に打ち震えることになった。

 「セッテ……!!」

 追走に揺れる桃色の長髪と、横切った一瞬に見えた顔。あの冷徹さを表したような鉄面皮が鬼の形相に変化していたので見間違いかとも思ったが、ノーヴェを目撃した直後の出来事、見間違いと判断するのは愚鈍の極みだった。しかもあの殺気はどう見ても先行したノーヴェに向けられたモノ、それが意味するところはつまり……。

 「殺そうとしてる……」

 理由は知らない、ここへ来るまでにどんな経緯があったかは毛頭分からない。だが厳然たる事実としてセッテがノーヴェを手に掛けようとしているのは事実であり、何の偶然か必然か共に同じ場所に流れ着き、何があったか命を狙う側と狙われる側に陥っている。ナンバーズの混乱も異世界にいるはずの姉妹が現れた衝撃より、何故この二人が命のやり取りをしているかへの驚きが大きかった。今や二人の間には自分達以外の存在は無く、そこに無理に介入しようとした結果が自分が追いつくまでに蹴散らされたナンバーズの面々ということだろう。このまま二人の追跡劇を許せば、“13番目”の予想墜落地点に到達する。当然、その場で援護射撃を行なっているディエチも巻き込まれるだろう。

 「させない!」

 薄氷を踏むような今の戦況に歪みを生じさせてはならない、実力行使で排除することこそが最も迅速かつ穏便な手段。なまじ情を向けて惨事が拡大するのなら、腹を括り覚悟して事に当たらなければならない。今この場でそれが出来るのは同じ姉妹であるナンバーズでもなければ、精神的に未熟さが残るフォアード陣でもない、力ある指揮官であるなのはかフェイトの二人しかいなかった。

 手っ取り早くバインドによる拘束を試みたが、虚空に出現する円環の前兆を察知したのか、二人とも寸前でそれらを回避し先を行く。服に付着した血液の量から見てあそこまで動けること自体が既に異常だ。脳内麻薬で肉体に鞭打っているにしてもその動きは人間のそれと比較して限度がある。特にノーヴェは単純にセッテに追われているからでは説明できない力強さを見せつけている。四本の脚は乾いた固い地面を蹴りながら前へ前へ突き進んで行き……。



 固い地面?



 この瞬間、誰よりも早く、そして誰も気付かなかった事実になのはだけが勘付いていた。あれだけ大地を漆黒に染めていたドス黒い謎の液体が、この冷たい大地のどこにもなくないることに。

 太陽熱での蒸発、土壌への浸透、排水口への流失……いずれにしても雨で流されない限りは例え絵の具でも簡単には流れ落ちない。障壁から垂れ流された黒液は確かにあの場に居合わせた全員の足を濡らし、場所によっては幾つもの水溜りを作るほど大量に吐き出されたのは誰もが見ていた。なのにほんの数分か十分だけ地上を離れている間にそれらは影も形も消え果て、冬の陽を受ける冷たいアスファルトは不自然なほど乾き切っていた。ではそれらは一体どこへ行ったのか……?

 いや、あった。たった一箇所だけ他と比べて豊富な水分を保った場所が。それは障壁から出た変わり果てた“13番目”に最初の一撃を見舞った際、【ディバインバスター】が削り取った地面。注目して初めて気が付けた、最初は土特有の茶色だったはずのその場所は今は何故か黒く変色し、アスファルトに完全に擬態している状態だった。そしてそれは“13番目”が上昇し今まさに落下しようとしている場所、つまりノーヴェとセッテが差し掛かろうとしている地点だった。

 嫌な予感がする。戦場でこういう類の直感は残念だが高い確率で的中する傾向にある。殆ど反射的にノーヴェの足を止めようと速度を上げて猛追したが……。

 間に合わなかった。

 傷付いた足がむき出しの地面を踏み抜いた瞬間、黒々と染まった地面が波打ち流動し、巻き起こった波紋は立体的な形を取ってノーヴェの足を飲み込み始めたのだ。

 「ノーヴェ!!?」

 「ッ!!」

 血が昇った頭でも異常事態と判断したセッテは寸前で急停止し、ノーヴェを捕らえた黒泥を少しの混乱を湛えた瞳でまじまじと観察し始めた。彼女が動きを止めたのは想定外の事態が発生したばかりとは限らない。憤怒に染まった思考を正常な位置に引き戻そうと働くのは、彼女の視界に飛び込んだ光景にあった。

 冷え固まった重油の如く重苦しい色を帯びたスライム状のそれは土の擬態を解き、ただの黒い水だったはずのそれはある一つの形を取ってノーヴェを取り囲み始めた。その正体は……。

 「にい、さん……」

 「そんな!? じゃあ、あそこの敵は……!!」

 ドロドロの液体が徐々に固まって現れたそれは、紛れも無く“13番目”の姿だった。現在上空でザフィーラ達が足止めに徹している肉塊はデコイ、本体はとっくに用済みの肉体を捨てて離脱し、頃合を見計らって動けるようになるまで隠れ潜んでいたのだ。完全に闇の書と合一し肉体に意味など無くなったからこそ行える芸当だ。しかも大胆にもリンカーコアと融合していたジュエルシードも切り離し、本体はその莫大な魔力反応を垂れ流す肉塊を隠れ蓑にしていたらしい。姿形は黒い粘土を捏ねたようだが、マネキンにしか見えなかった最初の時とは違って目鼻や口元、耳などといった体の部位が形成されており、少なくとも生物的な形状をしていた。だが首から下は極度に高い粘性を持った液体のように流動し、ノーヴェの体はそれに絡め取られている状態だった。

 「あ、あぁ……あ」

 学生の頃に理科の授業だったかで見た粘菌の生態映像を見ているようだった。固体か液体か、動物か植物かも分からないジェル状の体が微生物を豊富に含んだ枯れ木の表面を覆うように、黒く濃い粘液はドロドロとノーヴェの体を包んでいきつつあった。不可解なのは危険極まりないこの状況に対して当のノーヴェは全く抵抗する様子がないこと。蛇に睨まれたどころか、もうとっくに飲み込まれ掛けたカエルだ。それなのに抵抗を止めて無防備になり、腕はだらしなく垂れ下がっている。

 このままではいけない、そう考えて解放しようと手を伸ばすなのはだったが……。

 「ノーヴェエエエエエエエエーッ!!!!!」

 敬愛する兄と接触していると言う事実が気に食わなかったか、なのはの反応速度を大きく凌駕した速度で飛びかかりその顔面に手刀を繰り出す。ボロボロの体のどこにそんな力があったのか、今更疑問を感じる事さえ場違いに思える程のスピードで鋭い指先は吸い込まれるように首筋へ届き……白い肌を切り裂いた。

 頚動脈か、咽頭か、あるいはその両方かは分からない。一瞬遅れて吹き出た赤色が全ての答えだった。面積にしてみれば僅かな切り傷だがそれが頸部となれば話は違う。噴水の如く流出する血液は体中から酸素と温度を奪い、血色の良かった肌は瞬く間に不健康の域を越えて青白くなっていく。溢れ出る血は外だけでなく中にも侵入し、気管を圧迫する感覚にそれを吐き出そうを喉が律動する。吐き出された血は口のみならず鼻にも出口を求めて吹き出して顔を汚し、首から下を血で赤く染めていく。黒い泥は上塗りされ、急速に衰弱して力が抜ける体を支えようと形状が変わる。

 戦闘機人は簡単には死なない。銃弾を撃ち込まれてもフレームがそれを防ぎ、酸素を絶たれても長時間活動可能、心臓停止や脳死に陥っても動力が切り替わり短時間なら動くことも出来る。だがノーヴェの体は限界を越え酷使に酷使を重ねられ、更に人体の活動に必要不可欠とも言える血液の大量消失により既に沈黙しようとしていた。開いた瞳は覚醒を維持する為のものではなく、単に眼球周辺の筋肉の硬直によるもの。もはやその命は死に瀕し戻ることはない。

 「───────」

 黒色が流動する。アメーバの捕食行動のようにノーヴェの体を体内に引き込む様は見ていてとても嫌悪感を煽り、頭から飲み込まれた小さな体は血を流しながら抵抗も罵倒もないまま足まで飲まれ、消えた。質量保存など知りもせず、闇を表した肉体の深淵へと飲み込まれたその安否など知る由もない。ただその事実を喜ぶ者がいるとすれば、それはただ一人。

 「フフ、フフフハハハハハハハ! アハハハハハハハハッ!!!」

 「セッテ!」

 銃痕の残る脇腹が引き攣るのにも気付かないほどの歓喜、アドレナリンに代表される脳内麻薬の影響か足元は既におぼつかない。もはや何の目的でノーヴェを殺そうとしていたのかさえ覚えていないだろう。ただ殺す事こそが目的であり手段と化した暴走状態……歪んだ本懐を遂げた今彼女は空虚だ、もう何のために自己が存在しているのかさえ分かってはいないはず。つまりこの瞬間、セッテという個人はトレーゼと同じ哀れ極まりない生きる意味を失った人形へと堕ちたのである。唯一の幸せは本人がその事実を自覚していないことだ。

 「セッテ!!」

 遅れてフェイトが追いつきバルディッシュの矛先を向ける。やはりその顔色には若干の混乱が見える。だが今のセッテは管理局預かりの身で敵側に寝返りあまつさえ逃亡した犯罪者である。死亡したものと思われたが生きていた以上見つけ次第捕縛、再び拘置所あるいは更生施設へと身柄を送らねばならない。そしてつい今し方、彼女にもう一つの罪状が加わった。

 「テロリズムへの加担、それも再犯は重罪どころの話じゃない。大人しく縛について! グラシア少将もあなたの身を案じて……」

 「グラシア……? あぁ、あの人ですか。いっそ諦めて放置してくれればいいものを」

 忘れた頃に思い出したが、やはりどう考えてもあの女性が自分の義母となるのは違和感しか無い。特に回想するほど特別な間柄だった記憶もないが、今となっては思う所もある。

 「……ハラオウン執務官、もしあの人に会うことがあれば伝えてください。『今なら聖職者である貴女の考えが理解できる』、と」

 「何を言っているの?」

 「分かりますか? 全ての信仰者にとっての神と呼ばれるモノが、ワタシにとっての兄さんなのです。神など所詮、哲学あるいは形而上学などという曖昧な物差しでしか計れない希薄な概念だと思い込んでいましたが、実物を目にすればその考えこそ矮小だったと気付かされます。貴女にも分かりますか、高町一等空尉?」

 そう言って振り向いた表情は僅かに上気し、恍惚の色を浮かべているのが見て取れた。そこに常の精神は存在しない。在るのは眼前の生物かどうかも疑わしい“泥”に対する狂信、ただそれだけ。およそ地上に存在するであろう多種多様な主義思想の中で最も難解かつ異常な感性を身に付けたセッテは、もはや自身の内面など気にも留めようとしていなかった。狂信者は神への信仰さえあれば生きていける、その他には何も要らない、むしろ邪魔なだけだ。故にノーヴェも排除した。自らの歪んだ「信仰」のためだけに血の繋がりはないとは言え姉妹を手に掛けたのだ。後悔もしてはいなかった。

 だが狂気に堕ちた精神でも厄介なことに、眼前の存在に対する本質を見抜く目は持っていた。あの黒い泥に飲み込まれればどうなるかも理解していた。さらに厄介なのはその事に対する恐怖な微塵も無く、逆にその結末を想像したことによる恍惚が勝っていることだった。さながら、死神に憑かれた人間が死を快楽と捉えるように、彼女のまたおぞましさ以外の何も感じないはずのそれに向かって静かに近付こうとしていた。ノーヴェを殺すという目的は達成した。だが彼女の亡骸を飲み込んだ闇の奥底へ自分も行きたいという歪んだ願望がその足を更なる地獄へと誘う。

 なのはとフェイトは揃って唖然となるしかなかった。あれほど寡黙で無駄のなかったセッテ、戦闘機人の本質を表したような存在だった彼女がここまで心酔し傾倒しているという事実が未だに信じられなかった。だがその足が二歩目を踏み出す前に二人は彼女の動きを止めに入った。

 「離しなさい。貴女方に邪魔される謂れはありません」

 言葉による制止では意味がないと判断したのは正しかった。バインドで空間に固定されているが両足は前進の意志を屈さず地面を抉って突き進もうとしている。前のめりになって這いずってでも進もうとする鬼気迫る行動力に臆してしまうが、その一瞬を逃さなかった者があった。他ならぬ“13番目”である。

 隙は刹那、動きは電光。セッテの気迫に僅かに怯んだその瞬間に形状を変化させて蛇のような縄状となる。内部組織をそれこそ蛇の筋肉と同じ要領で連動させて瞬発力を得た先端は突き出された槍の穂先の如く音速を越えた速度で迫り、鞭のようにしなるとフェイトとなのはを弾き飛ばした。人体の数あるウィークポイントのひとつである脇腹を強烈に殴打された二人はセッテから距離を離されてしまう。邪魔者を排除した“13番目”は四肢を拘束されたセッテに対し……。

 その胸を貫いた。

 「──ッ!!?」

 驚きの声を上げたのはセッテ本人かあるいはなのは達だったか。黒い塊はその柔軟さからは想像もできない鋭さを以ってセッテの肌を刺し貫き、内部へと侵入していく。体内、内臓と内臓の隙間、骨格の中、毛細血管といった人体の空洞部を埋め尽くすように進入したそれは内部からセッテの肉体を作り変える。免疫不全を引き起こすウイルスが細胞組織を内側から食い荒らすように、彼女の体のあらゆる部分を食い物にしているのだ。体内に侵入した黒色はやがて表面の肌にまで色濃く表れ始めものの二十秒もしない内に全身はメラニンのそれとは圧倒的に違う漆黒へと染まり、色鮮やかだった桃色の長髪は抜け落ち、その風貌はやはりマネキンのようにのっぺりとした形へと変わり果てていく。肉体を根本から改造するのは拷問にも等しい苦痛を与えるはずだった。だが最後までその顔に浮かんでいた表情は愉悦に震える歓喜と恍惚の色だった。

 こうして、かつてナンバーズのセッテと呼ばれた人物と人格は消え去り、体を丸ごと乗っ取って新たな器を手に入れた“13番目”がそこにいた。表皮の漆黒の外装を引き剥がして現れた肉体は闇の書を手にする以前、紫の髪と金色の瞳に戻っており、魔導書もジュエルシードも無くした今その力はもはや超常のものではないことは誰の目にも明らか。表情も衰弱の様相を呈している、今という絶好の機会を逃す理由はどこにもない。我先にとフェイトのバルディッシュがハーケン形態となりその首を狙う。

 恐らく第69管理世界で再起動した時と何ら変わらないほどに性能がガタ落ちしているのか、常人以上の速度で回避行動をとるがそれは人間の知覚で追えないほどのものではなくなっていた。

 勝てる!

 自分の手で全ての武装を放棄するという愚行に出た今ではその手に何の武器もなく、どういう理屈か分離の際にインヒューレントスキルも奪われたのかそれらの特殊技能を使用する節も見当たらない。ただひたすら逃げの一手に徹して攻撃は加えず回避を重ね、猟犬に追い詰められる野兎が如く逃走しかしていない。僅かでも隙を見せようものなら喉笛を喰い破らんとしたあの攻性はもうどこにも無かった。

 逃走する先には対空砲火で援護を続けるディエチがおり、彼女の周囲には態勢を立て直して先回りしていたフォアード三名が既に控えていた。袋のネズミとなってしまった彼はここでようやく動きを止め、その無防備な体を晒すことになった。僅か二十数メートルほど移動しただけで息は上がり、体力も底をつきかけているのか前屈みになった背中は呼吸の度に大きく上下していた。不思議なのはそれだけ弱っているように見えながら付け入る隙が全くなく、必ず誰かが背後を取る形になっているのに誰も手が出せずにいた。

 最初に動いたのはエリオだった。一番槍の言葉の通りにストラーダを構えて一直線に突き進む。何の事はなさそうだが、一切の防護魔法を展開していない今の“13番目”の体は僅かに刃先が擦れただけでも皮膚は裂かれ肉は断たれ骨は砕ける。一撃一撃が致命どころかオーバーキルとなって襲いかかる。当然それを死に物狂いで回避しようとするが、刃先は肋骨の下の脇腹を切り裂き、指が三本は入りそうな深い傷を負った。

 流れ出る液体はやはりと言うべきか漆黒で、ヘドロのように凝り固まったそれは強烈な悪臭を放っていた。腐っているのだ。不可思議な術で肉体を再構成したはいいが、闇の書に簒奪された部分が多く、無理が祟った体は再び崩壊しようとしているのだ。放置すれば肉体はまた汚泥へ戻り今度は二度と肉体を得られなくなる。そうなる前に自己保存の本能に従い肉体を安定させるなければならない。そしてその為に必要なものは……。

 「まさか!」

 “13番目”の頭上、遥か上空には依然増殖を続ける醜悪な肉塊。恐らくあの中核には奪われてしまった肉体を構成する因子とも言うべき物があるのだろう。逆に、上空に逃れた肉塊が急降下を始めたのは、あちらもまた安定を求めて自分から分離してしまった最後の一片を蒐集しようといる。この二つが融合すれば肉塊の暴走は一旦収まるだろう。だがそれは決して嵐が過ぎ去った事を意味せず、燻るタバコの先に火薬を吹っかけるようなものだ。安定した暴走と言うと聞こえは矛盾しているが、その実は原子炉と同じ危険物以外の何物でもない。

 肉塊の方も己から分離した部分を吸収する為か、その形状が禍々しい変化を遂げる。それまでどこが正面で背面かさえ分からなかった腐肉の塊が押し潰された風船のようにグニャグニャと蠢き、地面に向いた下部に亀裂が入った。亀裂から染み出した透明な粘液が雨水の如く地面を穿ち、そこから化学反応の激臭が鼻を突く。亀裂の正体は巨大な口で、そこから垂れる粘液は強い酸性を秘めた消化液のような物。ラフレシアを彷彿とさせる醜悪な花弁から伸びる触手は“13番目”を捉えようともがき始め、ザフィーラとシャマルでは足止めが出来なくなっていた。

 「シャマル! バインドを……!」

 「ダメッ、間に合わない!!」

 吐き出される触手はシャマルの手に負えず、遂に突破を許してしまう。消化液を纏った数多の触手はそれらを豪雨の如く撒き散らしながら一気に地上への距離を詰める。当然下にいる者は消化液から逃れてバリアジャケットの防御魔力を頭上などの上方に集中させる。丁度傘の要領で展開されたそれは酸液の侵入を防ぎ彼女らの柔肌には届かない。落下地点中心に位置する“13番目”はそれらをもろに被っているが、何故かその体が焼け爛れることはない。動物の胃が自らの消化液で溶かされないように、肉塊の一部として認識されている彼が害される理由はない。逆に降り注ぐ強酸に守られる形となり悠々と体勢を立て直すことが出来た彼は、自らを飲み込もうとする触手から……。

 逃れた。

 「な!!?」

 これには全員が驚愕した。てっきり融合を果たすために行動していると思っていただけにこの予想外の行動に誰もが度肝を抜かれた。走り去る後ろ姿は肉塊を引きつけているというよりも、むしろ全力で逃げている、そう思わせるに足る必死さがにじみ出ていた。すぐ背後にそれまで自分を追って来た者達がいるにも関わらず振り向きもしないでいるのが良い証拠だろう。疲労が蓄積した足は生まれたての小鹿という表現がこれ以上なく当てはまるほど惨めに震えており、僅か十数メートルも行かない内に息は喘息のような漏れ出る音になり、速度は急激に低下していった。

 「エリオ!!」

 「はい!」

 すぐにフェイトが最も近い位置にいたエリオを“13番目”の元に向かわせた。触手をなぎ払って進んで行くがそれは敵である“13番目”を守るためではない、あくまで彼を取り込もうとしている触手の動きを阻止するためだ。最も効果的なのはそのまま“13番目”を殺害することだが、吸収したのが死骸でも肉塊の暴走が加速する恐れがある。なら肉体丸ごと消す以外にないがエリオにはそんな強力な魔法は使えない。よってなのはかキャロ、正確には彼女のフリードが動けるまでの間だけ触手から守り通しその後で処分するのが一番確実な方法だ。幸いにも頭上に陣取っていた肉塊は徐々にその座標を“13番目”の方に移し、強酸の雨も少しずつ彼女らの場所からズレつつある。

 ある程度したところで次に動いたのはフェイトだ。自慢の高機動を活かして一瞬で酸の雨を迂回して接敵し、まず足を奪う。一見残虐だがこうすることで敵の移動手段を潰し、尚且つ体重を軽くすることで運搬も楽になる。残った片手で首を引っ掴んで早急にこの場から飛び去る。再び地上から引き離すためまずは適当な高台、ビルの屋上まで逃げ去る。肉塊が気を取られて軌道を変える頃には地上の面々は既に強酸地獄から抜け出し、その後に続いた。

 ここからはフェイトが逃げ回っている間に何とかして肉塊を足止めし、目処が立ったところで改めて“13番目”を抹殺する。その為には何といっても火力が必要だ。

 「フリード、お願い!!」

 キャロを乗せたフリードが迫る肉塊に向き直り、その口から火炎を吐き出す。触手は炙られた髪のように縮れ消し炭になり、肉塊の表面は変色して焦げ臭くなる。ヒュドラ退治ではないが組織の再生を抑えるのに熱は効果覿面、すぐに焼けた表皮を脱ぎ捨てて再生を図るがその巨体が仇となって思うように脱皮できない。その間にフリードは周囲を飛び回って火炎を吐き続けていく。あっという間にレア焼きの完成である。面制圧に優れた火炎放射はキャロとフリードにしか出来ない専売特許だ。あとはそこからザフィーラとシャマル、そしてなのはを含めた三人掛かりのバインドで動きを完封する。

 あとは……“13番目”を撃つだけだ。

 「ディエチィィィィィイイイイッ!!!!!」

 絶叫に等しい合図。全ての状況推移を目の当たりにしていたナンバーズの十番目は巨大な砲身を既に構え、あとは引き金を引くだけだった。スコープ越しに見えた敵の姿はやはり哀れなほど衰弱しきっており、もはやただの的と化したそれに冷静に狙いを定める。

 刹那、照準の向こうに見えた「兄」と目があった気がした。姉と同じ金色の瞳、色は同じはずなのに泥水のように濁って見えるそれは睨む訳でもなく哀願する訳でもなく、ただ眼球の向きを変えるのも億劫だとでも言うように不動だった。まるでガラス玉……その輝きに一瞬臆したディエチは引き金から指を離し掛けそうになった。

 だが、寸前で脳裏に思い浮かんだのは……。

 (チンク……!)

 亡き姉の顔。今や懐かしささえ感じるその顔を思い浮かべた時、ディエチの指は固い引き金をいとも容易くあっさりと絞っていた。放出される光線をどこか他人事のように見つめながら、特に後悔も達成感も無く、引いた瞬間にチンクの顔が一層強く浮かんだことだけが気に掛かっていた。

 光線は障害物もない軌道を予定通りに突き進み、吸い込まれるように“13番目”の体に直撃した。遮る一切を無くしたその体は直撃した熱量に耐えられず瞬時に焼け炭化して崩壊、オレンジ色の熱線は胸から上を抉り抜いて空に消えた。後に残ったのは文字通り残骸と成り果てた“13番目”の下半身だけ。三秒ほど風に揺られた後に背中側からばったりと倒れ、黒い血が撒き散らされる。夏のゴミ捨て場に一週間置き去りにされた生ゴミ、それを更に一週間汚水で煮込んだような異臭悪臭を漂わせるそれが小池を形成して溜まっていく。下半身も腐敗するように変色し溶解、ドロドロになったそれらもまた汚濁に同化して消えた。

 “13番目”が崩壊すると同時にそれまで前進を強行していた肉塊も同じく墜落し停止した。システムの大部分を奪われたとは言え中枢は“13番目”が死守していたのだろう、おかげで想定していた最悪の事態は水際で食い止められた。

 「……終わった」

 安堵の言葉を誰が漏らしたか、誰も彼もが天を仰ぎ、地を見つめて溜息を吐く。極度の緊張が解ければ膝をつき地面に座り込むのは誰だって同じだ。長きに渡る不毛な戦いに終止符を打てたことへの感慨とある種の達成感がそれぞれの中で充満していく感覚、勝利への感動とも言うべきものが彼女らの間にはあった。疲労回復と共に高まるそれらの感覚はこれまで多くの犠牲を払った彼女達に無類の喜びを与えた。

 「やった……やった、やったぞぉぉっ!!!」

 「ディエチーッ!!!」

 遅ればせながらに追いついた姉妹たちが彼女に抱きつく。普段は物静かなディエチだが今この時だけは違っていた、後からこみ上げる実感に思わず頬が緩み笑みが浮かぶ。そして涙を流して姉妹と抱き合い喜びを分かち合った。

 「チンク……私、やったよ」

 この作戦に最後まで難色を示していた姉がこの顛末をどう思うだろうか……だが結局こうするしか方法が無かった、行き詰まった状況の打破に平和的解決など有り得ない。その姉の命を奪った仇を打ち取ることが出来た今、姉妹全員の心は限りなく一致していた。

 「なんや、私が出張るまでもなかったんか」

 「八神司令!」

 「状況報告を」

 「はい。敵対勢力である“13番目”を、ナンバーズNo.10、ディエチ・ナカジマが討伐しました!」

 「マテリアルは反応消失。恐らくですが、闇の書の暴走と共にリンカーコアが完全消滅したものと」

 「……そっか。ほんで、何でか知らんけどセッテとノーヴェが現れたとか言うてたけど?」

 「は、はい。どうして急にそんなことになってしまったかまるで分からなくて……」

 無理もない、ミッドチルダで起こった次元転移装置の事件に関してはナンバーズには完全に伏せていた。仮に話していたとしても目の前の現実とそれらの二つが結びつくことはないだろう。今はそれよりも気にすべき事柄がある。

 「二人は今、闇の書に吸収されてしまっているみたいで……」

 「どうにかしてサルベージせなあかんってことか。せやったら私とヴォルケンリッターの出番やな。シグナムが欠けてしもうとるけど」

 「いえ、既に御前に」

 「シグナム!? 傷は平気なんか?」

 「ご心配には及びません。スクライアから治療を施されました。ですが私が急ぐまでもなかったようです」

 次々と集いながらも戦意を感じさせない面々にやはり戦いは終わったのだと改めて実感させられる。皆一様に顔は微笑み、ほんの数十分前までのあの張り詰めた緊張感はどこにも無かった。

 そう、戦いは終わった。

 もう誰も傷つかない。

 今この瞬間を以て、T・S事件は真の解決へとたどり着いたのであった。



 だがこの時彼女らとは別の誰かが陰から視線を向けていたことに誰一人として気付いていなかった。










 結界の補強を外側から行なっていたユーノの現地入りは一番遅かった。内側からの作戦終了の報告を受けた時は失敗を疑ったが、よもや成功したと聞いた時は感無量だった。すぐさま内部に入り現場から痕跡を抹消するべく配置につく。あの巨大な肉塊はどうにかして外で処分しなければならない、このまま結界を解けば腐臭を放つ肉塊が海鳴の街に放置されることになるので、シャマルと協力してどこか遠く、具体的には重力圏を通り越して宇宙空間に放棄するのが最適だ。

 今ははやてが取り込まれたトーレを救い出すのに尽力しているので作業はそれが終わってからになるだろう。取り敢えず周辺に別の異常が無いかだけ確認してから合流する。物事というのは締めが終わって浮かれている時が一番足元を掬われやすい。こういう時は普段裏方をこなしている自分が適任だとユーノは進んで周辺状況の確認を急いだ。けが人は居ないか、危険物の存在は見当たらないかを根気よく捜査していく。

 「機能は完全に死んでいる。本当に勝ったんだ」

 血管を始めとする様々な器官がむき出しになった肉の表面を撫で、もうそこから鼓動を感じないことを確認する。見てくれは最悪だが一応は生物、であれば動物と同じ方法でその生死を確認できる。血液の循環を確認できない以上その生物は完全に死滅したと考えるのは常識だ。

 粗方の確認を済ませていざ合流しようとした時、ユーノは自分たちとは別の生命反応をキャッチした。

 「何だろう、これ……」

 闇の書の残骸にしては小さすぎる。反応からサイズを逆算すると恐らく人間の子供ぐらいの大きさで、それが肉塊から少し離れたビル陰に潜んでいるらしい事が分かった。ひょっとすれば寸前で本体から分離した眷属がまだ生存している可能性も否定できず、ユーノは有事に備えて態勢を整えた後に突撃を試みる。

 だが予想を大いに裏切り、そこにいた者は彼の想像していない人物だった。

 「きゃあっ!!?」

 「うわっと!?」

 随分可愛らしい悲鳴を上げて尻餅ついた影の正体にユーノもまた間抜けた声を上げた。何故ならその少女は自分の良く知る人物で、どう考えてもこの場に居ないはずの存在だったからだ。

 黄金色の髪に赤と緑のオッドアイ……これだけで思い浮かぶ人間など一人しかいない。

 「ヴィ、ヴィヴィオっ!? ヴィヴィオなのかい!!?」

 「あ、あれ? ユーノさんも海鳴に来てたの?」

 「いやいやそれは僕のセリフだよ! 一体どうしてこんな所に……!」

 「えぇと、そのね……」

 そしてヴィヴィオから聞いた事の顛末はとてもではないが信じられない内容だった。テレビ局のインタビューに答えれば二ヶ月後には奇跡の生還劇を成し遂げた少女として夕方のワイドショーかドキュメンタリーに取り上げられそうだ。無論、公表する気など更々ないが。まだ混乱しているがこれで経緯は分かった、問題は彼女の他にあと三人、ナンバーズの面々がこの場所に不時着したということだ。

 「あの時の次元震と謎の飛来物はそういうことだったのか。ていうかよく五体満足だったよね」

 「あはは……師匠の教えがよかったからかな」

 「師匠……か」

 聞いた話が確かならセッテとノーヴェ、ウーノも肉塊に取り込まれているはずだ。結界の手前までついて来たはいいが必然戦闘に巻き込まれる形になり、当然それに対応できるはずもない彼女は物陰に潜んで難を逃れようとした。元々当初の目的が六課に身柄を保護してもらうことだったのでその選択は正解だったと言える。

 「とにかく、いつまでもここに居座ってちゃダメだ。早くなのは達と合流しよう。彼女も君のことを心配してるんだから」

 「うん!」

 もう隠れ潜んでいる必要などどこにもない。全てが終わったのだ、心配する事は何も無くなったのだ。安心して家に帰れる。

 戦いは……終わったのだ。










 闇の書の眷属が通常の生物と決定的に違うのはたった一つ、どんなに頑強でも連中はプログラムによって再現された仮初の生命に過ぎないということだ。普通の生物なら血液の大量喪失や呼吸に必要な酸素の供給を断てばやがて衰弱するが、闇の書の眷属の場合もそれはただのパフォーマンス、小動物が行う「死んだふり」である可能性が非常に高い。

 もちろん全くの不死身でもない。火炎放射すれば全身の細胞は焼け死ぬし、現にこうして肉塊は沈黙している。中枢を握っていた“13番目”の肉体が消滅した今、心臓を潰されたと言ってもいい状態に置かれている。

 だが所詮心臓は心臓、肉体の数ある器官におけるほんの一部位でしかない。闇の書にとってはいくらでも替えがきく部品であり真に重要なのはブレイン、つまりは脳髄、構造としての中心ではなくシステム全体から見ての中枢、そこが無事である限り闇の書に死滅は有り得ない。

 故に断言できる……。



 闇の書はまだ、生きている。



 彼らにとって鼓動が脈打たなくなったのは死を意味しない。普通の生物で言うところの冬眠状態になり仮死となっただけだ。万全の態勢が整えばすぐにでも周囲を喰らい尽くす怪獣となって復活を果たす。

 そしてもう一つ、誰もが忘れている、かつての闇の書の主であった八神はやてでさえも失念している事実が、たった一つだけあった。誰も気付かない……勝利の喜びに浮かれてかつて闇の書を除こうとした誰もが直面してきた最悪の事態の存在に。

 闇の書を無害化する方法は二つ。ひとつはページの大部分を空白にさせたまま宿主を自滅に追い込む。もう一つは宿主を殺害して書そのものをただの置物にしてしまうことだ。どちらも魔導書が完全に起動していない初期段階で決める必要があるが、そのどちらかが成功していたとしても闇の書は自己を保存する究極の機能を有している。

 転生。

 所有者を失い単独の状態となった闇の書は次の適合者を求めてランダムに次元転移を繰り返す。その際にそれまで蒐集したリンカーコアは全て初期化されてしまい、再び反応を検出した時には新たな所有者が選定されてしまった後というわけだ。この忌まわしい機能は所有者の死亡とほぼ同時に発動し、無害化してから魔導書を封印するという早技はどう足掻いても実現できない。過去千年、幾度に渡って書を滅しようとしてきた者達が直面してきた現実、闇の書が最悪のロストロギアと呼ばれた所以の一端、無限再生の機能と共に不滅を誇ったからくりの一つ。

 だが、転生機能が発動すれば必然的にその一部である肉塊は消失し、闇の書はこの第97管理外世界から旅立ち新たな適合者を見つけ出す作業に移っていなければならない。だと言うのにこの場に転がっているこの醜い肉塊は活動と増殖こそ停止したがそれだけで、一向にその体が消える兆候を見せない。

 つまりどう言うことか?

 答えは簡単だ、闇の書の転生機能は未だ発動していない。肉塊は仮死による休眠状態に入っただけで静かに再起動の機会を狙っているだけなのだ。かつて捕食者だったそれは今や小動物のように息を殺し虎視眈々と再起を待つ。

 呼吸停止した人間が息を吹き返すには酸素が必要だ。だからどうにかして酸素を取り込むことでようやく自発的な呼吸ができる、生まれたての赤ん坊と同じだ。では生命維持に酸素や血液を必要としない眷属は何をもってそれの代わりとするか……答えはこれもまた単純明快、リンカーコアだ。だが決して大量である必要はない、重要なのはあくまでその質であり呼び水の役目を果たせば後は自動的に蘇生する。問題はその周囲にお眼鏡に適うだけの良質なリンカーコアの持ち主が存在するかどうかだ。餌のかかりが悪ければ巣を変えられるクモとは違い、最初から動きを大幅に制限されてしまった状態で獲物を探すのは至難を極める。このままいい獲物に巡り会えなければ餓死、つまりは自然消滅するだけだ。

 しかし幸運にも……無論、周囲の者にとっては不幸なことだが、ここにその贅沢な要求に応える哀れな子羊が一人いた。

 聖王家の血統だけが持つ七色の魔力【カイゼル・ファルベ】、失われた飛行戦艦『ゆりかご』を起動してなお余りある高純度の魔力を生成するリンカーコアともなればその純度は例えるなら自然界の宝石、他はそれと比較すればただの屑石でしかない。これを取り込めばその魔力は種火となって闇の書を駆け巡り再び力を取り戻せる。

 その際に行われる捕食は生物的な意味ではなく、人間の概念で言う吸収に近い。だが結局どんな言葉を見繕おうとも、それを表すに一番的確なワードはたった一つしかない。

 蒐集……。

 この日、闇の書は極上の餌にありついた。










 ジェットコースターに代表される絶叫アトラクションを乗った者なら分かるだろうが、内臓の浮遊感は人間に原始的な恐怖をもたらす。そもそも人体は三次元的な動きには完全な適応はできない構造になっている。肋骨が人体の前面にあるのは人類がまだ四つん這いの猿だった頃の名残、吊り下がる内臓が自身の重みには耐えられても体を通り抜ける重力そのものには滅法弱い。人によっては下りのエレベーターに乗っただけでも気分を悪くし吐き気を催してしまう者だっている。

 そしてその際、人は無意識に息を呑む。これは重力に関わらず反射的に恐怖を覚えれば自然に出る現象だ。当然肺に空気を取り入れる訳だから吐き出す行為、つまり悲鳴はすぐには出せない。真に恐怖を覚えた瞬間は声が出せないというが実際の仕組みはこういうことだ。もしナイフを持った暗殺者かサイレンサー付きの銃を持った殺し屋なら、息を吸い込んでから悲鳴として吐き出すまでの僅かな間に事を成す。襲われる側に出来るのは相手の魔の手が自分を絞め殺すまでに叫び声を上げれるよう祈ることだ。運が良ければそれを聞いた周囲の誰かが助けてくれる事もあるが……予期せぬ状況に追い込まれてそこまで頭が回転するなら苦労は無い。

 結論から言えば高町ヴィヴィオの身柄は何の抵抗も妨害も無くすんなりと、呆れるほどあっさりと、死んだふりをしていた肉塊が伸ばした触手によってその体内に引きずり込まれた。食虫花に引っかかった小蝿が抜け出す暇も無く餌食になってしまうように、彼女の小さな体はいとも容易く捕食されてしまったのだ。やはり悲鳴は上げず、内臓に不快な浮遊感を味わった次の瞬間にはもう胃の中だ。

 唯一の幸運は一連の捕食行為がある者の眼前で行われたということ。

 「ヴィヴィオッ!!!」

 目撃者が居るのと居ないのではその後の展開が大いに違ってくる。現にユーノはすぐさま自分と相手の彼我戦力の差を理解し、到底敵わないと判断すると空中へと逃げた。無論、すぐにでも親友の愛娘を救出したかったが、今はこの肉塊がまだ生きていると言う事実を本隊に知らせる必要がある。念話を繋げるため意識を集中するが……。

 だがそれを察したのか触手が唸りを上げて振るわれ、ユーノの細い体を横薙ぎにした。脇腹を強烈に打ち据えた一撃による衝撃はそのまま体を突き通り、相殺できるはずもないそれは速度に変換され彼の体をビルの壁に叩きつけた。

 「ガッ……ハァ!!!」

 辛うじて寸前で衝突面に魔力を集中させて衝撃を和らげたが、叩き付けられたショックで肺の中の空気は絞り出され痛みで声も上げられない。しかも触手が接触した瞬間に魔力をかなり削られてしまった上に頭も強く打ち、念話をしようにも意識を集中させることが出来ない。

 触手が出たのは肉塊のほんの一部、上で作業をしているはやて達が気付いた素振りはなく、このままでは彼女らも犠牲になってしまう。そう判断したユーノはせめて彼女たちに危機を知らせようと、今の自分が持てる精一杯の魔力を集中、掌に収まりそうな大きさの光球を生み出しそれを上空に向かって放り投げた。

 「なのは……っ、みんな……!」

 幼馴染たちの無事を祈りながら彼の意識は闇に落ちた。










 打ち上げられた狼煙の存在にいち早く気づいたのは奇遇にもなのはだった。音もなく街灯ほどの光量を持つそれはぐんぐん上空へ上がり、やがてビルの上階あたりまで来て停止した。ただ周囲を照らすのが目的ではない、なのはの目はその本質を見抜き、そしてそれが打ち上げられた意味を悟る。そして……。

 「はやてちゃん!!!」

 親友の叫びに反応したその直後、光球が破裂し花火に似た轟音が結界中に響き渡った。戦場を撤退する際に使用される魔力のスタングレネード、それから強烈な発光を抜き音量を僅かに落とせば周囲に警告を知らせるスピーカーに早変わりする。まだ異常事態は終わっていない、という意味を含んだ最大の警報を鳴らす。

 だがそれをすれば当然息を潜めていた敵も同じように気付く。自分の潜伏がバレていたと。そうなれば当たり前だが敵は本格的な行動を取り始める。肉塊は倒れ伏していた巨体を持ち上げ再び自力で浮上し始め、逃亡を図ろうとする。

 「させんっ!!!」

 すかさずザフィーラの【鋼の軛】が全身を貫き巨体を大地に繋ぎ留めた。痛みに悶えるように肉塊は激しくのた打ち、触手が暴れまわって周りのビルや街路樹をなぎ倒す。完全に逃げ切る前に押さえられたのは良かった、動きさえ止めてしまえば巨体はただの的でしかない。触手の伸びる距離自体もそこまで長くはないため遠距離から一方的に削ればいずれ決着はつく。

 だが事態を把握できていない六課の面々は内心では困惑していた。機能停止にまで追い込んだはずの敵が再び動き出せば誰でも混乱するが、彼女らの着眼点はそこではない。この場合問題なのは何故肉塊が今になって再起動したか、そして先ほどの警報を発した人物。

 「さっきの警報弾って……ひょっとして」

 「ユーノくん!!」

 遠目で確認できるのは壁際にもたれかかる形で気絶する幼馴染の姿。彼が最後の力を振り絞って花火を上げていなければ今頃は目も当てられない大惨事になっていただろう。本来なら不意打ちを喰らうところを奇跡的に全員無傷、反撃の態勢まで整えられるという破格の好機を獲得できたのだから心配より感謝しなければならない。

 「吸収された人達をサルベージする術式を放置したまま。今ならまだ続行できる!」

 「だったら早く……!」

 この期に及んでの彼女らの不幸はたった一つ、それは「何故今になって敵が動き出したか」を疑問視するのではなく、「何故敵が今なお存在するのか」を疑問に思わなかったことだ。猫を除ける前に鰹節を仕舞え、再起動の原因など後から幾らでも調査すれば分かること、救出活動自体も相手を完全に沈黙させた後でも可能。にも関わらず救助者の存在にばかり気を取られ本質を見誤った彼女らの視界は曇っていた……唯一、その違和感に気付けたのは現場の総監督の立場に立ち、かつて闇の書に深く関わりを持っていた八神はやてだった。

 「待ってみんな、何やおかしい、変や」

 「変って何が!?」

 「総員っ、ただちに敵を撃滅せよ! 繰り返す! 総員ただちに救助作業を中止! 敵性体の殲滅に当たれ!!」

 「八神司令!!」

 土壇場での切り返しの善し悪しはひとえに司令官の手腕に掛かっている。ここでそれまでの行動を捨て次の一手を迅速に打つはやての状況判断は褒められて然るべきであり、疑問を覚えながらもその上意下達で命令を即座に実行する部隊の優秀さも随一だった。これが人間対人間の戦争であれば戦略戦術として及第点を与えられただろうが、残念なことに相手は怪物、人間の道理や定石など通用するはずもなく……。

 気付けば全ては手遅れだった。

 「シャマル!! 死体を……死体を確認してっ!!!」

 「し、死体!? まさか、そんな……ッ!!?」

 言葉の真意を察したシャマルが背後にそびえ立つビルの屋上、つい今し方自分たちが仕留めた敵のいた場所を確認し、そして言葉を失った。はやての予想は当たっていた。

 真紅に輝く魔力の塊……リンカーコア。毒々しくも鮮やかな輝きを放つそれは、最悪の敵がその胸に宿していた生命の炎、肉体が消滅してなお強靭な生命力を発揮して最後の最後まで生存してしまっていた心臓部。

 「クラールヴィント!!!!」

 手中に収め封じようと【旅の鏡】を繋げ、シャマルの手が伸びる。リンカーコアそのものは脆弱だ、その気になればそのまま握り潰せる。敵がこれを手にしてしまう前に対処すればまだ間に合う。

 だが……それは幻想だった。

 【旅の鏡】が繋がった瞬間、それまで不動だった真紅の核は刹那、弾丸の如く飛び出して逆にシャマルの前へと移動し、彼女の顔のすぐ横を通過した。

 「うそ……」

 シャマルだけでなく誰もがそう心で呟いた。自力では決して動くことのないリンカーコアが音速で飛来する光景はまるで真紅の銃弾、それは追いすがるフェイトを置き去りに、なのはを撒き、はやてを無視し、まっすぐ突き進み……。

 肉塊の内部へと潜り込んだ。










 変化はそのすぐ後だった。真紅の核と融合を果たした肉塊はその無作為な増殖をただちに停止し、蠢いていた触手も醜い口腔の奥底へと引き戻され肉塊は再び物言わぬ巨像となって沈黙した。

 だが、当然そんな程度で終わってしまう訳が無い。第二の変化はまたすぐに表れた。

 表面が、錆びていく。金属の酸化する様子を早送りするように、肉塊の表面は赤茶けた色へと変色を続け遂にその全体が錆に覆われた。色だけでなく本当に錆のようで、その感触は金属の硬さを有し全体が金属に変換されたことを示していた。不細工な円形と相まって錆に覆われ硬化したその全容はまるで巨大な卵だ。だが卵であれば割れるは必定、そして殻が破られれば中から雛が出てくるのは自然の道理……。

 ビキビキと重厚な音を立てながら表面がひび割れ、裂け目から黒煙が吹き出す。燃焼による煙ではない、凝縮された魔力が濃霧となって内部から吹き出しているのだ。途切れることなく続くそれは内部の発生源が異常なほどに高い魔力を持っていることを外界に知らしめ、その圧をもって世界を侵食していく。まだ昼間だと言うのに周囲は闇に閉ざされたように暗くなり、感じる息苦しさが不安によるものだけではない事を嫌でも知らされる。

 やがて亀裂が全体に行き渡った時、錆びた歪な卵は遂に崩壊した。

 轟音と煙を伴う崩落の中から黒煙と共に姿を現したのは……流れる金髪をと白装束を纏った幼い少女。すらりと整った顔立ちに穏やかに閉じた双眸は聖女の様で、その姿はとても闇の中の闇から生まれ出たとは思えないほど聖性に満ちていた。

 ただ一つ、背中より生える魄翼の禍々しさを除けば、だが。

 「システム、『アンブレイカブル・ダーク』起動……」

 そっと呟く声はやはり幼く、開けられた瞳は琥珀色の輝きを湛えていた。だが覚醒したと同時に白装束は血濡れの赤に染まり、瞳の色は深緑に変わる。その表情はどこまでも穏やかで、自身を取り囲む見ず知らずの有象無象を全て平等に……そう、何の価値も見出さず全てを平等に見つめているだけだった。

 その中の一人が何か叫び、それを合図に全員が包囲網を狭めて飛び掛って来た。手に手に武器を持ち、少女を取り押さえようと各々が全力をあげて飛びかかる。

 それに対し少女は深く溜め息を吐くとほんの少し、十数センチだけ地面から浮上し、彼らを迎えるように両手を大きく広げた。と同時に魄翼もそれに呼応して空を覆い隠さんばかりに広がられた。禍々しい色合いのそれが完全に天を隠したその瞬間、少女は一薙ぎ、両翼を地面に叩き付けた。



 刹那、世界が終わった。



 その瞬間、数ある管理外世界の「97」以降のナンバリングが全て繰り上がり、管理局を混乱に陥れた。

 だがその混乱はすぐに収まった。

 彼らもまた滅びたのだから。






























 …………………………………………to be continued.



[17818] 閉じた世界の片隅で
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:3125d8b5
Date: 2013/12/24 21:49
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 「バイタルチェック」

 「心拍、呼吸、血圧、体温。オールグリーン」

 「瞳孔反応」

 「正常」

 「血中成分」

 「赤血球からアミノ酸まで正常値」

 「心電図」

 「異常なし」

 「レントゲン写真」

 「不穏な影、および腫瘍の気配なし」

 「脳断層撮影」

 「同じく異常なし」

 「グルコース濃度」

 「インスリンは正常に分泌中」

 「骨密度」

 「平均よりちょい下」

 「体脂肪率」

 「脂肪はそうでもないけど筋肉は骨同様に貧弱」

 「ついでに尿検査」

 「糖尿病の危険性はないわね」

 「ふう。ここまではいつも通りですね。後残っているのは知能検査のみ」

 「いつも通りならこのまま放っておいたってイイんじゃない? どの道この子、超が付くほど健康優良なのは間違いないんだし~」

 「体はそうです。でも、今回だけは違う。それは今朝も説明したでしょう」

 「脳波が覚醒に近付く反応を示してる、ねぇ。ホントに起きると思ってる?」

 「分かりません。ですが無視もできません。ここ数年だけでなく、過去のどの記録を検索してもこんな反応を示したのは初めてです。覚醒に至ればここまでの道程が……あの人の苦労も報われます」

 「それを出されちゃったら何も言えないわ。でも今まで植物状態だったヒトが覚醒した例なんてスズメのなみだ…………っ、アミタ!」

 「分かってます、キリエ! この脳波の動き、覚醒する! 排水急いでください!!」

 「もうやってる!! ていうか、ぶっちゃけ培養液のバルブが手動式ってどうなのよ!」

 「予算と技術の都合です! 無駄口叩いている暇があったらちゃっちゃとやってください!! カプセルの中で混乱されては最悪の事態を招きますよ!」

 「はいはーい! 第一、第二弁、排水開始っと!」

 「順調です。脳波パターン正常値を確認、覚醒まであと少ししかありません!」

 「排水完了、よゆーよゆー。あとはてきとーにパルス送ってあげれば……」

 「ちょっと待ちなさい! 適当って何ですか適当って! ヒトの脳はデリケートなんだと博士に教わりませんでしたか!!」

 「はいはい、覚醒ホルモンを分泌する部位に適度の刺激を与えて……っと。よしよし、いい子ねぇ~、予想通りの反応よ」

 「自発呼吸も出来ています。あとは目を開くだけです」

 「まず起きたら、そうね……どんな夢を見てたか聞いてみましょ」










 「────────…………」

 目覚めてまず最初に感じたことは、異常に重く伸し掛る自重の存在だった。手も足も指の一本も満足に動かせず、首を振るのでさえ困難を極め、辛うじて眼球を動かすのがやっとの状態、誰が見ても衰弱死一歩手前の状態にあることを自覚させられた。唯一自由に動かせる眼球を動かして周囲を確認すると、自分の体に及んだ変化は衰弱だけではない事にも気付かされる。

 まず鼻に違和感を覚えた。見るとそこには濃縮酸素を吸入する管、鼻腔カニューレが装着されており、自発的な呼吸では補えない酸素量を確保するための措置として課せられていた。ベッドからはみ出した右腕にはカテーテルが差し込まれ、ブドウ糖を多分に含んだ点滴を輸液しており、更にその隣には一定の感覚で自身の心拍数や血圧を記録するモニターが設置されていた。

 これだけ見ればもう分かる、どうやら自分は重病人並みの看護を受けていると。異常な体の衰弱とそれに伴う重さは極度の筋力低下。恐らく長い間眠っていたことが原因だろう。どのくらい長い間眠りについていたのかが気になってもっと周囲を観察するが、部屋には時計の類はおろか窓さえなく、この自分しかいない病室が完全に閉鎖されたものと言うことだけが分かった。監禁ではなくあくまで隔離だろう、そもそもこんなに弱った体をわざわざ拘束する必要もない。

 いや、その前にどうして自分がこんな所に閉じ込められているのかが気になる。何故自分はこんな所に収容されているのだろうか? ここは一体どこなのだろうか?

 「あらぁ、起きてたの? おはよー」

 「……?」

 唯一室外へ続くドアを通じて誰かが入室してくる。声は女性で、上から覗き込んだ時に見えた顔はその者が少女であることを表していた。取り分けて目を引くのは桃色の長髪と同じく桃色の瞳、健康的な輝きを持った双眸は人懐っこいと言うよりこちらに対する好奇心を隠そうともしない気配があった。

 「自己紹介しまーす。私、キリエ・フローリアン。『キリエ』って呼んでくれていいわよ」

 「…………」

 「うーん、これじゃ聞こえてるかどうかの確認が出来ないかも。やっぱお姉ちゃんが来てから聞いた方が良かったかしら」

 一応声を出そうとしたが声帯にも異常があるのか声が出ず、首も動かせないので返答することが出来なかったのだ。結局挨拶だけしに来た「キリエ」と名乗った少女はすぐに部屋を出て行き、その数分後に別の少女を伴って戻ってきた。顔は似ていないが赤髪の彼女が姉であるようだ。

 「ちょっとキリエ! まだ動作テストが完了していないんですから!!」

 「テストなんて今やっちゃえばいいじゃない。それが無いといつまで経ってもコミュニケーションが取れないんだから」

 姉の手には複数の電極が伸びた円環のような機械があり、妹に催促されてそれをベッドの上の自分の頭部へと装着させた。また新たな発見だが、この時に自分から髪が無くなっていることにも気が付いた。所謂スキンヘッドとか言うやつである。遮るものが何も無い頭に次々と電極を貼り付け、コードを繋いで電力を確保してからスイッチを入れられた。ちゃんと電源が入ったことを確認し、姉が手元のタブレットを確認しながら言葉を投げかける。

 「私の声、聞こえていますか?」

 無論聞こえているが返事を返せない。だが少女はタブレットを確認しながら「聞こえているようです」と言った。どうやらこの機械が脳波のデータから言語野の働きを逆算しタブレットに文字を送信しているらしい。見かけによらずかなりの技術だが、そうするとますますここが何をする場所なのか気になる。姉妹は医者には見えない上に二人以外の気配も感じられない。ここが病院ではないことだけは確かなようだ。

 「ええ、確かにここは病院ではありません。むしろ公共の施設でもないです」

 どうやら思考した部分も文字として出力されるようだ。当分の間の会話はこれに頼ることになるだろう。

 「妹の方は先にすませたそうなので私からも自己紹介を。私の名前は、アミティエ・フローリアンと言います。親しい人は『アミタ』と呼びます。以後よろしくお願いします!」

 そう言ってかなり勢い良く頭を下げてお辞儀する。妹よりもエネルギッシュだ。だがやはり似てない姉妹だ。

 「あはは、よく言われました。気分は悪くありませんか? ここは地下ですから換気は少し芳しくありませんが、何か足りないものがあれば言ってください」

 取り敢えず今は充分だと伝えておく。アミタはここを地下だと言っていたがそれなら窓がない理由も自ずと理解できる。体の自由が利かないのは不便だが特に出歩くつもりもないのでそこは我慢できる。

 そう言えば先ほど彼女はここを医療施設ではないと言っていた。となるとここは一体何の施設なのか気になる。

 「ここは博士……私達の父が所有していた研究施設です。もう今は研究は行っていなくて、少し広いことを除けば民間の家屋と変わりありません」

 「博士はもう死んじゃってて、今は私とアミタ、弟や妹達と住んでいるのよ」

 と言うことはそれなりの大人数で生活していることになる。言い方から察するにこの二人が一番の年長者なのだろう。ここで療養していればいずれ顔を合わせることもあるだろう、挨拶はその時にでも済ませればいい。

 「さてと! 私達の自己紹介は終わったから……今度はあなたの番ね。名前は何て言うのかしら? キリエさんに教えてちょうだいな」

 「?」

 何を、言っているんだ? 名前なんてこちらを保護した時に調べをつけているはずだ。それを何で今更、実際の時間は分からないが長い間眠っていたであろう自分が起きるのをまって聞きにくるのか。

 「いやー、あなたを回収した時の話なんだけど、名前から年齢、身分に経歴、その他あなたを社会的に証明するものが何一つ無かったらしいのよね。分かったのは性別と血液型くらい」

 「ですから、あなたから直接聞くしかなかったんです」

 「…………」

 訳が分からない。普通、こう言う場合は警察などの公的機関が立ち入って身元の確認を急ぐはずだ。どれくらい眠っていたのかは知らないが昏睡状態の「患者」を起きるまで待ってから事情聴取など悠長が過ぎる。しかも彼女らは自分自身で公的機関の者ではないと言った。ならここは一体……。

 「病み上がりに付け込むようで心苦しいですが、もう一度お聞きします。あなたのお名前は?」

 「結構重要なことよ~。しっかり教えてね」

 「キリエは少し黙っててください!」

 「……………………」

 姉妹の喧騒がどこか遠くの騒音に聞こえる。脳の理解が追いつかない。自分がこんな所にいるのが不思議、なのではない。かつてどこかで自分が目を開けていたのが何時だったのか、どこで己の目が閉じたのか、それ以前は何をしていたのか……。



 思い出せないのだ。



 自分がどんな名前だったか。

 年齢はいくつでどんな人生を歩んだか。

 瞳と髪の色は何だったか。

 声色は。

 父は。

 母は。

 友人はいたか。

 どこで生まれてどこで育ったか。

 全く……覚えていなかった。

 「記憶喪失、ですか……」

 「わ、私の所為じゃないわよ!? 適当って言っても覚醒ホルモンを誘発するパルスはちゃんとした数値だったし!」

 「ええ、分かっています。となると、やっぱりケースにいた時から……」

 姉妹の間に不穏な空気が満ちる。当然だ、長い時間をかけて回復させた者が脳に障害を負って記憶喪失に陥っているとなれば心配もするだろう。だが彼女らの抱える不安とは裏腹に、ベッドの人物の心は落ち着いていた。自分の出自とこれまでの道程が失われてしまった事に対する困惑は無く、この先どうすればいいのかと悩む不安も無い。ただ言葉にしにくいが、こうなることが必定だったとも思える諦観にも似た心境にあった。何故そんな風に思うのかは自分自身でも分からない。きっと記憶を失う前の自分が行なった事の代償なのだろう。

 当然だが今すぐどうこう出来ることではなく、戸惑いの混じった慰めの言葉を送られただけで今日は終わった。明日からは療養とリハビリが待っていると告げてから部屋を出る姉妹を見送り、全てを失った名も無き「少年」は深い微睡みの中へと自己を埋没させるのだった。










 フローリアン姉妹は別室に設置されたモニターからさっきの少年を監視カメラを通じて観察していた。部屋の隅に一台だけ設置されたカメラだ、当然目立つので最初は少年の視線が向けられていたが、ものの数分もしない内に少年が眠りについたことで観察は暇を持て余すことになった。

 「どう思いますか、キリエ」

 「どうって?」

 「彼のことです。記憶喪失だと知らされたにも関わらず、彼の呼吸や脈拍に乱れは一切ありませんでした」

 「目を開けたら見知らぬ部屋に隔離。見ず知らずの人から質問吹っ掛けられて、あなたの脳は損傷を負ってますって宣言されても動じない……。心臓に毛でも生えてるのかしら」

 「そんなわけないでしょう。……血液サンプルのデータは?」

 「解析中。焦ってもすぐにゃ結果出ないって」

 「分かっています……分かっているんです、そんなこと! でもキリエだって気になっているはずです。彼が何者なのか」

 「んー、まーね。博士が本来の研究を捨ててまで没頭してた素材……気になるでしょ」

 「絶対に解明してみせます。必ず……!」

 強い意志を秘めた瞳はモニター越しの少年を睨むように見つめるアミタ。姉とは対照的に崩した調子で壁に寄りかかるキリエもまた、その視線は姉と同じ熱を秘めていた。

 そして姉妹と少年の奇妙な同居が始まる。










 結論から言えばこの一週間は何も起こらなかった。毎日決まった時間に起床し、決まった時間に検査を行い、決まった時間に食事、そして決まった時間に就寝する。少年は鉄道のダイアグラムのように規則正しい生活を送り続けた。

 逆に言えば七日目に変化があった事になるが、それも大したことではなかった。いや、大した事ではないというのは少年にとっての話で、実際はとんでもないことだった。長期間のリハビリが必要だと思われるほどに筋肉と骨が衰弱していたはずが、一週間後には自力で上体を起こすまでに回復していたのだ。もちろん点滴も外し、今では食事も離乳食のような物から固形物へと

 「いやはや、リハビリもまだだっていうのに随分とゲンキね~。この分だと明日には車椅子持ってきた方がいいかしら」

 「感謝する……」

 そして言葉も話せるぐらいにまで回復を果たしていた。長い植物状態からの復帰だけでも充分驚きに値するが、その後遺症からここまでの短時間で回復してしまった事にフローリアン姉妹は驚きを禁じ得なかった。本当なら数週間後から始めるつもりだったリハビリなどを明日から始めることに決め、それ以外でもある程度自由に施設内を移動できるよう車椅子も用意させた。流石に足の回復はまだ完了しておらず、車椅子の次は松葉杖の生活が待っているだろうが。

 とにかく超人的な回復力でここまでの復帰を成し遂げた少年は、次の日からリハビリをこなす事で更なる自由を獲得しようとした。

 と言ってもその内容は歩行練習とそれに伴う筋力向上のトレーニングだけだ。車椅子は手押しの古いタイプしか無く、自力で移動するにはどうしても腕力が必要になる。いずれそれも無くして歩行することを視野に入れれば歩行訓練の為に手すりなどに寄りかかっても大丈夫なくらいには回復させなければならない。腕の筋力はすぐに復活したが、どう言う訳か足の治りは常人と同じレベルで遅々としたものだった。過去に骨折でも味わったわけでもなく、レントゲンに写された骨の映像は鮮明に健康状態を表していた。

 だがいくら腕力がついたところでスタミナは並以下なため、自力で移動するのは施設の住人が手が離せない時だけ。フローリアンの弟妹らに暇な者がいた時だけ介護してもらう形になっている。

 しかし、その弟妹というのがまた不思議だった。

 「…………」

 「…………」

 ある程度動けるようになってから、キリエの提案により彼女らと共に食事を摂ることになり、施設内の食堂へと足繁く通うことになった少年。彼が乗る車椅子を押すのはフローリアン姉妹の「弟」だが、姉達とは顔立ちがそこまで似ていないのは良いとしても、その口数は異様に少なかった。彼だけではない、他の弟や妹らも同じように無口であり、その言動は予め決められていたことを完了した時だけ短い言葉で告げられるのみ。今朝も部屋に迎えに来て朝の挨拶を済ませただけで後はずっと無言だ。なまじ少年の方から語りかける事が無いので沈黙は更に長くなる。

 きっと本質的に二人の姉とは違うのだろうと思ったが、別にどうでも良いので何も聞かなかった。知りたいとも思わない。既に少年はこの空間において、「ただ存在するだけ」のモノとなっていた。

 「おはようございます」

 「おはよ~」

 「……」

 今日も今日とて三人だけの食事が始まる。「弟」や「妹」は他にもいるが、彼らが食事や休息をとっている姿を見たことがない。時折施設の外へ出て行き、戻ってきて汚れた体をシャワーで落としているくらいだ。その私生活は謎に包まれている。

 「調査報告を」

 「はい」

 他に分かっているのは外出した時に外の環境データを報告させているということだ。どこどこの森林の木々が何割減少したとか、どこそこの湖の汚染状況が前年と比べてどうだとか、それらに対する処置の効果云々を姉妹で談義している。

 「北の森に生息してたリスが遂に絶滅判定食らっちゃったかぁ。えーっとこっちは……うわっ、土壌の汚染濃度が前の年の五倍って! 農作はもう全滅かしら」

 「まだです。絶滅してしまった生物はともかく、農業は生活の基本、土壌汚染に関しては打つ手が完全に無くなってしまった訳ではありません!」

 「でもぉ、もう品種改良じゃ根本的な解決にはならないわよ。どんなに強い植物を作ったって、水も土も空気もドロドロに汚れちゃってるんだし」

 「それでも……!」

 何やら議論が白熱しているがいつもの事なので放っておく。どうせ自分には関わりのない事なので内容を知ったところでどうと言うことはない。興味もない。

 「だいたい、アミタが世話焼いてる町の人達だって、もうこの土地を離れるって噂よ。ゴーストタウンの清掃業でも初めてみる?」

 「移住? もうどこへ行っても汚染は進んでいるのに、今更どこへ……」

 「もう何年も前から世界規模で隣の星に移住する計画が進んでるわよ。忘れてたの?」

 「分かってます。もうこの星は再生しない……国家はそう見切りをつけたのでしょう」

 話を傍で聞いていて知ったことだが、この星「エルトリア」では惑星規模の汚染、「死蝕」と呼ばれる現象がもう一世紀も以前から慢性的に続いているらしい。水は濁り、土は腐り、あらゆる草木は枯れて空気は汚れ、人々は病魔に冒される。初めて確認されてからずっと研究が続けられたがその原因は解明できず、遂にこの星の住人たちは他の星への移住計画を推し進めた。結果、汚染と移住により世界中から人間は消え去り、様々な場所でゴーストタウンとなる街が増え始めた。

 フローリアン姉妹はかつてここの主だった「博士」なる人物の研究を引き継ぎ、死蝕を食い止めるべく各地に対抗策を講じながら生活しているらしい。だが百年もの間解決できなかった難問を彼女らが早急に処理できるはずもなく、奮戦虚しく成果を上げることはできていない様子だった。キリエは半ば見切りをつけているが、アミタはまだ諦めきれておらず、結局はそれに付き合う感じでこの研究は続いているらしい。

 故に、少年は外出を許されていない。生身の状態で外に出れば体は一瞬で毒に侵され、呼吸器官を始めとする循環器系が異常を起こし、凄絶な苦しみを数日味わった後に死亡すると言う。これは最も危険な場所での話だが、それなりに軽度なこの周辺でもガスマスク無しでは喘息に似た症状を引き起こすらしい。

 「…………」

 ふと思ったことがある。

 自分の皿の盛り合わせを見る。肉は無く野菜と穀物だけのヘルシーな献立だが、別にそれについてケチをつける気は毛頭ない。気になったのは対するフローリアン姉妹の食事だ。さっき三人だけの食事と言ったが、実際は食堂に三人いるというだけで、彼女ら二人もまともな食事を摂っている姿を見たことがない。こちらが品種改良し自家栽培された食材を食べている傍らで、彼女らは銀色のチューブに詰められた液体を経口摂取、それも朝に一回行うだけで昼食や夕食を摂っている姿も見たことはない。二人が恐ろしく小食か、ドリンクが度を越して高カロリーのどちらかだろう。

 まぁ、少し不思議に思った程度だ。だからどうと言う事もない。深く干渉するつもりは微塵も無い……ここでの少年の立ち位置は置物と同じだった。

 食事の後は運動を兼ねてリハビリに勤しむ。通路の壁際に設置された手すりを使って歩行訓練を行い、一日でも早く車椅子を用いず自力で移動できるように集中する。

 一週間という期間はそれなりに変化を与え、スキンヘッドだった頭が青くなってきたと思えば毛根が活性化したことで髪が生えてきたのだと知った。その感触を面白がったキリエに何度か撫で回されたが、アミタに注意されて以降彼女の目の届く範囲ではしなくなった。今現在、少年の周囲にアミタの影はない。彼女は今弟妹を伴って外の調査に出かけている。つまり……。

 「あぁ~、このジョリジョリ感がたまらないわ~」

 「……」

 休憩の合間の水分補給を見計らってキリエが飛びつくように少年に寄り添い、その頭部を撫で回す。傍から見た絵面はかなりシュールだろうが、他に誰もいないので気にする必要はない。

 「ねぇねぇ、そろそろお名前思い出せたかしら?」

 「いや、なにも」

 「あら、そうなの。私もアミタも早くあなたの事を知りたくてウズウズしてるの。何か思い出したことがあればすぐにでもお姉さんに教えてね」

 「……ああ」

 教えてどうなると言うのだろうか。そうすることで何かが劇的に変わるわけでもなし、例えそうだったとしても少年本人に思い出す気が全くないので難航するだろう。別に少年が自分の事態を楽観視しているわけではなく、文字通り何の興味も湧かないからだ。自分の過去を知らずとも恐怖は無く、先の分からない未来に直面しても不安は感じない。例え何の成果もなくこの地下施設で一生を過ごしたとしても後悔の念は起こらないだろう。

 「ところで、ものは相談なんだけど、君の血液をほんの少しだけもらいたいんだけど、いいかしら?」

 「血液検査はとっくに済んだはずだ」

 「そうなんだけど、あれはあくまで検査用。ここの清浄システムも万全じゃないからいつ外の毒が入ってくるかも分からないわ。今までは『私達』しかいなかったからそれで良かったけれど、君はそうじゃないでしょう? だから今の内に抗血清を作っておくのよ。死蝕に冒されても初期症状ならそれで何とかなるし」

 「……分かった。好きにしていい」

 「ありがと! じゃあ早速だけど……」

 そう言いながらバッグからガーゼと消毒液、そして採血用の注射器を取り出す。随分用意がいいな、と思いながら少年は抜き取られる己の血をどこか他人事のように見つめていた。それと同時に疑問にも思う……「果たして自分の血の色はこんなのだっただろうか」、と。もっと別の色をしていたような気がするがその疑問を封殺し、絆創膏が貼られるとすぐにリハビリを再開した。

 「熱心よね~。どうしてそこまで頑張るのかしら?」

 「……さぁな」

 「まぁ、ほどほどにガンバってね」

 少年の血液を収めた試験管をバッグに収めながらキリエは通路の奥へと引っ込んでいった。

 取り敢えずアミタが戻ってきた時に頭を過剰に触られたことだけを伝え、妹は姉に烈火の如くお叱りを受けるのだった。










 更に三週間、少年が目覚めてから一ヶ月が過ぎた。歩行訓練の賜物か今や移動に車椅子は必要なくなり、二本の松葉杖を使った四点歩行によって施設を自由に行き来するようになっていた。大部分の肉体的自由を取り戻したことで少年は日々の活動を改め、それまでのリハビリに加えて上半身を中心とした筋力の増強、つまりは筋トレを始めた。腕立て伏せに始まり腹筋運動などを継続的に行い、体に纏わり付いていた余分な脂肪分を削ぎ落とすのが日課となった。

 変わったことは他にもあった。スキンヘッドに色が付いた程度だった頭は今や数センチの髪が生え揃い、女性が見れば嫉妬しそうな艶を持っていた。未だヘアースタイルと呼ぶには短過ぎるが、栄養管理された食事により肉体は爪の先から頭皮に至るまで健康そのものだった。

 だが変化しなかったものもある。他でもない記憶のことだ。一日一度は姉妹からそれについて聞かれるが、返す言葉は常に同じだった。過去を掘り起こす努力をしない少年に言いたい事がありそうな雰囲気を持っていたが、幸いなことに既にお互いのテリトリーには踏み込まない暗黙の了解のようなものがあった為、それをきっかけに険悪な感じになることは無かった。

 このまま何も変わらず平穏な時間が流れているものとばかり思っていたが、新たなる変化はある日突然訪れた。

 「外に行きましょ!」

 「……」

 そうキリエから誘われた。何の前触れも予告も無しにいきなり突然に、彼女はデートに誘う感覚で外出を提案してきた。どこに行くとも言わず、行き先は外とのみ告げられ、外を出歩くための防護服を渡された。一ヶ月も暮らしていればキリエの押しの強さは把握できているが、ここまで突飛なことを言い出すのは珍しかった。外の環境がどうなっているかなど実物を目にした事が無いだけで実際は熟知している。見えない毒素が飛び交い充満する地獄へ連れ出そうとはどんな魂胆だろうか。

 「警戒しないでよ。別にどうしようって訳じゃないわ。ただ、君もこの土地で生きる人間になるんだから早くに知っておいてほしいの。この……エルトリアの現状をね」

 ガスマスク付きの防護服に身を包まされ、ゴワゴワする体で松葉杖を突きながらキリエと少年は唯一外へ通じるエレベーターへと足を踏み入れる。結構な深さに建造されているのか数分くらいはそのまま重力を感じながら地上を目指し、その間はお互いずっと無言で過ごした。不思議なのは少年が防護服を渡されたのに対し、キリエ側は何の装備も無しで外に向かおうとしており、ガスマスクすら用意していなかった。

 自転車の鈴のような軽い音が響き、地上階へ到達したことが分かる。ドアが開いて見えた光景はどこかの部屋の一室であり、この一ヶ月見る事のなかった外界を繋ぐ窓からは僅かな陽の光が差し込んでいた。

 「このドアを出たら外の世界よ」

 玄関口へと案内され、開かれたドアから一歩を踏み出した。じゃりっと土を踏む感触が伝わり、今まで硬質な床しか踏まなかった足裏にこれまでとは全く異なる感触が突き抜ける。網膜を刺すような光を感じて目を細めるがすぐに慣れ、バイザー越しに見え始めた光景を目に刻む。

 「ここが私達の生まれ育った場所……『エルトリア』よ」

 小高い丘の上より望む光景は、凄惨だった。

 見える景色はその大半が植物の存在を確認できない茶色に染まり、僅かに見える木々はかつて巨木だったものが枯れて醜く歪み捻じ曲がった姿ばかりだった。当然葉は全て落ちてしまっており、ボロボロの枝は鳥も留まれそうに無い。いや、そもそも小動物の影がどこにも見当たらない。曇天のどこを探しても鳥の姿は見えず、かつて何かの動物の物だったと思われる白い頭骨が僅かに転がるばかりだ。

 南の海は、ただただ黒い。光の加減でそう見えるのではない。食物連鎖による濃縮と土壌と大気から染み出した汚染物質は最終的に海に蓄積され、もはやその濃度は本来蒼く輝く海原を漆黒に染め上げてしまった。浅瀬から始まったそれは今や太陽の光さえ遮り、光合成によって繁殖するプランクトンは絶滅、連鎖反応で食物連鎖は崩壊し、海から生態系の概念は消え去った。

 北の山脈はハゲ山でしかない。植物の枯死で山肌は丸裸にされ、天然のダムの役割を果たしていたそれらが消え去ったことで河川や地下水は僅かな雨で氾濫と決壊を繰り返し、水辺を拠り所とする人間の生活体系をも壊してしまった。そして地下を流れる水でさえ濾過では追いつかないほど汚染されている。

 東西の空はもう何も言えない。曇天の原因はただの雨雲ではなく、大気中の水分に汚染物質が取り込まれて発生した暗雲だ。いずれ雨となって地上に降り注ぎ、根を張っている僅かな木々を徐々に殺していく。そしてそれが土壌や河川、海へと流れ込み汚染は拡大していく。

 「百年前、ある環境学者が発表した論文がきっかけだったそうよ。まず極地の大気にほんの少しの未知の物質が確認された。検出されたそれは濃度が低いものだったけれど、計算の結果月日を重ねるごとに徐々に増大していく傾向だったことが分かった」

 そこから先のエルトリア人が打ち出した対策は様々だった。汚染物質の元凶が企業の排出するガスにあると考えた各国政府は炭酸ガスを始めとする廃棄物の削減に始まり、世界規模での植林や、宇宙線を遮るシェルターの建造計画、別の土地から優良な土を持ち込み土壌を改革しようとしたりした。だがその悉くが失敗に終わった。今や大地に残る生命は大気から汚染物質を除去する清浄システムを持った人類、自浄作用により立ち枯れながらも存在する一部の巨木と、餌不足により慢性的な飢餓に陥った大型肉食獣だけとなった。

 「そして人類はこの星を見捨てて別の星にお引越しすることになりましたとさ、めでたしめでたし。計画が持ち上がってから一年に半分ずつ世界の人口は減っている。減った数のそのまた半分は汚染による病死だけどね」

 そう言いながらしゃがみ込んで土をいじるキリエの視線は遠かった。どこか昔を懐かしんでいるようにも見える。

 「昔はね、ここにも花が咲いていたのよ。綺麗だったわ……。アミタと一緒に博士を連れ回して、すぐそこにあった森までピクニックに行ってた。……今思うと、そんなことしなきゃ良かったのよね」

 「……博士は?」

 「うん、病死。科学者なのに研究室に篭ってるタイプじゃなくて、いつも外に出て活動してた。結局肺をやられてからはそれも出来なくなって、死蝕からは完全に手を引いた。私達は博士が成し遂げられなかったことを実現したいのよ」

 丘から少し海へ行った所に墓石らしき物が幾つか並んでいる。表面には『グランツ・フローリアン ここに眠る』と彫られてあり、享年から若くして亡くなったことが分かった。

 ふと、気になったことがあった。

 「なあ、今は新暦何年だ?」

 墓石に生没年はなく享年しか刻まれていないので気になったのかと言われればそうではない。確かにきっかけはそれだが、少年の頭に不意に思い浮かんだので反射的に口をついて出たのだ。本当は「新暦」という言葉の意味も理解していない。何かの年号か暦を表すものだということは分かるが、それ以上は何も知らなかった。だから今は何年と答えられたところで受け流すつもりだった。

 だが、キリエの返した言葉は少年の予想を越えていた。

 「しん……れき? 何それ? どこかで聞いたことあるような……」

 「……?」

 何を言っているのか分からなかった。だが普段のふざけた様子はどこにも無く、半ば困惑したように首を傾げる姿は本当に言葉の意味を把握できていないことを表していた。

 「新暦だ。管理世界公用暦、知らないのか?」

 「『管理世界』? はは……また随分と懐かしい名前が出てきたわね……」

 「?」

 「管理世界なんてもうどこにも無いわ。それもそうよ、管理者がいなくなったんだもの」

 「管理者?」

 「管理世界を知ってるのにその元締めを知らないの? まー、記憶喪失だし仕方ないかしら。いい? かつて管理世界と呼ばれた大半の次元世界を束ねていた組織、時空管理局はもう存在してないの。影も形もね」

 時空管理局がもう存在していない……管理局という言葉が何を指すかさえ理解が及ばないのに、何故かその言葉が突き刺さる。

 「結構前に起きた超規模の次元震の影響で大半の管理世界と一部の管理外世界が滅亡、元締めだったミッドチルダの崩壊で管理局は名実ともに組織として瓦解したの。歴史の教科書にも載ってることよ、もう知ってるんだと思ってた」

 「…………」

 「まぁでも、そうね……もう新暦なんて年号どこも使っていないけど、あえてそれに合わせて言うなら……今は──」



 「新暦170年かしら」



 「……ひゃく、ななじゅう……」

 「細かいことは分からないけどね。それとも何か思い出せたかしら? 今日は口数が多いじゃない。しかも管理時代の事を知ってるなんてね」

 「……………………」

 口をついて出た言葉に引き寄せられて様々なワードが脳の奥より蘇る。管理局……ミッドチルダ……クラナガン……ベルカ……聖王教会……機動六課……主に地名や組織名が想起されるが言葉だけで中身に関する記憶や知識は抜け落ちたままだ。何よりフローリアン姉妹が求める少年個人の記憶は相変わらず何も思い出せない。だが呼び起こされた知識を手繰り少年は言葉を続ける。

 「…………管理世界のナンバリングに、『エルトリア』という名は無かった」

 「ホントに変なとこだけ知ってるのね。そうよ、エルトリアは元々管理世界とは何の関わりも無かった。ていうか今だって別に管理世界の扱いを受けてる訳じゃないわ。例の超規模次元震動がある程度収まった後で管理局はいくつの次元世界が生き残ったのかを調査して、それで発見されたってだけの話よ。魔導運用技術に相当する物もあったけど、当時の情勢で交流なんて出来るはずもなくて、すぐに途絶えちゃったけどね。事実上の交流期間は十年も持たなかったらしいわ」

 「管理局は何故滅んだ?」

 「なぜも何も、言ったでしょ、大半の次元世界が滅んだって。管理なんて大層な役を背負っていても実態は各次元世界の連合制なわけだし、同盟の半分以上が滅亡しちゃったら組織体制を維持できなくなるわよ。エルトリアには次元航行技術は無かったから、他の世界が今どうなってるかなんて知らないけどね」

 「…………」

 「次元世界の滅亡だって、ただ滅んだ訳じゃない。文明がどうとか、人口がどうしたとかじゃなくて、世界そのものが一瞬でぶっ壊れたのよ。まるで大きな力に無理矢理引き裂かれたみたいにね」

 ひとつの文明や生存圏が一瞬にして滅ぶなどありえない。隕石が降り注いでも惑星上の全生物が絶滅するには途方もない時間が掛かる。ましてや惑星丸ごと、世界そのものを破壊するとなると、また蘇る知識がもう一つ。

 「ロストロギア……」

 「ロスト……なんて?」

 「ロストロギア。別名、『古代遺失物』。かつて滅び去った先史文明が生み出したオーバーテクノロジーをそう呼ぶ。物によっては世界を滅ぼすこともあると聞く」

 「おお! なんかイイ感じに記憶が引っ張り出されてるね。その調子でどんどん思い出しちゃってよ」

 とは言うものの、外見は冷静を装っているが実際に少年の心理は少し揺れ動いていた。彼が知る新暦の年代は75年、そこから何故か記憶が飛んで実に九十五年もの歳月が流れていることに僅かながら動揺していた。そう、僅かしか動じていなかった。例えるなら朝起きて土曜日だと思っていたのが実は日曜日だった、それぐらいの驚きだ。単純な記憶の齟齬にしては時間を飛びすぎている。つまり、そこから導き出される答えも自ずと限られてくる。

 「俺は……」

 いつの間にか自分が過去を探ろうとしている事に気付かず追求を続けようとした少年を、背後から突き抜ける別の声が遮った。だがそれは少年に向けられたものではなかった。

 「キリエッ!!!」

 怒気を含んだ声の主は予想するまでもなくキリエの姉、アミティエのものだった。軽装どころか何の装備も持たない妹と違い、アミタは防塵マントの下に薬品や装備を持ち、背後に並ぶ弟妹たちも同じ出で立ちだった。周辺の調査に出かけていたところが今帰ってきたのだ。だがやはり、少年と違い誰もその身を完全に覆い隠してはいなかった。

 「どういうつもりですか。彼を外出させる許可なんて出してません」

 「ちょっとぐらいイイじゃない。いつまでも地下に篭っていたっていい事ないわ。ちゃんとお日様の光に当ててあげないと萎びれちゃう。別に遠くに連れ出したりはしてないじゃない」

 「当たり前です! 彼の足は完治してないのは分かっているでしょう」

 「ちゃんと同意は得てるってば。ね、そうでしょ」

 一応、頷いておく。少々強引な部分もあったが最終的な判断は少年自身が下した。実際のところ外出といっても家屋に偽装した研究所から十歩ほど離れた程度だ。このまま特に何事も無ければ少年の方から帰還を促していただろう。

 「私のことは置いといて……アミタの方こそ、何してたのよ」

 「いつもの日課です。今更聞くことでもないでしょう」

 「ご自慢のおクスリの効き目はどうだったかしら。枯れ木や干し草にいくら栄養剤打ったところで何も変わらないわよ。どれだけ続けるつもりなんだか」

 「私の根気が折れるまでです!」

 「威勢がいいのは構わないけれど、もうそのセリフ何年言い続けてるか知ってる? じゃあ私も同じように返してあげるわ、アミタ」

 固い意志のこもった指先を突きつけ、恐らく姉妹の間ではもう飽きるほど交わされたであろう言葉を投げつける。

 「あなたのやり方じゃ間に合わないのよ! 私は私の方法でエルトリアを救済する……お姉ちゃんみたいなナマっちょろいやり方じゃなくて、もっとスマートにね」

 「キリエ……あなた、なにをっ!」

 「ヤだなぁ、妹のことくらい信用してよ。無茶はしないわよ、無茶かどうかは私が判断するけどね」

 「キリエ。待ちなさい、キリエ!」

 姉の制止を無視して戻っていくキリエをただ見つめる。その背中には普段は茶化したような雰囲気は微塵も無く、姉以上の強い意志を秘めた何かを感じた。どうやらいつだったか分析した二人の性格を見誤っていたようだ。アミタがキリエより情熱に満ちているのではない、決してキリエがこの研究に怠惰なのではなく彼女こそが姉よりもこの星の救済を強く願っているのだ。だがやり方に問題があるのか、本来互いに協力すべき双方が対立しているのが真相らしい。

 そしてその対立の一端が自分にあるらしい事に少年は薄々勘づいていた。

 「…………」

 「見苦しいところをお見せしてしまいました。後で彼女にはきつく言い聞かせておきます」

 「いや、いい。それより、教えてもらいたいことがある」

 「なんでしょう?」

 「お前の知っている限りでいい。この星の歴史を記した情報がほしい。どんなものでも構わない」

 「……でしたら、地下の一室に資料室があります。博士がよく利用していた場所です。そこでしたらあなたの求めるものがあるかもしれません」

 「感謝する」

 「研究室に戻る前に除染を済ませてください。汚染物質の持ち込みは厳禁ですから」

 その後使用していた防護服と、全身を隈なく洗浄された後で少年はアミタに案内される形で資料室を訪れた。ディスクやチップなど様々な記憶媒体が収められ、中には紙を使用した古めかしい書物など多種多様な記録がそこにはあった。

 「この研究室は元々博士よりも前に使っていた人が居たらしいですが、その頃の記録も含まれています。ざっと100年分といったところです」

 「100年……死蝕が始まったのと同時期か」

 「実際、その為の研究施設だったらしいです。食事の時間になればまた呼びます。それまで好きに使ってください」

 「ああ……」

 100年、およそ三代にも及ぶ研究記録の山が良好な保存状態で残されていた。記録媒体の再生機もちゃんと整備されており、少し埃を被っている以外は問題なく使えるレベルだった。

 それから一時間ほど適当に書物を読み漁り分かったことがある。どうやらこの研究所の最初の住人、姉妹が「博士」と呼ぶ人物より先に研究を行っていた人物は死蝕の原因と解決策をエルトリアの歴史から探ろうとしていたようだ。これだけの規模に及ぶ汚染現象を引き起こしたきっかけが単なる偶然とは考え難く、過去にも似たような事件があるはずだと考え、そこから糸口を見つけようとしたらしい。ディスクなどのデジタル媒体は研究記録で、紙媒体の書物はこの星のあらゆる歴史を記した本だということが分かった。

 だが結局、過去の歴史からも要因らしい要因は発見できず、この研究者は独自の方法を模索するしか無くなった。この時代にはまだ余裕があったのか、日誌には将来を予測したことが書かれているページが殆どだ。一世紀経つ頃には汚染濃度は深刻な環境問題としてエルトリアの歴史に残るだろうと在る。実際のところは100年前の予想を大きく越え、もはや人類の生きる場所ではなくなりつつある。

 引き続き膨大な記録を読み流していると、途中から文章の書き方がそれまでと異なることに気が付いた。ここから書き手が別人になっている。例の「博士」、墓石に刻まれていたグランツ・フローリアンによるものだろう。原因究明を急ぎながらもそれなりに余裕のあった一人目とは違い、彼が研究を引き継いだ時には既に汚染状況が加速していたのか、とにかく行動に移さなければならないという焦りが克明に表れていた。客土を始めとする土壌改善を行い、古来より水質を清潔に保つ濾過作業から、紫外線や放射線を用いた殺菌、大気をクリーン化する清浄システムの開発などを行ったが、それも根本的な解決策にはならなかった。唯一の成功と言える空気清浄機も屋内でしか効果はなく、これが普及しても将来建物の中でしか生活できなくなると自身が苦言を呈してもいた。

 だがグランツは環境汚染だけでなく、近い将来に新たな問題が浮上することも見越していた。それは人口の減少。汚染による病魔の拡散だけでなく、この頃既に持ち上がっていた他の惑星への移住計画の発表を受け、いずれエルトリアから大多数の人間が姿を消すと予見した博士は、自分の研究をサポートしてくれる人材を確保しなくてはならなくなった。加速度的に汚染が酷くなる大地に率先して残り当て所ない作業に従事してくれる奇特な人間など、周囲にはグランツ自身以外には誰も居なかった。

 そこで博士は死蝕の研究から一旦距離を置き、人材の確保改め、自らの研究をサポートする「機材」の開発に着手することにした。汚染が進む環境でも問題なく活動する為には、やはり貧弱な人間ではなく強靭な構造をした機械を使うのが一番だと実感したのだろう。

 「いや、研究記録はどうでもいい。歴史だ、この世界の歴史を……」

 いつの間にか視線が研究日誌に移っていたことに気付いた少年は再び古い歴史書を漁ってその記述を確認する。知りたいのはここ一世紀に渡るエルトリアの歴史だ。キリエとの会話で思い出した時空管理局の存在を記した部分がどこかにあるはず、そう考えながらページを捲っていく。

 そしてやっと見つけた。今からちょうど90年前、新暦80年に当たる頃に当時まだ組織として辛うじて存続していた管理局が各次元世界の安否を調査するという名目で訪れ、しばらくの間は交流があったらしい。だがこの時既にミッドチルダを失っていた管理局に恒久的な交流を維持するだけの組織運営力は無く、そのおよそ十年後に局側から申し出る形で交流は打ち切られた。突如としてコンタクトを取ってきた異世界の存在に当時のエルトリア人は沸き立ったが、この時一部の住人が異世界に渡り、向こうからも同じこちらに渡ってきた者がいるらしい。

 その情報が無いかと更に資料を漁ってみるが目ぼしい記述は見つけられず、食事の席が整ったとアミタに呼び戻されてこの日は引き上げた。

 この日、キリエを見かけることは無かった。










 それから数日間、少年の居場所はもっぱら資料室となっていた。一日の大半をそこで過ごし食事と睡眠、排泄といった最低限の生活要素を除いてそこから出ようとはしなかった。気を利かせたアミタが弟妹に頼んで食事を届けるようになってからはますます引き篭るようになり、黙々と書物を読み耽る様子は貪欲に餌を貪る静かな獣を想起させた。

 それまで過去に無関心だったはずが、一度火が点いたことで無我夢中で取り組むようになったのは奇妙な光景だが、そのお陰で成果はあった。

 「なるほどな……」

 膨大な研究記録を読み漁って分かったが、どうやらこの研究所は実際には四代に渡って存続していたらしい。最初の研究者にはどうやら助手、というより合同で研究を行なっていた人物が居たらしく、元の所有者が引退した後を引き継ぐ形で二代目の座に収まったらしい。更にその二代目から研究を引き継いだのがグランツ・フローリアンで、アミタとキリエは四代目ということになる。

 気になるのは死蝕の研究を引き継いだ二人目の存在だ。その人物を助手として迎え入れた初代研究者の記述によれば、その人物は時空管理局との接触があったその年に局を通じて渡来してきた異世界人であることが分かった。名前は「エリカ・フローリアン」……名前からしてグランツ博士とは浅からぬ関係のようだが、それに関する記述はすぐに見つかった。

 「グランツ・フローリアンはエリカ・フローリアンの養子……か」

 元々グランツは片親で、その親が早くに病死して孤児になってしまったところ、当時近くに居を構え日頃から懇意にしていたエリカが養子として迎えたらしい。優秀な科学者だった彼女が家庭に付きっきりになる事を同業者は恐れたが、その程度の拘束時間で彼女の有能さが霞むことはなく、事実としてエリカ・フローリアンは研究所の二代目所長として研究を継続している。そんな養母の姿を見て育った影響か、息子のグランツもいつしか助手として母の研究を手伝うようになり、やがて彼も新たな所長として死蝕の研究を引き継いだ。

 写真は無いかと更に記録を漁ると、歴史書とは別に日記のような物を発見した。表紙には達筆な字で「エリカ」と記されてあり、主にグランツを引き取ってからの家庭の様子を日々書き綴ってあるようだった。

 そのページから一枚の小さな写真が落ちた。当然かなり古い物で色あせていたが、所々の色彩はそのままであり、そこに写された人物の表情を読み取ることも充分に可能だった。恐らく息子のグランツが撮影したのであろう、晴れた日に窓から差し込む日の光を受け、ロッキングチェアに揺られながら本を読む姿は知性を醸し出し、物静かそうな居住まいは世に言う淑女と言うに相応しいものがあった。

 だが、何の変哲もない日常の一瞬を切り取っただけの写真を目にした瞬間、少年の中で何かが揺れ動いた。

 「これは……」

 照明にかざしてマジマジと凝視する。ちょっと力を入れすぎると破れてしまいそうだが、今の彼にとってそんなことはどうでもよかった。気になるのは写真に写っている人物の人相だ。この日記の持ち主と書き手、そしてそこから発見した事実と照らし合わせればこの写真に写っている女性が「エリカ・フローリアン」だというのは自明の理だ。それ以外の人物が写りこんでいるなど考えにくい。

 だがしかし……。

 「俺は……この人間を、知っている?」

 ほとんど消去されている記憶の中に引っかかる何かを感じた少年は、改めて写真の人物を確認する。流れるような長髪は薄い菫色で、肌の色は紫外線を知らない白、シャッターに向かって僅かに微笑む瞳の色はブラウンだった。

 どこかで見たことがある……そんなことなど有り得ないはずなのに、どうしても頭の隅にこびり付く感覚を拭えない。違和感とは違う。むしろ見ていると心なしか安らぎを覚えてしまう。それが逆に動揺を煽り立てて止まない。それと同時に、エリカ・フローリアンのことをもっと知りたいと思い始めていることに気が付き、少年はすぐに行動に移した。

 「アミティエ、聞きたい事がある。グランツ・フローリアンの生家はどこにある?」

 「え? 博士のご実家はこの丘を下った街跡にありますが……」

 「まだ残っているか?」

 「え、えぇ多分。汚染拡大が加速した時期にこちらへ移り住んだと聞いていますから、まだ現存している可能性は……」

 「調べたいことがある。防護服を借りるぞ」

 「って、外に出るんですか!? ダ、ダメですってば! まだ完全に治ったわけじゃないんですから!!」

 キリエに連れ出されて以来、アミタは少年が外を目指すことを警戒していた。本来なら不健康だと言って拒まなければならない資料室への引き篭りを黙認したのも、汚染された外へ出るのに引き換えればと思ってのことだった。キリエも自分から研究室に篭りきりになり、何の研究をしているのか出てくる気配はない。だが彼女から誘われない限り自発的な行動を取らない少年は外に出ることは無いと思い込んでいた。

 それがまさか少年本人から外出を望まれるとは思っておらず、何とかして思い止まらせようと捲し立てる。

 「外に出れば満足に動けないあなたでは大型肉食獣に襲われる可能性もあります! もし調べたいことがあるなら私が代わりに行きますから、あなたは大人しくここで……!」

 「駄目だ。俺が行く。自分の足で行ったほうが信用できる」

 「なっ! それは私の調査が信用に足りないと言いたいのですか!?」

 「そんなことはどうでもいい。場所さえ教えられれば短時間で済ませる」

 「い、行かせません!!」

 両腕を大きく広げて通せんぼの体勢で行く手を阻む。相手は杖ついた身障者、払い除けようと腕を伸ばしたところを押さえれば体勢を崩してしまうだろうと踏んでの行動だった。むしろ多少痛い目を見たほうが懲りるだろうと期待してもいた。

 だが、彼女の思惑は大きく裏切られた。

 「引っ込んでろ、クズが」

 喉元を圧迫する息苦しさを感じた次の瞬間、アミタの体は背中から叩きつけられていた。大きくバウンドした体が二転三転して通路の端まで押し出され、耐衝撃に優れる壁を盛大に凹ませた。交通事故でもあったのかと疑いたくなる惨状の跡には気絶したアミタだけが残され、その脇を松葉杖をコツコツと鳴らしながら少年が通り過ぎて行った。

 「随分とまぁ、派手にやっちゃってくれたわね」

 曲がり角で待ち構えていたキリエが声を掛けてくる。アミタと違って邪魔する気は無く、その手には探し求めた防護服があった。

 「…………」

 「おお、コワイコワイ。人殺しの目になっちゃってるわよ~。それとも……昔、本当に人を殺したりした?」

 「……かもな」

 「オォう、さっくり言うね」

 茶化したつもりはない。実際、アミタを投げ飛ばしたあの瞬間、少年の胸を一陣の風が吹き流れた。今まで喉につっかえていた異物が取り払われたような、今までの自分こそが違和感をむき出しにしており、あの瞬間こそが本当の自分だったようにも感じられる。

 「だとすれば、俺は救いようの無い冷血漢だな」

 「ここまで清々しい外道宣言は初めて見たわ。何にしても、ボコボコにするのは構わないけどぶっ壊しちゃうのだけは勘弁してね。あれでも一応大切な家族なの」

 「家族……か」

 「何?」

 「別に」

 何か言い含むことがあるように匂わせながら、少年は防護服を片手に抱えて外へ続くエレベーターへと向かう。だがその直前で立ち止まり……。

 「ひとつ、聞いておきたい」

 「何かしら?」

 「お前は、生みの親をどう思っている」

 「……尊敬してるわ。ひとつの確かな意志をもって私達をこの世界に生み出してくれた。それだけでも感謝すべきことよ」

 「例えそれが、こんな世界でもか」

 「こんな世界でも、よ。だからこそ私達が生まれた」

 「…………そうか」

 それだけを聞いて少年はエレベーターに乗り込んだ。後には誰もいなくなった静寂だけが残り、その中で動くのはキリエだけだった。

 「そうよ、こんな世界じゃなきゃ私達は生まれなかったのよ」

 通路に横たわる姉に一瞥くれた後、キリエは自分の研究室へと向かった。

 キリエ・フローリアンは考える。どうすればエルトリアを救うことができるのか。どうすればこの星を再び鳥が歌い花咲く大地へと蘇らせられるのか、常にそれだけを考えて生きてきた。

 そこまでは姉・アミティエと同じだ。彼女が姉と違っていたのはたった一つ、彼女の行動は姉の二番手だということだ。最初にアミティエが行動し、それから妹であるキリエが違ったアプローチで行動する。姉と妹の立場上、その流れはある種当然であり必然でもあった。

 だがしかし、キリエは決してアミティエのサポートとして存在するのではない。彼女の真の役目は姉の補助ではなく、先に行動した姉の結果を吟味した上で別の計画を立案することにある。第一案を遂行するアミティエの傍らでキリエが第二案を計画し、姉の計画が一定の成果を上げられないと判断すると第二案を発動させるのだ。姉の成功と失敗を学習した上で立てられる案は第一案と比較して確実性が向上し、キリエはその実行の為ならばあらゆる障害を排除し、時には利用する。そうするように「教育」されている。

 そしてこの時、キリエの脳は既にアミティエの行動を失敗したものとして認識していた。

 「さーてと、うちのお姉ちゃんは熱血な割にノンキでいけないわ。これは早々に例のアレを完成させとかないと、頓挫した時に目も当てられないわよ」

 裸電球が一個吊り下げられた室内は薄暗く、とても研究に適した場所には見えない。だが実験機材やモニターの発する光で室内は徐々に明るくなり、部屋の全容が明らかになる。その中に数本の試験管がセットされた機材があり、繋がれたその中は謎の赤い液体が満ちていた。その一本を手に取りキリエがほくそ笑む。

 「フフ、本当にいい掘り出し物だったわ。おかげで私はこんな物まで作り出すことが出来たんだから!」

 試験管の中身が何の薬品かは彼女のみが知る。アミティエですら今のキリエがどんな研究を行っているか知りえないのだ。

 双子の仲睦まじかった姉妹が仲違い、と言うより別行動を取るようになったのは博士が病床に倒れ伏して二人が研究を代行するようになってからだった。最初の一年は共に博士の指示に従い協力し合って活動を続けていた。だが一年が過ぎる頃、博士の病状は急激に悪化して二人はそれぞれの考えで研究を継続することを余儀なくされた。その時既に二人の考えはそれぞれ違う方向を向き始めており、その相違は博士の没後から決定的なものとなって表出した。

 「アミタはやり方がヌルいのよね。目標は大きければいいもんじゃないって、博士もそう言ってたじゃない。勝手にデカい目標だけ設定しといてその進行が遅いんじゃ話にならないわ。やる時は目先の目標から、確実に、よりスマートに、よね」

 試験管にスポイトを突っ込み中の液体を小瓶に移し替える。大人の親指ぐらいしかない茶色の小瓶に詰められた液体は外からでは本来の色彩を見抜かせず、その本質を更に奥深い場所へと隠している。

 実際、アミティエのやっている事は無駄に等しい。彼女が行う品種改良はこの星の食糧事情の改善を目的としたもので、食物連鎖の根底にある植物を救うために土壌の浄化なども視野に入れて活動している。だが所詮それらは一世紀に及ぶ前進の科学者たちが挑んできた道のり、既に飽きるほど踏み均された分野だ。辛うじて食糧問題はそれで間に合っているが、よしんばそれで人口が増加したとしても汚染された大気の問題が浮上し、それ以外の山積みにされた問題が一気に押し流されてくるのは目に見えている。

 であればどうするのが最善か?

 「簡単よ……。全部、ひっくり返しちゃえばイイのよ」

 そうすることが最も正しい道だと信じ、微塵も疑うことなくキリエはそれを実行する。

 「見ててね、博士」

 彼女もまた過去の妄執に囚われつつある者だった。










 世界の終末とはつまり何か?

 簡単な話、巨大な隕石が地表に落下するだけで惑星の生態系は壊滅してしまう。だがそれは最も単純なケースでしかない。世界という果実が腐り落ちるには長い時間が掛かり、最終的に何をもって世界滅亡と銘打つかは人によって判断が分かれるところだ。それこそ極端なのは全ての生物が惑星から消え去れば間違いなく滅亡と言えるだろう。

 だがそれ以外で世界の滅びを語るなら一体何を基準にするべきか。

 この答えも至極簡単だ。「文明」が無くなれば世界は滅んだに等しい。

 文明とは人類に代表される知性ある者が積み上げた文化と歴史の結晶、つまりは世界と呼ばれる概念を形成するその中枢と言うべきものだ。

 遠く地球を例に挙げれば、遥か昔、紀元前に語られるメソポタミアの都市国家群には既に文明が存在していた。彼らは石を積み上げ祭壇を築き神々を崇め、神の宣託を信仰し王によって支配される原始的な文明を持っていた。それと同じことは星の反対側でも同様に興り、世界各地で様々な文明が姿を現し、消え果て、また生まれるのを繰り返した。文明を形成するのは知性ある者にのみ許された行為であり、それによって世界という概念は存在する。

 「…………」

 少年の目に映る景色は、今まさに消え行こうとする文明の残滓だった。

 かつては街だった場所も今や荒れ果て、舗装された道路はひび割れ街灯は残らず折れ、経年劣化による耐久低下を引き起こした建物はその大半が倒壊していた。

 人っ子ひとり、猫の仔一匹見当たらない静寂の街に、少年は足を踏み入れる。

 「グランツ・フローリアンの住まいはどこだ」

 「この通りを数ブロック行った先です」

 松葉杖を突きながら歩く傍らにはもう一人別の影があった。恐らく知っているだろうと思い研究所から連れ出したフローリアンの妹の一人だ。姉とは違って賓客の身でしかない少年の命令に従順に、目的地までの道案内をこなす。ここに来るまでアミタが懸念していた猛獣などは姿を見せず、何の問題もなく街まで辿り着けた。

 「…………」

 伽藍洞の街に杖を突く音だけが聞こえる。かつて街路樹が植えられていた場所はむき出しの地面だけが残り、僅かに窪んだ場所に降り注いだ汚染水を溜め込んでいた。風が運んだ砂塵が舞い上がり視界を阻み、窓ガラスが割れた建物の内部を汚していく。

 「こちらです」

 「……」

 辿り着いたのはボロボロになった古いアパート。三階建てのそれは年季を感じさせ、号室を表記するプレートも朽ち果てていた。

 エリカとグランツは元々この建物に住む者同士だった。片親のグランツが孤児になり、それを養子に迎えてからは同じ部屋に親子として住むようになり、研究室に移り住んでからは殆ど別荘に近い扱いになっていたと聞く。そのまま汚染が拡大し街は人が住むに適さなくなって強制的に避難が完了し、フローリアン親子の住まいはなし崩し的に研究室へと移ってしまった。

 これは推測になるが、研究室にはフローリアン親子の生活の品は殆ど無かった。単純に二人が没したあとに遺品として処分したとも思えるが、もしそうではなかった場合、退去させられた街にそのまま残されている可能性もある。研究日誌の走り書きではなくもっとプライベートな物、ともすれば日記でも発見できるかもしれない。そうすれば彼女が何故この世界へ来たのか、自分とどんな関わりがあるのかも判明するかもしれない。

 どの部屋に住んでいたかまでは分からないので、順番に部屋をこじ開けて確認するしかない。ボロボロに錆びた蝶番を破壊してドアをこじ開けて次々と進入して調べていく。綺麗に掃除されている部屋もあれば、割れた窓から砂塵が入り込んでいる部屋もあり、足を踏み入れるとそれらが舞い上がるような劣悪な環境となっていた。家主の確認は部屋の中に残された物品に書かれた名前などから行い、違ったのならまた隣の部屋へと突撃する。それを繰り返し端の部屋まで開放し、ようやく……。

 「ここか……」

 多くの部屋の窓が割れている中で数少ない当時の様相を残したままの部屋……その本棚に仕舞われたノートに丁寧な筆跡で「Florian」と書かれてあった。件の親子の私物であることは疑いようもない。中身は残念ながら研究に関する計算式を書き留めるメモ帳だった。研究所の正式な記録と違い、頭の端に上ったアイデアを適当に書き残すために使用されていたらしい。所々の数式に見覚えがある。

 「日記だ。個人の記録、分かるな。それを探し出せ」

 「かしこまりました」

 とりあえず部屋にある収納スペースを漁りまくって目的の物を探す。不法侵入の上に家探しなど法律上問題しか無いが、その法律すら完全に機能していない今となっては詮無いこと。悠々と誰の邪魔もされないままに捜索を行えた。

 ふと、リビングに目が向く。僅かに差し込む曇天の陽光を受け入れるガラスと、そのすぐ横に置かれた埃を被ったロッキングチェア……あの写真に見た光景だった。椅子の位置はエリカがここに住んでいた数十年前と変わらない場所にある。年季がありすぎて、背もたれの部分なんかはとっくに崩れている。だがあの写真を見たせいか、ここに座る女性の姿を幻視するのは容易だった。

 「見つけました」

 「……」

 そう言って差し出されたのは小辞典ほどの大きさの日記帳だった。名前の部分には「Erika」と書かれてあり、目的の物を得た少年は早速それを開ける。やはり達筆な字で日々の出来事が綴られている。こまめに日記をつけるタイプなのか、少年が手に取ったそれは既に何冊かある内の一冊で、ここに来て一番初めに書いたであろう最初の日記を新たに探し出す。

 そして程なくしてそれらしい物を発見した。紙の色褪せ具合から見てもそれが一番古いことは明白だ。早速ここで全部読破したかったが、エリカのこまめな性格を反映するように日記は一日ごとに記されており、必然日記帳の数も膨大になっていた。これに全部目を通していたら日が暮れても帰れそうにない。何とかしてこれを運び出し研究室へ持ち帰ってからじっくり読むことにした。

 「これを研究室まで持ち帰る。手伝え」

 「かしこまりました」

 文句一つ漏らさずに積み上げられた日記の束を抱え上げて移動するフローリアンの妹。手伝えと言いながら少年は松葉杖をつくので実際は彼女一人で運ばせている。だがそれについて特に思うところはない。自分に出来ないからさせているだけであり、それ以上でも以下でもない。もしこの場に使えそうな車両でも放置されていれば拝借もしたが、人が居なくなって半世紀以上も過ぎ去っているこの廃墟にそんな物はない。あったとしても既に赤錆にまみれて元の塗装がどんな色だったかも分からない鉄塊しか残っていない。当然、燃料も無い。

 帰り道を歩く道中、少年はずっと己の出自について夢想していた。何故自分はこんな世界にいるのか。どうして記憶が無いのか。記憶を失う前はどこで、いったい何をしていたのか。何の興味も無かったはずが一筋の光明が見えた途端に知りたくなってくる。人間の知的欲求は止まる事を知らない。少年もまた無意識に内から湧き上がるそれを隠そうともしなかった。むしろその心中は狩りを楽しむハンターのように、自らの謎を追求することにある種の興奮を覚えていた。あるいは、謎解きを楽しむ子供のように、とでも言えばいいのだろうか。とにかく少年の思考はその一点にのみ向けられ、他の一切合財は心底どうでも良かった。

 どれほど歩いたか、研究所が建つ丘の半ばまで来た時、横薙ぎの突風が吹き荒れた。防護服の表面をうるさく流れていく風音に反応して背後を振り向くと、来る時には曇天だった空模様が地平線の部分だけ僅かに晴れ間が見え、差し込むオレンジ色の光がもうすぐ夜を迎えるエルトリアの半球を照らしていた。バイザー越しに見る夕日は眩く輝き、汚染された大地を浄化するようなその残光は徐々に星の反対側へと没していく。

 恐らく人類が死滅した後はあの夕日はオレンジ色ではなくなるだろう。太陽の光を赤やオレンジに喩えるのは人間の網膜の成せる技であり、そこから違う他の動物ではオレンジ色として捉えることは出来ない。いやむしろ、色彩という概念すら有していないかも知れない。そうなればこの星の輝きを認識する存在はどこにも居なくなる。だが元からこの星の民ではない少年にとっては心底どうでもいい事だった。一瞬でも興味を向けてしまった事に時間を無駄にしたとさえ思いながら、彼は目前まで迫った研究所への帰路を急いだ。

 だが、自分の背後から聞こえてくるはずの足跡が聞こえない。何をモタモタしているのだろうと再び視線を背後に向けると……。

 「……?」

 「────」

 地面に倒れていた。本を抱えたままの体勢で、肝心の本を全て地面に投げ出す状態で、フローリアンの妹は糸の切れた人形のように数歩後ろで俯せに倒れていた。顔面が地面と接触しているのに両目はカっと見開かれたままで、風に揺られて防塵マントだけがはためいていた。どうも、声を掛けた程度では起きないらしい。

 「……はぁ」

 億劫そうな溜息を一つこぼし、少年は一人で研究所を目指した。代わりの人足が入用だった。










 気絶から目を覚ましたアミティエは時計を確認し、自分が数十分も眠っていたままだった事を知り、すぐさま外へ出ようとした。とっくに街に着いていればまだ良いが、途中で猛獣に襲われていたらとっくに手遅れになっている頃だろう。早く救助に向かわなければと急いで地上へ続くエレベーターへと乗り込もうとする。

 丁度上から降りてくる者がいたので、それと入れ替わりで乗り込もうとしたが……。

 「…………」

 「あ、あなたはっ!?」

 ごわごわの防護服を着込んでいて一瞬判別が遅れたが、そもそもこの施設においてわざわざこれを必要とする者は一人しか存在しない。しかももっと明瞭な証明としてその両脇を松葉杖が支えており、ガスマスクを挟んだ内側からくぐもった声が響いてきた。

 「ちょうどいい。少し運搬を手伝え」

 「えぇ!?」

 汚染物質にまみれた防護服を洗浄もせず持ち込んだことへの注意も忘れ、腕を引かれるままにアミタは少年と一緒にエレベーターに乗り込んだ。地上に吹き荒れる砂塵に汚れている以外は特に変わった点は無く、ケガのひとつもない。何やら急いでいるらしいがどうやらそこまでの緊急事態でもないようだった。

 「……街へ行ったのですね」

 「ああ、行った」

 「あの街はかなり昔に政府による退去命令が出されたそうです。水を始めとする生活の根幹が次々と汚染されたことで、汚染が届きにくい地下深くへと建造したコロニーへと強制移住させられたとか」

 「そのコロニーは?」

 「例の移住計画で今は地下もゴーストタウンに近いと聞きます。もっとも、私達は入れないので詳細は分かりませんが」

 「そうか」

 それだけ話し、やはり何も異常が無かったことを確信したアミタはほっと一息ついた。一ヶ月も生活していれば分かるが、この少年も愚かではない。きっと共に弟妹の誰かを連れて行ったはずであり、街で得た何かを運んでいる途中なのだろう。

 「あなたの腕では荷物は運べないはずですが、どうやって?」

 「人手を借りさせてもらった。一緒に街まで行き、エリカ・フローリアンの記録を探していた」

 「それで収穫はあったのですか?」

 「ああ。だがここまで来てトラブルがあった。お前には代わりにそれを運んでもらいたい」

 「ちょっと待ってください。私の弟か妹を連れて行ったんですよね? それはどうしたんですか? 街へ置いてきた訳じゃないんですよね!?」

 「……トラブルの原因はそれだ」

 少年の言葉の意味するところが分かったのはその直後、地上に出て丘を下ったところで目に飛び込んできた。倒れ伏したまま言葉も発さない妹の姿を見て、アミタは息を呑んだ。そして彼女の脳はその事態がどういったものなのか理解してしまう。

 「ああ……何てこと」

 優しく抱き上げて開いたままの目蓋をそっと閉じた。もう彼女が自分の足で歩くことはない。抑揚の無い声を上げて会話する事もなければ、二度とその両目が開いてこの大地を見ることも出来ない。つまりそれらの事実が表すところは唯一つ……形ある者全てに訪れる終焉、「死」である。

 しばらくの間アミタは弔うように妹の骸を抱いていたが、やがてそっと地面に横たえた。

 「知らせてくれて感謝します。早速、あの子の葬送の支度を……」

 そう言いながら少年の脇を通り過ぎて研究所へ戻ろうとする。死者を弔い冥土へ送り出すのは生者の役目、それを行うのが自分たちの義務であると知っているが故に、アミタはその準備に取り掛かろうとする。最近は疎遠になっていたキリエも協力してくれるだろうと期待を寄せながら……。

 だが……。

 「何を言っている」

 アミティエの手は引き止められ……。

 「俺は、この本を運べと言ったんだ」

 彼女に予想もしない言葉を投げつけた。

 「……い、今なんて……」

 「お前にこいつの葬儀なんて頼んだ覚えはない。そんなつもりでお前を連れ出したんじゃない。エリカ・フローリアンの日記、これを持ち込むのをやらせる為に連れてきたんだ。他のことはいい」

 「ちょっと待ってください……。妹が……私達の妹が一人、死んだんですよ! 今ここで! それを、『そんなこと』って何ですか!!? 彼女をこんな寂しい場所で眠らせておけと言うんですか!!」

 一瞬少年の言葉に意表を突かれたが、言葉の意味を解してからは烈火の如くアミタはまくし立てた。自分の身内が野ざらしにしてでもこちらの意思を優先せよ、そんな人として有り得ない傲慢を前に彼女の怒りは徐々に頂点へ達しようとしていた。

 だが……少年の態度は冷淡だった。いつ罵声を浴びせてもおかしくないほど怒り心頭なアミタを前に、ガラス玉のような瞳を瞬きもせず彼女に向けたまま、虫が鳴いているとでも言わんばかりにそれを聞き流していた。だがやがて聞き流すことにも飽きたのか、心底退屈そうな溜息を漏らしてこう尋ね返す。

 「…………なぁ、お前は……」

 それは何の悪意もない。ただ少年にとって不思議に思ったから聞いただけのことだ。決してアミタと対立するつもりで言ったのではないし、彼女の神経を逆撫でするつもりも無かった。

 しかし。

 「たかが石ころ一つが蹴飛ばされただけで悲しみを覚えるのか?」

 彼女の脳裏を怒り一色に染め上げるのは容易かった。

 「お前ぇぇぇえええええええええええええっ!!!!」

 腰に下げられた二丁の拳銃らしき武装が火を噴いた。以前からキリエと色違いのそれを携行しているのを見たことはあったが、実際に使用する瞬間を見たのは初めてだった。二つの銃口から叩き出された赤と青の光弾が少年の足元をかすめ、代わって足を支える杖を砕く。当然少年は前のめりに倒れ込むが、それを許さずアミタの強烈な足蹴りがその腹を襲撃した。

 「ッ!!!」

 小型車と激突したような衝撃が体を突き抜け、足と地面が三十センチも離される。遅れてやってきた鈍痛が腹部から四肢へ伝わり体を麻痺させていく感覚に、少年は何とか堪えようとしていた。

 「あなたは私の家族を馬鹿にした! あなたにとっては区別もつかない他人だったかも知れないでしょう、ですが!! 私にとっては紛れもなく大切な存在でした! それを……それを、ゴミを処理するように言うなんて……!!」

 アミティエの怒りは至極当然であり、そこには何の不当で不順な要素などありはしない。善良な人物であれば誰でも肉親を貶める発言をされれば怒り狂い、場合によってはこのように実力手段で報復を行うこともある。もしこれを聞いたのがキリエだったら別の展開もあっただろうが、自他共に血の気が多いと認めるアミタが相手ではこうなってしまうのはある意味当然の帰結と言えた。むしろ先ほどのやり取りは誰がどう見ても少年の方に非があるのは明らかで、もし第三者がいれば仲裁に入りこそすれ、その者からも非難を受けて当然の言い方だった。

 だがしかし……少年はその事に微塵の罪悪も感じてはいなかった。

 彼にしてみればさっきの言動は罵詈雑言どころか悪態ですらなく、ただただ純粋な「質問」に過ぎなかった。「悲しみを覚えるか否か」という問いに対し「はい」か「いいえ」を期待していたのに、返された答えは暴力。彼にしてみれば道を訪ねた相手に鉄拳を見舞われた、そんな理不尽だ。

 つまりこの場合、より頭にキているのはどちらかと言えば……。

 「────ッ!!」

 今現在の両者の体勢は、地面に倒れ込もうとする少年をアミタが蹴り上げた足で器用に支えるという形になっており、殆どその距離は密着している。俯いた少年の顔が上を向けばそのままアミタと鼻の息が掛かり合うほどの近さだった。互いにこれ以上は近づけない距離……つまり、双方ともまともに防御できない間合いということ。

 人体におけるウィークポイントは数あれど、その中でも最も急所が集中しているのは頭部だ。むしろ急所と弱点の塊と言っても過言ではない。どんなに弱々しい拳でも鼻に当たれば悶絶し、小指一本でも命中すればいとも容易く眼球は潰れ、ある一定の音量が炸裂するだけで一時的に聴覚を失う。相手を確実に殺したければ首か頭を狙うのは常識であり、この二つにまともな攻撃を受ければそれだけで人間は死に至る。そこまでせず単に相手を無力化したい場合でも頭への攻撃は非常に有効だ。

 例えば、髪。牛を御する時に鼻輪に繋げた紐を手繰るだけで済むように、人間は髪を強く引っ張るだけで簡単に体勢を崩してしまう。

 この瞬間、少年に髪を掴まれたアミタは短い悲鳴を上げて見事に体勢を崩し、少年とともに地面に倒れこんだ。倒れる僅かな隙を突いて少年は前髪から後ろ髪へと掴む場所を変え、勢いでアミタの顔面を固い地に容赦なく叩き付けた。これで鼻へのダメージが加算されたがそれだけに終わらず、少年は更なる報復を試みた。

 「っ!」

 アミタが立ち上がるよりも先に背中に乗り移った少年は、するりとその首に右腕を通して体重を掛けながら腕と体を密着させにかかった。裸絞め、俗に言う「チョークスリーパー」。相手の気管か頚動脈を首ごと締め上げて潰し短時間で相手を気絶させる、決まれば絶対に抜け出せない最強の関節技である。下手に足掻けば苦痛が増し、頚動脈を正確に狙えば十秒未満で相手を落とすことさえ出来る。そんな技をまともに受けた今、アミタは悲鳴を上げることさえ出来なかった。

 さっきの質問は少年にとってただの問いかけに過ぎなかったが、この行為は本気だった。本気で、冗談抜きで、アミタを殺しにかかっていた。動機は無い。あえて言うなら「ムカついた」、である。何気ない質問をしただけで蹴りを受けた……それに対する報復が少年にとって殺すに値するだけの無礼であったと言うだけだ。先に自分が行なった言動の過失については何の釈明も無いが、これもまた彼にとってはそうだと言うだけのこと。価値観や物の考え方が根本的な部分で異常なのだから仕方がない。

 そうこうしている間に少年の拘束はきつさを増してアミタの肌に食い込んでいく。普通ならここで既に気を失い、血流停止による酸欠から顔は紫色に変色しているはずだった。

 「グ、ググ……!!」

 「!?」

 上から押さえ込んでいたはずの少年の体が持ち上がる。地面に倒されたはずのアミタが徐々にその体勢を立て直しているのだ。普通、呼吸を止められた人間はその要因を排除しようと闇雲に喉元を引っかき、絞める相手の手を傷つける。だがアミタはそれを一切行わず、両腕で大地を捉えて猛然と立ち上がり、取り落とした武器を拾い上げその銃口を背中に張り付く少年に向けた。

 寸前で発砲された光弾から逃れた少年は強靭に鍛え上げた腕力を頼りにアミタから急速に距離を取った。足を使わず腕だけで逆立ちに近い形で飛び跳ねながら逃走する姿は傍から見れば奇怪だが、その速度は常人が走るスピードを上回っていた。

 「…………」

 「…………あなたは、いったい……」

 振り向いたアミタの顔に怒りはなくなり、代わりに突然の事態に対する困惑の色がありありと表れていた。それはここまでの反撃を受けたことへの戸惑いだけではなく、ここに至るまでの少年の言動全てに向けられていた。

 日常においても些細なことで隣人を殺してしまうことは良くある話だ。その場合は心神喪失と判断され、その瞬間は激情のあまり常の精神ではなくなっていることが多い。だがこの少年は違っていた。行動の原因こそ多少の怒りに突き動かされてのものだが、アミタを絞殺しようとした時はその行為の残虐さに似合わないほど冷静で、これから人間を殺そうと言うのに一切の躊躇いも抱いていないことがはっきりと分かった。それはつまり、彼にとって誰かを殺すという行いはたったそれだけ、針の穴に糸を通すほどの緊張も無い単純作業ということだ。

 一方の少年もまたアミタほどではないが若干の戸惑いの色を浮かべていた。完全とは言い難いが少年の両腕は確かにアミタの首を絞め上げ「落とす」一歩手前まで追い込んでいた。より完全に極めたければ壁際に追い込んで両腕を封じる必要があったが、普通はまともに抵抗できないはずなので少年の優位は揺らがないはずだった。だがアミタは拘束から脱するどころか抵抗する素振りすら見せずに体勢を立て直し、それから少年を引き剥がした。生命維持に必要な呼吸を止められたにも関わらず運動を継続するそのタフネスは既に人間の範疇にはない。それにより導き出される結論は即ち……。

 「貴様……人間ではないな」

 「っ!?」

 思えばヒントはいくらでもあった。街へ赴く際に一悶着あったが、アミタを投げ飛ばしたあの瞬間、少年は自分の腕に予想以上の負荷を感じた。少なくとも少年の知る「人間の重さ」ではなかった。来る日も来る日もリハビリを繰り返し上半身のみで体重を支える訓練を行ってきた少年にとって、人間の重さというのがどのようなものかは熟知している。壁に激突した時にその部分を凹ませたのは投げたスピードもそうだが、その実アミタの体重が常人よりも重かったからに他ならない。その他にも少年が食事を摂る傍らで彼女らは誰も、水さえ飲まなかった。これは人間の前に生物として必要な生命維持活動を一切必要としていない証拠だ。

 そして何よりも……この施設において外出の際にガスマスク付き防護服を着用していたのは少年唯一人。アミタもキリエも、後の弟妹たちも砂嵐から身を守る防塵マントだけを着て出歩き、誰も外の汚染を気にしていなかった。生命の大半を死滅させた汚染環境においてなんの特殊な装備も無しに活動する者などその時点で人間ではない。

 双方に不穏な沈黙が流れる。だがそれは長くは続かなかった。

 「なーにやってんのさ、お二人さん」

 「!」

 「キリエ……」

 ピリピリとした緊張を叩き壊したのは、この場の空気に合わないほど能天気な声色で乱入してきたキリエだった。知人の逢引の現場を見てからかうような感覚でアミタと少年の間に割って入り、地面に倒れ込んでいた少年を担ぎ上げた。

 「ダメじゃん、ちゃんと私のお願い聞いてくんないと。アミタをボコボコにするのは構わないけど、ぶっ壊すのだけは勘弁ってね。このまま放置してたらキミ、絶対アミタを破壊しようとしたでしょ?」

 「破壊? 何の冗談です。一介の人間に何の道具も使わず『私達』を壊すなど……」

 「ただの人間ならね~。この子が『ただの人間じゃない』ってことぐらい、アミタだって分かってるはずじゃん。でしょ?」

 「…………」

 「それに、その言い方だとまるで私達が本当に人間じゃないみたいに聞かれちゃうでしょ。それとも、もうバレちゃってるとか?」

 沈黙を肯定と受け取ったキリエは「そっかー」と呟き、少年を引き連れて研究所へと戻ろうとする。

 「まだ教えてなかったこと色々あるから、これからキリエお姉さんが教えてあげる。そこの本は手が空いてる子に回収させておくわ。妹の死体も……ね」

 睨むような姉の視線を尻目にアミタは少年と共に地下へと戻っていく。後に残されたアミタは物言わなくなった家族の屍を見て、一人静かに涙を流さず泣いた。



[17818] 再起動
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:54016a26
Date: 2014/01/15 13:55
 「さてと……どこから話そうかしら」

 「…………」

 食堂へと通した少年の前にコーヒーを淹れたカップを置きながら溜め息混じりにキリエは話を切り出した。アミタは居ない。表に行かせた別の弟妹と共に亡骸と日記の回収を行なっているのだ。

 「ちょっと前にこの星の歴史について話したの覚えてる? 今回は私達、フローリアンの話をしてあげる」

 「姉妹の身の上話でもするのか」

 「その『姉妹』って言い方はもう通じないかしら。あえて言うなら、そうね……『フローリアン・シリーズ』とでも言うべきかしら」

 示し合わせたように周囲から弟妹たちが姿を現す。皆やはり似た顔つきで、髪や瞳の色に若干の違いは見られたがその造形は人間にしてはひどく没個性が過ぎていた。いや、そもそも彼女らにとって個性という概念そのものが欠如しているのだろう。

 「資料室にこもって調べ物してたのなら知ってると思うけど、私達の生みの親、博士はいずれ人手不足に陥る研究所とその活動を存続させる為にどうしても人員を確保する必要があったのよ。だけど政府が費用を負担してでも移住計画を推し進める中でわざわざ汚染された大地に残ってくれる人はほんの僅か。その人達もいずれ近い内に死に至る事を考えれば、仮に人員を賄えても長期的に見て欠点しか無かった」

 「だから、“造る”ことにしたのか」

 ここまで言われれば少年も大方の予想がつく。健在だった頃のグランツが三代目所長として研究を引き継いでから浮上した人員問題と、それを解決する為に開発したとされる「機材」……そして、今こうして並び立つ彼女らの存在が全ての点を線で繋げていく。

 「そうよ。私達は博士の研究活動を補助するために開発された作業用機材……人間と同じ動きをし、人間以上の働きを期待された人工物。それが私達、『ギアーズ』なのよ」

 「ギアーズ……」

 控えていた弟妹の一人が一枚の設計図を少年に渡した。図案には細かい文字で各部の詳細なデータが記載されており、その完成予想図のフォルムは……人型。

 「アミタと私はその試作機の一号と二号、後の子達はその量産型ってとこかしら。ヒトの形をしているけれど、実際に人間と同じなのは外装の部分だけ。後は全部人工物、機械なのよ」

 なるほど、汚染された大地を闊歩できるのは生物ですらないからか。そもそも呼吸も摂食も必要ない彼女らにとって研究所の内外はどちらも相違ない。機体のスペックが許すなら深海や宇宙空間でも平時と全く変わらない行動ができるだろう。

 グランツは自分が没する以前にギアーズ、後に彼女ら自身がフローリアン・シリーズと呼ぶものを相当数開発し配備、学習プログラムを組み込むことで研究活動の補助と代行を行えるようにした。人件費が維持費に変わり、食料の代わりに燃料を消費するようになり、彼女らは消費されるそれらに見合うだけの働きを見せてくれた。自身の体重の何倍も重い物体を運搬し、長時間の運動を休憩せず行い、睡眠要らず。ここまで理想的な労働力など他に存在しないだろう。

 それならこの大勢のフローリアン達が没個性なのも頷ける。そもそも作業機械に個性など要らないのだから。だがそれだと浮上する新たな疑問がある。

 「お前たち姉妹は少し違うようだな」

 「分かる?」

 「ああ、まるで人間みたいだ」

 「…………」

 言葉に刺が含まれるがこれは少年が意図したものだ。彼は今確かに、キリエに対し少しばかりの苛立ちを覚えた。別に彼女らが人間ではなかったから怒っているのではない、むしろそんな事は大して問題ではない。少年は彼女らが人間の“ふり”をしていたことに苛立っていた。猫が犬の鳴き声を上げれば誰だって違和感を感じる。偽物が本物を気取っているという事実が少年にとってはこの上なく腹立たしく感じられたのだ。例えそれが彼女らにそのつもりが無くてもだ。

 「まあ、そうね。私達最初の二人は他の子とはだいぶ違うコンセプトで造られてるから。ぶっちゃけ、博士が私達の人格データを作り込み過ぎたのが原因なんだけどね~」

 操作し制御したり外に出て他人に触れる機会が多くなると考えたグランツは、出来るだけ彼女らを人間に近い存在に仕立て上げた。共に作業する人間がストレスを感じないように。だからあえてここまで精巧なアンドロイドを開発したのだ。

 「外部からの刺激を感受する機能を最大まで設定された私達の人工知能は普通の人間と遜色ない自我を形成していった。喜怒哀楽、状況に応じて様々な反応を感情として外部に出力する『感情』というプログラムを得たのよ」

 「たかが作業機材にそこまでする必要があったのか」

 「博士も張り切ってたのかもね。私達は結婚もしなかったあの人にとって『子供』も同然だった。人員を確保したかったのも事実だけど、本当は独りで研究を続けなくちゃならない孤独を癒したかったのかも知れない。だからここまで入れ込んだ人格を植え付けてくれた」

 「…………」

 あまりに人間に近い存在だったアミタとキリエはグランツの子供として彼の姓を受け継ぎ、開発から数年は人間の子供と同じ教育を受けて育った。時代が違えばこのまま人間としての生涯を全うさせたかったのだろうが、時代はそれを許さなかった。研究所の外から緑が消える頃、二人は初めてこの世界の醜さを知ることになった。

 「去年咲いていた花が今年は咲かなかった。鳥が鳴いていた森はすごく静かになって、昨日までは普通だった木がその日は倒れてたりもしたわ。ボールが坂道を転げ落ちるように、世界はどうしようもない方向へ悪化していく……。それを阻止する為に、私達は生み出された」

 「…………」

 「私達のサイクルなんて簡単なものよ。毎日毎日、何の成果も実も結ばない当て所ない作業を何度も繰り返して、その結果を見届けることもなく……ある日突然、止まるの」

 「…………」

 「外の子、見たでしょ? 一年に一人か二人、必ずああやって機能停止する子が出る。何でか分かる? もうここにはね、この星には私達の寿命を伸ばすだけの資源も技術も無いの。磨り減ったパーツも、劣化する外装も、みんな直せない、ボロボロになっていく。人間と違って自己修復が出来ないから当然よね」

 それが本来生命活動とは無縁なギアーズにとっての「寿命」。資源を産出する人間が居なくなってしまったことで技術は衰退し、高度な技術によって製造された物から劣化を補修することも出来ずに壊れていくのだ。ある意味では人間よりも残酷な仕打ちに見えるだろう。人間ならどんな難病も早期発見できれば治療を受けることで、あるいは奇跡的に自身の治癒力で回復してしまう。だが整備する者が居なくなった機械はどんな小さな綻びも放置せざるを得なくなる。

 「葬儀って概念は博士から学んだわ。自分が死んだらエルトリアの大地に眠らせてほしいって、口癖のように言ってた。だから今までに機能停止した子も同じように葬ってきた。みんな同じ、皆あの人の子供だもの」

 自分たちを生きとし生ける者として扱ってくれた博士の恩義に報いる為、そして消えゆく人類の名残を後世に残す為、彼女らは生物ですらないにも関わらず人間の文化を学びそれを保っているのだ。

 今までの経緯と彼女らの正体。それらを聞いた少年の反応は……。

 「何の冗談だそれは」

 かっと見開かれた両目はアミタと一触即発になった時以上の強く激しい困惑の色がありありと表れていた。目覚めてから数週間、表情筋の使い方を忘れたのではないかと思えるほどの鉄面皮だった彼の顔が、初めて誰の目にも明らかな表情を形成した瞬間だった。

 その表情の意味するところは……「不快」。有り得ないものでも見てしまった風な視線はアミタだけでなく、周囲に控える弟妹らを等しく汚らわしいものでも見るような色を帯びており、あまりに激しい拒絶反応に逆にアミタが面食らった。

 「い、いや、そこまで引かれるとは思わなかったわ。て言うか、なんだってグロ話を聞いたみたいにドン引かれてるわけ?」

 「……異常なんだよ。お前も、グランツ・フローリアンも」

 「何が言いたいの」

 アミタの雰囲気が変わる。おちゃらけた彼女でも生みの親は尊敬の対象、それを貶すような発言をされれば大人しく黙っているはずがない。だがそんな彼女の気迫にも押されず少年は履き捨てるように続けた。

 「この星を救う科学者が聞いて呆れるな。晩年は呑気に人形遊びか。とんだ変態だ、盛んなことだ」

 「……言っていいことと悪いことがあるって、ママに教わらなかったかしらね」

 「それは失礼、こちらは未だ記憶喪失だからな」

 彼にとって今の話は美談でも何でもなかった。大の大人が女子供が持つようなオモチャの人形を片手にはしゃいでいたと言う話を聞かされたようなものだ、気持ち悪いと思いこそすれ間違っても共感はしない。そもそもただの機械に感情や人格などを搭載させること自体が異常なのであって、好き好んでそうする奴は真性の変態か、でなければ馬鹿だ。古今東西、奇抜な発想で世間を賑わすのは決まって変人だ。そうに決まっている、いや……そうだったはずだ。特に根拠は無いはずだが何故かそうだと言い切れる自信があった。

 「恩知らずって言うのかしらね。君が今こうしてここに居られるのは私達、ひいては博士のおかげなのに」

 「なに?」

 「君、自分の記憶の中の年数が新暦、それも結構な昔で止まってるのは何でか分かる? 何で君はこの研究所のベッドで目覚めたのか……知ってる?」

 「ここで眠っていたからだろう」

 「そうね。じゃあ……何でここで眠ってたか知ってるかしら?」

 「……………………」

 「答えられない? っていうか知らないか。実は私も知らない。アミタも知らない。ここにいる全員が知らない。君が何者なのか、この世界には知っている人が誰もいないの。私とアミタが造られた時、君はもうこの研究所にいたの。ここよりもっと下の培養槽に入れられて、体中にコードを繋がれてプカプカ浮いてるのを毎日見てた」

 「…………」

 「ある日博士に聞いてみたの。『この子はだれ』って。そしたら博士はこう答えたわ、『僕も知らないんだ』ってね。そう、博士がこの研究所に来た時から君はもうここに居た。君が知らないだけで、今この施設で一番の古株は君よ」

 少年が黙しているのを先を促していると解釈したキリエは先を続ける。

 「博士がやってた研究は三つあったわ。ひとつは死蝕の対策。二つ目はギアーズの開発と製造。そして三つ目は……君の正体を知ること。博士は誰も分からなかった謎だらけの君が誰なのか突き止めようとしていた。でも結局分からなかった。でもそれ以上に分からなかったのが、どうして博士は君みたいな子を研究する必要があったのか……。死蝕の研究と並行してでも行うだけの価値があったのか、それとも他に理由があったのか」

 「どちらにせよ、それはこれから判明することだ。その為に古巣からあれだけの個人記録を入手したのだからな」

 「なら、その調べ物には私もご一緒してもいいわよね」

 「何を言っている」

 「ダメって言うの? 一応、私は君の恩人なんだけどなぁ~」

 「別に助けてほしかった訳でもない」

 「そう言うと思った。でも無理よ、だって気になるんだもの。大丈夫、邪魔なんてしやしないわ。それに……君にはもう充分『協力』してもらってるし」

 「……それはどういう……」

 キリエが何かを隠している節を感じ取った少年はそれを追求しようとした。だがそれと同時に食堂に別の人物が介入した。

 「キリエ……」

 「遅かったわね。もう粗方話しちゃったわよ」

 「どの道そうするつもりでした。それより、準備できましたから早速……」

 「そうね。じゃあ、早いとこ済ませちゃいましょうか。みんな行くわよ」

 その一言で静かに控えていた弟妹達が一斉に動き出し、アミタとキリエを先頭にぞろぞろと続いていく。

 「君もどうかしら? ギアーズのお葬式、他所じゃなかなか見られるものじゃないわよ?」

 「…………」










 古今東西、葬儀とは非常に手間がかかる。人生の締め括りである死を飾るだけあって、その段取りの全ては慎重かつ順調に執り行われなければならず、送り出す縁者たちは故人を偲びながら冥土か来世の幸せを願って手厚く葬るのだ。土地や文化にもよるが人間の葬送は大きく分けて土葬と火葬の二種類。昨今では衛生上の観点から火葬にする者が増えてそちらがスタンダードになりつつある。

 人間ではないギアーズの葬式はそのどちらにも当てはまらない、水葬だった。この一帯で一番大きく最も水深が深い湖、その湖底へと死者を納めた棺を沈めるという方法。古来においては聖なる河川と一体化する目的で遺灰を撒き、近現代では洋上での死者を早急に弔うなどで利用される葬送だ。海に沈める場合は火葬と同じく衛生上の都合で行われる場合が多いが、生身の部分が圧倒的に少ないギアーズはそもそも腐敗とは関わりないはずだ。

 湖までの道を厳かに進むフローリアンの子等。先頭に立つアミタとキリエに始まり、四人掛かりで故人を納めた棺桶を運び、さらにその後ろから葬列が続いていく。そしてその最後尾には再び防護服を着込んだ少年が失った松葉杖に代わり車椅子を押されて葬列に参加していた。

 「さあ、着きました」

 辿り着いた先にあったのはかつて森の一角だったであろう場所に点在する湖のひとつ。星も見えない闇夜の中で、参列者の明かりを反射する水面は無謬の漆黒を湛えていた。参列者たちは棺に寄り添うように集い、湖畔から水辺へとそれを運んでいく。闇の中に溶け込むように水の中に進入していく彼女らはやがて全身がその中に消え、完全に水中へと没した。湖底へ棺を運ぶまでが葬儀らしく、そこへ棺を安置して戻ってくるまで少年は帰りを待つ。

 「あの子達の腕力ならここから投げ込むことも出来ますが、それでは余りにも偲びない。今ではもうこの湖はギアーズの共同墓地のようなものです」

 「なぜ水葬なんだ?」

 「博士は土葬だったんだけどね、私達があの人と同じ方法で弔われるのは、その、何ていうのかしら……おこがましいって言うの? 結局君の言うように私達って人間じゃないわけだからさ、同じ方法で弔うのは何ていうか、気が引けたのよね」

 「自然由来の部分が少ないギアーズでも自然葬となれば、もうこれぐらいしか残っていませんでした」

 あくまで「廃棄」ではなく「葬送」を選んだのは人間として育てられた姉妹の矜持でもあるのだろう。機能停止した機械など傍から見れば粗大ゴミ以外の何物でもないと分かっていても、彼女らは決して無意味とは思わない。思いたくないのだ。

 やがて水底から葬列の一団が戻ってくる。全身から水を滴らせて帰ってきた彼女らは手に手に造花を一輪持ち、それを水面に投げ入れていく。冥土に旅立つ者への手向けの花……。

 これでギアーズの葬式は終わりだ。特定の宗教に属さず神の存在も知らない彼女らは祈ることはせず、ただ「遺体」を棺に詰めて安置するだけだ。何の事はない、サルでも出来そうなぐらい陳腐な内容だったが、全てが終わった今、湖畔に集う彼女らの顔は一様に憂いを帯びていた。機械ゆえに涙も流さず嗚咽ひとつ漏らさないが、その表情はただ人間の筋肉の動きを模しただけでは再現できないものなのは確かだった。

 「一番旧いタイプである私とキリエが長生きして、弟や妹が先に逝ってしまうのは皮肉なものです。せめて他の子達も丈夫に造ってくれていればと博士に恨み言を言いたくなります」

 「ま、出来る範囲での補修とかはちゃんとしてるんだけどね。それでもこの有様よ。最初に結構な数を造っておいたからいいものの、このままのペースで行けばあと数年で研究所からは人影が消えるわ」

 「それまでにこの星に何人の人類が残っているでしょうか……」

 あくまで憂うのはこの星の未来だけ……そんな彼女らの言葉に嫌気が差したのか、少年が溜め息混じりに呟く。

 「下らない。たかが人形が何をそこまで悩む『ふり』をする。そんな苦悩は電子頭脳のアルゴリズムが生み出す誤差修整でしかない、感性とも呼べないものだと何故分からない」

 「では、今こうしてあなたと会話している私達の存在は、一体何だと言うのです!!」

 「それこそ単にそう設計されていると言うだけのことだ。AIの反応など所詮パターン化されている受け答えの組み合わせに過ぎない。貴様らの体に流れているのはオイルだ、決して赤い血じゃない」

 「そこまで言いますか……」

 「これがホントの『血も涙もない』ってね」

 「キリエッ!!」

 「はいはい。でもさ、気になるのよね」

 「何がだ」

 「君が私達のことを毛嫌いしてる理由……単に私達が機械のクセに人間っぽく振舞ってただけでそこまで嫌うのかしら?」

 「……何が言いたい?」

 「別に~。ただ私は君が怒ってる理由はそれだけじゃないって思うだけ。何が気に食わなくてそこまで突っかかるのか純粋に気になるのよ。ねえ、何がそんなに気に入らないの? 私達が人間のふりをしてたことがそんなに怒ることなの? それとも、昔なにかあったのかしら」

 そう聞かれても記憶の大半が失われている以上答えようがない。俄かには信じがたいが話を聞く限りでは自分は九十五年も前の人物で、当時の個人的な記録も何も残ってはいない。だから過去にあったはずの事を聞かれても当の本人が知らないし、それについて思い当たる節もないはずだった。

 だが……。なんだ、この胸に逆巻くうねりは。

 頬が怒りで紅潮するのが分かる。キリエの言に対しての感情ではない。彼女の言葉はきっかけ、消え去ったはずの記憶の奥底に眠る憤怒の感情、それを想起させる何かを与えたきっかけに過ぎない。つまり怒りの符号に合致する何某かの出来事があり、それが記憶より深い所、精神の奥底で表出することなく眠っているのだ。それは一種の反射、目の前にボールが飛んでくると目を閉じるくらいに身に染み付いた現象。彼の場合はそれが憤怒や憎悪であるということだ。

 「…………」

 「寡黙なのはイイけど、都合が悪くなって黙り込むのはカッコわるくない?」

 「黙れ。人形如きが知った風な口を……」

 「その『人形』に口喧嘩で押されそうになってるのはどこの誰かしら~」

 「二人ともいい加減その辺りでやめてください。葬儀も済みました、あとは帰るだけです。行きますよ」

 アミタによって仲裁された後、研究所への道を再び歩き始める葬列に加わり、すっかり闇に閉ざされた平坦な道を進んで行く。

 ふと見上げた空はやはり暗黒だが、既に雲はない。だが高濃度に汚染された大気はこの星の空さえ包み込み、天幕となって夜空から星の光を奪っているのだ。僅かに霞んで見えるのは太陽の光を受けて輝く衛星のみで、後は何も見えない。その闇の中に揺らめく月の光はアミタとキリエの前途を嘲笑う悪魔の口にも見えるのだった。

 「エリカさまの日記は例の資料室に移しておきました。あとは勝手にどうぞ」

 「そうさせてもらう」

 「さっき言ったこと忘れないでね。私も一緒に調査してあげる」

 「…………」

 それこそ勝手にしろと言わんばかりに沈黙を決め込み、少年とフローリアンの葬列は研究所への帰還を果たし、波乱に塗れた一日が終わりを告げた。










 次の日から早速、少年は日記からエリカの半生を暴き、自分のルーツを探ろうとした。その横には勝手に協力を申し出たキリエも居たが、少年は軽く無視していた。キリエの方も特に邪魔せず、時折日記に書かれた内容で面白い部分をピックアップして少年に報告してくるだけだった。

 「ねーねー、見てこれ! 博士って昔はとても沢山食べる子だったんだって! 私達と住んでた頃は毎日がダイエットだったのに」

 「…………」

 「あ、でも子供の時って育ち盛りだからそういうものかしら~。私達ってヒトの子供はあんまり見たこと無かったからね~」

 「…………」

 「そうそう、子供と言えばなんだけどね、ここ十数年で年間出産数が減少傾向にあるのは単に死蝕が原因ってだけでもなくて、精神的な負担が体に表れたっていう説もあって……って、聞いてる?」

 「静かにしろ」

 「えー、だって読書なんてインテリな行為は性に合わないんだものー!」

 自分から申し出たことをもう忘れているのか、時代遅れの特に可愛さも感じないぶりっ子口調で文句を垂れるキリエ。それすら無視して少年は日記の続きに目を通す。一応、ふざけながらでもやる事はやっているので追い出しはしない。時折有益な情報を見つけては報告してくれる。

 例えば、エリカ・フローリアンは元々は管理局に属する科学者だったことが読み取れた。何を研究していたかまでは書かれていないが、死蝕の研究に携わる所を見る限りやはり優秀な人物だったことが伺える。元は死蝕とは別の研究課題を抱えていたらしいが、後に鞍替えしたらしい。異世界出身の彼女は元から行なっていた研究を捨ててでも、この星を救いたいと思うだけの魅力をこのエルトリアに感じていたことになる。今でこそこれほどまでに荒れ果ててしまっているが、昔は花咲き鳥歌う大地だったらしい。

 読めば読むほど、本当に奇特な人物だと認識させられる。結局彼女は次元世界の交流があった十年以内に戻ることなく残留し、この地に骨を埋めてしまった。非常に献身的な人物だったことはグランツを養子に迎えたことからも分かっていたが、まさかここまでとは思っていなかった。世が世なら彼女の生涯を懸けた試みは歴史に名を残していたことだろう。

 だが分からないこともあった。

 「何故、エリカ・フローリアンはこの世界に残った……?」

 単にこの世界に魅力を覚えたにしては、その点についての記述はどこにも見当たらない。元いた世界を捨て、見知らぬ地を第二の故郷とするには、それだけでは理由が弱いようにも思えた。その気になればグランツと共に他の世界に移り住むことも可能だったはずだ。何か決定的な理由付けが他にあると考えたが、それを示すものは今のところ何も見つかっていない。

 「この、『最初に行ってた研究』ってのが引っかかるわよね~。ひょっとして、これって君にすごく関係あるんじゃない?」

 「その可能性は高い。だが肝心の研究内容は記録にも、この日記にも書かれていない。どこにある……」

 手間をかけて古巣まで取りに行った大量の日記はまだ四分の一程度しか読んでいないが、内容はどれも私生活の出来事を記した私的なことばかり。どこにも少年の求めるものはなかった。かと言って既に資料室に保存されている記録は例によって死蝕のことばかり、残り半分に書かれていなければいよいよもって望みは断たれたことになってしまう。

 だがとにかく今は拾える情報をとにかく集め、それらを統合し、結論を導き出すことが先決だ。その為にはどの道この日記の山を読破するしかない。たった一つの希望を、今はない次元世界の言葉で『蜘蛛の糸』と形容するのは少年は知らないことだ。

 「だぁー!! もう疲れた! お茶にしない? いい葉っぱがあるのよね」

 「……前から思っていたが、俺の食料はどこから調達している?」

 「言ってなかったっけ? この下の階が栽培室になってるのよ。アミタの研究で作った作物を育ててるんだけど、今までは食べてくれる人が居なくて……」

 「体のいい実験体にしたな?」

 「えっ!? い、いや、ソンナコトナイワヨー」

 白々しい弁明を軽く聞き流し、作業を継続する。食料の調達に関しては大方の予想はしていたので問題は何も無い。あの熱血だが几帳面な姉の管理で栽培された物ならばまかり間違っても異常など無いだろう。少年が特に追及しなかったことを承諾と受け取ったのか、数分後にキリエはティーセットを持って資料室を訪れた。

 「お待たせー! この世界のお茶は初めて飲むでしょ? 普段は水ばっかりだから、アフタヌーン・ティーはごゆっくり楽しんでちょうだいね」

 「茶の木を栽培するだけの設備があったとはな……」

 ポットに浮かぶ茶葉は赤み掛かった茶色で、一般的な紅茶に分類されるものだった。だが他の世界で流通している紅茶と違うのは、通常は乾燥させる前に発酵させることで独特の風味を生み出すのに対し、エルトリアのそれは木に生っている時点で既に紅く、磨り潰して乾燥させるだけでいいらしい。よって厳密には紅茶に分類される物ではなく味も少し違うが、色合いによって紅茶としているのだと言う。

 「設備って言ってもそんな大規模なもんじゃないわ。品種改良した苗を人為的に縮尺して育ててるだけ。昔は隣の山の麓で生産されてて、博士のお気に入りだったの。それが例の如く死蝕のあおりを受けて生産中止。好意で譲ってもらった苗をずっと育ててるって訳。味はどうかしら?」

 「別に……」

 そもそも味に関する記憶もない以上は過去と比べて美味いか否かなど分かるはずがない。少年にとってはこの一杯こそが生まれて最初に口にした紅茶なのだ。程よく熱が篭った液体を流し込んだことで、長らく動かしていなかった体に火照りが戻り、成分の効能か目がさえてきた。そこまで舌に不自然を覚えなかったので特に何か栽培に異常があるわけではなく、極普通の紅茶だった。

 「ここに置いておくから好きにお代わりしてね」

 そう言って手の届く範囲にポットを置き、キリエも作業を継続する。この茶葉を含む作物の栽培を担当しているのはアミタだが、今彼女はその試作品を片手に研究所の傍に作られた畑に赴いている。彼女が作るそれらは品種改良などによって生み出した、どんな劣悪環境にも耐えうる強靭な作物という触れ込みだ。だが実際には死蝕の汚染に耐えられるだけの生命力は無く、一ヶ月もしないうちに枯れてしまうのが殆どだ。もし仮に外での栽培に成功したとしても、生物濃縮によって実に蓄えられた汚染物質を取り除くのは別問題となる。どう転んでも苦難の道に変わりはない。

 そうまでして頑なに地上での栽培を試みるのは、やはり過去の環境を再現したいからなのだろう。この星の誰もが諦めた夢を人間ですらない彼女が成し得ようとするのはある種皮肉だ。彼女だけではない、つくづく研究者という存在は何がそこまで駆り立てるのか分からないほど目的達成の為に邁進する。そこにどんな成果があるかなど知る由もないというのに……。

 それは彼女だけでなく、その創造主であるグランツ、彼の母親であるエリカもまた同じだ。特にエリカに至っては縁もゆかりも無いはずのこの地に降り立ち、生涯を過ごした事から見ても相当な変わり者だろう。全くもって理解し難い。

 「まあ、この日記や資料室に情報が無くても、この下の階層にも記録を仕舞ってある部屋はまだあるし、焦ることはないんじゃない」

 「まだあるのか。大した事ないと言う割には結構な規模だな」

 「研究は清潔さを保たなきゃいけないの。このご時勢でそれを求めたら、上じゃなくて下に拡張するしかなかったってわけよ。前に地下コロニーの話したの覚えてるでしょ」

 「なるほどな……」

 それを最後にそこからは再び無言の作業が始まった。とにかく無駄なページを飛ばして、関連性が高そうな部分だけを取り上げてキーワードとし、それを繋げていく。

 そして、遂に真相に迫るであろう一文を見つけた。それは彼女がここへ来て十年目、エルトリアと管理局の交流が断絶した年の日付だった。

 「『ついにこの日がきた。もう後戻りはできない。私は多分ここで残りの一生を費やしてしまうだろう。ここへ来て数年間、よくも管理局の目を欺くことが出来たと我ながら感心してしまう。例の大災害の混乱に乗じていなかったら私は今頃このエルトリアではなく、有罪判決を受けて拘置所に送られていただろう』」

 「何か犯罪を働いたってこと?」

 「……『紙の上だからこそ告白できることだが、私は最初は死蝕の研究などするつもりはなかった。だがここで暮らす内にここの人達に情が芽生え、彼らの為に尽くしたいと考えるようになっていた。つくづく私はあの人のように図太くいられない性分だった。私の優柔不断な行いはそのままグランツが引き継いでいくはず』」

 「ふーん、『あの人』ねぇ。て言うか、管理局って……!」

 キリエに急かされるまでもなく続きを読み進めていく。全体の三分の一まで読んで分かったのは、エリカ・フローリアンは元を質せば時空管理局に所属していた科学者であり、例の超規模次元震の影響で組織としての体をなさなくなった管理局から「ある研究課題」を持ち出して出奔、このエルトリアに密航してきたらしい。異世界渡航による密入国がどの程度の重罪に当たるかは分からないが、しかも次元世界を纏めていた組織からある物を盗み出すという狼藉まで行なっている。あの古ぼけた写真に見えた物静かな感じからは想像もできない過去だ。

 「人に歴史在りって、こういうことを言うのねー。これで調べ物もかなり前進したんじゃない?」

 「だが肝心な部分は未だに伏せられたままだ。何の研究をしていたか……その研究が俺とどう関わっているのか。それだけが全く分からない」

 「気長に行きましょ。時間はたっぷりあるんだから……そう、たっぷりね」

 空になっていたカップに新たな紅茶を注ぎながらキリエがそう言葉を掛けた。その声音はとても蠱惑的な響きを持っていたが、当の少年の頭には届いていなかった。ただ代わりの紅茶を啜りながら日記の続きを読み進めるだけだった。










 何も無い禿げた大地を見回しながらアミタは夢想する、あの少年のことを……。

 (やはり、彼は危険です)

 人間の脳髄を模して作られたその電子頭脳は人間で言うところの「直感」として、件の少年について危険信号を受け取っていた。即ち、「あの少年は歪んでいる」……という警鐘だ。

 人間誰しもその心理や精神に他人とは違う部分を抱えているものだ。それは成長の過程で蓄積する様々な経験が積み重なって形成されるもので、地層と同じで場所によって、人それぞれ違った精神構造をしている。それは男女で劇的な違いが如実に出ることもあれば、シリアルキラーと一般人で全く同じ部分があったりなどもする。無論、先天的なものもあるが全体から見れば極々稀、あるいは微々たるものでしかないのが普通だ。

 だがあの少年は違う。はっきりと断言できる。

 倒れ伏し物言わぬ体になった妹に向けられたあの視線と言動……本当に人間を石ころほどにも思っていないからこそ出来ることであり、その精神は既に堅固なものとして老成されているのは明らかだった。自分の認識が周囲の常識と乖離している事に何の疑問も感じず、平然とそれを行う。下手に正当化を図る訳でもなくあくまで自然体、道端に何の気兼ねなくタバコを吹き捨てるように、彼はそれを簡単にやってしまう。もしあの時彼の五体が満足だったならその手で妹の亡骸をバラバラにした上で処分しただろう。ゴミ処理と一緒だ、オガクズを土に混ぜて埋め立てるようにそうするだろう。

 精神異常ではない。そも異常とは「常とは異なる」と言う事からも、元々正常だった者がタガが外れた結果陥る状態を指す。それに少年はその手の異常者に有り勝ちとされる支離滅裂な言動はなく、むしろその状態は常人と何ら変わりない。だが思考回路は確実に逸脱している。だから「歪んでいる」としか表現できない。精神や知能はあくまで正常なのにその行動は尽く常人の価値観からかけ離れすぎている。そしてそれらが何らかのきっかけで攻性を帯びてしまい、自分たちに向けられれば破滅を迎えるだろう。少なくともあの瞬間自分たちに向けられた視線には確かにその兆しを感じた。

 その歪みが先天的か後天的かは分からない。だが一度そうだと分かってしまった、確信を持ってしまった以上、アミタが取るべき行動はたった一つだ。

 「排除するしか……ないのですか」

 元々フローリアン姉妹と少年の関係はそこまで深く太いものではない。彼は今は亡きグランツの遺産、今際の瞬間に彼が遺した言葉に従って二人は死蝕の対策と、少年の復活を実行していた。本筋ではない事をやる義理はないのだが、彼女らは結局ギアーズなので創造主の言葉には逆らえない。それを見越して彼女らの父がそう言ったかは定かではないが、二人はそれを成し遂げた。仮に目覚めさせられなかった場合は全てのギアーズが停止した後に少年だけがここに取り残されることになっていただろうが、それは回避されたのだった。

 そして、そこから先に関する指示は何も無い。つまりそれは……。

 「ここから先は私の判断で動く!」

 その昔、俗に「ロボット三原則」というものがあった。人間を傷つけない、人間の命令に従う、そしてそれらに反さない限り自己を保存する、この三つだ。彼女が今から行おうとしていることはその最初の条件に反することになるが、そもそも三原則という原始的なプログラムがあったのも今は昔、今の人工知能は外部から得た情報に対し自己矛盾を発生させることもなくそれを処理し、それらを実行に移せる思考力を与えられている。

 だから、自らにとって脅威と感じた相手を自発的に排除することもできるし、場合によっては殺害に至ることもある。そして……今からアミタはそれを行う決意を固めていた。彼女の生涯において生物を殺したことは多々ある。だがそれらは全て野外活動で猛獣に出食わした時や、動物実験などに限り、人間を殺したことはただの一度も無かった。その最大の禁をこれから破るつもりなのだ。

 「手段は選んでいられません! 早急に、かつ確実に! 彼にはこの研究所から姿を消してもらわなくては……!」

 あの少年は「毒」だ、ただそこに存在しているだけで周囲を汚染してしまう。心の弱い人間が彼に近づけば争いになるか、あるいはその歪みに捕らわれて落ちる所まで落ちてしまうかだ。そしてその歪みはやがて海底の地層のように周囲を圧迫し、やがて地震のように爆発する。そうなってしまう前にケリをつけなければならない。

 問題は方法だ。ギアーズの力を用いれば人間の一人や二人を殺すことなど造作もないが、それでは直接的すぎる。当然相手も抵抗を試みるはずだ。だからもっと迂遠で確実な方法で実行するしかない。

 話は逸れるが地下の研究施設には様々な設備がある。その大半は死蝕対策のためのもので、アミタが行なっている作物の交配による新種を人為的に生み出す目的で設置されている。無論それらは健全な目的で使用されているので、一昔前のB級映画のようなバイオハザードはまず起こらない。だがどんな研究にも必ず副産物がある……太古の錬金術師が金を生成できず、逆にそれを溶かす王水を作ったように、研究には必ず本来の目的と対になる副産物が生まれてしまう。

 アミタもまた同じだった。彼女はかつて品種改良ではなく、現存している僅かな植物に特効薬を打ち込んで耐性を獲得させるという方法を取っていた。だが効き目が出るまでに掛かる時間と汚染の対比、そして特効薬を精製する過程で生み出される廃棄物の処理に行き詰まり、そのプランを凍結した。その廃棄物こそ、今回彼女が目をつけた道具である。

 洗浄を終えて自分の研究室に戻ってきたアミタは大型冷蔵庫のような重厚な扉を持つ隔壁の前へと立った。扉の取っ手の近くには前時代的なダイヤルが取り付けられ、それを回して開錠した彼女の前にそれらが姿を見せた。無色透明、まるで水と変わりない見た目とは裏腹にその液体が隠し持つ凶悪さは計り知れない。かつて一度だけ行なった動物実験で餌に僅かに混入した際、その動物は全身の機能を麻痺させて眠るように死んでしまった。自然界における神経毒と同じ作用を発揮し、比較的苦しまずに死ねると言われているそれらと同じ効果をその液体は有していた。今までは廃棄に困ってこうして保存していたが……。

 「まさか、こんなことのために使うなんて……」

 試験管に分けられている一本を手に取り、これから行おうとしていることに早くも躊躇いを見せ始めるアミタ。だがもうこれしか方法が無いのだと自身を奮い立たせ、手に取ったそれを研究室の外へと持ち出した。どんなに危険で脅威を覚えた相手であっても、その命を摘み取る以上は無意味に苦しませたくなかった。もし彼が死ねば当然の帰結として彼を利用しようとしているキリエは疑いをかけるだろう。そうなれば姉妹の仲はこれまで以上に悪化するかも知れない。だがそれでもやらねばならない、これは妹を守るためでもあるのだ。

 キリエはアミタと比べて好奇心が旺盛だった。二人が研究を引き継ぐ以前から彼女は少年に興味を示し、その正体を暴こうとしていた。だが彼に何かしらの利用価値を見出したのか、目覚めさせてからは暇さえあれば常に傍にいる。何かしらの目的があっての行動なのは間違いないが、それが何なのかは分からない。向こう側が伏せているのだから当然だ。時間がないから調べるつもりもないがあの少年が深く関わっているなら一刻も早く中断させなければならない。それはきっとキリエに決していい影響をもたらさないだろうから。

 薬物の使用方法は至って簡単、少年の食べる食事にほんの数滴混入させるだけでいい。摂取すれば瞬く間に全身を侵し、自覚症状が出る頃には全てが手遅れだ。たったそれだけでいいのだ、何も難しいことはない。

 それだけでいいのだ……。

 「……ごめんなさい」

 漏れ出るように呟かれた謝罪の言葉は誰に対してのものだったのか分からないまま、アミタは部屋を後にした。










 「今日はここまでにしましょうかしらね」

 ポットの中の紅茶が底をついた頃、キリエと少年は作業を中断した。結局あれから目ぼしい情報を掴むことは出来なかった。分かったのは、エリカ・フローリアンが過去に何かを盗むという犯罪行為を働いたことだけだ。何を盗み、何を研究しようとしていたかまでは分からず仕舞いだった。

 持ち出した日記の量はあと半分……これでもう何も見つけられなければ後はもうこの研究所を家探しするより他にない。この下にどれほどの階層が存在するのかは知らないが、その存在を語ったキリエは恐らく嘘は言っていないだろう。

 問題は、フローリアン姉妹が自分のことについて何か嘘を吐いていないかだ。もし日記から新たな情報が得られなかった時、自分の足以外で得られる情報は二人から仕入れるしかなくなる。そして与えられる情報にひとつでも虚言が混じればそれだけで調査は難航し、最悪座礁してしまうだろう。たった二本しかない命綱は双方とも信頼できるとは言い難い。特にキリエについてはその行動の読めなさについては一級品だ、言葉のどれかにフェイクがあれば取り返しのつかない事になる。二人はまだこちらに隠している情報があるに違いない。

 少なくとも今の時点では友好的だ。その内に集められるだけ情報を集めるのが得策だろう。

 「遅かったですね……」

 「まーね。ご存知の通り調べ物に夢中になってたから」

 久しぶりに食堂に足を運び口にする食事はある意味で新鮮に感じる。しばらく見ていなかった光景が少し懐かしみを帯びるのは不思議な感覚でもある。だが出てくるのはいつも決まって野菜スープと雑穀の主食だ。

 「変わり映えしないわねー。たまには別の献立とか考えたら? 肉、お肉入れましょ! 新鮮なミートなのよ!!」

 「現在生存している動物はどれも貴重なサンプルです! 調理目的で間引くなんて、そんな勝手は許しません!!」

 「ちぇ~。じゃあいいわよ、適当に外で狩ってくるから! 楽しみにしててね」

 「お前が調理するのか?」

 「あら、私の淹れた紅茶ってば美味しかったでしょ? 大丈夫よ~」

 「どうでもいいですから、早く食事を済ませてください。もう時間が無いんですから」

 「……?」

 妙に食事を急かす台詞に少年が僅かに違和感を覚える。いつもならこちらの行動など意にも介さなかったはずのアミタが、なぜ今日に限ってそんな言葉を吐いたのか。だが特に裏を感じなかった少年は追及せず、スプーンを手にスープを口に入れる。

 研究で栽培した野菜を適当な調味料と一緒に煮て作ったそれはヘルシーで、適度な温度で温められたそれは口内に火傷を負わせることもなく喉を過ぎていく。シンプルだが、だからこそ食べやすい。元来栄養摂取とはそうあるべきだ。

 だが、ふと思う。

 「……アミタ」

 「何でしょう?」

 「味を変えたのか?」

 「……ええ、調味料の配分を少し……」

 飽きるほど同じメニューを出され続けた為か、少年の下はスープのほんの僅かな味の違いに気付いていた。違いと言っても精々啜った液体の酸味がいつもより強く感じたというだけの話だ。味について文句があったわけではないしその程度の違和感は食べている内に消えて無くなるはずだった。

 そう思いながら二口目を啜ろうと手を伸ばし……。

 その手が止まった。

 正確には動かすことが出来なくなった。

 「っ! っか……!!?」

 皿とスプーンが触れ合う甲高い音が響いた直後、少年の体はテーブルに真正面から突っ伏した。器が傾いたことでまだ量が残っていたスープが激しく飛び散り、食堂の空気が騒然となる。

 「ちょ、ちょっと! 大丈夫!? 何があったの!」

 すぐさまキリエが駆け寄って体を起こすが、少年の様子は急を要していた。

 初めに異常が表れた右手を始めとするほぼ全身が痙攣しており、口は陸に揚げられた魚のように頻りに閉じたり開いたりを繰り返していた。酸欠なのは目に見えて明らかだった。何らかの中毒症状に陥ったと判断したキリエは少年を担ぎ上げて医務室へ運ぼうとしたが……。

 「無駄です。もう彼は助かりません」

 聞き覚えのある声が、聞き覚えのないほど冷ややかな声で聞こえた。こういう時一番先に慌てるはずの人物が落ち着き払っているという事実が、既にこの状況の元凶を特定させる。

 「何したのよ」

 「食事に神経毒に類似した劇物を仕込んだだけです。解毒剤はありません。もう手遅れですよ」

 「あらあら、妹がオトコと仲良くしてるのが気に入らないからって、ここまでするかな普通……!」

 「茶化しても無駄です。私は本気ですよ、彼にはこのままここで亡き者になってもらいます」

 そう言いながらアミタは散らかった食器を下げていく。いつもとは違う状況で、いつもと同じように行動する姿は異常行動の何物でもないが、その冷徹な言動が彼女の本気を表していた。

 「……マジで言ってるの? 自分が何してるか分かってる!? 博士がしようとして出来なかったことを私達が……!」

 「その博士はもう居ません! 彼は危険をもたらすだけです。あなたをそんな事に関与させる訳にはいきません」

 「誰がいつそんなこと頼んだのよ! お節介焼きが勘違いしちゃってくれて!!」

 「それが……あなたの為なんです」

 それだけ言い残してアミタは奥へと引き下がっていった。後に残されたキリエは少年の手当てを行おうとするが、既に全身の筋肉が萎縮を始めており、既に心臓を動かす筋肉すら毒に侵され、酸素を求めて動いていた口からは蟹のように泡が吹き出ていた。当然、呼吸などとうの昔に止まっている。呼吸停止と心臓麻痺、その先に待つのは死のみだ。

 「ちょっと、ちょっと!! あなたこんなトコで死んじゃうわけ!? まだ何もできてないじゃない!! あんなに必死になって自分のこと知りたがってたじゃない!! それを、こんなつまらない理由でふいにしちゃっていいわけ!!?」

 断続的だった痙攣は今や間隔が乱れ、時折思い出したように震えるのみ。そんな少年を背負ってキリエは医務室へ急ぐ。自発呼吸が出来なくなった以上、呼吸器を使用して酸素を無理にでも供給するしかない。

 「死なないでよね……あなたにはまだまだ私に協力してもらわないと割に合わないんだから!!」










 人体は心停止してからおよそ五分間は蘇生の可能性があるという。心臓が止まると言うことは酸素の流れを止められること、それはつまり脳細胞を始めとした全身が急激な酸素不足により死滅することを意味している。特に脳は酸素の消耗が激しく、人体の燃料であるこれが止まってしまえば脳梗塞に陥り、やがて脳死を迎える。そうなれば蘇生の可能性は、ゼロだ。

 俗に言われる「走馬灯」なる物はこの脳の酸欠時に見えるらしい。記憶を蓄積する海馬と側頭葉が、短期記憶と長期記憶を細胞の急激な死滅から守ろうと残り少ない酸素を使ってフル稼働させる。その瞬間に脳裏に思い浮かぶ過去のヴィジョンが走馬灯の正体と言われている。遠い過去の記憶とは忘れているだけで決して消えてしまった訳ではなく、常にその脳細胞に刻まれているのだ。

 では、その走馬灯が記憶喪失の人間に発生するだろうか?

 記憶喪失に陥るパターンは二種類、ひとつは記憶を司る脳細胞の物理的な破壊、そしてもう一つは精神的なものが原因となって引き起こされる物だ。前者については手の施しようが無い。言ってしまえば音を記録したレコード盤そのものが破壊されてしまったようなものだ。例え同じ物を再現できたとしても、それは結局前の物とは違う紛い物でしかない。だが記憶の欠如が後者、心的な何かが原因だった場合は話が別だ。それが原因の場合は長時間かけて心の傷を取り除くか、もっと手っ取り早くそれ以上のショックを与えて塗り潰すかだ。

 前者と違い後者は、言うなれば破壊ではなく紛失してしまっただけなので探すだけで済む。そしてショック療法はその紛失してしまった雑多なゴミの山諸共吹き飛ばし、目当ての物だけを拾い上げるという、言い方は乱暴だがやり方も乱暴な最終手段である。だが一言にショックと言ってもやり方は色々だ、確実に言えるのは一昔前の電化製品のように叩けば直るわけではない。だが記憶を蓄えた細胞からそれを蘇らせるには大なり小なり物理的な衝撃が必要になってくる。とどのつまり神経を通っているのは電気信号なので脳細胞は常時電気で焼かれているようなものだから。

 話を走馬灯に戻そう。

 つまり死の間際に見える走馬灯の正体は、海馬と側頭葉に蓄えられた記憶の引越し作業、その途中でムービーシアターのように再生されているのが真相だ。だから忘れてしまったはずの過去の記憶を臨死体験を経て鮮明に思い出すという体験談もあるくらいだ。それならば……記憶喪失の人間が死の間際に走馬灯を垣間見た場合、一体何が起こるだろうか?

 少年が目覚める際に行われた検査において、彼の体には筋力と骨密度の低下以外に異常は無かった。それはつまり、彼の記憶喪失は細胞の欠如によるものではないと言うこと。記録媒体が失われていない以上、酸欠という体内の非常事態に際しそれらが再生されるはずだ。そうでなければおかしい。

 (……ここは)

 睡魔の夢中のような視界の中で少年が最初に見たのは、どこか仄暗い暗室のイメージ。一見してどこかの研究所に見えたが、周囲の暗く冷たい雰囲気はフローリアンの研究所には無かったものだ。冷たい、そう、そこはひたすら冷たい場所だった。周囲はまるで氷に覆われているようで、身動きが取れないのと相まって凍えるような寒さを感じた。だがそこに留まっていられる時間は長くなく、やがてそこから解放される瞬間が訪れた。

 そこから先はそれまで停滞していたのが嘘のような怒涛の展開だった。流れ込む記憶の嵐、濁流、海嘯は遥かな地層に埋もれていた記憶を余さず掘り起こし、次々とそれらを網膜に映写していく。そしてその内容は全て戦い……血潮と血潮が河となって流れ出すような激しい戦いの連続だった。四肢を武器として並み居る敵を迎え撃つ己の姿を見せられる。だが決してその姿は正義の徒ではない、むしろ血に塗れてなお戦い続けるその姿は悪鬼羅刹の類だ。憎悪に歪んだ己の形相を容易に想像できるが、分からないのは何故過去の自分がそんなに怒り狂っているかだ。

 だがやがて気付いた。今自分が感じているのは記憶だけでなく、その時自分が経験した感情らしきものを追体験していることに。網膜に映し出される過去の体験はその際に自分が感じていたであろう感覚を半ば強制的に想起させる。だがそのどれもが決定打に欠ける。映し出される記憶の数々は恐らく己のものなのだろうが、それが己の肉体と符合しない。湧き上がる感情もどこか他人事のようで、出来の悪い三流ドラマを延々と見せられる苛立ちに近いものだった。確かに自身の記憶だという確信を持てない今、再生される記憶の数々はただの古ぼけたフィルムでしかない。それがどれだけ続いたか、少なくともこうして記憶の洗い出しが続いているということは、まだ生きてはいるのだろう。だが徐々に見える映像が不鮮明になってゆく……きっと最期が近いのだ。「こんな程度」のことで死に瀕してしまう我が身の貧弱さも、もはや呪う気力さえ湧かなかった。

 未練も執着も無い、記憶ごと消えて無くなり今更になってそれを思い出させようにももう手遅れだ。この記憶と体は完全に乖離してしまっている、最後のひと押しでも無い限り決して全てを思い出すことは無いだろう。このまま誰の物とも分からない、もはや赤の他人のものとなりつつある記憶と共にその意識が無謬の闇に沈もうとした。

 その時……。

 (誰だ、こいつは)

 薄れながらもまだ映され続ける記憶の中に、一際目に焼き付く蒼い輝きがあった。雑多な光景の中に混じって見え隠れするその色はどこか懐かしみを覚え、無性にその正体を見極めたい衝動に駆られて手を伸ばす。

 そしてその消えゆく残光の一片に縋り付き、その正体を目にした瞬間……。



 少年の中で意識が爆発した。










 心肺の停止から十分が経過した。少年の体に繋がれた電極を通じてバイタルモニターは心停止の電子音を鳴らしており、口元を覆うように取り付けられた酸素マスクも用無しになってしまっていた。

 「ですから言ったのです。無駄な足掻きだと……」

 部屋には彼をここまで運んだキリエと、その少年に毒を盛った張本人のアミタが二人。少年を乗せたベッドを挟み物言わぬ体になった彼を呆然と見つめているだけだったキリエは、履き捨てるような姉の物言いにすぐさま食ってかかる。

 「アミタ、自分が何したか分かってる!? これがどう言う意味か……今この星の未来をひとつ、自分の手で奪ったのよ!!」

 「私は前々から彼を危険に思っていました、それは言ったはずですよね。いつ爆発するかも分からない危険物を抱えて過ごすことは出来ません」

 「さっきから聞いてりゃバカの一つ覚えみたいに、危険危険って! 私はこの子を危険だなんてこれっぽっちも思ってなんかないわよ。むしろ利用価値しか感じてない! 一体誰にそんなこと吹き込まれたんだか……」

 「博士です。生前に一度だけ、彼が持つ危険性について伝え聞きました。基本、私と別行動をとっていたあなたは知らなかっただけです」

 「いい子ちゃん振るのはやめてくれないかしら。最後まで博士の顔色を見るぐらいしか出来なかったくせに!」

 「黙りなさいっ! あなたはいつもいつも……そうやって私に逆らってばかり! 少しは心配するこちらの身にもなってくださいっ!!」

 「だからっ、いつ誰がそんなこと頼んだのよ!! 綺麗事だけ言っていつも邪魔するのはアミタの方じゃない!」

 この言い合いも今に始まったことではない。とどのつまり、結局のところ、この姉妹は互いのやり方に異議を唱えるだけしかしていない。特にキリエはアミタに対する反目で行動している節がある。今彼女が憤怒している最大の要因も少年を殺したと言うよりは、そうまでして自分の邪魔をする姉の行動を非難するためのものだった。少年自身がそうであることを望んだように、ここにいる誰もが彼個人の意思など尊重すらしていなかった。

 だがどんなに言い争っても入れ物から零れた水は戻らない。徐々に体温を失いつつある少年の体を抱き上げてアミタは病室から出ようとする。

 「どこ行くのよ」

 「彼を埋葬します。こちらの都合で振り回してしまったんです……これぐらいのことは……」

 そう申し訳なさそうに言いながら室外へ赴くアミタは、ドアノブに向かって塞がった片手を少し伸ばそうとし──、



 冷たい手がそれを阻んだ。



 「ッ!!?」

 キリエではない。ここには他の弟妹もいない。

 では誰?

 そんな事は消去法で分かることだ。だが混乱した脳が型に嵌った常識で考えようとして更なる困惑を呼ぶ。

 「どうして……!?」

 何故なら、その腕は、既に死亡が確認されたはずの少年のものだった。

 「あなた、生きてっ」

 ギョロリと見開かれた眼球と視線が合い、次の瞬間、アミタの体はドアから一番離れた壁面に叩きつけられていた。顔面に受けた衝撃はそのまま重心ごと彼女の体を攫い、力学作用を無視したような速度は地面にバウンドさせることなくアミタを運び、到着した壁は凹むどころか基礎構造ごと食い破ってその体を埋没させたのだ。

 「アミタッ!?」

 キリエの絶叫が響き渡る。そして同時に床を踏む硬質な音が二つ、この研究所で目覚めてから初めて少年が己の足で立った。彼の体は脳を含むいずれにも異常は見当たらなかった。当然、足もその中に入っている。記憶と同じく精神に原因があったのだとすれば、この覚醒の瞬間にそれが完治したとでも言うのだろうか。生まれたばかりの小鹿みたいな貧弱さではなく、確かな力を持って佇立するその姿は古代の石像のような力強さを印象づけた。

 初めて己の力だけで立ち上がった少年は自分の両手をまじまじと見つめ、五指を握ったり開いたりして感触を確かめる。心臓と共に止まっていた血流の再起を促すように全身を隈なく動かして確認し、最後に首をゴリゴリと乱暴に回してウォーミングアップは終わった。鈍っていた体を復活させた今、真の肉体的自由を手に入れた少年は、何が不満なのかその表情は悪鬼の如くに歪み、歯茎から血が滲むほど噛み締められた歯はギチギチと不快な音を撒き散らしていた。

 その感情は即ち、怒り。地殻すら溶融するマグマのような熱を秘めた怒気は、すぐそばにいたキリエに生物の根源的恐怖を植え付けるには充分過ぎる威力を持っていた。機材として危機管理能力を持つ彼女の脳を以てしてその波動を危機ではなく「恐怖」と認識させてしまった。それはつまり、今この場において少年の近くにいれば居るほど生存の確率が低下することを意味する。五秒後、十秒後に自分がどうなっているかなど、この少年の気分次第でどうにでもなる危うさを持っていた。だが今やその全ての矛先は姉のアミタに向けられていた。

 僅かに身を屈めた直後、一瞬にして少年の姿が今まで立っていた場所から消える。琥珀のように輝く金色の眼光が一閃、僅かに残像が尾を引いて軌道を見せた後、二度目の激突音がキリエの背後から轟いた。

 「アミタァッ!!!」

 振り向いたキリエの視界に飛び込んだ光景は、少年の右脚がまさに今立ち上がろうとしていたアミタの顔僅か数センチ横に突き刺さっているというものだった。壁一面に刻まれた亀裂がその蹴りの威力を雄弁に物語っており、それを叩き込んだ足がつい十数分前までは不随の身だったことが姉妹の驚愕をより一層大きなものにしていた。そもそも人体がこんな力を出せるはずがない。どんなに鍛え上げられた肉体を誇っても人間の爪先ではコンクリートの塊を蹴破ることは出来ない、しかもそれが病み上がりの者なら尚更のことだ。だが現実として少年の足は乗用車がぶつかってもびくともしないはずの壁を突き破り、確実にアミタを破壊するつもりでいたことを明々白々に語っていた。

 「アミタ!!」

 「ぅ、あぁ……」

 予想外の展開に頭がついて来れないアミタを引っ張って少年から距離を取る。怒りで我を失った今の彼は何をするか分かったものではない、警戒を厳として行動し、隙を見て逃走するしか──、

 「ッ!!!」

 「うそっ、速……!!」

 油断はしていなかった。一度その動きを見た手前、二度目はそれなりに対処できる自信があった。実際にその動きは真っ直ぐにキリエとアミタに向かって来るものだった。だから避けられる……そう確信していた。

 しかし、視界を冷たい手で覆い隠された刹那、キリエの後頭部は轟音と共に壁に叩き付けられた。辛うじて動いたことだけは確認できたが、残像が見えたからと言って銃弾を回避できる人間はいない。ギアーズの反応速度を上回るスピードで与えられた一撃は頭部に収められたAIに一瞬だけエラーを吐き出させるほどだった。

 「がっ!!」

 キリエは何とかして脱出を試みるが、人間ならとっくに頭蓋骨が割れているほどの力で押さえられている上に、傍にはアミタを抱えていて自由には動けなかった。そんな彼女の顔を覗き込むように少年が接近し、二人の距離は鼻息すら微細に感じ取れるまで詰められた。妄執に輝く金色の眼は猛禽の如き獰猛さを窺わせ、良質な餌を選別する獣にも似た凶悪さも併せ持っていた。死の恐怖とは無縁だったはずのキリエとアミタの脳が急速に冷え固まり、視線が定まらなくなりつつあった。

 それが数秒続いた後、少年は鼻息を鳴らしながら……。

 「違う」

 と言って二人を解放した。拾った小石を再び落とすような手つきで、少年は姉妹から興味を失ったようにその場を離れた。あの日、突然事切れた妹を見下ろしていた時と同じ目をしていた、人間を石ころ程度にも思っていない冷めた視線を。

 「あなた……誰よ」

 「…………」

 ほんの十数分前まで松葉杖をつき、無口で無愛想なだけだったはずの少年はもう居ない。そこには金の双眸を憤怒に輝かせながらこちらを見据える嵐のような存在があった。そして何者かというキリエの問いに対し、孕む怒気とは裏腹の静かな声で少年は名乗った。ここで目覚めてから初めて少年は己の名を口にする。

 「トレーゼ……。トレーゼ・スカリエッティ」

 亡者が蘇った。



[17818] 無為を悟る
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2014/02/09 15:13
 意外なことに、そこからの生活に大した変化は無かった。アミタの毒殺未遂は他でもない被害者の少年、トレーゼによって不問にされ、姉妹の喧嘩も水入りとなった。少年は松葉杖を完全に捨て去り自分の足で研究所を闊歩するようになり、以前のような不自由な生活は送らなくて済んだ。

 だが変わらなかった事もある。依然として姉妹の対立は続いており、トレーゼに対するアミタの警戒はむしろ以前よりも増していた。当のトレーゼにとってはどこ吹く風だったが、彼の保護者のように振舞いたいキリエのスタンスを考えれば再び衝突するのも時間の問題に思えた。

 これだけなら以前と殆ど変わらなかったことだ。だがいつまでも謎を謎のままにしておく訳にはいかず、事件の翌日に姉妹は示し合わせたように同時にトレーゼに迫った。要求は当然、彼自身の過去についてだ。

 そしてトレーゼは誰憚ることなくそれらを話して聞かせた。まともな精神を持つ者であれば誰もが忌避するであろうその情念を。

 「つまりあなたは95年前に管理局を騒がせたお尋ね者で、遥々別の世界に逃げてそこで死んだはずだってこと?」

 「俄かには信じられません! 『闇の書』なる物が数多の次元世界を滅ぼしたなんて……」

 「事実だ。正確には『闇の書』と、『ジュエルシード』という結晶が融合した。恐らくその二つによって引き起こされた融合反応が加速した結果、第97管理外世界を中心とした周辺の次元ごと消滅したのだろう」

 「じゃあつまり何よ。教科書にも載ってる一大事件の真犯人はあなただって言うわけ!?」

 「そうだ」

 事も無げにそう言ってのけるトレーゼに二人は驚きを通り越して呆れを覚えていた。完全に信じた訳ではないが、今の話が全て事実であればこの白磁の透き通るような肌をした、むしろひ弱そうに見える少年こそが、全次元世界の開闢以来の大事件を引き起こした下手人だとすれば……。

 「私達、歴史の登場人物とお話しちゃってるわけね~。しかも、ビックリするほどの極悪人と」

 「ならどうする。ここで俺の罪を裁くか」

 「この際あなたの過去の悪行についてとやかく言うつもりはありません。私達には確かめる術がありませんから。それよりあなたの過去は分かりましたが……結局、あなた自身は何者なんですか? 時空管理局崩壊の大罪人であるかはどうでもいいです」

 「だから言っただろう。俺はトレーゼ・スカリエッティ、それ以上でも以下でも以外でもない。俺は俺だ」

 「哲学的な問答をしているのではなくてですね……!」

 「答える気なんてサラサラ無いってことでしょ。いいじゃん別に。秘密主義は今に始まったことじゃないし、前より少しはこの子の事を知れて私は満足よ。そっかそっかー……ほんとに大昔の人だったのね」

 それぞれの反応は対照的だった。キリエが終始興奮している様子で頷き返すのに対し、この間アミタは自分が盛った毒が効かなかった事と合わせて狼狽が混じった視線をトレーゼに向けていた。

 確かにあの時トレーゼは死んだはずだった。と言うよりも、心肺機能の完全な停止から更に時間が経過した状態から生還したこと自体、常識的に見て何の冗談だと言わざるを得ない。だが実際に毒は完全に体内から消え去り、後遺症の類も見られない。それどころか肉体は以前より健康になっており、脚はもちろん全身のあらゆる細胞がかつて生物だった頃の全盛期の状態まで回復していた。

 「それにしても信じられません。あなたの肉体のスペックは私たちギアーズの基本性能を大きく引き離しています。普通ではありえない数値です! 常人ではこの数値から出されるパワーに細胞が耐えられるはずが……」

 「だったら細胞レベルで尋常じゃないってことよ。もしかしたら遺伝子レベルかも……そうでしょ?」

 「ああ」

 キリエは先に勘付いていただろう。ここで目覚めて間もなかった頃に二度目の採血を頼まれたが、恐らくあれは血液を詳しく調べ直す目的で採られたのだろう。そしてあわよくばそれを利用する方法を見付けようとしていたに違いない。

 「だが一つ訂正しろ。俺は人間なんかじゃない。あんな非力で矮小な生き物と一緒にするな」

 「いえ、ですが、生物学的な見地から言ってあなたは確かにヒト以外の何物でもありません。気になるのでしたら再度検査を……」

 「ふざけているのか、お前は」

 纏う空気が一瞬で激変する。物静かな人間の逆鱗ほどに厄介なものはない、気付かぬ内にそれに触れてしまい顰蹙を買えばそこから先の制裁を回避する術はなくなる。

 この場合も当然と言うべきか、再び暴威の嵐と化したトレーゼが弾丸の如くアミタに飛び掛かった。だがその予兆を感じ取っていたキリエに寸前で阻まれ、二人は互いの腕を固く掴んで膠着する。

 「どーどー! 落ち着きなって! ちょっと頭にすぐ血が昇り過ぎじゃないかしら~!」

 「……!!」

 拮抗しているように見えるが、キリエの両脚は少しずつ押されている。やはり総合的なパワーでトレーゼはギアーズを上回っており、こうして睨み合っている間にも彼は疲労するどころか逆にその膂力は跳ね上がって行った。掴んだ腕を通して送られてくる力にキリエの表情が苦悶に歪み、ついに膝を折る。

 「ギブギブ!! ごめんごめんごめんっ!!! ちょっ、お姉ちゃんも謝って!?」

 「謝罪など必要ない。これから居なくなる者にそんなものは不要だ」

 「へ?」

 「世話になったな」

 ふっと力を緩められて前のめりになるキリエを尻目に、トレーゼは部屋の外を目指す。一瞬虚をつかれたがすぐに姉妹はその後を追った。

 「どこへ行くんですか!」

 「外だ」

 「外ぉ? 外出するんだったら防護服とか……」

 「必要ない。このままで行く」

 「イヤイヤイヤッ!? 何言ってるの!! 死んじゃうって!!!」

 制止を振り払ってエレベーターに乗り込み、遂に彼は生身で地上に進出する。

 以前出た時と同じ灰色の曇り空を仰ぎ見ると、ガスマスクをしていた時には感じなかった異臭が鼻腔を刺激し、続いて胸の奥に熱を感じた。気分の高揚などではない、物理的な熱、大気中に多量に含まれた汚染物質が早くも気管を通じて肺を焼き始めたのだ。拒絶反応と壊死を伴った急性の炎症は瞬く間にトレーゼの体内を蹂躙し、目鼻の粘膜から鮮血が流れ落ちる。ここで人間は数分も立ってはいられない、置き去りにした姉妹が追い付く頃には既にその体は冷たい土の上に倒れていた。

 「言わんこっちゃない!!」

 キリエが頭を抱えて叫び、アミタが酸素マスクを口元にあてがう。だがもう手遅れだ。普通ならこの時点で肺は焼け爛れて壊死し、大気に接触する粘膜全てが原形を保てないほどの汚染を受けているはずだった。

 だが、トレーゼは普通ではなかった。

 「そんな物は必要ない」

 「うそ……でしょ!?」

 邪魔なマスクを難なく引き剥がす光景に姉妹は今度こそ絶句した。どんな人間も数分ともたずに死滅するはずの大地で、彼はまるでうたた寝から覚めたような足取りで立ち上がり、大きく深呼吸して見せたのだ。有り得ない。海の魚は淡水では生きられない、今の彼はそれと同じことをやってのけたのだ。

 彼女らは知らない。トレーゼは人間とは異なる方法で生まれたことを。

 姉妹は知らない。彼の体内にはどんな環境をも克服する進化の因子が眠っていることを。

 二人は知らない。トレーゼ・スカリエッティは死を求めていることを。

 故にこの問いを投げ掛けてしまう。

 「あなたは……」

 「ホントに人間なの?」

 そして予定調和の如くこう返される。

 「だから違うと言っている」










 「やはり、ウーノに似ているな」

 一連の騒動が一応の収束を迎えた後、トレーゼは最近自分の拠点となりつつあった資料室へアミタとキリエを伴っていた。例のエリカ・フローリアンの日記などから得た情報を開示するためだ。彼女らが知りたがっているのは「トレーゼの過去」であって「トレーゼの正体」ではない。ナンバーズの十三番目だとか、新たなスカリエッティだとかは不要な情報だと判断したからさっきは黙秘したのだ。それ以外であれば固辞する必要は無かった。

 トレーゼの手にあるのは研究日誌から発見したエリカの写真、窓から差し込む陽を背に受ける古ぼけたそれを彼は再び凝視する。今ならこの女性が誰に似ていたのかはっきりと言える。

 「そのウーノさん……? とはお知り合いですか?」

 「ああ。だがここに写っているのはウーノじゃない。似ているが別人だったみたいだ」

 「ホントに別人の赤の他人? 親戚とか子孫とかって線は?」

 「いるわけないだろう」

 それは二重の意味で有り得ない。彼女の“親戚”は自分を含んだ同胞たるナンバーズのみ、そして子孫と言ってもそんな者が生まれる可能性はゼロを通り越してマイナスだった。他でもない自分がその状況に追い込んだのだからトレーゼは確信をもって断言した。

 それと同時にふと思う。あの時、闇の書と一体化した自分が体内に取り込んだ者達はどうなったのだろうか? 自分と同じようにどことも知れない次元の彼方に漂着したか、あるいは世界を滅ぼすほどの崩壊と共に消滅を免れられなかったか。普通に考えれば後者の確率の方が遥かに高いことは言わずもがなだ、希望的観測の余地も無くそれは明白なことだ。最後のナンバーズと信じた彼女ら二人、ウーノとトーレを永遠に失ってしまったことは悔やんでも悔やみきれない。敵を自分の手で抹殺できなかった事よりも、彼女らの理解を得ることが出来なかったことの方がずっと心残りだった。

 だがそれ以上に……宿敵、スバル・ナカジマを駆逐できなかったのは痛恨の極みだ。あの怨敵は遂に自分の手から逃れ、未来永劫手出しできない場所へと行ってしまった。そのことを自覚すると氷のように冷え切っていた自分の内側を憎悪の炎が焼き尽くすのを覚える。

 「……管理局は次元世界を崩壊させた犯人を突き止めていたのだろうな。自分達の体制を崩壊させた下手人を炙りだして封印し、二度と世に出ないようにしたんだ。だが、何らかの目的でエリカ・フローリアンが俺を見つけ出し、当時局にとって未開の地だったこのエルトリアに逃げ込んだ」

 「そして100年近くの歳月を掛けて復活させようとした……ですね?」

 「それ以外に考えられない。大方、俺の能力を兵器転用して一山当てるつもりだったのだろう」

 「兵器って……」

 トレーゼの正体を伏されている姉妹にとってその言葉は驚嘆に値したが、当の本人にとっては慣れたものだ。闇の書とジュエルシード、そしてデバイスを失ったとは言え彼の天井知らずの力は世界中の違法組織が喉から手が出る程欲しいはずだ。かつてのハルト・ギルガスのように私利私欲を求めていなかったとは限らない。むしろそれ以外だとしても何らかの形で利用しようとしていたのは間違いない。その成果と利益を独占しようとすれば、この様に辺境と言わざるを得ない土地へ身を隠すしかないのは自明の理だ。

 「でもまぁ、やっぱりそんな悪人には見えないんだな~」

 「ええ、お淑やかなご婦人です。養子だと聞きましたが、どことなく博士に似た雰囲気を感じます」

 「どうでもいい。事実としてこの女は管理局を欺き、この俺を復活させた。どの道ロクなことは考えていない。…………もういいだろう、記憶が戻った以上ここにもう用は無い。すぐにでも出て行く」

 「ちょい待ち! 出て行くって言ってもアテはあるの?」

 「無い。どの道そんなものは必要ない。これから死ぬんだからな」

 「死ぬ!? まさかさっき外に飛び出したのは自殺するため!! ダメに決まってるじゃないですかっ、何を考えてるんです!!」

 腰を浮かしたトレーゼをアミタが押さえ付ける。進化の因子はあの短時間で死蝕に対する耐性をトレーゼに与えたが、そうと分かっていても姉妹は揃って良い顔をしなかった。

 「世を儚んでって最近の流行かも知れないけどさ、あなたにはちょっと似合わないと思うなぁ!」

 「お前達に関係ない。どの道俺にはこれ以上存在しているだけの理由が無い」

 「そう言う『世捨て人な自分カッコイイ』みたいに気取ってる余裕があるなら、もう少し生きてみようとは思いませんかっ!」

 「……に…………る……」

 「え、なんて?」

 「貴様らに何が分かるッ!!!!」

 物静かから一転、轟く怒号に姉妹は身を竦めた。

 「貴様らは何だ……。ただの機械が、人間を真似て造られただけの人形が何を悟った風なことを! とっくの昔に死んでしまった者の命令を実行するだけしか能の無い木偶に、俺の為そうとしたことの何が分かる!!」

 「話してもないのに分かる訳ないじゃん!」

 「使命も無ければ大義も無い貴様らに何を言ったところで無駄だ。分かりもしない話を聞いただけで理解したふりをして、適当な言葉を並べてこちらを惑わすだけしかしない。そうだ、『貴様ら』はいつもそうだ、いつもいつも……!」

 怒りに震える脳裏に巡るのは過去の人物、スバル・ナカジマ。達成すべき目的に到達できず苦汁と辛酸をたらふく舐めさせられたのは、トレーゼ自身が脆弱と切って捨てた彼女たった一人の存在があったからだ。武力も権力も持っていないはずの彼女の行動は常にトレーゼの予想を大きく裏切り、そして……。

 「何が……あなたをそんなに傷付けたんですか」

 「傷付く……? 俺が?」

 アミタが触れたのは核心。結局のところ、トレーゼ自身もその心のどこかで正しい行いは報われるべきという考えがあったのだろう。社会の規範にとって善か悪かではなく、己にとって正しい行動をとっていると言う確信があった彼にとって、それが一向に報われなかったあの現状は、その心身を自覚させることなく傷つけ摩耗させていった。そして、彼の心はその傷に耐えられるほど頑丈には出来ていなかった。スバル・ナカジマ然り、トーレ然り、そしてフローリアン姉妹然り……誰もがその隠せてない彼の本心の一端、逆鱗に触れ、そして怒りを買う。

 「博士が言っていました。人間は素直じゃないと。どんなにその言動が他者との接触を忌避していても、人間と言う種が単独では生きられない以上それはエゴだと。あなたの過去に何があって何故そんな凶行に走ったかは知りませんが、それは結局単なる独り善がりに過ぎません!」

 「何も知らない、最も遠い位置に座っている者ほど的外れな文句を言う。貴様らは俺が孤独だとでも言うのか。貴様らは自分が俺にとっての理解者にでもなるつもりか?」

 「あなたの基準がどんな程度なのかは知らないけれど、その『理解者』ってゆーのに一番近いのは……どっち道私たち以外には居ないんだけどね」

 「ふざけるな。貴様らが俺の目的を理解できるものか。唯一に成ろうとしてなれなかった俺の目的が……」

 「じゃあさあ……あなたは誰にそれを理解してほしかったのよ?」

 「誰に? 決まっている、それは……!」

 「では、その方は少しでもあなたの思想や行動に共感を示してくれましたか? あなたに心を許しましたか?」

 「…………」

 答えられない。トレーゼが敬愛した姉たちは揃って彼の思想を拒み、唾棄した。あの様子を好意的に捉えられるほど耄碌はしていない。だからこそトレーゼはその正当性を証明しようとした。真贋の別を問われて拒絶されるのなら、「過去のトレーゼ」より今の自分が優れている事を示せば贋作と罵られることもないはずだと信じていた。そう固く信じていたからこそ、どんな苦境に晒され、自分以外の全てが敵になろうとも、それを踏破し打倒してでも突き進み実現させる覚悟があったはずだった。

 「それは……俺がその目的を達することが出来なかったからだ」

 「ならそれを達成していれば理解を得られたとでも? 私にはそうは思えません! その内容がどんなものだったかは知りませんが、あなたがそれを本心から望んでいたとはとても思えません!」

 「俺が心の底では平和を望んでいたとでも? とんだ偽悪者だ」

 「そうではありません。行いの善悪ではなく、それを本当にあなた自身の考えで望んで引き起こしたことなのか、それを問い質したいのです!」

 そうに決まっている、そう返したかった。だが喉まで出かかったその言葉を飲み込み、逡巡。果たしてあれらの行為は本当に自ら望んで起こしたのか再確認の疑問を浮かべる。今まで彼に接触する者は全てその凶行を阻止しようとするばかりだった。あのスバルでさえ後ろから袖を引くように邪魔をするだけだった。だから誰もこの姉妹のように「問いかける」ことをしなかった、その本心を問い質そうとはしなかった。だから初めてここで疑問にぶち当たる……「本当にあれらは自分の意志だったのか」、と。そして一瞬でも疑問に思えば最後、全てのロジックに綻びが見え始める。

 そもそも「現在のトレーゼ」の経験値とは非常に希薄なものだ。記憶と経験の大半は以前、最初のトレーゼであるオリジナルから引き継いだものでしかない。そして、今の彼が取っている行動も全ては引き継がれた過去の経験によってもたらされる、言わば「過去の自分ならこうするだろう」というトレースが下敷きになっている。本人にその自覚と意識が無くても実態としてはかつてのフェイトやエリオがそうであったように、「過去」を下敷きとしながらも「過去」では絶対に行わなかったことをしてしまう。それがF.A.T.E.の欠陥なのだから当然だ。もしハルトによって複製された事件を経ていなければ、今の経過も少しどころか大いに違っていた可能性が高い。

 仮にオリジナルから引き継いだ経験がその本心だったとしよう。しかし、彼が持ち得るナンバーズの思想観すらウーノやトーレにドゥーエ、そして他ならないジェイル・スカリエッティによって教育された過程で培ったものだ。特にトーレからは、機兵として絶対の規範を示さなければならない考えを植え付けられ、トレーゼ自身もそれを遵守しようとしてこの凶行に走った。彼の行動原理は最初から最後まで、姉たちによって教え込まれた規範を一から十まで実行しようとして失敗していたに過ぎず、それは決して己の意志で決定したとは言い難い。トレーゼ・スカリエッティは過去の亡者、その本質は幻想の妄執に抱かれて暴走を繰り返すだけの哀れな亡者でしかないのだ。

 その事実をこれまでにないほど明確に突き付けられた今、トレーゼは背筋に悪寒を覚えた。どんな鋭利な刃物を向けられ、幾つもの銃口に晒されても眉一つ動かさなかったその顔が、不動を誇った精神が、スバルに恐怖したあの瞬間と同じ動揺を自覚したのだ。つまるところ、彼の暴走する精神は結局は「逃げ」でしかない。自身の抱える矛盾と弱さに向き合わず、それを攻性に転換して周囲に発散させることで我を突き通す、言ってしまえばこれほど幼稚なこともない。そしてその弱さを自覚した瞬間に人間が取れる行動は二つ、ひとつは自己を顧みて現状の改善に取り組むか、そうでなければ……。

 「────」

 更なる惰性に陥るのみだ。そして彼は後者だった。

 「……認めない。そんなことは認められない!」

 「『認めたくない』の間違いじゃないの。ていうか、私たちと違って正真正銘の人間ならもっと柔軟に考えた方が絶対にトクだって思うけどなぁ」

 「俺は人間じゃない!」

 「じゃあ、そんなに悩む必要なんて無いじゃない。本当に私たちと同じ機械か何かなら、そんな取り返しのつかない事でいつまでもウジウジと愚痴ったりしない。私たちにはその『悩む』ってプロセスがどうにも分かんないわ。アミタがあなたを殺そうとしたのだって、即断即決だったでしょ?」

 「余計なことは言わなくていいです!」

 「まあ結局何が聞きたいかってゆーとさ……あなた、本当に自分が正しい事をやれてるって自信持って言える?」

 「…………」

 「私はありますよ!」

 「ちなみに私もね。さっきの質問にまともに答えられなかった君が、果たして臆面もなく自信満々に答えられるかしらトレーゼくん」

 意味深な笑みを浮かべるキリエに対し、トレーゼは何も答えることは出来なかった。










 「…………」

 ここ数日で完全に自室と化した資料室に篭りながら、トレーゼはこれも日課となったエリカ・フローリアンの日記を読み進める作業を一人で行っていた。深夜、もう既にアミタとキリエは活動を停止して休眠しているが、トレーゼは用意された寝袋にも入らずそれを続けていた。暇なのではない、それしかすることが無いからだ。純粋な時間的余裕がもたらす退屈が気怠く伸し掛かり、唯一の作業に彼を駆り立てる。

 ここはエルトリア、時は新暦170年……自分が戦っていた地球とは時間も空間もかけ離れている。そもそも地球などとっくの昔に消滅して今や跡形も無くなっている。戦うべき場所も、敵も、目的すら失い、今の彼は本当の意味での生ける屍だ。もう彼自身では何も出来ない、使命も大義も失った彼に進むべき道は無く、豚追い犬のように彼を追いたてる敵もいない今、トレーゼの精神は堕落と倦怠の地層に埋没するのを待つだけだ。動物は餌を喰らい、眠り、子孫を残せば生きていける。だが仮にも人間の体で存在する以上、動物のようにただ生きるだけでは日々は過ごせない。善人は善人らしく、悪人は悪人らしく生きるように誰も彼も人間は何かしらの目標を持って生きているし、そうしなければ生きられない。

 だがトレーゼにそれがもう無い。動物に様に生きる行為そのものを目的とするにはその知性は高等で、老いて死すのを待つには彼の寿命はまだまだ長過ぎる。エリカが何を考えてそうしたかは分からないが、ただただ無為なこの時間を思えば縁もゆかりも無いこの地に蘇らせた事さえ恨めしく感じる。だがどれだけ嘆いたところで事態は何も変わらない。結局トレーゼはこのエルトリア以外に行く場所などないし、例え行ったところで何をするわけでもない。完全な袋小路に停滞してしまった彼の時間は、無意味に流れるだけでしかないのだ。

 「…………はあ」

 何冊目か数えるのすら忘れた日記帳を読破し終えたトレーゼの口から漏れる溜息。かつてここまで弱々しい嘆息を漏らしてしまったことがあっただろうか。だがそれすら気に留めることさえせず、流れ作業と化した日記の読み進めを行う。既に日記の中の様子は更に十年近く経過し、青年に成長したグランツが研究職員となったところまで進んでいた。育ての母としては腐敗する大地ではなく新天地へと旅立ってほしかった事が書かれているが、最終的にエリカが折れてグランツは母の下で働く決意を固めたとある。生まれた時からこの地で生きるグランツの決意は母以上に固く、研究記録にもあるようにエリカの死後にはその役目をしっかりと受け継いでいる。死蝕の研究の傍らでギアーズの開発も行っていたことを考えれば、母よりも優秀だったのかもしれない、

 親子、と聞いて思い浮かぶものがある。いつだったか地球を訪れる前に立ち寄った名も無き世界、その砂漠で生活するこれまた名も無き部族、そこで出会った一人の少女。名は確か……ヒツキと言っただろうか。今となっては大昔のことだが、ずっと眠っていた自分にとってはこの間の出来事に感じられる。かつては森に住んでいた部族の栄光に憧れ、それを砂漠に追いやった街の人間に対抗意識を燃やし、それと同時に亡き母親ですら成し遂げられなかった砂漠越えを行った勇猛果敢な少女……だが最後は外でもないトレーゼ自身の手によって五体を切り刻まれると言うこの世ならざる所業を受けた末に死んだ、非業の少女だ。何故そんなことをしたのか、今となっては語る相手も居ない。

 だが、高町宅に潜伏していたのをフェイトが突き止めた時、彼女はヒツキの実父から預かった物だと言って手紙を渡してきたのを思い出した。それも結局読まず終いだったが、わざわざあんな物を書いて寄越したということは、ヒツキの父親は事の真相に気付いていた可能性がある。でなければ愛娘を「殺した」相手に、憎さしかないはずの者にどんな形であれコンタクトを取ろうとはしないだろう。ただ延々と恨み言を書き連ねていただけかも知れないが、もしそうでなければ親の慧眼とはなかなか見くびれないものだと感心もする。無論、今となっては確認のしようもない。

 「…………」

 ふと、思った。あるいは悟った。

 今まで自分が出会い接触してきた数多の人間たちに共通していた、ある特徴……。ヒツキ然り、グランツ然り、形有るモノ全てはその者にとっての親の真似事しかしていない。ヒツキはかつて勇敢だった母に憧れて狩人を目指し、グランツも異邦人でありながらエルトリアの為に尽くす母と同じ道を選んだ。そしてトレーゼ自身もまた、自らにとって育ての親とも言うべきトーレの影を追って十数年の時を生き続けた。別に彼らに限った話ではない。子猫は親猫の様子を見て狩りを学び、渡り鳥は日々の暮らしから空を飛ぶ術を学ぶ、子が親あるいは兄弟姉妹と似るのは当然の帰結であり自然の摂理でもある。普通なら子供でも少し聡ければ分かる事実だが、今のトレーゼにとってその事実は重く伸し掛かる。

 「なら『本物』とは何だ?」

 誰しもが誰かの真似を経て自我を形成するのなら、この世の全てはイミテーションだ。どんな変化を経ても過程がそれならば、所詮この世の全ての形有るモノは歴史の中で連綿と続く贋作の積み重ねでしかない。哲学めいたことを言えば、その論法で語ればこの世に真実など存在しないことになってしまう。それを認識してしまったが最後、今まであれだけ固執していた本物と偽物の境界が突然バカバカしい空虚なものに下落してしまったのを感じてしまった。もはや溜息すら漏れ出ない。その代わり口元を薄らと釣り上げた気味の悪い笑みを浮かべてトレーゼは背もたれに寄り掛かって暗い天井を見据えた。

 無駄。

 無意味。

 無価値。

 真実とは気付いてしまえば簡単で、とても残酷だ。難病に罹った原因が日々の生活習慣にあったことを知れば誰でも心底悔やむだろうし、転んでケガをした理由が足元の小石と分かればこれも腹立たしい。今回のこれも言ってしまえば、幼い頃から憧れたテレビのヒーローが実は架空の存在だったことを知らされた子供の気分だった。だがその偶像に心酔し、教義とし、信仰すらしていたトレーゼにとってそれらの事実は重く、そして鉛を飲み込んだようにずしりと臓腑を侵食した。

 もう何もかも一切合財がバカバカしい。今まで信じて行ってきた全てが虚構だと知ってしまえば気力も精根尽き果て、後には残骸と言うのが相応しい妄執の燃え滓だけが残る。もはや燻ることさえしなくなった灰、あとは風に流され砂となり土へと還る運命を待つのみだ。

 いっそ死んでしまえばいい。その為に猛毒渦巻く外界へ生身で赴いた。だが結局トレーゼの中に眠る『無限の進化』はそれすら克服し、彼をこの大地において最も頑丈な生物へと上書きしてしまった。これで死蝕の毒性では彼は死ななくなり、アミタが行った方法などではもう何の意味も成さなくなった。遥か向こうにあると言われる活火山にでも身を投げればまた話は違うだろうが、そこへ行くまでにキリエが邪魔をするだろう。それを振り払うのも面倒で億劫だ。

 ……よくよく考えれば、もうこんな日記帳を調べる意味さえ無い。そう思って日記帳を無造作に投げ捨てた。乾いた音と共に冷たい無機質な地面に落下した拍子にページが折れ曲がり、その様は今のトレーゼの写し身にも思えた。折れた紙は決して元には戻らず、シワとなって刻まれる。やがて紙はそこから破れてボロボロに朽ち果て、何も成せないまま屑となってしまう。今のトレーゼそのままだった。

 目蓋が重く感じられ、素直にそれを受け入れたトレーゼの意識は睡魔に落ちた。

 暗闇に沈む脳裏にふと過ぎった姿はかつての怨敵、スバル・ナカジマの後ろ姿。その背中に向かって手を伸ばそうとし、夢と気が付いて止めてしまった。その際に彼女の名を呟いたような気もしたが、それも夢と思ってすぐに忘れ去った。










 「『スバル』って誰のことかしら~?」

 その名をキリエの口から聞いた際にトレーゼが取った行動は、自身が腰掛ける机の付近に盗聴器の類が仕掛けられていないかを確認することだった。

 「なんか夜中にこっそり様子見したら、寝言で何度か喋ってたから。もしかして恋人かしら?」

 「違うに決まっている」

 「またまたぁ、あんなに情熱的に名前を読んでおいて照れ隠しが下手すぎ。仏頂面なクセしてやることはやっちゃってるんだから~、にくいわね!」

 「…………」

 まさか睡眠中に近くに来ていたことに気付かなかったとは思わず、意外なところで勘が衰えたことを痛感する。もう戦う必要が無くなったとはいえ、かつては最強のナンバーズとして君臨するはずだった我が身が見る見る内にナマクラになっていくのは、流石に気分のいいものではない。取り敢えず真面目に付き合う義理もないので適当にはぐらかすことにした。

 「何の用だ?」

 「用ってなによ、一応私があなたの手伝いしてるの忘れちゃった?」

 「……そうだったな。だがもうその必要はない。これもまとめて焼却処分にでもするつもりだ」

 「ありゃりゃ!? え、マジでみんな捨てちゃうの! ちゃんと全部読んだ!?」

 「言っただろ。もう、必要ないんだ……」

 積み上げた書物の一切を無造作に床に下ろし、キリエの前に差し出す。言外に処分しろと言っているのだ。既読も未読も含めて不要と断じ、施設のどこかにあるはずの焼却設備で灰にしてしまおうと言うのだ。

 「思い切りがいいのは別にイイけれど、もうちょい後先ってもんを考えたほうがいいんじゃない?」

 「俺の勝手で始めたことだ。俺の勝手で終わらせる」

 「勝手で始めたんなら、せめて最後までやり切るって考えはないのかしらねー。自己満足のケジメってそういうものだと思うけどなー」

 「どうでもいい。俺が何をどうしようと貴様らには何の影響も無いだろうに……」

 「そうなんだけどさぁ」

 どことなく納得していないような口調ながらもその手は任された日記を抱えて室外へ赴こうとする。

 だが、キリエの目が何かを捉えた。

 「あらら、何かしらこれ?」

 回収した日記の中から何かを発見したのか、一枚の紙片らしき物をトレーゼに手渡してきた。一瞬エリカの写真かと思ったが、それよりずっと小さく銀色に輝いていた。かつて地球に存在していたカード類と同じ感触であり、軽くて丈夫な金属を加工して作られたそれは何らかの情報記録媒体にも見えた。

 「どこにあった」

 「最初から床に落ちてた本があったでしょ、その表紙裏に貼っ付けてあったみたい」

 どうやら昨夜トレーゼが読み捨てた最後の一冊を言っているらしい。確認してみると表紙の裏に接着剤か何かで貼り付けた跡があり、そのすぐ近くには丸みを帯びた女性特有の文字が記されていた。その内容は……。



 『from Erika to 13』



 「ッ!」

 その文字はエルトリアでは使われていないはずのミッドチルダ公用語、内容は「エリカから13へ」、本来人名が入るべき場所を数字が埋めるその真意、そしてその数字の意味する所に最も近い位置にいるであろう存在は……今この場に唯一人しかいなかった。

 「何て書いてあるの? ねーってば!」

 耳元でしつこく問い掛けてくるキリエの言葉を完全に無視し、トレーゼの視線はその文字に釘付けになっていた。

 思えば最初にエリカの写真を見た時から引っかかりを感じていた。単にウーノに似ていると言うだけにしては不自然であり、偶然の一致と片付けるには出来すぎているようにも思えた。だが今これに書かれている一文を見て得心がいった。キリエはエリカがウーノの子孫ではないかと言ったが、ある意味でその予測は当たっていたかもしれない。事実はウーノこそが“子孫”だったのだろう。

 エリカの正体は……ナンバーズへのDNA提供者。本人ではなくても親戚筋ということも充分に考えられるが、「13」という数字に込められた意図を察するに恐らくスカリエッティの計画に深い関わりを持っていた可能性が高い。それも秘中の秘だったトレーゼの存在を知っていたとなれば、それこそ計画の初期段階からジェイルに加担していたこともあり得る。

 そして極めつけはこのカード。トレーゼの察したようにこれは情報を記録し保存するメモリーカードだが、このようなコンパクトな記録媒体を作る技術は未だエルトリアには無い。科学技術の発展した次元世界で製造された物に間違いないだろう。となれば、これを再生する専用の機材か何かがこの研究所にあるはずだ。

 しかし……。

 (それを知ったところでどうなる)

 既に諦観が重く伸し掛かる今、トレーゼに真実を確かめる気力も意志も湧いてはこなかった。当時まだ健在だったエリカが何を思ってトレーゼを復活させ、自身の日記を探し当てることを予見し、何故これを残したかは分からない。だが今となってはそんな謎や疑問は心底どうでもよく、それでいて怠惰な無気力に支配されたトレーゼはその処遇について長考した。正直に言えばある種の怖いもの見たさもあってか、即断即決で捨てるという判断が出せなかった。

 どうする? 己はここでどうするべきなのだ? ここは分岐点、この中身を見るか否かでこの先の進むべき道が変わる、そんな予感がする。検証を経て導き出した予測とは違ってあくまで不確かな予感でしかないはずが、無視できない直感が脳裏に点滅する。一方でその直感に素直に従ってどうするのか理性が警鐘を鳴らして止まない。果たしてどちらを選ぶべきかトレーゼの脳は思考に思考を重ねて吟味していた。

 「…………」

 「無視しないでよー!!」

 「うるさい」

 「ご、ゴメンナサイ」

 剣幕に慄いたキリエが少しだけ静かになる。その間に冷静になった頭でもう少し考え直す。

 このカードは将来復活したトレーゼが日記を発見することを予見しての物。だとすれば日記の中には真に知りたかった内容は無い可能性が大いにある。本当に知りたがっていた情報は全てこのカードの中にあるとするなら……。

 「……………………おい、この施設にはまだ下層エリアがあるんだったな?」

 「そうよ? それがどうかしたかしら」

 「案内しろ」

 「りょーかい! 一応聞いとくけど、ちゃんと自分で考えて出した結論かしら?」

 「どうでもいい」

 「あっそ。それじゃ、はりきって行きましょうか!!」

 意気揚々と飛び出したキリエはトレーゼの腕を引っ掴み、半ば引きずる形で彼と共に地下を目指した。しかし……。

 「何でアミタも一緒なのよ……」

 「あなただけでは無駄に時間が掛かると判断した彼から要請を受けたまでです。ちょうど暇でしたから」

 普段生活しているエリアから更に下へ向かうエレベーターの中で、アミタとキリエは互いにそっぽを向いた状態でトレーゼと同乗していた。相も変らぬ反り合いの悪さだが、今は人手がいる。

 「下層はここ最近めっきり使わなくなってましたから、清掃も行き届いていません。どこに何があるかも不明瞭です。手分けして探すのが賢いやり方だと思いますが」

 「あーそーですかー。それは是非とも頑張ってくださいねー」

 「ええ、私がわざわざ手伝ってあげるんですから! あなたも精を出しなさい!」

 「…………」

 「…………」

 何やら低レベルな言い争いの直後にエレベーターが目的の階に停まり、暗闇の通路が三人を迎えた。曰く、古い設備がそのままの状態で残っていて電力も一部は供給されていないらしい。通路は単に点灯すればそれで済んだが、他の区画もそれで良いかは分からない。

 「基本的に使用しなくなった機材は処分してしまうのですが、その記録媒体を再生する機材となれば、どこかに仕舞われているかもしれません。手分けして捜索しましょう!」

 アミタの号令と共に三人は別々の部屋に入り、内部の様子を検めた。トレーゼが開けたところは未使用の空き部屋だったが、アミタとキリエが入ったところはちょっとした惨事だった。上の資料室で見たのと同じ日誌や資料が箱に詰められて足の踏み場も無いほど積み上げられ、蓄積したホコリやゴミが開けた途端に舞い上がって二人を包み込んだ。

 「うぅえーっ!!? なによこれぇー!!」

 「長年掃除されていませんでしたから、こんなものでしょう。これは捜索がてら掃除もしなければいけませんね」

 歩くだけで舞い上がるホコリの煙幕を手で払い除けながら進み、梱包された入れ物を順に暴いていく。中身は予想通りに一昔前に流通していた機材が大半を占め、自家栽培設備がまだ無かった頃の保存食や、一部の嗜好品などもあった。ちなみにその内訳は……。

 「お! ヌフフン、アミタぁ、これ何だと思う~?」

 「ふざけていないでさっさと……ぅひゃうっ、そ、そそ、それは……?!」

 キリエが持ってきたそれは、女性の艶やか且つ官能的な姿を描写した表紙が特徴の、言うなれば成年向け雑誌だった。かつての所有者が処分に困ったのかこれらの箱の中に誤魔化して入れていたらしい。

 「ゥワーオ! オトナの娯楽って刺激的ぃ! ほらほら、アミタも見てみなさいよ! こことか、この女の人ってばスゴいカッコでシちゃってるわよ~!!」

 「せ、生物の欲求として数えられる三大欲求には、人間誰しも逆らえません! べ、別にそ、そういう物が男性の、あるいは一部女性の持ち物としてあったとしてもっ、何ら不自然では……!!」

 「博士もこういうのが趣味だったのかしらね~」

 「はっ、はか、博士の持ち物と決まった訳ではないでしょう!!!」

 「あららー、私は別にこれが博士の所有物なんて一言も言ってないけどー? あ、ちょうどイイところに来たわね! はい、あなたにあげるわ」

 空き部屋から合流してきたトレーゼに成年雑誌を手渡し握らせ、その場で読むように勧める。冷めた目で期待通りにパラパラとページを流し読みした後に一言。

 「知っているか。セックスに快楽を覚えるのはイルカと人間だけらしい」

 そう言って雑誌を背表紙からビリビリと半紙をそうするように軽々と破り捨てた。

 「現状、この場でその条件に適う者は皆無だな」

 「またあなたはそう言う……!」

 「まあまあ。写真が気に入らないのなら、今度一緒に寝袋で寝てあげてもイイのよ?」

 「…………」

 「ちょっ、ま、無視しないでよ! 意外と恥ずかしいんだってば! ちゃんとリアクション返してよ!!」

 「はいはい、無駄なことやらないで続きしますよ。まだ調べてない部屋は山ほどあるんですから」

 「ちょっとー!!!」

 それからしばらくの間、先のような茶番を時折挟みつつ三人は捜索を続けた。ホコリ塗れの通路と部屋を行き来しながら梱包された箱を開放し、中身を確認し、違えばまた別のを開けてその作業を繰り返す。

 それがしばらく続き、話すことが無くなったのかキリエも愚痴以外に喋らなくなった。黙々と作業を進める時間が幾ばくか流れた時、意外にもアミタの方から話題を振ってきた。

 「あれだけ自暴自棄になっていたのに、どういう風の吹き回しですか?」

 「……何がだ」

 「キリエの話だとエリカ様の日記も処分を決めたとか。自分に繋がる全ての情報を断ち切ることを決めた矢先に手の平を返すとは、少し優柔不断なのではと思って」

 「何をどうしようと俺の勝手だ。…………俺からも、聞きたいことがあった」

 「何です?」

 「貴様らは何を規範として行動している。どれだけ人間に、知的生命に近づこうともその精神は仮初のものでしかない。なのに何故貴様らは確固たる自我が存在するように振る舞える。何もおかしいとは考えないのか」

 生体に機械を埋め込んだ戦闘機人とは違い、彼女らギアーズは脳も神経も全てが機械、精巧にできたハリボテに過ぎない。人間と同じように悩み、思い、考えているように見えても、その実は人間のそれとは明らかに異なる。一見して物を考え感情に則った反応を返しているように見えていても、所詮はそう返すようにプログラミングされているに過ぎない。犬猫が仕込まれた通りに芸をするように、彼女らもまた生みの親であるグランツ・フローリアンに「設計」された人形でしかない。どこまで行っても自我などあるはずもないのに、まるでそれが存在するように振舞う彼女らの言動はトレーゼにとって異常極まりない光景でしかなかった。そして同時にそれが最も疑問に思っていた。

 それに対するアミタの答えは……。

 「それってそんなに悩まなくてはならないことなんでしょうか」

 「なんだと?」

 「確かに私たちは人間どころか生物ですらありません。手首を切っても赤い血は出ませんし、脳髄も灰色ではなく銀色をしています。でも、それってきっと他のどんな生物も同じなんじゃないでしょうか。犬には犬の、猫には猫の、虫には虫の意思があります。でも彼ら一匹一匹がそんな風に自分の中に確固たる意思や精神を自覚しながら生きようとしますか? 渡り鳥は誰に言われずとも南へ飛びます。クモは生まれてすぐ親から離れても網の張り方を知っています。生き物って本来そういうものだと思いませんか?」

 「そもそも下等生物に思考という概念はない。脳の容積が総じて矮小な生物にとって思考という行為を行うには情報量が少なすぎる。そんな事は疑問に思うまでもない」

 「ではクジラは? 比較的高等な知能を持つと言われるイルカもどうでしょう。単純な脳の容積で言うのなら火山地帯に生息するドラゴンは随一です。特にドラゴンはその昔は人間の生活にも溶け込むほどの非常に高等な知性を持ち、中には嘘か真か人語を発するモノもいたとか。彼らがそれぞれ自身の生や精神の在り処について苦悩しながら日々を送っている……そんな風に見えますか?」

 「結局、何が言いたい」

 「『考える』というのは元々は高等生物だけが有した特権のようなものだと私は思うんです。その中でも精神だとかペルソナだとか、哲学的、あるいは形而上学的な形の無いモノについていちいち論ずるのは私の知る限りヒトだけです。数ある生命体の中で人類だけが、己はどこから来てどこへ行くのか、己は何を成すために生まれたのか、そんな途方も無いことを夢想するんです。ヒトが他の動物のようにただ生まれ、ただ生き、ただ老いて、ただ死んでいく、そんな簡単なサイクルで生きるものならここまで複雑化した精神を構築することも無かったでしょう。この世に文化と呼ばれるものが現れることも無かったでしょう。行く末を案じるという行いは人間にしか出来ません、他の動物は自分の先行きにも不安など感じません」

 アミタの言はもっともである。元来思考という行為は無駄にカロリーを消費し、効率良いカロリー摂取を可能とする一部の高等動物にのみ許された芸当だった。特に人間は狩猟や農耕などで定期的かつ確実に摂食を行えるようになって生物的欲求に余裕が生まれ、その結果獲得したのが思考という概念。他の生物には成し得なかった行為を獲得した人類は思考することで未来を予測し、自己の行動をより正確なものへと昇華させる手段を得たのだ。そしてそれと同時に予測した未来に対する行動の取捨選択、それを迫られた時に人間は大なり小なり「悩む」のだ。そう、アミタが言うように苦悩という概念は人間だけが持つ感情の発露なのだ。

 「そのように立派に苦悩するだけの脳があるのなら、あなたは充分に『人間』の範疇に入りますよ。何も恥じ入ることじゃありません。それこそ、全身が機械でできている私達に比べればよっぽど……」

 「…………」

 「無駄口を叩いているとまたキリエがサボりますね。さっさと済ませてしまいましょう!」

 作業に戻っていくアミタの背を呆然とした視線で眺め見送りながら、何故こんな質問をしたのか自らの行為に疑問を呈するのだった。まるで胡蝶の夢、己が人間か否か答えの出ない問答を延々と続ける気分だ。自分の中の色んな軸がぶれてきている感覚に違和感を覚えながら、トレーゼも再び捜索作業に戻る。

 そして三人掛かりの搜索の甲斐あって、遂に。

 「これじゃないですか?」

 そう言ってアミタが持ってきた機材、それはかつてミッドチルダで目にしない機会は無かった情報端末機器。裏面に刻印されている型番などもミッドチルダ公用語で記されており、カードを挿入する部分もあった。惜しむらくは電源を確保する方法だがそれはどうとでもなる。目的の物も無事手に入れた三人は上階への帰路についた。

 「はぁ~、疲れた……。やっぱ掃除はしないに越したことはないわね」

 「他の子達にも仕事を割り振った方が良いかもしれません。今後いつ必要に迫られないとも限りませんからね」

 「えっ、それって当番制になるってこと? 私もしなきゃいけないの?」

 「当たり前です!」

 「えぇー……」

 面倒臭がりなキリエは余計な仕事がひとつ増えてしまったことに辟易とした抗議の声を上げるが、アミタは聞く耳持たなかった。

 「あなたにもやってもらいますよ! トレーゼさん。今までは下半身不随でしたから良かったですけど、五体満足ならここで生活する一員として最低限の協力はしてもらいます!」

 「…………」

 「聞いてるんですか!」

 「……ああ」

 アミタの言葉を話半分に聞き流しながらトレーゼは両手で抱えた機器を凝視していた。これを使える状態にまで修復する作業を終えれば、やっとカードの中身を知ることが出来る。そこにどんな秘密が隠されているにせよ、トレーゼにとって有意義であるかは不明だ。ただ数十年先の彼の行動を予見していたエリカの慧眼が何を自分に知らせたかったのか、そこだけが気になった。どうせ時間は腐る程あるのだ。匙を投げるのは全ての事実を確認し終えてからでも問題はないと判断した。

 その時、密かに期待している自分がいることにトレーゼは最後まで気付かなかった。










 資料室に戻って早速修復作業に入る。保存状態が良かったのか内部は特に故障の形跡も無く、電力さえ確保できればいつでも起動できる状態だった。当然だが異世界で作られた物なのでこの世界における規格の枠外の代物だ。電力を供給するコンセントも無ければ内部の蓄電池もとっくの昔に空になっている。だが何も心配は要らない。

 「……ん」

 ここで目覚めてから初めて魔力を集中させる。別に大掛かりなことをするのではない、いつだったか修得した魔力変換資質を用いて己の魔力を電気に変えるだけだ。程なくして指先から紅い電光がチリチリと音を立てて発された。

 「超能力者か何かだったの?」

 「少し違う」

 魔導運用的に特殊な能力として見れば超能力だろう。取り敢えずこれで電力は確保できた。あとは蓄電池の容量が満杯になるまで電力を供給するだけだ。その前にするべきこともある。

 「お前たちは出て行け。これは俺だけで確認する」

 「……分かりました。ほら行きますよ、キリエ」

 「はいはーい。じゃあね。あとで私にも見せてね~」

 案外素直にそう言って二人は退室した。資料室に残ったのはトレーゼだけ、ここ最近の光景。ひっそりとした薄暗く静かな室内で、蓄電池が充電されるまでただ静かに過ごす。何も考えない。唯一の疑問はこれからカードの中身を暴けば自ずと知れること。だから何も考えずに静かに待った。そして、程なくしてその時がやってきた。充電が完了すると同時に独りでに電源が入り、スクリーンに青白い光が満たされる。

 早速カードを挿入する。特にパスワードによる解錠も必要とせずにすんなりロードが開始され、内部のデータを読み取って本体に移していく。数分後にそれも終わり、いざ開帳となった瞬間……。

 「まさかここでパスワードか」

 肝心の一歩手前で要求された突然のパスワード。当然そんなものを知るはずもなく、キーボードに掛かった手が完全に止まってしまった。ここに数字なり文字なりを打ち込まない限り目的の物を目にすることは出来ない。だが鍵となるキーワードをトレーゼが知るはずがなく、真実の追求とやらは思わぬところで暗礁に乗り上げてしまった。

 元々諦め半分で始めたことだったがここで終えるにはあまりにも中途半端、何か策はないかと柄にもなく頭をひねる。指定された枠は七文字分、それが何の言葉を求めているのか分かるはずもない。

 「いや待て、七文字……?」

 ある予感が脳を過ぎり、すぐさまそれを文字に起こして確認する。

 打ち込んだキーワードは、「numbers」……地球の英数字に似た文字で書かれたそれはきっちり七文字の枠に収まり、あとはそれが通るか否か。

 「…………」

 果たして、軽快な電子音と共にトレーゼが打ち込んだ語句は見事に認証をクリアした。半信半疑で打ったキーワードはパスワードを解錠したのだった。

 だがこれで全てが確信に変わった。「13」という数字と「numbers」という単語、これらの意味を知っていたエリカの正体が更に怪しいものとなる。一介の局員がナンバーズの存在を知っていたとして、どうして自分とそれを結び付け、あまつさえ数十年の歳月を要してでも蘇生を試みたその真意……それがようやく白日の下に晒されるのだ。

 読み取ったデータにあったのは映像ファイル、保存された日付はかなり昔のもので、エリカ・フローリアンがまだ健在だった頃のものだとすぐに分かった。

 「…………」

 指先が一瞬先に進むことを戸惑うが、それでも最後は秘密を暴きたい一心が勝って映像ファイルを起動させるに至った。

 その先に待つモノを目にし聞いた時、トレーゼが何を思いどう行動するのかは……もう少し先の話である。



[17818] エリカ、その半生
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2014/04/18 01:38
 エリカ・フローリアンの半生はその大半において嘘偽りに塗り固められたものだった。まずその名前、フルネーム丸ごと偽名という時点で嘘の始まりだ。彼女にもそれとは別の本名があり、その名を付けた両親が存在し、その名で呼んでくれる親友が居て、その名を愛した恋人と睦言を交わした。だがいつの間にか本来の名は捨て去り、彼女は他人から与えられた「エリカ・フローリアン」を名乗って生き始めた。

 生まれも育ちもミッドチルダの近郊で日々を過ごしたエリカは若くして科学の分野で頭角を表す。と言っても世紀の大天才と持て囃されたのではない。精々彼女が卒業した学院において高い成績を残したというだけだ。それでも周囲と比較して頭一つ飛び抜けていたのも事実で、卒業してすぐ彼女に時空管理局より声が掛かる。その才能を世のため人の為に使って欲しい、その為に必要な物は用意できる。そう言われて彼女は管理局への従事を決めた。

 勤め始めて最初の十年は何事もなく平穏無事に送った。地元から離れての生活に初めは戸惑うことも多かったが、次第に慣れていき、実家には年に数回だけ顔を出す程度だった。それも本局勤めになってからはめっきり減り、家族の交流が疎遠になったことに何の疑問も覚えないまま彼女は日々を送り続けた。

 転機は、何の前触れもなく訪れた。

 突然耳に入ったのは故郷の家族に起こった不幸。自分を除いた一家全員が事故にあって明日をも知れない風前の灯火と成り果てた。まるでドラマのような不幸だがこれは現実、家族の医療費がそっくりエリカの双肩に圧し掛かるというオマケ付きだった。一人ならまだしも自分以外の家族全員の費用となればエリカ一人の収入でどうにかなる問題ではなかった。当然、無いものを賄うには借用するしかない。そしてそこから彼女の財政が破綻するのも目に見えていた。

 ここまでなら良くある話だ。両親が不幸にあい、費用を捻出するために借金苦……他人が聞けばお涙頂戴の人生ドラマの一幕に過ぎなかった。事実エリカが負った借金は将来的に見て完済するのは容易なはずだった。その金融会社が裏で暴利を貪る悪徳事務所でなければだが、これもまた彼女だけに限った話ではない。見かねた友人が訴訟を起こすことを勧め、金融会社が抱える取立人からの威嚇を考慮して証人保護を裁判期間中に適用されることになった。

 この時、彼女はそれまでの経歴の一切を消去され、「エリカ・フローリアン」という名前と新しい戸籍を得た彼女は自宅に帰ることなく局内で生活することになる。だが裁判が終わるまでの間有能な彼女をそのままにしておくはずもなく、局は彼女に新たな「職場」を提供した。一見すれば窓際に追いやられたような隅の隅に設けられた部署、そこは自身を含めてたった二人しか職員が居なかった。その同僚、あるいは上司とも言える人間との出会いをエリカは死ぬまで忘れなかった。

 「始めましてミス・フローリアン。私はジェイル・スカリエッティ、この部署を任されたしがない管理人だ。これからしばらくの間よろしく頼むよ」

 顔を見た瞬間に背筋に感じた悪寒とは裏腹に、握手したその手は清潔に保たれ温かみを感じた。

 これが後に稀代の大犯罪者と呼ばれるジェイル・スカリエッティと、幸か不幸か彼の助手として宛がわれたエリカ・フローリアンの最初の接触だった。

 無論、たった二人しかいないのでジェイルの研究内容が様々な法律や倫理に抵触していることはすぐに分かった。だが聡明だった彼女はそれを知ると同時にこの研究を裏で管理局が認めている事実も察知していた。もしその裏に気付かず告発を行おうものなら、全ての研究職員に課せられた契約を無視し不正な情報漏洩を行ったとして逆に制裁を受けただろう。自分がいつの間にか社会の闇に片足を突っ込んでいることに気が付きながらも、故郷の家族と自分の生活を守るためにエリカは粛々と現状を受け入れるのだった。

 意外にもこのマッドサイエンティストの周囲は数ある次元世界で最も安全な場所だった。あらゆる管理世界を統べる時空管理局の暗部は様々な特権強権で覆い隠され、そのトップシークレットとも言えるジェイルの傍はどんな強固な防護壁で囲まれた城より安全が保障されているも同然だった。支払われる給金の高さに反比例して仕事内容はジェイルの助手のみ。それも特に無理難題を押し付けられることも無かった為か、エリカは彼との生活にも次第に順応していった。いつの間にか二人は上司と助手ではなく、対等な友人としての関係を構築していったのだった。

 不思議なことに普通なら三日と常の精神を保っていられないような研究内容に触れてなお、エリカは平然としていた。むしろ誰もが忌避していた事を誰もが予想もしなかった方法で実現しようとする、そんなジェイルの発想に彼女は少しずつ密かに魅せられていった。あるいは彼女にも狂気の資質があったのかも知れない。どちらにせよ人間としての波長が合ったこともあり二人は暇な時間を見つけては研究に対する議論を交わしていた。

 「あなたと一緒にいると飽きません。どうしてそんなに奇抜な発想が湯水のように溢れ出てくるの、ジェイル」

 「奇抜という言葉で一括りにされるのはたまらないな。私はただ疑問に思ったことを追求しているに過ぎない。誰だって一度は皮一枚下に何が詰まっているのか考えたことがあるはずさ。私はそれを実際に解剖して確かめるまで気がすまないというだけの話だよ。そして切開する際に常人はメスを用いるが、私はレーザーカッターで両断してしまうのさ」

 「やりすぎてしまうのね。実にジェイルらしい。こうして同じ職場に就いて早一年、日々が新たな発見に満ち溢れているわ」

 「君もだよミス・フローリアン。私は生まれてこの方ただの一人も友人と呼べる人間を持たなかったが、やはり自分の感性を理解してくれる友に恵まれるのは素晴らしい。持つべきは良き友人と理解者だ」

 二人の関係は一見噛み合っているように見えて実はそうでもない。エリカはあくまでジェイルの研究手腕を評価しているのであり、決してその悍ましい研究成果を肯定しているのではない。ジェイルの方も助手を必要としないほどの天才でありながら彼女を宛てがわれたことを疑問には思っていたが、その理由を本人に直接問うことはなかった。プライバシーとかではなく単純に興味が無かったからだ。仮にエリカの方から事情を聞かされたとしてもジェイルは軽く流すだろう。だが根っこの部分で同じ神経が通っているのか二人の相性は良好どころか抜群だった。その証拠にジェイルは自らの研究に彼女のアイデアの一部を採用したほどである。

 「自分以外の人間を交えて話すことがここまで瑞々しい発想をもたらすとは予想もしなかったよ。君が来て以来この無機質で殺風景な研究室にも華が添えられたというものだよ」

 「あら、そういうことはあまり気にならない方だと思ってた」

 「いやいや、私だって人間だ、寝ても覚めても同じ空間で過ごし何の変化も享受できないのなら、気が滅入るのは至極当然の成り行きだと思わないかね。そんな何の変わり映えの無かった世界に現れた君の存在は、まさに一服の清涼剤だよ!」

 「そんな大げさに」

 と苦笑するものの、内心ではエリカはジェイルに同情の念を寄せていた。以前も似たような話をした際に家族は居ないのかと質問したことがあった。だが返された答えは「知らないな。そんなものは」だった。これを何らかの不幸で家族を亡くしたと勘違いしたエリカは彼に対する同情を深め、自身との境遇を重ね合わせたその心理が彼との友人関係を構築させるに至った。もちろん、ジェイルに両親はいないがその意味する所をエリカが知る由はない。

 ともあれ二人は友人だった。その内実が通常の人間の範疇で語るところでは異様なものだとしても、彼と彼女の間には確かに友情が存在していた。

 そして時は流れ、「彼」が生み出された。後にジェイルを凌ぐ凶悪犯罪者、最悪の単独犯と称され時空管理局の暗黒の十年の中堅に位置する者は、この時はそんな片鱗も未だ無かった。ただ純真無垢な赤ん坊の姿でこの世に生を受け、この時は名も無き彼をエリカは母親代わりとなって世話し続けた。

 「フフ、お腹いっぱいになったらもうおねむ? いいわ、子守唄を歌ってあげる」

 腕に抱いた赤ん坊をまるで我が子のようにあやし、自身が母から聴かされた子守唄を歌って寝かしつける。この子には父もいなければ母もいない、常とは異なる手段で生まれ出たゆえにそんなものとは全くの無縁だ。だが人の形を持って生まれたのなら人間がその手で育てるべきとエリカが教育役を買って出た。もちろん、マッドサイエンティストのジェイルにまともな子育てを期待していなかったのもある。

 「もう寝てしまったのかい。赤子が良く睡眠を摂るものだと知ってはいたが、ここまでのものとはね。そんなに眠ってカロリーの消費を抑えて一体どうしようと言うのだろうね」

 「赤ちゃんなんてそんなものよ。ミルクもそろそろ新しいのを買い足しておかないと」

 「世話などしていない私が言うのもなんだが、あまり外出は控えた方がいい。いつ何時ここの秘密を暴こうとする輩が君に迫らないとも限らない。日用品の買い入れには適当な誰かを使えば済む話じゃないか」

 「分かっているけど、今までにだってそんなことは無かったし、買い物だって局内にあるストアで済ませてるから大丈夫よ」

 「私が言っているのは内部の話だよ。古今東西、財力や権力が集中する場所はスキャンダルに満ちている。それを暴き立てるのは何も外部の人間だけとは限らない。力が集中すれば組織は肥大化し、組織の常として体制は一枚岩ではなくなる。私が言っているのはつまりそういうことだよ」

 「スキャンダルの塊のような人が何を言ってるんだか……」

 「おや、バレていたか」

 「私の動向に関しては局が護衛を兼ねて監視しているはず。わざわざ私自身が気を配るよりよっぽど安全だと思うわ」

 「仕事とは言え君に振り回されるガードマンも気の毒なことだ。今回も私が折れるしかなさそうだ、好きにしたまえ」

 赤ん坊の世話はこのようにエリカが一手に引き受けて行っており、ここ最近の助手の仕事とはつまり育児になっていた。授乳から寝かしつけ、オムツの交換から時には散歩に連れ出すなど、普通の家庭の子供と何ら変わりない生活を送らせた。クローン技術によって生み出されたこの子に戸籍など無く、殺風景な研究所こそがそのゆりかごであり遊び場だった。世間に秘匿されて育てなければならず本来なら決して外に出すべきではないその子供を、エリカはやはり我が子を愛するように接し、半ば独断で暇を見つけては外に連れ出していた。

 もちろんエリカとジェイルの周辺は如何なる状況にも対応できるよう裏で万全の策が敷かれている。さっき例に挙げたように管理局のスキャンダル暴露を目論む何某かが二人に迫ったとしても、彼らに待つのは権力による謀殺である。一つの企業の不正を暴くのでさえ難しい今の時代、ましてや幾多もの世界を統括する超規模組織の暗部となれば探りを入れるだけでも多大な犠牲を払う。そのレベルにまでなると果たしてそこまでして不正を暴こうとする正義漢がいるかどうかも怪しい。

 「それと風の噂なのだが、どうやら私と君の間に子供が出来たと勘違いしている連中がいるらしい。それも上層部に」

 「上の人間はまともに報告書も読まないのかしら。どう考えたら私とあなたが夫婦生活を送るように見えるっていうのよ。そんなの天と地がひっくり返ったって有り得ないことよ」

 「遠回しに私を貶すのはどうなのかね。そういう君も早いところ良い人とやらを見つけて結婚でもしたらどうだい。世に言う女性の幸せとか言うのだろう?」

 「……こんな女を拾ってくれる物好きなんて、そうそう居ないわよ」

 「…………」

 「話が逸れたわね。買い出しに行ってくるわ。費用はまた経費で落としてもらうから」

 「ああ、行っておいで」

 エリカの一瞬の独白を聞こえなかったふりをして流し、その背を見送るジェイル。あの言葉を聞いた時ほんの僅かだがジェイルの中にエリカの過去に対する興味が湧いたのか、次に顔を合わせた時に聞くつもりで早くも彼女の帰りを心待ちにするのだった。










 二人が所属する時空管理局ミッドチルダ地上本部は広大な敷地を有する。どのくらい大きいかと言うと、地上本部が所有する土地だけで一つの国を作れそうなほどだ。土地、住民、そして制度、度を越した規模を持つその場所は既に地上本部というひとつの国家となってミッドチルダに君臨している。組織が発足して数十年、各管理世界の政府組織や団体を吸収しその上位機関として敏腕を振るう内に権力と財力はそこへ集中し、巨大化した組織はそれと同じくらい大きな腐敗の影を落とすことになった。

 トップシークレットであるジェイル・スカリエッティも全体から見ればほんの一部、あるいは末端に過ぎない。年に何回か不正が公表されることもあるが、あんなのはただの世間へのガス抜き、ヘマをやった者に対するトカゲの尻尾切りでしかない。本当の意味で暗部の闇に属する事柄は絶対に外に出回らないし、出してはいけない。もしそれらを無作為にばらまき暴露していけば、行く末に待つのは管理局の体制崩壊だ。悪性を駆除すると言えば聞こえは良いが、仮にも半世紀以上に渡って世界を統一してきた組織から権力が失われれば後に残るのは混乱だけ、空いたトップの座をどこが手に入れるかで無秩序が巻き起こる。それこそ古代ベルカなど目ではないレベルの戦乱が巻き起こる可能性もある。

 組織が腐敗するのはいつの世も宿命だ、それが暴露される度に解体と発足を繰り返していては体制は維持できない。つまり、最初の腐敗が発覚した時点で組織はそれをひた隠しにしなければならなくなる。それが今の世の正義の在り方だった。

 「こんなものでいいかしら」

 パーキングエリアのように駐車場の中にあるストアで買い物を済ませた後、エリカは足早に研究所への帰路についた。あの赤ん坊が眠りから覚めて泣き喚けばきっとジェイルが世話を焼くだろう。だが対人対応がお粗末な彼に理屈が通じない赤子の世話が出来るはずがない。研究所が惨事にならない内に早めに帰ろうとした。

 地上本部の中には社宅はもちろんのこと、さっきのストアのように局員が生活を送る上で不自由しないだけの施設が揃っている。エリカは利用したことはないが、一部では娯楽を揃えたエリアもある。と言っても酒場やジム程度のものだ。カジノなどギャンブルの類は流石になく、高レートのものはそれこそ法律で禁じられている。だが一部では裏でそれらの営業を黙認しつつ売上の何割かを管理局が巻き上げているとの噂も聞く。これも組織が抱える暗部の一つと言えよう。

 交差点の信号待ちで重い荷物を別の手に持ち替えながらエリカは車の流れを呆然と目で追っていた。ここの信号は長い、通行可能な時間も多いがその分だけ引っかかれば待たされてしまう。間が悪く赤信号に掛かってしまったエリカはそこで二分は足止めを喰らうことになった。

 徹夜の疲れからくる生欠伸をひとつした後、しぼむ目元をこすりながら腕時計を確認する。その時ふと、自分の名を呼ばれた。

 「エリカ・フローリアン」

 「え? ……あ、はい」

 新しい名前を与えられて半年も経つが未だに慣れず、少し遅れて返事をする。背後から掛けられた声に反応して振り返ろうとしたが……。

 「振り向くな」

 「っ!!?」

 ぴったりと背中についた男の声に圧されてエリカは動きが止まった。威圧感もそうだが彼女が動くのを止めたのは、服越しに感じた背中の固い感触、その異様な不気味さもあった。声の感覚と相まってそれが凶器であることは容易に分かることができた。

 「そのままこの交差点を左に行け。下手な真似はするな」

 「…………」

 沈黙の肯定だけを返し、内心でエリカは愚痴る。ジェイルとその助手のエリカは情報漏洩を未然に防ぐために常時その身辺を局のエージェントが陰ながら警護している。つまりこのような不審人物との接触を彼らが許すはずがないのだ。

 信号が切り替わり、言われた通りに交差点を左折、その後もずっと背後からの指示に従って知らない道を歩き続けること数分……いつの間にかエリカと不審者は局内の敷地で最も静かな場所へと通されていた。局員の増加を見越して新たな社宅を増築したが、結局皮算用で終わってしまい開発途中で放置されたゴーストタウンとなった場所だ。形だけなら普通のマンションやアパートだが、内装は手付かずで実際は廃屋のようなものだ。

 その一画に建ち並ぶ一棟に案内されたエリカは大人しくその室内へと足を踏み入れた。家具も無ければフローリングすら無い空間には椅子がひとつ置かれてあり、そこに腰掛ける瞬間に始めて自分を脅迫していた男の顔を見た。そして背もたれに腕を回して手錠をはめられる。

 「こんなことしてガードマンたちが黙ってないわよ」

 「それはお生憎だな。要らない心配までしてくれてありがとよ」

 「要らない心配? どういう意味かしら」

 「お前を助けにガードマンが来る確率はゼロだ。なぜなら……俺がそのガードマンって奴だったんだからな」

 秘密を暴きたいのは外の人間ばかりとは限らない……その意味を身をもって知ることになった。内通者とは常に発生すれば最も致命的な部分から出てくる。そして裏切った威力が最も大きいからこそ内通者として認定されるのだ。

 この元ガードマンはまだ内通はしていない。彼はまだその手に何の確かな情報も握ってはいないのだ。だからこうして関係者と睨んだエリカに強引に接触し、その情報を吐かせようとしている。

 「選出される人材は適正審査をパスしてるはず。何が目的でこんなことを?」

 気分は交渉人。相手の目的を知ってから行動すればこちらの有利になるように誘導することが出来るかもしれないと考えた。もしこの男が変な正義感に突き動かされてこんな行動を取っているのであれば、まだ交渉の余地はある。少なくとも彼に協力するふりをして解放してもらい、その後密告し返すという算段もとれる。だが、もしそうでなかった場合は……

 「決まってる。金だよ、金! 管理局上層部にこの不正の証拠を突きつけてやるんだよ!!」

 この瞬間、エリカの望みは断たれた。我欲に忠実な味方は扱いやすい、常にその眼前に餌をぶら下げるだけでいいのだ。だが「我欲に忠実な敵」はそうは行かない。相手が得た条件より有利なものをこちらが用意しない限り絶対になびかない。そしてエリカはそれを用意する術を持たない。状況は彼女自身が思っていたよりずっと深刻で絶体絶命の危機に瀕していた。

 「天下の時空管理局から口止め料せしめようってわけ。よくまあそんな大それたことを考えつくわね。知らないわよ、どうなったって」

 「こっちはそんな口車に乗ってやるほど余裕は無いんだよ。いいから吐け、お前とその上司がやってる不正をよ」

 「その言い方だとやっぱり肝心の不正事実は掴めてないのね。悪いけど私も知らないの。私はただのお手伝い、ヘルパーなんだもの」

 「そんなはずはない! なにも裏事情を全部話せって言ってるんじゃない、お前が関わったことだけでもいいから話せ。それだけでも充分な証拠になる!」

 そう言って手のひらサイズの録音機器を膝の上に乗せてきた。

 「古典的ね。今時音声データだけで物的証拠にはならないわ。それにそんな物を執務官に渡しても握り潰されるのがオチよ」

 「その心配はいらない。俺がこれを突きつけるのは執務官なんて木端役人どもじゃない。もっと上の奴さ」

 「上? 司法省にでも持っていくつもり?」

 「いやいやいやぁ、だから言ってるだろ、上だって。もっと具体的に言ってやろうか? 『中将』に送りつけるのさ」

 「中将……って、あなたまさか!?」

 このミッドチルダにおいて「中将」で通る人物など一人しか存在しない。この地上本部の事実上のヌシ、海の三提督と対比される陸の中将……レジアス・ゲイズ。地上本部の闇は中将に通ずとまで言われた存在。その強権的な政治指針は本局との間に亀裂を生み出すと同時に、ミッドチルダの保守層からは絶大な支持を受けている一癖どころか百や二百は下らない、まさに現代に復活した王政復古、地上の支配者だ。

 その壮大な計画を聞かされた瞬間、エリカの中に去来したのは哀れみだった。正確に言うなれば、友人が道端の犬の糞を踏んづけるのを偶然見てしまった、そんな感じ。もはや呆れて溜め息しか出てこない。

 「……付き合いきれない。こんなことならジェイルのホラ話を聞いていた方がずっと有意義よ」

 「そう! それだよ、そのジェイルってやつのこと!! それを聞かせろって言ってんだよ!」

 これは駄目だ、救われない。どういうルートで知り得たかは分からないが、ジェイル・スカリエッティの存在を突き止めた辺りで手を引いておけば、彼のネタが週刊ゴシップ誌に乗る程度で済んだだろう。だがこうして実力行使に出た時点で何もかも手遅れだ。この哀れな元ガードマンの命運は既に決まっている。

 「本当に悪いことは言わないから、ここで手を引きなさい。知り合いに週刊誌の編集長してる人がいるの。そのツテであなたのこと紹介してあげるから、それで手を打ちなさい」

 「ふざけるな! 三流雑誌の端金で満足できるかっ! 俺は欲しいんだよ、文字通り『目も眩む』ってレベルの大金がな!! そうなったらもう、この管理局から直接搾り取るしかねえだろうが!」

 「……………………」

 「おい、いい加減吐けって言ってんだろ!!!」

 業を煮やした男がエリカの胸ぐらを掴み椅子ごと彼女を締め上げる。

 これが、決定打となった。

 ひゅ、と小さく風を切る音が耳元をかすめたのを感じた次の瞬間、エリカを掴み上げていた男の体がぐらりと傾き、背中から地面に倒れた。こちらを脅していた表情はそのままに、眉間の部分に小さな穴を開けて彼は絶命していた。

 「遅れて申し訳ありません。エリカ・フローリアン様」

 デバイスを構えた隊員が数名部屋に突入し、エリカの手錠を破壊した。恐らくこの男に代わって新しく就いたガードマンだろう。

 「遅いも何も、相手がこっちに手を出すまで見てたんじゃないかしら。現行犯逮捕……いえ、現行犯殺害ってところかしら」

 「……こちらも規則ですので」

 「規則ね。でも対応が後手なのは否めないと思うけれど」

 「それにつきましては、フローリアン様に是非とも釈明したいとのメッセージが」

 そう言って隊員が映像回線を開き、その人物との会談の場を設ける。映像に映された人物は……。

 『やあやあ、遅くなってすまなかったね!』

 「ジェイル!? あなたどうして……」

 画面に映されたのは奇妙な同居人にして自分の上司、ジェイル・スカリエッティだった。まるでデートの待ち合わせに遅れたような気軽さでこちらに手を振っており、その顔は嫌味ったらしいまでに笑顔だった。

 『いや~、虫の知らせというのだろうね。君が外出した頃からどうにも不安が拭えなくてね。それで上に頼んで新しい人員を早速補充してもらったんだよ。そしたらまさかこんなことになっているとはね~』

 「わざわざそんな事を言うために私に連絡してるのかしら」

 『いやいや、実はだね、例のベビーが途中で起きてしまってそれはもう凄まじい癇癪を起こしているんだ。早いところ君が帰ってきてくれないと、私のストレス数値が頭皮あたりに深刻な影響を及ぼしそうだよ。開発が進む密林の木々のようになりそうだよ』

 「はいはい」

 『ああ、ついでにそこの死体も一緒に持ってきてくれるとなお良しだ。証拠隠滅にもなるし、何より最近はめっきりヒトを使って実験することが少なくなったからね』

 「分かったわ。もういいかしら、じゃあね」

 映像回線を切断して荷物を持ち、駆けつけた隊員に依頼する。

 「悪いけどさっきの話のとおりだから。この死体を私達のラボまでよろしくお願いね」

 「……随分と、平気な顔をしてるんですね」

 「脅迫なんて慣れっこよ。こう見えて取立てに追われてた時期も……」

 「そうではなくて、目の前で人が死んだことに何のショックもないんですか?」

 「…………そうね。一年前なら今頃部屋の隅で吐瀉物を撒き散らしていたでしょうね。でも、それももう慣れたわ。たかだか眉間に穴が開いた程度、もっとすごいのを毎日見てるんだから当然でしょ」

 ポケットから手鏡を取り出して血痕が付着していないかを確認し、自分の頬についていた赤いそれを拭う。死体という非日常の物体がすぐ足元に転がっているにも関わらず、エリカの態度は変わらず澄ましたものだった。彼女にとって問題だったのは、この死体を持ち帰る手段と、研究所でそれの加工に付き合わされる苦労を考えるほうがよっぽど憂鬱だった。

 「ガードマンだからってあまり気を遣わなくていいのよ。あまり個人的なことに立ち入ってもクライアントに注意されるだけよ」

 「別にそういうつもりでは……。ただ、私もそれなりに長いことこの仕事をしていますから、ひとつだけ言わせてもらいます。あなた、その内戻れなくなりますよ……深みにはまればお終いです」

 深み……管理局が抱える暗部、その最奥たる闇。今の自分がそこに片足を突っ込んでいる状態にあることは重々承知している。きっとこの隊員は親切心で言っているのだろう。今までにも訳ありの人物の警護を任されその末路を見送ってきた彼らの目に、今のエリカはそれまでの人々と同じように見えていたのだ。

 「……忠告ありがとう」

 だが同時に自分が徐々に引き返せなくなっている事も自覚していたエリカは、隊員の言葉に対し冷めた返事を返すだけだった。










 社会の闇は言うなれば泥沼。例え水より軽い枯れ葉であっても長く浸かっていればいずれ水底に沈むように、自分では浮かび上がっているつもりでも、実際には沈んでいるというのは良くある話だ。そして性質の悪いことに、水と違って社会の闇は低いところでは発生しない。常に最も高い場所、力が集中する部分に自然的に発生してしまう。その闇が社会や組織のピラミッド全てを黒く染めた瞬間こそが体制崩壊の兆しということになる。

 エリカもまさにその泥沼の深みに徐々に身を沈めつつあった。だが今更何をどうすることも出来ない。裁判で闇金融の一件も片付き返済の目処も立った。しかし未だに家族が完治する気配は無い。彼らに払い続けるには元の職場より高給なジェイルの下で働き続けるしかない。でなければいずれまた別の借金をこさえて転落するだけだ。だがここに身を置く時間が長くなるほどエリカは闇に染まっていく。知らなくても良い情報が嫌でも入ってくれば暗部は彼女を放置しない。手元に残しておくか、さもなくば口封じのどちらかだ。

 「……どうしてこうなったのかしら」

 寝室のベッドで仰向けになりながら自分の数奇な人生を振り返る。と言ってもたかが一年の出来事だ。初めは管理局の闇とは何の関係もない私事から始まり、坂道をボールが転げ落ちるように真っ逆さまに、そして気付けばこの有様だ。

 ふと思い出すのは故郷の両親の顔。借金の取立てに追われていた時でも必ず面会に行っていたのに、今ではもうすっかり会っていない。たかが一年しか経っていないのにもう何年も顔を見ていない気がする。ましてや故郷に帰る余裕などどこにも有りはしない。それまで自分が立っていた日の当たる場所から日陰へと転落していく人生を、エリカは静かに受け入れようとしていた。

 「随分とお疲れのようじゃないか。ベビーの世話にもそろそろ限界が訪れたかな」

 「ジェイル……ノックぐらいしてよ」

 「何度もしたんだが応答が無くてね。勝手に上がらせてもらったよ」

 「それで……何の用かしら。レディの部屋に押し入ってくるんだから、それなりの理由があるのよね」

 「用ってほどでもないんだが、もし良ければ今後の研究課題について君の意見も取り入れようと思ってね。何か良いアイデアは無いかね」

 「悪いけれど今疲れててそんな気分じゃないの。また明日にしてちょうだい」

 「つれないな。帰って来てから様子がおかしいと思うが、気分が悪いのなら薬ぐらい出そう」

 「……何でもないってば」

 「うーむ、しかし……」

 「何でもないって言ってるじゃない!!」

 つい怒鳴ってしまってから心中で、しまった、と考えた。だが暴言を吐かれた相手は自分がこうすることを知っていたようにニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。

 「特にお疲れという訳でもないらしい。私で良ければ愚痴くらいは聞いてもいい」

 「やけに優しいのね。正直、似合ってないわよ」

 「フフ、自覚はあるさ。我ながら、らしくない事をしているという自負はね。ただ、気になったんだ。君も知っているだろう? 私は気になった事柄はとことん追求しなければ済まない性質なんだ。野良犬に手を噛まれたと思って諦めてくれ」

 「自分で言う?」

 だが寸劇のおかげで気が和らいだのか、エリカは知らない内に口元に笑みを浮かべていた。

 「別に、ちょっと気が滅入っていただけよ。ホームシックっていうのかしらね……」

 「君の実家か。そう言えば聞いたことが無かったな」

 「そんなに離れてないわ。せいぜい車で二時間ってところよ。リニアを乗り継げばもっと早く行ける」

 「里帰りしたければ有休を取るといい。君はむしろ働きすぎだから消化しないと人事課もうるさいだろうしね」

 「生憎だけど今の私に有給休暇なんて制度は適用されてないわ。あなたと同じよ」

 「訳あり、ということかな?」

 「それは……」

 「いや、言いたくなければ結構。私と君は今日まで互いに一線を引いて過ごしてきた。その境界を不本意のままに壊すのは私も好まない。君が口にするのを忌み嫌うなら、私がそれを無理に切開する必要もないだろう」

 「……言うわ。いいえ、聞いてほしいの……」

 「うん。わかったよ」

 思えばこうして誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。その結果何がどうなる訳でもないが、そうすることで心持ちが変わることもあるのだと知った。それからおよそ十数分に渡って身の上話をする間、ジェイルはずっと聞き手に回っていてくれた。いつもの饒舌さが嘘のようになりを潜め時折相槌を挟むだけだった。だがそれだけでエリカは自分の心が安らぐのを覚えることが出来たのだった。

 やがて全てを話し終えた後、長い溜め息が漏れ出た。

 「人間、金銭のことでそれほどの苦労を強いられるものなのか。私は生活費含め全ての費用は上で賄ってもらっているから、そこらへんのありがたみと言うのは実感したことがない」

 「一応それって全部税金なのよ。もうちょっと考えて使ってほしいわ」

 「これは失敬。それで……君はどうしたいのかな、ミス・フローリアン?」

 「…………質問に質問で返すのだけど、いいかしら?」

 「どうぞ」

 「多分こういうパターンで管理局の暗部に触れた人間は私だけではないはず。多くの場合においてその不幸な人々は、どのような末路を辿るものなのかしら」

 「うーん、私の耳には全くと言ってしまっても良いほどその手の情報は入って来ないからねえ。一概にどうなるとは言えないが……」

 空を仰いでしばし考え込む仕草の後……。

 「まあ、口封じが相場だろうね」

 「随分しれっと言ってくれたものね」

 「もしくは上に利用価値を示して取り入るかだな。チューブの中身が尽きなければ捨てられることはない、優秀な駒なら手元に置きたいだろうしね」

 「でもここにいれば知らなくてもいい事まで知ってしまう。そうなったら、あなたと比べて何の能力も無い私はすぐに処理されるだけよ」

 「可能性としてはその方が十分に高いだろうね。上も秘密を知る者の数を抑えたいだろうから何の取り柄もない人間を囲うことはしないはずだ」

 卵を産まなくなったニワトリも、乳を出さなくなった牛も行き着く先は皆同じだ。それと同じように利用価値が尽きた人間は淘汰され排除される。それが比喩的な表現か直接的なものになるかが運命の分かれ道だ。

 「だがしかし、生き残る手段が全くないわけでもない。君の利用価値をさらに有能な人物が喧伝することで上に認めさせるという方法もある」

 「その『有能な人物』っていうのは誰のことかしら」

 「無論、私だよ」

 「あなたのそういう自信満々な言動、好きよ」

 「私も君の歯に衣着せない態度は非常に好みだ。そしてそんな君に私から提案がある」

 次の瞬間、両肩に衝撃を感じたエリカの視界は天井を向いていた。そこにジェイルの顔が見えた時、彼女は自分が押し倒されたのだと気付いた。

 「……何のつもり?」

 「君には二つの道がある。ひとつはここで見聞きした事実を全て忘却し、新たに一から可能性を模索すること。確率的には望み薄だが一応私としてはこちらを推奨するよ」

 「でも私は……っ!」

 「そう、君はご家族を養う為に少なからず金銭が必要だ。労働という手段でそれを得ようとすれば、今まで通り管理局の暗部で仕事をしていた方が効率がいい。だがそれでは自分の身が危ういから、何とかして安全を確保したい。そうだね?」

 「……ええ、そうよ」

 「では二つ目の道だ。先ほど私が言ったように、上に君の利用価値、君が暗部に関わることで何かしらの利益をもたらすという事を示すこと。だが何の力も持たない君はそもそも上に取り合ってもらえない可能性が高い。だから私が口添えしてあげよう。だがその為に……払ってもらう対価がある」

 その対価が何であるかを問うまでもなく、ジェイルの男性にしては細い指がエリカの服の内側へ侵入する。這いずる感触に生理的嫌悪感を催したエリカは何の躊躇もなく、ニヤついた笑みを浮かべるジェイルの顔目掛けて一発お見舞いした。

 乾いた音が鳴り響き、叩かれた頬が紅に染まる。だが薄気味悪い笑みはそのままで、まるで悪びれる様子も見せずにジェイルはエリカから距離をおいた。

 「いずれ日を改めてまた議論しよう。その時までに色よい返事を待っているよ」

 頬をさすりもせず部屋を出るその背を憎悪を宿した視線で見送りながら、エリカは孤独に涙した。いっそ狂ったように泣き叫びたかった。だが彼女の理性はそれを許さず、結局シーツに顔を押し付けて嗚咽を漏らすことでしか感情の逃げ場を作ることが出来なかった。

 悔しかった。

 惨めだった。

 何もできない、たったひとつ活路を拓くことさえままならない己の非力が憎かった。もうこのまま何もかも諦めてしまい、この身一つでさえ投げ打ってしまいたかった。そうすれば楽になれるのにと思った。

 どれだけの間言葉にできない悲嘆を漏らしただろうか。もう疲れ果ててしまってベッドで横になろうとしたその時、エリカは自分の懐に違和感を覚えた。手を入れて確認すると、出てきたのは小さな紙切れだった。これがただも走り書き程度なら彼女も気にはしなかっただろう、すぐそこにあるゴミ箱に投げ入れたはずだ。

 しかし、その紙片はただの紙切れではなかったのだ。

 「嘘、これって……小切手じゃない!!?」

 偽造防止の技術が大量に投入されたその紙は、特定の口座から一度に大量の金額を引き出す証券。なぜそんな物が自分のポケットに入っているのかエリカは疑問どころの話ではなかった。しかもそこに書かれた金額はおよそ日常では目にする機会など無いほどの天文学的な数字が記入されており、視界に受けた衝撃はエリカの目から涙を消し飛ばした。

 少し深呼吸してよくよく観察すると書かれた文字の部分に見覚えがある。

 「この字ってまさか……!」

 一年も寝食を共にしたのだ、その筆跡を見紛うはずがなかった。

 「ジェイルッ!! これはどういうこと!!」

 「あぁあー!! 何ということだー! 私としたことがぁー!!」

 問い詰めようと彼の部屋に飛び込んだエリカが見たのは、いやに芝居掛かった口調で狼狽するジェイルの姿だった。一目でそれが演技だと見抜けた。

 「上から支給された費用を引き出すための小切手が、あんなに厳重に管理してあったはずの小切手が紛失してしまったー!! あーどうしようかー! 捻出してくれたスポンサーに何と弁明したらよいものかー!!」

 「いや、それならここに……!」

 「おおっ!? ちょうどよかったミス・フローリアン!! 実は私としたことが研究資金を引き出すのに使っていた小切手を紛失してしまったのだよ!! あー困ったなー!!」

 「だから……それなら……」

 「もし!」

 ずいっと差し伸ばされた人差し指がエリカの発言をそこで阻止した。そして視線は天井に向けたままで彼女が握る小切手を視界に入れてもいなかった。

 「もし、君が見つけてくれたなら私に渡してほしい。見つからなかった時は諦めよう。どこかの誰かが拾って引き出してしまうだろうが、元々不正な横流し金をロンダリングしたものだ、足もつきにくい」

 「…………上には報告しないのかしら?」

 「正直お叱りが面倒だから黙っておく。オフレコというものだな。額が額なだけに失態がバレたらスポンサーからの信用問題にもなってしまう。そうなると私の立場も危うい。なにせ……一世帯が十年は余裕で暮らしていけるほどの金額だからな」

 「っ……!!」

 「というわけだ! もし運良く発見できた際にはよろしく頼むよ! 君のことだ、間違っても着服などしないと信用しているからね!」

 「ジェイル、私は……っ」

 「話は以上だ! さあ明日も早いから私は休ませてもらうよ!! おやすみ、良い夢を!!」

 それを最後にエリカは強引に部屋から締め出された。その右手に彼女は自分の未来を切り拓く切符を手渡されたのだ。それと同時にこんな不器用な方法でも自分を救ってくれたたった一人の友人に、エリカは言葉にならない感謝を心の中で何度も述べるのだった。

 すぐに荷物をまとめに掛かった。長居は無用、一刻も早くここを出て姿をくらますのが得策だ。名を変え経歴を変えても家族への援助は出来る。後は全く無関係の他人を装って生き続けるのだ。誰にも会わず、誰とも言葉を交わさず、一人孤独に生きる……その覚悟は今固まった。

 だが荷物をまとめ終えた彼女の耳にけたたましい叫び声が届く。甲高いそれは大人では決して出すことの出来ない叫び、まるでこの世の全てに絶望したような赤ん坊の泣き声。その出処を察知したエリカはすぐにそれを止めようとした。

 「よしよし。どうしたのかしら。お腹が減ったの? ママはここよ」

 名前も付いていない赤ん坊を胸に抱いてあやす。寝付きが悪く不機嫌になっているのか、しばらくの間そうして子守唄を聴かせることでようやく静かになってくれた。元のベッドに丁寧に収め部屋を出ようとし……ふと足が止まる。

 (私がいなくなったらこの子は……)

 小さなベッドの上で布に包まったまま安らかに眠る姿……この一年間ずっとその成長を見守ってきたが、日に日にこの子供に対する庇護欲は増すばかり、既にエリカの中には立派な母性が芽吹いていた。彼女もただジェイルと気が合っただけで一年も行動を共にはしなかっただろう。期せずして生まれた生命があったからこそ彼女の心は支えられていたのかもしれない。

 しかし、それも今日までだ。母親ごっこは今日限りで終わりにしなければならない。

 「…………さよなら、元気で」

 起こさないように、その頬にキスをして彼女は部屋を、研究所を、管理局を後にした。

 もう振り返らない。










 それからエリカは様々な場所を放浪した。例の小切手で得た大金を切り崩し小分けしながら実家に送りつつ、自身は見知らぬ土地を転々としながら細々と生計を立てて暮らしていた。管理局からの追っ手は無かった。素性を隠すためにエリカは証人保護で与えられた偽名と経歴をそのまま使っていた。もし怪しまれて過去を調べられても、元々「エリカ・フローリアン」なる人物が架空の人間なので足はつかなかった。

 風の噂で両親が亡くなったことを聞き、それを確かめた時に彼女の孤独な戦いは終わりを告げた。行われた葬儀に参列することは叶わなかったが故郷の墓前に花を添え、余った大金の全ては慈善団体に匿名で寄付することで消化した。エリカの宿命はようやく終わりを迎えることが出来たのだった。

 新暦75年、後にJ・S事件と呼ばれる混乱がクラナガンで巻き起こった時、彼女もその事件の様子をディスプレイを通じて見聞きしていた。だが報道機関が下手人のジェイルを悪魔のように揶揄するのに対し、エリカは全く逆の印象を抱いていた。管理局に宣戦布告した時の映像に見えた彼の姿はまるで新しいオモチャを見つけてはしゃぎ回る子供のようで、何年経っても変わらない友人の姿に安心すら覚えていた。後に彼が逮捕され投獄されたのを知った時も苦笑を浮かべるだけだった。「彼ならそこまでするだろう」と……。

 やがて事件が終息して、彼に味方していた十二人の実行犯たちも同じく処分を受けたと聞いた。公表されたプロフィールを見た瞬間にエリカは十二人の姉妹が「あの子」の血を引く者達だとすぐに理解した。そして同時に自分の子とも言えた「あの子」のことが気になり、事件の中にその存在が無いかをつぶさに調べた。だが事件の関係者はジェイル・スカリエッティとナンバーズの13人だけ……「あの子」の姿はどこにも無かった。

 「あの子」はどうなったのか、それを知る術はこの時エリカには無かった。

 それから三年後、再びミッドチルダは突如として勃発した空前絶後の大事件に陥る。長い眠りから目覚めたたった一人の戦闘機人、その存在が明るみになったのは新暦78年の11月22日のことだった。

 『ミッドチルダの諸兄、御機嫌よう』

 その物々しい挨拶と共に全世界に向けて発信された映像を目の当たりにした瞬間、エリカは愕然となった。間違いない、「あの子」だと確信した。何よりジェイルを若くしたようなその姿は実情を知るエリカが見れば一目で彼のクローンだと分かった。

 すぐに彼の情報を集めた。その時には既に管理局の情報統制も解除されていた為に収集は簡単だった。そして彼が行なった所業の数々を知ったとき、エリカは二度目の驚愕を覚える。無作為な破壊と虐殺の繰り返し……ジェイルの後継者でありながら親の彼と違って遊びはどこにも無く、その行動の結果が何に繋がるのか推し量ることさえ不可能な徹底した冷たい暴走……それが今のトレーゼの姿だった。同じ社会を混乱に陥れた狂気でもジェイルとトレーゼでは天と地の開きがあった。少なくともエリカには理解に苦しむ行動ばかりだ。微笑ましくもあったジェイルのそれとは違い、彼のは単なる暴走、何の意味も生産性も見受けられない狂人のそれだった。

 やがて、あの日の夜最後に見た安らかな寝顔と、今のこの惨状を引き起こしている者が重なった時、ただ健やかに成長して欲しいと願ったエリカの親心は微塵に砕かれていた。どうしてこうなってしまったのか、そんな自問自答を日が暮れるまでしたが当然答えが出るはずがなかった。自分が離れた十数年の間にあの研究室で何が起きたのかせめてそれだけでも知りたかったが、局を離れて久しいエリカに組織の内情を知るネットワークは無く、一人悶々としたままクラナガンの惨状を伝えるニュース番組を眺めるだけだった。

 そして、11月23日深夜、彼女の元に一本の映像電話が入った。

 「誰かしら?」

 電話なんて自分から掛けたことはあっても相手からと言うのは最近なかった。知人との縁を全て断ち切った彼女にコンタクトを取ってくる物好きなどもうどこにも居ないはずだった。

 「はい、フローリアンです」

 『逃亡生活を送りたいなら偽名は指の数と同じだけ持つことだ。多すぎてもいけないし少なすぎてもいけない、そしてその偽名全てに一定の信用を発生させられればなお良しだ』

 「あなた……!?」

 『お久しぶりだね、ミス・フローリアン。相変わらず息災のようで安心したよ』

 ホログラムに映されるのは長い間連絡を取り合っていなかった親友の姿、十数年の間に年齢を重ねたせいか肌は僅かに小じわが目立ち、心なしか髪の色も昔と比べて艶が落ちているように見えた。だがそれはきっと向こうから見ても同じことを思っただろう。それだけの年月が二人の間に流れていた事実をエリカはここで初めて自覚したのだった。

 「色々聞きたいことはあるけど、あなたって投獄されたんじゃなかったかしら? と言うか、どうやって私の居場所を?」

 『まず先に二つ目の方から答えるが、そもそも君は次元世界随一の頭脳を誇る私に分からないことがあると本気で思っているのかな。私と違って君は偽名もろくに使い分けなかったから、その気になれば足跡を追うのは簡単だったよ』

 「あなたならそうでしょうね」

 『そして重要な最初の質問だが、結論から言うと私は今地上本部にいる。脱獄ではないよ。非公式ながらアドバイザーとして招かれたのさ。何故そうなったのかはニュースを見ていたなら分かるね?』

 「……やっぱりトレーゼは『あの子』なのね」

 『ああ。最初のナンバーズにして、その十三番目……私の最高傑作だよ。と言っても、そのお株はよそ者に奪われてしまっているのだが』

 「あなたほどの天才が誰かに出し抜かれたってこと?」

 『まあ早い話がそうなるな。厳密に言えば今ミッドチルダを騒がせている彼と、君が一年間世話を焼いたあの赤ん坊は別人だ。そこら辺も詳しく説明するから聞いて欲しい』

 そこで聞かされた数々の事実はエリカを絶望の底に突き落とすものばかりだった。己に植え付けられた過去の記憶のみを頼りに凶行の限りを尽くす……その姿は生みの親であるジェイルから見れば滑稽なものだっただろう、だが母とも言えるエリカからしてみれば悲劇以外の何物でもなかった。どうにかして解決策を用意して被害の拡大を未然に防がねば悲劇に終わりは無い。しかしその為に何ができるのか、どうすれば止められるのか、具体的な方法は何一つ浮かび上がらなかった。

 「どうすれば……どうすればいいのよ!!」

 『そこまで悩む必要など無いさ。行き詰まった状況とは行き着く先まで行かなければ止まらない。この混乱も今夜限りでお開きになるさ』

 「あの子はあなたを連れ戻すつもりでいる! それが成功しようと失敗しようと、管理局がそれを許すはずがない! そうなればこの戦いはずっと無意味に続くだけよ……!」

 『それは無いな。彼の終着点はここだ、私が保証しよう』

 「口から出任せばかり言って……」

 『私は恐らく今宵死ぬだろう』

 「な、にを、言って……!?」

 『考えても見たまえ。私を奪還してナンバーズを再編成するだけならここまで回りくどいことなどしなくて済んだはず。私を捕らえる軌道拘置所に直接殴り込めばいい話なのだからな。それをわざわざ私を地上本部という陸の砦に幽閉されるまで待ったのは、そうする必要があったと推測するのが正しいだろう』

 そう、やり方はいくらでもあった。それを迂遠なやり方を優先させミッドチルダを中心にして事件を引き起こしたのは、生みの親たるジェイル・スカリエッティをミッドチルダに誘き寄せる必要があったからだ。ではなぜそうする必要があったのか?

 『彼は欲しているのさ、私の“名”を。称号と言っても差し支えないだろう、それを得る為に彼は私を殺したがっている』

 「なぜ!?」

 『一連の事件をプロファイリングして分かったが、彼は途轍もない完璧主義者だ。私のように遊び心を加える気が微塵も無い。最良の手段、最短の時間、最大の効率だけを追い求めている。そして彼は自らの完璧主義を同胞にも強制し、遵守されなければ一方的に断罪するエゴイストでもある。そんな彼が自らの我欲すら突き通せず体制に敗北した私を許すと思うかい?』

 完全な存在として生み出されたロボットが不完全の象徴たる人間に反逆する……そんな大昔のSF小説のように、トレーゼは完全なる自らを生み出した者が不完全である事実に憤慨し粛清しようと言うのだ。敗北したジェイルに代わり自らが新たな「スカリエッティ」となり完璧なナンバーズを組織する……それだけ、たったそれだけがトレーゼの真の目的であり何物にも代え難い崇高な使命。だから邪魔する者は破壊し殺す、それに何の躊躇いも覚えない。そんな狂人を止める方法など限られてくる……。

 『結局どちらかが折れるしかないのだよ。それなら老い先短い私が道を譲るのは当然の責務だ』

 「老い先云々って年齢でもないでしょうに。それで? ただ別れを告げに、なんて殊勝な考えで連絡を取った訳ではないでしょ? 早く本題を言って」

 『頼みがある。このジェイル・スカリエッティ、一世一代、最初で最後の頼み事だ。心して聞いて欲しい』

 それは初めて聞くジェイルの真剣な声。あの一年ではただの一度も聞けなかった声色にエリカはぎょっとした。あまりにも彼らしくない言動に慄くその様子に本人は満悦な様子で微笑み……。

 『私亡き後は彼をよろしく頼んだよ』

 「……私に何をしろと言うの?」

 『彼を待っていてほしい。この騒動が終端を迎え全てが丸く収まれば、司法が彼を裁く。私の予想が正しければ彼にも二つの道が用意されるだろう。即ち社会のはみ出し者として一生を無為に費やすか、私の娘たちのようにやり直す機会を与えられるか。前者なら仕方ないが、もし後者を選んだならどれだけの時間が掛かるか分からないが必ず社会に復帰する日が来るだろう。その時に彼に必要なのは創造主でもなく、同胞でもない、親愛の情を持って接し導く存在である“親”だ。私はその定義から外れてしまっている。残っているのはもう君しかいない』

 「あなたはそれでいいの!?」

 『正直に言うと私は彼自身にさして興味は無いのだよ。彼は私を排除する為に今を生きている……そんな分かりきったルーチン、私の脳髄を潤すには程遠い筋書きだ。私が興味を持つのはその先、彼が全てのしがらみから解放された時に何を成すのか、どんな道を歩むのか、ただそれだけだ。そこに偽物だの本物だのといちいち論ずる余地は無い。そんなことを言っても詮無いことだと思わないかね。私にとって彼は彼だ、“トレーゼ”という一個人以外の何物でもない』

 それはつまり、これから我が身に起こることに悔いは無いという宣言。そして己が居なくなった後の始末を唯一人の友人である自分に託そうとしていることをエリカは知った。

 出来ることなら彼自身が決着をつけたかった事をエリカは見抜く。良くも悪くもプライドの高いジェイルが自分の尻拭いを他人に頼むなど考えられないことだった……損も得も全て引っ括めて自分の物とする彼が、例え生涯で唯一の友人でも安易に頭を下げるような真似は絶対にしなかったはず。それがエリカの知るジェイル・スカリエッティという人物だった。そんな彼が自分にこうして頭を下げているという事実が、エリカの中の精神に火を着けた。

 「……あなたは、それでいいのね?」

 『まだ死ぬ実感が無いから何とも言えないが、後悔は無いが未練は残るね。11人……いや、もう10人になってしまったが、娘たちの行く末を見届けられないのは残念だし、まだ試していない理論や数式の検証も山ほど残っている。本当にやり残したことばかりさ』

 「それなら……!」

 『間違いを正すのが父親の仕事なら、次に同じ間違いを犯さない為に母親が見守ってほしいのだよ。トレーゼは、私と君の子だ。君の助力があればきっと彼は私の想像を遥かに越えた高みへと飛翔するだろう。それが私の……“無限の欲望”の最後の望みだ』

 もはや何も言うまい。彼の決意は固い、言葉しか届けられない今の状況ではどんなに引き止めたところで彼は動じないだろう。事実、彼の弁に対しエリカはまともな反論を返すことが出来なかった。その内心では既に彼の最期を受け入れるつもりでいたのだ。

 「……ずるいわ。あなたにお願いされたら断れないのに……」

 『君には損な役回りを押し付けてしまって本当に済まないと思っている。いずれ君がトレーゼの保護監察人になる為に必要な資料と情報は全て君の元に送らせてもらうよ。それを持っていれば五年後でも十年後でも管理局員として地上本部に赴ける』

 そう言っている間にエリカの端末にそれらのデータが送信される。内容は偽造した局員証と詐称した経歴、そして戦闘機人の管理に必要なありとあらゆる資料だった。

 『そうそう、君が去り際に残してくれた血液サンプルだが、有効活用させてもらったよ。今では立派な秘書係さ。ウーノというんだがね、これが君にそっくりでねえ』

 「ちょっと! 私のクローンを作ったってこと!? あれはIS因子発現の補助のために残したのよ、それをよりにもよってクローニングするなんて!!」

 『安心したまえ。君が考えているような不埒な真似はしていない。今では可愛い私の長女だよ』

 「そのニヤニヤした顔をやめなさいぃ!!」

 結局、十年経っても自分の友人はそのままだったことにエリカは安堵した。時が経ても変わらないことがあるのだと最後に教えてくれた友人の為に、そして彼の誠意に報いるために、エリカはその頼みを聞き届けることを決意した。

 そしてその夜、ジェイル・スカリエッティは予定通り死亡した。傲岸で不遜な態度を崩さないまま、彼は死を受け入れた。これで全ては丸く収まる……エリカだけでなく事件の関係者なら誰もがそう考えていた。










 だがそれは間違っていた。

 たった一つ、あの稀代の大天才でさえ予測できなかった誤算が発生したために、彼が我が身を賭して決行した犠牲は全て水泡に帰した。トレーゼの暴走は止まるどころか逆に加速し、遂にやり直しも後戻りも出来ない状態まで追いやられてしまっていた。

 エリカがそれを知ったのは偶然だった。管理局は混乱冷めぬ内に事件の収束を宣言したが肝心のトレーゼ逮捕の情報はどこにも無く、ネット上でも事件の犯人は未だ捕まっていないのではという噂が蔓延していた。そしてその真偽を確かめるべく、エリカは十数年ぶりに管理局へと赴いた。

 「まさかIDの名前が昔と変わってないなんてね。この組織のセキュリティって大丈夫なのかしら?」

 事件直後の混乱期というのもあってか、すんなりと地上本部の敷居を跨いだ彼女は一般局員に混じって情報収集を開始した。スパイの真似事など最初は上手く行くかどうか心配だったが、これも意外と様々な情報が耳に寄せられてきた。人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、複数の噂話から共通項を見出し統合すると事態の真相が見えてきた。

 「ジェイルは死んだ。けどトレーゼは局員を一人拉致して管理外世界に逃走した?」

 意味が分からない。この時のエリカはトレーゼはジェイルを殺したものとばかり思っていた為に理解に苦しんだ。なぜ自分で目的を達成しながら逃亡するのか? 少なくとも今更彼が社会的制裁を恐れるような性格には見えず、おまけに逃亡する際に局員を一名拉致していったのも気がかりだった。

 気になるのは一緒に連れ去られた局員のことだ。何故そうする必要があったのか純粋に興味があるが、ひょっとすればその局員が事件の鍵を握っているかも知れないと考えたのだ。

 だが流石に肝心な部分はブロックされているのか、人伝ての噂話だけで仕入れる情報には限りがあった。加えて日が経つにつれて人々の関心は事件そのものからその後始末に追われるようになり、真相究明に力を注ぐのは一部の執務官のみとなっていった。当然そうなればエリカに情報が入ってこなくなる。まさか執務官に直接聞き込むわけにもいかない、そんなことをすれば逆にこちらが不審がられるだけだ。

 かと言って単身トレーゼの跡を追おうにも個人が管理外世界に渡航するのは骨だ。流石のジェイルもそこまでは想定していないだろうから偽造IDも通用しないだろう。

 「どうしようかしらね……」

 溜め息を吐きながら自販機で買ったコーヒーを流し込む。偽のIDを使用している以上ここでの活動も長引かせる訳にはいかない。何とかして決定的な証拠を掴まなければならないのだが……。

 「……ちょっと気分転換でもしましょうか」

 日がな一日座っていても埒が明かないと思い立ち、エリカはかつての古巣を少し歩いてみることにした。十数年の間に変わった部分もあれば変わらなかった部分もあり、見物していると熱くなっていた頭がリフレッシュされるようだった。

 組織を牛耳っていたレジアス・ゲイスの死亡と彼が行ってきた不正の暴露により、地上本部の空気はエリカがいた頃より遥かに過ごしやすくなっていた。影の黒幕だった最高評議会も議会とは名ばかりだった以前とは違い、仮設とは言え数多くの意見を取り入れ吟味する正しい姿へ変化を果たした。まだまだ腐敗は数多く残っているが組織としての寿命は伸びたとエリカは確信していた。

 歩いていると自然と足がかつてジェイルと共に過ごした研究所のあった場所に向いていた。十年前まで研究所があった場所は今は改装され二人がいた頃とは様変わりしていた。もちろん、今では健全なことに使われているに違いない。だが部屋の名前だけは以前と同じままだった。

 技術開発研究部署……かつてジェイル・スカリエッティの才能を発揮する為だけに用意された鳥かごであり、エリカが出奔して数年後には無人になった部屋だ。たった二人だけの部署、行われていた研究はそのどれもが冒涜的で悍ましい限りだったが今となっては全てが懐かしい。

 流石に入室はできないと思いつつも中が気になりドアに近付く。すると……。

 「道を空けてください!!」

 「っと……!」

 中から飛び出した局員が数名、ストレッチャーを引いて何処へと去って行く。あまりの剣幕に思わずぎょっとして、すれ違いざまに台に乗せられたモノを視認した。白いベッドに四肢を拘束される形で搬送されている赤髪の少女……その姿を見たエリカを貫く一つの予感。

 (まさか!)

 その予感に突き動かされたエリカは通路を爆走する局員らの跡を追い、たどり着いたのは軽傷の武装局員などを収容する一般病棟、そこに少女を乗せたベッドが 運ばれて行くのを見た。

 「…………」

 入室すると中には都市決戦の傷が癒えていない武装局員が何名かあり、突然の訪問者に気を取られている間にエリカは少女が収容されたスペースへと接近した。

 (やっぱり。ジェイルからもらったデータにあった戦闘機人ね)

 見開かれた眼は多機能センサーを埋め込んだことで薄らと幾何学的な紋様を浮かべ、窓から差し込む光を反射して宝石のように輝いていた。だが瞬きもしない目は焦点が合っておらず、間抜けに隙間を開いた口からは僅かに呼吸らしき運動をしていることだけが分かった。少なくとも、四肢を拘束されている現状と照らし合わせて見てこの少女が正常ではないことだけは分かる。

 「おい、何をしている?」

 「ッ!?」

 背後から掛けられた声に身を震わせて振り返る。咎められた際の言い訳は考えていたが、背後に佇む人物の姿を見た瞬間それらは全て吹っ飛んでいた。

 「あなたは……!?」

 「……『わたし』?」

 両脇を二人の局員に挟まれながら病室に入ってきた一人の女性……菫色の髪に整った肌、驚きに満ちた二人の表情はきっと鏡写しだったに違いない。事実二人は互いにそれを自覚していたからこそ氷のように固まってしまったのだ。

 そして何が起きたのか分からず混乱したままのウーノに対し、エリカは既に理解していた。彼女こそジェイルが言っていた「長女」、自分の遺伝子を使って生み出したナンバーズの第一号なのだと。

 「…………こんな偶然ってあるのね」

 「は、はい?」

 「知らない? 世の中には自分に似ている人間が三人いるっていう噂。まさか私とあなたがそうだなんてね。あなた名前は?」

 「……ウーノと言います」

 「そう。よろしくねウーノさん。私はエリカ・フローリアン。しがない科学者よ」

 自分と彼女がDNA提供者とそのクローン、ある意味姉妹でありまたは親子と言う事などわざわざ話す必要は無かった。知らなくてもいい事だったし、何よりそんな事を言っても意味なんか無かった。たまたま偶然顔を合わせただけの赤の他人、二人の認識はそれだけで良かった。

 「それにしてもそっくりだわ。私の若い頃の写真を見ているようね。今日は誰のお見舞いかしら」

 「えっと、その子の……」

 「ああ、ご家族の方ね。私は以前この子のメンテナンスを担当していた者です」

 スラスラと述べる内容はもちろん嘘だ。こんな根も葉もないことが自分の口から出任せで出て来たことに内心では彼女自身が一番驚いていた。だがウーノはそれを信じたようであり、「妹がお世話になっています」と礼儀良く会釈してくれた。

 「ひどいものね。外部からの刺激に殆ど反応してない。これじゃあ植物人間よ」

 「聞いた話ではトレーゼ……“13番目”に脳を掻き乱された影響だとか。人格を司る部分を中心に脳全体が取り返しのつかないレベルでの損傷を受けてしまったと……」

 「……そう」

 こんなケースを知っている。ジェイルと共に研究していた頃、上から研究資材という名目で送られてきた身元不明の人間たち。彼らの脳を直接弄り改造し、異なる人格データや記憶を植え付けるという悪魔の所業を行ったことがある。後に記憶転写クローンに応用されたその技術の数々は当然失敗ももたらし、死にこそしなかったものの彼らの一部は言葉を発することもままならず、指一本動かせない体になりながら研究室を去った。その後の動向は知らないが恐らくまともに生きてはいない、きっと早くに死んだだろう。そしてエリカの見立てが正しければこの少女もまた……。

 「妹は……ノーヴェはどうなるのでしょう?」

 「…………昔、私の知り合いがとある脳障害を負った動物に処置を施したわ。身体を全く動かせなくなったその原因が脳と脊髄に問題がある事を突き止めた彼は、頭蓋を切開して電極を挿入して、そこから読み取った電気信号を変換した物を直接神経に接続するという方法で治したわ。本人は暴力的だって自嘲していたけど、その技術は巡り巡って今は前線の傷付いた兵士を強制的に動かす装置として盛況らしいわよ」

 「つまり……それは?」

 「この子もその類の施術をすれば以前と同じように振る舞うことは出来るかも知れないわね。ただし、そんな純粋な電気信号だけで動く相手を『人間』って表現できるかどうかだけれど」

 今の例え話には続きがある、兵士の体に埋め込まれた電極は外部からの信号を受信することでそれを神経に送りつけ、外部の命令に忠実に従う人間兵器を生み出すに至った。未公表だが以前はこの技術を管理局も使っていたが一部高官らの反発があってミッドチルダでは使用を禁止された。だが事実上戦争の起こらないミッドではなく、未だ内紛への介入を行うその他の管理世界でも禁止にしなかったのは暗にその技術を開発した者の有能さを表しているとも言えた。

 「そう言えば私から聞きたいことがあったのよ。今回のこの事件の犯人、あなた達はどうするつもりなの?」

 それとなく近況を聞くようにして実際はナンバーズと、彼女らが協力している機動六課の動向に探りを入れた。

 「妹達は“13番目”を追って地球に行きました。こことは何もかも勝手が違う管理外世界での活動を負担に思っていないか、それだけが心配です」

 「管理外ってことは局からのサポートも大っぴらには受けられないって事だものね」

 管理外ともなれば更に跡を追う事は難しくなる。今や何の後ろ盾もないエリカでは同じ管理世界に渡るのでさえ一苦労だ。もしこの時、トレーゼが捕縛されれば彼が殺処分の憂き目に合うと聞いていればエリカは迷わず地球に密航しようとしただろう。あるいはもう少しこの場に居れば運命の悪戯により彼女も地球の大地を踏んでいたかも知れなかった。だが表に出ていたノーヴェの付き添いが戻ってくる気配を感じたエリカはそっと席を離れた。

 「お邪魔したわね。その内また会う機会もあるでしょうから、その時にまた」

 「あの……」

 「なに?」

 「いえ、こんな事を聞くのもおかしいのですけれど、以前どこかでお会いしましたか?」

 「……いいえ。私とあなたは正真正銘、これが初対面よ。私とあなたの間に繋がりは無いし、私とあなたの顔が似ているのも偶然の一致以外の何物でもないわ」

 嘘は言っていない。事実二人は初対面であり、ウーノがエリカの遺伝子をベースにしていることも想定外だから「偶然」と言っているのも筋違いではない。

 社交辞令に則った別れの挨拶の後、エリカは医務室を出る。その時彼女と入れ違いに部屋の前に来ていた二人の女性を見て、エリカは再び驚愕した。

 (カリム・グラシア!? 聖王教会を政治面で取り仕切るトップがどうしてこんな所に? それに、あの子……)

 突然の大物に気を取られて見落とすところだったが、その隣に佇む少女もまたエリカの興味を引いた。

 (確かこの子も戦闘機人、ナンバーズだったかしら)

 うろ覚えだが渡された資料の中の記録にあった気がする。だが少女の顔を見た時、エリカは死人を連想した。虚ろな瞳に生気がごっそりと抜け落ちた青白い肌……隣のカリムは気付いていないのか、彼女の異常を気にする様子は無い。

 だがエリカの目は彼女の奥底に眠る鬱屈とした感情の渦を見抜いていた。きっと、自分で確認したことは無いが、セッテの表情はまさに十数年前の我が身と同じ状態にあっただろう。何があったか知らないが、今のセッテは自身の行動すらままならない袋小路に追い詰められている。エリカ自身は自分が暴発してしまう前に解決策を見出せたが、恐らくこのセッテはそろそろ限界を迎える。そうなった時にどんな災厄がもたらされるかは想像も出来ないが……。

 「……まあ、私には関係の無いことね」

 余裕があれば彼女のことを気に掛けることも出来ただろうが、今のエリカはトレーゼの情報を集めるだけで手一杯だった。

 もしこの時隣にいたカリムを気にせずセッテに接触していれば、トレーゼについて求める新たな情報が入っていたかも知れない。もしこの時セッテがエリカという存在と言葉を交わしていれば、彼女の中の何かが変化していたかも知れない。だが実際はウーノと違って二人は交わることなく過ぎ去り、そしてこの数分後、予定調和の如く三人の戦闘機人と一人の少女を巻き込んだ事件は発生してしまうのだった。










 そこから先は怒涛の展開だった。次元転移装置の暴走事故の混乱に乗じてエリカは地上本部から距離を置き、その十数時間後に全次元世界を襲った天変地異は後の管理局崩壊への序曲を奏でたのだった。ありとあらゆる連絡と移動の手段は潰され、ミッドのみならず管理局に名を連ねていた大半の世界はこの世から消滅してしまった。文字通り、一瞬で、何の前触れもなく突然に、ガラス球を砕くようにして粉砕されてしまった。

 ある者は廃れた終末論を叫んだ。ある者はマスコミのデマだと信じ込んだ。またある者は後手後手の政府の対応をただ非難するだけだった。

 だがそのどれもが本質から目を逸らし、今起こっている現状を認めようとしない衆愚の喚き声に過ぎなかった。滅びの音は九死に一生を得た彼らの足元さえ掬い上げ、直接の被害を受けなかったはずの世界も次々とその煽りを受けて衰退の一途を辿って行った。経済が、産業が、政治が……国家と言うものの形を成すありとあらゆる概念が次々と総倒れとなり、全ての文化は一世紀の遅れを見た。

 一度は収穫無しと判断して管理局を離れていたエリカだったが、彼女の視線は既にこの大事件の先を見据えていた。今は亡きジェイルが彼女の姿を見ていれば己の生き写しだと褒め称えただろう、そのぐらい彼女の頭は冴え渡っていた。しかしどんなに先見の明があろうとも実行に移す手段が無ければそれまでだ。二度目の大混乱はまさにトレーゼが引き起こしたものだと推測は容易だったが、それを確かめる術を持たない彼女は何の行動も起こすことが出来ない。

 だがエリカ・フローリアンはここで腐る人間ではなかった。手段が無いなら切り拓くまでと言わんばかりに自ら計画を立案し、映画のスパイよろしく再び古巣への潜入を果たしたのだった。彼女がどのようにして後ろ盾の無いまま組織へ潜入し、どんな犠牲を払って求める物を得たか多くを語ることは無い。しかし活動するに当たって生前のジェイルから資料と共に送られてきた資金が役に立ったことは言うまでもない。その資金を元手に出来るだけ正当な方法で膨らませ、それらを事件関係者にばら撒くことで情報を収集した。

 無論容易には行かなかった。ばら撒く資金もいずれ底を尽き、混乱が徐々に収まり掛けてきた時には既に彼女を怪しむ者達がその身辺を調査し始めていた。その包囲網は徐々に狭まり、彼女の身柄は遂に拘束される一歩手前まで追い詰められようとしていた。

 (ここまでかしらね……)

 手には違法商人から買い付けた護身用の銃。魔法の資質を持たない自分が身を守る為にと買った物だが、法律で所持が禁じられている質量兵器を押収されただけでも重罪は免れない。しかも使用する機会があり既に何発も追っ手に撃ち込んだ後だ。この部屋に突入しようとしている武装局員らもそれを知っていて、こちらを封殺しようとしている気迫が扉越しに伝わってくる。

 だがここまでした事が功を奏したのか、彼女の求める情報の幾つかは入手できた。やはり彼女の予想通りこの大災害は他ならぬトレーゼの暴走により引き起こされたものだった。そしてこの災害の「爆心地」となった第97管理外世界とその近辺を含む次元世界はその影響を受けて完膚なきまでに滅ぼし尽くされた。当然そこにいた機動六課とナンバーズは影も残さず消え去り、騒乱の最中にトレーゼ自身も行方知れずとなった。世界そのものを吹き飛ばす災害の中心部にいたこともあり、管理局の調べでは死亡したことになっている。

 「それでも諦めきれなかった……」

 あの子が死んでしまっているなど認めたくなかった、この広い世界のどこかで生きている証を見付けたかった、願いはたったそれだけだった。親が子の安否を知ろうとするのは世の道理、それがたった一人の友人から託された願いでもあれば尚更叶えたかった。

 だが結局エリカの身柄は空しい抵抗の後に捕縛され、武器を取り上げられ護送車に詰められてしまった。左右を屈強な局員に挟まれ、エリカを乗せた車は何処とも知れない場所へと走行する。

 車に揺られ続けること数十分、もはや進退窮まった状態が逆に安心をもたらしたのかうたた寝をしていたエリカは車外へと連行され、嵌められた手錠の擦れる音を鳴らしながら白一色の無機質な通路を歩かされた。もはや自分がどこに向かっているかさえ分からずただ真っ直ぐ歩いた先で彼女を待ち受けていたものは……。

 「待っていたよ、エリカ・フローリアン。いや……一応本名で呼んだほうが良いだろうか」

 「……あなたは?」

 通されたのは獄ではなく何者かの執務室だった。白一色から一転して黒を基調とした部屋には一切の無駄な装飾は無く、デスクに座る男性も内装を表すように堅物なイメージを持っていた。

 だがそれよりも気になるのはこの部屋の主がエリカの本名を知っているという事実。あのジェイルでさえ知らないままだった彼女の名前を調べ上げ、そして刑務所に送られるはずの彼女をどんな強権を使ってか自分の前へ引きずり出した……一体何者なのか?

 「手荒な真似をして済まないと思っている。だが今の君と接触するにはこれが最良だったんだ」

 「……誰?」

 「僕はクロノ・ハラオウン。一応ここを担当する執務官という立場だ」

 「ハラオウン……? 噂じゃあ提督職って聞いてたけれど」

 「ちょっと無茶をやらかしてね、今は職を辞しているのさ。そんな事よりも君とこうして面会する機会を設けたのには理由がある」

 「私の経歴を調べ上げたのならいちいち言う事は無いでしょう。私は一介の科学者で、今はただの犯罪者です」

 「誤魔化してもらっては困る。君の人間関係を洗えば、ある人間との交流があったことは明白だ。ジェイル・スカリエッティ……君の元同僚であり上司でもあった人間だ。この時世に二十年近くも以前の資料を掘り出すのは難儀したよ、昔と違って使える友人もいないからな」

 「……言っておくけれど、私は彼の手下とかじゃないわ。ただの親友よ」

 「親友、か。物は言い様だな」

 「そんな嫌味を言うために執務官さまは私を逮捕したのかしら?」

 「もちろん違うさ。君を投獄するだけなら誰にでも出来る。だが……そうも言っていられない状況なんだ」

 そう言って取り出したのは一枚の紙切れ、たった十数センチ四辺の紙には事細かに文字が書き込まれていた。そしていつかの小切手と同じようにその文字には見覚えがあり……。

 「これって……まさか!」

 「クラナガンの都市決戦があった時に書き残した物らしい。どんな手段を使ったか、見計らったように僕が降格処分にされた時に届くように仕組まれていた。あの男にはこの展開すら予測の範囲内だったらしい。内容は僕への要求、具体的には……エリカ・フローリアンへの協力、ただそれだけだよ」

 確かにそうだった。手紙に事細かに書き込まれている上から目線の指令はその全てがエリカへ陰ながら助力するように依頼する内容だった。トレーゼが暴走し事件が長引いた際にはエリカが行動を起こすと予見し、それを密かにサポートするようにと。

 「君の行動は本職のそれと比べればお粗末なものだった。そんな君が慣れない潜入生活をこれまで尻尾も掴まれずに続けてこられたのは何故だと思う。まさか偶然と言うんじゃないだろうな」

 「……泳がされていた?」

 「そうだ。その気になればいつでも身柄を押さえられたのをそうしなかったのは、この僕が今までなけなしの権力を使って阻止していたからだ。と言っても、君の他にこの混乱に乗じて局の機密情報を盗もうとする輩はごまんと居たから良いカモフラージュだったがな」

 「それで執務官さんは何の気が変わって私を逮捕するのかしら」

 「変わってなんかいないさ、予定通りだよ」

 そう言ったクロノは懐から一本のビンを取り出した。陽光を遮断する茶色のガラスの中には何やらドス黒い粘性に富んだ液が封入されており、エリカの頭に「劇薬」という言葉が点滅する。

 「これを君に『復元』してもらいたい」

 「復元?」

 一見重油にも見えなくもない液体を眺めながら怪訝に呟くエリカ。復元と言うことは即ち、この液体が本来持っていた姿形を取り戻せと言うのだろうが。

 「これは何なの? モノが分からない以上手の施しようが……」

 「この事件の真犯人……と言えば?」

 「何ですって!?」

 「僕の言葉が意味するところを知らない君じゃないだろう。そうだ……その液体は君がずっと行方を探し追い求めていたトレーゼ・スカリエッティ、その残骸だ」

 残骸……既に人は愚か物体としての形すら失くしたと言う事実、それを知って愕然とする。

 「件の超規模次元震の震源地と言うべき場所……かつて『地球』と呼ばれた世界があった座標を調査した結果回収されたものだ。どんな経緯を辿ったか、その液体には“13番目”のDNAが満ちている。然るべき処置を施し培養すれば奴の体を復元することも可能かも知れない。その依頼を君にしたいんだ」

 「…………どうして局に弓を引いた犯罪者を復活させるの? あなたの友人もその事件で亡くなったんでしょう!? だったら、どうして私の肩を持つような……!」

 「勘違いするな! 僕は確かに“13番目”と敵対していた、奴の凶行を止める為に打てる手は全て打ってきた、義妹と友人達の命さえ犠牲にした! 個人の心情として言わせてもらうが確かに奴のことは憎い! 僕が殺人を犯すことを許されていたならとっくにそうしていた! だがっ……だが、奴は司法によって裁かれるべきだ。今この状況が続けば人々は“13番目”の大罪のみならずその存在すら忘却してしまう。それでは駄目だ、悪を犯したなら正義を以て裁く、それが法だ」

 「罪を憎んで人を憎まず、かしら」

 「……僕も所詮君と同じだ。あの一件以来僕は何もかも失くしてしまった。十年以上連れ添った友人も、第二の故郷と思っていた場所も、思い出も……何もかも消えてしまった。もう他にやる事が無いんだ。だったら、どうせ自己満足で終わるのならやり通した者勝ちだと僕は思っている。僕は僕の正義を通す、私怨でも憎悪でもない、在るべき法に則ってそれをする。君はどうなんだ……エリカ・フローリアン」

 例えそれが無為に終わろうとも、実を結ぶとは限らないとしても、達成した果てに何の意味も無いとしても……貫き通し、やりおおせるだけの信念があるかどうか。本人以外に何の益ももたらさない矮小な所業を人は総じて「自己満足」と蔑む。それでもなお達成を目指してやり遂げられるかどうか、その覚悟があるかどうかを問われた時、エリカは……。

 「ジェイルなら即答……いえ、きっとあなたに質問される前に『イエス』と言っていたでしょうね。ならその友人の私が中途で降りることは出来ないわ。私だって約束したんですもの!」

 「交渉成立だ」

 その後エリカの身柄は一時的に拘束され、質量兵器の不法所持及び公務執行妨害等を含む罪状により投獄された。しかし間もなくしてクロノからの接触があり密かに釈放、その所在は彼のみ知る所となった。もちろんいつまでも彼が保護していても埒が明かないのですぐに処分した。必要な機材と必要な仮の身分を与えた後に適当な次元世界への密航を手配したのだ。

 「行先は『エルトリア』。例の大災害の調査と言う名目で管理局が発見した新たな次元世界だ。魔導運用技術はなく次元航行技術も持たなかったが局が接触したおかげで限定的に交流が生まれている。ここなら管理局の手も届かない絶好の隠れ家だ」

 「ここまでお膳立てしてもらって悪いわね」

 「気にするな。今の君は表向きでは『脱獄』したことになっている。しかも局の重要機密を盗み取ったという筋書きでな」

 「まあ、機密情報と言えばある意味そうでしょうね」

 「……忘れていないだろうな」

 「ええ。私があの子を蘇生させたら必ず管理局へ出頭させる。何年掛かっても必ず!」

 「ああ。なら行け。スカリエッティは奴自身のする事をした、君も君自身の為すべき事をするんだ」



 こうして、エリカ・フローリアンは運命の大地へと旅立った。敵も味方も居ないまっさらな場所で、彼女の孤独な戦いが幕を上げる。



[17818] それぞれの道
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2014/03/10 22:29
 『それから私は身も心もエルトリアに根付くように努力したわ。言語、風習、文化……とにかくこの星のあらゆる要素を吸収して自分の物にして、この世界の住人から信頼を得ることに専念した』



 『その為に死蝕の研究にも手を付けたわ。現地住民から理解と信頼を得るには手っ取り早かったし、何より私本来の目的を遂行する隠れ蓑には打って付けだった』



 『もちろん、道のりは平坦ではなかったわ。ただのDNAサンプルにまで分解されたあなたを蘇生するのは、例えるなら一度フライパンで熱した目玉焼きを、また元の生卵に戻すようなものだった。端的に言えば不可能ということね』



 『でも諦めるわけにはいかなかった。徹底的に破壊されたあなたの遺伝子を繋ぎ合わせるのに四苦八苦して、ようやく形にして培養に漕ぎ付くのに五年以上も掛かってしまったわ。もし死蝕の研究をしていなければもう少し短かったでしょうね』



 『必要な物資はハラオウンを通じて送られてきた。律儀な人……。そこまで私に義理立てすることもないのに、あの人はエルトリアと管理局の交流が切れるまでずっと私に投資し続けたわ。ジェイルが親友なら、クロノ・ハラオウンは私の恩人、その恩人の義理に報いる為に私は努めてきたわ』



 『だけど私が入植してからしばらくして管理局の体制は崩壊、エルトリアとの関係も一方的に打ち切られた。その頃にはこちら側のスポンサーを得ていたから問題は無かったけれど、次元航行技術の無いエルトリアに取り残された私は約束を果たす手段を永遠に失ってしまった』



 『最初は時期を見てハラオウンから連絡が入ると期待していたわ。でも日が経つにつれてその可能性が無いことを実感させられた。彼がどれだけ優秀でも所詮は一公僕、所属する体制が崩れてしまえばそれまでだと身をもって知らされたわ』



 『私はそれからも一人で研究を続けた。約束を果たす相手が居なくても、あなたに再び日の目を見せることが出来るなら……それだけを考えて生きてきた。他のことは目に入らなかった。管理局の崩壊、次元世界の危機、エルトリアの未来……そんなのは犬にでも食べさせておけば良かった』



 『私にとって死蝕……エルトリアの未来なんてどうでも良かったわ。所詮仮住まい、隣の芝生がどんな色をしていても私には関わりの無い話だった。私の目的はあなたであって、エルトリアの死蝕は二の次三の次、とどのつまり眼中に無かった』



 『そう、死蝕の研究なんてものはエルトリアの人間から信頼を得るための道具、仮面よ。あなたを元通りにするという自分に科した約束を果たす為に、私は徹底して非情になり切ると覚悟した。それが今は亡きジェイルへの手向けと信じて』



 『……でも、ダメね。ここで過ごす時間が長くなる度に情が、愛着が湧いてしまう。私もそうだったわ。出自をどう辿ろうと余所者でしかない私を快く受け入れてくれる人々に、私は徐々に罪悪感を覚えていった』



 『私は彼らを騙していた。あの親切な人達を救うふりをしながら自分の目的だけを考えていた、そんな私自身が嫌になっていた。だからその負の連鎖から逃れる為に私はあなたの復活を急いだ。彼らに心の中で言い訳しなくて済むように……』



 『だけど私の中で罪悪感だけじゃなくて他の何かが芽生えていた。望郷……見知らぬ大地で一人、二度と帰れない故郷に対する未練や寂しさ、孤独感に私の心は徐々に蝕まれていった。全ての繋がりを断たれた上でなお生き足掻くだけの強さなんて、私には無かった』



 『いっそ獣と同じで自由に産み増やすだけが能の生き物であったらと妄想していた。何もない無為な自分の人生に、何でもいいから繋がりと呼べるモノを遺したかった、「私はここにいた」と強く言い張れる何かを……私は徐々にあなたに求め始めていた』



 『都合が良すぎたわ。私がお腹を痛めて産んだ訳でもなく、母乳を与えたこともない。やったのは精々、子守唄を歌っておやすみのキスをしただけ。あなたの誕生日を祝うことも、あなたと新年を迎えることも、成長したあなたを褒め称える事すらしなかったのに、私は愚かにも「母と子の関係」をあなたに一方的に求めていた』



 『あの頃の私はどうかしていた。狂気と妄執で動くだけの人形……それがあの時の私だった。もう自分でも何をしているのか分からないまま、目的と過程を混同している事さえ気付かずに、闇雲に私はあなたの復活だけを待ち続けた』



 『あのまま自分を省みることなく進んでいれば今頃私はとっくに狂人の仲間入りだったわ。そうならなかったのは私が途中で思い留まったから、私を今在る場所に留めてくれたあの子の存在があったおかげ……』



 『世の中には似ている人間が三人はいると聞いていたけど、本当にそうだったなんて思いもしなかった。たまたま住んでる場所が近所だっただけの間柄……それがあの子、グランツとの出会いだった』



 『年齢の割に聡明で、賢くて、あの子の姿は親友のジェイルにそっくりだった。あの子との触れ合いは私の錆びついていた心を癒してくれた。寂しさに塗れて動けなくなっていた私はあの子の存在を糧に、再び生きる気力を得ることが出来た』



 『だからかしら……あの子が親を亡くして天涯孤独になってしまった時、迷わず彼を迎え入れた。あの子は私に感謝してくれた、周りの人たちは私のことを聖女のように持て囃した。私は周囲の期待通りグランツに私が持てる限りの愛情を注いで、我が子として育てた』



 『でも私が本当に心の中に抱えていた愛は、あの子や周りの人間が考えるような高尚なものじゃなかった……』



 『当時の私にその自覚があったかは怪しいものだけど、私は所詮グランツを都合の良い代替品としか見ていなかった。表面では愛があるように振る舞いながら、その実はただのお遊び、遠回しな自慰でしかなかったのよ』



 『私は自分の中の孤独感を埋める為にあの子の身も心も自分の物にしようとしていた。どこまでも下卑た、何の生産性も無い愛にあの子を巻き込もうとしていた。その感情は私の体が死蝕に侵されている事を自覚してからより一層強くなっていったわ』



 『私がもっと愚昧で鈍感だったなら、今こうして言葉を遺すことも無かったでしょうね。でも……ある日、気付いてしまったの』



 『重ね合せて見ていたはずだったあなたとグランツの像が、次第に私の中でズレ始めていた。当然よ、日々確かに成長していくグランツと違って、あなたは私の記憶の中、過去でしかないんだもの。共に日々を歩んでいたらこうだったかもと言う妄想、それが私の中のあなただった』



 『それを自覚してしまった私の中で今まで築き上げてきたモノが崩れ落ちていったわ。今まで自分がしていたことが出来の悪いオママゴトだと知らされて、私の歩みは完全に止まろうとしていた。親友と交わした約束も、恩人に対する義理さえ忘れ果てて、自分がすべきことさえ放棄してしまった醜い自分があった』



 『もう何もかもが馬鹿馬鹿しくなっていた。自分のしている行動に何の意味も見出せなくなった時、ヒトの精神は自壊してしまう。ただ自暴自棄になるだけじゃない、生きながらにして死んでいるのと同じ状態……。およそまともな神経では生きていられない、そんな生き地獄。それならいっそ死んでしまえばいいのに、それすら出来ない……』



 『あなたと同じよ……。自分から動くことを忘れて坂道を転がり落ちるだけのボール、そんなモノに成り下がった私ではあなたを復活させる大業は成せない。事実として当時の私の技術ではあなたの脳髄と一部の脊髄しか復元できなかった。恐らくその状態から八方手を尽くしたとしても、結果は遅々として進まなかったでしょうね』



 『だからある日、グランツに全てを話したわ。自分の目的、本当の名前……何の関わりも無いあの子に最後に懺悔する為に、あなたの詳細を除いて私の全てを告白した。そうすることで私の醜く無意味な本性からあの子を遠ざけたかった、無意味なモノを無意味なまま終わらせたかった……』



 『だけど……!』



 『あの子は言ってくれた』



 『私の跡を継いでくれると……私が果たせなかった約束を、自分が必ず叶えて見せると』



 『嬉しかった、ただ純粋に。独り善がりな私の夢を血の繋がりさえ無い子供が引き継いでくれる……とても勝手なことだけど、私の魂はその言葉を聞いた時にやっと救われた気がした。あの瞬間こそ私の下らない人生の中で真に欲した時間だったのかも』



 『意味なんか無くても良い、そんな曖昧なものは長い時間を掛けて醸成される物。所詮、自己満足で終わる人生だと言うのなら最後までやり通した人の勝ちよ。その意味でなら私は負けてしまった。途中で何度も挫折して迷走してたけど、でもその結果に悔いは無い、私の息子が私の夢を継いでくれたから』



 『……いえ、違うわね、悔いはあるわ』



 『私の生きている内にあなたの姿を見られなかったこと。あなたと親子の会話を交わせなかったこと。あなたの抱えた傷を癒してあげられなかったこと。こうして見ると後悔だらけだわ……子の幸せを願うのが親の役目なのに、遂に私はその責務も果たせずに……』



 『……………………』



 『……ねぇ、トレーゼ……顔を見せて。私に……声を、聞かせて、お願いよ……』






























 「…………」

 映像はそこで途切れていた。続きは無い。

 「…………」

 映されていたのは白い病室、きっとトレーゼが目覚めた場所と同じベッド、その上に乗せられた一人の女性。身体が限界まで衰弱したその姿は見るに耐えないほど枯れており、全身あらゆる箇所に繋がれた管からは彼女の体を少しでも生き長らえらせる為の液が通され、生体モニターの表示が二度と向上しない肉体の衰弱具合を表していた。

 誰の目から見ても分かる、風前の灯火。きっとこのすぐ後にエリカ・フローリアンはその命を散らせたのだろう。そして彼女が行っていた研究を息子が受け継ぎ、それが連綿と続いて今に至るのだろう。その結果としてトレーゼは九十五年の歳月を経て復活し、見事に彼女の悲願は達せられたことになる。

 だがその裏で果たせられなかった事もある。間違った道を突き進むトレーゼを元の正しい場所に戻すことこそがエリカの真の目的だった。しかし管理局が潰れてしまい、次元航行の術を持たないままでは叶わぬ夢。そしてそれ以前にエリカ自身も死蝕の毒牙によって既に早逝した身、名も無き母が今際の瞬間にまで望んでいた一縷の希望は遂に叶わなかったのである。

 「…………」

 言葉は無い、予想もしていなかった真実の数々に頭が追い付かない。どんな反応をするべきなのか理性が最適解を出せず、かと言って本能だけでは何があったか理解すら及ばない。本当に彼では全てを判断することは不可能になっていた。

 だが、どうしてだろう……。

 既に指先は何度もこの映像をリピートしている。続きなど無いと知りながらそれでもこの先を求めるのか、何度も何度も指はトレーゼの理性を制して止まることを知らない。二十を越えてから数えることさえ止め、恐らく感覚的にその倍以上に到達する頃にはもう再生機の熱は部屋の温度にまで影響を与えつつあった。

 そして、最初に映像を見てからおよそ数十分もしただろうか、遂にその指先は繰り返すことを止めた。彼の脳はその現実を受け入れざるを得なくなったのだった。

 「……どう言う、ことだ……」

 疑問に答える者はない。そもそも彼自身が何をどう疑問に感じたのか理性に則って答えることが出来ない為、あらゆる意味でこの言葉は的を射ていない。強いて言うなれば独り言、それ呆然自失となって自然と口をついて出た意味など無い言葉。

 彼が目にして耳で聞いた真実の全ては、ただただその身に衝撃的だった。

 様々なことがショックだった。あのジェイルに友人と呼べる者があったこと、その友人が本当にウーノの遺伝子提供者で、そして自分が生み出された時にも立ち会い、それから、それから……。

 だが何より一番ショックだったのは──、

 「エリカ・フローリアンは……俺を救おうとしていた……?」

 所詮は違法研究者、ハルト・ギルガスや他でもないジェイル・スカリエッティがそうだったように自分に好き好んで関わりを持つ者など、自分を利用しようとする者だけだと思っていた。そうでなければスバル・ナカジマのように半ば狂しているかのどちらかでしかない。

 それなのにこの無謀な女性は自らの半生を全て捧げてまでトレーゼを蘇らせようとした。その力を利用する訳でもなく、自分の欲望を満たす為でもなく、ただ純粋に彼の無事を願っての行為……我が子を想ってのものだった。

 そう、「我が子」……エリカは確かにトレーゼをそう呼んでいた。この常とは決定的に異なる生まれをした、悍ましい所業の限りを尽くした者を、彼女は愛しさを込めて息子と呼んだ。そこに狂気は無い、あるのは全てを捨てて余計な物を削ぎ落とした純粋な愛情のみ。

 そしてこの時トレーゼはやっと気付かされる。

 「俺は、愛されていた……?」

 愛など知らない。そんなモノは誰も教えてくれなかった。

 愛など要らない。そんな不確かなモノが存在してしまえば、この世の全ては不条理が罷り通ってしまう。

 愛など在らない。そんなモノが無くても自分は今まで存在して来られたのだから。

 だからあらゆる理屈と論理武装を以てエリカを暴き立てようとした。詰まる所、何度も何度も映像をリピートして彼女の言葉を一言一句暗記してしまうまで見続けたのは、彼女の論理の穴を突き、「愛」などと言う曖昧で不確かなベールを剥ぎ取りたかったのだ。そうすることで彼女こそを間違っているとし、自己正当化を図りたかったのだ。

 だが、あらゆる論理の全てはエリカの無償の行為に対し針の穴ほどの綻びも見つけられなかった。

 事実として彼女は自分の利益にならないことをやり遂げ、こうして時を経てトレーゼを世に出させている。それが全てだった、それ以上の成果など彼女は最初から望んでいなかった。

 その事実を認めざるを得なくなった瞬間、彼は自分の胸を埋め尽くす感覚に戸惑いを覚えることになる。

 「何だこの感覚は……!?」

 「怒り」ではない、「恐怖」でもなければ「悲しみ」でもない、だが体の奥底から湧き上がるようなそれは確かにトレーゼの体を焦がし、やがて流動するそれはひとつの突破口を目指して駆け上がる。

 「…………何故だ、何故俺は……泣いている?」

 双眸から湧き出すのは塩気を含む澄んだ体液。それは涙。何のために流すのか、トレーゼの金色の眼からは止め処なく溢れ出る涙が川となって頬を伝って行った。全てを敵に回し、全てに絶望した時ですら流れなかった涙が今、彼自身が戸惑うほどの量となって流れ出す。

 拭っても拭っても流れ出す滂沱の涙に苛立ちすら覚えるが、それを止める術を持たない以上どうする事もできない。

 「それは『喜び』です」

 「……お前」

 追い出したはずのアミティエがいつの間にか資料室に入ってきてそう呟いた。

 「ヒトは悲しみや痛みだけで涙するのではない、時には喜びによってそうする……。昔、博士が言っていました。あなたは今確かに、自分が愛されていた喜びを自覚しているんです」

 「……有り得ない、そんな感情は俺にはインプットされてなどいない」

 「それはそうでしょう。そんな物はわざわざ後付けで備えずとも最初から誰でも持っているものです」

 「違うっ、俺は……俺は……」

 「何をそんなに否定するんですか。あなたは……愛されていたんですよ、他でもないあなたの母親から」

 「俺には母など……人の胎から産まれた訳ではない者に、父母など存在しない!」

 「……それでも、あなた自身が愛されない理由にはならなかった! あなたにはその未来を想った父が居て、身を案じてくれる母が居たんですよ!!」

 それが最後の一撃となった。

 全てを絶望した時と同じように、空白になった頭は思考を放棄して幽鬼のようにトレーゼはふらりと歩き出した。

 アミタには目もくれず、部屋の外で待っていたキリエが何か言ったがそれも無視し、ふらふらと風に流されるように彼の足は気付けば研究所の外へと赴いていた。空は相変わらずの灰色で、見上げるトレーゼの心中をそのまま投影したかのような色合いだった。

 風は冷たく、鼻腔をくすぐる毒の香りは流す涙さえ毒液に変えてしまう。それでもその足は止まらずに歩み続け、遂に今まで来たことの無い場所にまで足を伸ばすに至った。

 「…………」

 空が広い。今まで感じた事の無い感覚、それを寂寥感という物なのだと言うことをトレーゼは知らない。九十五年前の海鳴で味わった恐怖と絶望ではない、あれは所詮己以外が全て敵で埋め尽くされた世界に対する焦燥感でしかなかった。孤独と言えば確かに孤独だったろう。だが彼にはまだ敵がいた。管理局が、機動六課が、かつて同胞だったナンバーズが、そして何よりスバル・ナカジマという存在が彼にとっての天敵が、その世界には存在していた。

 今はもう居ない。この世界、トレーゼが見渡すこの大地のみならず、ありとあらゆる次元において彼との関連性を持つ者は皆無だった。味方も居なければ敵も存在しない、全てが静寂に包まれた無の世界……それがトレーゼ・スカリエッティが放り出されたこの場所の全てだった。

 「無」とは言うなれば真水、100メートル下まで見通せるような透明度を誇る水だ。そこに僅かひとつまみ分の砂糖を投じれば、微細な結晶はすぐに溶けて消え果てしまう。繋がりという結晶構造を保たない限りヒトの脆弱な精神は広大無辺である「無」に対して為す術もなく押し潰されてしまう。一度孤独を自覚してしまえば最後、残っているのは自壊する運命のみ、かつてのエリカ・フローリアンがそうだったように。

 エリカはその孤独から逃れる為に繋がりを求めた、それがグランツという存在だった。

 「…………」

 行くあても無く戻ってきたトレーゼを迎えたのは、グランツ・フローリアンの墓石だった。ひょっとすれば義兄弟になっていたかも知れない人物、彼もまた母の存在に殉じてその意志を引き継ぎ、母と同じように自分の夢を次の世代に託して逝った。

 きっと彼にとって母が自分の向けている愛の真贋などどうでも良かったのだろう。エリカはグランツを子供として愛し、グランツもエリカを母として慕っていた……それ以外のものなどどこにも無いし、その本質がどのようなものであったとしても議論するまでも無かったのだ。長い時間を掛けてエリカは親友との約束を果たし、グランツは母の期待に報いた、それがこの世界の真実だった。

 「…………」

 結局、自分の葛藤は何だったのか。善も悪も超越し己の意志だけでここまで走って来たはずが、その実は誰かの存在に影響を受けていただけと知り、その影響を及ぼした存在は尽く自分の周囲から姿を消してしまったと知らされた。とんだ茶番、否、これではただの独り相撲だ。例え茶番劇であったとしてもそれに付き合う道化がいて、それを見る観客がある。だがそれすら居なくなってしまえば、もはやあらゆる事に意味など無い。

 「……意味など無くてもいい、か……」

 自己満足ならやり抜いた者の勝ち、もしそれが真実ならエリカとグランツ、そしてこの未来を予見し信じていたジェイルこそが勝者と言える。彼らこそ自分の道を信じて突き進んだ紛う事なき勝利者だ、真実こうしてトレーゼはここにいる。

 「なら……それさえ出来なかった俺は、一体何なのだろうな」

 冷たい墓石に背を預け、一人空を仰ぎ見る。空気に湿度が含まれているのを感じ、雨が降ることを予見した。本来なら生命を活気付ける恵みの雨も、この星では汚染を拡大させる自然災害でしかない。浴びた端から強酸に侵されたように肌は焼け爛れ、強靭な甲殻を有した生物以外は死に絶えてしまう。

 いっそ死んでしまえばいい……そう思って雨雲を待ったが、降りかかった雨はトレーゼの白い肌をほんの少し赤く染めただけに終わった。薄皮一枚すら溶かせず雨水は彼の表面を素通りして地面に流れ落ちていくだけ。雨すらも彼を拒絶するように……。

 「なにしてんのさ?」

 「…………」

 安っぽいビニール傘が視界を覆い隠し、トレーゼの体を冷たい雨から遠ざけた。傘を貸したのは跡をつけてきたのか、小脇にバッグを抱えてこれから旅行にでも行くようなスタイルでキリエがそこに居た。

 「あの記録媒体の中身、見ちゃった。あなたのお母さんって結構アグレッシブな性格してたのねー。っていうか、あなたのお母さんって事はつまり私たちのおばあちゃんって事にもなるのかしらね。そこん所どうなのかしら、トレーゼくん」

 「…………」

 「また黙り込むの? まあ、イイけどさ。でも私は少し感謝してるの。おかげで長年ずっと不思議に思ってたことが解決したから」

 「不思議?」

 「うん。ずーっと謎だったのよ、私たちギアーズを生み出した技術って何なのか。似たようなロボット工学はあったんだけれど、私たちレベルの物を作れる技術なんてどこにも無かった。今思えばあのエリカって人が持ち出した資料の中にあなたの体を作る物とかがあったんじゃないかな。それが巡り巡って私たちギアーズを生み出すきっかけになった……そう思わない?」

 「だとしたら……なんなんだ?」

 「ありがとね、私たちを生んでくれて」

 「…………」

 「別にあなたの全てを肯定する訳でもないけどさ、今の私たちが存在しているのって本を辿ればあなたが居てくれたからなのよね。理由とか経緯とかじゃなくてそれが事実、だったら感謝するのは道理ってものじゃない」

 「…………下らない、そんなものはただの憶測だ。今在る事象を逆算して過去を推論しているに過ぎない」

 「お礼は別にそれだけじゃないわ。私はあの映像を見て、あなたやエリカさんが何をしてきたのか知った。それでやっと確信できたのよ……『ああ、やっぱり私は間違ってなかった』ってね」

 「……?」

 「私もさぁ、口では普段は強気になって啖呵切っても頭ん中じゃイロイロと考えてるのよ。キリエさんも『悩む』ことがあるって事よ。あなたの言う様にその実態が0と1で構成された計算結果の積み重ねでしかなくたって、常にどっちが正しいか試行錯誤してるって話よ。ルーチンとかアルゴリズムって結局そうやって形成されてく訳でしょ?」

 「……それで、お前は何を悩んでたんだ」

 「もちろん、自分のやる事が正しいかどうかよ。私は熱血バカなアミタと違って無意味で迂遠なことはやらない主義なの。すぐ目の前に確実で即効の手段があるのに、前時代的な精神論ばっかり振りかざして、遠回りでも頑張って努力することに意味があるんだー、みたいな……そんな欠伸が出て眠くなるような言い訳じみた理屈、反吐が出るのよね。そんなのはただの怠慢だって、子供でもちょーっと考えれば分かる様なことなのに」

 「…………」

 「でも……心のどっかだと、そんなアミタの行動を認めてたのかも。ううん、違うわね、羨ましかったのよ。そんな無意味なことだと分かり切ってても頑張れる、何の見返りも無いのに努力できるお姉ちゃんの姿が……」

 「…………」

 「だけど、もうそんな事は欠片だって思わない。私は私よ、『アミティエの妹』でもない、『ギアーズの試作二号機』でもない、私は私。私は自分がするべきと思ったことをするだけ、誰にも譲らない私だけの気持ち……今からそれを実行しに行く。あなたもさぁ、後で後悔したって遅いのよ。だから今の内にやれる事をしておいた方がイイと思うな、私は」

 それだけ言って傘を預けたキリエは雨の中丘を下って街がある方角へと歩み始めた。小脇に抱えたバッグを大事そうに抱え、軽く手を振って別れの挨拶をしながら雨水のベールの中へと彼女の姿は消えていった。

 きっと彼女は自分のすべき事に関して心の中で決着をつけたのだろう。普段のような人を食ったような茶化すような物言いではなく、どこかに向かって真剣な様子で一歩一歩を確実に歩んでいく後ろ姿。自分の背中はあんな風に真っ直ぐ前を向いていただろうか、そんな事を考えながらトレーゼはしばらく雨天の中で黄昏ていた。

 しばらくそうやって自分の行く末に思いを馳せていたが、やはり何も思いつく事は無いままトレーゼは研究所へと戻って行った。何も言わずに出迎えてくれたアミタの行動は優しさか哀れみか、それを考えることすら億劫になっていた。

 その日、キリエは帰って来なかった。










 お転婆な妹が何日も研究所を空けるのは良くある事と、そう言ってアミタは特に気にする様子も無かった。外出がほとんど日課になっている姉とは違い、妹の方は時折ふらっと出て行っては長い時で一ヶ月は帰って来ない時もあったと言う。

 しかし、彼女が居なくなって三日が経とうとした時、事件は起こった。

 「何ですって!! 27番コロニーがっ!!?」

 汚染から逃れて移り住んだ人間が住まう地下コロニーで起こったのは、大量死亡事故。いや、「事故」と表すのは適切ではない。実際は何の災害も起こっていないのに住民の大半が突然死に絶えてしまったのだと言う。明らかに怪事件だった。

 アミタに連絡が入ったのは、かつて彼女がコロニーの除染作業に従事した縁で作業を依頼されたからだ。地下コロニーという閉鎖された空間で発生した謎の大量死事件、その後始末だ。

 「人手が要りますのであなたにも来てもらいますよ!」

 かくして、トレーゼもアミタと共に事件の起こったコロニーへと赴いたのだった。

 問題のコロニーはエリカの日記を探した街から東へ数キロ行った先にあり、およそ5000人前後の住民が在住していた。ある一定の年齢層以上の人間が非常に多く、若い人間は既に星を見限ったというエルトリアの縮図を思わせる場所だった。

 除染を済ませて進入した時には既に各エリアから集められた人員が謎の変死体を整理し始めており、アミタらもそれに加わって作業を始めた。未知の病原菌による集団感染を恐れて作業員は全て重装備に身を包んでいた。だがアミタ達ギアーズとトレーゼはその心配の必要は無く、生身で作業を行っている姿を奇異の目で見られるのだった。

 適当な繊維で簀巻きにされた死体の一つひとつを確認していく。

 「これは……!」

 呼吸困難でも引き起こしたのか、喉を掻き毟りながら鬼のような形相で絶命していた。それだけではない、中には全身の穴という穴から大量に出血して死んだ者もいれば、全身の骨組織が変形してしまっていたり、皮膚が溶解したり、内臓全てがドロドロになっていたりと、およそ常軌を逸した死体ばかりだった。未知のウイルスにしては死因が多彩に過ぎるし、何より感染源が特定できないのが不思議だった。

 「このコロニーで一体何が……」

 「……感染経路が不自然なら、それは自然発生したものではない可能性が高い」

 「それはつまり?」

 「もしこれが何らかの病原菌だとすれば、意図的且つ人為的な要因で引き起こされた事件、つまりはテロだ」

 「テ……っ!? 滅多なことを言わないでください! 他の誰かに聞かれれば混乱を招きますよ!!」

 閉鎖された空間で不信感が高まれば一瞬で暴動が起こりかねない。もしこの現象が事件性を持っているなら密かに犯人を締め上げるべきだ。

 「数日中にこのコロニーに進入した不審人物を徹底的に洗えばいい。それでこの事件は解決だ」

 聞けばこのコロニーは小規模な方で、正規の出入り口は三つしかない。そこの記録を調べていけば誰がこのコロニーに入り、そしてその内の誰がまだ残っているかの調べがつく。そしてこの騒ぎがテロによって引き起こされたものならば、自然と病原菌をばら撒けるルートも絞れてくる。

 「この街の水道を管理している部署に問い合わせた所によると、昨日急な点検があるとして業者が各エリアの貯水タンクを調査したとか」

 「何故誰もそれを不審に思わなかったのか、逆にそれが不審に思えてくるな。名前は調べなくてもいいだろう。どうせ偽名だ。それよりも映像が残っているならそれを調べろ」

 「は、はい!」

 思っていたより下手人の手際は悪かったようで、調べれば調べる程に痕跡が発見できた。使った物が病原菌かウイルスかは知らないが、水道を使って発症した者とそうでない者がいると言うことは、それが毒性を発揮していられる時間には限りがあると言う事でもある。だが果たして自分が食うにも困るこの時世において、何を目的にそんな無差別テロを起こすのかは甚だ疑問に感じる所もある。

 とは言えトレーゼとしては面倒なことこの上ないので、さっさと終わらせて帰りたかったが、やはりと言うべきかアミタは犯人を自らの手で吊し上げるまで終える気は無かったようだ。

 「面倒な……」

 入区管理センターの映像記録を二人で点検しながらトレーゼは溜息混じりに呟いた。隣の相方は暑苦しさもそのままに数十時間分の映像を逐一チェックしているが、未だに疲れる様子を見せない。

 「……おい」

 「何ですか。今は作業中ですから後にしてもらえませんか」

 「今まで聞きそびれていたが、貴様もあの映像を見たのか?」

 「無視ですか。映像? あー、エリカ様の遺言ですか。見ましたよ、キリエと一緒に。それが何か?」

 「……あれを見て貴様は何を思った。どんな影響を受けた」

 「どんな、と聞かれても返答に困ります。ぶっちゃけて言えばあの子と、キリエと同じだと思いますよ。やっぱり姉妹ですからね」

 「自分の為すべきと思ったことをする……か」

 「私に言わせればそんなのは今まで通りです。今までと同じように私は博士の遺志を継いで死蝕の対策研究を続けていくまでですから」

 「貴様の妹はもっと別のものを見ていたみたいだがな」

 「あの子は多感な子です。私と同じ経験を積みながら私とは全く違うものを見ていても不思議じゃありません」

 「……それで仲違いしているのか」

 「私自身、姉妹仲が多少ぎこちなくてもそれはそれで良いと思っています。所詮私たち、身も心も二人で二つ、例え血肉を分け合っていたとしても完全に理解し合える事など夢のまた夢です。それならいっそ、どこかですっぱりお互いの道に分かれた方が傷付かずにいられて良いと思いませんか」

 アミティエの言わんとしている事ももっともだ。かつて誰かが言ったように、世の中は「こんなはずじゃなかった」という悲劇で溢れている。たったひとつのボタンの掛け違いや、本人の自覚や努力ではどうにもならない事態が発生し、人はそれに一瞬にして飲み込まれてしまう。それが人間関係から去来するもので、しかも修復が困難あるいは不可能と思われるなら、その亀裂が拡大してしまう前に縁を切るのが一番良い。例えそれが肉親であってもだ。

 トレーゼも……彼は姉に自分の理想を押し付け、姉も彼を理解することを拒絶した。決裂、見事なまでに。

 この二人も同じだ。きっとこのままお互いに譲らず正面衝突を繰り返していれば互いに傷付き、取り返しのつかない事になってしまうと予見したから、それが今は亡き博士の意志に背くことだと理解していたから、二人は道を違えたままにして放置したのだ。それが逃げの一手と分かっていても、互いに血を見るよりはずっとマシだと……。

 そんな姉妹の心情を察したのか、トレーゼはそこから黙って作業に協力した。

 そして……。

 「…………見つけたぞ。こいつが犯人だ」

 「情報とは必ず裏を取らなくてはいけません! 怪しい人物を見かけてもまずはアリバイを……!」

 「これを見てもまだそれが言えるか?」

 自分が調べていた監視カメラの映像記録をアミタに見せると、彼女が驚愕に息を呑んだのが顔を見ずとも分かった。

 「そ、そんな……まさか!?」

 「これでもまだ何か言う余地があるか。今この街で一番怪しいのはこいつだ、すぐに捕まえて目的を吐かせろ」

 「い、いえ、待ってください! これはきっと何かの間違い、そう! 間違いですよ! だって……こんな……」

 「ご託を並べる暇があるならそうしていろ。俺は行く」

 「ま、待ってください!!」

 先を急ぐトレーゼを追ってアミタも後に続く。

 彼らが最後に見ていた入区管理の映像記録に映っていた人物は、桃色の挑発にイタズラ好きそうな視線をカメラに投げ掛ける一人の少女……キリエ・フローリアンの姿があった。

 「水道管理組合に聞き込んだが、検査をした人間とあの女の特徴が合致した。その後も周辺住民を中心に事情聴取したが、あるエリアでその目撃情報が途切れている」

 「ですがキリエがこのコロニーから出たという記録はありません! あの子はまだここに居るはずです!」

 「目撃情報が途絶えたエリアには街の廃棄物を処理するエレベーターが幾つかある。ゴミに紛れて外に出ていればもうここには居ない。別のコロニーに向かった可能性がある」

 「どうしてあの子が他のコロニーに!? それよりも、まだあの子と決まった訳では……!!」

 「毒を撒くだけが目的ではない、何か意味があるはずだ。そうなればここは奴にとって実験場、目的を達成するのに必要なデータを採取する為だけのフラスコだ」

 「だから……!」

 「実験は決して一回だけでは終わらない。目的の数値を出すまで続行するはずだ。そうなれば次に狙われる場所は……」

 「話を聞いてください!!!!」

 一人で話を進めていくトレーゼに業を煮やしたか遂にアミタがその前を遮ってまで中断させた。その表情は怒りと焦燥がごちゃごちゃに混ぜ合わさったような色合い、まさしく混乱した感情を呈していた。

 「さっきから何なんですかっ、たまたまキリエが映っていただけかもしれないのに犯人だと決めつけて……! この惨状を本当にあの子が引き起こしたものだと、本気で考えているんですか!!」

 「奴は三日前に研究所を離れる際に何かを持ち出していた。それに奴が何かしらの研究を行っているのは貴様も知っていたはずだ。お前と同じように、奴も劇薬を製造していた可能性は否定できない」

 「研究活動を行っている人は少なからずいます! あの子だけがそれらを製造できる設備を持っている訳ではありません! それにあの子には動機も目的も……!」

 「そんなものは直接奴に聞けば済む話だ。もし奴でなければ話はそれで終わる。だがもし奴が犯人だった場合は……」

 「…………その時はっ、私が片をつけます!」

 「仲違いを理由に管理すら放棄していた奴が今更どの口を……」

 「管理ではありません! これは姉としての妹への躾けです! あの子が悪事に手を染めているなら、それを正すのは私だけの役目です!!」

 「……ならそうしろ。お前が後始末をすると言うなら俺はそれでいい、面倒なのは御免だ」

 そう突き放すように言い放ち、トレーゼは研究所への帰路につく。結局もっともらしいことを言い並べながら、この二人もまた自分の主義や主張、理想を押し付け合うだけの幼稚な存在。誰も彼も皆同じなのだ、そこにエリカが言ったような「愛」と呼べる曖昧で不確かな幻は意味を成さない。

 (くだらない。心底、くだらない)

 心の中で吐き捨てながらトレーゼは付き合っていられないと言わんばかりに背を向け、一人で研究所への帰路についた。こうしてアミタはたった一人で妹と相対することを余儀なくされる。










 「世界滅亡ってさー……結局どんな事態を言うんだと思う?」

 暗がりの中で少女、キリエ・フローリアンが語り出す。手には懐中電灯の代わりに一本の注射器、中には正体不明の赤い液体。

 「環境の劇的な変化? 生態系の破壊? まあ、早い話がこの地上から生命体が絶滅しちゃえば間違いなくその通りよね。でもね……私は違うと思ってる」

 ガラスを指で弾くとシャープな音が部屋に反響し、軽く押すと針先から液が漏れ出る。

 「別に多少星の気温が上下したところで頑丈な一部の生物は存続できるし、生態系の三角構造はどれだけ欠けたって長い時間を掛ければいつかは修復するでしょ。極地の氷が大量に溶けるイベントなんて、それこそ何億年も昔から繰り返し起こってる。そんな程度じゃ天変地異なんて呼べないし、そんな程度じゃこの星は滅びない」

 注射器を器用に手の中で回しながらキリエは再び同じ質問をする。

 「ねえ……世界が滅ぶって言うのはさー、どんな事を指し示すんだと思う?」

 彼女は一人ではない。喋っているのは一人だが、相手は確かに存在していた。手術台の上に四肢を固定され口元に猿ぐつわを噛まされて身動き一つ取れない男性、目の色は明らかにキリエに対する怯えが見て取れ、そんな視線を向けられるのがむしろ嬉しいのかキリエは微笑みながら愛おしそうに頬を撫でた。

 「大丈夫よ、そんなに怖がらなくて。あなたに素質があればこんな物どうって事ないわよ」

 ガタガタと抵抗を試みるが固いベルトは関節を僅かに動かす事すら許さず、剥き出しになった腕に消毒すら施さず針を突き刺した。

 「──ッ、──、!!!」

 「はいはい、ちゅーっと注入」

 声にならない叫びを上げる男性の懇願も耳に入れず、キリエは注射器の赤い液体を無慈悲に体内に送り込んで行く。五秒と掛からず注入された謎の液体はそれと同じか、或いはそれ以上の速度をもって男性の肉体を蝕み、侵し、そして蹂躙し、その果てに行き着いたのは……。

 「あーらら、やっぱ失敗かぁ~」

 手術台の上に固定されていた男性は既に物言わぬ「肉塊」になっていた。全身のあらゆる箇所から出血し、質量保存の法則を無視したように膨張した筋肉の圧力で自身の骨組織を微塵に破壊してしまい、もはや人の形の面影はどこにも見当たらなかった。

 「経口摂取もダメ、直接体内に打ち込む方法もダメ……となると後は空気感染か、あの時と同じやり方で濃度を薄めて少しずつ上げて馴染ませるしかないかしらね……。っと、こうしちゃいられない! アシがつく前にトンズラしとかないと。昨日は派手にやり過ぎたかしらね~」

 用済みになった肉塊を指先でしばらく弄っていたが、思い出したようにバッグに自分の器材を纏め始めた。ポケットから取り出した地図を片手に次に向かうべき場所への方角と道程を確認し、空き家となった部屋から人知れず出て行く。まるでこれから観光地でも巡るような足取りでキリエは次の「実験場」へと移動する。

 「さてさて、ここから一番近いのは36番かしら。でもあそこって確か同業者が一人もいない田舎だったわよね……それほどストックがないってのに、無駄打ちする訳にもいかないのにね」

 ちらりとバッグの中に目をやれば、注射器の中身と同じ赤い液体を封じ込めた試験管が三本。昨日と今日で既に二本消費しており、どこかでストックを補充する必要がある。それを出来る場所を求めてキリエはこの街にやってきた。だが彼女の求める物が見つからなかった事もあり、その後適当な実験対象を見繕って実行に及んだのだ。

 もちろん、彼女自身もその行為の意味するところを自覚している。その上でこの凶行に及んでいるのだ。

 であればこそ、それを止める者が現れるのは必然と言える。

 「キリエッ!!!」

 「……意外と早かったじゃない。どうしたの、お姉ちゃん? そんなに血相変えて……」

 行く手を遮るのは自分に銃口を向ける姉、手に持つ武器はかつて博士から与えられた、外敵を排除するための物だ。つまりその矛先を向けている時点で、キリエはアミティエにとっての敵となったことを意味している。それを知らないキリエではないが、いずれこうなることを知っていた為にその顔色は変わらない。

 「27番コロニーの事件は今朝発表されたばかりよね? そこからここまでまっすぐ来るなんて、正直予想外だったわ。今日は冴えてるのね」

 「あの人が、トレーゼがヒントをくれました! これは『実験』だと、実験なら目的達成のために『数値』を求めると! では数をこなす為の実験で必要になってくるのは……『調整』です!」

 「ああ、あの子の入れ知恵だったのね。そして27番から一番近いコロニーで研究施設を持つここに目星をつけた……ってトコかしら。普段のアミタだったら近くのコロニーを手当たり次第だから、もう少し時間稼ぎできると思ってたのになぁ~」

 「……なぜ、何故なんですか!! あなたが、どうして……こんな……っ!」

 「『どうしてこんな残酷なことを』? そーねー、あえて言わなくても目的は分かってるはずじゃん。あなたと一緒よ、私もこの星を救いたいだけよ」

 「嘘をつかないで!! 存続させるべき人々を間引きして、何が救済ですか!!」

 「そういう反応よね。でも私は博士の教えに背いているつもりは微塵もないし、私はこのやり方が一番正しいって確信してる」

 アミタを挑発するように、そしてその声音に確かな自信をもってキリエは宣戦布告に等しい言葉を投げ掛けた。怒りに悶える姉とはどこまでも対照的に微笑みを浮かべ、先ほど手に掛けた男性に振った問いを彼女にもする。

 「ねぇ、世界が滅ぶってさぁ、結局どんな事をそう言うんだと思う?」

 拡がった亀裂は決して元には戻らず、ここに姉妹の血で血を洗う戦いは切って落とされた。ここが自分達の行き着く果てなのだと直感で理解した瞬間である。










 一方、トレーゼは地上を当て所なく彷徨い歩いていた。本当は真っ直ぐ研究所へ帰るはずだったのだが、ふと気になって街外れに位置すると聞いたある物を探していた。

 それは……。

 「ここか、墓地は」

 寄り道の先に辿り着いたのは寂れた無人の墓地。死蝕によって人々の生活圏が地下に追いやられる以前のものであり、既に手入れする者も管理者もなく一番古い墓石は既に刻まれた名前すら読めないほどに風化が進んでいた。

 等間隔に並べられたその中央付近に、トレーゼは目的の物を見付けた。他の墓石と全く同じサイズに削り出されたその表面には、「エリカ」の名が確かに刻まれていた。この下に若くして無念のうちに亡くなった彼女が眠っている。上の部分の砂埃を払い落としてからその上に腰掛け、棺が埋まっているであろう部分を見下ろす。

 「……お前が何をしたかったのか、俺にはさっぱり分からない。自分の身を削ってまで他人に尽くして、何の見返りも求めずに朽ち果てて……それで本当に良かったのか」

 答える者は無い。きっとこの下には物言わぬ骨しかない、そんなものへ幾らの言葉を掛けたところで返って来るのはなしのつぶてだ。

 ただひとつ、分かる事がある。エリカ・フローリアンは後悔していない、それだけだ。生きて息子と再び相見えるという最終目的こそ達成できなかったが、きっとエリカは自身の歩んできた道程を、悩み、迷い、時には後退しながらでも歩んできたその道のりを、決して悔やんではいないだろうということ。いずれ来る未来にその可能性と望みを託し、彼女は心安らかに逝ったのだ。誰にも知られず、誰からも認めてもらえず、例えその結果が自分の生きている間に日の目を見れずとも、彼女はそれをやり遂げた。その達成感は今のトレーゼにはまだ理解できない。

 そもそも、何かひとつの事を悔い一つ残さずやり切ったと言い切れる人間が果たしてどれだけいるだろうか。人は誰でも越えられない壁に突き当たり、折り合いや言い訳をして自分を騙しながらそれを回避して生きている。誰だってそうだ、人の歴史とは大多数の弱者とほんの少数の強者が絶妙なバランスで積み重ねてきたものだ。少数を押し潰そうと働く世界の悪意を前に一歩も退かない固い意志、それを貫き通せるのは極僅かしか存在しない。

 そしてエリカはそれを成し遂げ、トレーゼは出来なかった。その差がトレーゼを思い悩ませる。誰よりも強く、誰よりも先を行き、誰よりも上にあったはずの彼が成せず、ただの脆弱な人間でしかなかったエリカが達成したその事実が……。

 「教えてくれ……!」

 最後の機人の凍った心を、溶かし始めた。決して自分以外の強さを認めようとしなかったその頑なな心の壁に、ついに針の先ほどの穴を開けるに至ったのだった。スバルを相手に自棄になっていた時とは違う、その心は穏やかで自分の弱さがどこに在るのかを真摯に問い掛ける口調だった。

 だが悲しいかな、彼がその心を開くのは遅すぎた。既にその身は孤独……ここにはもう誰もいない、真に彼の心と向き合ってくれる者はもう居ないのだ。

 ……いや、いる。まだ彼は本当の意味で取り残されたのではない。

 「ちょっといいでしょうか……。手を貸してください」

 聞き覚えのある声はアミティエのもの。背後に目をやると、彼女の姿に少し驚いた。

 「見苦しいでしょうが我慢してください」

 いま彼女は自分の脚で自立していない。それもそのはず、今の彼女に下半身と呼べる部位は完全に無くなっていた。腰あたりから下を寸断され、切断面からは人間の肉体では決して見られない金属の部品が耳障りな漏電を起こしていた。その体は研究所から呼んだ弟妹によって抱えられている。

 「何があった?」

 「キリエです……あなたの言った通り、彼女はもう私では止められません……。彼女はこの星を地獄に変えてしまうつもりです!」

 「地獄? もう既になっているだろう」

 「いいえ、違います。そうじゃないんです! 彼女の思い描いていた計画は、それはそれは悍ましいものなんです!!」

 「……聞かせろ。何があった?」

 「時間が無いので道々説明します! 背中を拝借しますね!」

 そう言って飛び乗ってきたアミタをおんぶする形でトレーゼは彼女のナビに従って移動し始めた。彼女とキリエが最後に会った場所を目指して。

 「私と彼女が独自の観点と手法をもって死蝕への対策を行っていたのは、もう言うまでもありませんね。私は各地の植物や森林を改良することで食糧問題を解決し、そこから少しずつ本題に入ろうとしていました。多少時間は掛かっても未来において困難を克服する手段を得られたならと、その可能性に賭けていたんです」

 「お前の妹はそのやり方に異議を唱えていたな」

 「正直に言って私は今の今までキリエがどんなアプローチで死蝕を研究しているのか知りませんでした。知ろうともしませんでした! エルトリアの未来を想うのはあの子も同じだと自分に言い聞かせて、それを見て見ない振りをしてきたんです!」

 「前置きはどうでもいい。奴は何をしようとしている?」

 「……っ、あの子はもう既に結論を出していたんです。『エルトリアからは死蝕を取り除くことはできない』……もうずっと前からその結論に達していたんです」

 「……なるほどな、そういうことか」

 アミタの言わんとしていることが察せたトレーゼは得心がいった。彼が予想した方法ならば確かに、この星からは死蝕に苦しむ者は居なくなるだろう。猫をどうにかする前にカツオ節を退けたのだ、キリエは。



 「『死蝕を除去できないのなら、それに苦しむ人類の方を変えればいい』と言う事か!」










 世界の滅亡とはつまり、文明の滅びである。

 文化の滅びとは即ち、この世界からあらゆる概念が失われる事でもある。

 それが指し示すのは、「知性」の消滅。

 仮にこの星から名前も知らない微生物が一種、生態系から完全に消え去ったとしたら、世界はどう変わるだろうか。当然、論ずるまでもなく世界は不変である。我々の与り知らない場所で新たな種が生まれ、そして消えていることを考えれば一種の微生物が消えた程度は知れている。

 ではそれが植物だった時は? これも大して変化はない。何故なら彼等には知性が無いからだ。知性が無ければ世界に与える影響などたかが知れている。

 ではそれが比較的知性の高い哺乳類、あるいは地上で最も数が多いとされる昆虫の類であれば? それが短時間で大量に死に絶えついには絶滅してしまえば、世界にとってどれほどのダメージになるか?

 極論すれば、損害など無きに等しい。確かに生態系の激変を余儀なくされた自然は大きなダメージを受けるだろう。だがそれは所詮、「自然」という住み分けにおける範囲での事件でしかない。文明を築き歴史を記録する「知性あるもの」にとって、それは長い時間を掛ければ克服できる。そして彼らによって成された所業は遠い未来にでも星の傷を癒し、傷付いたはずの自然はその形に固定されるだろう。

 ならば、その「知性あるもの」が滅び去った場合、世界はどうなってしまうだろう?

 即ち、「文明」そのものが一瞬にして地上から消え去る。生きとし生ける全てを管理し導く使命を帯びた存在が無くなれば、その先に待つのは急速な終焉だけだ。爛熟による盛衰ではなく、対応できない理不尽な変化によって滅び去る場合、それは世界の全てに影響を及ぼす。

 その「知性あるもの」とは何も人類や霊長類に限った話ではない、要するに「文明」という概念を形成できる生命体であれば何でもいい。大半の星や次元世界にとってその代表格が人類と言うだけであり、実際には人類以外にも「文明」と呼べるものを形成し、中には人類以上の水準を誇るものさえある。

 そしてひとつの星に君臨できる知性体はほぼ例外なく一種のみ……それが滅んでしまえば地上から「文明」は消え去り、記録の積み重ねである「歴史」そのものが途絶えてしまう。途絶えてしまった歴史は次にその星に知性体が現れ再び文明を築くその日まで、半永久的に地層に埋もれたまま封印されてしまうのだ。

 「死蝕がエルトリアを完全に覆ってしまえば、次代を担う知性体が生まれるのも天文学的な確率になるわ。かつて猛毒だった酸素が星を埋め尽くした時も同じ。嫌気性の微生物の大半は絶滅して、何億年もかけて酸素に適応した生物が誕生した。だからそうね……もしかしたらこの先に死蝕に侵された今の環境に耐えられる生物が生まれるかもしれない。それがまた同じくらいかそれ以上の時間を掛けて進化して、知性を得て、文明を築いて、歴史って言う概念を知った時、自分達の足元に何が埋まっているのかを知りたがるかもしれない。その時もしかしたら今ここで起こった事件を未来の誰かが知ってくれるかもしれない」

 それが歴史、それが積み重ねと言うもの。誰も彼も過去を知ろうとしなければこの世に歴史という概念が生まれることも無かっただろう。例え今ここにある現在が無為に終わってしまっても、その辿った道が歴史として残り後世の誰かの目に留まればそれで良い、過去の誰もがそう考えたからこそ今の世界があるのだ。

 だがそれは同じ種が存続していたからこそ通じる理屈だった。もしこの先の未来で全く別種の存在が霊長となって君臨した時、彼等は旧支配者の歴史を理解できるだろうか。恐らく不可能だろう。発掘した竜の骨を煎じて薬用とした民族がいたように、例え異種族の痕跡を発見したところでその歴史を理解できなければ、それは所詮埋め立てゴミと何ら変わりは無いのだ。

 忘却──。それがエルトリアに生きる者が辿る末路、それこそが真の意味での「滅び」なのだ。

 「そんなの認められるわけないじゃない」

 そう、認めない。認める訳にはいかない。この星が歩んできた歴史が一瞬にして無に帰すという悲劇を看過してしまう事は許されない。

 だからキリエ・フローリアンは考えた。巡って来るかどうかも分からない極小の可能性を未来に求めるより、今在る現実を改変することに固執した。それも姉が行うような長い年月を掛けて結果を観測する迂遠なものではなく、彼女は出来るだけ短時間でそれを成し遂げようとした。だが何度シミュレートしても得られる結果は同じ、現代の技術ではどんなに足掻いたところで世界から死蝕を除去することは適わなかった。

 そして到達した思考は逆転の発想……汚染された星の環境を元に戻すのではなく、そこに住まう人類に変革をもたらすという禁じ手を取ったのだ。

 だが生物の進化とは数万年、あるいは数億年以上もの年月をかけて行われるものであり、人為的に手を加えたところで激変した環境に対応できる個体が生まれる確率など、それこそ地表において金剛石が自然発生するより低い。八方手を尽くしたキリエだったが姉と同様にその研究は早くも袋小路に入ってしまった。

 「でも私はひとつの希望を見つけたの。研究所の先住者……死ぬ前に博士に教えてもらった存在を思い出した時、私の中で最適解が導き出された。100年近くの時間を経ても衰えるどころかむしろ増大していくその生命力……『これだ』って直感したわね」

 もちろん、最初から上手く行くとは思ってなかった。実際に手をつけた当初は難航し、自分の直感も単なる気のせいかと疑いを抱くようになっていた。だが地獄に垂れた蜘蛛の糸とばかりに掴んだそれを手放す気にもなれず、彼女はただただ待った。自分の理論が地盤を固めるその時をただひたすらに待ち続けたのだ。

 そして、遂にその執念が実を結ぶ時が来た。

 「培養漕から出て来たあなたを見た時、その生命力を前に私は確信できたの。この生命力を与えることができればエルトリアの人達はこの環境を克服できるって!」

 その為に研究した。その為に作り上げた五つのサンプルを持ち出し、彼女はこうして計画の最終段階に取り組んでいる。

 「ねえ、分かる!? これはこの星に生きる全ての人達のためなのよ!!」

 「分かりませんよっ、そんな事!!」

 一度は完膚無きまでに叩きのめして撃退してやったはずのアミティエが再び立ちはだかった事実に、キリエは怒り心頭だった。更にそこにはこの件に関して全くの無関心だったはずのトレーゼまで引き連れている為、苛立ちは更に募る。

 「まさかお姉ちゃんの側についたなんてねぇ、何も出来ない駄々っ子のトレーゼくん? 前にも言ったけど私はあなたに感謝してるの。あなたが居なかったらこの計画は実現しなかった。あなたが居てくれたから私はこのエルトリアを未来に繋げることが出来たのよ!!」

 「そのやり方がエルトリアの幸ある未来に繋がると本気で考えているんですか!? 自然の摂理に反する進化は対応できない人間を容赦なく屠殺します! あなたは人類をふるいに掛けて神にでもなったつもりですか!!」

 「屠殺? バカ言わないで、これは淘汰よ! 適応できる人とそうじゃない人が区別されるだけ! この計画で大半の人間が死んだとしても、もう一度この大地に生きることが出来ればまた繁栄する! そんな簡単なことも分かんないの!!」

 キリエの構えた銃が火を噴く。性格にアミタの眉間を狙って飛来した光弾も前に、とっさにトレーゼが彼女の襟首を引き寄せて回避する。今や二人の位置はアミタがトレーゼの首に正面から腕を回す形となり、お互いの死角を埋めている。つまり、臨戦態勢である。

 「差し上げます! 使ってください!!」

 キリエのと色違いのデバイスを渡され、それを右手に持ってトレーゼが駆け抜ける。アミタももう一丁を自分の右手に構え、奇しくも人機一体となった二人の呼吸はどちらがどちらに合わせているのかぴったりと合っていた。

 「いつかこの星の環境が良好なものになった時、この星を捨てた人々が帰って来てくれます!! 本当に繁栄を願っているのなら彼らに未来を託すべきです!」

 「いつかっていつよ!? 連中は見捨てたのよ、私やあなた、博士がいたこの星を見捨てたのよ!! そんな連中が自分達も忘れ果てた頃ぐらいに帰ってきて、安全になったとたんに我が物顔で蔓延るなんて、そんなバカな事があんたは許せるの!?」

 「彼等もこの星の住人だった!!」

 「今は違う!! この星はここに生きる人達の物よ!! いつも悠長なことを言って問題を先送りにしてきたお姉ちゃんらしい言い分よねッ!!」

 汚れた大地に赤と青の光弾が飛び交う。土を穿ち岩を削り、僅かに残った木々さえも薙ぎ倒しながら、キリエは別のコロニーを目指しアミタ達はそれを阻む。今やアミタの足となったトレーゼは二人の激闘に口を挟む事無く、その行く着く果てを見極めんと耳を澄ましながら刃を振るっていた。

 「今在る全てが忘れられて未来に何一つ残らない……そんな屈辱、私は絶対に耐えられない!! 僅かな可能性を信じる? 未来へ希望を託す? ちゃんちゃらオカシイのよっ、私は今在るモノをこの先にある未来にずっと残して生きたい!! それの何がおかしいってのさ!!」

 「あなたはっ、博士の意志を継いでいると言っておきながら本当は博士が最も望んでいないことをしている!! あの人はこの世界の全てを愛していた! 人も、自然も、目に映るもの全てをあの人は等しく愛していた!! だからあの人は言ったんでしょ、『エルトリアを救ってくれ』と! 私たちが救うべきなのはこの星全てじゃないんですか!!」

 「誰も居なくなった寂しい空っぽな場所だけ残って、いったい何になるってのよォッ!!!」

 形の無い未来を目指すか、形の有る現在の存続か、姉妹の対立はその一点。どこまでも己の感情のみで物事を動かすキリエに対して理屈で攻めるアミタの言葉は通じない。今やキリエは己にとっての邪魔者を排除するだけの破壊マシーンと化していた。そして同時に、これは姉妹の歩むはずだった道が具現化した結末なのだと理解する。この結末はアミタとキリエだから起こったのではない、もしこの岐路に立たされれば人間はその数だけ違う未来を夢想し、それが互いに相容れないものであれば互いに対立してしまう。

 そして理解する。今こうして相争っている二人は自分の辿って来た道の縮図なのだと、トレーゼは今やっと理解した。かつて同一の存在として生まれ出たはずの二者が時間の経過と共にその信念を変化させ、僅かな誤差から始まったはずのすれ違いはやがて無視できない亀裂となって表出してその行く手を阻む。最後には互いに互いを排除してでもその意志を通そうとし、取り返しのつかない事態を招き寄せる。

 もう二度と、姉妹の道は交わらない。

 「ウザいのよっ、いつもいつも綺麗事の正論ばっか並び立てて! そうやって自分がイイ子ちゃんぶって、何でもかんでもお見通しみたいにしてればさぞかし生き易いわよねぇ!! ただバカ正直に尻尾振って思考を放棄してるだけで『未来を考えてる』? 笑わせんじゃないわよ!! 私がそうしたようにすぐにでもエルトリアを救う方法があるって知りながら、わざとらしく無意味な遠回りばっかりしててムカつくったらありゃしない!!」

 「安易な近道ばかりを選んで怠け癖のついたあなたには分からないでしょうね!! 私がどれだけ身を粉にして博士の意志を……!!」

 「博士、博士博士ハカセ!! バカの一つ覚えみたいに!! そうやってあんたはとっくに死んだ人を引き合いに出して自分は間違ってないって言いたい訳!!? 二枚舌が聞いて呆れるわよ!!」

 銃剣を連結させてできた大剣を振り上げて一気に距離を詰めて来るキリエに対し、トレーゼがその顔面に容赦なく蹴りを見舞う。当然ガードするが、人間を遥かに越えた膂力から放たれた蹴りは一瞬だけだがキリエの動きを止めることが出来た。そしてその隙を逃さず、唯一の急所である電子頭脳が収められた頭部目がけて刃を突き立てる。

 「キリエェエェエエエエエエエエエッ!!!!」

 「っ!!?」

 討った! 軌道も間合いも必殺の位置取りであり、防御障壁も展開されていない外装を貫けばそのままキリエは機能を停止するだろう。つまり、他ならぬ姉の手で妹を殺すという事でもある。

 しかし……。

 「行け。どうした、何をしている」

 「っは、っは、はあぁ……!!」

 「…………」

 アミタの刃は確かにキリエの生殺与奪を握っている、このまま腕を伸ばした彼女がほんの少し前へ体を押せば、それだけで切っ先が電子頭脳の中枢部を破壊してキリエは機能停止する。たったそれだけでこのバカげた滅亡劇はアミタの勝利で幕を閉じるのだ……だが、刃の先は外装を僅かに刺したのみでそこから先に進まない。当の本人がそれを拒んでるのだから当然だ。

 「なによ、やらないの? 違うわよねえ、『やらない』んじゃなくて『やれない』のよ!」

 「ああっ!!?」

 切っ先が刺さったままなのも構わずキリエは銃剣を叩き壊した。眼前で飛び散った部品を目くらまし代わりにして距離を取り、再び射撃による牽制に移った。

 「いつだってそう! あんたは口ばっかりだった! いつだって言い訳ばかりで結果を出そうとはしなかった!! 今もよ!! 殺すつもりでいる私と違って、あんたはこの時になってもまだ手を抜いてる! いい加減に覚悟を決めなさいよォッ!!!!」

 雨霰のごとく撃ち出される弾幕を前にトレーゼの足が止まる。突っ切ろうと思えばそうする事は容易だった。だが今の自分はアミタの足代わりであり、そのアミタは今やキリエの気迫に圧されて戦意を喪失してしまっていた。もう彼女は戦えない、実の妹を殺めるという究極の選択を前に遂にその心は折れてしまったのだ。

 「行かないのか……」

 「……無理ですよ。私にはあの子を殺せません。あの子の言う通りなんです、私は結局決められた行動だけをするしか能がありませんでした。それだけを正しいと信じ、結果が伴わないかも知れないと思いつつも今日までやって来ました。でも、本当は……何も得られない無為のまま終わってしまうのを認められなかったんです! でもキリエのように新しい別の道を模索することも出来ず、踏み出せないまま私は……私は……!!」

 「懺悔はもういい」

 そうだ、懺悔はもういいのだ。

 「アミティエ・フローリアン、お前は『俺』だ。お前だけじゃない、キリエ・フローリアンも、エリカも、ジェイルも、トーレも、皆『俺』だったんだ。今やっと理解できた」

 今やっと、全てを失った今だからこそやっと理解させられた。この姉妹は己の鏡、己が辿ってきた道とその末路を映し出す鏡なのだと。変えられないモノを変えようとした幼い自分と、変えなければいけないのに変われなかった弱い自分……漠然とした未来に恐れをなして何も出来なかった自分、全てを超越した高みに立ったふりをしていた自分、そして約束と言う名の呪いに縛られた自分……みんな、自分自身だったのだ。誰も彼もが仮面を被っていてもそれは鏡の仮面、映っている歪んだ貌は等しく己の本性、多面性を持った己自身なのだ。

 だが人はいびつに歪んだそれらを己の本性とは認めようとしない。逆にそれを破壊しようとして振る舞うのだ。その行為が己自身を更に歪ませるとも知らずに突き進んだ結果、あらゆる他者を拒絶した先に待つのは孤独という名の蟻地獄、あらゆる可能性の駆逐された逃れ得ぬ袋小路。自分自身、そして今まさに争い続けるこの姉妹もまた、その地獄に埋没する亡者だ。果たせない呪縛に呑まれて底なし沼に沈着するのを待つだけの枯葉だ。哀れとは口が裂けても言えない、今やここにいる全員がそうなのだから。

 今やこの姉妹の無益な争いを止める方法は唯一つ、今から自分が行おうとしている事に対してトレーゼが自嘲の笑みを漏らす。

 (皮肉だな、あれほど拒絶していた奴と同じことを今からしようとしているとは……)

 ほとんど持っているだけだった武装を改めて構え直し、足代わりに徹していた状態からトレーゼ自身が戦闘態勢を執る。だがその行動はアミタの意志を代行するものではない、今や彼は彼自身の意志でもってこの事態を収束に導こうとしていた。

 「お前たち二人は行くところまで行かなければ解り合えない。俺がそこへ連れて行く」

 平行線に敷かれたレールが交わるのはいつだって終点だ、車輪が擦り切れる前にそこへ辿り着かなければ列車は脱線事故を引き起こしてしまう。

 全てを背負うつもりはない、他人の業を背負って行けるほど強くなったつもりはない。これはケジメだ、過去から現在、そして未来へと連綿と続いた悪しき呪縛を断ち切る瞬間、それを乗り越えるためのもの。そしてその儀式は自分の為だけではない……今や己の合わせ鏡でもあるこの二人の醜い争いを、己の道に付き合わせてしまった二人をここで止める為に、全てを終わらせる。

 「…………あの子を……」

 「…………」

 「あの子を、キリエを……お願いします!」

 「了解した」

 刹那、それまでトレーゼが立っていた場所には小規模のクレーターが残された。物理法則の限界に喧嘩を売るような速度は一瞬、世界を灰色の中に置き去りにして、先に牽制で撃ち出した光弾よりも速くキリエに到達するという因果律さえ捻じ曲げるような奇跡を発生させるに至った。

 「ッ……!?!?」

 ギアーズの反応速度さえ遥か彼方に凌駕したその速度は切り裂いた風圧が頬を撫でるよりもずっと速く、振り上げられた爪先がその胴体を袈裟斬りにした。

 左脚の付け根から右肩にかけて走った衝撃はキリエのAIに痛覚として到達するよりも先に、本来彼女にあるはずのない本能として警告が発せられていた。この世に生まれ出て初めて対峙する圧倒的格上の存在に対し、彼女の脳は何度も回避の命令を下すも、繰り出される連撃の数々はその命令が実行される前に彼女の体を的確に破壊していく。ものの十秒と経たずにその体は胸元を僅かに残した状態で後は完全に破壊され尽くし、憎らしげな視線はもはや最後の抵抗となりつつあった。

 「キリエ……」

 「どうする?」

 「……いえ、問われるまでもありません。お願いします!」

 その一言を受け、もはや地面に転がるだけだったキリエの眉間目がけて、トレーゼは銃剣を深々と突き入れた。刃は確かに外装の奥に隠された電子頭脳を刺し貫き、キリエに唯一許されていた思考という行為さえ奪い尽くす。その証拠に彼女の目からは徐々に光が消え去り、今やその意識は手離されようとしていた。

 「キリエ……ッ!!」

 「な、ンで……なのよォ……。どオしデ、分ガって……くれナイのよォ……!! イヤなのに……ここにワ、ハカセがいるのに……アノヒトヲ、サビシガラセチャ、イケナイノニ……ィ!!」

 「キリエぇぇぇ!!!」

 「イヤヨ……コン、ナ、トコロデ……オワレ、ナイ…………シネ……ナイ……………………シヌノハ、コワ、イ……オネエ、チャ……ド……コ」

 「ここです! 私はここにいますよ!! キリエ!!」

 トレーゼから離れ、今にも事切れそうなキリエの頬を何度も何度も撫でながら必死になって呼びかける。こんな終わりしか有り得ないと分かっていても、本当はそれ以外の道を夢見ていた。きっとどこかで二人の道は交わることが出来ると信じていた。それが今……終わろうとしていた。

 「…………オ、ネエ……チャ…………────────」

 言葉が途切れた、それだけで分かった。

 もう既に「キリエ・フローリアン」と呼ばれた少女は此処には無い。此処に在るのはその骸、かつて生みの親と交わした約束を生涯守り続けた少女の亡骸だけ。逃れられない呪縛の果てに少女が見出したのは何だったのか……今となっては分からない。

 「……私も……私も、あなたと同じ道を歩みたかった……キリエェェェエエエエエッ!!!!!!」

 涙は流れない。だがアミティエの絶叫が雨乞いとなったのか、曇天から降り注いだ雨は彼女の頬を濡らしてその嘆きを包み込んでいた。










 「これからどうする?」

 キリエの残骸を持ち帰った研究所でトレーゼとアミタはこの先のことを話し合った。恐らくトレーゼのこれまでの生涯で初めて真面目に他者との会話を行った時間だった。

 しかし、それも長くは続かないと知る。

 「実は、キリエとの最初の戦闘で受けた傷の余波で、私の活動時間ももう長くはないんです……」

 「……直せないのか?」

 「はい。以前にも言いましたが、もうこの星には私たちを修理する技術も資源も、もう無いんです」

 「…………そうか」

 「最後に……もう一つだけ、お願いを聞いて下さい……」

 「何だ?」

 「私たち姉妹を……あの湖に、葬ってほしいんです。キリエは寂しがり屋だから……今までそんな事も気付いてあげられませんでしたけど、せめて最期は……あの子の本当の気持ちを理解できた今だから、一緒にいてあげたいんです」

 「……分かった」

 「よろしくお願いします……。私たちが居なくなった後、あなたはどうするんですか?」

 「分からない。だがどうした所で何も変わりはしない。どの道俺はもうここで終わる。この先ずっと自然に朽ち果てるまでの気が遠くなる間、俺は永遠に生き続ける」

 「……あなたは、それで良いのですか? 寂しくはないのですか……?」

 「……分からない」

 そう、分からない。自分はこの先もずっと漠然とした時間の中をただ生きるだろう。きっとこの当て所ない感覚を前にしてキリエは、そしてエリカは恐怖したのだろう。無為な時間がただただ己が擦り切れるまで変化する事無く続いて行く……それは生き地獄に他ならない。

 しかしそれは振り返ってみれば今までと同じことだ、これまでは自分から拒絶していたモノが、今度はそちらから拒絶されたと言うだけの話だ。もはや拒絶するモノさえも遠ざかり、トレーゼの見る世界には何も映ってはいない。

 だが自ら生き地獄に堕ちたからこそ解った事もある。

 「今まで俺が相対してきた者は、全員が『俺』だった。俺が殺した誰かも、俺を拒絶するあの人も、俺に心酔したあいつらも、俺を憎んだ奴らも……全てが、俺を映す鏡だった。お前達姉妹が互いにそうだったように、奴等も俺を理解しようとはせず、俺もまた奴等を理解しようなどとはこれっぽっちも思わなかった。そんな選択しさえ自分で排除していた……そんな物は意味が無いと勝手に断じていた、俺こそが全ての頂点、中心なのだと……」

 頂点とは「並び立つものが無い」こと、中心とは「全てにおいての空白」……そのココロは即ち、「孤独」。全てを失わなければ至れない境地、不純物が無いとはつまりこう言うこと、あらゆる可能性の失われた「無」の世界。

 「今だから理解した。理解できないから『他者』なのではない、理解して初めて『他者』なんだ。それが出来ない内は全てが自己、自分と他人を分かつ境界線さえ認識できていない幼稚な自意識の集合体だけが形成されていく。そして、全てが自己で埋め尽くされた世界には……どんな可能性も有りはしない」

 全てを己自身に置き換えた世界では得られるモノなど何も無い。成長も、退行も、進化も、学習も、自身を変化させる要因全てが駆逐され消滅した世界は湖底と同じ、そこに沈んだ石は風化も研磨もされる事なく化石となってでも永劫に残り続ける。

 そんな地獄が訪れると知っているからこそ、アミティエはトレーゼの未来を案ずる。

 「あなたは、私にとって恩人です。あなたのお陰で、私はキリエを理解することが出来ました……。進んだ道は交わりませんでしたが、最初で最後にあの子の本音を聞けました。それはあなたのお陰なんです。私は先が長くありません、せめてその恩に報いてから逝きたいんです!」

 「義理立ても必要ない。言ったろう、俺とお前は既に『他者』だ。もう道は分かたれたんだ」

 「ですが……! あなたはまだ誰にも“理解”されていないんじゃないんですか!」

 その昔、世の真理を悟った行者は自らが悟ったその真理を己だけで抱えて生きていこうとした。きっとこの真理を語って聞かせたところで、恐らく誰一人として自分と同じ境地に至るまで理解を深めることは無いだろうと……。今ならたった一人で悟りを開いたという行者の気分が少しは分かる。

 「あなたにも、きっと自分とは違う『他者』と知った上でなお理解してくれる人が居たんじゃないですか。その人に本当の意味で理解されたくないんですか!?」

 ふと、脳裏に青髪の少女が思い浮かぶ。不思議なものだ、今の今までその残影に憤怒と憎悪しか抱かなかったはずが、この境地に至った瞬間に純粋に懐かしさだけが込み上げてくる。今思えば彼女こそが自分の無為な人生の中で唯一の「他者」だったことを実感させられる。彼女こそ自分とは一切合財何の繋がりも見出せなかった交わるはずの無かった二者、にも関わらず彼女は自分に「理解」という救いを提示していた。彼女だけが異物であり、唯一対等な存在だったのだ。

 「……もう、遅いさ。後悔は先に立たない、もう何もかもが手遅れだよ」

 やり直しなど利かない、そんなご都合主義を許してしまうほど世界とは簡単に出来てはいない。物体にしろ概念にしろ、破壊し尽くした後に残るのはいつだって残骸だ。それを無理に繋ぎ合わせて直したつもりでも、実際はヒビだらけで元の機能を失った形だけのハリボテが出来上がるだけでしかない。

 それは違う、それは偽物だ、この身が骨の髄まで嫌悪した「本物ではないモノ」だ。だから下手な手を打って更に状態を悪化させてしまうのは、もう飽きたのだ。

 「もし……もし! チャンスがっ、あなたにそれをやり直せるだけのチャンスがあるとしたら……あなたはどうしますか!!?」

 「……慰めのつもりか。もういいんだ、もう手遅れ──」



 「あるんですよ!! 最後のチャンスがっ!!!」



 力強いその言葉に嘘が無いという事をトレーゼはすぐに看破した。アミタにはこの停滞したままの状況を覆すだけの「何か」を持っており、それを用いるチャンスを彼女自身ではなくこちらの為に譲ろうとしているのだと。

 「確かめたいんでしょ!! 本当に自分は誰にも理解されていないのか、それともそうじゃないのか、あなたにはそれを示してくれる誰かが居たんでしょ!!? だったら、それを確かめる方法があるなら飛びつくべきなんですよぉ!!」

 「……だが、そんな事は、誰も認められない……」

 「あーもうっ!! あなた今まで他人を突っ撥ねてでも自分のワガママを押し通して来たんでしょーが!! それを何で正真正銘、本当に自分のためだけに人生生きようって時になって躊躇するんです!! これまでの生活で私が見てきた傲岸で不遜なあなたは何だったんですか!! 最後の最後なんですよ!! ちょっとぐらい自分に素直になればいいじゃないですかぁーっ!!!!」

 怒りも露わに捲し上げる剣幕に思わずトレーゼも怯む。すると流石に自分でも言い過ぎたのかとアミタが佇まいを直しながら言い繕う。

 「すみません、ついカっとなってしまって。でも、あなたは私たちと違ってやり直す機会があるのは事実なんです。後はあなた自身が決断してください。強制でも義務でも使命でもなく、誰かとの約束を守るのでもなく……あなた自身の意志で、あなたが決めてください」

 「…………俺は……」

 良いのか、自分が辿ったこれまでの道程を引っ繰り返してしまうだけの奇跡、一度や二度も無いであろうご都合主義に、他ならぬ無為にし続けてきた自分が縋り付いてしまって良いのか逡巡してしまう。同時に、大義名分を失ってしまった自分がここまで行動力を発揮できないとは思いもよらず、思考の泥沼に囚われてしまいそうになる。

 戸惑いを見抜いたアミタがそっと手を重ねる。

 「良いんですよ、もうヘンな意地はらなくても……。あなたはあなた、誰にも咎めることは出来ません」

 「俺は……俺。俺は……俺は…………っ!!」



 葛藤の末にかつて機人だった者の選び取った道は……。



[17818] ターニング・ポイント
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2014/03/25 22:50
 姉妹の骨肉を削る争いから一週間後、アミティエ・フローリアンは静かに逝った。

 既に直る見込みの無かった彼女の脳を早期に機能停止させることで、事実上の安楽死に持ち込んだのはトレーゼである。彼女自身の申し出を受け入れたのには、これ以上彼女を生かしておいても意味が無いと知ったからだ。だがその真意はそれまでの冷酷さとは真逆に、どこまでも穏やかな判断だった。

 それまでトレーゼの自室となっていた資料室には機能停止した姉妹、アミタとキリエが安置されており、最期にアミタが力を振り絞ったのかその手は互いに固く繋がれていた。もうこれで二人が道を分かつことは無いだろう。

 「アミタ姉さま……」

 「キリエ姉さま……」

 「姉さま……」

 一家の長たる二人が立て続けに機能を停止した大事件を前にしても残りの弟妹たちは全ての事情を察し、その上で事を荒立てようとはしなかった。彼女らはこれからもグランツの教えを守り、二人の姉妹に変わって死蝕の研究を続けていくだろう。最後の一人になるまで、最後の一人になってもずっと……。

 「……葬送をする。手伝え」

 「かしこまりました。トレーゼさま」

 「それでは湖へ」

 「……いや、この二人は違う場所へ葬る。地面を掘り起こす器具を寄越せ」

 「どちらに?」

 「…………父親の隣に眠らせるだけだ」

 遺言では例の湖に沈めてほしいと言われていたが、彼女らはグランツが手塩に掛けて育てた最初の二人だ、他の弟妹を貶めるつもりはないが彼女らこそが「グランツの子供」だったのだと思えばこそ、唯一の肉親である者と同じ墓に埋めたかった。

 およそ二時間かけて墓穴を掘り、そこへ二人一緒に納めた棺桶を安置した。上から土を被せて埋葬し、その上に十字の墓標を二つ差し込んで葬送は終わった。その肉体は風化も朽ち果てもせず永遠に残り続けるだろうが、それはつまり彼女らが永遠に離れ離れになることは無いと言う意味でもある。宗教に語られる楽園と呼ばれる場所がもしあったとして、彼女ら二人を迎え入れるかは分からないが、それでも二人一緒ならその道を切り拓いて父親の元へと辿り着くだろう。

 「…………さて」

 葬儀とは即ち人生の締めくくり、つまりここから先においてトレーゼが亡き姉妹にすべき事など何もない。既に終わってしまった彼女らの道はここで途絶えている故に、トレーゼのエルトリアでの物語はここで幕を閉じる。ここから先はありえない、あらゆる彼に繋がる要素が断たれた今となってはいずれ閉じるこの無明の大地で織り成すべき物語など有りはしない。

 ではこのままトレーゼの生はここで終わりを迎えてしまうのか?

 そんなはずがない。彼の物語は今この場より新生を始めるのだ。










 「……エリカは言っていた、『自己満足ならやり通した者勝ちだと』。だが……それなら俺はまだ自分の自己満足さえ通し切れていない。中途半端、嘆くことさえ愚かなほどだ。だから、もしそれを最後までやり通せる機会を与えられるなら……俺は、それに全てを懸ける」

 「全てとは……何ですか?」

 「俺自身を懸ける。義理でも契約でもない、俺自身の意志、生まれて初めて選択する自分だけの意志で俺はそれを行う!」

 「なら! それを達成する勇気はありますか!? 例えやり直しを始めること自体が成功しても、あなたを取り囲む環境が変わる訳ではありません! そこにはあなた自身が作り出したおびただしい数の敵が待ち受けているかも知れません! それでも、それでもなお挑戦する覚悟がありますか!!」

 「敵が多いのは承知の上だ。元より俺の辿る道なんてそんな物だ、出会う者全てが敵だったとしてもそこに悔いは無い。俺がしたい事は唯一つ、確かめることだ。お前が諭したように俺にとって奴が何なのか、奴にとって俺と言う存在はどんなものだったのか、それだけを白黒はっきりつけたい。全てが敵かあるいは俺の影響を真に受け過ぎるだけの者しか居なかった俺の人生で、あいつはたった一人の異物だった。ただ俺と対立するだけではなく、俺の中の何かを見極めようともしていた。だから今度は俺が奴の真実を見抜く。そして知りたいんだ、奴がただの敵なのかそうでないのかを」

 「そこまで言えるなら答えなんて出かかってるようなものじゃないですか。でもあなたは直接問い質したいんですね。では、もしその人にすら拒絶された時、あなたはどうしますか? 全てが敵に回った世界であなたはどんな結末を迎えるつもりですか?」

 「俺は俺自身が目指す『正しさ』の為にここまで生きてきた。例えそれが紛い物であっても注いだ熱は俺自身のものだ。だから……その果てに行き着く結末がそれしか有り得ないなら、全てを甘んじて受け入れるだけだ」

 「全ての罪科をその身ひとつで償おうと言うのですか!」

 「そんなものじゃない。言ったはずだ、ケジメだと。それが俺の結末、どう足掻いてもそうなると言うのなら受け入れるしかない。全てが無で包まれたここと比べれば、敵だらけの場所でも天国だろうさ」

 「…………もう、決意は固いんですね。私がどうこう言ってもあなたは突き進むんですね」

 「焚き付けたのはお前だ。だがそれが最後の、正真正銘、この先二度と来ない好機だと言うのなら……お前の言うように俺はそれに乗るべきだ」

 溺れる者は藁をも掴む。ならば落ちる者ならそれこそ蜘蛛の糸でも掴むだろう。自らの目指すモノが想像を絶する高みに、例えそれが何の確証が無くとも可能性さえあれば人は挑まずにはいられない。底の底まで落ちたなら後は這い上がるだけ……簡単だ、何も難しいことではない。

 「俺は行く。今までだってずっとそうしてきた。元よりそれしか能が無かった。そんな俺に許されるのは様子見という名の停滞ではなく、諦めの後退でもない! 前へ、ただ前へ。“無限の進化”の名の如く、あらゆる障害を越えて追い求める目標へ前進するだけ。これまでと何も変わらない、変わったのは進むべき道だけだ」

 巡り来るのはラストチャンス、賭けるのは己自身。泣いても笑ってもこれが最後、ハイリスク・ノーリターンの負け戦に挑むのは何もかも失った裸一貫にのみ許された最終手段。トレーゼはその片道切符を手にすることを決めたのである。

 「そこまで覚悟を決めているならもう私から言うべき事は何もありません。私に出来るのはあなたにチャンスを与えることと、その前途を祈るだけです。研究所の最下層へ向かいます。連れて行ってください!」

 最下層は未だに行った事が無く、アミタを背負って向かったその場所はいつか映像再生機を取りに行った場所よりも更に闇に閉ざされていた。同時にそこは非常に狭く、エレベーターを降りればその部屋だけが空間の全てとなっていた。

 「これから話す事柄はとても荒唐無稽で、ともすれば鼻で笑われてしまうかも知れません。ですが、あえて真実だと宣言した上であなたに全て包み隠さず話します。どうか最後まで聞いて下さい」

 「ああ、分かった。聞かせろ」

 「はい……。ではまず、あなたはこの空間に何を感じますか? 厳密には、ここに並べられた機器や用いられているエネルギーについて」

 「…………」

 言われて初めて意識する。確かにこの空間に満ちるエネルギーは外の物とは何かが違っている。それに闇に眼が慣れてきて気付いたが、この部屋の床一面に彫られている紋様、これはまさか……。

 「ミッドチルダ式の魔導運用技術か。いや、こちらは古代ベルカに酷似している。こちらは……俺も知らないが、また別の術式か!」

 数多の幾何学図形と言語から成るのは魔法陣。それも一つや二つではない、ぱっと見ただけでも十を越える数の魔法陣がそれぞれ別々の術式を示し、それらが複雑に絡み合って一つの巨大な術式を形成している。意図的にしろ偶発にしろ、ここまでの完成度を誇る術式を構築したことが既に驚異だ。

 だがあまりに多くの術式を束ねたせいか、それらが組み合わさった結果どんな効果をもたらすのかは全く分からなかった。きっとこれらを構築したであろう者、恐らくグランツでさえこれがどんな効果を発揮するか全貌を理解してはいなかったに違いない。

 「あなたの予想通り、これは元々博士が開発しようとしていた物です。博士は死蝕の対策とギアーズの製造、そしてあなたの蘇生の三つを並行して研究していたと言いましたが、正確には四つ目が存在していたんです。それがこれです」

 「この世界にも魔導技術に相当する物があるとは知っていたが、これは明らかにその範疇に留まらない。一体何をしようとしていたんだ?」

 「推測になりますが、きっと博士は亡きエリカさまの意志を果たそうとしたんだと思います。いずれ目的を果たした彼女が元の世界に帰らなければならない事を知っていた博士は、お母様でもあるエリカさまの遺志を継ぐ為にこれの開発を急いだんだと思われます。ここまで話せばこの魔法陣が何を意味するのかお分かりですね?」

 「『次元転移』か……。また大掛かりな物を」

 かつて管理世界ではそれこそ頻繁に次元転移が行われていたが、あの技術が安全性を確立するのに掛かった時間は膨大に長い。それをこのグランツはエリカの記憶のみを頼りにその技術を再現したとすれば、彼はジェイル以上の天才になっていたかも知れない。

 だがこれを隠し玉とするにはインパクトが足りないのも事実だった。

 「第97管理外世界は既に存在しない。今更そんなところへ転移したところで、何も変わりはしない」

 「確かに、あなたの目指す場所はもうとっくの昔に消滅しています。今から駆け付けても遅すぎるのは当然です」

 「ならば……」

 「ではもし、その装置が単なる次元転移術式ではなかったとしたら……どうします?」

 「…………つまり?」

 「言いませんでしたか? 私は『やり直せる』と言ったんです。その言葉の意味、計れないあなたではないはずですよね」

 「……………………まさか……!」

 「はい。その、『まさか』です!」



 「これは『時空間遡行術式』なんです!!」



 “時間”は永遠にして不変、過去から現在を通り未来へ流れる大河である。だがその流れは現実のどんな河川の大氾濫よりも凄まじく、どんな手段を使っても堰き止めることは適わない。ましてやその流れに逆らって河を上ろうものなら、それは物理法則どころか因果律に対する挑戦、神をも恐れぬ所業である。

 だが目の前にある「これ」はその行為を可能とする。前人未到、未だかつてどんな科学者や力ある者達でさえ成し遂げられなかった至上命題、その一つを実現したと聞かされても単純に頷き難いのが本音だ。

 「あなたの言い分ももっともです。実際に私もその効果を目で見るまでは半信半疑、いえ、疑いしかありませんでした」

 「その言い方だと既に性能実験は?」

 「確認済みです。数回のみですが、その全てにおいて確実に時間を遡行した結果を記録しています。ほんの五分後から来た自分に見送られて、五分前の自分に会いに行く……言葉以上に奇妙な感覚でしたよ」

 「……嘘ではないんだな」

 「こんな状況でジョークを飛ばせるほど私の口は軽くありません。性能自体が本物だと証明されてから、博士と私はこの研究を中止し封印しました。もしこの技術が誰かの手に渡れば世界は死蝕以上の混乱に見舞われると、そう考えて私たちは決断しました。もしこの技術の存在をキリエが知っていれば、あの子の目指す計画ももっと違っていたでしょうね」

 「妹は知らなかったのか」

 「この研究が完成する頃にはすでに疎遠になっていましたから。結局これを知らされたのは私だけで、私の采配で今日まで封印してきましたが……今こそ、それを破る時だと確信しました」

 これが全て真実だとすれば、この世の中で偶然とは恐ろしいものだと思い知らされる。あらゆる人々の繋がりが一本の大きな流れを生み出し、たった一人の為の道を切り拓いてくれる。

 確かに時空間を遡行して過去に戻れば、まだ管理局が存続している時代にまで戻ることで出頭する事も可能だろう。それこそが亡きエリカとグランツが望んでいた未来であり、やがては自分が行き着かねばならない結末だからだ。

 「使い方は追々お教えします。あなたの場合はかなりの時間を遡る必要があるでしょうから、色々と準備をしなくてはいけません」

 「……そうか、俺は戻れるのか……」

 「……はい!」

 やり直すことが出来る……万感の想いはトレーゼを因果の楔から解き放つ時を待ち侘びていた。

 それから一週間、二人は寝る間さえ惜しんで「装置」のテストを行った。実際には「装置」の起動実験と、それを使用するトレーゼの耐久実験だった。

 というのも、時空間を移動する際には負荷がかかり、遡行する時間と転移する距離が離れれば離れるほどにそれらが増す。一度や二度であれば問題は無いが、場合によっては連続しての使用も考えられる為、操作中に殺人的な負荷が掛かれば移動先に死体が届いてしまいかねない。

 だからこそトレーゼは自分の体を使って自らの耐久値を底上げする。“無限の進化”を持ってすれば、反復を重ねることで肉体が有する耐久値は天井知らずに増加していく。七日間そのトレーニングを繰り返したことで、肉体が得た力は全盛期に匹敵する勢いで成長していったのだった。その過程で時間を遡るという事も真実であるのを目の当たりにし、ほんの数分後の未来からやってきた己を見た時は名状し難い奇妙な感覚に囚われた。

 同時に「装置」の性能実験も滞りなく進み、その効果範囲がおよそ100年前であっても充分に通用する事が理論上証明された。六日目には既にそれらの準備を終えてしまい、この世界で過ごす最後の日をトレーゼはアミティエと共に過ごした。

 他者を理解するという感覚は彼の中で一種の快感になりつつあった。具体的には、幼児が良い事をして親に褒められるような小さな快感。彼自身がそれを認識していたかは定かではないが、他者と真の意味で繋がりを持つ事を覚えた彼にとってそれはとても新鮮で瑞々しい感覚だった事に相違は無い。今やたった一人の他者となったアミタとの一対一の会話は、それまで内に閉じ籠っていた彼の中に未知の喜びを見出させるには充分だった。

 「それで博士はその時にですね!」

 「うむ……」

 「キリエは昔からそそっかしくて!」

 「そうか」

 話す内容は全て取り留めのない昔話。基本的にアミタが話してトレーゼが聞き手に回ると言うのが殆どだった。まだ幼かった自分達姉妹がグランツの教育を受けていた頃や、この周りの景色がどれほど美しく雄大であったか、その自然の中で経験したあらゆる出来事を語って聞かせてくれた。その中には今は亡きキリエの事も当然含まれており、イタズラ好きだった彼女に親子そろって幾度となく手を焼かされた事も話してくれた。それらの昔話を話す間のアミタはこれまでに見たことが無いほど活き活きとしたものであり、この表情こそが彼女本来の顔なのだと知ることが出来た。

 だがその間に時間は無情に過ぎていく。日の出と共に始めた語り合いも、外が闇に閉ざされる時間帯になる頃には互いに口数が少なくなり、夜が更けた時には完全に無口になっていた。だがそれは二人に話すことが無くなったからではない、もはやこの時間をもって二人は互いを理解しあったからだ。互いの心根を理解し信じ合い、ここにこうして友情が生まれたからだ。もはや語るべき言葉は無かった。

 そして再び夜が明け、運命の日が訪れる。

 「本当に、これで良かったのか?」

 「はい。私は私の生に悔いはありません。これで心安らかに……」

 「そうか。なら後は手筈通りにする。今まで世話になった」

 「こちらこそ。一度はあなたを殺そうとしたこと、どうか許してください。すみませんでした」

 「いや、いい。……では、そろそろいいか」

 「はい……さようなら、トレーゼさん」

 「さよなら、アミティエ・フローリアン」

 既にこの時、別れ際にはアミタの電子頭脳を停止させると取り決めていた。外部からエネルギーを取り入れて半永久的に活動を続ける彼女を停止させるべく、キリエと同じようにその頭部に刃を差し込むことでそうしたのだった。

 「アリガ、ト……ゥ……」

 姉妹が使っていた武装、『ヴァリアント・ザッパー』をそれぞれ片方ずつ形見として貰い受けた後、彼は二人を棺に納めて埋葬し、遥かなる大地エルトリアに別れを告げるのだった。

 場面は冒頭に戻る。葬送を終えた弟妹らに見送られてトレーゼは研究所の最下層へと戻ってきた。

 全てがここから始まる、その想いを胸に何度か繰り返した実験と同じように「装置」を起動させる……その前に、トレーゼはこれまで自分の道程を振り返る。一夜の宿に身を寄せる旅人がこれまで自分が通り過ぎてきた景色を思い出すように、今までの自分が辿ってきた道のりに思いを馳せる。

 最初はどこから始まったのだろうか? 己の中の最も古い記憶を呼び覚ますと、追想の果てに居るのはいつも敬愛した姉たちの存在だ。彼女らの背を追って自分は駆け抜けて来れた、彼女らを目指したから強くなろうとした、彼女らとの約束を守ろうとして全てを犠牲にしてきた。だがそれもここで終わりだ、過去は過去、思い出のままここに置いて行こう。

 転機はいつだったか? きっとそれは転写された記憶の中には無い「過去のトレーゼ」との決別だろう。幼い頃にハルト・ギルガスのエゴによって歪められた運命に翻弄され、本来であれば歩むはずのなかった道を歩まされた。責任を転嫁するつもりはないが、これまで起きた悲劇の発端は間違いなくそこにあるだろう。しかし、これは結局自分自身の問題なのだ。行うべきは粛清ではなく、贖罪である。

 戻れなくなったのは何故だったか? いつの間にか果たすべき約束は逃れられない呪縛となり、己の視界から全ての選択肢を奪い尽くしていた。もっと違う結末があったかも知れないのに、それを実践することさえ考えず、定まった運命の歯車は次々と悪循環を引き起こし、最も正しいはずの行為が最も望まない結果をもたらしてしまった。これからその清算をしに行くのだ。

 ゆっくり目を開ければ床の魔法陣は今や全てが光り輝き、使用者の転移を今か今かと待ち受けているようだった。それをこれ以上待たせることなく、トレーゼは時間の壁を越える旅に出る。

 湧き上がるような光が全身を包み込む。淡く揺らめくようだった粒子は眩い光を発しながら宙を舞い、重力の歪みで周囲の空間がレンズ効果で共に揺らめき出す。100年分もの時間を越えるとなると、目的の座標までの道を開くエネルギーは莫大なものになる。だがここにはいずれそうなる事を見越していたのか、この研究施設を丸数年稼働させ続けても問題ないほどの魔力が既に蓄えられていた。ここまで見越して協力してくれたアミタには感謝しかない。

 遥か昔に一人の科学者が打ち立てた理論さえ追い越して……。

 彼の体は今、光速に到達し、時を超える。










 パラドクス、矛盾、熱力学第二法則、エントロピー、因果律……様々な言い方をされるが、それらの本質はたった一つの共通項に集約される。つまりは不可逆、熱した目玉焼きは生卵には戻らないということだ。

 例えば地球には『親殺しのパラドクス』という有名な説話あった。ある者が過去に遡って自分を産む前の親を殺した場合、時間遡行を果たしたその者はどうなってしまうのか? 未来において自身の親となる者を殺したのだから今そこに居る本人も消え去るか、消え去るのならそもそも親殺しが行われないので存在するのか……この矛盾は延々と続いていくのだ。そして当時の科学者らはその押し問答をもってして皆一様に「タイムスリップは不可能」と判断した。

 因果とは即ち、原“因”と結“果”、二つで一つ。決してその間には割り込むことが出来ないと長らく信じられてきた。

 だがそれは裏を返せば未だ誰もそれを確認していないからだ、未確認であるが故に不可能だと言っているに等しい状況だった。かつてヒトが飛行機を作るまで人類は飛行など出来ないと言われてきた。星にある重力が働くのだから人間が空を飛べるはずがない、ましてや巨大な機材を使って重くすれば尚のこととずっと考えられていた。

 そしてここに、その定説を覆す者がいる事を、世界はまだ知らない。

 「……そうか……そういうことか」

 今、トレーゼの姿はこの世界にあってこの世界には無い。今や相対性理論の枠外にある彼の存在はこの世とは位相を別にする次元に位置し、さながらブラックホールの中心を通り過ぎる物質のように様々な光景が極限にまで引き伸ばされ眩い虹が彼の視界を覆い尽くしていた。彼が今移動しているのは空間の座標ではなく、100年にも及ぶ時間の流れを逆流しているのだ。三次元座標的にはかつてミッドチルダがあった所から海鳴の手前まで到達している。後は時間を遡った先で元の位相に戻るだけなのだ。

 そしてトレーゼの眼前に見える光景は、かつてこの街であった戦いの歴史。少年少女たちが辿って来た道の歴史だった。

 ある者は母の命に従い彼女の為に全てを投げ打った。そしてそれを受け止めた少女がいた。

 またある者は逃れられない呪縛に絶望することなく、信じる従者と友の協力によって愛すべき日常を取り戻した。

 それから長い年月が過ぎて新たに生まれた者、過ぎ去った者、様々な事があって「今」がある。何一つ欠けていてもここまで到達することはなかっただろう。それが解った今だからこそ、同時に自分の不始末で数百は下らない数の次元世界を滅ぼしてしまった事の愚かしさも理解できてしまう。これは救済ではない、あくまで己の尻拭いなのだ。

 その中のひとつに、見知った青髪の少女が辿った軌跡が見えた。風に乗り地を駆けるその姿に、トレーゼは見とれていた。

 そして同時に羨ましいと考えていた。自分と全く同じ存在だったはずなのに、彼女は自分の思うように生きていられる。それがずっと羨ましくて、そして嫉妬していた。今なら解る。今だから理解できる。たった一人のエゴによって歪められた流れはこれから修正され、罪人はその責を負わされる。

 だがそれは今ではない。まだだ、まだもう少しだけ……この先に行けばそれが叶うのだ。

 しかし、その道は阻まれる。

 「ッ!? これは!!」

 時間遡行が急停止する。これまでのデータと体感時間の経過から考えてきっと目的の場所は眼前まで迫ってきている。後はこの場から元の位相へ戻る事で時間遡行は完了する。それなのに、壁一枚向こう側の位相へ戻ることが出来ない。

 「壁か!!」

 物体が音速を越える時にも前方に圧縮される空気の層を突破できるかどうかが鍵になる。これまでの実験で行った遡行はどれも数分から一時間が限度だったから分からなかったが、流石に100年分ともなれば様々な不都合が生じてくる。一旦光速を超えて別位相へ入り込めば、次に通常空間へ出るには時間と空間の束縛を越えたそこから再び飛び出すためのエネルギーが必要になって来る。行く手を阻む「壁」の正体が圧縮された時間と空間であるならば、100年の「壁」を越えるだけのエネルギーを今のトレーゼは持ち合わせていない。

 景色が逆行する。背中に発生する謎の引力が今までトレーゼが遡って来たルートを引き返すように流れ始める。矛盾を許さない世界の力、とでも言うのだろうか。重力を振り切る力を持たないまま飛び出したロケットがいずれ地面に叩き付けられるように、トレーゼの存在は元の座標、新暦170年のエルトリアに引き戻されてしまう。

 (許されない……か)

 こんな結末も想定済みだった、全てを受け入れると言ったその言葉に嘘偽りはない。これが今の自分が持てる全力だった、そしてそれは現状を打破するには一歩及ばなかったと言うだけのことだ。用意された結末としてはとても中途半端だが、それも致し方のない事だと諦めるより他は無い。

 ロウで羽を固めたイカロスは大陽に近付き過ぎて落下し、深海に沈んで骨も拾われない。それが失敗した者の末路である。

 だが……もう少し、あと少しだけ、挑戦したかった。



 「こんな所で諦めるのか?」



 「っ……!?」

 声が聞こえる。空耳ではない、確かに自分とは違う何者かの声が鼓膜を打った。自分以外には誰も居ないはずのこの時空で、そもそも誰一人としてこちらを認識できるはずの無い世界で一体誰がトレーゼに接触できるのか。

 「どうした。そのように慌てふためくなど、まるでハトが……ハトが……えーっと、何だったか?」

 「アルカンシェルだよ!!」

 「全然違います。豆鉄砲じゃないと消滅しますよ、そのハト」

 ああ、知っている。目には見えず姿形など無くても声だけの存在となってでもそこに居る事が分かる。全てを悉く敵に回してきた自分の人生の中で数少ない協力者たち、たった一つの嘘を容認できずこの手で縊り殺した三人の少女……。

 「お前達……なぜ……」

 「『何故ここにいる』? と聞きたげな顔だな主殿よ。おっとそちらからは認識できないのか。それもそうか、我らマテリアルは肉体が消失し物質界には直接干渉できぬ身だ。初めて出会った時に見せたような無理な実体化さえもう出来ぬ。今や我らはこの時空に在って無いが如し、時の流れに揺蕩う陽炎よ」

 「……何があった。俺があそこで意識を手離してから、一体あそこで何が起こった?」

 「私たちも断片的にしか覚えていません。あの時、『闇の書』はあなた様に埋め込まれたジュエルシードから魔力を吸い上げて666のページを全て埋め尽くし、『砕け得ぬ闇』は確かに顕現しました。ですが……」

 「時間を遡って来たご主人様なら耳にしてるだろうけど、『闇の書』は暴走しちゃったってわけさ! 理由は色々あるけど、一番考えられる要因はやっぱりジュエルシードとの融合が原因だと思うね!」

 「分からない。確かにジュエルシードは次元世界を滅ぼすに足るエネルギーを有しているが、それだけではここまでの被害にはならない」

 「察しが良いな。その通り、我らも融合暴走が起こるまでついぞ忘れてしまっていたが、『砕け得ぬ闇』の核にはある魔力結晶が使用されておる。人間たちの言葉で言えばロストロギアに当たる物よ」

 「名は『エグザミア』。別名『永遠結晶』とも呼ばれ、その名の如く自ら莫大なエネルギーを生み出し続けることで永久機関とする代物です」

 「問題はこのエグザミアとご主人様のジュエルシードが共鳴反応を起こしちゃったことなんだよ。二つの魔力結晶核が生み出す相乗作用はたった一度の次元震だけじゃ飽き足らず、『砕け得ぬ闇』そのものまで完全に破壊、その衝撃でまた他の次元世界が吹っ飛んだんだよ!」

 爆発的に空間に解放されたエネルギーは瞬く間に大地を焼き、海を干上がらせ、空を割って世界そのものを粉微塵に破壊せしめた。それは天地開闢の光、ビッグバンにも匹敵する光と熱の波動は地球のみならず全ての次元世界にも干渉し、それらもまた同じように滅びに見舞われた。まるで核兵器の連鎖反応のようだ。

 これであの後何が起こったかは概ね理解できた。そして今なお元の座標に引き摺られながらトレーゼは自嘲の笑みを浮かべる。

 「俺を嗤いにきたか。かつて利用しようとしてそれを跳ね除けた者の末路を嘲笑いに……」

 それはそうだろう、元々彼女らと自分は純粋な協力関係ではなく利害の一致でくっ付いていたに過ぎない。だがそれはトレーゼ側から一方的に破棄された挙句、三人そろって彼に肉体を奪われ今はこうして時空の片隅に追いやられてしまっている。彼女らもまた被害者であると考えれば怒りを向けられても仕方のない事だと思われた。

 しかし、返された言葉は意外なものだった。

 「阿呆が! 少し会わぬ内に随分と的外れなことを言うようになったな」

 「なに?」

 「確かに我らが目覚めた時には既に全てが終わり、肉体さえ失い精神のみとなっているのを自覚した時は怒りも湧いた。次に会えば敵同士、きっとその骨肉さえ滅ぼすとさえ誓った」

 「ですが……『ここ』へ来たことで全てを理解しました」

 「ここは時間と空間が交わり入れ替わる場所。ありとあらゆる現在と過去、そして未来に通ずる旅路。肉体を捨てて意識だけの存在になって交じり合ったボク達は意図せずここへ来た」

 「恐らくあなた様もご覧になったでしょう。これまで自分が関わって来た人々の過去、歴史というものを。この時空はどういう理屈なのか進入した人が心に思い描く人物に関連した時間を垣間見ることが出来るようです。一種の覗き窓みたいなもの」

 「当然、我らもまた主殿の過去を垣間見た。人ならざる者として生まれ、数多の業を背負い、たったひとつの契約を果たす為だけに生きる……言葉以上に過酷な道のりを我らは見たのだ」

 「…………それで、何を言いたい」

 「ただ一言……。すまなかった!」

 哀れみか、トレーゼのその考えはすぐに払拭される。

 「我らは忠誠を誓うとのたまっておきながら、真実のところでは主殿を理解していなかった。その業を、悲しみを、孤独を……我らは知ったふりをしながら真に理解することをしなかった。当然だ、口では清らかに言い繕っても所詮我らは利用し、される間柄だった。そこには条件付きの信用だけしかない」

 「私達にあるのは唯一つ、『恥』のみ。あなたを理解しなかったこと、する努力さえ怠っていた事。そしてその状態であなた様の同志を謳って憚らなかったこと」

 「オカシイよね、全知全能が売りの闇の眷属がたった一人の心中さえ推し量れなかったなんてさ。失笑ものさ」

 「許してください、私達の愚かさを。そして狭矮な私達のエゴを……」

 何だそれは、変に気構えていたこちらがバカのようだ。

 いや、違うか。愚かなのは自分もだったか。

 「誰も彼も……大バカ者か」

 「応とも」

 「左様」

 「全くよな。己がここまで浅はかだったとは! だが……それを理解できた今はとても清々しいぞ。主殿と同じだ」

 「……それで、昔話をするつもりで俺に会った訳ではないだろう」

 「もちろん。元の位相へ、あの時代へ戻る為のお手伝いをさせていただきます」

 「出来るのか」

 「見た所、あと一押しが足りないみたいだよね! そこでボクらの出番ってわけさ!!」

 「主殿には確か魔力を奪い尽くす妙技があったはず」

 「DMFか、懐かしい」

 DMF……【ドレイン・マギリンク・フィールド】。魔力の結合作用を分解することでそれを霧散させるAMFを発展させ、分解した魔力を自分に還元させる集束魔法の応用だ。久しく使っていなかったが感覚的には問題ない、だが……。

 「今この時空にある希薄な魔力は、お前達の物のはずだ」

 「そーだよー?」

 「いいのか?」

 「良いも悪いも無いさ、そうしないとご主人様は壁を突破できないでしょ?」

 「でしたら、そうするだけのことです」

 きっと今のマテリアルは真空に漂う水素分子のように魔力が集合し、それが結合したことで希薄なネットワークを形成して微かに自己を保っている状態なのだろう。そこからネットワークの基盤ごと取り去ってしまえば後には何も残らない、彼女らの意識は魔力に分解されて跡形も無く消滅してしまうだろう。

 それでも、それを承知の上で彼女らは言っているのだ。

 「変えるのだろう、己の道を。ならその道程で払う些末な犠牲など気にするでない。今までだってそうして来たであろうに」

 「……そうだな。そうだったな」

 「ああ、そうともさ。行くが良い我らが主よ。きっと……この結末を変えてくれ」

 離散していた魔力は今一か所に集まり、トレーゼの体、その両拳に宿る。今やこの場にマテリアルの意識は完全に消え去った。だがその熱は確かに残り、こうしてトレーゼに最後の壁を打ち破る力となってその道を切り拓く。

 時代は……変わる。










 新暦170年XX月XX日──。



 ……………………………

  ………………………

   …………………
 
    ……………

     ………

      …

     ………

    ……………

   …………………

  ………………………

 ……………………………



 新暦85年12月10日──。










 アンブレイカブル・ダーク、『砕け得ぬ闇』……失われた魔導書の再編を行うマテリアルらの最終目的であり、彼女らが復活を目指して雌伏の時を経てでも蘇らせたかったモノ。強大な力を有することだけが知られていたそれの正体とは即ち、彼女らと同じ魔導書を構成する上でのシステムの一つである。

 それがいつの時代から存在していたかは分からない。ひとつ確かなのは、ただの記録蒐集が目的だった『夜天の魔導書』が1000年の時を経る内に改造されて行き、呪いを帯びた『闇の書』に変じる過程で付け加えられた機能の一つである事は疑いようがない。それがどんな目的で付与された物かさえ今となっては不明だが、それが覚醒した時にどんな影響をもたらすかは明々白々だった。

 即ち、世界が滅ぶ。

 「システムU-D」の中枢に添えられている動力核は『永遠結晶エグザミア』、現代では解析されていない未知の魔力素を無尽蔵に生み出す機関であり、本来であれば『理』『力』『王』の三基による制御によって初めて安定した出力を得られる「無限連環機構」の中心。エグザミア単体では熱を放出するだけの炎に過ぎず、調整と統括を行うマテリアルの存在があって初めて形を成すことが出来るシステムなのだ。もしこのシステムが解析されれば、時間移動と並ぶ人類の夢のひとつである永久機関が完成するのも確実かもしれない。

 しかし、かつて原子力発電が発明された時に危惧されたように、永久機関とはその魅力以上に危険性が付き纏う。つまり暴走してしまえば無尽蔵のエネルギーが溢れ出し周囲を焼き尽くす恐れさえあるのだ。

 そして厄介な事に、原子力発電で言えば制御棒に当たる存在を今のシステムU-Dは欠いてしまっている。その結果、内部で生成されるエネルギーの熱量は指数関数的に増加の一途を辿り、やがてある一点を臨界としてそれは決壊してしまう。高純度かつ莫大な魔力のメルトダウンは街の百や二百、国の一つや二つを容易に滅ぼしてなお余りある力で大地を覆い、海を干上がらせて全てを呑みこむ。それだけに留まらず熱量は次元の壁さえ突破して世界を破壊してしまうのだ。

 結果、破壊の暴虐はU-D本体さえも巻き込んで尽く総てを滅ぼしてしまう。

 「────────」

 天を覆い隠すように広げられる魄翼の禍々しい血の赤。大鵬が飛び立たんとばかりに翼を広げるような動きでそれは世界を圧縮する。もしこの羽の先が空を押した時、世界と言う薄氷の大地は瞬く間に叩き割られてしまう。それを本能と直感で理解しているのか、立ち向かう魔導師と機人らの表情には隠しきれない焦りがあった。手を伸ばさなければ止められないと分かっていても、自分達の力量では天地が引っ繰り返ったところで敵わないと知ってしまった故に、その動きには諦めさえ見え隠れしている。

 「海鳴が……消える」

 誰が呟いたか分からない、だがそれは確かにこの海鳴の街のみならず地球の未来すら言い当てていた。

 膨らみ続ける熱量の圧力を前に、チームで一番若いエリオとキャロが互いの手を固く握り合う。そこにあるのは恐怖ではなく純粋な絶望のみ。これから自分達がどんな手を打ったとしても無駄に終わることが分かってしまったやるせなさ、無力感に耐えられず無意識に信頼できる者との繋がりを求めての行動だった。

 もうすぐ自分達は滅ぶ、何も残さずに滅ぶと分かっているのなら、せめて逝く時は一番親しい者の近くで……既に覚悟を決めた今、エリオとキャロは迫り来る魄翼を前に目を閉じて……。



 次に開いて自分達がまだ生きている事に気が付いた。



 「あれ、なんで……?」

 同じ疑問をその場にいる全員が認識していた。雪崩か津波の如く眼前に迫っていたはずの魄翼は地面に接触する寸前で止まり、辛うじて世界は破壊されるのを免れていた。何故攻撃が止められたのかは分からない。自分達と敵の間に阻む物は何もない。

 いや、違う! 巨大な魄翼の噴出点である少女の頭上に何かある。空間の亀裂、いつぞやの次元震があった時と同じような亀裂が空の一部に走っていた。それに気を取られて少女の攻撃も止まっており、この空間にいる全員の視線がその亀裂に集中する。

 「────!!」

 亀裂に何か嫌な予感を覚えたのか、少女の手が掲げられその先に魔力が集中する。高密度に圧縮された魔力は物質化して巨大な結晶となり、それを投げ槍の要領で天蓋に向かって投擲する。音速を突破して届いた歪な槍は見事に空間の壁を越えて突き刺さり、亀裂を破ってこちら側に侵入しようとしていた何者かを迎撃したように見えた。

 だが、しかし……。

 ビキッ……!

 何かが割れる音がする。空間の亀裂ではない、そこに突き刺さった槍から聞こえている。目を凝らせば高密度に圧縮されどんな金属よりも硬いはずのその表面が、徐々に砕け散ろうとしているのが見えた。

 亀裂は広がり、広がり、そして遂に……砕ける!!

 ガラスを割るような轟音を響かせて彼が姿を現す。

 毒々しくも艶めいた紫の髪。

 大陽を知らぬような白磁の肌。

 猛禽を思わせる鋭い黄金の瞳。

 「あれはっ!!?」

 「まさか、そんな!!!」

 空間を割って結界の中に乱入してきたその正体は、トレーゼ。トレーゼ・スカリエッティ!

 生きていた? どうやって? そもそもなぜあんな所から? 皆の脳裏に共通の疑問が次々と点滅する。それもそうだ、この時間軸にいる彼女らにとってトレーゼは今さっき死亡したはずだった。95年の歳月だとか、エルトリアの死蝕だとか、彼自身の下した決断だとかは全て「今」の彼女らには何の関わりも無い事なのだから当然だ。

 だがそんなことはどうでもいい!

 「“13番目”ぇえぇぇえええええええええっ!!!」

 それまで身が竦む絶望に身動き一つ取れなかったのが嘘のように、全員が明確な敵意と殺意を持って突貫してくる。「今」の彼女らにとってトレーゼは結局“13番目”でしかない。その怒りも悲しみも恨みも、無かったことになってはいないのだ。

 糾弾を受ける覚悟はあるしそれが責務だと知ってはいる。だがそれは今ではない。

 「動け……!」

 アミティエとキリエの形見の品を振り上げ、ありったけの魔力を込めた弾丸を空に撃ち上げる。空中で花火の如く炸裂した魔力は結界の中にもうひとつの位相空間を作り出し、迫り来る彼女らとトレーゼの接触を拒む。

 「卑怯者!! 出て来い、くそったれぇぇえー!!!!」

 罵詈雑言に耳を傾ける暇などない。今から戦うべき相手は彼女らではない、むしろ彼女らは自分達との戦いに巻き込んではならない守るべき者達だ。これから己が戦うのは……。

 「…………」

 「あなたは……?」

 「トレーゼ。ただの、トレーゼだ。お前は?」

 「……名前は、ありません」

 鮮血の赤に染まった名も無き少女。システムU-D、アンブレイカブル・ダーク、砕け得ぬ闇……恐らく彼女自身を表す名はきっと別にあるはずだが、それを知る前にこれから両者は拳を交え殺し合わなくてはならない。そうしなければ、この少女と、それに囚われた者達を救う事はできない。

 「ダメ、わたしに近付かないで! わたしに近付いたら……あなたは、あなたは……!」

 「全てを壊すか?」

 「っ!? どうしてそれを?」

 「俺は……お前のした事がどんな結末をもたらしたか知っている。そしてそれは俺の責任でもある。だから、ここで決着をつける!」

 「そんなっ、ダメなんです!!」

 拒絶するように振るわれた魄翼が空間を軋ませる。涙ながらに訴える表情と行動が一致していないのは、既に膨れ上がるエネルギーを彼女自身が制御できる域を越えつつあるからだろう。暴れる一対の魄翼は内側から発生するエネルギーを少しでも発散させようと荒れ狂い、それでもなお熱量は天井知らずに上昇を続けていく。もしこの暴虐を馬鹿正直に正面から受け止めようものなら、その刹那に五体は原子の域まで分解されて消滅してしまうに違いない。

 だがそこまで分かっていれば取るべき行動に悩む必要も無い。

 ザッパーを連結させて巨大な両手剣を形成し突撃する。闇雲な行動ではない、既に彼の中には策があった。

 「来ないでぇぇえええええっ!!!」

 絶叫と共に魄翼が唸りを上げて迎撃してくる。絶対に当たってはならない、その先端にかすっただけでも半身が吹っ飛ぶだけでは済まなくなる。

 だが自身を消し去ろうとする攻撃の一手一手を間近で見て確信した事もある。これだけのエネルギーを有した攻撃を繰り出しておきながら、それらの軌道はトレーゼの命を滅却するには程遠いものばかりだ。確かに当たればこの身は一瞬たりとも耐え切れずに砕けるだろうが、軌道の尽くに当てようとする気迫が無い。

 これはただの威嚇、仔猫が自分のナワバリを侵す相手に対し総毛を立たせて追い払おうとする行為、相手を殺す意思が無いにも関わらず自分から何かを遠ざけようと必死になっているだけ。つまる所、この少女は優しすぎるのだ。同じ他者を疎ましく思っての行動でも、その中身は自分とは決定的に異なっている。自分が傷つくのが嫌で全てを拒絶した自分と、自分以外の誰かを傷付けてしまうのが耐えられず遠ざける彼女とでは、文字通り雲泥の差、天と地の開きがある。

 だからこそ、彼女を自分と同じ位置に堕としてはならない。

 「やだ……っ、来ないでってば!!!」

 「聞かん」

 幾度も地面を抉り抜く魄翼の連撃を寸前のところで回避を重ねながらトレーゼは徐々にその距離を詰めていく。脅しでは怯まない事をやっと理解した少女は更なる逃げ場を空に求めて飛び立った。それを追ってトレーゼも上空へと舞い上がる。

 「いやだ、追ってこないで!! わたしは誰も傷つけたくないのに!!」

 ああそうだ。この姿、自分は努力せずに喚き散らすだけで他人を寄せ付けないこの仕草……確かエリオだったかに指摘された事がある、「駄々っ子」だと。確かに現状を変える努力をしないまま今在る状態のみに固執しているのはただの愚鈍だ。しかもそれが可能性の模索もせずに選択肢から除外してしまっているのは論外だ。自分の過去を見せ付けられているようで、トレーゼは少女の足掻きが見苦しいものに思えてくる。そしてより彼女を救わなければならないと言う意志が胸の奥で燃え盛る。

 しかし、その決意に水を差す者がいるのも忘れてはならない。

 「“13番目”を確保せよ!!」

 飛行可能な魔導師たちが遂に結界を壊してトレーゼの追跡を始める。既に彼女らから伸ばされたバインドがその四肢を拘束しようと絡みつき、遂に彼の体は二重三重にも巻き付いた縛鎖によってその動きを止められたのだった。

 「くっ……!」

 「無駄な抵抗は止めなさい! あなたには殺害許可が降りています。管理局法に基き今ここで執行します!」

 その憎悪に揺るぎなく、その怒りに一点の曇りも無い。例えその激情に引き摺られているのだとしても、彼女らをここまでの狂気に陥れたのはやはり自分の所業なのだと再認識させられる。

 それは今自分を取り囲む全員がそうだった。お前の所為で、お前があんなことをしなければ、お前さえ居なければ……怨念が込められた殺気を遠慮なくぶつける彼女らの怒りは正当なものだ、そこにケチなどつけられるはずがない。だがやはりこうなる事を予想できていたとは言え、面と向かって向けられる憎悪の刃を自覚してしまった今ではその圧力に心が折れそうになる。背中に圧し掛かる罪科の重さは己の歩みを殺す枷となって手足を縛り、首輪に掛けられた鎖は強制的にこの身を断罪のギロチン台へと引っ張って行く。

 断罪。その首を切り落とし、残った胴体を十字架に掛けて燃やし尽くし灰にするまで……彼女らが求めるのはただそれだけだ。しかし彼女らが「断罪」を求めるのに対して己が為すべきは「贖罪」。罪とは一方的に断ち切るだけではそこで終わり、抱える罪を罪人自身に自覚させてこそ贖いは成立する。

 だから、ここでは終われない。

 「邪魔を、するなァッ!!!」

 DMFでバインドを魔力に分解して吸収して束縛から脱し、既に遥か天空へと逃れてしまった『砕け得ぬ闇』を追って再び飛翔を始める。このまま彼女に大気圏外にまで逃れられては流石に手出しは困難になってしまう。それまでに決着を着ける必要があるのだが、それは自分を追ってくる者達にも同じことが言える。道々で彼女らを説得できるならそれに越した事は無いが、そもそもそんな器用な真似ができるならここまで事態は深刻になっていない。

 ほんの数百メートルも上昇しない内に一筋の閃光が眼前に躍り出た。今追跡している面子でここまでの速度を出せるのは一人しか存在しない。

 「フェイト・テスタロッサ・ハラオウン……」

 「トレーゼ・スカリエッティ!」

 恐らくかつてと比べて大幅に弱体化してしまった今では彼女の速度には抵抗できない。ISすら失くした今となっては彼女のレベルにまで進化を果たす前に音速で細切れにされるのが落ちというものだ。

 どうする? 彼女はもう既にこちらに刃を向けている。力で押し切るか、言葉で説得させるか? どちらにせよ時間が掛かりすぎる。その間に後続に追いつかれてしまえば元の木阿弥だ。この状況で今更言うのも変な話だが、自分がどれほど詰んだ状態に置かれていたかを知らされた。

 風を切る音だけが耳元で煩く奏でられ、二人の間を冷たい沈黙が流れる。このまま睨み合いだけが続く方が遥かにマシだが、そうも行かないことを互いに知っていた。

 そして……フェイトが動く。

 大剣を再び分離して銃剣に変え寸前のところで一刀を防ぐ。重い一撃は首を刎ねるに相応しい威力を秘めていたが辛うじてフローリアンの形見の品を破壊するには至らず、更に斬り込もうとするフェイトとトレーゼの距離はじりじりと詰められていく。

 このままでは押し切られてしまう……そう危機を感じていたトレーゼの耳に思わぬ言葉が掛けられた。

 「貴方は誰ですか!?」

 「!?」

 突然振られた真剣な問いにこちらが面食らってしまった。確かに彼女らの視点から見ればこの時間軸のトレーゼは確かに死滅したはずなのでその疑問も当たり前だが、フェイトの言葉はそれとはまニュアンスの違う色合いを含んでいるのは明白だった。恐らくあの集団の中で彼女だけが違和感を覚えていたのだろう。

 「誰なの? トレーゼ・スカリエッティじゃない! あの人とは何かが違う、姿形が同じでも何かが違っている! 貴方は誰なの、答えなさい!!」

 「……何も変わってはいない、俺は俺だ、ただのトレーゼだ。お前がお前であるように、俺も俺だと言うだけのことだ。今更何を疑問に思うことがある!」

 「……でも、違う。私の知っている貴方じゃない。私たちが今まで戦ってきた貴方じゃない! 何者なの、貴方はっ! トレーゼ・スカリエッティじゃない!!」

 「俺を疑うのは勝手だ。ずっとそうしていろ。だが……何度も言ったはずだ、俺の邪魔をするなと」

 「なら! 教えて……貴方のことを! 貴方は何をしたいのか!!」

 いつだったか高町宅にて同じことを聞かれたことを思い出す。あの時は頑なに拒絶するしかなかったその言葉が不思議と今では胸に染みる。真っ直ぐにこちらを見据える赤い瞳にトレーゼは信頼を覚えようとしていた。

 そして遂に、両者は矛を収めて初めて対話の態勢を整える。

 「簡潔に要点だけ言う。今すぐにあれを無力化する必要がある。さもなければこの世界は消滅する」

 「どうしてそんな事が!?」

 「あれの中には無限に魔力を生成する永久機関が存在する。だが本来それを制御するマテリアルが取り込まれてしまった今、奴は直に臨界を迎えるだろう」

 そうなれば世界が滅ぶ……その危機を理解できたフェイトの顔色が変わり、トレーゼの肩を掴んで揺する。

 「どうすればっ、どうすれば止められるの!!」

 「方法はある。だが、可能性レベルの話だ。決してそれが確実なやり方とは限らないし、むしろ危険性の方が遥かに高い。たった一度だけのギャンブルだ、失敗は許されない」

 「……それをするの? 貴方が」

 「勘違いするな。ただの尻拭いだ、自分の不始末は自分で処理できる。だからお前達に世話を焼かれるほどじゃない。ただ邪魔をするな。それだけだ」

 一方的に会話を打ち切ってトレーゼは先を急ぐ。既に少女の後ろ姿は天空に米粒ほどの大きさになる様な遠くに位置し、時間のロスを埋めるべく全速力で単騎そこへと向かおうとした。

 しかし、振り切ったはずのフェイトがすぐに追い付く。だが今度は彼を捕えるつもりではなかった。

 「見くびらないで! ここは私の故郷、ここを、海鳴を守る使命は貴方より私の方が重い!!」

 「お前……」

 「捕まって! 一気に加速して距離を詰める!」

 「だが仲間から何を思われるか……!」

 「つべこべ言わないで早く!!」

 「……分かった」

 剣幕に圧されて伸ばされた右手を掴む。するとフェイトを覆っていたバリアジャケットがパージされ、高速機動形態の真・ソニックフォームへと変身し一瞬で超音速のスピードで飛行を始めた。後ろの方で友人の高町なのはが何か言っていたが、それさえ耳に入れずフェイトは飛翔する。

 「良かったのか?」

 「正直なところ、私は貴方を完全に信用したわけじゃない。でも……さっきまで私達が戦っていた貴方と、今の貴方は何かが違う。それだけでも信じるに値すると考えただけです」

 「……そうか」

 「それにいざとなれば貴方に洗脳されていた事にしておきます」

 「したたかな奴め」

 フェイトとトレーゼは瞬く間に少女との距離を詰めていき、逃げ果せたつもりで安心していた少女の眼前にまで迫ろうとしていた。

 やっと追跡者を振り解いて安心しかかっていた少女は顔面蒼白になり、再び破壊の魄翼を振り上げて二人を撃墜せんと放出する。

 「っくぅ!!」

 「っ!!」

 音速を越えたスピードに対応して迫り来る鮮血の魄翼をフェイトが回避し、トレーゼが撃ち落としていく。そうして二人は初めてであるにも関わらず息の合ったコンビネーションで迫る攻撃をクリアしながら前進し、目標まであと一歩という所にまでやって来た。

 しかし。

 「エンシェント……マトリクスッ!!!」

 空間に突き刺したのと同じ魔力の槍を構える少女。しかしその大きさはトレーゼを迎撃するのに使用した物より遥かに巨大で、市庁舎ビルよりも大きなそれが新幹線よりも速いスピードで二人に投擲された。既に距離を詰めていただけに回避が間に合わず、巨大すぎるそれを迎撃して壊すのは不可能と判断。ここまでかと諦めが頭をよぎった。

 「フェイトちゃぁぁぁん!!!」

 桜色の閃光が巨槍を打ち砕き撃墜する。砕けた結晶は煌びやかな光を反射して雨霰の如く地上に降り注ぎ、それに見とれている間にフェイトの長年の友人二人が追い付いてくる。

 「無事やったかフェイトちゃん!!」

 「わ、私は大丈夫! ありがとう、なのは! はやて!」

 「それよりも聞きたいことがあるんだけどなぁ……」

 「……『洗脳した』ことにしている」

 「え!? あ、あの……さ、『された』ことにしています!」

 「えー……なんなん、何がどうなってんの?」

 何やら状況について行けない高町と八神を相手に、トレーゼはフェイトと同じく状況を簡潔に述べる。その間にも目標からの攻撃は執拗に続き、二人を説得するのに少しの時間を要した。

 「そんな言葉を信用すると思ってるの!!」

 「だが事実だ。それに八神はやてなら気付いているだろう。奴は元々『闇の書』に属していた。奴の中で行き場の無いエネルギーがこれ以上膨れ上がればどうなるか、想像できないお前ではないはずだ」

 「……同じや、私が起こした『闇の書』の暴走と。あれと同じことがまた起こるっちゅうんか!?」

 「確実にな」

 「それなら! あの時と同じように早急に破壊してしまえば……!」

 「それでは駄目だっ!!」

 「何でや!? 今すぐにでも次元航行艦のアルカンシェルでブチ抜かなアカン! あの時やって……!」

 「お前の時とは状況が違う! 奴の中に何が囚われているのか知った上での発言か」

 そう、暴走を続ける『砕け得ぬ闇』の中には眷属のマテリアルのみならず、彼女らが捕えたスバルを始めトーレ、それにこの街に迷い込んだウーノ、セッテ、ノーヴェ、そしてヴィヴィオまでをも取り込んでいる。その状態で少女を破壊してしまえば中にいる彼女らも一緒に葬り去ってしまう事になるのだ。

 「やったら、どないせえっちゅうんや!! それもこれもこうなったんは、全部あんたの所為やないんか!!」

 「は、はやてちゃん!」

 「なのはちゃんは黙っとき! どうなんや、何とか言えや!!」

 胸倉を掴まれ引き寄せられ、互いの息が掛かりそうなほど近くで睨まれる。だがその勢いに負けることなくトレーゼも睨み返すようにはやての目を見据えた。

 「俺を殺りたいなら今すぐにでもそうしろ。何も迷うことはない、この首を刎ね飛ばせばそれだけで死ぬ。だがな……俺がするはずだった後始末はお前達にしてもらうぞ。それでもいいならそうしろ」

 「……っ!!」

 「さあ、どうする? ここで俺と一時的に協力して奴をどうにかするか、それともここで俺だけを殺して後で奴を始末するのか。二つに一つ、どうするんだ八神はやて!」

 「誰があんたなんかと協力するか!!」

 胸倉を突き放すと同時にはやてが背を向ける。もう話す事など無いと言わんばかりの行動にトレーゼは自分だけで立ち向かおうと武装を整えるが、そんな彼を今度ははやてが呼び止める。

 「どこに行くつもりや。まだ話半分やろ!」

 「……協力はしないんじゃなかったのか?」

 「確かにあんたに手ぇ貸すなんて考えただけで虫唾が走るわ! 今の今まで好き放題しておった輩が、自分の手に追えへん事態になったから水に流して手伝え言うんは調子良すぎるやろが!!」

 「…………」

 「せやけど……せやけど、ここであんたをぶっ殺して、私らだけであんたの尻拭いをするんはもっと気に食わへん! やからあんたには一番の先陣に立ってもらう! いつおっ死んでもええようにな!!」

 「感謝する」

 「勝手に言っとけ! ……私はそれでええけど、なのはちゃんはそれで納得できるんか?」

 「え! わ、私は……!」

 急に話を振られたのとこの状況に未だついていけないなのはや少し慌ててしまう。だがすぐに呼吸を整え咳払いをひとつし、凛とした視線でトレーゼを射抜いた。彼が心の奥底に何を抱えているのか言葉ではなく感覚、心で読み取ろうとする。

 「……………………」

 「あなたは確かに犯罪者、それも生みの親さえ越えた類を見ないほどの凶悪な人。関係ある人も無い人もひっくるめて色んな人を傷付けて来た。それは絶対に許されないこと」

 「分かっている」

 「でも一度だけ、たった一度だけあなたが優しさを示してくれた事があったのを覚えてる? ヴィヴィオを返してくれたあの時よ。あの時、あなたはヴィヴィオを盾にしてどんな汚い要求だって呑ませることが出来たのに、ヴィヴィオの怪我も治して私に掛けた魔法も消してくれた」

 「……そんなこともあったか」

 「例えあれがあなたにとってほんの気紛れだったとしても……もしあの時の決断と同じ心があなたにあるのなら、私はそれを信じる! あなたの中にある善を信じる!」

 「……それでええんか、なのはちゃん」

 「やれる事をやらずに後悔したくないの。努力して、打てる手は全部打って、それでも失敗した時は素直に諦める。でもまだ私は何も出来てない、何もやれていない! だったら……この手に乗らないわけにはいかないと思うの!」

 「お前にとって今のやるべき事が、俺を信用することだと言うのか。つくづく、お前達の考えは度し難い上に解せない。だが……今は感謝しておこう」

 「あなたに頭を下げられると妙な気分になりますね。でも今は……ありがとう」

 差し出される汚れの無い手、それをしばし凝視した後トレーゼはその手を固く握り締めた。恐らく最初で最後、呉越同舟、ここに敵対し合っていた者同士の協定が結ばれた瞬間である。










 もちろん、その協力体制を全員が認めるはずなど無い。それを容認してしまえば今まで自分達が行ってきた事が茶番に堕ちると分かっている故に、今更になって受け入れ難い事実が残りの全員を打ちのめした。

 「ふざけてるッスか!? あいつをぶっ殺すために今まで血ヘド吐く思いでここまで来たってのに、それを手の平返して組めって……! 私らをバカにしてるんスね!!」

 「こればかりは私もウェンディに同意です! 『砕け得ぬ闇』だか何だか知りませんが、そんなモノは“13番目”を倒してからでも間に合います!!」

 「……いや、恐らくそれは無理だろう」

 「ザフィーラさん!?」

 「かつてこの街で『闇の書』の防衛プログラムが暴走した時もその対応に一刻を争った。『砕け得ぬ闇』がどれほどの脅威かは計りかねるが、此度はそこにジュエルシードまで加わっている事を考えれば、我らに“13番目”を討伐する猶予は残されていない」

 「ザフィーラに同意見だ。私見になるが弱体化した“13番目”がもたらす影響より、今まさに臨界を迎えんとしている奴を放置してしまう事で被る害悪の方が無視できない。下手をすればこの地球が消し飛ぶだけでは済まなくなる。それに奴の中にはお前達の姉妹もいる。それを助け出すには“13番目”の力が必要不可欠になってくる」

 「だからっ!! どうしてっ、そこでっ、あいつの協力が要るんだよ!!」

 激昂するセインが指差すのは、魄翼を振り乱しながら逃走を図る少女を追って同じく海鳴の上空で飛行を続ける。その軌道はまるで羊を追う犬のように俊敏で、逃げ惑う少女をこの街から一歩も逃がさないようにしていた。

 「だいたい、『闇の書』って言ったら八神二佐の専売特許じゃないか! あんな野郎に交渉されたって跳ね除けりゃ済んだ話だろ!!」

 「それが事態はそう簡単には終わらんのや……」

 「なんでさ!!」

 「確かに私は『闇の書』の最後の主やけど、今私が持っとるこれは一度破壊した魔導書を復元した別モンや。んでもって、マテリアルの連中が持っとった魔導書も『闇の書』を再現しとるけども、その実態は私らが知っておる『闇の書』やあらへん。完全なパチモン、専門外や」

 「どれだけ外見が似ていてもCDとDVDが違うのと同じだ。連中は既に主はやてがどうこう出来る範疇を越えている」

 「それに引き換え“13番目”は一度はあの子達の主にまでなってるの。『砕け得ぬ闇』にその支配権を奪われちゃっても根っこの部分の繋がりは私達よりずっと強いはず。そこから相手の支配権を奪い返せば……」

 「スバル達が戻ってくる!?」

 それは願っても無いこと、報酬としては申し分の無い対価と言えよう。しかしそれだけでは理由としては弱い。

 「それってさ……あいつが力を取り戻す手伝いをしろってこと?」

 「……結果的にはそうなる」

 「ちょ!? 冗談じゃない!! 何か知らないけどやっとこさ弱らせた矢先に、何で私らが病み上がりに協力してやる義理があるのさ!! やってらんないよッ!!」

 「同感ッスね。何をトチ狂ってあんな奴の……!」

 「セイン! ウェンディ!!」

 「残念ですが、私達もこれ以上手を貸す理由が無くなりました。後は機動六課の方々で何とかしてください。行きましょう、オットー」

 「そんな……!」

 今のナンバーズで一番の年長になるセインの離脱に伴い、次々と戦闘機人が自ら戦線を退いて行く。復讐を望んでここまで来た彼女らにとってその大義名分を奪われた今、わざわざこんな茶番に付き合う義理も謂れもない。そんな彼女らの心中を痛いほど知っている為に、はやて達は引き止めることが出来ず見送るしかなかった。

 後に残ったのはいつもの面々。機動六課の時と同じメンバーだった。

 否、一人だけ違っていた。

 「ねえ、それで何をすればいいの?」

 「……ディエチ?」

 たった一人、他の姉妹が皆愛想を尽かして出て行った中で一人だけ、ディエチ・ナカジマだけは違った。得物のイノーメスカノンの調整を今終えたのか、勇壮に肩に担いで指示を仰ぐ。

 「あなたは行かないの?」

 「どこに? 私はただ今の自分に出来ることをするだけ。後のことは後で考えればいい。それに……チンクなら多分こうしたと思うから」

 狙撃する砲手は己に課せられた役目を淡々とこなすだけ。例えそこに割り切れない思いがあったとしても、今は違う、今はその時ではないと切り捨てて行く強さがあった。達成感を味わうのも後悔に打ちひしがれるのも全て後で出来る、世界が滅んでしまわなければ。

 かくして、呉越が同乗する泥舟は辛うじて戦に乗り込むことが出来たのである。










 時間が過ぎれば過ぎ行くほどにトレーゼは徐々に全盛期の頃に戻って行く。だが恐らくその力を取り戻す頃にはこの世界は跡形も無く消し飛んでいる。今の彼に出来るのは、焼け石に水と知りながらでも相手の魔力を奪って自分に還元するだけだ。

 「来ないでって……っ、言ってるのにぃぃぃっ!!!!」

 イタチごっこに苛立っているのは相手も同じか、それまで槍の形成に使っていた魔力を用いて巨大な腕を創造しトレーゼを押し潰そうとする。左右両側から迫る圧力を受けて全身の関節が軋み悲鳴を上げ、力の限り抵抗するトレーゼの腕から血が噴き出る。蚊を叩き潰すように自分を挟み込む掌は冷たく、重く、そして暗い。それは少女に潜む悪意を具現化したようであり、彼女の悲しみを代弁するようでもあった。

 「っく……それで、それでいいのか?」

 「な、なにが……!?」

 「何も出来ない、何も為せない、何もしたくない……そんな拒絶の果てに何があるのかお前は知っているのか。腐り、朽ち果て、風化していく哀れな死骸になってまで生き恥を晒していくだけだ。それを分かっていて何故改めようとしない!」

 「あなたが……あなたがそれを言うんですか!! わたしも同じなのに……どうしてあなたがそんな事を言うんですかぁ!!!」

 新生した魔導書の主として連なっていたトレーゼの心中を最も理解していたのは、同じ書の中に封印されていたこの少女であることは疑いようがない。彼の暴走を間近で見つめていた彼女はきっとその姿に己を重ねていた。制御しきれない強大な力を持って生まれた自分の境遇と、あらゆる存在の敵対者となり孤独の道を行く彼を唯一の理解者だと思い込んでいたのだ。

 今は違う。トレーゼは自分を変える決意をし、少女は変わる努力をしなかった、それが決定的な相違である。だから少女はトレーゼを理解できない。むしろ裏切られたとさえ感じているだろう。彼からの忠告さえ今の彼女は自身を否定され煽られているように聞こえるだけだ、他ならぬトレーゼ自身がそうだったように彼女も行き着くところまで行かなければ自分の状況を受け入れられないのだ。だがそこまで行ってしまうと何もかもが手遅れになってしまう、だからどうしてもここで彼女を足止めしなくてはならない。

 図らずもこの状況はそれが叶っていた。今二人が対峙しているのは海鳴の街から離れた沖合の洋上、奇しくも十三年前に『闇の書の闇』を討滅した場所と同じポイントだった。そして少女はトレーゼを押し潰そうと躍起になっており移動していない。絶好のチャンスは今ここに在った。

 だがこの状況、裏を返せばトレーゼの絶体絶命の危機でもある。

 (連中が共倒れを望んでいるなら、ここで俺を助けてまで協力する義理は無いか……)

 このまま自分を放置して潰されれば、機動六課としては万々歳だろう。そうなれば『砕け得ぬ闇』へのアクセスは八神はやてに任されるが、その場合の成功率は極端に下がってもはやギャンブル的な数値になる。そうなると素直に破壊した方がずっと楽だが真実を知った彼女らがその行動に出る事は無いだろう。或いはここで自分が粘って彼女らの一助になれるように踏ん張るのも選択の一つだ。

 潰れた腕があらぬ方向に折れ曲がって圧力が更に体を押し潰す。常人と同じ骨が折れる感触と筋肉が幾本も断裂する音が体内を伝わって脳に届き、激痛が神経を蝕んで全身の力を抜き取る。だが倒れることは許されない。この身を押し潰せるのは正当な悪意のみ、即ち自分のした事に対する正義の名によって為される報復だけだ。その権利は未だに機動六課とナンバーズが持っている、断じてこの少女ではない。

 しかし、人間の力だけではもう耐え切ることは無理だった。吸収できる魔力量にも限界があり、それに反比例するように相手の熱量は増大していく。もう駄目かと心を決めた時……。

 オレンジ色の熱線が結晶腕を破壊した。

 「これは……ヘヴィバレル!! ディエチか!!」

 後方から来た援軍はキャロの操るフリードに乗ったエリオと、トレーゼにとっても意外だったディエチだった。先遣隊としてやって来た三人は圧力から解放されたトレーゼを回収し、洋上に取り残された『砕け得ぬ闇』の周辺を飛び回りながら攪乱する。

 「ケガはない?」

 「……解せないな。俺の予想だとお前も他の連中のように離脱するとばかり思っていた」

 「なら気分は爽快だね。そっちの予想を裏切れただけでも一矢報いた気分」

 「俺が憎くないのか。チンクを殺した俺を恨んではいないのか?」

 「勘違いしないで! 私は別にあなたの為に協力するんじゃない! 私はあれに囚われてるノーヴェやスバル達を助けるためにここに居るだけ。何を考えてるか知らないけど、今更改心したってそっちがしてきた仕打ちは変わらない、だから私はあなたを許さない!」

 「それでいい、こちらとて許しを乞うたつもりはない。今までと同じように俺は俺の意志で行動する。だからお前もそうしろ、ディエチ・ナカジマ」

 「言われなくたって……!!」

 不思議なものだ、彼女らの視点では今の今まで相争っていたはずの敵を前にここまでの啖呵を切って見せる上に、言いたい事を言い終えた後はもう無防備な背中を見せている。僅かとは言えその間に信用のような物が生まれているのは認めざるを得ないだろう。

 「キャロ・ル・ルシエ、もっと距離を詰めろ。ミドルレンジは奴の距離だ、大事な竜を潰されたくなければもっと接近しろ」

 「えぇ!? で、でもこれ以上は……!」

 「エリオ・モンディアル、その槍は飾りか。接近の際に貴様が牽制をしなくてどうする」

 「簡単に言いますけどね……!」

 「接近するまでの時間稼ぎはお前がしろ、ディエチ。三人は俺の腕が回復するか、この後来る本隊が到達するまでの時間稼ぎをすれば良い」

 「命令しないで。それぐらい自分でできる」

 臨戦態勢は整った。

 時空を越えたトレーゼの挑戦と、彼らを追ってきた機動六課が世界の崩壊を前に手を取り合った時、『砕け得ぬ闇』はこの時間軸でどう動くのか……それは未来から遡って来たトレーゼには分からない、ここから先は彼にとっても未知、故に全力で行く。

 「行くぞ」

 世界が崩壊するか否か、運命は彼らの手に委ねられた。



[17818] 闇は晴れ、昴輝く
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b3f2b376
Date: 2015/07/25 11:00
 エリオらを先遣にやらせた八神はやてを筆頭とする本隊は、現在その位置を海鳴の海上へと移していた。ヴォルケンリッターを中心としたチームで周囲一帯に新たな結界とバインドを用意し、戦闘を支える裏方に回した。直接戦闘はなのは達三強を中心とした魔導師チームで行うことになる。

 その中には気絶から回復したユーノ・スクライアの姿もあった。

 「まさか僕が倒れてる間に事態がそんな風に動いていたなんてね。しかも事もあろうに“13番目”と結託したんだってね」

 「ユーノ君も反対?」

 「そりゃそうだよ。でも相手が言ったようにこれが最善の策であることは間違いないからね。一番確率が高いならそれに越した事は無いさ。でも、これが終わればどうなるかは覚悟しておいた方がいいよ」

 「分かってる。でも多分ユーノ君が心配してる事にはならないと思うけどなあ」

 「それは君の勘かい、なのは?」

 特に追及はしなかった。なのはとの付き合いが一番長いユーノは何となくだが彼女の言わんとしている事を察していたし、もしもの時は彼女を守る覚悟があった。その意志は先ほど目の前でヴィヴィオを守り切れなかった事もあり、より堅固なものとしてその胸に宿っていた。

 「ポジションは確認できたな? それじゃあ、各員それぞれ配置につけ! ……の前に、この状況についてツッコミを入れたい奴もおるやろうから、今一度みんなにはこの状況に適応できるように心構えをしてもらいたい」

 「…………」

 「ぶっちゃけた話、私は自分で指揮を執るのも億劫なぐらいこの作戦には難色しか感じへん。さっきまでドンパチやり合っておった敵と手を組んで共同戦線を張るんは不安しかあらへん。それはきっと皆もそうやろう」

 「…………」

 「今もう一度確認します。もしこの私以上に難色を示し、作戦に支障をきたすレベルで心情が許さない者は……今この場でも構いません、離脱を許可します! ナンバーズの彼女らと共に作戦の離脱を申し出たい人は今すぐにでも……」

 「なーに悠長なこと言ってんだよ! はやてらしくねーぞ!」

 「ヴィータ?」

 「考えを変えろよはやて! あそこで暴れてるあいつは、元を辿れば私ら『闇の書』から出た錆びだ! それをあの“13番目”はご親切にも後片付けを手伝ってくれるんだぜ! こんな楽な仕事があるかよ!」

 「せ、せやけどやな……!」

 「なんも難しく考えなくてもいいんだよ! 要は優先順位ってのが変わっただけじゃねーか! それを小難しく考えるなんて、はやてらしくねーよ!」

 「……他の皆も同じこと考えとるんか?」

 「まあ概ね言いたいことはヴィータが言ってくれた」

 「私達は今の自分に出来る事をすればいい……今も昔も、そしてこれからだって。でしょ? はやてちゃん!」

 親友からの励ましの言葉を受けて思わず苦笑してしまうはやてだったが、確かにそうだと納得もしてしまう。今は十三年前と同じだ。あの時と違うのは予定外のゲストがいるだけであり、それもヴィータの言う様にそこまで難しく考える必要はないのかも知れない。

 ヴィータだけでなく、ここに残った全員に彼女と同じ固い意志がその目には宿っていた。

 「……せやな。何か皆の覚悟を損なうようなこと言うて悪かったなぁ。こっからはグダグダ言わんと真剣に行くから、皆遅れんとついて来てや!!」

 「了解っ!!」

 固い意志によって繋がったチームワークを確かめ合い、六課は囚われた仲間の救出と十三年前の因縁に終止符を打つべく、海鳴の空へと舞いあがった。










 一方、早々に見切りをつけて作戦行動から離脱したディエチを除くナンバーズは、海岸線から事の成り行きを静観していた。様子見ではなく静観、事がどちらに転ぼうと彼女らにはもう場に突入する気力は無い。そもそもそんな義理さえ無くなってしまった。

 「なんなんだよ……ちくしょう!!」

 腹立ち紛れに蹴った小石が暗い色を湛えた海へと落下していく。蹴り飛ばしたかった先には姉妹と怨敵の二人を乗せた竜が空を翔け、『砕け得ぬ闇』をこの海域より逃げ出さないように食い止めていた。恐らくもう少しすればあの憎き敵は潰れた両腕を完全に回復させ、戦線に復帰して自分の妹らと轡を並べるだろう。

 ますますもって、この状況が受け入れ難いものとなっていく。それと同時に怒りは沸々とセインの心をドス黒く染めていく。

 「くそ、くそくそぅ、クソクソクソッ! クソがぁーっ!!!!」

 地団駄を踏んでも何も変わらない。こんな結末になるなんて考えもしなかった。きっと誰も予想していなかっただろう、それまで餌を取り合っていがみ合っていたライオンと虎が横合いから首を突っ込んできたハイエナを追い出す為に一致団結するなど……笑い話にもならない。

 だが現にこうして事態は“13番目”と結束しなければ乗り越えられない様相となり、捕えられた仲間も敵の助けを借りなければ救えないという状況に苛立ちだけが募っていく。

 「何でディエチの奴はすまし顔でいられるんだよ……。おかしいだろ、こんなの! あんな奴絶対裏切るに決まってる! なんでそれが分からないんだよ、チンクだってあいつが殺したの知ってるだろ!!」

 「もうどうでもいいじゃないッスか! 六課まであっち側についた今、私らに出来ることなんて何もないッスよ……。ていうか、あんな状況になってまでやるだけバカみたいじゃないッスか。オットーとディードもそう思うッスよね?」

 「…………私たちのしてきた事って、何だったんでしょうね」

 目的を失ってしまった喪失感は耐え難い、それを身をもって実感している四人は全てに対して気力を失いつつあった。復讐、報復、断罪……それだけを頼りにここまで来たというのに、それを達成する目前で大義名分を奪い取られてしまったとあっては意気消沈するのも当然と言えよう。

 「このままでいいのかよ!! チンクの仇も討てないで、このまま敵の好き勝手にやらせて良いのかよ!! なあ、ウェンディ! オットー! ディード!!」

 「だからこうして抜け出したんじゃないですか。今の私達にできる反抗なんてこんなものです、セイン姉さま」

 「でも……でもさあ!! ……っ! オットーも何か言えよ、黙ってないで!!」

 さっきからずっと黙ったまま空を見上げる八女、その視線の先にはやはり空を翔ける竜にディエチらと共に跨る“13番目”の姿があり、彼女はそれを凝視していた。しかしその視線に込められた感情はこの場の他の三人とは違い、遠くの星を見上げるような恨み辛みなどマイナスの感情など一切無い澄んだ瞳をしていた。

 「オットー?」

 「……楽しそう。そう思わない、ディード?」

 「へ? 何がですか?」

 「あれ、見ててそう感じる。“13番目”は今……楽しんでる。ううん、『楽しんでる』っていうのは少し違うかもしれない。イキイキしてるんだと思う。自分のやりたい事をやれている感じ……」

 オットーの指摘に三人は今一度、空の彼方で戦う“13番目”の姿を見やる。どこに隠していたか分からないが二振りの銃剣を装備して空を翔け、魄翼を纏った少女を相手に戦いを仕掛けるその姿を。

 第一印象に感じたのは「必死さ」だった。それだけなら今までにもあったことだが、今までの彼にはその必死さの裏にどこか焦りがあった。強大な力を手に入れながらも自分が追い求めた本質から遠ざかって行く自己を修正しようともしていた。だが今はそんな焦燥はどこにも感じられず、以前と同じに戻った金の目はひとつの目標を確かに見据える意志が宿っていた。

 その目標に向かっているからなのか、今の“13番目”にはそれまでの迷走に見られた迷いが無い。何が目的かは知らないが、『砕け得ぬ闇』の打倒が大きく関わっている事だけは間違いなさそうだった。

 「それが何だって言うんスか!」

 「惨めだと思わない? あんな奴がイキイキと自分のしたい事をしてて、こっちはこんな所でウジウジとしてるだけなんて……不公平だよね」

 「それは……! だけど、仕方ないだろ! チンクの仇だってとれない今……!」

 「だったら後でも出来るじゃないか!! 何で私達だけこんな隅っこで何の生産性もなく縮こまってなきゃいけないのさ!! おかしいよっ!!!」

 「オ、オットー!?」

 物静かな妹の一転しての強烈な物言いに三人とも面食らう。特に双子でもあるディードは彼女の変わりようを前に戸惑いを隠せないようだった。

 「どうせ八神司令の命令だって無視したんでしょ! だったら、後で全部丸く収まってからでも良いから“13番目”をぶっ殺せばいいじゃないか!! なんでそんな簡単な割り切りが出来ないのさ!! このノロマ! ヘタレ! オタンコナス!!」

 「お、おた……!? どこでそんな言葉覚えたッスか!?」

 「そんなことどうだっていい!! 自分のやりたいことをせず腐ってるだけのセイン姉さまなんて、そんなのセイン姉さまじゃない! いつも自分のしたい事をして仕事サボってる姉さまはどこに行ったの!!」

 「あー、いや、あれはそんな深い意味とかは無いって言うか、その……。って、だったら何でオットーはこっちについて来たんだよ!?」

 「うるさい! ディードも呼んでたから何か策があるのかと期待してただけ!! ああ、もうっ!!! やってられない!!」

 地団駄を踏んで悔しがるオットーの表情はさっきまでのセインの比ではなく、頭を掻き毟る様に一同はしばし言葉を失った。

 だが少しすると落ち着いたのか、長い溜息をひとつして再び姉妹に問い掛けてきた。

 「姉さま達は何がしたいんですか? 奴でさえ自分のしたい事をしている今、私達だけこんなところで惨めに燻っていて良いんですか?」

 今はまだこの問いに答えられる者はいなかった。










 作戦は非常に単純だ。トレーゼが先陣を切って『砕け得ぬ闇』に突撃し、その直接支援をなのはら三人の隊長が支援、『砕け得ぬ闇』をヴォルケンリッターらが結界やバインドで足止めに徹するというものだ。

 最も重要なのは裏方とも言える結界班の働きに掛かっている。この作戦は捕えた『砕け得ぬ闇』をどんな手を使ってでも逃がさないようにする事が重要であり、逃げさえしなければ後はトレーゼが自動的に仕留めに掛かる。とは言え、今の状態で接近しても一方的にやられてしまうので、三隊長とユーノの四人体制でサポートし、フリードの背に乗ったキャロ達が遊撃手として敵の目を引き寄せる。

 それと同時にこの布陣は、前に出るトレーゼが少しでも不審な動きをすればすぐ追い打ちを掛けられる形になっており、結界魔導師であるユーノが前線にいるのはその時に彼の動きを止める役目も負っているからだ。

 「最低限の攪乱だけでいい。奴に隙を与えず、かつ本気にはさせず、そのさじ加減が肝要だ」

 「随分と簡単に言ってくれるなぁ。けどまあ、やるしかないやろ!」

 「外の連中には俺が奴の中から救出する者の回収も行ってもらう。上手く行けば芋づる式に取り出せるはずだが、期待はするなよ。行くぞ、遅れるな」

 「言われなくても!!」

 作戦行動開始と同時に海面を割って伸びる【鋼の軛】が白銀の森を形成するかの如く、『砕け得ぬ闇』の逃走経路を殺し尽くす。大地に逃げ場を無くした少女は空にそれを求めるが、素早く飛び出したフリードとその背に乗った者達が行く手を阻む。

 「邪魔っ、しないでぇぇぇぇえええええっ!!!」

 結晶腕が振るわれた直後に発生した衝撃波が空間を軋ませて押し響き、フリードを払い除けるだけでは飽き足らず海面を埋め尽くしていた銀杭の半数を薙ぎ倒す。その荒れ狂う力の前にして怯む面々だったが、そんな彼女らを追い抜いてトレーゼは宣言通り『砕け得ぬ闇』に向けて単身突撃する。

 ヴァリアント・ザッパーから弾幕を放ち目くらまし代わりにし、一瞬で肉薄した直後にその刃を少女の胸目がけて深々と突き立てた。

 「っ……くぁ!!?」

 もはや憎しみさえ籠っているのではと思われるほど、深く深く刺し込んだ右手の一本から魔力を注ぎ込む。ただの魔力ではない。今の彼は『砕け得ぬ闇』と直接アクセスするには直に接触するしかなく、魔力を注いで彼女の中に自分のネットワークを構築してからでないと支配権を取り戻せないのだ。だがアクセスに成功しても地力に天地の開きがある今では相手がその気になれば逆に押し切られてしまう。

 だからそうさせない為に彼女らがいる。

 「ああああああああああああぁぁあぁああぁああぁあああぁぁぁぁっっっ!!!!」

 「させないぃ!!」

 絶叫と共に噴出する魄翼がトレーゼを排除しようと一直線に空を翔ける。だがそれらをなのはやフェイト、はやて達が予定通りに撃墜して回り一つとしてトレーゼには届かない。一発でも当たればそれで何もかもご破算になる威力故に気は抜けないが、痛みに悶える今の状態では例え目と鼻の先でも正確な狙いは定まらないようだった。

 しかし噴き出すエネルギーの奔流はトレーゼを狙うものばかりではない。太陽光の如く放射状に吹き荒れる破壊の嵐は結界内のあらゆる物体を破壊し、逃げ場を潰す目的だった【鋼の軛】の群生はその余波で瞬く間に壊滅してしまった。無論それだけに留まらず、空間全体を隔離している結界もその圧力に耐え切れず修復する端から崩壊を始める。初めに二重三重に結界を展開していなければとっくに逃げ出されていただろう。

 「ストラグルバインドッ!!」

 特殊なバインドが『砕け得ぬ闇』の肉体に作用していた全ての強化魔法の類を解除しながら束縛する。しかし単純な肉体の力だけでそれらを掻き毟って引き千切り、自身の魔力を束ねた結晶の巨槍を周囲に乱れ撃つ。

 【鋼の軛】の何十倍もの大きさを誇るそれらが雨霰のように降り注ぎ、海底の地層に深々と爪痕を残し結界の維持に回っていたヴォルケンリッターを蹴散らす。更にそれらは地面に突き刺さって終わりではなく、本体と呼応するように内部の魔力を圧縮させて臨界に達し一気に爆発、焼夷弾の如く地上を焼き払う。

 「ヴィータ、シグナム、シャマルッ、ザフィーラ!!」

 「我らは大事ない! 案ずるな主はやて!!」

 「はやては自分の事に集中しててくれ! こっちはこっちで何とかしてやるよ! だから……ああぁっ!!?」

 「ヴィータ!!!」

 爆炎に呑まれた衝撃でついに結界の第一層が完全に破壊されてしまう。暴虐の乱気流はシグナムがこしらえた二層目も破壊しに掛かる。

 それだけではない。閉鎖空間で行き場を失くした魔力はその濃度を殺人的に増加させつつあり、時間が過ぎれば過ぎるほど生身である六課の面々にとって戦況は不利になっていく。だがここで結界に通気口でも設けようものならそこから『砕け得ぬ闇』が脱出する恐れがあるからそれもできない。急激に濃度を増した魔力は全身の細胞組織を崩壊し壊死させ、人体を徹底的に破壊してしまうだろう。だからその前に……。

 「俺が……食い止める!!」

 【ドレイン・マギリンク・フィールド】。接触した魔法や術式を分解し、魔力に還元して吸収する術。それを過去最大の出力で行使した今、『砕け得ぬ闇』から放出された魔力の大半はトレーゼへと雪崩れ込む。両者の位置関係は既に密着しているので吸い込む魔力の量は尋常ではなく、刹那の瞬間に殺人的な濃度の魔力が彼の体組織を蹂躙し通常なら回復不能なダメージを与えていく。

 「ぐぁうあああぁああああああああぁぁぁーっ!!!!」

 剥き出しになった神経にヤスリを掛けられているような激痛が全身を襲い、毒性を帯びた魔力の流れは毛細血管を次々と破裂させ目から血涙が流れ落ちた。頭に走る感覚を「頭痛」としか認識できない、しかしその痛みがもたらす破壊力は脳細胞が直に破壊されるものであり本来ならとっくに生物としての機能まで失っている損傷を負わされているはずだった。しかしどんな急激なダメージを受けても外部環境の変化として捉えそれに対する耐性を獲得する“無限の進化”は損傷を受けた細胞を片っ端から再生し、更に以前に受けたダメージに対する耐性、つまり猛毒の魔力を吸収しても問題ない体質へと肉体がアップデートされていく。

 急激に進んでいたはずの全身の壊死はものの十秒で反転して回復し、逆に吸い込んだ魔力を全身の神経に流し込んで感覚器官を活性化させる燃料に変換する。更にそれを元手にして流し込む魔力を倍返しにして、トレーゼは『砕け得ぬ闇』への深度を刻み込んでいく。

 しかし、事はそう上手く行かない。

 「来るナ……来ルナ、クルナクルナクルナクルナァッ、ワタシニィィィ、フレルナァァァアァァァァアアアアアッ!!!!」

 痛みに発狂する『砕け得ぬ闇』の絶叫と共に、自分の手を覆うように形成させた結晶腕を……。

 「ッ!!!!」

 右胸を貫く感触に全ての時間が止まってしまったように感じた最中、トレーゼはゆっくりと落下し始めた。

 手を伸ばしたフェイトが何かを言っているが聞こえない……。遅れたなのはの砲撃が『砕け得ぬ闇』の顔面を直撃した際、トレーゼも左手のザッパーをお返しとばかりにその脳天に叩き込んだ。胸に刺したのと同じかそれ以上の力で刺した刃は一瞬で少女の頭蓋を貫通して後頭部から突出し、その痛みに悶える絶叫は空気を圧縮して壁を作りトレーゼを彼方へと弾き飛ばしてしまった。

 紙屑か何かのように吹き飛ばされたトレーゼの体は刹那の瞬間に複層結界を飛び越え、着地という表現では物足りない勢いで砂浜に着弾した。柔らかい砂地を抉り固められた地面さえ削り取ってトレーゼの体は堤防をブレーキにようやく停止した。

 (……デカくするだけが、能ではなかったか……)

 自分の小さな手を覆うように形成した結晶腕はそれまでの力任せで巨大なものではなく、確実に相手の急所を攻める為に小型化していた為に対応が一瞬遅れてしまった。辛うじて心臓への直撃だけは避けたが、相手は傷口に思いもよらぬ土産物まで残していった。

 (マズいぞ……)

 相手が指を捻じ込んだ傷口には結晶化した爪がそのまま残っており、本体から送られてくる魔力で徐々に肥大化し増殖してトレーゼの肉体を侵しつつあった。それだけではない。食い込んだ結晶は『砕け得ぬ闇』が乱発していた結晶槍と同じように内部でその圧力を高めつつあり、それが臨界に達すれば爆発するのは目に見えて明らかだった。この至近距離で爆発すれば流石に致命傷では済まなくなる。そうと分かっていれば抜き取れば済む話なのだが……。

 (また腕が折れた)

 『砕け得ぬ闇』の咆哮を両腕で防ごうとしたが、衝撃は相殺し切れずトレーゼを弾き飛ばすついでに彼の腕さえ粉微塵に砕いた。再生できない傷ではないが、腕が動かせるようになる頃にはもう結晶は爆発してしまっているだろう。そうなれば確実に自分は絶命する、『砕け得ぬ闇』の攻略は不可能なものとなってしまう。今はDMFで結晶から魔力を吸い上げることで抵抗しているが、それも焼け石に水でしかない。別の誰かが胸に刺さったこれを引き抜かない限りトレーゼの寿命は決まってしまったも同然だ。

 だが全ての人間が『砕け得ぬ闇』へ攻撃を仕掛けている今、それを放ってここまで救助しに来る者はいない。トレーゼは時限爆弾が炸裂する瞬間を見せられながら絶命するしかなかった。

 しかし、運命は彼を岐路に立たせた。

 「よう、なに苦戦してるのさ」

 寄り掛かる堤防の上から声を掛ける誰か。見上げればそこにはトレーゼを見下ろす四人の少女の姿があった。事前に作戦を離脱していた四人のナンバーズである。

 「何考えてるか知らないッスけど、今ここであんたをぶっ殺してしまえば何もかも終わるッスよねぇ!!」

 「…………」

 「っ! 何とか言えよ! 黙り込んでんじゃねえぞ!!」

 「セイン姉さま、どうやら肺が潰されていて発声ができないようです」

 そう、右肺を潰された上に増殖する結晶を埋め込まれたトレーゼの肺は外部から十分な空気を取り込むことが出来ず、声を出す事すらままならない状態にあった。

 「あんたはチンクを殺した……肺が潰れた程度じゃ報いにはならない、もっともっと苦しめ!! 手足を失って、血ヘド吐きながらのたうち回って、もがき苦しみながら死ね!!」

 彼女らの憎悪は正当なものだ。こんな状況じゃなかったらとっくに望みどおりに振る舞っていただろう。そうする事が贖罪になるのなら、今の自分なら喜んでその通りにする。だが人生とはままならない、死にたいと思った時にはしぶとく生き延び、何か目標を見定めた時にはもう危うくなる。

 だが吐いた唾は飲み込めないと知りつつも、どんな結果も甘んじて全て受け入れると宣誓してもなお、まだ足掻こうとする。「このままでは終われない」、と……。

 「……っ!!」

 治りかけた右腕を動かして胸に刺さった結晶を抉ろうとする。だがまだ完全に筋肉が繋がれていない今のままでは満足に挙手さえ出来ず、僅か数センチ地を離れただけに終わった。結晶は肥大化を止めて遂に爆発を間近にして赤く輝き始めていた。

 ふと、風前の灯火となり消えゆく運命だった彼の前に誰かが降り立つ。顔を上げるとそこには自分と同じくらい無表情な鉄面皮があった。

 「オットー、何してるッスか!!」

 「そんな奴に関わることなんて……!」

 「姉さま達は黙っていてください」

 呼び止める姉たちの声を無視して、オットーはゆっくり伸ばしたその手を、指を……トレーゼの右胸に添えた。

 「多分あと少しで爆発するよね。ねえ、取り出してほしい? これが邪魔なんだよね。取ってほしいんだよね?」

 「…………」

 「ねえ、何とか答えたらどうなの。いつだったか私たちをコケにしたみたいにさ、ねえ、何とか言いなよ」

 「……ッ……」

 何か言葉を返そうと力むものの、口から溢れるのは肺から逆流してきた唾液混じりの血潮のみ。言葉を紡ごうと微かに動く唇も空気を震わせることなく、血の気を失って少しずつ青くなっていく。

 だが口の動きが表そうとしていた言葉を、オットーは読み取っていた。

 即ち、「助けてくれ」と。

 「このっ……!!!」

 意図を察した瞬間、オットーが取った行動はトレーゼに対し自身の鉄拳をお見舞いすることだった。木の枝を折ったような鈍い音がした瞬間、トレーゼの視界がグラグラと揺れる。だが殴打は一発では終わらなかった。

 「自分勝手! わがまま! やりたい放題!! 自己中心的!! この、このっ!! ふざけるな!!!」

 何度も、何度も何度も、その小さな手がトレーゼの顔面を殴り付ける。そこには他の三人と同じように憎悪が込められており、一発一発が重く顔面を揺らし、鼻血が出て頬が内出血で青黒く染まっても殴打は緩められなかった。

 何回目か、十から先を数えなくなって少ししてようやくオットーは殴るのを止めた。

 「……ッ!! 君はチンクの仇だ。ノーヴェを弄んで、セッテを誑かして、スバルまで……!! どの口がそんな事を言える資格があるんだ!」

 「オットー……」

 「いっそここで死んでしまえばいい! そうすればもう……何もかも終わるんだ!! でもっ、でも……それじゃあダメだ、ダメなんだよ!! 君は死にそうになってるからって、死んだらダメなんだ。セインの言う様にもっともっと苦しみもがいて、それから死ね! だから……!」

 胸に添えられた指が肉を抉り、結晶の塊を掴む。

 「こんなところで死ぬなんて楽な終わり方はさせない!!」

 そしてそれを引き抜き、握り潰した。ガラスが割れるような音と共に崩壊したそれは魔力となって空中に拡散し、傷口は生来の回復力によって短時間で閉じた。トレーゼが爆死する結末は変えられたのである。

 「オットー!!」

 「何やってるッスか! ここで放っておけばこいつは!」

 「ここで放っておいたら!! 何もしないまま放置していても、何も変えられない。あそこで戦っている皆の足を引っ張っているだけ。それなら今できることをしておきたい。だから今はこの人を助けておく」

 傷付いたトレーゼを乱暴ながら引き寄せて立たせ、肩を貸して海辺へと歩くオットー。海上ではトレーゼが抜けてしまった穴をかつて敵だった者達が必死になって埋めようとしており、奇跡的に誰一人として脱落した様子は無かった。

 「早く行って。君はこんなところで休む事なんて許されない。さあ、早く!」

 「……ああ……すまない」

 かつては間引こうとした妹に背を押されてトレーゼは再び飛翔する。セインやウェンディ、ディードらは最後まで複雑な表情を浮かべていたが、自分の為すべき事を成したオットーはその毅然とした表情の中に微かに微笑みを見た気がした。

 もちろん、許された訳ではないことは重々承知している。これから先も彼女らが自分を許す事などないと分かっている故に、トレーゼも彼女の行為を深読みはしない。今はただ感謝するだけだ。

 自分も、自分の為すべきことを成すのだ。










 「これで……これで良かったんだよね、チンク姉さま」

 「オットー……」

 「…………なんか、なんか納得いかないッス!」

 「私もです。でも、その行いが正しかったかどうかなんて後にならないと分かりません。だから……待ちましょう。オットーのした事が正しかったかどうか」










 復帰したトレーゼが見た物は、刃を突き立てられて痛みにもだえながら暴れ狂う『砕け得ぬ闇』の姿だった。辛うじてこちらを拒絶するだけでも人語を解していたのが、今ではもう両腕を振り上げて獣か何かのように雄叫びを上げて荒れ狂うしか出来なくなっていた。

 「何をボサっとしてんのや。アレなんとかせなアカンやろが!!」

 「予定通りだ。取り戻せたネットワークは微々たるものだが、今はそれで充分すぎる!」

 ザッパーは何も追い撃ちの為に刺したのではない。事前に魔力を刃に込めておくことで『砕け得ぬ闇』の内部に繋いだネットワークを潰されないようにする予防策だった。どうやらそれは功を奏したらしく、彼女の中にはトレーゼが張っておいたネットワークがまだ生きていた。つまり逆転のチャンスはまだ存在しているのだ。

 「まずは第一段階だ。最初の一人を奴の中から引きずり出す!!」

 そして最初に救い出す人物はもう決まっている。

 魄翼の嵐を掻い潜り、結晶のミサイルを真正面から破壊して、トレーゼは『砕け得ぬ闇』に肉薄すると刃を指した胸に手を翳した。瞬間、辺り一面に眩い真紅の光が輝く。ただの光ではないのかまともにそれを浴びた『砕け得ぬ闇』は顔を押さえて更に暴れるが、眉間に刺しておいた刃を手綱代わりに強引に押さえ付けて逃れられないようにする。

 「返してもらうぞ。一度は俺が貰い受けたものだ」

 右手で頭部を、左手で胸に突き刺した銃剣を掴み、二本を裁ちバサミの要領で引き寄せ『砕け得ぬ闇』の上半身を両断して見せる。鮮血の代わりに噴き出るのは毒性を帯びた漆黒の魔力の塊、今やそれを至近距離で大量に浴びてもトレーゼには何のダメージにもならない。両者の力関係は徐々にだが同じ土俵に立たされようとしていた。

 そして遂に、趨勢はトレーゼの側に傾こうとしていた。

 「アアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァーーーッ!!!!」

 相手の絶叫もお構いなしに腹開きに両断した断面に手を突っ込み、ぐちゃぐちゃに流動するマグマのような熱の中から何かを掴み上げる。危険を冒してまで接触しネットワークを構築していたのは全てこのため、と言うより最初に「彼女」を救助しなければ支配権の奪取など出来るはずがないのだ。そして乱雑な『砕け得ぬ闇』の中にその居場所を特定すれば、後はサルベージするだけだ。

 「俺はお前達を名前で呼んだ事など一度も無かった。だがそれは間違っていた。他者であるのなら名前で呼んで然るべきだったんだ……」

 掴んだ腕は小さく、強く握るこちらと同じくらい強く向こうも握り返してくる。

 「お前の名前も今なら分かる。来い、俺の元へと戻って来い! 『闇統べる王』……ロード・ディアーチェ!!」

 汚泥のような魔力をまき散らしながら遂にトレーゼの腕は内部に取り込まれていた最初の一人を救い上げた。それは彼が敬愛する姉ではなく、ましてやスバルやヴィヴィオでもなかった。恐らく六課の面々にとっては予想外の人物、マテリアルの中核を担っていた『王』を名乗る少女が最初の救助者となったのである。

 魔力の渦から肉体を創造した瞬間は一糸纏わぬ姿だったその肉体に、相手から奪い取った魔力でバリアジャケットを構成、今再び現界し自らの真の名を取り戻した少女は三対六枚の闇翼を広げて世界に降臨する。

 「フ、フフフ、フハハハハハハハハーッ!!! 満を持して『闇統べる王』、ここに再臨せり!! ひれ伏せ塵芥めら!! ここから先に貴様らの出番は無いわー!!」

 「うっわー、何なんこのテンション……。てか、何でそいつから先に助けたんや!? もっと他に優先せなアカン奴おるやろ!!」

 「フン! 分かっておらんのは貴様の方だ! この『王のマテリアル』改め、『闇統べる王』ことロード・ディアーチェの力とは即ち、無限連環機構の中心たる『砕け得ぬ闇』の統制こそが真価よ!! 言わば操縦桿、この我が存在せねばそもそも彼奴の攻略など出来るはずもなし! 流石は主殿よ、我らでさえ今しがたまで忘却しておった真実にいち早く気付くとはな!!」

 「いや、お前から聞いた」

 「そうかそうか! 我から聞いた……ん? あれ? んん!?」

 「案山子のように頭を捻るのは後にしろ。今の貴様は『王』だ、傲岸に不遜に全てを支配する『王』だ! 奴は元々お前の下にあったモノだ。取り戻せ、お前の力を。お前に在ったモノ全てを!!」

 「っ!! ……ハッ、我も嘗められたものよなぁ、主殿。よもやこのロード・ディアーチェが同族一人も手中に収められぬほどに落ちぶれていると、主殿は本気で考えておられるのか?」

 天に掲げたエルシニアクロイツに闇色の光が満ちる。それは再びトレーゼの眷属に返り咲いた彼女の悦びと、溢れ出る自信のほどを如実に表す力の奔流だった。

 「見縊るな!! 我こそは『闇統べる王』ぞ! この世の影と闇は全て我が領域、我が麾下、我が下僕!! 『砕け得ぬ闇』とて同じこと! 同じ闇の一字を名乗るのであれば『王』たる我に支配できぬ道理は無しッ!!」

 「それでいい。期待している」

 「応とも! では行くぞ、我が忠節誓いし主よ!!」

 「ここから先は俺たちで始末をつける!! 機動六課は手を出すな!!」

 未だ多くの者達を捕えたままの『砕け得ぬ闇』目掛けてたった二人の精鋭が一気呵成とばかりに突撃した。

 「ああ、アァァアアアアァァアアアアア゛ァァァアーッ!!!!」

 真っ二つに腹開きにした敵はその姿を変え、切断面からは大小様々な牙が生え揃って蠢き合い、もはや人の形さえ保っていなかった。裂けた頭は巨大な食虫花のように獲物を求めてさまよい、その喉奥から延びた数本の触手が空を切ってトレーゼ達に迫る。

 「主殿の邪魔はさせんわぁっ!!」

 しかしそれを露払いと切り伏せて先陣を切るディアーチェと、彼女に後れを取らないように追従するトレーゼ。オリジナル譲りの広範囲爆撃魔法を上手く利用して衝撃波のベールを生み出し、相手の攻撃を相殺し撃墜しつつ自分達はその間を縫うように『砕け得ぬ闇』へ進軍していく。当然接近する度に攻撃は猛攻なものになって行くが、杖を振り回し暴虐の限りを尽くす嵐となったディアーチェには通じない。

 「フハハハハーッ! 無駄無駄ァ!!」

 「気を付けろ。奴の力は侮れない」

 「心配してくれるのか。心優しいのは結構だが、些末な事をいちいち気にするでない。無益な優しさは毒よ、魂を堕落させる。主殿は我以上に傲慢で在ってくれ。でなければ『王』である我が傅く意味が無くなってしまう」

 「……俺を恨まないのか?」

 「それこそ些末なことよ。何より、主殿はこうして我らを迎えにきたではないか。今はそれだけで良い!」

 ディアーチェの手が、闇の名を持つ者としては対照的な白く小さい手がトレーゼの腕を引く。二人分の加速を得て一気に飛翔した二人はその加速のまま『砕け得ぬ闇』の醜悪な横面に……。

 「はぁぁああああー!!!」

 鉄拳一撃。食い込んだ拳は巨大な口腔に並んでいた牙を粉砕し、肉の中に隠れた骨格を微塵に粉砕した。そしてすかさずディアーチェがその口に杖を突っ込み……。

 「たんと喰らえ……。『ジャガーノート』!!!」

 本来であれば四方の大地を焼き払う爆撃魔法をその体内に向けて放出する。想定外の魔力を注ぎ込まれたその体は一瞬にして風船のように膨らみ、内部から漏れ出る微かな熱量が少し離れたこちらの肌に熱く届く。しかしそれだけでは止まらない。

 「お返しだ!」

 こちらに向かって投げ放題だった結晶の槍を全て束ね、全方位から『砕け得ぬ闇』を串刺しにする。その姿はさながらハリセンボンとやらだが、別に不出来なモニュメントを作りたいが為にこうした訳ではない。

 「動きは止めた! やれ!!」

 「相分かった!」

 全身を串刺しにされ身動きがとれなくなった『砕け得ぬ闇』へ向けて杖を翳す。その先に蓄積する光は攻撃のためではなく、『砕け得ぬ闇』に囚われた者達の座標を特定するためのものだ。『王のマテリアル』である彼女だからこそ出来る芸当であり、その中から遂に目的の物を見つけ出す。

 「見つけたぞ、我が愛すべき同胞らよ!」

 膨れ上がった肉壁の内側から異なる二色の輝きが滲み出る。ここにいる事を強く主張するような輝きを前にトレーゼが前へ出て手を差し伸べる。二つの光は解放の時を今か今かと待ち侘びながら彼の元へと馳せ参じ、トレーゼはそれを柔らかく包み込むように抱き止める。

 「名はもう知っていような、主殿?」

 「ああ。当然だ」

 オレンジ色の光を左手に、水色の光を右手に携え、彼女らの肉体を象る分の魔力を注ぎ込む。

 「『星光の殲滅者』……シュテル・ザ・デストラクター」

 「──ここに」

 「『雷刃の襲撃者』……レヴィ・ザ・スラッシャー」

 「──御前に」

 顕現した二人のマテリアルが両側に控え傅く。それと同時に彼女らの分のリソースを取り戻したことで、トレーゼの内側にかつての全盛期に近付くには充分なほどの力が湧き上がってくる。総量としてはまだ『砕け得ぬ闇』と並ぶべくもないが、核となるマテリアルを奪還したとなれば打つ手はこれまで以上に増える。

 「う~ん! やっぱりご主人様の傍が一番居心地がイイね! おまけにボクら自身も忘却してしまっていた真名まで取り戻してくれるなんて!! 嗚呼、なんて至福! なんたる甘美! 感激で涙が溢れ出るよ!!」

 「遅ればせながら馳せ参じました。この力を存分にお使いください、トレーゼ様」

 「……だが未だシステムの大半は奴が握っている。これからどう趨勢をこちらに転がせるかが勝負だ」

 「なに、案ずることは無い。策はある」

 そう言ってディアーチェが紫の魔導書を手に取りそこに魔力を込める。『砕け得ぬ闇』という中枢を抜き取られた魔導書は大部分が白紙だったが、彼女らが扱う分に不自由しないだけのリソースは残されていた。

 「策だと?」

 「応とも。無限に増殖する奴の力に対抗する為にはこちらもそれに並び立つ力が必要になろう。即ち、一撃ごとに必殺の威力を込めて間髪入れず攻撃を繰り返す……これに尽きる」

 再生はおろか反撃すら許さない力の暴威をもってすれば確かにどんな強敵も一掃できるだろう。だが事がそう簡単に運ぶのなら苦労はない。同じ土俵に立ったとは言い難いこの状況でそんな力を手にすることなど果たして可能なのだろうか。

 「言ったではないか、策はあるのだ!」

 そう高らかに宣言するとディアーチェはシュテルとレヴィの肩に手を回し彼女らを抱きかかえる。そして己ら三人の魔力を繋ぎ合わせ統合し始めた。

 「我らマテリアルは元々三つでひとつ。魔力を活性化させる『力』、それを制御する『理』に加え、こやつらの受け皿となる『王』がそれぞれの役割を負っているのだ。今から我らは再び一つとなり、三つの力を一つに束ねる! そしてその力を主殿に全て託そうぞ!!」

 眩い光に包まれた後、そこにはディアーチェが一人だけ残っていた。しかしその背に生える翼は赤と青を混ぜた色鮮やかな三色に輝き、全身から溢れ出る魔力は彼女が二人のマテリアルを取り込みより強力な存在となった事を表していた。だがこれだけではまだ終わらない。

 「行くぞ主殿!! 合体だァッ!!!」

 「合体? もしや、ユニゾンとか言う奴か? 出来るのか?」

 「奴を倒すにはもはやこれしかない! マテリアル三基用いてのユニゾンなど我にもどうなるか全く想像がつかぬ。だがその力は恐らくベルカの騎士が行うものより強大なものとなろうぞ! それこそ奴と同等の力を手にすることさえ出来よう!!」

 「……やるしかないか。後悔は無いな?」

 「誰に口を利いておる。そも、我と主殿がやるのだ! 失敗など有り得ん!!」

 互いに手を取り合い魔力を繋ぎ合わせる。ユニゾンは手練の術者でも成功しにくい高等技術、もし失敗すれば融合事故を引き起こし、周囲一帯に魔力の爆発が起こるだろう。だがギャンブルになると分かっていても止めることは無い。今の己にできる最善を尽くさなければそれこそ後悔する事になってしまうからだ。



 「ユニゾン──ッ!!」「──インッ!!」



 闇色の光が周囲全てを包み込む。全てを闇の中に閉ざすような黒い光の中でトレーゼは、四人は確かにその身と心をひとつにしようとしていた。

 心臓が、脳が、五感が、指先が、魂が……一度透き通って無になり、その上に四つ色が上塗りされて新たな力を形作る。異なる存在は全て溶けて融合し、全く別の何かへと変異する。流れ込む力の濁流を制し身を任せ、己と彼女らの境を取り払った先に見えたのは……紫天の境地である。

 闇の中より再び姿を見せた時、トレーゼの姿は大きく変わっていた。

 「“13番目”……なの?」

 「なんつーカッコや……!」

 黒い髪に紅い瞳、ここまでなら以前に闇の書の力を手にした時と同じだった。騎士甲冑に似たバリアジャケットには紫のラインが走り、背に羽織ったマントが風になびいて大きく揺らめく様は陽炎のよう、そして艶めかしい黒髪は融合した三人分を足した以上に長く伸びていた。全身を黒一色で覆い尽くし空に立つその姿は、かつて『祝福の風』と名付けられた者を彷彿とさせ、そしてその内に秘めたる力の総量もまたかつての彼女と同じぐらいのものを抱えていた。

 「…………」

 ふう、と息を吐いて一気に伸びた自分の髪を束ねる。そして新生した自分の体をしげしげと見回してから、両腕を大きく天に掲げ……。

 「『みなぎるぞパワー』『溢れるぞ魔力』『震えるほど暗黒』!!!」

 「はァ!?」

 「ちょ、何を言うとんねん!!」

 「おい、何を勝手に俺の体で喋くっている」

 どうやら内部のマテリアル達が彼の体を使って思い思いの言葉を言わせていただけのようだ。

 「何や、その調子やと融合は成功したんやな!?」

 「そうだ。……と言いたいが、まだ若干不安定ではある。事故を起こすほどでもないが、あまり長くこの状態ではいられない。だから……」

 刹那、トレーゼの姿が消える。

 それまで彼がいたから一瞬だけ紅い爛光が筋となって流れ落ちた後、『砕け得ぬ闇』の巨体が轟音を響かせながら宙に舞った。音が響いた箇所はバットの直撃を受けたボールのようにひん曲がり、巨体はカーブした楕円形に歪む。

 「っ!!?」

 ボンッ、ボンッと爆弾が炸裂するような音だけを響かせて巨体が宙を跳ね回る姿は奇怪だったが、最後の一撃を受けて海に撃墜された時、そこには下方に拳を突き出した体勢のトレーゼが姿を現していた。超高速の乱打を裏付けるように鉄拳には蒸気が沸き立ち、乱れた長髪が風に流れる様はある種の妖しさをも醸し出していた。逆に拳の嵐をその身に受けた『砕け得ぬ闇』の体は殴られた箇所から砂糖菓子のようにボロボロと崩れ落ち、四人分の魔力を統合したトレーゼの力が今やっと敵を打ち砕くに足る領域へと並び立った事を意味していた。

 「だからすぐにケリをつける。長引かせはしない」

 すっと手を前に差し出し、紅い雷光が迸る。魔力を纏った雷光は二振りのザッパーを通じてその刃に宿り、連結した大剣を携えたその姿はさながら古代の壁画に描かれる戦士のようでもあった。荒々しくも雄々しく仁王立ちとなり強大な敵に立ち向かう力を得た戦士が今ここに誕生したのである。

 対する『砕け得ぬ闇』もまた、膨れ上がった無駄な外皮を全て脱ぎ捨てて再び少女の姿に戻っていた。しかし最早その目は獣性に支配され、牙を剥き出し口の端から唾液を垂れ流しながら唸り声を上げるその様は、もう彼女の魂が人の理の範疇から追いやられている事を意味していた。だが、だからと言って彼女を見捨てる理由にはならない。例えそれが理性を失った獣同然の醜悪な姿に成り果てようとも、それだけでは彼女を見捨てる道理は成立しないのだ。

 恐らくは此処が底、彼女が知る意味での真の地獄だろう。忘却の果てに眠りに着いていた今までとは違い全てを失った今、彼女を守るものは何も無い。だからこそ、ゼロから始めるにはちょうど良い。

 「グガ、アアアアアアアァァァッ!!!」

 「……行くぞ」

 二人同時に爪先が空を蹴った瞬間、その場の誰の目にも捉えられないほどの攻撃の応酬が始まった。重い衝突音と、何かが削れる破壊音……。衝撃波を伴って移動する互いの体が何度も何度もぶつかり合い互いの骨肉を抉り鬩ぎ削る、文字通りの血で血を洗う猛攻の嵐。

 「ガアァッ!!!」

 少女の腕がトレーゼの下顎を削り取る。歯が微塵に砕け散り舌も千切れ飛ぶが、次の瞬間にはそれらは再生し今度はトレーゼから反撃される。

 「っ!!!」

 トレーゼの貫き手が小さな胸を肋骨ごと抉って心臓を潰す。手を抜くと同時に横に薙いで胴体を切断し、下半身を一蹴して海に突き飛ばす。当然相手も高速で再生を果たして更なる攻撃に踏み切る。

 そこから先は互いに野蛮としか言い様のない有様だった。血で血を洗い、力で力を屈服させ、どちらの精神が先に折れるかの根競べ……ではない、この戦いはそうではないのだ。

 殴る、蹴る、叩く、貫く、潰す、抉る、撃つ、斬る……およそ百を越える数の攻撃方法を互いに千回叩き込み、更にそれを万回は繰り返す。海を割り、空を裂き、地を削るそれらの応酬は世界に穴させ生じさせるのではと錯覚させる圧力に達し、息を吐かせぬ剣戟の乱気流はその場に居合わせた誰にも認識する暇さえ与えず猛烈に過ぎ去っていくだけだった。ディアーチェが言ったように、繰り出される一撃一撃は必殺以上の力を秘めており、互いに再生能力が無ければ半身が消し飛んで絶命していたであろう、そんな荒れ狂う力と力の激突が二つの“闇”の間で激しく乱れ飛んでいた。

 「ッ!!」

 「……!!」

 互いに突き出した拳と拳が衝突し、世界が歪む。圧力で指が捻じ曲がり、骨は粉微塵になり、肉は破裂する。止め処ない力の暴走はそのまま『砕け得ぬ闇』が抱える闇よりも暗く黒い絶望の暗示……その絶望の深海から彼女を引き上げるには、彼女自身からも手を伸ばしてもらわなければならない。だがそれに必要なのはただ彼女を力で屈服させる事では無い。その心を無理矢理に屈服させて現状を受け入れさせたのでは、それは救いでも何でもない、彼女自身にその意志がなくてはならないのだ。

 その為にはまたしても、「彼女」と同じ行為をするしかない。差し伸べられる全ての手を弾いた己にそんな事ができる義理があるのかは疑わしい。しかし、今にして思えばあの善性に全てを懸けるしかない。

 「…………」

 そう決意したトレーゼは……全ての攻撃を止め、手を降ろした。握っていた銃剣も腰に差して武装すら放棄し、大きく広げた両手はもう拳さえ作っていなかった。

 そう、トレーゼはもう戦う事すら放棄したのである。

 この奇行を前に『砕け得ぬ闇』に初めて戸惑いの表情が露わになった。全てを破壊する忌み子として生み出された己を前によもや戦う意志すら捨てた者など、それこそこの暴威を前に命を諦めた者しか存在しなかった。しかし目の前の彼はそうではない。むしろその逆、圧倒的な力を獲得してこちらを迎撃していた時よりももっと強い意志を秘めた瞳でこちらを見返す様子に、『砕け得ぬ闇』はただ訳も分からず戸惑っていた。

 「…………」

 「イヤッ、こないで……! こっちに来ないでェッ!!!」

 拒絶の意志を受けて魄翼がうねりトレーゼを包み込む。一瞬にしてその皮膚は焼け爛れ肉は焦げ、骨が灰になって拡散する。しかし魔力の全てを回復に回して耐え切ったトレーゼは赤と黒の乱流の中、自ら『砕け得ぬ闇』に向けてゆっくりと前進する。台風の中を目的地に向かって確かに進む旅人のように、腕を大きく広げたまま防御もせずに彼は少女へと詰め寄って行く。

 恐れを成したのは少女の方だった。圧倒的な力と痛み、そして恐怖を見せ付ければ誰もが自分から逃れた、触れることさえしなかった。それなのに目の前の彼は一向に恐れない、挫けない、膝さえ屈しない。こんな人間は見た事など無かった。

 だから怖い!

 これだけの暴威を前に弱音を吐かない存在が、これほどまでに強い存在が自分に迫っているという事実に気がふれそうになる。拒絶の意志のみで支える弱い自分が、その強い意志の前に塗り潰されてしまうのではと怖くて仕方がないのだ。どんな力を以てしても『砕け得ぬ』と恐れた彼女のその心は、誰よりも繊細で弱かった。そして、この世で最も強大とされる者こそが実は己の弱さを嘆いていると言う事実に、誰一人として理解を示さなかった事こそが少女の最大の不幸だと言う事に、これも誰一人として気付けなかった。

 だがここにその事実を知る者が現れた。

 「もっとだ……もっと打て、打ち続けろ。お前自身が、お前の心が納得するまで思う存分俺を打て! お前が拒絶する相手はそんな程度では壊れない!」

 結局、意思ある者には自己愛がある。誰しも自分が傷つく事を恐れ、敵対する者との距離を置こうとする。もしその拒絶の意志にほんの少しでも他者を想う優しさがあれば余計に不幸だ。その優しさ故に全ての力を拒絶に使ってしまい、己一人が内なる殻に追いやられるとも知らずに押し潰されていく。その先にあるのが自滅と知りながら走り出した滑車はもう止まれない。

 ならばそうなってしまう前に、走り出した車輪が地獄に堕ちてしまうその前に、誰かが進んで前に出てそれを受け止める者が必要になって来るのだ。

 だがそれは口で言う程容易いものではない。

 「見ろ、お前が拒む者は……これほどまでに頑丈だ」

 もしかしたら、更なる拒絶に見舞われてこちらが傷つくかも知れない。

 「今までお前を排斥するだけだった軟弱者とは違う」

 もしかしたら、受け止める事が出来ず地獄の淵に見送る羽目になるかも知れない。

 「お前を受け止めるだけの力を、今の俺は持っている」

 もしかしたら、何の解決策も見出せずそこに足踏みするだけに終わってしまうかも知れない。

 だが……だからこそ……。

 「だからお前も……もう、頑張る必要なんて、どこにもない」

 「──っ!?」

 伸ばされた手は、軽く、羽毛よりもずっと軽く、少女の頭を撫で上げた。その仕草はまるでずっと一人で走り続けた我が子を褒めるように、慈愛に満ち溢れていた。自らの血に塗れた手は白かったはずの肌を余さず赤く染め、目的の場所にたどり着いた少年の姿はもう髪の根元と元から紅かった瞳を除き、おびただしく血化粧に彩られていた。片腕はもはや再生が追い付かないのか肩から無くなっている。

 だがそんな痛々しい姿に似合わず、トレーゼは口元に笑みを浮かべていた。そこには敵意も無ければ当然殺意も無く、有るのは傷付いた者を包み込むある種の母性すら感じさせるほどの柔らかな優しさであった。

 「ああ……あぁっ、あああああぁぁ!!」

 「そうだ……もういいんだ。何かを拒絶し、誰かを傷付ける時はもう終わった」

 『砕け得ぬ』と恐れられた彼女はどんなに手を伸ばしても、自分が砕けぬ代わりにそれ以外の全てを砕いてしまう。だから彼女は自分が救われる事を放棄した。もし心優しい誰かがこの不幸に理解を示し手を差し伸べても、自分の抑えきれない強大な力はその優しい手でさえも粉々に破壊してしまうと知っていたから、彼女は全てを諦めてしまっていた。

 だが今はもう違う。差し伸べられた手は彼女がどんなに強い力で掴もうとも決して砕けず、その胸に飛び込みどれほど強く抱きしめようとも絶対に壊れない、眼前の彼は彼女を救う為だけに存る救世主の如き存在であった。

 その事実を以て、かつて『砕け得ぬ闇』と忌み嫌われ恐れられた少女は……今やっと救われたのである。










 「うむ、これで調整は済んだ。喜ぶが良い、これでお主は晴れて自由ぞ。もう己の力に怯えると言う無様な醜態を晒すことなどないのだ!」

 その後、ユニゾンを解き六課の面々が見守る中で三体のマテリアルは『砕け得ぬ闇』の中に眠るエグザミアの出力を安定させることに成功した。マテリアルは元々紫天の盟主たる彼女に並び立ち補佐する為の存在、それが正しい位置に収まった今となっては『砕け得ぬ闇』が暴走する事はもう有り得なくなった。

 世界滅亡が回避されたと同時に、『砕け得ぬ闇』が本来持っていた名も知る事ができた。他の三人同様、彼女にもまたその一個体を表す確かな名が存在していたのである。

 「ユーリ……。ユーリ・エーベルヴァインですか」

 「それがこの子の名前? へえ、カッコイイじゃん!」

 「うむうむ! 正しく我らと並び立つに相応しい紫天の盟主たる名よ!」

 「はい……。あの、トレーゼさんのお陰で自分の名前を取り戻せることができて……その、ありがとうございました!」

 紅く染まっていた装束は今や元の白に戻り、一時は世界を粉砕するかと思われた魄翼もその背に小さく収まっていた。これでもう彼女を脅威と思う存在は居なくなったはずだ。

 「うむ!! ではこれにてお開き! 大団円だな!!」

 「あの、何か忘れていませんか?」

 「なにをー?」

 「……そうは問屋が卸さないらしい」

 そう、『砕け得ぬ闇』ことユーリの暴走が終わった、世界の破滅の危機が去ったという事はつまり……事態は彼女らが引っ掻き回す以前の状態に戻ったということ。

 即ち……。

 「これで同盟は解消、と言う訳か」

 「せやな。もう私らにはあんたを見逃しておく理由があらへんっちゅうことや」

 それまで事の成り行きを見守っていた機動六課とナンバーズが再び一斉に得物を構えた。それらの切っ先は当然にしてトレーゼただ一人を狙い、その一挙手一投足によっては今すぐにでも彼を攻撃する意思を見せていた。

 「システムU-Dを押さえ、今再び魔導書の支配者となった俺を放置する訳がないか……」

 今やトレーゼは彼にとって95年前に失った全盛期さえ上回るほどの力を手にし、この世界を幾度滅ぼしても余りある力をいつでも好きな時に振るえる状態に戻ったのだ。三体のマテリアルと、無限の力を持つシステムU-D、世界の脅威と断ずるには充分すぎるほどの判断材料である。ユニゾンを解いて尚、黒く染まった髪と真紅の瞳は彼の中に宿る魔力の総量と圧力が人智を超越した域にあることを物語っている。

 そしてそんな自分に刃を向ける事実を前に……トレーゼは。

 「八神はやて、敵対するのはまだ早い。俺とお前達との共同戦線はまだ終わっていない」

 「何を言うて……!」

 「受け取れ、お前達が守ろうとした者だ!」

 そう言って魔導書を高く掲げ、そこから飛び出した光がはやてを筆頭とする面々の元へと飛来する。攻撃かと思わず身構えたが、それらの光はボール大のサイズから次第に大きくなってゆっくりと接近し、適当に近くにいた者の腕に抱きかかえられる形で収まった。そして光は少しずつ弱くなってそれが何であるかがはっきりとする。

 その正体は果たして。

 「トーレ!? トーレ姉だ!!!」

 「セッテにノーヴェ! ウーノ姉さままで!!」

 「ああ、ヴィヴィオ!」

 魔導書に取り込まれていた者達が一斉に戻ってきた、この事実に一同は狂喜乱舞した。もう二度と帰って来ないのではと思っていた者らの帰還に喜び沸き立ち、中には気絶している彼女らを半ば強引に起こそうとする者さえあった。誰も彼もが喜びに浮かれて舞い踊り、緊張に張りつめていた意識の糸が緩んでいることさえ忘れようとしていた。

 「ハラオウン、これはお前にやろう」

 「これは?」

 「ジュエルシードだ。本物か偽物かはお前が一番分かるだろう」

 続けて返された青い宝玉はフェイトの手に渡った。思えばこの事件には彼女の因縁も絡んでいた。それがようやくここで終止符を打たれたのだ。脅威のひとつが消えた事にまたもや喜びに沸く面々。

 しかし、ある事実に気付いた者が居た。

 「……スバルは? スバルはどこなの!?」

 愛弟子の不在にいち早く気付いたなのはは、まだ彼女を隠し持っているトレーゼに向けてその居場所を問い質した。するとトレーゼは悪びれる様子も無く再び魔導書を開き、その封印を解いて一人の少女を、眠ったままのスバル・ナカジマを現世に召喚した。眠り姫のように目を閉じたまま寝息を立てるその体を抱きかかえ、その寝顔をじっと見つめる。

 「早くその子を返して!」

 「…………生憎だが、こいつはまだ少し借りておく!」

 それを捨て台詞にトレーゼは一瞬にして海鳴の洋上より姿を消した。後を追おうと武装する機動六課だったが、

 「おおっと! 行かせないよ!」

 「我らが主の本懐を遂げさせる邪魔は何人たりとも許さん!」

 「故に足止めをさせてもらいます」

 「い、行かせません!」

 ユーリを含む四人の眷属がすかさずその前に出て進行を遮った。一歩たりとも進ませないという強い意志は排斥のものではなく、己らの窮地を救ってくれたたった一人の恩人に対する義理がある故の行動であった。その意志の重さが帰結する先を容易に想像できる為か、さきの激戦を潜り抜けた誰もがその先に踏み切ることが出来ないまま膠着は続くことになる。

 「トレーゼさん……行ってください」

 唯一人、彼に救われた少女の言葉がその背を押して、トレーゼは海鳴の街へと舞い降りる。










 スバル・ナカジマが目を開けた時、その先に見えたのは冬の空だった。

 「…………ここは」

 鼻に通る冷たい冷気には土の臭いが混じり、身を起こせばどこかの河川の土手に横たわっていたのが分かった。水の流れる音が耳に心地よく、肌を撫でる寒風の冷たさが自分が現実にいる事を教えてくれた。ついぞ今さっきまで自分が囚われていた仮想空間などまるで夢のように消え去り、何もしない内から脱出してしまった事にしばらく無言で呆けているしかなかった。

 「帰って……来られた?」

 現世に帰って来られた事に対し喜びよりも戸惑いが強く、周囲をしきりに見回しながら下流に沿って行くあてもなく彷徨い歩く。

 だが彼女の足はある所ではたと止まった。

 「待っていたぞ……」

 「……トレーゼ」

 髪は墨に浸けたように黒く、目は血塗りの紅に彩られていた。だが見間違うはずがない、その顔を。色が変わった程度で忘れてしまうほど耄碌はしていない。

 「待っていた。俺はこの時を……ずっと、ずっと待っていた!」

 「トレーゼ……。イメチェンした?」

 「…………そうだ。あれから少し、な」

 調子が外れてしまったのかトレーゼも無言となってしまい、二人の間に気まずい沈黙が流れる。そもそもスバルはこんな形で再会するなど夢にも思っていなかった為か、彼の方から赴いたことで余計に戸惑っていた。

 だがその目は一瞬で見抜いていた。自分が今相対しているトレーゼは、これまで追いかけて来たその姿と何かが違うことを。容姿や外見の話ではない、彼の中で今まで暴性に変換されていた何かが今ではもっと別のモノに変じていることを、その目は見抜いていた。

 「……何かあったの?」

 「様々なことがあった。長いようで短い、その果てに知ったことがある」

 「それは何?」

 「世界の狭さ、己の未熟、その先にある結末……。とにかく今までに無かった事を経験した。そして俺は真理を得た、これまでどんなに醜く足掻いても得られなかった真理を俺は手にすることが出来た」

 「そう。それなら……」

 「だがまだ足りない! 俺が納得するにはまだ、足りないんだ!!」

 トレーゼが構える。両拳を前に、右脚を地につけ左脚をじりじりと寄せながらスバルに迫る。対するスバルも思わず構えてしまったが、その瞬間トレーゼの鉄拳がその顔面を強襲した。ガードの上からでもダメージは通り、スバルはその体ごと川面へと吹っ飛ばされた。

 冷水と川底の砂利に激しく打たれながら体勢を整えるが、その時には既に目の前まで押し寄せたトレーゼの更なる猛攻が襲い掛かる。

 「っく!!」

 二度目は辛うじて受け止めたが、第三、第四の攻撃の連打は止む事無くスバルを打ち、激しい動作のやり取りが二人の間に大量の水しぶきを舞い上げる。

 だがこんな状況に在ってスバルの脳裏ではやはり、これまでのトレーゼとの違いをひしひしと感じていた。しかし、それ以上に……。

 「あ、ハハ、アハハハハハハッ!!」

 「フフフ、ハーッハハハハハハ!!」

 全身を打ち据える連撃の痛み以上に、その胸には喜びがあった。何故ならスバルは知っていたからだ。今自分に向けられる拳や蹴りは己を撃滅する為のものではなく、むしろそれとは全くの正反対の性質を持つと知っていた。実際、今のトレーゼが全力を出せばとっくにその五体が微塵に砕け散っていただろう。それが手加減をしていることなど誰から見ても明らかだった。そしてそれはスバルを下に見てのものでもなかった。恐怖でも脅威でもなく、彼女を対等の存在として認めた証だと彼女自身が分かっていたのだ。

 互いの拳が顔面を捉える度に腹の底から喜びが込み上げ、鼻や口の端から噴き出る血など気にもせず大声で笑い合う。気が狂ったような二人のやり取りを見る者は他に無く、二人も他の存在なんて気にもせず互いを殴打し合った。

 だがそれにもやがて終わりが訪れる。

 「はー、はー、はー!」

 「フゥッ、フゥッ!!」

 蓄積した疲労がついに膝を折り曲げ、どちらからと言うわけでもなく揃って仰向けに倒れた。水の冷たさが身に沁み、夕焼けも消えようとする薄明かりの中で二人の白い息だけが風に流れていった。だが二人の表情は晴れやかで、日が暮れるまで散々遊び倒した子供のような純粋な笑みを浮かべていた。

 「はー……! ねえ……これで満足した?」

 「…………いいや、まだだ。まだ肝心なことをしていない。それをしない内にはまだ終われない」

 立て、と言われてスバルはもう一度大地に立つ。

 思えば彼と彼女がこうして真正面から向き合ったのはいつ振りだろうか。最初に会った時は敵同士で、片方はその顔さえ知らずにいた。それからは波乱万丈、時に敵対し時に協力し、その奇妙で数奇な関係には世間一般でいう所の善だの悪だの二元論で語れる要素は何もなく、知る者も知らない者も二人は無意味な迷走を繰り返していただけに見えただろう。無駄で、無意味で、無価値な闘争と逃走……全てを巻き込んで二人が辿り着いた結末は、二人以外から見れば真っ白な空白でしかなかった。

 だが、今なら言える。自分達はこの瞬間の為に歩いてきた、この時の為だけに生きてきたのだと。

 そしてそれが今終わる。

 「スバル・ナカジマ……」

 「……うん」

 「……スバル・ナカジマ!」

 「なに?」

 「スバル……ナカジマァァァッ!!!」

 「聞いてるよ」

 犬が互いの居場所を遠吠えで教え合うように、スバルはトレーゼの怒号に優しい声色で応え続けた。

 そして……。

 「“おれ”は“だれ”だ、答えろ!! スバル・ナカジマァァァーッ!!!!」

 “フゥ・アム・アイ”……きっと世界中の誰もが逆にフゥ・アー・ユーと聞き返したいだろう。この問いの真意を知るのはそれこそ、この場の二人以外にはいない。これまでの迷走は全てアイデンティティーを喪失したトレーゼが再びそれを獲得する為の物語。故に彼が万象のどんな真理を突き止めたとしても、最後に残ったこの答えを得ない以上終わりはない。そして彼が知る限りその答えをもたらしてくれる者も一人しか存在しなかった。

 オウム返しの鏡に向かって自問自答する時はもう終わっている。ならば、この最後の問いについてスバル・ナカジマは己の持てる全てを以て答えねばならない。

 これまでの全てに対し今、ピリオドが打たれる。



 「あなたは、あなた……トレーゼ。あなたは、あたしの大切な人」



 確かに放たれた言霊は銃弾のようにトレーゼの胸を貫き、彼を覆い隠していた薄く、強固な、最後の殻を遂に打ち砕いた。ガラスを割るように、氷を溶かすように、スバルの言葉はトレーゼに染み込んで浸透していった。

 「……嗚呼……」

 本当に欲しかったモノ……何者をも凌駕する力を得て、世界を敵に回し、一度は何もかもを失っても、それでも諦めきれずに追い求め続けた。

 その心がずっと渇望していたモノとは何だったか。どんなに頂点を極めても手に入れられず、どんな孤独の地獄においてもその可能性に縋りたかった、たったひとつの最後の願い……。

 他者と自己の境界を知ったトレーゼが真に希求したものは、こんな近くに転がっていた。

 「こんな……こんな、簡単な……」

 即ち、『肯定』と『理解』。己を己と認めてくれる「誰か」に、ずっとその「誰か」に特別な存在として理解されたかったのだ。生まれてきた意味を、この世に存在する理由を、存在意義を知ってほしかった。俺は此処にいるんだと、高らかに謳い上げたかっただけなのだ。俺はこれだけの事をしてのけたのだと、誰かに認めてもらいたかっただけなのだ。自分はこんなに強い存在なのだと、周囲に知らしめたかっただけなのだ。

 それは今叶った。

 「…………」

 大きく息を吸い、そして吐く。たったそれだけのいつも通りの行為が、今ではその度に全身を精神的充足感が浸透し限りない喜びが胸を打つ。

 そして涙。流れ落ちるそれは悲しみの水ではなく、清流のように頬を伝って落ち川に混じる。この何の実も結ばなかった無意味な人生で初めての、喜びの涙だった。

 「……ありがとう、スバル・ナカジマ……。それだけで充分だったんだな。それだけで、人は前へ行けるんだな……」

 「……遅くなって、ごめんね」

 ゆっくりと水を掻き分けてトレーゼとスバルの距離が縮まる。逃げはしない、こうなることを望んでいたから。

 やがて互いの距離はゼロになり、二人の腕は互いをしっかりと抱き留め抱擁する。冷めた体を温めるように、傷付いたその心を癒すように。

 今二人の道はひとつに交わり、真に互いを理解しあったその間にはもう敵対の感情を挟む余地は無かった。

 「俺は俺だ。他の何者でもない、今分かった。お前のおかげだ」

 「あなたはあなた。もう誰だってトレーゼを傷付けられない。絶対に」










 その一時間後、トレーゼ自身の投降により全次元世界を震撼させた「トレーゼ・スカリエッティ事件」はここにその幕を降ろしたのである。



[17818] 対話の果て
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:b934244e
Date: 2014/09/21 20:00
 過程をすっ飛ばして結論を先に言えば、“13番目”ことトレーゼの殺処分は取り止めとなった。亡きチンクの言ったように、その理屈は「事件は戦闘ではなく首謀者の自主的な投降による平和的解決だったから」という苦しいものだった。後世においてその顛末を語る時、裏で様々な権力による不可視のパワーゲームがあったのだと人々は追及したが、そのあたりの真相は闇に葬られた。

 後世において、という言い方には理由がある。この手の事件にありがちな話だが、事件が解決してからしばらくの間、民間には事件の真相は長らく伏せられていたからだ。そもそもクラナガンの都市決戦後の時点で事件は解決したと報じた管理局にはメンツとか言うモノがある為、中々世間にむけて公表はしなかった。もしクロノのような公正無私な人間が働きかけなければもっと遅くなっていただろう。

 だが公表されたのはトレーゼ・スカリエッティが第97管理外世界まで逃走し、そこで自首したという部分のみ。彼がその世界で手にした二つのロストロギアについては最後まで未公表のままだった。何故ならこの部分を話すと必然的に“13番目”を殺さなかった理由が浮き彫りになってしまうからだ。「闇の書」の力を受け継いだことで生物的に不死になった“13番目”を殺す手段など誰も持っていなかった。

 次元世界を騒がせた一大犯罪者の裁きは、およそ他に類を見ないスピード判決によって秘密裏に処理された。

 「判決。被告人、『トレーゼ・スカリエッティ』は有罪。被告人を封印刑に処す」

 殺せない以上はそうするしかない。

 当然、この判決に異議を唱える者もあったが事件を早急に終わらせたい上層部の意向と、トレーゼ側からの控訴や上告が無かったこと、そして不気味なほどに沈黙を守った彼の姉妹らの存在により刑は確定した。

 裁判の判決はナンバーズの面々にも聞かされたが、彼女らは一様にそれを聞き流すだけに終わり、義憤に震えていた教会組の三人でさえ一切口出しはしなかった。というより、彼女らにとってトレーゼの処分よりもずっと気がかりな事実が発覚していたからだったのかもしれない。

 それについての判決もトレーゼの裏で同時に進んでいた。

 「被告人、何か申し出たいことは?」

 「……家族に、『ごめんなさい』って言いたいです」

 「分かりました。判決。被告人、『スバル・ナカジマ』は有罪。ジェイル・スカリエッティに対する傷害致死の罪により、懲役八年の実刑に処す」

 「…………はい」

 受けた判決の重さを実感してか、その表情はどこか寂しげであった。










 ジェイル・スカリエッティが管理局員によって殺害されていたとするニュースは瞬く間に世界を駆け巡った。無論の事、マスコミ関係者は管理局に対して下手人である「管理局員」の情報開示を迫ったが、管理局は巧妙な情報統制によりそれらの追及をうやむやの内に退けた。組織の隠蔽体質の具現だと批判を浴びたが、いずれそれもまた下火になり、やがて過去の事件として誰もが気にしなくなった。そもそも殺されたのが稀代の犯罪者と恐れられたジェイル・スカリエッティなだけに、世論の一部では下手人を擁護する風潮さえあり、それが事件の追及を早期に終わらせる要因の一つになったのは言うまでもない。

 だが事の真相を知った者は誰しもが驚愕を禁じ得なかった。誰もがその罪を信じなかった。特に彼女の親類は無罪を主張しようとしたが、スバル自身が自分の減刑に関する弁護の一切を拒んだ事によりそれらは成されず、世紀の大犯罪者の裏側で彼女もまた己の罪に対する裁きを粛々と受け入れたのだった。

 もちろん、彼女に全く後悔が無かったわけではない。むしろ悔いと言う意味でなら絶望を物理的な重圧に感じるほど後悔した。品行方正を目指して生きてきた訳ではないが、それでも人道に外れる行いだけはしないと固く心に誓っていただけに自分で自分に失望してしまっていた。

 だがそんな彼女を励まし支えてくれたのは、他でもない家族や恩師、友人たちの存在だった。

 「こっちの都合であんたを移送するのに一週間かかるわ。その間ちゃんと大人しくしてるのよ」

 「うん。ごめんね、あたしのせいでこんな……」

 「はいそこ、勘違いしない。私は執務官で今のあんたは刑の執行を待つ……囚人よ。別にあんたを個人的にどうこうしようって気じゃないから、変に気をもまないで」

 「うん……ありがとう、ティア」

 強化アクリルの仕切りを挟んで面会に訪れたのは、今までずっと自分の身を案じてくれていた親友だった。無論、業務の上で必要な面会だったから来たのであって、間違っても世間話をしにきた訳ではない。だが彼女がここへ来たのにもそれ以外の理由があった。

 「実はいろいろ伝言とか預かってるのよ。隊長三人は後始末で忙しいし、エリオやキャロも短い休養を挟んでさっさと自然保護管理区の方に戻ったし、みんな私に押し付けて自分の仕事に戻るんだから薄情よね。私だって一応執務官なのよ!」

 「まあまあ……。でもティアだってここに来るのにフェイトさんに無理言って来たんでしょ?」

 「なっ!? 何でそんなこと……?」

 「フェイトさんが言ってた」

 「あの人は~! どうりでフェイトさんだけ私に伝言とか無かったわけだわ……。私には面会する暇が無いって言っておきながらぁ~!!」

 「ま、まあまあ!」

 当然だがティアナとフェイトはスバルとの関係上、彼女の裁判に立ち合うことは無かった。捜査も起訴も弁護も彼女とは関係のない第三者が行い、六課と湾岸防災チームは完全に蚊帳の外に置かれた。今でこそ落ち着いているが真相を知った当初一番戸惑ったのはティアナであった。詳細は省くが、もしフェイトやはやてが止めなければそれこそクロノに直談判でもしかねない勢いだったのも事実だ。

 それだけ彼女は親友の身の潔白を信じていただけに、真相がそうであったと知った時のショックは相当なものだった。一歩間違えればここにこうして面会に来ることさえなかっただろう。だがティアナはスバルの腐れ縁で、親友だった。友として行く末の心配はしているが、過ちを犯した上でその清算をする覚悟があるならもはやそれについてとやかく言える事はない。スバルであれば必ず以前と同じように戻ってこれると信じている故に。

 それからティアナは預かってきた伝言をいくつか伝えた。同じ六課の面々からはその身を案じる言葉があり、姉妹になった者らからはノーヴェの近況について聞かされた。

 「とりあえず、あんたの妹については無事って言っとくわ。脳に障害を受けたとは思えないほど従順になっちゃって、あれだけ手を焼いてたのが嘘みたいだってアテンザ主任が言ってたわ」

 「それじゃあ!」

 「もう少し様子を見てから前の病院に移すらしいわ。もう前みたいに無理に眠らせる必要もなくなったのよ。でも分からないことがあるのよ」

 「分からないこと?」

 「……あんた相手に言うのもアレだけど、もうノーヴェの脳はズタボロよ。もう自分で自分が何をしているのかも分かってない。認知症に罹ったお年寄りが気づいたら深夜の道路を徘徊してるようなものなのに、何も考えていないはずの頭でどうやってあの子は地球を目指したんだと思う? て言うかそもそも、どうして“13番目”なんかにまた会おうとしたのか?」

 「多分あたしと同じだよ。『会いたかった』だけなんだよ、きっと。会って、話をして、それで間違っていたら何とかして正しい方向に引っ張りたかっただけなんだと思う」

 「会いたかった……ね。つまりあそこにはノーヴェを含めて四人も“13番目”に会いたがっていた人がいたってことかしら。それが偶然か奇跡かは知らないけど次元転移装置の暴走を引き起こした……なんか、自分で言ってて荒唐無稽にも程があるわね」

 想いの強さが奇跡を起こしたとでも言うのか、ファンタジーが過ぎる。それとも次元を越えた先のジュエルシードが彼女らの願いまで叶えたとでも言うのだろうか。

 いや、よそう。理屈が通じない事象を説明しようとしても拗れるように、世の中には分からないまま放置した方がしっくり来ることもある。そう自己完結したティアナはこの事案について深く考えることをやめた。

 だがそれとは別に納得できないことも多々あるのも事実だった。

 「執務官の立場でこういう事を言うのはいけないんだけれど…………どうして自首したのよ」

 「ティア……」

 「ジェイル・スカリエッティの死は都市決戦の際に起きた偶然の事故、あるいは既に殺意を抱いていた“13番目”の犯行だって誰もが思い込んでいた。あんたがバカ正直に名乗り出たりしなかったら、あんたは……!」

 「それ以上はダメだよ、ティア」

 「でも!」

 「いいの。あたしが嘘を吐きたくなかったからこうしただけ。自分の尻拭いは自分でできるから、自分でした事のツケは払わないといけないから」

 「スバル……」

 「ダメだよ。やっと執務官になったのにあたしの所為で心証悪くしちゃったら。ティアは自分が正しいと思えることをして。あたしやトレーゼみたいに自分のしたい事が分からなくなったら負けだよ」

 「……二言目にはトレーゼ、トレーゼ……。何であんなのに……惹かれたのよ」

 「…………」

 きっと今のティアナには理解できないと内心では思っていた。だがそれは友に対する諦観ではなく、むしろ憐憫に近い何か。自分がどうしてその判断に至ったかを理解していない友への同情のようなものだった。もちろん蔑んでいる訳ではない。スバルは友人が賢い人間だと知っている。だからもし彼女がこの気持ちを知る機会が訪れたとしても、それは決して自分のような結末には至らないだろうと信じていた。

 面会時間がそろそろ終わりかけになった頃、思い出したようにテシアナが手紙を取り出しスバルに渡した。手紙は二つあり、その片方には自分の良く知る人物の名前があった。

 「父さん……」

 ゲンヤ・ナカジマ。他でもない自分の父が寄越してきた手紙を前にスバルは目を通すのを一瞬躊躇った。道徳的に考えて自分のやった行為は育ての親の顔に泥を塗ったことである。その事に引け目を感じてやまない彼女は恐る恐る封を切って……。

 「……『スバルへ。夕飯は何がいい』」

 まるで帰りが遅くなるとの報告に対して返したメールのように、その内容は簡潔でいつもと同じだった。そう、いつもメールでやり取りしていた時と同じように、純粋に娘の行く末を想ってくれる父の愛があった。この短い文章を書く間父親は何を考えていたか、言葉にせずとも伝わってくるものがあり、スバルの目にうっすらと涙が浮かぶ。それが流れ落ちるのを堪えた後、スバルはティアナに告げた。

 「ティア……父さんとギン姉に伝えて。必ず綺麗な体になって帰って来るから……って」

 「……分かったわ」

 きっとスバルは帰ってくる……その思いだけを持ち帰り、ティアナとスバルの顔合わせはひとまず終わりを告げた。










 一方で正式に裁かれなかった者もいる。表向きには事件との関係性はおろかその存在すら秘匿されたマテリアルらがそうだ。

 彼女らもトレーゼの罪科を知りながら彼に加担した者として断罪するのが順当なのだが、クロノ曰く「別の部署から圧力が掛かった」ことでその裁きは宙ぶらりんになってしまった。彼の言う「圧力」がどこから来たのかは知らないが、彼とその母、ひいてはカリムでさえその裁定に逆らえなかったところから察するに、上層部でパワーゲームがあったのは確かだった。

 トレーゼとスバルの裁判の更に裏側で彼女らの身柄は拘束され、現在はどことも知れない場所でそれぞれ退屈そうに時間を持て余していた。身体の物理的な拘束はされていないが、一室に纏めて放置された彼女らは軟禁されている状態にあった。一応の理由としては、無理に押さえつけたら何をしでかすか分からないからと言うものだったが、実態としては完全に処分に困っている状態であった。

 「うわぁぁぁー! 暇だーい!!」

 「おいレヴィ、だからと言って大声を出すでない。貴様の声は耳に響く!」

 「といっても、殺風景な牢に三人すし詰めなのにやる事がないというのも退屈ですね」

 白い囚人服に着替えさせられた三人は部屋の四隅をグルグルと歩いたり、たまにふて寝して思い思いに時間を潰していた。こうでもしないと日がな一日ずっとこの閉鎖された空間で過ごすのは精神的にキツいものがあった。何の娯楽も無ければその類さえ知らない彼女らにとって今のこの時間はただただ退屈で仕方がなかった。

 ここにいるマテリアルは三人。だが本当ならここにいるべき最後の一人の姿が見えない。

 「……うまくやれてるかなあ、ユーリ」

 「大丈夫でしょう。例え拷問まがいの事をされたとしても、あの子なら耐えそうです」

 「いざとなればこんな障子紙の如き壁など破ってでも救い出しに行く。案ずる必要などない」

 かつて『砕け得ぬ闇』と呼ばれた少女、ユーリ・エーベルヴァインの姿はここにはない。その身柄は現在マテリアルらとは別の場所にあり、精密検査の名のもとに数多の研究員らを相手に協力させられている。と言っても、彼女らの力の危険性を痛いほど弁えている局員は無理強いはできなかった。故に研究協力もできる限りで下手に出ての「お願い」に留まり、その気になれば断固として断ることも出来たのだ。

 だがユーリはそれを受け入れた。それがせめてもの贖罪になるのならと、彼女は自らその身を差し出したのだ。

 そして彼女が姿を消してから二日目になるが、未だに音沙汰は無い。

 「それにお主も感じ取ることは出来るはずだ。今ユーリの心は安定している。我らが心配するような事にはなっておらんさ」

 「そりゃそうかもだけどー」

 「それよりずっと気になるのは主殿の処遇よ。向こうから一方的にラインが断たれた今、主殿の様子だけは察することが出来ぬ」

 「魔力が通っている所を見る限りそちらも大事無いでしょうけど……気になりますね」

 今やトレーゼは再び新生闇の書の管制人格としての力を完全に取り戻し、『砕け得ぬ闇』さえ眷属の傘下に収めた今、かつてのリインフォースさえ上回る脅威として時空管理局の注目を集めている。故にその裁定については長考されるとばかり思っていたのだが、当のトレーゼが今までの暴走が裏返ったような従順さを見せたおかげでスピード判決に至った経緯を彼女らは知らない。

 「生きてさえいればどこかで会うこともあろうよ。今の主殿は不死身よ、誰にも害することなど出来るはずもない」

 「ですが狡猾で姑息な管理局のことです。きっと二重三重もの保険を掛け、尚且つ早急に事を終わらせようとするかも知れません」

 「何がそんなに不安なんだろうね。彼らは宇宙の終焉でも予知しちゃったのかな? 今まさに天蓋から星々が降り注いでくるとでも思ってるのかな?」

 「自らの分相応さえ弁えぬ塵芥の喚きなどいちいち構うに値せん。捨て置けばよかろう」

 「そうですね。ですがもしトレーゼさまが司法の裁きに従った場合、私達はどうなるのでしょうか」

 「そう言えば管理局の法には死刑が無いんだっけ。代わりに極刑が確か、えっと……何だっけ?」

 「封印刑か。対象を石化した上で更に氷漬けにし虚数空間に遺棄する刑だな。処遇に困ったから捨てるとは、まるでゴミの扱いよな」

 「実際そう言う感覚なんじゃないですか。彼らにとって今のあの方は邪魔者以外の何でもありません」

 「そうだな。しかし、あ奴らは分かっておるのだろうか。主殿にはもはやそんな事をしても何の意味もないことを」

 石化して氷漬けにして虚数空間に放棄した程度では何も変わらない。邪魔な野良猫が家に土足で入り込んだから庭先に捨てるようなものだ。そもそもそんな程度で無力化できるのなら、最恐と言われた闇の書などとっくの昔に脅威でもなんでもない。

 「まさかそこまで学習能力がない訳ではないでしょうから、判決次第では何かしらの裏があっても不思議ではありませんね」

 「むしろ裏しか無い気がするよ。ヒトってのはなかなかどうして、小賢しい生き物だからね。でもまあ、なるようになるさ!」

 「『なるようにしかならない』とも言えるでしょうけどね」

 自分たちに下される沙汰など興味ないと言わんばかりに緊張感は無く、今日も今日とて彼女らは時間を無為に過ごすのだった。










 極刑とは判決を受けて即日実行されるわけではない。日本を例に挙げれば、判決を受けても法務省がそれを許可しない限り原則として刑は執行されない仕組みになっている。逆に言えば担当者が書類に署名と捺印してしまえば明日にでも執行されるのだ。

 だから十年も前に死刑判決を受けた囚人が未だに刑務所で冷や飯を食べていたり、一ヶ月前に判決を受けた者が絞首台に上らされるのも茶飯事である。そこには政治的な駆け引きや、司法の手が及ばない権力闘争の影響など様々な原因があるが、いずれにせよ組織が一枚岩でない故に起こる矛盾である。

 故に、トレーゼが封印刑の判決を受けたからといってすぐに執行されていないこの現状は何も不思議ではない。

 「調子はどうですか?」

 『まあまあ。可もなく不可もなく、と言ったところか』

 監獄の一室に用意されたモニターを通じてトレーゼと会話するのは、彼に面会しにきたフェイトだった。ガラス越しでも直接顔を合わせるのは危険と判断した施設側の意向により、二人はこうした形で目通りが実現した。

 画面越しに見えるトレーゼの様子は本人が言ったように変わり映えは無かった。純白の囚人服に身を包み、整った髪型や疲れを感じさせない目元はその言葉を裏付けてもいた。憑き物が落ちたような表情はそれまで幾度となく対立していたフェイトの中の彼に対するイメージを払拭しつつあった。

 変わったのは印象だけではない。

 『スバル・ナカジマはどうしている? こことは違う場所にいるのか』

 「はい。あの子も自分の過ちを認めて今はそれを清算するために必要な事をしています。……あなたは知っていたんですね。スバルがどんな罪を犯していたかを」

 『最初からだったわけではない。本来なら俺が達するはずだった行いを横からかっさらう真似をした奴の事を、俺は心底憎悪した。だが今ならあいつが何に憤怒しその行為に出たのかはおおよその察しはつく。奴は純粋だ、清濁併せ呑むことなど出来ない。その純粋さはジェイル・スカリエッティの持つ歪みを許容できなかったんだろう』

 「本当にそれだけだと思っているんですか?」

 『それ以上の推論を俺の口から述べるのは憚られる。奴の意思は奴だけのものだ。だから俺やお前がどうこう言えるものではない。損も得も全て……損か得かの判断さえ奴だけが下す権利を持っている』

 「その行為があなたを慮ってのものだったとしてもですか?」

 『…………そうだ』

 少し間を置いてからそう答えたトレーゼの表情は俯いていた為に分からなかった。自分が過去の妄執から逃れた代わりに、今度はそれを助けてくれた者が手を汚す……そんな悪循環を引き起こしてしまった原因が自分にあることを自覚している為か、微動だにしないその肩はどこか寂しげでもあった。

 「……話は変わるけれど、あなたはあの手紙を読みましたか?」

 『ああ、斜め読み程度にはな』

 かつてトレーゼが殺害した砂漠の少女、ヒツキの父親から預かった手紙。その内容はやはりトレーゼが予想していた通りのものだった。

 『あの父親は俺が娘を殺したのではない事に気付いていたらしい』

 トレーゼは確かにヒツキの体をバラバラに切り刻むという悪魔の所業を行なった。しかし、実際にはそれだけだった。

 トレーゼがその体を肉塊に変えたその時、既にヒツキは死んでいた。

 『良くある話だ。大型獣の狩猟を行なっていた者が、たまたま視界に入った見ず知らずの人間を誤って射殺してしまった……真相はたったそれだけのことだ。あの娘が足を踏み入れたあの森には知性を持たない巨大な猿人が生息していた。そんな生物の縄張りへ何の準備もしていない小娘一人が入り込めばどうなるか』

 「でもその子の本当の死因は……」

 『ああそうだ。森林伐採を行う企業が雇っていた用心棒、害獣を駆除する役目を負ったハンターの誤認であの娘は死んだ。散弾銃の直撃だったようだ。そして連中は人を撃ち殺した事に怖気づいたか……ヒツキの死骸を使われていなかった小屋に隠した』

 それが砂漠を忌み嫌って森を目指し、自分たちを追いやった文明人を見返すのだと意気込んでいた少女の最期だった。少女は彼らを憎悪していたわけではない。その飽くなき向上心は自分たちを下に見る彼らと同じ場所に立たんがためのものであり、決して排除する意思は持っていなかったのだ。それはつまるところ、自分達を追いやった文明人への憧れの裏返しでもあったのかも知れない。

 だがそれも、羨望の対象であった者によって打ち砕かれた。彼女の屍は誰も使っていなかった密室に、まるで粗大ゴミか何かのように放置されていた。

 『もし俺があそこで真実を話して、それが砂漠の民の知る所になればどうなっていたと思う。間違いなく連中と海側の間に埋まらない溝、亀裂が入る。それはきっと……あの娘の望むものではないはずだ』

 「あなたはそれを防ぐために自ら泥を被ったと?」

 『どうだろうな。あの頃の俺は狂人だった。そんな殊勝な精神だったかさえ分からない。この発言もただの憶測でしかない。今ここに在る自分が、過去の己に対し憶測と推論を述べるしかない……何ともおかしな話だ』

 「でもその子の父親はあなたの真意を見抜いていた」

 『きっと遺骨に銃痕か、俺が取り除き損ねた銃弾を見つけたんだろう。手紙に何と書かれていたと思う? 要約になるが「ありがとう」、だとさ。娘を殺した相手に礼を言うなんて酔狂な父親がいたものだと感心させられたよ』

 「…………」

 『今思えば、俺はあの娘に己自身を重ね合わせていたのかも知れない。俺がトーレの教えを盲信してスカリエッティに固執したように、あいつもまた自分の先達たる母に追い縋ろうとしていた。人は誰もが自分の前を行く誰かの真似をして生きている。それを知らないまま生きる者もいれば、知った後に自分だけのオリジナルを求めて躍起になる者もいる。俺もあの娘もきっと同じだったんだ。そこに俺は勝手に一方的なシンパシーを感じていたに過ぎない。だから奴がその願望を打ち砕かれて骸になった瞬間、俺の中の何かが切れた。存在意義を求めて生きることそのものが否定されたような気がした。追い求めることすら許されないのかと絶望した』

 だから何もかも馬鹿らしくなった。どうせ何もかもが茶番に過ぎないのなら、それに踊らされるよりも全てを破壊してまっさらな空白に一人君臨している方がマシだった。でも……それさえ自暴自棄な独りよがりだったのだと知らされた。

 「何があなたを変えたの。あの空白の十分に何があったの?」

 『……夢を、見ていた。何も無い世界に自分だけがいる夢を。敵も味方も、俺に繋がる全ての要素と因果が消えた地平……孤独と空白の袋小路だった。この身ひとつで何もかもをこなしてきた自分が、己の持つ可能性だけでは何も切り拓けないと知った。俺は……青く、未熟だった』

 「地球には『三人寄れば文殊の知恵』という諺があります」

 『言い得て妙だ。俺がいつか言ったように、人間とは脆弱な生き物だ。だから誰かと繋がってでないと生きられない。全てがバラバラに分離した世界など、あらゆる可能性が絶無な地獄だ。やっとそれに気がつけた。それを気付かせてくれたのが……スバル・ナカジマだった』

 それこそが、トレーゼが95年後の世界で得た真理。誰も知りえない彼だけが探し当てた全ての答え。

 「悟りを開いて聖者にでもなったと?」

 『どうだろうな。そんな大層なものじゃない。俺は俺だ、今までもこれからも、俺は俺意外の何者にもなれない。それをやっと自覚しただけなんだ』

 「…………」

 『もう二度と会うことは無いだろうが、俺の代わりに礼を言っておいて欲しい。もう既に言ってあるが、何度言っても足りないぐらいだ』

 「あの子はその気持ちだけで充分だと思います。それよりあなたにはもっと気にするべき人達がいるはず」

 『……ああ。分かっている』

 脳裏に浮かぶのは自分のせいでその人生を歪められた者達。同胞でありながらそれを拒んだ挙句の暴挙……それは絶対に許されるべきではない愚かさである。

 『命を懸けて償う……と軽々しくは言えない。俺の命一つで返ってくるものなど何も無い。等価交換さえ成立しない。そんなものは奴らも望んではいないだろう』

 「ならどうやって?」

 『懸けるのは命だけじゃない、俺の全てだ。血も、肉も、骨も、当然この命さえ……俺自身に属する文字通り全てを代償にして、必ず償って見せる』

 「そんなこと、どうやって……」

 『それは言えない。言っても恐らく理解できないし信じないだろう。だからこの言葉は狂人の妄言だと思ってくれて構わない。聞き流してくれ』

 それ以上聞き出すのは無理だと判断したフェイトは追及するのを止めた。何を考えているかは全く分からなかったが、いっそ清々しくそう言ってのけるその姿に邪気は感じられなかった。何を企てているにせよそれがもう自分たちをこれ以上傷つけるものではないと判断するには充分な証拠だった。

 だがまだ肝心な事を一つだけ聞いていない。

 「それで……獄中からわざわざ私を呼び出した理由は何ですか? まさか世間話や懺悔をするために?」

 そう、今回の面会はフェイトから申し出たものではなく、逆にトレーゼが彼女との面会を希望してのものだった。本来なら世界を揺るがした大罪人の頼みなど聞き入れる義理もなかったのだが、その話がフェイトの耳に届いた時に彼女は二つ返事でこれを快諾、クロノの力添えもあって異例のスピードで今回の面会は実現したのだ。

 『頼み事がある。お前やその兄は様々な人物と繋がりがある、それを見込んでの頼みだ』

 「私がそれを聞くとでも?」

 『それならそれで構わない。さっきまでと同じように俺の独り言だと思っておいてほしい』

 そう言って彼は自らの要求をフェイトに託し、面会はこれにて終了となった。図々しくもささやかなその依頼を胸に携えて、フェイトはミッドチルダへの帰路につく。










 聖王教会騎士団に所属するカリム・グラシアは騎士団の事実上のトップであると同時に、時空管理局における少将の地位を有している。一応管理局の肩書きは両組織のやり取りを円滑にする架け橋的なもので、名目上の形だけのものとされているが、実際には機動六課を指揮した八神はやてやクロノ・ハラオウンを始めとした管理局の主だった人物と個人的な交流を持つため、その隠れた権勢を二足草鞋と批判する者も少なからずいる。

 だが彼女本人は権威とは程遠い立ち位置を好み、滅多なことでは己の権力を振るわない。その気になれば騎士団と地上部隊を完全に分離してしまう事も可能だが、政治的野心を欠片も持ち合わせていない彼女がそれを行う確率は万に一つもない。歴史と伝統を重んじる彼女にとって安寧と平和こそが望むものであり、自身が持つ武と権は戦乱の種を排除する為にしか行使しないのが信条である。

 そのカリムをフェイトが訪れトレーゼからの要求を伝えた時、彼女はそれを快く了承した。

 「いいでしょう。私からもそのように働きかけます」

 「え? あ、あの……そんな簡単に承諾してもらってよろしかったんですか!?」

 「あら、何かよろしくない部分がありましたか?」

 ほとんど二つ返事。獄中の犯罪者から預かった伝言と要求を伝えると、むしろ待っていたとばかりに彼女は頷いたので逆に拍子抜けしてしまった。

 「あなたの言いたい事は分からない訳ではありません。犯罪者との取引など本来なら断固として跳ね除けるべきです。もしこの要求が彼自身の保身が目当てのものであったなら、私はちゃんと断っていましたよ。それに、もしそんな話だったなら私に話す前にあなたが握り潰していたはず……違いますか?」

 確かにそうだ。判決を受けた凶悪犯罪者の中には獄中から再三に渡って「無実の罪」を主張して釈放を要求する輩もいる。犯した罪はそんな連中の何十倍も極悪だが、彼の潔さだけは認めてもいいだろう。

 そんな彼がよこした要求のひとつが……。

 「ウーノ、トーレ、セッテ、ノーヴェ……ナンバーズ四名との面会ですか。ノーヴェさんはナカジマ家の問題ですのでどう転ぶかは分かりませんが、他の三人でしたら私から多少都合することは可能です。と言っても、最終的にはご本人達の意志にお任せすると言う形になりますが」

 「それは向こうも言っていました。断ったならその様にして構わないと」

 「潔さもそこまで行くとただの放任でしょう。前言撤回です。今回の面会は私が意地にでもセッティングしましょう」

 「いいんですか!?」

 「ええ。と言いますか、私が無理強いせずとも彼女らがこの機会を捨て置くとは到底思えませんからね」

 「そうかもしれませんが……」

 「それに私も気掛かりなんです。数多の蛮行を繰り返してきた彼が一体どんな言葉を残すのか……。それが懺悔であれ開き直りであれ、彼と関わりを持った人なら聞き届ける義務があります」

 「……彼を赦す……のですか?」

 「赦す、と言うのとはまた意味合いが異なります。赦しとは神の御業です、人の身の私には過ぎた事です。ですから私に出来るのは彼に対する憎悪の連鎖を止める事だけです。例え他の誰もが彼を糾弾しても、私だけでもそれが出来たなら彼が背負う重荷は外れるはずです」

 その言葉を聞いた瞬間、フェイトはまさに目からウロコが剥がれ落ちた感覚だった。似たようなこと言う宗教家はこれまで幾度となく目にしてきた。だがそんな似非が上っ面だけで言う言葉にはない「重み」が彼女にはあった。それは恐らくトレーゼがそうであるように、カリム・グラシアという人間がその人生で知り得た彼女だけの“答え”がその重みを与えてくれているのだと理解できた。故にこの行為は彼女にしか出来ない。彼女がここまで精錬された感情ではっきりと己の所業に自負を持てるのはそれが根底にあるからだ。

 感服、と言うしかない。

 「……無理を言って申し訳ありません」

 「ハラオウン提督によろしく言っておいてください。場合によってはあの人のお力を借りることになるかもしれませんので」

 「はい。兄にはその様に伝えておきます」

 「ですが……もうひとつの件はどうするおつもりですか? 彼女に関しては完全に私の力が及ばない所にあります。もし双方の合意が成立していても、簡単には行かないでしょう」

 「それについては追々考えてみます。今はひとまず四人の件を早急に片付けたいですから」

 「そう。それなら早く済ませた方がよろしいですよ」

 「はい。では、失礼します」

 お辞儀の後にフェイトは応接間を抜けて聖王教会本部を後にした。そして彼女と入れ違いに入室する人物が一人……。

 「もう、行かれたのですか? せっかくお茶をお持ちしたんですが」

 「まあ! いいと言ったはずですよ、シスター・シャッハ」

 自動車椅子に乗って入室するのは膝に銀盆を乗せたシャッハ・ヌエラ。もはや自分の足で動くことすらままならなくなった彼女であったが、休養を取るように言う周囲の反対を押し切ってこうして前線を退いた分まで精力的に活動していた。

 「せめて義肢を取り付けるまでは大人しくしていてほしいのですが」

 「お断りです。ただでさえ鈍っているんですから、何かしら動かしていないと余計に鈍ってしまいます」

 「まったく……。昔からあなたの性格は知っているつもりでしたが、ここまで強情だとは思いませんでした」

 「それを言うなら騎士カリムもです。聞きましたよ、獄中の彼の頼みを聞くそうですね」

 「盗み聞きまで……。ヴェロッサの真似事? あなたは反対なのですか?」

 「私がどうこう言うまでもなく、既に騎士カリムは決断されているのでは?」

 「フフ、そうでしたね」

 「それにこの傷は私自身の不徳、鍛錬が足らなかったが故の手落ちです。今更何を申し開くことがありましょう」

 目が見えないという事実を忘れさせるほど慣れた手つきで紅茶を淹れ、そのカップをカリムの前に出す。例え片腕で目が見えなくても、もはや家同然のここで生活に困るようなことは何もなかった。むしろ自分の不在で騎士団の練度が落ちていないかを心配するほどその心には余裕があった。

 「今では匂いだけでロッサが仕事をサボってケーキを作っている事まで見抜けます。これもまた鍛錬です」

 「あなたも好きですね。さて、それでは私はこの紅茶をいただいてから早速向かうとしましょう。留守は頼みます」

 「はい。承りました」

 今日もシャッハの淹れてくれる紅茶は美味しい。










 海上更生施設。ここはクラナガンの沖合十数キロの地点に建設された、その名の通り犯罪者の社会復帰を目指して更生させる為の場所。比較的軽度な犯罪者、あるいは情状酌量の余地ありと判断された者がここに収容されて社会復帰の為に必要な訓練及び教養を積むのである。

 そしてこの施設に最近、三人の新入りが腰を落ち着けていた。正確に言えば一人は出戻りで、新顔は二人だけである。

 「あいつはまた引き篭っているのか……」

 「そっとしておきましょう。今はまだあの子にも考える時間が必要なのよ」

 日に数度設けられた休憩時間中、二人の収容者が中庭で日の光を浴びていた。談笑には程遠く、世間話にしては少し重い内容の会話。ここに居ないもう一人について語り合うその口調は、その胸の内の暗雲とは裏腹に淡々としていた。

 「それにしても、まさかお前までここに来るとは思っていなかったぞ」

 「それは私のセリフよ。あれだけ体制に恭順するのを拒んでいたあなたとは思えないわ」

 「ここにはいない誰かさんの為だ。今のセッテを形を整えただけで野に放てば何をするか分からん。今再びこの私が教育者として奴を導かねばならない」

 「そう言って、前は反対も何もしなかったじゃない」

 「あの時とは事情が違う。今の奴は不安定だ。このまま社会に出せばナンバーズの名折れになる。それはお前とて本意ではないはずだ。私は質問に答えた、お前こそどうして今更になって社会復帰しようとする?」

 「別に私は社会復帰が目的という訳ではないわ。そうね……贖罪かしら」

 「何に対してのだ?」

 「さあ。きっとそれを探すためでもあるんだわ。ただ、誰もいない場所で引き篭っているだけでは出来ないと判断したからここへ来た、それだけよ。それは多分、あの子と同じなのよ」

 「…………」

 ウーノの言う「あの子」が誰を指しているのかは容易に想像できた。だがそれについての言及をトーレはしなかった。あるいは避けていたのかも知れないが、真実は彼女自身のみが知る。

 「ここを出たらあなたはどうするのかしら?」

 「まずセッテと共に聖王教会に行く。奴にはカリム・グラシアから身請けの話が持ち上がっているから、それに上手く便乗させてもらうさ」

 「教会の清掃員にでもなるつもり? まあ、あの方の性格なら拒まれる事も無いでしょうけど……あまり無理を言って迷惑をかけてはダメよ?」

 「心得ているさ。世話になるんだ、清掃員だか庭師の真似事でもやってやる」

 「もう受け入れてもらう事が前提なのね……」

 妹が意外とちゃっかりした性格をしているのを今になって知ったウーノは、事件解決後に初めて笑った。クスリと微笑む程度だったが、不条理が行き交っていた今までの事態が終わりを告げた今だからこそ見せられる表情だった。

 「ちょっとよろしいでしょうか?」

 ふと中庭に見知った人物が現れた。ギンガ・ナカジマだった。

 「休憩にはまだ余裕があるはずだが」

 「いえ、お二人に面会を希望されている方がお見えになっています」

 「私達に?」

 「正確にはセッテさんを含んだ三人にまとめて面会を望んでいます。なので早速移動してください」

 「と言うか誰なんだそれは。そもそも今日面会があるなど聞いていないぞ」

 「来てもらえれば分かります。急いでください」

 追い立てられて面会に赴くウーノとトーレ。面会室には先に来ていたセッテが着席しており、二人の姉が入ってきた事にも気付かないのかずっと俯いたままだった。既に来訪していた面会者がアクリル板の向こうからしきりに話しかけても、心ここに在らずといった感じで相槌を返すだけだ。

 そして、その面会者こそ……。

 「カリム・グラシア!」

 「噂をすれば、という事ですか」

 「はい?」

 聖王教の礼服に身を包んだ来客は先程まで彼女らの話題に上っていたカリム・グラシアその人であった。予想外の来訪者に驚きつつも席につき、四者面会は滞りなく始まった。

 「それで今日はどのような要件でご足労になったのか。私達まで同席を望まれたという事は、セッテの様子を見に来たわけではないのだろう」

 「察しが良くて助かります。実はこの度、あなた達にお願いがあって来ました」

 「お願い?」

 「はい。ですが、それは私からのものではありません。今日私がここに赴いたのはある人からの依頼をあなた方にお伝えするためです。ついては、お三方にはそれを受諾していただきたいのです」

 「お願い、と柔らかい言い方をしていたのは何だったんだ? それではまるで要求ではないか」

 「その様に解釈してもらっても構いません」

 「それで、依頼とは……何ですか?」

 「……お三方に、私とは別に面会を望んでいる人がいます。それぞれその方に会っていただきたいのです」

 「なら、私は断る。他を当たれ」

 「え? あの、トーレさん! まだ話は始めてもいませんが……」

 「聞かずとも分かる。事件解決から間もない今、私達に接触しようなどという物好きは少ない。そこから更に自分から顔を出さずわざわざ権力者を仲介してまで会いたいと言う者など……私は一人しか思い浮かばない」

 トーレの物言いに他の二人もその人物に思い当たったのか、はっと顔を上げて同じ名前を口にする。

 「トレーゼ! トレーゼなんですか!!」

 「兄さん、兄さんは何と!?」

 「落ち着いてください。私は彼と面会したテスタロッサ執務官から言伝を受けてここに来ました。彼は今、刑が執行される前にあなた達に一目会いたい、言葉を交わしたいと望んでいます。どうかその思いを汲み取って彼との面会を……」

 「私は断ると言ったはずだ! だいたいあの男、どの口で私達を呼び出すつもりか!」

 「トーレさん……」

 「貴様が何と言おうとこれだけは罷りならん! 私は絶対に奴の顔など拝まんからな!」

 トーレの意思は固かった。そもそも彼女がトレーゼの逮捕や裁判について一切口出ししなかったのは、これを機に彼との縁をすっぱりと切りたかったからだ。一度はこの手で息の根を止めようとしたものの、もはや殺す手段さえ失った今となっては放置するより仕方がない。この結末は彼女にとっても不本意極まりないものなのだ。それを押し殺して甘んじていると言うのに、何故己の目の黒い内にこちらから会いに行かねばならないのか全くもって理解できなかった。そしてその決意は揺らぐはずはなかった。

 だが……。

 「本当に、それでいいんですか?」

 「なに?」

 「トーレさんは本当にその選択で後悔は無いのですね? あなたはこのまま、この先の一生彼と何の関わりも持たないまま生きていくことが出来るのですね?」

 「……何が言いたい?」

 「あなたはもう少し『最後』という意味について深く考えるべきです。文字通り後がない……開いた傷はずっと癒えず、刻まれた亀裂は二度と直らない、それがどんなに恐ろしいことか分かっていますか?」

 「やけに奴の肩を持つな。貴女が何と言おうと私の意思は変わらない。私は奴を……!!」

 「トーレさん!!」

 カリムの怒号に場が静まる。付き添いでその場にいたギンガも思わず姿勢を正すほどの剣幕に流石のトーレも口を噤む。

 「彼は、トレーゼ・スカリエッティは自らの道に答えを見出しました。それは彼にとっての救い、彼だけが知り得た真理です。ですが今の彼が求めているのは、許しではなく裁き、司法ではない正当な個人の感情による沙汰です。罪人を裁くも許すもその権利を持っているのはあなただけです。あなただけが彼の罪を受け止め裁きを下すことの出来る存在なのです」

 「……私に、奴を許せと言うのか」

 「違います。あなたが彼に恨みを抱いていると言うのなら、それをひとつの気持ちとして彼にぶつけるべきです。あなたにはそれを行う権利があり、彼にはそれを受け入れる義務がある。彼が会いたがっている五人の中であなただからこそ、明確に嫌悪を抱いているあなただけが出来るのです。彼が内に抱える罪悪をその刃で抉り出せるのは……トーレさん、あなただけです」

 「…………それでも私は」

 「いつまで駄々を捏ねれば気が済むんですか! あなたはそうやって屁理屈や体のいい言い訳だけを連ねて自分が傷つくのを恐れているだけじゃないんですか。彼は最後に傷つくことを恐れず己の所業に向き合ったと言うのに、姉のあなたは何をそんなに恐れているのです!」

 恐れてなどいない、そう言って返したかった。だが反論を返そうとしたはずの口はその勢いを急速に落とし、揺れ動く視点はいつの間にか自分の足元に向けられていた。湧き上がる感情を上手く言葉にして出力できないもどかしい感覚に身をよじり、苛立ちだけが募っていく。

 「あなたが本気でトレーゼさんとの繋がりを、縁を断ちたいと考えているだけだったなら、なにもここまで怒り心頭になる事も無かったはずです。そもそも、彼が過去のトレーゼと別人物であると知った時、あなたの言う彼との繋がりは雲散霧消したも同然のはず。少なくとも私が様々なプロフィールから見た合理的なあなたの性格からは考えられなかったことです」

 「私を……分析、するな!」

 「ではなぜあなたは彼に固執したのです。何もかも終わった事だとすっぱり切り捨てる事もできたのにどうして? 自分には関わり無いと言い張ってもっと早い段階で静観を決め込む事も可能だったはず。それなのに今になって無関係を装うのは虫が良すぎる話とは思いませんか」

 「黙れ、黙れぇ!!」

 「そうやってあなたは自分自身にも言い訳を重ねて本当の気持ちを塗り固めている! 彼があなたにある種の母性を求めていたのと同じように、あなたも彼に心の拠り所として何かを求めていたはずです。そしてそれを裏切られたと思ったからこそあなたは激怒し憎悪した。自分の心を踏み躙られたと感じたから、あなたは報復を願った! 違いますか!!」

 違うわけがない、トーレの怒りはまさにそこが原点なのだ。だが原点がそこでも起爆剤は他にある。トーレを憎悪に駆り立てたその真の理由とは何だったのか? 彼女本人でさえも認めようとはせず無意識の片隅へ追いやろうとしていた本当の根源は何なのか?

 「彼が偽者と知って憤りを覚えたその理由……それは、彼の存在があなたにとって掛け替えのないモノだったからではないのですか」

 トーレにとって弟トレーゼは唯一無二であった。母性というものを持ち合わせていなかったはずの彼女がその人生でたった一人愛情を向けた相手、それがトレーゼという存在だった。文字通りの意味で血を分けた肉親だからか、トーレは他の誰にも向けることのなかったその感情を彼にだけは確かに向けていた。

 しかし、可愛さ余って憎さ百倍とも言う。彼に向けていた愛情は、彼が贋作だと知らされたその瞬間に反転し憎しみへと変じた。唯一無二と信じていたモノが幾らでも替えの利くニセモノだと知らされた時、今までそれに注いできた情熱まで纏めてニセモノだと断じられたような気がした。

 それを屈辱に感じたから、それを恥だと思ったから、その記憶を無かったことにしたいと考えたから……トーレは今までトレーゼに向けた全ての感情を怒りによって塗り潰した。己の恥を払拭せんとばかりのそれはトーレが生まれて初めて見せた彼女自身のエゴだった。そう……結局は、トーレでさえも自分の事しか考えていなかった。考えられなかったのだ。

 「あなたの怒りは恥じ入った己への悲憤、その捌け口をあなたはかつて姉と慕ってくれた者に求めた。あなたは彼を拒絶していたのではありません。あなたこそが、彼に甘えていたのです。自分の浅ましさを怒りで覆い隠したあなたは裏切った訳でもない自分の弟を非情という名の鞭で叩き付けた。あなたの身勝手な判断が自分は騙された被害者なのだと信じ込ませ、あなたの情を求め彷徨う彼を一方的に突き放した! 確かに彼は数多の罪を重ねたでしょう。多くの人間を騙し、殺め、汚したのは事実です。ですが……そんな彼でもあなたにだけは誠実であろうとしていた。あなたの期待を裏切ろうとせず、あなたとの約束をずっと守ろうとし続けた」

 「…………元凶は、私だと言いたいのか!」

 「事の発端そのものがあなたであるのは否めません。あなたには彼を断罪する権利があると同時に、彼の誠意を受け止める義務があるのも事実です。報いとはつまり、そう言うことなのです」

 「…………」

 「あなたは逃げたのです。彼の純粋で強すぎる想いを正面から受け入れずに拒絶し、行き場を失くして暴走する彼をなおも見放した。あなたが彼に掛ける言葉が何か一つでも違っていれば……そう思わずにはいられません」

 良くも悪くもトーレの存在がトレーゼにとって唯一にして最後の堤防だった。彼女が居るという安心感が彼を愚直なまでに純粋にさせ、そして暴走させた。無論、それに対する後始末などありはしない。終わったあとは一方的に拒絶してお前が悪だと断じ、それっきりだ。トレーゼが犯罪者である事実を鑑みてもこの仕打ちはむごいと感じるものがあるのもまた事実。ならば事の発端であるトーレが締めない限りこの事件は真に解決したとは言えないのだ。

 「……終わらせたいと願うのなら、あなたから動くべきです。少し説教臭くなってしまいましたが、私が望むのはそれだけです」

 「私は……私はっ!!」

 やり場のない思いを前にトーレが出した結論は……。










 「一波乱あったみたいだね、姉さん」

 外で待っていたヴェロッサと共に車に乗り込み、次の目的地へと向かう。少し疲れた義姉の表情を読み取った弟がフォローを入れる。それなりに付き合いが長いので今では互いの息遣いで体調まで分るほどだ。

 「少し、自分に嫌悪感がですね……」

 「また柄にもない事をしたのかい?」

 「私の心無い物言いが更に彼女を追い詰めるのではと、そう考えてしまうのです」

 「人には時として理屈では割り切れない、ともすれば感情以上の衝動的な何かで突き動かされる時だってある。それを諭すことが出来るのは、姉さんのような慧眼を持つ第三者だと僕は思うね。少なくとも姉さんは間違ったことはしていないさ。あとはその言葉を受け取った相手がどう動くかだよ」

 「一応それは慰めの言葉と受け取ってもいいのですね?」

 「一応ね。それはそうと、その調子で立て続けに行けるのかい。次はきっと一筋縄じゃいかないよ」

 「分かっています。気を引き締めて行きますよ」

 そうして二人を乗せた車はクラナガンの街中を進んで行く。

 程なくして車は市街地のとある住宅地へと着いた。駐車したその家の門前には「NAKAJIMA」と書かれた表札がある。

 「ナカジマ三佐、いるのかな?」

 「ここ最近有給を取っているようです。職場でお話するには気が引けますからちょうどいいですが……」

 「まあ、今は何も手がつけられないだろうね……。本当に行くのかい? 日を改めてからの方が良いと思うけど」

 「もうお邪魔する旨を伝えてしまっていますし、ここまで来ておいてトンボ帰りは礼を失します。それに……こういう損な役回りは早めに終わらせてしまった方が得策です」

 「引き受けた自分が言うかな。僕は待ってるから、手短にね」

 「はい」

 車にヴェロッサを残してカリムはゲンヤ・ナカジマの元へと急いだ。










 「あいつの好きにやらせてやってくれや」

 「え? あ、はい」

 さきのトーレの件があった事から猛反対されるものと身構えていたカリムは自分の口から間抜けな声が出てしまうのを防げなかった。どうやって相手を納得させるかだけを考えていただけにこの快諾は拍子抜けであり、目の前で茶を飲むゲンヤをしばらく呆然と見つめ返すことしか出来なかった。

 「どうかしたんですかい? そんなハトが豆鉄砲くらったみたいな」

 「いえ……まさかここまであっさりと了承がもらえるとは思っていなかったもので……」

 「まあ、本音としちゃ断りたいところなんだが……。もう俺がとやかく言うようなことでも事でもなくなっちまったみたいだしな。これがあいつの釈放とかを打診する話なら断固辞退さ。そんなんじゃ意味ないだろうし、何よりあいつ自身の為にならないからな」

 「では今回のことはナカジマさんにとって有意義なものと?」

 「有意義って訳でもないだろうが、無意味でもねえさ」

 湯呑みを空けながら呟くゲンヤの視線は窓の外、カーテン越しに光る太陽を見つめていた。その真意は計り知れないが、それでも言葉通り彼にはこの案件に反対する意思が無いことだけは確かだった。

 「というか、そもそもそんな簡単に出来るモンなのかよ」

 「かなり難しいでしょう。実際、引き受けた私もこんな事は前代未聞です」

 「だろうよ。犯罪者同士の面会なんてのがそもそも通るはずがない」

 トレーゼが託した二つの願い、そのひとつが指定したナンバーズ四名との面会だった。そしてもう一つが、自分とは別の施設に収監されたスバル・ナカジマとの面会。どちらも内容としては同じだが、実行する難易度は後者の方が明らかに困難である。これが地上の収容施設に囚われている軽犯罪者であれば話は違ったかも知れないが、片や次元世界を窮地に陥れた大犯罪者、片や元管理局員ともなればセッティングはほぼ不可能と考えるのが正しい。

 「うちの娘の性格を考えりゃ提案には喰らい付くだろうが、合意が成立したとしてどうやって押し通すのやら」

 「私がハラオウン提督と個人的に懇意にしていることをご存知ですか?」

 「聖職者とは思えませんなあ……」

 「政治という物です。権力は上手く使ってこそですよ」

 「それにしても分からないのは、どうして管理局の少将ともあろう方がうちの娘と相手の仲を取り持つ世話人みてえな役をやってるのか、それが気になる。こう言っちゃなんですが、少将に得があるようには思えませんな」

 「損得勘定で言えば確かに利益などありません。ですが、お忘れですか? 私は一応、聖職者なのですよ」

 「ははは、こいつぁ一本取られたな。俺に出来ることがあれば何だって言ってくれ。バカ娘の為になるってんなら労力は惜しまないつもりだ」

 「ナカジマ三佐のお手は煩わせません。前途ある若者たちの未来のためにこのカリム、一肌でも二肌でも脱ぐつもりです」

 「うちのスバルを頼むぜ……」

 「心得ています。精一杯お節介を焼くつもりです」

 各所への断りはこれで済んだ。後は、どのようにお膳立てするかだけだ。恐らくカリムは人生で初めて自身が有する権力を私的な目的を達成する為に行使するだろう。いかに綺麗なお題目を並べたところでそれが不正である事実は揺るがない。

 しかし彼女には微塵の後ろめたさもない。彼女は管理局に属しているが局の理念だけを真に受けているわけではなく、聖王教を信仰しているが狂信者ではない。その胸には己の心を律し正義を執行する為に必要な精錬された精神が在る。彼女自身がそうするべきと判断したからそうするのであって、その力を自己の利益のみに用いる気は更々無かった。

 だが権力を闇雲に振るえば無用な軋轢を生じる恐れがある。そのために行動は慎重を期すに越したことはない。故にそれを行うに最も適した人物に助力を願う必要がある。

 「もしもし、クロノさんですか。少し頼みたいことがあるのですが、お時間よろしいかしら?」










 「こういう事はこれっきりにしてくれ……」

 カリムから「頼み事」をされたクロノは律儀にそれを遂行し、二日後にヴェロッサの前に疲れ果てた顔で現れた。スカリエッティをアドバイザーとして迎え入れる時にも同じような事をしたが、今回のそれは実行するに当たっての大義名分が無かった為に難航し、結果としてたった一人への面会の前準備にこれだけ掛かってしまった。しかもかなり無理を通してしまったので、しばらくは各方面に頭が上がらないのは必至だろう。

 「とりあえず、ナンバーズ四人については何とかなりそうだ。一応書類上はそれぞれ身内扱いになっているからな。そこは案外容易に進んだよ。問題はスバル・ナカジマの方だ」

 「やっぱり、こちらは上手く行きそうにないかい?」

 「当然だ。スカリエッティ殺害が明るみになった事で彼女と“13番目”は共犯関係にあったのではと邪推する奴もいる。だが状況的に見ればそう言われても仕方のないことだ。彼女の罪状にしたって譲歩に譲歩を重ねた結果だ。本当なら余罪がごまんと付くはずだったんだ。結局、どこからも色よい返事はなかったよ」

 「つまり、動く分には勝手にしても良いけどバレたら庇い立ては出来ないよ、ってことか」

 「それだけでもマシな方さ。まったく、君の姉君は時として無理難題を押し付けるから困る。これだから女性は怖い」

 「弟として耳が痛いよ。お詫びの印に今度またケーキを進呈しようか」

 「お前、僕が甘いもの苦手なの知っていて言ってるのか。気持ちだけ受け取っておくよ」

 「それは残念だ」

 「いや、待て! それならひとつだけ作ってもらえるか。今回の件で家内や子供達には要らない苦労をさせてしまったからな。何か土産でもやらないと機嫌を損ねそうだ」

 「僕からのもらい物になるけど構わないかい」

 「甘いものは苦手でも味の善し悪しは分かる。君の作るケーキは無類だ。きっとエイミィ達も喜んでくれる」

 一仕事終えたクロノは好みの無糖コーヒーを一服しながら長い溜め息を吐く。

 何だかんだでお膳立ては形だけでも整った。後はそれに彼女らが乗るか反るかだけである。

 「まぁ、なるようになるさ」










 かくして、トレーゼ・スカリエッティへの面会は実行に移された。無論、秘密裏に。そして二重の仕掛けを伴って。

 かつてセッテに対して行った社会科見学という名目で外出を許されているが、収容されてからこの短期間でそこまで持ち込んだ時点で裏方であるクロノの苦労が知れる。しかも実際はこうして軌道拘置所を訪れているので社会科見学という名目でさえ薄っぺらい効果しか発揮しない。しかもその内の一人は本来ならまだ外出を許されないはずの病人の扱いを受けている。 

 そして今回の面会は全員参加、即ちあのトーレもその中にいた。カリムに諭された結果かあるいは本当に自分の意志か、その心は彼女だけが知っている。重要なのは今この場にトーレがいる事実だけであり、それを以て今日この日の面会は相成った。

 通常、収監されている犯罪者への面会には様々な規則があり、弁護士や警察など司法組織の担当者を除けば基本的に親類にしか面会は許可されない。その場合にも事前に予約が必須となる上に確認資料に不備、あるいは刑務所側が面会の必要性を否定すれば成立しなくなる。今回はその辺りもクロノの手が回っていたので問題はないが、本来なら一日に連続して面会するというのもあり得ない話だ。

 「では長女の私が先に行きます」

 待合室に通された四人からまず最初にウーノが行く。引率の名目で同行してきたギンガとフェイトが待合室に残り、刑務所の所員と共に行くウーノを見送った。残った三人は彼女が面会を終えるまでここで大人しく待機することになる。

 「順当に行けば次は私ということになるだろうが、ノーヴェにそれを譲りたい。構わないか、セッテ」

 「はい、構いません。どうせまともに会話することもできないでしょうし、早いうちに終わらせるべきです」

 「…………」

 一人だけ車椅子に乗せられて室内にいるのは呆然と虚空を眺める赤髪の妹。以前より回復に向かっているとは言え本来ならまだ病室を出てはいけない身、しかし彼女もまたここに同席を許されトレーゼに会うことを目的としていることに変わりはない。当然、彼女の担当であるアテンザは強く難色を示したが、身内であるギンガが説き伏せる形でようやく了承を得た。そのギンガを納得させるのにゲンヤに手間を掛けてしまったのは言うまでもない。

 「上手く行くでしょうか?」

 「ティアナはやってくれる。私はそう信じてる」

 「…………そうですか」

 所内では囚人の脱獄や暴動などに対処する場合を除いて職員でも魔法の使用を禁じられている。それは外部からの面会者や、フェイトやティアナのような執務官でも例外ではない。正当な理由もなく魔法を使用した痕跡が認められた際にはこれを厳しく罰し、場合によっては以後無期限に所内への立ち入りを禁ずる場合もある。それと同時に囚人には法に則った範囲内での自由と人権が保障されており、死刑囚であっても刑が執行されるまではそのように扱われる。監獄とはその名の通り収監した囚人に責め苦を課す獄であると同時に、彼らに与えられた最後の安息の地でもあるのだ。

 つまりここで騒動が起きれば双方にとって面倒でしかない。収監されている囚人の中にも平和を望む者もいるからだ。あくまで自分にとっての平穏に過ぎないが。

 意外なことに、ものの十分と経たない内にウーノは待合室に戻ってきた。

 「何も話さなかったのか?」

 「……話すことは何も無かった、ただそれだけよ。入って顔を合せてからずっとお互いに何も話さなかったわ」

 「これでは何のためにこの機会を設けたのか分からないな」

 「そうね……。でも、伝わったことも確かにある。もうそれだけで充分よ」

 「……そういうものか」

 わずか数分の幕間にどんな目に見えないやり取りがあったかは分からないが、ウーノの気の迷いはそれでふっ切れた様子だった。言葉を交わさずとも分かることがある……今のトーレにはまだ理解できないことだった。

 「予定が変わってな、次はノーヴェが行くことになった。ノーヴェ、行ってこい」

 「…………」

 物言わぬ体を乗せた車椅子をフェイトが押して面会室へと赴く。その膝の上にはハードカバーの分厚い本が乗っており、面会室の手前でそれを差し入れの物品としてトレーゼに贈る。もちろん、しっかりとした検査を通さなければならない。

 「確認を」

 職員が手に取りまずはタイトルを確認する。と言ってもさほど難解な題名ではない、むしろ多くの者にとっては馴染みのある書物であった。

 「聖書ですか。これを獄中の彼に?」

 「届けてほしいんです。お願い出来ますか」

 獄中の罪人に娑婆での罪を悔い改めさせる名目で、聖書は頻繁に差し入れとして持ち込まれる。所員にとっては今更なまでに見慣れた土産物である。

 「困りますよ、こういうのは事前にお願いしますと何度も言っているでしょう」

 「そこを何とかお願いします。この子のお願いは私も断れなくて……」

 「ま、まあ、他でもないハラオウン執務官の頼み事ですから……今回は簡単な検査で見逃しましょう」

 所員もまさか天下の執務官が所内規則を破る片棒を担いでいるとは夢にも思わない。故にケースに収められたそれを上から金属探知機などで軽く撫でるようにして反応を確認した後、所員は何の疑いも持たずにそれを運んでいった。

 (こっちは上手くいった。後はティアナ……)

 こうしてトレーゼの面会は粛々と進んで行く。










 聖王教における聖書とは地球のユダヤ教、キリスト教のそれとは少し異なる。後者が最終的に信仰する神との契約を説くのに対し、聖王教は原点となった歴代聖王の善き面悪しき面を如実に捉えることで後世の人間が生きるべき正しい道を示そうとする。自己をより良い方向へ昇華させるという意味では、むしろ原始仏教に近いニュアンスを覚える。

 故に聖王教では特定の神を信仰対象とすることは少なく、よって神の威光を振りかざす狂信者も少ない。心身共に揺らいでいる犯罪者を矯正するには持って来いの教本でもあるため、精神病院にでも入れられていない限りは往々にしてこの本が刑務所などに届けられる。

 そしてスバル・ナカジマの所にも同じ物が届けられた。面会に訪れたティアナが持ち込んだ物だ。

 「本当は事前の申請が必要なんですが、以前お世話になったグラシア少将から是非と頼まれて」

 「ああ、またあの方ですか。施設に聖書を届ける際に教会の名義を貸すことを許可しているせいか、ここ最近で急激にこの手の差し入れが急増しているんですよ。刑務所を布教の場にするのはいかがなんでしょうねぇ」

 「何だか申し訳ありません」

 「いえいえ、慣れていますので。こちらこそ執務官さんに愚痴をこぼしてしまってすいません。では少しお預かりします」

 そしてここの所員もまた同じようにカバーケースを外すことなく外側を軽く探知機でなぞるだけに終わった。法の番人である執務官からの差し入れを過剰に怪しむ者もおらず、拍子抜けするほどあっさりとそれはスバルの元へと運ばれていった。

 (まさか管理体制がここまで杜撰だとは思わなかったわ。それを利用して不正行為する私もアレだけど)

 今届け出た聖書はもちろん単なる書物ではない。いやむしろ正確には本ですらない。あれはスバルとトレーゼの面会を果たすために必要な物が仕込まれているのだ。表面をなぞっただけの探知機ではティアナとフェイトが仕掛けた偽装魔法を看破することは出来ず、結果としてこの策は拍子抜けするほどあっさりと通ったのである。あとは若い二人に任せて、と行きたいところだが、やはり公人として親友としてこの様な行為に出ることに抵抗を覚えないティアナではなかった。

 「こういうのは今回一回こっきりよ。あまりあのバカを甘やかすのも為にならないし……」

 今日は面会に来たわけではないのでこのままトンボ帰りする。ふとその足が止まり、取り換えられて真新しい蛍光灯をぼうっと見上げながら呟きを洩らす。

 「……本当に、終わったのよね」

 色んなことがあり過ぎて未だに実感が湧かない。事後処理に追われているせいもあるだろうが、それを抜きにしてもティアナはどこか足元がフワフワした感覚に囚われていた。まだ完全に事件が終わった訳ではないのでは……そう考えてしまうのだ。

 あるいは……。

 (終わらせたくないとでも思っているの、私が? あり得ない)

 雑念を頭から振り払い、汚れ仕事を終えたティアナはついにスバルに会う事無く刑務所を後にしたのだった。










 ウーノとの面会が互いに終始無言だったのに対し、ノーヴェとの面会は実に言葉豊かなものであった。ノーヴェが喋れない以上、話すのは一方的にトレーゼであった。さきのウーノだけでなく、今まで口数が少なかったのが嘘のように彼はノーヴェに言葉を掛け続けた。

 だがそれらはまるでホームドラマの食卓に上るような他愛もない話題ばかりだった。

 曰く、「昨夜は何を食べた」

 曰く、「最近の天気はどうだった」

 曰く、「今後の予定は何かあるのか」

 等々……。

 字面にすれば昔からの馴染みが何気なく声を掛けているようにも聞こえる。とても人間の精神を破壊した者とその被害者が交わす言葉には思えない。しかもそれらの言葉を受けてノーヴェは終始微笑んでいた。まるで彼とこうする事をずっと心待ちにしていたかのように、その表情はとても穏やかだった。トレーゼの方も彼女から返事はないと分かっているはずなのに、それでも根気よく物言わぬ相手に向かって話題を振り続けるのだった。

 やがて面会の時間制限が訪れ、ノーヴェが別れを告げなければならなくなった。

 「さあ、行こうノーヴェ」

 「ウゥ……」

 それまで気分よく座っていたノーヴェだったが、いざ退室となると僅かに身を捩って拒絶の意を示す。彼女はまだトレーゼとの会話を楽しんでいたいのだ。

 「ノーヴェ……」

 「ゥウー……アー!」

 「ノーヴェ・ナカジマ。いずれまた会える時がある。この話の続きはその時にしよう、それで良いだろう?」

 「…………ゥー」

 その一言で納得したのか大人しくなり、彼女を乗せた車椅子を押してフェイトが退室する。後に残ったのはトレーゼと彼を連れてきた所員だけとなった。

 「さっきの言葉……あれはどう言う意味だ」

 「何のことだ?」

 「とぼけるな! 貴様、脱獄でも企てているのか!?」

 「企てる? 勘違いするな。こんな薄紙で仕切られているような空間、わざわざ小賢しい真似をせずとも俺は容易く微塵に砕ける」

 「反抗的な態度は……!」

 「恭順の意思有りと見なしてほしいな。それが可能な俺が、今大人しくここでこうしているんだ。分かれよ」

 「フン……。あと二人だ、無駄口叩いてないでさっさと終わらせるんだな!」

 「言われずとも」

 所員の憎まれ口を鼻で笑って流し、あと二人となった面会者をアクリル板を挟んだ向こう側でトレーゼは待つ。










 届けられたニセ聖書を前にスバルはしばし考え込んでいた。どうしてこんな縁もゆかりも無い書物が自分の所に届いたのか、まったく心当たりの無いそれを前に延々と考え続けた。

 たっぷり十分もかけて悩んだあと、やっと本を手に取ってカバーケースを外し、ようやく仕掛けに気付くのだった。

 「これって……箱?」

 本だと思っていたのは実はそれを模した小さな箱であり、本を開くようにそれを開くと中には外装より一回り小さなタブレットのような物が入っていた。液晶には四ケタの数字が表示されており、末尾の数字が一つずつ減っているのを見てこれが何かのカウントダウンだと察する。つまりこれがゼロになると何らかの映像が映る仕組みということなのだろうか。

 もちろん如何にスバルが普段から難しいことを考えない性分とは言え、これが所内の規則に反する物であることは承知している。取りあえず時間が来るまで巡回する所員に見咎められないように隠し通すしかない。所内では一応、品行方正に過ごしているので既に一定の信用を得てはいるが、もしバレればこれを贈ったティアナも同罪に問われてしまうだろう。何としてでもこれを隠し通さねばならない。

 示す時刻は一時間近くはあり、暇を持て余したスバルはそれを寝台の毛布に包んで隠しておいた。監視カメラは収監者のプライバシーを守るという理由で部屋には設置されていないのが幸いした。

 「気長に待とっかな……」

 時間だけはたっぷりとある。焦らずゆっくり一眠りしようと横になりうとうととし始めるのだった。










 「ここを出ましょう、兄さん。二人で新たな天地を目指しましょう」

 セッテとの面会は開口一番に脱獄の教唆から始まった。売れない新興宗教の勧誘のような口上から始まったそれは一瞬所員を警戒させたが、それを全く意に介した風もなくセッテは更に続ける。

 「そもそも兄さんがどんな罪を犯したと言うのでしょう。所詮法律なんてのはヒトが作った物、兄さんを縛るにはあまりに不十分が過ぎます」

 「だからこの戒めから抜け出せと、従う必要はないとお前は言うのか」

 「そうです。それに兄さんの行動を誰が悪と断じるのですか? どこまで綺麗事を振りかざしたところで所詮は多数派の戯言、烏合の衆が喚いているだけです。以前の兄さんなら痩せさらばえた狗の遠吠えだと言ってのけたじゃないですか」

 「そうだな。確かにお前の言うように人間は矮小で脆弱で、強者であるこちらがわざわざ尻尾を振ってやる必要などどこにも無いはずだ。そして弱者は強者の尻に敷かれるのが世の常だというのも弁えている」

 「それなら!」

 「だがそれは獣の理屈だ。喰い喰われる獣だから通用する論理だ。俺達は獣ではない、知性あるモノは法と秩序によってのみ縛られるべきだ。その二つさえ意に介さない生き方など自由でも何でもない、ただの刹那主義の自滅行為だ」

 「何をそんな弱気になっているんですか! 私の知る兄さんはそんな弱々しい方では……」

 「俺の何を知っている」

 「え?」

 「貴様は俺の何を知っていると聞いているんだ」

 兄の調子が一変した事に一瞬身が強ばるセッテ。底冷えする声音は互いの部屋に控えている所員をも恐怖させ、いつの間にか彼らは部屋の隅まで後退していた。それだけの有無を言わせぬ圧力を今のトレーゼは惜しげもなく晒していた。

 「少し見ない内に随分な口を叩くようになったな? お前はいつの間に兄の決定に口出しできるほど偉くなったんだ。俺の命令なしでは何一つ自分から考えて動くことをしなかった未熟なお前が、そんなお前が俺に向かってどうこう言える立場にあると思っているのか。とんだお笑い草だと言わざるを得ないな」

 「にい、さん?」

 「今のお前には何の価値も無い。他者の誰かを至高と仰ぐのは勝手だが、お前の場合はそこで終わりだ。信仰とは自身に足りない物を埋め合わせる行為であって、決して己の全てを他者に丸投げにする愚行ではない。だとすれば、お前は未熟なのではない、ただ愚かなだけだ」

 「何を言っているんですか……。ワタシは、ワタシがこうなったのは……兄さんの、あなたの為に……」

 「ああそうだ、確かにお前を焚き付けたのは俺だ。どうしてか解るか、お前を効率よく使ってやろうと考えたからだよ。俺の因子を色濃く受け継いだ片割れだと知っていたから引き込んだ。トーレの存在を考慮すればお前にもそれなりの実力が伴っていて然るべしと期待していたからそうした。だが……蓋を開けて見れば何のことは無い。知っているか、俺が滞在していた日本には『ハシにも棒にもかからない』という諺がある。お前のことだよ、セッテ!」

 「っ……どうして……!」

 「『どうしてそこまで言われなければならないか』だな? 決まっているだろ、お前が俺の役に立てないゴミだからだ。機兵として生を受けておきながら満足にその性能を振るうことさえしない出来損ない、それがお前だ。飴とムチで少しは優しくしてから尻を叩けば動くと思っていたが、とんだ見込み違いだと思い知らされた。お前にはもう何の価値も見いだせない。早急に俺の前から失せろ。一時でもお前のような者に信頼を置いた俺が愚かだった。さあ、早く消え失せろ!!」

 「────────」

 まくし立てられる兄の暴言に言葉を失くすセッテ。自分が信じていた唯一の存在から向けられる敵意という名の刃は防ぐこと叶わず、深々と彼女の臓腑を抉り出しながらその心を微塵に砕いた。言いたい事を言い終えたトレーゼの眼中にもはやセッテの姿は無く、道端にへばり付く汚物を見るような視線はかつて自身に歯向かう敵に向けていたものと同じものだと嫌でも気付かされた。

 「わ、ワタシは……──」

 打ちひしがれて茫然自失となったセッテは所員の肩を借りてやっと面会室を後にした。

 再び一人になったトレーゼは深い溜息を吐き、セッテの去って行ったドアをぼんやりと見つめる。我ながら柄にも無いどころか、似合わなすぎて滑稽にさえ思える行為に出てしまったことは否めない。

 (だがこれで俺なりの後始末はつけたつもりだ。後はウーノ達が何とかしてくれるはずだ)

 恐らく大人しく諭したところであの妹は自分の元を離れようとはしなかったに違いない。それならいっそのこと突き放した方がずっと彼女の為になると言うものだ。それがせめて彼女の心を魔道に引き込んだ自分が出来る唯一の償いと信じて、前途ある彼女の未来を想えばこその判断だった。

 「つくづく、自分に都合のいい解釈が得意な奴だな」

 「……来てくれたか」

 「不本意極まりないがな。だがこれで最後だ、お前と私の腐れ縁はここで終わる。もう後々の禍根になることは一切起こりえない」

 「……そうだな」

 最後の面会者、トーレ。歪んだ姉弟の行く末はここにひとつの結末を迎えようとしていた。



[17818] 贖罪の道
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:8b91d688
Date: 2014/12/26 21:29
 始まりは何だったか、今となっては詮無きことだ。そもそもの元凶を追及するのであれば、戦闘機人などという狂気の産物をこの世に送り出したジェイル・スカリエッティこそが諸悪の根源と言えるだろう。もしくは彼に都合を図ってもらいトレーゼを借り受け、それを量産させようとして失敗したハルト・ギルガスもまた同罪と言えるはずだ。

 しかし、所詮それらはモノの始点に過ぎない。結局どんなに言い繕ったところで、最終的な行動の選択は全てトレーゼが選んで来た事に変わりはない。その全ての責は彼が負うべきであり、今更それについて本人もどうこう言うつもりは微塵もなかった。

 だが、立つ鳥後を濁さずとも言う。罪を認めそれを悔いるなら、前科に対する何かしらの後始末を法的な罰とは別に済ませるべきでもある。それが今回彼が面会を申し出た理由であり、厚かましいと分かっていながらある人物との接見を求めたのである。

 「貴女には俺が居なくなった後のことを幾つか頼みたい」

 「そんな要求が通る立場と思っているのか。ここに来たのは風前の灯となった貴様の顔を拝みに来てやっただけに過ぎない。もはや貴様が出来ることなど、無様に命乞いをするくらいのものだ。もっとも、忌々しいことに貴様はそれすらもしなかったがな」

 「したところで意味がない。この体はもう死を知らない。死に勝る絶望があるのならむしろ是非とも経験してみたいものだよ」

 「戯言を……。貴様に恥という概念があればとっくの昔に憤死していただろうな」

 「そうかもしれない」

 「…………」

 「…………」

 アクリル板を挟んでの沈黙は二人だけでなく、むしろその後ろに控える所員らを凍えさせた。戦意や殺気とは違う攻撃性を一切有さないが故の冷たい沈黙は、この部屋がそのまま極寒の湖底に沈んだような錯覚を抱かせ、無言の圧力はどちらが先に屈するかの根競べになりつつあった。

 だがいつまでもこうして睨み合っていても何も発展しない。ウーノとは違い、トーレとの面会はただ今生の別れを告げる場ではないのだ。

 「頼みたいのはセッテのことだ。奴の精神は既に俺の存在無くしては生きられない状態になっている。トーレには俺がいなくなった後に奴を教育し直してほしい」

 「そうなるように仕込んだのは貴様だ。それにわざわざ言われずともそうするつもりだった。私が不在の間に弛みきっていた根性を叩き直す良い機会だ」

 「なら安心した。それについてはもう何の心配もない」

 「……待て、『それについては』? 貴様、一体いくつ要求をするつもりだ!」

 「『幾つか』と最初に言ったはずだが?」

 「勝手に言っていろ。私は聞き流すだけだからな」

 そう言ってトーレは不貞腐れたように頬杖をついて顎で先を促す。とりあえず聞くだけは聞いてやるとの意思表示だ。彼女の気が変わらない内に要件を伝えておこうとトレーゼが身を乗り出して先を急ぐ。

 「まず、更生を終えてからで構わない、俺の代わりにクアットロの弔いを頼みたい」

 「奴に墓などない。奴の遺骸は『押収品』として管理局に引き渡された。そんな状況で墓など作っても石の下には何も無い」

 「弔うことに意味がある。頼む立場でこんな事を言うのもなんだが、聖王教会のカリム・グラシアなら墓石の一つや二つ、容易く用意できるだろう」

 「私にこれ以上、厚顔になれとでも言うつもりか」

 「貴女しかいない」

 「……考えておいてやろう。だが貴様、墓石を用意させる腹積りなら数が足りないとは思わんのか。他でもない、貴様の所為で死体はおろか遺品ひとつとして残らなかったチンクのことだ。弔い云々と言うのであればそちらはどうなると言うのだ?」

 「それについては問題ない。ノーヴェが引き受けてくれた」

 「ノーヴェが? どうやって言質を……いや、それだけ貴様の目が狂っているという証左か。よりにもよって廃人、それも自分の手でそうした奴に頼み事とはな。やはり貴様に恥はないのか」

 「無いさ。それにあいつならやってくれると確信している」

 先ほどのノーヴェとの会話はただ四方山話に興じていたわけではない。別れ際の最後の会話でトレーゼは彼女に対し、自ら手に掛けたチンクへの弔いを頼んでいた。僅かに微笑んでから頷いたあの仕草を了承と受け取るなら、トレーゼの願いは聞き入れられた事になる。

 「……忘れていなければ気が向いた頃にグラシア少将に掛け合ってやらん事もない。続けろ」

 「と言っても次で最後だ。俺たちが生まれた研究所にあったあの本を……『ドゥーエのアルバム』を捨ててほしい」

 「…………貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか」

 トーレの様子が変わる。それまでの軽く聞き流していた余裕は無く、明らかに変貌した声色は怒気に満ち、仕切りなど無ければとっくに目の前の不埒な発言者を殺しかねない気迫を放っていた。当の発言した本人もその言葉の意味を十二分に理解している為か、その表情は先ほどまでより更に硬いものとなっていた。

 「あれはドゥーエの遺産だ。曲がりなりにも記憶を受け継いでいるのなら、貴様もその事を知っているはずだ!」

 「知っているからこそだ。もう俺たちには必要の無い物だ。そうだろう?」

 「黙れ! やはり貴様と話しているだけ時間の無駄だったようだな! 私にはもう何も話すことなど無い!!」

 怒り心頭に勢いに任せて立ち上がったトーレは所員が引き留めようとするのも聞かずに部屋を出ようとする。

 「いい加減にしたらどうだ、トーレ」

 「……なんだと?」

 「俺もお前も、もう過去に囚われるのは終わりにしよう。過去は振り返る思い出だけなんだ、そこに何かの結果を求めても返ってくる物は何もない。分かっていたはずなんだ……俺も、貴女も」

 「貴様が言うか! ありもしない過去に囚われ、数々の愚挙愚行を繰り返した貴様が!!」

 「繰り返したからこそだ。間違った事ばかりだったが、それでも確かに言えることがある。俺はもう存在しない過去とは決別した。俺がクローンだからとか、罪を清算する為とか、そういうのじゃない。過去には、何も無いんだ。大事なのはいつも今と、先にある未来にしかない」

 「……貴様は卑怯だ。その存在で散々自ら過去を抉り出しておきながら、最後には自分から手を引こうとしている。肝心なところで傷を避けて他人に押し付けて……自分だけは綺麗な身のままでいようと言うのか!」

 そう思われても仕方のないことだ。極悪人が改心して言葉だけ善人になったなど笑い話にもならない。行動することで認められるのだとしても、今となってはその行動することすら許されないときている。ならば、残されたのはその行動を他の誰かに託すことでしか証明できない。

 今トレーゼがしようとしているのは全ての過去との決別である。それはつまり逃げ道を自ら潰すと言うこと、自分が抱える弱さがこれ以上どこにも逃げ隠れできないようにしてしまうことだ。直接的な意味などない、これはただの背水の陣に過ぎないのだ。要は心構えの問題である。たったそれだけの事を終える為にここまで回りくどいことをしなくてはならないのだ。

 原因から始まり、過程を経て、結果に至る。因果を辿ればいつだってその原因は過去にある。それを断ち切らないことにはいつまで経っても悲劇は続き、永遠に終わりを見ることはない。

 もしここで断ち切らなければ次は誰が不幸を引き起こす? セッテか? トーレか? それともノーヴェか? いずれにせよ己の妄執を過去に向けた者が暴走しないと誰が断言できるか。第二、第三のトレーゼが産み落とされた時、今度は誰がそれを止められるのか。そうなってしまった時には既に自分はもう何も動くことができなくなっているのに……。

 「……ドゥーエは元々ナンバーズの中でも特異な立ち位置にあった。スパイとして送り込むことを前提にして生み出されたから、彼女には人間社会について様々な知識を詰め込まれた。あの時の四人で外に出た経験があったのはあの人だけだった。ある日、ドクターに連れられて外に出ていたあの人が土産と言って持ち帰ってきたものがあった」

 「知っている。カメラだ。風景を写す小道具、何を思ったか奴はそれをいたく気に入っていたな。ラボのあらゆる物を写真に収めていたのを覚えている」

 初めは無作為にただ興味に任せて写真を撮り続けるだけだった。ある時スカリエッティから写真を収める冊子、つまりはアルバムの存在を知りそれから更に写真収集に明け暮れた。無作為に選ばれていた撮影対象はやがて人物のみを写す事に統一され、いつしかアルバムは当時の研究所にいた四人をふんだんに撮った写真が飾られることになった。

 そしてそれらの写真を収めたアルバムこそ、ナンバーズ最初の四人共通の思い出であり、原点であった。ただそれだけだった。時の流れと共に忘れ去り、時折思い出した時に開いて談笑する程度の物であるはずだった。だがそれはいつしか呪いとなってトレーゼを縛り、ただの記録に過ぎなかったそれはバイブルとなってしまった。トレーゼの求めた過去は未だにあそこにあるのだ。

 輝かしい過去は砂糖のように体に染み通り、麻薬のようにその心を縛り付ける。花の蜜に虫が群がるように甘い過去の誘惑には誰も逆らえず、やがては誰も彼もが堕落していくのだ。

 だから破壊する。

 「分かっているはずだ。あれはもはやドゥーエだけの物ではない、我ら全員の共有財産だと。それを捨てろだと? ふざけているのか! 貴様は私のみならず、ウーノの心までをも踏みにじろうと言うのか!!」

 「それは本当にウーノの意志なのか? 俺が見た限りではあの人はもう過去に囚われていない。あの目は前を向いている目だった。俺や貴女とは違う目をしていた」

 「言うな! 私を貴様と同列に見るな! 私と貴様は違う、断じて同じ穴のムジナなどではない!!」

 「いいや、この際はっきり言っておこう。俺と貴女は二人で一つ、同列どころか同位の存在だ。俺と貴女は互いを映す鏡だ。このまま放置すればいずれ貴女は俺と同じ道を歩むことになる。もう分かっているはずだ、貴女自身の心の奥底に巣食うモノが何であるかを」

 「うるさい、黙れ黙れ!! 貴様に何が分かる! たった一人の弟を見送ることしか出来ず、長い歳月を経て戻ってきたそいつは血肉を再現したに過ぎない偽者だと……そんな事実を突きつけられ、その上私に何をどうしろと言うのだ貴様はぁ!!」

 所員が見守るのも構わずに拳を叩きつけて泣き叫ぶトーレの姿に、手前勝手にもトレーゼは憐みを覚えずにはいられなかった。容姿はもちろんだか、彼女と己はあまりにも似過ぎた。今の彼女は自分がスカリエッティの称号に固執していた頃と何ら変わりない。このまま放っておけば遅かれ早かれいずれ彼女も自分と同じ道を辿る運命になるのは想像に難くない。哀れ哀れと思うだけで何もしなければこの女はいずれ在りもしない弟の影を追って自滅してしまうだろう。

 「……もう互いに、二人して在りもしない過去を追い求めるのは止めにしよう。俺個人を憎しと思うのは貴女の自由だが、俺と『トレーゼ』を重ねることは止めるんだ。貴女がどれだけ足掻こうと、俺がそれに協力したとしても、もう帰ってはこない。貴女がそれに納得できず俺を責めると言うのなら気が済むまでやってくれて構わない。十年だろうが、二十年だろうが構わない。気の済むまでやればいい。だがそれは俺と貴女との間だけで終わらせてもらう。貴女の恨みも、憎しみも、執念も、貴女だけの物だ。他の者を巻き込んで広げるような事は許されない。それだけは理解してもらおう」

 「その為に消すのか……私達の清らかなあの日の思い出も、何もかも……。そんな権利が貴様にはあるのか」

 「だからこうして頼んでいる。どうか……俺と貴女の因縁を次の世代に持ち越すのだけはやめてほしい。責任を過去に求めないでほしい。貴女の愛してくれた『弟』は死んだ、その影を追って道を外れることだけはしないでほしい」

 深々と頭を下げ降ろすことしか出来ない。そうすることでしか今の自分は意志を示すことが出来ない。受け入れるか否かは相手次第。是であれば後の心配は何もしなくていい。だがもし否であったなら……。

 (その時は、また色々と考える必要があるが……)

 だがトレーゼは信じていた。悪く言えば付け込んでいたと言ってもいい。トーレは先天的に悪人ではない。一本芯が通っている性格は時として融通の効かないところが目立つが、それは彼女の悪徳にはならない。その証拠に彼女は揺れ動いている。融通の効かない頑なな性格だからこそ取れる方法もある。情に訴えるという、ある意味では下種とも取れる方法を……相手の心理を突く詐欺師まがいのやり方だけが、この凝り固まった彼女の心を揺れ動かせる。

 そして、その結果は……。

 「……やはり貴様は卑怯者だ。貴様以上に卑怯で恥知らずな者など、私は見たことも聞いたこともない。これからもきっと現れんだろうよ。そんな奴が私の弟と同じ姿と声をしているなど……許し難いことだ」

 「…………」

 「地球には『坊主憎くて袈裟まで憎い』という諺がある。貴様に関連する全てが憎くて仕方がない! 貴様と同じこの顔も皮ごとひん剥いてやりたいほどだ! 私を惑わす悪魔め、柄にもなく仏心を起こして顔を見た結果がこれだ!! 金輪際、二度と我々に関わるな!! そのまま大人しく刑が執行されるのを待っているがいい!!」

 交渉はあえなく決裂に終わった。当然、あまりにも当たり前の帰結にトレーゼは少し力が抜けるのを禁じ得なかった。やはりと納得する心と、それでもと更なる追求を行いたい気持ちの二律背反が胸に重くしこりとなって残る結果となった。だがもうこれ以上はどうすることもできない。後は運を天に任せ、何事も起らないよう祈るしかない。

 「もう会うこともない。次元の狭間を永遠に彷徨いながら己の所業を悔やみ続けろ!」

 「……残念だが致し方ない。貴女の前途に幸福があるように祈らせてもらおう」

 「まだ言うか……。もういい、暗黒の彼方でも減らず口を叩いていればいいさ。出来るのならな」

 それを最後に偽りの姉弟の会話は途切れてしまった。










 「それで良かったの?」

 「……何がだ」

 「それこそ言わなくても分かるはずよ。自分でも分かっているはず、本当はあの子の言うことにも一理あるって」

 「理屈がそれを弁えているのと、理性がそれを受け付けるかは別だ。そもそも今の今まで悪辣な行為を重ねてきた輩が一転して正論を振りかざすなど、それこそ到底受け入れられるものではない」

 「そうね。でもいい加減に身の振り方を決めないといけないわ。私は私にできることをする。あなたはどうするの?」

 「どうもこうもない。私はもうこの件から降りさせてもらうだけだ。後はもう知らないし、知りたくもない。どうとも勝手にするがいい」

 「…………そう、分かったわ。後はもう私だけで進めるわ」

 「何をするつもりだ?」

 「不甲斐ない妹に代わって長女の私があの子の願いを叶えるだけです。ドゥーエが死に、あなたが動かない以上、他にそれができる人はいないでしょう」

 「勝手にするといい……。もう何もかも面倒だ」

 「……………………」

 精神的な支えを失った人間の何とも脆いことか。不甲斐ないと口にしたが、実際にウーノが感じていたのはやはり哀れみの感情だった。もはやこの妹は死人の目をしている、そこには狂気も無ければ覇気も無く、ただ現状に対しての無気力しかなかった。

 これがナンバーズ最強として生み出されたトーレの堕落してしまった今の姿だった。これがトレーゼを我が手で殺し復讐を成し遂げていたなら話は違ったかも知れない。言ってしまえば、おやつの取り合いでケンカしていた子供がまだ結果も出ない内からそれを取り上げられてしまったようなものだ。不完全燃焼に終わってしまった心は行き場を無くし、鬱屈としたものとなって沈澱している。

 だがそれも、ほんの数日前までトレーゼが通った道筋である。その倦怠も絶望も既に自分の写し身が通った場所であることを、この女は永遠に知らないままである。そしてそれを諭すことすら今のウーノにする気は無かった。

 「悩みなさい。あの子を狂気に駆り立てたモノが何だったのか、それを知るのがあなたの役目よ」

 それを最後にこの二人が今回の事件について言葉を交えることは無かった。

 というよりも、この二人の親交はここで途切れてしまう。後に理由を聞いた他の姉妹によると、ある時ウーノが管理局に押収されていたある本を焼却処分したことがきっかけだったと言うが、真相は本人たちにしか分からず定かではない。

 過去は断たれ、今を生きる者達はすべからく前を向いて生きることを余儀なくされたのであった。










 そうとは未だ知らないこの時のトレーゼは消沈した雰囲気を纏って独房に帰り着いた。ここより先の未来に関わる権利を失った今、自分に出来るのは祈ることのみ。そうすることでしか今は彼女らへの贖いが出来なかった。

 「差し入れだ。受け取れ」

 その時看守から手渡された物があった。辞書ほどの大きさのそれはタイトルから聖書だと分かり、そんな物を自分に送り付ける人物からカリム・グラシアを連想してからは、この贈り物の真意を図るのは容易だった。決して聞き入れる必要のない要望を取り入れてくれたフェイトに感謝しつつ本に偽装したケースを開くと、中には一回り小さなタブレットのような物が梱包されており画面の右上には三ケタの数字が点滅していた。一秒ごとに末尾の数が減っているところを見ると、これがゼロになった時に何かを示すのかもしれない。

 まだ時間があるのを確認すると、それを監視カメラにバレないようベッドの隙間に隠した。頃合いを見計らってこれを使うことにしよう。使い方云々はその時になれば分かるはずだ。

 ふと、考える。自分は顔を合せる度に彼女らに償いはすると言ってきたが、聞かされる相手にとってはどれだけ都合のいい言葉に聞こえたことだろう。誠意とは常に先立つ物がなければ成立しない概念であることはここへ来て身に沁みて理解させられた。だからこそ今は、今だけはこうして何もできないもどかしさに身を預けるより仕方が無かった。そもそも自分がこれから行う贖罪は決して許しを乞うためのものではない、突き詰めていけば所詮それらは自己満足でしかないと分かっている。

 だがそれがどうした。自己満足なら最後まで貫いたもの勝ちだ。今度こそ迷わない、今はこうして無為な時間を過ごしていても自分はそれを成し遂げて見せる……かつてとは違う固い意志が今のトレーゼにはあった。

 ひと寝入りしてから目を覚ますとタブレットの時間表示はカウントダウンに差し掛かっており、やがてゼロになると画面にノイズが走りどこかから何らかの映像を受信しようとしていた。やがて映像は少しずつ鮮明になり、それにつれて音声も聞こえるようになってきた。

 『──あ、……あー、テステス、只今マイクのテスト中でーす』

 「……何をしているんだ」

 映ったのは画面に向かって呼びかけを続けるスバル・ナカジマの姿だった。マイクテストをマイクの視点で見るとかくも間抜けに見えるとは、流石のトレーゼもこの時まで知り得なかった事実である。

 『え、ちょ、あ! ト、トレーゼ!? え、なに、これってそう言う装置だったの!!』

 「それ以外の何だと思って受け取ったんだ。そうか、こういう形での『面会』ということか」

 程度の差こそあれ互いに犯罪者である以上は顔を直接合わせての面会とはいかない。故にこうやってひどく回りくどいやり方でしか二人の要望を叶えることは出来なかったが、当の本人らにとってはそれで充分だった。こうしてまた言葉を交わすことが出来るのだから。久しぶりに見る彼女の顔はどこかやつれているように見えながらも、その瞳はやはり色褪せない輝きに満ちていた。

 「俺がカリム・グラシアに頼み込んだ。正確に言えばフェイト・ハラオウンに仲介してもらってな。俺の与り知らないところではもっと多くの人間に世話をかけさせる形になったが……それでももう一度こうしてお前と話がしたかった。俺のわがままだ」

 『あたしもトレーゼとまた話がしたかった。こんな早くになるなんて思わなかったけど、それでもやっぱり嬉しいよ』

 実際は顔も忘れるほど見ていなかった訳でもないのに、二人の胸に去来するのは懐かしさである。言葉に表さずとも思い起こすのはこれまでの無軌道な自分たちの道程、そしてそれに関わる記憶。ほんの少し前の出来事で、それも大っぴらに語り合えるようなものではないと分かっていても、娑婆を離れ二度と帰らない旅路に出る前にどうしてももう一度会いたかった。

 とは言え今更顔を突き合わせても何を話せば良いのか分からず、しばらくは「最近の調子はどうだ」とか、「何をしている」というような言葉しか出てこなかった。調子も何も自分たちの置かれた状況を見ればそんなことは一目瞭然で、刑務所に入れられた上でやれる事など限られている。そんな事を聞きたかった訳ではないのに、いざ口を開けばそんな差し障りの無い話題しか出てこない自分に我ながら情けなさを感じていた。

 『あの時のトレーゼってばほんとに機械みたいな喋り方で、今だから言うけどほんとはスゴく怖かったんだからね!』

 「それは悪かった。だがそう言う割には随分と肝の据わった感じだったな。俺もあの時から既にお前のしつこさの片鱗を見ていた気がするよ」

 『それはトレーゼがいつまでも抵抗するからだよ。ティアのことだってボコボコにするし』

 「そう言えばランスター執務官は何をしている。お前の方には会いに来ているのか」

 『うん。誰かさんに壊されたデバイスも修理してもらったし、もう前みたいにバリバリで仕事してるよ』

 「お前は意外と根に持つタイプだな……」

 『女の子ってそういうものだよ。ノーヴェにセッテ、トーレさんだってそうでしょ?』

 「そうだったな。そのしつこさに救われたのだったな、俺は。改めてお前には感謝のしようが無い。ありがとう」

 『もういいよ、気にしないで』

 そう言ってくれるのはこの少女の優しさだろうが、彼女を絶望の淵まで追い込んだのも自分であることを忘れてはならない。己の贖罪の相手に彼女はもちろん入っており、彼女の方もまた己を断罪する権利を持っているのだ。こんな歪な信頼関係しか結べなかったことを後悔したところでどうにもならないが、せめてそれをはっきりとさせるのも今日この場を設けた理由の一つだった。

 「スバル・ナカジマ。お前は俺を糾弾する権利がある。俺が持つありとあらゆる尊厳を無視し、それを踏み躙る自由がある。お前の今の境遇は俺がいた所為でねじ曲がったものだ。例えそうする事で何も変わらないのだとしても、お前はそれをすることが許される身だ。俺に対する恨み言があるなら今の内に言っておくといい」

 『ないよ、そんなもの。あたしは自分の意志で判断して行動した……ほんのちょっと後悔もしてるけど、それでもこの心は変わらないよ。だからあたしはトレーゼを責めたりしない。あたしはあたしなりのやり方でこの罪を償います』

 その意志は既に鋼の固さを纏っていた。であるなら何も言うことはない。いつだってそうだった、この少女の決意を変えることなど誰が出来ようか。それが彼女の選んだ道だと言うのなら自分にできるのはその前途を祈るだけである。

 「そうか……。だが俺はいずれお前に背負わせた分まで清算してみせる。お前がその解放を知る日が来るとは思わないが、それでも俺のこれからの時間はその為だけに使うとここに誓おう」

 『何をするの? また無茶しようとしてるんじゃ……』

 「いいや、そんなことはない。ひどく簡単なことだよ。だから……お前も俺を見守っていてほしい、スバル・ナカジマ。それだけで俺はどんな逆境や絶望でも立ち上がれる」

 『…………うん、頑張って。あたしはずっと待ってるから。トレーゼが帰ってくるのを待ってるから』

 彼女とて分かっているはずだ、トレーゼ・スカリエッティは二度と戻ってはこないと。自分が十年足らずで社会復帰できるのに対し、この男は未来永劫に渡ってその罪を購い続けなければならないのだ。どう足掻いても生きている内に再び会うことは出来ない、そう分かっているはずだった。それでもこの少女は待っていると言ってくれる……これ以上の優しさと強さは他には無い。

 「悔いはない……俺とお前はその一点で共通している。出会いが違っていれば俺とお前はこの上ない友人となれたかも知れないな」

 『そうだね。ひょっとしたら、あの時管理局員のフリしてあたしと話してたみたいに、いつか……二人でね』

 「ああ。いつか……そうなれる日がくるといいな」

 きっと来る、その為にこれから全てを投げ打って事に挑むのだ。

 「スバル・ナカジマ、俺はお前に敬意を表する。お前こそが俺にとっての太陽だった。お前はいつ如何なる時でも俺を照らし、道を示してくれた。どんな仕打ちを受けても決して折れることなく進み続けるその精神を、俺は尊敬している」

 『なに急に? ひょっとして愛の告白的な?』

 「いや……挨拶だよ、別れのな」

 『え……それって……────!』

 音声が途切れ始める。どうやらタブレットを繋いでいる回線がついに切断されようとしているのだ。映像も少しずつノイズが走り、二人の今生の別れが差し迫る。

 『あたし、まだ……トレーゼと話したいことが、いっぱい──!』

 「スバル・ナカジマ、悲しむことはない。いずれまた会う時がある。その時までしばしの別れに過ぎない」

 『本当?』

 「ああ、約束する。絶対に俺はお前に会いに行く。その時まで待っていてくれ」

 『うん……うん、待ってる! ずっと、ずっと! 待ってるから!!』

 映像と音声はここで途切れた。恐らくもう二度とスバルの顔を見ることも無ければ声を聞くこともないだろう。だが後悔は無かった。大切なことは全て伝えられた、ならばこの別れに未練はない。

 「…………」

 かつてここまで心が晴れやかだった時があっただろうか。今のトレーゼは未来に残した宿題に向けて邁進する覚悟と意気込みを確かに備えていた。もう何も恐怖することも絶望に屈することもない、それが確認できただけでも僥倖だった。

 「さてと……」

 だがその前にやることがひとつだけある。恐らく直面しているこの問題は遠く離れたスバルも同じものに出くわして頭を悩ませているに違いない。それを解決しないことには先に進めないのは確実だった。

 「このタブレット……どうやって隠蔽したものか」

 とりあえず適当に分解して適当な箇所に捨てておいた。ちなみにトレーゼは知らないことだったが、一方のスバルはそのままトイレの水槽に沈めたらしい。後にそれが発見された際に彼女がどう言い訳し、ティアナ達がどうフォローしたかは謎のままである。










 やがてその日はやって来た。刑が執行される当日、トレーゼの身柄は極秘裡に護送され然るべき場所に向けて移動を開始した。ご丁寧に目隠しまでされての移動は受刑者に一分たりとも外の景色を見せない為か、その気になれば透視など簡単にできるトレーゼもあえてそれをしなかった。

 ヘリに乗せられたトレーゼと刑務所員らはまだ明け方の空を行き、およそ一時間の後に目的の場所へ到着した。プロペラの風を受けながら外に立ち、手錠に付けられたロープで先へ誘導される。行き着いた先でようやく目隠しを外されて目にしたのは、多くの魔導師がデバイスをこちらに向けて構える光景だった。今からトレーゼは石化によって全身を束縛され、更にその上から氷結魔法によって封印された上で虚数空間へと遺棄される。時間の感覚が無いマイナス時空の放浪は一瞬か永遠か、そんなことは今更どうでもいい、考えたところで些事だった。

 それまで両手首だけだった拘束具が両脚にも追加され、全身に魔法行使を阻害する効果を持ったベルトを巻き付けられる。詠唱も出来ないように口元にはマスクも装着され、雁字搦めにされた体が魔法陣が描かれた部屋の中央まで運ばれて準備は完了した。あとは転送魔法によって虚数空間への道を開くだけだ、それで全てが終わる。

 そして遂に、刑が執行される。

 石化魔法によって四肢から徐々に硬化が始まり、体の自由が奪われていく。小指はもちろんのこと、肌の表面に伸びる産毛に至るまで動く隙を潰され、遂に首から上を侵食した硬化の波はトレーゼから五感機能を完全に剥奪した。それでもまだ人間で言うところの第六感的な感覚機能は生きているが、それでもやはり動けないことに変わりはない。もちろん彼がその気になればいつでも石化など解除できるのだが、そんな事をすればこの刑を受ける意味が無くなってしまう。

 静かに目を閉じたその姿は地下深くより発掘された古代の石像か。しかしてこの石像はこれから次元の狭間、時空の地層とも言える場所に埋め捨てられようとしている。更に石像の上から鎖を何重にも巻きつけ、作業は遂に総仕上がりを見せようとしていた。

 【エターナルコフィン】。恐らく氷結系魔法では最上級に位置するであろう技術。単純な熱や火炎では一切溶解しない堅牢な氷塊は本来なら数人掛かりで起動させる術式であり、クロノのように専用にプログラムされたデバイス持ちでない限り単独での発動はほぼ不可能である。程なくして発動した魔法は石像となったトレーゼを分厚く包み込み、二重に封印を施されたトレーゼは遂に虚数空間への旅路に向かおうとしていた。

 「回路接続! 空間座標軸の固定急げ!」

 「目標時空間に向けて回路開け! 座標軸固定完了! 虚数空間、オープン!」

 「空間拡張の比率を維持。そこっ! ボサっとしてんじゃねえ! こいつと一緒に沈みたいのか!」

 虚数空間との接続は慎重に慎重を重ねて行われ、およそ十分後には魔法陣のあった場所、即ちトレーゼの足元に無限の虚空に続く大穴が口を開いていた。あとはトレーゼを吊り下げる鎖を外せば重力に引きずられて落下する、そうすれば刑の執行は成るのだ。

 「カウントダウン開始! 10……9……8」

 氷塊を吊り下げる鎖がゆっくりと穴の中程まで下げられていく。計器を確認する所員らの視線が一斉に注がれる中で、トレーゼを包む氷の棺は……。

 「3……2……1……投下!!」

 遂にその姿は闇の彼方へと消え去る。事前に拘束器具に取り付けられていた発信機の電波を受信できなくなる限界域まで観測し続け、そしてその反応すら検知できなくなったのを確認し……トレーゼ・スカリエッティの封印刑執行は成った。

 「……反応消失。成功しました」

 次元の穴は瞬く間に塞がれ黄泉路に続く風穴は姿を消した。無事に仕事を終えることが出来た安心感から一様に表情が柔らかくなり、成り行きを見守っていた刑務所の所員らも同じ様子だった。彼らにとってトレーゼ・スカリエッティとはこれまで自分たちが同じく処理してきた凶悪犯罪者となんら変わらず、その胸に抱えた背景など知らないし知る必要もない、彼らは己に課せられた職務を全うしただけであり、故に彼らがこれ以上この物語に絡んでくる事はない。



 ここより先は正真正銘、トレーゼ達の物語である。






























 かくして、元ナンバーズの面々はおよそ二年の更生を経て社会復帰を果たし、同じくスバル・ナカジマは八年の実刑の後にミッドチルダに戻る。この流れは必然であり確定したもの、予定調和である。ここにおかしな点は何一つとして存在しない。社会に復帰した彼女らのその後がどうなったかについてはここで語ることはない。

 何故なら、これは「トレーゼ・スカリエッティ」の物語である。

 その他の人物はもう既に端役と化してしまった故にここから先のストーリーにおいてその意味を成さない。言わば外伝、言わば後日談、言わば蛇足……これからの彼の足跡はもはやそう言う類のものなのだ。

 だが既にトレーゼは虚数空間に落とされてしまい現世には存在していない。そんな彼がどうやって物語を紡ぎ出せるのか?

 答えは簡単だ……。



 トレーゼ・スカリエッティは帰還する。



 無論、彼自身の意志で戻ってくるのではない。その気になれば可能だが、罰を甘んじて受けると誓った以上は半端なことはしない。ならば必然的にその帰還は受動的なものになる。深淵に落とされた彼自身も遅かれ早かれそのようになるであろう事は予想していた。

 故に待った。音もなく、光も存在しない真の暗黒の中を漂いながら彼は静かにその時を待ち続けた。いずれ誰かが、己の封印を良しとしない何者かの手によって仮初の自由を与えられるその日を……。

 永久の暗闇に落ちていくだけだったその体が浮上を始めた。氷の表面を穿つように食い込んだアンカーは彼を納めた棺を上に向かってサルベージしており、ゆっくりとしかし確実にその体を実数に満ちた空間へと引き戻そうとしていた。それと同時にまどろみの中にあったトレーゼの意識も少しずつ覚醒に導かれ、永劫と刹那の区別もつかなかった世界からの脱却を果たす。

 (来たか……)

 石化と氷結の下からでも分かる、自分を引き上げようとする力が自分を放逐した世界から差し伸べられるものであることをトレーゼは見抜いていた。

 やがてトレーゼを覆い隠していた封印は解かれ、石化から解放されたトレーゼは周囲を確認する。

 「今は……新暦のいつだ?」

 「88年だ。主殿が封じられている間にこちらではちょうど十年が経過している」

 控えていたのは懐かしき『闇統べる王』ことロード・ディアーチェ。何故かは分からないが本局勤めを表す青服を着用しており、伊達かどうかは分からないが掛けた眼鏡が知的な雰囲気を醸し出していた。

 「十年か……存外早かったな。それだけこの組織は俺の力を欲しているということか」

 「欲しているのは『力』だけだがな。この十年、管理局は我らを体の良い駒にしてこき使ってくれたものよ。主殿を封印するなど所詮は建前、実際は眷属である我らをこちらに取り込むことでその位置を常に把握し、来るべき日にその封印を解くのが前提。なかなかに小賢しいことをするものよな」

 「予測はできていた、何の不思議もない。それで……向こう側の要求は何だ?」

 「無論、その力を有効的に使わせて欲しいとさ。表向きには名も姿も変えて非常勤の局員として、内部ではとある次元世界で偶然発見されたロストロギアの管理者として、そして裏の真の目的は……」

 「有事の際にのみ動くことを許された特務機関のエージェント、と言ったところか」

 どこの組織にも必ず特殊部隊というものは存在する。日本で言えば特殊作戦群、アメリカのグリーンベレーやデルタフォース、イギリスのSASなど、分かり易い戦力を保有する時空管理局はこれらと同様の位置にある特殊部隊を多数抱えている。その代表格が脅威対策室が設立する特務機動隊などに代表されるエクストラフォースであり、その内のひとつにトレーゼは配属される。

 「組織の裏稼業、まあ都合の良い便利屋だな。管理局と次元世界100年の安寧のためにその知識と技術、そして力を余すことなく提供せよとのお達しだ。連中は最初から我らを封じるつもりなど毛頭なかったのだよ」

 「恐らく機動六課とそれに連なる面々の中にこの事を知っている者はいないだろう。居たとすればあのハラオウンが黙ってはいないはずだ。……他の三人はどうしている」

 「シュテルは主に本局付きの研究機関にシンクタンクとして勤務している。魔導書に記されておる知識を外部に出力する際はあやつの頭脳が欠かせん状態になっておるよ。レヴィは調査団という名目で各無人世界に拠点を移した反体制勢力を片っ端から血祭りに上げておる。この十年で潰した数は百を下らん。ユーリは普段は辺境の環境保護隊の非常勤職員として活動しておる。あやつは秘めた力の強大さゆえによほど切羽詰った事態でない限りは動けん。少なくともこの十年で奴が動かなければならない事態は起こっておらん」

 「息災で何よりだ。俺個人の仕事は何だ?」

 「主殿には我らが所属する部隊の、正確には我らの為に新設される機密部隊の長になってもらいたい。まだ名前も決まっていない仮設部隊だが、主殿を迎えられればようやく日の目を見ることが出来る。いや、元々影の部隊なのに日の目を見るというのもおかしな話か」

 程なくしてバリアジャケットに身を包んだ武装局員が十数名、雪崩込むように部屋に進入してきた。トレーゼが少しでも反抗的な態度を取るようであればすぐにでも取り押さえる用意ができており、それに対し彼は両手を上げることで戦意が無いことを示した。

 「衣食住も給与も身体の自由も保障されている。真面目な恭順姿勢を見せている者に対し手を上げるほど管理局は狭量なはずはないだろう?」

 「……ご同行を」

 現場を取り仕切る隊長らしき男に連れられてトレーゼは一旦ディアーチェと別れた。

 使える物は何でも使う、例えそれが一国どころか世界そのものを滅ぼしかねない災厄の化身であったとしても、有益ならば飼い慣らすことさえ辞さない。それがこの組織の持つ理念であり、ミッドチルダを筆頭とする管理世界に実力主義を根付かせた根本の原因でもある。そのお陰でこうして再び地に足をつけていられることを思えば複雑な気分だが。

 何はともあれ、ここからトレーゼの償いは始まる。その実態は口にすることさえ許されない「社会奉仕」だが、この先永劫に暗闇を漂い続けることに比べれば何とも有意義な話ではないか。むしろこの裁定を下した者に感謝したい気分だった。

 とは言え管理局がこのような判断を下すまでに暗部でいくらかの攻防があったのは想像に難くない。不可視のパワーゲームの末にこの結末に落ち着いたということは、そこで発生した不都合分のツケは総じてトレーゼ側に支払わせる気でいるのだろう。自らが優位に立った途端に強気になるのは個人も組織も同じなのか。

 僅か30分の後、そこにはディアーチェと同じく局員服に身を包んだトレーゼがいた。こうして局の制服を着るのはかつて管理局員に紛れて地上本部に潜入した時以来だろう。今思えば懐かしい限りだが、その懐かしさに身を浸している余裕はない。

 「主殿、受け取れい」

 投げ渡されるのは一冊の書物。漆黒の革張りに血のように赤いインクで文字が記された魔導書だった。

 「これが主殿が携行を許された唯一の武装だ。本来は『紫天の書』だが、奴らの間では勝手に『暁の書』などと呼ばれているよ」

 「名前など勝手に呼ばせておけばいい」

 「それもそうか。シュテルもレヴィも今は暇なはずだ。すぐにでも呼び出しに応じるだろう」

 管制人格と眷属は魔導書を介して常に繋がっており、中枢であるトレーゼが呼び出せばいつでも召喚に応じてくれる。本を閉じて念じた次の瞬間、鮮やかなオレンジと水色、白い光が飛び出してヒトの形となり、それぞれ膝を折ってトレーゼの前に傅く。

 「お待ちしておりました、トレーゼさま」

 「なんか見ない間に痩せた? そんなことないか」

 「お、お久しぶりです……!」

 シュテルとレヴィ、ユーリの三人はそれぞれの所属を示す制服を着込んでおり、研究機関に所属していると聞いたシュテルはそれらしく白衣に身を包んでいた。十年経ったとディアーチェは言っていたが、こうしてここに集まったのはいずれも姿形の変わらない者同士、殆どひと寝入りしていたに等しいトレーゼにとってはいまいち実感を得られなかった。

 「積もる話もあるだろうが、その前にいくつか確認をしておく。お前たち、機動六課と最後に接触したのはいつだ?」

 「いいや、我ら四人ともあの連中と顔を突き合わせたのはあの一件以来だ。表向きには我らも別々に封印されたことになっておるからな。我らとあやつらを繋げる要素は徹底的に排除されておるよ」

 「そうか。次に、この十年でお前たちの社会的地位はどれほどのものになった?」

 「これも表向きのお飾りだけど、ユーリ以外の三人は正式な階級をもらってるよ。いくつかの偽名を使い分けてる」

 「潜伏生活を送るんじゃないんだ、偽名はひとつに統一する。各自これからはその名前で通せ」

 「了解しました」

 「実績を重ねろ。どんな小さなことでもいい、確実にこなしていけばそこには一定量の信用が発生する。それを積み重ねていけば組織内での発言力は増していく。寿命という時間の縛りがない俺達からしてみれば、簡単な任務だろう」

 「論ずるまでもなし。そうすることで行く行くは我らが管理局の実権を牛耳り次元世界を裏から支配するのだな!」

 「いや違う」

 「フハハハーッ!! そうだそうだ、支配してこその我ら……って、何だと!? 違うとはなんだ!?」

 「頂点に立つつもりはない。俺達の役目はあくまで裏方、縁の下の何とやらだ。管理局を影から支え、次元世界を更なる発展に導く……それが俺が行うべき償いだ」

 こうして曲りなりにもお上に召抱えられた以上、出来ることといえば誠心誠意を尽くしてその仕事に従事するより他はない。元よりそれが社会奉仕の真髄であり、惰眠を貪ることを良しとしなかったトレーゼ自身にとってもこれは願ってもない好機だった。既に公から存在を抹消した彼らに許された唯一の贖罪がこれなのだから。

 「別にお前が実権を握ると言うのなら好きにすればいい。そうすることでこの世界を正しい方向に導けるのなら、むしろそうするべきだ。だが……そうではないと言うのなら」

 「わ、分かっている! 主殿の期待に応えるのが我のつとめぞ!!」

 「とか言って、実は一度も統治なんてしたこと無いくせに」

 「一応、『王』さまなのにねぇ~」

 「ええい、言うなっ!! 捻り潰すぞ!!」

 「ですが本当によろしいのですか? あなた様のお力を使えば次元世界に神となって君臨することも不可能ではありません。」

 それは悪魔の誘惑。確かにこの身に溢れる力をほんの僅かでも揮えば次元世界を手中に収めることなど容易い。既にそれは別の未来において証明されている。自覚的に力を使えば王やそれを越える神となって君臨することも夢ではない。

 だがそれはトレーゼの求めるところではない。

 「何度言われようと変わらん。俺はこの力を自分自身の為だけには決して使わない。俺達が歴史の表舞台に立つことは絶対にあってはならないんだ。影に生き、夜を行き、闇に徹する……それが光を生きる者達へできるせめてもの償いと礼儀だ」

 それが堕ちた者の定め、罪を背負った咎人が背負うべき役目だと知る故に。

 「トレーゼさんがそう決めたなら……」

 「うむ、口惜しさも残るが致し方ない。だが良い機会だ。頂点からではなく影からの支配……それも中々に乙なものだ」

 「歴史に残らない名も無き英雄たちの物語かぁ。イイねえ、イイねえ! 大好きだよそう言うのはさぁ!!」

 「どのような道であれ付き従うのが私たちの使命。お供しましょう、あなたがあなた自身の罪を禊ぎ払えるその日まで」

 そこにあるのは忠節や崇拝ではない、あるのはただ純粋な友誼……この男が茨の道を行くというのなら我らも共に行こう、待ち受ける幾多の困難を共に乗り越えよう、その為なら我らも同じ苦しみに身を浸すことも厭わず。

 「そう言えば、まだ我らの隊名を決めていなかったな。如何する?」

 「既に候補はある。嵐雲の騎士、ヴォルケンリッターにちなみ……『シュベルツェリッター』と名乗ろう」

 「『闇の騎士』か。影に徹する我らにはぴったりな名よ」

 五人の魔人が行く。誰もその行く手を阻むことはできない。



 これ以降、この五人の存在が公の記録に残ったことは一度として無い。



[17818] 刹那の別れ
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:8e6a71c6
Date: 2015/01/26 23:08
 一年が経った。

 最低限の自由を約束されながら飼い殺しの日々を送りながら、五人は機を待った。日陰者である自分たちを正当に評価してくれるであろう、そんな奇特な権力者が現れるのを待ち続けた。もちろん、ここで言う「正当な評価」とは何も無罪放免にしてほしいということではない。自分たちの戦場はあくまで裏、その部分で動ける範囲での権力とコネを得られればそれで良かった。










 五年が経った。

 実力主義を推し進める管理局はその性質上どうしても反体制勢力を生みやすく、首謀者の思想が伝播すればあっという間に一大勢力を築き上げることも少なくない。だが例え反逆者の唱えるお題目がどんなに耳に心地よく、実際その言葉と理想が正鵠を射ていたとしても、体制を瓦解させる革命という行為は常に混乱を招き寄せてしまう。その時体制側に取れる手段は限られる。即ち、蜂起される前に切り捨てるのだ。

 その日、五人はとある管理世界にて一斉蜂起を画策していたグループを摘発、もとい関係者全員を処理することで全てを闇に葬った。事前調査で判明したことだが、首謀者だった支部の重鎮はかつてレジアス・ゲイズの薫陶を受けた保守派の一角であり、今は亡き彼と同じく本局と地上との確執を憂う一人だった。地上を軽視する本局に対し実力を付けることで発言力を認めさせるはずが、どこで道を間違えたか局の在り方を武力によって変革する思想を抱きそれを実行に移す算段を取り始めた。

 確かに管理局は本局を中心とした集権的な部分が強く、未だに予算や人材などの采配は本局がヒモを握っている。その首謀者はその力関係をどうにかする為に実力行使に出ようとした、だから自分達がそれを未然に防いだ。関係者全てを「病死」、あるいは「事故死」させることで。つくづく、組織の裏側とは薄汚れた場所であることを自覚させられた。










 十年が経った。

 シュベルツェリッターは節目を迎えたこの年に無期限の偵察任務に入った。内容は各管理世界の内情を探る密偵、もっと言えばスパイの真似事をさせられた。ナンバリングされた次元世界でも所謂「僻地」の扱いを受ける所まで足を運び、表向きは組織の一員として潜伏しながら内情の探索を行い、有事の際には相応の対処を求められる。昨今の反体制勢力の拡大を懸念した上層部が打って出た苦肉の策であり、反逆者の乱立を未然に防ぐ為の必要措置だった。言わば大のために小を切り捨てるやり方、民主主義の名の下に少数派を封殺する手段に他ならなかった。

 敵は内部だけではない。自由と平和を謳う管理局も時として強引な手段を取ることがある。新たな管理世界を加盟させる際、その世界に有益な情報や知識、技術があればそれを接収しようとするのは大国の常である。政治や外交上の駆け引きで済めば御の字だが、もしそうでなかった場合は武力に訴え出ることも有り得る。年に数回、管理局が紛争や内乱に対する介入と称して他の次元世界に戦力を送り込むことを誰も疑問には思わないのだろうか。あるいは文字通り別世界ゆえに意図的に情報封鎖を行って真実を隠蔽しているのかは定かではない。ただ確かに言えるのは、ここ十年で管理局が関わった武力衝突の案件に紛争を止めるのとは別の意図があったことを五人は知っている。

 時には紛争を阻止する側、時には勃発させる側として、常に各世界の情勢を裏から操り続けた。もちろん、体制側が後ろ指を差されるようには決してせず、あくまで管理局は仕掛けられる側、被害者あるいは調停者としての面子を維持したまま戦乱を生じさせた。前者の場合は報復という大義で、後者は制裁という名目でそれぞれ武力をもって進攻し併呑、無論それも条約に則った正当なやり口でだ。後は混乱を収める目的で現地政府に代わる行政機関を置き、数年の時間を掛けて少しずつ支部としての機能を移し、そして正式な管理局地上支部として完成させる。そうすればそこはもう名実共に管理世界、管理局の支配下に事実上置かれたことを意味する。更にそこから十年もあれば国家間の条約から小国の都市条例に至るまで全てが管理局法を基準に制定される。そうなればもはやその世界から反逆の二文字はほぼ駆逐されると言っていい。

 そうして併合した世界は最終的に十を越え、その内の半数に五人が関わった。次元世界の政府を陥落させるのは主に別の部隊の仕事で、五人の仕事はもっぱらその事後処理、もしくは現地に介入する管理局を快く思わない反抗勢力を力尽くで叩き潰すのが任務だった。その内容はスパイ活劇のような娯楽として語ることが出来ないほど荒んでおり、そして薄汚れていた。自分の生まれ育った場所のアイデンティティを守ろうと奮闘した現地の人間を殺し、こんなことはおかしいと声高に主張する身内を殺した。力こそ正義、勝てば官軍で負ければ賊軍、ベルカ戦乱期を経て時空管理局が敷いた実力主義社会の暗部が常に五人にまとわりついた。










 五十年が経った。

 無期限と定められていた偵察任務は開始から三十数年で別の部隊が引き継ぎ、シュベルツェリッターは本局勤めのとある高官の下に付くことになった。分類としてはクロノと同じ清廉潔白を絵に描いたような人物だが、彼があくまで潔白であり続けたのに対しこの高官はまさに“清濁併せ呑む”を地で行く腹黒さを持っていた。自身の持つ権力を最大限に利用しつつ決して悪には走らない、正確に言えば悪を悪とは悟らせない狡猾さを有していた。気分はさながら、地方勤めから本社に栄転を果たしたサラリーマンの気分だった。

 半ば私兵の扱いだったが主な仕事は二つ。ひとつはその高官を通じてやって来る裏の仕事をこなすこと、そしてもう一つは自分達の上司であるその高官を警護することだった。所詮どれだけ武威に優れても暗部は手足に過ぎない、頭を失えばそれまで築いてきた影の地位も失ってしまうのだ。管理局を内部から改革し次元世界に対する貢献を行うにはどうしても権力は切り離せない。お互いに持ちつ持たれつの程よい位置を保ちながら五人は徐々に暗部内での評価を高めていった。多少のやっかみはあったがそこはやはり実力主義の管理局、暗部にまで行き渡ったその主義を上手く利用して五人はゆっくりと、しかし確実に足場を固めていった。

 これで最適な環境が整ったのもまた事実。六十年前の当時を知る者らが次々と局員を辞めたことで少し動きやすくなったが、それでもやはり大っぴらに動くことはできない。有能かつ隠れ蓑兼後ろ盾として最適な上官の下に就ければ言うことはないが、半世紀経っても未だに優良物件には巡り会えない。だがそんな時に転機は訪れた。

 時は新暦150年。時空管理局の発足から一世紀半が経った事を示すその年、ミッドチルダで大規模な記念式典が行われることになった。各世界の高官や提督らを招聘して開催されたこのイベントにミッドはもちろん、他の管理世界も熱気に包まれ祭りのムードを呈していた。だが様々なVIPが集う式典において暗部は休み無しで働かねばならない。どこの組織が一ヶ所に集まった暗殺対象を一網打尽にしないとも限らない以上、警護は厳重に厳重を重ねて行われた。当然五人も割り当てられた高官を護衛する任を密かに負い、その人物の背後で安全を守るべく行動を開始するはずだった。

 その人物とは……。

 「お久しぶりです、皆さん」

 「……リインフォースⅡ」

 姿形こそかつてのような子供のそれではなくなったが、雪原を映したような銀の髪に蒼い瞳、そして何よりその身から感じ取れる同じ闇の気配は確かに彼女が二代目の『祝福の風』であることを言葉以上に語っていた。彼女こそ式典が開催される間に護衛する局の高官であり、退職した八神はやてが築き上げた権力を受け継いだリイン・ヤガミ准将だった。

 「あまり驚いた風には見えないな。情報自体は以前から掴んでいたか?」

 「クロノさんとユーノさんは最後まで疑問を抱いていました。内々に処理したかったとは言え、当時の管理局があそこまで裁判を急いだ背景には絶対に裏があると確信してたのです。でも結局、事実確認はムリでした」

 「無理もない。しばらくの間『地方勤め』をしていたからな。それに我らの方でも可能な限り情報が漏れぬよう工作をしていた。預かり知らなかったとは言え何やら面倒を掛けてしまったようだな、許せ」

 「お互いに時間はたっぷりとありましたし、こうして再会できたのですから何の問題もありません」

 「解せないな。再会の喜びを分かち合う仲でもなし、なぜ俺達に接触しようとした? まさか改めて引導を渡しにきたか」

 「あなた達はもう時空管理局の抱える闇の一部です。わたし程度が逆立ちしても何ともできないのです。ですから……交渉にきたのです」

 「交渉? いつから管理局は元テロリストとその一派に交渉を持ちかけるようになったのだ。生憎と俺達はそこまで暇じゃない。子飼いの兵隊が欲しいのなら余所を当たれ」

 仕事はする、だがそれ以外のことに関しては極力関与はしない主義を貫いてきた。無論それには情報漏洩を防ぐ意味もあったが、自分達の行いに誰かを加担させるのは忍びなくもあったからだ。加えて管理局には自分たちの力を有効活用せんと付け狙う者も多い。元々そのために封印を免れた身の上ともなれば尚更下手を打つような真似はできなかった。

 だがリインの一言で気が変わった。いや、正確には変えられた。

 「『エルトリア』……」

 「…………」

 「二十年前に管理局が調査により発見した新しい次元世界。その文明は局の取り決めにある水準を満たし、魔導運用を可能にする技術もあることから、管理世界として登録されるのは目前と思われていました。ですが直前になって管理局はエルトリアから完全に手を引きました。その時の調査活動の時、裏で色々と動いていたこともわたしは知っています」

 「人聞きが悪いねえ。ボクらは暗部なんだから裏方仕事は当然に決まってるじゃないか。それにあの時ボクらがしてた仕事はホントにただの調査活動とその補助だよ。あの世界はちょっと特殊な事情を抱えててね、凶暴化した大型獣が見境なく襲いかかってくるからその処理をしてただけさ。勝手に調査を打ち切ったのだってお上の指示で、ボクらは何の関わりもない」

 「はい、もちろん承知してるのです。ですがあなたはそれ以降何度か調査委員会に対して、エルトリアを管理世界入りさせるよう上層部に提言するように働きかけていますね。それはどうしてですか?」

 「それは私たちも知りません。トレーゼ様との付き合いはそれなりにありますが、この方が何故ここまであの地に拘るのかは知り得ません」

 確かにトレーゼはこの半世紀で築いた人脈を使って調査委員会に介し、エルトリアを管理世界として数えることを上層部に働きかけた。かつての事件において起こった奇跡を彼は誰にも語っていない、故にどんな衝動が彼をそうさせるのか余人には理解が及ばないのも当然だろう。

 「何故局があの世界を早急に見限ったか分かるか。管理局はその世界を管理世界として認めるにあたり、行政や法整備を含めあらゆる規格を統一する為に介入を行わなければならない。そしてその世界が何かしらの問題を抱えていれば、それを解決するために協力しなくてはならない。それはつまり、厄介事を全て管理局が肩代わりするということに他ならない」

 民族間の紛争があればそれを調停し、パンデミックがあれば医療技術を投入してそれを鎮圧する。無論その背景には管理局がこれまでに勝ち得た他の世界の技術を統合した結果によるものがあるが、面倒事を一手に引き受けて解決を図るそのスタンスは民衆の心を掴むには打って付けであり、そのやり方で局は勢力を広げてきた。

 しかし、その管理局がエルトリアには全く手を付けず逆に触らぬ神を決め込んだのには訳がある。

 「『死蝕』……星そのものを荒廃させる桁違いの環境汚染、その問題を解消することを管理局は拒んだ。単純な話、売りつける恩と返ってくる利益が割に合わないと踏んだのだろう。環境問題を取り除いてやっても、資源も技術も管理世界の平均を下回るエルトリアを加盟させるメリットはほとんど無い。かと言ってあの世界の住人全てを賄ってやるほど今の管理局はお人好しではない。だから管理局はエルトリアを『見なかった』ことにしたんだよ」

 「ではどうしてあなたはエルトリアを加盟させるように働きかけているんですか? もっと言えば、どうしてこんな遠まわしなやり方を? あなたの力なら十年も掛けずに局を牛耳ることだってできたはずです。それが何で」

 「別に。強いて言えば、事を急いてもろくな結果を得られないと思ったからだ。確かに俺達がその気になれば管理局を裏から支配することは容易い。だがそうすれば組織の勢力図という内情に与しない貴様らのような奴が俺を打倒しようと現れるだろう。それはそれで厄介だ。あくまで合法的に、そしてグレーゾーンにいれば貴様らも下手に手出しはできないだろう?」

 「悪者ぶってはいるが、この半世紀の間ずっと主殿はこんな調子よ。自分で言うのもおこがましいが、我らの活動はこの半世紀ずっとただの社会奉仕よ。今の目標はもっぱら、管理局から見捨てられようとしている田舎の救済と言ったところか」

 「目標は分かりました。じゃあ次は、何のためにエルトリアを加盟させたいのか、その『目的』をお聞かせください」

 「どうしてそんな事まで話さないといけない。俺とお前達は時が経ち過去の出来事とはいえ敵同士、馴れ合うような関係じゃないはずだ。もう俺達には金輪際関わるな」

 それだけ言い残して五人は持ち場に戻ろうとする。

 「協力、することはできます」

 「……なに?」

 一瞬何を言っているのか分からなかった。だが自分の耳が聞き間違えたのではないことをすぐに知らされる。

 「わたしならあなた達の目標を達成する手助けができるのです。ある程度なら活動資金を提供したり、別のルートで上に働きかけることも……」

 「なぜそこまでする必要がある。俺達とお前は敵同士で、しかも俺の目的はお前にとって不透明だ。そんな奴を相手に何を血迷ったことを言っている。この半世紀でついにそこまで耄碌したか」

 「歳をとったのはお互いさまです、ほっといてください! たしかにっ、わたしとあなたは仲が良いわけでもないですし、わざわざ手を差し伸べる義理も謂れもないのです。正直言えば、このまま何も無かったことにした方がお互いのためかもしれません」

 「そこまで分かっていて何故……」

 「……スバルさんに頼まれていますから」

 「なに?」

 意外な人物の名が出たことにまたも驚きを禁じえない。まさか自分達が生き延びていることを知っていたのではと勘繰るが、それが杞憂だとすぐに分かった。

 「局を離れる前にわたしに頼まれたのです。『もしこの先トレーゼと、その仲間たちに出会うことがあれば出来る限りでいいから手を貸してあげてほしい』、と。あの人は普段は抜けているのに変なところで聡い人でしたから、きっと今のこの状況がくることも何となく予想してた気がします」

 「そうか……あいつがそんなことを……」

 恐らく本人は当てずっぽうか適当にその場で言っただけなのだろう。表向きにはこの世から消えた身であり、こうして落ち延びていることを彼女は知らないはずだ。だがその言葉は巡り巡ってこうしてトレーゼたちを後押しすることとなった。そのことに数奇な運命のようなものを感じずにはいられない。

 「だが、ただそれだけで我らに力添えしようというのではあるまい。無論、何かしらの交換条件があるのだろう?」

 「察しがよくて助かりますです。単刀直入に言いますと、今の後見人からこちらに鞍替えしませんか。どうせ大したお仕事はされてないんでしょう? それならいっそわたしの下でその能力を遺憾なく発揮したほうが世のため人のため、だと思います」

 「言うようになりましたね。ですがまあ、こちらとしても動きやすい環境を求めていたのは事実です。私達としてはそちらの提案を呑むことも吝かではありませんが……。いかがしましょうか?」

 「うん? ああ、やっと話終わったの? 退屈だったから立ったまま寝させてもらってたよ」

 「ええ、あなたに聞いた私が愚かでした。どうぞ話が終わるまでゆっくり休んでいてください。そちらのソファで大人しくしてるんですよ」

 「は~い」

 「あの子お疲れなんです?」

 「言動は色々と残念な子ですが、何だかんだ言って私達の中では一番の稼ぎ頭ですからね。少しくらいの怠慢は許しますよ。それで話を戻しますが……他の方々はどうでしょう、この話を呑みますか?」

 「裁きを執行されている俺達に拒否権などあるはずもない。だがそうまでしてそちらの言い分を通すからには、こちら側の要求もひとつ呑んでもらう」

 「……なんでしょう?」

 裏側で起こった会談をよそに、式典そのものは何事もなく無事に終了した。










 結論から先に言えばシュベルツェリッターは飼い主の鞍替えに成功した。暗部を好んで走狗にする者はたいてい後暗いことに手を染めており、そこを突けばホコリはいくらでも落ちてくる。分かり易い話、失脚させたのだ。どんなネタを使いどんな方法でそれを行ったかは伏せておくことにする。

 鞍替えしても五人の仕事は変わらない。基本的には子飼いの暗部部隊としての立場はそのままに、これまでは飾りでしかなかった表側の地位を利用する機会を増やしていった。絵図はリインが描いたものだが、ゆくゆくはディアーチェを自分の副官として据えようとするあたり、既にかつての主人を越える腹黒さを秘めている。

 「我を副官に任命しようなどとは……よほどの酔狂か、度を越した馬鹿か。能力を考えれば明らかに我よりもシュテルが適任であろうよ」

 「あの人は頭の回転は早いですし弁舌も立ちます。でもシュテルさんは残念ですが政治的手腕に欠けているのです。生き馬の目を抉るような今の管理局上層部の争いにはついていけそうにありません」

 「要は足手まといと言いたいわけか。まあ確かに、あやつでは頭の使い所が違うか。その分、我らには出来ない部分で張り切っているようだがな」

 現在シュテルは以前と同じく研究機関に身を置きながら管理局と繋がりを持つ有力企業に対して情報を提供し、その見返りとして形になった技術を貰い受けていた。更には過去のとある事件で倒産寸前にまで追い込まれていたカレドヴルフ・テクニクス社の新たな株主となり、技術を更に発展させる場所とスタッフを確保することにも成功した。この企業がどんな事件に関わっていたかのあらましはリインから聞き及んでいるが、そのことはこれからの事に関わり無いのでここでは割愛することにする。

 カレドヴルフはその本社を第三管理世界「ヴァイゼン」に置いており、繋がりの強い企業が発言力を増せば間接的にそこの支部を支配することが出来る。既得権益にうるさい輩には新たな金脈を与えておけば黙らせることができる。連中は所詮、いかに楽をして稼げるかしか頭にない。カレドヴルフから得られた資金は全てそいつらの「小遣い」に注ぎ込んでおき、頃合を見計らって贈収賄の嫌疑で摘発すれば後は芋づる式に引っ張れる。

 リインの目的は単なる汚職局員の一掃ではない、彼女にも彼女の目的がある。縦社会における個人の目的など上を目指す以外に何も無いが、彼女の目標は統括官である。統括官とは組織のトップの補佐役、そしてトップとはつまり管理局長である。補佐というが実際には副局長のようなものであり、そこに収まれば事実上は管理局の権力の大半を手中にしたことを意味する。

 「我の知るうぬは権力を追い求めるような性分ではなかったと思っていたが、この半世紀で変わったか」

 「組織の支配構造を変えるには上に立つほうが都合がいいのです。はやてちゃんとクロノさんから土台を引き継がなければ、ここまで早くのし上がれなかったのです」

 「我が聞くのもおかしな話だが、この半世紀でうぬらの近況はどうだ。我らには精々顔ぶれが変わったことぐらいしか分からんのでな」

 「皆さんお歳を召された以外は特にこれといって変化はないです。機動六課のメンバーで局に残っているのはライトニングの二人だけで、なのはさん達は地球に里帰りしちゃいました」

 「それもそうよな。何せあれからもう五十、いや六十年か。変わらぬ方がおかしい」

 「変わったと言えば知ってるですか? ヴォルケンリッターの皆さんも随分と変わったのです。闇の書が破壊された影響で肉体が徐々に人間に近付いたのですが、この半世紀でヴィータちゃんを除く三人はもうかなり老けましたぁ。あのシャマルさんも今では見た目完全に四十の色香漂う熟女なのです」

 「……意外と想像できるのが哀愁を誘うな。そうか、六課はあの小童二人を除いて職を辞したというのは事実であったか。不思議なものよなぁ。かつて敵対し矛を交えた者が一線を退くというのは、なかなかに物悲しいものよ」

 「張り合いがないと言いたいですか?」

 「それもある。煩わせた身で言うのもおこがましいが、奴らは正しく我らの強敵であり、障害であり、そして何よりも……並び立つ友であった。この先我らが蛮行に走るようなことがあれば奴らの代わりに誰がそれを阻止するのだろうな」

 「心にもないことを言わないでほしいのです」

 「そう言えば主殿の血族はどうなった? 確か、『ナンバーズ』とか言うたか」

 「それは……」

 一瞬会話が途切れる。直感で聞いてはいけないことだと理解したが時すでに遅し、聞かなければ良かったと後悔しても後の祭りであった。

 「あの人たちはもう四十年も前に亡くなられています」

 「死んだ? いや、それよりも……四十年前だと? 我らが身を隠してから二十年で何があったというのだ!」

 「別に深い理由はないのです。あの人たちは全員ご病気でした」

 「ますます解せぬ。戦闘機人は常人より遥かに優れた肉体を持つのではなかったのか」

 「戦闘機人だからこそです。頑丈な体はそれを異常だと気付かせることなく進行し、ある種の慢性拒絶を引き起こしました。全身の機械部分を除去して生体部品と移植する手術も行われましたが、元から異物を抱えて生まれていた皆さんに合う臓器は中々無く、部分クローニングで培養した物を用いても病を治すどころか逆に活発にさせ、最期のお姿は……とても見ていられませんでした」

 元来、戦闘機人とはそう言うものだった。古代ベルカにおいてこの技術が完成しなかったのは生体部分への負担が極端に大きく、耐用年数は決して長くない。スカリエッティ謹製の彼女らでもそれは変わらず、ある時期から徐々にガタが訪れ始めた。スカリエッティが存命であったなら話は違っていたかも知れないが、その彼はトレーゼ……いや、スバルが手を下してしまった。管理局が総力を決して彼女らの治療と延命を図ったが、健闘も虚しく遅い早いの差こそあれかつてのナンバーズは残らず死に絶えてしまった。

 「……この事を主殿には?」

 「言ってません。言わなくてもいずれ知ってしまうでしょうし……」

 「で、あろうな。今更郷愁も何も無いだろうが、己の身内に当たる者らが消え失せてしまったことをどう思われるか。……話は変わるが、主殿から提示された交換条件とはなんだったのだ? 我らは何も聞かされておらんのだが?」

 「人を探して欲しいと……」










 人の腰ほどの高さにまで切り整えられた石が並ぶ寂れた場所。ここは墓地、既に死してその命を天に還した者らが眠る最後の安息の地。石の表面には故人の名が刻まれており、幾つかには遺族や知人が置いたであろう花束があった。

 その中の一つ、誰も訪れないのか枯葉が積もったままになっている墓石の前にトレーゼはいた。

 「結局、俺と貴女は会えず終いか」

 冷たい石に刻まれた名こそ違うが、ここにはかつてエリカ・フローリアンを名乗っていた女性が眠っている。トレーゼの生みの親の一人であり、こことは違う別の未来では返しきれない恩がある人物の名だった。

 かつてエリカがエルトリアに赴いたのはトレーゼの蘇生という目的があった。トレーゼが償いを選択し、なおかつ次元世界の崩壊という天変地異を回避したこの時間軸でエリカは再び元の名を取り戻し、心穏やかであったかは定かではないが老衰でこの世を去った。結婚もしておらず身寄りも無いためか、同じような石が並ぶ中でも彼女の物はより一層寂れて見えた。

 「できれば会って話をしてみたかったが……」

 トレーゼが今ある道を見つけられたのも彼女の助力があったからだ。この時間軸の彼女には何の覚えも無いのだとしても、会って言葉を交わしてみたかった。そして彼女の存在は今のトレーぜに新たな目標を与えるきっかけにもなっていた。

 「貴女を欠いたエルトリアはどうなってしまうのか……それだけが気懸りだ」

 エリカと同様に、あの世界に対しても恩がある。誰もあの世界を救おうとしないのなら、現状を知る自分が動かなければならない。だがその為にはどうしても巨大な組織の手助けを借りる必要があり、その組織を乗り気にさせるには権力者におもねり、更にその人物はこちらを正当に評価しなおかつこちらの意図を汲む人格を持っている必要がある。なんて贅沢で分不相応な要求だろうと自虐のひとつも言いたくなるが、ここでリインフォースと巡り会えたのはまさしく千載一遇の大好機と捉えてもいいだろう。かつての機動六課と同じ志を受け継ぐ彼女であるなら道を外れることなく正しい結果をもたらしてくれるに違いない。

 数十秒の黙祷の後、そっと花を添えてからトレーゼは墓地を去った。恐らくここに訪れることは二度と無いだろうが、この命があるうちに“母”の元へと来られた事は幸いなことなのだろう。この不条理な己の人生において親孝行と呼ぶべき唯一の行動だった。

 孝行と言えば、リインに確認して分かった事だが、やはりトーレは自分の願いを聞き入れてくれていた。聖王教会の敷地にはクアットロとチンクの墓が作られており、不義をなしてしまった自分に代わって彼女らは弔いをしてくれたという。墓はあるから供え物のひとつでもすればいいと勧められたが、今更自分が行けば折角の眠りにつけた彼女らを煩わせるだけだ、それは彼女らこそ望んでいないだろう。

 「もうよろしいのですか?」

 車で待っていたユーリと合流し、クラナガンへの帰路につく。かつて郊外の田舎の扱いを受けていたというこの近辺も、そう呼ばれていた時代から六十年も経てば成長もする。その時代の風景を知っている訳ではないが。

 「……時の流れは非情だ。永遠を生きるお前たちに今更それを言っても詮無いか」

 「……トレーゼさんは、浦島太郎のお話をしってますか?」

 「ウラシマ? 聞いたこともない」

 「日本のおとぎ話です。海の都で三日だけ過ごしたはずの青年が、陸に帰ってくると本当は300年も経っていたんです。そして、開けてはいけないと渡された宝箱を開けてしまって、最後は……」

 「死んだのか?」

 「いいえ、箱には魔法が仕掛けてあって、開けた瞬間に老人になってしまったとか、一羽のツルに変身したとか、時間が巻き戻って元の時代に戻ってこれたとか、色々ありますよ」

 「そうか。何にせよハッピーエンド……なのだろうな」

 「どうしてそう思うんですか?」

 「老い先短くなれば悩む時間は少なくなる。人間を辞めれば思考が根本から変わる。タイムスリップまで果たしたなら大団円じゃないか」

 「ポジティブなのかネガティブなのか分からないですよ。というか、意外でした」

 「何がだ?」

 「いえあの……時を巻き戻したなんてお話、鼻で笑われると思って」

 「所詮はおとぎ話だろう、何も気にすることはない。だが……子供騙しと思っているようなことが、実際に起こりうるのかもしれないぞ」

 「え……?」

 「前を見ろ。事故しても知らないぞ」

 そう、おとぎ話は大抵がハッピーエンドで締め括られる。子供に読み聞かせるものなのだからストーリーには最低限の整合性を除きあとは何も無い。それでいいのだ。悲劇より喜劇、シリアスよりコメディを人は求める。それでいいじゃないか、誰だって丸く収まる方がいいに決まっているのだから。

 「大団円、目指そうか」

 トレーゼがかつての姉妹の訃報を知ることになるのは、この少し後である。

 その際に彼が何を思ったかは分からない。事実を知ってから数日の間ずっと彼は引きこもることになり、一切の連絡がつかなくなっていたからだ。だが思い出したように帰ってきた時、その顔はいつもと同じ鉄面皮だった。不気味なぐらい物静かに振る舞い続け、決して動揺を見せるようなことをしなかった。だが逆に物静か過ぎて遠くを呆然と見つめているような状態が増え、どこか上の空な様子だった。



 だがそんな彼に追い打ちをかけるような事実が発覚する。



 「スバルが……生きている?」

 リインと手を組んで間もない頃、そんな一報がディアーチェから寄せられた。確かあの当時で既に十八歳、そこから六十年経った今ではもう八十にも届こうかという高齢のはずだ。生きているとすれば想像もできないが、場合によってはベッド生活を送っていることも有り得る。

 そして彼の予感は的中していた。

 確かにスバル・ナカジマは生きてはいた。ただし、齢八十になろうかという高齢に達しながら彼女は現在終わりなき闘病生活を強いられていた。原因は同じ戦闘機人を襲った不治の病……全身を悪性腫瘍に侵食されながら死ねぬ生き地獄を味わっているのだ。だが何故同じ戦闘機人、いや、より正確にはナンバーズより旧式であるはずのスバルが生き残り、更にはどうして姉のギンガは死したのか。それが一番大きな疑問として立ち塞がった。

 「会いにゆけばよかろう! 言葉を交わさずとも顔を見るだけでも事足りるはずだ。何をためらうことがある!」

 「どうしてもイヤだって言うなら暇なボクが行ってあげてもいいけど?」

 「……いや、俺が直接行って確かめる。お前達は普段通りに任務をこなしていろ」

 スバルは都市部から距離を置いた街にある病院に身を移していた。もう長い間ここで療養しているらしい。眠っているのも一般の病室ではなく病院の一番奥、ほとんど隔離に近い形で入院していた。

 面会は病室の外、ガラス越しに叶った。だがそこに眠っているのがスバル・ナカジマかどうかを判別することは適わなかった。老いていたからではない、全身を包み隠した包帯は首から上まで覆い尽くし、僅かに空いた隙間には幾本もの点滴が刺さっていた。口元だけが酸素マスクを付ける為に地肌が見えており、張りも艶も無くなってしまった皺だらけの肌が己と彼女に横たわる年月を残酷に物語っていた。

 「…………」

 言葉はない。この状況で何を言えばいいのだ。何を言ったところで眠りについている彼女には届かない。あの美しかった蒼い少女の姿はもうそこには無く、今はもういつ訪れるか分からない死を待ち望むだけの肉塊と化していた。

 原因は己にあった。同じ症状はナンバーズにもあり、ほとんどが病気の発覚から短期間で死に至ったのに対し闘病生活が比較的長かった人物が二人いたのだ。トーレとセッテ、いずれもトレーゼの量産を目的として彼の進化の因子を部分的に植えつけられた者だった。肉体の拒絶反応からくる腫瘍の進行に対して自己進化が働き、僅かながら延命の役目を果たしていたのだ。結果的にそれらは死期を遅らせるだけに留まったが、ことスバルに関しては事情が違っていた。

 かつて彼女と逃避行を続けていた時、その身柄を強制支配下に置くために自らの血肉を強引に分け与えたことがあった。あれがいけなかった。分けた血肉はスバルの肉体に順応し溶け込んだが決して消滅してはおらず、代謝や老化を経ながらも進化の因子は後継機として造られたはずのトーレとセッテを上回る濃度で残留することになった。だがそれらはスバルの生命力を向上させると同時に腫瘍の力も引き上げてしまい、その体は死ぬに死ねない生き地獄を味あわされることとなってしまったのだ。全てトレーゼの軽率な行いのもたらした結末だった。掛ける言葉などどこにあると言うのだろうか。自分はもう既に彼女に対しイタチの最後っ屁にも劣る卑劣な仕打ちをしでかしていたのだ。

 医師の話では後三十分もすれば日課となっている昼寝から目を覚ますと言っていた。だがそんな時間まで待つことなくトレーゼは逃げるように病院を去った。どうやって帰ってきたかも覚えていないのは、それだけ動揺していたからだろう。木乃伊の如くやせ細ったスバルの姿が網膜に焼きついて離れず、自らに与えられた仕事もろくにできないほど焦燥に煽られ続けた。かつてないほどに自らの軽挙を呪い、そして悔やんだ。

 「どうにかしなければ……」

 彼女を救わなければという義務感だけが体を突き動かす原動力となった。本来あるべき任務や仕事の片手間に解決策を模索し続けた。だがそれらを実行するには既に手遅れだった。彼女の体を蝕む病は治癒も除去も不能な域に達しており、年老いた肉体はもう手術に耐え切れず投薬だけで精一杯な状態がずっと続いていた。仮に手術を行えたとしても全身に転移してしまった癌細胞を除去すれば穴だらけになり、これもまた彼女の首を締める行為になる。八方手を尽くしても彼女が助かる見込みはゼロだった。

 スバル・ナカジマは、助からない。

 それが覆らぬ結論になっていた。

 それから幾度か時間を見つけては足繁く彼女の元へと向かうのが習慣となった。だが決まって彼女が眠っている頃合いを見計らっての面会であり、目を覚ます前に抜け出るように病院を後にする、盗人のようなこそこそとした見舞いしか出来なかった。何度か担当の看護師に起床している時間を教えられたが、それでもやはり意識がある彼女との面会は避け続けた。身寄りもなく年老いて孤独に枯れていく彼女の心境を知っていて尚自分が目の前に姿を現すことを拒み続けた。

 だがある時ふと気付いた。もはやスバルの病状は末期であり治る見込みはない。だがそんなことはこの病院も知っているはずのことで、治る可能性が無い者を無為に苦しませるくらいなら安楽死させるという選択肢もあったはずだ。ミッドチルダは特にその辺りを規制しておらず、法的にはもちろん手順を踏めば倫理的にも問題なくそれを執行できる。親族のいないスバルは本人の承諾があれば病院側がそれを実行できるはずなのだが……。

 「待ってる人がいるんだそうです」

 そう言ったのはもう顔馴染みになった看護師だった。担当のためこの病院では主治医に次いでスバルと接触する機会が多く、当然そうなれば患者との関係構築も早い。それが元来人懐こい性格のスバルともなれば尚更だった。その看護師が言うには、病院側も何度か安楽死を促したが彼女は決して首を縦に振らなかったという。その度に口にしていたのが今この看護師が言った言葉だという。

 「局員だった頃からのお知り合いらしいんですけど、詳しいことは何も……。お若い頃の話はあまりしてくださらなかったものですから」

 「……彼女が、他人とは違う特殊な人間であることは?」

 「戦闘機人のことですか? ある程度は聞き及んでますが、それがどうかしましたか?」

 「何も思わなかったのか?」

 「ここは病院ですよ、毎年重傷を負った急患が何人来ると思ってるんですか。患者の方々を差別するんじゃないですけど、その人たちに比べればナカジマさんを怖がる理由はありませんよ。病院勤務をナメないでください」

 そう断言する看護師の顔は自分の仕事に誇りを持つ大人の表情をしていた。その表情はスバルを救うことに純粋な情熱を注いでいることが窺い知れた。

 「次回はいつごろお見えに?」

 「仕事が立て込んでいる。一週間は無理だ。それ以外はいつも通りだ、この時間帯には顔を出す」

 「そうですか。お仕事頑張ってください」

 だがこうして見舞いに来られるのも後何回になるだろうか。スバルの体はとっくに瀬戸際でのせめぎ合いを続けて久しい。今日生きていても明日には死んでしまう可能性も有り得るのだ。そうなるまでこんな無意味なことを続けるのかと自責の念も湧き上がるが、今更どうしようもない諦めを再確認させられるだけだった。

 分かっている、彼女が誰を待っているかなど。だがそれでも自分で決めた道を自分で曲げることはできない。己はもうこの世界に存在しないことになっている。それに彼女の手を汚させたのも自分だ。そんな自分が今更どの面を下げて相対すればいいと言うのか。六十年経ったことなど関係ない、それらの汚点は昨日のことのように脳裏に染みついている。もはや今の自分に出来るのは……死にゆく彼女の最期をここで惨めに見届けることだ。これ以上引っ掻き回して彼女の傷口を広げるような真似だけはしたくなかった。

 任務に就いている間だけそれらの不安から逃れることが許された。何かに集中していれば心煩わされることもなく時間を過ごせた。だがそれは結局現状に対する“逃げ”でしかないことは己が一番良く理解していた。すっかり身に染み付いてしまった自分の逃避癖に辟易としながらも。そんな自責の念さえ頭の片隅に追いやる勢いで任務にだけ没頭していた。七日間ずっと必要ないのを良いことに睡眠も食事も摂らず、いっそスバルのことさえ忘れてしまおうとさえ思ったほどだ。

 だがそれは許されないことで、一週間過ぎたその日に惰性に身を任せて再び病院を訪れる。たまには色を加えようと適当に買った花束を持って病室へ赴き……。

 「やあ、お久しぶりです。どうぞこちらへ」

 「…………」

 出迎えてくれたのは顔馴染みの看護師と、その彼が押す車椅子に乗せられた一人の謎の老婆。いや、その老婆は決して初対面などではなかった。これまでに何度もこの病院で彼女に出会っている。そして何より……その両の目の褪せない翠の色を見間違えることはない。

 「ナカジマさん、彼です。彼がいつもあなたのお見舞いにきてくれていたんですよ」

 「まぁ……この人なのね……」

 声も髪の色も何もかも変ってしまっていた。だが老いたその姿を醜いと評することは出来なかった。彼女は人として在るべき姿で過ごしているだけで、いつまでも同じ姿を保っていられる自分の方が異常なのだ。彼女は老いてなおヒトとして正しい美しさを持っている。

 「いつもごめんなさいね、眠ってばかりで。今日はとても調子がいいの。わざわざ何度もあたしを訪ねに来てくれるんですもの、いい加減お出迎えしなきゃと思ってたのよ」

 「……おい、この時間帯は休んでいるんじゃなかったのか」

 「そのことなんですけど、あなたの事をお話したら是非お会いしたいと言われまして……。特別に許可を得て病室の外までお連れしました。あっ、もちろん調子が良いというのは本当です! でないと許可は下りませんから」

 調子が良い、といってもたかが知れている。実際車椅子には点滴が設置されており、呼吸器まで設置されたその姿は痛々しい限りだった。だがどれだけ惨めな姿になっていても、顔がシワだらけでも、やはりその両目は昔のままだった。昔日の記憶と同じまっすぐな眼差しを前にしたトレーゼは射抜かれたように立ちすくみ、一瞬の間だが茫然としてしまっていた。そんな彼の心境を知ってか知らずか、老婆は気さくに話しかけてくる。

 「どこからいらしたの? 歳はいくつ? ご家族の方は?」

 「あ、いや……その!」

 「ナカジマさん、そんな一度に質問されてはいけませんよ。彼も困っているじゃないですか」

 「あら! ごめんなさい、あたしったら。年甲斐もなくはしゃいでしまって、みっともないわぁ」

 「……すまない、少しの間で構わない、二人で話をさせてほしい。何かあればすぐに呼ぶ」

 「かまいませんよね?」

 「ええ、ですが無理はしないでくださいね。何かあれば呼んでください」

 そう言い残して看護師は二人から距離を置く。あとに残ったのは、西に傾き始めた陽が差し込む病室で再会を果たしてしまったトレーゼとスバルだけだった。こうして面と向かって会話するのもいつ以来だろうか。最後に言葉を交わした獄中でのあの時を今の彼女は覚えているのか、それを確かめることはできない。

 「もうここに何年も暮らしてるわ。色んな人が入院と退院を繰り返して、今はあたしが一番の古株。もうここがあたしの終の棲家になろうとしてるわ」

 「そんなに長く……」

 「余命半年……その診断を十年以上も前からもらってるけれど、不思議とこの歳まで生きてこれたわ。昔からケガの治りが早くて病気にも罹りにくかったのだけれど、最後の最後でこんな大きな病気を患うなんてねぇ……」

 「ガンだと聞いている。それだけの病を背負ってよくここまで」

 「あたしには昔多くの姉妹がいたわ。でもみんな先に逝ってしまった。みんな同じ病気でバタバタと倒れてねぇ……。どうしてかあたしだけ長生きしてしまったわ」

 「……苦しくはないのか。病に侵され、気力も体力も底を尽き、残り僅かな寿命に縋ってまで何故生きようとする?」

 「そうね……。苦しいわ、とっても。横になっていても体の節々が痛い。息をするだけで胸は締め付けられるし、病気を足止めするための強い薬もあたしには毒になる。それにね……眠る時はいつも怖いの。自分はまだこのベッドの上に居られるのかしら、あたしは明日の朝日を見ることができるのかしら……いつも不安なの」

 「そうまでして何故?」

 「あらぁ、あたしはもう八十のおばあちゃんだけれども、女の人が我慢強く待っていられる理由ってひとつだけだと思うわぁ」

 「?」

 「待っているの。あたしを置いてずっと遠くに行ってしまった人を。その人があたしの所に来てくれるのを、ずっと……」

 嗚呼、ここで己がそうだと名乗り出られればどれだけ話は簡単だろうか。そうすることで彼女のしがらみを断ち切り、その苦しみを少しでも少なくすることができれば彼女をこの現世に留めておく理由などなくなる。そうした方が彼女の為になるのだと分かっているのだ。

 だが何故かその真実を打ち明ける気力が今の自分に無いことに愕然とした。彼女がそれを信じるか否かではなく、その前の段階、真実を述べるという意志が湧いてこない。自分自身で足止めをかけてしまっていた。もう終わりにしなければと思う反面、このままでいさせて欲しいという身勝手な感情が逆巻く。そうなれば後は膠着するだけだ。言うべきか言わざるべきかと自問自答を繰り返す内に時間だけがどんどん流れ去っていく。こうして元気そうに喋っていても所詮は病人、息遣いや体の末端を見れば不調は一目で分かってしまう。

 年寄りの語りは長い。密かに娯楽に飢える彼女もまた久方ぶりの来客を相手に年甲斐もなくはしゃいでいるようだった。聞きに徹している間に相当時間が経ったのか、廊下側の窓から例の看護師がチラチラとこちらの様子を覗いていた。そろそろ健診の時間なのだろう、ちょうどいいとばかりに適当な所で話を切り上げるとトレーゼは帰る用意を始めた。

 「もう帰るのかしら?」

 「ああ。あまり長居していい時間でもない。自分の体を労わるべきだ」

 「優しいのねぇ。じゃあまだお話してたいけど、そうするわ」

 「……では、俺はこれで……」

 「ああ、待って。次はいつ来られるのかしら。年寄りの一人暮らしはヒマなのよ。だから次に来てくれる時もこうして待っているわ」

 そう言って微笑む顔が、いつかの今生の別れと見せたあの時の表情に重なって見えた。だからなのか、結局断りきれずキレの悪い生返事だけでその場を何とか乗り切った。つまり、なし崩し的に次に会う約束をさせられてしまった。










 それから数日に一回のペースでトレーゼとスバルは会い続けた。もっぱらスバルが喋ってそれをトレーゼが聞いているという形だったが、二人の間はそれで良かった。六十年という歳月が流れた事も含めて、変わったスバルのことを知るのにはちょうどよかった。こういう時は彼女の隠し立てしない素直な性格が幸いし、トレーゼは様々なことを知ることが出来た。

 そこでこの六十年彼女がどのように生きてきたかも知った。定年を迎えたか、あるいは病身で辞めたものとばかり思っていたが、実際はもっと早くに辞めていた。四十年前、ちょうどナンバーズが病で倒れた頃にだ。当時既に管理局はそれらの病が機人特有のものであることを知っており、スバルもまたそれが不治の病であるのを自覚していた。出所してすぐ奇跡的に救助隊に復帰できた彼女だったが、遠からぬ内に自らが隊の足を引くことになるのを感じていた為、まだ動けるにも関わらず職を辞したのだ。負けん気が強かった彼女とは思えない潔さだ。

 「本当は……もっとあそこに居たかったのよ。でもね、誰かを助ける為に走ってきたあたしが、もう走れなくなる……そう考えた時に決心はすんなりついていたわ。老兵はただ去るのみってね」

 茶化したように語るが当時の彼女にとって苦渋の決断だったことは想像に難くない。彼女の夢まで挫いていたことまで知らされ、トレーゼの胸中は穏やかではなかった。

 「少し早めの隠居生活と思えば気楽なもの。そう自分に言い聞かせていたけれど、その時は悔しかったわ。今まで大きな病気に罹らなかったのが一番の自慢だったのに、足も動かせず、健康まで失って……今まで何のために生きてきたんだろうって、そればかり考えてた」

 「…………」

 「でもね、よくよく考えてみたら、あたしの人生ってそんなに悲観的になるほど荒んでたわけでもないのよね。自分の好きなように生きて、好きなことも出来て、やりたいこともやれた……そう考えるとね、不思議と諦めがついちゃったのよ。ああ、自分はもう悔いなんか無いんだって……」

 「本当にそうなのか? やれることや、やりたいこと、もっと他に何かあったんじゃないのか」

 「うーん……どうだったかしら、忘れてしまったわ」

 そう言って照れたようにはにかんだ笑いを見せるのは、記憶にあるあの頃と何ら変わりない。

 「なんて嘘。本当はひとつだけ未練があるわ。だからここで待ってるの。あの人が来てくれるまで……」

 「…………来ない」

 「どうしてそう思うの?」

 「何年前の事なんだ。そいつがどこの誰かは知らないし、知る必要もないが、もう諦めた方が良いんじゃないのか。六十年……口で言うほど軽い歳月ではなかったはずだ。それだけの人生をそいつの為に棒に振って、老いさらばえた今でもまだ引きずっているのか。はっきり言って……見っともないぞ」

 突き放す言い方をするのはこの年老いた少女に現実を知らせるためだ。歳をとって耄碌してしまったか未だに夢を追うような物言いに、そうだこいつはこんな奴だったと、今更ながらに思い出す。かつてはその諦めの悪さに救われもしたが今回は事情が違う。文字通り身命を削ってまで尽くそうとする彼女の意志は尊いと分かるが、今となってはむしろ彼女自身を苦しめる劇薬にしかならない。

 だがどうする。彼女を諦めさせるのは骨だ、それは自分が身に沁みて実感している。今だってここまで厳しい言葉を投げつけたにも関わらず、その目はさっきよりイキイキとしている。

 「心配してくれるのね。優しい人」

 「だからそうじゃなくて……! お前はこのまま死んでしまうのが怖くないのか。何もできず、何も成せず、ただ時間を浪費し惰眠を貪り、そうして無駄で無意味な日々を過ごして恐れを知らないのか?」

 「年寄りっていうのはヒマな生き物なの。だから待つことは苦じゃないわ。いつまで続くか分からないこの命だけど、明日も、あさっても、生き続ける限りあたしは待つわ」

 「…………」

 この時、トレーゼは確信した。今のスバルを生かしているのは医療でもなければ彼女の中に眠る進化の因子でもない、まさに自分に会いたいというただそれだけの一念で生きながらえている。

 それだけだ、それしかない。もし芯となっているその部分が潰れれば彼女は間違いなく生きることを放棄してしまうだろう。絶望で折れてしまうのではなく、諦めによって枯れてしまうのだ。そうなればもう彼女には生きている意味が喪失してしまったことを意味する。やはり彼女を生き続けさせるにはこのまま自分を待ち続けてもらうしかない。だがそれはもはや立ち枯れていくだけの彼女を更なる生き地獄に落とすことを意味する。

 どうする? 己はどちらを選ぶべきなのか?悶々と広がり続ける胸中の暗雲はトレーゼをいたずらに蝕み、そして暗闇に沈めていった。何も答えは出なかった。

 彼女の容態が急変したのはそれから一週間後のことだった。

 連絡を受けて駆けつけた時、もう全てが終わった後だった。

 「ご臨終です」

 医師の淡々と告げられる言葉が果たして耳に届いていたのか自信がない。断片的に覚えているのは、昼過ぎに容態が悪化してそのまま息を引き取ったという部分のみ。駆けつけた時には既に地下の霊安室に運ばれた後だった。長患いの末の死とは思えないほどその顔は穏やかで、口元を見れば心なしか微笑んでさえいるようだった。

 既に親類縁者がない彼女の亡骸は共同墓地に埋葬され、多くの無縁仏の一人という扱いに収まる。彼女は押し迫る時間の波に飲まれ記憶にも残らなくなるだろう。それを想像するとトレーゼは身震いするほどの恐怖に襲われた。かつてキリエ・フローリアンが危惧した「忘却による滅び」、それが今まさにスバルの死によって引き金を惹かれてしまったのだと察したからだ。永遠に近い時を生きるトレーゼにとって忘却は友であり必定、いずれスバルのことも忘れてしまうと知れば気が狂いそうになるのもやむなしだった。

 傍目には落ち込んでいるように見えた彼に医師が近付く。

 「ご遺族の方ですか?」

 「…………」

 「これがナカジマさんの枕元に。恐らくあなたに宛てたものでしょう」

 そう言って手渡した封筒には宛名も無かった。不思議なものだ、あれだけ顔を合わせる機会もありそこそこの偽名を考えていたにも関わらず、彼女に対して名乗ることはただの一度もなかった。彼女の方から名を訪ねたこともなかった。だから封筒に名前を書けなかったのだろう。だが元々交流が少なかったからこそ手紙はこうして違うことなくトレーゼの元へと届いた。封を切るか否かは彼の手に委ねられる。

 「……」

 以前、自分はもらった手紙をまともに読まなかった。内容が予想できていたことと、今更目を通して何になるのかと勝手に達観していたからだ。実際読んで多少以外に思ったものの、それきり記憶の隅にも置かなかった。

 だが今回は違う。この中には恐らく彼女の人生が詰まっている。目も通さないのはそれこそ彼女の生に対する侮辱でしかない。意を決し封を切って目を通せば、六十年ですっかり変わった字体が見えた。満足に持ち上げることも出来なかったはずの手で書いたせいか、所々字が歪んだり書き損じがあったりもした。だがそこに記したかったであろう真意は確かに読み取れる。

 最初は差し障りのない季節の挨拶から始まり、最近身の回りで起きた他愛もない世間話に移り変わる。病室を棺桶にした彼女にとって何を話す事があったのか、顔を合わせる間に何度も聞いた話を書き連ねてあった。彼女にとっては僅か数週間だけ会話をしただけの間柄にも関わらずここまでの事を書けるのは何故なのか……その答えも、そこに記された。



 “お帰りなさい、トレーゼ”



 「嗚呼……っ!!」

 スバルはずっと気付いていた。誰に言われるまでもなく、ひた隠す自分の浅はかな考えなどとっくに見抜いていて、その上で知らないふりをしてくれていた。彼女の優しさは六十年の時を経て老いてなお健在で、そしてその優しさを抱いたまま静かに逝ってしまった。全ての真実を察した今、これ以上現世に留まっている理由など無いと言わんばかりに……スバル・ナカジマは何の悔いも残さずに天に昇っていったのだ。

 そうしてトレーゼは自らの本心をやっと理解する。例え更なる重荷と苦しみを背負わせる事になったのだとしても、自分は彼女に生きていてほしかったのだ、と。自分に希望を与えてくれたスバルの人生に幸多からんことを切望していたはずだったのに……こんなはずではなかったのに……。

 手紙には何行にも渡って自分に会いに来てくれたことへの感謝が綴られていた。恨み言など一切無い、いっそ紙一面に罵詈雑言を書き連ねていた方がどれだけ救われただろうか。振り切れるほどの激しいマイナス感情は、時として捌け口を求める故に生きる活力となる。己の体をここまでボロボロにした相手を恨むも憎むも彼女の自由、彼女にだけ許された正当な権利のはずであり、それを甘んじて受け入れることで彼女が生き永らえるのならば、自分はどんな屈辱にも耐えられると思っていた。だが恐らく彼女は身に宿る僅かな後悔さえも己の不徳として抱えて逝ったに違いない。最後の最後まで自分は彼女の優しさに救われ、そしてそれに甘えることしか出来なかった……。

 思い返すと、自分はスバルに何をしてやれた? 彼女に要らぬ傷を与えその人生を掻き乱し、道を踏み外させ、挙句は病魔を押し付けた上に無為に苦しめただけではないか。彼女は自分にその身が持てる全てを与えてくれたと言うのに、その優しさに甘えた己は望むままに全てを奪って行っただけに終わっている。こんなことが許されるのか?

 否、絶対に許してはならない。全てを投げ打って自分を救ってくれた彼女の魂は報われねばならない。この世で最も清らかな善行、即ち自己犠牲を完遂してみせた善人が死して報われないと言うのはそれこそ理に反している。

 今はしばしの別れ……必ずその行動に報いると誓いながら、トレーゼは静かにかつてと同じ感謝の言葉を、もう天に昇って行った彼女の魂に伝える。

 「スバル・ナカジマ、お前は俺にとっての太陽だった。お前の輝きは俺を照らし、道を示し導いてくれた」

 だからこそ、今こそこの言葉を送ろう。

 「俺は、トレーゼ・スカリエッティはお前の生き様を尊敬し……その命の輝きを愛していた。ありがとう、俺の憧れであってくれて」

 ならここから先に自分がするべきことは決まっている。今まで自分の為に自身の何もかもを犠牲にしてくれた恩人たちに対し、その恩義に報いるのだ。そしてこの世の真理は常に対等の物を差し出す等価交換……彼女らが全てを犠牲にして救ってくれたなら、救われた自分も差し出すモノは決まっている。

 「待っていてくれ」

 ここより先、トレーゼ・スカリエッティは全ての“時間”を対価に捧げることを誓う。

 例えそれが……あらゆる罪科を反故にしてしまう禁じ手であったとしても。










 その後、聖王教会が管理する墓地にひとつ墓石が増えることになる。眠る者の名は「スバル・ナカジマ」、かつて世紀の大罪人の心を救いし世界で最も心優しき少女の名前。そして彼女の墓石の傍にはかつての姉妹たちが眠っていた。

 「あら、珍しい……」

 普段からこの墓地の清掃を行っているシスターが一人、それらの墓石の変化に気付く。一年通してほとんど弔いの形跡が無いこれらの墓に、今日は誰かが花を添えてくれていた。数こそ少ないが美しく咲き誇る花を見て、この下に眠る者達のことを思い出してシスターが微笑む。

 「シスター・アピニオン、こちらでしたか。何か良い事でもありましたか?」

 「ええ……とっても」

 忘れない限り、死者は心の中で永遠に生き続ける。

 今は別れ。一時、一瞬の、刹那の別れ。いずれまた逢う日まで……。



[17818] 孤独の旅路
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:3735c76f
Date: 2015/03/23 22:22
 トレーゼが現世に帰還してから百年が経った。過去のあらゆる権力者でさえ抗えなかった最大の壁、即ち時間を味方につけた彼らが管理局のトップを取るまでに掛けた期間は僅か一世紀だった。それまでトップを牛耳っていた連中は術中にはめるまでもなく時の流れに従って消えていった。それが自然の摂理、その摂理に反する者が異端なのだ。

 そしてその間にシュベルツェリッターの面々は表向きの社会的信用を着々と積み上げていった。今やトレーゼとユーリを除く三人は表側の仕事の方が多くなっている。

 シュテル・ザ・デストラクター改め、「リズ・N・シュテル」。魔導生物学教授として学界を席巻する権威の一角にして、無限書庫の統括と管理を任された司書の一人。更には本局付きの学者として研究機関に所属しながら、カレドヴルフが主任で行っている技術開発研究機関の総合チーフを務める才媛として局内でその名声を轟かせていた。

 レヴィ・ザ・スラッシャー改め、「フォス・N・レヴィ」。かつて輝かしい戦果を挙げた機動六課の伝説を、飛ぶ鳥落とす勢いで追い上げつつある『A・O・Aの再来』。公式非公式を問わず戦場における華麗かつ過激な戦果は早くも彼女を伝説として見る者もいるが、政治に無関心なそのスタンスは時として的を外した言動の原因にもなっている。

 ロード・ディアーチェ改め、「クラン・N・ロード」。恐らく三人の中で最も表側への露出が多く、現在は本局勤めの提督として次元航行艦隊の指揮を執っている。シュテルのように個人的な貢献やレヴィのような華々しい戦果とは縁遠いが、新たな次元世界を発見し、その新世界に最初に足を踏み入れる栄誉を許されている事を考えればディアーチェの存在は大きく欠かせない。

 主にこの三人が表で活動する事で人脈を広げて更に活動範囲を拡大し、その裏でトレーゼとユーリが暗躍する。接触した相手がこちらの益になる人間ならそれで良し、もし良からぬことを考えているような輩であれば極秘に始末するというのがしばらく続いた。

 無論、三人だけでは活動にも限界があった。そして表側に勇名を馳せればその正体に気付く者もいた。

 「今回は皆さんに紹介したい人達がいるのです」

 「紹介、とな……」

 「どうも覚えのある顔しか見えないんだけどなあ」

 「まあ、こんなことだろうと思ってはいましたが」

 深夜の執務室に召集を受けた五人はリイン立ち会いの元、数奇な再会を果たした。リインの傍に控えるのはかつて彼女らの主、八神はやてに仕えていた夜天の守護騎士たちだった。烈火の将、鉄槌の騎士、風の癒し手、盾の守護獣……誰一人欠けることなくこうして健在だった。リインフォースⅠを破壊した時から既に闇の書の支配から解かれており、リインフォースⅡを除く彼女ら四人は正確には守護騎士ではなくなっていた。

 「以前から聞き及んではいたが……老けたな!」

 「言わないでくださいぃぃいいぃいぃっ!!!」

 傷を抉るような容赦ない物言いに真っ先に反応したのはシャマルだった。守護騎士ではなくなったと言う事はつまり、彼女らの肉体は百年前と比べて更に人間に近付いたことを意味する。人間に限らず全ての生物が辿る老化と言う宿命に彼女らも抗えなかったと言うことだ。

 「って言うか! そこのっ、そこの君だよそこの君ィ! 少し見ない間に随分とナイスバディになってないかいぃ!?」

 「そこまで驚くかよ! あたしだっていつまでもペッタンコじゃねえ!!」

 外見年齢が最も若く、というより幼く見えていたはずのヴィータだが、今ではもうレヴィの指摘するような大成長を遂げていた。その隣で苦笑するシグナムは在りし日の若々しさは既にないが、年を重ねて更に老練された様がありありと見て取れた。

 「そこな守護獣は、何と言うか……一番老いたのう。我が思うに、もう獣の姿にはならぬ方がいいかも知れん」

 「実際、こればかりは否定できん。あの姿の俺はもう老いさらばえた犬にしか見えぬからな」

 結局当時より脂が乗っているのはヴィータだけであり、後の三人はそれぞれ老いが五体を蝕み始めていた。老化自体はゆっくりとしたものだが、確実に寿命を削っているのは当時を知るトレーゼ達からははっきりと分かっていた。

 「それで? こんな時に同窓会でも開くのか?」

 「皆さんのことは少し前からヴォルケンリッターの方々にお話ししてました。もうかなり長い間お世話になっていることも」

 「それで保護者の方々からお礼を述べたいとでも?」

 「半分はそうだ。だが、もう半分はここから先の話だ」

 かつて互いに殺し合ったとは思えないほどの和やかな空気で会談は始まり、十分後には二つの騎士が手を取り合っていた。ヴォルケンリッターの面々はリインから既に百年前の真実について聞かされており、はやてに代わり新たな盟主となったリインとトレーゼが協力関係にあることも、その協力が順調であることも全て知っていた。もちろん、聞かされた当初のリインと四人の仲は拗れに拗れたが、陰からその働きぶりを見て判断すると言う結論に至り、トレーゼらはその信用を得たと判断されたのだ。

 「ここ十年ほど変な気配や視線を感じたのは気のせいではなかったのですね」

 「それでボクらはめでたくお眼鏡に適った、ってことでいいのかな?」

 「そういうことだ。これは我ら守護騎士の総意と受け取って構わない」

 「守護騎士……のう。既に仕えるべき主を欠いた今になり、一体何を守護すると言うのか」

 「決まっている。我らが守るべきモノ、それは主はやての御心のままに」

 八神はやては地球出身の三人の中では最も長く管理局に留まり続けていた。かつてのレジアス・ゲイズやジェイル・スカリエッティのような闇を生み出さないよう晩年は局の政治改革に腐心した彼女だったが、寄る年波には勝てず遂に後継者にその任を託して古巣を去って行った。その後継者こそ名目上の夜天の主となったリインフォースⅡだった。だがいずれ老化によって生を終えるヴォルケンリッターだけでは改革は成せないことは明白であり、いずれ没するであろう彼女らに代わりその意志を継ぐ者を確保する必要に迫られたのだ。

 「それで俺達に白羽の矢が立ったということか。だがかつての敵と手を結ぶのは早計ではないのか。俺がこいつらの亡き後にその支配基盤をそっくり頂くということも有り得るぞ」

 「それはない。お前は支配そのものに意味を見出さない一匹狼だ。気質として支配より制圧、懐柔より殲滅を好む暴虐の徒、それがお前だ。そしてお前はその殲滅にすら意味を求める。そんなお前が何の意味も無く自らが頂点に立つはずがない」

 「信用してもらえて嬉しい、とでも言えばいいのか」

 かつての敵から一定量とは言え信用を預かるというのは慣れない気分である。いずれ守護騎士は完全に代替わりし、その後釜にトレーゼが着くことになる。これは言わば予行練習、いずれ姿を消す者達が自らの後任に予めその任を託す為の舞台作りでもあった。

 もちろん、ここまでこぎ着けるのにはそれなりの苦労があったのは間違いない。今でもヴォルケンリッターから“信用”はされているだろうが、“信頼”はされていないのは明らかである。だが互いの関係はそれだけで充分である。それにトレーゼはリイン個人に対し恩義があった。

 「エルトリアの件について世話になった。その分の働きはする」

 徐々に局内での地位や発言力を増していったリインの働きかけにより、エルトリアは水際で滅亡の危機から救われた。かつて発見された当初より人口は更なる激減を迎え経済や政治、あらゆる産業は衰退の一途を辿っていたが、現在は年間数万人の規模でそれぞれの世界は交流が続いている。死蝕に関しては研究中とのことだが、人々が寄り添って暮らす居住区はかつてトレーゼの記憶にある物より規模が拡大しており、籠の中の鳥だとしてもその中にいる限り人々の安住は約束されていた。いずれ復興するにしても星を離れるにしろ、もう人々はいつ死ぬとも分からない恐怖に怯えることは無くなったのだ。

 「結局あなたがあの世界に執着する理由は分からず終いでしたね。あの一件でわたしもかなり無理をしちゃいまして、方々に頭が上がらなくて……」

 「その件については本当に感謝している。だがひとついいか?」

 「どうぞ」

 「この先の管理局を担う後継者として選定されたなら、それは受け入れよう。だが俺からの提案としては後継者は代替わりさせていきたい」

 「理由は?」

 「俺達は永遠、あるいはそれに等しい時間を生きる。そうなれば必然、俺達が維持すべき体制は流動や循環が起きずいずれは固着する。換気と同じだ。苔が生え、変化なく腐り行くだけの思想には誰もついて来ない。それではこれまでと同じになってしまう。俺達はあくまで基盤、土台を作ってそれを後世の規範にさせるぐらいしか出来ない」

 どんな理想的なシステムもいずれは必ず腐敗する。王政然り、立憲君主然り、大なり小なりこの世のシステムは常に流動し循環してきた。所詮ここにいる面子がもたらす変革でさえ時代のうねりの中で形成される必然的な流れでしかない。であるなら自分達がするべき仕事はシステムの堅持ではなく、システム修正の余地を残すこと。そうしなければかつて利権を貪って来た輩と何一つ変わらない。

 「お前の言うことも一理ある。だがその選定がお前に出来るのか?」

 「それは正直その時にならなければ分からない事だ。幸いなことに時間だけなら山のようにある。俺達は次代を担う逸材を見繕った後は、そうだな、隠居でもするか」

 「それは冗談か何かか?」

 「半分本気だ。俺達はただの繋ぎ、いつの世も時代を動かすのは若い奴らの仕事だ。ロートルに出来ることなど何もない。これは最初から決めていた事だ」

 そうだ、決めていた事だ。自分達は異物、この世界を握り潰せるほどの力を持ったバケモノ達。だが、そんな連中によって導かれねばならないほど、この世界は未熟ではない。いずれ自分達のような異物の手を借りずとも正しき方向へ向かうようになるだろう。その時までの「繋ぎ」、まだ自分の重さも支えられない苗木を支える添え木、それがシュベルツェリッターが自らに課した責務だった。そしてその責務を終えれば後は静かに去り行くのみである。

 「その事に何の意味がある。誰かに強制されたのではないのだろう?」

 「決まっているさ。ただの……『自己満足』だよ」

 「風見鶏め」










 「何か、私達に隠していることはございませんか、トレーゼ様?」

 顔合わせが終わった部屋でトレーゼ達は束の間の休息をとっていた。その際にシュテルがふとそんな事を聞く。酒が回って少し顔が赤いが、既に両脇と背中に寄り掛かって泥酔している三人に比べれば節度を知っている分マシである。

 「どうしてそう思う」

 「一世紀の付き合いです。少しの仕草でも充分に分かります。それで……どうなんですか?」

 「……お前相手に偽りを通せるほど、俺の舌の根は図太くない」

 それはつまり、シュテルの指摘を認めたと言うこと。

 「いずれ、遅かれ早かれ……俺はお前達を裏切ることになる」

 「……いつか、ですか?」

 「ああ。明日か明後日か、一年後か、それとも百年後か……。いずれにせよ、いつか必ず俺はお前達に裏切りを働くことになる」

 「そうですか」

 「驚かないのか?」

 「あなた様が突飛なことを仰るのは今に始まったことではありませんから。それに何だかんだと私たちを欺いたことなど、無いではありませんか」

 転がる酒瓶を片付け終わったシュテルがそっと寄り添ってくる。アルコールで上気した頬が扇情的に見えてしまうのは、トレーゼ自身も酔っているからか。口が軽いのをアルコールのせいにしてしまうほど彼は若くない。

 「最初に手を出されたのは……ユーリでしたね。今夜みたいにお酒の力を借りたのですか?」

 「人を盛りの付いたサルみたいに言うな。あれは逆だ、こいつが酒の席で酔い潰れてだな……」

 「何ですかそれ。ホテルへ連れ込む男の常套句じゃないですか」

 「不快だったか?」

 「……いいえ、まったく」

 「そういうお前はある日突然何も言わずに部屋に上がり込んで、やれ『日々の疲れ』がどうだの、『心身に癒しが必要』だのと、一人で講釈を垂れた挙句勝手に盛り上がって……」

 「あ、あれはっ!? 何十年前の痴話を持ち出すんですか!」

 「三十二年と、九ヶ月前だな。あの頃のお前達はまだ恥じらいがあった」

 「顔を赤く染めながら目を背ける子のほうが好みですか?」

 「…………」

 「そこは『今のお前も可愛い』と気の利いたことを言って欲しいです」

 今日のシュテルはやけに饒舌だ。酒のせいだけではない、でなければ普段決して口にしない下世話なことまでボロボロと零さないだろう。こういう状態の彼女は決まって心に何かを溜め込んでいる時のサインだというのは長年の付き合いで分かる。彼女だけではない。ここにいる四人はもはや家族も同然、僅かな癖や動きだけでその心理が分かる間柄になっている。

 いつもは引っ込み思案なユーリが意外と打たれ強いことも、ディアーチェが尊大な言動とは裏腹に寂しがり屋なことも、レヴィが残念な頭に似合わず思慮深いことも、時々嫉妬深い一面を見せるシュテルのことも……みんなこれまでの時の流れで知ったことだ。

 「あなたが私たちに名をくれた時のことを覚えていますか?」

 「ああ」

 「顔にも言葉にも出しませんでしたが、とても嬉しかった。守護騎士と違って私たちは書を構成する構造体……ヒトとしての名にどれほど恋い焦がれても、それは叶わぬ夢だと諦めていました。あなたはそれを叶えてくださった」

 「必要だったからそうしたまでだ」

 「分かっています。それでも嬉しかった、私たちはちゃんと必要とされているのだと再確認できたのですから。でも……それと同時に気づいてしまった」

 彼女が何を言わんとしているかは分かる。彼女だけではない、ユーリを除いた三人がそれぞれ名乗っている偽名には、本来であれば必要の無いものが敢えて付けられている。

 それはミドルネーム。血縁などどこにもない、あるいは絶対に名乗る必要があったわけでもないのに、名付け親のトレーゼは敢えて「N」の一字を加えた。そのたった一文字に込められた想いを計れないほど、マテリアル達は耄碌していない。

 「太陽が四十、この星を巡っても……あなたの心にいるのは唯一人。名ではなく姓の頭文字なのは、あの方に対する遠慮ですか?」

 「…………」

 「都合が悪くなると黙り込むのは昔からのクセですね」

 そう言ってビンに残っていた酒を一気に呷る。ヒトでない彼女らは幾ら呑もうと中毒は起こさない。ただ酔うだけ、何もかもを忘却の彼方に追いやるしか使い道がないただの道具でしかない。

 「嘘、と言ってください……私達を裏切るなど、真っ赤な……嘘だと。たった一言そう仰ってくだされば、今宵のことは忘れて二度と……」

 そこから先は言わせなかった。自分を枕替わりにしていた三人から離れてシュテルを抱き上げ、ものの数秒で別室へ移動、そしてそのまま彼女を安物のベッドに投げ入れる。そこより先に言葉は要らない。押し倒し、組み敷き、唇を押さえつけてしまえば、そんなものに意味はない。互いにアルコール臭い吐息を交換し合い、あとはケモノになるだけ。

 言葉など、ない。理性も、ない。彼がそう押し通り、彼女が受け入れた。

 脱ぎ捨てた衣服はタマネギと同じで、どこまで行ってもこの男の芯を見せない。

 それは優しさか、その優しさが更に鋭く突き刺さるトゲとも知らないのか。

 この夜、トレーゼが彼女の望んだ言葉を口にすることは一切無かった。










 烈火の将・シグナム、彼女が守護騎士から最初に不在になるなど誰が予想しただろうか。

 あの会合から既に幾十年、彼女の体は全盛を知らない者から見ても分かってしまうほど衰えていた。もはや見た目は老婦人だった。

 だからだろう、道を歩いている最中に車にはねられて死んだなど、それこそ昔の彼女では考えられなかったことだ。車に体当たりしてもケガ一つしなかったのは当たり前だが、向かってくる鉄塊に対して何のリアクションも取れなかった、その事実が残された者達に時の流れを思い知らせた。

 死、それは生あるモノの宿命。避けられぬ運命によって決められた絶対の終末。もう守護騎士などこの世に存在せず、今悲しみに暮れるのはただのニンゲンである。

 次に居なくなったのはザフィーラだった。

 当然だ、犬の寿命は人間より短く、生命として在るべき姿を取り戻せば彼が先に逝くのは明白だと言えた。かつての守護騎士はあっという間に半分にまで減っていた。

 シャマルとヴィータは二人の死を悲しんだ。だが死は彼女らの望み、いずれ来るべき終わりは彼女らがニンゲンになれた最後の証、主と同じ所へ旅立つに必要な儀式だ。

 「これで……いいのですよね」

 「何を悩む?」

 深夜の執務室でぼんやりと外を眺めるリインが呟く。報告を終えて戻ろうとしていたトレーゼだったが、呼び止められたように振り向いて訊ねる。

 「いえ、いずれ残るのがわたし一人だと思うと物悲しいといいますか……。端的に言うと、寂しいです」

 「永遠を生きるとはそう言うことだ。ヒトは俺達を永久に歩き続ける者と言うだろうが、実際は違う。俺達はただ永遠に『今』に止まり続けているだけなんだ」

 「詩的ですね」

 「哲学だ。永遠を生きる俺達に出来るのは先立つ者を見送ることと、そいつらの存在を忘れないことだ。そいつらの足跡を見つめ、眺め、その先を望む……その足跡の意味を知ることだ」

 「……わたしに、それが出来るでしょうか」

 「出来る。お前は俺より強い。力じゃない、精神がだ。俺に出来ていることがお前に出来ないことはない」

 一応、それは慰めと励ましのつもりだった。これで少しは奮起してくれればありがたい。

 「やっとの思いでその椅子に座ったんだろう。なら少しでも長く温めてから退席しろ、それが今のお前の役目だ」

 「統括官の椅子って結構固いんです。あなたのと交換してくれませんか?」

 「官品を無下に扱うなよ」

 「この後飲みに行きませんか? ヴィータさんとシャマルさんは立て込んでて……」

 「うちのオマケも付いてくるが?」

 「いいのですよ」

 思えば随分と気の置けない間柄になったものだ。時の流れは残酷でもあるが、同時に最上の妙薬でもある。少なくともかつて敵対していた者同士が手を取り合えるぐらいには。

 そしてこの二十年後、シャマルが大病を患い程なくして世を去った。今際の顔は安らかで微笑んでいるようにも見えたという。

 「やっぱ最後になるのはあたしだったかー。分かってたけどさ」

 長く伸ばした髪は先に逝った仲間たちの想いを継いだか、かつてのシグナムと同じくらいに伸びた長髪をいじりながらヴィータが呟く。かつて守護騎士を名乗っていた者も、とうとう彼女だけになってしまった。憂いを帯びた瞳は過去を思い出してか、あるいは故人への悲しみか。それを推し量ることは出来ない。

 「互いに過去を振り返るには長く生き過ぎたな。いずれお前も居なくなると思うと、少し寂しくもある」

 「ヘッ、心にもねぇこと言うなよな。そうなればこっちはお前の顔見なくてせいせいするぜ」

 「やはり死は恐れないか」

 「はやての所に行けるんだ。それが何で怖いと思うんだよ」

 「……変な気は起こすな」

 「こっちのセリフだよ。言っとくけどな、あたしはまだお前らを信用したわけじゃねぇんだからな! お前らが良からぬことを仕出かせばあの世からでも叩きのめす!!」

 「怖いな」

 まだ当分先の話のはずだが、そう言って視線を落とすヴィータの表情はこれから我が身に起こることを覚悟している目だった。

 「他人事みてぇに聞き流すなよ。あたしらだけじゃない、リインも、マテリアルの連中も、そしてお前も……皆いつかは死ぬ、必ず終わりが来るんだ。てめえは永遠を生きるなんてフカしやがっても、あたしらだって同じことを考えてた。でも今こうして少しずつ死に向かって歩いてるんだ」

 「いつかは終わりが来る……か」

 「それが『死』だよ。理解したか、魔人さんよ」

 「忠告痛み入る。充分に心得たよ、鉄槌の」

 「ホントかよ。でもまあ、お前は間違いなくあたしより長生きする。だからリインを……あたしの可愛い妹分を頼んだぞ」

 「ああ、出来うる範囲でな」

 安心した、最後にそう言ってヴィータは職場へと戻ろうとする。その行き先は彼女自身が語った通りの死出の旅路か。

 「……『次』は俺以外の誰かに頼めよ」










 新暦200年──恐れていたことが起きた。

 「各支部に造反の兆しあり……ですか」

 「無理もない。組織とは常に一極支配こそが基本構造、融和と言いながら首輪を緩めておったら世話ないわ」

 リインは統括官としてまず最初に行なった仕事は、各管理世界とそこを統治する各支部の自治性の拡大だった。中央集権によって本局は創設からずっと威光を誇示してきたが、その割を食って来たのは常に格下の扱いを受けてきた支部だった。同じ本部と名の付くミッドチルダ地上本部でさえ、予算や人員など多くの面で冷遇されており、それがレジアス・ゲイズのようなタカ派を生み出す温床に繋がったことを考えれば、それらの格差是正を成そうとするのは至極当然のはずだった。

 だが実際のところ、闇雲に飴を投じれば慢心や驕り、相手のつけ上がりを生んでしまう。温情とも取れるリインの政策は各支部による独立運動という名の造反を許してしまった。

 更に本局内部にもそれら独立の気運を援助する派閥や、逆にそれらを煽り立てて漁夫の利を狙おうとする者達が存在し、管理局はいつ崩壊してもおかしくなかった。

 「でもま、こうなることは予想できてたっしょ? 下手に優しくなんかしたら、そりゃいいこと幸いに一杯食わせてやろうと思うに決まってるよ!」

 「古来より、植民地や属国が独立し自治権を獲得する際には必ず戦争が起こる。独立側が勝てば晴れて対等の立場となれるが、負ければ待っているのは更なる隷属だ。奴らだってそれが分かっているから表立った行動は避けている。今はまだ水面下、政治や外交で片付けられる範囲内だ。だがもしこの均衡が崩れて実力行使に出た場合……分かっているな?」

 それはつまり、シュベルツェリッターの力を以てしてかつての同胞を抹殺するということ。一度革命を許してしまえば組織は自らの巨大さ故に自壊してしまう。そうなれば事態は暴走した連中の内輪揉めでは済まされない。

 そうなる前に不穏分子を切り離すのが自分達の役目だ。これまで幾度となくやって来た汚れ仕事、それを今度は誰かに命令されるのではなく自ら買って出る。敵には体制の狗と揶揄され、味方からはいつ裏切るかと勘繰られる。だが損な役回りなんていつでも経験してきたことだ。

 だからこれは了承ではなく、確認。かつて取り交わした互いの約定を今一度明確にさせる儀式。

 「俺達は壊すだろう。奴らの居城を、その拠り所を」

 「構いません」

 「俺達は殺すだろう。かつての同胞を、同じ志を持ったはずの者を」

 「構いません」

 「俺達は否定するだろう。奴らの掲げる正義を、決して悪とは言い切れないそれを」

 「構いません。全てはわたしが招いた失態です。この先の歴史にわたしの名が忌まわしいものとして刻まれることになっても、わたしはわたしの正義を通します」

 「いい目だ。だがお前はいつも通り我関せずの面構えで控えていればいい。汚れ仕事は俺達の役目だからな」

 革命による闘争を未然に防ぐ方法は二つ。ひとつは相手方の要求を呑む譲歩であり、もう一つは反乱分子を根絶やしにする粛正である。この場合行うのは後者、まだ体制側が力を持っている今の内にやっておくのがベスト、だがもしそうすれば後の世で恐怖政治の誹りは免れない。平和の世の為という大義名分でも重すぎる犠牲を強いる。

 「お前の仕事はその後だ。ガタガタになった体制を立て直すには新たな指導者、リーダーが必要だ。民衆を引っ張るのにカリスマ性が要るが、同じ官僚を引くのにそれはいらない。俺が奴らに恐怖を与え、お前がその後で慈悲を見せる、そうなった時それでもなお反抗するか恭順を選ぶか……分かるな?」

 「分かっているのです。恐らくこれが管理局始まって以来の正念場、ここを乗り切れば局は黄金時代を築き上げる……」

 「ああ。そして、俺達とお前の契約は完了する。もう更新する必要もない」

 この混乱がどれだけ続くか分からないが、リインの言うようにこれを乗り切れば管理局は安定期を迎える。支部が抵抗を止めれば格差是正は成り、長年の問題の一つが解決の日の目を見られるのだ。もう内輪で相争うという惨めなことをせずに済むのだ。

 「一年や二年では終わらないだろう。少なくても半世紀、長引けばその倍は掛かる。それでもやるか?」

 「愚問です。何年でも何世紀でも、やり遂げる覚悟はとっくにできています」

 「ならいい。行くぞ、お前達」

 魔王の後に人外が群れをなして列を組む。それは勇ましい親征か悲しみの葬列か。唯一つ確かなことは、これから彼らの足跡は血に塗れるという残酷な真実だけだった。大義という名の下に小を切り捨てる、これまで人類が幾千幾万と繰り返してきた民主主義という名の剪定鋏みが具現化していた。

 世界は何が正しいか正しくないかではなく、何が正しいと認められるかそうでないかの違いでしかない。一見正しくても後で間違いだと分かる事もあれば、明らかに間違っていることでも善として遂行しなくてはならない時もある。悪がまかり通ることもあれば、正しい者が涙を呑むこともある。強き者が必ずしも正義の使者とは限らないのがこの世の常。

 ならば力を持つ者が善を行えば、世界は相対的により良い方向へと導かれる。稚拙な言い分かもしれないが、今はそう信じるしかなく、もとより行動しなければ何の結果も得られない。ならばそれが最善と信じて突き進むのみだ。

 例えそれが、無意味なものになると分かっていても……。




















 新暦300年──。



 「存外あっけなかったのう」

 草木の生えない荒野に佇む五つの影、今しがた最後の仕事を終えてきたばかりの闇の騎士たち。その背後には未だ熱の冷め切らない戦場が広がっていた。いや、戦場というにはもうそこは凄惨を極め過ぎており、元々命の影など無かったはずの場所が今や流星群でも降り注いだかと思えるほどクレーターが刻み込まれていた。既に死体や戦意喪失者はこちらの勢力が回収した後である。

 「改革派最後の砦がこうか。百年も保った事を褒めるべきか、たったそれだけしか続かなかった事を嘆くべきか」

 「いずれにせよ、これで長らく管理局を脅かし続けた内部分裂の脅威は去りました。体制の立て直しという課題は残っていますが、それもいずれは……」

 「ま、そこは統括官サマの手腕に期待ってとこかな。ボクらの契約はこれで一応の完了ってことだし。ねえ、ご主人様」

 平和を迎える世に過分な力を持つ者は不要、それがトレーゼが予め決めていたこの終わりなき贖罪のひとまずの区切りだった。誰が決めたわけでもない、たかが自分一人の勝手な都合による自己満足だが、それでも彼は自身に課していた一つの刑期を終えることが出来たのである。

 『己が不安を与えた社会に対し、その繁栄の助力となる』

 それがトレーゼが自らに課した「社会に対する贖罪」だった。言わば壮大な社会奉仕活動。磐石ではなかった当時の管理局を裏から支え、あくまで裏方に徹してその繁栄の方向に導くという苦行。軽犯罪者が路上の清掃を行うのとはワケが違ったが、トレーゼはそうすることが己の生み出した罪科を贖う数少ない方法と知っていた。悪を以て正義を為す、その矛盾を行える者が自分だけだと知っていた。

 これから管理局とその管理下にある世界は長い安定期に入るだろう。そうなれば未だ管理世界の中でも辺境の扱いを受けるエルトリアもまた、その恩恵に肖って繁栄を迎えるだろう。それが、今は誰も知る者が居なくなってしまったあの世界に対する、精一杯の恩返しだった。

 何も思い通りになることの無かった人生でも、最後はこうして目論見通りに上手く行った。それもこれも、自分に協力してくれた奇特な連中が居てくれたからだということをトレーゼは理解している。

 「未消化だった200年分の有給休暇、ここで使っておきましょうか?」

 「さんせーい! しばらくは暇するから、この際みんなでどっか旅行にでも行こうよー!」

 「えっと、じゃあ久しぶりに地球に行ってみたいです!」

 「ふん! はしゃぎおって、童でもあるまいに。だが中々に妙案だな。羽を伸ばすことなど久しく忘れておったわ。そうであろう、主殿よ!」

 「ああ、そうだな……」

 ふと振り返って見せた表情は稀に見せる笑顔で、事もなげに言ってのける。



 「『予行練習』は終わりだよ」



 漆黒の魔導書が紅く輝いたその瞬間、マテリアル達のバリアジャケットが崩壊して消えた。

 「トレーゼ様、何を……!?」

 手に持っていたはずのデバイスも同じように消滅し、何が起きたか理解できず呆然としたままの四人を置いてきぼりにして、トレーゼは次なる一手を打つ。

 「管理者権限において命ずる。『シュテル・ザ・デストラクター』、『レヴィ・ザ・スラッシャー』、『ロード・ディアーチェ』、『ユーリ・エーベルヴァイン』……全プログラムからの強制アンインストールを開始する」

 四人は体が重くなったのを感じて膝をつくが、実際はそうではない。それまで彼女らを強化していた魔力の供給源がその流出を止めたのだ。そしてその中枢であったはずのトレーゼは彼女ら四人を魔導書のシステムからアンインストール、彼女らに関わる全ての項目を削除してしまった。

 それは即ち……。

 「我らを、追放する……のか!?」

 ヴォルケンリッターが闇の書から解放されたように、今のマテリアルも同じく暁の書から排除されたことで単一の個体として存在せざるを得なくなっていた。そしてそれは、眼前の男の庇護を受けられなくなった事を意味する。

 「お前達には感謝している。俺の茶番劇に最後まで付き合ってくれたんだからな。本当に使い勝手のいい駒だったよ。お前達がいなければ俺の計画は更に倍はかかっただろうな」

 「あっ、ぐぅ!!」

 本体から一方的に切り離されて弱体化した体を更にバインドが縛り上げる。もうこれで彼女らはトレーゼに逆らうことは出来なくなった。

 「な、なぜ……!」

 「『何故』『どうして』『理由は』……今さらそんな風に問わねばならないとは、お前達の俺に対する理解など所詮はその程度だったということだ。以前シュテルには言ったはずだ、俺は遅かれ早かれお前達を欺くと。それでなお俺に対して何の策も講じなかったのはお前達の怠慢だよ」

 どうして話さなかった、と咎める視線を受けるシュテルだったが、彼女とて信じたくなかったのだ。長年連れ添った仲間、同志が自分達を裏切るなど想像すらしたくなかった。それはシュテルだけでなく他の三人も同じだった。

 だが悲しいかな、長い間連れ添った彼女らだからこそ分かってしまう。トレーゼは決してこんな場面でジョークや嘘を口にしたりしない、今言った事は全て真実なのだと。

 「何をするつもりなのだ……。次元世界の更なる繁栄を願っていたのではなかったのか!?」

 「だから言ったろう、茶番だと。こんなものに意味は無い。価値も無い。所詮は本番前の予行に過ぎない」

 「ならっ、これまでの事は全部ウソで、ご主人様は自分が天を握るためにボクらを利用して、これからもそうするってことかい」

 「お前は馬鹿だな、レヴィ。それとも、そう装っているのか。どちらにせよ的を外していることに変わりはない。お前達の力が大いに役立ったのは事実だが、ここから先には何の用も無い。だからこうして魔導書から切り離してやったんだろうが。もうお前達は邪魔なんだよ……だから、ここで終わりだ」

 かざした手に魔力が集束し、結晶化したそれが一つの形を創り出す。長い柄と湾曲した刃、命を刈り取る収穫者の大鎌だった。振り上げられたそれは空気の層を切り裂き、一瞬にして三人の……。

 「鎌はボクの専売特許なのになぁ……」

 首を刎ねた。

 別れの言葉など無い。骸も残らない。魔導生命体である彼女らは塵も残さず土にも還らず、死すればただ無になるだけだ。首と胴体が完全に現世から消え去るまで少し時間が掛かるが、そんな事は些事だ。今はそれより気になることがあった。

 「……この期に及んで未だ生にしがみつくか……」

 刎ねた首は三つ、数が一人足りない。

 刹那、トレーゼの背中を魄翼が強襲した。

 「エンシェント・マトリクスッ!!!」

 続けざまに巨大な結晶がトレーゼを押し潰す。ものの見事に胴体を貫かれ下半身と上半身が分離するが、当然そんな程度で死ぬような体ではない。バラバラになった半身からそれぞれ再生を果たし、二体に分裂したトレーゼが反撃する。

 左右から襲い来る刃はさながら高枝バサミ、正義の名の下に刈り取ってきた自分達の所業をそのまま形にしたような攻撃は確かな殺意を宿していた。

 「エグザミアを持つお前なら活動できるだろうと踏んでいたが……ここまで動けるとはな」

 「っ!! どうして!?」

 魄翼すら切り裂く斬撃を前にユーリも同じく結晶腕を出して応戦する。翼と腕で相手をするが、対するトレーゼも獲物を大鎌から二刀流に変えてユーリに肉迫する。分裂した四本の腕から繰り出される剣撃は音速を優に超え、瞬く間にユーリは防戦を強いられた。

 「何故だ、何故だと、お前達はそれしか言えないのか。少しは自分で考えるだけの脳を持て。どうして俺がこんな凶行に及ぶのか、何故それが今なのか、そしてそれに何の意味があるのか。過去ではなく今を、未来を見ろ」

 例え、それすら忘れてしまうことだとしても。

 分裂していた二体が融合し、一本に束ねられた巨大な剣が遂にユーリを両断した。正中線に沿った唐竹割りからのなぎ払い、文字通り半身を失ったユーリは地に伏すしかなかった。

 「昔を思い出す……。お前を止めようと俺は必死だった。だが今はこうして俺とお前の立場が逆になった。いや違うな、俺がお前のいる場所を追い越したんだ。もう『ここ』に意味はない、俺は先に行く」

 再び得物が大鎌に変化した。弧を描く冷たい刃をそっと首筋に当て、ユーリを確実に仕留めんと食い込む。

 「お前には『また』辛い思いをさせる。許せとは言わないが、もう二度と会うことも無い。…………さようなら」

 切り落とした首がゴムボールのように地面を跳ねる。奇しくもその行き着いた先は、未だ完全に消滅していないマテリアル達の亡骸がある場所だった。人造の命である彼女らにも魂という概念があるのなら、この光景はまさしく切っても切れぬ絆の強さを顕したものだと信じたかった。

 だがそれももうじき消える。服も、髪も、骨肉、血の一滴に至るまで、彼女らがつい五分前までここに存在していたという証拠は何一つ無くなってしまう。

 「…………」

 肉体を構成する魔力が霧散して徐々にその形を崩していく。それを前にトレーゼは彼女達を一人ずつ抱きかかえた。

 「ディアーチェ……お前はいつも上から目線だったが、その先を見た視線がいつも俺を助けてくれた」

 尊大な物言いの少女。

 「レヴィ……お前は確かに馬鹿だったが、その気楽な物言いに救われてもいた」

 能天気で快活な少女。

 「シュテル……真面目なお前は俺のやり方についてこれない時もあったが、実際お前がいなかったら纏まらなかっただろうな」

 理知的で常に自分を支えてくれた少女。

 「ユーリ……お前は優しいだけじゃなく、俺達の誰よりも芯が強いやつだった」

 同じ苦しみを背負った少女。

 「お前達は……何もかも捨ててきた俺の人生において、唯一無二の誇りだよ」

 四つの亡骸を抱きかかえて感謝を述べる。まるでそうされるのを待っていたかのように、次の瞬間に亡骸は全て消え去った。もうこの世界のどこにも彼女らの痕跡は無い。

 これで良い。ここから先には余分なものは必要ない、我が身一つで進むべき道、そこに彼女らを巻き込むことはしたくなかった。

 また独り。

 「だがこれでいいんだ」

 これは「終わり」ではなく、「始まり」なのだ。ドジを踏んでふりだしに戻るスゴロク、賽の目は充分、今度はもっと上手くやって見せる。

 例えそれが、ここまでの軌跡を「無かったこと」にしてしまったとしても……。

 「さあ、ツケを払う時が来たぞ」

 溜まったツケは三百年分、それをこれから清算する旅路に発つ。

 発動する魔法は二百年前にも使った、忘れられた大地の子より託されたあの魔法。

 「時よ、逆回れ──」



 新暦300年……トレーゼ・スカリエッティが突如姿を消した事実を知る者は、この時代にいなかった。



[17818] 刻の旅人
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:7b34a8ca
Date: 2015/05/28 17:59
 時空間移動を行なったトレーゼが最初に訪れた先は、地球の海鳴だった。ここで彼はまず最初に行うべき仕事があった。

 「感じる」

 時は新暦66年の1月、「闇の書事件」を経て「闇の欠片事件」を無事解決してから間もない時代、そこにトレーゼの姿はあった。手にはかつては紫天の書と呼ばれ、今は暁の書と名を改めた魔導書があった。

 かつての時間軸で見た光景と、眼下に広がる景色を照らし合わせ、一人孤独に過去を懐かしむ。

 ああ、あの頃は青かった……と。

 目を凝らして見えるのは、かつて己と少女が世話になった喫茶店。そこの店主とその妻、そしてこの時代はまだ幼さが残る後の大空のエースの姿も見えた。

 別の所を見れば、マンションから元気よく飛び出す金髪の少女と、彼女にリードを引かれて散歩する使い魔。途中で学友二人に出会い、守護騎士と共に生活する友達の家を訪ねに行った。

 「おっと」

 ふと窓際に立つ白銀の髪の女性と目が合いそうになった。かつての魔導書の主である彼女に気取られるのは色々とまずい。少し調子に乗りすぎたようだと慌てて身を隠した。

 高見の見物を止めて地上に降り立つと、見覚えのある河川敷はかつてスバルと最後に拳を交えた場所だった。冬の川で互いに殴り合い抱き合ったことがつい昨日の事のように思い出せる。ここは正しくトレーゼが生まれ変わった場所だった。

 そして、これから「死に絶える」場所でもある。

 魔導書からページを数枚切り離し、それを宙に放つ。瞬く間に紙片は水に溶ける砂糖の如くバラバラに分散し、やがて消えた。

 今解き放ったのは原本である闇の書を構成するのにも使われている術式、それを街中に拡散したマテリアル達の意識を活性化させる呼び水に使った。これが上手く行けばこの時代でも彼女らは復活を果たせる。そうすればディアーチェが紫天の書を再生させ、彼女らは本当の意味で独立した存在になれる。

 当然、トレーゼという者の存在など彼女らは知らない。知らなくてもいいことだ。わざわざ彼女らを惨殺してからこの時代に来たのも、本体である自分が移動すれば追従しかねなかったからだ。それでは意味がない。これはあくまで己一人のけじめ、彼女らは何も知らぬままこの先の時代を生きて欲しかった。

 この時代の高町らには不要な混乱をもたらしてしまうだろうが、彼女らならきっと上手くやってくれるだろうと勝手な期待を寄せておく。それにこの時代にはまだ正統なる魔導書の管理者、初代リインフォースが健在だ。よっぽどの事態にでもならない限りはどうにかなるだろう。

 今まで自分の都合で散々荒遣いしてしまった分、今生では彼女らに好きなように生きてくれればそれで良い。

 「これが本当の別れだ」

 もうこの時代に用はない……そう踵を返して見上げた空は澄み切っていて──、



 明らかに超自然的に亀裂が刻まれていた。



 すぐさま優秀な管理局員らによって海鳴全体に結界が張られるが、その直前に空間の裂け目から飛び出した影をトレーゼは見逃さなかった。その姿を見間違えるはずがない。

 「…………」

 呆然と空を見上げる彼はしばらくそのまま固まっていたが、ふと視線を下ろすと少し眉間を押さえながら心中で漏らす。

 自分は何かとんでもない事をしてしまったんじゃなかろうか、と。

 そしてその自問は残念ながら正鵠を射てしまっていた。

 その後局員らの念話や通信を傍受しながら得た情報を統合すると、マテリアル復活の兆候と全く同時に何者かが次元跳躍で地球に侵入したということ。しかも次元密入者は二人で、現在その追跡に当たっているという。

 「間違いない……あの姿は」

 遥かなる大地で自分に見つめ直す機会を与えてくれた二人の姉妹、アミティエとキリエだった。昔日の記憶にある姿と全く同じの二人が揃ってこの時代、この地球、しかも自分のいるこの時間軸に現れたことは単なる偶然か?

 いや、そもそも、どうして彼女らがこの時間軸の延長線上にいるのか、それが最大の疑問だった。彼女らはグランツによって生み出される。だがグランツが科学者の道を志すのはエリカがいるからで、そのエリカがエルトリアに行くという結果を欠くこの未来ではそもそもギアーズという存在が作られないはずだ。

 「余計な憶測はするべきじゃないか」

 彼女らがこのタイミングでここに現れたという事は、少なくとも目的は自分ではない。彼女らがわざわざ時を越えて地球に来訪したその理由とは……。

 「マテリアル……闇の書を狙っている?」

 今さっき自分がマテリアル復活の手助けとして行なった行為、あれがこの先の未来を決定付ける意味を持っていたとしたら、彼女らが何らかの理由でそれを欲していると見て間違いない。

 だが百年の時を越えて来訪したあの姉妹が闇の書に対する正確な知識を入手しているとは考えにくい。その彼女らが下手に魔導書に関わりを持てばどうなるか……嫌な予感は募るばかりだ。

 「…………どうしよう」

 300年生きてきて初めて口から出たのは、自分でも驚く程だらしない声だった。










 やはりというか、案の定というべきか、彼女らが関わったことで活性化されつつあったマテリアルの残骸、闇の欠片は不完全な形での具現化を始めてしまった。ほんの数ヶ月前に起きた「闇の欠片事件」の二の舞となったのだ。

 即ち、闇の書の蒐集プログラムによって接触した記憶の集合体が、現実の肉体を得てこの現世に跋扈し始めた。この時代でも既に過去の存在であるはずのプレシア・テスタロッサが確認されたことからも明白だ。

 これは言わばフォーマット、プログラムを一度白紙に戻す上で邪魔なバグを削除する行為。本来なら魔導書の内部だけで行われるはずが、マテリアルの魔力が拡散しているせいでこの空間全体が魔導書として認識されているのだ。それにより「バグ」を物理的に削除する為にそれらに実体を持たせて現出させていると考えられる。

 当然、それらを実際に「削除」させられるのは現実世界の我々である。

 バグとして具現化するのはいずれも過去に闇の書に関わった者、更にそれらの記憶から再現された劣化コピーである。プレシアはフェイトの、守護騎士はそれぞれ本人かはやての記憶から復元されたものだろう。そうなると少し不安なのは……。

 「『私たち』のコピーは出ませんよ」

 「っ!?」

 流れるような声に振り向くと、いつからそこにいたのかリインフォースの姿があった。

 「そう身構えなくてもいい。私にあなたを害するつもりはない」

 「『私たち』と言ったな。それはどう言う意味だ?」

 「言葉通りの意味だ。管制人格である我々は奴らマテリアルよりも上位のプログラム、よりシステムの根幹に近いもの。流石のマテリアルもそこまでの干渉はできない」

 「……俺を誰とは問わないのか?」

 「問えば、答えてくれるのか? 私に近しい何かであることは察しがつくが、闇の書の管制人格は今も昔も私一人だったはず」

 「代替わりしたんだ。今ではない『いつか』にな」

 「あなたもあのアミタやキリエとかいう時の旅人の仲間なのか」

 「少し違う。全くの無関係ではないし、直接的な原因は間違いなく俺だが、少なくとも今の奴らがここを訪れた事は俺にとっても予想し得なかったことだ。俺は奴らの企てに加担するつもりはない、信じてくれ」

 ここでこの女の不信を買うことだけはどうしても避けたかった。彼女はこの時間軸においてまさしく最強、あの才能の塊と言われた高町なのはですら勝てなかった相手だ。恐らく自分と彼女の力は互角、そんな自分達が事を構えれば千日手、お互いがここに釘付けになる事を意味する。それは不毛で無意味な争いでしかない。

 「……あなたが何を思って新たな魔導書の管制人格となったかは分からないが、それはいずれ来る破滅を意味する。己ではなく周りに対して害悪をばら撒き続ける、歩く汚染源……それが私たちだ。どんな形であれいずれ私たちはこの世界から排斥される。かく言うこの私も今はもはや余命幾ばくもない半死人に過ぎない」

 「どんなモノにもいつかは終わりが訪れる。ああ分かっているさ、俺も今はその破滅に向かう旅路の途中だ。だが今の事態を放置して先へ行くことは出来ない。解決に向けて協力させてほしい」

 「管理局ではなく私に対してそれを言うとは、何か表立って動けない訳があると見た」

 「ああ、出来れば高町や八神にも知られるとまずい。俺がこの時代の者ではないとなれば、それだけでも面倒な事態になる」

 「そうか。だがどうやらあなた以外にも別の時代の人間が迷い込んでしまったらしいが……」

 そう言って映像回線を開くと、都市部のビルの屋上で四人の男女が戸惑ったような視線で街を見渡していた。内二人は知らない顔だったが、男の方は見覚えがあり、金髪の少女に関しては見覚えどころの話じゃなかった。

 「何故あいつがここに……!?」

 「知り合いか?」

 「ああ……」

 金髪に赤と翠のオッドアイは同じだが、記憶にある最後に見た姿よりも成長している所を見ると、T・S事件から僅かに年数が過ぎた時間軸から来た高町ヴィヴィオらしい。隣の友人らしき少女も同じ時代から来たようだが、こちらについては何も知らない。感じる魔力からして只者ではないということだけが分かった。

 対するもう片方の二人組だが、少年の方には見覚えがあった。いつかスバルと共に逃避行を続けていた際に出会った少年、名は確かトーマと言っただろうか。あの時とはかなり面影が違っているが、それより気になるのはその魔力。四人の中では最も異質であることは容易に感じ取れた。

 「どうやらフローリアン姉妹の時間遡行に巻き込まれる形でこの時代にやって来たようだ。何か知らないか?」

 「俺から言えるのは、あの姉妹が揃って時空間移動が下手糞ということだ」

 きっと何の検証や実験もせずぶっつけ本番で事に及んだのだろう。姉はともかく妹の方はそうしても不思議はない。その結果、自分達の元いた時代とこの時代、二つの時間軸に挟まれた時空が歪んでしまい招かれざる来訪者を続出させてしまったのだろう。

 早く事態を収拾しなければ混乱が拡大するが、予期せぬ乱入者たちの前に出るわけにはいかない。しかもその全員が変更された未来から来ている以上、余計に行動が難しくなった。ここで下手を打てばそのツケが十年後にどんな形で返ってくるか分からないからだ。

 しかも厄介な事に、どんな理由からか四人は追跡に向かっている八神はやてから逃れようとしている。これではいつまで経っても埒があかない。

 「頼みがある。俺があの四人をどうにかして大人しくさせる。お前はその間だけ何か理由をつけて八神を前線から離してほしい」

 「そうすることでこちらに何の利益が?」

 「この事態はあの姉妹が言わば主犯、それを止めるのに乱入者がうろちょろしていては邪魔だ。さっさと動きを止めるに限る」

 かつかつと歩を進めてリインの脇を通るトレーゼ。リインの方も彼を止める様子は見せず、そのまま見送った。

 「主はやてには私が上手く言い訳しておこう。精々うまく立ち回ってくれればいい」

 「すまない、恩に着る」

 未だ理由不明の逃走を続ける四人を捕らえるべく魔力を物質化させたローブと仮面を身に付けて駆け出した。ここから先の時代において自分の正体を知られない為の措置だが、今回はそこにもう一工夫……。

 ビルを跨いで目的地へと飛ぶ。全身を纏うローブはかつて四番目の姉妹が持っていた能力を使いあらゆる電子機器や通信網に感知されないようにしている。姿を確認する手段は目視のみ、つまり今から接触しようとする四人にしかこの姿は見えない。

 対する四人も急速に接近してきたこちらの存在に気付き迎撃態勢を取るが、踏んだ経験の差が物を言う。

 まず降り立ったのは、儚げな印象を持つ銀の少女。背後を取る形でそのすぐ近くに立つと、右肩甲骨あたりを強打。これにより関節を外せば、あとは激痛で悶え苦しむのを放置するだけ。だが我を忘れて突撃してくるトーマに投げ渡すと彼はそれを受け止めようと一瞬隙が出来る。その僅かな隙を突いて再び距離を詰める。

 しかし……。

 トーマが持つ拳銃型のデバイスらしき武装から放たれた白銀の一撃、直撃を避けたつもりが僅かにかすっただけの右腕を持って行かれた。

 「噂に聞く『魔導殺し』……厄介な」

 この時間軸の高町たちが十数年後に出会うであろう強敵、それがこの「ディバイダー」。特異なウイルスの感染と発症、そして病化を経て魔力に対する耐性及び結合分解能力を得られる全ての魔法の天敵。

 光線そのものにそこまでの威力は無かったが、あれには魔力の結合を分解してしまう効果がある。魔導生命体のトレーゼにとってはまさしく白木の杭、まともに喰らえば自我の欠片も残さずに消え果るだろう。

 だが要は当たらなければいいだけのことだ。

 「魔法が無駄なら、直接叩くまで」

 どれだけ強靭な存在になろうと所詮は人間、半秒も掛けずに背後へ素早く移動する物体に反応する術は無い。仮にできたとしても体がそれに追い付くことはまずない。

 「トーマさん!!」

 「わたしたちが……!!」

 少年をカバーするように前に出て来た少女二人。よくよく見れば色こそ違うがヴィヴィオももう一人も同じオッドアイだ。感じる魔力もどことなくヴィヴィオのそれに似ているが、同じ格闘技の構えでも実力はこちらが上だ。繰り出される一撃一撃が鋭く重い。

 「ハァアッ!!!」

 その少女の掌打がトレーゼの顎、頚骨を捉えた。脚部を通じ地面より伝わる衝撃を肉体の末端に届ける、覇王流の「断空」と呼ばれる技術、その一撃は確かにトレーゼの頭部を弾くだけに留まらず、胴から寸断せしめた。

 宙を舞う頭部にヴィヴィオが短い悲鳴を上げるが、クルクル回転していた頭部が空中でぴたりと静止すると場が凍りついた。

 「バケモノめ……っ!!」

 ならば化け物らしく振舞うとしよう。

 地上に残された胴体が歪む。大きく収縮を繰り返すそれは中から硬質な何かがバキバキと耳障りな音がし、首の断面から節足動物を想起させる甲殻に覆われた肢が無数に姿を現した。脱皮した虫が全く別の姿になるようにヒトの皮を捨てて現れたのは、この世のあらゆる虫や深海の甲殻類を組み合わせたような生物的嫌悪を催させる異形の怪物。

 狂気を司る異界の神にも似たスガタを前に四人は、この時代に来て初めて死の恐怖を、そしてこれから巻き起こる暴虐の予兆を、確かに感じ取ってしまっていた。

 「うわあああああああああああぁぁあぁぁっ!!?」










 「まあ、こんなものか」

 トレーゼは最初から四人に直接手を下してはいない。彼の前には各々地面に突っ伏した状態で気絶する四人の男女の姿があった。

 ここへ降り立った自分の姿を見た瞬間から四人は術中にはまっていた。今頃は夢の中で無限に増殖を繰り返すモンスターを相手に格闘を続けていることだろう。もちろん、誰かに起こしてもらえれば問題は無い。いずれここにも八神が追い付くだろう。

 「手慣れているな」

 「それほどでもない」

 背後に立ったリインフォースの賛辞も軽く流し、トレーゼの視線はあれ以来未だ晴れぬ空に向けられていた。

 「何が起こる?」

 「それはお前の方が予測がついているはずだ、『祝福の風』よ。あの妹の方がこのまま事を起こせば、この地に極大の災いが降りかかるぞ」

 「あなたはそれが何かを知っているのか?」

 「……『砕け得ぬ闇』」

 「マテリアルが蘇らせようとしていたモノか」

 「あれが何の下準備も無しに顕現でもしてみろ。この街だけではない、地球そのものが次元世界の航路図から消え去るぞ」

 それは即ち、闇の書の防衛プログラムが現出した時以上の脅威、それが形を伴ってこの世に現れると言う事実。流石のリインフォースとて戦慄を覚えずにはいられなかった。

 そして、『砕け得ぬ闇』復活の儀式はもう止められない。一度起動した術式は例え術者が死のうとも動き続け、この地に拡散した魔導書の断章から目的の物を探し出し、形を与えるだろう……そう続けた。

 「だがまだ手遅れと言う訳ではない。システム全体から『砕け得ぬ闇』だけをサルベージするのは難業だ。無理を通せば道理が引っ込み、現出するであろう『砕け得ぬ闇』は不完全なものになる」

 「完全体になるには猶予があるということか」

 「だがそれも一時しのぎだ。起動そのものを防げない以上、早急に次の手を打たないと文字通り手遅れになってしまう」

 「どうすればいい」

 「どれだけ強大だろうとシステムはシステムだ。術式の一つひとつを解き明かせばガンを駆逐する特効薬が完成する。だが今からやっていては間に合わない。『砕け得ぬ闇』を鎮静化させる特効薬とやらは俺が作る!」

 トレーゼの姿が再び変化する。そして次なる戦場に向けて暗躍を再開せんとする。

 「待って。どうしてただ立ち寄った程度の場所で起きた事件にここまで肩入れするのだ。時の旅人よ」

 「寄り道程度の場所なら俺もここまで躍起にはならん。だがな、けじめというものが必要なんだ。俺はここで不始末を起こし、その尻拭いをしなくてはならない。そういう理屈だよ」

 「私にどんな協力ができる。同じ悠久を生きる者同士、何か助けにはなれないか」

 「ひとつだけ。俺の事は見て見ぬふりをしておいてほしい。俺は本来ならこの時間だけでなく、あらゆる時間軸におけるイレギュラーだ。その俺の存在がこの時代で大っぴらに認識されるわけにはいかない」

 自分とこの四人の違い。恐らくこの四人がこの時間軸の延長線上で生まれ、何らかの形でこの地の魔導師と関わることは確定している事実だ。だが、そこに自分が居てはならない。いずれ消え去る己はこの世界に余計な痕跡を残す事は許されない。決して発つ後を濁してはならないのだ。

 それが滅びゆく宿命を全うすると言うこと。

 「先に逝くだろう私が言うのも変かもしれないが、あなたの旅路に幸あらんことを祈っている」

 「お前も。世話になったな、『祝福の風』」

 こうして二人の悠久を生きる者は別れ、この先二度と相見えることは無かった。いずれ肉体が朽ち果てた時に彼岸で語り合えればいい、二人は互いに意図せずそう胸の内で思っていた。










 トレーゼはリインフォースに対し一つだけ嘘を言った。

 『砕け得ぬ闇』復活の術式は止められないことはなく、多少強引な手段を用いれば水際で阻止することは可能である。それこそあのトーマという少年の力を使えば一瞬でケリがつくだろう。

 「許せよ、『祝福の風』。それでは駄目なんだ」

 おこがましさの極みかも知れないが、トレーゼが何を差し置いてでも最初にこの時代へ来たのはマテリアル達に真の意味での自由を享受させたいが為だ。そこには当然、ユーリ・エーベルヴァインという孤独な少女も含まれている。

 彼女が世界全体にとって脅威であるかなど大して意味を持たない。それは彼女の力を勝手に恐れた者達が取って付けた付加価値に過ぎない。重要なのは彼女の本質、救いを求めているその心。予定が随分早まってしまったが、その役目もまたこの時代の高町らに譲らなければならない。彼女らの力でそれが成せるかどうかは不安だが、未来からの来訪者もそこに加わっている以上どちらに転んでもおかしくはない。なら期待しても損は無いだろう。

 だがこちらもせめてお膳立てはしておく必要がある。それが今の自分に出来る精一杯のサポートであり、宿命から解放される少女らに送る手向けだからだ。

 「必要なインストールプログラムは六つ。『ネーベルベルファー』、『ホルニッセ』、『ヴァッフェントレーガー』、『ヴィルベルヴィント』、『ブルムベア』、『オストヴィント』」

 予測が正しければこのプログラムをユーリに打ち込むことが出来れば、彼女に大幅な弱体化が望める。そうなれば取り込んだマテリアルを吐き出すかもしれない。更に今回はレヴィを取り込み損ねており、そういった意味でも勝率は高い。僅かでも肉迫できればそれでいい。

 技術主任であるマリエル・アテンザに姿を変え、あたかも管理局がプログラムの開発に成功したかに見せかけ、最終決戦を目前に控えた高町達に譲渡した。これで彼女らは戦うだけの力を手にしたことになる。これで何も心配は無くなった。

 「……いや、そうでもないか」

 これは未練だ。いずれ程なく、自分が世界に刻み付けた痕跡がひとつ消え去るという事実に、不安と寂しさを覚えた。救いと自由を得た彼女らは己の事など何一つ知らずに生きていく。この先道ですれ違ったとしても何の感慨も抱かず通り過ぎるだろう。それを分かっていたはずで、そうなることを目的に動いていたはずなのに……。

 「自殺とは、こんなに心苦しいものだったか」

 自分の存在とその痕跡をひたすらに消していく作業、何の実も結ばないと分かっていながら只々自らが入るであろう墓穴を掘り続ける。最後に土を被せてくれる者など居ないと知りつつ、そうすることが救いと信じてただ掘り続ける。残った穴は誰が埋めるかなど疑問に思ってはいけない。

 逡巡は刹那、雑念を振り払ってプログラムをクロノ・ハラオウンの元に届ける。これで布石は打った、後は上手く行く事を祈って待つだけだ。

 ほっと一息ついた所で消えかかっていた疑念が再燃する。

 「何故、この時間軸でフローリアンが……?」

 今しがた自分が姿を現した時点でこの時間軸の因果関係は完全に破綻してしまった。だがそれにしてもあの姉妹が存在するのは何をどう考えても筋道としておかしい。何らかの要因で、未来におけるエルトリアでグランツが科学者を志し彼女らを作ったのだろうか?

 かつて暇潰しに読んだSF小説を思い出す。時間の中で因果とは予め大まかに定められており、仮に時間旅行者がその因果を改竄しても、別の要因で同じ結果に落ち着くという理屈。交通事故で死んだ誰かを人知れず救っても、やがてその人物は通り魔に刺殺されてしまう……そんな誰も確かめた事が無い机上の空論。それが実際に起きているとしたら?

 「いや違う。どんな理不尽な現象にも必ず原因があり、結果へ続く過程がある。奴らがこの時間軸で生まれたのも、奴らを作った何者かの意思が介在しているはずだ」

 だとすればその正体とは何か?

 「確かめる必要がある」

 かつて自分に関わった姉妹はナンバーズの技術が使われていた。もしこの時間軸の彼女らも同様の技術が使われていれば……。

 傷付いたアミティエの腕部から覗く銀色のフレーム、その規格や構造はかつて見た時と殆ど変っていなかった。それはつまり、彼女らがナンバーズの流れを汲む個体である証明。己に連なる何者かが彼女らを生み出した、今判明しているのはそれだけで、後は何も分からない。

 だが逆にこれで絞り込めた。ナンバーズの構造に関する知識があり、尚且つその知識を何者かに教えるだけの技術力を持つ者となるとその人数は限られてくる。

 一人は他でもない己自身だ。だがそんな行動は予定に含まれていないし、これから先もそのつもりはない。

 二人目はナンバーズの製造者であるジェイル・スカリエッティ。しかし彼は自分の興味が向かない限り手は付けない主義だ。いくら先見の明があるとは言え、この時代の彼が百年先を見通すだけの要素を得ていたとは到底思えない。

 そして三人目、エリカ・フローリアン。そもそも自分の行動は彼女の未来も大きく変える前提で動いているのだから、これも可能性としては絶無のはずだ。

 だが事実として彼女らが存在している以上、ここより先の未来にて自らの行動が原因となっていることはほぼ確実だろう。でなければ説明がつかない。

 どうする、一旦計画を中止するか?

 「いや、座していても何も変わらない。ここはイチかバチか、あの二人に接触するしかなさそうだ」

 記憶を読み取る魔法は使えるが、人間ではない彼女らに対し使って意味があるかは分からない。だからここは小細工無しで直接聞いて訊ねるしかないだろう。

 この行動が吉と出るか凶と出るかは分からないが、この機を逃してしまえば疑問は永遠に解けないまま残ってしまう。それだけはどうしても避けたかった。

 一行はやがて闇の欠片の掃討も終えて遂に最終決戦に向けて動き出した。覚醒に向けて胎動を続ける『砕け得ぬ闇』の暴走を阻止すべく、時を越えて集った仲間と、かつて敵だったマテリアルの協力を得て、本来起こり得るはずのなかった難関に立ち向かって行く。それを見守り行く末を見届けるのが今のトレーゼに出来る唯一のことだった。

 どちらの結果に転ぶか、それはトレーゼにも分からない。他でもない自らの行いによってこの時間軸の因果は乱れ、本来の歴史とはかけ離れてしまった。ひょっとすれば彼女らはここで倒れ、後のJ・S事件を待たずして管理局諸共に世界は滅んでしまうのかも知れない。例え滅びを食い止めたとしても、彼女らの内の何人が生き残れるかも分からない。状況はそんな絶望に満ちたものだった。

 だがもし運命と言うものが本当にあるとすれば、今自分が見ているこの光景は約束されていたのかもしれない。

 集った彼女らの言葉の一つひとつが、かつて自分がそうしたように一人の少女の硬い殻を溶かしていった。これは奇跡か。否、彼女らの温かみを持った真の言の葉が為した必然だ。

 数十分にも及ぶ激戦の末、打ちこまれたプログラムコードと、自由を取り戻したマテリアルらの活躍により遂に結末を迎えようとしていた。

 しかし……。

 「まずいな……」

 エグザミアの活動を強引に止めてしまったがために揺り戻しが起こり、外部に放出していたエネルギーが一気に逆流を始めた。さながら空気の熱膨張によって膨らんだ大気が元の中心点に戻ろうとするように、周囲の魔力が少女一人の体に収束する。

 収束したそれは次元に穴を穿つほどだが、恐らくそれは一時的な物だろう。だがこのまま放置すれば、その中心にいる少女は間違いなく虚数空間に放逐されてしまう。

 崩壊していく空間を前に誰も動けない。

 だがその時、三色の光を帯びた翼がその中心点へと飛翔した。「王」を自称する傲慢なマテリアルは決して配下を見捨てたりはしない。命という意味すら知らなかった彼女が、自らの意志でそれを救い上げようとしていた。

 しかし、悲しいかな、その願いは届きそうにない。

 魔力の収束現象は言わば局所的ブラックホール、そんな中へ飛び込めば彼女とてただでは済まされない。良くて半死、悪ければ虚数空間へ心中する事になりかねない。彼女ら四人の犠牲と共にこの世界は安息を得るのだ。

 「まだだ、まだ終わらない」

 駆け出した足は崩壊する時空の中心に向かい、トレーゼはいつしか彼女らを追っていた。きっと自分の事など知りもしない彼女らを、ここで終わらせたくないが為に。

 押し寄せる魔力と重力、熱波の激流を掻い潜って進んだは良いが、既に「王」の翼はこの奔流に耐え切れず千切れ飛んでいた。もう腕を伸ばす気力さえ残っていない。

 その細い腕を、そっと導く。

 「っ……うぬは……!?」

 問いかけには答えず、代わりにその腕を引いて加速を与えてから、トレーザは去った。「王」もまたその背を夢か幻と思ったのか、一切の迷いも抱かず再び飛翔し、そして……。










 「阿呆らしい、ヒーローにでもなったつもりか俺は」

 自虐的な言葉とは裏腹に、トレーゼは口元に笑みを浮かべていた。

 これで彼女らマテリアルを縛る枷は無くなった。真の自由を得られた彼女らは自分とは無縁の道を行くだろう。一時はどうなるかと焦ったが、今はそれが何よりも喜ばしかった。

 彼女らはフローリアンと共に未来へ向かうらしい。緩やかに衰退しつつあるエルトリアを救うのに魔導書の力が必要だとか。確かに闇の書の力を用いれば死に掛けの星をテラフォーミングする術があるかもしれない。

 分かり合えないまま決別するしかなかった姉妹は互いに手を取り合い、トレーゼが見届けた時とは別の結末を迎えることが出来た。彼女らは彼女ら自身の手で自らの救いを見出すことが出来たのだ。

 元の時代に戻る際に巻き込んでしまったヴィヴィオ達も連れて帰るらしい。衆目を集めて厄介な事になる前に二人に接触を図った。

 「待ってたわよン」

 ところが実際に相対してみれば、むしろ相手はこちらを待ち構える側だった。アミティエはおらず、代わりに待ち構えていたのは妹だけ。まるで一週間ほど会ってなかった友人にそうするように、手をひらひらと振って出迎える。

 「以前どこかで会ったか?」

 「そう……。今のあなたと会うのはこれが初めてってことね」

 「俺とお前はここより未来で接触しているのか?」

 「そゆこと」

 トレーゼの計画にフローリアンの時代まで活動する予定は無かった。だが目の前のキリエの存在が、この先において自分が予定外の行動を取ることを証明している。

 「ある日、何の前触れもなくあなたは私の前に現れて、『エルトリアを救う方法がある』って言ったわ。最初は新手の詐欺かと半信半疑だったけれど、あなたは他に知る人なんていなかったはずの事を知っていた」

 「博士とやらの研究か」

 「そうよ。博士ってのが誰なのか、一応教えておいた方がいいかしら?」

 「……グランツ・フローリアン」

 頷くキリエを見て、この世界でも己の恩人とその系譜がエルトリアに渡っていた事を確信した。そして恐らく自分がその遠因を作るであろうことも。

 「これからどうする?」

 「もち、元の時代に帰るわ。私の目的は最初からマテリアルの力だったし、お姉ちゃんも折れてくれた。先のことは分からないけど、まあ何とか上手くやっていくつもりよ。いつか緑の丘にピクニックに行けるように、ね」

 「出来るさ。今のお前達になら……きっと」

 「そのきっかけを作ってくれたのはあなたよ。今のあなたに言っても意味ないけれど、ありがとね」

 キリエの体が宙に浮かぶ。天に輝く魔法陣に向かって飛翔する。

 「あなたはどうするの? 私達と一緒にエルトリアに来る気はないかしら?」

 「生憎と、予定が詰まっている。この先数十年はそれに従って動くことにしたい」

 「そう。じゃあ、またいずれどこかで会いましょうね」

 迎えた時と同じく手を振りながら天に昇って行く彼女を見送る。天空の魔法陣に向かう影は十人、それぞれが在るべき時代へと戻り、またある者はそれに続いて新天地へと向かう。

 やがて時空の扉は閉じ、海鳴の街は春の穏やかさを取り戻した。もうこの地に災厄が持ち込まれる事は無い。

 「さて、これからどうするか……」

 彼女らがこのまま余計な事件に出くわさなければ、予定通り管理局の魔導師になり十年後にはJ・S事件の解決に当たるだろう。それまでに何もすべきことがない。さっきはキリエにああ言ったものの、冗談抜きで暇なのだ。計画はもっと綿密に立てるべきだったと今更ながら後悔する。

 かと言って、あまり活発的に動くことは避けたい。今回のように何がきっかけで未来に影響を及ぼすか分かったものではないからだ。

 「先にミッドチルダに行ってみるか」

 この地に用が無い以上はそうするしかない。

 次元転送を行った気配を感じ取ったのは祝福の風唯一人であった。




















 新暦67年、某月某日──。



 管理局員の仕事は多岐に渡る。一口に局員と言っても荒事を得意とする武装隊から、次元世界の首脳との交渉を行う外交官、市民の安全を守る警察や司法機関まで幅広い。

 創設以来、管理局が熱心に取り組んでいる事柄がある。それが質量兵器の取り締まりである。管理世界における質量兵器の扱いは地球で言うところの違法薬物と同等、あるいはそれ以上の厳しさで取り締まられている。正しい知識と技術が無ければ扱えない魔導と違い、質量兵器はマニュアルさえ分かれば誰でも使用でき、その分危険度も増すからだ。

 管理局員、クイント・ナカジマは武装隊の一人である。平時はオフィスで事務仕事をこなしながら、有事の際にはデバイスを装着して現場に急行し、時には戦闘も行う。女性の身ではキツいとされる仕事だが、男顔負けの体力に恵まれた彼女にとっては天職だった。

 二年前、彼女は自らが参加した作戦において保護した二人の少女を養子に迎えた。共働きの職業柄、子供に恵まれなかった事もあり我が子のように愛情を注いだ。もっぱら格闘技を教えるという形でしか示せなかったが……。

 「なんで今になって……そんなことばかり、思い出すのかしら」

 押さえる腹部には大穴が開き、流れ出す血は既に勢いを失って久しい。虚ろな目は今にも閉じそうで、彼女から生にしがみ付くに必要な活力全てが失われ底を尽いたことを明白に表していた。

 走馬灯のように思い浮かべるは、ここまでの顛末。自分が長い間追ってきた事件のシッポを遂に掴み、信頼の篤い同僚らと共にそのアジトへと突入を試みた、それが全てのきっかけだった。

 結果はこのザマだ。敵は少数と侮り深追いしたのが運の尽き、自分の命の期限が刻一刻と迫っている事にクイントは恐怖を感じる心さえ麻痺していた。途中ではぐれてしまった同僚二人がどうなったのか、今はそれを知る術もない。

 恐怖は無い。あるのは、抉れた肉の激痛よりも熱く燃え滾って止まない『悔しさ』だけである。

 自分はもう死ぬ。恐らくここで奇跡でも起きて増援が駆け付け治療を行ったとしても、もはや助かる命ではないことは自分が一番理解している。あと十分もしない内に脈拍は低下し意識が途切れ、避けようのない死がこの身に訪れるのだと。

 死は避けられない、だが自分が死んだ後誰が二人の娘を守ってやるのか?

 夫は信頼している。むやみやたらに突っ走る性格の自分の手綱を握ってくれていたという意味では、育ての親として自分以上に上手くやってくれるに違いない。だがこれから先の人生に母親を欠いたまま歩むことになる娘たちの不幸を、どうすれば無くすことができるのだろうか。

 命の火種が消えるにつれて未練だけが募ってくる。

 「死にたく、ない……。こんなところで……死ね、ない」

 この光景は神の奇跡か残酷な偶然か。とっくの昔に血液は総量の三分の一以上を喪失し、肺機能さえ麻痺して全身から酸素が欠乏しているはずの状態、命が繋がっている事が既に奇跡のようなものであるにも関わらず、クイントの体は体力気力とは全く別のエネルギーを発揮して立ち上がって見せた。流れ落ちる血よりずっと遅い歩みは死から遠ざかろうとする意志の強さの表れか、あるいは子を持つ母の意地か。どちらにせよ彼女の体は動くことが出来たのだ。

 それが彼女の残り少ない寿命を縮めた。

 「あっ……!」

 失血とそれに伴う酸欠、彼女の肉体は限界だった。糸が切れたように悲しいほど重力に従い前のめりに倒れ込み……。

 「────」

 それを何者かが受け止めた。恐らく人間。だがどんな容貌であるのか、顔を上げることさえ出来なくなったクイントにそれを確認することは無理だった。それでもその何者かが自分の行く手を阻んでいることだけは分かる。

 「そこを、どいて……あのこたちの……ところへ……」

 振りほどこうとしたのだろうが、肩が僅かに身じろいだ程度で終わる。崩れ落ちそうになった体を止めたのは名前も知らない優しい手であった。

 「クイント・ナカジマ、あなたは立派に戦った。己の職務に殉じ、誰にも恥じることのない姿を見せ付けた。きっと、あなたの家族も理解してくれるだろう」

 「わたしは……帰らなきゃ…………」

 「あなたの遺志はきっとあの二人が引き継いでくれる。今はただ静かに眠ればいい」

 「……────」

 その言葉に安堵したか、すぅっと体が沈み込むように息を吐き出して、クイント・ナカジマは逝った。半開きに固定された目蓋を静かに閉じて、身体を木陰に横たわらせる。せめて墓でも作ってやれれば良かったが、これから起こる出来事を思えばそれは無理な相談だった。

 「誰かいるのか」

 木陰から別の第三者が出現する。その頃には既にクイントを看取った者の姿は無く、出迎えたのは彼女の亡骸だけだった。

 「どうした、トーレ」

 「いや……今誰かがこちらにいた気がしたのだが。気のせいだったようだ」

 「レーダーに反応は無い。気張り過ぎだ」

 すぐに二人目も追ってくる。一人目よりもずっと低い身長、まるで児童だが彼女も歴とした戦士の一人だ。だがここに来るまでに一戦交えたのか、片目が潰れていた。

 「無理をするな。お前の目はもう使い物にはならん。すぐにドクターに頼んで作り直してもらえ」

 「いや、これは自分の気の緩みが招いた結果だ。騎士という者があれほどの力を持っているとは思いもしなかった。この傷は自戒として敢えて残しておきたい」

 「そうか。その分だけ腕を磨くことだな」

 「無論だ。さあ早く検体を回収してしまおう。これが最後のはずだ」

 検体とは恐らくクイントのこと。死体となった彼女を回収してスカリエッティの研究所へ届けるのが任務なのだろう。

 だが伸ばした手をトーレが制した。

 「どうした?」

 「妙だとは思わんか。この死体、移動しているぞ」

 「手傷を負わせてしばらくは生きていたのだろう」

 「そうじゃない。ここをよく見ろ」

 そう言って指差すのは致死量の血溜まり。

 「血の乾き具合からして、奴はつい今さっきまでここに座っていた。それが何故そちらに移動している」

 「死力を振り絞った?」

 「であれば尚更不自然だ。見ろ。血痕の量と間隔からして、奴が自力で歩いたのはここまで、後は腹部に致命傷を負った者が移動するには距離が離れすぎている」

 「生き残りがいると?」

 「正直、分からん。お前が言ったようにレーダーに反応は無い。ここに何かが居たことだけは確かなのだが……」

 改めて周囲を確認しても不審な影を見付けられず、その内にトーレも諦めてクイントの亡骸を回収する。

 「しかし、良かったのか? 局員を二人も抱え込むなど」

 「ドクターの方針には逆らえん。それに、ただ手元に置くわけではない。それはお前にも説明しただろう」

 「心得ている。しかし……」

 「使える物は何でも使う、それが連中への扱い方だ。メガーヌ・アルピーノ、ゼスト・グランガイツ、この両名はこれから先に進行する研究を躍進させる要になってもらう」

 「局員二人を利用するというのは理解できる。だが、その為に右も左も分からない子供まで……」

 「お前のそういう甘い考えが片目を奪ったのだ。大方あのゼストとかいう騎士相手にも余計な手心を加えようとしたのだろう」

 「…………」

 トーレの厳しい指摘にチンクも遂に押し黙った。それから程なくして二人はクイントの亡骸を運び出し、現場は生命があった痕跡を全て消して何事も無かったかのように静けさを取り戻した。

 そして姿を消し不可視の存在となってこの一部始終をずっと観察していたトレーゼは、樹上で静かに思案していた。

 もしあの場で自分がクイントの命を繋いでいたなら、この先の歴史はどう歪んでいただろうか。

 メガーヌのように培養漕に封印され、ナカジマ姉妹に対する人質として使われたか?

 あるいはゼストと同じく人造魔導師として蘇生し、やはり姉妹との戦いを強要させられたか?

 それらは残酷なことだろうが、残された家族にとってはどんな形であれ生きてくれていたほうが良かったのだろうか。

 「いや、今この場で一番残酷なのは、それだけの可能性を知りながら結局何もしなかった、俺自身か」

 断言できる、クイント・ナカジマを殺したのは己だと。生命的ではなく、彼女が持っていた可能性を摘み取ったのだと。あの場で手を貸していれば彼女の未来は変わっていた。少なくともあの場で死んでしまうという結末は避けられた。それを分かっていながら自分は、安易に未来を変えてはならない、という事だけを免罪符にそれを摘み取ったのだ。

 「俺はあなたを救えない。救ってはならない」

 この光景を己は消え果るまで忘れはしない。生涯の自戒として記憶することを己に科したトレーゼだった。



 そして時は流れて新暦75年──、J・S事件が勃発する。



[17818] 親子
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:234c51ba
Date: 2015/07/21 08:25
 新暦75年、それは後の世で管理局を語る上で避けては通れない一大事件が勃発した年である。あらゆる法や倫理、道徳に対し喧嘩を売り飛ばした天才科学者にして稀代の大犯罪者とその一派が、表社会に堂々と名乗りを上げた年なのだ。

 事件の規模と影響の大きさとは裏腹に、計画した主犯の心理は至って幼稚だった。まるで投げた石が窓を割る感覚が病みつきになった子供が、更なる的を求めてイタズラ小僧へと立派な成長を遂げたような、強いて言えばそんな感じ。付き合わされた側はたまったものではないが、それが彼の誰憚ることのない本音なのだから仕方がない。彼は決して悪意では動かない、その行動原理はいつだって「欲望」でしかないのだ。

 ジェイル・スカリエッティ。アルハザードの寵児にして最高評議会が世に生み出したパンドラの箱を開けし者。全てにおいて始まりに立つこの男が、遂に自らの野望を始めた。

 己の欲望に忠実に動く天才と、彼に付き従う十二人の兵士、そして運命の糸に絡め囚われた者達が進撃を開始したのだ。

 それら事の成り行きを察知しながら、当のトレーゼは黙して動かなかった。かつての時間軸でJ・S事件は自分と完全に関わりの無いところで起きていた。であればそれに無闇に首を突っ込んでその流れを乱す事を避けたのだ。この件に関しては機動六課のみで解決できることが既に証明されているのだから。

 「……ついにこの時が来たか」

 だが、ただ座して待つのでは時間の無駄というもの。この十年の間にトレーゼは三人の人物の動向を密かに探っていた。

 一人は言わずもがな、自らを創造した生みの親、ジェイル・スカリエッティだ。管理局に反抗する為、ここ十年で彼の動向は最高評議会ですら完全には掴めていない。それには懐に忍び寄ったドゥーエの功績もあるのだが、まさかこの期に及んで姉の隠蔽工作に苦しめられる事になるとは思っていなかった。

 二人目は、自称「協力者」のハルト・ギルガス。もう顔すらおぼろげだが、彼がこの時代のトレーゼをどう扱うか分からない以上、その存在が危険である事に変わりはない。結局は杞憂に終わりそうなので問題なさそうだが。

 そして三人目、これが一番重要な人物だった。ジェイルを己の父とするならば、母となる彼女を探し出すのが新たな使命となっていた。

 意外にもエリカの行方はなかなか掴めなかった。工作活動のプロでもある他二人に比べてエリカのその辺りのスキルは素人同然であり、痕跡を探すのは容易だと思っていたのだがあてが外れてしまった。かつて管理局から支給された偽名をそのまま使っていたにも関わらず足取りを掴まれなかったのは、どうやらジェイルが裏で根回ししていた為であったことも後に分かった。

 思えばジェイルとエリカの関係は、かつての自分とスバルのようなものだったのかもしれない。流石に自分達ほど殺伐とはしていなかっただろうが、己の興味が向くもの以外は心底どうでもいいとするはずのジェイルがここまで入れ込むのは、それだけで彼にとってエリカが唯一無二の親友であったことの証左だろう。どこまでも歪んだ求道者だったかも知れないが、彼は彼なりに友を案じていたのだ。

 何故トレーゼがこの期に及んでエリカと接触しようとするのか。それはやはり、この先の未来で彼女の存在が必要になるからだ。

 エルトリアを救い、なおかつマテリアル達を運命の呪縛から真に解放するには、これよりずっと先に生まれるフローリアン姉妹に任せるしかない。既に未来がそうなる道筋となっているのならその土壌作りが肝要になってくる。

 だが姉妹を直接生み出すのはエリカの役目ではない。彼女はあくまできっかけ、己が計画を成就させる為に確保しておかねばならない協力者、言わば未来に収穫するために撒く種だ。エリカという種からグランツが芽吹き、フローリアン姉妹が実る。その系譜はやがてエルトリアだけでなく、疎まれるだけだったマテリアル達にも希望を灯すだろう。

 しかし、エリカがエルトリアを目指したのは次元世界の崩壊という未曾有の大災害が引き起こされたことが遠因にあり、それが回避されるこの時間軸では本来なら遠く離れた世界に彼女が赴く理由など欠片もないのだ。それこそ前回の時間軸のように一人静かに余生を過ごし、そして没していくのが宿命のはずだ。

 幸か不幸かで問えば不幸な生い立ちだろうが、それも最初の歴史と比べれば瑣末なものだ。実を結ぶとは限らない、徒労に終わるかも知れない作業に孤独と絶望の中でひたすら従事するのは並大抵の精神では成し遂げられない。己は母と呼べる女性を再びその因果に叩き落とそうと言うのだ。

 「まさに、鬼畜の所業……か」

 己は世界に足跡を残すわけにはいかない、だから代役を立ててそいつに一切を任せよう……真髄は子供の理屈だが、そうしなければならないのも真実だ。死後に地獄というものが本当にあるのなら、自分はきっとその解約不可な片道切符を手にしていることだろう。いや、ひょっとすればそこの住民票も発行されているに違いない。

 エリカにはどうあってもこの話を呑んでもらわなければならないが、トレーゼは気が引けていた。方法はいくらでもある。最悪、洗脳という手段も……。

 だがそれでは意味がない。それなら必ずしもエリカである必要はない。だが未来から来た姉妹二人はフローリアンを名乗っていた。それはつまり、彼女が自分の意志でかの大地を訪れるという証拠。そしてその未来を確定させられるか否かは全て自分に掛かっている。

 エリカの住まいは人里離れた郊外の片隅、そこに開かれた個人事務所にあった。表向きの職業は私立探偵。だが実際は自分の正体を悟られないようにするためか年間を通じて開店休業にあり、人付き合いも最低限に留めていることが分かった。

 「留守か……」

 シャッターが降りたままの事務所に人の気配は無く、二階の借家も鍵が掛かっていた。調査かあるいは単に生活用品の買い足しか、いずれにせよ少し待てば帰宅するだろうと近くで待っていた。しかし……。

 「あんた、ここに何か用かい」

 「ここのオーナーか? この事務所のフローリアンという者に会いたい。いつごろ戻ってくる?」

 「生憎だがフローリアンさんは先週ここを越したよ。今は空き家、またテナント募集中だ」

 「どこへ行ったか分かるか?」

 「さぁな。役所にでも問い合わせりゃ分かるかもしれないが、あんた身内かい? もしそうじゃないんだったら諦めな。今は個人情報がどうだのってお上がうるさいから、簡単にゃ調べらんねぇよ」

 「そうか……。情報、感謝する」

 きっと役所に行っても無駄だろう。彼女は戸籍上存在しない人間、どこをどう調べても公的な範囲で分かることは何も無い。エリカと接触するという目論見はこれで潰えたかに見えた。

 だがやり方はいくらでもある。オーナーが立ち去るのを見計らって再び事務所に戻り、部屋に侵入して中を検めた。住人が去って一週間も過ぎているが、その痕跡は未だに残留している。

 「追え」

 ちぎり取った肉片が変質してハエのような蟲となり、しばらく室内を飛び回ってから外へ飛び出した。犬の数百倍の嗅覚を持たせたそれは空に飛び立つと一直線に匂いの発生源を辿り、トレーゼもそれに続いた。

 蟲の追跡は予想に反してかなり時間が掛かった。エリカの孤独な半生を表すかの如く、長い道のりは平坦で、それでいて苦痛を感じるほど何の変哲も感じさせない道が延々と続いていた。擦り切れそうな錯覚はかつて己も通った道、そして更に過酷な道へこれから母を連れて行く。

 やがてたどり着いた先は最初に訪れた場所より更に街を離れ、もはや田舎と呼んで差し支えない辺境だった。かつては賑やかだった事を窺わせるストリートも、今ではどこもシャッターが降りており、通りを行く人の影はまばらだった。

 しばらく町中を歩き思いを馳せる。ここはまるで自分が目覚めたエルトリアの姿そのもの、寂れた風景は記憶に見えるあの大地と何ら変わらない。

 するとまた誰かに声を掛けられた。

 「どっから来なすった?」

 壮年の男性。短く刈り揃えられた頭髪は薄らと白が混じり、長くこの地に住んでいることを容易に想像させる風貌の持ち主だった。杖を持つ側の足に包帯を巻いており、ケガをしていることも見て取れた。

 「ここは観光地でもねえし、何も楽しめるような場所はねえよ?」

 「いや、人を探している。この辺りにエリカという人間が越してきたと聞いているのだが……」

 「フローリアンさんに何か用かい?」

 「知っているのか」

 「この街は医者も居ねぇほど寂れちまってなぁ。見ての通りケガしてたこの足を、親切なあの人が治療してくださったのさ。薬もあの人が調合してくれた。今から代わりをもらいに行くところさ」

 「では俺も同行させてくれ」

 「おう、いいよ」

 快く案内を引き受けてくれた男性に続き、トレーゼは古びたアパートへとたどり着いた。外装は所々剥がれ落ち、崩れた壁面からは鉄骨が覗いていた。

 「先生、いるんだろう?」

 その一室、他より少しだけ綺麗に整えられた扉の部屋にその人物はいた。

 「ですから私は医者ではないと何度言えば分かってもらえるんですか。診察はちゃんと隣町の病院で受けてください」

 頭を掻きながら出てきたのは、女性。その顔はやはりウーノに似ていた。

 「車も持ってねぇのに行けるもんかよ。先生に診てもらった方が楽チンだ」

 「私は医師免許も持ってない、医療に関しては齧った程度の知識しか無い素人ですよ。捻挫と思って甘く見るとその内痛い目に……」

 玄関先での立ち話では失礼と思ったか、ドアを更に開いたときにトレーゼと彼女は遂に互いに向き合った。

 「……!?」

 「ああ、この人はさっきそこで知り合ってなぁ。なんでも、先生を探して遥々街からやって来たらしいんだ」

 「……そう、ですか」

 明らかに何かを感じ取ったような表情だったが、男性はそれに気付くことなく部屋に上がり、トレーゼもそれに続いた。しばらく男性の負傷した足の診察を行ってから薬を渡し、来た時と同じ陽気で帰っていった。

 後に残ったのはトレーゼと、彼が永い時の中でようやく邂逅を果たした“母”のみだった。

 「貴女は、エリカ・フローリアンか」

 「ええ。そういうあなたは、どちら? もしかして私が昔踏み倒した借金に関する方かしら。だとしたらごめんなさい、もう私は一文無しなのよ」

 肩を竦めてわざとらしくそう言う彼女は、コーヒーの用意をしようと流し台に立った。小さなその背は擦り切れた道程の写しか、あるいは徐々に若さを失っていくことの当然の帰結か……。

 カセットコンロから臭気が漏れた後、火の上にポットが置かれる。容器の中で沸き立つ水の音は彼女の焦りの心理。彼女とて気付いていないはずがない、自分を訪ねてきたこの男が何者であるかなど。

 「ジェイル・スカリエッティを知っているか」

 「ええ、最近世間を騒がせている犯罪者でしょう。むしろ知らない人を探すほうが難しいんじゃないかしら」

 「貴女はかつて時空管理局に所属していた研究員だった。だがある時、借金の暴利に苛まれた貴女は裁判を起こし、名前を変え経歴を変え、局の保護下に置かれることになった」

 「何を言っているのか分からないわ。スパイ小説の読みすぎよ」

 「貴女が配属となったのは技術開発研究部署、そこである人物主導の違法研究の片棒を担がされる。それが貴女とジェイル・スカリエッティの関係の始まりだ」

 「ですからっ、何を言っているのか……!」

 「もう隠さなくていい。俺は貴女に会うためにここまで来た。貴女を乳母に育った“息子”が今、貴女に会いにここまで来たんだ」

 たまらなくなったエリカが遂に振り向く。

 「本当に……本当に、あなたは……!!」

 そっと駆け寄り抱きしめる。嗚呼、母の体とはこんなに小さなものだったか。腕の中で歓喜の嗚咽に震えるその肩はまるで子供。しかし感触を確かめるように抱き締め返す腕の力強さは、紛うことなき想像していた母の偉大さを感じさせてくれた。

 だがこれから彼女には様々な残酷な真実を語らなければならない。そしてその上で母である彼女を自分と同じ生き地獄に道連れにしなければならないのだ。

 「ああ、ぼうや……ぼうや!」

 それはなんという罰当たり。










 やがて長い語りを終える頃、外の風景はすっかり闇夜に閉ざされていた。数十分、数時間、あるいは半日は話していただろうか。出されたにも関わらず最後まで飲まなかったコーヒーが冷たくなるくらいには話していた。

 その間、母・エリカは何も言わずにただ耳を傾けてくれていた。スバルのような「受け止める」ような優しさではなく、母性特有の「包み込む」優しさにトレーゼは身も心も委ねていた。

 「そう……。私の知らないところでそんな事が……」

 「信じるのか」

 「正直、突拍子もなさすぎて信じきれてないところもあるわ。管理局を相手に戦争をしたこともそうだけれど、ロストロギアと一体化したとか、時間を超えたとか、地球だとかエルトリアだとか……もう何がなんだか」

 「だが事実だ」

 「ええ、そうね。あなたが嘘偽る道理なんて無いし、あなた自身がトレーゼを騙る偽者という線も無いわ」

 「偽者という意味でなら、あながち間違いでもないがな」

 「そういう意味で言ったんじゃないわ。今この時間軸にはまだ眠ったままのあなたがいて、今ここでこうして話しているあなたがいる……ただそれだけよ、それに何の違いも無いわ」

 「貴女はやはりジェイル・スカリエッティの友だ。今のセリフを彼が聞いていれば、さぞ愉快そうに高笑いしただろう」

 「あら、引き合いに出す人間が少し失礼じゃないかしら」

 その口ぶりは決して不快を表すものではなく、逆におかしさを堪えた笑みがこぼれていた。初めてする親子の会話、だがこれが最後になることも事実だった。

 「…………それで、今更私を訪ねに来たのは世間話をするためだけじゃないんでしょう?」

 「はい。貴女の力を借りたくてここまでやって来ました」

 佇まいを直して向き合い、いよいよ本題に入る。もし断られた時のことなど何も考えていない、今のトレーゼに出来るのは最初で最後の親子の会話、そして子が親に必ず一度はするであろうある行為、即ち「お願い」である。

 「貴女には今話したエルトリアに行ってもらいたい。そこで死蝕の研究を……」

 「断るわ」

 二つ返事で断られてしまった。何故、どうして、何がいけなかった……もうそんなことはどうでもいい、却下されてしまった以上もうすることは何も無い。そう思って席を立とうとしたが、上げかけた腰を他でもないエリカによって止められた。

 「まあ、待って。判断が早いのは美徳だけれど、急ぎ過ぎは禁物よ。せめて今日ぐらいはゆっくりしていきなさい」

 「だが貴女に断られてしまったからにはそうもいかない。すぐにでも代案を立てなければならない」

 「あなたは……自分がどうして断られたのか理解していないのね。物事を人に頼む時にはそれ相応の態度が必要なのよ」

 「謝礼か。気が利かなかった」

 「……私、あなたの将来が本当に心配になってきたわ。私が言っているのは、あなたが本心を隠しているということよ。気付いてないと思ったのかしら? これでも私はあのジェイルの親友だったのよ」

 「…………」

 「教えて。あなたは私にどうしてほしいの? 何をしてほしくてここまで来たの? 私に……本心を聞かせて」

 この時、トレーゼは確信した。

 ああ、この人は優しすぎる……。

 この母は自分が本心を曝け出せばきっと力になってくれることだろう。文字通り骨身を削ってでも自分に尽くしてくれるはずだ。骨肉を、精神を、寿命をすり減らしてでも……。

 だがその行為が行き着く先に彼女自身の幸せなどどこにも無い。彼女はただ生き、ただ老い、ただ時間を無為に潰し、そしてただ死んでいくだけだ。それはかつて彼女自身が書き記した日記の中に見た絶望そのもの、それを押し付けるようなことをこの土壇場でトレーゼは思い止まってしまったのだ。

 「ダメだ。頼みに来た手前でこんなことを言うのは身勝手だと分かっているが、今確信した。貴女は自分を犠牲にし過ぎる。貴女にはもう既に返し切れないほどの恩がある、そんな貴女にこれ以上の無理強いは出来ない」

 親を想う子心、そんなものが自分の中にあるなど思いもしなかったが、今確かにトレーゼはエリカの未来を純粋に案じていた。今日この場に来たのは一時の気の迷い、これ以上この人を煩わせてはいけないと思って腰を上げたが……。

 その頭をそっと撫でる手があった。

 「あなたは優しい子……。他人の不幸を想えるのはこの世で最も尊い行いよ」

 「だがそれは偽善だ。思いを馳せる、想像するというだけなら幼子にでも出来る。貴女に課せる労苦はそんな生易しい偽善などでは決して癒されない」

 「いいえ、それは違うわ。私はもう、救われているのよ。このまま何も出来ないまま醜く老いさらばえていくしかなかった私を、この期に頼ってくれる……それが我が子だというのなら尚更よ。『親』としてこんなに嬉しいことはないわ!」

 やはり血の繋がりなど無くても親と子。他人を思いやる思慮深さ故に自らの殻に閉じ篭る息子と、自己さえ犠牲にできる優しさを持つ故に傷付く母、互いが互いを想うが為に思い通りに行かず袋小路に迷い込む不器用な親子。だがその純粋で歪だった悲しい行き違いは、今この時をもって雪解けを見たのだった。

 「私はあなたの母親よ。我が子が一生のお願いとせがんできたら、どうしてそれを断れるのかしら。例えそれが……想像を絶する茨の道だとしても、私はあなたの為に生き、あなたの為に死ぬ覚悟は出来ている。それが人の親というものでしょう?」

 この人には敵わない。

 「エリカ・フローリアン……俺は貴女の本当の名すら知らない。知っていたとしてもその名を口にすることは出来ない。俺は所詮、貴女とはどこまで行っても赤の他人でしかない。今こうしていることさえただの親子ごっこでしかない」

 「……そうね、そうよね」

 「俺は人でなしで、貴女はお人好しが過ぎる。俺は結局、貴女の優しさにつけ込もうとしているだけだとどうして気付けない」

 「…………」

 「でも、これだけは言わせて欲しい。…………ありがとう、『母さん』」

 優しさでは誰も救われない。だが優しさがあれば何か解決の一手が見える事もある。それは協力であり、後押しであり、理解するということでもあるのだから。

 きっとこの先彼女の人生は挫折と後悔の連続になるだろう。そしてその結果を見届けることもなく志半ばで果てる。

 だがそれでも絶望は無い。自らが望んで応え選んだ道、そこに何の躊躇いがあろう。

 「ありがとう、私に生きる希望をくれて……」

 ここから先自分達の道は交わることはないのだろう、きっと誰がどうなったかなど知らないまま互いの終わりを迎える日が来てしまうのだろう。その関係が周囲から歪に見えるものであることなど二人が一番理解していた。

 この名は貴女が名付けてくれたものではないけれど……。

 この身はもう貴女が愛を注いでくれた時と違って穢れてしまったけれど……。

 貴女の優しさに報いる為、己はこの道を行く。その先で貴女の行いが本当に正しかったことを見届ける為に。

 この日、一人の女性と一人の男が遂に親子としての邂逅を果たすことが出来たのだった。










 これで布石は打った。エリカは単身で異世界に渡り、そこで死蝕問題の解決に尽力する裏でギアーズ開発の礎を創るだろう。そしてその意志はグランツへと引き継がれ、やがては人造の彼女らへと至るはず。これでようやく未来への繋がりを作ることが出来たのだ。

 後は実際にエリカをエルトリアに向けて転移させるだけだ。出来るだけ早い内にそうするのが得策だが彼女にも事情がある、一週間は身辺整理などの準備期間として猶予を設けることにした。その間にトレーゼもちょくちょく顔を出しては邪魔しない程度に彼女との親子の語らいを楽しんでいた。

 事件は出立の前日に起こった。

 準備が予想より早く終わる目処が立ち、ミッドチルダに留まる最後の日には親子水入らずで過ごそうと思いエリカの住居を訪ねたのだが、いつまで経っても出迎えないエリカは煙の如く部屋から消え失せていた。

 「…………」

 臆して逃げ出した訳ではないらしい。フローリングに残されていた書置きを拾うとそこにはエリカの行き先が書かれていた。しかし筆跡は彼女のものではない。

 要約すれば、『エリカを返して欲しければこの場所まで来い』とのことだった。

 このタイミングで自分に接触を図る人物など限られてくる。しかもわざわざエリカを挟むとなると……。

 マントを羽織りフードを目深に被って徹底的に正体を隠した後、指示された場所へ向う。町の外れにある一軒の空き家、かつて宿が経営されていたのだろうが今は見る影もなく寂れてしまっていた。

 ガラス張りの受付の奥、従業員用通路を抜けて事務室に使われていたであろう部屋、そこが指定された場所。慎重に扉を開けたトレーゼを待ち構えていたのは……。

 「随分と遅かったじゃないか、待ちくたびれたよ」

 「!?」

 トレーゼの予想は的中していた。この段階で自分達に接触する人物などこの男を除いて他にはいない。

 「ジェイル・スカリエッティ」

 「私の名をご存知とは光栄だね。どこで知ったのかな。やはりテレビかね?」

 彼が関与していることは間違いないと確信していたが、まさか本人が直接出向いてくるとは思ってもみなかった。安物の椅子に腰掛け、不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめる視線は子供みたいな好奇心を多分に含んでいることが容易に分かった。

 「エリカ・フローリアンはどこだ」

 「そう焦らないでくれたまえ。別に彼女の身の安全をどうこうする訳ではない。こう見えて私と彼女は旧い仲でね……と、私がわざわざ言わずとも知っているか、随分と彼女の身辺を洗っていたようだしね」

 「いつから気付いていた」

 「むしろどうして私が気付かないと思っていたのかな? 彼女が古巣に足取りを掴まれずに生活できているのは私の根回しの成果だと、君も調べで分かっていたはずだ。それならその周囲に私の張った網が敷かれていても何の不思議も無いだろう。それに最近私の周囲もちょろちょろと探っていたようだしね、いい機会だと思って出向いたまでだ」

 迂闊だった。どうやらこの期に及んで自分はジェイル・スカリエッティという人間を計り違えたらしい。彼がここまで友人思いの人間だとは露とも考えが及ばなかった。

 ここでジェイルと接触してしまうのは想定外だ。彼の動向を探っていたのは、あくまでその行動が本来の時間軸と同じであるかを確認する為であり、彼に予想外の動きをさせてしまっては本末転倒もいいところだ。

 かと言ってここで手荒な真似をしても何の得も無い。彼にはあくまで蚊帳の外、傍観者に徹してもらいたいのだ。

 「何故俺に?」

 「君に純粋に興味を抱いた、ではダメかね。私は興味の対象はとことん調べ尽くす主義でね、私の隠蔽工作を見破り局の捜査官より先に彼女にたどり着いた君の頭脳、気にならない方がおかしいじゃないか。ずばり単刀直入に聞くが、君は一体何者だね? 出来ればその暑苦しいものを脱いで正体を明かしてくれないか」

 沈黙をもってその頼みを拒む。ジェイルがこの場にたった一人で出向いているとは考えにくい。必ずどこかにウーノかトーレ、あるいはその両方が控えているはずだ。もしくはこの空き宿の周囲に既にガジェットを待機させているかも知れない。それはそれで面倒だ。

 「姿を晒すことはできない。俺はそこまで貴方を信用したわけではない」

 「ふむ、それもそうか。こうなるとますます君の正体を絞るのが難しくなるなぁ」

 わざとらしく顎に手を当てて逡巡の素振りをするが、視線は相変わらずトレーゼを品定めするかのようにギラギラと輝いていた。そのドギツイ輝きに似合わない悪意の無さは、新発売のオモチャに目を光らせる子供のようだ。

 「だが実を言うとだね、私なりに予想はしている。聞きたいかな?」

 「俺を管理局員と勘違いしているのかもしれないが……」

 「それは早とちりというものだ。私は自身に通じる局員を全て把握している。私に断りなく動ける者はいないし、彼ら以外の誰かが私に辿り着くことは上層部が許さない。となれば、後は私の昔の関係者筋ということになる。若い頃はそれなりに活動していたからね」

 「…………」

 「プレシア女史の関係者……ではないな。彼女はもう十年も前に音信不通だし、娘と使い魔以外に協力者がいたという情報は無い。じゃあ、えーっと……何だったかな、あの革命家気取りの……トレディア・グラーゼだったかな。だが君には彼とその一派に見られるような『熱』が無い。自分の思想に情熱を感じて燃えるようなガラでもなさそうだ」

 「生憎、革命が趣味だったのは昔の話だ」

 「あ、そう。うーん、となるともう私の知っている相手で接触を図りそうなのは……」

 「いい加減問答はやめだ。エリカ・フローリアンには今日中に用意して明日には発ってもらわなければならない。彼女はどこだ?」

 「奥の仮眠室だ。何度も言うが私は彼女に危害を加えたいのではない。こうでもしないと君をこの場に立たせるのが難しいと考えたからだ。決して害意があったわけではないことを理解して欲しい」

 そう言うジェイルの脇を抜けて奥の扉を開け放つ。中には眠らされたエリカがいた。確かにジェイルが言ったように傷付けられた形跡は見当たらない。

 「まだ確認したいことが山のようにあるから、出来れば帰らないでほしいのだが……」

 「…………」

 これ以上彼に付き合ってられないと、お返しと言わんばかりにトレーゼも盛大な溜息を漏らしながら……。



 「エリカ・フローリアンはどこだと聞いている」



 再度語気を強めて問い詰めた。

 「これはおかしな事を聞く。彼女なら君の目の前に……」

 「これはエリカではない。お前の娘はエリカを騙らせるにはまだ若すぎる」

 「……気付かれていましたね」

 横たわっていたエリカ……に扮していたウーノがそっと起き上がる。エリカと思い接近した所を狙って正体を見るつもりだったのだろう。ジェイルだけならともかく、彼女に素顔を見られたのでは誤魔化しが利かないところだった。

 だが凌いだとは言え未だエリカがどこにいるのか分からない。何らかの手段でその位置を隠蔽しているのだとすれば、クアットロまで連れている可能性も否定しきれない。どうやら言葉通りタダで帰すつもりは無さそうだ。

 「そうまでして俺の正体を知りたいか」

 「君が悪いのだよ。そもそも、会合の場に素顔を隠したまま臨むというのはどうなのかな」

 「よく言う……人を誘拐しておきながら」

 我が父ながら食えない男だとつくづく思う。このままこうして睨み合っていても埒が明かない。

 「仮に俺が正体を明かしたとして、そちらに何の利益がある」

 「私の知的好奇心が満たされる。今この瞬間に限って言えば私の中の興味は全て君に向いている。君に比べれば聖王のクローンや“ゆりかご”など足元にも及ばないよ」

 わざわざ管理局ですら掴んでいない“ゆりかご”の存在まで示唆した以上、彼の言っていることは本当だろう。彼はこちらが正体を明かして見せるまでテコでもこの場を動かないに違いない。

 軽佻浮薄な言動に反するその頑固さはやはり己の父か……。

 沈黙の中聞こえるのは壁に掛けられた時計の音。住まう主が居なくなっても律儀に時を刻み続けるその音だけが親子の空白を埋めるように鳴り響いていた。

 「……ひとつ、誓え」

 「ふむ」

 「今から貴方が見聞きしたこと全てを、生涯誰にも漏らすことなく墓まで持っていくと誓え」

 「それはつまり、ここにいる他の目を遠ざけろという解釈でいいのかな? そして如何なる手段であれその事実を一切他の誰かに、例え私の娘たちであれ打ち明けることは許さないと?」

 「そうだ。それが守れないと言うのなら、俺は強行突破してでもここから出る」

 不穏な物言いに対し背後のウーノの気配が変わり、事態は一触即発の雰囲気に包まれた。もしここでジェイルが断りでもすれば交渉は決裂、その場でトレーゼは実力行使に出なければならない。即ち、力ずくでエリカを連れ出す。その結果彼らにどんな被害を与えることになったとしてもだ。

 そんなこちらの心を知ってか知らずか、少し天井を仰いで考える仕草をした後……。

 「いいだろう」

 あっさりと承諾したのだった。

 「ウーノ、この建物の近くに待機させたガジェット全て撤退だ。君も待機中のナンバーズと一緒にしばらく下がっていなさい」

 「よろしいのですか?」

 「最初に非礼を仕出かしたのはこちらだ。それに、彼を本気にさせたら今のこちらの戦力では到底敵わない」

 「了解しました」

 主の身を思って少し逡巡する様子を見せるも、忠実にその命令に従ったウーノは部屋から退室していった。彼女と周囲の姉妹たち、そして建物を取り囲んでいたであろうガジェットの気配が完全に消え去ったのを確認し、トレーゼは遂に己の正体を父に晒す。

 言葉など要らない。今の己の顔さえ見せればそれで全てを察してくれる。己と彼は鏡写し、その意味するところが分からぬジェイルではなかった。

 「……なんとなく、そうなんじゃないかと思ってはいたよ」

 「驚かないのか」

 「候補として頭の片隅ぐらいに留めてあったからね。私のみならず、私の旧友の存在にまで辿り着くとなれば、これはもう私達二人の共通の関係者ということになる。だがそうなると解せないのは、十数年前にハルト・ギルガスに譲渡したはずの君が何故ここに? 何の目的で今更彼女に接触を?」

 「それも含めて全てを説明する。俺がこれから語ることは全て事実を思って聞いてもらいたい」

 そしてトレーゼはエリカの時と同じように全てを語って聞かせた。今の自分がどんな道筋を辿り、何を思い、何を決断してここにいるのかも、全てを話した。

 途中何度かジェイルが横槍を入れて話が脱線することもあった。科学者として興味深い部分は聞き逃さない、父親はこんな時でもマイペースだった。

 時を刻む単調なBGMが長針をどれほど動かしただろうか、全てを話し終えた時のジェイルの顔は輝いていた。

 「私の与り知らないところでそんなことが起こっていたとは! これだから世界とは面白い!! よもや私の因子を受け継ぐ者が私の一歩も二歩も先を行っていたとは!!」

 「貴方にはそのままこちらに関してはノータッチでお願いしたい。あと少し……あと少しで全てが終わるんだ」

 「その為ならば育ての母すら利用すると?」

 「ああ、そうだ。最初からそのつもりで、彼女もそれに同意してくれた。貴方ほどの男が今更人の道理を問うなど」

 「無論、そんな無粋なことはしない。私自身君の計画に手を貸すわけでも邪魔するわけでもない。今は自分の方だけで忙しいからね。ただまあ、新たに気になったこともある」

 「何だ?」

 「いや、全てが終わったあと君自身はどうするのかな、と」

 素朴に投げかけられた疑問にトレーゼは刹那、自分の未来に思いを馳せる。

 「我々人間は追い求めずにはいられない生き物だ。常に何かを求めている。曰く愛、曰く平和、曰く正義、曰く真理……色々違いはあれど、その行為自体はどれも同じだ。自分の欲するものを白日の下に引きずり出すために人は何かを求め続けている。それが多分世間一般で言うところの『人生』じゃないかと私は思っている」

 研究者ならではの物言いにトレーゼもなるほどと首肯する。

 「私も一つの研究を終わらせればすぐさま次に取り掛かる。私の人生はその繰り返しだ。それで、だ。君は君自身の目的、その使命を果たした後は何とする? まさか余命幾許もない老人じゃあるまいし、そのまま隠居生活という訳ではないんだろう?」

 その言葉は自分のこれからの将来、まだ不確定で何が起きるかも分からない未来について切に期待しているもんだった。彼は“無限の欲望”、未知と不確定をこよなく愛しその果てに価値を見出す求道者、自らの手を離れた我が子が紡ぐであろう物語の続きをねだるその様はどちらが子供か分からなくなる。それが歪なものと理解してはいるが、彼もまた子の行く末を想う一人の親だった。

 その期待を裏切ってしまうのが心苦しい。

 「悪いが、俺の終着点は決まっている。この旅路の先を見届けられたら、俺はもう何にも関わりなく過ごそうと思う」

 「できると思っているのかね。人のみならず、この世に存在するあらゆるモノは必ず何かと関わり続ける。有形であれ無形であれ、この世界に満ちる様々な要素が君を駆り立て、その道の先を行くように促す。君も私も、誰であれそれから逃れる術など持たない」

 人はそれを「運命」と呼ぶ。存在し続ける限りついて回る祝福にして呪い、それは人智を超えた外法のモノであるトレーゼですら例外ではないのかも知れない。

 「俺は何も運命から逃れたい訳じゃない。むしろ逆、それを受け入れる事ことが重要だと思っている。だから俺の使命が終わった後に何も残らないのなら、それこそが俺の定めなんだ。その何もない無謬の荒野こそが、俺の終の棲家、旅の終着点……俺の終わりだ」

 「解せないな。私が君の立場ならそんな運命は到底受け入れられない。今ここで死ぬと分かれば未練も後悔もあるし、まだ生きていたい、存在していたいと願うのは至極当然の感情のはずだ。なぜそれを放棄できる?」

 「フフ、貴方がそれを問うか」

 「何かおかしかったかね?」

 「かつての俺が知るジェイルは、息子の閉じた未来を拓くためその命を何の惜し気もなく捨て駒にして見せた。人は大いなる使命と向き合いそれを完遂した時、卑下や自棄ではなく『死んでもいい』、『終わってもいい』と思えるものだと、貴方が身を以て教えてくれた。未練も後悔もどこにも無い」

 父の自己犠牲は母へ、その使命と覚悟に殉じる気高き精神はグランツを経てフローリアン姉妹へ、大河の如く連綿と受け継がれたのだ。その想いは時を越えて駆け巡り、やがてトレーゼに結実する。

 「人の生はやがて必ず終わりを迎える。それが早いか遅いかの違いでしかない」

 「決心は固いようだね」

 全てを察したジェイルが埃を被っていたデスクから予め仕舞ってあった何かを取り出す。ネオンにも似た淡い燐光を放つそれは小型のディスプレイで、遠くに居る何者かに今の会話を聞かせる装置であった。

 「騙したなとは言わんでほしい。これは君がこの部屋を訪れる前から設置してあった。つまり、君の約束を破ったことにはならない。それに知られても別に問題ない相手だしね」

 画面に映っていたのは、今度こそ正真正銘本物のエリカであった。

 『ごめんなさい、トレーゼ』

 「なるほど、貴女の茶番だったわけか」

 エリカは拉致も誘拐もされていなかった。全て彼女が描いた絵図通りにトレーゼはこの場に立たされていた。

 「正確に言えば、先に私の方から接触を図ったことは嘘ではない。彼女の周囲に不穏な輩がうろついていると知って調査をしたが、君が何者であるのかはついぞ掴めなかった。そこで彼女に直接会って話を聞こうと赴いたわけだ」

 「それがどうしてこんな事になる」

 やはり母は怖気づいたのかと一瞬その心を疑ったが……。

 『……あなたが心配だったのよ』

 「心配?」

 『あなたは私を心配するだけで、自分自身を省みない節があったわ。このままあなたが進む先が単なる破滅なら、私はそれを親として止める義務があるの』

 「だから俺の真意を探るために一芝居打ったと?」

 『ええ、そうよ』

 悪意はない、彼女は純粋に息子である己の行く末を心配してくれている。子としてこれほど恵まれ幸せなことが他にあるだろうか。二人にとって己は、「まだ手のかかる未熟な子供」のままでいてほしいのだ。

 だからこそ、己は証明しなくてはならない。二人が居なくても大丈夫だと、己はその庇護の手を離れても生きて行けるのだと。巣立ち、自立、独り立ち……それが子が親の恩に報いる唯一にして最善の道であると知る故に。

 「確かに俺の進む先に俺自身の幸福は無いのかも知れない。俺のした事は気にも留められず、誰からも忘れられて消えゆくだけなのかも知れない」

 空を飛び、銃弾すら弾き、どんな悪党の小狡い企みも粉砕するスーパーヒーロー……それが、つい数分前に電話ボックスで変身したしがないサラリーマンとは誰も気付かないように、誰もが皆自分とは関わりの無い所で起きた出来事など知りもしないまま過ごしていく。世界を救うのも偉業なら、万引き犯をとっ捕まえるのも同じ偉業、それでいいのだ。

 「行き着く果てが忘却であっても、それは決して『絶望』ではない。俺の存在はこの先必ず消え果てる。俺だけではない、誰もがこの世界から消えていなくなる。どんな偉人も永遠にその存在を残しておくことなど出来ない。俺も貴方も」

 「そうだ。ヒトは忘れる生き物だ。幸せだった思い出も、辛かった現実も、悲しい過去も、全てを忘却の彼方に追いやるこの世で最も残酷な生き物だ。それを知っていてなお君は我が道を行くというのか?」

 「元より賞賛されたいが為にやるのではない。所詮は自己満足、俺がそうしたいがためにそうするだけの話だ。やったもの勝ちにしてやりたいだけなのさ」

 『どうしてよっ、どうしてそんな自分を捨てるような真似が出来るのよ! ジェイル、あなたからも何とか言って、この子を説得して!!』

 「残念だが君の期待に応えることは出来ない。かつて私の意志が何者にも捻じ曲げられたことが無いように、私の息子である彼もまた自らの意志を貫こうとしている。それに何か勘違いしているようだが、私は最初から彼を止めに来たわけではない。その真意を明らかに出来た今、彼は私の絵図から外れたのだ。喜びたまえ、我々は今、我が子が旅立つ瞬間に立ち会っているのだ。君も母を名乗るのなら子の成長を喜ぶべきとは思わないかな」

 『だけどッ!!』

 「いつだって子は親の知らない所で成長する。放任主義が過ぎた我々がそれを知らないのも当然だ。人の道から外れた私に出来るのは彼を祝福し、その門出を黙って見送るだけだ。君だってその前途を支えるため身を投げ打つと決めたのだろう? だったら彼を困らせるのは無しにしようじゃないか」

 文字通り血肉を分け合った者同士の定めか、今この時トレーゼとジェイルの思惑は完全な一致を見ていた。この生まれながら外道に生きる男でさえ、為すべき大義の重さの前に個々の主張で道筋を捻じ曲げることは出来ないと知っているのだ。

 「父さん、母さん……ありがとう、俺をこの世に生んでくれて。貴方達がいなければ俺はこうしてここに存在することさえ出来なかった。俺が俺の足でここに立ち、俺自身の意志で決断することが出来るのは全て二人のおかげだ」

 そう感謝。どんなに無為に思えてもそれらには必ず意味がある。その意味を知るきっかけをくれたのは、偶然とは言え彼らが自分を生み出してくれたからだ。全てを始めるきっかけを与えてくれた両親に対し子供ができることは、ただひたすらそれに感謝することだ。

 「俺は自分の成すべきと思った事を完遂する。その為に俺は俺の道を行きます。精一杯、生きていきます」

 画面の向こうで泣いている母、良くぞ言ったと笑みを浮かべる父、とんでもない不良息子になってしまったと自嘲する。

 しかし、後悔は微塵も無い。代わりに何度でもこの言葉を送ろう。今の自分に出来ることはこれだけしかない。

 「……ありがとう」

 己の行く道は己で決められる、それをはっきりさせた今親子の道は分かたれた。だがこれは決して悲しみの別離ではない、新たな先に進む時誰しもが通る道、そこに今やっと到達しただけの話だ。

 父母よ、さらば。またいずれ会う日があれば、その時は……。










 親子三人の最初で最後の密会はこうして幕を降ろした。エリカはエルトリアへと渡って死蝕の研究を始め、ジェイルは己の興味を満たせたのかまた自分の計画へと戻って行った。もちろん三者三様、この日の事は他言無用と弁えている。

 程なくして予定通りジェイル・スカリエッティは機動六課によって拘束、最高評議会も抹殺されレジアスとの関係が明るみに出たことで管理局の闇はその一部が白日の下に晒された。

 恐らくだがトレーゼと接触した時点でジェイルは自らの計画の末路を予感していたのかも知れない。もし彼が勝ち負けに拘る人間だったなら自分の運命を変えようと躍起になっただろう。ひょっとすると気付かない程度の計画変更はあったのかも知れないが、こうして事件が無事収束を迎えたという事はつまりそういう事なのだろう。

 実行犯として同じく拘束されたナンバーズについても元の時間軸と同じメンバーが社会復帰に向けて更生を受けることになった。その中にはかつて自分が利用したノーヴェや、自らの手で殺めたチンクもちゃんと入っていた。だがそれは逆に、ウーノを含む年長の者らとセッテはやはり社会復帰を望まなかったという事でもあった。

 それもまた彼女らの意志が決めたこと、さもありなん。

 だが本格的に動くにはこれより更に三年待つ必要がある。マリアージュ事件を経てようやく時間軸はこちらに回ってくるのだ。

 それまでに自分がやっておくのは、この時間軸の自分を保有しているハルト・ギルガスの動向を逐一チェックすることだ。彼がもし自分の知る歴史と違う行動をしていたら、この土壇場で面倒なことになりかねない。幸いにも彼は研究から一歩退いて半ば隠居生活の身らしく、目立った行動は無かった。このまま予定通りに時が進んだところでその所在を管理局にリークすれば、後は優秀な捜査官によってあの研究所も暴かれるだろう。無論、その前に仕上げが必要だが。

 「いや、もう一つやっておくべきことがあった」

 この時代で律儀に三年待つ必要はない。自分には時を越える術があり、一気に三年後の世界に飛ぶことも可能だ。

 だが今回はもっと先に行く。そう、かつて自分が過ごしたあの滅びの大地へと赴き、十年前の海鳴に向けて布石を打っておかなければならない。

 そう言えば未来に向かって時間移動するのは初めてだと意外な事実に気付きながら、トレーゼの体は十数年後のエルトリアに向かって転送されていた。辿り着いた先は記憶にある光景と比べてまだ緑が残っており、しかしやはり荒廃の気配を感じさせるエルトリアの大地が広がっていた。

 「大気の汚染度はそれほどでもないが……土はもう死に体か」

 生命力に優れた巨木だけが残り、それすらも枯れながら僅かに生き長らえるだけになるだろう。かつての時間軸で管理局が解決した際は100と数十年かけて全ての土壌と水源を入れ替えるという強引なテラフォーミングを行った。生態系の大部分は修復不可能なレベルの大変動を余儀なくされたが、もはやそうすることでしかこの星を再生できないと判断したのだ。そしてそれは正しかった。

 「今より技術が進んでいたあの時代ですら死蝕の原因は解明できなかった。世の中には不思議なことがあるものだ」

 今自分が歩く森林の道もあと数年もすれば枯れ木のみになる。あの向こうに見える湖が墓標となるのはまだ少し先だろうか。あの研究所が建つ丘はまだ花が咲いているだろうか……。

 そんな事に思いを巡らせていると、足は自然に目的の場所に辿り着いていた。眼前にある光景はまさしく、短い間だが己が過ごしたフローリアンの研究所であった。

 「あの……どちら?」

 「……」

 懐かしさにこみ上げるものを感じていたところへ不意に声を掛けられる。振り返って見ると……。

 「ここにグランツ・フローリアンという研究者がいると聞いてやって来た。ご在宅か?」

 「ええ、まあ、博士はここに住んでますけど……」

 その言葉を聞いてトレーゼはエリカが約束を果たしてくれた事を確信した。母は己の行く道を応援してくれていたのだ、と。

 「取り次いでもらえるか」

 「はーい……」

 いやによそよそしく出迎えたのは妹のキリエだ。いつ何時でも明るく天真爛漫だった彼女がどう言うわけか今はそれほど元気そうではなかった。しかしその理由にトレーゼは心当たりがあった。

 地下施設へのエレベーターに乗り込み汚染が進んでいない深度まで降りた後、トレーゼが通されたのはかつて自分が目覚めた部屋、つまり医務室だった。

 「来客とは珍しいですね……。私に何のご用でしょうか。このような格好ですみません」

 ここにきてようやく出会う事のできたグランツの姿はトレーゼの予想通り病に冒されていた。今はまだそれほど深刻ではないようだが、万物を見通す魔人の眼は既に呼吸器官を始めとする人体のデリケートな部位が次々と衰弱していることを見抜いていた。

 「貴方の研究の事で少し話がしたい。時間は取らせない」

 「ああ、嬉しい。私の研究に理解を示してくださる方がまだいようとは! キリエ、お客様にお茶の用意を」

 「はーい」

 「まったくあの子は、客人に椅子も出さずに。どうもすみません、私の教育が甘いばかりに少し自由に育ちすぎてしまって。上の子はそうでもないんですが……」

 適当に引っ張り出したパイプ椅子に腰掛けながら、去って行った少女に思いを馳せる。あの少女はこれから起こる自分の運命を受け入れるだろうか。それと相対した時、何を思って行動を起こすのか……。

 「娘か?」

 「ええ、血の繋がりはありませんが私の大事な家族です。それはそうと、急かすようで申し訳ないのですが早速詳細の方を……」

 「ああ、『もうひとつの研究』についてな」

 空気が変わった。人を騙せない性格なのかグランツの表情は分かり易く固まっていた。

 「何のことでしょう? 私が行っている研究は死蝕の……」

 「そちらはあくまでメインだ。俺が言っているのはお前がつい最近になって着手した方……最下層にあるんだろう?」

 「どうして、それをっ!?」

 「安心してほしい。俺はそれを悪用しにきた訳ではない」

 「あれはまだ未完成です! それに私はもう完成させるつもりは毛頭ありません! どこからこの事を嗅ぎつけたのかは知りませんが、お引き取りください!!」

 「それでは困る。俺はお前の母と約束したのだ」

 切り札となる言葉を吐いた時、グランツの表情はまた一変した。

 「母さん……母の事をご存知なのですか?」

 「ああ、旧い知己でな。彼女がこの地に来る前にある約束を交わした。お前が研究しているそれはその証、それを完成させることが今のお前に課せられた仕事だ」

 「…………」

 「信じられない、と言いたげだな。だが信じてもらうよりほかにない。研究に不都合があれば言ってほしい。資料も資金もお前が求める限りそれを用立てよう。もちろん、その技術の実用化が条件だ」

 「……私にその気はありません。どうか、お帰りください」

 「また日を改める。その時に色よい返事を期待している」

 一度で説得できるとは思っていない。根気よく懐柔するしかないだろう。幸いにも時間はいくらでもあった。










 部屋を出たところで再びキリエと鉢合わせた。盆の上には良い香りを放つ紅茶が。

 「もう帰っちゃうの? せっかく紅茶淹れたんだけどな~」

 「またいずれ来る。その時にでもご馳走になろう」

 「ふーん、そうなんだ。じゃあしょうがないね、バイバ~イ」

 愛想良く手を振って送り出してくれるが……彼女にはまだ用がある。

 「ひとつ聞きたいんだが、博士の体調は……」

 「あー、うん、最近調子がね。職業柄どうしてもさ……分かるでしょ?」

 やはりあの体は汚染に耐え切れなかったらしい。

 それは、好都合だ。

 「もし……もし、博士の体を治療する方法があれば、お前はどうする?」

 「慰めのつもり? 無理よ、誰もこの病気から逃れらんないんだから」

 「なら質問を変えよう。もし、死蝕を根絶させる方法があるかもしれない……と、俺が言ったら?」

 やはり親子だ。核心部分に触れると動揺を隠せないらしい。それと同時に確信する、この子ならやってくれると。

 「最下層の秘密の研究、それが関係しているとしたら?」

 「……詳しく聞かせてもらおうじゃないの」

 「ああ。お前達には恩があるかなら、お安いご用だ」

 「何の話?」

 「こっちの事だ」

 自分は今、この子の純心を利用しようとしている。親を想う子心を弄ぼうとしている。

 だがそれは新たな未来を切り拓く為。

 さあ、いよいよ幕も最後だ。

 終わらない物語は存在しない。全ては文句なしの大団円の為に……。



[17818] 辿り着く結び  ←New
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:fd07c89c
Date: 2015/07/17 01:18
 「そろそろ俺は行く。旅人の俺が言うのもなんだが、達者で暮せよ」

 地平線の彼方が白んで見える時間帯、砂漠の集落を発つ者があった。旅立つ事は事前に言ってあったせいか誰も見送る者はいない……ただ一人の少女を除いて。

 「なあっ、もっとここにいてくれよ! もっとオレの知らないことたくさん、もっともっと話してくれよ! ここにずっといてよ!」

 旅人がここを訪れたのは数日前。砂漠を越えるでもなく、かと言って街に行くでもなく、どこから来てどこへ向かうのかさえ分からない得体の知れない彼を、この砂の海に住まう者達は暖かく迎え入れた。

 ここに身を置く間の駄賃代わりに旅人はこれまで自分が訪れた様々な場所の出来事を子細に語り聞かせ、その物語に一番引き込まれていたのは、他でもないこの少女だった。初めは余所者の旅人を毛嫌いしていた彼女も年相応の好奇心には勝てず、徐々に旅人の語る物語に惹かれ魅せられていった。そしていつしか物語の続きをせがむようになっていた。

 だが出会いがあれば別れがある。旅人は流離うからこそ旅人で、いずれ辿り着かねばならない場所もここではなかった。そして今日旅人はまた旅に戻る。それを引き留めようとする少女を彼は優しく諭す。

 「世界は広い。お前の目に見えている事だけが真実ではないが、お前自身で確かめなければそれが真実か否かも分からない。だから俺は行く、行かなければならない」

 「だったらオレも、オレも一緒に行かせてよ!!」

 「お前は語れ。俺が聞かせた物語を、昔こんな風変わりな旅人に出会った事をお前の弟や妹に語ってほしい。そして今度はお前自身が旅人になって、お前だけの真実を探すんだ。この世界のきっとどこかに転がっている、お前だけが誇れる真実をな」

 「そんなの……どこにあるっていうんだよ」

 「あるさ。愚かな俺でも見つけられたんだ、お前もきっと見つけられる。そしてお前が大人になった時、我が子に語って聞かせろ。今度はお前自身の旅路をな」

 大地に朝焼けが満ちる。風がどこからともなく吹き、舞い上がる砂を合図に旅人は歩き出す。

 「達者でな。俺は行くよ……ヒツキ」

 砂の海を越えて進むその大きな背中を、地平線に消えて見えなくなるまでヒツキは見つめていた。










 新暦78年11月6日―時空管理局本局・次元航行部隊所属XV級艦船「クラウディア」艦長、クロノ・ハラオウン提督執務室にて……。

 「J・S事件の第五次報告書、確かに受け取ったよ。仕事が早いのは相変わらずだな。こちらとしては嬉しい限りだが、あまり無理はするなよ?」

 「どういたしまして。こっちも仕事でやっていることだし。て言うかいつも山の様に仕事を盛り付けているのは義兄さんじゃない。特に無限書庫はいつも火の車だってユーノも言ってたんだから」

 「あそこは次元世界やロストロギアの資料請求に必要不可欠だからまだ良いとして……。そんなに僕は請求する仕事量が多いか?」

 「職場で『クロノ・ハラオウン』って言えば入り立ての職員以外は9割が泣きつくわ」

 「……聞きたくはないが後の10%は何だ?」

 「良くて辞表、悪ければ発狂するって噂よ」

 汚れ一つないデスクの上でクロノは盛大に溜息をついた。前々からユーノに似たような事は言われて自分なりに自覚はしていたつもりでいたが、改めて身内から同じことを聞かされるとやはりどうにかしなければと思えてしまう。しかし、こちらとて何も嫌味でやっている訳ではない。執務官になり、提督へと身を上げてからはほぼ毎日が書類にサインを振る始末。さらに自分には次元航行部隊を率いて指揮する艦長としての務めまである。年間で数回以上もの次元世界の調査・探索には無限書庫の情報は不可欠であるし、その情報を得てからも書類を片手に各部署への資料提出の催促を行わなければならない。部署の者達には申し訳ないが、こちらも良心が痛むなどと言っている暇は到底ない。

 「僕だって出来ることならなるべく無理の無いようにはしてやりたいさ。しかしJ・S事件から間を置いたとは言え、先のマリアージュ事件のことが尾を引いているのが原因で今このミッドチルダはこれまでに無い混乱期に突入している。はっきり言ってやる事が山積みなのは仕方がないんだ。むしろこれ以上の災厄が無いことを祈るより他はないよ。分かってくれ、フェイト」

 「うん……。ごめんね、クロノだって忙しいのは同じなのに我儘言っちゃって」

 「いや、いいんだ。上に立つ者としてこれ位の苦情でへこんではいられないからな」

 そう苦笑しながらクロノはデスクのコーヒーを取ろうと腕を伸ばし……。

 「? ……なあ、フェイト」

 「なに?」

 「変な事を聞くんだが……」

 「うん?」

 「俺達、前にもこんなやり取りしてなかったか?」

 「……大丈夫? やっぱり休みを取った方が……」

 「いや、いい! 気にしないでくれ! 気のせい、デジャブだデジャブ! 報告ご苦労! 下がっていいからな!!」

 「フフ、ちゃんと体には気をつけてね」

 イタズラな含み笑いを浮かべながら退室するフェイトに義兄は大きくため息を吐いた。

 「そっちもな。これからまたスカリエッティに会うんだろ? 大丈夫なのか?」

 「もうこれで何度目だと思ってるの。いい加減慣れました。それじゃあ、私そろそろ行くからね」

 完全に姿が見えなくなった義妹に兄は再び、今度はさっきより少し小さなため息を漏らす。過労だの何だのと心配されるのはありがたいが、彼女も彼女でなかなか働き者だ。女性としては働きすぎにも思えるが、兄に似て頑固に育ってしまったのだろう。

 それにしてもさっきの既視感は一体……。

 「……やはり疲れているのか。最後に海鳴に行ったのはいつだったか……カレルとリエラは元気にしているだろうか。クリスマスのプレゼントは何が良いかな。そう言えば、ユーノに頼むのを忘れていた資料が……」










 冬の匂い、鼻腔を突き抜ける澄んだ冷気を胸一杯に取り込み、そして口から吐き出す。ミッドチルダの冬は早い。世間では温暖化を懸念する声もあるらしいが、地球の日本のように四季がはっきりしているわけではないのでその変化には気付きにくい。

 「…………」

 とある公園の片隅、立ち入りが許された芝生の上に寝転びながらトレーゼは昼寝より目を覚ました。草の上で寝転がるというのは何気に初の体験だったが、なかなかに新鮮な感覚だったと思う。

 少し背伸びをして凝り固まった関節をほぐすと全身の骨が心地よい軋みを上げる。まだ少し呆っとする頭を取り込んだ冷気が駆け抜けていく。残っていた僅かな眠気は完全にリフレッシュされた。

 立ち上がり街を行く。三年前のJ・S事件、三ヶ月前のマリアージュ事件からクラナガンはたくましく立ち直った。もはや一連の出来事は過去のことだ。この街に生きる彼らがどんな未来を生きどんな物語を描くのか、それを見てみたくなるが……。

 「よそう、俺にはやるべきことがある」

 もう少し、あともうちょっと……その思考がいけない、怠慢を生みそうだ。発つ鳥何とやら、行動は迅速にしなければならない。

 ふと、目に入るものがあった。

 なんて事はない、どこにでもいる親子連れだ。母に手を引かれて街を行く様子はだれが見ても仲睦まじい母娘にしか見えない。

 だがトレーゼには見覚えがあった。

 「嗚呼……」

 たった一度、僅か数十分程度の出会いだったが今でも鮮明に覚えている。その姿をどうして忘れられようか。

 母に手を引かれる娘はかつて自分が出会った少女。母とはぐれ道に迷っていたのを親元まで届けたのは他でもない己ではないか。母と再会できたほとんどその直後に暴漢に襲われ命を散らしたことを今でも覚えている。己が言葉にもできない怒りに駆られたのはあれが初めてのことだった。

 過去を思い返している間に親子は街の中に消えていった。

 あの親子は大丈夫だろうか、ふとそんなことを思う。あの親子が事件に出くわしてしまったのは、極論すればあの場に居合わせたからだ。どうしてその場にいたか、自分が迷子の娘と母を引き合わせたからだ。もし娘が迷子のまま後十分でも街をさまよい歩き、母がその行方を追って右往左往していたなら、ひょっとすれば二人は事件に巻き込まれずに済んでいたかも知れない。あの小さな子供はほんの少し寂しい想いをするだけで、あとは何の問題も禍根もなくまた親子で街を歩けたのかも……。

 いや止めよう、ここから先は親子二人の物語だ。この先の未来の事は誰にも分からない、まだ何も決定していないのだ。幸せになれるか不幸に転がり落ちるのか、それこそ神のみが知ることである。

 「願わくば……」

 そう、願わくば、今度こそはそんな災難とは無縁でいてほしい。










 「願わくば、ここが最後の施設であることを祈ってるよ」

 管理局の捜査官、ヴェロッサ・アコースは極寒の大地にいた。極寒の第69管理世界「コクトルス」にジェイル・スカリエッティの足跡を発見した彼はその調査に訪れ、今やっとその扉を開こうとしていた。終結から三年も立つが未だに事件の全貌は解明されていないのだ。

 放った『無限の猟犬』を斥候に彼は長い間閉ざされていた研究所を進む。管理すべき主がここを去って幾年か、すっかり寂れた冷たい通路を警戒しながら行くヴェロッサの目に映るのは犯罪者の居城という印象は全くなかった。特にトラップの類が見当たらない事ですらその印象に拍車をかけていた。

 静か、ただ静か。星の表層を覆う氷と同じで生命の息吹を欠片も感じさせない静寂の中、ヴェロッサはゆっくりと、しかし確実に空城を攻略していった。

 そして最後の部屋に辿り着く。それほど大きな規模ではなかった事からすぐに最奥に到達し、固く閉じていた重厚な扉を何とか破壊し、中へ押し入る。そこで彼が目にしたのは……。

 「これは……」

 巨大なシリンダーに見える培養槽には見覚えがあった。確かJ・S事件の際ジェイル・スカリエッティの研究所から押収した物品の中にこれと全く同じ培養槽があったのを覚えている。人ひとりを容易に収容できるサイズのそれが一台だけ鎮座する空間に、ヴェロッサは小さく呟いた。

 「中は空……だね」

 培養槽の中はもぬけの殻で、そこに何らかの研究成果が封印されているという面倒な事態にはならなかった。少し拍子抜けしてしまったのは否めないが、張りつめた緊張から解放されたヴェロッサはほっと一息ついた。これでもしクローンや戦闘機人の類でもあれば上から下への大騒ぎになっていたかも知れない。クロノに聞かれたら職務怠慢だと言われそうだが、それが正直な感想だった。

 猟犬たちも引っ込めてヴェロッサは室内をぐるりと観察する。まともな設備がこれしかない所を見るからに、恐らくこの研究所そのものがこの培養槽を管理する為だけに造られていたのだろう。そう思うと結構豪華な施設だ。

 これで今回も大した騒動も無い代わりに収穫も無く終わってしまった。それを喜ぶべきかどうか判別つかないが、肩の荷が下りたことは素直に喜びたかった。

 だが、ふと気付いてしまった。

 「この培養槽……使用された痕跡がある」

 ハッチが開いて内部が丸見えになっているのはつまりそういう事なのだろうが、よくよく見れば設備の周辺には培養槽から漏れ出たように見える液体が残っており、つい最近まで装置が作動していたことを如実に物語っていた。そう、ついさっき自分がここに入る寸前までこの中には何かが収められていたのだ。

 「偶然とは思えない。いったい、ここで何が……?」

 ヴェロッサの疑問に答えてくれる者はここにはいなかった。










 「はてさて、どうなることやら」

 閉鎖された空間、罪人を閉じ込める軌道拘置所の一室で狂気の天才科学者を名乗っていた男がほくそ笑む。別に何か企んでいるわけではない。彼にとってこの世界全体がおもちゃ箱、わざわざ企んだりせずとも適当に手を伸ばして掴み取るだけで悪巧みは完成する。

 閑話休題。ジェイルが思いを馳せるのは息子のことだ。この時間軸ではない、“いつか”の“どこか”から来た息子のことを。あの彼は今どうしているだろうか。

 「そんなことを考えていてもどうという事はないのだがな」

 誰に聞かせるでもなくそう嘯きながら安物のベッドにごろりと仰向けになる。囚人生活はとにかく暇だ。特にジェイルのような重い拘束を科せられる禁錮刑受刑者にはなおさらだ。常に何か起きないかと夢想しながら日がな一日をこうして怠惰に過ごしている。

 今はもっぱらあの息子のことを考えている。彼の思い描く計画について全容を知っているわけではなかったが、天才たる彼の頭脳はその運行におおよその見当はつけていた。自分の事件とマリアージュの混乱を経て、今のところ管理世界を脅かす影はどこにも無い。動くとすれば今が妥当な時期と言えた。

 「そろそろ退屈で死にそうなのだよ。何か起こしてくれないものかね」

 そこに相手がいるかのように語りかける口調はともすれば狂人のそれだが、実際この男は狂人の類なのであながち間違ってはいない。

 「ジェイル・スカリエッティ、出ろ」

 「面会があるなんて聞いていないが……」

 「囚人である貴様に事前連絡など必要ない」

 「ごもっとも」

 看守に引っ立てられて面会室へと連行される。今このタイミングで、いや、別に今でなくても収監されたジェイルに会いに来る人間など限られている。

 「テスタロッサのお嬢様は今度は何を話せとおっしゃるのやら」

 「つべこべ言わずに歩け」

 まあ自分には関わりの無いことだとさっさと思考を放棄し、稀代の大犯罪者は半ば腐れ縁となった執務官が待つ部屋へと赴くのだった。










 始まりがあれば終わりがある。それは世の常、覆すことの出来ない理である。どんな大火もやがては消えるように、雄大な河川の流れも海に届くように、全ての事柄には等しく終わりが訪れる。

 「目覚めろ、“13番目”。終わりの時が来た」

 何者かが己を呼ぶ声を聞いて「トレーゼ」は予期せぬ目覚めを受け入れた。そして覚醒した場所が「記憶」にない場所であることが静かな混乱を呼んだ。

 「ここは……」

 「これからお前が『終わる』場所。そして同時に、『始まる』場所だ」

 眼前に立ち塞がるのは誰だ。フードを目深に被っていて顔は分からない。

 敵か? そうだ、敵だ。自分はこんな奴は「知らない」し、どうしてこんな奴がここにいるのか「理解」できない。

 そんな奴は敵に決まっているだろう?

 「きさまは、なんだ?」

 「何だとは粗末な聞き方だな。本当は解っているはずだ、自分の前にいるのが何者なのかぐらいな」

 「きさまが、なにを、いっているのか……理解不能」

 「だろうよ。お前は一生、知らぬ知らぬと耳を閉じ、口を噤み、かかしのように頭を振りながら生きていけ。その方がずっとお似合いだ」

 この男が何を言っているのか分からないが、一方的な言葉を耳にしていて湧き上がるこの感覚は何だ? この自分が眼前の男を「不快」に感じているとでも言うのか?

 「おれには、役目がある……。貴様に、構っている、時間は無い」

 「奇遇だな、俺もだよ。だから……ここで終われ!」

 男が動いた瞬間、「トレーゼ」も同時に動いていた。

 幸いにも手元には己の専用武装として与えられたデバイスがあり、十数年のブランクなど感じさせず迅速に起動した。まるで誰かに念入りにメンテナンスを受けたかのように快調な相棒を斧に似た武装に変形させ、顔の見えない「敵」を粉砕せんと振り下ろされる。

 その一撃に心はない。邪魔だから殺す、攻撃に込められた意志はそれっきりであり、他に不純な一切を含んでいない。徹頭徹尾、機械の如き所作であり、それ以上の意味を見出すのは繰り出した本人でさえ放棄している。

 だからこそ、渾身の一撃が弾き返された時、「トレーゼ」は決して小さくない驚愕を覚えた。油断したつもりは微塵もなく、足元の虫を叩き潰すのですら全力を出すように「教えられた」ゆえに、今の一撃は人体を容易く破壊して余りあるものだったはずだ。

 「…………」

 「何を呆けている。自分がこの世で最強とでも錯覚していたか? 己の攻撃を防げる者など存在しないと、その小さな脳髄のみみっちい処理速度で妄想していたか? だとすればお笑いだな、お前の力はどこにも届きはしない。どこにもな」

 影法師が悠然と迫る。未だに意図すら不明なその敵を前に「トレーゼ」は……

 「っ!」

 一歩退いていた。ただ不快なだけなら決してしないはずの後退……それは即ち、この正体不明の輩に対して無自覚であっても恐怖を覚えたということ。己の持つ実力では敵わないと悟ってしまったが故の本能的な忌避感情の表れ、それが彼の足を後ろへと追いやっていた。

 そしてその動揺をこの男は目聡く察知する。

 「どうした、何故後退する必要がある。お前は眼前に立ち塞がる敵を叩き潰すように教えられたはずだ。来いよ、ここにいる不快で意味が分からない、理解不能な『敵』を消し潰して見せろよ」

 あからさまな挑発、普段なら応えないはずのないそれに対してさえ「トレーゼ」の足は前進を試みない。間違いなく今の彼の心は「生まれて初めて」感じる恐怖の感情に総身を支配されつつあった。

 「ッ、マキナ!!」

 相手の間合いに呑まれる寸前に背後に飛び退き、マキナを銃火器に変形させ遠距離から削る作戦に変える。防壁を貫き、岩盤を砕く威力を秘めた魔力の弾丸が雨霰と散弾の如く降り注ぎ、敵はその真っ只中に位置することになった。アリ一匹とて生きていられないその絶滅空間に放り出すことに成功した「トレーゼ」は一瞬勝ちを確信したが……。

 「どうした、その程度か?」

 無傷。弾丸は間違いなくその肉を抉り骨を砕き、内臓を破壊せしめた。それが低く見積もって数十発、生存可能な生物など存在しないはずだった。

 いや、そもそもこいつは生物か? ヒトの形をしたもっと別のナニカ、人智の先を目指して創られた己を遥かに凌駕する、異界の魔物ではないのか。

 尽きぬ疑念に放つ死線が鈍る。ただでさえ死なずを体現する相手に対し、こちらが取れる策は「絶えず致命撃を与え続ける」という攻めの一手。頭を砕き、心臓を抉り、脊髄を切断する、どれか一つでも物理的に欠ければ致命どころか死を突きつけられる、そんな箇所を連続して叩き続ける。

 十の殺し方を十回叩き込み、更にそれを百繰り返し、常人を千は殺せる域に達する。もしこれを人間に対して行えば、全工程を終える頃には赤い塗料に変わり果てているだろう連続した猛攻は、確実に敵の五体を微塵に消し潰していき……。

 「もう終わりか……」

 「……ッ!!」

 潰した足が、ちぎれた腕が、粉々になっていた脳髄が、飛び散った臓物と血液の入り混じった物をかき集めて再び形を成す。

 これはなんだ、悪夢か。ひょっとして自分はまだ目覚めておらず、あの狭苦しい培養槽の中で未だに夢を見続けているだけなのか。何故こんな理不尽を味わう羽目になったのか。

 「狼狽えるな。今お前が見ているのは、『可能性』だ。誰もが俺のようになれるし、なってしまうこともある。それを肝に銘じ、そして忘れるな。例えこれからお前が全てを失うことになろうとも、脳髄の奥、もし心という場所があるのなら刻み込め、忘れることは許さない」

 現実逃避の兆候さえ見え始める「トレーゼ」に対し、男は終始冷静に諭すように語りかける。この男が何を言っているのかはまるで分からないが、何故か耳を傾け聞き入ってしまう。そしてその思考的余裕が恐怖に支配されかけていた心身を解放し、「トレーゼ」に初めて疑問を抱かせたのだった。

 「……貴様は、何が目的で、俺を……」

 「お友達になりにきた、とでも言えば納得するのか? 分かりきった事を聞いてどうする。お前を『殺し』に来たんだよ。お前が歩んできたこれまでの生を否定し、誤植を消しゴムで消すように修正する為に俺はここにいる。お前がこれから起こすであろう行いは世界に歪みしか与えない。はっきり言って害悪なんだよ」

 「害悪? 俺は、命じられたままに、動くだけ……。それが、俺に、課せられた、任務」

 「誰もお前にそんな事は望んでいない。所詮、手前勝手な自己解釈に押し込めただけの我欲の発露だと何故気付かない。お前には芯が無いんだよ。だからこそ、その『芯』をこれから俺が埋め込んでやろうと言うのだ」

 「貴様が、トーレの教えを、塗りつぶすと、でも?」

 「そうだと言っている」

 「ふざけるなよ、塵が!」

 心身を拘束する恐怖を上回るのは憤怒、この世で唯一人敬愛する者を明白に穢されたことへの激しい怒りだった。突き動かされる熱に従順に従った肉体はそれまでの恐怖の縛りを忘れたように跳ね上がり、何の搦手も用いず全ての膂力を拳に乗せて放つという、野蛮を通り越しもはや原始的とすら形容できる一撃は確かに敵の胸を深く穿った。

 「貴様が、何者か、知らないし、知りたくもないが……貴様が、後々俺達にとって、無視できない、障害になることだけは、理解した。故に貴様は、この俺が全霊を賭して、ここで必ず排除する!!」

 「少しはサマになったか。曲がりなりにも芯が見える」

 だが、と前置きしながら男の手は「トレーゼ」の拳を無造作に引き抜く。

 「それでもお前は『死なねば』ならない。それだけがお前に許された未来だ」

 「っ!!」

 「歯を食いしばれよ」

 瞬間、脳天が揺らぐ衝撃と共に体は天に舞い上がる。本職のボクサーでさえ有無を言わさず意識を刈り取る鋭さを持ったアッパーをまともに喰らい、「トレーゼ」の意識も一瞬混迷する、だがそこは戦闘機人、強靭な肉体は水際でその衝撃に耐えて見せた。

 そしてそれが彼の最大の不幸だった。

 態勢を整える暇さえ無く与えられる第二撃は、背骨をへし折るような蹴り上げ。初撃で既に地面を離れていた体はその二撃目で更に大地を離れ、弓なりに曲がった体は肺の空気を余さず搾り出し、呻き声を上げる事すら許さなかった。

 トドメの三撃目は跳ね上がった顔面を横殴りに襲う拳一発。受けた衝撃は慣性の法則そのままに、地面と水平に吹っ飛ぶ体は重力の在り処を星の外部に求めている錯覚すら覚えさせた。

 時間にして僅か三秒、飛翔していた時間はたったそれだけだが常人より遥かに重い体重を抱える体がそれだけの間飛び続けたということは、単純にそれだけ受けた衝撃が大きかったということ。そしてその源である強烈な拳を受けた顔は一瞬大きくひしゃげ、口内から固い欠片が拍子に飛び出す。

 しかし、ただ一方的にやられているばかりではない。着地と同時にバネ仕掛けのように跳躍し、一気に敵との距離を縮める。

 「シィ──ッ!!」

 確かに敵の攻撃はその一撃一撃がこちらにとっての必殺と同義だ。バカ正直に正面から相手をしていては身がもたない。攻撃力で劣るならば機動力でカバーする、常に跳躍を絶やさずヒット・アンド・アウェイで攻め続ける。呼吸する隙すら与えず叩き込む怒涛の連撃は先ほどより勢いを増し、周囲には拳と蹴りが風を切る音しか聞こえなかった。

 「お前は何のために拳を振るう? 何の努力もせず、降って湧いたような力だけを拠り所にして、そのくせお前自身は何の明確な目的も持たずただ流されるだけ」

 「目的なら、ある! 旧くなった、創造主を下し、俺が新たな、スカリエッティとなる!」

 「それに何の意味がある。ただ闇雲に己の尺度で他を秤にかけ、手前勝手な都合でそれを断罪する。まるで……いや、ガキだよお前は。とっくの昔に成長することを止めてしまった哀れなガキだよ」

 「うるさい!!」

 どうせ再生すると分かっているがこれ以上こいつの戯言を聞いていたくない、その怒りのままに拳は敵の顔面を破壊し……。

 「馬鹿だよ、お前」

 「ぐっ、ギャァアァ!!?」

 全ての意識が目の前の敵に向いていたからこそ、背後からの攻撃をもろに受けてしまう。背骨を通り過ぎた衝撃が肋を折る感触に呻きながら見上げると、そこには二人目の敵がいた。

 「……化け物がァ!」

 「どうした、何を驚いている。そんなに珍しいか……たかが二つに分裂した程度で大げさな」

 「応とも。だらしがないぞ」

 含み笑うは二人の影法師。いつの間に分身を作っていたのか、爛々と紅く光る四つの眼が「トレーゼ」を見下ろしていた。その趨勢は今、否、始まった瞬間から既に決していたのだ。

 「お前は弱い」

 「お前は遅い」

 「お前は小さい」

 「お前は足りない」

 「「お前は……何も出来やしない」」

 無遠慮に投げつけられる言葉の数々に自信が失せ、心が折れかける。

 ……いや、そもそも、自分の自信なんてのがどこから去来していた? 戦ったことなど今これが初めてで、その実誰も殺したことのない己が何を誇っていられたのか。何が自分を支えていたのか、それさえよくよく考えれば何も思い当たらない。

 そこでようやく気づく……己に何の実も伴っていないと。叩き潰され無様に地べたに這いつくばって初めて気付かされる事実に、「トレーゼ」はただただ悔しさに四肢を震わせていた。彼は初めて己の弱さを自覚するに至ったのである。

 「理解したか。ならばその震えを五体に刻み、そして忘れるな。それこそがお前をお前足らしめ、突き動かす原動力になるのだ」

 「っぐ……!!」

 「覚えておけ、その悔しさが小さきお前を生かすのだ。例え記憶から消え去っても、その奥底、人が魂と呼ぶ部分で覚えておけ」

 後頭部の髪を掴み上げながら無理矢理に立たせる。もはや両者の立ち場は完全に定まった、もう「トレーゼ」はこの男に勝てない、この男はそんな矮小な概念で測れる地点を遥か彼方に置き去りにしたところにいる。

 「誇れ! これからお前を縛る枷は無くなる! お前は真に自由を手にするのだ!!」

 男がようやくフードを取り去る。

 白磁の肌に猛禽を思わせるような鋭い視線……髪と瞳の色こそ異なっているが、ああ、その顔は……

 「俺……か?」

 「いいや、違う。お前はお前だ。お前は俺ではないし、俺もお前ではない。お前はお前、もう俺とお前を繋ぐものはこの世のどこにも無い」

 額を覆うように手が伸びる。殴り合いの時には全く気付かなかったが、瓜二つの「己」の手は自分と違いどこか温かみを帯びていた。自分にはない温かさ、十年以上も眠っていた自分がとっくの昔に無くしてしまっていたそれを、自分とは違う「己」が持ち得ている。何故自分はそれを持っていないのか。

 「俺も……お前のように、強く……」

 「なれるさ。俺の『ように』ではなく、俺とは違う強さをな」

 額を覆う掌が熱を帯びるが、不思議と生命の危機を感じる熱さではない。網膜を通じて直接流し込まれる紅い光は脳に収められた情報を破壊するものだが、その実態とは裏腹にどこまでも穏やかで安心感すら覚えるほどだった。それと同時に、空っぽの器の内側にこびり付いていた何かが剥がれ落ちる

 「ああ……」

 体が軽い。眠っていた時とは違う、浮き上がるような感覚。己を構成する余分なモノが分離していく感覚に、「トレーゼ」はいつしか完全に身を任せていた。

 徐々に気も遠くなる。薄れゆく意識の中で最後に聞こえたのは、己とは違う「己」による祝福の言葉だった。

 「さらばだ、何者でもないトレーゼ。お前が切り開くこれからの未来に、幸多からんことを」



 こうして、「トレーゼ・スカリエッティ」はこの世から消え去った。後に残ったのは名も無き少年。これから先の未来を生きる、ただの人間だった。



 全てが終わった。これでようやく自分が抱え込んでいた負の因果は見事にこの世界から消え去ったのだ。

 トレーゼが消したのは、この時代の「トレーゼ」に植え付けられていた記憶。F.A.T.E.の技術で複製、転写されたオリジナルのトレーゼが持っていた記憶をその脳から完全に消した。

 記憶を司る脳細胞部分を破壊したのだ。次に目覚める時、彼は自分の名前すら分からなくなっているだろう。そうすることで「トレーゼ」は過去の妄執から解き放たれ、かつての時間軸で“13番目”と呼ばれる狂人が誕生することはなくなった。

 初めはその誕生まで遡り抹消することも考えた。だがそれをしてしまえば、生まれてくるはずのナンバーズもこの世から消失し、後の世に現れるはずだった機動六課にどんな影響を及ぼすかわからなかった。これは己一人の責任、罪科を背負うのは自分だけに留めておきたかった。

 『貴方は初めからこれが目的だったのですか?』

 「俺は罪を償うと同時に、そこに救いを求めてもいた。馬鹿な話だ、許しを乞うのに対価を要求していたなどと」

 『ですが、それが人間の在るべき姿と私は考えます』

 「そうだな……そう思うよ、俺の唯一の友よ」

 黒いデバイス、かつて己の愛機でもあったそれに語りかける。この時代のマキナがトレーゼの真意など知る由も無いはずなのだが、不思議と両者の心は通じ合っていた。だからこそ、この次に言わんとしていることがわかる。

 「俺はお前も救いたかった。だが、お前はそれを求めてはいないのだな」

 『私は“トレーゼ”の補佐をする為に存在していました。貴方がナンバーズの“トレーゼ”を消した今、私が補佐すべき者は存在しない。私に課せられていた任務は今終わりを迎えたのです』

 「どうするつもりだ?」

 『もう彼に私という異物は必要ない。私という存在がいる限り彼はいつ何時“トレーゼ”に戻ってしまうか分からない。それは貴方にとっても本意ではないでしょう』

 「つまり……」

 『私もまた彼と同じ末路を行きたい。私の中に蓄積された過去の遺物を全て洗い落としたく思う』

 それはつまり、システムの再構築、内部のデータ全てを破棄するフォーマットを行えということ。それをすれば最後、マキナの中の過去に関する記録すべてが修復不可能になるという事なのだ。

 「……分かった。責任を持って遂行しよう」

 『ありがとう。それともう一つ……彼の名前だけは、残しておいてほしいのです』

 「何故だ?」

 『これから先孤独を生きるかも知れない彼にとって、自分の名は唯一の寄る辺。例え自分に与えられた名前を知っていても、そこに課せられた運命までついて回るわけではない。彼の姉達も、そうさせるつもりはないはずです』

 「分かった。お前のデータに奴の名前だけは残しておく。あいつの名は『トレーゼ』、何者でもないただの『トレーゼ』だ」

 デバイスのデータベースを開き、内部のフォーマット機能の起動確認が表示される。ここを押しさえすれば、数分後には人工知能を含め全ての設定と記録が初期化された、ただのインテリジェントデバイスが残る。それはAIにとっての死なのかも知れないが、怒りに任せて投げ打ったかつてと違い、今度の別れをトレーゼは清々しく送り出せそうだった。

 『貴方はどうするのですか?』

 「俺もいずれ後を追う。もし楽園というものがあるのなら、一足先に行って待っている。もうこの世界に俺の居場所など無くてもいいんだ」

 『そうですか。なら、ご機嫌よう、トレーゼ』

 「ああ。さようなら、マキナ」

 フォーマット実行の許可を出し、デバイスが全ての機能を停止させた。これでこの場に「過去」を知る者は一人も居なくなった。因果は完全に断たれたのである。

 最後に残った男もまた、己の最期を迎えようと再びさすらい、何処へと姿を消した。

 後に残ったのは、己の名も忘れた少年。そしてその少年に名を与えてくれる、冷たくも無二の友人の二人だけだった。










 原因が有り、過程を経て、結果に至る。その流れを指して、人これを「因果」と呼ぶ。

 誕生があるから死滅があるように、全ての物事には必ず終わりが訪れる、それを恐ろしいと捉えるか、神聖なものと考えるかは人それぞれだが、始まりから終わりに向かって流れ行くのは自然の摂理そのものである。

 「俺はそれに逆らった……当然の報いだ」

 自嘲の笑みを浮かべながら、トレーゼは己の両手を凝視する。

 陽光を反射して飛び込んでくる景色。しかしその網膜情報は、何故か今まさに眼前にかざしている己の手を透かして見えているのだ。肉も無ければ骨も見えず、末端の指先から少しずつだが色が抜け落ちるように、己という存在そのものが薄れていくのだ。

 自分は今、過去の己を「殺した」。彼が後々までその行動原理としていた過去の記憶、それを根こそぎ消去した今、ここにいるトレーゼとこの時代のトレーゼは決してイコールで結ばれることはない。この時代の彼が管理局襲撃を行うことも、ジェイル・スカリエッティ殺害を企てることも、蒼い彼女を連れて逃避行に及ぶことも、もう有り得ないのだ。

 結果、因果律から完全に外れた存在となったこのトレーゼはどうなるか。

 水に投じられた砂糖は消えてなくなるように、世界という器を満たす時空に紛れた異物として魔人トレーゼは溶けて消えるしかない。

 正確にどうなるかなど知らないが、少なくとも実数が支配するこの次元にはいられないだろう。過去も現在も未来も、時間という概念がそもそも無く、物質と精神の境界が破壊され、誰にも見えず、触れ得ず、感じ取れない、観測不可能な無限小のゼロ次元……きっとそんなところへ行くのだろう。

 このトレーゼという存在は最初から存在しなかったモノとして処理される。残した痕跡は必然偶然問わず他の誰かがやったものとして世界に定着し、全ての因果が改竄され新たな整合性を与えられる。誰も矛盾を感じることもなく、世界は穏やかに流れていくだろう。

 もう腕と脚は完全に消え、残すところ胴体と首から上だけになった。今自分が立っているのか座っているのか、それとも浮遊しているのか、それすら分からない。だが不思議と恐怖は無く、むしろ身を委ねる余裕すらあった。自分の行く先が楽園でも地獄でもなく、ただの無であることを知りながら、今更さざ波立つこともない。

 不意に、視界が光り輝く。それは物理的な発光ではなく、世界に溶け出し同化する己の知覚がそれを光と認識しているだけだ。こことは違う別次元に満ちる物理現象がトレーゼを迎え入れようとする。

 「ああ……」

 光に手を伸ばす。手なんかとっくに消え果てているが、それでも分かる。この血にまみれ、求める全てを取り逃がし続けた惨めな己の手が、今初めて追い求めたものに触れようとしているのだと。

 もう少し。あと少し。

 光に向かってひたすら歩き続けた日々よ、今……。



 「──よかった」



 その手はやっと、光を掴めた。










 一人の男が消えた。その事を知る者はいない。誰も気づかず、思い出さず、覚えてなどいないから。

 だが何事にも例外というのは存在していた。

 「……ジェイル・スカリエッティ?」

 「ん……ああ、失礼。少しぼうっとしていたようだ。時間も押している、話を続けようか」

 「あなた、なぜ……」

 「うん?」

 顔に何か付いているのかとアクリルの反射を鏡に確認すると。

 「これはまた、珍しいこともあるものだ」

 この男は稀代の大犯罪者、人の心を忘れ去ったと言われていたはずの存在。その彼の頬を濡らすのは涙。肩を震わせるでも嗚咽を上げるでもなく、ただ静かにジェイル・スカリエッティは涙を流していた。今こうして指摘されるまで自分でも気付いていなかった。

 「なぜ泣いているの」

 「そうだな。何も悲しい事など無いはずなのに、不思議なものだ。だが分かる気もする。私が何に対し、誰の為に涙するのか」

 「……?」

 「ああ、そうだ、これは『悔し涙』というものなのか。初めてだよ、自分以外の誰かをここまで羨み、そしてその域に達しない我が身の非力を悔やんだのは。そうか……君は君の為すべきと思った事を実現できたのだね」

 ふと浮かび上がるビジョンは息子とも言える彼の姿。何の示し合わせもなく、ジェイルは遠くで息子が成したことを知り、そしてその末路を知り得たのである。

 狂気の天才は生まれて初めて何の邪念も無く他人を賞賛し、そしてその物語に祝福を贈った。

 「おめでとう。出来れば私も……君と同じ所に行ってみたかったなぁ」

 “欲望”の銘を与えられた彼が唯一に持ち得ない感情。全てを喰らい尽くすが如く貪欲に求める故に、その心は「満ち足りる」ということを知らない。この先何があっても自分がその境地に到達することがない事を、この天才は自覚し、それと同時に自分を差し置いてその先へと行ってしまった継嗣に嫉妬したのだ。

 だが子の成長を寿ぐのは親の義務。嫉妬や悔しさはあれど、その生き様を否定するような無粋な真似はしない。

 「エリカ、私の親友……。君も感じただろう。私達の子が今、逝ってしまったよ」










 「…………」

 「博士? フローリアン博士?」

 「……あ、ごめんなさい」

 「お疲れでしたら一度仮眠室へ行かれては?」

 「いえ、私は…………そうね、そうするわ」

 フラフラとした足取りで研究室を後にするエリカ。頭を押さえる右手の指から僅かに覗く視界が震える。

 「ああ、そんな……」

 ジェイルが感じ取ったのと同じものを、遠く離れたエリカもまた感じていた。自分達の息子がその望みを完遂したのだと。そして彼がもう自分達の手の届かない遠くへと行ってしまったのだと。

 親より先に逝ってしまう子がいるものか、そう言って叱りつけたかった。だがそれはもう叶わない夢だ。

 今はただ何より喪失感だけが胸にある。我が子を失ってしまった悲しみだけが胸を埋め尽くすのだ。

 「あなたは……それで後悔はないのね」

 しかし、いつまでも悲しみに暮れることは出来ない。息子は誰にも出来ないことをやってのけたのだ。なら親として出来るのは、それを褒めることだ。

 「えらいわね、頑張ったわね…………おやすみなさい」

 今は眠れ、愛しい我が子。いつか自分がそこへ行く日、その物語を聞かせておくれ。










 感じ取ったのは異なる時空にいた者も同じだった。

 「ねえ、今さ……」

 「私も感じました」

 「うむ。何だろうな。妙に懐かしく、それでいて哀愁を誘うこの感覚は」

 「…………」

 時間という大いなる壁を隔てた向こう側に存在する未来のエルトリアでは、かつて魔人の薫陶を受けた四人の少女が空を見上げていた。

 機人の姉妹に連れられてしばらく経ったこの時間軸、紫天の書に記されている神代の魔法を行使し、その他試行錯誤を繰り返しながら汚れた大地はようやく復興の兆しを見せ始めた。少女達もまた、己の為すべきことを成し遂げた成功者だった。

 「不可思議なことがあるものだ。こことは違うどこかで、我らの同類が消えてしまったのか……」

 「闇の書の眷属など私達以外に残っているはずはないのに」

 「うーん、どうしても気になるんだったらさ! この仕事が終わった後にちょっと行ってみないかい、ボクらと同じ闇の波動を持つ者がいた時代に!」

 「はい……!」

 四人は誓う。きっとこの星を清く美しい世界に生まれ変わらせることが出来た時、きっと迎えに行くと。

 もうこの世のどこにも居ないのかもしれないが、それでもその意志を継いだ何者かがいると信じて……少女達は明日を生きる。










 一人の男がいた。

 男は強かった。体が、心が、その在り方が。他の誰も寄せ付けないほど強かった。

 過ぎた力は自己の驕りを生み、他者の誤解を招き、真実をその巨大な影に覆い隠した。

 自分に手を差し伸べてくれた誰かを切り捨てた。その内誰もが彼から遠ざかっていった。

 求めた物がすぐ足元にあることに気づかず、男はそれを踏み潰した。気付いた時には壊れていた。

 もう終わりだと深く絶望した。闇の中で静かに沈むのを待った。

 だが、光で照らしてくれた誰かがいた。希望が見える世界まで引き上げてくれた誰かがいた。

 自分を慕ってくれた誰かがいた。こんなどん底の自分を仰ぎ見てくれる誰かがいた。

 自分に生きる意味を与えてくれた誰かがいた。望まれてこの世にいるのだと教えてくれた誰かがいた。

 たくさんの誰か達のおかげで、男はやっと自分の歩く道を見つけることが出来た。

 歩いて……歩いて……。

 男はやっと、辿り着いたのだ。



 ここから先は、お前の道だ。



 どこにでもいて、どこにもいない。昨日も、今日も、明日も、その先のずっと未来にも、永遠に消えてしまった男の最後の言葉。

 その言葉はここではない「どこか」を行き、今ではない「いつか」に生きる、そんな誰かに送ったもの。

 それは確かに、届いたのだ。



[17818] 終章  ←New
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:fd07c89c
Date: 2015/07/17 01:19
 時は流れ、新暦82年。ミッドチルダ地上本部、とある演習場にて──。



 「よーしっ! 今日の訓練はこれで終わりだ! 次までに今日注意した部分キッチリ見直しとけよ、じゃあ解散!!」

 「あ、ありがとうございました!!」

 早朝から続いた上官のしごき訓練が今終わり、緊張が解けた途端に押し寄せる疲労でへたり込む男女三人。

 「相変わらず、ヴィータさんの特訓はきっついよねぇ……。もう一年経つけど全然慣れる気がしない」

 「俺は八神司令の方がずっと怖いよ。そっか、もう一年か。早いもんだよな」

 「そうだねー」

 水分を補給しながらトーマ、リリィ、アイシスの三人は感慨深げに空を見上げながら過去に思いを馳せる。

 J・S事件以来の混乱と呼ばれていたエクリプス事件は一応の解決を見た。フッケバインとの抗争や、グレンデルの横槍、裏で糸を引いていたヴァンデイン・コーポレーションの思惑など様々な因縁があったが、特務六課や当事者であるトーマの活躍などもあり既に過去の出来事になろうとしている。

 だが未だにエクリプスの影や残り火の気配はあり、ハーディスの研究で生まれたECドライバーの摘発も全てが完了したとは言い切れない。特務六課の仕事は他の機動部隊に引き継がれたが、事の発端としての自覚があるトーマとリリィはそのまま管理局に残り、一蓮托生の仲となったアイシスもまた残ることを決意したのだった。

 「ていうか、実家の方はいいのか?」

 「だーかーら、前も言ったでしょ。社会見学がてら修行を積んで来いって言われちゃってんの。司令のお墨付きもらわないと、帰ったところで追い返されちゃうって。まあ、別にその方が都合がイイんだけどさ」

 「さすがセキュリティ会社、実の娘にも容赦ないな」

 「トーマはどうなの? ほら、一段落したらナカジマさんとこの養子に、って話」

 「あー、そのことなんだけどさ、今んとこ保留中。ゲンヤさんには悪いけれど、このまま独り立ちもアリかなって考えてる」

 冷たい水が五臓六腑に染み渡るのを感じながら、トーマは白髪頭のナカジマ家の家長を思い浮かべた。彼が自分の子供にならないか、家族にならないかと言ってくれた時の嬉しさを忘れたことはない。どこの馬の骨とも知れない天涯孤独の自分を家族同然に接してくれたことは、今でもトーマ・アヴェニールの人生の中で輝かしい記憶である。

 「そっかー、ついにスバルさん相手に逆玉狙いかぁ~」

 「違う! そういう意味じゃないから! スゥちゃんとはそんな関係じゃない!」

 「そこまで必死に否定しなくても。じゃあ、何で?」

 「何ていうか、はっきりとした言葉とかじゃ言いにくいんだけど……」

 頬を掻きながら呟くように話すトーマに、少女二人は無言で次の言葉を待った。

 「この一年、色んなことがあった。最初はただの偶然で、次は復讐心。自分の因縁にケリをつけたくてリリィと一緒に、途中でアイシスも加わって、どこに終着点があるかも分からない旅に二人を巻き込んでた」

 「そんなこと……」

 「二人には悪いと思ってる。俺が後先考えないせいで突っ走ったりして危険な目に合わせたり、六課に入ってからでも実力不足で足引っ張ったりしてた」

 「だから、そんなことっ!」

 「でも楽しかった! 辛いこと、悲しいこと、訳わかんなくて投げ出しそうになったりしたこともあったけど、全部引っ括めて二人と過ごせた時間は楽しかった」

 「トーマ……」

 「だから気付けた。自分で自分を分かってない部分もあるって事を。八神司令や高町一尉は無茶するなって言うけど、何が無茶でどこまでが自分の限界か知りたい、知っておかなきゃならない。だから、俺はもう少し一人で頑張ってみたいんだ」

 「それが、ナカジマさんの子供にならない理由なの?」

 「いつまでもガキのままじゃダメなんだ。父さんも母さんもいないけど、出来るなら俺は『アヴェニール』の姓を持って大人になりたいと思ってる。それが今の俺の嘘偽りない気持ちなんだ」

 「だったらイイんじゃない。私はトーマの考え、イイと思うな」

 「ありがとう、リリィ。でも俺はまだ未熟で弱いから、出来れば二人にはこれからも時々俺の支えになって欲しいとも思ってる」

 「あんた、そーゆーことを真顔で言うかな……」

 「?」

 「あー、はいはい! このアイシスさんに任せときなさい! 食べるのに困ったら実家の仕事手伝わせてあげてもいいんだから」

 過去は消せない。だが未来の足枷にせず切り離すことは出来る。

 少年トーマはそれを可能とした。もう彼の生きる目標は過去にはない、ここで得た仲間達と共に彼は今を生き、未来に向かって進むことが出来るのだ。










 「いやー、青春だな」

 「年寄りくさいこと言わないでください。何に影響されたんですか」

 演習場の沿道を過ぎるのはティアナとヴァイス。かつて機動六課があった時代、ヴァイスは後方からの支援、ティアナはスターズとして前線で活躍していた。ヴィータのしごきも今となっては懐かしい思い出だ。

 「そう言うお前もこんなトコで俺と油売ってて良いのか? デスクワークとか残ってんだろ」

 「ご心配なく。私はフェイトさんの補佐ですから、自分の分の書類整理と処分はもう済ませてあります」

 「あの努力家で勤勉で、面倒な仕事は進んでこなすランスター二等陸士が、変われば変わるもんだなぁ」

 「人聞きの悪いこと言わないでください。こう見えて三徹明けなんですから……」

 「おいおい、だったら余計にダメだろ。俺なんかと駄弁ってないで、さっさと仮眠室行って休んでこいって! あっ! だから今日ヤケに化粧濃いな……ってぐふぉ!?」

 「冗談でもレディにそんなこと言うなっ!!」

 渾身の鳩尾パンチを受けて前屈みになるヴァイス。だが、彼が口にしたことに偽りはない。初めて射撃のコツを教えた時が昨日のことのように思い出せるが、あの頃に比べて今のティアナは角が取れたというべきか、全体的に余裕を持てるようになったと思う。優等生ゆえの自分に対する過度な追い込み癖も今は鳴りを潜め、かつての恩師と同じように後進を導いていると聞く。

 「ほんと、変われば変わるんだよな」

 「当たり前ですよ。あれから何年経ってると……」

 「六年だよな。六年……ヒヨっ子だったお前ももう22で、俺なんか晴れて三十路だぜ? 自分じゃまだまだ若いつもりだが、そろそろ乗った脂も落ち始める頃合だ。たまに会う妹の視線が痛いぜ、『兄さんはいつになったら落ち着いてくれるのかしら』ってな」

 「それ、八割方ヴァイスさんのせいだと思います」

 ここだけの話、執務官になった辺りからティアナはヴァイスの妹、ラグナに対し苦手意識を感じていた。別に嫌ってはいないし、お互いに親しい方だ。むしろ親しすぎるくらいだ。だからなのか、今でも言葉を交わす度に聞かれるのだ、『兄とはどこまで進んでますか』と。

 (別にまだそういう関係じゃないんだけどなぁ……)

 これまでも時折会っては映画や夕食を共にし、たまにツーリングを行う仲だった。六課再編に伴いかつての仲間と出会うようになり、必然的に接する機会が増えた今、お互いに一番仲の良い異性に名前が挙がる存在になった。だがぶっちゃけそこ止まりで、好いた好かれたとか、惚れた腫れたという浮ついた噂が出ないあたり、この二人のサバサバとした関係を表している。

 (まあ、別に……今更何かを期待してるわけじゃないけど)

 何年経っても変わらない関係というのも、それはそれで良いものだ。

 だが、どうもこの男はこちらの心中を察してくれないらしい。

 「そうだ! お前さ、次まとまった休み取るのいつだ?」

 「へ? このヤマが片付けば溜まってた有給を消化するよう八神さんに……」

 「だったら、俺も同じタイミングで有給申請するから、一緒にバカンスにでも行こうぜ!」

 「はいはい…………はい?」

 「決まりだな! あぁ、宿泊とか移動の予約は任しといてくれ。お前は普段働きすぎだからな、こういう時は男の俺がぱぱっとやっといてやるよ」

 「あ、はぁ、どうも。……じゃなくって! えっ!? なん、どうして? シ、シグナムさんはどうしたんですか!?」

 「は? 何でここで姐さんが出てくるかちょいと分からねぇんだけど?」

 「~~っ!!」

 真顔で本当に不思議そうに言ってのけるヴァイスの言葉に、ティアナはこめかみを指の腹で押さえる。

 これは、つまりその、「そういうこと」と受け取っていいのだろうか。いやこれでもし勘違いだったりしたら、ただのイタい年下女みたいになってしまう、それだけは何としても避けたい。

 「……二人きり、ですか?」

 「そうだぜ」

 「アルトさんとか同僚の皆さんとか、その……ラグナちゃんとかは……」

 「来ねえな。アルトは最近ゲットしたらしい職場の誰かとお熱だそうだし、ラグナは大学のゼミとかで忙しいらしいし」

 「…………」

 「一緒の方がよかったか?」

 「いえ! 大丈夫です! 行き先はっ!?」

 「う、海を予定して……」

 「日焼け止めってストアにありましたよね!? 買ってきます!!」

 「お、おう。また後でな」

 傍から見て走っているようにしか見えない小走りで遠ざかっていくティアナを見送りながら、ヴァイスは何か気に障ることでも言ったかなと首を捻るだけだった。

 女の姓が男のそれに変わるのには、この後さらに二年を要するとは周囲はもちろん、この時は当の本人たちも予想していなかったことだった。










 「あっ! 言い忘れてたけど、私とユーノくん、結婚しました」

 「ブフーッ!!?」

 「ちょ!? はやて汚い!!」

 はやての口から黒い霧が吹き出る。正面にいたのが管理局最速のフェイトでなければ、今頃被害は目も当てられなかっただろう。

 「今朝の内に結婚届出してきたんだ。ちょっと緊張しちゃった」

 「『緊張しちゃった』、じゃないやろボケ! え、なんなん? 結婚やで、結婚! 何でそんな人生最大のイベントを『昨日はコンビニ弁当だったの』、みたくサラっと言うの!?」

 「いやぁ、フェイトちゃんは執務官の仕事でなかなか会えないし、はやてちゃんは私達の中で一番忙しいし、私事で報告することでも無いかなぁって……」

 「メールでええから事前に何か言うてくれてもええやんかぁ~。せやったら皆誘うて、呑めや歌えやのドンチャン騒ぎできたのにぃ~」

 「私は、やっとかぁって思う気持ちが強いな。なのはとユーノの付き合いって一番長いよね?」

 「うーん、私達が小学三年の時、フェイトちゃんとタッチの差だから……そっかぁ、あれからもう十七年かぁ」

 十七年、口にするとそれだけだが、あの時生まれた赤ん坊が高校二年生になるほどの年月が経っている。

 事実は小説よりも奇なり。あの頃は自分がこんな波瀾万丈に満ちた人生を踏み出す事になるなんて、それこそ夢にも思わなかったに違いない。そして、その時の絆が一生のものになるとも……。

 「何はともあれ、おめでとう、なのは」

 「まだ言い足りへんけど、十七年も迷走続けとった親友二人の祝いに野暮はなしや。おめでとうな」

 「ありがとう。って、別に迷走なんかしてないよ! そんなこと言ったら、はやてちゃんはどうなの? アコース査察官とは?」

 「はい? ロッサとは別に? なあ?」

 「はやての場合は本気で言ってるから困る」

 「私はどっちかって言うたら、フェイトちゃんのが心配やわ。三人の中で男っ気あらへんの、フェイトちゃんだけやで?」

 「私も別に今は興味ないし、まだ先でもいいかなって」

 「私らの中で一番枯れてんの、ひょっとしてフェイトちゃん?」

 「し、失礼なこと言わないで!」

 こういう話をするようになっただけでも、小学三年のあの頃とは大違いだ。

 取り敢えず他の皆には折を見て報告するということで落ち着いた。代わりに矛先が向いたのは、この年齢になっても未だに男の影が全く無いフェイトだった。

 「ええんか、フェイトちゃん。こんままやとエリオとキャロに先越されてしまうで~?」

 「そっ、そう言うのは二人にはまだ早いと思うんだけど!」

 「何言うてんねん、ミッドの恋愛年齢が地球より早いことなんて、それこそ十年前から分かってたやんか。二人がくっ付くんも時間の問題かもな~。いやぁ……もう案外とっくに『くっ付き』は経験しとるんかな~?」

 「はーやーてー?」

 「うそうそ、そんな睨まんといてぇな! だ、大丈夫やって! 男っ気あらへんのはフェイトちゃんだけやあらへんて!」

 「あのー、うちの愛弟子のプライベートをネタにするのはやめてほしいなーって思うんだ」

 「おや、私は別にスバルがモテへんとは一言も言うてへんよなぁ?」

 エクリプス事件が終わり、スバルは元の部署である湾岸防災課へと戻っていった。今もまた彼女は災害現場で助けを誰かのために戦っているのだろう。

 「そう言えば、今日は例のダウンタウンの一斉調査に応援で行くことになったって聞いたな。大丈夫かな?」

 「へーきへーき。あのスバルがそこら辺のチンピラやならず者相手に遅れを取るかいな」

 「油断は禁物だって口酸っぱくして教え込んでるから、まあ大丈夫とは思うんだけど……」

 「なんや、引っかかる言い方やな。言いたいこたぁ分かるけど」

 ただの調査なら、本来捜査官でもないスバルが駆り出される必要はない。彼女は言ってしまえば肉体労働専門で、調査など頭を使うのは苦手な部類だ。

 そんな彼女が防災課からクラナガンの繁華街に駆り出されるのか。

 「ストリートギャング問題、いよいよ無視できないレベルになってきたもんね」

 元々管理世界最大の都市であるクラナガンは内外共に人と物流が渦巻く坩堝である。政治や経済の中心であるのは言わずもがな、一旗揚げようと上京する者、人の流れに乗ろうと本社を移転する民間企業、それらがミッドチルダ全体、そして管理世界全体から押し寄せる。

 結果どうなるか。地球の先進国でも欧州の多民族国家などに顕著な移民問題や、より安価な労働力を欲しがる企業が外国人を優先的に雇用することにより生じる労働者問題が発生した。

 政策や法整備などである程度の改善はされたが、そもそも異国の地に働きに出た者の全てが真っ当な職に就けるとは限らず、外国人労働者に対する謂れなき誹謗中傷はそういった彼らも容赦なく攻撃した。更に近年はそこに住所不定の浮浪者も加わり、毎日日雇いの仕事を求めて繁華街の汚れ仕事を進んで行っている。

 だが、これらはまだ善良な方だ。

 「問題は、そこから『こじらせて』しまった人達。元々地元に定着したいたギャングや、地下に潜伏していた反社会勢力の構成員になったタイプ。これはもう摘発するしかなくなる」

 「一応は、人権団体とか議員さんがうるさく言うから、表向きは『調査』っちゅう名目で現地入りして、問題が起こり次第即摘発って形。せやけど、普段から地元の警察機関と小競り合いの絶えへんぐらい血の気のある連中や、界隈に足ぃ踏み入れたと同時に衝突があっても不思議でもないわ」

 ギャングは治安を乱し、反社会勢力はその名の如く。彼らを放置すれば社会そのものが破壊されてしまうのは、どの世界のどの国々を見ても明らかだ。

 保護はする、支援もする。だがあくまで現状の不満を暴力で訴えるのなら、公権力の裁きをもって然るべきだ。例えその原因の一端が政府の政策にあろうとも。

 「世知辛い世の中やなぁ」

 「仕方ないよね、世の中綺麗事だけじゃ回らないから」

 昼前の休憩時間、三人の管理局員の哀愁がカフェテラスに漂っていた。










 「緊張してるのかい?」

 「はい、少しだけ……。すみません、アコース捜査官」

 配置について少し経つが、スバルは誰が見てもわかるぐらい緊張していた。普段は海難事故や災害現場を職場にしているせいか、今回に限らず対人を想定した現場ではいつも緊張している。

 だが今回は白昼堂々、しかも繁華街という民間人の往来もある場所での大捕物、それなりの混乱も予測されるため緊張しないのがおかしいというものだ。

 「君とこうして同じ任務に就くのって、何気に初めての気がするね」

 「そう言えばそうですよね。たまに教会で顔を合わせる程度ですよね。セインたちは元気にしてますか?」

 「元気元気。シャッハに追い掛け回されるのはもう、教会本部の名物行事だよ。シャンテもいるんだから、二人とも少しは落ち着いて欲しいんだけどね」

 「あはは……」

 もうあの六女とシャッハの戦いは永遠に続きそうな気がする。ヴェロッサは後を継ぐシャンテの教育上、悪影響を及ぼすのではないかと懸念しているようだが、もう後の祭りだろう。

 「僕らの配置は繁華街といってもほとんど放棄された、廃棄都市区画に近い場所だ。経済成長で拡大したまでは良かったけど、作った規模と利益が見合わずにテナントは退去。内装の半分が手付かずで残ってて、そこを無断利用している人が後を絶たない」

 「その無断利用っていうのは?」

 「届出を出さず勝手に商売をやってたり、一棟丸ごと路上生活者のアパートになってたり、まあ色々と。悪質なのだと違法薬物や質量兵器の裏取引に使われてたりもする」

 「それを摘発するのが今回のお仕事」

 「ついでに路上生活者の取り締まりもね。彼ら自身は悪事を働いていなくても、法律がその全てを容認しているわけじゃない。線引きは必要だからね」

 浮浪者や路上生活者の問題はいつの時代、どこの国でもついて回る厄介事だ。それはこの管理世界トップの先進都市でも変わらないどころか、むしろ人が増えたことで他所より顕著になっている。

 だがそれとは別に気になることがスバルにはあった。

 「でも、それだけならどうして私まで? それに何だかここ……」

 周囲にぞろぞろと集結しつつある局員を見れば、その半数がデバイスを隠し持っている武装局員だった。中にはヴェロッサと同じ丸腰の者もいたが、彼らはデバイスの補助すら必要ない相当な実力者なのだろう。

 つまり、この場はどうも戦力が過剰なのだ。ブリーフィングでは過激派反社会勢力の存在も示唆されていたが、ヴェロッサの口ぶりからしてこのエリアに潜伏してはいない。精々が街のチンピラが集合して出来たギャングぐらいのはずだが……。

 「これは捜査部の秘密なんだけど……」

 ヴェロッサ曰く、捜査部は以前から反社会勢力が潜伏しているであろう場所をマークしていた。身を隠すには打って付けで、なおかつ繁華街という人間が集まりやすい立地、ここを活動拠点とするギャングなどがいないかを密かに調査していた。

 そして事件が起きた。

 「公にはなってないけど、潜入したうちの捜査官が数人返り討ちになって叩き出された。幸い重傷でもなく命に別状もなかったけど、そこそこ腕が立つはずの捜査官が同時にやられたとなると、捜査部としても無視できない」

 「そんなことが……!」

 「そして決定的だったのは、数日前にあったタレコミ。捜査官を攻撃した何者かがこの界隈に逃げ込んだという情報があった。これはそいつらを捕らえるための戦闘班なのさ」

 捜査官を返り討ちにするような相手となれば、修羅場を潜ってきたスバルが投入されるのも頷ける。

 そうこうしている内に作戦時間になった。結界が張られると同時に先行するスバル。そしてその背後からヴェロッサが続いた。










 ギャングというものは基本的に、一人の頂点を抱く独裁組織である。肥大化し多角化した非合法組織は一見複雑なシステムを構築しているように見えるが、実際は厳格なピラミッド社会であり、頂点に立つ一人のカリスマで持っている部分が強い。

 そしてその独裁体制はこの場所に置いても例外ではなかった。

 「…………」

 内装が殆ど残っていない廃ビルの一室で、積み上げられた瓦礫や廃材の山の上に座す一人の青年。手には分厚い辞書のような本を持ち、それを一定の間隔でめくり続けている。

 書かれている内容はこれっぽっちも理解していない。それは彼が無知だからではなく、紙面を埋め尽くす文字がミッドチルダ公用語とは明らかにかけ離れているからだ。

 他人の事情に首を突っ込まないのが暗黙のルールであるこの界隈で、男の存在は輪をかけて謎に包まれていた。

 三年前のある日ふらっと姿を現し、彼をカモにしようとした当時のボスとその一派を追い払って今の定位置を手にした。この辺りを牛耳っていた顔役はかなり傲慢な人間で、追い払ったことで逆に感謝されるようになった青年は、半ば祭り上げられる形で浮浪者たちのリーダーにされたのだ。

 当然、どんなにカリスマがあっても本人にやる気がなければいずれ代替わりするのが筋だが、彼の支配を助長する者が現れたことで話は変わる。

 「またそれを読んでいるのか。うぬも飽きん奴だな」

 ストリートギャングを事実上支配するのは彼ではなく、彼を擁立する四人の少女。男が今の地位に収まるのとほぼ時を同じくして、やはりどこからともなく彼女らは、今ではすっかり参謀のような扱いを受けている。

 「そんな読めもしない本なんか見てて面白いのかな」

 「もう日々の日課と化してますからね。いい加減捨ててしまわれてもよろしいのでは?」

 「…………」

 「聞いてないよね?」

 「読書中の彼には話しかけるだけ無駄でしょう。ですから、少し失礼しますね……っと」

 茶色い髪の少女が黙々と書を読み耽る男の足元の瓦礫をひっくり返し、そこから何かを取り出す。漆を塗り固めたような漆黒の立方体、一見ただの金属の塊にも見えるが……。

 「管理局の面々が集まっています。そろそろ撤収の頃合かと」

 『彼はここを離れる意思はありません』

 「はぁっ!? なんで、どーして!」

 「局の連中と事を構えるのだけは避けたいのが本音なのだが、肝心のこやつに動く気がさらさら無いとなるとなぁ」

 「は、早く行きましょうよ~!」

 少女たちがそう急かすも、対する男は依然として書を読んだまま動じず、最初に声を上げた灰色の髪を持つ少女が痺れを切らしたように叫ぶ。

 「いっそこうなれば我がまとめて蹴散らしてくれようか! 何故我らがこのようなあばら家暮らしを強いられ、挙句は局にそれを奪われねばならんのだ! ええい、考えただけでも腹立たしいわ!!」

 「元を質せば、潜入捜査していた局員を必要もないのに刺激して、あまつさえこてんぱんに叩きのめしたのはどこの誰ですか。あれのせいで局員が本格的に動き出したのですよ」

 「いや、ボクとユーリはもちろん反対したんだよ? でも王様が『やれ』ってゆーからさあ……」

 「えぇっ!! レヴィは下の階で子供たちと遊んでたよね!?」

 「いやな、チョロチョロうろつかれて目障りだと、こやつがボヤくから……」

 「それはお前の事を言ったんだよ」

 それまで我関せずを貫いていた男が本を閉じ、凝り固まった間接を鳴らしながら立ち上がる。灰色髪の少女から立方体のデバイスを取り上げると、それが瞬時にリングに形を変えて指に収まる。

 「つまり、俺の言ったことを勝手に勘違いしたお前達の先走りが招いた結果だ。第一、俺はお前達の事なんて知りもしない、全くもって赤の他人だ。例え勘違いにしても俺が『目障り』と言った程度で、何故そこまで張り切るのか……」

 「それを言ってしまえば君だってそうじゃん。君からすればボクらは、ある日突然やって来た得体の知れない不審者、それこそ『赤の他人』。なのに君はこうして受け入れてくれている、その心は何だい?」

 「別に……。ただ、お前達はこの本が目当てだったのだろう。なら俺について何か心当たりがあるかと思ったんだが」

 「記憶喪失というのも難儀な話ですね。ですが生憎ですが私たちでは力不足でした」

 「その謎の書が我々の魔導書と同じ古代ベルカ語で書かれているのは間違いない。だが、文字化けというのか? 書かれている文字の一つ一つは古代ベルカ文字だが、その実態はただの乱雑な文字の羅列に過ぎぬ。文章に意味など無いよ。恐らく何らかの要因でシステムが破壊され、僅かに残っていた自己修復プログラムが半端に働いてこうなってしまったのだろう」

 「結局、これはお前達の言う魔導書の類なのか?」

 「ううん。かつてはどうだったのか分からないけど、今はもうただの本だよ。自動迎撃も、魔法の自動発動も、転生機能なんてもちろん付いてないよ」

 今や自分の体の一部とも言えるその本を見つめながら、男は自身のこれまでを振り返る。

 ある日、気付けばこの世に生きていた。それまでの自分など知らないし、どうにも記憶が欠落しているらしいと知った。

 手がかりは手元にあったデバイスと、目覚めてしばらく歩いた先で見つけた一冊の本だけ。なぜこんな本を拾おうと思い立ったのか、自分でもよく分からない。読めないどころか内容も無い、そんな廃品を掴んで何になるのか。だが不思議と捨てられないまま今こうして持ち続けている。

 そしてデバイス。『機械仕掛けの神』などと大仰な名を冠しているのに対し、実態は魔導書と同様にシステムの大半が初期化された白紙の状態。自分の過去に繋がる手がかりは何一つ無かった。

 いや、ひとつだけ、重要な事をこのデバイスは教えてくれた。

 『局員が大挙してこちらに向かっています』

 「下の連中の様子は?」

 『特にこれといって混乱は見られません。やはり事前に通達したことで功を奏したようです』

 「どこかの誰かが勘違いしたせいで、ここは完全に反体制派のアジトだと思われている。ならいっそ下手に反抗などせず、大人しく明け渡すのが利口だ。事実、ここに反体制派など一人もいない」

 「遠まわしに我らを非難しているのか」

 「別に。これは俺が勝手にやること。気に食わないならどこへなりとも行け。局員に行方を聞かれても誤魔化すぐらいはしておいてやる」

 どれだけ言って男は再び瓦礫の玉座に腰を落ち着けた。「考える人」のように顎杖をつきながら、こちらに向かってくるであろう管理局員を出迎えようとしているのだ。

 「捕まっちゃうかもしれないんですよ?」

 「どうせ俺は根なし草。寝起きする場所が廃屋から留置所に変わるだけの話だ」

 「それはそれで不健全な気がしますが」

 「それを言ってしまえばここに不健全じゃない者などいない。盗品を売って食い扶持を稼ぐ男、通りすがりを相手に体を売る女、靴磨きをしながら日銭を得る子供……そしてそいつらを食い物にしながら私腹を肥やす一部のゴミ屑、みんな不健全だよ」

 別に男がここに居座ってから何かが劇的に変わったことはない。この一帯の頭を潰したとはいえ、この捨てられた街に住む者の暮らしは何一つとして好転していない。ここでは誰一人、文明人の生活を許されていない。

 「ならいっそこれを機会と見て管理局に介入『してもらおう』という魂胆か」

 「連中は所詮、お役所仕事、社会的弱者を救うも見捨てるも匙加減ひとつだ。だが……一度接触してしまえば、見て見ぬふりは通らない。名目だけでも弱者救済を掲げる文明社会の悲しいサガだよ」

 「貴方という人は……本当に悪い人ですね」

 「全員が全員とはいかないだろうが、何人かは確実に社会復帰の道を歩む。それでもこの暮らしが良いと言い張るのなら、そういう連中は勝手に戻るだろうさ」

 それが、己の過去さえ知らぬ自分を受け入れてくれたここの住人らに対する、せめてもの恩返しのつもりだった。今日の食い分すらまともに得られない彼らが分け与えてくれたことは、今でも男の記憶に焼き付いている。

 「おぬし、最初からこうするつもりで……」

 「そろそろここにも捜査の手が入る。行け、ここで別れのようだ」

 「え、誰も出ていくなんて言ってないけど?」

 「そうだな、お前は物覚えが悪いからな。おい、誰か話を替われ」

 「いいや、行かんよ、どこにもな」

 男の前から少女たちは誰一人として離れる意志を見せなかった。なぜ彼女らはこんな過去も何も無い空虚な者に固執するのか……。

 だが、何故かこうなることを予想していた自分がいる。彼女らなら、きっとここで断るのだろうと……どうしてか、分かっていた気がする。

 「物好きな連中だ」

 「あなたほどじゃありません」

 下の階が騒がしい。きっとすぐそこまで来ているのだ。










 ヴェロッサの注意とは裏腹に、突入したスバルは住人達の大人しさに内心拍子抜けしていた。

 噂されていたギャングや反社会勢力など影も形も無かった。確かに違法に商売を行う者や、物を盗んだと思しき者らは何人かいたが、総じて殺伐とした雰囲気とは程遠い場所だった。

 「アコース捜査官、これは……」

 「ハズレ、だね。でも……」

 アタリを引いていたらそれ相応の事態になっていた事を考えれば、むしろその方が良かったのだろうが……。

 何かおかしい。こちらの捜査に一切抵抗せず、むしろ従順すぎるその姿勢はそこはかとなく怪しい。端々ににじみ出るよそよそしさとは裏腹に、こちらの質問に対し用意していたように素直に応える。まるで、「ここにはあなた達の探しているものはない」、「だから諦めてさっさと立ち去れ」と言外に主張しているようだ。

 「ナカジマさん……」

 「はい」

 大勢の局員が実態調査という名目で住人に接触している最中、スバルがそっと現場を離れる。ここの住人は何かを隠している。その「何か」を突き止めるのだ。

 そう言えばここは廃ビルだ。住人達が進んで局員の調査に協力しているので上は今のところ手付かずだが、今の内に先に様子だけでも見ておいたほうが良いだろう。

 そう思いながら階段に足を掛けた時──、

 「そこには誰もいません!!」

 「えっ!?」

 今まさに上の階に行こうとしたスバルを見咎め、住人の一人が大声を上げて制した。そしてそれに反応して初めて他の住人も事態に勘付き、一斉にスバルに詰め寄ろうとする。

 「お、落ち着いてください! 私達はただ……!」

 「もういいだろうっ、帰ってくれ!!」

 「そうだぞ! 今まで俺らのことなんかまるっきり無視しておいて、都合のいいときだけ擦り寄ってくんじゃねぇ!!」

 反社会勢力ほどではないが、ここに住む人間もその大半が公権力を信用していない。自分たちは社会から見放された者であると思い、公権力はそれを是としたと思い込んでいる。故に自分達のテリトリーを侵犯された今、不信の目は敵視に変わりつつあった。

 ここには武装局員もいる。いざとなれば公務執行妨害という名目で全員取り押さえることも出来るが、そうすると大なり小なり混乱は避けられない。ましてこんな狭い場所でそうなれば、けが人が出る恐れもある。

 場が一触即発の空気になる……。

 「何の用だ?」

 その時、上階から声が響く。

 極限まで鍛えられた鋼が鳴るような、重く、それでいてよく通る声に、スバルの視線が再び上を向く。

 「あなたは……」

 「……ん」

 直感で悟った。今自分を見下ろしているこの男こそ、ここの住人達が隠したがっていた存在なのだと。

 だが驚いたのはその風貌、彼の顔立ちが管理局員なら誰もが知る人物に似ていた。

 毒々しい紫の髪に、猛禽を思わせる怜悧な金眼、太陽を知らない白磁の肌。当人よりずっと若いが、その姿はまさしく次元世界最大の犯罪者、ジェイル・スカリエッティに酷似していた。

 局員らに動揺が走る。スカリエッティの顔なら今年入局したばかりの新人でも知っている。

 だがそこに追い討ちをかけるように、次の脅威が出現する。

 「おい、騒がしいぞ塵芥」

 「ねぇ、まとめて雷光で焼き尽くしちゃってもいいよね」

 「他の方々の迷惑になるのでやめてください」

 「はっ、初めましてっ!」

 ぞろぞろと男の背後から出てくる四人の少女。まるで散歩ついでに立ち寄ったような軽さだが、魔導に通ずる者たちには分かる……彼女らの異常さが。少なくとも単純な危険度だけで言えば、男よりもこちらの四人の方が遥かに高い。その気になればこのビルだけでなく、クラナガンを焼け野原にしてしまえる力を秘めていると直感した。

 それだけに、この四人を引き連れている男の得体の知れなさが際立つ。

 「た、高町一等空尉……?」

 「あっちはテスタロッサ執務官?」

 「あの人はまさか……八神二佐では!?」

 四人のうち三人の顔が自分達の知っている者に酷似していることが更なる混乱を呼ぶ。

 だが彼らとは全く別に、スバルの視線は釘付けになっていた。

 相対する男もまた、スバルと同じく視線を外せずにいた。

 「…………」

 「……以前……」

 「へ?」

 「どこかで会っているか?」

 「どうしてそんなことを?」

 「いや、気のせいだ。俺はちょっと記憶喪失というものらしい。生まれてこの方、ついぞ自分の出生も分からない。もしかしたらお前が俺を知っているのではと思ったんだが……」

 「……あたしも、あなたを知っているような気がする」

 「ほう」

 気だるげな視線が、ふとスバルを見据える。強く、雄々しく、そしてそれまでの無機質な印象とは真逆の喜色を湛えた子供のような視線に、スバルもまた惹かれつつあった。










 「名前は? あたしは、スバル・ナカジマ!」

 「このデバイスが言うには……トレーゼ、それが俺の名らしい」










 男と女の出会いがこれから先、互いにどんな影響を与えることになるのか、それは誰にも分からない。全ての欲望を司る男にも、魔導書の精霊たる彼女らにも、もうこの世界から消えてしまった彼にも、ここから先の未来だけは知りえない。

 一つだけ確かなのは、男と女の出会いが何かを劇的に変えようと変えずとも、今日も時は流れゆくということ。

 その後、保護された男が社会復帰するまでの間、女が積極的に世話を焼き続けたこと。検査の結果、女と同じ人造の存在だと判明したこと。どうにも男が大犯罪者とその一派の過去に関わりがあるらしいと判明したこと。彼の“姉妹”がその真偽を確かめにきたついでに、共に更生するようになったこと。更生期間中ずっと姿を隠していた四人の少女が、終わった途端に姿を現したこと。その後、女の強い勧めもあり五人揃って管理局に入局したこと……。

 他にもまだあるが、取り敢えずここまでだ。

 何も持たず全てを望んだ男と、何も知らず全てを与えた女の物語はこれでお終い。

 男と女の未来が幸に溢れたものになったかどうか、それは当人と周囲の者達だけが知っている。

 これはどこにでもある男と女の話。二人の男女が出会い、別れ、そして再び出会いを果たした、ただそれだけのお話。



 「やっと、出会えた」

 「うん、そうだよ」



 これから始まっていく二人の旅路。新たな物語が紡がれていく──。










 Fin.



[17818] あとがき
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:fd07c89c
Date: 2015/07/17 07:38
足掛け……もう何年だ、これ? 書いてた本人ですら覚えていない年月突っ走り続け、誰がここまでやれと言ったか遂に完結。迷走やら行き詰まりやらを乗り越えて、匙を投げずここまで来れたのはきっと皆さんのおかげ。

やー、長かった。あまりに長すぎて初めの頃からずっと読んでた方とか居ないんじゃないかと……。基本飽きっぽい自分がこうして完結出来たのは、何度も言いますが本当に皆さんの応援の賜物だと思っています。本当にありがとうございます。





さてと、ここから先は「あとがき」とか言う名前のぶっちゃけ話の暴露大会。

実はわたくし……このお話を書き始めた当時、リ リ な の を 一 話 も 視 聴 し て い ま せ ん で し た !

当時の原作アニメに対する自分の知識は、ほぼ完全にニ○ニ○動画のMADが主流で、wikiに目を通し設定の復習をしたのも書き始めてから。しかも物書きのイロハさえ知らず、「プロット? なにそれ(ハナホジ)」という体たらく。もうね、プロアマ問わず全ての作家に土下座せぇよと……。

締切もなく、うるさく小言を言う編集もおらず、無論のこと売上なんて全く関係なくストレスを感じさせないSS投稿に憧れがあり、たまたま当時ハマっていたアニメに自分の妄想をドバドバと不法投棄したのが始まりでした。

元来熱しにくく冷めやすい性格の自分が投稿を続けられるのか疑問でしたが、「どうせ趣味でやるんだし、飽きたらやめればイイじゃん」という、不真面目かつ軽い気持ちで始めました。誰か文句言ったって知るかよ、俺は俺のやりたいようにやる、ゴーインマイウェイッ! な感じだったです。

ところがいざ初めて見ると、感想欄に書き込まれる皆さんの声援、作品に対する真摯な態度、真剣にこの作品を批評し評価しようとする姿勢を見て、「これじゃイカンな」と思い立ち、やるからには最後まで……と一念発起し、自分の生み出す物にもっと真剣に向き合うことを決意しました。

もちろん、中には厳しいお言葉もありました。「あほくさ。やめたらこの投稿」と思われた方々もいらっしゃることでしょう。自分の好きな原作を不出来なオリキャラ(笑)に汚され、純粋に怒りを覚えた方も少なからずいると思います。

ですが、一度自己満足で始めたことなら、終わらせるのもそれを貫いてから終わらせたかった。

ひょっとしたら自分のPV数万の中の九割は続きなど望んでおらず、むしろさっさと終われと思っていたとしても、ひょっとしたらいるかも知れない残り一割の人達に。そして何よりも、今こうして書き続けている自分のなけなしの熱意を、このまま不完全燃焼で終わらせたくなかったから、ここまで書き続けてきました。

だからどうした、と言われりゃおしめーだけど、こんなことでも途中で投げ出さずやり遂げられたことに、小さな満足と達成感を覚えるのです。





トレーゼの着想やストーリーはどっから得たの、っちゅうね。

これもぶっちゃけると、書き始めた当時の私が遅めの中二病を患っていたことが全ての元凶。「異端の数字カッコヨス、フヒヒ」な感じで。「十二人ともイタリア語なのに何でフランス語にしたし」という友人のツッコミなんか聞こえない。でもそのままの読みにすると某エレガントなCV置鮎になっちゃうので、ちょいとひねって主人公の名前は完成。

当時私がリリなのの詳細な話の流れを知らなかったのもありますが、既に無印、A's StSと三期に渡り続いた物語が完結し、自分が無知な状況でそこにオリキャラを投入してストーリーを操作するのは無謀と思い、シリーズとして一段落ついたSSXの直後という設定になりました。

そうなると次に決めるのはトレーゼの立ち位置。当初はナンバーズという設定は無く、一局員が適度に活躍する奮闘モノを想定していました。ところがさっきも言ったように、既にシリーズとして完成している世界観で管理局側として描くとなると、そこには対立する新たな敵役が必要になります。そうなると敵も味方もオリキャラ祭りという原作ファンを置いてけぼりにした形になると思い、こりゃどげんかせんといかんなと……。

「なにN? 敵役をどうするか決めかねている? N、それはきっと無理にキャラをクリエイトしようとするからだよ。逆に考えるんだ。『敵なんかいなくてもイイさ』と考えるんだ」

逆転の発想、主人公を敵にしてしまえばいい。そうすれば新しい勢力を考える手間が省け、なおかつオリキャラの数も少なく抑えることが出来る。頭の中のジョースター卿には感謝です。

次に男性にした理由。他のナンバーズが全員女性の中、一人だけ男ってどうよとは思ったのですが、生憎女キャラを上手く書き表す自信が無く、断念。そうなると次に浮上するのが主人公が男であることの“正当な理由”が要ります。

これは簡単でした。ジェイルは自分が捕まるか死んだ時の為にクローンを用意している、って設定を利用し、「実はずっと昔に自分のクローンを作ろうとしていたんだよ!(ナ、ナンダッテー)」な感じで出来上がり。

あとはちょこちょこと性格やらの下地を肉付けしていくだけだったのですが……。

モチーフはずばり「ターミネーター」。ヒトの形をした機械。途切れ途切れの言葉でそれを表すしかなかった自分の文才の無さが恨めしい。

それが徐々に人間臭さを帯び始めて、生きる意味って何だろうとか考え始める。人間で言うと思春期(中二病とも言う)の始まり。そしてその時期特有の迷走が始まっちゃう。

私の作ったトレーゼってキャラは基本的に、「不真面目」なキャラクターです。他人と向き合ったり、言葉に耳を傾けたり、真実を知ろうという意志がない。見た物聞いた事しか信じないではなく、「知っていることしか見聞きしない」完全に自己中心的でワガママな子供。そのくせパーソナルスペースは馬鹿みたいに広く、異物を見つけるとギャンギャン喚きながら叩き出そうとする癇癪持ち。

やっべ、設定詰め込み過ぎた。

そんな事に気付けても後の祭り、乗りかかった船と言わんばかりに全力疾走しました。

一番の無茶はというか、後先考えずにやったのが、時折話の中で入る未来の後日談的な視点。以前よそで投稿していた際、「これもう(ハッピーENDになるか)分かんねぇな」という危惧を感想でいただき、「ダイジョーブ、何とかハッピーENDに持ってくよ」というある種の意思表明でした。

結果、「お前のSS(設定が)ガバガバじゃねーかよ」という最悪の悪手に。もう時系列に乱れがとか、そういうレベルじゃない部分が露呈してしまいました。

未来の視点に食い違いがあるのは、やり直しをする「前」のトレーゼがいた時間軸と、本編「後」のトレーゼがこれから生きる時間軸の相違……ということにしてください、おねがいします何でもしますから!





何やかんやあった数年間でしたが、ここまで続けさせてもらえた事は純粋に感謝の極みです。

このストーリーはここで終わりですが、またどこかでお会いすることがあればその時は、「ああ、あれ書いてた奴ね」って感じで覚えていてほしいなぁと。

それでは『魔法少女リリカルなのはTREIZE』、外伝含み全87話、これにて完結でございます!!

皆さんがこれからも多くの作品に出会い、またそれらを生み出す事をお祈りしています!!


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