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[16905] おんりーらぶ!?【第二部】
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2020/03/19 01:02
 注意

 この物語は、『Arcadia オリジナルSS投稿掲示板』に投稿されてある、『おんりーらぶ!?【第一部】』の続編にあたる作品です。

 そちらをお読みいただいていない方は、当作品をお読みになっても訳が分からないと思います。
 個人的にも、【第一部】からお読みになっていただけると非常に嬉しく思います。

 【第一部】・【第二部】ともどもお読みになっていただければ幸いです。


------------

 前書き

 この物語は、現実→異世界ものです。
 ご都合主義の世界の冒険を描く、しかし奇妙な構成の物語ですが、お楽しみいただければ幸いです。

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 since 2010/03/01



[16905] 第十八話『弱くてニューゲーム』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2010/03/01 00:18
―――***―――

 物語は無数にある。

 ときに数多の人生が、ときに数多の作品が、この世界を物語で満たしていく。

 それが形をなすための媒体は様々だ。
 本で、テレビで、映画で、インターネットで。
 思考で、感情で、想いで、魂で。

 物語は紡がれていく。

 そしてそのどれもが、キラキラと輝いて、そこに在る。

 また、
 ときには、そのストーリーに惹きつけられ。
 ときには、その登場人物に惹きつけられ。

 人の眼も、キラキラと輝いていく。
 世界は、光で満ちているのだ。

 純粋無垢な子供に限らず、その、美しい物語たちは、ページをめくられるたび、人の心を躍らせ、人に、何かの意味を持たせる。

 そうやって、世界を輝かせ続けるのだ。

 だから世界は、優しくできている。

―――では、何故。

 “影”という存在もまたあるのだろう。

 決まっている。
 その光を受ける、“何か”があるからだ。

 しかし、その“何か”を、否定することはできない。
 その“何か”が―――その光を受ける者がいなければ、世界もまた、輝きを失ってしまうのだから。

 そして受けた光は、その者の中に、想いを創る。
 そしてその想いは、世界に光を与えるのだ。

 世界はそうして、影と共に輝きを増す。

 表裏一体の存在。
 あるいは、結果と対価の存在。

 光があるから影があり、影があるから光は強くなる。

 だが、もし、そうだとするのなら。

 世界を輝かすために、何かが陰らなければならないのだろうか―――

「……、」

 ―――そして。

 その“対価”ともいうべきものを払った存在が、ここにいる。

「……っ、」

 彼―――ヒダマリ=アキラは知っている。
 これまで起こったことを。

 “よくできた下らない話”。
 自分はまるでネット小説のように、選ばれた者―――“勇者様”となって、これまた現実離れした存在―――“魔王”を討った。
 大切なものを失って。

 彼―――ヒダマリ=アキラは知っている。
 これから起こることを。

 “よくできた下らない話”を、破壊する。
 自分はまるでネット小説のように、選ばれた者―――“勇者様”となって、これまた現実離れした存在―――“魔王”を討つのだ。
 大切なものを失わずに。

 キラキラと輝き、最期に大きく黒ずんだ、過去。
 今から始まるのは、まっさらな状態から書きつづられる、未来。

 過去は確定事項として、未来はそれを覆すために、それぞれの場所に在る。

 ただ。
 “スタート地点”は、本当に、まっさらだった。

「っ……、っ、」

 腕が痺れる、指先が痛い。
 なびく風は、アキラの命を刈り取る死神と化し、びゅうびゅうと吹きつけてくる。
 僅かに顔を動かせば、広大な大自然が目に飛び込んできた。
 “眼下”の町並みも、アキラの出身地―――いわゆる“元の世界”とは乖離した、時代錯誤の廃れた村。

 ここをアキラは知っている。
 ここは、この“異世界”。

 総ての始まり地、リビリスアーク。

「づ……、う、そ……、だろ……、」

 黒いシャツに、ジーンズ。そして簡易な青い上着。
 頭も軽く整えられ、冒険心半分の茶が若干入った色に“戻っている”。
 そんな風情のアキラは、しかし、そんなどうでもいいことを確認している余裕はなかった。
 瞳には力を込め、身体を支える四肢にはそれ以上の力を込め、奥歯を強く強く噛みしめる。

 無限のようにも、瞬く間の出来事のようにも思えた、“とある魔法”の結果が、“ここ”だ。

 “魔法”など、そんな非現実的なそれを、心の底からアキラは信じているわけではない。
 いや、なかった。
 確かに、夢は見ていた。だがそれは、あればいいな、程度のもので、根底には常識的な何かが根付いていたはずだ。

 だが、“これまでの出来事”はそんな常識を、あっさりと覆した。
 この世界では、それは当然に在り、また、当然のように認められている。

 その、異常。

 魔法の存在や、それを用いての戦闘。
 総てが常識として捉えられる、長い長い旅路。

 その、異常

 満月の下、総てが陰った、モノクロの世界。
 テキストを適当に読み飛ばすようにあっさりと終了した、“魔王”との戦闘という最終局面。

 その、異常。

 そこから、アキラは、

「こ……、ここ、……、ここ、から……!?」

 “必然的に”、高度数百メートルはあろうかという塔に張り付いていた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 結論から言って、“不可能を可能にする少女”の魔法は成功したのだろう。
 アキラはそれだけは確信を持てた。

 そうでなければ、自分がここにいるはずはない。

 永遠のようにも、されど一瞬のようにも思える一間、アキラは意識を手放した。
 目を覚ましたときには、あの最終局面から昼夜は逆転し、太陽は天高く昇っていたのだ。
 吹きつける風も、砂埃の匂いがまるでしない、爽やかなそれ。
 殺風景な岩山ばかりの景色も、若葉萌える緑一色に変わっている。

 成功なのだ。
 自分がここにいるということは。

 だが、そうは言っても、流石に容易に容認できることではない。
 僅かにでも意識を手放せば、自分は間違いなく、落下する。

「っ、」
 この高さは知っている。
 村どころか近隣の山や村まで視界に映るのだ。
 こんな場所から落下するわけにはいかない。

 燃え上がっていた激情も今はなりを潜め、アキラはプルプルと身体を震わせる。
 だが、今は助かることだけを考えなければならない。
 そんな目前に迫る恐怖が、アキラを異常なまでに冷静にさせていた。

「―――、」

 状況の確認をしなければ。
 ここが、まっさらなスタート地点であることは間違いがない。

 ならば、助かる方法があるはずである。
 自分は、“勇者様”なのだから。

 結果論から導き出されるその強引な答え。
 ポジティブどころかパラノイアの域の考えだが、結局はそれを信じるしかないのだ。
 ついでに言うなら、アキラの四肢は予想より早く限界を迎えている。

「……、信じ……、てるぞ……、」

 傍から見れば、正気の沙汰ではなかっただろう。
 アキラはついぞ諦め、塔の壁にねじ込んでいた指を引き抜いた。

「づ―――、――――――」

 当然襲う、猛烈な浮遊感。
 身体中に暴風が叩きつけられ、眼下の景色に高速で接近していく。

 見えてくる、塔を囲う緑。
 そして、そこに用意された白い式壇。

「―――、」
 アキラは目を、こじ開けていた。
 瞳が潰れるほどの風を受けてなお、しっかりと。

 見える。
 確かに見えるのだ。
 儀式用の花嫁衣装のような服に身を包んだ、赤毛の少女が。

「……、」
 目を開けていてよかった、と思った。
 身体中から、先ほどなりを潜めていた激情が湧き上がる。
 自分が戻ってきた最大の理由を、確認できたのだから。

 さあ、あとは、“頼む”―――

「―――、……?」

 おかしい。
 完全な落下物体と化したアキラの背筋を、冷たい何かが撫でる。

 あのときは意識を手放したからおぼろげだが、自分は、“もっと前に助かっていなかっただろうか”。

 あの高さだ。
 落下すれば、アキラなど叫び声を上げる余裕すらなく、死亡する。
 いや、アキラでなくとも、人間では助かるはずもない。
 それは、必然。

 だから、“不可能を可能にする少女”の力がここで絶対に必要のはずだ。

「っ―――、」

―――“しかし、来ない”。

 地面は高速で、なおも速力を増し、迫ってくる。
 聴覚が風で遮断され、羽織った上着は暴れ回っている。
 眼下の彼女は、もう完全に表情まで視認できる。

 しかし、アキラは止まらなかった。

 このままでは、彼女を巻き込んで―――

「っ、」

 身体中から嫌な汗が噴き出す。
 早く、早く、早く。
 アキラは祈るように、訴えかけた。

 早く、“不可能を可能にしてくれ”―――

「っ、っ、――――、」

―――“しかし、来ない”。

 あの、世界で何よりも信頼できる、銀の光が。

「……?」

―――“しかし、来た”。

 “花嫁”―――白を基盤とし橙色のラインが入ったドレスを纏う赤毛の少女は、目を閉じて僅かに顔を上げる。
 儀式に集まった村人や、漆黒のローブを頭からかぶった魔術師たちが、焦り出している。
 誰かが叫び声を上げている。

―――そんな中。

 アキラには、“焦る余裕ができていた”。

「―――、」

 この感覚は知っていた。

 これは、“待っている”。

 世界が、自分の“応え”を―――

―――***―――

 夢を見ていた。
 それも、不思議な。

 右目を閉じれば、自分は柔らかいソファーに座り、低い視点からにこやかに笑う女性と遊んでいた。
 左目を閉じれば、自分は剣を振りかざし、高い視点から仲間と共に強大な敵と戦っていた。

 これは、夢だ。確認が早い。
 明晰夢とでも言うべきか。
 最近、よく見るような気がする。
 だが何故か、両目を同時に閉じることはできなかった。

 両目の映像は進んでいく。
 そしてほぼ、同じタイミングで、自分の中に嫌悪感が上ってきた。

 今は、両方とも、キラキラと輝いている。
 今は、両方とも、自分の好きな世界だ。

 今は。

 だから、その先を。

 自分に、視せないでくれ―――

「っ、ゃめ……、」
 叫びながら目が覚めたのは、恐らく初めてだ。
 身体はうっすらと汗ばみ、頭はズシリと重い。

 アキラはぼんやりと光る暗い室内の中、天井を見上げていた。

「はあ……、はあ……、」
 狂ったように口を開き、アキラは寝転んだまま空気の塊を吐き出した。
 アキラの身体の動きに呼応するようにベッドは軋み、アキラの脳を覚まし始める。

 暗さに慣れた眼が、ぼんやりとした光に手伝われ捉えた天井は、木造ペンションのような荒い茶色。
 ぶら下がっているのは、裸に近い豆電球のような―――マジックアイテム。
 周囲は、木造の壁に囲まれていた。

 ここは、知っている。
 自分が半月ほどお世話になった、リビリスアークの孤児院。
 アキラの自室だ。

「戻った……、のか、」
 夢に描き回された脳を落ち着かせ、アキラは身体を起こし、額に手を当てる。
 嫌な汗が浮かんでいた。

 未だ現実感がない。
 先ほど塔の上で確認したばかりのことも含め、総てが夢だったかのように思える。
 今襲いくるのは、倦怠感。
 だが、自分が今、見知った元の世界の自分の部屋ではなく、この孤児院にいる辺り、異世界の件は現実のようだ。

「……ご気分はいかがですか?」
「っ!?」
 突如、誰かの声。
 布団から這い出そうとしたアキラは、身体を瞬時にのけぞらせた。
 ほとんど反射で睨むように声の主に向き合う。

 最初からそこにいたというのだろうか。
 そこには、ベッドの脇に備え付けられた淡い光の隣、鋭い眼鏡をかけた女性が椅子に座っていた。

「え? え……!?」
「混乱されるのも分かりますが、ひとまず落ち着いて下さい」
「……え、あ、は、はい」
 歳は、二十ほとだろうか。
 つややかな黒髪をトップで纏め、給仕係のような格好をしている。
 膝の上には、今まで読んでいたのか分厚い本。
 ベッドの上、身体だけ起こしたアキラにどこか冷たい瞳を向け、その女性は眼鏡の縁に手をかけた。

「え、あ、あの、えっと、誰……、ですか……?」
「……、セレン=リンダ=ソーグと申します。あなたは?」
「え、は、ヒダマリ=アキラです……、」
「随分お休みしていたようですね。もう日は沈みましたよ」
「は、はあ、」

 セレンと名乗ったその女性の凛とした態度に、アキラは詰まりながらも言葉を返す。
 セレンはその様子に小さく頷くと、持っていた本を閉じ、隣の机に置いた。

「私からも聞きたいことはありますが……、とりあえず、ここは孤児院です。あなたは“入隊の儀”に突如現れて、ここで保護を。覚えていらっしゃらないのですか?」
「え、え……?」
「未だ混乱されていますね……。もう少し、横になられていた方が、」
「あ、はい」

 セレンに促され、アキラは渋々背をベッドの頭に預けた。
 それで一応は満足したのか、セレンは再び眼鏡の縁に手をかけ、くいと上げる。
 見た目そのままに、凛としたメイドのように感じられた。

「本来ならここは夜間男子禁制なのですが、手厚く看病をするように言い付かっておりますので」
「は、はあ……、」

 事情を聞いても、アキラは未だ理解できていなかった。
 ここは、本当にリビリスアークの孤児院なのだろうか。

 しかし、この部屋のレイアウトは、情けないことに長々居座ったせいで、よく覚えている。
 それなのに、目の前のセレンのことは、どうしても思い出せない。
 こんな女性は、この孤児院には、

「……?」

 アキラは自分が下そうとした結論に、眉を寄せた。
 違う。
 自分は、この女性を“知っているはずだ”。
 伝聞ではなく、確かに出会った。

 では、どこで。

「……あの、セレンさん?」
「はい」
 無機質な機械のような声が返ってくる。
 暗がりでも分かる、彼女の鉄面皮とでも言うべき表情。
 本来なら、このような女性に看病してもらっていたことはアキラにとって歓喜物のイベントのはずなのだが、今はどこか不気味なだけだった。

「俺は……、今、じゃない。ここは、どこですか?」
「ですから孤児院です。リビリスアークの。私はここでお手伝いをしております」

 一縷の望みを託した質問も、アキラの予想通りの答えが返ってきた。
 やはりここは、リビリスアークの孤児院。
 だが、彼女の存在は、

「……っ、」
「どこか痛むのですか?」

 痛むことは、痛む。
 指先やつま先から、塔の壁に押し込んでいたせいでジンジンと痛みが上ってきている。
 身体は異常なまでに重い。
 だが、それよりも酷いのは、頭。
 頭の奥が痛み、それを取り出そうとしても混乱が邪魔をするのだから始末に負えない。

「い、いや、大丈夫……、です」
 一体何だというのか、この違和感は。
 自分は、彼女を知らない。
 だが、それなのに、彼女を“知っている”。

「大丈夫ならば、私の質問に答えていただけますか?」
「……ええ」

 もう駄目だ。
 セレンに質問をしても、アキラの霧は晴れないだろう。
 まさか、ここにいないはずですよね、などと聞けるわけもない。

 ならば、とにかく会話をして、情報を集めなければ。

「あなたは……、アキラさん、でしたっけ? 塔の上にいたんですよね?」
「……、」
 メイドのわりに、どこか棘のあるセレンの口調に、アキラは委縮した。

「……いや、記憶が、なくて、」
「……、」
 本当のことなど、話しても通じないであろう。
 結局アキラは、曖昧な言い訳をセレンに返した。

「記憶喪失ですか?」
「……え、ええ」
「ですが、魔術師ですよね?」
「……、い、いや、それも、」
「……、」
 尋問のような問答を繰り返すうち、当然のことだがセレンの眼鏡の奥の瞳が鋭さを増した。
 初対面のはずなのに、彼女から敵意のようなものを感じるのは何故だろう。

「しかし、私は、アキラさんが魔術を使うのを見たのですが」
「…………え?」
 セレンの瞳は、それだけで、アキラを射抜くようだった。
 しかし、それよりもセレンの言葉。

 魔術?
 一体自分が、いつそれを。

「……!」
「?」

 『どうかされましたか?』
 そのセレンの言葉を、アキラは聞き流した。

 聞いた。
 “過去”に、聞いたのだ、その言葉は。

 そして、もう一つ、気づいたこと。
 自分は、気を失う直前、塔からの落下の最中、いつまで経っても来ない銀の光を諦めた。
 その、あと、

「……、そう、か、」
 そうだった。
 思い出した。
 自分は、“自力で助かったのだ”。

 火事場の馬鹿力とでも言うべきか、それともご都合主義とでもいうべきか。
 “不可能を可能にできるもう一つの属性”―――自分の、日輪属性の力で。

「……まさか、異世界から来た、などとは言わないですよね?」
「っ!?」
 動きを止めて思考を進めていたアキラに、セレンの冷えた―――それでいて、的を射た言葉が届いた。

「いっ、“異世界”?」
「……失礼ですが、この辺りではあまり見ない服装ですよね?」
 セレンの瞳は、部屋の隅にかかったアキラの上着に向いた。
 その青い上着は、確かにアキラもこの世界ではあまり見なかったものだ。

「……いや、その、多分、そうです」
「?」

 どうする。
 正直、ここでセレンに自分の境遇も、自分の違和感もこの場でぶちまけたい衝動に駆られている。
 だが、何故か妙な敵意を向けてくるセレンにそんな言葉を吐き出す勇気は湧かない。

「……どうやらまだ、本調子でないようですね。私はそろそろ、お暇させていただきます」
「……、え、ああ、ありがとうございます」
 何とか紡いだアキラのこの場を背に受け、セレンは本を掴んで部屋のドアに向き合った。

「できれば夜間は、出歩かないようにお願いいたします。必要なものはそちらに置いてあると思いますので」

 僅かに振り返ったセレンは、アキラの枕もとに置いてあったコップと水差しに視線を向け、ドアに手をかけた。

「こちらの部屋を使用して結構です。明日また、事情をお聞かせ願いたいのですが」
「…………はい」
 退室するなという注意が先。
 やはり、彼女は、“アキラに心を開いていない”。
 ドアが閉まるまで、アキラはそのままの体勢でいた。

「……、」
 さて、どうすべきか。
 セレンには悪いが、アキラにはそのままじっとしている気はまるでなかった。

 まず、状況が分からない。
 そもそもここは、本当に自分が知っているリビリスアークだろうか。
 セレンなどという女性は、知らない。
 そして、それだけならまだしも、自分は彼女を知っているような気がするという矛盾を抱えている。

 矛盾は混乱を生み、混乱はアキラの頭をかき回す。
 これは、激情に任せてしまった結果だろうか。
 何もかも不明瞭だ。

「……、」
 アキラはわきに置いてある自分の靴を見つけ、ベッドから降り立った。
 身体はギシギシと痛み、頭はそれ以上。
 乱暴にコップに水を差し、カラカラな喉を潤しても、無機質に食道を通るだけだった。

 だが、どの道、このままでは眠ることができない。

 自分は、何をすれば―――

「……!」

 そうだ。
 “その案”を思い浮かべただけで、アキラの身体に活力が湧いた。

 別にいい。
 この混乱は、“自分が考える必要はない”のだ。

 現状把握の完全な方法。
 それは、まず、“彼女”に逢うことだ。

「っ、」

 いても立ってもいられず、アキラはドアを開けた。
 一応セレンに見つからないように慎重に外の様子を覗い、そろりそろりと部屋から出る。
 ただ、閉じるときは、大げさな音になってしまった。

 だが、それでもいい。

 “彼女”にさえ逢えれば、それで総てが解決する―――

「……、」

 アキラは見慣れた孤児院を進み、迷うことなく階段に足をかけた。
 三階に上り、なおも階段に足をかける。

「……、」

 慎重に、ゆっくりと。
 しかし、大股で。

 階段を上りきり、その正面のドアに手をかける。

「……?」

 その扉は、ぴったりと閉じられていた。

「……、」

 そこで、アキラの身体は今まで以上に震えた。
 あるいはあの塔の頂上に張り付いていたときの恐怖さえ凌駕し、ドアノブをひねることができない。

 そうだ。
 もうこの時間なら、“彼女の瞳のように”ここは半開きになっていなければならない。
 もうこの時間なら、とっくに“透き通るそれ”は聞こえていなければならない。

 そしてそもそも、自分は、あの塔で自分の力を使う必要などなかった。
 自分などよりも遥かに早く、“彼女”は状況を把握し、アキラを救えたのだから。

「……、」

 階段を上っていたときの高揚は一気に冷め、アキラは機械的な表情でドアノブをひねった。

 頬をくすぐる、外気。
 雄大な自然に、すっと広がる町並み。
 高い塔。

 その屋上では、満月と星が世界を満たしている。

「……、」
 だがアキラは、そんな絶景を僅かほども視界に入れていなかった。
 見ているのは、屋上の縁、ただ一点。

―――そこは、無人だった。

「……そ、そう、だった……」

 ドアに手を当てたまま、アキラは小さく呟く。

 ようやく思い出した。
 その事実に。

「っ、マリス……、」

 “不可能を可能にする少女”―――マリサス=アーティは、ここにはいない。

―――***―――

 状況の整理は、あまりに簡単だった。
 自分の混乱も、セレンの正体も、アキラは即座に理解する。

 自分の中には、二つの記憶が内在しているのだ。
 “一週目”の記憶と、“二週目”の記憶。

 自分が今、確かに覚えているのは“二週目”の記憶だ。
 その世界では、マリサス=アーティはこのリビリスアークに存在し、自分と共に旅に出た。
 そしてその規格外の力を、存分に振るってくれたのだ。

 だが、“一週目”は違った。
 彼女が仲間になったのは、ここではない。
 なったのは、ずっとあと。
 そうだったのだと、“思う”。

「……、」
 屋上の壁に背を預け、アキラは“あのとき”とは違い、たった一人でそこに座り込んでいた。

 “一週目”の記憶。
 それは、おぼろげだった。
 というより、封がされているといった感じか。
 マリサス=アーティがいないという衝撃で、アキラの中のその封の一部がはじけ飛ぶ。

 こちらが開封されるのは、特定の“刻”を刻んだときだけなのかもしれない。
 “二週目”の最期、僅かに取り戻したとはいえ一度は対価に差し出した“時間”だ。
 流石に完全な状態で“三週目”に持ち込むことはできなかったのかもしれない。

 だが、漏れ出した記憶は、確かに役に立った。
 まず、セレンの存在。
 彼女は、マリサス=アーティがこの場にいないゆえに、この孤児院に雇われた女性だ。
 それは、“一週目”の記憶。
 自分と彼女は、確かにあの場で出会っている。

 思えば“二週目”、自分たちが旅立ったあと、雇われていたかもしれない。

「……、」
 状況は整理できた。
 だがそれでも、アキラの背筋は冷えていく。

 正直、マリサス=アーティの存在を頼りにしていた。
 この“三週目”の旅路に、彼女がいることを前提に考えていた節がある。

 “二週目”、マリサス=アーティがこの場にいた理由は分からないが、ともあれ現状、彼女はいない。

「……、っ、」
 アキラは拳を握り絞め、軋む身体を強引に立たせた。
 そして、ドアの前に立ち、最後に一瞬振り返る。

 満天の星空の下、やはり彼女はいなかった。

「……、」
 階段を、ゆっくりと降りる。
 アキラの頭の中、混乱の一部は晴れたが、その代償は、あまりに大きい。
 そして体は、やはり重かった。

『―――、』
『……、―――、』

 ほとんど生気の抜けたような表情のアキラが二階まで降りると、どこかの部屋から誰かの声が聞こえた。

 いや、誰かではない。
 その声を、自分は知っている。

 そうだ。
 そもそも自分は、そのためにここにいるのだった。

「……、」
 だが、何故だろう。
 それが最大の目的のはずなのに、何となく、気が進まなかった。

「……、」
 いや、気のせいだ。
 アキラは足を引きずり、いくつも並ぶドアの一つに歩み寄る。
 ここは、“彼女”の部屋だ。

 話を、しなければ。

『嘘……、ですよね?』
『エリサス、落ち着いて』

 その名を聞いて、やはり、どくん、と身体が跳ねた。
 ノックしようとした腕が、そのまま止まる。
 どうやら先ほどのセレンもいるらしい。
 だが、よかった。
 “彼女”は、いる。

『で、でも、じ、事故での中断ですよ?』
『確かにそれなら大丈夫なんだろうけど……、問題はそこじゃないの』

 空気は、穏便ではなかった。
 ドアから聞こえる二人の声。
 どこか子供をあやすようなやり取りにも聞こえた。

『い、言って下さい』
『だから、今日は止めときましょう? ほら、もう遅いし』
『……お願いします。そうじゃなきゃ、眠れない』
『……』

 二人のやり取りが、どういうものかアキラには分かってしまった。

 自分はまた、“彼女”の邪魔をしたのだ。

『ねえエリサス、聞いて。明日私が、いろいろ調べてみる。だから、そのあとじゃ駄目かしら?』
『それならそれで……、今、聞いておきたいんです』
『エリサス』
『お願いします……!!』

 それ以上、アキラは聞いていられなかった。
 気取られぬようにドアから離れ、廊下をとぼとぼと歩く。

 階段を降り、一階に向かい、そのまま外に出た。

 “一週目”も、そんなことをしたはずだ。
 きっと彼女は、あのあと、泣くのだろう。

 いつものように喚いてではなく、度重なるショックを一度に受け、しんしんと。
 そんな声を聞きたくなくて、自分はここを離れたのだ。

 念願の入隊を流され、その上で、見知らぬ男との婚姻。
 原因は、嘘の許されない場で婚約をしてしまった、という、下らない“しきたり”に準じるもの。

 それで、錯乱状態の彼女は、まだ見ぬアキラに対し―――いや、自分の運命に対し、呪詛のような言葉を口にするのだ。
 セレンがなだめなければ、心が壊れていたかもしれない。

 ここでの彼女は、“そう”なのだ。
 それを、思い出した。

「……、」

 単なる格好つけ。
 あのときの自分も、この場所に留まることを意識的に避けた。
 セレンも“彼女”をなだめていても、アキラに対し、好意的なことは言わなかった気がする。

 この孤児院において、自分は害悪なのだ。
 だからせめて、自分は遠くに。

 過去の自分も、それを選択した。

「……、」

 孤児院の扉を開け、庭を歩き、門の横に座り込む。
 現在、村長の家でアキラの処遇について話しているであろうこの孤児院の主は、裏口から入る。
 むしろここは朝まで、見つからない場所だ。

「なんだってんだよ……、マジで」
 きっと、あのときも、自分は同じ言葉を口にした。
 度重なる混乱と共に、アキラは目を閉じる。

 今日はもう、何も考えたくない。
 もう、どうにでもなれ。

―――***―――

 目覚めは、あまりに深いまどろみの中だった。
 夢ではない。
 早朝の空気を感じるし、小鳥の声が遠くに聞こえる。

 そしてアキラの頭に浮かぶ、数々の思考。
 自分の脳は、どうやら寝ている間に分析を進めてくれるほど優秀になったらしい。

 だが、それは、あまり気持ちのいい時間ではなかった。

 まず、当然に、“彼女”は自分のことを覚えていない。
 それは、昨日の盗み聞きした会話から明らかだ。
 そして今、人生の大きな転機に、心を痛めている。

 そして、マリサス=アーティは、いない。
 あの屋上で、透き通るような“唄”は響いていなかった。
 彼女が今どこにいるのかすらも、アキラには分からない。

 ここは、総てがまっさら。
 唯一あるのは、自分の想いだけ。
 “三週目”という言葉に意味を持っているのは、自分だけだ。

「……、」

 現状を把握し終えたアキラの脳は、しかし、動け、という指令を与えてこなかった。
 身体を虚脱感と倦怠感が襲う。

 こんな当然のことすら、考えていなかった。

 “総てが巻き戻った”今、自分のこの想いは、役に立つのだろうか。
 少なくとも、これがなければ、もっと、自分は楽ができたはずなのだ。

 何も知らない、あの頃の自分でいられたというのに。
 自分は、何をやっているのだろう。

―――その想いを持ち込む対価まで払って。

「…………俺、本当に死ぬのかな……?」

 おぼろげに“夢”から覚め、アキラは右をかざして見た。
 眩しい朝日にかざしたそれは、今は何の力もない。
 本当に、透き通るように冷えていた。

 “それ”を失い、自分は対価を払ってまでも“想い”を持ち込んだ。

 未だ現実感が湧かない。

 “あのとき”。

 『魔王を倒す“刻”をもって、俺はいなくなる』

 という問いかけに、彼女は、

『今は激情に任せているだけで、いつか後悔する』

 と、応えた。

 確かにそうだ。
 あのときは、ただひたすらに、その光景を受け止められなかったゆえに、自分は暴走し、それを望んだのだ。

 だが今、アキラには、その後悔さえ浮かんでいなかった。
 現実感がまるでない。
 本当に、あれの冒険が夢だったようだ。

 今あるのは、そんな夢から覚めた、無気力感。
 自分は一体、これからどうすればいいのだろう。

「……?」
 身体を覚醒させ、アキラは気づいた。
 自分は“あのとき”と同様、毛布にくるまれている。

 これは、まさか、

「お目覚めですか?」
「っ、」

 アキラの愚かな期待は、門から出てきた愛想のない女性に打ち砕かれた。

「おはようございます」
「……、はい、おはようございます」

 “同じ無表情”でも、セレンのそれには、アキラは好感を持てなかった。
 マネキンに眼鏡をかけただけのようなセレンの様子は、人が本来持つ温かみも欠如しているようにも見える。

「そちらでお眠りになるようでしたら、お申し付け下されば、毛布以外にもお持ちできたのですが」
「……、っ、いや、ごほっ、ごほっ、」
「おや、風邪ですか?」

 あるいは昨晩以上に、セレンはアキラに敵意を向けているようだった。
 爽やかな朝の空気に混じった不純物。
 どうみても、セレンはアキラを嫌っている。

「毛布、ありがとうございました……、ごほっ、ごほっ、」
「いえ、務めですから。中に入っていただけますか? お話があります」

 あからさまな態度に、アキラはむっとしながらも立ち上がる。
 立ってみて分かったことは、セレンの背丈は思ったより小柄だということと、身体を襲う悪寒だった。

「……、」
 門をくぐり、庭を歩きながら、アキラは周囲を見渡した。
 アキラが子供たちに話を聞かせていた木も、簡単に用意されている児戯具も、見覚えがある。

 それなのに、ここは全く別の空間のような気がした。

「……セレンさん、俺、入って大丈夫ですか?」

 だから、だろうか。
 アキラはかすれ声で、セレンの背に問いかけた。

「……正直、私は少し、あなたを見直しました」

 アキラの言葉をどう取ったのか、セレンは足を止め、振り返った。
 しかし言葉とは裏腹に、表情は相も変わらぬ鉄面皮。
 やはりアキラは、この女性が苦手だ。

「あなた、もしかして、昨日の話をお聞きになっていたのでは?」
「……、え、それは、」
「夜間の出歩きや盗み聞きは褒められることではありませんが、それはいいでしょう」

 アキラの詰まった言葉をあっさりと読み取り、セレンは冷ややかな声で続ける。

「大方の事情は聞いたでしょう。でなければ、外で寝ようなどとは思いませんものね」

 “一週目”。
 そんなセレンの言葉に、アキラはどこか震えていたのを覚えている。
 未だ仕事の手際を見ていないのに、セレンが、総てを推測するほど能力の高いメイドのように感じた。
 そのご都合主義的キャラクターを前に、異世界来訪という歓喜。
 それらが、入り混じっていたのだ。

 そして、“彼女”の言葉を聞き、アキラはいたたまれなくなって外に出た。
 そこまでセレンに推測されているようで、そして、評価されているようで、アキラはどこか嬉しくなったのだ。
 だが今は、まるで心が躍らない。

「正直、エリサスは今回の試験に賭けていましてね」
「……、」
「昨日は、錯乱していたのでしょう。感情制御が下手になっていて……。昨日の言葉は、話半分に聞いておいて下さい」

 その言葉は、アキラは“今回”聞いていない。
 だが、おそらく“一週目”と同じ内容だ。

 自分の悲運。
 世界の冷酷さ。
 そして、嗚咽。

 それはかつて見た、“神”に祈りを捧げていた群衆のような“弱々しさだった”。

 封が取れた“一週目”の記憶は、アキラの頭の中に、僅かな“黒い思考”を積もらせる。

「……私と入れ違いに孤児院を離れた方の話ですが、」
「……、……!」
 セレンは立ち止まったまま、小さく呟いた。
 アキラも閉じかけていた瞳を、こじ開ける。

 セレンの言葉。
 恐らくこれは、日輪属性のスキルとは関係ない。
 セレンは孤児院に入る前に、“彼女”の心情を察するよう、アキラに事情を説明するつもりだったのだろう。

「エリサスの双子の妹です。聞いた話では去年魔術師隊に配属されて、もうすでに激戦区の魔道士隊で務めています。異例の早さでね」

 “一週目”。
 アキラは何の話をしているか分からなかった記憶がある。
 だが、今は分かった。
 これは、あの、“不可能を可能にする少女”の話だ。
 そうでなければ、そんな偉業は達成できないだろう。

 未だ記憶の封は解けない。
 それでも、身体が震える。
 もっと、その話を、

「…………、えっと、それは……?」

 しかし、アキラは眉を寄せるだけに留めた。
 自分は、“事情を知っていてはならない”。
 ここで下手な言葉を紡げば、セレンから完全に危険人物扱いされ、“ヒダマリ=アキラは異世界来訪者”という図式が成り立たなくなる。

「……本当にご存じないようですね。まあとにかく、優秀な妹がいるのですよ。エリサスには」
「はあ……」

 これは、中々辛かった。
 どうすれば、怪しまれずに突っ込んだ話ができるのだろう。
 アキラが思考を進めている間、話はすでに、“彼女”の現在地から離れていた。

「去年、エリサスと共に“とある試験”を受けたのですが……、」

 セレンはアキラが事情を知らないことをついぞ認め、専門用語を避けて解説し出した。
 もしかしたら今まで、鎌をかけられていたのかもしれない。

「まあ、結果はエリサスだけがここにいることから、分かりますよね?」
「……、」
 アキラは無言を返した。

 そのときのエリサスの心情は、察するまでもない。
 あのマリサス=アーティだ。
 きっと、年齢制限うんぬん以前に、とっくに魔術師隊から誘いが来ていたのだろう。
 それを、姉と共にあえて受けた。

 結果は、妹だけが、受かるという無情なもの。
 それだけに、エリサスは今年に賭けていた。

 自分がご都合主義だとかぬかしていたあの事故は、それほどまでに、重かったのだろう。

「私はこの孤児院に努めていますが、正直なところエリサスの魔術の教師としても雇われたのです」
「……、セレンさん、詳しいんですか?」
「ええ。弟が優秀で……、まあ、弟の方は魔術師試験を受けず、旅をしていますが」

 アキラは目を閉じ、過去の記憶を反芻した。
 確かに、彼女と全く同じ会話をここでしたのだ。
 そして同じように、自分はここで胸を締め付けられた。

「身内自慢になってしまいましたね……。まあそれより、本題です。昨日聞いたでしょう? あなたたちの境遇を」
「……、」
 “一週目”では、夢だと思って聞き返したのを思い出した。
 だが、今はそれをする必要は、ない。

 “それ”は、これから始まる旅路の、“前提条件”だ。

「あなたは“それ”を、望んでいますか?」
「……いえ。望んでいません」
 アキラは小さく返した。
 自分がこう言わなければ、始まらないのだ。

「……それを聞いて安心しました。では、とりあえずこちらへ」

 ようやく、セレンの敵意が分かった。
 彼女は、やはり、自分を嫌っている。
 自分が教鞭をとった生徒の晴れ舞台を、アキラはぶち壊したのだ。

 だからこそ、彼女は、アキラに愛想を見せない。

 セレンに促されるまま、アキラは孤児院の扉に向かう。
 頭は割れそうに痛み、身体は軋む。

 そして心は、壊れそうだった。

―――***―――

「どうも……、エリサス=アーティです……」
「……ああ、ヒダマリ=アキラです」

 まず驚いたのは、自分がその少女を見て、ほとんど心が湧かなかったことだった。

 セレンに通された、応接間のような部屋。
 椅子に座り、机の向こう側に生気の抜けた表情でいるのは、エリサス=アーティ。
 赤毛も、今は力のない大きな瞳も、アキラの記憶と完全に一致している。

 ついに、正面からきちんと捉えた“彼女”。
 それなのに、自分はただ、それを“出会い”と認識してしまっている。

 身体に悪寒が走った。

「あの……、…………エリサスさん?」
「……エリーでいいです」
「あ、ああ、」

 アキラの問いかけにも、エリーは無表情のまま言葉を吐き出しただけだった。
 口調もよそよそしい。
 やはり彼女は当然に、自分のことを知らないのだ。

「エリサス、飲みなさい」
「だからエリーで……、……? ああ、セレンさん」
 目の前にお茶を置かれて、ようやくエリーはセレンの存在に気づいたようだった。
 もしかしたら、エリーはアキラのことにも気づいておらず、機械的な反応をしているだけなのかもしれない。

「……アキラさん。とりあえず、お聞きしたいことがあるのですが」
「……はい」

 アキラも、セレンに機械的に反応した。
 ここで“生きている”のは、セレンだけのように思える。

「あなたは、異世界から来た、と申しましたね?」

 セレンの質問は、気分的に、尋問のようにアキラは感じた。

 まず異世界の文化や環境を聞かれ、異世界からどのようにここに来たかを聞かれ、そして反復させられる。

 文化や環境は、思ったよりも簡単に答えられた。
 旅の道中、みなに話して聞かせていたものだ。
 それどころか、かつて、全く同じような会話をここでセレンとしたのだ。

 科学的な自分の世界と、魔術的なこちらの世界。
 信仰にはあまり執着が見られない自分の状況と、信仰が強いこちらの状況。
 学力が主として求められる自分の環境と、魔力が主として求められるこちらの環境。

 “その差異を認識していないように”、適当に話していく。

 そして、ここに来た手段は、やはり分からないとしか答えられなかった。

 “自分は、気づいたら塔の上に張り付いていたのだ”。

 最後の反復でも同じ答えを返し、今度こそ僅かにでも信用したのか、セレンは小さく頷いた。

 自分は、一体いつから嘘を吐くのがこんなに上手くなったのだろう。
 アキラの心は乾き、ただひたすらに“演じる”。

 その間、エリーは口を挟まず、アキラもそちらを見なかった。
 かつても、昨日の彼女の様子から、触れぬようにしていたのを思い出す。

「……セレンさん、婚約解消する方法はありませんか?」

 ようやくセレンの“尋問”が終わり、アキラは意を決して口を開く。
 “その言葉でようやくエリーは顔を僅かに上げた”。

 なんて“弱々しいのだろう”。

 彼女の関心を惹く事柄は、きっと、今はそれだけなのだ。

「……実は、正確なことは分かりませんが……、一つ、いや、これは、」
「あの、話して下さい」
 エリーが口を開く。
 どこかすがりつくようなその様子を、アキラはぼうっと眺めていた。

「“魔王討伐”、です」
「……!」

 エリーの顔色が変わる。
 一方アキラは、その“規定事項”に、さしたる感情も持てなかった。

「昨日の今日で私も調べ切れたわけではないのだけど、エリサス、聞いたことがあるでしょう? “特権”を」
「え、それは、えっと、どこかで、で、でも、」

 エリーが信じられないといったような顔で、言葉を漏らし続ける。
 あのときの彼女は、“そのこと”について、そこまでの動揺をしていなかったはずだ。

 “いつもは”強気な瞳も萎れ、身体にも活力がない。

 一体何故、彼女は、弱々しいのだろう。

 “彼女”なら、この場面でも、もっと―――

「……、ぁ……、」
「? アキラさん?」

 セレンが眉をひそめる。

だがそれに視線一つ配らず。

 総てが崩れていくのを感じていた。

 そう、だったのだ。

 ようやくアキラは理解した。
 いや、してしまった。

 ずっと、心にあった、黒い悪寒。

「……、ぁぁ……、」
「……?」

 アキラから漏れる声にも、恐る恐るといった表情を彼女は浮かべる。

 理解、した。

―――このエリーは、自分の知っている“エリサス=アーティ”ではない。

「……、」
「あ、あの、どうし……、たんですか?」

 アキラの様子に、エリーがようやく言葉をかけてくる。
 だが、その他人行儀な言葉は、認識することすらできなかった。

 “二週目”。
 エリーは、気丈だった。
 それこそ、怒鳴るように叫べるほどに。

 何故なら彼女には、最愛の双子の妹―――マリサス=アーティがいたのだから。
 その、“守るべき対象”。
 その存在の代わりにいるのは、逆にエリーの姉のように凛としたセレン。
 彼女は“頼られる存在”ではない。

 “不可能を可能にする少女”―――マリサス=アーティの存在は、エリーに“不可能”という概念をあやふやにさせていたのだろう。

 マリサス=アーティの存在は、エリーに、妹を守るという“義務感”と、不可能をあやふやにさせる“夢”という矛盾した二つの要素を与えていた。

 守る存在で、守られる存在。
 その分、彼女は妹にコンプレックスを覚えていたが、それで“二週目のエリサス=アーティ”だったのだ。

 “一週目”の彼女を思い出せない。
 だが、記憶に残った“二週目”の彼女とのギャップ。

 それが、この悪寒の正体だった。

 ならば、この、想いは―――

「……、」
「ね、ねえ、顔色悪い、ですよ……? 何を、」

―――ここには、繋がっていない。

「…………俺さ、夢があったんだ……、」

 全身から力が抜けていく。

「最近見つけたばっかだけどさ……、資格、一つ取ろうと思ってたんだよ」
「……?」

 口からは、持ってきた想いが、魂ごと抜けていった。
 紡ぐ言葉は、誰にも、届かないだろう。

「俺馬鹿だから……。すっげぇ難しいらしくてさ……、それで、教えてくれって頼んだんだよ。“師匠”に」

 俯いて、目を閉じた。
 何を自分は、“清算するようなこと”を口にしているのだろう。

「でも多分、そんな資格なんて、どうでもよかったんだ」

 アキラの手のひらは、額を抑えた。
 ずっと、総てを蹂躙してきたその右手。
 それは、アキラに何も与えてくれなかった。

「そいつとさ、一緒にいられれば、って。……そんだけ」

 そしてそれはもう、叶わない。

 時間を巻き戻すという大罪。
 そしてその対価―――自分の未来の喪失。

 それは、総ての世界を閉ざしていた。

「……、ま、まあ、とにかく。アキラさんも、エリサスとの婚姻には納得していないんですよね?」
「……ああ」

 セレンには、異常なまでに冷たい言葉を返していた。
 それを受けて、僅かにセレンも雰囲気を変える。

 ただの同情だろう。
 “元の世界から異世界に来て”、総てが壊れたのがエリサスだけではないと気づいただけの。

 そして自分は、その同情すら受け取る資格がない。
 ここを選択したのは、他ならぬ自分だ。

「あ、あの、」
「……、」

 エリーの言葉が聞こえても、アキラは顔を上げなかった。
 耳鳴りの向こう、エリーが何かを言っている。
 だがそれも、“同情”だった。

「……悪い。続けて下さい。セレンさん、婚約破棄の方法を、」
「は、はい、」

 塞ぎ込んでいても仕方がない。
 ただアキラは、“規定事項”を淡々と進めるべく、顔をゆっくりと上げた。

「私もそちらの方は詳しくないので……、まず、“ヘヴンズゲート”に行って“神族”の方に確認をした方が、」
「あ、あんな所まで行くんですか……?」
「ええ、そこでなら、詳しい人もいるでしょう」

 目の前で物語が進んでいく。
 本来そこに嗅ぎ取るはずの高揚は、アキラには全く湧かなかった。
 ただ、無敵のデータバンク―――マリサス=アーティがいなければ、その確証を得るために、あそこに行く必要性があるのか、という程度だ。

 ヘヴンズゲートには、“神界に繋がる門”がある。
 そこに行けば、“神族”に逢って確認できるかもしれない。

「でも、ヘヴンズゲートに行っても、“神族”の方に逢うなんて、」
「いえ、それが、」

 セレンの視線がアキラに向く。
 エリーもそれに倣い、二人の視線が集まったアキラは、“何のことか分からない顔を作った”。

「アキラさん。心中お察ししますが、元気を出して下さい。あなたは、“勇者様”に選ばれたそうです」

 とても栄誉あることのようにセレンが発した言葉。

 それに対して、驚いた“演技”までは流石にできなかった。

―――***―――

「分かったはずだろ……、んなことは……」

 アキラは自室に戻り、そのままベッドに突っ伏した。
 頭はずきずきと痛み、身体は鉛のように重い。
 そして体を襲うのは、これ以上ない倦怠感。

「……、」

 人とは、一体どういう風に形作られるものなのだろう。

 先天的なものと、後天的なもの。

 その二つの要素で決定していくと聞いたことがある。

 あらゆる経験を先天的なものが受け取り、後天的に蓄積されていく。

 つまり、全く同じ経験をしても、先天的なものが違えば同一人物にはならない。
 そして、全く同じ“器”があったとしても、後天的なものが違えば同一人物にはならない。

「……、」

 分かり切っていたことだ、それは。
 だが“あのとき”、自分はそんなことを全く考えていなかった。

 ここはただの“続編”。
 続く日々が、戻ってくると思っていただけだった。

 何故、“マリサス=アーティ”はいてくれないのだろう。
 彼女がいれば、“エリサス=アーティ”は“エリサス=アーティ”のままで、こんな混乱はしなかった。

 いや、だが。
 この“三週目”は“一週目”に準拠している。

 ならば、これが、“世界のあるべき姿”なのだろうか。

「…………、関係ない……、」

 アキラは枕に突っ伏したまま、くぐもった声を漏らした。

 そうだ、関係ない。

 ここは旅の始まりの地。
 そんな場所で、いじいじとしている場合ではないのだ。

「そうだ……、そうだ……、」

 僅かにでも気を抜けば、頭の隅から押し寄せる黒い世界。
 それを振り払うために、アキラは何度も呟いた。

 “彼女”が自分を覚えていない。
 “彼女”が“彼女”ではない。

 だからなんだというのだ。

 すっかり萎えてしまったが、あの激情。
 それだけは、確かに覚えている。

 自分は総てを捨ててでも、運命を塗り替えたいと思ったではないだろうか。

「……、」

 アキラは起き上がり、ベッドに深々と座り込む。

 落ち着け。
 自分に今必要なのは、落ち着くことだ。

 この世界に来たことを、“後悔することは許されない”。

 “責任感”からか、それとも“罪悪感”からか。
 アキラは、心を麻痺させた。

「……、」

 状況を整理しなくては。
 考えるまでもなく、さくさくと進んだ“二週目”とは違う。
 ここでは総てがまっさら。

 “自分”が、考えて進まなければ。

 “マリサス=アーティ”がいない以上、いや、“例えいたとしても”、それを“言い訳”に考えることを放棄することは許されない。

 人任せチート任せの“二週目”とは、まるで状況が違うのだ。
 考えることが苦手だろうがなんだろうが、関係ない。

 “自分が調べ”、“自分が考え”、“自分が動き”、“自分が評価する”。

 そう在らなければならないのだ。
 そしてそれだけの決意を、自分は“二週目”から持ってきたのではないのか。

「……、」

 状況整理となすべきことを考える。
 アキラはそれを、何度も頭の中で繰り返した。

 今は、“三週目”の世界。
 エリーは自分を覚えておらず、マリスも何故かいない。
 そして自分は“リビリスアークの勇者様”に認定され、旅に出る。

 目指す先は、“神族”のいる“ヘヴンズゲート”。
 目的は、“婚約破棄”の確認だ。

 実際、“今行っても入れない”のだが、“それを自分は知らない”。

「……、」
 頭を軽く小突き、アキラは目を強く閉じた。

 頭の中で何度も、どうする、どうする、と反芻し続ける。

 ここで彼女たちに自分が“繰り返していること”を伝えても、訳の分からない話として処理されるだけだ。
 最悪危険人物として追い出され、魔王討伐に旅立てなくなるかもしれない。

 ならば、今は、

「……なぞるか。“一週目”を」

 未だ記憶に封がされている“一週目”。
 結末は黒く濁っていたが、それ以外は正常だったはずだ。

 総てに抗っていては、目的が達せられない可能性すらある。
 運命を捻じ曲げるのは、必要最小限であるべきだ。
 余計な動きは、世界を侵食する“バグ”を作ってしまう。

 そして、最後だけ―――結末だけを、自分は変える。

「……、っし、」

 方針は決まった。

 自分は、無垢な“勇者様”。
 キラキラと輝いていた世界を、満喫する存在。

 ただ、必要なことを、必要な分だけ、変える。
 それで、いい。

「……!」

 アキラが結論を出したところで、ノックの音が響いた。

「あの……、いますか?」
「っ、」
 顔を向けたドアの向こうから、聞き慣れた声が届いた。
 アキラは身体を硬直させ、喉をつまらせる。

「……あの?」
「……、あ、ああ、開いてるよ」

 ゆっくりと開いたドアの向こう、立っていたのはアキラが今一番会いたくない相手だった。
 恐る恐る立つその赤毛の少女は、ドアを開くだけで部屋に入ろうとしない。

「いいよ、入ってくれ」
「……お邪魔します」

 ベッドに座り込んだままエリーを迎えたアキラは、そこでようやくエリーの髪が長いことに気づいた。

 ああそうか。
 “切っていない”のだから当然だった。

「あの、お食事の準備ができました」

 部屋の隅に立って恭しく口にしたエリーは、“勇者様”に接していた。

「悪い、今、なんか食欲ないんだ」
「え、でも、」
「マジ、今は、……悪いな」

 アキラは“笑って”応答した。

 昨晩から水程度しか飲んでいないが、実際アキラの胃は何も求めていなかった。
 心では分かっていても、流石に身体はまだついて来ない。

「あの、やっぱり具合が、」
「大丈夫……、大丈夫だから。戻ってくれ。……悪い」

 違う。
 言ったあと、アキラはうずくまったまま目を見開いた。
 自分の部屋を来訪してきた美少女を追い返す男ではないのだ、“ヒダマリ=アキラ”は。

 もしかしたら“一週目”も同じことが起こったかもしれない。

 確か、自分は、確か、

「あの、」

 しかし、エリーは出て行かなかった。

「元気、出して下さい」

 なるほど、彼女に自分はそう見えているのか。
 自分はふっ切ったつもりでも、他者から見ればまだまだなのだろう。

「“勇者様”にいきなりなれなんて……、そんなのはやっぱり辛いですよね?」

 一番辛いのは、そんな“どうでもいいこと”ではない。
 アキラはとうとう笑うのを諦め、顔を伏せた。

「……あの、元気、」
「……なあ」
「?」

 とりあえず、自分はすでに“バグ”を作っている。

 “一週目”。
 覚えている限りでは、自分は相変わらず馬鹿をやり、エリーに同情されるようなことを言っていなかった。

「元気出すから……、その、もっと楽に話してくれ」
「え?」

 まずは、関係の修復。
 アキラの頭は機械的に動いていた。

 エリーの口調は、“そう”ではないのだ。

 エリーに罪はない。
 つい先日まで、彼女は魔術師試験の勉強を行っていたのだ。

 『“勇者様”へは最大限の敬意を』

 そんな下らない“しきたり”関係も、試験範囲に含まれていると聞いた。

 エリーが自分に、最大限の敬意を向ける。

 それは、ない。
 そして、そんなことをされたら、自分があまりにみじめではないか。

「……元の世界に、戻りたいんで……、も、戻りたいの……?」
「いや、違う」
「?」
「俺は、そう、勇者で……、」

 違う。
 自分の口調も、もっと、

「ほら、俺、“勇者様”だろ? だから、魔王なんて速攻で倒せんだろ?」

 確か、こうだ。

「……へ?」
「ちょろいちょろい。そんなのとっとと終わらせればいいし」

 エリーの瞳が、徐々に不審の色を帯びてきている。
 一般人の思考からしてみれば当然だろう。
 あの激戦区の魔道士たちですら、“魔王の牙城”の動きに慌てふためいていたのだから。
 こんな場所にいては、魔王の存在など絵空事だ。
 ここには“不可能を可能にする少女”が見せる“夢”もない。

「ずっとこんな世界に憧れてた。ほら、俺の世界って、戦いとかないって言ったろ?」
「い、いや、“魔王”は、」
「冷静になって考えてみ? 異世界からわざわざ来たんだぜ? そりゃもう魔王倒せってことじゃないか」

 エリーは一瞬止まり、そして瞳に別の色が入り始める。
 呆れ、だろうか。
 だが奇しくも、“彼女”はいつもそうやって自分を見ていた気がする。

「全部、上手くいく」

 楽天的に、どうしようもないほど楽観的に。
 それが、きっと、“ヒダマリ=アキラ”だ。

「魔王討伐も、俺らの“婚約破棄”も、全部、全部だ」

 そうだ。
 かつてそこに行った、“ヒダマリ=アキラ”なら、

「全部、上手くいく」

 その、はずだ。

「……、その、じゃあ、朝食、食べませんか?」
「……あのさ、俺、元気出したじゃん」
「だ、だったら、あたしは楽に話すから、食べましょう? 元気に」
「……、」

 ようやく笑ったエリーを見ながら、アキラはため息を吐いた。
 こういう部分は、先天的なのかもしれない。

「はあ……、分かった。行こう」
「え、ええ。“異世界”の話、聞かせてくだ……、き、聞かせてくれると嬉しいかな」
「……ああ」

 アキラは立ち上がり、エリーを追い抜く。
 ようやく“彼女”と会話できた気がする。

 やはり、自分が“そう”あれば、世界は上手く回っていくのだ。
 自分が馬鹿で、物事を深追いしなければ、世界は輝く。

 きっとそうだ、とアキラは念じ続ける。

「…………元気、出してね……?」

 後ろから届いたその言葉は、聞こえないふりをした。

―――***―――

「おおっ、神よ!! この出逢いに感謝いたします」

 パンを一かじりする程度という形だけの朝食を終えたあと、アキラの全身に初めて喪失感以外のものが湧き上がってきた。

 玄関先でかち合ったその“死神”―――村長ファリッツは、従者を二人連れて恭しく頭を下げる。

 そう、だった。
 楽天的な、異世界来訪者の“ヒダマリ=アキラ”の自分。

 その自分には、本日刻まなければならない“刻”があるのだ。

「この日を今か今かと待ちわびて降りました。昨夜はお疲れであろうと挨拶をご遠慮させていただきましたが、不詳わたくし、今後はご協力を惜しみません!!」
「村長、お声が大きいです……!!」

 先ほどの朝食でようやく出会えた恰幅のいい女性―――エルラシアが、ファリッツをたしなめる。
 彼女が玄関先で問答しているのが聞こえ、夏の虫のように寄っていってみればこれだ。

「自己紹介が遅れました。村長のリゼル=ファリッツと申します」
「……ヒダマリ=アキラです……」
「おやっ、ご気分でも?」
 アキラの沈んだ声に、ファリッツは眉をひそめる。
 背が低く、それでいて恰幅のいいファリッツの様子は、一々オーバーだった。

「いや、大丈夫……、ごほっ、ごほっ、」
「っ、いかがいたしました!? “勇者様”!!」

 ファリッツの大声は、アキラの頭に、ずきずきと響く。

 だが本当に、どうしよう。

「っ、エルラシア!! セレン!!」
 アキラの体調が優れないことを感じ取ったファリッツが、隣のエルラシアと、奥の部屋で子供たちの相手をしていたセレンを呼びつけた。
 二人とも、うんざりとした表情を浮かべている。

「これはいったいどういう了見だ!? “勇者様”がっ、」
「いっ、いやっ、大丈夫ですから!!」
 演技がかったようにも、されど本気で激怒しているようにも見えるファリッツの怒声を、アキラは声を張って止めた。
 これ以上頭が潰れそうな大声を止めたかった方が本音かもしれない。
 だが、身体の方も、もうすぐぺしゃんこだ。

「アキラさん、やはり……、」

 エルラシアがファリッツの向こうで申し訳なさそうな顔をしている。
 だが、結局のところ、この不調は自業自得だ。
 アキラは首を振り、視線で大丈夫と合図を送る。

「ご都合が良いようでしたら……、実は最近困ったことがありまして、」

 アキラは頷いた。
 いや、思わず頷いてしまった。

「ねえ、本当に大丈夫です……大丈夫?」
「だいじょばない」
「へ?」
「いや、大丈夫」

 顔を覗き込んできたエリーに、アキラは微笑を返した。
 本当に、どうすべきか。

「そうだ、エリサス。私などよりも、彼女から説明を受けた方がよろしいかと」
「! あ、あたし、ですか!?」
「親睦を深めなくては、ね。では、こちらにどうぞ」
 いやらしく笑いながら、ファリッツはアキラを外に促す。
 アキラはそれに、執行現場にあるく死刑囚の気分を味わいながら続いた。
 “意味不明な理由”で断ることができない。

「こちらです」

 だが、ファリッツにかけるべき言葉も見つからず、アキラは建物の外に出る。

 建物を出てすぐの庭には、やはり、台車が停めてあった。
 茶色い畳のようなカバーも、重さを象徴するように庭に刻まれた車輪の傷跡も、アキラの記憶とぴったり一致。
 せめて何か差異がないかと視線を走らせても、何一つ現状を打破できる存在は見つからなかった。

「どうぞ」

 目の前の台車の前が指差された。
 それを無表情で眺め、ファリッツの指示通りに荷物番がカバーを剥がすと、

「まあ、詳細はともかく、お願いしたいのは、そのモンスターの討伐なのです。ぜひ、“勇者様”のお力をお貸しいただければ幸いなのですが……」
「……ほら」

 やはり現れた数多の武具に、アキラは小さく頷いた。

 ファリッツたちは、異世界というものを誤認しているのかもしれなかった。
 その異世界は、この世界と違いこそはすれ、戦闘というものが存在している、と。
 だが、実質、そうではない。
 少なくともアキラがいた日本という国は、こんな武具とは無縁な平和な世界だ。

 だから何の迷いもなく、魔物討伐などと言い出せるのだろう。

「ね、ねえ、…………大丈夫なの?」
「……ああ」

 先ほどからそれを繰り返すエリーに、アキラは何度もそう答える。
 自分の顔色は、今一体どうなっているだろう。

「……なんで……、」
「?」
「なんで大事なところが違うのに……、ここは同じなんだよ……!?」
「へ?」

 エリーを責めても何の意味もない。
 ファリッツの暴挙を止められる存在は、この村ではエルラシアくらいだろう。
 だがそのエルラシアも、この状況を“いつものこと”と諦めている。

 ああいっそ、鉛のように重い身体に任せ、この場で倒れ込んでみようか。

「……!」

 そこで、アキラの脳裏に何かが掠めた。
 それはこの“刻”を刻んだからだろうか。
 記憶の封が、一つ解けた。

 “一週目”。
 自分は具合が悪いとは言えなかった。
 今は聞き流したが、『“勇者様”への不届きは重罪』という“しきたり”。
 自分が勝手に外に出て具合が悪くなったのだが、その言葉にどこか重いものを感じ、自分は元気に振舞って外に出たのだ。

 本当に、ただ、具合が悪いのを押して魔物討伐に出るのは格好いいなどと見栄を張りたくなって。

 先ほど、アキラがせき込んだだけで、ファリッツはあの剣幕になった。

 頭に流れる淡々とした説明文は、アキラから退路を奪い去る。

「……、あたしも、行きます」
「おおっ、エリサスも言ってくれるか!!」
「……駄目だ」

 アキラの口からは自然と言葉が出た。
 エリーはその強い口調に眉を寄せる。

 彼女は何も分かっていない。
 今から行く、その目的地。

 そこに、どういった存在が立ちはだかっているのか。

「お前正気か? 死ぬぞ……!?」
「……、あなた、あたしのこと馬鹿にしている?」
「いや、そういうわけじゃ、」
「討伐対象だって知らないんでしょ? 一人でなんて行けるわけない」

 知っている、と言いたいところだったが、それは叶わない。
 そしてエリーには、一応自信があるのだ。
 魔術師試験を突破しているのだから。

 だが、例え魔道士だとしても、あの敵は―――

「……?」

 そこで、アキラは気づいた。
 “一週目”。
 確かに自分はこの“刻”を刻んでいる。

 では何故、自分の旅は続いたのだろう。

 ここには総てを蹂躙するあの銃も、宙を飛び交い敵を討つ天才少女もいない。
 しかし、自分たちは“続いた”。

 記憶の封は未だ解けない。
 だが、きっと、何か。

「あたし、準備してくるから選んでて」
「…………いや、マジで聞いてくれ、」

 建物に戻ろうとしたエリーをアキラは一瞬遅れて止めた。
 駄目だ。

 何とかなったから、何とかなった。

 ポジティブな考えだが、流石に賭けるものが大きすぎる。
 そこまで達観してはいられない。

「なに?」
「……えっと、その、えっと、」
「……、」

 アキラは言葉を紡ごうとするも、やはり途切れてしまう。

 こういうとき、どう言えばいいのだろう。
 このままでは、二人揃って大惨事だ。

「……大体、あなた戦いのない世界から来たって言ってたでしょ? それじゃ危ないし、」
 エリーはアキラに詰め寄り、ぼそぼそと呟く。
 アキラの体面を気にしてくれるのはありがたいが、彼女には決定的に理解が不足している。

「……それとも、具合、やっぱり、」
「いや、だから、」
「……無理しなくていいわよ? 気持ちだけで、」
「……大丈夫だ」

 彼女も、“しきたり”関連のことには気づいているようだ。

 実際、アキラの具合は最悪だ。
 だがエリーにしてみれば、“あの程度の魔物”病人一人いたところで問題ない。
 “その先に待つ存在”など、想像もしていないだろう。

 アキラは言葉に出さずとも、視線でエリーにSOS信号を送っていた。

「……ま、まあ、もし何かあっても、自分の身くらいは守れるでしょ?」

 アキラの視線をエリーのみへの懸念と取ったのか、エリーはどこか拗ねたように言葉を紡いだ。
 彼女は自分一人でも依頼を達成できると自信を持っている。
 だからアキラの不調さえも、そこまで問題とは考えていないのだ。

「っ、」

 もう駄目だ。
 今ここで総てを暴露してもいい。

「だって、あなた、」

 このファリッツの暴挙を止めるには、それしかない。

 問題は、信じてくれるかだが―――

「“スライムくらいなら楽勝”なんでしょ?」

 アキラの身体が停止するのと、エリーが駆け出すのは同時だった。

―――***―――

「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチュ」
「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチューーーッ(叫)!!!!―――ごほごほっ、」

 村から出て、すぐに広がる大自然。
 アキラのかすれた叫び声が響き渡った。

 一縷の望みを託して聞いてみても、彼女から戻ってきたのはその正式名称。
 やはり、今回も討伐対象は、“それ”で間違いないらしい。

「通称、マーチュ。よく一回で覚えられたわね……」
「帰ろう」
「え? ここまできて?」
「はあ……、」

 身体に吸いつくような上下連なったアンダーウェアに、胸やすねの急所に簡単な防具。
 ハーフパンツのようなズボンも、動きを阻害しない程度の羽織った半袖のローブも、実に機動的な服装だ。
 長い赤毛をポニーテールに結び、背に垂らしている。

 アキラがよく知るエリーの戦闘服だ。
 そこは、変わっていない。
 そして、この先に待つ存在も“二週目”と変わっていない。

 だが、“そんなことよりも”。

「……、」
 アキラは隣を病人に付き添うように歩くエリーを、横目で盗み見ていた。

 彼女は先ほど、なんと言ったのか。

 自分はこの“三週目”、“その言葉”を発した記憶がない。
 なにしろアキラの中で、“スライム”は、決して“くらい”と称する存在ではないのだから。

 熱に浮かされた頭が痛む。
 もしかしたら記憶にないだけで、ポロっと漏らしていたのかもしれない。

 いや、だが、それでも。

 何かと何かが、繋がったような、

「あ、ほら、そろそろ注意しないと……。そろそろ魔物、出てくるわよ?」
「……え?」
 しばし、反応が遅れた。
 思考の渦から這い出たアキラの口は、かすれたうめき声を漏らす。

 エリーは何を言っているのだろう。
 マーチュが出現するのは、ここではない。

 の、はず、だが、

「……!」

 アキラは思考を中断した。
 背筋を何かが撫で、鼻孔を何かがくすぐり、身体が何かを受け止める。

 視覚情報に頼らない、形容しがたい空気。

 “二週目”、アキラは、誰かが何かを察すると、『気でも感じるのか』と呆れながら言った記憶がある。
 もしかしたら、こんな感覚なのかもしれない。

 “戦闘の匂いがする”。

「……!」

 アキラが足を止め、身構えたと同時。
 踏みならされた草原の道に、わきの草薮から、ぴょこ、っと小さな生物が姿を現した。

 仔犬ほどの背丈。
 アキラの膝ほどにも満たないサイズの、狐色のリスのようなその存在。
 くるっ、と丸い瞳に、渦巻きの模様か身体についている。
 後ろに見える尻尾も、ふぁっさふぁさの毛で覆われていた。
 その、愛らしい生物は、たった一体で、必死に二足で立ち、プルプルと震えてアキラたちを見上げている。

「……マーチュよ。さ、さあ、」
「……あ、ああ、」

 今度は流石に断らなかった。
 あの愛らしい生物の攻撃力は知っている。

 自分の第六感が目覚めたのかと感じるも、その歓喜を仕舞い込んだ。

 これは、戦闘なのだ。

 そうだった。
 そもそも、魔物は“普通に出現するのだ”。
 “魔物さえも恐れる存在”と共に旅をしていない限りは。

「……、」
 アキラは剣を抜き、一歩前に出て構える。
 とりあえず、疑念は置いておこう。

 今は、戦闘だ。

「―――、」
 すっ、と音が遠くなった。

 渦巻く思考や、沈んだ心。
 それら総てが消え去り、感覚は鋭くなっていく。

 身体が、魔物を倒す機械になる感覚。
 戦闘への切り替え。

 これは、記憶を持ち込んだ恩恵だろうか。

 身体は鉛のように重い。
 だが、ようやく、“三週目”初の戦闘。

 今はとりあえず、それを終えよう。

「きゅう?」
「……、」

 久しぶりのマーチュの姿に、良心は確かに痛む。
 だがアキラは、脇を締めてそれを瞳で捉える。

 “つい先日前”まで、自分は、この愛らしい生物より遥かに強大な存在と戦っていたのだ。
 心は冷静、視線は逸らさずに。
 しかし周囲にも気を配る。

 ただただ、集中して―――

「キューッ!!」

 アキラの瞳は、マーチュが跳んだのを確かに捉えた。

 “自分は、戦い方を知っている”。

「―――!?」
 マーチュの突撃を迎え撃とうとして、アキラは気づいた。

 戦闘の中、身体の現在の情報が頭に浮かぶ。

 やはり身体が、異常なまでに重い。
 ずっと具合が悪いせいだと思っていた、この不具合。

 これは、そんなものではない。

「―――っ、」

 戸惑うアキラの視線の先、マーチュが渦巻き模様のついた頭を向けてくる。

 まずい。
 今は、とにかく、“回避”だ。

「っ!!」

 倒れ込むように、マーチュの突撃を回避。
 身体を地面に打ち付け、仕込んだ防具が軋む。
 それすらも、異常に重い。

「っ、」
「きゅう?」

 起き上って振り返れば、攻撃を外して戸惑うマーチュと、その向こう側にいてアキラの戦いを眺めているエリーが見えた。
 エリーの姿を頭から追い出し、再び集中。

 今は、マーチュ相手にも予断は許されない。

「っ、」

 アキラは剣を再び構える。
 日常から切り離されて、ようやく気づけた。

 そうだ。
 エリーも、“違った”。

 だが、違うのはそこだけではない。
 自分もまた、“違う”。

 これは、“自分の身体ではないのだ”。

 もしかしたらエリーたちが自分の具合を気にかけていたのも、アキラの顔色以上に、動きの方に不自然さを見出していたからかもしれない。

 それはそうだ。
 つい先日前まで激戦区にいたアキラの精神と、つい先日前まで平和に日本で暮らしていたアキラの身体。

 それらはまだ、一致していない。

「キューッ!!」
「っ、」
 マーチュの突撃を、アキラは再び転がって回避。

 しかしやはり、動きは鈍い。

「……、」

 アキラはマーチュと対峙しつつ、大きく息を吸い、それを吐き出す。

 身体は機械。
 ただ敵を倒すためだけに、必要なことだけが頭に浮かび続ける。

 慣れなければ。
 今はとにかく、この身体に。

 そして、倒さなければ。
 今はとにかく、目の前の敵を。

 身体は鈍い。
 だが、鈍いときの戦い方を自分は習った。

 相手はマーチュ。
 動きはそこまで速くない。

 あとは、隙を作れば。

「キューッ!!」
「―――、」

 ワンパターンの攻撃を、今度は大げさに回避しなかった。
 マーチュが地を蹴る瞬間のみに集中し、身体をルートから外す。
 そして剣を振り上げた。

「―――、」

 襲いかかったマーチュが、アキラの隣を通過する。

 あとは、振り下ろす―――

「っ、」
「き、きゅう?」

 僅かに遅れた。
 マーチュは剣が振り下ろされる直前に通過し、無事に着地している。

 身体が意識について来ない。
 もう少し、早く、だ。

「……、ふー、」
 息を吸って吐く。

 戦闘の中にあって、アキラは初めて解放感を覚えていた。

 ここでは、“演じる”必要がない。

 集中の仕方。
 剣の使い方。
 そして魔力の流し方。

 全部同じだ。
 これは、間違いなく、自分の身体なのだから。

 戦闘は、必要なものを総て吐き出せる。

 あとは、“ずれ”。
 それを、修正していく。

 それだけで、自分は、“勇者様”に―――

「キューッ!!」

―――決まる。

 スローモーションのような光景の中、アキラは自分の剣の軌道が見えた。
 この一刀は、間違いなくマーチュを両断する。

「―――、」

 回避、そして攻撃。
 ほんの僅かに動きの不自然さが薄れ、そしてそれを読み、マーチュに剣を振り下ろす―――

「ギュウッ!?」
「―――!?」

 カッ、と光が爆ぜた。
 微弱な、それでいて、煌々としたその光。

 それは、オレンジ。

 やはり、同じだ。

「はあ……、はあ……、」

 アキラが一歩のけ反ったところで、マーチュが爆ぜた。
 戦闘不能の、爆発。

 思えばこれが―――始まりだった。

「―――はあ……、はあ……、」
 腕が痺れ、ほとんど杖のように剣を地面に突き刺す。

 身体と精神の“ずれ”は、未だ上手く掴めない。
 これならば、まだこの世界に来たばかりの頃の方が動けただろう。

 だが、ともあれ、自分は敵を倒した。

「か……、勝ったぁっ!!」

 身体が震える。
 戦闘の熱気を確かに感じた。
 心地良い。

 “三週目”の世界の中、初めて自分が自分になった気がした。

「……し……、真剣……!?」

 そこで、エリーの声が届いた。
 彼女の瞳には、小動物と形容しても差し支えのない脆弱な魔物に全力を尽くしていたアキラが映っている。

「……なんだよ、お前も手伝ってくれよ」
「い、いや、ものすごく近寄りがたい空気だったから……、え、てか、やっぱり“日輪属性”なの?」
「…………、なんだ、それ?」

 戦闘が終われば、“知らない自分”。
 アキラの高揚は萎み、“そういう”顔を作った。

「魔術の属性の一つよ。『“勇者様”の証』」
「……、」

 アキラは、訂正しなかった。

「ま、まあいいわ。それよりあなた、戦いのない世界から来たとか言ってなかった……?」
「……、」
「なんで、そんなに、なんか、雰囲気、とか、」

 完全に素人なはずの人物が剣を使い、魔力での攻撃をしたのは不自然なのだろう。
 アキラは視線を逸らし、剣を仕舞った。

 止めてくれ。
 アキラは心の中で念じた。
 これ以上“制約”が増えたら、今度こそ、“自分が自分でいられる場所”がなくなってしまう。

「行こうぜ」
「ちょ、ちょっと、」

 アキラはふらつく足取りで、前へ進む。
 エリーが追いつき口を開く直前、くるりと顔を向け、はっきりと返した。

「“ご都合主義”だよ。勇者の血が目覚めたんだ」
「は、はあ……?」

 ああなんて、便利な言葉だろう。

―――***―――

「っ、」
 剣の一撃が、魔物を両断する。

「ふっ、」
 その背後、スカーレットの光が爆ぜたと思えば鈍い打撃音と呻き声。

「―――、」
 最後に視界の隅に捉えた敵から退き、コンパクトに剣を振れば、オレンジの色が爆ぜ、辺りは爆発音を残すのみとなった。

「……よし、帰ろう」
「ちょ、ちょっと!! 戦闘終わるたびに何でそんなに帰りたがるのよ!?」

 エリーの声は、魔物の爆発音にも勝った。
 ここまでの道中、魔物との戦闘は何度目だろう。
 ときおり、マーチュとは違う犬のような魔物も出現し、いい加減にアキラの腕も痛み出している。
 その上、未だ身体に違和感を覚え、動き辛い。

 だがそれより遥かに問題なのは、その状態でもさくさくと進んでしまっていることなのだが。

「いやだって、どこまで行く気だよ?」
「ここまではただの道。あたしたちが行くのは、ほら、あの洞窟」
「……、」

 流石に洞窟の外観を覚えていたわけではないが、エリーが指したのは間違いなく“マーチュの巣”だろう。

 木々に囲まれて薄暗いその洞窟は、もう目と鼻の先だ。

「ほ、ほら、ここまで来たんだから」

 エリーの口調が軽くなったのは幸いだが、現状、そんなことはどうでもよかった。
 問題なのは、この先に待つ圧倒的な存在。

 本当に、“一週目”の自分は一体どうやって解決したというのか。
 しかしここまで来ても、記憶の封は解けない。

「あそこ。まあ、あたしも入ったことないんだけど、奥まで行けば大丈夫よ。そりゃあ全滅させることはできないと思うけど、」
「いや、俺らが全滅する」
「えっ、相手はマーチュよ……!?」

 もどかしい。
 どう伝えればいいのか。
 というより、ここまで断っている“勇者様”に、何故エリーは強行させようとしているのか。

「……お腹痛い」
「何を言い出し始めてんのよ……」
「……頭痛い。いや、マジで」
「“勇者様”でしょ?」
「お前、“勇者様”は敬えよ」
「それを今言う?」

 駄目だ。
 この山に来ることは、“確定事項”だとでもいうのだろうか。
 だがこの洞窟を抜けた先、あの存在が“餌”を今か今かと待ちわびているのだ。

 アキラの全身は重く沈み、仕込んだ防具さえも煩わしく感じる。

 やはり、言うべきなのだろうか。
 しかし、今さら、とも思う。

「……分かった。じゃあ、お前はここで待っててくれ」
「へ?」

 もう、これしかない。
 自分だけが中に入り、奥まで行く。
 そして、“出口が塞がる前”に全力で逃げ返る。

 流石にそこまですれば、彼女も納得するだろう。

「駄目よ」

 しかし、それは通らなかった。

「大体あなた、大口叩いてたわりに……、その、」
「いや、はっきり言ってくれ。もう全部言っているようなもんだ」
「じゃ、じゃあ、その……、弱い……し……、」
「……、」

 仕方がないだろう。
 この身体は、そういうものなのだから。

 アキラが視線で送った言葉は、エリーには届かなかった。

「一人で行ったら、マーチュ相手でも危険だし、ね?」
「…………落ち着いて聞いてくれよ?」

 アキラは息を吸い、大きく吐き出した。
 もうここは、嘘でも何でもいい。

「この山から不穏な空気を感じる。ものすごく、危険な場所だ」
「……えっ、今度は何を言い出してんのよ?」
「いや、じゃ、じゃあ聞いたことないか? なんか、この山の噂とか」
「……、」

 エリーは目を閉じ、記憶を反芻し始めた。

「えっと……、あたしも最近勉強ばかりだったから……、あ、向こうの山なら、聞いたことあるわよ?」
「……?」

 エリーが指したのは、遠くにそびえる高い山。
 確かに、アキラには、あの山に関して妙な“替え唄”を聞いた記憶がある。

 だが、それはどうでもいい。

「違う、この山だ。マーチュの巣窟だろ? なにか、禍々しい噂を、」
「どっ、どんだけマーチュを過大評価してるのよ……!?」
「おまっ、マーチュなめんなよ!?」
「えっ、あたし怒られてんの……!?」

 やはり伝わらない。
 何を、言えば。
 アキラの頭がずんと重くなる。

 いや、実際、割れそうに痛み続けていた。

「じゃ、じゃあれだ、あれ」
「あれって何よ?」
「ほら、あれ」
「?」

 エリーの足はもうほとんど洞窟に向いていた。
 今すぐにでも歩き出しそうだ。

 もういい。
 とにかく、何か。
 “繰り返している”とは信じてもらえないかもしれないが、自分が“情報”を持っていることを信じてもらえるような、言葉を。

「わっ、分かるんだ、ここはまずい。お前を、守れない、し」
「……言いにくいんだけど、あたしの方が、」
「っ、い、いや、違う、でも、分かるんだ、」

 現在、エリーよりアキラの方が弱いことなど分かり切っている。
 だが、アキラは、とにかく、彼女を守らなければならないのだ。

 何か、何か、

「とにかく分かるんだ、ここだけは、入っちゃいけない」
「はあ……、何で分かるのよ? また不穏な気配がどうのこうの言い出したら、」

 何か、“言い訳”を、

「よっ、“予知能力”!!」

 口に出した瞬間、アキラの脳裏に何かがかすめた。

「…………は?」

 長い沈黙ののち、エリーが今度こそ呆れ返って口に出した言葉は、アキラの耳には届かなかった。

 彼女の反応は、もっともだ。
 “予知能力”が使えるなどと言い出したら、アキラだってその人物とは距離を置きたい。

 だが、

「―――、」

 かつて、そんな“言い訳”をしている人物に逢った気がして―――

「俺は……、未来を……、視……、た……?」
「ね、ねえ……?」

 視線を合わせようとしたアキラの視界で、心配顔のエリーが歪んでいった。

 呼吸が荒い。
 天地が逆さまになる。
 そして身体は、熱くて寒い。

 思い出した、“一週目”。

「ねえ、ちょ、ちょっと……!?」

 身体に何かの衝撃があった。
 きっと自分は今、仰向けに倒れている。
 だがそれすらも、エリーが上から覗き込んできて初めて分かった。
 エリーの声も、遠くなっていく。

 そうだったのだ。

 “一週目”。

 アキラたちはこの洞窟に、入れなかった。

―――***―――

 まどろみの中、アキラの脳は、初めて喜びを覚えていた。

 全部上手くいく世界。

 到着した“三週目”。
 自分は一人ではなかった。

 マリスも夜の屋上で歌声を響かせ、自分の登場に『待っていたっすよ』と声をかける。
 そしてエリーは、『またやってくれたわね』と儀式の件で怒鳴りつけてくる。

 そんな、世界。

 だが、最近の“これ”は、残酷だ。

 まるで、この物語はフィクションです、などと注意書きがされているよう。

 最近の夢は、最初から夢だと分かり切っている―――

「ぅ……、ぁ……?」

 まどろみの中、アキラが最初に覚えたのは頬を撫でる涼風だった。
 木々の匂いと、土の匂い。
 それらが鼻孔をくすぐり、心地よかった。

 最近、意識を失うごとに何かを視ている。
 これは、頭が混乱の極みにあるからだろうか。

「……?」
 次に気づいたのは、額に乗る何か。
 天高く昇る太陽を遮るように、瞼にも僅かにかかっている。
 それも、どこか心地よい。

 朦朧とした意識の中、ようやくアキラは思い出した。

 自分は、風邪で倒れたのだ。

「あ、起きた……?」
「……?」

 視線を顔ごと動かして右を向けば、エリーが座り込んでいた。
 どうやら洞窟傍の木の下で、二人並んでいるようだ。

「普通……、膝枕とか……、」
「え? なに?」
「……、いや、」

 聞こえてなかったのは幸いだったのだろう。
 アキラは視線を逸らし、額に手を当てる。
 そこには、水で濡らしたタオルが乗っていた。

「一応持って来たんだけどね……、こういう風に役に立つとは思わなかったわ」
「……助かる」

 エリーはどこか呆れ、しかし僅かに笑っていた。
 それをアキラは呆然と眺める。

 この“刻”を刻んだ今、“一週目”のこの場所での記憶が蘇った。

 自分の具合は、絶不調だったのだ。
 それこそ、途端倒れるほどに。

 “二週目”は、もしかしたらあの銃の恩恵を授かっていたのかもしれない。
 あの日輪属性の具現化は、アキラの中である種燃料のような役割を果たし、気づかない程度にはアキラの調子を維持していてくれたのだろう。
 加えて、ここまでの道中の戦闘もない。
 だから、自分が倒れるのを、ギリギリまで“ずらせた”のだ。

 そして、だから、今は、

「あのさ、本当は具合、最悪なんでしょ?」
「……超情けない」
「い、いや、あなたが一応庇ってくれたのは分かってるし……、その、ね?」
「マジ、情けない……」

 本当に、情けなかった。

 何を自分は、“あの存在”との戦いばかり危惧していたのだろう。
 “そもそも自分はそんな敵と戦うことすらできなかった”というのに。

 弱くてニューゲーム。

 そんなところだろうか。
 そして、本当に、“ニューゲーム”なのだ。

「ごめん……。ただ行きたくなかっただけなのよね? こんな調子じゃ」
「違う……、そっちは、分かってなかった」
「?」

 本当にそうなのだ。
 自分の精神と身体のずれと、風邪での不調を一緒くたにしていた。

 だからこんなにも情けなく、自分は倒れている。

「でもさ、あたしもちょっと無理矢理過ぎたみたい」
「……、」
「あたしさ、あの村から出たこと、ほとんどなかったのよね」

 エリーは申し訳なさそうに笑い、洞窟を適当に眺めていた。

「でさ、昨日のあれでしょ? ちょっと色々動きたくなっちゃって……、」

 そういえば、マーチュを攻撃していたときのエリーは気合が入っていたような気がする。
 アキラはおぼろげに、太陽の下映えたスカーレットの光を思い出す。
 彼女も色々、溜め込んでいたのだろう。

「悪かった、本当に」
「え、あ、そういう意味で言ったんじゃ、」
「悪かった」
「だ、だから、」
「悪かった」
「え、何回言うつもりよ……?」
「“三回”だ……。ものすごく、大切なことだから」
「……?」

 僅かに眉を寄せながら、呆れたようにため息を吐くエリー。
 その仕草は、アキラも知っているものだった。

「……もうここまででいいと思う。村長も、具体的に何をする、とか言ってなかったし」
「……ああ、そうだな」

 あの巣窟に入らないことが確定した今、しかしアキラはかえって後ろ髪を引かれた。
 エリーに無理だから止めろと言われるのは、やはり、面白くない。
 だが、行ったところで、何の意味もないのだ。
 “こんな自分”では。

「ねえ、寝心地、どう?」
「いいわけないだろ……、防具も仕込んであるし」
「っ、さ、流石にそれを外すのは、」
「いや、いいよ……。このままで大丈夫。ちょっと休めば、な」

 横に転ばされている剣を発見し、なんとなく指先で撫でながらアキラは空を見上げていた。

 何もかもが違う世界。
 頭は痛み、身体は軋む。

 だが、こんな空気は、悪くない。

「……ねえ、そういえば、誰かに習ってたの? 戦い方とか」
「……?」
「いや、なんか、素人にしては、だけど、なんか、」
「……習ってた」

 無気力な身体のまま、アキラは言葉を吐き出した。
 病魔に侵されているときとは、ある意味楽かもしれない。
 余計なことを考えず、口を開ける。

「“師匠”、って人に?」
「……ああ」

 その“師匠”は、もういない。
 わざわざ思い浮かべなくてもいいことを、アキラの脳は掘り返した。
 それを考えてしまえば、せっかく“一週目”をなぞると決めたのに、心が折れてしまう。

 エリーは小さく、ふぅん、と口にし、視線を泳がせた。

「……じゃあ、そんなに無理するのも、師匠の受け売り?」
「?」
「熱。すごい高いわよ」

 おそらく、半分ほどは受け売りだ。
 純粋な自分の行動ではなかったとはいえ、“彼女”は命を懸けたことがあるのだから。
 だが、もう半分は、“一週目”と同じ、格好つけかもしれない。
 ここに来ることを拒絶する口ぶりをしていても、結局自分はエリーの隣を歩いてここに来たのだから。

「あなたを運びながら魔物が出現したらまずいから、ここにいるけど……、すぐに養生しないと、」
「死ぬ?」
「……かもね」

 アキラはその事実を、思った以上に冷静に受け止められた。
 今のは冗談に近いだろうが、どの道その結末は、“冗談ではなくなる”。

 だがそれでも、それを受け入れてしまってもよいとさえ思っていた。

「……あ~、駄目だ……。俺今、超弱気」
「? 病気のせいよ」
「いや、口に出さないとなんか塞ぎ込んじまいそうで……」
「ああ、あるわよね、そういうの」

 赤毛がサラサラと風になびく。
 くすりと笑ったエリーの表情を見上げて、アキラは風邪とは別に心拍数が上がった。

「……、」
 “一週目”、この横顔に、自分がどきりとしたのを思い出した。
 病魔に侵されていても、この爽やかな空気の中。

 彼女を、いいな、と思ったのだ。

 少しだけ、安心した。
 彼女は自分の知っているエリーではないが、ちゃんと、“エリサス=アーティ”だ。

「ねえ、さっきの、“師匠”って人」
「ん?」
「恋人、とか?」
「……は?」
「いや、なんか、そういう感じに見えて、ね」
「……違う」
「……ふぅん」

 エリーの瞳が、どこか面白そうにアキラを捉えた。
 アキラは顔を背け、瞳を閉じる。

「でも、元の世界には戻りたいんでしょ?」
「…………いや、どうだろ?」
「ほら、“夢”とか、」
「……、」

 静かな会話だ。
 エリーにとっては。
 だが、自分にとっては、触れて欲しくない部分だった。

「……ねえ、今言うのもなんだけど……、少しだけ、聞いてくれる?」
「? ああ」
「……あたしさ、正直、あなたのこと、嫌い」
「……だよな」
「い、いや、そういう感じの話じゃなくて、」
「?」

 エリーは額に手を当て、何かをぶつぶつと呟いた。
 慎重に、言葉を選んでいるのかもしれない。

「……だってさ、あたしの人生、変わっちゃったのよ? 思いっ切り」

 困ったように呟くエリーからは、何故か怒気が感じられなかった。

「あたしね、双子の妹がいてさ……。もうあの子、魔道士よ。あ、魔道士っていうのは、」
「……セレンさんから聞いたよ」
「あ、ああ、そう」

 エリーの表情は僅かに曇った。

「でさ、昨日、やっと追いかけられる、って思ってたの」
「……本当に、」
「聞いたわよ、三回も」
「ああ、そうだった」

 アキラがエリーの瞳を見上げると、彼女の泳いでいた視線もアキラを捉えた。

「そこで、あなたよ」

 一瞬、アキラは睨まれたかと思った。
 だが、エリーは瞳を閉じ、再び視線を泳がせる。

「……それだけ。ま、まあ、ごめん。これから一緒に旅するなら、今のうちに吐き出しとこうと思っただけだし」
「いや、影で恨まれ続けられるよりずっといい」

 今思うと、“二週目”のエリーは、うっぷんを溜めこんでいたかもしれない。
 ただそれも、騒いで解消していったのかもしれないが。

「あなたもさ、あたしに不満とかあるでしょ? 今のうちに言ってくれた方が助かるわ」
「……、ああ、でも、いいさ」
「よくないわよ」
「伝え切れない。それに俺、言葉選ぶの下手だから」

 そう呟きながら、アキラは何とか身体を起こし、木に背を預ける。
 頭痛は変わらないが、少しだけ身体が軽くなってきた。
 もしかしたら、日輪属性の力が、病魔を浄化してくれているのかもしれない。
 本当に、便利な属性だ。

「できれば、はっきりして欲しいんだけどね」
「悪いな、煮え切れなくて」

 静かな時間だ。
 制約に縛られた“三週目”、こんな時間があるとは思っていなかった。

 アキラは呆然と、大自然を見渡す。
 元の世界には存在しない広大な景色。

 自分はこの世界に来なかったらどうなっていただろう。
 普通に大学生活を満喫し、普通に社会人になっていただろうか。
 少なくとも、子供に分類される自分の未来は、ずっと遠くに続いてはいただろうが。

「……あたしさ、決めたわ」
「?」

 “一週目”、“二週目”にはなかった望郷の念を思い浮かべていたからだろうか。
 エリーはアキラの表情を見ながら、こんなことを呟いた。

「“神族”への願い。“勇者様”の特権。あなたを、元の世界に戻すことにする」
「え……?」
「だって、そうすれば婚約破棄は自動的に起こるでしょ? あなたも、夢が叶うじゃない」
「……、」

 アキラは無言を返した。
 ただ、穏やかな表情を浮かべて。

 “叶うはずのない願い”。
 だが、喪失感より、アキラはエリーの労わるような言葉が、素直に嬉しかった。

 彼女は自分を、許してくれているのだろうか。

「なんでか分からないけど、あなたの夢、協力したくなったのよ。聞いてたら、あたし何となく―――魔術の教師になりたいとか思って」
「え、」
「何となくよ何となく。だから、あなたの世界の“師匠”に、生徒を返してあげたくて」
「―――、」

 小さく笑うエリーを見ながら、アキラはおぼろげに、小さな期待をしていた。

 “二週目”、いや、“一週目”も、彼女はそんなことを口にしていないはずだ。
 彼女の夢は、ずっと孤児院の経営者。
 魔術の教師とは、差がある。

 確かに、エリーは“違う”。
 だが、総てがまっさらというわけではないのかもしれない。
 自分に、対価に差し出したはずの“一週目”の記憶が残っているように。
 “二週目”、自分が戦い方をおぼろげにも知っていたように。

 この世界とあの世界は、僅かにでも繋がっているのだろうか―――

「俺に……、」
「?」
「俺に、魔術、教えてくれるか?」

 急かされるように、アキラは口にした。
 自分の表情は分からない。
 ただ、エリーは一瞬目を開いて、小さく微笑む。

 そして、

「ええ、いいわよ」

 たった一つだけ、繋がった。

「…………助かる……、ありがとう」
「な、なによ、そこまで感激しなくても、」
「いや、マジ……、いろいろ渦巻いてんだよ」
「? ま、まあ、ビシバシいくわよ? 剣のことは分からないけど……、まあ、まずは体力からね」

 ただそれだけで、救われた。

 途切れてしまったもの。
 だが、本当に、この想いを持ってきてよかった。

「……そろそろ行けそうだ」
「……、って、ふらついてんじゃない」

 立ち上がったアキラは即座に木に手をつく羽目になった。
 心が回復しても身体の方はまだらしい。

 だが今は、一刻も早く動きたかった。

 アキラは自分のことをまだ信用できない。
 だから、このやる気が萎える前に、とにかく進みたかった。

「でも、途中で倒れたりしたら、」

 アキラはエリーを見下ろしながら、笑った。

 大丈夫だ。
 今度は演技ではない。

 だから、はっきり言える。

「何とかなる。“ご都合―――」
「―――そこで何をしている?」

 アキラが口にしようとした言葉は、よく通る声に阻まれた。
 エリーはアキラの後方に視線を向け、立ち上がる。

 だがアキラは、背後から聞こえた声に目を見開いていた。
 何となく決めようとしていたときに中断されたのは面白くないが、それ以上の衝撃が身体を走る。

 今の、声は、

「あ、ああ、突然すまないが……、マーチュの巣窟はここでいいのか?」

 アキラが振り返った先、そこには、紅い着物を羽織った少女が立っていた。

 終わると思ったこの一日は、どうやらまだまだ続くらしい。

------
 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 もう覚えている方ははたしているのか、というほど間隔が開いてしまったので不安です……。
 さて、更新の方ですが、【第一部】のように定期的にはならないと思われます。
 申し訳ありません。
 それでもお付き合いいただければ幸いです。

 また、【第二部】は、各話のタイトルに連結する意味を持たせません。
 何の話かというと、お気づきの方もいたでしょうが、【第一部】の各話タイトルの頭の文字を最終話から遡って読んでみてください。
 最終話の一文になります。

 では…



[16905] 第十九話『そして“刻”は動き出す』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2010/06/15 22:51
―――***―――

「よく動けたな……、こんな熱で」

 少女は、サクと名乗った。

 紅い着物に、見る者がすっと息を呑むような凛々しい和風の顔立ち。
 頭の高い位置では、滑らかな黒髪が一本結われている。
 腰には黒塗りの、日本刀に分類されるであろう長刀を提げ、視線はそれ以上の切れ味を持つかのように鋭い。

 少女は、サクだった。

「あの、詳しいんですか?」
「いや、かじった程度だ。一人旅だと、いろいろと自分でやらなくてはならなくてな」

 サクはエリーに小さく笑うと、元に置いたナップザックから水筒やタオルを取り出し、再び仰向けに寝かされたアキラの病状を視る。

 その間、アキラはサクの顔をじっと見上げていた。

「……あんた、やっぱり歩けそうにないんじゃない」
「……え?」

 僅かに反応が遅れた。
 サクの向こう、長い赤毛を何となく弄りながら立つエリーが、どこか非難するような瞳を携えている。

「あ、ああ、まあ、なんか横になると、なんか、」
「……あっそ」

 エリーの瞳は変わらなかった。

 ただ、思えば“二週目”。
 最後の一夜を明かしたのは、この三人だった。
 もっともあの場所は、ここのような見渡す限りの緑ではなく、暗い小さな洞窟だったが。

「……よし、少し頭を浮かせてくれ」
「あ、ああ、」
 頭を上げると、サクはアキラの頭の後ろで長いタオルを縛った。
 額にひんやりとした感触を覚え、頭の圧縮が心地よい。
 アキラの頭には、簡易的な冷却装置ができ上がっていた。

「これで動けるだろう。本来なら寝ていた方がいいが……、ここで倒れているのもまずいだろう」
「ああ、ありがとう」
 アキラはゆっくりと立ち上がる。
 僅かにくらりときたが、歩くことはできそうだ。

「さて……、では、聞きたいことが……、いや、いいか。病人をこのままにするのも忍びない」

 サクはアキラに視線を走らせ、次にエリーに向き合った。

「お前たちはリビリスアークから来たんだったな」
「ええ」

 エリーははっきりと答える。
 そのどこか強い口調にも、アキラは違和感を覚えた。

「だが……、うん、そうだな」
 サクは辺りを見渡し、山の向こうを指した。

「あの辺りに小さな村があるのを知っているか?」
「ええ、知ってるわ」
「……リビリスアークよりは近い。とりあえずそこで休んだ方がいいだろう。薬はあいにく切らしていてな」

 サクはナップザックを肩に担ぐと、アキラを見据えてきた。

「病人がいては動きづらいだろう? そこまで送ろう」
「ああ、助かる」
「なに。どうせ“請けていた仕事”も胡散臭い」

 サクが敬語ではないというのはアキラにとって新鮮だったが、その好意は嬉しかった。
 それに、この山から人を離したいというのも本音だ。

 アキラはサクに笑い返し、ふらふらと歩き出す。
 その足取りに、サクはため息を吐き出し、肩を貸してくれた。
 やはり、頼りになる少女だ。

「……ほら、いくぞ」
「……ええ」
「……?」
 エリーはアキラの表情をじっと見返し、一歩先を歩き出した。
 なんとなく、エリーの視線が強かったのは気のせいだろうか。

 ともあれ、アキラは二人目の仲間に再び逢えたのだ。
 身体はだるいとはいえ、気分は明るくなっていく。

「……、」

 ただ、そういえば。

 サクと最初に逢ったとき、彼女は一体どういう人間だったろうか。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――ウッドスクライナ。

 アキラにとって最も分かりやすい表現を使うのならば、マーチュの巣窟の山の麓。
 その付近にあるこの村は、リビリスアークの半分の大きさも持っていなかった。
 自然に囲まれた、と言えば聞こえはいいが、うっそうと茂る森の中、草木も伸びっぱなしの村の道は、むしろ放置されている、と評価できる。
 どうやらこのウッドスクライナは、大きな町へと続く道の中継地点の一つらしい。
 アキラも来たことがない村だ。

 木造家屋、というよりはペンションのような造りの建物が目立つ中、アキラたちが腰を下ろしたのはリビリスアークの孤児院より遥かに小さい寂れた宿屋だった。
 ベッドではなく床に下すタイプ―――つまりは布団を用いるその宿屋の一室は、それを敷くだけで部屋の面積を四分の一は圧縮するほど狭い。
 木目が目立つ部屋の四方の一角には、どこか真新しい“壁”があった。
 それも、やっつけ仕事。
 おそらく、元々の部屋を半分にしたのだろう。
 そしてそれ以外、何も置かれていなかった。
 布団にもつぎはぎが多く、本当に廃れている。

「……ボロくね?」
「寝れれば同じでしょ」

 アキラがついに漏らした言葉は、窓際で足を投げ出して座っているエリーが鋭く拾った。
 サクはアキラたちをこの宿屋に預け、自分の分もあるからと現在薬屋に向かっている。

「……お前さ、村に伝えにいった方が、」
「ええ、じゃあ、“勇者様”の危機だ、って騒いで村総出で迎えに来てもらうわ」
「どういう神経してんだ」

 アキラの言葉は、今度は拾ってもらえなかった。
 エリーはぷいと視線を窓に向け、村の様子を眺めている。

「……もしかして、機嫌悪いのか?」
「別にっ、……そう、別に悪くないわ」
「……?」

 エリーはまた、それきり黙ってしまう。
 アキラは会話を諦め、天井をぼんやりと眺めた。

 先ほど出逢った、サク。

 “二週目”。
 彼女と別れたのは、“魔王の牙城”の中だった。
 ここで出会って、無事だった、というのも妙な話だが、アキラは心から安堵する。

 やはり、時間は巻き戻っているのだ。

「ねえ」
「……?」

 今度はエリーの方から、呟き声が聞こえた。
 僅かに登ってきた睡魔を押し返し、アキラは顔をエリーに向ける。

「さっきの、サクさん」
「ん、あ、ああ」
「……その、変じゃない?」

 エリーの質問の意図が分からず、アキラは眉を寄せるだけで返した。

「彼女、ファミリーネームがない、とか言ってたでしょ?」
「……ああ、そのことか」

 アキラもそれは妙だと思っていた。
 疑問を持ったのは遥か昔だが、結局“二週目”では彼女の正体が分からず終い。
 もっとも、それで不審な目を向けはしなかったが。

「事情があるんだろ? よく分からないけど」
「それは……、そうだろうけど……」
「それに、いい人じゃん。助けてくれたし」
「……はあ、」

 エリーはため息を吐いて、再び窓の外を眺めた。
 彼女の意図が、分からない。

「まあ、とにかく、……もっとビシっとしてて欲しいんだけど」
「病人に何を言い出してんだ、お前は」

 アキラの言葉に、エリーが何度目かのため息を吐き出したところで、部屋のドアが叩かれた。

「入るぞ?」
「ああ」

 ドアを開けたのは、やはりサクだった。
 窓の外を向いたままのエリーを一瞥し、アキラの布団の横に座り込む。
 だが、その凛々しい顔立ちは、何故か不穏な空気を持っていた。

「? どうした?」
「……いや、困ったことになった」
「?」

 そこでエリーも視線を向けた。
 サクは眉を寄せ、小さく呟く。

「薬が買えなかった。……高すぎる」

 サクの話はこうだった。

 何とか見つけ出した薬屋は、あまりにも外観に気を使っていない風情だったらしい。
 眉を寄せながらそこに入ると、一切の商品が展示されておらず、奥に一人の男が座っているだけ。
 そして、サクが必要なものを伝えると、平均相場のおよそ十倍。
 もともと所持金をそこまでもっていなかったサクは、その破格の値段に一旦諦めてここに戻って来たとのことだった。

「無理をすれば買えないこともないが……、これならリビリスアークで買ってきた方がずっといいだろう」
「いや、そこまでするなら薬はいいや。大分よくなってきたし」
「ああ、すまないな。私にも生活があるから」

 アキラは身体を起こし、外を眺める。

 確かに、妙だ。
 風邪の方は実際もう大丈夫そうだが、この村の物価。
 リビリスアークから歩いて到着できるほどの距離の、ウッドスクライナ。
 その場所の相場が、リビリスアークからそこまで乖離しているとは考えたくない。
 そして、アキラが旅した記憶では、どの場所でもそこまで価格は高くなかった。

 そしてそれは、はたして薬だけだろうか。

「なあ、この村って、いつもそんなに高いのか?」
「……え?」
 急に話を振られたかのように、エリーは気の抜けた声を出した。

「いや、知らないわ。ここ、いつも通り過ぎるだけだもん」

 所詮この場所は通過地点に過ぎないのだろう。
 馬車の停留所がある以外、アキラにはこの村の魅力が見つけられなかった。

「でも、流石にそこまで高くないはずよ。本当に、風邪薬を頼んだの?」
「ああ、それは間違いない。私も何度も聞き返したからな」

 こうなったらいっそ、“勇者様”の特権でも使ってやろうか、と、アキラに邪な考えが浮かんだ。
 風邪薬などどうでもいいが、ぼったくりの店がある、というのも気持ちよくない。

「それに、……いや、いい」
「?」
 サクが言い淀み、視線を外した。
 まだ何か、彼女の中に疑念があるのだろうか。

「……そうだ、サク、」
「ねえ、」
「?」

 暇なこの時間を彼女との会話に費やそうとしたアキラの声は、エリーに遮られた。
 エリーは立ち上がり、窓から村の外を眺めている。

「あたし、散歩してくる」
「え? あ、ああ、」

 エリーはそのまますたすたと歩き、振り返りもせずに部屋を出ていく。
 アキラはその背中に、どこか刺々しさを感じた。

「……なんだ、あいつ」
「さあな……。村の様子でも気になったのだろう」

 サクは小さく笑いながら、アキラに妙な視線を向けてきた。
 こうした彼女の表情は、“二週目”でも見た気がする。

「……そうだ、サク、お前、どんな仕事を請けてたんだ?」
「? ……あ、ああ、先ほどのか。いや、単なるうわさ話の調査だ」

 サクはナップザックから便箋サイズの封筒を取り出した。
 それを、アキラはかつて見たことがある。

「これだ。“巨大マーチュ”調査の仕事。倒すのは不可能と言われていたらしいが……、それ以前にいかがわしい。依頼主も不明で、お金だけ依頼所に預けられているそうだ」

 やはりそうだったか。
 アキラは心の中で呟く。

 “二週目”、サクはアキラの“とある攻撃”に巻き込まれたと言っていた。
 そして一週間近く気を失い、そののちリビリスアークに現れたのだ。

 やはり彼女はこの“刻”に、あの場にいることになっていたのだろう。

「……そんな依頼、何で受けたんだよ?」
「言っただろう? 所持金が少なくなってきてな。確認しに行くだけにしては破格だから試しに請けてみたんだ」

 またも、アキラの中に疑念が浮かんだ。

 “巨大マーチュ”調査の依頼。
 その対象の存在は、確かなものだ。
 何せ、アキラは実際に“それ”を見ているのだから。

 だが、その依頼主は、一体何が目的で、そんな依頼を出したのか。
 そんな依頼を請けようものなら、マーチュの確認と同時に潰されるのがオチだ。

「まあ、行かなくて正解だ。それ、マジ危険だから」
「? 見たのか? 巨大マーチュを」
「……いや、“まだ”」
「?」

 サクの中で、“巨大マーチュ”はどのようなサイズだろう。
 せいぜい人の身丈ほどだろうか。
 だが、そんな程度では済まされない。

 今すぐに国に報告し、魔道士隊を総動員して駆除すべきだ。
 ただ、“一週目”。
 自分はそんなことはしなかったはずなのだから、おそらく問題はないのだろう。

 触らぬ神に祟りなし、といったところだろうか。

「まあ、確かに危険かもしれない。受付の者も、私が請けるときに怪訝な顔つきをしていたしな」
「……ああ、そうした方がいい」

 もしかしたら、あの山にはいずれ行くべきなのかもしれない。
 だが、それは今ではない。
 今行けば、成す術なく“巨大マーチュ”に殺されるだけだ。

「……、」
「……?」

 アキラが“二週目”の記憶を掘り返し、暴れ回る“あの存在”に身を震わせていると、じっとこちらを見てくるサクと視線がぶつかった。

「……なんだ?」
「い、いや、すまない、」

 サクは目頭を押さえ、首を振った。

「アキラ、だったか。妙に話しやすくてな。言葉がすらすら出てくるよ」
「……そうか」

 アキラは小さく笑い返した。
 これは、日輪属性のスキル、人を惹きつける力。

 彼女はやはり、サクだ。
 総てを忘れていても、かつてと同じ言葉を吐き出している。

 そして、“一週目”の記憶の封が僅かに解かれる。
 あのとき、彼女のこの言葉に戸惑いつつもアキラは喜んでいた。

 種が分かっている今も、やはり嬉しい。

「それに、」
「……?」
 だが、サクの言葉はさらに続いた。

「やはり妙に親しみやすい。もしかしたら、どこかで出逢っていたかもしれないな」

 そして総てを忘れていても、どこか、繋がっているのかもしれない。

「…………かもな」

 “三週目”で見つけた、唯一の救い。
 それにアキラは、小さく震えながらそう返した。

―――***―――

 エリーことエリサス=アーティは、未だ結んだままの赤毛の尾を振りながら、ウッドスクライナを練り歩いていた。
 そろそろ夕暮れも近付いてきているからか、妙に人通りの少ない小さな村。
 並ぶ家屋や店までも寂れ、商品は店先に並んでいない。

 しかしエリーの瞳には、それは映っていなかった。

「……、ったく、」

 目についた石がつま先に当たり、強く転がっていく。
 エリーはそれを何となく見送りながら、思考を渦巻かせた。

 何となく、面白くない。

 サク、と名乗った、ファミリーネームのない女性。
 紅い着物に長い刀と、彼女の出で立ちは確かに妙だが、そちらはもういい。
 問題は、あの、アキラの顔。
 あの男は、何を嬉しそうに笑っていたのか。

「……、」

 いや、本来なら、どうでもいいはずだ。
 あの場で立ち往生していた自分たちにとって、サクの存在はありがたかった。
 てきぱきと病人の治療をした彼女に、アキラが感謝するのは当然かもしれない。

 だがやはり、“何となく面白くなかった”。

 あのアキラの不調を最初に察し、最初に診たのは、自分なのに。

 それは、世話をする者とされる者の間に生まれる愛着―――世に言うナイチンゲール症候群というものなのだが、エリーはその存在を知らない。

 だが、それを勘案したとしても、エリーは自分の思考に疑問を持てなかった。

 ただ、面白くないと思い続ける。
 とにかく、面白くないのだ。
 そしてそれは、徐々に肥大していく。

「……?」

 何の気なしに顔を上げたエリーの瞳に、妙なものが映った。

 物置、だろうか。
 気づけば村の外れまで歩いてきていたエリーの視線の先、ポツンと設置された寂れた小屋があった。
 いや、縦長の“箱”とでも言うべきだろうか。
 人が一人二人入れば満員になってしまうだろう。
 だが妙なことに、その小屋は他の建物から離れ、村よりむしろその周囲の森に面しているようにも見えた。

 徐々に日は傾き、夜が迫ってくる。
 そして、その建物は不気味に沈黙していた。

 あれは、一体、

「……?」

 近寄ろうとして、“エリーは気を変えた”。
 別にあんな場所に建物があろうが、関係ないではないか。

 今問題なのは、もっと、そう。

 “この憤りを解決することだ”。

「来いっ!!」
「!?」

 エリーが再び思考を進めようとしたところで、背後から野太い怒鳴り声が届いた。
 振り返れば体格のいい男が、気弱そうな男の襟首を掴んで引きずっている。

 体格のいい男は、その力にあかせて引きずられた男を地べたに投げ出した。
 そして憤怒の表情を作って睨みつける。

「お前!! 店の商品で何するつもりだった!?」
「っ、手に取って見ただけじゃないか!!」

 気弱そうに見えたのは、エリーの気のせいだったらしい。
 睨まれながらも立ち上がったその男は、強い口調でそれに返す。

 二人の大声にわらわらと建物から人が出てきた。
 人通りの少ない道は“不気味に普通の人口”になり、それぞれ口々に、『またか』だの、『始まった』だの口にしている。

「大体、渡したのはあんただろう!?」
「お前が見たいと言ったからだ。だがまさか、“叩きつけようとする”とは思わなかったぞ!!」
「“落としかけた”だけだ!!」
「買い取ってもらうぞ!?」
「ふざけるのも大概にしろ!!」

 二人のやり取りに耳を傾けたエリーは、ますます眉を寄せた。
 あまりに意味不明で、不毛すぎる。

 体格のいい男の言葉は、何一つ、理論的ではない。

 というより、あの二人は、そんなどうでもいいようなことで声を張り上げているのだろうか。
 二人とも、昼間から酔っているようにも見えない。

「……あ、あの、あれ、止めなくていいんですか?」
 エリーは怒鳴り合っている二人を囲うギャラリーに歩み寄り、恐る恐る訪ねた。
 今にも殴り合いに発展しそうな二人のやり取りを、誰も眺めるだけで止めようとしない。
 ただ、その不自然を自然として傍観するのみ。

「あ、あの?」
「ん? ああ、」

 エリーが声をかけた眼鏡の男は、僅かなため息ののち、

「ほっとけばいい。“止めたところで金にならない”」

 初対面の人間に向けて、そんな言葉を返してきた。

―――***―――

「たっ、大変よ!!」
「……こっちもだ」
「?」

 結局、怒鳴り合う二人に背を向け、宿に駆け戻ってきたエリーは、狭い部屋の中で座り込む二人に出迎えられた。
 病人のアキラは元より、サクまでも、どこか暗い顔をしている。

「どうしたのよ?」
「お前さ、この宿に入るとき、店の人に何て言った?」
「へ?」

 アキラの質問の意図が分からず、エリーは眉をひそめる。

「“休憩”、って言ったか?」
 しばし沈黙が場を支配したのち、口を開いたのはアキラだった。

「え、ええ、言ったわよ?」
「だが、店の人が言うに、私たちは数日泊まることになっているそうだ。それも、“最高級のコース”とやらで」
「?」

 サクの視線を追ったエリーの瞳に、何か得体の知れない保存食のようなものが飛び込んできた。
 それも、三つ。
 まさかあれが、“最高級のコース”とやらの夕食だろうか。

「待って、まさか、店の人たち、勝手に、」
「……やっぱりおかしいぞ、この村」

 アキラはエリーの声を遮って結論付けた。

 そしてアキラの頭をかすめる、とある記憶。
 ようやく、ここでの封が解けてきた。

 “一週目”、確かにここで何かが起こったのだ。
 その何かは定かではない。
 だが、確かに。

 “二週目”に巨大マーチュ戦で彩られたこの日、それに代わる何かが“一週目”で起こったはずだ。

「そういえば、先ほど何か言おうとしていなかったか?」
「え、あ、そうそう」
 サクに問われ、エリーははっとして口を開いた。

「け、喧嘩よ喧嘩。しかも、何か変で、」

 エリーの説明を聞いたサクはますます首を傾げた。
 だが、アキラはただ静かに思考を進める。

 自分が思い出しさえすればいいのだ、ここでの出来事を。
 そうでなければ、この“異変”を解明しようとすべきなのだ。

 “自分で考える”と決めたのだから。

 エリーの話では、店の人は、客が商品を取り落しそうになったから憤慨しているらしい。
 だが普通、僅かに気分を悪くしこそすれ、怒鳴り合いに発展するような出来事ではないはずだ。

 そして、それを“普通”と評価している村の人々。

 それは、一体、

「そもそも、エリーさんはこんな村があることに気づかなかったのか?」
「……だから知らなかったんだって」
「いや、責めているわけでは、」
「分かってる、……分かってるわ」

 困惑の中、アキラの目の前で、どこか棘のあるような会話が展開されていた。

「……と、とりあえず落ち着こう。まずはここの宿代をどうするか考えるべきだ。聞いてみたところ価格は……、まあ、“想定できないくらい”を想定してくれ」
「まあ、そうね……。店の人たちには聞いてみたの?」
「聞いたもなにも、キャンセルできないの一点張りだった」
「もっとちゃんと頼めば、」
「……一応、精一杯頼み込んでみたつもりだが」

 何を二人は話しているのだろう。
 アキラは二人の様子にも怪訝な顔つきを向けていた。

 今はこの村の“異常”について話していたのではないか。
 そして、エリーはその二人の喧嘩とやらを止めるために一旦ここに戻ってきたのではないか。
 それなのに、エリーとサクの口調は、徐々に刺々しくなっていく。
 というより、エリーの様子が妙だ。

 やはり違和感を覚える。

 自分が“異常”に対して敏感になっているだけなのだろうか。

「……なあ、その二人の喧嘩、止めなくていいのか?」
「え……? あ、そうね……。で、でも、あたしたちの問題もあるし……、とりあえずは宿代、どうしよう……?」

 気のせいではないかもしれない。
 少なくとも“エリサス=アーティ”なら、先に二人の喧嘩に介入すべきと考えそうだ。

 確かにそれは絶対ではない。
 “彼女が彼女でない”からかもしれない。

 だが、やはり、なにか、

「リビリスアークに戻るか?」
「え、でも、どうせ払うなら、何日かいた方がよくない?」
「……サク、お前はどうする?」
「そうだな……、私もまあ、彼女と同意見だ。もう少し、この村にいた方がいいような気がする」

 二人の意見は共通して、この村に残る、だった。
 自分たちは本来、休憩のためにこの村に来たのではなかったのか。
 サクも、ここまで送るだけのつもりだったのではないか。

「……、」
 アキラは過去の記憶を掘り返し続けた。
 未だ痛む頭をフル回転させ、奥へ奥へ進んでいく。

 この“異変”を解決するヒントは、どこかになかっただろうか。
 自分だけが嗅ぎとれる、この場のいかがわしさ。

 奇妙なこのウッドスクライナ。
 近辺と比べ、異常に高い物価。
 それに伴うトラブル。
 それなのに、ここに留まる村人たち。
 そして、徐々にエリーたちもそれに近づいているような気がする。
 ゼロとは言えない、一つの小さな可能性。
 その選択肢を、全員が選び続けているのだ。

 “本人の自覚なしに”―――

「……!」

 そうだ。
 この村の異変は、“誰にも気づかれていない”。

「……なあ、」
「? なによ?」
「ちょっと外行かないか? 喧嘩の様子も気になるし」
「は?」

 “一週目”の自分も、確かこうした気がする。
 アキラは目を閉じ、あのときの自分の思考を思い返した。
 あのときは、この村の異変をここまで敏感には察せず、目の前の二人の悪い空気をかき乱すことだけを考えていたのかもしれない。

「ほら、サクも、」
「……悪いが私はここに残る」
「?」
「いや、三人共外に出るのは止められそうだ。薬屋に行くとき、妙に店の者の視線を感じたが……、あれは逃がさないつもりだったのだろう」

 この小さな宿屋には見張りもついているらしい。
 アキラはため息一つ残し、エリーと共に部屋を出た。

 とりあえず、“異常”の当たりはついている。

―――***―――

「ねえあんた、風邪、大丈夫なの?」
「え? ああ、まあ微妙だけど」

 額に手を当てながら、アキラは目を閉じてみた。

 手のひらは僅かに熱を感じ、やはりくらりとする。
 だが、寝ていたときよりはずっといい。
 峠はとっくに過ぎているようだ。

 確か、“一週目”も同じ。
 病状が最悪になる前に休んだのがよかったらしい。
 巨大マーチュ戦で駆け回り、日輪属性の力でカバーできなくなるほど悪化させた“二週目”とは雲泥の差だ。

「あ、こっちよ」

 エリーに促されるまま、アキラは建物の角を曲がる。
 すでに夕日が沈みかけ、薄暗くなった小さな路地。
 やはり人は見当たらない。
 この村は、あまりに静かだった。

「……あ、もう喧嘩、終わってるかも」
「……そうだな」

 エリーの口ぶりからして、現場は間もなくのようだ。
 だが実際、アキラの目的はその喧嘩ではない。

 本日、自分が刻む“刻”。
 巨大マーチュ戦に代わる、“それ”。

 だが未だに、自分の予感を信じられなかった。
 自分は本当に“一週目”、早くも“あの存在”に出遭っていたのだろうか。

「ああ……、お母さんたち、心配してるかな……?」
「してるだろうな……。連絡しなくていいのかよ?」
「“手段”がないの。もう暗いし……、あなたも、ここから戻るの大変でしょ?」

 やはり、エリーはこの村に泊まることを完全に選択している。

 ただ、アキラもリビリスアークに戻る気はなかった。
 “一週目”は、エリーたちと外泊するということへの下心で。
 そして今は、確かに感じるこの異変で。

 やはり間違いなく、自分はこの場で“刻”を刻んだ。

「まあ、明日戻れば大丈夫でしょ。それより、宿代どうしよう……。一旦村に戻らなくちゃ、あたしほとんどお金持ってないし……」

 星明かりが姿を現し始めた小さな村を、二人で歩く。
 そんな中漏れたエリーの呟きは、アキラは気にしていなかった。

 そっちの問題は、何とかなったはずだ。
 信じるしかない。
 問題は、今目の前にある異変。

 本当に、“もう”、なのだろうか。

「……ねえ、」
「ん?」
 アキラが警戒心をむき出しにしながら視線を配っていると、ふいにエリーが呟いた。

「さっきさ、あたし、なんか変だった?」
「……は?」
「い、いや、変なこと聞いてるのは分かってるけど……、なんか、ね」
「……、」

 エリーの煮え切らない言葉に、アキラは眉を寄せた。

「いやね、なんか……、ほら、サクさん」
「あ、ああ」
「あの人になんか……、あたってた、っていうか……。ごめん、忘れて」
「……、」

 様子の妙だったエリーは、それを今自覚したようだ。
 確かに、エリーの言葉の棘は、サクに刺さっていたように感じる。
 だが、何故今さら気づけたのだろう。

「あ、あそこ……、もう終わってるわね」

 エリーが指差したそこは、道中と同じように閑散としていた。
 とうとう日が落ち、周囲の森から虫の声が聞こえる。
 そして昇った満月が怪しく輝きを増す。

 その光景に、アキラは不気味なものを感じた。

「……?」

 視線を泳がせていたアキラは、ある一点でそれを止めた。

 小屋だ。
 物置だろうか。
 木造の寂れたそれは、収納スペースとしてはあまりその任を果たせそうにない。
 むしろ、中に小さな祭壇でもありそうだ。

 何故あんなものが村外れに、ぽつん、とあるのだろう。

「なあ、あれ、なんだ?」
「え? ああ、あれ? なんだろ、さっきも見たけど……、」

 先ほどの喧嘩騒動のとき、エリーも発見したのだろうか。
 アキラは何の気なしに足を進め、建物の前まで来てみた。

 その正面は、木のすだれのようなものが下ろされ、しかもそれは村の外に向いている。
 アキラはすだれの隙間に指を入れ、持ち上げようとした。

「ちょ、ちょっと、イタズラするのは、」
「いや、気になるし、」
「それをイタズラっていうのよ? 私物かもしれないじゃない」
「いやさ、なんか古の神様とか祀られてたり……、ちょっとだけ、」
「するなっての!!」
「そこまで必死に止めんなよ……、」

 アキラは指を抜き、手を払う。
 エリーはそれに満足したのか、小さく頷いてみせた。

「まあ、もう戻りましょう。喧嘩も終わってたし……、サクさんと宿代の話しなきゃ」

 確かにサクは、完全に巻き込まれただけだ。
 所持金が少ないと言っていたのだから、宿代を折半するのも不憫だろう。

 とりあえず、今日はもう暗い。
 本格的な散策は、明日にすべきだ。

 流石に自分も、“休みたいと思っている”。

「……、……?」

 最後にもう一度だけ寂れた小屋に視線を向け、アキラはその場を後にした。

―――***―――

「は……、は……、は……、」
「……?」

 宿の部屋、そのドアの前まで来たアキラは、中の妙な気配に足を止めた。
 中から聞こえる、荒い息遣い。
 そして、この暗さだというのに、ドアの隙間からは中の光が漏れていなかった。

「……、」
 不穏なものを感じ、アキラは一度振り返った。
 エリーは現在、念のためと宿の店員にかけ合いに行ってしまっている。

 月明かりだけが照らす暗い廊下には、アキラ一人だ。

「……、サク? 入るぞ?」
 アキラは僅かなノックと共に、ドアを開けた。

 入った暗い室内。
 やはり、灯りを点けてはいないようだ。

「……? サク?」

 窓から差し込める月明かりが、アキラが寝ていた布団だけを照らしている。
 アキラは暗がりの中、慎重に足を踏み入れた。

「っ!?」

 その、一歩目。
 アキラは足の裏に奇妙な感触を覚えた。
 辛うじて体重をかけずに踏み留まったアキラは、壁に手を突き身体を支える。

「な、なんだ……?」

 手探りで灯りのスイッチに触れ、起動させる。

 照らされた部屋、アキラが視線を向けた先、そこに、

「っ、うわっ!?」

 一人の男が倒れていた。
 仰向けになり、瞳は虚ろ。
 小太りのその男は、日本でいう浴衣のような服を身に纏っていた。
 アキラが踏みかけたのは、男の右腕だったのだろう。

「し、死体……!?」

 パニックに陥ったアキラは、その倒れた男に瞳を釘付けにする。

 戻って来て、部屋に灯りを点けてみれば、死体が倒れていた。
 一体何のサスペンスだ、これは。

「っ、」
「……!?」

 人の声が聞こえて、アキラはびくりと身を引く。
 だが、その視線の先、部屋の隅で座り込んでいる少女を、アキラは知っていた。

「サ、サク……?」
「い、いや、その、ち、違う」
「……サク?」

 彼女もパニックに陥っているのか、荒い息遣いをしながら首を振っていた。
 アキラも、事態が飲み込めない。

 だが、狭い部屋に、死体と生存者。
 これは、まさか、

「そ、その男が、いきなり……、」

 慌てふためくサクというのも珍しいが、その漏れた言葉にアキラは血の気が引いていった。
 それは、犯人の常とう文句だ。

「お、落ち着け、今、何が起こったんだよ……?」
「いや、だから、ち、違う、」
「分かった、分かったから、お、落ち着け」

 そういうアキラも落ち着いてはいない。
 ただとりあえずは、愛刀を抱きしめ、瞳を開き切っているサクをなだめることが先決だった。

「えっと、何が起こったんだ?」
 アキラはサクの正面に座り込み、興奮状態の動物に接するように敵意がないことをアピールした。

「じ、実は、二人が出て行ったあと……、しばらくして、店の者が来たんだ」
「……、」

 サクの視線が一瞬、アキラの後ろで倒れている男に向く。
 そこでアキラはようやく思い出した。
 彼は、先ほどアキラたちに夕食を運んできた男だ。

「そして、お前たちは金がないだろ、と」
「……、」

 自分たちで“最高級コース”とやらにしておいて、随分な言い草だ。

「それでまずは、この刀を売れ、と」
「お、おい、」
「もちろん断った」

 それは当然だ。
 サクは、今抱えているこの黒塗りの長刀を、何よりも大切にしている。
 アキラは“二週目”の旅の道中、彼女が大切そうに手入れをしているのを何度も見ている。

「そしたら、突然、」
「襲いかかってきたのか……?」
「……ああ」

 おそらくは刀ではなく、サクの身体目当てだったのだろう。
 サクは、相当な美人だ。
 気まずくなってアキラは視線を外した。

 だが、流石に一人旅をしている魔術師。
 こんな田舎の商売人などは、見事に返り討ちにしたのだろう。

「……って、やっぱりお前が、」
「せ、正当防衛だ、あれは。だ、だから、」
「あ、ああ、分かった。分かったから」

 アキラはサクの話を聞き終わり、思い至って倒れている男に近づいてみた。
 先ほどはショックで冷静には見られなかったが、小太りの男の胸は僅かに上下している。
 気絶しているだけだ。

 サクは、気づいていないのだろうか。

「……なあ、」
「最悪だ……、なんで、なんで、」
「……なあ、おい、」
「こんな、“しきたり”違反……、民間人に……、」
「おい、聞いてんのかよ!?」
「え?」
「……落ち着け」

 錯乱状態にあったサクは、アキラの怒鳴り声に顔を上げた。
 その表情はやはり濁っている。

 一体何だ、これは。
 もはや豹変と言っていい彼女の様子に、アキラの背筋を黒い悪寒が撫で続ける。
 パニックがパニックを呼び、自己で修復できていない。

 だが、それと同時に、記憶の封が一つ解けかけた。
 やはり、これは、“一週目”通りの出来事だ。

 では、次に何が起こったか。

 早とちりな上、気が動転し、自己嫌悪に陥っているサク。
 こんな、“九割九分九厘起こらないが、奇跡的な確率で辿り着くかもしれない思考”をしている彼女は、あのとき何を思ったのか。

 いや、待て。
 アキラは自分の思考に停止をかける。

 “一週目”だけではない。
 “二週目”、これと、同じようなことが起こっている。

 “二週目”。
 巨大マーチュ戦でアキラが放った砲撃。
 それに巻き込まれたサクは、“とある村”で看病を受けたと語っていた。
 無一文になるほどの金額を取られて、だ。

 まさか、その村とは、

「こんな村……、来るべきではなかった……!!」

 サクの黒い感情が肥大化されていく。

 “まず絶対に辿り着かない思考”。
 だが、裏を裏を取っていくことで、そこに辿り着いてしまう。

 村人たちに向いていた憤りは怒りに代わり、そしてその対象すら、“その原因を作った人間”に向いていく。

 だから彼女は、アキラを恨み―――

「……ヒダマリ=アキラ」
「……!」

 やはり、間違いない。
 今、この場での記憶の封が全て解かれた。

「このままでは収まりがつかない」

 “一週目”。
 戸惑うばかりだった自分は、この展開を、強制イベントだなどと称していた。
 ただ、喧嘩っ早いキャラクターだ、などとどうでもいいことを考えて。

 だが確かに強制イベント。
 その原因を、アキラは知っている。

 やはり、間違いはなかった。

 サクはゆらりと立ち上がり、鋭い視線でアキラを捉える。
 アキラもそろそろと、部屋の隅に立てかけてある剣に手を伸ばした。

「私と、“決闘”をしてもらう」

 目指す場所は、“あそこ”だ。

―――***―――

「どいてくれっ!!」
「きゃっ!?」

 即座に駆け出したアキラは、廊下でエリーと高速ですれ違った。
 だが、振り返りもせずに走る。
 こういう風に動くと分かるが、やはり身体は鈍い。
 精神と身体のずれは、まだまだ解決しないようだ。

 だが、今はそんなことを言ってはいられない。

 今すぐ、“逃げなくては”。

「―――、」
「っ、」

 宿屋の玄関から飛び出たアキラは、即座に転げた。
 そして頭の上を高速で通過する“何か”。

 やはり、その一刀は速すぎだ。

 アキラは転がりながらも即座に立ち上がる。

「危ねぇだろっ!!」
「一応、みねだ。お前が逃げるからだろう」
「場所を考えろ!! 宿屋でやる気か!?」
「……、そう、だったな」

 アキラの叫びで、サクはそのことにようやく気づいたようだ。

 “違う”。
 アキラはその様子に困惑する。
 自分が紐解いた記憶と、目の前の光景は違った。

 サクは、自分をいきなり襲い出したのだ。

 “一週目”は、そんなことはなかった。
 アキラには、エリーに決闘の説明を聞く猶予が与えられたし、何より決闘の場に移動することもできたのだ。

 だが今、サクは突然襲い出した。

 一体、何故、

「ハードモードなんてわけじゃないんだよな……?」
 アキラは苦々しく言葉を吐き出した。

「……まあ、だがここでならいいだろう?」
「……、い、いや、もっといい場所があるんだが……、宿屋の目の前ってのも……、」
「問題ない。始め……ん、……よし、始めよ……、う……?」
「……?」

 サクの表情が、僅かに曇った。
 一瞬浮かんだ色は、困惑。

 彼女も自分の行為に、疑問を抱いているのだろうか。

「……なあ、落ち着いてくれ」
「私は、落ち着いている。お前はそればかり繰り返すな」
「いや、決闘って、な、なあ?」

 もっと上手いことは言えないのだろうか。
 アキラは額に手を当てる。

 だが、悲しいことに、彼女に言葉での説得は“ここでも”通用しなかったのもアキラは覚えていた。

「確かに……、妙だ。そう、感じる」
「……! え、じゃ、じゃあ、」
「だが、もう、始めてしまった。そうなったら、後には引けない……!」

 “サクのような人間に対しては、始めるようにさえすればいい”。
 そんな空気を、アキラは感じ取った。

 サクは、“二週目”でもきちんと折り目をつけて進みたがっていたようにも思える。

 だから。
 それで十分なのだと“あの存在”は思ったのだろう。

「っ、」
「ちょ、ちょっと!!」

 アキラが奥歯を強く噛んだところで、宿屋からエリーが飛び出してきた。
 その大声に、村人たちも控えめに建物から顔を出す。

「な、なに!? 二人とも何やってんの……!?」
「……決闘だ」
「けっ、」

 サクの答えに、エリーがフリーズする。
 第三者から見れば、その考えは、あまりに不自然なのだ。

「ちょ、ちょっと、あんた、決闘受けたの!?」
「……さあな」
「さあなって……、あ、」

 エリーも、決闘開始の条件―――“自己紹介”が済んでいることに思い至ったのだろう。
 一瞬止まり、しかし視線を強くする。

「だ、大体今時決闘なんて……、そんなの、」
「私は“それに則る”つもりだ」
「っ、」

 エリーが詰まったところで、サクは再び視線をアキラに向けてきた。

 これは、危険だ。
 アキラは即座に剣を抜き、じりじりと後ずさった。

 視線の先には、構えるサク。
 腰に提げた刀に手を当て、中腰。
 彼女の身体総てが、目の前の対象を切り裂く機械に代わる瞬間。

 この本気の姿を、正面から見たのは“二週目”の決闘以来だ。

 “戦闘とはどういうものか経験している”からだろうか。
 彼女のこの構えに対し、アキラは戦々恐々とした。

 決まれば、自分は、倒される。

「……、」
 言葉だけでの説得は、最早無駄であろう。
 アキラは視線を僅かに背後に向ける。
 目指すは“あの場所”。

 今すぐ駆け出せば―――

「―――!?」

 その、背後に向けた視線。
 それをアキラの隙ととったサクは、一瞬で詰め寄ってきた。

「っ―――、」

 頭では反応できても、まるで身体がついてこない。
 サクの接近が、スローモーションのように感じる。

 だが、いくら世界が自分の“応え”を待っても、サクの速度はそれを超えていく―――

「っ!?」

 ガキッ、と火打ちのような音が響く。
 辛うじて突き出した剣の先、サクはそれ以前で止められていた。
 “今度は”しっかりと目を開けていたアキラに、それは映る。

 サクの一刀は、赤毛の少女の拳に止められていた。

「何のつもりだ……?」
「……あたしの名前は、もう名乗っているわよね?」
「そう、か。……そうだったな」

 サクはふっと笑ってその場から距離を取った。

 それは、エリーの“決闘への乱入”を認めたということだろう。
 エリーはその様子を鋭い眼で捉え続ける。

「どういうつもりか知らないけど、一応この人、“リビリスアークの期待の星”なの」
「……、……?」

 眉をひそめるサクに、エリーはため息を吐き出した。
 どうせ、決闘が始まった以上、意味のないことだ。
 エリーは、きっ、と視線を強める。

 今問題なのは、この妙な喧騒。

 目の前のサクが―――今日初めて出会ったばかりだが―――こんなことをするような人間とは思っていなかった。
 だが、こうやって暴れ始めた以上、鎮圧しなくては。

 彼女の動きを見るに、アキラでは相手にならない。
 相当な熟練者だ。

 エリーは急遽着けたナックルガードを、再度着け直す。

 サクの様子は妙だが、彼女と戦う理由ができたことに、エリーは何故かすっとしていた。
 彼女が現れてから、ずっと膨らんでいた憤り。
 それを、ここで清算できる気がしているからかもしれない。

「っし、あんたは下がってて。ここはあたし……が……、」

 両拳を打ち合せながら振り返ったエリーは、その光景に動きを止めた。
 サクからも、うめき声が聞こえる。

 二人の周囲には、いつしか建物から出てきた村人たち。
 夕方の二人の男の喧嘩のときのように、止めようとはせず興味半分で眺めている。

 だが、本来見られるべきなのは、エリーとサクの組み合わせではないのだ。

 エリーが振り返り、サクが視線を向けている先。

 そこにいるべきその存在。

 しかし、それなのに、

「いない……だと……!?」

 サクの言葉が示す通り、アキラはその場から消え失せていた。

―――***―――

 夜空には、星の中、不気味なほど巨大な満月が浮かぶ。

「はっ、はっ、はっ、」
 アキラは転げそうになりながらも、薄暗い村の中をひた走っていた。
 道に転がる石を蹴り飛ばし、生える草は踏みつぶし、ただただ走る。
 先ほども通った道だ。
 わき目も振らず、ただ一点を目指していく。

 “本来の決闘現場”へ。

「っ―――、」

 背筋にぞっとした寒気が走ったのと、アキラが転げたのは同時だった。
 そして鋭い風切り音。

 アキラの身体のあった位置に、イエローの一閃が走った。

「っ、」
「ノヴァッ!!」

 次いで、ボッ、と拳激の空音。

 全ては転げたアキラの頭上。
 アキラが何とか身を起こした頃には、自分を庇うエリーと離脱したサクが睨み合っていた。

「金曜属性……、武具強化型……!!」

 エリーが、サクの長刀が残した魔力の色で、属性を言い当てている。

 “金曜属性”。
 魔力の色は、イエロー。
 全属性中、最も防御に長けている属性だ。

 一方、エリーのスカーレット色の魔力―――“火曜属性”は、攻撃に最も長けている。

 ある種対極に存在する属性だが、サクは守りに魔力を使っていない。
 その魔力を武具に流し込むことで、サクはその硬度のまま敵に切りかかるのだ。

 これは、“二週目”にもあった光景―――

「邪魔をするな!!」
「っ、まずはあたしが相手でしょ!?」
「その男が逃げるからだろう!?」

 二人は大声で騒ぎ立て、それぞれの武器を構える。

 エリーとサク。
 二人の“決闘”は、村を移動しながら行われているようだ。

「っ、」
「ま、待て!!」

 エリーがサクを止めている間、アキラは再び走り出した。

 身体中が軋みを上げる。
 アキラはそれを強引に抑え込み、ただただ走った。
 角を曲がり、無人の路地に駆け込み、それでもただ前を目指す。

 そして、

「っ―――、」
「ノヴァ!!」

 今度は意図して転げたアキラの頭上で、再び風切り音と拳の空音。
 今度は確認もせずに、アキラは走り出した。

 速力は、エリーよりサクの方が遥かに上だ。
 エリーが抜かれ、サクがアキラを追い攻撃し、再びエリーがそれに追いつく。

 ゴーストタウンを思わせる村に、二人の大声が響き続ける。
 アキラはそれでもなお、走り続けた。

「っ、」
 ようやくたどり着いた“目的地”。
 もうほとんど足が上がらない。

 だがアキラは、それでも走った。

 “目的地”―――森の木々と建物のはざまに位置する、村外れの広場。

 目指す先は、村の外れの寂れた小屋。

 アキラは剣を抜いた。

「―――、」

 村人たちもアキラたちの騒ぎに建物から這い出してくる。

 本来の決闘場は、ここだった。
 アキラの記憶が確かなものになっていく。

 “一週目”。
 ここなら“決闘”の被害が村に出ないとして選ばれた場所。
 そこで対峙するアキラとサク。
 村人たちは興味本位でそれを囲っていた。

 途中、エリーが乱入し、二人の戦いが始まる。
 すっかり蚊帳の外になったアキラは、そこで、とある異変を感じたのだ。

 誰も、あの小屋に近寄ろうとしなかった―――

「はっ、はっ、はっ、」

 荒い息遣いのまま走り寄り、アキラは剣を振りかざした。

「―――、」
 脳裏をかすめる“囁き声”。

 あれはこの村の大切なものかもしれない。
 物価が異常に高い村。
 保証金を払うことなどできはしない。
 ただでさえ宿代がないというのに。

 だが、アキラはその“浮かんできた思考”に、全てノーを返した。
 先ほど、“分かっていたのに”抗い切れなかった“囁き声”。

 だから今は、確固たる意志を持って。

 “ここに用がある”。

「―――、」

 “一週目”は、ちょっとした好奇心で、かかっていたすだれを上げて見た。

 そして今、“三週目”は、確信で。

 アキラは剣を振り下ろす―――

「―――はいっ、ゴールッ!!」

 前のめりに転倒するように、アキラは剣で小屋に攻撃。

 小屋は、異常なまでにもろくも崩れ去った。

「―――!?」

 アキラの背後にいたサクも、その奇行に振ろうとしていた刀を止めた。
 もうもうとした煙が小屋から上がる。
 アキラはその場に座り込み、肩で荒い呼吸を繰り返した。

 視線は、その小屋からはじき出された小さな石に向けたまま。

 その小石は不自然にも転がり続け、アキラたちから離れた位置でやはり不自然に止まる。

「一体なに―――」

『やっぱりあなた、“日輪属性”……?』

 サクの声を止めたのは、女性の声だった。
 追いついたエリーも、それを囲う村人たちも、怪訝な表情を浮かべる。

 どこをどう見渡しても、その声の主の姿が見えない。

『何故、あなたは“ここ”だと確信していたの……?』

 姿なき声の詰問は続く。
 アキラは黙って転がった石を睨んでいた。

『やっぱり、変。だからあなたは、ここに来ないで欲しかった』

 アキラはようやく、この“ハードモード”の正体が分かった。
 夕方のアキラの行動は、“彼女”の“囁き”を早めていたのだ。

 “彼女”は心を読めるわけではない。
 ただその表情から、どのような“想い”を抱きやすいか読み取るだけ。

 その“想い”を方向づけることだけで、彼女の“欲”は満たされる。

「―――!? な、なんだ!?」

 サクも“我に返り”、ようやく声の主を発見したようだ。

 アキラの視線の先、星空の下、転げた“銀色の一握りほどの小石”。
 その石から、不気味な煙が湧き上がっていた。

 色は、ぎらつくようなシルバー。

『短時間で仕込むとやっぱりダメ。すぐ解けちゃう』

 湧き上がった煙は、形がないはずなのに、サクの方を向いていた。

 アキラはふらつきながらも、剣を杖にしてようやく立ち上がり、なおも視線を強める。

「全部、あいつだ」
 アキラは口調も強く、断言した。

「この村が変なのも、サクが突然襲いかかってきたのも、全部、全部」

 これは、のちに“彼女”が自慢げに語った言葉だ。

 “今、アキラが知らないはずの情報”。

 だがそれでも、言わずにはいられなかった。

 この敵だけは、どうあっても、許せない―――

『……、』

 銀の煙は徐々に形を固め、人型を模していく。

 金の長い髪を背中に垂らし、薄く黒いローブのみを纏って体のラインを浮き上がらせている。
 ぎらつくような銀の眼が妖艶に微笑めば、身体の中は浮かされるように安定感を失い、底冷えするような暗い感情が溢れていく。
 細い眉に、長いまつ毛。
 幻想的とさえ言える端麗な容姿。
 まるで、夢の世界の住人だった。

「私のこと、何で知っているの……?」

 固まりきったその存在は、底冷えするような瞳をアキラに向けた。

 “一週目”と“三週目”は言うに及ばず。
 “二週目”もそうだったのだろう。

 サクがアキラに決闘を仕掛けるように“囁いた”黒幕―――

―――サーシャ=クロライン。

―――***―――

「村長……!!」
「分かっている、分かった、」

 エリーの育ての親、エルラシアは本格的に激怒していた。

 恰幅の良い身体に、この一日溜め込んだ怒りは、怒号ではなく侮蔑の入り混じった言葉で吐き出される。

 “勇者様”とエリーが、未だ戻って来ないのだ。

「あなた、本当に学習する気があるんですか?」

 村長宅の応接間。
 そこでテーブルを囲う数人の村人は、エルラシアの冷めた言葉に誰しも口を挟まない。

 普段は呆れ交じりに村長―――ファリッツに言葉を投げかけるエルラシアが、このような口調で彼と接するところは誰しも見たことがなかった。

 唇をプルプルと震わせ、握り絞めた両拳は机の上。
 出されたお茶には、一度も口をつけていない。

「分かってる、分かっているんだ」
「それしか口にできないのなら、結構です」

 エルラシアの剣幕に、ファリッツは憔悴しきった表情で俯いていた。
 瞳を強く閉じ、膝をつけて両手を強く握り、額を乗せる。

 だがそれでも、エルラシアの怒気は収まらなかった。
 奥歯を噛みしめ、親の仇でも見るかのような瞳をファリッツに向ける。

 最初、エリーが“勇者様”と共にマーチュ討伐に向かうと言い出したときから嫌な予感はしていた。

 “エリーがファリッツに巻き込まれた”。

 その事象に、酷く抵抗を覚えたのだ。

 正直な話、エルラシアにとって、最大限の敬意を向けるべき“勇者様”より、エリーの方が大切である。

 今までファリッツに勇者様に祀り立てられ、消息を絶った多くの若者たち。
 それに同情しこそはすれ、所詮は会ったばかりの赤の他人。
 ファリッツの行動に非難はしていたものの、エルラシアにとっては蚊帳の外の出来事だったのだ。

 それなのに、今回は違う。

「エリーは……、エリーは……、どうしてくれるんですか!?」

 二人がマーチュ討伐に出発し、昼を過ぎ、夕方を過ぎ、そして今は夜。
 ファリッツに丸め込まれたときは、そんな大事になるとは聞かされなかった。

「そんなものじゃない……、本当に、今回は、簡単な、」
「だったら何で戻って来ないのかって言ってんですよ!!」

 エルラシアは、がんっ、と机を叩いた。
 全員がびくりと震え、人数分のカップからお茶がこぼれる。
 それを誰しも拭おうとはしなかった。

「エリーは昨日大変なことがあって……、それなのに、私には笑ってみせて……、それなのに、」
「……、」
「…………もう結構です」

 口を閉ざしたファリッツに背を向け、エルラシアはドアに向かった。
 ファリッツはもうあてにできない。
 こうなったら、自分一人でも二人を探しに行くべきだ。

 エルラシアがドアに手をかけ、開いたところで、

「……待て」

 ファリッツが、口を開いた。

「何です?」
「もう国に、連絡してある」

 顔を上げたファリッツは、一気に老け込んだようにも見えた。

「動いていただけたんですか?」
「動いたはずだ……、動かなきゃ、ならないはずだ」

 その辺りの対応は、腐っても村長、ということらしい。
 ファリッツの側近―――サミエルという男の姿が見えないのは、王国まで行っているからだろうか。
 だがファリッツの言い回しに、エルラシアは眉を寄せた。

「それ、どういう意味ですか?」
「……、」

 ファリッツは目を閉じ、眼精疲労を抑えるように指先でつまんだ。

「……動いてもらえないかもしれん」
「は?」

 エルラシアは冷え切った言葉を返した。

「……私は何度も、国に連絡しているんだ。前の“勇者様”のときも、その前の“勇者様”のときも……、ずっと。ずっと。消息が途絶えるたびに」

 それを、エルラシアは知らなかった。
 ただ、“勇者様”が旅立ってしばらくすると、ファリッツに“勇者様”がいなくなったと聞かされるだけだったのだ。

「前に私が行ったときはこういう顔をされたよ。『またか』」
「っ、じゃ、じゃあ、」
「ああ、動かないかもしれん」

 王国で、その“しきたり”がどこまで遵守されているかは分からない。
 だが、何度も訪ねてくるファリッツに対し、そう何度も律儀に応答するだろうか。

 普通の神経ならば、ファリッツの案件を後回しにするだろう。
 なにせ、“たった一日帰って来ないだけなのだ”。

「あっ、あなたが学習もせずに、」
「学習してどうなる?」

 ファリッツから漏れた声はか細かった。
 憔悴した表情そのままに、今にも途切れそうな声色。
 だが、ファリッツは言葉を続けた。

「『この“勇者様”は駄目そうだから止めておく』―――そんなことしてどうなる?」
「……、」

 エルラシアにはようやく、ファリッツのものの考え方が分かった。
 自分とは、“立場”が違うのだ。

「世界は“勇者様”を求めている。それなのに、総ての長が“学習して出し渋ったら”、“勇者様”はどこから現れる? 魔王は依然として被害を出しているというのに」
「……、」
「村からの献上品も安くはない。だが、それでも、世界は“それ”を求めている」

 ファリッツ家は、もともと、“初代勇者様”の助けをしたとして代々リビリスアークの長として在る。
 そして、現代当主―――リゼル=ファリッツもそれを実直に引き継いでいるのだ。

 旅立った“勇者様”には、旅の途中で投げ出し、好き勝手な人生を歩んだ者もいるだろう。
 そうした“勇者様もどき”が増えていく中、それを嫌った村々は“勇者様”を排出しなくなった。

 だが、リビリスアークだけは違う。
 ここは、排出した“勇者様”の数では断トツだろう。

 初代以外、この百代目まで“本当の勇者様”を排出できていないリビリスアーク。
 だが、それでもファリッツは“勇者様”を送り出し続けている。

 エルラシアや、ここにいる村人たちは、ファリッツに“勇者様”と崇められた人間を不憫に思う。
 それは、最初から諦めているからだ。

 だが、ファリッツだけは、ただひたすらに“それ”を信じて。

「だがもう、懲りたよ」

 ファリッツはのっそりと立ち上がった。
 集まった面々に、会議の終了を視線で伝える。

「本当にすまなかった。もうリビリスアークからは“勇者様”は出さない。過去にすがりつくのも……、限界だ」

 その宣言に、この場の全員が息を呑む。
 ファリッツが“勇者様”へのこだわりを捨てるなど、考えられることではなかった。

「エルラシア、私が探しに行く。もう休んでくれ。セレンも帰りを待っているだろう?」
「……今さら学習されても、意味ないです」

 部屋を出て行こうとしたファリッツを、エルラシアは冷たい言葉で止めた。
 しかし、口調は僅かに柔らかく。
 そして盛大にため息を吐き出した。

「…………あなたが行っても、どうにもならないでしょう?」

 エルラシアの言葉に、その場にいた面々が静かに立ち上がった。
 全員、ファリッツの胸の内を聞き、同じような表情を浮かべている。

「村長はここで国からの連絡を待つように」
「そ、それは、」
「みんな、行きましょう」

 それだけを残し、エルラシアたちはファリッツを追い越し部屋から出る。
 全員同じ行動をするだろう。
 孤児院の主を務めるだけはあって、案外自分は指示を与えるのには向いているのかもしれない。

 これからが大変だ。
 なにせ、“勇者様”たちを見つけ出さなければならない。
 ただ、エリーの教鞭をとったセレンがいれば、この辺りの散策も危険ではないだろう。

 エルラシアはそこまで考え、孤児院へ向かう。
 村の面々も、一旦各々の家へ支度に行くようだ。

「……、」

 小走りで、薄暗い道を進む。

 空には、目映い星の中、不気味なほど巨大な満月が浮かんでいた。

―――***―――

「あなたたち……、決闘はもういいの?」

 金の長い髪が夜風になびく。
 ふっくらとした唇から洩れたのは、どこか嘲るような甘い囁き声。
 一度閉じた長いまつ毛の瞳を再びゆったりと開ければ、銀の眼が月下に映える。

 その一挙手一投足が妖しく、恐ろしいほど美しい。

 エリーは“その女性”を、食い入るように見つめていた。

「……この男が言ったことは本当か?」

 目の前の“存在”に向き合い、並ぶように立つサクが鋭い言葉を発する。
 エリーは一切の言葉を呑み込み、アキラと同じように睨んでいた。

「そう……、それが不思議」
「……?」

 “その存在”の瞳が強くなる。
 おぼろげで、しかし刺すような矛盾の瞳はアキラを捉えているようだ。

「ことこと煮詰めた村人たちとは違うあなたに疑問を持つのは分かる……。だけど、それでここまで来られたのはどういうわけ……?」

 サクの言葉に反応しているようで、“その存在”は、アキラにしか語りかけていない。
 だが、サクはそれで“自分の豹変”に対する答えを受け取っていた。

 エリーも話が頭の中で繋がっている。
 サクにしてみれば、この答え―――“決闘”は、自分で出したものなのだろう。

 収まりがつかない状況になり、このまま呑み込んでしまえば清算できない。
 だから、“決闘という形をとりたがった。

 だがそれは、“まず思いつかない。
 しかし、“辿り着くかもしれない答え”。

 それを演出したのは、目の前の―――

「ま……、まさか……、」

 ギャラリーの村人から、一言声が漏れた。
 彼女が、“それ”であると示唆する呟き声。
 それは全員に波紋を広げ、しかし誰も動こうとしない。

 “それ”。
 “魔物”とは違う、それを生み出す諸悪の根源。
 “魔王”に成りうる存在。

 だが、目の前の存在は、“銀の煙が形作ったにすぎない”のに、とてもそうとは思えなかった。

 人間とは違う、というのは雰囲気で分かる。

 そして、“神族”とも違う、というのも分かる。
 エリーは“神族”に出逢ったこともないが、彼女は信仰の対象にはなり得ないことだけは伝わってきた。

 だから、“消去法”で、“それ”なのだ。

「自己紹介がまだだったわね……、“魔王様直属”―――」

 それは、エリーにとって、“初めての”―――

「―――サーシャ=クロライン」

―――“魔族”との邂逅だった。

「―――、」
 興味本位で眺めていた村人たちは、瞬時に踵を返した。
 誰かが叫んだろうか。
 それすら足音にかき消され、蜘蛛の子を散らすように広場から村人たちが駆ける。

 当然だ。

 俗説は多々あるとはいえ、共通して、“魔族”は小さな村一つ、瞬時にかき消すとまで言われている。
 そしてそれは、現実のものなのだ。

「大丈夫よ?」

 サーシャの“小さな囁き声”に、エリーは背筋がぞっと寒くなった。
 闇夜に響くのは、村人たちの騒動だけのはずなのに、その声は、確かに届く。

「あなたたちは私の可愛い僕。ゆっくり仕込んだもの……、大切だから……、ね?」

 サーシャの背筋の寒くなるような口調に、村人たちは足を止めていた。
 辛うじて残った生物としての危機感から、建物や木々の陰に身を潜め、恐る恐る顔を出している。

 エリーはその“ある種一糸乱れぬ行動”に、再び悪寒が上ってきた。

 やはりこの村は、異常だ。

「でも……、」
 サーシャは再び、アキラに視線を戻した。

「そっちは別。私に気づけるなんて……、異常」
「……、」

 アキラはその問いにも、黙して剣を構えているだけだった。
 口を開きそうで、開かない。
 アキラは一体、何を考えているのだろう。

「どういうことか説明してもらうのはこちら側だ」

 無言のアキラの前に一歩踏み出し、サクはサーシャの視界に割り込んだ。
 その視線が手に持つ刀より鋭いのは、サーシャの所業に察しがついているからだろう。

「思い返してもわけが分からない……。私に何をした……!?」

 サクの言葉に、サーシャはさらに妖艶に微笑む。

「人間ってさぁ……、誰しも悩みを持っているじゃない? 悩みであったり、不満であったり……」
 サーシャは悦に入ったような表情を浮かべる。
 そこで、アキラがぴくりと動くのがエリーには見えた。

「それに簡単に“囁きかける”だけで……、どんどん育つ。私が思った通りの方向に思考を進めさせられる」

 エリーははたと気づく。
 この村人たちもそうだったのだろうが、自分もそうだったのだろうか。

 サクに対する小さな不満を自分が持ったのは確かだ。
 だがそれは、憤りを覚えるほどではない。
 それなのに、自分は機嫌が悪かった。

「悩み、不安、不満。それをいじって、相手を奴隷のように動かす―――」

 そして、サクを“決闘”に誘った。
 もしかしたら、一人でいるときほどそれを育てやすいのかもしれない。
 エリーも自己の行動を振り返る。
 一人でいたときは、黒い思考が育ち続けていた。

 サクも、一人で宿屋に残ったから、狙われたのだろうか。

「―――“支配欲”。それこそ、最高の快感でしょう?」

 それが、サーシャの目的。
 ただ“支配欲”を満たすためだけに、この村総てに囁いていたというのだろうか。

「そんな、ことで、」
「でも、あなたは解けるの早かったわね……。ほんとはじっくりいきたかったけど……」

 サーシャの視線がサクを一瞥し、アキラを捉える。

「あなたは、排除したかった」
「……、“そうだったのか”」

 エリーの耳に、そんな言葉が届いた。
 僅かに途切れて、慎重に選んだようなアキラの言葉。
 今、自分が“魔族”との邂逅にそこまでの驚愕を覚えていないのも、それ以上にこの男が“異質”に見えるからかもしれない。

 この、“ヒダマリ=アキラ”が―――

「サク、もう会話するな。今聞いたろ?」

 アキラは、“制約”が外れたことを感じた。
 サーシャが語った己の欲。
 これで、“自分は知っていることにできる”。

「全部、こいつの仕業だ。……話は終わりか?」

 闇の中浮かぶ、銀の“魔族”。
 それに挑発的な言葉を投げる。

 そしてそれと同時に、アキラは頭の中で小さく呟いた。

「……、」

 “流石にやりすぎだった”。

 サーシャの視線もさることながら、エリーとサクの自分をいぶかしむ目線も痛い。

 自分は、“あたかも総てを知っているように”ここに直通してしまった。
 相手がサクで、猶予はなかったのは事実だ。
 だがもう少し、やり方はなかったものか。

 そして勢いに任せて口走ってしまった、“サーシャの演説”の前の、確信していたような自分の言葉。

 しかしそれはもう、仕方がない。

「話は終わってないわ。日輪属性だからって、」
「……俺は、勇者だ……!!」

 アキラはサーシャの疑問に、声を張って答えた。
 サクの身体が動いたのを感じる。
 そういえば、彼女に“そう”と名乗ってはいなかった。

「“勘”が当たったんだよ。“勇者様”ってのは、何でもあり―――」

 結局のところ、自分に上手い“言い訳”は思いつかない。
 下手なことを言ってしまえば、感づかれるかもしれないのだ。

 “すでに出遭っている”、と。

 だが、“その不自然を自然に変えられる言葉”もまた存在するのだ。

「―――“ご都合主義”だ……!!」

 アキラは剣の切っ先をサーシャに向けて宣言する。

 ここまでこじつけられれば、あとは戦闘。
 アキラとて、サーシャに“個人的な敵意”はある。

 夜空に浮かぶ、不気味なほど巨大な満月。
 その下、アキラは確かに物語に一歩、足をねじ込めた。

 そして“刻”は動き出す。

「意味不明―――」
「―――!!」

 サーシャの長い指が、アキラに向いた。
 同時に背筋を撫でる悪寒。

 これは、

「―――ディアロード」
「っ―――、」
「なっ!?」

 アキラは隣のサクに突撃するようにその場から離脱した。
 エリーも遅れて察したのか反対方向に身をかわす。

 その直後、エリーとサクの中央―――アキラのいた位置に、蛍光灯のような銀の棒が突き刺さった。

「今のも……?」
「二人とも、戦闘だ!!」

 サーシャの声をかき消すように、アキラは叫んだ。

 “二週目”も見たこの攻撃。
 サーシャの、場所を問わずぎらつく銀色の棒を出現させる―――“魔法”。

「―――!?」

 カッ、と銀の棒が爆ぜた。
 闇はぎらつく銀で一瞬かき消される。
 やはり、爆発する仕組み。

―――それが、完全なる戦闘の合図だった。

「げっ、月輪属性……!?」
「っ、」

 シルバーカラーの魔力は、“月輪属性”固有のもの。
 “不可能を可能にする”―――“魔法”を操る希少属性だ。

 “知らない”アキラは、しかし、説明を求めなかった。
 今は戦闘。
 かまととぶっている場合ではない。

「っ、やるぞ!!」
「わっ、分かっている!!」

 アキラが突撃したサクから、叫び声の応答が返ってきた。
 エリーが頷くのも見える。
 アキラも剣を構え直した。

 三人が向くのは、元凶の“魔族”―――サーシャ=クロライン。

 “決闘”など、中断だ。

 相手は“魔族”という“異常事態”。
 だが、敵意を向けてきている以上、戦うしかない―――

「あとで説明してもらうからな……!!」
 サクはアキラにそう残すと、刀を鞘に収めたままサーシャに駆け寄っていた。

 先ほどのアキラの戯言では、やはり納得はしてくれなかったようだ。

「―――、」
 サクがサーシャに接近していく。
 その速度たるや、まさに神速。

 一瞬で、サーシャとの間合いを詰めた。

「―――、」
「―――ディアロード」
「―――!?」

 サクの一刀と、サーシャの詠唱。
 イエローとシルバーの魔力が同時に爆ぜた場所は、サーシャの“爪”だった。

 サーシャは両手の爪、計十本に腕ほどもある長さの銀棒を装備し、サクの攻撃を正面から受け止める。
 それも、片手で。
 残った五本の“爪”を振り上げ、サクに振り下ろす―――

「っ、」
 瞬時に離脱したサクに、“爪”が僅かにかすめる。

 サーシャはその場から動かず、再び小さく呟いた。

「ディアロード」
「―――!?」

 サクの退路に、格子状の銀の棒が出現した。
 自身の速力ゆえに、サクはそれをかわせない―――

「っ、ノヴァッ!!」

 サクが銀の格子に触れる直前、スカーレットの光が爆ぜた。
 いつの間にか二人に接近していたエリーの拳は、その格子を横なぎに捉える。

「っ、」
 一瞬爆風に押されはしたものの、サクは即座に立ちまわり、今度こそ離脱する。
 エリーもサーシャに不用意に近づくことを諦め、同時に離脱。
 詠唱を附して殴りつけたにもかかわらず、エリーのナックルガードはたった一発で、銀棒の爆発に僅かに歪んでいる。

―――その間アキラは、元いた位置から動かなかった。

「……その“勇者様”は戦わないの?」

 サーシャは“爪”を出したまま、それを妖艶に舐める。
 その視線は、今退けた二人ではなく、やはりアキラに向いていた。

「……、」

 痛いところを突かれた。
 アキラは形だけでも構えた剣を、握り直す。
 この動作は、何度もしている。

 だが、目の前に戻ってきた二人が呼吸を整えている中、アキラはやはり、動けなかった。

「……さ、先に従者が戦うもんだろ……?」
「……、」
「は……?」

 アキラが苦し紛れに出した答え。
 それに対して、ちらりと振り返ったエリーとサクの瞳に呆れと侮蔑が入り混じった色が浮かんでいたのは、アキラの気のせいではないだろう。

 こんなときに何をほざいているのか、この男は。

 そんな声が聞こえた気がする。

 だが、アキラとて事情があるのだ。
 戦闘に参加したらただの足手まとい。

 “一週目”もそうだった。
 自分はこの世界に来て、まだ一日。
 それなのに、“魔族”と戦えというのは無理難題。

 そして今、感覚の“ずれ”があるこの“三週目”は、ある意味それより酷いのだ。

「……、あんた、何か知ってるの?」
 エリーが視線をサーシャに向けたまま、小さく呟いた。

「隠し事、あるんでしょ?」
「……、」

 流石にエリーも不信感を募らせているようだ。
 やはり、気づかれた。
 だがアキラはそれに答えられない。

「この状況、なんとかする方法知ってるなら教えて」
「……そんなにやばいのか?」

 一応、“事態が把握できていない人間”が発する言葉をアキラは返した。

 答えなど分かり切っている。

 サクの鋭い一刀を防いだ、サーシャの“爪”。
 他の銀棒と違い、爆ぜる仕組みではないようだが、それでも硬度は刀のそれと同様以上。
 魔力で戦う魔術師タイプにも見える彼女は、接近戦もこなせるようだ。

 そしてその上で、出現場所を問わない“魔法”。
 不用意に近づけば、あの格子状の銀棒の餌食だ。

「まずいぞ、これは」
 今度はサクから、声が漏れた。
 それは、危機感一色に染まっている。

「“魔族”と聞いてもイメージが湧かなかったが……、ケタが違う」

 先ほど、銀の格子に飛び込みかけたゆえの言葉だろう。
 サクはその身のこなしで今まで敵を退けてきた。
 だが、あの“魔法”は、“追う”タイプではなく、“出る”タイプなのだ。

 それでは先のように避け切れる保証はない。

「アキラ。戦えないならそこにいろ。だが、“戦闘には参加してもらう”。何をすべきか」
「……、」
「教えてくれ」

 サクの強い口調に、アキラは息を止める。
 ここで自分は、“彼女たちに知らせなければならない”。

「お願い。あなたが知っていること、教えて」
「……、」
 エリーからも同じ要求が来る。

 “魔族”に攻めいって、ほぼ無傷で帰って来られたのは僥倖だ。
 次は、ない。
 もしこの期を逃せば、取り返しのつかないことになる。

 こうなったら、

「……?」

 違う。
 まただ、この感じ。

 アキラは顔を振って意識を保った。

 今、サーシャは黙している―――

「てめぇ!! またっ、」
「ふふ……、教えてあげればいいのに」

 サーシャの言葉で、エリーとサクがはっとして“振り返った”。
 いつしかアキラに身体ごと向けていた二人。

 敵の攻略法を聞いていたのに、その敵に背を向けるなどありえないというのに。

「駄目だ!! ぼうっとしてると操られるぞ!!」

 二人が自分に疑惑を抱いているのは確かだろう。
 だが、総てサーシャの仕業として、アキラは叫んだ。

 サーシャの耳は、ここでの会話など十分に捉えられる。
 アキラから情報を聞き出すためだけに、背を向けていたエリーとサクを眺めていただけだったのだろう。

 “分かっていても誘導されてしまう”。

 サーシャ曰く、“よく分からない日輪属性”のアキラですらそうなのだ。
 先ほど、離れて様子を覗っている村人たちの前で“操っている”と宣言したのも、この自信があるからだったのだろうか。

「……そうだな。終わったあとに聞かせてもらうと言っていたな、私は」

 サクはサーシャに今まで以上の殺気を向け、再び居合いに構える。
 実際、サクはそこまでの危機感を覚えていなかったのかもしれない。

 先ほどの格子への衝突は、不意をつかれただけだ。
 サーシャが攻撃を“出す”前に、その場から離脱すればいい。
 インプットさえすれば、十分に戦えるはずだ。
 それだけ、戦闘における“速力”とは大きい。

「攻めるぞ……!!」
「ええ!!」

 サクが駆け出し、エリーもサーシャを挟み込むように駆ける。

 作戦会議のような“詰問”も、同時に終わった。
 やはり、サーシャは危険だ。

「―――、」
 サクがサーシャに切りかかり、離脱。
 その退路にサーシャが銀の格子を出現させようとしたところで、エリーが追撃をしかけていく。
 そしてそれを繰り返す。
 二人の攻撃はサーシャの“爪”に塞がれこそはすれ、先ほどのように危機には瀕しない。

 こうした光景を、アキラは“二週目”でも見た。
 相手は違うが、格上の存在。
 その敵を、エリーとサクは同じように攻めていた。

 そして、アキラの位置―――“戦場にあって戦場でない場所”も、変わらない。

「……、」

 いや、駄目だ。
 いくら“一週目”に準拠しようとしていても、いくら自分が弱くても、もうこの光景を流すことができない。
 ヒダマリ=アキラは、それだけの旅をし、もう“そういう人間”になっている。

 身体はまともに戦えない。
 だから、最も苦手でも、頭を使う。
 戦闘中くらい、“三週目”の恩恵を授からなくては。

 何せ今は“ハードモード”。
 先ほど二人が返ってきたとき、聞き耳を立てていたサーシャに勘づかれぬように“言えなかった情報”がある。

 “一週目”は、ただの“勘”として“攻略法”を伝えた。
 サーシャもわざわざ、アキラの戯言には耳を傾けていなかったのだろう。

 この“三週目”は、確かな自信があるのに“攻略法”を伝えられなかった。

 だから、あとは。

 “彼女に賭けるしかない”。

「……?」
 “その期”を逃さないように、目の前の戦闘を刮目して待っていたアキラは、違和感を覚えた。

 “輪”が広がっている。
 周囲を走り回って戦うエリーとサクが、徐々にサーシャから離れ始めていた。

 二人の脳裏にあるのは、サーシャの“爪”への警戒。
 目に見えるそれなど、“途端に出現する銀の格子”よりは遥かに安全だというのに―――

「っ、離れすぎだ!! 操られてんぞ!!」
「ちっ、いい加減うるさい!!」
「―――!?」

 声を張り上げたアキラに、サーシャの視線が向いた。

 込められているのは、殺気。

 来る。
 アキラは瞬時に察した。

 最初、アキラの位置に“出現させた”牽制とは違う、“攻撃”が。

「っ、」
 アキラは強く地面を蹴る。
 その離脱点に深々と突き刺さる銀の棒。

 それは瞬時に爆ぜ、爆風がアキラの身体を打った。

「ぐわっ!?」

 勢いそのままに地面に転げたアキラに、二撃目は来なかった。
 アキラの叫びに反応した二人が、再びサーシャに詰め寄ったからだ。

 サーシャも“魔法”を使う余裕があるほどまで二人を下がらせたのだから、アキラの指示は煩わしかったろう。
 だが、サーシャにとっては、同じことを繰り返すだけで問題はない。

 アキラも、そう何度もサーシャの“魔法”を回避する自信はなかった。

 二人に“囁いて”距離を取らせ、その隙でアキラを攻撃。
 そして、唯一サーシャの“囁き”に気づけるアキラを殺しさえすれば、二人はサーシャの格子の餌食だ。

 だから、その前に、“決めたい”。

 “一週目”は、油断からできていたサーシャの隙。
 それを縫って、自分たちは攻略した。

 だが今―――“三週目”、サーシャは警戒心をむき出しにしている。

 アキラは頭を総動員して、活路を探し続けた。

 なにか、隙を。

 アキラの目は、イエローの一閃でサーシャを攻める少女を捉えた。

 そして、あとは彼女に―――“サクの反射神経に賭けるしかない”。

「―――、」

 ぎらつく銀が目につく戦場。

 サクは、何度も頭で言葉を呟いていた。

 攻めろ、攻めろ、と。

 だが、それはいずれ、

 待て、待て、

 に代わり、

 避けろ、避けろ、

 に代わっていく。

 戦闘において、無理な攻めは危険すぎる。
 ここまで攻めたら、一旦引くのがセオリー。

 そう判断したサクに、しかしアキラの叫びが届く。

 そうだ。
 サーシャ相手に、距離を取ることは意味がない。
 離れては、自分の攻撃は届かず、相手の“魔法”のみが襲いくる。

 本当に、“気づかない”。
 自分が選んで進んだはずの思考が、総て相手に都合のいいものになる。

 共にサーシャを挟むように戦っているエリーも、同じように離脱と接近を繰り返す。
 接近は、やはりアキラの叫び声によって。

 “ヒダマリ=アキラ”。
 やはり、奇妙な男だ。
 彼にはこの“囁き声”が、あまり通用しないらしい。

 だが、その日輪属性ということを差し引いても、あの男は気になる。

 楽天的なのか、慎重なのか。
 軽率なのか、思慮深いのか。

 妙に話しやすく、エリーが戻ってくるまで宿屋で話し込んでいたというのに、サクはアキラを掴めていなかった。

 そして、先ほどの“洞察力”。
 彼は、自分の様子を見て、一目散にここに駆けてきた。
 そしてこの妙な村の異変を、何度も強調していた。

『“異世界”では、訪れた村にはイベントが起こるはずだ』

 聞いていないはずなのに、サクはアキラがそんなことを言っていた気がする。
 何故だろう。
 それは分からない。

 そして今、彼は何度も叫んでいる。
 そのたびに、サーシャからの“魔法”を転げながら回避することになっているのに。

―――その剣は、飾りか?

 サクは何故か、アキラの構えた剣にそんなもどかしさを覚えた。
 その剣を使って、サーシャを共に攻めてもらいたい。

―――お前はそれができるだろう?

 身体能力の低さは、先ほど自分から逃げるときに見た。
 アキラでは、接近した途端、サーシャの“爪”に切り裂かれてしまうだろう。

 だが、それでも。
 そうすれば、彼が動けば、何かが変わる。

 どうも、そんな気がするのだ―――

「っ―――、」
「!?」

 そんなことを思ったからだろうか。
 サクがサーシャの“爪”から離脱し、“刀を鞘に収めた瞬間”、アキラが駆け出した。

 剣を構えたまま、サーシャに突撃していく。

 一体、何を、

「っ、」
 サクに代わって詰め寄ったエリーを弾き返し、サーシャはアキラに向き合った。
 サーシャにしてみれば、動きの鈍いアキラには、離れた位置に“魔法”を出現するより“爪”で切り裂いた方が効率的。
 最も潰したい相手が接近してくれるのは、願ったりだろう。

「―――、」
 サクは着地と同時に駆け出した。
 通常想定していた位置より離れた場所。
 “刀を鞘に収める余裕がある位置”。
 やはり、今も離脱していた。

 サクはサーシャを目指し、速度を上げる。

 アキラは、まだサーシャに十分接近していないのに、剣を振りかざしていた。

 なっていない。
 アキラが何を考えているかは知らないが、それは自殺行為だ。

 剣で攻めて欲しいとは思ったが、実際にやられては非常にまずい。
 アキラがいなくては、そもそもサーシャが攻略できないのだ。

 頭をかすめる、『離脱』の“囁き声”。
 どうせサーシャの仕業だ。

 攻めろ、攻めろ、と叫び、“囁き”をかき消す。

「ふふ……、」

 サーシャの爪が、ぎらつく銀の光を増した。
 瞬時に起爆式に切り替えたのだろうか。
 アキラが触れた途端、それは爆発する。
 恐らく、サーシャには自分の爆発は通用しない。

 サクは瞬時に察し、ひたすらに駆ける。

 今すぐ、あの場に行かなければならない―――

「うおらっ!!」
「―――!?」

 アキラがとった行動は、誰しも予想していなかった。
 サーシャから離れた位置、詰め寄ってもいない状況。
 アキラは振りかざした剣をその勢いのままサーシャに投げつけた。

「っ―――、」

 確かに、攻撃方法としては強大だ。
 飛んでくる生身の剣は、危険極まりない。

 だが所詮、一発芸。
 相手が回避してしまえばそれまでの上、自身の攻撃方法を失ってしまう。

「ちっ、」
「……!?」

 だが、余裕があったようにも見えたサーシャは、“回避しなかった”。
 “爪”を盾のように剣に突き出し、身を守る。

 サーシャに駆け寄り続けるサクには、その光景が何かと重なって見えた。

「―――、」

 サーシャが起爆用に変えた“爪”が、彼女の周囲に爆風を起こす。
 闇をかき消す、ぎらつくような銀。
 それに焼かれた剣が転がっていく。

「―――、」

 サクは居合いに構えたまま、サーシャだけを捉えていた。
 銀に光る土煙。
 それに包まれる、影。

 手段はどうあれ、サーシャの視界は最悪。
 “隙ができていた”。

 ここで、決める。
 振るうは、愛刀の一閃。

「―――、」

 狙いは、“その首”―――

「そう―――」
「―――!?」

 爆風の向こう、小さな声が聞こえた。
 同時に背筋を撫でる悪寒。

 いや、違う。
 サーシャはこちらが見えていない。

 自分の狙いは、首でいいはずだ―――

「“足元だ”!!」

 アキラの叫びが再び聞こえた。
 途端、すっと頭が軽くなる。

 そうだ。
 視界が悪いのはこちらも同じ。
 決まれば必殺とはいえ、狙いにくい首を狙うなど、リスクが大きいではないか。

 だが、足元。
 アキラは確かにそう言った。

 そこを狙って、そもそも何になるというのか。

「―――、」

 “いや、信じよう”。

 サクは狙いを下方に向ける。
 そして、見えた。

 サーシャの影の足元。
 アキラが破壊した小屋から転げていった、“銀の小石”。

―――“それだ”。

「―――、」

 外からは、サクがその場を通過しただけに見えただろう。
 だが、いつの間にか抜き放たれているサクの愛刀と、真っ二つに砕けた“銀の小石”が、“攻撃”を証明する。

 爆風が晴れた、“銀の小石”の上。
 首を“爪”でガードしたサーシャが、美貌を歪め、アキラを憤怒の表情で睨みつけていた。

「……帰れ。お前は」
「っ、」

 剣を投げたときに転びでもしたのだろう。
 座り込んでいたアキラがサーシャに一言浴びせる。

 まるでそれが魔法だったかのように。

 サーシャの姿はウッドスクライナから消え失せた。

「あ……、あれ、“リロックストーン”……だっけ? リロックストーンだったの……!?」

 座り込んだアキラの隣に立っていたエリーが、銀の小石をまじまじと眺めて呟いた。

 “リロックストーン”。
 サクもどこかで聞いたことがある。
 設置した場所へ移動できるマジックアイテム。
 だがその制約は、その場からほとんど動けないことと、自身の魔力の大幅な削減。

 サーシャはあれで、大幅に力を失っていたというのだろうか。

 だがそれでも、

「勝ったぁっ!!」

 アキラが拳を突き出し、夜空に叫んだ。
 そのリロックストーンを砕いた以上、戦闘は終わり。
 “魔族”―――サーシャ=クロラインを退けたのだ。

 様子を見ていた村人たちも、恐る恐る身体を影から出してくる。

 そんな中、サクは、

「剣を、投げるな」

 小さくため息を吐きながら、アキラに呟いた。

―――***―――

 その夜は、大変な騒動だった。

 “魔族”を退けたアキラたちはウッドスクライナの英雄として崇められ、
 村人たちはこぞって“勇者様”に献上品を差し出し、
 急遽開かれた宴は夜通し続き、

 ……そして夜が明けた!

―――というわけにはいかなかったのだが、とりあえず、リビリスアークの村人たちが押し寄せてきたのが始まりだった。

 いつまで経っても戻って来ないアキラとエリーの探索隊が、マーチュの巣窟に到着したのと、ウッドスクライナで爆音が響いたのはほぼ同時。
 流石に夜、魔物の巣窟に入ることに抵抗のあった探索隊は、応援を頼む意味でもまずウッドスクライナに向かうことにしたそうだ。

 アキラはそこまで聞いて、ほっと息を吐いたのを覚えている。
 ある意味サーシャが爆発する“魔法”を使ってくれたのは助かった。
 その音がなければ、山からそれより遥かに巨大な地鳴りが響いていたことだろう。

 そして、その探索隊の中にいた孤児院のエルラシアやセレンは、エリーの姿を見つけると、絞め殺さんばかりの勢いで詰め寄っていった。
 アキラとサクは、その光景を離れて眺めていたのだが、エリーの意識が遠くなった頃にようやく近づき、この村に来ることになった経緯を説明しながら謝罪。
 疲労の溜まった三人は一晩ウッドスクライナに泊まることにしたが、今度こそ安心してリビリスアークの面々は帰っていった。

 戦闘後のことで最も懸念していた宿代は、流石に免除。
 だが、サーシャの“支配”の影響は色濃く、村を救った英雄としての視線を結局アキラたちは浴びなかった。
 時が解決する問題だと、アキラは信じたい。

 むしろ懸念は、退けたサーシャ=クロライン。
 ウッドスクライナのように、あの“支配欲”を追求する“魔族”が支配している町や村があるのではないだろうか。
 リロックストーンを、設置して。
 そして、最後にアキラに向けた表情。
 次に出遭ったときには、サーシャはアキラを本気で狙ってくるだろう。

 ともあれ、アキラは、刻めた。

 異世界来訪序盤に強敵と当たり、完全な決着がつかないという、お約束の“刻”を。

 そして、その、次の日―――

「昼ご飯、いる?」
「いらない」
「食べなさいって」

 アキラは痛む頭を、ベッドの上で横に振った。

 喉が渇く。
 耳鳴りが酷い。

 アキラはものの見事に風邪をひいていた。

 原因は、当然昨夜の戦闘。
 治りきっていない状態で走り回り、日輪属性の力が抑え切れないほどまで病状が悪化したらしい。

 ウッドスクライナの宿屋で目を覚ましたアキラは翌朝ぴくりとも動けず、わざわざ担架まで借りてリビリスアークの孤児院に戻ってきていた。
 ついでに、筋肉痛も酷い。
 異世界来訪の翌日は、これで三回連続ベッドの上だ。

「はあ……、少しくらいは食べなさいよね」
「…………ああ」

 料理を運んできたエリーは、ベッドわきの机に置くと、そのまま椅子に座り込む。
 そして、ぼうっと窓の外を眺め出した。
 換気のための僅かな隙間から、爽やかな風が流れ、レースのカーテンを揺らす。

 どうやら、アキラに料理を食べさせてはくれないようだ。

 僅かな意地から、アキラは上半身だけ起こす。
 そして、ベッドの頭に身体を預け、エリーと同じように外を眺めた。

 青い。
 それだけに、もどかしかった。

「……そういえばさ、魔術習いたいんだっけ?」
「あ、ああ、それは頼むよ」
「ま、今日は無理だけどね」

 昨日共に戦闘をしたからだろうか。
 エリーとも随分打ち解けられた気がした。

 アキラはふっと笑い、机に伏せてあるカップを取る。
 水差しからは、エリーが注いでくれた。

「でも、打倒魔王、かぁ……」
「……? どうしたよ、しみじみ言って」
「いやね、昨日の騒ぎで、あたしもずっと現実感出てきてさ、」

 エリーはさりげなく、拳をさすっていた。
 よくよく見れば、僅かに色が違う。

「お前治療しとけよ……、魔物殴り殺せなくなるだろ」
「言葉を選びなさい」

 エリーが僅かに視線を強め、アキラは笑う。
 こんな光景は、やっぱり“ここ”にもあるのだ。
 それが嬉しくて、アキラは笑みを止めなかった。

「……で、あんた、話すくらいはできそうね」
「……!」
 話の雲行きが、途端怪しくなった。

「“リロックストーン”のこと、とか。なんで知ってたの?」
「いや、あれは、ほら、あの小石から出てきたら、そりゃあ『壊すか』って気になるだろ?」

 それは、嘘ではない。
 “一週目”、アキラはまさにその理由で、その小石を狙うように言ったのだ。
 もっともそのときは、完全な人任せだったが。

「まあいいわ。そんな枝派の部分。本題よ本題」
「お前、だからそれは―――」

 アキラが便利な言葉を使おうとしたところで、部屋のドアが叩かれた。

「入ってもいいか?」
「あ、ああ、」

 ドアが開かれ、現れた声の主は、やはりサクだった。
 動けなかったアキラを運ぶ手伝いもあり、リビリスアークに共に来た昨晩の“決め役”。

「エリーさんもいたのか。先ほどエルラシアさんに昼食をご馳走になった。ありがとう」
「え、ええ」

 サクははきはきとエリーに言葉を伝え、次に、アキラに曇った表情を向けた。

「……、」

 アキラは身構える。
 この時点の“刻”を、アキラは思い出していた。
 サクが何を言うかは知っている。

 だが、今は“三週目”。
 昨晩、“ハードモード”になるなど、予定外のことが起こっている。

 おそらく“どちらかだろう”。
 問題は、“一週目”と“二週目”どちらに準ずるか、だ。

「アキラ、話せるか?」
「え、あ、ああ、」

 どうやら、“一週目”のようだ。

「昨日のことだが……、謝罪する。“決闘”などを強制的に始めたりして……」
「いや、いいだろ。お前が決めたんだし」
「……ああ。だが、始めた以上、何かしら、その、」

 サクの中では、未だすっきりとはしていないのだろう。
 彼女は、清算することを願っている。
 だがそれをするには、“決闘”のルールに準じなければならないのだ。

「“保留”……、でいいだろ?」
「……?」

 アキラは“一週目”に準じた言葉を吐き出す。
 あのときは、サクの“豹変”が未だ脳裏に焼きつき、下手なことを言おうものなら今すぐにでも切りかかってくると感じたためのものだった。

「そう……、だな、そう。“保留”にしよう」
「ああ」

 未だ解けが浅い記憶は、サクの口調に違和感を覚える。
 だが、それでいいではないか。
 “二週目”で旅した中、実のところアキラは、サクの立場を不憫に思ったこともあったのだから。

 彼女にしてみれば珍しい部類に入る“保留”も、“一週目”刻んだ“刻”通りだ。

「だが……、“勇者様”、なのだろう?」
「……ああ。一緒に行こうぜ」
「……!」

 アキラは急いて、結論を口に出した。
 “保留”にした以上、別れることは、うやむやにするのと同義。
 それに、戦力としても、想いとしても、サクは必要な存在だ。

「……分かった。どの道行く当てのない旅だった。“魔王討伐”を目指してみよう」

 サクの口から、“魔王討伐”が軽く出てきた。
 昨晩、リロックストーン越しとはいえ、“魔族”を退けたのは自信になっているらしい。

「じゃあ、よろしく」
「ああ、よろしく。エリーさんも、な」
「ええ」

 その光景に、アキラは心の底から安堵する。
 昨日この場で沈んでいたときとは、雲泥の差だ。

 爽やかな空気の部屋。
 自分の想いが繋がっていなくても、繋がっていても、世界はうまく回っていく。

「そうだ、アキラ、一つ聞いておきたかった」
「?」
「私が操られているとすぐに分かっていただろう? 何故分かった?」
「……、ああ、」

 そういえば、サクは『あとで聞かせてもらう』と言っていた。
 アキラは“言い訳”を、考えてある。

「お前はそんなことする奴じゃないって、信じてた」

 いつか、びしっと言ってみたかったセリフだ。
 だが、ただの“言い訳”ではなく、真実を含ませての。
 サクという人間を、アキラは一応、知っているつもりだった。

「……はは、お前は何を言ってるんだ、まったく、」

 震えながら言葉を紡ぎ、僅かにうつむいてサクは笑っていた。
 サクが声を出して笑ったのを、アキラは“初めて”見た気がする。

「あ~、囁かれてる囁かれてる……」
 隣では、エリーが目頭を指で押さえ、怪しく何かを呟き始めていた。
 アキラは眉を寄せて、視線を外す。
 今は彼女に触れるべきではない。

 ともかく、アキラはここまでの“刻”を刻み終えた。
 この三人は、集まったのだ。

 “魔族”―――サーシャ=クロラインも退けた。
 “二週目”に救えなかったウッドスクライナも救うことができた。
 総てが、いい方向に向かっている気がする。

 例えそれが“違ったとしても”、アキラは今、喜びを感じている。
 やはり、この世界は、キラキラと輝いているのだ。
 だから、変えるべきは、ただ一点でいい。
 昨日乾いた心で浮かべた目標が、今は明確に頭に浮かんでいるのだ。

 自分は旅路を始めよう。

―――決して最後が、濁らぬように。



[16905] 第二十話『正しい“刻”の刻み方』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2019/03/02 20:34
―――***―――

「村長、」
「……分かっている」

 多分、分かっていない。
 リビリスアーク孤児院の主―――エルラシアは、しきりに視線を外す村長―――ファリッツに呆れたような表情を浮かべた。

 ここはファリッツの自宅に設置されている会合の間。
 昼を過ぎたばかりのリビリスアークは、小さいながらに活気に満ちていた。
 僅かに開けた窓からは、爽やかな、というより、のどかな空気がそよそよと舞い込んでくる。
 リビリスアークは、本日も平和だ。

「……、」
「……、」
 エルラシアは出されたっきりのお茶を一口含むと、ゆっくりと飲み込む。
 その一挙手一投足に、ファリッツはピクリと身体を震わせていた。

「なにが、分かっているんですか?」
「……いや、その、」

 どうも、エルラシアはあの夜以降、ファリッツに恐れられているようだった。
 ファリッツの強引な“勇者様”排出に、完全に嫌気が差したあの日から間もなく十日。
 そのときエルラシアが怒鳴りつけたのが、ファリッツの心に傷を負わせているようだ。

「はあ……、今日はそういう話じゃありません」
「?」
 奥の事務机に座り、忙しなく天気を覗い続けているファリッツを流石に不憫に思い、エルラシアは手紙を取り出した。
 茶色い封筒に入ったそれは、今朝がた届いたものだ。

「エリーからです。今は、リードリック地方の村にいるそうです」
「……そ、そうか」
 ファリッツの顔が僅かに明るくなる。
 今回エルラシアがこの場に訪れたのは、その“報告”なのだとようやく理解したようだ。

 結局、エリーは旅立った。
 “勇者様”の風邪が完治するのを待ち、彼女はこのリビリスアークを去ったのだ。

 自分が育てた“娘”が、“魔王討伐”などという途方もない旅に出たことは、今でもエルラシアの懸念事項としてはある。
 だがどうやら、手紙を読む限り、彼女は元気なようだ。

「……はあ、村長。ここまできたら、私もとやかく言うつもりはありませんよ。出発のとき、エリーだって乗る気だったようですし」
「……だが、な。“勇者様”を排出しないと言った手前……、」
「送迎会を中止しただけでも、進歩ですよ?」

 ファリッツは、あの夜以降、確かに変わった。
 村を導く者としての自覚が備わったのかどうかは定かではないが、“勇者様”に対する異常な執着はなりを潜めている。
 個人個人の仕事などお構いなしで行われていた村人総出の“勇者様送迎会”は、今回なかったのだ。

 だがそれでも、結局“勇者様”は旅立ってしまったのだから、ファリッツも心苦しいのだろう。
 特に、そんな危険な旅のお供をすることになったエリーの育ての親の前では、視線を外し続けることしかできない。
 怒りをぶつけられたことがあるのだからなおさらだ。

「なあ……、エルラシア」
「はい?」
 椅子に座り込み、窓に対面しながらファリッツは小さく呟いた。
 その背中は、椅子の背もたれにすっぽりと隠れている。

「もし私が……、“勇者様”だと騒ぎ立てなければ……、彼はどうしたかな……?」
「…………少なくとも……、今まで旅立った者の中にはまっとうな人生を歩めた方もいるでしょうね」

 ファリッツから、小さな唸り声が聞こえた。

「でも……、そうですね……。今回の彼―――アキラさんは、分かりません」
「?」
 フォローのつもりでエルラシアが漏らした言葉は、しかし真意だった。

 今までの“勇者様”の中には、それを拒絶した者がいたのだ。
 しかしファリッツの大げさすぎるほどの熱意に押され、それを目指すことになってしまった。
 恐らく、誰だってそうなるだろう。
 凡人から英雄になれる機会を前にして、それを拒絶できる人間はあまりに少ない。

 だが、一度“勇者様”を名乗った以上、残される道は“魔王討伐”、“失敗”、あるいは、“完全放棄”だ。

 “完全放棄”をした者は、まず間違いなくこの地を去り、戻って来ない。
 まともな神経なら、後ろめたさから名前を変え、遠くの地で暮らすことになる。
 それは、生活の劇的な変化だ。

 そういう意味では、今までの自分には戻れない。
 それだけの覚悟は必要なのだ。

 だが、今回の“勇者様”は―――

「アキラさん、本当に異世界から来たようですしね」
「……やはり、そうなのか」
「……村長、あなたが最初に言い出したことですよ?」
「い、いや、分かっている。だが……、それでも、な。別の道があったような気がするんだ」

 その言葉に、エルラシアは素直に驚いた。
 ファリッツは本当に変わったようだ。
 今までどんな些細なことでも盛り立て、“勇者様”に仕立て上げたファリッツが、“異世界来訪者”という大看板をぶら下げていたアキラに、別の道の可能性を挙げる。
 それは、あまりに空前だった。

「私は……いや、リビリスアークはもう、“勇者様”を出さない。だが……、今回は、」
「今さら言っても遅いですよ」
「い、いや、そうなんだ。だから、」
「?」

 ファリッツは言い淀み、椅子ごと振り返ってきた。

「私も、懲りた。今までの者たちには、悪いことをしたと思っている。それなのに、」
「なんです?」
「“期待”、しているんだ。何故か、今度こそ、と」

 ファリッツが言いたいことがようやく分かった。
 要するに、自分の願望―――いや、本能の犠牲者になったアキラを不憫にも思い、しかし期待もしている。
 そんな矛盾が、ファリッツの態度の正体なのだろう。

「……、」
 エルラシアはカップを取り、再び一口含むと、ゆっくりと飲み込む。

 この村は、どうやら安泰のようだ。

 この歳になって難しいこと。
 失敗を受け止め、自分の考えを変える。
 それが、今のファリッツにはできているのだ。

 同じ失敗を繰り返すこと。

 それは、もしかしたら。
 本当は必要なことなのかもしれない。

「そうじゃなきゃ、困ります」

 口調では僅かに冷たく、しかしエルラシアは僅かに笑っていた。
 視線は、机に置いた手紙に向く。

 向こうも、賑やかな旅を送っているようだ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「あぶっ、ちが……、お前は何度言えば分かるんだ?」
「えっ?」

 生憎と曇り空が浮かんでいる、午後。
 アキラたちはリードリック地方と呼ばれている地域の、小さな村の宿屋にいた。

 その庭で行われているのは、日課。
 世界を救う旅という仰々しい看板をぶら下げ、今日も“勇者様”ことヒダマリ=アキラは身体を動かしていた。

「怪我をしたいのか? そんなに振りかぶったら、」

 そのアキラに近寄ってきたのは、一人の女性。
 黒髪をトップで結い、身に纏うは紅い着物の羽織。すぐそばの宿屋の壁に、黒塗りの長刀が立てかけてある。
 普段は凛とした表情で、さながら日本人形のような美貌の少女―――サクは、しかしそれを怪訝に歪め、アキラの元に歩み寄ってきた。

「じゃあ、どうしろってんだよ?」
「まずは身体造りだ。筋力が足りないのなら、無茶なことはしない方がいい」

 サクの言葉に、アキラはおずおずと頷いた。

 このリードリック地方に入ってから、もう一週間になる。
 リビリスアークから第一の目的地―――ヘヴンズゲートへの“直線ルート”の途中には、こうした村がいくつも散布しているらしい。
 立ち寄ったこの小さな村も、アキラはいくつ目か覚えていられなかった。
 目的地は同じ大陸にあるのに、どれだけ歩いてもうっそうと茂る森が周囲を囲い続ける。
 “異世界来訪者”たるアキラは―――いや、“例え何度経験しても”、そのスケールの大きさには未だ慣れきっていなかった。

 ただ、もっと慣れていないものもある。

「まったく……、剣になじむのは結構だが、今はそのくらいで止めておけ。初日の惨状を覚えていないのか?」

 サクの言葉に、アキラは視線を外した。
 覚えているのだ、その惨状は。

 異世界来訪“初日”に引いた風邪が完治した、その翌日。
 筋肉痛か、あるいはもっと単純に筋を痛めたのか、アキラは再び倒れ込んだ。

 アキラにも言い訳はある。
 この旅は、とある事情で“三週目”。

 “二週目”の記憶を内包したアキラには、未来の精神と過去の筋力の“ずれ”が存在していた。
 精神のゴーサインに筋力がついていけなかったのは必然。
 最近はその“ずれ”もなくなってきたが、初日のそれはあまりに酷かった。

 ただ、

「やはり足腰が一番まずい……。アキラ。身体がぐらついていては、剣はかえって自分に危険だぞ?」

 その“ずれ”が消えた現状、それでもなお、アキラには実力不足という問題がぶら下がっていた。

 絶対的に、筋力が足りない。

「なら、走ってこい、ってか?」
「そう言いたいところだが……、時間もないな」
「じゃあ、」
「だったら…………、い、いや、待て。一応私たちは“決闘保留中”だぞ?」
「いや、それくらいは教えてくれよ」
「……こ、断る」

 サクは首を振り、元の場に戻っていってしまった。
 そして立てかけてある愛刀に歩み寄ると、動作を確認しつつそれを振るい始める。

 これまたとある事情からアキラと“決闘中”のサクは、この旅に同行していてもそれを律儀に守るらしい。
 難儀な性格だな、と思いながらもアキラは思いたってスクワットを始める。

 “二週目”。
 アキラは彼女に剣の指導を受けていた。
 刀を操る彼女が、剣と通じるものがあるだろうと、“主君”たるアキラに指導をわざわざしてくれていたのだ。
 どうやらあのときの彼女は、アキラの筋力も勘案して指導をしていてくれたらしい。
 言われるまま漠然と身体を動かしていたアキラには、彼女の意図も分からず、そして現段階の運動能力で何をすべきかも分からなかった。

 そして、サクの指導。
 この“三週目”では、彼女の立場は違う。

 アキラは上下する景色の先、背を向けるサクを眺めながら、おぼろげに“一週目”に思いを馳せた。

 特定の“刻”を刻まなければ蘇らない、“一週目”の記憶。
 それを思い出すことができない。

 自分は彼女に指導を受けたのだろうか。
 ただ、思い出せない以上、アキラは彼女の指導を諦めていた。

「…………なあ、これでいいのか?」
「き、気になっていない」

 ふと、振り返ったサクとアキラは視線が合ったのだが、すぐに顔を背けてしまった。

 本当に、難儀な性格だ。
 アキラは小さく首を振り、剣を塀に立てかけて短ダッシュを始めた。
 今度は口をはさんで来ないところをみると、どうやらサク的には問題ないらしい。

 アキラは苔が茂る壁の位置で折り返し、再び駆ける。

 運動の方は、これでいいだろう。

「……、」

 だから、今、アキラの一番の懸案事項。

 “二週目”の―――あの出逢いは、どうなってしまうのだろうか。

「……そういえば、だ」
「?」
 サクが視線を合わさず、背中越しに声をかけてきた。

「向こうの方に、何かあるのか?」
「?」
「いや、東の方だ。よく眺めているだろう?」

 気にしないと言いながらも、よく見ている。
 アキラは足を止め、再び東の空を眺めた。
 曇り空の下、険しい山脈が広がっている。

「……あっちの方、何かあるのか?」
「お前の言葉はいつも白々しいな……。ウッドスクライナで聞いただろう? あの山の“呪い童歌”」

 そういえば、そうだった。
 あの村を離れるときに、いや、に“も”、小耳にはさんだのだ、その情報は。

 サクと“決闘”する羽目になった“異常事態”が起こった村―――ウッドスクライナ。
 その近くにある山は、誰も近付かないそうだ。
 何でも、この平和な地方にしては危険地帯。
 馬車も、大きく迂回する形でそこを避けるそうだ。

 アキラは余計なことを言わないように口を閉じる。

「その向こうには、クロンクランという大きな町がある。まあ、行きたいのはヘヴンズゲートなのだろう?」

 この方向に進むことに、“アキラは異論を挟めなかった”。
 “用もない”のに危険地帯に寄ったり、あるいは大きく迂回して向かったりするなど、“不自然なこと”になってしまう。

 だからアキラは、ただ“待っていてくれ”、と心の中で念じるだけに留めた。

 それでも視線は、やはりそちらにちらちらと向いてしまうのだけど。

「ヘヴンズゲートに行ったあとのことは考えていないのだろう? 行きたいのなら、私は反対しないが」
「……そう、だな……」
「そうだ。……まずは確認しないとな、“奥様”とのことを」
「っ、それ禁止だ!!」

 とうとうその話題に突入し、アキラは声を張り上げた。
 サクはふん、と鼻で笑い、長刀を振るう。
 風切り音が、僅かに鋭くなった。

 “二週目”、従者としてアキラに接したサクとこういう会話をするのも悪くはなかったが、やはり面白くない。
 いつの間にか“それ”を知っていた、というのもだ。

「……まあ、せいぜい頑張ってくれ。……! 噂をすれば、か」
「……!」
 どこか冷たいようなサクの声に誘われて見てみれば、一人の少女が宿屋の門をくぐってきた。

 “決闘中”のサクの向こう、現れたのは、やはりこれまたとある事情で“婚約中”の相手。

 長い赤毛を一本に結わいて背中に垂らし、身体に吸いつく機能的な服。
 しっかりとナックルガードや急所を守るプロテクターを装備し、半ば大股でアキラに近づいてくる。

 ずんずんと。

「随分遅―――ど、どうしたよ?」
「言い訳から聞くわ」
「?」

 大きな瞳をきっと鋭くし、赤毛の少女―――エリーことエリサス=アーティは、すっ、と膨れ上がったきんちゃく袋を差し出した。
 それは、依頼の報酬を入れるメンバー共通の袋だ。

「あんた、昨日の報酬、貰ってなかったでしょ?」
「……? え?」
「ほら、覚えてない!!」

 エリーにそう言われて、アキラは記憶を反芻する。
 昨日、自分たちはこの村にいなかった。
 いたのは、この隣の村。
 確かにそこで、魔物討伐の依頼を達成した記憶がある。

 だが、

「あ」
「あ、じゃないでしょ!? 昨日の依頼、二つあったじゃない。依頼書一枚残ってたからおかしいと思って聞いてみたら案の定よ」
「お前まさか戻ったんじゃ、」
「戻るわけないでしょ!? その代わり立て替えてもらったわよ。手数料引かれてね」

 ずい、と詰め寄るエリーに、アキラは視線を外すことしかできなかった。

 この一週間、共に旅したのは、この三人だ。
 それだけに、“赤の他人”同士といえども、少しは打ち解けた気がする。

 ただ、それに正比例して、目の前の赤毛の少女の怒鳴り声も増してきたのだが。

「そういえば、クロンクランに行きたいらしいな」
「いや、別にそうとは、」
「え? 行きたいの?」
「ああ、そうらしい。最近特にぼうっとしているな」

 エリーとサクは顔を向き合わせ、そして僅かに眉を落としてアキラに視線を送る。

 最近、こんな視線ばかり受けている気がした。
 いや、気のせいではない。
 明らかに、二人はアキラをいぶかしんでいる。

「…………、ま、“勇者様”には“勇者様”の考えがあるんだよ」

 そして、決まってアキラはこう返す。
 仕方ないのだ、それは。

 自分だけが、知っていることなのだから。

「あんたねぇ、また、」
「それより依頼、請けてきたんだろ?」
「え? ええ、ほら、魔物討伐…………って、話を逸らさないで」
「俺、支度してくるわ」
「ちょっ、」

 アキラは駆け足で宿屋に入る。

 最近はこの話題が出ることが、特訓終了の合図になっていた。

―――***―――

「クンガコング……、か」
「正式名称は、」
「そっちはいい」

 森の中、アキラはせり出した巨大な木の根を飛び越え、意気揚々と歩いていた。
 エリーはその背に未だ不審な瞳を向け続ける。
 もっとも、この十日ほど続けたその行動も、アキラの口を割らせることはできなかったが。

「それで、今日は戦うんだっけ?」
「え? 何言ってんだよ。俺はいつでも戦ってる」
「無駄とまでは言い切るつもりはないけど、“応援”はギャラリーの仕事よ」
「お前が見てろ、って言ったんじゃねぇか……」
「そりゃあ、」
「ま、なんとかなんだろ。そろそろ俺も、さ」
 アキラの軽い足取りは止まらない。
 そんな調子の“勇者様”に、エリーは聞こえるようにため息を届けた。

 確かに、その“応援”で依然助かっている。
 だが、絶対的に必要だったのは、あの“魔族戦”だけだったりするのだ。

「サクさん、あいつ、戦えそう?」
「さあな」
 アキラから視線を外さないまま訪ねたエリーの言葉に、隣のサクは“きっぱりと曖昧な言葉”を返した。
 隣に並ぶと分かるが、サクは女性の中では長身の方だろう。

「ただ、そもそも絶対的に筋力が足りない。その上、身体を痛めている」
「え?」
「身体に無理をさせすぎているんだ。本人は、気づいていない」
「そこまで分かっているなら、」
「い……、一応、それとなく伝えているんだが、な」

 難儀な性格だ。
 エリーは奇しくもアキラと同じ評価をサクに下した。

 “決闘中”だから手は貸さないという真面目さ。
 しかし、口を挟みたくなるという心配性。

 サクとの付き合いは短いが、エリーなりに彼女のことが見えてきていた。

「……魔術の方はどうなんだ?」
 サクもアキラの背から視線を外さず問うてきた。

「どうもこうも……、教えてるのは魔力の上げ方くらいよ」
「……?」
「“使い方”はすぐ覚えたけど……、それっきり。魔力を使いながらの戦闘は、あっという間に時間切れ。センスがあるんだかないんだか」
「……、」
「サクさん?」
 急に黙り込んだサクに、エリーはようやくアキラから視線を外した。

「また……、一つ増えたな」
「?」
「あの男の奇妙さ、だ」

 サクの言葉は、配慮しているのか途端に小さくなった。
 アキラは振り返りもせずに歩き続けている。

「先ほども言っただろう。あの男は筋力が足りない、と」
「ええ」
「だが、それなのに、」
 サクの視線が捉えているものがようやく分かった。
 彼女は、アキラの背に下がっている剣を見ているのだ。

「構えや動き。まだまだ荒いが、明らかに指導を受けている。筋力が足りないだけで、十分に戦えるほどだ」

 それはまさしく、アキラの魔術の進捗度と同様だった。

 魔術の師を務めているエリーは、その初日、本当に異世界から来たのかと再三聞いたほどだ。
 勇者の血が目覚めているだとかわけの分からないことしか口にしなかったが、どう見ても怪しい。

 彼は、“戦い方を知っている”。

 そして、気になることはもう一点。
 彼の武器の扱い方を、どこかで見たことがあるような気がするのだ。

「まあ……、剣の方はまだ分かる。“異世界から来た”と言っていたが、そちらにも剣はあるらしいからな。だが、」
「魔術も魔法もない世界。それは、間違いないらしいし……、ね」
「エリーさんの教え方がいいのかな?」
「…………そう、かなぁ?」

 だが、何度聞いても、アキラから返ってくるのは“ご都合主義”の一点張り。
 本当に、ふざけた男だ。

「……?」
 そこで、エリーはサクの瞳に熱がこもっているのを感じた。

「惜しいな……、本当に。きちんと指導を受ければ、剣の方も、」
「い、いや、無理よ? 魔術だって魔力を上げてから教えたいこともあるし……、ほ、ほら、“決闘中”でしょう?」
「……そう、なんだよな」

 エリーはほっと息を吐き、小さく頷く。
 剣の方はもう少しあとでいい。
 とにかく今は、彼に魔術を叩き込まなければならないのだ。

 身体能力強化に防御膜。
 そして攻撃方法も。
 アキラの属性―――日輪属性のことはよく分からないが、何かあるはずだ。

 とにかく今は、自分の出番なのだ。

「なあ、こっちであってんだよな?」
「……えっ、え、ええ、……うん」
 振り返ったアキラが足を取られて転びそうになるのを見ながら、エリーは小さく返した。

 まあともかく、不審なことが目立つ“勇者様”だが、強くなってもらわなければ困る。
 今まで危険と判断して見学させていたが、今日から戦闘参加させてみるのも悪くはない。

「…………でも、クンガコングか……、」
「大型の魔物だったな」
「ええ」
 エリーは忙しなく視線を配り始めた。

 昨日の依頼。
 それは、この森に生息するランドエイプの巣の駆除だったのだが、クンガコングはその数倍強い。

 それに、ランドエイプの数も気になる。
 あの、猿のような魔物の巣はいたるところに存在し、いくつもの依頼主が同時に依頼を出したほどだ。
 そのせいでアキラも依頼料を貰うのを忘れたのだろうが、やはりそれは“異常”だ。

 そんなに魔物が大量に繁殖しているこの森。
 討伐対象のクンガコングは一体だけらしいが、本当にそうだろうか。
 先の“魔族”戦で過敏になっているだけかもしれないが、警戒する必要はあるだろう。
 そう考えると、妙に静けさのある今も、不気味に覚えてしまった。

 それ、なのに、

「魔物いないな……、あれかな、昨日の依頼の成果かな。お前らが根絶やしにするから」

 これだ。
 楽天的な目の前の“勇者様”。

 やはりこの男は怪しすぎだ。
 鍛錬だけは真面目にやるくせに、こと依頼に関しては軽視している。

 まるで、“成功することが前提”のように。

 エリーとサクなら、確かにこの辺りの魔物に遅れはとらないだろう。
 今回のクンガコングも、高が一体程度、相性で勝るエリーがいれば問題なく終わるはずだ。

 だが、アキラはその見学しかしていない。

 何故その当事者でもあり傍観者でもある彼が、そこまで楽観しているのか。
 まあ、あのアキラも、“ただの一般人”ではない。
 奇妙なことに、彼は、戦えるのだ。

 だから、いや、しかし、

「……、」

 そんな視線を背中で受けながら、アキラは頭を高速で回転させていた。

 背後からの視線には応えない。
 言っても意味がないからだ。

 口から出るのは楽天的な言葉。
 しかしアキラの視線は忙しなく周囲を覗う。

 エリーから聞いた先ほどの依頼。

 『クンガコング一体の討伐』

 それを、アキラは知っていた。

 “二週目”。
 自分たちはそれを請けたのだ。

 その内容は、依頼書とはかけ離れていた。
 クンガコングは一体ではない。
 あの、巨大な身体のゴリラのような魔物は群れをなし、森の開けた広場一帯を埋め尽くしていたはずだ。

 あのときは、“最強の力たち”が総てを蹂躙した。

 だが、今は。

「……、」

 “二週目”の記憶は役に立ちそうにない。状況が違う。

 ならば残るは“一週目”。
 それは確かなものではなく、特定の“刻”を刻まなければ蘇らない。
 “二週目”もあったこの状況。
 これが特定の“刻”である可能性は高い。

 だから、思い出せさえすれば、

「……、」
 アキラはちらりと振り返った。
 エリーとサクが一応周囲を警戒し、そしてそれ以上にアキラを警戒しながらついてくる。
 大方、この森でアキラがはしゃいで逸れないように見張っている、というところだろうか。

 だがこの三人が、今の“勇者様御一行”の総戦力だ。
 この三人で、その依頼を達成しなければならない。

 思い出せば、アキラは指示を出せる。
 それこそ、あの“魔族”―――サーシャ=クロライン戦のように解決に導けるのだ。

 これが特定の“刻”ならば、自分は最上級の力を振るえる。
 “一週目”、そして“二週目”の記憶。
 自分が二人に対して持つ、最大級のアドバンテージ。

 それを活かせば、問題なく“刻”は刻まれる―――

「……!」
「ね、ねえ、ちょっと、」

 エリーの声に応えるまでもなかった。
 ガサリと音が響き、目先の木々が揺れる。

 昨日もあった。
 これよりごく少量の音量で。

 だからこの揺れは、ランドエイプではない―――

「……、」
 アキラは目を凝らし、身体を強張らせる。

 いよいよだ。
 アキラは直感的に判断し、息を呑む。

 音源から、場所を特定。
 数十メートル先にある、巨大な薮からだ。
 わさわさと揺れ、徐々に振動が目前まで迫ってきている。
 薮の中を、何かが突き進んで来ていた。

「……!」
 その姿が見える前に、エリーは構え、サクは刀に手をかける。
 アキラは数歩下がり、剣を抜き放った。

 感じる“匂い”は、戦闘のそれだ。

「グ……、」

 薮を突き破り、現れた“それ”はアキラの記憶通りの姿をしていた。
 岩ほどもある拳を地につき四足歩行をしているが、身の丈は、ゆうに二メートルはある。
 緑色の体毛を身に纏い、野生の筋肉を隆起させ、くすんだ瞳を三人に向けていた。
 表情は、凶悪そのもの。
 この魔物の種類通り、皺くちゃに顔を歪め、獰猛さを姿そのもので雄弁に語るよう。

 この、凶悪な野生動物のような魔物。

 それは、間違いなく、

「クンガコング……、随分早く現れたな……!!」
「ええ……、もっと奥だと思ってたけど……って、あんたなに下がってんのよ?」
 気づけばアキラは後続の二人の位置まで来ていた。

「きょろきょろするな……、危険な魔物だ。今日はお前も戦うんだろう?」
「分かってる……、ああ、分かってるって」
「……あんた、また何か隠してる―――……!?」
 エリーが口を開いたところで、再び薮が揺れ始めた。
 現れ、三人を威嚇しているだけのクンガコングの背後、先ほどと同じように薮の揺れが接近してくる。

「っ、」
「グ……、」
「グググ……、」

 わざわざアキラが下がった説明をするまでもなかった。
 現れたクンガコングは、二体。
 全く同じ醜い顔を、四つん這いなりながら向けてくる。

「いっ、一体じゃ―――」
「っ、とにかくやるぞ!! どの道倒さなければならない……!!」
 長らく旅をしていた成果か、依頼のいい加減さを承知しているサクは瞬時に我を取り戻し、高速で接近していく。

 足場の悪いこの森の中、それでもサクの神速は衰えない―――

「っ、やるぞ!! “つまずくなよ”!!」
「誰が!!」
 サクが左の一体に切りかかったと同時、ようやくアキラとエリーは駆け出した。
 イエローの一閃に切りつけられたクンガコングは、筋肉の鎧でそれを耐えると、反射的にサクを追っていく。
 アキラたちの狙いは、右のクンガコングだ―――

「ガァァァアアアーーーッ!!」
 けたたましい雄叫びと同時に身体を起こした右のクンガコング。
 アキラはエリーと違い、迂回して攻めず一直線に詰め寄ると、クンガコングの胸を剣の一閃で切りつける―――

「づ!?」
 ガインッ、と剣が弾かれた。
 アキラの両手に重い衝撃が響く。

 やはり、硬い―――

「ノヴァッ!!」
 硬い筋肉に切りつけたゆえに体勢が崩れたアキラ。
 そのアキラに剛腕を振り下ろそうとしたクンガコングに、次に襲いかかったのはエリーだった。
 詠唱を附した拳の一撃。
 森の中にスカーレットの光が爆ぜ、クンガコングの身体がぐらつく。

 だが、それでも、

「っ、」
 結論を見る前に、アキラはその場から離脱した。

 クンガコングは木曜属性。
 エリーの火曜属性は、相性で勝っている。
 だが、クンガコングの肉体は、その攻撃でも戦闘不能に陥らない―――

「っ、」
 エリーが離脱したのを確認し、アキラは左のサクに視線を向けた。
 彼女もその速力にあかせクンガコングを翻弄しているが、決定打は与えられていない。

 クンガコング二体程度、“かつて”の状態ならば、圧勝できただろう。

 これが、“時”の対価―――

「っ―――、」
 アキラは身体を鎮め、再びクンガコングに駆けていく。
 身体能力強化の魔力は、果たしてあとどれくらい保つだろう。
 だが今は、とりあえず目の前の敵だ。

「っ、」
 クンガコングが横なぎに払った剛腕を転がるように避け、アキラは剣を振るった。
 先ほどとは違い、かすらせるように。

 アキラの剣を使ってできる、“二週目”のアドバンテージ。

 もう一つの攻撃方法―――

「グ……、ガァァアアッ!?」
 クンガコングの胸にできた、最初の重い一撃と、今の軽い一撃の跡。
 だが今クンガコングが悶えているのは、後者の一撃だった。
 そこからオレンジの光がバチバチと漏れ、クンガコングは身体を痙攣させる。

「ノヴァ!!」
 アキラを飛び越えるように拳を敵に叩き込んだエリーは、今度こそ決めた。
 たった今作られたクンガコングのアキレス腱。
 そこに爆ぜたスカーレットの光は、クンガコングを吹き飛ばし、戦闘不能に追い込んだ。

「あ、あんた、今の、」
「次はあっちだ!!」
 大きな瞳を向けるエリーの言葉を、クンガコングの爆発音にも劣らぬ叫び声でかき消すと、アキラは立ち上がり、サクの方へ駆ける。

 やはりこの攻撃方法は使える。
 相手の防御力に依存せず、“中”に直接ダメージを送り込む一撃。

 これならば―――

「!?」
 サクが離脱した隙にアキラは残りの一体に切りつける。
 やはり同様の魔力を“残し”、そして即座に離脱。

 あとは、アキラの出番はない。

「―――、」
 先に動いたアキラが離脱したのが先か、それともイエローの一閃が先か。
 アキラが足を止めたときには、サクの神速はクンガコングを通過していた。

「確かに戦えるようだが……、その、もう少し……、いや、いい」
 愛刀を仕舞ったサクは背後の爆風に押されるようにアキラに歩み寄ってきた。
 ため息混じりの彼女から視線を逸らし、アキラは剣を納める。

「とにかく、依頼は終わったな。……二体いたのは想定外だったが」
「……ええ、そうね」
 アキラを追求することを放棄したのか、エリーも集まり、ただ淡白に言葉を発する。
 だがやはり、視線はいぶかしんでいた。

「……、」
 アキラは目頭を押さえた。
 これから自分は、この視線を受け続けなければならいのだろうか。

 まあ、それでもいい。

「……ま、戻ろうぜ? 依頼終わったんだし」

 エリーの無言のプレッシャーから右から左へ受け流し、アキラは退路に足を踏み出した。

 形だけでも依頼が終わったのだ。
 もしかしたら“一週目”、この段階でこの“刻”を刻み終えたのかもしれない。
 どうやらこれはただの偶然で、特定の“刻”ではないらしかった。

 僅かな眩暈と、脱力感。
 アキラは自分の魔力の残量が著しく減少しているのを感じた。
 たった二頭でああなるのだから、この先に進むのは危険すぎる。

「待って」
 しかし、エリーがアキラの足を止めた。

「なんだよ?」
「あんたがそうやってさっさと帰りたがるときって……、なんかあるのよね……」

 どうやらエリーはアキラの秘密を聞き出すことを放棄さえしたものの、“それ”を前提に動こうとしているようだった。

「はあ……、いい加減にしろよ。疲れたから帰ろうとしてんだって」
「……いい加減にするのはあんたよ。大体何よ? さっきの攻撃」

 とうとうエリーは、口に出して聞いてきた。

「あんな攻撃……、教えてない。いや、そもそも一撃目だって、」
「“勇者様”だぞ? 何でもできるんだって」
「そればっか……!! 知ってることがあるなら、」
「だから“ご都合主義”だって」
「っ、」

 アキラはせかせかと歩き始めた。
 エリーが近づいたのを感じ、さらに足を速める。

「……、」
 背中の視線が強くなった気がした。
 だが、言うわけにもいかないだろう。

 この話題が出た以上、アキラにできることはこの場からの退去だ。
 そのためならば、いくらでも言い訳を並び立ててみせる。

「…………あのさ、」
「……なんだよ? 今度は」
「……そんなんじゃ、あんた、きっと、」
「っ、二人とも!!」

 エリーが何か言い出したところで、サクの大声が響いた。
 アキラとエリーは瞬時に振り返る。
 サクの視線の先に目を向ければ、またも薮が揺れ始めていた。

「も、もう一体……!?」
「いや……!!」
 アキラは確信と共に声を荒げた。
 二人が見ているのは目に見えて大きく揺れている目の前の薮。
 しかし、アキラはその向こう。
 森に並び生える大木を睨んでいた。

 その大木でも身を隠せない存在が、“わらわら”と姿を現し始めている。

「っ、な、何体いるのよ……!?」
「数えてる場合じゃねぇよ……!!」
 目に見えているだけでも、緑色の巨体が十数体。
 そしてそれに留まらず、光が木々の葉で遮られた遠方からも、膨大な数が四足で地を駆けこちらに向かってくる。

 それらが全て、クンガコング。

 やはり、これは“あの依頼”と同じだ。
 刻むべき“刻”かどうかは定かではないが、ともあれ状況は酷似している。

 だが、アキラはある種高揚感を覚えていた。
 これは、“刻”。

 ならば攻略法と、それに伴う記憶の解放があるはずだ。

「―――どうする!?」
「どうするじゃないでしょ!! 決まってるわよ!!」
「いや、でも、何か手が、」
「っ、馬鹿じゃないの!? 早く逃げるわよ!!」
 エリーの怒鳴り声で、アキラは身体中に魔力を回した。

 確かに今は、彼女の言う通り。
 目に見えて接近してくるあのクンガコングの波から、逃れるべきだろう。

「……、」

 アキラは駆け出しながら思考を回した。

 さて、どうするか。

 左右に視線を走らせると、エリーとサクも駆けていた。
 表情には、焦り。
 三人で二体程度しか相手にできないのだ。
 当然、退避以外の選択肢はない。

 背後からはクンガコングの大群が押し寄せてくる。
 ひたすら退避。

 どうすれば―――

「っ、」
 アキラの脳裏に、何かが掠めた。
 だがこれは、“一週目”の記憶ではない。

 “二週目”だ。

 今のこの状況。
 それがかつての“魔王の牙城の地”の光景と重なっていく。

「っ、」
 そこでようやく、アキラの背筋を悪寒が撫でた。

 逃げろ。
 感じるのは、死の恐怖。
 あの“煉獄”で視た絶望。

 アキラは足を速めた。
 冗談ではない。

 こんな程度の相手で、だ。

「―――、」
 しかし、アキラはだからこそ、追憶を止めなかった。

 “思い出せ”。
 自分たちは一体、“どうやって無事に助かったのか”―――

「……―――、」
 駆けながら、アキラはさらに焦りを覚えた。

 足場を問わず、その速力が損なわれないサク。
 そして、そのサクほどではないにしろ、戦闘スタイルから走力が高いエリー。
 今まで並んでいた二人は、今はアキラに背を向けている。

 二人が、速い。

「―――、」
 声も出せず走ることしかできないアキラは、二人の背が離れていくのを唖然として眺めていた。
 わき目も振らず、二人は駆け続けていく。

 “待ってくれ”。

 そんな言葉も吐き出せない。

 あれなら“二人”は、十分逃げ切れるだろう。
 自分が思いつく必要もなく。

 二人は、無事に助かるのだ。

「―――!?」
 そこで、アキラの身体が、がくんと揺れた。
 頭が痛み、呼吸が乱れる。

 身体能力につぎ込んだ魔力。
 その、残量。

 それが、もう―――

「っ―――、」

 このままでは、仲間を殺されていきり立つ背後のクンガコングたちに殺される。

 速く、
 速く、
 速く、

 いや、“早く”。

 “思い出せ”。

 手があるはずなのだ、自分には。
 アキラはひたすらに活路を“思い出そうとした”。
 しかし、記憶の封はまるで解けない。

 だが、思い出せさえすれば、総ては無事に刻まれる。
 そのあとは、いくらでも言い逃れればいいのだ。

「―――、」

 だが、そんな中。

 無情にも離れていくエリーの背が、アキラに語りかけてきているような気がした。

 それは、先ほどの言葉の続き。

 ひたすらに何かを隠し、適当な言い訳を並び立て、異質に見えるアキラへの言葉。

『そんなんじゃ、あんた、きっと―――』

 彼女は、こう言おうとしていたのだろう。

『―――“一人になる”』

―――***―――

「はっ、はっ、はっ、」
 逃げ切ったエリーと、大木に手をつき、呼吸を整えることに全力を傾けていた。
 隣のサクも、同じように肩で息をしている。

 一体、何だったのだろう、あの大群は。

 依頼がいい加減なのは知っていたが、まさかここまで誤差が出ているとは。
 こんな辺ぴな場所で、クンガコングの大群討伐とは、あってはならない事態だ。

 先ほどまでの、クンガコングたちの移動の地響き。
 あれが、耳に残って離れない。

 この依頼を請けてきたエリーとしては、身も凍えるようだった。
 依頼主に文句の一つでも言いたくなる。

「な……、なんとか逃げ切ったな……、」
「え……、ええ……、」
 ようやく声が出せるようになった二人は、念のため静かな声で言葉を交わす。

「い……、依頼はキャンセルしに行こう。一応達成したとはいえ、……これを伝えないと犠牲者が出る」
「そうね……、それにしても……、なんで……、」
「私が前に通ったときは……、クンガコング一体すらいなかったというのに……」

 それはそうだろう。
 クンガコング―――というより、あんな大型の魔物は、もっと北の方にでも行かなければ出現しない。
 この、東の大陸―――アイルーク大陸は、比較的安全なはずだ。
 それだけに“勇者様”も育ちやすいというのに、これでは即座にゲームオーバーになってしまう。

「……?」
 そこで、エリーはようやく気づいた。
 “そういう言葉”を即座に吐き出しそうな、男。
 まさしくその“勇者様”が、

「……サクさん」
「……あ、ああ、」
 二人は素早く視線を走らせ、事態を確認。

 油断した。
 あの二体のクンガコングとの戦闘で、十分に動けた―――というより、多大な貢献をした、妙な攻撃方法の“勇者様”。

 何故か頭の中で、彼は当然に逃げ切っているものと誤認していた。
 あれだけ楽天的に構えていたのだから、必ずなんとかなる、と。

 だが、彼のそもそもの実力は、走っているだけでも魔力が切れる脆弱なものだったのだ。

「い……、いねぇぇぇえええーーーっ!!!?」

 エリーの叫び声は、静かな森に響いた。

―――***―――

「……、」
 アキラは息を殺し、両手両足に力を込め続けていた。
 身じろぎ一つできない、その場所。

 それは、魔力が枯渇する直前、アキラが何とかよじ登った高い大木の頂上付近だった。

「っ、」
 高さは、十メートルほどだろうか。
 何とか足は生えている太い枝にかかり、体勢としては楽だが、その状況はリビリスアークの塔を思い起こさせた。

「……、」
 何とか顔を動かし、眺めた眼下。
 そこには、クンガコング。
 雪崩のような大群は三人の姿を見失い、いつしか散り散りになっていったが、野生の勘か、はたまた嗅覚でも優れているのか、アキラのよじ登った大木の下に、三体ほど依然としてうろついていた。

 ぜぇぜぇ、と息が切れる。
 魔力の枯渇で身体中に力が入らず、壮絶な脱力感が襲いくる。
 だがそれでも、アキラは声一つ漏らせない。
 今は木の葉に守られて隠れているが、あのクンガコングたちがアキラに気づいたら、その腕力でこの大木をへし折ってしまうだろう。

 そうなれば、落下で死ぬか、クンガコングに殺されるか。
 ただでさえずり落ちそうなのに、眼下の魔物たちはその場を離れようとしなかった。

「……、」
 これは、多分、罰だ。
 アキラはおぼろげに、そんなことを思った。

 クンガコングの依頼を見た瞬間に、自分が毅然とした態度でそれを断ったらどうだったであろう。
 事情は明かせないまでも、いつものように言い訳を並び立てられたかもしれない。

 そう。
 使うとすれば、言い訳の出番は、そこだった。

 これが特定の“刻”ならば、そんな些細な言い訳は無に帰し、結局飲み込まれるようにここに来ることになっただろう。

 だが、それでも抗うべきだったのかもしれない、とアキラは思った。

 危険が分かっているのに、それに飛び込むのはやはり愚かなことなのだろう。

 それなのに、自分はここに来た。

 “何とかなる”。

 その確信だけを胸に。

「……、」
 正直なところ、自分は格好をつけたかったのかもしれない、と、アキラは思う。

 危機的状況を自分の記憶―――“アイディア”で解決したい、と。
 あとで何を聞かれても、そこで“ご都合主義”と並べ立てればいい、と。

 だが、解けない記憶頼りで動いた結果、やはりそれは解けなかった。

 記憶というアドバンテージだけを頼りに、ある種優越感に浸っていたのだろう。
 例え実力不足でも、サーシャ戦のように力になれる、と。

 だから、エリーの魔術の授業も、もしかしたらそれを“彼女と話す時間”として認識し、真面目に聞いていなかったかもしれない。
 そしてサクにも、剣を習う必要はないと認識していたのかもしれない。

 自分には、記憶があるから、と。
 何度自分は失敗を繰り返すのだろう。

 本当に、楽天的で、その上見栄っ張りだ。
 共に旅をしているというのに、彼女たちとは、決定的に違う。

 これでは、一人になる理由も分かる。

「―――っ!?」
 精神的な揺らぎも身体に現れたのか、アキラは木の上から、ずるっ、と滑った。
 即座に足に力を込め、体勢を立て直すが、パラパラと木の欠片が落ちていく。

「グ……、」
 そして聞こえた、“察された”呻き声。

 眼下の三体は、同じように大木を見上げる。
 最悪だ。

「グ……、ガァァァアア―――ッ!!」

 ガンッ、と、大木が揺すられる。
 その剛腕を持ってクンガコング一体が殴りつけた大木。

 それは、

「……!?」

 アキラがいる大木の、隣だった。
 その一撃でそのアキラの腕を何とか回せるほどの木は、なぎ倒されて森を揺るがす。

 たった、一撃で、だ。

 クンガコングは倒れた木を睨みつけると、再び周囲の木々を殴りつける。
 比較的細い木は、一撃で。
 そして大木は、数撃で。

 アキラの瞳に隆々としたクンガコングの筋肉が焼きつかれる。

「っ、」

 そして、クンガコングが次に構えたのは、アキラのいる大木。

 これは、“終わる”―――

「……、……?」
 目を閉じ、必死にしがみついていたアキラは、恐る恐る目を開けた。

 いつまで経っても、この大木が殴りつけられない。

「……?」
 視線を向ければ、三体のクンガコングは、固まっていた。
 いや、“警戒していた”。

 三体が三体、アキラの乗る大木に背を向け、とある一方を睨んでいる。
 アキラの位置からは、木の葉が邪魔でそちらが見えなかった。

「グ……、ググ……、」

 一体何が起こっているというのか。
 あれほど獰猛にアキラたちを襲いかかってきたクンガコングたちが、威嚇するだけにとどめている。

 あの先に、一体、何が、

「グガァァァアアアーーーッ!!!!」
 ついに、クンガコング一体がアキラの視界から消えた。

 木の葉で遮られた、その先。

 そこに、剛腕を持って突き進んでいき―――

「づ!?」

 アキラの大木が揺れた。
 向かっていったクンガコングが弾き飛ばされ、背中を大木に打ちつける。
 一体何にぶつかれば、あの巨体が宙を泳ぐような事態になるというのか。

 戦闘不能に追い込まれ、即座に爆発したクンガコングにアキラの乗る大木が再度揺れた。
 アキラは恐る恐る下降し、その存在を視界に収めようとする。

 残ったクンガコング二体は、最早アキラを見てはいない。
 現れた“脅威”に対し、全身全霊を持って向かっていくだけだ。

「ギャフッ!?」
 視界から消えた二体のクンガコング。
 そのどちらかだろう。
 聞いたこともないようなその呻き声が叫び、爆発音が届く。

 早く、降りなくては。

 “終わってしまう”―――

「……!?」
 ようやくアキラは、視界を遮る木の葉を抜けた。
 身体は震え、しかし急くようにさらに降りる。

 ようやく見えたのは、クンガコングの太い足。
 しかしそれは、まるで自害でもしているかのように、宙に浮いていた。

 あれは、“誰かがクンガコングを吊っている”―――

「……あん?」

 最後はただの落下。
 アキラが滑り落ち、腰を地面に打ち付けたのと、その存在が視線を向けてきたのは同時だった。

 聞こえる最後の爆発音。
 “彼女”に投げ出され命を終えたその爆発音は、あまりに“小さかった”。
 そして今、僅かに魔力の光が見えた気がする。

 それは、クンガコングの爆発とも違う、鮮やかなライトグリーン。

「…………、もしかして、あんたが元凶?」
「……、」

 アキラは声を返せなかった。
 しかしようやく―――この“刻”をもって、“一週目”の記憶の封が僅かに解かれる。

 そうだ。
 最初の出逢いは、ここだった。

「……聞こえなかった? あんたがこの辺の魔物湧かせたの?」

 言葉の意味は分からない。
 だが、アキラは座ったまま、彼女の冷たい視線を見返し続けた。

 森の木陰に、一人立つその女性。
 ウェーブのかかった甘栗色の髪に、およそ女性としての理想的なスタイル。
 絶世の美女を思わせるその女性は、胸元が大きく開いたVネックの服の上から春物のグレーのトレンチコートを纏っている。

 そして彼女は、“機嫌が悪かった”。
 それくらいは分かる。

 なにせ、“共に旅をしていたのだから”―――

「お……、お前、」
「今は私が話してんでしょ」

 彼女はアキラの言葉を封じ、大仰に歩み寄ってくる。
 その歩き方も、“彼女の在り方”を示していた。

 肩にかかった髪を手の甲で払い、態度は不遜そのもの。
 いや、不遜ではない。

 “その態度をするだけのもの”は、彼女には備わっている。

 この辺りを移動している中、アキラが何度も思い浮かべた、“仲間”―――

「もう一度分かりやすいように言うわ。この辺りで暴れ回って騒がしいことしたの、あんた?」

―――エレナ=ファンツェルン。

―――***―――

「……今の、“戦闘不能”の?」
「ああ、そうらしい」
 エリーとサクは、森林の中を駆けながら視線を交わした。

 アキラの消失に気づき、即座に元来た道を戻っていたおり、聞こえたのは爆発音。
 直前に聞こえた木々がなぎ倒されるような音といい、その音源に何かがいるのは間違いない。

 二人は頷き合ったのち、足を止め、大木に隠れた。

「……、」
「いる?」
「……いや。行こう」

 しかしその探索も、大きく滞っていた。
 一定距離を駆けたのち、一旦止まり、周囲を覗う。

 警戒しているのはあのクンガコングの群れだ。
 逃げ切れないことはないとは思うが、倒すとなると数が多すぎる。
 結果、二人は隠密行動のような真似をすることになっていた。

 問題は、アキラを見つけられるか。
 かなり危険な状況だが、こうなればアキラは自分たちと逸れただけであると信じるしかない。
 クンガコングたちがアキラを見つけてしまっていたら最悪だ。
 敵に有効打を与えていたアキラだが、流石にあの数では何の意味も持たないだろう。

 何としてでも、クンガコングたちより先にアキラを発見しなくては。

「しかし、気になるな……。先ほどの爆発音」
「見つかった、なんてことは……、」
「あるかもしれないな……」

 木々に隠れ、周囲を覗う間だけの小休止。
 エリーはサクの言葉に、頭を痛めた。

「……、」

 完全に、あの男を誤解していた。
 アキラが自分たちと逸れたのも、クンガコングに捕まったなどという理由ではないだろう。
 彼はあの一回の戦闘で、魔力が切れ、そもそも逃げ切るだけの力がなかったのだ。

 楽天的に見えるアキラへの―――いや、“何かを隠している”アキラへの評価の誤り。
 それが、今回の事態を引き起こした。

「……、」

 何を聞いても、“隠し事はない”と彼は言い切った。
 だが、そんなもの、信じてもいない。
 明らかに、彼は何かを知っている。

 だからエリーも、“それ”を前提に動いたのだ。
 彼には何かがある、と。

 しかし、どうやら、あのクンガコングの群れから逃げ切る“何か”はなかったようだ。

「奴は本当に……、妙だ」
「……!」

 再び足を止めた大木の影、エリーと同じような表情を浮かべたサクが呟いた。
 やはりエリーと同じことを考えているようだ。

「本人が言う気がないなら詮索も無意味だろうが……、私はどうしても、“それ”が気になる」
「……あたしもよ。それに―――」

 エリーは言い切る前に、再び駆け出した。

 アキラに対する、その疑問。

 何故自分たちは、彼と共に旅をしているのだろう。

 “婚約中”だとか、“決闘中”だとか、そういう客観的な理由はある。
 しかしそれを差し引いても、“何か”があるような気がした。

 まるで誘われるように、アキラと共に旅をしている。
 正直に言えば、エリーはアキラのことを、“不気味”だと思う。

 隠し事があるのに、それをないと言い、そしてふざけた言い訳を並び立てる。
 そんな存在との旅は、単純に苦痛だ。

 エリーの隣を走るサクにも、秘密はある。
 彼女のファミリーネームも、そしてそれを名乗らない理由も知らない。

 だが、彼女からは不気味さを感じなかった。
 話したくない、とだけ言った彼女からは、むしろ痛快ささえ覚えたのだ。

 だが、肝心の“勇者様”は、

「流石にいじめすぎたかもな」
「?」

 再び隠れた大木の影。
 サクが、今度はエリーが浮かべた思考と逆のことを発してきた。

「私も秘密がある。言いたくないことだ。それなのに、アキラにばかり疑念の目を向けていた」
「……、」

 サクの呟きで、少し、分かった。
 同じく秘密を持つアキラとサクとでは、感じる“距離”が違う。

 それが何故かは、上手く言語化できなかったが。

「ともあれ、急ごう。そろそろ―――、……!!」

 大木から駆け出したサクは、数歩先で即座に止まった。
 そして身をひるがえし再び気に隠れる。

 それに倣ったエリーにも見えた。
 密集した木々の先、無残にも折られた大木が真新しい内部を覗かせている。

 先ほど大木が倒れる音がしたのは、ここだ。

「いない、みたいね」
「ああ」

 今度は慎重に、その場に歩み寄る。
 やはり大木が倒されていた。
 それも、四本。

 無理矢理ひしゃげさせられたようなその跡は、クンガコングの存在を証明していた。

「何故木を殴りつけたんだと思う?」
「……何故って……、」

 怒りにまかせて暴れ回りでもしなければ、木を倒す理由など知れている。
 木の上に用があるときだ。

 だが、その木の上にいたかもしれないクンガコングの“用”。
 想像したくはないが、“それ”は、周囲に見当たらなかった。

「……! これは……、戦闘の跡だ」
「え?」
 サクが倒れた大木にしゃがみ込み、じっと視線を走らせる。
 エリーにも見えた。
 僅かに焦げている。

 これはやはり、戦闘不能の爆発があった跡だ。

「……、ね、ねえ、あっちにも、」
 次にエリーの視界に入ったのは、その大木から離れた位置の、二つの焦げ跡。
 一つは大きく、一つは小さく。
 そこに落ちていた葉が吹き飛び、地面が僅かに焦げている。

 一つはクンガコングの爆発だろうが、もう一つはマーチュかなにかだろうか。

 だが、大きな方。
 この森のボスとも言えるクンガコングは、何を持って戦闘不能になったのだろう。
 そして、ここまで戻っても、見つからないアキラ。

「……急ごう。どうも妙な予感がする」
「奇遇ね……、あたしもよ」

 何一つ成果が上がらなかった現場検証を終え、エリーとサクは再び駆け出した。

 この森で、一体何が起こっているのだろう。

―――***―――

「な、なあ、待てって、」
「……ついてくんな、って言わなかった?」

 後ろを見ようともせずずんずんと進むその女性の背を、アキラはひたすら追っていた。
 記憶の封は完全に解けたわけではない。
 だが、それがあろうとなかろうと、アキラは彼女をこのまま行かせるわけにはいかなかった。

「……ちっ、なに?」

 アキラの執拗な追従に、ついにその女性は足を止めて振り返った。
 アキラより僅かに背が低いだけのその長身の女性。
 その美貌は、しかし、いたるところから機嫌の悪さをにじみ出していた。

「えっと、いや、その、……そう、助けてくれて、」
「礼ならいいわ。じゃ。私急いでるから」
「いや、待ってくれって」

 正直に言って、機嫌の悪いときの彼女に近づくことは自殺行為だとアキラは認識しているのだが、そうも言っていられない。
 彼女の機嫌の悪さの原因は知らないが、彼女はこの場の“刻”である可能性は大なのだ。
 在るべき道を見つけるためにも、彼女とは話す必要がある。

「な、なあ、俺はヒダマリ=アキラ。君は?」
 とりあえず、名前だ。

「エレナ=ファ―――、……ちっ、エレナ=ファンツェルン。さようなら」

 最後の『さようなら』はいただけなかったが、とりあえずは本名を明かしてくれたことにアキラは安堵を覚えた。
 多少なりとも、日輪属性のスキルは発動しているらしい。

「な、なあ、何でそんなに機嫌悪いんだよ?」
「……、」
 並んで歩き始めたアキラの言葉を、エレナは聞き流した。
 日中とはいえ木の葉の影で薄暗いこの不気味な森を、エレナは迷うことなくずんずんと進む。
 先のクンガコングという脅威も、脅威にすらならないと体現した彼女にとって、この道は村の中と変わらないのだろう。

「なあ、なあって、」
「……、あのさぁ、」
 エレナは諦めたように額に手を置き、ため息を盛大に吐いた。
 足を止め、大きな瞳を怪訝に歪め、アキラを睨むように視線を向ける。

「最近あんた、この森の依頼受けた?」
「?」
 エレナの瞳はアキラの背にかけられた剣に向いた。

「あんたじゃないかもしんないけど、どっかの馬鹿がこの森で魔物討伐の依頼を受けまくってんのよ。そのせいで魔物たちいきり立って……、歩きにくいったらないわ」

 そういえば、確かに自分たちはこの森の依頼を多く引き受けていた。
 それが、クンガコング出現の原因なのだろうか。

 どうやら彼女の機嫌が悪いのは、魔物の出現率が高いかららしい。
 彼女にとって、経験値にすらならないその戦いは、ただの障害物にしかならないのだろう。
 その回答で十分と判断したようで、エレナは再び歩き出す。
 明らかに、アキラも障害物として認識しているようだ。
 どうやら彼女のあの“甘いマスク”は、必要でなければ姿を現さないらしい。

 アキラは一応エレナに続き、頭を巡らした。

 “一週目”。
 確かにここで、アキラはエレナと出逢った。
 だが、そのときのことはよく思い出せない。
 何故自分は、美女とはいえここまで急いている人間に話しかけていたのだろう。

「…………あのさ、」
「え?」
「ボディガードなら他あたって。私急いでんだけど」
「……!」

 エレナの言葉で、アキラは思い出した。
 そうだ。
 自分はここで、彼女と離れるわけにはいかないのだ。

 何せ今、アキラの魔力残量はほぼゼロ。
 クンガコングをいともたやすく滅せるエレナと離れるのは、自殺行為だ。

「……い、いや、そんなこと言わずに、頼む。助けてくれ」
「……?」
 思い出したアキラがかけた言葉に、エレナは足を止めた。
 そして眉を寄せ、もう一度まじまじとアキラを見やる。
 アキラの方が僅かにとはいえ背が高いはずなのに、見下ろされているように感じるのは気のせいだろうか。

「……それ、本心?」
「……?」
 アキラの表情を再度眺め、エレナは歩き出す。

 本心かどうか。
 それはそうだ。
 今アキラの生殺与奪を握っているのは、間違いなくエレナなのだから。

「どういう意味だよ?」
「“必死さ”が見えないだけ。あんた―――、いや、何でもないわ」

 また、エレナは口から言葉が勝手に漏れたとでもいうような表情を浮かべた。
 すなわち今の言葉は、エレナがアキラに浮かべた感想そのままなのだろう。

 そんなに自分は、必死に見えないのだろうか。

「……なあ、そんなに急いでどこ行くんだ?」

 何か苦しくなり、アキラは素朴な疑問を発する。
 するとエレナは、足を止め、“ようやくアキラに気づいた”かのような表情を浮かべた。

「そうだ……。あんた、どっからこの森に入ったの?」
「え?」
「答えなさい」

 エレナの瞳の色が、僅かに変わる。
 それは、アキラを障害物ではなく、情報のある障害物と認識したような色だった。
 どうやら、アキラの地位は、エレナの中で僅かに上がったようだ。

「……えっと、リビリスアークって知ってるか?」
「……そういやあったわね……、そんな村が。そこから?」
「ああ」

 エレナは僅かに瞳を閉じ、再び開ける。

「じゃあ、ウッドスクライナって村、知ってる? その辺って聞いたんだけど」
「……!」
 そこで、アキラの疑問が僅かに解けた。
 今、エレナ=ファンツェルンが目指しているのは―――

「そこで最近、“魔族”が現れたって聞いたんだけど」

 やはり、そうだ。
 ようやく繋がった。
 彼女が今、この場にいる理由。
 それは、その情報をどこかで聞いたからだ。

「……ああ、現れたよ。……いや、そう聞いた」

 アキラは“一週目”の言葉を返した。
 あのときもヒダマリ=アキラは、“それ”を隠し、あとで驚かせるなどということを考えていたはずだ。

「……ふーん、」

 一瞬で、違和感は見抜かれた。
 エレナの瞳が僅かに冷え、すでにアキラは睨まれているような錯覚に陥る。

「あんた、一人旅?」
「……え、いや、他にも二人」

 初めて、エレナがアキラの身の上に関心を示した。
 だがその口調は、やはり尋問のように冷たい。

「そいつら、よく付き合ってるわね。……あんたみたいのと」
「……!」

 その言葉は、二つ聞こえた。

 一つは解けた“一週目”の記憶。
 絶体絶命の危機に陥り、通りすがりのエレナに執拗に救援を迫ったアキラに向けて言われた言葉。

 そしてこの“三週目”。
 それは別の意味を持っている。

「ま、私も人のこと言ってらんないわ。ただ、あんたと違って“必死”だけどね」

 アキラはエレナが歩き出したことに気づけなかった。
 そんなにも、自分は上っ面だけなのだろうか。

「……なあ、“魔族”を探してんのか?」

 アキラはその場から動かないまま、遠ざかるエレナの背に声をかけた。
 エレナはぴたりと止まり、ゆっくりと振り返る。

「ええ。ガバイド、って奴を……、ね」

 彼女はあえてその表情を作っているのだろうか、それとも自然に、だろうか。
 人が通常内包できないほどの憎悪をその瞳に携え、苦々しく言葉を吐き出した。
 彼女はその件につき、“必死”だ。

「念のために聞いとくけど……、知ってる?」
「……、悪い」
「……、知ってるのね?」

 やはり即座に見破られた。
 だが、アキラは首を振る。
 これは、“知っていてならないこと”だ。

 エレナの瞳が極端に冷え、そして中は燃えている。

「知ってるなら、今すぐ、」
「知らない。……本当だ」

 アキラは言い訳が、できなかった。
 ただ単純な言葉を返すだけ。

 今ここで洗いざらい話せば、エレナは仲間になるかもしれない。
 だがそれは、できなかった。

「エレナが知りたいことを、俺は知らない」
「それは私が判断するわ。今すぐ、」
「頼む……!!」

 アキラはエレナの言葉を遮った。
 一応は事実だ。
 アキラは、ガバイドという“魔族”に“二週目”は出遭わなかった。
 だから、知らない。

 “そうでなければならないのだ”。

「…………、ち、」

 いつしかアキラは目を閉じて頭を下げていたようだった。
 聞こえた舌うちに顔を上げれば、見えたのは遠ざかるエレナの背。
 アキラは慌ててそれを追う。

「今のは、本気っぽかったわ」

 そんな言葉が聞こえたのは、エレナが開けた広場に足を踏み出したときだった。

―――***―――

「……!!」
「今の、」
「ああ。あっちだ……!!」

 不気味に木々がなぎ倒されていた現場から離れ、再びアキラ探索を開始した二人は、森に響いた爆発音に過敏に反応した。
 しかも、連続して鳴り響いている。

 今のは、間違いなく戦闘不能によるもの。
 どこかで魔物が、戦闘不能になっている。

「っ、」
 エリーは奥歯を噛みしめ、サクの背を追った。
 今、この森をうろついている存在。

 それは、自分たちやアキラくらいだろう。

 だから、その先。
 今連続的に魔物が滅しているのは、アキラの仕業だ。

「っ、」
 エリーは足を速める。
 あの、どうあっても口を割らなかった“勇者様”。

 普段の戦闘に置いても、かまととぶっているようにしか見えないあの男が、何かをしている。
 それはどうしても、見る必要のあるものだ。

「きゃっ!?」
「っ、おい?」
「い、いや、大丈夫、それより、」
「あ、ああ、」

 せり出した木の根に足をとられても、エリーはすぐに立ち直り、再び駆ける。
 サクも同様に速度を上げた。
 二人は今、急かされるようにその場に向かう。

「っ、」
 徐々に木の量が減ってきた。
 自分たちが向かっているのは森の中の開けた場所だろうか。

 そして、そこで今、魔物討伐が行われている。

 とうとう、あの“勇者様”の尻尾を掴んだ―――

「……!! いたぞ……!!」
「あ、あいつ、」

 木の葉に光が遮られない空間。
 その直前に、一人の男の背中が見えた。

 ただ茫然とその場に立ち、広場を見渡している。
 その向こうでは、何かが爆ぜ続けていた。

 一体、何を、

「―――!?」

 勢いそのままに、背を向けていた男―――アキラを思わず通り過ぎかけたエリーは、その隣で急停止した。

 そして見えたのは、息を呑む光景。
 想像を絶する数―――いや、“量”のクンガコング。
 それは広場一帯を埋め尽くし、しかしまるで箒で払うように滅されている。

 その原因は、視線の先に見える、“異物”。
 隣のアキラは、まるでその場に結界でも張られているかのように、ただ“傍観していた”。

「っ、一体何が起こっている……!?」
 サクも瞳を困惑一色に染め、広場の光景を眺めた。

 彼女にとっても、信じられる光景ではないだろう。
 何しろ、サクが幾度となく切りかかっても倒れなかったクンガコングが、その“異物”の、ただ一撃の打撃の元に沈んでいくのだから。

「ね、ねえっ、何が……、って、あの人、誰?」
「……、」
 エリーが話しかけても、アキラはその視線を目先の“異物”に向けたままだった。
 女性、だろうか。
 ウェーブのかかった甘栗色の長い髪しか見えない。
 粉塵の向こう、エリーはその僅かな情報しか拾えなかった。

 だが分かる。
 あれは、本当に、“異物”だ。

「……なあ、」
「……?」

 ようやく、声が聞こえた。
 それが漏れたのは、隣。

 アキラは呆然と目の前の“戦場”を眺め、口から言葉を吐き出してきた。

「俺さ、弱いんだ」

 眼前で、岩石ほどもある巨体が殴り飛ばされ宙を舞う。

「……? いや、あれが異常で、」

 眼前で、“異物”が総てを飲み込んでいく。

「違う。そういう次元の話じゃない」

 エリーが息を呑む、目の前の一方的な“狩り”。
 戦闘不能の爆風が響き、さながら被爆地のような状態になっている目の前の広場を、アキラは多分、見ていなかった。

 目の前の光景を、そのまま身体で受け止めている。

「……“隠し事”、あるんだ」

 そのアキラの言葉で、エリーの視線も、広場を捉えなくなった。
 サクも同様に、ただ黙し、アキラに視線を送っている。

「でも言えない。もう“言い訳”はしないよ」

 アキラは目を閉じ、額に手を当てた。

「それに、自分の実力も。俺は、弱いんだ。隠し事が役に立つことなんて、ほとんどない」

 この男は何を口にしているのだろう。
 だがこの言葉だけは拾う必要があるとエリーは感じた。
 初めて、この男が、“隠し事があることそのものを認めた”のだ。

「正直、“隠し事を使いたかったんだ”、俺。使った方がいいに決まってる。だけど、使えもしないのに、多分、頼りすぎてた」

 ようやく分かった。
 この男の不気味さ。

 それは、本心が聞けなかったからだ。

 この男が本心で言葉を口にしたことは、あまりに少ない。
 欠片さえ見せない存在には、距離を感じる。
 それはやはり、不気味なのだろう。

「だから、ずっと弱いんだ、俺は。格好つけたくて、さ」
「……いいわよ、もう。そんなこと、とっくの昔に分かってるわ」

 アキラに言葉を返し、エリーも目の前の光景を身体そのもので受け止め始めた。
 この男がそんな気分になるのも分かる。
 目の前の光景は、あまりに痛快だ。

 自分たちがたった二体で苦戦した敵。
 その十倍百倍が、傍若無人な攻撃で吹き飛び続ける。

 今、説明を求める気にもならない。
 ようやくこの男が、近くに感じられた。

 結局アキラは、弱い“勇者様”。
 きっと、それだけのことだったのだ。

「なあ、二人とも」
「?」
「俺に、魔術と剣、教えてくれ」

 アキラはわざわざ、エリーにまでも、もう一度頼んできた。

「“必死”になりたい。“隠し事”が使えなくても、自力で何とかしたい。そのつもりだったのに、何で俺は忘れてたんだろう……?」

 アキラの問いかけに、誰も声を返さなかった。
 エリーも、そして、いつもは指導を拒否していたサクまでも、口を閉じている。

 何故だろう。
 エリーは思う。
 意味が分からないのに、自分はその言葉をそのまま受け止めている。

 そして、何故だろう。

 ここで、目の前の“異物”の戦いを見る、この三人。
 気のせいだろうか―――こんなことが前にもあったと思ってしまうのは。

「強くなりたい。本気で、必死で。甘えすぎだった、俺は。きっとそれが―――」

 正しい“刻”の刻み方。

 そんなアキラの言葉は、一際大きなクンガコングが爆ぜた瞬間に届いた。

「……!」
 “狩り”が終わり、エリーはようやく、その“異物”を視界に捉えた。

 甘栗色の長い髪に、理想的なスタイル。
 およそ女性としての完成形の彼女は、その大きな瞳を僅かにこちらに向けてくる。

 曇り空の隙間から漏れた太陽が彼女を照らした瞬間、そのままあっさりと歩き去ってしまった。

 だがその直前、彼女の瞳はアキラを捉えていた気がする。
 まるで、“ついて来られるならついて来てみろ”、とでも言っているようなその瞳で。

 彼女がアキラを救ってくれていたのだろうか。

「お礼、言わなきゃね」
「言うさ。でもそれは、今じゃない。あいつだって、“見逃してくれた”」
「…………“隠し事”?」
「……ああ」

 アキラはくるりと振り返り、広場に背を向ける。
 エリーにはもう、“それ”を聞く気はなくなっていた。

「なあ、サク」
「……ん?」
 サクからも、疑念に満ちた瞳はなくなっていた。
 ただ、小さく笑っているだけ。

 サクは何かを言い出しかけたアキラに背を向け、歩き出す。

「……まずは手入れからだな」

 その一言だけを、残して。

―――***―――

「あぶっ、……だからお前は、」
「いや、今のは違うぞ? 変なことしようとしたんじゃなくて、ぐらついたっていうか、」
「お前はしばらくそれを持つな。次に妙なことをしたら遠慮なく切りかかる」
「ヘルプッ!! ヘルプッ!!」

 翌日の早朝。
 エリーが宿屋の庭に出ると、随分と賑やかだった。

 昨日の一件により、ようやく近く感じたアキラだったが、やはり彼は彼のままらしい。
 サクに剣を取り上げられ、玩具を奪われた子供のように騒ぐアキラを眺め、エリーは何故か、安堵の息を漏らした。

「どう? 調子は?」
「どうもこうも……、私が背を向けた瞬間剣を振り上げた」
「いや、だから仕舞おうとしてぐらついただけだって」
「どうだか」
「っ、」

 二人のやり取りを見て、エリーは、今度はため息を吐き出した。
 どうやらアキラの身体能力は、魔力による強化がなければ剣を十分に扱えないほどらしい。

「やはり、身体にあっていないみたいだな……、あとで武器屋に行くぞ」
「……あ、ああ」

 指導を頼んだアキラは元より、やはりサクも随分と乗る気のようだ。
 アキラから離れ自習鍛錬を続ける様子より、二人並んで指導をしている方が自然に見える。
 だがエリーは、もう一度、息を吐き出した。

「あんたねぇ、剣もいいけど、魔術のこと、忘れてない?」
「え? いや、ほら、最近魔術ばっかだったし、」
「ほら、“必死”になるんでしょ?」
「止めてマジで。そこ広げられるとなんか恥ずかしい」
「い、い、か、ら、走ってこーいっ!!」
「お前の方が遅く起きたじゃねぇかーーーっ!!」

 やはり意味不明なことを口走り、アキラは怒鳴り声を背に受け駆け出した。
 とりあえずは、“必死”になっているようだ。

 だが、エリーの中にあるアイディアが浮かぶ。

 遅く起きた方が走る距離を長くするというのも、面白いかもしれない。

「……今は、できれば剣の方に集中させて欲しいのだが」
「……ほら、あたし、昨日頼まれたから、ね」
「……、はあ……、私もだぞ、それは」

 しばし二人で向かい合い、エリーは視線を外して身体を伸ばし始めた。

「それで、あいつ大丈夫そう?」
「……やはりどこかで指導を受けている。それも、“隠し事”だろうな」
「やっぱり、か」

 どこかむすっとしたサクの言葉を受け、エリーは瞳を閉じた。

 不思議だ。
 この話題が出ているのに、疑念は湧いてこない。

 彼には“隠し事”がある。
 だが今は、それでいいではないか。

「昨日の女性のことも、言いたくはない部分がありそうだったな」

 口ではそう言っているものの、サクも同じ心境らしい。

 偶然出会って助けられた、とだけ言っていたアキラ。
 彼女の戦いは、いや、彼女そのものが、まさしく“異物”。
 そんな事態が起こったというのに、自分たちは彼に問いただす気を失っている。

 あの美女と行動していたというは何となく面白くないが、エリーはとりあえず考えないことにした。

「ま、その代わり、魔術の鍛錬の量は増加しようかな」
「……剣の方も、な」
「……、」

 問題と言えばこちらもそうだった。
 今日から教師が増える。

 こちらも何となく、面白くない。

「……なあ、エリーさん」
「……なに?」
「“生徒”のことだ。……いがみ合っていても仕方ない。スケジュールを立てよう」
「……ま、そうね」
「今日は剣でいいか?」
「む……、ま、まあ、いいわ。初日だしね」

 多分自分は、生徒が取られるのが何となく、いやだったのだろう。
 サクの出した妥協案を肯定し、エリーは身体の節々を回す。

 何か妙にもやもやするが、走ればそれも消えるだろう。

「じゃあ、あたしも走ってくる。サクさんは?」
「いや、私はもう終わっている」
「……そう」

 一体いつから起きているのだろう。
 エリーは僅かな疑問を胸に、視線を庭の出口に向ける。

 アキラの姿はもう見えない。
 これだけハンデを与えたのだ。
 追い抜かれたときの顔を見てみたい。

「じゃ、行ってくる」
「ああ」

 エリーの肩は風を切った。

 数分後。
 失敗を繰り返し続け、ようやく学べた“勇者様”は、追い抜かれることになる。



[16905] 第二十一話『途絶えない日々』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2010/04/19 01:00
―――***―――

 灰色の雲が渦巻く低い空。
 地鳴りのような響きが天を震わす。
 そして、壮大な草原を埋め尽くすほどの、膨大な数の敵。

 異形、異形、異形。
 それら総てが狂気に満ちた瞳を携え、その怪異の力を振るうべく、今か今かとそのときを待つ。

 落雷。

 それが、合図だった。
 だがその“刻”は、その異形どものためのものではない。

 その怪異の総てが醜く歪んだ貌で睨みつけている、眼前。
 今まさに剣を振りかざし、大渦に飲み込まれるように飛び込んでいく一人の男のための合図なのだ。

 ザンッ、と血吹雪が舞う。
 こと切れたその異形には、何が起こったか分からなかったであろう。
 曇天の空の元、煌めいた剣の一閃は、すでに次の獲物に向かっている。

 連激に次ぐ連激。
 その行為は、まるで天の色に歯向かうがごとく、オレンジの光をその場に残し続ける。
 踊るように剣は敵を滅し、しかし敵は男に届かない。

 飛び込んだその周囲。
 その場を一掃させた男は、次に手のひらを離れた敵―――魔物に向ける。
 引き起こされたのは、鋭い閃光。
 しかし、剣ではない。
 男の手から放たれたオレンジの一閃は、間合いが十分にあった敵を焼き焦がす。

 草原を埋め尽くしていた異形の数が減る。
 剣が走り、魔術が走り。
 オレンジの力は、総てを飲み込んでいく。

 男に恐れは浮かばない。
 だが、魔物は違った。

 あれだけ数で圧倒したというのに、その勢力が著しく削り取られていくのだ。

 魔物たちは男を襲う。
 挑まれたと認識していたはずなのに、魔物たちは男に挑む。

 しかし、とうとう雨が降り始めた頃。
 その場に立つのは、その男―――ヒダマリ=アキラ。

 “勇者様”だけだった―――

「―――っていう感じ」
「……………………、」

 どこか満足げな目の前の語り手に返したのは、長い無言。
 そして聞き手―――エリサス=アーティは、なんて無駄な時間を使ってしまったのだろうという後悔の念を押し込めつつ、机の上に肘を乗せて一言呟いた。

「却下」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「……状況が分かっていないのは私だけか?」
 一応ノックしたつもりだったのだが、恐らく部屋の中にいた二人は聞いていなかっただろう。

 黒髪をトップで結い、特徴的な紅い着物を羽織ったその少女―――サクは、普段は凛々しい顔立ちを怪訝に歪めた。
 それもそのはず。
 朝食を終え、依頼を請けて戻って来てみれば、先ほどまで魔術の教師を務めてどこか満足げだった少女が呆れ返っているのだ。

 宿舎の小さな窓の向こうに見えるのは青い空。
 涼風が舞い込んできているというのに、何故この部屋は、ここまでどんよりしているというのか。

「却下って……、お、お前が聞いたんだろ?」
「あたしが聞きたかったのは、あんたが“具体的にどんな風に戦いたいか”、よ。誰がそんな妄想口走れなんて言ったのよ!?」
 反論しようとした“勇者様”の言葉をぴしゃりと押さえ、向かい合っていたその少女―――エリーことエリサス=アーティは、大きな瞳を鋭く狭めた。
 戦闘中は一本に束ねる長い赤毛を、今はそのまま背に垂らし、まるで親が子供を叱るように口を尖らせている。

 そしてその目の前の“勇者様”―――ヒダマリ=アキラは、困ったように頭をかく。
 どうやら語って聞かせた『理想的な“勇者様”の姿(作・ヒダマリ=アキラ)』を、エリーはお気に召さなかったらしい。

 クンガコングの大量発生という異常事態から早五日。
 アキラたちは未だヘヴンズゲートを目指すべく、リードリック地方と呼ばれる地域を北上していた。
 そろそろ到着するとのことだが、森に散布されている村に代わり映えはなく、『世界を救う旅』は、そんな名前なのに本日も平和だ。

「……てか、なんでそんなこと、」
「久しぶりにあたしの授業だったからね。一応目標聞きたかったのよ。でもまさかどうでもいいこと長時間ぶっ続けで語られるとは思わなかったわ。なに? この前のあの人に影響されたの?」
「どうでもいいことって―――、あ、サク」

 ようやく、アキラは部屋のドアの前に立つサクの姿を認識した。
 剣の方に遅れが出ているとのことで、クンガコングの一件以来アキラを指導し続けていた少女だ。

 アキラと、エリーと、サク。
 この三人が、各々、とある事情で共に“魔王討伐”を目指す“勇者様御一行”のメンバーだ。

「…………ようやく事態が飲み込めた。聞かなかったことにしよう」
 サクはドアを閉め、視線を外してつかつかとエリーの隣に座った。

「ったく、じゃあ、質問に戻るけど、どういう風に戦いたいの?」
 エリーは額に手を当て、どっと疲れが出たような表情を浮かべた。

「いや、聞いてなかったのかよ?」
「あたしもサクさんと同じよ。聞かなかったことにしてあげる」
「っ、お前が語れって言ったんだろ?」

 アキラがそう言っても、エリーは完全に聞き流す。
 別にアキラとて、あんなスペクタクルを語るつもりはなかった。
 ただ、具体的にどうなりたいか聞かれ、何も浮かばなかったゆえに、漠然とした“勇者様”の姿を想像しただけだ。
 それに多大な脚色がついたのは、単なるご愛嬌であったりする。

「は~~っ、ほんっとに成長してんの? あんた。それによく何の恥ずかしげもなくそんなこと語れたわね……」
「……ちょ、止めて。なんか恥ずかしくなってきた」
「そういうところは成長していないな」
 机に突っ伏したエリーと、瞳を押さえて顔を伏せたアキラに代わり、サクが評価を下した。
 だが、その実。
 アキラは確かに成長している。
 本当に大元の基礎部分は剣と魔術は通じるものがあり、剣の鍛錬に没頭したこの五日、アキラの戦闘力は魔術も含め、大きく向上したとも言えるだろう。
 ここまで確かな成長を目の当たりにしたのは、サク個人としても初めてだ。

 そして、その成長が著しく早い。
 アキラが“かつて”、再三口にしていた“ご都合主義”とやらの存在。
 それをある種信じたくもなる。

 だが。
 サクは何故か“ようやく”と思ってしまっていた。

「それで、結局どうなりたいの?」

 気力を取り戻し、復活したエリーの言葉に、アキラはむっと唸る。
 どうなりたいか。
 それは先ほど語った通りだ。
 だが、エリーは本当に、聞かなかったことにしたいらしい。

「……まあ、私も気になるな。“不本意ながらも”、指導している身としては、生徒の目標は知っておきたい」

 後半部分は聞いていただろうに、サクもエリーと同様。
 アキラはもう一度口にしようとし、エリーに睨まれ口を閉じ、今度は簡潔な言葉を返した。

「……まあ、何でもできるようになりたい、かな」
「何でも?」
「いや、まあ……、そう」

 一応、アキラのあの妄想には、根拠がある。
 これは、アキラが自分の属性―――日輪属性のことを知っているゆえの想像だが、アキラは、“如何なることでもできるはずなのだ”。

「ほら、俺らさ、全員近距離戦だろ?」

 アキラの言葉に、エリーとサクの動きが一瞬ピタリと止まった。

「……え? 真面目な話なのこれ」
「なんだよそれ?」
「……すまない。お前からそんな言葉が出るとは思っていなかった」

 二人から返ってきた言葉に、アキラはむすっとした。
 自分だって、考えがあるのだ。

 攻撃力が高い属性―――火曜属性のエリサス=アーティ。
 防御力が高い属性―――金曜属性のサク。

 サクはその属性を前に出して戦ってはいないが、確かにこのメンバーは近距離戦しか行えない。

「だからさ、必要かな、って。何でもできる奴」
「…………、それを、あんたが?」

 アキラは頷いた。
 この先、“そういう存在”が仲間になることは“決まっている”のだが、それがいつかは分からない。
 “記憶”に過剰に頼らないと決めたのだ。

 自分たちだけで、できるところまでは到達しなければならない。

「……“日輪属性”って、そんなことできるの?」
「……さあ?」
「…………はあ、“隠し事”、か。まあいいわ。あたしは忙しくなりそうね……。いろいろ調べなきゃ。そしてさっきの話は意味ないわ」
「意味はあったろ!? だから、」
「いいわよそれもう。あとで口走ったこと後悔するんだから。いつものパターンじゃない」
「剣の方も、“何でも”に含まれているんだろう? それなら私も、考えることが多そうだ」

 とりあえずは、伝わったようだ。
 だが今は、“隠し事”の話題が出ても、誰も席を立とうとしない。

 全員が、踏み込むべき位置と、踏み込むべきではない位置を理解している。

 そしてアキラは目的を志し、エリーとサクがそれを導く。

 それが、三人の近況報告。

 アキラはようやく、本当の意味でこの場所が心地よく思えてきた。

―――***―――

「シーフゴブリン……、か」
「ああ。強欲な魔物なのだが……、最近村に被害が出たらしい。まあ、少し妙なんだが」

 今日も今日とて依頼に向かった三人は、いつものように討伐対象を目指し森の中を歩いていた。
 日は頂点に達し、影が短い。
 森林特有のじっとりとした空気が出てきたのは、季節の移り変わりを現わしているのだろうか。

 ただ気になるのは、サクが請けてきた依頼の内容。

 『シーフゴブリンの討伐』

 それを聞いて、アキラはようやく、記憶の紐に手をかけた。
 あまり使いたくはないのだが、恐らくこれは、特定の“刻”。
 “危険”と承知はしているものの、必ず刻まなければならないものだ。

 だが、

「妙ってなんだよ?」

 アキラは思考を進めようとして、それを止めた。
 どうせ、思い出そうとしても特定の“刻”までは紐解かれない記憶だ。

 諦めて、自然にサクに聞き返す。

 “二週目”の記憶として、“危険な存在との邂逅”はアキラに内在している。
 だが、一歩も動かないわけにもいかない。
 とりあえず、今は流れに身を任せよう。

「……ああ、それが気になって聞いてみたんだが、被害の場所が妙なんだ」
「場所?」
「ああ」

 サクは開いていた依頼書を丁寧に仕舞い、眉を寄せる。

「最初に被害が出たのは、ライナーン地方らしい。ヘヴンズゲートのずっと北だ」
「?」
「それが、段々と南に降りてきて……、つい先日、ウッドスクライナでも起こったらしい」

 ウッドスクライナ。
 その村を、アキラは覚えている。
 この“異世界”に来た“初日”、立ち寄った村だ。
 サクとの出逢いや、“魔族”―――サーシャ=クロラインとの戦闘も、あの場所で発生したこと。
 忘れることもできない。

「みんなその魔物の被害だと思うんだが……、最後に起こったのは私たちが今泊まっている村。昨日のことらしい。……妙だと思わないか? 移動しているのに、また戻ってきている」
「…………、なあ、ちなみに、シーフゴブリンを見たのは?」
「あの村の依頼主だ。それでようやく、シーフゴブリンの仕業だと気づいたらしくてな」

 サクの返答を聞き、アキラの背筋に冷たいものが走った。
 恐らく、シーフゴブリンの初犯は昨日なのだろう。

 アキラの脳裏に、五日前、クンガコングの大群を殴り飛ばし続けた美女の姿が浮かぶ。
 リードリック地方を南下し、ウッドスクライナに向かった彼女―――エレナ=ファンツェルン。
 “仲間”としてどうかと思うが、最初に容疑者としてエレナを思い浮かべたのは自然なことだとアキラは思う。
 やはり彼女は魔物が出現する森の中でも、問題なく進んでいけるらしい。
 もうウッドスクライナに到着したようだ。
 アキラたちの移動速度を大幅に上回っている。

「まあ、倒してみれば分かることだ。数は多いだろうが、クンガコングほどの相手ではない」
「……ああ、だな」
「?」

 サクの視線を交わし、アキラはいつものように先陣を切った。
 せり出した木の根にも慣れてきたが、アキラの足元はおぼつかない。
 自分たちが共に旅をしなければ彼女はこれからも村の財に手を出すだろう。

 とりあえず、エレナのことは置いておこう。
 今はシーフゴブリンだ。

 そして、その先に待ち構える、敵。

 あとは、とある“出逢い”。

「……?」

 そこでアキラは眉を寄せた。
 そういえば、いつの間にかいた“あの少女”。

 彼女とは一体、どこで“仲間たち”と出逢っていたのだろう―――

「……、」

 そんなアキラの背を見ながら、サクもシーフゴブリンの奇行を頭から追い出した。
 もういい加減、アキラの行動から心情を読み取れる。

 彼の中では、この疑問に答えが出ているのだろう。
 恐らく、“隠し事”で。
 ならば、自分が踏み込むべき疑問ではない。

「そういえば、エリーさん」

 ずんずんと進んでくアキラの背を見ながら、サクはただの一言も漏らしていないエリーに声をかけた。

「…………」
「エリーさん?」
「…………」
「? 聞こえないのか?」
「…………、えっ、あ、ああ、なに?」

 エリーはようやく、手に持った資料から顔を上げた。
 この森に入った当初、足場の悪さに随分と足を取られていた記憶があったが、随分と器用に歩いている。

「それは?」
「……え? あ、ああ、これ? いや、別に、」
「魔術の資料か……。今朝の話だな?」
「……、う、うん、まあね」

 エリーが慌てて仕舞った手帳のような資料には、見ているだけで頭が痛くなりそうな文字がびっしりと埋め尽くされていた。
 見たところによると、彼女のお手製らしい。

「あのあと姿が見えないと思ったが……、そんなものを」
「い、いや、違うわよ? これはあたしが魔術師試験のときに作ったやつだし……。ほら、一応いるかなぁ、って思って持ってきて……、ま、まあ、ちょっといろいろ書き込んだけど、」
「…………随分と張り切ってるな」
「む……、」

 エリーの唸り声を聞き流し、サクは再び視線をアキラの背に向けた。
 相変わらず何かを考えながら、しかし器用に歩いている。

「……まあ、生徒がやる気を出したのは喜ばしいが、な。それは、何が書いてあるんだ?」
「い、一応、属性のこと……。ほら、いろいろやりたいとか言ってたでしょ? 日輪属性のことは知らないし……」

 エリーの言葉で、サクはあまり豊富とは言えない自らの魔術の知識を呼び起こした。

 魔術師試験。
 エリーが挑み、受かったというその試験の科目に、五曜属性の魔術、というものがあったはずだ。
 本来の七曜属性から、とある二つの属性を除いた結果らしい。

 そしてその、“例外ゆえに除かれた”二つの属性。

 一つは“月輪属性”。
 その希少性ゆえ、サクもこの属性の使用者をほとんど知らない。

 “不可能を可能にする”―――“魔法”を操る属性。

 通常、不可解な事象を起こす“魔法”というものを、人が扱える“魔術”に解析することが、魔術の学問の第一歩だ。
 しかし月輪属性は、そのプロセスを飛び越え、いきなり“魔法”を扱うことができる。
 魔力のカラーは、シルバー。
 あの“魔族”―――サーシャ=クロラインが操っていた属性だ。

 そして、もう一つ。
 目の前にいる、“勇者様”―――ヒダマリ=アキラの操る、“日輪属性”。

 こちらは、通説さえ知らない。
 何ができるのか、もしくは、何ができないのか。
 その全貌を知る者は、人間界にはいないとまで言われている。

 その日輪属性の指導をするのだから、エリーにとってはかなりの負担だろう。

 だが、

「うーん、」

 気づけばエリーはいつの間にか資料を取り出し、再び目を落としていた。
 随分と、熱心だ。

 自分もうかうかとはしていられない。

「うーん……もう駄目。もっとちゃんとしたところで調べないと……。ねえ、ヘヴンズゲートに着いたらあたし図書館行っていい?」
「……“婚約破棄”の確認が目的だろう?」
「え? ……あ、ああ、そうね。そうよ、そうだわ。……い、いや、違う。あいつを元の世界に戻すのが目的よ……!!」
「……そう、だったな」

 サクは額をこつんと叩く。
 確かに聞いたと思ったのに、そういえば、何か誤認していた。

「……だが、正直、妙だ」
「? なに?」
「いや、アキラのことだ。……あの男は、本当に戻りたいと思っているのか、とな」
「……さあ、そんなようなこと言ってた。でも今は、“魔王討伐”。それでいいでしょ」

 エリーはあまりその話題について話したくないのかもしれない。
 サクはまたも、こつんと額を叩く。

「せっかくやる気出したんだから、協力してあげないとね」
「……私もだぞ、それは」

 サクの口からも、エリーに似た口調の言葉が出た。
 どうやら自分も、この話題について話したくないのかもしれない。

 それを目指して、ヘヴンズゲートに向かっているというのにおかしな話だ。

 だが何故か、漠然と。
 この旅がどこまでも長く続くことを望んでいる。

「っ、」
「……?」

 突如、目の前の男から声が漏れた。
 その先は僅かにでも開けているのだろうか。
 光の差し込める森林の途切れ目。

 そこでアキラは、五日前の“あの出来事”のように呆然と立ち、動きを止めていた。

「? どうしたのよ?」
「まさか魔物か……!?」

 エリーとサクは、無言のまま立つアキラに慎重に近づく。
 まるで蛇に睨まれた蛙のように黙して動かないアキラを挟むように二人は並び、そして固まった。

「……、」

 並んだと同時、二人の耳に届いたのは、水音。
 目の前の小高い岩山から、チロチロと水が溢れ、その足元に小さな湖を作っている。

 そこに、

「……、」

 表情を完全に固めた少女が立っていた。
 青みがかった短い髪に、健康色の肌。
 背丈は、エリーより少し低い程度だろうか、歳も、同じ程度かもしれない。
 僅かに垂れた眼をこれ以上ないほど見開き、じっと三人を見返してくる。

「……」
「……」
「……」
「……」

 四人分の沈黙は続く。
 湖の近くには、それを囲う岩に干された衣服。
 それもそのはず彼女は入浴中。
 一切衣服を身に着けていない。
 足を小さな湖に膝までつけ、流れ落ちる湧き水を頭から被り、きめ細かそうな肌から水滴をこぼれ落としている。

「っ、」

 状況を確認したエリーとサクの行動は早かった。
 エリーは左手、サクは右手。
 それぞれの手のひらで、迅速に中央に立つ男の視界を塞ぐ。

「ぎゃぁっ!?」
「むおうっ!?」

 二人の手のひらが眼球に強く触れたアキラの叫び声。
 その連鎖反応で、正面の少女は奇特な叫び声を上げ、

「きゃふっ!?」

 湖の中、足を滑らせ、後転。
 小さな頭を背後の岩山にゴチンッとぶつけ、ぶくぶくと湖に沈んでいった。

「た、助けるぞ!!」
「え、ええ!!」
「ぎぃぃぃぃああああああーーーっ!? 目がっ、目がぁっ!! 熱っ!?」

 叫ぶアキラより、今は水に沈んだ彼女だ。

 エリーとサクは、必要もないのにその身体で少女の姿を庇いつつ、湖に向かっていった。

―――***―――

「俺は光を奪われた……」
「いやいやいやっ、おっどろきましたっ!! まさかこんな所に人が来るなんてっ!!」

 目頭を押さえ、未だ離れて座り込んでいるアキラ。
 その非難の声を押し潰したのは、目を覚ました少女の大音量。

 その少女の服は若干湿っていたとはいえエリーとサクが着せたのだが、アキラの様子を見るにもう少し乾かしていてもよかったであろう。

「そしてまさかの入浴中のエンカウントッ!! ―――ってやっばーいっ!! 思い出すとめっちゃ恥ずかしいっ!! うぉぉぉおおおーーーっ!! 嫁入り前なのに!? 私は一体どうすれば―――」
「……えっと、」

 エリーは目の前の騒音発生機の声を遮り、額を押さえ、呆れながら一言返した。
 彼女に言葉を続けさせたら、どうも、日が暮れるような気がしてきたのだ。

「あなたは、」
「おおおっ、そうでしたっ!! あっしはアルティア=ウィン=クーデフォン。呼ぶときは、ティアちゃんとか、アルにゃんとか、さらにティアにゃんも取り揃えています!!」
「…………えっと、ティア? あたしはエリサス=アーティ。こっちは、」
「サクだ。ちなみにあの男はヒダマリ=アキラ」
「あれっ!? あっしの声は届かなかったんですか!? 後半部分に赤丸チェック入れて欲しかったんですけど!?」

 届いている。
 それはもう。
 エリーは再度頭を抱え、少女―――ティアから視線を外した。
 初対面にしては格段のスピードで彼女のことが理解できたような気がする。

 非常に、うるさい。

「それで、お前は何をやっていたんだ?」
 エリーの態度をバトンタッチと取ったサクが、一歩前に出た。
 サク自身、極力相手にしたくはないのだが、アキラを一時的に行動不能にした負い目もある。

「……えっと、そだ!! それが聞いて下さいよ~~~っ、」

 ティアの話はこうだった。
 今日の朝、起きるとヘヴンズゲートの自宅にシーフゴブリンが出没したらしい。
 そして、シーフゴブリンの名の通り、その魔物は彼女の家から両親の結婚指輪を盗んだというのだ。
 それを単身探しに来たティアは、見つけたシーフゴブリンの巣に侵入。
 しかし、どうやらその巣に住むシーフゴブリンの仕業ではなかったらしく、未だ盗まれた物の発見は叶っていないらしい。
 そしてその上、間抜けなことにその巣で転び、汚れた身体を洗っていたそうだ。

 要約すればこの程度のことを、ティアは幼少時代に岩山から突如蛇が出てきて驚いたことまで語り、ようやく口を閉じた。
 エリーとサクはどっと疲れが出てきたが、シーフゴブリンの名が出てきた以上、彼女とは縁ができてしまっているようだ。

「……、それで、シーフゴブリン探してんのか?」

 ようやく復活したアキラは、霞む視界の先のティアに近づいた。
 目を擦りながら歩み寄ったティアを覗き込み、アキラはほっと息を吐く。

 誰かに逢うたびに、安堵の息が漏れる。

「あんた、話聞いてたの?」
「俺はお前たちから謝罪の言葉を聞いていないんだが……、」
「はいはい、ごめんごめん」
「っ、」

 いい加減な返答しかないのはエリーの仕様だろう。
 サクは何も口にせず、ただ視線を外している。
 アキラは抗議を、口を尖らせるだけで済ませた。

 だか、このティアとの出逢いでもう間違いはない。
 やはりこれは、刻むべき“刻”だ。

「そだっ、みなさん、旅の魔術師とお見受けしますがっ、」
「ああ、そうだ」
「おおっ!! ここで出逢ったのも運命のお導きっ!! できればあっしと協力していただけたりなぁ~、なんて思ったりっ!!」

 彼女の参加を拒むことはアキラにとってあり得ない。
 エリーとサクが口を開く前に、アキラは頷いた。

 残る問題は、一つ。

―――***―――

「はあ……、はあ……、はあ……、」
「はあ……、はあ……、こほっ、」
「よ……、よう、お疲れ」
「さ……、酸素……、酸素をっ、ギブミー」

 流石に、ティアは騒いでいなかった。

 アキラはサク指導の元の素振りを止め、剣を納める。
 森にできたコブ。
 そこに開いた入り口とでも言うべき穴から這い出たエリーとティアは、座り込んで深呼吸を繰り返していた。

「まあ……、想像通りの中だったみたいだな……。それで、見つかったのか?」
「みうかりまへんでひた……、」

 息も絶え絶えのティアから返ってきたのは、恐らくは否定の言葉。
 最初に見つけたシーフゴブリンの巣は空振りだったらしい。

 ティアと行動を共にしてから、アキラたちはシーフゴブリンの討伐を本格的に開始していた。
 アキラたちは依頼、ティアは両親の結婚指輪の探索と、利害が一致しているのだからその点は問題ない。
 だが、巣に近づくだけで沸くように出てくる異形の魔物たちを討伐したのち、どうしてもその中を探索する必要があるのだ。

 しかし、流石に野生の魔物の巣。
 その中は匂いやら何やらで酷いことになっているらしい。
 アキラを始め全員が入り渋ったこともあり、結局半数が探索役を行うことになったのだった。

「はあ……、はあ……、ごほっ、」
「……おい、大丈夫かよ?」

 これが、即興で作ったくじが生み出す結果か。
 歩み寄っても、エリーは顔さえ上げず、未だ荒い呼吸を繰り返していた。

 アキラも先ほど“二週目”に最初に自分の力で倒した魔物を討ち、いろいろと感慨深かったのだが、こうした姿を見るとそれも薄れてしまう。
 本当に、くじの“外れ”を引かなくてよかった。

「エリにゃん、その……、ありがたい、あーんど、すみません……」
「ついでだからいいけど……、その呼び方は止めて」

 ティアの方は僅かながらに復活はしたようだ。
 何とか立ち上がり、エリーに手を差し伸べる。
 エリーが何の抵抗もなくその手を取る辺り、どうやらティアは面々に溶け込めているようだ。

 だから。
 残る懸念は、あと一つ。

「次は絶対、あんたに引かせるわ……、“外れ”」
「俺だってサボってたわけじゃないし……、なあ?」
「ああ。何にせよ、待ち時間は有効に使った方がいい」

 呪詛のようなエリーの言葉と、短い時間ながらも指導を頼んだサクの言葉を背に受け、アキラは次の巣を目指し歩き始めた。

 視線を上げても、背の高い木々が太陽を遮り、昼だというのに薄暗い。
 そして“問題の岩山”もまだ見えなかった。
 さて、どうすべきか。

「……、」

 アキラは目を閉じ思考を進める。
 ティアと出逢えた。
 それは、この依頼が特定の“刻”であることの証明でもある。

 だがそうだとすれば、この“出逢い”の先に“出遭い”があることにもなるのだ。
 アキラはちらりと振り返った。
 エリーとサクに挟まれ、ティアはにこにこと笑っている。
 女性同士気が合うのか、はたまた記憶の残照があるのか、彼女たちは楽し気にも見えた。

「……、」

 記憶に頼らないとも決めた。
 そして、自分で進む意気もある。

 だが、このような状況―――いわゆる“ボス戦”のときはどうすべきなのだろう。
 恐れていては世界も救えないと思う。
 しかし、あからさまな危険に近づくことは、あのクンガコングの大群の事件から何も学んでいないことになってしまうではないか。

 ならば、どうすべきか―――

「へいへいへいっ、アッキー!!」
「!?」

 即座に出所が分かったとしても、背後からいきなり大声で話しかけられれば身体が跳ねる。
 アキラが目を見開いて振り返れば、エリーとサクから離れてティアが駆け寄ってきていた。

「いっっっやぁぁぁっ、聞きましたよっ!! アッキー“勇者様”なんですねっ!! オレンジの光を見たとき、もしやっ、とは思いましたがっ、」

 久しぶりに聞いたその愛称。
 これは、ティアの仕様なのだろう。
 わざわざ訂正せず、アキラは隣に並ぶティアにため息だけを返した。

「先ほどの戦いも、わたしゃなんにもできませんでした……。みなさんちょーつえぇですよねっ」
「……、お前だって、魔術師なんだろ?」
「え、えへへ、まあそうなんですけど、エリにゃんとサッキュンが速くて速くて……。なんとかお役に立たないとっ!!」

 ティアが狙った相手は、どうやら即座に消滅してしまっていたらしい。
 だが、あと僅かでも同じ時間を刻めば、それが修正されるのは“実証済み”だ。

「……ところで、アッキー」
「?」
 音量が極端に下がったティアの声に、アキラは怪訝な表情を浮かべた。
 しかしティアも、同じように眉を寄せている。

「具合とか、悪かったりしますか……?」
「え、」
「い、いや、私の思いすごしならいいんですが、その、なんか、」
「……大丈夫だ」
「……、」

 ティアに勘づかれたということは、当然エリーやサクも同じ懸念を持っているであろう。
 サクなど、先ほどの指導のときにも似たような表情を浮かべていたほどだ。

 ティアが今ここに来たのも、“隠し事”の手前直接聞き出せないエリーとサクが送り込んだからかもしれない。

「っ、」
「……?」

 アキラは自分の顔を、両手でパンッと叩いた。
 “この件”に関して、不安がらせるわけにはいかない。

 この“刻”を刻み終えているか否かは、自分が判断することだ。

「おや?」
「……!」

 ティアの言葉にアキラは顔を上げ、そしてその眼を見開いた。

 一体いつから自分の足はここに向かっていたのだろう。
 背の高い木の向こう、確かに見えた。

 その、“岩山”が。

「おおっと、あれ巣じゃないですか!! エリにゃん、サッキュン!!」

 まさか二度目で“ここ”を引き当てるとは。

 アキラが動きを止めている中、エリーとサクが駆け寄ってきた。
 二人とも、もう愛称の件については諦めているのか、ティアの言葉に反論せず、ただ鋭く巣を睨む。

「シーフゴブリンの巣だな……。間違いない」
「じゃあ、始めるわよ?」

 二人の即断的行動に、アキラは言葉一つ出せなかった。
 サクがその速力で突き進み、エリーが続く。

 そして、それを察したシーフゴブリンが巣の中からうじゃうじゃと湧き出てきた。

「っ、」

 懸念は後回しだ。
 とりあえず今は、戦闘。
 アキラもそう判断し、二人に続く。

 剣を抜き放った先にいるのは、討伐対象―――

「グ……、」

 紅い体毛、そして猿のような身体つき。
 長い手足を折りたたみ、醜悪そうな表情を侵入者に向ける。

 先ほども見たそのシーフゴブリンに、アキラは迷わず剣を振り下ろした。

 ザンッ、という音と、込めた魔力の爆発音。
 それらが響いたのち、さらに魔物の爆発音まで確認して、アキラは次の標的に剣を向ける。
 巣から這い出たシーフゴブリンの数たるや、数十匹。

 その間をイエローの閃光が縫うように駆け抜け、確実に命を刈り取っていく。
 アキラが二匹目の魔物を討ったときには、スカーレットの光も辺り一帯で爆ぜていた。

 ティアの言うことも分かる。
 エリーとサクは、強い。

 これなら、もしかしたら―――いや、でも、

「っ―――」

 考えながら行動したせいか、はたまたアキラの能力ゆえか、ようやく五匹目を討ったとき、辺りは再び戦場から森に戻っていた。

「はあ……、よし、じゃあ、くじ引くわよ」
「……ちょっと待った」

 結局アキラの結論が出ないまま終わった戦闘。
 だが、エリーが取り出した先ほどのくじを視界に収め、アキラは静止をかけた。

 止められるのは、間違いなくここが最終だ。

「何よ? 今度こそあんたを押し込みたいんだけど?」
「自業自得だったんだから機嫌治せよ。てか、俺が言いたいのは……、えっと、」
「……!」

 言い渋ったアキラを見て、エリーはくじを持つ手を下げた。
 そして表情を険しくさせる。

「―――“隠し事”?」

 エリーのその言葉を聞いて、サクも表情が変わった。
 察してくれるのはありがたい。
 アキラは頷き、エリーとサクを見据える。

「……ここはまずいのか?」
「……まずい。でも、分からないんだ……。だから、どうしていいのか、」
「……、」

 エリーとサクはその表情のまま岩山を眺める。
 森の木の葉で隠されていたその山は、見上げるほど高い。
 苔で入り口が覆われているのは先ほどの巣と変わらないが、確かにシーフゴブリンの巣としては巨大すぎた。

「……なら、どうする?」
「でも、入らないと、ほら、あの子の探し物が……」

 言語化できなかったとはいえ、二人はアキラの心情を察した上での会話を始めた。
 申し訳ない気の遣い方をさせてはいると思うが、アキラも危険に好んで飛び込んでいかせたいとは思わない。

「って、ちょっと待って。ティアは……?」

 エリーの言葉に、アキラは、はっとした。
 あの、いればどこにいるか即座に察せる騒がしい彼女が、いない。

「っ、」
 アキラは即座に周囲を見渡し、最後に巣の入り口を睨んだ。

 今回の戦闘も、彼女は参加しなかった。
 そして、彼女の性格上、それをよしとしたままにはできないだろう。
 なにしろ、巣の探索をする必要があるのも、彼女の探し物があるゆえだ。

 ならば、戦闘後、彼女が思いつきそうなことは―――

「っ、」
「ちょっ、」

 アキラは巣に向かって駆け出した。
 今、この中に一人で入るのは自殺行為。
 それなのに、ティアは間違いなく中に入っている。
 恐らく、巣の探索経験者として率先しようとした意味も込めて。

 だが、ここは、今までの巣とは格が違うのだ。

 うだうだと考えている場合ではない。
 一刻も早く、彼女を探さなければ。

「……、―――、」

 入口に駆けながら、アキラは言い表せない空気を感じた。

 自分は今、あの入り口に向かっている。
 自分が、向かっているのだ。
 それなのに、何故。

 “吸い込まれている”と思ってしまうのか―――

「!?」
「ちょっと!!」

 松明を点けることもなくアキラが暗い洞窟に飛び込んだそこには、足元が“無かった”。
 ティアもそうだったのだろう。
 悲鳴さえ上げられない。

 視界は暗転し、身体はゴツゴツとした坂を転がり落ちていく。

 思考から切り離され、落ちていく最中、アキラの中にある感覚が浮かんでいた。

 今、自分が転がり落ちていくのは重力の影響。

 だが、それを超越した何かに、引きずり込まれている。

 無心で歩いていたとき、この岩山の巣に辿り着いたのもそう。
 そして、今、ティアを追って身体が勝手に動いたのもそう。

 恐らくこれは―――“刻”の引力。

―――***―――

 目が覚めたとき、最初に映ったのは鮮やかな光だった。

「……?」

 蒼の光が闇を照らす、その景色。
 目を完全に開いたとき、アキラはようやくその正体がつかめた。

「おおっ、目を覚ましましたか!?」
「ちょ……、頭に響く」

 蒼の光が、淡くなって消えた。

 ごわんごわんと音が反響するその世界。
 アキラは目の前の音源に、顔をしかめた。

「大丈夫ですか……?」
「……、なんとか」
 アキラは、右の壁に―――ティアが外したのであろう、自分の剣を見つけると、立ち上がってそれを背に担ぐ。

 蒼の光の残照が照らしたそこは、落下した者が辿り着く小部屋のような場所だった。
 広さは、五人も入れば窮屈になるだろう。
 その先には、天然の岩をそのまま掘り進んだかのような通路も見える。

 そして、ぼんやりとした空間で僅かにティアの輪郭が浮かび上がっている程度だが、ここにはティアしかいない。

「……、あの二人―――」
「ほんっとうにすみません!! せめて探索ぐらいはお力にならなければと……、」
 アキラの言葉を遮ったティアは、分かりやすいほど直角に腰を折って頭を下げた。

「いや……。てか、俺を治療してくれたの、お前なんだろ?」
「え? あはは、そうですっ。こう見えてもあっしは水曜属性!! 治癒ならぽぽんっ、とね!! ……かすり傷くらいだったんですけど、大丈夫ですか?」

 ティアに言われて認識した自分の状態に、アキラは僅かに目を見開いた。
 下手をすれば、落ちる前よりもコンディションがいい。
 大分長く治癒魔術を受けていればこうなるだろう。
 そして、彼女が水曜属性―――“通常魔術師と聞いて連想できる力を持つ属性”であることは、当然知っていた。

「助かったけど……、そんなに俺気を失ってたのか?」
「え? ま、まあ、ちょびっと長かったです」
「……、」
「…………い、いや、しょうがないですよ!? いきなりドバーってなったら誰だって、」

 ティアのフォローに、アキラは耳を傾けていなかった。
 確かに落ちる前に気を失うというのも格好はつかないが、もっと気になることがある。
 落ちる直前味わった、あの、“物語に引き込まれる感覚”。
 一体、なんだったのだろう。

「……でも、どうします?」
「……、だよな」

 アキラは一旦、頭からその感覚を追い出した。
 そんなことは、今は重要ではない。
 現時点をもって、あの“出遭い”はほぼ確定されているのだから。

「とにかく先進みましょうか? ここで待ってても、」
「……、」

 かつてはそれを、アキラは選択した記憶がある。
 “二週目”も、逸れたあとうろつき回ったのだ。
 そして、恐らく“一週目”も。
 先ほどのショックで、アキラの記憶の封は解けかけていた。

 確かに自分は、ティアと共にこの“巣”の探索を開始したはずだ。

 だが、それでもその“ゴール”。
 そこにむざむざ、近寄っていくべきなのだろうか。

「……、」

 アキラは退路を確認した。
 自分たちが落ちてきた穴は、傾斜が酷い。
 自力で登るのは無理であろう。

 だが、進むというのも、

「……そうだ。二人は?」
「え? い、いや、降りてきてないです」

 ティアが暗闇の向こう、首を振ったのが分かった。

 エリーとサクは降りてきていない。
 二人の性格からすると、どちらか片方くらいは降りてきそうなものだというのに。

「もしかしたらあれじゃないですか? ほら、落下中に、いろいろ脇道的なものがあったじゃないですか」

 どうやらあの落とし穴の道は一本ではないらしい。
 アキラは初めて得た情報に、素直に首を振った。

 自分が意識を手放したのは穴に落ちた瞬間。
 ティアが言うような脇道は、アキラの意識の埒外だった。

「……!」

 そこで、アキラは気づいた。
 あの二人なら、どちらかくらいはこの穴に、

「……! そ、そだ、エリにゃんとサッキュン、そっちの方に、」
「……っ、」

 ティアも気づいて慌ただしい声を上げる。
 だが、アキラが恐怖を覚えたのは、この“巣”に二人が入っていることそのものではなかった。

 何だこの状況は。
 自分たちは、“探索を開始せざるを得ない”ではないか。
 あの二人を放ってここで待機するのは危険極まりない。
 情報があろうとなかろうと、アキラたちはここで“刻”を刻むことになる。

 先ほど置いておこうとした懸念。
 それが、あまりに黒くアキラの脳を侵食し始めた。

「ど、どうします……!?」
「……行こう。行くしかない」

 打算的な決定だが、アキラは唯一の道に視線を向けた。
 今さら後悔してももう遅い。
 状況が、それを許さないのだ。

「で、でも、灯りが……、私、どっかに落としちゃいまして、」
「……、」

 アキラは目を瞑り、手を突き出した。
 恐らくそちらも、

「おおっ、」

 やはり。
 洞窟内を照らすオレンジの光は、ノッキングするようなものであったが、“十分に進める”。

「アッキー!! マジすごいじゃないですかっ!! ちょー“勇者様”って感じです!!」

 オレンジの光に照らされたのはティアの笑顔。
 アキラは自分では不出来な照明を見ながら、ため息を吐いた。
 彼女はこの状況でも、楽しそうににこにこと笑っている。

 だが、自分はそうはいかない。
 自然と険しくなった表情をさらに引き締め、アキラは一歩踏み出した。

 どうするか―――

「……あの、アッキー?」
「ん?」

 アキラが手を伸ばして一飛びすれば天井に手がつくほどの通路。
 満足に動けない左右の壁も手伝って圧迫感が支配する空間。
 背後のティアが、珍しく小声で語りかけてきた。

「ものすごく失礼なこと、聞いてもいいですか?」
「……なんだよ?」
「いや、その……、そうだ、とりあえず、私とどこかで会ったことありません?」
「…………、ない」

 僅かな思考ののち、アキラはきっぱりと返した。
 かつて、すがったその残照を、今は掴む気にもなれない。

 大きな問題が、目の前にあるのだ。

「い、いや、私の勘違いならいいんですが、ま、まあ、置いておきましょう」

 背後の気配で、ティアがわざわざ大げさなジェスチャーをしているのを察したが、アキラはオレンジの先の通路のみを睨んでいた。

「でまあ、失礼なのはこの次なんですが、何か、その、お悩みがあるのかなぁ、とか、思ったりして、」
「……、」
「い、いやっ、何か、その、あはは、」

 茶化すような笑い声は、アキラは遠くに聞こえていた。
 間違いなく、ティアは自分の“異常”に察している。
 これでなかなか勘のいい彼女は、それに違和感を覚えているのだろう。
 それとも、自分の接し方が、不躾だったのだろうか。

 彼女のことを―――いや、彼女だけではなく、“総てを規定事項”と捉えているアキラの態度は、それだけ分かりやすいのかもしれない。

 “一週目”にも、“二週目”にも頼らないと決めた、正しい“刻”の刻み方。
 だが、踏み出した足は、あまりに不確かだ。

「……相談、とか」
「……え?」
「いや、私なんぞで恐縮ですが、相談とか、承っております!!」
「……、」

 洞窟に反響した声は、今度は不快ではなかった。

「助かる。……でも、今はまだ、な」
「おおっ、分かりました!! 今は脱出に全力を注ぎましょう!!」

 本当に、不快ではない。

―――***―――

「…………二分の一で外したな」
「“四分の一”よ。サクさんは上に残って欲しかった……」

 エリーは煌々とした光をその手に纏い、洞窟内でため息を吐き出した。
 照明用のスカーレットの光が照らすその先では、サクが同じように肩を下ろしている。

 現在、エリーたちがいるのはシーフゴブリンの巣の内部。
 アキラが落ちていくのを視界に収め、救出のために同じく滑り降りていたのだが、トラップとでも言うべき落とし穴は途中で大きく二手に分かれており、結局勘で選んだ道は違ったらしい。
 ここには、エリーとサクの二人しかいない。

「それで、どうやって登る?」
「……先に進むしかないな。エリーさんも降りてきてしまっては、ここで待っていても救助は来ない」
 サクのどこか疲れたような声を聞き、エリーは再度息を吐き出す。
 やはりお互い、相手が上に残ると思って飛び込んでしまったようだ。

「……いがみ合ってても仕方ないわ。とにかく、あの二人探さないと」
「……まあ、そうだな」

 どちらかが上に残ってロープか何かを持ってくるのがベストだったのだが、今さら後悔しても仕方ない。
 エリーは光源を突き出し、歩き出した。
 落ちてきた坂はあまりに急で、昇ることもできそうにない。
 ならばとにかく先に進み、出口を見つけ出さなくては。

「……、」

 エリーたちが歩き出したそこは、“通路”と表現するのが相応しい空間だった。
 通常の洞窟通りに自然物に覆われた周囲からは圧迫感を覚えるが、それでも十分に“歩ける”。
 明らかに、“加工”というものがこの洞窟にはあった。

 シーフゴブリンの仕業だろうか。
 自分の巣ならば、確かにそうするかもしれない。
 だがどうも、妙な胸騒ぎもするのだ。

 やはり、早くアキラたちに合流する必要がある。

「……エリーさん、気づかないか?」
「え?」
「いや、“匂い”だ。ここは確かにシーフゴブリンの巣のはずなのに」
「……!」

 エリーが持っていた感覚的な懐疑心を、サクが形にした。

 そうだ。
 確かにここが巣ならば、先ほどのように汚臭が満ちているはずなのだ。

「それにアキラの言っていたことも気になる。奴は“ここに何かがある”と確信していたような気が、」
「……確信してたわよ、あれは」

 背後のサクの声に、エリーは振り返りもせずに応えた。
 うねった洞窟内の“通路”が、直角に曲がるようにもなってきている。
 “加工”の度合いが、歩を進めるごとに増してきていた。

「あいつの“隠し事”。そういう類のものらしいわね。“危険”が分かる、っていうか」

 そういう視点でこの洞窟を見れば、エリーもここの“異常”が伝わってきた。
 ここがシーフゴブリンの巣というだけではない根拠が、形として現れているのだ。

「……それだけじゃない」

 だが、後ろから返ってきた声は、エリーの意見を消極的に否定した。

「アキラは、確かに“危険”が分かるようだ。だが、もう一つ。“それに飛び込まなければならない”とも思っている」
「……、」
「私にも経験があるんだ……。そういうことは、な」

 薄暗い洞窟内。
 やはりどこか不安な部分があるのだろうか、サクは初めて、身の上話を語り出した。

「“やらなければならない”。だけど、“やりたくない”。私はかつて……、きっと、あのときのアキラのような表情を浮かべていたのだろうな」

 その、矛盾。
 言い換えれば“どうすべきか分からない”、だろうか。
 確かにここに落ちる直前、アキラは葛藤そのものを表情に出していたようにも思える。

「…………あいつ、あたしたちのこと信用してんのかな……?」

 エリーの中からそんな言葉が自然と口を伝って出てきた。
 アキラの“やりたくない”の温床は、きっと、自分たちへの不安だったのだろう。

 “魔王討伐”を目指す自分たち。
 これから危険なことにいくらでも飛び込んでいくことになるだろう。
 だが、“危険”が分かってしまえば、踏み出す足は止まってしまうのだ。

 そうしたとき、人は、きっと失うことを恐れるのだから。
 そしてその被害が、他人を襲うとなれば、

「……いいのにね、そんなこと」

 アキラがいない今、エリーは逆に、“彼に伝えたいこと”がそのまま口から出てきた。
 受け手のサクは、ただ黙す。

「あんたの“危険”なんて、いくらでも解決する。弱いくせに、人のこと気にしてんじゃないっての、ってね」
 適当に蹴った石は、壁に当たって転がっていく。
 止まった石に追いついて、再度蹴る。
 いつしかエリーの足元から離れなくなった石は、徐々に形が小さくなっていった。

「信用、か」

 ようやく口を開いたサクの言葉で、エリーは僅かに振り返った。
 サクの顔は珍しく曇り、過去との邂逅を現わしているようにも見える。
 ここまで旅して、彼女のバックボーンをエリーは知らない。
 分かっているのは、今話した、彼女がその経験者だということだけだ。

「そういえば、サクさん」
「ん?」
「サクさんは、“そのとき”どうしたの―――」
「……!!」

 エリーは即座に口を塞ぎ、腰を落とした。
 正面の曲がり角から、スカーレットの光に惹かれるように小さな三体の影が近づいてくる。

「一応、シーフゴブリンの巣で“も”あるようだな」
「ええ」

 話は終わりだ。
 エリーは目つきも鋭く速度を増した影を睨む。
 隣に並んだサクも、腰の刀に手を当てた。

「私は、逃げた」
「……?」

 シーフゴブリンが現れる刹那、サクはぼそりと呟いた。

「わけが分からなくなって、旅に出たんだ。清算できなかったことは、それが初めてだったよ―――」

 足場が悪くとも、その神速は衰えない。
 瞬時に切り伏せられた紅い体毛の魔物が爆ぜるまで、エリーは照明具の役割しか果たさなかった。

―――***―――

「美しい……、」

 その言葉を届けた対象は、生物ではなかった。

 うず高く積れた“財”。

 一言で表現するならその物体に、“その存在”は言葉を発していた。

 赫に彩られた、その広大な空間。
 その最奥、その赫にすら対抗するように、大量の金銀の光が存在を主張していた。

 何故、赫になるべきそれは、自己の光を保ち、煌々と輝けるのか。
 何故、この光は、ここまで魅力的なのか。
 そして何故、理想や理念を超越したこれに、誰しも目を背けたがるのか。

 “その存在”は僅かな思考ののち、自らの言葉遊びに気づき、小さく微笑んだ。

 だが、否定するつもりは微塵もない。

 結局は、“財”なのだ。
 何を言っていても。

 自分の理念を通すのも、自分の理想を叶えるのにも、絶対的に“財”は必要である。
 それなのに、“理解がない者たち”は、それをしばしば疎かにするのだ。

 “財”の持つ力は、時には時代さえも操作するというのに。

「美しい……、」

 もう一度、呟く。
 今度は、その“財の機能”に対してではなく、“それそのもの”の輝きのためだけに。

 不思議だ。
 “財”には、その機能以上に、魅力があるのだから。

 これぞ、“財”が“財”になった理由とも考えられる。
 誰かがこの光景を前にして、“財”に機能を付けたくなったのかもしれない。

 いずれにせよ、“財”こそが、総ての始まりにして終着点。

 これはまさしく、“真理”。

 だから、これではまだ足りないのだ。

 そして―――

「……、」

 悦に浸っていた表情は、途端険悪なものに変わる。
 視界の隅に見える、二つのもの。

 その二つは、輝きを持っていない。

 “片方は仕方がないとして”、もう一つは遥か昔からこの壮観な光景を汚す汚物としてそこに在る。
 だがどうしても、手放す気にはならなかった。

 これは、“ここになければならない”、と。

 だが、何故、“財”にしか興味のない自分が、これを廃却せずにいるのか。
 それは、自己の“真理”を持ってしても、究明できない謎だ。

 一体、何故―――

「……おっと」

 思考を進めようとして、即座に振り払った。
 そんなことをしているくらいならば、この光景を目に焼き付ける時間がなくなってしまう。
 自分の“欲”は、そんな謎かけを解くところにないのだから。

 そんなものに“欲”を捧げているのは―――

「―――ガバイドよ。お前ならばこの思考に幾千も時を費やすのだろうな」

 赫い部屋。
 巨大な空間。

 そこで、今は遠く離れた場所にいる“同種の存在”に、“その存在”は小さく呟いた。

―――***―――

「……!」

 赫い。

 アキラとティアの二人が最初に浮かべた感想は、それだけだった。

 シーフゴブリンに襲われること数回。
 未だムラのあるオレンジの光に目が慣れかけた頃、アキラたちは洞窟の奥から伸びてくる“赫”に足を止めた。

「ア……、アッキー……、あれ、何でしょう?」
「っ、」

 ギリと噛んだ奥歯が震え出す。
 その振動は身体に伝わり、頬を汗が伝っていく。

「もしかしたら、エリにゃんたちでしょうか!? あれ、火曜属性の光ですよね?」
「違う」
 ティアの推測に、アキラは即座に否定を返した。

 エリーのスカーレットは、あんな色を創り出さない。

 彼女の鮮やかなスカーレットとは違い、目の前のそれは、邪悪な感覚しか届けてこないのだ。

 赤という色の、終点。
 だから、“赫”。

 それは濁り、洞窟総てを支配しているようにも思えた。
 “いや、事実しているのだ”。

「ど、どうします……?」
 ティアも流石に現状理解はしたようだ。

 この光源は、出遭う前から分かる。

 “敵”だ。

「っ、」

 分かってはいたが、やはりそうだったのか。
 アキラは必要のなくなったオレンジの光源を消し、さらに奥歯を噛む。
 限界ぎりぎりまで持っていた“出遭わずに済む”という希望は、今度こそ完全に消し去られた。

 アキラはティアを横目で盗み見る。
 この二人が、現時点での総戦力だ。

「マジで……、どうすりゃいい……!?」
「アッキー……?」

 アキラは身悶えるように頭を抱えた。
 何が正しいのか、何が正しくないのか。
 何をすべきか、何を避けるべきか。

 自分の足で一歩踏み出したというのに、“二歩目”を踏み出せない。

『ここまで来たんだ、行くしかない。そうだろう?』

―――その、アキラの背を、そんな言葉が強制的に押した。

「!?」
「っ、ち、知恵持ちですか!?」

 洞窟内の赫から、底冷えするほど低い声が届いた。

『“知恵持ち”……? “そういう枠組み”で捉えようとするのか? 私を?』

 間違いなくこちらを認識している、その低い声。
 まるで心外だとでも言うようなその言葉は、“その存在”の沸点の低さを感じ取らせた。
 どの道逃げても、追ってくる。

「…………行くしかない。ティア、ここに残っててくれ」
「……?」
 “その存在”を知るアキラは、一歩進み、ティアに告げた。

「じきに、あの二人もここに来るかもしれない。それまで、」
「だ、駄目ですよ!! 私だって、」
「“そういう次元”の相手じゃないんだよ……!!」

 アキラとて、策があるわけではない。
 確かに宿っている、“二週目”の記憶。
 そのとき、アキラは“策”などという存在を一笑に付す、超越した力を持っていた。

 だが今は、それがないのだ。
 そんな“危険”に、挑ませるわけにはいかない。
 エリーやサクでさえも、だ。

 “一週目”の記憶の封は、まだ解けない。

「っ、」
「……!」

 まだ何か言い出しそうだったティアに睨みを利かせ、アキラは赫の世界に向かっていった。
 ゆっくりと、一歩ずつ。

 自分の動きは、こんなに緩慢だったろうか。

「……!」

 最後の曲がり角を曲がってアキラが踏み込んだ、そこ。
 そこは、赫だけの世界ではなかった。

 この岩山の地下の一段総てがこのホールで満たされているのではないかと思うほど巨大なホール。
 その奥に、金と銀の財貨がうず高く積まれていた。
 シーフゴブリンに集めさせたものだろう。
 これだけで、一国を買えそうなほどの、“財”。
 そして、それだけに留まらず、精緻な武具も、ぞんざいに転がっていた。

 その、見た者総てを魅了するであろう、空間。
 だが、その空間で最も注目を集めるのは、そんな財ではなかった。

「どうだ。美しいだろう?」

 先ほど低く響いたその声が、財の手前―――“目の前の存在”から発せられた。
 当然のように語り始めたその横顔は、財の山を眺め、光悦の表情を浮かべている。

 赫いマントを羽織った、“その存在”。
 大柄なその体躯は、黄金の鎧に守られている。

 ようやく振り返って見せたのは、尖った耳と、黒で塗り潰したような眼。 
 そして、純金髪の髪以外、身体の色は赫で構成されていた。

「っ、」

 ドンッ、と身体中に何かがぶつかった。
 その発生源は、目の前の外敵。

 その重圧は、総てを押し潰す。

「……、」

 自分がかつては通った道。
 いや、通り過ぎた道。
 だが今は、この足で、それに踏み込んでしまったのだ。

 目付きも口元も釣り上がった、人ならざる“その存在”。

「よく来た。魔王様直属―――」

 それは、アキラにとって初めての―――

「―――リイザス=ガーディランの第七十二番宝物庫へ」

―――“分かっていながらのボス戦”だった。

「ぅ……、」

 赫の魔族―――リイザスに睨まれ、アキラの身体中に痺れが走った。
 眼前で不敵に笑われるだけで、臓物が絞り切られるような感覚に襲われる。

 こんな相手だったというのか。

 “二週目”。
 自分は怒りに任せて、ただの作業のように目の前の敵を瞬殺した。
 そのときはリイザスに対し、異形の存在だという“程度”の感想しか抱かなかった。

 だが今、この“三週目”。
 アキラの身体中が、全身全霊をもってこの場からの逃避を叫び続けている。
 相手が、完全に上位の存在である、と。

 少しでも考えれば、分かることだった。
 相手はあの、ウッドスクライナで出遭った“魔族”―――サーシャ=クロラインと同じ地位の存在。

 “チート”と呼ばれる力があって、初めて渡り合える相手なのだ。

「……、っ、」

 息が詰まる。
 身体が震える。
 リイザスの重圧が、アキラの小さな世界総てを押し潰す。

 認識が甘すぎた。
 正直なところ、アキラは心のどこかで、どうにかなると思っていた。
 かつて瞬殺した相手なのだから、最悪の事態にはなり得ない、と。
 だが、それはそもそも“記憶”に頼ったものだとアキラは気づいていなかった。

「そう構えるな。私は“平和的”に解決しようとしているだけだ」

 リイザスが途端襲いかかって来なかったことに、アキラは心の底から安堵した。
 あの赫い魔族―――リイザスが動き出せば、アキラなど瞬時に無に帰してしまう。

 アキラは棒立ちのまま動けない。

 そして必死に、“生存”だけを考え続ける。

 記憶に頼らない。
 そう決めた。
 だが、今はなりふり構っていられない。

 頼らないと決めた記憶に爪を立て、今すぐ封を開けろ、と。

 今すぐ思い出せ。
 さもなくば―――死ぬ。

「……どうも理解が浅いようだな。硬くなるな。私の前で剣など意味を持たないのだから」

 リイザスはアキラが背に負った武具を小馬鹿にするように笑い、両手を広げて振り返り、財の山を見上げた。

「どうだ、素晴らしいだろう?」
「……!」

 感想を聞かれたその言葉で、アキラの記憶の封が僅かに解かれた。
 自分は確かに“一週目”、リイザスの言葉を聞いている。

「金、銀、財宝。それらは美しい。シーフゴブリンなどという下等な存在にも、その尊さが分かるほどに」

 “一週目”も、同じ恐怖をアキラは覚えた記憶がある。
 リイザスの演説が、まるで襲いかかる序章にしか聞こえなかった。

 解かれた記憶は二重になり、アキラの心を蝕んでいく。

「下等な者は、感情にすがろうと下らんことを言う。あらゆる感情は、必ず裏切る。“財欲”こそ、あらゆるものが最後に到達する真理」

 振り返ってきたのは、私欲一色に染まったリイザスの貌。
 首を縦に振ることしか許さないその言葉に、アキラは思わず頷きそうになった。
 そうでもしなくては、今すぐ戦闘が始まってしまうかもしれない。

 何か、何か見つけなければ。
 今気づいたことでも、記憶に頼ったことでも何でもいい。

 とにかく、今、

「……、」

 リイザスはただその場から動かず、仰々しい演説を続けている―――

「……!」

 記憶の封は、未だ解けない。
 だがアキラの脳裏に、“答え”が掠めた。

 もし。
 もしもそうならば、活路がある。

 だがそれは、本当に正しいのだろうか―――

「さて……。そろそろ分かるな? 私の言う、“平和的”の意味―――」
「どうしましょうアッキー、あっし、お金持ってないです」
「……!?」

 後ろからの声に、アキラは漏れそうになった叫び声を必死に押さえた。

「っ、っ、お、おまっ、何して、」
「あはは、冗談ですよ?」
「そっちじゃねぇよ!!」

 アキラが気づかなかっただけで、彼女は最初から自分についてきていたのだろうか。
 そもそもそうだ。
 彼女は、巣に落ちたときのように、ただ待っていることができる人間ではない。

 “魔族”という存在の危機感すら覚えていないかのように振る舞うティアは、リイザスの重圧の中でも自由に動き、前に出た。

「…………無礼な子供だ。口を慎むことを覚えた方がいい」

 そのティアを睨むリイザスの貌は、その赫い皮膚をさらに充血させていた。
 ティアを差したその指も震えている。
 あまりに近すぎる臨界点間際なのは、誰の目からでも見て取れた。

「アッキー、あんなカツアゲ野郎の言うことなんて聞いちゃダメですよっ」

 わざとやっているのか、それとも素なのか。
 判断がつきかねるティアの態度だったが、彼女が口を開くたび、リイザスが震えているのだけは分かる。
 感情など無に等しいと言い放ったリイザスだが、完全に自分の感情を制御できていない。

「……倒しますよ。“魔族”は初めてですけど、問題ないです……!!」

 彼女は、この危険信号一色の空間で、“彼女だった”。

「……、はあ、お前は……、」

 思い出した。
 “一週目”。
 恐怖に潰されそうになった自分は、無垢さゆえの彼女の言動に、救われた気がしたのだ。
 彼女は、世界を知らない。
 だから何が起きても、“魔族”を前にしても、そう言い放てるのだ。

「……、」

 アキラは剣を抜き放った。
 震えていた身体が、僅かに収まる。
 きっと、ティアは、今の自分に欠けているものを持っているのだ。

 子供の愚かさとも言える、それ。
 だが失っていては、この足はそもそも動かないではないか。

 ごちゃごちゃとした思考が支配していた頭はクリアになり、かえって自分が馬鹿に思えてきた。

 ティアの考えはいたってシンプル。
 何があろうと飛び込んで、解決策を探すだけ。
 楽天的に、前に進み続けるのだ。

「……、」

 過去の記憶は関係ない。
 いかに相手が強大だろうと、それに抗う旅をしているのだ、自分は。

「やるぞ……!!」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇええええーーーっ!!」

 ティアの絶叫と、筋力を肥大化させたリイザスの金色の鎧がはじけ飛ぶのはほぼ同時。

 あとは、この“刻”を刻むだけ。

「ギ……、ギィィィィィァァァアアアーーーッ!!!!」

 対するは、“財欲”を追求する“魔族”―――リイザス=ガーディラン。

 赫の部屋で響いたその雄叫びが、開戦の合図だった。

―――***―――

「これは……?」
「さ、さあ……?」

 エリーは眉を寄せ、サクと二人並んで天井を見上げていた。

 アキラとティアを探索すること数時間。
 シーフゴブリンの巣と“思わしきもの”の中を進んでいたおり、二人は、先に“もう一つの探索物”を探し当てていた。

「何で……穴が?」
 そこには、エリーが手を伸ばせば掴めるほどの位置に、人一人分は通れるほどの小さな穴が空いていた。
 エリーはスカーレットに輝く自分の腕を下ろし、天井から差し込める日光に目を細める。

 大分長い距離滑り降りて巣に入ったと思ったのだが、いつしか元の高さまで昇っていたらしい。
 僅かにでも跳ねれば、外の地面が目線と同じ位置に来るだろう。

「……とりあえず、“出口”は確保できたな」
「……そう、ね」

 出口が見つかったことは、喜ばしいことなのだろう。
 だが、それ以上の不気味さが、その穴からは感じられた。

 なにしろ、今まで歩いてきた“加工された道”とは違い、その穴は単純に“壊れて空いている”のだ。
 足元には岩山を構成していたと思わしき岩が転がっている。
 何者かが外からこの分厚い岩盤を撃ち抜かなければこうはならない。
 もともと大穴が空き、崩れてこの僅かな隙間が生まれたと考えた方が自然であろう。

 そしてその大穴が空いたのは、ここに来る直前。
 エリーたちも、何かが崩れた音を聞いてここに向かったのだ。

「……誰かがここに入ってきた、とか?」
「……いや、しばらくは一本道だった。そうであるなら、私たちも出遭っているはずだ」

 確かにその通り、エリーたちはしばらく道を曲がっていない。
 ここは、元は完全な行き止まりだったのだろう。

「それじゃなに? その“誰か”は穴だけ空けて去っていった、ってこと?」
「そう考えるしかないだろう。案外、魔物同士の争いで空いたのかもしれないしな」

 それならそれでもっと騒がしいはずなのだが、エリーは口を噤んだ。
 サクとて、口に出したことが正しいとは思っていないのだろう。

「まあ、とりあえず今は事実だけを受けとめよう。出口は見つかった。あとはあの二人を探すだけだ」
「え……、ええ」

 後ろ髪を引かれる思いだったが、エリーとサクは来た道を戻り始めた。
 どちらかが出るべきであるのだろうが、お互いにその選択肢は消えている。

 入り口の、トラップのような落とし穴。
 異常なほど規模のあるシーフゴブリンの巣。
 “加工”された洞窟。
 そして、僥倖とはいえ不自然な今の出口。

 この洞窟は、奇妙なことのオンパレードだ。

 その上、アキラの“隠し事”の一つがここにある。
 離れるわけにはいかない。

「……そうだ。サクさん、この場所覚えられる?」
「ああ、問題ない。一応旅は長く―――」

 太陽の光と別れを告げ、エリーがスカーレットの腕を突き出した、そのとき。
 洞窟の不気味さに押し潰されないように声を出した、そのとき。
 サクが、僅かに得意げになって言葉を返してきた、そのとき。

 洞窟全体が、振るえた。

「―――!?」
「今の……、叫び声……!?」
「“雄叫び”、と言った方が正確だろうな……!!」

 二人はそれを合図として、即座に駆け出した。

「……、」
 先陣を切って洞窟を照らすエリーは、未だに身体を震わせていた。
 あの、底冷えするような太い雄叫び。
 それが耳に残って離れない。

 そして。

「……、」
「……、」

 ちらりと振り返ったエリーに、サクが頷き返してきた。
 二人とも何故か確信している。

 あの雄叫びが響いた、その“刻”。

 そこに、間違いなく、あいつがいる。

―――***―――

「―――!?」

 ぎらつくような金と銀。
 それが“赫”に照らし出された巨大な宝物庫の中。

 避けたはずの“赫い球体”が、アキラを追尾してきた。

「っ、」

 体勢の崩れたアキラは、自らの身の丈ほどのそれに、思わず剣を振り下ろした―――

「―――づ!?」

―――瞬間、目の前が赫一色に染まった。

 魔力を込めた剣が触れた瞬間、その球体が爆ぜ、身体が真後ろに吹き飛ばされる。

「ぐっ!?」
「アッキー!?」

 吹き飛ばされた身体は、洞窟の壁に背中を打ち付けようやく動きを止める。
 人間の身体がここまでやすやすと飛ぶというのはにわかには信じ難いが、身体を襲う激痛が現実に引き戻す。

 今の、攻撃は。

「っ、」
 アキラは強引に身体を起こし、立ち上がる。
 睨む先は、たった今、“赫の球体”を打ち出した存在。

「ふん、芸のない」

 赤色の身体に、肥大化した強固な筋肉の鎧。
 沸点の低さを象徴するような怒りに燃える、異形な貌。

 赫の魔族―――リイザス=ガーディラン。

「その程度、満足に受けられんのか……!?」

 言葉こそ冷静だが、その貌は相手への殺意が滲み出ていた。

「アッキー、大丈夫ですか!?」
「ティア、あいつを見てろ!! また来るぞ!!」

 ティアが自分にかけようとした治癒魔術を振り払って叫ぶと、アキラは足元に転がった剣を拾い、再び構える。
 服の袖は腕ごと焼け爛れていたが、幸い身体は何とか動くし、剣も壊れていない。
 魔術の鍛錬をしていなければ、アキラの身体も剣もここで“終わっていた”だろう。

「次は、防げるのだろうな―――」
 リイザスが手を天井にかざすと、その隣に再び赫い球体が浮かび上がる。

 先ほど、身を持って体験したその魔術。
 だがそれ以前に、“二週目”。
 アキラはその魔術を、知っていた。

「―――アラレクシュット」

 赫の球体が、アキラとティアを目指して放たれる。
 その速度は、あくまで人が走る程度。

 だが、その球体には、特殊な能力が付与されている―――

「っ、」
 アキラは再び駆け出した。
 しかしその球体は、即座に軌道を変え、“アキラに向かってくる”。

 速度は、自分と同程度。
 しかし、この狭い洞窟内。

 逃げ切れるものではない―――

「っ、」

 アキラは逃亡を諦め、その球体と正面から向かい合った。
 身体中に魔力を張り巡らせ、それに剣を再び振り下ろす―――

「っ!?」

 その瞬間、やはり爆ぜる赫の球体。
 万全の状態で迎え撃っただけはあり、流石に身体ごと吹き飛ばされはしなかったが、手に重い衝撃と痛みが残る。

 アラレクシュット。
 リイザスが使う、火曜属性の魔術だ。
 有するのは、二つの特殊な能力。

 一つは、“追尾能力”。
 もう一つは、ウッドスクライナで戦った魔族―――サーシャ=クロラインと同じ、“起爆能力”だ。

 エリーに習った魔術の知識が呼び起こされる。
 通常、魔術攻撃というものは破壊そのものの力しか持っていない。
 当然その分、遠距離になれば威力も低下する。
 だが起爆能力は、攻撃時のみに魔力を爆ぜさせるため、威力が衰退しにくい。
 この狭い空洞程度、どれほど距離を取ってもリイザスは近距離攻撃と同等の威力を保てるのだ。
 サーシャの“魔法”のように途端出現しない分身切りやすいが、問題となってくるのはリイザスの属性―――“火曜属性”。

 すなわち。

 他の属性に比し攻撃時の威力が著しく高いその力が、威力を衰えさせずに追尾する。

 これが、アラレクシュットの危険性。

「やはり、オレンジ……。だが、駆け出しか? “詠唱”も知らんと見える」
「……!」

 憤怒の表情で不敵に笑うという器用なことをするリイザスは、その赫い眼をアキラにまっすぐ向けてきた。
 今の二回の魔力の使用で、当然アキラの属性は認識されたようだ。

 そして、その実力も。
 自分の属性なのに、アキラが知っている日輪属性の魔法など、“たった一つの特例”を除いてないのだ。

「“勇者”かどうかは知らんが……、これで私にも“殺す理由が合法的にできたな”」
「っ、」

 “魔王直属”たるリイザスは、再び天井に手をかざす。
 その隣。
 今度は二つ、赫い球体が浮かび上がった。

「今度は二つだ。さあ、どうする?」

 怒りも徐々に収まり始めたのか、赫い魔族は相手をいたぶるような表情になった。

 だが、まずい。
 剣の攻撃しかできないアキラでは、どうあっても対処できない。
 近距離攻撃では、アラレクシュットには分が悪すぎるのだ。

 この攻撃に、対抗できるのは―――

「アッキー、今、治療を、」
「っ、いや、ティア!! 攻撃してくれ!!」

 目の前の怪我人に一直線に駆け寄ることは美点かもしれないが、彼女にはまだ、最も防がなければならないものが見えていない。
 あのリイザスの攻撃を防げるのは、ティアしかいないのだ。

「アラレクシュット」
「頼む……!!」
「はい!!」

 彼女にしては短い返事を叫び、ティアは両手で銃のようなポーズを作った。
 その二つの人差し指が向くのは、迫りくる赫い球体―――

「シュロート!!」

 ティアと、リイザスの中間地点。
 二つの赫の魔術が、二つのスカイブルーの閃光に触れた瞬間、爆ぜた。

 鼓膜を揺るがす振動の中、アキラは僅かに息を吐く。
 いくら威力が違っても、触れた途端に起爆するなら遠距離攻撃はアラレクシュットと相性がいい。

「やっ、やりました!!」
「っ、撃ち込み続けろ!! 俺らの敵はあの攻撃じゃないんだぞ!!」

 熱風を身体に受けながら、アキラは叫んだ。
 彼女がいればあの攻撃は防げるとはいえ、それではただ均衡するだけ。
 ティアの余力とリイザスの余力では、隔絶した差がある。
 限界を先に迎えるのは、間違いなくこちらだ。

 だが、近づくことすらできない―――

「……、っ、今は、その男と“交渉中”だ……!!」

 爆風で巻き上がった土煙が晴れ、現れたのは膨大な財を背にして立つリイザス。
 その貌は、水を差されたことに対し、再び憤怒の色に変わっていた。

「ふんっ、」

 リイザスはまたも手をかざす。
 次に現れた球体は、三つ。

 クリアするたび数を一つずつ増やすのは、こちらの限界を探るためだろう。
 すなわち、“どの程度ならば死なないのか”。

 リイザスの“財欲”。
 それは、相手から財を奪うこと。
 怒り狂っていても、相手をいたぶり、財を差し出させることを念頭に置いているのだろう。

「アラレクシュット!!」
「み、三つも!?」

 ティアの限界値は、やはり二つのようだ。
 三つの球体は、左右中央と分散し、挟み込むように二人に迫る。

「―――、一つはこっちに任せてくれ!!」
「!?」

 じり貧の状態を脱するべく、アキラは即座に足元の石を拾い上げた。
 一応、確認したいことがある。

「シュ、シュロート!!」
 ティアの攻撃が、二つの球体を撃ち抜く。
 そして、残りの一つは変わらず突き進んできた。

「っ、」
 アキラは、それに拾い上げた石を投げつける。
 これも一応、遠距離攻撃だ。

「―――!?」
 投げつけた石は、赫い球体に飲み込まれ、ジュっと音を立てただけで終わった。

 やはり、無駄か。
 アキラは観念して、剣に魔力を込めて振り下ろす。

「づ、」
 ズンッ、と重い衝撃を受けるも防ぎ切ったが、腕の方は限界だった。

「アッキー、今、」
「今度は頼む……、」

 ティアのスカイブルーの光がアキラの腕に冷気を届ける。
 そんな中、リイザスは未だ不敵に笑っていた。

「……、」
 アキラはそれを睨みながら、頭で条件を整理していた。

 アラレクシュットが起爆する条件は、魔力に触れたときのみだ。もしくは、生物に触れたときも含めて、か。
 これでは、逃亡しても洞窟内で赫い球体が追尾してくる。
 その場で起爆でもされようものなら、洞窟が崩れてしまうだろう。
 流石に宝物庫と言うだけはあり、この広い空間は丈夫に造られているようだが、他の場所で爆発させるわけにはいかない。

「準備は整ったか……? 次は四つだ」
「っ、」
 気づけば、すでに四つの球体がリイザスの隣に隊列していた。
 ティアもアキラの回復を止め、リイザスに向き合う。
 どうやらようやく、彼女の中で優先順位の認識が固まってきたようだ。

 だが、アキラが一つ、ティアが二つでは数が足りない。

 どうする―――

「……ティア。お前、どれくらい連発できる……?」
「ふ、二つが限度です。で、でも、時間があれば、」
「……、」

 危機に直面し、アキラの頭はかつてないほど高速で回転していた。
 三つを処理した直後、残る一つが無防備な状態のどちらかを襲ってしまう。
 魔力による防御膜を通してあの威力なのだ。
 下手に受ければ、先ほど焼けた小石のように身体が焼かれる。

 だが、時間があればティアが対処できるはず―――

「アラレク―――」

 追尾する魔術。
 それに対して時間を稼ぐ方法は、アキラが思いつく中では一つだけ。
 逃げ続けることだ。

 だがあの速度は、アキラと同程度。

 ティアの時間が稼げない―――

「―――シュット」

 リイザスが四つの球体に二人を襲わせる。
 二つはアキラへ。もう二つはティアへ。

 先に危険になるのは、攻撃回数の少ないアキラだ。

「ア、」
「自分のだけ何とかしろ!!」

 一瞬、ティアの動きがアキラへ向かう球体に向いたように見え、アキラは叫んだ。
 この期に及んで、ティアは自分よりアキラの方が急務だとでも思っている。

「でも―――」
「信用しろ!!」

 アキラはそれだけ叫んで駆け出した。

 時間がない。
 赫の球体は目前だ。

 背後でティアが魔術を詠唱するのが聞こえた。

「―――、」
 アキラは振り返りもせずにひたすら駆ける。
 背中に、二つの熱気を感じた。
 ティアの時間を稼がなくては、命はない。

 どうする―――

「……?」

―――来た。

 駆け続けて、ついに行き止まりに到着しかけたとき―――いや、“刻”。

 アキラには、総ての光景がスローに見えた。

 世界が勇者の“応え”を待つ、この瞬間。
 いつまで経っても、正体不明のこの感覚。
 この洞窟に引きこまれたときの感覚も、これに近い。

「―――、」
 駆けながら、アキラは僅かに振り返った。
 感じた熱気通り、身体ほどのサイズの赫い球体が迫ってきている。
 その向こうのリイザスは不敵に笑い、ティアは必死に準備を整えようとしていた。
 正面には、ゴツゴツとした壁。

 だが、この窮地を脱する応えは、必ずある。
 その確信だけが、アキラの身体を支配した。

 “何でもできる”、と。

「―――、」

 アキラはこの感覚に、身を委ねた。

 今必要なのは、何か。

 遠距離攻撃だろうか。
 確かに、必要な力だ。
 だがこの近さでは、撃ち抜いたところで被害を受ける。

 ならば、速度だ。
 この球体から逃げられるほどの、“身体能力”。

 アキラが最初に思い浮かべたのは、サク。
 だが、彼女の速度は月日を費やし得たものであり、現段階で真似できない。

 ならば、魔術だ。

 アキラは浮かぶ選択肢を、次々と取捨する余裕ができていた。

「……、」

 アキラの頭に、先日見た光景が呼び起こされる。
 あの、クンガコングの大群。
 囲まれても、“彼女”は機敏に動き回っていた。

 必要なのは、単純な魔力によるものではなく、“魔術”によるもの。

 例えば、そう―――

「―――、」

―――エレナ=ファンツェルンのような“圧倒的身体能力向上”。

「っ、」

 アキラは正面の壁を、まるでただの坂のように駆け昇り、強く跳躍する。
 赫の球体の背後を取ったアキラは、驚愕するリイザスの貌を視界に収め、ティアに向かって駆け戻った。

「ティア!! 頼む!!」

 準備は整ったようだ。
 ティアははっとした様子で、二本の指を構えると、アキラの背後の外敵を捉えてスカイブルーの魔術が射出する。
 爆音が響き、背後から熱風が届く。

 アキラもティアも、無傷だ。

「アッ、アッキー、今のは、」

 ティアは目を丸くしている。
 いきなり人が加速して、壁を駆け上がった光景を見れば誰だってそうなるだろう。
 実際アキラも、満点をつけられる自分の行動に心拍数が著しく上がっていた。

 また、できた。
 精度はまだまだ低いとはいえ、エレナの力を再現できたのだ。

 アキラは思う。
 本当に、“不可能などない”、と。

「貴様……、“木曜特化”か!?」

 “四つ”を攻略したアキラたちの耳に、リイザスの怒号が届いた。
 先ほど僅かに取り戻していた平常心をかぐり捨て、憤怒の表情でアキラを睨む。
 やはり、沸点は低いようだ。

「っ、」

 アキラは、これを機と見てリイザスに駆け出す。
 アラレクシュットは攻略した。
 だがそれは、所詮相手の攻撃が防げるだけ。

 やはり、リイザス=ガーディランそのものを倒さなければならない。
 ようやく、攻撃に転じられる―――

「アラレク―――」
「……!!」

 財を背にして立つリイザスの、左右。
 まるで財に近づく者を排除する門番のように、赫い球体が出現した。

 左右に三つ、計六つ。

 “五”を飛ばしたことから考えて、あれがリイザスの限界数だ。

「―――、」
 アキラは向上した身体能力に任せ、リイザスに向かっていく。
 先ほど覚えた絶望感はなりを潜め、代わりに浮かんできたのは全能感。

 そんな攻撃―――

「シュロート!!」

―――ティアが、十分に防ぎ切れる。

 リイザスの攻撃が放たれる前に、スカイブルーの魔術が待機中の球体を撃ち抜いた。
 ティアだって学習している。
 出現させてから放つのなら、その前に打ち抜けばいい。

 その分、二撃目も放ちやすくなる。

「―――、っ、シュット!!」

 数の減った四つの球体。
 だが、アキラの方が遥かに早い。

 十分に―――

「―――!?」

 走り回って巻こうとしたアキラは、球体の軌道に目を見開いた。
 四つの球体はアキラを避けるように飛び、総てがティアに向かって飛んでいく。

「っ、」

 これはまずい。
 アキラを追尾するのならば魔力の続く限り逃げられるが、そもそもティアを狙われては状況が変わらない。
 リイザスも、憤怒の表情を浮かべているとはいえその辺りの戦略は持っているようだ。

「―――、」

 アキラは強引に球体に跳びかかり、魔力を込めて一つを両断した。
 ティアが対処できるのはぎりぎり二つ。
 残る球体は三つ。

 リイザスは目前。
 しかし、戻るしか―――

「―――行きなさい!!」

―――その声に、アキラは振り返りもしなかった。

 “随分と状況把握が早いものだ”。
 そしてアキラもそれに倣い、“自分の役割”を認識する。

「―――、」

 着地と同時、アキラは前へ駆けていく。
 ぎらつく財の前。
 立ちはだかるは、“財欲”を追求する赫の魔族。

「シュロート!!」
「スーパーノヴァ!!」

 背後から、その声と爆音が聞こえる。
 もう完全に、リイザスの攻撃は攻略可能だ。

「っ、」
 リイザスの怒りの眼が一瞬背後を捉え、再びアキラに戻ってくる。

 やはり、間違いないようだ。
 それだけ怒り狂い、凶暴そのものを象徴するかのような巨大な身体を持っているのに、何故リイザスは“その場から動き出さないのか”。

 そんな理由、アキラは一つしか思いつかない。

 動けないのだ。
 “とあるアイテムの制約”によって。

「―――、」
 アキラは剣を振り上げた。

 放ったばかりでは、アラレクシュットは間に合わない。
 リイザスを攻撃するチャンスは、間違いなく今だ。

「っ、」

 身体能力にあかせて、アキラはリイザスに詰め寄った。
 近づくと威圧感がさらに増したリイザスの体躯。
 アキラの頭など、その胸ほどにまでしか達しない。

 だが今は、この存在に襲いかかることが“自分の役割”だ。

 リイザスは誤解した。
 アキラを“木曜特化”だと。

 だが違う。

 アキラは、攻撃時に最大級の威力が出る、“火曜特化”だ。

「っ、」
「―――、」

 アキラは全力で剣を振り下ろした。
 袈裟切りのその攻撃は、赫いリイザスの肩でオレンジの魔力が爆ぜる―――

「…………“火曜特化”だったか」
「……!?」

 まるで岩石でも殴りつけたような衝撃に、アキラは剣を砕かれた。
 剣の半分が飛んでいく。

 オレンジの光の向こう、怒りを増したリイザスの表情と、剣の跡を残しただけの筋肉の鎧。
 今のアキラの全身全霊を込めた一撃でも、この程度しかダメージを負わせられないらしい。

 リイザスが腕を振り上げる。
 だがアキラは、その場から動かなかった。

―――もう、勝負はついている。

「私は“これ”を切っているばかりな気がするな……」
「―――!?」

 背後の声に、リイザスが即座に振り返る。
 徐々に輪郭がぼやけ始めたその魔族越しに、アキラは財の山の麓に立つ女性を見ていた。

 彼女は巨大な空洞の反対側に現れた仲間―――エリーと同時にここに来たのではないのだろうか。
 もうすでに、“ゴール”にいる。

「貴様……、」
「目はいい方でな。“二つ”も奇妙な物体があったから迷ったが……、当たりを引いたらしい」

 “足止め”という自分の役割を果たしたアキラは、彼女―――サクの足元を確認した。
 よくもまあこれだけ光る財の中、あれだけ離れた所から、“その小さな石”を見つけられたものだ。

「“リロックストーン”を……!!」

 消えゆく“魔族”に睨まれるのは、何度経験しても慣れないものだ。
 だが、相手に“制約”があったとはいえ、勝ちは勝ち。

 自分たちは、この外敵を退けたのだ。

「っ、」
 リイザスは憤怒の表情を絶やすことなく全員を睨みつけ―――

―――この洞窟から姿を消した。

「―――、」

 赫の世界は終わりを告げ、代わりに世界を照らしたのはスカーレットの鮮やかな光。
 身体に、急激な安息感が襲ってきた。

「……、」

 膝から崩れたアキラは、財の山の前で倒れ込んだ。

 流石に、身体能力向上の魔術はまだまだ慣れない。
 そのリバウンドか、身体中が軋みを上げる。
 回復も不完全に動き回ったせいで、焼け爛れた手は握ることもできそうになかった。

 だが、それ以上に、アキラは爽快感を覚えていた。

 自分の力も増したし、何よりこの仲間たち。
 途端現れたというのにここまで息が合うのだから、文句のつけようもない。
 遠距離攻撃を行える、ティアもいる。

 万事上手くいく。
 恐れることなど、なかったではないか。

 最高だ。

 いかに恐怖が襲おうと、自分たちは“ずっと”―――

「―――、」

 アキラの頭に、“とある前提”が浮かんだ。

 そうだ。
 自分には、

「―――、」

 “その前提”に心を蝕まれる前に、アキラは頭から強引にそれを追い出す。
 そして、襲いくる眠気に身を委ねた。

「……?」

 そのアキラの、閉じかけた目に奇妙なものが映った。
 砕けた自分の剣の向こう、神々しい光を放つ、金銀財宝。

 歩み寄ってくる、恐らくはサクの足元に、その場に相応しくない錆び付いた物体が見える。

 アキラは思わず腕を動かし、

「―――、」

 そこで意識を手放した。

“―――*―――”

 遠征。
 そんなわけの分からないものがあるとは、流石の“彼女”も知らなかった。
 何でも、“中央の大陸に所属する魔道士”は、定期的に各地の“神門”に赴き、様子を見るという“しきたり”があるそうだ。
 それはある意味、他の四大陸の魔術師隊を信用していないことにもなるのだが、“しきたり”の名目上、誰からも文句が上がっていない。

 本当に、面倒だ。
 仕事をするということはあるいはこういうことなのかもしれないが、無為な行動というものはやはり苦痛。
 実際に今も“神門”の安全の確認を終え、気分転換に町から外れて散歩していたところだ。

 小さく唄を口ずさみながら、とぼとぼと。

「……、」
 集合時刻まで、もう間もない。
 それなのに、大分町から離れてしまった。
 気づけば、所属大陸の大樹海には満たないとはいえ、背の高い木々に周囲を囲まれている。
 ここの森も、大層に深いらしい。
 近くに見える岩山も、大自然のそれだ。

 戻ろう―――

「……?」

―――として、足を止めた。

 今感じた、妙な気配は一体何か。

「……、」

 瞳を“さらに狭め”、神経を張り巡らせる。

「グ……、」
「……! ……?」

 一瞬、自分の疑問が解決したと思った。
 しかし、それは即座に腑に落ちなくなる。

 出現したのは、クンガコング。
 だがそれも、一頭ではない。
 どこに潜んでいたのか、緑の体毛の巨体が森の木々に代わり、彼女の周囲を囲み始めた。

 二十、いや、三十。

 醜悪な顔を歪め、筋力を肥大化するクンガコングの群れを見て、彼女が思ったのはその程度の感想だった。
 そんな“些細なこと”より、自分が今感じた妙な空気の方が問題だ。

「―――、」

 瞬時。
 彼女が小さく呟けば、総ての魔物が魔力の矢に貫かれた。
 悲鳴さえ聞こえない。
 断末魔の代わりに戦闘不能の爆発音が響き、彼女はその被爆地を、“空から見下ろしていた”。

「……!」
 ふわふわと浮かびながら、彼女はまたも、瞳を狭めた。
 そして困ったように、眉も下げる。

 考え事をしながら放った魔力の矢の一本は、近くの岩山を撃ち抜いたらしい。
 外壁が崩れ、大きな穴が開いている。
 自然物の破壊は極力避けたいところだったが、あれだけの数の魔物に襲われたのだから不可抗力と言うべきだろう。

 だが、

「……!」

 そこで、ようやく自分の覚えた違和感の正体がつかめた。
 あの岩山だ。
 あの岩山から、何か奇妙な気配を感じる。
 小さな矢一つで大穴が簡単に空いたということは、中は空洞。
 岩山そのものが、何かの巣のようだ。

「……、」
 空からそれを注視し、彼女は岩山に背を向けた。
 興味はあるが、流石に集合時間だ。

「―――、」

 彼女はまたも小さく呟き、町に向かって飛んでいった。

 シルバーの軌跡を描きながら。

―――***―――

「……あんた、ここにいたの?」

 エリーが宿舎のドアを開けると、先ほどまで部屋にいたはずのアキラが門前の壁に寄りかかっていた。
 夜空には、綺麗な空気のお陰で、星が煌めいている。
 こうした涼やかな空気の中では、あの洞窟内のことが嘘のようだ。

「……、」
 アキラはそれを、ただただ見上げている。

 彼はここで何をしているのだろう。
 夜空を見上げるロマンチストでも気取っているのだろうか。

「ティアも今日、泊まってくってさ。あとでお礼言っておきなさいよ? あんたの治療、ずっとしてたんだから」
「……、ああ。目が覚めたとき、会ったよ」
 アキラは空を見上げたまま、小さく呟いた。
 エリーは僅かに息を吐き、アキラの隣に寄りかかる。

「……、」
「……、」

 しばし、無言。
 エリーは空気に耐えきれず、隣で黙り込んでいる男の腕を軽く小突いた。
 反応は、薄い。

「…………しっかし、驚いたわ。また“魔族”がいるなんてね」
「……ああ、そうだな」

 何故かまた、反応が薄い。
 というより、上の空。
 この男ならば、もっと有頂天になっているかと思っていたというのに。

 結局、リロックストーンを破壊するというサーシャ=クロラインと同じ方法で“魔族撃退”を果たした四人。
 倒れた切り動かなくなったアキラを運び出す作業はかなりの労力を伴うことになったが、出口を確保していただけはあり、思ったよりも早くあの“巣”を抜け出せた。

 不気味と言えば不気味だが、あの山の中ではリイザス以外の問題はなかった。
 出られた以上、幸運としてしか受け取る他はない。
 気になると言えば―――こちらは俗物的な考えだが、あの財の山。
 旅というものの必要経費を考えると後ろ髪を引かれるものもあったが、元は盗品。
 運び出すのも困難の上、あの赫の魔族をさらに刺激するのは避けるべく、手はつけなかった。

 たった一つの物品を除いて。

「そだ。あんたが掴もとした剣、持って帰って来たわよ?」
「剣?」

 アキラが初めて顔をエリーに向けた。

「……ちょっと、あんたが欲しそうにしてたから運んで来たのよ?」
「……、」

 どうやら、アキラは無意識に手を伸ばしていたようだ。
 てっきり“隠し事”か何かと思い、気を遣ったつもりだったのだが、特に意味はなかったのかもしれない。

 エリーはあの、“錆び付いた剣”を思い起こす。
 そういう表面に関心の強いサクは貴重な物のように見ていたが、エリーの眼には使い道のない粗大ゴミにしか見えなかった。
 といっても、あの煌めく財の中にあったとあっては、確かに気になる物体だ。

「……まあ、いらないなら捨てましょうか?」
「……いや、いい。持ってこう」

 剣が壊れた直後からだろうか。
 アキラも錆び付いた剣に関心があるようだ。

 鍛え直せば使えないこともないだろうが、どうせ―――

「……?」

 エリーの頭に何かが掠めた。
 何故か、自分は“それ”を探していたことがある、と思ってしまう。

 最近よくある、頭を流れる奇妙なノイズ。
 もしかしたらアキラの“隠し事”に関係あるのかもしれない。

「……あのさ」
「ん?」
 アキラを見ると、再び空を見上げていた。
 エリーは構わず言葉を続ける。

「なんとか、なったじゃない」
「…………、」

 アキラは目を細め、なおも星空を見上げ続ける。
 当てずっぽうに言ってみた言葉は、どうやら的中したようだ。

 アキラはずっと、あの洞窟を避けたがっていた。
 だが、結局は“魔族”を退け、幸運にも出口が見つかり、四人とも五体満足で帰ってきている。
 この男が感じていた“危険”を、確かに超えていけたのだ。

「……、」

 エリーがサクと共にあの赫の間に辿り着いたとき、すでに“空気”ができていた。

 行ける、という確信。
 それが“魔族”を見ても震え上がらず、即座に行動できた要因。

 温床は、間違いなくこの男だ。

 “総て上手くいく”、と。

「あんたも、信用してくれたじゃない」

 エリーが伝えようと思っていた言葉は、かけるまでもなかったようだ。

 彼はあのとき、自分たちへ向かった魔族の攻撃を任せてくれた。
 サクが動くことを前提に、リイザスの身に切りかかった。
 少しいいように捉えすぎかもしれないが、彼は自分のことに集中できたのだ。

 だから、“勝てる空気”があの赫の空間にできていた。

 エリーの見える小さな世界では、この四人ならばできないことはないとまで思える。
 “魔族”さえも、条件付きとはいえ退けられた。

 きっと、アキラも自分と同じような感覚を味わっていると思ったのだが―――

「……、」

―――何故こうも気力がないのだろうか。

 また、“隠し事”でも抱えているのかもしれない。

「……少しは元気出しなさい。ちょっとだけなら悩み事とか聞いてあげるわよ?」
 エリーは小さな声で呟いた。
 信用された今なら、“隠し事”は聞けなくとも、彼の覚える“恐怖”くらい軽減できるかもしれない。
 何せ自分たちはあの脅威を前に、“終わらなかったのだ”。
 ずっとずっと、続いていく。

 この日々は、続くのだ。

「今日はよくそう言われるなぁ……、」
「なに? サクさん?」
「いや……、ティア」
「ふーん……、」

 エリーは僅かにジト目になり、しかしアキラの口が軽くなったことに安堵を覚えた。
 せっかく勝ったのだから、やはり、今くらいは自分と同じように浮かれていて欲しい。

「……なあ、」
「ん? なに?」

 早速悩み事の相談だろうか。
 エリーは小さく微笑み、空から戻ってきたアキラの視線を受け、

「やっべぇ……」
「?」

 固まった。

 途絶えない日々。

 その確信が、エリーの中に在る。
 それなのに、何故彼は、そのただ中にいて“泣きそうな表情”を浮かべているのだろう。

「…………楽しくなってきちまったんだ」

 そんな悩み事を聞いたのは、初めてだった。

------
 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 不定期更新の名の通り、前回から大分時間の空いた更新になってしまいました……。
 なかなか時間も取れず、長い話にぶつかると更新はどうしても滞ってしまいます。
 読んでくださっている方には申し訳ありませんが、ご容赦いただければ幸いです。

 また、ご指摘ご感想お待ちしています。
 では…



[16905] 第二十二話『ヒーロー中毒者』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2017/10/08 03:02
―――***―――

 月下。
 広大な荒野。
 吹きすさぶ風。

 巻き上がった砂埃の粒は大きく、頬を風と共に叩いていた。
 口に入った砂利が、口の中で泥となっていく。

 だが、それらはモノクロの世界での出来事。
 そんな劣悪な場にいるというのに自分は、それらを正とも負とも捉えられなかった。
 “二重”になった心の一方が、もう片方を殴打する。

 『お前は何をやっている』―――“自分”が、“自分”を、だ。

 そんな壊れた心で感じられるのは、腕の中で冷えていく温もり。

 そして。

 ただこの場を逃れたいという、逃避本能。
 そのためならば、“自分の何を差し出しても構わない”。

『一時の感情に流されて、絶対あとで―――』

 そんな言葉は、右から左だった。

 今を逃れること以上に、悪いことなどあるわけがない。
 絶望の淵、目の前に垂れた糸に手を伸ばさないことなど、できるわけがない。

 きっと、自分はそうしなければならないのだ。

 だから手を、ひたすらに伸ばした。

 “半開きの眼の少女”を、強く見上げる。

―――今すぐ、“不可能を可能にしてくれ”、と。

 それ以外、自分はきっと、求めない。

『―――、』

 そして。

 目の前で、純白の“杖”が出現した―――

「―――起きろぉぉぉおおおーーーっ!!!!」

「……、……、」

 覚醒は、緩やかに。

 ヒダマリ=アキラはドアの外からの騒音を、冷めた心で聞き流した。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――ヘヴンズゲート。

 東の大陸―――アイルーク大陸で、唯一“神界”へと続く“神門”があるこの高い岩山は、東西南北賑わう街で囲まれていた。
 流石に“しきたり”を重んじる気風のこの世界。
 その分人も集まるのだが、町が発展していったのはそうした世界の中でも商魂逞しい商人たちの働きによるところが大きい。
 人の集まるところ、金も集まる。
 ゆえに、ヘヴンズゲートの商店は、アイルーク大陸の中でも随一の豊富さを誇っていた。
 武具屋、食料店、衣料品店や雑貨店、さらには百貨店も完備し、大通りでもところ狭しと歩き回る人々の隙間から、種々雑多な店頭販売の彩りが嫌でも目に入る。
 昼前だというのに留まることを知らない活気が、街全体を盛り上げていた。
 それゆえに、建物の特徴にも宗教的なものは上げられない。
 この世界では一般的な箱のような建物たちの共通点はむしろそれだけで、あとは高さも広さも色もまちまちだ。だが、流石に場所が場所なのか他の大きな町に見られるような、顧客を集めることに躍起になった結果の奇抜な形の建物は見えない。
 そうした建物が岩山一つに従えられるように囲っているというのは、それはそれで奇妙に映るのだが。

「……、」

 そうした、到着したばかりのヘヴンズゲートの町並み。
 その喧騒の中を、“勇者様”ことヒダマリ=アキラは心を遠ざけながら歩いていた。

「ちょっと、勝手に歩かないで!!」

 ほとんど叫ぶように声を発したのは、エリーことエリサス=アーティ。
 長い赤毛を人ごみに飛び込む前、強引に一本にまとめ、背中に垂らし、揺らしながらアキラの隣に詰め寄った。

「さっき言ったでしょ!? まずは宿探さなきゃ!!」
 エリーが叫んでいるのも、憤慨しているわけではない。
 早朝の鍛錬を結局欠席した男に怒りをぶつけているわけでもない。
 ただ、そうでもしなければ声が届かないだけだ。

 だが、

「まあまあまあっ!! エリにゃん!! アッキーもいろいろ見たいんですよ!! それよりどうです!? おっきいでしょう!? あっしの街は!! てかこんなに人いるの結構珍しいんですよ!? あれ!? そういえば何で―――へぶっ!? …………こ、転んだ!! びったーんと!! うわわっ、恥ずいっ!!!! 何やってんだぁぁぁあああーーーっ!! わたしゃあっ!?」

 彼女にとっての通常のもの届くであろうに、さらに声を張り上げた少女は転ぶ前から周囲の視線を集めていた。
 道にできた僅かな溝に足を取られ、見事なまでに正面に転んだ少女はティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 青みがかった短髪の頭を羞恥に身悶えながら抑え込み、一人芝居でもしているかのような大げさな仕草ののち、ようやく起き上がった。

「だ、大丈夫……?」
「え!? エリにゃんなんですか!? あっしは元気です!!」

 発した声は届かなかったらしいが、一応意思の疎通はできたらしい。
 エリーは擦り剥けかけているティアの足に視線を配り、彼女の腕を再発防止に努めるべく掴んだ。有り余って元気とはいえ、一応このヘヴンズゲートまで最短ルートで案内してくれた功労者。
 珍妙な愛称をつけられているとはいえ、労わる気持ちくらい持っていてもいいだろう。

 だが、ティアに気を取られている内に、アキラの背が再び離れていってしまった。

「……アキラはまた“隠し事”、か?」

 アキラを追おうとしたエリーの足は、背後から届いた凛とした声に止められた。
 振り返るまでもなく、隣に並んだのは長身の女性―――サク。
 黒髪をトップの位置で結い、特徴的な紅い着物を羽織った彼女は器用に人ごみを避け、普段と変わらぬペースで物静かに歩いている。

「……、」
 エリーはサクを見上げ、隣でにこにこと笑う地元民のティアを見下ろし、最後にアキラに視線を移してため息を吐き出した。

「わっかんない」
「? 分からない? エリーさんが、か?」

 比較的小さく吐き出した声は、サクに届いたらしい。
 サクは眉を寄せ、アキラの背を盗み見てエリーに視線を戻す。
 普段は凛とした表情を、今は怪訝に歪ませていた。

「あたしには分からないわ。意味不明」

 サクにそういうのは何となく躊躇われたが、エリーは思っていることをそのまま吐き出した。
 今のアキラが何を考えているのか、エリーには分からなかった。

 昨夜。
 エリーはアキラに奇妙な相談事を持ちかけられた。
 僅かなりとも距離の近さを感じられる出来事に、“魔族”を退けたことへの高揚感も重なり意気揚々と耳を傾けた直後、彼はこんなことを口走った。

『楽しくなってきちまったんだ』

 それも、何故か“泣き出しそうな表情”で。
 果たして相談事と言えるかどうかは微妙だが、その言葉で、アキラとの距離がすっと離れた気がした。
 普段からアキラのことを奇妙な奴とは認識していたが、まさかここまで意味不明なことを口走るとは、エリーは思ってもみなかった。

 楽しくなってきた。

 結構なことではないか。
 事実エリーも、その言葉だけには首を縦に触れる。

 昨日この四人で、人の身では決して対抗できないとまで言われる“魔族”を退けたのだ。
 先ほど、ここまでの道中でティアのその詳細を語られた。
 彼女の普段の態度から大分脚色されているだろうと思い話半分に聞いていたのだが、それでもアキラは大分活躍したらしい。
 その光景を見ていたのがティアだけだというのは何となく面白くはないが、それでも彼が成長しているのは間違いないことだ。

 “魔族”などという脅威が襲ってきても、“総て上手くいく”。
 そんな全能感を覚える経験が、昨日あった。

 それなのに彼は、それについて、何故か辛そうなのだ。

「……まあ、気にしていても仕方がない。アキラの様子は気がかりだが、今日はやることが多そうだ」
 ティアは元より、サクもその辺りは深く考え込んでいないようだった。

 昨日洞窟内で僅かに語られた、彼女の過去。
 心の中で矛盾が生まれたそのとき、彼女は『逃げた』と言った。
 そして、今のアキラも心の中で何かの矛盾が生まれているのだろう。

 経験者たる彼女は、どうやら見守ることを選んでいるようだ。
 確かに一人で考える時間というものも必要かもしれない。
 エリーはアキラの背に向けて開こうとした口をつぐみ、代わりに尖らせた。

 実際、この街ですべきことは多いのだ。

「そういえば、みなさん神様に逢いたいんですよね!?」
 エリーと繋いだ手を子供のようにぶんぶんと振り回し、足取り怪しく歩くティアは雑踏の向こう、険しく高い岩山を見上げていた。

 首をほとんど真上に向けても頂上が見えないほどの岩山。
 風で形を変え続ける雲を突き抜けた先には、何があるのだろう。
 賑わう町並みの中から見ても、その場所は外部の干渉を受けていないかのように静けさを感じさせる。
 それこそ、それほど巨大な自然物が間近にあっても落石の懸念さえ浮かばないほどに。

 そう。
 それも“すべきこと”の一つ。

 きっと、雲の先には“神族”の世界―――“神界”があるのだろう。
 自分たちは“神族”に用があるのだ。

 打倒魔王を果たした“勇者様”の特権。
 それは、正に神の力を持つ“神族”が願いを叶えてくれるというものだ。

 とある事情でエリサス=アーティは現在ヒダマリ=アキラの婚約者。
 それを破棄すべく―――いや、“アキラを元の世界に返すべく”、自分たちは世界を救う旅に出ているのだ。

 だが、神族の力を具体的には知らない自分たちは、“確認”をする必要がある。

 すなわち、“異世界への移動”が神族の力で可能か否か。

 そしてもしそれが可能ならば、アキラは元の世界に、

「……!」

 そこではたと、エリーは気づいた。
 もしかしたら、ヘヴンズゲートに近づいてからアキラの様子が妙なのは、“そういうこと”かもしれない。

 それなら、“この旅が楽しくなったら困る”ことになる。

「……ふーん。泣きそうになるほどなんだ……」
「おおう!? エリにゃんどうしたんですか!? 口元がにやけてますよ!?」
「へ? んーん、何でもない。それよりティア。図書館とかある? あたし調べ物しなきゃいけないの」
「おうさっ!! 何でもありますぜぃっ!! でもあの山の向こう側だったりします……」
「じゃ、まずは“神門”ね」

 いつしかティアが手を引くようになり、岩山に向かって進んでいく。
 正面で歩いている男に、何て声をかけてやろうか。
 そんなことを考えると、エリーの足取りは軽くなった。

「……まず宿を探すはずだったのは、私の気のせいか?」

 背後のサクの言葉は、エリーには届かなかった。

―――***―――

―――その場所は、“異様”だった。

 何の感情も抱かぬように、ほとんど頭を空にして歩いてきたアキラも足を止める。

 眼前にそびえる、空に漂う雲を突き抜けるほど高い岩山。
 自然物であるはずのそれは、総ての干渉を受けつけぬかのようにそこに座し、時空が切り取られているかのように現実感がない。

 足元には、右を見ても左を見ても続く壁のような岩山の周囲に白い石が敷き詰められ、その部分だけを見れば通常この“庭”こそが主役に見えるであろう。
 だが、やはり最重要なのはこの、隔絶した空気を持つこの山。
 誰しも、目前までくれば巨大物体に覚える威圧感とは別の“空気”がある、と口を揃えて言うであろう。

 そんな聖域から見れば、周囲の壮観な白色の庭も、賑わうヘヴンズゲートの街も砂粒ほどの価値も感じないであろう。

 そして。
 恐らく目の前に見える“人の群れ”も、塵芥としてしか認識していない。

「なに……? あの人たち」

 エリーの言葉が背後から聞こえ、アキラは“それ”から目を逸らすように振り返った。
 呆気に取られたかのように立ち止まったエリーの視線は動いていない。

 やはりこの場に“知らない人間”が来れば、“聖域”よりもそちらに目がいくようだ。
 あの、“覇気のないクーデター”でも起こしているかのような、群衆に。

 二、三十人程度だろうか。
 ある者は身体を震わし、ある者は座り込んでまで、山を見上げて手を擦り合せている。
 彼らの視線の先には、岩山をくりぬいて作られている高い純白の階段。
 そして、その先にある巨大な門だった。

「……私は、お祈りしている、って聞きました。一日中」
「お祈り? 一日中?」

 地元民のティアの言葉に、エリーは怪訝な表情を浮かべ首を傾ける。
 ティアもティアで、流石にこの場では口を噤み、どことなく難しそうな表情を浮かべていた。

「私はそれしか聞いていません……。でもきっと、…………何でもないです」

 それきり、普段騒がしい少女は口を閉ざした。
 ここで育った彼女は、彼らが何をしているのか気づいているのであろう。

 耳を僅かにでも傾ければ、群衆から漏れる呪詛のような言葉たち。
 魔王の被害を受け、“失った”彼らは、“頼っている”のだ。

「“神様”に……、願い事でもしてんだろ」
 言いにくそうなティアの代わりに、アキラが口を開いた。

 “しきたり”に縛られた世界。
 そこでは、総てを失ったとしても、それだけが残る。

 この、強い信仰心。

 だが“再び見たこの光景”に、アキラは僅かに親近感を覚えていた。
 相手は神でこそないが、自分も“頼ってここにいる”。

「……私もこうした光景は見たことがある。あまり気分のいいものではないが、彼らも彼らなりに、な」

 次いで言葉を発したサクは、いつにも増して神妙な顔つきをしていた。
 神に一心不乱に頼る彼らは異様に映るが、そうなっただけの事情を各々抱えている。

 丁度そのとき風の加減か、群衆の中の一人の声が雑踏の合間を縫うようにして届いた。

『大切な人を失った』

 わらをもすがるようなその言葉に、アキラは瞳を閉じた。

「…………何か、納得いかない」
 その光景を見ていたエリーが、一言呟く。

 瞳を狭め、眉を下ろすその仕草に、アキラは再び今朝見た夢―――自分が頼った“刻”のことを思い出した。
 あのときの“彼女”も、多分、そんな表情を浮かべていたのだろう。

「神族に願いを叶えてもらえるのは魔王討伐を果たした“勇者様”、でしょ?」
 あくまで群衆に届かぬような小声。
 エリーは街の人ごみに乱された髪を結い直し、僅かに口を尖らせていた。

「それなのに、こうやって“頼る”だけ、なんてさ。終わったことは、」
「……お前はどうなんだ?」

 エリーの言葉に、思わずアキラは口を開いていた。

「“自分じゃどうにもならないこと”。それが起こったら、俺は他力本願でもそれに飛びついちまう」
「…………なによ?」

 アキラは軽く自分の額を小突き、エリーから顔を背けた。
 自分の“最悪の行動”を弁護するつもりはなかったのだが、実際に経験してしまえば彼らの気持ちも分かる。

 “自分じゃどうにもならないこと”。
 それを飛び越える力を、アキラは持っていなかったのだから。

「あたしは、“頼るのは反対”。相手が“神族”だろうと、よ」
「……アキラを元の世界に戻すのは、頼るしかないはずだが、」
「……、」

 サクの指摘に、エリーは切り返しもせず目を閉じた。
 アキラはその様子に眉を寄せる。
 エリーは、別に失念していたわけではなく、本心からそれを口にしたように見えた。

「まあまあまあ、行きましょうっ。あっしもあの上に、一度でいいから行ってみたかったんですよっ」

 妙な空気の中、あくまで声量を下げたままティアが口を開いた。
 びしっ、と音がするほど勢いよく指差したのは見上げるほど高い階段。
 そこからすすっと指を動かし、捉えたのは巨大な門だった。

「いつもは門前払いされていましたが、アッキーがいれば入れるんですよね?」
「……ティア、あなた入ろうとしたことあったの?」

 この場の湿気を払うようにずんずんと歩き出したティアを追って、エリーもそれに続いていく。
 サクも向かっていくのまで横目で見送って、アキラはもう一度群衆を見た。

 悔恨や魔王への呪いを口にし、ただただ祈る群衆。

 “二週目”。
 あのまま“時間”を刻んでいたら、自分もあの中にいたのだろうか。

―――***―――

 目指せ、目指せ。
 殺せ、殺せ。

 その魔物たちにインプットされたのは、結局のところその二つだけだった。
 翼をはためかせ、空という最短ルートを通り、その大群は飛んでいく。

 眼下の森林に雨雲のような影を落とし、雷雲のように魔力を迸らせる。
 いずれも、アイルーク大陸などという“世界で最も安全な大陸”には相応しくない激戦区の魔物たち。
 そしていずれも、“財”への欲求に染まった存在だった。

 今から狙う場所は、人も集まり“それ”がある。
 異形の貌の眼の色を変え、それらはただただ突き進む。
 その数、三桁は下らない。
 その存在たちに、破壊一色の指示を与えれば、攻める場所は無に帰すだろう。

 だがその実、“逃げていた”。

 激昂した、その魔物たちの“主”。
 怒鳴り散らすようなその指示に、誰しもが震え上がり、その全力をもってして“逃げ出したのだ”。

 “財”への欲求は、確かにあった。
 “荒立ったことを禁じられている”アイルーク大陸に、“主”の指示という大義名分をぶら下げ攻めることができるという高揚感もあるはずだ。

 だが、“主”―――“財欲”を追求する赫の魔族の憤怒の表情に、それは恐怖一色に染まってしまった。

 目指せ、目指せ。
 殺せ、殺せ。

 その二つの指示は、しかし魔物たちに一つの思考をアウトプットさせる。

 逃げろ、逃げろ、と。

 いつしかその意気は眼下の森林中に伝わり、数多の魔物たちも同じ行動を取る。

 逃げろ、逃げろ、と。

 逃げる先は、アイルーク大陸の“神門”。

 数多の魔物が、ヘヴンズゲートを目指していく。

―――***―――

 ものすごく、嫌そうな顔。
 僅かに開いた口は、『うわ』と発音したようにも見える。

 エリーは、岩山の長い階段の入り口に立つ二人の人間の表情を、確信を持ちながらそう判断した。
 十数人はゆうに横並びになれるほど幅があるその階段に、先陣を切って駆け寄っていくのはティア。
 それを迎える―――恐らく門番であろう二人の男は、僅かに顔を見合わせ、眼精疲労を抑えるように目頭をつまんだ。

「やあやあやあっ!! お久しぶりです!!」
「ここにきて、お前か……」

 純白のローブに身を包んだ二人の若い男。
 その右の男が口を開き、ティアの行く手を阻むように身体で階段を防いだ。

「いっやぁぁああっ、本日はお日柄もよく、」
「何度も言っているが、ここに入るには許可がいるんだ」

 どうやら、門番とティアは顔見知りらしい。
 “頼る”群衆から離れ、声量が戻ったティアに門番が返したのは絵に描いたようなしかめっ面。
 『一度入ってみたかった』という言葉通り、ティアは以前から単身侵入に挑戦し続けていたようだ。

「全く……、昨日から大変な騒ぎだというのに、」
「? この辺りで何かあったのか?」

 門番が零した愚痴を、追いついたサクが拾った。
 そういえばエリーも、この人通りの多さは気になっていたところだ。
 地元民のティアも、今日は人が多すぎると言っていた気がする。

「お前たちは知らないのか? 昨日まで、ヨーテンガースから魔道士隊が遠征に来ていたのだが」
 今度は左の男が口を開いた。

 それを聞き、エリーの身体がピクリと動く。

 ヨーテンガースの魔道士隊。
 “中央の大陸”ヨーテンガースの魔道士たちは、“その場に相応しく”隔絶した力を持つと聞く。
 遠征という存在をエリーは知らなかったが、自分たちが“魔族”と戦っているうちにそんな大イベントが起こっていたとは。

 だが、それ以上に。
 その場の魔道士に、一人、心当たりがあった。

「どこから聞きつけたのか……。誰もが一目見ようと街中大変な騒ぎになった。全く、魔道士たちは“神門”の“様子”を外から見るだけ。他は街の見回りをしていたというのに……。大人数が我々にそれを訪ねに来て……」
「あらら、お疲れさまです」
「その上、今日はお前の相手まですることになるとは」
「ひどっ!?」

 どうやら、ティアと門番たちは顔見知りを通り越して、随分親しいようだ。
 いや、もしかしたらこの街にいて、ティアと親しくない人間などいないのかもしれない。

 それにしても、激戦区の魔道士ですらこの山に入ることは叶わないようだ。
 それだけ、“神”は別格、ということだろうか。

「まあ、そんなわけだ。悪いがここは通せない。流石にお前の相手をするほどの労力は残っていない」
「ふっ、ふっ、ふっ、ワッキョン」

 どの名前がティアの中を通過し変貌すればその愛称になるのか。
 ワッキョンと呼ばれた門番の男は僅かに顔をしかめ、ティアを見返した。

「実はあっし、今日こそここを乗り越えます!!」
「……?」
 得意げに語ったティアの言葉に、門番二人がさらに顔をしかめる。
 また、妙なことを言い出した。その顔からはそんな二人の感情が感じ取れた。

「実はっ!! ここにおわわわすわお方は“勇者様”です!!」
「……!?」

 感情表現豊かに噛みまくりながら、オーバーに身をひるがえし、ティアは両手で仰ぐようにエリーの隣に立つアキラを門番たちの視界に入れた。
 エリーは僅かに呆れ、一言も発していないアキラから一歩離れる。

「……?」

 門番二人の視線が、動いたエリーについてきた。
 エリーは首を傾け、アキラをもう一度見上げ、視線を門番二人に戻す。
 身体をさらに動かしても、やはり門番二人の視線はエリーを追っていた。

「……えっと、何ですか? あたしじゃなくて、こっちが、」
「…………」
「…………」

 二人の門番が見る先は変わらない。
 視線がくすぐったくなり、エリーはアキラの背に隠れた。
 二人は、何を幽霊でも見たかのような表情を浮かべているか。

「い、いや、すまない。…………でも、なあ?」
「……ああ。い、いや、違う。こっちは赤毛だ」
「おやおや? どうしたんですかい!?」

 奇妙な様子にティアが声を上げても、二人の門番は顔を見せ合うだけ。
 だが、僅かに頭の中が整理できたのか、ティアに愛称を呼ばれていない側の門番が口を開いた。

「いや、いたんだよ。ここの様子を見に来たヨーテンガースの魔道士隊。その中に、“そこの彼女と瓜二つの少女”が」
「……!」

 声にならない息を喉から吐き出したのは、エリーだけではなかった。

―――***―――

「それにしても、困ったことになったな」

 所変わって、ここは飲食店。
 店が繁盛していることの裏返しに数分待ち、ようやく座れた隅の四人掛けの席で、昼食をとり終えたサクが食器を整えながら呟いた。
 木目の目立つ店内通り、どこか古めかしい丸テーブルを囲う面々の脳裏に、先ほどの門番とのやり取りが思い起こされる。

「“神門”への侵入。私は、勇者がいれば事足りると思っていた」
「そうですよ……。あっしも今日こそは、と思っていたのにぃ……」
 サクの言葉に、覇気のない声を返したのはティアだった。
 上半身を机の上に乗せ、空のコップを口にはさみ、行儀悪く座るティアは、念願の玩具の購入を親に断念された子供のように拗ねている。

「というか今日初めて知りました……。“勇者様”に、“証”が必要だなんて……」

 ティアの様子を横目で見ながら、サクも頭を抱えていた。
 拗ねた子供の髪が食器に触れないように離しつつも、目を瞑って頭を巡らす。

 結局あのあと、“神門”への入場を懇願したティアに返ってきたのは拒絶の言葉。
 いくらアキラが勇者と言っても、彼らの態度は変わらなかった。
 どうやら彼らそのものに“決定権”が与えられていないそうだ。

 あの場に門番が立っているのは、“崇拝者”対策という面が強いらしい。
 あれだけ熱心に祈っている者たちだ。中には自らを抑えきれず、あの長い階段を駆け上がろうとするものさえもいるだろう。
 そのために、門番はあの場にいるのだ。

 つまりは、許可をするのはあの門番ではなく、“神族”。
 来るべき者が来たとき、ヘヴンズゲートの門は開く。

 しかし、彼らはこうも言っていた。
 その、“勇者様の証”。

 そこに、ほぼ例外なく通される確固とした“証”がある、と。

 それが―――

「“七曜の魔術師”、か。また難易度の高い条件を出されたな」

―――“七曜の魔術師の集結”。

 つまりは、七属性のメンバーを集めることを持ってようやく“通りたいと口に出せる状態”まで達せるとのことだ。

 七曜とはすなわち、
 日輪、月輪、火曜、水曜、木曜、金曜、そして土曜のことだ。

 口で言うのは容易いが、実際、尋常なことではない。
 七名もの人間が、同じ志を持ち、その場に集結する。
 それだけでも奇跡に近いというのに、最大のネックは“月輪属性”。

 七属性中、最も希少な“日輪属性”の問題は解決しているが、それに次ぐ“月輪属性”の問題が大きすぎる。
 何しろサクは、長い間旅をしていたというのに、“月輪属性”の魔術師を未だかつて見たことがない。
 無理に挙げるとすれば、かつて交戦した“魔族”―――サーシャ=クロラインが月輪属性であったが、仲間になる可能性は皆無な上、個人的恨みもあるあの“魔族”はこちらから願い下げだ。
 そもそも、“神”に通してもらえるわけがない。

 いっそ神族に逢うことを諦め、直接魔王を討ちに行った方が早い可能性すらある。

「……アキラ。悪いが“特権”の確認は諦めないか? あの門番たちも、一応『大丈夫だろう』と言っていた。そうでなければ、世界を一周したって見つからないかもしれない」
「……え?」

 まるで、今までの話を一切聞いていなかったような顔をされた。
 いや、実際にそうなのだろう。

 サクの正面に座る、いつものことながら様子のおかしい“勇者様”。
 こちらの問題も解決していないというのに、課題はしんしんと降り積もっていく。

「……“七曜の魔術師”の話だ。他はともかく、“月輪属性”の魔術師は―――」
「―――“あて”ならあるわ」

 サクの言葉は、アキラと同じく店の賑わいに塗り潰されていた赤毛の少女から届いた。

「“月輪属性”の魔術師でしょ? …………一人知ってる」
「なぬっ!?」

 エリーの呟きに、テーブルに溶け込みそうだったティアが身体を起こした。
 口から弾かれてごわんごわんと回るコップをサクが慌てて手で押さえるも、ティアは気づきもせずに目を輝かせている。

「そだ!! そう言えばエリにゃん、誰かと間違えられていましたね!?」
「……そう、それ」
「やはり!!」
「……?」

 ティアとは対照的に、どこか目を伏せるエリー。
 その光景を見たサクは、目を擦った。

 一瞬、エリーが他の誰かと重なって見えた気がしたのだ。

 脳裏を掠める、妙な“ノイズ”。
 最近よくあるその奇妙な感覚をとりあえずは放り投げ、店内の賑わいに負けぬよう、サクはエリーの言葉に耳を傾けた。

「あたしが知ってる中で、最強の月輪属性―――ううん、“最強の魔術師”。……あんたには話したことあったっけ?」
「……ああ」

 エリーの視線を向けられたアキラが、僅かに首を縦に振った。

「お前の妹だろ?」
「うん……、“双子の妹”よ。“天才”の」
「おうっ!? まさかワッキョンたちが言ってたのはっ、」
「……多分、ね」

 サクは僅かに目を伏せた。
 エリーの双子の妹。
 世にいる双子というものがどこまで似通うものなのかはサクには分からなかったが、どうやら他人に間違えられるほどには、らしい。

「……ちょっと待て。エリーさんは確か、私の一つ上だったな?」
「……ええ」
「昨日来たらしいのは“魔道士”隊だ。そんな―――」
「だから言ったでしょ? “天才”なのよ。あの子は」

 涼しい顔をしようとして、取り繕うとするとそういう顔になるのだろうか。
 エリーは視線を外し、窓の外をおぼろげに眺めた。
 未だ賑わう町並みは、恐らく彼女の瞳には入っていないだろう。

 だがその年で、“魔道士”とは。
 魔術師試験を受けることが許される年齢は、丁度、エリーの一つ下のサクの年だ。
 つまりはエリーの双子の妹とやらは、たった一年。
 たった一年で、魔道の最高峰の資格を有していることになるのだ。

 一応、サクは“資格を有する魔術師”を志はしていないが、実技の方は余裕で突破する自信はある。
 だが、“魔道士”となると話は別だ。
 学術や実技の試験さえも次元が違うと言われている上、その上で必要なのは“魔術師隊における実績”。集団で動く中でそれを得るには、“紛れもない特出した才能”が必要である。
 どれほどサクが幸運に塗れても、一年でどうにかなる次元ではない。

 頭脳も魔術も有し、そしてエリーに似ている以上、容姿端麗。
 それを“異常事態”と言わずして何と言おう。

 だが、

「……、」
 “そういう話”に喜ぶ“はず”の男の方が、むしろサクは気になった。
 正面に座ったアキラは取り立てて興味も持たない様子で、目の前のコップに視線を戻している。

 いや、むしろ、あの顔は。
 その魔道士の話“に”、表情に影を落としている。

「ま、とにかく今はいいでしょ? “神族の願い”なんて、さ」

 軽く机を叩き、いつもの様子を取り戻したエリーは、しかし“信じられないようなこと”を口にした。
 合意を求めるようにアキラに視線を送り、困ったように微笑む。
 彼女の位置からは、アキラの“奇妙な様子”がどう映っているのだろう。

 旅の前提を覆すうんぬん以前に、アキラの様子が“悪い方向に下降し続けていること”に気づいていないのだろうか。

「アキラ、お前はどうなんだ?」

 助け船を出すつもりで、サクは声を出した。
 それぞれの思惑がどう絡まっているのかは知らないが、舵を取る“勇者様”の意見は固めておく必要がある。

「“神族への願い”。それが不確かでも、お前は旅を続けられるか?」
「…………俺は、」

 サクは注意深く耳を傾けた。
 賑わう店内の僅かな無音の隙間に入り込み、アキラが本日初めて“自分の意見”を口にしようとしている。

「…………戻りたいのかもしれない」

 その、アキラの言葉。サクと、そしてエリーの表情が強張った。

「正直、神族が何できるか知らないけど……、それにすがりたいかもしれない……」

 再び、店内に音が戻った。
 浮かぶ思考をそのまま声に出したようなアキラの言葉は上手く拾えなかったが、アキラが確かに口にしたのだ。
 “この世界から逃れたい”、と。

「あ、あん―――」
「よしきたぁっ!!」

 エリーがかけようとした言葉は、他の者たちの話し声をものともしない轟音にかき消された。

「やっぱり、“ワッキョン突破大作戦”はやりましょう!! 幸い月輪属性にはエリにゃんが“あて”があるそうですしっ、やっぱり“神族”の方々に“特権”の確認しておかないと!!」

 店内どころか丁度店の窓際を通りかかった通行人までもの視線を集めていることにも気づかず、ティアは立ち上がって叫び始めた。

「それに、ここにいる四人で折り返し地点は突破してます!! あと三人、頑張っていこーっ!!」

 天井に突き上げたティアの拳を見ること数秒、ようやく我に返ったサクが顔をしかめる。

「……ちょっと待て。お前は、」
「何ですかい!? サッキュン!!―――うおぅっ!?」

 あまり人には聞かれたくない自らの愛称を叫ばれ、サクは普段より力を込めてティアを座り直させた。

「……ついてくる気なのか? “魔王討伐”に?」
「……え、…………えええっ!? あっし、お払い箱なんですか!?」

 座っている状態ですら叫ぶティア。
 だがサクはそれとは別に、またも違和感を覚えていた。
 何故自分は、“彼女がついてくることは当然”だと僅かにでも思ったのだろう。

 自分たちと彼女の繋がりは、確かに十分すぎるほどのイベント―――“魔族戦”。
 だが、何故かそこに、再び奇妙な“ノイズ”が入る。

 自分たちは何故、彼女を送り届けることを第一に考えなかったのか。

「……そう、そうだ。忘れていた。お前の家はどこだ? 昨日から帰っていないんだろう?」
「…………、」

 本来この街に踏み込んだ瞬間に口から出なければならない言葉。
 それを受けたティアはにこやかな表情を完全に硬直したのち、手を顔に当て、プルプルと震え始めた。

「…………ノッ、ノオォォォオオオオーーーッ!!!! 忘れてたっ!! てかやっばーーーいっ!! わたしゃぁ何やってんだぁぁぁあああーーーっ!!!? うおぉぉぉおおおおーーーっ!!!!」
「おっ、落ち着け!! とにかく家に行こう。エリーさんも、図書館はそのあとでいいな?」
「…………なにそれ?」

 気づけばエリーは、目の前で絶叫する騒音発生機に視線も送らず、乾いた目で毛先を弄っていた。
 あれほど図書館に行くと言っていたはずのエリーが、完全に興味を失っている。

「どっ、どどどっ、どうしましょう!? あっし、……そだ!! 指輪も見つけてねぇぇぇえええーーーっ!! なんというっ!!」
「っ、……?」
 サクがティアを抑えようとして立ち上がると、足にこつんと、テーブルの下に置いた荷物が当たった。

 そして“とある物品”が倒れて転がる。
 そういえば、これもそうだった。

「お、お客様―――って、ティアちゃんじゃない!! ほら、静かに、」

 相変わらず心ここに在らずのアキラ。
 どこか拗ねているようにも見えるエリー。
 そして、再び立ち上がって叫ぶティア。
 それをなだめようと駆け寄ってきたティアの知り合いらしい女性の店員まで加わり、サクは立ちくらみを起こした。

 本当に、問題だけがしんしんと降り積もっていく。

―――***―――

「いやいやいやっ、ほんっっっとうに申し訳ないっ!! 不肖このわたくし―――」
「―――っ、ああもうっ、この子ったらっ!!」
 ドアを開けた直後転がり込んで深々と頭を下げたティアを、妙齢の女性が抱きしめた。
 ティアに似て青みがかった髪を束ねた女性は、溢れんばかりの力を腕に込める。

「おおっ!? 絞まるっ! 絞まるっ!! いだっ、いだだだだっ!!」
 耳元で喚かれ、ようやくその女性はティアを離した。
 ただ、目には涙を浮かべている。

「……、って、あら?」
 その女性は、ようやく入ってきた面々に気づいたようだ。
 決してどこかに駆け出して行かぬようにティアの肩を強く抱き、未だうるんだ瞳を“来客”に向ける。

「おおっ、母上!! よくぞ気づきなすった!! こちらにおわすお方をどなたと心得る!!―――いだっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」
 ティア母らしいその女性の叫び声への返答は、肩に込めた力の増加だった。
 小柄なティアがその圧迫から逃れようと動いても、大した効果がないほど力強いらしい。

「あなたたちが、ティアを?」
「……ああ」
 ティアを送り届けたのは三人。
 その中で、唯一口を開くことができたサクがティアの母に言葉を返した。
 背後のアキラとエリーは口を紡ぎ、普段より間を取って立っている。

 サクは思う。
 これ以上の厄介事はご免だ、と。

「まあ、それはそれは。どうぞ、上がっていって下さい。こんな所ですけど、」

 ティアの母が視線を移したのは、その“店内”だった。
 ティアが蹴破らんばかりの勢いで開いたドアの看板通り、ここは武具屋のようだ。
 剣、槍、斧、そして身体を覆うプロテクターや鎧まで種別され、木造のラックに所狭しと並んでいる。
 サクが今まで興味本位で回った武具屋にも、ここまで種類を揃えた店はほとんどなかった。
 その上、ヘヴンズゲートに店を構えるだけはあり、上質な物が揃っている。
 使う武具は腰に下がった一刀だけだが、それでも目は輝いてしまう。

「へいへいへいっ、驚いたかい!? しっっっかーーーしっ、それだけじゃないんですぜぃ!! ―――へぅっ!?」
 微弱であったが抵抗の甲斐あり、母親の拘束から抜け出したティアはくるりと回り、店の奥正面の茶色い暖簾を勢いよく上げ、頭に拳を振り下ろされた。
 暖簾は再びだらんと下がる。
 ティアの母は気まずそうに視線を外すも、およそ礼儀を知らないティアを咎めるように睨む。
 母のわりには大人しそうな女性ではあったが、似ている部分はあるらしい。

「きっ、気を取り直してもう一度、どうぞーーーっ」
 ティアが開けた暖簾の先、先ほども僅かに見えた大きなかまどが姿を現した。
 木造の床から、一段下がって砂の地面。
 かまどの近くには金槌や桶まで置かれている。

「主人の仕事場です。奥の階段を上っていって下さいな」
「…………あ、ああ」
 店と家が一体になっているのだろう。
 奥には人一人通れるほどの階段が見え、ティアはすでにその場に足をかけている。
 だが先ほどの武具が並ぶ店内以上に、サクはこの場に惹かれた。

 この店は、武具を売るだけではなく造ってもいるようだ。

 もしかしたら、この店なら。
 サクは担いで運んでいる“とある物品”に視線を移す。

「すまないが―――」
「そだ!! お母さん!! 申し訳ねぇっ!!」

 彼女は瞬間移動でも使えるのか。
 階段付近にいたはずのティアが暖簾まで駆け寄り、サクの言葉を遮って勢いそのままに頭を下げた。

「わたくしめはっ、シーフゴブリンの野郎がキャッチアンドゴーしたお二人の結婚指輪をっ、不覚にも発見できずっ、―――へうっ!?」
 ティアへの返答は、再び頭への拳だった。
 ティアの母親は疲れたような表情を浮かべ、そのままため息を吐き出す。

「ううう……、ドメスティックなヴァイオレンスですよ……」
「今度から意思疎通できる文字を書きなさい。あなたの書置き、解読できなかったわ」
「なんと!?」
「そんな物、もういいから。お客様のお相手していて。今の話で思い出したわ。……ごめんなさいね。私これから、この子の捜索に行った主人を探さないと、」
「……あ、ああ。お気遣いなく」
「いえ、恩人ですから。いいティア? くれぐれも……、くれぐれも、よ」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーー―――へうっ!?」

 どうやらティアの父親は、ティアの探索に出ているらしい。
 最後にティアの母親は、ティアに拳を下ろし、軽く会釈して駆け出していった。

「ううっ、でもっ、あっしは負けない!! さあさあさあっ、もてなしますぜぃっ!!」

 涙目になりながらも、ティアは頭をさすって再び階段に足をかけた。
 だが随分と、温かな家庭のようだ。

 こちらの面々の、現状と違って。

「…………悪い、みんな。俺さ、ちょっと散歩してきていいか?」

 今の喧騒の中、何も発さなかった二人の内の一人、アキラがふいに声を出した。
 浮かべているのは中途半端な愛想笑い。
 その裏を、サクは読み取れなかった。

 ようやく分かったことがある。
 アキラは、昨日の問題―――サクが“経験者”として察せた問題とは、別のものを抱えているのだ。
 だから、彼にかけるべき言葉など、サクには見つからなかった。

「……行ってらっしゃいです。さ、エリにゃんサッキュン!! 行きましょうっ!!」

 アキラの放浪を止めるかと思っていたエリーは黙り続け、ティアは気持ちよく送り出す。

 各々の問題が肥大化していく、現状。
 サクはアキラが武具屋から姿を消すまで、その後ろ姿を眺めていた。

―――***―――

「うわ、すごい本ね」

 他人の家に上がり込んで黙り続けることに抵抗が出てきたエリーが、精一杯感情を込めたはずのその声は、驚くほど無機質なものだった。

 ティアに通された武具屋の二階。
 階段を上がってすぐの彼女の部屋に入れば、誰しもが口を揃えて『本が出迎えた』と詩的な表現をするであろう。
 部屋の奥には、一つきりずつのベッドと窓。そして、中央には丸いテーブル。
 しかし、そこに辿り着くまでに並ぶ本棚は、どの棚もびっしりと埋もれ、およそシンプルとは表現できない部屋模様を作り出していた。
 あるいはこれが古びた書物ならば書庫か何かと評価できるのであろうが、幸か不幸か総てが漫画。
 並び切れずに本棚の隙間や机の上にまで浸食して縦積みになっているその本たちは、カラーの背表紙で部屋の光度を保っているように見られた。

「……、」
 高密度の部屋の中、エリーは周囲の本が崩れぬようにそろりと歩き、本棚に近づく。
 視界に収めたのはリビリスアークにいた頃に購読していた漫画の新刊。
 それに出そうとした手は、思ったより動かなかった。

「おおっ!! エリにゃんこの本ご存知ですかっ!?」
 代わりに伸びた手は、その漫画を掴んでエリーの眼前に差し出してきた。
 一つ前の巻で初登場を飾ったキャラクターが躍った表紙を見て、エリーはため息を吐き出す。
 そういえば自分たちは、日常とは別れを告げ、まさしく本の中のような物語をしているのだった。

「これは……、すごい量だな」
「おおっ、サッキュンはどの本読みます?」
「い、いや、私は、」

 ティアなりのもてなしとは漫画を読ませることなのだろうか。
 漫画のその量に気圧され、ドアに棒立ち状態のサクにティアは物色した本数冊を持って寄っていく。
 何となくテーブルに座ったエリーは、横目でその本の背表紙を確認し、顔をしかめる。
 エリーも見たことがある作品だ。

 あの本は、その、かなり、

「あっしのお勧めは―――これだっ!!」
「……………………」

 “そういう方面”にうとそうなサクは、眼前に開かれた漫画を注視し、完全に硬直した。
 凛々しい顔立ちの中、瞳を痙攣させたように泳がせ、無言でティアに背を向ける。

「おやっ!? サッキュンはあんまりこういう本読まないんですかっ!?」
「…………武器、武器を見よう……」

 よくもまあ“そういう本”を人に勧められるものだ。
 夢遊病者のように階段を下りていくサクの力ない足音を聞きながら、エリーは額に手を当てた。

「…………そしてまた一人、いなくなってしまった……」
 分かりやすいほど落ち込んだティアは、テーブルを挟んでエリーの体面に座り込む。
 そのティアを見て、エリーは思った。
 彼女は、無垢だ。

 悩み事なんて、自分のように溜まり続けないのだろう。

「……エリにゃん、漫画、読みませんか?」
「…………ううん、いいや」

 その彼女の表情を見ているのが僅かに辛くなり、エリーは窓に視線を移した。
 明るい色のレースのカーテンが、開け放たれた窓でそよそよと泳ぐ。
 今頃、あいつはこの空の下、迷子にでもなっているだろうか。

「こんないいお天気じゃ、アッキーも散歩したくなりますよ」

 ティアには読心術でもあるのだろうか。
 エリーがふっと頭に浮かべたその話題を、ティアは即座に口にした。

「あいつはあいつで、何かやってんでしょ」

 今度の声は、感情を込められた。
 エリーは両足を抱え、口を尖らせる。

 この気持ちに名前をつけるとしたら、何になるだろう。
 今はただ、『面白くない』としか命名できていない。

 アキラはあの飲食店で確かに言った。
 『元の世界に戻りたい』、と。
 つまりは、結局、自分の予想は外れていたわけだ。

 元の世界のこの世界。それらをかけた天秤が“こちら側”に傾いた、という予想は。
 だが、あの男の関心は、やはり当初通り“魔王討伐の報酬”。

 二度も起こった“魔族戦”も、着実に増している彼自身の力も、そして、自分たちも。
 彼の元の世界への愛着を凌駕していないのではないということになる。

 それなのに、自分は妙な勘違いをしていたのだ。
 思わず、“神族への願い”などどうでもいいなどと口を滑らせてしまった。
 そして、その羞恥心より、このもやもやとした感情の方が大きいことも気に障る。

 “楽しくなったら困る理由”。
 それは再び、闇の中だ。

 やはり、『面白くない』、だ。

「エリにゃん、なんか、拗ねてません?」
「別に。あたしはいつも通り」
「……、」

 あの男のことでイライラするのも、正に“いつも通り”だ。
 それなのに、当の本人は気づきもせずに勝手に動き回っているのも、“いつも通り”。
 何も変わっていない。

「さ、漫画でも読みましょう」
 半ばやけになって適当に掴んだのは先ほどの新刊。
 アキラのことなど、知ったことではない。

「……そう、ですね」
「……?」

 一瞬、エリーはティアの表情に影が見えた気がした。
 しかし即座にいつものにこやかな表情に戻り、目を輝かして漫画を物色し始める。

 何故だろう。
 エリーの中で、ティアの表情が、昨日洞窟内で見たサクの表情と重なった。
 あの、アキラの悩み事を察していたサクの表情と。

 もしかしたら。
 ティアは、アキラの悩み事を、本能的に感じ取っているのではないだろうか。

 恐らくは―――“経験者”として。

―――***―――

「……、ここには“それ”以上のものは置いていないぞ?」
「…………私用、というわけではない」
 武具屋のドアが開いた途端、自らの愛刀に視線を受けたサクは、別段驚きもせずに言葉を返した。
 鍛冶屋のような店を回ると、良識ある店主からよくそんな声をかけられる。

「ここの主人か?」
「ああ。今日は店じまいだったんだが……、誰もいなかったか?」

 三、四十代であろう。
 鍛冶屋への偏見の、まさしくその通りといった風情のその男は、立派な体躯を揺らし、大股でサクに近づいてきた。
 汚れた白のタンクトップから隆々とした筋肉を浮き立たせ、ぼさぼさの黒髪と無精ひげ。
 だがその雰囲気は本当に、まさしく職人、だ。

 ここの主人を名乗った以上、彼は、ティアの父親だろう。

「失礼をした。娘さんを連れてきた。あなたを探しに母親は出て行ったが……、会わなかったのか?」
「そうか。あんたらが……。助かった。だがあいつとは、入れ違いになったらしい」
 ティアの父は樹木のように太い腕で手を差し出してきた。

「グラウス=クーデフォンだ。ここの武具屋をやっている」
「サク、だ。ファミリーネームは、ない」
 手を取ったサクは、僅かに表情を変えた。
 随分と、強い握力だ。

「……ああ、悪い。こんな仕事をやってるからか、力加減が分からなくてな」
「問題ない。一応私たちは“そういう旅”をしているからな」
「だろうな。“魔術師隊”にも、あんたみたいのはいなかった」
「……?」

 グラウスと名乗ったその男の言葉のニュアンスに、サクは僅かに表情を変えた。

「俺は元魔術師隊だ。と言っても廃れた部隊だったがな」

 それで、か。
 サクはその言葉にある種の納得感を覚えていた。
 グラウスの威圧感は、“現場を知っている職人”としての重みがある。

「あいつは?」
「上にいる。私の仲間と共にな」

 グラウスは僅かに目を瞑り、言葉は返さず頷いた。
 一言聞けば二言三言で返ってくるティア。その父とは思えないほど、落ち着いた風情だ。

「……!」
 そこで、サクは気づいた。
 この男に、ミドルネームはない。

 だが、ティアは、それを持っているのだ。
 ミドルネームをつけるのは、母親の方の風習だろうか。
 いずれにせよ、僅かな疑問としてサクの中に蓄積する。

「……面白そうなものを、もう一つ持っているな」
「……!」
 サクの思考を、グラウスの低い声が遮った。
 グラウスの視線は腰の愛刀から背中の“とある物品”に向き、鋭くなっている。

「……そうだ。ここは鍛冶屋でもあるのだろう? 一応見てもらいたいものがある」

 サクは背中から荷物を下ろし、愛用のナップザックに括りつけてあったものを外す。

 簡易的に包んだ白い布を外せば、姿を現したのは剣―――“であったもの”。
 刃渡りは、七十センチから八十センチほどだろう。
 両刃の剣の根元には、左右対称に広がる鍔。
 剣と聞いて容易に想像できる姿のその“物体”は、所々赤茶けて錆び付き、白い布をすでに汚していた。

 これは、“とある宝物庫”から唯一持ち帰ったものだ。
 金銀財宝の中に在って、輝きを放っていなかった奇妙な物体。
 アキラが固執しているように見えたため運び出してきたのだが、実のところ、サクの方がこの剣に対する関心は高かった。

 自らの武器は腰に下がる長刀だけと決めているが、もしかしたら、使えるときが来るかもしれない。
 あの、剣を武器に戦う“生徒”が。

「随分な年季物だな……。見せてもらっていいか?」
「ああ」
 グラウスはその大きな腕で、錆び付いた柄を物ともせずに握り締めた。
 その眼は、どこかギラギラと輝いて見える。
 持ち上げて灯りにかざしたところで、ようやく視線をサクに戻した。

「……これを、どこで?」
「この辺りの“とある洞窟”だ。昨日見つけた」
「…………、」
 グラウスは思考を巡らすような顔をして、再び“物体”に視線を戻した。

「こんな話を知っているか? 遥か昔、この辺りで大きな行商が襲われたことがあるらしい」
「……初耳だ」

 シーフゴブリンの仕業だろうが、サクは素直に首を振る。
 だが、頭の中で、グラウスの話とその物体との繋がりが生まれてきた。

「その中で、無くなった武器があったらしい。大分貴重な剣だったそうだ」
「……!」
 グラウスはそこまで言って、剣をサクに渡した。
 そして僅かに首を振る。

「まあ、これがその剣かどうかは分からんがな」

 だが、グラウスの言葉を聞いても、サクは何故か確信していた。
 あのアキラがこの剣に手を伸ばしたのだ。
 彼にはそういう“妙なもの”を引き寄せる力がある。
 ある種オカルトじみている思考だが、異世界来訪しかり、魔族しかり、彼は“そう”なのだ。

「だが、残念だが俺には直せない。見たところ材質だって…………、お前には分かるか」
「?」
「……? お前、金曜属性だろう?」
「……!」

 最初にサクを見たときか、はたまた先ほどの握手のときか。
 グラウスはサクの属性を察していたらしい。
 廃れた魔術師隊にいた、などと言ってはいたが、魔術の“色”を見る前に属性を言い当てられるほどには、グラウスは上級者なのだろう。

「……私には分からない。何か他と違う、という程度しかな」
 サクは素直に首を振った。
 よく武具を見て回っているが、見て触れただけでは材質そのものの区別はほとんどできない。

「そうか。珍しいと言うべきだろうな」

 グラウスの言葉通り、金曜属性としては珍しい。

「まあ、この武具を鍛えたいなら……、タンガタンザだ」
「……!」
 その言葉に、サクの身体がピクリと動く。
 その場所―――その、西の大陸タンガタンザは、自分の、

「……“訳あり”、か。…………次はそっちだ。見せてもらっていいか?」

 この男には、総てが見透かされているのだろうか。
 サクの僅かな表情の変化を機敏に察し、今度は腰の愛刀に視線を向けてきた。
 僅かな緊張に、腕が震えないよう注意しながら、サクは刀を鞘ごと差し出す。
 あまり人には触らせたくないものなのだが、この男は、それだけのものを持っている。

「……、」
 “物品”を布に包むと、グラウスは長刀を抜き放った。
 そして同じように、灯りにかざす。

 全貌を現したその刀。
 それは、刃渡りだけで先ほどの“物品”を超えるほどにも見える長刀。
 毎日手入れを欠かさない、サクの旅の成果そのものだ。

「…………古い傷が多いな。随分と無精をしていた頃があっただろう?」

 武器を見れば、彼はそれが分かるのだろう。
 サクは僅かに視線を刀から外し、頷いた。

「実力も魔力も足りない頃があってな」
「……そうだな……。そのようだ。問題ないと言えばないが……、俺が鍛え直してやろうか?」
「……! できるのか?」
「ここは鍛冶屋だ。さっきの剣は無理だが、補修くらいならできる」
「……頼めるか」
「なに。娘を助けてもらった礼もある」

 グラウスはそう言って、刀を鞘に収め奥の暖簾に向かっていく。
 その光景を、サクはその他一切をしばし忘れ、おぼろげに眺めていた。

 頭の中で、過去と今を繋げながら。

―――***―――

 呆然と歩いたわけでもなく。
 人ごみを避けて通った結果でもなく。
 ただ、“意図してそこに向かった結果として”。

 ヒダマリ=アキラは、この街で最も壮観で、“最も悪しき空間”に立っていた。

 雲を突き破らんばかりの巨大な岩山。まさしく天井知らずとでも言ったような、“不自然すぎる自然物”。
 右を見ても左を見ても終わりが見えない岩壁の麓は、“聖地”として街の雑踏から一線引くように白い石で整備されている。
 背後には雑音、正面には無音。同じ空間に在るはずなのに、隔絶した差のある両世界の境。そこに、アキラは立っていた。

―――世界でもっとも醜い存在たちと共に。

 相も変わらず“頼る”群衆。この場を離れてしばし立つというのに、もう昼もとうに過ぎているというのに、その存在たちは減ることも増えることもなく、まるで場所が最初から定められているゲームのキャラクターのように“神界”へ続く門を見上げ続けている。
 先ほど言葉を交わした門番たちにどのように見られようとも、彼らはただ、見上げるほど高い階段を視線で飛び越し、悲痛な色の瞳を“神”へ向けていた。

「……、」
 アキラは思う。
 この群衆たちを、醜いと形容してはいけないのではないか、と。
 彼らは“自分が自分でいられるもの”を、傍若無人なまでの力で壊されたのだ。

 群衆の中。

 腕にギブスを嵌めた男性は言っている―――料理人への夢を奪われた、と。
 皺を刻み込んだかのような顔の老人は言っている―――先祖代々受け継がれてきた大切な山を焦土にされた、と。
 乱れっぱなしの長い髪を気にも留めずなおも振るわす若い女性は言っている―――生まれたばかりの我が子を目の前でかき消された、と。

 何も彼らが悪いわけではない。
 ただ、背後で賑わう街の者たちと違い、“運”がなかっただけ。
 だがその不運は呪縛となり、人の“支え”を奪っていったのだろう。

 他に支えがあれば―――あるいは、“支えが完全に無かったら”、彼らもこうはならなかったかもしれない。
 自ら命を絶った者もいたかもしれないし、過去と決別して新たな道を見つけ出すことができた者もいたかもしれない。

 だが、彼らには生まれたときから、根底に“支え”があったのだ。

 “しきたり”。

 あまりに不確かで、しかし強力な力を誇る“神への崇拝”。
 宗教というものに疎い日本という国から来たアキラにとって、それがどれほど“心酔するに足る考え方”なのか分からない。
 だが、アキラは知っている。
 この世界には、文字通り“不可能を可能にする力”があるのだ。

 それを頼ってしまうことに、何の罪があるだろう。

「……、」

 真似をしたわけでもなく、さりとて疲れたわけでもなく、アキラはその場に腰を下ろした。
 頼る群衆から離れて僅か二十メートル。アキラの方には、群衆からの視線も向かない。

 彼らの視線に込める願いはただ一つ―――“報復”だ。
 自分の支えを奪った存在。
 すなわち、魔王への憎悪。

 それを受けて立つ者は、“神族”ではなく、真横に座った“人間”であるというのに、彼らはアキラに気づかない。

「…………駄目だな」
 ふいに、アキラは呟いた。
 風が吹き、砂埃が無機質な匂いをぶつけてくる。
 それでもアキラは目さえ瞬かせず、呆然と群衆を眺めていた。

 ここに在るヒダマリ=アキラは、“異世界に来訪したヒダマリ=アキラ”ではない。
 “二週目”という世界から、“想いだけを受け継いで現れたヒダマリ=アキラ”だ。

 与えられた使命は、二つ。
 大切な人を救うことと、世界の平和を約束すること。

 その内の、後者。
 それは、アキラの義務だ。

 “二週目”。
 アキラは結果として、魔王を討った。
 ここにいる群衆が、僅かにでも生気を取り戻し、そして“数が増加しない”ような奇跡を起こしたのだ。
 だが、手のひらに在ったその奇跡を、“人間”たるアキラは利己的にも放り投げてしまった。

 “総ての時を巻き戻す”という、“不可能を可能にして”。

 だから、“落とし前”。
 利己的な旅でも、そこだけは守らなくてはならない。
 だが、その利己的な旅に払った対価は、魔王討伐という“刻”を持って捧げられる。

 捧げられた対価。
 それは、ほとんどの心理学でも、生物の根源にあると謳う―――“生命”。

 魔王を討ったその“刻”を持って、アキラの“それ”は捧げられてしまう。

 つまりアキラが魔王討伐を目指す“勇者様”で在るということは、その先に待つ“ハッピーエンド”を迎えられないということになる。

「…………やっぱ、駄目だな」
 アキラはもう一度呟く。

 アキラはこの場所に、“期待していた”。
 この群衆の絵が、自分の背中を強制的に押してくれるのではないか、と。
 “勇者様”を求めるリアルを見れば、自分の恐怖を和らげられるのではないか、と。

 自分勝手だと、我ながらアキラは思う。
 少し前まで、足の踏み出し方が分からなかった。
 “三週目”に落とされて、自分の歩む道を見失い続けていたのは記憶に新しい。

 実際今もそうだ。
 だが、きっともう、自分の足くらい自分で動かせる。
 “魔族”を退けたのだ。他でもない、自分たちが。
 それはまるでおとぎ話のように、総てが正に働き、世界がキラキラと輝いて見えた。

 だが、その輝いた世界の先。アキラは陰りを見つけた。その陰りはアキラに囁く。

 『その輝きは、ここで終わりだ』、と。

 閉園時間が決められた遊楽施設のような、閉演時間が決められた映画のような、終焉の見えるその世界。
 そしてその“刻”を定めたのは、他でもない。激昂だけに身を任せ、月下に吠えたアキラ自身なのだ。

 それなのに、その世界は。
 総ての歯車がかみ合ったその世界は。

 “もう何も求めない”と誓って入ったその世界は。

 本当に、キラキラと輝いているのだ。

「やっべぇ…………マジ、で……、」

 何故こうも、“決めたこと”に固執してしまうのか。
 アキラは額を手のひらで押さえ、頭を抱えた。
 プルプルと震える唇が紡いだのは、この、“楽しい世界”で紡いだのは、

「死にたくねぇ……」

 総ては悪寒。
 進む先は、誰しもが歩んでいく闇。
 だが“そこ”に入った者は、“不可能を可能にでもしない限り”、引き返すことはできないのだ。

 ヒダマリ=アキラは決して聖人ではない。
 確固たる自分を持って意思を貫けるほどの強者でもなければ、危険に身を敢えて差し出し人々の羨望を受ける得る英雄でもない。

 元の世界にいたのならば、少し変わった人と思われながらも、大学を卒業し、普通に就職をし、社会の歯車の一つとなって回っていくような、本当に、ただの人間だ。
 脚本家、演出家、小説家。誰から見ても、話のタネにもならない人生を送るはずだった、ただの人間だ。

 そんな人生を、つまらないとアキラ自身も思っていた。
 だがそれを打開するだけの意思も能力もなく、結果として流れに身を任せていた。

 しかし、今この誰もが嬉々として目を向けるような異世界に来て、アキラは思う。
 口からポロリと出てしまうほど、“続く世界”に憧れていた、と。

「“特権”って、俺を救うことはできるのかよ……?」
 アキラは眼前の岩山をぼんやりと見上げながら、そして沈黙した。

―――***―――

「かっ、火事どぅわぁぁぁあああーーーっ!!」

 まさしく天災。とでも言うべき“騒音”に、サクは鋭い視線を階段に向け、即座に視線を元に戻した。
 立ったままだというのに、僅かばかりまどろんでいただろうか。
 階段をドタバタと駆け降りるその足音に、サクの意識は再び熱気こもるかまどに向いた。

「へうっ!? おっ、お父さん!? おかえ……、いや、ただい……? ……おかいまっ!!」
「……、」

 結局階段から転びながら登場したティアに、その父―――グラウスが返したのは集中力を僅かにでも分散していないような無言。
 グラウスは今サクの長刀を眺め、魔力を流してしている。
 かまどに火を入れ温めている間の、補修個所の“確認作業”だ。

「あれ? あ、えっと、お邪魔してます」
「……、ああ。聞いたよ。助かった」

 ティアの後ろから赤毛を揺らして現れたエリーが、倒れ込んだまま騒ぐ少女を助け起こしながらグラウスに視線を向けた。
 グラウスはようやく二人の存在に気づいたかのように静かに言葉を返す。
 そういえば、グラウスが返ってきたことをエリーにも“娘”に伝えていなかった。

「そだそだ!! お父さん聞いて下さい!! あっし、旅に出ます!!」
「……、」
 “仕事場”に響くティアの大声に、グラウスの流れるような作業が僅かに止まった。
 だがそれも気のせいか。
 グラウスは即座に作業に取り掛かる。
 拳を天井にかざしたティアを視線に収めることもせず、その動きに何の淀みもない。

「あれ? 聞こえてないんですか!? 実はあっし、ここにいる方々と、」
 ティアは上げていた手を下ろし、グラウスに一歩近づく。
 だが、工具が散乱している地帯には足を踏み入れずその場で止まる。
 そこがまるで“聖地”であるかのように、グラウスが教え込んだのであろうか。

「ティア」
「はいさっ」
「仕事中だ」

 その言葉に、ティアの動きは、うっ、と止まった。
 単純に怒られることを懸念しての硬直は、年相応にも満たない子供のような印象を受ける。

「……えっと、サクさん、刀直してもらっているの?」
 グラウスの雰囲気に声も小さく、エリーがサクに歩み寄ってきた。
 サクは頷き、視線をグラウスに戻す。
 そういえばグラウスにも、ティアが自分たちについてくると言い出していることを言っていなかったのを思い出した。

「ねえ、そういえばあいつ。まだ戻ってきてないの?」
「…………ああ」
 無言を嫌ってか。エリーが次に口に出したのはアキラのことだった。
 エリーの様子が、元に戻っているように見える。
 どうやら先ほどまでの彼女の妙な様子は、重大な問題を抱えていたわけではなく、ただ単純に、時間がたてば解決するような“拗ね”に分類されるものだと、サクはようやく分かった。

「……そうだ。アキラの武器を見つけておいたぞ」
 エリーの機嫌が直っているのなら好都合だ。
 この旅の財政を握っているのは、この赤毛の少女。
 今の内に、昨日破壊されたアキラの代えの武器。その購入意思を固めておいてもらいたい。

「……もう一人、いるのか」
「……! ああ」
 サクの刀に集中していたかに思えたが、どうやら今の会話を拾っていたらしい。
 視線だけは外さず背を向けたまま、グラウスは言葉だけを送ってきた。

「もし何か欲しいのなら、持っていって構わない。あんたらには借りがある」
「おおっ、お父さん太っ腹!!」

 グラウスが会話していることを好機と取ったのか、ティアは再び閉ざされていた口を開いた。
 しかし、どうやらそれは好機ではなかったらしく、グラウスは背中越しにギロリと視線をティアに投げかける。

「……悪いがあんた」
「あっ、あたし?」
 ティアに視線を送ったまま話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
 エリーは跳び上がらんばかりに身体を震わす。

「もう一人仲間がいるなら、剣を運んでいって“構わない”。“なんなら”、ティアを連れていってくれ。“中々役に立つ”」
「……はい」
「おおっ、」

 恐らくティアを除く全員が、グラウスの意図を理解していたであろう。
 アキラは結局ここに戻ってくるはずなのだから、剣を運ぶ意味はない。

 つまりは、ティアの厄介払いだった。

「えっと、サクさん、どれ?」
「あ、ああ、こっちだ」

 刀から離れることにも抵抗はあったが、何よりエリーが空気を読んでこの場からティアを連れ出してくれようとしているのだ。
 サクは暖簾をくぐり武具屋の店内に向かうと、先ほど見定めていた内の剣をラックから取り出す。
 くすんだ金の鍔に、銀の刀身。
 両刃のそれは、先ほどの“廃れた物品”とほぼ同型であった。
 そういえば、“あの物品”の話もしていない。
 だがこれは、今は口に出す気にはなれなかった。

「じゃ、じゃあ、あたし、あいつ見つけ出して届けてくるわ。ほら、ティア、道案内とかお願い」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、」

 バタン。

 ティアが引きずり出されていった外から、無機質な店内まで叫び声が届いてくる。
 とりあえず厄介払いは完了し、サクは即座に“仕事場”へ戻った。
 再び入ったその場所は、やはり店内と比して室温が高い。
 むっとした空気に気圧されず、サクは静かに元の位置へと歩んだ。

 再び見る、広い背中。
 先ほどの騒音すら忘れ去られているようなグラウスは、

「ティアを連れていくのか?」

 妙に静かな声を送ってきた。

「さっきティアが言っていただろう。お前らと旅に出るって」

 会話の中、グラウスはサクの刀になおも魔力を流し続ける。
 顔も見えないグラウスの作業は淀みない。
 それだけに、サクはグラウスを計りかね、目を細める。
 だがグラウスは、先ほどのティアの叫び声を聞いてはいたようだ。

 彼女は“神門”からの帰り道、自分たちについてくると言い出している。

 その件につき、サクは答えを返していない。
 決定権を持つべきなのは、パーティの“勇者様”であるアキラ。
 そして、ティア本人だ。

 だが、グラウスは、今、答えを求めている。

「……もしそうだとしたら、いいのか?」
「あいつもそろそろ手に職をつけなきゃならない頃だ。そこから先は、俺が決めることじゃない」

 サクの言葉に、グラウスは一般的な意見を返してきた。

 アルティア=ウィン=クーデフォン。
 彼女の年齢は、サクより一つ下だ。
 一般的な人生からおよそ外れている自分と比すのもどうかと思うが、その頃サクはとっくに旅をしていた。
 魔術師として自立し、依頼を受けて各地を回る毎日。
 いわゆる、“旅の魔術師”という職に分類される。
 魔術の才があり、“魔術師試験を受けない者”の多くが、通例として選ぶ職。

 魔物討伐を生業とする以上、当然、最も危険な職でもある。

「だがな、あいつに務まるのはそれくらいだ。魔術師試験を受けるつもりもなく、鍛冶の腕もからっきし。誰かが困っていたら、助けられもしないのに飛び込んでいくような奴だ。……“人助け”がしたいんだと」

 きっとそれが、“アルティア=ウィン=クーデフォン”という人物なのだろう。
 “父”が認識しているのだからそうなのであろうし、現にサクもそれに納得できる。
 年相応―――とでも言うべきか、彼女は、非常に“直線的”な性格の持ち主だ。

 恐らくそれは、“美点”なのだろう。

 だが、彼女の捉えているらしい目標―――“人助け”。それは、あまりに具体性に欠ける。
 具体的な目標がないことの欠点とは、確かな一歩を踏み出すことも、自分で自分を評価することもできないということだ。

 それは、自分の道を決めなければならない段階に置いて、大きな弊害となる。

「このままだったら、あいつはいつか“やらかす”」
 そんな娘を持った“親”は、かまどの熱量を確認しながら呟いた。

 グラウスが気にしていることは一体何だろう。

 娘の“安全”だろうか。それとも娘の“将来”だろうか。
 どちらも親として気にすべきものであり、しかしそれはときに排他的になる。

「俺も自由に育て過ぎた。“預かり物”だからって、な」
「……、」
 その言葉に、サクは別段驚きもしなかった。
 僅かに推測できていたことでもあり、それはいつしかサクの中で何故か“確信”として根付いていたのだから。
 グラウスもサクのリアクションを期待していなかったのか、言葉を続けた。

「……旅に出るなら、あんたみたいな人といた方がいい」
「……そうか」
 サクは小さく返した。
 どうやら、“親”の許可は貰えたようだ。

「気をつけてくれ。ティアは見えるもんだけに突き進んでいく。それが誰かにとって必要なことなら、自分のことも忘れてな。本当に、ガキだ。…………あれは自由に育った結果だ」
 ようやくかまどの熱が適温に達し、グラウスは作業を開始する。

「あいつは本当に、義兄に似てるよ」

 最後にグラウスがそう呟いたところで、店のドアが勢いよく開いた。

―――***―――

「はっ、はっ、はっ、」

 建物の形のみが共通点の町並み。
 中心の“不自然すぎる自然物”から伸びるうちの一つの大通り。

 人々の活気賑わう場所“だった”メインストリートを、ヒダマリ=アキラはひた走っていた。
 懺悔のような時間を過ごした“神門”からの帰り道。
 あれほど街路を埋め尽くしていた人気が引いたと思えば、代わりに現れたのは―――

「―――!?」

―――異形の群れ。

 アキラは上空から飛来した“爪”を寸でのところで避け、裏道に転がり込む。
 即座に身体を起こして見上げた先には、アキラの背丈ほどの鳥が再び上空に戻っていた。

 広げれば、その身体の半分以上を占める翼。
 黒い羽毛に包まれたそれは、巨大なカラスのような生物だった。
 しかし、本来嘴があるべきその場所には、野獣のような鋭い牙がついている。
 そしてその蹄は―――嘴の代わりに獲物を捉える役割を果たすのか、危険に光る鉤爪だった。

 レイトノフというらしいこの生物を、アキラはヘヴンズゲートまでの道中に、森の中で見たことがある。
 高いに木に止まっていたそれは見た目の獰猛さとは裏腹に、こちらが手を出さなければ襲って来ないとエリーに教え込まれた魔物だ。
 だが今は、明らかな敵意をむき出しに、今もアキラの隙を狙って上空を旋回している。
 狭くなった天井からちらちらと見えるその姿は、やはり獰猛にしか見えなかった。

 一体、何故、

「……、っ、」

 浮かんだ疑問を、アキラは即座に打ち消した。
 自分は知っていたはずだ。

 今日―――いや、この“刻”、“この街は襲われる”、と。

「グル……、グ……、グ……、」
「……!!」

 狭い裏道に逃げ込みレイトノフから身を隠していたアキラは、背後からの唸り声に即座に身を引いた。
 見れば、今度は赤い体毛の野犬のような魔物が数体路地に入り込んできている。

 いや、この路地だけではない。
 表通りにも“異形”が闊歩し、きらびやかに並んでいた店頭の商品が散乱している。
 ヘヴンズゲートの雑踏は悲鳴と魔物の唸り声になり代わり、人々は我先にと障害物を期待して建物の中に駆け込んでいく。

 “二週目”。
 アキラは確かに、この光景を見た。
 逃げ惑う人々を機敏に追っていく猿のような魔物のランドエイプ。
 その剛腕を持って力任せに備品を破壊するゴリラのようなクンガコング。
 そして今、集団でアキラを狙う野犬のような紅い魔物―――レッドファング。

 破壊、破壊、破壊。

 森の魔物襲撃は、確かにあったことなのだ。

「っ、」

 アキラはガンと壁を叩き、レッドファングから逃れるべく駆け出した。
 振り返らずとも分かる赤い野犬の追跡。唾液を滴らせたその牙に捉えられぬよう、アキラは大通りをひた走る。

 どれだけ人々が襲われていようと、今のアキラは無装備。
 助けるどころか、走り回ることしかできない。

「ギィッ!!」
「―――!? いっ、てっ、」

 駆けるアキラに、再び空からの襲来。
 地面に飛び込むように転がった中、またもレイトノフが飛翔していくのが見えた。
 黒の身体に纏っているのは濁った緑の魔力色。
 それは、身体能力を高めている証でもある。

 アキラは勢いそのままに立ち上がり、再び駆けた。
 同じく高めた身体能力。
 しかし、昨日“魔族戦”で手に入れたこの“魔力ではなく魔術による身体能力強化”は、慣れていない分身体に大きな負荷がかかる。
 先ほど強く打った肩はズキリと響き、全力疾走を続ける脚は重くなっていった。

「はっ、はっ、はっ、」

 また、どこかから人の悲鳴が響く。
 また、どこかから何かが壊された音が響く。

 魔物襲来のオブジェクトとしてあまりに定番なその音を聞きながら、アキラの目はうつろいだ。

 一体自分は何をやっているのだろう。
 こんな大事のイベントも忘れ、丸腰のまま街をうろつくなどと。

 ここには、“二週目”、
上空を飛び交い、その場に自分以外の存在を許さなかった“天才”も、
 地上で総てを薙ぎ払い、周囲に完全領域を創り出していた“超人”もいない。
 この街を救えるのは、自分だけだったというのに。

「ギィッ!!」
「ぐっ!?」

 三度、空からの襲来。
 転がり避けたアキラに飛びかかる魔物たち。

 レイトノフもレッドファングも執拗にアキラを追い続ける。
 対してアキラは、反撃もできない。

「はっ、はっ、はっ、」

―――ヒダマリ=アキラは、“勇者様”ではなかったのか。

 疾走の中、酸欠で痛み出した頭にそんな言葉が浮かんだ。

―――ヒダマリ=アキラは、今の自分のような人々を救う役割がある人物ではなかったのか。

 そんな言葉が何度も浮かぶ。

 定番ものの主人公なら、きっとここで我に返り、自己の使命に立ち向かえるだろう。
 アキラは今まで目にした数々の物語を思い起こす。
 身体能力を強化しているのなら、あのクンガコングの大群に囲まれた美女のように無装備など意に介さず殴りかかることもできるだろう。
 だが、我が身一つで戦う度胸すら、アキラにはなかった。

 だから、ひたすらに駆ける。
 僅かにでもこの足を緩めれば、牙や爪にこの身は引き裂かれてしまう。
 自分の身体が“壊される”光景など、今のアキラには容易に想像できた。
 そして、飛び散る血肉。

 その先に待つのは、考えるまでもない。

「……、」

 また、どこかで何かが消える。
 また、どこかで何かが終わる。

 今日ずっと、自分が恐れ続けていたものが、この街のどこかに訪れている。
 そして今、自分の背後からも、“それ”は追ってきているのだ。

 襲撃に巻き上げられた土煙と、焦げ付いた匂いが入り混じり鼻孔をくすぐる。

―――今すぐこの街から離れれば、それも届かないのだろうか。

「……!」

 追跡してくる魔物たちを錯乱させるように駆けた大通り。
 その先に、曲がり角が見えた。

 そこに入れば、“武器屋”があることをアキラは知っている。
 しかし、正面にずっと進めばヘヴンズゲートの出口があることも、アキラは知っていた。

「―――、」

 もし仮に、自分がここで正面へ駆け抜けたら、どうなるだろう。

 何を持って『自分が終わる“刻”』を刻むのか、正確には分からない。
 だがこのまま旅を続けたら、間違いなくそれは刻まれる。

 あこがれ続けたご都合主義のこの世界。
 その脇役として存在したら、自分は、もしかしたら、

「―――、」

 息は荒く、鼓動が高まる。
 全力疾走を続けた足は、休息を訴えかけてくる。

―――今“ヒダマリ=アキラ”を見ている人間はいない。

 今度はそんな声が、アキラに語りかけてきた。

 今逃げれば、“誰にも後ろ指を差されない”。
 アキラのことなど逃げ惑う民間人のように見なし、気にもされないだろう。

 それは、まるでかつての“魔族”―――サーシャ=クロライン戦のように、甘美な囁き声だった。

「―――、」

 間もなく、“分岐点”に到着する。

 響く悲鳴に破裂音。
 いつしか口に含んでいた土の不快感は増していく。
 そして、自分がいつか終わることも、この街が救いを求めていることも、何一つ変わらない。
 舞い上がった土煙に、どこかで何かが焦げている匂い。
 泥臭いと言えば泥臭い。
 そんな、汚い世界。

 今総てを放り投げれば、もしかしたらキラキラと輝く世界に戻れるかもしれない。

「―――、」

 こんな自問自答、アキラは自分には関係ないものだと思っていた。
 正直なところ、アキラは今まで読んだ数々の物語の中で、この手のシーンが一番嫌いだ。

 “主人公”が何かの壁にぶつかり、だが結局は前へ進む。
 そこで逃げたら物語として成立しないのだから、どうせ進むはずなのだ。
 だったら人の黒い思考など覗かせず、もっと明るいハプニングのシーンを増やして欲しいと思う。
 まるで白い用紙に黒いインクを落とすような真似はしないで欲しい。

 当然、その黒い点のアクセントよって、他の部分の輝きが増すのは分かる。
 だがそれを理解した上でなお、アキラは物語がキラキラと輝いてさえいればいいのだと思っているのだ。
 だから、悩みなど見せず、ただ輝いていて欲しい。

 深追いしなければ世界が陰ることなど、ほとんどないのだから。

 だが、今の自分はまさしくそのシーンにいた。
 数多の主人公が使命感を振りかざし、結局は前へ進むイベントのシーン。

 今まで知った物語の内、半分はすでに魔物たちと戦い勝利を収めているだろう。
 残ったその半分の内、半分はすでに魔物たちと向かい合っているだろう。
 そしてさらに残ったその半分の内、半分は魔物たちと戦う策を練っているだろう。
 さらにその半分、その半分、その半分。

 最後に残ったアキラは未だ魔物たちから逃げ、分岐している道から目を離していない。

 自分の決断は、あまりに遅すぎる。
 きっと、根底には“その場しのぎ”のことしか考えていないからだろう。

 アキラは確固とした“自分”を持っていない。
 だから、逃げ出して失う自分も持っていないのだ。

 そんな人間が、“死”という絶対的な壁の前に来てやることなど決まっているのかもしれない。

「……、」

 身体が曲がり角に差し掛かった頃、アキラは僅かに速度を落とした。
 魔物に追われているものが絶対にしないはずの速度。
 そして、曲がるつもりなら絶対にいないはずの位置。

 どこまでも中途半端なアキラの行動に、しかし魔物は怪訝に思っているのか襲ってこない。

 今、往来を逃げる他の人々は、誰もアキラを見ていなかった。
 逃げる者など目に止めていたら、たちまちその身は壊される。

―――逃げるなら、今だ。

 無意識でもなんでもなく、アキラは客観的な事実としてその言葉を浮かべた。
 誰も見ていない今、アキラの逃亡を、当然誰も咎めないだろう。
 事後にアキラを責める者はいるだろうが、見えていない場所での評価など気にしなければいい。
 どこか遠くに身を隠し、手に職をつければ、のんびりとした日常に戻れる。
 もしかしたら、神族の手など借りず、元の世界に戻る方法も見つかるかもしれない。

 逃げればいいのだ。
 今すぐに。

 それなのに。

 いつしか止めていた足は、曲がり角から離れない。
 自分が気にしなければいいだけの、後ろ指の中には“絶対にそうして欲しくない人間のもの”まで混ざっているのだ。

 それが、

「―――、」

―――自分は決して、聖人でも何でもない。
 人の救いを願うことよりも、称賛を浴びることに比重を置いて動くような愚者だ。
 死というリアルがあれば尻尾を巻いて逃げるし、元の世界であれだけ焦がれた魔物との戦闘というファンタジーもこれだけ経験すればお腹一杯だ。

 誰も見ていなければ利己的に行動し、結果後悔しても何も学ばない。
 自分の恐怖に立ち向かう度胸もない。
 人の恐怖を取り払う器量もない。
 期待に応えるだけの実力もない。

 本当に情けなく、小さな人間なのだ。自分は。

 そして。

 崇高な理由でも何でもなく。
 自分を非難して後ろ指を差す中に、自分が知っているものが一つでもあれば。

 それを裏切る勇気もない。

「―――、」

 アキラは、“地面を強く蹴った”。
 動きを止めていたアキラを狙った魔物たちの攻撃は、それがフェイントとして機能して空振りに終わる。

 向かう先は、“身体を横に向けて正面”。
 アキラは再び魔術をフル稼働して曲がり角に駆け込んでいく。

「……!」

 そして、見えた。
 正面から、魔物を撃退しながら走ってくる二人の影。

―――これは、きっと、病気だ。

「あっ!! アッキ……、って、うおおっ!? 大人気ですねっ!!」
「ちょっ、あんた何体連れてきてんのよ!?」

 声の届く範囲。
 そこでアキラは自分の“安堵”に苦笑した。

 この期に及んで、自分が最初に浮かべたことは、彼女たちと合流できたことではなく、いつしか増加している背後の魔物たちへの恐怖でもなく。

 彼女たちに“逃げる自分を見られなかったことなのだから”。

 こんなもの、やはり“病気”だ。
 格好つけもここまで極まるとは、とんでもない“勇者様”だと自分で思う。

「とっ、とにかくやるわよ!!」
 走りながら、エリーは肩に担いでいた剣のホックを外した。
 姿が見えないが、大方サクが選んでくれたものであろう。

 彼女たちの背後にも、追ってくる魔物たちが見える。
 自分の役割は、あっちになるだろう。

「はい!!」

 ほとんど二人入れ違うように、アキラはエリーから伸ばされた剣を即座に掴んだ。
 そして彼女たちの背後にそのまま向かう。

 もしかしたら、“病気”かなにかかもしれない。
 あれだけうじうじと悩んでいたのに、彼女たちの前ではおくびにも出さず行動しようとしているのだから。

「―――、っし、」

 アキラは気合を入れ、剣を魔物に振るう。
 逃げ惑うだけだった先ほどとは違い、一撃で屠ったその攻撃は、魔物の群れへの牽制にもなった。
 背後では、拳による打撃音と、上空の魔物への魔術の爆発音が響く。

 一時のシチュエーションの変更で、“死”への恐怖はなりを潜め、代わりに浮かぶのは事後に街を救って崇められる図。
 その旨味をアキラは知っている。

 終わったあと、結局同じように一人ぐじぐじと恐怖に怯えるのだろう。
 だけど人の前では、“格好悪いから”悩みを見せない。

 聖人でも、英雄でも、強者でもない自分。

 でもこの自分は、とりあえず、

「らぁっ!!」

 気合を入れた一撃でオレンジの光が爆ぜさせ、魔物を吹き飛ばすことができる。

―――***―――

 斬。
 そんな音が響いたとき、サクはすでに離れた場所で、二太刀目を振り下ろしていた。
 突然の魔物たちの襲撃で、結局補修が後回しになった愛刀は、しかしそれでも存分に役割を果たす。

「グ―――」
 彼女の背後から、攻撃の隙を縫ったつもりの魔物も、断末魔を上げる間もなく切り裂かれた。

「……随分速いな。確かにそれなら刀の傷も納得だ。最近は傷もできないだろう?」
 周囲の魔物がはけたところで、力強い声がサクの耳に届く。
 振り返れば、グラウスは自身の身の丈ほどもある巨大な斧を肩に担ぎ、感心したようにサクに視線を送っていた。

「そちらも十分現役で戦えそうだが?」
「この辺りの魔物相手なら、だがな。それに今は鍛冶屋だ」
 きっぱりと言い切ったグラウスは、次なる敵を探して駆け出す。
 ティアの母が知らせた魔物の襲撃以降、行動を共にしているグラウスの実力は、サクの目から見ても洗練せれている。
 サクはグラウスの背を追いながら、どこか低い自己評価に目を細めた。

「グラウスさん。ヘヴンズゲートに魔物が襲撃してくることはよく起こるのか?」
 戦闘の騒音響く街を駆ける中、サクは確認の意味で疑問をグラウスに投げかけた。
 サクも長いことアイルークを旅して回っているが、魔物の群れの襲撃を見たことなどほとんどない。
 この東の大陸―――アイルークは、比較的安全な地帯なのだ。

「いや、俺の知る限りじゃ無い。数匹紛れ込むことはあってもな」

 やはり。と、サクは表情を険しくする。
 このタイミングでの魔物の襲撃。
 昨日の“魔族戦”と繋がっていると考えた方が自然だろう。

「……分からん。モルオールの魔物が攻めてくるなら分かるんだが……、いや、それでも分からんな」
 珍しく要領の得ない表情を浮かべながら、グラウスは呟いた。
 サクは申し訳ないような顔をしてみたが、どうやらグラウスは気づかなかったようだ。

 モルオール。
 それは、世界の北に座す大陸の総称だ。
 アイルークのほぼ最北端に位置するこのヘヴンズゲートからはすぐに向かうことができるが、それはあくまで“位置的”な話である。

「確かにモルオールじゃこんなこと日常茶飯事だ。だが、“あの防波堤”が突破されたなんて話聞いていない」

 アイルークとモルオールは東と北。
 大陸同士繋がっているのだから、“位置的”には近い。
 だが、そこに住む魔物の質はまるで違う。
 アイルークの魔物は基本的には人間と住み分け、余程のことがない限り村を襲いには来ない。その上、魔物も比較的貧弱だ。
 だが、モルオールは違う。
 いたるところに魔術師隊の支部があるほど、襲撃対策には余念がないほどだ。
 現にサクも、いつか向かおうと考えているのだが、未だにアイルークで足止めを食っているのが現状であった。

 何故隣同士でここまで隔絶した差があるのかは定かではないが、アイルーク側はモルオールとの境目に“防波堤”を造り、北の魔物の襲来を遮断している。
 その上で、北の魔物たちも何故か近づこうとしないのだから、アイルーク大陸の安全は保障されているも同然だった。
 魔物の襲撃で心を病んだ者も、アイルークを目指すと聞くほどに。

「……まあこんなもの、“タンガタンザのお前には見慣れた光景”だろうがな」
「……、」
 それには返さず、サクは裏道から飛び出してきた魔物に愛刀を見舞った。

「ふっ!! ……それにしても、ティアの奴はどこに行きやがった!?」
 反対からも魔物が攻めてきていたのか、気づけば斧でクンガコングを薙ぎ払ったグラウスは、苛立たしげに野太い声を張り上げた。
 金曜属性の圧力に負けた魔物は、斧の刃に触れる以前に吹き飛ばされ、即座に爆ぜる。
 それはまさに、グラウスの心境をそのまま前に押し出したような攻撃であった。

「下手したな……。今さら言ってもあれだが、外に出すんじゃなかった」

 確かにティアの性格を考えると、こんな事態で放っておくのは危険かもしれない。
 その原因が彼女の厄介払いをしたグラウスにあるとあっては、懸念もひとしおなのだろう。

「あっちは問題ないはずだ。エリーさんと一緒にいる」
 応えたサクは、見えた魔物に切りかかった。
 いつしか魔物が集まっている場所に到着した二人は、再び場所を落ちつけて駆除を始める。
 やはり、上空から飛来するレイトノフと地上で剛腕を振るうクンガコングが危険なだけで、魔物は強くない。
 何の統制もとれておらず、ただ駆け込んできただけのような烏合の衆など、間もなく鎮圧できるであろう。

「……、」
 だからサクが懸念しているのは、ティアではなく、むしろこの街を救う役目を背負っているアキラだ。

 最大の懸念は装備なしの状態でこの街をうろついているということ。
 あの男に、エリーのように拳で魔物を襲う度胸はない。
 それに剣の鍛錬しかしていないのだから、下手をすれば拳が使い物になってしまう。
 当然、魔術による攻撃は論外だ。
 エリーとティアが合流できていることを祈るしかない。
 そして彼は、いつものことながら悩んでいた。
 そのいつものことは、いつものことなのに、やはり気になってしまう。

「ふっ!!」

 グラウスが魔物を吹き飛ばす。
 それも、徐々に力を増して。

 やはりグラウスは、ティアの身を案じているのだろう。
 魔物を吹き飛ばす旅に顔を上げ、周囲を探っている。
 彼はやはり、不安も持っているのだろう。
 この魔物の襲撃を前にして、本当にティアがこの世界でやっていけるのか否か。
 “親”として、気にならないはずがない。

「行くぞ、向こうだ」
「ああ」

 再び魔物の駆除が終わり、次の群れを探して走る。

 サクはアキラの事情を。
 グラウスはティアの将来を。
 それぞれ案じる。

 問題はしんしんと降り積もっていく。

 そして。
 グラウスを先頭にして大通りから裏道に入り、そこを抜け、別の大通りに出て二人並んだとき。

 探し続けた対象が、ようやく目に入り、問題は解決した。

―――***―――

 エリーことエリサス=アーティは、“飛びかかってくる予定だった”レッドファングの横腹を瞬時に蹴飛ばすと、即座に背後を確認し、安堵の息を漏らした。
 未だ魔物は群れをなし、街のいたる所で爆音が聞こえてくる。
 依然として気を休められない状況だが、しかし迎撃速度は順調だ。

 しかし、それについて“ではなく”、エリーは別件で再度ほっと息を吐く。

 背後に爆ぜるは太陽色。
 サクの見た手だけはあり、即座に使いこなされたその剣が魔物を撃退していくその様について、安心感を覚えていた。

「ふっ!!」

 調子に乗っているのか考えがあるのか分からないが、二体をまとめて切り裂いているのは“勇者様”ことヒダマリ=アキラ。
 今日一日様子がおかしく、それも恐らく継続しているであろうに、彼は集中して魔物を討ち続けていた。

 ある種、彼は“でき”のいい人間なのだろう。
 流れに呑まれてしまえば逆らう力がないだけかもしれないが、彼は戦闘時にはそれを持ち込まなくなってきている。

 格好つけ。あるいは、自己満足。
 そんな低俗と考えられる理由で動くような人間だが、結果として街が救われるなら文句は出ない。

「アッキー!! これどう思います!? 昨日のあんにゃろーの指示ですかね!?」

 魔物の爆発音にも、魔術の破裂音にも負けない音量で騒いだのはティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 彼女の場合はまるで逆だ。
 日常であろうと戦闘であろうと、そのまま変わらず飛び込んでいく。
 だが、彼女の遠距離攻撃は、下降時のみにしか手を出せないレイトノフを見事に討っている。
 こちらも、結果として、町が救われているのだ。

 敵は最弱のアイルーク大陸の魔物たちというだけはあり、迎撃できるのは当たり前。
 だが、こんな光景を見てしまえば、エリーは思ってしまう。

 あの“魔族”―――リイザス=ガーディラン戦でも浮かんだ予感。

 このメンバーなら、“何でもできる”、と。

「っ!? な、なあ!! サクは!?」

 しかし、アキラの方は思ったよりも厳しかったらしい。
 攻撃の隙を縫われ飛びかかられた魔物を済んでのところで回避し、エリーに叫んでくる。

「サクさんとは別行動!! でもきっと、どこかで戦ってるわよ!!」
 エリーも叫び、今度は拳を正面のクンガコングに叩き込んだ。
 かつて大群で現れたときには逃げるしかなかった敵も、今なら十分に倒せるのだ。

 自分のレベルも上がっている。
 この旅は、確かに身になっているのだ。

 だからこそ、楽しい。
 それこそ、目的と手段が入れ替わるように、この旅を続けたいと思ってしまう。

 それなのに、

「……、」

 そこまで考えて、自分はアキラともティアとも違う人間なのだと気づいた。
 自分は、アキラのように悩みを日常に置いていくことも、ティアのように日常のまま戦闘に飛び込んでいくこともしていない。
 “切り変えられる人間のはずだった”というのに。

 一度浮かんだ懸念は、ずっと頭の中に漂い続ける。
 例えば、アキラが楽しいと悲しそうに言った情景が、戦闘のただ中で浮かび上がってきてしまう。
 ただそれでも、エリーの戦闘への貢献はアキラとティアの総和程度には昇っているのだが。

「ねえ!!」
 僅かに魔物がはけ、余裕ができたエリーはアキラに叫びかけた。
 思わず口をついて出てしまった言葉を、場違いとは思いながらもエリーは紡いだ。

「問題は解決したの!?」
「してない!!」

 アキラはエリーが予測していた通りの心境を返してきた。
 自身の打撃と、アキラの剣撃。そしてティアの空爆攻撃が入り乱れる中、二人は会話を続ける。

「でも、“やるんでしょ”!?」
「……“やってんだろ”!!」

 果たして意思が疎通できているのか。アキラは僅かに濁ったあと、エリーの言葉を肯定してきた。
 彼は叫ぶだけ叫ぶと、再び魔物に向かっていく。

 アキラは昼食時、あの喫茶店で確かに言った。
 『戻りたいのかもしれない』と。

 それで結局自分の予想は外れ、正体不明となったアキラのあの夜の言葉。
 だけど結果として、彼はこの場で戦っている。

 見えるのは、結局結果だけだ。
 中身が分からないブラックボックスから出てくるものしか、自分は見えない。
 しかし、もしかしたら自分は、それでいいのかもしれなかった。

 彼の中を覗くことはできないし、それをするのに勇気もいる。
 でも、“結果が見える距離にいる”のだ。

 声を枯らせば届くなら、今はそれでいいだろう。

「なあ!!」
「なに!?」

 今度はアキラが叫んできた。
 このエリアの魔物の数は激減し、駆け出したアキラにエリーはついていく。

「俺は、褒められることしてんのかな!?」

 しばし、エリーの思考が止まった。
 しかしすぐに頭を抱え、ほとんど八つ当たり気味に近くの魔物を殴りつける。

「俺はずっと、あんなこと繰り返すと思う!!」

 “あんなこと”とは、武器も持たずに魔物から逃げ回っていたことだろうか。
 それとも“隠し事”の件で、どこかにふっと消えることだろうか。

 エリーの見立てでは、恐らく後者だ。

「そっちは、とっくに決着したでしょ?」
 ほとんど横並びになれば、声を張る必要もない。
 エリーは空からの襲撃がスカイブルーの魔術に討ち抜かれたのを確認してから、ため息混じりに言葉を返した。
 “隠し事”の件など、数日前のクンガコングの一件で決着がついている。
 だが中身の見えない黒い箱は、エリーとの会話で集中力が切れたのか言葉を漏らし続けた。

「俺は自分が自分で分からない。マジ、わけ分からないんだよ。ぶっちゃけ俺、世界を救いたいとか思っていないし」
「何言い出してんのよ、あんた」
「死にたくねぇんだよ。ものすごく。本当に、ずっとずっと続きたい」

 もしかしたら、この言葉は単なる独り言なのかもしれない。

 だがそこで、エリーは自分の予想に当たる部分があったのだと思った。
 この男が気にしているのは、“ゴール”だ。

 元の世界に戻るのも、魔物との戦いで命を落とすのも、結局は終わり。
 あるいは別の理由かもしれないが、ともかくこの男は、この旅の終点を気にしている。
 楽しむことのペナルティとして、それが終わってしまうというものは確実に含まれているのだから。

 それを気にする人間にとって、確かに“楽しかったら困ること”になるのだろう。

「深刻そうに『戻りたい』なんて言ったから、あんたこの世界が嫌いになったと思ったわ」
「嫌いなわけねぇだろ!!」

 叫び返してきたのは、きっと本音だ。エリーはその返答一つで満足する。

 並んで走っていたアキラはエリーから離れ、再び魔物群れに突撃していった。
 それに追従したエリーも、アキラの背後に回った魔物に打撃を叩き込んだ。

「づ!? いっつ……、ティ、ティア!! こっち!!」
「……え? おおっと怪我ですね!! 任せんしゃいなっ!!」
 魔物の牙に僅かに裂かれたアキラの足に、ティアが即座に駆け寄っていく。
 そして光るスカイブルーの癒しの魔術。
 空の魔物を躍起になって攻撃し、地上が疎かになっているのはいただけないが、戦闘も後衛が入るだけで随分と違う。

 これだけ順調なのだ。
 “今”が嫌いなどとは言わせない。

「助かった!!」
「うおっ!? まだ、……ア、アッキー!?」
 アキラは動けるようになってすぐに立ち上がり、顔をしかめて走り回っていく。
 治療は不完全。間違いなくやせ我慢だ。

 エリーはアキラのサポートをしつつ、何度も何度も苦笑する。

 彼が先ほど漏らした言葉にきっと嘘はない。
 彼は世界を救いたいとは、本当の意味では思っていないだろう。
 なぜなら彼は、そんな大層な人間ではないのだから。

 今痛みを堪え走り回っているのも、街を想ってのことではなく、大方自分一人のんきに治療を受けているのが“格好悪い”と思ったからだろう。
 悩みを置き去りにし、目先の敵を討っているのも、自分たちの前でそんな自分の姿を見せたくはないだろう。

 本当に、見栄っ張りで、小心者で、格好つけだ。
 でもそれだけに、周囲の期待にあっさり背中を押されて進む。
 あとでどれだけ後悔しても、それからほとんど学ばず、結局何度も何度も直情的に動いてしまう。

 ヒダマリ=アキラは、本当に、“病気”だ。

「はあ……、」

 周囲の魔物が消え去り、喧騒が静けさを取り戻していく。
 この分なら、魔術師隊が守護している他のエリアも問題ないだろう。

 エリーはため息一つ大きく吐き出し、最後の魔物を討ったところで大の字に転がり込んだアキラに近づいていく。

「終わったわね」
「はあ……、はあ……、はあ……、」
「……って、あんたバテすぎよ」
 体力の限界を思わせるアキラにエリーは手を差し伸ばしてみた。
 すると即座にその手を取り、アキラは痛む足を堪えて立ち上がってくる。

 この男の格好つけの“症状”は、どんどん悪化していく。

「あのね、あんたが躍起にならなくても、あたしがなんとかするわよ?」
「はあ……、お、お前、何で息切れてないんだよ……?」
「あんたがはしゃぎ過ぎなだけだって。ま、でもお疲れ様」

 足に力が入らないのか、手を握ったエリーにもたれかかりそうなアキラは、しかし極力自分で立とうとしていた。
 この男も随分と変わったものだ。
 アキラが―――いや、人間誰しも持っている、“格好つけ”。
 それが悪化したアキラは、結局それゆえに、“勇者様”として固まっていく。
 利己的であろうとそうでなかろうと、黒い箱の中身は誰にも見えない。
 結果だけを見るのはどこか寂しい気もするが、そこに踏み込んでいくのは勇気もいる。

 だったらもう少し、このままの方がいい。

「はあ……、はあ……、俺は、さ、マジで、現金だ」
「知ってるわよ、そんなこと。こんな無茶してんのも、どうせそんなんでしょ?」
 息も絶え絶えのアキラは、記憶が乱雑に蘇っているのだろう。
 先ほど交わした会話が、まだ続いていると思っているのかもしれない。
 しかしエリーはそれを分かってなお、会話を続けた。

 黒い箱の中身を見るのは、勇気がいる。
 だったらもう少し、このままの方がいい。

「でもさ、あたしたちのこともう少し頼ってくれたら嬉しい、かな」

 だけど。
 もう少し、ほんの少しなら、見てみたいと思ってしまう。
 この男の本音が聞ける機会など、きっとそうはない。

 この手を離しただけで倒れ込んでしまうような黒い箱の中に、自分たちを埋め込むことができたら、きっともっと今が楽しくなる。

 アキラは一瞬顔を上げ、すぐに伏せた。
 今の自分の言葉は、彼に届いたようだ。

「…………俺さ、マジで死にたくねぇ。でも、本当に調子がいい奴みたいだ」
「うん?」

 音量が極端に小さくなっていったアキラの声にエリーは耳を傾ける。
 今日一日、自分たちから距離を置くようにいた男。

 そんなアキラは呟くように、こんなことを口にした。

「きっとそんなことを言われるだけで、“ここ”に来てよかったって思うんだろうな」

 本当に、こいつは“病気”だ。
 エリーは息を止め、視線を外した。

 ようやく顔を戻せたエリーは、苦笑し未だ息を切らし続けるアキラに呟いた。

「“格好つけ”もここに極まり、ね。この―――」

 ヒーロー中毒者。

 人を助けることではなく、むしろ助けることによって誉れを受けることに比重を置くような人間―――“ヒダマリ=アキラ”を、エリーはそう称した。

「あの!! 空気的にたいっっへん申し訳ねぇですが!! やばいです!!」
「!? な、なに!?」

 静まり始めたヘヴンズゲート。
 そこに響いた騒音発生機の声に、エリーは慌ててアキラの手を離す。
 何か非難めいた声が漏れた気がしたが、支えていた男はそのまま後ろに倒れていった。

「ど、どうしたのよ!?」
「あっちです!!」
 いつも以上に慌てふためいたティアが突き出した指を追って、エリーは一瞬我を忘れた。
 彼女が差しているのは、建物の屋上の先、街の先、遥か向こう。雲との狭間。
 徐々に夕暮れが近づいている空は、“赫”だった。

「なっ、何よあれ!?」
 叫びながらもエリーは目を凝らし、状況分析に努める。
 しかし、分析し、分析し、分析しても、“結局最悪から事態は動かなかった”。

「う……、そ、」

 “赫”は、魔物の群れだった。
 巨大な獣王に翼が生えたような姿のザリオン。
 鋭く嘴を尖らせた巨大な翼竜を思わせるガブスティア。
 竜種の姿もちらほら見え、エリーが挿絵ですら見たことのないような危険極まりない巨獣たちも飛んでいる。
 有名どころを上げるだけでも切りがなく、そしてそのどれもが一体で“最悪”の警鐘を鳴らす化物だ。
 そしてそれらは、法学の一つそのものを塗りつぶすかのように群れをなし、一直線にこのヘヴンズゲートに向かってきている。

 殺気の有無など考えるまでもない。
 ここに向かってきているだけで敵意はあるのであろうし、何よりあの大群が“何も考えていなくても”、この街は灰燼に帰す。

「どっ、どうします!?」
「え、ど、どうするって、」

 この光景を前にして、流石に“何でもできる”とは思わなかった。
 例え世界を滅ぼすつもりであっても、ここまでの勢力は要らないかもしれないというほどだ。
 その大群は徐々にこの街に接近し、そろそろ肉眼でも数が数えられそうなほどまで来ている。

「って、ててっ、奴ら心なしかここに向かってませんかっ!?」
「と、とにかく、一旦逃げるわよ!! ていうか、どっかに隠れなきゃ、」

 逃げると言ってもあの相手では建物に隠れたところで意味はないだろう。
 だがそれでも、目先の危険からのがれるべく、『ほらあんたも!!』と叫んでアキラを立ち上がらせようとしたところで。

 エリーの身体は止まった。

「……? ……!?」
 怪我の影響か、立ち上がりすらもできていないアキラの向こう。振り返って見えたのは、“本日二度目”の不気味な光景だった。

 “人が、逃げていない”。

 たった今出てきていたのか、あるいは街中を埋め尽くす魔物たちのせいで気づかなかったのか。
 魔物がいなくなった往来は、不気味なほど人が多く、“不気味なほど静かだった”。

 子供。
 若者。
 高齢者。
 男女。

 千差万別総ての種類の人間がいるかと思うほど、ありとあらゆる人間たちが建物の前に出ているかと思うと、その人々は一心不乱に目を瞑って“祈っていた”。

 あるいは今、迫りくる大群の存在にすら気づいていないのかもしれない。
 彼らはただただ、部屋に閉じこもって嵐が過ぎるのを待つかのように、じっと身を固くしている。
 そして向いている先は、全員が同方向。
 感覚的に分かるのは、ここで“祈っている”人々は、物見遊山でここに訪れた旅人ではなく、このヘヴンズゲートに住む者たちということだ。

「ちょっと!! 今すぐここから―――」
 エリーが怒鳴っても、誰一人動かない。
 まるで、この街が四角い建物ばかりという“共通の根底”があるかのように、誰も“それ”を止めようとはしなかった。

 向いている先など、エリーには容易に想像できた。というより、街のどこにいても、それは見えている。

 あの岩山だ。
 この緊急時、いや、緊急時だからこそだろうか。
 彼らの行動は一糸乱れず、まるで神託でも待っているかのように、神門に祈り続けていた。

「なんなのよ……、あれ」
「わ……私も初めて見ました……」
 現地民のティアすらも、その光景に普段は騒がしい口から怯えたような声を出した。
 信仰心が高いことは知っていたようだが、まさかここまでとは、彼女も思っていなかったようだ。

「恥ずかしいとこみられたな」

 エリーとティアが固まっていると、背後から野太い声が聞こえた。
 振り返ればグラウスが、サクと共に走り寄ってくる。
 ただサクも、この異様な光景に表情を変えていた。

「俺はこの街生まれじゃないが、もしそうならああなってたかもな」

 空には“赫”。地上には“異様”。
 その狭間でグラウスは恐ろしく静かな声を出した。
 それは、もしかしたらあの“赫”の大群を前に、ある種達観した気持ちになっているからかもしれない。

 だが、エリーはそんな“赫”など、“この光景の前には異物でも何でもない”ような気さえした。
 こうした光景は、エリーはこのヘヴンズゲートに来る前にも見たことがある。
 あの、サーシャ=クロラインが支配していたウッドスクライナの村人たち。

 従う対象が神族か魔族かというだけで、この場の光景には何ら変わりはない。

 はっきりと言える。
 “しきたり”に縛られた世界が創り出したこの光景は、“異常”だ。

「……グラウスさん。とりあえずはこの場を離れましょう」
 グラウスを除いた中で、いち早く我を取り戻したサクが同じく静かな声を出した。
 そろそろ“赫”の大群の羽音でも聞こえてきそうだ。
 ここまで絶望的な“死”の接近に、彼女も彼女である種達観しているのかもしれない。

「……って、もう来ますよ!!」
 次に硬直が解けたティアが叫んだ。
 彼女に言われなくとも分かっていたが、エリーの身体は動かない。
 そもそも自分たちだけ移動したところで、恐らくここで祈っている彼らは動かない。
 それなら、何のために街を救っているのか分からないではないか。

 彼らが逃げ惑っていてくれれば、自分たちもこの街から離れられた。
 それなのに、この人々の“信仰”が楔のようにエリーをこの場に打ち付けている。

 旅をして、数多の人に触れ、自分で自分を客観視できるようになって、初めて気づいた。

 この世界は、異常だ。

「……って、今はとにかく逃げなきゃ!! あんなの相手にしてられない!!」

 強引に叫び、エリーは硬直を解いた。いかにこの光景が不気味だとしても、目の前の危機は変わっていない。
 酷い話でもあるが、“動けるのに動かない人々”まで構っている場合ではないのだ。

 だが、逃げると言ってもどこへ逃げればいいのだろう。
 あの大群がこの街を攻める気なら、どうあっても逃げることは不可能だ。
 思えばこの街を襲っていたあの雑魚たちも、あの大群から本能的に逃げ惑っていただけかもしれない。

 エリーはグラウスたちの顔を見渡し、頷き一つで合図を送って“赫”の大群に背を向ける。

 だが、

「大丈夫だ」

 全員が駆け出そうとしたところで、そんな声が響いた。

「ちょっと!! あんたなに座り込んでんのよ!!」

 振り返った先、アキラが投げやりに足を伸ばしていた。
 一瞬怪我の調子が悪く立ち上がれないのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
 ゆっくりと身体を起こして立ち上がると、アキラはぼんやりと“赫”の大群を見上げた。

「マジで……、“悔しい”な。“一回行ったはずの場所なのに”」

 アキラの静かな声を拾ったエリーは、眉をひそめた。
 この緊急事態で、彼は何を呟いているのか。

「何か思いついたのか!?」
 サクが詰め寄っても、アキラは首を振って返してきた。
 その様子に、彼女も眉をひそめる。

 エリーは一瞬、あの“異様”と同様、アキラも祈りを捧げているのかと思った。
 だが、それは違うと即座に分かる。

 不安を押し込めたような表情の群衆たちと違い、アキラは言葉通り、本当に悔しそうな表情を浮かべていた。
 彼には、何かが分かっているのだろうか。
 策はないと認めているにもかかわらず。

 “赫”の大群はもしかしたらそろそろ街の外れに影を落としているだろうか。
 それほどの近距離に、魔物たちは接近している。
 羽音など、もうとっくに獰猛な呻き声と共に聞こえていた。
 この街の終焉が、目の前にある。

 それなのに。

「絶対また、“できるようになってやる”」

 アキラがそう呟いた、その瞬間。

 この街に終焉は訪れず、彼の言葉通り問題は去ってしまった。

―――***―――

 ヒダマリ=アキラは夜の中、武器屋の看板に背を預けつつ、いまだ形の戻らない雲を見上げていた。
 それは何かが通過した証でもあり、同時に人ならざる者の力の結果とも言える。

 ことの顛末はあまりに簡単だった。
 いや、この街で自分たちが行ったこと、の方が正確か。

 自分たちはこの街に来て、岩山の門番に門前払いをされ、ティアを家に送り届け、そして魔物たちを撃退した。

 それだけだ。

 ただ、自分たちとは概念そのものが違うような存在同士が、頭上で物語を創っていたというだけで。

 “あれ”は、次元そのものが違った。
 例えて言うなら戦争映画を見に行ったとき、アキラがジュースを零して隣の客と揉めていた頃、スクリーンでは核で街一つ吹き飛んでいたような、そんな差。

「“プロミネンス”……、か」

 アキラはその“魔法名”を小さく呟いた。
 そして右手を広げて天にかざす。

 かつてはこの手に宿っていた力。
 伏線も、想いも、何もかもをかき消すその一撃には、さしもの激戦区の魔物たちも瞬時にかき消えた。
 まるでオレンジ色の消しゴムでも使ったかのように、空を埋め尽くしていた“赫”は拭いとられたのだ。
 直後に空に響いた戦闘不能の大爆発など、それの前では些細なことに過ぎない。
 確認しに行ってもいないが、森の一角もまとめて消え去っているだろう。
 もしかしたらリイザスの宝物庫も巻き込まれた可能性がある。

「……、」

 自分はもう一度、あの域に達せるだろうか。
 “生成方法”も何もかも、今は記憶の封の中だ。

「……おや? やっぱりアッキー外にいたんですね」

 そこで、背後のドアが開いた。

「ティア?」
「そうですとも。さあさあ、まだまだ料理は残ってますぜ?」
 流石に夜には騒がないのか。
 ティアは静かな声のまま、アキラの隣に並んで背を預けた。

「てか悪いな。夕飯」
「今日はあっしの送別会だったりしますからね。お宿を提供できないのが心苦しいです……」
「い、いや、そこまではいいよ」

 結局、ティアはアキラたちについてくることになった。
 人様の娘を危険な旅に連れていくのだから、ティアの両親から反対される可能性もあったのだが、あまりに淡白に許可をもらったのをアキラは思い出す。
 母親の方は心配していたようだが、父親の方が肯定的であったのは、今日ティアの戦いを見て懸念を払拭させたからかもしれない。
 母親の方も夕食に誘ってくれたのだから、結局肯定派ではあるようだ。
 未だに振舞われた料理が、調子に乗って食べたアキラの胃で暴れ回っている。
 休憩と称して外に出たのだが、もう随分長いことここにいたかもしれない。

「まあまあ、今後ともよろしくお願いします」
「……ああ、そうだな」
 妙に礼儀正しく下げられた頭に、アキラは釣られて会釈する。
 とりあえず、問題なくこの場での“刻”は刻まれたようだ。

「にしても凄かったですねぇ……。あれ」
「……ああ。そうだな」
 アキラは適当に肯定し、再び穴の空いた雲を見上げた。

 あの一撃で街を脅威から救ったと神への賛同者が増え、それより前に街を救っていたアキラたちを気に止める者などいなかったのは、やはり面白くない。
 やっぱり自分は、“そういう人間”なのかもしれなかった。

「さっすが、お父さんとお母さんが“一番目を捧げた相手”です」
「? なんだよそれ」
「あれ? あそっかアッキー異世界の人なんですよね。でも聞いたことありませんか? 魔術師隊の儀式がどういうものか」
 曇ったアキラの表情で、ティアは把握したのか言葉を続けた。

「魔術師隊の儀式に、神様に一番目を捧げる行為があるじゃないですか」
「……ああ、そうか」

 そういえば先ほどの夕食時、ティアの両親が元は魔術師隊だったと言っていた。

 そして、自分が“そもそも”旅に出た理由の“婚約破棄”。
 それはエリーの一番目の相手が、アキラにすり替わってしまったからだ。

「だから、結婚式で相手に捧げるのは“二番目”になるんです。……そういえばあっし、大事な結婚指輪を見つけられなかったことお父さんに謝って無い気が……」
 ティアは表情を曇らせ、頭を抱えた。
 夕食時にも、ティアは父親を苦手にしていた節がある。

 結婚指輪を見つけられなかったのは、アキラにとっても無念だった。
 “二週目”にも、それは叶わなかったことだ。

 アキラは苦笑し、再び雲を見上げた。
 あの先に、魔術師隊の誰もが“一番目”を捧げた相手がいる。
 “二週目”には面会できた相手だが、今のアキラとは逢う理由もないようだ。

「……あ」

 彼女は僅かな沈黙も嫌うのか、しかし静かに、そういえばと付け足して口を開いた。

「…………悩み事は解決しましたか?」
 アキラに並ぶティアの視線は、同じく穴の空いた雲に向いている。

「実はですね、あっし、聞いちゃってたんですよ。あのときのアッキーとエリにゃんの会話」
 アキラが視線を向けると、ティアはイタズラが見つかった子供のような顔をしていた。

「死ぬのって、恐いですよね」

 アキラは目を閉じた。
 恐いに決まっている。
 それに近づくことすら拒絶したい。

 だから今日、あれだけ情けなくも自問自答を繰り返していたのだ。
 その恐怖は、あの雲のように一度穴が空いても漂い続けている。

「アッキーは考えたことありますか? 死んだらどうなるんだろう、って」
「あるよ。だから、さ」

 こんな会話を、前にも彼女とした記憶がある。
 あれは確か、“二週目”だ。
 魔王に挑む直前、丁度こんな夜の闇の中、彼女は珍しく神妙に言葉を紡いだのだった。

「やはり旅って、辛いものなんですね。楽しかったら楽しかったで、終わったときのこと考えちゃいます」

 まさに、それだ。
 アキラは今日ずっと、それについて苦しんでいた。

 どこかで、こんな時間までも作業をしているのか物音が聞こえる。
 どこかで、こんな時間までも走り回っている足音が聞こえる。

「でも、そもそも―――」

 しかしアキラとティアが並んだここには、まるでその音は届いていないかのようだった。

「“人はいつか死ぬ”」

 ティアは目を瞑って呟いた。
 まるで恐る恐る、禁断の箱を開けるかのような表情で。

「旅をしててもしてなくても、絶対終わりがある。残酷ですよ、本当に」
 アキラは僅かばかり事情が違うが、ティアに頷き返した。

「はは、実はあっし、一昨日それ考えてて眠れなかったりしたんです。ベッドに入って、布団をかぶって、でも、ものすごく怖くて。こんなに楽しいのに、いつかそれが終わっちゃう、って」

 まさに、子供だ。
 だがそれは、誰もが解決できていない。
 その恐怖の払拭は、叶えられるものではないのだから。

 きっと大人はそれに対して“悟っているのだ”。
 閉演時間に駄々をこねる子供とは違い、こういうものなのだ、と。

 もしかしたらティアは、アキラの悩みを一番察していたのかもしれない。
 この原始的な恐怖を未だ“騙せていない”同じ存在として。

「でも、こんな風に考えることもできたんです。楽しいことに楽しまないと、もっとつまらないって」

 月並みな言葉だ。
 まさに、大人が子供を宥めるときに使うような。
 だが“幸運にも”精神的に子供のアキラには、その言葉に耳を傾けた。

「私は……ね。お父さんとお母さん、“じゃない”お父さんとお母さん。その終わりを見たことがあります」
「……?」
 アキラが顔を向けると、ティアは珍しく視線を外していた。

「だけどそれまでは、四人集まって楽しそうにしてました。危険なお仕事なのに、それでも」
 口を挟まない方がいいのだろう。
 アキラはティアから顔を背け、視線を漂わせ、結局穴の空いた雲に向けた。

「だから私も、ああなりたい。人のために頑張っている人が笑っていると、やっぱり気持ちがいい。びくびくしないで、全力で、全開で、それで最後にドーンですよ―――なんて、ときどき眠れなくなるあっしが言っても説得力ないですけどね」
「……そうでもない、かな」

 アキラは静かにそう言った。

 同じ不安を抱えた人間がいることは、どこか頼もしかった。
 やはりティアは、戦力以上に、アキラにとって必要な存在かもしれない。

 そして同時に、すごいとも思えた。
 自分は利己的なのに、彼女は世間の厳しさを知らない子供ゆえの無知さから、人を助けたいと言い放っている。
 だけど彼女にはその部分を曲げて欲しくないと願ってしまう。

 “死”への恐怖が消えたなどと嘘は言えない。
 この足は、確かに前へ進み続けるなどという幻想も語れない。

 だけど、やせ我慢でいいのなら、格好つけの自分は進めると思う。
 今の自分は、きっとそれでいい。
 もしかしたらいつの日か、彼女の言うように全力で生きれば、誇れる自分になれるかもしれないのだから。

 ティアは、あはは、と笑ってようやく口を閉じた。
 もしかしたら彼女がここに来た理由は、気紛れではなく彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

 彼女はアキラを助けに来たのだ。
 悩みを火に見立て、飛び込んでくる愚かな虫のように。

 だがそれが、純粋に嬉しい。

 自分も彼女のように、フル回転で生きられるだろうか。

「……なあ、ティア」
「はいさ?」

 全力で、か。
 アキラは小さく呟き、右手を再びかざした。

「俺に遠距離攻撃の魔術、教えてくれないか?」

 “死”の恐怖が薄れている今、自分はやせ我慢で前へ進める。
 そのためには、やはり目指すべき目標も必要だ。

 当面の目標は、“何でもできる存在”。
 それは、剣が無いだけで敵から逃げなくてはならないようなものであってはならないのだ。

「おおっ、アッキー!! あっしに魔術を習いたいと!! はぁ~、先生なんて初体験です!! って、そっちの意味じゃないですよ!? って何言わせんですか!!」
「お、おい、ティア?」

 アキラが呟いたその言葉に、ティアは目を輝かせていた。
 『人助け』が目の前にぶら下がった猛獣は鼻息を荒げ、腕を振り。夜だと言うのに声の音量を取り戻している。

「遠距離だろうが回復だろうが何でもござれ!! きっと、その……多分、大丈夫です!!」

 ティアは僅かに言い淀んだが、アキラはそれよりも声の音量の方が気になった。
 今まで珍しく静かに話していたのが、むしろ射出のためにバネを押し込めていたような効果をもたらしたのかもしれない。
 正面の家の灯りが点いたのは、気のせいであると信じたかった。

「お、おいティア、静かにしないと、」
「まずは!! こうやって撃ち出しやすいように指を出してですね!! おおっ、きたきたきたぁっ!!」

 看板から離れ前へ躍り出たティアは、アキラに見せるように指を上空へ向ける。
 そこから水曜属性のスカイブルーの魔力色が溢れ始め、流石にアキラがまずいと思ったその瞬間、

「シュロート!!」

 ゴガンッ!!

 わざわざ詠唱まで附したその声と共に、“攻撃”が武器屋の二階の角を削った。

「……………………」
「……………………」

 ようやく事態に気づいたのか、ティアは笑顔を完全に消し、ゆっくりと腕を下ろしてきた。

 周囲の家が灯り、店の中からドタバタと誰かが全力で駆けてきている。
 それは間違いなくティアの父親であり、第一声は彼女の名前で怒鳴りつけるものになるだろう。

「……………………アルティア=ウィン=クーデフォン、終了のお知らせ」
「はあ……、俺も一緒に謝るよ」

 調子に乗りやすく、いつも騒がしく、そして人助けをしたいと願うこの少女。
 とりあえずは“仲間”として、ティアを庇ってやろうではないか。

 間もなく怒声と共にドアが開かれるだろう。
 もしかしたら、自分は監督不届きとしてエリーに怒鳴りつけられティアの方まで手が回らないかもしれない。

 だからその前に、アキラは確認しておきたかった。

「なあティア。魔術の先生の話、忘れないでくれよ?」

 ティアはその言葉に青白くなった表情を仕舞い、“直後降りかかる恐怖”を前に。

 親指を突き出し笑って見せた。

「私に、任せとけっ」

―――***―――

「南? 南に行くのかよ?」

 日も昇り、雲も元の形を取り戻した朝。
 宿屋の前で、アキラは声を出して確認した。

「うん……。ってそうか、あんたそのとき街破壊してたんだっけ」
「人聞き悪いこと言うな!! あれはティアがやったんだ」
「だ、か、ら、昨日も言ったでしょ!? あの子がやりそうなことくらい分かってよ」

 無茶を言うな。
 アキラはエリーに聞こえない程度に呟く。

 結局、アキラはティアを庇いきれはしなかった。
 彼女はあのあとこっぴどく叱られ、その長さたるやエリーの“ありがたいお叱り”の方が先に終わるほどだったのだから相当だ。
 そんなティアに明日の集合時間を告げ、そそくさと立ち去った三人は、ティアに同情的な視線を向けておいた。
 ただエリーの方は、アキラとの距離を再確認するような意味合いも含まれていたのだが。

 それにしても、人間というものは逞しい。
 昨日の魔物の襲撃の爪あとは、街のいたる所に残っているが、順調に補修作業は進められている。
 早朝から起き出している商人などは、僅かに形状を留めているだけの店頭の棚に、もう商品を並べていた。

「……てか、南って引き返すことにならないか?」
 そんな町並みを横目で見ながら、アキラは話を元に戻す。

 どうやらグラウスが見送りの姿を見られるのを嫌うそうで、面々はティアの母の頼みで宿屋の前で立っている。
 そんな中、エリーは確かに言ったのだ。
 これからの進路は、“南”だと。

「そうでもないわよ。あたしたちは北西に進んできたんだから。当然別ルート」
「モルオールは今のままだと危険だ。それに、昨日あんなものを見てしまっては、な」

 エリーの説明を、隣のサクが補った。
 その言葉にエリーとサクの顔色が普段と僅かに変わったのを、アキラは見逃さなかったが、ともあれ先を促す。

「流石にあんな大群は攻めてこないだろうが、似た系統の魔物ならモルオールには多数いる。昨日グラウスさんにも注意されたが……、いや、お前はいなかったんだったな」

 アキラは頭をかきならが、北を眺めてみた。

 あの先に、自分は何があるのかを知っている。
 あの先に、自分が“刻”を刻む場所があるのを知っている。
 あの先に、“仲間”がいるのを知っている。

 が、今のアキラにはサクの言葉を否定するだけの材料がなかった。

「そんなに北に行きたいの?」
「…………いや、いい。今はレベル上げよっか」

 アキラはエリーに僅かな気遣いを感じ取り、言葉でそれを遮断した。
 “隠し事”でごり押しすることもできるかもしれないが、自分は確か“一週目”、ここから南に行った気がするのだ。

 そういえば、と。
 アキラは現状に気づく。

 “二週目”の記憶はあるが、“一週目”の記憶は封がされている。
 そうなると、ここから南への進路は自分にとって未知の体験となるはずだ。

 ある種解放感を覚え、アキラは視線を南に向けた。

「目標は南の大陸―――“シリスティア”。船に乗ることになるから路銀も貯めていかなきゃね」
「ああ」

 今度は気持ち良く合意する。
 東の大陸のほぼ最北端から南に向かうと言うのも馬鹿な話だが、自分たちの実力と相談すればそれが妥当な動きと考えられた。

 ともあれ。
 アイルーク大陸での“刻”にはひとまず別れを告げられそうだ。

 目指すは南の大陸―――シリスティア。
 どんな場所なのか、記憶に封がされた今は想像もできない。

 だからこそ、いや、“例えそうでなくても”、今の自分は楽しめそうだ。

「おおっ!! 皆さんお揃いで!! いやいやあれからこってりばっちりしっかり三時間!! フルコースって感じでした!!」

 後ろから届いた声に、アキラはため息一つ吐き出して振り返った。

 これで集まったのは日、火、水、金の四属性。
 あと必要なのは三属性。

 絶対的な終わりの恐怖も、楽しい今は潜んでくれている。

「よっし、行くか、シリスティア」

 降り積もった問題は、解決していない。
 ただ、その兆しが見えるだけで。

 だから、それでいい。

「おうさっ、私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーーっ!!!!」

 面々の旅は続いていく。

 音量を、増しながら。



[16905] 第二十三話『回る、世界(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2017/10/08 03:03
―――***―――

 具体的にどのくらいか、というと。

 世界横断に挑戦するかの如く広大な大陸を2週間ほど練り歩き、強固な細工が施された巨大船に乗り込んで荒波に揺れること1週間。ついでに言うなら、船に乗り込む前に路銀を稼ぐ時間も1週間ほど上乗せされる。

 都合、1か月。
 それが、アイルーク大陸のヘヴンズゲートからシリスティアまでの時間だった。

 その間にも途中立ち寄る村や町で、赤毛の目つきの鋭い少女が座学での授業の中疲れで眠りこけた“とある男”を怒鳴ったり、黒髪長身の少女が鍛錬中に『最近剣での鍛錬に気が入っていない』と“とある男”に半ば本気で切りかかったり、青みがかった髪の小柄な少女が“とある男”への見本と称して建物を損壊したり、と喜怒哀楽の“喜”と“楽”がごっそりと抜け落ちたイベントが多発したのだが―――世界を半分近く移動したという意味では、かなりのハイペースである。

 原因は思ったよりも単純で、3週間かけてようやく乗り込んだ船が相当優秀であったことだ。

 この“異世界”の地理的構造は、大雑把に説明すれば単純明快。
 まず、世界の中心―――あくまで、そこを中央に置いて地図を開いたら場合の話だが―――に巨大な大陸が1つあり、それを囲うように海を隔てて東西南北に大陸が存在している。
 その周囲の四大陸は基本的には地続きであったりするのだから、地図を見下ろせば線の太い円の中央に点を落としたようなドーナッツ形状だ。

 そんな世界で、海を行き来する船には大きく分けて2通りある。

 1つは“外回り”。
 東を進めば西に着き、北を進めば南に着くというルールは、この異世界でも変わらない。
 世界が球体の形状をしているというのは―――“神の教え”という便利な存在によって、測量という技術が進歩する前から常識として根付いていた。
 その、“地図の端から反対の端”―――つまりは円の外を行き来するのが“外回り”の船だ。
 “外の海”は、災害クラスの時化や運悪く魔物の大群にでも遭遇しない限り平穏が約束されており、そこを行く船は、まるで萎んだ風船のように傍目からは移動用なのか遊楽用なのか分からないほど、のほほんと浮かんでいる。

 一方、もう1つの“内回り”。
 “外回り”が萎んだ風船なら、こちらの風船には空気がパンパンに詰り、空気の吹き込み口が空いている。
 さながらロケット風船のように、港から“射出され”、海の上を高速で滑っていく。
 しかし、海の上を疾風のように駆けるその船は、ときには“外回り”の船より格段に速度を低下させ、そうかと思えば再び自ら作った海の水泡の遥か先へ進んでく。
 瞬間的に爆発的な威力を出す火曜属性の力を出せるマジックアイテムを前方後方へ設置し、船体は硬度を司る金曜属性と柔軟性に富んだ水曜属性の魔力でコーティングした結果の“不規則高速船”のシステムは、船の規模が大きかろうが小さかろうがほぼ例外なく搭載されている。
 しかも、“本当に不規則”なのだ。
 ティーカップに紅茶を注ごうとした日常の何気ない行動や、バスルームで石鹸を踏みかけた不安定な姿勢。果ては、用を足しているときにまで、ほとんど何の警告もなく速度の変化は襲いかかってくる。
 そこまで頻繁に変わるわけでもないのだが、慣れていない者は自分の髪のように耳まで真っ赤にして湯上りの身体を振るわせたり、奇声を上げたあと青みがかった髪の頭をさすりながらベッドの角に涙目の視線を向けたりする羽目に陥ってしまう。
 これでも、揺るがない力を司る土曜属性の魔術で補強しているというのだから驚きだ。
 この船の不規則な動きを予期できるのはただ1人、この船の舵を取っている船長だけである。

 だが、この“あまりに乗り心地の悪い船”に、乗客の誰もが船員に文句を言わない。というより、“そんな船”だからこそ、彼らは乗る気になったのだ。

 そうでもしなければ、幾重にも魔力をかけ合わせたこの船でも“大破する確率がぐんと上がる”。

 平々凡々な移動が求められる“外回り”に対し、“内回り”に託された使命。
 それは、中央の大陸―――“魔王が牙城を構える大陸”の近辺から、生存して目的地に辿り着くことなのだから。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――シリスティア。

 南の大陸と表現されるこの大陸は、他の大陸とは違い、少々特殊な形をしている。
 まず、シリスティアという大陸そのものに、“東西南北の大陸”が存在しているのだ。
 四角形の四隅をごっそりと抜け落したような形状は、地図の上から見れば十字に見える。

 しかし、その規模は広大だ。
 他の大陸が中央の大陸を避けるように半月を形作っているのに対し、シリスティアは、まるで底から突き上げるように十字の切っ先を中央の大陸に向けている。
 そして、南の海に東西南北と広範な面積を確保しているがゆえに、シリスティアは北の大陸―――モルオールとは違い気候の種類に富んでいた。
 ヒダマリ=アキラ率いる“勇者様御一行”が到着したここ―――“シリスティア北の大陸”は、間もなく夏という季節通りに暖かい。

「……いや、冬、なのか? 俺たち南西に向かったんだから…………………春? ん? 今のシリスティアの季節って何だ?」

 青のジーンズにだらけたシャツと適当に羽織った上着。
 若干茶が混ざった頭をかきながら、ヒダマリ=アキラはそう一人ごちた。
 一般人に溶け込みかけているアキラは、服の内側に仕込んだ防具と、背負った剣でなんとか“勇者様”の体勢を保っている。

 アキラは、潮風に吹かれ所々錆び付いた町並みに視線を移した。
 丁度人の良さそうな商人の男が、腰の前掛けの前に抱えた果実を店頭に並べている。黒ずんだ木製のラックも瑞々しい果実が乗ればかえって商品の価値を際立たせていた。
 それに目を奪われていると、一瞬商人の男と視線が合ってしまい、アキラは街の外に視線を外した。街外れから見たそこからは、風になびく草原が見渡せる。
 遠くに見える森林も、さらにその向こうの山も、天上の温かい太陽に照らされて緑のひとつひとつが輝いて見えた。

 気持ちのいい景色だ。アキラは素直にそう思った。

 南の大陸に到着したと聞いて、アキラが最初に思い浮かべたのは“かつて”見た北の大陸―――モルオールの情景。
 流石に、『南に行けば行くほど暖かい』と思うほどではなかったアキラが、同じような気候であるはずのモルオールを思い浮かべたのは自然であったろう。
 あそこの森林は、しん、とどこか寂し気で、山はほとんどゴツゴツとした岩山。
 そうした景色を予想して到着したアキラは、いい意味で裏切られた。

 太陽の照りつけも、頬を撫でるなびく風も、昨日到着したこの港町の匂いも、爽快だ。
 そこで唐突に、この大陸の季節が気になってきた。

「俺が“あの場”に落ちたのは……、春、だろ? で、大体2ヶ月くらいアイルークにいて、で、そっから南西に…………いや、待てよ。ここ南半球? それに、この世界って、回ってる……か、ちゃんと太陽とか昇ってるし……、あれ、それってちゃんと東から昇って……た、よな?」

 挙動不審ともとられるほど、アキラはボソボソと呟きながら太陽を見上げる。
 雲一つもないその空の頂点に君臨する光源は、アキラに何一つヒントをくれなかった。
 よくよく考えれば、自分はこの世界のことを何も知らなかったのだ、と何となく打ちのめされたが、あとで誰かに聞けばいいや、とあっさりと考えることを放棄する。

 だが、

「その誰か…………、いないんだよなぁ……」

 座り込みかけたアキラは再び果物を並べる商人と目が合い、何とか体勢を元に戻した。

 アキラがボソボソと独り言にすがっているのにはわけがある。
 単純に、暇なのだ。

 世界を救う旅、という大仰な旅をしているアキラたちだが、年がら年中、戦闘や鍛錬の中にいるわけではない。
 たまにはこうして自由な時間というものができるのだ。

 特に、“動きがあまりに不規則な船”に乗っていた翌日とあっては、依頼をこなす気にもなれない。
 一応、“かつて短期間とはいえあの船に乗ったことのある”アキラともう1人は耐え切れたのだが、残る2人は1週間という長期の乗船時間にダウン。
 2日か3日過ぎた頃から、怒鳴り声や大声が目に見えて減少していったのは―――本人たちには失礼だが―――どこか面白かった。

 ただ、あそこまで苦痛を強いるような船を造るくらいなら最初から“外回り”だけの便にすべきだとも思うし、大層なことをしていたわりには平穏無事に目的地に到着しているのだからあそこまでする必要はあったのかという疑問も残る。
 しかし、必要だから“内回り”の船があるのだろうし、アキラの預かり知らぬところで海の男たちが危機を脱してくれていたのかもしれない。

 ともあれ、本日は完全休息日として赤毛の少女に指定されていたのだった。
 もっとも、彼女たちは彼女たちで今日はもう復活しているらしく、今頃この街のどこかで女性らしくショッピングでもしているだろう。
 荷物持ちという“栄誉ある使命”の危機を感じ、一声かけて宿屋から街に抜け出したアキラだが、しかし、完全に暇だった。

 この街は港町ということもあり、それなりに大規模なのだが、アキラのような種類の人間には移動時間と歩行速度はほとんど等しい。
 結果、気づけば街外れだ。

「……パックラーラ、か」

 見上げた街外れの看板には、この港町の名前が記されていた。
 それを読み上げたアキラは、“今度は何も考えずに”その文字を捉える。
 すると、まるで魔法陣の隅に敷き詰められているような“意味の分からない記号の羅列”が目に入った。

 この世界のことを知らないと自覚したばかりだからか、アキラはその光景にため息一つ吐く。

 アキラは、この世界の文字を知らない。
 どの単語が何を示しているかも分からないし、主語動詞目的語がどんな順番で並んでいるかも分からない―――が、“解かる”。
 “見よう”と思えば記号に見えるが、“読もう”と思えば情報が頭に入ってくる。
 それは、例えば『☆』が、『星マーク』と認識できるように、頭の中で変換されていくのだ。

 当然、言葉も知らない。
 だが、アキラは“現地民”と普通に会話できるし、場合によっては元の世界の“ことわざ”までも相手に伝えることができる。

 この力がなければ、アキラはゆうに1年2年はアイルークの孤児院で言語の学習をする羽目になっていたであろうし、何より未知の世界で会話もできない恐怖に心が壊れていたかもしれない。

 だが、改めて思うと、

「……………………“ご都合主義”……だよなぁ」

 結局、アキラはいつも通りの結論を出した。
 深く考えるのは止めにしよう。
 アキラは軽く頭をかき、広大な尊厳に背を向ける。

 単純に街を往復するだけの行動になっているから、今度はどこかの店にでも入ってみよう。
 そんなことを考え、アキラが1歩踏み出した―――そのとき、

「……!」

 また、果物屋の男と目が合った。

 男は今度こそ客を逃がさないとばかりに笑顔を絶やさず近づいてくる。
 手にはしっかり試食用に切り分けた果物が握られていた。視線に込められたものは、『買ってくれ』の一言だろうか。

 別に逃げる理由もなく、むしろこんな町外れじゃあまり儲からないのだろうかとアキラが同情的に受け止め向かい合った―――その“刻”、

「!!」

 アキラの視線の先。果物屋の商人の後ろ。
 たたたっ、と駆けた小さな影が黒ずんだラックに駆け寄り、いくつかの果物を袋に詰めた。

「あ、え、」
「?」

 万引き現行犯。
 そんなものを目にしたアキラが、喉から潰れかかった声を送るが、商人は気づいていない。
 言葉で伝えることを放棄し、アキラは指を店に向けた。
 すると商人は眉をひそめ、ゆっくりと振り返り、叫ぶ。

「どっ、泥棒っ!!」

 その大声に、小さな影はびくりと震え、再びたたたっと路地に駆け込んでいく。
 その機敏な動きは、商人が店に駆け戻った頃には遥か彼方に消えている。

 次に男が見たのは―――彼も動転しているのか、アキラだった。
 そして今度は視線に別の言葉が宿る。
 思わず、といったような状態で、男はアキラにそれを送ってきた。

 『追ってくれ』

―――***―――

「『体調なんてもうバッチリでさぁっ!!』……か。サクさん、あたしそう聞いた気がしたんだけど……?」
「奇遇だな、私もだ」

 1本に結った背中まで届く長い赤毛に、普段はきっとした瞳。
 しかし今はどこか遠くを見るように目を細め、額に手を当てているのはエリーことエリサス=アーティ。
 “とある事情”から、打倒魔王を志す“勇者様御一行”の一員になっているのだが、旅の敵は何も魔王や魔物だけではないと思い知らされているところだった。

 エリーに応じた女性も、似たような表情を浮かべている。
 エリーと違って短い黒髪を頭のトップに近い位置で結わい、特徴的な紅い着物を羽織っているのは、サク。
 彼女も“とある事情”で“勇者様御一行”である。
 サクのすぐ傍の近くに立てかけてあるのは、黒塗りの鞘の長刀。
 彼女自身、女性にしては長身だが、この刀は下手をすればその背に届きそうなほど長かった。
 だが、凛としたサクに良く映えるその刀も、この旅の敵の前には何の意味も成さない。

 なにせ、

「……あれ? 世界が回っている……くるくるーっと……あはは、そりゃそーですよ、だって世界は回ってる。ははは、ほらほらほら、あっしはだいじょーぶっ、だって世界が回っているって知ってるんですよ? へへへ、さあ手を取り合って踊りましょうっ、くるくるーっ」

 いや、役に立つかもしれない。切るべき者がいれば。

 不気味な笑みと、意味不明な言葉。
 ほんのりと顔が赤くなっている少女は、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 彼女も“勇者様御一行”の一員だ。
 青みがかった短髪の小柄なティアは、昼時に立ち寄った喫茶店の椅子を2つ使い、仰向けに寝転がっていた。
 彼女の視線の先には、シミ1つない白い天井が広がっているのだが、彼女には何か別の世界が見えているのかもしれない。
 この昼間から酒を嗜んでいるとしか思えない風体だが、悲しいことに彼女の無駄口はデフォルトであり、そして状態は絶賛流行性感冒だったりする。

「ティア。あたしあれだけ昨日寝るとき注意しなさい、って言ったじゃない。昨日はサクさんと同室だったのに……」
「一応、私も同じことを言った。だが、気づけばベッドから転がり落ちていた」

 サクは一応自分の義務は果たしていると言わんばかりにエリーに言葉を返した。
 だが恐らく、昨晩の不養生だけが関係しているわけではないだろう。
 ティアの“これ”は今に始まったことではないのだ。

「気候が少しでも変わると、風邪をひくって……、はあ、だったらだったで宿に残ってなさいよ」

 ティアは旅というもの―――いや、常識というもの、と言った方がいいだろう、それへの配慮があまりに欠けていた。
 寒くなったら衣服を着て、熱くなったら服を脱ぐ。
 それは常識なはずだ。
 何しろ寒かったら衣服を着なければ風邪をひくし、熱いのに服を脱がなければ汗をかいて風邪をひく。
 いずれにせよ導き出されるその終点に、しかしティアは“結果”が出るまで服装を変えようとしなかった。
 しかも風邪をひいているのに動けなくなるまで動くのだからタチが悪い。
 つい先ほどまで、窮屈な船旅から大きな街へ解放されたティアは2人とともに元気に歩き回っていた。
 それなのに、気づけばこれだ。

 エリーは心配半分呆れ半分に、ティアに視線を向ける。
 無邪気な子供に見えるティアを見る目は、出来の悪い妹に向けるようなものだった。

 だが、ティアは、エリーのそんな気持ちを知ってか知らずか、

「……あれ? 何の話してましたっけ? あ、そだ、裸のエリにゃんがお風呂場ですてーんっ、と」
「っ、サクさん!?」
「一応弁明しておくと、昨日私の睡眠時間を確保するためには何か話さなくてはならなかったんだ」

 就寝間際、しきりに話しかけてくるティアに、サクは船でエリーから聞いた話を生贄として差し出した。
 1人用のバスルームから顔まで赤くして出てきたエリーの呟き声を拾っただけの情報であったが、エリーの顔色を見るに、それはそれは壮絶なこけっぷりだったのかもしれない。

「もぉぉぉおおおっ、この子に知られたら総ての人間が知ってるようなもんじゃない」
「しっ、失礼ですよっ、……きゅぅ」

 顔を赤くして悶えるエリーに、何とか声を絞り出しているティア。
 それを尻目に見ながら、サクは立てかけてある愛刀を掴み、足元に置いてある荷物を束ねた。
 先ほど久しぶりの大きな町だと張り切って出かけた買い物の成果だ。
 あまりそういった方面に積極的でないサクの荷物はないのだが、ティアがこうなった以上、一旦宿屋にティアごと運んでおくべきだろう。

「そろそろ行こう。病人がいるなら、長居は無用だ」
「そうね」
「いっ、いやっ、あっしはもう、だいじょーぶいっ……こほ」

 サクはエリーと視線を交わし、共に頷き合う。
 ティアの基準で物事を判断していては、悲しい結果しか生み出さないのは最後の『こほ』が証明している。買い物の中ティアが調子に乗ってつけた香水だけが、唯一の元気の名残だった。

「ほら、ティア。行くわよ」
「なっ、なにぉぅっ、まっけねぇぇ……ああっ、」
 風邪だというのにまだ遊び足りないのか、ティアは抵抗。しかし結局エリーに肩ごと抱えて起こされる。
 病気に浮かされた子供は、すがりつくようにテーブルを振るえる指で掴んだ。

「くぅぅ、情けねえです……。アッキーの役にも立ってないですし……、」
「それはそれ、これはこれ、よ。今治さないと、明日から先生もできないでしょ」
「うぅ……、そうです……ね……」
 それで納得したのか、ティアはテーブルから手を話し、エリーに引きずられていく。

 ティアが仲間に加わってから、アキラの講師役は増えていた。

 まず、身体能力向上や防御膜を始めとする魔術の基礎を担当するエリー。
 そして、剣を使った戦闘や回避を担当するサク。
 最後に、魔術の遠距離攻撃を担当するティアだ。

 全体的な進捗度としては、上々。アキラの実力は当初に比し、相当伸びている。
 具体的にどの程度、とは表現できないが、とりあえず“最弱”の大陸―――アイルークを1人でうろつき回れる程度だ。
 だからこうして、アイルーク大陸よりは魔物に力のあるシリスティアに来たのだから。
 だが、個別に見ると、極端に滞っている“授業”がある。

 ティアの遠距離攻撃。
 端的に言って、ティアの指導は感覚指導だ。
 前に、サクも自らの鍛錬をしながらアキラとティアの会話に耳を傾けていたのだが、『ばーっ、ってやって』だの、『どーんっ、となります』だの、サクは一瞬自分の魔力の込め方さえ忘れかけてしまうほどだった。

 ただ、それが悪いわけではない。
 アキラはアキラで感覚指導が向いているのか、その場では正しく理解していたようにも思える。
 しかし、彼の才能ゆえか、未だ魔力を飛ばして敵を討つことはできていない。
 どうも、手元から魔力が離れていくイメージを掴み切れていないようだ。

 そんなこんなで、未だアキラは剣のみの攻撃しかできない。
 身に着いたものと言えば、せいぜい暗闇を照らす照明がノッキングしなくなった程度だろうか。

「はあ……、」

 サクは荷物を担ぎ、自然とため息を吐いていた。
 “何でもできるようになりたい”、と言っていたあの男は、未だその域に足を踏み入れられていない。ティアがいる分後方支援の方は当面問題ないだろうが、それでも一応は“師”として、“生徒”の将来に不安が尽きなかった。

「遠距離攻撃……か。やっぱり日輪属性は難しいのかしらね?」
 サクが荷物を持って反対方面からティアを抱えると、エリーが呟いた。

「調べてみたのか?」
「え、ええ。まあ、一応あたしも魔術の先生だし……。でも、さっぱり。結局ヘヴンズゲートの図書館も空振りだったし」

 ぐったりとしたティアを挟んでの会話。
 エリーの横顔は、どこか疲れているようにも見えた。

 サクは例の魔物騒動のあと、エリーが図書館に向かったのを思い出す。
 だが、日輪属性のこととなると、流石のヘヴンズゲートの図書館も役に立たなかったらしい。

 世に存在する七属性中、最も謎に包まれている属性―――日輪。
 歴代の勇者を見ると、多くの者はその属性を有していたそうだ。

 “神話”として語り継がれている“勇者様”の物語。

 サクもいくつか目にしたことがある。
 だがその実、具体性を帯びたものは存在しなかった。
 それゆえに日輪属性について数多の俗説が飛び交っている。

 ある説は、日輪のように虚空に浮かび上がると言った。
 ある説は、日輪のように総てに恵みを与えると言った。
 ある説は、日輪のように万物総てを焼き消すと言った。

 どれが正しいのか、あるいはどれも正しくはないのかまるで判断がつかない。
 圧倒的にサンプル数が少ない日輪属性の者の力は、未だ闇に包まれている。

「ま、本人あんまり悩んでないみたいだからいいけどね」

 ティアを一旦近くの席に座らせ、エリーは財布を取り出してレジに向かった。
 魔術の講師役としてはどうかと思うが、彼女はそこまでアキラが遠距離攻撃について伸び悩んでいることを懸念しているわけではないようだ。

 ただ、サクも、もしかしたらティアも、同じような感想を今のアキラに抱いているのかもしれない。
 すなわち、安堵だ。

 爆発的に、というわけではないが、アキラは順調に力を増している。
 そして精神的にも、少しはタフになっているであろう。

 しかしそれ以上に、最近の彼は“枷”が外れているように見えた。
 あれは何時頃からだったろう。サクの見立てでは、ヘヴンズゲートの事件以降だ。
 現在のアキラの比較対象として、ヘヴンズゲート以前のアキラを思い出す。

 確かに、笑いはしていた。
 確かに、戦闘は―――そうしなければ生き残れなかったという面が強いが―――集中していた。
 だがそれでも、あらゆる事象にどこか興味薄気で―――言ってしまえば不気味だったのだ。
 この1カ月では、何かを察したかのように、ふらっとどこかへ消えることも―――多分、なかったと思う。

 今では遠距離攻撃が使えないという“些細なこと”程度が問題になっている程度だ。

「ううぅ、でもやっぱり情けねぇですよ。あっし、先生なんですよ?」
「お前が努力しているのは知っている。今は風邪を治すこと、だ」
「でもでも、」

 そうこうしているうちに、エリーの清算が済んだ。
 サクは荷物を持ち直し、ティアを抱え起こす。
 エリーも反対側に回り、ティアの腕を肩に回したところで―――

「……?」

 サクは視界の隅に妙なものを捉えた。

 この飲食店の大きなウィンドウ。
 そこから見える大通り、日光を浴びる建物、行きかう人々―――その向こう。
 たった今話題に出ていた人物が、全速力で走っているのが見えた。

「お、おい、あれ、」
「はあ……、ま、ティア。あとで日輪属性のことはまた一緒に考えるから、とにかく宿に戻りましょ」
「な、なあ、2人とも、」
「わっかりました……、とっとと治して……くるくるーっ」
「いや、今あそこにくるくるーっ……じゃない。今、」
「もしかしてティア、酔ってる?」
「だから、あそこに酔っ払い……って、そうじゃない。見えなかったか?」
「なにおぅっ、あっしはシラフでさぁっ」
「ちょっ、話を、」
「初めて酔っぱらい以外でその言葉を聞いたわ……、ほら、歩くわよ? 明日は依頼とか受けなきゃいけないんだから……、大丈夫?」
「……………………、」
「おうさっ、私にっ、」
「任せられるかぁぁぁあああーーーっ!! 話を聞けっ!!」

 並んで歩く中会話の混乱に、サクは大声を張り上げた。
 シン、とした店内で、従業員含め全員の視線が自分に集まっているのを感じ、サクは顔を赤くしながら窓の外を指す。
 一歩間違えば、この手が向かった先は提げた愛刀だったろうか。
 しかしその甲斐むなしく、対象人物はすでに雑踏の中に溶けていってしまった。
 サクの指は道のど真ん中を歩いている人物を代わりに示してしまっている。

 その人物は雑踏の中にあり、しかし頭1つ分飛び抜けていた。

「ど、どうしたのサクさ……、わ、背、高……」
「わわっ、あっしの何倍あるんでしょうね?」
「いや、それは人間としておかしいでしょ……、で、サクさんあの人がどうかしたの?」
「カルシウム採りたいって話ですか? 牛乳とか。でも実は背を伸ばしたいなら……ああっ、別の要件ですかっ?」
「…………もういい」

 いじけながら戻したサクの指は、奇しくも店内全員の視線を集めてしまった人物から外れる。
 もういい教えてやるもんか、とサクは病人への配慮が欠けた速度で歩き出す。

 エリーは僅かに速度を緩めさせながら、サクの気を紛らわすつもりで一言呟いた。

「はあ……、でもどっかにいないもんかしら? 都合良く日輪属性の人間が」

―――***―――

「スライクーーーッ!!」

 その声に、スライクと呼ばれた男は何ら反応しなかった。
 短い白髪に、それとは対照的な金の眼。
 猫のような鋭い瞳を持つその男は、身長2メートル近い体躯を黒いシャツにジーンズと簡易な服に身を包んでいる。
 そして腰には、剣―――いや、大剣。
 刃渡り2から3メートル、幅は40センチ以上。
 まるで彼自身をそのまま剣に置き換えたほどの巨大な凶器を腰に提げ、人の行き交う道のど真ん中を悠々自適に歩いていく。
 その異質すぎる凶器ゆえか、はたまた“戦場を知っている者”の空気がそうさせるのか、誰もが彼を避け、雑踏そのものが彼を避けていた。
 戦闘に疎いものでも、彼を中心に展開した人の輪が、“攻撃範囲”だとでもいうかのように誰も近づいたりはしない。

「スライク!! 聞こえてんなら返事位しろよ? ……てか、お前見つけやすいな」

 その“攻撃範囲”に、1人の若い男が飛び込んできた。
 山吹色のローブを羽織い、1メートル程度の杖を背負った黒髪の男は、呆れたようにスライクの隣に並ぶ。
 彼自身、背が高い方ではないのだが、そこまで低くはない。
 しかし、長身のスライクの隣に並ぶと、一層小柄に見える。

「そうそう、今日の依頼請けてきたぜ?」
 杖の男が、まるで速度を緩めないスライクを咎めるでもなく、いたって軽い口調で語りかける。懐から取り出したのは、たった今酒場で請けてきた依頼書だった。
 橙色の用紙の上隅に、正式文書であることの証明としてシリスティアの翼を模したマークが描かれている。

「何かの話し合いをするらしい。集まるだけで金が貰えるってんだから、流石に金持ちの国は違うな」

 聞いているのかいないのか。スライクは杖の男の言葉に何の応答も返さない。ただ無機質に、猫のような金の眼を携えて街を歩いているだけだった。
 だが、気にせず杖の男は話し続ける。

「何でも、“でかい事件”を解決したいらしい。今日はその顔合わせ。俺たちこの街に着いたばかりだし、たまにはこんな楽な依頼もいいんじゃないか?」
「……でかい事件だぁ?」

 ようやく、スライクが口を開いた。
 漏れたのは、どこかチンピラのような口調。
 そのまま歩く速度を緩めることなく、瞳を流して杖の男が持っている依頼書に向ける。

「ああ、でかい事件だ」
 口を開いたスライクに、別段リアクションも起こさず杖の男は依頼書をひらひらと風になびかせる。

―――丁度そのとき、“人の輪”の向こう、スライクの眼に路地に全力で駆け込んでいく男が見えた。

「…………このクソ暑い中頑張るなぁ、おい」
「おお、若いねぇ」
「テメェも似たようなもんだろ」

 スライクは毒づくと、さらに歩調を上げる。
 実際、先ほどの男は自分たちとそう変わらないだろう。

「あ、待てって!! なあ、さっきの奴剣背負ってなかったか? あの人も来るかもな、これに…………ってまあまあ待て待て。とにかく今日の依頼はこれにしようぜ」
「パス」

 先ほどの男を頭の中から追い出し、スライクは一言杖の男に告げた。
 杖の男は分かりやすくため息を吐き出し、何か言いかけたところで、

「大体、でかい事件っつーのは?」
 スライクが、つまらなそうな口調でそれを封じた。

「いや、受付の人もそれ以上知らなかったし……、依頼書にも、最重要案件としか、」
「てめぇの見立てを聞いてんだよ。マルド」
 マルド、と呼ばれた杖の男は僅かに止まり、次いで出したのはまたもため息だった。
 スライクは猫のような目を鋭くし、

「どうせ見当ついてんだろ? 俺の居場所もすぐに割り出しやがるんだからなぁ」

 苦々しげに呟いた。

 最初にマルドに出逢ったのは―――いや、出逢ってしまったのはいつだったか。
 彼の出身地である西の大陸―――タンガタンザを当てもなく旅して回っていたスライクは、いつからか道中異常な頻度でマルドに出逢うようになっていた。

 どこまでが偶然で、どこからが必然だったのか。
 あるいは、全てが必然だったのか。
 意図せず行動を共にすることになったマルドに、スライクは諦めにも似た感情を抱いていた。
 どうせ誰がいようと、自分は自分の赴くままに進んでいくだけだ。

「男につかれても面白くないって? まあ、俺はお前の近くにいると“妙な事件”が起こるからそれ目当てなんだけど」

 そんなマルドを、スライクは“いかれた情報屋”として認識していた。
 マルドは“旅の魔術師”に分類される人間だ。
 魔術師試験を突破できるであろうに、その知識を妙な事件に好んで向ける奇特者。

 そんな人間には、“奇妙な星の下”に生まれたスライクは蜂蜜の塗られた大木のように見えるのだろう。

「で、ご推察の通り。俺はその“でかい事件”が何なのか察しがついてる」
「かっ、情報伏せてる意味ねぇな、おい」
 当然、そんなマルドの言葉に、スライクは驚きもしなかった。

「俺の見立てでは―――あの“樹海の事件”だ」
「……!」
 僅かに、スライクの表情が変わった。
 別に恐れ慄いているわけではない。
 ただ単純に、必要最小限の情報しか持とうとしない自分でさえ、その事件を知っていたからだ。

「ぱっと調べただけで、似たような依頼が4つはこの近辺の街でも発生している。その上、“国からの依頼”。そんな事件、シリスティアじゃ1つしかない」

 それが、“樹海の事件”。
 どこか重々しいマルドの口調だったが、スライクは興味が薄れてきたのか欠伸だけを返した。

「パス」
「おいおい、スライク?」
「んなくっだらねぇ話し合いに出ろだぁ? 金積まれてもお断りだ」
「いや、まさにその通りなんだけど……、って、生活費どうすんだよ?」
「てめぇはてめぇで稼げ。俺はごめんだね」

 歩く速度を僅かに上げ、スライクは雑踏に輪を作りながら進んでいく。
 後ろでマルドの声が聞こえた気がしたが、構わず“人の輪”を作り続ける。

 そして、これ以上マルドに粘られぬよう、スライクは呟いた。

「“失踪事件”なんざ、巻き込まれる方が悪い」

 雑踏にまみれた小さな声でさえも、“情報屋”たるマルドは拾ってみせただろう。

―――***―――

 はてさて、自分は一体どこにいるのだろう。

 ヒダマリ=アキラは、呼吸を荒げながらも、額を拭って考え込んだ。
 体力に限界が来て緩めた歩調で行くこの街―――パックラーラは、アキラの全く知らない顔を見せ始めていた。
 つい先ほどまで穏やかな街を全力疾走していたアキラが辿り着いたのは、どこか無機質な建物が整列している空間。四角い、倉庫のような白塗りの建物が、隙間5メートルほどで大量に設置されている。
 1つの大きさは、約2、30メートル四方。ひとつひとつに、装飾の一切ない両開きの扉が付いていた。
 随分と広い空間だ。
 それらがずらりと並んでいると、無機質ゆえの不気味さが漂ってくる。
 潮の匂いが届くことが先ほどまでの町並みとの共通点だが、かえって日常に割り込んだ“異物”のように感じられた。

 アキラは鬱陶しくなってきた太陽から逃れるように倉庫の陰に身を潜め、背を預ける。
 背中の剣がガシャリと鳴ったが、もしこれが支えの役割を果たさなかったらそのままずるずると座り込んでいただろう。
 それだけ、足腰が痛んでいた。

「はあ……、はあ……、」

 さて、自分は何をやっているのだろう。
 何となく1人で行動してみて、どことなく街を流離う旅人を連想して格好つけていたつもりだったのだが、何故髪を振り乱してまでこうして汗だくになっているのか。
 情緒不安定になって錯乱したわけでもなく、この広大の世界に身体を任せて駆けずり回ってみたくなったわけでもない。

 ただ単純に、あの商人の視線だけの願いを断り切れなかったのだ。

「はあ……、はあ……、」
 脳にようやく酸素が回り始め、アキラは本来の目的を思い出す。
 自分は、追っていたのだ。
 あの店から商品を盗んで走り去った、小さな影を。

「ふう……、」

 アキラは腕で壁を押し返すように身体を立たせ、視線を周囲に配る。
 ところどころに倉庫でできた十字路ができ上がり、簡単な迷路のようにも思えるこの空間。
 自分が追っていた小さな影が、この場所に走り込んでいったのは間違いない。

「……?」

 倉庫の迷路に足を踏み入れたとき、アキラの鼻孔を妙な匂いがくすぐった。
 潮の匂いとも、埃の匂いとも違う、何かが腐敗したような臭い。
 そういえば、この整列された倉庫の空間は、一体何のためにあるのだろう。

「どわっ!?」

 考え事をしながら歩いたせいか、それとも思ったより足にきているのか、アキラは土の地面に埋まり込んでいた小さな石に見事に突っかかり、転びかける。
 誰にも見られていないが、何とか面目を保とうとして体勢を立て直したアキラだが、十字路に背中に担いだ剣の先が引っ掛かり、そのまま結局転んだ。
 こんなことになるなら出し惜しみしていないで魔力を使って追い掛けるべきだったか、などと思ったところでもう遅い。

 見事にビターンと転んだアキラは、悶々としながら荒い呼吸を繰り返す。
 明日からの朝練では、もう少し走る距離を伸ばすべきかもしれない。

「……だ、大丈夫……?」

 今しがたアキラが通り過ぎた十字路から、幼い声が聞こえていた。
 消え入りそうなほどか細いその声に、アキラはびくりと身体を揺すり、即座に立ち上がる。
 何とか面目を保とうと立ち上がり、自分が転んだこと事態を事実から抹消するかのように、あくまでクールに努めて振り返った。

 そこにいたのは、

「……あの、大丈夫?」
「…………っ、っ、っ!!」

 アキラが追い掛け続けていた、小さな影の正体だった。

「……!」

 びくっ、と身体を振るわせた追尾対象を見て、アキラは両手を上げ、追う気がないことをアピールする。
 彼女も息を弾ませているようだが、情けないことにアキラは走る気力も起きない。
 それで安心したのか、相手はその場で退避体勢を解く。
 ただ、アキラに近づこうとはしなかったが。

 その追跡対象は、小さな女の子だった。
 年齢は、10歳かそこらだろうか。
 色彩の明るい長髪を、首の後ろで縛り、そのまま背中に垂らしている。
 エリーが戦闘時によくしている髪型だが、目の前の少女の髪は子供そのままの手つきで所々あらぬ方向に飛び出し、雑だ。
 もともと癖っ毛のようだ。

 しかし服装は、年相応の子供のものではなく、質素な灰色のワンピース。
 元の世界なら天真爛漫な子供に囲まれつつも、教室の片隅で静かに本を読んでいるようなタイプだろうか。
 そして身体の前にはズタ袋のようなものを守るように抱え、中には布越しに丸い果実が入っているのが分かる。

「…………、」

 こんな子供に、追いかけっこで負けたのか。
 しかも、気遣われもした。
 世界を救うはずの、“勇者様”が。

 アキラは僅かに熱くなった目頭を押さえながら、ようやくゆっくりと口を開いた。

「えっと、それ、盗んだんだろ?」
「……、」
「……いや、それはいいや。どうせあの店の人も、もうそんなに気にしてないだろうし……。ま、でも、盗むってのは、」
「……、」
「…………あの、さ、……えと、」

 アキラは珍しくも、自分が殊勲なことを口にしていると思っている。
 それに、極力子供に話しかけるために口調も選んでいる。
 発言も、ソフトな表現でしているつもりだ。

 だが、何故目の前の少女は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべているのか。

「……だって……、お腹、……お腹、空いて、」
「いや、だから、」
「お……、お金……、お金なくて、……うぅ……、」
「わ、分かった、分かったから、」

 ついぞポロポロと流し始めた目の前の子供に、アキラは大きく頭を抱えた。
 まるで叱られた子供が、初めて自分が“悪いこと”をしたのだと認識しているようではないか。
 完全に調子が狂わされる。

 子供の相手は、リビリスアークの孤児院で経験済みだ。
 しかしあそこの子供たちは、どちらかというとクラスの中心ではしゃいでいるようなタイプだ。だからアキラも気を遣わず、むしろ一緒に遊んでいるかのように振る舞えた。
 一応年齢的に比較に出すのは失礼かもしれないが、精神的に似ているティアのような子供相手ならアキラは気兼ねなく一緒にはしゃげる。
 それなのに、目の前の少女は逆。教室の片隅で、本でも読んでいるようなタイプなのだ。
 ちなみに、声の音量もティアとは両極端に位置している。
 泣き出している子供の相手は、自分などよりむしろエリーの方が向いているだろう。

「お腹……、お腹空いて……、」
「だ、だから、分かったって、な?」
「お金、、も、な、なく、なって、い、依頼も……、請けさせて、もらえなくて、」
「依頼……? ―――?」

 そこで。
 アキラの脳裏に妙なものが掠めた。
 今彼女から漏れた言葉はさておき、この感覚は、既視感とでもいうべきか。

 アキラの中には、2つの記憶が内在している。
 1つは、“一週目”の記憶。
 そしてもう1つは、“二週目”の記憶だ。

 “一週目”の記憶は封がされている。
 こちらは、特定の“刻”を刻むと呼び起こされるものだとアキラは認識していた。
 そして“二週目”の記憶。
 詳細総て、というわけではないが、こちらはアキラの記憶に刻まれている。
 もっとも、いずれの記憶にしても、こうして既視感はときおり姿を現す。

 “二週目”のルートから外れている現在、アキラがこうした感覚を味わったということは、この既視感は“一週目”のものだろう。

 この久しぶりの感覚に、アキラは頭を振り払った。
 そんなものに捉われていても仕方がない。
 今問題なのは、相変わらず目の前で涙目になっている少女なのだ。

「え、えっと、俺はヒダマリ=アキラ。君は?」

 気を紛らわすつもりで自己紹介を始めたアキラに、泣き腫らした頬を擦っていた少女は、紅くなった顔を向け、

「わたしは…………、キュ……、キュール……、キュール=マグウェル……うぅ……、」

 アキラがどこかで聞いたような名前を返してきた。

―――***―――

「む」

 エリサス=アーティは、パックラーラに設置された公共施設の中で眉をひそめた。この公共施設は、小さな村でさえほとんど設置されている郵便所だ。

 流石に大きな町のここはその辺りの村とは違い、小麦色の清楚な壁、天井付近にはイミテーションなのか連なったリングの装飾、努めて清潔さを出すように照明に使われている希少なマジックアイテム、十分に広さをとった待合席、さらに建物の奥に仰々しく飾られているシリスティアのシンボルでもある翼を模したマーク、と、そのままホテルにでも変えれば収入が見込まれそうな雰囲気だが―――結局、役割としては他の場所と変わらない。

 あの翼を模したシンボルの下の受付で、郵便物を受け渡しするだけだ。
 シリスティアという場所は、一々外観にこだわる場所らしい。

 そんな壮観な空間で、エリーが受付から受け取ったのは奇妙な着色を施された手紙だった。
 妙に手触りのいいその封筒は、残念なことに緑と紫、さらには黒まで入り混じるという奇抜さが見えている。
 その毒々しい表紙にはこの場所の所在地が記されていた。

 これは、エリーの育ての母―――エルラシアから届いたものだ。
 船に乗る前エリーが出した手紙で、自分たちがこの街にいることは知っていたのだろう。

 受付の妙な視線を浴びながら、エリーは待合席に座り込む。あくまで自分が求めたものではなく、相手が勝手に届けた郵便物であることのアピールをしたいのかもしれない。
 封筒を開けると、同じ色の手紙が飛び出してきた。

「……、」

 エリーはその手紙に目を通す。

 リビリスアークは平和なこと。
 孤児院の子供たちは変わりないこと。
 エリーたちの身を案じるような内容などが並べられ、最後に売れ残った紙を押し付けられ、手紙として使うことにしたと記されていた。
 そういえば孤児院の隣近所に趣味の色が強い雑貨屋があったことをエリーは思い出し、これからしばらくこの奇抜な紙での通信が続くであろうことにため息を吐き出す。
 大量の手紙を郵便で押しつけられなかったのが救いだろうか。

 あれからティアを宿に送り届け、気になることがあると1人で出かけたサクを見送ったエリーは、手持ちぶたさにここに立ち寄ったのだ。
 まさかこんな冒険心むき出しの紙に出遭うとは思ってもみなかったが。
 『混沌』をテーマに作成でもしたのだろうか。だとしたら大成功だ。

 だが、とりあえず、向こうは安泰のようだった。

「……よし、」
 流石に公共の場でこれ以上この紙を見せる気にはなれない。アピールは十分だ。
 簡単に流し読みし、あとで読み直そうと思いながら手紙を仕舞おうとしたところで、

「うわ……、え、なにこれ?」

 そんな声が、受付から聞こえてきた。

 エリーが視線を受けつけに向けると、山吹色のローブを羽織った男が受付で『混沌』に怪訝な表情を向けている。
 黒髪の男の体格は華奢で、エリーより僅かに背が高い程度だろうか。
 男は背中に木刀のようにも見える杖を背負い、受け取った手紙を汚物でも持つかのように指先で掴んでいた。

「ん?」

 エリーが硬直していると、その男と目が合った。
 いや、男はエリーを見ていない。見ているのは、エリーが庇うように持っている『混沌』だ。

 男はまるで未開の洞窟に踏み込むような慎重な足取りでエリーに近づき、こんなことを口にした。

「もしかして、この前衛的な手紙、流行ってたりする?」

―――***―――

 サクは雑踏の中、確かな足取りで歩いていた。

 あの、『賑わっていた』、というよりは『ごった返していた』と表現できたヘヴンズゲートほどではないが、このパックラーラも相当なものだ。昼を過ぎているのというのに、人通りは変わらない。
 観光目的に見える民間人、それをターゲットに商品を歩きながら販売する商人、そしてときおりサクのように武器を携えて街を練り歩く“旅の魔術師”と、様々な種類の人間がいる。

 確かにここ、シリスティアは、色んな人間が集まる大陸であろう。
 世界地図の下方を十字架で占領するように展開しているこの大陸は、そんな形なのに途方もないほど広い。
 治安も良い方だ。国や地方の村々が躍起になって駆除を行っている結果だろう。
 魔物たちも“最弱”の大陸―――東のアイルークほど弱くはないが、そもそも数が少ないのだ。
 何しろ自分たちは、北の大陸―――モルオールの目前にいたというのに、わざわざ進路を変えてシリスティアを目指したくらいなのだから。
 そしてその治安の良さからか、魔物たちに作物や自然を破壊されることなく、四季の移ろいを感じられる大陸を演出している。
 1番層が厚い中級者たちの魔物討伐にも、一般人の観光にも、シリスティアは打ってつけ。
 そしてその入り口たるこの港町は、数多の人で溢れるのだろう。

 だが、そんな群衆の中でも、サクは一際目立っていた。

 凛とした容姿、といった女性としての魅力もさることながら、何よりもいで立ち。
 紅い着物を羽織う、という服装の部分は色んな種類の人間の中にいれば意外と溶け込める部分があるが、腰に身の丈ほどもある長刀を携えていれば話は別だ。

 アイルークではそこまで注目を集めなかったが、物見遊山の観光客が集まっているとなっては、サクは自然と浮足立った視線を集めていた。

 そんな周囲の視線をどこかくすぐったく受けながらも、サクは目的地点に到達し、歩調を緩める。
 ここは、先ほどアキラが駆け込んでいった路地だ。

 大通りから路地に入り込むと、背の高い建物が作り出した影が空間を支配していた。
 幅数メートルのそこは、路地というより建物の間と表現した方がいいかもしれない。
 狭いそこには、誰かが蹴飛ばしたのか一抱えほどの樽が転がり、中のごみを散乱させている。
 そして路地の向こうには、再び大通りが見えた。だがそれでも、全力疾走で駆け込んでいくほどの魅力はなさそうだ。

 あのときアキラは何を思って走り続けていたのだろう。誰かに追われていたようにも見えなかったが。

「……、」

 一瞬、サクの脳裏にアイルーク大陸で出逢ったばかりのアキラの姿が掠めた。
 操られた―――と、表現するべきだろう―――自分から逃げ、彼は訳知り顔で問題の所在地に駆け出していったことがある。
 その行動を、アキラは“隠し事”と表現していた。

 頻繁に起こる妙なことと、アキラの“隠し事”。
 また、何か妙なことでも起こっているのだろうか。

 考えこもうとするも、サクは過敏になり過ぎだと頭を振り、路地を進む。
 抜けた先は、やはり大通り。小奇麗な通りと、賑わう商人や観光客。今来た道と同じような風景が並んでいた。

 やはりアキラはいない。
 いや、例えいたとしても、人々の波に紛れ発見できないだろう。
 アキラの軌跡を辿れば、思ったよりもあっさりと、あの男が姿を現すような気もしていたのだが。

 サクは面白くないものを感じ、ほとんど勘で右に曲がる。
 果たして、アキラを発見できるだろうか。
 こんな、“彩り溢れるという平坦な世界”で、人間1人見つけるというのは至極困難だろう―――

「……?」

 しばらく進んで、サクは眉をひそめた。
 周囲の人々の様子がおかしい。というより、人の波が不規則になりつつある。
 サクに向いていた人々の興味は薄れ始め、徐々に別の1点に注ぎ始めていた。
 自然と、サクもその視線を追う。

 すると、

「……、」

 見えたのは、人の波から頭一つ飛び抜けた短い白髪。
 アキラを窓越しに見かけたときに、近くを歩いていた長身の男だ。

 人々は視線を向けつつも、それから逃れるように掃け始める。
 道の中央を歩いていたサクの前にいた人々がいなくなり、サクと“人の輪”を遮るものが無くなった。

「……!」

 “人の輪の中心”に正面から向かい合い、サクは分かりやすいほど目を見開いてしまった。
 先ほどから見えていた白髪に、健康色の肌。サクも女性の中なら長身の方だが、その男はサクより遥かに背が高い。
 2メートルほどの背丈に、逞しい筋肉。だがそれも、がっしりと、というよりは動きを阻害せぬよう必要最小限が備わっているような理想的な身体つきだった。
 そしてその高さから周囲を睨みつけるような、猫のように光る金色の眼。

 しかし、サクが最も注目したのはそこではない。
 今彼女が視線を向けているのは、その白髪の男の腰に下がった、長い長い大剣だった。
 鞘越しにも分かる、分厚い大剣。“壊れないこと”を追求すると、ああいった形状になるだろう。人の手に収めるために造られたとは思えないその大剣は、当然どこの武器屋でも見たことがない。
 重量もかなりあるはずのそれを、まるで小枝でも扱うように腰に差し込み、男は悠々自適に歩いていた。

「……あ?」
「……!」

 必然。
 道の中央を歩いていた2人はかち合った。
 男からは柄の悪さそのままの声が漏れ、周囲からは興味とも恐怖ともつかない視線が投げかけられる。

「……、」
 サクは僅かに歩調を緩めたが、男は構わず、ずんずんと進んでくる。
 一瞬、男の猫のように光る金色の眼がサクの愛刀に向く。
 それだけで、まるで盗賊が獲物を見つけたような空気が流れ、サクも視線を強めた。

「……、」
「……、」

 だが、それだけだった。

 サクが僅かに進路を逸らし、男はそのままの速度で、互いにすれ違う。
 通り過ぎたのち、サクは僅かに振り返った。
 男の目的は、この道の先にある酒場だろう。依頼か何かで用でもあるのかもしれない。
 恐らく、彼は“旅の魔術師”だ。あの出で立ちで、民間人でした、とは絶対にならないだろう。
 だがそれ以外にも、サクは何故かあの男に妙な“空気”を感じていた。

 その温床を探るべく、サクはその場から男の大剣を眺め続ける。

「…………“タンガタンザ製”、か……?」
 サクは最後にそう呟き、アキラを探すべく歩き出す。

 サクも、白髪の男も、そのまま振り返りもしなかった。

―――***―――

「…………はい」
「……あ、ああ、ありがとう」

 キュールと名乗った女の子に渡された盗品の果物を、アキラは思わず受け取った。
 建物が整列させられている無機質な空間に2人して腰を下ろしながら、アキラはぼんやりと空を見上げる。
 四角く切り取られた空を見ながら、ようやく泣き止んでくれたキュールに安堵しつつ、アキラは思う。

 自分は、何をやっているんだろうか。

「…………食べないの?」
「……いや、ま、まあ、これ、お前のだろ?」
「ううん、思わず2つ持ってきちゃったけど、わたしは1つでお腹一杯」

 キュールはそう言って、果物を取り出したハンカチで拭き始める。
 手のひらサイズでリンゴのような形状のそれは、丸かじりできるのだろうか。アキラは見よう見まねに服で果物を拭き、かじりついてみた。
 新鮮そのものの歯応え。全力疾走直後だからか、瑞々しい甘い果肉が喉を良く潤す。
 キュールは果実を両手で掴んで行儀よく食べ始めている。

「これで俺も同罪か……」
「う……、ご、ごめ……、ごめんなざい……、」
「いや、いやいや、違う、そうじゃないって、てか上手いなこれっ、いや、いいセンスだ」

 途端泣き始めそうになったキュールに、アキラは身振り手振りまで使って落ち着かせようとする。
 非常にやりにくい。
 アキラは確かに女性には弱い男だ。
 だが、流石に“とある小説のタイトルが由来の栄誉ある存在”というわけではないため、小さな子供相手にはおろおろとすることしかできない。

 一応、アキラには“人を惹きつける”日輪属性のスキルというものがあるはずだというのに。
 だがもしかしたら、惹きつけて“これ”なのかもしれない。

「えっとさ、ここって、どういう場所なんだ?」
「……え? う、えっと、倉庫、みたい……。船の荷物とか……、いろいろ」

 何とかキュールを決壊させずに済んだアキラは、そのあまりにか細い声を必死に拾い、何となく周囲を見渡して見る。
 不気味なほど規則正しく並んでいる四角い建物たち。
 これだけ数があるということは、それだけ色々な種類の荷物が区分けされているのだろう。
 そして耳を澄ますと、波の音が聞こえてきた。
 どこだか分からない場所に来てしまったが、もしかしたら海に面しているのかもしれない。

「最初は……、ここから貰おうと思ったのに……、開かなくて……、」
「…………、」

 それは、どこから食糧を確保するか、という話だろうか。
 キュールがここにいるのも、倉庫の中の食料を求めて最初にここに来たからなのかもしれない。
 さらりと出てきた強盗前提のキュールの言葉に、アキラは頭を抱えながらも建物を再度見た。
 質素な造りのわりには、両開きの扉は厳重に鍵がつけられている。

「はあ……、それにしても何で食べ物欲しかったんだ?」
「う……ご、ごめ、」
「いや、それはもういいから。お前、親とかは?」
「…………、」

 キュールが返してきたのは、長い沈黙だった。
 そして、アキラは地雷を踏んだ気がした。

「い……、いない……、いない、から……、お、お金も……、なくなっちゃって……、わたし、わたしは、」
「わ、分かった、もういいから、悪かった」

 やはり地雷だったようだ。
 この世界の詳しい情勢などアキラには知る由もないが、やはり魔物がはびこる世界。
 リビリスアークという小さな村で孤児院が成り立っていたのも、“そういう事情”の子供が多いからなのだろう。

「そうだ。孤児院とかには、」
「いやぁ……だ、そんな場所……、行きたく……な、ない、」
「でも、普通は、」
「やだぁ……、」

 孤児院の利用を促しても無駄だろう。
 アキラは即座に口を紡ぐ。もう一度泣き出されたら、今度こそなだめる自信がない。

「で、でも……、依頼……、依頼、も、請けさせてもらえなくて、」
「……? そだ、さっきも言ってたけど、依頼ってあの依頼か? 魔物討伐とかの……、って、お前、そんなの、」
「が……、がんばる……、」

 キュールから返ってきた言葉に、アキラは絶句した。
 こんな子供が、あの危険な魔物討伐など行えるとは思えない。
 この年齢でそんなことができる人間など―――恐らくはその年ごろから才能が開花していたであろう“あの天才”が脳裏に一瞬浮かんだが―――存在しないとアキラは思う。

 だが、キュールに親はいない。
 一人身で、この世界に放り出されているのだろう。こんな子供を引き取ってくれる家庭も、雇ってくれる店も早々見つかるはずもない。
 孤児院行きたくないと言っている以上、生き残る道はそれしかないのだろうか。

「お前さ、いくらなんでも考え直した方が、」

 常識的に無謀だ。
 こんな子供に、できることなどありはしない。

 アキラがそんな意味合いも込めて、言葉を紡ごうとしたとき、

「“それ”が……、」

 キュールから、さらにか細い声が漏れた。

「“そんなの”がいやだから……、わたしは1人でがんばる……」

 一瞬。
 キュールからある種“敵意”のような空気が発された。

 まるで、自分のことなど誰も分からないとでも言いたげな。
 まるで、子供が大人に反抗するような。

 そんな、“敵意”が。

 すると、この無機質な空間が、どこか彼女の聖域のような錯覚に陥った。
 まるで子供の秘密基地に入り込んでしまった大人のように、“世界”が自分を異物と捉えているような感覚がアキラを支配する。

「……じゃ、じゃあ俺、そろそろ行くけど……、大丈夫か?」

 その、空間に反発されるような感覚を味わい、アキラは立ち上がった。
 キュールは俯いたまま、顔も上げない。
 『大丈夫か?』などという言葉も、大人が子供の世話に面倒になってその場を離れるときに使う定型文のようなものだ。
 キュールも、そしてその言葉を使ったアキラも、どこかその意味で受け取っていた。

「大丈夫……だから、わたしはもう少し、ここにいる」
「…………そ、そっか」

 アキラは窃盗を止めるようには促さず、キュールに背を向けゆっくりと歩き出した。
 無機質な倉庫たちは、去る者を僅かにも引き留めない。

 子供と意見が完全に別れたと思ったのは、初めてかもしれなかった。
 自分がキュールの歳の頃、一体どんな想いを持っていただろう。

 世界の常識に反発し、反発していることが分かっても、なお考えを変えなかった。
 しかしいつの間にか流れに巻き込まれ、その想いも磨り減っていく。

 残ったのは、“幼少時代の大事件”。
 それがもたらした、自分の小さく愚かな想いだけ。

 それもいつか、無くなる日が来るのかもしれない。
 もっとも、それより早くアキラの“リミット”は来るだろうが。

 しかし、それにしても。
 “常識”という前置きをつければ、理由がいらなくなったのはいつからだったろう。

「こんなところにいたのか……!!」
「……!」

 整列された倉庫から出ると、見知った顔が近づいてきた。
 遠くからでも分かる紅い着物を羽織ったサクは、どこか疲れたように歩み寄ってくる。

「サク? なんでここに?」
「…………散歩、だ。ま、まあ、一応お前が走っていたのは見ていたが」
「1人か?」

 聞くまでもなく、サクの他の面子は見えない。
 サクは軽く周囲を見渡し、眉をひそめた。

「なんだ……? ここは」
「倉庫らしい。船で運ぶ荷物を保管してんだろ」

 駆け込んだときには気づかなかったが、倉庫の向こうには海が広がっていた。
 海岸を埋め尽くすがごとく広がる倉庫の群れが、無機質に整列し、丁度長方形を形作っている。
 遥か遠方の海岸沿いには港が見えた。
 随分と巨大な面積を占める保管所だ。
 がむしゃらに中に入ったときは、ここまで広範な場所だとは思っていなかった。
 しかしアキラはそれを一瞥しただけで、すぐに歩き出す。

 サクは怪訝な表情で倉庫を眺めていたが、すぐにアキラについてきた。

「アキラ。お前は一体何をしていたんだ?」
「……別に」

 アキラは、サクにも倉庫にも振り返らず、小さく返した。

「子供に嫌われただけだよ」

―――***―――

 山吹色のローブを纏った黒髪の男は、マルド=サダル=ソーグと名乗った。
 エリーより僅かに高いだけの背丈のマルドには、姉がいるそうだ。
 その姉は、とある村の孤児院で働いているらしく―――セレン=リンダ=ソーグというらしい。

「じゃ、じゃあ、君が入隊試験で“やらかした”……」
「やっ、止めてっ、その話を思い出させないで……!!」

 郵便施設の待合席。
 小さな丸いテーブルを挟んでマルドの正面に座るエリーは、頭をかきながら悶絶した。

 世界というのは思ったよりも広くないらしい。

 エリーの脳裏に、セレンという女性が思い起こされる。
 凛とした表情に眼鏡が光る、鉄面皮にも近い表情。
 黒髪をトップにまとめ、常に規則正しく給仕かがりの格好を崩さない彼女は、エリーの魔術師試験の家庭教師でもあった。

 マルドは、彼女の弟だというのだ。
 セレンがときおり“旅の魔術師”をしている優秀な弟がいるという言葉を口にしていたのを覚えている。
 だがまさか、こんな所で出逢おうとは。

 まあ、互いに旅をして、大きな街にいれば出会うことがないわけではないだろう。
 問題なのは、目の前のマルドがセレンと定期的に手紙のやり取りをしていて、その話の種に生徒の入隊式でのハプニングを持ち出していたことだったりする。

「しっかし、異世界から来た“勇者様”か……、エリサスさん良かったじゃん。上手くいけば玉の輿に、」
「その話を掘り下げないで下さいそれにあいつはそんな崇高な存在じゃないそれとエリーでいいです」

 一気にまくしたて、エリーは再びガシガシと頭をかいた。
 その様子に目の前のマルドは危険な存在を見るかのような目を向け、不気味な色の封筒でわざとらしくパタパタと自分を仰いだ。
 その奇妙な手紙が、エリーとマルドを結び付けた要因でもある。
 リビリスアークの孤児院―――もしかしたら村全体で、その手紙が流行っているのかもしれない。

「でも、何か懐かしくなってきたなぁ……、今度行ってみようかな、リビリスアークに」
「そういえばマルドさん、セレンさんに会いに来たことないですよね?」
「ん? ああ。あの人もあの人で色んな職場回ってるような人だし」

 セレンがエリーの家庭教師になったのは、1年ほど前だ。
 それより前のセレンがアイルーク大陸を転々としながら仕事をしていたことは知っていたが、そこまで詳しく聞いた覚えはない。
 “旅の魔術師”とはまた違った旅人だが、それをするためにはどの職場にでも対応できるほどの有能さが求められるだろう。
 ある意味、“旅の魔術師”より高度な存在なのかもしれない。

「でもあの姉が、生徒がいなくなっても同じ場所にいるとはね……。今の職場、随分と気に入っているみたいだ」

 弟の口からそう聞くと、エリーはどこか嬉しかった。あまり感情を前に出さないセレンは、あの場所に好んでいてくれたらしい。

「最近の手紙なんて酷いんだぜ? 弟のことより君のこと心配してるし……。君からの自分宛の手紙が来なくなったとかで愚痴言ってるし……、あ、見てみる?」
「い、いや、いいです」

 他者宛ての手紙を見るというのも反則だろう。
 セレンが自分を気にかけてくれていることが分かっただけでも十分だ。
 事務的な返信しかしてこない彼女への手紙は、迷惑なのかと極力渋っていたのだが、今後は気にせず2人に手紙を出せる。
 もっとも、あのセレンが自分宛の手紙が来なくなったからという程度でいじける姿は想像できなかったが。

「……あ、やば。さってと、」
「?」

 エリーが想像力を含ませていると、マルドは何かを思い出したように立ち上がった。

「悪い。俺これから行かなくちゃいけないところがあるんだ」
「え? じゃ、じゃあ、あたしもこれで、」
「…………ん、あ、待った。君、これから暇?」
「…………、……?」

 エリーも立ち上がろうとしたところで、マルドは何かを思いついたような瞳を向けてきた。
 遅れて認識できたその言葉に、エリーはぴくりと身体を震わす。

 まるで、ナンパのようではないか。

 正直なところ、エリーは自分が“美”の分類に入ると思っている―――思っていたい。
 打倒魔王を志す旅の中でも、容姿やスタイルには気を遣ってきたつもりだ。
 しかし、サクというベクトルの違う美容姿の女性や、天真爛漫に輝かんばかりの笑顔を浮かべるティアに囲まれ、その上唯一の異性のアキラは誰かれ構わず色香に惑わされているような気がするし何を考えているか分からない。そんな環境の中、何となく、自信がなくなり始めたりしていた。

 だが、ここにきて、これだ。
 自分の努力が認められているような気がする。
 エリーは一瞬でそこまで思考し、しかしどこか後ろめたさそうに周囲を見渡したのち、マルドに言葉を返した。

「ひ、暇、ですけど……、」
「お、よかった。お金稼ぎたくない?」
「……!!」

 エリーの身体は今度こそ分かりやすくびくりと震えた。

 まさか、“こっち”だったとは。
 マルドからは―――悪いとは思うが、セレンの弟といっても、むしろ対極の軽薄そうな雰囲気が感じられていた。
 それが今は、夜の裏道を歩いていると現れそうな怪しい商人のように見えてくる。

 自分の容姿が他者から認められるのはいいが、超えてはならない一線が見えてしまった。
 思わぬ貞操の危機を感じたエリーに、マルドは続けてこう付け足す。

「いや、大したことじゃない。座ってるだけでいいし……、それで金になるんだからちょっとだけ時間使っても大丈夫でしょ?」
「あ、あ、あ、」

 エリーは震えながら1歩後ずさった。
 近くで聞き耳を立てていた者からは怪しげな色の封筒を持った男が女性に迫っているように見えているのだが、誰も割って入ろうとしてこない。

 エリーは、自分の小さな世界がガラガラと崩れていくのを感じ、それでも足は金縛りにあったように動かなかった。

「……………………もしかして、変なこととか考えてる?」
「……へ?」
「姉からも聞いていたけど……、エリサスさんは結構考えちゃうタイプだな……」
「……?」

 事態が分からず口を開かなかったエリーに、マルドはどこか呆れたように呟いて、ローブの中から別の用紙を取り出した。
 不気味な色の封筒とはまるで違う、質感のある橙色のそれは、公的文書によく使われる紙だ。
 エリーもときおり、比較的大規模な魔物の討伐の依頼で目にしたことがあるし、何より魔術師試験の合格を届けてきた手紙もその紙が使われていた。

「依頼だよ。何かの話し合いをするだけで報酬が貰えるんだ。丁度2人分で申請したんだけど、もう1人がパスして余ってるんだよ」

 エリーは走り続けていた自分の思考に、自らの髪のような顔色を浮かべた。

―――***―――

「ちゃおっ」
「嘘だろ……、マジでお前また風邪引いたのか……!?」
「…………ちゃおぅ」

 宿屋に戻ってきたアキラは、力なさげに上げられた手に迎えられた。
 ベッドに横たわったティアを見て、アキラは脱力しながらベッド脇の椅子に座り込む。

 2人だけの部屋は、窓から差し込んでくる紅みがかった日光に染められていた。
 折角今日は休みだというのに半分以上ベッドの上で過ごすことになったというのか、この娘は。

「そういや病気って、魔術じゃ治せないのか?」
「ん~っ、相当難しいと思いますよ? 具合が悪いってだけじゃ風邪なのか体調不良なのかもわからないですし……、それに風邪って言ってもいろいろ種類あるらしいじゃないですか」

 そう言われれば、そういうものなのかもしれない。
 アキラはかつて『病気の治療は無理』と言っていた少女を思い出す。
 目に見えて分かりやすい怪我などは治療することができるのかもしれないが、身体中を侵食するウィルスが原因となってくると、それだけ処置は煩雑になる。
 その少女から『魔力不足』と『身体への負荷が大き過ぎる』と大雑把に説明を受けた気がしたが、それにはそういう意味も含まれていたのかもしれない。

「……あれれっ? そういえばアッキー、残りのお二人は?」

 思考の渦に呑まれ頭が痛くなってきたアキラに、ティアの軽い口調が届いた。
 どうやら大分回復しているようだ。

「サクは何か気になることがあるとかで出かけてった。多分武器屋とかだろ。……あいつは知らない」
「まあ、休日ですからやりたいこともあるんでしょうね」
「その休日にお前は何してんだよ?」
「たはは……、お付き合わせして申し訳ありません」

 ティアはかけ布団を僅かに引き寄せ、気まずそうに笑った。その仕草は、やはり大人に叱られた子供のように見える。
 そこで、アキラの脳裏に先ほどの光景が過った。

「……子供の気持ち、ね」
「? おや? アッキー何かお悩みですか?」

 思わず口から零してしまった言葉を、ティアは律儀にも拾ってきた。

「いや、何でも……、てか、お前は寝てろよ。俺はもう行くから」
「いやいやいや、大丈夫でさぁっ、……さあさ、ご相談なら承りますっ」

 彼女の場合、黙り込んで眠っているより誰かと話している方が元気を出せるのかもしれない。僅かに身体を起こしたティアの目は少しだけ輝いている。
 『人助けをしたい』と言っていた彼女は、こんな状況でも変わらないらしい。
 アキラは僅かに戸惑いながら、言葉を吐き出した。

「……なあティア。お前の気持ちが分からない」
「…………アッキー。今のあっしの気持ちは、その言葉の意味が分からない、です」
「いや、そうじゃなかった……、そう、子供の気持ちが分からない」
「…………アッキー。今のあっしの気持ちは、胸がチクリと痛みました、です」

 ティアは僅かにむくれたような顔を作ると、アキラの言葉を促した。

「いや実はさ、さっき子供に会ったんだよ。ちっちゃい子供。親いないらしくてさ……、でも、孤児院とかに行きたくないって―――、!」

 言葉を続けようとして、アキラは思わず口を噤んだ。
 カラカラ笑っているティアを前にすると、どうしても忘れてしまう。
 彼女もまた、本当の両親を失っているらしいのだった。

「うぅ~ん、あっしの場合はお父さんとお母さんがいましたからねぇ……」

 しかしティアは、そんなアキラの懸念も気にしていないように、うんうんと唸り始めた。

「まあでも、エリにゃんには悪いですけど孤児院って聞くと結構恐いイメージがあります。思いっ切り環境が変わっちゃうのもありますけど、そこに入ると“入ることになった原因”を認めちゃうみたいで」
「…………そういうもんか?」
「そういうもんですよ」

 そう言われても、アキラの知っている孤児院の子供たちは明るく笑っていたような気がする。
 だがそれは、あくまで自分が途中から参加しただけであって、預けられた当初の子供たちを見たわけではない。
 もしかしたら、あの子供たちは孤児院に入ったばかりのときには、自分は今後笑うことができないと思っていたかもしれなかった。

「でもさ、だからって10歳くらいの子供だぜ? 依頼で稼ぐとか言ってたけど……、」
「おおっ、チャレンジャーですねっ、世間の荒波にも負けずっ、……見習いたいもんですなぁ……」
「……!」

 そこで、ティア―――“子供”の決定的な考えの違いに気づいた。
 子供は“世間の厳しさ”というものを、“知らない”、ではなく、“経験していないのだ”。

 無謀だと言ったアキラという大人に対し、どこか敵意のようなものを向けてきたキュールという子供。
 彼女はまだ、“自分”が“世間に通用するか”どうかを経験していない。
 ただ単純に、“大人”が無謀だと言っているだけで、“自分ができるかどうかを試していないのだ”。

 大人は様々なことを経験し、世界の“流れ”がどれだけ残酷なものかを理解し始める。そしてその経験を、子供に伝えようとするだろう。

 しかし子供からしてみれば、自分の“挑戦権”を奪われているような錯覚を起こす。
 すなわち、“自分には無理だと勝手に決められている”、と。

 往々にして“変化”とは、そうした“流れ”に逆らう者から生まれるというのに、だ。

「……そういうもんか」
「そういうもんですよ」

 今度のその言葉は、アキラにすんなり入ってきた。

 何かをやろうとする自分に、“経験者”が無理だと言ってきたら、確かに納得できないだろう。
 自分もまだまだ胸を張って“大人”とは名乗れないようだ。
 この世界で少しくらい成長して、少し大人ぶってみたかっただけなのかもしれない。

「ありがとう。何かすっきりした。やっぱこういう話はティアが1番だな」
「お役に立てたようで幸いです。…………ただ、あっしはあれですよ。大人ですよ。…………そしてアッキー、ここ笑うとこじゃないですよ」

 馬鹿な理由で風邪をひいているティアは、それでもむくれたような表情を向け続けてきた。

―――***―――

 蒼く、蒼く、蒼く。
 碧く、碧く、碧く。
 紅く、紅く、紅く。

 太陽が沈みかけたシリスティア北の大陸は、その総てを内包していた。
 穏やかに揺れるさざ波や、生い茂る草原。それらが夕焼けに染められて、かえって非現実的な風情を醸し出している。

 街からは、人々の平和な喧騒。海からは、寄せては返す波の音。草原からは、山から吹き下ろされる風に揺れた植物たちが奏でる音色が聞こえてくる。

 その、草原の中心。
 パックラーラを見渡せる大草原に、ポツン、と影が落ちていた。

「…………、」

 決して皮膚を露出しないように黒いローブを頭からすっぽりと被ったその影―――“その存在”は、そのローブを風に揺らし、ただただ静かにその街を眺めて―――いや、“睨みつけていた”。

「潰す……、潰す……、絶対に……、絶対に……、」

 漏れたのは、野太い男の声。
 独り言というものが自らを抑制させる意味を持つというのなら、この言葉はその意味を完全に失っているだろう。
 繰り返されるその囁きは、一言ごとに、“その存在”を荒ぶらせていく。

 壮大な大自然。
 “その存在”の足元には、風に揺れる草木。
 見上げれば見える遠方の山々は、封鎖的ではなく、むしろ世界の広がりを感じさせる壮観な景色。

 その世界のただ中で、“その存在”は、ひたすらに憎悪を肥大化させていく。

 そもそも、その存在からすれば。
 “山程度のものを見上げている現状”がどうあっても許せないのだから。

 ギリ、と。
 フードから歯ぎしりが漏れた、そのとき―――“止まった”。

 あれだけざわついていた草原が硬直し、風に吹かれても微動だにしない。
 残ったのは、遠方のさざ波と、男の歯ぎしり。

 その足元は、濁った黄色に輝いていた。

―――***―――

 てくてくてく。
 足音三つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音三つ、元気に歩く。
 てくてくてく。
 足音三つ、だんだん早く。
 てくてくてく。
 足音三つ、駆け出した。

 てくてくてく。
 足音二つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音二つ、急いで走る。
 てくてくてく。
 足音二つ、どんどん速く。
 てくてくてく。
 足音二つ、震え出す。

 てくてくてく。
 足音一つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音一つ、怯えて走る。
 てくてくてく。
 足音一つ、だんだん遅く。
 てくてくてく。
 足音一つ、とうとう止まる。

 疲れちゃった? はい、捕まえた。
 も~う、おしまい。
 足音一つも聞こえない。

―――エリーはその“童歌”を聞いて、状況把握がまるでできなかった。

 街の外れに設置された公共施設。
 もともと何かの話し合いをするためだけの場で、質素な建物には20人ほどはゆうに話し合える会議室が1階2階と合わせて8部屋ほどあるらしい。

 郵便所で出会ったマルドという男に連れられてエリーが到着したのはその一室。
 天井近くに四角く切り取られた窓から夕日が指し込んできている。
 そんな部屋の中央には細長い机が四角形を形作り、旅の魔術師と思われる人間が10人以上は集まっていた。
 それぞれがローブやら戦闘服で身を包み、中にはエリーも見たことがないような武具を背後の壁に携えている者までいる。

 エリーとマルドは入ってすぐの椅子に座り、そんな多種多様な人々と顔を合わせていたが、一番奥に座っていた男が時間と共に“唄い出した”。

「……さて」

 唄い終わった一番奥の男は、深刻な表情を浮かべて机に肘をついた。
 歳は40代後半、だろうか。
 白髪交じりの肩ほどまでの髪に、机まで届きそうなほどの長い髭。皺がくっきりと刻まれた顔と、身体に纏った紺のローブは“その道”の年季をうかがわせている。
 自己紹介も行われていないが、エリーには何となく、その髭の男が魔道士の資格を有しているように感じられた。

「今の唄、聞き覚えのない者などおらんでしょう」

 重厚な口調が髭の男から漏れた。
 突拍子もなく童歌などを唄い出したというのに、その表情は真剣そのもの。
 前置きなしに“話し合い”とやらを始めているその男は、『この状況の変化についてこられぬ者は不要』とでも言いたげだ。
 ポカンとしている若い男や、奇異の瞳を向けている女性を、彼は最早視界にすら入れていなかった。

 そして、誰しもが口を紡ぎ、黙り込む。
 この空気を一瞬で創り出したのは、間違いなくあの髭の男だ。

「……有名な唄、ですよねぇ。色んな地方で替え歌とか流行ってるし」

 しかし、1人、口を開いたものがいた。集まった者の中で、初めて口を開いたのはマルドというエリーをこの場に連れてきた人物。
 エリーの右隣の椅子に深々と座り込み、威圧感のある髭の男にまるで世間話でもするかのような軽い口調で言葉を返す。

 エリーは居たたまれなくなって、居住まいを正した。
 ここに来るまで、エリーはマルドから最小限の情報しか与えられていない。

 “話し合い”だけで報酬が貰えるこの依頼。
 何でも、国からの公式なものだそうで、内容は『何かの事件を解決する』というだけで、詳細は不明とされていたらしい。
 本日は休みと決めていたエリーも、船の運賃が痛かったこともあり参加を決めたのだが、まさかこんな重苦しい会議だったとは思っていなかった。

「君、名前は?」
「……。マルド=サダル=ソーグ」
「……ん」

 髭の男は、手元の用紙に何かを書き込んだ。エリーにはそれが、面接試験のように見えた。

「……さて。私の名前はロッグ=アルウィナー。シリスティアのコーラス地方担当の魔道士だ」

 髭の男は、まるでたった今名乗る必要ができたかのように、ようやく名乗った。
 ロッグはその皺が刻まれた顔をマルドだけに向けて言葉を続ける。

「本日集まってもらったのは他でもない。今の童歌のことだ」

 先ほどの“呪いの童歌”。
 エリーも当然知っていた。
 リビリスアークの近くでも、その替え歌が作られていたほど有名なものだ。

 だから。
 だからこそ、エリーは“状況把握ができないのだ”。

「“事前に内容を察していた者”がいるようだから手短にいこう。今の童歌と、それに“縁のある事件”を知らない者などそうはいない」

 旅の魔術師の誰かから、小さな声が漏れた。
 エリーだったのかもしれないし、あるいは別の誰かだったのかもしれない。
 ただ少なくともエリーは、ロッグと名乗った魔道士の言葉で、この“話し合い”の内容を察した。

「我々が解決しようとしているのは、“大樹海の失踪事件”」
「……!」

 察していた上で、しかしエリーは未だに“状況把握ができていなかった”。

 “大樹海の失踪事件”。
 その事件を、エリーは当然知っている。魔術師試験の中にも、そうした大きな事件に触れる“歴史”のような科目があったほどだ。
 “とある地方”で、数百年前から続いているという伝説級の事件。
 その継続年数から、一説には“魔族”が絡んでいるとまで言われている。

 だから、むしろ“そんな伝説に挑むという発想さえしていなかった”。

「…………その大樹海―――アドロエプスは、シリスティアの大陸を大きく占めるほどだ。封鎖しようとしても、必ず漏れが出る。その上封鎖しようとした魔術師まで襲われたりすれば、元凶を叩くしかない」
「ま、待って下さい。なんでそんな事件を今さら?」

 淡々と話を続けていたロッグを、若い男性の魔術師が遮った。
 ロッグは僅かに顔をしかめ、

「君、名前は?」
「……? リグル=ラシールですけど……」
「……ん」

 再び、手元の紙に何かを書き込んだ。

「……さて。今さら、と言われても、我々は今までもいくつか案を出していた。最早伝説の事件といっても対処しなかったわけではない。具体的には封鎖などで事件を未然に防ぐことだが……、今回は“解決”をするつもりだ」

 つまり、守りから攻めに変えようとする、ということだろうか。
 エリーはロッグの言葉に、目を細める。

 未だに頭の中の切り替えができていない。
 事前情報も特になく、ただ集まっただけのこの場でいきなり“伝説”の話をされても普通戸惑うだけだ。

 もしかしたらロッグが先ほどから手元の紙に何かを書き込んでいるのは、切り替えができているかいないかの区分けをするためなのかもしれない。
 何せ、この場にいるのは話し合いだけで依頼料が貰えるという、うたい文句に連れられて集まった面子なのだ。

 ようやく、エリーもこの話し合いの“ルール”が読めてきた。
 先ほど直感的に思った通り、あのロッグは試験管なのだ。

 今回は“話し合い”と言っている以上、次は“本番”の依頼が行われると考えられる。
 おざなりな依頼なら有象無象の群れで何とかなるかもしれないが、今回の対象は“アドロエプスの失踪事件”。
 余計な被害を防ぐためにも、どこかで“ふるい”をかける必要があるのだろう。
 この“話し合い”で“合格”した者だけに、本番の依頼を受ける“権利”が与えられるのかもしれない。

「……、」

 この場に参加した以上は、と、エリーは真面目にも頭を働かせ始めた。

「“解決”しよう、ね……。今まで触らぬ神に祟りなし、って感じだったのに……。こりゃ国の内部で政権交代でもあったかな」

 エリーが思考を進めようとすると、隣のマルドが小さく囁いてきた。

「そもそも、“旅の魔術師”に公的な依頼が来るのもシリスティアじゃ珍しい。開始時間になったら自己紹介もなくいきなり“面接試験”なんて、あのロッグって人相当俺らのこと嫌ってるみたいだ」
「……そ、そうなんですか?」
「どう見てもそうでしょ。シリスティアの魔術師隊はプライド高いらしいしね」

 マルドはもうすでに全てを察しているようだ。
 思えば彼が最初にロッグに言葉を返せたのも、話し合いの議題に察しがついていたからかもしれない。

「最後の事件は3年前」

 マルドとの会話は、ロッグの苛立たしげな声に遮られた。
 マルドに言われて見てみると、確かにロッグはどこか面白くないような表情を浮かべている。

「アドロエプスの付近に建てた詰め所に勤務していた魔術師のひとりが、そのまま姿を消した。同僚の話では夜にふらふらと詰所から出ていったのを見たそうだ」

 そういえば、そんな事件を耳にした記憶がエリーにはあった。
 自分はその事件をリビリスアークの孤児院で他人事のように受け止めたはずだ。

 ロッグは席の後ろに設置されていたホワイトボードに適当に歪んだ円を書き、その外れに『×』を付けた。
 どうやらあの干からびた海藻のような絵は、樹海を表しているらしい。

「次は5年前。これはかなり微妙だが、借金に追われて樹海に逃げ込んだ女性が戻って来なかった。自殺かもしれん」

 ロッグは最初のマークから離れた位置に『×』を付けた。

「……やっぱり樹海の中に“特殊な魔物”がいて、移動しているってことですよね?」

 エリーはおずおずと、魔術師試験の知識をフル活用して言葉を出した。

 この失踪事件。
 こう連続しては、単純に樹海で迷って戻って来られないというよりは、何かが介入していると考えた方が自然だ。
 事件の起き始めでは自殺や、準備なく樹海に入り込んで通常の魔物に襲われたと考えられていたそうだが、樹海の中の魔物にそこまで危険な存在はいないはずらしい。

 つまり、何か特定の―――アキラのような表現を使えば―――“ボス”がいると考えられる。

「……君。名前は?」
「え……、え、えっと、エリサス=アーティです」
「……ん、ん?」

 ロッグが手元の紙に視線を落とし、顔をしかめた。

「あ、ああ、“スライク=キース=ガイロード”の代理です」
 マルドがそう言うと、ロッグは顔をさらにしかめて何かを書き込み始めた。

 スライクとは、本来マルドがここに連れてくるはずだった仲間の名前だろう。
 エリーは申し訳ないような表情を向けたが、マルドは軽く手を振るだけで応えた。

「まあ、他にも未届けのものもあるだろうが、この2つはどうでもいい」

 メモが終わり、ロッグは再びホワイトボードの前で“話し合い”を開始した。
 先ほどの2つの事件を簡単な準備運動のように振舞い、そして、眼光を鋭く言葉を続ける。

「問題なのは……、大分昔だが8年前の“誘拐事件”だ」
「……“誘拐”? “失踪”じゃなくて?」

 表現を変えてきたロッグに、先ほど名前を聞かれていたリグルが声を上げた。
 ロッグは一瞬手元の紙に視線を落としたが、すぐに上げて再びホワイトボードに向き合う。
 そして再び『×』マークを、今度は樹海の中心近くに記した。

「ここで起こった事件だが……、何故“誘拐”と言えるのか。それは目撃した者がいたからだ」
「……!」

 エリーは、隣のマルドの表情が僅かに変わったのを察した。どうやら、マルドも知らなかった情報らしい。

「目撃したのは、とある名家の使用人。数十名でアドロエプスに入り、“被害者”が“誘拐”されたのを確認したらしい」

 ロッグは露骨に苦々しい表情を浮かべていた。
 数百年も謎に包まれていた事件の核心を発見したのが、民間人であることが面白くないのだろう。

 しかし、エリーもその情報は初めて知った。恐らく意図して伏せていた情報なのだろう。
 やはりマルドの言う通り、シリスティアの魔術師隊は“そういうもの”にこだわるようだ。
 そしてこの場でこの情報を口にしたということは、これもまたマルドが察した通りに、国の内部で大きな動きでもあったのかもしれない。

「……ということは、“誘拐”されたのは“とある名家”の人間、ってとこですか?」
「…………そうだ」

 マルドが出した言葉に、ロッグはそのままの表情で肯定を返す。
 それも国の汚点、といったところだろう。

 ロッグは、『吹聴してもらっては困るが』と前置きをつけて言葉を続けた。

「8年前。その“とある名家”の娘が大樹海に向かったらしい。それを探しに向かった使用人たちが、その娘が“誘拐”されたのを目撃した、という話だ」
「……あの、」

 エリーは恐る恐る手を上げてみた。
 ここで再び口を開かないと、他の者たちのように完全に“話し合い”の輪から外れてしまう。

「その使用人たちは、“現場”にいたんですよね? 無事だったんですか?」
「……だからこうして“情報”を持ち帰ってきている」

 ロッグの言葉に、エリーは分かりやすく、むっとした。
 自分は一応、魔術師試験を突破している。それで笠に着るつもりはないが、ロッグの“旅の魔術師”への嫌悪を向けられては流石に面白くない。

「……具体的な話をして下さいよ。そうだな……、まずは、“犯人”から。その使用人たちは、“犯人”を見たんでしょう?」

 エリーが何か言い出そうとしたところで、マルドが声を出した。
 どこか涼しげに見える彼も、ロッグの態度には少なからず反発心を持っているようだ。

「……“見ていない”、そうだ」
「……?」
「その使用人たちの証言“だけ”だから信憑性はあるかどうか分からんが、…………その娘は、全員が見ていた目の前で、ふっと“消えた”らしい」

 ロッグは珍しく言い淀みながら言葉を吐き出した。

「“誘拐事件”の日、アドロエプスで探索を行っていた使用人たちは、“戦闘音”のようなものを聞いたらしい。その場に向かってみると、木々は捩じ切れ、草木は焼かれ……、まるで爆心地の跡のような状態だったそうだ。……そしてその中央に、その娘が立っていた、らしい」
「? それって、“犯人”を倒したってことですか? その娘とやらが?」
「そうは思えん。その子は当時10歳程度。……それに、そのあとだ。娘がその場から煙のように消えたのは。大体、事件は今も続いている」

 エリーはマルドとロッグの会話を聞きながら、眉をひそめた。
 どうやら名家の娘とやらは、当時10歳の子供だったそうだ。恐らく、樹海に迷い込んだといったところだろう。
 確かにそんな子供がその爆心地を演出したとは考えられない。使用人たちと同じように爆音に興味を持ってその場に来ていた、と考えた方が自然だ。

 だが、エリーはそれでもなお、気になることがあった。
 エリーはちらりと『×』が記された樹海の“現場”を確認する。

 そもそも、そんな10歳程度の子供が、魔物が出現する樹海の中央まで到達できるのだろうか。
 そして、その戦闘音とやらも、煙のように消えたというのも気になる。

「情報はそんなところだ。問題なのは、樹海に入った者は魔物に“襲われた”のではなく、“消えている”可能性がある、ということ。この件に関しては諸説あるが、どれも確信が無くて話せない」

 だから、暫定的に“誘拐事件”と名付けているのだろう。
 エリーは頭でポイントを整理しながら唸った。
 “犯人”も、煙のように消えるカラクリも謎のまま。
 数百年続いているというのに情報がこれだけでは、保留にしたがる理由も分かる。
 しかも、その情報が増えたのはつい8年前。
 犠牲になったとある名家の娘とやらには悪いが、この事件に多大な貢献をしたと言ってもいいだろう。

「それで、どうやって解決するつもりなんですか?」

 マルドの言葉に、ロッグはホワイトボードの隅についていた定規のようなものを手に取った。
 そして簡易な樹海の地図の横にあてがう。

「具体的な内容は当日になるが……、集まった者たちを数十部隊に分けて、アドロエプスを横断する」

 ロッグは定規をそのまま横に移動させた。
 つまりは、全員で横並びになり、アドロエプスの全てを開拓する作戦、ということだろう。
 そして何かがあれば、他の部隊はその場に急行する、といったところだろうか。

「集合は約1ヶ月後。そこから5日の準備期間。そして作戦決行だ。詳細はここに書いてある、回してくれ」
 ロッグは机の上の紙の束を二つに分けて両脇の旅の魔術師に渡した。
 “話し合い”が始まってから硬直していた魔術師たちは、僅かに慌てながら1枚を取り、隣の者に回していく。
 硬直が解けたからか、用紙を受け取った者はざわめきを起こし始めている。

「集合場所はファレトラという、アドロエプス付近の街だ。参加する気があるなら正式に依頼を請けたのち、その場に集合してくれ」
「……?」

 魔術師たちのざわめきの向こう、ロッグの言葉を聞いて、エリーは眉を寄せた。
 この“話し合い”は、作戦に参加する者を選ぶ“面接試験”だと思っていただけに、肩すかしをくらった気分だ。

 だがそれも、続くロッグの言葉で氷解した。

「一応、各個部隊の指揮を執る者をあとで選出するつもりだが……、それは当日、依頼所で発表する。まあ最も、魔術師隊の者の手が回らなければ、だが」

 先ほどからロッグが何かメモを取っていたのはそのためだったのだろう。
 組織立って動く以上、やはり“頭”というものが必要、ということか。
 確かにこの作戦は、何より人数が必要だ。わざわざ選出するというのも奇妙な話だ。

「…………完全に人数でのごり押しだな……。前のシリスティアじゃ考えられない。……まあ逆に、“旅の魔術師”たちを使い捨ての道具とか思っているかもしれないな」

 マルドが再び、ロッグに聞こえないようにエリーに囁きかけてきた。
 そしてそれは、エリーも薄々察していたことだったりする。

「他の街でもこんな“話し合い”やってそうだな……。当日どれくらい集まるかね?」
「1ヶ月後なんですよね……? そんなに先じゃ、皆わざわざ覚えていないんじゃないですか……?」
「んー、そうかな?」
「?」

 マルドは隣から回ってきた用紙を受け取り、僅かに笑うと、エリーに渡しながらこう言った。

「“エサ”次第、だろうね」
「……!!」

 先ほどから魔術師たちがざわめいていた理由が分かった。
 集合時間や集合場所が記されているその用紙。

 そこには、法外とも言えるほどの、“多額の報酬”が記されていた。

―――***―――

「……、こ、これ、は……!?」

 日も沈みかけたパックラーラの外れ。
 サクは目の前の“それ”に目を見開いた。

 ここは、昼過ぎアキラを発見した船の積み荷の保管所。
 この場で“妙な臭い”がしたのが気になって、サクはこの場に戻ってきていた。

 買い物にも飽きたこの“休日”。
 ちょっとした暇潰しのつもりで、その四角い建物が整列されている保管所の周囲を回り、倉庫を挟んで街と反対側にある海岸に回ってみたのだが―――

―――そこでは、2人の人間が、“潰されていた”。

「……ぅ、ぇ、」

 臭、臭、臭、
 穢、穢、穢、
 腐、腐、腐、
 血、血、血、
 肉、肉、肉、
 骨、骨、骨、
 臓、蔵、蔵。

 サクは思わず口を押さえ、海岸側へ顔を背けた。
 その惨状は、汚れた服が同時に押し潰されていることでようやく“人だったもの”だと認識できる。
 “本人たち”には失礼だが、その光景が自分の心を蝕むように感じられた。

 一体何をしたらこんな状態になるのだろう。
 その場では、地面に人体が“埋まり込み”、その溝に“人が溜まっていたのだ”。
 そしてその“2つ”を中心に、地面に四角いクレーターが浅くできていた。
 人間を横たえ、そのまま上から鉄槌か何かでも振り下ろせばこういうことになるのかもしれない。

「はあ……、はあ……、はあ……、」

 呼吸を整え、サクはもう一度現場を見た。
 “人型の溝”は、2つある。
 血と泥に汚された服は、2つとも同等のツナギのようなものだ。恐らく、ここの倉庫の番をしていた者たちだろう。
 争った跡もないのだから、本人たちも最期まで何が起こったのか分からなかったかもしれない。
 だが、サクも“そういう世界”で長年旅をしているが、こんな死体は初めて見た。山の落石現場にでも行けば見る機会もあるかもしれないが、ここは港町だ。
 これは、事故ではなく、紛れもない“事件”。

 最短の時間で情報を収集し、サクは“現場”から離れた。
 現場の位置から考えて、恐らく彼らを襲った“何か”は海から現れたのだろう。

 慎重に、海岸に向かって歩く。その防波堤からだと、海面は随分下だ。
 愛刀に手をかけ、防波堤から見下ろした波は、静かに漂っている。
 夕日の紅から夜の黒に変色していくその不気味な場所には、

「……、」

 何も、いない。

 周囲の安全を確認し終わり、サクは苛立たしげに抜きかけていた愛刀を強く仕舞った。

 間もなく夜が訪れ、人々はそれぞれの団欒に返っていくだけ。
 これだけのどかな世界だというのに、休日だというのに、“異常”はいつの間にか日常を侵食していたのだ。

「……、」

 問題なのは、“殺害時刻”と“犯人”だ。

 サクは頭を回転させる。

 騒ぎが起こっていないのだから、自分が最初の発見者であることは間違いない。
 となると、今日一日の出来事だろう。
 そして、昼過ぎにこの場でアキラを発見したときにはすでに異臭が漂っていた。
 やはり、“殺害時刻”は、朝から昼にかけてだ。

 そして、最大の問題―――“犯人”。

 サクは再び海を眺めた。
 大きな街の中でこんな事態は起こりにくいが、海から魔物が出現し、2人の命を奪ったのだろう。
 何せ、“中央の大陸に面する海”だ。
 “異常な魔物”が存在してもおかしくはない。

 だが、それならそれで、警報なり何なり鳴るはずだ。
 この2人が出遭ってしまう前に、海を監視している者がその魔物を発見するはずなのだから。

 海に面する街には通常、海からの“異常”を察知する術を有している。
 それは魔術を使った探知であったり、もっと原始的に“網”を海底に仕掛けその振動を察するものであったりと街によって様々だが、少なくともこの街には存在しているはずだ。

 つまり海からの襲撃であれば、2人を襲った魔物はその防御壁を、察知されないようにかいくぐってきたことになる。
 その上、海から出現したというのに、陸上での戦闘をしているのだ。

 となると、

「…………“知恵持ち”……か?」

 2人を襲っても、その魔物は未だ街で騒ぎを起こしていない。
 となれば、どこかに身を潜めている可能性が高いだろう。もしくは、再び海に戻ったか、だ。

 いずれにせよ、その“敵”は、未だ近辺に潜んでいるかもしれない。

「……、」

 防波堤にぶつかり、虚しく響くさざ波音が、サクの背筋を撫でる。

 どうも、嫌な予感がした。

 密かに街を襲っていた“異常”。
 その街には、ヒダマリ=アキラという“そういうもの”を引き寄せる人間がいるのだ。
 このまま“悲しい事故というだけ”で済むとはどうしても思えない。

 その考えに至り、サクにはどうも、その魔物が海を移動してきた体力をどこかで回復させているような気がしてくる。
 英気を養い、街を襲う算段をつけていると考えた方が総ての“事情”にすっぽりとはまる。

「……、」

 とりあえず、街の護衛団に連絡しなくては。

 そう結論付けたサクは、最期に手向けとばかりに“2つの跡”に一礼し、その場から駆け出した。

 保管所に潜む1人の小さな子供には、最期まで気づかずに。

―――***―――

 キュール=マグウェルは、船の積み荷保管所で膝を抱えてじっとしていた。
 四角い倉庫が並ぶ中の1本の通路に座り込み、そのまま背を倉庫に預けている。

 とうとう日の沈んだパックラーラ。
 その街の喧騒が、さざ波の反対側から遠くから聞こえてくる。

 そんな中、キュールは重大な問題に直面していた。

「……お腹、へった」

 呟いてみても、現状は何ら解決しない。
 2つ盗んできた果物は昼に消費してしまったし、元より所持金はゼロだ。
 だが、もう一度街に向かって食料を盗んでくることはためらわれた。

 “分からないのだ”。

 もしかしたら昼に食料を調達した果物屋の男が探し回っているかもしれない。
 もしかしたら果物2つ程度野良犬に噛まれたと思って諦めているかもしれない。

 果物2つ。
 これが他人にとって、自分を探し回るほど大きいものなのか、それとも無視できるほど小さいものなのかも分からないのだ。

 自分は突如、およそ考える普通の家庭というものから切り離された。
 いや、切り離された、という表現は違うかもしれない。

 “自分以外の全てが消えた”。それだけだ。

 ありふれた自分の両親が、ありふれた小さな村に住み、そして―――ありふれた魔物の襲撃に遭っただけ。
 まるで、海辺に作った砂の城を波がさらったように。残ったのは、砂の残骸と、装飾用に使われていた小さな石の1粒。
 それが、キュールだった。

 きっと、そこからの道は2つあったのだろう。
 1つは、“孤児院”。
 魔物の襲撃によって家族を失った孤児が、“通常”辿り着くところ。

 だけど、それは嫌だった。
 少なくともシリスティアの孤児院に行けば、まっとうな生活が送れ、そして、そこで学んだ知識が無数の道を開いただろう。
 だがそれを選べば、何か、それまでの自分がリセットされてしまうような気がした。
 家族、隣に住んでいた仲のいい友達、自分の過ごした村。
 それらが一度、無かったことになって新しい自分が始まる。

 きっと自分は、孤児院に行ったら“過去”を忘れてしまう。
 少なくともキュールには、そんな悪寒がしたのだ。

 だから、もう1つの道を選んだ。
 “旅”。
 それも、旅の魔術師と呼ばれる存在になることだ。

 旅そのものは、心情的なものを抜きにすれば、そこまで辛くはなかった。
 魔物の襲撃時に“自分の傍にあった”金品があれば、食料も買えるし宿にも泊まれる。中には、自分の年齢をみて優遇してくれる人もいた。
 単純に生活する分には、何ら困らなかったのだ。

 だがそれは、あくまで貯金を切り崩して使っているだけ。
 最も重要な、収入は無かった。

 魔物討伐の依頼を受けに行っても、“こんな子供に何ができる”と断られ、
 誰かと一緒に組もうと頼み込んでも、“こんな子供に何ができる”と断られ、
 旅を中断してどこかで働こうとしても、“こんな子供に何ができる”と断られる毎日。
 場合によっては、自分を孤児院に連れて行こうとした“親切な人”もいたくらいだ。

 キュールは夜な夜な、所持金を数え、どうか自分が“大人”と呼べるくらい成長するまでもってくれと毎日祈っていた。

 しかし、世界が回るスピードは、自分の成長などよりずっと早い。

 当初いけると思っていた幻想は、一昨日の昼に消えてしまった。
 それは、自分の所持金が、どれぐらいもつか“分からなかったから”。

 経験していなかった外の世界は、自分が思っていたより、ずっと冷たく、ずっと厳しかった。
 それに関して、誰も責められない。

 この道は、自分が選んだ道なのだから。

「…………、」

 くぅ、とお腹が鳴った。
 ここにもう1つ果物があれば逃れられる空腹。
 しかしキュールは、その“消費原因”を責める気にはなれなかった。何せ、“口止め料”だ。

 ヒダマリ=アキラと名乗った、あの“大人”。

 彼もまた、自分を“子供”と認識して話をしていた。
 それは当然なのだろう。
 彼は、世界が回った回数分、自分より世界のスピードに慣れている。
 だから“普通”とはどういうものか知っていて、“異常”とはどれだけ世界のスピードに逆らわなければならないのか知っているのだから。

 だけど。
 それでもなお、キュールは思う。
 世界に逆らっていたい、と。

 もしかしたら明日突然、依頼が受けられるようになるかもしれない。
 もしかしたら明日突然、誰かと組めるようになるかもしれない。
 もしかしたら明日突然、どこかで雇ってもらえるかもしれない。

 何せ、“分からない”のだから。

 だが―――

「―――!?」

 キュールは“その異変”を機敏に察し、空を見上げた。
 もう日が沈み、星空が顔を除かせる天上。

―――そこに、突如“濁った黄色の魔力”が出現するとは思ってもみなかった。

「あ……え……、え……!?」

 キュールは思わず立ち上がる。
 上空に浮かぶのは、まるで巨大な絨毯だった。
 この保管所一帯の空を埋め尽くすように展開されたその黄色い絨毯は、まるで帯電するように魔力の波動を漏らし、今なお広がり続けている。

 その光景を前にして、キュールの脳裏をよぎるのは、“自分と同じ属性の魔術”。

 “その攻撃方法”に、キュールが思い至ったとき―――

「―――」

 黄色い絨毯が、そのまま全てを押し潰した。

―――***―――

 自室でうたた寝していたとしても、耳をつんざく爆撃音が聞こえれば、誰だって目を覚ます。

「はっ、はっ、はっ、」

 そんなわけで、ヒダマリ=アキラは夜のパックラーラを全力で走っていた。
 共に出かけようとする病人のティアを何とかなだめ、宿屋から飛び出したアキラの目に最初に止まったのは星空の下もうもうと上がる黒い煙。
 まるでゴールでも示すかのように上がる黒煙は赤味を帯び、大分離れたこの距離から見ても明らかに火災が発生していた。

 そして、その現場。
 方向から察するに、それはあの船の積み荷の保管所だ。

「―――あぶっ!?」

 大通りには、先ほどの騒ぎで建物から出てきた人で溢れ返っている。
 それにぶつかりそうになりつつも何とか避け、アキラはひたすらに保管所を目指した。

 煙を見上げる周囲の人々にしてみれば、ほとんど他人事だろう。
 何せ火の手が上がっているのは海岸沿い。
 その上、昼に行ったときにも人気が無かったような場所なのだから、被害そのものは少ないはずだ。
 精々その保管所に商品でも置いていた商人くらいが青ざめている程度だろうか。
 実際、アキラも火災そのものへの懸念はしていなかった。
 だが、アキラにとっては、他に懸念すべきことがある。
 “あの場所が積荷の保管所と教えてくれた女の子”は、もうあの場から離れているだろうか。

 火薬か何かでも爆発したのだろうか。黒煙は未だ昇り続ける。
 とりあえずはあの女の子―――キュールの安否を確認しなければ収まりがつかない。

 そして、あの火災の“原因”。

「―――、」

 一瞬、アキラに“二週目”の記憶がよぎった。
 あれはクロンクランという、アイルークの大きな街での出来事。
 あのときは街の中から突如として火の手が上がり、街の総てを恐怖の悲鳴で押し潰していた。
 今、人々は単なる事故と思っているのか、逃げ惑ってはいない。
 だが、アキラの首筋に、何かピリピリとした危機感が走る。

 戦闘から切り離されて在った、この“休日”。
 そこに、何か黒いものが入り込んでくるような、奇妙な悪寒。
 あの火災が単なる事故ではないという、被害妄想にも近い感覚は、徐々に確信に変わっていく。

 つまり。
 “自分という勇者様”がシリスティアで最初に訪れたこの街では、“何かが起こる”。

「―――、」

 確信を胸にしたアキラの脳裏に、今度は別の記憶が蘇った。

 それは、“一週目”の記憶。
 自分は確かに人々の溢れるパックラーラのこの道を、かつて同じように走っている。
 ここまで強い記憶の封の解け方は、アイルーク大陸のヘヴンズゲート以来。

―――やはりこれは、特定の“刻”だ。

 背負った剣のガチャガチャと鳴る音が、妙に耳ざわりだった。

「……!!」

 現場に近づき人の波がはけ始めた頃、大通りの角を曲がると前に見知った後ろ姿が見えた。
 興味本位で煙を見上げる人々が溢れる街の中、アキラの前方で、赤毛のポニーテールを揺らして走っているのは、

「おっ、おい!!」
「? って、あんた何やってん―――」

 振り返ってアキラの姿を発見したその少女―――エリーは口を噤んだ。
 何をやっているも何もない。
 あの煙に駆けているのだから、目的は1つだ。

 アキラはエリーに並ぶと、もう一度煙を見上げて呟いた。

「あれ、何なんだ?」
「知らないわよ!! 火事じゃないの?」
「まあ、そうなんだろうけど……、ん?」

 そこで、アキラは気づいた。
 エリーを挟んで自分の反対側。
 そこにもう1人、山吹色のローブで身を包んだ男が走っている。

「えっと?」
「ん? ああ、もしかして君が、例の?」

 アキラの視線を受け、その男はどこか驚いたような表情を向けてきた。
 この緊急時に僅かな焦りは見せてはいるものの、どこか冷静で、自分とエリーの速力に悠々とついてきている。
 旅の魔術師か何かだろうか。

「俺はマルド。君は、アキラ、でいいんだよね?」
「え……、あ、ああ。―――?」

 マルドというらしい男は簡易に微笑んだ。
 エリーと共にいたことに、僅かに面白くないものを感じたアキラは強めに返答する。

 しかし。
 それとほぼ同時、再び脳裏に何かが走った。いや、先ほどの既視感より強い。

 この男と出会ったのは、“記憶の中では”初めてだ。それは間違いない。
 しかし、頭の中で何かが鳴る。

 この、マルドという男との出会い―――いや、“出逢い”。
 それがまるで強固な岩盤の弱点のようで、突けばガラガラと記憶の封が解けるような気がするのだ。
 それも、単なる記憶ではない。
 自分にとって重要な―――いや、“強烈な”記憶だ。

 “一週目”。
 確かに自分は、ここで大きな衝撃を受けた気がする。

 それは、一体、

「……えっと、さっき知り合ったの」
「……あ、ああ、」

 エリーの言葉に適当な相槌を討ちながら、アキラは思考の渦に沈んでいった。
 マルドの正体を思い出せれば、頭の中に詰まった何かが芋づる式に引き抜かれる気がする。
 そしてそれが蘇れば、あの火災の“原因”も思い出せそうなのだ。

「…………ま、まあ、ほら、セレンさん、覚えてる? セレンさんの弟なんだってさ」
「そうか…………」
「………………郵便所で偶然会ったりしちゃて、」
「なるほどな…………」
「……………………べ、別に、何やってても、別にあたしの勝手でしょ」
「おう、そうだな…………」
「…………………………っ、いっ! らっ! いっ! 依頼を受けてたの!! 休日にも働いてたあたしを少しは気にしろっ!!」
「うおっ!?」

 もう少しで頭のつかえが解けそうだったアキラの耳が、キーンと鳴った。
 朝以来姿を見ていなかったエリーは、とりあえずいつも通りに元気だったらしい。

「いいねぇいいねぇ、若いなぁ」

 マルドというらしい男は、自分もそう変わらないであろうに小さく呟いた。
 その一挙手一投足が、アキラの記憶の封の核をつつくような感覚を引き起こす。

 だがどうやら、少なくとも緊急事態の今、思い起こすのは不可能のようだ。

「……えっと、悪い。依頼が何だって? てかお前、こんな時間まで何やってたんだよ?」
「ワンテンポ遅い!! 話しも聞いてないし……、もういいっ、サクさんとティアは!?」
「サクは知らないけどティアなら留守番させてきた。お前も知ってんだろ?」
「ティアの風邪でしょ? そっちはともかく、サクさんならもう着いてるかもね」

 いつの間にかボルテージが上がっていたエリーから僅かに離れながら、アキラはその言葉に同意した。
 サクがこの街のどこにいるかは知らないが、もし彼女があの場に向かうつもりなら、とっくに現場に到着しているだろう。

「……“2発目”来ないね」

 駆けながら、マルドが呟いた。
 その言葉にアキラが怪訝な表情を浮かべると、マルドは西の空を見上げながら言葉を続ける。

「俺の気のせいかもしれないけど……、向こうの方から、何か、“流れ星”みたいなのが飛んできたの見なかったか?」
「流れ星?」
「ああ。何だったんだろう、……何か、黄色いの。建物が邪魔で見えなくなっちゃったんだけどさ」

 どうやらマルドは何かを見たらしい。
 どうやら見落としていたらしいエリーは眉を寄せるだけだが、アキラには、マルドの“2発目”という表現を正確に受けとめていた。

 アキラもマルドも、あの火災が外部からの“攻撃”である可能性を考慮している。

「……こっちだ!!」

 悪寒が背筋を侵食する中、アキラは先陣を切って裏道に駆け込んだ。
 ここは昼、キュールを追って入っていった道。このまま進めば、保管所に一気に入れる。

 エリーもマルドも背後から着いてくる。
 人2人分ほどの幅の狭い道を直進し、そろそろ熱気が顔の皮膚と肺にぶつかり始めた頃、ようやく火災現場が視界に入り―――

 ―――アキラは、その場でビタリと止まった。

「きゃ!?」
「わっ!?」
「ぎゃふっ!?」

 エリーがアキラの背に衝突し、そして背後のマルドに衝突されて挟まれた。
 しかしアキラは振り返りもせず、目の前の光景を呆然と眺める。

「いった……、って、あんた何いきなり止まってんのよ!?」

 細い道で、ゴワンゴワンとエリーの怒鳴り声が反響する。
 アキラはそれに返さず、ただゆっくりと、眼前の光景を指差した。

「―――!?」
 アキラの肩越しに目の前の光景を見たエリーが、びくりと震える。

―――そこは、“叩き潰されていた”。

 昼に見たときは、無機質な倉庫が並ぶ向こう、のどかな海が広がっていただけだった。

 しかし今は、その倉庫が、ない。
 海岸を埋め尽くすように展開していた広範な倉庫の群れが、ない。

 あの建物の数は2ケタ近くに昇っていたはずだ。
 しかしそのどれもが形状を保っておらず、まるで敷き詰めた木の葉に火でも放ったかのようにパチパチと炎を上げ続けている。

 一体何をすればこんな状態になるのだろう。
 子供がミニチュアの街を手のひらで叩いたかのような、陸に打ち上げられた巨大なクジラがのたうったかのような、そんな圧倒的破壊。
 その―――恐らくは“上から”の衝撃に、防波堤は崩れ去り、“街の形が変わっている”。
 その場には、およそ“高さ”と呼べる概念が存在していなかった。

 上がり続ける煙の向こう、炎の赤と闇の黒。それらに染まる海だけが、1段低くなった街に侵食して消火活動を行っていた。

 アキラは慎重に歩き出す。
 近付くことは躊躇われたが、とりあえずは近づいてみなければ。

「…………アキラ?」
「……!」

 裏道から出た途端、横から声がかかり、アキラはびくりと身体を震わせる。
 顔を向ければ、歩み寄ってくるサクの背後で数人の男たちと共に被害現場を眺めていた。
 その男たちは、まるで上空からプレスでもかけられたかのような街に呆然とした表情を浮かべている。
 確かにこの破壊は、“強大”だとか“強烈”だとかで表現できるものではない。
 あまりに“非現実的な現実”を前に、騒ぎ立てる気も起きないようだ。

「……サク。そっちの人たちは?」
「……ああ、私が呼んできた街の護衛隊の人たちだ。……この場で“事件”を見つけてな。だが、戻ってくる途中、……これだ」
「? ……ま、まあいいや。それより、この辺で小さい女の子を見なかったか?」

 アキラにしてみれば、それさえ確認できればよかった。
 正直なところ、“潰された”現場付近に長居したいとは思えない。

 しかしサクはどこかキツネにつままれているかのような表情を浮かべ、小さく声を漏らした。

「……見た」
「!?」
「い、いや、正確には、“見ている”」
「?」

 サクは珍しく口ごもりながら、先ほどアキラがしたようにゆっくりと火災現場を指差した。
 アキラは一瞬ぎくりとし、即座にその指を視線で追う。

「……、……?」

 今度は、アキラが今のサクのような表情を浮かべる番だった。
 どうやら街の護衛団の人々も、“火災などではなく”、サクの指差した方向を見ているらしい。

 そこには、くすぶった炎を上げる保管所。その中から、ゆっくりとこちらに接近してくる“黄色い球体”があった。
 そしてその中央に、小さな影が見える。

「な……なんだよ、あれ……」

 アキラがそう呟く間も、その球体は“およそ子供が歩くような速度で”接近してくる。
 そして、とうとう焦土と化した保管所を抜けた黄色い球体は、パリンと弾け、“中から子供を吐き出した”。

「……はあっ、はあっ、はあっ、こほっ、はあ……、はあ……、」

 まるで深い深い海底から上がってきたかのような嗚咽を漏らし、その子供―――キュールは倒れ込む。
 火災現場から出てきたというのに、身に纏う質素なワンピースもそのままで、灰すらかぶっていない。
 ある種目の前の“潰された光景”より非現実的なその存在に、その場の誰もが口を開けなかった。

「―――、っぅ……?」

 そこで、再びアキラの頭が軋んだ。
 まるで決壊直前のダムのように、記憶の封がミシミシと痛み出す。
 “総てが終わったはず”の場所から、小さな子供が無傷で静観してくるこの光景。

 こんな光景を自分は確かに見ている。

「ぅ……、ぅぅ、」

 キュールは呻きながらとぼとぼとこちらに歩いてくる。
 サクの向こうの護衛団の男たちは、それに応じて1歩下がった。
 確かに、見方によってはこの災害を引き起こしたのは、彼女のようにも思える。

「……と、とりあえず、助けよう。問題は全部後回しだ」

 その空気を嫌ったアキラは声を上げ、キュールに向かって歩き出した。
 この惨状を引き起こした犯人がキュールでないと確信を持っているのは自分だけ。
 ならば少なくとも自分は、火災現場から出てきた小さな子供を保護しなければ。

「……ぁ、」

 キュールが歩み寄るアキラの顔を見て、小さく声を上げた。
 たどたどしい歩調が僅かに強くなる。
 アキラを良く思っていないような動きだが、あの小さな身体で炎に囲まれていたのだ。
 無事であるはずがない。

 キュールに近づき、アキラが手を差し出そうとしたところで―――

「かっ、随分と頑丈なガキだなぁ、おい」

―――アキラの記憶の封が、吹き飛んだ。

「お、おいっ、ここにいたのかよ!?」

 背後で、マルドがその声の主に歩み寄っていく気配がした。

 アキラはまだ振り返らない。
 キュールはアキラ越しに、声の主を大きな瞳で見上げている。

「ちっ、マルドもいやがったか……。つーか随分熱いねぇ、ここは」

 まるで、街頭のちょっとしたデモンストレーションに野次でも投げるかのような口調。
 背後から聞こえるそれに、アキラは身体が震えているのを感じた。

 キュールという少女と、マルドという男に覚えた既視感。
 そんな2人がいるこの街で、アキラは、とある出逢いを果たしていたのだ。

 ここまでの衝撃を受けるのならば、本当に何故“二週目”で記憶が解放されなかったのかとアキラは思う。

 アキラはこの休日、出逢うことになっていたのだ。

―――“もう1組のパーティ”と。

「……、」

 すっとアキラは立ち上がり、背後に振り返る。
 エリーも、サクも、そして護衛団の男たちもが、マルドが近づいていった男に視線を移していた。

 その巨大な体躯を離れた建物に預け、腕を組みながら傲岸不遜に笑う男。
 猫のような鋭い金の瞳は、炎の赤に揺らめいている。
 そして腰には、彼の身の丈に比しても巨大な剣を乱雑にぶら下げていた。

 果たして。
 この“刻”を引き寄せたのは、自分だろうか。

 それとも、

「くっ、あーあっ、寝みぃなぁ、おい。で、だ。どこの馬鹿だ? こんな賑やかなことをしでかしたのは」

 この男―――スライク=キース=ガイロードという、もう1人の“勇者様”だろうか。



[16905] 第二十四話『回る、世界(中編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2011/09/07 04:51
―――***―――

 具体的にどれくらいか、というと。

 船の積み荷を保管しておく建物30棟、及びその同等面積の土地的価値と強固に作られていた防波堤。ついでに言うならその衝撃に巻き込まれた周囲の民家の窓ガラスも上乗せされる。

 総合して、“街の一部”。
 それが、パックラーラを襲った“異常”がただの一撃でもたらした被害だった。

 その他にも、巧妙に破壊された港に近づく魔物を察知するはずだった探索網や、その場を警護していた男性2名の遺体などもあるのだが―――そのどちらも探索が滞っていた。

 原因は思ったよりも単純で、1つは夜の海の中、1つはようやく消火活動が終了した惨状の中にあるからだ。その上、精密に造られた探索網や2名もの人命より何より、その場の誰もが“押し潰された”保管所の方に目がいっているのだから無理もない。

 大きな港町というだけはあり、保管所は多大な面積を誇っていた。
 中には、商人に保管されていた外国の商品もあったであろう。
 中には、郵便所に送られる前の郵便物もあったであろう。
 しかしそのどれもが、総てたった1つの衝撃によりおよそ高さと呼ばれる概念を喪失して破壊された。

 海の侵入を止めることもできず、“街そのものの形”が変わった場所。
 そんな空間を目の当たりにして、それ以外のことに頭が回る人間などそうはいない。

 しかし、その場にいた“とある旅の魔術師たち”と街の警護隊が協力して消火活動を進めている頃、その、“それ以外のこと”に頭を回すべき人間たちが到着した。

 魔術師隊である。

 魔術師隊と言っても、種類は大きく分けて2通りある。
 1つは、街の魔術師隊。
 それは、魔術師試験を突破した者のほとんどが最初に勤務する魔術師隊であり、職務内容も情報収集や事務処理がほとんどで、激務、というものではない。
 たまに街の周囲で問題視される魔物や、街に攻めいってきた魔物に対抗することもあるが、例え打ち漏らしたりしても民間人が依頼という形で旅の魔術師たちに任せるのだから気楽なものだ。
 激戦区の“北の大陸”や“中央の大陸”でもない限り、魔術師隊の活躍はあまり見られず、子供など街の警護隊との差も分かっていないだろう。

 もう1つは、国の魔術師隊。
 街の魔術師隊の者がこの魔術師隊に配属されたとき、最も大きなギャップを感じるのはその行動範囲だという。
 情報収集や事務処理という実務の名前の範囲はさして変化がないが、その規模は国単位。
 今まで行ったこともないような街や、魔術師隊すらいないような村まで問題があれば即座に赴き、片道1週間かけて移動することも珍しくないのだ。
 それでも、国の魔術師隊の上にある、大陸単位の警護と組織全体の調整を行うことになる魔道士隊よりはマシなのだろうが。

 今回、火災現場に到着したのは、国の魔術師隊だ。
 パックラーラで“とある仕事”を終えたのち、街を離れていた彼らは“突如響いた爆撃音”に、即座にUターン。
 現場に到着するや否や、被害状況“ではなく”、その被害を生み出した原因について調査を進め始めた。

 彼らはほとんど消火活動を手伝わない。
 その周囲に注意を向け、とりおり消火を行う者を呼び止めてまで原因追究を進める。

 しかし、呼び止められた者も、いつしか集まってきた周囲のギャラリーも、街の復旧に一切手を貸さない彼らに非難の声を上げなかった。

 彼らにとって、いかに大規模とはいえ無人に近い保管所の火災など目先の問題でしかない。

 彼らの使命は、街を襲った“異常”そのものの駆除なのだから。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「状況はまとめ終わったな」
「はい。報告します」

 エリーことエリサス=アーティは椅子に腰かけ、眼前の魔術師隊のやり取りをぼんやりと眺めていた。

 ここは、夕方にも“話し合い”という依頼を行った場所だ。細長い机が長方形の縁を形作るように設置された会議室は、20名はゆうに話し合えるほど入れるほど広い。
 エリーが座る部屋の反対側では、先ほどこの依頼所で“とある事件”の説明をしていた魔道士―――ロッグ=アルウィナーと3人の魔術師と思われる男たちが火災事件の分析を行っている。
 あのときロッグ以外は会議室にいなかったと思ったが、彼らは彼らで、別所で仕事を行っていたのかもしれない。

 エリーたちは、消火活動を終えたのち、この街に設置された施設に連れて来られていた。
 一応現場にいの一番に到着したことや、ドアの近くに座っているサクが未だ発見されていない2名の遺体の様子を見ていることなどの理由で話を聞きたいとここまで通されたのだが、未だ自分たちは蚊帳の外。
 あの話し合いで、ロッグにあまりいい印象を持っていないエリーからすれば、ロッグが旅の魔術師を待たせることに何の抵抗も持っていないようにさえ思える。

 時間は、すでに深夜。
 消火活動の疲れも相まって、緊急事態が発生した―――“し続けている”今でも、微妙にまどろみ始めていた。
 ここは1階で、2階では魔術師の1人がこの建物への攻撃に注意を怠っていないらしいが、それでも“叩き潰された”あの現場を見たあとでは建物の中、というのは不安が尽きない。

 本当に、散々な休日だ。

「……さて、そこの君。2名の遺体を確かに見たんだな?」
「……! あ、ああ」

 途端、ロッグが視線をサクに走らせてきた。
 サクは僅かに遅れて言葉を返す。

 サクがそんなものを発見していることも、エリーはここに来るまでの間に聞いたばかりだ。

 “潰された死体”を見たと言うサク。散々な休日だったのは、彼女も同じらしい。

「静かなもんだよね……」

 サクが説明を続ける中、隣の男がエリーに囁いてきた。
 エリーが視線を向けると、本日この場で依頼を共に受けた男―――マルド=サダル=ソーグ。
 彼はエリーの視線を受け、困ったように窓から見える空の黒に視線を向けた。

「あのサクって人の話通りだとすると、攻撃主は“知恵持ち”だ」
「……!」

 マルドの言葉に、エリーは薄々感づいていた事実が“形になってしまった”のを感じた。

 “知恵持ち”。
 その言葉を、エリーは魔術師試験の試験勉強時に知っている。

 通常、魔物というものは、そこまで知能が高くない。
 元々は“魔族”が敵を攻めるためだけに創り出した存在だ。
 有するものは、魔族からの指示を受ける“本能”。そして、残りの能力は生命力や繁殖力を含む“戦闘能力”に注がれる。
 中には魔族からの指示を受ける能力すら無視し、ひたすらに“戦闘能力”に特化された魔物も存在するが、それらは共通して―――言ってしまえば頭が悪い。
 襲うと決めれば力の限りを持って暴れるし、逃げるにしても身を隠しながらの移動などほとんどしない。

 しかし、“知恵持ち”という例外が存在する。

 保管所の警備をしていた2名の殺害は、サクの話だと朝から昼にかけて起こった事件。それから騒ぎを起こさず身を隠し、夜また襲ってきた。
 これではまるで、2人を殺して体力が無くなったからその場を離れ、英気を養い、また戻ってきたかのようではないか。
 自分のコンディションを理解し、身を隠す。
 そうなってくると、2人を殺したのも、自分の状態を理解し、騒ぎを起こされたくなかったからとさえ思えてくる。

 通常の魔物の仕業にしては理解しがたい“知性ある行動”。
 そうした魔物は、人間にとって最も厄介だ。
 何故なら街の防御は、ほとんど“頭の悪い”魔物前提に作られているのだから。

 相手がいかに強大だとはいえ、考えて動かないなら排除はそこまで難しくない。
 しかし、相手が“知性”を持っていては、あっさり看破されてしまう。

 元々は、魔族がそうした人間の魔物対策の隙を縫うために考えられた存在。

 それが、“知恵持ち”。
 創り出すのも難しいらしく、ごく少数しか存在しないという、魔物の中の“異常”だ。

「でも、」

 マルドはその“異常事態”そのものについては懸念していないようだ。
 あっさりと“知恵持ち”と言い切ったわりには、どこか苦笑するような―――あるいは、面白そうな表情を浮かべている。

「あれがどんな“攻撃”かは分からないけど……、少なくとも“知恵持ち”が考えてやった行動のはずだ。なのにあれ以降音沙汰なし、か」
「……もしかして、詠唱時間が長くかかる魔術なのかも……。あんな大規模魔術ですし、」
「かもね。もしくは魔力不足で1発しか放てないか……。いずれにせよ、変なんだよな」

 マルドは一拍置いて、目を狭めた。

「街を攻撃するつもりなら、あんな街外れに落とすより、最初に市街地か何かに落とした方が全然いい。もしくは港、とかね。でもそうしなかった。そういうケースだと、3つ考えられる」
「3つ?」

 マルドは1本目の指を立てた。

「1つ目は“攻撃主に想定外のことが起こった”。それこそ街外れから片っ端から街を潰すつもりだったのに、最初の1発を放ったあと、予期しなかった何かが起こって2発目を放てなくなってしまった場合」

 マルドは2本目の指を立てた。

「2つ目は“完全なランダムのテロ”。市街地に落ちたのは適当に放ったから。攻撃主にしてみれば“どこでも良かった”っていう場合」

 マルドは3本目の指を立てた。

「3つ目は“あの場所だからこそ攻撃した”。市街地よりなにより、“あの場所”にどうしても落としたかったっていう場合」

 マルドは立てた3本の指を、まるでクイズでも出すようにエリーに向けてきた。
 どうもマルドは危機感を覚えていないようだ。
 消火活動時は積極的に動いていたからこの事態を完全な他人事と捉えているわけではないようなのだが、終わったことは終わったことと割り切っているのかもしれない。

「どう思う?」
「……え、えっと、」

 マルドが投げかけた疑問で、エリーは思わず目をサクの隣に座る“とある少女”に走らせてしまった。
 エリーが最初に思い浮かべたのは3つ目のケースだ。すなわち、“あの場所だからこそ攻撃した”。

 仮に、あの場所に意味があったとしよう。
 そうなると最も怪しいのは、あの火災現場から、傷一つ負わず歩いて出てきたあの小さな女の子だ。

 キュール=マグウェルと名乗ったあのか弱そうな女の子。
 眠たげな眼を擦り、必死に魔術師たちの話を聞こうとしている彼女も、第一発見者としてこの場に連れて来られた人物だ。

 未だあの光景のショックが止んでいないのか、それとも素なのか、どこかおどおどしているキュールを見て、エリーは即座に自制した。
 確かにあの大火災の中、身体の周囲に強固な黄色の壁を作って歩いてきた彼女は“異物”の一種なのだろう。
 だがそれでも、特にそういう年頃の子供たちの世話をしてきたエリーとって、彼女に疑心に満ちた瞳を向けることは抵抗がある。

「マ、マルドさんはどう思うんですか?」

 答えに詰まり、エリーは疑問をそのまま返した。
 それを受けたマルドは僅かに笑い、ちらりと視線を隣の男に移して呟く。

「さあ? 敵の事情は分からないよ」
「え、」
「ただ、意図してのことだとしても、ランダムに攻撃したんだとしても、攻撃があの場所に“偶然そうなってしまった”っていうのには“攻撃主の意思とは関係ない意味”がある、っていう意見ならある」
「……?」

 そんな奇妙なことを口走ったマルドの、エリーとは反対側の隣。
 そこには、1人の男が座っていた。

 完全な白髪に、巨大な体躯。背後の壁には、マルドの長い杖の隣に人の身ほどの大剣を立てかけている。
 長い足を机に投げ出し、傲岸不遜に腕を組んでいるその男。
 他者から見ても興味本位についてきたようなその男は、部屋に入るなりそのポーズのまま寝入ってしまっている。

 マルドは、確かにこの男に視線を移した。

「どういう……意味ですか?」
 マルドの言葉の真意が分からず、エリーは視線を戻して眉を潜めた。
 しかしマルドは涼しげな表情で、さも当たり前のようにこう返してくる。

「世の中にはね……、“偶然”を引き寄せる奴がいるんだよ。あるいは街で、あるいは村で、あるいは、町と町の間で。そこに事件の“種”があれば、“そいつ”が近づくだけで“発生してしまう”。それも、“そいつ”が渦中に巻き込まれる形でね」
「……!」

 マルドの言葉が耳に入ってエリーはギクリと身体を震わせた。
 マルドが座っているのはエリーの左隣。
 その反対。
 今、エリーの右隣に座っている人物はまさしくそんな力を持っていなかっただろうか。

「なあ、スライク。お前どうせ、事件が起きたときあの辺りにいたんだろ?」
「……るせぇよ」

 エリーが振り返る前に、長身の男から声が漏れた。
 どうやら寝入ってはいなかったらしい。

 スライクと呼ばれた白髪の男は、ゆっくりと目を開ける。
 猫のような金の眼。
 殺気すら感じるその鋭い眼は、不機嫌さを隠そうともせずマルドを睨みつけてきた。

「まあ、ともあれ……“多分お前が引き寄せた事件”は起こった。そういうの、何て言ったっけ?」

 マルドはスライクの視線を受けてなお、おどけるように言葉を返す。
 そこで、ようやくエリーはマルドがこの状況を“楽しんでいる”と感じられた。

「っか、名前付けんのが好きな奴だな。んなもん、どうだって―――」
「―――“刻”だ」

 そこで、ヒダマリ=アキラはようやく口を開いた。
 両手を組み、肘を机の上に置き、視線は魔術師隊の“話し合い”に向けたまま。

 アキラはたった今まで、ひたすらに“情報収集”に力を注いでいた。
 一刻も早く、事件を解決するために。

「“刻”って、あんたが前に―――」
「それがどういう意味か、お前なら分かるだろ?」

 エリーの言葉を遮って、アキラはスライクに視線を向けた。
 “初対面”の相手への態度としてはどうかと思うが、アキラは今、単純に機嫌が悪い。

 人が、2人も死んでいたのだ。
 サクの言葉で明らかになった事態だが、その事実は、アキラの中に大きな“罪悪感”を生んでいた。

 別にアキラは、名前も知らないような赤の他人の命が失われたことに憎悪を覚えるような正義感を持っているわけではない。
 だが、それが自分のせいで発生したとなれば話は別だ。

 “二週目”。
 自分はパックラーラという街はおろかシリスティアという大陸に来たことすらない。
 最強の力を有し、ただ一直線に魔王の牙城を目指しただけのあのストーリー上、こんな場所に来る必要などなかったのだ。

 だが今は、力不足という理由でこの場所に来た。
 そんな“準備”などという理由で立ち寄った場所で、特定の“刻”が発生したのだ。

 アイルークのヘヴンズゲートでの事件は―――死者が出たかは知らないが、“二週目”に起こった事件としてまだ許容できた。
 しかしこの場所は、アキラの“寄り道”のせいで発生した事件だ。

 すなわち。
 “自分が時間を巻き戻すことを求めなければ発生しなかったかもしれない事件”なのだ。

 犠牲になった2名にも、きっと家族や恋人がいただろう。
 それなのに、それがこの“刻”に失われた。

 “一週目”で起こった事件であることはすでに“思い出している”。
 だが、本当に情けない。

 時間を戻す以上、自分は総てを救わなければならないはずだった。
 特に、そんな“刻”を引き寄せてしまう自分は。

「…………はっ、んだよ。お前も“そう”か」

 だが、もう一人。そんな“刻”を引き寄せるのであろう人物は、アキラを探るように睨んだのち、どこか面白そうに笑った。

「良かったなぁ、マルド。お前運がいいぜ。これで俺とはめでたくおさらばだ。そっちについてけ」
「は……? って、ああ、そういう意味か。そういや、そうだったか。まあ、とりあえずエリサスさんよかったじゃん。その人、“本物”っぽいよ。スライクのお墨付き」
「へ?」

 話しについてこられなかったらしいエリーが奇妙な声を上げる。
 アキラは3人のやり取りを横目で眺め、時間の無駄だと視線を魔術師隊の“話し合い”に戻した。
 丁度サクが説明を終え、再び自分たちは乖離して会議を進めている。
 漏れる言葉からするに、現在は使用されたと思われる魔術について話しているようだ。

 過ぎたことはもう仕方ない。
 少なくとも、次の被害を出さないために、少しでも情報を集めなくては。

「ね、ねえ、ちょっと、」
「……ん? なんだよ?」

 魔術師隊の話し合いで、敵の属性がやはり“金曜”であると推測された頃、エリーがアキラの肩を小さく揺すってきた。

「今の話、何よ? あたし全然分かんなかったんだけど、」
「…………“隠し事”だよ」
「……ず、ずるい」

 一言返してエリーの追及を止めると、アキラは思考を進めた。
 確かに、“前提”がないエリーには今の会話について来られなかっただろう。

 薄々感づいてはいるようだが、日輪属性には“刻”を引き寄せてしまう力があること。
 アキラも記憶がおぼろげだが、マルドはそうした“刻”を体験したくて旅をしていること。

 そして。

 スライク=キース=ガイロードという男が、“とある属性”を有すること。

「持ってきました!!」

 途端、バン、と会議室のドアが空いた。
 全員が視線を向けた先、髪の短いローブの女性が大量の書物を抱えて部屋に入ってくる。
 その女性はロッグまで駆け寄ると、手に持った資料をほとんど落とすように机の上にぶちまけた。

「と……、とりあえず、街の魔術師隊支部にある、魔術と魔物のリストです。言われた通り、金曜属性に、絞って持ってきました、」
「ああ。ご苦労」

 息も絶え絶えたその女性にロッグは冷静に言葉を返すと、早速資料を魔術師隊の全員で調べるように指示を出す。
 どうやらサクの話を聞く前から、現場検証で敵は金曜属性というあたりをつけていたようだ。
 これから使用された魔術と、魔物の特定を開始するのだろう。
 それが分かれば、攻撃してきた相手が何で、そして今どこにいるのか判別することができる。

「あ、あと、魔道士隊にも連絡をしておきました。明日の昼ごろには出発するかと、」
「ああ。そうだな」

 ロッグは資料を読みながら、淡白に答えを返す。
 連絡手段が限られている上に時間も深夜では、魔道士隊の到着は大分遅れることは十分に想定していたようだ。

 だからこそ、それまでにできることをする。
 流石に魔術師隊を束ねる魔道士だ。
 アキラは必死に資料を読み進めるロッグに対し、奇しくもエリーとは間逆の評価をしていた。

「リストね……、んなもん読もうって気になるなんて流石に魔術師隊だなぁ、おい」

 しかし。
 必死に調査を進める魔術師隊に、どこかからかうような声が届いた。
 アキラを含み、魔術師隊の全員が睨むような視線をその男に向ける。

 その男―――スライクは、いつの間にか立ち上がり、壁に立てかけてあった大剣を腰に着けていた。

「おいおい、睨むなよ。俺は別にそのやり方を否定しちゃいない。ただ、もっと早いやり方があるんじゃねぇかって言ってるだけだ」
「うるさいぞ。そもそも何だ、お前は呼んでない」

 ロッグはスライクを睨み続ける。
 スライクはおどけるように両手を上げ、そして猫のような鋭い瞳を窓から見える空の闇に向けた。

「別に。ただ俺は安眠を妨害した奴をぶっ殺そうかと思ってたんだが……、飽きちまった。もう帰っていいんだよな?」

 ロッグは即座にドアの方に視線を向け、肯定の意を伝えた。
 だが、それに反応したのはアキラだ。
 スライクは、伊達や酔狂ではなく、本気で離脱すると言っている。

 先ほどの話だと、魔道士隊が出発するのは明日の昼。
 それを考えると、到着するのは明後日以降になる可能性が高い。
 街にもまだまだ旅の魔術師たちはいるだろうが、時間も深夜。依頼という形で助力を求めたとしても、動き出すのは明日の昼以降。
 一刻も早く解決しなければならないというのに、それでは遅すぎる。

 今この部屋にいるメンバーが、“異常”に対抗できる街の総戦力と言っていいのだ。

 ただでさえ少ないそれが、1人欠けてしまう。
 アキラは正直、スライクにはあまりいい印象を持ってはいない。
 だが、恐らくは“最も戦力を保有している人物”が欠けてしまうのはかなりの痛手だ。

 それに。
 その上。

 この事件は、恐らく自分とこの男が―――

「お、おい、スライク、」
「るせぇぞ、マルド。それに、情報集めたいならこのガキにでも聞いた方がいい」
「!?」

 途端指を差されてびくりと震えたのはキュールだ。
 スライクは歩きながらキュールに鋭い視線を向けると、どこか面白そうに言葉を続けた。

「さっきから何か言いたそうにしてんじゃねぇか。何せ、“正体不明の魔術攻撃”とやらを受けた張本人だ」

 スライクは最後にそう言い残すと、そのままあっさりと部屋を出て行ってしまう。
 ドアが閉まり切るまで、止めようとしたマルドさえ動かなかった。

―――***―――

「星が……綺麗ですねぇ……、」

 暗い室内の中、たった1人で呟いても虚しさが積もるだけ。
 そんな虚脱感に襲われる中、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは窓際に肘を駆けて空を見上げていた。

 誰も、帰って来ない。

 風邪をひいているからとアキラに留守番をさせられたあと、ティアは諸君にも全力で身体を休めていた。
 余計なことは一切せず、ただひたすらに眠り続けるという方法で。
 それが功を奏したのか、そもそもそこまでの重体では無かったことも手伝い、ティアの体調はほぼ完全に戻っていた。
 しかし、昼に眠り続けていたという弊害も発生し、時間も深夜だというのにまるで眠くならない。
 そうなってくると、ティアはどうしても何かをしたくなってくるのだが、昼にかった漫画はとっくに読み終わり、話し相手はどこにもいない。

 ただ暗い室内で、ぼんやりと空を見上げることしかできなかった。

 窓の枠の上で組んだ腕に頬を乗せ、だらしなく身体を預けるティアは、口を尖らせながら3人が戻って来ない理由を考える。

 何かが起こった、というのは間違いない。
 アキラが出かける前、ティアも確かに巨大な爆撃音を聞いた。
 それが事故なのか事件なのかは知らないが、アキラはその場に向かったのだ。
 恐らく彼と、そして戻って来ないエリーやサクもその事態に巻き込まれたのだろう。

 それなのに、そのパーティの一員たる自分はこの宿屋に置き去り状態。
 それでは、何のために旅に出たというのだろうか。

 確かに、体調管理もできない自分に不満を漏らす資格はないだろう。
 それに、アキラの遠距離攻撃の授業も滞っている。
 そんな自分では、置き去りにされてもやむを得ない。
 だけど、そんな自分でも、誰かを助けたいと思って旅に出たのだ。

 それなのに、今、自分は、

「……、」

 ティアはそっと窓から離れ、寝巻を脱ぎ出した。
 そして手早く外出着を身に纏い、紙にペンを走らせる。

 これなら、入れ違いになっても、自分が外出したことは察してくれるだろう。

―――***―――

「待てよ」

 アキラは、会議用の施設の前で、ゆったりと歩き去っていく長身の男を呼び止めた。
 夜の静かな街路は、所々民家から漏れる淡い光が照らしているだけ。

 その道の中央で、長身の男はピタリと止まった。

「……んあ? はっ、マルドあたりが来るかと思ったが……、お前か」

 振り返った男は本当に迷惑そうな表情を浮かべ、振り返る。

 スライク=キース=ガイロード。
 “異常事態”が発生しているにも関わらず、あっさりとその場を去ろうとしているその男は、猫のように光る眼でアキラを睨むように捉えてきた。

「俺に何か用でもあるのか?」

 スライクの言葉に、アキラも視線が強くなる。
 スライクの声は、こんな異常事態を前に、“本当に自分が関係ない”と考えているような色を帯びていた。

「……あんた、“日輪属性”だろ?」

 単刀直入に、アキラは切り出した。
 自分が、“今持ってはいない情報”。
 しかし、今曝しても、何の問題もないように思われた。
 エリーとサクには追って来ないように言ってあるし、この男に知られたところで“自分の世界”は崩壊しない。

「ほう、よく分かったじゃねぇか。日輪属性には“お互い”相手の属性が分かるつースキルでもあるみてぇだなぁ、おい」

 スライクは、やはりとっくにアキラの属性に思い至っていたようだ。先ほどマルドとの会話の中でも、それを前提にしたようなことを口走っている。
 少なくとも今のアキラには同属性でも相手の日輪を感じ取れる力はないようだが、スライクはそれを有しているようだ。

「なら分かるだろ? この事件って、俺らのどちらか……、いや、両方かもしれないけど、“引き寄せたかもしれない事件”だって」
「……断言してやろうか?」
「?」

 アキラの言葉に、スライクはどこか挑発的な笑みを浮かべた。

「この事件は、“間違いなく俺らが引き寄せた事件”だ」

 スライクは、まさしく断言し、そして言葉を続けた。

「俺らが来なくても、いつかは起こったかもしれない事件だが……、少なくとも、今日あの“刻”に起こったのは、間違いなく俺らがここにいるからだ」

 そんな“異常”を、スライクはあたかも当然のように語る。
 アキラはいつしか奥歯を強く噛んでいた。
 確信に近いとはいえ、“あくまで可能性”だったその事実を、完全に肯定する者が目の前にいる。

 本当に自分たちは“そういう星の下”に生まれている、とスライクは断言した。

 そして。
 その上で。

 スライク=キース=ガイロードはこの場から去ろうとしている。

「じゃあ、解決するのが筋ってもんだろ?」

 それが、少なくともすべきことだとアキラは思う。
 事件が起こるからと街に近づかずに旅を続けることなどできはしない。
 結局必ず事件は起こってしまうのだ。
 だから少なくとも、事件を解決しなくては、厄災を振り撒き続けるだけになってしまう。

「アホかお前」

 アキラが導き出した答えに、スライクが返したのはさも当たり前のような否定の言葉。
 今すぐにでもこの場を去りそうなスライクは、呆れたように口を開いた。

「お前は、“勇者”を名乗ってんのか?」
「…………ああ」
「だが、俺は名乗ってない。俺はただの“旅の魔術師”。そんな奴に、依頼でもない事件を解決する義務があるわけねぇだろ」

 つまり、スライクが言いたいのはこういうことだろうか。
 自分が事件という“刻”を引き寄せたのは認める。しかしそれを解決するかどうかはまた別問題だ、と。

「……ちょっと待てよ。勇者とかはともかく、お前は自覚してんだろ? この事件を呼び込んだのは、」
「でかい勘違いだな。“俺が街を破壊した覚えはねぇ”」
「っ、」

 アキラは言葉に詰まった。
 確かにそうなのだ。
 この事件を起こしたのは、アキラでもなくスライクでもなく、“魔物”。

 アキラやスライクは、“事件の構成要素”というわけでもない。
 ただ単純に、気づかないまま事件の起爆スイッチを押しただけなのだ。

「……でも、普通ここまで巻き込まれたら解決するだろ?」
「“普通”?」

 言葉に詰まったアキラが出した言葉に、スライクの金の眼がさらに鋭くなった。

「いいこと教えてやろうか? “俺の世界に普通はない”」
「―――、」

 その言葉で、アキラの記憶の封にひびが入った。
 “一週目”。
 自分はこの男の言葉をここで聞き、そして完全に自分とは別の位置にいる人間だと感じたのだ。

「俺の立ち寄った街が滅ぼされようが、寝ている横で爆発が起きようが、んなこと知ったこっちゃねぇ。直接的に襲ってくるような奴がいたらぶっ殺すが、興味がなければガン無視だ。例えば目の前で魔物が誰かを襲ってても、気が乗らなきゃ通り過ぎるぜ? それが“俺がそこにいるっつー理由で起こったことでもな”」

 何だ、それは。
 アキラは思い起こされた記憶も含めて、スライクの考え方が理解できなかった。

 自分とは“間逆”の存在。

 仮に、自分がスライクのような人間だったとしよう。

 あの魔族―――サーシャ=クロラインとの戦闘があったウッドスクライナで、村人たちの異常を察知しながらも、あっさりとその場を後にしていた。

 アイルークのヘヴンズゲートでも、大群の魔物が押し寄せくる中、自分にかかる火の粉だけを払い、あっさりとその場を後にしていた。

 周囲にまるで影響されない、ある種“究極の能動性”。
 世界がどれだけ回っても、彼の世界はまるで揺るがない。

 いつの間にか事件に巻き込まれ、それを解決してきた受動的なアキラとは正反対の存在だ。
 そんな人間がいたとすれば、その人物の周囲で“物語”は発生し得ない。
 ただ、“主人公によって解決されない事件が発生し続けるだけだ”。

「お前、」
「っかぁ、理解されないねぇ、俺の世界は」

 アキラが言葉を紡ぐ前に、スライクは先を読んで言葉を吐き出した。

「てめぇが今キレかかってんのも、“普通”に考えたら、だろ? 自分で事件を呼び込んだなら、それを解決すんのが“普通”だって。だがよ、そんなもん俺にとっちゃどうでもいい」

 スライクはアキラに背を向け、ゆっくりと歩き出す。

「“俺の世界に普通はない”」

 背を向けその言葉を繰り返したスライクを、アキラは呼び止められなかった。

「事件を解決するのは“勇者様”つーのが“普通”だろうが、別にそこらの魔術師隊でも民間人でも、……さもなくば小さなガキでも、俺は許容できる」

 そこで、アキラは背後に妙な気配を感じた。
 開きっぱなしの施設の扉が、僅かに動いたような気がしたのだ。

「太陽が1日1回昇んなきゃなんねぇっつー律儀な決まりもねぇんだよ」

 その長身が完全に夜の闇に消えるまで、アキラは口を開けなかった。

―――***―――

「……何だと思う? あいつ、あのスライクって人追っていったけど……」
「……さあな。だがあいつもあいつなりに思うところがあるのだろう。多分、」
「……“隠し事”、か」
「ああ、久々だけどな」

 エリーは目の前の資料に目を落としながら、隣のサクと小声で言葉を交わす。
 スライクが残した挑発染みた言葉のあと、さらにピリピリし出した会議室の空気に耐えられなくなり、エリーたちは魔術師たちの手伝いを申し出た。
 話を聞き終わった以上帰るように魔術師たちに促されたのだが、流石にこの事件発生中に眠る気にもなれない。
 少しでも事件の原因を探索しようと魔物のリストを読み始めたのだが、今から思うと失敗だった。

 何せ、数が多い。

「はあ……、金曜属性だけでもこんなにいるの?」

 エリーが魔物のリストへ小声で漏らした言葉に、顔をしかめるロッグ以外の全員が心の中で同意した。

「ねえサクさん、金曜属性でしょ? あたりとかつけられないの?」
「……非常に申し訳ないが、無理だ。私はあくまで“旅の魔術師”。そこまで勉強しているわけじゃない。エリーさんこそ、魔術師試験で学んだはずだろう?」
「ごめん、無理。魔術師試験って、自分の属性とその強弱の関係にある属性以外には、メジャーな魔物にしか触れないのよ。それに、自分に関係ある属性の魔物もそこまで深くやるわけじゃないしね」

 エリーは火曜属性だ。
 火曜属性は木曜属性に強く、水曜属性に弱い。
 エリーはその3属性に対してはある程度詳しいが、他の属性の、しかも確認されている全ての魔物を調べるとなっては流石に魔術師試験を突破しただけでは無理がある。

 実際、魔術師隊の面々も魔術師試験を突破しているはずだが、基礎から学び直すように進捗が滞っていた。
 部屋の奥で資料を読み進めているロッグは流石に“全属性の魔物”が試験範囲に含まれる“魔道士試験”を突破しているだけはあり、読むスピードが早いが、細部に至るまで記憶を保っていたわけではないらしく、同じく成果を上げていないようだ。

 こうしている間にも、“知恵持ち”は2発目を放とうとしているかもしれない。
 だが人数も少なくては、情報収集に努めることしかできないのが現状だった。

 正直、ここにいる誰もが、資料を黙々と読み続ける今がもどかしいと思っている。
 パックラーラの“街の魔術師”たちは現在2発目に備えて街を巡回しているらしいが、そちらの役の方が室内より幾分マシだろう。

「ん……、はあ、」

 エリーは資料から一旦目を離し、眼精疲労を抑えるように目頭をつまむ。

 金曜属性は、硬度を司る魔術だ。
 それゆえに、メジャーな魔術は身を守るものになる。
 ただ、攻撃方法もないわけではない。

 今回のように、対象を“押し潰す魔術”だ。

 エリーは個人的に、タイラクプスという金曜属性の上位魔術が怪しいとあたりをつけて、その魔術を使用する魔物を調べているのだが―――そこからの枝分かれが酷い。

 有効範囲や、遠距離・中距離・近距離の区分けに押し潰す角度。
 それによって、その魔術を使用する魔物がまるで変わってきてしまうのだ。

 例えば、エリーは『ノヴァ』という火曜属性の攻撃魔術―――アキラの言うところの、“殴り殺す魔術”を使用することができる。インパクトの瞬間に魔力が爆ぜ、相手に大ダメージを与える技だ。
 仮にサクが火曜属性で同じ魔術を使用すると、やはりインパクトの瞬間に魔力が爆ぜ、同じ結果を生み出すだろう。

 しかし、その痕跡はまるで違うものになる。

 打突の場所だけ魔術が爆ぜているのか、それともその周辺まで拡散して被害を与えるのか、はたまた“どの入射角で攻撃すれば最も威力が出るのか”。

 魔術師試験を突破するには自分の魔術の特徴を理解し、そして身に着ける必要がある。
 ただ1つの魔術を取り上げただけで、使用者の“個性”が現れるのだ。
 魔術師試験には“実技”というものも含まれるが、エリーには未だに試験官がどう判断しているのか分からなかったりもする。

 ともかく、その、“個性”。
 それは魔物にもあり、種類によって“個性”がおおよそ決まっているため、“攻撃”の痕跡からその判別が可能なのだが―――分かっている情報が少なすぎる。

 ロッグの背後のホワイトボードに書かれている特徴は、2つ。
 現場検証で分かった地面に対してほぼ水平に押し潰す力であるということと、誰も爆撃音まで気づかなかったことからある程度の隠密性があること。

 魔力の優劣は敵が“例外”ということもあり度外視されているが、それでもなお、膨大な資料の中から探すとなってはあまりに指針が足りな過ぎる。

 仮に、2発目の襲撃と、夜明けの来訪と、魔物判別の3つがレースをするなら―――あまり乗りたくないゲームだが、エリーはそのままの順でゴールテープを切ることにチップを賭けるだろう。

 エリーは眼前で開きっぱなしの魔物リストに、疲れ切った眼を向ける。
 自分の身しか守れない魔物、79度の角度で敵を押し潰す魔物、45度の角度―――これは綺麗な数字だ―――で敵を押し潰す魔物と、流し読みし、そろそろ再開しようとエリーが姿勢を戻したところで、

「こりゃマジでスライクの言った通りになりそうだ」

 ロッグに劣らぬ速度で資料を読み進めていた隣のマルドが一言呟いた。
 マルドは先ほどまでのエリーのように椅子の背もたれに身体を預け、額を押さえながら天井を仰いだ。

「スライクって、その、さっきの人ですか?」
「ああ、言ってただろ? 手っ取り早い方法があるって」

 エリーは確かに、あの長身の男がそう呟いていたのを覚えている。
 仕事柄文句も言わずに資料を読み進めている魔術師隊のメンバーたち―――特にロッグに視線を合わせないようにしながら、エリーは声のトーンを落として聞く。

「手っ取り早いって……?」
「そりゃ、ここで調べるより攻撃主がいそうな場所を探しに行くってことだろうね。実際に見てきた方が早い。スライクが考えそうなことだし」

 身体を椅子に預けながらもマルドは資料を読んでいるのか、適当に伸ばした指で机の資料をめくっていく。

「攻撃範囲に入射角。もしかしたら“詠唱”かもしれないし……、とてもじゃないけど一晩で調べきれる量じゃない。正直俺も甘く見てたとこあった」
「“詠唱”……?」

 その言葉に、エリーは僅かに疲労を忘れられた。
 “詠唱”。それについて、あまり魔術師試験では触れられなかった気がする。
 ただエリーの中にある認識は、攻撃時に詠唱を附せば魔力の通りが良くなる、という程度のものだ。

「知らない、か。まあ、そうだよね。…………そうだな、エリサスさん、“名前”ってなんのためにあるか知ってる?」
「へ……?」

 どうやら自分の脳は疲労を忘れていなかったらしい。
 マルドの気分転換にも似た台詞に、エリーは眉を潜めた。

「何でって、」
「……ん、と、じゃあ例えば、スライクいるじゃん?」

 エリーはおずおずと頷く。
 正直なところ、あまり好感が持てていなかったあの長身の男だ。

「例えばエリサスさんがスライクを探すとして……、“名前知らなかったらどうやって特定する”? 背が高い奴? 白髪の奴? それともでかい剣を腰から提げた奴?」
「え、えっと、」
「ああ、遠慮しなくていいよ。どうせ例えだし、正直あいつのこと気に入る奴ほとんどいないし」

 酷い言われようだ、とエリーは思うが、あえて口は挟まなかった。
 ただとりあえず、エリーの中では、今うちの“勇者様”が追っていった男、だ。

「まあ、とりあえず面倒でしょ? 街中で『おい白髪』とか、『そこの大男』とか言ったら、何人振り返るか分かったもんじゃない」

 一瞬マルドは、奥に座るロッグに視線を走らせた。一応ロッグも、頭髪に白が混ざっているし、座高を見るに平均よりは背が高い。

「でも、『スライク』って呼べば―――同じ名前の奴はともかく、そいつを“特定”できる。まあ、あいつは呼んでも振り返るような奴じゃないけど」
「それって、」
「そ、“便利”なんだよ、“名前”って。魔術もそれと一緒」

 エリーと話している間もマルドは資料を読んでいるのか、ひらりと1枚ページをめくった。

「魔力の流し方、その量。それに術式の組み上げ方。そんな無限にも近いようなパターン、一々戦闘中にやってられない。だから、“詠唱”するんだ。それを言えば、自然と身体も反応する。“最も効率のいい組み合わせを特定できる”からね。“詠唱”をしないと、それが適当な魔力の浪費になる」

 言われてみれば、そうかもしれなかった。
 エリーがとっさに攻撃すると―――すなわち、“詠唱”が間に合わない状態で攻撃すると、確かに“似た”現象は起こるが、威力は最大級のものにはならない。

「それでも、身体が覚えているはずの“詠唱”に脳がついてこないことがほとんどだがな」

 そこで、部屋の奥から声が聞こえた。
 一瞬、無駄話をしていた自分たちをたしなめるつもりかとエリーは身体を震わせたが、ロッグは疲労が浮かんだ顔を浮かべている。
 どうやら、彼も魔道士とはいえ、気分転換は必要だと感じたようだ。

「魔道士試験、って、確かそれも実技にありましたよね?」

 そんなロッグに、マルドはにこやかに応答した。
 しかし、ほぼ同時に2人とも資料をめくった。会話しながらでも、やはり2人は資料を読めるらしい。

「ああ。懐かしい話だが、その“詠唱時間”がどれだけ短いかも問われる。“とっさにどこまで真に迫れるか”―――すなわち、“詠唱”をどこまで確立しているかというのも採点ポイントだ」

 エリーは魔術師隊の者が手を止めたのを見逃さなかった。
 この場で唯一の魔道士試験の経験者だ。その道を志す者として、彼の言葉はこの非常時でも値千金のものらしい。

「“詠唱”は非常に厄介だ。何せ、自分が覚えるだけなら“詠唱など何だっていい”。まあ、あまりに単純な“詠唱”という“スイッチ”を作ってしまうのも問題だが」

 例えば、『あ』などという独自の“詠唱”を作ったとしよう。
 そんな文字を“スイッチ”にしたら、『あ』の含まれる言葉を言ったり、または思い浮かべたりするだけで身体が反応してしまい、魔術の発動を押さえ付けることになる。
 そうなれば、身体の方も『あ』という文字では切り替えてはくれなくなってしまう。
 短いからと言っても、名前の持つ本来の意味―――すなわち“便利”には直結しない。
 ロッグが言っているのはそういうことだろう。

「時には単語で。時には文章で。自分に合う詠唱は様々だ。遥か昔には唄いながら敵を討った魔術師もいたくらいだしな」
「“初代の勇者様御一行”、でしたっけ?」
「これもか。よく知ってるな、マルド=サダル=ソーグ」

 エリーはロッグの言葉に、感心した。
 この男は、夕方に会っただけのマルドのフルネームを記憶している。

「ただそれでも、“自分だけの呼び名”は後世に伝えるとなっては不便だ。ほとんど同じ事象を、別の言葉で説明されても後継者は混乱するだけ。だからある程度呼び名を一本化したんだ。魔術をさらに解明し、最も効率のいい呼び名にな。世界の言語が統一されているように」

 確かに、世界で使われる言葉は共通だ。
 エリーは魔術師試験で、“しきたり”――すなわち、“神族の教え”について学んでいる。
 その中に、神が言語を統一化した、というものがあったはずだ。
 他の国に行って言葉が通じないというニュアンスは、エリーにとって理解し難かったが、よくよく考えるとこの広い世界で、別の言語が発達していないというのも妙と言えば妙なのだろう。

「ただでさえ“魔法”を必死に解明してできる“魔術”。いくつも呼び方があったら、まともな形で魔術を学ぶこともできないだろう。魔術師試験で問われる魔術は一本化が進んだ有名なものばかり。魔術は人によって、それこそ“個性”が出るほど無数にある―――とまあ、これも魔道士試験の科目の1つだがな。“魔術の本質”」

 重舌に語り始めたロッグは、僅かに指導をするような視線を魔術師たちに向けた。
 手を止めている者にも注意をしない。
 一応彼は、ここまで資料を黙々と読み進めている魔術師たちを労わる心を持っているようだ。
 マルドもその授業に余計な口を開かない。
 エリーはロッグに対する評価を僅かに変えた。
 第一印象はあまり良くなかったが、彼は確かに、“魔道士”なのだ。

「だがやはり、“例外”というものもある」

 ロッグが読み終わったページをめくる。
 エリーには、それがまるで教科書のようにも見えた。

「“詠唱”の一本化が進んでも、独自の魔術を編み出す者もいる。“初代の勇者様御一行”が使ったものの中には、誰も解析できずに“唄のまま引き継がれた魔法”さえ存在しているほどにな」

 ロッグは僅かに小声になり、そしてマルドを盗み見、エリーの方を向いてきた。

「先ほど、そこのマルド=サダル=ソーグが“詠唱”だったら難しいと言っていただろう?」

 そういえば、この話の発端はマルドが“詠唱”という言葉を発したからだ。
 いつしか授業を受けていたような気になっていたエリーは我に返り、マルドを横目で見る。
 マルドは黙ってロッグの言葉を待っていた。

「マルド=サダル=ソーグが言ったのは、“オリジナルの魔術”だったら難しい、という意味だ。時に“詠唱”とは、そういう意味でも使われる」
「えっと、つまり……?」
「今回の攻撃が、“術者が独自で生み出した魔術”だとしたら、こんな資料には載っているわけがない、というわけだ」

 その言葉で、エリーは1つ、心にあった疑問が解けた気がした。
 かつて見た、“とある魔術”。

 あの赫い部屋。
“魔族”―――リイザス=ガーディランが使用したと思われる、“赫の球体”の魔術。
 あのときは到着したばかりで状況を完璧に把握はできなかったが、火曜属性の自分が、おそらく火曜属性だと思われるあの魔術に何の見当も付けられなかった。

 あとでアキラに聞いたところ、あの触れれば爆ぜる攻撃は、“アラレクシュット”という魔術らしい。
 それでも分からなかったエリーは、相手が“魔族”だということもあり、魔界にしかない魔術なのだと自分の中で決着を付けた。

 だが、今から思えば、あれはリイザス=ガーディランのオリジナルの“詠唱”だったのかもしれない。

「ちょっと待ってくれ」

 そこで、今まで黙って話を聞いていたサクが声を上げた。

「では、もし今回の攻撃が“オリジナル”だったとしたら、私たちがやっていることは意味がないかもしれないということか?」

 サクは、もっともな意見を口にした。
 言葉を選んだつもりらしいが、疲労で僅かに口調が強い。
 彼女はどちらかと言えば、外に出て探した方が早いと思っているようだ。

 その上、今回の相手は“知恵持ち”。
 “例外”という言葉が、まさにピタリとはまる“異常”なのだから。

「ああ、そうかもしれない」

 そんなサクに、ロッグはあっさりと肯定を返した。

「それじゃあ、」
「だが、“かもしれない”、だ」

 ロッグはサクの言葉を遮って、僅かに強い口調で言葉を紡ぐ。
 そして、身体を背もたれから離し、手元の資料に近づいた。

「いや、そもそも“オリジナル”であっても、似た魔術の中にヒントがあるかもしれない。先ほどの男が言っていたように、手っ取り早い方法ではないだろうが、それでも、だ」

 だから、魔術リストも持ってこさせたのか、とエリーは察した。
 よくよく見れば、最初に使用された魔術の“あたり”を全員に着けさせたのち、魔術リストはロッグの机にある。

 全員が魔物だけを調べている中、ロッグは守備系統の魔術も含め全て調べ続けているのだろう。

「どちらのやり方が正しいとは言わん。だが、私には正体不明の攻撃が来るかもしれないというのに、少ない戦力に方々駆けずり回らせる気にはなれない。君たちも参加した以上、私の指示に従ってもらう」

 答えに近づくアプローチは、人それぞれだ。
 ロッグは資料から答えを導き出す派なのだろう。そしてそのやり方で、“魔道士”まで昇り詰めたのだ。

 ロッグへの評価が大きく変わったエリーの眠気は、大分晴れてきた。
 他の魔術師たちも、崩していた姿勢を僅かに正す。

 時間は浪費したが、大切な話も聞けたし、何よりやる気が漲ってきた。

 やはり、ロッグは、“魔道士”なのだ。

「さて諸君。話は終わりだ。再開しよう」

 膨大な資料も、今は攻略しようという気になれる。
 絶対に特定してやろう。

 エリーは意気込んでロッグに返事を返そうとし、

「な、なあ、」
「はひゃあうっ!!!?」

 背後からの声に、奇声を上げる羽目になった。

「ちょっ、ちょちょちょちょちょちょっ、ちょっとあんたっ!! 何よ!? あたし思わず立ち上がっちゃったじゃない!!」
「い、いや、」

 折角全員が気合いを入れ直したというのに何というタイミングで戻ってくるのか。
 戻ったモチベーションを怒りというベクトルに全て変換し、エリーは背後の男―――アキラを睨みつけた。
 しかしアキラは、エリーに視線を受け流すように、きょろきょろと部屋中を見渡している。

「……アキラ。もう済んだのか?」
「あ、ああ、済んだちゃあ済んだけど、えっと、」

 サクが話しかけても、アキラは視線を泳がすのを止めない。
 そういえば、アキラはあのスライクという男を追いかけていったはずだ。
 共に戻って来ない辺り、あの長身の男は言葉通りに離脱したのだろう。マルドは予想できていたのか、口を開こうとはしなかった。

「そ、そうだ、あんた、今の話聞いてた? ロッグさんが大事な、」
「いや、それはそれでいいんだけど、それより、」

 無為に視線を泳がすのを止め、アキラは今度こそエリーを正面から捉えた。

「お前ら、キュールがどこ行ったか知らないか?」

 そこでようやく。
 エリーはこの会議室から小さな女の子が消えていることに気づいた。

―――***―――

 “その存在”にしてみれば、“小石を蹴っただけのようなものだった”。

 この世総てが憎くなり、たまたま目に止まった道の脇の小石を八つ当たりで蹴飛ばしただけ。

 ただ、それだけのことだったというのに。

「ぐ……、がほっ、」

 ごぼり、と。
 “その存在”は倒れ込んだまま、鉛色の液体を吐き出した。
 粘着性のあるその奇妙な物質は、星明かりに照らされ毒々しい光沢を放っている。
 身体中には亀裂が走り、その傷からも膿のように液体が溢れ出す。
 頭から被った黒いローブはぐっしょりと濡れ、裾からドロドロと“毒”を零していた。

 ここは、パックラーラ西の大草原。
 満天の星が世界を照らし、茂る草木は夜風に揺れ、遠くから海の匂いも僅かに届く。

 広大なその空間のただ中で、“その存在”は倒れ込んでいた。

 何だ、これは。

 虚ろな瞳で、身体中から吹き出す不気味な液体を捉え、そして未だ形を保っているパックラーラを捉え、“その存在”は愕然とした。

 本来ならば、あの街は地図から消え失せている。
 本来ならば、大規模魔術程度幾千も放つことができる。
 本来ならば、“小石”を蹴り砕くことなど造作もないのだ。

 それなのに、今目に映っているのは、一体何なのか。

 小さな魔術なら放つことはできた。
 2人の人間を破壊したとき、僅かに身体に鈍い痛みが走ったが、それでも術式を組み上げることはできたのだ。

 しかし、大魔術を放った瞬間、身体中に激痛が走り、意識を刈り取られそうになってしまった。

 こんなものは“自分”ではない。
 “その存在”は、まるで卵を叩いたかのようにヒビの入った身体を震わせながら結論付けた。

 自分はもっと巨大で、強大で、圧倒的な存在であったはずだ。
 誰かの指図も受けず、誰からの干渉も受けず、欲望の赴くままに動くような―――そんな絶対的な存在だったはずだ。

 決して、決して八つ当たりすら満足にできないほど矮小な存在ではなかった。

 “この身体はどれだけ変わってしまったというのだろう”。

「……っ、」

 自身の身体から今なお滲み出るそれを、忌々しく睨みつける。
 自分を襲っている“異常”は、この“毒”のせいだ。

 こんなもの、当然望んで体内に入れたわけではない。
 これは、無理矢理“投与”されたものだ。

「ぐ、ぐう……、ぐ、」

 “その存在”は、憎悪一色に染められた瞳のまま、過去を反芻する。

 ある日、“とある魔族”に出遭ってしまったのが絶望の始まりだった。

 いつの間にか捉えられ、いつの間にか拘束され。
 気づけば自分は―――絶対的であったはずの自分は、“実験動物”にされていた。

 “その魔族”が実験と称して行ってきたのは、“自分”というものの破壊。

 尊厳を踏みにじられ、砕かれ、すり潰され。
 徹底的に生殺与奪が握られた状態のそれは、まさしく拷問。

 その魔族の噂は聞いていたが、まさかあそこまで“いかれている”とは思ってもみなかった。
 なにせ、“同種の自分”に手をかけてきたのだから。

 そして。
 その魔族が“自分以上に自分に詳しくなった頃”、とある薬物を“投与”された。

『これは、“進化”だ』

 そのときかけられた言葉は覚えている。
 全身が震え、視界総てが恐怖に染まり、今まで何とか守っていたプライドも放り捨て、ひたすらに命乞いをした。

 だが結局祈りは届かず、気づけば自分は“この有様”だ。

 欲望の赴くままに行動してきた自分が、“その魔族”の欲望に赴くまま、総てを塗り替えられた。

 本当に、“自分は壊されてしまったのだ”。

「ぐ……、潰す……、潰す……、絶対に、絶対にだ……、“いつか”……、絶対に……、」

 “いつか”。
 それは、理解している故の言葉だった。

 “その魔族”を潰せるのは、今ではない。
 これほど矮小な存在にされてしまった自分では、決して届かない。

 だから、消耗し切った身体で海に飛び込んでまで、命からがら逃げ出してきたのだ。

「……、」

 激痛に身悶えながら、“その存在”は、ギリ、と喰いしばった。

 恐怖は未だ、胸にある。
 だが今は、それ以上の憎悪が湧き上がっていた。

 いつか必ず、“自分”を壊した相手を潰す。

 憎く、憎く、憎い敵。

 鉛色の液体を噛み絞め、“その存在”は、北を睨んだ。
 それは、自分の総てをかけてまで潰したい相手のいる、“中央の大陸”の方向。

「必ず潰す……、“ガバイド”……!!」

 それにはまず、こんな街程度は破壊できなければならない。

―――***―――

「あっららら? こんな時間に何してるんですかっ?」

 声をかけられただけで心臓が止まりそうになる経験などそうはないだろう。

 時間も深夜。無人の大通りを歩いていたキュール=マグウェルは、小さな身体を震わせ、その貴重な経験をした。
 両手を胸に当ててギクリと振り返った先、裏道から、まるで旧知の友人にでも会ったかのようににこやかな表情を浮かべる女性が歩み寄ってくる。

「おっととと、驚かせてすみません……。こんな時間にお散歩ですか?」

 青みがかった短髪に、キュールより僅かに背が高い程度のその女性は、表情を崩さない。
 そのあまりに自然体な雰囲気に、キュールはこの女性が、火事のことも街を襲う“異常”のことも知らない住民なのだと推測した。
 火事のことはともかく、この街を今なお何かが襲っている可能性があることは知らせるべき対象ではないだろう。わざわざ不安を与えるような真似をするべきではない。

 しかし、キュールは首を振った。
 嘘を吐くつもりはない。
 自分が誰にも告げずあの会議室から抜け出したのには、確固とした理由があるのだから。

「そだそだ。あっしはアルティア=ウィン=クーデフォン。みんなからは、…………ティアにゃん、って呼ばれてます」

 僅かに視線を外し、ついにキュールの目前まで歩み寄ってきたアルティアというらしい女性は、首を僅かに傾げてキュールの瞳を見つめる。
 それが名前を聞いてきている仕草だと気づいて、キュールはか細い声で名前を答えた。
 警戒心は薄れてきたが、恐らく自分と性格が正反対であろうこの相手にも、そしてその愛称で彼女を呼ぶその“みんな”とやらにもあまり関わりたくないというのが本音だ。

「さてさて、一体何してるんですか? お散歩じゃないとすると……、もしかして、迷子ですか?」

 キュールは一歩だけ、後ずさった。
 この人は自分とそう変わらない年齢のようだが、“大人”であるのかもしれない。
 だから、この時間に出歩いている自分を保護しようと声をかけてきたのだろう。

 返答によっては連れていかれる可能性がある。
 そうなれば、“目的地”に行くことができなくなってしまう。
 再び警戒心を呼び起こし、キュールがさらに一歩後ずさったところで、

「……実はですね、あっし、迷子なんです」

 その女性は、そんなことを言い出した。

「いやいや、宿を出て3回くらい角を曲がったことは覚えてるんですが、いかんせん大きな街でして……、もし迷子じゃないなら、お助けいただけると幸いなのですが……、いや、助けて下さい、キュルルン」
「……、」

 キュールは、旅に出てから初めて出逢った種類の人間を前に、唖然とした。
 奇妙な呼称をされたことは気になるが、この時間に出歩く自分という“子供”を見て、不審に思うわけでもなく頼ってきている。

 キュールが戸惑いながら口ごもっていると、その女性は、途端何かに気づいたようにはっとし、言葉を続けた。

「あ、お助けいただいたら恩義は返しますよぉっ、あっしは。キュルルンのご用事、お手伝いします」

 そこで、ようやくキュールは、彼女の何が今までの人間と違うのかに気づいた。
 彼女は、“前提”が違う。

 最初はこんな時間に子供が歩いているから声をかけたのかもしれない。
 しかし、そのあと、彼女は自分を叱るでもなく、導こうとするでもなく、“2人にとって最善の解決策”を探そうとしている。

 彼女にとって、時間がいつだろうが相手が誰だろうが、関係ない。
 相手の種類によっての対応というものが、“前提”から欠落しているのだ。

 だから、何となく、喋り続ける彼女への評価を口に出してみた。

「……“子供”?」
「…………1つお教えしましょう。キュルルンがどういう意図で言ったのか分かりませんが、実は今あっしはその言葉に結構敏感です。ぐさっと心に刺さります。あっしはあれですよ、大人ですよ」

 何を思い出しているのか遠い目をしたその女性は、どこか虚しそうな表情を浮かべた。
 キュールは“大人”という言葉を聞いても、さらなる親近感が湧き、僅かに微笑んだ。

「ま、まあまあ、ともかく、キュルルンは何をしているんですか? 道案内はともかく、先にお手伝いしますよ?」
「……でもわたし、道とか分からない」
「なっ、なんとっ、……で、でも、乗りかかった船です。“内回り”の船は避けたいと思いますが、キュルルンのご用事手伝いましょうっ」

 悪く言えば強引なその言葉に、キュールは困惑した。
 少なくともキュールの小さな世界には、見返りもないのに自分を救おうと考えるような人間はいなかった。
 彼女の様子を見るに、別の企てがあるようには思えない。

 彼女はどうやら“子供”というだけではなく、本当に自分が出逢ったことのない種類の人間なのかもしれなかった。

 今日は驚くことが多い。
 自分の知っている世界には存在しない人間を、“2人”も見たのだ。

 そして。
 それを感じ、キュールは彼女を“巻き込みたくない”と思った。

「でも、ついてこない方がいいと思う」
「ええっ、何でですかっ? もしかして、プライベート的な、」
「ううん」

 キュールはふるふると首を振った。
 これを話せばいくらこの女性でも自分を止めるかもしれないが、それでもなお、口を開く。

「火事があったの、知ってる?」
「……えっと、もしかして、あの、めちゃくちゃおっきいドッカーンッ、って音ですか?」

 キュールはこくりと頷く。
 やはり、何も事情を知らないらしい。

「最初は、お昼。魔物が街に現れたんだって聞いた。でもそのあと街から離れて、また襲ってきた。“あの音”、攻撃だったの」

 キュールは“知恵持ち”を示唆するような言葉を呟き、そして自分だけが知っている情報を口にする。

「攻撃は、“街の西の方から”」

 それが、キュールの目的地だった。
 あの“攻撃”の瞬間、キュールは自己を守りつつも、使用された魔術を識別しようとしていたのだ。
 自分と同じ属性の魔術であったが、勉強していないからか、はたまた未知の魔術であったのかは定かではないが、判別することはできなかった。
 しかし、1つだけ分かったことがある。

 攻撃してきた方向だ。

 間近で受けた者にしか分からない、魔術の残照。
 その、残り香とでも言うべき気配を、あのとき確かに街の西から感じたのだ。

 先ほどの会議、キュールは何度も口を開こうとした。
 しかし魔術師隊の―――いや、“大人”の気配に押され、声を出すことはできなかったまま。
 それに、あのとき強引にでも情報を口に出したところで、誰もこんな“子供”の意見に耳を傾けようとはしないだろう。

 その上、仮に意見を聞いてもらえて解決したところで、自分の手柄など忘れ去られてしまうかもしれない。
 それでは駄目なのだ。
 この世界で生き抜くためには、自分が解決して、誰かに認めてもらわなければならない。

「じゃ、じゃあなおさらお手伝いしますよっ。というより、みんな呼んできましょう―――ってああっ、私は迷子だった!!」
「いいの。信じてもらえないだろうし」
「で、でも、」

 食い下がるその女性に、キュールはふるふると首をふった。

 街を襲う“異常”。
 あれだけ大規模な攻撃ができる敵。
 攻撃は止んでいるが、まだまだ余力を残しているかもしれない相手。

 普通、それに1人で対応しようとはしないだろう。

 でも、

「“普通はいらない”。わたしは“それ”に、嫌われてるから」

 本当は、いや、本当に、恐い。
 自分を認めてくれるなら、あの会議室にいた全員で向かいたいくらいだ。

 キュール=マグウェルは、自分の力を過剰に信じる人間ではない。
 しかし、誰も子供の意見に耳を傾けない“普通”を前には、自分の望んだ世界は築けないのだ。

 だから、何故か会議所の出口まで跡を追ってしまった“あの長身の男”の言葉のように、やらなければならないことがある。

「“普通”を壊す。わたしを認めてもらうために、わたしは頑張る」

 キュールは言い切って、歩き出した。
 夜の道を、小さな歩幅でてくてくと。

 敵は強い魔物だろう。
 だけど、自分で倒せないかどうかなんて“分からない”。

 街を襲った“異常”を解決すれば、流石の“大人”も自分を認めざるを得ないのだろうから。

「街の西の方って、街の外ですか?」

 街外れが見えてきた頃、背後から声をかけられた。

「……!」

 キュールはゆっくりと振り返った。
 青みがかった短髪の女性は、僅かに表情を険しくして広がる大草原を眺めている。

 ついてきていることは知っていた。
 しかしその第一声は、自分をたしなめるものではなく、単純な現状確認。

 自然に隣に並んだその女性は、キュールの視線に気づき、視線を外して頬をかいている。

「あなたは、」
「ティアにゃんです」
「……あなたは、何で、」
「ティアにゃんです」
「…………ティアにゃんは、何でついてきたの?」

 勝ったと言わんばかりに『おおっ』と拳を天に突き出したその女性は、ゆっくりと手を下げ、小さく微笑んだ。

「私は……、キュルルンと似たようなこと考えているのかもしれません」

 一言呟き、今度はキュールの瞳を正面から覗き込んでくる。

「実はですね、……私はお荷物だったりして、みんなの役に立ててないんですよ。ははは……、」

 自嘲気味なその笑みに、キュールは眉を潜めた。
 出逢ったばかりでも、彼女の子の表情は貴重なものなのだと何となく察せる。

「気候が変わっただけで体調崩すし、先生のはずなのに何も教えられなかったり……、もうさんざんです」
「……、じゃあなんで、」

 誰かの仲間になれたのか。
 そう言おうとして、キュールは口を噤んだ。

 誰かと旅をする以上、そのメンバーは互いに補足し合える存在でなければならないのだとキュールは思う。
 旅の魔術師は、惰性で続くような関係を築けるほど甘いものではないのだとキュールは認識していた。

 彼女が仮にお荷物ならば、彼女は誰かの仲間ではあり得ない。

「強引についてきたんです。ご迷惑はおかけしてますが、それでも、ね」

 キュールの言葉は、途切れてしまっても伝わったようだ。
 しかしその女性は、少しだけ寂しそうな表情を浮かべながら、言葉を紡ぐ。

「今は役に立てないからついていかない、じゃなくて、ついていってから、いつか役に立つ。強引かもしれませんが、そうじゃなかったら“私と関わってよかった”って思ってくれないじゃないですか」

 無理だと思って誰かと別れてしまえば、その誰かと関わったことの意味がなくなってしまう。
 彼女が言いたいのはそういうことかもしれない。

「私はね、人の役に立ちたいんですよ。今は役立たずですが、きっといつか、認めてもらえるって信じてます」

 結局のところ、彼女は“子供”だ。
 キュールはそう思った。
 断られても、駄々をこねるように粘り強く近づいていく。

 相手からすれば迷惑以外の何物でもないだろう。
 しかし彼女は、相手に迷惑をかけることを自覚して、それでもそれが返せると信じている。

 キュール自身、今まで何度も旅の魔術師たちに同行することを断られてきたが、彼女のように強引についていったことはなかった。
 それは、合理的に役に立てないと決めつけられたからだ。
 強引にでもついていけば、いつか何かが変わっていたかもしれないのに。

 そして今。
 彼女はまさしく強引に、自分についてこようとしている。

「さあさ、行きましょう。きっと、キュルルンのお役に立ちますよ」

 キュールはこくりと頷いて歩き出した。
 隣に、自分よりアクティブな“子供”を連れて。

―――***―――

 何度目だろう。
 このパックラーラを全力で駆けずり回ることになったのは。

 ヒダマリ=アキラは民家の壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながらおぼろげに思った。

 キュールがあの会議所からいなくなって、早1時間。

 魔術師隊たちは飽きて帰ったのだろうと推測し、エリーたちも“敵”の特定に忙しいと会議所を離れなかった。
 確かにそうだろう。
 普通だったらこの緊急時、ただいなくなっただけの子供を、襲ってきた脅威を特定するための時間を割いてまで探そうとは思えない。
 常識的に考えて、彼らは最善の策をとっているのだ。

 しかし、アキラにとっては予断を許さない状況になっている。

「はあ……、はあ……、くっ、」

 息を整え、アキラは走り出した。ガチャガチャと鳴る背中の剣が鬱陶しい。
 自分の抱える、疑念が確信に変わっていく。

 ひんやりとした空気が満ちる路地裏を駆け抜け、大通りに出れば必死に遠くを見ようと目を細め、アキラはひたすらキュールを探した。

―――これは、“刻”なのだ。

 アキラの脳裏には、1つの確信が浮かび続ける。

 “刻”。

 それは、常識が常識でなくなり、普通が普通でなくなる瞬間。
 総ての事象はまるで物語のように整列し、他の総ての選択肢が削り落され、狭い狭い道の先にある奇妙な瞬間。

 その“刻”が来ている今。
 事件が起こった現場にいた子供が消えた。

 “巻き込まれないわけがない”。

「……、」

 アキラの中の確信は、1つの可能性を浮かび上がらせる。
 街を襲った“異常”が直撃した現場にいて、会議で何かを言いたそうにしていたあの少女。

 もしかしたら、キュールは“敵”の居場所を特定していたのではないか、と。

 そうなればあとは一直線だ。
 誰からも認められず、誰からも拒まれたあの少女は、この事件を解決しようと動くだろう。

「―――、」

―――どうする。

 何度見たか分からない大通りに出て、アキラは思考を進めた。
 この大きな街で、あんな小さな子供を見つけることなど不可能に近い。
 会議所から飛び出したときは、まだ遠くに入っていないだろうとある種楽観していたが、ここまで見つからないとすると根本的に探している方向が違うのだろう。

 現に、先ほど出会った街を巡回中の魔術師に訪ねても、見ていないと返答してきた。
 彼らも彼らで街を襲った“異常”に警戒中。

 探しているのは、自分1人だ。
 圧倒的に人手が足りない。
 こうなれば、多少無理をしてもらうかもしれないがティアに協力を求めにいくべきだろうか。

 “こと”が起これば分かるかもしれないが、それはキュールも、そしてこの街も“終わってしまう”瞬間の可能性があるのだ。

 何せ、“相手は知恵持ちどころの騒ぎではなく”―――

「……!」

 ふと。
 アキラは自分の思考に足を止めた。

 頭を流れた今のノイズは何だ。
 一瞬戸惑い、そのあとアキラの口元は僅かに釣り上がった。

「来た……、来た……、“解けかけてる”……!!」

 アキラは拳を握って身を震わせた。
 この感覚は、“記憶の解放”。

 自分がかつて経験していた、“一週目”。
 その記憶の封が解け始めているのだ。

 こうなればアキラは強い。
 キュールを助けるためだ。記憶にでも何にでも縋って“居場所を特定する”。
 もう犠牲者は絶対に出さない。

 アキラは思考を深く、深く、深く進めた。

「確か……、確か……、俺はあのとき……、」

 アキラは踵を返し、歩き出し、そして駆け出した。

 確か、あのときの自分も街を駆けずり回っていたはずだ。
 そして、方々探して見つからず、確か、確か、自分は。

「“街外れ”だ……!!」

 キュールと最初に出逢った場所―――いや、正確にはキュールの影を見た場所か―――あの果物屋に向かって走ったのだった。

 キュールを探しているうちに何となく、あの場所を思い出して。
 過去の無自覚な自分の行動を振り返り、アキラは苦笑した。

 きっと、記憶を探る時間を自分の感覚に身を委ねる時間に充てていても同じことをしていただろう。
 もう無理に使おうとは思わないこの記憶は、やはりあまり役に立たないのかもしれない。

 アキラは再度苦笑し、さらに速度を上げた。

 目指すは街の西―――あの広大な大草原だ。

「……、」

 アキラは迷わず一直線にその場に向かう。

 キュールを見つけ出すために。
 そして、“自分が呼び込んでしまった”この事件を解決するために。

 ただ。
 “敵の正体”を思い浮かべたときに覚えた悪寒は、零れないよう強く強く胸に封じた。

―――***―――

「……!」

 ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは、“思わず防御姿勢を取った”。

 高く高く散りばめられた星の下、広大なパックラーラ西の大草原。
 そこで視界に収めた、“ただそこでうずくまっているだけの存在”に。

 姿は、自分よりもずっと小さい。
 隣で身じろぎ一つしないキュールと同程度ほどだろうか。

 頭の上から黒いローブすっぽりと被ったそんな小さな影が、嗚咽のような呻き声を漏らし、まるで心臓麻痺にでも襲われているかのように震えているというのに―――ティアは、“近寄ろうとも思えなかった”。

 こんな経験は初めてだ。
 苦しそうにしている者がいれば、とりあえず近づき、治療を始める。
 それが、“アルティア=ウィン=クーデフォン”という人間のはずだ。

 だがそのティアが、“その存在に干渉したいと思えなかった”。

「なに……、“あれ”」

 隣のキュールが消え入りそうな声で呟いた。

 “あれ”。
 その表現で、ティアは自分が感じたこの悪寒の正体に思い至った。
 気づけば手の平は、汗でぐっしょりと濡れている。

 アルティア=ウィン=クーデフォンという存在、いや、この世総て人間の大前提―――“本能”という部分が、騒音をがなり立てるように警鐘を鳴らしているのだ。

 この感情が湧き上がる経験を、ティアはかつて経験している。

 “普通”とは違う光景が目の前にあり、それに近づきたくないと感じたことが、かつて一度だけあった。

「まずいですよ……、これは、」

 自身の不安を振り払うために、ティアは強引に口を開いた。

 思い起こされるは、アイルーク大陸―――ヘヴンズゲート付近の“とある洞窟”。
 身体中の血液が煮えたぎるような、“危険”を感じた―――あの“赫”の部屋。
 そこで感じた“死の匂い”を、目の前でうずくまっている小さな存在が発しているのだ。

「ぐ……、ぅ……?」

 “気づかれた”。

 ティアはあの“赫”の部屋で感じたことを、そのまま思い起こした。

 “あれ”に認識されはいけない。
 “あれ”に認知されてはいけない。
 “あれ”に認定されはいけない。

 頭の警鐘は止まらず鳴り響く。

 そんなティアの様子を知ってか知らずか、黒いローブの“その存在”は、瞳を向けてきた。
 黒いローブで貌は見えない。
 しかしその奥、黄色の眼が、影の中でギロリと光った。

「何を……、見ている……?」

 どこか、か細い子供のような声が聞こえた。

 言語の使用を確認。
 ティアは即座に相手を“知恵持ち”と結び付けようとする。
 姿は人に見えるが、この空気が相手を“人間”と認識することを許さない。

 しかし、ティアの思考はそこで止まる。

 本当に“この存在”を、“知恵持ちなどという枠組みで捉えていいものか”。

「……ぅ、ぅぅ、」

 隣のキュールも小さな呻き声を上げた。
 彼女も相手への認識を誤っていたのだろう。

 この存在がいる場所に、1人で行こうとするなど正気の沙汰ではないのだから。

「何を、見ているのかと聞いている……」

 ぬちょり、と。
 奇妙な液体が滴る音を鳴らしながら、“その存在”はゆっくりと身体を起こした。
 声にも徐々に力が増してきている。

 立ち上がった姿は、やはりキュールの背丈程度の小さな存在。
 だが、どれほど無頓着な人間でも覚えてしまうであろう威圧感は、膨大な殺気を極限まで圧縮したかのように重々しく届いてくる。

 まるで、身体総てを押し潰されているかのように。

「……あ、あなたが、街を襲ったんですか?」

 ティアは湧き立つ恐怖を抑え込み、何とか口を開いた。
 出した言葉はあくまで建前だ。
 この場に来れば、百人が百人、千人が千人、“この存在”が犯人なのだと確信する。

 だが、黙り込んでいることには耐えられない。

 満天の星が輝く大草原。
 そんな場所が、一瞬で死地に変わるその狭間。
 その瞬間を、僅かにでも遅らせなければならない。

「聞こえてないか……?」

 しかしそんな防衛本能も虚しく、“その存在”は沸点ギリギリの声色で呟いた。

 やはり、経験した通りだ。
 ティアの恐怖で縛りつけられているような脳が、僅かに逡巡した。

 この感覚は、あの“赫”の部屋で出遭ってしまった―――リイザス=ガーディランという“魔族”と同じだ。

 そこで、ティアは隣にグンと腕を引かれた。

「何を“見下している”のかと聞いている!!」

 ズンッ!!

 ティアは一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 自分の腕を引いたのは、隣のキュール。
 そして自分は尻もちを突くように転んだ。

 そこまでは分かる。

 だが、問題なのは目の前。
 倒れたティアのつま先の直前に、濁った黄色の物体が草原に深々と突き刺さっていた。

「う……お、わ……!?」

 ティアは震える声を漏らしながら、その物体をまじまじと眺めた。
 太さは、2メートルほどだろうか。
 正方形の物体で、高さは5メートル以上ある。
 濁った黄色が不気味に光るその物体は、まさしく“鉄槌”。

 “潰された”大地はめくり上がり、草木はその衝撃で飛び散っている。
 そんな凶器が、たった今まで自分が立っていた場所を襲ったのだ。

 そして。
 ティアがそのままの姿勢で地面を張って離れようとした頃、その鉄槌は黄色の残照と共に消え失せてしまった。

「た、立って、」
「お、おおっキュルルン、マジ助かりました……、て、てか今の何ですか……!?」

 その一撃がむしろ幸いし、空気に呑まれていたティアは我に返って立ち上がる。
 無残にも抉れた足元の大地をちらりと捉え、ティアは術者を再び視界に収めた。

 今の攻撃は、あの黒いローブの存在が放ったもので間違いない。
 魔力色からして、金曜属性だろう。

 だが、あんな魔術、ティアは一度たりとも見たことがない。
 一応、元魔術師隊である金曜属性の母を持つが、彼女の魔術はあくまで敵を“圧迫”する程度のもの。
 こんな、“押し潰す”ような魔術ではなかった。

 衝撃を間近で受け、身体は今でも振動を届けてくる。
 こんな、人の身程度即座に損壊させられるような魔術を、一瞬で放てる魔物がいるはずがない。

 やはり、

「ぐ……!? がはっ、」

 ティアが瞳を狭めた直後、目の前の存在が途端呻き出した。
 そしてどこからか、じゅるりと何かが滲み出すような不気味な音が響く。

 その事態にティアとキュールが呆然としていると、目の前の存在の黒いローブの頭が身悶えた弾みで“ぬちょりと外れた”。

「……!?」
「ひっ、」

 ティアは唖然、キュールはか細い悲鳴を上げる。

 液体を吸ったローブが零れるように外れて見えたのは、“鬼”。

 顎が突き出て覗いた下の牙は天に向かって鋭く伸びている。
 頭皮はなく、肌はくすみ切った灰色。
 げっそりと窪んだ瞳は、焦点が合っていないのか虚ろに泳ぎ、しかし黄色にギロリと光る。

 そして、まるで刃物で切り裂いたかのように傷だらけで、そこから鉛色の不気味な液体が溢れ出していた。

 その、見るもおぞましい“貌”が、キュールほどの背丈の“その存在”に付いているのだ。

 まるで子供が鬼のお面を買って、壊し、それをふざけて付けているかのようなその光景。
 ティアとキュールが動けずにいると、その“鬼”は、身を震わせながら口を開いた。

「くそ……、くそ……、今度は低出力で、これか……!? ふざけるな……、こんな、こんな……、こんなのは、“自分”ではない……!!」

 “鬼”は悶え、悲哀と激怒に満ちた言葉を呟き続けた。
 ズタボロの“貌”を限界ギリギリまでしかめ、そして雑巾を絞るように毒々しい液体が溢れ続ける。

 “こんな魔物は存在しないと確信できた”。
 ティアは自己の中の悪寒が、総て正しいものだと決断を下す。

 この、“鬼”は、

「“魔族”……、」

 ティアが震えながら発した言葉に連動し、キュールは一歩下がった。

 “魔族”。
 それは、総ての魔物を使役する存在であり、街1つ瞬時にかき消すとまで言われる素材であり、“魔王”になりうる存在であり―――そして、総ての諸悪の根源。

 それが今、目の前にいる。

 だが、ティアは何とか平穏を保てていた。
 キュールは“魔族”という存在に初めて出遭ったのであろう。

 しかし、自分は違うのだ。
 ティアはかつて、リイザス=ガーディランという“魔族”と一戦交えたことがある。

 あのときもそうだった。
 “きっと、何とかなる”。

「―――シュロート!!」

 ティアは片手を突き出し、詠唱を附した魔術を放った。
 相手が何を身悶えているのかは知らないが、これは“チャンス”。
 この場にいる以上、相手が敵なら倒すだけだ。

 魔術の一閃が鋭く奔る。
 鋭いスカイブルーの一撃は、未だ身悶える“鬼”に直撃。

 パッ、と闇夜がかき消された。

―――が。

「―――、」

 決まる、とは思っていなかった。
 相手は“魔族”。
 いくら身悶えているとはいえ、この一撃は牽制になるはずだった。

 そして、戦闘が始まる。
 これはそういう意味の一撃だった。

 それ、なのに。

「うう……、くそ……、何で、何で私が……、こんな目に……、くそ、くそ、くそ、」

 光源が星明かりだけに戻ったその世界は、“何一つ変化がなかった”。

「……、シュ、シュロート!!」

 戸惑いながらティアはもう一度、魔術を放つ。
 再び直撃し、闇夜が晴れる。
 今度は閃光に目を背けず、命中を確認した。

 確かに、この“鬼”は自分の魔術を受けている。

 だが、それなのに、

「“私”はどこにいる……!? 強大で、強力で、巨大な、“私”はどこにいる……!?」

 “鬼”はその衝撃を受けても微塵にも揺るがず、ただその場で“自己への絶望”を繰り返していた。

 百歩譲って、土曜属性ならまだ分かる。
 他の属性に比べて魔術による干渉を受けにくい、“揺るがない属性”ならば、魔術に対する抵抗が強いだろう。

 だが相手は、先の魔術を見るに、金曜属性だ。
 金曜属性が、他の属性に比べて優位性があるポイントは、“物理的な攻撃への抵抗”。

 魔術攻撃に対しては、特に強いというわけではない。

 だが、それならば何故。
 目の前の存在は―――“今にも倒れそうなほどもがき苦しんでいる”目の前の存在は、自分の魔術に何の影響も受けないのか。

「……? 何を、見ている……?」

 ぞくり、とティアは震えた。

 自身の攻撃が聞かなかったこともさることながら。

 攻撃されたはずなのに。
 攻撃したはずなのに。

 “まるでたった今、ティアとキュールに気づいたような声を上げるその様に”。

「何を、見ているのかと聞いている……」

 息も絶え絶え、瞳も虚ろ。
 見れば黒いローブの裾からも奇妙な液体が垂れ、足元の草木を汚している。
 身体中から奇妙な液体を噴き出すその存在は、うわ言のように繰り返した。

 もがき苦しんでいるその“鬼”は錯乱でもしているのだろうか。
 貌の傷を見るに、確かに記憶が飛んでいてもおかしくないほどの重傷だ。
 あの小さな身体のどこにこんな量の液体が含まれているのかは分からないが、それでも噴き出すたびに激痛に身悶えているのだから害のある“毒”が身体に入っているのかもしれない。

 しかし、そうなると問題なのは。
 満身創痍の状態であるにも関わらず、“最後の一歩すら踏ませてくれない実力差”。

「何を、“見下している”のかと聞いている!!」
「―――!!」
「きゃ!?」

 今度は、流石にティアも気づいた。
 即座にキュールの手を引き、その場から一気に離脱。
 直前まで自分がいた位置に振り下ろされる黄色の“鉄槌”を確認し、ティアは表情を険しくする。

「ぐ、う……、質問に答えろぉっ!!」

 一瞬、また身悶えすることを期待したが、流石に2度目は黄色の瞳がティアから離れることはなかった。

 それは、今度こそ、戦闘の開始を意味していた。

「リディグル」

 まるで血吹雪のように“毒”を身体中から噴き出しながら、“鬼”は一言呟き、今度は手を突き出して上空に“何か”を飛ばした。

 そしてそれが、“途端上空で肥大していく”。

「走って!!」

 見極めようとしたティアに、手を繋いだままのキュールが叫んだ。
 ティアは本能的にそれに従い、再び駆ける。

 その直後、今度は先ほどよりも遥かに重い衝撃が草原を揺らした。

「―――っ、シュロート!!」

 ティアは消えゆく“鉄槌”を回り込んで進み、再び魔術を放つ。
 しかし、三度爆ぜたスカイブルーの閃光も、何一つ状況を変えてはくれなかった。

「大丈夫だから、手を離して!!」
「……!」

 途端、手が振りほどかれた。

 ティアがずっと握っていた小さな拳の持ち主は前に出ると、両手を天にかざす。
 そしてその小さな両手から黄色の粒子が煙のように立ち上り、“鬼”の頭上で小さな四角を形作った。
 先ほど“鬼”が放った魔術と似ている魔力の動きだ。

「タガイン!!」

 キュールは叫ぶと同時、両手を振り下ろす。
 その動きに連動した四角形は、まるで流星のように“鬼”に向かって降り注いだ。

 敵の使うリディルグという魔術は聞き覚えがないが、タガインは金曜属性の低級魔術。
 ティアは金曜属性の母が使っていた魔術を思い出す。
 魔術の教本にも乗っている基本的な魔術だけはあり、キュールは使用できるようだ。

―――が。

「リディルグ」

 “鬼”は上空を一瞥もせずに、再び手から“何か”を飛ばした。
 キュールから出た黄色の粒子とは違い、この暗がりでも目を凝らさなければ見えないほど小さな砂一粒。

 注視して、ようやく黄色と分かったそれが上空に漂っていくのを確認し、ティアはキュールをその場から引き剥がした。

 ズンッ!! と再び“鉄槌”が振り下ろされる。
 幸いキュールを寸でのところで引き寄せられたが、眼前の地面は再び潰され吹き飛ばされた。

 そして、“鬼”を襲ったキュールの魔術は当然のように“何一つ変化をもたらせない”。

「当たった……、当たった、のに、」
「キュルルン!! とにかく今は、ってまた来ました!!」

 茫然自失に近いキュールに叫び、ティアはキュールの手を引き即座に駆け出した。
 そして再び大地が揺れる。

 ズン、ズン、ズンッ!!

 2人の背後には、強大な黄色の“鉄槌”が降り続ける。
 一歩でも速度を緩めることは許されない。

 広大な草原で駆けずり回るこの現状は、まるで“巨人の追跡”のようだった。

「別れよう!!」
「うえっ!? えあ、分かりましたっ!!」

 確かにこのまま2人でいても同時に潰されるのが関の山だろう。
 ならば、分散した方がいい。
 進行方向からほぼ直角に2手に別れたティアとキュールは、ひたすらに駆ける。

「っ―――、」

 最初に“巨人の追跡”を受けたのは、ティアだった。
 最早キュールがどこにいるのかも分からないが、少なくとも鳴り響く衝撃は自分の背後からしか聞こえない。

 僅かに安堵するも、ティアは思い直して手の平に魔力を集める。
 逃げているだけでは意味がない。
 いつか自分もキュールも体力の限界が来るだろう。

 だから、余裕があるうちに、“鬼”に攻撃をしなければ。

「―――シュロート!!」

 駆けずり回りながら、視界に入った鬼に向けて魔術を飛ばす。
 今度は“詠唱”に加え、魔力を溜めに溜めて放った魔術だ。

 流石にこれならば、身体中から“毒”を噴き出し身悶えるあの“鬼”にダメージを与えられるはず―――

 ズンッ、ズンッ、ズンッ!!

 直撃まで確認したというのに、世界は何一つ変わらない。
 ティアは駆けながらも、身体中が縛りつけられるような感覚に陥った。

 いくらなんでも、こんなはずがない。
 棒立ちの状態で攻撃魔術をまともに受けたというのに、まるで涼風でも当たったかのように動きを止めない“鬼”。

 必ず何か、“種”がある―――

「タガイン!!」

 “鬼”の向こうから、キュールの声が聞こえた。
 “鉄槌”の轟音に紛れて、確かにガチン、と直撃した音が聞こえる
 しかし、ティアは駆け続けることになっていた。

 先ほど見た、キュールの魔術。
 自分で言うのも何だが、自己が使う魔術の方が威力は高いとティアは認識している。
 そんな攻撃で、あの敵の“種”を超えられはしないだろう。

「な……、何で……、」
「“何で”……?」

 ふっ、と。
 “巨人の追跡”が止まった。

 上空にびくびくしながらも立ち止まったティアは、肩で息をしながらキュールと“鬼”に視線を向ける。
 気づけば辺りは掘り返されたようにめくり上がり、ところどころ巨人の足跡が刻まれていた。

 もはや最初の面影がないその草原で、キュールと“鬼”が向かい合っている。

「“何で”……? 何を言っている……?」

 身体中から“毒”を噴き出し、おびただしいほどの傷が貌に刻まれた“鬼”は、キュールに向かって“心底不思議そうな声色を出した”。

「何で、当たったのに……、」
「……?」

 会話が噛み合っていない。
 ティアは、怪訝に貌を歪めながらキュールを睨む鬼を見て、そう判断した。
 そして聞き耳を立てる。
 攻撃が止んでいる今がチャンスだ。

 もしかしたら、会話の中で“種”のヒントを得られるかもしれない。

「攻撃、したのに、」
「“攻撃”……?」

 キュールの言葉を拾い、“鬼”はさらに貌を歪め、そして何かに思い至ったように身を振るわせ始めた。

 それは―――“嘲笑”。

「“攻撃”? “人間が魔族にか”? それでダメージを受けないのがおかしいと……!? 貴様は“魔族”に遭ったことがないのか……!?」

 一瞬。
 ティアは、脳裏に最大級の悪寒が走った。

 自分たちは、かつて“魔族”を退けたことがある。
 だが、自分の攻撃は敵の“触れれば爆ぜる”魔術を撃ち落としていたに過ぎない。
 それはいい。
 自分の実力不足は認めよう。

 しかしそのあと、2つ、奇妙なことが起こらなかったか。

 1つ目は“リロックストーン”というものの存在。
 “魔力が大幅に減退することを代償”に、使用者を遠方へ運ぶマジックアイテム。
 あの“赫”の魔族―――リイザス=ガーディランは、その状態で自分たちと邂逅したのだ。
 しかし目の前の“鬼”は、キュールの話通りだとすると、“移動”している。
 リロックストーンで現れた存在は、その場から大きく動くことはできないはずだというのに。

―――1つ、勝ちが消えた。

 そして、2つ目。
 その大幅に魔力が減退しているはずリイザスは、“とある勇者様”の全力の一撃を受けてなお、“傷一つ負わなかった”。

「“人間の攻撃が魔族への攻撃になるとでも”? 例え私が眠っていようが満身創痍だろうが、“人間に倒されるようなことがあるとでも思っているのか”!?」

 ティアは悟った―――“種”など、ない。

 自分たちの攻撃が効かないのは、“ただ相手が魔族という理由だけ”。

「人間の言う防御膜など、魔族のそれに比することすら愚かしい。人間の身体の造りなど、魔族のそれに比することすら愚かしい。“強力な魔物”? “知恵持ち”? そんな表現そのものこそが、それらを束ねる魔族との隔絶とした差だ……!!」

 身体中から“毒”を噴き出しながらも、“鬼”は、強く、強く、強い声を発した。
 身悶えることもなく、子供のように僅かに高かった声は低くなり、威圧感をそれだけで圧死させるほど放ってくる。

―――これで、完全に勝ちが消えた。

 自分たちの目の前にいるのは、“強力な魔物”でもなく、“知恵持ち”でもなく、ましてや、リロックストーンで現れた紛い物でもなく、“魔族”なのだ。

「そして―――」
 “鬼”はゆっくりと、腕を天に伸ばした。
 貌の色と同様にくすみ切った灰色の肌には、やはり傷跡が無数に走り、ドロドロと“毒”が零れている。

「―――魔術において、辿り着く領域も違う」

 その手から、先ほどのキュールのように即座に目に入る濁った黄色の粒子が天に向かって伸びていく。
 ティアはそれを呆然と眺めた。
 キュールの上空に浮かぶその黄色の粒は、巨大な“筒”のような形状に集まり、そして絨毯を転がすように展開した。

 星は濁った黄色に隠され、真下のキュールの行動範囲総てを網羅する。

「“選ばれた者”すら生涯1つ程度しか編み出せない、“オリジナル詠唱”。似た魔術に利便性を求めて付ける仮初の“詠唱”とは比べ物にならない、“本物の詠唱”」

 ブジュリ、と“鬼”の身体から“毒”が溢れ出した。
 しかし、それにもがき苦しむこともなく、“鬼”は、“詠唱”を始める。

 ティアもキュールも、一歩も動けない。

「“硬度”ある魔力での攻撃ではなく、“魔力で固めた物体の高速生成”。“具現化”まで極限に近付いた一撃は、“その場総てを押し潰す”―――」

 “鬼”はその腕を、振り下ろした。

「―――リディスリングル」

 ティアは、鼓膜が破れたと思った。
 暴風が全身に叩きつけられ、周囲の草木は根元から吹き飛ぶ。
 カッと爆ぜた黄色の閃光は目の網膜を焼きかけ、夜の闇すら押しのけた。

「っ、っ、っ、」

 その衝撃に、ティアは堪らず背後に倒れ込む。

 今の一撃は、まさしく規格外。
 こんな光景を見たのは、アイルークのヘヴンズゲート。

 襲いくる激戦区の魔物を瞬時に退けた、“神の一撃”。

 “他には”―――

「―――ぐっ、がぁっ!?」

 ティアの思考が飛びかける直前、“鬼”の呻き声が聞こえた。
 閃光で焼けた目を擦り、何とか立ち上がったティアは、ぼやける視野の向こう、もがき苦しむのは小さな影。

 どうやら先ほどの大魔術で、再び“毒”が噴き出したようだ。

 しかし、今はそんなものはどうでもいい。
 問題なのは、あの大魔術の真下にいた、キュールだ。

「キュル……、……?」

 ティアは、“心のどこかで無駄と分かりながら”も叫ぼうとし、“心のどこにもなかった光景”に言葉を失った。

 “鬼”の放った“大魔術という黄色の物体”は、未だ広大な面積を保ったまま、向こうの大草原を押し潰している。

 しかし、その中央。
 濁った黄色の物体の中心が、歪に“膨らんでいた”。

「……?」

 そして、半透明の物体の中、僅かに見える―――小さな影。

「ぅ……、ぅぅぅ……、」
「……!?」

 かすかに聞こえた泣き声に、最も早く反応したのは“鬼”だった。
 自身が激痛に襲われてまで放った大魔術。
 大草原の一部をまるまる被爆地に変えた、その“オリジナル詠唱”。

 それなのに、何故、何故、何故―――

「ぅ……、ぅぅ……、」

 黄色の物体が溶けるように消えていく。
 草原が綺麗な長方形に押し潰されている。

 しかし、その中央。

―――何故、“狙った対象”が生存しているのか。

「キュ……、キュルルン……?」

 ティアも“鬼”と同じように呆然としていた。
 あるいは、たった今放たれた大魔術のときの衝撃を超えているかもしれない。

 辺り一帯を破壊しつくしたその一撃をまともに受けて、小さな子供がただ泣いているだけなのだ。

 キュールの周りには、“鬼”の濁った黄色とは違う、淡い黄色の丸いドーム。
 しかしそこには淡々しさは感じられず、キュールの周囲に確固たる“盾”を築いていた。

「何だそれは……、“具現化”か……!?」

 “鬼”に言われて思い至るのも妙だが、ティアはその可能性を信じられた。

 “鬼”の放った、リディスリングルという“オリジナル詠唱”の魔術は、神の一撃に近いものすら感じる一撃必殺。
 それに対抗できるものなど、ティアの認識では“具現化”しかない。

 パリン、と。
 淡い黄色のドームはキュールを吐き出した。

 キュールは荒れ果てた大地に躓き、倒れ込む。
 やはり、無事。
 彼女からは、強大な一撃への恐怖ではなく、間近で起きた衝撃への驚愕しか感じられない。

「……、い、いい、だろう、」

 “鬼”は、足取り怪しげに立ち上がったキュールを睨み、“毒”を噴き出しながら震えた声を出した。

「稀に、こういう域まで達する人間がいる……、が、人間は魔族に届かない……!!」
「……“勇者様”も、か?」

 途端聞こえた背後からの声に、ティアは再び転げそうになった。
 叫びそうになった口を何とか抑え、心臓に胸を当てながら振り返ると、

「はあ……、はあ……、何とか、間に合った……。本当は、さっきの一撃の前に着いた方が……、かっこよかったんだろうけど……、て、てか、ティア、お前、そういえば、……“この場にいたんだっけか”?」

 失礼極まりないことを口走ったヒダマリ=アキラが立っていた。

「アッキ……、…………今のどういう意味ですか?」
「悪い、ティア。ちょっと待ってくれ」

 アキラはティアを手で制し、視線をまず“鬼”、そして荒れ地に成り果てた草原に立つキュールに移した。

 “記憶通り”だ。
 アキラはかつてこの光景を見ていることを確信した。

 だが、解けた記憶の封はここまで。
 あとは自分で動いて紡いでいくしかない状況だ。

「貴様……、今、“勇者”がどうとか言っていたな……?」

 おどろおどろしい“鬼”がアキラを睨みつけてくる。

 やはり、“魔族”。
 アキラは顔をしかめた。
 キュールほどの背丈にも関わらず圧死させるような威圧感を放ってくる。

 しかし、“流石に2度目”では震えているわけにはいかない。

「ああ。“勇者”だよ、俺は」

 我ながら、なんとも陳腐なセリフだとアキラは思った。
 すっかり自分も、“この世界でのキャラクター”に嵌っている。

 だが、それを名乗ることがこの“刻”と向き合うことに必要だと言うなら、それを名乗るべきなのだ。

 “あの長身の男とは違うのだから”。

 自分は記憶もなく、力もない。
 しかし自分は“刻”に呼ばれる者であり、“刻”を呼び込む者であり、

「“魔族を倒す人間”、だ」

 そして、“刻”を刻むべき者である。

------
 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 若干ペースアップで更新できた今回のお話、いかがだったでしょうか。
 私個人としては、動きのないシーンが大半を占めていたのが気になります。
 また、設定もご紹介させていただきました。長々と説明することになってしまい、伝えることができたのかが不安です。
 世界観や設定は物語を進行させながら徐々に徐々に出していくのが理想なのですが、【第一部】から考えると遅すぎたような気も……
 設定の散りばめ方も勉強したいと思います。

 また、ご指摘ご感想お待ちしています。
 では…



[16905] 第二十五話『回る、世界(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fb2942b5
Date: 2017/10/08 03:04
―――***―――

 巨大で、強力で、絶対的。
 壮大で、強固で、圧倒的。
 尊大で、強靭で、全能的。

 ひとたび歩めば大地を揺さぶり、腕を振るえば山脈を砕く。
 岩山の標高程度、軽々と超すそのあまりに巨大な存在は、総てを見下ろし、そして総てを押し潰す。
 同種の存在からすら忌み嫌われ、しかし立ち向かおうと思う者はいなかった。
 その存在は、例えば突然襲ってきた地震のような、降り出した夕立のような、ただの事象。
 潰されようが、破壊されようが、砕かれようが、運がないと諦めるしかない。

 そんな、巨大な存在の、とある魔族がいる―――いた。

 “その存在”は、そこで1つの理解を生んだ。
 今まで、自分が傍若無人に“続いていた”のは、たまたま、本当にたまたま“その魔族の欲”とぶつかっていなかったからなのだ、と。

 “確立された欲”を持つ魔族がいることは知っていた。
 魔族の中で“欲”を口に出すと言うことは、他の魔族と“欲”が重なってもそれを跳ね除ける自信を有しているということ。
 ゆえに、あまりに遠い。
 知識としてあったその事実を、この身で経験することになるとは思ってはいなかったが。

 思えばその存在には、“欲”が無かった。
 その日その日で思い至ったことのみに興味を持ち、そして翌日には忘れている。
 だから、出遭ってしまった“欲持ち”の魔族に“自分を壊された”のかもしれない。

 確固たる“自分”を持っていなかった“その存在”は、今まで自分が周囲に与えていた不運を与えられてしまった。

 これはただ、それだけの物語。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「……、」

 輝く星空。
 聞こえるさざ波。
 広大な草原―――いや、荒れ地。
 強引に掘り返したように周囲の草木が千切れたその被爆地で、ヒダマリ=アキラは剣を抜いた。

 傍らには青みがかった短髪の少女―――ティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 ここへ向かう途中、遠目に見ていた限り、ティアは先ほどまで襲われ続けていた。
 逃げるティアと、その背後を追う黄色の魔術。
 それがこの土地の惨状を作り出したのだろう。

 遠くにはよたよたと立ち上がる小さな少女―――キュール=マグウェル。
 港町―――パックラーラを襲ったものと同等の大魔術を振り下ろされ、しかし、生存していた。
 一瞬見えた、彼女を覆っていた淡い黄色の“盾”。
 その魔術の正体は分からないが、ともあれ、彼女は難を逃れている。

 そして。
 アキラの睨む先には、キュールほどの背丈に、まるでナイフでめった刺しにした“鬼”の仮面でも被っているかのような姿の―――“魔族”。
 その“鬼”の魔族は、貌のいたるところから毒々しい鉛色の液体を噴き出し、顎からビタビタと滴らせている。
 今は、憤っているのか、激痛を堪えているのか、嗤っているのか、それともあるいは無表情なのか分からない、ただただ醜い“悲惨”な貌をアキラに向け、そして黄色の瞳で捉えていた。

 おどろおどろしい光景に背筋を悪寒が撫でるも、アキラは両手で強く剣を握った。
 とりあえず、現状ある情報はこれだけで、そしてこの場にいるメンバーもこれだけのようだ。

「勇者……、勇者、そうか、勇者か……、」

 “鬼”は、アキラが剣を構えているというのに、まるで身構えず、咥内の膿と共に噛みしめるよう繰り返した。
 そして、僅かに身じろぎするだけで、びちょり、と粘着性の高い液体の奇妙な音が夜風に乗って響く。

「勇者……、勇者、ね……、勇者、勇者、か、勇者と言ったな、勇者……、」
「……?」

 何度も何度も、まるで壊れたカラクリ人形のように、“鬼”は繰り返す。
 アキラはその様子に眉を潜めた。

 相手は“魔族”。
 比喩なしで街をかき消すと言われる存在。
 そして、サーシャ=クロラインやリイザス=ガーディランとは違い、“リロックストーンなしで現れたリアルの魔族”。

 それだけに、アキラは最上級の警戒をしている。それこそ、“即座に戦闘が始まってもよいように”。
 それだというのに、目の前の“鬼”は、うわ言のように繰り返すだけ。

 まるで、思考する余裕もなく聞いた言葉をオウム返しでもしているかのように。

「……、ティア、こいつは何なんだ……?」

 そのあまりの無防備ゆえの不気味に、アキラは耐えかね、声を出す。
 隣のティアも眉を潜めて“鬼”を注視していたが、やがて、ふと何かに思い至ったように小声を返してきた。

「“ずっと、あんな感じなんです”……。でも、気をつけて下さい」

 ティアの言葉の最中にも、“鬼”は呟き、そしてどろりと“毒”を足元に滴らせている。
 その膿のような液体は、どう見ても“鬼”にとって意味のあるものには見えない。
 むしろ、あれは“毒”と形容できるように、苦痛をしいるもののようだ。
 そしてどうやら、あれはティアやキュールの攻撃でできたものではないらしい。

 解けた“一週目”の記憶は中途半端。
 アキラはこの“鬼”の情報など、ほとんど持っていなかった。

 しかし、もしかしたら。
 あれがこの“刻”を攻略するヒントの可能性がある。
 “魔族”というものが、どのような力の持ち主か僅かながらにも認識している今、流石に真正面から倒せるとは思えない。

 ただ、それにしても、まずは戦ってみる必要があるのだけど。

「ティア、キュールのところに行っててくれ。もしかしたら怪我してるかもしれないし、な」
 “鬼”の向こう、未だびくびくと震えているキュールに視線を一瞬走らせた。

「……分かりました。アッキーも怪我したら任せて下さい」
 ティアはこくりと頷くと、“鬼”の背後に回り込むようキュールに向かっていく。

 こういうときに割り切って動いてくれるのはティアの美点だ。

 そういえば“二週目”。
 彼女は実力不足でもっぱら後方にしかいることはできなかったが、彼女の本分はそもそも後方支援。
 実力うんぬん以前に、前に立つ者がいてくれるのならば、ティアの役割は支援なのだ。

 アキラはすっと息を吸い込む。
 “鬼”は呟き続け、ティアは駆ける。

 そして、ティアがキュールの元に辿り着いたところで、

「―――、っし!!」

 アキラは、“魔族”に向かって駆け出した。

「……!」

 アキラから敵意を向けられ、“鬼”は身構える。

 言葉をかけたはずなのに。
 言葉をかけられたはずなのに。

 “鬼”は、“まるでたった今アキラに気づいたような表情を浮かべた”。

 ともあれ―――開戦だ。

「ぐぅ―――リディルグ」

 荒れ果てた大地を駆けるアキラは、その“詠唱”と共に、ぶじゅり、という音を聞いた。
 嗚咽を漏らし、貌から汚物が溢れるその“鬼”の様子に、アキラは一瞬困惑し、

「アッキーッ!! 上です!!!!」

 ティアの叫び声で強く横へ跳んだ。

 瞬時、ズンッ!! という轟音が真横で爆ぜる。

「な……!?」
 アキラは飛び込んだ地面から勢いそのままに立ち上がると、即座に振り返って現状を把握する。

 その一撃は、濁った黄色の“鉄槌”。
 アキラの身を丸々飲み込むほど太く、そして高いその凶器は、空気に溶けるように消えていく。
 これが、あの“鬼”の魔術なのだろうか。

 振り下ろされるまで、“まるで気づくことができなかった”。

「ぐ……、また……、また……、下位魔術で……、また……!!」

 重病をおして行動しているかのような鬼の様子は変わらない。
 だがそれよりも、アキラは黄色の鉄槌が消えた場所を注視していた。

 この魔術は、何かが変だ。

 具体的に何、とは言えない。
 だが、何故か。

―――他の魔術と根本的に違うような気がする。

「が……、がぁぁぁ!! リディルグ!!」
「……!」

 鬼は咆哮を上げ、身体から“毒”を撒き散らし、“詠唱”を叫ぶ。

 今度は学習したアキラは、“詠唱”が聞こえると同時に駆け出した。
 直線的に進むことに脅威を感じ、今度は鬼の前を往復するように動く。

 そして聞こえる、背後の“押し潰す音”。
 巨大生物に追跡されているような蹂躙の中、アキラは必死に思考を進めた。

「逃げるばかりかぁっ!!」

 “鬼”はボルテージを上げ、詠唱し続ける。
 逃げるアキラの足跡は、総てが総て押し潰されていく。

 この荒れ地は、やはりこうして作られたのだろう。
 “鬼”の魔族は、先ほどキュールを襲った大規模魔術だけでなく、こうしたコンパクトな魔術も使うことができるようだ。

 だが、一体、この魔術は、

「―――、」

 いや、1つ。
 アキラには1つだけ、これに近い感覚を覚える“魔法”に心当たりがあった。

「リディルグ」

 全力で平原を駆けながら“鬼”を注視すると、“鬼”からほとんど視認できない小さな“粒”が上空に浮かび上がっていくのが見えた。
 星空に向かったそれは、この暗さだというのにアキラの眼では“認識できない”。

 ―――が。

「―――!?」

 ドンッ!! と、その粒の結果はほぼ眼前に振り下ろされる。
 今、一瞬で上空に“鉄槌が生成された”。

 やはりこれは、あの“魔法”に近いものを感じる―――

「―――いっ!?」

 思考を進める中、今度は先ほどより遥かに近く、アキラの足跡を押し潰した。
 “鬼”もアキラの速度を認識し、その誤差を縮めてきている。

 このままでは、鬼に到達する前に直撃してしまう。

「勇者ぁぁぁあああっ!!」

 詠唱、怒号、そして嗚咽。
 最早自分が叫んでいる言葉さえ理解していないだろう―――狂気の“鬼”が草原を荒れ地に変えていく。

 そのただ中で、アキラは駆け続け、そして冷静に“魔力を確認し直した”。

 “身体能力強化というイメージを再構築”。
 “魔力による身体能力強化”を解除。

―――そして、“魔術による身体能力強化”へ移行する。

「―――!?」

 ぐんっ、と速力を増したアキラに“鬼”が表情を変えた。
 “鬼”から見れば、僅かなりには接近していたとはいえ、眼前を往復していたにすぎない男が、途端一直線に駆けてきたのだ。

 しかも。
 的としてあまりに容易になったはずのその勇者は、今、“速すぎる”―――

「―――リディルグ!!」
「―――!?」

 鬼を捉えていたはずのアキラの視界が、黄色の“鉄槌”で塞がれた。
 今までアキラを襲っていたはずのその魔術が正面に振り下ろされ、“鬼”の前に強固な“柱”を築く。

 だが。
 これは、“検証”のチャンスだ。

「―――らぁっ!!」
 アキラは目的を“鬼”から“柱”にシフトし、剣を振り下ろす―――

「づっ!?」

 ガギッ!! と金属音が響き渡った。アキラの腕に重い衝撃が走る。
 星空の下に爆ぜたオレンジの閃光は、しかし、攻撃対象に傷一つつけられなかった。

「くっ、げはっ!?」

 濁った黄色の柱の向こうから、“鬼”の嗚咽が漏れてくる。
 むしろアキラの攻撃よりも魔術使用による被害の方が大きいようなその呻き声に、アキラは辟易しながら痺れる腕を庇うように剣を下げてその場から離脱した。

「はっ、はっ、け……、警戒してみたが……、“それすら”砕けんとは……!!」

 黄色の柱が消え失せ、再びアキラの視界に入った“鬼”は嘲笑っていた。

「……、」

 とりあえず、2つ分かったことがある。
 アキラは剣を構えながら、検証結果を確認する。

 1つ目は、あの魔術の正体。
 切りかかったとき物質的な感触があったように、あの魔術は、“物”を出現させている。

 “魔力”で攻撃すること、“物”で攻撃することの差は何か、と聞かれれば、この世界に来た当初のアキラには答えられなかった。

 だが今は、おぼろげにもその差が分かる。
 それは、“魔術的な察知”ができるかできないか、だ。

 “魔術的な察知”とは、アキラがこの“三週目”にしてようやく感じられるようになった“戦闘の匂い”と直結する。
 何故なら、この世界の戦闘とは、魔力や魔術が大きく介入するのだから。

 そんな、魔力が充満する戦闘。
 いつしか自分は、無意識の内に魔力を感じ取れるようになり、相手や相手の攻撃との間合いを計っていたのだろう。
 だから、その“慣れ”の前に、“途端出現する物体”での攻撃は不意打ちになる。

 この“鬼”の使う魔術は、“魔法”を独自に解釈し、魔術の枠に落とし込んだ“オリジナル詠唱”。
 あの“魔族”―――サーシャ=クロラインが使用した爆発物を出現させる月輪属性の“魔法”を、金曜属性の使用者が解釈するとこうなるのかもしれない。

 これが、会議所で敵の魔術の特徴として挙げられていた“ある程度の隠密性”の正体なのだろう。

 そして、2つ目は―――

「か、は……、くっ、くくく、魔術の解明に必死か」

 アキラの思考に、鬼の不気味な声が割り込んだ。
 子供のようにどこか甲高いその声は、ゼリー状のものを口に含んでいるように淀んで聞こえる。

「そうか……、そうか、勇者、かっ、……だが、この程度なら、“私が殺してしまっても構わんよな”……?」
「……?」

 “鬼”の言葉の意図を汲み取れず、アキラは黙って腰を落とした。
 攻撃を全て回避しているとはいえ、あの魔術は察知が遅れる。
 こうして言葉を交わしているときでさえ、常に上空を警戒していなければ危険だ。

 しかし、一方で。
 アキラの心には大きな余裕ができていた。

 “この魔族はそこまで強くない”。

 あの魔術は隠密性があるとはいえ、単純に魔力で強化しただけのアキラを捉えられないのだ。
 いざとなったら魔術で強化できる今なら、十分に対応できるだろう。
 無理に近づけば“鬼”は誤差を合わせてくるだろうが、縦横無尽に草原を走り回っている分には危険はない。

 残る問題は、あの魔族をどう倒すか。そして、人の足では攻撃範囲から逃れられないあの大魔術の防ぎ方、だ。

「……なら、殺してみろよ」

 アキラは挑発的にそう返すと、再び“鬼”に向かって突撃していく。

 残った2つの問題だが、アキラの中で、“すでに答えは出ている”。

「―――リディルグ」

 詠唱が聞こえると同時、アキラは地を強く蹴り進行方向から完全に逸れた。
 大地が揺さぶられる中、またもアキラは“鬼”に接近していく。

 星空から草原に、連続的に落下してくる“鉄槌”だが、やはり“速くはない”。
 アキラでさえゆうに避けられるのだから、例えばサク相手なら、影すら掠ることもできないだろう。
 やはりこの魔術の利点は、隠密性のみだ。

 そして、

「ぐっ、ぶ、う……!?」

 その無駄な一撃ごとに、“鬼”はもがき苦しむ。
 身体中から溢れ、吐しゃ物も混ざっているあの“毒”の正体をアキラは知らないが、あれは魔術の使用に比例して溢れ出しているようだ。

 これが、勝機。

 相手がいかに強大だろうと、今にも命を落としそうな状態ではないか。
 ときおり記憶を飛ばすほどに、“鬼”は限界に近い。
 リロックストーンが無いというのにあの場所から動かないのも、身体を動かすことにも苦痛を伴うからだろう。

 ならばあとは、その命を削る原因。
 “魔術の乱発”をさせているだけで、この戦いには勝てる。

「ちょこ、まか、と……!!」

 ついに言葉が途切れ途切れになった“鬼”は、憤怒の形相で詠唱を続ける。
 苦痛も手伝って、すでに冷静に思考を進めることができなくなっているのかもしれない。

「は、は、そんな、もんか……!!」

 駆けるアキラも途切れ途切れに言葉を返す。
 意味は、“挑発”。
 勇者を宣言した手前こういう戦い方はどうかと思うが、相手が自爆してくれそうなのだ。
 わざわざ無理に剣で挑む必要もない。

「なめ、るなっ!!」
「!!」

 一際大きく、“毒”の噴き出す音が響いた。
 “鬼”は両手を掲げ、4つの“粒”を上空に打ち上げる。

 一瞬大魔術かと身構えるも、打ち上げられたそれらは、“高が下位魔術4つだった”。

「リディルグ!!」
「―――、」

 狙われたのは、アキラの前後左右。
 緊急回避ができぬように狙ったつもりなのだろうが、アキラにとっては、“何ら脅威ではない”。

 “身体能力強化というイメージを再構築”。
 “魔力による身体能力強化”を解除。

―――そして、“魔術による身体能力強化”へ移行。

 再び、木曜属性を疑似的に再現したアキラは、その場から完全に離脱すると、大地を揺らす4本の“鉄槌”を遠目に見やった。

「はあ……、はあ……、た、大したこと、ない、な」

 息を切らしながら伝えた子供のような挑発に、“鬼”はアキラにまで聞こえるほど大きな歯ぎしりをした。
 しかし、それも嗚咽交じり。
 アキラの、ただ魔術を回避するだけという作戦と評価できるか怪しい行動は、想像以上に効果を発揮しているようだ。

「……、……?」

 だが、そこで。
 アキラは妙な違和感を覚えた。

 そういえば。
 “鬼”は、何故。
 最初からでなく、今になって4つ同時に魔術を使ったのだろう。

 いや―――“使えるようになったのだろう”。

「くそっ、くそっ、ふざ、けるな、貴様……、ただ、逃げている、だけで……!!」

 アキラの疑念に、いや、“自己の変化”にまるで気づかず“鬼”は呪詛のように言葉を吐き出す。

 だがアキラはそれを聞き流し、必死に覚えた違和感―――いや、“悪寒”の正体を探っていた。

 攻略法はこれでいいはずだ。
 魔族相手にまともに戦おうとしないのは、“経験から言って”、正しい選択。
 そして、相手は魔術を使うたびに呻き、自己の命を削っているようにしか見えないのだから。
 きっと、こうして“一週目”も“刻”を刻んだのだろう。

 だが、ふと。
 アキラは自分というものが“どういう種類の人間だったのか”を思い出す。

 仮に、仮にだ。
 自分がこの“三週目”しか経験していないのとして。

 ヒダマリ=アキラという調子に乗りやすい人間は、“魔族”にどういう評価を下していただろうか。

 今まで戦った“魔族”。
 サーシャ=クロラインとリイザス=ガーディラン。

 この魔族たちは、共にリロックストーンという“使用者にペナルティを課すマジックアイテム”で現れた存在だ。
 ゆえに、苦戦こそしたが、勝つことはできた。

 それこそ、“できないことはない”、と思えるほどに。

 ならば、自分は―――“魔族を見下していたような気がする”。

「―――、」

 その悪寒と共に、アキラの記憶の封が僅かに解けた。
 蘇った記憶は、自分という人間が、この場に到着するや否や、“鬼”に切りかかっている光景。

 そうだ。
 アキラは握った剣を記憶の中の光景と重ねて見る。

 そういえば、あのときは。
 “この剣はとっくに損壊していなかったか”。

「……、その、逃げてるだけの奴に、そこまで苦しんでんじゃねぇか」

 アキラは記憶を振り払い、鬼への挑発を続けた。
 記憶には過剰に頼らない。
 特に、過去に壊れていたからといって今から武器を破壊するのはあまりに意味不明だ。

 とにかく今は、この勝ち方。
 ならば、“鬼”を休ませているのは上手くないはずなのだ。
 だから挑発を続ける。

「そんな程度じゃ、“魔王”の底も知れるな……。―――!?」

 アキラが、挑発の意味で紡いだ言葉。
 その言葉に、“鬼”は過剰に反応した。

 醜い顔の、濁った黄色の瞳をギロリと光らせ、常軌を逸した空気を放つ。
 ここまで明確な殺気を感じたのは、アキラにとって生涯初だった。

「ふざ、けるな……、魔王、だと……!?」

 流石に魔王への悪口は禁忌なのだろうか。
 アキラは僅かに尻込みし、必死に“怯えていない顔を取り繕った”。
 子供の喧嘩で親への悪口を出したようなものなのかもしれない。

「……?」

 いや、待て。
 アキラは聞こえた言葉を冷静に分析し、違和感を覚える。

 サーシャもリイザスも、魔王“様”と言っていなかったか。

「私を……、“魔王直属”とでも、思って、いる、のか……!?」

 そうではないのだろうか。
 アキラは魔族と聞けば、即座に魔王直属に直結させて考えてきた。

 目の前の“鬼”は、違うのだろうか。

「あんな、“自分の意思で人間界に留まるようなふざけた魔族”と同列……!? 私を……、私を……、あんな、あんな、“ガバイドのような存在と同列に扱ったか”……!!」

 ビジャリッ、と、過去最大級の“毒”が飛び散った。
 もうその身の体積以上は鉛色の液体を噴き出しているかと思うほど―――いや、実際そのはずだ―――周囲の草木を汚し、“鬼”は怒号を上げる。

 アキラは思考を進めるよりも何よりも、全身に身体能力強化の魔術をかけ、荒れ地と化した草原を全力で走った。

 なにせ。
 “鬼”の身体中から濁った黄色の魔力が天に昇っているのだから。

 アキラの先ほどの挑発は、最大級の効力を発揮したらしい。
 昇った今までにない規模の魔力は天に留まり、そして爆発的に肥大化する。
 最早草原全域を覆っているかのようなその大魔術は、まさしく“天蓋”。

 星明かりは全て濁った黄色に変わり、“その場総てが押し潰される”―――

「―――ぐ、」

 上空を見る間も惜しみ、アキラはひたすらに“鬼の背後”を目指す。
 速く、速く。

 ただひたすらに、“セーフポイント”を目指して―――

「リディスリングル!!」

 “鬼”が詠唱を叫ぶと同時、アキラは、“そこ”へ飛び込んだ。

―――***―――

 騒音は、すぐに聞こえてきた。
 まるで巨大生物が近くで蹂躙しているかのような、足音のような爆音。
 そして、その巨大生物が倒れ込んだかのような、爆撃音。

 夕暮れ時にも聞いたようなその“危機”に、エリーとサクは即座に会議所から飛び出した。
 爆音の正体は、あまりに明白。
 不気味に沈黙を守っていた“攻撃主”が、再び攻めてきたのだ。

「どこだ……!?」
「向こう……、西の方じゃない!?」

 会議所の出口で叫ぶように言葉を交わし、エリーとサクは音源の方向を見やる。
 視界に入るのは背の高い建物や星空ばかりだが、やはり音は西から届いているようだ。

 会議所は、街外れにあると言っても街の南部。
 西の方の様子は分からない。
 だが、もしかしたらこの爆撃で、西の一部は“押し潰されている”可能性がある。

「と、とにかく、行こう。こういう事態だ。“大方あの男が関わっているのだろうからな”」

 手に持ったまま飛び出した長刀を腰に提げたサクに、エリーは全面的に同意した。
 キュールという子供を探しに出歩いた“勇者様”。
 あの男なら、何の気なしに足を運んだ場所に犯人がいました、などという事態は平気で引き当てて見せるだろう。
 そうであるならば、この“攻撃”はその男目がけて飛んでいる可能性が高い。

 いや、間違いなく。
 間違いなく、自分たちが資料を読み漁っている間に、“戦闘が始まった”。

「待った!!」

 エリーとサクが共に駆け出そうとした瞬間、開いたままのドアから大声が聞こえてきた。
 振り返れば先ほどまでのサクのように、自分の装備たる長い杖を手に持って1人の男が駆けてきた。

「ふ、2人ともちょっと待った。今から2人は俺が統括する。ロッグさんからの伝言だ」
「へ?」

 長い杖を機敏に背負ったその男―――マルドが発した言葉に、エリーは間抜けな声を出した。

「統括……? どういう意味だ?」
「サクさん、だっけ? そのままの意味だ。悪いけど、今は俺の指示に従ってもらう」

 怪訝に眉を寄せるサクに、マルドは口調も強く言葉を返した。
 マルドの後ろからはドタバタと先ほど会議室にいた魔術師たちが飛び出し、まるで隊列でも組んでいるかのような一糸乱れぬ動きで駆けていく。
 目指す先は、当然、西だ。

「冷静になって聞いてくれ。2人とも、現場に行こうとしてるだろ?」
「は、はい」
「それが違うんだ。俺たちが行かなきゃいけないのは、“現場付近”。この音からして……、攻撃は、街には落ちてない」

 そう思って断続的な爆音を聞いてみると、確かに夕暮れ時に聞いた音より、どこか澄んでいる。
 というより、建物が崩れるような“雑音”が混じっていないと言った方が正確か。
 マルドの言うように、街を破壊していない。
 そういえば、このパックラーラの西には大草原が広がっていたような気がする。
 恐らくそこに落ちているのだろう。

「だけど、いつ街を襲うか分からない。だから俺たちがやらなきゃいけないのは“避難活動”。音の聞こえる西の人たちを、戦火から守ることだ」
「……、それが、あのロッグという魔道士からの伝言か?」

 サクの言葉に、マルドは頷く。
 今にでも駆け出しそうなサクだが、マルドはまるでその場に縫いついているかのように落ち着いていた。
 駆けながら話をすれば、互いに冷静さを欠くからだろう。

「ただでさえ少ない人数だ。こんな大きな街の人たちを避難させるのは、魔術師隊だけじゃ厳しい。だから俺たちも、協力しないと」
「ちょっと待て。それでは、攻撃主の場所へは、」
「今は、行かない。いや、行けない。それが、ロッグさんの判断で、俺の判断でもある」

 マルドの“指示”を聞き、サクは言葉も返さず歩き出した。
 駆け出さないだけマルドの意思を尊重しているのだろうが、サクはやはり、即座に現場に向かおうと考えているようだ。

「分かってるよ。これは間違いなく“戦闘音”。そのトリガーを引いたのが、君らの“勇者様”なのか、スライクなのか、あるいは他の誰かなのかはともかく、“戦闘が始まっている”」

 そこでスライクという男を引き合いに出したのは気がかりだったが、マルドもエリーやサクと同じ見解を持っているようだった。

「だったら、あのロッグという男は何をやっているんだ? 本来なら、先陣を切って向かっていくべき役職だろう」

 動かないでいるマルドに、サクは足を止め、振り向きざまに言葉を発した。
 その言葉の節々に、苛立ちが見え隠れしている。

「……ロッグさんは、まだ調査中。もう少しで、割り出せるかもしれない、ってさ」
「“オリジナル”が載っていない本で、か?」
「“オリジナル”でも“ヒント”が乗っているかもしれない本で、さ」

 今すぐにでも現場に向かわなければならない状況で、マルドは諭すように言葉を訂正した。
 しかしサクは苛立ったまま返す。

「先ほどまでは、確かに正しい行動だろう。だが今は、“攻撃”が始まっている。そんな状況で、悠長なことをやっている場合ではない」

 一刻も早く、現場へ。
 そうだというのに、未だスタート地点から動かないでいる状況が、サクは許せないのだろう。

「今すぐにでも“現場”に向かうべきだ。こういう表現をするのは避けたいが、勇者と言っても、アキラは弱い」

 だから、増援が必要だ。

 サクが足を止め、振り向きざまに続けたその言葉に、エリーはマルドに見えるように頷いた。
 エリーはどちらかというと、サクと同意見だ。
 あのヒダマリ=アキラという“勇者様”は、こういう事件を呼び込む癖には、同時に大きな危機も呼び込む男なのだから。

「……俺たちが行くのは、“現場付近”、だ。悪いけど、方針が決まるまではどこにも向かわせない」

 ならば止めてみろ、とでも言うように、サクは背を向けた。
 恐らくマルドは、規律のとれた魔術師隊“ではない”自分たちをまとめ上げるようロッグに頼まれたのだろう。
 マルドが信頼を勝ち取っていたのか、はたまた最後に部屋に残ったのがマルドだったからか、ともかく、ロッグの狙いはこの3人を一時的に1つのチームにまとめ上げることだ。

 人命救助は確かに必要だ、とエリーは思う。
 しかし、現場に向かって元凶を排除した方が早い。
 どうしても、特に爆音が響く街中にいては、そう思ってしまう。

「あのさ、」

 マルドは、そんなエリーの心中を知ってか知らずか、言葉を発していないエリーにも視線を走らせ呟いた。

「“増援が本当に必要なのは、どっちだと思う”?」

 一瞬。
 マルドの声にも苛立ちが見えた。
 彼も冷静のようで、未だ“方針”が定まらないことに焦りを覚えているようだ。

「見ろよ、あれ」

 強い口調。
 マルドが呟きながら指差した先には、街の民家の並び。
 ところどころ灯りが点き、恐る恐る家から出てきている人もいる。

 その人々は、寝間着姿の者もいるほどに、本当に、一般人だった。

「勝手にその場に行った馬鹿と、“事件が起こっていることすら知らない”民間人。増援が本当に必要なのは、どっちだか答えてみろよ」

 また、強い口調。
 マルドの口調はただただ強く、サクは黙ってそれに向き合っていた。

「そりゃ現場に行って倒してくるのは格好いい役だろうけど、全員が全員その役になったら、誰が“裏のサポート”をするんだ? 魔術師隊か? 確かに、それが仕事だから、多分彼らの役割だろう。だけど今、“その人数が足りないって言ってんだよ”。俺も、ロッグさんも」

 どこか飄々としていたようなマルドは、ほとんど睨むようにサクを捉えていた。

「“二代目の勇者様御一行”を知ってるか? 人数はたったの4人。それなのに、“旅の途中に出した犠牲者は初代より圧倒的に少ない”って話だ。理由は何だと思う?」

 “二代目の勇者様御一行”。
 エリーはそれについて、魔術師試験で僅かに触れている。
 “初代の勇者様御一行”は、七曜の魔術師の集結と言われるように、各属性のエキスパート集団だ。
 だが、“二代目の勇者様御一行”のシンボルは、“有する武具”―――いや、“その役割”。

 エリーの視界に、マルドが背負った“長い杖”が僅かに入る。

「全員が“完全役割遂行型”だったからだ。“剣”が敵を討っている間に、その他のメンバーは“各自のやるべきこと”を遂行する。普段はどんだけふざけててもいい。だけど、“刻”が来たら動き出す。メンバー全員が表舞台に立って大々的な“神話”になった初代とは違う、完全な役割分担。だけどそんな奴らも―――“神話”になってるんだよ」

 マルドはゆっくりと、西に向かって歩き出した。

「もう一度言う。悪いが今は、2人とも俺の指示に従ってもらう。そもそも、増援に行くのが少し遅れたくらいで死ぬような奴なら世界は救えない。とっとと“遂行”しよう。街の人が、“殺されない予防策”を張りに、ね」

 エリーもサクも、言葉は返さず、ただ足を動かした。
 現場ではなく、“現場付近”へ。

「悪いね2人とも。“杖”ってのは、本来転ばないためのものだから、さ」

―――***―――

「…………ここは、平和だなぁ」
「じゃあ、ここに住みますか?」
「いや、ちょっと物件的に……。ほら、騒音とか」

 ズンッ!! と、ガギンッ!!

かつてない騒音が鼓膜を揺さぶる。
 大地が“凹み”、草木が千切れるその光景。

 そんな現実離れした世界を、アキラとティアは2人して座り込み、特等席で眺めていた。
 ただ若干、黄色の半透明なレンズを通してはいるが。

「うぅ……、ひくっ、」

 ティアを挟んでアキラの2つ隣。
 轟音の合間を縫って、子供の啜り泣きが聞こえてきた。

 まるで雷に震えて部屋の中で縮こまっているような、体育座りと、両手を耳に当てる仕草。
 振るえる子供―――キュール=マグウェルは、しかしそれでも、アキラとティアを含んだ空間に、シェルターのような“盾”を築いていた。

 広さは、半径1メートルあるかないか。
 3人が密着して入り込んでいるこの“盾”の内部は、まるで、全く、“当初の状態と変わりなかった”。
 平原は、既に見渡す限り荒れ地。
 しかしその絶対領域だけが、草原の在るべき姿を保っている。
 ここまでくると、この場所が、在るべき姿と最も遠いような気さえしてきた。
 周囲がどれほど変わっても、まるで聖域のように、この場所だけは変わらない。

「なあ……、キュール、あのさ、これって何なんだよ? 俺完全に頼りにして走り込んできたけど、これは……、っ!?」

 また、シェルターを含む広範囲に、“鉄槌”が振り下ろされた。
 鼓膜が揺さぶられ、既に土地としての体裁すら完全に喪失している草原が、なおも破壊され尽くされる。
 しかし、やはり、この場は変わらない。

「わた、わたしも……、よく、分からない……。でも、“守ろう”って思うと、こう……、なっちゃう」

 キュールのか細い声が聞こえたのは、果たして奇跡だった。
 その直後、今度は連激。
 濁った黄色の“鉄槌”がまるで流星群のように降り注ぐ。

 アキラは耳に手を当てながら、じっくりと、眼前にあるシェルターを眺めた。

 淡い、黄色の、“盾”。
 これは、“物”だ。

 “鬼”の“鉄槌”のように、魔力で“物体を生成している”。
 そうでなければ、攻撃を受けて、ここまで澄んだ金属音は響かないだろう。

 だがそうなってくると、“具現化”、なのだろうか。
 しかし、“鬼”が今まさに使っている魔術も、“物”を生成している。
 ならば、“オリジナル詠唱”なのか。

 アキラには判断できない。
 しかしいずれにせよ、口ぶりからしてキュールはこの力を完全に使いこなせていないのだろうか。
 そういえば、この“盾”が、先ほど見たときより僅かに色濃くなっている。
 完全に魔術として確立できていない証拠なのだろう。

 この“盾”頼りでこの場に駆け込み、見事難を逃れた自分は、相当運のいい部類なのかもしれない。

「ぐ……、がぁぁぁあああーーーっ!! 貴様らっ!! 何をっ!! やっているっ!!」

 アキラの思考が終点を迎えたところで、爆音の代わりに咆哮が届いた。
 決して完全に目を切っていたわけではないが、アキラは“鬼”に視線を合わせると、座り込んだまま挑発的に笑う。

「何をやっているって? 休んでんだよ。暇だからな」
「わわわ……、アッキーが挑発しているの何となく分かりますけど、あれですよ、これ、キュルルンの力ですよ?」

 ティアの言葉ももっともだが、アキラにとってこの戦闘は大きく優位に傾いている。
 何より、まさしくキュールの力が大きい。

 “魔族”の大規模魔術を、彼女は2度も無傷で切り抜けている。
 その原因は、周囲のこの“盾”。

 それはあまりに強固で、アキラが駆け回っていた時間が無駄であったと思えるほど、絶対。
 魔術を放つたびに身体中から“毒”を噴き出し、息も絶え絶えになるあの“鬼”にしてみれば、最悪の相手だろう。
 そして“鬼”は、アキラたちが動かずにいるのに接近を試みない。
 最早あの場所から動けないほど、身体はボロボロになっているのだろう。

 これで、勝ちは決まりだ。

「リディルグ!!」

 “鬼”の身体から、小さな“粒”が天に昇っていく。

 無駄だ。それでは超えてこられない。
 そして出現した“鉄槌”を見上げ、アキラは―――完全に他人任せだが―――冷静に結論付けた。

―――が。

「うっ、ううっ、……あっ、」
「―――、」

 小さな呻き声。
 そして、“パリン”、と。
 黄色に見えていた世界が、元に戻った。

 クリアになる視界。
 止まる思考。

 一体何が、と考える間もない。

 しかし、動物的な本能が、ここだけには―――“鉄槌”の真下だけにはいてはならないと叫び出す。

「っ、」

 ほぼ、いや、完全に反射。
 アキラは力の限りを持って、その場から離脱した。
 全力で地を蹴り、伸ばし切った足の先に、僅かに何かが触れる。

 荒れ地に―――最早周辺はクレーターのように凹んでいるが―――倒れ込み、恐る恐る振り返ったアキラの足ギリギリに、濁った黄色の“鉄槌”が振り下ろされていた。

「は……、は……、」

 ぞっ、としながらも、アキラは我に返って立ち上がる。
 そうだ。
 自分は辛うじて避けられたが、もう2人は、

「う、う、うおお、ちょっ、超びっくりしました……、キュ、キュルルン、なっ、何なんですか今のっ!? 反射神経ゲームですか!?」

 分かりやすいほど心拍数が上がっているティアが、その腕に抱えたキュールに開き切った瞳を向けていた。
 2人とも、アキラの隣の“鉄槌”ギリギリ。

 どうやらティアが、キュールを救ったようだ。
 自分は自分を逃がすことだけに精一杯だったというのに、ティアは本当に“筋金入り”だとアキラは思う。
 その上騒ぎ立てるのも、彼女らしいと言えば彼女らしいが。

「あ、あ、あ、ありが、とう……」
「い、いえ、それより、」

 ティアがキュールを抱え起こし、視線を“鬼”に走らせる。
 アキラもそれに倣い、そして、表情を険しくした。

 アキラたちが今までいた場所は、最早他の場所とほとんど変わらず“押し潰されている”。
 “鬼”の限界も近そうであったのに、あれだけ完全に思えた“盾”は、何故消えてしまったのだろう。

「ぐ、く……、ぐ、そうか、“そういう特徴”か……!!」

 勝利の方程式が乱されたアキラの耳に、“鬼”の甲高い声が聞こえてきた。
 既に瞳は生気を失い、うつろいではいるものの、“鬼”には、今のアクシデントの原因が掴めているらしい。

「その力は……、“時間制限付完全無効”、か。金曜属性の術者に、稀にいるらしいな……!!」

 “時間制限付完全無効”。
 つまりキュールの“力”は、一定時間、あらゆる攻撃を遮断するということだろうか。
 物理攻撃だけに限定されるか否かは定かではないが、少なくとも“盾”の発動中、“鬼”のオリジナル詠唱は一切通用しない。

 それが本当だとしたら、防御に関して、この幼い少女は、最上級クラスの力を持っているということだ。
 相手の攻撃が一撃必殺の威力を誇る以上、頼もしいことこの上ない。

「はっ、はっ、そうか、そうか……、はっ、はっ、ならば……、そうか、そうか、」

 呼吸は荒く、濁った黄色の眼は狂気に染まる。
 “鬼”は、そのおどろおどろしい貌をさらに変貌させながらも、しかし、確かに笑っていた。

 その表情が、自分が築いた勝利の方程式の穴を見つけられたような悪寒が走り、アキラは額に汗を浮かべる。
 まさか、“鬼”は既にキュールの“盾”を突破する方法に思い至っているというのだろうか。

「……キュール。さっきの魔術、また使えるか?」
「……上手くできるかは、分からないけど……、多分、魔力はまだ大丈夫」

 アキラが小声で問うと、キュールは僅かに息を弾ませながら肯定を返してきた。
 キュールの魔力切れが最初の不安材料として上がったのだが、そちらの方はどうやら問題ないらしい。

 キュールの魔力が切れない限りは、“鬼”の攻撃は通用しないのは実証済み。

 あとは―――完全に他人任せだが―――キュールと“鬼”の棍比べになるはずだ。

「……、」

 いや、と。アキラの脳裏に悪寒が走った。

 そうだ。
 そもそも。

「無駄だ……、どれほど無効にしようと意味がない……!! そう、そうだ……!!」

 狂気の貌で叫ぶ“鬼”。
 呼吸も荒く、身体中から毒を噴き出す様は変わらない。

 魔術を使用するだけで、自らの命を削っていくかのような重傷。

 だが―――“策を思いつくだけの余裕を取り戻している”。

「くくく……、」
「きっ、来ますよ!!」

 アキラが答えに辿り着く前に、リミットが訪れた。
 “鬼”は右腕を星空に掲げ、上空に視認できない“何か”を放ち始める。

 アキラとティアはキュールに視線を走らせ、キュールは怯えたように両手を胸の前に合わせた。
 そして、キュールの元へ2人して駆け出す。

 今感じた悪寒は、セーフエリアで考えればいい。

「リディルグ」

 鬼の呟きと共に、キュールの“盾”は、無事成功。
 ガギンッ!! と響く“物”と“物”の衝突が荒れ地に響き、アキラたちは再び絶対領域にしゃがみ込むことになった。

 これは、先ほどと同様。
 キュールの絶対防御が発動し、“鬼”の攻撃は完全に遮断される。

 さあ―――“鬼”はどうでるか。

「くくく……、」
「……?」

 アキラの予想に反し、“鬼”は、“盾”に連激を仕掛けず、ただ笑う。
 先ほどまでの激昂に任せての魔術乱射は行わず、逆にアキラを冷静に挑発するような表情を浮かべ、そして―――くるりとアキラたちに背を向けた。

「どうした……、来いよ……!!」
「くくく……、お前たち。“回り道”だな、それは」
「……?」

 どこか、冷静な物言い。
 “鬼”の静かな声を初めて聞いたアキラの中の疑念は、さらに膨らみ続ける。

 この“鬼”。
 余力がないのではなかったのか。

「絶対防御に攻撃し続けて何になる? 土地ごと破壊し尽くせば絶対防御も意味をなさないだろうが、“それは回り道だ”」

 確かに、キュールそのものに攻撃が届かなくとも、この場総てを破壊すれば生き埋めにすることができるだろう。
 だが“鬼”は、言葉通りこちらを攻撃するつもりはなく、背中越しに声を届けてくるだけだ。

「失念していないか? 私が、そもそも、何をしようとしていたのか」
「―――、」

 そこで、アキラは気づいた。
 “鬼”は、自分たちに背を向けたのではない。

―――“攻撃対象に向き合っただけだ”。

「こんな、“些細な子石”、さっさと蹴り砕かなければならん……!!」

 “鬼”が、腕を上げる。
 何度も見た傷だらけの腕から昇る、濁った黄色の粒子。

 そしてそれは、“視認できるほど大きい”。

「時が経てばいずれその魔術も消える。その合間。私は私で、やることがある」

 未だ輝きを損なわず天に在る星々へ、“鬼”から昇る黄色の粒子は伸びていく。

 その下の―――“パックラーラを攻撃するために”。

「何故私も失念していた……? お前たちなど、小石から零れた欠片に過ぎん。それをせこせこと潰すほど、私は矮小な存在ではない!!」

 アキラは言葉を失った。
 今、“鬼”は完全に冷静だ。

 こちらが制限時間付きの完全防御を行えるとしても、それはあくまで、この半径1メートルに満たない小さな小さな世界だけ。

 淡い黄色の“盾”越しに見える、大きな大きなその世界。
 その先、伸びていった濁った黄色の粒子が、“突如として肥大化する”。

「ま―――、」
「リディスリングル」

 ズ、ウ、ンッ!!

 本日2度目。
 パックラーラは、巨大な黄色の蹂躙を受けた。

 響く地鳴りと、遠くで崩れるパックラーラの構築物。
 アキラはそれに、元の世界で何度か見た巨大怪獣映画のシーンを思わず重ねてしまった。

 人が造り、人が営み、人が生活していた街が、“何の比喩なく押し潰されたのだ”。
 巨大怪獣映画を見たことのある者なら、誰しもが想像したことだろう。
 戦闘シーンで、あの場にいた人は、一体どうなったのか、と。

 ゴーストタウンだったなどという都合のいい絵空事では済まない。
 草原に面するパックラーラの街に、少なくとも1つの果物屋があったことをアキラは知っている。

 声さえ出ない。
 この、あまりにリアルからかけ離れたリアルに。

 まるで消しゴムを使ったかのように、“街”が削ぎ落されたのだ。

「ぐはっ、はははははははははっ!!!!」

 街の轟音に反して静まり切っていた草原で、甲高い声はなりを潜め、代わりに地鳴りのような不気味な笑い声が響く。

「これだ、これだ、忘れていた……、まとわりつく蠅など払う必要さえなく、ただただ、自分の欲するがままに、自分の欲したことだけを行う!! これだ、これだ……、これが“自分”だ!!」

 叫ぶ“鬼”の身体からは、今なお“毒”が噴き出し続けている。
 しかし、自己に浮き上がった全能感が遥かに勝るのか、“鬼”は呻くことなく―――“もう一度腕を上げた”。

「リディスリングル!!」

 再び、轟音。
 今度の“鉄槌”は街の中心部に向かうかのように1コマ先に振り下ろされた。
 この草原を荒れ地に変えたその蹂躙は、さらに街を襲い続ける。

「く―――、」

 アキラにようやく、確固とした形で“認識”が構築される。

 小さな村など一瞬で消し去ると言われる存在―――“魔族”。
 それは、何の過大評価でもないのだ。

「キュルルン!! 私を外に出して下さい!!」

 ガンガン、と、隣でティアが中から“盾”を叩き始めた。
 この“絶対防御”は、中に入る者の檻にもなってしまうようだ。
 外に出なければ、“鬼”の暴挙を止めることができない。

「で、でも、出たら……、ううん、“出ても”……、」

 確かに、この“盾”から一歩外に出てしまえば“鬼”の大規模魔術を防ぐ手立てはない。
 しかし、仮に出たとしても、果たして“鬼”を倒すことができるのか。

 ティアとキュールの意見は2つに分かれ、アキラはただ、奥歯を噛んでそれを眺めることしかできなかった。

「……いい、のか? “勇者”」
「……!」

 “鬼”が手を掲げながら、首だけ振り返って醜い貌をアキラに向けてきた。
 今も黄色の粒子は街に上空へ向かって昇っていく。
 大規模魔術の3連発は流石に堪えるのか、震えながらのその言葉は、ヒダマリ=アキラの“立場”に届けられた。

「街は、間もなく消える。いいのか? 勇者。“お前”がそんな安全な場所にいて」
「っ、」
「リディスリングル」

 今度の“鉄槌”は、最初の一撃の真横に落とされた。
 またも現実感のない映画のワンシーンが再現される。

 “鬼”は本当に、街を消すつもりだ。

「―――、」
 アキラは言葉を返せない。

 このままでは、例え“鬼”が自滅したとしても、街の被害は手遅れになってしまうだろう。
 そして街には、エリーやサクもいるのだ。
 彼女たちにも被害が及ぶのは明らかなこの状況。

 しかし、勝利の方程式が前提からして覆ってしまってはアキラにできることなどない。

 “勝利”の定義がそもそも違ったのだ。
 自分はここに、“鬼”を殺しに来たのではなく、街を守るために来たはずだったのだから。

 そして、自分は。
 この“三週目”は、こういう被害を避ける義務があるというのに。

「…………キュール!! 俺だけ外に出してくれ……!! 少しでも時間を稼がないとまずい!!」
「で、でも、走り回っても、大規模魔術じゃ、」
「くっそ……、」

 キュールは首を縦に振らない。
 確かにアキラが外に出ても、“たった1発”大規模魔術が放たれるだけだ。
 そんな僅かな間に、命を捨てることなど何の意味もない。
 志や、理念うんぬん以前に、“本当に意味がないのだ”。

 “一週目”。
 自分は一体何をしたというのだろう。
 そのときもこうして、街が破壊されるのを眺めていただけだったというのだろうか。
 “エンディング”にエリーはいたはずだから、彼女たちが結果として無事なのは間違いない。
 だが、街はどうだったのか。

 このままでは、“鬼”が街を破壊し尽くしたのち自滅し、生存者は数名であったという結論しか導けない。
 このパックラーラに自分が引き寄せてしまった“刻”は、そんな残酷な結末だったというのだろうか。

 いくら思考を進めても、記憶の封は未だ解けない―――

「出てこないならそれで構わん。お前たちは、街が地図から消えたあとだ―――リディスリングル」

 4撃目。
 それは、3撃目の1コマ奥。
 丁寧に街が消されていく悪夢は、今なお続いていた。

 どうする。
 今、自分にできることは何か。
 アキラは眼前のキュールの“盾”にもたれかかりながら必死に思考を進めた。

 あの魔術を止めるのは不可能だ。
 あれだけの威力がある魔術、相殺できる者などまずいない。
 ならば、“鬼”に攻撃すべきだろうか。
 しかし、攻撃は最初の攻防のように“鉄槌”で防がれる。

 一体自分は、今、何をしなければならないのか―――

「いくら考えたところで答えなどない。そして考えれば考えるだけ―――」

 “鬼”は両手を掲げ、黄色の粒子を放ち始める。
 街の上空に向かったそれらの量は、過去最大級。
 アキラの位置からは、街の総てが攻撃対象に設定されているかのように見えた。

 “鬼”の身体からは、今なお“毒”が溢れ続ける。
 だがその代償に、あれだけの大規模魔術が詠唱されれば、街が街でなくなってしまう。

「―――世界は形を変えていく。この、絶対的で、圧倒的な、私の手によって……!!」

 もう駄目だ。
 ここで動かなければ、完全に取り返しがつかなくなってしまう―――

「キュール!! 今すぐ俺を出せ!! もう今やるしかない!!」
「ひっ、」

 アキラが怒鳴ると、キュールは身を縮こまらせた。
 だが、淡い黄色の“盾”はむしろ僅かに色濃くなり、“檻”としての役割しか果たさない。

 術者のキュールが、アキラの行動を犬死と判断していては、この魔術が解かれることはないだろう。
 時間制限による一時解除は、恐らくまだ先―――

「内輪揉めか。街が消えたあと、興味があれば聞いてやる」

 アキラの怒鳴り声に“鬼”はそれだけ呟くと、今度はその口を、“自分の身体に設定されているスイッチ”を紡ぐために紡ぎ始める。

「リディス―――」
「キュール!!」
「だめ!!」
「―――リングル!!」

 結局、“檻”は解除されなかった。
 そして響く、“鬼”の詠唱。
 街の上空に漂っていた黄色の粒子が、“詠唱”による遠隔操作に反応。

 突如として肥大化し、パックラーラの総てを―――

「―――、」

―――押し、“潰さなかった”。

「……?」

 代わりに響いたのは、パン、という破裂音。
 その音が、粒子が肥大化する前に響いた、“たったそれだけで”。

 街の総てを攻撃対象としていた大規模魔術が、“跡形もなく消し去ってしまった”。

「なに、が……?」
 同じように“檻”から出ようともがいていたティアから、アキラの心中そのままの言葉を出した。
 騒音が響き続けたこのパックラーラの事件。
 そこに訪れた完全な無音に、この場全員の思考が止まる。

「なん、だ……!?」

 最初に我に返ったのは、“鬼”。
 アキラたちに向けた小柄なその背中を震わせ、そして、

「何をしやがったぁぁぁぁぁああああああーーーっ!!!!」

 破壊の蹂躙の代わりに、地鳴りのような咆哮を上げた。

―――***―――

「リガルトリィヴィ」

 魔道士―――ロッグ=アルィナーは、1つの魔術名を提示した。
 最大級の危機感を覚える黄色の粒子を、到着するなりあっさりと打ち消して。

 エリーたち3人は、魔術師隊と協力し、街の西部に到着し住民の避難を行っていた。
 時間も時間だというのに避難を滞りなく進行したのは、草原からの戦闘音に危機を感じてすでに退去していた者が多かったことと、魔術師隊の一糸乱れぬ避難活動によるところが大きい。
 しかし、戦場から少しでも離れるように、西から東に向かって住民を避難させ続けている中、とうとう街に戦火が届いてしまった。

 いや、戦火と言うことすら生ぬるい。
 蹂躙だ。何せ、建物が巨獣に踏み潰されたかのように破壊し尽くされたのだから。
 草原に面した区域の避難が完了していなければ、人的被害が相当な数に上っていただろう。
 だが、そんなドラマティックなタイミングで難を逃れたとはいえ、攻撃は続く。
 2撃目、致命傷では無いとはいえ、飛び散った建物の欠片で負傷者を多数出してしまった。
 3撃目と4撃目が襲った場所は避難が完了していたため被害は建物などの物的なものに限られたが、このまま攻撃が続くとなると街の総てが危険地域になってしまう。
 蹂躙は、大人数が移動する速度よりペースが早いのだ。

 そして。
 5撃目。
 街と星空の中間に浮かび上がったものは、比率からして、展開すれば街の半分は覆う“鉄槌”と化すであろう、濁った黄色の粒。

 人の足の移動をあざ笑うかのように打ち上げられたそのおびただしい大量の魔力は―――しかし、“打ち消されたのだ”。

「リガルトリィヴィって……、確か、金曜属性の魔術ですよね?」
「よく分かったな、マルド=サダル=ソーグ。かなり古い魔術だ」

 突如救世主のように現れたロッグは、マルドの言葉に肯定を返した。
 住民たちが遠ざかっていく足音が聞こえる大通り。
 最早ゴーストタウンと化したパックラーラの道の中央で、ロッグはゆっくりと腕を下ろす。

 エリーは、見た。
 登場したロッグが、空に向かって手を掲げ、数本のスカイブルーの魔術を射出した瞬間を。
 流石に魔道士だけはあって強力な魔術だったのだろうが、しかし、エリーの見立てでは街を襲っている大規模魔術の足元にも及ばない威力だったはずだ。
 相殺することなど、絶対に不可能。

 だが現実に、その魔術が脅威をかき消したのだ。

「魔術リストの中からようやく見つけたよ。隠密性からして“物体生成”に非常に近い特徴を持っている魔術だとあたりをつけていたのだが……、大分時間がかかってしまった」
「……人の避難は済んでいる」
「……そうか、間に合った、と言うべきだろうか」

 僅かに息を弾ませているサクからの報告に、ロッグは損壊した建物を眺めながら小さく呟いた。
 サクはどこか満足げに、頷き返す。
 彼女は、マルド、エリー、サクの3人の中で、一番の功労者であったとエリーは思う。
 ここに集合するまで、担当区域を分けて3人別行動で避難をさせていたのだが、最も広い区域を担当し、そしてやり遂げたのはサクだ。移動速度が尋常でないというのは、戦闘以外にも生かすポイントが多いのだろう。

「その……、リガルトリィヴィって、どういう魔術なんですか?」

 エリーはちらちらと星空を見上げながら疑問を口に出した。
 この緊急時、本来ならば避難活動を続けたいところなのだが、ロッグの落ち着いた雰囲気に、この場を移動する危機感が薄れてしまう。
 実際、先ほどのような特大の大規模魔術が再び来るのならば、避難ではなく攻撃を打ち消す以外に街を守る方法はないのだけど。

「リガルトリィヴィは金曜属性の上位魔術だ。魔力を極限にまで固めて“物体生成”を行う。一説では“具現化”の元になったとさえ言われる魔術だが―――その実態は“防御魔術”だ」
「ぼう、ぎょ……?」

 エリーは損壊した建物に視線を走らせる。
 あれが“防御”という行為によってもたらされるとは、納得できそうにない。
 だが、確かに物体をそのまま落下させたかのような状態ではある。

「まあ無理もない。やはりこれは“オリジナル詠唱”。だが、何も既存の魔術と特徴がまるで違うものばかりというわけでもないからな」

 ロッグはこの場で講義でも始めているかのように、落ち着き払った口調のまま言葉を紡ぐ。

「私が目をつけたのは、リガルトリィヴィの“物体生成”が行われる直前には魔力が非常に不安定になるという特徴だ。“物体生成”が行われてからは始末に負えないが―――」
「……!」

 再び西から黄色の粒子が街の上空に昇ってきた。
 全員の顔がこわばる中、ロッグだけは静かに腕を上げ、照準を合わせる。

「シュリスロール」

 ロッグの手の平から、5,6本スカイブルーの閃光が走る。
 漂う黄色い粒子は、その直撃を受けると、ぱん、と破裂音を発して宙に溶けて消えていった。

「―――その直前なら、“ただの魔力”。技術で加工した魔術ならば十分に対応できる」

 まるで講義を締めくくる言葉のようにロッグはそう呟くと、3人に顔を向けてきた。

 魔道士。
 エリーはその人々への認識を見誤っていたのかもしれない。
 正直なところ、魔道士は魔術師を管理する役職であると思っていた。
 先ほどの会議しかり、みなの意識を向上させるような管理職。ロッグの管理能力に、素直に感心できたのだ。

 魔術を志す人を、導く者。
 だから、魔道士なのだ、と。

 だが、それは所詮魔道士の役割の一端に過ぎないのだと改めて認識できた。

 彼らは問題解決の糸口を見つけ、そして“自分でそれを実行できる”。
 先ほども、もしロッグの仮説が外れていたら建物と同じように潰れてしまっていた。
 いや、それでなくても、直面する大規模魔術に恐れて手元が狂い、狙いが外れてしまった場合も同様だ。
 だが、ロッグは書物だけから正解を導き出し、それを即座に実行した。

 やはり、彼らの本分は、“戦闘能力”。

 魔術の道を突きつめた者。
 だから、魔道士なのだ。

 そしてロッグは、自分のやり方で、正解まで辿り着いた。

「―――なら、やるべきことは“変更だ”」

 魔術を防ぐ正解が提示され、そこでマルドが口を開いた。
 彼はどこか眉を潜め、そしてどこか申し訳なさそうにエリーとサクに向き合ってくる。

「街の方は多分もう大丈夫だ。だけど、“街が攻撃され始めたということは”―――」
「……!!」

 役に準じ過ぎてきたエリーは、マルドの言葉ではっとする。
 自分たちが街の避難活動を行っていたのは、西の草原から戦闘音が聞こえてきたからだ。
 きっとその場に、“攻撃対象”がいたのだろうから。

 だが今、“犯人”は街を狙っているのだ。

「……そうだ。向こうで何があった……!?」

 サクも気づいた。
 マルドはとっくに気づいていたのだろう。あるいは、いずれ街が攻撃されることを念頭に置いて行動していた節がある。

 草原からの戦闘音は、“そこに攻撃対象がいるからこそ成立するのだ”。

「少なくとも、犯人がフリーになるような事態が発生している」

 ぞくり、と悪寒が走った。
 マルドも極力言葉を選んだようだが、そんな事態などあまりに限られる。

 エリーは街の西部に視線を走らせた。
 幸いにも火災は発生していない街の大通りは、薄暗く、無機質な瓦礫が並んでいる。

 その先。
 うちの“勇者様”は、

「2人は行ってくれ。俺は―――」

 マルドは背から長い杖を外した。
 そして滑らかな動きで回転させると、両手で掴んで構える。

 杖の先にはめ込まれている銀の宝玉が向く先は、津波のように巻き上がってきた、濁った黄色の粒。
 1人では対処しようのない“物量”だ。

 しかし、それよりも。
 目を奪われるのはマルドの魔力を吸い取って、“シルバーに輝くその長い杖”。

「レイリス」

 銀の閃光が、夜空を走る。
 ロッグも同時に詠唱し、シルバーとスカイブルーの閃光が競い合うように昇っていく。
 そして、途端枝分かれし、天を覆うかのような粒子を討ち抜いた。

「―――ロッグさんと、街を守る。これ以上被害は出さない」
「月輪属性……!?」
「早く行ってくれ。今救援が必要なのは、街じゃなくて現場に行った“勇者様”だ……!!」
「……はい!!」

 世にも珍しい月輪属性。だが、それに目を奪われたのも僅か。
 エリーとサクは同時に駆け出した。
 “そんなことよりも”、行くべき場所がある。

 瓦礫に囲まれ、頭上には、濁った黄色の粒子の大群。
 それでも、それを防ぐ“役割”を持つ者を信じ、2人はひたすら前へ進む。

「“結果が分かったら逃げるんだ”!! 流石にこれは、“知恵持ち”クラスじゃない!!」

 背後からマルドの言葉が聞こえたが、エリーとサクは完全に無視した。
 これだけ大規模魔術を連射できるのだから、敵の戦力など“想像通り想定外”だろう。

 そんな現場にあの弱い“勇者様”が行けば、結果など見えている。
 自分たちも、当然危険だ。

 だが、それでも。

 今はとにかく、ただ、その場へ。

―――***―――

「う……、がぁぁぁぁぁぁああああああーーーっ!!!!!」

 咆哮に次ぐ咆哮。
 砲撃に次ぐ砲撃。
 怒涛に次ぐ怒涛。

 荒れ果てた草原に立つ“鬼”の、ほとんど全身から沸き上がり、街の上空に伸びていく黄色の粒子は、まさに絶対。
 星空すら霞む黄色の輝きは、その総量からすれば、パックラーラという街はすでに3回は壊滅しているだろう。
 だがそれも、攻撃が成功すればの話。

 津波のように街を飲み込まんとする黄色の粒子は、例外なく宙に四散していく。
 それはまるで、大自然の災害に、人が知恵で抗う様のようだった。

「あの魔術……、粒子を散らせば消えるんですね……」

 幾度となく消えていく粒子を唖然として見ていたアキラの隣、同じように“盾”の中でしゃがみ込んでいるティアがそう漏らした。
 遠距離攻撃を使用する彼女には、この壮絶な光景からでも得るものがあるのだろう。
 あるいは、単に目がよく粒子が消える様子が見えるからだろうか。

 いずれにせよ、彼女はあの魔術を打ち消すプロセスを理解している。

「……ティア。お前、同じことできるか?」
「連続だと3、いえ、4が限度ですが、防げます……、防ぎます」

 聞けば即座に答えが返ってきた。
 アキラの意図がすぐに伝わったのだろう。
 彼女はすでに、“鬼”ではなく、魔術をかき消すことに全力を傾けるつもりだ。

「……、」

 ティアの答えを確認し、アキラは自分と“鬼”との距離を計った。
 “鬼”は叫びながらも、まるで夢遊病者のように街に向かって一歩ずつ進んでいる。
 自己の大規模魔術が打ち消し続けられる現状に、先ほどの冷静さを完全に喪失していた。
 周囲に飛び散る粘着性のある“毒”を噴き出しながら、まるでナメクジが這い回るように荒れ果てた大地を汚していく。

 “鬼”の身体は限界なのだろう。
 すでに口に出しての“詠唱”さえ行わず、ほとんど魔力の暴走に近い攻撃を街に向かって放ち続けている。

 アキラとの距離、30メートル超。
 魔術による身体能力強化を使用すれば、4、いや、3発以内には十分に到着できるだろう。

 自滅を待ち続ける作戦は、今はほとんど機能していない。
 大魔術を連続して放てるという、無限を思わせる魔力。
 いずれ街も防ぎ切れなくなってしまうかもしれない。

 ならば、“攻撃”。
 ぼろぼろの身体なら、流石に攻撃は通用するだろう。

 きっと、“鬼”は後一撃で倒せるはずだ。
 そう信じるしかない。

 アキラは小さな“鬼”の背を捉え続けながら、剣の柄を強く握る。

「……キュール。この魔術、今度こそ解除してもらうぞ。あいつに攻撃する……!!」
「……、う、うん」
「俺が頼んだら解除してくれ」

 魔術が防げると分かって、今度はキュールも意見に賛同してきた。
 あの街の抵抗は、ここでただ見ることしかできなかったこの面々に希望を持たせる。

 大魔術は攻略した。
 あとは、このパックラーラで起こった事件の“犯人”を、倒すだけだ。

「ぐ……!? がはっ、ごほっ、ごげがっ!!!?」
「―――!!」

 黄色の粒子と“毒”を身体から噴き出し続けていた“鬼”が、途端もがき苦しみ、大規模魔術を停止させた。
 身体を押さえ、ふらつくように身悶える“鬼”は、とうとう口からも“毒”を嘔吐し、今にも倒れ込みそうなほど。

 それに一瞬戸惑うも、アキラは、きっ、と視線を険しくした。

「キュール!!」
「うん!!」

 パリン、と周囲を覆っていた淡い黄色の“盾”が自発的に砕かれた。
 アキラはダンッ、と地を蹴り荒れ果てた大地を疾走する。

 狙いは、身悶える、“鬼”―――

「……!!」

 自己の身体を抱き込むように震えていた“鬼”の貌が、アキラに向いた。
 何が向かってきているのか分からないように呆けている。

 また、記憶が飛んでいるようだ。
 今までと違うところは、身体を襲う激痛に、体勢を直すこともできないという点。

「ぐ、ぐ……、リディスリングル」
「―――!!」

 “鬼”から再び、膨大な量の粒子が天に向かって伸びていく。
 狙いはアキラ―――いや、この場総てだろう。
 あれだけ身悶えながらも即座に“詠唱”を施し、大規模魔術を放てる能力は流石に圧巻。

 だが、それでも、

「シュロート!!」

 アキラは天空も、そして背後も見はしなかった。
 パンッ、と上空で破裂音が鳴る。
 確認などする必要もない。
 “鬼”の攻撃は、完全に封じてくれる者がいる。

 直接敵を討てなくてもいい。
 前に立つ者を、徹底して支援する。

 あれがきっと、彼女の在り方だ。

「ぐっ、がっ、がぁぁぁあああーーーっ!!」
「―――シュロート!!」

 詠唱も付さず、ただ魔力の暴走に近い“似た”魔術を天に放っても、即座に響く破裂音。

 そこで、“アキラは自分の成長に驚いた”。

 これで、2発目。
 ティアの連続攻撃の限界は、あと2つ。

 まさか。
 “往復分が稼げるほど速く到達するとは思わなかった”。

 “鬼”はすでに攻撃範囲内。

 アキラは剣を振り上げた。

 ここで、決める―――

「ぐ、が、ぐ……!?」

 “鬼”は、目前まで迫ったアキラを見上げながら、身体を襲う激痛に膝から崩れ落ちた。
 身体の中は、体液が煮え立っているかのように熱い。
 頭は湧いたように思考が進まず、視界はモノクロの世界に変わりつつある。

 “盾”の使用者の場所から一歩も動かず自己の魔術を打ち消し続ける少女のせいで、“勇者”をここまで接近させてしまった。

 攻撃自体には、危機感を覚えない。
 だがそれよりも、身体を襲う苦痛の方が問題だ。

 高があれだけの大規模魔術連射で、ここまで費消するとは。

 全身に上っていた全能感はなりを潜め、代わりに浮かぶのは圧倒的な屈辱。
 苦痛に膝を突くなど、“自分”ではない。

 熱に浮かされたような頭で、“鬼”は、拳を握りしめた。

 身体中の傷跡から、今なお“毒”は噴き出し続ける。
 眼前には、振り上げられた剣。

 “鬼”は、なおも握った拳に力を入れる。
 その動作ですら、激痛が走り、額から“毒”が噴き出した。

 しかし、その、額から噴き出した“毒”。

 そして。
 そして、そこで―――“鬼の身体は総ての毒素を吐き出した”。

「ぶ―――!?」

 ドンッ!! と、アキラは“薙ぎ払われた”。
 思考が完全に停止する。

 自分は今、“鬼”に向かって剣を振り下ろそうとしていたはずだ。

 それなのに何故―――自分の身体は宙を舞っているのだろう。

「―――がっ!?」

 アキラの身体は受け身も取れずに、荒れ果てた草原に叩きつけられた。
 そして勢いそのままに転がり回り続ける。

「―――、―――!!」

 ようやく止まったアキラは、自分に向かって誰かが叫んだ“ような気がした”。
 まるで感覚がない。
 全身が衝撃に麻痺し、痛みすら認識できない。
 自分は仰向けに倒れているのかうつ伏せに倒れているのかすら分からない。

 そしてアキラの身体はまるで動かなかった。

「―――キーッ!!」
「―――、―――、……?」

 アキラは、間近で叫ばれたような“気がした”。
 しかし、認識を拒絶していた身体が徐々に癒されていく。

 それがティアの治癒魔術であると認識できたのは、暗転していた視界がスカイブルーの光に包まれてからだった。
 どうやら自分は、仰向けに倒れているらしい。

「……?」

 今、何が起こったのか。
 自分は、攻撃を受けたのか。
 “鬼”は、何をしたのか。

 何も分からないアキラは、思わず動こうとし、手に剣を持っていることに気づいた。
 力を込めて握っていたそれは、大地を転がり回っても離さなかったらしい。

 アキラは虚ろな瞳でそれを眺め、そして、“剣の半分がないことに気づいた”。

「……? ぐ……、づぁぁぁあああっ!?」

 ようやく。ようやく痛覚を取り戻したアキラは、砕けた剣の先を発見した。
 アキラの、右肩。
 剣の先が、“自分の右肩に深々と突き刺さっていた”。

「づ……、ぐ、あ、」
「アッキー!! 動かないで下さい!!」

 ティアの言葉が完全に聞こえるようになっても、アキラの眼は右肩から離れなかった。
 最早、貫通と言うべきだろう。
 転がり回っている合間にそうなったのかは定かではないが、血液が噴き出し泥まみれになったそこは、あるいは“鬼”の“毒”以上に凄惨な状態だった。
 下手をすれば、右腕が落ちていたかもしれない。

「うぐ……、あ、ぐ、ぎ、ぐぁぁぁあああ……!!」

 次いで、身体全身。
 脳が、骨が、頭が、腕が、身が、足が、まるで交通事故を起こしたかのように激痛を訴え始める。

 ティアの魔術による回復で呼び戻された神経は、それだけでショック死を誘発するかのように作用していた。
 もっとも、治癒が僅かにでも遅れれば、“ただ楽に死ねただけ”だったのだろうが。

「……、く、うっ、」

 アキラは必死に意識を繋ぎ止めようと、瞼をこじ開け続けた。

 満天の星空。
 必死に魔力を押し流し続けるティア。
 その隣に顔が青いキュールもいる。

 一体今、何が起きた。
 視線だけを泳がし、“鬼”を探す。

「くく……、はあっ、ははあはははははははははははっ!!!!!!」

 探す必要もなく、“鬼”の叫びがアキラの鈍った感覚にさえ届いた。

「ははは……、そうか……、そうか……、そういう“進化”か……、くく……、はははははははははははっ!!!!」

 狂ったように笑い続ける、“鬼”。
 距離は、50メートルは離れている。
 そこまで自分は吹き飛ばされたということか。

 アキラは虚ろな瞳で“鬼”に視線を向け、そして、“その異形に愕然とした”。

「なにが“進化”と思っていたが……、こういう“進化”か!!」

 腕、だろうか。
 キュールほどの小柄な“鬼”の、右腕。
 それは、最早、その身に反していた。

 全長30メートルはあるだろうか。
 大木のように太いそれは、くすんだ灰色。
 隆々とした筋肉のところどころに無残な傷跡を残し、“鬼”が纏ったローブから伸びている。

 まるで、壁だ。
 元草原に伸びる“鬼”の右腕は、倒れたアキラにはその方面の先の景色を一切見せない。

 “あれ”が、自分を振り払ったのだろうか。

「『巨大な身体を魔力で支え続けるのは効率が悪い』。『移動するに都合のいい形態になるべきだ』。分かる……、分かるぞ、今ならその意味が!! ガバイド……!!」

 ずずず、と壁が、“鬼に吸い込まれていった”。
 まさか、あの巨大な腕は、伸縮自在なのだろうか。

 いや、“物体生成”と言うべきか。
 あるいは、“生物生成”。

 以前、エリーの授業で聞いたことがある。
 “魔族”は、魔物を生み出す。
 その方法は、一説には“魔力で生物を生成する”のだと考えられている、と。

「はははは……、ははは……、ふざけるなぁぁぁあああーーーっ!!!!!!!!」
 轟、と声だけで周囲の大気が揺れた。

「そんな“進化”を!! 私が!! 頼んだか!? 貴様の!! 都合で!! ぐ、がぁぁぁああああーーーっ!!!!」

 “鬼”は、何かの犠牲者なのだろうか。
 アキラは不確かな意識の中で、おぼろげに思った。

 もし表情が分かれば、あの“鬼”は、泣いているのかもしれない。

「“早く、私を取り戻さなければ”……」

 ギロリ、と“鬼”はアキラを睨みつけた。その“鬼”の声色は、どこか強迫観念に取りつかれているようだった。
 アキラは未だ動けず、激痛は身体中を支配する。

「まだ、まだまだ、“矮小”……、さらに、さらに動けば、私は“自分”を取り戻せるのか……!?」

 “鬼”の声が、徐々に冷静さを取り戻してきた。
 荒い呼吸を抑え込み、“鬼”は、再び地鳴りのような声で言葉を紡ぐ。

「貴様ら、よくやった。“毒”を強引に噴き出すことが、“進化”の条件。お前たちが小賢しくも粘ったゆえに、私は私に近づけた……!!」

 持久戦は、完全に裏目。
 状況を僅かに察せたアキラは、“鬼”の言葉に愕然とした。
 必死に噴き出させ続けた“毒”は、文字通り、“鬼の身体から消え失せてしまったのだ”。

「私は私を取り戻し、ガバイドを必ず殺す。お前たちには……、“礼をせねばならんな”……!!」
「……!!」

 “鬼”が右腕を掲げたかと思うと、まるで小動物を押し潰すような気色の悪い音が鳴り、そして、“その腕が天高く伸びていく”。

 “この世界の最初の場所”―――リビリスアークの塔を思わせるその巨大な腕を麓から支えるのは、その腕の太さの10分の1ほどの小柄な“鬼”。
 あまりに不自然なその光景を、アキラは唖然と眺め、そして痛む身体を必死に動かそうとした。

 どう見ても、“鬼”は、あの塔をこちらに倒すつもりだ。
 だが身体は、まるで動かない。

「“私として殺してやろう”。魔術など、所詮その一旦。私の本来の力は、“圧倒的物理攻撃”。その場総てを押し潰せれば、“私は私だ”……!!」
「……2人、とも……逃げ、ろ。マジで、」
「静かにして下さい。キュルルンがいれば大丈夫ですから……!!」

 アキラの呻き声にも似た指示に、ティアは回復魔術を止めなかった。
 そしてキュールも、ティアの言葉に“盾”の発動を狙う。

 だが、

「違う……、多分、“それじゃまずいんだ”……!!」
「―――ふんっ!!」

 アキラの指示も虚しく、“塔”は振り下ろされた。
 直後、今まで最も濃い黄色の“盾”が展開し、巨大な鐘を突いたような音が響く。

 仰向けに倒れたアキラの眼前では、キュールの“盾”が、“鬼”の巨大な腕を“完全防御”していた。

「大丈夫、ちゃんと防げた」
「だから……、まず、い、」

 “盾”の発動が成功し、ほっと息を吐くキュールにアキラは緊迫した声を返した。
 この腕での攻撃は、先ほどまでの“鬼”の攻撃と決定的に違うところがあるのだから。

「くくく……、流石によく防ぐ」
「……!」

 “鬼”の嘲るような声が届いた。
 そこでキュールも気づいたようだ。
 この完全防御の、致命的な危険性に。

「だが、“制限時間までだな”」

―――“鬼”の腕が、消えない。

 キュールの張った“盾”よりも遥かに巨大なその腕は、今なお上から“盾”を圧迫し続けている。
 逃げることも許されない。この“盾”は、“檻”でもあるのだ。
 中から出る者さえも、完全に拒んでしまう。

 だが、一瞬でも消せば、即座に腕が押し潰してくる。

「……ぅ、」

 キュールは、必死に活路を探した。
 だが、見つからない。

 外に1人でもいれば、“鬼”の気を散らすなりして必死の状態は避けられたかもしれないが、今は3人とも“檻”の中。
 重傷で倒れているこの“勇者様”が気にしていたのはそこだ。

 今なお“腕”は、キュールの“盾”を圧迫する。

 今日は“盾”の調子もよく、上手く使いこなせていた。
 “魔族”相手でも、自分は役に立てることを証明したはずだ。

 しかし、“魔族”は攻撃手段を変えてきた。

 手に入れたと思った評価は、最早過去のもの。
 今では逆に、自分たちの首を絞めている。

 戦闘でも、日常でも、世界は変わり続けていく。
 その変化に、自分はまるで抗えない。早すぎるのだ。

 どれだけ駆けても、子供の足では追いつけない。
 だから子供は、あるいは家庭で、あるいは孤児院で、世界に追いつけるように、大人へ向かっていく。

 それが、“普通”。

 子供は子供らしく、大人になるまで戦場に立つべきではないのだろうか。
 そして、人間は人間らしく、“魔族”に歯向かおうとすべきではないのだろうか。

 確固たる成果を、手に入れることすら叶わない―――

「―――はっ、腕だけ伸ばしてんのか。随分横着してんじゃねぇか」

 きつくきつく瞳を閉じていたキュールの耳に、その傲慢な声と、衝撃音が届いた。
 金属と金属が衝突したようなその音は、先ほどまで自分の“盾”と“鬼”の魔術が発していた無骨なものだ。

「……!?」

 塞がれていた空が現れ、星明かりが届く。
 キュールの“盾”を押し込んでいた腕が、ずずず、と“鬼”に“吸い込まれていった”。

 だが、戻っていったのは攻撃元ではなく―――“それより遥かに離れた地点に飛ばされた鬼の元だった”。

 そして。
 “鬼”が立っていた場所には、その身ほどもある大剣を振り切った、1人の大男。

「―――、」

 アキラは顔だけ横に倒し、その男がゆっくりと接近してくるのを見ていた。
 その動きは傲岸不遜。

 しかし緩慢のようにも見え、この壊れ切った大地を平然と歩く様は洗練されている。
 完全な白髪を風になびかせ、眼は猫のように鋭く、金。

 何故、と思った。
 彼は、離脱したはずだ。

 しかし、一方―――ようやく解けた記憶の封が、“この確定事項”を正当化する。

 自分はこの日、このパックラーラ西の大草原で、確かにこの男と出逢っているのだ。

「ほう、」

 その男はいつしかアキラたちの元へ到着し、ノックするようにキュールの“盾”を叩いた。
 感心するように声を漏らすと、あまりに挑発的な表情を浮かべ、

「堅ってぇ……、大層なもんだなぁ、おい」

 その男―――スライク=キース=ガイロードは、呆れたように呟いた。

「……お前、なん、で、」
「あ?」

 仰向けになりながらアキラが発した言葉に、スライクは、心底不機嫌な声色で返してきた。

「人が寝てるっつーのに、騒ぎまくってっからだろ。あの騒音馬鹿をてめぇらが殺そうとしてたから、眺めてただけだ。だが、武器も壊れたとあっちゃ“見どころもねぇ”。だから俺が殺しに来たっつーこった」

 一体、この男はいつからこの戦いを見ていたのだろう。
 そして、一体どこから見ていたというのだろう。草原は全域が危険地帯。遠く離れた街からだろうか。

 だが、1つ確かなのは、この男は、アキラが“勝ち目を完全に消失することを条件に現れた”、ということだ。
 例えば―――唯一の攻撃手段の剣を失うことを条件に。

「う……、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああーーーっ!!!!!!!!」

 突如、咆哮。
 全員が視線を向ける先、スライクの一閃を受け吹き飛ばされていた“鬼”が叫びながら立ち上がった。
 身体の無数の傷跡からは、もはや“毒”ではなく、体液が溢れ出し、その激昂を物語っている。
 だが、剣の傷は入っていない。
 スライクの攻撃は、どうやら“鬼”を弾き飛ばしただけだったようだ。

「貴様……、貴様……、私に、私に、なんという……!!!!」
「はっ、ぶった切ったつもりだったんだが……、丈夫なもんだなぁ、おい」

 “鬼”の殺気を正面から受け、しかしスライクはふざけたような口調で応える。
 大剣を右腕で掴んだままだらしなく下げ、左手は眠気を飛ばすように首を掻く。

 有する武具以外は、まるで戦闘を意識していないようなスライクに、“鬼”は、さらに怒声を飛ばす。
 “鬼”から100メートル以上は離れているというのに―――“鬼”はその距離を大幅に縮める攻撃手段を持っているというのに―――スライクは、構えようともしない。

「大体……、今、貴様は私に何をした……!? この私を、腕ごと弾き飛ばすなど……!! 人間に……、」
「できたんだから、できんだろ。“普通”は無理、ってだけの話だ」

 アキラは、隣のキュールがピクリと動くのを感じた。

「その一撃……、火曜属性……、いや、木曜属性か……!!」

 “鬼”の推測は、確かに“道理”だ。
 インパクトの瞬間に魔力色が爆ぜなかったのだから、今の一撃は“身体能力”によって達成されたものだ、と。

 だが、アキラは知っている。
 スライク=キース=ガイロードの、その属性を。

「はっ、んなちゃちなもんじゃねぇよ」

 スライクは、遠方の“鬼”を見下すように顎を上げると、身体に魔力を流し始める。
 そのとき、僅かに見えたのはオレンジ。
 星が顔を覗かせる今、決して見ることのできない―――“太陽の光”。

「“日輪属性”……!?」

 “鬼”の視線がアキラに向いた。
 自分が今、倒したはずの日輪属性を。

「馬鹿な……、馬鹿な……、」

 その驚愕は、当然。
 魔術の集大成の“具現化”使用者よりも、遥かに希少なその魔力色を持つものが、こんな平和な大陸に2人もいるなどということはあり得ないのだ。

「はっ、ちっせぇな。てめぇが今驚愕してんのも、“普通”に考えたら、だろ?」
 スライクはゆっくりと歩き出しながら、挑発的な言葉を吐き出した。

「“俺の世界に普通はない”」

 アキラも聞いたその言葉を、スライクは“鬼”に届ける。
 その、何事にも捉われないという、彼の在り方を。

「事件を解決するのは“勇者様”っつーのが“普通”だろうが、“勇者”を名乗ってない奴が絶好のタイミングで現れても、1度飽きて離脱した奴に気が変わって戦場に向かっても、日輪属性が同じ場所に2人もいても、俺は許容できる」

 スライクはピタリと止まり、擦りつけていた大剣を腕一本で持ち上げ、“鬼”に先端を向けた。

「太陽が1日2回以上昇っちゃなんねぇなんつー律儀な決まりもねぇんだよ」

 ダンッ、とスライクが地を蹴った。
 彼が止まったのは、“鬼”が自分の攻撃範囲に含まれたからだろうか。

 いたるところが窪んだ大地を踏み潰し、単騎で“鬼”に向かって突き進んでいく。
 その動き、まさに蹂躙。

 アキラはあの、神速の少女―――サクを思い出す。

 いかなる場所でも疾風のように動く彼女とは違い、スライクのそれは暴風だ。
 だが、荒々しいスライクの移動速度は、あるいはサクにさえ匹敵しているかもしれない。

「く……、がぁっ!!」

 “鬼”はスライクの接近に、その腕を“突き出した”。
 そして不気味な音を立て、スライクに似た荒々しさで真っ直ぐ伸びてくる。

 地上を走る、暴風と暴風が高速で接近していく。
 その、衝突直前、

「―――、」

 スライクは、再び大地を強く蹴り、“腕に飛び乗った”。

 ガンッ!!

「ひっ―――」

 伸びた腕はスライクの背後、キュールの“盾”に突き刺さり、騒音を響かせる。
 “鬼”の腕は、すでに100メートル伸びるということだ。

 ここまでが攻撃範囲と思っていなかったアキラは、身を震わせる。
 だが、気がかりなのはスライクだ。
 “盾”を鷲掴みするように伸びてきた“腕”のせいで、戦闘の成り行きを見ることができない。

 しかし、

「ぐ―――」

 外から再び衝突音が響いたかと思うと、“腕”は左方に飛ばされていった。
 それは“本体”が弾き飛ばされたことの証明―――

「はっ、俺に道を譲らせるなんざぁ、大したもんだ。褒めてやる」

 スライクは“腕”の上を駆け、“鬼”に一撃浴びせたようだ。
 再び遠方で転がる“鬼”に、伸びた腕が吸い込まれていく。

 今度はスライクも待たず、“鬼”に向かって再び駆け出した。

「く―――、」

 “鬼”呻きながらも立ち上がり、今度は腕を天に伸ばし、そのまま振り下ろした。
 しかしスライクは駆けながら身をひるがえし、前進し続ける。

「―――、」
 再び、衝突音。
 “鬼”は身体に強固な防御魔術を使用しているのか、切り裂かれてこそいないがその勢いに小さな身体が弾き飛ばされる。

 あとはその焼き回し。
 スライクの圧倒的な身体能力がその身を暴風と化し、巨大な“剣”が戦場で暴れ回る。

「あっ、」
 そこで、キュールの“盾”の時間制限が来た。
 パリン、と砕ける黄色の防御壁。
 キュールは即座に“盾”を復元し始めた。

 今この場で、防御を捨てることは死を意味する。
 上から、前から、右から、左から、後ろから、スライクを捉え損ねた“腕”が襲いかかり、平原は先ほどの魔術使用時以上に危険地帯と化していた。

「―――、」
 アキラは寝そべりながら、スライクの戦いに魅せられていた。
 あまりに荒々しく、身体能力にあかせた壮絶な戦い。

 以前アイルークの大陸でクンガコングの大群に出遭ったときも、そして、そのずっと前も、“とある少女”に魅せられた記憶がある。

 この眼前の光景が、戦闘というものの元来的なスタイルなのだろう。
 スマートに銃器などで敵を討つのではなく、もっとシンプルに、自己の身体の力を発揮して敵を討つ。

 “剣”は周囲を一切気にせず、ただひたすらに鬼を攻めていく。

 彼の目的はただ1つ。
 自分の気に障った騒音の排除だけ。

 先ほど街が危機にさらされた瞬間、揺らいだアキラとはまるで違い、“目的”へ全力で力を注いでいる。

 どれだけ世界が変わっても、彼は自己の理念に基づき、誰からも干渉を受けず、自分の赴くままに動いていく。

 回る、世界。

 その中で、彼はまるで、振り返らない。

 だからこそ、“剣”は敵を討てるのだ。

「……、」

 スライクの“剣”は敵を襲い、キュールの“盾”は自分たちを守っている。

 そして、もう1人。
 この誰もが目を奪われる壮絶な世界の中で、ひたすらに役割を遂行している者がいる。

「……、アッキー、肩の剣、抜きますよ?」

 ティアだ。
 キュールの“盾”の中、スライクが現れても、“鬼”の腕が猛威をふるっても、ティアは発さずアキラの治療に専念していた。

 気づけば身体は、僅かに楽になっている。
 それがティアの治療のお陰か、日輪属性の力か、はたまたスライクの戦いを見た興奮作用かは分からないが、とりあえず、死ぬことはなさそうだ。

「ぐ……、お、」

 今まで止血の意味で刺していたままの剣の先端を、ティアが治癒魔術を続けながら慎重に引き抜いた。
 右腕は完全に上がらない。
 だが、身体に刺さっていた異物が取り除かれ、アキラの精神は楽になった。

「……、」
 ティアはさらに、魔力を流し続ける。
 “詠唱”としてティアの身体に“登録されていない”治癒魔術だが、効果は高い。
 旅の道中、力不足で何度も受けた彼女の治療は、相当なレベルに上がっているようだ。

 大怪我をするたび、額に汗を浮かべ、治癒してくれるティアの姿。
 それはあるいは、彼女から受けた遠距離攻撃の授業よりも、アキラの脳裏に刻まれているかもしれない。

「ぐ、」
「ア、アッキー!! まだ寝てて下さい!!」
「身体、起こす、だけだ」

 身体中に痛みが這い回ったが、アキラは奥歯を噛みしめ上半身を起き上がらせた。
 広がった視界では、“鬼”を襲い続ける“剣”。
 これ以上破壊されることはないと思っていた元草原は、いたるところが隆起し、陥没し、原型さえ思い出せない。

 地獄絵図にも似たその世界。
 それを作り上げたのは、たった2つの存在。

 今の自分からは、あまりに遠いその世界だが―――アキラは思う。

 自分に、何か、できることはないか、と。

「……?」
 思考を巡らせ、戦闘を傍観していたアキラは、また、記憶の封が解けたのを感じた。

 おかしい。
 “一週目”。
 “鬼”はスライク=キース=ガイロードの猛攻で、遥かに早く倒されていなかったか。

 記憶と現状の、大きな“ずれ”を感じる。
 確か、スライクは、“降り注ぐ鉄槌の中”、荒々しく進み、身悶える“鬼”を―――

「……!」
 そこで、アキラは決定的な瞬間を思い出した。

 “一週目”の“鬼”は、“毒を撒き散らしながら倒れたのだ”。
 身体を覆う防御膜に限界が訪れ、そしてスライクの一刀を受けた。

 だが今“鬼”は、スライクに弾き飛ばされるたび、“防御膜を修復する余裕を持っている”。

 その原因は、“鬼”の身体が総ての“毒”を吐き出したから。

 “アキラの勝ち目が早期に潰えなかったからだ”。

「……!!」
 そして、気づく。
 “鬼”の腕。
 右腕しか伸ばせていなかったはずなのに、今や両腕でスライクを襲っている。
 そしてその長さも、徐々に伸びてきているような気がするのだ。

 “鬼”の言葉を借りるのならば―――“進化”。

「まず……、“ハードモード”だ」

 アキラは血と土の味がする口で、苦々しく呟いた。
 “鬼”は今、成長している。

 腕は一体どこまで伸びるのか。
 そして、伸ばせるのは、はたして腕だけなのか。
 いずれにせよスライクは避け続けるのだろうが、街が鬼の攻撃範囲に入るのだけはまずい。
 いや、スライクとて、“鬼”が“身体総てを肥大化させたら”危険だろう。

 これは、自分が余計なことをしたせいだろうか。
 アキラは僅かに震え、しかし雑念を振り払う。

 考えなければならない。

 持久戦は完全に裏目なのだ。
 だから、早期に決着をつけられる方法を、今すぐに。

 身体は、強引にでも、動かせるのだから。

「ぐ―――、」

 弾き飛ばされた“鬼”は、大地を転がりながら、即座に防御膜を張り直した。
 顔を上げれば、不敵な笑みを浮かべて駆けてくる大男。

 自分の小さな身体を嘲笑い、見下しているかのように感じた鬼は、“腕を伸ばし”襲いかかる。
 だが、大男は回避。
 そして即座に身体が弾き飛ばされる。

 大男の身体能力は、常軌を逸していた。

 謎に包まれた日輪属性。
 しかしこの能力は、あまりに木曜属性に類似している。

 とすれば、あの説は本物だったのだろうか。

 “日輪属性に不可能はない”。

 自分の属性以外にはほとんど興味がない“鬼”だったが、その噂は以前耳にしたことがある。

 日輪属性は、総ての魔術を、魔法を、網羅的に体得する可能性を秘めている、と。

「ぐぶ―――」

 再び、大男に弾き飛ばされる。
 堅く、堅く、堅い衝撃。
 しかし自己の身体を打ち付ける大剣は、刃こぼれ一つ起こしてない。
 どうやら特殊な武具のようだ。
 強靭な“魔族”の身体と比べても、遜色ないほど。

 この男の“剣”は、決して砕けない。

「が―――」

 また、“腕”の攻撃を回避した大男に弾き飛ばされた。
 いずれは防御膜を突破されるかもしれない。

 だが―――“鬼”はこのやり取りを、ずっと続けていた。

 先ほど左腕が伸びるようになり、徐々にこの身体の使い方が分かってくる。

 遥か太古、魔術を覚えたときにも似た高揚感。
 戦闘という環境の中、“鬼”は大きな経験を得ていた。

 この身体の力を体得すれば、再び“総てを押し潰せる”。

 戻れるのだ。

 あの、巨大で、強力で、壮大で、強固で、尊大で、強靭な、“自分”に。

 もっと、もっと、自分に経験を―――

「―――、」

 吹き飛ばされ、防御膜を修復した“鬼”の耳に、大男以外の足音が聞こえた。
 身体を起こし、視線を向ければ、最初に自分が吹き飛ばした“勇者”が駆けてくる。

 気づけば“鬼”は、あの“盾”の付近にまで飛ばされていたようだ。
 あの“勇者”はそれを待っていたのだろうか。

「づ―――、」

 だが、満身創痍。
 右腕をだらりと下げ、一歩進むごとに、苦痛に顔を歪めている。
 治癒魔術がかけられていたようだが、明らかに回復していない。

 左手には、先の半分折れた、壊れた剣。

 “勇者様”が指を咥えて戦闘を眺めているだけなのが許せなくなった。そんなところだろう。
 だがあの“勇者”では、この身を弾き飛ばすことなどできはしない。

 “鬼”は、“一応攻撃し”、腕を肥大化させて大男に襲いかかる―――アキラの信じた、その光景のままに。

「―――、」

 アキラは、利き手とは逆に持った剣に違和感を覚えながらも、“鬼”に向かって駆けていた。

 右肩は、かっ、と熱い。
 身体は、全身の骨にひびが入っているかのように激痛を訴え続ける。
 身体能力向上の魔術を使って、ようやくアキラが普通に走った程度の速度しか出せない。

 だからこそ、“鬼”が“盾”の近くまで飛ばされるその瞬間を、ただひたすらに待っていたのだ。

 “鬼”は、アキラを一瞥すると、視線すら向けなくなった。
 だが、それでいい。
 もし“鬼”がアキラを“腕”で攻撃してきたら、何の手も打てず殺されていただろう。

 だが、“その攻撃なら”、

「シュロート!!」

 パンッ、と破裂音が頭上で響いた。
 ティアに頼んでおいた、魔術攻撃されたときの相殺。
 本命のスライクがいる場面で“腕”で攻撃する確率は低いだろうが、魔術の攻撃はあり得ると思い至ったときの予防策。

 それが無事に発動し、アキラは“鬼”に無事到達する。

 “鬼”の腕はすでに縮小。
 やはり、身体を変化させる速度も上がっている。
 これ以上、“進化”させてはならない。

 スライクも、間近。
 自分の方が圧倒的に近かったというのに、この僅差とは流石の身体能力だ。

 アキラは剣を構えた。
 降り上げたつもりの高さは、肩ほどまでしかない。

 だが、それで十分だ。

「―――、」

 “鬼”はアキラを見向きもしてない。
 その理由は単純明快。
 アキラの、それも壊れた剣の攻撃など、防御膜に何ら影響もないのだから。

 だが、それでも。
 殺される可能性のリスクを払ってなお、この戦いを早期に終わらせる方法をアキラは思いついたのだ。

 自分は、“彼女”から、学ぶことができた。

 この戦いの主役は、自分ではない。
 だけど、いや、だからこそ、やるべきことに全力を注ぎ込むことができる。
 それが、今必要な力。

 例えばそう―――

「つ―――」

―――アルティア=ウィン=クーデフォンのような、“徹底的役割遂行能力”。

「……?」

 攻撃音すらなかったアキラの攻撃に、“鬼”が僅かに怪訝な表情を浮かべた。
 砕けた剣の、その一部。
 それが、ほんの少し―――“僅かにかすれた程度、防御膜に触れただけ”。

「ぐ……、ごごごぉぉぉおおおーーーっ!!?」

 触れた“鬼”の防御膜に、オレンジの魔力が“残った”。
 そしてそこからバチバチと音が響き、身体の内部から揺さぶられる。

 ティアを想っておきながら、他の属性の力を借りるのもおかしな話だ。
 だが、遠距離攻撃を手に入れられていないアキラが、彼女から最も影響を受けたこと。

 それは、“人を助けたい”という理念に基づいて動く彼女の、在り方そのものだ。

「ぐ、が、が、あ……!?」

 “鬼”は膝を突き、“毒”の影響があったときのように身体を震わす。

 防御膜を何度も張り直せるほど膨大な魔力を残していたようだが、やはり体力の方はそうでもないらしい。
 あれだけ身悶えていたのだから、傷だらけの身体に、中から揺さぶる魔力を流されたら流石に影響を受ける―――

「実はな……、最初の攻防。俺が知りたかったのは、魔術の正体うんぬんよりも、“俺がどれだけ弱いのか”を知りたかったんだよ。“もし一撃与えられるチャンスが来たら、どう攻撃するのがベストなのかを”」

 あのときは、自分では倒し切れないと感じていた。
 いくら効果が高いとはいえ、アキラが最も得意とするのはその攻撃方法ではないのだから。
 しかし、今なら、“役割”に準じられる。
 動きを止めたこの“鬼”を、倒し切れる者がいるのだから―――

「なぁお前、誤解してんじゃねぇか?」

 毒を噴き出した傷が激痛を走らせ、身動きの取れない“鬼”の前。
 1人の大男が猫のように鋭い眼で“鬼”を見下ろしていた。

 そして手に持つ大剣を振りかざす。

「金曜属性の魔術を馬鹿みてぇに注いで、馬鹿みてぇに堅ってぇ特殊なこの剣」

 “鬼”は、貌だけを動かしてスライクを見上げる。
 傷だらけで、表情も分かりにくいそのおどろおどろしい貌には、今、はっきりと、恐怖が映っていた。

「砕けねぇっちゃ砕けねぇが、そもそも“剣”はそういうもんじゃねぇ」

 スライクが、猛威を振るったその大剣を、今、振り下ろす―――

「“剣”っつーのは、“切るために在るんだよ”」

 ザンッ!! と、アキラの隣、“鬼”を切り裂いた。
 まるで落雷のようなその一撃に、アキラは思わず後ずさり、倒れ込む。

 大地そのものを切り裂いたかのような一撃は、“鬼”が張り直すことのできなかった防御膜を突破し、その小さな身体を切り裂いた。
 思わずアキラは目を背ける。
 あまりに無残な“剣”の役割遂行は、刺激が強すぎた。

「かっ、思わず“普通”を語っちまった。まあ、普通を語っちゃなんねぇなんつー決まりもねぇけどな」

 スライクは、大剣をぞんざいに腰に提げ、そしてアキラに金色の眼を向けてきた。

「お前……、“土曜特化”か?」

 先ほど、キュールの“盾”を見ていたような表情をスライクは浮かべた。
 僅かに興味を持ったようなその瞳。
 しかし、それでも彼はいずれ飽き、アキラのことなど忘れてしまうのだろう。

 だが、アキラは、首を振った。

 ここでは知らないはずの言葉。
 ここでは知らないはずの情報。

 しかし、一応、はっきりさせておきたいこともある。

「違う。俺は―――」

 たたた、と足音が聞こえた。
 視線を向ければ、街に残してきた2人が駆けてくる。

 彼女たちは“鬼”の“腕”が暴れ回っている中、接近してきたというのだろうか。
 そして、赤毛の少女と目が合い、アキラはふっと笑って答えた。

「―――“火曜特化”だ」
「はっ、随分芸達者だなぁ、おい」

 座り込んでいるアキラに手も貸さず、スライクは背を向け歩き出す。
 スライクは、土曜属性の攻撃ができないのだろうか。
 もしかしたら、彼は、木曜属性の力に総てを注いでいるのかもしれない。

「おおっ!! エリにゃんサッキュン!! いらっしゃいませ!! いい物件ありますよ!!」

 ティアが2人に気づき、ぱっと手を上げた。
 戦闘が終われば、彼女は彼女。
 戦闘中も似たような発言が飛び出していたのだから、役割遂行時以外の彼女は真似しない方がいいのかもしれない。

 ともあれ、このパックラーラの事件は、幕を下ろしたのだ―――

「……?」

―――が。
 目の前で重大な問題が発生していた。
 安堵感に包まれたアキラは、激痛を思い出すよりも早く、眼前の光景にさっと血の気が引いていく。

 目も背けたくなるような“鬼”の無残な死骸。
 そこから、バチバチと、“濁った黄色の魔力が漏れ出している”。

「ちょっと!! 何それ!?」

 到着するなり叫んだエリーの言葉に、アキラは即座に答えを返せる。

 “戦闘不能の爆発”。

 しかも相手は“魔族”だ。
 体力が尽きていたとはいえ、“鬼”が有していた魔力は膨大。

 それが爆ぜれば、果たして威力は―――

「ガキ!!」

 無駄と知りつつ座り込みながら身を引いていたアキラの耳に、スライクの怒鳴り声が届いた。
 いや、スライクがその言葉を届けたのはアキラではない。

 アキラの後方。
 この戦闘で強固な“盾”を築いていた少女だ。

「お前が防げ」

 スライクが発したのは、できるか、とも、頼む、とも違う、単純な指示。
 爆発すれば、スライクとて危険だろう。
 だがそれなのに、彼は走り去ることもせず、キュールに視線を向けている。

―――キュールは、走り出した。
 昼間、アキラから逃げていたときのような機敏さで。

 スライクの役割は、敵を討つまで。
 だからキュールは、その後の自分の役割を果たすのだ。

「ん……、」

 迷わず“鬼”の死骸に近づくと、キュールは目を閉じ、手をかざす。
 すると淡い黄色の“盾”が出現し、“鬼”の身体を包み込んだ。

 ほどなくして、鈍い轟音が響いた。

 しかし、それだけ。
 音が届いたということは、やはり完全に遮断しているわけでもないようだが、それでも爆風は届かない。
 その辺りは、流石に魔術と言ったところか。

「はあ……、」

 アキラは一言そう漏らし、役割を果たした“盾”がパリンと割れる光景を眺めていた。
 あとは治療に専念しよう。

 ようやく、長かった夜は、終わったのだから。

―――**―――

 具体的にどれくらいか、というと。

 商店を含めた建物500軒超の損壊、及び20本のメインストリート破損、負傷者は800名。ついでに言うなら、パックラーラ西の大草原がその名をただの荒れ地に変えたことも含まれる。

 総合して、“街の大半”。

 それが―――“たったそれだけ”が、街を瞬時にかき消すと言われる“魔族”が襲いかかってきたという異常を前に、パックラーラが出した被害だった。

 その他には、ない。昼には2名犠牲者を出したが、その夜の一件に関して―――死者は、ゼロなのだ。

 この奇跡には大きく分けて2つの要因がある。

 1つ目は、魔術師隊の行動。
 あとで聞いた話だが、会議に参加せず、街を見回っていた街の魔術師たちは、事件直後から住民たちに避難勧告を出していたそうだ。
 魔道士のロッグ=アルウィナーが指示を出していたそうだが、こうした大きな街にはそもそもそうした防犯機能が備わっているらしい。
 実は“勇者様御一行”が泊まっていた宿屋にもその報せが来ていたらしいが、タイミング良く、いや、悪く、残っていた少女は眠り込んでそれに気づかず、宿屋の主人には無人だと思われたらしい。

 そしてその上での、迅速な避難活動。
 流石に“中央の大陸側の海に面する港町”というだけはあり、住人たちはパニックになりかけたものの、魔術師隊に素直に従って逃げられたそうだ。

 そして、2つ目。
 その元凶の迅速な打破。
 街の守りを完全に放棄し、ただひたすらに敵を討つことだけを考えた1人の日輪属性の男を筆頭に、その補助に回った数名、そして“戦闘不能の爆発”を完全に遮断した1人の小さな少女が、“魔族”をその日の内に消し去ったのだ。

 その、事後情報。
 主として語られるのは、やはり直接“鬼”を討った1人の大男。

 だが、その場に居合わせたもう1人の日輪属性の勇者は、思う。
 それでもいい、と。

 住民の羨望の眼差しを受けてみたい気持ちは素直にあるが、小心者ゆえに照れ臭いし、何より他者の評価以上に満足しているのだ。

 何故なら、そのときの目的は―――引き寄せてしまった“刻”を無事に刻み終えるという、ただそれだけのことだったのだから。

「だ、か、ら、信じて下さいよぉぉぉおおおっ!! あっし、呼ばれたんですって、『ティアにゃん』って!! マジですマジです大マジです。だから、さあ!! アッキーもプリーズ!!」
「なあティア、悪い、そっちの漫画とってくれ」
「おおおっ!? 一体どこから突っ込めば!?」

 そう言いつつも素直に漫画を持ってくるティアに苦笑し、アキラは今まで見ていた新聞をベッド脇の机に置いた。
 やはり自分には賢い真似などできそうにない。
 くだけた小説なら読めるのだが、堅苦しい新聞など、自分が関わった事件の部分を眺めるのが限界だ。

 あの事件から、3日。
 アキラはベッドの上で過ごしていた。

 “鬼”の腕の一撃をまともに受けたアキラの身体は、やはり骨にひびが入っていたとのこと。
 初日、2日目と、一日の大半は眠りこけ、完全に目を覚ましたのは本日の朝。
 身体は、未だ重い痛みを発している。

 しかしそれでももうしばらくすれば治りそうなのだから、この世界の治癒魔術には驚かされる。
 どうせなら完治させて欲しかったところだが、ティア曰く、あまり頼り過ぎるのもよくないらしい。
 それが具体的にどう悪影響を及ぼすのかは、アキラには分からなかったが、確かに何となく、薬物を大量に投与するような感覚的な危機感を覚え、今は自然回復に専念している。
 もっとも、日輪属性の力は働いているようだが。

「なあ、そういやあの大男は? もう街にいないのか?」
「……えっと、確か……、そうですね。一昨日出発したってエリにゃんに聞きました」

 あの男がわざわざそれを伝えるわけがないのだから、エリーに情報を渡したのはマルドだろう。
 マルドの名は、街の護衛の尽力者として新聞に載っていた気がする。
 これだけ大きな事件なのだから、どうしたって目立ってしまうのだろう。
 もしかするとスライクは、その騒ぎを嫌って“魔族”を討ったその翌日にこの街を去ったのかもしれない。

 時間は、間もなく昼時。
 エリーとサクの2人は今、依頼に向かっている。
 昨晩、僅かに目を覚ましたときに聞いた話だと、どうやら依頼の数がかなり少なくなってしまっているとのこと。
 街が破壊され防御機能を著しく減少させているパックラーラだが、“魔族”の出現を聞きつけた国の魔道士隊が街で調査をし続けているのだから、当初より守りは万全だ。
 その上、大草原という1つのダンジョンの消滅。

 今街で起こっている問題と言えば、崩れた建物の撤去とその修復。あとは、住居を失った住民たちが一時的に寝泊りしている公共施設の満員超過状態くらいだろう。

 それでも依頼をこなさなければ宿代が稼げない。
 一応これでも街を救った功労者なのだから、無料で泊めてもらいたいと思いもしたが、その願いは届かず、新聞でしか事情を知らない店主は宿代を請求し続けてくる。
 魔術師隊からは礼金が出るようだったが、それはパックラーラの修復にあてるようにとエリーとサクが断ったらしい。
 ただ、依頼がここまでシビアなことになるとは知らなかった頃の2人が、だが。
 その事態にエリーとサクは責任を感じ、今日もせっせと街から離れた遠くの依頼をこなしに向かっている。
 自分が知らない、面倒な依頼もあっただろう。

 今アキラが目にしている漫画も、発売日は昨日らしい。

 自分が眠ってばかりいる間に、やはり世界はくるくる回っていたようだ。

「アッキーィィィイイイィィィ……、だから信じて下さいよぉ……、あっし、『ティアにゃん』って呼ばれたんですよぉぉぉおおおぅ」
「え、ティア、酔ってんのか?」
「違いますよぉぉぉおおおぅ」

 ぱんぱん、と両手でアキラの布団を叩くティアの口元は、僅かに緩んでいた。
 相当嬉しかったのだろうか、彼女はずっとその話をしている。
 もしかするとエリーとサクが、アキラの看病と称して彼女を残していったのは、この2日間、ずっとこうして絡まれていたからかもしれない。

「はあ……、で、誰に呼ばれたんだ?」

 徹底的に無視していた話題に、ついにアキラは言葉を返した。
 するとティアは、ぱっ、と表情を明るくさせ―――エリーとサクもスルーしていたようだ―――自信満々に、

「キュルルンです!!」

 戦闘中も耳に届いていた奇妙な愛称を返してきた。

「でも、おっかしいんですよねぇ……、キュルルン、一緒に遊ぼうと思ってたのに、いつの間にかいなくなってて……、」
「……まあ、いないだろうな、もう」
「……?」

 首を傾げるティアに小さく笑うと、アキラは窓のから外を眺めた。
 彼女は、きっと、“追っていったのだ”。

 アキラは今回、何もできていない。
 自分が下手に刺激しなければ、建物さえ半壊させることなく、“鬼”は討たれていただろう。
 だがそれでも、後悔し続けることに意味はない。

 きっとこの先、下手に情報を持っている自分は、また“ハードモード”にしてしまうだろうが、それでも進み続けなければならないのだから。

 あそこまでドライになることはできそうもないが、何物にも捉われず、ただ自分が欲するままに進んでいくスライク=キース=ガイロードのように。

 今回の、主役のように。

 アキラは今回、何もできなかった。当然だ。

 自分はただ、“とある出逢い”を傍観していただけ。
 自分たちとは違う形を示し出す、“とある集団”のメンバーが邂逅する瞬間に、居合わせただけだ。

 これはただ、それだけの物語。



[16905] 第二十六話『その、始まりは(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:c19b9492
Date: 2010/11/08 00:50
―――***―――

「ノヴァ!!」

 ブンッ!!

「スーパーノヴァ!!」

 ブンッ!! ブンッ!!

「シュロート!!」

 ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!!

「ディアロード!!」

 ブンッ!!ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!!

「アラレクシュット!!」

 ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!!

「リディ……? えっと、リガーン……?」

 ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!! ブンッ!!

「…………、う、うがぁぁぁあああーーーっ!!!!」

 ブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンッ!!!!!!!!

「うおりゃらぁぁぁあああーーーっ!!!!!!!!」
「うなーーーっ!!!!」
「おうっ!?」

 ボスン、と。
 “勇者様”ことヒダマリ=アキラは、後頭部に衝撃を受けた。
 頭を押さえて振り返れば、丁寧に丸められてドッジボールほどのサイズになった青いジャケットが転がっている。これが投擲されたのだろう。

 アキラの服装は、Tシャツとジーパンとラフなものだが、見た目とは大きく違う点がある。
 仰々しい比喩ではなく、実際に世界を救う旅をしているアキラの服には、急所を守る簡易な防具が仕込まれているのだ。
 シャツは単なる通気性のよいものだが、今穿いているジーンズも、そして当然このジャケットにも。
 ガンッ!! ではなく、ボスン、で済んだのは、運がいいのか悪いのか。

 ともあれアキラは上着を拾い、背後の投擲主に投げ返した。

「何しやがんだ、お前」
「うるさい、って言ってんのよ!! 宿屋の早朝で、ただでさえ騒がしくしてんのに……、発声練習しろなんて誰が言ったの!?」

 なら、お前も騒ぎ立てるな。
 アキラはそう言おうと口を開き、しかし思い直して口を紡ぐ。そして、口に指を当てた。
 ここで騒いだら、同じ穴のむじなだ。

 空は雲一つなく晴れ、早朝の柔らかな陽ざしの中にはときおり温かな微風が吹いている。
 そんな快適な天気の中、アキラが恨みを込めて向けた視線の先、投げた上着を難なく受け取った赤毛の少女も気づいたように口を閉じた。

 長い髪は、後ろ首のあたりで一本にまとめ、そのまま背中に垂らしている。
 上下が連なったアンダーウェアに、短パン、そして腹部ほどまでの半袖の上着を羽織り、さらに動きを阻害しないよう、へそのあたりで裾を縛った服装。
 だが、肘や膝にはこれまた動きを阻害しない程度の簡易なプロテクター。

 今日はそんな姿のその少女―――エリーことエリサス=アーティもまた、少々複雑な事情からアキラ率いる“勇者様御一行”の一員になっており、今は敵に向けるべき鋭い眼を恨みがましくアキラに向けていた。

「そもそも、お前が言い出したことだろ?」
「それはそうだけど……、あんた、今まで聞いた魔術ただ並べ立ててただけじゃない」
「それもお前が言ったんじゃねぇか」
「あたしが言ったのは、参考にしろ、って意味。“その結果を知っている以上”、意味なんてないわよ」

 むう、とアキラは喉を唸らせた。
 先ほど散々叫んでいたものを無意味と言われるのは面白くないが、確かに“あれ”はそういうものなのかもしれない。
 剣を振りに振った腕は、僅かに痛い。

「……今日は剣の授業だったか?」
 アキラとエリーのやり取りに、1人の女性の声が割り込んできた。

 すっ、と凛々しい顔立ちに、頭のトップで結わいた黒髪。
 身体に吸いつくようなウェアの上からは、特徴的な紅い着物のようなものを纏い、そして手にはそれよりも目を引く長刀。
 アキラやエリーと離れた位置で自己の鍛錬に励んでいた少女―――サクは、手慣れた手つきで刀を腰に収め、そしてため息を吐いていた。

 魔術の基礎を教えるエリーと共に、アキラ育成計画の講師たるサクは、アキラに剣を教えている。
 確かに、今のアキラの行動は、剣の授業のように見えるのだろう。

 だが、本日の授業担当者がエリーであるように、何もアキラは素振りによる剣のスキル向上を目論んでいたわけではない。
 発声練習していたわけでも、宿屋の客の安眠を妨害していたわけでも、ましてやドッジボールをしていたわけでも、もちろんない。

 本日の授業の目的は、アキラの身体に“スイッチ”を作ることだ。

「“詠唱”、よ」
 エリーは首を振って、分かっているでしょ、とサクに視線を向けた。

 “詠唱”。
 それは、魔道を志す者が最初に行い、そしてその本当の意味を知るのはもっとずっと後になる、“身体への魔術の登録”だ。

 魔力と魔術は、原材料と加工法のような関係がある。

 魔術使用の基本はいたってシンプルだ。
 術者が身体から魔力を生み出し、加工し、そして1つの成果として発現させる。
 しかし、魔力を流す量、流し方、留め方、そして放出する過程、と、加工の仕方はそれこそ千差万別。
 戦闘中、毎回そのプロセスを辿っていては命取りになりかねない。
 だからこそ、その事前準備として、魔力の使い方を固定する必要がある。

 魔力の加工の仕方に“便利”な名前を付ける作業。
 それが、“詠唱”だ。

 しかし、そう簡単にいかなかったりもする。

「そう言ってもさ、結構難しいんだぜ? 固有名詞つけるの」
「だから、何でもいいらしいんだって」
「いや、そういう感じじゃなくて、だよ」

 アキラが言っているのは、別にネーミングセンスがどうとか叫びながら戦うのが恥ずかしいとかそういう次元の話ではない。

 何を叫んでもしっくりこないのだ。身体に。

「はあ……、マジで何かヒントとかないのかよ? 何かとっかかりが欲しいんだけど」
「それはあたしの台詞よ。あんたが使える魔術って、えっと、切るのと切るのと強くなる? だっけ? あ、あと松明代わり」
「お前は俺を混乱させたいのか? それとも挑発してんのか?」
「どっちでもないわよ。あんたのそのレパートリー、出所は……、はあ、言えないんだっけ」

 エリーは額に手を当てため息を吐き出した。
 アキラは僅かに申し訳なさそうに眉を潜め、そして視線を泳がせる。
 そこで、サクと目が合った。

「そういやさ、サクは“詠唱”してないよな? 魔術は使ってるっぽいのに」
「私はそもそも魔術が得意ではないからな」

 サクは僅かに腰の刀に視線を移すと、首を振った。

「使っている魔術は“2つ”だけ。“詠唱”で固めなくとも問題なく発動しているのだから、問題ないだろう」

 2つ、という表現に、アキラは眉を寄せた。
 彼女はエリー曰く、“金曜属性武具強化型”の魔術師だ。
 1つはその長刀の強度を増す魔術だということは知っているが、あと1つは何なのだろう。
 そういえば以前、彼女が駆け出す瞬間に魔力を使用しているのを見たことがある。

「あれ? ノートがない」

 アキラがそこまで考えたとき、エリーから声が漏れた。
 振り返ればエリーが宿屋の扉の前で足元を見渡している。
 そういえばエリーがいつも持ち歩いている手書きのノートが見当たらない。

 エリーはしばし眉を寄せていたが、ポンと手を叩いて、

「あ、そういえば貸してたんだった」

 ドンッ!!

 早朝。
 人が寝泊りすることが目的である宿屋の庭。
 先ほどのアキラとエリーの騒ぎが可愛く思える騒音が響いた。

 全員が一斉に音源の虚空を睨み、そしてゆっくりと視線を下ろす。
 何かが爆発したと思われる空の下、そこには1人の少女が首を倒して上空を見上げていた。

 青みがかった短髪に、簡易なシャツとハーフパンツ。
 小柄な姿でそれを身につけられるとボーイッシュなのか子供なのか判断がつきかねる。
 ポカンとした表情のそんな彼女―――ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンも、この“勇者様御一行”の一員だ。

「……ティ、ティア?」

 呆然としているエリーとサクに代わり、アキラが恐る恐る声を出した。
 するとティアはゆっくりと空から視線を戻し、そして―――やばい、とアキラは感じた―――満面の笑みを作る。

「見ましたっ!? 見ましたか今のっ!! いやいやいやっ、成功したあっし自身が驚きです!! エリにゃんノートマジすげーです!! なんかビュービューって飛んでって最後にドンッ!! なんか、あれですあれ、えっと、そう!! 2羽の鳥が競い合って昇っていく中、間違ってぶつかっちゃった!! みたいな!? うわっ、可哀そう……。でもでもっ、これからニューティアにゃんとして頑張れそうです!!」

 アキラとエリーが出した騒音を、まさしくニューレコードを出すがごとく超越し、ティアは全身を使って喜びを表現した。
 アキラはただ、あまりのハイテンションを前に『……おう』としか返せない。
 ティアの足元には、見知ったエリーのノートが脱いだ上着の上に丁寧に置かれている。

「もう一度見ますか!? 行きますよ!? ―――シュリルング」

 ティアが天に掲げた2つの手のひらが、スカイブルーに輝く。
 早朝の空の下に映えるその光は、やがてそれぞれが魔術を射出。
 計2つの光弾が、奇跡を残し、空に向かって伸びていった。

 そして―――宿屋の建物が間近にある庭で―――絡み合うように動き出した。俊敏に動き、宿屋の屋根にぶつかりそうになり―――珍しくサクの口から『ひっ、』という声が漏れた―――しかし軌道を修正してさらに高く昇っていく。
 どうやらあの2つの光弾は、その下、歯を食いしばりながら必死に腕を動かしているティアが操作しているようだ。

 やがて首を完全に倒さなければ見えないほどの高さになると、ティアはぐん、と両手をクロスさせた。

 そして、

 ドンッ!!

 ティアが言うところの、2羽の鳥が競い合って衝突したように、2つの光弾は互いに衝突し―――繰り返すが、早朝の宿屋の庭だ―――騒音を立てた。

「どうです―――にゅぎゃっ!?」

 エリーが、攻撃した。

 ガンッ、と、アキラの上着に仕込んだ防具がティアの後頭部にヒットする。
 アキラの上着を投擲したエリーは、ティアに歩み寄り、もう一度後頭部に平手打ちを見舞った。

 エリーとサクは、ここ最近の財政難を最も肌で感じていた2人だ。

「ティーアちゃーん……。ちょっとお話しましょうか……?」

 エリーはひくひくと口の端を引きつらせ、まるで子供から危険物を取り上げるように置かれていたノートを没収した。

 アキラも呆れながらティアに近づく。
 しかし、今の魔術。
 恐らく彼女の属性―――水曜属性の中級魔術だろう。

「おいティア。珍しく静かだと思えば何の実験してんだよ」
「……うぅ、あの、あっしもそろそろ別の魔術覚えたくて……、エリにゃんノートで勉強しながら……、その……、えへっ」

 何が、『えへっ』だ。
 ドタバタと、宿屋の中から足音がする。向かってくるのは店主かそれとも宿屋の客か。
 扉付近に立っていたサクが迅速にその場から避難している。

 とりあえず、謝罪にはこの騒がしい子供を向かわせよう。

 アキラがそう決意したところで、つん、とアキラの上着の裾が引かれた。

「あ、あの、実はもう1つ謝らなきゃいけないことがありまして……、」
「……、なんだよ」

 本当に申し訳なさそうな顔。
 視線を泳がせ、僅かにした唇を噛んでいる。

 そして。
 ティアは、この早朝―――本日も依頼の予定がある1日の始まりで、この―――今回の物語の冒頭部分で、

「さっきの魔術、かなり魔力消費がありまして……、あっし、魔力切れちゃいました……。えへっ」
「やらかしやがった!!」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――ガールスロ。
 通称“崖の上の街”と呼ばれるここは、前方を森林、後方を険しい山道といささか交通の便に不利がある。しかし、高台からシリスティアの大自然を眺められるという人気で栄えた比較的大きな街であった。
 崖側の街の外れに行けば、なるほど確かに壮観の一言。抜けるように青い空の下、180度見渡せる緑の景色に、邪魔なものなど何一つ見えない。風が起きれば眼下の草原が湧き立ち、木々は揺らぎ、自然物特有の甘い匂いが吹き抜ける。
 その絶景を頼りに数多の商店がずらりと並んでいるのはいささか無粋ではあるが、その自然は、人工物すら飲み込めるほど、巨大で、壮大で、そしてやはり絶景であった。
 こうした大自然はシリスティアには満ち溢れているのだが、高度のある位置から見渡すとやはり違う。ときおり視界に入る魔物たちすら、互いに干渉できない高低にあれば、やはりそれは景色の一部。

 このガールスロは―――早朝に爆撃音でも響いたりしない限りは―――平穏な場所だ。

 あの―――“鬼”の事件から。
 あの―――“もう1人の日輪属性の物語”から、10日。
 “勇者様御一行”はシリスティアでの旅を再開していた。

「ティアって正規のメンバーだよな? 時たま合流するお助けキャラとかじゃなくて」

 ヒダマリ=アキラは、そのガールスロの中を歩みながら毒づいた。
 右を見ても左を見ても建物がずらりと並んでいるが、民家が多く、港町のパックラーラと比べて人はずっと少ない。
 アキラの感覚としては、パックラーラから南西へ僅かに向かってきただけだったのだが、同じ大きな街でも受ける印象はまるで違う。
 アキラからすれば十分に見どころある大自然に囲まれているというのに、どうやら今はシーズンから外れているらしく、観光客もまばらなようだ。

「あの子のアレは治らないわよ。ま、こってり絞られてたみたいだし、一応新しい魔術も覚えたし……、いいんじゃない?」
「随分寛容じゃないかよ」
「あたしは寛容よ」
「お前俺の上着武器として使ってなかったか?」

 隣を歩くエリーは、聞こえないふりをしていた。

 ティアは現在、宿屋で休養中だ。
 結局あのあと怒鳴り込んできた宿屋の主人にティアを差し出し、ティアが戻ってきたのは朝食後。
 必然的に空腹状態であろうが、彼女にとってはいい薬だろう。
 一応共に朝の鍛錬をしていたアキラたちも連帯責任なのだろうが、宿屋の主人にしてみれば怒りをぶつける対象がいれば誰でもよかったのかもしれない。

 難を逃れたアキラたちは、今、新たな依頼を請けに酒場を探しているところだった。

「…………そういえば、」
「ん?」
「あんた、最近なくなったわよね。……“あっち”の悩み事」

 エリーは、アキラを下から覗きこむように、横目を向けてきた。

「そう、見えるか?」
「うーん……、何となく、だけどさ。アイルークにいた頃は、なんか歩いててもずっと難しい顔してたじゃない」

 見られて、いたようだ。アキラは僅かに自分の属性を嫌った。

 人を惹きつける力を有する、日輪属性。
 それは、言ってしまえば“目立つ”ようなものだ。

 例えば人が、街頭でざっと周囲を見渡した時。時たま、景色の一部であるはずの人間1人に目が止まることがある。
 自分を客観的に見たことは無いし、もう1人の日輪属性の男は属性抜きにしても目立つため標本数はまるで無いのだが、それでも日輪属性の者には目が止まることが多いのだろう。

 アキラが日輪属性の人の心を開かせる以外のスキルに気づいたのは、アイルークでのことだ。
 シリスティアに向かう途中、“確定事項”で埋め尽くされていたリビリスアークからヘヴンズゲートまでの旅を終え、周囲に視線を走らせる余裕ができた頃。
 アキラは異常な回数、人と目が合うことに気づいた。
 気づいた当初、特定の“刻”が現れたのかとびくびくしていたものだったが、今となっては慣れたもの。注目を集め続け、感覚が僅かなりとも麻痺してきたようだ。

 しかし、注目を集めるということは、自分を知られる機会が増加するということになる。
 そして、たまたま目が合ったそこらに一般人ならいざ知らず、毎日共にいるエリーたちには、自分の心境の変化や経過を悟られるということになるのだろう。

「“隠し事”……かぁ」
「なんだよ。知りたいのか?」
「聞いても教えてくれないんでしょ? それ以前にあんた、ふざけた妄想とか、前に読んだ小説の話とかばっかで…………全然自分の話しないじゃない」

 後半は、小さな声。
 アキラは頭を僅かに揺すった。

「語って聞かせるような話が無いんだよ。元の世界は、そんなに、だからな。そもそも俺は、半分記憶喪失だ」
「そうじゃなくて」

 エリーは一瞬言葉を止め、僅かに歩を早めた。

「あんたが、何を考えてるかが見えてこないの。分からないことばっか」
「“感想”文でも提出しろってか?」

 アキラは、自分への皮肉交じりにそう返した。
 そういえば、最後に本当の意味で本音を口から吐き出したのはいつのことだったろう。

「別にいいだろ。ティアみたいに騒ぎ続けるのは無理がある」
「……まあ、あの子はあの子で分かりやすいけどね」

 エリーがこの話題から離脱したのをアキラは感じた。
 結局、“隠し事”は“隠し事”のままだ。

「……ティアといえば、さ」
「ん?」

 エリーが仕切り直すように一言呟いた。今度は別の話題なのだろう。
 アキラが視線を向ければ、エリーは正面に見えてきた街の広場を眺めていた。
 街の道と道がぶつかる角。中央には正体不明の人物の銅像が一段高く陣取り、周囲は石のタイルが敷かれている。待ち合せの場所として活用されていそうなそこは、現在ほぼ無人だった。

「あの子、朝練、宿屋の庭じゃ厳しいかもね」
「…………広さ的に?」
「広さ的に」

 そういう話は、サクの方が適任であろう。しかし現在サクは、宿屋で刀の手入れをしている。
 ここのところ金銭的な事情で連戦続きであった彼女としては、そろそろ本格的な刀の手入れをしたいところだったのだろう。

「ほらあの子、遠距離攻撃でしょ? それにあんな魔術まで覚えて……、アレが宿屋を破壊してたと思うと、あたしは恐くて恐くて」

 確かに、ぞっとしない話ではある。
 最近は僅かなりとも余裕ができてきたが、少し前まではとある事情で依頼の数が激減して貧困状態だったのだ。
 アキラが療養中の間、エリーとサクが駆けずり回ってくれていたお陰で脱出できたが、ティアが魔術で“やらかして”いれば借金生活に突入していた可能性もある。

 アキラはその話題に、一言『そうだな』と返した。

「だからさ、朝、もっと広い場所でやった方がいいと思うのよ。あの広場みたいなとことかで」
「……ああ」
「ほんとのこと言うとさ、あたしもなんか狭いなぁ、って思ってて。あたしがそうなんだからサクさんなんてもうずっと前からかもね」
「…………あんな広場でやったら、邪魔でしょうがないと思うけどな」
「例えば、よ。例えば。…………って、あんたなんか……、機嫌悪い? “隠し事”の話題出したから?」

 別に、と返そうとしたところで、アキラは正面の広場に、人影を見つけた。
 正体不明の銅像の脇、それに背を預け、ぼんやりと空を見上げている女性がいる。

 歳は、アキラと同じか年上だろう。
 くるぶしまで隠す長い純白のローブを纏っており、それを腰のベルトで上から絞めているゆえに身体のラインが浮き出ている。
 色白の肌と、1本にまとめて肩から前へ垂らしている僅かに色彩が薄い髪が印象的な女性だった。
 服装の雰囲気からして、旅の魔術師だろうか。
 だが線の細い顔立ちと、くりりとした髪と同色の瞳はむしろバルコニーで手でも振っていた方が様になりそうだ。
 背丈はエリーと同程度で―――端的に言ってしまえば、美人だった。

「あの人、何やってんだろ」
「…………あたし今、朝練の話してんだけど」
「明日考えればいいだろ」
「それより目の前の美人ってわけ?」
「お前は何を言い出して―――」

 ゴドド、と。そこで、重い音が響いた。
 まるで、銅像が横倒しになったような音。
 アキラは視線を女性に戻し、そして、ぎょっとした。

「あれ、なんだ?」
「あれ、なに?」

 エリーも唖然とし、アキラと同時声を出していた。
 見れば彼女の向こうの足元に、得体の知れない物体が2つ転がっている。

 長さは、共に2メートルはあるだろうか。あの港町で見たもう1人の日輪属性の男が所有していた大剣より僅かに短い程度だ。
 太さはおよそ50センチメートル。円柱形で、それぞれ赤と金。響いた音からするに、相当な重量だろう。まるでどこかの柱の一部でも切り取ってきたかのような物体だった。
 今まで銅像の向こうに立てかけてあったのであろうそれは、倒れた勢いそのままにゴロゴロと広場を転がっていく。

「ああ、ああああ、」

 途端慌てたような表情になった女性が、2つの円柱を追っていくが―――異様に遅い。
 自然な慣性で転がっていくだけのそれらにまるで追いつけず、ついには自分のローブを踏んで、ずべし、と見事に転んだ。

「うわ……、久しぶりにここが異世界だって実感した」

 長らく忘れていた気がする、とアキラは頭を振った。
 常識外れな物品と、美少女。その上所見でドジだと認識できるような人物など、元の世界では空想の産物だ。

 隣のエリーが正面の少女ではなく隣の自分に呆れたような視線を向けているのが気になったが、とりあえずは目の前の女性を助けようとアキラが一歩踏み出そうとしたところで、

「リンダ!! 大人しく待ってることもできないのかよ!?」

 銅像の向こうの道から、1人の男が駆け寄ってきた。
 男は詰め寄り、リンダと呼ばれた女性は汚れた純白のローブを払いながらあたふたと立ち上がる。

 現れた男は、結局シミを付けたローブを纏う女性より、ずっと魔物ひしめくこの異世界で旅をするのに相応しい姿をしていた。

 まず目を引くのは、小麦色の鎧。
 胸当てから肩当てまで一体となったその装備品は、“とある日輪属性の男”程ではないが背丈の高い筋肉質の男によく似合っている。
 兜まで付けていれば完璧だったのだが、その鎧の男は黒い短髪をそのまま出し、代わりに白い鉢巻きのようなもの風になびかせていた。
 背には、斜めに背負った剣―――と、普段着であるアキラより、よっぽど正規の勇者に見える。

 鎧の男を確認し、リンダと呼ばれた女性は緩慢な動作で頭を下げ、そしてゆっくりと上げた。
 その間、たっぷり5秒。

 鎧の男は呆れ返り、転がり続ける円柱を蹴るように止めた。

「グリース、お帰り。でも足で止めるのは、信じられない暴挙ね」

 グリースというらしい鎧の男は、抗議の意味も兼ねて今度はリンダに転がるように円柱を蹴る。
 ゴロゴロと重い音を響かせる円柱を、リンダは足で踏んで止めた。

「お前も足で踏んでんじゃねぇか!?」
「グリースはブーツ。私は靴」
「一緒じゃねぇか!!」
「全然違うわ。主に、清潔さとかが。あと、清潔さとか清潔さとかが」
「ぶっ殺すぞお前」

 ほぼ無人の広場の中心で言い合う2人を、アキラとエリーは呆然と眺めていた。
 目印であるはずの銅像が妙に霞んで見える。
 とりあえず、リンダはグリースという男と仲間であるらしく、そして、見た目の印象通りの女性ではないということは分かった。

「残念だったわね。勇者様」
「さっき言いそびれたからもう一回言う。お前は何を言い出してんだ?」

 あの鎧の男がいれば、別に手助けは必要ではないだろう。
 アキラは辟易したようにエリーに返し、歩き出そうとした。自分たちは自分たちで、依頼を請けにいかなければならない。

「それに、」

 と、そこで、リンダはグリースがもう一度蹴った2つ目の円柱を―――清潔らしい足で―――止め、今度は裾を引いてしゃがみ込んだ。

「これは私の武器だから、何かあったらどうするの? 主に、穢れとか。あと、穢れとか穢れとかが」

 アキラとエリーは、ぎょっとした。
 どうやらあの赤と金の2つの円柱には、中央辺りに手を入れ込むような穴がそれぞれ空いているらしい。
 そこにリンダが細い手をそれぞれ滑り込ませたかと思うと、ズッ、と巨大な円柱2つが“持ち上がった”。

「さ、行こう。依頼は請けてきたんでしょ?」
「ちっ。まあな。……夕方からだ」
「じゃあ、宿探してきて」
「見つけたら、俺はお前を呼びに来ないがな」

 2人は言い争いながら、アキラたちから見て右の道に歩いていった。
 グリースは銅像の向こうにあったらしい荷物を担ぎ、そしてリンダは両手に巨大な円柱をぶら下げて。

 2人の姿が完全に見えなくなるまで、アキラとエリーは動けなかった。
 そして同時に声を出す。

「なんだ、あれ?」
「なに、あれ?」

―――***―――

「貴族? この街には貴族がいるのか?」

 依頼内容をエリーから聞いたサクは、他の大陸では聞き慣れない言葉に反応した。
 ここはサクとティアに割り当てられた宿屋の部屋。ベッドの上ではティアが魔力回復に努めるべくすうすうと寝息を立てている。
 昼時に戻ってきたエリーが部屋の隅に設置されている椅子を引き寄せながら依頼書をサクに差し出してきた。

 そこには、貴族護衛と記されている。

「らしいわね。ほら、街の崖側の方の大きい建物、サクさんも見たでしょ?」
「ああ、あの白塗りのか?」

 このガールスロに到着したのは、昨日の夕方のことだ。
 森林側が思っていたよりも入り組んでいたこともあり到着が遅れ、あとは宿の手配やら何やらで街を探索する時間もなかったのだが―――それでも、この宿の近くに在る巨大な建物だけはサクも覚えている。
 あまり背の高くない建物が並ぶ中、その巨大な家は5階建てほどもあり、日も沈みかけていたのに白く輝いて見えた。

 何かの施設かと思っていたのだが、どうやらあれが、貴族の家らしい。

「護衛……ということは、誰かに狙われているのか?」
「うーん……、まあ、らしい、って話だけど。詳しい話は聞けなかったわ。まあ、依頼料は結構いい額だったわ」
「流石に貴族、か?」
「まあ、依頼主が貴族っていうのも妙な話なんだけどね」
「確かに……、ここはシリスティアだろう?」
「……あのぅ」

 そこで、ベッドがもぞりと動き、眠たげな声が聞こえた。
 2人が視線を向ければティアが頭を揺らしながらゆっくりと上半身を起こし、身体をこり返すようにして視線を向けている。

「お話中すみません。“貴族”って何ですか?」
「? 貴族を知らない?」
「いや、お金持ちだってことは知ってますけど、依頼を出したらおかしいんですか?」
「……ああ、」

 そのことか、とサクはティアに向き合った。

「貴族というのは……、言ってしまえば過去の偉人の末裔だ。神族の教えを広めたり、国が栄えた原動力であったり……、あとは、過去の“勇者様御一行”の子孫などというのもいる」
「はあ……」
「だがその偉人の末裔なんだが…………、どうも、他の人間と“違う”と思うきらいがあってな」

 一応、貴族はシリスティア以外の大陸にもいることはいる。
 だが、貴族と聞いて真っ先に思い浮かべられるのはこのシリスティアだ。

 住み心地が良いのかそれともたまたまなのかは定かではないが、そんな彼らのほとんどはシリスティアに住み、過去の功績により崇められ―――そして、影でシリスティアの社会問題とまで言われていた。

 貴族には、財と、それに伴う権力がある。
 彼らは、“公然の秘密”として政府に大きく介入し、魔術師隊を間接的に動かす力を持っているのだ。
 住居の周囲で魔物が騒いでいれば遠方から魔術師隊を呼び寄せ、僅かでも身の危険を感じれば―――それこそ、日常に違和感を覚えたなどの些細なことからだ―――護衛依頼として公的依頼を正当化する。

 噂だけを聞いていればやりたい放題だ。
 プライドが高いと聞くシリスティアの魔術師隊にしてみれば、貴族と旅の魔術師の板挟みに遭い、さぞかし面白くない状況なのだろう。

 他の大陸には貴族などめったにいないし、いたとしても隠居するように静かに生活しているらしい。
 “神族”が広めた“しきたり”に人間は平等であるというものがあるというのに、それを広めたらしい貴族がそれに反しているとはなんとも皮肉なことだったりする。

「その貴族が、旅の魔術師に依頼を出すとは……。彼らが真っ先に連絡するのは魔術師隊だろう?」

 何度見ても、依頼書は粗雑な一般の紙に刷られている。
 公的依頼であるのならば、国のエンブレムが記されたしかるべき用紙に刷られているはずだ。

「あれじゃないですか? この前の“魔族”騒ぎで相手している余力がないとか」
「……確かに」

 ティアに言われて、サクもその可能性に思い至った。
 “魔族”が自国に現れたのだ。
 余暇がある者は全員調査に駆り出されていてもおかしくはない。その大義名分を盾に、貴族の依頼を断った可能性は十分にある。
 そもそも、魔術師隊は貴族を嫌っているのだから。

「もしくは、国の体制が変わったことにも関係してるかもね」

 今度は、エリーが口を開いた。

「ほら、あの“魔族”騒ぎの日にさ、あたし、公的依頼受けたって言ったでしょ?」

 その話はサクも港町で聞いていた。
 “とある事件”を解決するために、魔術師隊が旅の魔術師に協力を要請しているらしい。
 以前までのシリスティアでは考えられないことだ。

 ちなみに、今の当面の目標はその依頼を達成することだったりもする。

「その国を動かしたのって、もしかしたら貴族なのかも。この街の貴族は旅の魔術師に肯定的なんじゃない?」
「……まあ、諸説ある、か」

 これ以上の推測は無意味だと察し、サクは会話を切った。

「それより、依頼は夕方からだったな。私は刀の手入れをするよ。先ほどの手入れで、本格的にやりたいと思ったからな」
「おおっ、それならあっしは寝ます!! ちょー寝ます!! 起きたときにはニューティアにゃん!!」
「……ああ、そういうこと」
「あれ? エリにゃんリアクション薄くないですか!?」
「いいから寝なさい。ほら、サクさんの邪魔になるから」
「最近酷くないですか!?」
「まあ、とにかく夕方まで自由行動ね」

 ティアはむくれながら、それでも眠り始めた。
 寝息を立てさえすれば静かな彼女は、とりあえず、サクの邪魔にはならないだろう。

「そうだ」

 そのティアを見ながら、サクは思い至った。
 この世界のことを説明している間、妙な違和感があると思ったら、そういえばこの世界の常識欠如筆頭のあの男がいない。

「アキラはどうした? 自室にいるのか?」

 サクは刀の手入れの器具を取り出しながら、エリーに問いかける。
 エリーは丁度立ち上がり部屋を出て行こうとしているところだった。

「ううん、依頼所で分かれたわ」
「? 何か用事でもあったのか?」

 するとエリーはため息を吐き出し、どこか得意げな顔になってこう返してきた。

「その理由が、今分かったとこ」

―――***―――

 遥か昔。
 世界各地で、同じような魔術を別の名で呼んでいた時代があった。
 その原因は、この広い世界ならば当然のことであろう。アキラがかつていた“元の世界”でも、国が違えば同じ物体を別の名で呼ぶことがほとんどだ。

 だが、後世に伝えるにあたって不便さを感じ、その呼び名を一本化。
 ここで重要なのが、“最も効率のいい名前に”一本化したということだ。

 魔術には、術者のイメージが大きなウェイトを占めることになる。
 朝の鍛錬時、エリーが『“結果を知っている以上”意味がない』と言ったのはこのことで、アキラが別の魔術名を叫んだところでアキラの身体が“その結果”を覚えてしまっていては別の結果をイメージしにくい。

 必要なのは、アキラの属性―――日輪属性の“詠唱”なのだ。

 そこまで分かっていても、問題は原点回帰。

 ないのだ。
 “詠唱”のフローチャートとなるべき、日輪属性に関する書物が。

 人間の性質として―――とくに“しきたり”に縛られた世界では―――権威ある者には非常に弱い。
 その著名者が記した書物に“詠唱”が載っていれば、それはそのまま納得感に繋がるだろう。
 しかし、未だ俗説が飛び交うだけのあまりに希少な日輪属性は謎に包まれている。

 だが、ない。
 エリーがどれだけ駆けずり回ってくれても、ない。
 つまりアキラは、何のフローチャートもない状態で“詠唱”に挑まなければならないのだ。

「……、」

 昼を過ぎた、街外れ。
 周囲には無人の倉庫や街を囲う柵程度しかない―――決して近くに背の高い建物がない位置で―――ヒダマリ=アキラは剣を抜いた。

 剣を構え、頭でイメージを構築し、自分のできる魔術を作り上げる。

 ブ、と僅かに剣から音が漏れた。
 人気も少なく、静寂に包まれている状態で初めて耳に入るようなこの僅かな音。
 だが結果は壮絶な威力を誇る。
 敵に切りつけたと同時、剣が纏う魔力が爆発的な力を出すこの魔術。

 アキラが最も得意とする、攻撃威力を追求したこの力は―――火曜属性魔術の再現。

 その魔術を停止。
 次に、攻撃のイメージを再構築。
 外部から襲うのではなく、魔力を残して敵の内部から攻撃するイメージ。

 相手が物理的な防御を目論んでも、確実に結果を残すことを追求したこの力は―――土曜属性魔術の再現。

 この2種類の攻撃方法は、アキラが“ここ”に連れてきた力だ。

 そして、今はもう1つ、使用できる力がある。
 アキラは剣への魔術を解除し、身体に魔術を施し始めた。
 戦闘時、デフォルトとして発動させる魔力による身体の強化。その身体能力強化のイメージを再定義し、魔術による強化へ移行する。
 グ、と。アキラは身体に力にこもるのを感じた。
 街を囲う柵の向こう。風に漂う木々の元になど一瞬で到達し、そのまま天辺まで駆け上がれそうな気さえする。

 人の身を超越するかの如く、身体能力強化を追求したこの力は―――木曜属性魔術の再現。

 他には照明具程度に手を輝かせることもできるが、そちらは試すまでもないだろう。

 結局、この3つ。
 この3つが、戦闘中使用できるアキラの魔術だ。

「…………遅い、のか?」

 アキラは魔術を解除し、一言漏らす。
 今までこの3つを使い分け、アキラは戦闘を切り抜けてきた。

 だが、イメージの遅さによるデメリットを被ったことほとんどない。
 勝てる敵にはイメージが十分間に合うし、勝てない敵にはイメージうんぬんではないほど歯が立たないのだから。

 そして何より、アキラには“刻”がある。
 あの、世界が勇者の“応え”を待つ瞬間。

 その中では、アキラは幾重にも思考を巡らす時間が与えられる。
 狙って呼び込めるものでもない、あくまで正体不明の力だが、遅さという点に関しては、今は置いておこう。

 となるとやはり、問題は、“ぶれ”だ。

「……っ、」

 アキラは再度、剣に魔術を流す。
 アキラの最も得意な、火曜属性魔術の再現。

 だが、慎重に魔力の流れを解析すると、先ほどよりも僅かに魔術の組み上げ方が甘くなっていた。
 先ほどのアキラと、今のアキラのイメージの差。
 時間にして5分も経っていないというのに、もう魔術の構築に“ぶれ”が出ている。

 これは、アキラの身体に確固たる”詠唱”が確立できていない証拠だ。
 僅差の戦闘になったら、“決める”と思ったときに決められなくなるかもしれない。

「……なに剣持ったまま固まってんのよ?」

 振り返ると、どこか表情を強張らせたエリーが立っていた。アキラは慌てて剣を仕舞い、適当に視線を泳がせる。
 エリーは手に、小さなトートバッグを持っていた。
 夕方の依頼まで街を回るつもりだったのか、あるいは、彼女は自分を探していたのだろうか。

「あんたは準備終わってるの?」
「貴族って言っても、準備するものなんてないしな。単に金持ちってことだろ?」

 奇しくもティアと同じ発想を口にしたアキラは、エリーが僅かにため息を吐き出すのを見た。

「……ふーん、そんなことやってる場合じゃない、って?」

 エリーはゆっくりとアキラに近づき、じっと視線を合わせてきた。

「…………なんだよ」
「うんん。ただあんたが殊勲にも自主練してるなんて、先生としては嬉しくてね」
「いいだろ、別に」
「建物壊さないでよ?」
「壊すか」

 エリーはアキラの言葉を聞き流し、周囲を見渡す。
 やがて僅かに頷くと、アキラに背を向けたまま呟いた。

「こういう場所、いいわね。朝の鍛錬、こういう広いとこでやらなきゃ」

 エリーは、そんな話を始めた。
 風は穏やか、柵の近くでは街の中でも森林浴が可能だろう。柵沿いに少し歩けば、この街の特徴の一つである、大自然の絶景が一望できる。

 修行の場所という問題は、アキラも漠然と感じていたことだ。
 宿屋の庭など、今なら全力で駆ければ数秒程度で隅から隅まで移動できてしまう。サクなら、一瞬、だろうか。
 そして何より、朝のティア。

 今まで淡白に虚空に向かって低級魔術を射出するだけだった彼女が、上位の魔術を習得した。
 単なる偶然ではなく“詠唱”まで確立していたということは、今後も同じことができるだろう。

 あれは彼女が全面的に悪いのではなく、宿屋の庭で十分と考えていた認識そのものにも非がある。以前まではそんなことを考えもしなかった。

 あれだけ広いと感じていた宿屋の庭。
 少なくともティアは、それに収まらないほどの力を手に入れた。

「……あんたさ、やっぱりこの話題で機嫌悪くなってたのね」

 エリーが、アキラ以外誰もいないというのに、本当に小さな声を出した。

「正直、ティアが新しい魔術覚えたの面白くないとか考えてた?」

 アキラは、口を開かなかった。
 “それ”に返す言葉を選ぼうとして、止まりかけた思考を強引に動かし、そして結局何も思い浮かばない。
 アキラは、口を開かなかった。

「何かあんた、変、っていうか、さ。あの子、一応あんたに一番近い実力じゃない? まあ、あんまりこういうこと言うの、よくないとは思うけどさ」

 アキラは頷きかけて止まり、やはり頷いた。
 まさしく一応、事実は事実だ。
 アキラは前衛、ティアは後衛と、言ってしまえば戦闘におけるポジションは違うが、総合的に見れば実力は近い―――“底辺”、で。

 4人の中で、最強なのはサクだろう。
 彼女の動きには、アキラが木曜属性魔術の再現を行っても、決して届かない。そして今なお、その神速を磨きに磨いている。
 しかも、彼女には洗練された長刀の技術があるのだ。
 この“三週目”にアキラが出会った中で、彼女より上だと思える魔術師は、壮絶な力を持っていた“もう1人の日輪属性”しか思いつかない。

 次いで、エリーだ。
 彼女も速い。
 サク程とはいかないまでも、彼女の攻撃を回避し続けられるほどの動きは持っている。
 魔術師試験を一応突破しただけはあり、魔術の知識も持っている上、火曜属性の一撃。速度も加わるその攻撃力は、剣を使っているアキラと比べても遜色ないほど、重い。
 その攻撃力が通じない敵を前にすると辛い立場になることをアキラは“知っている”が、少なくともシリスティアのような場所では苦戦することはないだろう。

 それに比べて、アキラ。
 木曜属性魔術の再現による身体能力強化は短時間しか持たないし、火曜属性魔術の攻撃と組み合わせて使うことも難しい。
 木曜属性の魔術で敵に急接近し、火曜属性の魔術に切り替え攻撃するのがアキラの最強攻撃ではあるが、その切り替えの間には―――そう考えると、“詠唱”うんぬん以前に遅い―――隙ができてしまう。
 以前戦った“魔族”―――リイザス=ガーディランは“動けなかったから”攻撃できたものの、もし仮にエリーやサクと戦うことになれば、身体能力強化の魔術が切れるまで回避され続けて詰みだ。

 残るティアは後方支援の新たな力を手に入れた。
 書物などに成長するためのガイドラインが載っているのが大きい。
 いい意味でも悪い意味でも、思考回路がシンプルな彼女はそういった影響を受けやすいのだろう。

 最初は無邪気に喜んでいたものだが、“チート”ではない本物の旅を通し、真剣に向き合うと、“選ばれし者の属性”とやらは何とも難しい。

 ティアの予期せぬ成長に、アキラは、確かに焦りを覚えていた。

「はい」
「?」

 エリーが手にしていたバッグを漁ったかと思うと、アキラの前に小奇麗な手帳を差し出してきた。

「日輪属性のことは当然載ってないけど、参考程度にはなるでしょ。あんたもそろそろ魔術の本とか読めるでしょ? 『エリにゃんノート』よ」
「…………その呼び方気に入ったのかよ?」
「む。あんたには折角の和ませ方に文句付けるの?」

 アキラは今にもエリーが仕舞いそうな目の前のノートを取ると、適当にめくり始めた。
 元の世界の受験勉強で使っていたノートに似て、整理された情報と、そのところどころに書き込みがびっしりと記されている。
 もっとも、アキラのノートより遥かに細かく綺麗な字だったが。

「ま、あたしも頑張んないとね。ティアも強くなったし。……でも、切羽詰まってんだったら相談くらいはしなさい。なか……、先生が、何のためにいると思ってるのよ」
「お前さ、励ましに来たのか?」
「……ま、まあ、生徒のことだしね。とにかく、真面目に悩んでいるなんてあんたのキャラじゃないでしょ」

 エリーはそう言うと、バッグの蓋を閉じて歩き出した。本当に、そんな話をしただけで。
 彼女も彼女で、思うところがあるのかもしれない。

「なあ」
「なに?」

 エリーは背を向けたまま。
 アキラはその背に、大きく息を吐き、そして言葉を紡ぐ。

「お前も、だ。似たようなことがあったら、絶対相談しろよな」
「? ……まあ、うん」
「絶対だ」
「しつこいって。……強くなってから言いなさい」
「なるさ」

 ティアに嫉妬している場合ではない。
 一刻も早く、戦闘以外でもエリーのサポートも行えるようにならなければならないのだから。
 ただそれも、“自分”を壊さないままで。

 彼女にこんなときが来ても、同じように導けるように。

―――***―――

 “詠唱”とは、自己の身体にスイッチを作ること。
 “詠唱”とは、在るべき結果を生み出す魔術を呼び起こすこと。
 “詠唱”とは、“比較対象”を作ること。

 そんな内容が、手にした『エリにゃんノート』の最後のページに真新しい字で書き加えられていた。

「……、」
 ヒダマリ=アキラは昼時を過ぎた宿屋の食堂で、じっとノートを覗き込んでいた。
 食堂の広さは、限界定員20人というほどに狭いが、既に人気はほとんどない。

 運ばれてきた料理には、ほとんど手をつけていなかった。
 食事の間を惜しんでまで勉学に励んだのは、元の世界の大学受験中にもなかったと思う。

 食べながら読もうと思っていたのだが、どうやら自分はそこまで器用ではないらしい。
 一瞬食卓の上のパンに顔を向けたアキラだったが、視線をすぐに本に戻した。

「……、」

 このノートを読み、アキラの中で“詠唱”というものの必要性が強まった。
 特に目を惹かれたのは、“比較対象”という文々だ。

 恐らく一流と言われる魔術師たちは自己の魔術を定義するところから始めるのだろう、とアキラは思う。
 どれだけイメージがずさんでも、まずは“詠唱”として身体に登録する。
 そして鍛錬時、よりよいイメージが構築できれば自己の“詠唱”を再定義したり、または上位魔術として別の“詠唱”で身体に登録したりするのだ。

 “詠唱”としてイメージを保存しないと、鍛錬時の目標がぼやけてしまう。
 “比較対象”とはそういう意味だろう。

 アキラは僅かに誤解していた。
 弱い魔術を“詠唱”として登録してしまえば、その魔術の強化は望めない、と。
 しかし、そうでもないらしい。
 もっとも、イメージの再定義など相当な難易度だろう。

 アキラは圧倒的な木曜属性の戦闘を間近で見たからこそ、身体能力強化の再定義ができるのだ。
 戦場に立たない一般の学生には不可能に近い。“詠唱”が魔術師隊の試験から外されるのも分かる。

 だが、興味深い。
 イメージが肝心と言われ、アキラは魔術がもっと抽象的なものであると思っていた。
 だが、そのイメージ構築にはきちんとした順序があり、秩序があり、論理がある。

 こうしてまともに勉強すれば、なるほど確かに魔術は学問だ。
 興味が出て、アキラはノートの頭のページに戻った。

 この『エリにゃんノート』は、相当優秀だ。他にもヒントが載っている項目があるかもしれない。
 パラパラとノートをめくり、出題可能性が高い魔物の正式名称やらが載っているページを読み飛ばし、アキラはより書き込みが激しいページを見つけた。

 このノートの持ち主であるエリーの属性―――火曜属性の魔術のページだ。

「……?」

 そこで、アキラは妙な書き込みを見つけた。
 このノートの大半を構成している小奇麗な字はエリーのものだろう。
 そしてまるでテストの採点のようにコメントをつけている字は、エリーの家庭教師を務めたという孤児院の職員―――セレン=リンダ=ソーグのもの。他のページでも何度か見た。

 だが、もう1つ。
 エリーやセレンとは違う字体を見つけた。
 それは、筆圧が極度に弱いように薄く、儚く、それでいて、決して消え褪せないような奇妙な文字。

 そこに、アキラが探していた単語を見つけた。
 エリーも当時意味が分からず、読み飛ばしたままにしていたものかもしれない。

 曰く―――『“詠唱”とは、残すためにあるもの』

「オススメの料理を下さいな。ポイントは、主に値段です。あと、値段とか値段とか」

 その声が聞こえて、アキラは思わず顔を上げた。
 見れば食道内からでも見える中央に、身を乗り出すように料理を頼んでいる女性がいる。

 くるぶしまで隠す長い純白のローブと、腰をキュッと締めるベルト。色彩が薄い髪の後頭部を眺め、アキラの脳裏に昼前の情景が浮かび上がった。
 広場で鎧の男と共にいた、確かリンダとか呼ばれていた女性だ。

「ん?」
「……!」

 目が、合った。
 結局主に値段を重視したらしい簡素なパンとスープだけをトレイに乗せ、リンダが振り返ったとき、アキラと正面から向かい合ってしまった。

 日輪属性のスキルのことをアキラは思い浮かべたが、そもそも今この食堂にはアキラしかいないのだから当然と言えば当然だろう。

 日本人の性か、思わず微笑み返してしまったアキラにリンダも微笑み返し、一歩踏み出そうとしたところで、

「ひうっ、」

 ガシャン、と、料理ごとリンダが床に転んだ。
 その直前、アキラは確かに、リンダが自分のローブの裾を踏みつけたのを見た。

 そこでアキラは、彼女たちも夕方の依頼を請けると言っていたのを思い出す。
 そして、彼女たちもこの宿を選んだようだ。
 どうやら日輪属性というものは、関係者に出会う確率も異常に高いらしい。

 最近日輪属性というものを僅かなりとも理解してきたせいか、増え続ける後付け設定にアキラは辟易し、ノートをぱたんと閉じた。

 とりあえず、助けは必要そうだ。
 アキラは、スープをまき散らしながらグワングワンと床で回る皿に近づいていった。

―――***―――

 エリーの自室にオベルト=ゴンドルフと名乗る男が訪ねてきたのは、この街で借りてきた魔術属性の本を半分ほど読み進めていた頃だった。
 質素さ、というよりは目立たなさを追求したようなくすんだ灰色のローブに身を包んだその初老の男をエリーはいぶかしんだが、何でも夕方の依頼の件で話があるらしい。
 そういえば、依頼書には、事前の打ち合わせが必要であると記されていたのを思い出す。

 その背後に昼前に見た鎧の男―――グリースを見て、エリーは今、宿から僅かに離れた店主さえも無人な喫茶店と思しき場所にいた。
 宿屋の食堂よりも広い空間にたった3人で卓を囲んでいるというのも違和感があったが、オベルトは慣れた様子である。
 エリーはどこか高貴さを感じさせるオベルトの様子に、居住まいを正すことで精一杯だった。

「依頼所から連絡が入りまして……、依頼を引き受けてくれたようですね」

 席に着くや否や、店の奥から店主と思しき男が現れ、人数分のお茶を慣れた手つきで置いていった。
 オベルトはそれ以上に慣れた態度で一瞥もせず、話を始める。
 店主はそのまま、店の奥に引っ込んでしまった。

「ここ、どうなっているんだ? 飯時じゃないけど、無人って」

 エリーと同じ疑問を、隣のグリースが口に出した。
 宿に置いてきたのか今は鎧を脱ぎ、今は黒いパーカーを羽織っている。

 依頼人との事前の打ち合わせというのは、別段珍しいことでもない。中にはこちらから依頼人の場所まで赴いて依頼内容が話されるようなものもあるほどなのだから。
 だが、それでも見も知れぬ人間2人と無人の店に入っているというのも息が詰る。
 エリーは落ち着かない様子で、一応同じ立場であるグリースに視線を送っていた。

 ただ分かったことは、グリースは近くで見ると顔に擦り傷が刻まれているということだけ。
 やはり、息が詰る。

「ああ、人払いは済ませてあります。一応、聞かれたくない話題ですので」

 ここの店主は、どうやら融通が効くらしい。
 店を貸し切り状態にする、というのは、エリーの理解の外ではあるが。

「……依頼主はあんたなのか?」
「ええ。改めて名乗りましょう。私はオベルト=ゴンドルフ。フォルスマン家の執事長をしております」

 オベルトは落ち着き払った声でグリースに言葉を返す。
 雰囲気からして、その言葉に何ら虚偽はないようだ。年齢にしては真っ白な歯を相手に印象付けるようなその口調。
 旅の魔術師であろうグリースと見比べると―――失礼ではあるが―――高貴さがまるで違う。

「それで、どうして俺らがいる場所が分かったんだ?」
「どうして、とは? 依頼所で、泊まっている宿を書いたでしょう?」
「俺が宿を見つけたのは依頼を受けたあとだ。そっちの彼女は知らないが、……後でもつけてたのか?」

 どこか喧嘩腰なグリースの態度に、エリーは口を開かなかった。
 対してオベルトは静かな視線を向け続けている。
 住むべき場所が違う人間というものを初めて見比べた気がした。

「失礼ながら、この街では旅の魔術師が宿泊したら連絡が入るようになっているのです。今さら隠しても仕方がないので言いますが、フォルスマン家は旅の魔術師が嫌いな貴族でして」

 見張る意味でそうした連絡網を確保しているのだろうか。
 エリーは僅かに気分を害したが、今さらシリスティアの貴族の価値観に対抗しようとも思わない。

「その貴族様が、俺たちに何の用だ? 依頼もそうだが、な」

 気づけば、いつの間にかエリーはグリースの括りに入れられていた。
 視線で無罪を訴えかけたが、しかし、オベルトは大して気にもしていないようだ。
 旅の魔術師と貴族の徹底的な線引きというのはシリスティアの気風なのだろう。エリーにようやく、別の大陸に到着したという実感が湧き上がってきた。

「そうですね。早速要件をお伝えしましょう」

 気の早い相手への対処も心がけているのか、オベルトは冷静なまま話を進めた。

「まず、依頼の件ですが、護衛対象は現代当主のサッシュ=フォルスマン様。今回は、我が主を守ってもらいたいのです―――人間から」
「……! 人間、なんですか……!?」

 思わず、エリーは口を開いてしまった。
 完全に敵は魔物だと思っていたエリーは詰め寄るような視線をオベルトに向ける。
 しかし、驚いていたのはむしろオベルトの方で、隣のグリースも奇異の瞳をエリーに向けていた。
 まるで自分が誤っているかのような倒錯感を覚え、エリーは口を噤んだ。

「…………失礼ですが、エリサス=アーティ様。シリスティアでの生活は?」
「え、えっと、来たばかりです。半月くらい前に」

 オベルトは重く頷き、そして、説明事項が1つ増えた教師のような表情を浮かべた。

「貴族のお話はご存じでしょう。その件につき、“いざこざ”があるというのを聞いたことはありませんか?」

 聞いたことは、あった。
 精力的に動かなければ他の大陸の情報など手に入れられないが、それでも大きな事件は時たま世界中に広がることがある。
 魔術師試験の勉強中、エリーは1度か2度、貴族がらみの事件があったと耳にした記憶があった。

「そうした事件は、実は内政の事件ではなく、今回のような事件なのですよ。私が言うのもおかしな話ですが、貴族は何かと敵も多いので。―――魔物以外の、ね」
「そりゃそうだろうな」

 オベルトの静かな声に、グリースの粗雑な声が割り込んだ。
 その相槌は、流石にオベルトも流せなかったのか冷ややかな横目をグリースに向ける。
 グリースは貴族に何か恨みでもあるのだろうか。エリーは刺々しい空気にいたたまれなくなり口を開いた。

「そろそろ内情を話しましょう。我が主は、昨今のシリスティアの情勢に酷く反発しております」
「情勢?」
「ええ。そろそろ広まっているでしょう。聞いたことはありませんか? 国の魔道士隊、魔術師隊が、旅の魔術師を受け入れ始めていると」

 聞いたことがあるどころか、先ほどサクやティアに依頼を届けたときにも出た話題だ。

「このガールスロは地形のお陰で幸い魔物の被害もなく……、まあ、この付近に“魔族”が出たと聞いたときにはひやりとしましたが、ともかく、魔物討伐への執着心が疎い面があります」

 事実をあるがまま並び立てたオベルトは、さらに言葉を続けた。

「ですので、失礼ですが旅の魔術師に必要性を感じていないのです。シリスティアは全体的に平和ですので、魔術師隊で十分、と」

 エリーは僅かにむっとした。
 事の顛末を説明するために必要なのかもしれないが、そんな話をその当人たちの前でするのはいかがなものだろう。
 グリースは、最早汚物を見るような視線をオベルトに向けていた。

 そして、魔物に対しては危機感が薄いのに、人間に対しては警戒心をむき出しにするとも皮肉な話だ。

「しかし、そうした考えを持つ貴族を忌み嫌う者もいるのです。折角シリスティアが進化しようとしているのに、それに反発するのは何事か、とね」
「……それが?」
「ええ、“反貴族”、とでもいいましょうか。極端なことを言ってしまえば、今、我が主は“反貴族”に狙われているのです。“魔族”騒ぎで魔術師隊が忙殺されている今が好機、と言ったところでしょうか」

 貴族は、自分たちと他の人間は“違う”と思う節がある。そうなれば、当然敵は魔物だけではないのだろう。
 今回襲ってくるのはその“人間”だ。

「あの、襲ってくるのって今夜なんですか?」
「……恐らく、賊が動くのは夜でしょう。昨夜、我が主が街の外に奇妙な光を見た、と騒ぎ出しまして」
「奇妙な光?」
「ええ、恐らくは魔力が漏れたのでしょう。この辺りは魔物もいませんし……、魔力色が漏れるのは不自然なのですよ」

 確かに、このガールスロ近辺で魔物を見た記憶はエリーにはない。
 シリスティアなのだから無い話ではないと思っていたが、そもそも魔物が生息していないのだろう。

 しかし、それにしても、奇妙な光を見た程度で騒ぎ立てるとは、そのサッシュ=フォルスマンとやらは相当な小心者なのかもしれない。
 もしかしたら、ティアのようにテンションの高い子供が魔術を誤射した可能性もあるというのに。

「我が主は、慎重な方ですので」
 エリーの心を読んだかのように、オベルトが補足した。

 しかし、その程度で自分たちやグリースたちを入れて総勢6名も雇うとは。お金というものは、あるところにはあるということか。

「…………ん? んん? ちょっと待てよ、おかしいじゃないか。何でその旅の魔術師嫌いの貴族様が、俺たちを雇うんだ? あんたの話だと、俺たちなんか不要なんだろ?」

 グリースが、はっと気づいたように強い言葉を出した。
 言われて、エリーも矛盾に気づく。
 しかしオベルトはその矛盾に気づきながらも説明を続けていたのかさして慌てた様子もなく、落ち着き払っている。

「…………実は、今回の依頼、我が主には伏せているのです」

 しかし、僅かに怯えたような声。
 この店を借り切ったことに初めて意味を持つかのような声色に、エリーもグリースも思わず前傾姿勢をとる。

「我が主は旅の魔術師に否定的な立場を取られていますが―――私はそれが悔しい」

 怯えたような声から、歯ぎしりさえ聞こえるような悔恨の言葉へ変化した。
 オベルトは、拳を机の上に乗せ、今にも机を叩かんばかりに震わせ始める。
 その変化が、エリーには溜め込んでいたものを吐き出しているように見えた。

「折角……、折角シリスティアが1つにまとまろうとしているというのに……、我が主はそれがまるで分かっていない」

 主への批判の言葉。
 だがそれは、執事長と名乗ったオベルトが出せば、相応の重みを持つ。
 エリーもグリースも、オベルトの言葉に口を挟まずただ先を促した。

「そこで、私は今回の事件をシリスティアのために……言い方は悪いですが、利用したい。もし今回の事件で、旅の魔術した自分の命を救ったら、きっと主も目を覚ますはずです」

 オベルトは、僅かに冷静さを欠いているような手つきで、足元の鞄に手を伸ばした。
 現れたときから持っていたそれは、黒く、四角く、重厚な造りの鞄。黒い光沢を放つそれは旅の魔術師の前にも、僅かに廃れたこの喫茶店にも不釣り合いなものだった。

「しかし、今は“まだ”我が主は旅の魔術師に否定的。依頼を請けることはできないでしょう。そこであなた方には、“変装”をしていただきたい」
「?」

 オベルトはゆっくりと鞄の蓋を開ける。
 スーツケースのようにも見えるカバンの中には、数着の黒いローブが入っていた。
 エリーは一瞬止まり、その服を凝視する。
 これを自分は何度も羨望の眼差しで見た。

 これは、

「作戦をお話ししましょう。まず、あなた方にはこの“魔術師隊のローブ”を着用して護衛についていただく。そして事件を解決し終えたあと、私の方から説明いたしましょう。あなたを救ったのは旅の魔術師であった、と」

 その説明を、エリーはほとんど聞いていなかった。
 視線は、新品の魔術師隊のローブに釘付けだ。

「非常に失礼かもしれませんが、あなた方には魔術師隊を装っていただく。そうすることで、我が主も依頼を任せられる」

 オベルトはそこで、ゆっくりと頭を下げた。

「これは我が主の命だけの問題ではありません。シリスティアの未来がかかっております。どうか、依頼を引き受けて下さいませんか」

 依頼料―――十分。
 相手が人間―――問題ない。自分の戦闘スタイルならば、殺さずに無力化できるだろう。
 そしてこの服―――完璧だ。

 エリーの頭の中でオベルトへ対する否定的な意見が崩れ、肯定的な気持ちが積み重なっていく。
 自分の主を批判し、あまつさえ独断で旅の魔術師に依頼を出したオベルト。その気持ちは本物だ。
 グリースも、僅かに戸惑いながらもおずおずと頷いている。

 なかなかどうして、イメージとは違い、貴族も立派な存在ではないか。

 エリーの中で、依頼への完全なGOサインが固まった。

―――***―――

「サッシュ=フォルスマンと執事長のオベルト=ゴンドルフはかなりの食わせ者よ。主に交渉力とかが。あと、交渉力とか交渉力とかが」
「そうなのか?」

 ヒダマリ=アキラは、リンダ=リュースというフルネームらしい女性の言葉に適当に相槌を打った。
 リンダがぶちまけた料理を片付けた縁もあり、同じ卓を囲うことになって早1時間。
 幸いにも今度は純白のローブを汚さなかったリンダは、愚痴でも言うように2人の人間を名指しで批判していた。

 彼女の脇には、結局食べる気の起きなかったアキラの料理が空になって置いてある。
 分け与えた料理を完食したリンダも、やはり夕方からの依頼を請けるようだ。

「まあ、貴族は信用するなってことよ。気を抜けばあっという間に騙されるんだから。あいつらの根源には旅の魔術師批判がこびりついてる」
「でも、シリスティアって……良く分かんないけど、国の情勢? が変わったんだろ? 何か、旅の魔術師受け入れ始めてるって」
「それこそ貴族の一部が騒いだだけよ。それも、元々は旅の魔術師だった“勇者様御一行”の末裔が。そうじゃない貴族は、やっぱり変わってない」

 そういうものなのだろうか。
 アキラは貴族に会ったことがないが、リンダの話を聞く限りどうしてもマイナスのイメージが植え付けられていく。
 リンダは貴族が相当嫌いらしい。

「大体、この街の貴族のサッシュ=フォルスマンが何やったか知ってる? 見晴らしがいいこの街を栄えさせただけ。他は、全然、全く、何にも国への貢献なんてしてないんだから。それなのに、不気味な銅像なんか街中に置いたりして」

 街で見たあれは、サッシュ=フォルスマンとやらの銅像だったらしい。
 街を栄えさせたというのは十分な貢献だとアキラは思うのだが、リンダは毛嫌いしているような口調を止めなかった。
 そして、やはり、リンダという女性は見た目とは違い、かなりオープンな性格らしい。

「極めつけは最近の“反旅の魔術師運動”よ。執事長のオベルト=ゴンドルフが各地の旅の魔術師に批判的な貴族に通知して、折角変わり始めてるシリスティアを元に戻そうって働きかけてるのよ? 信じられないわ。主に常識とか。あと、常識とか常識とか」
「よく知ってるな」
「え? ま、まあね。とにかく、アキラも気をつけた方がいいわ。オベルトに口を開かせたらあっという間に相手のペースよ」

 政治の話はよく分からない。アキラは頭を揺すった。
 とりあえず、サッシュという貴族とオベルトという執事長は信用しないことに決めた。

「でもさ、今回の依頼って旅の魔術師宛てだろ?」
「そんなの、どうせ上手いこと言いくるめて護衛の人数稼ごう、ってんでしょ? 終わったら依頼料だけ渡して旅の魔術師が護衛に参加したことなんて公表しやしないわよ」

 依頼が始まってもいないのにリンダは随分と事情に詳しいようだ。
 アキラも新聞を購読するようになればこういう事情に鋭くなれるだろうか。
 もっとも、活字を読むのは小説以外では限界があるとついこの前までいた港町で学んだところだったが。

「にしても、護衛、ね……」

 アキラは背もたれに体重を預け、ぼんやりと呟く。
 リンダから聞いた情報で、むしろ気になる点があった。

 今回の依頼。敵は、反貴族というくくりに分類される“人間”らしい。
 一応、アキラは人間相手の戦闘というものも経験している。
 最初に思い浮かべられるのはサクだ。そして“二週目”、とある魔術師隊の副隊長とも戦闘をした記憶がある。

 だが、流石に生身の人間を切り付けたくはない。
 アキラの使う剣は両刃。サクの刀のように“みね”はない。エリーの攻撃方法ならばまだいいが、アキラの攻撃は危険だろう。

 その条件のもと敵を無力化するとなると、武器の破壊しかないだろうか。
 しかし、自分の武具は全力で攻撃する際常に破損していないか、とそこまでアキラが思考を進めたとき、

「そういえば、何読んでたの?」

 リンダが、視線をアキラの手元のノートに移していた。

「ん? ああ、…………エリにゃんノートだ」
「へぇ、ちょっと見せてもらっていい?」

 小さな声で言ったから聞こえなかったのだろうか。一応は正式名称になりつつあるその呼称をリンダは流し、ぐでぇ、と手を伸ばしノートをパラパラとめくり始めた。
 リンダは人懐こい性格をしているのだろうか。出会ってからそれほど時間も経っていないのに、随分と懐かれているような気がする。
 強いて言えばティアに近いが、こちらは声の音量ともども程良い感覚だった。

「勉強中だった?」
「え……、ま、まあ、“詠唱”の」
「……“詠唱”? 魔術師試験のじゃなくて?」
「ん? ああ」

 適当に流し読みし終え、リンダは元の体勢に戻った。
 どこか目は、キラキラとしている。

「“詠唱”って、結局何なの? 私そっちは知らなくて」

 やはり“詠唱”というのはあまり広まっていない知識らしい。
 アキラは僅かに得意げになって語ろうとし、しかし結局自分もそこまで理解していないことに思い至り、視線を外した。

「だから、勉強中」
「ふーん……、まあ、夕方までに分かったら教えて。……勉強なんて久しぶり」

 その、僅かに漏れた言葉に、アキラは眉を潜めた。

「それにしても、アキラって、なんか話しやすいわ。主に雰囲気とか。あとは、」
「雰囲気とかか?」
「うん。雰囲気とか」

 リンダは僅かに笑い、コクリと頷いた。
 日輪属性のスキルは本日絶好調のようだ。
 久方ぶりのご都合主義に触れられて、アキラの頬は僅かに緩む。最近“詠唱”のことばかりで塞ぎ込んでいたが、そもそもこの世界は優しいはずなのだ。

「あっと、やば。私、そろそろ準備があるんだった」

 時間外れの客が目に入り、リンダは立ち上がった。
 アキラも気づいて立ち上がる。確かにいい加減、長居し過ぎだ。

 空の食器に伸ばそうとした手をリンダに止められ、彼女は食器の返却口まで運び―――今度は転ばず、だ―――そのまま食堂を出ていった。

 アキラもエリにゃんノートを掴み、出口へ向かう。
 そういえばあの巨大な円柱のことを聞きそびれたが、久しぶりに充実した時間を過ごせた気がする。
 夕方の依頼、相手が人間と聞いて僅かに憂鬱だったが、リンダともう一度出会えるなら悪くはない。
 どうせ数人の敵を追い払うだけで済む依頼だろう。

 アキラは足取りも軽く食堂をあとにし、自室に向かった。

 ただ気になるのは、旅の魔術師嫌いという貴族。
 そんな貴族が、旅の魔術師にどんな無理難題を押しつけるか、という点だ。

 万一街の中で戦闘などあれば、この依頼に旅の魔術師が関わっていたなどということすぐに広まってしまわないだろうか。

「……、ま、依頼に行けば分かるか」

 リンダが口に出した2人に気をつければいいだけのことだ。

 アキラは疑問を置き去りにし、最後の角を曲がったところで、

「…………」

 自室の扉の前。
 奇妙なローブに身を包んだ赤毛の少女の後頭部を見つけ、

「…………あ、見て見てこのローブ!! どう? 似合う? 似合う? あたし、魔術師隊に見える? すっごい着心地いいんだけどこれ!! わぁ、すっごいわね、貴族って!!」

 ティア並にテンションが上がり、回転までしたエリーを見ながら、アキラの疑問は氷解した。

 そして、もう一度誓う。

「俺、貴族には気をつける」
「え? なに? 大丈夫よあんたの分もあるから!! それよりこれから、びしっといくわよ!! あたしたちにはシリスティアの未来がかかってるんだから!!」

―――***―――

『おお、お帰りリンダ。……なあ、俺思うんだ。この街の貴族はともかく、執事長は相当分かってる』

『ばっかじゃないの? あれだけ気をつけなさいって言ったのに』

『え? いやいや、あの人はちゃんとシリスティアのことを考えて……』

『忘れてるみたいだから教えてあげる。オベルト=ゴンドルフがこの街に戻ってきたのは一昨日。それまで、貴族の反旅の魔術師の会合で議長を務めていたのよ?』

『いや、違う。あの人は、サッシュの命令で、』

『ど、ん、だ、け、洗脳されてるの!? 議長を務めたってことは、サッシュ以上に旅の魔術師に反発してるってことにならない?』

『…………ならない』

『なるのよ!! 何その意地!? ああぁ~、グリースには足りないものがあるわ。主に脳とか。あとは脳とか脳とか』

『……ぐ、ぶっ殺すぞお前。大体、俺は計画の全貌を聞いていないんだが』

『とにかく、もうすぐ時間。自分のやるべきことだけは、分かってるでしょ?』

『―――分かってるさ』

『―――なら、いいわ』

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 読んでいただいてありがとうございます。
 いろいろと事情が立て込み、大分遅めの更新となってしましました……。
 前回の話が3話構成だったので、久しぶりに一話完結型を書こうと思っていたのですがこの体たらく……。全て書き上げてからの更新は9月に突入してしまいそうだったので、途中で区切ってお送りいたしました。
 今回の話は、何とか前編後編だけで終わらせたいものです。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第二十七話『その、始まりは(中編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:c19b9492
Date: 2010/10/06 01:23
―――***―――

「ふふふ、うん、まあ、思ったよりは動きやすいわね。実はあたし、ローブってなんか煩わしいのかも、とか思ってたんだけど、……なによ、肩とか全然上がるじゃない。それに、軽いし。それなのに、それなのによ? 翻ったりしないんだから。やっぱり魔術師隊ともなればこうでなくちゃ」
「ほんっっっとうに嬉しそうだな。“ティア”」
「なーに言ってんのよ。あたしはエリにゃんだってば。まったくもう、しっかりしてよねっ」
「エリにゃんつったか今?」

 また得意げに、ふふふ、とエリー。
 まさしくティアのようにはしゃぐ彼女は―――はたしてどこまで上機嫌なのだろうか。
 アキラが呆れたように出した皮肉交じりの言葉にさして反発も見せず、風と戯れているようにくるくると回っている。

 夕方からの依頼が目前まで迫った、ガールスロの宿屋の庭。
 ゆっくりと沈んでいく太陽の光を横から浴び、エリーは満面の笑みを浮かべ続けていた。

 原因は、やはりその服装。
 どうやら今回の依頼では自分たちは旅の魔術師を装わなければならないらしい。先ほどエリーが行ってきたという事前の打ち合わせで受け取ったらしいその服は、高級感を思わせる漆黒の生地と、胸にオレンジのエンブレムがついた―――魔術師隊のローブだ。

 魔術師試験を受けるものならば誰もが憧れ、そして得難いその制服の魅力にやられたエリーは―――もうダメだとアキラは感じていた。

 かく言うアキラも同じく魔術師隊のローブを着用している。
 普段着の上からでも羽織れ、かつ着膨れしないこの服は、エリーではないが確かに着心地がいいと思えた。
 アキラもエリーも服の上から羽織っているのだが、重ね着特有のごわついた感覚がまるで無い。
 が、服装にはあまり関心の強くないアキラにとっては、その程度だ。
 一応僅かな期間、魔術師隊を目指したこともあったのだが、その服を着られたからといって風と戯れる気には流石になれない。

 いつもの通り背負った剣―――ローブの中に入れるのには無理があった―――がガシャリと無機質な音が響くも、エリーは変わらず上機嫌でアキラに話しかけてくる。

―――ただ、アキラは、極力視線を外していた。

 そして、頭を抱えながら切に祈る。

 早く。2人とも、早く来てくれ。

「まったく、サクさんもティアも遅いわねぇ。魔術師隊は時間厳守なのに」

 アキラの元に僅かな鼻歌まで聞こえてきた。
 今なら彼女に何をしても、笑って許されるような気さえしてくる。

 普段自分に魔術の講師として触れ、冷静な面をよく見ていた記憶があるのだが、やはりエリーも年相応の女の子。憧れた対象に触れれば、こうした一面も持っているのだろう。
 今もエリーは踊るようにはしゃぎながら『まだかなぁ、まだかなぁ』と呟き続けている。

「はあ……、サクは刀の手入れの片付け、ティアは思いっ切り寝てたんだろ? もう少しかかるって。大体、依頼の時間にはまだあるじゃねぇかよ」
「時間厳守、よ。そういうとこ、びしっとしていかないと」

 すっかり魔術師隊気取りである。
 エリーのその様子に、アキラは冷ややかな視線を向けることに抵抗を感じ、視線を逸らした。
 あまり見られないエリーのここまでの上機嫌に触れられ、アキラも内心気分のいいものを感じているのだが、庭の向こう、宿屋の門の前を時たま通る人々がちらほら視線を向けてきては―――これはもう、あれだ。ティアだ。

「お前な。経験者として言っておくけど、浮かれたあとに待ってるのは壮絶な自己嫌悪だからな」
「いいのよ。一回でいいから着てみたかったの。今はしゃがないでいつはしゃぐのよ?」

 正論のようで、何かがズレた言葉をエリーは返してきた。
 アキラはそれ以上の批判を止め、視線を宿屋の戸に向ける。
 両開きの扉は閉ざされ、当然無言。そういえばこの街で出会ったリンダという女性もこの宿に泊まっていたはずだが、もう行ってしまったのだろうか。
 アキラが何となく思考をリンダが運んでいた巨大な円柱に向けていると、宿屋の扉がゆっくりと開いた。

「待たせた。……が、まだ時間はあるか」

 同じく魔術師隊の漆黒のローブを羽織ったサクが姿を現した。
 いつもの紅い着物のような羽織りは脱いでいるのか、ローブはサクにぴったりと吸いつき、身体のラインが良く見える。そしてつい先ほどまで手入れをしていたらしい自慢の愛刀は、アキラと同じくローブの外に装着していた。

「おっそいわよ、サクさん。時間はまだって言っても護衛依頼。敵はいつ来るか分からないんだから」
「…………随分と上機嫌だな。どこかで見覚えある落ち着きのなさだが、誰だったか」
「ああ。若干俺も引き気味だ」
「まあ、いつもはお前たちがあそこにいて、私とエリーさんとが冷ややかな視線を向けているんだがな」
「え、マジで?」

 客観的に見ると、アキラはいつも今のエリーのような状態なのだろうか。
 浮かれたあとの自己嫌悪は、エリーよりも先にアキラに湧き上がってきた。

「それよりサク、そのティアは?」
「ああ。起きるなりローブを見て目を輝かせていたよ。私は逃げてきたが…………、耳栓でも用意しておくべきだったかな」

 今からあれがもう1人増えるのか。
 アキラは意味もなく庭をうろつき回っているエリーを見て、額に手を当てた。
 この“勇者様御一行”の、声の音量2トップが今から騒ぎ立てると思うと、今度こそ全員宿屋の店主に捕まり、依頼は遅刻するかもしれない。

 加えてティアは朝の鍛錬で魔力を使い果たし、精気をこの時間まで蓄えていた。
 新たな力を手に入れたというのに、本日の依頼に参加できないと思われたティアに全員が頭を抱えたが、どうやら“間に合ってしまった”ようだ。
 それはもう、見事な大爆発を見せてくれるかもしれない。

 アキラは僅かに背筋を震わせていると、背後の戸が、ゆっくりと開いた。
 さあ、来るぞ。

「……あのぅ」
「?」

 予想に反して、か細い声。
 アキラもサクも怪訝な視線を戸に向けると、予想通りの人間が予想外のテンションで現れた。

「……このローブって、サイズ固定なんですか? 何か裾が長くて……、あっし、ここに来るまで何回転んだことか……ぐすっ」
「お前もうそれ脱げ!! 民間人に偽装しろ!!」
「ひどっ!?」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 ガールスロの貴族、フォルスマン家が構える巨大な屋敷は、なるほど確かに貴族という地位に相応しいものだった。

 まず、門構え。
 純粋な銀でも使っているのか、両開きの重厚な門は夕日を浴びながらきらびやかに輝き、高さはアキラの背丈の倍ほどもある。
 それに連なり屋敷を囲うシミ一つない白い塀は右にずーっと、左にずーっと。児童でも分かるような表現を用いることこそが最適とでも思えるほど延々と敷地を形作っていた。
 比較的大きな町とはいえ、左右の角が透けかけて見えるというのだから最早笑うしかない。

 そして、その囲いの中。
 要塞のように佇む門や壁のせいで庭は見えないが、それでもでん、いや、ずぅぅぅん、と君臨する巨大な屋敷は否が応でも目に入る。
 シンメトリーに形作られた屋敷―――いや、最早宮殿だろうか―――は、夕日を浴びて赤く輝く窓ガラスが無数に張り付けられていた。

 まるでどこかのホテルのようだ。5階建ての四角形の巨大な建物。通常窓というものは、腰より高い位置についているものもあるべきなのだろうが、目の前の屋敷に張られた窓は総て足元から天井まで伸びる大窓だ。窓以外の壁は、周囲の塀と同じく純白に塗られている。
 窓から中を覗おうとしても、どうやら外からは覗けない仕組みになっているらしく、普段は周囲の塀や壁を反射して白く見えるのだろう。

 ガラスの館とでも形容すべきその建物は、今は紅く輝き、幻想的にさえ見える。

 宿屋からでも見えてはいたが、門の前で見るとここまで巨大だとは。
 金と言うのは、あるところにはあるものらしい。

「……この人、世界買えるんじゃね?」

 ガラスの館の前で呟いたアキラに、隣のサクが苦笑した。

「まあ、こういう水準の家は他にもないわけではない。ただ、この家は一部他の貴族にも公開されているらしくてな。今は時期が違うが……、あと少し経てば予約が入るようになるらしい」

 先ほどエリーがティアの面倒をみている間に宿屋の主人に聞いてきたらしい。サクは言葉通りこの巨大な屋敷に気圧されてはいないようだった。
 リンダの話では、フォルスマン家はこの街を栄えさせたこと以外何も行っていないそうだが、この屋敷を構えられる潤沢な資金は、他の貴族から流れてきたものらしい。

「ま、ここで突っ立っててもしょうがない。ほら、いけよ。『護衛任務のため参りました!!』って元気よく一発」
「止めて……、今は……無理。止めてぇ……」
「……ああ、今その時期か。安心しろ。もうしばらくすれば過去の自分を忘れられる」

 経験者として。アキラは隣で僅かに顔を伏せているエリーに助言を与えた。
 エリーの紅い後頭部を眺め、アキラはすぐに視線を外す。

 ひとしきり着心地を試したエリーの表情が落ち着きを取り戻したのはティアの服装を正し終えてからだった。
 目の前で動く数分前の自分の虚像に、エリーは何かを正しく理解し、そしてずっと顔を上げようとしない。

 対して、ティアは、

「えへへへ、えへへへへっ」

 超がつくほど上機嫌である。
 その喜びは、簡易的に裾を上げて転ばなくなったからか、それともエリーと同じ理由か。
 ともあれティアは、満面の、というよりは気恥しさの中に上機嫌を覗かせているような含み笑いを浮かべ続けている。

 この2人は、テンションの受け渡しでもしたのだろうか。

「これから、い、ら、い! 俺がこういうこと言うのは自分でもびっくりだよ!!」
「お前以上に、私が驚いている」

 唯一の頼りどころはサクだけか。
 アキラは他にも頼りのあてを求めて周囲を覗ったが、リンダも、あの鎧の男―――グリースも未だ現れていない。
 そろそろ依頼の時間だとは思うのだが、視界に映るのは遠くが透けるように続く巨大な塀だけだ。

「はあ……、まあいいか。よし、ティア。呼んでくれ」
「まっかせっんしゃいっ。たっ、のもーーーっ!!!!」

 魔術師隊に偽装している意味を完全に失うようなティアの大声が屋敷の前で響き渡り、それからほどなくして巨大な銀の門がゆっくりと開き始めた。

―――***―――

 プロセス1―――定義。
 脳に内在している情報を、“根底レベルから定義”。
 例えばジグソーパズルのピースなら、嵌る込む位置、その形状材質、絵が描かれていることによる厚みの凹凸に至るまで、徹底的なドリルダウンで分析を行う。

 プロセス2―――再定義。
 プロセス1の結果を元に、“時という巨大な影響を勘案して再定義”。
 例えばジグソーパズルのピースなら、時間の経過とともに摩耗する可能性を考慮し、本来収まるべき以外の場所に嵌り込む可能性、今後代替品としてパーツが増加する可能性、交換されたパーツはジグソーパズルとしてではなく極端に小さなメモ帳として使用されてしまう可能性、それら総てをパーツ一つ一つに対して見積もる。

 プロセス3―――整理。
 プロセス2の結果を元に、“総ての事象が最も自然に収まるよう整理”。
 例えばジグソーパズルのピースなら、壊れたピースは別の場所に嵌め込み、あるいは廃棄し、代替品として現れる新たなピースの形状は想像する―――“世界の在るべき姿”を軸として。

 プロセス3後。
 視えてくるのはプロセスを始める前とはまるで違った絵。しかしそれらは秩序を保って整列し、元の絵の面影を残している。

 見る人が見ればすぐにでも分かるこの絵は―――“未来”。

―――その、はずだった。

「はあ……、はあ……、はあ……、く」

 リンダ=リュースは頭の中で火花が散るのを感じた。
 極めてロジカルに設計が行われていたはずの目の前の絵が、バラバラと崩れていく。

 リンダは僅かに震えた手で肩から垂れさせている自分の髪をさすった。
 じっとりと汗ばんだ手のひらは、まるで海藻でも触っているような感触を届け、リンダは思わず纏った純白のローブで拭う。
 布越しに触った身体は、異常なほど熱かった。

「……、ふう……、ふう……」
 肩で息をし、のろのろと立ち上がる。

 自分が今まで座っていた宿屋の一室の中間から離れると、窓から夜風が漂ってきた。随分と長い間、自分は“向こう”を覗こうとしていたらしい。

 ベッド脇に置いてある水差しに近づき、コップにも移さずそのままぐびぐびと煽る。
 生ぬるい水だが、乾き切った喉を潤すには十分だった。

 空になった水差しを落とすようにベッドに置く。
 その隣にぼすんと座り込み、リンダは、奥歯を噛んで額に手を当てた。

―――“失敗だ”。

「リンダ!! おい、いるんだろ!?」

 部屋の外から、騒々しい男の声が聞こえた。ガンガンとドアが叩かれる。
 リンダは返答するのも億劫で、小さな咳払いだけを返した。
 冷えた飲み物でも持ってきているのであれば、開けてやらないこともないが。

「いるんじゃねぇか!! おい、開けろって!!」
「今私、汗だくでローブ透けてるんだけど、…………変態」

 ピタリ、とドアを叩く音が止んだ。
 リンダは満足し、ベッドに寝そべる。転がっていた水差しに背を打ったが、気にせず跳ね除け天井を仰ぐ。窓からの風は、やはり気持ちがいい。

 これで先ほどの“儀式”も成功していれば言うことはなかったのだが。

 おかしい。
 リンダはここ数ヶ月抱える自己への“異変”に、憤りを感じた。

 プロセス2までは、問題なく終了する。
 “定義”と“再定義”。リンダが持ち得ない情報ですら不思議と頭に湧き上がり、パズルのピースは今見える静的なものは、今後の変動を組み込んだ動的なものに変貌していく。
 “理論も何もなく”、世界総てが“次”へ向かうようにざわめくのだ。

 リンダは世界を最も表しているのは、地理学者の発表でも分厚い地理の本でもないと思っている。
 地理学者の発表は過去の洞察が大半であるし、分厚い地理の本は地理学者の発表をその時点で固定しているだけだ。

 世界を最も表しているもの―――それは、子供が遊ぶ世界地図のジグソーパズルだ。

 世界は刻一刻と姿を変えていく。秩序を保った完成形から、パズルのピースは動き続けるのだ。

 その点、子供は―――分かってはいないだろうが―――嵌らない場所に力ずくでピースをねじ込むことがある。
 気に入った1つのピースを大事に抱え込んだりすることもある。
 粗末に扱い、ピースを破損させたり紛失させたりすることすらある。

 残ったピースだけで強引に創る絵は、完成形とはほど遠いのだろうが―――それは世界が姿を変えていく様に似ていた。

 そして、リンダは。
 あたかもその子供の親のように、パズルのピースの行く末を察し、新たな玩具を考え始める。

 それこそが―――この“儀式”。
 だが、結果は失敗だ。

 何故か、“ノイズ”が混ざっている。

 親子以外の第三者が、パズルのピースを抜き取ったように、あるいは別のパズルのピースを混ぜ込ませたように―――絵は決して完成しない。

 一体、何故。

 リンダは一瞬思考を巡らせ、しかし“分かるはずもない”と自分で察して思考を止めた。
 プロセスは踏んでいるが、その根拠は自分には―――いや、恐らく誰にも分からない。

 あの、“儀式”。
 そのとき自分は、世界の裏側から得体の知れないものを呼び寄せ、理解もしていないのに押し進めているだけなのだから。

「…………お前。また“アレ”やってたのか」

 ドア越しの声が再開された。
 リンダは頭を振って虚ろな視線をドアに向ける。

「お前最近不調なんだろ? 原因とか分かったのか?」
「言ったところで分からないでしょう? 私が何をしようとして、何につまずいているのかを理解できる人間なんて……まずいない」
「一応調べるだけはできるかもしれないだろ。“みんな”に話せば、何かしら―――」
「グリース」

 リンダはドアの外の男―――グリースに冷たい声を返した。

「絶対に無理。“魔法を魔術に落とし込まなきゃ使えない人たち”と、私には決定的な差があるの。主に、“属性”とか。あとは、属性とか属性とか」

 リンダはそう言って、瞳を閉じた。
 誰にも分かるはずがない。先ほどのプロセスもそうだ。聞いて何の手順を踏んでいるのか分かる者など、余程“概念的”な話に慣れた者でも不可能に近い。

 あやふやなものを、あやふやなまま使用する。
 その、“あまりに希少な属性”は、悩みに直面しても、誰にも助けを求められない“呪い”のようなものなのだ。

「なあリンダ。……そろそろ時間だ」

 リンダははっと目を開けた。
 日はとっくに落ちている。グリースの言葉は急かせてはいないようだったが、明らかに依頼の時間は過ぎていた。

「私としたことが……!!」
「ゆっくりでいいさ。簡単な打ち合わせなら昼過ぎにしたし、な」

 あくまで落ち着いているグリースの声に、リンダはため息交じりに苦笑し、言葉を返した。

「気を使ってるつもり? グリースのくせに生意気ね」
「ぶっ殺すぞ、お前」

 いつもとは違う軽い言葉が聞こえ、リンダは視線を隅に置いてあるクローゼットに移した。

 半開きになった扉からは、漆黒のローブが姿を覗かせている。
 “儀式”を始める前、グリースが今日の依頼着だと言って渡してきたものだ。

 リンダはローブを取り出し、僅かに目を細めたあと、速やかに袖を通した。

―――***―――

 ああ、これが貴族か。

 アキラは目の前の中年の男を見て、素直に貴族という事実を受け止められた。
 お世辞にも中肉中背とは表現し難い恰幅のいいその男は、赤と金を基調とした分厚いローブに身を包んでおり、さらに膨れて見える。
 口元には大層立派なひげを蓄え、先端はナマズのように左右に伸びていた。
 髪の色は金。染めているのか地毛なのかは判断がつかなかったが、日が沈んだ今もなお照明灯の光を浴びて輝いて見えた。
 左右の手の指には、それぞれ3つずつ宝石の指輪が備わっている。

 この男が色彩を欠けば、確かに街中にあったあの不気味な銅像になるだろう。

 ここまでくると貴族というより成金にしか見えないその男が姿を現したのは、巨大な屋敷の門。
 ティアの大声で開いた門の奥―――屋敷から、エリーが出会ったという執事長のオベルト=ゴンドルフを引き連れ、今はアキラたち4人と向き合うように立っている。

 その男は、当然のように、サッシュ=フォルスマンと名乗った。

「遠路はるばるおいでいただいたようで、まことに感謝いたします。魔術師隊の皆さま」

 僅かに甲高い声。開いたサッシュの口はカエルのように横長く、中からは真っ白な歯を覗かせていた。
 想像以上に不気味な人物であったが、とりあえず―――裾がずり落ちてきたのか忙しなくローブを正すティアを見ても―――自分たちを魔術師隊と誤認してくれているようだ。

「オベルト。説明を」
「はい」

 サッシュとは違い、黒いスーツに身を包んだオベルトが1歩前へ出る。
 門を中間にして向き合っているというのも奇妙だと思ったが、アキラは“元の世界”の紅白歌合戦にでも出場できそうなサッシュの衣装から目が離せなかった。

「“事前にお知らせした通り”、実は昨日、我が主が妙な光を見たとおっしゃいまして」

 オベルトは僅かに視線をエリーに向けて説明を始めた。先ほどエリーにも聞いた話だ。
 中には通さず、本当にここで話すらしい。
 定刻に現れなかったのだから仕方ないとも思うが、リンダたちを待つこともせずオベルトは依頼を開始するようだ。

「方向はここから東。ご存じの通り、この街の唯一の入口とも言える、あの森林です」

 オベルトの淡白な説明が続く。
 その間サッシュは、きょろきょろと周囲をアキラたちに視線を走らせていた。旅の魔術師だとばれぬよう、アキラは姿勢をさらに正す。

「その奇妙な光、というのは、一体……?」

 そこで、サクが口を挟んだ。
 一応エリーから説明を受けたはずだが、彼女なりにもう1度情報を整理したいらしい。

「奇妙な光だった」

 口を開いたのはサッシュだ。しかし、何ら情報は増えない。
 サクが目を細めると、サッシュは体格のせいでのけ反ったような体勢のまま言葉を続ける。

「私が夜中目を覚ますと、チカリと森の中で何かが光ったんだ」

 サッシュは背後の巨大な屋敷の、その天辺。中央に伸びる高い高い塔を見上げた。あそこがサッシュの寝室なのだろうか。

「…………その光は、」
「魔力色……だろうか」

 サッシュは眉を潜め、当時の光景を思い起こすように目を閉じた。

「色は?」
「分からん……。だが、確かに光ったんだ。松明などでは断じてない」

 サッシュは要領の得ない答えを返してくる。
 確かに夜中にちらりと見た程度では詳細に覚えているのも無理な話だろう。

 だが、アキラは頭を抱えた。
 子供ではないのだから、夜中に奇妙な光が見えたくらいで騒ぎ立てないで欲しい。
 “反旅の魔術師運動”とやらで狙われる立場であっても、それだけで魔術師隊を動かそうとするのはあまりに不規律だ。

「それは、本当に魔力色だったのか? たまたま星が瞬いたとか……、そういう」
「魔力色……の可能性がある」

 今度は言い淀み、サッシュは顔を伏せた。
 これでは本当に子供の言い分だ。アキラは聞こえるかもしれないのに思わずため息を吐き出してしまった。何ら根拠がないというのに、多忙であろう魔術師隊を引っ張り出してくるとは。
 リンダはサッシュ=フォルスマンとオベルト=ゴンドルフに気をつけろ、と言っていたが、サッシュは虐められている子供のように俯き、オベルトはだらしない主人を憐れむように横目を向けている。

「相手に……、まあ、その、心当たりは? せめて相手の人数くらいは知りたいのだが」

 サクも辟易したように、質問を続ける。
 しかしサッシュは、この質問にも首を振った。

「……分からないんだ。だが、きっと、その、多くはないと思う」
「サッシュ様。私が説明した方が?」
「……頼む」

 この屋敷は実質オベルトが管理しているのかもしれない。
 見た目は派手だというのに感情が不安定なサッシュと、見た目そのままに理路整然としたオベルト。
 明らかに、手綱を担っている者が逆だ。

「恥を忍んで言いますが……、ご存知の方もいるでしょう。我が主は、旅の魔術師に否定的な意見をお持ちなのです」

 隣のエリーがピクリと震えた。
 アキラも連動して身体を震わす。質問したのはこちらだが、そういう言葉は、特にサッシュの前では暗黙の了解という位置に留めておくべきではないのだろうか。
 ただそういえば、とアキラは思い直す。
 自分たちは今、魔術師隊なのだ。魔術師隊も旅の魔術師を嫌っているのだから、整合性はとれているのかもしれない。
 一応最近の魔術師隊は、旅の魔術師を受け入れる体勢を構築しつつあるのだけど。

「ですので、“反貴族”の旅の魔術師一派かと。人数は、……申し訳ありませんが分かりかねます」

 あまり多くはないと信じたいですが、とオベルトは続けた。
 アキラの前に、驚くほど計画性のない依頼が広がっていく。

「敵も不確か。人数も分からない。おまけに本当に敵なのかどうかも、本日来るのかも分からない……か」

 サクは淡々と言葉を吐き出した。
 それは、目の前の2人に対しての言葉のようにも、自分の中の情報を整理するような言葉にも聞こえる。

「それでは対応しようがない。まさか敵が襲ってくるまで私たちにここにいろ、と言っているのか? それならば、街の魔術師に頼んでくれ。この街にもいるだろう?」
「街の魔術師には街の巡回強化を依頼しております。ですが例の魔族騒ぎで数名駆り出され……柔軟に対応できる遊撃がいないのです」
「戻ってくるのは?」
「早ければ明日、とのことです」

 もし本当に敵が襲ってくるのであれば、その隙を縫ったのかもしれない。
 本来街の魔術師が街の外に駆り出されることはないはずだが、このガールスロは“あの港町”の近隣の街だ。
 地形ゆえに守りが堅いこのガールスロから数名が派遣されたのだろう。
 アキラの中で、僅かに合点がいった。

「……今は、街中が不安な心境でね」

 ぽそり、とサッシュから声が漏れた。
 視線を向ければサッシュは、僅かに自虐的な笑みを浮かべている。

「“私がいるせいで”、みな毎日びくびくしている。それでも、この地形と街の魔術師隊お陰で何とか、ね。だが、あの“魔族”騒ぎだ」
 サッシュはぎゅっと拳を握った。

「近隣の街に魔族の出現。少なくなった街の護衛。こうなれば、誰もが不安になる。私はあくまで貴族だが、この街の治安には責任と誇りを持っているつもりだ」

 サッシュの視線が僅かに強くなり、僅かに東の方向を眺めた。その方向には、昨夜奇妙な光を見たという森林がある。

「見逃さないでよかった。僅かでも、“危険の可能性”を。あれはきっと、街に害を及ぼす。私のせいで、街に被害を与えるわけにはいかんのだよ。だから、」

 サッシュは―――たまたま正面にいたからか、属性のスキルが発動したからかは定かではないが―――アキラの瞳をまっすぐと見据えてきた。

「今日1日だけ。お力を、お貸し願いたい……!!」

 仰々しい衣服に反し、サッシュは頭を下げてきた。
 アキラは気圧され、口を開けない。

 この貴族が嫌っているのは、旅の魔術師。だが、それさえ除けば、願うのは街の平和なのだろう。
 あまりに真摯なサッシュの態度は、自分が旅の魔術師でさえなければ、きっと清々しかったはずだ。
 アキラはそれが、僅かに悔しいと感じた。

「…………それで、私たちは具体的には何をすればいいんだ?」

 サクは一拍置き、いつしか依頼への心構えを完了させていた。
 鋭いその瞳を受け、オベルトがゆっくりと口を開く。

「相手の規模は……、先ほども申しましたが、不明です。ですので、皆様には“囮役”をかっていただきたい」
「囮?」
「ええ」

 オベルトは視線を屋敷に移し、肩を落とした。

「実は今、皆様を立たせたままお話をさせていただいたのも……、この屋敷は現在“改造”されているからです。中には侵入者を逃がさぬよう、多種多様なトラップを仕掛けておきました」

 そう聞いても、アキラには目の前の屋敷がただ巨大であるということしか分からなかった。
 だが、改造という言葉を聞き、感覚的に屋敷の凄味が増したように感じる。

 それにしても、“トラップ”。
 アキラはその意図が分からず、オベルトに眉を潜めて顔を向けた。

「……私は反対したのですが、」
「オベルト」
「失礼いたしました」

 オベルトが思わず漏らしてしまった言葉に、サッシュが鋭く視線を走らせた。
 委縮したオベルトは、一歩下がる。

「賊は街に入ったのち、一直線にこの屋敷を目指すだろう。しかし入口からここへは大分距離がある。下手に迎え撃てば街に被害が及んでしまう」

 サッシュは険しい顔つきを作り、しかしすぐにイタズラを思いついた子供のような表情を浮かべた。
 不気味な姿のサッシュだったが、慣れからか、アキラには愛嬌のある姿に見えてくる。

「ならばいっそ、ここへ招いてしまおうというわけだ。私を狙う賊は屋敷に侵入。しかし、外へは出られない。魔術師隊の方々には、賊をこの場に上手く誘導してもらおうというわけだ」

 初めて具体的な話を聞けた。
 外に出られない仕掛けとやらの詳細は分からないが、とりあえず作戦は、この屋敷に敵を閉じ込めることらしい。
 街の入り口からここまでは大分距離がある。
 相手の人数いかんによっては、陽動は容易ではないだろうが、それでも街の中で戦闘を繰り広げるよりは遥かに安全だ。

「その上、私はこの屋敷ではなく離れた小屋に潜んでおく。これで賊は目的も果たせず、無人の屋敷に閉じ込められる。どうだ?」

 サッシュは目を輝かせ、アキラたちの顔を覗ってきた。
 確かに、この屋敷は目印になるだろう。成功率の高そうな作戦だ。

 しかしその後ろ、オベルトは、どこか暗い顔をしていた。

「サッシュ様……、この期に及んで、ですが……、やはり私は反対です。この屋敷は、フォルスマン家のシンボルとも言えるもの」
「そうだな。そして、このガールスロのシンボルでもある」
「……閉じ込められた中で賊が暴れれば、損害は免れません。やはり、森林で迎え撃っていただいた方が……」

 屋敷が辿る結末は見えている。
 閉じ込められれば、敵は屋敷の中で暴れ回るだろう。
 アキラはもう一度屋敷を眺めた。シンメトリーに形作られた、ガラスの館。他の貴族たちも泊まりに来るほどというこの場所は、まさしくガールスロのシンボルだ。
 それを投げ出せば、貴族としての顔に泥を塗ることになるかもしれない。
 僅かに街に被害の負担を配賦すれば、この屋敷を守り切ることもできるだろう。

 だが、アキラはどこか確信に満ちた視線をサッシュに送っていた。
 きっと、作戦は決行される。

 何故なら、サッシュはオベルトの言葉に、僅かにも日和らず、

「オベルトよ」

 今までで最も重い声を出した。

「だからお前は、“貴族の執事長止まり”なのだ」

 アキラはそこで、手綱を握っているのがサッシュであると確信した。
 オベルトは脳天を打ち抜かれたように目を開き、さらに一歩下がって首を垂れる。

 サッシュはオベルトに向けた強さそのままに、アキラたちに視線を移し、声を張った。

「4人、か。ならば2人は街の入り口で森林の監視。もう2人は屋敷に向かう途中のルートで待機。賊が現れたら、つかず離れずで屋敷に誘導していただきたい。それが作戦だ。よろしいか?」

 やはりこれは日輪属性のせいだ。
 サッシュの鋭い視線はアキラで止まり、アキラはこくりと頷いた。

「我々はこれより罠の調整を終えたのち、屋敷の外に身を隠す。場所は崖側の方にするつもりだが……、まあ、説明するより地図を渡しておこう。オベルト」
「はい」

 オベルトがアキラに歩み寄り、胸ポケットから折りたたまれた紙を渡してきた。
 開いてみると、どうやらそれは街の崖側の地図のようで、1ヶ所赤く塗られている地点があった。
 倉庫か何かなのか、民家と離れたそこは、あまり人が寄りつきそうにない。

「事が済んだら、呼びに来てくれ。では、頼む」

 いの一番にオベルトが頭を下げ、次にサッシュが頭を下げる。
 オベルトが頭を上げて門を閉めるまで、サッシュは頭を上げなかった。

「…………ま、組み分け、しよっか」
「え、ええ、そうね」

 アキラが最初に呟き、エリーがようやく口を開いた。
 結局貴族に気圧された形になったが、街を守るモチベーションは高まっている。

 敵が来るかは分からない。だが、その僅かな“危険の可能性”にさえ、注意を向けるべき事件なのかもしれなかった。

「手っ取り早くくじ引きとかでいいよな? とっとと入口見張らないと、さ。……ん?」

 とりあえずは移動しようとエリーとサクが歩き出した。
 アキラが追うように1歩踏み出そうとしたところで、羽織ったローブがつんと引かれた。
 振り返ればティアが、どこかぼうっとしたような表情を浮かべている。

「おお、ティア。よく騒がなかったな、偉いぞ」
「アッキー。今のお言葉、ちくっと胸に刺さりました。…………って、それはともかく、何なんでしょう……、なんか、変です」
「変? じゃあ、いつも通りだ」
「今度はぐさっとです」

 ティアはどこか腑に落ちない表情を浮かべ、首を傾ける。

「どうしたんだよ?」
「いえ…………、街を守るのは大歓迎なんですが、…………ちょっと気になるんですよ」

 ティアは眉を潜め、何かを思い出すような表情を浮かべた。

「お父さんとお母さんに聞いたんですけど、街の魔術師隊と国の魔術師隊って、全然違うんですよ。戦闘力はもちろん、その……言い方は悪いですけど、経験とか、能力とか」

 そういえばティアの両親は共にかつて魔術師隊だったらしい。
 断片的にしか聞いてはいないが、恐らくは国の魔術師隊に属していたようだった。

「極端に言えば、1つの街の魔術師隊の皆さんと、国の魔術師1人は等価とさえ言われてます。もちろん、配属されたばかりじゃ能力に差は無いんですけど」
「? ……えっと、つまり俺らが若すぎて国の魔術師に見えない、って話か?」
「いえ……、まあ、それもあるんですけど、……ここの街の魔術師隊の何人かは、今パックラーラに一時的に派遣されてるんですよね? すぐ近くの」

 話が見えてこない。
 アキラは結論を急かすように視線を送り、ティアの言葉を待った。
 サッシュの真摯な訴えを聞き、今すぐにでも配置につきたかったが、しかし、何故かティアの言葉は妙に耳に残る。

「だったら、国の魔術師をパックラーラに行かせて―――“派遣されている人たち呼び戻した方がよかったんじゃないですかね”? いや、国魔術師に協力を断られたならしかたないですが」

 そもそも、待て。
 ティアの言葉で、アキラにも疑問が浮かんだ。

 自分たちは、サッシュに魔術師隊が到着したと思わせるためにこのローブを羽織っている。
 だがそもそも、サッシュは“どこから国の魔術師隊が現れたと思っているのか”。

 サッシュが奇妙な光とやらを見たのは昨夜の話だ。
 それから1日も経たないのに国から魔術師隊が派遣されてきていることになる。

 例の港町での“魔族”騒ぎを思い出す。
 あの緊急事態でさえ、魔道士隊や魔術師隊が出動するのは翌日の昼と言われていたのだ。到着はもっと遅くなる。

 理由は、連絡手段が限られている上に時間も深夜だったこと。
 それは、まさしく今の状況ではないだろうか。

 ならば、今魔道士隊や魔術師隊がひしめくパックラーラから来たと思っているのだろうか。
 だがそれならば、それこそティアの言うように、このガールスロの街の魔術師を呼び戻せばよい。
 この依頼は、そもそもその街の魔術師隊が手薄になったから発生したものなのだから。

「…………街の戦力、高い方がいいと思ったんだろ。貴族のコネとか使って、国の魔術師を呼んだつもりだったんじゃないか」
「……はっ、貴族ってやっぱり凄いんですね!!」

 ティアは納得したようだが、アキラは自分の言葉にまるで説得力がないことに気づいていた。
 魔術師隊の立場を考えてみればいい。
 奇妙な光を見た、という程度では、国の魔術師という戦力は“魔族”の調査に充てるべきなのだ。

 ここは―――どうせ人数稼ぎに駆り出されたのであろう―――街の魔術師の派遣を解き、このガールスロの街の魔術師を戻すとするのがしっくりくる。

 サッシュもその辺りは察するはずだろう。
 街を想うあまり気が回らなかったか、それともオベルトに上手く誤魔化されたのかもしれない。
 だがどの道、疑念は残る。

「……、あ、ほら!! 早く組み分けするわよ!!」

 アキラたちがついてこないことに気づいたエリーが、声を張り上げてきた。
 アキラは歩みを早めつつ、もう1度、巨大なガラスの館を見上げる。

 重く閉ざされた銀の扉の向こう、姿の見えないサッシュとオベルトを思い起こしたアキラに、リンダの注意が浮かび上がった。

 貴族は信用するな。

―――***―――

 男は、視線を走らせ隣の仲間と頷き合った。

 ガールスロの東に広がる森林。崖の上の街へ向かうその入口は、夜の深い闇に包まれていた。
 山道の傾斜が始まる辺りからうっそうと生え茂る木々は、月や星の光さえ遮断し、暗い。

 この場の樹木は古くから奇妙な力が宿っていると言い伝えられ、魔物が生息していないことで有名だった。
 有力な説としては樹木ではなくむしろこの山道の地中に魔力を放つ岩石が埋め込まれており、ある種巨大なマジックアイテムと化したこの森林が何らかの力場を発生させているというものがあるが―――ともかくとして、魔物はいない。

 だが、光を閉ざす木々の天井と、自己の鼓動すら聞こえる不気味な静けさが、かえって精神に揺さぶりを与えてくる。
 男は、誰かいると思い身体を震わせたが、それはただの大木から伸びる枝だった。

 息を潜め、慎重に登る。
 流石に必要である光源は、松明ではなく小ぢんまりとしたマジックアイテム。
 高価なその手のひらサイズの石は、淡く紅い光を漏らしていた。

 男は、ちらりと振り返る。
 見れば同じように自分の足元を照らす紅い光を持つ男が―――5人。
 自分を入れて6人が、この場の総戦力だ。

 誰の光も最小限であるし、誰も声一つ漏らさない。
 まだまだガールスロは先ではあるが、もしこの場で“戦闘”が始まれば、居場所を即座に特定されてしまう。

 慎重に、慎重に、しかし確実に。男たちは進んでいく。

 自分たちにとって、これは“大きなこと”なのだ。
 普段なら見向きもしない、高価な照明具にまで手を出してしまっている。後戻りは許されない。

 前へ、前へ、ただ前へ。

 男たちは、ガールスロへ進んでいく。

―――***―――

「ねえ、あんたさ。あたしのノート、どこまで読んだ?」

 ガールスロの入り口と、ガラスの館を直線で結んだそのほぼ中間。
 赤毛の少女は夜風に漆黒のローブを漂わせながら、街の各所に設置された照明灯の下で視線をアキラに送ってきた。

 先ほどのティア状態でも、自己嫌悪の状態でもなく、上の中と表現できる笑みを浮かべるのはエリーことエリサス=アーティ。くじ引きの結果、共にサクとティアをこの場で見送ることになったアキラのパートナーだ。

―――ただ、アキラは、極力視線を外していた。

「……まあ、そこそこ。ただ、お前から習わなかったことも書いてあったんだが」
「まとめて言ったら混乱するでしょ。……まあ、ノート渡してたら同じか。混乱した?」
「いや、どうやら俺はそこそこ頭が良くなってきたらしい」
「気のせいよ。心配しないで。大丈夫だから」
「別に俺馬鹿ってところに誇り持ってないからな!?」

 アキラの叫びを、エリーは聞き流したらしい。照明灯の下で、漆黒のローブが踊るように舞う。
 エリーはやはり、魔術師隊のローブに浮ついているようだ。

 アキラは僅かにむくれてエリーから視線を外した。

「……はあ」
 自分とエリーは、これから敵が来るまでここで待機だ。もし敵が来なければ、朝までここで立ちっぱなしになるかもしれない。
 アキラはこの待ち時間を“詠唱”に割り当てたいところだったが、ノートは宿に置いてきている。依頼前に魔力を消費するのも避けるべきだろう。

 代わりに、アキラは先ほどの貴族との面会を思い起こした。

 奇妙な点がある。
 言ってしまえばそれだけのことなのだが、一度浮かべると頭にこびりついてしまう。

 サッシュやオベルトに、疑念を抱いたわけではない。むしろ、嫌疑を抱くような事前情報があったにもかかわらず、好感を持ったほどだ。
 あの言葉に、嘘偽りがあったとは思えない。
 だが、面会のあとティアの疑問を聞き、そこから何かが膨らんでいく。

 何かが変だ、と。

 アキラは額に、拳を当てる。
 時間はあるはずだ。
 ならば、こういうときこそ最大のアドバンテージを使うべきかもしれない。

 “一週目”の記憶。
 最後に解けたのはあの港町―――パックラーラ。
 それ以降、記憶が薄いのか封が解ける感覚は訪れてはいない。

 だが、恐らく自分たちはこのガールスロに来ているはずなのだ。
 パックラーラからこのガールスロは、程よい距離にある。進行ペースからして、この街に来ている可能性は高い。

 この貴族がらみの事件に巻き込まれたかどうかは定かではないが、アキラは個人的に、これは経験している依頼と考えていた。
 事件の種という弾薬があり、自分というトリガーがこの地に訪れた。

 超常的な論理の飛躍ではあるが、それが当然のこととして起こるということを自分は何度も学んできている。

 だから、恐らく、敵は来るはずなのだ。
 それが特定の“刻”であるかは分からないが、“何か”は起こる。

 そうなると、やはり、疑念は膨らんでいった。

「……ねえ。あんたって、やっぱり考え事してると周り見えなくなるタイプ?」

 顔を上げると、エリーはアキラに背を向けていた。
 表情は見えない。
 しかし、ローブを何度も正しているところを見るに、未だ上機嫌のようだった。

「なんだよ?」
「んーん、何でもないわよ?」

 それきり、エリーはまたも沈黙した。
 わけが分からず、アキラは言葉を返さず、再び黙考する。

 記憶の封は、解けない。

「……………………“詠唱”は、順調?」

 再び思考の渦に飲まれていたアキラをエリーが呼び戻した。
 アキラは観念して考え事を止める。

「まあ、一応ルールみたいなのは分かった。でも、実際は、な」

 2人して黙り込んでいるのも妙な話だろう。
 どうせ単なる依頼だ。ただこなせばいい。
 アキラは割り切って、エリーに1歩近づいた。

「正直、ルールが分かってもどうしようもないんだよ。“詠唱は何だっていい”とか言われても、やっぱ、しっくりこない」
「そういうもの?」
「ああ、多分俺、ペット飼っても名前付けるの苦手だ」

 自由度が高すぎても困りものだ。
 日輪属性の教科書が無い以上、自分が納得できる“詠唱”を、自分が付けなければならない。
 そうなってくると、最早創作の域だ。

 元の世界でネット小説を何度も読んだアキラだが、自分で書くことはできなかった。
 一体何をすれば“想像”を“創造”に変える力が身につくのか。

 実際、アキラの使える魔術は、間近で見たものの模倣に過ぎない。
 そして正直、黒歴史になりかねないものを作り出すのにも抵抗があったりする。

「あんたいつも、あたしにふざけた妄想口走ってない?」
「あれはほとんど引用だ。ぶっちゃけ俺がゼロから作り上げたものなんて無いんだよ」
「ふーん……じゃあ、日記とか書いてみたら? 昼の話じゃないけど、“感想文”なんてのも悪くないかもね」
「“感想”、ね」

 アキラは昼と同じく自虐的に笑った。

「俺って、そんなに何考えてるか分からない奴か?」
「……“詠唱”と一緒かもね。分かりやすいようで、分かりにくい。何考えてるか口に出してくれないじゃない」
「わりとオープンなつもりなんだけどな」

 “隠し事”がある手前おかしな話だが、アキラは自分に正直に生きているつもりでもある。
 その場その場で思い浮かんだことをして、そして後で激しく悔恨の念に襲われているほどなのだから。

 そういう意味では、アキラにとってイメージを固める“詠唱”というのは相性が悪い。イメージが、絶えずぶれ続けているのだ。
 これでよく魔術が使えるようになったものだと思う。
 初めて魔術を使えたとき、一体自分は何を思い浮かべていただろうか。

「…………じゃあ、そのオープンなあんたに言っとくわ。あたしは今、ものすごく機嫌がいいです」
「…………ああ、そう見えるな」
「ううん、ほとんど見てない。特に、今のあたしの服装とか」

―――アキラは、極力視線を外していた。エリーが身に纏う、魔術師隊のローブから。

「…………分かりにくいんじゃなかったのか?」
「分かりやすいところもあるのよ。……覚えてるとは思ってたし」

 アキラは、エリーの顔から視線を落とした。
 視線の先には、エリーが1度でいいから着てみたかったと言う、漆黒のローブがやはり夜風に漂っている。溶け込むように。

「お前の夢ってさ、」
「うん、そう。今は止まってる」

 エリーは静かな笑みを携え、アキラにまっすぐに視線を送ってきていた。

「謝らないでね? “3回”も聞いたんだし。……それに、ちょっとやり方卑怯だった。あんたから話題ふってくれないかなぁ、なんて思ってさ」
「……はしゃいでたのは、演技か?」
「……え、えっと、まあ、そう、そうよ」

 かつて。
 この物語の開始時点。
 原因はともあれ―――

―――ヒダマリ=アキラは、エリサス=アーティの夢を壊した。

「…………まあ、はしゃいでたのは本当。でも、あんたのとこ行って気づいたのよ。あたし馬鹿だなぁ、って。掘り返しちゃった、って」

 エリーは僅かに俯いた。

「正直さ、あんたがこの世界に来たばかりのとき、あたし全部吐き出したけど……、やっぱりなんか、たまに思っちゃうのよ。もし魔術師隊に入ってたら、どうなってたかな、って」

 今より生活は充実していただろう。
 旅の魔術師の方が気楽と言えば気楽だが、アキラたちは世界を救う旅をしている。
 安定した収入があったであろうし、“魔族”に数人で挑むような危険もなかったかもしれない。

 そして何より、エリーは追いかけられたのだ。
 “世界最強の魔術師”―――彼女の、妹を。

「でもさ、こっちもいいかも、って思う」

 エリーは照明灯の下から離れ、ゆっくりとアキラに―――星明かりのみが照らす場所に、近づいてきた。

「あたしは今、機嫌がいいです」

 アキラの顔を下から覗き込むように腰をかがめ、エリーは視線を合わせてきた。

「だから、こういうこと言えるのかもね。浮ついてなきゃ多分無理。あたしはあんたに感謝はしてないけど、今は恨んでもいない。なんだかんだ言っても、旅、楽しいしね。きっといつか、あんたがあたしの“儀式”台無しにしたのも、笑い話になるわ。……………………あんたのこと嫌いって言ったのも、ね」
「……え、えっと?」
「さっ、この話題はおしまいおしまいっ。あんたと同じ組でよかったわ。サクさんたちいたら、多分こういう話できなかったし」

 エリーはくるりと背を向け、再びローブを正した。
 本当に、浮ついているようだ。

 アキラは目を細め、星空を見上げる。
 生憎月は見えないが、照明灯から離れたここも、十分明るい。

「なあ」
「……何よ? 話はおしまいよ」

 アキラは、解けようとする記憶の封を抑え込んでいた。
 背中越しのエリーの声だけに意識を向け、脳内の声を避け続ける。

 この時間だけは、どうしても、事前に知っていたくはなかった。

「そう言われるだけで、“ここ”を選んでよかったと思えるよ」
「…………また言ったわね、それ」

 顔が見えないエリーだったが、きっと微笑んでくれているとアキラは思う。

 “隠し事”があり、本心を言わないらしい自分だが。

 想いだけでも伝わっているだろうか。

―――***―――

「いいか、今は夜だ。周囲は民家。分かるな? 夜なんだ」
「分かってますよ!! だからわたしゃあ全力を尽くしますぜいっ!! そう、街の平和を守るために!!」

 全然、全く、微塵にも、僅かにも、サクの懸念をティアは分かっていなかった。まずは街の静寂を守ってもらいたい。

 日も沈んだガールスロ。
 響くティアの大声に、サクは虚ろな瞳で唇に指を当てた。ようやく気づいたティアはオーバーにも両手で自分の口を塞ぐ。
 この様子では、いつまた夕食時を過ぎた頃の街に騒音が響き渡るか分かったものではない。

 現在、2人は街外れにいた。
 いくつかの民家、魔物が出ないまでも一応は外と街を区切る意味で設置されている柵、そしてその向こうに広がる森林以外何もない辺ぴな場所。商店も見当たらない。
 この街は、やはりこの入口と間逆に位置する崖側に店が集中しているのだろう、とサクは思う。
 魔物が出ないと言ってもただの自然ならばシリスティアには溢れ返っている。森林側は、精々子供の遊び場であるのが関の山であろう。

 今宵は、下手をすれば戦場になり得る場所であるが。

「……、」

 サクは纏った漆黒のローブを揺すってみた。
 肌触りがよい。普段紅い着物のような服しか纏っていないサクにとっては、新鮮な衣装だ。
 ティアもエリーに裾を上げてもらって以降、普段以上の笑みを絶やさずローブの着心地を楽しんでいる。

 と言うより、彼女は彼女でこの服に思い入れがあるのかもしれない。
 彼女自身は目指していないようであるが、彼女の両親は、共に魔術師隊であったと聞く。
 そうでなくとも、魔術師隊というものは、子供の憧れのようなものなのかもしれない。

 もっとも、サクにとっては―――信じられない話だが、サクとティアの歳は1つ違いだ―――魔術師隊というものは、憧れる対象ではないのだが。

「来るんでしょうかねぇ……」

 ぽそり、とティアが言葉を漏らした。
 ティアは森林の漆黒の闇を―――その先の、来るかもしれない敵を眺めている。
 つい先ほどまで寝込んでおり、体力の方は万全のようだが、彼女にとって同じ場所でじっとしているのは調子が狂うのかもしれない。

「根拠はないが……、何となく、来るような気がしている」
「あはは、やっぱり、サッキュンもそう思いますか」

 ティアは振り返ってきた。しかし、恐らく彼女が見ているのは自分ではないだろう。
 サクもそれに倣って僅かに振り返る。

 ここと、巨大なガラスの屋敷を結ぶ、その中間。そこに、根拠のない確信を与える存在がいる。

「ちこっと羨ましかったりします。アッキー、退屈しないんじゃないですかね」

 根拠のない確信がある。
 その理由は最早、アキラがいるから、で十分だろう。

「……やるべきことも同時に増える。羨ましがってばかりいてもな」
「たはは、……そうですね。そう考えると、アッキー大変ですね。日輪属性、かぁ……。なんか、呪いのような気もしてきました」

 サクはふと、港町で出逢った大剣の男を思い出す。
 この目で見たわけではないが、彼もまた、日輪属性であったらしい。
 ざっと目を通した新聞では、彼を“勇者様”と崇める声もあったが、詳細は不明。アキラやティアからも大した情報は聞けなかった。

 だが、その、日輪属性の男。
 仮に、何かに巻き込まれる力を日輪属性が有しているとすれば、彼の周囲もまた何かが発生し続けるのだろう。

 彼と行動を共にしているらしい杖の男は、それを目当てに共にいると言っていたような気もする。

 トラブルを求めて遠巻きに見る者と、実際に巻き込まれ続ける者。
 果たしてどちらが羨ましい立場にいるだろう。

 “呪い”。
 上手い表現かもしれなかった。

「“日輪属性”って、どういう基準で選ばれるんでしょうね?」

 ティアの疑問は、サクに向けてではないように思えた。
 ただの、独り言だ。

 “日輪属性”。
 サクの中では、それはそのまま“勇者様”に直結する。
 魔王の落す闇を、日輪の如く払い討つ。

 だが、ヒダマリ=アキラという人間は、どういう存在だろうか。

 何でも知っているようで、何も知らない。
 何でもできるようで、何もできない。

 旅を通して成長してこそはいれ、それはあくまで日輪属性の力によるところが大きいようにも思える。

 仮に、日輪属性の者に“選ばれし者”という表現を使うのであれば、ヒダマリ=アキラという人間は完全に誤った選択肢だ。
 彼は元来、もっと、魔物から逃げ惑い、守られる立場にいるような存在なのだから。

 それなのに、彼は眼前に現れ続ける扉を開けることを迫られる。“刻”を刻むと、彼は言っていた。
 だが、そもそもその“刻”とやらは、一体どこから現れているのか。

 “呪い”。

「……まあ、今は依頼に集中しよう。貴族を守ることが、私たちの仕事だ」

 それを踏まえた上で、サクは注意を森林に向けた。
 陽動と言ってもつかれ離れずだ。ただ逃げるだけであれば圧勝する自信はあるが、相手の動きを誘導するとなると話は別である。何より今は、ティアもいる。頻繁に早朝の罰ゲームを受けている恩恵か、足は早いがサクには遠く及ばない。
 貴重な遠距離攻撃は誘導にも役立つ可能性があるために彼女との組は悪くはないが、それでも不安は尽きなかった。

「サッキュンは、真剣ですね。あっしも見習わないと」

 その不安材料は、分かっているのかどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「実はですね……。私、今ものすっごい葛藤に襲われてるんですよ」
「?」
「今はばっちり回復して、それはもうニューティアにゃんですが……、相手、“人間”なんですよね」
「気になるか?」
「そりゃあもう。戦いたいけど、戦いたくない相手。私は今、ものすごく迷ってます」

 “人間相手”。
 サクは、そうした依頼を請けたことがないわけではない。
 人間は平等という“しきたり”が広まっているとはいえ、やはり人間の間でトラブルは発生するのだから。このシリスティアは、そうした人間のトラブルが発生する代表格だ。

 だがサクは、相手を気にしたことはない。
 敵が魔物か人間かによって、刃とみねを使い分けてはいるが、そもそもサクにとって、“見るべきものは相手ではないのだ”。

「私が真剣に見えるのであれば……、そうなりたいのであれば、簡単だ。仕える相手だけを見ればいい」
「仕える相手、ですか?」
「そうだ。今は依頼主の貴族。彼の安全だけを考えればいい。そうなれば敵の種類など関係ない」

 サクの中で、周囲の環境は2種類に分かれる。

 1つは、護衛対象。
 もう1つは、敵。
 “しきたり”に従うサクではあるが、結局のところその2つだ。敵が人間だとしても、それは変わらない。
 当然人を切るのは抵抗がある。だが、それはあくまで刀の切り替えまでの話。相手が襲ってくれば、人間相手の戦闘も止むを得ないと考えている。

「……でも、人を殺すのは、“しきたり”違反ですよ?」
「ああ、矛盾している。……前にそれで、酷い目にあったよ」

 “しきたり”の世界の分け方は、神族と、人間と、魔族の3種類。
 神族は別格として、人間を護衛対象、魔族を敵と考えれば、サクの区分けとそこまでの差はない。
 だが、その僅かな差。そこに付け込まれた事件があった。

 アイルーク大陸の、ウッドスクライナという小さな村。
 そこで自分は“囁き”を受け、一般人に手を出した。依頼の中であればある程度割り切れていたかもしれないが、相手は、一般人だったのだ。自己防衛のためとはいえ、錯乱したのを覚えている。

 そして、その結果。
 綺麗に2つに分かれていたサクの判別に、ノイズが混ざり始めてしまった。

「……サッキュン、一応聞きたいんですが、あっしがピンチになったら、助けてくれたりしますかね?」

 これだ。
 かつての1人旅の中、複数の魔術師と協力して護衛の依頼を請けたことはあった。
 協力している魔術師に危機が迫れば助けたが、それはあくまで護衛のための戦力を保つため。
 サクの視点は、常に護衛対象を中心に置かれている。

 だが、もし、今のティアが言ったように、“このメンバー”に危機が迫ったらどうだろう。
 極限状態で、護衛対象か“このメンバー”かの二者択一を迫られたとき、果たして自分はどう動くのだろう。

 今までなら、一介の旅の魔術師として、護衛を淡々とこなしていた。その期間だけは仕える対象が明確なのだから。
 今回の護衛対象は、あの貴族。“疑念を浮かべたとはいえ”、この依頼はすでに始まっているのだから守ることは決めている。疑うのは、守り切ったそのあとだ。

 だが今の自分は、旅の魔術師であり、“勇者様御一行”の一員であり、そして“教師”である。

 “あの件”が清算できなかったゆえに、いつしか自分の世界は形を変えていた。

「……窮地に陥らないよう、努力してもらいたい」
「……はっ!! そうですね、甘えてました」

 瞳に浮かんだ迷いは、瞼で閉じ込めた。

 今自分は、戦力面でこのメンバーを率いている。
 その責任が、なんとも重く感じた。
 率いる責任と、仕える責任。両者はまるで違うものなのだと、サクは再認識した。

「…………でも、サッキュンは、いつか誰かに仕え続けるんですか?」

 サクが瞳を開けると、ティアが澄んだ瞳で見上げてきていた。
 本当に、子供のような瞳。例えば、何故空が青いのかとでも聞いてきているような無垢な色。
 騙されやすいと言ってもいいが、護衛対象を信じることが最も得意そうなその瞳を見下ろして、サクは僅かに愁いを帯びた表情を浮かべた。

 論理的ではなく、感覚的に話す子供を相手にするのは、疲れを伴う。

「いや、なんかその日その日に相手が変わるのって……、微妙に寂しいような気がして」
「……私が飛び出した家は、仕える相手を決めて守り続ける。そんな家系だった」

 そんな相手だったからだろうか。
 自分にとって触れたくない話題を、サクは口にした。

「仕える相手を1人に決めると、楽になるよ。その人と、その人の世界を守ることだけ考えていればいい」

 ある種、ティアとは両極端。ティアは関わる人総てを救いたいと考えている。
 ここは決定的な差だ。
 そうだ、自分はやはり、率いる者ではない。

「楽、ですか。……そだ、さっき話に出ましたが、アッキーなんていかがです? あれですよ、“勇者様”ですよ?」
「いや、それはないな」
「即答ですか!?」

 ティアの大声をたしなめつつ、サクは肩を落とした。
 “勇者様”という、このメンバーを率いる大義名分を持つアキラ。
 確かに妙な―――運命とでも言うべき感覚を何故か覚えているが、彼に仕えるのは2つの意味であり得ない。

「そもそも、私とあの男は“決闘保留中”。今は打倒魔王を目指して旅をしてはいるが……、ずるずると決着を引き延ばされて……、もやもやする」
「もやもやですか」
「……もやもやだ」

 ティアと話して、自分にも彼女の口調がうつってしまったようだ。
 いつしかサクも、感覚的な言葉を口にしていた。

「私とあの男が決着をつけたら、妙な話になる。どちらが勝つにせよ、この旅の形は変わってしまうよ。“私はそう思う”。そもそもあの男は、教師としては哀しいことだが……、仕えるに値しないほど弱い」

 ティアは首を傾げ、そののち悩み始めた。
 だが、サクはある意味それ以上悩んでいる。

 自分は旅を通して、“ここ”の居心地の良さを知ってしまった。
 最大の敬意を払うべき“勇者様”がいるというのに、アキラのあの性格からか誰もが平等だ。
 元の自分の家でも、1人旅の中でも見なかった世界。
 清算出来ていない現状が、悪くないと思い始めてしまっている。
 だが仕えれば、平等ではなくなってしまう。

 ただ前へ進んできたつもりだったのに、いつしか身体の中は矛盾だらけだ。

 “決闘保留中”と、“居心地のいいこの環境”。
 だから、2つの意味で、アキラに仕えることはあり得ない。

 矛盾。
 人と関わると、世界はこんなにも難しい。

「なら、いつか見つかるといいですね」

 世界を知らない子供は澄んだ瞳を閉じて、

「仕えても、対等な相手が」

 子供ゆえの、言葉を出した。

「…………、そう、だな」
「あはは、でも、あっしもご協力しますよ? だってこの旅楽しい……、って、あれ? ローブが……なんかずり落ちてる!? あわわ、こっち押さえて……、おおっ!? 反対側も!? ……そうか!! ここをこうすれば……、いや、ダメです!! しっ、かーしっ、諦めない!! 思い出せぇっ、ティアにゃん。あのときエリにゃんは何をしたのか…………。……! そだっ!! ばっちり思い出しました。確かここをこうして……、そしてここをこうです!!……………………おおう、全部ほどけました。あっし、こけます。知ってます。裾、踏むんです」

 どうやらエリーの裾上げは、常にわさわさと動いているティア相手では不完全だったらしい。
 とりあえず、ローブの裾を上げる必要がありそうだ。

 本当に子供の相手は疲れる。
 だけど不思議なものだ。
 溜まった疲れが、癒されることもあるのだから。

―――***―――

「まあとりあえず、街の入り口見張ってる奴らが敵を陽動してここにくるから、リレー形式みたいにあの屋敷に誘導するんだ。街に被害がでないようにして」
「それが作戦? ふーん……、で、貴族はどこにいるのよ?」

 街の入り口と、貴族の屋敷を結んだその中間地点。
 リンダたちがこの場に姿を現したのは、アキラとエリーの話題が丁度尽きかけた頃だった。

 大名出勤を決め込んだリンダの姿は、やはりアキラたちと同様に魔術師隊のローブ。
 彼女もアキラたちと同様に普段着の上から羽織っているらしく、裾の辺りからは純白のローブが見え隠れている。

 今は、打ち合わせを欠席したリンダに、アキラが計画の説明を行っているところだ。
 リンダたちはここへ来る前、1度屋敷へ寄ったらしい。そこで執事長のオベルトから街の入口へ向かうように言われ、その途中でアキラたちに出会ったとのこと。
 できればオベルトに説明を行っておいて貰いたかったところだが、向こうも向こうで潜伏場所への移動やら何やらで忙しいのだろう。

 アキラは受け取ったガールスロの崖側の地図を取り出し、リンダに見せた。
 リンダは、貴族が隠れると言った印がついている位置を、頷きながら眺めて微笑んだ。

「うん、ありがとうアキラ。助かったわ。というか、来るかどうかも分からないのに依頼って……、はあ、貴族は貴族と言ったところかしら?」

 やはり彼女は貴族を嫌っているようだ。
 あの打ち合わせに出れば貴族の想いを感じとれたかもしれないが、アキラはその件に触れなかった。
 アキラの口から言ったところで、恐らく、『騙されている』の一点張りだろう。
 自分も疑念を抱いてしまっているのだから、リンダを説得することは無理そうだ。

「でも、大丈夫なの? その入口の方にいる2人。相手が何人か分からないんでしょ?」
「ああ、多分。洒落にならないほど速い奴と、騒がしい奴のペアだから」
「……えっと、構成要素に不備があるような気がするんだけど。主に、後半。あとは、後半とか後半とか」
「いやいや、考えてみ? 太鼓鳴らしながら走った方が効果的だろ?」
「…………速くて騒がしい人いなかったの?」

 ああ、と。アキラは該当する人物を思い浮かべて振り返った。

 が。

 むっっっすぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ、と、無言の圧力を感じた。

「…………なんだよ」
「別に」

 淡白な声。
 アキラは背筋に冷たいものを感じ、条件を満たすその人物―――エリーから視線を逸らした。

 その隣にはリンダと共に現れた鎧の男―――グリースが似たような表情で立っている。
 流石に鎧の上からローブを纏うことはできなかったのか、彼はローブをマントのように肩からかけているだけだった。
 それでもかなり様になっている。アキラは鎧を纏った魔術師隊を見たことはないが、もしいたとしたら、あれが正しい着用方法なのかもしれない。

 ただそれでも、眼力を感じる視線を送られていてはジロジロ見る気にはなれなかった。

「でも、奇妙な光? それは確かに気になるわね。まあ、嘘かもしれないけど」

 リンダは気にしていないのか、2人を一瞥もせずに眉を潜めた。

「嘘? そんなこと言って何になるんだよ?」
「だから気になるって言ってるのよ。ま、気にし過ぎ、かな。貴族が、だけど」
「気にし過ぎ、ってのは、まあ、分かる。でも、1つでも不安要素を消しときたいんだろ?」
「……もしかしてアキラ、私の言ったこと、覚えてない?」
「貴族には注意しろってやつか?」

 そこでリンダはコクリと頷く。表情は、どこか満足げだ。

「覚えててくれて嬉しいわ。特にサッシュ=フォルスマンとオベルト=ゴンドルフを前にしたときは簡単よ。あの2人の根底には、旅の魔術師批判がある。だから私たちを前にしたとき、絶対に真実なんて語らない。だから、話の内容が何であれ、信じない方がいい」

 ここまでとは相当なものだ。
 アキラはリンダに分からないように、小さなため息を吐いた。
 旅の魔術師批判はともかくとしても、誰しも多かれ少なかれ嘘を言うものではある。

「でも、身の危険を感じてるから、ってのは?」
「手段を選んでいられないって? でも、少なくとも私の認識では、奇妙な光を見た程度で旅の魔術師を呼ぶほど繊細な心の持ち主じゃないわよ」
「随分はっきり批判するよな」
「人は平等。その“しきたり”も守れないのに、何が貴族よ。人間は生まれた瞬間は平等なラインから始まらなきゃならない。そうすることで、人間はいい意味での競争ができて、発展していく。それなのに、過去の偉人の末裔ってだけで何の努力もしてないのに胡坐かかれてたら、その分世界は力を失うのよ」

 アキラは“しきたり”の授業を受けているような気になり、生徒のように頷いた。
 まるで教科書のような彼女の言葉には、随分と熱が入っている。

 確かに、聞いた限りでは貴族には生まれながらにしてアドバンテージがある。
 魔術の才能や魔力の量といった個人レベルでのアドバンテージではなく、富や権力といった家系レベルでのアドバンテージが。

 貴族以外の人からしてみれば、同じ能力だというのに、生まれた場所が違うだけで差が生まれてしまう。
 アキラの元の世界でも、そういった問題は確かにあった。

 だが、それはある種、割り切るべきことはないだろうか。

「だから、貴族は信用しない。これは私が決めていることだもの」
「リンダ」

 リンダがきっぱりと宣言したところで、エリーの隣に立っていたグリースが声を出した。
 鎧の男はリンダにつかつかと歩み寄り、そしてアキラに視線を走らせる。
 アキラより、僅かに背が高い。

「随分打ち解けてるな。珍しい。もしかして、前に会ったことでもあったのか?」
「いいえ、今日が初めてよ。お昼をご馳走してもらったって言わなかったかしら?」

 リンダはアキラに微笑みかけてきた。

「でも、何か話しやすいのよね」
「この人は、どっちかって言うと貴族側の意見っぽいだろ」
「それは他の大陸から来たばかりだからよ。その内分かるわ。シリスティアが」
「それが珍しいって言ってるんだよ。お前、そういう奴とはあんまり話さないだろ」

 アキラが目の前にいるのに、グリースは苛立ちを隠そうともしていなかった。
 日輪属性のスキルが発動しているというのに、この態度をするということは、アキラに対し何らかの“敵意”を持っているということになる。

 アキラは理由をおぼろげに察し、1歩下がった。

「それより、あんた。アキラって言ったか? 説明してくれたことには礼を言うけど、貴族は信用しない方がいい。リンダも言ってるけど、魔術師隊のローブを着てようやく話す気になるような連中だ」
「……グリースも、懐柔されてたじゃない」
「…………俺は違う。それに、俺が話したのは執事長だ。貴族じゃない」
「まだ言ってるの!? この期に及んでびっくりだわ」

 グリースはエリーと共に事前の討ち合せに参加したと聞く。
 どうやらそこで、エリー程とはいかないまでも今回の依頼に参加する動機を刷り込まれたようだ。
 いや、刷り込まれたという表現は適切であるかどうか分からない。貴族は貴族で街を想っているかもしれないのだから。

 しかしそれでも、やはり疑念は尽きない。

 今回の依頼は、わけの分からないことだらけだ。

「なあ、魔術師隊のローブって、やっぱり憧れなのか?」

 アキラは何となく、グリースの肩にかかっているマントを眺めてみた。
 貴族の交渉力はともかくとして、この魔術師隊のローブはグリースが懐柔とやらをされた要因の1つなのかもしれない。

 何となく出した声に、グリースはふと虚を突かれたような表情を浮かべた。
 一瞬、敵意を向けられていたことを忘れていたアキラは思わず口を噤んだが、グリースは差して気にした様子もなく、普通の声を出す。

「憧れ……、か。まあ、確かに憧れ、なのか。俺は魔術師隊の試験を受けたことないけど」

 思った以上に短絡的な性格なのかもしれない。
 自分のことを棚に上げ、アキラはグリースにそんな評価を下した。

「俺たちみたいな根なし草と違って、ちゃんとした給料も出る。魔物相手と言っても必ず数人で行動するらしいから旅の魔術師よりは危険も少ないし……、国所属じゃ多忙になるだろうけど、割かし安全な街の魔術師隊とかって理想の職業でもあるな。その分入口は厳しいが……って、そんなことは知ってるか」
「……あ、ああ。でも俺、鎧の上からマントみたいにローブ羽織った奴は初めて見たよ」
「ほとんどいないからな、鎧を着ているような奴。でも、装着方法は合ってるはずだぞ」

 やはりそれが正しい装着方法らしい。そして、魔術師隊はやはり人気の職業であるようだ。
 アキラは何となく自分が鎧を装着している図を想像してみたが、描けた絵は残念なことに似合っていなかった。
 どうやら中途半端に華奢な体格が鎧の装着を許さないようだ。

「でも、鎧の上に羽織ると……、正直ナルシストにしか見えないわ」
「ぶっ殺すぞてめぇ」
「アキラもそう思わない? 何気取ってんの、って感じ」
「あ……、えっと、……コメントは控えとく」
「いや、てめぇらだ!! 脱ぎゃあいいんだろ、脱ぎゃあっ!!」
「あらあらグリース。今は依頼中よ。あんたには足りないものがあるわ。主に、協調性とか。あとは、協調性とか協調性とか」
「ああ、確かに」
「ほんとだお前ら協調性がある!!」

 と、そこで。
 アキラは僅かに感動を覚えた。

 この世界に来て以来、同年代の同性と話した記憶がほとんどない。
 つい数日前に出逢ったと言えば出逢ったが、会話となると成立していたかどうかには疑問が残ってしまう。
 幸運なことに見目麗しい女性に囲まれたこの旅も悪くないどころか最高ではあるのだが、時には自分が同性との会話を忘れてしまっているような錯覚に陥ることもしばしばある。

 久しぶりの感覚だ。
 リンダと共にぎゃあぎゃあと騒いでいるグリースに視線を移し、アキラは僅かに安堵のため息を吐いた。

「はあ、まあ、とにかく、とにかくだ」

 言われたことを気にしたのか、グリースは僅かに羽織ったローブを着崩し、アキラに向き合った。
 彼もなかなか、ユニークな性格をしているらしい。

「貴族には気をつけろってのは間違ってない。そもそも魔術師試験が厳しいのも……、…………まあ、これはいいか」
「?」

 グリースは、そこで口を噤んだ。

「グリース。微妙に着崩したせいで、別のベクトルに何かが上がったわ。キモ…………、いや、変人になった」
「キモいって言いかけたんだからそっちでいってくれた方がましだ!! 言い換えるなら言葉を選べよ!!」
「キモい。尋常じゃなく」
「おーし、勝負だ始めるぞ」
「私なりにベストセレクションだったんだけど、今の言葉」
「いいから構えろよぉっ!!」
「あらやだ。夜に女の子を襲うなんてっ」

 この2人は、ずっと、こうして旅をしてきたのだろうか。
 微笑ましいものを感じ、アキラはふっと笑う。

 様々な人に出会えるというのも、旅をすることの1つの特権だ。

 と、そこに。

「説明は終わったんでしょ?」

 上目使いでも睨まれれば相当な威力がある。
 いつしか歩み寄り、待ち構えていたのか。完全に蚊帳の外だったエリーは口元をぴくぴくと痙攣させながら、相当な眼力をアキラに放っていた。

「……なんだよ」
「別に、って言ったでしょ? ただ、これから依頼よ? あたし言ったわよね、びしっといくって。話し込んでる暇あったら、こことサクさんたちのとこを往復でもして欲しいもんだわ。ダッシュで」
「これから依頼って聞こえた気がしたのは俺の耳が異常なのか?」

 先ほどまで自分と話し込んでいた当人が何を言う、ともアキラは思ったが、その無駄口はエリーの言葉で封じられた。

「神経張り詰めてなさい。もしかしたら敵をサクさんたちが見逃しちゃって、もう街の中にいるかもしれないのよ?」

 サクが見張っている以上、それはない。
 エリーの現実味のない話に、アキラは辟易した。

「でももし、ティアに気をとられた隙に突破されてたら?」

 途端、現実味を帯びた。
 アキラは、思わず街の入口に視線を走らせてしまい、ティアに心の中だけで謝る。

「まったく、しっかりしてよね。護衛対象が貴族って言っても、あたしたちは“しきたり”通りに。平等に守らなきゃダメ」
「“しきたり”……、か。どんだけ数あるんだよそれ」
「ん? 聞きたい? あたしいろいろ知ってるわよ? 名目的な文章だけじゃなくて、その内容や論拠も」

 魔術師試験。“しきたり”はその試験科目の1つだと聞く。
 アキラが確信を持って知っているのは、『神に自分の1番目を捧げる儀式』の中で、嘘は許されないというこの物語の根底部分の“しきたり”だけだ。

「ま、とりあえず、人間は平等。そういう“しきたり”があるわ。生まれながらにアドバンテージのある人は、サボってないで活かさなきゃ世界が発展しない。別に魔力が強い人が魔術師隊に入らなきゃいけない、ってわけじゃないけど……、まあとりあえず、貴族っていうのは本来言語道断のはずなのよ」

 エリーは、先ほどアキラがリンダから受けた説明を―――彼女が言うところの、話し込んでいる暇がある状況だ―――言葉を変えて始めた。
 自らが学んだことを人に話すのは気分がいいのか、エリーは先ほどのリンダのような得意げな表情を浮かべている。

 それにしても皮肉な話だ。
 過去の偉人の末裔が“しきたり”に反し、アウトローな旅の魔術師が“しきたり”に則し、両者は反発している。
 あくまで旅の魔術師側は自分に降りかかる火の粉を払いたいだけであろうが、結果として、ちぐはぐな立ち位置を築いている。

 そんなシリスティアで、ヒダマリ=アキラという“勇者様”は何ができるのだろう。
 ただともあれ、少なくともこの場は、身の危険が迫っている人間を守るべきだと感じてはいるのだが。
 リンダも、依頼を請けてこの場にいる以上は、貴族を守ってくれていると信じたい。

「お前はそれで、よくこの依頼を請けたな」
「……言ったでしょ? あたしたちの手にはシリスティアの未来がかかってるのよ」
「……またそれか」

 なんだかんだ言っても、エリーの義務感は相当強いらしい。
 今さらだが、彼女が参加したというオベルトとの打ち合わせを傍聴したいとすら思った。

「まあ、それに、さ」
「?」

 エリーは僅かに言い淀み、言葉を続けた。

「いくら“しきたり”違反でも、……成功させたいわ、この依頼。だってあたし、この服着るの初めてなのよ?」

 と、まるで子供が初めて履いた長靴を楽しむような笑みを、エリーは浮かべる。
 僅かな影は、先ほどの自分たちの会話の一部を引き連れたものだろう。

 とどのつまり、エリーにとって今回の依頼は、それだけなのかもしれない。
 彼女はきっと、そういう女の子なのだろう。

 公務の辛さを知らぬがゆえかどうかは定かではないが、魔術師隊に憧れて、夢が破れても、今を楽しめる。
 後悔の念があったとしても、それがなりを潜めている浮かれた今は、現状を受け入れていく。

 気楽と言えば気楽な旅の魔術師。
 それは魔術師隊に入るより、自分の“キャラクター”を保つことができるのかもしれない。

 そんな彼女だから、多分、自分は、

「―――じゃあ、そろそろ」

 そこで、リンダが、背後で声を出した。
 振り返ればリンダは、どこか気合を入れ直したような表情を浮かべている。
 グリースは不満げだったが、とりあえず、折り合いはついたらしい。

「どうした?」
「ん? いや、別に。ただ、守りがここだけってのも不安よね。私たち、貴族の様子見に行くわ」
「貴族の様子って……、え、崖側?」
「そうよ。入口に2人、ここにも2人。それだけいるなら陽動は十分でしょ? もし4人で陽動できないようなら、危険なのは隠れてるとはいえ貴族じゃない」

 確かに、アキラもこの計画には不安を感じていた。
 敵を陽動するために人員を配置したが、肝心の貴族に護衛はついていない。
 街の反対側にいるとはいえ、本来その場の守りも欲しいところだ。
 貴族の計画には、含まれていない内容だった。

「行くのか?」
「ええ。私とグリースで。貴族は信用しない、って言ったでしょ? 作戦に穴があるかもしれないし」

 鎧の男がコクリと頷く。

「えっと、俺も行こうか? 正直、ここで突っ立ってるのも」
「ちょっと」
「いや、そうじゃなくて……、俺も行っていいか?」

 エリーをたしなめ、アキラはリンダに向かい合う。
 正直、敵も不安だが、貴族嫌いらしい2人を貴族の元へ行かせるのも何か危険な気がする。
 だが、リンダは首を振った。

「問題ないわ。大丈夫、全部」

 アキラが言外に持っていた思考をリンダは察しているのかもしれない。
 リンダは会話を切り、グリースと共に歩き出した。
 漆黒のローブの裾から、踏んづけてしまいそうなほど長い純白のローブが僅かに見える。

「―――そうだ、アキラ」
「ん?」

 リンダは一旦止まり、振り返った。

「“詠唱”って、何のことだか分かった?」
「……いや、悪い。調べきれなかった」
「そっか、残念。自分で調べてみるわ」

 それきり、リンダは振り返りもしなかった。
 リンダとグリースは夜の闇に溶けていく。

 ああ、そういえば、と。去りゆく背中に、アキラは忘れていたことを思い出す。

 また聞きそびれた。
 今は手ぶらなリンダ。

 結局、昼に見たあの2つの円柱は、何だったのだろう。

―――***―――

「……!」
「そうそう、冷たいものがががって食べると頭キーンってするじゃないですか、それって、……!」

 そろそろ日付が変わる頃だろうか。

 最初に、サク。次に、ティア。
 2人がほぼ同時に捉えたものは、闇に塗り潰された森林から僅かに漏れた淡い光だった。

 サクは慎重に腰を下ろし、念のために指を口に当てる。その仕草をするまでもなく、隣のティアは黙って神経を張り詰め始めた。
 随分と、切り替えが早くなったものだ。

「来た、のか」
「たまたま来た旅の魔術師とかじゃ……、ないですかね」

 確たる根拠はないが、恐らく違うだろうとサクは察していた。
 護衛の依頼があり、アキラがいて、そしてこのタイミング。
 例えアキラという要因があろうがなかろうが、今の光は、敵であると直感的に感じてしまう。
 何しろこの暗い闇で、あれだけ目立たない光源を使っているのだ。

 淡い光源はゆらゆらと近づいてくる。
 数は、5……、いや、6。

 サクが光源総てを捉えたところで、途端、光がふっと消えた。

「間違いないな。姿を消した」
「はい」

 小声で交わす会話。
 これから自分たちは、彼らの陽動を開始する。
 問題なのは、敵の攻撃方法。遠距離攻撃を行う魔術師がいた場合、街に被害を出さないことが途端に難しくなる。

 じっとりと汗が浮かぶ。
 彼らの狙いが貴族だとしても、その前にいる障害に攻撃してくる可能性はある。
 果たして、街が無傷なままで切り抜けられるだろうか。

「……おい、お前たち」

 森林の闇から、僅かに裏返った男の声が聞こえた。
 音源を察するに、光が消えた場所から移動している。向こうもこちらが敵であると認識しているのだろう。

 だが、声を出してくれたのは僥倖だ。
 会話の内容いかんによっては、より明確に、自分たちを追いかけさせることができるかもしれない。

「お前たち、“この街の魔術師隊の、隊長の名前は何だ”?」
「……?」

 進んだサクの思考に降りかかってきたのは、狙いが分からない問だった。

 この街の魔術師隊の、隊長の名前。
 そんなものを知って何になるというのか。
 狙いも分からないが、そもそもサクは、そんなものを知らない。
 隣のティアを見ても、やはり首を傾げて眉を寄せていた。

 いくら待っても、それ以降の言葉が相手から送られてこない。
 続く沈黙。このままでは、らちが明かない。

 サクは眉をひそめ、

「何を言ってい―――、―――!?」

 途端、足元がスカイブルーの一閃に削られた。

「こっ、攻撃!? いきなりですか!?」
「っ、行くぞ!! 依頼開始だ!!」

 サクは身をひるがえし、街に向かって駆け始めた。
 背後にはティアと、そして森林から駆け込んでくる数人の気配を感じる。

 顔だけ振り返らせ見てみれば、5、6人の男が見えた。
 拳にプロテクターを付けた岩石のような身体の男、その隣の双剣を腰に携えた背の高い男に視線を走らせたのち、サクは表情を険しくする。

 先頭の、薄い紺のローブを羽織った華奢な男。
 彼が先ほどの魔術を放った男だろう。
 魔力色からするに、ティアと同じく水曜属性。

 魔術師という表現が最も相応しい、魔術を司るその属性は―――街の中での相手としては最悪だ。

 なにせ、

「シュロート!!」
「あわわっ!?」

 再び、裏返ったような声。
 その有名な“詠唱”が、今度はティアの足元を削った。

 遠距離攻撃。
 逃げる背中に攻撃するにはうってつけだろう。何しろ、相手に追いつく必要がない。
 それだけに、適時射出される。

 ゆえに、街の家屋が損壊する可能性が、著しく高い。

 流石に、いるか。
 サクは自分の希望的観測を捨てた。

 魔術師に最も相応しい属性ゆえか、水曜属性の者は数が多い。魔術師隊として公務を果たすにも、旅をするのにも利便性が高く、魔術師を3人も集めればその中には水曜属性の者がいるとさえ言われている。
 魔道士の3分の1は水曜属性と聞いたこともあるほどだ。

 ティアの担う後方支援タイプならば助かったのだが、どうやらあの男は前線に立つタイプらしい。

 攻撃が、射出される。

「どっ、どうしま―――あうひゃっ!?」

 ティアの奇声が、後方から聞こえた。
 彼女の頭上を通ったスカイブルーの閃光は、そのまま上昇し夜空の彼方に消えていく。

 そこで、サクはぞっとした。

 敵の水曜属性。
 卓越した相手ならば、かえって楽に陽動できる可能性があったというのに―――あの華奢な男は、言ってしまえばノーコンだ。
 思えば最初の一撃、ただ立っていただけのサクに魔術を命中させることもできなかった。
 そんな男が走りながら魔術を放てば結果は見えている。

 無差別な攻撃が、街を襲い続けてしまう。

「―――、」

 街の曲がり角を曲がり、そこでサクは止まった。
 遅れて現れたティアを静止させる。

 そもそも計画に不備があった。
 このままの陽動は、街に損害を与えない限り不可能だ。

「はっ、はっ、なっ、何ですか!?」
「いいか、落ち着け。2つ、話すことがある」

 朝の鍛錬のたまものか、現れた敵に大きくリードを奪えたティアに、サクは早口で言葉をまくしたてる。

「1つ目。今からお前は、“私の直後を走れ”。速度を落とすから、絶対に離れるな。2つ目は、次に私が止まったときだ」
「は、はうえっ!? い、いや、分かりました!!」

 ティアは、サクの言葉を素直に受け取った。
 ティアにとって、攻撃のプレッシャーを背中から受けながらの逃亡は、朝のマラソン以上に消耗する。
 とにかく今は、サクの指示通りに動くべきだ。

「いくぞ!!」
「はい!!」

 敵の慌ただしい足音がすぐ傍に聞こえた。
 ティアは言われた通り、サクの背後を走る。

 すると、

「……?」

 ティアに、奇妙な感覚が走った。今まで以上に身体が前へ進む。
 最初、サクが先頭で風を切ってくれているお陰とも思ったが、何かが違う。

 足が上がり、1歩ごとに身体が疾風になっていくような感覚。
 駆けているのではなく、まるで前へ前へ跳んでいるような錯覚。

 身体が、軽い。

「……、」

 そんなティアに振り返りもせず、サクは額に汗を浮かばせながら思考を進めていた。
 見たところ、遠距離攻撃の使い手は先頭の華奢な男だけだ。

 彼の後ろで走る男たちは、みな武具を持ち、屈強なゆえに重い身体を揺らしている。
 あの男さえ倒せれば、安全に誘導できるだろう。

 アキラやエリーの場所までまだ距離があるのは幸いだ。もし合流し、標的が増えれば魔術が乱射される確率は格段に上がる。

 ゆえに。それまでには遠距離攻撃のあの水曜属性を行動不能にする必要がある。

 2度ほど角を曲がったところで、サクは再び足を止めた。
 背後のティアが予想通り止まり切れずに跳びかかって来たのを身体で受け止め、息を殺す。

 ここは、街の広場のような場所だった。
 十字路の中央には貴族のサッシュ=フォルスマンを模した不気味な銅像が素知らぬ顔で立っている。
 十分に広い。

 ここでなら、始められるだろう。

「いいか、2つ目だ。このままの陽動は無理。あの遠距離攻撃の男を倒すぞ」
「戦闘、ですか……!?」
「ああ、私があの集団に飛び込み、気を失わせる。あとは陽動の再開だ」
「え、え、でも、サッキュンだけで、跳び込むんですか!?」
「問題ない。最悪逃げ出すことぐらいは容易だ」

 現に、あの男たちは自分たちに追いつけていない。
 人数は多いが、水曜属性の男の“デキ”を見るに、魔術師としての能力は中の下。

 動きが鈍い集団に飛び込み、華奢な男の意識を刈り取るくらいはできるだろう。
 何より、他に選択肢が無い。

「わ、私は何をすれば!?」
「あのコントロールできる魔術で牽制してくれ。人を狙うことに抵抗があるかもしれないが、そもそも相手も防御膜を張っている。まず死にはしない」
「…………は、はい」
「街を壊すなよ」

 サクはそう言って、十字路に飛び出し銅像に隠れた。ティアも角の闇に腰を落とし、身を潜ませる。

 遠くからバタバタと男たちが近づいてきた。

 サクは鞘ごと刀を裏返し、構える。

「はつ、はっ、……い、いないぞ!?」
「くそっ、見失った、か……!?」

 銅像の向こう、男たちの足が止まる。潜むサクには気づいていない。
 このまま大人しく屋敷に向かってもらうことが最良だったのだが、どうやら彼らの標的は完全に自分たちに切り替わったようだ。

 ふと顔を上げると、近くの建物の窓に人影が見えた。
 この場の住民たちは何が起こっているのかは知らない。遅ければ遅いだけ、騒ぎになる。
 いや、自分たちが駆けてきた付近は、とっくに騒動になっているだろう。

「そうだ。お前あんな攻撃して、」
「街はある程度破壊するのも止むを得ない。俺はそう聞いたぞ」

 男たちは誰かから指示でも受けたようだ。
 華奢な男が視線を強め、裏返ったような声を出している。

 男たちは小休止でもしているのか、銅像付近から動かない。

 サクは銅像からティアに視線を送り、頷く。ティアも頷き返してきた。

 いくぞ。

―――***―――

 絶対行った。間違いなく行った。結局行った。

 エリーことエリサス=アーティは、1人、不機嫌さを隠しもせずに、ローブをバサバサと揺らしていた。
 魔術師隊のローブに対してぞんざいな扱いをしていても、それを見咎める者はここにはいない。

 あの2人―――リンダとグリースがこの場を去ってから数時間後、ヒダマリ=アキラは、姿を消した。

 用を足しにいくと言ってはいたが、あの男は明らかにリンダたちを追っていったのだ。

 来るかもしれない敵の人数にもよるが、高が数人程度なら、確かにこの場に2人もの人間が常に張り付いている必要はないかもしれない。
 時には休憩も必要であろうし、その意味も兼ねて各所に2人という計画なのだろうから、アキラが離れることに強く反発はできなかった。

 が、ものすごく、むかむかする。

 折角、ようやく、やっと、自分たちは和解できたのだ。
 この先過去を振り返ることがないとは言い切れないが、きっと後悔の時間は減って、笑い話にできる気がしていた。

 アキラもアキラで、そう願っていたようにも思える。

 それなのに、ここにきて、これだ。
 あの男が何を考えているのか分からない。

 確かに、リンダやグリースの様子には気になるものがあった。
 リンダはサッシュやオベルトの根底には旅の魔術師批判なるものがある、と言っていたが、リンダとグリースにこそ、根底に貴族批判があったようにも思える。
 それだと言うのに、彼らは、この貴族護衛の依頼を請けていた。

 怪しいと言えば怪しい。不自然と言えば不自然。

 この依頼への疑惑は、エリーも僅かに感じていた。
 自分が気づいたということは、サクも気づいているであろう。
 アキラも何かを考えていたようであるし、その前にティアとそんな話を屋敷の前でしていた。

 疑念に満ちた依頼と、疑念に満ちた引受人。
 様子が気になるのは、確かに分かる。

 だが、あの男が、今リンダの元に向かっているのは、果たしてその疑念だけだろうか。

 リンダの容姿が頭に浮かぶ。
 線の細い顔立ちと、色白の肌。色彩が薄い髪を1本にまとめて肩から垂らしている姿は、どこか儚げで―――癪だが、綺麗だった。
 そして見た目とは裏腹に、明るい性格をしている。はしゃぐように笑っていたし、くりりとした瞳は輝いていた。

 そんな相手が目の前にいて、しかも積極的に話しかけてくるのであれば、あの“勇者様”は歓喜するだろう。
 しかし、その直前まで自分と話していたのに、あの態度は―――本当に、分からない。

「はあ……、ほんっと信じらんない」

 やはりあのときの自分は浮かれていたようだ。
 僅かに落ち着いてきた今、あのとき自分が吐き出した言葉総てを消し去ってしまいと感じる。

 自分の言葉に彼は、“ここ”を選んで良かったとだけ返してきた。

 あの男の本音は、あれだけ想いを吐き出して、たった一言しか聞けないというのだろうか。
 割に合わな過ぎる。

 いや、例え、一言だっていい。
 もっと、自分に分かる言葉で、分かりやすく、伝えて欲しい。

 彼は、いつも、何を想っているというのか。

「……、」

 エリーは一瞬、周囲を見渡した。街に異変は起きていない。

 まだ僅かに浮ついている今が機会だ。普段聞けないことを聞けるかもしれない。

 サボった男を連れ戻すというのは、依頼達成のための大義名分だろう。

 エリーは僅かに小走りで、街の崖側に向かった。

―――***―――

 一方、アキラはいつしか全力で街の崖側に向かって走っていた。

 最初は、大してもよおしてもいないゆえに、用を足しに行くか否かを迷いながら歩いた。
 次は、リンダの別れ際の表情を思い起こし、頭痛と共に小走りになった。
 そして今は、全力で、走った。

 ヒダマリ=アキラは、今、全力で走っていた。

 “嫌な予感がする”。
 言ってしまえばあまりに陳腐で感覚的な思いつき。しかし強かな確信で、アキラはわき目も振らず、街の崖側に向かって走った。

“一週目”。
 自分は何を想って走っていただろう。多分、きっと、恐らくは、単純に、リンダという女性のことが気になったからだ。いや、グリースもだ。
 あのときの自分は、やはりまだまだこの世界のご都合主義的部分をふんだんに満喫し、数日前に“自分たちとは別のパーティ”の邂逅シーンに邂逅し、“確定している7人”を知らなかったがゆえに、同年代の旅の魔術師という存在に敏感になっていたのだろう。

 そこにきて、リンダやグリースといった、ユニークな人たちに出逢えた。
 彼らの属性を―――聞きそびれたことは、円柱以外にもあった―――知らなかったアキラは、ふと、それが気になったのだ。
 だから、軽い気分転換のつもりで、しかし、依頼をサボることのないよう大急ぎで。自分は崖側へ走った。

 だが、今は、違う。

「―――、」

 頭に響く僅かな痛み―――“記憶の解放”。
 完全には至らず、古びた映画のように荒れた画像が脳裏に浮かぶ。

 自分は、崖で、何かを見た。
 そしてそこでの出来事は―――ほとんど勘だが―――看過できないものであったはずだ。

 脳裏に浮かぶは、あまりに奇妙な感覚。
 自分は今、記憶に突き動かされている。だが、避けたいと思っていたその行動を、それこそ全力で走ってまでとりたいと感じるほどの義務感にも襲われていた。

 ふと思うのは、やはり、リンダたちとの別れ際。
 彼女は何故、あとは自分で調べるなどと―――もう出逢わないようなことを言ったのだろう。

 あらゆる不自然が整列している、この奇妙な依頼。
 そして自分という起爆剤を与えれば、恐らくあとは一直線だ。

 間違いなく、ここで、何かが起こる。

 時間は深夜。星は瞬き、風はない。
 アキラは漆黒のローブをひるがえし、全力で走っていた。

------
 読んでいただいてありがとうございます。
 …………結局、三部構成か……!! となってしまいました……。
 正直なところ、前編後編の比率を間違えたことも大きな要因です。
 【第一部】の頃は基本的に一話完結型だったというのに、一体何がどうしてこうなってしまったのか……、キャラクターが増えてくると、やはりページをとられます。
 まあともかくは、この中編、いかがだったでしょうか。
 戦闘能力について悩んでいる割には、ほぼ会話だけでこの話を過ごした悠長な主人公だったりしましたが…………、次回には動いて欲しいものです。
 あやふやな依頼の中であるために、個人的にはぼやけた部分が多すぎるような気もします。一気に書き上げたいところでしたが、流石に膨大な1話になるような気がして、ここで区切っておこうと思います。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第二十八話『その、始まりは(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:04
―――***―――

「いけそうか。……そう言ったらお前はまた拗ねるんだろうな」
「拗ねる、っていう表現は止めてくれない? 私がグリースごときに対等以下に見られているみたいじゃない」
「ならごときっていう表現を止めろ!! そして対等もダメなのか!?」

 叫び、そして口を閉じ。グリースは“準備”を続けるリンダの背を困ったように眺めた。
 淡い色の髪を1本にまとめて肩から前へ垂らすリンダのうなじが目に入り、そして浮かぶ汗も目に入り、グリースは、どこか哀しい表情を浮かべる。

 風の吹きつける“崖の上の街”―――ガールスロ。その崖側。
 グリースとリンダは街の眼下に広がる大自然が見渡せる位置まできていた。

 この辺りには商店が密集し、日付も変わる頃となると聞こえるのは野鳥の声や虫の音だけだった。
 だから“先ほどの騒ぎ”があっても、誰も姿を現わさない。

 ガールスロという街は、東は山道に生え茂る森林、西は断崖絶壁と、交通の便が著しく悪い位置にある。いくら絶景の大自然が眺められるとはいえ、これではいずれ人は離れていってしまうだろう。ここまでの高度から自然を見下ろせる場所となると限られるが、シリスティアは自然で溢れ返っている。
 だからきっと、人をこの場に集め、あまつさえ観光客さえも呼び寄せる手腕を振るい続けるこの街の貴族―――フォルスマン家は、大層な実力者なのだろう。
 その部分は、認めるべきことなのかもしれない。

―――だが特に今は、全くその気になれなかったが。

「……手伝おうか?」

 グリースはリンダにまたも声をかけた。
 だが声は、返ってこない。

 リンダは今、“準備”―――彼女の有する“武器”であるところの、巨大な円柱の設置を行っている。

 赤と金のそれぞれ2メートル近い円柱。太さが50センチはある。
 依頼の現場に赴く前にこの辺りに隠しておいたそれらを、リンダはゴロゴロと転がし、崖側ギリギリまで運んでいた。
 依頼のために渡された魔術師隊のローブの裾から顔を覗かせているのは、リンダのいつもの白いローブ。

 それを危うく踏みそうになるリンダにグリースはもう1度声をかけた。

「手伝おうか?」
「……グリースに手伝われるくらいなら、魔力使って自分でやるわ」

 いつもの、憎まれ口。
 リンダはグリースにそう返し、所定の位置に運び、円柱の中央に開いた穴に手を入れた。
 そして腰に力を入れ、身体を倒して円柱を引く。
 巨大なカブでも引き抜くように倒れ込んだリンダは、円柱を立てることに成功した。
 魔力使用時には重さを感じないというのに、生で感じたその重さは、リンダの細い腕にずしりとした感触を残す。

 あと、1つ。

「んぐっ、おっ、重っ」

 振り返ったリンダの目に、先ほどの自分のような体勢をした鎧の男が映った。

「グリース。手伝わなくていいって言わなかった?」
「…………お前には“みんな”の命かかってんだ。下手なところで疲れられても困る」

 相手から返ってきたのも、いつもの憎まれ口。
 リンダは口を尖らせる。

「んおっ」

 ゴ、と円柱が立った。
 崖に、5メートルほどの距離を開けた赤と金の円柱が設置される。

 リンダがやるより、ずっと早かった。

「…………付着したらどうしてくれるの? 主に、穢れとか。あとは、穢れとか穢れとか」
「ふちゃっ……!? 表現が生々しくなったな」

 グリースは座ったままリンダを睨む。
 鎧の男はすでに、魔術師隊のローブを脱いでいた。

 リンダは円柱を再確認し、そして眼下の大自然を眺める。
 夜の帳が落ちたそこは、まるで深い深い海のようにさえ見えた。目映い星明かりすら届いていないような、そこの、底。
 見通すことのできない闇に、リンダは僅かに震えた。
 先の見えない恐怖。それがどうしても、頭の中で先がない恐怖に変換されてしまう。

 それなのに、天は素知らぬ顔で輝いていた。
 月と星。それらは同じようで同じではない。同じく空をキラキラと輝かせるのに、何故両者を区別するのか。

 月はずっと、世界の近くに在る。星はずっと、世界の遠くに在る。
 それなのに、“この場の月”は、分からないことだらけだ。
 夜空を見上げるたび、そんなことを思ってしまう。

 生憎と、今日は満月ではないようだった。

「……大丈夫、だよ」

 いつの間にか並び立っていたグリースがそう漏らした。

「穢れが付こうがなんだろうが、お前は絶対、成功する。だから“みんな”も、信じたんだ」

 リンダは静かに目を閉じた。

 そして、呟く。

「……付くんじゃないわ。付着するのよ」
「俺今いいこと言ってるんだぞ!?」
「え、ああごめん。いいわ、続けて。それが何であれ、私頑張って感動するから。はい、スタート」
「続けられるかぁっ!!」
「わぁ、すごい。感動したわ」
「俺の剣に血液付着させてやろうか?」
「ちょっと。マゾをこじらせちゃだめよ。自分の身体は大切にしないと」
「俺も俺の武器もそういう目で見てんのか……!?」
「よ、喜んでなかったの……!?」
「さっきの『わぁ、すごい。感動した』より感情こもってる!?」
「……! あ、そういうこと……。ごめん……、その、知られたくないことだったのね。趣味は人それぞれなのに……。反省してる」
「何を愉快な勘違いしてくれてんだお前は!! …………大体、俺の武器は自分切るために在るんじゃねぇよ」

 叫んでも、すぐに静寂に包まれる。
 ここは本当に、静かな場所だ。

「……お前の敵を、切るために在るんだからな」

 その静寂さの合間。

 グリースは、声色を変えて呟いた。
 リンダは、聞こえないふりをした。

「…………成功させるわ。絶対に」

 間もなく始まる、戦闘の前に。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「シュリルング!!」

 戦闘は、その大声から始まった。

 大通りと大通りの交差路。
 広場のような空間。
 中央にこの街の貴族を模したという不気味な銅像が立つそこに、月下、2つのスカイブルーの閃光が走った。

「!?」
「なんだ!?」

 突然鋭く走り、しかし上空で旋回するように動き始めたその魔術に、貴族を狙いに来た“敵”は慌てふためく。

―――いい働きだ。

 広場の中央に立つ銅像の裏側。サクは表情を険しくさせ、腰を深く落とす。
 狙いは―――

「……!! 水曜属性の魔術師がいるぞ!!」

―――今ティアの魔術の正体を察した、あの華奢な男。

「―――、」

 銅像から現れたのが先か、それとも駆け出したのが先か。
 それすら判断がつかないほどの疾風が駆けた。

 サクは、上空を見上げる男たちの合間を縫うように走り、標的に向かっていく。
 双剣や斧やらで武装した屈強な男たちがようやく気づき、硬直するように身構えるも―――サクにとっては何もかもが遅すぎる。
 残像さえ見えるほどのサクの動きを男たちが視界の隅に捉えた頃、サクはすでに“到着”していた。

「恨みはないが―――すまないな」
「―――がっ!?」

 ドン、とみねで討ったのは華奢な男の腹部。
 サクとティアを狙った水曜属性の魔術師は、膝から崩れ落ちて倒れ込んだ。

 それとほぼ同時、上空で爆音が響く。
 用が済んだと思ったのかティアがコントロールできる魔術を相殺させたのだろう。

「う、お!?」
「い、いたぞ!!」

 遅れて、男たちが動き出す。

 やはり彼らの実力は中の下。
 サクの動きに慣れていたティアとは違い、今まで時間が止まっていたかのように動けなかったのだから。

 この一幕に、牽制さえ必要なかった。
 あとは、貴族の屋敷までの陽動を再開するだけだ。

「くっそ!! タガイン!!」
「―――!?」

 即座に離脱したサクは、背後から聞こえた声に目を見開いた。
 振り返ればサクが抜き去った男の1人が、両手を天に掲げている。

 その男は腰に双剣をぶら下げているが―――その仕草は、魔術の射出そのものだった。

「っ―――、」

 ガッ!! とサクから脇に逸れて離れて3メートル。双剣の男の魔術が地面を削った。魔力色は黄色。

 タガイン。
 それは、上空から“槌”のような魔力を落とす、サクと同じ金曜属性の―――低級“遠距離攻撃魔術”。

「っ、」

 サクは離脱しようとしていた身体を止め、男たちと向き合った。

 頬には汗が伝う。
 サクが驚いたのは、別に自分が使えない金曜属性の攻撃魔術を目の当たりにしたからではない。

 問題なのは、遠距離攻撃の使用者がもう1人いたということ。
 そしてその攻撃が、まっすぐその場から離脱したはずの自分に“掠りもしなかったことだった”。

「なんでお前らは揃いも揃ってノーコンなんだ!! 武器で来い武器で!!」

 サクが思わず叫んだ言葉を男たちは挑発と受け取ったのか、それぞれ戦闘態勢をとり始めた。
 そしてさらにサクは目を見開く。エリーのように拳をプロテクターで守っている男や、斧を持つ男は見た目通り近距離戦を行うようだが、その奥、銅像の隣。髪の長い男が、数本の手のひらサイズのナイフを取り出している。

 あれは、“投擲用”のナイフだ。

「ふっ、」

 長髪の男の仕草に、サクは地を蹴って横に走る。寸前までサクのいた位置を通過したナイフは、僅かに黄色の光を灯し、背後の建物に突き刺さった。

 彼も、金曜属性。
 そして、流石にノーコンというわけではないらしいが、武具を媒介として魔力を飛ばす―――“遠距離攻撃タイプ”だ。

「―――、」
 サクは足を止め、敵全員に睨みを利かせる。
 サクの速度に委縮した男たちは跳びかかってこそはしなかったが、臨戦態勢をさらに強めていた。

 合計、3人か。
 サクは表情には出さず、内心舌を打った。

 6人中3人が、遠距離攻撃が可能である人物。パーティとしてはバランスが良いようだ。
 その上、水曜属性の男を倒したこともあり、彼らは今まで以上に殺気立っていた。
 このまま逃げれば、今度こそ彼らは躊躇せずサクに攻撃を飛ばしてくるだろう。

 視界の隅には、何事かと2階の窓から顔を出している一般人が見える。こんな場所で、遠距離攻撃を乱射させるわけにはいかない。

 こうなれば、もういっそのこと―――

「―――すまないな。アキラ、エリーさん」

 サクは愛刀を掴む手に力を入れ、さらに視線を鋭くした。

「どうやら陽動は、失敗したようだ」

 僅かな建物損壊くらいは、大目に見てもらおうか。

 ブ、と。風の切れるような音と共にサクは駆け出した。
 狙いは構える男たち。
 こうなれば、もっとも安全に街を救う方法は、敵を即座に全滅させることだろう。

「くっ、はっ!!」
「―――、」

 敢えて斧の男に詰め寄ったサクは、斧が振り下ろされると同時に離脱した。
 その鈍い動きに、一瞬みねで打ちすえてやろうかと思ったが、鎧のような筋肉を纏う男相手を一撃で昏倒させるのは難しい。
 斧の男の元からさらに加速し、サクは男たちが群がる中央に突き進む。

 最初の狙いは最奥。
 先ほど自分にナイフを投げた、長髪の男だ。

「―――!!」

 疾風のようなサクに標的とされていた長髪の男。
 その男の前に、双剣の男が現れた。

 サクの動きをようやく“異常”と捉えたのか、まだ距離があるにも関わらず双剣の男は身構える。双剣が直感的に覚えた“異常”通り、瞬時にその場に到達したサクは、構わず愛刀を抜き放つ。

 ギンッ、と鋭い金属音が響いた。確信して放った刃での一閃は、同じ黄色の武具に受け止められる。
 やはり、硬い。

「―――シュリルング!!」

 サクと男たちの交戦から僅か遅れ、脇の道からスカイブルーの閃光が再び射出された。
 光線の1つは男たちの間を縫うように走ったと、双剣の男の脇腹を打ち据える。

「ぎ―――!?」

 バンッ!! と爆ぜたその一撃に、双剣の男は子供が投げた人形のように吹き飛ばされた。

 やれ、と言ったのは自分だが、思った以上に容赦がない。
 攻撃を止められた直後に離脱していたサクは、転がり回ってようやく止まった双剣の男を視界から追い出し、もう1度自らの標的に照準を合わせる。

 ここで全滅させると決めたが、やはり優先対象は、遠距離攻撃の担い手。
 残り1人となった、投げナイフを使う長髪の男だ。

「わっ、わわっ、もう1個が!!」

 再び、破裂音。
 脇道の影から漏れた声の主が操り損なったのだろう―――双剣の男を狙わなかったもう1つのスカイブルーは、銅像の台座に鋭く突き刺さった。

 だがここにきて、アルティア=ウィン=クーデフォンは最大級の働きをした。
 足元を吹き飛ばされた銅像は、長髪の男に向かって倒れていく。

 目の前で双剣の男が吹き飛ばされたことと、真横から倒れ込んでくる不気味な銅像。
 2つの要素で、長髪の男は―――“この場で最も警戒しなければならない相手”から注意を背けた。

 他の男たちは常軌を逸した速度の戦闘についてこられない。

「―――!?」

 長髪の男が目を見開く。
 サクが地を蹴る音に反応しても、もう遅い。

 決まる。
 サクがそう確信し、愛刀を抜き放とうとした―――しかしその刹那。

「そこまでだ!!」

 鋭い怒号が、広場に響き渡った。

―――***―――

「……、な、なんだよ、これ」

 全力疾走の代償に高ぶった鼓動が収まった頃。
 ヒダマリ=アキラは、目の前の物体にようやく言葉を吐き出せた。

 別れ際のリンダの様子が気になり、ガールスロの崖側に向かったアキラは、その直前。

 “ドアが外側から損壊している木造の小屋”を発見した。

「……、」

 アキラは慌てて懐から地図を取り出す。
 ガールスロの崖側を描いたその地図は、同時に、今夜貴族が隠れ潜む地点がマーキングされている。

 やはりと言うかなんと言うか。
 閉店時刻を過ぎた商店に囲まれた、倉庫のような―――この損壊しているこの建物は。

 地図上では、はっきりと印が付けられていた場所だった。

「……、」

 アキラは恐る恐る、損壊したドアに近づいた。
 熱い身体から噴き出した汗は、魔術師隊のローブの下に着ている服が吸い、鬱陶しい。
 しかしそれを心の隅に押し込めて、アキラは息を殺す。

 ゆっくりと、砕けたドアからの侵入。
 アキラは必死に、“嫌な予感”を頭から押し出そうとした。

 ここは、貴族が潜伏している場所。
 ここは、貴族嫌いのリンダとグリースが向かった場所。

 このドアの損壊を戦闘の証と捉えれば、この先に何があるのか―――だからアキラは、必死に“嫌な予感”を頭から追い出そうとしていた。

「……、」
 侵入し、目を凝らす。
 昼ならば奥まで見渡せそうな狭い小屋の中は、埃の匂いが染みついていた。
 一寸先は闇、とまさしく表現できるその室内で、アキラは気配だけを頼りに辺りを探る。

 だが、木箱のシルエットがいくつかぼんやりと見えるだけで、何も分からなかった。

「……、」
 部屋の中に人の気配を感じなかったアキラは、慎重に、右手を前にかざす。
 そして、魔力を流していった。

 かつて“最強の力”が宿っていた右手から漏れたのは、オレンジの淡い光。
 昼夜を反転させるかのように輝くその光が部屋を満たしていく。

「……?」

 やはり誰も、いなかった。
 部屋の奥には木箱が山積みになり、いくつかの木材が角に立てかけられている。
 天井には、豆電球のようなマジックアイテムが紐でくくられ粗雑にぶら下がっているが―――無人。

 そして、それどころか、争った跡さえなかった。
 入口のドア以外、この小屋には、何の被害も出ていない。

「……、」
 アキラは小屋から再び慎重に出る。静寂に包まれた闇夜の中、外の風が爽やかに頬を撫でた。

 そして、頭を働かせる。
 今、このガールスロに何が起こっているのか。

 ドアを破壊したのは誰だ、という問題はこの際置いておこう。
 それがリンダであれ、グリースであれ、他の誰かであれ、アキラが今抱えている最大の疑問には直接影響しない。

 問題なのは―――

「……いない」

 “貴族はどこだ”。

 再び地図を取り出して確認してみても、場所はここで間違いない。
 ならば貴族は、襲撃を受けたことになる。
 だからアキラは、不謹慎にも貴族が無残に殺されている光景を想像し、それを頭から追い出そうとしていたのだ。
 だがそれは何の意味もなさないほど―――小屋の中では何も起こっていない。下手をすれば、誰も中に入っていない可能性があるほどに。

 住宅地から離れているゆえか騒ぎにはなっていないが、その静けさが疑問と重なり、アキラの中で不気味な感覚を育たせ続ける。

 不審な依頼。
 不審な引受人。
 そして、貴族の現在地。

 分からないことだらけだ。

 総てが複雑に絡み合い、闇は微塵にも晴れそうにない。

「……、」

 だが、アキラは足を進めた。

 矛盾した依頼。
 矛盾した引受人。
 そして、地図とは異なる貴族の現在地。

 頭の中に存在する、矛盾した情報群。

 だがアキラはそれらを整理せず、まっすぐに崖を目指す。

 今は、考えなくていい。
 何せ―――“記憶の封が解けかかっている”。

 事態は掴めていないが、思い出したことがあった。

 “一週目”。
 自分はここで、魔力を有する人の気配に敏感になったのだ。
 少なくとも、静まり切った夜の中、魔力を発動させている人間の位置を察せる程度には。

 そして、今アキラが察したその場所で、謎が解けるという事実を。

 だから。

「…………ドアやったの、お前か?」

 アキラは素直に、その場所に赴いた。

「……」

 振り返った彼女は、既に純白のローブに戻っていた。
 赤と金の円柱の中間、足元には丁寧に畳んだ魔術師隊のローブを置いて。

 リンダ=リュースは、崖の上に、立っていた。

 そして、アキラの登場に僅か驚いたような表情を浮かべ、しかし冷静な瞳をすぐに呼び戻して、こう返す。

「ええ、そうよ」

 この奇妙な夜の―――解決編が始まる。

―――***―――

「……“この街の、魔術師隊の隊長の名前は何だ”?」
「? 何を言っている。隊長は私、シグラス=ドーグンだ。いいから大人しくしていろ」

 襲撃してきた男たちの問は、突如現れた“魔術師隊のローブを纏った”男たちに封殺された。
 それらを聞いて、サクは瞳を鋭くさせる。
 また、先ほどの問。
 貴族を狙う“敵”であるたちの男たちは、一体何を考えているのか。

 サクが残った遠距離攻撃の使い手―――投げナイフを有する長髪の男に攻撃を加えようとした、その寸前。
 現れた4人の男たちは、広場を取り囲むように展開した。

 そののち、サクたちの元に歩み寄ってきたのは最初に声を張り上げた男―――シグラス=ドーグン。
 中年のようだが髪を剃り上げているせいか小ざっぱりとした彼が、この集団―――ガールスロの魔術師隊の隊長のようだ。

 だが、その魔術師隊が、何故自分たちにここまで険しい表情を向けているのか。
 自分は魔術師隊のローブを纏っているのだから、確かに不審者に見えるだろう。
 しかし、当然オベルトが話を通しているはずだ。

 そうでなければ―――見つかる機会はなかったが―――発見された途端に検挙されてしまう。
 彼らは、“味方”のはずだ。

「お前もか?」
「…………いいえ。あっしはただの通行人Aです。月光浴びるとオオカミになるので物陰に潜んでいただけです。あっ、満月じゃないっ!?」
「いいから来い!!」
「わっ、わわわっ!? 月光がっ!! がっ、がおぅ……、じょ、冗談ですっ、ごめんなさいごめんなさい!! サッキューンッ!!」

 ティアが魔術師隊の1人に影から広場に引きずり出された。
 魔術師隊の剣幕に委縮し、震えながら駆け寄ってきたティアを、サクは冷めた瞳で僅かに睨んだ。
 サクの眼力に、ティアはさらに小さくなり、騒がしい口をようやく閉じた。

 だが、ティアが黙り込んでも状況は依然不明。

 目の前にいる魔術師隊の隊長とやらも、未だ警戒心をむき出しにしていた。
 もしサクが刀を収めるのが僅かにでも遅れていたら、魔術師隊との戦闘が勃発していただろう。
 “敵”の男たちも、サク同様に、事態がつかめていないような表情を浮かべている。

 不審が付き纏った今回の依頼。
 これは、その解決の序章なのだろうか。

「さて。確認するまでもないが……、街で騒ぎを起こした旅の魔術師。それは、お前たちで間違いないな?」

 彼らは通報を受けてこの場に現れたのだろうか。
 隊長のシグラスは睨むように全員に視線を走らす。そして、サクとティアの服を視界に収め、さらに眼力を強くさせた。

「まず、第一に、お前たちだ。貴様らその服、どこで手に入れた……!?」
「ちょっと待ってくれ!!」

 シグラスの言葉に、旅の魔術師の1人である長髪の男が口を挟んだ。
 その言葉に、シグラスは虫でも殺せそうなほどの殺気を飛ばす。
 どうやらここの魔術師隊の隊長は、シリスティアの風習に色濃く染まった、“旅の魔術師嫌い”であるようだ。

「何で俺たちまで睨まれてんだよ!? 早くこいつらの手当てしないといけないのに…………、くそ、そっちに“連絡がいっているはず”だろう!?」

 “敵”の男たち全員が、首を縦に振る。
 拳にプロテクターを付けた大男など、サクが倒した水曜属性の魔術師の額に手を当てながら、だ。
 サクに僅かな罪悪感が生まれたが、しかしそれ以上の疑問がそれを押し流す。

 彼らは一体、何を言っているのか。

「何を言っているのか分からんが……とにかく、ここにいても始まらん。全員、魔術師隊の支部に―――」
「待ってくれ。そこのお前。今のはどういう意味だ?」

 サクは、シグラスの言葉を遮った。
 再びシグラスから殺気交じりの睨みが飛ぶが、サクは無視して話を促す。
 シグラスが自分たちの服装について何も知らない風なのも気になるが、まずは、最も疑問の強いこの“敵”から話を聞きたかった。
 いつしか集まってきている住人たちの面前で検挙されるなど、屈辱以外の何物でもない。

「そ、それは、」

 長髪の男は、未だサクを警戒しているのだろう。
 しかしサク同様疑問が強いのか、おずおずと言葉を続けた。

「俺たちは、キールスロで“依頼”を請けたんだ。そ、その、内容は、」

 キールスロは、この山の麓の村だったと思う。
 ガールスロの集客力の恩恵を受け、細々と生き残ってきた、小さな小さな村。

 そこで“依頼”を請けたと言う長髪の男は、視線をサクとティアに走らせながら、言った。

「今夜、この街に“魔術師隊でもないのに魔術師隊のローブを着ている魔術師がいる”。そいつらを、討伐してくれ、って」
「……、は?」

 サクは耳を疑った。
 何せ、実際に“魔術師隊でもないのに魔術師隊のローブを着ている”人物なのだから。

「それで、街の魔術師隊と見分けるために、“合い言葉”を聞いたんだ。そっちにも連絡がいっているはずだ……!!」

 長髪の男は、シグラスに懇願に近いような視線を向けた。

 “合い言葉”。
 それは、先ほどの魔術師隊の隊長を聞く問いかけのことだろうか。

 だがシグラスは、長髪の男の言葉に怪訝な表情を浮かべるだけで、言葉を返さなかった。
 どうやら連絡はいっていないらしい。

「だから止めようって言ったんだよ!! そもそもこの街で、そんな問題の依頼を旅の魔術師に任せるわけないじゃねぇか!!」
「お、お前だって多額の報酬に釣られてたじゃねぇか!! 何が大きな仕事だ!!」

 小競り合いを初めた旅の魔術師たちに、シグラスは怪訝な表情を浮かべながら、1歩近づいた。

「……ちなみにお前たち。依頼書はあるか?」
「え? あ、いや、な、無い」
「無い、だと?」
「おかしな依頼だったんだ!! 依頼人も分からないし……。で、でも、引き受けてくれるなら報酬が半分前払いってことだったし……、嘘じゃない!! 今すぐキールスロに確認取ってくれよ!!」

 シグラスの瞳には、僅かな信頼も映っていなかった。
 サクも同時にいぶかしむ。依頼書が無い依頼など、サクは聞いたこともない。

「お前たちの言い分は確認を取るとして……、何の偶然か、私たちにも似たような話が来ている」
 シグラスは、旅の魔術師たちの口を閉じさせるように、芯の強い口調で言葉を発した。
 偶然、という表現は、やはり旅の魔術師たちを信用していないようにしか聞こえない。

「昨晩ここ、ガールスロで、……奇妙な人影を見た、というものだ」

 “奇妙な”。
 その表現は、どこかで聞いたことがある。

「その人影は…………魔術師隊のローブを着ていた、らしい。断じて、魔術師隊ではなかった、とのことだ」

 また、どこかで聞いたことのあるような表現。

 シグラスの視線が完全にサクとティアに向いた。
 ティアはサクの背後に隠れるように縮こまる。

「だから私たちは目撃があった場所を巡回していたのだが……、ここに現れたようだな」

 それが、両者の言い分か。
 シグラスの視線を受けながら、サクは情報を整理する。

 どうやら“敵”ではなかったらしい旅の魔術師たちは、“魔術師隊でもないのに魔術師隊のローブを着た人物”を討ちにここに現れた。
 どうやら“味方”ではなかったらしい魔術師隊たちは、“魔術師隊でもないのに魔術師隊のローブを着た人物”を討ちにここに現れた。

 それぞれが、奇妙な情報を元に、だ。

「……連絡と言えばこちらもそうだ」

 男たちへの追及を諦め、サクはシグラスに向き合った。
 背後でティアが、こくこくと頷いている。

「私たちは今夜、“賊”が来ると聞いていた。依頼書は、宿まで来てもらえばある」

 言って、サクは何故か、その証拠が存在しないような気がした。

 魔術師隊に扮するように念を押されたらしいエリーが、宿に依頼書を置いていくところは確かに見たが、妙な悪寒が付き纏う。

「……依頼書が無くとも、証人はいる」

 サクは、疑念を口に出し、解消した。
 が、さらなる悪寒が膨れ上がる。

 この、奇妙な依頼。
 これはまさか、“そういうこと”なのだろうか。

「……貴族のサッシュ=フォルスマンに連絡を取ってくれ。いや、執事長のオベルト=ゴンドルフでもいい。私たちは、彼らに魔術師隊に扮するように言われたのだから」

 サクの言葉に、シグラスは一瞬止まり、その後、目を狭めた。
 まるで、“吐くならもっとまともな嘘を吐け”とでも言うようなその表情。

 そこで、サクの悪寒は的中した。

「笑わせるな。あのお2人が旅の魔術師なんぞに依頼を出すわけない。そもそも、“そんな紛らわしい真似”をさせるとでも思うか?」

 口ぶりからして、シグラスは、貴族嫌いではないようだ。
 この街の魔術師隊は―――あの2人のことだ―――とっくに懐柔済みなのだろう。

 サクたちが請けた、依頼。
 旅の魔術師たちが請けた、依頼。
 魔術師隊が請けた、依頼。

 奇妙に入り混じった、矛盾だらけのそれらの依頼―――その情報源。

 それが、

「不審者を見たと言い出したのはサッシュさんとオベルトさん。人数の少なくなった私の隊に負担がかからぬよう、巡回経路まで設定してくれたのだからな」

 “貴族”という一点で、繋がった。

―――***―――

「ねえアキラ。“未来を視たことがある”?」

 彼女は、そんなことを口に出した。
 アキラは、何も答えない。

 一向に繋がらない今夜の情報で混乱していることもあるが、“その問いだけには”、アキラは答えるわけにはいかなかった。

 2メートル近い円柱に挟まれ、彼女は―――リンダは、言葉を続ける。

「私は、精度も低いし、完璧には分からないけど……、少しだけ分かることがある。主に、天気とか。あとは、危険な魔物の出現時刻とか―――“今夜貴族絡みの依頼が発生することとか”、ね」

 風を受けたリンダの純白のローブがたなびく。
 円柱の狭間に揺れる白をおぼろげに捉えながら、アキラは慎重に口を開いた。

「今夜の依頼、お前は知ってたのか?」
「……半分、ね。貴族が護衛の依頼出す、ってまで。驚いたわよ。まさか“襲撃しようと思っていた日にそんなことをし出すなんて”」

 襲撃、と聞いて、アキラの中の矛盾は、1つだけ解けた。
 貴族嫌いのリンダ。彼女がこの依頼を請けたのは、貴族の動向を知りたかったからだ。

 リンダを信じたかった、という青臭い感情を、アキラはとっくに捨てていた。
 奇妙な言い方かもしれないが、彼女は貴族を狙っていた方が、しっくりくる。

「でもその先読みも、最近ダメ。数ヶ月前からかしら? 妙な“ノイズ”が混じるのよ。毎日毎日試して見て、辛うじて成功できたのは、さっきの依頼のことだけなんだから」

 数ヶ月前。
 その言葉に、アキラは僅か、身体を震わせた。
 その時期に、自分はこの世界に落とされたのだ。

「おかしいわよね。ノイズは前からあったけど、最近は酷過ぎる。天気から何から、全部分からなくなっちゃった。どうしてだろうね?」

 “一週目”。
 アキラはこの話の前半部分を、聞いた覚えがある。
 あのとき彼女は、この依頼の件だけ、先が分からないと言っていた。

 だが今は、総てが分からないと言う。
 その原因は、アキラには心当たりがあった。

 今のこの世界は、彼女が描けたはずの絵を、上から何度も塗り潰しているのだ。

「私さ、“その力”で、ずっと“みんな”の役に立ってたの。だけど、こんなんじゃ……。だから今回は面目躍如。変わり始めたシリスティアを否定する、傲慢な貴族を討つんだから」
「…………貴族は、どこだ?」

 “一週目”のプロセスを、解けかけた記憶で飛び越え、アキラはリンダに問いかけた。
 “先読み”などという、彼女の非現実的な話を、今なら総て理解できる。

 そんな“不可能を可能にする属性”には、心当たりがあり過ぎた。

 リンダは、もっと驚くかと思った、と加え、静かな口調で答えを風に乗せる。

「いなかった。それが、答え。言ったでしょ? 貴族は信用しちゃいけない、って」
「お前も信じたから、あの小屋攻撃したんだろ」
「あれは、一応、よ。手早く済むなら、それ以上はないもの」

 そしてリンダは、アキラの紐解けた記憶の中の答えを―――今夜の奇妙な騒動の答えを、口にした。

「奇妙な光なんてデマ。大方、私たちに魔術師隊のローブを着せて、街の魔術師たちに検挙させたかった、ってところかしら」

 それにもう1つ上乗せされていることをアキラは知っていたが、わざわざ訂正しなかった。

「あいつらの目的は、“旅の魔術師が騒動を起こしたっていう事実”。“魔術師隊のローブを盗み出した”、なんてことがあれば、シリスティアの旅の魔術師を受け入れる体勢が崩壊するかもしれない」

 アキラはリンダの足元の、綺麗に畳まれた漆黒のローブに視線を走らせた。

「あいつらから渡された、って言っても、貴族は知らぬ存ぜぬで通すでしょうね。依頼書も、多分、盗まれてる」

 それが、今夜の騒動の答えなのだろう。
 サッシュ=フォルスマンは、自己の“反旅の魔術師”の活動を強めるべく、“その事実だけ”が欲しかった。

「……貴族は、本当は別の場所に隠れてる、ってことは?」
「ないわ。探してないと思ったの?」

 リンダたちが遅れたのは、ある程度調査をしていたからのようだ。
 大分解けてきた記憶の封が、リンダの言い分に説得力を持たせる。

 この夜。
 自分たちは、貴族に騙された。

「ほんっとに交渉力があるわ、あいつら。奇妙な光? なにそれ。話の種なんて何でもいい。適当に考えたようなことが何であれ、相手を説得させられるんだから」

 貴族に騙された、と記憶は言っている。
 しかし、その交渉力とやらのせいか、アキラは未だ、リンダと貴族を天秤にかけていた。

 あれほどの熱意を見せられたのだ。嘘偽りであったとは思えない。

「アキラ、無理よ。あの2人の嘘を見抜くなんて無理。2人揃ってれば、それぞれ役割を決めて相手を落としにかかるんだから」

 リンダは、瞳をさらに冷えさせる。
 アキラの脳裏に、一見気弱だったサッシュが、聡明そうなオベルトを黙り込ませたあの、最も印象深い光景が即座に蘇った。
 全部が全部、演技だったとでもいうのだろうか。

「だから私は決めてるの。貴族が何を言っても、信用しない、って」
「……どうして、そんなに貴族を嫌ってるんだよ」

 天秤は、中途半端な位置で止まった。
 それを記憶だけに頼って傾けることを嫌い、アキラはリンダに疑問を投げる。

「旅の魔術師が貴族を嫌う理由なんていくつもあるわ。“しきたり”に反しているって言う人もいるし、旅の魔術師を小馬鹿にしているって言う人もいるし。…………私の場合は、その権力で被害をまき散らしていることよ」
「被害……?」

 リンダは、視線を足元に落とした。
 そこでは、漆黒の魔術師隊のローブが丁寧に畳まれている。

「2年前の“魔術師試験”。私が受けたその試験の監督は、貴族の色にどっぷり染まった魔道士だったわ。私、生まれが貧しくてね。本当に不運。必死に受験費用を稼いで受けたってのに、“地位”が無いっていう“ただそれだけの理由で落とされたんだから”……!!」

 漆黒のローブが、風に乗って揺れていた。

 彼女は、魔術師試験の経験者。
 思えば、昼にアキラが“詠唱”の勉強をしていたとき、彼女は即座に魔術師隊の勉強ではないと看破していた。

「お前……、それ、お前が合格点に届かなかったからじゃねぇのかよ……?」
「合格点に届かなかった? 笑わせてくれるわ。“そんなわけないじゃない”」

 リンダは、確信を持った瞳でアキラを睨んだ。

「私、先が視えるって言ったわよね」
「……! まさか」
「ええ、たまたまだけど、視えたのよ。試験問題。本番も、その“予知”通りだった」
「そ、それ、カンニングじゃねぇか」
「自分の力で得た情報よ。そもそもそういうところから、試験は始まってるようなもんじゃない」

 リンダの言い分に、アキラは納得できなかった。
 そんなことで、貴族を恨んでいるとでもいうのだろうか。

「周りの人は、そういうこともある、って言ってくれたけど……、逆にそれが痛すぎて、私は許せなかった。どうしても、貴族が。どうしても、どうしても……!!」

 リンダの様子に、アキラは僅かに背筋が凍った。
 リンダが魔術師試験にどれだけの想いをかけていたのかは知らない。
 だが、その取り乱しようは、見覚えがある。

 “一週目”には、情報整理に躍起になって、気づきもしなかった。
 しかし今、現在アキラの最警戒対象になっている“その存在”の影が、脳裏にちらつく。

「お前……。魔術師試験に落ちたとき、“囁き声”を聞いたんじゃないだろうな……!?」

 リンダが、いぶかしむような視線を向けてきた。
 だが、アキラは震え続ける。

 かつて。ウッドスクライナという村に訪れたとき。
 こんな疑念を持った記憶がある。
 “あの魔族”は、同じようにいくつもの村に出現しているのではないか、と。

 もしかしたら、リンダのいた村は、その被害を受けていたのかもしれない。
 考え過ぎだろうか。

「……覚えていないわ、そんなの。でも、“みんな”に逢えたのは、そのすぐあとよ」

 リンダはそう言って、視線を崖に向けた。

 “みんな”。
 再び聞いたその表現に、とある“魔族”を頭から追い出し、アキラはゆっくりとリンダに近づく。
 とにかく今は、目の前の事件だ。

 大胆にもまるで無警戒なリンダに立ち並び、アキラは慎重に崖を見下ろす。

「……、……!!」

 アキラは、目を見開いた。
 漆黒の闇を溜め込んだ、崖の下。数百メートル下方向。

 そこに、赤い光が僅かに見えた。

 中央に、大きな光。
 そしてそれを囲うように、点々と、点々と、点々と、同じく赤い光が大量に見える。

 巨大な光源―――ようやく分かった。あれは、たき火だ―――の近くでは“うごめく黒い影”がいくつも見えた。
 たき火を囲う赤い点は、光源の役割を果たすマジックアイテムだろうか。
 数は、10や20では収まらない。

 まさか、あれが、

「“みんな”、よ。“反貴族の旅の魔術師”。貴族がどんな謀略練ってようと、私たちは数で押し潰せる」

 アキラはぞくりとした。
 いくら数がいようと、ここはガールスロの“入り口”とは反対側。何ら危険ではない。

 しかし、リンダがここで行おうとしていること。

 “あの力”が、“彼女の属性”にあることをアキラは知っていた。

「私が“みんなを引き上げて”、ガールスロを制圧する。革命よ、これは」

 リンダははっきりと、言い放つ。
 この場所を選んだのは、“入口”は警備が堅い可能性があると判断したためだろうか。

 アキラが泳いだ視線を向けると、リンダは静かに微笑んだ。

「そ、そんなことしたら、今度こそ本気で、旅の魔術師が騒動を起こしたことになるぞ……!?」
「サッシュとオベルトの“口が無くなれば”、固まりつつある方針が一気に覆されることはない」

 リンダの意思は、もう動かない。
 “あの魔族”に操られたか否かは分からないが、彼女は今や迷わぬ瞳で今夜の目的だけを見ている。

「ねえアキラ。私たちと一緒に来ない? 結構息合ってたじゃない」
「……それは、貴族を殺す、ってことか?」
「……ええ。正直、貴族に騙されて面白くないでしょ? 最悪、目を瞑ってくれると嬉しいんだけど」

 地位が無いという理由で、魔術師試験を落とされたというリンダ。
 旅の魔術師という理由で、貴族に騙された可能性のある自分。

 殺すとはいかないまでも、貴族を痛い目に合わせたいという感情は、僅かに芽生えている。

 だが、それでも。

 “それが関係ないと、アキラは確信を持って言える”。

「ふざけんな」
「……そう、残念」

 彼女との会話は、確かに楽しかった―――が。

 リンダ=リュースとは、たった今、決別した。

「―――!?」

 その瞬間、背中全面に殺気が突き刺さった。
 アキラは反射的に、リンダの元から離脱する。

 たった今、自分が立っていたその地点。
 赤と金の、2つの円柱のその中間。

 第三者が、この場に現れた。

「……交渉は決裂か?」
「ええ」

 アキラのいた位置に、両刃の長剣を振り下ろした鎧の男は、視線をアキラに向けてくる。
 どうやら自分は、必然的に、もう1人とも決別する必要があるようだ。

 その瞳は、先ほどリンダにからかわれていたときの“日常”から、戦闘用のそれに完全に変わっている。
 目的が離反した今、彼らにとって、アキラは単なる障害でしかない。

「さてと。―――ぶっ殺すが、構わねぇな?」

 鎧の男―――グリースに、アキラは剣を抜くことだけで応えた。
 奇しくも依頼通り、“貴族護衛”。

 アキラはグリースと相対する。

「リンダ。始めろ」
「命令口調は止めてよね。グリースのくせに生意気よ」

 変わらぬ2人。
 アキラは、彼らという存在に、貴族嫌いが完全に染みついていることを本当の意味で悟った。
 あのときの和やかな会話など、アキラと彼らの道が、僅かに交差したに過ぎない。

「―――、」

 アキラと対面するグリースの向こう、リンダが魔力を円柱に流し始めた。
 あれは術者の魔力を補助する役割でもあるのだろうか―――赤と金の円柱は、闇夜に映えるイルミネーションのように、煌々と輝く。

 闇夜に映えるその幻想的な色は―――“シルバー”。

 崖という、街の入口にはなり得ぬ場所を、入口に変える。
 そんな“不可能”は、あの色の前には無意味だ。

 リンダの属性。
 それは、“魔法”という概念的な存在を、“魔術”に落とし込むプロセスさえも飛び越えるもう1つの属性。

 それは―――

「“外部影響を遮断する”。時には吹きつける暴風を、時には撃ち落とされる暴雨を。そして時には万物総てに共通する重力さえも遮断して―――月輪のように対象を浮かび上がらせる」

 “異常”を“異常”のまま操り―――“不可能を可能にする属性”。

「始めるわよ。月輪属性大魔法―――フリオール」

“――――――”

 運が悪くて、運が良くて、運が悪かった。

 リンダ=リュースという存在の過去に対して、リンダ自身が色を塗るなら、黒と、白と、黒を順々に選ぶだろう。

 まずは、生まれ。
 他の大陸からは、裕福な者が多いと言われるシリスティアだが、その裏返しに、大陸内での貧富の差は大きい。
 貴族を筆頭に、貴族の恩恵にあやかった者、貴族から賄賂を貰った魔道士隊や魔術師隊、その恩恵にあやかった者、変わらずプライドの高い魔道士隊や魔術師隊、という順に、シリスティアでの裕福さは―――“国”は例外だが―――決定する。

 他の大陸から見れば、“裕福者”の席が増えているように見えるのだから、確かにシリスティアは恵まれているのだろう。
 実際、そういった面も確かにある。

 だが、その席に座れなかった者。そうした者たちは、“裕福者”が操る時代の波にのまれていくだけだ。
 国の政策ゆえか、物価の急上昇という事態は防げているが、座れなかった者たちにしてみれば気が気では無い毎日が続いていく。

 “高貴”と言われるシリスティアの、その裏。
 そこに、リンダは生まれた。
 両親を悪く言うわけでもないが、やはりそれは、運が悪かったのだろう。何しろ自分は、自分たちの生活で手一杯の両親に、あまり歓迎されていたようではなかったらしいのだから。

 次は、属性。
 自分が発した魔力の色が、銀に輝いたとき、リンダの世界も輝いた。
 その、あまりに希少なその力。これはきっと、“席”に座れるチャンスになる。
 リンダはそれをものにするのに躍起になった。
 何しろ、昨日使った魔法を、今日の自分は思い出せない。あまりに概念的なその力は、まさしく月光のように掴むことができないのだから。
 僅かでも予断を許せば、あっという間にこの手を通り抜けてしまう。だから、必死に、必死に、その手を離さなかった。

 そして、奇跡的に掴めたものが、何よりの幸運。
 自分が、魔術師試験を受けている光景が、確かに視えたのだ。
 “時”を操ると言われる月輪属性の、“未来予知”。
 その発動は、リンダが“席”に座れることを確かに約束していた。

 次は、試験監督。
 魔術師試験の総まとめを行う、高貴な血筋で、気高い、貴族の毒に染まった魔道士。
 酷過ぎる、と思った。
 “席に座るためには席に座っていなければならない”という、そのあまりの結果が。

 リンダの試験の結末に、両親をはじめとする周囲は、しかし食い下がった。月輪属性ならば、まだ機会はある、と。
 だが、リンダは同時に悟った。彼らも“席”に座りたいのだ。末端でもいいから、リンダの恩恵にあやかって。
 それに対し、リンダは鬱陶しさよりも、重圧を感じた。
 きっと彼らは、もし次自分が落ちても、リンダという船に乗り続ける。
 自分たちで活路を開くことを捨て、月輪属性という看板の付いたリンダに何度も賭けてくるのだ。
 月輪属性は希少ではあるが、むしろそれゆえに使いこなすのが容易ではないというのに。

 リンダはそこで、何となく、こんなことを思った。
 もしかしたら、月輪属性そのものは希少ではないのかもしれない、と。
 希少なのは、“月輪属性の魔術師”だ。
 月輪属性でありながら大成できるのは、周囲の盲目的な期待を総て受け止め、先の見えない道を突き進むことができる―――強く、強く、強い人。
 そうでない人物は、“魔術師”になることを捨てるのかもしれない。

 そんな、とき。
 リンダが、魔術師試験の結果に絶望していたとき。
 リンダが、周囲の期待に押し潰されそうになっていたとき。
 リンダが、小さな小さな“囁き声”を頭の中で聞き始めていたとき。

 自分よりも、もっと“席”から離れた1人の男に出逢った。
 孤児で、孤独で、リンダが知る誰よりも、シリスティアの底にいるようなその男。
 彼の過去は、黒一色だった。

 それでも、欲に塗れた瞳をギラギラさせている両親たちと違って、どこか輝いて見えたのをリンダは覚えている。
 リンダの話を、彼は自分のことのように憤慨し、何度も頷いてくれた。
 どうやら彼も、貴族嫌いだったらしい。

 憎たらしいことだが、多分自分は、彼に救われたようだった。

 そして、両親から逃げるように家から飛び出し、彼との旅が始まり、同じく貴族に反発している集団に合流する。
 自分たちと同じ悩みを持つ“みんな”との邂逅は、一気に世界が広がったように見えた。
 世界には、白と黒以外の色があったのだ。

 志は、シリスティアの未来のため―――“打倒貴族”。
 集団心理か、その想いは強く強く固まっていく。
 今はもう、過激なことも辞さないほどに、貴族を討つことをリンダは欲していた。

―――ただ、願わくば。

 自分たちのあとには、誰にも続かないように、と。

―――***―――

 剣同士の戦闘において、そこには必ず“間合い”というものが存在する。
 アキラは、自らの剣の師にそう教わった。

 敵の攻撃範囲から完全に離れていれば、例えどれだけ体勢を崩していようと、例え視線を外していようと、次の瞬間攻撃されていることはない。
 その一方で、当然、自分の攻撃範囲というものもある。
 体勢を崩していれば自分の間合いは縮まり、視線を外していれば最悪間合いは消滅してしまう。

 間合いとは、自分を囲う球体のようなものだ。
 “自分が即座に攻撃できる範囲”。
 その球体は戦闘時の態勢や視線に依存し増幅と縮小を絶えず繰り返し、歪に形を変えたりする。
 自分も、相手も、同じルール。

 だから戦闘を有利に進めるには、相手の球体の外から自分の球体を届かせる必要がある。
 相手の攻撃が放たれる前に、自分が攻撃を放てば通常有利となることは―――あまりに単純過ぎて説明するまでもない。

 そしてその球体―――間合いを巨大にさせ続ける方法。
 例えば、絶えず体勢を崩さなければ安定した攻撃射程を保ち続けることができる。
 例えば、敵の動きを目で捉え続けられれば球体の形を敵に向かって鋭い槍のように伸ばすこともできる。
 そして例えば、アキラの剣の師―――サクのように、神がかった速力を有すれば、戦場総てを自己の球体で囲うことすらできる。

 そして、さらに、もう1つ。
 剣同士の戦いにおいて、相手より球体を巨大化させる方法―――いや、裏技と言っても、反則と言ってもいい。

 “剣より射程の長い武具を使うこと”。

 丁度今、グリースが行っているように。

「―――!!」

 ビジッ!! と、アキラの足元の土が弾けた。

 アキラは転げそうになりながらも、何とか踏み留まる。
 しかし視線は、グリースから外さない。

 彼の有する武具―――いや、使用する魔術は、“剣”の体を成していなかった。

「……」
 グリースは剣を再び構える。
 前へ突き出すように構えるアキラとは違い、グリースは両手で掴んだ剣を右肩に乗せるように上段で構えていた。
 切っ先を、天を突くようにしてピタリと止め、腰を落としてアキラの隙を覗っている。

 長さ、1メートル弱といったところか。両刃で、細い。
 柄は土色、刃は濁った銀色。
 武器屋でも見かける、ごくごく一般的なショートソード。

 アキラの知る、この世界で最も異質な剣―――数日前に出逢ったもう1人の日輪属性の男が有する剣とは、比べるべくもなく短い。

 だが今、天を突いているその剣の切っ先は―――剣を超越した“攻撃範囲”を演出していた。

「クォンティ」

 ブンッ、と、アキラから離れて10メートル以上の位置で、グリースは剣を振った。
 アキラは弾けるように右に走る。
 袈裟切りに近い攻撃動作からグリースが放ったのは、細い一閃だった。

 再び、バジッ、と土が叩かれ、捲れ上がる。
 アキラを襲ったのは、グリースの剣の切っ先から伸びる細い線だった。
 10メートル以上もの距離をその場から動かずに詰め、鞭のようにしな垂れ、敵を討つ。

 剣から衝撃波でも飛ばしているかのように錯覚するその一撃の色は―――スカイブルー。

「“水曜属性武具強化型”、ってか……!?」

 水曜属性。
 一般に魔術師と聞いて、最も連想しやすい魔術師タイプを追求できる属性だ。
 アキラはこれまで、ティアを代表例として、数々の水曜属性を見てきた。と言うより、今回のような複数人で請ける依頼があれば嫌でも目に入る。
 最も数の多いと言われる、水曜属性。

 しかし、目の前の鎧の男のように、武具に魔術を乗せるタイプは初めて見た。

「無駄に喋ると舌噛むぜ―――クォンティ!!」
「―――、っ!!」

 今度は、横一線。
 闇夜を切り裂くかのような攻撃が、アキラの胴の高さで振るわれた。

 剣から僅か遅れて襲いくるその鞭を、アキラは身をかがめることで辛うじて交わし、即座に体勢を立て直す。
 あの男から目を切るのはまずい。
 横に振るわれた魔術は即座に消滅し、グリースは元の構えに戻っている。
 グリースの剣は、ほのかに水色に輝いていた。

 伸縮自在なところは、流石に魔術と言ったところか。
 グリースは攻撃を繰り出し、その直後、“鞭”を収めている。

 “球体が大きい”。
 振るわれる一撃の射程は、検証するまでもなくアキラの射程を遥かに超えている。
 開けたこの場所では、彼の攻撃を阻害する要素は何一つない。

 だが、この場から離れるのは問題外だ。

「……、……」

 グリースが守る、その背後。
 リンダは目を瞑り、芸術品のようにも見える円柱に魔力を押し流している。

 現在彼女が目論んでいるのは―――“フリオール”。
 “二週目”、アキラが何度も耳にした汎用性が高く、重力さえも遮断できる―――“魔法”。

 アキラの記憶によれば、そこまで即時性に欠ける魔法ではなかったと思うのだが、どうやらまだ発動はしていないようだ。
 それとも、発動がそこまで遅れるほどの大人数をこの街に乗り込ませようとしているということだろうか。
 リンダの実力は定かではない。が、いずれにせよこの戦闘には、タイムリミットがある。

 今すぐにでもリンダを止めなければならない。
 仮に、“みんな”とやらを途中まで浮かび上がらせたときに妨害してしまえば、別の意味で最悪の事態になってしまうだろう。
 流石にそこまで非情にはなれない。

 だが。

「クォンティ!!」
 このグリースの“球体”が超えられない。

「う、おっ!?」
 再び、横一線。
 足元が狙われたその横なぎを、今度は跳ねて回避する。

 アキラを捉え損ねた攻撃が地面を弾き飛ばす様を見るに、受ければ痛いでは済まないだろう。

 グリースは今、本気でアキラを殺しにきている。

 距離は、10メートル超。
 下手に近づけば、回避する余裕が無くなってしまう。
 有している剣は、グリースには届かない。

「……やる、か」

 一刻を争う事態だ。
 下手に温存していても仕方ない。

 グリースの縦切りの一閃を転がるようにかわしたアキラは、“再定義”を始める。

 “身体能力強化というイメージを再構築”。
 “魔力による身体能力強化”を解除。

―――そして、“魔術による身体能力強化”へ移行する。

 バンッ!! とアキラは地を蹴って駆け出した。
 アキラの攻撃射程の球体が、その速度を持って大きく肥大化する。

「―――!?」

 安全圏にいたグリースの表情が強張った。
 日輪属性による、木曜属性の再現。

 魔力ではなく魔術による身体能力強化の速度は、グリースが振りかぶる間も無くアキラをその場へ運んでみせた。

「らぁっ!!」
「ちっ!!」

 グリースの舌打ちと、直後に響いた金属音。
 身体の速度そのままに突撃したアキラの一撃は、グリースの剣と火花を散らした。

「木曜属性、かよ!?」
「喋ると舌噛むんだろ!?」

 重い一撃に歪んだグリースの顔が、アキラの眼前にあった。
 しかし、グリースは一歩踏み込まれただけで、アキラの一撃を受け止めている。
 鎧を纏っても違和感ない体格のグリース相手では、身体能力強化の魔術では押し切れなかった。

 しかしそのままギリギリと、アキラはグリースを押し続ける。
 円柱に魔力を込めるリンダまで、あと僅か。

「―――クォンティ!!」
「!!」

 近距離で、スカイブルーの閃光が炸裂した。
 急激に輝いた剣に、アキラは一瞬目を焼かれ、即座に撤退する。
 目をこじ開ければ、アキラを押し切ったグリースが再び鞭を放っていた。

「う、おっ!?」

 済んでのところで避け、アキラは体勢を立て直す。
 そして、身体能力強化の魔術を停止した。やはり負荷が大きい。

「はあ……、はあ……、」
 アキラは警戒しているそぶりを見せながら、必死に呼吸を正す。
 グリースは額に僅かな汗を浮かべているも、体力的はまだまだ余裕があるようだった。

―――どうする。

 アキラはグリースの背後を盗み見る。
 リンダの円柱は、僅かに銀の光を強めていた。

 グリースを超えても、恐らくリンダとも戦わなければならないだろう。
 だが、グリースは相当な実力者だ。
 温存を考えていて超えられる相手ではない。

 “遠距離攻撃可能な剣士”。
 そんなタイプに出会ったのは初めてだ。

 アキラは、遠距離攻撃の魔術の必要性を改めて思い知った。

「……!」

 そこで、パッ、と銀の光が強まった。
 リンダの円柱の内の1つ。赤い円柱が、まるでそれそのものが魔力を発しているように煌々と輝く。
 照明具に近いレベルの光に、アキラの危機感が一層増した。

 “半分終わった”。
 感覚的にそう思う。
 残るは、未だ淡い光を発している金の円柱のみ。

 2つの円柱が闇夜を払えば―――“不可能が可能になってしまう”。

 それは、まさに“時”を刻んでいるかのようだった。
 タイムリミットが迫る。

「―――、」

 グリースも、背後からの光に一瞬目を奪われた。
 その隙に、アキラは身体能力強化の魔術を開始する。

 早く、止めなければ―――

「―――!?」

 グリースの視線が、再び急接近を試みたアキラに向いた。
 アキラは、ほとんど回り込むようにリンダに向かって駆ける。

 狙いは、あの円柱。あれは、きっと魔力を増幅するマジックアイテムだ。
 失えば、彼女の“魔法”は失敗に終わるはず―――

「クォンティ!!」
「!?」

 自分の本能を信じて良かったと思ったのは、今以上にないだろう。
 全力で地を蹴って急停止した眼前、スカイブルーの鞭が振り下ろされていた。
 ほぼ間違いなく直撃していたであろう軌道だ。

 アキラの動きが止まったその隙に、再びグリースが立ちはだかった。
 その背後には、黙々と儀式を進めるリンダが見える。

「させられねぇよ。ここは超えさせねぇ」

 鎧の男は、再び天を突くように剣を肩で構える。

「俺らはこれに懸けてんだ。リンダはそれよりずっと、懸けている。シリスティアは、きっと変わるってな……!!」
「……、」

 アキラは無言で、剣を構えた。
 身体能力強化の魔術は、解除しない。
 グリースとの距離は5メートルほど。近距離で切り合えば、抜き去ることができるかもしれない。

 鎧の男の言葉を前に、アキラは戦闘にひたすら集中していた。

「お前がリンダを止めようとしてんのも、単なる依頼だからだろ? リンダが言った通り、報酬なんて出ねぇぞ。それどころか、魔術師隊に捕まっちまう。あの元凶さえぶっ殺せば、お前らにとってもメリットになる」

 単なる時間稼ぎ、だろう。
 アキラはぐっ、と力を込める。
 今すぐグリースに攻撃可能だ。

「交渉は、決裂したはずだろ」

 アキラは一言呟いて、地を蹴った。
 剣同士が火花を散らす。

 とにかく早く、“妨害しなければ”。

 ガンッ!! と響いた衝撃音ののち、今度は押し込まず、身をひるがえしてグリースを攻める。
 即座に表情を引き締めたグリースは、その攻撃を上手くいなしていた。

 アキラは奥歯を噛みしめる。
 サクに習っているだけはあってアキラの剣の技術はある程度高いのだが、グリースはそれ以上。長く旅をし、体得したものなのであろう。
 そもそもアキラが習っていたのは、刀の扱い方だ。
 敵の剣撃を受け止める技術は高くない。

 その点、グリースは剣の攻撃も防御も習得している。
 身体能力で勝っていても、これではグリースを抜き切ることができない。

 “せめて、一撃で弾き飛ばすことさえできれば”――――

「―――クォンティ!!」

 アキラの攻撃を弾いたのち、僅かな隙にグリースは鞭を振った。
 攻撃手段を即座に代えたグリースの一撃に、アキラは止むなく離脱する。

 リンダは黙々と、作業を続けていた。

「……マジで、邪魔すんな。それとも何か? 人殺しは見過ごせないってか?」

 アキラは、身体能力強化の魔術を解除した。
 これ以上の連続使用は身が持たない。

「……ああ、それもある。“今回のこの世界”では、俺はそういう旅をしてんだよ」

 応じたアキラの言葉に、グリースは怪訝な表情を浮かべた。
 思わず漏らしてしまったこの世界の最大の“ノイズ”だが、どうせ意味など通じない。

「……随分必死じゃねぇか。そんな奴には見えなかったがな」
「流されやすいんだよ。腐ってる根元は哀しいくらい変わらないけど、環境によってブレまくるんだ、俺は」

 言って、アキラは痛み始めた身体に鞭打って剣を構える。
 吐き出した言葉は、ある種、真理だ。

 自分は勇者として、世界を旅している。
 数々の依頼をこなし、それによって救われた人は多いだろう。
 実際今も、貴族の命を救おうと戦っている。

 だが、それは依頼がなければ考えもしないようなことだし、誰かが死んだと聞かされても、“世界を壊した”責任こそは感じるが、人の命を尊ぶような聖者ではないのだ。
 真剣になっている人を見ても、傍から見るだけか、空気に耐えきれずからかうように茶化すかもしれない。
 気を抜いていれば鍛錬もサボるし、一体何度、朝の二度寝の誘惑に身を委ねそうになったことか。

 自分は一生―――“ヒダマリ=アキラ”。そこは決して変わらない。
 勇者など、分不相応な人間だ。
 しかし、そんな自分は幸運なことに、世界を救う重圧に後押しされている。

「殺しはさせない」

 こんな言葉も、きっと、明日には忘れているだろう。
 ただそれだけの、下らない、人間なのだから。

「だけどな、ぶっちゃけ、本音は別だ」

 再び。
 “身体能力強化というイメージを再構築”。
 “魔力による身体能力強化”を解除。

「“お前が気に入らない”。だから、妨害してんだよ」

 アキラは最後に、自分らしさをつけ足した。

―――そして、“魔術による身体能力強化”へ移行する。

「上等だ。ぶっ殺す」

 今度は、グリースも駆けた。
 一瞬、リンダを妨害する好機が訪れたかとアキラは感じたが―――それは、錯覚だった。

 グリースの持つ剣が、円柱の銀を塗り潰すほどの煌々とした青空の色を放つ。

「クォリズル!!」

 放たれたのは、鞭ではなく―――“波”。

 刃ではなく、刀身の腹の部分を振り下ろしたその攻撃は、アキラの身体の倍ほどの幅で地面を打ち据えた。

 ズンッ、と、足場が揺れる。
 波は、まるで馬車の太い車輪が通過したかのような跡を残し、そしてすぐさま消滅した。

 グリースは、今まで手心でも加えていたのだろうか。
 大地を強く殴打したこの波は、先ほどまでの鞭とは攻撃範囲がまさしく大幅に違う。

「おらぁっ!! 来いよ!!」

 言われるまでもなく、アキラはグリースに向かって駆けた。
 リンダは一旦保留だ。
 彼女に向かい、動き回る相手に背を向ければ結果は見えている。

 フリオールを止める術は、結局のところ、まずはグリースを倒すことが最短だ。

 ガギンッ、と再び剣が交わる。
 しかし、グリースはアキラの一撃の重さをすでに認識したのか、即座に体勢を立て直して攻撃を繰り出してきた。

 右から、左から、上から、下から。
 近距離から、中距離から、遠距離から。
 剣で、鞭で、波で。

 変幻自在な攻撃を繰り出すグリースと、それを身体能力で回避するアキラ。
 崖側の土地はめくれ上がり、耕かされているかのごとく形を変えていく。規模や威力こそ違うが、数日前の“鬼”の攻撃を思い起こさせる。
 ただ1ヶ所、リンダの立つ位置だけが、まさしく聖域のように守られていた。これも、あの“鬼”の事件を思い起こさせる。

「―――、」

 駄目だ。
 やはり、グリースを超えられない。
 鎧を纏っているというのに、彼の動きは機敏だった。
 一体どれほど旅をすれば、あれだけの実力者に育つのだろう。
 いや、一体何を想って旅をすれば、あれほどの実力者に育つのだろう。

 詰め寄って彼を捉えても、彼はアキラの攻撃をいなしてしまう。
 身体能力強化の魔術が切れたら、即座にアウトだ。

 やはり、グリースは、強い。
 一瞬でも気を抜けば、数ある攻撃方法の“何か”が直撃してしまう。

―――だから、

「!? ちょ、ちょっと何やってんの!?」

 そんな声に気づいたのも、僅かに遅れてからだった。

「―――!!」

 アキラはグリースに弾かれた勢いを利用し、即座にその場を離脱した。

 グリースはリンダの前の定位置に戻っていく。
 そして、アキラは現れたエリーの元に駆け寄った。

「ちょっと、あれって、……あの2人、よね」
 すでに魔術師隊のローブを脱いでいる2人に、ローブを纏ったエリーは怪訝な表情を浮かべた。
 どうやら、彼女もこの場に向かってきていたようだ。

「てか何であんた戦ってんのよ!? 途中に壊されてる小屋あったし……、あれって、貴族が、」

 アキラは息を荒げながら、エリーの言葉を手で制した。
 今は、説明するのに必要な酸素もおしい。

 長時間の身体能力強化の魔術を使用したことで、酷く頭痛がした。
 対してグリースは、息を荒げているものの魔力的には余裕がありそうだ。

 エリーが来なければ、危険だったかもしれない。

「……、一言でいいから、説明しなさい」
「敵、だ。……強い、敵だ」

 途切れ途切れに、アキラは言葉を紡いだ。
 エリーはそれだけで、拳を構える。

 壊れた小屋と、この風景。
 エリーはある程度、事態を把握したようだ。

「……ちっ、リンダ、まだか?」
「……、」

 エリーの登場に、グリースは表情を変えた。
 呼びかけに応じないリンダに視線を走らせ、そして再び舌を打つ。

「くっそ」

 アキラは僅かに安堵した。
 アキラだけならば、グリースは拮抗できたのであろう。
 だが、エリーの登場で、それが崩れた。
 タイムリミットまでに、リンダを止められる可能性がようやく出てきたのだ。

―――と、アキラは誤認した。

「そっちにも、説明したいところだったが―――本気でいくぞ」

 グリースが、駆けた。
 表情をさらに険しくした鎧の男が、突撃してくる。

「あんたは休んでなさい!!」

 エリーが、駆けた。
 表情をきっ、と鋭くし、突撃を迎え撃つ。

「クォンティ!!」
「―――!!」

 両者の射程がぶつかる直前。グリースは、上段に構えた剣を振り下ろした。
 射程は交わってすらいない。
 完全な安全圏であるにもかかわらず、エリーは危機感を正しく覚え、横に飛ぶ。
 その直後、グリースから伸びたスカイブルーの“鞭”が大地を削った。

 エリーとグリースの直線上にいたアキラも、行動を開始する。
 エリーに休んでいろとは言われたが、そんなつもりははなからない。

「スーパーノヴァ!!」

 アキラが駆け出したところで、エリーの声が響いた。
 視線を向ければ、エリーはすでに体勢を整え終え、グリースに向かって拳を突き出している。

 急激に方向転換したにもかかわらず、すでに彼女は攻撃に転じていた。
 身のこなしが鮮やかだ。緊急離脱後の動きを予め想定していなければあの動きはできない。
 戦闘への切り替え方といい、エリーは強い。

 いや、エリー“も”、と言った方が的確か。

「くっ」

 スカーレットに輝く打突を、グリースも身をひるがえして回避した。
 そして即座に剣を振り下ろす。
 魔術の使用は行わなかったものの、的確なその一撃で、エリーの追撃を牽制して距離を取る。

 アキラが駆け寄ったときにはすでに両者は一戦を終えていた。

「……、水曜属性で……、武具強化型……!?」
「あ、それ、俺が言った」
「……! またあんたは……。それより、あの人何者よ?」
「ただの旅の魔術師だ」

 アキラはそう答えて、グリースを睨む。
 鎧を纏っているというのに、速力はエリーと同等程度だろうか。
 その上で、剣の技術もある。

 下手をすれば、サクレベルの実力者かもしれない。

 エリーが参戦しても、リンダとの距離が縮まった気がしなかった。

「それにしても、水曜属性でしょ……、なんで、武具強化型がいるのよ……!?」

 やはり、珍しいタイプなのだろうか。
 アキラが視線を向けたグリースは、息を整えながら油断なく構えている。

 構えは、変わらず上段。
 エリーの困惑した声も手伝って、その姿が今まで以上に大きく見えた。

「とにかく、倒すぞ。今すぐリンダを止めるんだ……!!」
「は? え、って、もう!!」

 エリーの声を待たず、アキラは駆け出した。
 再び身体能力強化の魔術を使用する。
 身体への負担もさることながら、魔力も大きく消費する魔術だ。
 魔力の残量的に、使えて、1、2回。

 しかし、使いどころは、エリーが加わった今しかない。

「クォリズル!!」

 今度は、“波”。
 敵を打ち付けるスカイブルーの魔術を、アキラとエリーは2手に分かれて回避し、左右からグリースに詰め寄る。

「ちっ、」

 最初に突撃したのは、アキラだった。
 先ほど同様、舌打ちのあとの金属音。
 アキラは1番最初のときと同様、グリースを押し込んだ。

 グリースの背後からは、エリーが迫っている。

「ぐおっ!?」

 次の瞬間、アキラはグリースに腹部を蹴り飛ばされた。
 押し込みを利用し後転するように倒れたグリースが放った蹴打は、アキラの鳩尾を捉える。

 エリーが一瞬戸惑った隙に、グリースは転がるようにその場を離脱し、すぐに体勢を整えてみせた。
 もともと多数相手の戦いが慣れているのか、彼の動きは淀みない。

「げっはっ、ごほっ、」

 身体の芯から響く痛みに、アキラはむせ返りながらも身体を起こした。
 身体能力強化の魔術を使っていなければ、昏倒していたかもしれない。
 だがそれも、たった今解除することになってしまったが。

「だから休んでなさいって言ったでしょ」
「そういうわけにもいかないだろ。あいつは、マジでやばい」

 再びエリーと並んでグリースと対峙する。
 タイムリミットまで、あとどれほどだろう。
 残る金色の円柱は、未だ淡い光を纏っているだけだが、すぐにでも煌々と銀の色を放ちそうだ。

 正直、気が気ではない。

 リンダはひたすら目を瞑り、魔力を流し続けている。

「間に合わねぇよ。間に合わせねぇ」

 グリースはアキラを見据えてそう言った。

「お前……もうバテバテじゃねぇか。そっちの奴は火曜属性。ここは絶対抜かせねぇ」
「……そっちだって、息切れてんじゃねぇか」
「抜かせねぇ、って言ってんだ。こいつの邪魔を、させるわけにはいかねぇんだよ……!!」

 その言葉で、グリースの表情がさらに引き締まる。

 ああ、そうか。と。そこでアキラは妙に納得した。

 自分たちは、その辺りの旅の魔術師より力を有している。
 確かにまだまだ強い旅の魔術師はいるであろうが、最低でも、自分と同じく旅を初めて数ヶ月の者よりは強いとアキラは思う。

 それは、打倒魔王という目的があるからだ。
 だから、力のない現状から脱しようと、日々もがいている。

 目的のある者は、早く育ち、強いのだ。

 グリースは、その目的を背にして立っている。

「俺は平凡な属性だけどな……、何とかかんとか工夫して、強くなってんだよ。“異常”な属性に―――近づいてんだ。こいつの悔しさは、俺も分かる。だから、」

 抜かせねぇ、と。グリースは紡ぐ。
 きっと、あの鎧の男は、リンダという少女と出逢ったときから始まったのだ。

 生まれが貧しく、希少な属性で、貴族の被害で魔術師試験を落とされたという少女。
 言ってしまえば、幸の薄い、ただそれだけのキャラクター。
 だがグリースにとっては、彼女は、ただそれだけでは済まされていない。

 彼女は、目的そのものなのだ。
 だからグリースは強いし、リンダの目的も果たすのだろう。

「“俺も、分かる”」

 アキラは、グリースに僅かな敬意を表して、そう言った。
 そして、言葉を続ける。

「“だから、気に入らないんだよ”」

 アキラは思考を働かせる。
 グリースを倒すために必要なもの。
 それは、グリースが受け止め切れない攻撃を繰り出すことだ。

 だが、身体能力強化の魔術以外ではあの鞭や波の猛攻撃を防ぎ切れない。

 重い重い一撃。
 それを、グリースに詰め寄ってから即座に放つ必要がある。

「……お前、一撃で決められるか?」
「……厳しいわ。あの人、水曜属性でしょ? クリーンヒットでもしないと」

 攻撃力に長ける火曜属性。エリーの属性だ。
 だが、七曜の属性には、例外の2つを除き、強弱関係がある。

 火曜属性の弱点は、水曜属性だ。
 水曜属性は火曜属性に効果が高いし、火曜属性からの攻撃にも耐性がある。

 いかに一撃を追求しても、相性は相性。
 鎧まで纏っているグリースには効果が薄い。
 その上体勢がまるで崩れないのであれば、一撃で決まる可能性は著しく低いだろう。

「なら、俺が決める。あいつの足止め、できるか?」
「……難しいこと言ってくれるわね。あたしそもそも、一撃離脱型なんだけど」
「あと、剣の魔術止めてくれ。それと、蹴りとかも。あとは、避けられないように目くらましとかしてくれると、」
「それができたらあたし1人で勝てると思わない?」

 リンダ以上に欲張ったアキラの要求に、エリーは睨みを返してきた。
 そして、腰を落とす。
 とりあえず、足止めだけはしてくれるだろう。
 決めるのは、どの道アキラになるとエリーは察していたようだ。

 グリースの向こうでは、リンダの準備が進んでいる。
 そろそろ1つ目の円柱が灯った時間を過ぎていると思うが、遅れる分には文句は無い。

「事情はさっぱり分からないけど……、いくわよ。あとでちゃんと説明してよね……!!」

 エリーが駆ける。
 アキラも駆けた。
 速度はずっと落ちたが、その分、剣から僅かな光が漏れ出している。

「……?」

 迎え撃つグリースは、その光に僅かに表情を歪ませながらも、剣を振った。

「クォンティ!!」

 鞭の攻撃は、エリーを狙っていた。
 エリーは難なくかわしてみせ、グリースとの距離を詰めていく。
 グリースの攻撃は、今までと違って先走っていた。

 この距離では、当たるものも当たらない。
 グリースが剣を定位置に戻したと同時、エリーはすでに拳を振りかぶっていた。

「スーパーノヴァ!!」

 バンッ!! と、スカーレットが爆ぜる。
 世界総てが染まったと錯覚するほどの鮮やかなその、重く、重く、重い一撃。

 しかし、スカイブルーに輝く剣に受け止められた。
 やはり、エリーでは押し切れない。

「―――ノヴァ!!」

 グリースが拳を弾こうと剣を振る直前、低級魔術に切り替えたエリーに足止めを食った。
 両拳に宿した目もくらむようなスカーレットが、連続的に爆ぜる。

 グリースを妨害するようにエリーは打突を続けていく。
 エリーの猛ラッシュを、グリースは何とかいなすも、余裕が消えた。
 あの距離では鞭の魔術も波の魔術も使えない。

 離脱しようにも、この距離に素早い彼女がいては即座に追い詰められてしまう。
 そして、姿勢を僅かにでも崩せば、即座に連続攻撃が炸裂する。

 足止めと、魔術封じと、蹴りの封殺と、目くらまし。

 結局アキラの要求全てを1人でやってのけたエリーだが、彼女も彼女でいっぱいいっぱいだ。
 その分、攻撃は、アキラが担当することになる。

 2人の戦闘に駆けながら、アキラは剣を強く握った。
 身体能力を強化するのではなく、もっと根本的に、“攻撃そのものを強化する”。
 そんな魔術を宿した剣を、アキラは振りかぶった。

 エリーの攻撃に呼応するように、アキラの剣がさらに光を増していく。

「―――、」
「―――!!」

 アキラの接近を察したのか、グリースは地を蹴って背後に跳んだ。
 アキラの攻撃と、エリーの追跡を比較した結果の行動か。

 アキラの攻撃範囲からは外れたが、エリーは当然、宙に跳ねたグリースを追う。

 これでいい。
 着地地点で、グリースは体勢が崩れた状態でエリーの猛攻を受けることになる―――はずだった。

「“シュロート”!!」
「ぐ―――!?」

 跳びかかったエリーの身体が、弾き飛ばされた。
 アキラが見たのは、剣を離したグリースの左手が突き出されている様。
 そして、そこから、ごくごく一般的な水曜属性の魔術が射出された光景だった。

 エリーの身体が仰向けに倒れる。

「お、おい、大丈夫か!?」
「けはっ、く、ぅ、っ、けはっ、」

 アキラが駆け寄ると、エリーは顔を歪め、腹部を押さえていた。
 あの近距離で避けていない辺り、流石に魔術師隊のローブか。
 しかし、弱点の魔術がカウンター気味に超至近距離で炸裂したエリーは、苦痛に呻いていた。

 だが、

「はっ、はっ、だ、大、丈夫、よ。はっ、はっ、けはっ、」

 震えながらも、アキラの手を借り、エリーは立ち上がった。
 確信していた光景に、アキラは頷く。

 壊れ切っていた“二週目”とは違う。
 彼女は、立ち上がれる。

 “やはり、こうであるべきだ”。

「そ、それ、より……、普通の魔術も使えるの……!?」

 エリーは目を細め、グリースを見やる。
 グリースが手から魔術を放たなければ決まっていた。

「俺だって、最初からこんなんだったわけじゃねぇよ」

 水曜属性。
 一般に魔術師と聞いて、最も想像しやすい魔術師タイプを司る属性。

 その力を有する彼は、やはり剣を構えていた。

「必要だから、こうなった」

 魔力の切れかかった自分と、ふらついているエリー。
 対面する鎧の男は、魔力はどうか分からないが、未だ体力には余裕があるようだ。
 いや、魔力に余裕があるから、体力は問題ないのかもしれない。
 水曜属性は、治癒魔術が使用できる。

 水曜属性の汎用性の高さが、彼の実力をポンプアップしている。

 水曜属性武具強化型。
 ある意味、水曜属性の正しい修め方のようにも見えた。

 彼を、抜き切れない。

「……、……?」

 そこで、アキラは気づいた。

 未だ円柱に魔力を流し続けるリンダ。
 タイムリミットは一向に訪れない。

 あまりにも遅すぎる。

「……、リンダ、まだか?」

 グリースも気づいたのか、あるいは、ずっと気づいていたのか。
 アキラたちに視線を向けたまま、リンダに問いかけた。
 先ほどもあったやり取り。
 彼女はひたすらに集中している。

「……まだ」
「……!」

 初めて、リンダから返答があった。
 グリースも予想していなかったのか顔を振り向かせる。

 リンダの白い肌は、どこか青白くなっていた。

「というか……、何で……、何で無理なの……?」
「む、“無理”……!?」

 グリースはぎょっとして今度は身体ごと振り返る。
 リンダは地べたにぺたりと座り、両手を突いて震えていた。

「ど、どうして、」
「どうしても何も……“分からないのよ”。言ったでしょ? 私の属性は、“失敗から何も学べない”」

 顔を伏せたリンダの声は、泣き声のようにも聞こえた。

「どうしよう……、私がやらなきゃいけないのに……私しかできないことなのに……。最後の一歩が、どうしても踏めない……!! 頭の“ノイズ”が、どうしても止まないの……!!」

 リンダの声は、祈っているようにも、呪っているようにも聞こえた。
 円柱は、片方だけが、煌々と銀に輝いている。

「あ……、あの人、もしかして、月輪属性……!?」

 エリーも、ようやくあの奇妙な円柱が放つ色に気づいたようだ。
 だが、アキラはそれには応えず、正面の2人に視線を向け続けていた。

 とりあえず、“みんな”とやらの到着は、あまりにあっけなく潰えたようだ。
 ならば、恐らく、次は、

「どうしよう……グリース。私、」
「……問題ない」
「何が問題ないのよ……!? 私が、やらなきゃいけないことよ……!!」

 リンダは顔を上げた。
 青白いその顔の目尻に、僅かに涙が溜まっている。

 リンダはこれにかけている、とグリースは言っていた。
 それが通らない今、彼女に残された道は、果たしてどうなるだろう。

 “だが、そんなものはどうでもいい”。
 今は、グリースを超える方法に辿り着かなければならないのだから。

 グリースは、リンダから目を切って、アキラたちに身体を向けてきた。

「お前が不可能を可能にできなくても―――問題ない。不可能なんて、取りこぼせ。お前が零した不可能なんて、俺が実現してやるよ」
「グリース……」

 やはり、次はグリース単独の犯行。

 グリースは剣を構えた。
 構えは迷わず上段。

 アキラは僅かに表情を緩めた。
 彼は、リンダを守るという目的に、総てを懸けている。

 グリース。
“お前は、本当に気持ちのいい奴だ”。

「俺があいつらを倒して、俺が貴族を討つ。俺だけでいい。“みんな”がいなくても、やってやる……!!」

 鎧の男がギロリとアキラたちを睨む。

「タイムリミットが消えたな。だが、今度こそぶっ殺す。貴族討ちは、必ず成功させる……!!」

 ピリ、と空気が強張った。
 今まで以上の殺気。
 守るべき“不可侵領域”が消えた今、グリースは、今まで以上に活発に動き回るだろう。

「……どうする?」
「どうするもあるか。敵はさっきまでと同じだ」

 アキラはエリーに強く応え、剣を構えた。

 グリースを超える方法は、1つ想定できる。

 “急接近して、即座に攻撃魔術を使用すればいい”。
 作戦でも何でもない、ただのごり押しだ。

 だが、有効な作戦かもしれない。
 グリースは経験も高く、人相手の戦闘にさえ慣れているのだろう。しかし、例えばあのもう1人の日輪属性の男と比べてしまえば、実力には雲泥の差がある。
 尋常を遥かに超すあの男と違い、グリースは、決して届かない敵ではないのだ。

 そして。
 グリース自身、“異種の力を複数操れる属性”の相手とは、流石に戦闘を経験していないだろう。

 問題は―――“即時的な切り替え”だ。

 アキラは、ちらりと隣のエリーに視線を走らせた。
 エリーは、腹部の痛みに僅かに眉を寄せているも、拳を構えてグリースに向き合っている。
 事情など、ほとんど分かってもいないであろうに、彼女はただ前を向いていた。

 そこで。
 “ああ、やっぱり”―――と。

 アキラは、“自分が何を気に入らないのかを再確認した”。

「最後の警告だ。そこをどけ」
 グリースが言う。

「お前が俺を気に入ろうが気に入りまいが、関係ねぇ。俺は、止まらねぇぞ」
「……“お前”はその間、そこに座ってるだけか?」

 アキラはグリースを追い越し、その向こう―――リンダに言葉を投げた。
 リンダは顔を上げ、アキラに視線を向ける。ようやくリンダに、声が届くようだ。
 僅かに憔悴したような表情。懸けていた、という“魔法”の失敗に、リンダは身体を起こそうともしていなかった。

「俺は、グリースじゃなくて“お前に言ってんだよ”―――リンダ。“お前が気に入らない”」

 見目麗しい同年代の女性に、そんな言葉を吐き出したのは、初めてだった。
 だが、口に出す。

 隣のエリーにも聞かせるように。
 本音を口にしないらしい自分は、ミステリアスでも何でもなく、ただ単に、あくまで恣意的で、下らない言葉を吐き出すことを避けているだけの人間なのだと。

「“俺が言えた義理じゃないけどな”」

 誇れる過去を持たないアキラは、そう付け足し、言葉を続ける。

「魔術師試験に1回落ちただけで貴族を殺す? 他人の俺から言わせれば、ただの逆恨みにしか聞こえないんだ。その次の年の試験官を調べたか? 魔術師試験を受け続けたか? いや、故意じゃないにせよカンニングしちまったような試験だったんだろうが」

 国が魔術師隊を歓迎しない今のシリスティア。
 それがどういう意味を指すのか、アキラは知らない。
 この世界の政治など、まるで知らない。
 リンダやグリースがどれだけの辛酸を舐めてきたかなど、まるで分からない。

 だけど、リンダの理由だけは、まるで納得できなかった。

「そもそも、もう試験受けようとも思ってないだろ。それとも何か? シリスティアが変わる前には、受けたくないのか? シリスティアの未来なんて大仰なこと言ってるけど、それじゃあ結局自分の復讐じゃねぇか。そんな下らないことに、グリースを付き合わせるな―――不愉快だ」

 リンダから初めてリアクションがあった。
 アキラを睨んできている。
 自分の何を知っているのか、とでも言いたげだ。

 別にいい。
 どうせ何も、知らないのだから。
 だけど、知っていることもある。

「少なくとも俺は、そんな境遇の奴を知っている。貴族の圧力なんて比較にもならない、“絶対に試験を受けられない状態になっちまった奴”を、俺は知っている。それが動機なら、俺はとっくに殺されてる」

 隣のエリーがピクリと動いた。

「それでもそいつは、俺を殺そうとしなかった。悔しかったろうし、今でも未練があるらしい。だけど、こっちが負い目を感じるほどに、清算しようと努力している」

 本当に、自分が言えた義理ではない。
 だが、リンダの話を聞いていたとき、思い出したのだ。

 “一週目”。
 自分がこの目で確かに見た、初めての魔術。
 絶望の淵にいた彼女はその翌日、もう、動けていた。

 “この週が最後だ”。
 だから、あの鮮やかなスカーレットは、きっとずっと、忘れることなんてない。

「そいつがいなかったら、俺は、きっと、本当の意味で、この世界を知れなかった。そいつは、マジで、凄い。お前と違ってな」

 自分とグリースは同じだ。
 1つ目的があって、それに向かって突き進んでいる。
 だからアキラは、グリースには共感できるのだ。
 きっと彼は自分よりもずっと真摯に目的に向かっているだろう。その期間も長い。
 だから、彼は自分より、ずっと強い。

 しかし、グリースの目指す目的があれでは、あまりにグリースが不憫ではないか。

「だからお前は、魔法も失敗するんだよ。本当は、実技試験で引っかかったんじゃねぇか? それなのに、魔術師隊をさっさと諦めた―――お前が悪い」

 “囁かれていたとしても”、貴族を狙うことの言い訳には、きっとならない。
 アキラは、強く、そう思う。

 それならそれで、きっと、“落とし前”の付け方はあったのだろうから。

「おい」

 そこで。
 グリースの凄味が増した。彼はまるで、戦闘意欲を損なっていない―――が、それで当然だ。
 元より説得しようなどと考えていたわけではない。
 言いたいことを、言っただけ。

「少しは懐柔しようとか考えてた俺が甘かった。お前は完全に障害だ。何も分かってねぇ。第一、この夜の騒動はどうするつもりだ? あの貴族がいれば、この騒ぎだけでシリスティアは旅の魔術師を跳ね退けるらしいぜ?」
「何も分かってねぇよ。言っただろ。俺はただ、たった今のこの環境に流されてるだけだ」

 先など見ていない。アキラにとって、先を見るのは恐すぎる。
 だからただ、何も考えず、2人を止めるし、口から言葉を出しただけ。
 出てきたのは、単なる誹謗中傷だ。そこには相手を説得しようとする意思も、聖者のように導く強さもない。
 自分はとことん、勇者の器ではないようだった。下手に口を開いたら、これだ。

 環境に流されて、流されて、いつも自分を見失っている。
 今日の決意は、明日の忘却。
 結局、根元はいつまでも、それだけのキャラクター。

 だけど、それは、アキラにとってきっと幸運だった。
 自分は、周りの人に、“流されることができるのだから”。

「お前はマジで、ぶっ殺す。お前と同じで、お前が何を考えていようと、何を想っていようと、俺の答えはブレないからな」

 リンダという少女を目的に、リンダという少女を始まりに、強く立つ鎧の男は腰を落とした。

「“俺も、お前と同じだよ”」

 アキラも腰を落とした。
 魔力を強く、剣に込め始める。

 洗練されたグリース相手に手数では勝負にならない。
 一撃で、彼の動きを封殺するほどの攻撃力が必要だ。

 完全な、ごり押し。

 即座に爆発的な力を出す方法。
 そんなもの、考えるまでもない。

 自分はずっと、それを近くで見てきている。
 ただひたすらに、前へ進めるその力を。

 訳の分からない世界に落とされて、興奮は覚えても、どこか心細かった自分。
 そんな自分の目の前に、どれだけ絶望していても、後悔しても、迷いながらも、嘆きながらも。
 鮮やかにスカーレットを爆ぜさせた、そんな少女を、自分は知っている。

「“例えるまでもない”―――」

 自分が知っている、最も強い、流れ。
 そんな少女がいなければ、自分はきっと、あれだけ焦がれていた異世界の旅もどこかで投げ出していただろう。所詮自分は、そんなキャラクターだ。

 だけど、きっと、今は違う。
 “勇者”である、ヒダマリ=アキラ。

 その、始まりは。

「―――エリサス=アーティの“魅力的な前進姿勢”。そんなキャラクターを知っているから、俺の答えはここではブレない」

 前へ、前へ、立ち塞がる壁を砕くかのように進んでいく。
 心に在るのは、ずっと後悔。それは、自分と同じだ。
 だけど、それでも、前へ、前へ。
 魔王討伐さえも、手段として、前へ、前へ、前へ。
 焦がれた夢は、手放さない。

 その姿を見ていなければ、そんな彼女がいなければ、あの鮮やかなスカーレットを見ていなければ、自分はきっと、本当の意味で、この世界を知れなかった。
 いつだって、感謝している。

「―――、」

 “ああ、だから”―――と。アキラの記憶の封がようやく解かれる。

 自分は、この攻撃に、“こんな詠唱を付したのだ”。

 創る必要など、なかった。
 あの全能の、世界が勇者の“応え”を待つ瞬間さえ必要ない。

 いつだって、自分の力は、すぐにでも思い起こせる―――“誰かの模倣だったのだから”。

「“キャラ・スカーレット”」

 剣に魔力を込める。
 ブッ、と音を発した。
 僅かに漏れるは、オレンジのカラー。

 自分にとって納得性が高く、結果も想像できることだけが条件の―――“詠唱”。

 これから先、戦闘中に魔力がブレることはない。
 自分が結果に対して最も納得できる“詠唱”を、ようやく見つけられた。

「……!?」

 その色に、グリースは眉を寄せるも駆け出した。
 僅か遅れて、隣のエリーも駆け出す。

 アキラも、同時に駆けた。

 3人が荒れた大地をひた走る。

「クォンティ!!」

 初手は、グリース。
 剣を振るって放たれたのは、鋭い鞭。
 彼の最警戒対象はやはりエリーなのか、先ほどの焼き回しのように赤毛の少女を狙い打つ。

 エリーは再びそれをかわす。
 遠距離からの攻撃ならば、彼女の速度があれば十分に避けることは可能だ。

 だが、ようやく分かった。
 グリースが攻撃範囲外で先ほどの魔術を使ったのは、エリーを牽制できる“シュロート”の準備期間を求めたためだ。
 剣の魔術と違って放つのが遅いのだろう。

 彼はあくまで、武具強化型だ。

「スーパーノヴァ!!」

 その準備期間を利用し、エリーがグリースに詰め寄り、拳の一撃を放つ。
 先ほどと全く同じ状況。
 これはそもそも、グリースが想定していた戦闘態勢だったのだろう。

 彼は、アキラが接近する前に、エリーに魔術を放つつもりだ。
 “詠唱”ができても、アキラの魔力が上がったわけではない。
 先ほどと何ら変わらないだろう。
 グリースの魔術の前に、アキラが到達できなければ、結果は同じだ。

―――と、グリースは考えている。

「ノヴァ!! ノヴァ!!」

 エリーの連激を、グリースは剣で防ぐ。が、表情に僅か焦りを浮かべていた。
 相性で勝っていても、エリーの攻撃は重く、重く、重い。
 火曜属性とのインファイトは正気の沙汰ではないのだ。

 2度目のエリーの攻撃は、的確だった。
 グリースの離脱を、自分の身体を回り込ませるように動かして止めている。

 本当に1人でも勝てたのではないだろうか―――と思ったが、やはりエリーも手一杯。
 決めるのは、アキラだ。

 そして、今度こそ、グリースの離脱の前に、アキラはその場へ到達できた。

「らあっ!!」
「―――、ちっ、」

 全力で振り下ろしたアキラの剣は、空を切った。
 アキラの攻撃のその直前、グリースは離脱に成功する。

 アキラの最初の詠唱魔術は、失敗。

「シュロート!!」

 背面に跳びながら、グリースは丁寧にもエリーに魔術を放った。
 だが、エリーは経験からそれを追わず、回避することだけを考え、左方向へ跳ぶ。

 やはり、グリースは速い。
 かなりの体術を習得している。

 だが、所詮、身体能力強化を上げているのは魔力。
 身体能力強化の魔術を使えば速度はアキラの方が上だ。

 “身体能力強化というイメージを再構築”。
 “魔力による身体能力強化”を解除。

―――そして、“魔術による身体能力強化”へ移行する。

「“キャラ・ライトグリーン”」

 “詠唱”の登録と同時、アキラの攻撃範囲の“球体”が、膨大に化ける。
 木曜属性の力の再現―――“圧倒的身体能力向上”の発動。

 跳びかかるように、アキラはグリースを追った。
 グリースの着地と同時、アキラは剣を振り上げる。鎧の男は合わせるように剣を掲げた。

 最初の“詠唱”は、失敗。だがそれは当然だ。
 “詠唱”は、別に、魔力を上げる方法ではない。
 できるのは、過去との比較。

 そして、“使用魔術の即時的な切り替え”。

 だから、“詠唱”が真価を発揮するのは―――2発目以降。
 舌を噛もうが何であろうが、アキラは叫んだ。

「キャラ・スカーレット!!」
「づ―――!?」

 バンッ!! と、オレンジの光が、“イメージ通り”に炸裂した。
 昼と見紛うような閃光が爆ぜる。
 不意打ちに近い攻撃力の増大に、グリースは剣をひしゃげられて弾き飛ばされ、体勢が極端に崩れる。

 今までエリーの攻撃は、相性が優位であるから受け切れていたようなものだ。
 相性の影響が無いアキラの属性―――日輪属性ならば、水曜属性の魔術師には経験もしたことのないような衝撃を与えることができる。

 グリースの剣は、もう、ない。
 体勢も、整っていない。

「キャラ―――」

 アキラは剣を、

「スーパーノヴァ!!」
「が―――!?」

 振り、下ろせなかった。

 グリースの脇腹目がけて放たれたのは、鋭いスカーレットの一閃。
 鎧が酷くきしみ、グリースの身体は馬車に跳ねられたように転がっていき、やがて止まった。

「……………………あんたが決めるんじゃなかったの?」
「お前が言うのか!? お前が!?」

 アキラは剣の魔力を解除する。
 重く、重く、重い一撃を放ったエリーはアキラに背を向け、ふん、と一言。

「うっわ、信じらんねぇ。マジで今のはない」
「決められる人が決めるのが当然でしょ。あの人の意識、完全にあんたに向いてたし」

 これ以上の議論はない、と言わんばかりにエリーは言葉をそこで止めた。
 それにしても彼女はあの一間にこの場まで接近していたと言うのだろうか。
 戦場を駆ける暴風、と、もう1人の日輪属性を形容した覚えがアキラにはあるが、その言葉はエリーの方にこそ相応しいのかもしれない。

 結果、グリースは吹き飛ばされた。
 眼前で起こったショッキングな光景に、アキラは僅かに背筋が凍る。

 が、

「―――グリース!?」

 その声で、我に返った。
 アキラは即座に視線を走らせ―――戸惑う。

 この場から、2つの円柱と共にリンダの姿が消えていた。
 そして、今聞こえた、リンダの声。

 それが、高い位置から聞こえてきたのだ。

「―――!!」

 見れば、リンダは2つの円柱を両手でつかみ、“屋根の上にいた”。
 ガールスロの崖側に立ち並ぶ、商店の屋上。
 2階建のその場所に、純白のローブが風に漂っている。

 彼女は今の戦闘中、あの高さまで“重力を遮断したのだ”。
 “みんな”とやらの全員を上げる魔力は足りなくとも、1人をあの高さまで浮かせることはできるのだろう。

「う、嘘でしょ……、グリース!! グリース!!」
「……うるせぇよ」

 屋上からの声に、鎧の男は濁った声を返した。
 そして、ふらつきながらも、再び立ち上がる。

「やられるわけねぇだろ、俺が。いいからお前は、とっとと自分の仕事をしろ」

 グリースはよろよろと、足元に転がっていたひしゃげた剣を拾い上げた。
 火曜属性に対する水曜属性という相性の良さも手伝ったのであろうが、彼は、倒れない。

 僅かに漏れているのは、スカイブルーの光。
 彼は、治癒魔術を使用していた。
 武具に不備があるが、体力は戻り始めているようだ。

 今すぐにでも、たたみかけなければ―――

「……!」

 いや。と、アキラに静止がかかった。
 何故そもそも、リンダは屋上にいるのか。

「……考えるまでもないか」

 アキラはきっ、とリンダに視線を向ける。
 彼女は、“向かう”つもりなのだ。

 そもそもという言葉を使うのなら、こちらもそうだ。
 彼女たちの目的は、そもそも貴族討ち。

 やはり、自分と彼らの道は、もう決して交差しない。

「行け!! リンダ!! こいつが何を言っても、俺はお前の気持ちは分かる!! 復讐だろうが何だろうが、関係ねぇ!! 俺は、この先も、ブレない!!」
「…………止めてよね。グリースのくせに、生意気よ」
「……は、……ぶっ殺すぞ、お前」

 リンダはそのまま、屋上の向こうへ消えていった。
 あのまま屋根伝いに、貴族を討ちにいくのだろう。

 この奇妙な夜に、終止符を打つために。

「ったく、さっきいいとこ取りしちゃったし……、いいわよ、行って」

 エリーが、声を出した。

「よく分かんないけど、どっちか行かなきゃいけないんでしょ、これ。魔力切れかかったあんたじゃ、あの人の足止めもできない」
「相手は水曜属性だぞ?」
「相手だってそろそろ魔力切れでしょ。武器も壊れてるし……。あたしはまだ、余裕がある」

 確かに、今の自分では、同じく魔力を大きく消費しているリンダの相手くらいしかできないだろう。
 グリースも切れかかっているかもしれないが、どの道体術で大きく後れを取っている。

 適材適所、と言ったところか。

「わ、分かった。でも、お前も、」
「さっさと行け!!」

 怒鳴られるとは思わなかった。
 アキラは弾かれるようにリンダを追っていく。

「……足止め、か。面倒だな」

 エリーと残されたグリースが、壊れた剣を構えた。

「悪いが、そこを通してもらうぞ。俺の“目的”が、そこにあるからな」
「悪いけど、足止めするわよ。超えられると思わないで」

 エリーも拳を構え、腰を落とす。

「今日のあたしは、ちょーっとテンション高いわよ!!」

―――***―――

 断続的に衝撃音の聞こえる、ガールスロの街路。住民たちも異常を察したのか、所々の窓から灯りが漏れている。
 深夜独特の冷え切った空気の中、アキラはほとんど迷わず、この街で最大の建物に向かっていた。

 ガラスの館。
 この街の貴族の住居にして、他の街の貴族も泊まりに来ると言う―――ガールスロのシンボル。

 リンダは、きっとそこに向かったのだ。
 屋根伝いに移動していったリンダの姿は先ほど以降、一度も見ていない。

 だが、貴族を悪とする彼女からしてみれば、今夜の貴族がいる位置はそこしかないのだろう。
 彼らは、自分の生活をまるで崩さず、ただあの屋敷で高みの見物を決め込んでいる、と。

「……」

 駆けながら、アキラは思考する。
 先ほど自分は、リンダが気に入らないという理由で彼らの犯行を食い止めた。
 だがもし、貴族を信じるとしたらどうだろう。
 自分たちに偽りの地図を渡したのは、もし自分たちが失敗したときに、居場所を知られないように敢えてやったことかもしれない。
 もしかしたら、たまたまあの小屋を離れていて、リンダたちの襲撃を免れただけなのかもしれない。

 そうであるなら、リンダを追う必要はないのであろう。
 何故ならあの屋敷は、貴族のサッシュ=フォルスマン曰く、侵入したら外に出られない罠が仕掛けてあるとのことなのだから。
 結果、貴族は無事で、リンダは閉じ込められる。

―――そこが、そこまでの推測が、“今のアキラが持っている情報”での、限界到達地点。

 だが、自分は知っている。
 今の自分は、悲しいほどに、哀しいほどに、悔しいほどに、真実を知っている。

 “一週目”。
 今と同じように、迷いながら、戸惑いながら、必死に屋上を移動するリンダを探しながら、半信半疑で向かったガラスの館。

 自分は、確かに知ったのだ。

 自分は騙されることはないだろうと思い、元の世界のTVや学校の授業を内心小馬鹿にしながら聴いていた、“詐欺”というテーマ。

 その意味を、本当の意味で、知った。

 “自分は貴族に騙されたのだ”。

 この―――“三週目”も。

「……!」

 並ぶ建物から見えてきた、頭だけ飛び出ているガラスの館。

 星空の下、屋敷の中の灯りで紅く輝いて、煌びやかで、浮かぶように在る、幻想的で、空想的にさえ思えるほど精緻な、ガールスロのシンボル。

 最後の角を曲がって遥か向こう、正面に捉えたそれは息を呑むほど美しく、しかし今のアキラには―――貴族の言葉を借りて―――“奇妙な光”にしか見えなかった。

 ガン!! ガン!! と、音が響く。
 目を凝らして見れば、リンダが僅かに浮かび上がりながら、両手に持った円柱で扉を殴打していた。ガラスの屋敷の、巨大な銀の扉が軋んでいく。そういえば、あの円柱は武器だと彼女は言っていた。
 が、リンダには、最早ガラスの屋敷を囲う壁を飛び越えるだけの魔力すらないようだ。

 問題なのは、リンダがそこにいるのに、すでに屋敷の灯りがついているということ。
 サクたちの姿は見えないのだから、アキラの預かり知らぬうちに、閉じ込めた敵がつけたということもないだろう。
 貴族を信じるのならば、不在のはずのガラスの館にあってはならない、“奇妙な光”。

 そこに、彼女は魔力も切れかかっているのだろうに、必死に侵入を試みていた。

 アキラは、僅か奥歯を噛んだのち、叫んだ。

「リンダ!!」

 アキラの叫びと、純白のローブが前に倒れ込むのは同時だった。
 全力で攻撃し続け、銀の扉が重い音を響かせ開かれる。
 勢い余って倒れたリンダは、それでも即座に置き上がり、一直線に屋敷を目指していった。
 アキラの方を、振り返りもしない。

 リンダは再び円柱を、今度は到達した屋敷の木製のドアに叩きつけ、身体を滑らせるように屋敷に入っていた。
 リンダの姿が見えなくたったころ、アキラはようやく屋敷の敷地に足を踏み入れる。

 ひしゃげて歪んだ銀の扉を通り過ぎ、広い庭を駆け抜け、リンダの一撃で散乱した屋敷のドアの欠片を踏み砕き、アキラも屋敷の中に迷わず入り込む。

「……、」

 罠など、なかった。

 屋敷に入った直後のエントランスホールは広く、壁は白塗り。ドアの正面に、赤を基調に金の刺繍を縫った絨毯をひいた幅広い階段がある。そこから2手に分かれて折り返してある階段は、どこまでも高く続いていた。
 2階まで吹き抜けた天井は高く、中央にシャンデリアのような精緻な造りの照明具が輝いている。
 階段を上った先、この屋敷の主であるサッシュ=フォルスマンを描いた巨大な肖像画と、左右シンメトリーにサイズの小さな絵画がずらりと並んでいる。
 部屋の隅や、階段の手すり、その他1階の左右に並ぶドアの脇には落ち着いた色のアンティークが置いてある。

 他の貴族も泊まりに来ると言う、ホテルのようなこの場所は、そのままで、ここに在る。
 罠など、最初からなかったのだ。

「……!!」

 階段の上、純白なローブの女性が見えた。
 巨大な円柱を両手に持つ彼女が追うのは、執事長のオベルト=ゴンドルフ。
 有事に備えていたのか、この時間でも正装を纏っていた彼は、リンダから必死に逃げていた。
 2階に駆け上がり、サッシュ=フォルスマンの肖像画に行き当たってから曲がり、階段の陰に隠れて姿が見えなくなった。
 どうやら向こうに、まだまだ上るようだった。

「リン―――ごほっ、」

 出そうとした声は、疲労で潰れてしまった。
 だが、リンダは拾ってくれたらしい。
 しかし、アキラを僅かに一瞥しただけで、リンダは即座にオベルトを追っていった。

 アキラも階段を駆け上がる。
 正面の肖像画に見下されているような錯覚を僅かにおこしながらも、アキラは3階に到達し、右に曲がった。

 階段を上り、今度は正面に、ガラスの館を形作る窓ガラスを捉え、またあった折り返しの階段をさらに昇る。
 リンダとオベルトの姿は見えない。

 今でも重力を僅かながらに忘れられるらしいリンダに、体力的にも限界があるアキラは階段で距離を離されているのかもしれなかった。
 彼女はローブの裾を、踏まない。

「っ、はっ、はっ、」

 気の遠くなるような折り返しを終え、アキラは今までの階とは雰囲気の違う最上階に到達した。
 ここまでほとんど駆け続けている。頭がガンガンと痛み、呼吸もままならない。

 高さ5階のその場所は、階段を上り切ると正面に長い廊下があり、左右には、窓ガラスと、またもサッシュの肖像画が等間隔で並べられている。相当なナルシストなのだろう。
 その奥には巨大な扉。

 その扉を、再びリンダが殴打していた。
 破片をまき散らし続けるその扉の向こうには、恐らく、貴族がいるのだろう。

 高みの見物。

「!!」

 ガンッ、と、扉がはじけ飛んだ。
 ところどころを破損させたドアが、蝶つがいから弾け飛び、部屋の奥に転がっていく。

 ガールスロの町並みを見渡せるほどの巨大な窓ガラスが視界に入った。
 窓ガラスの左右にまとまった白いカーテンが、星空にかかっているような印象を与える。
 床には紅いカーペットが敷き詰められ、僅かオレンジの色が入った壁が今まで走ってきた廊下とは別の高級感を醸し出していた。
 部屋は、奥にも、そして部屋の外からでは見えない左右にも、ずっと続いているようだ。

 執事長失格だ、とアキラは思った。
 あの場は、やはり、このガラスの館の主―――サッシュ=フォルスマンの自室だ。

 リンダの身体が、滑り込むように入っていく。
 向きは、右。

「…………オベルト。こちらの方は?」

 アキラが部屋に飛び込む直前、僅かに高い、そんな声が聞こえた。
 部屋に入るなり動きを止めたリンダを射程距離に収めたまま、アキラは壁の陰に身を隠す。
 息を整える時間があるのならば、僅かでも欲しかった。
 リンダも荒い呼吸を繰り返している。

「分かりかねます……が、もしかしたら、主の危機に訪ねて下さった旅の魔術師の増援かもしれません」
「そうか。だが、ローブを纏っていないようだが」

 そんな2人のやりとりに、アキラは壁からそっと顔を覗かせてみた。
 左眼だけで見た部屋の中。
 やはり奥には巨大な窓ガラスがあり、その手前に、広々とした洋机が、でん、と構えている。
 そしてその机の椅子に腰かけているのは、金色の髪に、ナマズのように左右に伸びたひげ。恰幅のいいその男は、このガールスロの貴族―――サッシュ=フォルスマンだ。

 彼は、こんな時間だというのに、ゴテゴテしい金を基調にした衣服を身に纏っていた。

「申し訳ありません!!」

 突如、地面に飛び込むように頭を下げたのは、オベルトだった。
 アキラは身体をぎくりと硬直させ、息を呑む。

「実は……、私が雇ったのは、旅の魔術師なのです。国にかけ合ったのですが、昨日の今日ではこちらに向かえず……」

 “来客”を放り出し、頭を下げるオベルトに、サッシュは視線を向けもしなかった。
 オベルトの真剣な言葉の吐露は、緊迫した部屋の空気を別の緊迫に変えていく。

 机に座ったままではオベルトの姿も見えないであろうに、机から立とうともしなかった。

「オベルト」

 やはりサッシュはオベルトに視線を向けない。
 だが、声は僅かな甲高さを忘れ、どこか重々しい口調で言葉を発した。

「お前が私に旅の魔術師を受け入れさせようとしていたのは知っている。だが、主に嘘を吐いたのか?」

 オベルトは頭を下げたまま、身体をびくりと震わせた。

「……まったく。お前がそんなことをせずとも、私は次の会議でその方針を固めるつもりだったと言うのに」
「……!」

 オベルトの顔が僅かに上がる。
 ポソリと漏らしたようで、リンダにも届く音量だった。

「客人よ。そうとは知らず、申し訳ないことをした。この街の旅の魔術師隊に見つかったのだろう? そうと知っていれば、連絡を入れていたというのに」
「違うわ」

 リンダが、ようやく声を出した。

「“術式が施された頑丈な扉を壊した”。そう言えば、私が何を見てきたかは分かるでしょう?」
「……!」
「悪いけど、全部知ってるの。私たちは打ち合わせ遅れたけど、この屋敷に陽動させるつもりだったんでしょ? あんたこんなところで何やってんのよ」

 余裕を持っていたサッシュの表情が僅かに変わった。
 サッシュとオベルトは、リンダを、今夜この街であったもう1つの戦い―――別の街で雇われた旅の魔術師と、この街の魔術師隊とのいざこざの経験者だと思っていたらしい。
 それも、打ち合わせに遅れたリンダたちは、自分の計画を知らない、と。
 いや、それに賭けていたと言うべきか。

「べらべら嘘吐いてんじゃないわよ。陽動させて屋敷の中に閉じ込めるつもりなのに、随分頑丈な門だったけど?」

 サッシュは、思考を進めるように目を閉じた。
 オベルトはいつの間にか起き上っている。

 アキラは、はっとした。
 自分がまた雰囲気に呑まれていたと気づく。

 あの2人を前にしたとき、相手の雰囲気も言葉も何一つ信用するなとリンダは言った。

「…………話が良く分からんが……、それを、“誰に吹き込まれた”?」

 ようやく、アキラはサッシュたちの空気を隔絶できた。
 自分の持つ情報との絶対的矛盾が、今ようやく生まれた。

「この屋敷に罠を仕掛ける? ガールスロのシンボルであるこの館に? 考えてもみてくれ。“私がそんな計画を立てるわけがないだろう”」

 はなはだ心外だとでも言うようなサッシュの口調。
 アキラはギリ、と奥歯を噛んだ。

「相手は旅の魔術師か? まったく……、“君のように真摯で純真な旅の魔術師もいるというのに”……、そういう輩がいるから、私も他の貴族を説き伏せるの苦労するのだよ」

 隣のオベルトも小さく頷く。
 瞳は、リンダを僅かに憐れんでいるような色を浮かべていた。

「そういうの、もういいから。相手を少しだけ褒めながら……それこそ“説き伏せる”。ほんっとあるわね、主に、交渉力とか。あとは、交渉力とか交渉力とか」

 2人の“演技”に、リンダは完全に取り合わなかった。
 そして、視線をドアの方へ向けてくる。

「誰に吹き込まれたかって? そこにいる、アキラによ」

 アキラはそろりと、サッシュの部屋に足を踏み入れた。
 サッシュとオベルトは、アキラにぎょっとしたような表情を浮かべる。

 2人にとってアキラは、日付が変わる前の夕方、つい今しがたの内容とは間逆の言葉で説き伏せた相手だ。

「アキラ、分かった? こいつらは、本当に、こういう奴らなのよ」

 リンダは穢れでも見るような視線を、サッシュとオベルトに向けた。
 2人は閉口し、アキラとリンダに視線を行き来させている。

「その場凌ぎの言葉なんて、いくらだって出てくる。旅の魔術師を受け入れさせる方針を固める? 笑わせてくれるわ。どうせそう言えば、旅の魔術師は喜ぶとでも思ったんでしょ」

 慌てず動じず。恐らくリンダが屋敷の門に攻撃を仕掛けた頃から、サッシュとオベルトはこのシナリオを想定していたのだろう。
 もしアキラだけでこの場に訪れていたら、彼らは何と言っていただろう。
 敵を欺くには味方から、とか何とか言って、説き伏せたのかもしれない。

「ねえ、アキラ。さっきまでのは机上の空論。だけど、確たる証拠が今目の前にある。あなたは騙されたのよ、“貴族”に」
「それはもう―――分かってる」

 アキラは応えて、サッシュとオベルトに視線をやった。
 2人は怯えながらも、どこか思考を進めているように見える。

「もうこの2人に口を開かせちゃダメ。聞いてるだけで、虫唾が走る。こんな奴らがいるから……、私は“こんなことになってるのよ”」

 純白のローブを身に纏い、両手に巨大な円柱をか細い腕で掴んでいる異形な姿。
 しかしその表情は、人間誰しもが持っている、本能的な懐古欲を浮かべていた。

「“だけど、止める”。俺は、そういう旅をしてんだよ」
「…………そっか。何でだろ。私の人生、狂いっぱなし」

 あるいは、生まれに。
 あるいは、貴族に。
 あるいは、“ノイズ”に。

 リンダは少しだけ顔を上げて、腰を落とした。

「だけど、グリースに逢えたろ」
「そうね、それが幸運」

 リンダと言葉を交わしたのは、それが最期だった。

「―――、」

 リンダが紅いカーペットの上を、僅かに重力を忘れて走り出す。
 狙いは貴族。
 アキラを抜き去り、巨大な円柱を振り上げる。

「―――“キャラ・ライトグリーン”」

 使えて、一瞬程度だろう。
 アキラは軋む身体に鞭打って、身体能力強化の魔術を使用する。
 剣を抜き放ち、リンダを回り込むように貴族の前へ駆ける。

 貴族に同時に迫った2人の軍配は、アキラに上がった。
 ギリギリで振り下ろされる円柱の前に立ち、最後の一滴を絞るように剣を振るう。

「キャラ・スカーレット!!」

 体勢を崩しながらも身体ごと回すように振るわれたアキラの剣は、粉々に砕けた。
 しかし、捉えたリンダの赤い円柱はその衝撃に弾かれ、巨大な窓ガラスを破って屋敷の外に落ちていく。
 砕けた窓ガラスに見える夜空は、僅かな明るみが差し始めていた。

「……、」
「……そっか、こんなのだよね、私なんて」

 リンダはその場で貴族への攻撃を止め、それだけを呟き、ふらふらと砕けた窓ガラスに近寄っていった。
 そして、振り返りもせずに窓から“ふわり”と飛び下りていく。
 円柱はあと1つ残っていたが、魔力の方は逃走用以外、打ち止めだったようだ。

 本日の、長く、長く、長い月の時間は、今ここで、終止符を打たれた。

「今の……、光は……」

 膝から崩れ落ちそうだったアキラの耳に、そんな声が届いた。
 振り向けば、サッシュが僅かに目を輝かせている。

 今、自分の危機を救った、太陽を呼び寄せたがごとき日輪の力に。
 アキラは壊れた剣を握りしめ、サッシュに向かい合う。

「ゆ、“勇者様”とはいざ知らず……、大変なご無礼を。言い訳のしようもありません。全てこの私の、浅はかな考えが、」

 もう何を言っても、この男が嘘を吐いているようにしか見えない。
 アキラは静かな表情を浮かべていた。

 殺しはしない。
 だが、総ての相手を許容するというわけでもない。

 このサッシュとオベルトは、アキラにとって、忌むべき相手だった。

「この命を救っていただけた報酬の件はのちほどとして、今宵は、誠心誠意―――ひっ、」

 アキラは壊れた剣をサッシュに突き付けるように向けた。
 この男の考えていることなど、自分の懐柔くらいだろう。

「今宵? もう朝だろ。それに、今俺は、“勇者様”として動いたんじゃない」

 今日は、らしくないことのし通しだ。
 自分が口を開いても、戯けたことしか出てこない。

 だけど、今は、本心として、この男に言わなければならないことがある。

「忘れるなよ―――サッシュ=フォルスマン。あんたは確かに、“旅の魔術師”に救われた」

 そう言って、リンダのように、アキラは振り返りもせずに部屋を出た。
 頭は割れそうなほど響き、歩くために足を上げることさえ億劫だ。
 それでも、前へ、前へ。
 この場には、もう残る気にも訪ねる気にもならない。

 今すぐにでも豪華なベッドで寝転びたいところだったが―――本当に、自分らしくない。

 部屋を出て、長い廊下を歩く。
 やはり、サッシュの肖像画が飾られるここも、嫌悪感をもよおされた。

「……、」

 アキラは、申し訳程度に、その自画像の1つの隅に向かって壊れた剣を振るう。
 描かれたサッシュの身体には届かなかったが、一部が削られた絵をこのまま飾っておくことはできないだろう。
 高級感のある絵の額縁に気圧されたことによる、中途半端な嫌がらせ。

 そうやって。

 アキラは最後に、自分らしさを付け足した。

―――***―――

 魅力的?
 誰が?
 この、あたしが?

「はうわっ」

 エリサス=アーティは、奇声と共にベッドから身体を起こした。
 そして、窓の外に視線を移して頭をガシガシとかく。

 日の高さからして、もう昼過ぎだ。
 明け方にこの宿屋に帰って来て、身体を清めてベッドに入ってから、自分は一睡もしていないことになる。

「何か言えって言ったけど……、何か言えって言ったけれども……!! あれは、何!? 告白!? うなーっ!!」

 ベッドにうつ伏せに倒れ、両手両足をバタバタと振るう。
 そんなことをしても身体が疲弊するだけなのだが、もっと困ることに眠りに就くことができない。

 あの強敵―――グリースの足止めは、相手の撤退という形で幕を閉じた。
 突如屋根の上に現れた純白のローブの少女に、エリーはぎくりとしたものの、続く彼女の言葉は、

『私負けたわ。撤退よ』

 その、一言だけ。

 グリースはそれだけで剣を納め、屋根から下りてきたリンダと夜明けの街の中へ消えて行った。
 あの様子では、もうこの街にいないかもしれない。

 エリーも疲労困憊で、ふらつく足に鞭打って宿屋に戻ってみれば、既にアキラは自室で泥のように眠っていた。
 グリースの相手をさせておいて、様子を見に来ることもないその様子に僅かな苛立ちを覚えたものの、自分が宿屋に直接向かった理由と同じだろうと推測し、エリーも身体を休めることにしたのだった。

 信じた通り、自分たちは、あの奇妙な夜を乗り越えられたのだ。

 ただそこからが、エリーの受難の始まりだったのだが。

「……!」

 コンコン、と部屋のドアが叩かれた。
 エリーは異常な倦怠感と戦いながら、よろよろとドアに向かって―――いこうとし、1回鏡の前に立つ。
 軽く髪を撫でつけ、何とか身なりを整えて、最後に深く、深く、深呼吸。
 鏡の自分に1度笑ってみせ、何とか及第点を勝ち取ってから改めてドアに向かう。

「はい?」

 慎重に開いたドアの先、

「お勤め御苦労さまでしたっ、って言って欲しいです」
「部屋間違えてますよ」
「あれ!? エリにゃん!? どうしたんですか!? ドア閉めたりして……ってあれっ!? 鍵閉められた!?」

 無理だ、絶対に。
 この体調で、彼女の相手ができるわけがない。

 しかし、ドアを叩く音が次第に大きくなり、エリーはベッドに向かおうとした身体を無理矢理動かし、ドアを開けた。

「お、お疲れでしたか……、すみません、でも、どうしても心配で」

 ああ、そういえば、と。
 エリーは今さらながらに昨晩別行動だった2人を思い出した。

「どうしたの? 昨日」
「え、えっと……、ま、まあ、いろいろありまして……、魔術師隊に捕まったり」
「へえ」
「あれ、リアクション薄い!?」

 魔術師隊に捕まる、というのは相当な事件なのだが、今のエリーの心には響かなかった。

「サクさんは?」
「あ、サッキュンも同じです。あと、ランランとソッキョンたちも」

 知らない登場人物が増えていた。他にも捕まっていた人たちがいたのだろう。
 寝不足にうなされる頭で、何とかそれが、ティアが編集した人物名だというところまでは辿りつけたが、エリーの思考はそこで止まる。
 今はどうでもいい。あとで訊こう。

「まあ、何かいきなり解放されましたが……、サッキュンは疲れたらしくて眠ってしまっているので、あっしがご報告に」
「ごめん、あとにして。あたしなんか、頭痛くなってきた」
「わわわ、本当にすみません。アッキーが大丈夫そうだったんで、エリにゃんもいけるかな、って思ったんですが」

 ぴたり、とエリーの動きが止まった。

「……あいつ、起きてるの?」

 ええ、とティア。
 一足先に、アキラの部屋を訪ねたようだ。

「えっと…………、その、どんな感じだった?」
「いや、エリにゃんお休みになって下さい。お邪魔してしまって、」
「どんな感じだった?」
「……え、ええっと、はい。ちゃんとお勤めご苦労さまでした、って言ってくれましたよ」
「違う、それはどうでもいいから」
「ひどっ!?」

 やはり、無理だった。
 エリーは頭を押さえてベッドに向かっていく。
 ちゃんと寝てから、自分で確かめよう。その、素知らぬ顔で。

「あの、ひょっとして、エリにゃん寝てないなんてこと……」
「……………………」
「わ、わ、わ、あれですか、そりゃあお年頃だから、その、えっと、あはは、何言わせんですか、まったく」
「うなーーーっ!!!!」
「威嚇された!?」

 ティアは勢いよく部屋から飛び出て、最低限の常識からかドアを静かに閉めていった。

―――***―――

 奇声が聞こえた。いや、聞こえ続けている。
 彼女はもう起きているようだ。
 信じた通り、無事だったらしい。
 宿屋の主人がまた怒鳴り込んでくることは心配だが。

 アキラはベッドの上に座り込み、手に持ったノートに目を落としていた。
 昨日今日とずっと読みふけっているこのエリにゃんノート。
 何度も何度も目を通した、“詠唱”の項目に、隅から隅まで目を走らせる。

 アキラは昨晩、“詠唱”ができた。
 それゆえか、昨日よりも内容が頭に入ってくる。

「これで、ようやく、か」

 何となく、呟いてみる。
 自分は、ようやく、1つの山場を超えられた。

 瞬間的な魔術の切り替え。
 これによって、総ての魔術を使用できる日輪属性の利点が強まってきた。

 先ほど訪れたティアの話では、サクと共に魔術師隊に捕まったそうだが、どういうわけか解放されたらしい。
 元の世界の警察に捕まったようなものだと感じていたアキラにとって、2人が解放されたのは素直に嬉しかったが、恐らく魔術師隊に“交渉”したのはあの貴族たちだ。

 そう考える、また謀略を練っているようにも感じたが、もう深読みは疲れた。
 きっと、“勇者様”のオレンジの閃光を見て、貴族たちは“しきたり”に準じようと思ったのだ。そう考えるのが一番落ち着ける。

 奇妙な夜は、もうこりごりだ。

「……、」

 ベッドに座ったまま、アキラは窓に視線を向ける。
 日は、高い。僅かに開いた窓からは、涼しげな空気が吹き込んでききていた。
 そろそろ空腹だ。

 それでもアキラは病人のような体勢のまま、窓の外に視線を向け続ける。

 この空の下、そのどこかに、あの純白のローブの少女と鎧の男はいるのだろう。
 もしかしたら、“みんな”とやらに合流して、仲良くやっているのかもしれない。
 もしかしたら、昨晩の件で、仲良くやっていないのかもしれない。

 その結果を、アキラが知ることは無いのだろう。
 彼らとの道は、もう決して、交差することはないのだから。

 だが、もし、もう一言、言葉を交わせるなら。

「いや、言葉は無理だな。俺だし」

 ただ、悲しいことに、哀しいことに、悔しいことに、言葉にできないことだけど、リンダに知っていて欲しいことがある。

 “安心しろ、リンダ”。
 お前を悩ます原因の、1つ。

 “ノイズ”。

 それは、もうしばらくすれば、消える。

「―――、」

 風が薙ぎ、アキラが手に持ったノートが揺れる。
 とあるページで、アキラは指を挟んだ。

 そこに記された、文字。

「繰り返してるな、本当に、俺は」

 楽しくなると、先が不安に。
 苦しくなると、先を焦がれて。

 それはずっと、在り続けるだろう。

 自分は“詠唱”ができた。
 しかしそれは、自分が想ったことを、口に出しただけのもの。

 アキラの視点で、彼女たちとの出逢いを見てこなければ、誰も納得できない粗悪品。

 だけど、それで構わない―――

「―――、」

 筆圧が極度に弱いように薄く、儚く、それでいて、決して消え褪せないような奇妙なその文字。

 曰く―――『“詠唱”とは、残すためにあるもの』

―――だけど自分の“詠唱”は、残すためにあるものではないのだから。



[16905] 第二十九話『足音一つも聞こえない(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2011/09/07 04:51
―――***―――

「…………。さて。お前にまず訊きたいのは、私が剣を教え始めるとき、何と言ったのか覚えているか、ということだ」
「……まずは手入れから。だったよな」
「そうだ。剣に限らず、刃物には手入れが必要だ。敵の血のりしかり、刃そのものの損壊しかり、刃物は損耗が著しい。放置すれば必ず錆びるし、欠けた剣は容易に砕けてしまう。―――そこでだ」

 紅い羽織に、頭の高い位置で結った黒髪。女性にしては長身な彼女―――サクは、触れれば切れるような瞳を、“本当にそのまま”向けてきた。

「この2週間余り―――お前が壊した剣の数は?」

 戦闘時と見紛うような視線を向けられ、サクに比すればいささかだらけたような姿の“勇者様”―――ヒダマリ=アキラは、ゆっくりと、広げた右手を突き出した。
 しかしサクに再度睨まれて、おずおずと、余った左手で2本を追加する。

「2日に1本ってどういうペースだ!! 日替わりでも目指しているのか!?」

 到着したばかりのとある街―――その武器屋。
 サクの怒号に、店の奥で頬杖をついていた店主がずるりと滑り、他の客たちも恐る恐る盗み見てくる。
 視線を集めたサクは僅かに頬を赤らめ、こほりと咳払いをしたが―――怒鳴られた本人アキラは身体を完全に硬直させた。
 そろそろ怒られるとは思っていたが、今、サクは本気で憤慨している。
 日頃ねちねちと嫌味を言われるよりは幾分マシではあるのだが、溜め込んだ分怒りはそれ相応のものになるのだろう。
 今は別行動中の2人と遜色ない大声に、アキラは確かに恐怖を覚えた。

 サクが、キレた。

「いや、本当に悪い。でもさ、前は結構もったから……、3日に1回くらい手入れすれば」
「私は先日、毎日手入れをするように言わなかったか?」

 そう言えば一昨日、6本目の剣が損壊したとき、サクにそう言われた記憶がある。
 思えばあれがリーチだったのだろう。

 一応言われてすぐに手入れをしたものの、日々の疲れでずさんになり、その翌日―――つまりは昨日だ―――元気よく振るった剣が粉々に砕けたのだ。
 そう考えて思い起こせば、そのときのサクは、額に筋を浮かべていたようにも思える。

「はあ……、旅の中で、武器に旅費を取られることが無いわけではないが……最近の依頼は、ほとんどお前の剣代を稼ぐためになっているんだぞ?」
「それで依頼の数が増え、俺の疲労が溜まって手入れがずさんになり、当然使用回数の増える武器もどんどん費消していく。まさに悪循環だな」
「アキラ。本気で切りかかっていいか?」

 アキラは即座に一歩退き、ぺこぺこと頭を下げる。
 サクの怒りは未だオーバーゲイジだったようだ。

 商品の剣が並ぶ茶色の棚の前、サクは再びこほんと咳払いをし、こんな話を始めた。

「こんな話がある。昔、達人の域をゆうに超えた剣士がいた。迫りくる敵を瞬時に切り捨て、その動きは神の域に手が届くほど。引く手数多なその超人は、あらゆる戦場で手柄を立てた」

 サクはアキラに剣を教えているときのような顔を作り、続ける。

「しかし彼にも最期が訪れる。彼以外では突入することも不可能な数の敵の中、彼以外では切りかかることも不可能な強敵に挑んだときのことだ。彼の刀はその強敵を討ったと同時、真っ二つに折れてしまったそうだ。何故だか分かるか?」
「問題ない。ヒントは揃っている」
「この話の流れで得意げな顔をされると、動物が本来持つ攻撃本能が異常に刺激され、無性に切りかかりたくなるんだが、まあいい。彼はその前日、今まで欠かしたことのなかった愛刀の手入れを怠ってしまったからだ。武器を失った彼は残党に取り囲まれ、最期を迎えた。この話の教訓は、」
「数の暴力は強い」
「お前がかき集めてきたヒントを今すぐ捨ててこい」

 サクはそれきりその話を止めたが、言いたいことはアキラにも分かった。

「とにかく、手入れを怠るな。戦場を抜けたあと、いくら疲弊し、泥のように眠ってしまっても、翌日には武具の状態を必ず確認するんだ。日常の疲労など、戦場で武器を失うことに比べたら安いものだ。武器は常に万全の状態を保て。止むを得ず手入れができなくても、武器の消耗具合を念頭に入れて動くんだ。それで損壊するなら武器も本望だろう」
「じゃあ、あいつら本望だな」
「ははは、どうしたアキラ。さっきから、私の逆鱗をかきむしるような言葉を淡々と吐き出して」

 サクは顔だけ笑いながら腰を落として自らの愛刀に手を懸けた。
 鞘は黒塗りの、長く、長い、芸術品を思わせるような精緻な長刀。

 そのサクの愛刀の攻撃対象は―――アキラ。

「最近いろいろとあって忘れていたが、そろそろ決着を付けようか。私の名前は―――」
「悪い!! マジで悪い!! 何か真面目な話になると、俺はどうしても、」
「―――サクだ」
「知ってるし!! いや、違う、聞いてない!! 聞こえなかった!!」
「サクだ」
「もう1回言えって意味じゃない!! 大体俺は丸腰だ!!」

 完全に店内の視線を集めきったアキラの行動に、サクは盛大にため息を吐き出し、ようやく刀から手を離す。

「……まったく。まあ、とりあえずは武器を買おう。毎回付き合わされる私の身にもなってくれ」

 サクは視線を集めた位置から僅かに移動し、棚の剣を眺め始めた。
 口ではそう言ってはいるものの、サクの瞳はどこか輝いて見える。
 もともと武器が好きなのだろう。
 以前、武器屋で目を離した隙に、サクは剣とは関係のない武器を眺めていたことがあった。
 戦闘時、サクが自らの愛刀以外を使っているところを見たことは無いが、それ以外の武具への興味も強いらしい。

「サクは武器好きなんだよな?」
「んー? ああ、まあな」

 サクは棚の中から1本の剣を取り出し、生返事をしてきた。
 どうやら怒りは収まりつつあるらしい。

「やっぱ結構詳しいのか?」
「あー、ああ、そうだな……。物心ついたときには、色んな武器に囲まれてたよ」

 完全に生返事。
 だが、さらりと物騒な言葉が出てきた気がする。

「それから、いろいろ調べたな。世界で最も秀でている武器はタンガタンザ製だが、そのせいか奇妙な武具が多くて……。私にとっては世に言う普通の武具の方が見ていて楽しい」
「…………サクは、タンガタンザ出身か?」
「あー、ああ、そうだぞ」
「……………………」

 今ならサクに何を聞いても答えそうな気がする。
 バックボーンを語らないサクに、いや、サク個人に、気いたいことがあるのなら今の内だ。
 と、僅か邪な考えが浮かんだが、これ以上楽しんでいるサクの邪魔をするのもはばかれる。

 アキラはサクの真似をするように、棚から剣を取り出し眺めてみた。

 並んでいる武器と、手に取ったこの剣。
 ほとんど差が分からなかった。

「あんた、武器壊すのか?」
「……!」

 突然話しかけられ、アキラは剣を取りこぼしそうになった。
 振り返れば、先ほど店の奥で座り込んでいた武器屋の店主が立っている。

 姿勢が悪いのか腰が曲がっているのか判断がつかないその初老の男に、アキラはおずおずと頷いた。

「原因は分かるか? 2週間で7本は流石に手入れ不足だけじゃないだろう?」

 あれだけの音量で話していたのだから店の中に自分たちの事情を知らない者はいないのかもしれない。
 店主との話に、アキラはサクを求めて振り返ったが、彼女はこちらに気づかず店の奥に進んでいた。見ているものが武器というのはいささか物騒だが、買い物に夢中になるのは女性の性なのかもしれない。
 アキラは諦めて、店主に向かい合った。

「ええっと、何か、硬そうな魔物を切ったりすると、なんか、バキィッって」
「……火曜属性か?」
「……まあ、えっと…………、そうです」

 似たようなものだ。それでいいだろう。

「火曜属性で剣……か」

 すると、店主は何かを考え込むように、顎を触った。
 静けさを取り戻した店内には、客たちの足音しか聞こえない。
 僅か蒸し暑い店内のせいで額から汗を噴き出し、汗が頬を伝い、顎から零れて床に落ちるまで、アキラも店主も動かなかった。

「……………………ん? え、火曜属性で剣?」
「……もう1回ですか」
「い、いや、そういうわけではなく……。火曜属性で細長いものなんぞ使ったら、そりゃ砕ける」
「……………………ん? え、マジですか」

 マジだ、と店主は頷いた。
 そして、アキラは衝撃の事実を今知った。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。火曜属性って、剣使えないのか?」
「いや、使えんことはないが……、火曜属性と言えば、普通は斧とか鉄塊とか……、あとは、最近鞭なんかも人気で、」
「…………拳を守るプロテクターとか?」
「そ、そうそう。打突系になるな。まあ、剣にしたって、2日に1本はないが」

 今さらだが、“勇者様”ことヒダマリ=アキラは、武器をよく壊す。
 強敵に切りかかっては真っ二つ、強敵に襲われては粉々。最近ともなると、そこらの魔物相手でも、最初から決まっていたかのようにアキラの武器の破壊行為は相次ぐことになる。

 原因は恐らく、半月ほど前―――とある貴族が納める街で、“詠唱”を確立したからだ。
 “詠唱”を極端に言ってしまえば、自分が魔術を使用するイメージを事前に固めて身体に“登録”し、それを戦闘中に瞬時に引き出せる―――“便利なもの”。

 アキラは、戦闘中、自分の実力の範囲で最大の攻撃を仕掛ける術を手に入れた。
 そして、あらゆる魔術を習得できる日輪属性であるアキラの最大攻撃は―――特に攻撃力に秀でた“火曜属性の再現”。

 手に入れた力は強力で、同じ日に“登録”した身体能力向上を司る“木曜属性の再現”とともに、この街までの依頼を数多くこなしてきている。

「……ちなみに、木曜属性の武器は?」
「珍しい話を出すな……。木曜属性の武器? いや、精々簡単な防具程度だろう。かなり前の話だが、武器を売りつけようとしたことがあってな。そのとき、そんなもの邪魔でしょうがないと鼻で笑われた」
「…………ほう」
「にわかには信じられんが、“武具より強い力をその身に宿す木曜属性”。そんな属性が武器を使えば、火曜属性ほどじゃないが消耗は早いんだろうな」
「おうふ」

 思ったより魔術に詳しい武器屋の店主の言葉に、アキラは眩暈がした。
 サクはそのことを知っているのだろうか。
 いや、恐らくは知らないのだろう。魔術に詳しくないと言っていた彼女だ。
 そもそも日輪属性がどのような力を持つのかを知っているのは、この“勇者様御一行”ではアキラだけであったりする。
 知っておけ、というのが無茶な話だ。

 敵を討つたび破損する武具を見て、内心自分の力が上がっていると喜んでいたのだが、木曜属性の身体能力で敵に飛び込んで、火曜属性の攻撃を撃ち込めば、武器の運命は端から決まっていたのだろう。
 砕けていった剣たちは今頃、本望どころかアキラを呪い殺そうと躍起になっているかもしれない。

「まあ、仮定の話なんて今はいいだろう。木曜属性の者なんぞまずいない。1番の希少属性だ」

 その“1番”には、“とある2つの属性”が除かれているニュアンスが含まれていた。
 残る5つの属性の中では木曜属性が最も珍しいとは今初めて聞いたが、その後付け設定よりも、アキラはもっと深刻な後付け設定に苦しみ始める。

 アキラの使える魔術の中で、使用頻度が異常に高い2つの属性は、剣が使えない。

「まあ、2日に1本じゃ、あのお譲ちゃんが言っていたように手入れ不足もあるだろうな。だが、剣は諦めた方が無難だろう。どうしても剣を使いたいなら、お勧めはしないがタンガタンザにでも―――って、どこに行く?」

 アキラはふらふらと、店主の元を離れてサクに近づいていった。
 サクは機嫌よさ気に、今は飛び道具の棚の前に立っている。

 アキラの夢遊病者のような足取りはサクの背後で止まった。

「なあ、サク」
「んー? なんだ?」
「俺の手入れ不足のせいじゃないってさ、武器が壊れるの」

 サクは身体をピタリと止め、僅か前かがみの状態からゆっくりと振り向く。
 手は、すでに愛刀を握っていた。

「表へ出ろ―――1度使ってみたかった言葉だ」
「何でもするから助けて下さい―――1度でも使いたくなかった言葉だ」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――ファレトラ。

 東西南北に十字のように伸びる南の大陸―――シリスティアの、北と西の十字の交差路付近に位置するこのあまりに巨大な街は、交通の連絡地点として古くから栄え続けてきている。
 広大なシリスティアでは、長距離に渡って荷を運ぶのは一般的ではない。
 北の大陸や西の大陸ほどの危険があるわけではないが、シリスティアにも魔物は出る。広大な大陸を消耗戦のように通行するわけにもいないし、大自然が広がる地では移動用の馬車の消耗も激しい。
 当然、街から街に点々と移動していくしかないわけだが、その交通の起点をシリスティアで最初に引き受けたのがファレトラだった。
 シリスティアの中央付近に位置する土地の利もあり、郵便物を一手に引き受けるというシステムを構築したファレトラの影響力は強く、いつしかシリスティア全土に郵便宅配の支部を構築するに至る。
 その繁栄具合は、他の街に追従を許さない。なにしろ、他の街が栄えれば、貿易が盛んになり、結局ファレトラの繁栄に協力することになるのだから。
 積荷も、繁栄も、まるで吸い寄せるように集められるファレトラは、シリスティアの地脈とも言え、血脈とも言え、広大なこの大陸に強く強く根付いていた。

 そして、各地の積荷が集まるファレトラという街の規模は、あまりに巨大。
 街の半分以上が積荷を保存しておく貯蔵庫になっているというのに、残った面積は他の街の数倍もあり、いまだ発展を続けている。
 それだけに人も多く、下手を打てばファレトラそのものに届く積荷で他の街の一角をゆうに埋め尽くせてしまう。植木や花が上品に整備された街中もそれに拍車をかけ、昼夜を問わず賑やかさを保ち、“夜”はいつまで経っても訪れない。

 それゆえに、かえって、他の街からは嫌われることもあると言う。
 ファレトラは、街も、住民も、総てが粗すぎる、と。
 圧倒的な集客力を持ち、金を集め、治安が悪くなると物力にものを言わせて鎮静化する。
 シリスティアの重要起点であるとは言え、苦労して街を栄えさせたのは最初だけで、あとは全てごり押しとも言える方法で街を保ち続けているのだから、現在努力している小さな町には―――その光は強すぎた。
 “高貴”と言われるシリスティアで、ファレトラは粗く、勝手に集まる力を用いて強引に全てを叶えているのだから、他の街にはそれがあまりに不遜に見えるのだろう。

 だがそれでも、ファレトラは変わらない。
 他の街の逆風など、いにも解さず在り続ける。
 そんな他の街も、結局はファレトラに頼らざるを得ないのだから、ファレトラは止まらない。

 まさしく自分こそが“高貴”であると、声高々に、胸高々に、シリスティアの頂点に君臨し続けていた。

「ずべーしっ!! とか、どうですか?」
「は?」

 背中に1本にして垂らした赤毛が特徴的なその少女―――エリーことエリサス=アーティは、隣からの声に視線を向け、そして、聞こえないふりをした。

「あれっ? お気に召しませんでしたかっ!? じゃ、じゃあ、えっと、えっと、べたんっ!! とか?」

 この街―――ファレトラは、話では聞いていたがあまりに巨大だった。
 まず、道幅からして他の街の倍はある。
 それを囲んだ背の高い建物たちは日光さえも遮り、いたるところに影が落ちているほどだ。
 今のように日の高いうちは不自由をしないが、僅かでも日が傾けば一気に闇が落ちる。
 それを解決しているのは街の至る所に設置されている照明具だ。
 自分たちがこのファレトラに到着したのは昨日の夕方頃だが、そのときすでに灯りが点き、街の外からは夕暮れ時に浮かび上がるように映えていたのをエリーは覚えている。

 あの時間帯に、あれだけの灯りを点けていることなど、他の大陸では考えられない。
 そして、その色も、だ。

 通常、灯りを担うのは紅い光を放つ火曜属性のマジックアイテムだ。
 まれに落ち着いた青の色を放つ水曜属性のマジックアイテムで灯している宿屋を見るが、ファレトラはそれだけに留まらない。

 基本でもある火曜属性や水曜属性のマジックアイテムは当然押さえ、金色を放つ金曜属性、灰色を放つ土曜属性、そして緑色を放つ木曜属性のマジックアイテムまで揃え、街が数多の色に輝いていた。

 一般的ではない、というはそれだけで費用がかさむものであるのだが、ファレトラは数多の色で輝き続ける。
 エリーも、リビリスアークという田舎町を旅立って以来、数々の発展した街を見てきたが、この場所だけはまるで別世界のようにすら思えた。
 ファレトラの話は噂では聞いていたが、ここまでとなるとつくづく旅に出て良かったと思える。
 派手派手しいと言えば、派手派手しいのだが。

「あのー、エリにゃん?」
「……なに?」
「何で話聞いてくれないんですかっ!! テーマ『あっしがこけたときの擬音について』!! 今そういう話をしてるんですよ!?」
「あれ? なんであたし怒られているんだろう? そしてなんでだろう。怒られているのに怒り返したくなる」

 視線を向けたその先。エリーより頭1つ分低い背丈の少女がむくれていた。
 流石に少しは学習能力が高まったのか、風邪対策に半袖の上着を羽織ったその少女は、ティアことアルティア=ウィンクーデフォン。
 青みがかった短髪を僅かに振り乱し、小さな身体を僅かに強張らせて腕を組んでいる。
 しかし彼女がそうしていると、餌を与えるのを忘れた飼い主に対して拗ねている小動物にしか見えなかった。

「これだけおっきな街ですよ!? 経験から言って、まず間違いなくあっしはこけます。そのとき周りの人が、『あー、あの子は狙ってこけたんだな。ははっ、まったく、おちゃめだなっ』って思ってもらえるように、敢えて分かりやすい擬音を―――ふぎゅぼうっ!?」
「……それもなかなか個性的ね」

 ティアの経験則は、正しかった。
 腕を組んでいたせいで、受け身も取れずに地面にダイブしたティアは、顔を押さえて悶絶し始める。
 しかし通行人は、僅かに視線を向けただけで足早に各々の場所に向かっていった。
 この街では、足を止めている間も惜しい者が多いようだ。

「ううぅ……、エリにゃんのせいだーーーっ!!」
「はあ……、分かったから。まずは何でそんなに機嫌が悪いのかから聞きましょうか?」

 ため息混じりにエリーがそう言うと、転げていたティアが身体を止め、すくりと立ち上がる。
 どうやら当たったようだ。

 ここのところ、ティアはどこかテンションが高い。
 確かに、彼女は年中駆け回っているような性格を元来しているのだが、最近、妙なベクトルに駆け続けているのだ。
 正直言って、まるで酔っ払いのように絡んでくる頻度が異常に上がっている。

 エリーに面と向かって立ち上がったティアは、しかし僅か視線を伏せ、意を決したように言葉を口にした。

「いや、実はですね。最近あっしの出番が削り取られているんですよ。戦闘中とか」
「え? あー、うん、まあね」

 確かに、思い当たる節があった。
 現在、“勇者様御一行”はシリスティアという広大な大陸を旅している。
 東西南北に延びる十字架のような姿をしているシリスティアに到着して早1ヶ月。現在はようやく大陸の中央付近に近づけたに過ぎない。例外的な事件はいくつか起こったが、ほとんど移動のみに時間を費やしているというのに、だ。
 “内回りの船”と同じように特殊な魔術加工を施した馬車とやらを利用しなければ、恐らくシリスティア北部の半分も移動できなかったであろう。

 しかし、それだけ広いシリスティアだが、世界の5大陸の中で魔物の強さは最弱の部類に入る。アキラはおろかティアですら、1人で外に出歩くことが容易なほど、シリスティアは整備が行き届いていた。
 下手をすれば“最弱”の大陸であるアイルークよりも安全であるかもしれない。

 そんなシリスティアを旅する中、最もフラストレーションを溜め込んでいたのは、目の前の彼女だった。
 なにせ、彼女の役割は、

「いや、分かるんですよ? あっしは後方支援ですから。出番があるということは、みなさんが危ない、ってときですから。それは分かるんですよ? ティアにゃんは十分理解しています。でも、最近ふと気づくんです。あれ? あっしこの依頼応援しかしていなかった、って」

 ティアは器用にも後ろを向いて歩き出し、エリーもそれについていく。

「つまり……、魔物を倒したい、ってわけ?」
「いや、それは……、まあ、そうかもしれませんが、……あっしが介入する前に物語が勝手に進んでいくんです。それが、なんか耐えられなくて」
「えっ、めんどくさっ」

 言って、エリーの脳裏に、まさにそういうことを言い出しそうな“とある男”が思い浮かんだ。

「最近はあれですよ。戦闘が終わってアッキーを回復させようと近づいたら、『あ、いたんだ』みたいな顔されたんですよ。頼みの綱のアッキーがぁぁぁあああーーーっ!!」

 ピクリ、とエリーの眉が動いた。
 戦闘被害が最多のアキラの名を口にしたティアは、エリーの様子には気づかず、転ぶ前に普通の歩き方に戻った。

「大体、サッキュンが速すぎるんですよ……。あっしが魔物に構えたころには、ばーんです。それに、アッキーもです。あっしが魔物に構えたころには、バキィッ、です」

 それは、剣が砕けたときの話をしているのだろう。
 アキラの剣破損の発生頻度は、現在この旅を財政難に持ち込むほど深刻化していた。

「そしてそして、エリにゃんも……。あれ? あっし以外全員じゃないですか? ……まあ、ともかく、エリにゃんどうしたんですか最近。こう言うのもなんですが、魔物の群れの中で暴れ回っているようにしか見えないんですが」
「あはっ、あはははははっ」
「むむっ、やはり何かありますね。エリにゃん最近誤魔化すように笑いますし」

 ティアはどこか悪戯を思いついたような表情を作り、エリーにじゃれつくように詰め寄った。

「いっ、いいのよ、いいの。あたしはとにかく、前へ進んでいれば。暴れ回っていようが何だろうが、とにかく。そう、前進姿勢よ」
「くぅ。戦闘で活躍していると、やっぱり楽しいんでしょうね―――ふぎゅあぅっ!?」

 わざわざオーバーに身体を前へ倒したティアは再び転倒。
 この人通りでこれ以上転倒されては流石に危険だと思い、エリーはティアの腕を掴んで起こし上げた。

 情けなさそうに眉を潜めるティアは、いつものように叫ばず、一言謝って口を閉じる。
 この件につき、相当悩んでいるようだ。

 確かに、思ってみればティアの役割は現状薄い。
 不遜な言い方になるかもしれないが、シリスティアの魔物は弱いのだ。

 そんな中、アキラ率いる“勇者様御一行”は明らかにオーバースペックだった。

 サクがあらゆる地形でも衰えぬ速力で敵陣に飛び込み、エリーが防御能力の高い敵に拳を浴びせる。
 それだけでも十全なのに、半月ほど前から戦闘力を大幅に伸ばしている男がいた。

 ヒダマリ=アキラ。
 この“勇者様御一行”を率いる、日輪属性の“勇者様”。

 彼の動きが、変わった。
 それまではティアと共に後方にいて、エリーとサクが撃ち漏らした魔物を討っていただけだったのだが、最近では前線を張っている。
 原因は、速力の上昇。
 今のこのメンバーで、多くの敵を倒すには絶対的に速力が必要だった。何しろ、動きが遅ければ攻撃能力に関係なく、敵がエリーとサクによって全滅してしまうのだから。
 しかし現在アキラは、サクほどまでとはいかないが、一時的にエリーを超える速度を、“瞬時に出せる術”を持っている。

 “詠唱”の確立。
 彼の持つ“身体能力強化”のイメージを即座に現実化できるその力は、彼の動きに拍車をかけた。
 アキラが“詠唱”を確立する前、大群の魔物駆除の依頼を受けたことがあった。アキラが調子に乗って身体能力強化の魔術を頻繁に使っていたときのことだ。
 敵陣に飛び込み、猛威を振るってはいたのだが、途端、彼の動きが止まってしまった。
 制限時間があるようで、強化の魔術が切れたアキラは再使用が遅れてしまい、残党に囲まれ酷い目にあっていたと思う。
 救助に向かったサクがアキラを群れから離したあと、ぶつぶつ『……もうしない』と呟いていたのを思い出す。
 まあそれ以来、必要最小限に魔術を使用することで、窮地に陥ることは無かったのだが。

 だが、今は、必死の状態から即座に再使用が可能になった。
 制限時間が来ても、即座に魔術を再使用。
 シリスティアの魔物に、その身体能力についていけという方が無茶な話だ。

 これは大きい。

 その結果、アキラはサクやエリーと共に敵陣に飛び込み、そして―――バキィ。

 これも大きい。
 主に、懐具合の風通しの良さが。

「そ、その、あのですね」
「?」

 手をつないで歩くティアが、先ほどのどこか申し訳なさそうな顔をエリーに向けてきた。
 エリーは思考の渦から這い出て、機嫌が悪くなっている子供を見下ろす。

「あっし、みなさんのお役に立ちたいんですよ。いや、力不足なのは分かっているんですが、みなさんが怪我しないなら、逆にあっしも敵を倒したり」
「あるじゃない。遠距離攻撃」
「いや、そればっかやってるともしものときに魔力切れちゃいます」

 一応、彼女にも譲れない線はあるようだ。
 それとも、以前とある貴族の納める街のとき、朝の鍛錬で魔力を枯渇させるという暴挙を犯したことからの経験だろうか。

「まあ、“これから請ける依頼”なら、出番はあるでしょ」

 2人は現在、“とある依頼”を請けに酒場に向かっている。
 その“事前情報”によれば、その依頼は、まさしく前代未聞と言うに相応しい内容だった。長期間に渡る可能性もある。
 後方支援たるティアの出番は、相当程度に増えるだろう。

「だからそれに少しでも貢献したいんですよ。そこで、ですね」

 ティアは言い淀み、それからおずおずと口にした。

「あっしにも、何か、武器、とか」

 ティアからその言葉が出て、エリーは僅かに息が止まった。

 ティアに、武器。
 背筋が凍るほど、頭が痛むほど、まるで想像できない。
 アキラではないが、2日で壊すか無くしそうな気さえする。

 ティアがこの話題を出し渋っていたのは、その未来が自分でも容易に予測ができ、そして、この一行が現状悩んでいる財政難の原因を知っているからだろう。

「ぶ、武器、ねぇ」
「ううぅ、やっぱり無理ですかね? でも武器が無いから鍛錬も魔術関連のことばっかりになっちゃって……、最近では治癒魔術を一瞬で終わらせたり、遠距離攻撃が5つに増えたり、具現化の足がかりを掴んだ気さえします」
「えっ!? ティアすごっ!?」
「全部冗談でもですか?」
「ははっ、このこのぉっ」
「いたたたっ!? ごめんなさいごめんなさいっ!! エリにゃん最近元気すぎますよっ!?」

 エリーはティアの頭をごしごしと撫でながら、目元以外は笑っていた。
 とりあえず、彼女はこのまま魔術関連に特化してもらっていた方がいいような気がする。

「……な、投げナイフとかどうですか? こう、シュパッ、っと。簡単そうじゃないですかね?」

 ティアは、アキラと全く同じ視点で話していた。
 末路は見えている。

 しかし、ティアの言うこともある種真理を得ていた。
 シリスティアは広大だが、魔物は弱く、経験は少ない。
 こんな日常が続くと、自分たちの旅は怠惰なものになってしまう。
 旅は、確かに悪くはない。だが、個人的な感情を抜けば、いや、抜かなくとも、自分たちは一刻も早く“魔王”を倒さなければならないのだ。

 どうせ長く旅を続けるのならば、西や北の大陸に行ってみたいとも思える。
 そうやって、様々な大陸を回ってみたいと思うことも、どちらかと言えば個人的な感情に属するのだけど。

 そこで、エリーの視界にマジックアイテムの宝石店が映った。

「武器ね……。じゃあ、石とか投げたら?」
「マジックアイテムの投擲ですか。それはそれで強そうですね。でも財政的に……」
「うん。だから、その辺に転がっている小石とか」
「ぬおおおおおっ!? ティアにゃんだって怒るんだぞぉーーーっ!!」

 ティアの絶叫が響いたとき、2人はようやくファレトラの依頼所に到着した。

―――***―――

「……! ヒダマリ=アキラか。それとサク。フルネームは聞いていないはずだな。正直、お前たちの到着が私の2番目の望みだったのだが、何とか叶ったようだ」

 誰だお前は。
 流石にそこまで失礼な言葉は吐けなかったが、アキラは目の前の男に怪訝な顔を向けた。

 武器屋で一応は剣を購入し、サクと共に昼食でもとろうかと街を放浪していたとき。
 ファレトラにしては古めかしい書店の前で、出てきた1人の男とかち合った。男は、分厚い辞典のような本を小脇に抱えている。

 白髪交じりの肩ほどまでの髪に、胸まで届きそうなほどの長い髭。皺がくっきりと刻まれた顔。
 そして、着慣らされた漆黒のローブ。
 その服の意味は、アキラも知っている。
 半月ほど前、自分はそれより“格下”の服を纏い、とある貴族を“救った”。
 “格下”のそれとは形の違う、胸に光るオレンジ色のエンブレムが持つ意味を、アキラは知っている。

 “魔道士”。
 魔術を職として志す者の夢であり、具現であり、そして力の証明でもある。

 目の前の、正体不明のこの男は、魔道士だ。
 アキラの背筋に、冷やりとしたものが走る。

「…………どこかで会ったことでも……、いや、」

 何となく警戒していたアキラに代わって、サクが口を開いた。
 だが僅か言い淀み、過去を反芻するように眉を潜める。
 そうしたサクの態度を見て、アキラも目の前の男とどこかで出会っているような気がしてきた。

「記憶にないのは僅か心寂しいものを感じるが、まあいい。ともあれ、お前たちは依頼を請けにきたのだろう?」

 髭の男は眉を寄せたが、言葉通りに気にもしていないような口調で言葉を続ける。
 だが、その“依頼”という言葉で、サクは、はっと瞳を開いた。

「そうか……。ロッグさん、だったな。魔道士の」
「?」
「アキラ、覚えていないか? ほら前に、あの……港町の事件で」
「……おおっ!!」

 アキラの記憶の封が、解けた。
 “三週目”。
 確かに自分は、この男と出会っている―――などと、単なる物忘れに属する事態に対し、アキラの頭の中でファンファーレが鳴った。

 あの出来事だけは、忘れられもしない、1ヶ月前の港町―――“鬼”の事件。
 アキラはそこで、出遭い、出逢った。

 あのとき、“鬼”を討つという華々しい表舞台ではなく、住民を守るという裏舞台で活躍した魔術師隊。
 目の前の男は、その魔術師隊を率いていた魔道士だ。

「いかにも。ロッグ=アルウィナーだ。よく覚えていたな。と言っても、ひと月ほど前のことだが」

 やはりあのときの魔道士であったロッグは、髭をさすり、しかし厳格な顔は崩さない。

 だが、アキラはロッグに親しみを覚えた。
 実際のところアキラとはあまり接点のない男であるが、アキラが有しているシリスティアの記憶は一応2倍。
 旅の中での再会というのも心にくるものがある。
 そんなアドバンテージの無いロッグは、アキラのことをフルネームで覚えていたようだが。

「ところで、エリサス=アーティとアルティア=ウィン=クーデフォンはどうした。彼女たちもこの街にいるのだろう?」

 当然のようにエリーとティアのフルネームも口にし、視線を街の雑踏に走らせる。
 だが即座に顔を戻し、アキラと向き合った。
 彼はどこまで自分たちのことを記憶しているのだろう。パーティ構成まで押さえられている。

「エリーさんたちは別行動だ。あなたが今言った、“依頼”を請けにいっている」
「うむ……。そうか。心強い」

 ロッグは厳格な顔を崩さず、まるで汎用性の高いテンプレートを取り出すように、そう口にした。
 ここまでくると親しみを覚えるより、尋問でもされているような錯覚にアキラは陥った。
 アキラが聞いたロッグという人物像は、確かに目の前の人物そのもののようだ。
 彼は実直に動き、そして街を救ったと聞く。
 “魔道士”という資格は、単なる看板ではないと証明した人物であるとも聞く。

 ヒダマリ=アキラという人物とはある種正反対にいるこの初老の男に、アキラは徐々に苦手意識を芽生えさせていた。

「時間も時間だ。昼食でも共にしたいところだが、私も私でやることがある。“依頼”の話を聞きたかったか?」
「……そうだな。一応聞きたかった。私たちは今あてもなく食事のとれる店を探していたところだ。途中までいいか?」
「歩きながらで良いなら、構わん」

 サクとロッグが歩き出し、アキラもそれについていく。

 元の世界で例えるならば、重苦しい教授のような印象を受けるロッグだが、アキラも一応、“依頼”について聞きたかった。

 “依頼”。
 それは今、エリーとティアが請けにいっているものであり、自分たちがこれから請けるものであり、そして、多額の報酬が用意されている―――“大事件”の解決を求めるものである。

「エリサス=アーティからどこまで聞いた?」

 雑踏の中でも良く通る重い声が訪ねてきた。
 今回の依頼は、事前情報が与えられているものだ。
 “鬼”が出たあの港町。そこで、エリーは依頼の全貌を聞いたらしい。

 だが、アキラが知っているのは断片的な情報だけだ。
 港町にいたとき、エリーはあとで話すと言っていた。
 しかし結局、この日まで、アキラは依頼の内容をほとんど知らない。

 そこで、アキラの思考は横道に入った。
 最近、妙にエリーに避けられているのは気のせいだろうか。

「アキラも知らないらしい」
「そうか。まあ、後で知ることになるが、いいだろう。説明するか」

 どうやらサクは振り返ってアキラの様子を見ていたらしい。
 首を傾げていたアキラを見て、誤りながらも正しい答えをロッグに返した。

 そして、ロッグは、重々しい口調で、今回の依頼―――シリスティアの“大事件”の別名を口にする。

「“大樹海の失踪事件”」

 この街――ファレトラは、シリスティアの中央付近に位置し、宅配や郵便で栄えた街として有名だが、その実、シリスティアの“本当の”中央からは遠く離れた位置にある。
 シリスティアの大陸が形作る十字架。その、北と西の交差路付近にあるに過ぎないのだ。

 しかし、そこをシリスティアの中心とするにはわけがある。
 世界名だたる激戦区―――“中央の大陸”を、地図の下から突き上げんばかりに位置するシリスティア。
 広大な大陸を持ち、高所得者や美しい自然に埋め尽くされた―――“高貴”な大陸。

 しかし、そんなシリスティアは、その中央。十字架の交差路を、“あまりに在り得ぬ自然”に埋め尽くされていた。

 大樹海―――アドロエプス。

 それが、その、“あまりに在り得ぬ自然”に付けられた名だった。
 何となくこの世界の地図を眺めていたアキラが得た情報の中に、世界三大樹海というものがある。

 1つ目は“東の大陸”―――アイルーク。
 と言っても、これは樹海というほどではない。
 何せ、大陸のほとんどが木々に埋められているのだ。
 美しくはあるのだが、シリスティアのようにある程度管理されているわけではなく、自然のまま、悪く言えば放置されたまま、そこに在る。
 アキラはアイルークにいたころに、よく森を歩いていた記憶があるが、あれも一応大樹海の一部ということだったらしい。
 当時は魔物から逃れることに躍起になっていたが、今から思えばあの森は優しすぎた。
 アイルークの代名詞―――“平和”が示す通り、今のアキラにはダンジョンにはなり得ない。
 大樹海の名称さえ、地方によってまちまちなほどだ。
 ゆえに、ただ単に、アイルークの大樹海と呼ばれている。

 2つ目は―――“中央の大陸”。
 大陸を横切りにするように生え茂るあの大樹海は、アキラの“記憶”に確かに残っている。
 だがそれは、“今アキラが持っていてはならない情報”であるし、中央の大陸には“それよりもっと忘れ得ない出来事”が起こった場所でもある。
 アキラは即座に頭から追い出した。

 そして、3つ目。
 シリスティアの大樹海―――アドロエプスだ。

「歴史を話そう。もともとシリスティアは、自然が軒並み放置されていた大陸でな。広さから言って当然なのかもしれないが、今のような景色に比べればなかなかずさんだったと聞く」

 ロッグは歩みを進みながら、教鞭をとるように言葉を続ける。

「しかし、徐々に人口が増え、栄え始めると、当然管理しようという思考を持つ者が現れた」
「管理、か」
「ああそうだ。“貴族”という言葉は聞いたことがあるだろう? 彼らの祖先は、広大なシリスティアを栄えさせた尽力者が多い」
「……」

 アキラはその単語に眉を潜めた。
 背中しか見えなかったが、サクも同様に眉を潜めているだろう。

 “貴族”という言葉には、思うことが多すぎた。

「その内、領土という考えが生まれ、自然は大きく損なわれた」

 そう言われても、アキラの中のシリスティアの評価は変わらなかった。
 この大陸には、自然が多い。それこそ、管理されているとは思えぬくらいに。
 ロッグの言う、自然が大陸を埋め尽くしていた、というのは何の比喩でもなく、大きく損なわれた程度では分からないほどだっただろう。

「そして、自然の減少に反発するものが現れ、小競り合いが起きた。しかしやはり人は増え続け……と、シリスティアの自然は進退を繰り返している」

 ロッグは街に視線を走らせた。
 このファレトラの中にも、人口で植えられた木々がある。
 歴史の中、人間の間で揉まれた自然。
 それは元の世界でも変わらない、とアキラは思った。

「しかし、だ」

 ロッグはさらに声を低くし、今度は街の南東に視線を向けた。

「とある事件が発端になり、シリスティアの中で、“人間がまるで関与できなくなった自然”がある」

 それが、大樹海―――アドロエプス。と。ロッグは紡ぐ。

「数百年前。気も遠くなるほど昔のことだ。当時の文献にこうある。『シリスティアの“高貴”を浴び続けたいなら、アドロエプスには近づくな』と」

 数百年。
 それはもしかしたら、千年に近い数百年なのかもしれない。

「樹海を伐採しようとした者は戻って来ず、封鎖しようとした者も戻って来ず、今なお“放置”以外は許されない。そんな樹海が、この街の隣に在る」

 『もっとも、遠目に関所は用意しているが』とロッグは付け足した。

「それが、」
「ああ、今回の依頼内容―――“大樹海の失踪事件”。数百年前から起きているにもかかわらず、まるでたった今起きた行きずりの犯行のように、騒ぎを起こしている“敵”の像さえ不確かな―――伝説の未解決事件だ」

 アキラは、あの“鬼”の事件を頭に思い浮かべる。
 あのとき、正体不明の攻撃に、港町は大打撃を受けた。
 しかし、そのあまりに特異な事件でさえ、少ない情報からその夜の内に解決に導くことができたのだ。

 だが、大樹海の事件にはそれが無い。
 どれだけ長期間事件が続いても、手掛かりは、ゼロのまま。

 今なお続く、伝説の―――未解決事件。

「……それならそれで、国境のようなものを作ってしまえばいいだろう。高い壁でも打ち立てて、誰も侵入できないようにすれば、被害は無くなるはずだ」
「うむ。たまに魔術師試験でそのような解を論ずる学生がいるな。だが、それは歴史を知らな過ぎる。試したことが無いとでも思っているのか?」

 サクは言葉に詰まった。
 ロッグは気にせずその歴史を語る。

「壁の建設を計画したこともあった。だが、その工事担当者が、夜になるとふらりと樹海に歩いて行ってしまうのだ。まるで何かに呼ばれたように。いつしか人がいなくなり、工事中の壁もその辺りの魔物によって壊された」

 アキラの背筋にピリリと電撃が走った。
 シリスティアでも魔物は出る。自然の中に壁など置いたら壊されるだろう。
 だが、そこにどうしても、“意思”を感じる。

 この大樹海を封じることは許さない、と。

「人智を超えた事件だ。そこには論理も、計画も、何も通用しない。誰も近付かないようになっても、期間が空けば人は吸い寄せられるように大樹海に迷い込む。打つ手はない。最早神話だ。ゆえに、伝説」

 ロッグの口調は、別の意味でも重かった。
 同時に、アキラの背筋の電撃も強くなる。
 気分が悪い。
 その話を聞いているだけで、酷く嫌悪感が湧き上がってくる。

「まあ、余談になるが、そういう意味でもこのファレトラはすさまじい」
「?」
「そんな大樹海の限界ぎりぎりのラインに、ここまで巨大な街を構えたのだ。それも、荷を運ぶ仕事を請け負うとは。北西には山脈が広がっているし、中央付近という位置以外は劣悪な環境と言っていい。ファレトラの発足当時、荷など誰も預けられなかったらしいな。だが、今はこれだ」

 広く、巨大な、ファレトラという街。
 信用が第一の荷運びを、シリスティア中から引き受ける街。
 その発足当時、どれだけの苦悩があっただろう。
 それをリアルに知る者は、今や歴史の中にしかいない。

「……それで。その伝説が伝説通りなら、何故今さら解決を試みている? 解決できないから、伝説なのだろう?」
「1つ、試していないことがあったからだ」

 ロッグはその場で足を止めた。
 どうやらこの白塗りの壁の建物が、ロッグの目的地だったようだ。

「今までシリスティアは、歴史を紐解く通り、他者との垣根を構築する傾向にあった。領土という考えも、管理目的というよりは自己の領域を確定する考えの方が強いほどにな。そして現代。“貴族”の問題は元より、魔道士隊や魔術師隊と旅の魔術師の不仲。これでは、解決しようと躍起になるのは大樹海の周囲に街を構える者たちだけだ」

 魔道士であるロッグは、旅の魔術師であるアキラとサクに向き合い、言った。

「だが、今はシリスティアの体勢が変わりつつある。諸君らの前で言うのも妙な話だが、私個人としても、旅の魔術師は好かない」

 ロッグは表情を崩さない。
 それは、自分の在り方を、十分理解している表情だった。

「だが、港町の事件のように、有事となれば話は別だ。魔道士隊や魔術師隊が、旅の魔術師を大量に率いて―――“アドロエプスを横断する”。全員で横一列に隊を組み、大樹海を拭うように。連携さえとれれば、伝説は伝説でなくなる」

 大樹海の事件を伝説にしたのは、シリスティアの在り方ゆえだったのかもしれない。
 アキラは何となくそんなことを想った。
 個人は個人と考えていた“高貴”なシリスティアが、あらゆる力を集結し、“伝説を堕とす”。

 完全なごり押しだ。
 だが、シリスティアの歴史上、衝撃的な作戦なのかもしれない。
 圧倒的な人数が連携を取り、伝説に挑む。

 それが、今回の依頼。

 数の暴力は強い。

「―――タンガタンザに倣ってな」

 そう付け加えたロッグに、アキラは僅かに眉を寄せた。
 サクの表情は、見えない。

「特に、諸君らには期待している」

 不意に、ロッグの視線がアキラに移った。
 アキラは一歩後ずさる。
 夢遊病者のような表情を浮かべながら、何とかロッグを見返した。

「あの港町の事件。“魔族”を前に勝ち残った者と、住民の救助に尽力した者。そういう者たちの参加は、喜ぶべきことだろう」

 勝ち残ったのではない。自分は、生き残ったのだ。
 アキラは心の中だけで訂正した。
 自分はあのとき―――“刻”、とある出逢いを傍観していただけなのだから。

 ロッグは自分たちの到着を、2番目の望みと言っていた。
 1番には、当然、あの事件の主役たちが座しているのだろう。

「私はこれから依頼を請けた者をリストアップし、隊を編成する必要がある。決行は5日後。長いかも知れんが、この街では時間も忘れられるだろう。それでは、良い昼食を」

 ロッグはそのまま背を向け、建物に入っていった。ここはファレトラの魔術師隊の支部のようだ。
 彼はこれから、作業に没頭することになるのだろう。

 アキラとサクは、ドアが閉まり切るまで、その場に立ったままだった。

「……思った以上に長丁場になりそうだな。アドロエプスを横断するのに一体何ヶ月かかることか……。下手をすれば年が変わるかもしれない。だがそれだけの事件、か」

 サクは呟き、アキラに視線を向けた。

「お前の剣の問題もある。とりあえずは、スペアも視野に入れておくか? バギィ、を聞きたくはないが」

 ロッグとの会話が終わり、緊張感は解けたのか、サクは僅か茶化すような表情になった。
 真面目すぎる雰囲気を壊すのはアキラやティアの専門分野であったような気もするが、サクもサクで、随分丸くなったものである。

 ただ、口にしたのはかなり深刻な問題でもあった。
 先ほどの武器屋での情報は、サクだけでなく、エリーやティアというアキラの講師陣全員を巻き込む重要案件の可能性がある。

 だが、アキラは。

「…………悪い。その話、後にしよう」
「?」

 まるで立場が入れ替わったように、アキラの表情は“もっと別のこと”で重くなっていた。

 “記憶の封”が―――まるで解けない。

 アキラは今まで、数々の“頭痛”に悩まされていた。
 それはどこか心地よく、しかし頭の一部を杭で打つような、ヤスリで削るような―――頭痛。

―――“記憶の封の解放”。その、予兆。

 だが、今はそれが、“まるで存在しなかった”。
 むしろそれゆえに、頭痛がするほどに。

 大樹海―――アドロエプスでの依頼は、特定の“刻”ではないのだろうか。
 ただ淡々と数の暴力で押し進み、結局大したことのない敵を討ち、無事に終える。ただそれだけの依頼だというのだろうか。

 だが、“三週目のアキラ個人の感覚として”、この事件は重い。

 “連続失踪事件”。
 伊達に伝説の大事件を名乗っているわけではないだろう。
 言い知れぬ不気味さと、嫌悪感をもたらしてくる。

 だが、“解けない”。予兆すら、ない。
 それについてのもどかしさすらないのは、やはり、不気味だった。

「…………とりあえず、食事をとろう。ここで立っていても始まらないだろう」

 サクは察したのか、そう言って歩き出す。
 アキラは、足だけ動かしてそれに続いた。

 ファレトラ。
 広大なシリスティアの、広大な重要拠点。

 そして、大樹海―――アドロエプスの未解決事件。

 記憶に頼らないと決めたアキラに湧き上がる、久々の追憶への欲求だった。

―――***―――

「てっく、てっく、てっく、あっしおっとみっつ、きっこえってくっるよっ」
「ご機嫌なのは構わないが、そろそろ依頼の話を聞かせてもらいたんだが」
「てっく、てっく、てっく、あっしおっとみっつ、げっんきにあっるくっ」
「最近、私の性格が短気になりそうなほど周囲が盛り上がっている気がするんだが、お前は何か知らないか?」
「てっく、……い、いや、あれですよサッキュン!! これ、依頼の話ですよ!?」

 今は壁に立てかけてある愛刀にサクが視線を走らせたのを見て、ティアは慌ただしく身振り手振りでそれをなだめた。

 宿屋の一室。サクとティアに当てられた部屋の中。
 サクとティアは互いのベッドに腰掛けていた。

 ティアの隣には、公式依頼であることの証明となる橙色の依頼書。

 サクはアキラとの昼食を取り終えたあと、1人宿屋に戻り、ロッグからの情報を補強しようと依頼所から戻ってきていたティアに依頼の説明を求めたのだが―――唄い出すとは思わなかった。

 サクは頭を抱える。
 ティアに説明を求める以上、行動を共にしていた朝の話まで遡られることは覚悟していたが、このアプローチを流石に予想できはしなかった。

「まあまあサッキュン、仲が良いことは良いことですよ」

 心労で日々の疲れが一気に出たような表情を浮かべるサクに、ティアは正反対の明るい笑みを浮かべた。

「あっし、最近ちこっと機嫌が悪かったんですが、エリにゃんと街を歩いていたらいつの間にか吹き飛んじゃいました」
「まあ、一応この面々での旅は長いからな。そういうフォローも自然とできるようにはなる、か」
「あれですよ。だだこねたらお菓子買ってもらえました」
「物欲方面でのフォローだったのなら、今の私の台詞は忘れてくれ」
「あっ、サッキュンも欲しかったんですか!? でも、えっと……。分かりました白状します。気づけば全部食べちゃいました。ごめんなさい」
「今の『ごめんなさい』はその言葉に対してのものと私の中で処理されたから、お前にはあと1回ほど謝罪する義務がある」

 素直にもう1度、ごめんなさい、とティア。
 などと、本筋からそれたまま、他愛のない会話が続いた。

 サクは、いつも通り、僅かにため息を吐く。
 自分で言ったことだが、確かにこの面々での旅は長い。

 アイルークの大陸で出逢い、期間で言えば2ヶ月ほど。
 時間で計ってしまえば短いかもしれないが、寝食を、果ては生死までも共にしているとなれば“いつも通り”を構築するには十分すぎた。
 そしてその中でも、徐々に全員が“自分”を出してくる。

 ティアが駄々をこねるというのも、過去を覗けば珍しい。
 出逢ったばかりは実直に使命に燃え、ひたすらに無茶のし通しだったというのに、気づけば本当に、子供のように自分の欲求を口に出すようになった。

 それが慣れゆえの堕落なのか、自分たちに本当の意味での頼りがいを覚えてきたからかは定かではないが、サク個人として、良い変化だと思う。

 少なくとも、無理をして風邪をひかなくなったところなどは。
 ティアは羽織った半そでの上着を機嫌よさ気にバタバタと振るっている。

「まあ、とりあえず、依頼の話を聞こうか」

 そこだけは変わらずにいて欲しい、ティアの輝くような笑顔を眺めながら、サクは会話を切った。
 ロッグの話では依頼開始まで5日ほどあると言うが、準備しておいても損は無いだろう。
 一応それまでの滞在費として別件の依頼を請ける必要はあるだろうが、本日は久しぶりの完全休業日。
 ならばその時間は、情報収集に徹した方が良いだろう。

 なにせ。
 挑むは―――伝説の未解決事件。

「えっと、ですね。てっく、てっく、てっく、」
「その唄なら知っているからそこを飛ばしてくれ」

 サクは、そこは変わって欲しいとサクだけでなく“勇者様御一行”が思っている、ティアの話の長いプロローグを止めた。

「うう、まあ、そうですよね……。でも実は、あっしがフルバージョンを唄えるようになったのはついさっきでしてね」
「はあ、まあ、一応依頼には関係あるか」

 シリスティアにいれば、いや、シリスティアにいなくとも、今の唄を聞いたことがない者はいないだろう。

 替え唄や、そのリズムだけ。
 いくらでも形を変え、世界中に広まっている。

 てくてくてく。
 足音三つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音三つ、元気に歩く。
 てくてくてく。
 足音三つ、だんだん早く。
 てくてくてく。
 足音三つ、駆け出した。

 てくてくてく。
 足音二つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音二つ、急いで走る。
 てくてくてく。
 足音二つ、どんどん速く。
 てくてくてく。
 足音二つ、震え出す。

 てくてくてく。
 足音一つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音一つ、怯えて走る。
 てくてくてく。
 足音一つ、だんだん遅く。
 てくてくてく。
 足音一つ、とうとう止まる。

 疲れちゃった? はい、捕まえた。
 も~う、おしまい。
 足音一つも聞こえない。

―――呪いの童歌。

 その起因は、まさしく今から挑む、アドロエプスなのだから。

「で、ですね」

 結局覚えたてのフルバージョンを披露したティアは、どこか満足げに笑い、説明を続けた。

「あっしとエリにゃんが依頼所に到着したら、旅の魔術師でごった返してました」

 依頼所の窓口に並びながら、いたるところから聞こえてきたその唄を、ティアは覚えたと言う。

 流石に相当な人数のようだ。
 魔術師隊が旅の魔術師にどれほどの公募をかけたのかは知らないが、5日前の今日でそれなのだから、明後日辺りから街に長蛇の列ができるかもしれない。
 それでもその大人数を格納できるこのファレトラは、やはり、相当な規模だ。

「で、ですね。そこで、変な噂を聞いたんですよ。ほら、前にあっしとサッキュン、魔術師隊に捕まったじゃないですか」
「……あまり思い出したくないが、確かにそうだな」
「あのとき恐かったですよねぇ……、あっし、未だに夢に出ます。悪夢ですよ」
「お前は一緒に捕まった旅の魔術師たちと賑やかに語らっていた気がするんだが……。アキラには大分脚色された逮捕劇を吹き込んでいたな?」

 思い出すは半月ほど前。
 サクたちは、とある“貴族”に騙されて、魔術師隊に捕まった。
 その翌日には解放されたが、未だにサクも激しい憤りを覚える。
 ことの顛末をアキラに聞くことができ、せめて一言はとその貴族に言いたいことがあったのだが、アキラの全てが完結したような表情に、結局面々はそのまま街をあとにしたのだった。

「まあ、とりあえず、その貴族」

 ティアは、サクの表情を覗うように眺めながら、おずおずと口にした。

「今回の依頼、公式依頼ですけど、この街の貴族が出したんじゃないか、って噂だそうです」
「!」
「いや、噂ですよ噂。ソースはソラランです」
「さも当然のように新たな登場人物を口に出すな」
「そうそう。最近、あっしのネーミングセンスがテンプレート化しつつあるんですよ。どうしましょう。世界中が同じ名前で埋まってしまったら……。基本語尾が『ん』か伸ばす感じです」

 アッキー。
 エリにゃん。
 サッキュン。

「そのどうでもいい情報は、本当にどうでもいい。それで、その貴族についての情報は無いのか?」
「悪夢ですよ、そんな世界……。きっとお花畑で埋まっています。いや、別にあっしは花が嫌いなわけじゃないですよ。でも、ほら、やっぱりちょっとした刺激が欲しいというかなんというか」
「斬激は刺激になるか?」
「話を続けますね」

 ティアが真顔になって話を戻した。

「この街の貴族のことなんですけど、まあ、多分予想はつくと思いますが、このファレトラを栄えさせた方の末裔らしいです」

 このファレトラを栄えさせた。
 それはすなわち、シリスティアを栄えさせたに等しいのかもしれない。
 数多の苦難を乗り切って、だ。
 ロッグとの会話の中で、そんな話が出たような気がする。

「後で行ってみますか? この街おっきな建物ばかりで分かりにくいですが、探せばあると思いますよ」
「いや、いい。どうせ噂だろう」

 依頼はこなすが、流石にあんな事態があれば貴族とは関わりたくない。
 サクはティアの話を促した。

「まあ、立ち話の中で聞いたことですしね。でも、あっしはソラランを信じています」
「ソラランはいいから、貴族の情報はそれだけか?」
「ソララン馬鹿にしちゃいけないですよ。結構いろいろ知ってました。実は、えっと、何年前だったかなぁ……、7年? 8年? まあ、前に、そこの貴族の娘さんが事件に巻き込まれたそうです。それで、そんな噂が立ったらしいですね」
「……そんなに前なのか?」
「やっぱり時間がかかるみたいですね。それから国を動かしたり、えっと、えっと、えっと、……情報は以上です」

 ティアの脳のキャパシティ限界がきた。
 依頼の核心は闇の中だが、とりあえず依頼の外枠だけは掴めそうだ。

 サクはとりあえず礼を言い、ベッドから立ち上がった。
 あとはエリーに以前港町で行われたという“打ち合わせ”のことでも聞けば十分だろう。
 だが、そのエリーは外出中。

 それならそれで、やることがある。
 サクは部屋の脇に置いてある荷に近づいていった。

「んんっ? サッキュンまた刀の手入れですか?」
「いや、私の分は終わっている。アキラと剣を買いにいったら、重大な問題が発生してな」
「?」

 いつしか荷が増え、ティアならもぐりこめそうなほど巨大な肩掛けのバッグ。
 サクはその中から、紐で縛られた茶色の包みを取り出した。
 包み、と言っても形状は細長い。全長1メートル程度で、手に持てば確かな重量を感じる。

 サクは包みをはがした。
 いたるところが錆びつき、乱雑に扱えばボロボロと崩れ落ちそうで、しかし形状を保ち続けるそれは―――とある剣。

「お、おおっ、それ、久しぶりに見ますね」

 刃渡り80センチ程度だろうか。
 両刃で、左右対称のつばが付いた、ごくごくありふれた形状の剣―――いや、“物体”と言った方がいいだろう。

 この剣は、東の大陸―――アイルークで、“とある魔族”との戦闘ののち手に入れた奇妙な剣だった。

 奇妙な、と形容するできるほどの不思議なエピソードはそれほどない。

 ただこの剣は、魔族が所有しており。
 ただこの剣は、廃れた姿だというのに目映い光を放つ“宝物庫”にあり。
 ただこの剣は、“勇者様”ことヒダマリ=アキラが僅かな執着をみせただけ。

 数多の敵を切り裂いたわけでも。
 あらゆる窮地を救ってくれたわけでも。
 ましてや宿っていた精霊が出現したわけでもない。

 ただ単に、成り行きで、ずっとずっと持ち続けていた“荷物”だ。

「……あ、あれ? 結構綺麗になってませんか? それ」
「私の刀の手入れのついでに、たまに錆を落としていたんだ」

 ティアの言う通り、この剣を手に入れた当初、錆がついているという表現より錆そのものと表現した方が良いような有様だった。
 僅かに揺すれば錆がボロボロと落ち、手に持つ部分はゴテゴテとし、布で包もうものなら1日で真っ赤に染まってしまうほど。

 それをサクがコツコツとメンテナンスを続け、何とか“錆だらけ”という高位の状態に持ってきたのだ。

「それで、サッキュン。それ取り出して、どうするんですか?」
「手入れをしようと思ってな」
「えっ、そうなるとあっしの話相手は……」
「他を当たってくれ」
「くぅっ、アッキーもエリにゃんもいないんですよ……。街に出たらまず迷子。どうしましょう……」

 とりあえず、ティアにこの部屋に留まるという選択肢はないようだ。
 彼女も彼女で、手入れを行うサクの邪魔になると思っているのだろう。
 1人で漫画を読んでいようが、何をしていようが、まず間違いなく声が出ると自分で理解している。

 自分を見せ始めているとは言え、その辺りの線引きはできているようだった。

「別に部屋にいてもいい。お前にも関係のあることかもしれないからな、これは」
「? あ、そういえば重大な問題とか言ってましたね。そのことと、お手入れが繋がるんですか?」
「ああ」

 言って、サクは次に自製のメンテナンスキットを取り出した。
 これから作業に没頭することになるが、一応、話しておいた方が良いだろう。

「アキラは剣が使えない」

 サクは、武器屋から持ち帰った情報を、はっきりと言い切った。
 これはサク個人として、伝説の大事件に挑むよりも重要な出来事だ。

「最近、いや、最近だけでもないか。……アキラは武器をよく壊すだろう?」
「え、ええ。それはもう、気持ちいいくらいにバキィですね」
「その原因が先ほどようやく分かった。攻撃方法が決定的にまずいからだ」

 昼食を終えてアキラと別れてから、サクは宿屋に戻る途中、一応裏付けにとロッグと出会った古い書店に寄ってきた。
 そこで見つけた、属性の本。
 日輪属性のことは当然のように概要程度しか触れられていなかったが、サクが求めていたのは火曜属性の本。

 そこに、全属性随一の攻撃力を誇る火曜属性の特徴が記されていた。

「そういう本を読むのは初めてだったが……、中々面白いことが分かったよ」

 火曜属性の攻撃。
 それは、インパクト時に爆発に近い現象を巻き起こすというものだった。

 “攻撃力が高い”という事象を起こすには、別に火曜属性である必要はない。
 サクのようなに神速とも形容できる速度を有すれば当然それだけ威力は増すし、木曜属性のように圧倒的な身体能力を有すれば攻撃力は格段に上昇する。
 “攻撃力”という能力を求めるならば、別に他の属性でも十分に到達できるのだ。

 しかしそれでも火曜属性が攻撃力トップに君臨するのには理由がある。

 火曜属性の魔力は、“爆ぜる”のだ。

「魔力というものは別に爆発物というわけではないらしいな。私もずっと誤解していた。戦闘不能の爆発というものがあったからな」

 魔物は戦闘不能になれば爆ぜる。
 数多の敵を切り裂いてきたサクにとって、魔力と爆発がイコールで繋がるのは当然のことだった。
 しかし、見つけた書物によると、そうでもないらしい。

「考えてみればおかしな話だった。魔物は戦闘不能になれば爆発するのに、魔術師はしない。その差は、潜在的な攻撃本能。自らの死と同時に、魔物は魔力を爆発物に転換する。だから、爆ぜるんだ。ある意味、最期の最期で“魔術”を発動させているんだ」
「は、はあ……」

 ティアには荷が重い内容だろうか。
 僅か混乱したような表情を浮かべ、しかし、必死に食らいついているのか眉を寄せて質問を返してきた。

「で、でも、えっと、それだと火曜属性の人って戦闘不能になったら危ない、ってことですか? ……あ、エリにゃんのことじゃなくて」

 火曜属性の魔力は、爆発物。
 魔物が爆ぜるのは当然。

 他の属性の魔力は、爆発物ではない。
 魔物が爆ぜるのは最期に魔術を使用しているから。

 そこまで理解したらしく、ティアは中々的を射た言葉を吐き出してきた。

 サクは、そこで僅かに笑う。

「そこからが私が見つけた面白い話だ。火曜属性の魔術師は、その反動を抑え込む術を潜在的に有しているらしい」
「?」
「エリーさんの戦い方で分かるだろう。あの細腕で、岩を砕くほどの威力を出しているんだ。相手に向かう力はともかく、反動は全部エリーさんに返っているはずだろう?」
「わわわ、よくよく考えたらエリにゃんすげぇぇぇえええっ!! ……って、サッキュンも本屋さん寄ったから気づいたんですよね?」
「……………………」

 サクは、目を逸らすだけで応えた。

「ま、まあ、ともかくだ。その反動。それを火曜属性の魔術師が受けない理由がある。火曜属性は、攻撃と同時、魔術で反動を殺している。たまに攻撃の方が強すぎると怪我をするらしいがな」

 例えば、歪んだプロテクター。
 例えば、痛めた拳。

 自己を抑える力を超えてまで、魔術を使用した彼女の様子は幾度か見てきた。

「まあ、火曜属性の最も恐ろしいところは、“反動を抑えるところまで魔力を割いているのに”、最高の威力を有していることだ。火曜属性の魔術師が戦闘不能になっても爆発しないことといい、相当魔力を抑圧する術を心得ている」

 それは、サクの個人的な見解だ。本には書いていなかった。
 もし仮に、火曜属性の魔術師が、反動すら気にせず攻撃のみに魔力を注ぎ込んだらどうなるだろう。
 壮絶な威力を発揮するになることになるだろうが、それは最早自爆に等しい。
 例え“外”の刺激を抑え込んでも、身体に溜め込んだ魔力に抑えが利かず、爆発物と化す。
 待っているのは、例外のない―――死。
 そう―――やわな武器が、砕けるように。

「はあ……、あっしもその本、読みたいです。サッキュンいきなり詳しくなってるじゃないですか」
「……買ってはきたから後で貸す。だが、問題なのはここからだ」

 サクは僅かに手荷物の上に置いた本に視線を走らせ、次に、面白くない顔を作った。

「輪郭さえ分からなかった日輪属性だが……、今日、少し分かったよ。いや、確認できた、と言うべきだろうか」

 アキラから聞いた、武器屋の店主の話。
 その会話の中、サクは違和感を覚えていた。

 彼が問題にしていたのは、“火曜属性”が剣を使えないという点だ。

「なかなか口を割らないアキラだが、とうとうボロを出したよ。あの男は、“自分が火曜属性の力を使っている”ことを前提に話していた」

 もっとも、それはある程度予想がついていたことだ。
 アキラは基本的に、火曜属性の―――エリーの攻撃方法を真似している。
 それが今日、確信に変わった。

「日輪属性の魔力も、火曜属性の魔力に近い性質があるのかもしない。だが、そう仮定したとき、私はこう思った」

 サクは、一拍置き、自己の結論を語る。

「アキラは、エリーさんのように反動を抑える方法をほとんど知らない。それが日輪属性の性質なのかは分からないが、ともかく、爆発を起こしているだけだ」

 前に、アキラが討った魔物の死骸を見たことがある。
 切って立ち去るだけのサクにとって魔物のその後など気にすることもないのだが、一応は剣の師として、生徒の進捗度を確認したくなったのだ。

 しかし、魔物に残っていたのは剣の跡と言うより、“削り取ったような跡”。
 一応、斬ってはいる。だが細かく言えば、アキラは“切っていないのだ”。

 爆発に近い魔力の使用で、剣そのものが当たるよりも先に魔物に損傷を与えている。

 本人は気づいていないだろう。何せ、結果は同じだ。
 剣の攻撃方法ではあるし、サクも問題ないと考えていたほどなのだから。

 だがそれが、ここにきて足を引っ張っている。

「アキラの攻撃方法は最早殴打に近い。硬い敵に遭えばそれだけ魔力を込めるから、剣が砕ける。敵の硬度そのものに負けているわけではない」

 半月ほど前、アキラが確立した“詠唱”。
 そのお陰―――いや、そのせいで、アキラは“過去との比較”が可能となり、一撃に込める魔力を徐々に上げてきていた。
 反動を抑える術もほとんど知らないのにそんなことをすれば、当然剣は砕け続ける。
 剣を使えば反動で、火曜属性の攻撃を剣に与え続けているようなものなのだから。

 アキラは、あまりに攻撃に特化し過ぎているのだ。

 魔術師試験を突破したというエリーは、もしかしたらそのことに気づいているかもしれない。
 攻撃特化に剣は相応しくない、と。
 それを、言わなかったのは、もしかしたら剣の師である自分に遠慮していたのかもしれない。

 魔術の学を今まで正規の方法で修めてこなかったサクは、僅か申し訳ないようなものを感じ、小さくため息を吐いた。

 それはともかくとして。

「……お前も関係あると言ったのはそのことだ。エリーさんは魔術の基礎的な部分を教えている。本来ならばエリーさんが魔力の抑制を教えるべきなのだろうが……、魔力制御において最も秀でているのは―――水曜属性」
「え、えっと??」
「お前のことだ!! 何故周囲を見渡している!?」
「あ、ああ、そうですね。あっし、水曜属性です。思わずキョロキョロしちゃいました。最近戦闘で応援しかしていないですが、水曜属性です」
「……それは、まあ、謝ることでもないような気がするが、すまない」

 前に一度、ティアに、戦闘に参加したいから少しは速度を落として欲しいと冗談交じりに言われたことがある。
 だが、シリスティアの魔物といえども油断は禁物。
 結果、翌日ティアは応援に終始していた。

 冗談交じりに言いつつも、彼女にとって、わりと深刻な相談だったようだ。

「ま、まあ、でも? アッキーのお役に立てるなら? あっし、頑張りますよ? それはもう」
「相当気にしているみたいだな……。まあ、全く芽の出ない遠距離攻撃よりも、当面はそっちを教えてくれ。私も私で、サポートすることがある」
「?」

 サクは再度、廃れた剣に視線を移した。
 アキラが口を割らなかったせいでもあるが、講師である自分の失敗分は、これで取り返すべきだろう。
 アキラの問題は、武器でもカバーできるのだ。

「錆を落としていたときに気づいたが……、廃れているのにかなり丈夫だ。材質はさっぱり分からないが、むしろこの剣の方がアキラに合っているかもしれない」

 刃がほとんど錆で潰れ、剣と言うより棍棒の役割程度しか果たさないかもしれないが、メンテナンスを続ければスペアの剣になるかもしれない。
 アキラはとっくの昔に存在すら忘れていそうだが、今日の財政面から考えて、これで妥協してもらうしかないだろう。
 5日時間を費やせば、何とか棍棒としてでも使えるかもしれない。

「あ、あれ? もしですよ。その剣が壊れなかったら……」
「ああ。この問題は当面解決するな」
「ちょっ、ちょちょちょっ!! さっきの嘘です嘘ですごめんなさい!! ティアにゃんちょっとアピールしたかっただけです!! ちょーちょー役に立ちたいんですよっ!! あっし、アッキーの先生役頑張ります!! おうさっ、私にっ、」
「よし。始めるか」
「剣を直すのは賛成ですけどあっしのことも忘れないでぇぇぇえええーーーっ!!!!」

 5分後。
 騒音に怒鳴り込んできた宿屋の主人の登場によって、ティアは部屋の隅で静かに読書を始めた。

―――***―――

 自分の育成について講師陣が賑やかに方針を固めている頃。
 アキラは、ファレトラの街を歩いていた。

 魔術の存在ゆえか、アキラの元の世界に比すれば科学方面の文明が遅れているようなこの世界―――その中で。このファレトラは他の街と一線を画しているように見える。
 まず、建物が高い。
 日の光を遮るかのようにずらりと並ぶ高層の建物たちは、四角く、言ってしまえばビルのようだ。
 大通りの横幅は目を凝らしてようやく反対側の店の商品がおぼろげに察せるほどで、アキラの感覚からすれば車道が走っていないのが不自然なほどだった。
 もっとも、荷を迅速に運ぶために、馬車の道はある程度確保されているのだが。

 大都市。
 そう形容できるファレトラは、やはり人に埋め尽くされ、活力は留まることを知らない。ところどころに木々が植えられてはいるのだが、それを塗り潰せるほどの人通りと建物が、街を埋め尽くしていた。
 これで、半分。
 ほとんど荷を置くことのみに使われている残りの半分を足し合わせれば、もはやダンジョンと言っても差し支えないほど巨大だ。

 こんな街が他の大陸にもいくつかあり、あと数百年も待てば、魔術の活躍は生活から消えるかもしれない。

「……」

 目的地もなく歩いていたアキラは、いつしか街の広場に来ていた。
 高層ビルを曲がると、思い出したように現れる、唯一のこの世界らしさ。
 広々としたその公園を囲う木々は、しかし人の手によって植えられたものだ。

 大都市にしてはいささか不自然なこの空間。
 詳しいことはアキラには分からないが、“しきたり”の関係上、この世界の住民は自然を愛さなければならないらしい。
 もっともそのお陰で、宿屋の庭では手狭になったアキラたちの朝練の場所が確保できたのだが。

 広場に入ってすぐにある石製の椅子に、アキラは腰を預けた。
 そして、膝に肘をつき、黙したまま広場を見渡す。
 朝。朝練中、アキラはここに同じように座ったのを思い出した。
 早朝という時間であるにもかかわらず、広場の外は随分と賑わっていたと思う。
 帰り道では、今と同じように人の波に街は埋められていたほどだった。

 今は数人の子供たちがボールで遊んでいるのが見えるが、他はアキラのように腰かけている人がちらほら見える程度で、ほとんど無人。

 このファレトラにとって、こうした自然はむしろ邪魔でしかないのかもしれない。

「……」

 アキラは脇道に逸れた思考を追い出し、そのまま目を瞑った。
 時間は惜しい。
 サクと別れたのも、実際、こうして思考と向き合える、1人の時間が欲しかったからなのだから。

 5日後。

 そのとき、自分たちは“伝説”に挑む。
 アドロエプスを禁断とした―――伝説の未解決事件。

 そう聞いて、アキラの本能は警鐘を鳴らす。

 あの、もう1人の日輪属性の男は断言した。
 日輪属性の者は“刻”を引き寄せると。

 日輪属性の者がいれば、事件の種が吸い寄せられ、その周囲で芽吹く。
 そこには論理も、理論も、計画もない。
 ただ漠然に、“選ばれた属性”は、“そういうもの”なのだ、と。

 常に事件に囲まれた、あたかも物語の主人公のように騒ぎの絶えない―――日輪属性。

 “勇者様”たるヒダマリ=アキラの属性だ。

 ある種“呪い”ににも似たその属性の力によって、アキラはこれまで数々の事件を引き寄せてきた。

 アイルーク。
 立ち寄った村では村人が狂気に染まり、森を歩いていれば強力な魔物の大群に襲われ、転げて落ちた山の洞窟では輝かんばかりの財宝に囲まれた激闘があった。

 シリスティア。
 到着した港では隕石のような厄災が街に落下し、崖の上の街では貴族の謀略に嵌められた。

 その道中にも、細かいものを足しわせれば、アキラの両手両足の指では数え切れないほどの事件が起こっている。

 “そんな日輪属性が、伝説に挑む”。

 この事態が、静粛に、穏便に、淡々と済むと楽観視できるとすれば、それはアキラの右手に前人未到の兵器が握られていたときだけだ。
 今のアキラの右手は、精々“勇者様御一行”の財政面を圧迫することしかできない。

「……」

 だが、今のアキラとは別の、“記憶”という力は―――警鐘を鳴らさない。
 今までの、数々の事件。
 そこには決まって、“予兆”があった。

 頭の中の電波にノイズが混じり、脳の奥底を溶かすような、削るような、“記憶の封の解放”―――その、“予兆”。

 それが、ない。

 先ほどロッグから事件の概要を聞いていたというのに、アキラの脳は静かなまま、波風ひとつ立たなかった。
 “怪しさ”の、匂いさえ嗅ぎつけられない。

 自分の本能と、自分の記憶の、絶対的な矛盾。

 それが、よりによって“伝説”の前で発生してしまった。

 記憶に過剰に頼らないと決めたアキラでも、この感覚には戸惑うことしかできない。
 何だかんだ言って、結局自分は、記憶の“予兆”は頼りにしていたのかもしれなかった。

 だからアキラは思考する。

 “何かが起きないわけがない”。

 それを前提に、アキラは思考する。

 “一週目”。
 単に自分たちはこの“刻”を刻まなかっただけのだろうか。
 広大なシリスティアだ。
 大陸の規模から考えれば、この街に立ち寄らなかったことも考えられる。
 そもそも、自分たちがこの街に来られたのも、ほとんどの時間を移動時間に強引に振り分けたからだ。

 だがその裏側。
 そもそも自分たちが、この街に強引に向かったのは何が原因か。
 それは、あの港街で、この大規模な依頼の発生を知ったからだ。
 魔術師隊との“打ち合わせ”に、エリーが参加したことが事の発端。

 そして彼女も、“とある男”に―――いや、“もう1人の日輪属性と行動を共にしていたとある男”に誘われて参加したと言っていた。

 非現実ながらも、それは―――“必然的な情報”。

 “一週目”。
 本当に、自分たちはこの街で“刻”を刻まなかったのだろうか。

 記憶の封は、まるで解けない。

「ひぅっ、」

 そこで、喉からそのまま出したような声が聞こえた。

「ん? って、お前かよ」
「や……、やっ!」
「? やあ」

 振り返ればアキラの背後、赤毛を1本に垂らした少女が立っていた。
 不自然に手を上げたエリーに倣ってアキラも手を上げる。
 まるでティアのような挨拶に、アキラがそのまま硬直していると、エリーは慎重に歩み寄り、アキラの隣に腰を下ろした。

「えっと、あ、あんた何やってんのよ、こんなところで」
「……散歩してたら、かな。人ごみ歩いてたら、なんか気分悪くなってさ」
「あ、ああ、あたしも同じ。ほら、あたしアレだし。田舎生まれだし」

 エリーの故郷は、アイルーク大陸のリビリスアークだ。
 “生まれは違うことをアキラは知っていたが”、アイルークではここまで人の量はまず見ない。
 精々アイルークのヘヴンズゲートが相当の賑わいを見せていたが、あれはその前日“有名な魔道士隊”が遠征に来ていただけで、それもファレトラのレベルには達していなかったように思える。
 そもそも、ファレトラは建物が高く、密閉感を覚えるのだ。

「宿屋から一番近い広場って、まあ、ここだし。昼過ぎで空いてるかなぁ、って思ってさ」

 先ほども思い起こしたが、この依頼の情報を最初に聞いたのはエリーだ。
 その情報の入手が“どれだけ必然性が高かったのか”を聞きたいと思ったが、どうせ愚にもつかない話になるとアキラは諦めた。

 所詮過去の話だ。
 それならば、反則気味だが、記憶の封に手をかけていた方が建設的だ。

「まあそれに? 折角の休業日だしさ。たまにはぼうっと過ごすのもいいじゃない? あんたも似たような―――って、聞いてる?」
「…………」
「す、清々しいほど聞いてない……!?」

 エリーに目の前で手を振られ、アキラはようやく思考から脱した。
 顔を向ければエリーが僅かに口元を引くつかせ、睨みにも似た表情を向けてきている。

 どうも、最近まずい。
 アキラは頭を抱えた。
 自分は、考えに没頭するような真面目なキャラでは無かった気がする。
 浮上し続ける問題を前に、少しは頭を使うことを覚えてしまったのかもしれない。
 へらへら笑っているような自分にとって、由々しき事態だ。
 キャラクターの崩壊と言っていい。

 そこまで考えて、アキラはそれこそ愚にもつかないと頭を抱えた。

「……大丈夫? あんた、さっきからアイルーク……、そう、アイルークにいたときみたいな表情になってるけど」
「いや、大丈夫だ。ちゃんとこの脳は腐ってる」
「それこそ大丈夫?」

 そこでようやく、エリーが紙の小包を抱えていることに気づいた。
 女性の性ゆえか、彼女は彼女でこの大都市を楽しんでいたのかもしれない。

「何入ってんだよ、それ」
「じょ、女性が買って来たもののこと訊かないで。あと4日は滞在費稼ぎばっかになるだろうから、その準備よ」

 つまりは、生活用品だろう。
 分け与えられた依頼の報酬を適当に使ってしまっているアキラにとって、生活用品などの優先順位は必然的に最低層に位置してしまうのだが、女性にとってはそうではないらしい。
 買い物に時間を使うことは無駄、というアキラの感覚は、元の世界から何ひとつ変わっていなかった。

「……、そういえば、依頼って請けられんのか? この街、今旅の魔術師だらけなんだろ? 依頼って無くならないのか?」
「あ、あんたにしては鋭い指摘ね……。由々しき事態だわ」
「俺とお前が、共通認識を持っていることだけは分かった」

 エリーは僅か満足げに笑い、そして広場を見渡しながら、今度は得意げに言葉を発した。

「さーて。誰のお陰で依頼が簡単に請けられると思う?」
「それクイズのようでクイズじゃないからな。お前だろ」
「よく分かったじゃない。ファレトラって大きな街だけはあって、遠隔地から予約ができるのよ。ここに着く前から、こういうことになるって分かってたしね」

 前振りのような発言をしておいて何を言う。
 どうやらエリーは、樹海の依頼のことを聞いてから、根回しをしていたらしい。
 とすると1ヶ月ほど前からだろうか。
 ならば内容は、そこまで急を要しないことばかりなのだろう。

「お前……、いつの間にそんな気が利く奴になったんだよ?」
「あらあら、まだまだあたしのこと誤解してるわね。もともとよ。一応これでもお姉ちゃんだから」

 エリーの機嫌の良さは、あの貴族が納める崖の上の街から継続しているのだろうか。
 アキラの皮肉交じりの言葉に、エリーはからからと笑うだけだった。

 と、そこで。
 アキラはエリーの横顔をじっと眺めた。

 そういえば。
 自分は彼女の機嫌の良さが継続していることを今知った。
 そもそもここ半月ほど、エリーとこういう時間を過ごしたことが無い。

 魔術の講義を受けるときや、朝の鍛錬で挨拶程度は交わしていたが―――言ってしまえば事務的なことばかり。
 その割には、エリーからこの依頼の話を聞いた覚えはないのだが。

 今は普通に話せている。
 だがやはり、最近彼女は、変だ。

「…………」
「…………」
「…………な、な、なに?」
「お前止めろよな。俺のキャラ崩壊はともかく、お前のキャラ崩壊は俺の“詠唱”の崩壊に繋がるかもしれない」
「っ、」

 自分が何かのスイッチを踏んだと思ったのは、気のせいではないようだった。
 エリーはかかとで地面を蹴り、まるで弾かれたように立ち上がる。

「どうしたんだよ?」
「あ、あんたさ」

 エリーはアキラに背を向けたまま、紙の小包をガサガサと鳴らした。

「い、一体何がどういうことで、どういう意味だったのか、とか、き、訊いていい?」
「その言葉が解読できたら、俺はこの世界の文字が書ける」
「くぁぁぁあああっ、なんか悔しいっ、何がかは分からないけど、あんたが余裕ぶってんのがなんか悔しいっ」

 余裕など、驚くほど無い。
 頭の中は、常に今のことで埋まり尽くしている。

 エリーは、『たく、たく、たく』と呟き、ジト目を浮かべて振り返ってきた。

「…………あんた、変わった?」
「止めろ。俺は今その言葉に敏感なんだ」
「うーん……、そうだった気もするし、そうじゃなかった気もするし…………、うーん……? あんた何なの?」
「久しぶりに酷い言葉を聞いた……」

 アキラの頭に、時たま流れる“ノイズ”。
 それは、アキラほどではないにしろ、彼女たちも同じなのだろうか。

 ただ、ふと思う。
 “一週目”―――自分はどういう人間だったのだろうか。
 特定の“刻”は思い出せても、自分の内面までは詳細に思い出せない。

 とりあえずスタート地点では、“未来の自分”から信用されないレベルだったことは間違いないのだが。

「またその顔だし……、あんたが考え事してると、ものすっごく背中がむずむずしてくる」
「止めろ。今度は人の尊厳まで踏みにじるつもりか」
「まあ、考えてくれるのは嬉しいけどね。……先生として」

 エリーはふっと笑った。
 アキラも小さく笑う。

 やはり普通に話せるし、彼女との会話は楽しかった。
 少なくとも、考え事を放り投げて話しても不快感は覚えない。

「でも変わり過ぎると、生徒のこと忘れちゃうわよ? 先生が」
「それは―――もう、止めてくれると助かる」

 語尾は小さく。
 決して彼女に届かぬように呟いた。

 変わることを焦がれ、叶わなかった“二週目”。
 でもこの“三週目”は、変わるにしても緩やかに。

 彼女と離れないこの旅は、そう在っていこう。
 どこか温かな空気の中で、アキラは何となく思った。

 が。

「!?」

 直後、視界に入った“その人物”に、アキラは背筋が凍りついた。
 向こうは広場を軽く眺め、そのままファレトラの雑踏に消えていく。
 一瞬アキラと―――日輪属性のスキルだろうか―――目が合った気がしたが、足取りは変わらなかった。

「そうだ。え、えっと、さっきさ、ティアにせがまれて行ったお店なんだけど、」
「悪い。俺、ちょっと用事ができた」
「へ?」
「マジで悪い。先帰っててくれ!!」

 アキラは必死に―――完全に失敗していたが―――表情を崩さぬように、エリーに告げ、全力で広場の反対側に走っていく。
 キャラが崩壊しようが構わない。

「ちょっ、えっ、何!? 何よ!!」

 背後からの声に、振り返ることもできない。
 ファレトラの人ごみは他の街とあまりに違うのだ。一刻も早く追いつかなければ見失ってしまうだろう。

 “何故、お前がいる”。

 アキラは心の中だけで、叫んでいた。
 広場をあとにし、飛び込んだ人ごみ。

 そして、ようやく捉えた後ろ姿。
 追われていることも知らず―――“彼女”は、ゆうゆうと歩いていた。

 羽織ったカーディガン。
 腰ほどまでの甘栗色の髪。
 その、後ろ姿からでも分かるスタイルの良さは、雑踏の中でも目立っていた。

「っ、」

 誰かとぶつかっても、構わずアキラは彼女に詰め寄っていく。
 そして常に、アキラは心で叫び続けた。

 何故、ここにお前がいる―――“エレナ=ファンツェルン”。

―――***―――

 途端、5、6人に取り囲まれた。
 取り囲んだ者たちは、元の世界で言うなれば警官の制服―――すなわち魔術師のローブを纏い、言い方は悪いが権力の保持を誇示していた。
 そして威圧感たっぷりの表情と、僅かな怒気をその瞳に宿し、『大人しくしろ』と言われた。

 そんな状況で、『かかってこいやぁっ!!』と言える人間はまずいない。
 いるとすれば、後戻りできない事情を抱えている者か、昼間から酒をあおっている者か、あるいは常に酔っているとしか思えない仲間のアルティア=ウィン=クーデフォンくらいしかいないだろう。
 ティアがそんなことをしようものなら、仲間はおろか知り合いさえも飛び越えて、赤の他人で通すだろうが。

 そんなこんなで、ヒダマリ=アキラは往来の中央で両手を掲げ、戦意が無いことを必死にアピールしていた。

 仮にヒダマリ=アキラという人間の何かを変えられるのならば、アキラは最優先事項として、1つの結論を今すぐ出せる。

 すなわち―――ギャグ要因からの脱却。

「……ごめんなさい」
「ごめんで済んだら、私たちはいらないことになるわねぇ」

 ちょっとシリアス路線に行こうとしたら、これだ。
 これが日輪属性のスキルであるのならば、迷わずティア辺りに授けたい。
 彼女ならその任をまっとうに果たせるだろう。

「いや、本当にちょっとテンション上がってただけなんです……。知り合い見かけた気がして……。ほら、ファレトラって広くて広くて……」

 アキラの正面を塞ぐように立つ魔術師隊の女性は、完全に冷めた瞳を向けてきていた。
 正面に、アキラと同年代ほどのその女性。
 背後に、威圧要因なのかやけに睨みを利かせている背の高い、20代ほどの男性。
 さらに左右に同じく若い魔術師が、同一のローブを纏いアキラの逃げ場を封じている。

 こんな状況では、アキラの口からは細々とした声しか出なかった。

「それで、何をしようとしていたのかしらねぇ?」
「いや、だから知り合いを見た気がして……」
「襲いかかろうとしていたようにしか見えなかったけど……。そもそも、知り合い? あなたがぁ?」

 語尾が強い魔術師隊の女性はアキラの姿を見て、僅か鼻で笑った。

 アウト。
 最悪なことに、この魔術師隊は、旅の魔術師を毛嫌いする種類の方々だったらしい。

 その末路を、アキラはティアから聞かされた。
 崖の上の街で、ティアは、サクと共に魔術師隊に逮捕されたらしい。
 事後的にだが詳細を聞けば、それはそれは悲惨な目に遭ったという。

 以来アキラの中で、シリスティアの魔術師隊は悪人―――特に旅の魔術師には、容赦を知らない存在として確立されていた。

 アキラは一縷の望みを託し、自分が追っていた人物に助けを求めようとしたが、目の前の女性の後ろにも魔術師隊が1人。
 その後ろの人物を隠すように立っていた。

「えっと……、俺、その人に用が、」
「はいはい。話は後でねぇ」
「いや、ちょっとだけ話を、」
「コッグ。隊長に連絡お願い。早速出たわ」
「…………」

 詰んだ。まるで話を聞いてもらえない。
 アキラは、以前元の世界で元の世界でやったゲームを思い出す。
 適当に街を探索していたら、仕様なのかバグなのか、四方を動かぬキャラクターに囲まれ動けなくなったことがある。
 まさしく今の状況だが、悲しいことにリセットボタンは存在しない。

 背後に立っていたコッグと呼ばれた男が頷き、アキラの元を離れたが、代わりに1人がそこに入る。

 本当に、詰んでいた。
 泣きたくなるほどに。

 今なら確信を持って言える。
 ヒダマリ=アキラは、全く変わっていなかった。

 過失はきっと向こうなのだろうが、周囲の厄介事を華麗にかわす術を習得できていない。
 それがある意味、一番欲しいスキルだった。

「あ、あの……」

 と。
 人ごみが何事かと足を止め、僅かに静かな空間ができたせいか、ごくごくか細い声が聞こえてきた。
 アキラは姿なき声に眉を潜めたが、どうやらそれは、自分が追っていた人物が発したようだ。
 雑踏に消えようとしていたコッグという男も足を止める。

 全員の視線がそちらに向き、目の前の魔術師隊の女性も、その後ろの魔術師隊の1人も横に避けた。

 そこで。

 ようやくアキラは、追っていた人物と対面した。

「わ、私に、何か御用でしたか?」

 “違う”。

 アキラは自分が即座に察した答えに、“目の前の彼女”を見ても、絶対の自信を持てた。

 年齢は、目測だけでは計れない。

 彼女は、ウェーブのかかった甘栗色の髪を肩にかけ、長いまつ毛とくりりとした大きな瞳を携えている。
 彼女は、細い眉とシミ一つない美貌を有し、絶世の美女と形容できる。
 彼女は、低俗な言葉を使えば、出るところは出て引っ込むところは引っ込むという女性として申し分ないすらりとした身体つきをしており、その上一挙手一投足に美への追求の予断が無い。

 だが彼女は、アキラが“思い浮かべた彼女”ではなかった。

 自分が思い浮かべた彼女は、感覚的に言えば、すっとした雰囲気なのだ。
 だが目の前の女性は、対極の、ふわっとした雰囲気を持っている。

 それが。
 それだけで。
 その女性が“彼女”ではないと言い切れた。

 そこで、久しぶりに、理解した。
 この世界は、あたかも漫画やゲームのように、お約束に溢れている。

 “そういうこと”があって、むしろ当然で、必然な、キラキラと輝いた世界。

 だから―――

「あの、広場にいた方……、ですよね? 間違えていたらごめんなさい。私はミーナ=ファンツェルン、です。し、失礼かもしれないですけど、どこかでお会いしたことありましたか?」

 可愛らしく胸の前で指の先を合わせて、恐る恐る訊ねてくる―――“ファンツェルン”を名乗ったその女性。

 アキラはゆっくり息を吸い、盛大に吐き出した。

―――だから“血縁者”は、ひどく、似通っているのだろう。

―――***―――

 ミーナ=ファンツェルンという人物について、一言で説明しろと言われれば、アキラは、お約束が凝縮したような女性であると迷わず結論付ける。

 まず年齢。
 彼女は、このファレトラの“貴族夫人”。
 十代のようにも、二十代前半のようにも、百歩譲って二十代後半のようにも見えるミーナだが、彼女は一児の母であるという。
 さながらアニメやゲームに登場する人物のように、義母である情報が相次ぐほどの若々しさを持つ―――奥様なのだ。

 次いで、その容姿。
 細かな造形についてはアキラが彼女を一目見たときに形容を終えたが、その容姿が持つ彼女独特の雰囲気は語り尽くすことは叶わない。
 絶背の美女と迷わず形容できるというのに、彼女が持つ空気は溶け込むようで、消え入るようで、油断していれば見失ってしまいそうな儚さがある。
 よく、街を歩けば十人が十人振り返るという形容句があるが、彼女は違った。
 気づく者は迷わず足を止めるであろうが、不運なことに気づかない者はそのまま行き違ってしまうだろう。
 言うなれば、流れ星。
 顔を上げて、願いを込めなければ決して視界に収めることのできないようなその姿は、意思のある者にしか微笑まない。
 まるで気取らず、目立つこともなく、幸運な者にしか出逢えないような―――誰でもかれでも、とりあえずは構わず惹きつける日輪属性であるアキラとは、対極の存在と言ってよかった。
 もし彼女が日輪属性ならば、十人が百人、千人に増え、ファレトラの人ごみは増加し今度こそ交通困難に陥るであろう。
 アキラ自身、よく広場の反対側から見つけられたと思う。

 最後に、性格。
 本当の意味で優しいという言葉を使えるのは、中々手にできない経験だろう。
 人の善意には裏があり、悪意があり、利益がある。
 その前提をゆうに飛び越え、ミーナ=ファンツェルンは花のように、日溜りのように―――アキラではないが―――誰にでも、温かに笑う。
 性格だけで言えばティアから声の大きさやら子供っぽい体形やらをロックアイスを削り落すようにアイスピックか何かで削り落せば―――再三削り落とす必要がある―――到達できるが、妙齢の女性でそれを維持できるのは最早神秘としか言いようがなかった。
 まるで裏表がないように見える。
 なにせ、直前まで魔術師隊に取り囲まれていた不審人物を、場所を変えましょうの一言で―――その言葉も、思いついたように手を可愛らしく叩く仕草付きだ―――自らの家に招くほどなのだから。

「そうだ。お茶を淹れましょう」

 そんなわけで。
 ヒダマリ=アキラは、ファンツェルン家に案内されていた。
 あたかもミーナのように民家に紛れていたその家は、しかし流石は“貴族”といった規模がある。
 先ほどの大通りから僅かに歩き、人気が少ない裏通りの住宅地。民家がところ狭しと並ぶ家続きの一角を利用し、建物約3件分の面積を有していた。
 アキラが通されたのは両開きのドアから入ってすぐの客間だが、皺ひとつなく引かれたカーペットも、高い建物の隙間から零れた日差しも受け止めるカーテンも、そして控えめな花が模された壁紙も、それぞれ落ち着いた色をして、調和がとれている。
 貴族の家と聞いてアキラが最初に思い浮かべるのはあの“ガラスの館”だが、ここには肖像画も、嫌味ったらしい貴金属の置物も、そして業腹な“護衛対象”もいない。
 部屋の中は、全てがあくまで富裕層の範疇に留まり、品がある。
 そんな中でも、ミーナは雑踏にいたときと同じように場に溶け込み、鼻歌交じりにカップに湯を注いでいた。

「……えっと、あ、いいのかしら……」

 お茶を淹れ終わったミーナは、そこでふと気づいたように顔を上げた。
 アキラは部屋の中央のソファに腰掛けたままで、言葉を返さない。

「4つしか用意しなかったけど、外の方たちにも何かお飲物を」
「ミーナさん、結構です。私たちもいりません。お1つで十分です」

 落ち着きのある、その空間。
 アキラが座るソファの後ろから、直立不動の女性が応えた。
 ミーナから削り落とされた氷で形成されているような、絶対零度の雰囲気を発しているのは、先ほどの魔術師隊の女性。
 その隣にコッグと呼ばれていた威嚇要因―――完全にアキラの主観だ―――の男が立ち並び、アキラを見下ろしてきている。

 柔らかいソファに座ったアキラにとって、背後からの魔術師隊のプレッシャーは並大抵ではなく、アキラの胃はきりきりと痛んだ。

「えっと、でも……、アキラさんの分……だけ? 私は飲んじゃダメ?」
「引き算は1の位から!! そこ間違えちゃまずいでしょう!?」
「?? じゃあ、はい」
「あ、いただきます」
「ここでミーナさんは渡してコッグは飲むんですかぁ!?」

 コッグという男は、どうやら威圧要因なのは表情だけで、性格は砕けた人物であったらしい。
 あくまで慎重にだが、コッグはアキラの隣に座り、ミーナに差し出されたカップに口をつける。
 ミーナも座り、1人だけ立っているのがいたたまれなくなったのか、不機嫌な表情のままコッグとはアキラを挟んで反対側に座る。

 囲まれたアキラは連行されているかのように、顔を僅かに伏せた。
 ちなみに、アキラの剣はとっくに取り上げられ、今は部屋の隅に立てかけられている。

 この貴族の家の前で、警護の意味で残りの魔術師隊が待機しているのが窓から僅かに視えた。

 今はこの4人で、奇妙なお茶会が始まろうとしている。

「それで、えっと……何の話だったかしら?」
「はいはい、そうです。まずはですねぇ」

 ミーナが作りかけていた柔らかな空気を断ち切るように、魔術師隊の女性が仕切り出した。

「ミーナさん、この方ご存知ですか?」
「ア、アキラさん、ですよね。先ほどお名前を」
「うぬぁぁぁあああっ」

 抜けている、というより重大な何かが欠落しているようなミーナの返答に、魔術師隊の女性は呻き、ソファを揺すった。

「サ、サテナさん。お茶が零れ……そうだ、お茶、飲んでくれると……」
「飲む飲む飲むますぅっ、だから意思疎通をしてぇっ」

 やけに語尾の強い魔術師隊の女性は、サテナというらしい。
 サテナは、肩で息をし、カップに口をつけて落ち着きを取り戻すと、横目でアキラを見やった。
 睨んだと言ってもいい。

「つまり、ミーナさん。あなたは、この人と、以前から、具体的に言うならさっきで会うまで、知り合いだったわけではないんですよねぇ?」
「え……ええっ、えっと、ちょっと待って、思い出すから……えっと、えっと、」
「ぐぬぉぉぉおおおっ」

 またも唸るサテナ。
 そんな唸り方をする女性をアキラは知っていたが、どこか面白くて黙ったままでいた。

 しかしどうやら、ミーナという女性は空気に溶け込む、と言うより自分で空気を作り出すことが上手いようだ。
 だから溶け込み、溶け込み、消え入る。

 あの連行沙汰の取り囲まれかたからアキラが逮捕されずに済んだのは、ひとえにミーナのお陰と言ってもいいだろう。

「とにかく、ミーナさんが知らない以上、あなたは不審者。それでいいですね」

 ミーナを諦め、サテナはアキラの方に視線を向けた。

「……人違いだったところまでは認める」
「よし。コッグ。隊長に連絡して」
「人違いだったところまでは認める」

 言葉は通じていなかった。
 だがサテナはアキラを見もせず話を進める。

「まあ、早速出たって言えば、私ら以上の方々が護衛になるかもですよねぇ。ミーナさん、短い間でしたがお世話になりました」
「あらやだ……、私、お茶受けを出してない……」
「もぅやだぁっ、この人の護衛、もうやだぁっ」

 そして、話は続けられなかった。
 サテナは大いに嘆き、八つ当たり気味にアキラを睨んでくる。

 ここで、分かってきたことが1つあった。
 日輪属性のことだ。

 誰でも惹きつける日輪属性。
 道を歩けば注意を引くし、基本的には誰とでも打ち解けられる。
 だが、悪意は別だ。

 主に好意を強くする利点に目が行きがちだが、誰とでも打ち解けられるということは、誰からも本音が聞けるということ。
 引いて、引いて、惹く力。
 最初から悪意を持って―――例えば、旅の魔術師が好かないという悪意、だ―――アキラと接すれば、それをそのまま口に出してしまう。
 自制が利いているロッグでさえ、アキラを前に、旅の魔術師は好かないと断言していた。
 シリスティアの魔術師隊の、旅の魔術師嫌いの話はよく聞く。
 サテナはその代表例なのだろう。
 このままではシリスティアの魔術師隊の悪意を、アキラは一手に背負うことになってしまうだろう。

 ますます詰んでいる。

「えっと、俺はただ、」

 逮捕という事態を回避すべく、アキラは強引に口を開いた。
 しかし、サテナはヒステリーを起したようにアキラを指差し言葉を続ける。

「コッグ、早く連絡して下さいよぉっ、書類整理の方がまだいいよぉっ」
「すみません、お茶お代わりしていいですか?」
「うん。ちょっと待ってね」
「マジ本当に殺していいですか?」

 対して、コッグという男は空気を壊すことが得意のようだ。最早特技でもないだろうが。
 砕けた性格、という認識に上書きしたアキラは、僅かに安堵の域を漏らす。
 とりあえず、今、アキラを逮捕しようと躍起になっているのはサテナだけだったようだ。
 それも、空回り気味に。

 そもそも、何故取り囲まれなどしたのだろう。
 自分はただ、ミーナに声をかけようとしただけだというのに。

「旅の魔術師」
「?」

 そんな、空気の中。
 カップにお茶を注ぎながら、ミーナが一言口にした。

 アキラは僅かに眉を潜める。
 穏やかな空気に心地よさは覚えていたが、アキラはミーナの存在を、あれだけ形容しても、信頼し切っていなかった。

 根底部分はともかく、その完璧にも似た性格には―――裏がある、と。
 その予感は、彼女が“貴族”であるということを差し引いても余りあるほど、ある。
 なにせ、ミーナは恐らく、“彼女”の母なのだろうから。

「今この街、旅の魔術師で溢れ返っているでしょう? あの依頼の件で」

 ミーナはコッグにカップを渡すと、アキラに僅か眉を寄せたような表情を向けた。

「それでね、彼女たち、私の護衛をしてくれているの。ほら最近、“貴族”を狙う“旅の魔術師”が増えてきているでしょう?」

 アキラには思い当たる節が合った。
 何せ、ここ最近アキラが遭遇した事件で、大きいものと言えば“鬼”の事件と“崖の上の街”の事件。
 その崖の上の事件は、まさしく“貴族”の問題が発展となって発生した事件だ。

 あの事件はアキラの知る限り明るみには出ていなかったはずだが、ミーナの口ぶりからして、シリスティア各地で似たような事件が発生しているようだ。
 もしかしたらあの貴族たちも、そうした事件を知っていたからこそ、それを逆手に取ろうとしたのかもしれない。

 アキラが思っていたほど、シリスティアの“貴族”と、“魔術師隊”と、“旅の魔術師”の問題は根深いようだ。

 離れた距離を、歩み詰めることは難しい。

「だから、依頼を請けにきた旅の魔術師に紛れて不届き者が来てるかもしれないんですよぉ。このファレトラにも」

 僅かに熱の収まったサテナが、ミーナの言葉を投げやりに補足した。
 ミーナを前に、強硬策に出ても無駄だと言うことを察したらしい。

「ちなみに、アキラさん、でしたっけぇ? “あの依頼”、請けましたか?」
「請けたよ。それも、1ヶ月前からの予約でな」
「誤解してすみませんでしたぁー」

 はぁー、と脱力したようなサテナ。
 最早語尾も強くない。
 依頼書の確認を求める気すら起きないようだ。すっかり毒毛が抜けている。

 コッグがお茶をすする音だけが、妙に響く。

「ほら、やっぱり。誤解も解けたことだし、ごゆっくりおくつろぎくださいな。サテナさんたちも、私の散歩につき合わせてしまったし」
「……それより」

 身の安全を確認したアキラは、ようやくミーナに面と向かって言葉を発した。
 温かな空気は悪くない。
 だが、崖の上の街の経験上、どこか“貴族”のペースに飲まれている気がしてきた。

「ミーナさん。娘さんの話、聞かせてもらっていいですか?」
「ばっ、」

 ソファに背を預けて脱力していたサテナが跳び起きた。
 結局のところ、アキラ最も知りたい、そこ。
 その言葉に、サテナは再び、しかし今度は僅かに静かに、アキラを横目で睨んできた。

「お代わりもらっていいですか?」
「え? えーと、うん。ちょっと待っててね」

 ミーナは再びコッグに催促され、今度は部屋を後にした。
 ミーナの様子はいたって変わらないように見えたが、サテナからピリピリとした空気がアキラに伝わってくる。
 彼女はコッグを見てもない。
 まるで、アキラの方が空気を壊したとでも言うように。

「なっ、何してくれてるんですかぁっ!? あなた、依頼を“事前に聞いて”請けたんでしょう?」

 ミーナが退出し、ドアが閉まり切った直後、サテナはほとんど叫ぶように詰め寄ってきた。

「いや、実は事情はほとんど知らないんだ。依頼の内容も、実はロッグさんにちょっと聞いたばかりで、」
「ロッグ……? ロッグ=アルウィナーさん!? いやいやいやそれはともかく、とにかく、とりあえず、私の話を聞いて下さい」

 サテナは深呼吸して肩を落ち着かせ、今回の依頼の情報を話し始める。

「そもそもこの依頼、公的組織から出たことにはなっていますが、巷で囁かれている通り、始まりは“貴族”にあります」

 “貴族”。
 その言葉が、ミーナを差してのものだということは、アキラでもすぐに察せた。

「8年ほど前、“伝説”が発生しました。犠牲になったのは、“貴族”のひとり娘。私も小さいとき、そのニュースを何度も聞いた記憶があります。今でも時たま話のタネになりますよ。シリスティアで知らない人なんていないんじゃないですか? “あの”ファンツェルン家が被害に遭った、ってことを」
「……!」
「ここ」

 アキラの動揺をよそに、サテナは部屋を―――ファンツェルン家を眺めるように視線を回す。

「ファンツェルン家は、もともと貴重品の保管を担っていたらしいんです。ファンツェルン家単独の財でも、こんな家に収まりません。もっと堅牢で、もっと大きな……、でも、今は民家に紛れる程度でしょう? これって、どういうことだと思います?」

 アキラも倣ってファンツェルン家を見渡す。
 この客間を見る限り、相当に巨大だ。
 だが、あの崖の上の街にあった、“ガラスの館”とは比べるべくもない。

「その財のほとんどを事件解決のために投げ打ったんです。あらゆる権力者―――特に発言力を持つ貴族の、“勇者様御一行”の子孫に働きかけ、たった8年でシリスティアの歴史を塗り替えようとしたんですよ」

 たった、8年。
 自分の人生の半分近くを、“たった”と形容することは、アキラにはできなかった。

「どんだけ全力を傾けたのか、って話ですよ。ファンツェルン家は、まあ、ミーナさんを見れば分かると思いますが、力を持っているわりには街の成長を見守るだけの“温厚な貴族”として知られていますが、その“ファンツェルン家”が、ですよ?」

 サテナの力説は、教科書からそのまま持ってきたかのような情報の羅列のようにも聞こえた。
 だが、アキラは全力で耳を傾け、その言葉を浴びる。

「娘を想う気持ちってやつですかねぇ……。私の両親はどうでしょう? まあ、その事件で、この家の主人は今も働きづくめですよ。そんな人たちに、……はあ、」

 だから、“貴族の主人”はこの家にはいないのだろう。
 今も、この街のどこかで、駆けずり回っている。
 そういえば、使用人も―――いない。

 気になっていたこととはいえ、アキラはかなり軽率な言葉をミーナに浴びせてしまったようだ。
 これでは席を外す理由も分かる。

「まあ、それでも、最近はファンツェルン家も持ち直しているんですけどね。その辺りは、流石にファレトラってとこですがねぇ。でも、やっぱり凄いで―――」
「そんな理由で、ファレトラは粗い、って言われてるけどな」

 そこでコッグが口を挟んだ。
 サテナに睨まれ、彼はソファに身体を預けたまま、それきり口を閉じる。
 彼女とは対照的に、寡黙な性格でもあるようだ。

 そこで、コンコン……ゴンッと、ドアが叩かれた。

「ごめんなさい……、開けてぇ……」
「…………」

 ドアの向こうから聞こえたミーナの声に、サテナはどこか白い目を浮かべ、立ち上がる。
 すたすたと歩み寄り、サテナが開けたドアの先、両手に旅行鞄ほどの荷物を胸に抱えたミーナが立っていた。
 額が、僅かに赤い。

「額でノックしたんですかぁ? 置けばいいじゃないですか」
「……。!!」
「どうなってんですかぁっ、この人たちっ!! やだっ、私やだよぅっ、馬鹿になりそう……」

 本気で泣き出しそうだったサテナは何とか自制心を保ち、ミーナから荷物を奪い取る。
 僅かによろけながら運び、テーブルの横に静かに置いた。

 随分と、重そうな荷物だ。

「サテナさん、ありがとう。それからコッグさん、お茶はもう少し待ってね。アキラさんの話が先だから」
「もういいですっ、私が淹れますから。ミーナさんはもう動かないで下さいぃっ!!」

 彼女が出ていったのは、思うところがあったわけではなく、単純にアキラの質問を優先した結果だったようだ。

 ミーナは元の位置に腰かけ、ゆっくりと、アキラと視線を合わせた。

「エレナのことを、話しましょう」

 アキラはびくりとした。
 さも自然に、彼女の名前が出てきたことに。

「ここに越してくる前だけど、あの娘、隣の家にとても仲のいいお友達がいてね。よくうちに遊びに来てたわ」

 その越してくる前というのは、どれほど時を遡れば見つかるのだろう。
 ミーナは柔らかな表情のまま、視線を虚ろにしていた。

「ううん、うちだけじゃない。どこに行くのもその子と一緒。べったりくっついて、お姉さんみたいに思ってたんじゃないかしら? 随分しっかりしてた子だったわ」

 お姉ちゃんは、頼りになる。

「“あの日”も、あの娘は玄関で行儀よく座ってたわ。にこにこしながら、いつもみたいにドアが叩かれるの待ってたみたい。でも、来たのは主人の仕事相手ばっかりだった」

 アキラは話の道筋が見えた。
 “あの日”。その日に、“こと”が起こったのだろう。

「“知った”のは、その日の夜だった。世間じゃうちの娘ばっかり話されてるけど、始まりは、その日のその娘よ。彼女は―――“失踪”した」

 始まりは、そして―――終わりは、その娘が発端。
 伝説が、本来関わってはいけないはずの日常に混ざり込んできたのだ。

 ミーナは、どこか泣きそうな顔になった。

「それからあの娘、……うん、いつもにこにこ笑ってたのにね」

 言葉を伏せても、意味は分かる。
 サテナが運んできたお茶を、静かに置く。
 流石にコッグも手をつけなかった。

「でも、一番の失敗は私たち。弱い子だって知ってたのに、ひとりの時間を作ってあげようとした。結果、ね」

 “伝説”が、ごく近い頻度で、発生した。
 全てが始まって―――終わった日に。

「そうそう、“それ”が起こる前、変なことがあったのよ。アキラさん、これ見てくれる?」

 ミーナは僅か目を伏せ、テーブルの隣の荷物に視線を向けた。
 先ほど、アキラが“彼女”のことを聞いたとき、ミーナが持ってきた荷物だ。

 ミーナが動く前にサテナとコッグが動き、その荷物をテーブルの上に置く。
 四角く、一抱えほどもある旅行鞄。
 そう言えばそう見えるが、よくよく見ればただの箱のようにも見えた。
 茶色く、いたるところに傷が入った古い箱だ。

「これ、なんだけど」

 ミーナが箱を、ガコッ、と開ける。
 アキラが覗き込むと、中には宝石店のような紺色のケースが入り込み、そしてやはり拳ほどの宝石が入っていた。

 嵌めこむように、4つ。
 それぞれ五芒星を模して並び―――しかし、4つ。

 美しく、巨大な宝石だ。

 スカーレット。
 スカイブルー。
 イエロー。
 そして、グレー。

 しかし右下の位置は、在るべきものが無いように、ぽっかりと窪みを残していた。

「さんざん売っちゃったけど、これだけは手元に残していて……。“魔力の原石”とかいう、貴重な鉱物。全部揃ってたはずなのに、“あれ”の前に1つ無くなってたのよ」

 すなわち―――ライトグリーン。
 木曜属性の“魔力の原石”が―――無い。

 その理由を、アキラはおぼろげにだが、察した。
 盗み出したのは、おそらく、その属性を有する“彼女”に他ならない。

 アキラの背筋が、ぴりりと冷える。
 全てが、繋がり過ぎているのだ。

 これならば―――間違いはない。

「ねえ、アキラさん」

 ミーナは僅かに眉を寄せ、おずおずと、口にした。

「これを見てもらいたかったのは……、私がアキラさんに聞きたいことがあったからなんだけど……いい?」

 上目使いで、恐る恐るミーナはアキラの表情を盗み見てきた。

「ちょっとした……、本当にちょっとした希望なんだけど……。私を誰かと間違えたんですよ……ね?」
「!」

 アキラの表情が強張る。
 しかしミーナは察した様子もなく、あくまで祈りを込めるように、アキラに視線を向け続けてきた。

 ようやく。
 ようやくアキラは、察した。
 自分の第一印象通り、ミーナには、裏が、無い。

 彼女を疑い尽くしても、見つかるのは、彼女だけ。
 穏やかに笑う裏には、所詮、悔恨や、懇願。その程度の、人間しか見つからない。

 アキラは口を開きかけ、そして閉じた。
 そして自分がさらに嫌いになる。
 この状況で、“この情報”が、どう働くのかを頭の中で計っているのだ。

 本当に―――由々しき事態。

「ごめんなさい……。あの、私がちょっと期待してた……だけだから。私が知ってること全部話せば、きっと思い当たる節があると思って……。あの娘、私によく似てる、なんて言われたから……」

 持っている情報を全て出して、アキラの答えを求めたミーナは、そこで、沈んだ。
 アキラが口を開こうにも、もう質問は終わっていた。

「信じたいなぁ、本当に。あの娘はきっと無事で、でも何か事情があって、戻って来ないだけだって。きっと今頃、あのお姉ちゃんにくっついて、楽しく笑ってるって」

 ミーナは独り言のように、思い、想っていた。

 温かに笑う彼女は、空気に溶け込むような彼女は“違って”、強く、強く、強いのかもしれない。
 だから彼女は願い続け、それを実現することに力を注ぐ。
 苦難を僅かも覗かせず、消え入るように、笑う。

 本当に、こんな人がいるのだと―――アキラは思った。

 そして。
 ミーナは、今度は3人を見渡し、淑やかに、頭を下げた。

「みなさん。私たちの我がままに付き合っていただいて、まことにありがとうございます。魔術師隊の方々にも、旅の魔術師の方々にも、多大なご苦労ご迷惑をおかけいたします。無理を承知で申しますが、大樹海の謎を、解いて下さい。あなた方の無事と、私事ですが、あの娘たちの無事を、今はただただ願います」

―――アキラは、確信した。

 これは、間違いなく―――“刻”だ。
 この事件が、広大なシリスティアという“高が箱庭程度”の広さを理由に避けられるわけがない。

 “四週目”だろうが“五週目”だろうが、シリスティアという地に足を踏み入れた時点で、この“刻”に引き寄せられると断言できる。

 だから―――

「っっっっっっ!!!!!!!?」

 探るまでもなく、記憶の封が解けるのは―――必然だった。

 他の者に決して悟られぬように、アキラは情報の爆発を全力で抑え込む。

 削られるどころの騒ぎではない。
 あの、“もうひとりの日輪属性の男”と出逢ったときよりも激しい衝撃が、アキラの脳を天辺から撃ち抜いた。

 知っている。
 ロッグとここで再会したことも、魔術師隊に取り囲まれたことも、ミーナという女性に出逢ったことも、全て、総て、知っていた。
 記憶の封は今ここでまとめて解け、土石流のようにアキラの思考を押し流す。

 そして、記憶の解放は、そこで止まった。
 だが、その、遮断され、流れて来なかった―――その奥。

 黒く、重く、濁った、おびただしいほどの醜悪な臭いが、強く、強く残る。

 あたかも、“それ”を、他の記憶が押し込んでいたかのように。

 記憶の反動とでも言うべき激動に、アキラの視界は白黒した。

 この依頼―――何が起こったというのか。

「さあ、お茶を再開しましょう。あっ、そういえばお茶受け持ってこようと思ってたのに……アキラさん?」

 ミーナの声が遠く聞こえた。
 アキラは苦痛を表情に出さぬよう―――今度は、失敗するわけにはいかない―――ミーナに笑顔を向ける。

「俺も、無事だと思います」
「……うん、ありがとう」

 優しく笑うミーナの声は、今度はしっかり聞こえた。

―――***―――

 5日後―――早朝。

 アキラたち“勇者様御一行”は、ファレトラの馬車のターミナルにいた。
 ファレトラにはいくつもこうした場所があるらしいが、ここは身体を揺すれば肩が触れるような群衆で埋め尽くされている。

 それもそのはず。

 この日。
 “伝説堕とし”が―――開始される。

「ぬぬぬっ、むぎゅ、にゅわっ、酸欠っ、酸欠ですっ!! 背が低かったって、ティアにゃんここにいるんだぞぉぉぉおおおーーーっ!!!!」
「きゅぅ」
「ぬおおおっ!? エリにゃんあっしの台詞取らないで下さいっ!! でも、ほんと、酸素をっ、酸素をギブミーッッッ!!!!」
「それだけ空気吐き出してんだから当然でしょ……」

 集結した旅の魔術師―――計40572名。
 約4万人もの群衆には、駆け出しの魔術師も、老獪なベテランも入り混じり、この依頼のためだけに他の大陸から訪れた者も多いという。
 事前の告知で時間をずらして移動するはずなのだから、街の一帯を埋め尽くしている面々もまだまだほんの一部、ということになる。

 集結した魔術師隊および魔道士隊の人員―――計14250名。
 1万を超すシリスティアの公的組織の面々は、試験合格直後の新米も、魔道士の資格を有している者も、人の整備に躍起になっている。
 もし僅かでも彼らの計画に不備があれば、この集団は完全に崩壊していであろう。
 それでも出発が大分遅れているのだから、計画さえも焼け石に水と言うべきか。

 総勢約5万5千人。
 シリスティアの歴史を紐解いても決して現れぬこの数は、まさに、暴力的であった。

「とりあえず、これを渡しておこうか」
「?」

 その集団から僅か離れた場所。
 エリーとティアに馬車の順番待ちを任せ、アキラとサクは街路で向き合っていた。

 サクが渡してきたのは、柄の部分が滑らかになっている―――剣。

「これは?」
「スペアだ。お前の背の剣が壊れたら、これを使え。ほら以前、お前があの“宝物庫”で見つけた剣だ」
「これが?」

 アキラは目を疑った。
 記憶から完全に抜け落ちていた、あの、剣。
 赫の魔族の宝物庫に―――赫と金と銀しか存在を許さなかったあの場所に置いてあった異物。
 それは、黒々と錆つき、掴んだだけで手が切れるほどの有様だったものだ。

 だが今は、それが、まるで無い。

「サクすげぇな……。お前これ直せたのかよ? いやほんとすげぇ……。感心できる。本当に手入れって大切なんだな」
「……え? えっと、ま、まあ、私はそういう手入れは得意な方だからな。まあ、あくまで予備だ、予備。大分頑丈そうだから、な。ま、まあ、頑丈と言っても、うん、あまり使わない方が……、今は、大人しく持っててくれ」
「いやいや、これでいいじゃねぇかもう。柄もピカピカだし、刃だって…………おぅ」

 サクが僅かな静止をかいくぐりって、剣を鞘から抜き放ち、声を漏らした。
 黒い。
 いや、確かに錆が以前よりは遥かに落ちているが、それでも、刃の部分はほとんど潰れていた。

 これは最早、鈍器だ。

「…………」
「…………」
「…………そこが、限界だった。うん、言いたいことは分かるが、言わないでくれ」
「……いや、ありがとう、マジで嬉しい。やったぜ」
「慰めは、人を傷つけることがある」

 アキラがそう言うと、サクは背を向けた。

 だが、サクはこれを、一応は使えるようにしてくれたようだ。
 きっと、寝る間も惜しんで。

「まあ、お前の問題は、私の責任でもあるからな」

 うごめく群衆の音に紛れたその声は、ほとんど聞きとれなかった。
 アキラの背にある剣は、ファレトラに到着してから、2回変わっている。

「ありがとな、本当に。今度から、俺も徹夜覚悟で手入れするよ」

 アキラも群衆の足音に紛らわせ、サクに言葉を投げた。

「私は、エリーさんたちの様子を見てくる。そろそろ交代して欲しいかもしれないしな」

 それなら俺も、とアキラが言う前に、サクは群衆に消えていった。
 1人残されたアキラは、空を見上げる。
 少し、曇っていた。

「?」

 そこで、肩を叩かれた。

「!」
「おはようございます。アキラさん」

 振り返れば、そこにはミーナ=ファンツェルンが立っていた。
 自宅に招かれた日から、そのあと1度も会うことのなかった女性だ。

「これだけの人が集まってくれたんですね……。本当に、ありがとうございます」

 誰も見てはいないだろうに、ミーナは頭を下げた。

「えっと……、ミーナさん、何でここに?」
「みなさんを見ておきたくて。本当は、自宅でじっとしているように言われたんですけどね」

 申し訳なさそうに、しかし朗らかにミーナは笑った。
 護衛の魔術師たちは見えない。
 サテナたちも、今回の依頼に参加するのだろう。今は人の整備に躍起になっているところだろうか。

「でも偶然。良かった。アキラさん見つけられて」
「目立つ、みたいですから。俺は」

 ミーナは可愛らしく首を掲げた。
 やはり、裏の無い笑顔だ。

 アキラは彼女に対し、罪悪感ばかりが募っていく。

 そろそろ自分たちが馬車に乗る番が来るころかもしれない。

「ねえ、アキラさん」

 そんな雰囲気を悟ったのか、ミーナはアキラに向かい合い、今度はまた、祈るように言葉を出した。

「今でも、あの娘が無事でいると信じてくれますか?」
「ええ」

 思ったよりも早く、アキラは答えをミーナに返した。
 彼女から話を聞いて以来、ずっと、彼女に返すと決めている言葉だ。

「俺も分からないけど……、きっと理由があって、戻ってないだけだと思います。いや、きっとじゃなくて、絶対に」
「ありがとう。本当に、ありがとう」

 ミーナは本当に、花のように笑ってくれた。
 毒は無く、嫌味も無く、本当に、アキラよりも日溜りに相応しい。

「もし旅の途中、あの娘に会ったら、頭でも撫でてあげて。あの娘、そうされるとすっごく喜ぶから」
「それは殺されます」
「???」
「いや、」

 再び首を傾げるミーナに、アキラは視線を外した。

「じゃあ俺、そろそろ」
「ええ。―――ご武運を」

 アキラはミーナに背を向け、群衆に向かっていった。

 今から挑むは―――伝説の未解決事件。

 貴族。
 魔術師隊。
 そして旅の魔術師。

 シリスティアでは混じり合うことのなかった三大勢力が、総力を結集させて、行く。

 アキラの記憶は、臨界点間際で収まり続け、未だ闇は―――闇のまま。

 だが今、世界を救うという使命を抜きにして、この事件を解決したいと強く思う。

 背には剣。腰にも剣。
 この力で、“刻”を刻み終えたいと―――想う。

 だが、何故だろう。
 この数の暴力を見て、どこか心細さを覚えてしまうのは。

 群れに飛び込むや否や人の波や騒音に揉まれ、すぐさまミーナが恋しくなったアキラだが、その脳裏には、1つのフレーズが浮かびつづけていた。

 あの醜悪な臭いを感じた記憶が、封が閉じ切る前に、零した一言。

 替え唄や、そのリズム。
 形を変えて、広がり続けるその唄の―――最後。

 足音一つも聞こえない。

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 後書き。
 読んでいただいてありがとうございます。
 …………まず、また前編か。と思った方もいたでしょう。
 なにせ私も思いました。
 それはともかくとして。
 今回の話は、一体いつから考えていたのか私自身覚えておりません。
 記憶を頼りに綴りましたが、『おんりーらぶ!?【第一部】』にちらほら今回の話の匂いがあったと思います。
 そんなわけで、テーマの1つは伏線の回収。
 流石に話を進めないと、この【第二部】そのものテーマがまずいことになりそうですし……。
 お楽しみいただけたでしょうか。
 さて、最近大分会話文が増えてきて、冗長の域を軽く超え始めています。(もともとそんな文体だったりしますので……)
 しかし日常の変化を最も描写できるのは、地の分ではなく会話文であるというのが私見であり、それが上手く描ける方は本当に尊敬できます。たまに、小説は会話文しか読まないという方がいるほどですしね。
 この後書きも、冗長になっている気がしますのでこの辺りで。(読んでいる方はほとんどいないでしょうが……)
 次回は中編にならぬよういきたいと思います。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第三十話『足音一つも聞こえない(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:05
―――***―――

「おおっ、魔物の大群が目の前にっ!! おっしゃーっ、私にっ、ま、か、……おおっ、サキュン速ぇぇぇえええっ!! むむむっ、あっしも負けてらんな……、てててっ、アッキーエリにゃんも行くんですか!? よーしっ、バックは任せて下さいなっ!! 討ち漏らしてもあっしの魔術が火を噴くぜっ!! さあさあさあさあさあっ、こいこいこいこいこい……こい……こい……、来て……来て下さい……、来て下さいな。あっしは……あっしはここにいます。いるんです。……うん、いや、油断は禁物ですっ!! 神経を研ぎ澄ませぇっ、ティアにゃん。実は親玉的な奴が大群に紛れていて、そんにゃろうが今か今かとあっしたちを狙っているかもしれませんっ。例えば、そうですね……、あの、最奥の……そこだっ!! …………そ、そうですそうです、サッキュン、ナイスダッシュですよ…………、そだそだそれならあっしは雑魚を引き受けます。サッキュンが動きやすいよう全力でサポートを……、そうですね、アッキーもエリにゃんもよく分かってます。みなさん、ものすごく理に適った行動ですよ。調和がとれてると言っても過言ではありません。お次は……そいつだぁっ、……エリにゃん、素晴らしいです。じゃあ、じゃあじゃあじゃあ、えっと、おおっと、アッキー危なっ……くない。ティアにゃん早とちりしちゃいました、えへっ、えへっ、えへっ……えへ……えへ……。……………………フ、フレーッ、フレーッ、アッ、キッ、ィッ!! 頑張れ頑張れサッキュン!! 頑張れ頑張れエリにゃん!! 速いぞ速いぞっ、み、な、さ、んっ(除・ティアにゃん)!! 強いぞ強いぞっ、み、な、さ、んっ(除・ティアにゃん)!! いけっいけっ、み、な、さ、んっ(除・ティアにゃん)!! 無敵だ無敵だっ、み、な、さ、んっ(泣・ティアにゃん)!! …………ふう、空が、青いですねぇ……。お父さんとお母さんは元気でしょうか。あなた方の娘は、今、シリスティアにいます。ここまでいろんなことがありました。目を閉じれば浮かんできます。驚きですよね、戦闘中に目が閉じられるんですよ。安全地帯なんですよ、それはもう。あ、そういえば、心の目とかってどうやって養うんでしょうねぇ……。サッキュン辺りができそうな気がしてるんですけど、前に言ったら恐ろしいほど冷徹な笑みを浮かべていました。心の目で視て斬るッ!! なんてことできそうじゃないですか? それなのに、ですよ……。その点、アッキーは違いました。よしやってみるか、って言って朝練中に目を閉じてました。協力してくれたエリにゃんの拳がクリーンヒットしてました。そこで、あっしの出番ですよ。回復魔術でぽぽんっ☆ とねっ。…………そこだけが、ここ最近のあっしの出番ですよ。でも、この前ちょこっと褒められちゃいました。狙った対象がいなくなるってことは、狙いが良い、って。優先順位が高い敵が良く分かってるって。えへへ。…………あ、戦闘が終わってる。そしてアッキーの武器が壊れてる―――と、」
「…………」
「これが、このメンバーの近況報告です」
「誰かぁぁぁあああーーーっ!! この娘の相手代わって下さいぃぃぃっっっ!!!!」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――アドロエプス。

 南の大陸―――シリスティアにあるこの大樹海は、中央に位置すると言うより、中央そのものの“ようだ”。
 十字のように広がるシリスティアのその交差路。その全てを埋め尽くし、上空から見ればむしろシリスティアの大陸がアドロエプスから上下左右に伸びているようにしか見えない“だろう”。
 陸から遠目に見れば、腕を回しても届かない大木が埋め尽くし、膝の高さほどもある草木がうっそうと生え茂り、油断すればすぐにでも足を取られ“そう”である。
 そして、大木の付近では野太い根が土をめくり上げて飛び出し、その太さにむしろ足を取られることはなさ“そう”でもあった。
 ただ、シリスティアの魔物の力から考えて、あまり強力な魔物はいないはずだとは“考えられている”。

 それ、だけ。
 シリスティアの認識上、アドロエプスに関する事前情報はその未確定な情報のみであった。

 シリスティアが全大陸中最大級の面積を誇るというのは教科書にも載っている一般教養であるが、実質的な広さではワースト“2位”まで転がり落ちる。1位は公然で最悪の事情があり、ランキングから除外しても差し支えない。
 問題は、やはり、シリスティアなのだ。
 “ワースト1位の大陸の半分”と同様の言葉を使うのなら、シリスティアの中央部分は―――“死んでいる”。いや、実際のところ、死んでいるかどうかさえ“不確か”だ。総てが未確認。どれだけ空の太陽が照りつけても、その場の闇はここ数百年晴れていない。

 人は、意識の埒外の存在を、認識できない。
 人が認識することのみによって土地が生きていると言えるのであれば、確かにそこは、死んでいた。

 そこは―――大樹海アドロエプスは、周囲はおろか上空すら何物の存在も許さず、しかし時折手招くように、導くように、死神のように、誰かの足音を連れ去っていく。
 遥か天空の浮雲のみが横切ることを許された、その“あまりに在り得ぬ大自然”は、そしてそこで発生する失踪事件は―――不確かで確かな伝説としてシリスティアの中央に座し続けていた。

 今その伝説を―――5万を超す足音が横切っている。

「常識的に考えて下さいよぉっ、私は魔術師、そう、魔術師隊です。みなさんを統括する義務があるんですよぉ!? それが何でにこにこ顔の子供からおはようからこんばんはまでどっぷりお話聞かなきゃならないんですかぁっ!!」

 時は夕暮れ。風は無い。じっとりとした印象を受ける樹海の中だと言うのに、空気はどこかからりとしていた。
 予想通りの野太い大木と、膝ほどまで伸びっぱなしの草木に囲まれた場所。本日はそこで夜を明かすこととなった1つのグループは、シリスティアの“死んでいる地”で―――非常に賑やかだった。

「わわわっ、こんばんはまでお話聞いてくれるんですかっ!? まだまだ時間あるじゃないですかっ!! くぅ、感極まって涙出てきました……。サッティは本当に優しいですね……あっしはもぅ……ぅぅ。よーし今夜は寝かせねぇぜぃっ!!」
「ちっげぇぇぇえええっ!! もうあなた殺されても文句言えないくらい口開き続けてますからねぇっ!? それとサッティ言うなぁっ!! 私の名前はサテナ=アローグラスって結構な回数言ってますよねぇっ!?」
「すみません……。さ行ティアにゃん活用の“サッキュン”はもうサッキュンのものなんです……。それと、なんかネーミングのテンプレートからの脱却を狙いたくて、語尾を意識してみました」
「バトンタッチ!! バトンタッチィッ!!」
「落ち着けよサッティ」
「コッグ、マジぶち殺しますよぉっ!! 生きてこの森を出られると思うなぁっ!!」
「それわりと洒落になってないからな」

 賑やかで、本当に賑やかな光景を見ながら。
 ヒダマリ=アキラは黙々と寝床の確保を続けていた。

 隣では、エリーとサクも同様に口を開かず作業を続けている。
 3人とも、会話に混ざろうとしようものなら、“危険人物”のアルティア=ウィン=クーデフォンのターゲットにされることは身に染みて分かっていた。

 いつもの“勇者様御一行”の4人に加え、妙に語尾の強い女性―――サテナ、寡黙で時折サテナの神経を逆撫でしている男性―――コッグ。魔術師隊の2人は、アキラが大都市ファレトラで出会った2人でもある。

 計6名。
 計6名のこのグループが構成されてから、間も無く1週間が経過する。

 伝説の未解決事件が発生し、発生し続けているこの大樹海アドロエプスを舞台に計画された“伝説堕とし”。
 その作戦はいたってシンプルだ。魔術師隊や魔道士隊が、シリスティア全土に広報をかけて集めに集めた旅の魔術師を率いて“アドロエプスを横断する”。謎の一片も残さぬよう横一列に並び、拭い去るようにアドロエプスを暴く。
 言ってしまえばそれだけの作戦だが、参加人数は5万超。ある程度の人数で組を作り、そのグループで行列を作り、時間差でアドロエプスに突入し―――と、アキラは5日程前に聞いた説明を思い起こす。
 流石に全員が同時にアドロエプスに突入するわけではないようだ。広大なアドロエプス。その地に全員が飛び込んでは、人間であるがゆえに食料の供給もままならない。
 そこで、それぞれの列に役割を持たせるそうだ。

 最初に樹海に飛び込む列には、大樹海の探索を。
 遅れて順々に大樹海に飛び込む列には、“外”との連絡を。
 それぞれが役割を担当し、アドロエプスを進んでいく。

 アキラたちの列は、最初に大樹海に飛び込む―――すなわち、大樹海の探索する役割を担っている。
 つい先ほども、後方からバケツリレーのように回された食料が届いたばかりだった。隣のグループは視界に収めることはできないが、木々の向こうで同じように食料などの生活物資を受け取っていることだろう。
 本来ならば大樹海の反対側からも探索を行いたかったそうなのだが、大樹海の近辺ゆえか反対側には大都市ファレトラのようにパワーを持った街は無いらしい。5万人もの食料の予算など、アキラには考えたくもなかった。
 それだけ、大都市ファレトラと、そしてこの“伝説堕とし”を依頼した貴族―――ファンツェルン家が異常だと言い換えることもできる。

 依頼の経過は順調だ。
 アキラたちは問題なく大樹海を進み、そして他の組たちが定時に打ち上げる魔術にも“危険”を表す色は含まれていない。
 問題なく、横一線。時折、寝床の都合などで隊列が乱れることもあるようだが―――問題なく、横一線。

 それが、むしろ不気味だった。

「……今日も、出なかったわね」

 背後の喧騒に溶け込ませるように、エリーがぼそりと呟いた。
 アキラは仕切りのための布をロープで枝に結えつけながら、ああ、と返す。

 出ない。
 それは、このアドロエプスを禁断とした元凶だけを指しての言葉ではない。

 出ないのだ―――魔物が。何ら割り増しする必要もなく、ダンジョンと形容できるアドロエプス。そこでは、魔物が出ない。
 アキラの剣は壊れるどころか使用されてすらいなかった。

「他の組はエンカウントしてるんじゃないか? 取るに足らない雑魚とかじゃ、いちいち“異常”を知らせないだろ」
「だったらいいんだけど……、いや、よくはないけど、うん」

 エリーが言わんとしていることは、アキラも、そして黙々と寝床の確保を続けるサクも同様だろう。
 やはり、不気味なのだ。

 この樹海に足を踏み入れたとき、未開の地への侵入に誰もが半分の期待と、半分の恐怖を抱いていただろう。
 数百年も前から謎に包まれた大樹海。“伝説堕とし”の開始初日から強大な魔物が現れ全員で討つのだと血気盛んな者もいただろう。足音がひとつふたつと消えていくとネガティブな思想を持っていた者もいたかもしれない。
 だが予想とは裏腹に、この大樹海の探索は問題なく進み続けていた。
 初日、空に打ち上げられた居場所を知らせる魔術は、大樹海の入口からほとんど離れていなかったことをアキラは覚えている。
 しかし、2日、3日と時間が経過するにつれ、その進行ペースは上がり続けていた。その様子は、恐る恐る進めていた足から徐々に迷いが消えていると考えることもできる。

 何も起きなければ気も緩むというもの。
 実際、このグループの監督役として派遣されたサテナは当初気を引き締めて厳格な態度を崩さなかったが、徐々に気を許し、本日とうとうティアの毒牙にかかってしまった。
 他の組の進行スピードを見るに―――やはりアキラたちのグループ同様、本当に何も起きていないようだ―――警戒心を解き始めている。

 現在警戒しているのは、アキラたちと、樹海の外で打ち上げられる魔術を計測している魔道士たちくらいであろう。樹海の中は、足場の悪さを除けば安全なのだから。
 もっともアキラたちの警戒心も、所詮は根拠の無いものでしかないのだけど。

「それで……いや、何でもない」

 ようやく寝床の準備を完了させたサクが、アキラに言葉を投げようとして、止めた。
 アキラもその意図を理解する。
 エリー、そしてサク。彼女ら2人が警戒しているのは、自分の―――ヒダマリ=アキラという人間の様子なのだろう。

 “ヒダマリ=アキラの警戒”。
 それは、アキラが有する異常な属性のことを差し引いても、エリーとサクに特別な意味を持たせる。

 アキラは目を伏せた。
 この世界に落とされて、旅を始めたアイルーク。
 アキラは自分の有する“異世界初心者が持ち得ぬ情報”によって、2人に多大な迷惑をかけたことを思い出す。

「……警戒しててくれ」

 アキラは、口を噤んだサクに短く言葉を返した。分かり切っているであろうその言葉を、重い口調で。
 これが―――これだけが、今アキラが持っている情報の全てなのだ。

 アキラは不甲斐無さを感じていた。
 このアドロエプスには、粉うこと無き“事件の種”があるのだ。大樹海探索の最前列という役割さえ存在している。
 そんな場所にアキラが飛び込んで、ジョーカーを引き当てないわけがない。

 アキラの記憶の封は未だ解けない。

―――この1週間で、アキラは“とある答え”を出しているというのに。

「そんな顔、しなくていいわよ」

 エリーが小さく笑い、呟いた。アキラが視線を向けても、エリーは顔を背けない。
 ここ最近の変な様子も、どうやら緩和し始めていたようだ。

「最近じゃ戦闘中もちょこちょこ助けてもらってるし、それに、」

 エリーはゆっくりと振り返り、そしてびしっと指で差した。

「それでは、ティアにゃん心を込めて歌います。聞いて下さい、『足音一つ聞こえない』」
「暴挙っ!! 暴挙ですよぉっ!? この場でそれはぁっ!!」
「てくてくてく、足音三つ、聞こえてくるよ」
「コッグが歌うんですかぁっ!?」

「あたしたちの警戒心の負担、あのちっこい子供に注ぎ込んで緩和させるから」

 先ほどから続いていた喧騒に、エリーは僅かに口元を引くつかせていた。
 最近、ティアが、絶好調すぎる。

 アキラは準備が終わった女性陣の寝床に視線を走らせた。今夜はこの場で楽しい会議でも始まりそうだ。

―――***―――

「まだ、ほとんど進んではいないですねぇ。入口付近、ってところですよ」

 大樹海から切り取るように茶色の布で仕切った空間。
 足場にも分厚いカーペットが敷かれた、今夜女性陣が身体を休めるその場所で、サテナ=アローグラスは僅かにやつれた顔で切り出した。
 普段肩ほどまでの黒髪にはボリュームのある彼女だが、先ほどの簡易な湯浴みによってぺたりと頭に張り付いている。もっともその髪も、暴れ回る子供の世話で徐々に跳ね始めていたりした。

 サテナは、一瞬地図を取り出そうとし、それを止める。
 地図なら先ほど男性陣も交えての簡単な会議で見せているし、この場で開くには億劫なほどのボリュームだ。
 所詮これはただ間を繋ぐためだけの、就寝間際の他愛ない会話に過ぎない。

「でも、思ったよりハイペースですよ。当初の予定では、ほら、初日を覚えてますか? 1日あの半分くらいの進行ペースだって考えられていましたから」
「魔物の不在が原因、か」

 サテナの言葉に、サクが応じた。サテナと同じく黒髪のその少女は、長刀を抜き、灯りにかざして入念に視線を走らせている。
 同じ黒髪でも、サクのそれは艶やかだった。顔立ちも凛々しく、鋭い眼。実のところ、サテナがこのグループを担当することになり、最初に気になったのはサクだ。
 有する雰囲気が、シリスティアのそれとは異質。アイルークから訪れたと言っていたメンバーだが、彼女は“平和”でも、ましてや“高貴”でもない。1日鞘に差していただけの刀でさえも、予断なく眺める。
 シリスティアの通例どおり旅の魔術師が好かないサテナだが、彼女の様子に、一体何度気を引き締め直されたことか。

「そうなんですよねぇ。でもその他に、歩きやすさもあります。草が伸びっぱなしで歩きにくいと言えば歩きにくいですが……、想像していたほどじゃありませんでした」

 かつて、大陸のほとんどを自然が支配していたというシリスティア。それだけ土地も肥えており、農作に不自由はない。そんな大陸で放置されつづけているアドロエプスは、しかし、“何とか歩くことができた”。
 予想では、1歩進むのに労力を要するとまで言われていたのだが。

「生き物が、いないからですよ」

 サクの隣、足を投げ出して座るティアが呟いた。
 笑顔を絶やさず、にこにこ顔の子供は、ぼんやりと空を見上げ、目を細めた。木々の草木に遮られた空は、ここしばらく顔を出さなかった星々が現れている。

「生き物がばたんきゅーすると、土地の養分になるって聞いたことあります。あんまり虫もいないみたいですし……、むしろこの森、よく育ってますよ。あれですかね。樹海パワーってやつですかね」

 的を射ているのか外れなのか分からない子供の意見であったが、特に誰も反論しなかった。
 樹海パワーとやらは謎ではあるが。

「まあ、どの道変な森ですよね、ここ。ずんずん進めるのに、隣のグループの人たちの様子分からないですし……。他の人たちに会えない、ってことは、“まっすぐ進める”ってことじゃないですか」

 謎に包まれているにも関わらず、当初の計画通りに探索が続く。
 定時に打ち上げられる魔術の位置によっては伝令が進路を調整しにくることもあるが、それでも順調に事が進む。
 アドロエプスは―――謎に包まれているというのに。

「一応、事前準備として、」

 静かなティアの様子に僅かな戸惑いを見せながらも、サテナは自らが持つ情報を開示し始める。初日比べると、随分と口が軽くなってしまった。

「シリスティアの魔道士隊が、“予知”を行っていたそうです」
「“予知”?」

 口を開いたのはサクだ。
 “魔術外の能力”を匂わせるこの言葉には、子供であっても“とある属性”を頭に浮かべる。

「“月輪属性の未来予知”。ごくごく少数ですけど、シリスティアの魔道士にも月輪属性はいるんですよ。その予知で、ある程度成果があったそうです。樹海の中の様子というか、雰囲気というか、」

 サテナは、自分でも煮え切らない言葉だと思った。
 この任務が決定するまで聞かされず、そして参加しなければ訊くこともなかっただろう。

 知っているのは僅かな情報。
 何年予知を続けても樹海の中の様子はまるで分からなかったらしい。1人が予知に成功しても、別の1人が否定する。あまりに不確かなその力同士が矛盾しても、当然誰も解明できない。結局アドロエプスは謎のままだった。
 しかし最近になってようやく全員の意見が一致し始め、中の様子がおぼろげに視えてきたらしいのだ。
 依頼の日程が決まったのも、月輪属性の予知の成果に依存してのことだったとサテナは個人的に考えている。

 そこまで話し終えて、サテナは殊勲にも口を閉じていたティアに向き合った。

「まあだから、とりあえずはルートが他のグループと思いっ切り交差することは無さそうなんですよねぇ。事前にルートが決まってますから。でも、ここまで正確だと寒気がします。謎に包まれ続けていたのに突然情報が漏れ始めたアドロエプスにも、そして、月輪属性にも」

 この大樹海は数百年も謎に包まれているが、謎に包まれている期間で言えば月輪属性の方に軍配が上がる。
 それこそ数千、数万年前から、月輪属性の全貌を把握できた者は存在しない。

「……魔道士隊の月輪属性というのは、やはり扱いが違うのか?」
「うーん、人間は平等っていう“しきたり”がらみのこともありますし、公には一緒、ってことですが……。私が聞いた範囲では微妙に違いますねぇ。基本的に、戦力と言うよりは“予知”を期待して特別に扱われているようです。月輪属性でも戦闘も万全にこなせるともなってくると話は別でしょうが、そんな人は……、ああ」

 サテナは以前聞いた、眉唾ものの噂を思い出した。所詮噂だと―――“そうとしか思えない異常な話”。
 サテナはその話題をここで止めた。

「とりあえず、明日も気を引き締めて行きましょうかぁ。私も、気を抜くなって言われてますし。最近だらけて……、いや、“だらけさせられている”ような気がするんでぇ」

 サテナが視線をティアに向けると、彼女は僅かに申し訳ないような表情を浮かべ、しかしにこにこと笑っている。
 そこで初めて、サテナは気づいた。このアルティアという少女は、案外気を抜いていないのかもしれない。彼女は気が抜けているのではなく、気を張るポイントを潜在的に理解しているのだろう。
 今の会話の中、さほど騒ぎ立てることも無く、傾聴していた。サテナが旅の魔術師への認識を改めさせられたサクという少女と旅をしているだけはあり、有事に備えるという認識を培っているのかもしれない。
 もっとも、彼らの戦闘中の話を聞いていた限りでは、そんな印象は受けなかったが―――ともあれこのグループは、どうやら“アタリ”のようだった。

 そんなことを、サテナが思っていた―――その隣。
 エリーことエリサス=アーティは、

「……、」

 かんっっっぜんに乗り遅れた……、と。会話に混ざる機会を喪失し、沈黙していた。

 アルティア=ウィン=クーデフォンの周囲には伝わり辛い“警戒”に、エリーの負担は倍増した。

―――***―――

「ところで、こんな話がある」

 メラメラと、メラメラと、メラメラと。
 燃えるたき火を挟んだ反対側の男は、どこか威圧感のある表情のまま、話を切り出した。

「俺が魔術師隊に配属されて、2年のことだ。俺がいた隊に、新米の女の子が配属されてきた。気立てが良くて、愛らしい、と言うのだろうか、まあ、そんなこんなで皆にちやほやされていた。とある日、俺が仲間といつもの演習を行った。まあ、遊び半分だが、競い合って森に仕掛けたターゲットを順番に破壊していく、というものだ。そこにその女の子も参加することになった。対戦相手は―――俺だ」
「……ほう」
「ブッチギリのボッコボコに圧勝してやったよ、立ち直れないくらいに。森の中で転んだのか、泥だらけになって頭から枝を生やしていた彼女を大笑いしてやった。彼女は1月ほど落ち込んでいた」
「何してやがんだそれは」

 アキラは、目の前のコッグに口汚い言葉を返した。異世界に、日本の文化を持ち込むというのも馬鹿らしい。
 時間は深夜。女性陣の寝床の灯りも消え、たき火が煌々と輝き続ける。
 夜の番を務めるアキラとコッグは、魔物の出現率ゼロをいいことに、毎晩愚にもつかない話を続けていた。

「ちなみにその女の子がサテナだ。以来彼女は先輩の俺に敬意を払わなくなった。何故だろう」
「なるべくしてなってる……」

 コッグは、髪を五分刈りにした、強い眼を持つ男だった。
 瞳を狭めればそれだけで相手を威圧できるコッグだが、こうして話している限り威厳を保てるようなキャラクターでもないらしい。
 出発の5日前に知り合っていたこともあり、随分と早く打ち解けられたように感じる。
 サテナはコッグに比べ何とか威厳を保とうと尽力していたのだが、本日陥落したのだから後は転がっていくだけだろう。
 旅の魔術師が嫌いな風なサテナだったが、むしろティアの猛攻によく1週間耐えられたとアキラは思う。

「さらに言うと、」
「?」
「そのせいか、サテナは俺の逆を求める生態になった。俺が遅く支部に行けば、あいつは必ず早く来る。俺が仕事をサボれば、あいつは無理して仕事をこなす」
「それただあんたが不真面目で迷惑かけまくってることにしかならない気がするんだが……」
「いや、面白くてわざとやってるだけだ。そのせいで、俺は隊長によく呼び出される」
「あんたの人生それでいいのか?」

 コッグは、それでいいとでも言うように頷いた。

「子供みたいな奴でな。そして妙に真面目だから、育てやすい。教育係としては本望だ」

 人を批判することもできそうにないアキラは、これ以上何も返さなかった。
 反面教師とでも言うのだろうか。
 だが、わざとやるにしても、それは何か違う気がする。
 徐々に魔術師隊のコンビの背景が掴めてきたが、このコッグという男はどうも計れない。

「あのサテナの旅の魔術師嫌いは、俺が原因だったりする。俺が旅の魔術師に否定的でないから、あいつはその逆だ」
「もう駄目だその下らない教育のせいで俺は逮捕沙汰だったよ」

 アキラは、思わず口を開いてしまった。
 コッグは、特にアキラを気にも留めず目の前のたき火をぼんやりと眺めていた。

「だがそのおかげで、今回の任務に抜擢されたんだろう。あいつは戦力としては並以下だが、地図を読む力がある。そこで俺は思ったね。あれ、なんでこいつちゃんと育ったんだろう。ああそうか、俺が反面教師になっていたんだ、と」
「今までの全部サボりの言い訳になっちまったな」

 言って、アキラも頭を抱える。
 おかしい。いつもと立ち位置が違う気がする。こんな調子で冷めた目を向けられるのは、自分の得意分野だった気がするのだ。
 ああそうか真面目な奴らが就寝中だからだ、とアキラは思い至り女性陣のしきりに視線を向けた。寝言ひとつ聞こえず、虫のさざめきさえない、静かな夜だった。

「まあ、サテナもサテナで気づいてるだろう」
「何を?」
「俺が反面教師になってるってな」

 コッグはわざとらしく大口を開けて欠伸をし、空を仰いだ。
 彼がそう言うのであれば、サテナはコッグの“育成”を察しているのだろう。

「反面教師は気づかれちゃ不味いんじゃないか?」
「そうでもない。あいつの中には完全に“コッグ嫌い”が根付いている。そんな奴に育ててもらった、なんて考えたくもないだろう」
「気づいているのに、か?」
「人間、嫌なことは気づいても認められないもんだ。そしてあいつはますます俺の手のひらで踊り続けることになる。愉快なもんだ。今後も昼過ぎに職務に就ける」

 くくく、と笑うコッグ。
 駄目だ。この男は底知れない。どうあっても彼以上のキャラを取れそうにも無かった。

「はあ……、……この森、どう思う?」

 もういいならばこのまま不真面目キャラ脱却だ、とアキラは諦め、コッグに訊ねた。
 女性陣に視線を走らせて、視界を埋め尽くした大樹海アドロエプス。
 この静かな森は不自然ではあるが、今までの経過を考慮すれば、魔術師隊に捕まりそうになった街の中より安全だ。
 夜の見張りも意味が無い。この調子なら、明日も静かな森で在り続けるだろう。

「ところで、こんな話がある」

 メラメラと、メラメラと、メラメラと。
 燃えるたき火を挟んだ反対側の男は、どこか威圧感のある表情のまま、話を切り出した。
 先ほどと違う点は、コッグの瞳がさらに狭まっていることだろうか。

「これは知り合いの兄貴の従姉の話だ」
「オッケー、来いや。付き合ってやる。知り合いの従姉の話に」
「―――彼女は、このアドロエプスに入ったことがある」

 ふざけた前置きと、僅かな間。
 そののちコッグが口にしたのは、アキラの瞳も狭める言葉だった。

 そろそろ、下らない雑談も幕を閉じるころなのだろう。

「俺も昔に聞いた話だから詳しくは知らないが……、そのときも、こんな調子だったらしい。“魔物が出ない”。まあ、民間から出た不確かな情報だから混乱防止で伏せられているようだが」
「ちょっと待ってくれよ。そもそもなんでこんな場所に入ったんだ? それで、無事だったんだよな?」
「人を探して。無事だった」

 一瞬遅れて、コッグの言葉が自分の質問を順々に答えたものだとアキラは飲み込めた。

「人、探し?」
「ああ。彼女は使用人だったから。だから入ることになったんだ―――8年前、アドロエプスに」

 8年前。
 アキラはそのとき発生した事件を知っている。

「ファンツェルン家の、か」
「ファンツェルン家は使用人にも随分好かれていたらしい。娘がいなくなったと聞いて、満場一致でアドロエプスに飛び込んだほどだからな」

 アドロエプスに飛び込む。シリスティアでそれは、自殺に等しい行為なのかもしれない。

「その数、25名。今まで“失踪”は数人ずつだったから、勝算があったんだろう。事実、彼女たちは全員無事で戻ってこられた。思えばその大人数という情報が、今回の作戦のもとになったのかもしれない。それでも、その娘は―――」

 その人数でも、成果は上げられなかった。
 この大樹海に入ってようやく聞いた、エリーからの情報。それをアキラは思い出した。

「“消えた”。そう聞いたぞ」
「結末を知っているなら、この話は終わりだ。ようやく発見できたその子供が消えた仕組みなど、誰も真面目に考えていない」

 人が、消える。
 その、ファンツェルン家のひとり娘は、使用人の目の前で消失したと言うのだ。

 アキラもそう聞いて、まるで事態が掴めなかった。
 この世界には魔術がある。しかし、それにはあくまで順序があり、論理があり、理論があり―――そして限界が存在する。
 火曜、水曜、木曜、金曜、土曜と種別可能で、確かなロジックがあるのだ。
 そしてそのどれにも、人を煙のように消す魔術など存在しない。
 これではいかに情報があろうとも、誰も解明しようとしないのであろう。

 だが。“例外の属性”を考えれば、その答えはあまりに分かりやすくぶら下がっている。

 月輪、そして日輪。
 それらの属性が使用できる、魔術を超えた―――“魔法”。
 ただ。こちらもこちらで、解明は不可能だ。
 この世界の常識から言って、魔法を解明するより伝説を堕とした方が遥かに早い。遥か上空の雲を掴む方が遥かにたやすく思える。
 それこそ何千何万年前から、魔法は謎に包まれ続けているのだから。

「ともあれ」

 コッグは仕切り直すように一拍置き、視線をたき火から森に移した。

「そういう“異常”が、この森にはある。ミーナさんの話は覚えているだろう?」

 ミーナ=ファンツェルン。
 アドロエプスに最も近い、大都市にいた女性。
 彼女は8年前、娘を伝説に喰われた。そして、ファンツェルン家はこの“伝説堕とし”の起案者だ。

「彼女が語ったこの依頼の発端の―――“あの日”。青天の霹靂とでも言うべきか、予兆は何も無く、伝説が現れた。俺はアドロエプスが、続く日々に切り込みを入れる場所だと思った」

 ミーナが話をした場に、コッグもいた。彼も彼なりに、思うところがあったのかもしれない。

「この森の異常に気づいていない奴なんて誰もいない。足早になっているのも、むしろ“入ったときより足早にこの場を去りたい”という願望の現れだと俺は思っている。だからアキラ。気を張れ。気を張って、気を張って、気を張り続けて、それが僅かにでも途切れたとき、伝説は姿を現す―――と。これは、“この大陸の話ではなかったな”」

 アキラは、いつしかコッグのように強い視線をたき火に向けていた。
 魔術師隊であるだけのものを、コッグは持っているようだ。もしかしたら、このグループで1番警戒しているのは、コッグなのかもしれない。

「随分、キャラ違うな」
「空気を壊すのは得意な方だ。属性柄、警戒心も人一倍強くてな」

 コッグは拳を掲げてみせた。
 そういえば、サテナは短い杖を腰に差していたようだったが、コッグは武具を持っていない。
 その理由を容易に想像でき、アキラは目を伏せた。

 “二週目”。
 決戦前夜。アキラはそんな言葉を、わざわざ部屋に訪ねてきたとある“彼女”に聞かされたことがある。
 同じ属性の人間は必ず似通うわけでもないのだろうが、各部屋を回って警告してきた“彼女”も、今のコッグと通じるものがあった。

 “その身ひとつで突き進む属性”。だからこそ、むしろ警戒を怠らない。

「まあそんな俺だが、あんたらには期待してる」
「?」
「“サテナみたいな戦力外が割り振られたグループのメンバー”。メンバー編成はあのロッグ=アルウィナーさんが指揮を執ったらしい。戦力調整に抜かりは無いだろう」

 あのロッグ=アルウィナーという魔道士は、魔術師隊内でも評価が高いらしい。
 コッグは信頼しているような瞳をアキラに向けてきた。彼の中でも、自分たちへの評価は高いようだ。
 もっとも、そのコッグも戦力調整のメンバーであるのだろうが。

「油断はしない方がいいだろうがな」

 念を押すように、コッグはそう絞めた。アキラは僅かに浮かれていた気持ちを落ち着かせる。
 確かに足元をすくわれるようなことがあれば、ロッグ=アルウィナーの尽力が無に帰してしまう。

 コッグの内面がさらに分かったこの夜。アキラは警戒心を新たにする。

 アドロエプスは、続く日々に割り込んでくるのだ。今日が、明日も続くとは限らない―――そんな場所。
 日々が途切れた、その向こう側。そこに到達するには警戒してもし足りない。

「まずは、今日も無事に夜を明かそうか」

―――事が起こったのは、その夜だった。

―――***―――

 何かに背中が撫でたような気がして、旅の魔術師の男は目を覚ました。

 目の前ではくすんだ木々が弱々しく燃え、男が覚醒したと同時ふっと消えてしまう。星明かりも木々に遮断され、辺りが一気に闇に落ちた。
 とあるグループの夜の番を務めていた自分も、そして向こう側に座っているであろうもう1人の男も、寝入ってしまったようだ。

 大樹海アドロエプスは安全だった。
 日が暮れても遠吠えひとつ聞こえず、昼夜を問わず静まり返っている。魔物はおろか生物らしい生物も植物以外存在しない。
 これでは警戒する必要すらなかった。
 7人で構成されているこのグループの夜の番は当初3人で担当していたのだが、一昨日から2人になり今に至る。
 だがそれほどに、何も起きないのだ。このグループの監督を務める魔術師隊の人員も、見張りを減らすことにどちらかと言えば肯定的なほどに。
 不気味さは確かに感じる。しかし、結果として訪れた気の緩みが今の居睡でも、消えたのはたき火だけだった。
 これは、由々しき事態だ。仮にもダンジョンの中で眠りこけるなど。
 男は自分の頬を張り、慎重に火種を探る。
 焦げ臭いたき火の燃えカスを不快に思いながら、ようやく見つけた火種を手に取り、点火しようとして、

「?」

 男は、後ろ姿を見つけた。
 小柄なりにも姿勢のいい、ローブを羽織った男。彼は、たき火を挟んで反対側にいると思っていた、夜の番のパートナーだ。
 何をやっているのか。そう言おうとしても、声は出なかった。
 彼はふらふらと、森に向かって歩いていく。
 用でも足すのかと男は思い浮かべたが、それにしてはおかしい。彼は、この一寸先も見えぬ闇の中、何の光源も持っていなかった。
 魔物が出ないと言っても、漆黒のダンジョンに1人向かうなど、常識的にあり得ない。
 男は再度呼び止めようとした。しかし、やはり声は出なかった。

「……、」
 男はよろよろ立ち上がり、おぼつかない足取りで彼に向かった。
 彼は振り返らず、そのまま進んでいってしまう。

 そこで、男の意識は僅かに覚醒した。
 大樹海アドロエプスの伝説。
 そこで発生する、失踪事件の被害者は―――まさしく彼のように、ふらふらと歩んでいってしまうのではなかったか。

「っ、」

 男の頬に、汗が伝う。
 全員を起こすべきだろうか。それとも、異常を知らせる魔術を空に打ち上げるべきだろうか。
 数ある選択肢が頭に浮かぶが、しかし彼は進み続けている。
 今目を離せば、彼を完全に見失ってしまうだろう。今なら、彼に歩み寄り、肩を叩くことができそうなのに。

 男は、彼を追うことにした。
 彼までの距離はほんの僅かだ。あと少しで手を伸ばせば、今すぐにでも触れるほどになる。
 しかしなかなか近付けない。寝起きゆえか、自分の足は、彼と全く同速だった。

 ふらふらと、ふらふらと―――てくてくと、歩いていく。

 追いつけない。
 しかし、いつしか男から焦りが消えていた。頭が麻痺したように働かない。だが、彼についていけばいいのだ。それだけで、全てが解決する。

 あと少し。
 あと少し。
 あと、僅か。

 男は、自分の足音が消えるまで、闇の中で彼だけが見えることに気づかなかった。

「……、……?」
 小柄で姿勢のいい男は、目を覚ました。
 目の前にはくすんだたき火。最早光源としての役割を果たしていない。
 身体を伸ばし、火種を探る。
 しかし定位置に無く、いぶかしみながら自己のローブからスペアを取り出す。

「はあ……、俺もそうですけど、見張りが2人寝込んでどうすんですかね?」
 向こう側で寝息を立てているであろう男に声をかけながら、たき火に点火。
 眠気を張らすために、また雑談でもしようかと顔を上げると。

「…………、あ、れ?」

 闇を払い始めた光源の先―――1人の男が失踪していた。

―――***―――

 明くる日の早朝。
 アキラたちは、要約された情報をサテナによって知らされた。

「現場は大混乱ですよ」
「結局、どういうことだったんだよ」
「だ、か、ら、言ったじゃないですかぁっ。ここから10個ほど離れたグループの1人が失踪しました。それだけ。はいお終いぃ」

 要約された情報は、ほとんど何の意味も持っていなかった。サテナも気が立っているらしい。

 アキラは寝不足の頭で昨夜のことを思い出す。
 コッグと共に気合を入れ直したところで、打ち上げられた“異常を知らせる”信号弾。
 定時に上げるスカイブルーの魔術と違い、真っ赤に染まったその信号に、アキラたちは即座に女性陣を叩き起こした。
 この場をコッグに任せ、サテナが現場急行係のパートナーとして選んだサクが出発するまで2分もかからなかったように思う。
 “異常”が打ち上げられた場合、左右10ヶ所以内のグループが数名を派遣する、というプロセス通りのその行動。
 しかし大人数が即座に集まっても、“失踪”は何の痕跡もなく完遂されていたとサテナは言う。
 誰も気づかぬ間に5万を超す人員から―――足音が1つ消えたのだ。

「見たところ」
 サテナと共に戻ってきたサクは、神妙な顔つきになっていた。

「夜の番を務めていたというもう1人の男は、眠りこけていたようだった。その隙を縫って、だろう。これが魔物の仕業だとするなら……、か」

 言葉を濁したサクの意図するところは、この場の全員が分かっていた。
 魔物は通常、人間の都合に捉われず被害を起こす。
 人を見れば襲いかかり、物を見れば破壊する。生物として、最低限“脅威”を認識する本能は備わっているが、基本的には頭が悪い。
 だが、その例外。
 あの港町でも、そうした推測が立てられた。

 隙を縫うという、いかにも“知恵を持っているかのような行動”をとる魔物。
 そういう魔物が存在するのだ。

「“知恵持ち”っていう推測は、とっくの昔に立てられている。今さら考えることでもない。気にするな」

 コッグがあっさりと結論を言う。
 彼はたき火の前に横たえた木に座りこみ、くすんだ木々を睨むように目を細めていた。

「コッグ、隊長の話覚えてないんですかぁ。情報が出たら、“ワンランク上げろ”って。“知恵持ち”なのはもう間違いない。だから、私たちが考えなきゃいけないのは、」

 “知恵持ち”の、その上。
 細かく分類すれば即座に“そこ”に達するわけではないが、通常“知恵持ち”の上と言われれば“とある存在”を誰もが思い浮かべる。

「“魔族”……、ってこと?」
 コッグの正面に座っていたエリーが、ほとんど反射的に立ち上がった。そして視線は即座に空に向く。サクもそれに倣って顔を上げていた。

 “魔族”。
 魔物の頂点に君利する―――人智を超えた諸悪の元凶。
 港町の、“鬼”の事件。夜空から撃ち落とされたあの蹂躙は、アキラも確かに覚えていた。

「“そんなの”問題じゃないですよ」
 そこで、エリーの隣に座るティアが、彼女らしからぬ重い声を出した。空を見上げて警戒する素振りも見せない。
 ティアはあの“鬼”の場所に、いの一番に到着した人物だ。

「エリにゃんもサッキュンも“遭ってない”。街の破壊なんて、本当に“片鱗”なんです。……………………あ、あれですよ。腕伸びるんですよ。びゅーんって」

 ティアが最後におどけてみせても、誰も表情を変えなかった。
 早朝の樹海、みな深刻な顔つきで、重い空気だけが場を支配する。

 平穏が一転。日々が切られた断面、全員が崖の前に立たされた。

「それで、今日はどうするんだ。失踪者の探索か?」

 アキラは頭をかいて、剣を肩と腰に装着した。
 市販の剣と、錆び付いたスペアの剣。大樹海に入って以来、鍛錬時以外には抜かれていない2つの剣は、当然破損していない。
 だが、いよいよ出番が近付いてきたようだ。

「いえ。今日はこの場で待機です。捜索隊を編成し、日が暮れるまでは調査するようですが、それまでは、」

 もどかしすぎて何も言えない。アキラは奥歯を強く噛んだ。
 大人数で樹海に入っているのだから、混乱防止の処置も分かる。
 だが、5万人もの人間の動きが止まってしまうのだ。

「し、仕方ないじゃないですかぁっ!! 我々だって、たった1人が消えると思ってなかったんですからぁっ。来るならもっと、ドカンと、」
「ドカーンとな」
「ぐっ、も、もっと大々的に襲ってくると思ってたんです」

 コッグの言葉で、サテナは苦々しく口調を正した。昨日の話を聞いたあとだと、確かにサテナはコッグと同じものを避けている。見事な反面教師だ。

 しかし事態は一向に変わらない。
 サテナの言うように、“敵”が大々的に襲いかかってきたら対処も容易であっただろう。
 シリスティアでは考えられぬ怒涛の人数をその場につぎ込み、伝説は堕とされたはずだ。
 もしくは大多数。大多数が失踪すれば、感情的になる者も多く、隊列は崩壊するが大樹海は蹂躙された。リスクはあるが、この近辺を離れていない可能性のある“敵”を発見できたかもしれない。
 だが、1人。
 たった1人を引き抜かれては、こちらも波風を立てにくい。
 失踪したという男の知り合いがいれば騒ぎが起きるであろうが、それも少人数。隊列の乱れを魔術師隊が避けようとすれば、押さえ付けるのも容易であろう。

「とにかく、連絡があるまでじっとしていましょう。今までなあなあになっちゃってましたが、このグループの監督係として発言します。この場を離れることを許しません」

―――***―――

 ブッ!!

 アキラの放った攻撃は、しかし対象を見失って空を切る。
 察して振り返れば、鋭く走る一閃―――

「っ―――“キャラ・ライトグリーン”!!」

 上げに上げた身体能力。全力をもっての回避。が、左肩を僅かに討たれた。背筋に冷たいものが走る。
 草木ごと地面をめくり上がらせるように勢いを殺したアキラは顔を上げる。戦闘中、相手を見失うことは許されない。

 が、

「!!」

 顔を上げたアキラの視界いっぱいに、斬激が映った。
 反射的に腕を上げ、攻撃を抑える。走る激痛。だが、耐えた。

「!?」

 相手の表情が変わる。
 好機だ。
 アキラは反撃の一閃を―――

「バカかお前はっ!!」

 しかし、相手―――サクに怒鳴られた。アキラは振ろうとしていた枝を下げる。

「腕でガードって……、木の枝でなければスパンッ、だぞ!?」
「いやいや、だって、木の枝じゃん。そんなもの、身体能力を強化した俺の前では、」
「お前の気持ちは分かった。次は刀で始めようか」
「何言ってんだよ。練習だろ? 真剣使ってどうすんだよ」
「だったらせめてその前提を置いてやれ」
「何言ってんだよ。相手の戦力を勘案した上で戦うのは当然だろ。相手の武器は、木の枝だった」
「……、ん? 何かがおかしい。何かが頭で回っている。くるくると」

 間もなく、昼。
 寝泊りしていた場所から僅かに離れた開けた地。
 アキラはサクと共に鍛錬を行っていた。
 開けた地、と言っても足場は野草に塗れ、歩くだけで草が舞う。ただ立っているだけで身体は斜めだ。宿屋の庭や、街の広場に比べると劣悪な環境と言えるが、太い木々が密集していないだけ幾分マシである。

「まあ、ふざけた態度はともかくとして、“詠唱”は順調そうだな」
「ああ、やばくなったらライトグリーンでいける」
「安易な発想で恐ろしいな」
「お前が攻撃魔術は使うなっていったんだろうが……」

 サクは草木をかき分けるように進み、大木に背を預けて腕を組んだ。
 どうやら休憩のようだった。

「前も説明しただろう。お前は武器を破損させる。丁度いい木の枝を探すのも難しいんだぞ?」
「何言ってんだ。ここは樹海。それこそ掃いて捨てるほどある。壊れたら次探しゃあいいんだよ」
「……そういう発想が、手入れ不足に繋がっていくんだろうな」

 アキラは無駄口を閉じた。その方面で、彼女には負担をかけている。

「……にしても来ないな、連絡」

 アキラもサクの隣に背を預けた。
 太陽が頂点に届きそうになっても早朝以来音沙汰無し。
 一応備えとして実戦形式の鍛錬をサクに頼んだのだが、これでは気も抜けるというものだ。

「…………お前も、分からないのか?」

 大木に背を預けたままのサクが、アキラに訊ねてきた。
 カマをかけるようなその言葉にアキラが視線を合わせると、サクは慌てたような様子になった。

「い、いや、別にお前の“隠し事”を今さらどうこう言うつもりもないんだが、うん、大樹海が平和なせいかな。私もいろいろ思うところがある」

 サクは、アキラの言葉を待たずにまくしたてた。
 アキラたちの中で、アイルークからこの話題に触れることは厳禁であるとされている。

「お前の“隠し事”について……、私も何となく推測を立てているんだよ。お前は何か―――“決定的なことを知っている”。その中に、今回のことも含まれているんではないかと思ってな」

 答えはしなくていい。サクはそういう口調で語りかけてくる。
 しかし、禁忌とされている話題を前に、アキラは表情をほとんど変えなかった。
 サクは僅かに驚いたような表情になる。今までは、サクやエリーが意図的に避けてくれていた話題だ。
 だが今、アキラは避けようとはしていなかった。

 サクが言うところの、“決定的なこと”である―――“記憶”。
 その封は、解ける前も、解けた後も、常に葛藤と共に在った。解ける前は歯がゆく、解けた後は伝えるべき情報か否かを懸念し続けなければならない。
 危険の接近は分かるのに、危険の回避は“バグ”があまりに恐ろしい。
 それは前にもあったことだ。
 色濃く記憶の残っていたアイルーク。アキラは自分の持つ情報を上手く伝えることができなかった。刻むべき“刻”と迫りくる脅威に板挟みになり、結局“刻”に引きずり込まれた。結果、危険極まりない“赫の部屋”だ。
 そして強引に避ければ、自分の旅は舵を失った船になる。顕著な例は、記憶ゆえに“攻略法”の水準が引き上げられる“ハードモード”の存在だ。エンディングまで確実に行けるルートから大きく逸れてしまうだろう。

 だが。

 アキラはこの1週間で、そんな“些細なこと”には結論を出していた。
 アキラはサクの視線を避けようともしない。

「平和な大樹海の中で、俺も思うところがあったんだよ」

 サクが言葉を続ける前に、アキラはそう応えた。

「……ま、まあ、連絡が来ないなら来ないで、やるべきこともある」
 アキラの様子に気圧されたサクは、いつもの調子を装って地面を蹴った。

 この話題がこういう形で終わったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 “隠し事”を避けたい気持ちが強いのは、いつしか彼女たちの方になってしまったようだ。

「あ、足場に慣れること、だ。“詠唱”の方は確立できているんだろう? 剣も、スペアがあればなんとかなるかもしれない。だがこの大樹海は見ての通りだ」

 初日にも言っていたことを、サクは繰り返した。
 この足場。伸びっぱなしの草木が密集し、身体中が重くなったように感じてしまう。身体能力の魔術を使っても、速力は万全とは言い難かった。
 自分でこうなのだから、他の接近戦を挑む魔術師たちは苦難を強いられるであろう。

 1人を除いて。

「サクは、速いよな」

 “隠し事”の話題が出た流れゆえか、アキラはサクに視線を走らせた。
 速力が尋常ではない彼女。それは最早異常と言っていいだろう。
 魔術を使用したアキラより速いのだ。それはすなわち、“木曜属性の人間より身体能力が高いことになってしまう”。
 そして、サクの異常はそれだけに留まらない。その速度は―――“足場にまるで依存しない”。
 この草木に足をとられるアドロエプスでも、彼女はフルスペックで動き回っているのだ。

 “その件”につき、だが。アキラの記憶の封は解けかかっていた。

 そこで、アキラの脳裏に何かが掠める。何故今、彼女の力を思い起こしたのだろう。

「う……、お、お前、何か不気味だぞ……。何だ、“隠し事”の話題の仕返しか? 様子がおかしい……。そうかこれが樹海パワーか」

 即座に察した。それは間違いなくティアの言葉だ。
 アキラは“記憶”や“隠し事”よりアルティア=ウィン=クーデフォンの弊害を懸念した。
 よくない何かがパーティ内を侵食している気がする。

「ま、まあ、足は速い方だ。速度と刀の腕を、ひたすら鍛え続けたからな。黙々と、黙々と」
「何がお前をそこまで駆り立てたんだよ……」
「“有する才能を磨き続けなければ生き残れない”。そんな大陸もあるんだよ」

 話は脇道に逸れ、サクは背を向け歩き出した。休憩ではなく、終了だったらしい。

「お前もそろそろ疲れたろう。夜の番まで勤めたんだ。そろそろひと眠りしておいた方がいい」
「な、なあ、お前の速度って」
「じ、自分で得た力を長々と説明するのは気恥ずかしい。話は機会があったら、だ」

 アキラの様子ゆえか、サクはそそくさと去っていってしまった。

―――***―――

「あ、ちょっと」
「?」

 黙々と刀の手入れを行っていたサクを追い越し、座ったまま眠り込んでいたコッグに怒鳴っていたサテナを横目で眺め、鍛錬の怪我を今か今かと待っていたティアに曖昧な笑みを浮かべて絶望させたあと、言われた通り身体を休めようとしたアキラを、エリーが止めた。

「えっと……、そうね。あの、ちょっと話があるんだけど、いい?」
「パス」
「パッ……!?」

 アキラは、昨晩女性陣が寝泊まりした場所の仕切りに手をかけた。
 サクに言われて気づいたが、どうやら自分には相当な眠気が蓄積していたらしい。鍛錬時の魔力しようも手伝って、アキラの頭はぐわんぐわんと揺れていた。正直、あの場所からよくここまでたどり着けたと自分でも思う。
 ただ言えることは、今のアキラは他者に構う余力が無い。

「てっ、てやっ!!」
「―――ぎっ!?」

 仕切りの布を開けようとしたアキラを襲ったのは、エリーの足払いだった。
 身体を滑り込ませるように襲いかかってきたエリーの蹴打に、アキラは受け身も取れずに転倒した。

「…………とうとう攻撃してきやがったよこの女」
「あっ、あんたがここに入ろうとするからでしょ。ここは女性の寝室なの。わきまえてよ」

 アキラが顔を上げると、目の前でエリーが両腕を広げていた。女性の寝室とやらの門番を見上げながら、アキラは目頭が熱くなった。中に自分の寝袋も置いてあるのだ。
 門番は、道を開けてくれなかった。

「見られちゃまずいもんとか置いてないだろ……」
「ちょっ、ちょっと朝ゴタゴタしててまだ片付けてないのよ。だからダメ。中はダメ。絶対ダメ」

 一体中では何が起こっているのか。ほのかに顔を赤くしているエリーを見て中への関心が強まったが、しかし今のアキラは眠気に勝る欲求は存在しなかった。
 寝袋さえあれば、いっそ地べたでもいいから眠りに就きたい。

 アキラが項垂れるように脱力すると、エリーは手を広げたまま、

「で、でさ。話があるんだけど、いい?」
「パス」
「うん、ほんの少しよ。時間にして5分もかからないんじゃないかしら? いや、一瞬と言ってもいいわね」
「パス」
「短いわよぉ。なんだわざわざ改まって言うことでもないじゃないか、ははっ、ってくらい。むしろあまりの短さに絶望さえ覚えるほど」
「パス」
「まあ、正直話って言うか、最早一言ね。一瞬っていうのは、まさにこういうときに使う言葉だと思い知ることになるわ」
「…………」

 エリサス=アーティもアルティア=ウィン=クーデフォンに感化されてしまったのだろうか。汚染のフェーズが最大級に膨れ上がっている。目の前の人物は本当にエリーだろうかと疑いたくなるほどだった。
 しきりに食い下がってくる人物を見上げながら、アキラは幻覚でも見ているような感覚に捉われた。眠気とは違う頭痛が強まる。

 しかし、

「あっららっ、お話があるならあっしが聞きましょうか? 雑談だったらお任せ下さい。雑学補充から愛称の改変まで幅広く取り揃えております」
「ううん、今日はいいわ。ありがとう」
「サッキュンエリにゃんがぁぁぁあああーーーっ!!!!」

 流石に本家は違った。ティアは今、サクに威嚇されて涙目になっている。一瞥もせずに一蹴した目の前の人物は、間違いなくエリーだ。
 エリーはアキラの視線に合わせるようにしゃがみ込み、もう1度聞いてきた。

「ダメ、かな?」
「…………マジな話か?」
「うん、マジ。かな? でも分かんない。誰かに何か話したいだけなのかもしれないし……」

 エリーは上目を遣って口をもごもごと動かしていた。アキラは虚ろな瞳を一旦閉じ、意識を覚醒させる。
 エリーが、おかしい。アキラの知る彼女なら、話を振り切ろうものならアキラを引ずり回してでも自分のペースに持ち込もうとするはずだ。
 だが、今の彼女は、言うなれば―――“気弱”。そんな彼女を、アキラはアイルークでも見た気がする。
 アキラは意識をさらに覚醒させた。

「ちょっとこっちきて」

 エリーは立ち上がり、緩やかな歩調で離れていく。アキラもそれに着いていった。
 他者に声の届かない場所まで来ると、エリーは振り返って大木に背を預けた。

「多分……、多分あんたに言っちゃいけないことだとは思うんだけど、」

 エリーはそう前置きし、半分ほど伏せた瞳をアキラに向けてきた。

「“恐い”」
「へ?」
「い、いや、少し、ほんのちょっとよ。ティア風に言うならちょこっとよ」

 おどけて見せても、エリーは瞳を伏せたままだった。

「恐いって昨日の事件がか? 確かに近かったみたいだけど、そこまで気に病んでも、」
「ううん、そうかもしれないけど、多分そうじゃない。そうじゃなくて、そうなのよ。……って聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。眠気がなんだって?」
「それあんたの現状でしょ。そうじゃなくて……、ああどうしよう、なんか、言葉にできない」
「5、6時間後とかなら言葉にできるんじゃないか? 俺は精神統一してるから」
「それあんた寝る気でしょうがっ!!」

 エリー大声に、一瞬全員の視線が集まった。
 わざとらしく咳払いをするエリーは多少なりとも元気を取り戻してくれたようだ。

「分かったわよ。ちゃんと言葉にする。なんかこの森がどんどん不気味になってきて……恐い、かな」

 仕切り直すように、エリーは繰り返した。

「でもそれは多分、昨日の“失踪事件”が、じゃない。そんなことが起こったのに、全然変わんないこの森が恐いの」

 それは。もしかしたら大樹海にいる5万超の人間の心情を代表する言葉かもしれかった。
 昨夜、“伝説”が発生したのだ。それだというのにアドロエプスは変わらない。そして、その中にいる5万超の人間が受け取る感情も、だ。
 むしろ大樹海の外にいれば、伝説の再来に戦慄し、アドロエプスから距離をとるだろう。しかし樹海の中にいる者たちは、待機という指示に当初は憤りを見せたであろうが、平和な空間に危機感を拭い去られている。

「不謹慎だけど、パニックとかになればあたしも耐えられたんだと思う。でも、静かなまま。事件が起きて、あたしたちが何にもしてないのに、静かなまま。それが恐くなっちゃてさ」

 敏感な者は察するのかもしれない。この、アドロエプスの異常に。
 パニックが起きないというのは、魔術師隊たちの統制が優れているのだと考えることもできるが、深く考えると異常なのだ。
 なにせ、集まった人数の大半は根なし草の旅の魔術師が占めている。
 もともと魔術師隊と旅の魔術師に確執のあったシリスティア。それなのに、有象無象の集団の“統制が執れている”。

 そんな“異常”は―――恐い。

「そんなこと考え出したらわけ分かんなくなっちゃってさ。隣のグループの様子とかも全然分からないし、昨日の事件だってわけ分かんないまま。分かんないことだらけ」
「落ち着けよ」
「落ち着いてるつもりだけど、落ち着かないの」

 またも要領を得ない言葉だが、アキラには伝わってきた。
 焦りや不安が身体の中に在るというのに、環境がまるで変わらない。ゆえに、空回りを繰り返す。
 5万超の人間から1人を失踪させるという事件は、そんな精神作用ももたらしていた。

「サクさんは警戒してる。いつもみたいに、万全を尽くしてる。あのティアだって、警戒してた。昨日の晩、それが分かった。あんたもしてるでしょ。自分で言ってんだから。そんなの見てると、あたしはどうやって警戒すればいいのか分からないのよ。取り残されてる気がしてさ」

 5万超の人間の中で自分だけ取り残されるという錯覚は―――あるいは伝説以上に恐怖なのかもしれない。

「“詠唱”がどうのこうの言ってたし、あんたにはあんまり言わない方が良かったかもしれないんだけど……。誰かに言わなきゃ段々耐えられなくなってきてさ。きっとこういうこと考えてる人から―――“失踪”していく。それに、何か……ううん」

 最後の言葉を言い淀んだエリーは、疲れ切った表情を浮かべた。
 5万超分の1。それが、昨夜“失踪事件”に巻き込まれる確率だった。当選確率は著しく低い。だが、当たれば“失踪”。
 それが今日も明日も明後日も発生すると思い込んでしまえば、恐怖に押し潰されるのだろう。

 エリーはおぼろげな瞳で地面に視線を這わせた。

「“失踪”は、嫌、かな」

 アキラは、言葉を返せなかった。
 きっと、勇者という存在はこんな不安を取り除くためにいると言うのに。
 きっと、ヒダマリ=アキラという存在は彼女の不安を取り除くためにいると言うのに。

 この先に待つ敵はどういうもので、どのように警戒すれば問題無いのか。1度は経験しているはずの“刻”なのに、そんな具体的な話がまるでできなかった。
 今ほど記憶の封が煩わしく思ったときはない。

「ははは、全然あたしらしくないや。あんたも迷惑だったでしょ。これ、“囁かれてるのかな”?」

 エリーは相当まいっている。
 これは、アキラの警戒が影響してしまったせいだろう。昨夜の事件がトリガーとなり、不安が一気に増殖してしまった。
 たった半日で、だ。
 もしかしたら、サクも、ティアも、コッグやサテナも、ただ口に出さないだけで、同じ不安を急速に育てているのかもしれない。
 これではエリーの言うように、“囁かれている”ような気さえする。

 が。

「“違う”」

 無意識に、アキラは否定していた。自分の意思とはあずかり知らぬところで出た言葉は、強かった。
 これは、あの“囁く魔族”―――サーシャ=クロラインの仕業ではない。
 アキラはそんな確信を持てた。

 理由は―――今僅かに解けた“記憶の封”。

「ど、どうしたのよ?」
「違う……、これはサーシャの仕業じゃなくて、“知恵持ち”の、いやでも、“それどころじゃなくて”、」
「…………今、離れてた方がいい?」

 エリーは正面にいる。だがアキラは気にせず呟き続ける。傍から見たら異常者だろう。だがそれも気にならない。
 僅かに開いた記憶の隙間に指を突き刺し、アキラはこじ開けようとした。
 ようやくだ。アドロエプスに入って以来、何の音沙汰も無かったこの感覚。事件が起こったその翌日、アキラの記憶はようやく“伝説”に触れた。

 この依頼は何かが起こる。それはもう、“前提”だ。
 問題は、アキラが今感じている、醜悪な気配。もう少し。もう少しで、そこに―――手が届く。

「と、とりあえず、ありがとう。話したらなんか気が楽になったわ」

 流石に怪しすぎるアキラの挙動に、エリーは愛想笑いを浮かべて歩き出した。元気は取り戻したようだが、むしろ完全に引いている。
 アキラは表情だけ取り繕って顔を上げた。
 記憶の解放は不完全。今すぐにでも閉じそうなその封に、予断は許されない。

 だが何故か―――その記憶が、“彼女に何か伝えろと言っている”。

「俺もだよ。……その、“約束守ってくれて”、ありがとう」

 不安があれば、言って欲しい。
 “崖の上の街”で、そんな約束を交わしたことをアキラは覚えている。

「……そっか、だからあんたに、話したんだ」

 エリーはふっと笑って、背を向けた。

「やっぱり打ち明けると楽になるわ。キャラ崩壊しないように、あたしも頑張んないとね」

 去りゆくエリーの背中を見送って、アキラは樹海に鋭く視線を這わせた。
 記憶解放の進捗率は、5万超分の1よりは高くなった。

―――***―――

 あの呪いの童歌とやらは、大嘘吐きだ。

「はっ、はっ、はっ、」

 童歌では、恐怖を知らぬ3人中1人が犠牲となり。恐怖を覚えた2人中1人が犠牲となり。恐怖に沈んだ1人が犠牲となる。
 そして全ての足音が消え、童歌は完結するのだ。
 その童歌通りに事件が起きると言うのであれば―――何故10人中10人が冒頭から危険に沈まなければならないのか。

 “失踪事件”に消えた1人の旅の魔術師。彼の救助に向かうべく編成された5人の旅の魔術師と5人の魔術師隊。
 その中の1人―――魔術師隊の男は、全力で駆けていた。

 日も落ちかけたアドロエプス。
 あたりはすっかり闇に覆われ、探索も打ち切りになりかけたそのとき。

 男たちは―――“伝説”を見つけてしまった。

「っ、」

 振り返った男の目に、自分と同じように血の気の失せた顔が飛び込んできた。みな、あらんかぎりの力を持って草木を蹴り飛ばし、せり上がった大木の根を飛び越える。
 7名ほどしか見えない。
 気づけば3人の、“足音が消えていた”。

「ひっ、」

 男が振り返った直後、旅の魔術師の女性が足を取られて倒れ込んだ。その勢いに地面を転がり大木に衝突して動きを止める。悲鳴すら上げられなかった彼女の最期の音は、骨が破裂するような不気味な擬音だった。
 男も、隣を走っていた男の同僚も、誰も、足を止めない。

 今この場では、駆けることしかできないのだ。

「―――、」

 魔術師隊の男は、ローブの中を乱雑にかき回し、見つけたそれを天にかざした。しかし何も起こらない。火曜属性のマジックアイテムであるその石は、“危険”を知らせる信号を討ち上げてはくれなかった。

 何の意味も成さない石を、樹海の闇に投げつけ、男は奥歯を強くこすり合わせる。
 分かっていたことだった。このマジックアイテムが、光を放たないことなど。

 このマジックアイテムの仕組みは世間一般に広まっている照明具と同様のものだ。
 一般人でも有する微弱な魔力を察知して、煌々と光を放つ石。加工すれば一方向に鋭い光を放ってくれる、このアドロエプスの“伝説堕とし”には欠かせない道具だ。
 だがそれが光を放つためには、前提通り、“魔力を察知しなければならない”。

 今。魔術師隊の男にはそんな魔力も存在しなかった。最低限の身体能力強化ための魔力も防御膜も無く、ただ己の肉体のみで走っているだけ。
 足が重い。生え茂った草木が体力を根こそぎ奪ってくる。
 捜索を開始してから朝昼と何の苦も無く歩けたこの平和な道も、今では過酷な呪縛と化していた。

 魔力枯渇の理由も分かっている。
 “舐められてしまったからだ”。そしてそれは、魔術師隊の男だけでなく、この探索隊の全員が。

 助けを求めようとしても、声は出なかった。

「はっ、はっ、はっ、」

 頭が痛く、身体は熱いのに背筋が冷え切る。
 自分が今走っている道―――いや、自分が今走らされている雑草は、本当に元の場所に続いているのだろうか。
 走りながら、魔術師隊の男は自問し続けていた。

 現在地を把握していたはずの同僚の足音は、とっくの昔から聞こえない。

「っ!?」

 伸びっぱなしの草木に眠る大木の根が、とうとう男の足を捉えた。
 先ほどの女性のように転がり込み、身体中に激痛が走る。幸運にも大木には衝突しなかったようだが、硬い木の根に討ち据えられ、足が折れたようだった。

 それでも男は即座に身体を起こす。
 足が折れたとしても些細なことだ。今はとにかく、走り続けろ。
 本能に準じた行動は、しかし周囲の光景にピタリと止まる。

 そこには最早、誰もいなかった。

 日は完全に落ち、アドロエプスには星空が姿を現していた。
 男が転がり込んだそこは、樹海の中にできた広間のような場所だった。アドロエプスを切断するかのように大木が避けているその広い空間。昼を過ごしたここでは、まだ救助隊の全員が無事だった。依頼を請けた大群がここまで到達すれば、隣のグループとも顔を合わせることになると話した記憶がある。
 男は立ち上がれなかった。足が折れたせいだけでなく、完全に切断された続く日々が鮮明に浮かび上がり、言い知れぬ不安感が急速に強まっていく。

「あ、あ、あ、」

 魔術師隊の男は自分の声が他人のように聞こえ、そこでようやく気づいた。
 自分は、声を失っていたのではない。
 出したつもりだったのに、声帯が震えていなかっただけだ。
 足の痛みもさほど感じない。

 感覚が、完全に麻痺していたのだ。

 だが、この恐怖という感情は、微塵にも廃れていなかった。

「グ……、」

 パキリ、と背後で枝が踏み砕かれる音が響いた。

 残りはお前だけだ。
 そう言っているようにしか聞こえない。

 男は振り返れなかった。ただ、自分の影を塗り潰すように現れた背後のシルエットをおぼろげに眺めていた。

―――***―――

「あ~~~、まずった」
「さっきからそればっかですよねぇ」

 エリーは額に手を当てて項垂れていた。
 たき火の向こうでは、本日の夜の番のパートナーが呆れたような視線を向けてきている。

「たぁ~~~、やっぱり囁かれてますよこれ。なーんであんなこと言っちゃたかなぁ……。なんでだろう……」
「あなたたちのメンバーはウザ絡みを心情にしてるんですかぁっ!?」

 サテナの怒号に、エリーは姿勢を正す。
 彼女は、昨日から本日にかけてもっぱらティアの犠牲者になっていた人物だ。
 大樹海に入った初日のような威厳を取り戻そうとしているのか、僅かに棘のある口調のサテナだったが、エリーの視線は彼女まで届かない。ただ、目の前で燃えるたき火を眺めているだけだった。

 エリーは悶々とした思考を続ける。
 昼のアキラとの会話以来、エリーは酷い自己嫌悪に陥っていた。

 はっきり言えば、エリーはアキラに弱音を吐いた。確かな自分の感情として、このアドロエプスが恐いと言ってしまったのだ。
 ただ何となくアキラの姿を見て。いつの間にか、不安を打ち明けたくなってしまったのだ。

 このアドロエプスに不安を抱いていたのは確かだ。そして、口を突いて出てきた言葉も紛れもなく真意である。だが、あんな風に話してしまえば、重すぎる。
 しかし、ふと。悩み続けるエリーの脳裏に何かが掠めた。
 そういえば、日輪属性の者は人の心を開きやすい、と―――“誰かが話していたような気がする”。
 自分の本音の吐露は、それが理由なのかもしれない。

 しかし、それでも、

「重すぎるわよね……、重すぎたぁ……」
「重たすぎる女は嫌われる、ってやつですかぁ?」
「その“女”は女の子の“女”ですよね? 誰々の女、の“女”とかじゃなく」
「深い意味で言ったわけでもないのに睨まれるとは思いませんでした」

 自分の表情を緩めるべくエリーは顔を振った。
 そうだ。“それ”では、そもそも前提からしておかしい。自分たちは“婚約破棄”を目論んで打倒魔王を目指していてアキラを元の世界に返すのを目論んでいて―――? と、エリーの思考はそこで止まる。

 “婚約破棄”。
 “アキラを元の世界に返す”。

 自分たちが志しているのは、確かに後者のはずだ。だが前者。後者に付属するはずのそれが浮かんでは沈む。何故か2つの目的が入り交わり、時々わけが分からなくなる。
 こんな感覚は前にもあった。
 アイルーク。あのときは、確かサクが誤解していた。エリーも彼女同様に、脳裏に妙なノイズが走ることがあるのだ。
 シリスティアではある程度収まっていた感覚だが、あるいはアドロエプス以上に不安で奇妙だった。

「……だから、だったのかな」

 ぽそりと、エリーは呟いた。
 “ノイズ”。昼にはそれが、自分を襲っていたのかもしれない。

 だから、アキラに話しかけたくなって―――と、エリーの思考はまたも止まる。理由と行動に脈略が無さ過ぎる。ノイズがあるから何だと言うのだ。それで彼に話しかける理由が生まれるとでも言うのだろうか。

 そして、彼に言いかけて、結局口を閉ざしてしまった自分の言葉。あのとき自分はなんと言おうとしたのだろうか。
 仮に、自分があのときの言葉を続けるとしたら―――端的に、“嫌な予感がする”、だろうか。

 ノイズの意味は、まるで分からない。

「ええと、その独り言に口を挟む権利はありますかぁ?」
「あ、す、すみません」

 エリーは悩みを封じ込めた。今は事件があった翌日の、夜。急遽こしらえた“寝室”のアキラやコッグ、そしてサクやティアが安心して身体を休められるよう、自分たちは警戒していなければならない。

「明日はどうするつもりなんですか?」
「うーん、捜索隊からの“信号”も無かったですからねぇ。大方何も発見できずに戻ってきたってところでしょうが……。明日朝一番で伝令が来るはずですよ。流石に2日足止めは騒ぎが起きそうです」

 確かに、とエリーも思う。
 アドロエプスが恐いというのは他の誰しもが抱え始めた感情だろう。
 そんな状態で、同じ場所に待機を続けさせられれば不安は5万超分多く積る。たった2日とも言えるであろうが、アドロエプスの中にいる者たちにしてみれば一刻も早く伝説を堕としたいのだ。
 それだけ早く、この地を去れるのだから。

「ただ、気にするのはむしろ今日のことですよ」

 サテナは眉を潜めて周囲を見渡した。

「昨夜の事件……あんなことが起こったその翌日の今日。何か起きても、何も起こらなくても、みなさんまともに休めないでしょう。眠れない日になりそうです」

 寝室の仕切りの向こうは静まり返っている。だが、サテナの言葉を聞いたからか、寝静まっていると言うより息を潜めているような気がしてきた。

「コッグがあんないつもの調子だと、私がしっかりしないといけませんよねぇ。みなさんが身体を休められるように」
「……そういえば、コッグさんってどんな人なんですか?」

 エリーは、もう1人の魔術師隊であるコッグのことをほとんど知らない。夜の番は当然別であるし、日中サテナをからかっているのをよく見る程度だ。
 エリーがコッグのことを訊ねると、サテナは大層面白くない顔を作った。

「一応、一応先輩なんで、こういうことを漏らすのもなんですが……。はっきり言いましょうかぁ。……腹立ちます」
「うわ」

 いらつく。そんな言葉を全身から発し、サテナは苦虫でも噛み潰しているような表情を浮かべている。

「そりゃあね、戦力としては認めるべきところはありますよ。何気に隊長からの信頼が厚いところとかも。でもなんか、私と噛み合わないんですよねぇ、あの人。不真面目だし、やる気無いし、茶々入れるし。いつも小馬鹿にされてるような気さえします」

 それはそれは。サテナとは間逆の人間のようだった。よく同じグループになったものだ。
 あのロッグ=アルウィナーという魔道士がグループ編成の指揮を執ったそうだが、個人的な感情までは流石に考慮していないらしい。

「でも……いや、うん」

 サテナは言葉を呑みこんで、口をすぼめた。そして、さらに面白くない表情を作った。

「あんな人いたら、油断なんて許されませんよ」

 サテナの炎に揺れる瞳が鋭さを帯びた。
 その様子に、エリーは口を開かなかった。そして、何となく無言になる。

 深夜のアドロエプス。また無駄な―――日常の会話が行われた。これは、昨夜の事件を超えても起こったことであり、エリーの不安の種でもある。
 緊張感に欠けるのだ。この、アドロエプスは。

 事件が起こっても進展が無くとも、募るのは不安だけで、それも徐々に薄れていく。
 気づけばまた、日常の中だ。
 日常を切り取られて、崖の上に立たされても、誰もが見えない床を歩むように進んでいく。浮遊感は覚えるのに、周囲の日常に押されて誰も足が止まらない。日常を切り取った犯人すら探さずに、いつしか向こう岸に辿り着き、また日常に戻っていく。
 考え過ぎだろうか。しかし、恐い。いつしか誰もが、崖の下に落ちてしまった者を忘れ去ってしまうような悪寒がする。
 その失敗から、何も学べないのだ。

 やはり、どうしても“嫌な予感がする”。
 そして。

 きっと、こういうことを考えている者から―――

「……!」

 突如がくんとエリーの頭が揺れた。しかし焦りは無かった。ただ頭を起こし、燃えているたき火を視野に収める。

 煌々と燃えていたはずのたき火は、僅かに勢いを弱まらせていた。
 いつしか眠っていたのだろうか。

「……?」

 サテナも眠りかけていたのか、同じようにぼんやりと弱々しいたき火を眺めていた。
 何かが変だ。だが分からない。思考は働かなかった。サテナに声をかけようと思っても、エリーの口はぱくぱくと動くだけだ。

「ぁ……」

 サテナの口から、何かが漏れた。眠気でも堪えているのか、彼女は虚ろな瞳をたき火から離した。
 そしてもう1度、か細い声を漏らす。
 エリーも、熱に浮かされたような頭でそちらに視線を向ける。

 そこに、

「……」

 何やってんの。そう言ったつもりだったが、口からは空気が漏れただけだった。声が出ない。
 ただ、エリーの瞳には、樹海の闇にゆっくりと歩いていくアキラの姿が映っていた。

 炎がふっと消え、辺りは闇に包まれる。
 こんなに暗い森なのに、光源も無くアキラは立っていた。彼は灯りを出せたはずだが、それすらもせず、森の闇に進んでいく。

 彼が、去っていく。だから、追う必要がある。
 そう思うまでに時間は要らなかった。

 エリーはふらふらと立ち上がり、後を追った。隣では、僅か遅れてサテナも歩き出している。
 この場の見張り。一瞬浮かんだ懸念も、すぐに消え失せた。
 問題ない。どうせすぐに追いつける。

 なにせ、あと、少しだ。

 エリーとサテナは、樹海の闇に踏みいった。

 あと少し。
 あと少し。
 あと、僅か。

―――そこで。

「―――っっっ!!!?」

 エリーは心臓が口から出そうになった。しかし背後から心臓ごと口を抑えつけられ、代わりにエリーは目をきつく閉じる。
 一気に意識が覚醒した。
 身体中を冷え切らせたエリーが震えながら背後に視線を這わすと、

「そこまでだ」

 小声で―――“ヒダマリ=アキラ”が囁いた。
 隣では、サテナがコッグに同じように押さえ付けられている。

「声を出すなよ。任せとけ―――」

 背後にサクとティアも引きつれたアキラは、ゆっくりとエリーの口から手を離す。

 そして。視線を鋭く光らせて、小さいながらも確たる口調で―――言った。

「―――“アドロエプスの封は解けた”」

―――***―――

「“バーディング”」

 普段の声の10分の1にも満たないような小声で、アルティア=ウィン=クーデフォンは断言した。
 騒ぎ立てさえしなければ十分発見しにくい小さな身体を大木に潜ませ、“この怪現象”の解説を始める。

「水曜属性の魔術です。対象の魔術制御器官に働きかけて、感覚器官にまで影響を及ぼす―――“感覚妨害の魔術”。“ジャミング”とでも言った方が良いかもしれません」
「ジャミ……ング……」

 何度も声を調整してようやく絞り出したエリーの声に、ティアは頷いた。
 今全員が、同じ大木に身を潜ませている。

「そんな魔術があるのか?」
「バーディ、ング、って、治癒、魔、術、の亜、種、なん、です、けどぉ」

 サクの言葉に反応したのは、エリーと同じく言葉をやっと吐き出せたサテナだった。
 彼女もまた、頭を押さえて首を振っている。

「で、も、」
「治癒魔術の弊害として起こる現象に名前をつけたのがバーディングだ。治癒魔術を過度に受けると神経作用まで起こる。過去の魔術師に、その影響で声を失った者もいたほどだ」

 コッグの言葉に遮られたサテナは瞳を狭めた。コッグの様子はいつもサテナに茶々を入れるときのものではなく、全神経を研ぎ澄ませているかのような異様なものだった。

「だが、2人同時に声を封じて幻覚を見せるなどバーディングの範疇ではないな。バーディングは相手の魔術を崩して防いだり、視覚にズレを起こして攻撃を狂わしたりするだけの魔術だ。“幻覚”を見せるほどとなると、バーディングの上位互換だ」

 バーディングという魔術自体はエリーも知っていた。弱点の属性の魔術だ。当然魔術師試験で学んでいる。
 しかし、その上位互換。そんなものは知らない。
 コッグの言うように、精度も高く、自分とサテナを同時に狂わすような異常な魔術に、“まともな人間が名前を付けられるはずがない”。

 今も視線を向ければ、エリーには見える。
 正気に返ってぼやぼやとした“雰囲気”が感じられるだけだが、ゆっくりと歩を進める何かが大木の向こうに見えるのだ。
 頭は、割れそうに痛い。
 緊張感の欠落も、その魔術のせいなのだろうか。

 今全員が、エリーとサテナの“幻覚”を頼りに闇の中を突き進んでいる。

「2人どころじゃねぇよ」

 そこで、アキラは訂正した。
 紅く淡い光を放つマジックアイテムを握り絞め、エリーが時折視線を向ける方を睨みつける。

 ヒダマリ=アキラは“知っていた”。“一週目”のこの夜、自分は全力でアドロエプスを走ったことを。
 警戒からか、はたまた昼に睡眠をとったからか、たまたま目が覚めたこの日。自分はふらつきながらも闇に消えていくエリーとサテナを見たのだ。
 慌てて後を追ったアキラは、そこで。
 幻影的ながらも不気味な光景を見ることになった。

「!?」

 サクの顔が強張った。
 身体を潜めた大木のすぐ隣、虚ろな瞳を浮かべた魔術師の女性が通り過ぎたのだ。血の気は無く、蝋人形のように表情が無で固定されている。
 紅い光が下から当たり、闇の中に浮かび上がるその女性に、アキラを除いた全員が身体を引いた。

「……」

 アキラは、その女性の肩に手を置いて止める。それだけで、その女性は糸が切れたように倒れ込む。
 “ジャミング”をかけられ続け、すっかり憔悴してしまったようだ。

「そ、その人は、」
「多分隣のグループの人だろ。何せ―――」

 アキラは手元のマジックアイテムにさらなる魔力を込め、樹海を強く照らし出す。
 背の高い木に空の光を遮断されたアドロエプスに光が宿る。そしてその光は―――“数多の人”を照らし出した。

「ひ、ぅっ」

 ティアが声を漏らした。他の者は、絶句している。

「今夜の攻撃対象は―――“ここらの夜の見張り全員”だ」

 木々の間を埋め尽くすように、わらわらと、魔術師たちが歩いていた。

 みな、無表情。目の焦点はまるで合っていない。
 アドロエプスを徘徊する亡霊のように、不確かな足取りで前へ前へと進んでいた。

「しっ、“信号弾”を、打ち上げ、ましょう」
「それはお前がふらふら歩いてるときにもうやった。誰かが気づけば俺たちのエリアに向かっているだろう。ここらの夜の見張りがこんな様子じゃすぐには期待できないが、メモを見た増援がいずれ来る。今は全員を止めながら、“幻覚”の後を追うぞ」

 コッグの言葉に、アキラはきつく目を閉じた。
 最低限の連絡。“一週目”の自分がそれを守っていれば、掴んで止めたエリーやサテナだけでなく―――“ここにいる全員が助けられたかもしれないというのに”。
 周囲の人々を正気に戻すべく、コッグやサク、そしてティアが身体を揺すって正気に戻していく。やはり憔悴しているのか、誰もが地べたに横たわるだけだった。

 移動する3人分の光源を眺めながら、アキラは拳を握り絞めた。

「ね、え」

 エリーがアキラの身体を揺すってきた。幻覚の影響が強いのか、エリーの声は未だに絞り出すようなものだ。
 正気を僅かに取り戻し、“幻覚を追える”エリーとサテナの護衛がアキラの仕事だ。

「さっきの、なん、なの? あんた、前は、もっと、」

 状況が分かっていないのだろう。浮かされるような瞳のエリーをかわしながら、アキラは自分には見えない幻覚に視線を向けた。

 エリーの言葉を紡ぐとすれば、“もっと隠そうとしていた”、だろうか。
 例えばアイルーク。アキラは魔族であるリイザス=ガーディランとの邂逅を知りつつも言葉を濁した。
 例えばシリスティア。アキラは“貴族”を暗殺しようとしたリンダ=リュースの元へ1人で向かった。
 言い訳はしない。だけど、隠し事はする。狂った歯車を強引に回すように、アキラはその矛盾で良しとしていた。
 だからこれは、ヒダマリ=アキラらしくない行動なのだろう。

 幻覚が離れたのか、サテナが歩き出した。それを追いながら、アキラはエリーに呟く。

「例えばさ」

 アキラが次に見たのは、夢遊病者のような人の群れ。
 3人が躍起になって正気に戻している。

「“ここにいる全員が虐殺されて”、それで騒ぎが起きて、5万超が押し寄せて……“刻”が刻まれたとする」

 “一週目”の記憶。アドロエプスの記憶は完全に解放されている。
 自分たちが“敵”を討つその瞬間まで、アキラは確かに思い出したのだ。そして同時に、そこに辿り着くまでに超えた“屍の数”も。

「それは勇者の所業かな。そんなの多分、“勇者”じゃなくて、“高が俺でもできることだ”」

 過去の自分の想いはまるで思い出せない。そしてこれまで、思い出せなくとも刻めた“刻”がある。むしろ記憶の封の解放は、最終局面以外は無難に刻まれた“一週目”にノイズを引き起こしてばかりだった。
 この伝説は、必ず刻む。その想いは、大都市ファレトラのミーナ=ファンツェルンとの出逢いから確かに続いている。
 達成自体は今のアキラにとって容易だ。ただ思い起こした記憶通りに動けばいいのだから。多くの犠牲者を出し、それでも勇猛果敢に敵を討ち、そして伝説を堕とす。それはきっと、話に聞く“初代勇者様御一行”のような、華々しい神話の一部になるだろう。
 だけどきっと、許されない。アドバンテージのあるアキラが、彼らと同じことを―――“一週目の自分”と同じことをしても、あまりに申し訳が立たないではないか。
 その上、人の心だって救えない。自分は“ミーナ=ファンツェルンの娘”の生存を知っている。一言そう伝えるだけで、ミーナはどれだけ救われたことか。だけど自分は、結局常套文句しか彼女に渡せなかった。

 だからアキラは決めたのだ。いい加減―――“同じことをするのは止めようと”。
 自分は聖者ではなく、ただの愚者だ。だけど愚者は愚者なりに、世界を救ってみたいと思っている。
 全てを暴露することはできないだろうが、避けられる悲劇は全て避け、救えるものは全て救い、得られるものは全て得ようと。
 ルートから逸れれば、当然攻略法の水準は引き上げられる。だが、それこそ些細なことだ。自分がこの手で、刻めばいいだけなのだから。

 だからアキラは、決意の表れとして、この時ばかりは打算無く、エリーに伝えた。

「ハードモードだろうが気にしない。キャラが崩壊しようが、俺は未来を変えてやる」

―――ああ、と。
 エリサス=アーティは、そこで理解した。自分が、彼に弱音を吐いた本当の理由。
 頼もしくなったのだ。この上なく。
 知っているようで、知らないふりをして。知っているのに、ただ流れを眺めていた彼。いざとなれば“隠し事”を盾にして、結局何も伝えてこない。
 周囲の環境に流されて、今日誓ったことも、明日には忘れているような男だ。

 だけど。
 彼は。今後きっと行動の迷いが消えるだろう。
 自分は。今後きっとその行動に強く疑問を投げつけないだろう。

 “隠し事”の件は、ここで、完全に折り合いがついた。

 そして未来はより良い方向へ変えられていく。

「どうすんのよ。本当に“勇者様”になっちゃうわよ?」
「ああ、どうしような?」

 本当に、由々しき事態だ。

「!!」
「っ、っ、っ」

 樹海の密集地帯が終わり、草木のみが生え茂る“広場”が姿を現した。
 左右に随分と広く、奥行きもある。ここまで歩を進めれば、隣のグループと顔を合わせることになっただろう。

 星空が輝くその場所で、先頭を歩いていたサテナが倒れ込んだ。
 尻もちを付き、喉から嗚咽を漏らしている。僅かに虚ろだった瞳を完全に覚醒させ、しかし顔面は蒼白だった。

 その、視線の先。

「グ、グ、グ」

 唸る獣が座していた。

 高さは、大樹海の大木に届きそうなほど。顔をほとんど真上に向けて、ようやくその獰猛な瞳が目に入る。
 動物で言えば狼だ。後足を折りたたみ、前足は鋭い爪で大地を鷲掴みしている。お座りの体勢と言えばその通りだが、見下ろされていては威圧感しか生まれない。
 身体中を緑の体毛に覆われ、額に巨大な水色の宝石が埋め込まれている。埋め込まれた宝石の周囲にはアドロエプスの木の根のような脈が走り、貌を醜く歪ませていた。

 ガルガドシウム。
 エリーが魔術師試験で培った知識の中に、そんな魔物がいた。周囲に存在する魔力によって身体のサイズが極端に変化する魔物だ。
 小さければマーチュほどしかなく、大きくなればクンガコングをゆうに超すと聞いたことがある。
 だが目の前のガルガドシウムは、その比ではない。
 以前アイルークで見たあのクンガコングの大群に飛び込めば、手足を振るうだけでクンガコングは薙ぎ払われてしまうだろう。
 目の前の存在は、明らかにガルガドシウムの限界を超えていた。

 そして。

 ぼとり、と。唖然とするエリーの前で、ガルガドシウムは口を開いた。
 鋭い牙が顔を出すかと思えば、何かが滴り地面に伸びる。

 エリーは、ぞっとした。
 ガルガドシウムのバックリと割れた巨大な口からは、不気味な触手が嘔吐物のように現れたのだ。黒く濁り、粘着物でヌメヌメと不気味に光るそれは、野太く、数十本もある。麺類でも啜ればああした姿になるのかもしれないが―――それは、“ガルガドシウムの一部だった”。

「出たぞぉぉぉおおおーーーっ!!」

 エリーの隣、アキラが吠えた。それと同時に全員が広場に躍り出て、そして絶句。
 巨大な目の前の不気味は、触手を滴らせて貌をさらに歪めた。

「っ、っ、っ、」

 腰が抜けたのか、サテナが座ったまま慌ててローブに手を突き入れる。
 そして、乱雑に取り出したマジックアイテムを、放り投げるような勢いで天にかざした。

「グ、グ、グググ、グググググググォォォオオオオーーーンッッッ!!」

 乱雑な使用で砕けたマジックアイテムと、競い合うように星空に昇った幾数本の紅い“危険信号”。

 それが、開戦の合図だった。

―――***―――

「ああ。なんということなのだろう……!!」

 “それ”は、大げさに両手を広げ、天井を仰いだ。
 異臭漂う、明るい空間。床に乱雑に散らばった書物を蹴り飛ばし、輝く劇場の舞台ように歩き回る。
 広さは一辺20メートルに満たない正方形のその部屋は、壁の姿が見えないほど数多くの棚に囲まれていた。そしてその棚には、表紙が崩れた古書や不気味にボコボコと揺れる薬品が力ずくで詰め込まれている。

「5万……!! 5万超……!! そんな数が集結すれば、結果は火を見るよりも明らかだ……!! 哀しい……、哀しいなぁ、畜生……!!」

 “それ”は、手を広げたまま、部屋中をうろつき回った。
 輝く部屋の中には、“それ”以外誰もいない。

「“パイロ”。ああ、お前の最期を見届けられない我が苦悩を解ってくれ……!! だが我輩はきっとお前を活かそう。ふいに5万の中から1人抜いたときの反応……!! 翌日複数名を抜いたときの反応……!! それはお前が我輩に届けてくれる宝物だ。ああ、ありがとう……。本当に、ありがとう……!!」

 無人の部屋。天井を見上げ、“それ”は、劇場役者のように震えた声を吐き出し続けた。
 そして。

「さて」

 “それ”は、ぱたりと腕を下ろした。
 その勢いで、棚から一抱えほどあるガラス製の瓶が落ちる。

 足元でガシャンと割れ、飛び散った中の液体は、周囲に散乱し―――ジュッと肉を焼くような音を奏で、触れたもの総てを“溶解し始めた”。
 “それ”の足も、毒々しい液体をまともに浴び、片足が消滅していく。

 しかし。

「これでますます、部屋が汚れた」

 “それ”は、“失ったはずの足で歩き出し”、自らの机に向かう。机の上も肘を付けないほど多くの物体で埋め立てられていた。背後では、未だ散乱した液体が蒸気を上げ続けている。

「……うむ。効率的に部屋を片付ける手法とその効用について。そんな“研究”があの辺りに―――ああ。溶けてしまったか。哀しい……、哀しいなぁ、畜生」

 “それ”の頭からはアドロエプスに放ったガルガドシウム―――“パイロ”と名付けた魔物のことが消え失せていた。

―――***―――

 ドスンッ!!
 地面に鋭い“槍”が突き刺さった。生え茂る草木を貫き、大地をめくり上げる。

 ひぅ、と誰かの喉から音が漏れた。それと同時、ヒダマリ=アキラは駆け出した。

「“キャラ・ライトグリーン”」

 ドッ、と身体中に力が宿る。
 ガルガドシウムが放ったのは喉の奥底から伸びる触手だった。月下にヌメヌメと光り、漂う異臭は胃酸のようにも腐肉のようにも感じ取れる。

 アキラは背後のメンバーの動きを察しつつ、足元のしがらみを蹴り千切って“槍”の隣を失踪する。

「全員触るなよ!!」

 “過去”の知識を総動員してアキラは叫ぶ。
 その瞬間、大気が焦げたような異臭が散乱した。視界の隅に映る足元では、見る見るうちに草木が枯れ果て、腐敗していく。

 記憶通りの“効果”にアキラは僅か戦慄し、それでも駆ける。
 逃げ込むように巨獣の懐に潜り込むと、アキラは大地を踏みしめ剣に魔力を注ぎ込む。
 奇妙な疣のある腹部は、アキラの眼前だ。

「“キャラ・スカーレット”!!」

 突き上げるように放ったアキラの剣撃は空を切った。攻撃対象を失った剣に身体が泳ぐ。しかし、体勢が崩れたことよりも、アキラは目の前の光景に唖然とした。

 巨獣が、“アドロエプスを超えていた”。
 膝までの草木を吹き飛ばし、大樹海の大木をゆうに超し、最早虚空と表現できる領域。ガルガドシウムは月輪に噛みつくが如く、“跳躍した”。

 ズウウウゥゥゥンッ、と大地を揺らした巨獣は、バウンドするように大地を揺らし、すでにアキラから離れて数百メートル。寸前まで目の前にいた巨獣の影は、またたく間に米粒のように小さくなった。

「ガルガドシウムは木曜属性の魔物だ!!」

 それで十分、とでも言うように、コッグが吠えた。
 木曜属性。人間では希少種らしいが、アイルークのクンガコングしかり魔物では頻繁に見かける属性だ。
 司る力は身体能力向上。言葉だけ見れば単純だが、今の光景を見て、身体能力と直結できる者などそうはいない。
 クンガコングなどの魔力が少ない魔物は、木曜属性の魔術使用など元々有する筋力に色がつく程度だったのだろう。
 だが、目の前のガルガドシウムは、筋力も、魔力も、一線を画している。

 5属性の中の―――“異常属性”。

「グォォォオオオーーーンッ!!」

 遠方のガルガドシウムが月下に吠えた。
 そして前傾姿勢になり、唸りを上げて突撃してくる。急激に肥大化してくるガルガドシウムの影は、ほとんど一瞬で視界いっぱいに広がった。

「―――っ!!」

 アキラは飛び込むようにガルガドシウムの進路から逸れた。直後足元で吹き飛び舞い上がるアドロエプスの草木と大地。
 アキラは即座に転がって立ち上がる。ガルガドシウムは再び遠方に離れていた。
 “記憶通り”の動きだが、実物を見ると閉口する他ない。剣での攻撃チャンスはほとんど無かった。

「―――シュリルング!!」

 ここにきて生きてくるのがアルティア=ウィン=クーデフォンの遠距離攻撃。漆黒の森の中から木々を縫うように走ったスカイブルーの閃光が、ガルガドシウムに射出された。
 再び獲物を探すように急反転し、大地に爪痕を残して勢いを殺していたガルガドシウムに2つの魔術が向かっていく。

 が、

「―――、」

 ジュルリ、と、際立って異質な音が響いた。
 ガルガドシウムが獰猛な口を開いた瞬間、現れたのは嘔吐物のような触手。物体では無いはずの魔術を“絡め取り”、爆発音も無く消滅させた。カメレオンの舌のようなその触手は、ガルガドシウムが粗食するように再び口の中に収められた。

「ななっ!?」
「“キュトリム”だ!! ティアは森にいろ!!」

 キュトリム。
 “二週目”。アキラはこの魔術を幾度となく見た。
 アキラが認識している魔術の中で、危険度は最上級クラスに位置する―――木曜属性の上級魔術。
 その魔術に触れた者は瞬時に絶命に辿り着き、そして使用者に還っていく―――“触れただけで殺す魔術”。

 ガルガドシウムが、再び跳躍する。

「来―――、!!」

 アキラが反射的に跳んだ瞬間、ガルガドシウムの突撃は真横を抜けていった。ティアの魔術を吸収して強化されたのか、その動きは残像を残すほど。暴れるようにして立ち上がったアキラはガルガドシウムを即座に視界に収める。
 ガルガドシウムは、すでに遠方で自らの勢いを殺していた。

 “高速移動する巨獣”。
 草木に足を取られ、迎撃は困難だった。頼みの遠距離攻撃もティアだけではキュトリムを突破できない。
 確かにこんな魔物がいれば、少数で樹海に入れば末路は見えている。
 今は広場で戦闘しているが、もし樹海の中で遭遇すれば、気づかぬ内に背後からあの触手に“舐められ”、魔力が枯渇してしまうであろう。

 アキラは顔を歪め、しかし、その光景に唖然とした。

「ギィッ!?」

 遠方の巨獣が呻き声を上げた。
 誰も捉えられぬはずのガルガドシウムは、突如襲った腕の痛みに巨体を揺らし、動きを止める。
 走った一閃の色は、イエロー。
 直前まで隣にいたはずのサクが、ガルガドシウムの猛チャージに追従し、剣撃を浴びせていた。
 アキラが剣を構え直す頃には、二閃三閃と淡い光がガルガドシウムを切り刻んでいる。

「っ―――、そっちに行くぞ!!」

 サクの叫びが響いた直後、巨獣は彼女を振り切り再び突撃してきた。
 そこで、ゴゴゴ、と背後から地鳴りが響く。

「!」
「ぐ、ぐ、ぐ―――伏せてろ!!」

 見れば、背後のコッグが大樹海アドロエプスの大木を、“大地から引き抜いていた”。
 彼の身体が纏う色は、ライトグリーン。
 コッグは身の丈の5倍はあろうかという大木を振りかぶり、突撃してくるガルガドシウムに振り抜いた。

「グギュゥッ!!!?」

 コッグが放った大木の一撃は、ガルガドシウムの顔面に直撃した。メチャリ、と気持ちの悪い音を残し、巨獣は宙に身体を躍らせる。
 威力は絶大だったようだ。コッグが投げ飛ばした大木が大地揺らす。
 ガルガドシウムが体勢を立て直すまで、抜け目なく切りかかったサクの愛刀に切り傷を刻まれていた。
 再び距離をとり、ガルガドシウムは無数の“槍”と化す触手を放つ。流石にサクもコッグも回避のみに全てを費やし、アドロエプスの大地を転がり回った。
 ガルガドシウムはサクの速度に警戒したのか、隙を見せぬように立ちまわり、コッグの一撃に警戒したのか強引には突撃してこなくなった。あのガルガドシウムは、異常に学習が早い。大木がクリーンヒットしても縦横無尽に動き回るガルガドシウムへの攻撃チャンスは、極端に減少してしまった。

「…………アッキー、どうしましょうね。あの巨獣。攻撃役が2人じゃ攻めきれませんよ」
「…………分かってるよ」

 アキラは、ガルガドシウムが暴れ回る広場から外れ、ティアたちがいる安全地帯に移動していた。

「いや、戦って下さいよアッキー」
「だ、か、ら、分かってるって!! だけど、全然走れないんだよここ。だから、“機”を待ってるんだ」

 記憶の封が解けても、無理なものは無理だ。
 アキラはティアのどこか白い目を背中で浴びながら、ガルガドシウムの動きを目で追っていた。あれだけの巨体であればこの足場を苦もなく走り回れるのであろうが、アキラには無理だ。
 アキラには、サクのような移動能力も、コッグのような大木を振りかざすような怪力も無い。今あの広場に許されるのは、高速移動タイプか生粋のパワーファイターぐらいであろう。
 どちらでも無いアキラには、ひたすら身体に魔力を込め続け、この場で“機”を待つことしかできない。

「ガルガドシウム……」
「?」

 ふいに、サテナの声が聞こえた。未だ腰が抜けているのか、彼女は大木の根元に座り込み、怪訝な表情を浮かべていた。

「……ガルガドシウムが、この“伝説”の正体なんですかぁ?」
「サッティ?」

 アキラは身体に魔力を込めながら、2人の会話を拾っていた。
 ガルガドシウムが、アドロエプスの“伝説”。それはもう、間違い無い。
 “他ならぬ自分”がそう言っているのだ。ガルガドシウムを討つことによって、この場の“刻”は刻まれる。

「だけど、」

 しかし。サテナの疑問は晴れていなかった。

「ガルガドシウムは―――“木曜属性”、なんですよ?」

 一瞬で。サテナの疑問の正体が分かった。
 アキラの脳髄がズキリと痛む。
 ガルガドシウムは木曜属性。先ほどコッグが叫んだその力を、アキラは目の前で確認している。
 在り得ぬほどの身体能力。遠距離攻撃には天敵となるキュトリムという上位魔術。
 その両者は、間違い無く木曜属性の力だ。

 だが、改めて聞くと。
 回収できない伏線―――刻まれていない情報がある。

「一体誰が、“バーディングを使ったんですか”?」

 “バーディング”。それは―――“水曜属性の魔術ではなかったか”。

 アキラの全身に奇妙な浮遊感が襲った。
 そもそも自分は何故、記憶の封が解けたと言うのに。こんな―――“単純なことが分からなかったのか”。
 ロジックが完全に破綻していると言うのに。自分は―――“封をしていた”。

「…………」
 アキラは必死に情報を整理する。しかし、頭の中に、それを阻む何かがある。
 これは―――“自分の手”だ。
 “恐れ”の感覚は、ファレトラで味わったものに近かった。
 固く閉ざされた記憶の封。解こうとしてもまるで解けず、中から溢れ出すのをただ待つことしかできなかった―――あの、“悪寒”。

 人間―――嫌なことは気づいても認められない。

「“緊張感の……欠落は”、」
「アッキー?」

 アキラは目を細めながら、ぼそぼそと、記憶から漏れ出した情報を口にした。そうでもしなければ、また固く閉ざされてしまう。
 僅かに開いた隙間から零れる水を封じぬように、アキラはひたすら穴に手を潜り込ませる。

「ここらの大木が……、出してるんだ。特殊な、薬物、を。認識、されてないけど、この大木は、“魔物”だ。警戒心を、欠落させるだけの、“魔物”」

 アキラは情報を漏らし続ける。
 これを自分は、一体どこで聞いたのか。分からない。だけど、きっと記憶の先には、その答えがある。

「これは、“魔物”、だから……、だからこれは、“あの魔族”が創り出した―――」

 ガギンッ、と騒音が響き、アキラは跳ね飛ばされた人物に突如吹き飛ばされた。
 受け身も取れずに仰向けに倒れたアキラの上、息を切らしたサクが肩を抑えて息を切らしていた。

「づ……」
「わわわっ、サッキュン大丈夫ですか!?」
「……? なん、だ、ここは。安息の地、か?」

 サクは苦痛に顔を歪ませながらも、僅かに咎めるような顔つきになっていた。
 巨獣が暴れ回っている広場に比すれば、確かにここは安息の地だ。

「つ……、急に動きが変わってな……、さけられなかった」
「じっとしてて下さい。今治します!!」
「いやお前ら俺の上でやるなよ」

 サクが慌てて跳び退き、ティアが駆け寄って魔術を患部に当てる。どうやら怪我は深刻ではないようだ。サクはまだまだ戦える。
 ただ、神速とも表現できるサクを捉えるとなると、あのガルガドシウムはやはり油断ならない。端から2人だけで堕とせるとは思っていなかったが、このままではいずれ押し切られる。

「どうですか、ガルガドシウムは」
「伝説といえど、攻略不可能なほどではない。だが、耐久力が常軌を逸している。大分斬りつけたが見ての通り暴れ回っている。視野の狭まる樹海の中で戦えば対抗できないだろう」

 だから、と。サクは広場で駆け回るガルガドシウムを鋭く睨んだ。コッグが注意を引くように大木を振り回し、ガルガドシウムを牽制している。あんな戦闘ができるのも、ここが開けているためだ。
 この広場にいる内が―――伝説を堕とす機会。

「ところでアキラ。これでいいのか?」

 大分回復したのか、サクはすでに立ち上がり、愛刀を鞘に収めていた。一刻も早く戻らなければコッグが危険だ。アキラは間髪入れずに頷いた。

「作戦通りだ。“時間を稼いでくれ”」

 サクは即座に跳び出した。疾風のようにガルガドシウムの背後に迫り、居合切りを見舞う。ガルガドシウムは呻いてこそはいれ、サクの言うように深手を負っていないようだった。2人で攻め切るには、やはり無理がある。

 ただ、アキラには―――“シリスティアには作戦があるのだ”。少数で入れば餌食となる伝説の地―――大樹海アドロエプス。
 月下に現れた伝説を打ち破る術を―――“今のシリスティアは有している”。

 あとは、時間さえ稼げれば―――

「!!」

 ビジャンッ!! と水が強く爆ぜた音が響いた。僅かな悲鳴ののち腐敗臭が充満したかと思えば、アキラたちが隠れていた大木が角砂糖のように溶解し、瞬時に萎れる。

 見れば、ガルガドシウムは天を仰いでいた。それはオオカミが月輪に吠える姿に近いが、決定的に違うのは開けに開けた大口からうねうねと不気味に這い出る無数の触手。その長さは最早ガルガドシウムの全長をゆうに超えていた。
 それをガルガドシウムは自身を中心に振り回し―――“広場総てを舐め取っていた”。

 今のは―――“キュトリム”の範囲攻撃だ。
 心臓が早鐘のように打たれ、アキラは必死に2人を探す。腐敗の影響で拡大した広場の中、月下に見えたのは紅い衣の少女。サクは無事だ。伏せたのか草木に塗れ、しかし無事に立ち上がっている。

 となれば、先ほどの悲鳴は、

「コッグ!!」

 最初に彼を発見したのはサテナだった。
 彼はこの安全地帯の近辺に吹き飛ばされ、身体を伏せて倒れ込んでいる。

 “キュトリムが直撃した”。

 その事実に、サテナの顔から血の気がさらに引いていく。

「っ―――問題無い!!」
「でも、でも!!」

 がなり立てるサテナの腕を掴んで押さえ付けると、アキラはガルガドシウムを睨んだ。
 ずきりと頭が痛む。サテナの様子に、頭の奥から何かが滲み出てきた。

 自分は、そう―――“この情報を聞いたのだ”。

「ガルガドシウムのキュトリムは“魔力しか吸えない”。木が腐敗してんのは―――魔力のみを糧に生きてるからだ」

 この情報はどこから得たものだろう。それは分からない。だが―――この悪寒を“認めよう”。
 このアドロエプスの“伝説”は―――“ここでは完結しない”。

「ぐ……、」

 コッグが呻き、よろよろと身体を起こす。彼はもう魔術は使えない。ガルガドシウムに“舐められた”以上、些細なマジックアイテムさえ使用はできないだろう。
 深刻なのは、ガルガドシウムへの攻撃役の欠如。
 サクひとりでは、ガルガドシウムを牽制できないだろう。いずれ抜かれ、安全地帯が襲われる。そうなれば、場所によっては膝も埋まる樹海の中、ひとりひとり足音が消えていってしまう。

 ガルガドシウムが、巨大な貌を安全地帯に向けてきた。

 アドロエプスの伝説はここでは完結しない。その情報だけは持っている。だが、今はこの窮地に全力を注ごう。
 アキラは必死に活路を探した。
 攻撃しなければガルガドシウムは今以上に暴れ回る。動きを止めるには、やはり攻撃役を増員しなければならない。
 しかし足場がそれを阻む。

 時間稼ぎは、きっと、あと僅かなのに―――

「―――サク!!」
「―――アキラ!!」

 ほぼ同時に、アキラとサクは叫んだ。サクが全力で安全地帯に駆け寄り、息を弾ませ愛刀に手を当てる。
 ガルガドシウムは、前傾姿勢をとっていた。間も無くここを、巨獣が襲う。

「“今から足場を改善する”!!」
「“俺はお前に続く”!!」

 サクは一瞬ひるみ、しかしすぐにアキラに背を向けた。
 ようやく分かった。いや、“解けた”。
 サクの天賦の才に拍車をかけた、彼女の魔術。

 劣悪な足場でも、彼女の愛刀は―――“戦場総てを間合いに収める”。

「私を追い抜くなよ?」
「まさか。ライトグリーンでぎりぎりだよ」

 ダンッ!! と2人が“地を蹴った”。サクが走り、アキラは直後に続く。
 草木に埋もれ、足を上げるだけで疲弊するアドロエプス。そこを―――“硬い足場”を、今、アキラは確かに“蹴っていた”。
 サクの足元から発する魔術は、アドロエプスを“更地に変えている”。いや、それだけではない。魔術が働き、大海のように“波”がある。
 使用者の思うままに足場自体が動き、勢いが増していく。身体中が軽く―――疾風になった気さえした。
 あれだけ苦痛に思えたアドロエプスの景色が、高速で通り過ぎていく。

 またたく間にガルガドシウムが攻撃範囲に入った。
 サクは僅か腰を落とし、前傾姿勢のガルガドシウムの貌に斬りつける。呻いたガルガドシウムの上半身が僅かに浮く。
 アキラの視線に、ガルガドシウムの額に埋め込まれたような水色の宝石が映った。
 あれを叩き割ってやろうか。一瞬アキラは剣を振り上げようとしたが、しかし腰ほどに構え直す。
 そんなもの―――“一番攻撃能力が高い奴がやった方が良いに決まっている”。

「キャラ・スカーレット!!」

 バンッ!! と、オレンジの光が爆ぜる。アキラは勢いそのままにガルガドシウムの貌を横切りにした。最初から決まっていたかのように剣は粉々に砕け散る。
 叫び声さえ上げずに呻くガルガドシウムは焼け爛れた貌をアキラに向けた。
 そして大口を開け、中から不気味にうごめく触手が現れ始める。

 ただ―――アキラは正面に立ったままだった。

「……」

 あの、安全地帯。
 そこに避難した当初から、黙々と、黙々と、魔力を込め続けていた人物をアキラは知っている。
 ひたすらに神経を尖らせ続け、口も開かず、自分以上に攻撃機会を待ち続けた人物をアキラは知っている。

 ガルガドシウムは木曜属性。5属性の中で最も希少な身体能力を司る強力な属性。
 随時回復可能な吸収魔術をも有し、高い対魔術能力を誇る―――水曜属性を始めとした遠距離攻撃の天敵。
 だがそれと同じように、木曜属性にも弱点は存在する。

 “当たれば決まる”。
 樹木を瞬時に焼き飛ばすように重い重いその一撃は―――“破壊力の頂点に君臨する”。

「―――走りやすい。サクさん凄いわね」

 ダン!! と背後で火曜属性の魔術師が跳ねた。アキラはその場で踏ん張り、予想通り襲った肩への衝撃に耐える。アキラの肩を踏み台に、エリーは高く高く跳躍した。
 サクも最初から、気づいていたのだろう。そうでなければ魔術の有効範囲を広めたりはしない。
 エリーは大口を開くガルガドシウムへ矢のように跳び、魔力を込めに込めた拳を振り上げた。

 それは―――彗星だった。

「スーパーノヴァ!!」

 バギンッ!! と獣に似つかわしくない轟音が響いた。
 顔面を殴り飛ばされたガルガドシウムの巨体が吹き飛び、水色の欠片を零しながら宙を舞う。
 サクが切りつけても、コッグが大木で殴りつけても、暴れ回っていたガルガドシウムが大地を揺らして倒れ込み、痙攣している。

 壮絶、だった。スカーレットは―――“本当に爆ぜるのだ”。

「またお前が決めやがったな……。なにが恐いだって?」

 口を閉じたときに噛み切ってしまったのか、うねうねと動く目の前の触手の横。すたりと着地したエリーは、振り返り、得意げに笑ってみせた。

「これがあたしのキャラクターよ」

 誰に影響されても―――結局そこは、変わらない。

「―――まだだ!!」

 サクが叫んで駆け寄ってきた。
 アキラとエリーが顔を向ければ、うごめく巨獣の周囲。大木や草木が次々と“腐敗していった”。

「!! キュトリム!?」
「いや、いい」

 構えた2人をアキラは手で制した。
 目の前のガルガドシウムはのろのろと立ち上がる。口から毒々しい液体を零しながら潰れた貌で睨みつけてきた。
 だが、最早何の脅威も感じない。
 アキラは知っている。ガルガドシウムの体力は、この大樹海にいる限り無尽蔵。魔力を体力に変える術でも有しているのか、今の壮絶な一撃でも、いずれ回復してしまう。

 だが、いい。

 すでに―――“時間稼ぎは終了していた”。

 パンッ!

「ギュッ!?」

 横腹に受けた小さな衝撃に、ガルガドシウムが呻いた。
 ガルガドシウムは攻撃された方向に貌を向け、千切れた触手で吸収を試みる。

 バンッ!!

「ギィッ!?」

 背後に受けた衝撃に、ガルガドシウムが呻いた。
 ガルガドシウムは振り返り、再び口を開く。

 ドンッ!!

「グギッ!?」

 衝撃音は、徐々に音量を増していく。
 ガルガドシウムが樹海の中に逃げ込もうとしても、そちらからも砲撃が被弾する。

 上空。イエローが走り、巨獣が呻く。
 後方。スカイブルーが走り、巨獣が呻く。
 右方。ナイフが飛来し、巨獣が呻く。
 左方。マジックアイテムが飛来し、巨獣が呻く。

 一瞬―――シルバーカラーも見えたような気がした。

 ひとつひとつは、あまりに小さい。
 だがそれは―――5万を超す足音から放たれている。

 ガルガドシウムが魔術を吸収しても、それは即座に削られていった。

「包囲は完了している!!」

 誰かが叫んだ。この声は確か、ロッグ=アルウィナーという魔道士のものだ。

「ガルガドシウムを樹海に入れるな!!」

 声は、そこまでだった。
 耳をつんざくような轟音が、響き、響き、響き続ける。
 アキラたちは腹ばいになって、頭上の砲撃を見上げた。
 巨獣であったのが幸いした。身体を伏せれば、この怒涛の砲撃に身を焼かれていただろう。

 最早それは、処刑だった。
 逸れた魔術は樹海を焼き、ガルガドシウムも火達磨と化す。ありとあらゆるカラーの魔術が飛来してはアドロエプスの闇を消し飛ばした。ガルガドシウムの悲鳴さえ聞こえない。聴覚はとうに死んでいた。腹の底で暴れるような振動が踊り、焦げた臭いが嗅覚を封じる。
 業火に目を閉じた闇の中、感じるのは―――“堕ちていく伝説”。
 あれだけ機敏に暴れていたガルガドシウムは身動きひとつ取れずに焼かれていく。

 これが。これこそが。圧倒的な数の暴力―――“伝説堕とし”。

「―――、―――め!! 止めだ!!」

 キーンと響く耳が、大声を拾った。恐る恐る目を開ければ、砲撃が止んでいる。

 そして、爆音にも似た歓喜の声の中―――ズウン、と大地が揺れた。
 振り返れば。
 メラメラと、メラメラと、メラメラと燃える巨体が背後に在った。
 時間にして、2分も無かったように思う。ガルガドシウムは、生死の確認をする域をとうに超えていた。

「静かにしろ!! お前たち!! 今すぐ避難しろ!!」

 “伝説堕とし”完遂の歓喜の声を正しに静し、ロック=アルウィナーが再び叫んだ。
 考える間もなく、アキラは結論に達する。

 “戦闘不能の爆発”。
 倒した魔物からは早々に立ち去らなければならないという掟。

「サク、頼めるか!!」
「―――あ、ああ!!」

 転げるように立ち上がり、サクの魔術使用を待つ。
 ガルガドシウムは戦闘不能。この足場で今すぐ離れるには、サクの協力が不可欠だ。
 アキラはエリーの腕を掴もうとし、手が泳いだ。

「!?」

 一瞬息が止まりそうになった。が、エリーはすでに立ち上がり―――呆然と、ガルガドシウムを眺めていた。

「!! お、おい!?」
「あ、あれ」

 即座に離れなければならない。
 そんな状況で、エリーの指は、ゆっくりと死にゆく巨獣を指していた。

「……は?」

 それは、巨獣ではなかった。
 倒れても岩石のような巨体であったガルガドシウム。
 その巨体が、燃えながら―――“みるみる萎んでいった”。
 そして、マーチュほどのサイズになると、焼け爛れた大地の上で小さく爆ぜる。身体の火の粉が舞い散ったのか、周囲は幻想的な灯りに包まれる。
 戦闘不能の爆発は、たったそれだけだった。

「―――づ!?」

 ズギンッ!!

 その、瞬間。
 5万を超す砲撃の衝撃―――それに勝らぬとも劣らない衝撃が、アキラの頭で爆ぜた。

 ああ、そうだ、“そうだった”。

「ガルガドシウムは魔力に依存してサイズが変わるんだろう? 魔力を使い果たして萎んだんじゃないのか?」
「い、いや、最大の身体のサイズが維持できなければそこで爆発するはずよ。ま、まあ、特例中の特例だし分からないけど……」

 戦闘が終わった安堵か。エリーとサクは棒立ちでガルガドシウムが爆ぜた現場を眺めている。
 アキラはよろめきながら、2人に手を伸ばす。

「2人とも、今すぐ―――、―――!!」
「?」

 2人揃って振り返ったが、アキラは見た。
 エリーの腕と、サクの衣。
 そこに、未だ舞い散る橙色の粉が付着したのを。

 もう―――遅い。

「みなさんどうし―――」
「ティア!! 来るな!!」

 橙色の粉は、広場に充満していた。
 その場に足を踏み入れてしまったティアの頭にも粉が付着する。

 もう―――遅い。

 アキラもとっくに、全身に浴びている。

「全員、この広場に入るな!!」

 アキラは叫んだ。
 広場で倒れ込んでいたコッグは誰かが運び出したのか、この広場にいるのは4人だけ。

 4人だけが―――“被害者”だった。

「ぐ―――」

 全身が―――“背後から鷲掴みにされた”。
 生物の構造を無視するように握り潰される。悲鳴など上げられようもない。喉はとっくに自身の骨に貫かれている。
 これはあくまで感覚だけのものだ。
 次に自分に襲うのは、この“三週目”に来訪したときのような浮遊感。

 舞い散る橙色の粉。
 それは。
 付着した者を対象に―――“時空を超えて強制移動させるマジックアイテム”。

 ブンッ!! と“投げ飛ばされた”。
 上空ではない、“どこか”へ。

 何も見えない。白でも黒でもない何かに視界一杯を塗り潰されている。
 音も匂いも何も無い。
 そこは不思議な空間だった。
 何かがある気がするのに、何も認識できない。

 覚えるのは浮遊感と、“切り離された”という漠然とした感触。
 そして、シリスティアではない、別のどこかへ向かっているという―――“悪寒”。

 “伝説堕とし”のその後はどうなったであろう。
 コッグとサテナのその後はどうなったであろう。
 ミーナ=ファンツェルンのその後はどうなったであろう。

 その経過を見ることはもうできない。
 自分たちは、完全に日常から切り離された。

 アドロエプスは日常が終わる場所。

 その日。
 “伝説堕とし”と引き換えに―――4人の足音がシリスティアから消えた。



[16905] 第三十一話『神の御手すら撫でれぬ領域』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:06
―――***―――

 強かに、頭を打った。

「……?」

 痛みは即座に昇らず、緩やかな覚醒と共に、目を開けた。
 最初に目に入ったのは―――闇。
 むせ返るほど土埃の匂いが強く、物を掴めないほど指先の水分が奪われるような乾燥した空気が肺を満たす―――闇。
 時たま、ごわんごわんとアルミ板を叩くような音が響き続けるだけの奇妙な空間だった。
 ここは工場か何かなのだろうか。機械音が鳴っている。

 暗い。慎重に立ち上がった。
 状況がまるで分からない。自分が今いる場所はどこで、何故ここにいるのか、あるいは自分が誰であるのかすら―――分からない。
 一瞬とも無限とも思えるような“空間”を通ってきた。そんな漠然とした感触だけを覚え、強打したはずの頭の痛みすら感じなかった。
 自分の総てが引き抜かれ、そして強引に注ぎ込まれたかのような。自分の総てが打ち砕かれ、そして強引に繋ぎ止められたかのような―――淡白な、感想。
 しかし、何故かそこに不気味さは感じられなかった。

 この感覚は、どこかで経験した。

 一寸先も見えないような闇の中、脳はようやく働き始めた。
 光源が欲しい。ここは暗すぎる。
 おぼつかない足取りで行動を始める。硬く、ほのかに温かい壁のようなものにぶつかり、手探りで光源を探した。

「…………」

―――自分はこの感覚を、どこかで経験したような気がする。

 壁伝いに、壁に身体を預けながら、よろよろと進んだ。時折、闇の向こうから響く奇妙な振動音に混ざり、腰からガチャガチャと金属音が届く。視線を向けもせず、ほとんど条件反射で光源を求めた。

 まずは光源を探す。暗ければ何もできない。
 いや、この感覚の謎を追う。覚えているうちでなければ掴むことなどできはしない。
 いや、自分が誰であるのかを考える。それこそ、最も重要なことではないか。

 落ち着きながらも混乱し切っている脳がいくつかの指令を飛ばすが、ひとつしかないこの身はその命令を受け流すだけだった。
 壁は続く。長い道だった。

 闇が―――続く。

 身体で壁を拭うように進み続けていると、脳がふっと軽くなった。
 打った頭がようやく鼻をすっと抜けていくような痛みを覚え―――“それも順次回復していく”。

 一瞬戸惑ったが、しかし働き始めた思考回路が冷静さを保たせる。

 “負傷が治る”。
 別に不思議なことではない。ただ、働いているだけだ。

 “日輪属性のスキルが”。

「……!!」

 ヒダマリ=アキラは覚醒した。
 バラバラにされた記憶の粒が即座に連結し、“アキラが途切れた地点”を思い起こさせた。

 ここは、数ヶ月前自分が落とされた―――“異世界”。自分はそこで“勇者”となり、魔王を救う旅をしている。
 途切れた地点は―――“アドロエプス”。そこでは“伝説堕とし”が執行され、焼き飛ばされるような熱気が舞った。

 散乱していた自分の歴史が正しい位置に収まると、アキラは壁から身体を離した。
 光源など探す必要は無い。自分はすでに灯りを持っている。

 アキラは手を僅かに掲げ、魔力を流そうとし―――よろけた。

 “パチリ”。

 聞き慣れた―――しかし、ここでは“聞いてはいけない音を聞いた”。

 よろけたアキラが手をついた壁。
 そこには手のひらほどの突起物があり、アキラがそれを押し込んだ瞬間。

 バッ、と部屋に灯りが点いた。

「っ!?」

 まばゆく光がアキラの目を焼いた。闇に慣れ切った瞳をきつく閉じ、アキラは両手で顔を覆う。
 僅かに開けた瞼の隙間から、アキラは自分が手を置いた突起物の正体を探る。
 突起物は壁に張り付くように薄く、中央に四角い“ボタン”があった。自分はそれを押し込んだのだろう。指先ほどに小さい四角いボタンは右側が突起し、さらに小さなマークがついた左側は埋まり込んでいる。右を押せば左が突起し、左を押せば右が突起するのだろう。
 これが契機で部屋が輝いたのだとすれば、かなり珍しいタイプのスイッチだ。アキラが見慣れたマジックアイテムの照明具は、丸いボタンがひとつ付いており、指先で触れて微弱な魔力を流すタイプである。ボタンにアクションは必要無く、ただ照明具に魔力を届けさえすればいい。

 だが、アキラはそのスイッチを知っていた。と言うより、知らない人間などいないだろう―――“元の世界の住人ならば”。

 目が光に慣れ始め、アキラは即座に顔を上げた。
 未だくらむ視界に入ったのは、一辺数百メートルはある巨大な正方形の天井。

 その、中央。

 煌々と橙色の光を放ち、黄ばんだ汚らしい壁の部屋全体を輝かせる―――その光源。
 その色を見て、アキラは“日輪属性のマジックアイテム”などとは結びつけなかった。

 あれは、今自分がよろけて押したスイッチに呼応して反応した―――“電気”の灯りだ。

「……、……」

 唖然とし、動揺した。
 ここには、“この世界”には―――“電気”というものは存在しない。
 アキラは、かつてこの世界で遠雷を見たことがあったが、それを加工した技術を見たことは無かった。
 だが今確かに、自分が魔力を流さずとも、“スイッチを押しただけで点いた灯り”が目の前にある。

「…………っ…………っ」

 アキラは頭をかきむしり、一縷の望みをつなぐように記憶を呼び覚ます。
 自分は確かに異世界にいて、確かに世界を救う旅をしていた。
 だが目の前に在るものは、それを根底から覆す。

 この異世界は、魔力が重要視され、元の世界より科学が遅れ、文明も元の世界の近代と古代を足して2で割ったような―――いいとこ取りをしたような“ご都合主義にまみれた世界”。
 だが電気。目の前には、“科学の発展に多大な貢献をした電気”があるのだ。

 こんなものをたったひとりで見てしまえば、自分は異世界への来訪などをせず、ただ長い夢を見ていただけのような絶望感を覚える。何が原因か、どこかの工場に紛れ込み、そこで寝入っていただけのような―――

「……………………工場?」

 ごわんごわんと、工場のような音は響く。

 天井から下ろしたアキラの瞳は、奇妙な物体を捉えた。
 目の前に、アキラの背丈の3倍ほどの高く、長い“台”を見つけた。
 黒塗りのその台は、アキラの視点からはほとんど壁だ。天井を見るに広大な部屋のようだが、その“台”のせいで見渡せない。自分はその台から落下し、頭を強打したのだろうか。
 “台”は長く続き、広大な部屋を横断するように部屋の壁と壁を繋いでいる。

「……」

 魔術を使えば登れるだろうか。
 アキラは一考し、周囲に視線を這わせた。
 部屋の隅には細長い棒や書物が散乱し、足元にはどこかから舞い込んだのか砂が、じゃり、と音を鳴らす。
 壁と台に挟まれ、幅が5メートルほどの長方形の空間にいたアキラは、壁に張り付いた梯子を見つけた。
 赤茶けた錆にまみれた鉄製の梯子は今にも崩れそうだが、高さは部屋の高さの中央ほどまである。あれに登れば部屋中が見渡せるだろう。

 アキラは梯子に駆け寄り、両手で掴む。棘のようになった錆が手のひらに食い込み、アキラは僅かに顔をしかめながら梯子を上った。
 そこでカンカンと腰の剣が梯子を叩き、アキラは僅かに安堵した。

 自分は剣を持っている。ここは異世界。間違いは無い。
 どれだけの期間意識を手放していただろうか。考えても答えは出なかった。
 アキラは無駄な思考を頭から追い出した。

 今は何をおいても皆を探さなければならない。

「……」

 パラパラと零れてくる埃に顔を伏せながら、アキラは梯子を上り続けた。
 状況整理はできてきた。
 大樹海アドロエプスの“失踪事件”。その伝説を堕とす代償に、自分たちは“強制転移”させられたのだ。
 順調だ。もう錯乱はしていない。

 だが―――ここは果たして、どこだったか。

「―――ぅ」

 記憶の封に手をかけ続けていたアキラの背筋が凍りついた。
 びくりと身を振るわせ、アキラは警戒するように振り返る。アキラの急な動きに梯子がさらに軋んだが、なんとか壊れる前に部屋全体を見渡せる位置についていた。

 部屋の全貌が見える。

「……、」

 工場―――だった。

 どうやらアキラが見ていた壁のような台は、幾数本もあったらしい。
 だだっ広い部屋に、黒塗りの“台”は、まるで窮屈な隊列を組んでいるかのように水平にびっしりと並んでいた。全て同様に左右の壁に連絡している。
 だが、ただの台ではない。その上部はベルトコンベアのように動き、部屋の端から端まで進んでいる。いや、ベルトコンベアそのものだ。目を凝らせばまさしくベルトが、この空間に来る直前に見たサクの魔術のように台の上に波を作り、荷を運ぶ役割を果たしている。
 ゆっくりと、ゆっくりと、進んでいた。
 そして、その音。響き続けるアルミ板のような音は、アキラも耳にしたことがある“機械の稼働音”だった。

 ここは、一体どこだ。
 アキラは記憶を探る。だが、こんな機械的な空間を思い出すことはできなかった。
 多分、強制転移する直前―――自分は、思い出していたはずなのに。

「―――、」

 “それ”を見て、アキラの身体が固まった。
 脳裏に浮かべたからだろうか。幾本のベルトコンベアの中で、中央に近い1本。
 そこに―――目立つ紅い衣を纏った少女が倒れている。

「サクッ!!!!」

 梯子の上からアキラは声を張った。しかし、遠方の彼女は倒れたままで反応をしない。
 彼女の身体は、すでに部屋の端まで進んでいる。進む先はただの壁。あのままなら壁とベルトに挟まるだけだろう。

 だが、アドロエプスでも感じていた―――

 悪寒が―――増大した。

「―――キャラ・ライトグリーン!!」

 アキラが力任せに飛び立った梯子が破損し、台に倒れ込んで甲高い金属音を響かせる。その間アキラは全力をもって駆けた。
 台から台に飛び乗り、力任せに彼女の元に進んでいく。

 けたたましい足音が響く。近付きながら、アキラはサクの隣、紅い衣に紛れていた赤毛の少女を発見した。2人とも意識が無く、ただベルトコンベアに身を任せて壁に進んでいる。

 2人は間もなく―――壁。
 あまりに遠い。

「―――!!」

 2人が近付いた途端、壁の一部が―――“ぐにゃり”と歪み―――“ガバリ”と。“口を開いた”。
 黄ばんだ壁がまるで粘着物のように歪み、2人が乗っている台の道を大きく開けた。
 この壁は、生物だとでも言うのだろうか。
 口のようにしか見えない穴を広げ、餌を運ぶ台ごと咀嚼しているようにも見える。ベルトコンベアは、最早“壁”の長い舌にしか見えない。

 口の中は―――闇。
 何も見えない―――闇。

「っ―――、起きろぉぉぉぉぉぉおおおおおおーーーっ!!」

 部屋全体に響くような怒号を上げても、2人は反応せずに身を伏せている。

 そして―――2人は闇に、吸い込まれていった。

「らぁぁぁあああーーーっ!!!!」

 アキラは魔力を際限無く身体に宿し、闇に向かって突き進む。
 間もなく到着できる。
 ベルトコンベアを踏み砕かんばかりの速度で駆けたアキラは、闇に飛び込もうとし、

「が―――っ!?」

 一瞬で閉じた口に―――壁に、正面から激突した。

 上げに上げた身体能力をもっての衝突に、脳ごと身体が揺さぶられ、アキラは台の上で膝をついて倒れ込んだ。
 意識が飛びかけたアキラの身体は、ベルトコンベアが動いても壁との間に挟まれるだけ。

 壁の口は、開かなかった。

 アキラは肘をついて上半身を起こし、手のひらで壁を掴む。やはりそこには先ほどの柔軟な感触は無く、無機質な物体に成り変わっていた。

 アキラは白黒する視界の中、倒れたままで壁を拳で強く叩く。
 だが壁は、まるで反応しなかった。当然だ。文字通り全身全霊の当て身でも、まるで揺るがなかったのだから。
 剣を抜き放とうとしたが、アキラの身体は、ベルトコンベアから無抵抗にずり落ちた。

「か……、は、は、……は」

 再び狭い、壁と壁の間の空間。今度の幅は3メートルも無かった。
 地面に身体を打ち付けても、まるで痛みは昇ってこない。身体中が壊死したように痺れ、身体の上下も分からなかった。
 額が切れ、ぼたぼたと血が零れる。きっと今自分は、落石現場の死体のような姿だろう。

 だが何だ。こんな痛みは“二週目”で何度も経験した。“三週目”だって、“鬼”に薙ぎ払われている。

 アキラは台にもたれながら身を起こした。

 この壁は一体どういう仕組みなのか。
 アキラは手で寄りかかるように、台の脇の壁に触れた。硬い。
 “これ”は、2人が近付いたときは口を開けたくせに、アキラが近づいた瞬間ただの壁に戻った。

 何かの判別をしているのだろうか。

「……!!」

 朦朧とする意識の中、再び壁の別の個所が“ぐにゃり”と揺れたのが見えた。
 これは、口を開く予備動作。別の台の行く先の壁が、再び闇を開こうとしている。どうやら台の数だけこの壁は口を開くようだ。

 アキラは無理矢理意識を覚醒させ、身体をかがめる。
 幸運にも、先ほどの台とアキラを挟んで隣の位置。
 口を開いたときがチャンスだ。一瞬で台に飛び乗り、闇へ飛び込んでやる。

 アキラは意気込み、タイミングを計りながら―――ふと。“何が契機で壁が動作を開始したのかを察した”。

「―――キャラ・ライトグリーン」

 反対側の台を蹴り飛ばし、アキラはよろけながら跳躍した。
 負傷がたたって、アキラが跳べたのは辛うじて台に手をかけられる程度の高さだった。
 アキラは台にぶら下がり、よじ登るように台の上に肘を乗せる。その真横では、壁が再びガバリと口を開けていた。

「ぐ、あっ―――、」

 アキラは強引に“掴み”、“舌”の上から台と台の狭間に引きずり落とした。
 獲物を捉え損ねた口が再び瞬時に壁に戻るのを横目で眺め、アキラは掴んだそれを抱きかかえるように落下する。

 今度は昇った落下の痛みに砂まみれになってもんどり打ったアキラの騒ぎに、ゆっくりと。

「ん……ん、ん?」

 アキラが引きずり落とした少女―――ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは目を覚ました。

「あれ……私……あれ?」

 深い眠りから覚めたように台に身体を預けながらティアは目を擦っていた。
 壁は再び沈黙している。
 彼女だけは、闇に堕ちるのを防げたようだ。

「あ……、ああ、アッキー、今、回復を」

 本当に寝ぼけてやっているのなら大したものだ。アキラなど、記憶が砕けしばらく茫然自失としていたというのに。
 傷だらけのアキラを見て、ティアはほとんど目を閉じたまま立ち上がり、アキラに手をかざす。
 漏れ出したスカイブルーの光を身体が患部で輝いた。流石に本調子ではないのか、普段と違い、どこか淡く、今にも消えてしまいそうな青だった。何故か彼女は、魔力を枯渇しかけている。
 その弱々しい光を受け続けたアキラの痛みが引いてきたころ、ティアの瞳はようやく開き切った。

「…………アッキー。ここ、どこですか?」

 覚醒した直後。僅かに被りを振り、ティアは無駄口を叩かず周囲に視線を走らせた。
 最後に部屋の中央に位置する“電灯”を怪訝な表情で見つめ、アキラに視線を合わせてきた。

「樹海じゃない。俺たちはアドロエプスから“移動させられた”。他は分からない」
「エリにゃんとサッキュンは?」
「2人は“呑まれた”。この壁に」

 現状確認するだけの、淡白な会話を交わした。
 このアキラとティアがこうした会話をしているだけで、エリーとサクは戦々恐々とするであろうが、2人は今―――“呑まれてしまっているのだ”。

「…………ごめんなさい。事情が私ではさっぱりです。私は何をすればいいですか?」
「2人を探すぞ。何とかして考えないと」

 本当に、淡白な会話だった。
 ティアは事情を理解することを放棄し、ただ指示を待つ。それだけ一刻を争う事態であることだけを理解したままで。

「とりあえず、この部屋を出るぞ。何とかしてここを出ないと2人を追えない。壁を壊す方法を―――」
「……あの、アッキー? この場所を出るんですよね?」

 ティアが首を傾げた。張り詰めた空気が緩んだような、虚をつかれたような表情を浮かべている。
 アキラが怪訝な顔を向けると、ティアはおずおずとアキラの背後を指した。

「そのドア、開かなかったんですか?」

 アキラは無言で振り返った。そこにはティアが示す通り、先ほどの梯子のように錆びた小さな扉がある。この場の雰囲気が工場ということも手伝い、作業員の連絡口にしか見えないそのドアに、アキラは今の今まで気づかなかった。
 台と台の間に挟まれた者はここから出られる造りになっているのかもしれない。

「お2人が呑まれた、って、要するにこの壁の向こうに行ったんですよね? だったら、そこから出れば、」
「ティア。超お手柄」
「えへへ」

 得意げに微笑んだティアに笑い、アキラは小走りでドアに近付き、手をかける。
 ドアノブを回しただけで削られるような音が響き、ドアが甲高く鳴く。鍵はかかっていないようだった。

 アキラはドアを押そうとし―――

「……………………」
「……アッキー? どうしたんですか?」
「……………………い、いや、流石に、それは、」
「?」

 水分を絞り取られたようなアキラの手のひらが、ドアノブを掴んだまま、じっとりと濡れた。
 鼓動が著しく高くなり、耳鳴りは鼓膜を破くほど酷い。

―――自分はこのドアに、気づきたくなかっただけなのだろうか。

 顔面蒼白になったアキラは、祈るように硬く目を閉じ、慎重に―――慎重に、ドアを、押す。

 ドアの隙間から―――“砂が舞い込んできた”。

「ぅ……ぅ……、っ、っ、っ」

 違う―――違わなければならない。

 そんな想いを込めた―――ドアの先の景色。

 それは―――

「は……」

 ドアの先は、“外”だった。
 アキラは、ぺたりと座り込んだ。
 瞳は一瞬で乾いた。さっと血の気が引いていく。全身が痙攣し、腹の底から突き上げてくるような吐き気が襲ってきた。

「は……は……は」

 狂ったように、アキラは喉から声を漏らし続けた。

 あり得ない。
 こんなことが―――あってはならない。

 この旅は、キラキラと輝いているはずだったのに。

「アッキー? どうしたんですか? アッキー!?」

 ティアに身体を揺すられても、アキラは座り込んだままだった。

「…………」

 自分たちは、確かに強制転移させられた。
 アドロエプスの伝説を堕とし、その代償に、シリスティアの自分たちの足音を奪われた。

 別に命が奪われたわけではない。過去の被害に比べたら、あまりに小さな代償だ。

 だが。
 だが。
 だが。

 この場所だけは―――無いだろう?

「ここ、どこなんですか?」

 ティアが眺める、その景色。

 草木が一切無い荒れ果てた砂地に、むき出しになった山脈のような岩山。岩を削って音を奏でる風は、砂を宿し、凶器のように吹き荒れる。歩くだけで体力を奪い去り、精神さえも粉々に打ち砕く―――“死地”。

 この場に比べたら―――大樹海アドロエプスは楽園だ。

「こ、ここ、は―――」

 アキラはがちがちと歯を振るわせ、かすれ声を絞り出した。
 紡いだのは“世界最高の激戦区”―――醜悪にして終焉の名。

「……ファクトル」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 ジ―――……ン。

 波紋が広がった。
 生じた波は幾重にもなり、波打ち際のように脳を叩く。それ以外、何も感じない。動けなかった。まるで、身体の一部を欠損させられたように。
 何も見えず、何も触れず、何も得られない。
 自分が今どこにいて、どこに向かおうとしていたのかも分からず―――そしてそれも、気にならなかった。
 精神の深く深くにいる。何となくそんな気がした。

 “ここ”は。
 温かいようで―――どこか寂しく。
 冷たいようで―――どこか優しく。
 不気味なようで―――どこか居心地が良かった。

 波打ち際に倒れた身体が、ゆっくりと、ずぶずぶと、ずぶずぶと沈んでいく。

 沈んでようやく―――“何かを得た”。

 自分が知らないことが―――知り得ないことが、分かる―――解る。
 削り取られた身体に、何かが注ぎ込まれているような気がした。

 何もできないのに、全能感を覚える。
 このまま沈んでいけば、自分は必ず何かを得るのだろう。そんな確信を持てた。

『―――、―――!!』

 “ここ”以外の感覚を初めて得た。誰かが叫んでいる。

 起きろ。そう―――言われた気がした。

 自分は―――寝ているのだろうか。

 ようやく動かせるようになった身体が、選択肢を提示した。

 沈むか、立つか。2択だけだ。

 ならば立とう。
 多分自分は、呼ばれたのだろうから。

「―――、……………………」

 エリサス=アーティはまどろみながら瞳を開いた。欠損させられたものを求めるように頭を振る。
 耳鳴りが酷く、頭がまるで回らない。単純な足し算さえ答えられる気がしなかった。
 どうやら自分は壁に背を預けて座っているらしい。

 何が起こったのか。
 記憶を呼び起こそうと緩慢な動作で額に手を当てた。

 依頼の請負。貴族の謀略。魔術師試験。押し潰される港町。両親の訃報。神の一撃。妹の入隊式。大樹海の伝説。図書館での調べ物。赫い部屋。月下で叫ぶ誰か。

 思い起こせた記憶は断片的で、時系列はバラバラだった。

 もう1度頭を揺すり、粉々に砕かれたような記憶を拾い集めると、慎重にそれを繋ぎ直す。
 しかし、集めた記憶の粒は一直線には並ばなかった。
 エリーは再度、記憶の流れを精査する。どうあっても組み込めないパーツはノイズとしてまとめると、ようやく記憶は一直線に並んだ。
 どうやら“ノイズ”は、あの奇怪な空間で拾ってきてしまったものらしい。

 意識の整理を終え、そこでエリーは目の前の景色を認めた。

 闇だ。結局何も見えない。昼か夜かさえ分からない。

「……………………」

 エリーはしばらく闇を眺めた。室内だろうか。うっ、とするような異臭が漂う空間だった。
 外から風が壁を叩いているような音がかすかに聞こえるが、それ以外は分からない。

 思い起こした時系列通りなら、自分は、自分たちは、確か、

「―――、ひぅっ」

 額から下ろした右手が、ぬちゃりと穢れた。硬い床の上に、粘着物のようなものが零れている。
 エリーは反射的に身を引き、身体をのけ反らせる。

 そこで、

「きゃあっ!?」

 付いた左手が今度は柔らかい何かを掴み、悲鳴が響いた。エリーはびくりと身体を縮こまらせ、胸の前で手を組んだ。
 自分以外に、誰かがいる。しかしどうも、聞き覚えのある声だ。

「……だ、誰?」

 恐る恐る、エリーは闇に訪ねた。声の主はすぐ傍だ。意識すれば向こうの吐息も聞こえてくる。

「今の悲鳴……ティ、ティア?」
「……………………」

 向こうもこちらを警戒しているのか、悲鳴の主は答えない。
 だがエリーは、是が非でもティアであって欲しいと願った。

 こんな怪しげな空間に、ひとりでいるのは耐えられない。
 その点、ティアなら暗闇の中でも喚き散らし、暗闇の中でも輝かんばかりの笑顔を想像できるだろう。
 親しい人間がいてくれなければ、心は即座に壊れそうだった。
 今共に旅をしているメンバーで、あんな悲鳴を上げるのは、

「…………ん?」

 頭がまともに働き出したのか、悲鳴の声の主に心当たりがあった。

「…………私だ」

 暗がりの向こうから、ようやく、いつもの冷静な声が返ってきた。

「え? サクさん? 今の悲鳴、サクさんなの?」
「……い、いや、違う。うん。まあ、違わなくは無いかもしれないが、聞き間違いだろう。ほらあれだ、いきなり……む、胸を掴まれたから」

 動き出して間もない頭では、何を言っているのか分からなかった。ただとりあえず、目の前にいるであろう人物はサクのようだ。
 エリーは穢れた右手を背後の壁で拭いながら、安堵の息を吐いた。
 ここがどこであるのかは分からないが、サクの近くにいれば安全だろう。

「えっと、他に誰かいる?」
「いや、私は目が覚めたばかりだ。どれだけの期間意識を手放していたのか……エリーさんの方は?」
「あたしも同じ。何で気を失ったんだっけ……?」

 エリーは拭った右手を払うように振り、再び周囲を見渡す。やはり、闇。ただ、奇妙な圧迫感だけはあった。

「エリーさん、灯りを点けられるか?」
「え? ……あ、ああ、そうね。あ~、ダメだ。なんかあたし混乱してる」
「私も同じだ。……異常な倦怠感がある。一体、何が……」

 サクも同じような状態だったらしい。
 やはり、謎だ。わけが分からない。

「はあ……」

 違和感や記憶の切れ目は、視野が戻ってからにしよう。
 座り込んだまま、エリーはひとまず手を掲げて魔力を流した。

 が、

「…………あ、れ?」

 手に灯ったスカーレットは、ぼんやりと、サクの顔を照らすだけだった。

「…………そんなに控え目でなくてもいいんだが」
「あれ? あれ? いや、ちょっと待ってよ、えっと、…………あれ?」

 最低限の魔力さえあればカッと光が漏れ出すはずなのに。
 何度やっても、手には淡い光源が宿るだけだった。

 そこで、エリーの頭がくらりと揺れた。

「ぅ……、ぅ?」

 よろめくように床に手を付いたエリーには、ようやく“症状”が分かった。

 自分は今、“魔力切れを起こしている”。

「エリーさん? 無理なら、」
「う、ううん、これくらいなら、大丈夫、よ。でも、なんで、」

 最小限に光を保ち、エリーは再び記憶を探り出す。
 魔力切れを起こしたのは久方ぶりだ。魔術師試験に挑むべく、特訓を行っていたときが最後かもしれない。

 意識が途切れる直前、何かが起こったのだろう。
 確か。確か自分は、あの“大樹海”にいて―――

「!?」

 エリーは床に右手を向けた。
 淡いスカーレットが照らしたのは、呼吸することさえも拒絶したくなる埃が高く積った汚らしい床。そこには、びっしりと走り書きのようなものが記された用紙が散乱している。

 樹海ではなく―――室内だ。

「……“キュトリム”とやらに当たった記憶はあるか?」

 サクも記憶の整理が済んだのだろう。エリーの顔を覗うような表情を浮かべた。
 しかし、違う。自分は大樹海の巨獣―――ガルガドシウムの“触手”に触れてはいない。

「…………サクさんの方はどう?」
「私? 私は…………ん? く、」

 サクがよろめいた。
 無理に魔力を流そうとした結果のそれは―――魔力切れの症状。
 サクもエリー同様、“触手”には触れていないはずなのに。

「待て……、考えよう。確か―――伝説は堕ちた。だからその後、その後だ。確か……」
「―――あいつが、叫んでた」

 やっと思い出せた。サクと顔を見合わせ、互いに頷き合う。

 伝説が堕ちた直後、風に漂う光の粒に、“ヒダマリ=アキラ”は叫んでいた。

「思い出した。私の意識はそこで途絶えた。気づいたらここだ」
「あたしも同じ。意識が無いとき、何か変な感じはしたけど……」
「エリーさんも、か」

 2人は全く同じ経験をして、全く同じ場所にいる。
 前提条件こそ整ったが、しかし事態もこの場所も謎のままだった。

「あの後、不覚にも気を失ったのだろうか。誰かが運んでくれたのかもしれない」
「あたしは“ジャミング”で消耗してたけど、サクさんは余裕無かったっけ?」
「……いや、あった。“魔術”の範囲は広げたが……いきなり倒れ込むほどには疲弊していなかったはずだ」

 2人の記憶に齟齬は無い。
 自分たちは、サクの魔術を使用して、伝説に猛攻を仕掛けたのだ。
 止めは“5万超”。
 サクは終始戦い続けていたが、一撃に加わっただけのエリーは“ジャミング”の影響下にあったとは言えそこまで疲弊はしていない。

 それにここは、倒れ込んだ者を運ぶにはあまりに不適切だ。
 汚れ切り、異臭が漂う。
 うず高く積まれた埃を見たエリーは、今すぐにでも立ち上がりたいくらいだった。何故か消耗している体力は、その命令を跳ね退けているのだけど。

「あいつは? それに、ティア。今すぐあいつを見つけ出して、何を知っているのか訊かないと」
「そうしたいところだが……、妙に身体が重い。何故これほどまでに消耗したのか……」

 サクも、同じ。2人は全く同じだ。
 ならばその共通点。
 自分たちは意識を失う前、何を見たか。

 叫んだアキラは確かに見た。
 だが彼は、何を見て叫んでいたのか。確か、舞い散る“粉”を見て、表情を一変させた。

 橙色の―――“粉”。
 この虚脱感は、あの粉が原因なのだろうか。

 とすると、あの粉の正体は何か。
 “症状”は、魔力の大幅激減―――

「……!」

 エリーの脳裏に、ひとつの可能性が浮かび上がった。

「サクさん。ここ、アドロエプスじゃないわよね?」
「ああ、どう見ても、だ」

 サクも同意した。
 あの大樹海も虫の音ひとつ―――足音一つ聞こえない静かな場所だったが、少なくとも、エリーは大樹海とは到底思えなかった。
 自分たちは移動した。させられた。それだけは分かる。

「―――“リロックストーン”。覚えてる?」

 と。エリーは自らの推測を口にした。

「リロックストーン? ……あれか。覚えてるとも。アイルークでよく破壊したよ」

 リロックストーンというマジックアイテムについて、サクは最も思い出深いだろう。
 あるときは平和な街に。あるときは樹海の中の魔物の巣に。
 “平和”と言われるアイルークに、尋常ならざるものを出現させた―――“使用者を移動させるマジックアイテム”。

 サクが床に目を走らせた。
 リロックストーンは、出現したい地点に置くことで、その場まで移動できるマジックアイテムだ。
 その移動の解除方法は、置いたリロックストーンを破壊すること。
 アイルークで発生した異常事態で、サクはリロックストーンを2度とも破壊している。

 エリーはサクの足元を照らしたが、汚らしい部屋の床が見えただけでリロックストーンは見つからない。汚物のような部屋を間近で見て、2人の気分が悪くなっただけで探索は終了した。

「エリーさん」

 サクは少しでも床から距離をとるように腰を浮かせた。

「私はリロックストーンというものを知らなかったのだが、“出発地点”ではあの粉を使うのか? 使っている人も見たことが無い」
「あたしも同じよ。リロックストーンは人間界に無いんだって。魔族が使うだけ。普通の人なら一生見ないわ」
「?」

 サクが怪訝な表情をした。

「すまないが……、魔術師試験はそんな未知の物体も試験範囲なのか? エリーさんは、知っていただろう?」

 アイルークで最初にリロックストーンと口にしたのはエリーだ。
 確信を持って破壊するよう指示を出してきたのはアキラだが、あの男が奇妙なのはいつものこと。
 魔族が使うだけのマジックアイテムを、平和な大陸の孤児院にいたエリーが知っているのは妙と言えば妙なのだろう。

 だがエリーは、そのソースを答えられる。

 ヒダマリ=アキラは奇妙な男だ。それは周知の事実である。
 だが、彼が異質だと知っているのはあくまで内輪だけだ。
 彼以上に、大多数の人間に“異質”と認められている人物を、エリサス=アーティは知っている。

「“マリサス=アーティ”」

 と―――エリーは最愛の人物の名を出した。

「あたしが知っているのは単なる雑学。そういうアイテムが存在するって聞いたのよ―――あたしの双子の妹にね」

 バンッ!!
 ドアがけたたましく開かれた。

 視認できなかったドアを反射的に見た2人は外の光に目をきつく閉じた。どうやら今は太陽が昇っているらしい。
 誰かが入ってきた。それは分かる。だが目が開けない。外で吹き荒れているのか、風に床に散乱していた用紙が暴れ狂っている。身体に吹き込んできた風と混ざる砂が打ち付けられた。
 鬱陶しく舞った埃にエリーが呼吸を止めていると、ようやくドアが閉じた。
 ひらひらと、用紙が身体に降ってくる。

「ああ、また部屋が散らかった」

 甲高い―――男のような声が聞こえた。

「やはりドアを2重にすべきだろうか。それとも3重? “劣悪な環境における家屋の設計とその労力について”。そんな研究が確か―――ああ、飛ばされてしまったか。哀しいなぁ」

 エリーとサクに気づいていないのか、ぶつぶつと言葉を漏らす。
 そして、そこで。

 “パチリ”、と。

 部屋全体が輝いた。閉じていても目が焼かれる。
 エリーとサクは身をかがめ、網膜を守り続けた。

「しかし、やはり難しい。“魔力を混ぜた砂嵐の発生とその妨害能力について”。成功率は数パーセント。五属性の妨害までは可能だが、日輪月輪まで含むとなるとあまりに精度が低すぎる。……いや、待て。そうか、あれで十分か。日輪月輪は嵐の脅威に身を守る。そうであるのなら、“選択遮断”の裏をかけばいい。うむ。うむ。うむ。うむ―――? ダメだなやはり、試してみないことには―――」
「ぎ―――!?」

 隣から、短い悲鳴とともにサクの気配が消えた。
 “誰か”は、とっくに2人に気づいていたようだ。ただその2人に、“特別な意識を向けていなかっただけで”。

 流れるように消えたサクの気配に、防衛本能が働き、エリーは身体を起こそうとした―――が、

「―――ぐ」

 ガチャリ。
 鉄のような音が響き、首を何かが絞めつけた。その瞬間、無意識下でも手に込めていたはずのスカーレットが消え失せた。首に手を当てると、指先の感触がゴツゴツとした“首輪”のようなものを捉える。

 一体、今、何が―――

「きゃ!?」

 次の瞬間、脇から腕を掴まれた。不気味な感触に目を開けようとするも、即座にエリーは身体ごとボールのように投げ飛ばされた。
 ただ片腕の―――力のみによって。

「がっ」

 宙を舞ったエリーの身体は背中から硬い何かに衝突し、倒れ込む。頭を強く打った。光に閉じた瞳の中、閃光のような衝撃が弾ける。
 うつ伏せに倒れたエリーの背に、バサバサと書物が落下してきた。
 最後に耳元で瓶が割れたような音が響き、液体が巻き散ったかと思うと、生温かく、気を失うほどの異臭が漂う。
 僅かに吸い込んだだけで、身体は燃えるように熱くなった。

「は……、は……、か、……げ、はっ」

 エリーは呼吸を最小限に止め、うつ伏せのまま顔を上げる。
 光に慣れ切っていない瞳を強引にこじ開け、視線を向けた―――その先。

「―――、」

 広く、そして狭い部屋だった。
 面積は相当なものなのであろうが、ドアが付いている一部以外は全て奥深い棚で埋まり尽くし、その全てが分厚い書物や不気味な色を光らせる液体の瓶をぎっしりと詰め込まれていた。そんな棚が、高い天井付近まで伸びている。
 床には、棚から落ちたのか毒々しい粘着物や書物の頁が敷き詰められるように砂を乗せて散らばっている。

 汚く―――醜悪な、輝いた部屋。

 その、中央に。

「さてさて、参ったな。確か実験用の拘束具がどこかにあった気がしたが……、解らん。ダメだな。やはり吾輩の部屋を管理する僕を造ろうか。吾輩の専門分野だ。いや待て、そうだな。実験が終わって、もし生きていたら、お前たちを“それそのものだけに生き甲斐を感じるようにしてみよう”。うむ。うむ。うむ。うむ―――?」

 壊れたようにギョロリとした瞳は、左右が独立して動き。
 潰れたように歪んだ貌は、死者すら超越した泥色で。
 狂ったように伸ばした髪は、黒に等しい深い藍で。

「ぐっ、ぐ、むっ、ぐっ、」
「待て待て。心を壊すには相当程度期間がいるのだろうか。解らぬ。それは、研究を終えてはいないのだ。だが待て、いや待てよ。この際だ。探求しよう。ああ、懐かしき我が僕―――んん? 名前は解らんが、アドロエプスの巨獣よ。お前が届けてくれた“材料”は、我輩の宝物だ……!!」

 細枝のような腕を伸ばし、サクの口を掴んで掲げ。
 枯木のような貌で、天を仰ぎ。
 若木のような活力を、その全身から放ち。

「それでは始めようか、“人の心の壊し方”―――その実験を。吾輩はその理論をまだ探求してはおらん。本来あのサー……、サー……―――んん? 名前は分からんが、“支配欲”がどうたらと言っていた奴の分野のようだが、吾輩の食指は寄り好みをせん。だが待て、いや待てよ。砂嵐の効果の方が先か? ああ、楽しい。楽しいなぁ、探求は。溢れ続けてくれる。どうか謎よ、尽きてくれるな。吾輩は―――悠久なのだから」

 細身の身体に翻りもしないほどの分厚い白衣を纏ったその存在。
 ぎらつく危険な左右の瞳それぞれで周囲を見渡すその存在。
 頬までバックリと口が割れた不気味なその存在は―――

「おっとおっと、そうだった。そろそろ伝えよう―――お前たちが深く深く胸に刻むべき情報を。命ある以上、研究素材であろうとも、主の名を知ることは重要だ。吾輩はガバイド。魔王の協力者―――いや、一応“魔王様直属”と言っておくべきか―――ガバイドだ。今はそれだけを―――吾輩の名だけを、覚えておけばいい」

―――“魔族”。

―――***―――

 身体は、問題ない。
 強かに打った頭の痛みも引き、今も治癒スキルとやらが働き続け、完治と言えるレベルに達している。
 魔力も、問題ない。
 目が覚めたばかりにふらついた記憶はあるが、順調に回復を続けている。

 だが―――アキラは、まるで立つ気が起こらなかった。

「外……砂嵐がすごいですよ。どうやらこっちは行き止まりみたいです」

 ティアがドアを閉めるのを、アキラは“台”に背を預けて座り込んだまま眺めていた。
 見た限り、天気は大して悪いようではなかったが、彼女なりの配慮だろう。
 外の光景が目に入った途端、腰が砕けたように座り込んだアキラにとって、ティアの行いは心の底からありがたかった。

 だが―――流石に、ここは無い。

 “電気”の照明。不気味に動くベルトコンベアのような“舌”。それらが向かう、今は黙する黄ばんだ壁。奇怪な存在が埋め尽くす、だたっ広いこの工場。
 アキラは眺めながら、ほとんど泣きそうな表情を浮かべた。

 こんなわけの分からない空間だけでも手一杯だ。
 それだというのに、この部屋の外には。

 煉獄が―――広がっている。

「ええっと、何か心温まる話でもしたい気分になったんですが、いいですか?」
「いや、いい。いい」

 アキラは両手で顔を覆い、ティアの配慮に首を振った。
 “今のティア”では、アキラがただ外を見ただけで憔悴し切った理由は分からないだろう。
 だが、アキラは確かに覚えている。
 記憶を持ち込んだこの“三週目”。
 ここで心に刻まれた傷の深さを。

 アキラは確かに―――覚えている。

「ざけんな……。なんでファクトルに」

 零した言葉はティアにも届いただろう。
 だが、彼女は何も言わず、介護するようにアキラの隣に座った。

 ティアの存在が今以上にありがたかったことは無い。
 誰か1人でも近くにいなければ、アキラはとっくに発狂していた。突如眼前に現れた絶望に、“ヒダマリ=アキラ”の根底が叩き壊され―――“勇者”の旅は、物語の形を成さず、終わっていただろう。
 そしてここは―――ファクトルは、“それが起こり得る領域なのだ”。

「…………ティア。外で、何か見たか?」

 アキラはうずくまったまま、ようやく意味のある言葉を出せた。
 身体は吹雪に凍えるように震え続ける。
 だが、このまま塞ぎ込んでいるわけにもいかないのだ。“自分”は。

「アッキー、今はもう少し、」
「何か見たかって聞いてるんだ」

 言って、アキラは自己嫌悪した。何をティアに当たっている。
 彼女だって、自分と同じ―――“被害者”だ。

「え、ええと、ですね。砂地が広がってました。どこかの山道でしょうか?」

 アキラの態度をティアは気にもせず、見たままの光景を伝えてきた。

「違う。景色じゃない」

 それは、アキラも見た。外の光景が目に入った瞬間、身体中が痺れたのだから。
 だからそれ以後“見ることを拒絶した”アキラが知りたいのは、この壁の向こうに何があったのか、だ。

「この壁の向こう。外から見たらどうなってた? 何か、部屋みたいなのが出っ張ってなかったか?」
「? い、いえ。外もただの壁だったと……、あ、あれ? 確かアッキー、エリにゃんとサッキュンはこの壁の向こうにいるみたいなこと言ってませんでしたっけ?」

 “強制移動”か。
 アキラはティアのもたらした情報を、恐怖に歪む思考で処理した。

 自分たちをシリスティアからこの死地まで導いたのも“強制転移”。
 とすればこの壁も、“呑んだ”対象を移動させる能力を持っているのかもしれない。

 エリーとサクは、意識を失ったまま、どこかへ移動した。もし、“無防備でファクトルに野ざらしにされていたら”―――結末など、捻じ曲げられない。

「冗談じゃ……ねぇぞ。ここで“また”、バラバラになるなんて」

 アキラは拳で床を叩き、立ち上がった。
 事はより一層一刻を争う。
 この地で別れて再会できた者を、アキラはただひとりしか知らない。
 これ以上恐怖に打ちひしがれている暇は、幸運なことに無かった。

「ティア。あの2人を探すぞ。とにかく合流しないことには何にもならない」
「はい。あの、教えて欲しいんですが、お2人は呑まれた、と言ってましたよね。具体的に、何が起きたんですか?」
「俺もよく分からない。この“台”で上に2人が“運ばれていた”と思ったら、急に壁が歪んだんだ」

 ごうんごうんと動き続けるベルトコンベア。
 ティアは改めて顔をしかめ、不気味に稼働する台を眺めた。

「そんで、“開いた”。いきなりバックリ割れて、2人を呑んだんだ。その後すぐに閉じちまった。お前のときも開いたんだぞ?」
「ふえっ?」
「慌てて引きずり下ろしたけど、また壁はだんまりだ。全力でぶつかったんだけど、傷ひとつ入らない」
「は、はあ……、ええと、その節は本当にお世話になりました」
「俺もお前の治癒で助かったよ。―――キャラ・ライトグリーン」

 言って、アキラは台の上を目指した。
 反対側の台を蹴って、今度は確かに台の上に着地する。

 ベルトコンベアに身を任せつつ、壁に慎重に近付いたが、やはり壁は黙したままだった。
 もう1度刺激を与えれば開くだろうか。

「……」

 黄ばんだ壁の前、アキラは足踏みしつつ腰から剣を抜いた。先ほどの梯子ほどではないにしろ、錆つき、刃が潰れたそれは、ほとんど棍棒のようにも見える。柄の部分は辛うじて握れるが、今にも崩れそうだった。
 アドロエプスで破損した武器の予備として渡されたこれは、アイルークで見つけ、サクが鍛え直した武器だ。

「キャラ……、いや」

 アキラは詠唱を止めた。
 この場での“刻”は、強制転移の影響か、再び封がされている。
 何が待ち構えているかも分からないのに、武器を失うわけにはいかない。

 アキラは遠慮がちに剣を振った。

「っ、」

 ガインッ、と剣が弾かれた。
 壁には傷ひとつ付いていない。

 しかしアキラは壁の様子よりも、振るった剣の方が気になった。
 思ったよりも硬い。
 僅かに力を込めすぎたと感じたのだが、剣は、錆び付いたまま、刃こぼれひとつ起こしていなかった。

「ふー…………。―――、」

 もう一度、今度は魔術抜きの全力で剣を振るう。
 やはり弾かれ、アキラの手首が痺れたが、剣も壁も、無事だった。

「くっそ」
「アッキー、どうですか?」

 下からティアの声が聞こえた。
 アキラはベルトが届いていない台の縁に立ち、ティアを見下ろす。随分と低い位置でぴょんぴょん跳ねている彼女はより小さく見えた。

「上、来たいのか?」
「行きたいですよ、そりゃあ」
「頑張れ」
「アッキー、あっしが身長伸ばすためにどれだけの努力をしてきているかご存じないですよね? 絶望ですよ。あっしの成長、なんか完全に止まっている気がするんです」

 アキラの3倍ほどもある高さの台を前には、ティアは何もできない。アキラは、はっと息を吐き、1度台から跳び下りた。
 再び、台と台の狭間。ティアが僅かにむくれたような顔で待っていた。
 だが、確かにティアに検証してもらうのはいい手かもしれない。
 この壁は、もしかしたらアキラ個人を拒んでいるのかもしれないのだから。

「あっしを背負って、ぴょんって垂直飛びで上まで」
「無理に決まってんだろ。まあ、肩に乗ってくれ。跳んで投げるから、縁につかまれよ」
「いけますかね?」
「それ以外思いつかないし……、あと、上に乗ったらすぐに壁が開いても中に入るなよ? よし、ほら」
「うおおっ、ぐらぐらします……でも、背が伸びました」
「俺お前の軽口が場を和ませるためなのか素なのか分からなくなってきた」

 だが、随分と楽になってきた気がする。ファクトルの直近でも、心静かに思考が進む。
 試行錯誤し、なんとかティアを上に送り届けたアキラは、壁を注視した。しかし、無言。
 今度はティアを前にしても開かないらしい。

 アキラは一瞬ドアに目を向け、背け、再び台に飛び乗った。
 移動だけで魔力を大幅に消耗している。だがこの程度、外に比べれば遥かにマシだ。

「確かに、硬いですね」

 稼働音を奏で続ける台の上で、ティアはすでに壁をペシペシと叩いていた。恐ろしいほど勇気がある。
 だがやはり壁は無言。
 どうすべきか。この壁を突破しない限り、この工場を後にできない。外に出るのは論外だ。
 物理破壊が難しいのは検証済み。
 ならば。

「ティア。魔術撃ってみてくれるか?」
「は、はい」

 ティアは台の縁を通って壁から距離をとると、指を向けた。
 そして目を瞑り、魔力を集中させ始める。

「シュロート」

 ティアは、いつもは即座に放っている魔術名を口にした。
 走ったスカイブルーは極端に淡い。

 魔術的な攻撃でも、やはり壁は壊れなかった。

「うう……なんか悔しいです。魔力切れ起こしてるみたいで……」

 剣でも駄目。魔術でも駄目。
 こうなれば、この壁の突破は破壊では不可能ということになる。
 アキラは目をきつく閉じ、必死に活路を探し続けた。

 本来自分はこんな役どころではない。頭を使って活路を見出すような人物ではないのだ。しかし、普段それを担当している2人は壁の闇に消えてしまっている。

「……」

 アキラは壁に手を当て、必死に記憶を掘り返した。
 答えは見つかるはずだ。かつて自分は、この壁を突破したはずなのだから。

 壁が歪んだのは2回。エリーとサクを呑んだときと、ティアを呑み込もうとしたとき。そして今は、ティアを前にしても口を開かない。

 その差は。
 その差は―――“確かそうだった”。

「―――、っ―――」

 身体中から発汗した。
 答えが分かった。それと同時、記憶が解けた。

 この壁の突破方法。その先に待つ存在。
 そして―――“思い出すことを拒んでいた”その理由も。
 それら全てが脳を埋め尽くし、アキラの身体は崩れそうになった。

 “順風満帆に続いていたこの旅は”―――この地で。

「あ、あの、アッキー?」

 熱に浮かされたような表情で、ティアが顔を覗ってきた。
 アキラは頷き、目を伏せる。
 深く深く、眠りにつきそうなほど閉じた目を、弱々しく開けて、ティアを見つめた。

「ティア」

 まずは―――壁を突破しよう。

「俺さ、お前にはすっげぇ感謝してる」
「え? え、あはは、ありがとうございます」
「おだててるんじゃない。本心だ。お前がいなかったら、この旅は続かなかった」
「い、いや、嬉しいお言葉ですが……、あの、最近私、あまり役に立ってないような……」
「そうじゃない。戦力面だけじゃないんだ。お前が騒いでくれたおかげで、旅を本当に楽しくしてくれた。お前は心の支えだよ。お前がいたから、俺は、心折れずに先を見れた。アイルークで励ましてくれたことを、俺はずっと忘れない」
「……………………。え……ええっと、そのですね。私、今めちゃくちゃ感激しています。アッキーがそんなこと言ってくれるだけで、私がいる意味があったんだ、って思えます。…………ただ、そのですね。なんでだろう。何かあんまりいい予感がしないんですよ。いやあれですよ、嬉しいですよ。ああ、あっし、心がどこか穢れている気がします。折角アッキーがそう言ってくれているのに、何か背筋がぴりぴりするんですよ。なんか安っぽいとか思っちゃって」
「言ったのは本心だ。嘘偽りない、本心だ。お前に伝えたかったこと、言っておきたくて。誰かのために何かするって本気で思えるお前は、本当に、最高だよ。お前の優しさは世界を救える」
「お……おお、アッキー、私最悪ですね。人の想いを、斜に構えて受け取るなんて。今後も、私にできることがあれば、何でも言ってくだ―――」
「―――そこでだ」
「んん?」

 ティアの顔が凍りついた。
 そしてアキラはティアに―――全力で頭を下げた。

「悪い、ちょっと気絶してくれ」

―――***―――

「んん? どこだ? 解らん。確かあったと思ったのだが、実験用の拘束具が見当たらん。哀しいなぁ、何かを失うということは、それだけで哀しい。在り続けなければ吾輩の脳をすり抜けていってしまう。どうする、どうするか。できあいでもう1度造るか? いや、片手でやるには難しい。いや、首輪なら持っている。一旦そちらで……、む? 無い。そうか、先ほど使ってしまったか。ならスペアを……、ああ、そちらもこの部屋の中か。畜生」
「ぐ、ぁっ!?」

 棚を片手で漁りながら、ガバイドと名乗った魔族は腕に力を込めた。
 顔を手のひらで掴まれ宙釣りになったサクがくぐもった悲鳴を上げる。
 サクは必死に手を外そうと両手で抵抗しているが、ガバイドは目も向けずに棚を漁り続けていた。

「ん? んん? おお、奥底に見えるのは、……む? 妙に大きいな。拘束具かと思ったのだが、なんだこの妙に大きな輪は?」

 ガバイドが取り出したのは、半径5メートルはある鉄製の巨大な輪だった。
 それを軽々と棚の奥から引きずり出し、眼前に掲げる。
 再び、足元には書物や瓶が散乱するが、ガバイドは気にも留めなかった。

「うむ」
「ひっ」

 ガバイドは無造作に手を伸ばし、宙釣りになったサクの腹を掴んだ。撫でまわすように手を動かし、しばらく黙考すると、棚から取り出した輪を部屋の隅に放り捨てた。
 棚に当たった巨大な輪は棚を破壊し、またも何かが壊れる音が響く。

「やはり駄目か。サイズが違う。あれは何に使ったのか……。そうか、そうだ、“指輪”だ。名前は分からんが、何かに使った記憶がある」

 ガバイドは再び棚を無造作に探索し始めた。
 魔族の身体が動くたび、サクからくぐもった悲鳴が漏れ続ける。
 愛刀は腰にあるが、万力のような力で顔を絞めつけられているサクに手を伸ばす余裕は無かった。

「っ、……、っ、ぅ」

 その光景を、成す術なく眺めるエリーも余裕が無かった。埃まみれの部屋にうつ伏せに倒れ、眼だけでガバイドの挙動を辛うじて追っていた。
 身体が燃えている。原因は、先ほど僅かに鼻に触れただけの異臭。僅かに力を込めただけで身体がバラバラになりそうだった。
 骨を芯から溶解するような苦痛に、エリーは顔を歪め続けていた。

 一体何だ。あの“魔族”は。
 エリーは虚ろな眼でガバイドを見上げ続けた。突如として現れ、サクを掴み上げ、自分に妙な首輪を嵌めた。
 そして今、あたかもサクを物のように振り回し、部屋の探索を続けている。
 エリーの方など、最早見向きもしていない。

 ガバイドは、“魔王様直属”と名乗った。

 その表現を使った魔族に、エリーは2体心当たりがある。

 1体目は初めて遭った“魔族”―――サーシャ=クロライン。
 人の心に囁きかけ、思い通りに人間を操作する―――“支配欲”の魔族。
 2体目は話に聞いた“魔族”―――リイザス=ガーディラン。
 人の財を奪い取り、赫い部屋に金銀を収集する―――“財欲”の魔族。

 その驚異的な存在たちに自分たちはアイルークで激突した。辛うじて退けたあの激戦を確かに覚えている。
 だがこのガバイドは、“異質”だった。

 自分たちを、人とすら―――“攻撃対象とすら見ていない”。
 サーシャもリイザスも、自分たちを最低限は敵と判断していたというのに。

「むぅ、ダメだ。やはり本腰を入れて探すか」

 ガバイドは“ひとりごち”、散乱した部屋に左右の目それぞれを不気味に這わせる。
 拘束が緩んだのか、サクは手を慎重に提げ、腰の刀に手を伸ばしていた。

「うむ、よし。クウェイク」
「――――――ーーーっっっ!!!!」

 サクの全身に、グレーの光が走った。
 バチバチと迸る“痺れ”に、サクの身体がびくんと跳ねる。

「―――サ、サク、さん!!」

 エリーはようやく声を絞り出せた。
 ガバイドが手を離すと、サクはそのまま落下し、倒れ込む。
 エリーが呼んでも、サクはピクリとも動かなかった。

「ん―――? ああ、金曜か。どうやら加減を間違えたようだ。いかんなこれは。壊れたかもしれん」

 びくりとエリーの心臓が止まった。
 クウェイクは土曜属性の魔術だ。
 魔術防御に長けた―――揺るがない属性。だが、その力は攻撃面でも重宝する。
 あまりに揺るがないその力に触れた者は身体の中から“揺さぶられ”、防御能力に依存せずに―――“破壊される”。

 金曜属性の―――弱点属性。

「け、は、こ、」

 サクが嗚咽を漏らしながら、うごめいた。
 その様子にエリーは鼓動を取り戻し、へなへなと脱力する。
 だが、ガバイドは振り返りもせず、今度は別の棚を漁り始めた。

 やはり完全に―――“敵とすら見ていない。”
 相手を見下すという意味合いでは無い。自分たちの強弱を考慮していないのだ。

 飛び込んできた虫。あるいは、吹き込んできた風のように――― “敵というカテゴリーに分類されていなかった”。

「が、は……、っ」

 ガバイドの拘束が外れたサクが、身を起こした。
 腰が砕けたように埃まみれの床でうごめき、身体を痙攣させながら、それでも足を1本ずつ動かし、立ち上がる。
 荒い息遣いと共にむせ返り、孵化でも再現しているかのような時間をかけ―――右手は愛刀、姿勢は中腰。ようやくいつもの戦闘態勢をとった。
 掴まれていた顔は、血が滲んだように紅くなっている。

「お前、は、なん、だ」

 サクが辛うじて絞り出した声は、倒れたエリーの耳にかすかに届く程度だった。
 エリーは燃えるような身体に鞭うち、サクと同じようにもぞもぞと立ち上がる。
 サクがあれだけの在り体で立ったのだ。自分だけこのまま寝ているわけにもいかない。

「む。む。む。む―――? なんだ、聞いていなかったのか。哀しいことだ。まあいい。伝えることの基本は繰り返すことだ。繰り返し、繰り返し、繰り返すことで脳は情報を呑み込める。吾輩はガバイド。ガバイドだ。もう1度言おう。ガバイドだ」

 立ったサクに、ガバイドは分厚い白衣で膨れ上がった背を向け、棚を両手で漁りながら応じた。
 依然として、こちらを“気にとめようともしていない”。

「私たちに、何を、した。ここは、どこだ」

 サクが額に汗を浮かべながら口を開く。すぐには跳びかからなかった。彼女もエリーと同じく、魔力切れの症状を起こしている。
 だから込めて、込めて、込め続けているのだ。
 エリーも腰を落とし、魔力を込め―――ようとした。

「うむ。そうだな。そのことばかりに気なってしまっては、実験に支障が出るやもしれん。お前たちの疑問を処理することは、吾輩にとって有益だ。そうだな、1つ目。1つ目の質問から処理をしていこうではないか。『何をした?』だったか。魔術名はクウェイク。土曜属性の魔術の下の下。ただ相手を中から揺さぶるだけ。かなり有名なものではあると思っていたのだが、“世界に吾輩の認識と差異があったのかもしれん”。知らんかったか」
「っ、クウェイクではない。私たちは、アドロエプスにいたはずだ……!!」

 挑発しているのか、はたまた素なのか。ガバイドの噛み合わない返答に、サクは噛みつくように睨んだ。

 その珍妙な会話を傍観しながら―――エリーは手の開け閉じを繰り返していた。

「そうかそうかそちらの方か。やはり遭遇したばかりの者の心は解らんな。他者にとって解釈困難な情報が何であるのか、吾輩には解らん。さて、では返答をしようか。おっと」

 バリン、と、ガバイドが両腕を入れている棚から瓶が割れる音が響いた。肉が焼けるような擬音が部屋中に響き、むせ返るような異臭が部屋に充満した。

「うむ―――?」

 ガバイドが両腕を棚から抜いた。汚れ切った白衣のような服装は何故か肘まで消失し、泥色の肌を露出させていた。
 エリーとサクはびくりと身構えたが、ガバイドは正面から向い合い、重々しく、軽々しい口を開いただけだった。

 エリーはもう1度、魔力を込め始める。だが、何も起こらない。
 攻撃魔術はおろか、身体能力強化も防御膜も―――まるで魔力が反応しなかった。

「首輪のことは後回しだ」
「―――っ」

 エリーはびくりと身を震わせた。
  “ガバイドに心の底を見られた気がした”。
 ガバイドの視線が、エリーの身体中にべっとりとまとわりつくようなに感じた。
 たまたまタイミングが合っただけなのかもしれないが、“この魔族を相手にそう感じてしまうことそのものに”強烈な嫌悪感を覚える。
 この魔族に、自分という存在を“認識されることは”―――恐怖だ。

「アドロエプスは、吾輩による人間界研究のための、大切な狩り場である」

 論じるように、ガバイドは断言した。
 泥色の肌から活力を発し、輝いた部屋の中で、おぞましい理論を打ち立てる。

「人間界を知るために最も必要なデータは人間に他ならない。しかし、人体の構造、脳の処理速度、精神、魔力の質、その可能性と限界。それらを知るには、机上だけでは不可能である。ゆえに、サンプルが絶対的に必要となる」

 それは、演説だった。
 ガバイドは棚を漁るのを止め、拳を握り絞め、嬉々として語り続ける。

「そのため、生身の人間を捕獲し、捕縛し、テストケースに沿って実験を行う。属性や個性におけるバイアスをも考慮する場合、サンプル数は数千にも及ぶと想定できる。しかし、大規模な人間捕獲、研究については、“神族”が即座に察し、その抑止圧が強く、短期間での実施は困難である」

 ガバイドがさも自然に口にした“神族”という言葉に、エリーの耳がぴくりと動いた。
 思い浮かべたのはとある“しきたり”。

 それは、生物や自然を対象とした研究を強く禁じる、というものだ。
 人間は平等、という大前提から派生したと思われるこの“しきたり”は、人体実験や迫害、自然破壊を禁じる意味でも重要なものであると聞く。
 その分、薬の知識や治療方法は神族から提供されるのであるのだからなんら問題は無い。

 確かにガバイドが言うような実験を行えば、魔族の撃退に“神族”が介入してくる可能性もある。

「ゆえに、世界に数ヶ所ある―――“神族が介入できぬ空間に転移能力を設置し”、長期に渡り、吾輩の研究室に少数ずつサンプルを転移させる必要がある。条件を満たす地域の内、最も広大であり、最も周囲の人口が適している。また、戦闘能力の面でもバランスが優れている―――と、ここまでで良いか。ならば次は、移動手段について、か」

 ガバイドは何かを読み上げているような口調を終え、ギョロリとした瞳をふたたび独立させて動かし始めた。
 この多言な魔族の言葉の節々から、人々の倫理というものをゆうに超えた匂いを強く感じる。
 語るガバイドに、エリーもサクも口も挟めず、吐き気にも似た嫌悪感と戦っていた。

「うむ。お前たちは“粉”を浴びたであろう?」

 指を1本立て、次にガバイドは移動手段について語り出した。

 粉―――とは。
 やはり、あのヒダマリ=アキラが見た途端に叫んだ橙色の粉のことだろう。
 エリーは身体の魔力に指令を送り続けながら、眉を潜めた。
 あの粉は、大樹海の巨獣―――ガルガドシウムの戦闘不能の爆発と共に舞ったように思える。

「あれは、確か―――うむ、今度は思い出せたようだ。リロックストーンを元に発明したのだ。“転移石化合物の制限操作とその将来性について”。そうした研究をつい先ほど目にした気がしたが―――ああ、“朽ちてしまったか”」

 ガバイドは、先ほどの棚をギョロリと捉え、悲哀に満ちた表情を浮かべた。
 そしてそれは、即座に戻る。今後ガバイドは、その研究とやらについて惜しむことは無いのだろう。

「言ってしまえば“リロックストーンの制限解除”。リロックストーンの制限には、“魔力大幅減退”と“転移先座標固定”が挙げられるが、おおっと、いかんな。情報を蓄積せんのは吾輩の忌むべき悪癖だ。人間ではリロックストーンを知らんだろう。リロックストーンとは、魔界にある転移石を加工した物体だ。使用すれば、魔力を失い、望んだ固定座標に転移できる。しかし、だ」

 ガバイドは、教鞭でもとるように言葉を紡ぎ、そして、醜い顔をさらに歪ませた。
 じっとりとまとわりつくような、おぞましい口調での説明は、なおも続く。

「我輩はそのままの使用を良しとはせん。制約があまりに厳しい。ゆえに、加工を重ね、“制限操作”を可能とした。魔力減退を防ぎ移動できるが、満足に立ち上がることもできぬ制限。転移先で自由に行動できるが、魔力の減少が著しい制限。お前たちはその後者の発明品で、この地に来た。両方の制約を完全に除去することは、未だ―――む、む。そうか、その探求を失念していた。いかんな、いかん。探求を終えてないものを忘却するとは。いずれ再開しなくては」

 やはり自分たちがここに来たのは、リロックストーンの強制転移。しかし、以前見たサーシャやリイザスとは違い、自分たちは動き回れる。
 それが、ガバイドの言う“制限解除”なのだろう。
 エリーはようやくガバイドの言葉が呑み込め、そして、足元に視線を這わす。
 書物や誇りにまみれた床には、アイルークで2度見たリロックストーンが―――“座標固定の石”が存在しない。
 なまじ思考を巡らせ続けていたせいか、悪寒と恐怖が瞬時に昇る。

 これは。
 この強制移動は。

 逃げ道の無い―――“片道通行の強制転移”。

「それが……、アドロエプスの“誘拐事件”の正体か」

 苦々しげにサクが呟いた。エリーも眉を寄せる。
 シリスティアのアドロエプス。その、伝説の未解決事件。
 全てが謎に包まれ、失踪事件と言われていたその事件は、やはり、“魔族による誘拐事件”。

 全ての被害者は―――この場に強制転移をさせられていた。

「うむ。そう呼ぶ者もいるらしいな。吾輩が放った僕は、吾輩が必要とする材料が現れる、もしくは死を迎えた瞬間、強制転移の粉を撒き散らす。近頃は数が必要というわけでもなくなってな、判定させる必要があったのだ。お前たちは破壊したのか? “ならばまた放つ必要があるか”。楽しいなぁ、“今度はどんな巨獣にしようか”」
「―――っ」

 エリーは、胸が潰れたような気がした。
 ガバイドが末尾に、補足のように、軽々しく付け足したその言葉。この魔族は、“アドロエプスに再び伝説を放つと言っている”。

「なに、を、」

 分かっていて、言葉が漏れた。

「むむ? 分からんか、この高揚が。お前たちの尽力により、“吾輩がまた生物創造をする機会”に出逢えたということだ。そうだな、今度は吾輩の最も得意とする土曜属性の魔物にしてみようか」
「―――、」

 伝説の謎は、解けた。
 数百年も続いていた失踪は、人間では理解し難いマジックアイテムによるものだった。
 あの巨獣は、この場に転移させるものを判別する、判定器のような役割を持っていた。

 だがなんとも―――軽い。その口調の、なんとも軽いことか。
 ガバイドがべらべらと口にする、ガバイドの言うところの“疑問の解消”。
 人間が数百年も謎としてきた伝説は、5万超で暴力的に押し潰した伝説は、ガバイドにとってあまりに些細なことだったのだ。
 それこそ、“途絶えれば即座に修復できるほどに”。

 エリーは心の底からかつての失踪者に同情した。
 正直、アドロエプスの犠牲者など、ひとりも名前を挙げられない。
 時たま世界に広まるニュースを眺め、眉を潜める程度だった。それは諦めに近かったのだろう。所詮は伝説。手を出せる量分では無い、と。
 犠牲者の中にも、伝説を前には止む無しと諦めた者もいただろう。

 だがその実行者は、そんな認識すら持ってはいなかった。
 数百年続く伝説は、闇に包まれたアドロエプスの執行者は、一体何度“代替わり”をしたのだろう。
 ガバイドが定期的に伝説を操作するだけで、失踪は発生し続ける。

 ガバイドを討たぬ限り、アドロエプスの伝説は決して途絶えない。

「次は、首輪の話だったか」

 エリーとサクの動揺や身が痺れるような嫌悪感をよそに、ガバイドは淡々と説明を続けた。まるで研究者が食後の一服ほどの僅かな時間を惜しむように、2人の疑念を早々と払拭させる。

「さて。先ほど話に出たリロックストーンだが……。その制限と言ってもそこまで不満が多いわけではない。逆に制限を利用し、転移能力を消失した発明品は制作した。“魔力消失の拘束具”。それをもうひとつ探しているのだが……、む。む。参った。なかなか見つからん。む、む?」

 ガバイドは、再び棚に背を向けた。対面を終えた瞬間、エリーの身体は嘘のように軽くなった。
 エリーは、再び首に手を当てた。首輪のゴツゴツとした感触を指で感じ、エリーの身体は嘘のように冷え切った。

 今エリーはこの首輪によって、“魔力が消失している”。

「ぁっ」

 喉からかすれた声を出し、エリーが助けを求めるようにサクに視線を送ると、彼女はすでにこちらに向かい構えていた。
 ガバイドは、今、背を向けている。

 動くとするなら、今しかない。

「―――、」

 サクが、走った。樹海で見た“足場改善の魔術”は使用できないのか、魔力による強化のみをこの身に宿している。
 だが、それでも速い。慣れゆえか、この書物が散乱した足場でも、速い。逆巻く埃が散乱する。速度だけならそれだけで木曜属性の者にも追従できる―――天賦の才。
 狙いはエリーの首―――首輪。魔族相手にひとりで挑むなど正気の沙汰ではない。まずは戦力拡張が急務であろう。
 エリーは動きを止めた。サクの腕は信用しているが、首輪だけを切られるとなると身は硬直する。

 ガバイドは、まだ背を向けている―――

「“いかんなそれは、貴重なのだよ”」

 ガバイドから“何か”が放たれた。

「う……、そ」

 エリーはぺたりと座り込んだ。

―――今。

 今の一瞬の中で起こった事態が、眼前で起こったというのに―――理解できなかった。

 ガバイドから放たれたものは、エリーに高速で接近してきたサクの脇腹を捉え、彼女の身を吹き飛ばした。
 サクは、舞い上がる書物のようにきりもみしながら、棚に激突。
 棚から飛び出た書物がドサドサと倒れ込んだサクの身に降りかかる。“幸運にも”、怪しげな液体の入った瓶は落ちて来なかったようだ。

 本に埋もれたサクを呆然と眺めながら、エリーは、“今目の前で走った色”に顔色を失った。

 色は―――黒にも似た深い“藍”。

「“シュロート”。いかんな、いかん。確かお前は吾輩の“クウェイク”を受けていただろう。いかに抵抗のある金曜属性だとはいえ、流石に壊れてしまったか?」

 ガバイドがいつしか肩まで消失した汚らしい白衣から突き出しているのは左腕。その肩に。水色の宝石が埋め込まれている。

 その腕が―――“今度は水曜属性の魔術を放出した”。

 何が。何が―――起きている。

「だが許せ、まあ許せ。仕方ないことだ。その拘束具は貴重なのだ。作成自体は容易だが、見ての通り吾輩の部屋は哀しいことに物が消える」

 硬直したエリーの脇を通り、ガバイドはゆっくりと書物に埋もれたサクに近付いていった。
 そして足で本を蹴散らすと、空気を埋め尽くす埃に手を入れ、サクの頭を掴み上げた。

「……、…………」

 ガバイドが宙づりにしたサクは―――ほとんど死んでいた。
 口元に自らの血を滴らせ、四肢をだらりと下げている。右脇の衣は弾け飛び、露出した肌は黒く赤くなっていた。
 身体中を埃まみれにしたままで、身じろぎしないサク。

 それを見て、エリーは身体中から力が抜けた。

 ガバイドは、自分たちに、敵意を向けていない。
 だがそれなのに、ただガバイドが思うままに動いただけで、自分たちはこの部屋の埃のように振り回される。

 サーシャやリイザスに覚えた恐怖。あまりに小さい。
 アドロエプスで覚えた恐怖。あまりに小さい。

 目の前の存在に覚えるのは、恐怖を超越した―――絶望。

 ガバイドがサクを宙釣りにしたまま、エリーにも見えるように、ガジャリ、と、首輪を掲げた。

「おお、生きていたか。嬉しいなぁ。これで実験を開始できる。ほら見ろこの通り、我輩は拘束具を見つけ出した。嬉しいだろう、お前のためだ。実験が終わったのち、もし生きていたら、今度はお前が見つけるんだぞ?」

 エリーとサクの虚ろな瞳は、ガバイドが掲げた拘束具をぼんやりと捉えているだけだった。
 あんな“魔力消失の拘束具”など必要無い。そんなもの―――必要無い。

「長らく待たせたな。ようやくだ。仕切り直して。―――さて始めよう、実験を。“他者の心を操作破壊する手段とその快感について”。そうだ、思い出した、それはあのサーシャ=クロラインが求めていたものだ。だがいい、ままいい。吾輩の“探求欲”にはそれすら内包される。楽しいなぁ、探求は」

 サクの無防備な首に―――首輪が近付いていった。

―――***―――

 “一週目”では。

 涙を誘う、アルティア=ウィン=クーデフォンの献身的なシーンだったと思う。

「いやいやいやちょっと待って下さいよっ!? この際だから全力で謝りますけど、確かにあっしはあんまり役になって無かったですよ!? でもだからって気絶しろって……あれですか!? シリアスな展開があっしに向かないからですか!? そりゃあんまりですよアッキーィッ!! だってシリアス始めたのはそもそもアッキーじゃないですかぁっ!!」
「さっき何でもするって言ったじゃないか」
「いやいやいや、気絶しろって特技に無いですよ!! 何をどうすれば気絶できるのかむしろ知りたいくらいなんですけど!!」

 流石に、いきなりすぎた。
 工場の稼働音すらかき消すほどにティアが叫ぶ。そして、いよいよ涙ぐみ始めたティアに、アキラは頭をガシガシとかいた。

「この壁」
「うぅ……ぐすっ……。?」
「この壁が歪んで、呑んだ対象を転移させるのには条件があるんだ。“接近した対象に戦意が無いこと”。その条件を満たすには、気でも失ってないと無理だ」

 アキラは壁を拳で叩く。やはり無言。それはそうだ。今の自分は条件を満たしてはいない。

「だから、片方が寝るなりして、片方が隙をついて飛び込む。そうでもしないとこの壁は突破できない」
「は……はあ、だから私、ですか」

 ティアは泣き止み、眉を潜めて壁を眺める。
 黄ばんだ壁。生物のような壁。通過するために条件が必要な―――“魔物”。
 その情報が確信に変わるのは、この壁の向こう側での出来事だ。

「なるほど。アッキーがそう言うなら分かりました。私、寝てみます。超寝ます。寝られるかどうか分からないですが、がっつり寝てみます―――ってなんであっしなんですかっ!?」

 ティアが新技を会得したような気がしたが、アキラは目を細めただけで応じた。
 壁を突破するのであれば、確かにティアでなくてもよい。

「…………そうですよね。やっぱりアッキーか私でしたら、私が離脱した方が良いってことですよね。戦力的に」

 自虐的なティアの呟きに、アキラは胸が痛んだ。
 この痛みは、“一週目”でも経験した。押しても引いても動作しない壁を前に、エリーとサクが呑まれたときのことを思い起こし、可能性として提示した案。それを受け止めたのは、あのときもティアだった。

「くそっ、もう少し待てばティアが自ら言い出したのに」
「アッキー、この前エリにゃんにも言ったんですが、いいですか? ティアにゃんだって怒るんだぞぉぉぉおおおーーーっ!!!!」

 この件に関して、アキラは頭を下げることしかできない。
 鼻息の荒いティアが眠りにつくことは難しいような気がして、アキラは無駄口をようやく噤んだ。

 ここから先は、予断無く―――“劣悪な刻”を淡々と刻むことしか許されない。

「分かりましたよ。エリにゃんとサッキュンも気がかりですし? でもアッキー、壁を突破できたらちゃんと起こして下さいよ」
「深く眠れよ」
「いや、あの、……目を覚ましたら全てが終わっていたなんて、あっし耐えられませんからね?」
「いい夢視ろよ」
「あれ? 会話が一方通行です。あっし、目を見て話しましたよね?」

 アキラは、首を振った。
 無駄口はもう―――終わっている。

「ティア。お前は今から、“事が済むまで目を覚ますな”。わざわざ目を開けてまで、悪夢を視る必要なんて無い」

 これから起こることは、全て決まっている。きっとそれは―――確定事項だ。
 淡々ともがき、淡々と苦しみ、淡々と―――煉獄で焼かれる。
 きっとそれは、視る者総ての心に傷跡を残すだろう。
 “電気”に輝くこの部屋をも超すティアの明るい心に―――そんなものは作れない。

「…………」

 アキラは壁を強く叩く。この先にも、傷跡を作りたくなかった者たちがいるのだ。
 やはり駄目だ、自分では。この壁を超えることは、今の自分にはできはしない。

「お前がいなけりゃマジで詰んでたぜ……。眠った程度じゃ―――この殺意は隠せない」

 自分の気配で周囲が静かになったのは初めてだった。隣のティアは凍りつき、空気が止まる。
 しかしアキラは、それでも構わず壁を睨み続けていた。

 あの港町の―――“鬼”の事件。
 あれだけの騒ぎを起こした“鬼”に同情することはできないが、それでもアキラは―――このときばかりは“鬼”の言葉に同調した。

 そして同時に―――“とある女性”の底冷えするような殺意も強く際立つ。

「倒すなんて言葉じゃ甘ぇ―――“ガバイドは、必ず殺す”」

 スカイブルーの一閃が、走った。

「シュリルング」

 立て続けにもうひとつ。直撃したのはアキラの真横だった。
 振り返れば、ティアが両手を突き出し、再び魔力を込めていた。

「ティア?」
「壊そうとしてるんじゃないですよ。眠りにつくのは無理そうだから、魔力切れの気絶を狙います」

 言いながら、ティアの頭はぐわんぐわんと揺れていた。
 スカイブルーの色も淡い。
 上位魔術を満足に放てていないことは明白だった。

「正直私、何が起きてるか分かりません。この先に敵がいるってことくらいしか。でもあれですよね。そうでもしなきゃ、話が進まない、ってやつですよね」

 そうでもしなければ―――犠牲を払わなければ、刻めない“刻”。
 ティアが察したそれは、アキラが最も恐れるものだ。

 それが―――ヒダマリ=アキラの記憶の封を強固にしていたものの正体。

「……マジで悪い」
「いいですよ、お役に立てれば。もともと私の腹は決まってます。誰かが何かを求めて、自分がそれをできるなら、私はそれをためらわない。―――シュリルング」

 連続して魔術が走る。ティアの身体が極端に崩れ始めた。

 “魔力切れによる気絶”。
 言うは易いがその実態は、“疲弊による身体の緊急停止”だ。全力で走り続けて倒れるのとほとんど変わらない。

 それを誰かのために行える者は、果たしてどれほどいるだろうか。

 アキラは足元のベルトコンベアに視線を移した。
 本来ならば、この壁の突破を目論み、魔力が枯渇した者を“呑む”ための仕組みなのだろう。
 アルティア=ウィン=クーデフォンはその罠に敢えて乗っている。
 アキラは爪が食い込むほど拳を握った。

「アッキー、罪悪感なんて覚えないで下さい。それだと私、哀しいです。……いいんですよ。ちょっとした幸運程度に思ってくれれば。それ以上を、私は求めたりしない。ただ……できれば私と関わってよかったって少しでも思ってくれたら、……なんて。―――シュロート」

 低級魔術にシフトした。そろそろ限界が近いのだろう。
 アキラはティアの隣に並び、傷ひとつ付かない壁を眺めていた。
 ティアは、悔しそうな表情を浮かべていた。こうまでしても、この壁は正攻法以外では突破できない。

 ティアが漏らしている言葉は、本心なのだろう。
 誰かの役に立ちたいと言う彼女は、いつまでも―――きっと変わらない。人並みに、変わりたいと感じることもあるだろう。不満だって口にする。
 だけどそれは―――良い意味で、口だけなのだ。
 誰かを助けても得るものが無く、苦しむことなんて誰でもある。彼女もそうだろう。
 しかしそれでも彼女は変わらないから、その眼は途切れること無く、霞むこと無く、水のように澄んだまま、誰かを追っている。

 ヒダマリ=アキラに仲間を集めて世界を救う使命があるのなら―――水曜属性の魔術師はアルティア=ウィン=クーデフォン以外にあり得ない。

 彼女は今後も―――元気に騒ぎ続けてくれるだろう。

 アキラは小さく笑って、禁じたはずの無駄口を叩いた。

「散々ごねてたやつの台詞かよ?」
「ティアにゃんちょっとアピールしたかっただけですよ?」

 本当に―――その優しさは、世界を救える。

「ぅ、きゅぅ」
「それ素だったのか……!?」

 ほとんど透明な魔術を放った直後、奇声を発したティアはベルトの上に崩れ落ちた。
 稼働音通りにティアの小さな身体は壁に向かって運ばれていく。

 そして―――“ぐにゃり”。
 壁が歪んだ。

 アキラは表情を引き締める。
 やはりこの壁の起動条件は、“戦意の無い者が近づくこと”。
 それも、先ほども今もアキラが近くにいるのに開いたことといい、誰かひとりでも条件を満たしていれば十分のようだ。
 ティアの隣に身をかがめて眺めた先、壁がいよいよ大口を開けた。

 そして見えた、部屋の“電気”さえも拒絶する―――漆黒の“闇”。

 アキラは寝そべったティアの頭を軽く撫でた。
 そして、願いを込める。どうかこのまま、深く眠っているようにと。
 彼女には、感謝をしてもし足りない。

「“次にお前と出逢うとき”―――俺は心の底から感謝を捧げる。いい夢視ろよ、ティアにゃん」

 今は目の前の敵に、総ての力を捧げよう。

 さあ。

 行こう―――逝こう。

 順風満帆に続いていたこの旅を―――自分自身の手で、終わらせるために。

―――***―――

 瞬。

 エリーが、首に傷跡が残るほどに首輪の破壊を目論んでいた―――間。
 ガバイドが、サクの首に拘束具を嵌めかけた―――間。
 呼吸さえも、瞬きさえも許されぬ―――間。

 その、一瞬。

 サクを掴み上げていたガバイドの腕を、“何かが通過し”―――

「魔族の油断ゆえにか―――“死んだふりは見抜けないか”」

―――サクの声と共に、ガバイドの腕が、“ずれた”。

「―――、っ」

 遅れてドサリと床に落ちたのは、愛刀を抜き放ったサク。
 そして―――“切断されたガバイドの右腕”だった。

「サッ、サクさん!!」
「動くな!!」

 サクの叫びに、エリーは動きを止めた。次の瞬間にはつむじ風のようなものが走り、部屋中の埃が天井付近まで立ちこめる。
 濛々と舞う埃の中、エリーの硬直が解けたと同時、パキリと首輪が砕けていた。
 “魔力消失の首輪”が消えた瞬間、込め続けていた魔力がエリーの身体に張り巡らされる。
 魔力不足を除けば、正常な動作だ。

「サクさん、身体は、」
「一応金曜属性だ。ある程度は耐えられる」

 サクは言いながら、口元を歪めていた。
 身体中が埃にまみれ、穴の空いた服から見える脇腹は黒ずんでいる。

 痛々しいその体に、エリーは眉を潜めた。
 “死んだふり”。サクはそう言ったが、あれは演技でも何でもない。サクは重症だ。自分を掴んでいた腕を切ったのも、それが限界であったともとれる。
 金曜属性の防御能力が生かされるのはあくまで物理攻撃。魔術的な攻撃は、彼女の身体に深刻な傷跡を残している。

 だがそれでも、彼女は確かに、立っていた。

「私が倒れるわけには―――いかないだろう?」

 メンバー最強のサクは、痛々しい笑みを浮かべた。
 エリーは身体中に流れる魔力を―――魔術切れなど知ったことか―――さらに強く、強く込める。
 自分が絶望を覚えていたあのとき、サクは虎視眈々と、ガバイドへの攻撃を考えていたのだ。
 そしていよいよ一矢報いた。
 ここで動けぬようならば、旅を続ける資格は無い。

 エリーは、背を向けているガバイドを強く睨んだ。
 腕を失い、呆然自失としているのか、ガバイドは動かない。切断された腕を掲げたまま止まっている。

 今が好機だ。
 腕ひとつ落としたが、相手は魔族。たたみ掛けなければならない。
 隣のサクが腰を深く落とす。
 エリーもガバイドへの恐怖を拭い去り、魔力を込めた拳を構え、

「うむ、そうだ。“2つ目の質問には答えを返していなかったな”」

 絶望感が―――肥大化した。
 エリーもサクも、身体を硬直させる。

「うむ。うむ。うむ。どこから話そうか。追々説明しようと思っていたのだが、やはり今にしよう。吾輩は先ほど、お前たちの疑問を解消するのは重要だと言ったばかりであったのに、すっかり失念していた。哀しいなぁ」

 サクの神速の剣術を腕に受けたガバイドは、何事も無かったかのように喋り続け。

「そうだな。まずはこの建物だ。ここは吾輩の研究資料貯蔵庫のひとつだ。世界各地にある部屋の中でも、重要なものが多い。いや、ここにしか重要な物が置けないと言った方が的確か」

 腕が切断されたガバイドは、何事も無かったかのように振り返り。

「そして、“この地”。これが吾輩の名の次に、重要だ。そこのお前。金曜属性の魔術師が“壊れておらず”、安堵し、希望を得たお前だ。これは親切心から言うのだが、それは哀しいことにまやかしだ。加減したとはいえ、吾輩の魔術を受けて立てるということは腕に覚えがあるのだろう。だが、この地にはあるのだ―――“忘れてはならん前提”が」

 肘から先が欠損したガバイドは、何事も無かったように―――“両腕を指先まで広げて笑った”。

「なっ―――」

 思わず声を漏らしたのは、エリーかサクか。いずれにせよ、同時に注視したのはガバイドの腕。
 その腕には確かに落ちたはずなのに―――傷跡ひとつ残っていない。

 ガバイドは笑いながら。
 “前提”を、歌うように、導くように、詰み取るように、口ずさむ。

「楽勝が、惨死に」

 分厚い白衣で着膨れしたガバイドの身体が、濁った泥色に輝く。

「辛勝が、惨死に」

 次いでガバイドが身体に纏ったのは、黒にも似た“藍”。

「引き分けが、惨死に」

「―――伏せて!!」

 立っているのも限界に見えたサクを、エリーが覆いかぶさるように押し倒した。

 そして。
 ガバイドが“爆ぜた”。

「ぁ―――」

 音が、消えた。伏せた身体に暴風が叩きつけられ、木の葉のように巻き上げられる。
 臨死体験にも似た衝撃。
 足場総てが打ち砕かれ、身じろぎひとつできずに奈落に落ちていくような緊縛感を味わった。この世総ての災厄が襲いかかったかのような激動が、一瞬でエリーとサクの意識を刈り取り闇に沈める。
 しかし即座に呼び覚まされ、再び意識が吹き飛んだ。繰り返す一瞬の間の気絶と覚醒に、感情感覚が喚き散らし、あらゆる動作を許さない。

 その事象は―――災害の域だった。

「―――、かっ、はっ!?」

 暴風が、ようやく止まった。
 自分たちはどれほど巻き上げられたのか。無防備で地面に叩きつけられ、口から全身の空気を吐き出される。
 先ほどの身を切られるような絶望が、落下の衝撃に、淡く弱く呼び覚まされた。
 強く覚える死の匂い。地獄に片足を踏み入れたような恐怖に、エリーは生にしがみつくように暴れ、伏せたまま目をこじ開けた。

 そこは。

「な……に」

 砂。乾き切った砂。巻き上げられる砂。

 瞳が総て、それに埋まった。

 エリーが最後に見た外の景色であるアドロエプスは大樹海だ。
 動物こそいなかったものの、植物に埋め尽くされ、じっとりとした空気に覆われていた。
 だがここは、その対極だ。植物が存在しない。

 伏せているだけで身体が逆さまになっていると錯覚するほど歪んだ基盤。身体の横には、僅かにでも身じろぎすれば地獄まで落ちそうなほど深い亀裂が大陸を割っている。
 凶器と化した砂が風と共に叩きつけられ、身体中がズタズタに切り刻まれそうだった。
 落下直後に途切れた防御膜を慌てて張ってみても、体力を根こそぎ奪うような太陽がギラギラと照りつけている。
 時おり噴火直前の火山のような振動が轟き、そのたび身体が脳ごと揺さぶられた。
 上空から叩きつけられた身体は砕けたように激痛を響かせ、しかし本能的な部分で立ち上がることを要求してくる。

 即座に察してしまった。
 駄目だ。
 ここだけは、決して踏み込んではならない。
 太陽が照りつけていても、その光は決して微笑まない。

 本能が言っている。
 今すぐ逃げろ、この死地から―――と。

「……っ、っ」

 大地の亀裂の向こう側に、倒れたサクを見つけた。最低限身体を守ったのかうずくまるように身を丸めていたが、動く気配は無い。

 広く、そして狭く、汚らしい―――“輝いた部屋”。それら総てがかき消され、自分たちは。

 この地獄に引きずり下ろされた。

 あの―――

「ああ。いかんな、いかん。研究室が消え失せてしまった。哀しいなぁ。時おり加減を誤ってしまうのは吾輩の忌むべき悪癖だ。だがいい。まあいい。所詮この地にあるうちのひとつだ」

―――両手を広げて笑っている魔族によって。

 自分たちから離れて数十メートル。ガバイドは動いていないのだろう。あの場から巻き上げられ、ここまで吹き飛ばされたようだ。
 遥か遠方に見える猛々しい山脈を背に、ガバイドはギョロリとしたそれぞれの瞳でエリーとサクを捉えてきた。

「さて。お前たちにこの地の名を伝えよう。天界や魔界にすら響き渡る、劣悪にして凶悪なこの地の名を。勝利の方程式。神話の創造。物語の在るべき姿。それら総ての前提が、容易に塗り替えられるこの地の名を」

 吹き荒れる砂塵の向こう、ガバイドは頬までばっくりと口を割り、悦楽の笑みを浮かべた。

「絶望に沈んだ者に、我輩は常にこう伝えている―――“これがファクトルだ”」

 ファクトル。
 全世界のどこにいても、その名前だけなら知らぬ者は存在しない―――最強にして最凶の、“世界最高の激戦区”。

 “ザンッ!!”

「……?」

 岩をかき鳴らす砂風の中、妙な音と共にガバイドの不気味な笑い声が途切れた。
 途切れ途切れの視線の先、エリーは目を凝らす。

 見えない。

 身体は千切れたように痛む。
 が、何故か立ち上がることに必然性を感じ、エリーはよろよろと起き上がった。

 そこで。

「お前はサクとティアを頼む!!」

 そう―――誰かが言った。

「“テメェはマジで不気味だな、ガバイド”」

 アキラは、握り潰すほど強く掴んだ剣を構え、ガバイドに対面していた。
 再びあの“奇妙な感覚”を通り、斜に構えることを強要される劣悪な大地の上で腰を落とす。
 背後には、この場にアキラを届けたティアがうつ伏せに眠っていた。
 彼女がこの地で目を覚ますことは無い。壁の向こうにあった“強制転移”は、魔力や精神力を大幅に削り取っている。
 急速な回復能力を有する日輪属性のアキラですら視野が白黒し、立ちくらみでも起こしているような苦痛を強いられていた。
 だが、そんな不快感など、この地や、そして、目の前の存在に比すれば些細なことだった。

「……」

 アキラは眉を細め、目の前の物体を注視する。
 意識だけは手放さぬよう気を張り続けた転移の先、アキラは、“背を向けていたガバイドの首を切り飛ばした”。
 魔力を込めずに振るった剣は、ガバイドの首を確かに捉え、切断という行為を確かに全うしたのだ。

 だが。

 ガバイドは、対峙するアキラに、“不気味に嗤った”。

「む。む。む―――? 吾輩に出遭ったことがあったかな? 記憶に無い。それは吾輩にとって取るに足らない出遭いであったことになるのだが、そうでないことを願おうか」

 一体いつ、その首は戻ってきたのか。
 アキラが斬り飛ばし、地面に転がったはずのガバイドの首は、すでに元の位置で口をバックリと割っている。
 戸惑うばかりであった“一週目”。
 この現象を前に、アキラは恐怖で身体中が金縛りにあったのを覚えている。
 だがそれはこの“三週目”も同じだった。

 この現象のカラクリを、アキラは解き明かすことができなかった。
 覚えているのは―――ガバイドが口にした言葉だけ。

「“不死の魔族”……!!」

 苦々しげに呟き、アキラは威勢だけを張ってガバイドを睨む。

 離れた地点に、エリーもサクも倒れていた。エリーの動きやサクが動かないことを見れば、2人が重症であることなど即座に分かる。

 身体中の感情が、目の前の存在を“殺せ”と訴えかけた。
 だがその殺意の総和でさえ、目の前の“不死”には届かない。

 ガバイドは、腕をもごうが首を飛ばそうが、そのままで在り続ける―――“絶望の魔族”。

「うむ。うむ。うむ。吾輩の悠久性とでも言うべきか、この不死を知っているのであれば、やはり吾輩と出遭ったことがあるのだろうか。む、む、む―――?」

 感情に任せて喋りすぎた。アキラは舌を打つ。
 これは、“一週目”には無い会話だった。プロセス通りに動く必要のある現状では、由々しき事態だ。

「そうかそうか。お前は“触れたか”。確かに“そこ”には“吾輩の情報をも存在するであろう”。貴重であるな。話を聞く必要があるやもしれん」
「……?」

 完全に会話が分岐してしまった。ガバイドがどこか満足げに頷いている。
 “一週目”確かここでは、この多言な魔族は、戦意をむき出しにするアキラに対して眉を潜めたのち、“アドロエプスの緊迫感を削り取る薬物”について嬉々として語ったはずだ。
 アキラは眉を寄せ、剣を再三握り直す。口は真一文に結った。
 これ以上下手をして僅かにでもハードモードにでもなれば、完全に詰んでしまう。ここは、想いや意思すら捨て置き、生還のみを掴まなければならない場所であるのだ。

「む。む。む―――? 分からんか、解らんか。それは惜しいことをした。お前は今、生涯で最も貴重な機会を捨てたと知れ。“世界のもうひとつ”に触れる機会など、人の身では訪れて精々1度だろう」
「……世界の……もうひとつ……?」

 思わず、口を開いてしまった。
 “世界のもうひとつ”。そんな単語は初めて聞いた。

「そう―――“世界のもうひとつ”だ」

 砂風が吹き荒れアキラの身体を叩いたが、ガバイドが繰り返した言葉はそれらを遮断するように、アキラの身体に浸透してくる。

 “探求欲”を追求する魔族は、目を輝かせ。

―――あるいはこの物語にとって、最も重要な情報を口にした。

「この世、いや、この世界―――いやいや、たびたび現れる来訪者の異世界までも含めた、過去、現在、未来―――“それら総ての情報が保管されている絶対領域”。あらゆる世界に共通し、あらゆる世界それぞれに重なるように存在する。ゆえに、“世界のもうひとつ”」

 ガバイドは、分厚い白衣を振り回し、劣悪なこの大地が楽園のように嬉々とした瞳を携えた。

「その場の探求こそ、吾輩の悲願である!!」

 地獄の底から噴き出してきたような不気味な声を張り、ガバイドは叫んだ。
 ギョロリした瞳は、最早アキラを捉えていない。まるですぐ傍に“それ”があるように、不気味な視線を探るように這わせていた。

「限られた者は“世界のもうひとつ”から未来の情報を得る。限られた者は“世界のもうひとつ”から具現化を引き寄せる。だが我輩は、そんな些細な情報など求めてはおらん。吾輩は、その総てを掌握することに欲求を覚えているのだから……!!」

 “世界のもうひとつ”。
 それは、あらゆる情報を保持するデータバンクとでも言うべきなのだろうか。
 それが真だとするならば、例えばアキラが元いた世界。そこにも“世界のもうひとつ”が存在し、この異世界の情報も、あるいは“さらに違う異世界の情報”すら保持していたということになる―――ただ、アクセスする術を誰も知らなかっただけで。

 超常的な、研究者の持論。言ってしまえばそれだけのことだ。
 だがアキラは、思わず聞き入っていた。

 この異世界において、ロジックにはまり込まない2つの属性。
 “時”を司る―――月輪。
 “刻”を司る―――日輪。
 それら2つの異常な魔法は―――それこそ、もうひとつの世界でも介入しなければ実現し得ない。
 思えばあの“電気”も、そこから情報を持ってきたのだろう。

 アキラは生唾を飲み込み、いつしか取りこぼしそうになった剣を握り締める。
 そして自分に言い聞かせた。情報収集など、この地でなくともできる。

「リロックストーンによる移動はその付近を通過するようだ。だが、確率は無視しても良いほど低い。悠久である吾輩ですら1度か2度触れただけ。哀しいなぁ。土曜属性である吾輩は、確固たるアクセス権を有してはおらんのだ」

 ガバイドはアキラに対面こそしているが、瞳の“それぞれ”は虚空を彷徨っている。
 敵を前にして、こうした態度をとるのはやはり魔族として異質と言うべきだろう。
 この状況に置いて、ガバイドはある意味好都合な相手だった。
 無性に殺したい相手の隙が縫える。
 冷静に、冷静に、隙を狙え。

「だがそれゆえに、楽しいなぁ、探求は。得た情報を語るのは何事にも代えがたい快楽だ。こうしていると、我輩は悠久を非凡にすることができる」

 好機だ。“できれば今、方をつけたい”。

 アキラが駆け出そうとしたところで、

「―――だから今、あまりうろちょろされると気分が害されるのだよ」

 ギョロリとした瞳が同一の方向に揃った。ピリ、とした空気がアキラの真横を通過する。
 かすかに瞳に映った色は―――“藍”。
 直後の短い悲鳴に、アキラが反射的に振り返れば、エリーが倒れているティアの隣でぺたりと座り込んでいた。
 彼女はここまでサクを担いでやってきたのだろう。随分な活力だ。
 しかし、崩れ落ちたエリーはサクを背から落とし、失神直前のような表情を浮かべ、両手をついて肩を震わせていた。

「“バーディング”。む、効きすぎたか? 妨害魔術とは言え、そこまで……む。そうかそうか、火曜属性か。死ぬな。死なれると吾輩の探求に支障が出る」

 駆け出すことに、それ以上の理由は要らなかった。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 発動したか否かは微妙だった。
 2度の強制転移に削り取られた魔力は深刻で、アキラの魔術は1秒にも満たない時間で消失する。
 ほとんど惰性のみでガバイドに特攻したアキラは、力任せに剣を振るった。
 頭から股下まで縦一閃に走った剣撃。
 しかしガバイドはその場から動かず、身体のそれぞれが“立っていた”。

「―――っ、」

 今度は胴体の片方横切りにした。分厚いローブの中には何かが仕込まれているのか、ギンッ、と剣が弾かれる。
 アキラはしゃにむになって、2つになった首の片方を切り飛ばした。魔術の使用もできていない。剣の構えから何から落第点の動きだった。しかし、形振り構っているほどの余裕は無かった。
 ガバイドは、自分たちに敵意を向けてはいない。ただ、己の欲求の赴くままに動き、周囲が勝手に削り取られていくだけである。だから、それこそ、それゆえに。まさしく1秒でも早く、この“刻”を終わらせなければならない。
 ガバイド相手に敗北することは、死ではなく、“実験”とやらの結果の破壊だけあると、言葉の節々から感じ取れてしまう。

「くぁっ!!」

 首の跳んだ片方の胴に、アキラは当て身をかました。膨らんだ白衣を纏った身体と共に倒れ、硬い感触が身体を打つ。

 が、次の瞬間には、アキラは地面にたった1人で倒れ込んでいた。

「そういえば、我輩は今、実験を始めているのであったな。“少し外してもらおうか”」

 声は、背後。
 跳び起きたアキラは、即座に振り返り剣を構える。

 そこでは、“両手を掲げたガバイドが嗤っていた”。

「くっ」

 やはり、分からない。この不死が―――解らない。幾度斬激を浴びせても、ガバイドはそのままで立っている。
 その上自分は今、ガバイドの半分を下敷きに倒れていたはずだ。
 それがいつしか消失し、在るべき位置に戻っている。身に纏った白衣すら、破けていた袖も含めて完全に修復されていた。
 知っている事象。知っている不死。
 この場での記憶が完全解放されたアキラにとって、知らないことは存在しない。だがそれゆえに、脳が縛りつけられるほど、解らないことは恐怖だった。
 このガバイドという存在は、この世界のロジックに当てはまらない存在だとでもいうのだろうか。
 この魔族は―――“世界のもうひとつ”を知っている。

「ところで、リロックストーンの有効対象を知っているか?」

 ガバイドは笑い、嗤い、裂けたような口をさらに割る。

「生物、装備、魔力、そして魔力で囲った物体だ」

 何の話なのか。白衣すら傷ついていないことの謎解きだろうか。

「まあつまり、吾輩が言いたいのは、」

 アキラは眉を寄せた瞬間、

「う―――えっ!!」

 かすれたエリーの声が響き、

「づ―――!?」

 ガバイドが上空へ投げていたのだろう―――アキラの頭の天辺で、何かが割れた。鼻がツンと冷えるような痛みが走る、
 そしてパラパラと、少量の“橙色の粉”が巻き散った。

―――アキラはそれを、全身に浴びた。

「この地で無装備になりたくないのなら、剣は強く握っているべきである」

 グンッ、と身体が背後に強く引かれた。
 背後から鷲掴みされたような感触をまたも味わい、アキラの身体が“どこか”へ放り投げられる。
 急速に遠のく景色。かすかに見えたガバイドの不気味なそれぞれの瞳が、今はアキラだけを捉えていた。

「ファクトル内への強制移動。生き残れたら、今度はお前の移動中の話を聞いてみようか」

 無いであろうが。
 そう―――ガバイドの声が最後に聞こえた。

―――***―――

 ガ。
 ガ。
 ガ。

 そそり立つ山脈。それらに囲まれた巨大な迷路。
 暴風に岩がかき鳴らされ、砂はおろか小石すら飛び回り、散弾がまき散らされていた。
 轟く地鳴りは噴火間際の岩山のように絶えず響き、世界そのものが崩壊しているかのような錯覚に捉われる。
 草木は無く、彩りも無い。土色の風景は、太陽が強く照りつけていても底冷えするように―――寂しかった。

 ガ。
 ガ。
 ガ。

 死地。
 この地に現れて、ここをそう形容しない者はいないであろう。
 誰かがこの地に救いはあると言えば、誰もが口を揃えて錯覚だと断言する。
 存在するだけで、命を懸けた綱渡りを強要される。いや、綱渡りではない。自己に過失が無くとも落ちるのだから、薄氷の上を歩んでいるようなものだ。
 そして崩壊は確定している。

 この地に加護は存在しないのだから。

 ガ。
 ガ。
 ガ。

「っ、っ、っ」

 全身に脂汗を浮かべ、ヒダマリ=アキラは剣で一心不乱に足元を削っていた。
 太陽も身を隠すほどにそびえる岩山の狭間。暴風に全身を殴打され、石で切った額からは血が溢れ出していた。
 しかしアキラは拭うこともせず、ただひたすらに、足元を剣で突き続けていた。

「くそっ、くそっ、くそっ、殺す、ぜってぇ殺す、くそっ」

 アキラは呪詛のように呟き続けた。
 あの場所からどれだけ離れたのかは分からないが、今度の強制転移は精神が砕かれるような苦痛は無かった。ただでさえ矮小になった魔力がさらに奪われることも無く、意識を手放すことも無かった。
 “強制移動には種類がある”。
 アキラは解けた記憶による情報を思い起こし、そして何度も苦々しげに罵倒を吐き続けた。

 アドロエプスからこの地の“工場”。そしてその工場からガバイドの研究室。
 その2つの移動は、魔力を奪われる片道通行の強制移動だ。転移先の“制約”を外せる、ガバイドの発明品。
 しかし今、アキラの身に降りかかったのは別物だった。
 リロックストーンの制約を操作された、もうひとつの強制移動。
 それは、魔力減退の制約が外れ、“転移先の行動制限を強固にした発明品”。

 ガ。
 ガ。
 ガ。

 アキラは立ったまま、右手の剣で足元を削っていた。
 腰や膝、肩の関節がまるで動かず、棒立ち状態で身体が固定されている。

 足元には砂にくすんで土色になった宝石が設置されていた。
 拳大ほどのサイズのそれは大地に埋まり込み、表面が風化しているように見える。
 それは、アキラの身体を完全固定しているリロックストーンだった。

「すー、すー、すー」

 アキラは息を荒げた。歯を食いしばって砂の侵入を防ぎながらのそれは、なんとも間抜けなものだった。
 剣を強く握り、辛うじて動かせる肘や手首を操作した微々たる動作で攻撃を加える。いや、攻撃ではなく、切っ先だけによるそれは、単なる刺激だった。
 これさえ破壊できれば、自分は元の場所に戻れる。それを知っているというのに、身体はまともに動かない。
 もどかしい動作にアキラは歯噛みし、それでもそれを続けることしかできなかった。

「くっ、」

 リロックストーンを削っていた切っ先が外れ、無意味に地面を削った。
 アキラはそれだけで半狂乱になり、手首の動きを早めた。地面だけを削ることが増えてしまった。
 アキラは何度も、冷静になれと自分に言い聞かせる。
 しかし、それは失敗していた。噴き出す焦りが止まらない。自らの汗で顔に泥がこびりつき、切った額がジンジンと痛む。

 やはり、ここは、駄目だ。身体中が刺されるような拒絶反応を起こしている。頭がまるで正常に働かない。
 アキラは余計なものが視界に入らないようにリロックストーンだけを睨んでいた。
 この地で身動きが取れないなど、アキラにとって最悪の事態だ。
 アキラは狂ったように切っ先だけの刺激を繰り返す。リロックストーンはまるで欠けているように見えなかった。それは、アキラの手に残る感触からも当然のことだった。
 アキラは、リロックストーンの破損を祈った。
 ガバイドがいつからこの場にリロックストーンを設置しているのかは知らないが、風化して脆くなっていることを祈った。
 魔物が現れでもすれば、身動きできない自分など一瞬で灰になってしまう。

 一刻も早くこの“刻”を刻み終えることを―――切に祈った。

 しかし。

 アキラは同時にこの地を“知ってしまっていた”。

 この地には、この、ファクトルには。
 神の加護など存在しない。

「―――っ、」

 絶えず轟いていた地鳴りが、一層暴れた。
 足元の砂が顔面付近まで弾き飛び、アキラがあれだけ刺激を加えても微動だにしなかったリロックストーンすら僅かばかり顔を出す。
 同時、アキラの身体中の水分が汗となって噴き出した。ぼたぼたと汗が滴り、リロックストーンが濡れる。
 そして、アキラは伏せ続けていた顔を、蒼白にして上げる。

 暴れ狂ってこの迷路に吹き込んできていた風が―――止んでいた。

「―――、」

 笑ってしまうほど、危機だった。
 アイルークのヘヴンズゲートの赫い大群。アドロエプスのガルガドシウム。“二週目”から、巨大マーチュや巨大スライム、そしてマザースフィアを引っ張り出してきてもいい―――その総てが、あまりに矮小だった。

「ギィ―――グ」

 目の前のそれは、言わばティラノサウルスだった。
 土色の鱗に覆われた身体は、見上げても見上げても、見上げ切れないほど高い。鰐のように突き出た貌には凶暴な牙を装備し、隙間から濁流のような涎を零している。
 その巨体は、この巨大な迷路を塞ぎ、散弾のような風を遮断していた。
 濁った瞳は、完全にアキラを捉えている。

 ガルドン。
 かつてこの地で見たこの巨獣の名が、アキラの脳裏に浮かび上がる。
 遭ってしまった。このファクトルの規格外の魔物に。

 アキラは放心した心を強引に叩き、即座にリロックストーンの破壊を再開する。
 しかしその刺激では、リロックストーンの表面を擦るだけだった。

 死ぬ。
 死んで―――しまう。

「―――っ、―――っ、―――っ、」

 リロックストーンを捉えていたはずの瞳はいたずらに大地を舐め、剣の切っ先は見当違いに暴れ回った。
 ガルドンはアキラの元に、あまりに猶予の無い大股で接近してくる。
 祈った直後に、ファクトルがもたらしたのはこの絶望。
 例えこちらが勇者であろうとも、神話の主役であろうとも、ファクトルはそれを喰らうのだ。

 ファクトル。
 それは、加護など存在しない―――神話崩壊の死地。

 神の御手すら撫でれぬ領域。

 リロックストーンは壊れない。

 ガルドンが、大口を、開けた。

―――***―――

 人間が消失するという事象を、エリサス=アーティは初めて目の当たりにした。
 氷のように徐々に溶けて消えていったわけでもない。
 光のように徐々に透けて消えていったわけでもない。
 消えた。それ以外の表現が使用できないほど、ヒダマリ=アキラが消失したのだ。
 覚えた感情は絶望でも驚愕でもない。

 ただ、唖然。

 これは本当に、自分が知っているリロックストーンの移動だろうか。
 サーシャやリイザスの消失時も、徐々に空気に溶けていったように思える。

 全身が金縛りにあったように動けず、エリーは座り込んでアキラの消えた空間を眺めていた。
 心は痺れ、あらゆる感情が封じられていた。

「ときに、そこのお前」

 固定されていたかに思えた身体が、びくりと震えた。
 エリーは思い出したように顔を向け、反射的に背後のサクとティアを庇うように身じろいだ。
 ガバイドが使用した魔術、“バーディング”。その影響で脳が爆発しているような頭痛が響き続ける。しかしそれも、アキラの消失や、ガバイドが“またも水曜属性の魔術”を使用したことの混乱に比べれば微々たるものだった。

「人の心は、いかにして壊せるのだろうな」

 広大な荒野に立ち、ガバイドは独立して動く瞳を狭めた。
 エリーはその言葉に身を強張らせた。
 ガバイドが、ゆっくりと歩み寄ってくる。絶望の災厄の足音が確かに聞こえた。

「我輩はかつてその理論を解き明かした。人間の心など―――いや、どの種族も心の壊し方などある程度共通している」

 身は痺れて動かない。エリーはただ、僅かばかり神妙な顔つきになったガバイドを見上げることしかできなかった。

「最も単純なのは死の恐怖。自己の命をすり潰す絶望が訪れれば、心など崩壊する。崩壊するのだ」

 ガバイドが目の前に到着してしまった。落ち着いた口調で溶け込ませるように繰り返す。
 醜い貌がエリーの顔を覗き込んできた。吹きすさぶ砂風の音が遠くに聞こえ、視野が滲んでくる。身体中の感覚が、度重なる混乱で壊死したように止まっていた。

「他にもある。尊厳の破壊だ。心とは面白くてな、ときに寄り所を命以外に転換できる。夢を奪う。羞恥を与える。そうした手段で心を壊せるのだ。ただ、麻痺した心には平常を取り戻させる必要があるが」

 エリーの麻痺した心が、気づいた。ガバイドのこの会話は、自分に少なからず平常を取り戻させるためなのだと。
 実験が―――始まっている。

「我輩は数々の人間を“調べ”、そうした理論を確立させた。どの種類の人間でも、最短で心を壊す手順を作成したのだ。さて、そのために、お前がどのような種類の人間が調べようではないか。まずは心を静めろ」

 エリーは、ガバイドの言うように、心を静めた。
 魔族とここまで接近して、平常心を取り戻すというのも妙な話だ。
 しかしエリーは沈黙して、深呼吸を繰り返す。

 静寂な、空白の時間。サラサラと、砂が吹いていた。

「さて。では始めようか。ひとつずつ絶望を与え、そしてお前の種類を調べよう。どの種類の絶望が最も有効なであるのかを」

 エリーは、深呼吸を繰り返す。

「うむ。とりあえずお前にはひとつの絶望が存在する。先ほどの男はどうかな。あの存在がお前にとってどれほど重要かは分からんが、仲間であるのだろう? 死亡したぞ? ファクトルの深部に“座標完全固定”の移動をさせたのだから」

 ガバイドは、エリーの表情を探るように瞳をうごめかせた。

「さて、お前はこの絶望に震える種類かな?」

 ガバイドは絶望へ導くかのように、手を差し伸べてきた。
 そして、エリーは―――拳で応えた。

「“スーパーノヴァ”」

 ドバッ!! とガバイドの肘から先が消失した。
 彩り乏しい大地にスカーレットの色が炸裂する。この地にとっては刺激的な光と共に、エリサス=アーティは立ち上がった。

「む。む―――っ」

 今度は頭。エリーの拳は、ガバイドの顔面を吹き飛ばす。
 ガバイドが動かないことを見ると、今度はあえて魔力を込めず、蹴りをガバイドの胸に見舞った。肉とは違う、硬い衝撃が足に残る。
 しかしそれを利用してガバイドを後ずらせて距離をとらせると、エリーは倒れた2人を庇いながら拳を構えた。

「あたしがどんな種類の人間か?」

 心の痺れはようやく消えた。
 妨害魔術の束縛も心なしか弱まり、十分に動ける。
 体力と魔力の残量は絶望的だが、強引に動けば数十秒程度ならフルスペックで戦えるだろう。
 エリーは淡々と自己の戦力の確認をこなしていった。

「教える気にはなれないわ。あたしのキャラを把握するのは、たったひとりで十分よ」

 エリーは“絶望”に突進した。
 脇をしめ、両拳を胸の前で握り、身をかがめながら大地を蹴る。
 劣悪な地形が戒めとなり、普段の機敏さがまるで出せない。それは猛進ではなく、単なる前進だった。
 しかしそれで十分だ。

 自分がどんな種類の人間か。
 それはエリー自身容易に答えることはできないが、少なくとも、戦闘中に黙り込んでいるようなことがあるのならば、それは魔力を虎視眈々と溜め込んでいるときであろう。

「ノヴァ!!」

 ガバイドの腹部にもぐり込んで放った攻撃は、岩石でも殴りつけたような重い衝撃が拳に残るだけだった。ガバイドは僅かに後ずさるだけで、呻き声ひとつ上げはしない。
 中に何かが仕込んであるのか、この白衣は硬い。
 エリーはギリと歯を鳴らし、今度は露出しているガバイドの顎に拳を振り上げた。
 クリーンヒット。
 スカーレットの閃光と共にガバイドの顔面が吹き飛び、不気味な貌は消失する。
 しかし、エリーが拳を下ろしたころには、すでにエリーは“見下ろされていた”。

「ノヴァ!!」

 現れたばかりのガバイドの顔面を再び吹き飛ばす。
 脆い。今まで戦ってきた魔物の中でも、ガバイドの肉体は驚くほど脆かった。
 しかしその脆さゆえに、その身を吹き飛ばすことができず、ガバイドは今なお眼前で笑っている。
 全身が凍結するような“絶望”が浮かぶ。一体何度、自分はこの魔族を“殺した”だろう。首から上を吹き飛ばしているのだ。言うまでもなく、生物にとっては致命的な損傷である。
 魔力の過剰な使用で、むしろ攻撃手のエリーの頭に鈍い痛みが走る。
 だがガバイドは、まるで揺るぐことは無い。
 しかし、エリーの戦意も揺るがない。背後には倒れている2人。退くことは許されない。
 そして自分の意思は、絶望などでは潰えない。

「うむ。そういう種類か……?」
「―――スーパーノヴァ!!」

 エリーはあえて上級魔術をガバイドの脇腹―――汚らしい白衣に叩き込んだ。貌は駄目だ。すぐに復活してしまう。ならば防具に身を包んだその身こそ、この不死の弱点なのかもしれない。

「む―――?」

 重い衝撃が拳に残るかと思われた攻撃は、予想に反し、何かを砕くような感触を残した。
 “バリン”とガラスが割れるような音が響き、次の瞬間、ガバイドの身体が崩れていった。
 ジュ、と肉が焦げたような臭いが周囲に漂う。

「……!?」

 下半身が消失したかのように、ガバイドの上半身と白衣が大地に伏せる。
 一瞬ガバイドを倒したかと僅かな希望が浮かんだが、次の瞬間、背の低くなったガバイドは元の高さを取り戻した。

「ああ、哀しいことだ。発明品が壊れてしまった。対象を問わずあらゆる物体を溶解させるこの液体は、保管方法も含め、中々希少であったのだが」

 そう嘆くガバイドは、白衣すら修復が完了していた。
 息切れと頭痛の激しいエリーの身体には、すでに防御膜も身体能力強化の魔力も携わってはいなかった。“液体”とやらが掠めたのか、エリーの拳のプロテクターも一部が欠損している。
 体力も魔力も装備も。
 完全に―――潰えていた。

「だがいい、まあいい。それよりお前、中々見どころがある。吾輩の携帯ケースを破壊するとは、流石に火曜属性といったところか」

 火曜属性の猛攻をその身に受け、それでもガバイドは一切消耗していなかった。
 肩で息をし、脂汗を額に浮かべるエリーと比すれば、容易に優劣が判定できた。
 そして胴体も―――弱点では無かった。ただ、胸に携帯ケースを入れていただけ。

「さて、うむ。言っておこうか。吾輩の不死に種は無い」

 絶望を刷り込むように、ガバイドは断言した。
 エリーの脳裏にティアの言葉が蘇る。
 魔族は常軌を逸している理由は―――“ただ相手が魔族であるということだけ”。
 この魔族は、決して殺せない。
 拳はもう上がらなかった。今すぐにでも倒れ込みそうだ。エリーは熱にうなされたような表情をガバイドに向けることしかできなかった。

 これがガバイドの基本戦術であるのだろう。
 不死たるガバイドは、ただ相手が消耗するのを待つだけで良い。

 絶望の―――魔族。

「“世界のもうひとつ”には、決して届かぬ領域があるのだ。世界のロジックを崩壊させる手段が、そこにはあるのだからな」

 ガバイドは、両手を前に突き出した。
 右手は泥色。左手は藍色。
 土曜属性と、水曜属性。
 ロジックの崩壊したそれら色は、見れば見るほどおぞましかった。

「うむ。お前は少し元気が良すぎるな。もう少し弱らせてみようか。死んでくれるなよ?」

 ガバイドにはエリーの魔力が切れていることが分かっていないようだった。あの魔族に、他者の力を察する気は無い。あの魔術をこの身に受ければ、エリーは必然的に絶命するだろう。

「……ねえ」
「?」

 普通に声を出したつもりが、驚くほど小さかった。
 それでもガバイドが声を拾ったことを察し、エリーは細々とした声で言葉を紡ぐ。

「このファクトルって……人間ひとりがどれくらい生きられるものなの?」

 ガバイドは僅かに眉を寄せた。

「うむ。お前の疑問の解消は吾輩にとって必要である。では答えようか。一瞬だ。ファクトルの深部においては、一瞬で人間は力尽きる。運がどれほどよかろうが、数分程度で惨死に繋がるのだ」

 エリーはそれを、聞いた。
 その答えを―――満足げに、聞いた。

「じゃあ、無駄じゃなかったかな」

 エリーは膝を大地についた。もう立つことはできない。
 上半身だけを起こし、満足げに泥と藍を眺めていた。

 ファクトルの深部においては、人間ひとりが生き延びられるのは数分程度。
 それが揺るがぬ事実なら、エリーにとって至高の情報だ。

 あらゆる事実が惨死に繋がるファクトル。
 その前提を聞いてもなお、エリーは自分たちの前提を優先させた。

 “日々は繋がる”。

 ならば、

「あいつは運が、良いからね」

 数分程度で、戻ってくる。

「キャラ・ライトグリーン」

 今度は、見えた。
 “ヒダマリ=アキラ”が、力任せにガバイドの胴に剣を見舞ったのだ。
 重い衝撃音が響き、ガバイドの身体は転げていく。
 エリーはアキラに抱え上げられた。
絶望から離れるように、自分の身体はサクとティアの元に運ばれていく。

「タイムは?」
「遅い」

 アキラの軽口に、エリーは皮肉交じりの言葉を返した。
 この男は本当に―――ふざけたことをしてくれた。
 エリーの身体がガチガチと震え始める。この場に自分たちを残すなど、もう2度として欲しく無い。

 例え、戻ってくると確信していても。

「次やったら許さない」
「俺は被害者だろ」

 アキラはそう言って、自分たちを庇うようにガバイドに対面した。
 アキラの頭はくらくらと揺れているように見える。流石に魔力が尽きているようだ。
 だがそれでも、エリーは心の底から安堵していた。

 彼はきっと、この“刻”を刻んでくれる。
 あの絶望を―――超えてくれる。

「む。む。む―――?」

 立ち上がったガバイドは、腑に落ちない表情を浮かべていた。
 それもそのはず。ファクトルにおいて、惨死以上に優先される前提など存在しないはずなのだから。
 しかし、自分たちの前提がそれを凌駕した。エリーの身体が恐怖以外で初めて震えた。

「うむ。解らんな。吾輩の頭脳を持ってしても、お前の生存が解らん」

 言いながら、ガバイドは笑みを浮かべていた。
 ファクトルにおける人間の生存。それそのものが、ガバイドにとって“探求欲”を注ぐべき対象なのだろう。
 だからエリーは、探求すること阻害する僅かな嫌がらせで、答えた。

「言ったでしょ。こいつは運が良いのよ」

 エリーは虚勢を張り続け、笑った。

「―――うむ」

 ガバイドは再度腑に落ちない表情を浮かべ―――嗤った。
 そして、その独立した瞳で、アキラだけを捉える。

「ぅ」

 ゾッ。
 アキラとガバイド。その両者を身比べ、エリーの身体が絶望に包まれた。
 自分たちそのものには関心を示さなかったガバイドは、初めてアキラを“探っている”。
 その様子もさることながら、ガバイドは、何か得心している様子であった。
 だが、そちら事態はどうでもいい。

 エリーにとって深刻なのは、アキラの表情が、言い表せないほどの絶望感を映し出していることだった。
 分かる。察してしまった。
 この男は、ガバイドという絶望を―――超えられない。

「なるほどなるほど。お前のその、“確信した顔”。つまりそういうことか。そんなことまで、“世界のもうひとつ”は教えてくれたか」

 アキラは無言。
 エリーも無言。
 ガバイドだけが、多言に語り続ける。

「吾輩の攻略には絶望しているようだが、生存には執着するか。確かにそうだ。愚者でも分かる。確かに今、この地を離れる手段はある」

 遅れて。
 エリーも分かった。
 この絶望の地を離れる手段。
 その方法が、ここに無ければならないのだ。
 何故ならここは広大で、移動するのは不可能だ。魔族といえども、ガバイドは移動に適した姿には見えない。
 ならば、世界各地にあるという、研究所に瞬時に移動する術を有してなければならないのだ。
 エリーの目に、ガバイドの着膨れした白衣が映る。
 アキラを消失させたとき。自分に首輪をつけたときもそうだったのだろう。
 ガバイドはあの白衣から、“マジックアイテム”を取り出していた。

「だが―――“吾輩がそれを許すと思うか”?」

 エリーの予想は正しく、そして絶望に直結した。
 今、ガバイドは警戒している。
 今まで防御膜すら張っていなかったのだろう。身体から、2色が交り合った奇妙な色が放出される。脆い身体は、魔族の魔力という強固な力で鎧と化した。

 あるいは不意打ち。適当な攻撃ならば、“当たり”の携帯ケースをガバイドから得ることができたかもしれない。
 あるいは猛激。絶望しながらもがむしゃらに攻撃を仕掛け続ければ、“当たり”の携帯ケースをガバイドから得ることができたかもしれない。

 しかし、それは、潰えている。
 アキラが確信し、ガバイドはそれを察してしまったがゆえに。

「……やっぱり、“ハードモード”になったか」

 隣のアキラが呟いた。
 沈んだ表情になって、剣を腰に仕舞う。
 ハードモード。それはアキラが時おり口にする、奇妙な言葉だ。

「うむ。特攻してみるのも手だと思うのだが、諦めるのか?」
「ああ、諦めるよ」

 アキラの言葉で、今度こそエリーは絶望した。
 自分たちの前提は、この地の前提に塗り潰されてしまうのだろうか。
 だが、アキラは言葉を続けた。

「これは、妥協案だ」

 アキラが呟き、自己の懐に手を入れる。
 表情は、依然として絶望。だがその絶望は、ガバイドに向けていた膨大な殺意を抑えるという種類のものだとエリーはようやく気づいた。

「俺らの前提、続く日々。この地の前提、惨死。これは、それらが相殺された妥協案だ」

 ガバイドも表情を変えた。
 アキラが懐から取り出したのは、泥を固めたような色の拳サイズの“携帯ケース”。

「これで外れのケースだったら、格好つかないな」
 アキラは携帯ケースを開けた。
 ガゴッ、と重い音が響く。
 そしてアキラは、中から2つの小さな瓶を取り出した。

 中に入っているのは―――光に輝く“橙色の粉”。

「必ず迎えに行く」
「……!?」

 アキラが瓶の蓋を開けたかと思うと、それをエリーに向けて振ってきた。ぶわりと粉が周囲に舞い、エリーは粉を全身に浴びる。
 何を。
 そう口にする間もなく、エリーは身体を背後から鷲掴みにされた。

「……最初に吾輩に当て身をしたときか」
「……ああ、予想通りハードモードだったからな。最短狙ってたんだよ。それにファクトルで金縛りにはあいたくなかった」

 アキラはエリーを見送ると、背後のガバイドに静かに応じた。
 アキラの前には、サクだけが倒れている。
 振るった粉は、エリーと身を伏せていたティアの身体を“どこか”へ飛ばした。この瓶に入っている少量のリロックストーンでは、2人が限度らしい。
 2人は共通するどこかへ向かう。しかしそれは、アキラの手に残った粉とは違う場所だ。

 アキラは残った瓶を握り締め、空き瓶と携帯ケースを放り投げる。
 振り返ると、ガバイドは魔力を抑え、悠然と立っているだけだった。
 自分たちを追う気はもう無いようだ。アキラは歯を食いしばった。今すぐにでも、この魔族を殺したい。だがそれは、不可能だった。

「たった数度の移動で“世界のもうひとつ”から得た情報にしてはあまりに妙だ。『全能』たる日輪属性ゆえか、お前は未来でも視たのか? 本来そうした力は、『全知』たる月輪属性の本分であると思うのだが。珍しいな」

 ガバイドは、アキラの属性に気づいていた。その上で、日輪属性を、そして月輪属性も、知っている。
 しかしそれでもその身を止め、アキラの瞳を探るように眺めるだけだった。
 それこそ本当に―――希少な日輪属性ですら、サンプルのひとつに過ぎないかのように。
 それが、アキラの逆鱗に触れていた。
 この魔族は淡々と、神経を逆撫でするような言葉しか吐き出さない。

「ガバイド」

 アキラは、瓶の蓋を開けた。
 殺意に震える声を必死に抑え、砂風の向こうの不死を睨みつける。

「俺じゃお前を殺せない」

 何が『全能』たる日輪属性か。宿ったのがこの愚者では、不可能なことなど山積みだ。
 現に今、この旅を、自分の手で終わらせてしまった。

「だがいいか。いつか必ず、お前の不死を超える奴を連れてくる。お前を地獄に引きずり落とせる奴を、俺が必ず連れてくる」

―――生存は、知っている。信じている。
 彼女もきっとこうして、この煉獄から逃れたのだ。

「負け惜しみかね」
「負け惜しみだよ」

 アキラは自分とサクに粉を振りかけた。橙色の粉が舞う。
 結局自分は、どれほど超えたいと切望する相手前にしても、尻尾を巻いて逃げることしかできない。
 残した言葉は人任せ。勇者の器とやらは、お世辞にもあるとは言えなかった。

 だけど、そんなものなのだろう。

「これが俺のキャラクターだ」

 アキラとサクは“どこか”へ投げられた。

「哀しいなぁ、畜生」

 残されたガバイドは、砂の中で小さく呟く。
 逃れる者を追いはしない。悠久たるガバイドにとって、過ぎゆくものは過ぎゆくのだ。
 しかし。

「我輩は機会を逃したのだろうか……」

 過ぎ去った理論。
 人の心の破壊と操作。

 それを追い求める必要が、ガバイドにはあった。

 この理論は―――未だ確立されてはいない。
 たったひとりの人間によって、その理論は崩壊した。

 過ぎ去るはずの記憶も、その人間のことだけは例外的に留まり続ける。

「ああ、“お前”の心を壊すためには、何をすればいい?」

 あらゆる被虐を与えたのに。
 あらゆる理論を試したのに。
 その心を掌握することは、あるいは“世界のもうひとつ”以上に叶わなかった。

 ガバイドの瞳は、消えたアキラたちを捉えていなかった。
 そのそれぞれが“探求欲”に染まり、虚空を彷徨う。

 浮かぶ―――嗤い。
 解き明かせていない謎に、ガバイドは想いを馳せた。

「我が愛しのエレナ。どうかその美しい姿のまま、吾輩の前に立っておくれ」

“―――*―――”

 震えて暴れる切っ先は、リロックストーンをまるで捉えない。アキラは脂汗を噴き出し、形だけの破壊行為を繰り返していた。
 目の前の強大な巨獣は、完全にアキラを餌として捉えているようだった。

 喰われる。そうとしか思えなかった。
 殺される。そうとしか感じなかった。

 そして巨獣は大口を開け、

「―――、」

―――吹き飛んだ。

 鼓膜が爆発した。音が消えた。
 爆音に次ぐ爆音が骨髄を揺さぶり、閃光が爆ぜた視野は真っ白に埋まり尽くす。鼻孔を埋めていた砂すら飛び散り、爆炎の臭いが迷路の中に充満する。大地の振動など巨獣の足音の比ではない。いや、あのガルガドシウムの最期ですら、この比ではない。次元の違う破壊が世界を揺るがし、足場が岩盤ごと捲れ上がった。

「う―――おっ!?」

 リロックストーンごと吹き飛んだアキラの身体に、何かがまとわりついた。そして身体が、“そのまま宙に留まる”。
 大震災のような暴音や暴風が嘘のように矮小になった。
 戻った視覚や聴覚でガルドンを探ると、その最期が瞬時に分かった。
 巨獣には今なお怒涛の攻撃が突き刺さり、その巨体が後退させ続けられている。
 叫び声は、物理的に上げられない。大口を開けていたせいで、とっくに顎は吹き飛ばされている。

 続く、続く、連激。
 未だ生存している巨獣の耐久力には驚嘆できるが、やはりその最期は決まっている。
 走り続ける幾億の閃光が、巨体を岩山に張り付け、途切れることなく降り注いでいた。
 その処刑のような光景は―――5万超すら凌駕しているかに思えた。

「…………」

 一瞬で、ヒダマリ=アキラは平常心に戻った。
 自分が浮いている理由も分からず、巨獣が凌駕されているという驚愕もある。
 しかし、冷静になれた。
 パニックになっていた心には冷や水がかけられ、頭は即座に現状把握を開始する。
 自分と共に“包まれている”足元のリロックストーンに視線を向けると、それが先ほどの衝撃でヒビだらけになっていた。
 戻れる。戻ることができるのだ。

 この地でも、案外加護は存在するのかもしれない。

―――ただ、付与する者が神ではないだけで。

 アキラは足元のリロックストーンを小突いた。それだけで、アキラを束縛していた小石は粉々に砕ける。
 再び背後から鷲掴みされるような感触。

「―――、」

 消失する直前、アキラは今なお続く攻撃の元に目を向けた。

 “銀”のフィルターがかかった、遥か遠方の岩山。その頂上に。
 巨大な杖で銀の矢を射出する小さな人影が見えた。

 誰だか知らないが―――お前は最高だ。

 アキラの身体は再び絶望の魔族へ飛ぶ。

―――***―――

「く……、ぅ、」

 アルティア=ウィン=クーデフォンは、極寒の中にいた。身体に吹雪が突き刺さる。
 ここは、雪山の中だった。足が深々と雪に突き刺さり、地面は膝をゆうに超している。

「うぅ、うぅ、」

 それでも、ティアは前へ進む。昇っているのか、下っているのか分からない。
 日は沈んでいて、暗闇のただ中だった。前は灯りの有無以前に、吹雪に遮断されている。
 呻いて呻いて、ティアは前に進んでいく。
 背には、赤毛の少女を背負っていた。いや、すでに引きずっていた。

 強烈な寒気によって目を覚ましたら、全壊した建物の中にいた。
 物体らしいものは凍りついた棚程度しか無く、雪に埋もれて外と何ら変わりが無かった。
 隣に倒れていたエリーは見つけることができたが、残る2人はどこにもいない。
 エリーは揺すっても騒いでも起きなかったのだから、暖をとることが急務になった。しかし魔力はとうに底を尽き、棚を爆破して火を起こすこともできなかった。
 もっとも、点いたところですぐに吹雪で消失していただろうが。

「ふー、ふー、ふー、」

 ティアは、エリーを引きずって進み続ける。ただひたすら、自分が前と信じる方向に向かって。方向はとっくに分からなかった。

 全壊した建物の中、途方に暮れていたティアの目に僅かな光が見えたのは僥倖だった。
 今は吹雪に埋もれて見えないが、確かに自分は光を見えたのだ。幻覚で無かったことを切に祈りながら、正しい方向に進んでいることを信じながら、ティアは歩く。

「うう……、恨みますよ、アッキー……!!」

 一体、自分が夢を視ていた間に何があったというのだろう。
 意識を手放す直前、“何かとてつもなく良いこと”があった気がしたのだが、そんな記憶は吹雪によって吹き飛んでいた。
 大方自分とエリーは、またも“強制転移”させられたのだろう。

「……!!」

 そして、見えた。再度見えた。
 まさしく一寸先も見えない吹雪の中、その僅かな切れ目に、光が見えた。
 ティアは希望に活力を取り戻し、エリーを引きずる。今すぐにでも彼女に暖を取らさなければ凍死してしまう。

「ぁ」

 ようやく。ようやく光の正体が分かった。
 建物だ。
 この雪山の中、巨大な建物が座している。
 思ったよりもずっと近い位置に在ったそれは、どうやら教会のようだった。三角形の屋根の建物がいくつも連なり、一際大きな中央名建物に結合している。
 水色に輝く頑丈そうなガラスから光が漏れていなければ、ティアは岩山か何かと思っていただろう。
 ともあれ助かる。助かるのだ。

 ティアは自身の身の5倍はあろうかという門を頭で弱々しく叩く。
 いくつもの野太い氷柱の真下、ティアは重厚な門をおぼろげに眺めていた。

「はい?」

 吹雪で遮断されていた聴覚が、隙間を縫ってきた声を拾った。
 人がきた。助かる。

 ズッ、と重い門が内開きになると、ティアは最後に気力を使って倒れ込んだ。

「まあ……!!」

 向こうもこんな有様の人間が来るとは思っていなかったのだろう。
 汗も凍りつき、頭や身体に雪が積もった今の人間は、とてもではないが自分の根城に招き入れたいと思える対象ではない。
 しかし招き入れてくれた相手は、慌ただしくティアとエリーに被った雪を払い、奥の誰かに処置を求めて叫んでくれた。

「こ……こ、は?」

 ティアは、紫色になった唇で呟いた。
 目は見えない。温かな光が、視界一杯を埋めていた。

「ええと、まさか、タンガタンザから迷い込んでしまったのですか?」

 身体が誰かに担がれる。人の体温を感じ、ようやく生きている心地がし始め、ティアは目を凝らした。
 女性だ。
 くせ毛なのか、黒髪に自然なウェーブがかかっている彼女は、温かな表情を浮かべている。
 死に体のティアは、その女性に魅せられた。

「わたくしはカイラ=キッド=ウルグス。このマグネシアス修道院に務めております」

 彼女は、自己の名とこの建物の名前を言った。
 先ほどの口ぶりから、ここは大陸の境に在る修道院らしい。

 ティアの目に、ようやく部屋の様子が飛び込んできた。
 木製のベンチがずらりと並んだ、式場のような強大な空間。深部には、氷を削ったような透き通る女神の像が立っている。その巨大の偶像は両手を大きく広げ、世界中に加護を降り注いでいるかのように見えた。

「遠路はるばる御苦労様です。他の大陸から来られたのなら、謹んで言葉を紡がさせていただきます」

 カイラというらしい女性は、巨大な偶像のように両手を広げ、慈しみに満ちた表情で、言った。

「ようこそ―――“過酷”なモルオールへ」

―――***―――

「ぐ……っ、」

 もぞり。薮が盛り上がった。
 出てきた少女は全身泥や草木に塗れ、普段の紅い衣は泥色に変わっていた。

「つ……、あ」

 サクは、腕を強く引き、土中からもうひとりを引きずり出す。
 力を込めただけで脇腹から全身がバラバラになるような痛みが走る。だが、魔族の魔術を受けてこれならば安いものだ。
 同じく泥だらけになったもうひとり、アキラの頭に乗った土を払うと、サクは精根尽きてうつ伏せに倒れる。

「はーっ、はーっ、はーっ」

 狂ったように口を開き、荒い呼吸を繰り返す。口の中に地面の土が入ってきたが構わない。身体は酸素を求めていた。

 サクは、目を覚まして、危なく発狂しかけた。
 サクがいたのは、“研究室”であったのだ。
 しばらく周囲も見渡せず、身体は完全に硬直していた。あの、ガバイドという魔族。意識を手放した自分は“捕獲”され、即座に実験とやらに“使用”されているのだと心の底から焦燥した。
 しかし、長い時間硬直していると、冷静な思考が察した。
 この場所は、暗かった。天井から漏れるかすかな光が照らしているに過ぎない。あの光輝く絶望の部屋ではないのだ。
 そして隣に、エリーではなく、アキラを見つけた。

 そこからのサクの行動は早かった。
 一刻も早く研究所から距離を取るべく、アキラを担ぎ、光を目指した。
 どうやらこの研究所は土中にあるらしい。出入り口と思われる天井の扉を目指し、備え付けてあった梯子を上る。
 この研究所では、呼吸さえもしたくはなかった。

「はーっ、はーっ、はーっ」

 サクは荒い呼吸を繰り返した。
 自分が目を覚ましてから一体どれほど時を費やしただろう。即座に行動したはずだが、緩慢な動作は研究所からの脱出を数時間に引き延ばしたように思える。

 だが、ともあれ助かったようだ。

「……、」

 顔だけ横に倒してアキラを見た。同じようにうつ伏せになって倒れているアキラは、とりあえず生きてはいるようだ。
 きっと自分が意識を手放している間に現れ、そしてみなを救ったのだろう。
 なんとなく、サクは察した。

「……!」

 安堵したからか。サクの鼻孔が大気の匂いを捉えた。
 顔を動かして周囲を見渡す。
 どうやらここは森の中のようだ―――“珍しい”。

 そう思うと同時、サクは再び焦燥した。
 自分たちがあの死地から脱出したのは“強制転移”だと即座に察する。
 “最悪だ”。
 この地で倒れていることは、最悪の事態に直結してしまう。

 鼻にこびりつくのは草木の匂いを塗り潰す―――戦火の臭い。

「……!!」

 そこで、誰かの足音が聞こえた。顔を向ければ1組の男女が歩いている。
 男は背に、団子のように連なった球体を持っていた。
 女は背に、その身を超す巨大な輪を持っていた。
 サクには分かる。あれは、“武器”だ。

「?」

 向こうの男がこちらに気づいた。
 しかし、隣の女性に声をかけようともしない。
 そのまま歩いて、サクたちの正面を過ぎ去っていく。

 それは―――この地において、当たり前のことだった。

「っ―――待て!!」

 サクは声を絞り上げた。腹部がジンと痛みを発する。
 逃しては駄目だ。ここで彼らに助けを求めなければ、ここで倒れているままでは、自分たちの身は“戦火に包まれる”。
 それだけは避けなければならない。隣の男が、自分たちを絶望から救った意味が無くなってしまう。
 それだけは、許されることではなかった。

 向こうの女もこちらに気づいた。
 男女は、顔を見合わせ、それだけで、再び歩き出そうとしている。

 言わなければならない。
 あの2人が、自分たちに“価値を見出すような言葉”を。
 サクは躊躇なく、叫んだ。

「“ミツルギ=サクラ”」

 男女が足を止めた。振り返って顔を向けてくる。
 サクは息も絶え絶えになりながら、笑った。

「それが私の名だ。いくら“非情”なタンガタンザでも、この姓を聞いては捨て置けまい?」

―――***―――

「さっすが私の自慢の娘ね!!」
「…………」

 冗談を言っても、返ってきたのは無言だった。岩山の縁に立ち、彼女は漆黒のローブをはためかせている。
 この少女に冗談は通じない。ただ、彼女の前に冗談のような光景が繰り広げられるだけで。

「……」

 アラスール=デミオンは間もなく三十路を迎える女性だった。
 垂らせば背ほどまでの茶髪をトップで結わい、首筋から下は分厚い砂対策のローブに覆われている。肌は日ごろの弛まぬ努力で及第点を勝ち取っているが、そろそろケアのレベルをワンランク上げなければなるまいと密かに胸に秘めている―――女魔道士だった。

「はあ……」

 結婚適齢期を過ぎていると嘆くアラスールは、無言で無音な少女の隣に並び立った。横から盗み見ても、正面から捉えても、隣の少女の肌は雪のように透き通っている。
 神秘的、という言葉が彼女の周囲には必ず付き纏う。

「若さかなぁ……。おばさん結構傷つくんだぞ?」

 アラスールは冗談めかして呟き、岩山の向こうから“爆心地”を見下ろした。
 凶悪な巨獣、ガルドンが爆ぜた地点は、岩山ひとつが丸々吹き飛び、大層見晴らしが良くなっている。
 そんな壮絶な光景も、何度も見れば慣れてしまう。

「…………」

 もう1度、隣の少女を盗み見た。
 この神秘的な女性は、異常であり、異質であり、天才だった。
 アラスール自身、魔道士隊への配属速度によって、天才(美)少女として周囲に騒がれたものだが、この少女はそれをゆうに上回る。
 たった、1年。たった1年で、この大陸の魔道士隊の一員だ。
 その上“彼女が存在しているという理由だけ”で、このファクトルの深部を探索する魔道士隊が設立されたほどだった。
 そして、僅か10名の精鋭で構成されるこの特殊部隊は、世界で最も死に近いというのに、犠牲者が出ていない。
 それも全て、この少女の存在ゆえだった。

「…………」

 ただその半面、表情起伏が乏しいように思える。
 常に無言無音を通し、口を開くのも戦闘中くらいのものだ。
 彼女が日常で最も多弁であったのは、アラスールの記憶では自己紹介の時だった。

 現にこの部隊の隊長もアラスールが務めている。この少女に役職は無い。ただ独立して動き、敵を殲滅するだけである。
 彼女が人の前に立つのは苦手であるらしいことからの配属だが、それでも実力はこの精鋭部隊でも群を抜いていた。

「流石にガルドン相手じゃ疲れた? マリスちゃぁん」
「……」

 半開きの少女の眼が、アラスールに向いた。
 どこか抗議しているように見えた。この部隊で最も彼女の感情を読めるのは自分であろう。
 彼女が最も他者に反応を示すのは、マリスと呼ばれたときだった。自己紹介のときも、何度か彼女と言葉を交わせたのを覚えている。
 アラスールは満足気に笑い、再びガルドンの被爆地を眺めた。

「ごめんごめん、マリーちゃん。そういえば、さっきあそこに誰かいなかった? いや、ありえないとは思うけど、マリーちゃん、なんかずっと見てるから」

 本当に、ありえないことだ。このファクトルの深部に、自分たち以外の人間がいるなどということは。
 アラスールはガルドンの足元に、確かに人影を見ていたが、即座に自分の見間違いだと記憶を訂正している。
 しかしこの少女は、じっとそこを半開きの眼で捉えていた。

「……そろそろ行こっか。マリーちゃんも休憩しないとね」

 アラスールは伝え、爆心地に背を向けようとしたところで、“世にも珍しいもの”を見た。
 これを見たのは、今までたった1度切り。確か、各地の神門の調査から戻って来た時だったと思う。

 目の前の、感情起伏に乏しい少女は、朗らかに、笑っていた。

 少女は足元に脱いだ砂対策の分厚いローブを拾う。
 そして、アラスールの様子に気づくとそのままの表情で、愛称を誤解してしまった口調で言った。

「別に、何でもないっすよ」



[16905] 第三十二話『タンガタンザ物語(起)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2011/07/17 08:29
―――***―――

「目が覚めたなら起き上がってもらえないか?」

 目覚めたばかりの虚ろな瞳を天井に這わしていたら、怒られた。
 ヒダマリ=アキラは緩慢な動作で言われた通りに行動する。アキラはベッドの上にいたようだった。

「…………」

 蕩けたように思考回路は働かない。呆けたまま顔ごと動かしてアキラは部屋を眺めた。
 木の匂いがする落ち着いた部屋だった。面積は宿屋の部屋より数倍ほど大きい。そして、2桁に昇るほどの数のベッドが2列になってずらりと並んでいる。清潔そうな白いシーツが開けたばかりの目には厳しく、しかし身体はジンと温まったような気がした。そのどれもに人が男女問わず横たわり、寝息も立てずに眠り込んでいる。部屋の人口密度は相当高いようだが、静かな部屋だった。
 アキラが寝ていたのは、最奥のベッドだった。両腕を伸ばせば手首から先が脇の外に出るほど狭い。薄手のかけ布団を軽く持ち上げてみると、どうやら誰かに着替えさせられたらしく、浴衣のような病人着が顔を出した。

 と、そこまでアキラが把握したところで、再度声をかけられた。

「見ての通りこの仮眠室は人気でね。君がもし立てるのであれば、早々にベッドを開けてくれ」

 顔を向けると、無表情な女性がいた。伸ばせば肩ほどまでであろう髪を団子にして頭に結わい、白い首筋を覗かせている。眉は細く、身体つきもどこか不健康なように細い。年上のようではあるが、身体は触れば壊れそうなほど小さかった。そんな女性が、アキラが寝ていたベッドの横に供えられていた椅子に座り、腕と足を組んでいた。
 服装は、部屋に合わせて白い羽織り。ベッドのシーツは僅かばかり刺激の強い純白だが、彼女が羽織っている白衣は落ち着いた色が混ぜられていた。部屋の中にいれば目の休息を求めて思わず彼女を追ってしまう。あるいはそれを狙っているのかもしれなかった。

「うん。まだ呆けているね。あなたは魔力切れの症状を起こしているだけのようだったからここで寝かせていたのだけれど、それでは不十分だったか」

 アキラは首を振った。体調は問題無い。
 自己の身の加減を探り、そしてアキラは記憶を呼び覚ます。
 自分たちは、逃れたのだ。あの煉獄から。

「……もうひとり」
「?」
「もうひとり、俺以外にもいませんでしたか? ここに運ばれた人間がいるはずなんですが」

 無表情な白衣の女性は、うむ、と頷くと、僅かばかり思案するように目を細めた。
 白衣を纏いながらそういうことをされると、直前に視てしまった“絶望”に直結してしまうのだが、白衣の女性はアキラの様子に構わず淡々と言葉を吐き出す。

「この地で凝り固まらない方が良い。下手に謙れば付け込まれ、非情にも切り捨てられる。そんな様子で、君はよくこの大陸で生き残れたね」
「……もうひとり、いたはずだ」

 思ったよりも自然に、アキラは慣れない口調を捨てられた。
 内心気が立っているのかもしれない。

「彼女はとっくに目を覚ましたよ。私に君のことを頼んで、自分の服を直しにもらってくるそうだ。探索係の2人に運び込まれたとき、君はともかく彼女は大怪我を負っていたのだが、流石の血筋と言うべきかな」

 とりあえずは無事なようだ。アキラはほっと息を吐く。煉獄からの生還に、一気に身体中から力が抜けていった。
 自分たちを助けてくれた探索係とやらの2人にも礼を言わなければならない。

「俺たちを助けてくれた2人はどこにいるんだ?」

 そんなつもりで、アキラはそう口にした。
 すると目の前の女性はまたも、うむ、と頷き、

「死んだ」

 空気に溶け込むような口調。
 その言葉を、アキラは即座に呑み込めなかった。

「君たちがここに運び込まれたのは昨日の夕暮れ。今は昼だ。その間に、死んだ」

 アキラは喉が凍りつき、ぱくぱくと口を動かす。
 それでもその白衣の女性は、無表情のまま、淡々と、言葉を続けた。

「そんなものだよ、タンガタンザは」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「お前たちと、確認すべきことがある」

 巨大な広間の高い天井に、重圧さえ覚える声が広がった。
 1辺数百メートルはある莫大なそのホールの造りは、壁の1ヶ所に高台が設置してあるだけの質素なものだ。
 その高台に立つ男、ミツルギ=サイガは、今年で齢40を迎えるとは思えぬほど猛々しい肉体を持つ無精ひげの男だった。
 真紅の衣を纏い、耳の辺りで強引に切り落としたような短髪を振り乱し、日に焼けた重厚な面構えで断言する。

「この中に、死ぬ気で戦おうとでも思っている者がいるのなら―――それは愚者だ」

 サイガの眼下に並ぶは、巨大ホールを埋め尽くす尋常ならざる人の群れ―――否、“塊”。
 数えることも叶わぬほどに並びに並んだ彼らはそれぞれ独特の武具を肩、あるいは腰に提げ、無数の眼でサイガを見上げている。
 気も遠くなるほどの熱気の中、その誰もが口を真一文に強く結び、戦意に満ちた瞳を絶やすこと無く光らせていた。

「お前たちは、俺たちは、とうの昔に死んでいる。すがりつくべき生から離れている。切り替えなどという言葉は捨てろ。戦意を削ぐな。殺意を分散させるな。事象など、事情など、眼中に入れることは恥と知れ。お前たちは、俺たちは、槍のように尖り、矢のように飛び、目の前の敵を殺すことだけ考えればいい」

 サイガは総ての“兵”に睨みを利かせる。それはその言葉通り、殺気の域だった。
 ホールは完全に静まり返り、誰もが微動だにしなかった。

「…………これ、笑うとこなのか?」

 そんな異様な会合が行われているホールの外。唯一もぞもぞと動く男がいた。
 ヒダマリ=アキラは、申し訳程度に開いた勝手口にいた。
 病人着からいつもの青い上着とジーンズに着替え、無表情な女性から追い出されるように仮眠室とやらを出たアキラは、行く当てもなく巨大な建物の中をうろついていた。
 鉄の扉が並び続ける装飾品の無い広いだけの廊下を歩き、物音が聞こえてこの場に来てみれば。

 待っていたのはとんだ茶番だった。

 元の世界のB級映画の軍隊シーンか何かで見たような気のする光景が目の前にある。
 こういうときに使うとは思わなかったが、アキラはしんみりと思った。
 何が。何が―――起こっている。

「では、何を今さらと思うであろうが、最後に問おう」

 妙に落ち着いた声がホールに小さく響いた。
 大人数が物音ひとつ立てずに整列しているお陰で、アキラの耳にも大男の声が拾える。

「覚悟はあるか」

 無数の人間の返答に、ホールの大気が轟いた。半開きにしていた震え、思わずアキラは扉を閉じる。
 鼓膜をやられたと思ったアキラは耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
 続いて、ゴゴゴと重い音が響き、局地的大地震に襲われたように大地が揺さぶられる。
 しばらく身をかがめていたアキラが恐る恐る扉を開くと、すでに無数の人は消え、ホールは静まり返っていた。
 そして、大広間の奥の壁が天井付近まで持ち上がっている。あそこはシャッターのような巨大な通行口であったようだ。彼らはみな、そこから出ていったのであろう。
 激を飛ばしていた大男も、高台の奥の扉から出ていったようだった。
 一体、今のは何であったのだろう。ある種宗教じみた光景に、アキラは頬をぽりぽりとかく。そして何となく広間の中央まで歩き、両手を腰で組んで高台を見上げてみた。
 何が起こっているかは知らないが、熱気の残る中でこうしていると、先ほどのよく分からないシーンの一員になれたような気がする。

「総帥!! ご命令をアホなことやってないでサク探すか」

 一瞬で飽きた。
 とりあえずサクを見つけ出さなければ、今後の方針も立てられない。
 アキラは頭を振り、巨大な通行口に向かって歩き出した。この屋敷の詳細はまるで分からないが、外まで出れば何か分かるかもしれない。
 自分の緩慢な動きに、アキラは僅か苦笑する。知らない屋敷にいるというのに、まるで自分は慌てていない。
 随分と神経が太くなったものだ。もっとも、あの煉獄に比べればどこであっても安息の地に他ならないと感じているだけかもしれないが。

「お……う」

 巨大な通行口から足を踏み出すと、眼前にあったのは巨大な道だった。
 会合が行われていた大広間の幅でそのまま道が伸び、道の脇には倉庫のような鉄の建物がずらりと並び続けていた。巻き上げられた土埃がもうもうと漂い視界が極端に悪く、遠方は見えない。だが、煙に覆われた視野の先、隙間から巨大な岩山の影が見えた。
 この場で会合を行っていたあの面々は、あの岩山に行ったのかもしれない。

「ごほっ、あー」

 アキラは目を細め、道に背を向けた。まともに目も開けていられない。どうやらこの巨大な屋敷に戻った方がよさそうだ。

「……ほぅ」

 外から見ると、屋敷の膨大さが分かった。
 どこぞの和の将軍が居でも構えているような城とでも言えば的確だろうか。アキラがいるのは顔をほぼ真上に向けなければ頂点が見えない大門の前なのだが、建物の頂点は嫌でも視界に入り込んできた。天を衝くとは正にこのことで、頂点で煌々と輝く太陽の直下に三角形の屋根を構え、そこから同型の屋根が段差のように左右に連なっている。もともと壁は白塗りであったのだろうが、サイズゆえにか、あらゆる暴風を一手に引き受けるであろう巨大の屋敷は薄汚れ、しかしかえって重厚さを表していた。
 城に限らず、あらゆる建造物は遠く離れた地点で見てこそ広大さが分かるものであろうから、眼前の巨大さはほんの一部程度なのかもしれない。

「…………」

 ただ、アキラはこの城を見ても、和の雰囲気を感じ取ることはできなかった。
 古風ゆかしき形状の城。
 戦国武将でも座していそうな城。
 元の世界の修学旅行か何かで、幾度か見た城と同型の―――巨大な城。

 しかし、形状が同一でも、目の前の城は―――メタリックだった。
 “鉄製”。
 重々しささえ醸し出す薄汚れた城は、いたるところが鉄鋼物で構造されているようだった。そこに古風さは微塵も無い。ところどころ錆つき、鉄特有の匂いを風に乗せている。太陽の光を強く受け、熱量の塊と化し、身悶えるような熱気を放出していた。
 ふと、アキラは思い至る。
 自分がこの世界に来て―――日付を確認したが、強制転移のタイムロスはほぼ無かったらしい―――約3ヵ月。

 燃えるような―――夏が襲来していた。
 甲高い虫の音が響いている。

「鉄で家造るとか……」

 頬を焼かれるような熱気に汗を噴き出し、アキラは逃げるように、あるいは挑むように大門に向かって歩いた。
 屋敷の中は涼しかったように思える。流石にある程度の工夫をしているのであろうが、少なくとも外への配慮はされていない。近隣の民家には多大な迷惑をかけているであろう。
 アキラは埃にやられた目を擦りながら、屋敷の中に一歩足を踏み入れ、

「……?」

 違和感。
 アキラは眉を寄せた。
 今、自分の眼は何かを見た。そして、本能的に何らかの違和感を覚えたのだ。
 もやもやとした感覚が残り、アキラはただならぬ熱気とむせ返るような土埃の空間に舞い戻る。

「……!」

 違和感の正体が、今度は分かった。自分の眼は、“文字”を拾ったのだ。
 強固な鉄製の建物の外。
 引き上げられた大門の脇。
 そこに、何故か木製の、身の丈ほどのサイズの“表札”が貼り付けられていた。

 そこには。

「“漢字”……?」

 『御剣』―――と、記されていた。

 ゴ、ウ、ン!!

「っ―――」

 直後―――大地が跳ねた。
 瞳が捉えていた表札が暴れ回り、地上の砂粒が逃げ惑うように跳躍する。ほとんど頭上から砂を被ったアキラは眼と口を閉じてかがみ込んだ。庇った腕で擦った眼を強引に開き、飛びかかるような姿勢でアキラが振り返ると―――遥か遠方。
 つい先ほどまで景色にあった岩山の一部が黒煙と化し、炎上し、天を染め尽くすかのように立ち上っていた。
 噴火と見紛うその事象。しかし、冷え切るアキラの本能が告げれば、事情は違った形を映し出す。
 あれは―――戦火だ。

「おっと、“知恵持ち”がいたかな。援軍も間に合わなかったかね」

 太くも軽い声が、屋敷から聞こえた。
 砂まみれになったアキラは慎重に立ち上がり、屋敷に振り返った。

 今の振動でも表札以外微動だにしなかった巨大な屋敷の前。
 立っていたのは大男だった。無精ひげに、日に焼けた―――あるいはこの城以上に重厚な面構え。
 大男は、先ほど大軍に演説を行っていた男だった。真紅の衣は脱いだのか、服装はタンクトップを羽織っただけで、だらしない風情になっている。
 立ち上る土埃の中、大男は足取り軽く大門で傾いだ表札を正すと、思い出したようにアキラに顔を向けてきた。

「今からこの門閉めるけど、君は入るかい?」

 演説のときとはまるで違った口調に、アキラは戸惑い、辛うじて首を縦に振る。
 すると大男は、そうかと呟き門の脇での操作を止めた。あの場所に、大門を閉める仕組みでもあるのだろう。
 しかし、それだけ。
 大男は、すでに爆炎上がる岩山を見てもいなかった。

 それこそ―――眼中に無いように。

 アキラは再三岩山を振り返りながら、歩を進めた。
 改めて、思う。

 何が。何が―――起きている。

―――***―――

「いやさ、あっちーんだよ、この屋敷。いや中じゃなくて外がさっ。俺らはいいけど、近隣から苦情来まくってんだ。冬なら冬で寒いだとか喚き立てるし。んだよぅ、普段この屋敷の恩恵受けまくってるくせに……いや、“非情”なタンガタンザとはよく言ったもんだ。がっはっはっ」

 ミツルギ=サイガ。
 そう、この男は名乗った。
 軽快な足取りで軽口を叩くこの大男は、その名の通り、この屋敷の所有者であると言う。
 口調は白々しく、しかし重々しい声に、タンクトップという軽装で思うまま曝しているような猛々しい肉体。そんな風情でそんな肉体を揺らして練り歩く姿は、それなりに歴戦の兵を思わせるのだが、それ以上にギャップが酷い。

 そんな違和感と戦いながら、ヒダマリ=アキラはサイガの後に続いていた。
 遠方が透けるように長い廊下の至る所に閉まり切った鉄製の扉が並ぶ空間は、屋敷の中と言うより牢獄を連想させる。

「……さっきの爆発は、何なんだ?」

 アキラは、あの休憩室とやらで出会った無表情な女性の教えを遵守し、強い口調で訊いた。この屋敷の主と聞いた瞬間腰が抜けたのだが、あまりにフランクなサイガを前に、かしこまる気持ちは薄れていた。

「いや、分からんよ。こっちが持っていった火薬がやられたのか、なんかの魔術なのか、……まあ、どっちにしろ火薬は消えたかなあ?」
「火薬……?」
「おう、爆発物はいいぞ。起爆させれば破壊力は抜群だ。楽にその場を殲滅できる。チュドーンてな」

 軽い口調のところどころに物騒な単語が入り込むサイガの言葉は、アキラの違和感を強くした。先ほどの演説を見た直後となるとさらに拍車がかかる。
 長い廊下に、軽快な足音と、静かな足音が響く。
 アキラは眉を潜め、進み続けるサイガの大きな背中を眺めた。
 物騒なサイガの言葉に、先ほどの爆発―――戦火。
 わけの分からないことが多すぎる。
 この男に、いや、この男でなくとも、自分は現状を訊かなければならない。

「一体今、何が起こってるんだよ?」
「おおっと、質問ばっかだな。今度は俺に訊かせてくれや。君は旅の魔術師とかかなあ?」

 当主として当然も当然の質問がきた。
 屋敷に招いた後では遅いような気もするが、素性を知る必要はあるのだろう。

「俺はヒダマリ=アキラ。えっと、倒れていたところを助けられたらしくて……」
「野郎の素性なんて知っても面白くねぇよ。けっ」
「…………」

 サイガから、重い口調が返ってきた。
 アキラは一瞬絶句し、目を細めた。

「あーあーあー、覚えちまった、覚えちまった。まあいいや。ヒダマリ君は、旅の魔術師なのかなあ? だよな、そうだよな。だって武器とか持ってるし」

 この世界では呼ばれ慣れていない名にさらなる違和感を覚えながら、アキラは背の剣の感触を確かめた。
 休憩室とやらに立てかけられていたのを発見してからずっと背負っているのだが、この錆の塊を剣と形容するのはいささか抵抗があった。
 思った以上に頑丈だと知ることはできたが、この棍棒の切断力は皆無である。

「ならそっか、うん、よし。分かった、察した。完璧だ。暇かい?」
「暇……って、いや、違う、俺は今、人を探していて、」
「いやいやいや。そんなわけねぇってよく考えてみ? よく分からんがお前この屋敷に運ばれたんだろ? そして俺は当主なわけじゃん。そんな超恩人の頼み事を前に、自分の都合を優先させるわけねぇって。俺は人を見抜く眼には、自称だけど定評があるんだ。ヒダマリ君は恩義を大切にする奴だよな?」
「自称だけど定評……」

 コミュニケーションがほとんど成立していなかった。
 アキラは思わず拳を握り、何となくサイガの後頭部を眺めてみる。しかし彼の言葉通り、恩人は恩人だった。視線だけで、後頭部に抗議する。
 するとサイガはくるりと振り返り、髭面を悪徳代官のように歪めて笑った。

「ヒダマリ君。そこそこ腕に覚えがあるか?」

 頼み事やらは、すでに始まっているのだろう。
 アキラは脱力し、僅かながらのプライドで、首を縦に振った。

「よしよし。じゃあいろいろ説明しよう。丁度“説明会”を始めるところだったんだ。人を待たせてある」

 ここが目的地であったのだろう。
 サイガは延々と続いていた扉のひとつに手をかけ、ノブを回す。

「まあ、大まかには言っておこっかな、さっきの質問の答えにもなるし」

 サイガは、どこかで見たような―――触れれば切れるような瞳を携え、しかしそれでもフランクなまま、軽々しく、言った。

「ちょっと、戦争してもらおっか」

―――***―――

―――ミツルギ家。

 その名に“家”と付くものの、ミツルギ家は街の名称と化していた。
 西の大陸タンガタンザの北方付近に構えられた全長数千メートルにも及ぶ巨大な屋敷を中心に都市が栄えているのだから、確かに正しい名称なのであろう。事実、世界に数ヶ所ある“神門”の周辺も名称は『ヘヴンズゲート』で共通されている。
 しかし、ミツルギ家はタンガタンザにおいて、ヘヴンズゲート以上に栄えていた。
 巨大な山脈付近に居を構えたミツルギ家の鉄鉱製鉄は、鉄鋼業において優れた評価を持つタンガタンザの中でも群を抜いて凄まじく、尽きることの無い芳醇な資源で数多の武具を生産している。
 ミツルギの本家を囲う数多の街の規模は数百キロにも及び、“諸事情も相まって”ミツルギ家を訪ねればタンガタンザは行き尽くしたと言われるほど広大である。
 そこまで評価される都市は、“神門”を除くとシリスティアのファレトラ程度しか存在しないのだから世界有数という表現が相応しい。
 しかし現在、常に雑踏に埋もれているファレトラとは違い、ミツルギ家を訪れる観光客は多くない。
 訪れる者と言えば、“止むを得ず”優秀な武具を求める者や、“止むを得ず”儀式用の祭具の生産を求める者―――あるいは、法外な依頼料で集められる傭兵程度であろう。
 結局のところ、ミツルギ家に―――より正確に言えば、タンガタンザに望んで訪れる者は存在しない。

 それもそのはず。
 現在。

 タンガタンザには燃えるような―――戦争が襲来していた。

「ぐぉぉぉおおおおーーーっ、がぁぁぁああああーーーっ、ギリギリギリ……うみゅぅ」

 いっそ、清々しい。
 アキラを出迎えたのは、いびきと歯ぎしりだった。
 部屋の中は木製らしく、宿屋の一人部屋程度の狭い空間。その中央、部屋に唯一備わっていた木の丸いテーブルに、腕ごと投げ出して突っ伏している女性が、アキラの瞳に真っ先に飛び込んできた。
 身体は小さく、華奢な女性に見える。
 黒髪の後頭部にはお団子のように髪を丸め、首筋から覗く肌や机の上で伸ばしっぱなしの半袖の腕は、年がら年中外を飛び回った子供のように淡い褐色だった。

「……、……………………」

 そしてその隣。
 黒いシルクハットを被った男が座っていた。
 女性とは違って色白の男は、肌に反した黒い口髭を蓄え、小さな丸眼鏡を鼻にかけている。
 中年のように見えるその男は 帽子と同じく黒い小奇麗なマントを羽織っていた。
 肌が白く、しかし全身黒ずくめの男は、たった今部屋に入ったアキラたちを一瞥もせず、腕を組んで眼前を眺めている。

「あっちゃー、ツバキちゃん、待ち切れずに眠っちゃった?」

 奇妙な二人組が待ち構えていた狭い部屋に、サイガはへらへらとしながら入り込む。
 陽気な足取りでツバキというらしい突っ伏した女性に近寄り、頭のお団子を指でピンピン跳ねる。
 眠ったツバキは、無抵抗に髪を弄ばれたが、いびきと歯ぎしりに変化は無かった。
 サイガは面白そうに笑い、ツバキの頭で遊びつつ、腕を組んだ男に向き合う。

「いやいや、クロッ君も悪かったね、俺もいろいろ多忙でさ、ここに向かおうとする途中、演説があるだろって怒られちゃってさ。んだよぅ、あいつ。部下のくせに」
「……、……………………」

 極めて軽いサイガの言葉に、腕を組んだ男は無言のまま正面のみを睨むように眺めるだけだった。
 サイガは眉を寄せ、ツバキの後頭部から手を離し、男の目の前でひらひらと振ってみる。
 しかし、腕を組んだ男は微動だにしなかった。

「こいつ…………、目を開けたまま寝てやがる……!!」

 サイガは目を丸くし、手のひらで自己の顔を抑えた。

「あっちゃー、まずいなあ。今から説明始めようとしてたのに。眼鏡叩き割るぞこのヤロウ」
「…………、あの、俺はどうすれば?」

 アキラは、ついに我慢できずにいらついた声を出した。
 サイガは両手を上げて首を傾げる。
 サイガにとっては『説明』とやらが始められないことについてのポーズだろうが、アキラの困惑はサイガの比ではない。
 アキラには、この2人、あるいはサイガも入れて3人の正体も、そもそもこの部屋に連れて来られた理由も分からないのだ。

「あーあーあー、ラングル君もいなくなってるし……。まあいいや、ヒダマリ君、適当なとこ座っといて」

 もうひとり増えるのか。
 アキラは辟易し、言われた通りに丸テーブルに着席した。
 眼前には腕を組んだ男がいる。
 睨まれているように感じるが、その乾き始めていそうな瞳は何も捉えていないように見えた。本当に目を開けたまま眠っているらしい。
 眠った2人と共に席につき、アキラは出会ってもいない、もうひとりの心情を察した。
 確かにこの場からは離れたいと感じる。

「参ったなあ……、よし、とりあえず2人を起こそうか」

 サイガは踊るようにツバキの背後に回り、アキラに向けてウインクしてみせた。

「ヒダマリ君。耳塞ぐの得意?」
「とく……、いや、特技にカウントしたことないけど、しょっちゅうやってる」

 アキラは騒がしい少女を―――あるいは、少女たちを思い起こした。
 そして思い至る。
 そうだ。そもそも、“そのために”、サクの力が必要なのだ。すっかりペースに呑まれていた。一刻も早く、サクを見つけ出さなければならない。

「いくよ」

 そんなことに思考を走らせたからか、アキラは、初動が遅れた。
 サイガは、にこやかな笑顔のまま、ツバキの背後から、その両腕で。

 眠っている女性の胸を鷲掴みにした。

「――――――ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいっっっっっっっっぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!??????????」

 ここ数日。
 アキラの鼓膜は吹き飛びっぱなしだ。
 狭い部屋で響いた轟音は風圧さえ発生するほど巨大で、アキラは危なく椅子から転げ落ちそうになった。
 壮絶な悲鳴と共に目を覚ましたツバキというらしい女性は半狂乱になりながら丸テーブルを飛び越える。
 驚愕すべき運動神経だったが、そのままの勢いでドアの脇に何故か置いてあった巨大な白い袋に激突し、そのまま巻き込むように倒れ込んだ。
 倒れた白い袋から鮮やかな緋色の小石がジャラリと床に散乱する。
 ちらっと見た限りだと、ツバキはアキラよりいくつか年下のようだった。

「おっ、おおおおおおおお犯されたぁぁぁあああっっっ!!!!!!!!」
「やーやーやー、ツバキちゃん。元気そうでおじさんは嬉しいよ。でも女の子がそんなこと口にしちゃダメだって」
「伯父さん!? てっ、てめぇかごらぁっ!! クロック様に捧げるはずだったのにぃぃぃっっっ!!」
「いやいや、俺じゃないって。クロッ君がやったんだ」
「……………………へ?」

 そこで。
 ツバキはピタリと騒ぐのを止め、口に手を当てる。
 半袖短パンと機能的な服装の彼女は、姿に反して深窓の令嬢のように硬直し、こほりと咳払いをした。
 そして、先ほどの騒ぎでも腕を組んだまま微動だにしない男を見て、みるみる顔が赤くなっていく。

 そんな茶番を見ながら、アキラは、どこかで経験したような喧騒と音量だと、どうでもいいことを考えていた。

「え、あ、え? あ、あの、クロック様。私……を?」
「……、……………………」
「い、いや、そ、その、クロック様だとは思わなくて……、ご、ごめんなさい。えっと、い、いきなり、でしたから……」
「……、……………………」
「あ、あの、クロック様も、そう想っていてくれたんですか? ……だったら、私、答えます。私は、クロック様のことが…………。あ、あれ? クロック様? もしかして、寝て……」
「茶番は終わりだ。お前の胸を揉んだのは、ミツルギ家現代当主―――このミツルギ=サイガ様よっ!! かぁっかっかっかっ」
「…………殺す。殺す……!!」
「茶番は終わりはこっちの台詞だっ!!」

 アキラは、生まれて初めてちゃぶ台返しというものに挑戦した。
 丸いテーブルを掴み、そのままサイガに向かってひっくり返そうとする。
 もう限界だった。
 “続く日々”が途絶えた直後、何が悲しくて正しく茶番に付き合わなければならないのか。
 しかし。
 アキラが全力で投げたつもりのテーブルは、微動だにしなかった。

「……ああ、よく寝た」

 アキラの、正面。
 口ひげを蓄えた男が渋い声を漏らした。
 組んでいた腕を解き、いつしか―――片手を机の上に置いていた。
 そしてそれだけで、机は、床に張り付いたように動かない。
 その事象に、アキラは高ぶった感情を抑え込む以外何もできなかった。

「クロック様……、えっと、その、いつから起きてました?」
「うむ、今だ。何か騒がしいことが起きたのだろうか……。む? サイガ。そちらは客人か?」
「そーそー、ヒダマリ=アキラ君。暇なんだってさ」
「あの、クロック様。ええっと、その、私の話とか、聞いちゃいました……?」
「そうか。私はクロック=クロウ。こちらは私の従者のミツルギ=ツバキ。ヒダマリ=アキラ、というのか。特に感想も無い名前だ。それゆえに、お前は幸運だ」
「……?」

 クロックと名乗った男の渋い声と、その言葉に、アキラは眉を寄せた。
 クロックの隣では、ツバキがじゃれつくように腕を引いている。

 クロック=クロウとミツルギ=ツバキ。
 言葉から、2人は主人と従者の関係にあるらしい。
 慌ただしいツバキと違い、クロックは、貫禄を伴った静けさを持っていた。

 クロックは、ツバキに引かれていない方の手で帽子を掴み、挨拶のつもりなのか顎を上げた。

「クロック様、その、聞いちゃったりして、いるん……ですか?」
「ツバキ、僅かばかり待て。サイガに連れて来られたということは、お前も参加するのだな」
「わ、私が言ったこと、そ、その、嘘です、……いや、あの、嘘、というか、まだ早い、というか、いや、で、でも、えっと、あぅ……、こ、答えは、聞きたい、です」
「ツバキ、悪い、ちょっと待ってくれ。アキラ。どうせこの男のことだ。もう運命からは逃れられんだろう。それ相応の働きを期待しておこう」
「ねーねーねー、クロックさまぁ、私の話、いや、この場合今なんですけど、聞いてます? ねーねーねー」
「……、…………ツバキ、悪いけど、本当に待ってくれ」
「ねーねーねー」
「だから待てっつってんだろぉっ!! ホントちょっとでいいんだわ!! 今俺の印象が固まる大事なところだからさぁぁぁっっっ!!」
「ごっ、ごめんなさいぃぃぃっ!!」
「つーかテメェ俺の荷物ぶちまけてんじゃねぇよっ!!」

 豹変したクロックの怒号に、ツバキは慌てふためいて先ほど散乱させた小石を袋に戻し始めた。
 アキラは心の中だけで、ツバキに『ティア2世』とあだ名をつけ、そのまま机に突っ伏す。
 この奇妙な面々に、これ以上ついていけというのは無茶な相談だった。

「変わってる面子でしょ」

 最も変わっているのはお前だ。アキラは顔も上げずに、サイガに心で呟いた。
 心の底からサクや他の2人に会いたい。
 日常が途絶えた直後、自分が降り立ったのは総てが謎の、理解不能な空間。
 自分でも筋違いに近いと思いながらも、日々を途絶えさせた『不死の魔族』を心の中で強く呪った。

「ま、“変わっているから”ここにいるんだけどね」

 サイガが呟き、アキラは顔を上げた。

「さあさ、2人とも」

 サイガはパンパンと手を叩き、クロックとツバキを席につかせた。

「ラングル君はいないけど、どうせすぐ戻ってくる。その間に、簡単な説明をヒダマリ君にしといてくれ。仕事仲間の初顔合わせだ。どーでもいいけど親睦でも深めてたらいいじゃないかな? 俺は彼を探しに行くよ」

 この2人とこの場に残れと言うのか。
 アキラは殺意にも似た感情を、部屋を出ていくサイガに向けた。
 だが、へらへらしたサイガが振り返り、微笑したところで、この男が残っても同じことだと察し、口を紡ぐ。

 ドアは静かに閉まってしまった。

―――***―――

「えっとよ。あんた、この屋敷の人間か?」

 男は、目の前を歩く少女に意を決して話しかけた。
 振り返った女性の瞳は触れれば切れそうで、巨大な屋敷の中だというのに戦場と錯覚してしまうほど鋭かった。
 もっとも、この大陸においてはどこであっても戦場という表現は相応しくなってしまうのであろうが。
 男はそんなことを思い、そしてギリと奥歯を噛む。
 この大陸は狂っている。
 このタンガタンザに到着してからというもの、機嫌の良かった日など1日たりとも無い。

「随分つけ回していたな。要件は何だ」
「……ピコピコ揺れてる後頭部の毛が止まるのを待ってただけだ」

 機嫌が悪いのは向こうも同じだったらしい。
 だが、男も自分の感情を隠しもせずに嫌味を返した。

「……ま、険悪になってても仕方ないか。あんた、この屋敷に詳しいか? どうやら俺は迷ったらしい」
「“非情”なタンガタンザ」

 少女は、それだけを吐き捨て背を向けた。
 本格的に機嫌が悪いらしい。
 投げやりのような言葉を受け止め、男は、盛大にため息を吐く。すると少女は、思い直したのか振り返ってきた。

「……すまない。気が立っていた。それに私も人を探していたところだ。心当たりは無いか」

 自分に“情け”をかけてきたのか、それとも言葉通り“自分”に価値を見出したのか。
 少女は男に一歩詰め寄ってきた。彼女の纏う紅い衣は、物寂しい廊下の中では特に映えた。

「誰を探してんだよ?」
「訊いたのはそちらが先だ。どこへ行きたいんだ?」

 少女は、妙なところで儀を立ててきた。これがこの少女の本来の姿なのか、男には判断がつかなかった。
 いずれにせよ、彼女は自分がこの屋敷で出会った人間とは違うようだ。これまでに出会った者など、心が折られるほど素通りしていったのだから。
 ここは、久しぶりの情けに甘えるべきであろう。

「部屋だ」
「部屋か……。部屋?」
「ああ、部屋だ」
「…………うん、よし。私が探しているのは、ごく一般的な剣を担いだ男で、」
「まだ俺のターンは終了してねぇぞ」
「ああ、そういうことを日ごろから言っていそうな奴だ」
「分かるかぁっ!! てめぇそんな感覚的な言葉で人探そうなんて甘すぎんだろっ!? この屋敷の広さを舐めてるとしか思えねぇ……!!」
「そっちが先に始めたんじゃないか」

 少女は呆れたような表情を作り、それに、と続け、

「この屋敷の広さは、よく知ってるよ」

 どこか―――霞むように瞳を伏せた。

―――***―――

「話が逸れたな。ヒダマリ、だったか。それではサイガに言われた通り、説明を始めようか」

 もう遅い。遅すぎた。
 取り繕って話し始めた口髭の男―――クロック=クロウの言葉を、アキラは脱力し切った姿勢のまま受け取った。
 クロックの右手はまっすぐ伸び、隣のツバキの顔面を鷲掴みにしている。
 じたばたと暴れるツバキを見て、アキラはごくごく小さな声で、『ティア。ステイ』と呟いてみた。

「……ご職業は保育士か何かで?」
「いや、元村長、とでも言うべきだろうか。タンガタンザにミツルギ家以外の都市を栄えさせてみようと試みただけなのだが」

 その結果を、アキラは訊かなかった。元と言う以上、失敗したのだろう。
 その上、心底興味が無い。

「さて、どこから話そうか。君は見たところ、」

 黒いシルクハットの下から覗きこむようなクロックの瞳が、壁に立てかけたアキラの剣に移り。

 重い―――表情になった。

「他の大陸から来たのだろう。それでもタンガタンザの情勢を知っていれば十分、と言いたいところだが、我々は事情が違う」

 説明を始めたクロックの言葉からは、感情という感情が欠落しているかのように思えた。
 それほど乾き、そして抑揚のない声。
 そんな平坦な声は、刷り込むように前提を語る。

「ミツルギ家は―――いや、タンガタンザはと言うべきか、戦争を行っている」

 戦争。
 戦場。
 そして、戦火。

 クロックの言葉で芋づるのように出てきた言葉は、アキラの中で先ほどの大爆発と結びついた。

「戦争って……どこと?」
「どこ? 決まっているだろう。“魔族”とだよ。百年以上続く―――戦争だ」

 “魔族”。
 背筋に鉄棒をねじりこまれるような感覚に、アキラの崩していた姿勢が自然と整った。
 そんな単語が、静かな部屋の中で、ごく自然に出てきた―――出てきて、しまった。
 クロックの表情は微塵にも崩れていなかった。
 百年以上。
 それは。それはとっくに日常で―――タンガタンザに根付いている。
 アキラは目を細めた。
 ここまで来たのだ。真面目に聞いてやろうではないか。

 クロックは思案顔を作り、表情を再び重くしていく。

「タンガタンザは戦争を行っている。そんなことは周知の事実だ。タンガタンザではそれが正常。物珍しさに―――あるいは、高度な武具目当てに訪れる者もいるほどだからな」

 流れるように終わった説明を、当然のことながらアキラは初めて知った。
 後半部分はどこかで聞いた気がしたが、タンガタンザが―――彼女の故郷が、“それ”を日常としていることは、予想だにしていなかった。
 そして、自分がそんな大陸にいることにも、畏怖の念を覚える。
 自分の途切れた日常は、不時着地点を間違えたらしい。

「問題なのは、現在タンガタンザが、その戦争の節目を迎えていることだ」
「……節目?」
「ああ。だが節目にできるか否かは、我々の双肩にかかっているのだがな」

 クロックは、アキラを試すように瞳を光らせた。

「タンガタンザは常日頃から戦火を浴びている。しかし、毎年この時期になると魔族側が『ターゲット』を設定するのだ」
「ターゲット?」
「ああ。特定の建物、あるいは特定の人物だ。『ターゲット』に設定されたものを、魔族側が狙い、人間側が守護する。期間は3ヵ月、と言ったところか」

 アキラは腑に落ちない表情を作った。

「魔族が何を考えているかは分からん。変わっている―――とでも言えるか。元はこの大陸の人間でない私自身、タンガタンザの内情を知り驚いた。話には聞いていたが、“本当に魔族がそのルールを遵守していることに”。この戦争にはそういうルールが存在するのは事実なのだ」

 ルール。
 遵守すべきもの。

 アキラは、そんな存在と“魔族”は無縁のものだと思っていた。

 現にアキラが今まで出遭った“魔族”。
 サーシャ=クロライン。
 リイザス=ガーディラン。
 “鬼”。
 そして―――ガバイド。

 それらがそんな面倒なものを設定するとは思えなかった。
 魔王―――は、例外か。あの存在は、“狙い”を知っている今でさえ、何を考えているのか分からなかった節がある。

 となるとタンガタンザを攻めている魔族は、やはり今まで出遭っていない魔族なのだろう。
 変わっている―――か。
 クロックの言葉が、妙にアキラの頭に残った。

「ええっと」

 アキラは頭を振り、

「それで、その『ターゲット』ってのを壊されたり、守り切るとどうなるんだ?」
「守り切った場合は―――そうだな、束の間の平穏が訪れる。年が変わり、次の『ターゲット』が設定されるまで、タンガタンザの戦争は停止する」
「……本当に、か?」
「ああ。現に私も、アイルーク以上に平和なタンガタンザを見たことがある」

 生き証人がいるのなら、そのルールというのは本物なのだろう。
 相変わらず魔族の意図は分からないが、相手はそれを遵守している。

 アキラは姿勢を崩した。
 最早これは戦争ではなく、ゲームと言った方が良いのかもしれない。
 人間側と魔族側が『ターゲット』を巡って争う。
 百年以上続いていると言っても、そうしたルールがあるのなら救いはある。

「それで、破壊された場合は?」
「破壊された場合は―――特に無いな。タンガタンザにとっての“日常”が続くだけだ」

 ますます、だった。
 重みが無い。そのゲームは、人間側にしか得が無いのだ。
 あくまで他人事であるアキラにとって、タンガタンザの重さは感じられなかった。
 百年以上続くという戦争。
 だが、アキラは数百年前から続くと言われる伝説にも挑み、“数千年に一人の天才と言われる少女”にも出逢ったことがある。
 その程度の単位では、アキラの心は動かない。

 が、クロックは口調を変えず、そのまま、続けた。

「その結果、タンガタンザのほぼ全域が焦土になってはいるが」
「―――」

 アキラは耳をぴくりと動かした。
 聞き間違い―――ではない。

 アキラはかつてこの世界の地図を見たことがある。
 簡易にだが地図に描かれていたタンガタンザは、実質的な面積ならば―――“世界最大の大陸ではなかったか”。

「人間側が勝利したことなどほとんど無い。毎年“戦争というペナルティ”を受け続けている。脅威と言うべきか、流石に魔族と言うべきか。かつて数多の豪族が存在していたこの巨大な大陸は、“僅か百年で壊滅状態に陥っているのだ”」

 淡々と言葉を続けるクロックの口調は、本当に乾いたものだった。
 タンガタンザにとって―――あるいは“この世界”にとって周知の事実であるからなのか、それとも彼そのものが乾いているからなのかはアキラには分からない。
 彼の言葉からは、本当に感情が読めないのだ。
 そしてそれゆえに、言葉を呑み込み辛い。
 そして呑み込んでも、後味の良い話ではなかった。

「当然、他の大陸に逃れた者もいる。が、多くはこの世を去った。現在人間が生活可能な地域は北方や南方のごく一部。中央付近はほぼ全て“喰われている”―――割れた大陸とでも言えるか」

 “割れた大陸”。
 クロックは、タンガタンザの中央は戦火に粉砕されたと言う。
 まさしく彼の言うように―――たった、百年で。

 アキラの意識が一気に覚めた。
 今まで見てきた魔族の被害。
 数多の村を支配していると思われるサーシャ、赫の大群を空が埋まるほど差し向けてきたリイザス、巨大な港町ひとつを破壊しようとした“鬼”、そして、シリスティアに禁断の地を容易に造り上げたガバイド。
 言ってしまえばそれは、“スケールが小さい”。
 被害など、実際に巻き込まれた者だけが分かる程度のものだった。
 が、このタンガタンザを攻めている魔族は、“大陸そのものを破壊している”。
 そこまでの被害を、ヒダマリ=アキラは見たことは無い。

 “世界にたった5つしかない大陸”のひとつが―――百年で壊滅状態に追いやられた。

 戦争。

「私の村も被害を受けた。もっとも私は、焦土に変わった大地を無理に復活させようとしたために魔族側の侵略を受け切れなかったから、だが。まあ、今まで滅んだ大地は“非情”に切り捨てるだけのタンガタンザにとって、それは奨励すべきことであったらしい。その結果、従者が付いたほどだ」

 アキラはちらりとツバキを見た。
 そして、視線をクロックに戻した。

「さて。解るか? 『ターゲット』を守り切る重要性が。魔族側の侵略が1年止まるだけで、どれほど救われる者がいるのか」

 計算などしたくない。
 百年で大陸ほぼ全域に被害を出す魔族。
 1年の平和は、破格の価値を生み出すであろう。

「……『ターゲット』を、この大陸は、一体何度守れたんだ?」

 アキラも重い声になった。
 そんな魔族を相手に、この大陸は抗ったことがあるのだ。

「2度だ」

 クロックは、あっさりと百年以上続く戦争の―――約百回の“ゲーム”で勝利できた回数を口に出した。
 タンガタンザは、その総和―――いや、単なる和か―――である2年しか、戦争という日常から逃れられていない。

「1度目は17年前。『ターゲット』は当時ミツルギ家次期当主ミツルギ=サイガ。全世界に激震が走ったものだ。タンガタンザの戦争が止まるなど、百年以上無かったことなのだから」
「ミツルギ=サイガ……って、さっきのあの人か。あの人、そんな魔族相手に生き残ったのか?」
「ああ。サイガは期日にアイルークで茶をすすっていたらしい」

 一瞬尊敬しかけたが、やはりそれは一瞬だった。
 緊迫していたアキラは思わず脱力する。

「国外逃亡有りなのかよ?」
「当時はルール上反則では無かった。ゲーム期間中、魔族側も真っ先に港などの交通機関を封じてくる。が、サイガは消えたのだ。手段は私も知らん。その結果、魔族側からルール改訂があったほどだ。『ターゲット』が人間の場合、特定エリアからの離脱を禁じる、とな。それもタンガタンザ全土に激震が走った」

 ますますあの男が胡散臭くなってきた。
 アキラは頭を抱えながら、あの髭面を思い出し、辟易する。
 魔族側にルール改訂をさせるなど、並の事態では無い。
 もっとも―――魔族側がルールを設定していること事態も、だが。

「というか、ルール悪化してるし……。迷惑極まりないな」
「ああ。だが、そのお陰でタンガタンザは初の平穏を手に入れられたのも事実だ」

 アキラは息を呑む。
 タンガタンザの人々にとって、確かにそれは―――至高の年であったのだろう。

「そういう意味においてもサイガは見事と言えるが、奴の最大の功績は他にある。真綿に水が染みていくように滅ぼされていたタンガタンザの消滅を、サイガの代で格段に喰い止めた。ミツルギ家はもともと戦争の一端を担っていたが、本格的に表舞台に立つようになったのも奴の代からだ」

 なんとなく、タンガタンザというものが分かってきた気がする。
 タンガタンザは戦争を行い―――平穏を渇望している。
 しかしそれでも魔族は止まらず、大陸のほとんどが滅ぼされ―――割れた。
 『ターゲット』を巡ったゲームで勝つことは、タンガタンザの人々にとって、最も価値のあることなのだろう。
 そしてそのゲームに初めて勝利を収めた男―――ミツルギ=サイガ。
 手段は知らないが、彼はかつて、タンガタンザの民にとって希望そのものになったのだ。
 少し程度なら、先ほど放り投げた尊敬を呼び戻してもいいかもしれない。

「ところでヒダマリ。お前は見たか? サイガに洗脳された兵たちを。奴らが死をも恐れずカラクリのように突撃していくから、魔族側の進行が、」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」

 クロックの言葉をアキラは全力で止めた。
 部屋中の空気が緩和し始めたのを強く感じる。

 アキラが見た、人の塊。
 彼らにも家族がいて、そしてきっと、それぞれの想いがある。
 しかし彼らはサイガの手駒として、今も元気に戦っているのだろう。

 尊敬は、当然消え失せた。

「最っ悪じゃねえかよ」
「ああ、そうだな。サイガに無駄な尊敬や羨望を向ける必要など無い」

 静かな声だった。
 感情は、やはり分かり難い。

「あの男は人の命を軽視する節がある。いや、命と言うより、人生そのものを、か。口から出るのは出任せばかり。態度や性格すら、人の前でころころ変わる。約束の反故など当たり前。奴を心の底から信用して良いのは、利害が完全に一致しているときのみだ」

 アキラはサイガの様子を思い出す。
 自分に砕けたように話しかけ、しかしそのほんの数分前には重苦しい声で兵士たちを鼓舞していた。
 ミツルギ=サイガという人間を、アキラはまるで計れない。
 何を考え、何をしようとしているのか。
 そう考えたとき、アキラは一瞬、シリスティアで出会った貴族、そして、その執事長を思い出した。
 彼らの考えをアキラが理解できたのは、罠にはまり込んでからだ。
 同じくシリスティアで出逢った貴族の女性は、分かりやすいキャラクターをしていたというのに。

「……ああ」

 アキラは慎重に頷いた。
 クロックは、あくまで平坦な様子で帽子を目深に被った。

 分かり難い人間。
 そういう表現を使うなら、目の前のクロック=クロウも正にそうだった。
 貴族を思い出したからか、アキラの瞳は疑心暗鬼の色を僅かに映す。
 クロックの言葉からは感情がまるで拾えない。
 人を惹き付ける日輪属性のスキルは発動しているであろうに、彼が自分に向けている感情はプラスでもマイナスでもないような気がしてしまう。
 アイルークではこういう人間に出会うことは無かったというのに―――本当に不時着地点を間違えたようだった。

「それで、2度目はなんだったんだよ。今度は建物移動させたとかか?」

 疑ってばかりでも仕方がない。
 アキラは先を促した。

「いや、2度目の勝利も対象は人間だ。あれは2年前―――、ヒダマリ。しばし待て」

 クロックは、首をギリギリと回し、右側を睨みつけた。
 そして、緊迫した空気が今度こそ、消え失せる。

「あ、やっとこっち向いてくれましたね、クロック様」
「ツゥゥゥゥゥゥバァァァァァキィィィィィィイイイイイイーーーッッッ!!!! テメェ人の手のひら舐め回して楽しいかゴラァッ!!!!」
「わっ、私としては舌をチロッと出して反省しているポーズを見せよとしてただけです!!」
「今大事な話してんの!! 分っかんねぇかなぁ、俺の印象が塗り替えられそうだったのをさぁっ!! つーかどんなシュールな状況だコラァッ!! アイアンクローかましながら淡々と話す図ってのはよぉっ!!」
「……はっ、テメェが人をいないみたいに扱うからだろぉがっ!!」
「あれ!? ツバキどうした!? 態度がまるで違う。お前ほんとに従者か!?」
「うっせぇっ、離せぇぇぇえええーーーっ!!!!」

 アキラは、寝た。
 また茶番が始まってしまった。クロックの感情は、彼女を相手にしたときのみ出るのだろうか。
 戦争自体は分かったが、自分がここにいる事情はさっぱり分からなかった。

 話がまるで進まない。

―――***―――

 2人の足は、ゆっくりと、進む。

「確か……、そう―――『特殊護衛部隊』。また仰々しいネーミングだったな」
「……その部屋なら、こっちだ。“私も行くことになっている”」
「……お前も、か」

 男は、先導する紅い衣の少女に促されるまま歩いた。
 余計な会話がまるで無い。静かな少女のようだ。
 男の方も、現状話題に花を咲かせるような心情では無かった。
 だが、沈黙したまま歩き続け、角を2度ほど曲がると流石に息苦しくなってくる。
 この屋敷は入り組み、複雑だった。大分歩いているのに、まるで目的地に着かない。
 冷ややかな印象を受ける長い鉄の廊下を沈黙したまま進み、3度目の角を曲がった頃、男の精神は限界を迎えた。

「その、紅い衣」
「?」
「民族衣装か何かなのか? 何人か見かけたが」
「名残だよ」

 紅い衣の少女は、背を向けて歩いたまま、ぼそりと返してきた。

「この武家は、とある達人の祖先でな。その人物が好んで纏っていたらしい。彼は自分の身の周りに関しては大層な不精者だったと言う。ゆえに、“最も汚れが目立ちにくい”色を選んだんだろう。その由来だよ」
「……血を隠すには、黒が適任だと思うがな」

 先読みして、男は言った。
 少女からは言葉が返ってこなかった。
 だが、しばらくして、

「この武家は元々とある達人の祖先でな。その人物が好んで纏っていたらしい。その由来だよ」
「いやいやいや。後半部分のお前の推測ががっぽり抜けている」
「ち、違う。私の推測では無い。……そうか。“あの男”……!!」

 冷静に歩いているように見えて、少女は拳を強く握ってわなわなと震えていた。
 男はそれを呆れたように眺めながら、考える。
 この少女は、やはり、この巨大な屋敷に深く関わりがあるらしい。

「……ところで、お前はその特殊護衛部隊とやらに何の用だ?」

 話を切り返るように、少女は苛立った声のまま訪ねてきた。

「私は詳しい話は聞いていない。そこに来るようにと言われただけでな」
「俺も知らねぇよ。ただ、俺は“とある事情”でそこに参加することになった。……今思い出しても腹わた煮えくりかえるがな」

 男は、聞こえるほど大きな歯ぎしりをし、簡略的に伝えられた『特殊護衛部隊』の内容を口にする。

「俺たちはこの戦争の『ターゲット』……、“とある人物”の近辺護衛を行うらしい。大量の兵は、同じく敵の、大量の魔物に当てるらしいが……、近辺護衛となると相手が違う」
「“魔族”、か」
「……ああ。まあそれだけじゃなく、知恵持ち……あるいは、“言葉持ち”も、だ」

 目の前の少女は、即座に察した。
 男は僅かに訂正するも、結局のところ問題点は彼女の言う通りだ。

 “魔族”。

 このタンガタンザの戦争において、最もネックとなる敵軍の将。
 ひとたび暴れれば街ひとつは消し飛ばし、人の手では決して抗えないと言われる―――諸悪の根源。
 そんな魔族が、“知恵のある魔物”を引きつれて、『ターゲット』を攻め落としにくる。
 実際、タンガタンザが大敗しているのも、“魔族が存在していることだけ”に起因していると言われているほどだった。

「……見たところ、」

 少女は、一拍置き、

「この大陸の人間ではないようだが……、随分と過酷な役を掴まされたな」
「そういうわけでもねぇよ。俺は……、“俺たち”は、巻き込まれちまっただけなんだからな」
「?」

 再びギリ、と男は歯を強くこすり合わせる。

「…………それならそれで、ここから去っても構わない」

 途端、少女はそんなことを言い出した。
 声は、どこまでも冷えていた。

「と言うより、去るべきだ。巻き込まれただけならば、誰も後ろ指は差さない」

 その言葉は、本当に冷めていた。
 男の脳裏にこの国の象徴が蘇る。

 “非情”。

「まあ、唯一“この屋敷の主”は止めてくるかもしれないが、何も気にすることは無い。何を言われても、結局は―――そう、口だけだ。自分の時間を去りゆく者には割きはしない」

 この屋敷の主。
 この屋敷の人間らしい少女も、その人物には好感を持っていないようだった―――自分と同じく。
 しかし男は、首を振った。

「そういうわけにもいかねぇんだよ」
「……『ターゲット』か?」

 訊かれ、男は苦々しげに頷いた。

 そこで。

「……そこで何をしている」

 少女の気配が鋭くなり、刺々しい口調になった。
 男は一瞬自分に当てられた言葉だと誤認するも、すぐに視線を少女に合わせる。
 その先では、ひとりの大男が立ちはだかるように腕を組んでいた。

「はーい、サクラちゃん。止めて欲しいなぁ、逃走を促すのは」

 ギリ。
 今度は少女から聞こえた。
 睨み合うように対峙する両者に、男は少女に並び立つと、同じように大男を睨む。

 この大男は、件の屋敷の主だ。

「それに、ラングル君。道に迷ったのか? それならこっちだ。そろそろ会議も始まるよ」

 大男は不敵に笑い、そして背を向ける。
 男は、強く舌打ちしてそれを追った。
 去ってもよい、と少女は言っていたが、男は、特殊部隊にいる必要があるからいるのだ。
 いかにこの大男が気に入らないと言っても、避けることは許されない。

「あ、そうだ、サクラちゃん」

 大男は振り返り、棒立ち状態だった少女に目を向けた。
 そして、再び不敵に笑う。

「君が探している彼もこっちにいるよ」
「―――、」

 少女も、歩き出した。
 瞳に映っているのは、ほとんど殺気だった。

―――***―――

 脱線しまくった前提確認は、ようやく終結した。

 結局またも発生した、罵声を浴びせ合い―――とうとう相手の胸倉まで掴み始めたクロックとツバキの喧嘩を横目で捉え、アキラは額を手で抑えた。

 とりあえず、この部屋に集められているのは、アキラが先ほど見た大量の兵とは行動目的が違うらしい。
 アキラが見たあの大量の兵は、大量の魔物を抑え込むことが目的らしい。
 このタンガタンザの戦争にはルールがある。
 しかし、あくまで『ターゲット』とは勝利条件というだけらしく、対象がいなければ他の地方は被害を受けなくなるというわけではないようだ。

 あるいは陽動。
 『ターゲット』がいない地域を襲えば、その場に兵を向けなければならない。しかしそうすると、『ターゲット』の護衛も必然的に減り、魔族側にしてみれば攻めやすくなる。
 あるいは妨害。
 武器や食料を保管してある地域やそのパイプ。それらが襲われれば人間側の戦力は大きく減退し、『ターゲット』を守り切るのは難しくなってくる。
 そんな理由で各地に攻め込んでくる魔物を対処するのが、あの大量の兵の役割らしい。

 一方で、『ターゲット』を守り切ることを役割とする人員。
 それが、この部屋に集められている―――『特殊護衛部隊』だったか―――メンバーだった。
 その役割は深刻極まりない。何故なら対するは―――『ターゲット』を狙う、“魔族”。

 しかしまさしく、ゲームのようだった。
 両陣営が『ターゲット』を巡り、対峙する。
 話を聞いているだけでは、ボードゲームか何かに興じているかのような軽さがある。

 だがきっと、このゲームのような戦争が―――“生活の真横に在る”人々にとっては、

「きゃぁっ!? い、いいいいいいま、くくくくくくろっくさま……わたしの、む、むね……、え、えっと、どどどどどどう、う、ううううううけとめれば……?」
「どうも何もねぇだろうがぁっ!! 掴み合ってて奇跡的にかすれただけだろ貧乳!!」
「……ふー。う……うおおおおおおおおおおおおーーーっ!!!!!!!!」

 軽かった。
 そして、本気で帰りたくなった。

 アキラは両手で耳を塞ぎ、ドアに目を向ける。
 ドアが開いたのは、丁度そのときだった。

「おやおやおや、待たせちゃったみたいだね、貧乳」

 ツバキのターゲットが切り替わった。
 現れた大男―――サイガに飛びかかろうとするも、ツバキはクロックに上から頭を押さえ付けられていてじたばたと暴れることしかできない。
 もうひとりふざけた人間が増えるのか。アキラは滲んだ瞳でサイガを眺める。

 そこで。

 アキラの意識は覚醒した。

「アキラ……!」

 紅い衣の少女―――サクが現れ、歩み寄ってくる。
 探していた人物の登場に、アキラは安堵するも―――しかし、その感慨は薄かった。

 アキラの視線は、サクを飛び越え、サイガを飛び越え。

 その後ろを捉えていた。

「…………何故てめぇがいる?」

 思わず、その人物からも視線を外し、さらに彼の後ろを確認する。
 しかし、そこには誰もいない。
 入ってきたのは、サイガ、サク、そして“彼”の3人だけだった。

「とりあえず、ラングル君も見つけてきたよ。これで全員かな?」

 そうか―――ラングル、というのはこの男のことだったのか。
 アキラが見た、“その身を包む鎧”は脱いで、パーカーのような軽装を纏っている。

 アキラは、サクの隣に並び立ち、睨むように見下ろす男の顔を見上げた。
 アキラが思い浮かべたのは―――貴族の支配する“崖の上の街”の出来事。

 “奇妙な夜の物語”。

「グリース=ラングル。自己紹介をしたことはあったか?」
「……聞いてただけだ―――“リンダ”が呼んでいたのをな」

 そこで、サイガが手を叩いた。

「さ、全員揃ったところで説明しようか、作戦の詳細を。タンガタンザの命運を握る『ターゲット』―――リンダ=リュースの護衛作戦。可愛い女の子が狙われるのは、俺としても本意じゃない」

―――***―――

 色彩の薄い髪を1本に結わい肩から下ろした少女―――リンダ=リュースは巨大な屋敷の中にいた。
 纏った純白のローブはシミひとつ無く清楚で、窓から吹き込んでくる風になびき、浮かぶように沈むように揺れていた。

 ここでは、およそ総てが与えられていた。
 自分の望んだ時間に各地から取り寄せたと言う色とりどりの食事が並び、自分が望んだ通りの高級生活品が届けられ、自分が望むままに巨大な浴槽をひとりで使用できる。
 大部屋の隅にはキングサイズのベッドも設置され、いくら金をかけたか分からないほど精緻な寝台に、巨大な姿見まで据え置かれている。
 シリスティアの貴族でもここまで裕福な生活をしていないであろう。
 あくまで地方を統べるに過ぎない貴族に比べ、リンダはタンガタンザという大陸そのものの支援を受け続けていた。

 そんなどこぞの王族のような生活をしている自分を、リンダはこう思う―――“囚われの姫”のようだ、と。
 もっとも、“そんな存在”を憎むリンダにとって、それは自傷以外の何物でもない。
 そもそも“姫”などという表現自体、自分にはまるで似つかわしく無いではないか。

 場違い。
 そう―――場違いだったのだ。こんな大陸に、足を踏み入れた時点で。

「ちょっといい?」
「食事か? 入浴か?」

 リンダが職人の技巧が感じられるドア越しに声を投げると、外から野太い声の選択肢が返ってきた。
 リンダは苦笑し、そのままドアから離れる。
 途端会話を止めたのに、ドアの向こうは再び沈黙した。

 中にいる分には不自由のないこの暮らしには、欠点がある。
 自己を称した“囚われの姫”の名の通り―――リンダは、この巨大な屋敷に軟禁されているのだ。

 もうすぐ1ヶ月―――だろうか。
 リンダはひとりの男と共に、タンガタンザを訪れた。

 “とある妨害”によって“貴族殺害”という目的を果たせなかったリンダたちは、それまで共に旅をしていた集団を離れることになった。
 当面の目標を失った彼女たちは、シリスティアから離れることになる。
 リンダたちは船に乗り、荒波にもまれ、タンガタンザの小さな港に辿り着いた。

 そして。
 そこで。

 そこで―――“目が合った”。

 新たな大陸に辿り着き、僅かに胸躍らせたまま船から飛び降りたとき―――目が、合ってしまった。
 遥か遠方の建物の上、胡坐をかいて見下ろしていた異形の存在。
 港町には活気のある声に満ち溢れ、リンダ以外、誰も気づいていないようだった。

 その存在は、呪いのように、楔のように、リンダを指し、笑ったように思える。
 見間違いだと目を閉じ、ゆっくりと開けたとき、その存在は消えていた。

 それが見間違いでないと知ったのは、3日後、タンガタンザの兵が宿屋に押し寄せて来たときだった。

「はー」

 リンダはベッドに身体を投げ出し、仰向けに寝転がる。

 タンガタンザの兵に囲まれたときの驚愕。
 強引に連れていかれたときの恐怖。
 そして、その理由を聞いたときのときの絶望。

 そんな感情は、とっくの昔に麻痺していた。現実感は、未だに昇って来ない。
 最も印象深いのは、脳裏に焼き付いて離れない、あの屋根の上にいた異形の存在の笑みくらいだ。
 精々―――食欲がまるで湧かないくらいか。

 リンダは、心のどこかで、“終わっている”と強く感じていた。

 どれほど高価な物品に身を囲まれても、経験したことも無い巨大な浴槽につかっていても、時折現れる世話係の慰めの話を聞いても、リンダの感情はまるで歓喜しなかった。

 自分はきっと―――諦めているのだ。

 リンダにとって、シリスティアは社会的に死地であるが、このタンガタンザは次元が違う。
 リンダがあれだけ壊したがっていた尊厳や品格を問わず―――リンダがあれだけ求めていた平等をもって、死が襲ってくる。
 これは、報いなのかもしれない。

「ほんっとうに無いわね、私には。主に、運とか。あとは、運とか運とか―――未来、とか」

 腕で目を塞ぎ、リンダは全身から力を抜いた。

 そして思う。
 願わくは―――離れ離れになった“彼”がこの死地から逃れているように、と。

―――***―――

「“魔族”―――アグリナオルス=ノア」

 静まり返った会議室。
 張り詰めた糸を切るような、あるいはさらに引くような声で―――ミツルギ=サイガは口にした。

 たった百年で膨大な面積を死地に変えた魔族。
 タンガタンザの百年戦争の―――首謀者の名を。

「別名『世界の回し手』。まあ仰々しい通称は置いといて、深い話に入ろうか。戦争を行っている俺たちが、ここでこうして呑気に話せているのにも訳がある。アグリナオルスは知っての通り変わっていてね。『ターゲット』を絡めた“ゲーム”に3ヶ月の期間を与えるのに、奴が『ターゲット』を攻めるのはその期日だけ。全くいやらしい奴だよ、余裕を気取ってんのさ」

 まるで旧知の仲を語るようなサイガの言葉を、アキラは深々と胸に刻んでいた。

 “魔族”―――アグリナオルス=ノア。
 やはり、アキラが知らない魔族だ。
 そして、そのアグリナオルスがもたらした被害は、アキラが知る中で最も濃い。

 “大陸を滅ぼした魔族”。
 そんな“魔族”が、『ターゲット』を定めてから3ヶ月後―――つまりはあと2ヶ月後には現れる。

「だが、正直助かっているところがあるだろう。アグリナオルスが“余裕を気取っているのに”、タンガタンザは連戦連敗だ」
「ああ。毎年の“たった1回の『ターゲット』破壊”で、タンガタンザの歴史は真黒だ。去年のガルドパルナ聖堂破壊は敵ながら見事としか言いようがない。タイムリミット数秒前で聖堂が丸ごと吹き飛んだんだから」

 クロックの言葉に、サイガは大げさに肩を落として呟いた。
 そのガルドパルナ聖堂とやらをアキラは知らないが、『ターゲット』に選定されるほどの建物であったのだろう。
 クロックは当然知っているようで、帽子を目深に被った。

「まあそれでも俺たちは、そのたった1回の脅威に全力を傾けなければならない」

 サイガはテーブルに広がるほどの地図を取り出した。
 ズボンに突っ込んでいたようで、ところどころに皺が走っているその用紙の中央を指差し、サイガは全員に視線を走らせる。
 サイガの鋭い眼光に、アキラは急かされるようになって地図を除き込んだ。

 計6人が囲う丸テーブルの中央には、紅いマークで囲われた城のような地点がある。
 その周囲は、だだっ広い荒野のように見えた。

 作戦の詳細に移るようだ。

「『ターゲット』の現在地はここだ。……おっと、先に言っとくけど、抜け駆けは難しいぜ? ミツルギ家から徒歩で向かうとなると、特定期日を超えちまう」

 ピクリと動いたのは、アキラの隣に座るグリースだ。
 様子からすると、今このときまで『ターゲット』の現在地を知らなかったらしい。
 アキラがかつて見た彼の性格上、なりふり構わず向かっていくところだろう。
 グリースは聞こえるような舌打ちをし、再び腕を組んで椅子に深々と座った。

 『ターゲット』―――は。
 今この場所で、何を想っているのだろう。

「サイガ。それで、我々はその場所にどうやって向かうんだ?」
「それはもう考えてある。“奥の手”があったりしてね。その詳細は追々として、」

 クロックのもっともな疑問をあっさりと返し、サイガは続ける。

「ここは、ミツルギ家の遥か西方にある僻地だ。2階建の屋敷。1辺100メートルの鉄の塊。本当なら地下も造りたかったんだけど、土地の基盤的にちょーと不味い感じだったんだよね」
「……ならば何故、そんな場所を?」

 サイガに応じたのは再びクロック=クロウ。再び重い表情になり、渋い声で訊ねた。
 2人のやりとりは、相応に重い雰囲気を纏っている。
 アキラはどこか場違いな気がしながらも、耳を傾け続けていた。

「周囲の地形の恩恵がある」

 サイガは地図上で指を合わせた。
 中央の建物には、西を除いた3方向に1本ずつ道があるように見える。

「地図じゃ分かりにくいかもしれないけど、北と南、それに東の道はそれぞれ岩山に囲まれてて細いんだ。西は断崖絶壁で通行不能。四方のどこから来るか分からないより断然いいだろう?」

 それだけルートを絞りやすい。
 サイガが言わんとしていることはそこだった。
 改めて地図を上から見ると、巨大な荒野を岩山が囲っているようで、環境としては陸の孤島と言ったところか。
 クロックは鼻をふんと鳴らし、先を促した。

「“奴”の性格上、こういう道では必ず知恵持ち……、あるいは“言葉持ち”を特攻させてくる。ルートを確保してから魔物を突撃させるために。知恵持ちには単純な罠が効かないから、ガチで止めるしかない」

 そこでサイガはゆっくりと地図から手を離し、全員を見渡した。

「ということで、お前ら分散して3方向を守れ。ガチで」
「っっっざっ、けんなぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」

 そこで、ミツルギ=ツバキが轟音を奏でた。

「テメェ自慢の兵たちはどうした!? 道が狭いんなら数で押し切れよっ!!」
「お前こそふざけんな。数だけが頼りのあの集団を分散させる? はっ。しかも狭い道に大群押し込んだら思うように動けないだろ。相手は知恵持ちどころか“言葉持ち”の可能性もあるんだ。岩山崩されて埋められたら目も当てられない」
「おい。それでいくと私どころかクロック様も生き埋めだ」
「ルート1本潰れて被害がそれなら御の字だ。ピッケルでも持って行け」

 ギャーギャーギャーッ!! と騒ぎ出すサイガとツバキに、呆れたように黒いシルクハットを目深に被るクロック。
 そんな作戦会議という体裁が一瞬で崩壊した光景を眼前に、アキラは頭を抱えた。

 また、始まってしまった。

 こいつらは、まともな雰囲気を5分と持たすことができないのだろうか。
 真摯に現状把握に努めていた自分が馬鹿らしくなり、座りながら足を投げ出す。
 今なおまともに話を聞いているのは―――アキラの両隣の2人だけだろう。

 右隣に座っている、紅い衣を纏った少女―――サク。
 切れるような瞳をさらに鋭くし、何故かサイガを射抜くように睨んでいた。
 左隣に座るのは、先ほど“再会”した男―――グリース。グリース=ラングル、だったか。
 半袖から覗かせた傷だらけの腕を組み、眉間にしわを入れながらサイガが広げた地図を同じく睨んでいる。

 『ターゲット』という事情が事情なだけに、グリースは気が気ではないだろう。
 『ターゲット』が定まったのが1ヶ月前ということもあり、感情的になっていないのは救いだが、沈黙している彼の中ではマグマが煮えたぎっているかもしれない。
 真摯な者にとって、目の前の茶番は見るに堪えないものなのだろうから。

「なあ、悪い。“言葉持ち”ってのは何なんだ?」

 少しでも脱線し始めた話題を戻そうと、アキラは目の前の喧騒に言葉を投げかけた。
 どこかで聞いたことがありそうな言葉だったが、知らないものは知らないのだ。
 自分の無知さを露見してでも、話を進めなければならない。
 そうでなければ、『ターゲット』やグリースが救われないではないか。

「……ちっ、“言葉持ち”っつーのはよ」

 応えたのは、意外にもグリースだった。
 口調は強く、敵意さえ感じられる。
 この部屋の中で最も不機嫌なのは、やはり彼なのだろう。

 目の前の喧騒は、止まらなかった。

「知恵持ちのワンランク上、とでも言えばいいのか……、“言葉すら理解できる魔物”のことだ。知能は知恵持ちよりも当然上。その分野獣のような本能は抑えられているらしいが、応用力は段違いの―――“魔族に最も近い魔物”ってとこか」
「……よく、知ってるな」
「……ちっ、俺だって詳しくは知らねぇよ。受け売りだ。……リンダのな」

 グリースはそれきり黙した。
 そして再び、睨むように地図を眺める。
 その瞳が捉えているのは、きっと中央の建物だろう。そこは今、どのような状態になっているのだろう。

 しかし、一体何が起因で“彼女”が『ターゲット』に選ばれたのか。
 グリースに訊いても、彼は“巻き込まれた”と冷たく言い放つだけだった。

「“リンダ”、か」

 サイガとツバキの喧騒の間を縫うように、クロックが呟いた。
 グリースは過敏に反応し、睨みを利かせる。
 確かに今のクロックの口調は、どこか意味ありげで、聞く者が聞けば不快なものだった。

「何が言いたい?」
「馬鹿にしたつもりではない。気に障ったのであれば謝罪しよう。ただ単に、不吉な名前だと感じてね」

 グリースは敵意を抑えた。
 今度のクロックの口調は分かりやすく、本当に懸念しているようなものだった。

「不快な思いをさせてしまうかもしれんが、名は運命を現すと神族の教えにもある。
私はその名を持つ者に過去2度ほど出会ったが、いずれも悲劇にみまわれた」

 アキラの喉から、唸るような音が漏れた。
 奇妙な危機感が背筋を撫でる。
 “神族”の教えと言われると、妙に信憑性が出てきてしまうのが恐い。

 クロックは、さらに言葉を紡ごうとし、しかしそれを噤んで部屋の隅に目を向けた。

「お前、子供相手に容赦無いな」
「へっ、手こずらせやがって。……さーてさて。ヒダマリ君の知識補充も終わったところで、再開したいんだけど、いいかな?」

 視線を向ければ、サイガは得意げに笑い、部屋の隅にはぐったりと倒れているツバキがいた。
 当て身でもしたのか、どうやら気を失っているようだった。

「ツバキ……」
「おやおやおや、優しくなったじゃないか、サクラちゃん。従姉が心配なのも分かるけどこの子が騒ぐと話が本格的に進まない。今はお父さんの話聞いてくれるかな?」
「っ、」

 サクの喉から声にならない音が漏れた。
 アキラはサクに極力視線を合わせないようにして、サイガに顔を向ける。
 新たな情報を手に入れたが、何となく察せた。今、サクに話しかけない方がいいのだろう。

「さてさて。ツバキちゃんが喚きまくってた気がするけど、作戦自体は概ねさっき言った通りだ。『ターゲット』の防衛。それは、ルートを各々担当し、“言葉持ち”や“知恵持ち”とのマッチ。倒し切る必要はないさ。期日の日の出までに相手の時間を削り取ればいいんだからね」

 “ルール”。
 人間側は、リンダ=リュースの護衛。
 魔族側は、リンダ=リュースの破壊。
 たったひとりの『ターゲット』を目的に、両陣営は戦争を行っている。

 人間側の勝利条件は、『ターゲット』を死守して期日の日の出を迎えること。

 アキラは何度もこの“ゲーム”を頭の中で反芻し、意識を研ぎ澄ませる。
 先ほどから何度も茶々が入るせいで、アキラの注意力は何度も四散してしまっていた。
 必ずクリアしなければならないというのに―――どうも、話が分かり難い。

「つっても相手は化物揃いだ。この中で戦力になりそうなのはクロッ君くらい。ヒダマリ君は知らないけど、他は目も当てられない」

 サイガは、挑発的な瞳でグリースを捉え―――そして、サクを捉えた。
 2人とも何も言わず、ただ睨む。

 戦力のカウントから除外されたアキラも、サイガの物言いに、目を細めた。
 しかしそれは怒りからではなく、浮かんできた“疑念”によるものだった。

 このミツルギ=サイガという男。
 飄々としていて、傲岸不遜な様子も見せる。
 重苦しい雰囲気を出したかと思えば、空気の読めない子供のように怒鳴ることもある。
 見事なまでに、“キャラクター”が安定していなかった。
 何を考えているのか分からない―――という感覚とは違い、存在そのものが奇異なのだ。

 そしてそれは、先ほど感じた通り、サイガだけではない。
 極端な裏表を持つように思えるクロック。
 ミツルギ=ツバキの性格はどことなく特徴が掴めてきたが、この人間の特徴はこれ、とアキラは断言できなかった。

 サクやグリースは、どちらかと言えば分かりやすい性格をしている。
 サクのバックボーンは謎に包まれているとは言え、彼女の性格をアキラは容易に答えられるだろう。
 グリースは出会ったときから、その“目的”をアキラは察せた。

 しかし、目の前の人々は―――キャラクターを捉えるのが困難だった。
 そのせいで、アキラの注意力は再三四散している。

 それは。

 違和感と言えば違和感。
 しかし―――自然と言えば自然な光景だった。

 切迫した状況で茶化すような真似をするのは流石にいただけないが―――分かり難い性格をしている者というのは、通常溢れているものなのだ。
 初見や僅かな会話でその人物のキャラクターを見極めるのは、“難しくなければならない”のだ。
 だが、そんな分かり難い性格をしている者と出会ったのは、アキラの記憶では数えるほどしかない。

 そんな人物たちと。
 まるで物語に溶け込んでくる“バグ”のように、出逢った。

「待て」

 そこで、サクが分かりやすい敵意と共に、声を出した。
 アキラは浮かんだ疑問ともつかない違和感を放り投げ、顔を向ける。
 この疑念は―――今は置いておこう。

「何故アキラも参加することが決まっている? この男は保護されただけだ」
「サクラちゃんは参加する気満々みたいで、お父さん嬉しいな」

 サクラと呼ばれたサクは、テーブルの上で拳を握り絞めた。
 “さっき”―――とは、ここに来る途中のことだろうか。
 サクが言ったのか、自分と知り合いだということをサイガは知っていたようだった。

 アキラは眉を潜める。
 一体―――どのタイミングで、なのか。

「そういう話をしているんじゃない。“私が戦争に参加することが、この屋敷で治療を受ける条件”だったはずだ。この男は、巻き込まないと約束しただろう?」

 サクから妙な言葉が飛び出した。
 “条件”。
 そんな会話をいつしたのか。

「なーに言ってんだ。俺と彼は、“たまたま屋敷の前で会っただけだ”。そうか、“寝込んでいたのは彼だったのか”」

 火花が散るかのような怒気を飛ばすサクに、それを飄々と交わすサイガ。
 2人の対峙を傍から見て、アキラはおぼろげに察した。
 ミツルギ=サイガは、この屋敷に自分たちが運び込まれてきたとき、その存在を知っていたのだ。
 そこでサクとも―――会話を交わした。

「さて、ヒダマリ君。参加してくれるよね? これはホントに偶然だけど、君はラングル君と知り合いだったんだろう? だったら、リンダ=リュースを知っているはずだ。君には“縁”があるんだよ、タンガタンザの戦争にね」

 どうやら自分は、ミツルギ=サイガによって、この戦争に引きずり込まれたらしい。
 サイガは自分を知っていたにもかかわらず、素知らぬ顔で“縁”を作った。
 グリースがいなければ、サイガはアキラと行動を共にしていたサクを利用したのかもしれない。
 “縁”がある以上、ここからひとりでは逃れにくいだろう、と。
 罠とも言えない。謀略とも言えない。
 ただサイガは、“流れ”に向けて、軽くアキラの背を押しただけだ。

 恐らくは、

「頼むよ、“日輪属性”」

 サクに聞いたのであろうその情報を利用して。

 サクが苦虫を噛み潰すような表情になり、クロックが眼鏡の向こうの眼光を僅かに強くする。
 サイガは日輪属性の力を僅かなりにも知っているようだった。
 “知っている者”にとって、日輪属性の者の操り方はあまりに容易だ。
 “刻”を引き寄せるその力は、些細な事件すら自分の事件に塗り替えてしまう。

 それで十分だから―――サイガはアキラを“流れ”に押した。

「サイガ。お前にとって、“勇者様”すら玩具か……!!」

 サクの突き刺すような殺気を受けても、サイガは不遜に笑っていた。
 その顔は、すでに布石を打ち終えた棋士のように余裕が張り付いている。

 ただ。
 知らぬ間に騙されたアキラ自身の感情は、まるで高ぶっていなかった。
 だからアキラは、淡白に、頷いた。

「ああ」
「アキラ!!」

 隣のサクが叫んでも、アキラは静かにサイガに視線を向けるだけだった。

「まあまあまあ、ここで話せることは大体話したし、そろそろ移動しようか。……おい、起きろ小娘」

 サイガは踊るよう部屋の隅に向かい、倒れ込んでいるツバキを揺する。
 クロックが静かに立ち上がり、グリースも黙したままそれに続いた。
 先んじて部屋を出たサイガを、激昂したツバキが襲うように追っていく。

「……アキラ。先に言っておくが、私は反対だ。戦争にも、お前がわざわざ参加することにも」

 そう言い残し、サクも面々に続いていく。
 そしてそれからゆっくりと、アキラも部屋を後にした。

 すっと長い廊下。
 特殊な造りであるらしいが、夏の匂いがこびり付き、暑苦しい空間。

 そこでアキラは、大きく息を吐き出した。

 そして、ひとつ、思い直した。
 自分の意識が再三四散していたのは、茶々が入り続けていたからではない。

 タンガタンザの百年戦争。
 重大な問題だ。
 『ターゲット』の存在。
 重大な問題だ。

 だが、アキラの意識はどうしても分散してしまう。

 あくまで感覚的に。
 あくまで直感的に。

 何故か、こう思ってしまうのだ。

 ヒダマリ=アキラにとって、この物語は。

―――どこか、遠いのだった。

“――――――”

 古来より。
 タンガタンザには伝説が存在していた。

 タンガタンザの西部。
 あらゆる侵入を阻むような新緑の樹海に包まれたそこには―――ひとつの小さな村が存在していた。

 『聖域』ガルドパルナ。

 百年で大陸全土を覆い尽くす破壊をもたらす魔族の猛攻の中、まるで神の加護でもあるかのようにそこに在り、戦火を免れる姿は正に聖域。
 タンガタンザ唯一の安全地帯として名を馳せていた。

 しかし、戦争の渦中に在るタンガタンザの民がガルドパルナに押し寄せることは起こり得なかった。
 山脈に隣接するガルドパルナを囲う、深い樹海。
 そこに一歩でも足を踏み入れた者は、二度と日の光を浴びることは無かったという。
 あたかも、世界中に名を轟かせるシリスティアの大樹海アドロエプスのように。

 しかし、樹海ガルドパルナの事件は謎では無かった。
 侵入者の末路の原因は明らかなのだ。
 ガルドパルナの樹海の様子は、一見すれば即座に察せる。
 10メートルに及ぶ大木の合間に―――あるいは、“大木の背の上に”、ガルドリアという種の魔物が見え隠れするのだ。

 ガルドリア。
 前傾姿勢で移動する、足よりも腕が発達したオラウータンのような姿。
 黒い体毛を持ち、威嚇時には全てを逆立て、醜く潰れたような貌で圧死するような殺気を放つ巨大で凶暴な魔物。
 昼夜を問わず徘徊し、休息という行為をまるで必要とせず、最大1週間は全力で駆け続けられるとさえ言われる膨大なタフネスを持つ―――“世界最高の激戦区”に匹敵する超危険生物。

 そのガルドリアは―――数千年前よりタンガタンザの歴史と共に在り、ガルドパルナの樹海に大量発生していた。
 樹海に足を踏み入れた者は、建物でも崩壊してきたかのような一撃で叩き潰され、断末魔さえ上げられないと言う。
 奇跡的に初撃を避けられたところで、ガルドリアは次の瞬間、対象の周囲を総て埋め尽くしてしまうほど連携に長けている。
 こうなると、まともな神経の者はガルドパルナから距離をとる。
 そのため、ガルドパルナの樹海の周囲には人気は無く、荒野が広がっていた。
 百年戦争が始まるより前、ガルドパルナは死地とさえ言われるほどであった。

 しかし百年戦争が始まり、ガルドパルナは死地と隣り合わせの『聖域』となる。
 タンガタンザの人々にとって、ガルドパルナとは砂漠に浮かび上がるオアシスのように遠い存在だった。

 一方、謎は、ある。
 樹海の被害の原因は明白だが、あまりに不可解な謎がそこには存在していた。

 “ガルドパルナの民”。
 人間など一瞬で蹂躙されてしまう危険生物ガルドリアに囲まれ、生存している人間たちが存在するのだ。
 巨人が蹂躙するように樹海を闊歩するガルドリアの大群は、まるで人間が樹海に入るのを拒むように、一歩たりとも樹海から出ようとはしなかった。

 あるいは村に向かう細い道。
 樹海に走った僅かな切れ目を、ガルドリアは跨ごうともしなかった。
 あるいはガルドパルナ。
 樹海の大木が僅かにはけたその村を、ガルドリアは見ようともしなかった。

 そして。
 あるいはガルドパルナに隣接する山脈―――そこに立てられた、あるいは奉られた祠。

 ガルドパルナ聖堂。

 その空間に、ガルドリアは近付こうともしなかった。

 ガルドパルナの民は、理解していた。
 本能的に、理解していた。
 ガルドリアが樹海にのみ生息するその理由は、その祠にあると。

 その祠には、“とある剣”が突き刺さっていた。

 綺麗に真上から刺したのではなく、まるで投げるように無造作に打ち立てられたその剣―――大剣。
 突き刺した本人はまるで意識していないかのように傾いでいるその剣は、触れただけで崩れ去りそうなほど全体が錆び付いたその剣は、いかなる者も、砕くことも抜き放つこともできなかった。

 ガルドパルナの民は、理解していた。
 本能的に、理解していた。
 この剣の加護が、ガルドリアの蹂躙を遮断しているのだと。
 ガルドリアは、持ち主すら不在の朽ち果てたこの大剣に、恐怖を感じているのだと。

 人々が世界中の古文書を読み漁り、遥か太古の『奇跡』を探り当て、ようやくその剣の所有者を推測できたのは、タンガタンザの百年戦争が開始する直前のことであった。
 それが突き刺されたのは、記録されているタンガタンザの歴史を凌駕するほどの太古の出来事。

 当時唯一の比較対象であった“同一の快挙”を成し遂げた者たちよりも遥かに早く、鬼神の如き力を振るった―――伝説の存在。
 あらゆる障害を斬り裂き、何人たりとも行く手を阻めず、威風堂々と諸悪の根源を凌駕した―――『剣』そのものと言われたひとりの男。

 その彼を象徴する―――奇跡の物品。

 それは、2年前。
 とある存在によって、タンガタンザの大地から抜き放たれた。

―――***―――

「なあ、そろそろ訊いていいか?」

 ヒダマリ=アキラは鉄製の壁に背を預け、囁くように声を出した。
 砂が敷き詰められただだっ広い空間に、3階まで吹き抜けたような天井。
 サイガが面々を引き連れて行ったのは、先ほどサイガが演説を行っていた大広間だった。
 丁度2階当たりの位置に高台が設置されているが、今は無人。
 サイガはこの広間に面々を導いたあと、見せたいものがあると言ってこの場を立ち去ってしまった。
 残っているのはアキラを含め計5人。
 離れた位置で、アキラと同じように背を預けているグリース。さらに離れてクロック=クロウが目を瞑って佇んでいた。
 グリースもクロックも無言だが、クロックの方は足元にひと担ぎほどある白い大袋を置き、さらにツバキがまとわりついている。
 時おりツバキの口からサイガに対する罵倒が聞こえてくるが、それ以外は静かで、壁1枚挟んだ向こうは夏だというのにどこか冷ややかだった。

「ここがお前の家なのか? ―――サク」
「…………」

 視線を合わせず、ただぼんやりと前を見て、アキラは隣のサクに言葉を投げる。
 サクの僅かな気配を感じ、アキラは口を閉じて応えを待った。

「……ミツルギ=サクラ。それが私の名前だ。ミツルギ=サイガを父に持つ、ミツルギ家のひとり娘」

 そして。
 ようやく“二週目”で回収できなかった伏線に、指がかかった。

 サクは、小さな声で続ける。

「ミツルギ家は、もともと数多の豪族を守護する家系だった」

 先ほどのクロックとの話でも出てきた。
 守護家の異名を持つというミツルギ家。

 現在は戦争の表舞台に立つ―――ミツルギ=サクラの出生の地。

「ミツルギ家の話なら歴史から、か。百年戦争が始まるより遥かに前、タンガタンザは世界最大規模の人口を誇っていたらしい。見る者の心を奪うほどの美しい自然、惹き込まれぬ者など存在しないほどの大都市。立ち寄った者はこの大陸に骨を埋めることを決意するほど華やかで、煌びやかな大陸―――タンガタンザ。『帰らずの地』とさえ言われるほどだったらしい」

 丁度―――今のシリスティアのようなものだろうか。
 アキラは一歩この屋敷の外に出たが、そんな印象は受けなかった。広大な城は沈黙し、周囲の街にも活気はまるで感じられない。
 そんな、殺風景な世界に見えた。

 帰らずの地は―――現代、土に還っている。

「しかし、それは自然なことなのか、そのタンガタンザを我がものにしようと思う者たちが各地から現れた。豪族と言われる存在。かつては自己の領土を守ることに執着していたが、いつしか領土の拡大を目論み、輝いたタンガタンザの影で暗躍を始めたんだ」

 豪族。
 それはまたもシリスティアの、貴族のようなものだろう。
 アキラの思考がシリスティアの貴族に繋がり、首を振った。
 あの美しい大陸も、いつしか貴族が表立って被害をまき散らすようになるのだろうか―――自然なことのように。

「だが、豪族にはそんな思考を持つ者ばかりではなかった。あくまで保守的に自己の領土の身を守ろうとする者や、タンガタンザ全土に呼びかけ争いを否定し続けた者がいた。しかし攻勢派の豪族にしてみれば、権力拡充の妨害にしか思えなかったのだろう。いたるところで紛争が勃発したらしい」

 それは、百年戦争が始まるより遥かに前の話だと言う。
 タンガタンザの争いは、百年以上前からとっくに発生していたらしい。

「そんなタンガタンザに心を痛め、恐怖に震えた豪族の娘がいた。彼女の両親は、暦年続く紛争に終止符を打つべくタンガタンザ全土を駆けずり回っている道中、攻勢派の豪族に無き者にされていた。かつては広大であった領土も、小さな村にも及ばないほど縮小され、ひとり残された彼女は死の覚悟をしたと言う」

 サクの瞳は、絶望に沈む豪族のひとり娘を想うように宙に漂った。

「そんなとき彼女の村に、ひとりの男が現れた。奇妙なことにその男には記憶が無く、自分が何故その場にいるのかも分からなかったそうだ。辛うじて在ったのは自己の姓―――“ミツルギ”。そして、神の化身と言われるほどの刀の腕だけだった」

 ミツルギ―――『御剣』。
 アキラはこの屋敷の表札に記されていた文字を―――“漢字”を思い出す。
 この世界のものではない存在。

 たびたび忘れがちだが、ヒダマリ=アキラも同様の症状を軽度に患っている。
 “記憶喪失”。
 となれば、そのミツルギという男は、恐らく。

「“異世界来訪者”。ミツルギに出逢った彼女は、その可能性に即座に気づいたらしい」

 やはり、“異世界来訪者”。
 その男と自分の世界は同一のものだろうか。
 アキラは“漢字”を思い起こし、しかし無益なものだと切り捨てた。

 世界を数えることなどできない。
 今は、自分の世界と似通った文化を持つ世界が、さらに存在する可能性が浮かび上がっているのだ。

 つい先日知った“とある領域”。
 それは―――“世界のそれぞれに重なるように存在する”らしい。

「そこから歴史が傾くほどの反撃が始まる。右も左も分からぬ自分を保護してくれた彼女に大恩を感じたミツルギは、彼女に降りかかる総ての災厄を斬り払った。そして彼女と2人、彼女の両親のようにタンガタンザを渡り歩き、攻勢派の豪族を無力化させていく。武力での交渉は彼女の本意では無かったらしいが、そうせざるを得ないほどに、タンガタンザは狂っていた。“しきたり”にすら背いた行為が随所に蔓延り、魔物が頻繁に出没するようになってからも、人が人を下すことしか考えられなくなっていたとまで言われる。―――“非情”と言われ始めたのは、そんな頃からだ。だが、そうした争いの中、彼は、徐々に増えていった同じ志の豪族総てを守り切った」

 数多の豪族を守護した男。
 “非情”に傾いだタンガタンザを、在るべき姿に戻すために尽力した男―――ミツルギ。
 旅の道中仲間を増やし、タンガタンザを救う姿はまさしく“勇者”と形容できるかもしれない。
 異世界に落とされ標を失ったミツルギと、両親の末路を知っている豪族の娘が、タンガタンザを共に渡り歩き、そして奇跡を起こしていく。
 この物語は、そんな2人の勇気の物語だった。

「そしてタンガタンザの紛争は沈黙する。戦力を十全に保有していた攻勢派の豪族さえも、拡大していくミツルギ勢力を前に白旗を上げるしかなかった」
「……それで、そのミツルギは武家を作ったのか。その戦力を保有している攻勢派が再び戦争を起こせないように―――旅の途中で出逢った仲間を守り続けるために」

 息が詰りかけていたアキラは、吐き出すようにサクの言葉を紡いだ。

「いや、武家を作ったのは“彼女”だよ。ミツルギではない」
「?」
「彼は紛争の中、最後の戦いで命を落とした。彼以外では突入することも不可能な数の敵の中、彼以外では切りかかることも不可能な強敵に挑んだときに、な。前に話したか」

 その話は、確かに依然聞いている。
 ミツルギの最期。
 それは、有した武具が砕けたからだ。

「それ以来、ミツルギ家には強い教訓が存在する。豪族である自己の名を捨て、あえて『御剣』を名乗ったその娘は、武具の整備に余念を許さなくなった。思えばミツルギ家が製鉄で栄えたのも、彼女の意向があったのだろう。以来ミツルギ家は、守護の象徴として、タンガタンザの中心になった。そして再び、タンガタンザに華やかな平穏が続く」

 サクはそこで一拍置き、そして、瞳を細めた。

「百年前まで、だが」

 そして物語は現代に戻る。
 この先は、クロック=クロウの説明通り―――戦火に塗れたタンガタンザ物語が巻き起こる。

 百年戦争が―――勃発した。

「当時、いや、あるいは今も、タンガタンザの民は天罰とさえ思っているよ。かつて紛争を巻き起こした自分たちに―――“しきたり”に背いた自分たちに、災厄が降り注いでいるのだと。“しきたり”に背いた罪は重い。攻めているのは魔族だが、タンガタンザは“しきたり”に背いた末路として同情の念を向けられてはいない」

 “非情”。
 それは、タンガタンザの内部だけではなく、外部からも向けられる象徴だった。

「さて、話は終わりだ」
「え?」

 思わず間の抜けた声を出し、アキラはサクに顔を向ける。
 サクは目を瞑って口を閉ざしていた。
 本当に、話を終えたらしい。

「サク。俺はお前の話を聞いていないんだが」

 アキラは抗議の視線を送ったが、サクは涼やかな顔で黙したままだった。
 ここで終えられては、長々と話を聞いていた意味が無くなってしまう。
 “二週目”で回収できなかったサクの―――ミツルギ=サクラのバックボーン。
 それが無ければ、この話はただの歴史の授業だ。

「なあ、サク」
「話は終わったよ、語るべきような話は。私はそんなミツルギ家に生まれた。だから、武器の整備にうるさくてね」

 そんなものはどうでもよかった。

「俺が聞きたかったのはお前の話だ。ここまで来て、お前が何も語らないのはあり得ない」

 物語として。
 世界の在るべき形として。

 ヒダマリ=アキラの世界においては、ミツルギ家の祖先の勇気や、タンガタンザの百年戦争さえ必要ではない。
 ミツルギ=サクラはこの地を離れ、サクと名乗って旅をしていた。
 彼女の口から、その理由がまるで語られていない。

「小さい」
「?」

 ぼそりとサクが零した言葉に、アキラは眉を寄せた。

「私自身の話は、あまりに小さい物語だよ。本当に矮小なんだ。私が知らないときに始まって、私が逃げて、私が知らないときに終わっていた。勇気とは間逆の、醜い話」

 アキラは、追求を止めた。
 力無く呟くサクは、疲れ果てているようにも見える。
 瞳はとっくに虚ろだった。

「本当なら、私はこの地に訪れたくなかった」

 サクはアキラに視線を向けてきた。
 そして、脱力した口調で言う。

「それに、戦争に参加する気も無かった。特にお前が参加するのも反対だ」
「……さっきも言ってたな。何でだよ」

 するとサクは深く息を吐き出し、視線を逸らさず―――アキラを憐れんだような瞳を浮かべた。

「この戦争は―――“お前が呼んだわけではない”だろう?」

 アキラは瞳を大きく開いた。
 サクは瞳の色を変えずに続ける。

「お前がいないとき、日輪属性の話が出てな。そのときこんな言葉が出た―――“呪い”」

 サクは、アイルークから共に旅を続けてきた仲間は、あるいはアキラ以上に、日輪属性の力を理解しているかのような表情だった。

「タンガタンザの百年戦争。これはとっくに日常だ。そこにお前はたまたま現れただけ。事件の種を作り出したわけでも、芽吹かせたわけでもない。この事件は、初めてお前に“立ち去る権利”がある出来事なんだよ」

 ようやく、アキラにも理解できた。
 自分の意識がどうしても分散してしまうわけ。
 サクがアキラをこの場から遠ざけようとするわけ。
 このタンガタンザの物語が―――どこか遠いその理由。

 言ってしまえば、ヒダマリ=アキラという存在は―――この物語において、あくまで部外者なのだ。
 大それた事件があっても、自分と隣接してある問題でなければ興味は薄れる。
 丁度アキラが、ミツルギ家の歴史より、サク個人の物語に執着したように。

「サイガに何を吹き込まれても、お前には背を向ける権利がある。避けられるんだ―――避けるべきなんだ、この事件は。事件を引き寄せてしまうのに、関係の無い事件にまで首を突っ込んでいたら、お前はいつ休息できる。そうなれば、その首は落ちてしまうぞ―――“魔王を討つ前に”」

 サクは。
 ミツルギ=サクラは、心の底からヒダマリ=アキラに同情している。
 アキラの“呪い”を、サクは傍目で何度も見てきているのだ。

 小さな村に立ち寄れば。
 穴ぐらに転がり落ちれば。
 港町に訪れれば。
 樹海の伝説に挑めば。

 即座に難攻不落の“魔族”に繋がってしまう。

 生還こそはしているものの、ご都合主義などと手放しで喜べない。
 常に死と隣り合わせなのだ。
 逃れることは許されない運命。

 それは、戦争と共に在るタンガタンザの者の瞳には、切実に映るのだろう。

 そして。
 ヒダマリ=アキラも、心のどこかで“物語の在るべき姿”に―――疲れていたのかもしれない。

「アキラ。お前は弱いんだ。呪いの力があまりに強すぎる。困難を辛うじて乗り越えても、それにも勝る絶望が展開し続ける。そこにお前の意思は無い。傍で見ている者にとっては、恐いんだよ。周囲の者が成す術無く、お前が“被害者”になってしまう気がして」

 現に、アキラは被害者になった。
 あの大樹海アドロエプスの事件。
 数百年続く伝説を凌駕した瞬間、更なる『絶望』が姿を現した。
 本人が―――望んでもいないことが。

「サイガは本当にふざけたことをしてくれた。だがアキラ、気にするな。タンガタンザの“非情”を振りかざし、この大陸から離れるんだ。2ヶ月後に“ゲーム”が終わるまで、ある意味この地は戦火を逃れる」

 ゲーム中は、『ターゲット』破壊の下準備の期間。
 タンガタンザから逃れようとする者に対しては、『ターゲット』でもない限り魔物は執着しないのだろう。
 タンガタンザ全土を襲う戦争中はそうはいかないだろうが、逆に言えばこの2ヶ月間がタンガタンザ脱出の機会となる。

「サクは、参加するのか」
「……ああ。一応ここに保護されたときの条件だ。私はサイガのように約束を反故にはしない」
「だったら、同じく保護された俺にも義務はあるだろ」

 遠く離れたこの地の物語。
 自分が部外者だと理解したからか、かえってアキラは執着した。
 何よりサクはこの地に残るのだ。
 自分ひとりが離れることなどあり得ない。

「無い。お前の義務は、私の参加で消えている」
「……俺は勇者だ。相手が魔族なら、俺にも戦う理由がある」
「無い。タンガタンザは“しきたり”に背いた。正しいか否かで言えば、この神罰は正しいのだろう」
「魔族は魔王に繋がるだろう。そこに俺の大義名分がある」
「無い。お前は前に話していたな、港町を襲った魔族。そいつは魔王の配下では無かったのだろう。タンガタンザを襲う魔族の正体も分からないのに、何故参加する義務がある」
「だから、確かめないと、」
「“確かめるだけの理由で戦争に参加するのか”?」

 アキラは言葉が詰った。
 タンガタンザの戦争は、その程度の理由で、物見遊山のつもりで参加できる領域ではない。
 敵は―――大陸そのものを壊滅させた存在なのだから。

 そしてその存在と、アキラが出遭う必要は無い。
 サクの視線は突き刺すようで、痛かった。

 結局のところ。
 自分は、この事件そのものに積極的ではないのだろう。
 事のあらましを曲がりなりにも理解しようとしていたのも、単にグリースや『ターゲット』が不憫だと思っただけに過ぎない。
 自分自身の心に、火は点いていないのだ。

 ヒダマリ=アキラという人間は、あくまで受動的で、その場の環境にただ流されることしかできない。
 今まで事件を解決してきたのも、自分が惹きつけてしまったという義務感からのものがほとんどだった。
 自分が原因ではない事件に出遭ってしまえば、真剣なように見えても、心の中では楽観視しているような―――それだけの人間だ。

「……お前は、残るんだろう」

 アキラが辛うじて吐き出せたのは、最初の言葉だった。
 サクは本気で、アキラの離脱を望んでいる。

「別に死別するわけではない。戦争が終わったら、私は再び旅に出るよ。そのとききっと、お前を探す。お前は一足早くここを出て、逸れた2人を探していてくれ。無事だといいが」

 そこで、アキラは思い出した。
 自分が、この地に留まらなければならない理由を。

「……そのために、ここが必要だ」

 いつしか伏せていた顔を上げ、アキラはサクに視線を合わせる。

「あいつらの現在地。それを知るために必要なんだ、“固定の住所”が。それにサク、お前の協力も」
「?」

 サクは眉を潜めた。
 アキラは勝ち誇ったように“合流手段”を示す。

「“あいつ”は、リビリスアークの孤児院と定期的に連絡を取っている。どこにいるかは分からないが、孤児院に手紙を書いているはずだ。だから俺たちからも手紙を出す。リビリスアークの孤児院へ」

 リビリスアーク。
 タンガタンザとは対極の、“平和”を象徴する大陸アイルークに存在する小さな村。
 ヒダマリ=アキラがこの世界に訪れた最初の地であり、初代勇者縁の地でもある。

 そこを経由すれば、互いの現在地を認識できるのだ。
 合流地点は恐らく逸れた2人がいる場所になるだろう。
 タンガタンザは論外だ。

「だからサク、俺はここを離れられない。手紙を受け取るためにな。それに、俺はこの世界の文字を書けない。返信するためにも、お前に協力してもらいたい」

 まくしたてたアキラに、サクは目を見開いていた。

「どうしたアキラ……。お前、熱でも、」
「俺のマジっぷりがお前には伝わらないのか」

 連絡手段に乏しい異世界での合流方法。
 正答を導き出していたアキラに、サクは狼狽してふらついていた。
 そこまでのリアクションをされるとアキラの沽券にかかわるのだが、張り詰めていた空気が僅かに緩和したのは儲けものかもしれない。

「……タンガタンザを離れてからでも遅くはないだろう。誰かに頼んで、」
「遅ぇよ遅え。協力してくれる人まで探していたらさらに遅くなる。一刻も早く連絡取らなきゃならないんだから」
「はあ……、分かった。だが、ここに残ってもすぐに連絡が取れるわけではないぞ。すでに彼女が手紙を出しているとして、返信が来るのは……早くても1ヶ月は超えるかもしれない」

 タンガタンザの交通の便を考えれば、それでも早い方なのかもしれない。
 だが、かえって良かった。
 何とか食らいつき、これでこの地に残る理由がようやくできた。

 “理由さえあれば、自分の望みを叶えられる”。

「それでも、2人の現在地が分かったら即座にここを離れろ」
「ああ、分かったよ」

 返答は出任せだった。
 仮に『ターゲット』期日よりも早く手紙が届いたとしても、アキラは何とか理由を付ければよいと考えていた。
 サクも、あくまでその場凌ぎの言葉だと分かっているだろう。
 手紙が届いたときに、またひと悶着ありそうだった。
 そのときには、ヒダマリ=アキラの得意分野―――“言い訳”の出番となる。

 そこで。

 ゴゴゴ、と地鳴りが響き、再び大広間の門が開いた。
 強い日差しが突くように差し込み、夏の匂いが強くなる。
 全員が揃って門を向けば、再び真紅の衣を纏ったミツルギ=サイガが確かな足取りで入ってくる。
 そして、サイガに一歩後れて、無表情なひとりの若者が一抱えほどある筒を脇に挟み従者のように突き従っていた。

 だが、目を奪われたのはその2人にではなかった。
 彼らの後ろには、この大広間をも埋めるほど巨大な荷車が大地を響かせ進んでくる。
 外の景色は容易に埋まった。
 荷車は、黒塗りのシートに隙間なく覆われ、何重にも太い縄で縛りつけられている。
 その中身を見ることは全くできなかった。

「そこでいい」

 サイガは重い口調で荷車に声を投げた。
 すると荷車はピタリと止まる。
 そして直後、巨大な塊から荷車を動かしていたと思われる人々がどっと湧き出した。
 無表情な若者も筒をサイガの隣に置いて合流し、サイガの前で一糸乱れぬ隊列を組んだ。
 30にも上る人数でなる隊列からは呼吸すらも聞こえない。
 全員が沈黙し、まるで持ち主が糸を動かすのを待つ人形のように微動だにしなかった。

「解散」

 彼らは、声を出せたようだ。
 サイガの言葉に全員が同じ間で応じて即座に大門から外に走り出す。
 その動きにすら、余計な動作は感じられない。
 何かの競技のようにも見える彼らの行動にアキラが絶句している間に、再び大門が閉じられた。

「さってと、どこまで話したっけかね。くっそ、熱ぃ」

 閉じたと同時、サイガは衣を脱ぎ捨てた。
 再びラフな服装に戻ったサイガは衣を肩に担ぐと、緩慢な動作で荷車を巻くロープをほどき始める。
 やがてロープを乱雑に解き終えると、肩凝りでも治すように腕を回した。
 あの静かな大群の前の態度と比べると、その姿は豹変とも言える。

「まあ、まずは前提からだ。アグリナオルスが攻めてくるのは2ヶ月後。さっきも言った通りこの中の戦力はクロッ君くらいで他は問題外。こんなところでいいかな」

 ツバキは喰ってかかるのを止めたのか、クロックの隣で呪いでもかけているような瞳で睨むだけだった。
 グリースも無言。ただ、瞳は怒気に染まっているようにも見える。

「まあそんなにカリカリすることは無いさ。俺が言っている戦力ってのは、“俺の計画に必要な能力”のことだ。クロッ君の時点はラングル君かな。一番の問題外はサクラちゃんだよ」
「おい」

 これには、サクも気配を変えた。
 アキラは過敏に反応し、サクが行動をとる前にサイガの言葉を止める。
 サイガは彼女の親らしいが、流石に気分が悪い。
 それに、自分は未知数だとかで除外されているが、サクが問題外ならアキラはどうなってしまうのか。

「作戦とかは知らないけど、結局戦闘なんだろ。サクは戦力になる。それに、俺たちは“魔族”との戦闘も経験済みだ」

 アキラは意地になって喰いついたが、サイガは涼しい顔をしたままだった。
 だが、アキラにも言い分はあるのだ。
 この“三週目”。
 アキラが出逢った旅の魔術師の中では、サクはトップクラスの力を持っている。
 事実、アイルークでの2つの魔族戦は、彼女がいなければいずれも生還できなかった。

「単純な話さ、」

 するとサイガは僅か息を漏らし、背後の荷車を見上げた。

「“これ”がいきなり突っ込んできて、回避以外の行動をとれるか?」

 巨大な荷車のサイズは、元の世界では航空機にも匹敵するかもしれない。
 例えこの荷車が襲ってきたところで、サクは生還できる。
 シリスティアのアドロエプス大樹海で見た足場に制限されない彼女の動きは、まさに神速。
 だが、サイガは―――回避するなと言っている。

「ヒダマリ君はサクラちゃんの戦闘を見たことがあるだろう。はたしてこいつは、迫ってくる脅威を受け止められたか?」

 サイガはサクを指差した。
 アキラは言葉を返せなかった。

「俺らがやんのはそういう戦闘なんだよ。こいつが脅威を回避したら、“その後ろにいる奴”がどうなるのか大体分かるだろう」

 今度は完全に沈黙した。
 敵の狙いは『ターゲット』。
 サクがいくら牽制や陽動をしたところで、敵の足は止まらない。
 サイガは不敵に笑い、今度は無表情な若者が置いていった筒を開ける。
 鉄製と思われる筒を開けると、丁度傘ケースのようになったそれには、数本の木刀が無造作に入っていた。

「さて、時系列順にいこうか。これから2ヶ月、ぶっちゃけ俺らは暇だ。となれば当然やることは、楽しい特訓パーティだ。止まらない敵を、死ぬ気で止める特訓さ」

 木刀を軽く叩き、サイガは今度こそ、巨大な荷車の布を掴む。

「クロッ君、ちょっと協力頼んだ。反対側持ってくれ」
「……それはいいが、これは何だ」
「言っただろう、時系列順だよ」

 クロックもその荷車の正体を知らなかったのか、眉を潜めて荷車を見上げる。ツバキは巨大な塊に気圧され続けているのか、動こうともしなかった。
 クロックは黒塗りのシートを渋々ながら掴み、サイガの指示を待った。

「そして2ヶ月後。さっきから気になっていたみたいだけど、移動手段さ。俺たちが戦地へ赴く手段。そして、俺が17年前タンガタンザから消えた“魔法”だよ」

 時間にして、数分。
 2人がシートを前から引き続けた結果、アキラの眼に再び―――“在ってはならないもの”が飛び込んできた。

 シートと同色の黒塗りのボディ。
 巨大な円形の身体の左右には、長方形に近い“翼”が伸びている。
 マジックアイテムの灯りに満ちた大広間の光を、メタリックなボディが反射した様は―――ヒダマリ=アキラにとって、最大の異物だった。

「何、だ、これは」

 巨大な物体が姿を現し、誰かが声を漏らした。
 だがアキラは、その人物以上に狼狽していた。

 つい先日、アキラは世界最強の激戦区でもこうした存在を見たことがある。
 この世界の法則を大きく乱す―――“元の世界の存在”。

「ひ、“飛行機”……」

 先ほどの感想は、例えでも何でも無かった。
 アキラの目の前に存在する鉄の塊は、科学の結晶の証であった。

「こいつは空を飛べるのか……!?」
「ああ。“召喚獣”すら及ばぬ高さへね」

 アキラの言葉に、サイガは僅かに瞳を大きくし、そしてやはり笑う。

「知っているってことは……、もしかしたらヒダマリ君、“異世界来訪者”ってところかな?」

 アキラはぞくりとした。
 まさか。
 ミツルギ=サイガは視たのだろうか―――“世界のもうひとつ”を。

「サイガ!!」

 強い、怒号のような声が響いた。
 隣のサクの突如の叫びに、アキラは慄きよろける。
 ここまでの怒気は、あるいは先ほどの小部屋の中でも無かったかもしれない。
 飛行機の登場には度肝を抜かれたが、彼女は何故、ここまで激昂しているのか。

「“空を飛ぶ物体”を貴様は開発したのか……!?」
「俺じゃないさ、俺じゃない。いつかは知らないけど、ミツルギ家は“異世界来訪者”の祖先である、と聞き及んだ“異世界来訪者”が訪れたらしくてね。そのときに知識を蓄え、開発に手掛けたのさ。俺が生まれた頃には、哀しいことにすでに開発を終えていた。俺はそれを強化したり量産したりしているだけだ」
「量産……? 貴様、」
「あっただろう、ミツルギ家には。近付くことを禁止している矢倉が。その中身は、ミツルギ家でもごく一部にしか伝わらない。封印されているのは可哀そうでね」
「やはり貴様が封を解いたんだろう!?」
「待てよ、何でそんなにキレてんだ!?」

 アキラは、斬りかかりかねないサクとサイガの間に入り込んだ。
 まるで話に付いていけない。
 飛行機の存在程度で、何をそこまで緊迫した状態になるのか。

「“しきたり”」

 サクは未だ冷めやらぬ怒気のまま、強い口調で断言した。

「人間という種が発展するのは自由だが、かつて神族と魔族が骨肉の死闘を巻き起こしたのは他の領域に介入しようとしたからだ。それゆえ、“神族”は空を犯すことを厳禁している。“飛翔機能を有する物体の開発禁止”。ミツルギ家は、それを犯していたのか」

 “しきたり”。
 出てきたその言葉に、アキラは寒気がした。
 その言葉はこの世界にとって、最も強固な強制力を誇る鉄の掟だ。

「……はっきり分かった。タンガタンザが魔族に襲われ続けているのは、やはり神罰だ。神の領域を犯しておいて、加護を受けることなどできない」

 サクは冷たく言い放った。
 親であるサイガに向けた瞳は、敵を見るかのように鋭く、殺気立っている。
 アキラの背筋はさらに冷え込んだ。しかしそれは、サクの豹変ぶりに恐怖を覚えているのではない。
 何度目だろう―――この世界の前提として蔓延る“しきたり”に震えたのは。

「神の領域、ね」

 一方、サイガの方も表情が変わっていた。
 笑うのでもなく、冷やかすのでもなく、彼は、ただ瞳を遠くに這わせていた。

「ホントに神は天にいるのかな。俺はどうも昔から“しきたり”を素直に頷けなくてね」
「何を言っている……?」

 サイガの静かな声に、サクはやはり睨み返した。自身の親の口から漏れたその言葉は、彼女にとって理解し難いものなのだろう。

「大分前アイルークで、神が街を絶対的な力で救ったというニュースが流れたことがあっただろう。戦争中のここにも届いたよ。世界中に広まっただろうから、多分サクラちゃんも知っているんじゃないかな」

 アキラも、そして当然サクも知っている。
 そのニュースの現場に、2人は居合わせたのだ。
 アキラは思わず自分の右手に視線を向け、首を振ってサイガを見た。

「そのとき俺は思ったね。だったらとっとと魔王を殺せ、と。お前は絶対的なんだろう―――とね」
「それ、は、」

 サクの怒気が緩和した。思うところがあったのだろう。
 アキラも記憶を探り、“神”を思い出す。
 “二週目”。
 あの神との出逢いの後、メンバーの中に“神への不信感”が芽生えたのは事実だ。

「そうなってくると、神にはそれができない理由があるのかもしれない。人間が思うように絶対的ではない―――とか。はたして俺らは、そんな存在に盲目的に従うべきか?」

 アキラは他の面々を盗み見た。
 ツバキは眉を潜めて難しい顔をしているが、クロックは涼しい顔をしている。
 少なくともクロックは、サイガの意見に信憑性があると思っているようだった。
 グリースは興味が無いとでも言うように顔を背けている。
 この場で最も狼狽しているのは、サク。
 つい昨日、“タンガタンザに戻って来たばかり”の人間だった。

「例えばこいつが世界中にあれば、移動は遥かに楽になる。世界中が高速で繋がるだろう。それなのに、神はそれを許さない。まるで―――“自分たちがいない高みに上がられるのを恐れるように”」

 サイガは飛行機を見上げ、肩を下ろして呟いた。

「小さい頃は止むを得ず“しきたり”通りの教養をしたけど……、サクラ。お前がこの地を去らなければ、次は“こういうこと”を教えるつもりだったんだぜ」

 “こういうこと”―――とは。“しきたり”への懐疑だろう。
 他の大陸では考えられない、この世界の前提への疑問。
 やはりこのタンガタンザは、今まで訪れたアイルークやシリスティアとはまるで違う。
 “しきたり”はおろか“神”への信仰心すら薄れた―――どこか挑戦的な匂いがあった。

 どこか―――人の思考が、進化しているような気がするのだ。

 アキラはもう1度、巨大な鉄の塊を見上げた。

「さて、移動手段はこれだ。こいつなら、目的地まで1日もかからない。山や川、各地で起こる争いを飛び越えて、最短距離で到着できるからね。速いぞぉ」

 最後に不敵な笑みを作り、サイガ筒から木刀を引き抜いた。
 彼はこれ以上、“しきたり”の話をするつもりが無いらしい。
 完全に沈黙したサクに視線も向けず、今度はアキラに瞳を合わせた。

「だから2ヶ月、みっちりいこう。さあ、ヒダマリ君。そろそろ君の実力を見せてもらおうか」
「おっ、」

 乱暴に放られた木刀を、アキラはたどたどしく受け取った。
 抱きかかえるように掴んだ木刀を何とか掴むと、カラリ、と木刀が筒から引き抜かれる音が聞こえた。

「とりあえず、動き見せてくれ。それでいろいろ考える」
「いきなり、かよ」
「いきなり、だよ」

 アキラはため息をつき、木刀を振ってみた。
 思ったよりも軽かったそれに心細さを覚え、ふと、アキラは肩の剣を思い出した。
 自分の武具の件は、もしかしたらこの地で解決できるかもしれない。

―――と。アキラはまたも、“別のこと”が頭に浮かんでいた。

「相手は俺でいいな」

 呟くような声だった。
 見ればグリースが木刀を抜き放ち、肩に担いでアキラに対面している。
 乾いたような瞳を携え、ぼんやりとアキラを眺めているようだった。

「おっと、ラングル君やる気があっていいねぇ。気を付けてくれよヒダマリ君。彼は一応、特訓の先輩さんだから」

 グリースはすでに特訓とやらの経験者であったらしい。
 アキラは僅かに驚く。
 彼は、今まで作戦の詳細も明かされず、このミツルギ家で励んでいたと言うのだろうか。

「魔術の使用禁止。身体能力強化と防御膜くらいならオッケー。さあさあ、ヒダマリ君。危ないから剣下ろそうか」

 アキラは言われるまま担いだ剣を外し、サクに預けた。わだかまりは、今は置いておこう。
 少なくともグリースは、この件につき真摯である。ならば自分は、それに応じるべきなのだろう。
 グリースや『ターゲット』を救うためだ。
 自分が呼んだ“刻”ではなくとも、戦う理由はそこにある。

「“そういうのが、気に入らねぇんだ”」
「アキラ!!」
「―――!?」

 反射的にかざした木刀が、甲高い破裂音と共に弾かれた。
 急接近してきたグリースの切り上げに、木刀は宙で回転する。
 思わず目で追ったアキラの視界の隅で、グリースが木刀を振りかざしているのが見えた。

「っ―――」

 弾かれるように転がり込み、即座に木刀の元に駆ける。
 転がり回る木刀を必死に抑え、アキラは左手で掴み構えた。
 右腕は、最初の一刀で麻痺したように動かなかった。

 サクが叫ばなければ、自分はとうに昏倒していただろう。

「い、いきなり何すんだ……!!」
「始まってんだよ。おら、来いよ」

 彼の瞳は乾いていて、静かで、しかし突き抜くような敵意を放っていた。
 胃が底から冷え切るような緊迫を感じ、アキラは生唾を飲み込んだ。
 よくよく考えれば分かるようなことだった。
 グリースとは戦い、敵のまま別れたのだ。
 そこに和解は無い。
 いくら自分が彼らの境遇を哀れもうが、グリースには届かないのだろう。
 自分でも筋違いと分かっていながら、アキラは裏切られたような気分になった。

「はっきり言って、八つ当たりにもなりゃしねぇ、ただの逆恨みだ」

 グリースは、木刀を肩に抱えるように構えた。
 木刀の切っ先は天井を刺す。
 あの崖の上でも見た、グリースの構えだ。

「今の俺にとっちゃ、“神族”がどうとか、“しきたり”がどうとか、そこの髭面当主が何を考えているかとか―――んなことはどうでもいいんだ」

 ひたすら黙していたグリースは、その反動で噴き出したように呟く。

「俺が許せねぇのは……、てめえが!! 部外者面してへらへらしてることなんだよ!!」

 グリースは、地を砕くような激しい足取りで突進してきた。
 アキラは未だ痺れの残る右手で木刀を掴み、グリースを迎え撃つ。

 再び破裂音。
 木刀同士が衝突した結果は、アキラの両手に強烈な痛みを走らせた。
 グリースは、まるで体勢が崩れていなかった。

「ぐっ、悪かったな、マジになってなくて」
「詫びんなうぜぇ。言ったろ、逆恨みなんだよこれは」

 つばぜり合いの状態から、グリースは力を込めてアキラを押した。
 体勢が崩れたアキラはその場から離脱し再び構える。
 “崖の上の街”でも見た彼の実力。
 アキラが彼を見て、最も長けていると思ったのはその体勢の崩れ難さだ。
 重心が常に定まっている彼は、余程のことでもない限り力負けしない。
 その上、動きが鈍いわけでもなかった。
 サイガがグリースを2番目の実力者と言ったのも、あながち嘘ではないかもしれない。

 グリースは再び上段に構え、アキラを射殺すような瞳で睨みつけている。
 アキラは舌打ちし、木刀を両手で握り締めた。

「分かったよ。ちょっとは火、点いてきた」

 ダンと地を蹴り、グリースへ突撃する。
 使用可能なのは魔力による強化まで。
 アキラにとって大きなディスアドバンテージになるが、むざむざ袋叩きにされる趣味は無い。

「らぁっ!!」

 上段に構えたグリースへ、アキラは切り上げるように木刀を振るった。
 グリースは合わせるように木刀を振り下ろし、アキラの木刀を叩き落とす。

「―――!?」

 弾けるようにアキラの木刀が地面で跳ねる。
 だが、アキラの手に痺れは残らない。アキラはグリースの一撃の直前、木刀を手放していた。

「ふっ!!」

 虚を付かれたグリースへ、アキラは勢いそのままに当て身をかました。
 常に重心を取り戻すグリースが、前傾姿勢から元の位置に身体を引く刹那の攻撃。
 倒れぬまでも流石に体勢を崩したグリースの隙を縫い、アキラは回るようにしゃがみ込んで木刀を握る。
 とっさで逆さに掴んだ木刀を、回転の勢いそのままにアキラは振るった。

 パンッ、と。再び木刀同士が弾かれる音が響く。
 運任せの神業に近いアキラの奇襲を、グリースは見事木刀で抑え込んでいた。

「ぐっ」

 アキラは歯噛みをし、再び離脱。
 慌ただしく木刀を掴み直したころには、グリースはすでに体勢を完全に立て直していた。

「びっくり芸だな。一発芸とも言えるが」
「落とした剣を拾う練習なんて、俺くらいしかしないだろうな」

 自傷気味に呟くも、アキラはグリースに敵意を見せていた。
 やはり、こういう風であれば分かりやすい。
 やれ百年戦争だ、やれ“しきたり”だ、などと言われるより、演習だとしても目の前の戦闘はアキラに現実感をもたらしてくれる。

 だが、それでもグリースは強かった。
 彼を僅かだけでも退けられたのは先ほどの当て身のみ。
 彼は立ち位置をまるで譲らず、アキラの攻撃を総て跳ね返してみせていた。

 アキラに彼を凌駕する手段は―――ルール上、無い。

「魔術を使いてぇか?」

 許されるのなら、即答できる。
 グリースは、アキラより体格も、体技も、剣技も上だ。魔力の総量も上回っているだろう。
 だがアキラが魔術を使用すれば、戦闘能力は飛躍的に向上する。
 日輪属性の最大の利点は、同レベルの魔術師では太刀打ちできぬほどの余りある選択肢の数なのだから。

「ふん」

 アキラの無言を是と取ったのか、グリースは不敵に笑い、そして―――敵意をも超えた殺意を瞳に携えた。

「俺もだよ。精々怪我止まりの木刀じゃ、てめぇをぶっ殺せねぇからな」
「……そんなに俺は、イラつくか?」

 グリースの殺意を受け取り、アキラの敵意も徐々に昇華されていった。
 まるで鏡のように、受動的に鼓動が高ぶり瞳に殺気を携える。

「……てめぇはあのとき言っていたな。“俺が言えた義理じゃない”と。それと同じだよ」

 グリースが僅かに前傾になる。
 闘争本能をむき出しにし、攻めに転じる体勢だった。

「確かに俺は、許されないことをしたのかもしれない!!」

 突撃してきたグリースの一刀を、アキラは渾身の力で抑え込む。
 しかし、吹き飛ばされるように木刀が弾かれ、吹き飛ぶようにアキラは下がった。
 それでもなお、グリースはアキラを追う。

「“しきたり”に背いている奴らを、俺自身が“しきたり”背いて殺そうとしたんだからな!!」
「っぐ!?」

 アキラの一刀に対し、グリースは二撃三撃を放ち、さらにその手を緩めない。
 グリースの一撃ごとに身体中が重く響き、木刀を伝ってアキラの骨髄に痛烈な衝撃を与えてきた。
 本格的に破壊するための攻撃。
 グリースの感情が、ヒダマリ=アキラという日輪属性の前でむき出しにされている。
 無言を保っていた彼は、その中に、これほどの激情を溜め続けていたのだろうか。

 あるいは―――ひと月前から。

「だがな!!」

 押され続けたアキラは背後に壁の気配を感じ、潜り込むように横に飛んだ。
 回避の最中飛んできたグリースの一刀を辛うじて受け、即座に距離をとった。

 アキラはグリースに身体を向けたまま下がり続けた。ただ被害を最小限にするための防衛行動。
 腕はほとんど上がらなかった。
 迎撃するには再びしばらく時間がかかる。

 一方グリースも肩で荒い呼吸をしながら、追ってはこなかった。
 彼自身には余力はあるのだろうが、きっと彼は、すでに―――いや、最初からアキラなど眼中に無かったのかもしれない。

「―――何で“あいつ”が、“こんなことになるんだよ”」

 囁くような悲哀に、アキラは言葉を返さなかった。
 自分と彼の、圧倒的な温度差。
 この物語の当事者に、やはりヒダマリ=アキラは含まれていないのかもしれない。

「俺たちはただ、“あいつ”の武器を修理しに来ただけなのによ」
「……、」

 ふと、アキラの脳裏に、巨大な円柱が浮かび上がった。
 対の円柱。
 魔力を増幅させる働きがある―――リンダ=リュースの装備品。
 ヒダマリ=アキラは、それを剣で弾き飛ばし、あの奇妙な夜を乗り越えた。

「俺が―――壊したのか」

 アキラは訊いた。
 あくまで確認の意味のそれは、やはりグリースのように囁き声になった。

「だから、ただの八つ当たりだよ。てめぇが剣を振るった先に、こんな世界があっただけ。だけどそれは、俺にとって在ってはならない世界だった」

 本当に、ただそれだけなのだろう。
 アキラはグリースの言葉通り、自分の責任は無いと言い切れる。
 例えばアキラがあのとき剣を振るわなければ、2人の人間の未来がこの世界から消えていた。
 何も考えず剣を振るっているアキラにとって、その先に何があるのかなどいちいち対処していられない。その場その場で動くだけだ。
 そして今後も、後先考えずそんな行動を取るのだろう。
 彼らがこの地にいる理由を聞いた今も、原因と結果が離れ過ぎていてアキラに現実感をもたらさなかった。
 所詮―――他人事だと。
 ヒダマリ=アキラは、所詮その程度の人間なのだ。

 グリースもそれは分かっている。
 あのときのアキラの行動は、極論を言ってしまえば正しいのだ。
 しかしそれでも倫理や道徳を超えて、その感情が、“そんな原因が現実感を持っていないのが許せない”と叫ぶのだろう。

 サイガが手を叩き、アキラの戦力分析は終わった。
 僅かに渋い顔して近付いてきたサクに、アキラは震える手で木刀を渡すと、腕をさする。
 彼の攻撃は、当事者の攻撃は、本当に重かった。

 グリースは木刀を放り投げ、アキラに背を向け去っていく。
 アキラはその背に声をかけた。

「そんな離れた世界に責任感を振りかざすほど、勇者は暇じゃねぇよ」

 アキラもグリースも分かっている言葉を放つ。
 “非情”な大陸で、あくまで自業自得な彼らにとって、正しい言葉。

「だけど」

 グリースの八つ当たりは終わった。
 彼の―――“彼ら”の悲劇を聞いても、アキラの心は動かない。
 アキラは今回、“巻き込まれていない”のだから。

 そして彼らは、言ってしまえば自業自得。
 そこに勇者の義務が発生すると言うのなら、それこそ世界は狂っている。
 グリースも、たったひとりのために周囲に当たり散らすような、たかがそれだけの小さな人間なのだ。

 だが。
 だがそれこそ、“まさしくヒダマリ=アキラと同種の想いではないか”。

「勇者は違うが―――」

 結局自分は、今まで巻き込まれたから仕方ないというスタンスを取り続けたかっただけだ。そこには責任というものが無いのだから。
 責任という存在がどれほど重いか知っている今のアキラにとって、その立ち位置はあまりに楽なのだ。
 しかし今は、そんな免罪符は存在しない。

「―――ヒダマリ=アキラは当事者だ」

 あれこれ理由を付けようとしていた自分が馬鹿みたいだった。
 理由が無いのなら、ただ自分がそうしたいと言えばいいだけだ。

 理由を待って応じるのではない。
 言い訳をして応じるのではない。
 その気があると言うだけで、たったそれだけで、自分は当事者に成れるのだから。

 自分の物語で無くとも知ったことか。
 過去に何があろうとも、自分は、“彼ら”を救いたいと思っているのだ。

 “ヒダマリ=アキラは、百年戦争に参加したい”。

「サク」

 アキラは並び立つサクに、強い口調で望みを伝える。

「あいつらへの手紙に書いてくれ。必ず迎えに行く」
「……ああ」
「それと、」

 火は点いた。
 理由は要らない。
 ならば答えは決まっている。

 勇者としてではなく―――ヒダマリ=アキラとして。

 百年戦争に挑む。

「少し、遅くなる」

 敵残存勢力。

 魔物―――????匹。

 知恵持ち―――????。

 言葉持ち―――????。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

------
 後書き
 読んでいただいてまことにありがとうございます。
 大変お待たせいたしました。
 2ヶ月間という期間が空き、前の話はすでに忘却の彼方かもしれません。
 さて、本来なら内容に触れるところですが、ここでは別の話を謹んでさせていただきます。

 ご存知で無い方はおられないと思いますが、2011年3月11日、三陸沖にてマグニチュード推定7.9の大地震が発生いたしました。
 被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。そして、被害がこれ以上広がらないことを切に祈っております。

 また、私事で大変恐縮ですが、私自身も被害に遭いました。
 住居は被災地圏内ではないのですが、少なからず被害を受けました。
 そして大地震発生日時、所用により被災地近辺におりましたため、私自身も影響を受けております。
 身体的な損害も含みますが、持ち運んでいたPCの破損もあり、執筆活動が困難となっておりました。
 お待ちいただいていた皆様には、大変ご迷惑をおかけいたしました。

 現在はある程度回復し、執筆活動を再開しておりますが、ただでさえ長い更新期間がさらに開いてしまうかと思います。
 それでも更新は続けますので、目に止まったときにでもお読みになっていただければ幸いです。
 ご指摘等は謹んでお受けいたしますので、その辺りは容赦無く行っていただけるとありがたいです。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第三十三話『タンガタンザ物語(承)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:06

“――――――”

『こいつを直せ』

『? ……この剣は、』

『ゴミクズ同然の物体だ。今はな』

『だ、だけど、こ、これ、……どうやって』

『ここにあんだから答えはひとつだろ。んなことより、これからのことだ。てめぇだって八つ裂きにされたかねぇだろう』

『…………そう、だな。しかし意外だ。お前のことだから、てっきりもう……。正直俺は諦めていたよ。歴史上、ただの1度しか覆ったことの無い“死の宣告”に。普通は、』

『はっ』

『……ああ、そうだったな。お前の世界に、そんなものは存在しない』

『元はてめぇの台詞だろう』

『お前とは違うさ。俺は口先だけ。見ろよ、今も手が震えている』

『狂い切る前に仕事だ。とっとと始めろ』

『優しさが無い客だな。まあいい。最後の……、いや、最期にしないための、大仕事だ。ところでお客さん、ご要望は?』

『とにかく硬度だ。硬く、堅く、固く。例え世界が丸ごとぶっ飛んでも傷ひとつ付かないようにしろ』

『……切れ味はどうするんだ? それに重量も。補強すれば硬くはできるだろうが、ナマクラが出来上がる可能性もあるぞ。ゴミクズから時間と金を懸けたゴミクズへのクラスチェンジだ』

『高が道具に多くは求めねぇ。お前の知る限りの理論、素材、技術を総動員して最強硬度の剣にしろ。とにかく壊れないことだけだ。“俺に耐えられりゃ”、後はこっちでなんとかする』

『……は、世界一への挑戦、か。分かった、やってみよう。……いや、やってみせる』

『いいからとっとと始めろ。それに、俺は世界一なんて次元を求めちゃいねぇ。世界なんざ比較対象にするな。神話さえも塗り替える、塗り潰す、アルティメット・ワンを創り上げろ』

『優しさが無いな、本当に。でもそんなもんか。―――それじゃあ、』

『……』

『―――始めようか。幾千回雷に撃たれようとも砕かれず、幾億年荒波にもまれようとも朽ち果てぬ、“存在すること”のみを追求した至高の剣。神話の物品すら凌駕する―――“永遠にそのままである剣”。万物総てに共通する時さえ斬り裂く一品は、お前にこそ相応しいよ』

『はっ』

『……うん、お前らしい。よし―――今から“普通”を、壊してみようか』

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「あの、姉御はどこに?」
「お……、う?」

 背後から声をかけられ、ヒダマリ=アキラは顔を拭っていたハンドタオルを取り零しそうになった。

 毎年『ターゲット』が設定されるタンガタンザの百年戦争。
 魔族側が破壊を目論む『ターゲット』を護衛すべく、ミツルギ家当主ミツルギ=サイガ率いる護衛部隊は、現在ミツルギ家で護衛のための訓練を行っていた。
 間もなく昼時を迎える頃、護衛部隊のひとり、ミツルギ=ツバキが声をかけてきた。
 僅かに褐色の肌で、頭にお団子を作っているツバキは、あくまでおずおずと、といった様子で首を傾けている。

 アキラは思わず周囲を見渡した。
 ミツルギ家の屋敷は、まず矢倉などひしめく広大な庭と共に堅牢な城壁に囲まれている。
 そしてさらにその周囲は深い外堀となっていた。おおむねアキラのイメージする屋敷の姿をしているのだが、城壁、そして屋敷とほぼ全てが鉄製で、夏の強い日差しを乱反射している。
 メタリックで、形状以外住居とはかけ離れた有り体の、鉄の塊。
 その屋敷の外堀の周りを8分の1ほど走るのは、昼食前のクールダウンとしてメンバーの日課となっている。日に焼けた鉄の臭いや熱に体力が根こそぎ奪われるこのメニューは最早クールダウンでは無いとアキラは思っていた。

 丁度今ランニングを終え、アキラは首にかけておいたタオルで顔を拭いていたのだが、気づけば隣を走っていた少女が消えている。
 アキラは未練がましく屋敷の門を眺めていたが、やがて諦め、目の前のお団子頭に顔を戻した。

「いや、分からないけど……。ま、まあ、屋敷に戻ったんじゃないか?」

 アキラの返答に、ミツルギ=ツバキは困ったように眉を寄せた。
 アキラを含め僅か6名のこの護衛部隊の訓練が開始してから1ヶ月が経過している。
 しかし、アキラがツバキと会話したことなど軽い挨拶を含め数えるほどしかなかった。
 特訓開始初日、大まかな今後の行動指針が定まった後、『姉御、ご無沙汰しています』とアキラの仲間に声をかけてきたのが最も言葉を交わせたときであろう。
 簡単な自己紹介程度で終わったツバキとの会話を、すでにアキラは忘れかけていた。
 確か彼女は―――従者、だったか。特訓を行わず、ミツルギ=サイガと共に主に戦略面の方針を定めている男の。

「そ、そうですか……。お昼一緒に食べるはずだったんですが。分かりました、探してみます。ありがとうございました」
「あ、ああ」

 ここは“非情”なタンガタンザだというのに、この畏まり様。
 随分と礼儀正しい応答に、アキラはしばし呆然としていた。
 アキラと言葉こそ交わしていないが、彼女の行動言動は脳裏に刻まれている。
 ミツルギ=サイガに怒鳴り、時には自身の主君にさえも叫んでいるようなツバキを、アキラは心の中で別行動中の仲間と重ねていた。
 しかしどうやらそれは、あらゆる人間を前に共通して見せる顔ではないらしい。
 こういう性格を、内弁慶、と言うのだろうか。
 どうやら彼女に不名誉極まりない愛称を付けていたのを謝らなければならないようだ。
 よく行動を共にしているのを見かける“姉御”の前では、彼女はまた違った一面を持っているかもしれない。

「あのピコピコ頭なら、ランニング前にあの髭面当主に呼ばれてたぞ。終わったら戻ってこいってよ」

 そこで、横から声が入った。
 バンダナのような白い鉢巻きを頭に結び、黒い短髪を風になびかせている体格のいい男―――グリース=ラングルは、顔の汗を手のひらで乱暴に拭い、のそのそと近付いてきた。
 1ヶ月に爆発しかけた彼の感情もなりを潜め、元の性格なのであろう中立的な雰囲気を纏っている。
 時間というのは不思議なものだ。
 どれほどの激情でも時間と共に風化し、今ではアキラと共に昼食をとるのが日常となっているほどだった。
 もっとも、ツバキが久方ぶりに会ったという“姉御”を引っ張り回しているせいで、あぶれた2人組が行動を共にすることが多いというだけなのだが。

「そうですか……、困りました。どうしよう。この時間、クロック様も忙しいらしいし」
「それなら、たまには一緒に昼行くか?」

 自らの主君の名前を出し、悶え出したツバキをグリースが投げやり気味に誘った。
 グリースに軽く視線を向けられ、アキラは即座に頷き返す。
 丁度折り返し地点を向かえている今、というのも妙な話だが、初めてツバキと行動を共にできる。マンネリ化していたグリースとの昼食に刺激が加わるのは、アキラとしては大歓迎だった。

「わ、分かりました。お供します」

 ツバキの返答を受け取り、アキラたちは歩き出した。
 向かう先は屋敷では無く、“ミツルギ家”という巨大都市の商店街だ。

「そういやよ、ヒダマリ。そろそろか?」

 結局いつもの昼食屋になるのだろうとアキラが店のメニューを頭に並べ始めたとき、グリースがパーカーのポケットに両手を突っ込みながら訪ねてきた。
 並んで歩くアキラとグリースの後ろでは、ツバキが黙り込んで付いてきている。

「ん? 何がだよ?」
「だから、手紙だよ手紙。あのピコピコ頭言ってたじゃねぇか。そろそろ逸れた仲間から連絡くるんじゃないか?」
「…………あ、おう、そうだな。そういやそうだ」
「嘘だろお前……」

 歩を進め続けると、燃えるような熱を放つ鉄の屋敷からこぞって距離を取った露店の並びに辿り着いた。
 ここまで来ると、屋敷の熱気がようやく薄れ、代わりに喧騒交じりの熱気に包み込まれる。
 戦争中だというのに、いや、戦争中だからこそ活気があるのか、店主たちはこぞって声を張り上げ資金集めに躍起になっていた。
 この1ヶ月でとっくに見慣れた光景だが、やはりどんな環境であろうとも、人が集まり人が営むというのはこういうものなのだろうと感慨にふけられる。
 アキラは何となく目に止まった露店の剣を流し見て、グリースに顔を向けた。

「いや、忘れてたわけじゃねぇよ。でも、早くても1ヶ月、とか言ってたんだ。それも向こうが同じようにリビリスアークに手紙を出してた場合、だ」
「ふーん……、まあ、どんな奴らか知らねぇが、無事なんだろうな」
「……多分。あれ、つーかお前、会ったこと無かったっけ?」
「あ? …………って、あれか、あの赤毛の女か」
「ああ、そいつ」
「あいつ洒落にならねぇぞ。あの後、奴が俺の鎧ベコベコにしたせいで脱ぐのにどんだけ時間かかったと思ってんだ」
「ほう」

 そういえば“あの夜”のことはお互い詳しく話し合っていなかったな、とアキラは記憶を呼び起こす。
 ヒダマリ=アキラとグリース=ラングルが初めて出会い、そして剣を交えたあの奇妙な夜。
 会話の流れで辿りついてしまったが、どうやらグリースの中でその日のことはタブーというわけでは無かったらしい。
 むしろ現在タブーなのは、あの奇妙な夜でアキラが出会った、もうひとりの人物―――か。

「“リンダ”はよ、手伝いもしねぇで声上げて笑ってた」
「……そっか」

 意図してか、グリースはそのタブーを口にした。
 毎年『ターゲット』を設定して繰り返される、タンガタンザの百年戦争。
 アキラたちが参加する、今年の『ターゲット』は―――リンダ=リュースというひとりの女の子。

「手紙も、送れないんだっけか」
「ああ。あの髭面当主は、むしろ辛くなる、だとよ。希望が僅かでもちらつくと、一気に崩れるそうだ。狂った状況では、狂った環境にいた方がいいらしい」

 ミツルギ=サイガがそう言っていたのを、アキラも聞いていた。
 絶望的な状況に追い込まれたとき、その状況を近しい人物に知られるのが最も辛い種類の人間がいると言う。
 弱音や不安を打ち明けるのに最も適任なのは、むしろ赤の他人だ。
 だから占い師や人生相談などという職業が存在し、そしてそれは多くの人に求められるのだろう。

 しかし他人にのみ囲まれている―――狂った環境、か。
 アキラはそれを、とても不憫に思う。
 だがそんな想いこそが、リンダ=リュースを苦しめるのだろう。
 最も辛いのは、他ならぬ彼女なのだから。

「ま、とにかく今はメシだ。ヒダマリ、お前今日何にする?」
「あー、行ってから決めるわ。てか、マジでまたあそこか? たまには別のとこ行こうぜ」
「……まあ、そうだな。えーと、お前は何が良い?」

 そこでグリースが振り返り、ツバキに要望を訊ねようとしたところで、

「……マジか」
「ははっ、はははっ」

 アキラは笑い声を上げた。
 しかし目は、全く笑っていない。
 “捉えるべき者が存在しない”瞳を伏せ、額に手を当てた。

「あいつ、どこ行きやがった!?」
「やっぱティアだ、あいつ、ティアだ、はははっ」

 狂ったようにアキラは嘆いた。
 今から始まるのは昼食ではなく、迷子捜索。

―――***―――

 アルティア=ウィン=クーデフォンが、消失した。

「ぶっっっ、ぶばおぉぉぉおおおおおおーーーっっっ!!!?」
「ティア!? ティアァァァアアアーーーッッッ!!!!」

―――マグネシアス修道院。

 北の大陸―――モルオールとタンガタンザの境に存在するこの建物を訊ねる者はそう多くない。
 モルオールとタンガタンザの大陸は、それぞれ大陸の境に向かうほど細くなり、上空から見れば橋がひとつかかっているような形状をしている。そしてその境から始まって、モルオール側には高度数千メートルにも及ぶ山々が連なっていた。
 それだけでもタンガタンザからモルオールへの陸路は億劫であるというのに、その上極端に気候が変わる。
 モルオールへの第一歩を踏み出した途端、洗礼のように容赦無く大雪が吹き荒れ、旅人の視界を白一色で染めてしまうという。
 年中吹雪というわけでもないのだが、予兆無くそこまでの天災に遭うとなるとまともな人間ならば陸路は使わない。タンガタンザからモルオールへ向かうのは陸路では無く海路を使うのが一般的で―――そして、まともな人間ならば一般的にモルオールへは向かわない。
 生まれた頃から百年戦争に見舞われているタンガタンザの“洗練された人間”でさえ、モルオールに向かうことは“危機から逃れたことにならないのだ”。

 “魔物それぞれが一騎当千”。
 堅牢な城壁さえ暇に崩され、歴戦の兵すら骸に変わり、辛うじて生存できるのは“神族”から特殊な防御機能を承った町村のみ。それでも時には攻め込まれ、またひとつ、またひとつと村々が消えていく。
 命知らずの腕試しでさえ選定されないモルオールは、戦争の舞台であるタンガタンザさえも凌駕し、生息する魔物の危険度は4大陸の頂点に立っていた。
 人々がどれほど対策しようとも、魔物の能力はそれを上回る。
 人々がどれほど結束しようとも、魔物の軍政はそれを上回る。
 人々がどれほど成長しようとも、魔物の脅威はそれを上回る。
 モルオールは4大陸随一の魔道士隊数を有する大陸であるが、それでも拮抗するのが精一杯であった。

 常に末路と隣り合わせの極北の地。
 そんなモルオールが“過酷”と呼ばれているのは、あまりに自然なことだった。

「いだだっ!? そこっ、なんか、何かありましたっ!! すっ、ねっ、をっ……!!」

 話戻って、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンが、泣き喚いた。
 エリサス=アーティとアルティア=ウィン=クーデフォンがマグネシアス修道院に保護されてから、1週間が経過していた。
 この修道院はモルオールとタンガタンザの境にあり、山の腹部に存在する巨大な建物である。
 背こそ高くはないものの、一際大きい聖堂の建物から左右に連なって建物が展開し、それぞれ数百メートルほど伸びている。正面から見て奥は、くり抜いたのか山の“中”に建物が建築され、丁度山に埋まり込んでいるような形状をしていた。
 現在は運よく天気は崩れず、昼の太陽が上っているが、曇ればマグネシアス修道院はその姿を山の中に隠し込んでしまう。

 ただでさえ年中雪に埋もれているこの修道院を発見できたのは、この2人にとって幸運なことだった。

「~~~っ!! ~~~っ!!」
「……大丈夫?」

 エリーことエリサス=アーティは悶絶しているティアを見下ろし、目を細めた。
 マグネシアス修道院の正門付近には、一段下ったような浅い崖がある。
 深雪に囲まれている庭を不要にうろつくと、“丁度小さい子供”には大変危険なのだと教わった気がしたのだが、エリーがこの光景を見るのは僅か1週間で4回目。
 今日は見事なヘッドスライディングを決めていたようだ。
 目の前で人が消失すると、何度見ても心臓が止まりそうになる。

「はあ。捉まって」

 エリーは白い息を吐き出しつつ、慎重に足場を確保し一段下のティアに手を伸ばした。
 顔面を地に擦りつけて滑り落ちたのか、顔をしもやけで真っ赤にしたティアは、何とか上りきると鼻をグズリと鳴らして涙ぐんだ。
 防寒対策に羽織った、ティア風に表現すればもこもこした分厚いコートごと全身雪まみれになり、ティアはぼそぼそと言葉を漏らし始めた。

「違うんですよ」
「いや、何が?」
「あっし、子供じゃないです。だから、転んでないです」

 まずい、頭を打ったかもしれない。
 エリーが助けを求めて周囲を見渡しても、雪、雪、雪。
 結局座り込んで顔を上げないティアを見下ろし、それが注意を受けたときのことが尾を引いているのだと思い至り、もう1度助けを求めて周囲を見渡した。
 この子供を、誰か止められないのだろうか。
 何度注意しても、何故かティアは外に出て、気づけば転んで泣き出している。
 すると、丁度その注意を促した人物が近付いてきた。

「エリサスさん。……それに、やっぱり。アルティア」

 挨拶のような口調から、咎めるような口調に変わりつつ、その女性は2人の名を呼んだ。
 シミひとつない白と紺の修道服に膝までのコートを羽織り、ウェーブのかかった黒髪を背に垂らしている女性は、カイラ=キッド=ウルグス。
 彼女は1週間前、エリーとティアの2人を快方したばかりか、修道院に保護するように修道院長にかけ合った人物だ。
 行く当ても分からないエリーとティアはその好意に甘え、修道院の掃除等雑用を引き受け、宿泊を許可してもらっている身分である。
 エリーとティアは大恩を感じているのだが、どうやら彼女は子供に対して過保護な面があるらしく、エリーとティアで扱いが違った。

「さて、アルティア。わたくしの注意を覚えていますか?」
「……違います。あっしの名前はティアにゃんです」
「そんな名称の人物が実在したら、名付け親は天罰物の出来事です」
「じゃ、じゃあこれは天罰……!! っぅ……」
「あなたが名付け親ですか」

 カイラは立ちくらみを起こしたかのように額に手を当て、困ったようにエリーに顔を向けた。

「エリサスさん、あなたからも言って下さい。この辺りは雪が深くて……、本当に危険なんです。こう外ばかりにいられては、わたくしはとても気がかりです」
「えっと……。まあ、言ってはいるんですけどね」

 エリーは愛想笑いを浮かべつつ、カイラをティアから離すようにさりげなく修道院へ歩を進めた。
 落ち着いていて、静かな口調。
 どこか神秘的な雰囲気の彼女は、ティアと正反対の人間に思えた。
 そんな彼女はティアに接するとき、どうも躾けるような態度になるのだ。今もエリーに誘導されてティアから離れてはいるが、その視線は子供を見守るように動かない。
 それが、常日頃から『子供じゃないです』と言っているティアにとって面白くないのだろう。
 ただ、エリーから見れば『子供じゃないです(笑)』なティアに接する態度は至極自然なことに見えた。
 かと言って、エリーが親のように接されても困るのだが。

「エリサスさん。逸れたお仲間からのご連絡は来ますかねぇ」
「えーと、まだ……」
「いえいえ、そういう意味ではありません。催促しているわけではなく、お仲間の身を案じての言葉ですから。こんな場所ですし、連絡も大分先ですよね」

 本当にありがたい。
 エリーがマグネシアス修道院で目を覚まして最初に行ったのは、現状把握と手紙の作成だった。
 宛先は勿論リビリスアークの孤児院。
 メンバー内に自分以外には定期的に手紙を出している者はいない。
 必然的に宛先は、各メンバーの連絡の中継地点になるのはあの孤児院以外に有り得ないのだ。
 しかしそうなると、最も気がかりなのは“あの男”。
 ティアと2人先にあの煉獄から退場したエリーにはとっては、どうかサクと行動を共にしているようにと祈るばかりだ。
 サクはともかくあの男がひとりなら、リビリスアークの孤児院を思いつくのにはどれほど時間を費やすのだろう。
 最悪気づかず、この広い世界を虱潰しに歩き始めているかもしれなかった。
 念のためにティアの自宅や、駄目元だがシリスティアで知り合った魔術師隊のサテナ=アローグラスという女性などにも情報を求めて手紙を出したが、応答は無い。
 もっとも、1週間程度では手紙が向こうに届いてもいないであろうが。

「連絡、来るといいですね」

 エリーの表情に釣られたのか、カイラもどこか遠い目をしていた。

「聞けば、“魔族”の襲撃に遭ってここに辿り着いたとか。その上、モルオールとは。ここの交通は不便ですし……。あなた方の旅も、“過酷”なのですね」

 カイラは祈るように胸の前で手を組んだ。
 この1週間、よく見る彼女の崇拝の姿。
 エリーの知る限り、彼女は毎晩、ひとりになっても聖堂の中で祈っていた。

「……カイラさんは、ここで生まれたんですか?」

 言葉のニュアンスが気になり、エリーは訊ねた。
 この1週間。
 修道院の仕事を覚えるのに大忙しで、結局お礼程度でカイラと深い話をしていない。
 今が好機だ。

「ええ。わたくしは生まれも育ちもここです。ただ、ごく稀に来る旅人様にお話を窺っていて……」
「山を下りたこととかないんですか?」
「何度もありますよ。麓に遭難者を届けたり、麓に郵便物を運んだり、麓から郵便物を持ってきたり」

 彼女はこの山を登り下りしているのだろうか。
 エリーは僅か驚き、しかし本題はそれではないと話を続けた。

「他の場所、旅行してみたいとか思わないんですか?」
「いいえ、決して。わたくしはここで、神に仕える身ですから」

 カイラは断言した。

「ただ、そうですね。シリスティアには夜の訪れない巨大都市があるとか」
「じゃあ、シリスティアには行ってみたいんですか?」
「いいえ、決して。わたくしはここで、神に仕える身ですから」

 カイラは断言した。

「ただ、そうですね。アイルークでは緑一色の大自然が広がっているとか」
「……アイルークには、行きたいんですね」
「いいえ、決して。わたくしはここで神に仕える身ですから」
「行きたい気持ちが漏れてます」

 エリーは断言した。

「まあ、その、ですね」

 カイラはこほりと咳払いをし、

「確かにわたくしは神に仕える身です。だけどもし、仮にです。わたくしがどうしても外の世界に行かなければならないようなことがあれば……、仮にですよ? そうなれば、一時的に神のお導きにしたがうのもやぶさかではありません」

 どれほど落ち着いていようとも、やはり年頃の女の子ではあるのだろう。
 助けられてもらっていて何ではあるが、実際エリーとってこの修道院は刺激が薄すぎた。
 山を探索するのは流石に“過酷”だそうで、この1週間エリーは日課の鍛錬程度しか行うことが無く、目的を求めているところだった。
 田舎で育った身ではあるが、そこから飛び出た外の世界は、常に刺激に満ちていたのだから。

「……カイラさん、魔術師ですか?」
「魔術師? いえ、わたくしは神に仕える身です」
「魔術師もそうなんですけど……、いや、属性、とか。魔術は使えますよね?」
「ええ。水曜属性です。それが何か……?」

 当てが外れ、エリーは愛想笑いで話を切った。
 色々有り過ぎて忘れていたが、自分たちが世界を旅して回っているのは仲間集めが目的である。
 アイルーク、シリスティアと旅を進め、今はとうとう4大陸最強の大陸モルオール。
 結局調子が良かったのはアイルークだけで、その後仲間は増えていなかった。
 こんな調子で、七曜の魔術師を集めることはできるのだろうか。

「属性のことで何かお悩みでもあるんですか?」
「ええと……、あの、」

 もういい。
 破れかぶれだ。
 エリーは流れのまま自分たちの要望を口にした。

「カイラさん、……えっと、木曜属性の人とか知ってます? あと、土曜属性とか」

 月輪属性は最初から口にしない。
 “当て”ならばあるし、何より、はいそうですかと用意できる存在ならば、世界をぐるぐる周る必要などないのだから。

「木曜属性……ですか。流石に知りません」

 流石に難しい注文だったか。
 エリーは頭を抱えた。
 例外の2属性を除いた5属性。
 その中でも希少性も、そして能力も随一と言われる木曜属性は、そう簡単に見つからない。
 エリーの中で最も気がかりなのは、当てのある月輪属性を超えて、木曜属性であったりもした。
 外界から切り離されているこの修道院の者に聞いても、希望の答えなど返ってくるはずもない。

「ただ、」

 しかしカイラは、言葉を続けた。

「土曜属性の方であれば、この修道院にも噂は届いています」

 ピクリとエリーの耳が動いた。
 土曜属性。
 木曜属性に次いで希少性の高い、強力な属性。
 エリーの頭に情報が浮かび、思わず顔を上げると。

 カイラは、眉を潜めていた。

「あくまで、噂です。ただ、この修道院にまで轟いたとなると、ある程度信憑性はあるかと」

 エリーは話を促した。
 カイラの雰囲気は妙だが、土曜属性の者の情報は可能な限り集めておく必要がある。

「少し前、中央の大陸に配属された天才魔道士の噂が流れたことがあったでしょう? 入隊後僅か1年で、激戦区の魔道士隊に配属されたと」
「え……ええまあ」
「ですが、それよりも僅かに前。このモルオールでも魔道士に昇りつめた方がいたそうです。もっともその方は、入隊してから1年と少しかかったそうですが」
「―――、」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
 全世界に噂の流れた、激戦区の天才魔道士。
 その人物はエリーもよく知っている。あまりに異例過ぎてどこまでも噂であると言われているが、それが確たる事実であることをエリーは知っていた。
 しかし、もうひとり。
 もうひとり、“そんな異常者が存在するのか”。
 凡人にとって、魔道士に辿り着くのに、1年であろうが1年と少しであろうが関係は無い。
 魔術師試験に合格し、成果を出し、その上で最高難易度の試験を通過して辿り着くのが魔道の最高峰―――魔道士。
 そんな領域に、1年程度で到達できるわけがないのだ。
 ひとりの例外を知っているエリーであっても、その認識は変わらない。

 5年で天才。
 1年は―――“異常”、だ。

「噂じゃ、ないんですか?」
「いや、あくまで噂……、です。わたくしも何度か魔道士試験の問題集を読みましたが……、まあ、そ、そこそこ、難しいですし」

 ちなみにエリーは、魔道士試験の問題は解読不能だった。
 知っている単語が答えに載っていると少し嬉しくなる程度だ。
 その下の魔術師試験に1度落ちているエリーにしてみれば、雲の上の領域である。

 しかし仮に。仮にその人物が、“とある男”の良く分からない運気で巡り合うことになれば、このメンバーに増えるだろう。
 相手が魔道士隊では信じられないが、そんな常識はエリーの中でとっくに崩れ去っている。

 そんな天才がメンバーに追加されれば―――解説役では4人の中で優位に立っていたエリーにとって由々しき事態である。

「まあ、とにかく。その方は土曜属性だそうです。前にここを見回りに来た魔術師隊の方から聞きました。まあその方々も、半信半疑だったそうですが」
「ふふ……ふふふ。あたし、決めました」
「?」
「目的です。連絡来るまでに、めちゃくちゃ勉強して……、めちゃくちゃ勉強します」
「……は、はあ。あ、それでしたら、修道院の書庫に行かれてはいかがですか? 多くの古文書が眠っていますし」
「あるんですか……!?」

 ええ、と頷くカイラに、エリーは拳を握った。
 なんだ、やることはいくらでもあるではないか。
 エリーが、出会ってもいないまだ見ぬ天才に対抗心をゴゴゴッと燃やしたところで、

「ぶっ、ぶばぁぁぁあああーーーっ!!!?」
「ティアッ!? ほんとに何やってんの!?」
「えっ!? またうろつき回ってたんですか!?」

 彼女は一体、何をやろうとしているのだろうか。

 ともあれ。

 アルティア=ウィン=クーデフォンが、消失した。

―――***―――

「ん? 誘拐されたんじゃね?」

 慌てて屋敷に戻ったら、これである。

 ヒダマリ=アキラは目の前の髭面男の頬を眺めた。
 筋肉質で長身のこの男にストレートを決められれば、大層気持ちが良いであろう。
 タンクトップにダボダボのズボンを纏い、口調とは相反して猛々しい筋肉を覗かせているこの男は、ミツルギ家当主ミツルギ=サイガ。
 現在ミーティングルームとして指定されている一室で何かの書類を読みながら軽食をとっていた。

 もぐもぐと動く頬と共に上下する瞳はいかにもやる気な下げで、飛び込んできたアキラのテンションも同時に下がる。
 だが、矛盾したことにボルテージは上がるのだ。
 奴を襲え、と。

「今グリースが街を探している。てか誘拐? 何だよそれ」
「誘拐くらい知っているだろう。異世界には無いのか? いやんなわけねーよ。話を聞く限り、俺らの祖先とヒダマリ君の元の世界は結構似ている。同じかも」
「……もういい。サクはどこだ?」

 アキラはサイガの協力を得るのを放棄し、最低限の情報を求めた。
 どの道、失踪者の探索には人手が不可欠だ。
 アキラとグリースが昼食に誘ったミツルギ=ツバキ。
 彼女は街中で消失した。

「サクラちゃんはクロッ君と出かけてるよ。ほら、君の武器の件だ」
「あ、ああ」

 言われ、アキラは自分が強く出られない立場の人間であることを思い出した。
 ヒダマリ=アキラの“予兆”は、本格的な鍛錬が始まったときから発生している。

 “魔術使用時の武具の破損”。

 アキラが使用できる魔術の中で、使用頻度が著しく高い2つの力。
 日輪属性による火曜属性の再現。
 日輪属性による木曜属性の再現。
 この両者と共に武具を振るえば、木刀はもちろん鋼鉄製の剣まで吹き飛ぶ始末である。
 特に酷いのはアキラが最も得意とする火曜属性の再現で、世界随一と言われるタンガタンザ製の剣でさえ、耐えたのはほんの数発程度であった。
 こうなれば、少なくとも戦争中は火曜属性の再現は封印するしかないのではないかとサクから打診されたとき、ミツルギ=サイガが提案したのだ。

 精度の高いタンガタンザの市販品で無理ならば、ヒダマリ=アキラのために新たな武具を作成しよう―――と。

「まあ、戦力が増加するのは俺にとって大歓迎さ。腕のいい職人ならタンガタンザに溢れ返っている」

 サイガは資料に目を落としながら呟いた。
 そういえば、クロック=クロウというミツルギ=ツバキの主君が言っていた。
 ミツルギ=サイガを信用して良いのは、利害が完全に一致しているときのみだと。
 どこか胡散臭いこの男だが、正に今がそのときなのだろう。

「でもさ、」

 しかしアキラは、それでも疑念が尽きなかった。
 自らの剣がオーダーメイドされるというのは心躍るものがあるのだが、今までの経験上、剣は振るえば砕ける物体といういささか常識から外れた発想が頭の中にこびりついていた。

「本当に武器で解決するのか? 前にサクに言われたんだよ。武器の破損は、俺の魔術制御が下手だから起こっているって。俺この1ヶ月、魔術方面の特訓とかしてないぞ?」
「かっかっかっ、舐めるな舐めるなタンガタンザを。その辺の修行中の奴捉まえたって、一級品の武具ができる。他の大陸と一緒にするなって。サクラちゃんだって結構期待してたし」

 サイガは笑って資料をまくった。視線は微塵にもアキラに向かなかったが、随分と自信があるようだった。
 とりあえずはサクを信じて、任せておいてもいいのかもしれない。

「ヒダマリ君」
「ん?」
「あんまりサクラちゃんに頼っちゃダメだよぉ。あの娘はほんっっっとうに“下手”だから」

 一瞬心が読まれたのかと思った。
 だが、サイガは顔も上げず、のんびりとした様子のままだった。
 やはりこの親子は、互いの信頼関係というものが築けていないのかもしれない。

「それよりヒダマリ君。ツバキちゃんの方はいいのかい?」
「あ、そ、そうだよ。誘拐? それって、」
「質問がループするな。嫌いな言葉だ。まったく駄目だなぁ、そういうのは。誘拐くらい知っているだろう。異世界には無いのか? いやんなわけねーよ。話を聞く限り、俺らの祖先とヒダマリ君の元の世界は結構似ている。同じかも」
「お、い」

 アキラができる限りの殺気を飛ばすと、サイガはようやく資料から目を離し、アキラに視線を向けてきた。

「誘拐は誘拐だよ。タンガタンザは知っての通り“非情”でね。人攫いなんて日常茶飯事さ、金になるし。タンガタンザは広いからねぇ。街も何もない広大な自然が広がっている。逃げられたらお終いかな」

 ほぼ全域に戦争の爪痕を残すタンガタンザ。
 しかしそれは裏を返せば管理されていない土地が広がっているということにもなる。
 そのため、焦土と化したタンガタンザの大陸には、多くの旅団とも言うべき存在がうろつきまわっているそうだ。
 戦火の中のそうした存在には、人間の逞しさが感じられるが、中にはよこしまな目的を持っている旅団もあるという。
 “しきたり”を度外視した大陸内では、営利目的に誘拐を目論む者たちもいるのかもしれない。

「じゃ、じゃあやばいじゃねぇか。今すぐ探さないと、」
「なーに言ってんだ。ツバキちゃんが誘拐されたんだろ? ほっとけほっとけ」
「おい、それでもお前、あの娘の伯父かよ。街から離れられたら、」
「だからなーに言ってんだよ。ツバキちゃん舐めたら駄目だって。あの娘、そこそこ強いし。しばらくしたら戻ってくるって」

 あ、とアキラは言葉に詰まった。
 小さな子供が誘拐されたと聞き取り乱したが、よくよく考えればミツルギ=ツバキは、1ヶ月後には魔族一派と戦闘を行うメンバーの一員だ。
 そこらの誘拐犯に敗れるようなことは無いだろう。
 ようやく、ミツルギ=サイガの余裕の根拠が読み取れた。

「それより、重要なのはこっちだ」
「?」

 サイガは、手に持った資料をぱさりと机の上に投げ、大きな伸びと欠伸をかました。

「これは?」
「敵勢力の分析だよ。魔族側の陽動グループに妨害グループ。今んとこ、うちらの戦力とぶつかった相手の数から分析しただけだけど」

 そういえば。
 ミツルギ家は現在戦争中。
 アキラたちが魔族戦に備えている間に、タンガタンザの裏側では激戦が繰り広げられているのだ。
 特訓中、まれにしか姿を現さないサイガをツバキ辺りが非難していた気がするが、サイガもサイガでミツルギ家当主としての仕事が山積みなのだろう。
 アキラはおずおずと投げられた資料に目を落とした。
 そして、サイガは特に感想もないような口調で、敵勢力の分析結果を口にする。

「魔物の総数は、例年通り大体20万から25万匹、ってとこかな。“知恵持ち”は確認されているだけで2体。“言葉持ち”の確認は無いけど……どうせレポートを持ち帰る前に潰されているんだろう。1体、かな。例年通りだ」

 さらっとした口調から出たその数に、アキラは一瞬固まった。
 25万匹。
 5万超よりなお多い―――25万。
 日常会話で出てきて良い数ではない。

「ん? だいじょーぶだいじょーぶ。今年は結構優勢でね。もう10万近く削ったよ。残りは15万匹。最終戦間近にはもっと削るよ。まっかっせんしゃいっ、ってね」

 任せるのは、クロック=クロウ曰く、サイガに洗脳されたカラクリのような軍隊なのだろう。
 10万削ってもまだ半数以上戦力を残す敵軍に、アキラは眩暈に近いものを感じ、考えるのを止めた。
 特に、人間側に出た被害を。

 敵残存勢力。

 魔物―――150000匹。

 知恵持ち―――2体。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

「まあ、今はとりあえずツバキちゃん探してきてくれ。午後の予定も山積みだ」
「分かったよ」

 サイガがそう言うのであれば、ミツルギ=ツバキの身の安全は保証できるのだろう。
 一応利害は一致している。
 今頃街を走り回っているグリースにもそのことを伝え、後は手早くツバキを探し出すだけだ。

「まあ、血眼になる必要はないさ。あの娘は単純だから騙されやすいけど、本格的にやばくなったら…………あ」
「あ?」

 のんびりとした口調のサイガが固まった。
 アキラは思わず強い口調で疑問符を投げる。

 するとサイガはミニゲームにでも負けたかのように額に手を置き、目をきつく閉じた。
 嫌な予感がふつふつとアキラの脊髄に昇ってくる。

「やべーやべー。そういや割かし有名な人攫い集団がミツルギ家に入ったって聞いた気がする。結構有能らしくてね。いやいや、我らが護衛部隊に入って欲しいくらいだ」
「ざっ、ざけんなてめぇぇぇえええーーーっ!!!!」

 ズダダダダダダーーーッ!! とアキラは駆け出した。

 タンガタンザ物語の一間。
 こんな下らないことで、人ひとりが消失するなど許せるわけもない。

「んー、武器の破損」

 ミツルギ=サイガはアキラが去った部屋の中で、再度身体の節々を伸ばした。
 そして静かな動作で机に投げた資料を纏めると、目を細めて窓を眺める。

「そっして誘拐事件、か。2年前を思い出すなぁ」

―――***―――

「ぜえ……ぜえ……ぜえ……」
「ぜえ……ぜえ……ぜえ……ごほっ、」

 指だけで目先の小道を示された。
 ヒダマリ=アキラは首を振る。
 そして、同じように指だけで目先の小道を示した。
 グリース=ラングルは首を振る。

「もう無理だろ……。今日ランニングのメニュー多くね?」
「お前はまだいけんだろ。俺なんかあのバカでかい屋敷とここを往復してんだぞ」
「てめぇがあの髭面当主に会いに行ってる間、俺はずっと走りっぱなしだった」
「いや、俺はあの人と話している間、実はその場でジョグをしていた。俺の方が疲れてる」
「もっとマシな嘘は吐けねぇのか」

 息継ぎの間に下らない言い合いをしながらも、アキラと合流したグリースはミツルギ家の街を走り回っていた。
 時刻は正午を回ってから―――ミツルギ=ツバキが消失してから1時間ほど。
 未だ強く照りつける太陽に、身体中から汗を噴き出しながらも懸命に捜索を続ける2人であったが、手掛かりは依然として存在しなかった。

「はあ……、はあ……、落ち着いて考えようぜ。俺らがあの子を見失ったのはこの辺だ。つまりこの辺探せば、絶対に手掛かりが、」
「ヒダマリ。それ言ったのは何度目だ?」
「うぅ……。意識が朦朧としてて分からない……。だが、2桁には達しているはずだ」
「何が落ち着いてんだお前!? もうこの辺俺らのお気に入りスポットになってんじゃねぇか!!」
「だから落ち着け。こういうときに一番危険なのは、取り乱して無意味な行動を繰り返すことだ」
「なら今が一番まずい」

 結局のところ、2人がやっているのはツバキ消失付近の全力疾走だった。
 しかしアキラの稚拙な行動にグリースは付き合わざるを得なかった。
 現状、策が無い。
 ミツルギ家という街は広大だ。万が一、ツバキが連れ去られた方向と逆に動けば完全に詰んでしまう。

「うるせーな俺だってパニック状態なんだよ。てか決定的にまずいのは、俺らに土地勘がまるで無いことだ」
「そこ行き着くのにどんだけ時間かかってんだよ。だが……、これだけ探していないとなると、もうこの辺りにはいないのかもしれない」

 稚拙な策でも、この辺りだけは虱潰しに捜索した。
 アキラは額の汗を腕で拭い、無駄と分かりつつも周囲に視線を走らせる。
 時たま慌ただしい自分たちに視線を向ける者もいるが、それもすぐ興味薄げに過ぎ去ってしまう。
 彼らはみな、自分のことで手いっぱいのようだった。

「きついのは誰に訊いてもガン無視だってことだ。“非情”なタンガタンザとはよく言ったもんだぜ」
「“俺が訊いても”、ほとんど差が無い。くっそ、商売相手にはニコニコすんのに……、あの食堂のおばちゃんの笑顔も偽物だってか?」
「日輪属性のスキルとか何とか言ってたな。ほんっとうに役に立たねぇな、それ」
「そもそもてめぇがあの子を誘ったからじゃねぇかっ!!」
「お前だってにこやかに同意してただろ!?」
「いや、俺は心の中では、え、危ないくね? 誘拐とかされたら……、って思ってた」
「おうおうヒダマリ君。今ここで決着付けようか?」

 ついに不毛な言い争いを始めた2人の喧騒すら、ミツルギ家の雑踏に埋もれていく。
 アキラは勢いそのままに屋敷を飛び出したことを本気で後悔した。
 正直なところ、自分が戻った頃にはグリースがツバキを見つけ出し、今頃は遅めの昼食でもとっているであろうと考えていたのだが、何もかもが甘すぎた。
 この広大な街を土地勘の無い2人で探すのは無謀過ぎる。
 ミツルギ家の屋敷で協力者を募るべきだったのだろう。
 今からでも遅くは無いかもしれないが。

「つーかよ、本当に危険なのかよあの団子頭」

 息も徐々に整い始めたグリースは壁に背を預け、太陽を睨みつけながら呟いた。
 強い日差しに顔をしかめながら、顔を拭う。

「相手はそこらの誘拐犯だろ? ぶっちゃけシリスティアでもそういう奴らはいた。あの団子頭が強えのか弱えのか知らないが、そんな奴ら蹴散らして戻ってくんじゃねぇか?」

 妙に緊張感が無いのもそれが原因なのだろう。
 ミツルギ=ツバキ。
 アキラが最初に思い至ったように、1ヶ月後には魔族一派と戦闘を行うメンバーのひとりだ。
 戦闘力は贔屓目に見ても上級に位置するはずなのだ。

「いや、俺は背後から襲われて縛りつけられでもしたら、見事に誘拐される自信がある」
「不安要素多過ぎだろこのメンバー……」

 と言っても、アキラもそこまで危険視はしていなかった。
 ミツルギ=ツバキはタンガタンザ出身だ。そしてクロック=クロウの従者である。
 ならば必然的に実力は伴っていなければならない。
 ミツルギ=サイガの緊張感が妙に薄かったことからも、致命的な事件で無いはずなのだ。
 だが。
 万が一、ということもある。
 日頃小さな子供を連れている身としてツバキに妙な親近感を覚えているアキラは、再度周囲に視線を這わせた。
 遠くに見えるミツルギ家の屋敷だけでは無く、商店に並べられた果実が強く光を反射し、街全体が輝いているように見える。
 しかしその影に、ミツルギ=ツバキは姿を消した。

「それで、どうする。もうワンセットやるか? ランニング」
「もうお前には任せらんねぇ。つーか俺らは俺らができる最大限のことはやった。一旦屋敷に戻るぞ。あの髭面当主に話してんなら今頃捜索隊でも編成してんだろ。貴重な戦力だ」
「あ、ああ…………ん?」
「そこの馬鹿2人」

 見覚えあるような顔が瞳に映ったと思ったら、罵倒された。
 しかしそれよりも、“このタンガタンザで話しかけられた”ことに僅か驚き、言葉が返せない。
 グリースも同じだったのか、声の主をいぶかしむも言葉を返さなかった。

 アキラとグリースの視線の先には、ひとりの若い女性が立っていた。
 目映いばかりに光が満ちるこの空間で、その女性が纏う白衣は落ち着いており、かえって目を引かれてしまう。
 あるいは、彼女はそれを狙っているのかもしれなかった。

「ん? ヒダマリ=アキラとグリース=ラングルで間違いないだろう。ミツルギ=サイガにそう言えば通じると言われたのだが」

 感情が無いような口調と共にゆっくりと歩み寄ってくる女性を見ながら、アキラは記憶の糸を辿っていた。
 やがてたどり着いた答えは、1ヶ月前。
 アキラがミツルギ家の屋敷で最初に目覚めたとき、確かにこの女性に会っている。

「休憩室にいた人です……、いや、休憩室にいた人か?」
「ん。ああ、そうだ。良く覚えているな。忠告も含めて」

 その女性は、ついにアキラとグリースの前に立つと、くいと顔を上げた。
 並んでみて分かったが、彼女は異常に小柄だった。
 病弱そうな細身の身体で堂々と立ち、白衣をはためかせて呟いた。

「うん、見上げるにはこの程度が限界だな。世の中には私の世界に収まらない大男がいてね」
「何の用だ?」

 感情の読めない彼女の呟きに、グリースは感情が分かりやすい口調で返した。
 すると彼女はコクリと頷き、言葉を紡ぐ。

「君たちが今言っていただろう。私がミツルギ=ツバキの捜索隊だ」

―――***―――

『ああ、ちょっとお譲ちゃん』

『ん? 何か?』

『悪いけど、ちょっとだけ時間をくれないか。おじさん、話したいことがあるんだよ』

『う……ん、申し訳ないけど、これからお昼ご飯なんです。あっ、2人とも気づかず歩いてる……。行かなきゃ。ごめんなさい』

『いやいや、ほんの少しでいいんだ。ほら、お腹が減っているならお菓子があるよ。こっちにおいで』

『わぁ……。い、いや、流石に先約を無視するわけには……』

『そんなこと言わずにさ。大丈夫大丈夫。おじさん怪しい人間じゃないから。ほら、玩具もあるよ』

『そうか……な?』

『そうだよ』

『う……う、し、しかし、駄目だ。やっぱり先約の方が大切だ。クロック様の言葉でもなきゃ、やっぱり行けません』

『…………そのクロック様からの言伝なんだ』

『なに? クロック様を知っているんですか?』

『うんうん、そうそう。クロック様とおじさんは知り合いなんだ。呼ぶように頼まれたんだよ』

『そういうことなら話は別だ。分かりました。それで、お話は?』

『ここじゃなんだから、……ほら、あそこに荷車が見えるだろう。座ってゆっくり話そう』

『……あ、2人に伝えなきゃ』

『ほら、飴をあげよう』

『わぁ……』

『ほら、こっちだよ……』

―――***―――

「と、いうことがあったのだろう」
「馬鹿すぎんだろあのガキ」

 現れた白衣の女性は、アステラ=ルード=ヴァロスと名乗った。
 冷静なようで単に感情が抜け落ちているだけのような彼女が淡々と語ったミツルギ=ツバキ誘拐事件の推測。
 それに真っ先に毒を吐いたのはグリース=ラングルだった。

 アキラたち3人は、現在雑踏に紛れミツルギ家を南下していた。
 時おり道行く人と衝突しそうになりながらも、アキラは目頭を押さえながら器用に歩く。
 グリースが口を開かなければ、アキラの口からもきっと似たような言葉が漏れていただろう。
 そしてそんな下らないことが発端で、街を駆けずり回ったともなれば疲労感も倍増だった。

「あくまでミツルギ=サイガの推測だ。だが、ミツルギ=サイガの読みに外れはほぼ無い。あの娘は少し特殊らしくてね」
「少し、ね……」

 今度はアキラが、アステラの言葉に脱力したような言葉を返した。
 しかし、流石に話は大げさだとしても、あの年頃であれば騙されやすい種類の子供もいるかもしれない。
 ツバキの正確な年齢をアキラは知らないが、大人にとって誘拐するには容易いターゲットに見えるのだろう。
 仮に自分が誘拐犯だとしたら、同じ手口でアルティア=ウィン=クーデフォンを誘拐する自信がある。

「恐ろしく馬鹿馬鹿しくて協力する気が一気に削がれたんだが……、それはともかくだ。こんなのんびり歩いていて問題無いのか? あの団子頭が誘拐されたのは確定っぽいんだろ?」
「それは問題無い。ミツルギ家の周囲には、“生存することの前提”に警備の力がある。簡単に言えば特定の時刻でなければ入ることも出ることもできない。この街は囲まれているんだよ」
「あー、そういや」

 アステラの説明に、グリースは頷いた。
 気を失ったままこの街に入ったアキラは見ていないが、彼も思い当たる節があるようだ。
 ただ少なくとも現在地からその囲いは視認できなかった。街外れにでも行けば分かるのだろう。

「まあ、とりあえず私たちには時間がある。ミツルギ=サイガの読みでは“誘拐犯”の脱出ルートはこの先だ。表立って街に入れない者たちが利用する、警備の緩いルートだ」
「閉鎖しとけよそんなとこ」
「ミツルギ=サイガがそうしているんだ。そういう者たちも街全体から見れば利益だ。ミツルギ家に住居を構えるタンガタンザの民は年々増加している。例えば30人誘拐犯が侵入して、街で必要品を購入し、子供ひとりが攫われたとすれば、それはやっぱり利益なんだよ」
「あーあ、死なねぇかなぁ、あの髭面当主。出来るだけ無残に」
「そうなればタンガタンザは即座に滅びるだろうな」

 不満をむき出しにするグリースに、アステラはやはり淡々と応じる。
 アキラはその様子を横目で見ながら、グリースと同じくサイガに僅かな怒りを覚えていた。

 そう。クロック=クロウが言っていた。
 サイガは人の人生を軽視する節がある―――と。

「そういやさ」

 脳裏に浮かべてしまった苛立ちにも似た悪寒を振り払うように、アキラはアステラに顔を向けた。
 病弱そうな顔がこちらを見上げ、一瞬倒れるのかと危ぶまれたが、アステラはそのまま静かにアキラの言葉を待っていた。

「アステラ、だったな。あんたはミツルギ家とどういう関係なんだ? 俺は医者だと思ってたんだけど、“誘拐犯”の捜索なんてさ」
「私は医者ではないよ。いや、あるいは医者だけではない、と言った方がいいか。“何でも屋”だよ。万屋とでも言い換えようか。ミツルギ=サイガは雇主ということになる」

 その割には街に出るのにも白衣を纏っているアステラは、アキラの視線に気づいたのか白衣の襟を整えた。

「本物の万屋には暇なんて無い。世界は常に歪んでいる。私はその隙間に入っているだけだ。そしてタンガタンザの隙間とは、やはり医療の需要なんだよ」
「……」

 間違いなく錯覚だが、アステラの淡々とした口調も、その病弱そうな身体も、薄そうな意思も、世界の歪みとやらに嵌り込むためのように思えた。
 温かさを感じる柔らかさとは違い、アステラには、傷口に塗り込む温度差の無い軟膏のような印象をアキラは覚えるのだ。
 そして今、アステラは医療の需要に塗り込まれていた。

 タンガタンザは、戦争を行っている。

「それで俺らはどうすりゃいい? 出入り口で待ち伏せて片っ端から捉まえていきゃいいのか?」
「君がそれでいいなら私は止めない。というか、それはいいな。私は別件でヒダマリ=アキラに話がある」
「ああ、それでいこう。昼もまだだし、俺はアステラとどっかで茶でも飲んでるよ」
「くそっ、マジな感じだと思って油断した」

 グリースがふてくされたところで、アキラは、はたとアステラを見た。

「え、俺に話?」
「ああ。話がある」
「話って……ん?」

 そこでアキラの眼に、“まさしく街外れ”が見えてきた。
 延々と街を歩いてきて数時間。
 太陽は沈みかけ、夜の帳が落ち始めている―――“街の境界線”。

「―――、」

 その先は、荒野が広がっていた。
 いや、荒れ地と言い換えた方が的確かもしれない。
 総てを握り潰したかのように地表が捲り上がり、大木を引き抜いたかのように随所が陥没し、荒波がそのまま凍りついたかのように脈打つ大地。申し訳程度に樹木が生え、いや、突き刺されているが、それらは総て砂地と同色だった。触れただけで砂城のように崩れるだろう。遥か遠方に見える山々など飾りに過ぎない。
 視界を埋め尽くし、それでも全貌を収めきれないその地形は、気候のせいでは無く、熱を帯びていた。
 この大地は、成れの果てですらなく、現在進行形で、死に続けているのだ。
 草原が破壊し尽くされたシリスティアの“鬼”の事件、あるいは世界最高の激戦区を思い起こさせる。
 夕焼けの朱に染まったその世界には、その色を浴び続けることが相応しいと、倒錯した感情を覚えさせられた。
 考えるまでもなくこれは―――戦争の、爪痕だ。

「どうかしたか?」
「……いや、ええっと、バリケードみたいなもん無くないか? これじゃ出入り自由だろ」

 アキラは誤魔化すようにアステラに問を投げた。
 タンガタンザの現状を物語っているこの光景を、アキラは今まで知らなかった。
 壊滅状態に陥っているタンガタンザ。ミツルギ家の中で守られていたアキラは、その一端に触れることすらなかった。
 ミツルギ家を訪れる者は多いと言う。こんな大地を踏み締め、歩き出せる人間がいるのかと疑いたくなるくらいだった。
 同時にぞっとする。
 何の比喩でも無く、この大陸で、自分は死と隣合わせだったのだ。
 そして恐らくは、自分がタンガタンザに訪れてから、隣り合わせの“それ”と出遭ってしまった者もいただろう。
 それなのに、自分たちは死から隔離され、1ヶ月後という遠い未来に備えている。

「ヒダマリ=アキラ。あと1歩進むと、」
「?」
「死ぬ」
「死っ……!? えっ、何が!?」

 びくぅっ!! と、熱に吸い寄せられるように荒れ地に近付いていたアキラは、全身の力を使って飛び退いた。動揺しながら振り返れば、やはり無表情なアステラが弱々しい手つきでアキラの足元を刺してきた。

「そこに何か白い線みたいなものが見えるだろう?」
「え? あ、ああ」

 見れば確かに街と大地の境界線が視認できた。

「魔物対策の防衛線だ。通り過ぎたものを死滅させる。解除されるのは毎日変更される特定時刻と、あとはミツルギ=サイガが許可を出した場合だ。その他は有無を言わさず上位魔術級の破壊が襲いかかる」
「あの髭面どんだけ権力持ってんだよ……」
「街の名前がミツルギ家、というくらいだからな」

 ちゃっかり安全地帯で言葉を交わしているグリースとアステラに、アキラは慎重に歩み寄った。
 決して足元から目を離さず接近し、ようやく息が吐ける箇所まで辿り着くと、アキラは律儀に身体中の空気を吐き出した。
 何の変哲もない白線に見えるのだが、戦争中だけはあって相当堅牢なものなのだろう。
 仕組みはさっぱり分からない。
 一気に死が近付いたアキラは身体を振るわせ、グリースとアステラに恨みを込めた視線を送った。

「知ってたのかよ」
「知ってたよ。だが実際、通った奴がどうなるかまでは見ていなかったから……」
「試すのは小枝とかでよくね? 俺じゃなくて」
「大差ないだろ」

 先ほどの仕返しなのか、どこか冷たいグリースにアキラはさらに恨みを込めた視線を送る。
 グリースはアキラの眼力を受け流し、アステラに向かい合った。

「それで、その定刻……いやもういい。あの団子頭を誘拐した奴らはいつ来るんだ?」
「あとしばらく時間があるな。周囲に魔物がいないことを確認したのち、この場所を含めた防衛線は一部解除される。本当は番兵が現れ、外出する者を整理するのだが、先ほども言った通りこの場所は例外だ。僅かな解除時間を迎えたら、この場所から後ろ暗い者たちが一斉に飛び出すことになる」

 ミツルギ家が防御を緩ませる僅かな時間を狙っての脱出。
 それが起こればこの場は大混乱になるだろう。

「まあその辺りは彼らも弁えている。脱出時間に限り、他者の妨害は利益を生まない。だから慌てず、彼らは闇に紛れて去っていく」

 アステラの説明を聞きながら、アキラはなんとなしに、街の景色を眺めてみた。
 近付くことすら危険な防衛線の存在からか、流石に建物は大分離れて並んでいる。
 木造の、廃れた小屋のような建物群。その陰で、何かが僅かに蠢いた。
 アキラが注視したが、今度は何ら気配を感じなくなった。向こうはこちらに気づき、そしてさらに息を潜めたのだろう。

「定刻を待っている者だな。この辺りの小屋は使われていない。いや、“そういう者たちのためにミツルギ=サイガが放置している”と言った方が良いか。中で“事”を済ませた彼らは、あの場所で待機するんだよ」

 淡々と、淡々と、アステラはミツルギ家の裏を語る。
 敢えて彼らを削り落とすことはせず、悪く言えば協力し、ミツルギ家の発展を目論んでいるのだと。
 グリースがまたもつまらなそうに鼻を鳴らす。
 今さらではあるが、やはりアキラは、ミツルギ=サイガを擁護する気にはなれなかった。
 そして恐らくグリースも、これ以上の糾弾はしないつもりだろう。
 なにしろ彼も、かつて“そういう者たち”に含まれていたのだから。

「なら、」

 空気を変えるためか、グリースは半ば苛立ったような声を発した。

「団子頭をさらった奴らもいるかもしれねぇんだろ。順々に突撃してみっか? もちろんヒダマリ込みで」
「お前さっきの経験から学習したな」
「私はそれで構わない」

 提案の仕方を変えたグリースに、アステラは変わらない答えを返した。
 アキラとグリースは視線を向け、言葉の続きを待ったが、彼女はそのまま口を噤んでしまった。

「おい、作戦とかねぇのかよ。まさか何の考えも無しにここに連れてきたわけじゃねぇだろうが」

 グリースがさらに苛立ち、言葉を投げてもアステラの表情はそのままだった。
 そしてアステラは、ようやくゆっくりと口を開き、

「勿論、考えも無しに連れてきた」

 やはり抑揚のない口調で、断言した。

「は!?」

 グリースの大声に、アキラの視線は自然に連なる家屋に走った。
 あの場所にツバキをさらった者たちがいるかもしれない以上、目立ちたくはない。
 むしろこの境界線ギリギリの位置から移動すべきだと考えていたくらいだった。

「この件に関して私がミツルギ=サイガから請けた依頼は、ヒダマリ=アキラとグリース=ラングルを定刻までにこの場所に連れてくることだけだ。それ以上は聞いていない。私の依頼はすでに達成している」

 感情に落差の無いアステラは、さも当然のように、アキラとグリースから距離を取った。
 彼女は完全に、依頼を達成し終えたと考えているようだ。
 時折そよぐ風に白衣がなびき、彼女自身も砂のように崩れて風と同化しているかのようだった。

 ただ隙間に入り込むだけの軟膏のような女性は、本当に、薄く見えた。

「ちっ、まあいい。あんたが現れなけりゃ俺たちはあのまま無駄に走り回ってただけだったからな……。おいヒダマリ。片っ端から小屋を当たっていくぞ。さっきの話じゃここを出る奴を一々止めてらんなそうだ」
「いやそれは恐いよ。だって相手は誘拐犯だぜ?」
「俺が今殺人犯になってやろうか?」

 グリースに急かされるように蹴飛ばされて、アキラは端の小屋に向かって走り出した。グリースはアキラと反対側の小屋の端に向かう。小屋の先は見えないほど、建物は随分と広範に陣取っていた。
 文字通り、片っ端から小屋の調査が開始される。
 敢えて小屋を通り越して、折り返し、今度は慎重に小屋に忍び寄りながら、アキラはアステラを探った。
 目の前にいても見失いそうなほど薄いアステラは、いつしか境界線付近から消えていた。

 タンガタンザで出会った者たちは、全員奇妙な人間だ。ミツルギ=サイガを筆頭に、彼らは“あく”の強い性格をしていたと思う。
 だがアステラは、ある意味対極だった。
 彼女のキャラクターはおぼろげで、掴めない。
 ヒダマリ=アキラという人間と同種かもしれない。彼女からは主体性を感じられなかった。
 アキラとグリースをこの場に連れてきたのも、頼まれたから。
 アキラとグリースをこの場で自由にさせるのも、頼まれていないから。

 掴み難いではなく―――掴むことができないのだ。

「はあ……、今は、か」

 今にも崩れそうな小屋を前に、アキラは疑念を頭から追い出した。
 まずはこの小屋からだ。

 慎重に中の気配を探り、アキラはドアに手をかける。
 だが、集中しているつもりでも、やはり僅かな疑念は残ってしまった。

 そういえば。
 アステラの話とは何だったのだろう。

―――***―――

『“エニシ”』

『? それが何か』

『おーいアステラちゃぁん。そのとぼけ方は無いだろう。知ってるはずだよ、エニシ家を』

『存在は知っている。ミツルギ家の分家とか』

『分家も分家。とおぉぉぉーーーい親戚さ。しっかし流石だねぇ。エニシと聞いて、先にそっちを思い起こす辺りが』

『エニシ家はミツルギ家の街の中でも随一の武具職人の家系。そちらの方が関係のある話だったのか?』

『いんや、分からん。つーかどっちでもいい。問題なのは、どっちが理由でも価値があるってとこ』

『?』

『まあ本題に入ろうか。つい先日、エニシ家の次期当主が誘拐された』

『……』

『相変わらず固いなぁ、表情が。眉ひとつ動かないとことか。少しはイメチェンして見たら? 女の子はニコニコしてくれないと』

『それで依頼の内容は』

『先走るねぇ。まあいいか、わりと急ぎだ。エニシ家次期当主の居場所の特定。及び救出。そんだけ』

『戦力はどこで集めればいい?』

『問題はそこなんだよなぁ。そろそろ魔族側からの“通達”がある。そろそろターゲットが決定される頃なんだよ。正直割ける人員が無い』

『それで私にどうしろと?』

『それを含めての依頼だよ』

『……エニシ家には従者が付いていないのか? ミツルギ家の街にとって、エニシ家の被害は大きいだろう』

『うーん、まあね。ちっと手違いがあって。いやいや、失敗失敗。エニシ家は今実質ノーガードだ』

『……それで、私にどうしろと?』

『繰り返すねぇ。あんまり好きな言葉じゃなかったり。嫌な奴を思い出すからね。まあ、問題はそこなんだよ。正直俺も、こうして話している時間すら惜しまなきゃいけなくてね。どっかにいないかなぁ、協力者。アステラちゃん、心当たりない?』

『…………』

『…………ある、だろう? 戦争に参加してくれれば俺としては万々歳なんだけど、暇を持て余している奴が』

『……ああ。ひとり、心当たりがある』

『そう。……それならそいつに協力を要請してきてくれ』

―――***―――

 ビンゴ。
 ヒダマリ=アキラは息を潜めて小屋の中に視線を這わせていた。
 最初の小屋は空っぽで、2つ目の小屋にはいかにも目つきの悪い男が2人部屋の片隅で語らており、3つ目は無人のようであったが部屋いっぱいを埋める巨大な物体が鎮座し、その全体をカーキの布で覆い尽くされていた。
 3つ目の小屋に不信感を覚えながらも、とりあえず保留とし、訪れた端から4つ目の小屋。
 ほとんど日も沈み、太陽の残光のみを頼りにしながら覗き込んだその小屋の隅。
 昼に消失したミツルギ=ツバキが膝を抱えて座り込んでいた。
 鉄格子のようなものが嵌め込まれた顔を伏せて、眠っているようにも見える彼女は動かない。
 声をかけようと思ったが、アキラは自制する。
 ミツルギ=ツバキがこの場にいる以上、誘拐事件は確定だ。
 ならば誘拐犯も近くにいるのであろう。

 執拗に背後を確認しながら、アキラは思考を働かせる。
 一応、街の防衛線に来る途中、一戦交えるかもしれないと購入した安物の剣を背負っているが、アキラにとって剣とは不安の種でしかない。
 誘拐犯がある程度の実力者であれば、勝利はできてもアキラの剣は相手で消失してしまう。
 仮に複数―――いや、誘拐犯なのだから複数人が常套だろう―――いた場合、途端に窮地に立たされることになってしまう。
 グリースを呼ぶべきだろうか。
 だが、見つけたツバキから目を切りたくはなかった。

 アキラは今さらながら嘆く。
 こんなことなら、手分けして探すのではなくグリースと行動を共にすべきだった。
 ヒダマリ=アキラは、確率を無視して、“こういうもの”を惹きつけてしまう力があるのだから。

 突入は難しい。
 小屋の中にはツバキしか確認できないが、誘拐犯もいるかもしれない。
 せめてツバキの意識が戻り、部屋の様子をそれとなく伝えてくれたならば。

「……!」

 アキラの念が届いたのか、ツバキがふいに顔を上げた。
 窓の鉄格子から覗き込むアキラを見て硬直し、しばらく凝視していたが、やがて確認が取れたのか安堵の表情を浮かべた。
 その口には猿轡のようなものが嵌められており、やはり彼女は拘束されているようだった。
 誘拐犯の仕業であろう。
 小顔な彼女には不釣り合いなそれに、アキラは奥歯をギリと噛んだ。

 だが、良かった。
 とりあえず彼女は無事らしい。

「……」

 アキラは即座に口元に指を立てた。
 呻き声を上げようとしていたツバキはそれを察し、黙り込む。
 彼女はアキラしか見ていない。
 声を出すことは難しいが、どうやら部屋の中に危機は無いようだった。

「……」

 ツバキが無言で、小屋のドアを指差す。
 そしてその後、床を指した。

 入ってきて欲しいということだろうか。誘拐されてから不安でいっぱいだったのだろう。
 しきりにドアと床を行き来させるその指を見て、アキラは足音を殺してドアに近付いた。
 そして物音を立てないようにドアに手をかけ、慎重に、押す。

 ゴゴゴ、と想像以上に大きな音が鳴ってしまった。
 まるで強引に錆び付いた歯車を回すような轟音に、アキラの背筋が一気に冷める。
 慌ただしく周囲を見渡し、そして隠れ込むように小屋に入った。
 その直後、再びドアは重々しく閉じる。

「……?」

 入った、と思っていた。
 しかしアキラの目の前には再び扉が立ち塞がっている。
 この小屋は他の小屋と比べ、僅かに大きい気がしていたが、まさか2重の扉であったとは。
 重々しく閉じた扉と新たに現れた扉に挟まれた狭くるしい漆黒で、アキラはまず、人の気配を探った。
 誘拐犯は部屋の中では無く、ここで待ち構えているのかもしれない。

「……」

 しかし、誰の気配も感じなかった。
 アキラが手探りで闇を掴んでみても、やはり無人。
 アキラはいささか拍子抜けし、目の前の扉を押す。

 その先で、ようやくミツルギ=ツバキと再会できた。
 急いで詰め寄り、猿轡を外してやる。

「うわー、あーあーあー」
「は?」

 拘束が解いたと思ったら、妙な呪文を唱え始めた。
 それは失望に近い声色を纏い、まるでアキラの行動に異を唱えているかのようだった。

「……だ、大丈夫か?」
「大丈夫です、けど、あーあーあー」
「えっと、なんだ? 一緒に歌えばいいのか?」
「あーあーあー」
「あ……あーあーあー」
「違います」

 純粋に怒られた。
 アキラは頭を掻き、眉を潜める。

「まあとりあえず、助けに来たぞ」
「それはありがとうございます。すみませんでした」

 ツバキは座ったままペコリと頭を下げた。
 しかし上げた顔は曇ったままだ。そしてぶつぶつと、『どうしましょう……』という悲哀の言葉が漏れている。
 そしてようやく。アキラにもふつふつと嫌な予感が上ってくる。

 そういえば、あのドアが重々しく閉じた直後、“ガチャリ”と。
“鍵でもかかったような”奇妙な音が響いたのを思い出したのだ。

「私のジェスチャー伝わらなかったみたいですね。誘拐犯から聞いたんですよ……。『あの扉には仕掛けがある』『ここに来ると』『出られなくなる』」
「……うん?」

―――***―――

「おっ、じゃああんた、シリスティアにいたことがあんのかよ?」
「おう。馬鹿な貴族を騙くらかして、稼いだ稼いだ」
「話が分かるじゃねぇか!」
「しー」
「あっ、わりぃ」

 最初に覗き込んだ小屋で、グリース=ラングルが出会ったのは頭からすっぽりと黒いフードを被った細身の男だった。仄かな照明に照らされた日に焼けた頬がにっこりと皺を刻む。
 話を聞く限りフードの男は行商だそうで、グリースの情報収集は男の商品説明やら身の上話やらによって頓挫していた。

「そうそうにいちゃん、これなんかどうだ? ミツルギ家特産のロングソード。射程も長いが最も特異なのはその硬度。こんだけ細長いのに馬車が踏んでも曲がりもしないってんだから驚きだ」
「止めとく。偽物掴まされても困るしな」
「はっは、言うねぇ」

 すっかり意気投合したフードの男は軽快に笑う。
 フードの男はミツルギ家に貴重な武具を求めて訪れたそうだ。
 と言ってもそれをただ単に流通させるのが目的ではなく、その武具のレプリカを作成し、大量に捌くのが目的だと言う。
 本物のミツルギ家産の武具をひとつだけ見せ、あとは箱に入ったレプリカを売りつけるのが男の手口だそうだ。
 だからこそ、この後ろ暗い者たちが集まるミツルギ家の街の出入口にいるのであろうが、今グリースに見せたのは正真正銘ミツルギ家産の武具であろう。
 いかに詐欺を働いていても、いかに人を攫ったとしても、そして、いかに“人を殺そうとした”としても、人は、表も裏もそうではない。
 真摯な想いを伝えることもあれば、迷子を送り届けることもあるし、そして、人を救うこともある。
 グリースはそれをよく知っているし、そして、目の前の男もそうであると感じられた―――と、そこまで分かるほどこの場所に長居しているのだが。

「っと、やばいわ。俺今人探してんだよ」
「人探し? なんだ、人探しだったか」

 フードの男の拍子抜けしたような声に、グリースは動きを止める。
 振り返るとフードの男はロングソードを丁寧に仕舞いながら言葉を続けた。

「いやいや、別に大したことじゃない。単に物見遊山かと思ってただけだ。近々、でかい仕事をした奴がこの街を出るらしい」
「でかい仕事?」

 怪訝に思い、グリースは座り直した。
 フードの男は僅かに窓に視線を走らせ、そして声を細めた。

「窃盗団の噂を知っているか?」
「窃盗団?」
「ああ。タンガタンザ全土を駆けずり回る窃盗団だ。と言っても大した規模じゃない。精々数名。対象は民家の僅かな食糧から子供の誘拐まで。同業だって手にかける。戦争が激化する間は流石に静かにしているらしいが、この時期は暴れ回っている連中だ」

 この時期とは、『ターゲット』を巡る小規模な戦争中のことであろう。
 誘拐まで行う窃盗団となれば、今回のミツルギ=ツバキ失踪にも関わっているかもしれない。
 グリースは慎重に先を促した。

「今連中が狙っているのはミツルギ家の財らしい。いやいや、街のことじゃない。あのミツルギ家の屋敷だよ」
「屋敷っ……!?」
「しー、」
「わりぃ」

 フードの男にたしなめられ、グリースも窓の外に視線を向けた。
 隣接する建物が邪魔で見えないが、この方角にはミツルギ家の屋敷がある。
 自分が寝泊りしているミツルギ家の屋敷だ。
 そんな場所が、窃盗団のターゲットにされていたとは思いもしなかった。

「それで、何を狙ってんだ?」
「ここから先は噂で聞いた程度だ。まあ、同業の間じゃ騒ぎになっているが……ミツルギ家の“研究成果”だよ」
「研究成果……?」

 グリースの脳裏に真っ先に浮かんだのは、1ヶ月前。
 目の前に現れたあの巨大物体だった。
 ヒダマリ=アキラは、“飛行機”と呼んでいたか。
 “しきたり”を真っ向から否定するようなあの物体を、ミツルギ=サイガは確かに研究して生み出したと言っていた。

「そんなもん盗んでどうすんだよ?」
「いやいや、盗む対象は問題ではない。問題なのは、“ミツルギ家”から盗み出すということだ」
「…………」

 確かに、驚愕すべきことなのだろう。
 毎日外周を走っているグリースは、あの屋敷の巨大さも、そして堅牢さもよく知っている。
 あの場所から盗み出すとなると、その窃盗団は相当手馴れた連中だということになる。

「そう言うわけでもないがな」
「は?」
「実はミツルギ家の屋敷は、ああ見えてガードが緩い。実際俺でも侵入はできそうだった。その上ミツルギ家の街は、護衛団も含めて深夜の外出禁止というお触れがあるからな。逃げるのも容易だ」

 そう言われてもグリースには難攻不落の要塞に見えるのだが、彼がそう言うのだから見る人が見ればそうなのだろう。

 ただ、気になることはあった。

 “外出禁止のお触れ”。
 それはミツルギ=サイガが行ったことだろうか。
 普段夜間はミツルギ家にいるグリースは、そのお触れとやらを聞いたことが無い。だが、確かに夜間、外出を禁じるように門番が屋敷の出口に立っているせいで閉じ込められているような錯覚に陥ったことがある。
 そのお触れの狙いはまるで分からない。
 ここにいる者たちは当然破るであろうし、そんなお触れがある手前、ミツルギ家の街の護衛団は自粛せざるを得ない。
 そんなことをすれば、夜間の治安が一気に悪くなるであろう。盗みのターゲットとして、ガードが甘いらしいミツルギ家は高確率で選ばれることにもなる。

「だが、俺はそんなことをせん。絶対にせんよ」

 しかし、目の前のフードの男は身体を振るわせていた。

「どうしたよ?」
「知っているか? ミツルギ家から財を盗んだ者たちの末路を」

 知らない。
 が、話の方向性とその者たちの末路は予想できた。

「全員が消息不明だ。実際俺の知り合いも、“それ”に関わってから連絡が取れない。そのとき頭にくっきりと、“非情”という言葉が浮かんだ」

 グリースの耳に、ミツルギ=サイガの笑い声が聞こえた気がした。
 嘲笑ともとれるようなその声に、グリースも背筋が寒くなる。
 あの髭面当主は、一体裏で、どれだけのことをしているのか。

「そんなこともあって、ミツルギ家の屋敷に関わるのは命知らずの馬鹿でもしない。お前は見たか? ミツルギ家の兵たちを。全員が洗練されて動き、例え奈落に落ちても足を止めないかのような恐怖の行軍を。ミツルギ家の屋敷に入るくらいなら、タンガタンザを裸で走り回っていた方がマシだ」

 そんなミツルギ家の兵たちは、今もどこかで魔物と争っているのだろう。
 グリースはその図を想像しようとして、止めた。
 きっとその場は、どちらが魔物か分からない惨状になっているであろう。

 つまり。
 この街の治安を守っているのは、システムではなく―――“恐怖”。
 ミツルギ家の屋敷、いや、“ミツルギ=サイガそのものの恐怖”―――ということか。

「俺はこんな生業だが、タンガタンザは滅ぶべきかもしれん。それでもミツルギ家の甘い蜜を吸いに街には来ているのだが」
「……」

 グリースは目を瞑り、そして頭を軽く振った。
 今さらミツルギ=サイガへの不信感を募らせても仕方ない。
 あの男への嫌悪はとうの昔にメーターを振り切っている。
 それよりも今は、その窃盗団だ。

「その窃盗団は、今夜この街を出るのか?」
「ん? いや、正確には分からんが、近々だ。ちょっと調べたら店の商品がごっそり盗まれていたところもあった。ミツルギ家から“研究成果”を盗み出したついでかもしれんな」
「それで十分だ」

 本当に、十分だ。
 近々起こるというだけで、十分だ。
 この街には今、あのヒダマリ=アキラがいる。
 事件の種を芽吹かせるらしい日輪属性。
 これで本日でないなら、シリスティアの“崖の上の街”でも自分たちは出会わなかったであろう。
 そして、ミツルギ=ツバキはその窃盗団のついでに誘拐された可能性が高い。

「もう行く。邪魔して悪かったな」
「お、ちょっと待ってくれ。最後にこれだけ見ってくれよ。どうせまだ時間が、」
「その時間がねぇんだよ。今すぐにでも見つけねぇとな」

 グリースは足早に小屋を後にした。

―――***―――

「あーあーあー」
「あーあーあー」
「あーあーあー」
「あーあーあー……あぁぁぁぁぁぁあああああああああっっっっっっ!!!!!!!!」
「あーあーあー」
「あーあーあー……開かねぇ」
「私の応援歌も届かない感じでしたか」
「ああ。むしろ悪意が届いた」

 ヒダマリ=アキラは右手を振ってドアから離れた。
 この二重扉の小屋に閉じ込められた後、即座に脱出を試みたアキラだったが、言われた通りドアは開かない。
 あらん限りの力をもってドアノブを掴んだ手がジンと痛む。
 ついぞ諦めツバキの元に戻ったアキラはドカリと座り、お団子頭の少女に向かい合った。

「それで、大丈夫なんだよな、お前」

 完全に日が落ちたミツルギ家。
 その町外れの小さな小屋で座り込んでいたツバキは、眉を寄せて頷いた。
 主君の前では騒がしく、自分やグリースの前では慎ましかった彼女はどうやら憔悴しているらしく、顔色はどこか悪かった。

 アキラは右手を差し出し、魔力を込める。
 極力絞った魔力の発動は、やがて吹けば飛びそうな小さな明かりをもたらした。
 色は、オレンジ。

 ようやくツバキの顔がはっきりと見える。

「わぁ……。本当に日輪属性なんですね」
「ん? あ、ああ。……そっか、もしかしたらこれもか。悪かったな」
「?」

 アキラは目を伏せ、ツバキは顔を傾げた。
 日輪属性の力―――“呪い”。
 この誘拐事件は、アキラが引き寄せてしまったものなのかもしれない。
 だが、アキラは悔恨をそこまでに留めた。
 結局のところ―――救い出しさえすれば問題ない。

「えっと、何があったんだ?」

 ツバキは口をツンと尖らせ、そして、

「誘拐されました」

 さも面白くなさそうに、拗ねた子供のように、言った。

「それは知ってる。犯人は見たのか?」
「見ました。今でも鮮明に覚えています。腹わた煮えくりかえりますよ、伯父さんほどではないですが」
「……うん」
「助けに来てくれて本当にありがとうございます。心から感謝しています。クロック様ほどではないですが」
「あのさ、語尾に一々比較対象付けんの止めてくれないか? なんかすっげぇ話難い」

 とりあえず、彼女は問題なさそうだ。
 小さな子供が誘拐されたとなると精神的な後遺症が重大な問題と聞いたことがあるが、傍目には、ミツルギ=ツバキはそのままでここにいるように見えた。
 彼女の安否を確かめ、アキラの思考は次に進む。
 問題は、どうやってこの小屋から出るか、だ。

 剣で壁を攻撃するべきだろうか。
 だが、先ほどのドアは“鉄製”。
 かなりの硬度があるようだった。全力で攻撃する必要があるだろう。

 となるとアキラは途端委縮する。
 ヒダマリ=アキラの攻撃は、今や攻撃対象と1対1の関係。
 もし壁が壊れなければ、攻撃能力が欠損した存在に成り下がってしまう。

「……あのさ、助けにきたところ悪いんだが、お前なんかできないか?」

 最悪壁に攻撃することになるではあろうが、できるだけ武具は温存したい。
 となれば頼りはミツルギ=ツバキ。
 身が自由になれば、戦力にならなければならない存在だった。

「えっと、ですね。実は私、まだまだ拘束されてまして」
「ん?」

 アキラの右手がツバキの背後を照らすと、彼女の腰から伸びた細い鎖が“部屋と連結していた”。
 まるで猛獣の首輪と繋ぐためにあるような鎖が部屋から伸びている。
 気になってアキラは他の壁を照らしてみた。
 他の壁も同じ仕掛けがあり、鎖が1本ずつ垂れている。
 一体この小屋は何を目的に作られたものなのか。
 二重扉と言い、この小屋は他の小屋と造りがあまりに異質だった。

「…………それくらいなら、いけるかな?」
「え?」
「いや……。えっと、立てるか? とりあえず、鎖を張ってくれ」
「はい」

 言われた通りにツバキは立ち上がり、鎖を張る。
 部屋の仕掛けは丁度腰の位置の壁から伸びており、ツバキが限界ぎりぎりまで歩くと鎖は床と水平になった。

「切るんですか?」
「任せろ。そして信じろ。タンガタンザ製の武器を」

 アキラは息を吸い、そして意識を集中させる。
 相手が鉄と言うのは不安だが、ところどころ錆び付き、朽ちているような気もする。
 これならある程度力を込めればツバキを戒めから解放することができるかもしれない。

「よし。ふっ」

 アキラは剣を構え、それを一気に振り下ろした。
 せめてもの防衛線として、あえて詠唱抜きで放った雑な魔術攻撃。
 日輪属性の光が爆ぜる。

 その攻撃は見事に―――鎖を弛ませその勢いでツバキは背後に引かれて壁に後頭部を激突させた。

「づぁっ!!!?」

 アキラは目の前のショッキングな出来事に動けないでいた。
 剣を振り下ろした直後、目の前を人間が面白いように飛び去り、そして、ゴッッッ!!!! と耳を覆いたくなるような騒音を奏でたのだ。

「……………………鎖もだったが、武具は壊れないか。流石だな、タンガタンザ製」
「~~~~~~っっっ!!!!」
「だがまずい。今の光。これで誘拐犯に俺らの動きが知られたかもしれない。ここは一刻も早く脱出すべきだ。今は逃げることしかできない」
「~~~~~~っっっ!!!! あっ、がっ、~~~~~~っっっ!!!!!!!!」
「だがいいか。いつか必ず、誘拐犯を超える奴を連れてくる。誘拐犯を地獄に引きずり落とせる奴を、俺が必ず連れてくる―――がっ!?」

 アキラの脛に、激痛が走った。
 吹き飛ぶように転んだアキラは、辛うじて自分の足元にツバキの足が伸びているのが見えた。

「ぎっ、ぐっ、づぅっ!!」

 今度はアキラが悶絶する番だった。
 剣を放り投げ、脛を抱えて転がり回るアキラが涙目で見上げれば、淡い光の先、ゆらりと立ち上がったミツルギ=ツバキが瞳いっぱいに涙を浮かべて、鼻を啜っていた。

「お前は敵だ。倒す……!!」
「悪かったって。ちょっと現実逃避しただけでなんだよ……。…………あれ、鎖切れてんじゃん」
「え?」

 ツバキは気づいていなかったようだ。
 どうやらツバキが床で暴れ回っている間に鎖は切れたらしく、今は彼女の腰から尾のように垂れ下がっている。
 彼女の中でアキラの評価が顔見知りから敵対対象に暴落したようだが、とりあえず当初の目的は達成できたようだ。

「や、やった!」
「何とかなったか……。よし、脱出しようか」
「え、ええ。まあ、ありがとうございました」

 痛みを堪えてアキラは立ち上がった。
 未だふらつくほど重い衝撃だったが、ここから出られるのであれば安いものだ。
 ツバキもツバキで無事らしい。

「団子頭がクッションになったか」
「それ以上何かを言うと、私は今以上の攻撃行動に出ます」

 アキラは黙ってツバキを見守った。
 日輪属性のスキルの人を惹く力。
 好意は理性で抑制できるが、悪意は歯止めが利かないのだと認識を改める必要があるかもしれない。
 想いがそのまま行動に出る子供相手だと、余計にたちが悪い。

「呪い、か」
「意味が分からないのでスルーです。とりあえずここから出ましょう」

 ツバキは腰から伸びた鎖をジャラジャラと引きながら、壁の前に立った。
 どうやら彼女にはこの小屋を突破する術があるらしい。
 ようやく彼女の力が見られるとアキラは期待し、ツバキの動きに注目する。

 ツバキは、腰を落とし、そして、

「てやっ!!」

 この暗がりではアキラはツバキの動きを目で追えなかった。小柄な彼女が回転したかと思った瞬間、彼女の足は壁を捉えていた。
 木の壁が砕ける小気味良い音が響き、壁が破壊される。

 そして、

「へ? わっ、わっ、わっ、嵌った、嵌った……!?」

 壁に足を突っ込んだツバキがジタバタと暴れ始めた。

「お、おいおい」
「木が痛い!! ほんとに痛い!! ぬっ、抜こうとするなーーーっ!! 刺さってる!! 刺さってる!! でも離すなーーーっ!! あうっ、刺さるっ!! いやもうもげる!!」

 近くに誘拐犯がいたとすると、とっくに気づいているであろう。
 アキラはツバキの身体を支えながら、輝く右手で慎重にツバキの足を引き抜いた。
 壁にぼっかりと空いた穴は、破損した木材がむき出しになり、微量だが地が滴っているように見える。
 確かにここには足はおろか手ですら入れたくはない。

「ん……?」

 妙なものが目に入り、アキラは右手を穴に近づけた。
 ツバキが開けた穴の向こうは空洞になっており、やはり壁も二重のようだ。
 だがそれよりも、気になるのは穴の周囲。
 穴の四方は、木材に隠れて鉄製の物体が埋まっているようだ。
 アキラは試しに周囲の壁を何度か叩いてみた。
 固い感触が返ってくる箇所もあれば、ベニア版のような柔らかい個所もある。
 さらに探ってみると、どうやら固い感触は、網目のような位置取りをしているようだった。

「籠……?」

 いや、格子状である以上、檻と表現するべきかもしれない。
 とにかくこの小屋は、異質も異質。
 壁が二重にあり、その上で、中の部屋は檻に壁を張りつけたような状態だった。

「やっぱり変だなこの小屋。壁から垂れてる鎖といい、どう考えても人が住むためにあるもんじゃない。なんでこんな小屋が存在するんだ……?」

 アキラは、床で足を押させて転がり回るツバキに極力視線を向けないように思考を働かせた。
 話しかけたら話しかけたで何が返ってくるか分かったものではない。
 ただ、冗談はともかくとして、アキラは初めてこの空間そのものに嫌悪感を覚えた。

「うぅ……クロック様ぁ……。クロック様に会わないと、もう私立ち直れません……。会いたいよぅ」

 やばい子供が泣き出した。
 アキラが手の光源を向けると、ツバキは床に突っ伏して沈み込んでいた。

「ま、まあ、蹴りの威力はすごいじゃん。お前はよくやったよ」

 一応アキラもその蹴りの被害者だったりする。
 穴の空いた壁を見て、足の様子を探った。激痛だけで折れてはいないのが幸いだった。

「私の蹴りはあんなもんじゃありません」

 ぐすりと鼻を鳴らして、ツバキがようやく顔を上げた。
 アキラがしゃがみ込んで顔を照らすと、ツバキはどこか腑に落ちないような顔をしていた。

「どうした?」
「いや……、あれ? 何故か力が入らなんですよ。どうしてだろう。いつもなら、壁全体がドゴゴゴゴッ、って」
「……一応訊いとくが、さっきの俺に放ったのはそのドゴゴゴゴッじゃないよな?」
「そうか、あのときから……!!」
「ははは、……嘘だろ?」
「いやまあ、嘘ですけど」

 ツバキは口を閉じ、しきりに首を傾げて身体の調子を確認し始めた。時おり鼻をすすっているのが痛々しい。
 やや誇張されているのであろうが、言葉通り彼女は本調子ではないらしかった。
 両拳を組んで口元に当て、小さな身体をさらに縮こまらせながら思考を進めるツバキの表情は真剣そのもの。
 どうやらその不調とやらは、深刻なレベルであるようだ。

「まあ、誘拐何かに巻き込まれたんだ。無理もないって」
「う……それはもう言わないで下さい。誘拐されたとは、このミツルギ=ツバキ一生の不覚です。伯父さんに知られたら、私は羞恥心で自害するかもしれません」
「……うん」
「くそぅ、足は痛いし何か調子悪いし……。ああ、お菓子になんて釣られるから……!!」
「あ、そこストップだ。恥の上塗りになる」

 あのアステラに伝えられたミツルギ=サイガの予想は正しかったらしい。
 笑いよりも先に危機感が募ってくる。
 グリースの言葉だが、このメンバーには不安要素が多すぎだった。

「ああ、思い出したらまたムカムカしてきました。結局あいつ、クロック様の知り合いでも何でもないみたいですし……!!」
「マジで止めてくれよ。不安通り越してかもうなんか怖い……ん?」

 アキラはミツルギ=ツバキの将来を大いに憂んだところで、ツバキの腕が目に付いた。
 僅かに褐色の肌がオレンジの光に照らされている中、その右手首に。歪な形状の腕輪が嵌められていた。

「…………そんなアクセサリー、お前付けてたか?」
「んえ? あ、なんか増えてる」
「見せてくれないか?」
「は、はい」

 ツバキが差し出した右腕を掴み、その腕輪を注視する。黒く、歪な形状の、材質が分からない奇妙な物体。
 詳しくは分からない。
 だが、話には聞いた。

 この腕輪が彼女の不調の原因だとするのなら、まさにそういう働きをする物品が“とある存在によって造り出されている”という事実を。

「……なあ」
「はい?」
「お前さっき、魔力を使おうとしたんだよな?」
「……そうですけど」
「それで今は、」
「……使えません。何でだろう……?」

 アキラは即座に灯りを最大限に放出し、小屋全体を確認した。
 誘拐犯に知られるとかそういった事情を頭から放り出し、鋭い目付きで小屋を探る。
 やはり壁のほぼ全面、等間隔に鎖の仕掛けはあり、そしてツバキが拘束されていた壁の反対側にはシートに包まった物体がぞんざいに置かれていた。
 アキラはそれにずんずんと近付くと、乱暴な手つきでシートを引き千切る。
 中からは、食料が入っているような樽や用途不明の鉱物やらが出てきただけだった。

 アキラはどっと疲れて座り込む。
 だが、嫌悪感は増大し、身も凍るような悪寒は拭い去れなかった。

「ど、ど、ど、どうしたんですか? ほら、光光」
「…………」

 アキラは言われた通り、照明を落とし、そしてそれだけの動きしかしなかった。
 ツバキはどこかおどおどとしたような表情になり、慎重にアキラの表情を覗ってくる。
 だがやはり、アキラは顔を上げなかった。
 そしてそのまま、恨みを込めるような口調で呟く。

「思い出せ。お前を攫った奴はどんな奴だった?」
「ふへっ、いや、えっと、えっと、」
「早くしろ」
「えっと、その、変なおっさんでした」
「人間だったんだよな? 間違いなく」
「は? そ、それは間違いありません。奴は人間の中でミツルギ=サイガに次ぐ敵です」
「……そうか。ならいい」

 アキラが顔を上げると、ツバキは警戒しているような表情を浮かべていた。
 それも、敵として見ている、と言うより、本日の昼に話しかけてきたかのような、知らない人に対する警戒心。
 僅かには打ち解けられたかと感じていたが、どうやら今の行動で元の位置に戻ったようだ。
 だが、この件に関しては、どれだけ不審がられようと最善の注意を払う必要がある。
 どれほど避けられようと、あの“絶望”との邂逅よりは遥かにマシなのだから。
 そうなるとその物品は、一体どこから誘拐犯の手に渡ったものなのか。

「えっと……、えっと?」
「いや、悪い。それよりそうだ、お前の不調。多分その腕輪が原因だ」

 “魔力消失の拘束具”。
 アキラはミツルギ=サクラに聞いた情報を口に出す。
 それに拘束された魔術師は、その力の大元が封じられ窮地に立たされることになる、脅威の物品。
 アキラが簡単に説明すると、ツバキはさらに眉を潜め、そして嫌悪感むき出しで右腕を振り回し始めた。

「くそう、これさえなければ出られるのに……!!」

 そうだ。
 あの絶望がこの場にいなくとも、“その片鱗が感じられるだけ”で即座にここから離れるべきだ。
 だが、この妙な構造の小屋。
 脱出にはツバキの力が必要だった。
 彼女の力の正体は知らないが、少なくとも鎖も切れなかったアキラでは結果が見えている。

「よし。それならその腕輪を外そう」
「ええ、そうですね。でも結構硬いです……。どうしましょう」
「…………。ふー、うし。まか」
「任せられません」

 先手を打たれた。
 そして彼女の中の評価が目に見えた。

「いやでもよ、それを切れば」
「いやいやいや。もう結果見えてます」
「大丈夫だ、今度こそ。これってさっきとベクトル違う感じだろ」
「だから余計に怖いんじゃないですかっ、威力的なアレが……!!」
「これと同じようなことをして仲間を救ったらしい奴が戦ったりするところを、大体毎日見てきた俺だ。基本的に信じられるだろう」
「言葉がいろいろとあやふやです……」
「だったら、どうやって出るんだよ」
「っ、ぅ……………………分かり、ました……」

 ツバキは肩を落としながら、おずおずと自身が拘束されていた位置まで下がり、右腕を真横に広げた。

「わ、私、ミツルギ=ツバキは、クロック=クロウ様の従者でありながら、誘拐されるという失態を犯しました。これは甘んじて受け入れるべき罰であると猛省しております」
「お、い」
「この後、私の、み……、右腕は、その、ちょっと見せられない感じに、なり、ますが、仕方がない、と、ぅぅ……、だ、大丈夫です。最後まで言います。仕方がないと受け入れる所存であります」
「マジで斬るぞこの野郎」
「きっとこの犠牲は、未来に繋がる導となる。どれだけ世界が回っても、抗う力の礎となる」
「…………」
「ああ、最後にクロック様の笑顔をもう一度……、あ、クロック様の笑顔見たこと無い……、うぅ、見たかったよぉぅ」
「もう駄目だ……、熱が一気に冷めてった」

 何となくできるような気がしていたが、現実的に無理のあるプランだ。
 アキラとしては近距離から剣で殴打していればその内壊れると思っていたのだが、どの道彼女の右腕に損傷が出る。
 決戦までは後1ヶ月。
 こんな下らない誘拐事件何かで怪我をするわけにもいかない。
 それならばまだグリースを待っていた方が良いだろう。

 アキラは剣を仕舞ってツバキに歩み寄った。
 ゆっくりと腕を下ろしたツバキの瞳は滲んでいた。

「こ、こわ、こわかっ、こわかっ、」
「……悪かったって。てかお前はマジで言ってたのかあれ」
「うぅ……、誘拐されるし……、変な腕輪も付けられるし……、出られないし……、殺されかけるし……、もうやだぁ」
「そうだよな、誘拐されるし、変な腕輪も付けられるし、出られないし。お前には災難だったよ」
「くっそぉ……、きっと全部サイガが悪いんだ。何かあったらサイガを恨めって、おかーさんから習ったんだっ」

 そのまま崩れるかと思ったが、ツバキはミツルギ=サイガで持ち直した。ある意味役に立つ男だ。
 だがきっと、彼女も彼女で限界なのだろう。
 何せ誘拐事件だ。ミツルギ=ツバキは疲れ切っている。
 誘拐犯がいようがいまいが、やはり一刻も早く彼女の安静な場所に連れていく必要がある。

「はあ……、まあ奥の手と言うほど奥の手でもないんだが、やるか」
「んえ? 何か手があるんですか?」
「ああ。俺が壁を攻撃する。それで駄目なら、グリースを待つ。なに、すぐ来るさ。さっきの光も見てるかもしれないし」
「それだけ選択肢があって私の右腕が犠牲になるとこだったんですか?」
「いや俺は剣でガシガシ壊すつもりだったんだよ。お前が離れるから難易度が跳ね上がったんだろうが」

 座り込むツバキに背を向け、アキラは壁に向かい合った。
 アキラの予想では、十中八九剣は砕ける。
 だがこのままじっとしているわけにもいかない。
 ツバキの腕輪の件は、やはり後でサクに任せるべきだろう。

「うし、やるか。何気に最近これを詠唱していない気がするんだけど、というか魔術攻撃禁止令が出ている気がするんだけど、いくぞ」

 グ、とアキラは己の力を剣に込める。昼夜を逆転するかの如く、オレンジの光が小屋の闇を消し飛ばした。
 いける。
 直感的にそう感じられた。
 どれほど強固な障害を見ても、容易に砕ける光景が目に浮かぶ。
 やはり他の魔術と違い、安定感が抜群だ。
 ヒダマリ=アキラが使用する魔術で、破壊力に特出した攻撃魔術。

 この破壊を前に、行く手を阻むものなど存在しない。

「キャラ・スカーレッ―――」

 ドッ!! と。
 攻撃する刹那、小屋が跳ねるように大きく揺れた。剣に精力を注ぎ込んでいたアキラは不意をつかれて無様に転ぶ。
 発動しかけた魔術は不発に終わり、アキラは剣を取り零した。
 剣は込めた魔力を四散さながら転がり、再び周囲は闇に落ちる。

「―――、な、なに、が!?」
「……これ呪いだよ。砕けていった歴戦の剣が俺を呪っているんだ」
「そうじゃなくて!!」

 アキラは塞ぎ込みながら再び右手に魔力を込める。
 攻撃に転じるはずだった魔力は、先ほどの局地的地震のような振動で高が照明道具に成り下がっていた。
 アキラは投げやり気味に周囲を覗う。
 剣の呪いは、今度は何を連れてきたのか。

「おっ!?」

 再び、ゴッ!! と小屋が揺れた。木製の壁にすら亀裂が入り、やはり想像した通りの形状の鉄檻が露呈する。
 ツバキもバランスを崩して倒れ込み、小屋の隅の積荷からは甲高い瓶のような音が響いた。
 流石にただ事ではない。
 何が起こっている。

「なんだ、ひとり増えたのか」
「!」

 この小屋に入って以来、初めてツバキ以外の他者の声が聞こえた。
 親しみやすささえ覚えるようなその声に、アキラは跳ねるように立ち上がり、即座に窓を睨んだ。
 四角く切り抜かれたような窓。
 そこに、柔和そうに見える初老の男が丸い顔を覗かせていた。

「お前―――」
「見つけたぞてめぇごらぁっ!!」

 アキラが切り出すより早く、ミツルギ=ツバキが咆哮を上げた。
 そして掴みかかるように窓へ向かって駆け出していく。
 しかし檻の中と外の優勢は明らかで、柔和な男は僅かに身を引くだけで窓から飛び出したツバキの鉄拳を回避した。

「がるるるるっ!!」
「うん、元気元気。商品価値は保障されたが、しかしどうやって“取り出すか”。衰弱するまで中には入れんかな?」

 絶対的優位の笑みを浮かべ、安全地帯からツバキを眺めるその男は、満足げに頷いた。
 やはりこの男が―――ミツルギ=ツバキを誘拐し、そしてこの場に拘束した誘拐犯。

 傍目に見るだけならば心優しい老人に見える。
 だが、その柔和な口調から出る言葉はお世辞にも穏便とは言えなかった。

 アキラは嫌悪感を覚えながらも窓に近づく。
 そしてツバキを庇うように窓から引き剥がすと、改めて窓の外の誘拐犯を睨んだ。

「何故こいつを誘拐した?」

 思った以上に低い声が出た。
 アキラは威圧するような態度を崩さぬまま、窓の外を睨む。
 すると誘拐犯は、ゆっくりと、まるで誘うような柔らかな口調で返してきた。

「人身売買の味を知っているか? 知ってしまえば甘い蜜すら泥になる」

 丸顔の誘拐犯の、余計な言葉など必要無いとでも言うような、抽象的な答え。
 それで総て察しろということか。
 端的な会話程度しか行えないタンガタンザではある意味正常な応えなのかもしれない。
 アキラもツバキのように窓の向こうに拳を見舞いたくなった。

「まあ、おじさんの本業ですら、今回はついでなのだけどね」
「おい!!」

 ふっと窓から誘拐犯が姿を消した。
 アキラは逃さぬように窓から腕を出すが、空を切る。
 逃すわけにはいかない。
 私怨もあるが、何より、あの誘拐犯に訊かなければならないことがあるのだ。

 あの男はミツルギ=ツバキを誘拐した。
 そのときに使った拘束具。
 ツバキの腕に嵌められた“魔力消失の拘束具”を―――誘拐犯は一体どこから手に入れたのか。

「ヒダマリ!! そこか!?」

 そこで、僅か遠方から声が聞こえた。

「グリースか!? 誘拐犯を捕まえろ!!」

 姿の見えぬまま、アキラは声に応じた。慌ただしい駆け足が徐々に近づいてくる。
 彼はどこまで探索に行っていたのだろう。
 だが、最高のタイミングで、

「!?」

 最悪のタイミングだった。
 再び小屋が跳ねたと思えば、いよいよ壁という壁が崩れ落ちた。
 木片が飛び散り、再び横転したアキラとツバキは踊るような小屋に翻弄される。
 アキラはツバキを抱きかかえながら瞳をこじ開けた。

 そして見えたのは、“月”だった。

「……、……!!」

 僅かな混乱の後、状況把握は早かった。
 二重扉の奇妙な小屋が半壊し、姿を現した本当の役割を、すでにアキラは予想できていた。

「マジで檻じゃねぇかこのやろう」

 天井、そして壁の四方。
 その全てから格子状の鉄に囲まれ、アキラとツバキは軟禁されていた。
 ひとつひとつの鉄檻は分厚く、等間隔に顔を出せるほどの穴が空いている。先ほど誘拐犯が顔を覗かせた窓も高が檻の一部だったようだ。
 二重扉に目を向けると、内側も、そして外側も、木の板で挟むように隠された重厚な鉄檻の扉であったことが分かった。
 天井から落ちた木片に埋もれかけたアキラが這うように蠢き、ツバキと共に立ち上がると、夕暮れの涼しい風が頬を撫でた。
 この小屋に偽装されていた檻は、見せ物を閉じ込めておくための空間なのかもしれない。

「お、おい、ヒダマリ何やってんだ!?」

 外からは、小屋から檻への変貌はどう見えたのだろう。
 誘拐犯が去ったばかりの位置に現れたグリースは目を丸くしながら檻に掴みかかっていた。

「こっちの台詞だ!! 何やってやがった!? いいから誘拐犯を追ってくれ、その辺にいるはずだ!!」
「あ、ああ!!」

 内心気が立っていたアキラが叫ぶと、グリースは即座に周囲に目を光らせた。
 しかし儚い月や星の光では、周囲は依然闇に包まれている。
 アキラは腕を掲げ、加減も考えず魔力を込めた。
 目を焼くほどの閃光が漏れ、夜の闇が四散する。

「頼むぞグリー―――」
「ぎゃあっ!?」
「!?」

 過去最大級の振動がアキラを襲った。
 足元から脳天に突き抜けるような衝撃に、アキラはツバキを庇うように背中から倒れ込んだ。

「づっ!!」

 背中に熱い痛撃が走った。
 床に散乱した木片が突き刺さったのだろう。
 涙目になりながら動きを止めていると、アキラの耳に、ギィ、と金属が擦り合わされるような音が届いた。

「……?」

 音源は、隣の小屋。この檻の小屋に来る前
 見れば隣の小屋の下部にはぼっかりと穴が空いており、そこからアキラの胴をゆうに超す太さの鎖が伸びて檻の小屋と連結していた。
 普段は地中に埋まっていたのか鎖は土を被っている。
 アキラは察して反対側の小屋を睨む。
 するとその小屋も同じ造りで、小屋の下部から鎖が伸びていた。

 この檻の小屋は、その両隣の小屋と野太い鎖で繋がっている。
 そして、気づいた。
 自分が立っている位置と、大地の高低が決定的に違う。アキラは今、“大地を見下ろしているのだ”。
 導かれる結論はひとつ。
 先ほどからの衝撃は、左右の小屋から鎖を引くことによって、“檻の小屋を地中から引き抜いたものなのだ”。

「グリース!! この小屋の下に何がある!?」
「いやっ、ちょ、目が、」
「馬鹿やってねぇで早く見ろ!!」
「お前がやったんだろうが!!」

 先ほどアキラが放った光源に目を焼かれていたらしいグリースは、目を擦りながらしゃがみ込んだ。
 そして僅かな間の後、グリースは焦った顔を上げた。
 彼にもこの檻がどういうものなのか分かったのだろう。

「車輪だ!! 車輪がついてる!!」

 やはりそうだ。
 いかにこの檻に閉じ込めたとしても、脱出できなければ意味が無い。
 この檻は誘拐した者を、街を出るまでの間、一時的に閉じ込めておく場所では無く、“これそのものが移動できる搬送車なのだ”。

 そして見たところ、この小屋そのものには動力になる馬がいない。
 となれば当然、その動力は―――“鎖で繋がった両隣の小屋”。

「グリース!! 隣の小屋だ!!」
「分かってる!!」

 グリースも察し、叫び返してきた。

 が。そこで―――ミツルギ家脱出の定刻が訪れた。

 バゴッッッ!! と両隣の小屋が吹き飛んだ。
 顔を向ける間もなく、身体中がグンッ、と背後に引かれる。
 今度こそはとアキラは腕を檻に絡め、転倒を回避した。
 腕からグキリと嫌な音が鳴り、アキラは顔をしかめながらようやく両隣の小屋を睨む。

 そして、予想通り―――予想外の光景がそこにあった。

「くっ、“車”!?」

 動力は馬ではなかった。
 ベースは黒塗り。流れるような白いラインが走っている。その側面に、檻の小屋から伸びた鎖が連結していた。
 サイズは小屋より一回り小さい。しかし十分巨大と形容できるその物体は、細長く、それでいて力強ささえ覚える唸りを上げていた。
 屋根は無く、搭乗者の顔が見てとれるそのフォルムは、元の世界ならば巨大なスポーツカーと形容でき、そしてあるいは“戦車”とも形容できた。
 動力は魔力なのかもしれない。だが、そんな物体が―――そんな“この世界にあってはならない物体”が両隣に存在している。
 一台ごとに左右合わせて4つ付属されているのであろう巨大な車輪が高速で回転し、アキラとツバキが乗る小屋をミツルギ家の外へと搬送している。

「!! いやがった!!」

 どれだけ馬力があるのか、あるいは魔力の産物か、高速で移動する巨大な戦車の上、搭乗者席に先ほどの誘拐犯を見つけた。
 移動の振動に暴れ回る檻の中、決して格子を手放さないよう必死に腕を巻き付けているアキラと違い、誘拐犯は涼しげに座り込んでいる。
 その隣、恐らく運転席なのであろう位置には仲間なのか同じく恰幅のいい男が座っていた。
 反対側の戦車にも同じく2人。
 彼らがミツルギ=サイガの言った人攫い集団なのだろう。
 全員アキラたちの方を見もせずに、街の脱出を狙っている。

 彼らに訊くべきことが大量に増えた。
 檻に偽装していた小屋。こんなものを、どうやって造り出したのか。
 巨大な檻を引く戦車。そんなものを、どうやって手に入れたのか。
 ツバキの腕に嵌められた“魔力消失の拘束具”といい、彼らが有しているものはあまりに不自然だ。
 明らかに―――“この世界に許された技術を超えている”。

「ヒダマリ!! このままじゃ街を出る!!」
「!? お前何やってんだ!?」
「いきなり走り出したからだろうが!!」

 叫び返したグリースは、進行方向に背を向けて檻にしがみついていた。
 命からがらといった様子のグリースは、時おり振り返っては焦りの色を増している。
 このまま街を出られでもしたら洒落にならない。
 タンガタンザの街は戦争の結果著しく減少し、荒れ地と化した地平が広がっていると言う。
 それでもこの戦車なら十分に走行可能であろうから、自分たちはこのままミツルギ家から遠く離れた地点まで連れ回されることになる。
 誘拐犯を撃破したとしても、ミツルギ家に戻ってくるのはいつのことになるのか。戦争に参加できない可能性すらある。
 そして、ツバキには休養が必要であるし、グリースに至っては現在進行形で命の危機だ。

―――どうする。

 アキラは誘拐犯の顔を睨みながら必死に活路を探した。
 だが、グリースは檻にしがみつくのが必至であるし、アキラとツバキは閉じ込められている。
 いや、仮に自由であっても、高速で移動する巨大な鉄の塊をどうやって止めるのか。
 操縦者を撃破するにしても、下手な止め方をすれば自分たちも大惨事だ。

 一体どうやって、元の世界でも“凶器”と言われることのある鉄の塊を止めるか―――

「……?」

 間もなく街の境界線。
 アキラが睨んでいた、数秒後には脱出が成功する誘拐犯の顔が、僅かに曇った。
 そして。
 アキラは気づく。
 檻にしがみつくのが必死だったために、アキラは照明の魔力を解除していたことに。
 しかし、何故か。
 星明かりを凌駕する色が、周囲を照らし、輝かせていることに。

「―――、」

 色は赤。
 自分の仲間である鮮やかなスカーレットや、あの地獄のような空間の赫とは違い、分かりやすいほど赤い―――真紅。

 そんな色の星々が、空より低い位置に浮かんでいることに―――気づいた。

「ぁ」

 アキラが抱えていたツバキが、声を漏らした。
 今まで動転していたのか、顔を上げたツバキの目尻には涙が浮かび、頬が紅い。
 だが、それすら染められる真紅の星を見上げ、瞳に輝きが戻っていた。

 記憶の奥、アキラもこの色には見覚えがあった。
 あれは確か1ヶ月前。
 ミツルギ=ツバキと初めて出会ったあの日。
 暴れた彼女がぶちまけた、彼女の主君の所有物は、正にあんな色をしていなかったか。

「全員下手に動くな」

 平坦な、しかしアステラよりは僅かに抑揚のある声で、その男は呟いた。
 黒いシルクハットを目深に被り、黒いコートを纏ったその男の声は、戦車ががなり立てる轟音の隙を縫って耳に届く。

 “クロック=クロウ”。
 髭を生やしたその男は、ミツルギ=ツバキの主君であり、アキラの参加している部隊の一員である。
 クロックは、やや緩慢な動作で自身の足元に置いてある大きな袋に手を入れた。
 サンタクロースが担いででもいそうな袋から拳を抜き出すと、胸の前で手を開いて見せた。
 その手のひらには、小石のような物体がひと盛りほど乗っている。
 色は、やはり赤。
 そして、宙を舞っている星々と同じ色彩で輝いていた。
 赤い星々は重力に従って地に落ち、赤は、その男の手のひらだけになる。

 巨大物体の拘束接近を前に、クロックは、眼鏡の奥の眼を細めて見るだけだった。

「……」

 アキラはこのミツルギ家で意識を取り戻した人のことを思い出した。
 あのとき、ミツルギ=サイガは言っていた。
 魔族に挑むこのメンバーの中で、クロック=クロウが1番の実力者であると。

 その意味するところは、つまり。
 この百年戦争のテーマである、“止める力”を最も保有していることに他ならない。

 ブンッ!! とクロックが腕を振った。
 目映いばかりの赤だけが光源なのに、アキラにはその腕の動きが初動から停止までまるで見えなかった。
 僅か遅れて気づいたのは、クロックが手に掴んだ赤い小石を戦車に向けて振り撒いたことだけ。
 そしてその赤い小石は、戦車を阻む壁のように展開した。

「―――おっ!?」

 グリースにも、そして檻の隙間を通ってアキラとツバキにも小石が命中した。
 呆然として見ていた、砂粒にも近い小さな赤い宝石が身体に触れた瞬間、アキラは呼吸が止まったような錯覚に陥った。
 その直後、足が地から引き抜かれるように離れ、悶絶するほどの浮遊感が身体を襲う。アキラは思わず目をきつく閉じた。
 一体何が、と考える間もなく、次に身を襲ったのは檻の壁に叩きつけられる衝撃。
 積荷の樽や鉱物が暴れ回り、この戦車に乗っていた者全員分なのであろう短い悲鳴が闇夜に響いた。

「づ……くあ、」

 なんとか意識だけは手放さず、檻の壁からずり落ちるように倒れたアキラは弱々しく目を開き、そして、覚醒した。

 赤の残光の世界、そこでは、アキラも、そして“戦車そのもの”も、完全に静止していた。

「いっでぇ……、くっそ!!」
「む? 調整を誤ったか。だが生きているだけ儲けのものだと思え」

 檻の外からグリースの呻き声と、やはり平坦なクロックの声が聞こえた。
 見ればグリースは帽子に手を当て目深に被ったクロックの足元で転がり回っている。
 腕の中のツバキは目を閉じてうなされるように呻き、誘拐犯の方からは声も聞こえてこない。
 どうやら全員、気を失っているようだ。

「…………何を、やったんだ?」
「手段は重要ではない。結果“止まり”、そして救われた」

 アキラの疑問には、タンガタンザらしい、その言葉だけで総てを察しろとでも言うような答えが返ってきた。

「そこから出たいのであればその檻の所有者から鍵を奪うなり、サイガの娘にでも頼め。彼女も間もなくここに訪れるだろう。私は専門外だ」

 そう言うと、クロックは自身の膨らんだ袋を担ぎ、そのまま背を向け歩き出した。
 それで総てを察しろとでも言うように。
 それで全てが終わっているとでも言うように。

 遠のくクロックの背を眺めながら、アキラの意識も遠のいていった。

―――***―――

「報告は以上です」
「解散」

 クロック=クロウはいつもの光景を眺めながら帽子を目深に被った。

 ミツルギ家の屋敷の中、報告室と銘打たれた簡素な部屋。
 クロックは備え付けの椅子に背を預け、ミツルギ=ツバキ誘拐事件の事後顛末を頭の中で反芻した。

 当然と言うべきか、誘拐犯は全員逮捕。クロック自身が引き連れていった街の護衛団が行ったのだが、その動きの統制の悪さに、苦笑したものだった。
 だが、今は取り調べも終了し、ミツルギ家の街の収容所で監禁されているらしい。誘拐犯は全員意識を失っていたと思うのだが、夜が開ける前に仕事を終えた辺り、思ったよりも手馴れているようだ。
 もっとも、その取り調べの情報を聞き、裏付けまで取り、可及的速やかに報告に上がったミツルギ家の人間の方が恐ろしいものがある。
 時間は深夜をとっくに通り越し、間も無く明け方。

 この部屋の奥に座る屋敷の主など、部下が去った途端、早速紅い衣を脱ぎ捨て大欠伸をかましていた。

「なーんで、捕まえちゃったかなぁ」

 そこで。
 ミツルギ=サイガは、そんなことを呟いた。
 口を尖らせて眉を寄せているが、大の大人がやると殺意がふつふつと湧いてくる。

「サイガ。私はお前の言うように、誘拐犯を捕まえたのだが?」
「なーに言ってんだよ。俺が言ったのはツバキちゃんの救出だけ。いやクロッ君が行った時点で彼らの末路は分かってたけどさぁ……、あーあ。まいっか」

 相変わらず、何を考えているのか分からない男だ。
 クロックはふんぞり返り天井を仰ぐサイガを、目を細めて睨んだ。
 この男に無駄な羨望を捧げる必要など無い。それはやはり、クロックの中で確固たるものだ。
 ミツルギ=サイガの奥底を事細かく計れる者などそうはいないだろう。
 サイガに眠る、“たったひとつの想い”だけは知っているつもりだが、いや、“知っているからこそ”、この男に背を預けることはできなくなる。

「とにかく、クロッ君もお疲れ様。いやぁ悪いね。ツバキちゃんが誘拐されると、俺としても結構困るし」
「一応私の従者の不始末だ。だが、私はてっきりあの移動する鉄の塊の方がお前にとって重要だと思っていたのだが」
「いやあれはどうでもいいよ。クロッ君が無理に止めたからぶっ壊れてるけど、うん、どうでもいいよ」
「私は私のやるべきことをやっただけだ」

 口ではそう返すも、サイガ自身、言葉通りに気にしていないようだった。
 あの誘拐犯が乗っていた物体。
 クロックはそれを見たことは無かったが、直感的に、しかし確信として、あの物体にはミツルギ=サイガの力が関わっていると思っていた。
 あんなものが外に出れば、いや、盗まれるだけでミツルギ家にとっては大きな痛手であろう。
 そう思い、それごと止めたのだが、サイガにとっては余計なことだったようだ。
 本当に、何を考えているのか分からない。

「でもまあ、お手柄でもある。あのツバキちゃんが捕まってたていう檻。そしてあの拘束具。そっちはいい情報だった」
「誘拐犯も詳しくは知らないと言っていたな。どこかの地方の“地下室”で、たまたま設計図ごと見つけたと。即座に小屋に偽装できるところなどを含め、調査すべきだと思うが?」
「んー? あれ? わっかんないかなぁ、入手先。檻の方はともかく拘束具は技術以前に“素材”として、クロッ君なら察すると思うんだけど」
「…………察しているからこそ、言っているんだ」
「うんうんビンゴ。そう、あれは間違いなく魔族の技術だ」

 “その言葉”に取り立てて意味も持たさず、自然に口にできる者はそうはいないであろう。
 だがサイガは、その“魔族”と争いを続けているミツルギ=サイガは、再び大欠伸をかましていた。

「そういえばサクラちゃんたちが見つかった場所らへんとか言ってたっけ。そういや捜索させてたなぁ、面倒になって止めさせたけど。まあ、結構あるぜ、タンガタンザにはそういう“地下室”」

 その口ぶりに、クロックはさらに眉を潜めた。
 サイガがそう言った以上、間違いなく他の“地下室”は捜索を終えている。

「…………お前は、“魔族”の技術まで保有しているのか?」
「かじった程度だ。理論はさっぱり。だけど、あの“地下室”を作った奴は相当な天才だ。そいつがこの戦争に参加してたと思うと絶望的だね。アグリナオルスとは種類の違う感じだし」

 そんなことも、サイガはあっさりと言い放つ。
 これ以上は暖簾に腕押しだ。
 クロックは諦めて話題を変えた。

「ところで、今回は大判振舞だったな。主要メンバーの全員をツバキの救助に向かわせるとは」
「そうだそうだ、サクラちゃん機嫌悪くなったかなぁ、念のためもういっこの街の脱出経路に向かわせたりして。今回出番無くてしょんぼりしてたでしょ」
「ツバキの拘束具を外したとき、妙にいきり立っていた気がするな」
「そっかそっか、でもいっか。どーでもいっか」
「お前はいつか殺されるような気がするが……、まあ、ヒダマリ=アキラとグリース=ラングルをあの場に向かわせたのは正解だったのかもしれんな」
「でしょでしょ? やっぱりあいつらそういうタイプなんだって。ツバキちゃんが妙なトラウマ作っちゃったら面倒だし」

 クロックは帽子を目深に被る。
 救出したのち、クロックはツバキと話したが、というより無理矢理話しかけられたが、ミツルギ=ツバキはミツルギ=ツバキのままだった。
 精神的なダメージはほとんど無いと言っていい。
 ツバキはあれでいて、精神的に弱い。
 彼女はずっと、間抜けなことにも同じく檻に閉じ込められたヒダマリ=アキラと共にいたそうだが、それが無ければどこまで沈んでいたことか。
 彼にそもそもそういった素質があるのか、あるいは噂に聞く日輪属性の力であるのかは定かではないが、十分な功績を果たしている。
 もっとも、そもそもサイガがアキラやグリースではツバキを救出できないと思っていたり、ただの子供の世話役としてあの場に送りつけられたことを知ったりしたら、彼らの方が精神的な影響を受けそうだが。

 今は、アキラも、グリースも、そしてツバキも安静に寝入っているはずだ。
 ただ訓練の日々を過ごしていたこの時期も折り返しを向かえたところ。ある意味今日の出来事は、いい刺激になったであろう。
 ただ、明日、ヒダマリ=アキラには別の刺激が待っているが。

「アステラの件はどうなった」
「アステラちゃん? ああ、流石に今日はいいや、って言っといた。でも明日にはやるはずだ。あの子は仕事には……いや、言われたことには真面目だから」
「うむ」

 事後確認を終え、クロックは立ち上がった。
 流石にそろそろ仮眠でも取るべきであろう。そもそもそこまで眠気には強く無い。

 クロックはサイガに背を向け、部屋を去った。
 おやすみぃ~、という気の抜けたような声が聞こえた気がしたが、振り返りもせず自室へ向かって歩き続ける。
 サイガはどうやら、まだまだ寝る気はないようだった。

「それにしても」

 じっとりと熱い無機質な廊下を歩きながら、クロックは小さく呟いた。

「誘拐事件、か」

―――***―――

 翌日。
 ヒダマリ=アキラは薄暗い空間にいた。
 比較的涼しい早朝の空気の中、廊下を歩いて辿り着いたのは巨大な鉄扉の前。窓は無く、外の様子はまるで分からない。
 扉の先には、巨大なミツルギ家の西部一角を占めると聞いていた“とある作業現場”があるらしいが、アキラにとっては扉の前に来るのも初めてのことだった。

 昨日。
 アキラたちはミツルギ=ツバキ誘拐事件を解決した。
 実際のところ解決したのはツバキの主君であるクロック=クロウであり、アキラは未だに彼が何をして誘拐犯を“止めた”のか分からないのだが、とりあえずは清々しい気分で朝を迎えることはできた。
 負傷した身体も日輪属性のスキルとやらで復調し、アキラは昨日の件は日常の刺激になったと思い出にしようとしていたのだが、しかし昨日の件でアキラは早朝からこの場に呼び出された。

 目の前には、不健康そうな女性。
 自己を“万屋”と紹介した、アステラ=ルード=ヴァロス。
 小さな身体に剥を纏った彼女の表情は、周囲の薄暗さもあってより弱々しく見えた。
 そんな彼女の隣に、布にくるまれた棒状の物体が壁に寄りかけられている。

「この先に何があるか知っているか」

 薄くて淡い、波の無い声。閉鎖的な空間に近いのに、その声はまるで響かなかった。
 彼女の身とは比べ物にならない扉の前に立ち、アステラはまるで感情を出さず、アキラの答えを待つ。

「話に聞いただけだけど、ここってなんか造ってんだろ?」
「ああ、そうだ。昨日君も見ただろう。あの誘拐犯が乗っていた物体もここで造られている」

 なんと。
 やはりあの誘拐犯が使っていた“車”は、ミツルギ家所有のものだったのか。
 アキラは薄ら寒いものを感じ、そしてミツルギ=サイガの顔を思い浮かべる。
 となると檻や、ツバキに嵌められていた拘束具もミツルギ家が保有していたものかもしれない。
 やはりサイガに話を訊く必要があるようだった。

「昨日話があると言ったのは、今から行うことを伝えておくように言われたからだ」

 またも、どこか受動的な言葉。
 彼女を計ろうとしても、無表情な彼女からは何も拾えなかった。

「ここで何が……、って、まあ、予想は付くか。俺の“剣”の話だろ?」

 ヒダマリ=アキラの剣。
 それは、アイルークではたびたび投擲され、シリスティアでは無残に砕け散り続けた不遇の物品。
 タンガタンザでも剣の破損は続き、アキラにとって最大の課題でもあるものだ。
 この扉の向こうでは、“表向き”には、戦争に使う剣を大量生産しているらしい。
 この1ヶ月、アキラはここから運ばれてきたという剣を使ったことが幾度かあるが、結果は何も変わらなかった。

「予想ができているなら話は早い。君に話すように言われたことは、これから造る武具がどういう特性を持っているか、ということだ」
「特性?」
「ああ。今後1ヶ月、その特性を頭に入れ、“その剣を使うことを前提に動いて欲しい”、とのことだ。1ヶ月以内には完成するだろうが、それでもすぐに手渡せそうにない。いきなり扱うには難しいのだろう。だから、完成するまではイメージ作り、ということらしい」

 それは、今まで完成したものだけを渡されていたアキラにとって、新鮮な考え方だった。
 それだけ特別な剣ということなのだろうか。
 自分自身の剣が造られる、というゲーム染みた状況に僅か心躍るものがあるのだが、あくまで淡々と続くアステラの口調のせいか、アキラは静かにその言葉を呑み込んだ。
 だが、気になることはある。

「本当に、大丈夫なんだろうな?」

 脳裏に浮かぶのは、この1ヶ月で破損し続けた武具の山。
 アキラの雑な魔術使用によって、世界最高峰の武具を製造すると言われるタンガタンザの剣でさえ、粉々に砕け散っているのだ。
 不安は尽きない。

「ミツルギ=サイガは問題無いと言っていた」

 またも受動的で、しかしある意味信頼のおける言葉が返ってきた。
 サイガは底知れず信用ならないが、それがかえって信頼に変わることもある。
 少なくともサイガにとって、アキラの戦力増強は利害の一致が成立している。

「正直なところ、君の症状を聞いて、私は無理だと思った。“前例”を知っているのだから」

 初めて。
 アステラ個人の考えが聞けた。
 自分自身の剣より、むしろそのことに対してアキラの意識が覚醒する。

「ただ、幸運にも“材料”があった。あれを使えば、理想の物品ができ上がる。造ってみせる」
「え? あ、あんたが造るのか? “何でも屋”って言っても、」
「恐らく“再現”は可能だろう」
「?」

 とても鍛冶仕事などできそうにない、薄く淡いアステラは、その小さな身体で壁に寄りかかっていた物体を抱え上げた。
 そこでようやくアキラは気づく。
 あの布は、アキラがミツルギ=サクラに“あの物体”を預けた際、使用されたものだ。

 赫く、燃えるように赫い地獄で得た―――“奇妙な剣”。

「これには、“魔力の原石”が使われている」
「原石?」

 どこかで聞いたような気がする言葉だった。
 そしてそれがアキラの頭の中で、シリスティアのとある貴族婦人が所有していたという娘の手掛かりと繋がったとき、アステラは静かに頷いた。

「うん。君には理論を語るより、“ストーリー”を語った方が良いだろう。ミツルギ=サイガはそう言っていたし、私も誰かに話したいのかもしれない」

 この1ヶ月。
 グリースのことは良く知れた。
 そして昨日。
 ミツルギ=ツバキとも僅かな繋がりを得ることができたような気がする。

「1ヶ月後の戦争にも関係する話だ。何せその物語には、『世界の回し手』。“魔族”―――アグリナオルス=ノアも登場するのだから」

 どこか奇妙なタンガタンザの物語。
 その中で、アキラは人と出逢い、彼らのキャラクターを知ることができた。

 その時点から―――転じて。

「奇しくも物語の始まりは“誘拐事件”。ひとりの天才鍛冶師と、ひとりの災厄が奇跡的に交わった、タンガタンザに2度目の平和が訪れる、奇跡の物語」

―――タンガタンザ物語は、2年前へと遡る。



[16905] 第三十四話『タンガタンザ物語(転・前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2011/09/07 04:52
“――――――”

 突然だが、誘拐された。

 ガタンガタンと固い床に尻を打ち付けながら、エニシ=マキナは絶望感を露わにした表情を浮かべていた。
 何故こんなことになったのか。マキナには答えが分からない。
 自分は、家業の仕事が早めに終わり、爽快な気分のまま『よし、外に繰り出すぞっ』と浮ついた心で街に繰り出しただけだ。
 そしてミツルギ家の街を歩きながら、ふと、見覚えの無い道を見つけ、折角だから探索して見ようと足を踏み入れたところで―――意識が飛んだ。
 気づけば手足を拘束され、暴れ回る狭い馬車の中だった。リズムカルな馬の足音が車輪の騒音に紛れて聞こえてくる。
 日はとっくに落ちたのであろう。馬車の中は薄暗く、辛うじて馬車の先頭と思われる方向から光源が漏れているだけだ。
 恐らくここは、ミツルギ家の街の外なのだろう。荒れ果てた大地を馬車で飛ばせば、丁度こんな感じの揺れになる。
 ここまでくれば、友人の悪ふざけでも何でも無い。
 間違いなく、これは誘拐事件だった。

「嘘だろこれ……」

 黒髪の頭をだらりと下げ、マキナは幸い拘束されていなかった口でぶつぶつと言葉を漏らした。
 ミツルギ家の街に有名な窃盗団が入ったらしいことは聞いていたが、まさか自分が被害者になろうとは。
 今年で18歳となり、職業柄わりと筋力はあると自負していたのだが、こうもあっさり攫われると自尊心が著しく傷つく。
 そして、そんな自分をターゲットにしたとなると、誘拐犯の目的は“マキナ自身”である可能性が高い。
 家の関係上、名の知れてしまっている自分の利用価値などいくらでもあるのだろう。
 これは何か。『え、俺って有名人じゃん』とか喜んでいた罰か。
 ならばマキナは家系ごと売れた名前を捨て去りたかった。

「……!」

 途端、馬の足音が緩み、馬車が減速した。その直前、何か悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
 暗闇の中、馬車がとうとう停止したのを感じ、マキナは眉を潜める。
 誘拐犯が休憩でもとろうとしているのだろうか。であれば馬車の中に入ってくる可能性が高い。
 マキナはじっと馬車の扉があるのであろう方向を睨み、息を殺した。
 自分から話しかけるのは、その、なんだ。恐い。
 マキナが慎重に馬車の外の気配を探り、いつでもタヌキ寝入りができるように身構えたところで、

「ぅ―――おっ!!!!!?」

 馬車が、傾いた。
 暗闇の中、一気に平衡感覚が喪失し、マキナはパニックになりながら背を壁に打ち付けた。
 ズンッ!! と面白いように馬車は横転し、マキナは頭を守るように身をかがめる。
 真横に積荷らしき物体が落下し、樽でも割れたのかマキナは全身にアルコール臭の液体を浴びた。

「がっ、かぁ、」

 受け身も取れず壁に激突。
 身体を襲う激痛。
 骨が砕けるような衝撃に、マキナは目をきつく閉じる。
 恐すぎる。下手をすれば死んでいた。

 マキナは拘束された手足を芋虫のように蠢かせ、何とか体勢を整えようとする。
 そして状況把握に努めた。
 何が起きた。誘拐犯が馬車の操縦でも誤ったのか。
 しかし倒れる直前、馬車は停止していたように思える。
 停止している馬車が横転するとなると、並大抵のことではない。
 そしてその、“並大抵のことではないこと”と言えば、生まれも育ちもタンガタンザのマキナにとって、ある事実に直結する。
 すなわち―――戦争。
 タンガタンザの大地においては、魔物の襲撃を受けないことの方が珍しい。

「マジっすか」

 マキナの顔が一気に青くなった。
 誘拐犯たちの声は聞こえてこない。
 きっと、魔物に叫び声を上げる間もなくやられたのだ。

 そうなれば、次は、自分。
 自分で言うのも何だったが、マキナの戦闘能力は皆無だ。
 手足が拘束されていようがいまいが魔物に襲われれば結果はひとつしかない。
 精々、受け身でもとって苦しまないように死ぬくらいできるかどうか、といったところだ。

「ちくしょう……、マジかよ……、冗談じゃないって……」

 マキナは床となった馬車の壁を這い、暗闇の中、身を隠せる場所を探す。
 どうすれば生き残れるのか。
 幸いアルコールを浴びた身体だ。
 臭いは隠せるかもしれない。
 死ぬのは―――恐い。
 どうしようもなく、たまらなく、終わるのは―――恐い。
 死には、あまりにも、優しさが無い。
 この恐怖は、生物に原始的に根付き、如何なる事象が起きようとも普遍的なものである。

 マキナは狼狽しながら散乱していた樽の木片を被った。
 きっと頭を隠している程度であろう。
 だが、それで安堵感を覚えるほど、マキナは錯乱していた。

 そして、バギッ!! と。
 扉の造りを無視するような音が響いた。
 星明かりが差し込み、そして“何か”の影が中を覗きこんでいるのをマキナは感じ、そして終わりを悟った。
 無理だ。
 もう、侵入者に自分を発見されている。

 詰んだ。

「あ?」

 声が聞こえた。
 魔物にしては珍しく、不快感がそのまま伝わってくるような声色だった。
 マキナが目をきつく閉じたまま身を固めていると、グッ、と尋常ならざる力で腕を掴まれた。
 これは、死んだ。

 もう逃げられもしない。
 そして次に腕を強く引かれる。このまま喰われでもするのだろうか。
 カモフラージュになると思っていたアルコールはむしろ味のエッセンスになるのかもしれない。
 そんな現実逃避をしていたマキナは次の瞬間、宙を舞った。

「ぇ―――」

 強引に投げ捨てられたような感覚。そして、重力に引かれて地面に叩き付けられた。
 荒れ爛れた大地に転ばされ肺から空気の塊が吐き出されても、マキナは自分の身体を物のように扱うその力に衝撃を受けていた。
 これが人間と魔物の差か。
 マキナは仰向けに倒れ、ようやく目を開いた。
 せめて最後くらいは自分を殺す物の姿くらいは確認しておこうと、マキナが人外の力を振るった魔物に顔を向ける―――が。

 そこにいたのは、人外ではなかった。

 完全な白髪。屈強な体躯。2メートル近い長身。
 そんな人物が、恰幅のいい2人の男が倒れている隣、同じく横転している巨大な馬車の上に、立っていた。
 まるでそこが、彼の縄張であると主張しているかのように、大胆不敵に。
 まるで総てが、彼の世界であると断言しているかのように、傲岸不遜に。

 猫のように光る金色の眼を携え、満天の星空の下に、立っていた。
 その人物は、あるいは人外と捉えても良かったのかもしれない。

「そこの病人。こいつでいいんだろ」
「私は病人ではない」

 背後から、彼に不服の意を唱える声が聞こえた。
 マキナが振り返ると、病弱そうな女性が立っていた。
 大男を見た後だと一際小さく見えるその女性は、白衣のようなものを纏い、無表情でマキナをまっすぐ見ていた。
 マキナがそのままでいると、白衣の女性が近付いてきた。

「エニシ=マキナで間違いないか」
「あ……ああ」

 相手の思惑も分からず、マキナは混乱したまま肯定した。
 今の自分は、何を訊かれても頷くであろう。

「そうか。彼で間違いはない」
「はっ、聞いたことそのまま伝えるだけか。楽な仕事だなぁ、おい」

 淡く、薄く、感情が無いような口調の女性。
 荒く、強く、感情をそのまま出すような口調の男性。

 そんな2人は並び立つと、座り込んでいるマキナを見下ろしてきた。
 女性は、静かに。
 男性は、睨むように。

 そんな奇妙な2人に囲まれながら、マキナはようやく自分が助かったのだと感じられた。

「それなら俺は帰るぞ。次に下らねぇことで呼んだら屋敷を潰すと伝えとけ」
「分かった。だが、問題がある。君が無理に飛ばさせるせいで、ここからの移動が困難になった」
「あ?」

 マキナはちらりと女性の背後に視線をやった。
 そこでは、馬のいない奇妙な形状の馬車が、アルコール以上に鼻孔をくすぐる臭いと煙を吐いている。
 この2人は、あれを使ってここまできたのだろう。

 ああ、あれは。マキナは僅かに目を光らせた。

「おいおいおいおい、病人さんよ。俺は送迎付きって聞いてたぜ?」
「私は病人ではない。……勿論最初はそのつもりだった。だが、実際移動は困難だ。誘拐犯の馬車を率いていた馬も逃げてしまったし」
「見りゃあ分かんだよそんなこと。ミツルギ家の秘密兵器っつーのは大層なもんだなぁ、おい」
「ああ、そうだな。だがどうやら、現段階では使い切りのようだ」

 男性の悪態を、女性は微妙にずれて受け取る。
 やがて男の方が折れたのか、はたまた無駄だと悟ったのか、悪態を吐きながら横転している馬車に背を預けて目を閉じた。

「ときに、エニシ=マキナ」
「んえっ!?」

 思わず男を目で追っていたマキナは、女性の声に飛び跳ねた。

「な、な、なんだよ?」
「予定が変わった。君を街に送り届けるように言われていたのだが、移動手段が無い。とりあえず、しばらくは私たちと行動を共にしてもらう」

 やはり彼女たちは、自分を助けるためにこの場に来たようだ。
 感謝を捧げるべきなのであろう。

「まあ、た、助かったよ。ありがとな。あ、あとさ、」
「言われたことをやっただけだ。私はアステラ=ルード=ヴォルス。万屋を営んでいる」
「うん、そうか、アステラ。助かった。だけどさ、俺今現在進行形で、」
「あっちはスライク=キース=ガイロード。君の救出の協力を要請した男だ」
「そうかそうか。アステラにスライクだな。覚えた。ばっちりだ。だからさ、」
「とりあえず馬車の中に食料があるかもしれない。私は君の身の安全を保証するように“言われている”。私が捜索してこよう。恐らくスライク=キース=ガイロードはこれ以上協力してくれないだろうから」
「えーとさ、聞いてんのかなぁ。つーか見えてんのかなぁ」
「君の様子を見るに、樽は割れてしまったようだな。水は絶望的だろう。だけど、一晩くらいなら何とかなる」
「ねえ聞いてる!? 見えないの!? 俺の手足!! 縛られてんじゃんっ!!」
「? そうだな」
「駄目だこいつ常識通じねぇっ!! 助けてもらって何だけど、もっかい言うよ!? 常識通じねぇっ!!」
「噂では、君は“それ”を嫌うそうだが」
「御託はいいから解いてくれよ!!」
「ああ、そういうことか」

 ようやく意思疎通ができ、マキナは戒めから解放された。
 本当になんだこの奇妙な連中は。
 スライクというらしい男は目を瞑ったまま動こうともしないし、アステラは眉ひとつ動かさずに会話を行う。
 助けてもらったことには感謝しているが、彼らの方があるいは誘拐犯以上に不気味だった。
 ただとりあえず、恩は返すべきだろう。

「なあ、あれが移動手段なのか?」

 マキナは未だプスプスと煙を上げている奇妙な物体を指差した。
 アステラは無言で頷き返してくる。

「あんた、あれを直せるのか?」
「不可能だ。私はあれが製造されるところは見たが、修理しているところは見たことが無い」

 妙な言い回しに何かを感じたが、マキナはため息ひとつに止め、立ち上がった。
 手足手首はひりひりと痛むが、どうやら動きに支障は無いらしい。
 これならいけるかもしれない。

「? てめぇ、何するつもりだ?」

 馬のいない馬車に視線を向けたところで、意外にもスライクというらしい大男から声をかけられた。
 マキナの瞳が、未知なる物体に向ける色ではないと捉えたのかもしれない。
 マキナは大男に細めた眼を向けた。このスライクという男は、初対面の人間の僅かな変化をも機敏に察知できるというのだろうか。
 だが、許容範囲だ。自分の心が鉄のように冷え、そして燃えているのを確かに感じる。
 ようやく調子が出てきたのかもしれない。

「とりあえず、様子を見る。主要パーツがイカれてたらアウトだけど、まあ誘拐犯の馬車のパーツを使えば上手くいくかも」

 マキナは腕をまくり、鼻歌交じりに馬のいない馬車に近付いた。
 壊れているものを見ると、思わず上機嫌になってしまうのは悪癖かもしれない。

「直せるのか?」

 今度はアステラの声が背後から届いた。
 マキナは馬のいない馬車の前に座り込みながら、生返事をする。
 やはり見えない。空の星々程度では、手元を照らすのに足りなかった。
 となれば奪うか。未だ気絶している誘拐犯が照明器具を持っているかもしれない。

 マキナは立ち上がり、横転している誘拐犯の馬車に視線を向ける。
 その途中、アステラは感情の読めない瞳をマキナに向けてきていた。
 そういえば何かを訊かれた気がする。
 集中していると周囲が見えなくなるのも、悪癖だった。

「直せる。直すさ」
「この物体を知っているのか」
「ま、まあ、家柄的にミツルギ家とは縁が深くてね」

 アステラはそれ以上何も言わなかった。
 彼女たちは、自分を助けに来た以上、エニシ=マキナという人物を知っているはずだ。
 だからこれ以上、問答は必要ない。

「俺だってこの荒野を歩きたくない。何とかかんとか頑張って、移動手段を確保する。工具が無いのがキツイけど、石でも何でも使って何とかするさ」

 エニシ=マキナの役割は、破壊を直すことだ。
 その範囲は広い。
 先ほどアステラは自分のことを万屋と言っていたが、ある意味マキナも万屋だ。
 戦争によって破損した町や村を修復しに回ったこともある。

 タンガタンザの全ては一方通行だ。
 襲われれば破壊され、破壊されれば廃れ、廃れれば土に還っていく。
 以前それに反抗し、タンガタンザの荒野に村を作り上げた大物がいたと聞いたことがあったが、マキナにとって、それは賞賛すべきことであっても驚愕することでは無かった。

「速攻で直してやる。壊れたもんを、そこで諦めてたらつまんねぇよ。まあ見てろって―――」

 時は不可逆で。
 物体も不可逆で。
 タンガタンザは不可逆だ。

 それが不変であると、大地に、人に、心に、深く強く根付いてしまっている。

 だが、だからこそ。
 マキナは総てを直してきた。
 マキナは総てを塗り替えてきた。

 そんなものは、自分の世界に関係ないとマキナは豪語できる。

「―――俺の世界に“普通”は無い」

 誘拐犯の照明具は壊れていた。
 修復は翌日になった。

――――――

 じっと誰かが見つめている。
 その瞳は自分を逃さず、どれほど走っても、どれほど潜んでも、どれほど懇願しても自分から離れない。

 逃げなければ―――だが、どこに。
 潜まなければ―――だが、どこに。
 懇願しなければ―――だが、誰に?

 分からない。だから、終わらない。

 じっと誰かが見つめている。

 見られていることは分かっている。
 そのことだけが分かっている。

 それだけなのに、感じてしまう。

 恐い。
 何物よりも、何者よりも、あるいは、自分自身よりも、恐い。

 恐くて恐くて、走り続けた。逃れ続けた。駆け続けた。

 だけど、駆け抜けられない。

 どこに行っても。
 どこまで行っても。
 奇跡にすがっても。

 じっと誰かが見つめている。

――――――

「ん……」

 目が覚めると、日はとっくに天に昇っていた。
 エニシ=マキナは目をきつく閉じて身体を伸ばした。
 身体の節々が痛く、背中の感覚がほとんど無い。
 ただ、異常なほどの身体のだるさは、どうやら昨日の誘拐事件の方が原因らしかった。

 それと、もうひとつ。

「夢……」

 奇妙で、奇天烈で、そして不気味な夢を視た。
 夢というものが人に希望を与えるものならば、今の世界は夢ではない。
 そこから持ち帰れたのは恐怖だけだ。
 ただ自分が見つめられるだけで、そして何も壊れないからエニシ=マキナがいる意味は無い。
 だけどそこには自分とその“何か”しかいない。
 だから意味が無く、自分が見つめられることだけの世界。

 最近よく視る夢だ。
 マキナの世界に存在する、黒い世界。
 マキナはいつか、あの世界を直したいと思う。

 “直す者”であるエニシ=マキナがあの世界にいる意味があるとすれば、壊れた世界を直すためなのだろうから。

―――だけど時は、不可逆だ。

「……とりあえず助かったんだよな、俺」

 夢の記憶を放り投げ、マキナは現実世界に戻ってきた。
 いきなり始まって、いきなり終わったエニシ=マキナの誘拐事件。
 度重なるショックで大分感覚が麻痺していたが、考えずともマキナは随分と危ない橋を渡ったことになる。
 そのことに深い絶望も、そして身も震えるような歓喜も昇って来ない。
 何故なら自分が知らない場所で、ただ世界が勝手に回っていただけのことなのだろうから。

「ん……んーん」

 口の中は気持ちが悪く、頭は身体同様痛む。
 それでも僅かばかり身体を預けていた床を惜しみ、マキナは身体を起こした。
 誘拐犯の馬車から運び出した毛布を投げ捨て、よろよろと立ち上がる。

「ここは……、あー、そっか」

 マキナは目を擦りながら、深く深く頷いた。

 昨夜、結局夜目での作業は断念し、マキナたちは近くの岩場まで移動してきた。
 この荒野には、いささか不自然にいくつかの巨大な岩石が転がっていた。
 散乱した岩石の隙間に、何とか人が潜り込めるような場所を見つけ、この場で夜露を逃れたのだ。

「マジ勇気ある行動したわぁ俺。軽い感じで魔物が通ったらと思うとぞっとするね! まっ、もう終わったことだけどっ」

 寝ずの番も覚悟していたのだが、疲れ果てた身体は言うことを聞かなかったらしい。
 マキナは努めて恐怖を払拭しながら、岩石と岩石の穴から這い出る。
 自分の身の数倍はある巨大な岩石は、一体何をどうしたらこれほどまでに散乱するのか。
 だが、まあいい。
 こういうことは、気にしないのがイチバンだ。

 あの暗闇の世界を乗り切った今は、強気に、不敵に、前だけを見ればいい。

「きゃあっ!?」

 女性のような悲鳴が響いた―――マキナの口から。
 だが、マキナにも弁明の余地はある。
 穴から這い出た直後、目の前に、いかにも体調が悪そうな人間が体育座りで待ち構えていたら誰でも言う。

 きゃあ、と。

「おっ、おおおおおおおおっ、おまっ、お、おはよう。アステラ、だったな」
「奇妙な挨拶だな。私は聞いたことが無い」
「エニシ家の家訓なんだ。知らないだろうな、トップシークレットだ」
「分かった。誰にも言わない」
「そうしてもらえると助かる……」

 マキナを待ち構えていたのはアステラだった。
 小さな身体を岩陰に潜り込ませるように座っている姿も、淡く薄い口調も、彼女を病棟に搬送する理由としては十分だ。
 昨夜彼女を見ていなければ、マキナも迷わずそうするだろう。もっとも、移動手段は現状無いのだが。

「悪かったな、寝過ごした。待たせたか?」
「別に。私は昨夜からここにいる」
「へ?」

 昨夜、アステラとは丁度この場で別れたと思う。
 人ひとりしか眠れそうにないこの場所を発見したとき、マキナはアステラに譲ろうとしたのだが、アステラにきっぱり断られた。
 その後彼女は別の寝床を探しに行ったと思っていたのだが、彼女はここで眠ったのだろうか。

「なんだよ言えよ。寝床が見つからなかったんだろ? この場所譲っても良かったんだぜ?」
「私はここにいる必要がある」

 薄く淡い口調のくせに、言葉だけは強かった。
 マキナは眉を潜めるが、アステラは無表情のまま見上げてくるだけだった。
 顔色は、相変わらず悪い。もともと室内にいるような女性なのだろう。
 こんなところまで引っ張り出してしまったのは、やはり自分が誘拐されたからだろう。
 マキナは頬を掻きながら、アステラに視線を合わせた。

「……つーか、さ。そこで何やってんだ?」
「私は君を街に届けるように言われている。だから夜の間、じっと君を見張っていた」
「てめぇのせいかぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」

 岩に囲まれた閉鎖空間の中、マキナの声がごわんごわんと反響した。

「君が何を言っているのか分からないが、ともあれもう昼過ぎだ。そろそろ修理を始めてくれ」
「くっそぅやられた。まさかお前、最近夜な夜な俺の枕元に立ったりしてないだろうな?」
「もう1度言うことになるが、君が何を言っているのか分からない」

 押しても引いても、アステラから戻ってくるのは同じ淡さの同じ薄さ。
 彼女は本当に淡白だった。そこから何も探れない。
 マキナ自身、そこまで世界を知っているわけではないが、彼女のような種類の人間に会ったことは無かった。
 何かが壊れている。
 だけど、その何かが分からない。
 だから自分は―――彼女を直せない。

「お前さ、笑ったりしないのか?」
「ああ」

 まるで、最初から用意してあったような答え。
 彼女はそれを、何度も答えたことがあるのかもしれない。
 それはとても、哀しいことのように思えた。

「もっと積極的に、とか」
「善処する」

 それすらも、まるでテンプレートの返答。
 彼女はきっともう何度も、こんなやり取りを続けてきたのだろうか。
 マキナはそれきり、彼女の“何か”に対する問答を控えた。

「そういやよ、あの大男……、えっと、」
「スライク=キース=ガイロードのことか。彼ならその辺りにいると言っていた。そして、移動手段を確保したら呼ぶようにとも言われている」
「協調性ねぇなあ……」

 昼過ぎまで寝入っていた自分が言えた義理ではないが、あの男も相当のものなのかもしれない。
 マキナはアステラに手を伸ばし、彼女はそれに“応じ”、手を借りて立ち上がる。
 まあどの道、あの移動物体の修理が先だ。

「そうだ、誘拐犯は?」
「?」
「?」
「?」
「えっ、俺が悪いの? ちゃんと最後まで言葉を続けなかったから?」
「?」
「……えっとだな。誘拐犯はどうなった? 昨日、俺らあいつら放置してたじゃん。縛ったりとかしないで。捕まえとかないとまずかったんじゃないか?」
「私が言われたのは、君の救出だけだ」
「……それが答えですか、そうですか」

 つまり、今なお放置ということか。
 もう目を覚ましているかもしれないが、少なくともマキナがいる岩場には来なかったのだろう。
 彼らも彼らで移動手段が無いのだから、タンガタンザの大地で縛りつけるというのも酷な話だ。
 もっとも、馬車の近くに放置してきたというのは“非情”だが。

 魔物というものは、流石に無意味な破壊まではしない。
 種類にもよるが、魔物にとっても自然は必要だ。
 生息地、という言葉があるように、魔物にとっても自分が在るべき場所というものが存在する。
 だから危険なのは街や村を始めとした建造物。
 噂で聞いた話だが、南の大陸―――シリスティアでは“とある場所”を封じるための防波堤が破壊され続けてきたという。
 だからマキナたちも馬車から離れ、“安全な岩場”に移動してきたのだが、誘拐犯たちは置き去りだ。
 とりあえず、自分たちは無事に夜を明かせた。
 誘拐犯はもう自力でどうにかしてもらうとして、後は放置してきた移動手段が破壊されていないことを祈るばかりだ。

「……うっそーん」

 岩石が密集した地帯から顔だけを出し、外の様子を探ったマキナは絶望した。
 数百メートルほど離れた地点。
 昨日自分が誘拐犯から救われた箇所。
 草木も枯れ果てた、だだっ広い荒野を妨げるものは、何も無かった。
 移動手段が、跡形も残さず、消えている。

「えっえっ、昨日、『魔物の大行軍♪』とかあった?」
「無かった」
「あそこに馬車が無い」
「ああ、見えている」
「詰んだ……」
「詰んでない」
「……へ?」

 どうも冷静なアステラの視線を追って、マキナはぎょっとした。
 顔を向けた先、岩石の密集地帯が始まる地点。
 岩陰に、巨大な物体が2つあった。

 馬のいない馬車と、馬がいなくなった馬車。

 後者は軽く人でも住めそうなほどの質量がある物体が、遠方の荒野から姿を消し、この岩場まで移動していた。

「…………巨大生物たちが、『おっ、馬車あんじゃん、蹴ろうぜ蹴ろうぜ』『おう、じゃああそこゴールな☆』みたいな、」
「無かった」

 アステラは学習したのか、マキナの言葉の途中で否定した。
 マキナは頭を抱えて馬車に近付く。
 紛れもなく、昨夜自分が拘束されていた馬車だった。

 そしてアステラは、やはり感情の無い口調で、言葉を続けた。

「これを運んだのはスライク=キース=ガイロードだ。さあ、早速修理を頼む」

 マキナは呆然としたまま、自身の身の数倍はある馬車を見上げ、呟いた。

「うっそーん」

――――――

「ミツルギ=ツバキ?」
「そうそう。俺の妹の娘。だぁいじな姪のミツルギ=ツバキちゃん。今年10歳……だったか……いや、12歳だっけ? それともひとケタ? 偶数だったような気がするんだけど……。ああ、よく覚えてないしどうでもいいや。めんどくせぇ」
「大事な姪、ね」

 クロック=クロウは帽子を目深に被りながら辟易した。
 間もなく燃えるような夏が襲来するというのに、身体を覆い尽くすような黒々しいマントを纏い、顔面さえも丸眼鏡や髭で色白の肌を覆い隠している。
 クロックがいるのは粛々とした態度が好まれるような事務室だった。
 部屋の奥に磨きに磨き上げられた精緻な造りの事務机があり、その周囲には本棚が並び、中身の本も整然と並んでいる。
 机からやや離れた部屋の中央には事務机と同じ造りの細長い机が設置されており、寝心地の良さそうなソファが両脇を挟んでいる。
 室内は、湿度や温度を調整しているのか、廊下とは打って変わって快適であった。
 部屋の隅には軽食用の菓子や飲料水まで置いてある。
 この部屋で仕事をしたのならば大層捗るであろう。
 クロックは、奥の机と中央の机、丁度その中間に立ち、この部屋の主の言葉を待った。

「前に言っただろう。ほら、君が作り上げた村の件。随分と素晴らしいことをしてくれた。魔物の脅威を知りつつも、タンガタンザのために村を作ってくれたんだから。抗う力を広めてくれた」
「それとお前の姪がどう関係する」

 クロックは苛立った声を上げた。
 理由が何であれ、“あのこと”を自分は忘れたわけではないと伝えるために。
 すると目の前の男は、伝わったのかにやりと笑う。
 クロックと違い、だらしない軽装と、無造作に生やした不精髭の男は口元を歪め。

 ミツルギ家現代当主―――ミツルギ=サイガは肩を落として、しかしどこか得意げに、言った。

「なんだい。“俺が君の村を吹き飛ばしたこと”を根に持ってるのか、クロッ君」
「……」

 クロックは表情を変えず、マントの中で拳を握った。
 “あれ”は、事故だった。いや、必要性のある破壊だった。
 それを、クロックは知っていた。
 4年前。クロック=クロウはタンガタンザの荒れ地に村を作り上げた―――それは、創り上げたと言ってもいいかもしれない。
 タンガタンザは、あまりに不可逆なのだから。
 人は、許された領域のみにしか身を置くことができず、そして許されざる領域が増えていく。
 それは世界一般の常識ともいえ、総ての人間が、それは当り前のことであると、“そんな異常”を認めていた。

 当時青年であったクロック=クロウは、ふと、そんな異常に抗ってみたいと思うようになった。
 協力者を集い、資金を集め、タンガタンザの余力を結集させた。
 百年近く続いていたタンガタンザの戦争の被害が、ミツルギ家の新たな当主の力によって格段に喰い止められていたのも追い風となり、5年経ち、10年経ち、クロック=クロウは再起不可能と言われた大地に、小さいながらも許された領域を創り上げることに成功した。
 が。
 2年前。
 徐々に活気が満ち始めた、創立2年のクロック=クロウの村は、丸ごと爆破された。
 粉砕する必要のある魔物の大群を、最も効率的に撃破するために。

 あのときあの村に、あの大群を封殺できる力が備わっていればそんなことは起こらなかったであろう。
 あのとき魔物の大群を撃破しなければ、さらに多くの村が許されざる領域となったであろう。
 だからあの破壊は、正しい異常であったのだ。

 現在クロック=クロウは、巡り巡ってミツルギ家で参謀のような仕事をしている。
 それに故に、分かるのだ。戦争を行う立場となれば、あれが戦略的に必要な策であったことが。
 だがそれでも、忘れることはできない。
 自分の生涯をかけた夢の末路も、自分の―――“自分たち”の夢に生涯をかけてくれた者の末路も、そして、村から避難し損ねた者たちの末路も、悔恨も。
 忘れることは―――許されない。

「まあ、ともかくだ」

 サイガは自分に注目させるように軽く手を振って、言葉を続けた。
 そこに謝罪の表情など無い。

「その、ツバキちゃん。彼女を君の従者にしようと思うんだ」
「従者? ……理由を訊こうか?」
「だぁかぁらぁ、言ったろ? クロッ君の功績を称えて、だよ」
「それならばエニシ家に付ければいいだろう。まあ、今誘拐中らしいが」
「誘拐の方は大丈夫でしょ。アステラちゃんに任せてあるし。まあ、んなどうでもいいことは置いといて」

 サイガは座ったまま大きく身体を伸ばし、面白くなさそうに口を尖らせた。

「エニシ=マキナに従者を付ける作戦、一昨年だかにしくっちゃってさ。エニシ=マキナには本気で断られると思う。繰り返すのは嫌いなんだ、嫌な奴を思い出すからね」
「……ミツルギ=サクラの件か」
「そうそう。サクラちゃん、今どこかなぁ。俺の見立てだとアイルーク辺りに行ってそうだけど。あそこはいいぜぇ、何せ静かだ」

 下手に言葉を出すと、サイガの話は脇道に逸れてしまう。
 サイガは口を噤んだ。
 サイガのひとり娘であるミツルギ=サクラに関しては、クロックも詳しくは知らない。
 たまに屋敷の中で見かけた気がするが、話をしたこともなかった。

「ま、どーでもいいことは置いといて。クロッ君。ツバキちゃんを従者にしてくれ。あの娘もそろそろ主君を決めていい頃だ」
「だから何故私が」
「従者を付けるに足る人間が、エニシ家の次点ではクロッ君だからさ」
「私も本気で断っていいか?」
「えぇ~、頼むよぉ、クロッ君」
「…………」

 面倒な絡み方をされた。
 サイガがこういう口調のときは、基本的に断っても無駄だ。
 クロックは再度辟易し、空気の塊を吐き出した。

「とりあえず、会ってみはしよう」
「やった、あの娘の世話係を手に入れた!」
「本気で断ろう」
「んじゃ早速行ってくれ」

 サイガにクロックの声はもう届いていないようだった。
 サイガは机の中から無造作に紙の束を掴み出し、机の上でかき混ぜるように散らばす。
 やがてひとつの用紙を掴み上げ、それをそのままクロックに差し向けた。
 手に取ったクロックが眉をひそめながら見ると、どうやらそれはミツルギ家の町の外出許可証のようだった。
 すでに判は押してあり、所々が曲がっている。

「門番にそれを渡せば一時的に町の防御壁を解除してくれる。んじゃ、頼んだ」
「……ちょっと待て。ミツルギ=ツバキとやらは、ミツルギ家にいないのか?」
「ああ、今外にいる。クロッ君、ちょっくら行ってきて」

 キレてもいい頃合いだろう。
 だがサイガはクロックの方を見てもいなかった。
 机の上に散らばした紙を適当に整え、再び乱暴に机の中に詰め込む。
 ちらっと見ただけで、村人の強制退避命令や一般店から資金の強制接収など、ミツルギ=サイガの権力を使用できる許可証などが紛れ込んでおり、すでに判も押してある。
 ならず者たちから見れば、この机をひとつ奪うだけで巨万の富を得られる宝の山に見えるであろう。
 クロックは気力が削がれ、何も言えなかった。

「ツバキちゃんは今、ガルドパルナにいる。ここから微妙に離れてるけど、まあ夜までになら着けるでしょ。それじゃあクロッ君、行ってみよー」

 話は終わりらしい。
 最低限舌打ちでもしてやろうかと思ったが、クロックは無言のままサイガに背を向けた。
 これ以上この男と話していても不快になるだけだ。

「そうだ、クロッ君」

 そこで、サイガがクロックの背に声をかけてきた。
 振り返ればサイガは、いつものようにだらしなく椅子に背を預けながら、しかしどこか深刻そうな表情を浮かべていた。

「“指”。差されないように気を付けてね」
「ならば町から出そうとするな」

 そしてクロックは部屋を後にした。

――――――

「アステラさんや」
「……」

 返ってきたのは無言だった。

 間もなく夕暮れが訪れるタンガタンザの大地。
 エニシ=マキナは移動手段の確保にいそしんでいた。
 離れた大地からこの岩場まで強大な物体が運ばれていたことは、ましてやそれがひとりの人間の力によってであることは気がかりであったが、それはいい。
 そんな疑問は移動手段の修復に没頭していると薄れてしまった。
 やはり、修理はいい。
 こうしていると、マキナは世界そのものにはむかっているように錯覚することができる。
 あまりに不可逆な世界。
 壊れたものはもう戻らず、過去はどうやっても取り返せない。
 修復は、そんな世界に自分の世界を作っているようだった。
 そこでは滝は打ち上がり、花びらは枝に舞い戻り、自分が思うまま時を止めることができる。
 そんな全能感。
 誰にだってある、自分の世界。
 マキナはその世界を、もっとずっと、輝かせていこうと思う。

 だが。

 そんな世界に、割り込んできている者がいた。

 じぃぃぃぃぃぃいいいいいい。

 アステラ=ルード=ヴォルス。
 小柄で、淡く薄い女性。
 昨夜マキナを誘拐犯から救い出してくれたひとりだ。

「……な、なあ、そんなに珍しいか?」
「ああ。私はこれまで、この物体を修理している光景を見たことが無い」
「そ……そうか」

 感情そのものが欠落したような声に、マキナは肩を震わせながら応じた。
 別に、作業を見られるのに慣れていないというわけではない。
 過去に何度も自分の作業を見に来るものはいたし、師匠である父が厳しく目を光らせる中で作業をすることが未だにある。

 だが、アステラの観察は今までの者たちとまるで違った。

 第1に、彼女の淡さ。
 彼女という存在は、先天的に気配というものが無いような気さえした。
 作業の暇に気を抜いた瞬間、視界に彼女の姿が入ると、何度経験しても背筋が一気に凍りつく。
 何も無いと思っていた空間に、何かがいる。
 最早怪奇現象に近い彼女の観察―――いや、監視に、マキナの精神はガリガリ削られていくのだった。

 そして第2。
 これが、最も問題だった。

 じぃぃぃぃぃぃいいいいいい。

「近い近い近い近い近い近い近い近い近い近い近い近いよアステラさん!?」

 アステラは、まるでマキナの肩についた微生物でも探しているかのように顔を除き込ませていた。
 振り返りようものなら即ヘッドバットという近距離に座したまま、アステラは動かない。
 一応彼女の淡さも相まって邪魔ではないのだが、やはり“気配の無い何かがそこにいる”というだけで、一気に気が削がれてしまう。

「アステラ、マジ勘弁してくれよ。全然集中できない」
「そうは言っても、すでに完成が近いが」

 マキナは僅かに目を見開いた。
 アステラは、この馬車の修理ができないと言っていた。
 だが、彼女の物言いは、すでに修理が完了すると確信しているようだった。
 素人の楽観的な意見かもしれない。
 だが事実、ゴールは近い。
 マキナが知っているものより随分と仕様が変わっているようで、複雑な造りのこの移動手段。
 彼女はすでに、この完成形を思い描けているというのだろうか。
 マキナが見えているものを、アステラは見えている。

「ちょい休憩」

 マキナは身体をパキリと鳴らし、座り込んだ。
 思わず下がってしまったが、アステラはすらりと避けたようで、いつの間にか隣に立っている。
 熱中症の危機はあるが、食事も取らずに集中した甲斐あって、移動手段の修復は間もなく終わる。
 照明手段が無い以上、時間との勝負だが、これなら日が落ちる前には走り出すことができるだろう。

「なあアステラ。お前万屋とか言ってたよな? どんなことやってきたんだ?」

 今まで散々気を散らされたのだ。小休止の間の話相手くらいは務めてもらおう。
 マキナはアステラに渡されたまま横に置いてあった携帯食料を手に取りながら、話を振った。
 するとアステラは、やはり抑揚のない声で、しかし、哀愁を纏うように、呟く。

「医療だよ。タンガタンザに求められる、普遍的な需要」

 その言葉は。
 タンガタンザを現していた。
 万屋を名乗るアステラ。
 その万屋が、伊達や酔狂の類では無く、“本物”の意味を秘めているとなると、彼女という存在は需要総てに塗り込まれる。
 バランサー。
 何となく、マキナの頭にそんな言葉が浮かんだ。

「お前は多くの人を治したのか?」
「多くはない。タンガタンザは不可逆だから」

 その言葉も、タンガタンザを現している。
 そして、アステラ自身をも。

 受動的で、何も生み出さないアステラ=ルード=ヴォルス。
 その彼女は、今、受動的にタンガタンザの需要に埋め込まれている。
 不可逆なタンガタンザ物語を、転じる役目に。

 だが。それでも。
 彼女はその不可逆を―――哀しいことだと思っている。

 それは、エニシ=マキナと、同じだった。
 マキナは、“直す者”として、世界を憂いている。
 アステラは、“治す者”として、世界を憂いている。

「どうやったら、不可逆に逆らえるんだろうな?」

 マキナは、呟くように口にした。
 “流れ”というものは残酷だ。
 それは世界を縛り、自分を縛り、時を縛り、そして命をも縛る。
 マキナは人類一般の常識として、死ぬのが怖い。多分、何よりも。
 死んだら何も直せない。死んだら何も、もたらせない。

 だから―――不可逆は、敵だ。
 その“普通”は、強い敵なのだ。

 自分の弱々しい世界に、そんな強さは無くていい。

「分からない。見たことが無いから」

 アステラの抑揚の無いはずの声が、別の色を帯びていた。
 マキナは、言葉を返さなかった。

 空が紅に燃え始めていた。

「さーて、作業を再開しようか。そろそろ終わらせないとな」
「今度は私も助力しよう」

 マキナが腰を起こすと、並ぶようにアステラが腰を下ろしてきた。
 横顔はすでに無表情。
 だがその眼は、丁度マキナが修復を施そうとしていたところを捉えていた。

「修理、できるのかよ?」
「できなかった。だが、再現は可能だろう」
「?」

 意味不明な言葉をアステラの声で言われると、さらにわけが分からない。
 するとアステラは、少しは意図を汲み取ってくれたのか小さな顔をマキナに向けた。

「私は万屋だ。特技というわけでもないが、“見たものなら大概は習得できる”。力になれるだろう」

 それは、特技だ。

「え……え?」
「と言っても、君の技術は相当高いのだろう。習得するまで時間がかかりそうだ。君が指示を出してくれ」
「ざっっっけんなよてめぇっ!! 何でもできるだぁ!? マキナ君は直す者、アステラちゃんは治す者とか思ってちょっぴりテンション上がってたじゃねぇかっ!!」
「言葉の意味が分からない。テンションが上がっていたのなら、私も良く言われるが、笑ったらどうだ」
「てめぇこそ笑えよっ!! はっ、だったら俺の真似してもらおうじゃねぇかっ!!」
「……う、む。分かった。俺の世界に“普通”は無い(笑)」
「忘れよとしてんだから昨日のことは掘り返すなぁっ!!」
「とにかく、始めよう」

 やった! アステラと打ち解けた!

 そしてマキナのプライドはズタズタになった。

――――――

「君か?」
「はい?」

 団子頭に話しかけたら、妙に行儀の良い返答があった。
 クロック=クロウはガルドパルナと呼ばれる村に辿り着いていた。
 間もなく夜の帳が訪れるガルドパルナ。
 鬱蒼とした樹海に囲われ、面積はミツルギ家の屋敷よりずっと小さい村だった。
 老朽化の進んだ家屋が並び立ち、民家の庭に畑でもあるとそれだけで村を圧迫しているような錯覚にすら囚われる。
 村の奥には巨大な山脈が広がり、落石でもあればこの村の総てなど瞬時に潰れてしまうであろう。
 この村に続く道は樹海が割れるように造られたただ1本のみ。災害時の避難など間に合うはずもない。
 だが。
 この村は、その山を崇め、奉っていた。
 クロックがいる村の中央付近からでも、山の中へ続くほら穴に、社のようなものが設置されているのが見える。

 ここが聖地―――ガルドパルナ。
 クロックがここに来たのは若かりし頃の1度切り。
 観光のついでに、自分の村の創設祈願をしたときだけだった。

「どうかしましたか? 道に迷ったりしたんですか?」

 年は、ようやく2ケタになりつつあるといった様子。
 上下の連なったワンピースのような服を上品に纏っているが、日焼けの後から活発さが窺えた。
 団子頭の少女はやはり行儀のいい受け答えをした。
 タンガタンザは“非情”であるというのに、この閉鎖的な村にいるせいか、どうも他の村の人々とは違うようだ。
 むしろ、彼女の人懐こさに、危機感すら覚えてしまう。
 もっとも、そんなことを思う時点で、自分もすっかりタンガタンザの匂いが染みついてしまっているとクロックは感じた。

「はっ!!」

 途端、目の前の少女が奇声を上げた。
 すると一歩後ずさり、まるで世界の終りでも視たかのような表情を浮かべ、頭を抱える。

「しまった……。知らない人に話しかけられたら警戒しなさいって、おかーさんから習ったんだっ」
「そうでもない。確かに正しいことではあるが、自分が知らない人間は、確実に自分が知らない世界を知っている。即座に打ち解けることも時には必要だ」
「そうか……な?」

 まるっきり嘘と言うわけでもないが、このタンガタンザにおいては子供にとって危険な思考だろう。
 だが、警戒されていては話が始まらない。
 クロックは帽子を目深に被り、話を戻した。

「私が探しているのはミツルギ=ツバキという少女だ。聞いたところ、この辺りにいるらしいが」
「はい、私です」

 予想できていた答えが返ってきた。
 やはり、彼女がミツルギ=ツバキ。
 ミツルギ家現代当主ミツルギ=サイガの姪。
 サイガの姉の娘らしい。
 現在はこのガルドパルナで生活しているらしいが、その他のことは知らない。
 クロックはここまでの道中整理していた情報を頭に浮かべた。

 それにしても、

「私を探していたんですか。外の人ですよね? それは遠路はるばるようこそおいで下さいました。それで、ご用件は何ですか?」

 見えない。
 見えないのだ、ミツルギ=サイガの縁の者に。
 行儀の良い立ち振る舞い。
 この少女が、部下には命令して自分は自室の椅子でひっくり返っているような奴と血が繋がっていると思うとクロックは発狂しそうになる。

 そして、従者になるべき年齢にも見えなかった。

「いや、とりあえずはいい。それより、どこかに行くつもりなのか?」

 ここに来たのはミツルギ=ツバキを従者にするためではあるが、拒否権までは手放したつもりはない。
 クロックは努めて冷静に話を濁した。
 とりあえず、ミツルギ=ツバキという少女の情報が必要だ。

「ああ、そうでした、―――」

 ズンッ!!

「―――に行かないといけないので、ごめんなさい。その後だったらいいですけど」

 ツバキの言葉は、騒音に阻まれた。
 しかし彼女はそのまま言葉を続けていたようだ。
 クロックは目を鋭くし、樹海を睨む。

 騒音の原因は、誰の目からも明らかだった。

 夕日に燃える、紅い樹海。
 “その上”に。
 緑の体毛を纏った、“潰れた顔”があった。

 ガルドリア。
 このガルドパルナの名を借りて付けられた、魔物―――いや、化物。
 屈強な筋肉に覆われた両足を前に付けたまま樹海を闊歩する、オラウータンのような姿。
 ひとたび暴れればこの村など1頭で全壊できるほどのパワーを持ち、“その上で群れをなす”。
 今貌が見えているのは一際巨大な1頭だが、その左右に紅の樹海に紛れて2頭、いや、3頭の姿が見える。
 だがその化物は、凶暴な眼で樹海からこちらを見下ろしてくるだけだった。

「どうしました? あ、そろそろあの家壊れそう……、修理が必要ですね」

 ツバキは、自分の身など手のひら程度ほどの巨獣を見て、そして、家屋の心配を始めた。
 この村にいる者たちにとって、この異常は見慣れたものなのだろう。
 道中、クロックも樹海の細道でガルドリアを見かけたが、未だに身体が焼けつくような焦燥にかられる。
 樹海に入らない限り危険は無いと歴史が証明していても、化物に近距離で認識されているというのは恐怖だ。
 そして、その恐怖に恐怖を覚えない人間がいることも、恐怖だった。

 ここは、子供のいて良い環境では無い。
 戦火を逃れるべく、ここに移り住んだ者が数日で飛び出すほど狂った環境なのだ。
 ここに居続けたら、心が麻痺してしまう。

「そういうわけで、私は行きます」

 そう思うと、彼女のこの行儀の良さにも、恐くなった。
 他の大陸と比べれば、良い子供、と表現できるのだろう。
 だが、ガルドリアという異常とタンガタンザという異常に囲まれた結果と思ってしまうとどうか。
 異常と異常が掛け重なり、たまたま中和されたような、奇妙な感覚。
 ただの正ならば、安堵できる。
 だが、負と負の結果だとすれば、それは多分―――哀しいことなのだろう。

「私も付き合おう」

 どこに行くかは聞きそびれたが、行けば分かることだろう。
 クロックは驚いたような表情のツバキを促し、村を進んだ。

 この小さな子供を、自分は本当に従者にする羽目になるのだろうか。
 両親は反対するであろう。
 誰だって、ただミツルギ家の“流れ”として古来より伝わってきた意図不明の職業に娘を就かせたいと思うものか。
 例えそれが、ミツルギ家と血の繋がりのある者だとしても。

「それにしても、この時期に外を歩くとは勇気ありますね」
「む。私にも都合というものがあってな」
「でも、良かったですね―――」

 ツバキの瞳は。
 未だ見下ろす化物を超え、タンガタンザの空を超え、遠くを眺めていた。

「―――“指”。差されなくて」
「全くだ」

――――――

 最初は、ぷすりという、なんとも間の抜けた音だった。
 しかし徐々に確かな唸り声を上げ、その振動で砂が飛び散る。
 これは―――稼働だ。

「よっっっしゃぁぁぁあああーーーっっっ!!!! へいっ!!」
「ああ。完了だ」

 ハイタッチを決めようとしたのに、アステラは視線も向けなかった。
 エニシ=マキナは気づかれないように腕を下ろす。
 今、見られていた方が恥ずかしかった。

「? 今手を上げていなかったか?」
「黙れ。俺にはもう、キレて返すくらいしか退路は無い」
「?」

 しっかり見られていたようだ。優しさが無さ過ぎる。
 だが、ようやく唸りを上げた移動手段。こちらは順調だ。
 車輪のダメージが深刻で、誘拐犯の馬車はただの木材の山になってしまったが、一部でも使ってもらって本望だろう。
 マキナは、一旦目を閉じて、自分の、自分たちの完成品を眺めた。
 アステラの手際は本当に良かった。
 冷却部の破損やひしゃげていた一部のパーツなど、作業を開始してから顕在化した問題は、アステラが『過去に見たから』と誘拐犯の馬車から取り出した代替物のお陰で即座にクリア。
 自分の見立てが甘かったこともあり、アステラがいなければ解決できなかったであろう。
 微妙に自分より器用なアステラに、マキナは僅かに嫉妬を覚えたが、タンガタンザの大地から逃れられると思えば安いものだ。
 それにまだ、俺の本職は鍛冶屋だしぃ、という逃げ道もある。
 ともあれ修理は完了だ。
 空の半分は黒に染まっていた。

「つっても結構やっつけだな。あんまり長距離走れねぇだろ。ミツルギ家は遠いのか?」
「ああ、大分遠い。恐らく途中で止まるだろう」

 アステラはすっかり馬の無い馬車の修復方法を習得したようだった。
 見積もりまでできるとなると、器用というレベルとは一線を画している。

「お前は教え甲斐のある生徒だぜ」
「他にも生徒がいたことがあるのか?」

 少しは打ち解けることができたようだった。
 アステラがこういう話を振ってきたのは良い兆候かもしれない。

「ま、な。でも“あいつ”は、アレだ。不器用だった」
「……そうか」

 マキナは、感情の無い声を出した。
 アステラは、少しだけ重みのある声を出した。

「行こうか」

 奇妙な空気を嫌い、マキナは移動手段に手をかける。
 移動手段には、前方に2つ後ろに2つ、人が腰掛けられるような椅子が取り付けてある。
 屋根は無い。
 マキナがこの物体の製造に関わっていたときと変化はないが、見れば見るほど異様な姿だった。
 コンパクトなフォルム。散々パーツを抜きとった誘拐犯の馬車の方が大きい。
 それなのに、馬よりもパワーがある。
 これは最早、兵器だ。
 これで突撃されれば、大概のものは損壊できる。
 マキナはふとそれを想像しようとして、止めた。
 操縦席に、アステラよりも無表情なミツルギ家の兵隊が座り込んでいるその光景を嫌った。

「待て」
「ん?」

 操縦方法などさっぱり分からないマキナが後部座席に座りこもうとしたところを、アステラが止めた。

「なんだよ?」
「修理が完了したら呼ぶように言われている」
「あ」

 言われて思い出した。
 そういえばこの大地にはもうひとりいるのだ。
 スライク=キース=ガイロード。
 作業に没頭していて忘れていたが、自分を誘拐犯から救ってくれたのはむしろ彼だ。
 だが、自分たちが汗水たらして働いていたときに姿を見せないせいで、マキナの中で彼への評価は低い。
 ついでに言うなら誘拐犯の馬車から放り投げられた記憶もある。
 正直あまり好感が持てそうになかった男だ。

 だが、恩人は恩人か。

「じゃあ探してくるか。というか無事なんだよな?」
「ああ。それについては問題無い」

 アステラは随分とはっきりと言う。
 感情の無いながらも、自信があるような言葉だった。

「あの男、どういう奴なんだよ。アステラの知り合いだよな?」
「昔馴染みだ。同じ村で育った」
「ふーん」

 いわゆる幼馴染、という関係か。
 昨日の記憶を辿ると、あのスライクという男はアステラにこの場に連れて来られたようだった。
 あのいかにも協調性に欠けていそうな男は―――助けられていて何だが―――人助けをするようには見えない。
 アステラに頼まれたから、昔の馴染みで、ということなのかもしれない。

「それで思い出した。私にはスライク=キース=ガイロードを村に送り届ける義務がある。丁度この近くだ。そこで再度修理を試みよう」
「へー、鍛冶屋は?」
「ある。工具に関しては問題無い。だから修理をしよう」
「…………アステラ、もしかして、修理気に入ったのか?」
「…………」

 アステラは無言で無表情だったが、何となく察せた。
 彼女は万屋といい、万物に対して受動的だが、感情がまるで存在しないわけでもないようだ。
 彼女も彼女で、直すことに興味がある。
 何故だか嬉しく、そして、楽しかった。
 どこにも痕跡を残さないような彼女の想いを、少しだけ見ることができた。
 それは多分―――良いことなのだろう。

「よし、それなら早速呼び出そうぜ。そんで次は村で一泊だ」
「そうだな」

 マキナは上機嫌になり、口に手を添えた。
 そして星々が現れ始めた空に向かって、叫んだ。

「スライク=キース=ガイロードーーーッッッ!!!!」

 そして。
 総てが―――転じた。

 ズゥゥゥゥゥゥウウウウウウンンンッッッ!!!!

 岩場から、“何か”が降り立った。
 移動手段が唸りを上げたときとは比較にならず、砂が巻き上がり岩場が震え出す。
 降り立ったのは、誘拐犯の馬車の上。
 あれだけ巨大に思えた馬車が瞬時に潰れ、木片を飛び散らす。

 そして、その位置に、月下に。
 “巨大な岩の塊が立っていた”。

「グ、グ、グ」

 呻くそれは、種類で言えばゴーレムだった。
 全長5メートル。
 岩と岩を繋いだ巨大な体躯。
 身体中に苔をびっしりと生やし、奇妙なことに背に身の丈ほどはある大剣を担いでいる。
 顔もやはり岩石。
 だが、通常目がある位置にはくり抜いたような穴が空いていた。口は無く、アステラを比較に出すまでも無く無表情だ。
 山そのものに命を吹き込んだらこのような形状になるであろう。
 それほどまでに、分かりやすく、大地の主だった。

 そしてくり抜いた目の中に、鋭い眼光が宿った。
 ビカリと光るその瞳は、マキナとアステラ、あるいは総てを捉えていた。

「ス、スライク=キース=ガイロードさん? あれ? 俺の記憶違いかな、君のこと確かに大きいと思ったけど、もう少し人っぽい感じだった気がするんだ……、え、えっと、……岩とか食べるとそうなるのか?」
「エニシ=マキナ!! 逃げろっっっ!!!!」

 叫んだのは、アステラだった。
 彼女らしからぬ、感情を暴露したような叫び声。
 それが、現状の絶望を現していた。

 マキナは真横に目を走らせた。
 そちらには、今この化物が飛んできたと思われる岩場がある。

 現実逃避はお終いだ。現状を把握しろ。
 タンガタンザの大地だ。こういうことは想定できていた。
 だから落ち着け、動けるはずだ。
 身体を見るに、相手の動きは鈍い。
 それならば、今、最も有効な手は―――

「っ―――、アステラは兵器を頼む!!」

 叫びながら、マキナは工具代わりとして使っていた岩を化物に投げ付けた。
 ここまで全力で何かに向かって石を投げたのは初めてだ。
 だが、マキナの全力投球を、化物は身をかわさず受ける。
 こつんと小さい音が響く。ダメージは無い。
 だが、化物の瞳はマキナだけを捉えた。狙ったとは言え、背筋が凍りつく。

「反対側だ!! 頼むぞ!!」

 マキナは全力で岩場の隙間に駆け込む。それと同時に背後で移動手段が唸りを上げた。
 アステラは言われた通り、この岩を超えた先に現れてくれるだろう。

 マキナには勝算があった。
 挑発したのだ、自分を追って来るであろう。
 だが、この岩の密集地帯。
 空いた隙間は人がやっと通り抜けられるほどだ。
 ならばあの巨体では追っては来られまい。

 星の光が遮断された岩の中、マキナはわき目も振らずに駆け続けた。
 逃走経路としては劣悪な環境。
 走るだけで、とがった岩が頬を、腕を、腿を掠める。
 それでもマキナは走り続けた。
 自分が前と信じる方向へ。

「―――いっ!?」

 バンッ!! と小気味良い音が響いた。
 それと同時、転がるように駆けていたマキナの身体が吹き飛ばされる。
 飛び込むように正面の岩に激突したマキナは、頭を痛烈に打ち付けた。
 岩の足元に倒れ込んだマキナは、弱々しく四肢を蠢かせ、振り返る。

 座り込みながら岩に背を預けたマキナの眼に、光が差した。
 どうやら自分は血を流しているようだ。
 視界いっぱいが赤に染まる。
 明暗を繰り返す視野を、痺れる頭を振って覚まし、マキナはそのまま正面を睨んだ。
 ようやく見えたのは、星。
 “その場一帯を埋め尽くしていた岩石が遮っていた星だった”。

「ひっ、」

 マキナの喉から情けない声が漏れた。
 直線距離では思ったよりも進んでいなかったのであろう、十数メートル先。
 そこでは、現れた化物が大剣を真横に振り切っていた。最初の位置から動いてもいない。
 巨大な岩石は、その剣撃の前に吹き飛ばされたのだろう。
 在り得ぬ事だと理性は即座に否定する。
 岩を砕き、自分を生き埋めにすることくらいなら“異常”な魔物であれば出来るかもしれない。
 だが眼前には砕けた岩は無く、総てが更地と化している。

 その、ただひと振りの前に。

「ぅ、ぅ、ぅ」

 必死に走って、その剣撃は、マキナの身体を吹き飛ばした。
 頭を打った影響か、身体は上手く動かない。
 今からでは、この半分の距離も逃げられないだろう。
 先ほど否定された理性が逆襲したのか、マキナは即座に終わりを悟った。

 ゴーレムのような化物が、腕を伸ばし、剣を真横に構えた。
 再びあの、岩場を更地に変えた一撃が来る。

 あの、誘拐犯の馬車の中で感じた以上の絶望。
 明確な死が、確定した死が、目の前に訪れる。
 この邂逅には、あまりにも、優しさが無い。

 それを自分は―――何よりも恐れていると言うのに。

「……」

 マキナは呆然としたまま、その処刑を眺める。
 あの化物は、この岩場の主だったのだろうか。
 だから、無断宿泊した自分たちを裁きに来た。
 マキナの心は現実逃避を始め、おぼろげに、あの化物の正体を探る。

 あれは、何だ。
 タンガタンザの魔物は凶悪と聞いていたが、流石にあそこまでのはずはない。
 あんな化物が何匹も闊歩していたら、タンガタンザ戦争は百年を待たずして終結してしまう。
 異常事態だ。即刻ミツルギ家に連絡を入れる必要がある。

 ただ、それも。
 これから終わる人間にはできないのだけれど。

 そう―――死んだら何も、できないのだ。

「くそ……、くそ……、くそ……!!」

 マキナは歯を食いしばり、拳を振るわせた。
 下手に心を呼び戻してしまった。吐き気のするような恐怖が湧き上がる。

 自分は直す者である。
 だが、自分が壊れれば、何も直せない。

 こんな恐怖を抱いたまま、自分は終わってしまうのか。

「グ、グ、グ」

 化物が唸りを上げ始め、ぴり、と背筋に何かが上ってくる。
 分かる。
 あの化物は、その一閃を放とうとしている。先ほどの威力を見るに、その剣圧だけで十分だろう。
 だがマキナには、何もできなかった。

 そしてマキナの想像通り、化物は大剣を放った。

「―――」

 が。
 マキナの想像通りだったのは、初動までだった。
 巨体には似つかわしく無い、熟練の剣士を思わせるような速度で放たれた一閃は。

 マキナの側方3メートル。
 そこで、化物の一刀は止まっていた。

 別に、腕の良い剣士が獲物の前で寸止めをしたとか、そういう次元では無い。
 ただ、化物の剣は、“真上から降り注いだ巨大な岩石に押し潰されていた”。
 一瞬化物が増えたのかと震えたが、どうやらその岩石は、この岩の群れの中のひとつのようだ。
 認識力が鈍っているのか、マキナの脳に、ようやくその岩石が降り注いだ轟音が届く。

 何が起きた。
 ただの落石。いや、それは有り得ない。
 落石程度では、あの化物の一刀を阻めるはずもない。
 だから今、化物の大剣を叩き潰すように放たれた岩石は、強大な力で叩きつけられたものでなければならない。

「なん、だ……」

 マキナが思わず漏らしたその声に。

「はっ、呼び付けといて随分な言い草だなぁ、おい」

 そんな、柄の悪い声が応えた。

「っ―――」

 マキナの背筋がピリリとざわめく。
 その威圧は、あるいは巨大な化物さえ超え、マキナの骨髄に響くようだった。

「あ? へし折れてねぇのか。随分頑丈な剣だなぁ、おい」

 無言のまま剣を引き寄せる化物に、その男はマキナに向けたものと変わらぬ態度で声をかけた。
 まるで、野外の商人にちょっとしたヤジでも飛ばすような口調。

 岩石の化物は、その無表情な顔を、その男に向けた。
 最早マキナなど眼中にないであろう。
 その程度なら感じられた。

 あの化物が今捉えているのは、捉えなければならないのは―――

「で、だ。その剣、“俺に耐えられるか”試していいか?」

 岩石の山の上、満天の星空の元で危険に光る猫のような眼。

「グ、ゴォォォオオオーーーッッッ!!!!」
「はっ」

 スライク=キース=ガイロードは、地鳴りのような雄叫びを上げる化物に、吐き捨てるような言葉だけを返した。
 そして飛ぶ。
 常人ならば命綱が必須と思われる高度から、飛び込むように舞い降りた。

 マキナは即座に危険性を認識し、身体を引きずり岩石の隙間に身を隠す。
 ひと振りで岩石の群れを吹き飛ばす化物である以上心細い盾であるが、無いよりマシだ。
 その直後。

 バンッ!! と地が裂けた。
 化物が叩きつけた大剣は大地を砕き、痛烈な破壊を周囲にまき散らす。
 マキナが隠れていた場所の頭上、岩石と岩石がきしみを上げ、マキナはどっぷりと砂を被った。
 だが、今の攻撃で被害を受けたのは、マキナだけだった。

「ら……、あぁぁぁぁぁぁああああああっっっ!!!!」

 化物に直進したスライクは、大剣をかわし切っていた。
 目を離したマキナには消えたように見えたが、強く爆ぜるような雄叫びで即座に位置を察する。
 スライクは、散乱する大岩を抱きかかえるように掴んでいた。

 何を。
 マキナがそう思った頃には、ずず、と。
 彼の身と比しても数倍はあろうかという大岩が、“大地から引き抜かれていた”。

「は」

 現実離れした光景に、マキナは思わず声を漏らした。
 そして、もうひとつ、異常を見つける。
 スライク=キース=ガイロードの身体から、強い光が漏れている。
 あれは、身体能力強化の働きだ。
 だが、異常なことが2つある。
 身体能力強化は、武具強化とまるで異質だ。
 武具相手では魔力を纏わせるだけであるが、身体は力を内に込める。
 そのため、身体の外にまで光を漏らすことは、壮絶な魔力でも持ち合せていない限りあり得ない。

 そして、もうひとつ。
 それは、スライク=キース=ガイロードの身体から漏れる、その日輪のようなオレンジの閃光。

 いつしかミツルギ家の屋敷で迷い込んだ書物庫。
 そこで読み漁った秘伝の書に、書かれていたように思う。
 異常と言われる月輪と並び立つ―――いや、“月輪が仕えるようにそびえ立つ”、謎に包まれた最強属性。

「うおらぁっ!!」

 その色は、不可能を可能にする。

 ブンッ!! とスライクは岩石を引き上げた腕を、振り抜いた。
 大砲のように放出されたその岩石は、マキナが投げた小石と比較することすら愚かしい。
 巨大な化物の胴体にぶち当たり、爆発するような音が響く。
 吹き飛ばされた化物は倒れ込み、大地を再び揺さぶった。

 だが、流石に化物。
 身体中の岩石が回転し始めた。
 関節の接続を無視するように化物の身体を引き上げると、スライク=キース=ガイロードの眼前に立ち塞がった。

「ゴォォォオオオーーーッッッ!!!!」

 大剣の一撃。
 今度は岩石の群れを更地に変えた脅威の一閃。
 横なぎに見舞われたそれは、まともに喰らえば原型すら残らない―――

「だぁ、かぁ、らぁ、よぉっ!!」

 スライクの動きは、マキナでは目で追うことすら叶わなかった。
 跳んだのか、しゃがんだのか、姿を消したスライクは、気づけば横なぎの一撃をやり過ごし、化物の懐に潜り込み、その拳を金色に輝かせていた。

 そして、一撃。
 身を開く形になっていた化物の右腕に、鋭い拳を叩き込む。
 砕けた。そして、捥げた。

 そうとしか形容できないほど、スライクの拳はあっさりと化物の右腕を潰してみせる。
 壮絶だ。
 あれだけ分かりやすい破壊も無いであろう。
 マキナは頭部の痛みも忘れ、その戦いに魅せられる。

 勢いがまだ残っていたのか、化物の右腕ごと大剣は大地を転がる。
 腕をもがれた化物はバランスが崩れたのか、その場で地鳴りと共に横転する。
 マキナから見ても、2メートルはあろうかというスライクから見ても、3メートルの化物は巨躯であろう。
 だがそれでも、スライクは化物を圧倒していた。
 いや―――“化物”は化物を圧倒していたと言い換えられるかもしれない。

 こんな人間が、タンガタンザにいたというのだろうか。
 家業で家にこもってばかりのマキナは、そこまで世間に明るいわけではない。
 だが、スライク=キース=ガイロードという人間の異常性は即座に分かる。
 あんな人間がいるならば―――タンガタンザの戦争など終結してしまうかもしれない。
 岩石の化物とは、別の意味で。

「グ、グ、グ」

 岩石の化物は、再び身体の岩石を回転させ、不気味に立ち上がる。
 その瞳は、たまたまマキナを捉えていた。
 だがその光景に、マキナはなんら恐怖を覚えなかった。
 むしろ、同情の念すら浮かぶ。

 いいのか、その後ろの奴から目を逸らして―――と。

「随分でけぇ剣だなぁ、おい」

 岩石の化物が振り返る。
 その先に、転がった大剣と、その傍らにスライクが立っていた。
 あまりに大胆不敵に。
 あまりに傲岸不遜に。

 化物を凌駕した化物が、猫のような金色の眼光を光らせていた。
 狩る者と、狩られる者。
 マキナにとって、その区分はあまりに容易だった。

「グ、グゴガァァァアアアーーーーッッッ!!!!」

 岩石の化物が吠えた。
 腕の欠損した身体で、スライク=キース=ガイロードに突撃を試みる。

 スライクは、迫りくる岩石の塊を前に、しゃがみ込んで剣を掴み上げた。
 岩石の化物の身の丈ほどの大剣。
 それを、スライクは軽々しく掴み、掲げるように構える。

「―――、」

 瞬間。
 マキナの身体中が湧き上がった。
 岩石の化物を見たときよりも、岩石の化物が一刀で岩場を更地に変えたときよりも、スライクが岩石を放り投げたときよりも。
 もしかしたら生涯過ごしてきた如何なるときよりも。

 ただ、“その男が剣を持っただけの光景に”、身体中の血液が煮え滾った。

「―――!!」

 意外なことに、その空気を岩石の化物も感じ取ったらしい。
 勢いのまま突撃していた足を緩め、その場からの離脱を試みている。
 それは、本能のまま暴れ回る魔物らしからぬ賢い行動。
 だが、遅い。
 それはあまりに遅すぎた。

「おいおいおいおい。逃げでいいのか? お前の最期」

 突撃してきたスライクの一刀は、何を狙ったものだったのか。
 落雷でも放ったように、対象の脳天から股下まで真っ二つに斬り裂き、ついには大地にも亀裂を走らせる。
 爆発するような衝撃。
 マキナは身の危険を感じ、その場から飛び出した。
 直後、マキナが隠れていた岩陰に崩れた岩石が降り注ぐ。
 岩石の化物の一撃とは一線を画した破壊。

 転げたマキナは、震えながら顔を上げた。

「……ちっ、一発か。まあ、斬るまでもってたつーのは珍しいなぁ、おい」

 視線の先、スライクが鬱陶しげに剣の柄を投げ捨てていた。
 その足元には、斬り裂かれた化物の、主人の後を追うようにこの世を去った砕けた剣。
 岩石の化物の剛腕すらも耐えきった大剣は、完全に損壊していた。

「……お、お前は……、何なんだよ」

 思わず、マキナは問いかけていた。

「災厄だ」

 スライクは、意図の掴めない返答をしてきた。

「それよりお前、移動手段の残骸はどうした。ぶっ壊れたとかぬかすんじゃねぇだろうな」
「心配するなよ。もう直った。今アステラが乗り回してる」
「あ? 直った?」

 彼は、修理にはもっと日を要すると思っていたのかもしれない。
 だが事実、あの移動手段の損壊は深刻だった。
 アステラの助力もあったが、マキナでなければこの劣悪な環境で修復などできなかったであろう。

「はっ、あんな奇妙な物体よく1日で直せたもんだ。器用な奴だなぁ、おい。てめぇこそなにもんだよ」
「なぁに」

 マキナは響く頭痛を抑え、スライクのように不敵に笑ってみせた。
 命の危機に瀕したとはいえ、この場で弱みを見せるのは躊躇われる。
 彼の戦闘にはそんなものなど存在せず、ただただ痛快だったのだから。

「ただの、天才鍛冶師だよ」

――――――

 そこは、タンガタンザで最も人が密集した場所だった。

「今日はお花屋さんに行ってきた。本当は買ってこようと思ったけど、駄目だよね? お金、大切に使わないと」

 少女―――ミツルギ=ツバキは、明かりが乏しいぼんやりとした空間で、呟くように“報告”していた。
 口調は、行儀の良いものから、年相応の子供のそれに成っている。
 いや、戻っていると言った方が良いのだろう。

「でも、安心してね。来週にはちゃんと持ってくるから。今日見た花は枯れちゃうだろうけど、きっとそのときには、もっと素敵な花がある」

 クロック=クロウは帽子を目深に被った。
 口調は違えど、はきはきとした物言いは変わらず、ミツルギ=ツバキの姿には幼いながらにも清々しさを感じ―――そして、痛々しかった。

「おとーさんとおかーさんは、今、仲良くしてる?」

 彼女が言葉を向けているのは、石だった。
 僅かなふくらみを持つ土の上、しゃがみ込んでいるツバキの高さほども無い、小さな小さな―――墓標。
 ここは、タンガタンザの死者が葬られた空間だった。

 ガルドパルナ聖堂。
 聖域ガルドパルナに隣接してそびえる巨大な岩山の中に造られたそこは、面積だけならばガルドパルナ自体をゆうに超えていた。
 すっと抜けるように広い空間。
 遠方までぼんやりとした明かりが灯っているようだが、人間の視力では反対側の壁すら見えない。
 ガルドパルナ聖堂の目玉である“とある空間”への道筋から逸れ、僅かに歩みを進めると姿を現すここは、不可逆なタンガタンザで過去と邂逅できる、貴重な空間だった。

「さて」

 報告を終え、すくりと立ち上がったツバキは、振り返った。
 クロックはその顔に、涙の跡や、悔恨の念を見つけることができない。
 ミツルギ=ツバキはすでに、両親の死を受け入れている。

「お待たせしてすみませんでした。毎日の習慣でして。それで、ご用件は?」

 ツバキに問われながらも、クロックは墓標に目を走らせた。
 『サーティスエイラ村民ここに眠る』―――とある。
 タンガタンザでは人ひとりのために墓標を用意することはできない。
 魔物の進行によって、“骨を埋めるべき場所ごと破壊されてしまう”のだから。
 事実、クロックの村の人々も、ミツルギ家の街に“まとめて”葬られている。

 しかし―――サーティスエイラ。
 その村が破壊されたのは、クロックの記憶では去年の秋頃。
 まだ1年も経っていない。

 それなのに。
 ミツルギ=ツバキは―――受け入れている。

「……む。悪いが“例の部屋”まで案内してくれ。私はそこに用がある」

 嘘だ。
 そもそも“あの部屋”まではほとんど一本道だ。
 案内も何も無い。

 だがツバキは、怪訝な表情も見せず、頷き返して歩き出す。
 “そんな子供が、ひとりになっている”。
 そして―――1年足らずで決別している。

 絶望に心を折られているべきだ、とまでは言わない。
 だが―――それは、違うだろう?

 子供ならば哀しいことに、もっと―――泣き喚いていて、いいではないか。

「……」

 クロックは、帽子に手を当て墓標に一礼すると、疑いもせず歩き続けるツバキを追った。

「え……と、そういえば、あなたは?」

 元の道に戻り、2人並んで“メインルート”を歩き出す。
 天井は高く、5人でも10人でも横並びできそうな幅の道は、無機質で、夏が近いというのに鉄のように冷えていた。
 足場は慣らされている。
 タンガタンザの情勢上頻度は少ないとはいえ、ここは多くの“参拝者”が通る道だ。

「私はクロック=クロウ。かつては村長だった者だ」
「わぁ……、すごいですね」

 屈託の無い表情で―――“屈託が無くてはならない”ツバキは、目を輝かせていた。
 身分を訊かれれば、クロックはそう答えることにしている。
 ミツルギ家の名前を出してろくな結果になった試しが無い。
 相手は委縮し、あるいは嫌悪し、しかし逆らわずに要望通りに応じてくれる。
 そんなことでは、そんな関係では、そこに絆は生まれない。
 クロック=クロウは知っている。
 それがどれほど貴重で、美しく、奇跡を起こせる力なのかを。
 タンガタンザの荒れ地に、泡沫のようでも、命の拠り所を創り出せたのは、間違い無く人と人との絆だったのだから。

「それより、すまなかったな。こんな時間に案内など頼んで」
「いえいえ。どうせついでですし。それに、私も行くのは2度目なので、見てみたい気持ちもありますから」

 今度は多分、彼女が嘘を吐いた。
 その言葉には、そんな薄さを感じた。

 恐らく彼女は、本当の意味で感情を持っていない。
 ただ頼まれたから、案内しているだけ。
 この場所の案内など、あまりに不審なことに対しても、彼女は疑問を抱かない。

「私も行くのは2度目だ」
「そうなんですか」

 応答しているが、言葉の意味まで深く入り込んでいない。
 クロックは背筋が冷える。
 この年齢でそんな上辺だけの言葉を吐き出すツバキに、そしてこのタンガタンザに、身を凍らされた。
 何度経験しても、慣れられるはずも無い。

 純粋な正ではない。
 負と負の掛け合わせた結果の少女。

 彼女は毎日、その上辺だけの想いで、両親に哀しい報告をしているのだろうか。

「戦争、か」
「? 何か言いました?」
「いや、何でも無い」

 そのまま無言で歩き続ける。
 クロックの隣では、ツバキの団子頭が揺れている。
 だがその無言には墓参りの後の哀愁は無く、吐き気がするほどの穏やかな静けさだけだった。

 が。

「……」
「? どうかしましたか?」
「…………」

 クロックは、思わず立ち止まってしまった。
 ぼんやりと明るい、無機質な廊下の先、開けた空間が見える。
 目的地前で、クロックの足は歩みを止めた。

 ここに近寄った瞬間、感じたのは―――風。
 自分が嫌った、“異常の中の当たり前”の空気を吹き飛ばすように、斬り裂くように走った暴風。
 纏ったマントは揺れもしていない。
 風は、吹いていない。
 だが確かに、感じたのだ。

「……そこ、だったな」
「ええ、そうです」

 ツバキに確認を取るまでも無く、目的地はあそこだ。
 クロックはおずおずと歩みを進め、思わずうつむき、苦笑してしまった。

 かつてここに来たとき、よく気づかなかったものだ。
 今ならば、樹海の化物―――ガルドリアがこの村を襲わない理由が分かる。
 彼らは本能的に、知っているのだ。

 この“縄張”を。

 この―――“世界”を。

「……若いときには、気づかないものだ」
「?」

 クロックは呟き、顔を上げる。
 先ほどの墓地より、ずっと小さい一辺10メートルほどの空間。

 部屋の奥には、鉄壁の防波堤。高さ1メートル超の鉄製の壁は、かつてミツルギ家の屋敷で製造したものらしい。
 ところどころが錆び付いてはいるが、爆撃しても動じないほど強固な“結界”と言われている。

「奥には行かない方が良いです。あの壁の向こうには、魔界に続くとさえ言われてるほど、終わりの無い深い深い穴が空いているので」

 クロックは思い出す。
 かつてこの地に訪れたとき、興味本位であの壁の向こうを覗いたときのことを。
 壁の向こうには一切の床が無く、終わりの無い闇が広がっている。
 試しに石を投げ込んでみても、いつまでも、落下の音は聞こえなかった。
 あのときは、心底その穴に恐怖したものだ。

 だが、今。
 今ならば分かる。
 この部屋で最も強固なのはあの壁では無い。
 この部屋で最も脅威なのはあの穴では無い。

「そして―――あれです」

 ツバキは、腕を上げて部屋の中央にクロックの視線を促した。
 そうされずとも、クロックの瞳はこの部屋で最も目を離してはならない物体を捉えていた。
 身体が際立ち、血液が逆流する。
 ここは危険だ―――射程距離なのだから。

 部屋の中央。
 そこには。
 “とある剣”が突き刺さっていた。

 いや―――座していた。

 綺麗に真上から刺したのではなく、まるで投げるように無造作に打ち立てられたその剣―――大剣。
 突き刺した本人はまるで意識していないかのように傾いでいるその剣は、触れただけで崩れ去りそうなほど全体が錆び付いたその剣は、いかなる者も、砕くことも抜き放つこともできなかった。

 人々が世界中の古文書を読み漁り、遥か太古の『奇跡』を探り当て、ようやくその剣の所有者を推測できたのは、タンガタンザの百年戦争が開始する直前のことであった。
 それが突き刺されたのは、記録されているタンガタンザの歴史を凌駕するほどの太古の出来事。

 当時唯一の比較対象であった“同一の快挙”を成し遂げた者たちよりも遥かに早く、鬼神の如き力を振るった―――伝説の存在。
 あらゆる障害を斬り裂き、何人たりとも行く手を阻めず、威風堂々と諸悪の根源を凌駕した―――『剣』そのものと言われたひとりの男。

 その彼を象徴する―――奇跡の物品。

「“二代目勇者様”―――ラグリオ=フォルス=ゴード様が突き刺したと言われる、このタンガタンザにおいて唯一揺るがぬ―――不動の象徴」

 操る者は過去の偉人。
 だが、今なお轟くその脅威に―――先の墓場の骸たちは、武具の贄とさえ思われた。

――――――

「よっと。……ふー、頭めちゃくちゃ痛いけど、血も止めたし。うん、調子出てきた。岩にも何とか登れたし。あの化物が消えてたなら、岩の上の方が移動ずっと楽じゃんっ。やっぱ暗がりの中自然の岩の間走んの危ないもんな。いやっ、あの化物がいようがいまいが関係ないっ。何故なら今俺には、最強のボディガードが―――いねぇじゃんっ!!」
「うぜぇ。喚くな」

 強引にテンションを上げたマキナの言葉は、無残にも一言で切り捨てられた。
 目の前の大男は、怪我人が岩に昇ろうとしているのにも手を貸さず、すでに遠方でスタスタと歩き続けている。

「ちょ、待ってくれよ、おっと」

 歩きやすいと言ったものの、マキナは足元も頼りなく大男に追従する。

「待ってくれって、スライク!!」
「るせぇ。喚くなっつてんだろが」

 岩の隙間を何とか飛び渡り、マキナはようやく隣に並べた。
 並び歩くと、彼の巨躯がまざまざと見せつけられる。
 身長は2メートルを超えているであろう。
 長い脚に、筋肉質な体形。
 それも、動きを阻害しないような理想的な筋肉の付き方だ。
 筋肉の塊とは形容できず、言うなれば、そう、スケール。
 スライク=キース=ガイロードは、スケールが大きい。

「いやしっかしびっくらこいたね、あの化物。この岩場不自然だけど、あいつの仕業だったりしてな。まっ、主がいなくなったんだっ。サクサク進んでいこうじゃないかっ」
「てめぇは人の話を聞いてねぇのか。黙れ」
「うるせぇっ!! あんな化物のエンカウントしたせいで俺は未だに震えてんだっ!! テンション上げねぇでやってけっか!! ああ、ぜってぇあいつ夢に出るよ……」

 叫んで、マキナの身体はぐらりと揺れた。
 頭の痛みが増しているような気がする。
 後遺症、という言葉が浮かび、マキナは思わず手の開け閉じを繰り返す。
 あの岩石の化物の、ただの一刀。
 それも風圧で、自分はここまで損傷した。
 身震いする。
 あまりの威力に、現実感がまるで無い。
 だが、そんな化物を圧倒した超人は、確かに隣を歩いている。

「何でそんなに機嫌悪いんだよ……お、っと」

 岩と岩の隙間を、マキナは勢いを付けて跳び渡った。
 スライクは、一歩で渡ると、そのままの速度で歩いていく。

「っとと……。で、どうしたよ。昼間に嫌なことでもあったのか? 何やってたんだよ」

 マキナが修理を行っている間、スライクは1度も姿を現していない。
 無事かどうかなど訊く必要はない。
 タンガタンザの大地において、姿を消した人間の末路など決まり切っているのだが、その常識は、先ほどの光景で塗り潰されている。

「その辺で寝てただけだ。んなことよりもう1度確認だ。あの病人に、お前は岩場の反対側に行けと言ったんだな?」
「病人って……。ま、まあ言ったよ。だから移動手段は安全だ。問題無い」
「てめぇはここがうぜぇほど広いことを知らねぇらしい」

 荒い口調のスライクは、金色の眼を正面に向け続けていた。
 マキナも注意を向けていた足元から顔を上げ、その視線を追う。
 延々と、延々と、岩の足場は続いていた。

「広っ」
「つーことだ」

 これが彼の機嫌の悪さの原因か。
 自分はアステラに、岩場の向こうで落ち合おうと叫んだ。
 普通ならば様子を見に戻ってきそうものだが、相手はあのアステラだ。
 受動的な彼女は、言われたことには“能動的過ぎるほど”に従い、今頃一直線に反対側を目指しているであろう。
 つまり自分たちは、この広大な岩場を走破しなければ彼女と落ち合えない。
 スライクも、それを理解しているのであろう。

「幼馴染、なんだっけ? アステラと」
「随分と下らねぇ話をしてたみてぇだな」

 スライクは変わらず釣れない態度のままだった。
 だが、この先の長さを考えると、黙っているのも息が詰る。
 そして、話の種はいくらでもあった。

「下らなくはないだろ。そういうのいいじゃん。奇妙な感じだけど、結構美人だったりしたし」
「はっ」

 スライクは、正にそれこそ下らないとでも言うように吐き捨てた。
 本当に会話が成立しない。
 スライク=キース=ガイロードは、己が思うまま、ただ足を進める。
 やはり、この男に対して好意的な感情は浮かばない。
 彼の傍にいると、不思議なことに、そんな感情が加速するような錯覚にさえとらわれる。

 不思議な感覚だった。
 頭を打ったせいで、妙に敏感になっているのかもしれないが。
 スライク=キース=ガイロードという人間からは、どの存在からも覚えたことの無い空気を感じるのだ。

「なあ、スライク」
「あ?」

 その原因は―――と。マキナは“あの魔力色”に思い当たり、口を開く。
 スライクは、釣れない言葉を、視線を向けずに反してきた。

「あんた、勇者様なのか?」
「……」

 マキナは、自分で思っていた以上に、軽い口調で訊いていた。
 返ってきたのは短い無言。
 しかしスライクは速度を僅かにも衰えさせず、言葉を続けた。

「違ぇ。言ったろ、災厄だ」

 マキナはその意味を問いたださなかった。
 多分それは、触れることべきことではないのだろう。
 本能的にそう感じた。

 相手が勇者様ともあれば、“しきたり”上崇める必要があるのだが、スライクは否定し、自らを災厄と言う。
 スライクは、なんとも奇妙な存在だった。

 マキナは、はっと息を吐く。
 この男とはつくづく会話が続かない。
 こんな事件でも無ければ、エニシ=マキナという人間と、スライク=キース=ガイロードという人間は出逢わなかっただろう。
 種類があまりに違いすぎる。

 だが、そんな人間に。
 マキナ=エニシという人間は、心の底から震えが湧いた。
 スライク=キース=ガイロードが、剣を手にしたあの光景。
 それが身体中に焼け付き、骨髄を揺さぶったのだ。

 震えは多分、恐怖という感情が生み出したものではない。
 もしかしたら―――歓喜、なのかもしれない。

 エニシ=マキナはあの光景に、何故か歓喜していた。

「勇者様じゃない、つってもよ。お前、強いよな」

 何度目かの岩と岩の隙間。
 慣れてきたのか、マキナは止まりもせずに飛び移れるようになった。
 進行速度は良好だ。

「あんな化物相手にしてよ」
「村の周囲に騒音立てやがる馬鹿共がいてな。どんだけ殺しても湧いて出やがる。うざさで言えば幾分マシだ」

 スライクが普段、何を狩っているかは知らない。
 だが、この男が敵を相手にする基準は、強さでは無くどれだけに気触るか、なのだろうか。
 その言葉には、彼の話に深入りすると自分という人間さえも“その部類”に入ってしまいそうな鋭さがあった。
 マキナは眩暈がし、それでもなお口を開いた。
 あの震えの正体をどうしても掴みたい。
 恐くもあり、しかし、彼は何か“惹きつける”ような雰囲気を持っていた。

「ま、俺にとっちゃありがたい。昨日もそうだったけど、マジで助かった。ありがとな」
「…………」

 スライクは無言。
 アステラのそれとは違い、荒々しい空気を纏っていた。
 彼はいい加減、マキナも鬱陶しくなってきたのだろう。
 今さらながらに、よくアステラはこの男に救援を頼めたものだ。
 その辺りは幼馴染の特権、というものなのかもしれない。

「ま、完全に他人任せだけど、安心だ。次にあんな奴が出ても、お前なら殺せるんだろうし」
「あ?」

 調子に乗り過ぎたかもしれない。
 彼が“使われる”種類に分類されることを良しとするような性格には見えない。
 だが、スライクはマキナの予想とは違う部分に引っかかったようだった。

「あのでけぇのは死んじゃいねぇだろうな」
「……は?」
「戦闘不能の爆発」

 スライクは、眉を潜めるマキナに構わず、そのままの速度で歩き続ける。
 その言葉は、どこかうんざりするようにも聞こえ、しかし、まるでアステラのように感情を込めない―――まさに、どうでもいいとでも言うような口調だった。

「どういう意味だよ?」
「言った通りだ。魔物は死んだら消し飛ぶ。あのでかいのは爆ぜなかった。そんだけだ」

 分かりやすくもあり、そして、理解不能の言葉だった。
 “戦闘不能の爆発”。
 それをマキナは聞いたことがある。
 魔物は死ぬと―――爆ぜる。
 タンガタンザでは、戦闘要員と非戦闘要員がきっぱりと別れ、戦闘は主にミツルギ家が行うため、むしろ常識として根付いていない現象。
 マキナにあるのは知識だけではあるが、一応は知っている―――魔物の最後の“攻撃”だ。

 マキナははっとして背後に振り返る。
 見渡す限り、岩場。スライクの進行に合わせたせいか、随分と進んできたようだ。
 追っては無く、だがそちらから、爆発音のようなものは聞いていない。
 だから、“あの魔物は生きている”。
 スライクは、振り返りもせず歩き続けていた。
 それが―――理解不能だった。

「あいつ、死んでないのかよ?」
「らしいな」
「え、え、え、ちょ、何でだよ。あいつ、真っ二つにされて……」
「理由は知らねぇし、興味もねぇ―――」

 では、何か。
 この男は、あの魔物が生きていることを知っていて、それでもなおその場から離れたというのか。
 あの魔物は、例え生きていたとしても瀕死の有様だった。
 もしかしたら、マキナでも止めをさせていたかもしれない。いや、あの魔物が生きていることを知っていたら、マキナは是が非でも止めを刺していた。
 あんな“異常”が存在していることは、自分のような一般市民にとっては脅威でしかない。あの1体だけで、一体どれほどの犠牲者が出ることか。
 だがスライクは、人間に害を及ぼすとしか考えられない魔物を圧倒し、しかし駆除はせず、あっさりとその場から去りゆき―――

「―――飽きちまった」

 そんな言葉を、吐き出すのだった。

 理解、不能だ。

「お前はそんだけ力を持っていて、“そう”なのか」

 思わず口をついて出た言葉に、スライクは応答しなかった。
 日輪属性であり、勇者ではないと言うスライク。
 だがその真意を、マキナは察せた。
 彼は、世界を救うことを願っていない。
 ただ目の前の敵を散らし、そこに意味を持とうとしない。
 “ヒーロー願望”というものが、欠損しているのだ。
 存在していない、ではない。欠損している、だ。
 人は誰しも、天命のように、天啓のように、必然的に、その願望を持つはずなのだから。

 マキナも幼い頃は、剣に見立てた棒きれを振り回し、そんな願望を持っていた。
 自分が奇跡を引き起こし、タンガタンザの戦争を終結させる存在に成りたいと願っていた。
 だが時が経つにつれ、ものに成らないと悟ってしまう。
 知っていた。
 そんなことは、棒きれを放り出す前に気づいていた。
 結局人には、“役割”というものが存在するのだ。
 役割を遂行できるものは、限られているのだと。

 だから怖くて、自分の座れる席―――武具の生成にのめり込んだ。没頭した。
 座れなかった席から離れ、自分が座れる椅子を探す。
 周囲を見れば、みんながそうしているではないか。
 苦笑いを浮かべながら、『当たり前だから』―――と。
 マキナ自身も、思わずやってしまっている。
 先ほどからスライクを絶賛しているのも、もしかしたら、自分が座れなかった席に座れる存在に対するやっかみのようなものなのかもしれない。
 だからマキナは―――最初は多分、そんな想いだったのだろう―――それを直したい。
 そんな世界は、壊れている。
 そんな“普通”は―――自分の世界に取り込めない。

「そんだけ、強いのにな」

 また、やっていた。やっかみだ。
 その席に、座れるならとっとと座れと口に出すことで、自分の限界をぼやかす。
 『“今”、お前はその席に一番近いから』―――そう言うことで、自分の不可能を曖昧にする。
 『自分は末席にしか座れないから』という意味を、隠し通すために。

「はっ。“人それぞれ”だろ」

 思っていたことは同じか。スライクの言葉はマキナの思考とリンクした。
 思考は違えど、終点は同じ。
 マキナの思い描いた、主賓の席に座れない者が座りたい席に座る世界。
 スライクが体現している、主賓の席に座れる者が別の席を探す世界。
 結局それは、同じことだ。

 だけど何故―――彼と自分は違うのだろう。

「……?」

 それは、突然だった。
 マキナがおぼろげで不確かな―――答えの無い疑問に思考を巡らせた直後、“ぬっ”、と。

 岩場一体に降り注ぐ、星の光が遮られた。

「っ!?」

 “脅威”を感じ、身体中に嫌な汗が浮かび上がる。
 マキナは飛び退くように振り返り、空を見上げた。
 星が雲に隠れたのだと希望的観測を胸に抱き、しかし即座にそれを捨て去る。

 見上げた先に“存在していたもの”は、マキナの思考や雲などの不確かなものではなく、“確固たる巨大生物”。

「―――、」

 ただひたすらに、絶句。
 造形で言えば、話にしか聞いたことは無いが竜種というものに分類されるのかもしれない。
 いや、『蛇』か。
 星空に立ち上るように現れた『蛇』は、とぐろを巻き、遥か上空からマキナたちを見下ろしている。
 肌は、土色。
 それもそのはず、その『蛇』は、円周10メートルはある岩石が数珠繋ぎに連結し、その岩石の数10……、20……、30、いや、最早数える気にもなれない。
 そんな異常生物が、岩場から“生え”、とぐろを巻き、鎌首をもたげていた。
 顔と思われる先端の岩石には、目の位置に相当する部分に穴が空き、禍々しい眼光を光らせている。
 その無表情な岩石の顔は、先ほどのゴーレムのような化物と同一のものだった。
 まさか“これ”があの化物の本当の姿なのだろうか。

「あ……え、」

 喉から声を絞り出した瞬間、マキナの足も、足場の岩石の微量な振動を捉えた。

 まさか。

 この広域な岩石の密集地帯“そのもの”が、“この化物の身体だと言うのか”―――

「―――ぐえっ!?」

 途端、ぐんと身体を持ち上げられた。
 胴に片腕を力強く回されたと思った瞬間、マキナの景色は高速で『蛇』から離れていく。
 気づけばスライクが、マキナを小脇に抱えて走り出していた。
 マキナという重荷があるにもかかわらず、突風のようにスライクは走り続ける。
 圧倒的な速度に、身体の血液が逆流するほどの圧迫感を覚えた。
 それでも『蛇』の眼前にいるよりは心地よく、しかし、まるで『蛇』から離れていないようにも感じた。

「場所が悪ぃ」

 スライクからそんな言葉が漏れた。
 マキナに語りかけたのかもしれないし、あるいは独り言かもしれない。
 だが、それには賛同できる。
 もし。
 “最悪の予想が予想通り”であった場合、この岩場は総て奴の身体だ。

「いっ!?」

 小脇に抱えられたマキナは悲鳴を喉から漏らした。
 スライクに背後から抱えられ、逆さまになった前方の光景。
 突如岩石が隆起し、防波堤のようなものを築き上げる。
 あれも―――『蛇』の一部。

 衝突―――する。

「遮ってんじゃねぇぞおらぁっ!!」

 スライクの咆哮に、マキナは思わず目を閉じた。
 次の瞬間、村ひとつでも吹き飛ばしたような轟音が鳴り響く。
 恐る恐る目を開けると、スライクが腕を振り抜いていた。
 『蛇』の方向を確認すると、数珠繋ぎに隆起した防波堤のひとつが粉々に破壊されている。
 あれを砕いたか。
 超常的な光景に、マキナは他人事のような感想を覚える。
 感覚がすっかり麻痺してしまった。
 最早この一夜の出来事には、おとぎ話のような遠さがある。

「グ、グ、グ」

 始めて『蛇』が、呻き声を上げた。先ほど耳にこびりついた恐怖の呻き。
 やはりあのゴーレムの化物と同じ個体であるようだ。
 その呻き声に呼応し、スライクが大破した“身体”の一部が重々しく振動する。
 すると、大破した両隣の岩が、先ほどゴーレムの形態でも見せた回転する動きで近付き、結合する。
 その“再生”は、脅威だ。
 あの『蛇』にとって、身体の欠損は何の意味も持たないことになる。

「うぐっ!?」

 グンッ!! と身体が引き上げられた。
 感覚としては浮遊に近い。
 スライクは、マキナを抱えたまま矢のように跳んだようだ。
 射出されたように暴風を浴びた直後、獲物を捉え損ねた“岩の尾”が岩場を叩き潰している。

「やりたい放題かよ」

 あの『蛇』にとって、この岩場の破壊は意味を持たない。
 敵を潰すためなら、構わず襲うことができる。
 ここには、あの『蛇』の一部が大海のように広がっているのだから―――

『平和の空虚は、やがて高貴を宿す』

「……?」

 声が―――“聲”が、聞こえた気がした。
 高速で流れる世界。
 回る―――世界。
 そこで、“何か”の“聲”が聞こえた。

『高貴の野心は、やがて非情を生む』

 幻聴なのか。
 打ち付けた頭が、狂った環境が、自分にこの聲を聞かせているのか。

 それならせめて―――優しい声が良かった。

『非情の欺瞞は、やがて過酷を迎える』

 “聲”は、不気味で、不愉快で、不安で、そして、怖かった。
 透き通るように思えて、澄み渡るように広がり、そして侵食するようにおぞましい。

 マキナの身体が、あのゴーレムに殺されかけたときよりも、あの『蛇』に遭遇してしまったときよりも、強く、震える。
 その振動は、スライク=キース=ガイロードが剣を構えた瞬間にさえ相当した。

「……」

 力を抜き、されるがままに運ばれるマキナは、岩場の終点を見た。
 間もなく終わる岩場。
 『蛇』の頭は最初に現れた場所から動いていないようにも見えるが、いつまでも巨大だった。
 だがマキナは、最早『蛇』には脅威を感じていなかった。
 いかに進行方向に“尾”を振り下ろされても、スライクが砕いた岩のかけらが身を打とうとも、まるで何も感じない。
 もう、狂った環境には慣れ切った。

 だから。

 だから早くこの“聲”を―――止めてくれ。

『過酷の末路は、やがて平和に還る』

 今度は落下の浮遊感。
 マキナを抱えたまま、ついに広大な岩場を走破したスライクは岩石から飛び降りる。

「無事だったか」

 落下地点には、移動手段に乗り込んだアステラが待機していた。
 着地直後、放り投げられるように地面に捨てられたマキナは、蠢きながら立ち上がろうとする。
 しかし、膝は笑い、まるで動けない。

「スライク=キース=ガイロードにエニシ=マキナ。あれは何だ」

 アステラの位置からもとっくに見えていたのであろう。
 巨大という表現の範疇を通り越した『蛇』を見上げながら、しかしアステラは感情の無い声で疑問を発する。
 『蛇』はどれだけ離れても巨大で、脅威で、恐怖であるというのに、彼女はそれでも淡白だった。
 先ほどゴーレムを見たときに叫んだのは、マキナの危険を感じたからなのかもしれない。
 街に連れて来いと“言われていた”から―――だろう。彼女らしい。
 あるいは、スライク=キース=ガイロードがいる時点で、敵に脅威を感じる必要が無い―――ということか。
 どの道、“異常”だ。

 だがそんなアステラの様子に、マキナは何も言わなかった。
 気にしている場合では無い。

 “見てしまったのだから”。

「はっ、あんな雑魚どうでもいいんだよ」

 大胆不敵に、傲岸不遜に、スライクは『蛇』を見上げ、“そして視線を外す”。
 彼の中で、あの『蛇』は最早認識する必要が無いと位置付けられているのだろう。

 マキナ自身も、大胆不敵でも無ければ傲岸不遜でも無いマキナ自身も、あの『蛇』は、あれだけ巨大なのに矮小に見えた。

 “そんなものどうでもいい”―――と。

「で、だ。さっきから鬱陶しいことこの上ない“語り部”は、てめぇか?」

 スライクも聞こえていたらしい。
 金色の猫のように鋭い眼をもって、“そこ”を睨みつける。

 岩場の上。
 つい先ほどスライクが飛び下りた地点。
 いつしかそこに。

 “何か”が座っていた。

「世界は回る」

 対面して聞いても、マキナの身体は揺さぶられた。
 あれが幻聴だったどれほど良かったのだろう。
 どこか紳士的な“聲”。高いとも低いとも形容できない、ただただおぞましい―――恐怖そのもの。
 マキナの視界が揺らぐ。止血の役割を果たさなくなった額の布から血が溢れ出してきた。

 “聲”の主は、続ける。

「俺が何もせずとも、世界は回り、移りゆく」

 身の丈は、胡坐をかいて座っているせいで分からないが、スライク=キース=ガイロードと同等程度だろうか。
 『蛇』と比べるまでもなく、小さい存在だ。
 あくまで人間と呼べる範疇のサイズ。
 顔も、手も、足も、総てが人間と同じ形状。
 だが、身体の“素材”は、明らかに異質だった。

 “鋼”。
 その存在は、銀の鋼で造られていた。

 鉄仮面を被ったような貌。
 逆立つように尖った髪。
 鎧を纏ったような身体。
 ナイフのように鋭い指先。

 身体総てが、攻撃的に鋭く光る―――“凶器”。

 だがそれらは、装備品では無く、“身体そのもの”だった。

 剣が命を宿し、人間の姿に成れば、ああした形状に成るのであろう。
 視線が合うだけで、身体中が切り刻まれそうな存在だった。

「だが、遅い。非情が過酷を迎えるのは、あまりに遅い。遅すぎる」

 何を言っている―――とは、言えなかった。
 口を開いてはならない。
 この存在に、この狂気に、自分という“個”を認識されることは許されない。
 吐き気をもよおすほどに発する頭の痛みは、強引に抑え込んだ。

「だから俺は世界を回す」

 この鋼の鉤爪で、世界に爪を立て―――回す。
 そう、その存在は言った。

「下だらねぇ話をしてぇんなら他当たれ。それとも死ぬか?」

 そんな“凶器”を前に、スライク=キース=ガイロードは変わらぬ様子で接する。
 まるで剣同士が鍔迫り合いをするように、荒々しく―――接する。

「そうもいかない」

 “聲”は続ける。
 スライクの剣を押し返すように。

「“決めなければならないこと”がある。必要なプロセス。秩序。それが無ければ、どこぞの馬鹿な研究者と同等になってしまう」

 そこで、ぬっ、と。
 その存在の隣に岩が現れた。
 『蛇』だ。
 不動に思えた『蛇』が、その存在に傅くように頭を垂れていた。

 並び立つとますます感じる―――その優劣が。
 『蛇』に対して、マキナは最早何も感じなかった。
 岩と鋼。
 その強度は、最初から決まっている。

「トラゴエル。ようやく決めたよ。たまにはこんな異郷に来るのもいい。今年は随分と遅くなったがな」

 トラゴエルというのは、その『蛇』の名前か。
 その存在は『蛇』の貌をそっと撫で、立ち上がり、指を1本、鋼の胸の前に掲げる。
 動くたびに鋼がすり合わされる音が鳴り、そのたびに、それだけで、マキナの身体は震え上がった。

「ここまで近くで選定するのは久方ぶりだ。だが、いいだろう。たまには昔に戻るのも。繰り返すという行為は、世界そのものを現している」

 その存在は、スライクを捉え―――僅かに首を振り。
 その存在は、アステラを捉え―――首を振り。

 そして。
 その存在は、マキナを捉えて―――止まった。

 じっと―――見られている。

「“魔族”―――アグリナオルス=ノアがここに宣言しよう。今年の『ターゲット』は―――お前だ」

 この日。
 エニシ=マキナは、“指”を差された。

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 お読みになっていただきまことにありがとうございます。
 ……予想はしていましたけどね。そもそもシリスティアが全8話だったのに、タンガタンザを4話でまとめ上げるとか無理な話だったんですよ……。
 それはともかく、今回の物語はいかがだったでしょうか。
 過去話というのは長く続けるとグダグダになるものなので、すっぱりとやりたかったんですが難しいものです。
 過去話を含む物語を作成するときに、最初の1話で過去話をやってしまうと楽だったりグダグダにならなかったりするんですが、この『おんりーらぶ!?』では実行不可能でした。そもそも主人公出てこないので……。
 次回ですっぱりと抜け出したいところです。
 さて、本当にどうでもいい話になりますが、今回の話で『おんりーらぶ!?』の皆勤賞キャラクターが消滅しました。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第三十五話『タンガタンザ物語(転・後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2011/09/07 18:09
“――――――”

 じっと誰かが見つめている。

 避けられない、逃れられない、退けられない、眼。
 眼を、感じる。

 逃げることは無駄だ。そんなこと、ずっと昔から知っている。
 どれだけ駆けても、潜んでも、懇願しても、眼は決して離れない。
 眼は、徐々に、静かに、密やかに、近付いてくる。
 どうやら逃れ得なかったのは、自分が錯乱して同じ場所で走り回っていたからでは無く、眼も同時に近付いてきていたからだったようだ。
 僅かに安堵する。自分が狂っていたわけで無かった、と。そんな、倒錯した安心感を覚えていた。
 あれは、結局、事象だ。
 自分が何をしていても、結局のところ恐怖を与え、そして接近を続ける事象。

 そう考えると、正体が分かった。

 あれは、時だ。時間だ。
 その執行が見えているのに、どれだけ駆けても、逃れ得ない―――命の終点。
 あれに追いつかれた時、物語は終わるのだろう。

 じっと誰かが見つめている。

 あるいは、己だ。自分だ。
 そう考えると、正体を現さない眼が、語りかけてきた。

『“お前”は限られた時間を知っているのに、何をやっている―――』

 その言葉を、黙ったまま、聞いていた。

『―――この、何も無い世界で』

 ズンッ!!

 寝起きが悪い者がいるのなら、この場所のことを絶対の自信をもって進められる。
 早朝、昼時、夕方、深夜。時間を選ばず響き渡る、骨髄すらも揺さぶる局地的地震。
 これで目を覚まさない者がいるのなら、神経が相当図太い者か、あるいは著しく危機察知能力に欠けた者くらいであろう。
 もっとも、神経が図太い者も危機察知能力に欠けた者も寝起きの悪さを問題としないであろうが。

「……、」

 ああ、そうだ。ひとつ忘れていた。
 あの轟音を気にも留めないもうひとつの例外。
 それは、壊れた者だ。
 精神的に、何かの柱を失った、あるいは存在しない者。

「は」

 エニシ=マキナは自身の思考に思わず声を漏らして笑った。
 恐らく最後の例外に区分される今の自分は、とりあえず、今日という日を寝過ごさずに迎えられたらしい。
 マキナは、それでも覚醒には至らなかった頭を振り、緩慢な動作でベッドから這い出た。
 そしておぼつかない足取りで窓辺に立ち、空を見上げる。
 鬱陶しいほど青い空。
 その途中に、この世のものとは思えない巨獣がマキナを見下ろしていた。
 潰れた貌。隆々しい筋肉。全身を覆った禍々しい緑の体毛。

 この村―――ガルドパルナを囲う巨獣、ガルドリアだ。

「普通じゃねぇよ、こんな世界」

 この10日間で自分もあの魔物に悲鳴を上げなくなったのは―――慣れなのか、壊れなのか。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 延々と続くタンガタンザの百年戦争。
 もうしばらく続けば百五十年戦争にも二百年戦争にも名を変えそうなその長期の物語に節目があるとすれば、それは正しく今だった。

 プレイヤーは魔族側と人間側。
 魔族側は、毎年『ターゲット』を設定する。
 『ターゲット』は、人であったり建物であったりする。
 魔族側は『ターゲット』の破壊が完了した時点で勝利となる。
 人間側は『ターゲット』の防衛が完了した時点で勝利となる。
 上に言う人間側の勝利条件である防衛の完了とは、魔族が『ターゲット』の設定を人間側に通知してから3ヶ月後の日の出時点で、『ターゲット』が原型を保持、または生存していることである。
 魔族側が勝利した場合、タンガタンザの戦争を継続させる。
 人間側が勝利した場合、タンガタンザの戦争が1年間停止する。
 『ターゲット』が人間である場合、『ターゲット』は、人間側に通知があった日から5日後にいる地点から半径30キロメートル以内にいなければならない。
 『ターゲット』が決定したエリアにいないことが魔族側に確認された場合、無条件で魔族側の勝利となる。

 下の2つは、十数年前の奇跡の代償。
 そんな、箇条書きにしてしまえばそれだけのルールのゲームを、タンガタンザは百年以上繰り返している。
 このルールに則れば、戦争に終点は無い。
 戦争が停止したところで年を開ければ再び『ターゲット』が設定され、再び燃えるようなゲームが襲来するのだ。
 だが今、そんな不条理に異を唱える人間は存在しない。
 そもそも、魔族側に勝利できたことなど、長い歴史を紐解いても僅か1度しか存在しないのだ。最早人間側は、戦争を一時的にでも停止させることしか考えられていない。
 いや、むしろ魔族の脅威が『ターゲット』に集中する3ヶ月の期間を、尊ぶように生きることしか考えられない。

 だから。
 人は、『ターゲット』を、死の宣告と呼ぶ。

――――――

「増援は来ない、か」
「ああ、要約するとそうなる。それと、クロック=クロウ個人宛てにメッセージが書いてあった」

 ガルドパルナのとある小さな民家。
 粗末なソファに腰を預けながら、クロック=クロウは目を細めた。
 シルクハットに近い帽子を目深に被り、丸い眼鏡に口髭を蓄えた自分の顔は、相手にほとんど見えていないであろう。
 ただ、目の前にいる何ら装飾品を付けていない女性の方が表情を読めないのだが。

 白衣を纏った無表情な彼女―――アステラ=ルード=ヴォルスとクロックがこの街で出会ったのは10日前のことだった。
 以前より数度ほどミツルギ家の屋敷で目に止まったことはあったが、初めて言葉を交わしたのはこの街である。
 アステラは、目に止まったときの印象通り、薄くて淡い存在であったようだ。

「自分で読んだ方が良いだろう」

 アステラは、触れれば折れそうな細い腕で手紙をクロックに差し出してきた。
 奇妙な文字の判が押してある、非公式の書類にしては上質の手触り。
 このタンガタンザにおいて、国が出す公的書類よりも重要性が高いと言われるミツルギ家のものだ。
 タンガタンザでは、国全体の実権が他の大陸とは異例のものとなっている。
 通常、神族が納める神門が頂点にあり、次点として数多の魔道士隊を保有する公的組織が存在する。
 神族が付与した権限を元に、魔道士隊たちが命令権や逮捕権を行使することで世界を正常に回している。
 だがタンガタンザでは、ミツルギ家が膨大な資金や権力を用い、この国の実権を担っていた。
 公的組織は民間であるミツルギ家の指示の元動き、国を治める。神族の存在に至っては、ただの信仰物に成り下がっていた。

 しかし、“しきたり”を否定するようなミツルギ家の言動に、神族は介入を行わない。
 そのため、タンガタンザは自由奔放な道を歩み。
 そのせいで、タンガタンザは他の国から神族に見捨てられたと言われている。

「む」
「なんて書いてあったんですか?」

 手紙を開いた途端、ぱたりと閉じたクロックに、隣の少女が首を傾げた。
 ミツルギ=ツバキ。
 トレードマークの団子頭に健康色の肌。
 “非情”なタンガタンザで礼儀正しく、節度も持っている。
 善か悪で言えば、間違いなく善に分類される―――負と負を掛け合わせた結果の正。
 この少女は、10歳程度であるにもかかわらず、この家の主だ。
 部屋の中は質素ながらも小奇麗で、むしろ生活感を覚えられないのが怖い。
 クロックは彼女を従者にするためにこの村に来たのだが、結局言い出せずにずるずると引きずり、ついに今日で10日目だ。
 日ごろの激務の疲れを癒そうと試みた結果、相当な期間ミツルギ家から離れてしまった。
 泊まっている宿屋は割安なのだが、そろそろ財布の方も厳しくなってきている。

「あの?」
「待てツバキ。今、もう1度読んでみる」

 その代償に少しは懐かれたようだが、未だに彼女は、何かが“外れ”ている。
 クロックはツバキに気取られぬようため息を吐き、手紙を広げた。

 前半部分は、アステラが言った通り、要約すれば増援をガルドパルナに送らないというものだった。
 『ターゲット』が決定された日、5日以内に移動できる範囲でガルドパルナ以上に堅牢な地域が存在しなかったことや、ガルドパルナの周囲の環境のせいで増援が有効な手段と成り得ないこと。
 つらつらともっともらしい理由を並び立ててはいるが、結局今年を、『捨て』と認識していることに他ならない。なにせ、この場所から5日以内ならば、“ミツルギ家独自の手段”でどこにでも『ターゲット』を運べたはずなのだから。少なくとも、このガルドパルナからならば通常の交通機関でさえミツルギ家の屋敷に匿うことは容易である。
 これはミツルギ家でも当主とクロックくらいしか知らないことだが、毎年『ターゲット』を巡る争いの中、人間側は『捨て』をしている。
 毎年全力をもって『ターゲット』を守ればその分“罰ゲーム”中の争いが厳しくなり、あっという間にタンガタンザの戦力は尽きてしまうだろう。
 そのため、毎年『ターゲット』を守れる可能性やミツルギ家の残存勢力を勘案し、ミツルギ家当主が“今年の『ターゲット』を守るか否かを決定している”。
 民衆には知られていない、非情な戦略。
 今年は『捨て』だ。
 むしろガルドパルナという、“増援を向かわせる手段が著しく難しい場所”という大義名分を得て幸運とさえ思っているかもしれない。
 “非情”なタンガタンザの名の通り、ミツルギ家現代当主はそんな男だ。
 戦争の表舞台の第一人者のくせして、今年の戦争には何ら手を貸すつもりは無く、3ヶ月の休暇を得たとでも考えているのだろう。
 その一方、10日前に見た今年の『ターゲット』の青年は、顔面を蒼白にしていたというのに。

 そして、その手紙の後半。

『やっほー☆、クロッ君。元気かい? そっちにしばらく残るって手紙くれてたみたいだね。色んな手紙に潰れてぐしゃぐしゃになってたよ(汗。だからこの手紙で返信する。ツバキちゃんの方はどうなった? 結構変な娘でしょあれ。親の躾が厳しかったみたいでさ(笑)。ところでバカンスもいいけどこっちきて色々手伝ってよ。前に話したかどうか忘れちゃったけど、ほら、例の『ターゲット』を守る建造物。もうすぐでき上がるんだ。今年は暇そうだから、クロッ君にはそっち手伝って欲しいなぁって思ってさ。でもま、ツバキちゃんの件が片付いてからでいいや。たまにはゆっくり休むのもいいもんだ(つーかひとりだけサボりやがってこんちくしょう)。ただ、その場所からはできるだけ早く離れた方が良い。ツバキちゃんも連れてね。アステラちゃんにもそう伝えてくれよ。そういや最近俺さあ―――』

 そこで、手紙を閉じ、ぐしゃぐしゃに握り潰したい衝動にかられた。
 ミツルギ家現代当主―――ミツルギ=サイガ。
 奴は、かつて無いほど今年を『捨て』ている。
 ミツルギ家に縁のあるエニシ家がターゲットに選ばれたというのに、一切手は出さないようだ。
 恐らくは、エニシ家の次期当主と、今年の『ターゲット』防衛に掛けるコストを勘案した結果として。
 エニシ家の者が、ガルドパルナの者が、どれだけ非難中傷を浴びせ、恨んでも、その考え方は変わらないだろう。
 戦略的には正しいのかもしれないが、やはり―――理解できない。

 エニシ家の次期当主は、あの青年は、こんな来たことも無い村で最期を迎えようとしているのに。

「……できるだけ早くこの場から離れろ、とのことだ。アステラ=ルード=ヴォルス、お前もだ」
「そうか」

 アステラはカクンと首を折り、人形のように頷いた。
 クロックはその動作に、むしろ僅かな人間臭さを覚えた。アステラに感情がまるで無いというのは間違いなのかもしれない。

「え? クロックさん、帰っちゃうんですか?」

 クロックがツバキに顔を向けると、子供らしさがまざまざと感じられる、きょとん、とした顔をしていた。
 こちらもこちらで、何かが外れた少女らしからぬ表情。
 まるで、仲良くなった遊び友達に突然帰宅すると告げられたかのようだ。
 そう思われるのは心外ではあるが、とりあえず、妙に懐かれているというのは間違いないらしい。

 クロックは脱力し、天井を見上げた。
 この家屋には大分足を運ぶことになったものだが、それもこれまで。
 流石に百年以上ほぼ無敗の魔族軍を相手に、唯一の例外を引き起こした人物の助力無しで挑むのは正気の沙汰ではない。
 村ごと吹き飛ぶくらいで御の字という相手が押し寄せてくる。
 強引にでもツバキを連れて、離れるべきなのだろう。

 と、そこで。
 クロックは、天井に僅かな乱れを感じた。
 木目の一部が妙に汚れている。
 いや、違う。その周囲が拭われているのだ。
 クロックは隣の少女に視線を移す。ツバキは行儀正しく、どこか不安げに、クロックの返答を待っていた。
 この小さな少女は、あの天井を、拭いたのか。普通はあんな場所、掃除しようとは思わない。
 椅子を2つ重ねても、恐らく彼女では指先程度しか届かないであろう。

「ツバキ」
「はい?」
「この家が好きか?」
「はい、ものすごく」

 疑念も持たず、詰ること無く、ツバキはあっさりと返してきた。
 クロックの意図を読むことも無く、自然な反応、あるいは、反射のように。
 まるで自分の命のことを訊かれているかのように、当たり前に。
 両親が眠るこの村の、唯一の居場所。
 そこを、身体の一部とさえ思っているように、戸惑うこと無く肯定する。
 この場所が無ければ、きっと、両親の墓前に毎日通うことができなくなるのだろうから。

 クロックは再び疲れ果てたような表情で天井を見上げた。
 自分が同じ年の頃は本ばかり読んでいたせいで、この年代の子供たちが元気に駆けている光景は、いつまでも眩しく思える。
 思えば村を創ろうと考えたときも、いつの日か家族でも作って駆け回る子供たちに優雅に手を振る自分を想像したものだ。

 そしてそんな未来を、心の底から創り出そうと考えた。

「……。…………。……………………」

 今から自分は、ものすごく、馬鹿なことを言い出す。

 クロックは帽子を目深に被り、息を吐いた。

「アステラ」
「なんだ」
「奴からの手紙には、できるだけ早く帰ってこいと書いてあった」
「ああ、そうらしいな」
「お前が戻る前に、依頼をすることは可能か?」
「可能だ。エニシ=マキナを送る件は、事実上消滅した」

 ここからが大変だ。
 物資の補給に村人の避難。
 ガルドパルナという僻地にいるせいで、多くの金と労力を払うことになるだろう。
 期限は3ヶ月を切っている。
 協力の当ては目の前のアステラのみ。
 準備を整えられる時点で奇跡だ。
 そしてその先、奇跡とさえ形容できない神話レベルの物語を刻まなければならない。

 多分、死ぬ。
 その前に、頑張って逃げる。

 ただ、それだけのことだ。

「ならばアステラ。依頼しよう」

 ただそれだけのことに、とりあえず、今の自分の総てをかけてみよう。

「3ヶ月後の戦場に、備えを」

――――――

 ガンッ!!

「っ!?」

 エニシ=マキナは、激突し、倒れた。
 そして額を抑え、弱々しく立ち上がる。

 だが、目つきは鋭く、眼前の巨体を睨んでいた。

「は……、やるじゃねぇか」

 世界の終りさえ予感させる、大木さえも超える巨獣は、静かにマキナを見下ろしていた。
 潰れたように醜い貌に、絶望的な力の差を思わせる隆々しい筋力。
 それでも怯まず、マキナは睨む。

「だがな、この程度だ。お前じゃ俺に、血の一滴すら流せない」

 その瞬間、マキナの視界に赤い何かが映った。
 額が切れているようだ。

「訂正。まあまあだ。だけどな、結局これ止まりなんだよ。おら、どうした? こいよ」

 巨獣は動かない。何かに恐れているように。
 そしてやがて、巨獣は背を向けた。

 マキナは奥歯を噛み、そして、叫んだ。

「ばーかばーか!! てめぇなんかその程度だ!! 騒音まき散らしてんじゃねぇぞこのやろう!! 悔しかったら俺を倒して―――うおっ!?」

 ズンッ!!

 再び、振動。
 マキナはまたも体勢を崩し、隣の家屋に顔面から激突した。
 そのままずるずるとマキナは倒れ込む。
 移動だけでマキナから2ダウンを奪った巨獣は、振り返りもしなかった。

「ばーかばーか……くそう。てかいだっ!? 血っ、血が出てる!! 鼻血も!?」
「なにやってるんですか?」

 背後からの声に、マキナはすくりと立ち上がった。

「どこから見てた?」
「最初の激突からです」
「うわぁ……ああああああ……」

 努めて冷静になろうとしていたが、口から声が漏れてしまった。
 今の失態を一部始終見られていたようだ。
 声の主は、どこか礼儀正しく、子供のもののようだった。

「この振動、慣れていない方には辛いですよね。それで、なにを?」

 イメトレだった。マキナVSガルドリア、IN樹海。
 妄想の中で、戦闘の流れはマキナの圧勝。
 事の発端は、巨獣が不意に振動を起こしたことによる顔面強打。
 正直なところ、八つ当たり。

 口が裂けても言えない。

「いや別に何でも無いさ。聞こえた声は幻聴だろう」
「うわ、顔、紅を塗りたくったみたいになってますけど」
「マジか」

 目も開けていられないのだから、相当なのは分かり切っていた。
 マキナが腕で顔を擦っていると、空いた手に布が押しつけられた。
 これで拭けということだろう。

「悪いな、洗って返す」
「大丈夫です。気にしないで下さい」

 それならば好意に甘えよう。
 情けないが、ここで意地を張り通しても仕方ない。

 やがて視界が晴れると、マキナの目に、真っ赤になったハンカチと、小柄な少女が映った。

「って、ツバキ? ツバキじゃん。今はこの村にいたのか?」
「……。……。……。…………お久しぶりです」

 団子頭の少女は、一歩だけ下がり、曖昧な表情を浮かべていた。

「……ツバキ、だよな? 俺のこと覚えてる?」
「……え、ええ。も、もちろんです。その、えっと、…………さん」

 目の前の少女は、嫌な汗を浮かべていた。

「……悪い、聞きとれなかった」
「だ、大丈夫です、知ってます。1度でも会った人は忘れるなって、おかーさんから習いました! 今思い出します!」
「薄っ、俺の印象薄っ!!」
「と、ところで、ゴホッ、ゴホッ、んんっ―――さんは、お元気でしたか?」
「ヒントは欲しいか?」
「是非!!」

 マキナは鉄の匂いがする鼻をすすり、目頭に手を当てた。
 まあ、子供の記憶力などこの程度のものだと強引に自分を納得させる。
 まるっきり忘却しているわけでもないだろう。

「エニシ=マキナだ。覚えているか?」
「えっと、エニシ=マキナがヒント……、ヒント……、エニシ=マキナが……ヒント……ヒント?」
「俺、忘却の彼方」

 もう自分は泣いているかもしれない。
 マキナは再び鼻をすすり、視線を小さな少女に合わせた。

「ほらさ、前にサーティスエイラで会ったじゃん。お前の家で、いろいろ直したじゃん」
「はっ!! 知らない人とは話すなって、おかーさんから!!」
「大の大人が声上げて泣きそうだぜ、今」
「あ、でもクロックさんは逆のこと言ってました……。どうしよう」
「俺がどうしようだよ」
「でも大丈夫です。ツバキ、いけます」
「俺立ち去っていい? もう赤の他人レベルの認知度だよ?」
「問題ありません」

 問題は大ありだった。声に出さずにマキナは頭を抱えた。
 意思疎通がまるでできていない。
 まあ、覚えていないなら仕方ないことだ。ただ単に、自分が仕事でしばらく滞在した村で、彼女の家の備品を直した程度の繋がりなのだから。
 家系的に見れば相当な繋がりがあるのだが、小さな女の子に対応を求めるのも酷だろう。
 そのときは随分と懐かれたようで、子守のような真似までしたことがあったのだが、ツバキは完全に忘れているようだ。心寂しいものがある。
 自分など所詮、有名とは言えローカルニュース程度の認知度だ。

「あれ? でも、エニシ=マキナさん……なんですよね?」
「……」

 ツバキの言葉が、自分を思い出したものではないということをマキナは瞬時に悟った。
 今の自分には鍛冶職人以上に、タンガタンザに浸透し切っている二つ名がある。

 『ターゲット』―――エニシ=マキナ。

 この娘の耳にも届いているのだろう。

「悪いな、この村に来ちまって」
「あ、あの、えっと、その、……、いや、その、」

 ツバキはもごもごと口を動かしながら、ついに黙り込んでしまった。
 実際、言葉を選ぼうとも、選ばずとも、並の神経の者なら結局閉口する他ない。
 マキナは笑って手を振った。

「あー、気にすんな、問題ねぇよ。それよりさ、お前今この村に住んでるのか?」
「はい。何か御用でしょうか?」

 話題が逸れ、はきはきとした口調に戻ったツバキは可愛らしく首を傾げた。
 その様子に、マキナは目を細める。
 タンガタンザにしては珍しく行儀の良い子供。
 かつて出会ったときと同じ言葉で形容できる彼女だが、妙な違和感を覚える。
 彼女はここまで―――妙、だったろうか。

「それじゃ聞きたいんだけど、あそこって勝手に入っていいのか?」

 疑問を置き去りにし、マキナは村の背後にそびえる山脈を指差した。
 論理や理論が存在せず、ただ“この村が存在している理由”と位置付けられた『聖域』。
 マキナはこの村に初めて来たが、話には聞いている。

「ええ、問題ありません。ご案内しましょうか?」
「いや、そんだけ聞けりゃ十分だよ。これ以上は流石に悪いしな」

 マキナが血に染まったハンカチを振る。
 しかし、ツバキは首を振った。

「いえ、問題ありません。クロックさんから、どれほど奇妙でも、いや、奇妙なものほど積極的に関わっていけって習いました」
「声に出すよ? 問題は大ありだ」
「私も今日は、日の高いうちに行っておこうと思っていたので」
「夜に行く予定があったのか?」
「ええ、毎晩行っています」
「…………」

 今さらだが、自分の情報をよくもまあべらべらと話せるものだ。
 その上、相手の言動の理由を求めない。
 再三話に出てきているクロックさんとやらには失礼かもしれないが、この子供はどこかに隔離し、世界の悪意から守るべきのような気もする。
 特に、このタンガタンザでは。

「行きましょう」

 すでにツバキは歩き出していた。
 彼女の中では“知らない人”のマキナを疑いもせず、背を向けて。

「…………あのさ」
「なんですか?」
「俺、クロックさんの知り合いって言ったら信じる?」
「そうなんですか! クロックさんなら今、私の家にいると思いますが、あ、でも出かけるって言ってました。今家には誰もいないと思います」
「…………ツバキ」
「はい?」
「お前、誘拐とかされるなよ?」
「まさかですよ」

 軽く返したツバキに対して、マキナは不安が尽きなかった。
 溜め息ひとつ吐き、マキナはツバキの跡を追う。

「気をつけろよ。本当に、人生変わっちまうからさ」

 呟くように発した言葉は、多分、ツバキに言ったものではなった。

――――――

「あ~、今日も鬱陶しいくらい晴れてるなぁ……、夏も近いねぇ。まっ、屋敷の中は快適だ。うだるように熱いのは屋敷の外。まった苦情来るぜこれ。なーんで鉄ばっかで作ったかねぇこの屋敷。暑かった、いや、最早熱かったでしょ、外」
「私がここに来た要件は分かっているな?」

 昼を過ぎ、夕刻が近づいた頃。
 クロック=クロウは目を細め、窓辺の椅子にふんぞり返る男を睨んだ。
 今日は気温も高い。目の前の屋敷の主の言う通り、確かに屋敷の外は地獄のように燃えていた。
 しかしこの屋敷の中は快適そのものだ。一体どのような造りをすれば壁一枚を隔てただけで、ここまで住み心地に差が出るのか。
 暑さの影響で僅かに思考を逸らされながら、クロックは男の言葉を待った。

「んえ? あ、手紙に書いた件か。んじゃ早速『ターゲット』用の建造物の指揮をとってくれ。うちの連中には腕はあるけど、統制取れる奴がいなくてね。そこでクロッ君の出番というわけだ」
「下らない話はいい」

 やはり、駄目か。
 結局この男から口を開かせても、自分の本件は煙に巻かれる。
 自分のペースを守るためには、この男に期待してはならない。

「今年の『ターゲット』の件だ。一兵たりとも送るつもりはないのか?」
「一兵どころか、ひと欠片の労力すらね。エニシ=マキナの力はもったいないけど、仕方ない」

 急に話題を変えたのに、機密事項を前にしているのに、サイガは変わらず寛ぎ、そして肯定した。
 言動に揺らぎは無い。
 やはり今年は『捨て』。
 そんなこと、分かり切っていた。

「エニシ=マキナの価値と、戦場となるガルドパルナの価値。その和に比べ、魔族戦に割く量力がでかすぎる。防衛の成功率を勘案した期待となると絶望的で、」
「その差を、人の命で埋められないか」

 クロックは震えながらサイガの言葉を遮った。
 怒りからではない。恐怖からだ。
 底知れぬミツルギ=サイガだが、数年付き合ってみて、心底分かったことがある。
 この男は、人の命を、人生を、軽視する。
 サイガが人間を見るときの視点は、“その人物がタンガタンザにとってどれだけ有益であるか”の一点に尽きるのだ。
 一生のうちに生み出す経済価値、その時間価値、そして生存確率を考慮した期待値。
 それらを勘案し、総てを計画していく。
 人の感情が理解できないわけでは―――無い。
 人が笑い、励まし合い、紡ぐそれらすらも、あたかも数値化するかの如く計測し、そして自分の計画に練り込む。
 何度対面しても身震いする。
 そんな人間に、国を救うことができるとは思えない。
 だが事実、ミツルギ=サイガがいなければ、タンガタンザの百年戦争は悪しき歴史のまま終結していただろう。

「埋められないさ、到底ね。手紙にも書いたけど、はっきり言おうか。エニシ=マキナは『捨て』だ」
「ふ……、随分と難しくなってきたな」

 サイガを諭すことも無く、罵倒することも無く、クロックは静かに笑った。
 そして踵を返す。
 やはり無駄だった。
 本来ならばこの部屋に寄るつもりはなかった。
 だが、少しだけ、偉業を成し遂げた男から、過去の奇跡の残照を得られるのではないかと期待しただけ。
 時間の無駄だったのだ。
 これからやることは山ほどある。
 一刻も早く、ガルドパルナに戻らなければならないのだから。

「ガルドパルナに行く気かい?」
「ああ。3ヶ月ほど休暇をもらう」

 ドアに手をかけたところで、背後から声が届いた。
 クロックは特に隠し立てすることもなく肯定する。

「頼みごとがあるのにこの部屋に寄っただけか。その辺が、俺のクロッ君の最大の違いかな」

 サイガは小さく呟き、そして言葉を続ける。

「止めろと言っても行く感じだね。どうしてかな?」

 サイガはクロックの感情を察し、察し尽くし、その上で訊ねてきた。
 クロックはため息ひとつ吐く。
 どうしてか。それを最も知りたいのは自分自身だ。
 だが、おぼろげに察せる。

「ガルドパルナ。あの場所は、私が創った村と同じくらいの面積だ」
「うん?」
「騒音は酷いものだが、緑に囲まれて、豊かな場所だ」
「……」
「そして少なくともひとり、あの場所を大切にしている子供がいる」

 クロックは、ゆっくりと、振り返った。

「それらを足し合わせた結果だ。お前が低く見積もった数値は、私にとって、“魔族”に挑むに足るのだよ」
「―――アグリナオルスは近づけるな」

 一瞬、クロックは怯んだ。
 サイガは、指を組み、顎を乗せて厳粛に座り込んでいた。

「他ならぬクロック=クロウの頼みだ、簡単な作戦くらいは伝えようか。もう1度言う。『世界の回し手』―――アグリナオルス=ノアは近付けるな」

 “魔族”―――アグリナオルス=ノア。
 その存在を、クロック=クロウは見たことが無い。
 アステラ=ルード=ヴォルスの話では、『ターゲット』を選別しただけで去っていったそうだ。
 全身が鋼で造られていたという、異形の怪物。
 だがクロックは、話を訊く限り、アグリナオルスにはどこか冷静な印象を受けていた。
 しかしサイガは―――このタンガタンザで唯一魔族に対抗している男は、表情をまるで変えようとしない。

 『世界の回し手』。

 何故かその言葉が、羽虫のように耳ざわりだった。

「作戦その1だ。はっきり言って不可能だろうが、アグリナオルスを『ターゲット』に近づけるな。リミット寸前でも、アグリナオルスが“その周囲にいただけで”破壊される」

 やはり戦闘の鍵を握るのは、魔族。
 分かり切っていたことを、クロックはさらに深く胸に刻んだ。

「それともうひとつ、ちょっとは具体的にいこう」

 サイガは目を瞑り、そして僅かに微笑み、告げる。

「『ターゲット』の防衛場所だ。最も勝利に近いのは、ガルドパルナ聖堂だよ」

 ガルドパルナ聖堂。
 ガルドパルナを『聖域』とした、巨獣ガルドリアさえ恐れる岩山。
 “二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードが突き刺したと言われるあの大剣を前に、身が震えるほどの恐怖を覚えたのをクロックは確かに覚えている。

「あの岩山は実際頑丈でね。ガルドリアが暴れ回っているのに落石事故ひとつ起こっていない。防衛するにはまあまあ都合が良いんだよん」

 いつしかサイガはいつもの口調に戻っていた。
 それがアグリナオルスから話題が逸れたからか、それとも取り繕っているのかは、クロックには判断がつかなかった。

 だが、良いことを聞けたのだろう。
 クロック自身、あの村で防衛線をするとなると最適なのはガルドパルナ聖堂と思っていた。というより、他に場所が無い。
 しかし、岩山という都合上、崩れ落ちることを懸念し、これから強度の調査を開始しようと思っていたところだ。
 サイガが言うならば、間違い無く、防衛には適しているのであろう。
 随分と時間が節約できた。
 『ターゲット』を守ることは、サイガにとっても利に働く。
 利害が完全に一致しているときならば、この男の言葉は何よりも信じられる。

「後は適当に武器でも持っていっていいや。でもそこまで。俺は今年、アグリナオルスに遭う気分じゃなくてね」

 まるで悪友の話でもしているかのような口調を背に、クロックはサイガの部屋を去った。

――――――

 今まで生きてきた中で、特に身体が震えたのはここ最近のことばかりだ。
 こうなってくると、今まで死んでいたとさえ錯覚する。

 エニシ=マキナは1歩、また1歩と、山脈ほどもある財宝を目の当たりにしたかのような足取りで、進む。
 眼前には、財宝とはお世辞にも言えぬ朽ち果てた物体。
 だがそこには儚さはまるで感じられず、むしろ外界を隔絶するかのような質感と、狩猟動物のような強い意志を覚えた。
 この感情を、エニシ=マキナは恐怖と捉えず歓喜と捉え、そして今までこの場に足を運ばなかった自分に失望した。

 この物体―――『剣』を見ないで、自分は鍛冶屋を名乗っていたのか。
 それは最早、この世界において、神を罵倒するに等しい。

 おぼつかない足取りで近付き、膝を付く。
 そして慎重な手つきで―――唾でゴクリと喉を鳴らし―――触れてみた。

 斬られた。

 一瞬、そう錯覚した。剣は動じず、そのままにある。
 だが、指先は燃えるように熱い。

 これが『本物』か。

 身体中が歓喜している。
 多くの人は、あくまで予測としてこの剣の主を察している。
 だが、マキナには分かる。
 これは、『本物』だ。
 この剣は、魔王どころか神すら斬れる。

 間違いない。
 これは、この『剣』は、鬼神の如き力を有したと言われる“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードのものだ。

 確信したと同時、マキナはこの剣が不憫に思えた。
 ようやく熱以外の感覚を捉えた指先には、ざらざらとした錆の感触。
 この剣が輝いていたのは想像もできないほど過去のものであるのだ。
 それほどまでに、気が遠くなるほど、いや、気を保っていられぬほど長い間、この、世界で最も『剣』である剣は、ただここに座していただけである。

 マキナは、ぐっ、と拳を握り、

「かわいそうになぁ、こんなところに。こんな姿で。お前だって武器としてもう1度輝きたいよなぁ、本当に。くっそう、誰だよお前をこんなところに放置した奴は。俺だったら間違い無く家に飾って毎日手入れするぜ? 売る? そんなことをするわけ無いじゃねぇかよ。例え世界が買えるほど積まれても、俺はお前を手放さないぜ。むしろ結婚していいくらいだ」
「つっ、ついに会話を始めたぁぁぁぁぁぁああああああーーーっっっ!!!!!!!!」

 はっ、とツバキの叫びでマキナは我に返った。
 慌てて振り返ると、ここまで同伴してくれた少女が、岩の壁を背に顔をひきつらせていた。
 マキナは立ち上がり、膝の砂を払ってこほりと咳払いする。

「好きなものがある男の子はモテるんだ」
「剣にプロポーズしてたらアウトですっ!!」

 もっともな正論に、マキナは渋々『剣』から離れた。
 だが、今のは仕方ない。
 エニシ=マキナは鍛冶屋を営んでいる。
 壊れたものを直したいと願い、はっきり言って、剣は大好きだ。
 そんな自分が1粒で2度おいしい物品を目の当たりにしてしまえば、プロポーズくらいはする―――というか、現にしてしまっていた。
 だが、これ以上奇行を重ねたら、人として戻って来られないところにまで行ってしまいそうで、マキナは頭を振った。

 ツバキに案内されたこの空間にマキナが訪れたのは初めてのことだ。
 さっと開けた岩山の空洞。天井は高い。奥には何のつもりか強固な柵がある。その向こう側には穴が空いているようだ。
 それだけ。
 随分とあっさりとした部屋だ。
 マキナの想像では、仰々しい矢倉や社に奉られていたのだが、この『剣』は本当に、ぞんざいに突き刺されていた。

「ま、冗談はともかく、案内してくれてありがとな」
「……え、ええ。はい。どういたしまして」

 今度はツバキが取り繕っているようだった。
 マキナは眉を寄せる。
 自分の記憶の中のツバキは、先ほどのように元気に騒いでいる子供であったのだが、この数年で落ち着きを得たのだろうか。
 妙にその光景が違和感として残るも、結局マキナの視線は『剣』に向いた。

「しっかしよ。これ、このままでいいのか? ぶっちゃけ今にも折れそうじゃねぇか。というより、崩れそうじゃねぇかよ。俺だったら簡単な修復くらいはできるけど?」
「あれ? ご存知ないんですか、その剣。誰にも抜けないんですよ」
「……え? んなことねぇよ。それってただの噂だろ? 伝承を大切にしたい気持ちは分かるけど、ちゃんとメンテナンスしてやんなきゃ―――ってマジで抜けねぇ!?」

 軽い気持ちで掴んだ剣の柄は、ピクリとも動かなかった。
 錆びだらけの剣の刃は、マキナの胴体ほどの太さ。それが深々と突き刺ささっているようで、剣の柄は丁度マキナの腰辺りの高さだった。
 マキナは剣が傾いでいる方向に立ち、今度は両手で柄を掴む。
 恐らく1番力が加わるであろう体勢で引いてみたが、錆ひとつ落ちぬ不動の象徴は、座したままだった。

「いってぇ……。どうなってんだよこれ」

 マキナは両手を離し、今度は物理的に熱くなった両手を振る。
 柄の部分は僅かばかり滑らかだ。恐らく過去にも、マキナのように剣を抜こうとした者が数多くいたのだろう。

「無理なんですよ。動きもしない」
「よし、ツバキ。手伝ってくれ」
「話、聞いてます?」
「もう頭来た。おい、こいつへし折ってでも動かすぞ」
「さっきプロポーズしてませんでした?」

 ツバキに協力を頼んでも、まるで動かない。
 もともと非力な子供が増えても意味は無いことは分かっていたが、2人がかりで微動だにしないとなると剣本体を攻めるのは無駄だ。

「こうなったら、足場を掘る。突き刺さってる岩盤を砕けば、こいつは無力だ。覚悟しやがれ。辺り一面ぶっ壊してやる」
「あなた、ガルドパルナ聖堂を何だと思っているんですか」
「……ま、そうか」

 ツバキにたしなめられ、マキナは再度正気を取り戻した。
 事実、この『剣』の存在でガルドパルナは『聖域』と呼ばれているのだ。
 入口からここまでの道は広いと言っても大がかりな機材を運び込むことはできないだろう。
 そこまでするなら、伝説は伝説のままにしておいた方が美談になる。

「スコップ。いや、ピッケルだな」
「諦め切れてないですね」

 だが、無理なものは無理なのだろう。
 マキナはつまらなそうに地面を蹴った。
 そこで眉を寄せる。

 意識が『剣』から離れたせいか、マキナは足場に違和感を覚えた。
 固い。硬い。
 剣が突き刺さった周囲の足場が、周囲と比べて明らかに異質だった。

 マキナはしゃがみ、地面に手を当てる。

「どういうことだ?」
「今度は地面と……!!」

 ツバキの言葉は耳に届かなかった。マキナは地脈を探るように、地面を叩く。
 やはり、固い。
 こんな場所に狙いを定めて過去の偉人はこの剣を突き刺したのだろうか。
 いや、違う。
 むしろこれは、“剣があるから固くなっている”という感覚だ。

 と、なると。

「…………こりゃ、ピッケルでも無駄だな」
「ようやく諦めてくれましたか」
「いや、そうじゃない」

 マキナは立ち上がり、『剣』に再び触れてみた。
 錆び付いた大剣。
 その錆の向こうに、マキナは“魔力を感じた”。

「これ……、いや、これだけじゃない。この場総てが―――“原石”なのか」
「? 原石?」

 そこで、砂を蹴飛ばすような足音が聞こえた。

「……ちっ、やっぱりお前か」
「あ、スライクさん」

 マキナはびくりと振り返った。
 完全な白髪に、猫のような鋭い眼。
 金色に光るその瞳は、2メートル近い体躯から部屋の総てを見下ろしていた。
 スライク=キース=ガイロード。
 この村に来てから10日間。
 マキナは彼と言葉を交わすどころか出会いもしなかったのに、あの、“彼が剣を持っただけの光景”は、未だに脳裏に焼き付いている。

 突然の再会に、マキナは口が開けなかった。

「お散歩ですか?」
「相変わらず妙なガキだ。こんな場所で、散歩も何もねぇだろう」
「……」

 子供相手でも態度が変わらないスライク。しかしマキナはむしろ、ツバキの方が気になった。
 先ほどから何度も妙だ妙だと思っていたが、ミツルギ=ツバキは決定的に何かがズレている。会話も、あるいはその存在すらも、つぎはぎのような印象を受けるのだ。

「……お前、今までどこにいたんだよ。結構歩き回ったけど、見なかったし」

 黙り込んだツバキに代わって、マキナが会話を繋いだ。
 単なる世間話であるそれは、しかしマキナが気になっていたことでもあった。
 こんな小さな村で、彼ほど目立つ存在を見逃すとは思えない。
 この10日間、村を離れていたのだろうか。

「どこだも何も、家にいたに決まってんだろ。てめぇは森を散歩でもしてんのかよ」
「あ?」

 思わず荒い口調になってしまった。
 この男は今なんと言ったのか。
 森?
 聞き間違いか、別の場所のことであろう。
 よもや巨獣が徘徊するあの樹海ではあるまい。

「まあいい。まあいい」

 深く聞いたら聞いたで理解不能なことが増えるだけだ。
 マキナは頭を振り、スライクを見上げた。

「それで、ここに何しに来たんだ?」
「別にいだろ、んなことは。ただ―――潮時だ」
「は?」

 スライクは沈黙し、大股で『剣』に歩み寄った。
 誰しもが崇め、あるいは畏怖する物品を、猫のような鋭い眼で睨むように見下ろすと、くるりと背を向ける。

 そしてそのまま歩き去った。
 大男が、この広間を出る。
 その、直前。

 マキナの身体は震え上がった。

「ま、待った!」
「あ?」

 身体が震えた理由。思わず呼び止めた理由。そして、“潮時”。

 それを、マキナは悟り切った。

「お前まさか、この村を出るのか?」

 スライクは振り返ったままで、言葉を返さない。ただ、猫のような鋭い眼で射抜くようにマキナを見ていた。答えずとも、確たる肯定が見て取れた。
 そこに、ミツルギ=ツバキに覚えたような揺るぎは存在しない。
 “この大事を前にここから離れるなどと、訳の分からないことを言っているのに”。

「ちょっと待てよ。3ヶ月後、この場所は戦場になるんだぞ?」

 言って、自分でも、自分勝手な言葉だと思った。
 この場所が、ガルドパルナが―――“彼らが育ったこの村”が戦場になるのは、他ならぬエニシ=マキナが『ターゲット』に選定されたからだ。
 あの夜、現れた鋼の“魔族”―――アグリナオルス=ノアに“指”を差されてしまったからだ。
 それゆえに、マキナが逃げ込んだこの場所は、3ヶ月後には戦場となる。

 申し訳も無く、歯がゆく、そしてそれ以上に、恐怖が身体を覆い尽くすように被さってくる。

 自分勝手だ。それは分かる。
 だけどマキナは、どうしても、人間としての本能で―――思ってしまう。

 見捨てるのか、と。

「戦場になるから離れる。何か問題でもあんのか?」

 そんな自分勝手なマキナの言葉は、当然のように、自分勝手な言葉で切り捨てられた。

 あの日。誘拐された日。鋼の魔族に出遭った日。
 自分が主人公などでは無く、自分の人生の、単なる語り部に過ぎないのだと再確認した―――お伽噺のような日。

 マキナはスライク=キース=ガイロードという人間の世界を見せつけられた。
 身をよじるだけで自分を吹き飛ばすような化物を、さらに圧倒したスライクは、明らかに別次元の世界にいた。
 人間が出せる力の限界が、あやふやになるような錯覚。
 おぼろげにも想像できた生物としての頂点のラインが薄らいでいくような感覚。

 その線の遥か向こうに存在していたスライクを―――正直に言えば―――妬ましく思い、そして羨望した。

 だからこそ―――今ならはっきりと分かる―――自分は、“壊れながらも”異常事態の中で息を吐き、言葉を発し、生活できたのだろう。
 そんな狂った環境だったからこそ、心を保つことができたのだ。

 だが。
 『剣』はこの場から、去ると言っている。

「本気で言ってんのか?」
「あ? 随分と耳が遠いみてぇだなぁ、おい。言ったろ、潮時だ」

 スライクの意思は揺るがない。
 助けてくれ。そう言おうとしたマキナの口は、しかし自分の本能に止められた。
 “自分はそこまで理解してしまったのだ”。
 岩の魔物が猛威をふるっても変わらず、“魔族”が眼前に現れたときも変わらず、この村が戦地になると分かっても、彼はそのままで在り続ける。
 力が無いから戦争に参加しないわけではない。
 理由が無いから戦争に参加しないわけではない。

 ただそこに、彼の『意思』が無いから、戦争に参加しないのだ。

 スライク=キース=ガイロードに、“流れ”というものは存在しない。
 己が意思の向かうまま、能動的に、進んでいく。

 非人道的だろう。
 正しく“非情”と言えるかもしれない。

 力を持つ者が、力を持たざる者に助力しないのは―――語弊があるかもしれないが―――悪しきことだと思われるのが、普通だ。

 しかしマキナは思わず、笑ってしまった。
 危機的、いや、絶望的状況。それなのに、むしろ笑いがこみ上げてくる。

 何物にも捉われないという思想こそ、力の有無にかかわらず、望まれるべきものなのだから。

「お前の世界に“普通”は無い、か」
「言ったろ。災厄に何を望んでんだ」

 そのまま去りゆくスライクの背を眺めながら、マキナは目を閉じる。

 彼にはそう在って欲しいと思う反面―――心の崩壊が、始まっている気がした。

――――――

「待っていた」
「病人が待つような場所じゃねぇだろ」

 スライク=キース=ガイロードを向かえたのは、ベッドがひとつ置いてあるだけの空虚な小屋で、空虚な表情を浮かべる女性だった。
 アステラ=ルード=ヴォルス。
 部屋の中央で薄く淡く佇む彼女を、10日程前に見た気がする。

「私は病人では無い」
「でなきゃ不審者だ。人の家で何やってやがる」

 ほとんど顔も合わせず、スライクはベッドの下を漁る。
 財布に携帯食料、そしてそれらを収納する小さな肩掛けバッグ。
 タンガタンザを練り歩くには最低限必要だが、荷物はかさばる。
 街と街が近距離にあるような場所に辿り着けば、財布はズボンに突き入れて、バッグはどこかに捨てればいいだろう。

「協力を要請したい」

 そんなスライクの様子を見ているであろうに、アステラは淡白な声色でそんなことを言い出した。
 それも、10日ほど前に聞いた言葉だ。

「何言ってやがんだ」
「目的は『ターゲット』の守護。期間は約3ヶ月だ。作戦その他は検討中だが、どのような作戦になれ、スライク=キース=ガイロードの力は不可欠だ」
「相変わらず話が通じねぇなぁ、おい」

 淡々とズレた応えをするアステラに、スライクはそれだけ毒づき背を向けた。

「どこに行く気だ?」

 そこで、僅かに色を帯びた声がアステラから聞こえた。
 スライクは構わず扉を開ける。

「―――グ」

 開いた扉の先。
 その正面。
 じっとりとした熱気が立ち込める樹海の中、潰れた顔にかち合った。

 ガルドリア。
 緑の体毛に覆われた巨体は十メートルを超え、身体能力を追求する木曜属性の魔力でその巨躯を支える獰猛な魔物。
 激戦区クラスの化物はガルドパルナ周辺を覆う樹海を禁断の地とした存在である。

 脅威の戦闘能力を有し、その上で複数戦を得意とする怪物は、自身の膝もとにも届かない人間を見下ろし、しかしそのまま固まっていた。

「はっ」

 今日でこの異形も見納めであろう。
 スライクは小さく笑うと、そのまま異形の足元を抜き去った。
 そのあまりに無防備で緩慢な動きを眼で追うことも無く、ガルドリアはそそくさと立ち去っていく。
 大気が揺れるような足音も立てず、静かに去りゆく巨体は、それでもすぐに見えなくなった。

「スライク=キース=ガイロード。待ってくれ」

 鬱陶しいのを追い払ったと思った瞬間、さらに厄介な存在が声をかけてくる。
 アステラは、スライクが進む場所を歩き、呼吸を合わせ、背後から追走してきた。

 この樹海に足を踏み入れられる人間は、スライクとアステラだけであろう。
 禁断の地とまで言われたガルドパルナの樹海。
 しかし1本だけ、樹海の中を進むことができるルートがある。

 スライク=キース=ガイロードが居を構える小屋へ向かうルートだ。
 元々は存在しないルートのはずであったのだが、スライク=キース=ガイロードという存在によって、近寄ることは死を意味すると“ガルドリアに刷り込まれた”道である。
 もっとも、先ほどのようにスライクが通行していないときは、ガルドリアは闊歩する。だが、スライク=キース=ガイロードの呼吸や空気を僅かにでも感じると、ガルドリアは即座に距離をとっていくのだ。
 相手をするのが面倒になったときにスライクが使用するルートなのだが、昔、運悪くこの道を歩く瞬間をアステラに“見られてしまった”。
 それ以来、アステラ=ルード=ヴォルスはスライクの気配を“真似て”、このルートを使用している。
 本当に、鬱陶しい芸当だ。

「スライク=キース=ガイロード。はっきり言って、状況は最悪だ。小手先の作戦で時間を稼ぐことは可能だが、地力という面で圧倒的に不足している」
「断る。勝手に話を進めてんじゃねぇよ」

 背後の、大分低い位置から聞こえる声にスライクは冷たく返した。
 アステラは人の態度から何も察しはしない。
 言われたことを、言われた通りに実行するだけなのだ。
 追憶に興味は無いが、アステラという人間は、幼いときから、“こう”だったと思う。

「俺はこの村を出る。うぜぇ猿どもともおさらばだ。ついでにガルドパルナも災厄とはおさらばだ」
「スライクは今も、そう自称しているのか」

 本当に―――本当に声色が違うアステラの言葉が聞こえた。

「スライク。少なくとも、『ターゲット』の件はスライクの責任じゃない。あれは、たまたまあの場所に、」
「ああ。“たまたま”あの場所が知恵持ちの根城で、“たまたま”知恵持ちがたかが人間ひとりに襲いかかり、“たまたま”魔族がその場に居合わせ、“たまたま”遅れていた『ターゲット』の選定をして―――まだ続けるか?」
「…………」

 アステラにしては珍しい、感情を感じる沈黙をしていた。
 歩を進めると僅かに樹海が開き、輝くような湖が姿を現す。
 思わず目を奪われる光景は、無関心な2人の視界から姿を消した。

 スライクは思う。

 全て―――総てが偶然だ。
 歴史上唯一の例外として村の近くまで来ていたガルドリアが、よろけ、自分やアステラの親族ごと村の一角を潰したのも。
 訪れた街が魔物の襲撃を受けるのも。
 自分に声をかけてくる人間にことごとく絶望が降りかかるのも。
 奇跡的な巡り合わせが起こす、偶然の産物に過ぎない。

 しかし、思うのだ。
 それらは総て、必然的に起こっているのだと。
 時折スライク=キース=ガイロードの脳に降りてくる、奇妙な感覚。
 自分が知らない事象が確かな知識として根付く、全能感とも呼べる瞬間が、確かにあるのだ。
 その、あたかも“別の世界から”降り注ぐような不可思議な“声”は、言っている。

 総ては、起こるべくして起こっている―――と。

「“事実として”、」

 スライクは、その入手経路不明な知識を確かなものと捉え、言葉を紡ぐ。

「あのマキナとかいう男が『ターゲット』に選定されたのは“俺があの場にいたからだ”。確率論を度外視した事象が発生した場合、そいつは例外なく俺が原因。“お前はそれを認めない気か”?」

 悪びれも無く、スライクは鋭い眼をアステラに向けた。
 振り返った先にいたアステラは、いつもより、ずっと小さく見えた。

「違う……。スライクのせいじゃ、ない」
「言ってろ」
「……っ、だから、だからスライクはこの場を離れるのか?」

 スライクは再び歩を進めた。
 なんとも奇妙な会話だ。
 スライクは、この『ターゲット』の一件は、総て自分が原因だと認めている。
 アステラは、それを認めようとはしない。
 だが、スライクはこの場を離れようとし、アステラは『ターゲット』の守護を行おうとしている。
 だが、そんな矛盾は、この2人の間では矛盾では無かった。

 ようやく森を抜けた。
 目の前には、民間人が使用する一本道が待ちかまえていた。
 ここが、スライクとアステラの分岐点だ。

「おい、病人さんよ」
「……私は病人ではない」

 いつものような淡白な声では無く、いじけたような声だった。
 スライクは記憶を探る。
 そういえば、アステラと最初に出会ったとき、彼女はそんな少女だったような気がする。
 だからスライクは―――いつしか淡く薄く、消えゆくようになったアステラを、病人と、呼んでいたのかもしれない。

 スライクは、舌打ちし、アステラと正面から向かい合った。

「アステラ。お前が昔―――“俺の無実を声張らして叫んでた”のは、全部無駄だ。当の本人が認めてる」
「……」
「だけどよ、お前が叫んでた通り、“俺には責任が無ぇ”」

 “非情”。
 タンガタンザを現すような言葉を、スライクは紡いだ。
 スライクは、本当に、そう思っている。
 悔恨や懺悔など、スライク=キース=ガイロードの中には存在しない。

 そんなものは―――とうの昔に、通り越しているのだから。

「“約束は果たした”。それじゃな」

 最後にそう呟いて、スライクは細い道を歩き出す。
 今度は、アステラは付いてこなかった。

「…………」

 生まれ育った村を出る。
 だが、振り返る理由は無かった。
 スライク=キース=ガイロードにとって、この村は自分の出生地ということだけだ。
 興味は無い。

 自分の目的は、ここにはないのだから。

「…………」

 木々に囲まれた踏みならされた道を、黙々と歩く。

 スライク=キース=ガイロードという人間は、この道の先、ただ悲劇を振りまいて、それを自分の手では解決しない、災厄そのものになるであろう。
 そんな予感は確かにあるが、それはもう―――どうしようもないことだ。

 自分が元凶であるのなら、その結果は解決しなければならない。
 それが常識的な考え方であることは、スライクも理解している。
 だが常識の枠外の、スライク=キース=ガイロードの世界にとっては、その答えは違うと感じた。

 事実として、スライクは十全たる力を保有している。
 攻略不可能と言われるガルドリアをただ目障りだという理由だけで撃破し、突如として現れた“知恵持ち”との戦闘においても敵を圧倒できる。
 その上、正体不明の存在が現れても、“別の世界から降りてくる”知識を元に、互角以上の戦闘が可能だ。
 異常なまでの圧倒的な力。
 確かな志を持ち、旅に出れば、“魔王”を討つことができるかもしれない。

 だが、それら総てに後押しされるスライクは、そこで、歩みを止めた。
 それはまるで、操り人形だ。
 自分の先天的な力や、振り降りる知識、そして周囲を取り巻く悲劇。
 それら総てが、この道のようにスライク=キース=ガイロードという人間の道を狭めている。
 それゆえに、スライクはその道を嫌う。天の邪鬼だからというわけではない。
 ただ単に―――自分で悲劇を起こしておいて、それを救い出し、英雄のように扱われる絵面に、自分の姿を置けないだけだ。
 あくまで自分の都合。
 あくまで自分本位な考え方なのだ。

「…………」

 間もなく森を抜ける。

 これからスライクは、広い大地を当ても無く進んでいくつもりだ。
 そんな奴が、ひたすら一ヶ所にいたら迷惑も甚だしいであろう。
 毒のように周囲を汚し、侵食し、いずれは大陸のひとつでも悲劇で塗り替えてしまうかもしれない。
 あのエニシ=マキナが『ターゲット』に選定されたのが決定的だった。僅かに接触しただけで、彼は魔族の矢白に立たされている。
 いつか、『ターゲット』に選定されることすら幸運とさえなるかもしれない。
 だからスライクは、この広い世界を、たったひとりで、進み続けるのだ。

 必然的に起こる災厄が、ひとつの場所に集中しないように。

「―――と、我ながら諸君なことを考えていたんだがなぁ。流石にこうなるか」

 慣れないことは考えないものだ、とスライクは鼻で笑いながら頭を掻いた。
 2メートル近い体躯を止め、肩に担いだバッグを放り投げる。
 軽く肩を回し、ゆっくりと、猫のように鋭い眼を開いた。

 眼前には。
 荒れた大地を埋め尽くす―――異形の群れ。

 まず目に飛び込むのは前方にそびえるように立つ2体の巨人だ。
 10日前ほどに粉砕した知恵持ちに似て、顔は無く、岩石と岩石が結合して人型になっているに過ぎない―――10メートルほどの巨人。
 その足元には、涎を滴らせ、唸り声を上げる獰猛そうな犬型の魔物。それだけなら普通の動物と同じだが、犬の首は二股に分かれ、それぞれが鋭い牙をむき出しにしている。体毛は赤く、体長は1メートルを超えていた。それが、見えるだけで20頭。巨人の背後にもいるであろうから、その数倍はいるかもしれない。
 大型小型ときて、十数体ほどの中型の魔物は犬型の魔物に紛れて立っていた。
 姿形はコンパクト化したガルドリアに似ている。
 隆々しい筋肉に、ガルドリアとは違って金色の体毛。ゴリラのような魔物は、しかしその両手が鋼で形作られていた。その剛腕をもって殴れば、掠っただけで致命傷に達するであろう。
 ここまでの勢力は、スライク自身、見たことが無い。

 その種手雑多な異形の群れは、それぞれが整列し、知性を思わせた。
 それもそのはず―――その最前線。最も異形な魔物が、総てを律し、全軍の指揮を執っているのだろう。

「で、だ。出発祝いか? 随分奮発してんなぁ、おい。―――目障りだ」
「随分な物言いだ」

 その異形は、海の中で響くような高い―――“言葉”で応えた。

 身体の色は深い水色。
 形状は―――“定まっていない”。身体は液体でできていた。
 波のように揺らめき形を変え、水色の全身を鉄砲水のように打ち上げ、辛うじて人の身ほどの高さを保っている。
 時折人型になることから、本来の姿はそれなのだろう。

 スライクはその物体を、鬱陶しいように睨みながら、頭をさする。

 “無機物型の魔物”。

 本来、魔物というものは動物を模したものが多い。
 過酷な自然の淘汰の中で生き残った生物は、必然的に優れた姿をしている。
 “魔界”にもそうした知識はあるのであろうから、魔族が使い間として作り出す魔物はその優れた姿をしているのであろう。
 自然の生物としての力としてはある意味最下層に位置する人型も作られるが、それは知識の発達による魔力の強化が狙いだ。何より、“魔族”と同型であるため使いやすいという面もある。
 結局のところ、動物を模した魔物は最も使用頻度が高い。事実、世界中を埋め尽くす魔物はそのほとんどが動物型だ。

 しかしその一方、無生物を模した魔物も存在する。
 岩、鉱物、そして水。
 ゴーレムやスライムが代表格のその魔物たちは、“無機物型”と呼ばれる。
 それらを元にした魔物は―――はっきり言って、未知数だ。
 何故ならそれらの存在は、過酷な進化の過程において、ただ“環境”としてそれらを取り巻いていたに過ぎない。
 作り出すのが難しいのか数は少ないが、それらが力を持った存在は、そのほとんどが危険な魔物として処理される。

「……で、何の用だ?」

 未知の存在との邂逅。
 それでもスライクの脳には相手の情報が流れ込んでくる。
 何度起こっても不快極まりない感覚を呼び起こした相手を、射抜くように睨みつけた。

「スライク=キース=ガイロードで間違いないな」

 2メートル近い体躯。完全な白髪。金色の眼。
 誰に特徴を聞いたにせよ、スライクの特定など容易であろう。
 だがとりあえず、目の前の奇妙な存在が誰と繋がっているのかは分かった。
 ここ最近、口の利ける魔界の存在と出遭った記憶がある。

「アグリナオルス様は私に言った」

 水中で響くような声が届く。

「今年の『ターゲット』破壊において、障害に成り得るものは確認しておく必要があると。それが今年の第一のプロセス」
「失せろ。耳くらいは持ち合せてんだろ?」
「戦力分析は必要であると、私に言った。最も危険な敵を計る任を、私は受けた」
「…………」

 スライクは、もう1度、肩をパキリと鳴らした。
 そして横なぎに切るように鋭い瞳を走らせる。
 まず目指すべきは大型からだ。あれが爆ぜれば比較的大規模な損害を与えられるであろう。立ち上がる黒煙の中、乱戦になれば有利になる。本来ならば相手の数を減らすのを優先すべきであるが、問題無い。でかいと言っても、結局のところたかが魔物だ。叩き潰すのに10秒もかからない。
 そして、次は、

「―――スライムが。話を聞けよ」

 暴風が、荒れた大地を疾駆した。
 液状の魔物を瞬時に抜き去り、小型の犬を蹴散らして、中型の魔物を踏み砕く。
 そして跳躍。
 打ち上げられる波のような軌跡を残して上昇したスライクは、下方の爆発音に目も向けず、大型の魔物の石板のような顔に吸い込まれていく。
 振るうは拳。スライクが認識している中で、世界で最も丈夫な武具だ。

「っっっはっ!!」

 振り抜いた拳には確かな手応えがあった。
 大型の魔物の顔は粉々に砕け散り、巨体が崩れ落ちる。下では、落石や巨体の横転を避けるべく、魔物たちがこぞって距離をとっていた。
 とりあえず1体。
 あの日に出会った岩の巨人だか蛇だか分からない魔物とは違い、少なくとも顔面を砕けば倒れ込むようだ。

 分厚い岩盤を打ち抜いても勢いがほとんど殺されなかったスライクは空中で姿勢を整え、そのまま遥か遠方に難なく着地する。
 そして回転。
 再び暴風が駆ける。

 同時、倒れた大型の魔物が爆ぜた。
 思っていたよりもずっと小規模な爆破は、しかしそれでも砂塵が巻き上がり、いくつかの魔物を巻き込んだようだ。
 とりあえず良い情報だ。あの巨体は、顔を砕けば死ぬ。
 もう1体。

「―――、」

 砂塵の中、双頭の猟犬が姿を現した。
 それと同時、スライクは拳を振り下ろし、落雷のような轟音が響く。タンガタンザの大地に常軌を逸した破壊力で叩き付けられた猟犬は無残に砕け、砂塵の景色を肉片で染めた。
 猟犬の大群は臆することなく雪崩のようにスライクを目指す。

「ガ―――ァァァァァァアアアーーーッッッ!!!!」

 雄叫びを上げたのはスライクか魔物の群れか。
 スライクが腕を振るえば魔物が千切れ飛び、爆ぜて大地を深く抉る。
 魔物も負けじとスライクに牙をむき、多勢に無勢の優位さから確実にスライクの体力を削っていた。

 特別なことなど何も無かったこの日。
 『聖域』ガルドパルナに隣接した何も無い大地は、殺気のみに包まれる地獄絵図と化した。

 やはり―――だ。
 スライクは、思わず思考した。
 自分がこの地を離れようと思った―――“ただそれだけの日に”。

 村ひとつゆうに潰せるような大群が押し寄せてきた。
 それも、ただ1度魔族に出遭っただけで。
 高がひとりの戦力を計ろうと魔族が思考しただけで。

 即座にその場は戦場と成る。

「ラ―――、ァァァアアアーーーッッッ!!!!」

 もう1体の巨大な魔物をようやく潰した。双頭の猟犬が腕に噛みついてくるも地面を殴って振りほどき、中型の魔物を踏み砕いた先の攻撃。
 巨人は倒れ、再び爆風が大地を抉る。

 やはり―――この運命は、強すぎる。
 例え、スライクが魔物の大群に対面した場で戦線離脱を訴えても、結局この殺し合いは止まらなかったであろう。
 スライク=キース=ガイロードという人間が存在していれば、そこには必ず“死”が付き纏う。

 次は小型。
 中型の魔物の足を握り潰すように掴み、竜巻のように振り回した。鋭い牙に貫かれた腕から血が噴き出すも、構わずスライクは小型の魔物を叩き潰す。武器として使っていた魔物の限界を察し、小型の魔物の密集地帯に投げ込んだ。
 再び、強い爆風。

 これは―――“刻”。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。
 世界の裏側から何かが降りてくるような感覚は、この現象をスライクに認知させた。
 そしてさらに情報が降りてくる。
 “刻”とは、刻むべきものだ、と。
 スライクの眼前に立ち塞がる事象は、総て臨まなければならないものなのだと。
 その“刻”は、きっと総てに意味があり、そして“ひとつの終点”に向かっている。
 “打倒魔王”。
 あらゆる物語の主人公たちが成したその偉業へ向かう道が、スライクには確かに見えた。
 栄誉だろう。誇れるだろう。神から誉れを受けることは、光栄だろう。

 たが、スライクはそれら総てを鼻で笑った。
 確かに打倒魔王を成した者たちには、惜しみない讃美を送ることができる。
 評価し、絶賛し、称えることだってしてやる。

 だけど、言える。
 それではまるで、操り人形のようではないか、と。

 少なくとも、自分が斜に構えていることは分かる。
 過去の主人公たちには、そんなひねくれた思想を持ったものはいなかったであろう。
 総ての者が、清らかに、素直に、見事な“刻”を刻んでみせた。
 そして紡ぎ、次に主人公にバトンを渡す。
 あとはその繰り返しだ。

 そして再び“刻”は訪れる。
 それに付随する―――悲劇と共に。

「―――だからよ」

 砂塵は晴れた。
 大地は砕け、空の雲は割れている。
 血風の中、変わり果てた世界の中心に、金色の眼の男は立っていた。

「探してんだよ―――日輪属性の答えを。表舞台になんざ興味は無ねぇ。総ての“刻”が消え失せりゃ、決まった運命は訪れない」

 それが―――この旅の目的だ。
 邪魔立てするなら容赦はしない。

「私は驚いた」

 スライクが睨む先には唯一生き残った“言葉持ち”。
 その液体のような魔物は水中で話すような声色で、感慨深そうに言葉を漏らした。

「戦力分析が目的であったのに、全軍を消耗するとは思わなかった。アグリナオルス様は私に言った。分析が終了したらただちに撤退せよと」
「口うるせぇスライムだな。言葉持ちっつうのは全員こんなんか?」

 波打ち際の水のように跳ね上がる液状の身体は人の形を保つことすらおぼつかない。
 しかし確かな意思を感じた。

「だが、利益はあった。私は任を終えることができたのだ。スライク=キース=ガイロードの限界は確認できた」
「あ?」

 突き刺すようなスライクの殺気は、水の身体に沈み込むように受け流された。

「潰れた拳。骨を曝した腕。削り取られた体力。さらに同数の魔物を増加した場合、スライク=キース=ガイロードは死亡する」

 液状の魔物の分析は的確だった。
 口から出たのは総てスライク=キース=ガイロードの現状。
 腕は拳から肩まで自身の血液が飛び散り、砂にまみれてどす黒く染まっていた。腹部はいつ殴られたのか、服が引き割け見るも無残な青あざが浮かび上がっている。内出血で済めば良いが、肋骨が破損している可能性もあった。

 これが―――限界。
 確かにそうだった。
 戦闘において、人間という形状は最悪だ。
 バランスも悪く、身体の組織も軟で、大弱点の頭を無防備に曝している。

 他の種族を差し置いて人間が反映できたのは、知能の発達。
 そして―――両腕が自由で在るがゆえの“武器の使用”。

「私は報告を行う。アグリナオルス様は私に言った。スライク=キース=ガイロードを討つために、注ぐべき戦力数を共に考案しようと」

 それが名誉なことであるとでもいうように、液状の魔物の声色は僅かに上ずっていた。
 そして無機物型の魔物は“地面に染み込み”、消えていく。
 スライクは魔物の気配が消えるまで、じっとそこで動かないでいた。

「…………」

 スライクは、液状の魔物が染み込んでいった地面を睨んでいた。
 いや、金色の眼が睨んでいたのは、正確にはその先だった。
 大地を突き抜け、世界を超え、さらにその先の“世界の裏側”。
 そこに自分の目的がある。

 それだというのに、自分の限界は、先ほどの言葉通り“ここ”だった。
 そんなもの、とっくの昔に分かっていた。
 確かに自分の力は常軌を逸している。
 村を、あるいは街さえも叩き潰せる戦力を前に、敵を圧倒することができるのだ。
 だが、その先。
 その限界の向こう側に存在している者が存在するのも確かなことだった。

 そしてこれは、ペナルティでもある。
 スライクは“刻”を嫌い、その総てを通過し、確実に自分の成長となるものを手に入れることはできなかった。
 今の自分より強い存在は、数多の主人公も含め歴史の中に確かにいる。

 であれば。
 その主人公たちが臨まなかった世界の裏側には、スライク=キース=ガイロードという存在は届き得ない。

「……」

 スライクは被爆地をいつものように大仰に歩き出す。
 一歩進むだけで身体が引き割かれるような激痛が走ったが、問題無い。
 日輪属性の負傷は、すぐに回復するのだ。数日療養すれば元通りになる。
 だから、問題無い。
 問題なのは、自分に旅立つことさえ許さなかった“刻”と自分の“戦力差”。

 思考しながら、放った荷物を拾い上げた。
 辛うじて戦火を逃れていたバッグから水を取り出し、頭から被る。
 傷に染み込み悲鳴を上げる肌を無視して砂を洗い流した。

 そして黙々と、思考する。

 世界の裏側に挑むためには、力がいる。
 決定的な戦力増強。
 刻むのではなく、“刻”を砕き切るほどの強固なカードが必要だ。

「……」

 前から分かっていた。
 だからスライクは、力を求め、武器を求めた。
 しかし、スライク=キース=ガイロードの世界に耐え得る武具は、このタンガタンザでも存在しない。

―――ひとつの例外を抜いて。

「いいぜ……、今は俺の負けだ」

 スライクが発して言葉は、無機物型の魔物に向けたものでもなく、アグリナオルスに向けたものでもなく、ただ己が運命に向けたものだった。

 保有していた水分総てを使い果たし、スライクはバッグを携帯食料ごと投げ捨てた。
 これはしばらく必要無い。
 必要なのは、力だ。

 運命の匂いを感じて避けていたものではあったが―――幸い武具には、心当たりがある。

――――――

「表で何かがあったのか?」
「あ、クロックさん」

 思考しながら村を歩いていたら、ほとんど習慣のようにミツルギ=ツバキの家に辿り着いた。
 日はとうに沈んでいる。
 再びガルドパルナを訪れたクロックは、他人の家だというのに定まってしまった自分の定位置に座り込み、腕を組んだ。
 そして思考を働かせ―――頭を抱えた。
 『ターゲット』の件で余計なことに時間を割いている暇は無い。それこそ、この村の入り口付近の大地が、砕けるほど損壊していたことについても、思考の外に追い出すほどに。
 だが、どうしても、看過はできないことがあった。

「ツバキ。お前は一体何をしているんだ?」
「え? お掃除をしています」

 ツバキの姿は、頭に白い三角巾、胴には可愛らしいピンクのエプロン、手には雑巾、足元には水の入ったバケツと完全防備だった。
 いつ入っても小奇麗な家だと思っていたが、毎日欠かさず掃除をしているのであろう。
 日は沈んでいる―――というのに。

「ツバキ。それはこんな時間にやることか?」

 僅かに冷たく、子供を諭すように、クロックは疑問を投げかけた。
 本日の朝、両親の墓前に欠かせず通えるこの家をツバキが大切にしていることを認識したばかりだが、流石にこれはやりすぎだ。
 その想いを否定することまではできなくとも、この危なげな子供を監督するのは大人の役目である。
 するとツバキは、クロックの感情を察しもせず、呆けたような表情で、こう答えた。

「え? でも毎日掃除しないさいって、おかーさんから習いましたよ?」
「―――、」

 その悪寒は。
 クロックの中で、まだ見ぬ“魔族”をゆうに超えた。
 ツバキの言葉からは、努力し過ぎて大人に注意された子供のような照れくささも、失った母の言いつけを大切にしたいという感情も、まるで感じられない。
 ただ彼女は―――そういうものだから、そうしていると言ったのだ。

「ツバキ。通常、掃除は日中にやるものだ」
「え? でも、お昼はできなかったので、」
「だったら明日やればいいだろう」
「? それだと毎日できないじゃないですか」

 ミツルギ=サイガに対面して、クロック自身も気が立っていたのかもしれない。
 だが、そのせいで会話が続き、そして、彼女の中の異常を感じ取った。
 彼女は本当に素直で、良く言うことを聞く―――“救い難い子供”だったのだ。

「ツバキ。お前自身はどう思う。こんな時間に掃除をすることに、“お前自身はどう思うんだ”?」
「? ……そういえば、お布団干しても意味無いです」

 クロックは、目の前のテーブルに手のひらを叩きつけてやろうかと思った。
 初めてだ。清く正しく無邪気で素直な彼女との会話が―――こんなにも、不快になったのは。
 その清純さは―――負と負の掛け合わせだと知っていたのに。

「ツバキ。掃除は昼だ。できなかったら翌日にやれ。『毎日やる』という言葉は、お前にとっては強すぎる」
「え……、あ、はい。分かりました」

 クロックは、おぼろげにミツルギ=ツバキの家庭を察した。
 父は、きっと良く働き、家族に愛情を注ぎ込む理想的な者であったのだろう。
 母は、きっと家事を欠かさず、家庭は愛をもって守り抜く模範的な者であったのであろう。
 ツバキが住んでいたという、サーティスエイラ。そこは、タンガタンザの中でも珍しく、魔族軍の進行が滞っていた場所だと聞く。
 それが理由で力を増した魔族軍が制圧するまでは、タンガタンザの百年戦争の憂き目を逃れ続けていた―――珍しく平和な村。
 そんな場所に、清く正しいツバキは生まれた。
 そして最悪なことに―――彼女は、どこまでも無邪気で受動的な子供だった。
 タンガタンザの悲劇を知っていた大人たちは、過剰なまでの愛を注ぎ込み、ツバキの瞳に陰りを作らないよう、世界はどこまでも温かなものだと伝えただろう。
 彼女も自分では知り得ない。彼女の無邪気な世界には、“光が強まるその理由”は無かったのだから。
 その結果、彼女はこの世界をあまりに知らない少女になった。
 大人がいれば、子供が持つ必要の無い常識を―――彼女から、遠ざけた。

 両親に罪は無い。むしろ彼女を陰りから守ることを全うした。
 タンガタンザの中において、そんな場所があれば誰でも子供をそう育てる。温かな空間の中で、悪寒とも言える冷気がいつ襲ってくるか分からないなどと、残酷な現実を伝えることは躊躇われるのだから。
 だから、きっと、彼女の両親は、温かな空間でツバキを育て、そしてゆっくりと、世界の過酷に立ち向かえる力を授けるつもりだったのだ。

 その前に―――タイムリミットが訪れた。
 彼女に強い自我が創り出されるその前に。

「ツバキ」
「はい?」

 クロックは帽子を目深に被り、低い声を出した。

「お前の前には、きっとこれから辛い道が現れる」

 クロックは断言した。
 ツバキは両親を失っている。それは過酷で、あまりに重い悲劇である。
 だが、ツバキはそれを悲劇とは思っていない。
 きっと彼女の両親は―――“両親がいなくなることは悲劇と教えなかったのだろうから”。

「そのときに、お前はまず、泣いて、悔んで、どこまでも、絶望に沈まなければならない」
「は、はあ」

 今言っても分からないであろう。彼女には常識が無いのだから。
 だがそれでも、クロックは伝えずにはいられなかった。

「ひとつずつだ。忘れるなよ。人の死は、哀しいことなんだ」
「…………はい」

 ああ、どうか―――と。クロックは思う。

 この無垢な少女に、絶望的なまでの残酷を。
 もう1度だけ、過酷を超える―――自我を創り出す機会を。

「そのときお前は、本当の意味で生を受ける」

――――――

 この場所に最初に訪れたのがいつのことだったかは覚えていない。
 幼少のころ適当に歩き回って辿り着いたときだったかもしれないし、あるいはつい最近訪れたときだったかもしれない。
 だがそれは、結局のところ、本筋ではない。忘却の彼方にいるべき柱書きだ。
 本筋は―――“この感覚”。

 ガルドリアという種がいる。
 ガルドパルナの周囲の樹海に生息する、獰猛で群れでの戦闘を得意とする、凶悪な種族。
 彼らだけではないが、そうした魔物には、強い縄張り意識というものがある。
 作り出した魔族が意識したことなのか、はたまた参考にした生物の本能であるのかは定かではないが、人間にとっては迷惑甚だしい。
 村を破壊したのち、その場を生息地とするその特性を持つ魔物は、近付く者には獰猛に襲いかかり、決してその地を再興させないと聞く。
 戦闘とは、極論を言ってしまえば陣地取りゲームだ。世界というものが有限である以上、制圧することは自陣の力を増加することになり、敵陣の力を減退させることとなる。
 となると縄張り意識が強い生物は、そのルールを根源的に理解していると言える。
 話に聞く神族と魔族の戦いは、あたかもチェスゲームのように繰り広げられたらしい。

 “この感覚”は、その理を、強く頭に浮かび上がらせた。
 縄張りと聞くと、人によっては保守的なイメージが付き纏うであろうが、この場に立てばその勘違いは捨てされるであろう。
 その縄張りは、大地に根付いているのではなく、“その存在”が決定づけるものであると。

 “二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴード。
 彼の行く先は、常に彼の縄張りと成り、動的に、世界総てを制圧したと言う。

「かっ」

 スライク=キース=ガイロードは、睨みつけるように視線を向けた。
 金色の眼に映るのは、人の身ほどの大剣。
 ところどころが錆び付き、今にも崩れそうなほど軟なその物体からは、世界の裏側からの情報が無くとも強い縄張り意識を感じさせた。

 いや、縄張りは結果論に過ぎない。意思というのが相応しい。

 “目障りだ”。
 その剣に宿った意思はそう睨みつけ、結果として、その場に世界が創り出される。
 こうして見ると、スライクはガルドパルナの住民をある種尊敬できた。
 鈍いゆえかもしれないが、よくもまあその縄張りにいる気になれるものだと。

 人が見れば狂気の沙汰としか思えないスライクの住居も、あるいは最も敏い空間だったのかもしれない。
 高が猿の縄張りと比べるのは、あまりに失礼なことかもしれないが。

「まあ、んなことはどうでもいい」

 スライクは自分の思考を放り捨て、大剣を両手で握り締めた。
 お伽噺のように、神聖さに気圧され指先だけで触るようなことは無く、部屋を出るときにドアノブを掴むような気楽さで、大きな手のひらで握り締める―――潰す。

 負傷は思ったよりも深刻で、癒すまでに大分時間がかかった。
 まだまだ完全とは言い難い。
 武器として振るった拳には未だ違和感があるし、力を込めるたびに腹部から何かが噴き出す気さえする。

 だが、問題無い。

「てめぇは高が、道具だろう?」

 両腕に力を込めて引き抜こうとした武具は、微動だにしなかった。
 スライクは即座に魔力を発動し、身体中を身体能力強化の魔力で包み上げる。

 動かない。

「―――っ、らぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」

 怒号に近い咆哮が洞窟内に響き渡る。
 その振動は、部屋の奥の奈落の奥底まで響き渡り、大地が揺れているほどの錯覚をもたらした。

 動かない。
 抜けるどころか砕けることも無かった。

「ぐ―――、ぅぅ、」

 さらに力を込める。
 スライクは、あの噂が何の脚色もされていないと再認識させられた。
 この剣は歴史上、誰も砕くことも抜き放つこともできなかったらしい。
 物理を超えた何かを、この錆び付いた物体は有している。

「っっっ、」

 スライクは歯を食いしばり、それだけで人を殺せそうなほどの眼光を放つ。
 これほどまでに近くに、自分が超えられないものがあったとは。
 村を潰せる戦力を一方的に破壊できる自分が、高が道具のひとつも手に入れることができないとは。
 僅かに衝撃を受けた。

 だが、それが何だ。
 自分はこの剣に用がある。

「はっ、っっっあぁぁぁあああらぁぁぁあああーーーっっっっっっ!!!!!!!!」

 剣は動かない。
 やり方が根本的にまずい。
 そう感じるのに時間は要らなかった。

 すると、スライクの頭に、何かが降りてくる。
 世界の裏側から届く、この剣の攻略法。
 安全に、クールに、確実に、この剣を得られる方法が、手を伸ばせば届くほどの位置に現れた。

 “目障りだ”。

 スライクはそれらを無残に切り裂いた。
 自分は、その裏側に用がある。そこに立たれたら視ることができない。
 言っただろう―――邪魔立てするなら容赦はしないと。

「―――、」

 スライクの身体から漏れる魔力は、洞窟内を太陽色で染め上げた。
 足りない。これだけでは、この剣に届かない。

 身体能力強化の魔力は、スライクが拠り所とする最も強力な力だ。
 他の魔術師は当然のように扱うその力は、スライク=キース=ガイロードはその元来の身体能力で必殺の武器に変貌させた。
 だが、それでは足らない。

 さらに、向こう。
 その向こう。

 総ての魔術を体得できる日輪属性の汎用さを捨て去っても、その力のみに特化しろ。

「―――、」

 月輪の力―――不要だ。魔法など、この試練の前にはゴミクズ同然だ。
 火曜の力―――不要だ。破壊など、剣の破壊という自己満足程度となる。
 水曜―――木曜―――金曜―――土曜―――総ての選択肢が周囲に飛び交う。
 スライクは、その中のひとつを荒々しく掴み上げ、自分の身体に叩き入れた。
 他は総て切り捨てる。

―――再定義が始まる。
 自分の力を増幅させるという事象の、再定義。
 魔力で身体を覆うのではない。
 身体中の魔力を爆発させ、血液を滾らせ、力総てを暴走させろ。

 それら総てが己に還ってきたとき―――本当の身体能力強化が始まる。

「ガ―――、ァァァァァァアアアアアアーーーッッッ!!!!!!!!」

 獣のような雄叫びと共に、剣が僅かに動き始めた。
 気を緩めず、さらにスライクは特化させる。
 これから先、自分はこの属性の力以外を使うことはできないだろう。

 数多の選択肢を斬り裂き過ぎた。
 あらゆる者が欲する、無限なまでの可能性を取り戻すことはもうできない。

 日輪属性とは名ばかりの、魔法から縁遠い存在に成り下がる。
 それは、不可能に挑むスライクにとって、その差は致命的なことかもしれない。

 だが―――

「はっ、はっ、はっ、」

 スライクは座り込み、金色の眼を鋭く光らせた。

「―――その差はてめぇが埋めるだろう?」

 常軌を逸した能力に砕けた大地。
 その場に座るスライクの手には、

「選択肢なんざクソくれぇだ。道はひとつで十分だろうが」

 行くは我が道。
 その障害は、この剣で斬り裂けばいい。

――――――

 アステラ=ルード=ヴォルスは、日中のガルドパルナを歩いていた。
 日は高いはずだが、分厚い雲に覆われて、生憎なことに村は影に沈んでいる。
 この村の住人に退去命令を発したのは一昨日のことだ。
 小さな村ではあるが、流石に即日一斉退去と言うわけにもいかず、明日か明後日から順次村人たちは避難していく。
 そんな意味でも、この村は、影に沈んでいた。

 そんな中、アステラは光も影も無いような表情で村を進む。
 途中、商魂逞しい、あるいは、商品が芽吹いてしまってどうしようもない花屋が捨て値で商売を行っていた。

 アステラは、一瞬購買を検討したが、そのまま花屋を通過する。
 向かう先のことを考えれば、見舞い用の花くらいは必要かもしれないが、アステラには花を選ぶ基準が分からなかった。
 そんなものを、見たことは無いのだから。

「…………」

 アステラは思考する。
 魔族の進行は、3ヶ月後―――いや、もう2ヶ月と少し、か。
 その事前準備として奔走することになるのであろうが、今は村人の退去が優先で、言ってしまえば暇だった。
 こうなると、アステラは何をすべきか分からない。
 万屋としての能力は高いが、趣味は無く、時間を潰すという行為を知らない。
 常に需要のあったミツルギ家とは違い、この村は、本当に何も無かった。
 以前は、どうしようも無くなったときはガルドリアの樹海を進み、小屋の様子を見に行っていたものだが、その主がこの地を離れた今ではまるで意味の無い行為となってしまう。

 アステラはふと樹海を眺めた。
 いつもは驚異的な存在感を放つガルドリアの潰れた貌が見えるものだが、今日にいたってはいない。
 昨日、深夜に群れの中での闘争でもあったのかというほど暴れ回っていた記憶があるが、それが原因だろうか。
 興味はおろか意味すらない思考だった。

 最近、何か空虚だ。
 アステラは足音すら消え入るように静かに進む。

 強制退去命令が出た村人たちは、いや、『ターゲット』に自分の村に逃げ込まれた村人たちは、家屋や畑への興味が薄らぎ。
 アステラも、ここ数日、何かをしようと思った記憶が無い。
 だが、それらはまだマシな方だとアステラは思う。

 もっとも気がかりなのは、やはり戦争の当事者。

 『ターゲット』―――エニシ=マキナ。
 端的に言って、彼はやつれている。

 ある程度の会話はできていたが、食事も喉を通らないことが多いらしい。
 アステラが近況報告に言った昨日など、アステラが家に入ってから出るまでベッドに座って窓を眺めていたものだ。

 僅かな配慮として鍛冶屋の家に住まわせてもらっていたのだが、馬車の修理も中断したままだった。

 あのとき。
 馬車の修理が終わっていたなら、スライク=キース=ガイロードをどこかに送り届けることだけでもできていただろうか。

「……?」

 おぼろげに思考を這わしていたアステラの眼に、不自然なものが映った。
 煙だ。
 エニシ=マキナが住まわしてもらっている家屋から、もうもうと煙が立ち上っている。

 鍛冶屋の主人は、新たな拠点での準備がいると昨日からこの村を離れていると言うのに。

――――――

「だぁ、かぁ、らぁ、ツバキちゃぁぁぁんっ!! いちいち手を洗いに行ってたら鍛冶屋なんてできねぇって!!」
「えっ、でも、手が汚れたら洗いなさいって、おかーさんから習ったんだっ!!」
「頼むから1回!! さっきもう言っちゃったけど、1回でいいから手の汚れ我慢してっ!!」
「大丈夫です。さっき1回我慢して、……錆びだらけの手でお料理作りました」
「分かってやってる以外あり得ねぇよその選択肢!! 喰っちまったじゃねぇかぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」

 エニシ=マキナが頭を抱えていると、職場の扉が軋みを上げて開いた。
 視線を向けると、アステラ=ルード=ヴォルスが相変わらずの無表情で―――いや、どこか冷たい目をして佇んでいた。

「……何をやっている?」
「アステラじゃん。丁度いいとこに来た。このガキに常識を……、駄目だっ、こいつもアレな奴だった……」
「……………………」

 頭を抱えたマキナは、熱気が包む職場の中、さらに冷たい視線が突き刺さったのを感じた。
 視線の主はアステラだ。
 感情が欠落している彼女にしてはその視線は奇跡とも言えるほど貴重なものであるが、それだけ怒っているとも考えられる。

 マキナは頭を掻き、

「まあ、冗談はともかくとして。アステラ、今暇か? だったら、頼みたいことあんだけど」
「頼み事?」
「今日は暇を出したが、お前風に言えば依頼だ」

 マキナの言葉を紡いだのは、壁に寄りかかり目を閉じていたクロック=クロウだった。
 シルクハットのような帽子に、黒いマントを着こなすこの男がツバキを引き連れこの場を訪れたのは数時間前。
 以来ずっとあの場でそうしている。
 マキナはその姿のクロックをある種尊敬していた。今この場は、汗でシャツがびっしりと肌に張り付くほどの熱帯地帯になっているのだ。
 姿はともかくとして、聡い男だとマキナは感じていた。
 彼はミツルギ家の者であるそうだが、参戦してくれるらしい。
 心強い仲間がいるというのは救われる思いだ。

「クロック=クロウ。この場にいたのか」
「私もお前同様、本日は休もうと思っていてな。『ターゲット』の様子を見に来た」

 そういうクロックは、何故か『ターゲット』のマキナでは無く、隣のツバキを眺めていた。
 マキナも倣ってツバキを見る。
 常識の無い―――いや、奇妙なミツルギ=ツバキ。
 クロック=クロウという人間の情報は数少ないが、何となく、マキナはクロックがツバキのために時間を使っているような気がした。
 確かに自分も、ツバキのことは気がかりでもある。

「だが、思わぬ収穫があった。エニシ=マキナの話を聞くと良い。ミツルギ家の参加しない今年の戦争に、僅かな活路が見えてきた」

 クロックに促されて視線を向けてきたアステラに、マキナはふっと笑って竈の前に立つ。
 マキナの足元には、布にくるまれた巨大な物体が存在している。
 きっとアステラは、これが巨大な工具か何かと思っていたことだろう。

「ぶっちゃけよ」

 マキナは両手で物体を抱え上げ、慎重に布を外していく。
 それだけで、鼓動が高まった。

「俺、死ぬと―――“死んでいると”思ってた。そんで、この数日、腐ってたよ。なんでかな。普通に呼吸はできるし意識もあった。だけどさ、何か、“生きてなかった”」

 錆びだらけのそれは、布を真っ赤に染め上げ、しかし錆すら零れることは無い。
 見習いたいくらいだ。
 同じく朽ちた、語ることもできないほど憔悴した自分は、ボロボロと、錆を零していたというのに。

「でもさ。武器職人の血っつうのかな。一気に生き返ったよ」

『こいつを直せ』

 昨夜の会話が思い起こされる。
 何事も無く、成す術もなく過ぎて行った昨日という日。
 その最後に現れた奇跡のような邂逅。

『―――お前の世界に、そんなものは存在しない』

 言ってみた台詞は、思ったよりもしっくりきた。
 自分は口先だけの“それ”。
 それが体現できる『彼』は、決して正義の味方とは言えない『彼』は、紛れも無く、本物だ。自分とはまるで違う。
 彼と出逢った―――あるいは、出遭ってしまったこと自体、マキナにとっては奇跡のようなものだ。

『神話さえも塗り替える、塗り潰す、アルティメット・ワンを創り上げろ』

 恐らく、いや間違い無く、彼は自分のために戻ってきたわけではない。
 彼は、きっと、自分のために戻ってきたのだ。
 そしてこれを引き抜いた。
 神話を如実に現すような“これ”すら、彼にとっては自己の目的のための手段でしかない。
 例え彼が人々を救ったとしても、それはきっと正義のためではない。
 例え彼が魔王を討ったとしても、それはきっと世界のためではない。

 彼にとっては、あくまでそれは手段でしかないのだ。

 つくづく―――思う。
 もし、日輪属性に選ばれし者という言葉を使うならば―――スライク=キース=ガイロードは完全に誤った選択肢だ。

「……こいつを直すぞ」

 見た瞬間、アステラも察したようだった。
 錆びだらけの、朽ち果てた、巨大な剣。
 それがそこにある理由も、恐らくは察し、彼女は珍しくも温かい息を吐いた。

「ここにいる全員でだ。クロックさんは忙しいだろうから少しだけ時間を割いてくれればいいが、アステラだけはフルで協力して欲しい」

 恐らくこの作業は、自分ひとりでは難しいであろう。
 完成のためには、アステラのような、見ただけで真似できるという特異な能力を持つ存在が不可欠だ。

「……だが、エニシ=マキナ」
「ん?」

 そこで、他ならぬアステラから水を差された。
 無表情な顔からは、疑念のようなものを感じる。どうやら自分は、随分とアステラの表情に慣れてきたらしい。

「例えそれが神話の物品だとして―――“耐えられるのか”?」

 最もな疑問だった。
 ツバキやクロックは知らないであろうが、マキナはそれを知り、アステラはきっともっとよく知っている。

 魔物が使用したものさえ一撃で砕き切った男の力に耐え得る剣など、存在するとは考え難い。
 確かに神話の物品という神秘的な加護は感じ取ることができるが―――それだけでは彼の世界にはあまりに弱すぎた。

 だが、マキナは首を縦に触れる。

「問題無い。こいつには、魔力の原石が使われてる」
「原石?」
「ああ」

 マキナが調べたこの剣が刺さっていた岩盤。
 あの場所だけが、妙に硬くなっていた。
 それから想像できるのは、マキナにとってはひとつしかない。

「原石とはなんだ?」
「魔力の原石というのは、」

 アステラの疑問に応じたのはクロックだった。
 先ほど彼に話し、すぐに通じたところを見ると、彼も彼で原石には詳しいらしい。

「言うなれば、魔力の保管庫だ。通常、魔力というものは物体には宿らない。宿ったとしてもすぐに四散してしまうであろう」

 クロックの言う通り、魔力というものは物体には宿らない。
 魔術師の戦いでも、武具の周囲に魔力を滾らせるだけだ。
 道具は所詮、道具に過ぎない。
 生命体という神秘の存在にのみ、魔力は蓄えられることができる。

「だが一方で、唯一の例外とも言える物質が存在する。それが、魔力の原石」

 クロックは銀縁の眼光を、マキナの持つ大剣へ向けた。

「魔力の原石は、隣接する魔力を吸いとり、その内部に保管する性質がある。その総量は膨大だ。太古、魔力が溜まるに溜まったこの物質を見つけた者が、これこそあらゆる魔力の源であると錯覚して名を付けるほどにな」

 実のところ、魔力の原石という物体は人々からそれほど縁遠い物体では無い。
 最も分かりやすい例で言えば、魔物にいるゴーレム族は、大抵身体に原石を内蔵している。無機物な魔物は大概そうだと思って良いらしいと先ほどクロックから聞かされた。
 あの運命の日に出遭った岩石の『蛇』の身体にも、原石というものは存在していたはずだ。

「魔力の原石が魔力の保管庫だということは分かった。だが、それであの力に耐え得るのか?」
「問題無い」

 そこからはマキナが引き継いだ。
 ここから先は、武器の話になる。

「あいつが武器を壊すのは、単純に言えば武器の強度不足だ。知っての通り、あいつの力は常軌を逸している。だが、単純な威力を防ぐなら話は簡単だ。周知の事実として、絶対的な物理耐性を持つ属性がひとつある」
「……金曜属性か」
「そうだ。金曜属性はとにかく防御に適している。まあ、知り合いに例外的な奴がいるんだが……それはともかく、魔力そのものがとにかく硬いんだ。金曜属性の魔力で武器を作るのは、世界で最もメジャーなんだぜ?」

 その場合、定期的に金曜属性の魔力を注ぐ必要がある。
 だが、原石となれば話は別だ。
 他の物質に比し、圧倒的に魔力が漏れにくい原石は、メンテナンスの必要が無いほど恒久的に硬度を保つことができるであろう。
 この大剣が良い例だ。
 気が遠くなるほどの太古に突き刺されて、漏れたのがせいぜい剣の周辺の岩盤程度。
 最早脅威だ。

 この剣が原石だと即座に気づけたのは朗報だ。作業の手間が一気に省ける。
 あのガルドパルナ聖堂も“原石”の鉱山らしく、漏れた魔力が剣の周辺に留まっていたお陰で気づけた情報であった。
 貴重な原石が正しく山のように在るとなると、剣を失ったあの場所は、まだまだ利用価値があるようだ。

「だから俺たちは、この剣を直したあと、馬鹿みたいに魔力を注いで世界最強硬度の剣を創り上げる。この剣があいつの力に耐えられるのは実証済みだ。あいつがフルパワーで引き抜いたこの剣は砕けてない。今も魔力がかなり残っているみたいだしな」

 それが、今なお轟く“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードの威圧の正体。
 この剣は、原石を使っているからこそ、神話の劇中通りに現世に留まり続けた奇跡の物品だ。

「だが、問題があるように感じるが」
「ん?」
「攻撃時、剣に魔力を込めたらどうなる。魔力を保管する魔力の原石はその内部に魔力を蓄えてしまうのだろう?」

 相当踏み込んだ質問が上がった。
 やはりアステラは、受動的ながらに飲み込みが早い。

 確かに彼女の言う通り、今言った性質では原石を使った魔術攻撃は不可能となる。
 スライクがそのつもりがあるかは分からないが、その性質は、日輪属性の可能性を奪うことには変わりない。

 だが、その問題もすでにクリアしている。

「いいや。むしろ日輪属性にこそ、原石を使った武具は相応しい。原石にはもうひとつ特性があるんだ」

 マキナは大剣に視線を向けた。

「原石には、魔力は蓄えるが“加工された魔術には圧倒的に強い耐性”がある。純粋な魔力でなくなったものは弾き出すんだ。魔術攻撃には最高に相性が良い。何せ、魔力を込めるだけ込めて、攻撃時に干渉し、魔術攻撃として総ての魔力を放てるんだからな」

 つまり―――“何に変わるか分からない日輪属性の魔力”は、最高の攻撃手段となる。
 魔力を込めに込めた後、状況に応じて使用魔術を切り換えることが可能なのだ。
 その上、剣自身は傷つかない。
 原石は、魔術攻撃に強い耐性を持っているのだから。

 そしてマキナは思い至る。
 この剣の正攻法での抜き方を。

 この剣には膨大な金曜属性の魔力がこもっていた。
 だから硬く、誰も抜くことも砕くこともできなかった。
 だがその正体を知ってしまえば攻略法は簡単だ。
 まず、金曜属性の魔術師を連れてきて、中の魔力を総て魔術に変換してしまえばいい。
 他の属性では不可能だが、物体にこもった魔力を操作することはある程度熟練した金曜属性の者ならば可能だ。
 すると剣の魔力は魔術に変わり“弾き出され”、この剣は見た目通りの朽ち果てた物体に成り下がる。
 あとは抜くなり砕くなりすればいい。

 かつての神話も、現代の曰くも、あくまでロジック通りにできている。
 物寂しいものを僅かに感じるが、それはそれ、だ。

「纏めるとだな―――」

 逸れた思考を元に戻し、エニシ=マキナは断言した。
 クロックは元より、アステラも理解したようだ。

 マキナはその剣の誕生に出会えることに、それも、自分たちの手に寄って成し遂げられることに震えながら、言葉を紡いだ。

「この剣は、古来に溜め込まれた膨大な魔力によって驚異的な硬度を持ち、希少な原石の特性によってあらゆる魔術に耐性を持つ―――世界最強の剣に成る。それを超人スライク=キース=ガイロードが持てば―――」

―――神話さえも、塗り潰せる。

“―――***―――”

「―――ほぅ」

 ヒダマリ=アキラは感慨深そうに息を漏らした。
 目の前にはアステラ=ルード=ヴォルス。
 彼女が語る物語は、奇しくも昨日自分たちが遭遇した“誘拐事件”という出来事から始まり、ついに原石の話に到達した。
 そのスペクタクルな物語に、アキラは、

「……ふあ」
「…………何故欠伸をした?」
「いや、違うんですよ。あっし、眠くないです」
「……誰の真似だ?」

 朝の寝ぼけた頭に活を入れようと、『騒音』をテーマに脳内検索をかけていたのが仇となった。
 アキラは手を振り、必死に誤魔化す。
 だが、眠気が襲ってきたのは止むを得ないと思う。
 何せアステラは、ここまでの物語を淡々と、本当に淡々と無表情のまま語り続けていたのだから。
 盛り上がりも何も無い。

「……原石の話は出てきたか。ならばここらで止めにするか?」
「い、いや、いいよ。最後まで聞く。聞きたいし」
「そうか」

 そういうと、アステラはこくりと頷いた。どこか嬉しげに感じる。
 やはり彼女には、見えないだけで確かな感情が存在しているのであろう。

 しかし、と。
 アキラは頭を振って話を思い返す。
 物語の中、まさかあのスライク=キース=ガイロードが出てくるとは思ってもいなかった。
 シリスティアの港町。
 あのとき出逢った彼は、2年も前にこの戦争を経験している。
 そう考えると、彼に感じた温度差にも頷けるから不思議だ。
 アステラと昔馴染みだという話も脅威ではあったが。

「それでは話を続けようか」

 またも無表情で、廊下に立ったままの話は始まるようだ。
 だが、アキラにとって、その物語は遠かった。

 別に、自分が登場しない物語だからとか、アステラが知っている部分のみが抜き出された物語だからとか、そういったものは関係ない。
 知っているのだ、アキラは。
 その物語の結末を。

 アキラは以前クロック=クロウに話を聞いたことがあるし、アステラ自身も言っていた。
 これは、タンガタンザに2度目の平穏が訪れる物語であると。
 となると結末は目に見えている。
 救われるのだ、エニシ=マキナという男は。

 そうなってくると、思った以上に話好きであったアステラには悪いが、アキラの興味は僅かに薄れる。
 結果として『ターゲット』が守られる物語。
 結末を知っているのに、その仮定の苦悩や努力を聞いても、そこまで心に響かない。

 だが。
 妙に脳裏がピリピリとする。
 それが、アキラの脳を眠りの一歩手前で引き留めている―――悪寒だった。

「結果として、武具は完全に修復できた。タイムリミットの数日前のことだ。当時の姿のままであるかは不明だが、ともあれ、ある程度は再現できたのだろう」

 あの、2メートルを超す大剣。
 それは神話の物品であるそうだ。
 アキラの記憶に有るスライクが有するその剣。
 そのときアキラが身につけていたのは、見劣りするどころでは無い、市販の剣だった。

「そして、スライクはその剣を引き取りに来た。そして彼は、こう言った」

『これからてめぇらに幸運が訪れる。襲ってくるうざってぇほどの大群が、途中“不幸な事故”に遭い、大半が消え去っちまうっつーな』

 何が彼をそうさせたのかは知らないが、随分と協力的な姿勢だ。
 それならあの港町でもそうして欲しかった。
 もっともあのときも、結局彼が解決したのだが。

「キザと言えばキザな台詞だが、きっとスライク=キース=ガイロードは、本当にそう思っていたのだろう。彼はどこか、自分のことを“事象”と捉えていた節があった」
「“事象”、ね」

 災厄。アステラの話の中で出てきた言葉だ。
 アキラは自分の手のひらを広げてみた。今まで物語の着色として捉えてきた数々の事件。それらは、確かに、見る人にとって見れば災厄そのものだろう。

 “呪い”。
 以前、仲間のサクにも言われた言葉だ。

「アキラ? ……何をしているんだ?」

 噂をすれば、と現れた少女に声をかけられた。
 紅い衣にトップで結わいた黒髪。
 サク―――本名はミツルギ=サクラ、か。彼女の鋭い瞳は、アキラたちをいぶかしげな眼で捉えていた。
 それはそうだろう。
 辺ぴな場所で、どこまでも無表情な女性を前に呆けている男など、自分でも距離を置こうと思う。

「どうした?」
「それはこっちの台詞だ。部屋に行ってもいないから……、っ、」

 そこで。
 ピタリとサクは足を止めた。
 今までよく見えなかったのか、はたまた彼女の薄さのせいか、アキラが対面しているのがアステラだと知らなかったようだ。
 サクは慎重に、アステラの様子を覗っている。

「……話は後にした方がいいか。お前にとって必要な情報は拾えたはずだ。私はこれから作業に向かう。この剣はあの大剣ほど朽ちてはいないが、時間はあるに越したことは無い」
「え? いや、いいよ。どうせあと少しだろ? 先言っちゃうのもなんだけど、スライクが暴れ回って……、えっと、トラゴ……なんちゃら、だっけ? あの岩の『蛇』の魔物。そいつら蹴散らして終わり、って話じゃないのか?」

 何の気なしに、そんなことを言ってみた。
 しかしアステラは、無表情のまま、ゆっくりと、首を振った。

「2年前の戦争で、トラゴエルは生存した。恐らく今年もあの“知恵持ち”は参戦するだろう」

 実は期待を込めて言ったのだが、裏切られた。
 話の中で出てきた岩の『蛇』。積み上げられた岩の身体の高さは天に届くほどだったと言う。
 正直言って、アキラには倒す自信が無い。
 スライクは雑魚だなんだと面白いことを言っていたが。

「それに、恐らく君が思い描いている結末とは違う」
「……それなら、やっぱり最後まで聞くよ」

 アキラがそう言うと、アステラは、やはりゆっくりと頷き、物語を紡いだ。

「分かった、続けよう。今年の作戦を聞くに、恐らく君たちの戦いともリンクする話だ。ミツルギ=サクラにも聞く意味があるが、聞くか?」
「……それは、例の話か?」

 サクはすでにアステラから何かを聞いていたのかもしれない。
 それはもしかしたら、このミツルギ家に訪れた初日のことかもしれなかった。

 頷くアステラに、サクは慎重に先を促した。

「分かった、続けようか。タンガタンザの民にとっては奇跡の―――我々にとってはバッドエンドの物語を」

 アキラの脳裏がピリピリと痛んだ。

 タンガタンザ物語の結末が―――近付いてくる。

 敵残存勢力。

 魔物―――150000匹。

 知恵持ち―――トラゴエル。????。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

------
 後書き
 お読みになって下さりまことにありがとうございます。
 まさかの8月未更新となり、大変お待たせいたしました。
 最近になって思うところは、主人公がまるで戦わないというところだったりします。
 タンガタンザの物語では、魔物との戦闘回数0という驚異的な有様で……。
 ともあれ4分の3はこなせました。(転の後に付いた不吉な文字のせいで分母が怪しいものですが……。)
 次回はようやく結末です。
 自分で言うのもなんですが、恐らく不吉な文字は付いてくるでしょう。
 間違っても『タンガタンザ物語(結・起)』だけにはならないように、全力で注意を払います。
 またご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第三十六話『タンガタンザ物語(結・前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:07
“――――――”

 “期日”。
 天は澄み渡るように晴れ、日輪は容赦なく熱を撃ち落とす。
 唸りを上げる大群は、荒野を疾走し、広大な大地を津波のように蹂躙していた。狼煙のように逆巻く砂塵は天を割り、地を揺さぶる。
 あるいは怒号とも感じる蹂躙の騒音は新たな道を切り開くかのように大地を砕き、尚も総てを飲み込んでいく。

 大群の正体は異形の群れだった。
 ひと突きで岩盤さえも打ち抜く強固な角を尖らす四足の獣。屈強な野太い体躯を持つ地を這う竜。巨大な顔の耳の位置に足を生やしただけの姿の奇妙な悪魔。毒性を強く孕んだどす黒い体毛を有する巨大で不気味な芋虫。甲冑を纏うように鉄で身体を包んだ蜥蜴。魂さえも刈り取るような鎌を両手に掲げる半透明な気体。
 そして。
 それらの異形を従え怒涛の前進の最前線を張る水色の液体生物。

 街はおろか国すら滅ぼす大群は、一直線に高がひとつの村を目指す。
 天変地異すら軽々と跳ね退けるほどの軍勢の狙いは『ターゲット』。

 この地―――タンガタンザは、現在戦争の節目を迎えていた。

 数多の人間の鋭意の結晶である街を幾千も滅ぼし、国を砕き、それでも止まらぬ魔族軍の脅威が更なる猛威を振るう極限点。
 今よりこの場は地獄と化す。

 全軍に、その地点が見えてきた。
 『聖地』ガルドパルナ。
 村の周囲に生い茂る樹海には世界でも屈指の巨獣ガルドリアが生息している。
 しかし、この期日のみに姿を現す軍勢の前では脅威に成り得ない。
 あの場総ては、これより煉獄の業火に包まれる。

「―――、」

 そこで。
 ピリ、と。霊的な直感を液状の魔物は感じた。
 連れ立つ異形の群れには存在しない―――“賢い者のみが得られる危機管理能力”が、確かに警鐘を鳴らす。

 液体生物は村の背後にそびえる岩山に視線を向けた。
 何も感じない。
 以前この地に赴いたときに感じた、“二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードの威光と錯覚したが、違うようだ。

「―――、」

 そこで察し、再度岩山を睨む。
 “何も感じない”。
 あのときは確かに感じた、膨大な魔力の波動とも言える脅威が、あの岩山からは消え失せている。

 警鐘が鳴り続ける。
 ならばその脅威は―――岩山からどこに動いたのか。
 どこに―――“縄張りを移したのか”。

「よう―――」

 声が、確かに聞こえた。
 暴れ回るかのように大地を揺さぶる爆音の中、しかしその声は確かに届く。
 同時、全軍の足が緩んだ。
 危機管理能力が無くとも、生物が元来的に有する防衛本能が全軍の動きを鈍らせる。

 遠方に見える樹海の狭間。
 村へ向かう小道の前。
 そこにひとつの影が見えた。

 全軍に比し、あまりに矮小なその影は、あざけるように顎を上げ、脅威の猛軍を見下すように睨みつけてくる。

 そして笑う。あるいは、嗤う。
 人の域を軽々しく超え、確固たる世界を創り上げているかのように、全軍をその縄張りで荒々しく拒んでいた。

「随分奮発してんなぁ、おい」

 超えねばならない。
 あの縄張りを超えなければ、『ターゲット』に到達することは叶わない。
 液状の魔物が指令を飛ばさずとも、魔物の群れは即座に理解した。
 そして最警戒対象を強く捉える。
 数に任せて突撃しても、決して塗り潰すことなどできはしない。
 全戦闘能力を駆使し、総力をもって、あの存在を狙わねば、即座にあの世界に取りこまれる。

 『ターゲット』撃破を命じられたはずの魔物たちは、いつしかそれを塗り潰されていた。

「はっ―――」

 人としては些か巨大な影は、その身とほぼ同等の巨大な『剣』を掲げ、やはり笑う。

 その存在を、人は、災厄と呼んだ。

「―――てめぇらに最悪をくれてやる」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

“―――***―――”

「まず、鼻をつまむ」
「こ、こうか?」
「んで、こう、力を入れる」
「……、……?」
「あ、いや、そうじゃなくて、えっと、鼻から息を出す、っていうのかな」
「だが、鼻を塞いでいるんだぞ?」
「んー、って」
「んー?」

 ちょっと面白いかもしれない。
 ヒダマリ=アキラは隣に座る少女に対面し、正しい(?)耳詰まり解決法を伝授していた。
 目の前で鼻を詰まんでいるのは、常に冷静沈着である―――旅を通してその認識は徐々に変わってきたのだが―――サクことミツルギ=サクラ。
 愛用の長刀を担ぐように立て、その凛々しい顔立ちを―――なんとも間抜けな状態にしていた。

「アキラ、ちっとも変わらないんだが」
「いやいけるって。だからもうちょい頑張ってくれよ。悩みを抱えた、そんな姿のお前を見ているのは俺としても物凄く面白い―――じゃないですごめんなさい」
「もういい。自力で何とかする」

 サクはぷいと顔を背け、自己の耳を手のひらで覆い始めた。
 やはり気持ちが悪いのだろう、この―――“飛行機”の中での耳詰まりは。

 ゴォォォオオオ、と、外ではそんな音が響いているであろう。
 座席が精々十席ほどの狭い機内に、ふたつほど設置された窓の外には、輝くような雲海が広がっていた。

 ヒダマリ=アキラとミツルギ=サクラがタンガタンザを訪れておよそ2ヶ月。
 現在、“ゲーム”の最終日の3日前。

 今年のタンガタンザの命運を分ける『ターゲット』―――リンダ=リュースの守護を行うべく、アキラたちはミツルギ家から“飛び立ち”、遥か西方の僻地を目指していた。

 この、飛行機。
 聞いた話では、この世界において飛行物体の製造は“しきたり”によって強く禁じられているらしい。
 そんな物体を軽々しく持ち出してきたのは、まさに神をも恐れる男―――ミツルギ=サイガ。サイガは今、コクピットとも呼べる部屋にこもり、操縦を行っている。
 あのふざけた男が真面目に運転するとは考えにくく、それ以上に精密機械が存在しないであろうこの世界において手造りの飛行機に乗るのは強い抵抗があったのだが、元の世界で数度飛行機に乗ったことがあるアキラとしては他の面々の手前取り乱せなかった。今こそ、勇者は語ることすら難しい不憫な事故に遭わないというご都合主義を強く信じたい。独自の技術のみで飛行機を製造したミツルギ家の力に、素直に感動しておこう。
 そこでサクに正しい搭乗手順を教えていたのだが、どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
 以前―――といっても、サクは覚えていないはずだが―――召喚獣に乗って似たような高さに昇ったことも幾度かあったはずだが、そのときはどうしたのだろうか。生憎と、あのときの記憶はアキラも曖昧だったりする。

 ともあれ、自分たちは高速で目的地へ向かっているはずだ。
 本日中に到着し、身体を休め、戦争に臨むことになる。
 この剣と共に。

「……あれ?」

 視線を向けた先に、剣が無かった。
 アキラは目を丸くし、立てかけておいた座席をくまなく探す。
 しかし、無い。
 一瞬血の気が失せたが、即座にその場に思い至り、前の座席に身を乗り出した。
 そこでは、淡く薄らげな女性が、剣を抱えて目を閉じていた。

「アステラ……さん? ……何をしてるんですか?」
「ん?」

 感情が欠落したような声に、疑問符が乗ってきた。
 アキラを見上げる小柄な女性は剣に手を当てたまま、薄らげな瞳をアキラに向けてくる。

「どうした?」
「いや、その剣、何か問題でもあるのか?」

 アステラ=ルード=ヴォルスが抱えている剣は、刃渡り80センチメートル程度の白銀の剣だった。
 両刃の一般的な形状。アキラの身体にはやや長めではあるが、とりあえずそれが使用できる“魔力の原石”を使用した最も理想的な形状であるそうだ。
 元があの錆の塊だとはにわかには信じがたく、それを作成したのが目の前の華奢で吹けば飛ぶような体格のアステラだとはもっと信じられない。
 だが、その剣ならばヒダマリ=アキラを、もっと言えば旅の道中財布を最も苦しめた問題を解決できるそうだ。
 アキラにとっては自身初の、自分のためだけの剣だ。
 胸躍るものがある。

「問題? ……、……どうしても聞きたいか?」

 それなのに、その製作主様はそんなことを仰った。
 止めてくれとアキラは心の中で叫ぶ。
 今まで制約のある中で戦ってきたのだ。実は制約がありました、なんてことになればいい加減フラストレーションで精神が崩壊するかもしれない。

「この剣は以前話したスライク=キース=ガイロードの剣と違って大きなハンディがある。君たちが所持していた魔力の原石は空も同然。太古から蓄えられた膨大な金曜属性の魔力が無いのだから、脆い」
「…………」
「…………」
「…………」
「……?」
「ちくしょう」

 淡々と告げるような彼女の口調が今ほど恨めしかったことも無い。
 何だ、結局制約有りか。
 アキラがそんな恨みの乗った視線を送ったところで、アステラは―――珍しい、のだろう―――ため息を吐いた。

「何も問題は無い。君の症状は自分の魔術で自分の剣を破壊してしまっていたことだ。スライク=キース=ガイロードは自分の筋力で破壊していた。症状は近くても、解決策は別なんだよ」

 おぼろげに、アキラは魔力の原石の特徴を思い起こす。
 魔力の原石とは。
 魔力を蓄え、魔術には強い抵抗を持つ、と。

 スライクは物理的に剣が耐えられないから、膨大な金曜属性の魔力を剣に蓄えさせた。
 一方アキラの症状は、魔術に剣が耐えられないというものだ。それならば、魔力の原石を使っている時点でアキラの問題はクリアしているということになる。

 アキラは頭を掻く。
 実のところ、アキラは魔力の原石の特性をそこまで理解したわけでは無かった。
 というか、良く分からない。
 淡々としたアステラの口調のせいか、結局おぼろげに理解したのは今の2つの特徴だけ。
 せめて自分で使ったことがあればもっとよく理解できたのであろうが、結局完成は随分伸びて出発時間寸前、つまりはつい先ほどようやく手に渡ったばかりだ。

「問題無い」

 不安そうなアキラの顔を見て、アステラは再度繰り返した。

「スライク=キース=ガイロードの剣には当然及ばないが、金曜属性の魔力なら時間が許す限り込めた。すでにこの剣は、君が今まで使っていた剣を遥かに超す強度になっている」

 そう信じたいのだが、当のアステラは剣に魔力を込め続けているようだ。
 不安は尽きないが、疑いの眼差しを向け続けるのもはばかれる。
 アキラは座席に腰を下ろし、ちらりと隣のサクに視線を向けた。
 恐らく新たな剣は、アキラの力が増すたびに、金曜属性の魔力を込める必要があるのであろう。となれば適任者はサクだ。しかし、彼女にそれを依頼すると、再び表に出ろと言われる気がする。今言われたら洒落では済まない。
 ただ、そのサクは、うずくまるように顔を背け、鼻を詰まんでいた。

「……あ、直った。直ったぞ! やっ…………ぁ」

 よっぽど耳詰まりが不快だったのか、サクは跳ねるように晴れやかな笑みを浮かべ、アキラの視線に気づいて再び顔を背けた。

 見てはならないものを見た気がする。

 ともあれ、サクも調子は良いようだ。
 “例の話”をアステラから共に聞いたあと、僅かに様子がおかしかったが、最終戦前には整えてきたのは流石と言うべきか。

 一方。最終戦に近付くたびに、様子が変わっていった者もいる。

「……ようやく、だな」
「ああ。ようやくだ」

 アキラが声をかけた男は、鋭い視線を飛行機の床に突き刺していた。
 まだ見ぬ戦地を睨みつけているかのような男はグリース=ラングル。
 アキラと同年代のようだが体格が良く、短髪に鉢巻きのような布がトレードマークのその男は、『ターゲット』のリンダ=リュースと深い繋がりがある。
 この2ヶ月―――いや、彼にとっては3ヶ月か―――の準備期間、一心不乱に鍛錬に打ち込んでいたグリースは、驚異的な成長率を誇っていた。
 ただ、精神的には、やはり厳しいものがあるのだろう。
 彼に対して、問題無いなどと、無責任な言葉は吐けない。
 あるいはタンガタンザ以上に、彼はこの戦争に深くのめり込んでいる。

―――惜しいな。
 アキラはふと、そんなことを思った。
 互いに因縁のある仲であったが、この2ヶ月、グリース=ラングルという人間を良く見てきた。
 彼の想いは真摯で、一途で、眩しいとさえ感じる。
 彼が既存のメンバーと重複する水曜属性で無ければ、共に魔王を討とうと言っていたかもしれない。
 そう思うと、最早七曜の魔術師の条件を軽視しても良いような気がしてくる。
 リンダ=リュースをも引きつれて、さらに仲間を増やし、世界中を練り歩くことができれば、それはきっと楽しい旅になるだろう。

 おぼろげに、そんな未来予想図を浮かべてみるが―――総ては、この戦争に勝利を収めてからだ。

 今年。
 ミツルギ家は本気だ。
 アステラに聞いた2年前とは違い、ミツルギ=サイガはこの戦争に秘密兵器まで投入してきた。
 どうあっても勝利を収めなければならない。

 アキラはゆっくりと、グリースの隣で船を漕いでいる少女にも視線を送る。
 ミツルギ=ツバキ。団子に結わった髪と、僅かに褐色の健康色の肌を持つ―――負と負をかけ合わせた結果の正。
 彼女の主君―――クロック=クロウは今、ミツルギ=サイガと共にコクピットにいる。

 この機体には、2年前の戦争の経験者が“スライク=キース=ガイロードを除いて全員”乗っている。

 必ず勝利を収めよう。

 今度こそ―――何の犠牲も払わずに。

“――――――”

「始まった……か」

 エニシ=マキナは震える足で、しかし確かに大地を踏みしめ、ガルドパルナ聖堂の入口付近に立っていた。
 魔族側が提示している『ターゲット』の行動範囲の定義に基づけば、戦争の範囲となるのはガルドパルナという小さな村の全域。
 ミツルギ家不在の今年の作戦では、村の奥にあるガルドパルナ聖堂と名付けられた岩山が『ターゲット』護衛個所となっており、マキナはいつでも駆け込めるようにこの場で待機しているのだが―――村の外で行われている戦争の轟音はここまで届いていた。
 きっと今、この村を攻めようとしていた魔物の大群は、“不幸な事故”に遭っているのだろう。

「一応、言っておこう」

 自分では想像もできないほどの戦争を思い描こうとしていたマキナに、渋い声が届いた。
 黒いマントを羽織り、銀縁の眼鏡を帽子の下で光らせる出で立ちの男―――クロック=クロウ。ミツルギ家の人間であるそうだが、何のつもりかこの戦争に助力してくれる人物だ。

「スライク=キース=ガイロードが如何なる力を振るおうとも、必ず討ち漏らしが出る。奴らは『ターゲット』破壊を全力で狙ってくるのだからな。お前が創り出した剣は見事だったが、過信せず、いつでも逃げ込めるようにしておけ」

 それが、ミツルギ家で戦争を経験している者の言葉だった。
 今の時刻は昼を過ぎた辺り。
 それから日が沈み、さらに日が昇るまで生存するのが『ターゲット』に与えられた任務だ。
 そんな長期間、ひとりの人間が想像することも難しい魔物の大群を総て止められるとは思えない。
 スライク=キース=ガイロードの力も想像を絶するものではあるが、これはあくまで多対多の“戦争”。
 漏れは必ず出るだろう。
 マキナはガルドパルナ聖堂の入口の位置に、しきりに視線を送っていた。

「すでに森の一本道には罠を設置してある。聖堂の中も同様だ。逃げ込むとき、注意をしてくれ。もっとも、人間であれば十分に回避可能のはずだ」

 そんなマキナに、薄らぐような声で注意がかけられた。
 アステラ=ルード=ヴォルス。
 この轟音の中ではすでに認識するのが不可能とさえ思えるほど淡く薄い小柄な女性は、この大一番の中でも表情を変えずにいた。

 現在村にいるのはこの3人のみ。
 他の住人は退去命令に従い、村を離れている。
 決して数は多くない無人の建物が並ぶこの村は、ゴーストタウンと化していた。

 残酷なほど孤独だった。
 多対多とは名ばかりの、少対多の戦い。
 生まれた頃からそばにあり、それでいて遠かった戦場は、こんなにも非情なものだとは―――想像を、超えていた。

 身が凍え、気が遠くなる。
 しかし村の外で響く轟音に呼び覚まされ、あとはその繰り返しだ。
 聞いた話では、クロック=クロウもアステラ=ルード=ヴォルスも非戦闘要員であるそうだ。
 かつて経験した戦争では、クロックはミツルギ家当主に次ぐ軍師として、アステラは調達係や医療班として関わったに過ぎないらしい。
 戦争の拠り所となるのは、表で戦うスライクと、クロックやアステラが調達した爆薬やトラップの物資のみ。

 その総てを注ぎ込んだところで、今聞こえている爆音の一部を奏でられる程度であろう。
 あまりに―――非情だ。

 今もスライクが討ち漏らした魔物が村の入口から現れないかと身を削られている。
 作戦自体が無謀なのだ。
 自分たちの作戦は単なる籠城戦。時間が稼げなければそれまでだ。
 そのため、もうすでに“仕事”を終えたアステラすらも、僅かな時間稼ぎのためにこの場に残っている。
 マキナはそれについても拳が震える。
 自分を守る人数は多い方が良いが―――それだけ、犠牲も増えてしまうのだから。

 自分で納得できる最高峰の剣を作成したときの高揚は欠落し、再びマキナに絶望が襲ってきた。

 が。

「む」

 意識が朦朧とし、覚醒し、それを繰り返していたマキナに、クロックの唸り声が聞こえた。魔物が現れたのかと一瞬身構えるも、クロックは爆薬に近付くことも無く、ただ唸るだけだ。

「な、なんだよ」
「いや……。……うむ」

 言葉を紡ごうとし、失敗したのかクロックはそのまま押し黙る。
 この状況でそういうことをされると精神が機敏になっているマキナにとって堪えるのだが、クロックは何も言わなかった。

 どれほどそうしていただろう。
 いつしか日は傾き始め、徐々に空は朱に染まり始める。

 それほどの長時間。
 クロックは、唸り、そして沈黙を繰り返していた。

 そこで。
 マキナも気づいた。
 このあまりにも不自然な―――“奇跡”を。

 マキナが察したと同時、クロックはようやく意味のある言葉を吐き出した。
 そしてふつふつと、マキナにも希望が湧き上がってくる。

 ありえない。
 作戦自体が無謀。
 数がものを言う戦争において、そんなことは起こり得ない。

 だが、確かに今、起こっている。
 そんな異常が―――“普通”を塗り潰す異常が、聖域ガルドパルナに舞い降りていた。

「“魔物が来ない”」

――――――

 暴風が、そのひと振りの元に吹き荒れた。

「―――かっ」

 『剣』が吐き捨てるような言葉を乗せて振るった『力』は、それだけで、天変地異を巻き起こす。
 正面の醜い面の障害を斬り裂き、さらにその奥の巨獣さえも吹き飛ばす。
 そこで爆風のように背後に疾走し、樹海の入口に差しかかった群れを纏めて斬り飛ばした。
 再び爆走。隙を縫って進撃しようとしていた全軍を牽制し、必殺の一閃を走らせた。
 戦場を縦横無尽に駆け抜ける『剣』は、無限とも言える勢力を荒々しく削り続ける。

 荒れた大地に過ぎない辺ぴな空間で―――“神話”が、再現されていた。

「ガァァァアアアーーーッッッ!!!!」

 地獄の底から響き渡るような咆哮は、最早人のそれでは無い。
 スライク=キース=ガイロードは、戦場のただ中にいた。
 僅かな判断ミスが死亡にも、そして戦争の敗北にも直結する極限地帯を、その脅威の戦闘能力で押し潰す。

 破壊の衝動に任せて巨大な魔物の足を掴み上げ、そのまま魔物の群れに投げ入れた。
 爆音。
 動きの鈍った虫のような魔物を蹴り飛ばす。
 不気味な色の体液が足に付着した。カッと足が暑くなる。だが、問題無い。この毒性ならば、日輪属性の者にとっては致死量には届かない。

 スライクは即座に戦況を把握する。
 太陽が頂点から傾き、沈みかけ、夜の帳が訪れ始めてなお、未だに世界を埋め尽くすような魔物の勢力は変わっていないようにも見えた。

 だが―――“50%”。
 スライクには、正確な進捗率が見えていた。
 戦況をかぎ取るセンスが、あるいは世界の裏側から降りてくるような感覚が、総ての情報をスライクの脳に直接落とす。

 危険なのは竜種や悪魔を模した魔物たちだ。
 “幻想獣型”。
 自然淘汰の中存在しなかった空想の中だけの生物たちは、“既存の生物たちが夢焦がれた究極体”を意味している。
 そして、毒性を持つ芋虫のような魔物が次点に上がる。
 少量ならば日輪属性のスキルで克服できるが、身体中に浴びるとなると話は別だ。
 密集地帯には極力近づかず、大型の魔物を戦闘不能にして投げ入れることで対処する。
 敵の布陣にも注意を向ける必要がある。
 向こうの軍もこちらが問題視している点を分かっているようで、幻想獣型や毒性を持つ魔物はある程度数が揃うまでスライクに近づこうとしない。
 統制の取れた難攻不落の魔物たち。
 ひとりの人間が立ち向かうにはあまりに無謀なその大群を、スライクひとりで対抗できているのは当然理由があった。

 例えば“魔物が僅かに賢いこと”。
 恐怖にはある程度怯み、爆風からは身を避ける。
 配置の穴埋めや指示を仰ぐこともあり、全軍が同時に特攻を試みない。
 そうなれば、スライクはその隙に付け込むことができる。

 例えば“戦闘不能の魔物は爆ぜること”。
 別に総ての魔物を撃破する必要はない。
 大型の魔物を倒せば、その爆風で周囲が吹き飛び、その連鎖で被害が拡大する。
 今でも幾度か、魔物の群れが縦一閃に割れることがあるほどだ。

 例えば“日輪属性のスキル”。
 千里眼とまではいかないまでも、“世界の裏側”は、戦場を真上から捉えるように情報を降ろしてくる。
 魔物の正体、進行状況、次に何を狙うのか。それらが総て降り立ち、不可能を可能に変えていく。
 回復スキルも尋常ではない。木曜属性の力に極限まで特化したスライクは、周囲に漂う魔力すらをも己が力に還元し、脅威のタフネスを手に入れた。

 そして―――振るう神話の物品。

 “二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードが残した物品を、エニシ=マキナが復元したこの究極の一品を手にしたスライクが、最初に思ったことがある。

 この剣は、この2メートルを超す脅威の物品は―――ナマクラだ。

 鋭利性など微塵も無く、身に抱いて寝ても殺傷沙汰にはならないだろう。
 鉄板とでも言えば最も相応しいだろうか。
 ずしりと重く、小回りも利かない―――“永遠にそのままである剣”。

 しかし。
 それをスライク=キース=ガイロードが振るえば新たな神話を創り上げる。

「―――、」

 ブッッッ!! と大気が割れた。
 空間すらも斬り裂く一閃は、まだ見ぬ魔物すらも巻き込み世界を洗う。やや遅れ、連鎖爆風。しかしそれさえも断絶した。
 脅威の重量を持つ物体は、スライクの剛腕によって軽々しく振るわれ、高速の世界で剣に変貌する。

 スライクは僅かに笑った。
 何が“永遠にそのままである剣”なのか。

 この物体は、戦場に在って、限られた人間が振るった場合のみ、始めて剣に姿を変える。
 名前倒れもいい所だ。

 本当に―――いい仕事をする。

「はっ―――」

 魔物の進行が止まり、スライクは距離をとって嗤った。
 呼吸は僅かに乱れている。
 どれだけの魔物を滅ぼしただろう。数えることはとうの昔に止めていた。必要ならばと世界の裏側から何かが降りようとしていたが、スライクはそれらを切り捨て、正面を睨んだ。

「なんだ。ようやくてめぇか?」

 爆風か何かで吹き飛んでいれば儲けものと思っていたが、“情報通り”、難を逃れていたようだ。
 魔物の群れの正面の地面。爆風に掘り返され、荒れ爛れた大地に染みが広がり、そこから滑らかに、液状の物体が姿を現す。

「私は驚愕した」

 深海から響くような声が、まるでそんな感情を気取らせないような口調でそう言った。
 “無機物型”の“言葉持ち”。
 2ヶ月ほど前出遭ったその魔物は、全軍を率いていた長だ。
 そして、スライクの中で最警戒対象に当たる。
 無機物型とは、幻想獣型とはまるで違う。
 幻想型は空想上の理想的な姿をしているが、あくまでそれは現実の生物が思い描いた世界の生物に過ぎない。
 その空想型の生物が自然界に属している以上、その想像は、自然界の物体を基礎として想像される。
 幻想獣型の魔物の世界にも、自然淘汰を取り巻く環境は必然的に、世界そのものとして存在するのだ。

 ゆえに。
 無機物型は、幻想獣型以上に未知数な存在である。

「スライク=キース=ガイロードの戦力を勘案した結果、全軍の3割ほどの損害で『ターゲット』破壊を開始できるはずだった。アグリナオルス様もそう言った」
「かぁ、一々面倒な野郎だ。いいから来いよ。それともなんだ? 休憩時間でもくれんのか?」

 言って、スライクは無機物型の魔物を捉えていなかった。
 捉えているのは未だ数の衰えぬ魔物の群れ。
 見たところ、絶対数は激減しているが、魔物の種類の比率という面では変わっていない。
 やはり戦争というものを幾度も経験しているのであろう。各々が持つ役割を明確に意識し、決して欠けることが無い。
 戦闘は拮抗しているが、いつ崩れるかは分からない。
 その後に備え、魔物の群れは、その布陣を保ち続ける。

 相手にすると面倒だが、理に叶っている。
 そしてあの“言葉持ち”も、恐らくは背後の魔物をゆうに超す戦闘能力を保有しているのに、スライクと戦闘を行わない。
 それも、司令塔という役割を意識しているからだ。

―――ただ。

「……てめぇらよ。真面目に勝つ気あんのか?」

 スライクは、出て来るなり目の前で漂い続ける液状の魔物に、挑発ではなくただの疑問としてそう言った。
 戦闘を開始してから、いや、あるいは最初に液状の魔物に襲われたときから、妙な違和感を覚えるのだ。
 例えば―――“理に叶っていないこと”。
 ひとつ。何故最初にここに訪れたときに、『ターゲット』を破壊しなかったのか。
 客観的にあのときの戦力を考えれば、スライクの認識上、この大群の10%程度で『ターゲット』を破壊できていたであろう。例えスライク自身が無事だとしても、数を前に抜かれていた可能性が高い。
 そして、ふたつ。何故、魔物の数を無駄に増やしてきたのか。
 “魔物は爆ぜる”。その特性がある以上、魔物の戦力と数は純粋には比例しない。魔物は数を増やすごとに戦力が伸び悩むのだ。スライクひとりでこの場を守れる理由通り、魔物は隣の魔物の爆風に巻き込まれ、あとは連鎖爆風が発生する。そして強大な魔物ほど爆破の被害は酷い。ここまで強力な魔物を揃えた以上、数を増やすことはその他の魔物の無駄死に直結する。一瞬、連鎖爆風は想定外なのかと思ったが、それは違うだろう。あの液状の魔物はスライク=キース=ガイロードの力を知っているはずなのだから。スライク自身、例えこの大剣が無かったとしても、しばらくは戦い続けていたと思えるほど、お粗末な布陣だ。

 しかし、その一方で、各自は各自の役割を意識し、相対数を守ろうとする。
 本当に―――奇妙な大群だった。

「勿論ある」

 液状の魔物の響くような声は、スライクの思考を知ってか知らずか、そう返してきた。

「今年の戦争は、私に全権が付与されている。アグリナオルス様は私に言った。ミツルギ家が参加しないのであれば、強い自我が目覚めたばかりのお前に任せてみようか、と」

 スライクはうんざりしたように肩を鳴らし、僅か思考する。
 あの夜出遭った鋼の魔族―――アグリナオルス=ノア。
 この液状の魔物の話を聞く限り、随分と組織立って行動するのを好むようだ。そしてその上で、後継者を作り出すことを目論んでいるのかもしれない。
 ミツルギ家の参加しない今年の戦争を、練習として、この液状の魔物に任せたのであろう。
 となると、敵の行動の理由も分かってきた。
 統制された軍に、無能な将。
 その矛盾した組織は、むしろたちが悪く、スライクひとりに止められるという悲惨な現状を作り出しているのであろう。

 随分と奇妙な戦争で―――そして、随分と奇妙な魔族だった。

「ゆえに私は作戦を実行する。このまま攻め続ければ、あと数時間でスライク=キース=ガイロードを突破できる」

 液状の魔物の分析は的確で―――そして、的外れだった。
 液状の魔物は意図していないであろう。確かにあと数時間で、魔物数は“調和がとれる”。連鎖爆風に巻き込まれにくくなり、相対数も絶妙で、村へ魔物の侵入を許してしまう頃だろう。確かに、数時間後が正念場だ。
 だが、スライクに、この大群を村へ侵入させるつもりは微塵も無い。
 沈みかけた日が完全に落ち、星が世界を照らし出し、そしてまた日が昇るまで。この大群を滅ぼし続けるだけだ。

 だから。

「……!!」

 その“音”に、最も驚愕したのは液状の魔物だった。
 大気が揺れ、大地を揺さぶるような轟音がガルドパルナの樹海を襲い始めた。
 それに連動するように、甲高いそれで地鳴りのような悲鳴が幾度も響き渡る。

 スライクは、振り返ることもなく、軽く舌打ちした。
 この時間帯まで“出現”が伸びたのは僥倖だが―――ガルドパルナの方はいち早く正念場を迎えるようだ。

 想定はできていた。
 スライクが抑えるこの村への一本道。そこさえ死守すれば、魔物の侵入を許さない“わけではない”ことを。
 人間にとっては村への唯一の通路であっても―――樹海の巨獣、ガルドリアを超えるものならば侵入口は無数にある。

「アグリナオルス様は私に言った。私に全てを任せると。ならば何故―――“トラゴエル”が……? ……そうか」

 どうやら樹海を特攻しているのは、あの夜に見た岩の“知恵持ち”らしい。
 スライクは、すでにおぼろげになっている魔物の存在を追憶していると、液状の魔物は笑うような仕草をした。

「アグリナオルス様は私に言った。全権は任せるが、私がスライク=キース=ガイロードを定刻までに突破できない場合、順次干渉していくと。今がその定刻か」

 笑いは、歓喜のものではなく、自虐のようなものだった。
 信頼に応えることができなかったか悔恨のように、任を全うできなかった自己嫌悪のように、液状のスライムは笑うような仕草をする。
 その、あまりの人間らしい―――魔族らしい、とでも言うべきか―――挙動に、スライクは嘲るように睨みながら、再度、肩を鳴らした。

「ともあれ。これで『ターゲット』の破壊は確実なものとなった。スライク=キース=ガイロードがこの場にいる以上、『ターゲット』側にトラゴエルを攻略できる者はいない」
「そうだなぁ、それじゃあとっととてめぇら斬り割かねぇとな」

 言って、スライクは眼を再び鋭くしていく。
 敵戦力数の確認。無駄話でさらに回復した自己の体力。未知数な液状の魔物の戦闘能力を勘案し、“今まで通りに戦った場合の殲滅終了時刻を割り出す”。
 戦い方を変えるつもりはなかった。

 焦りは―――無い。
 あの岩の知恵持ちは、スライクにとって取るに足らない存在だが、確かに村に残った面々では厳しいものがあるだろう。

 だがそれでも。
 彼らはそこに―――『ターゲット』を守るためにいる。
 それはスライク=キース=ガイロードの世界でこう変換される―――“ならば『ターゲット』は守られるのだ”、と。

 彼らは。
 そして、自分も。

 役割を遂行するために、その場にいるのだから。

――――――

 何が起きているのかはすぐに分かった。
 村の入口方面から聞こえる爆音や騒音。それらとは全く違う、大木が倒れ何かが砕けるような轟音は、まるで別方向から聞こえてくる。
 何かがこの樹海に、特攻を仕掛けていた。

「アグリナオルスの指示だな」

 日が沈んだガルドパルナ。
 先ほどアステラに渡された光源を握り締めながら、クロック=クロウが苦々しく呟いた。
 アグリナオルスという名を聞いて、マキナが思い起こすのは何をおいてもあの“選定”の日だ。
 全身が鋼で造られ、その総てが鋭く尖った凶器の魔族。
 貫くような指を差されたあのときから、自分の運命は大きく暗礁に乗り上げた。

「おそらく知恵持ち……、あるいは言葉持ちを特攻させているのだろう。サイガから聞いたことがある。侵入経路が限られた閉鎖空間が戦地である場合、アグリナオルスはこうした特攻を指示すると」

 そうすることで、“道”を作り出すのだろう。
 マキナは震えながら、轟音を聞いていた。
 樹海は広い。どこから聞こえているのか正確には分からなかった。ゴーストタウンと化した村に不穏な響きが轟いている。
 そして何よりも恐ろしいのは、音の主が、あの樹海の巨獣をものともせずに突き進んでいることだった。

「ていうか、本当に知恵持ちとかなんだろうな? あの魔族自身が攻めてきてんじゃねぇのかよ」
「それは分からん。だが、何が来るにせよ、真っ向からでは太刀打ちできんだろう。お前は今すぐ奥へ逃げ込め。私は様子を見てくる」

 クロックには音源が正確につかめているのか、足元に詰まれた箱から手のひらほどの爆薬をいくらか掴み、村の西部へ駆けていった。音源はあちらの方角だったようだ。
 マキナも心細さから爆薬を数個ほど掴んでガルドパルナ聖堂へ入ろうとし―――そこで、呆然と立つ女性に目が止まった。

「アステラ? どうしたんだよ」
「……」

 彼女が無言でいると、本当に世界の中に消えいっているような気さえする。
 我ながらよく気づけたものだと思いながらも、マキナはアステラの腕を掴んだ。
 ギョっとするほど、彼女の腕は細かった。

「アステラ?」
「……すまない。少し、余計なことを考えていた」
「は?」
「いや、あの森に入れる存在が他にいるとは―――思いたくなくて」
「そりゃそうだけどさ」

 あの巨獣の群れに飛び込める存在がいるとは、マキナだって思いたくない。

「それにだ。はっきり言って、私はいつも以上に、何をすればいいのか分からない。エニシ=マキナには気の毒なことだが、私が現状この場に留まる意味は薄い」

 そう言うアステラは、沈んだように見えて、しかし声には変わらず感情が無い。
 マキナは、そんなアステラこそ―――気の毒だと思う。

「いつもは裏方だが、今初めて痛感できた。これが―――戦争か」

 戦争。それはあまりに非情なものだ。
 死や絶望をもたらす場であり―――そして、“個”の無力さを察してしまう場所でもある。
 大地を揺るがすほどの大群を相手にしているであろうスライク=キース=ガイロードを有していても、結局村への侵入を許そうとしているのだ。
 絶大な力を持ったとしても、それが“個”ならばいくらでも崩せる。
 矮小な力しかないとしても、それが“多”ならばいくらでも上回る。

 どの道―――“個”は。
 世界の広さを知るのだろう。

「だったらそれを、伝えりゃいいんじゃないか」
「?」

 マキナは、目を細め、空を見上げた。
 この場で構え続けたこの一日。いつしか日は沈み切り、星々が姿を現している。
 次に自分は、太陽を見ることができるのだろうか。

「俺だってあの剣を創り上げた以上、もう何の役にも立たねぇよ。魔族はおろか魔物が目の前に現れたら、十秒もたない自信がある」

 それは、哀しいほど―――事実だ。
 現に3ヶ月前、魔物がただ剣を振るっただけで命を失いかけた。それ以前に、ただの人間にすら誘拐される始末だ。
 エニシ=マキナは、本当に、矮小な存在なのだ。決して過去に思い描いた主人公の自分では無い。月日が過ぎるごとに、その予想図と現実は乖離していった。
 そして過ぎ去った月日は、決してもう―――取り戻せない。

「だからさ、もう俺らはきっと、託すしかないんだよ。子供のときに未来の自分をいろいろ思い浮かべたけど、結局俺はこんなんだ。自分に戦闘の才能が無いからって、俺は勝手に諦めた」

 これは、ペナルティのようなものだ。
 未来から見てしまえば、過去の自分の諦めは、なんと滑稽なことか。
 だから、最後まで自分を信じられなかった者は、哀しいことに、誰かに託すことしかできない。

「だから俺は、このときの無力さを、誰かに伝える。未来の誰かが、自分と同じように悔やまないために、誰かに託したいと思う」

 勝手に諦めておいて、結局は誰かに任せるしかない。自分勝手なことかもしれないが、それは哀しいことかもしれないが、無力な自分が成し遂げることは、きっと無いのだろうから。

「は……」

 マキナは言葉を紡ぎ、目を伏せた。
 口から出てきた言葉で、思ったより自分が“割り切っている”と実感してしまう。
 分かり切っていたことだ。自分が何かを成し遂げることの無い存在だというのは。
 数多の武具を創り上げたところで、結局自分は、その武具がどのような物語を紡ぐのかは知らないのだから。

 だけど、分かり切っているのに―――きっと自分は今、とても哀しい顔をしているだろう。

「まあ、でも。俺はお前と一緒に武器を創れて嬉しかったよ。お前なら、少なくとも俺の技術は真似できるだろ? お前が知らないことを、俺はお前に伝えられた」

 これで―――自分の『何も無い世界』は、少しだけ変わるだろうか。
 変わって欲しい。自分以外の何かが、自分の世界から何かを得ていくことは、少なくとも、幸せなことなのだと思う。

 マキナはアステラの手を離し、背を向けた。

「だからお前も、誰かに伝えてくれ。今は何もできない俺たちだけど、戦争が終わったら、きっと誰かに伝えよう」
「……私では難しいと思うが」
「それでもさ。お前が伝えたいと思ったときに、伝えてくれりゃあいい。単なる事実だけじゃなく、お前自身の感想をさ。―――なんだったら、今からでも、上手く逃げてくれよ」

 そんな想いは―――未来に繋がる導となる。そう、信じたい。

「分かった。善処する」

 ズズズ、と背後から音が聞こえた。
 振り返ると、アステラは爆薬の入った箱を開け、中から奇妙な物体を手持ちの袋に入れていた。

「アステラ? 何やってんだよ?」
「装備の補充だ。一応ミツルギ家の特別製だ。手榴弾に投げナイフ。あとは、小型化した銃もある。数十頭程度なら足止めできるが、この岩山が崩れないかが不安だ」
「…………」
「やはり全ては運べそうにない。思ったより多く用意してしまったようだ。クロック=クロウが補充に来るかもしれないから少量は残すが、残りはトラップに改造した方が良いだろう。聖堂内には罠もあるから、持ち運ぶ分にはこの程度にしておいた方が……どうした?」
「そうだよね。アステラちゃんは何でもできるんだもんね、俺と違って。ごめんね、鍛冶しかできない俺みたいなクズと同列に扱って」
「?」

 マキナはアステラの準備を待たず、ガルドパルナ聖堂にふらふらと入った。
 そして面白くなさそうに、渡された光源で洞窟内を照らす。
 そこで、立て札が目に入った。

「アステラ。この立て札には何て書いてあんだ? 良く分からない」
「『これは罠です』と書いてある。分からないか、それは困った」

 ちなみに、ご丁寧に矢印付きだ。
 それを追うと、地面が不自然に盛り上がっていた。

「あれを踏むと爆発が発生する。この奥には、他にも足止め用の罠がいくつかあるが、全て人間には分かるようになっている。先ほども言った通りに」
「そういう感じで分かるようになってんのかよ!? さっきは我慢したけど今結構シリアスな感じでいこうと思ってたんだぞ!! どうしてくれんだ俺の気配り!!」
「だが、魔物相手には十分だと思うが」
「的を射ているだけに腹立たしい」

 確かにこの表記があれば、被害を受けるのは魔物くらいであろう。
 だが、いかに魔物といえど、矢印くらいは認識出来そうな気がする。
 マキナは頭を掻きながら罠を避けると、アステラを引き連れてさらに奥に進む。

 そして、今度は。

「あっ、あっ、あ!! 降ろして下さい!! お墓参りに行こうとしたら、何か足元から網が出てきて!!」

 唖然とした。アホな子供がネットに引き上げられ、宙釣りになっている。
 入口は自分たちが固めていたから、もしかすると彼女はかつて剣が刺さっていた間にいたのだろうか。
 村人総てが魔族の脅威に震え退去命令が無くとも逃げ出したと言うのに、彼女は、己がルールのままにこの村に残ってしまっていた。

「ミツルギ=ツバキ。退去命令が出ていたはずだが、残っていたのか。しかし失念していた。この立て札の反対側には、注意書きをしていない」
「注意書き? いや、それよりも降ろして下さい!! 急がないと間に合わないです!!」

 爆薬の方にかからなかったのは幸運と思った方が良いのだろう。
 とりあえず、今日の墓参りは諦めてもらうしかないが、それ以前に―――このガキの頭に拳でも叩きつけなければ気が済まない。

「んだからてめぇらシリアスでいくって言ってんだろぉぉぉおおおっっっ!!!! ねえ!! 何で言うこと聞いてくんないの!?」

――――――

 クロック=クロウはガルドパルナの最北部に辿り着いた。
 特に民家が密集しているこの場所は、1階建ての家屋が規則正しく建ち並び、村で唯一迷い込んでしまうような無表情な空間だった。無人であることも手伝って、月下に照らされた建物たちは墓標のようにも見える。

 ガルドリアの闊歩にも耐えきったその建物たちは、今、激しく倒壊を始めていた。

「……」

 来るか。
 建物の陰に身を潜め、クロックは乾き切った唇を舐めた。
 努めて冷静にマントの中に手を入れ、拳大ほどの爆弾を取り出す。
 威力だけなら背を預けている建物ひとつは消し飛ばせるだろう。
 これだけ小型でそれだけ強烈な爆発を起こす物体を製造しているミツルギ家に背筋を冷やしつつも、クロックは身構える。
 戦闘経験は、無いに等しい。このタンガタンザの大地を踏む最低条件として、若い頃にかじった程度だ。
 敵を討ち滅ぼすことよりも、温かな場所を作り出すことを志し、そしてそのためだけに捧げてきた人生だ。
 そしてそれを成し遂げた自分を、胸を張って誇れる。それは不遜では無いと言えもする。
 自分の道は、確かに何かを成し遂げた、正しき道なのだと確信できる。

 しかし、思ってしまう。
 自分に戦う力があれば、自分の村は、もしかしたらあんな結末にならなかったかもしれないと。共に同じ場所を目指した同志は、この世を去ることは無かったのかもしれない。
 自分の甘言に惑わされなければ、自分のいるべき場所で慎ましくも幸せな人生を歩めた者もいただろう。
 クロックは、彼らの全員が、夢を手に入れ、迷い無く逝ったとは思えないし、言えもしない。
 きっと彼らは恨んでいる。
 結局のうのうと生き延び、村を滅ぼした当事者であるミツルギ家に従事している自分自身を。

 クロックは自虐気味に笑った。
 何だ、結局そうだったのか。
 ツバキのためだなどと言っておいて―――自分は、彼らの恨みに耐えきれず、死に場所を探していたのだ。
 そこに村への想いが存在していれば、彼らの恨みが薄らぐと信じたくて。

 バッ!! とタンガタンザでは聞き慣れた爆音が轟いた。
 僅かな追憶をしていたクロックの意識は鼓膜の激痛と共に呼び覚まされる。
 腹の底から響くような激震に交じり、樹木が軋み、倒れる音が聞こえる。
 吹き飛ばされたのはクロックが身を隠していた建物の2つほど先の民家だった。
 飛び散る家屋の欠片は壁や大地に突き刺さり、凶器のように尖っている。

 クロックは、もう1度、唇を舐めた。
 砕かれた家屋に僅かに目を細め、建物を一撃の元に破壊し切った“その存在”を隠れて覗う。
 狂うように取り乱さない程度に場数を踏んでいるつもりだが―――流石に、戦慄した。

 “森から岩石が飛び出ていた”。
 クロックの身丈より遥かに巨大な岩が、その上で連なり、樹海の深部から伸びている。
 森を突き進んできたのか、岩は葉や苔で緑に汚れ、所々ひびが入っている。

 これは―――何だ。
 クロックは、即座にミツルギ家で収集していた警戒対象の魔物を頭の中で並べ立てる。
 敵は樹海から岩を投げ入れられるほど強力な力を持ち、その上で、“ガルドリアを突破できる”。
 彼我の力は絶対的だ。勝ち目は無い。
 クロックは息を潜めることに全力を傾け、闇に閉ざされた樹海を窺う。
 すると、パキリ、と。
 家屋を砕いたときの衝撃からか、ヒビだらけの岩が砕ける。
 そして、ズ、と。
 砕けた岩の“次の岩”から、ゆったりと、鎌首をもたげるように、上がっていた。

 脅威の光景に、クロックは呆然としながら息を呑む。
 投げ入れられたものでは無かった岩は、夜空を突くように上がる岩は、いや、“岩たち”は、意思を持っているように連なり何かの形を成していた。

 『蛇』。

 形状から言ってしまえば、それは岩で造られた『蛇』だった。
 玩具のようにも見えるそれは、しかし子供にはあまりに不釣り合いなほど巨大過ぎた。
 樹海の高さを超え、ガルドリアの背丈すらも遥か超え、突きに牙を立てる程に高い。
 あれほどの位置から見下ろせば、建物に身を隠しているクロックすら視界に収めることができるであろう。

―――トラゴエル。
 アステラからの情報にあった、『ターゲット』たちが遭遇した“知恵持ち”。
 奴は、このガルドリアがひしめく樹海を、強引に突き破って見せたのだ。

 そして防衛線が始まる。

 クロックは慌ててトラゴエルの身の“直線上”を避けた。
 次の瞬間、村に落ちていた影が巨大になる。
 駆けながら振り返れば、案の定、トラゴエルはその身体をまっすぐ村へ倒してきた。

 直後、大地が砕けるほどの震災。

 腹ばいになって倒れてきたトラゴエルは、クロックが隠れていた家屋を巻き込み、村を見事に二分した。
 正しく落石のような破壊は、村の形を変えたであろう。
 クロックの位置からは『蛇』の腹部とでも言うべき位置しか見えない。頭は恐らく、村の反対側だ。トラゴエルは、このまま村に幾度となくのしかかり、村を更地に変えるであろう。
 クロックの村の破壊などとは比較にならない、魔族側の本軍の攻撃。
 続けられたら、日の出など拝めない。

「ふんっ」

 クロックは身をひるがえしてトラゴエルに接近し、爆弾を投げつけた。
 目を焼くように夜の闇に爆ぜた爆弾は、『蛇』の腹部を消し飛ばし、トラゴエルの身体を二分した。
 脆い。
 耳と目を塞いで爆風をやり過ごしたクロックは、トラゴエルの身体に注視した。
 3つほど岩石が吹き飛び、『蛇』の身体は千切れている。
 その身体は、強大な魔物にしては脆すぎた。
 ただの一撃で、致命的な傷を負わすことができたのだ。

 ただそれは、相手が生物であった場合に限る。

「……!!」

 砕けた岩の、端と端。
 爆撃が届かなかった無傷の岩が、車輪のように回り、互いに近付いていく。
 クロックが唖然としている中、ついに岩たちは結合。
 再びトラゴエルは鎌首をもたげ、夜空の遥か高くに持ち上がる。
 相手がただの『蛇』ならば、今の一撃で決まっていたと言うのに。

「……、」

 “無機物型”。

 ミツルギ=サイガが集めていた資料に、そんな情報が載っていた。
 この広大なタンガタンザを百年程度で更地に変えた“魔族”―――アグリナオルス=ノアが使役する“言葉持ち”、あるいは“知恵持ち”には、そうした魔物が多いらしい。
 生物という枠組みを外れた魔物たちは、人が想定できる限界を遥か超え、あらゆる防衛策を突破してきたと言う。
 トラゴエルという魔物も、“岩石”という“無機物型”の魔物なのだろう。
 だが一体、どのような理屈なのだろうか。
 クロックは次なる爆弾を握り締め、生唾を飲み込む。

 無限を思わせるほど高く積まれたあの岩石。
 砕いて見せても、トラゴエルはすぐに修復してみせた。
 クロックはさらに思考を進める。
 相手がいかに奇妙な存在だとしても、目の前に存在している以上、自分が想定できるロジックで動く。そこは決して変わらない。何故なら無機物型の魔物も、“思考を持つ魔族によって作り出された存在なのだから”。
 かつて神族の加護を受け、魔族を世界から退けた人間ならば、その思考に近付くことは必ずできる。
 つまり―――“セオリー”。
 人間が想定できる、“高が岩の怪物”を滅する手段は必ずある。

 トラゴエルは、無限の岩を持つ魔物。
 いや、岩石は有限だ。現に、砕けた岩は動く気配を見せない。あの身体は、先ほど見たときよりも岩石が少なくなっているのだ。
 だが、残った岩で、問題無くトラゴエルは活動している。
 そうなると、“想定できるロジック”はふたつある。

 ひとつはあの岩の中に、“トラゴエルの本体”があること。
 他の岩はあくまで自然物に過ぎず、それぞれが魔力によって結合している可能性。
 物体を結合する魔力の存在はいくつも知っている。
 水曜属性ならばここの岩石を制御して活動させることが可能なはずだし、金曜属性でも土曜属性でもそれぞれの特徴を生かし、似たようなことができる。
 あらかじめ全ての岩石に魔力を込めておけば―――それでも、膨大な魔力が必要だが―――手段はいくらでもある。

 ふたつ目は、“あの岩総てがトラゴエル”。
 だからどの岩が砕かれようが、それぞれが独立して動き、元の姿を形作ることができる。
 はっきり言って、そっちの可能性は最悪だ。
 この場合、あの岩総てを破壊しなければトラゴエルは止まらない。
 だが―――この可能性は、低い。

 前にアステラが、トラゴエルは最初人の形を模した状態で姿を現したらしい。つまり、自在に姿を変えることができるのだ。
 “それならばこの村はとっくの昔に殲滅されている”。
 あの岩総てが活動可能ならば、戦力を分散し、この村を岩の大群で襲うことができるはずなのだから。
 相手が“知恵持ち”ならば、その手段には即座に辿り着く。

 つまり―――ひとつ目。
 あの岩の中に、トラゴエルの本体がいる。

 クロックは夜空を見上げた。
 同時、先頭の岩に穴が空き、意思を持つ者の光を灯す。

 月下に光る、トラゴエルの先頭の岩石。
 あの貌が、トラゴエルの本体だ。

「―――、」

 口の無い岩石の『蛇』が、蠢いた。

「―――!!」

 揺れ動く地面と強烈な危機感がクロックを襲った。
 即座に察し、クロックは身を隠していた家屋から離れる。
 直後、樹海から再び突くように現れた岩石が家屋を氷のように打ち砕いた。

 “尾”。
 トラゴエルは、身体を立たせる樹海から、今度は尾で村をついてきた。
 巨大な槍のように走る一撃をクロックは辛うじて回避するが、ブッ!! と爆音と共に襲った風圧に吹き飛ばされる。

「ぐっ、つ」

 背中を強く打ち据えるもクロックは立ち上がった。
 経験したことも無いような激痛が、肩から腰にかけて湧き上がる。
 冗談ではない。
 対処法が想定できたところで、それは遥か上空の話。
 一方こちらはトラゴエルが身をよじるだけで吹き飛ばされる。
 話に聞いていただけだが、“知恵持ち”とはここまで危険な存在だというのか。
 “知恵持ち”とは、知性が芽生えるほど長くこの世界に留まり、経験を積んでいる存在でもある。となれば当然、経験値という面でも人間を凌駕しているのだろう。
 ミツルギ=サイガがかつて言っていた、“知恵持ちがいれば戦況は逆転する”という意味が今ようやく分かった。

 だが。

「ふんっ!!」

 クロックは飛び出た尾に向けて、爆弾を投げつけた。
 爆音。
 トラゴエルの岩石は砕け、弾け飛ぶ。

 諦めるつもりは毛頭無い。
 あの岩石を破壊し続ければ、いずれは本体が届く場所に降りてくるはずだ。

 ここで死ねば、自分は何も成し遂げられない。
 自分は死に場所を求めているのだから。

「……!!」

 尾を吹き飛ばされたトラゴエルが、縮みこむように樹海に身を隠した。同時に尾も樹海に姿を消す。
 トラゴエルが身を地に落としたと思われる轟音。そして樹海が次々なぎ倒される不気味な音が夜の闇に響く。

 何のつもりだ。
 クロックは目を光らせ、樹海の奥を注視する。

 すると、バンッ!! と、村の入口から爆音が響いた。
 村の入口に設置していたトラップだ。
 一瞬、村の防衛線が突破されたのかと勘繰ったが、違う。
 あれは、“トラゴエルがその場所を通過したのだ”。

「!!」

 再び響く地鳴り。トラゴエルは罠をものともせずに動きを続けている。
 クロックは、即座に“その攻撃”を察した。
 トラゴエルは恐らく、村を覆うように岩の身体を設置した。

 そしてその状態から、鋏のように―――身体を閉じる。
 村の総てを巻き込んで。

「!!」

 察した直後、クロックの眼前に、岩石の壁が姿を現した。
 車輪のように回転し、途中で巻き込んだ樹木や建物を轢き殺し、高速で接近してくる。
 爆弾はもう、間に合わない。

――――――

「……村は原形留めてんだろうな?」

 思ったよりも、軽口は空虚に響いた。
 度重なる爆音に深刻な表情を浮かべ、マキナはそれぞれの顔を見渡した。
 ここは“かつて”、ラグリオ=フォルス=ゴードの剛剣が突き刺さっていた奥の間。
 『ターゲット』たるマキナはこの日の翌朝、つまりは日の出までこの場所で待機することになる。
 この場所には、ほとんど何も無かった。
 奥の大穴を封じるバリケードはそのままだが、この部屋の主役である剣はすでに無い。
 背筋が凍るほど、何も無い世界だ。

 身体は、いつに無く震えていた。
 外の爆音が、徐々にこの場に近付いてくるような錯覚をし、それが目に見えるタイムリミットのように感じ、戦慄を繰り返す。
 終わることが、この上なく、恐かった。

 無表情なアステラも、しかしどこか顔を俯かせている。
 まだ見ぬ魔族軍の襲撃に怯えているのならば可愛いものだが、しかし彼女はきっと、自分が実行可能な行動をシミュレートしているのだろう。
 結局のところ、戦場には、怯える者か、真剣な者しかいないのだろう。
 そして怯える者から消えていく。
 分かっていても、本当に、どこまでも、怖かった。

「ひひゃいです……」

 ただ、むしろこのガキの行動の方が戦慄した。
 何も無いこの奥の間に、簡単な寝袋を設置し。
 戦場の中でも、“外れた”自分のままでい続ける少女。

 ミツルギ=ツバキ。

 彼女は、頬をさすり、部屋の隅でめそめそと泣いていた。
 先ほどマキナが、恐らく子供に使う次元を超えて、両頬を力の限りひねり上げた影響だろう。

「なあ、ツバキよ」
「な、何ですか……?」
「お前本当に、自分が何したか分かってんのか?」
「はい……、反省してます」

 戦場にいる、子供。
 ツバキは頬をさすりながら、多分、心の底からそう言っていた。
 だがそれは、きっと、今だけのものなのだろう。

「お前。この前、村に強制退去命令出たこと覚えているか?」
「はい。そうでした……」

 覚えてもらっていなければ困る。
 何せあの日、村に残っていた唯一の退去対象者は、ミツルギ=ツバキだけだったのだから。
 そのときも、彼女は心の底から、話の内容を理解していた―――はずだった。

「じゃあ何でここにいんだよ!?」

 荒だった心境そのままにマキナはツバキに怒鳴りつけた。
 ツバキは身体をびくりと震わせ、縮こまる。
 現状、仲間内で争っている場合では無い。それは分かる。
 だが何故か、目の前のツバキだけは許せなかった。

 だってお前は―――逃げれば生き延びられるじゃないか。

「でも……、その。おとーさんとおかーさんのお墓参りがありますから」

 プッ、と何かが切れた。
 妙な奴だとは思っていたが、まさか“ここまで”とは。
 この期に及んで、まだそれを全うしようと言うのか。

 しかも―――だ。
 ツバキは、腫れた頬を、僅かに膨らませていた。
 それは―――“ただ大人が子供を叱っているだけのような光景だった”。

「お前理解してんのかよ。これは戦争だ。遊びじゃ無くて、ガチで死ぬ。勝ち負け以前に、“その経過でさえ”死ぬ奴がいるんだぞ」
「理解してます」
「そうは思えねぇんだよ!!」
「理解しています。だからおとーさんとおかーさんが、家にいないんだから」
「っ―――」

 一瞬言葉に詰まったが、マキナはツバキの頭を殴りつけたい衝動にかられた。
 “それ”を理解しているのに、その行動は許せない。

「エニシ=マキナ」
「んだよ」
「あまり大きな声を出すな。所在が知れる」

 この時ばかりはアステラの口調も癇に障った。
 彼女も彼女で、ミツルギ=ツバキを責めようともせず、ただ静かに座っているだけ。
 彼女にとって、子供がここにいるという異常事態は、精々ツバキのせいで罠がひとつ無くなった程度のことなのだろう。
 “非情”。
 その言葉が何度も浮かぶ。
 きっと彼らは、マキナに終わりが訪れても、そのままで在り続けるだろう。だがそれについてだけは、マキナは許容できる。あくまで赤の他人の自分の終わりに、心塞がれても嘘臭い。当たり前のことだ。
 問題は、その“当たり前の光景にさえ”到達できないことを、彼らが自覚していないことだった。

「ふざけんなよ……マジで」

 マキナは握った拳を地に打ち据え、ぎらつく視線をふたりに突き刺した。
 一体何なんだ、こいつらは。
 どうしてその“権利”を捨てられる?
 アステラたちが助力してくれるのは嬉しかったが、その一方で、マキナは彼らが恨めしくも、羨ましくもあった。人の汚い部分で、どうしても思ってしまう。
 何故なら彼らは、逃げれば助かるのだ。
 マキナは思う。もし自分が、『ターゲット』などでは無く、ただの鍛冶職人としてこの戦争に参加していたら何をしていたかと。
 きっと、剣を創り上げた後、早々にタンガタンザの地を去っただろう。この大陸はあまりに死に近過ぎる。
 当事者に成って、死に直面して、初めて分かった。この大陸は恐いのだと。
 そしてそれを、誰かに伝える。
 その恐怖を、誰かに活かしてもらいたかった。
 それでも彼らはここにいる。
 もし自分が定刻前に死ぬようなことがあれば、“戦争の続行”。すなわちこの場にいる人々は戦火に巻き込まれることになるのだ。
 自分の恐怖は、誰に伝わることも無く、そのまま途切れてしまうだろう。

 頼むから―――誰かこの非情を伝えてくれ。
 マキナは震えながらそう思う。

「どの道、だ」

 マキナの表情をじっと見ていたアステラは、相変わらず抑揚の無い声で言った。

「ミツルギ=ツバキはこの場で保護する他無い。この岩山から出れば、即座にそこは戦場だ」

 それはその通りだった。
 マキナは入口を鋭くしたままの瞳で睨む。
 この奥の広間までの道は一本。僅かばかりくねっているせいで外の様子は分からないが、それでもすぐに外へ繋がる。
 外では現在、クロック=クロウが戦っている。そしてさらに村の外では、スライク=キース=ガイロードが魔物の大群と相対しているのだ。樹海の経路は言うに及ばずガルドリアが支配している。
 完全に密室だ。人間が出られる余裕は全く無い。
 すなわちツバキは、アステラ同様、マキナと運命を共にすることになる。
 器用なアステラなら逃げおおせることができるかもしれないが、ツバキは不可能だ。何せ、人間ならば分かるであろう罠に平気でかかるほどなのだから。
 そもそも、アステラがこの場にいることからしてなのだ、自分は。

「……この洞窟、どっか安全な場所は無いのかよ?」
「無い。だが一応、敵と『ターゲット』を結ぶ線上から逃れる場所はひとつだけある」
「……だけか」

 マキナもその場所は知っていた。
 このガルドパルナ聖堂は、入口から奥の間まで、曲がりくねっているとはいえほぼ1本道だ。
 だが唯一、そのルートから逸れて向かう場所がある。
 入口付近の横道に入り、その直後に広がる大広間。
 戦火によってこの世を去った、数多くのタンガタンザの民が眠る墓地だ。
 広さはガルドパルナの村さえ超えるほどの巨大空間。がっぽりと空いたその空洞は、多くの墓標で埋め尽くされている。百年戦争によって失われた多くの村の想いが沈められている場所だ。ツバキが足しげく通う理由もそこにある。
 しかし、あの場所は危険だ。
 当初、この奥の間と墓地のどちらに潜むべきか検討されたが、入口に入ってすぐに目に入る道の先にいるのは躊躇われる。
 魔物の大群が押し寄せたとき、墓地の広間で大量展開されれば終わりだ。ならば細長い道に罠でも張っていた方が守りやすい。
 であれば、危険と判断した墓地にツバキを避難させることはできない。

「いいかツバキ。お前はとにかくじっとしてろ。『ターゲット』の近くにいるのがすでに正気じゃないが、冷静なままでいろよ」
「は、はい。分かりました」

 素直な返事。ツバキは本当に、自分の言葉を理解しているのだろう。
 だが、マキナは思う。
 この子供は、きっとそれを忘れる。
 どこぞの当主様とは違い、口先だけでは無く、本心から頷いてはいる。しかし状況が僅かにでも変われば、この子供はそれを記憶から放り投げ、リセットされた状態で己の本能に従って行動をするのだ。
 マキナは皺を寄せた。
 何故、こんなことになった。

 自分は、ただ悪意ある人間に誘拐されただけだ。
 それが始まり。
 しかしその後、人間の悪意など一笑に付す化物が現れ、自分は指を差された。
 総てが変わってしまったあの夜を過ぎ、気づけば自分は戦争の中心に立っていた。
 その上女子供を巻き込んで、魔族の脅威にさらされている。

 不幸すぎる。
 あまりに―――優しさが無い。

 魔族に傷さえ負わせられないであろう自分が、間近で戦闘が起こっているのに身を振るわせることしかできない自分が、何故こんな物語に巻き込まれたのだろう。

 マキナは顔を伏せ、泣きそうな顔でアステラとツバキを眺めた。
 救ってやるとも言えず、守ってやるとも言えない自分が、ただただ恥ずかしくて、悔しかった。

 そこで。

 骨髄を吹き飛ばすほどの衝撃が聖堂を襲った。

――――――

 『蛇』の身体は閉じられた。
 ガルドパルナを囲むように回した身体の輪を狭め、村をすり潰したトラゴエルの一撃は、完膚なきまでに全ての建物を大破させた。
 『聖域』ガルドパルナは最早再起不能であろう。
 建物は廃材に変わり果て、箒で払われるように村の中心に集約されている。
 畑は吹き飛び植物は引き千切られ、数か月前まで人が栄えていた空間が、一瞬の内にタンガタンザの荒野となった。
 災害。
 意思のある者が介入したとは思えないその光景は、正しく災害の痕だった。


 しかし。
 1点だけ、僅かに破壊から免れた地点があった。

 箒の先の隙間に身を滑り込ましたように、巨神の御手を免れた空間が、確かにあった。

「……はーっ、はーっ、はーっ」

 クロック=クロウは、両手を突き出した姿勢のまま、恐る恐る目を開けた。
 震える両手を握り絞め、震える足を無理矢理立たせ、ゆっくりと振り返る。
 背後には、比較的破壊が緩やかな村。
 その先には巨大な蛇が鋏のように閉じられており、そして、それだけが座していた。

 村の全ては無に帰した。
 そんなことはすぐに分かる。
 あの『蛇』の身体が閉じられている以上、ガルドパルナは事実上消滅したことになる。

 クロックは、歯をギリと噛み、しばし余計な思考に時を費やした。
 ツバキが好きと言った家は、もう、この世には無いのだろう。

「……これでは、墓標が増える理由も分かる」

 クロックは、帽子を目深に被り、ギロリと『蛇』の身体を睨みつけた。
 『蛇』の身体はふたつ折りに閉じられているが、1点だけ、損失している部分がある。
 クロックをすり潰そうとした地点だ。
 その場所を担当していた岩石は今、クロックの足元で粉々に砕けている。どう見ても、普通の岩だった。

 自分の属性ならば砕けて当然。
 若い頃にかじった程度の魔術であったが、存外、自分は戦闘に向いているのかもしれない。

「さあ来い化物。そういう攻撃ならば用意がある」

 クロックが睨みつける先の、『蛇』の身体が千切れた場所。そこは再び無事な岩石が結合し、『蛇』の身体はひとつに戻った。

 やはり―――そういうことか。

 クロックは目を細め、マントに手を突き入れる。
 また―――岩を減らす作業が始まる。

「―――!!」

 『蛇』の身体が、今度は展開し始めた。
 再び村を拭い去るような岩石の猛激が放たれる。
 クロックは“壁”が近付く前に、爆薬を投げ放った。

 鼓膜を打ち破るような爆音。
 次いで落石のような破壊音が轟き、クロックの左右を千切れた『蛇』の身体が通過した。

「!!」

 しかし、流石は知恵持ちと言うべきか。
 先ほど凌がれた無駄な攻撃とは違い、岩の身体はクロックの背後で急停止。高速で結合を行い、そして『蛇』の身体は閉じられる。
 再び、爆弾が間に合わない距離に『蛇』の壁。
 クロックは両手を突き出し、手のひらに魔力を集中させる。

 月明かりが照らすのみの暗闇の世界。
 そこに、赤い光が灯った。

「―――ふっ」

 この魔術の名前は忘れてしまった。
 詠唱もできない、何かの魔術。
 だが自分は、この魔術を気に入っていた気がする。

 自分の属性が、破壊力の頂点に君臨する危険な力であることが分かった日。
 それとは別に、分かったこともある。
 運命を打ち破り、突き進むことができる属性ではあるが、同時に、“その反動を抑え込む術”を有していると。

 故にこの力は―――火曜属性は、何かを守るためにも使えるのだ。

 バンッ!! と破裂音が響き渡った。
 クロックが突き出した両手の前に、赤いベールが出現し、『蛇』の身体はまたも千切れる。
 村を瞬時に滅亡させる攻撃でも、クロックへの衝撃は無いに等しい。

 火曜属性の衝撃は驚異的である。
 爆弾そのもの―――あるいは、それさえ凌駕するような衝撃なのだ。最初の『蛇』の身体を閉じる攻撃をしたとき、クロックが爆弾を使用するのを控えたように、至近距離での爆発は危険極まりない。
 しかし、火曜属性の者はそれを実現している。
 その答えは、火曜属性の術者が元来有してしまう“癖”にある。
 破壊を打ち出す力と同時に、“破壊を打ち消す力を使用すること”。
 小柄な少女の細腕でも無傷で岩石が砕けるように、打ち消す衝撃は物理魔術を問わない。
 敵の攻撃を前にしたとき、回避や防御では無く、最も危険な“相殺”を狙うのは火曜属性の者ぐらいであると言われる。

 クロックはそこに着目した。
 火曜属性は、防御能力にかけても長けているのだと。
 物理的な防御力ならば、金曜属性には遠く及ばない。
 魔術的な防御力ならば、土曜属性には遠く及ばない。
 しかし火曜属性は、守る力を選ぶことも可能なのだ。

 破壊と守護。
 矛盾しているような力をその身に宿す属性は、岩石など遥かに凌駕する。

「ふん!!」

 今度は展開。
 『蛇』の身体は広がり、クロックを岩石の壁が襲う。
 クロックは、赤いベールを出現させ、岩を砕いてやり過ごした。
 この赤いベールに、相手を破壊する効果は無い。ただ、自分への衝撃を抑え込むだけのものだ。
 故に、敵が高速で突撃しなければ相手には何も起こらない。
 『蛇』は、自らの力によって、我が身を破壊している。

「!」

 『蛇』は、今度は身体を閉じなかった。
 破壊された身体を結合しつつもそのまま転がり、村の外まで広がっていく。
 すでにトラゴエルが通過した樹木は破壊され、村は岩だけに囲まれている。
 改めて全体を見渡して、クロックはギョッとした。
 『蛇』は、壮観とも言えるほど巨大だった。
 岩の身体に轢かれた樹木が千切れて埋め込まれた“荒野”は、ガルドパルナの面積を拡張し、禁断の樹海を開拓している。
 今まで部分部分でしか見ていなかったその全貌は、今まで戦闘を行っていたクロックでさえ、動くとは信じられなかった。

 『蛇』が身体を起こし始める。
 恐らく尾に分類される側の岩石はとぐろを巻き、恐らく頭に分類される側の岩石は鎌首をもたげ、再び『蛇』は夜空を突くが如く身体を起こす。

「う―――」

 ブッ!! と尾が走った。
 とぐろを巻いていた岩石の連なりが解放され、疾風のようにクロックに向かって突き出される。
 絶望的な光景に目を奪われていたクロックだが、即座に反応して地面に飛び込む。
 『蛇』の突きは、間一髪、轟音を響かせクロックの背後を通過した。

 “知恵持ち”。

 クロックは地面から身を起こし、即座に構える。表情は焦りのみが浮かんでいた。
 この魔物は、こちらの戦力を分析し、すでに的確な行動に移っている。

 万能に思える火曜属性の力だが、致命的な欠陥として、連続攻撃に弱い性質がある。
 と言うより、そもそも脅威の防御力を発揮できるのはほぼ一瞬だけなのだ。
 そもそも自己の反動を打ち消すために長けている力である。
 己、または相手の攻撃に一瞬だけ力を合わせ、反動を抑え込む。それだけで、火曜属性の者にとっては十分過ぎる。何故ならその防御が成立した瞬間、倒れているのは相手なのだから。

 そのため、トラゴエルの身体が繰り出す突きは最悪だ。
 最初の岩石を砕けても、次の岩石が襲いかかり、その先にも無限の岩石が控えている。
 この突きに、クロックの赤のベールは通用しない。
 範囲攻撃ならば一点突破で何とかなったが、こちらはまるで種類が違う。

―――どうする。

 クロックは『蛇』の頭にも尾にも警戒しながら、荒野となったガルドパルナをひた走る。
 動きを止めたら終わりだ。止まった瞬間、鋭い突きがこの身をすり潰してしまう。

「…………」

 クロックの背筋を、岩石の突きが掠める。
 心臓が早鐘のように成り続ける。

 自分は一体―――何をここまで必死になっているのか。

 クロックは成す術無く逃げ惑いながらも、自分へ疑問を投げかけていた。
 自分はツバキのため―――いや、違うか―――自分の死に場所を求めているのではないのか。

 軌道の変わった岩石は、間一髪踏み留まったクロックの眼前を通過する。

 非戦闘要員である自分。魔術もそこまで得意ではない。
 火事場の馬鹿力のような防御も、間もなく魔力が切れるだろう。
 危なくなったら逃げるつもりだったではないか。
 最早逃げることもできそうにないが、素直に『ターゲット』を差し出せば、話くらいは通じるかもしれない。
 妙なルールを設定する魔族軍だ。可能性はゼロではないだろう。

 だが―――何故だ。
 自分の死に場所を探すよりも―――それを嫌う自分がいる。

「―――、」

 トラゴエルは無差別に攻撃を繰り出していたわけでは無かったようだ。
 気づけばクロックは岩山の壁にまで追い詰められていた。
 広大な荒野となった村は、いつしかトラゴエルの身体に埋め尽くされ、移動範囲が極端に狭くなっている。
 あと幾度か攻撃を繰り出されたら、逃れる術は無いだろう。

「……」

 クロックは、呆然と、蹂躙され尽くされた村を眺めた。
 トラゴエルの身体に阻まれ、見える範囲はずっと狭い。
 だが、破壊の痕は、生々しく土煙を上げている。

 どれだけ時間が経ったのか分からない。
 5分ほどだったようにも、数時間だったようにも思える。
 夢の中の物語のように時間間隔が曖昧で、おぼろげで、そしてあまりに儚ない場所だった。

「…………」

 こんな風に―――自分の村も、滅ぼされた。
 魔物が蹂躙し、無に帰されそうなところを、ミツルギ家が止めを刺した。
 最終的にはミツルギ家の判断によって破壊された自分の村だが、結局のところ、原因はこの戦争だ。
 ミツルギ家を恨むのはお門違いなのだろう。

 ならば。

「……そうか」

 クロックは目を伏せて呟いた。
 今頭上では、トラゴエルが鎌首をもたげ、獲物を鋭く狙っているだろう。

「そうだ……。そうだな」

 クロックは拳を握り、僅かに微笑んだ。
 こうしている間にも、トラゴエルはクロックを轢き殺す算段を立てているのだろう。
 もしかしたら、すでに尾が走って自分に高速で接近しているかもしれない。

 だが、クロックには、はっきりさせたいことがあった。

 自分の死に場所を探していた。
 確かにそうだ。
 自分は失ってしまった仲間たちに、この身を捧げたいと思ったのだ。

 それは事実。

 しかしその一方で、自分から発する想いがある。
 受動的なものでは無く、クロック=クロウという人間が、強く強く想うこと。
 そんなもの、ひとつしかない。

「俺の村を壊しやがって―――ふざけんじゃねぇぞコラ」

 トラゴエルが尾を放った。
 クロックは身をひるがえして突きを回避する。

 激震。
 トラゴエルの尾はガルドパルナ聖堂の岩盤を突き破る。

 岩山が鈍く揺れ動く。
 しかし、乱雑な開通工事でも、岩山が崩れるようなことは無かった。
 ミツルギ=サイガが言った通り、この岩山は丈夫らしい。

 トラゴエルが尾を引き抜いたところで、クロックは空洞に身を滑り込ました。
 『ターゲット』がいようが関係無い。広い空間でトラゴエルと戦うのは限界だ。

 トラゴエルの縦横無尽な攻撃を避けるには、ある程度制限が必要だった。

「そうじゃなきゃ―――こいつをぶっ殺せねぇだろうが!!」

 クロックが入り込んだのは、案の定、多くのタンガタンザの村が眠る墓地だった。
 広さだけならガルドパルナを超えている。
 だが、ここには高さの制限があり、そして、罠が大量に仕掛けてある。

 クロックは手をかざし、自らの魔力で灯りを灯した。
 赤く光る墓標は小刻みに揺れ、更なる衝撃を予感させる。

 クロックは目を細め、外の情景を予想した。
 恐らく、馬鹿正直に空いた穴から突撃してくることは無い。
 岩山は無理なのだろうが、村と隣接するように墓地があるこの空洞が、唯一壁を討ち抜ける。
 そしてトラゴエルの頭と尾の位置からして―――

「そこだろ!!」

 クロックは爆弾を壁に投げつけた。
 次の瞬間、壁が吹き飛びトラゴエルの頭が姿を現す。

 爆発。

 完璧なタイミングで爆ぜた攻撃は、トラゴエルを怯ませる。
 頭の岩は―――砕けない。
 僅かにひびが入っているが、身体の岩のように軟ではなかった。

 やはり―――あれがトラゴエルの本体。
 あの部分は、特殊な岩石のようだ。

 もしかしたら魔力の原石を使っているのかもしれない。
 この―――岩山のように。

「はっ!!」

 クロックは砕けて転がっていた形のいい石を投げつけた。
 いつしか赤く光っていた石は、怯みながらも突撃を目論むトラゴエルに向かっていく。

 キーン、と鈴のような音が響いた。
 トラゴエルの身体がピタリと止まる。

 『ターゲット』であるエニシ=マキナにこの岩山の“材質”を聞いたとき、試してみたのだが、これはかなり効率的だ。
 魔力を込め、押さえ付ける魔術を発動しつつ相手に投げつける。
 すると魔術を受けつけない魔力の原石は魔術と成った魔力を弾き出す。その僅かなタイムラグが、火曜属性の遠距離攻撃を可能とするのだ。
 範囲は狭く、破壊効果も無い。
 相手が大群であることを想定して爆薬の方を優先していたが、突きで攻撃してくるトラゴエル相手ならば有効だ。

 クロックは足元に転がる岩を拾い集めて魔力を込める。
 準備は万全だ。
 岩山への侵入を防ぐことができる。

 トラゴエルは警戒しているのか、容易に突撃してこなくなった。

 クロックは不敵に笑う。

「来いよコラ。“お前の弱点は分かっている”」

 そのとき。

「……、って、え、クロックさん?」
「動くなっつったろこのガキ!!」

 『ターゲット』と―――何故かミツルギ=ツバキが姿を現した。

――――――

「はっ」

 人のものとは思えぬ大剣を荒野に突き刺し。
 全身におどろおどろしい毒物を浴びながら。

 スライク=キース=ガイロードは鋭く笑った。

 毒物に関しては問題無い。すでに治癒が始まっている。
 深刻なのはスタミナか。
 毒物のせいで順調に回復せず、四肢の動きが微妙に鈍い。
 肩で息をしなければ呼吸はままならない。
 疲弊感を曝してまでも、体力回復に努めなければ危険な状態だった。

 しかし。

 その戦果は、人の遥か先を行っていた。

「……随分と―――慎ましい光景だなぁ、おい」
「お前には幾度となく驚かされる」

 水の中で響くような声。
 無機物型の“言葉持ち”は、水色の身体を波間のように揺らめかせ、タンガタンザの大地に漂っていた。

 そして―――今この場の敵は、その存在だけだった。

 風が、タンガタンザの大地に吹いた。阻む者は無く、荒れ狂った大地を吹き抜け、ひとりと1匹の身体のみを叩く。
 戦闘が開始されてから半日をゆうに超えた大地には、魔物大群は存在しない。
 総て―――その剣から逃れることはできなかった。

 こうしている間にも、スライク=キース=ガイロードの体力は急速に回復していく。
 最早身体の造りは、およそ生物としての枠組みを超えた構造だった。

「“線超え”」
「あ?」

 液状の魔物は、呟くように囁いた。
 不快な声を睨みつけながら、スライクは応じる。
 体力回復の機会をくれるのならばありがたい。

「以前、アグリナオルス様が私に教えて下さった言葉だ。生物には確かに限界ラインが存在するのに、歴史はそれを嘲笑った存在がいることを教えてくれる。スライク=キース=ガイロードは“線超え”、ということか」
「線だがなんだか知らねぇが、随分悠長な評価だなぁ、おい。全滅してんぞ」
「まだ私がいる」

 恐らく手と思われる位置が、恐らく胸と思われる位置を叩いた。
 この光景を前にしても、液状の魔物に―――もともと表情は分からないのだが―――焦りは見えない。

 スライクは、身体の状態を確認した。
 毒物。完全除去終了。
 体力。順次回復中。
 四肢は十分に動く。

 何も問題は無い。

「スライク=キース=ガイロードに“線超え”という言葉を使うのならば、私にも同様の言葉が使える。魔物の中の“線超え”―――お前たちは、“言葉持ち”という言葉を使うらしいな」

 剣を大地から抜き放った。
 重く、切れ味は無い、高速の世界でのみ剣と化す神話の再現。
 スライクは、猫のような瞳を光らせた。

 この大群を―――野生の塊を抑え、率いて見せた“言葉持ち”。

 来る。

「人間が。話を聞けよ」

 ビュッ!! と弾丸が射出された。
 鋭く走ったのは青い魔術。それが水曜属性の魔術だと察した瞬間、スライクは剣を振り抜いた。

 水面を叩くような音が響いた。
 スライクが振るった大剣は弾丸を斬り裂き、全てを背後へやり過ごす。
 魔術の原石を使用した剣。それは魔術を受けつけず、魔術攻撃すらも切断する。
 スライクは即座にその身を暴風と化し、液状の魔物に斬りかかった。

「―――!?」

 一瞬驚愕。そして即座に距離を取る。
 今、振り切った剣は液状の魔物の脳天を捉え、股下まで斬り捨てた。
 しかし、あまりに抵抗が無い。
 まさしく水を切るかのように、スライクの一閃は大地を砕くために振るわれたようだった。

「―――分かると思うが」

 水の中で響く声。それが、スライクが切り裂いた液体から発せられた。
 生存。
 生物ならば死は免れない一撃を受けてなお生存。
 これが“無機物型”。
 “環境”であるその存在は、生物のロジックを超えている。

「私の身体は水である。剣が斬れるものではない」

―――だが、想定できることはある。

「ならよぉ!!」

 スライクは、液状の魔物に急接近して横一閃を放った。
 同時に切り裂く個所を注視する。

 高速の世界の剣撃が創り出した攻撃に合わせ、液状の魔物は即座に修復を始めていた。
 液状の魔物の身体の幅は、剣の幅より僅かに太い。
 剣が通過した瞬間に身体を繋ぎ、決して身体の水を分けようとはしない。

 やはりか。

 振り切ったスライクは、再び距離を取る。

 “核”の存在。

 あの液体の身体の中に、“本体”がいる。その存在と完全に切り離された液体は、結合されることは無いのだろう。身体の液体には僅かな魔力を帯びさせているに過ぎない。
 だがその結果、物理的な攻撃には何ら被害を負わず、即座に修復して見せる―――不死とも言える身体を実現している。
 無機物型として有名なスライムやゴーレムは、ただ身体の材質が水や岩であるということ以外、普通の生物と変わりは無い。斬激を浴びせれば飛び散るし、岩であれば砕くことは容易だ。ある程度耐久はあるらしいが、身体の損壊はそのままダメージに繋がる。
 しかし目の前の“言葉持ち”は、異質も異質。
 いかに身体を切り刻もうとも、ダメージは蓄積しない。

 ゆえに攻略法は、“核”を正確に斬り裂くか、高速結合を凌駕する全身全霊を込めた一閃―――

「……」

―――と、思った瞬間に殺される。

「シュリスロール」

 散弾のような水滴が唸りを上げて降り注いだ。
 スライクは荒れた大地を踏み砕き、身を翻してそれを避ける。一部の隙も見せられない。

 ひとつ目の攻略法―――敵の“核”を正確に討ち抜く。これは実質不可能だ。
 “核”のある場所の見当は付けられるが、サイズも分からないし、身体の中を移動するかもしれない。極小の“核”だとしたら、余程の“決め打ち”でもしない限り捉えられないだろう。

 そしてふたつ目の攻略法―――高速結合を凌駕する一閃。これは―――“論外”だ。
 仮に。そう、仮に、自分が無機物型の魔物を作り出し、その中に“核”とも言える存在を造るとしたら、どうするか。
 より不死を狙うとすれば、何をするべきなのか。
 そんな答えは、ロジック上、決まっている。

「―――、」

 スライク=キース=ガイロードは思考する。
 自身の身体は問題無い。疲弊はしているが、全能を捨て去ってまで手に入れた木曜属性の身体はまだまだ駆け抜けられる。
 しかし、攻撃方法には難がある。
 剣では水を斬り割けない。
 いや、魔術攻撃にしたって、奴の身体を通り過ぎてしまうだろう。
 身体全てを“核”ごと吹き飛ばすような攻撃が、唯一水の身体を凌駕する。それも、地中に逃げることも許さぬ高速攻撃が、だ。

「―――、」

 そこで―――“降りた”。
 無機物型の魔物を凌駕する手段が、スライクの脳に下ってくる。

 世の理すらも凌駕する、驚天動地の最強魔術―――いや、魔法。
 その存在をスライク=キース=ガイロードは認識した。

 だがその可能性は、自分はとっくに捨て去っている。弾かれるように選択肢は消え去った。

「は―――」

 どれだけ可能性を切り捨てても、情報だけは降りてくる、この状態。
 とうに不可能になっている手段を、幾度となく、鬱陶しくも世界の裏側は降ろしてくる。

 なんとも生半可な自分を、スライクは嗤った。

 ますます不気味で奇妙な属性だ。
 だがその疑問は、今はどうでもいい。

 “その魔法”が最良の方法だということは分かった。
 確かにそうだ。今認識した“それ”を凌駕する力は存在しない。

 だが―――唯一の方法?
 笑わせる。

「―――疲れちまったよ」

 荒れ狂う暴雨のような攻撃の縫い間に、スライクはぽつりと呟いた。
 嵐は一時止み、液状の魔物は不気味に漂う。

「? 想定よりも幾分早い」

 響き渡るような声は、“言葉持ち”らしく、感情が込められていた。
 この魔物の基本戦術は、その不死ともいえる身体を盾に、攻撃を繰り返すというものなのだろう。
 ただ相手が疲弊していくのを待つだけの戦いは、確かに単騎では最強の部類に入る。
 その将が大群を引き連れていては、タンガタンザの歴史が黒星一色なのも頷ける。

 だが、それもここで終わりだ。

「体力の話じゃねぇよ。この戦争がだ」

 大群を相手にしていたときよりは動く頻度が減ったからだろう。
 僅かに回復している自分の身体を認識しつつ、スライクは笑った。

 不死の身体と、無限に近い体力の対決。それはいずれ、不死に軍配が上がる。
 そんなことは分かっていた。
 決定的に“差”があるのだから。

 しかし。

「随分勿体ぶって出てきたようだが―――哀れだなぁ、おい」

 スライクは、ゆったりと、神話の物品を構えた。

「てめぇは瞬殺だ」

 その“差”を埋める、『剣』が輝いた。

――――――

 戦闘に対しての凡人でも、その殺意は即座に察することができた。

「―――ツバキ!!」

 エニシ=マキナはツバキを抱え上げ、入ってきた通路に逃げ込んだ。
 墓場に立つクロック=クロウは、僅かな光源の中、目を見開いて固まっている。

 直後、轟音。

 墓場の壁がお伽噺のように砕かれ、寓話のような化物が姿を現した。

「―――っ、っ、」

 ツバキを抱えて倒れ込んだマキナは、身体中から汗を噴き出した。
 確かに騒音はすると思っていたが、まさかここまでの化物が相手だったとは。
 そして―――よりによって“こいつ”とは。

「トラゴエル……!!」

 あの運命の日に出遭った『蛇』が、岩の貌をマキナに向けていた。
 そして岩に空いた瞳に光が宿る。

 ぞわりと背筋が冷え切った。
 感情の読めない魔物だが、今はっきりと、分かってしまう。

 トラゴエルは、『ターゲット』の発見に、歓喜している。

「ふんっ!!」

 トラゴエルの貌が赤く光った。
 それが、クロックが投擲した石のもたらした効果だと知ったときにはトラゴエルの頭は墓場から姿を消していた。

 しかし、そこで、見えてしまった。
 村と墓場を隔てる壁はすでに蜂の巣のように穴が空き、外の様子が確かに見える。

 “消滅した村”―――何も無い世界。
 そして、月下に浮かび上がる強大な『蛇』。

 あれは―――

「エニシ!! とっとと消えろ!!」
「―――、っ、」

 思わず、本当に思わず足を踏み出そうとしていたマキナは、クロックの荒い口調に止められた。
 確かに自分は『ターゲット』。
 戦場の最前線とも言える場所にいられるわけが無い。
 マキナは拳を握りしめると、ツバキを連れたままクロックに背を向ける。
 これからは、何があってもここに来るべきではないのだろう。
 ここは、非戦闘要員がいて良い場所では無い。

 が。

「戻ったらアステラを呼んでくれ!!」
「は!?」

 ツバキを抱えて逃げ出そうとしたマキナは、予想外の言葉に足を強引に止めた。
 振り返ればクロックが、両手に石を抱えて駆け寄ってきた。

「何言ってんだ!?」
「ひとりじゃあの野郎が殺せねぇ!! アステラを呼んで来い!! 爆薬も持ってこいと伝えろ!!」

 クロックの荒だった口調に、マキナは気圧された。
 だが、この男は何を言っているのか。

 アステラ。
 この数ヶ月自分と共にスライク=キース=ガイロードの剣を作り上げ、戦争の下準備をしただけ女性。
 武器の使用は“見たことがある”からできるようだが、それでも、彼女自身言っていた通りの―――“非戦闘要員”。

「おいおいふざけんな!! あんな化物の前にアステラを連れ出せってのか!?」
「どうやってもあるか!! あいつを殺すにゃ人数がいる!!」

 恐らくクロックも、アステラの戦闘能力は理解しているであろう。
 しかし彼は譲らない。
 その剣幕に気圧され、マキナは口を噤んだ。
 あまりに非情なことを口走るこの男は、自分自身も非戦闘要員だと言っていた。
 今も、あの巨大な『蛇』を撃破できるとは到底思えない。
 だが何故か、矛盾したことに―――力強く感じるのだ。

「いいから連れて来い!!」
「っ、そんなことは、させられない」

 トラゴエルは、今も突撃の機会を試みているだろう。
 今にも洞窟の岩盤を自身の身体で打ち抜いてきそうだ。
 しかし、それでもマキナは動けなかった。
 逃げろと言われれば尻尾を巻いて逃げよう。隠れろと言われれば泥の中にだって飛び込もう。
 だが、自分の代わりに誰かを差し出せと言われたら―――それは流石に違う。
 そんな覚悟は、自分には無い。

「ちっ」

 クロックは踵で地面を蹴った。冷静さを欠いた子供のような行動。
 そして底冷えするような瞳で、マキナを睨んだ。

「お前が止めるなら、お前を殺してでも連れてくる」

 ピリリと背筋が凍った。
 戦争のルール上在り得ないその言葉は、彼の本意にしか聞こえない。
 うろたえるマキナに、クロックははっと息を吐き、さらに言葉を続ける。

「“駄目元で頼んでるわけじゃねぇよ。時間の無駄だからな”。俺はどうしても、あの野郎をぶち殺してぇんだ」
「っ―――そこまでするなら、逃げた方がいい。あんなもんが攻めてきた時点で負けだ。今なら樹海にトラゴエルが作った道があるはずだしよ」

 マキナは、きっと誰もが心の中で思っていたであろうことを口にした。
 『ターゲット』が範囲外に出れば、当然戦争はタンガタンザの負けに終わる。
 しかしそうなれば戦争の続行。たかが『ターゲット』ひとりに固執したりしないであろう。
 上手くいけば生き長らえることができるかもしれない。
 卑怯なことかもしれない。タンガタンザの民の誰もが望む1年の平穏を自ら捨てるのだ。絶望的な状況であれ、僅かな機会を捨てるのは、まさしく非情なことだろう。魔物の大群にひとり立ち向かっているスライクにも合わせる顔は無い案だ。
 だがそれでも、その甘い思考は、1度浮かんでしまえば沈まない。

 しかしクロックは、表情を変えなかった。

「“馬鹿が。それじゃあ奴を殺せねぇだろう”」

 その言葉で、マキナの中で何かがキレた。
 クロックの頭には、微塵にも、『ターゲット』のこともタンガタンザのことも存在していなかった。

「私情じゃねぇか!! あんた目的見失ってんだろ!! ツバキもいんだぞ!?」
「そのガキは、自分でここにいるだけだ!!」

 ツバキのことを出せばもしやと思ったが、クロックの意思は僅かにも揺るがなかった。
 彼はすでにツバキのことを認識し、その上で、トラゴエルに立ち向かうと言っている。

「俺にとっちゃ、お前も、ツバキも、タンガタンザも、関係ねぇ!! あの野郎は、ガルドパルナを―――『村』を、殺したんだぞ!!」

 クロック=クロウは、小さな村を創り上げた人物だと聞く。

「っ―――」

 確かにトラゴエルの接近をここまで許した以上、攻略は必須だ。
 しかし、撃破ではなく逃亡ならばすでに攻略していると言える。先ほど見たクロックの“止める”魔術。
 トラゴエル1体ならば、抑え込んで逃げられるかもしれない。
 逆に“知恵持ち”がクロックの魔術を攻略したら、それこそ打つ手は無い。
 生存率が最も高い選択肢。
 今は一刻も早く逃げるべきなのだ。

 一方、クロックの意見にも一理ある。
 トラゴエルが樹海に道を造ったことで、新たな魔物の軍がそのルートから雪崩込んでくるかもしれない。
 そうなれば鉢合わせの上挟み打ちだ。
 ならば当初の予定通り、この場所で籠城戦をした方が時間は稼げる。
 タンガタンザが勝利する選択肢。
 今は一刻も早くトラゴエルを撃破し、更なる軍政に備えるべきなのだ。

 論理や計算で言えば、両者の言い分はどちらも一長一短。
 しかし互いにそんなことは頭の外に追い出していた。

 マキナは、この場全員の命を紡ぐことを願い。

 そして、クロックは、

「紡ぐことにも意味はある。だがな、目の前で村ぶっ壊されて、好き勝手やられて、それでお前は悔しくねぇのかよ!?」

 ああ、そういうことか。
 マキナは拳を握り絞めた。
 あらゆる計算に基づいた上で、それを放り投げて出てきたのであろうクロックの言葉。
 それは奇しくも、結局は誰もが思っていたことだった。
 悔しい。
 そんな想いを、確かにマキナも持っていたのだ。

 だから。魔物に対抗できる剣を創り上げた。
 だから。危険でも、反対でも、アステラやクロックを戦場から追い払わなかった。

 逃げ伸びて、誰かにこの恐怖を、この無力さを伝えたいと思ったのは、いつか誰かにこの非情を凌駕してもらいたかったからだ。

 そう。
 結局自分は―――魔物たちの鼻を明かしたかったのだ。

「私情で結構。戦争だ」

 僅かに冷静さを取り戻したのか、クロックの声は静かだった。
 冷たいような言葉。
 争いというものが思想の違いから―――想いの違いから起こるものならば、確かに戦争は私情で溢れ返っている。
 それでも冷静さや役割は必要で、常人には理解できない。

 そして高が魔物の1匹の魔物によって村が全壊したのも―――理解できない。
 それが自分の“外”の世界では、もう百年も続いていると言う。
 魔物たちの都合で。

「ぁ……」

 腕の中のツバキが、小さく唸った。
 眉を僅かにしかめ、空洞の中の何かを見ている。
 マキナにはどこを見ているか分からなかった。
 だが恐らく、彼女が見ているのは、毎晩訪れていた場所だったのだろう。
 砕かれた岩石に弾かれ、埋もれ、もう何があるか分からない。
 多分、“外れた”彼女は、祈りを捧げるものが無くなっていることに、ただ純粋に困っているだけだろう。

 この場所は、多くの私情の結果によって、作り出された場所だった。

「もう1度言う。お前はツバキと奥へ逃げろ。あいつは俺とアステラが片付ける」

 クロックの眼は、怒りが僅かに収まったからか色を変え、冷たくなっていた。
 はっきりと、邪魔だと言われている。

 ツバキにも聞こえたのだろう、何も言わず、ただ、目を伏せた。
 初めて見た表情だ。
 彼女はきっと、思っている。
 これだけ好き勝手に暴れられ、自分の家さえも、日課でさえも壊された、無力な被害者は、思っている。
 悔しい、と。

「……」

 自分の世界が、空っぽなわけだ。
 過去の自分が勝手に諦めたペナルティ?
 だから何も成し遂げられない?
 笑わせるな。お前は未来の自分の言い訳材料に成るつもりか。

 英雄には成り得ない自分は、伝えることで完結すると思っていたが―――どうやら違うらしい。アステラには、知った風に、随分と無責任なことを言ってしまった。
 今ここで感じる想いは、今の自分だけのものだ。
 きっとこの先、誰かがこの物語を知ることになっても、例え未来の自分であっても、この感情の半分も伝わらないだろう。いや、記憶の中に留まることも無く、ただの無駄話として耳を通り過ぎてしまうだろう。

 今、ここにいる者だけが。
 今、これを経験している者だけが。

 想いを元に、タンガタンザ物語を刻み切れるのだ。

「……完結させよう」

 マキナは、ゆっくりと目を開いた。

 紡ぐことは後の話だ。
 今はただ、この感情に身を任せよう。

 クロックの思っている通り、自分は足手まといだが―――この場に立つには、私情でいいのだろう?

「爆薬なら、ここにもある」

 マキナは自分の胸から、拳大ほどの爆薬を取り出した。
 封を切り、投げ付ければ爆発が起こる、子供にでも扱える物品だ。
 胸ポケットには、まだいくらか入っている。

「ツバキ。アステラのところに逃げてろ。罠には気をつけろよ」
「え……、え……?」

 まだ動転しているのか、両足で立つこともおぼつかないようだったが、軽く背を押すと、よろよろと奥へ向かって進んでいった。

 そしてマキナは、クロックに並び立ち、トラゴエルの様子を巨大な穴から窺う。
 随分と静かだったが、どうやら何かを思考しているようだった。
 単純な突撃はクロックに防がれるため、その解決策を思案している。
 そんな“知恵持ち”ならば、夜明け前にここを突破して見せるだろう。
 だからその前に―――倒す。

「エニシ。お前は自分の立場を理解しているか?」

 クロックの表情は、別に驚愕しているわけでもなく、ただ単純な戦力としてマキナを値踏みしているようなものだった。

「私情だよ。立場なんか関係無い」

 自分が死ねば全てが終わる。
 だが別に、『ターゲット』が戦ってはならないというルールは無い。
 いやそもそも、ルールなんて必要ないではないか。

 これは、私情なのだから。

「ぶっちゃけ俺はアステラより役に立たないが、勝算はあるんだろ?」
「ある。が、外れていたら死ぬ」

 勝つか死ぬか。
 そういうものだ。
 そういうものなのだ、戦争という、自分が知らなかった世界は。

 人間は知らないことを知りたいものだと表現したが、少なくともマキナは、こんな世界を知りたいとは思わなかった。
 だけどとりあえず、身を縮め込ませるように隠れていた『ターゲット』としては、百年戦争に巻き込まれ続けたタンガタンザの民としては、こんな世界に言いたいことはある。

「てめぇらの都合で巻き込んでんじゃねぇよ、いい迷惑だ」

 思案を終えたのか、トラゴエルは再びゆったりと、突撃体勢をとった。

 あくまで平穏に過ごしていた自分の世界を壊した存在が、
 逃げたい気持ちは確かにあるが、そうすると―――こいつらの鼻を明かすことができない。

 この戦争に勝利することによってのみ、自分の想いは完結するのだから。

――――――

 スライク=キース=ガイロードは己の剣の鼓動を感じる。
 生きているかのように錯覚する感触がした。
 求めれば応じるように、この剣は脈打つ。

―――術式の進捗率、およそ30%。

「シュリスロール」

 液体の魔物から放たれた水曜属性の上位魔術は、最早人が認識している同種の枠を超えていた。
 タンガタンザの大地を巻き込み、さながら土石流のように押し寄せる巨大な水流が唸りを上げて襲いくる。
 それが、十数本。夜空に魔力の波動を蠢かせ、それらは龍の大群とも形容できた。
 流石に“言葉持ち”と言える。
 水曜属性の術者は力を増すごとに操れる魔術の量が増えると聞くが、かつてここまでの量を操った魔術師は存在しないであろう。

―――初代七曜の魔術師。

 スライクの脳に、余計な情報が降りてくる。
 覗いてみれば、いた。
 最も数が多いとされる水曜属性の魔術師―――その頂点。
 魔力制御に秀でている水曜属性であるにもかかわらず、あまりに膨大な自己の魔力の反動で、声を失った史上最強の水曜属性の術者。
 華々しく神話を飾ったその魔術師は、目の前の怒涛の光景すら片手間に演出してみせたようだ。

―――術式の進捗率、およそ50%。

 余計な情報を置き去りにして、スライクは大地を駆けた。
 滝壺にでもいるかのように錯覚するほど打ち下ろされる魔術は、大地を抉り、吹き飛ばす。
 スライクは目を細め、液状の魔物を視認した。数多の破壊の先、液状の魔物は動いていない。
 どうやらこの魔術に―――いや、スライク=キース=ガイロードに、全てを捧げているようだ。
 先ほど、自我が目覚めたばかりと言っていたが、それが幸いしている。
 あの液状の魔物は、いかに理知的な風に装っても、未だ本能を抑えきれていない。
 奴の頭からは、すでに『ターゲット』のことが抜け落ちているのだろう。

 スライクのみに、固執している。

「―――ちっ、」

 進行方向に、“龍”が叩き落とされた。
 スライク自身は狙わず、動きを止めるために放たれた攻撃に、スライクは急停止。そして即座に新たなルートを駆け抜ける。直後、背後の大地が吹き飛んだ。

 スライクは握る剣に鼓動を感じた。
 現在、進捗率60%。
 途端に滞り始めた。
 やはり身体能力に総てを捧げた自分では、器用な真似はできないらしい。だが、一応は自分が日曜属性の汎用性を捨ててまで手に入れた力の一部だ。
 そんなものは、“不可能ですら”ない。

「シュリスロール」

 今度は直線。
 空から撃ち落とされるのではなく、スライクを地面から抉り取るように正面から魔術が襲ってきた。
 スライクは剣を一瞬構え、即座に退く。
 この剣は魔力の原石を使用しているため、魔術の両断は可能だ。
 原石は、魔術という不確かなもの弾き、物体として捉えるような性質を持っているのだから。
 だが今、そんな余計なことはさせられない。

 進捗率は、70%。

「瞬殺、と聞いたが?」

 破壊の轟音の隙を縫って、言葉が届いた。
 水中で響くような声。
 “言葉持ち”の、言葉。

 感情は伝わり難いが、どうやら相当苛立っているらしい。
 この魔物は、自分の目的を忘れている。

「分かりやすくていいよなぁ、目の前の野郎をぶっ潰すのはよ」

 スライクは呟き、なおも大地を駆け抜ける。

 太古。
 “二代目勇者”―――ラグリオ=フォルス=ゴードは敵の数を数えようともしなかったという。
 計算することに意味は無く、目の前の敵を撃破し続け、その中に、“ただ魔王が含まれていた”という超越者。
 ゆえに彼の周囲は、常に戦火に包まれていたと言う。

 至ってシンプルなその『剣』を前には如何なる謀略も通じることは無く、彼は威風堂々戦場を駆け抜けた。

―――術式の進捗率、およそ80%。

 スライクはすっと瞳を鋭く細める。
 無機物型であろうと、それを餌とする狩猟動物のように、液状の魔物を捉えた。

 奴は私情で動いている。
 ここまでの力を持っているのならば、あの大群と共に攻めてくればスライクを突破できたかもしれない。
 もしくは、以前見た、地面に溶け込む能力を使い、村へ侵入すればスライクを突破できたかもしれない。
 奴は、この戦争を任されたと言っていた。
 つまり、奴の役割は、スライクを撃破することでも、全軍を率いてお山の大将を気取ることでもなく、『ターゲット』の破壊だ。

 だが、それでなお、スライクは思う。
 それで良い、と。

 先のことばかりを考えて、思うまま行動できなくなるのは、進化とは言えない。

―――術式の進捗率、およそ90%。

 間もなく、スライク=キース=ガイロードは、この大剣は奇跡を起こす。
 数で大きく劣る今年の戦争において、最重要課題である魔物の大群は姿を消した。
 スライクの目的はすでに達成しているとさえ言ってもいい。

 だがそれでも、スライクは止まらない。
 スライクは、己が思うまま、この大剣を振るうのだ。

 それで、達成できる。
 そして、証明できる。

 決められた運命など、この手で斬り裂くことができるのだと。

「―――ならよ、始めっか」

 スライクは大剣を掲げる。

「“言葉持ち”らしく、最後に何か言い残せや」

 『剣』が駆けた。
 見渡す限りを埋め尽くす魔物の大群を僅かひとりで討ち滅ぼした化物が、未知の無機物型に突撃する。

「―――、」

―――かかった。

 液状の魔物は、“思考し”、歓喜した。

 液状の魔物は、“全て分かっていた”。

 スライク=キース=ガイロードが、魔術を回避しながら何らかの術式を組み上げていたことも、そしてそれを凌駕する方法も。
 スライク=キース=ガイロードは確かに脅威だ。
 暴力的なまでの力。無限を思わせるタフネス。そして尋常ならざる回復速度。
 どれを取っても人の枠を超えている。いや、生物の枠と言った方が的確か。
 結果、主に任された大群は全滅。スライク=キース=ガイロードは、その剣ひとつで打ち砕いて見せた。

 だが。
 スライク=キース=ガイロードにも欠点はある。
 攻撃手段が剣しか存在しないのだ。
 恐らくは潜在する魔術能力を総て身体能力に捧げた結果だろうが、決定的に間合いが短い。何をするにしても、相手に接近しなければならないのだ。
 そして同時に、防御手段も回避のみ。先ほどの動きから、剣は防御に使用できない。

 故に。
 回避不能な魔術攻撃には無力。

 液状の魔物は、荒ぶる暴風の突撃に、“両腕を形作り”、突き出す。

 “スライクの動きを察し”、魔術攻撃と並行して組み上げていた大規模術式が発動する。

 直後、総ての視界を濁流が埋め尽くした。
 月下、土煙を上げて突き進んでいたスライク=キース=ガイロードは成す術もなく飲み込まれる。
 肉が焼けるような音が響く。
 視界が歪な泥で埋め尽くされる。

 液状の魔物が放った大規模術式は、人智を遥かに超えていた。
 人など破壊対象ですらない広範囲攻撃は唸りを上げ、僅かひとりを襲い尽くす。
 退路も何も無い。回避は不可能だ。

 互いに狙いは、術式の完成したこの一瞬。
 故に、結末は遠距離攻撃に軍配が上がった。

 が。

「―――、」

 濁流総てが染め上げられた。
 星々の灯りを凌駕する、光という概念の根源が強く輝く。
 液状の魔物の思考は、全てその色に捧げられた。

 決めたはずの必殺の術式。
 決めたはずの戦闘。

 しかしそれらを瞬時に覆す―――常識を斬り裂く最強属性。

「っっっはぁぁぁああああーーーっっっ!!!!」

 暴風。
 濁流すら吹き飛ばす嵐が踊った。
 再び肉の焼けるような音が届いたときには、大規模術式は弾かれたように四散し―――“スライクの身体に取りこまれていた”。

 暴風が、黄金色に輝くスライクが、駆ける。

「特化―――“木曜特化”!!」

 最初から分かっていたことだった。
 液状の魔物は走馬灯のように“知識”が呼び起こされる。
 スライク=キース=ガイロードの、尋常ならざる身体能力。
 それは日輪属性の万能な力を木曜属性に突出させたゆえのものだと。

 しかしこれは、程度が違い過ぎる。
 スライク=キース=ガイロードと以前接触した時点では、彼は魔術などまるで習得していなかったではないか。
 それなのに、スライク=キース―ガイロードは、すでに木曜属性の上位魔術を習得している。

 スライク=キース=ガイロードが術式を組み上げているのは、剣だけだと思っていた。
 しかし、彼の身体自身にも、その色は宿っている。

 最早オリジナルと言ってよい。
 こんな―――“全身を魔力吸収で覆う魔術など”。

「死んどけや」

 猫のように鋭い眼が液状の魔物を射抜く。
 液状の魔物は、知識ゆえに察し、むしろ笑いが込み上げてきた。

 この術式を組み上げられた時点で、液状の魔物の敗北は確定した。

 木曜属性。魔力吸収魔術を使用する、あらゆる魔術攻撃の天敵。
 その力を有した以上、スライク=キース=ガイロードに魔術攻撃は“必然的に通じない”。

 そして―――武具。眼前で振り下ろされる、神話の物品。
 魔力を溜め込み、魔術を弾く原石の剣。
 剣に込められた日輪の魔力は、木曜魔術に変換され―――“吹き飛ぶように射出される”。

 ザンッ!!

 落雷のような斬激音が大地に響いた。
 何かを言い残す間もなく切断された液状の魔物は大地ごと砕かれ二分される。

 修復は行われない。
 木曜魔術の斬激は、切り口の魔力を消失させ、壊死させたように結合を封殺する。
 同時に“核”も破損したようだ。
 身体中に魔力を溜め込んでいたがゆえに、木曜属性の浸食から逃れることはできなかったのだろう。

 蓋を開けてしまえば圧倒的に相性が悪い相手との戦いで、“言葉持ち”は撃破された。

「……はっ、不運だったなぁ、おい」

 スライクは、死骸に背を向け、距離を取る。

 魔族軍主力部隊、及び“言葉持ち”撃破。
 残ったのは、たったひとりだ。
 タンガタンザの歴史上類を見ない脅威の戦果は正確に伝わることは無く、歪な形で広まるだろう。

 だがそれでいい。
 結局のところ、スライク=キース=ガイロードも、この戦争に私情で参加したに過ぎないのだから。

 これで―――不可能を可能にする、剣の料金くらいは働いただろう。

「役割―――遂行だ」

 思い出したように、魔物の死骸が月下に爆ぜた。

――――――

「……それが、“タネ”かよ」
「ああ。―――!!」
「うおっ!?」

 エニシ=マキナは洞窟を揺さぶる振動に両手をついて耐えた。
 かなり大きい。

 いたるところに大穴が空き、ほら穴のような状態になった巨大な空洞。タンガタンザの“村”が眠る墓地で、マキナとクロック=クロウはトラゴエル攻略の作戦を立てていた。
 眼前の大穴から見えるのは、更地と化したガルドパルナ。
 トラゴエルのあまりに巨大な岩の身体が鎮座し、今なおマキナたちを“攻撃”している。
 しかしその攻撃は、直接的なものではなかった。

「おいおい、持つんだろうな、この山」
「分からん。だが、生き埋めを狙っているわけではないだろう。新たに通路を造るつもりなのか、あぶり出しなのかは知らんがな」

 トラゴエルは現在、ガルドパルナ聖堂そのものに突撃しているようだった。
 響く轟音。時折落下してくる岩石。どうやらこの岩山は、頑丈な岩と脆い岩が共存しているようだった。頑丈な岩が上手く支え合っているがゆえに崩れないのだろう。
 今すぐにでも山から離れるべき災害が頻繁に襲ってくる。いずれ拮抗は崩れるかもしれない。
 だが、外でお伽噺のような化物が待ち構えているとなると話は別だ。

「それは分かったけど、どうやって倒すんだよ」

 危機的状況なのは変わらないが、それでも作戦を立てる時間はある。
 マキナは爆薬を強く握りしめながら、クロックの話を促した。

「奴を破壊するには特定のエリアでなければならない。奴の動きが制限される場所におびき出すしかないだろう」
「?」

 振動の中で続く説明に、マキナは半分ほど付いていけてなかった。
 トラゴエルがどこかに突撃するたびに落石を警戒する必要があり、話が途切れ途切れになってしまう。

 対してクロックは、“知恵持ち”のみに注意を払い続けていた。
 冷静さも戻ってきている。
 しかしこの場で籠城していても勝機は無い。
 落石も次第に酷くなってきている。

「だが、幸いにもこの聖域にはそのエリアがある。お前も分かるだろう」
「……誘い出す、ってか。どこにだよ」
「……少し考えれば分かるだろう」

 クロックはそれだけしか言わなかった。
 マキナは眉を潜め、質問を変える。

「じゃあ、一体どうやって、」
「マキナ。お前が外に出て、囮になれ。奴を誘い込む」
「死ぬわっ!!」

 途端自分の身に最上級の危機が降りかかり、マキナは思わず叫んでいた。
 本当にこの男は冷静なのだろうか。
 響き続けるトラゴエルの突撃音が一層大きく聞こえていた。
 やはり、恐い。『ターゲット』の姿を見れば、嬉々として襲ってくるだろう。

 マキナは言葉に詰まり、外の様子を覗う。
 洞穴からではトラゴエルの全身も見えないが、今見えている身体だけでマキナが見たどの生物より大きい。
 そんな化物の前に姿を曝して逃げ切るとなると、それだけで一生分の運を使い果たしてしまうだろう。

「……、って」

 しかし、マキナようやくこの作戦の意図に気づく。
 クロックが語った作戦。
 それを満たす条件は、ひとつしかない。

 トラゴエルを誘い込むのは、“細長いルートの必要がある”―――

「ちょっと待てよ、俺が逃げ込むのって、」
「勿論奥の間だ。あそこまでの道が最も適しているのだからな」
「……お、い」
「俺はアステラじゃなくてお前で妥協したんだ。お前も妥協しろ」
「妥協どころか、“最悪じゃねぇかよ”」
「それしかない」
「……、……」

 マキナはやがてゆっくりと頷いた。
 奥の間にはアステラがいる。ツバキがいる。あの場所が最良の安全地帯なのだから。
 しかし、トラゴエルを倒すためにはその場の地の利がいる。増援の可能性を考えると、ぐずぐずしている暇は無い。

「……ち。やってもやんなくても危険は危険か」
「そういうことだ」

 クロックの言葉に後押しされるように、マキナは口を真一文に閉じて足を踏み出した。
 洞穴の外では脅威の巨獣が今なお暴れ回っている。
 村ひとつ瞬時に滅ぼしたような化物に向かうというのに、マキナの装備は爆弾が数発程度。心細いことこの上無い。

 しかし、それでもマキナは震えている足を進めた。
 死への恐怖。切り離せない絶対の恐怖。それを乗り越えることはきっとできないだろうが、それでも今、前へ進む必要がある。

 この戦争に、勝つために。

「……エニシ」
「……なんだよ?」
「言い残したいことはあるか?」
「えらく不吉な物言いだな……」
「自分で考えておいて何だが、危険極まりないからな。そのまま死なれたら目覚めが悪い」
「俺に何かあったらお前ら死ぬぞ」
「実に的を射ている脅迫だな」

 クロックは苦笑し、マキナも少し笑った。
 本当に、いつからこんな馬鹿げた世界になったのだろう。

 マキナの世界は、きっと、ずっと空っぽだった。
 “普通”が無いだけではなく、実際は何も無かったのだ。
 武具を造っていたのも、才があったからだけで、別段それを操る戦士を想ってのことでは決して無い。右から左に、左から右に、何も残さずあらゆるものが通過していった。
 哀しい世界。虚空な世界。

 だけどもし、今ここで、勝つことができたなら―――

「俺、この戦争に勝ったら何かを手に入れられそうな気がする」
「そうか。言い残したいことはあるか?」

 マキナは笑い、

「いっぱいあるよ。だから、勝つさ」

 駆け出した。

「おらぁ!! バケモンッッッ!!」

 洞穴から飛び出るや否や、マキナは叫び、そして目を細める。
 間近で見ると、恐ろしく巨大な蛇が動きを止めた。
 マキナは“正規の入口”の位置を確認する。僅か5メートル。今から自分はトラゴエルの囮となり、奥の間まで駆け込まなければならない。

 大層見晴らしが良くなった村でも、その全貌さえ認めることができない『蛇』は、ゆったりと鎌釘をもたげ、マキナを見定めた。

 ゴクリと喉を鳴らす。強烈な威圧感を覚える。
 だが、微塵にも集中力は切らさなかった。

 “想定しろ”。

 奴の動きやその速度。今までの戦闘で見たトラゴエルの行動を、全て把握し、“その上で強化しろ”。
 常人では理解できない怪物は、自分が通常想定する領域の遥か先を行くはずだ。

 “あり得ないと思えるくらいで丁度いい”―――

「―――!!」

 反射的に地面に飛び込めたのは全くの奇跡だった。
 あらゆる予想を総て放り出し、身体を叩き付けるように転げたマキナは飛び跳ねるように立ち上がる。
 その背後、音さえも遅れて聞こえてくるような高速の『蛇』は再び夜空に頭を上げていた。

 マキナは感情総てを投げ捨てた。
 余計なことは考えるな。ただ相手が、自分の想定の、その先の、その遥か先の力を持っていただけだ。
 今は全力で、再び聖域に飛び込まなければならない。

 轟音。

 振り返るのも恐かった。
 聖域に飛び込む直前、背中を掠めたようにも感じるトラゴエルの突撃が、骨髄を揺さぶる。マキナの身体以上はある岩石が軽々と飛び跳ね、小石のように遥か向こうの樹海に飛んでいくのが見えた。

 壮絶な恐怖が全身を痺れさせる前に、マキナは強引に足を動かし駆け続ける。

 辛うじて飛び込めた聖堂は、昼に見たときよりもずっと幻想的だった。
 紅い光を放つ照明が通路を浮かび上がらせ、脳が溶けるような錯覚に陥る。
 通路の幅は、およそトラゴエルの身体ほどだ。奴の身体は展開できない。
 そして幸いにも、曲がりくねっていた。アステラが用意した罠がふんだんに仕掛けられている。

 これならば逃げ切ることができる―――

 轟音。

「―――!?」

 息を吐こうとしたマキナの心は凍えきった。
 この曲がりくねった細い道。巨体と人間が張り合える唯一の聖域。
 しかしその聖域が今、音を立てて崩れ始めていた。

「まさ、か」

 ほぼ直角に曲がる道を折れたマキナは、逃げることも忘れ、足を止めてしまった。

 轟音。

 今度はマキナの目の前の岩盤がけたたましく揺れた。
 そして小気味良ささえ覚える音と共に、強固な岩盤に幾筋もヒビが入る。

 不味い、と思ったときにはマキナは駆け出していた。どうやらこの通路は一部、例の脆い岩だったらしい。
 その直後、背後の岩盤が丸ごと吹き飛び、『蛇』が姿を現した。

「く―――」

 アステラの罠は、通常のルートを通常の手順で通ったときに威力を発揮するように設置されていた。
 細い道には足止め用。広い道には広範囲爆破。
 大群が押し寄せても籠城戦が行えるように仕掛けられていたのだ。

 しかし、“知恵持”ちゆえにか、それとも単に直線ルートを選んでいるのか、トラゴエルは道無き道を押し進んでいる。

 どうする――――

 こうなると、途端にマキナの分が悪くなる。
 曲がりくねった道ならば、逃げ切ることは可能だろう。いくら『蛇』のように動くとはいえ、身体が岩石ならば動きは制限される。
 だが、相手のみ直線ルートを進むとなると、逆にこの道がマキナの枷となる。
 岩を砕く足止め分を差し引いても、トラゴエルの突撃速度はマキナをゆうに上回ってしまう。

 ならば。

「ち―――」

 マキナは懐から爆薬を取り出した。
 走りながらの慌ただしい動作にふたつほど爆薬を取り零してしまったが、ひとつを強く握り絞め、マキナは振り返る。

 最早目前。
 手を伸ばせば届きそうな位置に、無表情な岩が存在していた。

「っ―――っ、っ、っ」

 ほとんど反射で、マキナは爆薬をトラゴエルに投げ付けた。
 カンッと澄んだ音が響き、拳大ほどの爆薬が通路内で跳ね回る。
 爆薬の威力を“理解”していたトラゴエルは一瞬怯み、動きを止めた。
 マキナは爆薬の行方を確認することも無く再び走り出す。

 今のは、危なかった。
 思わず投げてしまっていたが、あのとき爆薬が爆ぜていたら吹き飛んでいたのは自分であろう。どうやら爆薬は、付属されている“栓”を抜かなければ真価を発揮しないらしい。

 装備している武具の使用法も理解していない自分に苦笑しつつも、マキナは駆けた。

 爆薬は、あとひとつ。
 さあ、どうするか。

「は」

 駆けて、駆けて、駆け続けた紅い通路。
 今にも倒れそうなほど息は荒く、四肢は千切れそうなほど硬直していく。

 しかし、マキナは笑っていた。
 背後には巨獣。今にも自分をすり潰そうと伝説の聖地を破壊し追撃してくる。
 それでもどこか、何かを感じられた。

 敵は強大。だが、倒す手段はある。
 それを成すためには、この身体が持つ総てを捧げなければならない。
 命の危機への恐怖が、別の何かに変わっていく。
 勿論恐怖は常にある。だが、それではない何かが混じり、溶け合い、身を奮い立たせる力に変わる。
 武具を創り上げているときとは違う高揚感が、確かにある。

 これはきっと、好奇心だ。

 自分はきっと特別で、不可能なことなど存在しない。
 遥か昔に自分から遠ざかった、そんな全能感を確かに覚える。
 そんな想いは、自分が少し手を伸ばしてみるだけで、手に入れることができたというのか。

 そのマキナの背に、体勢を立て直したトラゴエルの鼻先が触れた。

「……こい」

 爆音。

 遥か後方で、爆音が轟いた。
 背後に感じていたトラゴエルの気配が瞬時に消え去る。
 恐らくはトラゴエルの中央付近で爆薬が爆ぜたのだろう。
 それが自分の取り零した爆薬か、アステラの罠かは分からないが、ともあれトラゴエルは身体を修復するために動きを止めた。

 今、自分は“発生する事象が分かっていた”。
 自分がこの場で死を免れる事象が必ず起こると、何故か確信できた。

 マキナはまた笑い、さらに通路を疾走する。

「ここまで奇跡が起こったんだ。勝利以外あり得ねぇ」

 日の出まで、あと僅か。

「―――!!」

 そして、見えた。
 マキナの目指す、ゴール。
 紅の光差すその先に、不自然に広がった巨大な空洞―――

「アステラ!!」

 背後の威圧感は過去最上級に成っていた。
 最早距離はゼロと言っても差し支えない。
 だが問題無い。大して勢いづいていないトラゴエルの突撃では、精々倒れ込む程度の威力だ。

「なんだ?」

 非常時にも関わらず、抑揚の無い、マキナが最も聞きたかった声が聞こえた。
 “頼むから今度こそ察してくれ”。

「―――、」

 アステラは通路から顔だけ出すと、即座に下がり、道を開ける。
 その動きが、マキナはまるで天井から見下ろしているように分かった。

 いける―――

「らぁっ!!」

 マキナは空洞に飛び込むや否や、身体の力の全てを片足に集約し倒れ込んだ。
 直後、無限の岩を操る規格外の『蛇』が、無表情な貌を叩き込む。

 今だ。

「アステラ!! “首を落とせ”!!」

 倒れながらマキナが顔だけ向けると、潤沢な装備に身を包んだアステラが爆撃を開始していた。
 そして、連なるように。
 岩山の外からも爆音が轟いた。

――――――

『“核”?』
『ああ、そうだ』

 トラゴエルが岩山への突撃を繰り返す中、クロック=クロウは岩の“知恵持ち”の特性を語らった。

『トラゴエルには“核”となる本体の岩がある。それに自然の岩を結合し、己が身としているのだろう。実際、私が砕いたときも普通の岩と何ら変わらなかった』

 ただその普通の岩は、操作されることで脅威の巨体を形作っている。

『ならよ、核を砕けばあいつは戦闘不能になるのかよ』
『……まあ、そうだ』

 僅かばかりトラゴエルへの恐怖心が薄まった。
 トラゴエルは明らかに世界のロジックに反した存在ではあるが、人間が想像する空想の世界ではいくらでもいる。
 そしてその弱点も同様だ。
 龍の逆鱗のように、巨大な化物には必ず急所があり、そこを破壊すれば勝利を得られる。
 それが数多の物語が示し出す、非論理への勝利方法。

『パターンから言って、核は頭か?』
『まあそうだろう。頭は他の部位と違って、流石に丈夫のようだ』

 よし、とマキナは拳を握る。
 あの巨体だ。全てを破壊し尽くすことは不可能だが、狙いがひとつとなると勝機が出る。
 なりふり構わず猛攻し、頭の岩に全爆薬を注ぎ込めばトラゴエルを撃破できるのだ。

『―――と、思った瞬間に殺されるだろうな』
『へ?』

 破壊音が轟く中、クロックはいやに冷静な声を出した。

『考えても見てみろ。もし仮に、仮にだ。お前が無機物型の魔物を想像するとして―――そのアドバンテージを活かすとして、最初に何を考える?』
『……』

 マキナは沈黙し、答えを待った。
 分かるわけがない。
 マキナの専門は武具製造だ。

『私なら、まず“核”はひとつにしない』
『……! ふたつ在るって言うのかよ』

 クロックは重々しく頷いた。

『お前も知っての通り、通常の物質には魔力を留めさせ続けることはできない。常に“核”と結合させることで、自然物を魔力を帯びた“生物”としているのだろう。私が爆薬でトラゴエルの中央付近を砕き、切断したとき、奴は“両脇の岩を移動させて結合した”』
『……!』

 そうだ。
 いかに非論理といえど、自然物を使う以上、そこには必ずロジックが介入する。
 マキナの持つロジック―――“自然物の魔力四散効果”。
 自然物は、魔力の原石以外魔力を留めておけないのだ。
 そうなると、先ほどクロックが言ったような動きはできないはずだ。
 “核”と分断された以上、岩は自然物と化し、魔力を失う。
 しかし身体の中央が切断されても動いたとなると、その双方に“核”が無ければならない。

『不死に近い構造の無機物型。そのアドバンテージは普通の生物の枠組みを超えられることだ。ならばあらゆる神話に語られる生物の枠組みすらも超えなければならない。主要器官は、複数ある』

 確かにそうなるのかもしれない。
 “核”がひとつならば、切り離された時点で魔力は四散し、片側からしか結合できないだろう。
 トラゴエルが操るのは総ての岩でないのは分かり切っている。そんなことができるならば“この山総てが敵になっている”だろう。操れるのは自分の魔力を流している岩だけのはずだ。

 ゆえに、“核”は複数ある。
 ようやくマキナも理解が追いついた。

 先ほどの例え話。仮にマキナが無機物型の魔物を造るとするなら、“核”をひとつにしたりはしない。いかに巨大で無敵な力を得たとしても、一ヶ所破壊されたら行動不能になるならば普通の生物と何ら変わらない。生物型にも劣る可能性はある。

 そういえば、あの運命の日。
 トラゴエルは2度現れた。
 1度目は巨兵として。
 2度目は今外にいる『蛇』として。

 巨兵は“核”のひとつが切り離されて形作られたのだろう。

『ならよ、どうやって倒す』

 マキナが問うと、クロックは親指を立て、引いた。

『首を落とす』
『首?』
『ああ、ただし尾と同時にだ。“核”があるのは恐らく頭部と尾の先。ならば我々は、“その直前”の岩を砕けばいい』

 トラゴエルの“核”以外の部位はただの自然物。砕くのは容易だ。
 確かにその方法ならば、身体に連なる大量の岩を瞬時に無力化できるだろう。

『同時に、か。随分息合わせなきゃならないな』

 マキナはトラゴエルの全長を計ろうとし、止めた。どう考えても、頭部と尾を攻撃するマキナとクロックの位置からコミュニケーションが成立するとは思えない。

『別に息など合わせる必要は無い』
『は?』
『我々は、奴が行動不能になるまで爆破し続ければいいのだからな。多少ずれても問題は無い』

 爆音ならば離れていても届くだろう。
 クロックの狙いを察し、マキナは息を吐いた。
 随分と強引な作戦だ。マキナが幼い頃に思い浮かべていた英雄たちの戦いとは、もっとクールだったのだが。
 とにかく今から自分たちは、トラゴエルが行動不能になるまで首と尾を爆撃することになるようだ。

『まあ、正念場は砕いた後だ。お前も私も、分断したトラゴエルの“核”と対峙することになるのだからな』
『……でも、あの巨体を相手にするよりはマシ、か』
『ああ、頭だけ、尾だけならば、そこまで驚異的な相手ではないだろう。持てる爆薬総てを注ぎ込み、我々はそれぞれ担当した方を破壊する。隣に巨体は横たわっているが警戒することは無い。意思無き自然物なのだから』

 いける。
 そんな確信を持てた。
 巨大な敵があり、攻略法があり、意思がある。

 いける。

『……それが、“タネ”かよ』

 マキナは笑っていた。
 トラゴエル撃破の方法は分かったが、手段はまだ聞いていない。
 しかし何故か。

 トラゴエルが破壊されるその瞬間が、目を閉じれば浮かんできた。

――――――

「っは!!」

 アステラ=ルード=ヴォルスによる爆撃が開始された直後、エニシ=マキナは跳び上がるように立ち上がった。
 そして即座にアステラが運んだ爆薬を掴み上げ、あらん限りの力を持って投擲する。
 目の前は、黒煙と光で染まっていた。
 腹の底を叩くような振動。目を焦がすような閃光。身を蒸発させるような熱風が、ガルドパルナ聖堂の最奥に炸裂する。

 構うか。

 ほとんど視力も、そして皮膚の感覚すら薄れた状態でも、マキナは破壊を続けていた。
 突き飛ばされるような爆風を浴び、手持ちの爆薬が尽きては足元にばらまいた爆薬を手探りで掴み上げ、乏しい感覚だけを頼りに投擲を続ける。
 ミツルギ=ツバキは離れて立っていた。身をかがめていれば身体を守れるだろう。
 アステラ=ルード=ヴォルスは金曜属性だ。装備に身を固めていたし、爆風の被害は極小だろう。

 自分だけ。エニシ=マキナだけが、身を守る術は無く、衝撃を受け続ける。
 だがそれでいい。

 右手の感覚が無くなってきた。
 爆薬を拾い上げるのを左手に預け、右手は岩石放のような動きで爆破を続ける。
 右腕が上がらなくなってきた。
 攻撃のペースが落ち込んでも、左手で慎重に爆破を続ける。

 この戦いが終わったら、自分はまともな生活を歩めないかもしれない。
 だがそれでいい。

 それでいいのだ、勝つために、必要なことだから。

 我ながらおかしなことだと思う。
 自分の生活を取り戻すために戦っていたはずなのに。
 それを失ってでも、手に入れたいものができてしまった。

 恐らくは生まれてからずっと、蓄え続けてしまった自分への期待、未来への欲求。

 その物語を、完結させる。

「―――キナ!!」
「!!」

 恐ろしく滑稽に自分は転んだであろう。
 途端真横から跳びかかられ、マキナは背中を強く打った。
 カッ、と燃えるほど皮膚は痛み、視界は白と黒が入り混じった不気味な景色で埋められている。

 一瞬、視力を完全に失ったと思ったが、砂嵐のような光景の先、無表情な女性の顔が見え、マキナはやっと息が吐けた。

「なに……、なに、が」
「落ち着け。終わった。終わったんだ」
「あ……え?」

 鼓膜も破けていなかったらしい。
 右手は壊れたらしく動かないが、どうやら自分はアステラの細い腕に抱きかかえられているようだ。
 そして、爆音は、止まっていた。

「……、……」
「放心しているようだが……、まあいい。トラゴエルの頭部は破壊した」

 アステラに座り直させてもらいながら、マキナは首だけ動かして周囲を覗う。
 部屋の隅では耳を抑えてうずくまっているミツルギ=ツバキ。
 そしてその反対側。火薬の匂いと粉塵が入り混じった先には、焦げ付いた空洞の壁しかなかった。

「倒した……のか」
「いや、まだ身体が残っている」
「倒したんだ……マジで」

 わざわざ訂正するのも億劫だ。
 マキナは震えながら左拳を握った。どうやらトラゴエルの戦闘不能の爆破も、爆薬の中でもみ消されていたらしい。
 外からも爆音は聞こえてこない。クロック=クロウも首尾よくやったのだろう。

 “知恵持ち”―――トラゴエルを、撃破したのだ。
 高が人間の攻撃で。

「……話が分からないが、トラゴエルは活動停止ということか。ならば、次は脱出方法だ。出入口が詰っている。あれだけの爆破をし、我々が呼吸できているのは不可解だが」

 この高なりをアステラは理解してくれていないようだった。
 マキナは僅かばかり気落ちするも、ゆっくりと立ち上がり、奥の大穴を指差した。

「空気なら問題ねぇよ。“あの穴からいくらでも出てくるさ”」
「? ……まあいい。それよりエニシ=マキナ、もう立てるのか?」
「ん? ああ、まあ」

 右腕は上がらないが、爆弾の被害は懸念していたほどではなかった。
 相変わらず原理は分からないが、ある程度は“遮断していたらしい”。

「おわ……終わりました?」

 部屋の隅でよろよろとミツルギ=ツバキも立ち上がり、無事を確認。
 ある程度は賢さもあったようで、水に濡らした布を口と鼻に当てていた。
 随分と砕けた石が飛び散っていたが、身体は無傷。この娘もこの娘で、特殊な力があるらしい。

「終わったよ。全員無事だ」
「えっと、その……はい」
「?」

 相変わらずズレたことを言うツバキに、マキナは僅か首を傾げた。

 間もなく日の出が訪れる。
 この空洞は、トラゴエルの身体のお陰である意味遥かに堅牢になった。
 スライク=キース=ガイロードも最後まで魔物の増援を許さなかった。

 これで勝ちは―――最も欲したものは、動かない。

――――――

 ルールが設定された3ヶ月のタンガタンザ戦争。
 その最終日の―――日の出直前。

 無機物型の“言葉持ち”及びその軍勢を撃破したスライク=キース=ガイロードは、壊れ果てた大地で歩みを止めた。
 腰にぞんざいにぶら下げた大剣に、思わず手を当てながら。

「なるほど……。今期は“初期完成型”の勇者か」
「あ?」

 背後から声。
 スライクは、薄らいできた星々よりも遥かに鋭い眼光を向ける。

 そこに。
 『鋼』が、立っていた。

「まあ確かに、今のタンガタンザから生み出すには、そうするより他あるまいか」

 鉄仮面を被ったような貌。
 逆立つように尖った髪。
 鎧を纏ったような身体。
 ナイフのように鋭い指先。

 鋼の巨躯。

 あまりに無機質なその姿は、しかし高らかに笑っていてこそ意味をなすような錯覚さえ起こさせる。

 その存在は、タンガタンザを戦火に包み続けていた。

「“魔族”―――アグリナオルス=ノア。以前遭ったときも伝えたか」
「随分のんびりした登場だなぁ、おい。あの雑魚の行動も“主”由来か」

 人から見れば脅威の存在である魔族を前に、スライクの態度は変わらなかった。
 夜空の下、対面した両者の距離は数メートル。
 その差を埋めるほどの大剣を、スライクはゆっくりと抜き放つ。

「それについては俺も頭を悩ましている。いくら時を費やしても、俺が望んだ領域まで配下が届きはしない。あるときは人間に倒され、またあるときは自滅する。難しいものだ、何かを育てるというものは」

 脅威の戦果をもたらしたスライクの剣を前に、アグリナオルスの態度は変わらなかった。
 ただ己が思うままを口に出し、頭を抱えるような仕草をする。
 そしてゆっくりと、その鉤爪の『指』を差す。

「愚痴なら聞く気はねぇ。ついでにてめぇも死んどけや」
「悪いが」

 アグリナオルスの『指』が差しているのは、スライクでは無かった。

「俺はこれからやらねばならんことがある。配下を用い、戦略的に勝利を収めるはずだったこの戦争。それも最早難しい。しかし世界を回すために、帳尻を合わせんといかんのでな。お前を相手にしている時間は無い」
「―――ちっ」

 スライクは、反射的に身構えた。
 アグリナオルスの道を塞ぐように、ガルドパルナに立ち塞がる。
 空は白みが増してきている。
 日の出まで、あと数分程度だろう。
 今からできるのは、精々スライク=キース=ガイロードとの交戦程度だ。
 最早人間側の勝利は揺るぎ無い。

 だがこの魔族の『指』は―――まっすぐに、ガルドパルナを差している。

「戦略も何も無い、つまらん幕引きとなるであろうが―――始めようか」

――――――

『トラゴエル。そこをどけ』

 勝利を確信、いや、事実上勝利が確定していたガルドパルナに、“聲”が届いた。
 エニシ=マキナの頭が砕けるように震える。

 この、“聲”は。

「―――!?」

 ほぼ同時。
 ガルドパルナの聖域までの道を封じていた岩石が蠢いた。
 つい先ほどまで暴れ回り、ガルドパルナを破壊し尽くした化物が、岩と岩が削り合うような不気味な轟音を奏で始める。
 しかし、その仕草は。
 マキナには、怯えおののくように見えた。

「行動不能ではなかったのか―――」

 反射的な行動か、アステラは珍しくも焦るようにマキナを庇うように前に出た。
 装備は潤沢。トラゴエルに注ぎ込もうとも、あと数分は尽きることは無い。
 しかし、あの巨大な『蛇』の前には心細ささえ覚えてしまう。

 だが。マキナは眼前を埋め尽くす高が岩など、最早見てはいなかった。

「……っ、っ、」

 頭の中がかき混ぜられる。何も考えられなかった。
 この“恐怖”は―――何だ。
 身体中が震える。
 アステラには今の“聲”が―――“世界の裏側から回って来たような胎動”が聞こえていないのだろうか。

 本能が告げる。トラゴエルごときにかまけるな、と。

「―――っ!?」

 驚愕するような光景が見えた。
 聖域までの通路を塞いでいた岩の身体。
 その身体が、正しく蛇のような鋭さで、ターゲットから瞬時に離脱していく。
 高速で遠ざかる岩の身体を見ながら、マキナは察した。

 トラゴエルの頭部の“核”は破壊した。クロック=クロウも首尾よくやったのだろうから、もうひとつの“核”は破壊されている。
 となると、“ふたつ以上の核”が存在していたことになる。

 そんな理屈も飛び越え、マキナは、察した―――“察していた”。

 これから起こる、結末を。

「―――ぁ」

 声を漏らしたのは誰か。それは分からない。
 だが、ついぞトラゴエルが聖堂から身体を抜き放ち、がっぽりと空いた穴からまっすぐに見えた外の景色。

 “その世界を見た瞬間、全員が察した”。

「……こりゃ駄目だ」

 間もなく日の出。その直前。
 呟いたのは今度こそマキナだった。

 今、この瞬間をもって、確定していた人間側の勝利は白紙に戻る。
 だが、不思議と、マキナは達観していた。
 尋常ならざる光景を前に、それが当り前であることのように思えたのだ。

 この光景は“既知”だ、と。

 そしてその先。
 自分の末路も、既知だった。

「…………」

 マキナは生気が抜けたように、アステラとツバキの顔を見た。
 どちらも“その光景”を、呆然と眺めている。

 マキナの身体も、その“役”に準じろとでも言われているように、動かない。

 だが。

「…………それじゃあやっぱ、悔しいよな」

 マキナは、“未来では動かなかった身体を動かした”。
 身体を動かすことだけで、何故か痛烈な吐き気と倦怠感が伴う。
 だが、それに、抗った。

「アステラ。スライクに礼、言っといてくれ。クロックさんにも」
「……?」

 声をかけられて、初めてアステラは顔を動かした。
 マキナは答えを聞かず、“拾い”、ぎこちない足取りで部屋の奥へと進む。

「ツバキ。お前はもうちょっと、いろいろ分かるようになれよ」

 呆然とするばかりのツバキに一声かけて、マキナはさらに奥へと進む。

「は」

 そして深く目を閉じて、苦笑する。
 まさか自分が、こんなことをする羽目になるとは。

 自分は“それ”を―――最も恐れていたはずなのに。

 マキナは強引に、身体を動かす。
 この身体を縛りつけているのは、“それ”への恐怖か。それとも、ときおり降りてくる原因不明の“強制力”か。
 だが、どちらでもいい。
 もう、自分は昇っている。奈落へと続く、大穴のバリケードに。
 どこまでも続く、漆黒の闇へ、いつでも向かえる。

 タイムリミット直前。
 だが、眼前の“あれ”は間違いなく到達してしまう。

 ならばきっと、意味がある。
 僅かだけでも、“それ”のタイミングをずらすことは。

「……」

 誰も何も言わない。
 アステラも、ツバキも、呆然としたままだ。
 そんな中、マキナだけが、粛々と続ける。

 清い行動だとは、決して思えない。
 いや、清い行動では、あり得ない。
 “この行動”は、自分自身も含め、マキナが出逢ったあらゆる存在への冒涜だ。
 決して勝利では無い。
 気持ちの悪い、煮え切らない、敗北だ。

 だけど。

「……きっとこの犠牲は、未来に繋がる導となる」

 ふと思う。
 もしかしたら自分は、今まで操られていたのではないか、と。
 子供の頃に夢視た存在になれなかったのは、自分が自分を信じられなかったのは、“そうなるように予め決まっていたからかもしれない”、と。
 自分の何も無い世界で視た、あの眼。むしろそれ自体が、やはり本物のエニシ=マキナ自身だったのかもしれない、と。
 自分に武術の才能が無かったのも、自分が、“ほとんど大成することのない属性”であったのも、予定調和。

 自分がこの瞬間、この場所で、あの魔族が世界を回すための一役になることが、エニシ=マキナという人間が存在する意味だったのかもしれない。
 あれほど死を恐れ、危険なものには決して近寄らなかったのも、そのためだったのかと―――思ってしまう。

 だから。
 むしろエニシ=マキナは、少しだけ嬉しかった。

 震える足。まともに動かない身体。それを乗り越え、自分は多分、始めて自分の意思で、ここに立っている。

 “奴ら”にひと泡吹かしたいと、“自分自身”は思うのだ。

「どれだけ世界が回っても、抗う力の礎となる」

 マキナは、顔を上げ、眼前の光景を睨みつけた。
 そして掲げる。
 砕けるほどに握り締めた爆薬を、確かにかざす。

「魔族!! 俺は爆薬を持っている!!」

 衝撃を受ければ爆ぜる爆薬は、きっと“そのタイミングを知らしめる”。
 日の出まで、あと十数秒。
 そのタイミングは、マキナには確かに分かる。
 “向こう”の焦りも、同時に伝わった。
 最早“確定”だ。

「は」

 マキナは最後に笑い、呟いた。

「ざまあ、見やがれ」

 直後。
 男の身体は漆黒に飲まれ、切望していた朝が訪れた。

――――――

「納得できん、と言えるがな」

 クロック=クロウは聖堂の入口で、まともに動かない足を行儀悪く広げたまま、アステラの報告を聞いていた。
 エニシ=マキナの“行動”から数時間。
 戦争のルール通り、魔族軍は素直に退却していった。
 歴史上2度目となる人間側のタンガタンザ戦争勝利の朝は、恐ろしく静かなものだった。

「だが事実上、エニシ=マキナの行動により、我々は生存している。その上、来期までタンガタンザ戦争は停止した」

 事が済み、出てくるまで数時間を要したアステラは、普段と変わらぬ様子で事実だけを告げる。
 クロックは帽子を目深に被り、ガルドパルナの街を見渡す。
 全てが無。
 人が営んできた歴史を塗り潰すような蹂躙の爪痕は、村を森の中の広場に変貌させていた。
 面影はどこにもない。
 だが、ミツルギ家で数多の戦争を見てきたクロックにしてみれば、物理的な被害は奇跡的と言ってよかった。

「アステラよ」
「なんだ」
「お前は今年を、幸運だと思うか」
「…………」

 アステラは言葉を返してこなかった。
 相変わらずの無表情で村を眺め、沈黙する。
 だが、それでもクロックには分かる。
 タンガタンザの民から見れば、この程度の被害で、値千金の戦果である。
 語り次ぐに相応しい奇跡の物語になるだろう。

 だが、今この瞬間、この場にいる者にしか分からないこともある。

「ところで、ツバキ」
「……は、はい」

 アステラに一歩遅れて出てきたツバキはおずおずと頷いた。
 戦場で見かけたときは緊急時のため見逃したが、終わった今となっては叱りつける必要がある。
 そう思ってクロックは声をかけたのだが、思わず口を噤んでしまった。
 昨日までの彼女ならば、能天気にクロックの怪我を気遣うようなことを言っていただろうに、今の彼女は、呆然と、村を眺めている。

「……村を守れなくて、すまなかった」

 それだけを言って、クロックは足に力を込めた。
 よろめきながら立ち上がろうとしたところで、ツバキが支えになるように、腕を掴んでくれた。

「あの、クロックさん……」
「なんだ」
「私、」

 ツバキは、クロックの顔を見上げながら、アステラのような無表情で、呟いた。

「なんにもできなかったです」
「…………」

 クロックは、目を伏せた。
 何もできなかった。当然だ。
 いくらこの場に残っていたとはいえ、ミツルギ=ツバキは被害者に過ぎない。
 自分や、あのエニシ=マキナが、どれほど熱を―――想いを込めて叫んだところで、ツバキは所詮、遠巻きに祭りを見ている存在に過ぎない。
 どれほど被害を巻き散らかされても、いいように翻弄される被害者だ。
 そしてその結果、彼女は今度こそ、全てを失った。自分の家や両親の街の墓標など、最早跡形もないだろう。
 クロックにとって、勝利も敗北も得られなかったこの戦争。ツバキは、その完結もしなかった物語に参加すらできず、いいように弄ばれていただけだ。

「…………。アステラ、外してくれ」
「分かった。私も行くところがある」

 何の詮索もせず、アステラは素直に樹海に向かって歩いていった。
 この時ばかりは流石にガルドリアも付近から離れているのか、樹海はいっそ、清々しさすら感じられる。

「ツバキ」

 そんな空虚な世界の中、クロックは慎重に言葉を紡いだ。

「お前が生きているのはタンガタンザだ。こんなことが、これから何度もある」

 すでにツバキは、2度も被害を受けている。
 両親を失い、その偶像すら失った。
 この幼い身体に、一体あと何度、そんな悲劇が訪れるのか。

「もう1度“それ”が訪れたとき、お前はどこにいたい? 再び翻弄されるだけの今の場所か?」

 ツバキは首を振った。自分の意思で。

「“それ”が訪れることも無い、遠くの地か? アイルークには著名な孤児院がある。私が手配すれば、安全な場所に行くことができる」

 ツバキは首を振った。自分の意思で。

「私は、」

 ツバキは言った。自分の意思で。

「抗ってみたいです。こんなことを起こさないために、今度は自分が参加して、何もできない今を変えたい」

 こんな子供が何を言う。
 僅かばかり前のクロックならば、恐らくはそんなことを思っていただろう。
 もしかしたらツバキがここに残った理由は、両親の墓参りだけではなく、それを自分の手で守りたいと本能的に思っていたからかもしれない。そしてそれが自分では分からないから、中途半端なまま、無駄に命を危険にさらしていた。

「……」

 クロックは目を伏せた。
 そうなると、彼女も彼女で、正常な感覚を持っていたらしい。
 今でも子供には戦争なんぞと縁の無いところにいて欲しいと強く願う―――が、生憎と、ツバキの感情には心当たりがある。

「お前も悔しいか」
「……はい。“あの岩”は、壊したんです。おとーさんとおかーさんを」
「…………」

 相変わらずどこかズレたような言葉だが、ツバキの拳は、震えるほど強く握られていた。
 ただ、どの道自分とツバキの狙いは、逃亡したトラゴエルで共通しているらしい。

 クロックは、ため息ひとつ吐き、ツバキに向かい合った。
 アステラに外してもらったのはやはり正解だったらしい。
 “あの男”の思惑通りというのも気に入らないし、どこか気恥ずかしいものがある。

 だが、ミツルギ=ツバキを対魔族軍の戦力として迎え入れるには、都合のいい地位が用意されているのも事実だった。

「ならば、ツバキ」
「はい」
「今から私が示す道は、抗うこともできるが目にする悲劇も増える。それでもいいと言うのならば―――」

――――――

 ギッ、と包帯をきつく縛った腕からは、変わらず血が溢れてくる。
 さらに2重、3重と止血し、乱暴に縛り上げ、スライク=キース=ガイロードは立ち上がった。
 樹海を進撃したトラゴエルの通行ルートに無かったのが幸いか、倒れた大木が屋根を突き破っていること以外は正常な家屋を、スライクは猫のような瞳で見渡す。
 つい3ヶ月ほど前に別れを告げたはずの室内は、何度見てもそっけないものだった。
 壁に立てかけた無骨な大剣を乱雑に腰に提げ、バッグを振りまわすように肩にかけたところで、ずきりと脇腹が痛んだ。
 腹部に巻いた包帯から血が漏れているのを感じたが、どうせすぐ治る。
 スライクは構わず蹴破るようにドアを開けた。

 すると、無表情な女性が立っていた。

「てめぇは何度ここに来りゃ気が済むんだ」
「知らせることがある」

 スライクはアステラを抜き、そのまま樹海を進んだ。
 当然のように追跡者があった。

「“アグリナオルス=ノアの来期の『ターゲット』だ”。狙いはガルドパルナ聖堂。あの洞窟を破壊すると言っていた」
「それを伝えるべきなのは俺じゃねぇだろ」

 スライクは苛立たしげに返した。
 アグリナオルス=ノア。今最も聞きたくない言葉だ。

「スライク=キース=ガイロードに依頼がある」
「断る。戦争ごっこは俺の仕事じゃねぇ」

 取りつく島もないようなスライクの態度に、アステラの気配が僅かばかり変わった。
 スライクは、気づかないふりをしたまま歩を進める。

「いいのか?」
「あ?」

 僅かばかり感情のこもったアステラの言葉に、スライクは立ち止り、殺気を帯びた言葉を返す。
 アステラの言葉には、少しだけ、挑発にも似た色が混ざっていた。

「結果として、スライクはタンガタンザの平和に大きく貢献した。しかし、それはスライクが想定していた勝利ではないはずだ。なにせ、結局、」
「あのマキナとかいう野郎が、か?」

 シンとした森の中。
 スライクは一瞬腰の大剣に視線を這わせてしまい、舌打ちをした。
 スライクは、今年の戦争とエニシ=マキナの顛末は把握しており、アステラもそのことは分かっているだろう。
 だが、その結末に固執しているように思われるようなことは、スライクは避けたかった。

「そうだ。スライク=キース=ガイロードにとって、最も早く目的が果たせるのはこの場所だ。何せ、来年になればアグリナオルス=ノアが姿を現すのだから」

 アステラには察されたようだった。
 スライクは再び舌を打つと、背を向け、歩き出す。
 アステラとこれ以上言葉を交わしても無駄だ。

「スライク」

 やはりついてくる。
 彼女も彼女で、今回のことを一刻も早くミツルギ家に報告する必要があるはずなのだが、優先順位は今にもこの地を去りそうなスライクの方が高いのだろう。
 煩わしげに、スライクは口を開いた。

「俺の目的がアグリナオルスだなんて決めてんじゃねぇ。俺には俺でやることがある」
「だが、このままアグリナオルスを野放しにするつもりか?」
「知ったことか」

 口論にも似た会話が続き、いつしか樹海を抜けた。
 村であった場所を通り過ぎ、外へ続く細い道に差しかかる。
 いつしか別れた場所だったが、アステラはなおも歩を止めない。

「スライク」
「アステラさんよ」

 最後に、大きな舌打ち。
 スライクは振り返り、アステラに向かい合った。

「てめぇは、エニシ=マキナの最期に納得してねぇから俺を止めようとしてんだろ」
「……ああ」

 一拍置いて、アステラは答えた。
 スライクは、目を細めて続ける。この事実を言うのははばかれるが、このままでは彼女はどこまでも付いてくる。
 止むを得ない。

「だがな、後になって言うのも何だが、“あの野郎の最後は最初からここだった”」

 決まっていた事実。
 決まっていた物語。
 そして―――決まっていた悲劇。

 それが“降りてきたのは”、つい先ほどのことだ。
 スライクは、傷跡から血が噴き出すほど拳を握り締めたのを覚えている。

 “その領域へのパス”を持たないアステラには分からない言葉だろう。
 だが彼女は、その言葉を黙って聞いていた。

「俺が潰してぇのは“それ”なんだよ。方々回って潰し続ける。アグリナオルスだけに固執してられるか」

 言って、スライクは自分が想像以上にアグリナオルスに固執していることに気付かされた。
 無表情のくせに自分の言葉尻だけは拾うアステラなら気付いているだろう。
 スライクは返答を考えながらアステラの言葉を待ったが、アステラは、予想に反したことを言った。

「……私はスライクに、タンガタンザにいて欲しい」

 スライクも、アステラも、表情を変えなかった。
 朝の健やかさが微塵も感じられない荒れ果てた空間で、ゆっくりと時間が流れる。
 スライクは目を瞑り、やがて沈黙を破った。

「アステラ。言ったろ、“約束は果たした”」
「……」

 スライクが、何を失っても元凶を叩き潰さなければならないと思う前。
 ただ、自分の周囲で“事故”が起こり続けていた頃。
 ふたりの両親が、共に巻き込まれた時。

 我ながら馬鹿なことをしたと今でも思っているが、スライクはアステラに、ひとつだけ、詫びをしたことがある。
 その“汚点”を清算した以上、自分がここに残る理由は無い。

「“あらゆる願いをひとつだけ叶える”。てめぇはそれを、3ヶ月前に使ったじゃねぇかよ」

 エニシ=マキナを誘拐犯から救出すること。
 それが無ければ、スライクは決して、あの場所には行かなかった。

「……きっかけになると、思ったんだ。また、交流ができるかなって。失敗したなぁ」

 そう呟いたアステラは、顔だけは、素なのか作っているのか、無表情だった。
 ただ、どうやら最早スライクを追う気は無くなっているようだった。

「じゃあなアステラ」
「……ああ。元気で」

 天地が湧きたち、熱気漂う今年の戦争は、ここで静かに終結した。
 スライクは、振り返ることなく外の世界へ向かう。

 そして、思う。
 今回、特に強く感じた“世界の裏側”。
 あれほど連続で、あれほど的確な情報が降り続けたことは今まで無かった。ああした情報が降り続けるのは、どちらかと言えば、“エニシ=マキナの属性”の本分であるはずなのに。
 その残り香だけで、苛立つほどの嫌悪を覚える。

 恐らくは、エニシ=マキナもその場所へのパスを開花させていたのであろう。
 そして、その上で、エニシ=マキナは“確定事項”を捻じ曲げたのだ。
 自分がこれまで、恐らくは1度も出来なかったことを、あの男は達成した。
 そう考えると、腰に提げた剣が重くなったような気さえする。

「俺の世界に普通は無い、ねぇ」

 そのフレーズが、妙に耳に残る。
 あの男はスライクを差し、“お前こそが”と言っていたが、果たしてそうなのか。
 だが確かに、これから自分が探す、姿も形も分からぬ敵を落とすためには、そうである必要がある。

「……」

 ついに樹海に挟まれた道を出た。
 流石に今度は魔物の大群が待ち構えていることも無いようだ。
 荒れ爛れ、最早土地としての意味を持たない空間。
 凹凸が激しく、車両での通行は不可能だろう。

 そしてここで、自分はあの魔族と再会した。

「……」

 “魔族”―――アグリナオルス=ノア。
 “あの戦闘”には強い憤りを感じる。
 仮に奴が“世界の裏側”に関連する存在ならば、今度は勝らなければならない。

 何にせよ、力を得ることも必要となってくるだろう。
 当てもなく、広大な大地を行く旅路の中で、何かが見つかることがあるのだろうか―――

「ほ、人か」
「!」

 何も無いものと通り過ぎた樹海の出口。
 振り返れば、そこにいつしか山吹色のローブを羽織った男が立っていた。
 そのローブよりも特徴的な長い杖を背負った男は、まるでちょっとした知り合いに声をかけるように歩み寄ってくる。
 その男の存在に気付けなかったことに、スライクは苛立ち、金色の眼を光らせる。

 男は構わず、

「悪いんだけど、聞きたいことがあるんだ。ここがガルドパルナだよな? 戦争の期日って、昨日だったりする?」
「あ?」
「いや、えっと、結構遠くてさ。交通機関も全滅してたし……、遅れちゃった……かな?」

 信用できない男だ。
 スライクは即座に判断した。
 目の前の男は、話に聞くミツルギ家の当主のように、人によって態度を変える種類の人間だ。ただ、相手を利用しようとしている、と言うよりは、無駄な衝突を避けるために動いているようだが。

「戦争ごっこなら昨日までだ。物見遊山なら消えた方が良い。もうすぐ軍隊どもが調査に来る」
「そっか……、そんなら帰ろうかな。途中まで一緒に行かないか?」
「お断りだ」

 アステラを巻いた直後にこんな妙な奴に絡まれるなど冗談ではない。
 スライクは却下と同時に歩き出した。
 しかし、男も付いてくる。先ほどのアステラの焼き回しだ。
 これならまだ、魔物の大群でも待ち構えていた方が遥かにマシだった。

「なあ、あんた村から出てきたよな? 今年の戦争の顛末、聞いていいか?」

 恐らく追い払おうとしても、行く方向が同じだからとか言い放ち、ついてくるだろう。
 スライクはそこまで先読みし、辟易した。
 全力で駆け出せば巻けるだろうが、そんな子供臭いことをする気にはなれなかった。

「“終わることが決まっていた奴”が、終わった。それだけだ」

 “パス”を持たない者には決して理解できない言葉。それだけを吐き出した。
 これで分からなければ、会話を続ける意味もないし、続ける気も無い。
 だが男は、取り立てて聞き返すことも無く、呟くように言った。

「ふぅん。“決まる前”に、避けられたかもしれないのにな」

 正しく意味を受け取らなかったのか、それとも意味を受け取っているのか、他者が聞けばついて来られないであろう会話が初対面のふたりの間で交わされる。
 男の言葉を解釈するとすれば、例えばスライクが魔物の大群に挑むよりずっと前―――あの夜アグリナオルス=ノアが“指”を差すことを未然に防ぐ、ということになる。
 普段ならば鼻で笑うが、そのときスライクは、そんな考え方もあるか、と漠然と思った。
 事件が発生する前に、それを防ごうとするのも、あるいは“物語”に抗うことになるのかもしれない。

 いつしか横並びになった男の長い杖が、妙に目に焼き付いた。

「はん」
「……なんだよ。笑うこと……って、行くな行くな、待ってくれよ。俺はマルド=サダル=ソーグ。月輪属性の旅の魔術師だ。レアだろ? で、お前は?」
「スライク=キース=ガイロード」

 スライクは、あっさりと答え、しかし歩みは緩めない。
 目指す先は、猛威を振るった伝説とは別の道。
 定められた運命に抗うという、あくまで漠然とした―――あくまで自分勝手なアナザーストーリーだ。

 だから、自分は決して、勇者様などではあり得ない。
 そしてその不規則な在り方は、きっと世界に―――定められた運命に“バグ”を作り出すだろう―――

「日輪属性の旅の魔術師だ。レアだろ」

―――***―――

 そして、その2年後。

 同じ時間軸―――燃えるような戦場が、襲来していた。



[16905] 第三十七話『タンガタンザ物語(結・後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2012/09/07 01:02

―――***―――

『ものすごくついていないグループが、多分ひとつだけある』

 “期日”。
 早朝、ミツルギ家現代当主ミツルギ=サイガは、テントを建てた粗末なベースキャンプで、口調だけは朗らかに言った。

 タンガタンザ西部に位置するこの場所は、ある意味最もタンガタンザの現状を現していると言えた。
 噴き出した汗がまとわりつく湿度、むしろ駆け出す気にすらならないほど広がった大地、叫びたくなるほど並び立つ山脈。
 緑一色で覆われたそれらは、食物が良く育つことを訴えるように潤沢な環境に蔓延り、この場所に居を構えるだけで生涯自然の恵みに愛され続けるであろう。
 ―――それも、数十年前の話。
 気候は未だに整っているのに、その地には、緑が無かった。

 延々と灰が降り、全てが埋め立てられていた。
 戦果に駆逐された自然の成れの果ては、新たな芽を出すこともできず、木々は力無げに横たわっている。
 注視せずとも異様な光景だった。
 自然のサイクルが大地と噛み合い、回り続けていたその大地は、死んでいた―――殺されていた。
 今ではモノクロの世界の一部に過ぎない。

 ここは30年ほど前、“ゲーム”の舞台になった場所らしい。タンガタンザに復興は、無い。

『俺たちは3方向から来る敵を死ぬ気で止めなければならない。そこで当然、メンバーは別れて戦うことになる』

 この場所。最早名も廃れた『何も無い大地』は、少々特殊な形をしていた。
 西部は山脈が連なり通行不可能であるが、その麓。そこにはぽっかりと広大な荒野が鎮座していた。
 山に抱きかかえられるように崖に囲まれたその場所は、閉鎖的という言葉が最も相応しい。
 その荒野を囲う崖には、北、東、南とそれぞれ通行可能なルートがある。
 せり立った崖に囲まれた、3方向とも同じような造りの細い道。そこだけが、この閉鎖的な空間へ―――『ターゲット』が身を隠す荒野へ続く道だった。
 間もなくその道を、異形の群れが埋め尽くす。

『こういう閉鎖的な場所が戦場である場合、アグリナオルスは知恵持ち、あるいは言葉持ちを特攻させてくる』

 『ターゲット』が座しているのは中央の荒野のさらに中央。ミツルギ家が創り上げた護衛用の城だ。
 もっとも、城と言うよりはごく一般的な家屋の形状をしているらしい。ただ、一般的な家屋には城門は無く、少なくとも合金製ではないであろうが。

『だけど、別に普通の魔物も参加しないわけじゃない。いずれかの道を選択して突っ込んでくるだろうね。知恵持ち、言葉持ちが引き連れて、『ターゲット』の城を攻め落とすために』

 『ターゲット』という言葉が出て、防衛に当たるひとりの男が僅かに蠢いた。
 リンダ=リュースというひとりの女性。
 それが、国を相手にするような大群に狙われている事実は、何度聞いても流すのは難しいらしい。

『今年は結構頑張ってね。今では魔物の残党は5万弱。でもそうなると、いたずらに分散させないだろうね。“大体それくらいの数が言葉持ちと等価”と思ってくれてもいいから。それより少ないと、知恵持ちや言葉持ちに引き連れさせる意味があんまりない』

 それはアグリナオルスという、タンガタンザを戦果に覆い続けている魔族の性格を理解した上での分析のようだった。
 そしてそうなる以上、3方向の内ひとつに、その残党が集中することになる。

『だから、“ものすごくついてない”グループの人は精一杯頑張ってね。一応中央の荒野にも人員は配置するけど、あんま期待しない方が良い。数だけが頼りの連中だから。まあとりあえず、そろそろ始めようか。最後に確認したいことがある―――』

 そこで一拍区切り、ミツルギ=サイガは目つきを鋭くした。

『―――覚悟はあるか?』

 ヒダマリ=アキラは、拳を強く握り絞めた。
 覚悟だと。そんなもの、とっくに身体の一部だ。

 敵残存勢力。

 魔物―――50000匹。

 知恵持ち―――トラゴエル。????。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 “北の道”。

 手作りという著しく警戒心を煽る飛行物体の着陸は、はたして成功した。
 その安堵に身を休められたのは僅か1日。

 ヒダマリ=アキラは心細さすら覚える狭い道に立っていた。
 内面に仕込む防具をタンガタンザ製のものに総取り換えしたのだが、外見の服装が簡素な上着とジーンズでは未だに民間人という感が拭えない。
 だが、それでも一応、世界を救う旅をしている勇者様である。

「待機時間……長っ」

 アキラは転がった岩のひとつに腰かけながら呟いた。
 そして漠然と灰色に染まった周囲を見渡す。
 ミツルギ=サイガが“道”と称した通り、この場所は数十歩進めば端から端に着くほど狭かった。左右の崖の高さは百メートルを超えているだろう。流石に断崖絶壁と言われるほど高く、傾斜も急で、元の世界の高層ビル街のような圧迫感を覚える―――自然の匂いは、感じられなかった。
 吹き荒れる風がそうしたのか、壁は削り取られたように荒み、アキラが腰掛けている岩も崖から切り離されて落下してきたものかもしれない。
 ならばこの岩はもともと何処に付いていたのだろう、と何となく視線を這わし、あれっぽいなぁ、とか何とか考えていたのは昼過ぎ辺りだったろうか。
 早朝から始まった警護は、日が傾いても異常無しのまま続き、今ではついに星が薄ぼんやりと見え始めている。
 『ターゲット』を狙うのは、明日の日の出まで。
 魔族軍の味方をするわけではないが、警護している側が本当に間に合うのか、と懸念してしまうほど、『何も無い世界』は空虚だった。
 ふと、別の場所で警護している男のことを思い出す。
 ここまで『ターゲット』の近くに来られたなら、会いに行けたかもしれない。
 飛行機で到着したばかりの昨夜は身体を休めることを専念すべきだろうが、この時間まで暇ならその猶予はあったであろう。
 しかしこの時間となるともう遅い。
 『ターゲット』は“ルール”上荒野から出られず、あの男は道から離れるわけにはいかない。
 彼らが再開するのは、戦争に勝利を収めた後ということになる。

 上手くいかないものだと、ぼんやりと思う。
 アキラも、張り切っていた午前中と比べ、時間が経った今は呆然と思考を這わせてばかりだ。
 この性格は、本当に何とかしたいと思う。

「くしゅっ」

 そこで、妙に可愛らしい声が聞こえた。

「……サク。寒いのか?」
「は? 何を言ってるんだ? 幻聴だろう」

 ヒダマリ=アキラが担当する北部の道。
 同じく北部を警護しているサクことミツルギ=サクラは、なんととぼけてみせた。

 アキラは目を細め、ため息を吐く。
 随分と気合を入れて、この時間まで直立不動で道の中央に立っていた彼女は、羽織った赤い衣をバタバタとはためかせた。
 それが身体を温めているように見えるのは、アキラの気のせいではないだろう。

「そんなとこ突っ立ってるからだって。風がもろ当たるじゃねぇか」

 そう言うと、サクはあくまで渋々といった様子で、アキラの隣の岩に腰かけた。この場所も差は無いと言えば無いのだが。精々身を低くできる程度だろうか。
 朝から退屈で、アキラはしきりに話しかけていたのだが、反応らしい反応を示してくれたのは初めてだ。確かに旅の道中も、依頼前の彼女は真摯な態度で臨んでいたようだが、傍から見ていると寂しいものがある。
 ようやく折れた彼女に、アキラは少し嬉しくなり、鬱憤を晴らすように愚痴を言った。

「敵、来ねぇよな……。お前の親父さん、どういうことやってんだろうな。警護の担当はしてないんだろ。きっと、」
「あの男は遊撃と言っていたが、大方どこかで寝てるだろうな。もしくはあの忌々しい物体でミツルギ家に戻っているだろう」

 きっと部隊の調整とかで忙しいんだろうな、と言おうとしたのだが、間髪入れずにサクが割り込んだ。
 本当に仲の悪い親子だ。彼女の中のミツルギ=サイガの評価が酷いことになっている。
 もっともアキラ自身、サイガに対する評価は高くない。だが流石に、今だけはまともに働いていると信じたかった。

 なにせ今日。
 “あのスライク=キース=ガイロードですら防ぎ切れなかった化物”が攻め込んでくるのだから。
 時折吹く風が、岩をかき鳴らす。
 アキラは極力それを聞かないようにしていた。その先に思い起こしてしまう、あの情景も。

「なあサク。聞いちゃいけないのかもしれないけど、お前が旅をしてた理由って、あの親父さんにあるのか?」
「話題を振るにしては些か痛いところを突いてくるな……」

 サクは、目を伏せ、袂を抱き込むように丸まった。
 サクのそんな仕草は、アキラの眼には新鮮に映った。

「何となく、誰かに聞いてもらいたいから言うんだが……」

 その姿のまま、サクは地面を呆然と眺めていた。
 そしてぼそぼそと、風にかき消されるような小さい声で、呟く。

「私が子供だった。哀しいほど、子供だったんだ」

 アキラは目を細めた。言葉の真意は、相変わらず分からない。
 自然に挟まれた空虚な世界。そこで立ち続けるには、いくらか精神力を費やさなければならないのかもしれない。
 サクはもしかしたら、疲れているのだろうか。
 だからアキラは、塞ぎ込んでいるようにも見えるサクに、呟いた。

「風引きそうで子供、か。サクのことはこれからティア・ツーとか呼べばいいのかな」
「ようし勝負だ。剣を抜け」
「おい。それは奴の名前を悪口と認めていることになるぞ」
「それでいい。それでいいから、戦いたい。……というかお前もその意味で使っているじゃないか!!」

 いきり立つサクに、アキラは身構えず、笑っていた。
 間もなく戦闘が始まるであろうに、自分たちは何をやっているのだろう。

 アキラは、笑ったまま、空を見上げ。
 小さく、そうだよな、と呟いた。

―――その、瞬間。

「―――!!」

 転がっていた小石が暴れた。
 風が暴風と化し、貫くように吹き荒れる。
 続く、地鳴り。
 止まることの無い、地鳴り。

 その轟音が、鼓動を打ち鳴らす。

「来たか……!!」

 サクが飛び跳ねるように立ち上がり、アキラも続いて即座に構える。
 抜き放ったのは刃渡り80センチメートル程度の白銀の剣。
 新たに自らのものとなった装備の初陣にアキラは緊張の糸を張り詰めた。
 鋭く、深く、重く、集中。

 轟音が鳴り響く先を探る。
 タンガタンザに訪れて、2ヶ月。
 いよいよ戦場に、勇者様は躍り出る。

「…………これは違うじゃないっすか」

 その光景を見た瞬間、アキラは泣きそうになった。
 『ターゲット』を守り抜くのが最大の目的ではあるのだが、本当のところ、アキラは剣の真価を試したいと思っていた。
 知恵持ち、あるいは言葉持ちとの一戦は、『ターゲット』防衛と剣を扱える、ひと粒で2度おいしい戦いになるはずだった。

 それ、なのに。

「ものすごくついてないグループはここかよぉぉぉおおおーーーっっっ!!!!」

 猛進。
 濁流のような化物の猛進がそこにはあった。

 頑丈そうな身体のサイのような魔物を先頭に、我先にと駆け抜けようとする異形の群れが狭い通路を埋め尽くし、特攻してくる。最早背後に何が控えているかは見えもしない。
 アキラの身ほどもある岩を蹴散らし踏み潰し、土石流のようになだれ込んでくる化物どもは数える気にすらならなかった。

 それが間もなく、アキラとサクを蹂躙する。

「くっそ!!」

 アキラとサクは、即座に二手に別れた。
 共に道の隅に到達し、各々の武具を構える。

 そこには、崖から生えた野太い鎖が地面に伸びていた。

「最初に斬るのは―――」

 アキラは呟き、構えた。
 魔物の群れは、アキラたちなど気にもしていないように駆け続け、ふたりの眼前にまで到達している―――

「罠かよ!!」

 オレンジの光と、イエローの光。
 それらが同時に爆ぜた直後、魔物の大群は地面の中になだれ込んだ。

―――***―――

 “南の道”。

「ついてねぇのは奴らのところだったか」

 身を包んだ鎧の動作を確認しながら、グリース=ラングルは呟いた。
 思った以上に、思った通りになった。それだけだ。正直な感想を言えば、当然、とさえ思う。
 面倒なことにあの男はそういうものを引き込むのだ。
 ひとつだけ、とか、低確率で、とか、そういうものに非常に―――あるいは非情にと言った方が適切か―――好かれる。

 ゆったりと、剣を抜き放つ。

 狭いルートで大群が強引に特攻してきたら、防衛は困難だ。
 魔物の方が体力はあるし、何より攻撃本能の点で人間を凌駕している。
 そのため、ミツルギ=サイガが狭い道の防衛方法において基本中の基本、落とし穴を全方向に設置していた。
 グリースの視界の隅にも、切断すれば奈落が顔を出す罠が映っている。
 知恵持ちや言葉持ちには通用しないだろうが、大群は足止めできるという処置。
 だがそれは裏を返せば、大群が来ないルートの罠は無駄になるということだ。
 これだけ広大な土地に、それだけの数の罠を設置するには相当な資金が必要だったろう。そしてその大半が無駄に終わる。目立たない場所で、どれだけの金が動いているのか、グリースには想像もつかない。
 それだけミツルギ家も本気であった、ということか。ヒダマリ=アキラに聞いた、2年前とは違って。

「……」

 グリースは、額に巻いた鉢巻きを、強く絞る。
 いつも感じていることだが、頭を縛りつける感覚はいい。
 余計なことを封じ、必要なことだけ脳から滲みでてくるような気がする。

 グリースは剣を振るい、感触を確かめた。
 調子はいい。身体は軽い。足腰も安定している。
 昨日乗った奇怪な飛行物体の影響は、昨日の内に取り払うことができた。

 ならばあとは、込めるだけだ。

 目の前の敵に、全てを。

「お前、言葉は分かるか?」

 グリースは目の前の“それ”を睨みつけた。

 汚れた灰色の布。
 広げれば、家屋くらいはゆうに覆い尽くせるだろう。
 それが、真ん中をつまみ上げたように、球体の姿を風に漂わせていた。狭き道の半分は埋め、天辺は見上げるほど高い―――巨大物体。
 一応、立ってはいるようだ。布の四隅は、楔を打ち込まれたテントのように地面を掴んでいた。

「……」

 返答は無かった。ただ、グリースを認識したように動きを止める。
 どうやらこの奇妙な『布』は、“言葉持ち”ではないらしい。

 となると、“知恵持ち”。

 グリースは歯噛みする。
 情報には無かった敵だ。今年の戦争に始めて駆り出された魔族軍の新兵。

 だが、単騎で攻め込んでくるあたり、戦力としては一騎当千を満たしているのだろう。

「悪いがここは通行止めだ」

 グリースは、次に、笑った。
 自分はあの連中とペアを組んでいない。
 だがむしろ、懸念していたのは他のメンバーだ。

 この戦争に懸ける想いは、自分が上だと信じている。
 だから、情報がある敵が別に回ってくれた方が、『ターゲット』を守りやすい。

 自分は絶対に、抜かせないのだから。

 剣を担ぐように抱え、切っ先は頂点。
 腰を落として構えたグリースは、未知の存在と対峙する。

「好みを言えば“言葉持ち”が―――ぶっちゃけ“魔族”が良かったんだが―――絶対に、抜かせねぇ」

―――***―――

 “東の道”。

「ねーねーねー、クロック様」

 今日だけで、一体何度、『ねー』という言葉を聞いただろう。
 団子のように結わった髪形がトレードマークの少女―――ミツルギ=ツバキの言葉を適当に聞き流し、クロック=クロウは風に飛ばされぬよう帽子を深く被った。
 多分、3の倍数のはずなのだから、2時間に十回の割合で話しかけられたとして―――と、そこまで思考を逸らしてしまい、クロックはもう1度、深く、帽子を被った。

 馬鹿げたことが、ゆうに百回は、超えている。
 ツバキの言葉がではない。
 この、タンガタンザを舞台にした、非常で非情な戦争がだ―――いや最早、日常といえるのか。

 そんな戦争の表舞台に、自分は一体どれほどの時間立っているのだろう。
 しばし思考し、しかしツバキの口癖同様、無駄なことだと切り捨てた。
 数えることに意味は無い。
 一瞬だ。一瞬、だった。
 駆け抜けたつもりもなく、成し遂げたこともない時間は、本当に、一瞬だ。
 一方で。奔走し、死に物狂いで村を創り上げたあの時間さえも、またたく間に過ぎ去ったように思える。
 そう考えると、過去の時間というものは、いずれも錯覚であるように思えてしまう。
 過去を振り返ることに意味は無い―――などと、そんな言葉も存在する。なるほど道理だ。過去は所詮、今の自分にとって、幻影に過ぎないのだから。

 それでも。
 忘れてはならないことがある。背負わなければならないものがある。
 そうクロックは確信している―――だから。忘れずに、背負っている。

「ねーねーねー、クロック様。なんか、遠くから変な音聞こえません?」
「……」

 ツバキの言葉で我に返り、クロックは目を細めて周囲を探った。
 意識をそばだてると、確かに大地の震動とも爆音とも取れる僅かな音が感じられる。どうやら別のグループは交戦を開始したらしい。
 ツバキの若い耳は、それを拾ったのだろう。
 クロックはため息ひとつ吐く。
 過去が何だと考えていた自分は、結局のところ、老いているだけなのかもしれない。

「ツバキ、用意しろ。ここにもそろそろ敵が来る」
「はい、了解しました」

 身体を伸ばし始めるツバキを横目に、クロックは足元に置いていた大きな袋を担ぎ上げた。
 袋の中には、昨年大破されたガルドパルナ聖堂より採掘した“魔力の原石”が詰っている。拳大ほどのこの石たちは、火曜属性のクロックが用いれば“止める”のが目的のこの戦争において最上級の働きをするであろう。

「……ガルドパルナ、か」

 ツバキに聞こえないように、クロックは何となく声に出してみた。
 一瞬で過ぎ去った過去。
 その中には、2年前ガルドパルナでの戦争も含まれている。
 タンガタンザの民からすれば奇跡の、しかし、参加した者にとっては何とも後味の悪い、ドロドロとした結末で終わった物語。
 ツバキと出逢った、あの日。
 あの日から、自分はこの“外れた”子供に、何かを示すことができているのだろうか。

「ツバキよ」
「はい?」
「お前はあの日から、変われた自信があるか?」

 今さら聞くようなことでもない。
 あの何もできない子供が、2年で戦場に立てるほどの力を手に入れているのだ。
 本当に、無意味な質問。
 だがツバキは、姿勢を正し、僅かばかり目を細めた。

「はい。強くなりました」

 あるいはそれは、戦力のことを言っているのではないのかもしれない。

 そこで。

「!」

 ゆったりと、月日を遮る影が現れた。
 距離にして数百メートル先。未だ崖で囲まれた狭き道に入ってすらいないだろう。
 だが、目前にいるかのように、見えた。
 何ら遜色なく、化物と形容できる、あまりに巨大なその『蛇』が―――

「ツバキ、運が良いな」
「……はい」

 数を数えることもできない、無限を思わせるほどの積み上げられた岩。顔をほとんど真上に向け、ようやく頭が見えてくる。
 鎌首をもたげるその最先端の岩には、恐らく眼と思われる穴がふたつ開いている。
 顔を模すには口が必要なところだが、生憎と、生物という枠組みから外れている―――“外れることを許された”岩石の無機物型。

「トラゴエル」

 そのあまりに巨大な岩石を前に、クロックの口は釣り上がった。
 本当に、運が良い。
 クロックは、袋の中から原石を掴み上げた。

「またてめぇを殺す機会があるとはな……!!」

―――***―――

 “北の道”。

「ふと思うんだが、俺ら以外のグループはガチっぽいバトルが始まってるんだろうな」
「え!? なに!? なんだって!?」

 爆音、騒音、轟音。
 叫ばなければ意思疎通ができない環境の中、アキラとサクは、淡々と作業をしていた。
 身体中が吹き飛ぶような風圧。天に打ち出されるほどの大地の振動を受けながら、アキラは再び目の前の罠を両断する。

「だからさぁっ!!」

 ザンッ!! と地中に伸びた罠を斬れば、遠方の大群が姿を消す。
 直後、轟音。狭き道での風圧はアキラとサクの身体を痛烈に叩き、同時に後続の魔物たちを爆破した。
 戦闘不能の爆発。
 嫌なほど思い知っている魔物の特性を、アキラは頭に思い浮かべた。

 大群を前に、アキラとサクが行っているのは、大群から逃げるように移動しながら、魔物が足を踏み入れた地点の罠を作動させることだけだった。
 落とし穴の罠は、この狭き道の随所に仕掛けられている。
 流石に5万もの大群を前には防ぎ切れないのだろうが、戦闘不能の爆発があるとなれば話は別だ。
 所狭しと密集した魔物たちは罠に飲まれ、息絶え、そして爆風を周囲にまき散らす。
 そうなると、強引に飛び込んでいる後続の魔物たちに逃れる術は無い。
 問題なのは罠が手動であるがゆえに、魔物の爆破の余波や余震を受けることだが、アキラには身体能力強化の魔術、サクには足場を改善する魔術がある。
 ある程度劣悪な環境でも、罠を作動させる手順に影響は無い。

「なあ!! サク!!」
「なんだ!?」

 罠を作動させ、魔物が地中に飲み込まれる。
 後続はまだ土煙の中から現れない。群れの切れ目に突入でもしたのか、たびたび訪れる休憩時間だ。
 その隙に、アキラは次の仕掛けへ移動しながら、サクに叫ぶように言った。

「これ、なんか違くね!?」
「だったら飛び込んで来い!! 止めないから!!」

 怒鳴られたアキラは恐る恐る振り返る。
 中央の荒野まではまだまだ距離がありそうだが、黒煙が混ざった土煙の向こう、罠の数が不安になるほどの勢力が、早速殺気をまき散らして迫ってきていた。今度は不気味な液体の塊が先頭になっているようだ。最早名前も分からない。
 聞いた話によると、スライク=キース=ガイロードは開けた荒野であれほどの大群を撃破したらしいが、直接挑みにいくのは正気の沙汰とは思えない。

「俺、罠でいいや」
「次、行くぞ!!」

 今回の休憩時間は生憎と短かったようだ。サクの掛け声とともに、アキラは剣を振り下ろした。
 鎖のように見える仕掛けは、意外なほど軽く切断できた。

 そして、僅か遅れて、爆風。
 圧縮された突風のような一撃が身を襲うが、高が風では身体能力強化を凌駕し得ない。

 驚きなのは、この剣だ。
 手に握る、未だ魔物を直接撃破していない剣を、アキラはしげしげと眺めた。
 恐ろしく丈夫だ。ここまでの道中にも、アステラが金曜属性の魔力を込め続けていただけのことはある。
 武具を手に取る必要の無い“武具より強い力をその身に宿す属性”―――木曜属性の力を再現しているというのに、この剣は、まるで損壊していない。
 これならば、“武具すら凌駕する破壊の属性”の力にすら耐えられるかもしれない。

 “いや、それどころか”。

「―――サク!! 次だ!!」
「あ、ああ!!」

 だが、いかに武具が強いとはいえ相手は罠。
 僅かばかり気落ちするも、アキラは淡々と作業を続ける。
 この大群。ミツルギ=サイガは5万弱と言っていた。そんな大群が展開可能な中央の荒野まで辿り着いたら対処はほぼ不可能だろう。
 魔物の戦闘不能の爆破が随所で起こり―――この強風だ―――それだけでも、即座に地獄絵図になってしまう。
 アキラとサクは、ある意味最も重要な任務を行っていると言ってもよいのだ。
 いかにこれが、淡々と続く作業だとしても。

「……、」

 そこで、アキラの脳裏に何かが掠め、そして、“自分を全力で殴りたくなった”。
 これの何が淡々とした作業だ。

「―――サク!!」
「アキラ!! 次だ!!」

 見ればサクはすでに罠を斬っていた。
 アキラは歯噛みし、自分も剣を振り下ろす。
 一層強大な爆風が巻き起こり、両脇にそり立った崖の随所にひびが入る。道が崩壊するかもしれない。ミツルギ=サイガはルート1本潰れれば御の字と言っていたが、あるいはこれも、それを狙っているのかもしれない。

 だが、そんなことより。

「サク、」
「アキラ、お前目はいい方か!?」

 途端妙なことを訊いてきたサクに、アキラは眉を潜めた。何気に自分が良く訊く質問だ。
 思わず、多分この世界の住人より悪い方だ、と素直な答えを吐き出そうとしたが、サクはそれよりも早く言葉を続けた。

「“言葉持ち”や“知恵持ち”を見た記憶があるか!?」

 言われて、アキラは背後の大群に振り返った。
 大分数を削っているであろうに、変わらぬ勢力。凶悪な異形の群れ。
 しかし言われてみると、あれらが何かに指揮を執られているようには見えなかった。

「いや、無い!! つっても見た目は普通の魔物とかなんだろ!? 巻き込まれたんじゃないか!?」
「それならいいがな!!」

 再び、罠を斬る作業。
 だが、サクの言葉で、アキラの脳裏にも悪寒がちらついた。
 魔物の数に圧倒されていたが、そもそもミツルギ=サイガは、“言葉持ち”や“知恵持ち”が3方向から攻めてくることを前提に、魔物の大群が付随して現れるグループを不運と言ったのだ。
 ならば、最後部付近にいるのだろうか―――

「悪い報せだ!!」
「!?」

 背後ばかりを気にしていたアキラは前方からの声に心臓が一瞬止まった。
 同時、背後の魔物に勝らずとも劣らぬ爆音と共に現れた物体に対しても戦慄する。

「く、車!?」

 元の世界の鉄の塊がそこにはあった。
 この狭い道の半分を圧迫するほど巨大なそれは、アキラの身ほども太い車輪が前後左右の4か所に設置されている。車体は高く、屋根が取り払われているそれは、オープンカーと戦車を融合させたような不格好な姿だった。
 ひと月ほど前に見た、ミツルギ=ツバキを誘拐したメンバーが乗っていた馬車よりは小さいが―――いや、軽量化に成功しているとでも言うべきか―――ひと目で移動手段だと分かる。
 この世界にあって良いものではない。

 そして、見上げる形になる運転席には、恐らくはその製作者が乗っていた。

「サイガ!! 今さら、」
「黙ってくれ。悪い報せだよ」

 良く通る声だった。紅い衣に身を包んだサイガの瞳が強くなる。どうやら彼は、中央の荒野からこの車を乗り入れてきたらしい。確かに車は、遊撃には適した移動手段なのだろう。
 罠を斬りながら移動するアキラとサクを、狭い道で器用にも車体を反転させたサイガが追走してきた。
 背後からの爆音は変わらずだが、サイガの乗る車はそれ以上の轟音を奏で、爆風に影響を受けず走り回っていた。

「―――!! ―――!!」
「なに!? なんだって!?」

 騒音が酷い。
 車と並走しながらの会話は意味を持たなかった。何かを叫んでいること程度しか分からない。
 アキラは歯噛みし背後を逐一確認しながら罠の作業を進めていった。
 真横の巨大物体の威圧感に押されながらも作業を進めていると、ようやく魔物の進撃が止まった。
 僅かばかりの休憩時間だ。

 アキラは身体を車の前へ踊り出し、ひとりと1台を停止させた。一応はこの戦争の指揮官であるサイガの言葉を待つ。
 サクの顔は、サイガの登場により、分かりやすいように不機嫌になっていた。一方サイガはサクの方を見ようともしない。
 相変わらず仲の悪い親子だ。
 もっともアキラも、自分たちが汗まみれになって爆風に身を捧げているのにもかかわらず、涼しい顔して車に乗り込んでいるサイガには僅かばかりの憤りを感じていた。
 指揮官という立場からすれば当然かもしれないが、もし仮に、ふざけた野次でも飛ばしに来たのだとしたら容赦はしない。

 アキラが思わず剣を握る力を強め、しかし、次のサイガの言葉で剣を取り零しそうになった。

「“アグリナオルスが出た”」
「!?」

 アキラはほぼ反射的に空を見上げた。
 未だ星々が輝いている。
 まだ―――“そんな時間じゃないはずなのに”。

「俺だってびっくりさ。だけど、現れた以上、マークする必要がある。それも、“戦える奴”がね」

 それはそうだ。
 他の何をおいても、アグリナオルスの出現は重く捉えなければならない。
 何せ、どれだけ戦局を優位に進めても―――“それだけで覆ってしまう”。

「そこで、」
「っ―――、サク!! 任せた!!」
「へっ!?」

 アキラの声に、サクが僅かばかり黄色い声を上げた。
 アキラはそれ以上言葉を続けなかった。
 魔族は危険だが、それでも多分、それが一番理にかなった布陣になるはずだ。

「ヒダマリ君も同意見か、そりゃそうだ。アグリナオルスは多分まだ動かない。姿を曝しただけでね。だったらマークは、すばしっこいサクラちゃんがベストだろう。“奴を見失わないことが最重要だ”。あくまで見張りだよ」

 ミツルギ=サイガは、不敵に笑い、サクに手を伸ばした。

「ヒダマリ君。サクラちゃんを借りてくよ。ここはひとりで十分だろう?」
「ああ!!」
「……くっ」

 サクは僅か顔をしかめ、サイガの車に飛び乗った。
 魔力や身体能力が発達したこの世界では、容易に飛び込める屋根の無い形状は戦場に適しているらしい。
 アキラはほっと息を吐く。
 これからは、道の両脇の仕掛けをひとりで破壊しなければならなくなったが、安いものだ。

「アキラ!! 本当に大丈夫なんだろうな!? ここにはまだ“知恵持ち”がいるんだぞ!?」
「こっちの台詞だ!! ひとりで魔族と戦おうとするなよ!! すぐに片付けて俺も行く!!」
「じゃあヒダマリ君、任せたよ!!」

 サイガが叫んだと同時、背後からしか来なかった爆風が前方から襲ってきた。
 思わず横転しそうになったアキラは寸でのところで踏み留まり、顔を上げる。すでに、サクとサイガを乗せた車は米粒のように小さくなっていた。
 あの車の背後には、ブースターのようなものが付いているらしい。シリスティアへ訪れた際に乗った“内回り”の船の移動速度を思い出す。
 そんな追想の間も無く、黒煙から次なる群れが姿を現した。今の先頭は、動きの素早そうな小型の狼のような魔物だった。

「さて、やるか」

 科学と魔術が入り混じった車を見送って、アキラは再び作業に入る。

―――***―――

 “南の道”。

 グリース=ラングルは思考する。
 この3ヶ月、タンガタンザで学んだ―――学ばざるを得なかった魔族軍の特性、戦場での優良な行動を勘案して―――思考する。

 タンガタンザを百年間で崩壊させた“魔族”―――アグリナオルス=ノア率いる魔族軍。
 その中で、毎年現れる“知恵持ち”や“言葉持ち”。その、特徴。
 ミツルギ家に蓄えられている戦争の歴史を見れば、アグリナオルスは“無機物型”の魔物を好んで使役するそうだ。

 “無機物型”。
 世界の歴史、人の歴史、果ては、人の空想の世界ですら、“前提として存在する自然物”を模した魔物。
 その存在を否定する者はおらず、しばしば牙を向かれるにもかかわらず、“滅ぼそうとする発想”自体が存在しない。
 既存のロジックに当てはまらない―――魔物。

 そうした存在を前にしたときは、まず、情報を蓄積することが重要だと知っている。
 相手の正体を探ることは、戦闘というものを理解した瞬間、誰もが理解する原始的な思考であろう。
 正体を深追いするあまり戦闘に集中できなくなるのは本末転倒だが、少なくとも、敵にどのような損傷を負わせばよいのか―――“勝利条件”の確定は必要である。

 そう。
 ロジックに当てはまらない存在を、自分の中のロジックへ落とし込む。“こうすれば勝ちだ”という前提を、自分の中に正確に築き上げなければならない。
 それが必要な工程だ。

 だから、最初にグリースが思ったことは。

 こいつは―――何だ。

「……、―――、」

 それが鳴き声なのか、目の前の『布』からは、高周波にも似た極小の音が聞こえてくる。
 狭き道の中央で山なりになって風に漂う『布』は、予め心構えをしていなければとても魔物とは認識できないであろう。

 グリースは以前、今年の『ターゲット』である女性に、こんな形状の魔物が存在することを聞いたことがある。
 霊体を布で包み込んだように漂う―――メロックロストだったか―――月輪属性の魔物だったろうか。
 授業染みた彼女の話に、半ばうんざりしてほとんど聞き流していたが、特徴としてはこの規格外のサイズ以外一致している。
 だがグリースの記憶では、メロックロストとかいう魔物は悪魔を模した“幻想獣型”。それはそれで脅威なのだが、少なくとも、“無機物型”ではない。
 今年から趣向を変えたのだろうか。なにせ、こんな下らないゲームを考える“魔族”だ。何をしてもおかしくはない。

「……、―――、」

 『布』は、鳴き、漂うだけだった。戦闘意欲の有無すら分からない。
 グリースを認識はしているであろうが、目も口も無い『布』からはなにも感じ取れなかった。

 メロックロストの亜種。あるいは全く違う“無機物型”。
 月輪属性。あるいは全く違う5曜属性。

 組み合わせは様々だ。視認しただけでは何ひとつ分からない。
 このまま対峙しているだけというのは、時間を稼ぐことが重要なこのゲームでは好都合だが、流石に相手もそこまで馬鹿ではないだろう。なにせ“知恵持ち”だ。

 遠くから、魔物の大群が爆ぜる音が定期的に届いてくる。
 だがここは、妙に静かだった。
 グリースと『布』は、互いに動かない。

 グリースは思考する。

 向こうにしても攻める必要があるのだから、最も自然な考え方は―――こうしている間に、なんらかの術式を組み上げていること。攻撃を誘っている可能性もあるが、仮に前者だった場合、このまま棒立ちしているのは危険極まりない。

 ならば、試す意味でも、初撃は自分が行う必要がある。

「……クォンティ」

 グリースは静かに、己が剣に魔力を込める。肩の上で構えた剣が、スカイブルーの輝きを増し、鋭く光る凶器を纏う。
 『布』が、僅かに蠢いたように見えた。

 開戦。

「うおらぁっ!!」

 3ヶ月間、溜まりに溜まった鬱憤をここまで我慢できたのは我ながら驚嘆できる。
 渾身の力で振り下ろした剣はいささか大振りになり、『布』まで届きもせずに大地に強く叩きつけられた。

 しかしその直線上。
 光線のような一閃が炸裂した。
 青く輝くグリースの剣が“伸び”、驚嘆すべき範囲の存在を瞬時に切り裂く。

 クォンティ。
 平凡たる水曜属性のグリースが愛用する攻撃魔術は、より多くの敵を打つために磨かれた範囲攻撃だ。
 剣に纏った魔術を、“剣の形のまま制御し”、水滴を飛ばすように振り抜くことで“斬激範囲を延長させる”。間合いを測ることに長けている剣士タイプの魔術師には圧倒的に優位に立てる、間合い誤認の剣撃。
 剣士としても水曜属性の術者としても、いささか型破りなこの攻撃に初見で対処できるのは、並外れた反射神経を持つ者か、あるいは間合いを測るのを最初から放棄し、『とりあえず攻撃っぽいから全力で避けよう』とか考えるどこぞの男くらいであろう。

 ゆえに、眼前の“知恵持ち”は、何ら動きを見せずに『布』を真っ二つに斬り裂かれた。

 が。

「!!」

 斬り裂かれた巨大な『布』。向こう側の景色が見えるほど両断された物体は、結論から言えば絶命していなかった。
 直後、斬り裂かれた『布』の隙間から、まるで防波堤でも決壊したようにおびただしい量の青の波動が放出される。

「―――ちっ!!」

 鎧に包まれた身体を強引に跳ばせ、グリースは破壊の光線を紙一重で回避する。
 真横を通り過ぎた陣風は鋭く走り、曲がりくねった岩の壁に深く爪痕を残した。下手をすれば崖が崩壊していたかもしれない。グリースはぞっと背筋を振るわせた。
 奇しくも己の攻撃を反射されたように襲われたグリースは歯噛みし、『布』を睨みつける。
 グリースの斬激を浴びた『布』は、損害個所を蠢かせ、縫い合わせるように結合していた。

 ようやく分かった。
 この『布』は。

「“空気の無機物型”か……!!」

 僅かばかり萎んだように見えた『布』は、即座に膨れ上がった。
 恐らく周囲の空気を体内に取り込んだのであろう。

 この魔物が操る空気は、あの『布』の中にある空気だけなのだろう。
 そうでなければ、とうの昔にこの空間総てがグリースに襲いかかっているはずなのだから。周囲の空気を『布』の中に取り込み、魔力を織り交ぜ、己が力に換えている。
 先ほどの攻撃の魔力色からして、水曜属性。無機物型を作るには、魔力制御に長ける水曜属性や、魔力が安定する土曜属性が適しているのかもしれない。

 正体は割れた。
 となれば次の問題は“核”だ。
 あの即座に修復した『布』の一部が“核”なのか、あるいは体内の空気の一部が“核”なのか―――あるいはその両方か。

 “そして最も重要なこと”―――あの“知恵持ち”の、“攻撃方法を全て確認する必要がある”。

「―――クォンティ!!」

 グリースはしゃがむように蹲り、地面に滑らせるように剣を走らせた。攻撃を回避した直後でも体勢を崩すようなヘマはしない。
 狙いは足元。
 地面に楔で打ち付けられているような、布の先端―――

「!!」

 直後、『布』が“跳躍した”。
 風に漂うばかりであった『布』が機敏に跳ね上がり、グリースの鋭い一閃は地を削るばかりに終わる。
 次いで、落下。
 建物ほどの巨大物体がグリースの頭上まで跳ね上がったと思えば、爆発的な速度で墜落を開始する。
 向かってくるのは、凶器のように鋭く尖った布の先端―――

 ザンッ!!

 方向も考えず飛び込むように回避したグリースの耳に、信じがたい“斬激音”が届いた。
 即座に身を起こし、構えながらも振り返ったその先、『布』の魔物は大地に身体を埋もれさせている。
 だがその周囲、まるで測ったような綺麗な線が延びていた。
 『布』の身体から4本ほど延びている線は、斬激の跡。あの布の先端は、どうやら恐ろしいほどの鋭利性を持っているらしい。
 『布』は身体を蠢かせ、地中から出ると、四隅のひとつを、鎌のように掲げる。
 中身が見えたが、それはただの布の裏地だった。やはり中は空気が詰っているらしい。
 グリースが、思わず呆然と立ち、観賞していると。

 『布』は、四隅のひとつを、真横に振った。

 ビュッ!! という音が大気を割った。
 グリースの胴体の位置を真横に薙いだその斬激は、最早目で追える速度では無かった。間一髪身を伏せたグリースの頭上で、死神の鎌が通過する。
 爪痕を残されたのは、再び狭き道を囲う高い崖だった。だが、鋭く深い線が描かれたにもかかわらず、今度は小石ひとつ落ちて来ない。
 剣や鎧で受けることさえも危険だ。間違いなく両断されるであろう。
 その鋭さが生物の身体を襲えば結果は見えている。

「ち―――シュロート!!」

 グリースは、まるで鞘に収めるように死神の鎌を元の位置に戻していた『布』に攻撃を仕掛ける。
 腕を突き出し放ったのは、水曜属性の術者ならばおよそ誰でも使用できる基本の低級魔術。
 型破りな戦闘スタイルではあるが、最初からそうであったわけではない。放つまでに少々時間がかかるとはいえ、グリースは水曜属性の魔術ならばある程度習得している。
 本来は不意打ちに使用する遠距離攻撃魔術だが、温存している余裕は無い。
 相手はグリース以上に枠を外れた“知恵持ち”。
 己の技巧の総てを凝らし、立ち向かわなければ命は無い。

「―――!!」

 グリースが放った魔術は予想通りの軌道を走り、そして予想通りの結果に終わった。

 『布』の身体の中央を正確に射抜いたスカイブルーの一閃が、“同じ軌道で跳ね返された”。
 そう錯覚するほどに、『布』は、空いた穴から空気の大砲を即座に射出した。
 グリースは鎧の身体を鳴らせて跳び、『布』は即座に修復される。
 またも僅かばかり萎んだ『布』は、周囲の空気を取り込み始めていた。

 おぼろげに、この『布』の行動パターンが分かってきた。
 斬激と魔術。形態こそまるで違うが、グリースと攻撃パターンが酷似している。
 布の先端で戦闘を行い、攻撃を受けると布が避けて中から魔術を取り込んだ空気を射出する。
 最も危険なのは、体内の空気を射出する反撃だ。
 グリースが変則的な剣士でなければ、反応もできぬ近距離であの反撃を受け、鎧ごと吹き飛ばされていた。
 布の先端は相手への能動的な攻撃用として、身体の中の空気は相手への反撃用として形作られているのであろう。斬激や空気の反撃の速度からして、見た目以上に機敏だ。
 その上で、弱点の所在が不明な“無機物型”。
 強敵であり、そして難敵だった。
 大群で取り囲んだとしても、例の反撃で吹き飛ばされる。
 他の“言葉持ち”や“知恵持ち”もこのレベルなのだろうか。
 自分が特訓としてミツルギ家の中にかくまわれていた3ヶ月、この魔物は戦場を駆け抜けていたのだろう。
 なるほど確かに、ここまで生き残っていた理由も分かる。こんな存在が開けた平野に到達してしまえば、何が起こるか想像もできない。
 ミツルギ家の兵士にとっても、戦闘方法は少々独特であっても平々凡々たる水曜属性の枠を出ないグリースにとっても、『布』の存在は常軌を逸していると言ってよかった。

 だがそれでも、グリースは思考する。
 敵の身体の構造は分かった。
 攻撃方法も察しが付いている。
 “あと、問題なのは”。

「……、―――」

 再び『布』の甲高い聲。
 グリースは、それを聞いたと同時。

 『布』に背を向けて、全力で駆け出した。

 敵残存勢力。

 魔物―――現在減少中・測定不能。

 知恵持ち―――トラゴエル。『布』。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

―――***―――

 “東の道”。

 クロック=クロウがミツルギ=ツバキを従者として招き入れた頃、クロックは、ミツルギ=ツバキの運命を呪った。
 2年前のあの日。ツバキの口から戦争に参加したいと―――何もできない自分を変えたいと聞き、それを好ましく思いやや期待を膨らませながらも、実のところクロックはツバキには戦争の矢面に立つのではなく、自分がそうしていたように、事務処理の方面で若い力を存分に発揮してもらおうと考えていたのだ。
 自分の村が滅び、ミツルギ家に招き入れられていたクロックは、ミツルギ家の参謀として戦争に参加していた。しかし、強固な城に守られた生活に戦火と縁があるはずも無く、しばしば平和などという言葉に思考を這わした自分を戒めたものだ。
 だからいっそ、その悪しき考えを、ミツルギ=ツバキに持ってもらいたかった。
 彼女の過去はあまりに酷い。親を失い、住処を失い、親の偶像すらも失った。
 それならば、フィルタを通した世界で“非情”を見て、“外れた”心を治してもらいたかった。
 その分自分が、外の世界の“非情”を駆ければいい。そのつもりであったし、実際、今日この日までそうしてきた。

 だが、ツバキへ対するクロックの願いは、叶わなかった。
 ミツルギ=ツバキの名誉のために記さなければならないが、別段、彼女が絶望的なまでに参謀という職に向いていなかったわけではない。
 確かに頭を使うことは得意そうではない気質であったが、彼女は素直で、ひたむきで、何より真面目だった。
 伸び代は、確かにあったのだ。
 だがそれ以上に、彼女に向いている場所があっただけのことで。

 それゆえに、ミツルギ=ツバキは戦場に立つ。

 ジッ!! と雷鳴が轟くような振動が周囲に伝染した。

 ツバキが跳びながら放った脚と、クロックが補助のためと投げ込んだ抑制の魔術を帯びた魔力の原石―――その先。
 唸りを上げて襲いかかる脅威の質量の突撃が、停止していた。

「ふ―――」

 停止したトラゴエルに対し、ツバキの蹴りの勢いは死んではいなかった。
 駆け上がるようにトラゴエルの頭部に飛び乗り、器用にも立ち、足を自分の頭の上まで鋭く振り上げる。
 子供ゆえの身体の柔らかさか、あるいはツバキ特有の才能かは不明だが、よくもまあ自分の身体をあそこまで自在に操れるものだ。
 クロックはそんな悠長なことを考える。
 余裕はあった。
 ツバキがああした以上、次の光景は決まっている。

「はあっ!!」

 掛け声とともに、ツバキはトラゴエルの首へ足を振り下ろした。
 再びバヂリと大気が揺れる。
 瞬間、全長百メートルは超えるトラゴエルの“身体中に衝撃が走る”。
 迸った魔力色。それは、寄りによって、事務処理で埋もれさせるには惜しい―――“この魔族軍相手に抜群の効果を持つ属性”の証だった。

 例外のふたつを除いた5曜属性。
 その中に、極端な希少性を持つ属性がふたつ存在する。
 世界中のほとんどの魔術師は水曜属性だ。
 特徴が魔術師タイプ、とまで言われている通り、魔術師と言えばまず水曜属性が想像できる。
 次点で金曜、そして火曜属性と続く。いずれも数は多く、街や村の魔術師隊のほとんどがその3つを適度に取り入れることを前提に構成されているほどだ。
 一方、残るふたつの属性。
 例外中の例外のふたつがある手前、忘却しても良い程でもないが、出会うことすら難しい。残存する魔物の数ではないが、5万人ほど数を集めて、ようやくどちらかひとりは見つかる程度だろうか。
 それほどの、希少性。しかし、本当に重要なのは、その希少性ではない。希少なだけならば、戦場では何の役にも立たないのだから。
 そのふたつの属性は、単純に、“強力”なのだ。
 最も希少な属性は、あらゆる魔術攻撃を己が力にまで換えて、脅威の戦闘能力で敵に襲いかかる。
 次に希少な属性は、あらゆる魔術攻撃を封殺し―――“あらゆる防御能力を貫通する”。

「クウェイク!!」

 “グレーカラーが被弾した”。
 それだけで、巨大な『蛇』の全身に破壊の波動が伝染する。
 グレーに輝く土曜属性。
 その攻撃は、分散しても揺らぐことなく全てに伝わり、振撃を巻き起こす。
 クロックの持つ魔力の原石は魔術攻撃を弾く特性を持つが、ミツルギ=ツバキの魔力はそれと同等以上だ。相手が防ごうとしても、ツバキの魔力はそれを弾き、貫き、その本体に強烈な打撃を与える。
 被弾した個所など無事であるはずもない。
 トラゴエルの貌とも言える部位は、首を狩られて落石する。

 クロックもただ見ているばかりではなかった。
 落下したトラゴエルの頭部―――恐らくは、“無機物型”の“核”へ魔力の原石を投擲する。

「ノヴァ!!」

 原石に詰められた火曜属性の魔力が、魔術に転換されて噴き出された。
 本来武具や拳に纏って放つ火曜属性の基本魔術。だがそれを魔力の原石を通して行えば、遠距離攻撃へ変化する。

 炸裂。ツバキの魔術攻撃を超える振動が轟いた。
 木曜属性、そして土曜属性も強力ではあるが、こと威力に関してはクロックの属性も引けを取らない。
 破壊を司る火曜属性。
 まともに受ければいかなる物体、生物であれ無事では済まない脅威の一撃。

 そしてその理通り、トラゴエルの頭部は跡かたも無く消し飛んだ。

「―――ふん」
「クロック様!!」

 トラゴエルの身体に上って大分上空にいたと思うのだが、ツバキは身軽にも着地し、クロックに駆け寄ってきた。
 強力な属性の術者であるが、こういうところは依然として子供なのだろう。
 ただとりあえず、当初の作戦通りトラゴエルの“核”の破壊は完遂した。

 だが。

「……やはりか」

 クロックが見上げると、ツバキに破壊された首が、そのまま下がっていった。日も沈んだ明かりでは、暗闇に吸い込まれているようにも見える。
 ついぞ姿が見えなくなったが、大量の岩は遠方にてとぐろを巻き、未だ蠢き続けているのだろう。

 首を落とし、頭まで破壊したというのに、トラゴエルは生存している。
 世の理通りの破壊でも、やはり、理を超えた“無機物型”の撃破には届かない。

「クロック様、あれ、」
「ああ。どうやらまだ“核”があるか」

 手ごたえから言って、先ほど破壊したのはトラゴエルの“核”だ。
 自然物であれば、突撃してきたときのツバキの一撃の前に粉々に吹き飛んでいる。
 となると“今年も”、トラゴエルの“核”は複数あるのだろう。

 2年前。
 自分と『ターゲット』はふたつの“核”を破壊した。
 その後逃亡したことを考えると、トラゴエルの“核”はさらに多い。
 “無機物型”の作り方などクロックは知る由も無いが、もしかしたら、今年、さらに“核”を増やしてきている可能性もある。

 だがそれが何だ。
 ここには土曜属性のツバキがいる。
 そして、相手を抑圧する魔術を使用できる自分もいる。
 トラゴエルが幾度突撃してこようとも、その巨大な身体が仇となり、総てを止め切ることができるだろう。

 しかし。

「……!!」

 落石音が聞こえてきた。
 暗闇の向こうからでも、大気の揺れは確かに伝わる。

「……、クロック様、何か、頭が痛くなってきたんですが……」

 この振動ではそうだろう。
 呻くツバキをしり目に、クロックは敵を探る。
 トラゴエルは何かをしているようだが、それは分からない。

 だが、“それ”を―――“それら”を見て、クロック=クロウは全てを理解した。

「ク、クロック様!! あれ!! あれ!!」

 ツバキが指差すその先。
 狭き道の暗闇の先。

 そこには―――“軍隊”があった。

「っ、っ、」

 背丈は5メートル近い。
 人間が全身でも抱き付けないような岩が連なり、頭も、身体も、四肢も、形作られた不格好な巨人たち。
 ゴーレム族という、分かりやすい無機物型の魔物の姿があった。

 だが数が。

「今年は“核”も―――“無限”か……!!」

 通路総てが埋め尽くされている。
 巨人がひしめき、3体ずつが並び立ち、隊列を成している。その全ての貌に、眼と思われる空洞が開いていた。
 それが幾隊続くのか。決まっている。“トラゴエルの身体分”だ。

 思えば去年。ガルドパルナ聖堂を『ターゲット』にした戦争で、トラゴエルは姿を現さなかった。いや、2年前にしても、『ターゲット』がトラゴエルの巣城に現れなければ参加は無かったのかもしれない。
 つまり、2年前に出遭ったトラゴエルは、“未だ無機物型の魔物として完成していなかった”。
 あくまで想像だが、“核”を作るには時間がかかるのかもしれない。
 だから2年前は、自然物の岩を加工し、偽りの身体を創り上げてきたのだろう。

 だが、今年は。
 ツバキが砕いた首も“核”。
 クロックが爆破した頭も“核”。

 そして、目の前にいる無数の巨人も―――全てが“トラゴエル”。
 そう。眼前全ての巨人が単純な罠にかからない“知恵持ち”―――その、大群。

「―――ツバキ、適度に戦い、適度に落とし穴を作動させる。あの大群だ、少しは数が減るだろう」
「は、はい。了解しました!!」

 手早く指示を与えたクロックの頬に嫌な汗が伝う。
 間違っても、この大群を『ターゲット』に近づけてはならない。

 大気を揺らし、大地を揺らし。
 無数で無言の大群は迷わず進撃する。

―――***―――

「……こんなものまで、作っていたのか」
「乗り心地はどうだいサクラちゃん。ここの大地は走り難くてしょうがない」
「……ならば解決できるだろう」
「今は“そんなの”無駄だよサクラちゃん。それに急いで行ったって、そこまで得はしなさそうだし。温存しないとさ」

 父親との会話は、自分でも覚えていないほど、久方ぶりだった。
 ミツルギ=サクラはミツルギ=サイガの移動手段―――車、と、アキラは呼んでいたか―――に乗り、高速で通り過ぎる『何も無い世界』の光景を眺めていた。
 アキラがたびたび仲の悪い親子と言っていたせいで、思わず話しかけてしまったが、やはり会話はまともに成り立たない。ああ言えば、こう言う。

 やはり随分と長い道だ。未だ魔物を罠に落としていた“通路”を抜けていない。落とし穴の仕掛けが随所に見える。魔物の大群を前に罠の数を心配したが、今はむしろ過剰だと思えるほどだった。
 この中で、アキラはこれからも、淡々と罠を作動させていくのだろう。
 サクは、目を瞑り、肩をさすった。

「ところでサクラちゃん。ヒダマリ君もなかなかどうして立派になったじゃないか」
「無駄口を叩かず、運転に集中してもらいたいんだが」

 サクは鼻を鳴らし、顔を前だけに向けた。お前が何を知っている。
 想像以上の速度で進む景色。
 サクは、自分以上の速度で動くものを見る機会があまりない。
 “内回り”の船や、危険地帯を通る馬車なら見るが、比べる対象は、人間ではあり得ない。
 自分の景色は、いつだって、誰よりも高速だ。
 だがふと、油断すると、頭に何か浮かんでくる。自分は、もっと高速の何かに乗ったことがあると思えてしまう。
 例えば―――銀に包まれた世界―――天を駆ける召喚獣―――

「サクラちゃん?」
「!!」

 信じられないことだが、自分は今、意識を飛ばしていたらしい。
 ここは戦場。由々しき事態だ。
 ミツルギ=サイガに気取られぬように、無視をしていたように装い、サクは肩をさすった。
 風が強いが、心地良く、涼しかった。

「ま、眠くなるのも仕方ないさ、中々疲れたろ、魔物の相手」
「また無駄口か」
「そうでもないさ、可愛い娘の身を案じているんだよ」

 無駄口だ。
 サクは―――今度は意識を飛ばさないように―――目を瞑った。
 もう何も話さない。早く目的地に着いてもらいたかった。

「ちなみに」

 サイガは構わず言葉を続けた。

「サクラちゃんが強がってたの、多分ヒダマリ君、気付いてたぜ?」
「は?」

 やってしまった。卑怯な手を使う。
 思わずサクは、口を開いていた。

「魔物の爆風。あんなもんまともに受け続けていたんだろ。サクラちゃんは足場を何とかできても、それだけだ。ヒダマリ君と違って痛かったろう」

 サクは思わず肩に触れていた手を離した。
 とてつもなく面白くない。

「まあ今は、冷風に当たってのんびりしてな。中々いいもんだぜ、他の連中が走り回っている間に休むのも」
「……」
「はは、サクラちゃんは働き者だなぁ」

 親との会話は、不快で、不毛で、そして不自然だった。
 だからサクは口を閉じる。
 そしてゆっくりと、振り返った。
 爆音が今でも聞こえてくる。“あの男”は、今でも爆風に身を撃たれ、淡々と罠を作動させているのだろう。
 そんな行動を5万匹分繰り返せば、いかに身体能力を上げていたとしても、流石にただでは済まないだろう。
 それ以上に、魔力が切れたら、本当に酷いことになる。
 総量から言えば、現時点のヒダマリ=アキラの魔力は自分の魔力を超えているだろう。
 刀の技術のみを磨き続けた自分と差が生まれるのは当然だが、一体いつの間に追い抜かれたのか。出逢ったときは、多分、自分が上だったろうに。

「『教え子の成長は、嬉しくもあり、寂しくもある』、だったか。“あいつ”がよく言っていたねぇ。飽きもせずに」
「それが伴侶への言葉か」
「そうだね。そして、サクラちゃんの親だ」

 心の内を読めない親の言葉は、どう捉えれば良いか分からなかった。

「なあ、サクラちゃん」
「……」
「お前は“あいつ”に言われてエニシ=マキナと親しくなった。そしてその後、“今のミツルギ家が言う従者の意味をあいつから聞いた”。だから家を飛び出したんだろう?」
「…………」
「だがそれで“あいつ”を恨むのはお門違いだぜ。何せ全部、この俺が仕組んだことなんだから」

 サクは、『最初からそう思っている』と呟き、サイガは、『それでいい』と小さく笑った。

 高速で過ぎゆく世界は、ようやく通路を抜ける。

―――***―――

 “南の道”。

 荒い息を全精力で抑え込み、身じろぎひとつせず、およそ人に存在する気配総てを消し去った。
 高鳴る鼓動さえ鬱陶しい。いっそ停止してくれれば良いとさえ感じるほど―――無音。
 ささやかなそよ風ですら、岩をかき鳴らしているかのように響いて聞こえる。

 グリース=ラングルは、全神経を研ぎ澄ませていた。
 曲がりくねった岩と岩に挟まれた通路。
 駆けて、駆けて続けて、敵の前から姿を消し、グリースは道脇の岩に身を隠していた。
 『布』は、まだ来ていない。
 “知恵持ち”ゆえに罠を警戒してなのか、そもそも移動に適した魔物ではないのかは定かではないが、ともあれ距離を大きく開けられたことは事実だ。
 一本道であるが、相手が自分の姿を見失ったことは間違いない。

 ふと、手のひらを広げてみた。
 幼少の頃も、こうしていた記憶がある。
 何の自慢にもならないが、貧富の差が激しいシリスティアでも、最悪と言えるであろう村に生まれた“らしい”自分。
 確たる意識を持ったときには、グリースは、まるでたった今天から落ちてきたかのようにひとりだった。
 親類と“幸運にも悲劇的に別れることなく”、前提からして、ひとり。
 置き去りにされたのか、売り渡されたのか、死別したのか、ただ記憶障害になっただけなのか、そしてその後、誰が赤子の自分の面倒をみたのかも―――不明。
 ただ気付いたら、民家と民家の間にぽつんと立っていたように思う。もっともそのときのことなど、生存することのみを考えて動かざるを得なかったせいで、薄れてしまったが。
 覚えているのは、残片的に残る風景と、浮かんでいた満月。そしてそのときも、こうして手のひらを見ていた。それだけは―――覚えている。

 そこからの自分は、決して善行と言えることをしなかった。
 金を奪った。金を奪いに来た奴を殺した。人を殺せば金が手に入ることを知った。人を殺した。後悔した。自分を戒めた。金を奪いに来た奴を殺した。金が手に入った。止まらない。血だらけだ。百度殺されても文句は言えない。全部―――自分の意思だ。
 そんな毎日の中、就寝するために拝借した馬小屋か何かでも、こうして手のひらを見ていた記憶がある。
 この手は―――何のためにあるのか。関わった者の総てが不幸になっているこの手は、一体何のためについているのか。
 そんな哲学的なことは勿論分からない。
 だけど、ひとつだけ思ったことがある。1度だけでもいい。その後自分は死んでも構わない。自分への同情など求めはしない。

 だから。

 誰かに幸せだと、言ってもらいたい。

「……、―――、」

 確かに聞こえた甲高い風の聲。
 『布』が、いる。

 岩に身を隠したグリースは、顔を出そうともせず、淡々と気配を消した。
 魔力による防御膜すら発動していない。
 あの『布』の先端を薙ぎ払われれば、岩ごと鎧ごと、グリースの身体は真っ二つになるであろう。
 間違い無く、死ぬ。だがそこに恐怖は無かった。

「……」

 グリースは目を細める。
 岩を挟んだ向こう側、『布』との距離は分からない。もしかしたら手を伸ばせば届く距離にいるかもしれない。
 だがあと十秒は“確認する必要がある”。

 耳を澄ます。鋭く深く、意識を向ける。
 戦闘中にこんなことをすれば、子供がガラスの欠片でも持つだけで殺せてしまうだろう。
 だが、物陰で意識を殺すことなど、幼少の頃にやり込み過ぎて最早特技だ。
 風が僅か落ち着き、ようやく聞こえた“足音”。やはりあの『布』は歩行している。
 そもそもそのはずだ。空をゆく魔物は生み出し難いのか、ごく少数。いても大して能力が高くない鳥を模した魔物くらいだろう。神話クラスのドラゴンでも引っ張って来ない限り、地上戦が前提だ。

 息を殺す。己を殺す。自分の気配を、可能な限り空気と同化させる。
 『布』に―――“視認だけは絶対にさせるな”。

「……、―――、」

 甲高い風の聲。
 その声色は、まるで変わってはいない―――“気付いていない”。

 さあ、十秒だ。

「シュロート!!」

 グリースは岩の脇から腕を突き出し、『布』へ向かって魔術を射出する。
 練りに練っていたイメージは魔力を帯び、『布』を打ち抜かんと鋭く空を割く。
 ボッ!! という破裂音が響く。
 グリースは即座に岩に身体を隠す。着弾など確認している余裕は無い。
 不意打ちで攻撃したところで、『布』に攻撃を仕掛けるということがどういうことなのか認識済みだ。

「うっ!?」

 ぞっとするような風切り音が耳の真横を通過した。
 グリースの放った魔術を跳ね返すように、『布』の中から破壊の光線が射出される。
 『布』は身をよじってでもいたのか、グリースの魔術の軌道とは僅かに逸れ、身を隠していた岩を荒々しく削る。
 舞う岩の粉塵。
 だがグリースは即座に砂塵に飛び込んだ。

「……、―――、」

 甲高い風切り聲。
 その音に乗るように、グリースが直前までいた岩が縦一閃に斬り裂かれた。
 小気味良いほどの斬激音が大地に線引く。
 布の先端を刃物と見立てて振るわれた死神の鎌は、もはや如何なる剣すら凌駕するとさえ思える鋭利性を持っている。

「クォンティ!!」

 岩から飛び出たグリースは、岩の決まり切った末路など確認もせず、魔力を乗せた剣を振るう。
 足払い。
 芸術性すら感じる『布』の一閃とは違う、左右の崖を削りながらも放つ不格好な横一閃が鋭く走る―――先ほど、知恵持ちに通用しなかった攻撃を再度放つ。

「……は」

 そして、グリースは笑った。
 夜空を見上げ、浮かび上がる月を見上げ、そして今、グリースの攻撃を跳ねて回避し、高速で落下してくる『布』を見て―――笑った。

「計算通りだこの野郎!!」

 『布』の行動は理に叶っている。
 攻撃を跳ねて回避し、そしてその鋭い布の先端を敵に向けて落下してくるこの攻撃。
 シンプルではあるのだが、『布』の性質上驚異的な攻撃となる。
 まず、迎撃は実質不可能であるということ。
 空中に跳ぶ『布』に魔術を撃ち込めば、中から魔術が反射されるように噴き出される。
 あの鋭利性からして、落下地点で『布』の先端と撃ち合うのも危険極まりない。
 そして落下直後の鋭い斬激。
 こうなれば、残されるのは離脱のみ。結局は、『布』への攻撃は不可能だ。

 だがグリースは、落下地点で『布』を睨み続けていた。
 さながら隕石のように落下してくる『布』の、鋭い先端が眼前に迫る。

 そして―――グリースは、落下してくる『布』に“跳び付いた”。

「う―――」
「―――、」

 『布』を抱きつくように跳び付いた瞬間、グリースは強烈な嫌悪感を覚えた。
 視界が暗転し、脳みそがかき乱されるような悪寒。

 ザンッ!!

 直後、『布』と共に着陸。
 両腕の筋が千切れるほどの衝撃に、グリースは耐えた。
 ここで離すわけにはいかない。
 これで。これでようやく―――懐に飛び込めたのだから。

「―――、」

 グリースは目を閉じながら術式を組み上げる。
 なおも襲い続ける強烈な嫌悪感。
 だがそれも、予想が確信に変わるとなれば安いものだ。

 この『布』。知恵持ちの―――空気の無機物型。
 身体を覆う薄汚いこの布は、“物体であってはならない”。
 魔力は、物体を恒久的に生み出せない。
 その大原則を捻じ曲げられるのは、使用者など存在しないと考えても良い“具現化”のみだ。
 そうなると、目の前の知恵持ちは―――“穴の空いた布を修復することなどできないのだ”。
 ゆえに布は、“物体ではない”。

「―――、」

 グリース=ラングルは思考した。

 では何故、『布』は自身の布を修復できたのか。
 空気が既存の魔物のロジックに当てはまらないとしても、布は、物体だ。その原則を曲げることは許されない。
 ならばこう考えられる。
 “そもそも『布』は修復されていない”。
 ただ、グリース自身が―――“修復されていると誤認していただけで”。

「―――、」

 グリースは術式の組み上げを続ける。

 『布』は、グリースに、“その不死性を誇示するために布が修復される様を演出した”―――視覚への干渉をもって。
 今グリースが飛びついているのは、千切れ、穴が空き、ぼろぼろになった布を、“とある魔術”で覆ったものだ。

「―――、」

 グリースは術式の組み上げを続ける。

 魔力が物体を生み出せないという原則の一方、魔力から生み出した魔術は物体に干渉することができる。魔術攻撃に被弾すれば身体が吹き飛ぶように、魔力による影響以外の干渉を物体に行えるのだ。
 転じて、物体からも魔術へは干渉できる。
 出来たら達人の域と言えるが剣で魔術を斬り裂くことも、今のグリースのように跳び付くこともできる。魔力が魔術となり、物体へ真に迫る。全ての魔術は“具現化”へ繋がると論じる者の言葉も信憑性がある。
 最もメジャーな遠距離攻撃が、触れれば爆発する術式をもっていることから誤解しやすいが、魔力とは、別に、爆発物ではないのだ。
 勿論、触れればその魔術は発動する。
 今グリースを襲っている嫌悪感は、『布』が発動している魔術の影響だ。

「―――、」

 グリースは術式の組み上げを続ける。

 『布』は水曜属性。
 最も多く、平凡な属性。
 だがそれゆえに、探求が進み、数多の選択肢が開拓されている―――偉大なる先人たちに倣える属性。
 その偉大なる先人たちは、数多くの犠牲の中、とある“現象”に名前を付けた。
 華々しく神話を飾ったとある魔術師が犯された悪影響。デメリット。
 まっとうな魔術の弊害として生まれた現象すらも研究され、今や感覚や他者の魔術にすら干渉する手法として確立された―――妨害魔術。

 勿論。
 水曜属性たるグリース=ラングルも使用可能だ。

「バーディング!!」

 『布』の妨害魔術の塊に、グリースの妨害魔術が炸裂した。
 『布』の妨害魔術を間近で受け続けたグリースの神経は暴れ狂い、暗転していた視界は不気味な赤色に染まる。
 身体は吹き飛んだであろう。随分と高く跳ね上げられ、背中が地面に強打されたようにも思える。だが感覚は無かった。

 しかし。
 『布』への被害は更に甚大だった。

「――――――――――――――――――――――――ッッッ!!!!??」

 甲高い汽笛のような音が鳴り響いた。
 狂ったような騒音が崖を揺さぶり轟き続ける。

 魔術への妨害干渉。
 その威力は、対象の魔術に強く依存する。
 不死性演出のために魔術で身体を覆っていた『布』にしてみれば、さながら土曜属性の攻撃を受けたかのように破壊の衝撃が身体中を駆け廻る。
 身体中の血液が暴れ回っているようなものか、とグリースは他人事のように思った。

「…………」

 呆然と、漠然と、グリースは沈黙していた。
 赤一色の視野が徐々に晴れ、ようやく視力が戻ってくる。
 未だ紅く見える夜空を見上げながら、グリースは笑った。
 暴れた『布』が随分な距離に吹き飛ばしてくれたお陰で、身体を動かせる気がしない。

「……なあ、お前さ」

 訊いてもいないであろう。
 暴れ回る『布』に、グリースは仰向けになりながら、呟くように訊いた。

「相手のこと、目で見てるだろ」

 出しているのは、多分かすれ声だ。
 決して届くことはない。単なる独り言だった。

「それ確認したくてさ、岩に隠れてたんだよ。……なんかさ、どっかの馬鹿じゃねぇけど……、お前みたいなの見てると、『……奴は空気の流れだけで生物の位置が分かる』、とか思っちまってさ。どこが目か分かんねぇし」

 徐々に徐々に、『布』の動きが落ち着きを取り戻し始めていた。
 所詮妨害は妨害。決め手には至らなかったようだ。

「でもよ、分かって良かったわ。気が気じゃなかったんだよ、気付かれてるかと思ってさ。それだけ確認したかった。本当に大丈夫なのかって。そんなことに命かけた俺は、多分めちゃくちゃ笑われるんだろうな」

 グリースの感覚も戻ってきたが、未だ身体は動かない。
 戻った余計な感覚が、『布』が悶えながらもグリースを仕留めようと先端を掲げ始めている気配を拾ってきた。

 それでも、呟き続けた。
 きっと、『布』には分からない言葉を。

「知ってたか」

 『布』が、グリースに狙いを定める。
 グリースが返したのは、呟きだけ。

「今日は月が、ふたつ昇るらしいぞ」

 見えていれば壮絶な光景だったろう。
 『布』が掲げたその先端は、『布』の身体ごと“巨大な岩石に押し潰された”。

 轟音と同時、『布』が奈落へと落ちていく。
 グリースが魔術を放った、今の『布』の位置。そこは巨大な落とし穴だった。
 その事実は『布』も認識していたであろう。グリースを追ってここまで来る道中、多くの落とし穴を見て、作動方法も確認していたはずだ。
 そしてここの落とし穴の作動方法も確認済み。
 ゆえにグリースが動かなければ、罠は発動し得ない―――はずだった。

 しかしそもそも、落とし穴とは過度な負荷がかかることで発動するものだ。
 例えば。
 百メートル上の崖から“銀に輝く巨大な岩石が落下した場合”。

「づ―――」

 仰向けに倒れていたグリースも、こればかりは跳ね起きざるを得なかった。そして即座に身を伏せる。
 ほぼ近距離で奈落へ消えた『布』。その直後、黒煙が混ざった火柱が打ち上げられた。
 鈍い感覚は爆風の衝撃を和らげたが、身体中が粉々になったと錯覚する。感覚を取り戻したときのことなど考えたくも無い。

 だが。
 原始的な落石の攻撃に、断末魔さえ聞こえず―――“知恵持ち”は撃破された。

「か……は……は」

 身を伏せ、炭だらけになりながら、グリースは荒い呼吸を繰り返した。
 吸っても吸っても、酸素を取り込めている気がしない。
 いっそこのまま死ねたら楽になるだろう。

 本当に、この大陸は―――ろくなことが無い。

「……で?」

 グリースがタンガタンザの非情を大いに嘆き続けていたとき、そっけない声が届いた。
 どうやら随分と時間が立っていたようだ。それとも、どこかで気を失っていたのかもしれない。
 いつしか爆風は止み、どす黒い煙が風になびくだけに留まっていた。

 そして、顔を上げた、その先。
 いつもの純白の服装では無く、薄汚れた鼠色の、決して目立たないローブを被った女性が―――立っていた。

「私が方向調整しなきゃぺしゃんこよ。なんでここにいるの」
「こっちの台詞だ」

 ほとんど条件反射だろう。グリースは、身体の状態を確認もせずに立ち上がった。
 身体の節々から痛みが上る。頭痛が激しい。耳も遠い。今にも嘔吐しそうだ。
 それでも、立った。

 『ターゲット』の少女の前に。

「……お前よ、聞いた話じゃ今頃別ルートで逃げてるはずだろ」
「あの人たち脅したの。今すぐここへ降ろさないと、身投げするって」

 見れば、同じローブを羽織った男が傅くように彼女の背後で待機していた。崖の上から、彼女が“軽くした”巨大な岩石を転げ落とした者たちだろう。崖の上にはまだまだ人員が配備されていそうだ。
 その、岩石が落下してきた崖を見れば、山頂から野太い鎖が数本降りている。
 百メートルはある崖を、彼女たちは延々と、わざわざ降りてきたと言うのか。登りも含め、見上げたものである―――もしかしたら、重力を遮断する“魔法”でズルをしたのかもしれないが。

「それよりグリース。私は何であなたがこの戦争に巻き込まれてるのか訊いてるんだけど?」
「暇潰しだよ。お前が3ヶ月間、忙しいらしいから」

 久しぶりの会話は、少しだけ冷たかった。
 だけど、いつものことだとグリースは笑い、彼女も笑っていた。
 変わらない。何もかも、変わらない。

「ま、生きてたか」

 そう呟き、彼女は背を向けた。
 即座にその両脇を、待機していた男が囲う。
 今見ると、傅いているというより彼女を連行していると言った方が良いようだ。
 彼女にはそれだけの立場があり役割があり、この3ヶ月、自由が無かった。
 少し―――痩せているようだ。

 このまま彼女は戻っていく。
 この場所は、多分指定された『ターゲット』の行動範囲外だ。ミツルギ=サイガが考案しただけはあり、気付かれなければ良いという、なんとも卑怯な作戦である。だがそれでも、お忍びでやってきた彼女はすぐにでも戻る必要があるだろう。
 そして自分もこれから、別の敵へ向かわなければならない。まだまだ戦争は終わっていないのだから。
 また、会えない時間が始まる。

 だからグリースはその前に、一言彼女に訊ねた。

「なあリンダ。お前今、幸せか?」

 すると彼女は振り返り、呆れたように呟いた。

「大不幸」
「だよなぁ」

 敵残存勢力。

 魔物―――現在減少中・測定不能。

 知恵持ち―――トラゴエル。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

―――***―――

「ここは?」
「見ての通り、断崖絶壁だよ」

 ミツルギ=サクラが辿り着いたのは中央のエリアの隅だった。
 全体が見渡せる。
 さっと広がる灰色の大地。辿り着くだけで旅と言われるような遠方に、黒ずんだ岩山が見えた。あれが、反対側。左右も同様に、遠方に、岩山がそびえている。ミツルギ=サイガの言葉通り、この大地は岩山に囲まれているようだ。
 ここまで巨大な大地だと適切な表現ではないかもしれないが、この場所は、連なる岩山の一角を押し窪ませたような形状らしい。
 夏で、戦争で、燃え上がるような激戦に囲まれているというのに、広大なこの場所は閉じられているようで、寂しく、寒かった。

 閉鎖された場所。
 何も無い―――大地。

 唯ひとつの例外として、荒野の中央に建物が見えた。
 荒野の隅にいるサクの位置からは米粒のように見えるそれは、大層堅牢そうだ。あそこに『ターゲット』がいるのだろう―――幽閉されているのだろう。
 3ヶ月もの期間―――外に出ることなく。

「かっかっか」
「何がおかしい?」
「いんや。それよりサクラちゃん、とりあえず働いてくれよ。“魔族”の監視。何もお忍びで、ってわけじゃない。なんなら世間話でもするといい。どうせリミット直前までは動かない」
「……だからその“魔族”はどこにいる? どうやらお前ご自慢の兵もいないようだが」

 サクは荒野に視線を這わせる。
 何も―――無い。何もかもが寂しい。唯一の建造物も、殺風景を助長させている。
 “魔族”はおろか、人の匂いすら感じられなかった。魔族に立ち向かう様子はまるで見えない。
 サイガは質問には答えず、またも不敵に笑い始めただけだった。
 サクは問答を嫌って、口を閉じた。

「まあ、“魔族”の場所かい? それなら簡単、この上だ」

 笑いながらサイガが言い放ったせいで、一瞬理解が遅れた。
 眼前には、断崖絶壁の岩山が座している。
 ふたりがいるのは中央エリアの隅―――“西部”。

 “想定されていない第4の道”。

「サイガ、」
「分かってるって、分かってる。高度は数百メートル。さっきのルートを囲っていた崖より遥かに高い。昇りも下りも尋常ないほど手間がかかる。ウルトラ面倒だ。魔物の大群だって、こんな道は通れない。だからさ、無いと思ってたんだよ。だけど現れたもんはしょうがない。正直狙いが分からないんだよ」

 からかうようにまくしたてるサイガに睨みを利かせ、サクは眼前の崖を見上げた。
 高く、崖の肌は荒れていて、月を串刺すように伸びている。
 虚空の高さ。
 そこに、“魔族”がいる。

「本当だろうな」
「本当さ。報告通りならだけどね」

 そんな場所にいる存在をどうやって確認したというのか。
 サクはギリと歯を噛んで、怒りを鎮めた。
 この男に何を言っても時間の無駄だ。

「それで。お前はまさか、私に」
「そう、やってもらおうと思っているのは山登り。ちょっと傾斜が激しいけど、手と足使って何とか頑張ってくれ」
「貴様、」
「できないとは言わせないぜ。“足場改善の魔術”。サクラちゃんなら、他の連中よりずっと楽に登れるだろう」

 流石にサイガはそれを知っていた。
 サイガも少しならば使える魔術だ。
 ミツルギ=サクラの、あらゆる足場を改善する魔術。その範囲は、大地だけに留まらない。
 地上より遥かに限定的にはなるが、サクは一時的に宙を駆けることができる。空中に足場を作り出し、その上を駆けるイメージの魔術。
 共に旅をしている面々にも知られていない、最終手段とも言える移動方法である。
 だがそれは、あくまで一時的だ。
 相当な集中力をもって、助走をつけ、ようやく2階建の建物の屋上に登れる程度だろう。
 間違っても高度数百メートルの崖を駆け上がることはできない。
 サクにとってみれば、自分に追いつける者などいない地上から離れ、空中に駆け出すことなど、的になるようなものだ。
 あくまで、最速を目指した副産物である。

「つっても階段作って呑気に登れってんじゃない。どう考えても魔力が足りないからね。適度に登って、適度に休んで、着実に登るんだ。それに、“命綱”にもなる。思わず崖から手を離しても、地上へ真っ逆さまってことにはならないさ」

 変わらずのサイガを見て、サクは本気で斬りかかろうかと思った。
 この男の言っていることは、結局のところ、この崖に手をかけ延々と昇れということだ。
 身体能力強化の魔力があったとして、相当な体力魔力を使うであろう。
 その状態で辿り着くのが“魔族”であるなどと、洒落にならない。

 “だがそれが、『ターゲット』を守るために必要ならば。”

「やってくれ。アグリナオルスの元には、誰かいなきゃまずいからね」
「……」
「それと、“頼んだこと”、忘れないでよ」

 サクは応えず、代わりに崖に手をかけた。言われるまでもない。
 手にザラリとした感触が残った。だが、風にさらされていた割には安定感がある。
 だがこの高さでは、到着するのに何時間かかるのか。
 一刻も無駄にはできない。

 サクは魔術に集中した。

「なあ、“サクラ”」
「……なんだ」
「やっぱりお前は、誰かに仕えた方がいい」

 サクは応えず魔術を構築した。
 足の裏に強い反発感を覚えるイメージ。
 自分が生まれながらに、当たり前のように踏んでいる地面が、天に続いていくイメージ。
 踏んだ地面が突き上がり、跳ね飛ばされるようなイメージ。
 金曜属性による―――“空中浮遊”という現象の解釈。

「お前は人のためになら無理ができる。本当の力を発揮できる。“できてしまう”。そういう性分だ」
「……」
「だけど自分のためには何もしない―――できない。何をやっていたって、全部いつか仕える人のための準備だろ。そのときに何が必要か分からないから、お前はずっと無理をする。不器用で、生き方が本当に下手だ。無駄な早起きと、向かう先も分からない鍛錬は、未だに続けているのかな」

 魔術の構築はできた。
 あとは、登っていくだけだ。

「本当に仕えるべき対象が分かれば、お前はきっと楽になるよ。それでようやく、必要なことが見えてくる。自分にとって必要なことも見えてくる」

 サクは、頂上を睨む前に、サイガに振り返った。

「とりあえず」
「うん?」
「“生徒”にとって必要なことなら、もう見えている」
「そっか。それじゃ、頑張って」

 タンッ、とサクは“地”を蹴った。
 崖と並行して蹴り上がりながら、空中に、次の“地面”をイメージする。
 数度ほど跳んで、サクは崖にしがみつき、息を吐く。
 今度は肉体の身で登りながら、並行して、イメージの構築を始める。

 1度でどれほど進めたか、確認もしなかった。
 どうせ下には、サイガはもういない。

 何ら割り増しする必要無く気に入らない男と断言できるが、サクは知っている。

 ミツルギ家の性分よろしく―――彼には彼で、仕える対象がいるのだと。

―――***―――

 中央エリアへ向かう3ルート。
 その内、ふたつのルートは乾いた大地を揺さぶり続けていた。
 昇り続ける黒煙。上空からなら炎がルートを駆けているように見えるだろう。

 さらにその内のひとつでは。
 想定内だった魔物の残党では無い―――“知恵持ち”の大群が、蹂躙していた。

 “東の道”。

「クロック様!!」
「いいから自分の敵を始末しろ!!」

 クロック=クロウは握り込んだ魔力の原石を惜しみもせずに投げ込んだ。
 破壊の象徴たる火曜属性の魔術が炸裂し、眼前の巨人を吹き飛ばす。
 だが、撃破したのは1体。
 クロックは爆音の中、鋭敏に魔物の気配を察していた。
 巨人ひしめくルートに放った十数個の攻撃は、僅か1体のみしか戦闘不能に陥らせていない。

「むん!!」

 再び爆撃。
 今度は黒煙へ向かって無造作に投げ込み魔術を発動させる。
 だが、何も捉えられはしなかった。
 どうやら爆風に紛れ、一時的に距離を取っていたようだ。

「ちっ、」

 流石に“知恵持ち”か。
 クロックは歯噛みしながら、袋に手を突き入れ、次弾を掴み出す。
 担ぎ上げるほど膨らんだ袋は、今や半分ほどに減っていた。

「クロック様!! 次の罠です!!」
「待て、煙が晴れてからだ!!」

 ツバキが落とし穴の鎖の傍に立ち、クロックの合図を待つ。
 だがクロックは、その罠に最早何の期待も持っていなかった。

 目の前の敵。岩石巨兵の軍団―――トラゴエル。

 元は1体の魔物だったのだ。巨兵の1体1体は大した脅威ではない。
 クロック自身容易に爆破できるし、ツバキも破壊の衝動を全身に轟かすことができる。
 いかに巨体とはいえ、火曜属性と土曜属性ならば、十分に攻略が可能だ。

 だが、大群となると話は違った。
 ツバキが強力な土曜属性の術者だとしても、数匹撃破したところで取り囲まれてしまうだろう。
 近接攻撃しか持たない彼女を、あの大群の中に飛び込ませるわけにはいかない。

 そして、最大の問題は―――“全員が知恵持ち”だということ。
 あの大群で、あの図体で、トラゴエル達の動きに乱れは無かった。
 即座に後退できるよう隊列を組んでいる上、落とし穴への警戒を怠らない。
 クロックの魔術の威力を認識しているのであろう、他の巨兵への攻撃に巻き込まれることなく、戦闘不能の爆発にも巻き込まれない。

 個々の戦力など容易に塗り替える、軍制と連携。
 戦争の戦力というものを如実に表した脅威が、今目の前にあった。

「クロック様、行きます!!」
「ああ」

 ツバキが鎖を切断したのに合わせて、クロックも鎖に魔術を放つ。
 ゴッ、という振動と共に、大地が揺さぶられた。
 罠の作動だ。
 しかし、その罠の目的たるトラゴエルは、数匹ほど犠牲になったに過ぎなかった。

 圧倒的に手が足りない。

 クロックは落とし穴を身軽にも飛び越える岩石の軍団を睨み、そして退路を見定めた。
 まだまだ“ゴール”は先だ。
 この先にも、幾数もの罠がある。
 だが、このペースでしか岩石の巨兵を撃破できないとなると、トラゴエルの軍団は“到達してしまう”。
 クロックの残りの魔力の原石、ツバキの魔力、落とし穴の数。
 それら総てを足し合わせても、トラゴエルには届かない。

 ならば、何をしなければならないのか―――

「クロック様、来ます!!」
「……離れるぞ」

 次の罠に向かって走る。それは最早敗走と言って良かった。
 クロック=クロウには分かってしまう。
 この戦いの結末が。
 自分とツバキ、そして全ての罠を使い果たした上でなお、『ターゲット』のいる荒野に岩石の巨兵が展開する。

 相手が無機物型の魔物だから、と言うわけではない。
 単に相手の軍団が、こちらの攻撃能力を遥かに上回っているだけだ。
 ロジック通りに、敗北する。
 『ターゲット』の撃破のみならず、恐らく、魔力が枯渇した自分とツバキも、岩石の巨兵に蹂躙されてしまうのだ。

「……クロック様」

 駆けて、駆け続けて、罠に到着したツバキは、小さな声で呟いた。
 視線の先には、落とし穴を飛び越えた岩石の巨兵が再び隊列を組み始めている。
 むやみやたらと突撃せず、敵を圧倒できる体制が整うまで進軍を停止しているのだ。
 あれでは無駄死にしない理由も分かる。

「あの、これから何をすればいいんですか?」
「…………」

 ツバキも徐々に勘づき始めているのだろう。
 どれほどの罠を作動させても、相手の軍制が変わっていないことに。
 見えるだけで、数十体。
 その奥には、まだまだ巨兵が続いている。
 延々と、延々と、延々と。

「あ、あの、私、その、あんまり頭良くないです。だから分かんないんですけど、えっと、だけど、これって、どうすれば、」
「……ツバキ。落ち着け」

 クロックは魔力の原石を握り締めた拳を、さらに強めた。石で切った手から血が流れ落ちている気さえする。
 ツバキは混乱の極みにいた。頭を抱え、眉をしかめ、慌てふためく様はまるで子供だ。
 クロックは必死に思考した。だが分かる。最早打つ手は無い。
 こんなものはただの引き算だ。子供でも分かる。

 だが。
 諦めるわけにはいかない。
 自分たちの攻撃能力から敵の戦力を引けば、負に傾く。
 それを何としてでも正に傾けなければならない。

 クロックは静かに、ツバキを眺めた。
 ミツルギ=ツバキ。
 両親が戦火に飲まれ、その偶像すら非情に消された少女。
 負と負とをかけ合わせた結果の正。

 そんな少女が、そんな何も知らない彼女を、このまま無残に、非情に、散らせて良いというのか。
 ありえない。
 タンガタンザを長年見てきて、どれほど非情かを知った今でも、クロックは断言できる。

 それは―――ありえないじゃないか。

 どれほど低確率でもいい。妄想と笑われても構わない。勝利へ向かう仮説を立てろ。
 挑む機会も無く、失うことは許されない。
 何か手段を手に入れろ。
 このタンガタンザを初めて訪れた頃、全てが去りゆくこの地を見て、自分は何を考えた。

 思ったはずだ。
 この頭は、“挑むために付いている”。

「……、―――」

 クロックは、帽子を深く被った。幼少の頃、親にせがんでからずっと愛用しているシルクハットのような帽子。自分と共に、あらゆるものを見てきた帽子だ。勿論、村を創り上げたときも被っていた。
 そう思うと、長かった。

「ツバキ」
「は……、はい」

 ひとつだけ、思いついた。
 論理的な裏付けも弱く、成功確率も低い、しかし確かな道を―――そしてその、結末も。

「私にはもう、この戦いで勝利を収める方程式ができている」

 それでもクロックは、力強く言い放った。
 おくびにも出さず、決してツバキが不安を覚えることの無いよう―――なんだ、自分も彼女を悲劇から遠ざけていたのか―――確たる口調で、言い放った。

「す、すごいです、クロック様!!」
「ああそうだ。私は優秀な指揮官だろう?」

 再び明るく、ツバキは頷いた。良い笑顔だ。

「ツバキ。作戦を話す。お前は次の罠へ向かえ。そして敵を罠に嵌めろ、嵌め続けろ。淡々と、淡々と、淡々と、だ」
「……、……?」
「それで全てが解決する」
「あ……あの、クロック様は?」
「私は私でやることがある」

 言って、クロックは腰を落とした。
 そろそろ岩石の巨兵も布陣を整えた頃だろう。
 再び蹂躙が始まる。

「で、でも、クロック様、」
「……ツバキ。お前は2年前、戦いたいと言ったな」
「……は、はい」
「喜べツバキ。あの大群を倒すのはお前だ。私は僅かばかり手を貸すだけだ」
「え、……ええ!?」

 クロックは、驚愕するツバキを促すように先の道を指し示す。
 ここから先は、修羅の道だ。

「…………あの、クロック様」
「……どうした?」
「えっと、ですね。戦争が終わったら、私の……その、お、想いを受け取ってくれたらなーって思ったり」

 何かを察したのか、そんな話をしたツバキに、クロックは笑った。

「悪いがガキに興味は無い」
「んだとこら」
「おらっ、とっとと行け!! 従者だろてめぇはっ!!」
「ちくしょうっ!! 覚えてろーーーっっっ!!」

 いつからだろう。
 あれだけ畏まっていたツバキが、時折子供のような暴言を自分に吐くようになったのは。
 自分たちは、それだけの時を過ごしたのだろう。

 だから。
 ずっとずっと、覚えている。

「―――、」

 ツバキが駆け出したと同時、クロックは岩石の巨兵に突撃した。
 接近するにつれて、彼我の身体の差が分かる。見上げることも億劫な3メートル近い巨大な岩石。
 クロックはその身長差を利用して足元をすり抜けるように駆けた。身をよじり、股を抜け、“反撃などせず抜き続ける”。
 虚を付けたのも僅か一瞬、トラゴエルは腕を振り上げクロックへ叩き下ろした。大地に重い衝撃。震源直近にいたクロックは姿勢を崩されるも、構わず駆け続ける。
 流石にそこまで甘くないか。振り下ろされた剛腕を抜いた直後、待ち構えるように別のトラゴエルが腕を振り上げていた。
 狙いは寸分違わずクロック=クロウ。走行ルートを察し、回避不能な一撃を振り下ろす。

「―――ちっ!!」

 キーン、と澄んだ音が響いた。
 攻撃に合わせるように放ったのは魔力の原石。破壊と表裏一体の存在である“衝撃抑制”の魔術は、落石を思わせる一撃を相殺した。
 そして駆ける。

「はっ、はっ、はっ」

 息が上がるのが思っていたよりもずっと早い。やはり歳はとりたくないものだ。
 自嘲気味に歯を食いしばり、クロックは進路を中央から脇に傾けた。
 トラゴエル達をすでに20体は抜いているであろう。となればそろそろ落とし穴だ。
 落とし穴を飛び越える自信は無いが、中央に空く落とし穴の脇の道ならば駆け抜けられる。
 そして見えた。人ひとりならば駆けられる程度の脇の道。

「―――、」

 全力疾走しながらでは不自然だが、僅かな小休止。トラゴエルの巨体は、脇の道に待ち構えてはいなかった。隣では、トラゴエルの数体が落下した落とし穴が大きく口を開けている。足を滑らせれば命は無いが、落とし穴の成果は確認できた。
 だがその代償に、脇の道を抜けた先、罠を飛び越えていなかったトラゴエルが密集していた。
 すり抜けることも不可能なその姿は正に岩壁。
 クロックの動きに合わせて攻撃体勢を整えていた。

 が、

「ふ」

 クロックは笑い、魔力の原石を投げつけた。

「ノヴァ!!」

 魔力の原石を投擲。
 その散る様は、幻想のように美しかった。
 破壊力頂点に立つ火曜属性の前進を、その程度の壁で止めることなどできはしない。
 クロックはそのまま上がる黒煙に飛び込んだ。

「―――ぐっ!?」

 重い衝撃。
 黒煙の中、クロックの身体は人形のように吹き飛び、壁に激突した。
 攻撃を受けた、と言うよりは、突き刺さったと表現できる衝撃が脇腹に炸裂する。うずくまったクロックは、無我夢中で魔力の原石をまき散らした。澄んだ攻撃抑制の音がどこかから響き、即座にクロックは駆け続ける。

 自分が想定できるロジックの答えへ向かって。

 無限を思わせる岩石の巨兵を抜き続ける。
 数を増してきたトラゴエル。だがそれは、不自然と言えば不自然だ。
 同じ性能の“知恵持ち”を、僅か数年でここまで量産できるのであれば、タンガタンザを襲う魔物は全て“知恵持ち”だ。無機物型の魔物を製造するのにどの程度の労力を要するのかは分からないが、少なくとも製造した“知恵持ち”には差異が生まれなければならない。
 ならば何故、その差異がある“知恵持ち”が、ここまで一糸乱れぬ行動を取ることができるのか。
 最初にトラゴエルの大群を見たとき、クロックは、直感的にミツルギ=サイガの兵隊を思い起こした。いずれも多種多様な武具を持ち、それでいて、奈落へ落ちても行軍を止めようとしないあの恐怖の軍団を。

「が―――」

 再び衝撃。
 今度は上げていた腕ごと身体を薙ぎ払われた。もしかしたら腕が潰れたかもしれない。それでもクロックは駆けた。帽子はどこかに落としてしまったようだ。夜空へ立ち上る黒煙が良く見える。
 今度は黒煙を利用した連携攻撃を、また受けてしまった。

 統率。
 そう、ミツルギ=サイガの軍も、このトラゴエルの軍隊も、“統率がとれている”。
 ならばいるはずだ。
 ミツルギ=サイガの軍におけるミツルギ=サイガのように、このトラゴエルの中にも“本当のトラゴエルが”。
 この軍団は、あくまで指示を受け、命令を正確に実行するだけの、“僅かに頭のいい魔物の大群に過ぎない”。
 その命令を飛ばしている存在こそが、“知恵持ちの正体に他ならない”。
 身体が結合していようが、離れていようが、核と言えるものは存在する。
 それが―――ロジック。

「ぎ、ぎっっっ!!」

 足払いをかけられた。その直前、クロックは動かなくなった腕でそれを守る。
 激痛と言うのも生ぬるい、未知の感覚が身体中を駆け廻った。
 だがこれでいい。足はまずい。足さえ無事なら、自分はまだまだ駆けられる。

 どれほどトラゴエルを抜いただろう。
 最早認識もできない。頭が熱に浮かされたように思考ができない。
 足元へ飛び込み、フェイントをかけて、急加速。回避できない攻撃は、袋を振り回して原石で封殺する。
 ほとんど全て、条件反射で行っていた。もしかしたら、気付いていないだけで、いつしか頭を殴られ気でも違えているのかもしれない。
 本当に馬鹿なことだ。きっと今、自分の姿は人間には見えないだろう。
 血だらけで、骨も折れ、肉がはみ出したような、おどろおどろしい有様だ。それでも進む現状は、最早魔物と言って良い。
 大人しくツバキと共に逃げていればとさえ思ってしまう。

 だけど。

 タンガタンザに訪れ数十年。この地に何かを残したいと思った。
 村を築き上げて十数年。想像を絶する爽快感があった。
 村を潰され数年。タンガタンザでは当たり前のことだと割り切った。割り切っていた。

 巡るましく過ぎ去った年月を、それでも自分は決して忘れない。忘れることなんてない。
 気恥ずかしいから謙遜気味に言っているが、村を創り上げたことを、自分自身は一生誇れる。
 だからこの足は止まらない。
 他人から見れば狂気の沙汰の行動でも、どれほど人間からかけ離れた姿でも、人間らしく、魔物総てを強く憎もう。
 誇りを汚された者は、何かを憎む権利がある。

「ガ―――ァァァアアアーーーッッッ!!!!」

 抜けた、抜き切った。
 クロック=クロウは大いに嗤う。
 岩石の軍団から僅か離れて立つ巨兵が見える。

 敵に少しだけ動揺が見えた。他の巨兵には無い反応。やはり将は最奥か。
 空想とも言えるロジックを積み重ねた先、そこに確かに答えがあった。

「―――、」

 最奥のトラゴエルは、甲高い、蛇の悲鳴のような声を発した。
 ツバキには聞こえていたかもしれない。クロックの耳では良く聞き取れないその声で、大群に指示を出していたのだろう。
 だがもう遅い。
 クロックは駆けて、駆け抜けて、トラゴエルへ突撃した。

 最早原石は残っていない。袋はどこかに捨ててきた。腕はほとんど上がらない。
 ならば残るはこの身体。
 全ての残りの魔力を込めて、渾身の力で跳びかかる。

「―――ノヴァ!!」

 当て身をくらわした全身から、血液にも似た色の魔力が暴走した。
 頂点の破壊を受けて、トラゴエルは四散する。
 続く戦闘不能の爆風。クロックの身体はきりもみしながら吹き飛ばされた。
 もはや動くこともできない。
 だが、これでいい。

「……か、はは、は」

 乏しい聴覚で、岩石の大群が遠ざかっていくのを感じた。やはり生命体という意味では、将とその他は別らしい。トラゴエルの最後の悲鳴は、どうやら進軍を指示するものだったようだ。戦争への勝利を目指したことは、敵ながら天晴れ、と言ったところか。
 だが、最早あの大群は僅かばかり賢い岩石の軍団に過ぎない。
 残存する落とし穴の効力が一気に増加した。
 トラゴエルの命運はすでに尽きたと言って良い。

 後はクロック=クロウの従者たる、ミツルギ=ツバキの役目となる。

 敵残存勢力。

 魔物―――現在減少中・測定不能。

 知恵持ち―――0体。

 言葉持ち―――1体。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

―――***―――

 “北の道”。

「…………何かがおかしい」

 普段のふざけた思考では無く、ヒダマリ=アキラはその光景に眉を潜めた。
 手に握った剣は欠けることなく淡々と罠を作動させ、単純な撃破数で言えばこの戦争で最高の成績を収めているアキラは、それでも神妙な表情を浮かべる。
 別に、結局罠を介した成績に文句を言っているわけではない。
 問題なのは―――その撃破数。

「…………」

 慎重に、アキラは立ち上る黒煙を睨んだ。
 今まで、迷うことなく突撃を繰り出してきた大群が現れたあの煙の先。
 最初は随分と長い小休止だと達観していたものだが、煙が薄れ、弱まり、徐々に晴れてきた頃、アキラの不安はピークに達した。
 次の魔物が、来ない。
 待機しているわけでもなく、煙の向こうに魔物は―――存在しなかった。

「俺はもう―――5万匹も倒したか?」

 今、アキラがいるのは道の中央付近だろう。
 ここから先の道にも、罠がごっそりと待ち構えている。
 単純な罠に面白いようにかかる魔物の戦力を大幅に削り取れる数はある。
 だが、現在未使用。
 半分程度の位置で、魔物の大群は姿を消した。

「……」

 ヒダマリ=アキラは思考する。
 自分は最初、5万と聞いて何を思ったか。最初に不安に思ったのは、罠の数だ。間に合うかどうか微妙。そんなことを思ったはずだ。
 いや、自分の直感以前に、ミツルギ=サイガが仕掛けたのだ。
 中央のエリアに魔物の存在を許してはならないと想定しているはずだ。
 その上、ミツルギ=サイガの想定では、“知恵持ち”あるいは“言葉持ち”が率いた大群というものだったはずだ。となるとその分罠を仕掛ける余裕が無くなることも想定されている。
 罠の数は、5万に対し、“過剰でなければならないのだ”。
 それが今は半分弱。
 魔物は、全滅した。“知恵持ち”や“言葉持ち”の姿を見ることも無く。

「……」

 アキラは剣を構え、待機を続けた。
 もしかしたら落とし穴の向こう、曲がりくねった道の向こうにも、この罠の数に無駄な突撃は控えさせ、大群を待機させている“知恵持ち”あるいは“言葉持ち”がいるのかもしれない。
 相手が未知の存在である以上、油断は許されない。

 だが、来ない。気配さえ―――無い。

 慎重に記憶を掘り返す。
 罠の発動数は覚えていないが、感覚的に、百や二百はゆうに超えているはずだ。

 となると―――1万から2万。
 その程度しか、撃破していないことになる。
 残る3万近い魔物はどこに消えたのか。

「……」

 じっと待ち、やがてアキラは構えを解いた。
 ここに魔物の脅威は無い。ならば当然、想定すべきことがある。

「“別ルート”……?」

 その考えが浮かんだが、アキラは即座に判断できなかった。
 もしあの道の向こうで、魔物の大群が息を殺していたらどうなるか。
 アキラがこの場を離れた途端、魔物が押し寄せてきたらどうなるか。
 魔物の大群の進行を許してしまうことになる。

 汗が滴る。地に落ちる。
 どうすべきか。

 2年前、スライク=キース=ガイロードはただひとつのルートを潰すことを徹底し、戦争に勝利をもたらした。
 そう考えると、この場は他のメンバーを信じ、待機というのがベストであろう。
 だが、魔物の進行が別ルートであった場合、自分はこの場で完全な傍観者となってしまう。
 ならば―――記憶に頼るか。

 “一週目”。
 自分はこの戦争を経験しているはずだ。
 “あの煉獄”から逃れた先は、このタンガタンザで間違い無いはずなのだから。

 しかし。

「頼ってばっかでもしょうがないか」

 あっさりと諦め、アキラは空を見上げた。
 日の出までまだまだ時間はある。
 だったら出来ることを最大限にするべきだ。

「戻るか」

 入口の方まで様子を見に行けばいい。
 それで、魔物の大群が控えているかどうかすぐに分かる。
 理知的とも作戦とも言えぬ行動だが、ただ立っているだけよりはましであろう。

「しっかし俺、この戦争基礎トレしかやってない気がするんだが……」

 魔力を使用し、アキラは駆け出した。
 恐らく自分以上に体力に任せた行動を取っている者はいないであろう。

―――***―――

 “西の崖”。

「く……、はっ、はっ、はっ」

 ミツルギ=サクラは崖にしがみつき息を荒げていた。
 大分登ってきただろうが、下を見る気になれない。空気が僅かに薄くなり、頭が痛くなってきた。
 耳の中に膜のようなものができた気がするが、手がふさがっていてアキラに教わった方法を試すことはできない。

「ふー」

 再び魔術の使用。
 空中に形作った足場を蹴り、サクは崖を登りに登っていた。
 風が強く、油断すれば手を滑らせて落下してしまう。
 耳への不快感もさることながら、握力がそろそろ乏しくなってきた。魔力にも厳しいものがある。

 こんな状態で“魔族”に出遭うなど正気の沙汰ではないだろう。
 だが問題無い。その程度で戦えなくなる程度の経験値では無い。
 今もどこかで爆音が聞こえてくる。
 誰かがまだ、戦っている。それ比べれば、自分がやっているのはただの登山。安いものだ。

 登って、登って、登り続ける。
 心底気に入らないが、利害が一致しているときのミツルギ=サイガの言葉は誰よりも信用できる。
 その男が言ったのだ、アグリナオルス=ノアには誰かが付いている必要があると。
 ならば登る。
 この戦争に、バッドエンドは許されない。
 そんなことをすれば、恐らくまた、ヒダマリ=アキラの“せい”になってしまう。
 それだけは―――許されない。

「ぁ―――、」

『平和の空虚は、やがて高貴を宿す』

「―――、」

 ようやく見えた、山頂。
 数百メートルは登って来たであろう。
 しかしそれと同時、耳詰まりなど問題にならぬほど不快な“聲”が聞こえた。

『高貴の野心は、やがて非情を生む』

 “空中浮遊”を独自に解釈。
 魔術を発動し、サクは跳んだ。頂上に手をかけ、強引に身体を引き上げる。
 サクは倒れ込んだまま息を荒げるも、全身に力を入れ、立ち上がった。

『非情の欺瞞は、やがて過酷を迎える』

 “聲”は、十メートル先から聞こえた。
 サクが上って来た場所とは別の淵に、“何か”が胡坐をかいて座っている。

『過酷の末路は、やがて平和に還る』

 不快なその“聲”は、その“何か”が発していた。
 思わず腰の刀に手を当て、サクは慎重に歩み寄る。

 強い風が吹きつけるこの場所は、30メートル四方程度だろうか。
 眼下に壮大に広がる“中央のエリア”と比べれば猫の額程度の面積。奥には数十メートルほどの崖がある。山頂と言うよりは、ここは、段差のような場所らしい。山の頂上付近に出来た窪みとも言えるか。高度数百メートル、前後を断崖絶壁に囲まれた、酷く封鎖的な空間。

 そこにどうやってここを訪れたのか、その“何か”は、悠々と座している。
 その、“何か”は。

 身体の総てが―――『鋼』で形作られていた。

「こんなことを思ったことは無いか」

 『鋼』は悠然と言葉を続ける。
 刀を構えたサクへ特別な意識を向けることも無く、その聲は、まるで望郷でもしているかのような穏やかなものだった。

「山や平原、そして人工物。思わず忘我してしまうほどの絶景。そんな光景を高みから見下ろしながら―――思ったことは無いか」

 サクは、その声色に、思わず『鋼』の視線を追った。
 絶景。
 そんなことを思ってしまう。
 この『何も無い世界』。
 しかし上空から見ると、周囲に崖が並び立ち、ぽっかりと開けた中央のエリアは、まるで自然の構造物のようで、美しく思える。彩りの無い空間ではあるが、下で感じた殺風景さは穏やかさに変わり、寂しさは静寂へと昇華するように感じる。数十年先、数百年先になれば、いずれは草木が芽生え、さぞかし壮大な光景になるであろう。

「“この総てを蹂躙してみたい”、と」

 サクは一瞬身構えるも、『鋼』は変わらぬ様子で呟き続ける。
 穏やかで、そこか静かなその聲。しかし、強風が巻き起こるこの高さでも、相手の脳に丁度届くような―――言うなれば、優れた聲。
 『鋼』の聲は、サクの動きを封じるように、言葉を続ける。

「ここでは少々分かり辛いか。いや、むしろ分かりやすいか。想像してみるとよい。この空間に草木が芽生え、蒼く、碧く、赤く、紅く、彩に満ちた世界になったときのことだ」

 つい先ほど、サクが想像した景色だ。

「美しくはあるが、自分だけは元々のこの世界を知っている。寂しく、何も無かった場所を、自分だけは知っている。それなのに、今の美しさに釣られ、我が物顔でその場で好きに自分の居場所を作り出す自分以外の誰か。そうなると、思ってしまうのだよ、俺は。それならば、いっそ、元の何も無い場所に戻してしまおうか、とな」

 発展は、すなわち成長とも言える。
 そう考えると、サクの頭にはあの言葉が思い起こされる。
 成長は嬉しくもあり、寂しくもある、と。
 ふと思考を逸らしてしまうと、疲労も手伝って、妙な方向に意識が走り出す。
 自分だけが知っている存在。それがいずれ成長し、誰かに認められるようになり、自分以外の誰かがその周囲を埋め尽くす。勿論成長は、喜ばしいことなのだろう。しかしそれを、その仮定をずっと見ている自分は、きっとその周囲の誰かに、今さら何を我が物顔でそこにいるのだと思ってしまう。甘い蜜を吸いに来ているだけと思ってしまう。
 それならいっそ―――自分だけが知っている“本当”に戻してしまいたくなるのかもしれない。

「“征服欲”」

 『鋼』が、ぽつりと呟いた。

「独占欲とも言い換えられるかもしれんな。自分だけが知っている本当の姿を求めてしまうのは」
「……何が言いたい?」
「いやなに。思うままを口に出しているだけだ。そうでもせんと、やっていられん。自らを“魔族”と名乗らなければ本当に忘我しそうなほど、俺は長く生き過ぎているのでな」

 サクは、無言を返した。

「“魔族”―――アグリナオルス=ノア。世界に“征服欲”を覚える、『世界の回し手』だ」

 その、百年戦争の首謀者との邂逅は。
 あまりに静かで、やはり穏やかなものだった。
 『鋼』―――アグリナオルス=ノアは、変わらず優雅に、“世界”を覗き込んでいる。

「……お前は、世界征服を目論んでいるのか。“魔王”」
「奇妙なカマの掛け方をするな。悪いが俺は“魔王”では無いし、その配下でも無い。ついでに言えば、世界を滅ぼす気も無い」

 僅かばかり安堵した。
 やはり、アグリナオルスはヒダマリ=アキラが滅するべき魔王一派では無い。

「……ならば何故、タンガタンザを攻めている」

 アグリナオルスの口調に、サクは自然と疑問を投げつけていた。
 相手は“魔族”。タンガタンザを僅か百年で壊滅状態に陥れた規格外の化物だ。思考ロジックは不明であるし、会話が成立することすら奇跡的なことだと考えるべきなのだろう。
 だが、訊いていた。
 アグリナオルスは、サクが今まで出遭った“魔族”の中で、明らかに異質な空気を持っている。
 リイザス=ガーディラン。サーシャ=クロライン。
 その2体は、“イメージ通りの魔族”であったのに対し、アグリナオルスは、全く別のロジックを有しているような臭いがした。
 近いと言えば―――“ガバイド”か。
 サクの背筋がぞっと震える。雰囲気はまるで違えど、ガバイドも、“軸”そのものが違うような空気を持っていた。
 アグリナオルスは、ゆっくりと、口を開いた。

「タンガタンザが“非情”だからだ。俺はタンガタンザを攻めているのではない。“非情”を攻めているのだよ。世界を回すために」

 また、言った。
 “世界を回す”。
 会話が成立しているはずなのに、アグリナオルスの言葉はまるで頭に溶け込まなかった。
 まるで大空に浮かぶ雲の形が何に見えるかと訊いているかのようだった。
 同じものを見ているはずなのに、人によって違う答え。
 だがどこか、思ってしまう。決定的な“軸”の違い。
 自分はひとつの雲を目で追っているのに対し、アグリナオルスは空に浮かぶ総ての雲が空に描く巨大な絵を見ているかのような―――スケールの違い。
 やはり静かな問答に、毒気を抜かれ、サクは刀を握る手を緩めた。
 戦闘を行うのは自分の意思なのに、それを切り出せない。

「敵を前に警戒を解くのは感心せんな。お前の力量では幾分早い」

 ピクリ、とサクは身体を震わせる。
 しかしアグリナオルスはやはり動かず、ただ世界を眺めていた。
 サクのことを、敵だと認識はしている。
 自分を狙ってきたのだと、確かに理解している。

 だが、アグリナオルスは動じない。

「俺も昔はそうだった。周囲を警戒し、味方すらも警戒し、ただがむしゃらに、思うままに世界を回し続けていた。だが最近になって、ようやく気づいたよ。油断をしようが、余裕を見せようが、結局誰もが俺を上回れんとな」

 言葉の意味は分からない。
 だが、その口調は、老人が昔話を懐かしんで語るような空気を醸し出していた。
 だからだろうか。
 相手は魔族で、敵で、忌むべき相手だというのに、口を挟むのを控えてしまうのは。

「年配扱いは気に入らんな。まあそれすらも、今の俺には許容できるがな」
「……心でも読めるのか」
「なに、察するのだよ。長くは生きているのでな」

 ガチャリ、と甲冑を軋ませるような音と共に、アグリナオルスは立ち上がった。

 鉄仮面を被ったような貌。
 逆立つように尖った髪。
 鎧を纏ったような身体。
 ナイフのように鋭い指先。

 生物としてあまりに不自然な姿の、あまりに自然な動作にサクは一瞬遅れて硬くなる。
 アグリナオルスは立ち上がっただけだった。
 2メートルを超える体躯。身体中が、鎧を纏った『鋼』の“魔族”。
 そんな身体を見て、高い、ではなく、“深い”と思ったのはサクにとって初めてだった。
 纏う空気に戦意は見られない。
 そのせいで、サクは構えたまま動けなかった。

「うむ。まあ俺の言葉は分からんだろうな。ならば少しは語ろうか。ここまで登って来たのは見事。労いだ」
「何を言っている……?」
「なに、ただの労いに―――“お前たちが疑問すら抱いていない世界の裏側”を、少しだけな」

 アグリナオルスの言葉に、相変わらずサクの理解は追いつかない。
 だが、あるいはあの“絶望”を思い浮かべたとき以上に身体が震えた。
 ひとつの雲だけを追っていた視野が、揺らぎ、広がる。
 それに恐怖すら覚えた。悪寒と言ってもよい。
 当たり前に思っていた雲の向こう。視野が広がり見えた空。
 疑ってしまう―――その色は、本当に青なのかと。

「“お前たちは、初代勇者の時代のタンガタンザを知っているか”?」
「―――、」

 ほぼ反射的に、サクは眩暈を起こした。
 そもそも、待て。
 今の魔王は百代目だ。だがそれなのに、初代はおろか、“ひとつ前の九十九代目の勇者の時代すら”サクは知らない。
 タンガタンザ有数の歴史を持つミツルギ家の娘である自分。
 それなりにタンガタンザの歴史には精通している。
 だがそれは、精々“ミツルギと名乗る男”が現れた頃か、その少し前からだ。文献に残っていた情報ではあるが、確かに知っている。
 そしてその遥かに前、九十九代目勇者の偉業も、“偉業だけは知っている”。
 だが、“その経過”。
 九十九回目の平和が訪れてから、世界がどのように遷移してきたのか―――サクは、いや、“誰も知らない”。

「見えたか世界が。そうだな、端的に言えば―――」
「この世界には…………歴史が無い」

 人の言う、太古。便利な言葉だ。時代を曖昧な点でしか捉えない。
 そう。
 初代勇者、二代目勇者、三代目勇者―――と、ぶつ切りの記録はある。
 点はあるのだ。
 だがその中間が、線が―――がっぽりと、存在しなかった。

 いつかアキラに語って聞かせた、ミツルギ家の遷移。
 それが、世界規模で、各代の勇者の狭間にもなければならない。

 “歴史とはそういうもののはずなのに”。

「“だが俺は知っている”」

 足元が揺らぐような感覚の中、不気味な聲が、聞こえた。
 自分は知っている、そういう、独占欲を醸し出す口調。

「初代の勇者の代から、俺は世界を知っている。世界をずっと回し続けているのだから―――この、“最古たる俺は”」

 そして、紡ぐ。
 不快な聲で。

「『平和の空虚は、やがて高貴を宿す』。初代勇者の頃のシリスティアは、“その前”、大層豊かな土地であった」

 シリスティアが、平和であった時代。

「『高貴の野心は、やがて非情を生む』。初代勇者の頃のタンガタンザは、“その前”、大層気品のある空気を宿していた」

 タンガタンザが、高貴であった時代。

「『非情の欺瞞は、やがて過酷を迎える』。初代勇者の頃のモルオールは、“その前”、大層傲慢な者たちに支配されていた」

 モルオールが、非情であった時代。

「『過酷の末路は、やがて平和に還る』。初代の勇者の頃のアイルークは、“その前”、大層劣悪な環境であった」

 アイルークが、過酷であった時代。

 そしてその4大陸は―――何度も同じ円を巡る。

 “平和”。
 “高貴”。
 “非情”。
 “過酷”。

 存在し続ける4つの“象徴”は、4つの大陸を回り続ける。何度も何度も、順番通り、“象徴”が移り変わる。
 ようやく分かった。
 タンガタンザが“非情”なのではない。
 “今非情であるのが”、タンガタンザなのだ。

「これが歴史だ。“そして俺は、非情を攻める”。歴史など残るはずもない。“非情になれば、俺が征服するのだから”」

 “リセッター”。
 サクは目の前の存在を、おぼろげにそう感じた。
 “非情”になれば―――そこまで人が発展すれば、“アグリナオルスが現れる”。
 世界を―――回すために。

「……お前が歴史を消しているのか」
「そうなるのか。あまりに有名な偉業は残るが、それ以外は消えゆくだろう。だがそれは、“僅かばかり誤りだ”。もっとも俺は、いずれ過酷に変わる非情を加速させているだけなのだしな」

 あっさりと、アグリナオルスは語る。
 サクは再度アグリナオルスを睨む。
 この魔族は、初代勇者の頃から存在していると言う。
 最古の魔族。
 流石に信じられる話ではなかった。人間が理解できる程度を超えている。
 だが、値踏みするようにアグリナオルスを見ても、最初に覚えた直感は変わらない。
 この魔族は、確かに事実を語っている。

「歴代の勇者たちが、お前を見逃すとは思えないが?」
「うむ。やはりそうか、その妙なカマの掛け方。本心では納得しているのに、更なる情報を求めるか。覚えがある。それにその服装。ミツルギ=サイガと同じだな。そうか、血族か」
「っ、」

 そのリアクションで、アグリナオルスには十分だったようだ。
 満足気に頷き、虚空に瞳を這わせた。
 それはやはり、人間では想像もできない太古を思い描いているのだろう。
 それにしてもミツルギ=サイガ。やはり奴も、こうしてアグリナオルスと対面したことがあったのか。

「多くの勇者に、勇者候補に、俺は遭ったよ。だがその全員が“俺を事象だと割り切らざるを得なかった”」
「……そこまでか」
「なに、ただのうぬぼれだろう。だが事実、魔王を倒すのが奴らの使命だ。そういう意味では、俺と骨肉を削り合う争いをするわけにはいかなかったのだろう」

 歴史を、世界を見てきた魔族は、ようやくサクに視線を戻した。
 そして、僅かばかり頷き、

「まあ、そろそろ労いも終わりだ」

 すっと、指を差した。
 眼下に広がる、世界へ。

「?」
「追憶も良いが、そろそろ現代に話を戻そうか」

 アグリナオルスではないが、サクも思わず忘我していた。
 そうだ。
 そもそも今は戦争中。
 『ターゲット』の護衛に、総てを捧げる必要がある。

「大方、お前はミツルギ=サイガの指令で来たのだろう」

 “魔族”の口から人名が出て、びくりとしない者はいないであろう。
 それが肉親のものなら尚更だ。

「恐らくあの男は言っただろう。この時間帯ならば俺の近くは逆に安全だと」

 ようやく開戦か、とは思えなかった。アグリナオルスに相変わらず戦意は無い。
 だがそこで、そうか、と思った。
 このアグリナオルスとの戦闘に踏み切れない本当の理由。
 それが、まさしくミツルギ=サイガが言葉を紡いでいるときのように、アグリナオルスそのものがその場の空気を支配しているからだ。
 そのアグリナオルスが戦闘を行わないのだから、戦闘を行えない。
 空気の支配者には、状況を決定付ける権利がある。

「まあそれは正しいな。腹立たしいことに、あの男には人の言う才能というものがあるらしい。自ら言うのもどうかとは思うが、俺は最古ではあるが、あまり頭が良くないようでな。俺の生涯に比すれば流星の残光にも満たない程度しか生きていないのに、ミツルギ=サイガは知能の点で俺より上だ」

 サクはそれを誉れと受け取らなかった。
 サイガとの不仲は関係なく、所詮“魔族”からの称賛だからというわけでもなく。
 ただ単に、アグリナオルスの事実を事実として言っただけのような口調に、何の感情も浮かばなかった。

「まあ、話を戻そうか。俺は今、お前と争うつもりはない。だからこれは親切心だ。この山を即座に下りた方が良い」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ」

 言って、アグリナオルスは再び遠くを眺めた。

「昔は有無を言わさず暴れた俺だが、最近は戦略というものに興味がある。ある種、“チェスゲーム”とも言えるか。相手のキングを捕るゲームだが、直接手で強引に奪っても興が削がれるであろう。戦略的に配下を動かし、同じ盤面で争うことに意味がある」
「……それが、『ターゲット』を定める理由か」

 サクはぽつりと呟いた。
 この、タンガタンザの異様な百年戦争。
 魔族が『ターゲット』を定め、人間側が護衛する。
 それは確かに、チェスゲームに通じるものがあるのかもしれない。
 所詮、魔族の気まぐれであったのか。サクは奥歯を強く噛んだ。
 気付くべきだったのかもしれない事実だ。ほんの2ヵ月前、“あの死地”で、ほんの気まぐれで伝説を発生させる“絶望”に出遭ったばかりだったのだから。

「だから、俺の本意は、お前たちを戦略的に“征服”することにある。ゆえに、ただの戦略の過程で命を落とされては興醒めなのだよ」
「……?」
「ふむ、察しが悪いな。“作戦”の一部であるのだが……、まあ今さら知ってもどうにもなるまい。お前たちが3つのルートに戦力を割いて中央エリアへの進行を防いでいるようだが、それは俺の配下にとって好都合であるのだよ。ああ、もう遅いか―――」

 不快な聲の持ち主は、警護の存在しない中央のエリアを指差しながら、言った。

「―――定刻だ」
「―――!!」

 大地を蹴り飛ばすように背後へ下がった直後、サクのいた位置に“隕石が墜落した”。

「―――!?」

 ガッ、と爆ぜた閃光に目を焼かれ、サクはとっさに身を伏せる。揺らぐ大地。散乱した岩の欠片が周囲に飛び散りサクの身を叩いた。
 そして伏せているにもかかわらず、強烈な浮遊感―――

「っあっ!!」

 即座に察し、サクは魔術を練り上げた。
 焼かれた目を強引にこじ開け、“空中浮遊”を必死に解釈する。
 強く地を蹴り、“共に落下している”岩石に飛び乗った。
 再び魔術の発動。
 山頂にて静かな会話をしていた状況から一変、“山そのものが崩れ始めている”。
 まるで氷山の一角が削られたかのように、サクが登った崖が倒壊していた。

「ぐっ」

 身体中が痛む。特に酷いのは頭痛だった。これは魔力切れの症状だ。
 それでも魔術を強引に作動させ、サクは必死に宙を蹴る。
 もし僅かでも気を許せば、数百メートル下の地面に激突してしまう。

 自ら作り出した偽りの地面と、落下する岩石を蹴り続け、サクは落下の勢いを殺し続ける。頭の痛みは止まらない。登りですでに膨大な魔力を使用していた。無事に着地できるかは分からない。

 だがそれ以上の苦痛に、サクは歯を食いしばった。
 自分の役目はアグリナオルス=ノアのマーク。それなのに、登った直後にこれでは何の役割も果たせていないではないか。
 だがそれゆえに、諦めるわけにはいかない。

 そもそも自分の真骨頂は―――ありとあらゆる戦場を駆け抜けられることにある。

「く―――あっ!!」

 高速で接近する地面との距離など測れるはずもない。
 サクはほとんど勘で、落石から身を離して自らの力のみで空を駆けた。落石と同時に落下すればこの身はその下で押し潰される。いつかは離れる必要がある。
 問題は、残る落差を残った魔力で乗り切れるかだが―――

「―――!?」

 ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!!

 魔術の使用に全精力を傾けなければならないのに、サクはその光景に目を奪われた。
 全力で距離をとり続けている崖。
 奇妙な音に振り返れば、“先ほどの隕石が暴れ回っていた”。
 闇夜で降る光源のように、しかし機敏に、崖に向かって連続で衝突し続ける。
 ほぼ自由落下のサクを追い越し、いつしか光点は、最下部で崖への突撃を続けていた。尋常ならざる機敏さを有し、西の崖一面を駆け駆け回り、執拗に体当たりを繰り返す。
 そのたびに、西の崖は轟音と共に凄惨たる光景へ変わっていく。
 僅かばかり脆い崖は、一撃を受けるたびに土砂崩れのように倒れ、強引に形を造りかえられていた。
 “山そのものへの攻撃”。
 スケールこそ違えど、その動きは、餌をあらゆる角度からつつき続ける小動物に通じるものがある。
 脅威の隕石は遥か上空からの落石をものともせずに跳ね飛ばし、赤い残光を闇夜に刻んで駆け回る。

「づ―――」

 爆音と落石の連続の中、サクは待望していた地面に肩を強く打ち付けた。
 骨髄を揺るがすような衝撃を受けながらも、サクは身を伏せる。呼吸は荒く、四肢が痺れたように痙攣していた。
 大分離れたと思うが、崖からの距離は分からない。
 延々と続く山の粉砕の中、サクは顔を上げることもできなかった。
 仮に、未だ落石の圏内から逃れられていなければ即死するだろう。だが、身体は動かなかない。魔力すら、必要最小限しか残っていなかった。
 時折身体を叩く小石に、サクは身を震わせながら耐え続けた。

「……、…………」

 徐々に、徐々に、大地を揺さぶる振動が弱まってくる。
 ようやく身体が動き始め、サクはゆっくりと顔を上げた。
 どうやら、勢いに任せて数百メートルは距離を取れていたようだ。

 だが、目の前の光景には、案の定、山の末路があった。

「はっ、はっ、はっ」

 上空から見れば、中央のエリアが拡大しているであろう。うず高く積まれた岩石を運び出せば完璧か。この中央のエリアの西側の壁が一層消滅していた。

 巻き上がる砂塵。小雨のように落ち続ける小石。家屋ほどもある大岩が幾重にも詰まれ、まるで壁際の本棚が本を残して消失したかのように、崖が膝から崩れたように、あるべきものが存在しない光景があった。
 手を伸ばせば届く距離に直撃すれば致命傷の岩石が落下していた。乗り切れたのは、純粋な運否天賦なのだろう。
 ミツルギ=サイガはこの辺りが地盤の悪い地帯だと言っていた。元々この崖も崩れやすかったのだろう。西の崖一面に、不安を煽るようなヒビが走りに走っていた。
 崖の上から強い衝撃でも与えれば起こり得るのかもしれないが、しかし、自然物の倒壊となると次元が違う。
 この光景を見て、自然倒壊と結論付けぬ者はいないであろう。

 しかし、サクは確かに見た。

 落下の直前、その自然物の倒壊を招いた存在を。
 その―――規格外の化物を。

「生存。あの高さからで、生存。生存を確認できる」

 野太い。そうとしか形容できない、抑揚の無い声が響いた。

「見事。主が言うところによるとそうだ。見事と言える」

 その声は、倒壊した崖の上から響いていた。
 高さ数十メートルほどになった崖のなれの果て―――その上に。

 人ではあり得ぬ異形が座していた。

 “虎”。
 形状だけで言えば、最も近い動物はそれであろう。
 しかし、隕石。
 生物の枠組みを超えて形容するならば、“それ”は隕石だった。
 体長は5メートルをゆうに超え、身を丸めれば、そこらに散乱している岩石の形状と何ら変わらない。
 今も身体を丸め、声と同じ野太い四肢と爪を持ち、岩石を握り潰すように鷲掴んでいる。
 だがそれは、岩ではなく、“隕石”なのだ。
 燃え盛る隕石。
 その身体は燃えていた。
 紅く、赤く―――もしかしたら、赫く。
 戦場の狼煙を上げるかのように、夜空の色に逆らい続けている。

 虎を。隕石を。
 模した―――炎。

「ラテメア。主よりいただいた名。名はラテメアだ」

 そしてその存在は、言葉を発する。

「……“言葉持ち”……、何故ここにいる……!?」

 サクは、立ち上がり、よろよろと近付いた。
 そして思わず3つのルートに視線を走らせる。そのどこかに、“言葉持ち”がいるはずなのに。
 ラテメアと名乗る虎は、いや炎は、サクの様子など構わず言葉を続ける。

「定刻。主が指定した時。始まりの時だ」

 ラテメアは、燃え盛る瞳を『ターゲット』の屋敷に向ける。
 サクは即座に構えをとった。
 “言葉持ち”がここにいる以上、余計なことを考えている余裕は無い。

 “言葉持ち”の中央エリアへの侵入を許してしまったのだから。
 自分ひとりで、『ターゲット』の護衛を完遂しなければならない。
 そこでふと、サクは思い出した。
 異常事態が発生したとき、ミツルギ=サイガは何をしろと言ったのか―――

「オオオォォォオオオォォォン!!」
「―――っ!?」

 突如、“言葉持ち”が獣の雄叫びを上げた。
 サクは思わず耳を塞ぐ。
 中央のエリアはおろか、この山脈総てに響き渡るような方向に、サクの思考は一瞬飛びかけた。
 意識を飛ばしている猶予は無い。早く―――やらなければ。

 が。

「―――、」

 サクは表情を強張らせた。頭では、警告音ががなり立てるように鳴り響く。

 ラテメアは叫ぶだけで動かない。
 しかし、その左右。
 ピシリピシリと、崖が―――ラテメアの猛攻で砕け、うず高く積まれた岩が。
 “中からの圧力で砕け始めていた”。
 そしてその亀裂は西の崖全方面に広がっていく―――

「計画。計画通りだ。最後の岩盤を砕いた」
「な―――に」

 今度こそサクは意識を手放した。
 ドバッ!! と暴風がサクを襲い、しかし覚醒を強制される。
 砕けた岩が、まるで孵化のように欠片を散乱させた。

 そして―――“洞窟が姿を現した”。

 西の崖の下腹部一面に広がる洞窟には、ところどころ野太い柱のようなものが立てられていた。高さ十メートル程度のそれは、洞窟の倒壊を防いでいるのだろう。
 これは最早、圧倒的に巨大な建造物とも形容できる。崖の最下部まるまる1段が改造し尽くされていた。
 サクの頭は混乱の極みに達する。
 これほど巨大な建造物を製造することが魔物にできるとは思ってもいなかった。よほど規律が取れた大群でもいれば話は違うが―――これは、流石に規格が違い過ぎる。

 そして。
 その中には、西の崖一面に広がるその建造物の中には―――異形の群れが、詰め込まれていた。

「オオオォォォオオオォォォン!!」

 燃える虎が再度吠えた。
 同時、呼応するように世界が振動した。立ってもいられぬほどの激震。
 戦場に相応しい激動の中、わらわらと、わらわらと、洞窟の中から泥に塗れた化物どもが、洞窟を塞ぐ岩石をものともせずに押し砕き、姿を月下に曝す。
 しかし、騒ぎ立てることも無く、不気味なほど規律が取れた軍団は横並びに出現し続ける。
 その光景に、サクは指1本動かすことができなかった。
 ほんの数十メートル先に、その身ほどの牙を有する犬や、不気味に蠢く巨大な蓑虫、筋肉の塊のような巨人が集結しているというのに、その調和の取れた動きを呆然と見ることしかできなかった。
 だが、頭では分かっている。

 この中央のエリアに、“魔物が大量展開してしまったことを”。

「っ、っ、っ」

 存在しない第4ルート。
 今なお洞穴の中から魔物は出現し続ける。その穴は、この山の反対側から延々と掘ったのか、あるいは地中から続いているのかは定かではないが、魔物はまだまだ奥に潜んでいるようだ。

 頭の警告音は鳴り続ける。
 サクは眩暈を引き起こした。
 荒れ果てた大地。そんな場所で、大海の波のように出現する魔物の大群。
 その光景が、何故か絶望と直結してしまう。

 やがて展開し終えた魔物の群れは、しかしそれでも整列したままだった。
 ラテメアが砕いた後では容易なのであろう、各々邪魔な岩を砕き、獣の主の元に集うように並び立つ。
 数にしておよそ3万と言ったところか。
 あの狭いルートで見た軍団と何ら変わらぬ密度の魔物が、膨大な荒野を埋め尽くす。

 思わずぼんやりと、数を察してしまうほど、非現実的な光景が目の前にあった。

「―――、」

 サクは即座に懐に手を入れる。感情感想を殴り捨てた機械的な動作が要求されていた。
 あの炎があとひと鳴きでもすれば、あの大群が怒号を上げて進軍するのは目に見えている。
 サクが取り出したのは、ミツルギ=サイガに託された小型のマジックアイテムだった。
 良く見る信号弾。落下の衝撃で壊れているかもしれない。
 だが果たして、正常に動作したとして、この信号を見てからの増援は間に合うのか―――

「オオオォォォオオオォォォン!!」

 自らが打ち上げた信号弾が正常に動作したかは分からなかった。
 ラテメアの咆哮の直後、横一面に広がる魔物の群れが、波が、中央のエリアを拭うように進撃する。
 信号など目で追えない。余裕も無い。
 目の前の波は、サクなど眼中も無く『ターゲット』へ突撃する。土煙を巻き上げ、大地を揺るがし、地獄から飛び出て来たような異形の群れは、雄叫びを上げながら迷いもせずに暴れ回っていた。
 最早暴走に近いそれに、間もなくサクは呑み込まれる。

 だがサクは、駆けた。
 『ターゲット』を死守するために。

「はぁぁぁあああーーーっ!!!!」

 魔物の進軍で、最早音はほとんど聞こえない。自ら上げた咆哮すらも分からなかった。
 カッと世界が熱くなる。
 今の魔力では足場改善の魔術を常に使用することはできないが、温存している場合でもない。
 例えそれが、無謀なことでも。

「ぶ―――」

 気付けばサクは、近付くだけで圧力を感じる魔物の波に呑まれていた。
 しかし怯まず、目の前の数体の巨人の胸を斬り裂く。そして刀を返すように、強引に足元の芋虫を斬り裂いた。直後加速。足場改善の魔術を強引に使用して、魔物の群れから急速に距離を取る。元に立っていた位置より随分と後退を余儀なくされた。確実に波と『ターゲット』の距離が近づいている。下記ほど撃破した魔物の末路か、僅かばかり火の手が上がった。大海に小石を投げ入れたほどの影響ではあるが、僅かばかり進撃が緩む。サクが斬りかかった中央の遅れを総ての魔物が理解しているのか、全軍の進撃も同時に緩む。相当統制された軍団だ。
 サクは再び、突撃した。

「―――、―――、―――」

 突撃と後退が続く。
 大群に飛び込み、数体撃破し、直後離脱。
 速度は圧倒的にサクの方が早い。1体1体の戦力にしても、サクならば用意に撃破可能だ。だが、1度の衝突で撃破できる敵はあまりに少なく、そしてそのたびに、『ターゲット』との距離がグンと近づく。
 それでも、続ける。

「は」

 サクは、荒げた息の中、僅かな笑いを零した。
 喜びでは無く、自嘲染みた笑みだ。
 自分は何故、こんなことをやっているのだろうと。総ての敵を滅する前に、いずれ魔力か体力が切れるのは分かり切っているというのに。
 正直なところ、『ターゲット』とは縁もゆかりも無い。アキラ曰く、関わったことがあったそうだが、少なくとも自分は知らない。
 事実、例え目の前で命を落とされようが、不憫に思いこそすれ、自分は涙ひとつ零さないだろう。
 それなのに、自分は必死になれてしまう。
 ほとんど空に近い魔力を振り絞り、もしかしたら“魔力以外の何か”も犠牲にしているかもしれないのに、無謀な数の暴力へ突撃を繰り返す。
 “それ”を感じてしまうと、サクの心は急速に脆くなる。空しいと、感じてしまう。
 元来的な性分だろう、それでも身体は動いてしまうのだ。心の中に何も無いのに、全力の戦いを続けてしまう。
 普段受ける、見たことも無い依頼主のために危険を冒す依頼のように。

 本当に―――空しい。必死になれてしまう、自分自身が。

「―――、―――、―――」

 そして恐怖でもある。

 ミツルギ家の祖先、ミツルギという男が最期を迎えたのは、正しくこういった光景の中であったと言う。
 そのときミツルギが何を思っていたかは知らない。
 だが何となく、サクには分かる。
 ミツルギは、脅威の大群を前に、最初から、勝てるとは思っていなかったのだろう。総てを打ち滅ぼせるなどと、過信してはいなかったのだろう。
 彼にとって刀を振るう基準は、敵ではないのだ。
 問題なのは、誰を守るか。敵の戦力など最初から、眼中に無いのだろう。大切な人と、その人の世界を守るためだけに、命を懸けることさえいとわない。

 “それが理解できてしまうからこそ”、サクはその物語が眩しく思え、自分がどうしようもなく侘びしくなる。

 自分は誰に対しても真剣になれる。それは事実。あるいは美点なのかもしれない。
 しかしそれは同時に、“大切なものとそれ以外に差が無いことを意味している”。
 純度とでも言うべきか、自分の中で大切なものと、それ以外のものへの差が無い。
 ミツルギ=サイガに指摘された通りだ。大切なものが無いから、大切なもの以外も拾おうとするから―――“いつか仕えるかもしれないから”、“真剣に無駄な努力”を続けてしまう。
 そう考えると眩暈が起こる。
 もしかしたら、自分は端から真摯ではないのではないかとさえ思ってしまう。
 自分がそう思っているだけで、実は大切なものであっても、自分は死力を振り絞れない。
 平常通りの力を、全力だと偽っているだけなのかもしれない。
 何故なら、何事にも、注ぐ力が変わらないのだから。
 そんな恐怖にからめ捕られてしまうから、きっと自分はいつでも力を抜けない。

 らしくないとは思っているが、自分はきっと、信じているのだ。
 幼少の頃目を輝かせて読んだあの物語。
 ミツルギが豪族の娘のために国を傾けたように、自分が大切に想う何かのために発揮される、論理を超えた特別な力が、人には眠っているのだと。
 だけど、“差が無い”自分には、それを見つける自信が無い。
 大切なものを守るために、自分が力を発揮できる自信が、無い。そして仮に大切なものを見つけても、こんな自分では、最も大切なものと歪な関係を築き上げてしまう。
 ひとりで旅をしていたときは、それでも良いかと適当なことを考えていた。
 あるいは、適当に誰かひとりに仕えでもすれば、自分もミツルギのように強くなれるのか確認できると期待していた。
 もっとも、そんなきっかけも無いまま、魔王討伐などという異常事態に巻き込まれることにはなったのだが。

「―――、―――、―――」

 大切なものが欲しい。
 そう強く感じる。
 この無限を思わせる大群を前にも揺るがない、ミツルギと豪族の娘のような強い絆が欲しい。
 大切なもののために動き、特別な世界を見てみたい。

 サク自身、正直なところ、あまり頭が良くない。
 旅の知識や武具の知識は豊富だが、根本的に、“下手”なのだ。
 あの青みがかった短髪の少女のように、なりふり構わず、あらゆる人に手を指し伸ばせるほど器用ではない。自分は誰に対しても真剣にはなれるが、博愛主義にはなれないだろうから。

 だから自分は―――

「―――、―――、―――ォォォオオオンンン!!!!」

 思考の渦は、荒々しく吹き飛ばされた。

「!?」

 魔物の群れを斬り裂き、下がった直後、燃え盛る隕石が飛来した。
 埋め尽くされた魔物の波を割り、射出されたかのように見えた砲弾は、サクを目がけて炸裂する。
 寸でのところで離脱したサクは、目前で燃え盛る虎と目が合った。
 ラテメア。“言葉持ち”の―――“炎の無機物型”。

「前例。“スライク=キース=ガイロードの前例がある”。お前は邪魔だ」

 明らかにいずれ突破できる妨害であっても、2年前に苦い経験をしている魔物軍にとっては目障りなのだろう
 僅かひとりで膨大な数の魔物を撃破したという話をサクは未だに信じ切れていなかったが、ラテメアの言葉からするに事実なのかもしれない。
 これはまずい。
 今自分が足を止めたら―――

「ぐ―――」

 瞬間、景色が総て魔物に塗り潰された。しかし、どの魔物もサクを見てすらいない。ラテメアの指示か、あの大群は『ターゲット』以外を狙っていない。
 サクとラテメアが対峙する僅か十メートル程度の円を、舞舞台を綺麗に避けるように疾走する。
 暴風が吹き荒れ、サクの身体が一瞬宙に浮かぶ。囲まれたエリアが燃え上がるように加熱される。
 反射的に魔物を襲おうとしたが、サクの動きに合わせてラテメアも腰を落とす。
 駄目だ。
 僅かにでも気を逸らしたら魔物に跳びかかる前にラテメアの一撃がサクの身を襲う。
 あの、山を削り取った一撃が。

 だがそれでは―――

「っ、っ、っ、」

 今度は冷ややかな強風。
 土を頭から被りながらも、サクはラテメアから目を切って魔物を睨む。
 大地に線を引いたように横一列に上がる黒い影は熱気を上げ、最早遥か遠方にいた。
 “言葉持ち”の介入で、成す術も無く抜かれてしまった。何も変わらない、当たり前の事実。
 絶望的だった。増援もいない。最早追いついても、壁のように進まれては、先頭の魔物に遭遇することすら叶わない。
 あのままでは、間もなく『ターゲット』の屋敷に到達してしまう。

 世界が―――回される。

 そのとき。

 月の光が、遮られた。

「―――!!!?」

 バババババババババババババババババババババババババババババッッッ!!!!

 巨竜の羽ばたきのようなその音は、虚空から轟いていた。
 そして、魔物の進軍によって大火災のように立ち上っていた煙が吹き飛ばされる。
 そして目に見えて、魔物の動きが鈍り、次第に止まっていく。
 しかしそれは当然かもしれない。
 サクも、そしてラテメアも、その場で動きを止めていた。

 いかな使命を与えられていようとも、その反応は、生物にとって当然のことなのかもしれない。

 この―――未知との遭遇は。

 そこには、“船”があった。
 黒光りした鉄の塊。全長二十メートル超。形状は籠のように角ばっており、上部には巨大な円が装着されている。否、あれは円では無く、何かが高速で回転しているだけだ。
 その船は、しかし波では無く―――空に、浮かんでいた。
 『ターゲット』を目指していた魔物の前方に浮かび上がり、『ターゲット』を守るように出現した―――“兵器”。

 “そしてそれが十数機”。

「―――!?」

 音源としては恐らくこの戦争最大規模の爆音が炸裂した。
 空をゆく“船”の底が開いたと思った瞬間何かが落下し、昼と見紛うほどの閃光をまき散らす。
 大規模術式でも放たれたような爆撃に、魔物の群れは燃え上がった。
 当然のように連鎖的な魔物の爆発。しかしそれさえも許さず再び投下。
 恐らくは爆発物であろうそれは、容赦無く連激を続ける。

「“ミツルギ=サイガ”か……!!」

 サクの呟きは、音としての意味をなしてはいなかった。
 大地の震動、魔物の断末魔さえも途絶する脅威の破壊は、容易く数多の魔物を屠る。
 間違いない。あの船の軍は、『ターゲット』の護衛をしている。
 となれば当然、製作者はミツルギ=サイガ。
 この地まで訪れた“飛行機”が無ければその発想も無かったろう。
 あんな物を創り出す恥知らずがいるとすれば、やはりあの男だ。

 サクの上げた信号弾は、空を犯すことを禁じられているこの世界で、脅威の兵器が夜空を闊歩しているこの光景を呼び寄せた。

「オオオォォォンンンッッッ!!!!」

 サクの背後、“言葉持ち”が叫んだ。
 爆音にも負けず劣らずのその咆哮に、炎上する被爆地の中、蠢く何かが離れていく。
 “進軍”。
 “言葉持ち”の指示はそれを意味していたのだろう。
 いかに驚異の爆撃とはいえ、『ターゲット』までの距離は近い。そして近付きさえすれば、あの爆撃は『ターゲット』の存在ゆえに使えない。数に頼って戦争の勝利を目指すつもりなのだろう。

 だがそれも想定内か。
 魔物の進軍を見た“船”の軍は、爆撃を続けながら下降を始めた。
 “白兵戦”。
 あの“船”の中には戦闘要員が詰め込まれているのだろう。どこに隠れたかと思っていたが、ミツルギ=サイガご自慢の兵士たちとやらはあそこにいたのか。
 広範囲爆撃で数を削った今、確かな勝機が生まれている。
 そしてまだまだ、山の向こうから同型の飛行物体がいくつか接近していた。更なる増援だろう。今度は、爆発物ではなく、白兵戦専門の人員ばかりを乗せているはずだ。

 サクは心底腹立たしくなって、笑った。
 結局どのルートが抜かれても、あの男は戦力を分散せずに迎え撃つ準備をしていたのだ。
 一体あの兵器を創り出すのに、いや、この戦争自体に、どれだけの時間と、どれだけの資金をつぎ込んだのだろう。
 “あの男が守護する対象からすれば”、この程度の規模は―――そして力は当然か。
 いささか納得できないところはあるが、これも何かのために発揮した力といったところだろう。
 爽快さすらある。

 そして、残るは。

「問題。問題が発生した。“だが問題無い”」

 燃え盛る虎。
 “言葉持ち”が、サクの正面で炎上を続ける。
 ミツルギ=サイガの言葉は正しい―――とすれば。
 目の前の存在は、魔物5万と等価と言われる“言葉持ち”。

「戦争。戦争を続行する。『ターゲット』の撃破は完遂する」

 リミットである日の出までは幾分時間がある。それまで、この化物を止めなければならない。
 サクは軽く身体の土を払い、ゆったりと、構えた。先ほどの魔物の大群に比べれば、相手は1体。こういう方が戦いやすい。
 魔力は底を尽きかけてはいるが―――とりあえず、この戦争を勝ち抜く理由を定めたところだ。

「その通りだ、問題無いな」

 敵残存勢力。

 魔物―――12000匹。

 知恵持ち―――0体。

 言葉持ち―――ラテメア。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

―――***―――

 “東の道”。

「……?」
「やーやー、クロッ君。意識はあるみたいだね」

 クロック=クロウの覚醒は、腹立たしくも聞こえる声と共にあった。
 ふと現状を思い出し、即座に身体を起こそうとする。
 しかし、動かない。
 僅かばかり焦ったが、トラゴエルの司令塔を撃破したことを思い出し、力を抜いた。

「サイガか……?」
「いえーい、見えてるかい?」
「…………生憎と、暗いよ」

 何も見えない。
 光源が無いからではないだろう。
 自分の声も、相手に届くか分からないほどの呟きだった。
 身体中の神経が麻痺しているのか、何も感じない。
 口が開けて、耳が聞こえるだけでも奇跡的だ。

「……一応、訊こう、か。俺は、死ぬか?」

 言葉が止まった。
 それでしか判断できないクロックは、しかし冷静に言葉を待つ。
 するとようやく、声が聞こえた。

「……だろうね。正直今のクロッ君よりマシな状態で死んだ奴を、俺は何人も見てきたよ。意識があるだけでびっくりだ」

 そんなに酷いのか。確かに人体が複数個所欠損しているような気もする。
 口や耳が使えることより、目が見えないことの方が幸運だったのかもしれない。

「……何を、しに、きた……?」
「様子見さ。落とし穴を避けたり跳んだりして、ね」
「例の、兵、器か」
「……途中でツバキちゃんに会ったよ。そして……、そのまま戦場へ行った。このルートに魔物はいない」
「そ……、うか」

 クロックは、心の底から安堵した。
 どうやら自分が立てたロジックは正常な答えを導いてくれたらしい。
 対価はあったが、それはそれ。
 それに元々死に場所を探していたような身だ。

 クロックが安堵のまま眠りに付こうとすると、不快なことに、隣に何かが腰を下ろした。
 その程度を感じ取れる感覚は残っていたらしい。
 本当に、運が無い。

「何、を、してい、」
「なに。旅立つ者の見送りだよ」

 言い切る前に、ミツルギ=サイガは呟いた。幻聴かもしれないが、聞いたことも無いような声色だった。
 だがそれでも、クロックは納得してしまう。見えもしないのに、サイガが浮かべている表情すら分かってしまう。
 この男は、きっと―――悼んでいる。
 やはり、“本当に理解できない”。

「悪、気は、あるの、か?」
「それはクロッ君がそうなったことに対して? それとも、俺の作戦で命を落とした数多の兵士たちに対してかな?」
「……ど、ちらも、同じ、だろう」
「ああ、そうだね。“悪気はあるよ。本当に、すまないと思っている”」

 それでも。
 口調は変わらない。悪気のある人間の声では無い。
 だが確かに、ミツルギ=サイガはそう思っているのだろう。

「多くの人間が俺のせいで死んだ。俺のせいで殺された。俺のせいで潰された。全員が俺を恨んで消えていく。その恨みを、俺は軽んじて受け止めてはいないさ。その恨みを、忘れたことなんてないさ」
「……お前、に、とっては、望、み通り、か」
「ああ、理想的だね。最高だよ」

 サイガは恐らく空を見上げているだろう。
 そう思うと、クロックは、最期くらいは空を見てみたかったと感じる。

 サイガは、僅かな溜め息を吐くと、当然のように、言った。

「誰も、我が主君―――“タンガタンザ”を恨まない」

 非道極まりない男と言われるミツルギ家現代当主。
 サイガが口にした言葉は、クロックにとって、死に際の答え合わせでしかない。

「見返りも、無いのに……、何故、そこ、までできる?」
「主君の繁栄が見返りで無くて、何が従者だ」

 サイガは当然のように言い放つ。
 やはりこの男は理解できない。確信してなお、いやそれゆえに理解できない。
 クロックは、自らの夢のために、夢の先に犠牲になった者たちに恨まれていると思っている。解決しようのない恨みを、ずっと受け続けている。
 死に場所を探すほどに、苦しみ続けた。それこそ、気を抜けば発狂してしまうほどに。
 その数千倍もの恨みを受け、しかしこの男は揺るがない。
 大陸そのものに仕えた男は、確かな恨みを我が身に受け、それに対する罪悪感も持ち合せて、それでもなお良しと言い切っている。

 どのような心の形をしていれば、そんなことができるのか。

「毎日考えるのに必死さ。タンガタンザへの被害を最小にするためには何をすべきか。タンガタンザが発展するには何をすべきか。そして、どうすれば誰もタンガタンザを恨まないようになるか、ね。勿論、去った者を悼むことも忘れない。多忙だねぇ、俺は」

 如何なる信念があろうとも、結局この男が非情な存在であることは変わらない。
 死者を出す出さないの2択では死者を出さないが、必要ならば死者を出す選択を躊躇無く選択する、人間の命で足し算引き算ができるような男だ。
 だがそんな男だからこそ、誰かに不幸があれば生まれた地を恨むのではなく、ミツルギ=サイガを迷わず恨めるのだろう。
 狂っている。自ら、そんな人柱になるような道を選択できるこの男は。

「ところで、クロッ君」
「……ん……?」

 待っても言葉を続けそうだったが、敢えて声を出した。
 そうでもしないと、戻れぬ闇の中に一直線に落ちてしまいそうだった。

「君は運命を信じるかい?」

 サイガが口にした言葉は理解不能だった。
 だがその声色は、どこか愚痴のようにも聞こえる。
 いつもの嘲るような声では無く、悩み事のようなその口調に、クロックは耳を傾けた。
 冥土の土産としては、随分珍しいものを聞けた。

「俺は今まで、タンガタンザを発展させようと色々と手を打った。ミツルギ家が保有する技術を、大陸中に広げようとした。だが、全て失敗している。運搬中に“たまたま”魔物に襲われたり、山の中で“たまたま”落石に遭ったりね。敢えて盗み出させたりしてみても、結局同じ。消息不明さ」
「……?」

 クロックの意識が、僅かばかり覚醒した。
 そして誤解があったことを理解する。
 “ミツルギ家から何かを盗み出した者の末路”。それはあまりに有名だ。“ミツルギ=サイガの手によって”、消息を絶っている、と。
 だがそれこそ、“サイガの普段の行いのせいで創り出された虚偽の情報”。
 ひと月ほど前、ミツルギ=ツバキが誘拐された事件を思い出す。
 あのときサイガは、誘拐犯を確保したことを不満がっていた。
 自らが手を下すつもりだったとでも言いたいのかと思っていたが―――違うというのか。

「盗み出されようが何をしようがタンガタンザに広がるなら俺にとって同じなんだ。“だけど必ず失敗する”。正直、運命を感じずにはいられないよ」

 本当にサイガは自分を悼んでいるのだろうか。
 そんなことを聞かされれば未練が残ってしまう。
 そうだ、確かに感じたことは何度もある。

 この世界は―――何かがおかしい。

「アグリナオルスから俺は聞いたことがある。“歴史のリセット”を」
「……、あ、ああ、その、話、か」

 クロックもサイガの口から聞いたことがある。
 『世界の回し手』。
 最古の魔族。
 アグリナオルスは、大陸を滅ぼし歴史を削除していると。
 それならば、歴史が広がるのもアグリナオルスの“削除対象”になる。

「……! まさ、か、アグリ、ナ、オルス、が?」
「かもね。だけど、奴はまだまだ他に“何か”を知っていた。もしかしたら歴史を削除するアグリナオルスの他に、“歴史を閉じ込める”存在がいるんじゃないか、って思っちゃうんだよ」

 他にアグリナオルスと同格の“魔族”でもいるのだろうか。
 “その存在”が歴史を閉じ込め、アグリナオルスが滅ぼす。
 そして世界は回り続ける。

 まさか。
 “その、存在は”―――

「どっち道、俺には“何のためにやっているのか”が分からない。それが分からなければ、“その存在”をいくら推測しようが意味が無い」

 話はここで終わりのようだ。サイガが立ち上がった気配がする。
 随分と良い土産を持たせてもらったと思う。もっとも意味は無いのだろうが。
 意識が。
 遠く、遠のいていく―――

「ありがとうクロッ君。君も俺を恨むと良い。俺は背負うよ。“君に主君を頼んだときから”、この去り際は予想していた」
「“主君の、件と、は少々、期待を裏、切ったが”」
「ああ、そうだね」
「それ、でも、お前を、恨、ま、ない」

 もう声は出ていないのかもしれない。
 何も聞こえない。
 何も感じられない。

 だけど、言った。伝えるために。

「―――ツバキに逢えたのは、救いになった」

 きっと。
 あれだけ切望していた死に場所がこんなに苦しいのも、その出逢いがあったからだと。

「ありがとうクロッ君。最期は俺の愚痴ばっかになったけど、少しだけでも気が紛れてくれたら幸いだ」

 そう言って。
 サイガは紅い衣をかけた。
 ミツルギが、戦場の中、曝すには惜しいと思った相手に対する手向けの儀式。
 燃えるような命の色を、去りゆく者に添えていく。

 娘のサクラには、随分と適当なことを言った気がするが―――まあ、流石に信じてはいまい。

「さようならクロック=クロウ。俺は君のことも、君の苦悩も、決して忘れないよ」

 衣に背を向け、サイガは巨大な移動兵器に歩き出す。
 そして、その途中、小さな影に声をかける。

「ツバキちゃん。随分静かだったね」
「……クロック様は、きっと、見られたくなかったと思います」

 表情は硬く、口は真一文に閉じている。
 小さな影の声は枯れていた。身体は小刻みに震え、油断すれば、横転しそうなほど重心が無かった。

 それでも。
 確かに、立っていた。

「よくクロック様に言われました。私は悲劇を知らな過ぎると。だから何が起きても、泣き叫ぶことはできないと。その通りですね、今の私、泣いてません。きっと、身体がそうなんです。泣けない」

 サイガは黙ったまま、移動兵器に乗り込んだ。
 慌てふためくツバキを乗せてここまで来たが、こんな光景ならば、見せるべきではなかったかもしれない。
 だがそれでも、サイガは、連れてきた。
 この光景は、彼女にとって、必要なものだと察したから。

「でも分かった。ちゃんと、心に刻んだ。人の死は、悲しいことなんだって」

 サイガは僅かばかり安堵の溜め息を吐き出した。

「馬鹿ばっかりだねぇ、ミツルギ家は」

 サイガは呟き、兵器を稼働させた。
 娘に持たせた信号弾は上がり、爆撃音は聞こえている。
 日の出まであと僅か。
 どうやらいよいよ、決着の時が近づいているようだ。

「クロック様。ありがとうございました」

 姿勢を正し、頭を下げたミツルギ=ツバキの姿は、後ろから見ても、自然なものだった。
 きっと、後で彼女はこの光景を思い起こし、大いに泣くだろう。
 震えて眠れぬ夜もあるだろう。
 それでも。
 どうやらツバキは学んだらしい。人になるための大切な一線を、手遅れになる前に超えられた。
 “幸運にも”、ミツルギ=サイガと同じ道を歩むことは無かったようだ。

「俺は行くけど、どうする?」

 分かっていて訊いた言葉には、即座に応答があった。
 ツバキは、小さな身体で巨大な兵器に乗り込ませ、呟いた。

「行きます。戦場へ」

―――***―――

 “中央のエリア”。

 慌ただしい進撃と、人ならざるものの咆哮。それに紛れ、対抗する人間の砲撃が炎上させ、噴火直前の火山のように戦場に激震を轟かす。

 そして。
 その総てを消し飛ばすような爆音が大地を打った。

「づ―――」

 バゴッ!!

 地を打って、何が起きればそんな音が鳴るのか。
 飛び跳ねるように離脱したサクの足元が、空箱を潰したように陥没した。

「速度。速度が問題。回避された」

 それは。
 虎の爪だった。
 体長は5メートル超。身体総てが燃え盛り、言葉を有する炎の化身。
 数対数の戦場を背後に、サクが対峙する規格外の化物。

 ラテメア。
 “言葉持ち”と種別される、“魔族に最も近い魔物”。

「速度。速度が必要。“ならば加速する”」

 ラテメアが全身を後ろに倒し、サクの姿を捉えた瞬間、跳躍した。
 ゾッ、とするほど爆発的に加速したラテメアは、獲物に飛び付くかの如くサクに野太い腕を振るう。

 だが。

「ふ―――」

 サクの速度はその加速の上をゆく。
 瞬時に展開した足場改善の魔術。
 消えたようにも見える移動と共に、その腰から愛刀を抜き放つ。
 狙いはその腕の切り落とし―――

 ブッ!! と空を切るような音が聞こえた。
 あまりに抵抗の無い感触に眉を寄せるも、しかし体勢は崩されずサクは難なく振り返る。
 切り裂いたはずの腕が、更なる炎上を引き起こし、腕が生え換わるように再生されていた。
 すれ違うように再び距離を取った両者は各々構えを取った。

「……これが無機物型か」

 サクは険しい顔つきになっていた。
 自分が切断したと思った腕は、未だ煌々と燃え上がっている。
 炎が一体どういう原理で原形を留め続けているのかは不明であるが、刀を使うサクにとって面倒なことこの上ない。
 サクはそもそも、一撃必殺型だ。
 尋常ならざる速度で近付き、刀で魔物の命を刈り取る戦術。
 硬度を有する敵相手には幾度か切りつける必要があるものの、それでも動きの鈍るであろう場所を狙って刀を振るう。洗練された技術による一撃必殺。
 だが、相手は無機物型―――形の存在しない敵だ。
 虎ではあらず、炎である。
 “核”といわれる場所があるらしいが、言ってしまえば急所はそれだけ。
 腕を斬り落とせば再生の時間は稼げるようだが、どれだけ傷つけようと、“正解”を引き当てない限り相手は疲弊しない。

 その一方で。
 ラテメアは。

「―――!!」

 再び爆発的な加速。
 両腕を突き出し飛びかかって来たラテメアに、サクは立ち向かわず、素直に回避する。
 直後、爆音。
 遠方の大群の音をかき消すような破壊の力は、容易に大地を陥没させた。

「回避。回避を確認。“しかし当たれば決まる”」

 魔力色の確認などするまでも無いだろう。
 常軌を逸したこの破壊力。

 “火曜属性”。

 技術では無く単純な破壊力で一撃必殺を容易に演出するその力を、人の身に受ければどうなるかなど、分かり切ったことである。

 どうする―――

 相手の“核”の位置が分からない。
 いや分かったところでそう何度も敵の懐に飛び込めるとは思えない。
 あの牙が、あの爪が、僅かでも身体に触れれば瞬時に吹き飛ぶ。

 ラテメアにまとわりつき、幾度も斬りかかれば“正解”を引けるかもしれないが、それでも破壊の極限地帯であることには変わらない。
 そもそも、自分の魔力は切れかけている。
 これほど危険な相手ならば常時発動させておきたい足場改善の魔術も、移動の瞬間にしか発動できない。
 僅かなミスを犯せば死。
 極度の緊張が汗となってサクの頬を伝う。

「戦闘。戦闘を続行する。“破壊する”」
「―――、」

 サクは迷わず回避を選んだ。
 ラテメアが跳びかかり、腕を振るだけで災害クラスの振動が発生する。
 圧倒的に相手が悪い。
 相手が生物ならば高速の世界にいるサクは優位に立てるが、形の無いものでは勝機が無い。
 この存在を上回るには、先ほど飛行物体が投下したような爆撃をその身に浴びせるしかない。
 いや、それでも不可能だ。
 火曜属性は、破壊と表裏一体の抑制する力も有している。
 破壊は相殺されてしまう。

「……!」

 サクの背筋に冷たいものが走る。
 今、ラテメアはサクの破壊を目論み暴れ回っている。可愛気は無いが、猫がじゃれているようなものだ。模した虎の習性ゆえなのかもしれない。
 だがもし、ラテメアが“本来の目的”を思い出したらどうなるか。
 恐らくラテメアは、飛行物体が投下する爆撃を、ミツルギ=サイガの兵たちを超えられる。
 そうなれば、『ターゲット』までの道を遮るものは何も無い。

「っ―――」

 無駄と知りながらも、サクはラテメアの身体を切り裂いた。
 すれ違いざまに放った胴切り。
 しかし直後に下半身は溶けるように消え、再び炎上。即座に生え換わり、炎の虎は再び狩猟の構えを取る。
 攻撃に転じたサクを睨みつけていた。

 それで構わない。
 自分が囮にならなければ、この戦争は最悪の形で終結する。

「抵抗。抵抗した。何か思いついたか」
「……当然だ。この旅で、お前程度など幾度も見てきた」

 人の形をしていないものと言葉を交わすのがここまで違和感を生むとは思わなかった。
 僅かな嫌悪感と共に、サクは嘲るように顎を上げた。
 そしてさりげなく空の色を確認する。
 魔物を罠にかけていたときから始まり、随分と長い間戦い続けている。
 あと、しばらくすれば日が昇るだろう。

 この戦争の勝利は敵の首を取ることでは無く、『ターゲット』を守ること。
 朝日を迎えるまで、この“言葉持ち”の注意を引いておけばいい。

 問題は、この“言葉持ち”がどこまで理性的であるかだが―――

「“なら殺してやるよ”」
「!!」

 ラテメアは、分かりやすいほど挑発に乗った。
 毛を逆立てるように勢いを増した虎は、周囲の水分を奪い尽くすように炎上する。
 回避しなければならない間合いを、即座に修正。すれ違いざまの斬激を浴びせることも難しくなる。
 サクは急遽、足場改善の魔術を発動させた。
 まずい。このペースで使用していては、日の出などより遥かに早く、自分の魔力は枯渇する―――

「ああそうだな、ぶっ殺す」

 瞬間。ラテメアが大地を砕いて後方へ離脱し、砕かれた大地がスカイブルーの一閃に切り裂かれる。
 “斬激の延長”。
 剣であるのに遠距離攻撃を可能にした魔術の主が、ラテメアに向かって構えを取る。

「今度は炎かよ。もう何見ても驚かねぇや」
「……グリース=ラングルか」

 現れたグリースに、サクは安堵を漏らした。
 仲間が増えたというのも大きいが、彼が“うかつなこと”を言いそうにないのが大きい。

 グリースは、ラテメアに警戒しつつサクに近付く。

「勝算は?」
「ほぼ無い」

 呟くように言葉を交わしただけで、グリースは察したらしい。
 ミツルギ=サイガによって、事前に教え込まれたこと。
 この戦争は、あくまで『ターゲット』を守護することにあるのだと。

 ゆえに、グリースは察した。
 この炎の化物の意識を、決して『ターゲット』に向けてはならないと。

「さてと化け猫。かかってこいや」
「増援。増援を確認。破壊する」

 グリースが剣に魔力を込めた直後、ラテメアが爆発音と共に大地を蹴った。
 破壊を司る属性の猛チャージの対象は、現れたばかりのグリース=ラングル。いかに相性で勝る水曜属性のグリースでも、直撃すればただでは済まないだろう。
 しかしグリースが回避することは無かった。

「クォリズル!!」

 光線のようにも見えるラテメアの突撃を迎え撃ったのは、スカイブルーの“波”だった。
 斬激を線では無く帯状に延長させ、鞭打つようにラテメアの顔面を狙う。
 バシィッ!! と、唸りを上げたグリースの攻撃は地を打った。
 大地を砕きながらの急停止後、光が鏡に当たって跳ね返るように、ほぼ直角に回避したラテメアは、正しく獣のような機敏さで再び突撃姿勢を取る。
 グリースは眉を潜め、ラテメアの直線ルートから逸れる。その直後、一撃必殺の名に恥じない爆撃が大地を陥没させて揺さぶった。

「……、」

 グリース=ラングルは思考する。
 確かに、この一撃は脅威だ。
 自分が、“自分たち”が撃破した『布』より遥かに破壊力がある。
 破壊力。俊敏性。反応速度。全て、グリースが見てきたどの魔物より上だ。
 『ターゲット』へ向かって一直線に駆けられでもしたら、止める手段など存在しない。
 “だが腑に落ちない”。
 こいつは本当に―――“無機物型か?”

「クォンティ!!」

 今度は横なぎ。
 ラテメアが跳びかかる前にその身を狙う。燃え盛る虎は軌跡を残し、その一閃をかいくぐった。流石に“言葉持ち”といったところか。不意を付けるグリースの魔術をすでに理解しているのか、容易に捉えることはできない。
 “しかしそれこそが妙だ”。

「ふ―――」

 ビュンッ!!
 グリースの思考は、風切り音によって遮られた。
 “ミツルギ=サクラ”。
 その場の誰もが反応できなかった斬激が、ラテメアの身体を輪切りにするように通過した。
 炎上。ラテメアの下半身が生え換わる。しかしラテメアが反応するより前に、彼女はその場から離脱していた。
 大地を滑るように移動するあの速度は常軌を逸しているが、ラテメアにダメージは無い。
 刀では、炎を上回れないということか。

「クォンティ!!」

 ラテメアの注意が逸れた瞬間、サクの攻撃に合わせるように、グリースも魔術を放つ。
 しかし回避。
 速度の大きく劣るグリースの攻撃は届かない。

「……、」

 そう。
 グリース=ラングルは思考する。
 決定的に妙な点。
 “何故自分の攻撃が当たらないのか”。
 不意打ちに近い剣による遠距離攻撃が通用しないのが不可解なのではない。
 相手が如何なる速度を持とうが攻撃を命中させられる自信があるわけではない。

 ただ単に―――“相手に回避する理由が無いからだ”。

 グリースは先ほど、“空気の無機物型”と交戦している。
 戦闘中、決定的に問題だったのが、“己の攻撃が相手に通用しないこと”。
 無機物型である以上、既存のロジックに当てはまらない構造が強みであるはず。
 ならば、グリースの攻撃など、あの『布』のように、我が身に受けることは何ら問題では無いはずなのだ。
 具体的には、グリースが何を放とうがそのまま突撃を続行することが可能なはずだ。

 不可解な相手を、自分のロジックへ落とし込む。
 相手は不死でも全能でも無い。

 ならば。
 あの『布』のように、この炎の虎にも、“致命的な弱点が存在する”。

 それは、何だ―――

「オオオォォォンンンッッッ!!」
「―――!!」

 僅かばかり反応が遅れた。
 サクが回避したラテメアが、そのまま弾かれるようにグリースへ突撃を繰り出す。
 迷わず回避を選んだグリースは、しかし置き土産として腕を突き出した。

「シュロート!!」

 放った魔術は陥没した地面を空しく削った。
 毬のように跳ね上がったラテメアは、今度はサクへ突撃する。
 サクも今度は迎撃を狙ったのか、すれ違いざまにラテメアを切り裂く。
 僅かばかり怯んだのち、ラテメアは油断なくふたりを睨み、突撃の体制を整えていた。
 ダメージは、やはり無い。

 そこで。
 グリースは決定的に妙な点を察した。
 そうだ、そもそも、自分のロジックでは―――炎は。
 無機物では無く、“事象”と言える。
 ならば。

 “何が燃えているのか”。

「っ、」

 グリースは目を凝らしてラテメアを睨んだ。
 目が焼かれるように煌々と燃える虎。
 その、額付近。
 “どす黒い何かが影を落としていた”。

「おいピコピコ頭!! 奴の額に“核”があんぞ!!!」

 察した情報をグリースは叫んだ。
 サクは改めてラテメアを睨むことなく頷き、腰を落とす。
 彼女が気づいていたかは分からないが、どの道、その情報にはあまり価値が無いことは理解しているのだろう。無機物型の“核”の数は、必ずしもひとつで無いことなどミツルギ家には知れ渡っているのだから。
 だが、そうではない。
 グリースが察した、ラテメアの正体。
 それが、奴にとって致命的な弱点を作り出す。

 グリースは、ふっと笑い、ラテメアに言った。

「お前、“魔術攻撃を受けたら死ぬな”?」

 ピリ、と。ラテメアの気配の色が変わる。
 どうやらアタリを引いたらしい。

 炎は事象。ラテメアは、炎に宿った命では無く、“炎を生み出し形作られているに過ぎない”。
 それがロジック。
 ならばその炎は何から生み出されているのか。
 決まっている。“核”だ。

 ラテメアの本体である“核”は、魔術を用い、周囲を炎上させるという事象を引き起こしている。
 そしてその生み出された炎を魔術で操り、虎を形作っているのだろう。
 いや、操るというより、属性柄、“強烈に抑え込んで”、と言った方が的確か。
 制御というのは本来水曜属性の本文ではあるのだが、火曜属性以前に、どの属性でも“燃え盛る炎を取らの形に変化させる”という現象を解釈すれば不可能な話ではないのかもしれない。それでも、相当な魔力のコントロールを要されるであろうが。

 だがここから先、ラテメアという“事象”のもうひとつの構成要素が実現可能な属性は縛られるであろう。
 グリースは、『布』が“核”ごと爆破された光景を見ている。“核”はそこまで万能な強度を誇っていないことを自らのロジックとして保持している。
 ラテメアを創り出すためには、“核”を、“荒ぶる炎から守り切らなければならない”。
 最初に思い起こされる実現可能な属性は―――土曜属性。そして次に、“火曜属性”。
 破壊の力と表裏一体に存在する、“自ら発した衝撃をも抑え込める性質”があれば実現可能なのであろう。
 そこまで推測すると、ラテメアの“核”に層があるような気さえしてきた。
 虎を模した炎の中、核の表面に、炎を創り出す破壊の魔力。
 その内面に、破壊を抑え込む魔力。
 それをようやく乗り越えて、ラテメアの“核”に辿りつける。

「正直よ、脅威っちゃ脅威だ」

 ラテメアの身体は破壊の力一色で染まっている。
 触れただけで身体の一部を持って行かれるほどの破壊力。
 “核”を打つためには、その危険区域に飛び込まなければならない。
 それでいて、火曜属性には抑制する力もある。
 生半可な攻撃では封殺されるし、封殺された直後に待っているのは粉砕。

 火曜属性の無機物型というのは、あるいは最も驚異的な組み合わせなのかもしれない。

 だが。

「それは近距離戦だけだ。お前が魔術攻撃を受け、抑えきれなければ“核”の周囲の魔術が暴走する。お前は常に、相殺失敗のリスクを負ってんだろ」

 “火曜属性の相殺失敗”。
 それがどれだけ悲惨になるかをグリースは見たことが無い
 だが、“知っていた”。とある少女の、授業染みた話の中で、自分のロジックに落とし込んでいる。
 火曜属性の術者は、驚異的な衝撃の前にも“抑え込み”の選択肢が存在する。
 しかしそれを損なえば、抑制分の魔力が存在しないまま、敵と、そして己の魔術の反動をその身に受ける。運よくそれさえ押さえ込めても、使用する対価は“生命”。どの道結果は変わらない。
 ましてやラテメアの“核”はある意味で向き出しだ。
 身体に僅かでも魔術による干渉を受ければ、その不純物に対して破壊か抑制の2択しか持たない身体のバランスが大きく崩れる。
 だから、ラテメアは、魔術攻撃に極端に弱い。
 破壊力の対価として、無機物型の不死性を捨てている。
 サクの攻撃を我が身に受けても、グリースの攻撃だけを神経質に回避するのは、その特性をラテメア自身、理解しているのだろう。

「速度。速度が問題。当たらなければ意味がない」

 ラテメアは、“言葉持ち”らしく、呟いた。
 それはその通りだ。
 現にグリースの攻撃は命中していない。

 この場でラテメアを捉えられるのは、魔術による攻撃ができないミツルギ=サクラだけだ。
 いや、グリースの攻撃にしたって、正確にラテメアの身体を捉えなければ意味がない。
 身体に魔術が届く前に、ラテメアの火曜属性の力で抑え込まれる。
 つまり、ラテメアを下すには、先ほどサクがやったように、ラテメアの意識が向いていない個所への攻撃―――例えば胴切りなどを、“グリースが”行う必要がある。

「だけどよ、条件は同じだな。“当たれば決まる”」

 理想的な攻撃パターン。
 それは、サクがラテメアの動きを止め、グリースが決めることだ。
 グリース単独ではラテメアを捉えきれない。
 それが最善。

 だがグリースは、言っておいて、ラテメアの撃破を執拗に狙うつもりは無かった。
 正直なところ、この戦争に参加している魔物総てを撃破したい気持ちはあるが、『ターゲット』を守り切ることに比べれば些細な感情だ。
 弱点が分かったとはいえ、相手は火曜属性。
 破壊力を司る属性。
 下手に撃破を狙い、グリースかサクのどちらか一方でも撃破されれば勝機は無くなる。
 今まで通り上手く挑発して、時間を潰し切った方が得策だ。

「“そう、速度だ。速度が問題。それさえ解決できれば”」
「―――、」

 炎の虎の言葉で、グリースの背筋が一瞬で冷え切った。
 “何かが、恐い”。
 敵を自らのロジックに落とし込み、弱点さえも見つけ出し、戦争に勝つパターンも想定できた。
 “だが、恐い”。しかし理由は即座に分かった。

 魔物との戦闘。
 未知の無機物型。
 自分は、“無機物型”との戦闘を、自分の世界である、魔物との戦闘に落とし込み、この戦争を戦い続けてきた。
 だが。
 そもそも無機物型とは―――“ラテメアの力の一部でしかない”。

 そうだ。
 目の前にいるのは、炎の無機物型と言うより―――“言葉持ち”。
 魔族に最も近い魔物。

 そんな魔物が本当に―――“こちらの狙いを看破できないのか”。

「っ―――」
「!!」

 目に見えた変化が発生した。
 グリースより僅か離れた場所に立っていたミツルギ=サクラの身体が崩れる。
 立ちくらみを起こしたように座り込む彼女を見て、グリースは総てを察した。

 彼女の魔力は底を尽きかけていた。
 ラテメアにとって、脅威なのは動きを止められること。
 動きを止められさえしなければ、弱点の魔術攻撃が放たれても回避、迎撃が可能。
 動きを止められさえしなければ、ラテメアは『ターゲット』まで駆け抜けられる。

 だから。
 ラテメアは、“彼女の魔力が切れるのを待っていた”。

「さあ、ラテメア―――」

 そこで、不快な、聲が聞こえた。
 まるで土砂災害にでも遭ったような西の崖。その岩の上に、『鋼』の巨体が立っている。
 まさか、あれが―――

「っ、アグリナオルス!!」

 地に伏し、顔が青ざめていたサクが叫んだ。
 この百年戦争の首謀者は、その鉄仮面で世界を見渡し、そしてその鉤爪で―――『ターゲット』へ指を差した。

「―――世界を回して来い」

 燃え盛る虎からおびただしい魔力が放出された。
 炎が燃える、燃え盛る。
 岩すら鉄すら溶かすように煌々と燃えた虎は、飼い主に餌の許可を得たかのように四肢に力を込める。

 グリースは道を塞ぐべく、駆けた。
 が。

 次の瞬間、目の前に赫い閃光が走った。
 届かない。

「オオオォォォオオオォォォオオオンンンッッッ!!!!」

 その雄叫びは、全ての生物に届いた。
 魔物の掃討をある程度終えこちらに増援を企てていたミツルギ=サイガの兵たちも、極少数となっても『ターゲット』を狙い続ける実直な魔物の残党も、全ての視線が燃え盛る虎に突き刺さる。
 駄目だ。
 あのミツルギ=サイガの兵たちではラテメアを止められない。
 水曜属性の魔術師は当然いるであろうが、突如として襲来した燃え盛る炎を相手にまともな反応などできるはずもない。
 正面から挑めば魔術は封殺。回り込もうとしてもその頃にはラテメアは包囲網の遥か彼方だ。
 そしてラテメアの突撃は、あの重厚な『ターゲット』の屋敷を容易に砕く。
 日の出は近い。確かに近い。
 だが、『ターゲット』までの距離は、圧倒的に短かった。

「っ―――」

 ミツルギ=サクラは強引に立ち上がった。
 頭痛は酷く、魔力酷使の影響か、四肢は痺れ始めている。体力も魔力も、すでに残されてはいなかった。
 ギリと強く歯を噛みしめる。
 “自分が最後の砦だったのだ”。それを知っていれば、きっともっと上手く魔力を温存できた。

「―――、」

 ラテメアは、遥か彼方だ。しかし、自分にとっては追いつけない距離では無い。
 サクは魔術を発動する。魔力が残っていなくとも、使える“対価”はきっとある。
 ここで止まっていたら、きっと、大切何かができたとしても、まだ見ぬ力を手に入れられないだろうから―――

「―――づ」

 ガチンッ、と身体に制御がかかる。
 高速で滑り出すはずの地面が動作不良を起こしたように停止する。
 そして、揺らぐ、視界。
 動けないことは明白だった。対価の最後の一線など、容易に超えられるものではないらしい。

 揺らぐ、揺らぐ、世界が、揺れていく。

 その、揺れた視界。
 遠方の『ターゲット』へ向かう赫い線。

 “その先”。

―――そこに、誰かが、立っていた。

「…………これは違うじゃないっすか」

 “ヒダマリ=アキラ”は目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
 ぽつりと呟く言葉は悲哀に満ち、しかし表情は穏やかだった。

 結局無駄となった魔物捜索は、中央のエリアからの爆音にて中断。
 とんぼ返りで中央のエリアに到着。
 とりあえずは魔物が出現したらしい西の崖と『ターゲット』を結ぶ線上に移動した途端、光線のような赫の軌跡が駆け出してきたところだった。

 どうやら光線は、虎を模しているようだ。
 炎の、虎。
 あれが無機物型の魔物とやらなのか、存在自体理解の外だ。

 そして、属性。
 見れば分かる、破壊の属性。
 そんなものが高速で接近していたら、普段のアキラなら迷わず回れ右をするところだが、背後には『ターゲット』。
 回避は論外だ。

「―――、」

 ぼんやりと、アキラは炎の虎を睨む。
 見るだけで、あの炎はアキラの攻撃能力を大幅に上回っていると分かる。
 触れただけで破壊する色。燃えたぎる、赫。

 だが、思う。
 “回避は不要だ”。

「サボった分は、働くさ」

 アキラはするりと剣を抜いた。
 魔力の原石を使用した剣。
 武器を壊すことが日常茶飯事のアキラの雑な魔術を受けても、傷ひとつ入らなかったこの剣。
 正直、魔力の原石とやらがどのような特性を持っているのか理解できなかったし、最初はそれだけで満足していたアキラだったが、使用を繰り返す内に、分かったことがある。

 魔力の原石の特徴。
 魔力を蓄え、魔術を弾く。

 その意味は、

「キャラ・ライトグリーン」

 グンッ、とアキラの身体能力が急速に引き上がる。
 炎の虎は最早目前。
 しかしそれさえ容易に迎え撃てると錯覚するほど、身体中の力が押し上がる。
 それでもまだ、足りない。

 だが。
 魔力の原石の剣には、アキラの身体への魔術干渉を受けつけなかった―――“変換前の魔力が蓄えられている”。

 アキラが理解した魔力の原石の特性。
 難しい理論は未だ分かってはいないが、単純に、自分が使用する魔術の影響さえも受け難いというものだった。

 身体と剣。
 今までその両方に魔力を張り巡らせても、身体の魔力が木曜属性を再現すれば、意識を向けていない剣の魔力も勝手に変換されてしまう。身体と剣が、魔術によってつながってしまう。
 剣への干渉も同様。
 剣の魔術にひっぱられるような形で、身体の魔力も変わってしまう。
 多数の魔術を同時に操ることはできない。
 以前赤毛の少女に聞いたところ、それは当然のことのようだ。例えば水に絵の具を落とせば、全ての水が同じ色に染まってしまう。

 だが、魔力の原石の存在は、水の中に仕切りを作り出す。
 身体への魔術干渉が剣には勝手に伝わらない。
 かと言って、剣の魔力を変換できないわけではない。剣の魔力へ直接干渉しなければ魔術へ変換しないだけだ。
 身体への干渉と、剣への干渉。
 それらを別個に行う必要がある。

 本来なら。
 そんな面倒なことをする必要が無い。できたとしても別の魔術に連続で切り替えた方が効率は良い―――そう、“同じ属性の力しか使えないならば、同時に使う必要性が存在しないのだ”。

 しかし。
 それに意味を見出す―――“不可能を超越した属性が存在する”。

「おおおぉぉぉおおおっっっ!!!!」

 雄叫びを上げ、ダンッ!! とアキラは地を蹴った。
 上げに上げた脅威の身体能力は、前方の虎のように大地を砕き、疾走する。

 赫の閃光と根源の色の線が互いを目指して闇を走る。

 炎の虎には表情があった。
 準備は万端。
 火曜属性の圧倒的な破壊力は、高がひとりの突撃など問題にも成り得ない―――“それがロジック通りならば”。

 正直なところ、アキラは、今から起こる事象の結果がどうなるか分かってはいなかった。
 自分が宿す身体の力は知っている。
 自分が放つ剣の威力は知っている。

 だが今から臨むのは未知の領域。
 自分が成すのに、自分では計れない。

 “論理の崩壊が始まる”。

「―――、」

 瞬間。激突直前の閃光から離れた崖のなれの果ての上―――“アグリナオルス=ノアは感じた”。

 現れたときは注視する必要も無いと“経験上”感じられた存在が、別の何かに変貌する悪寒を。
 今まで幾人も見てきたが、“その誕生の瞬間”に立ち会ったのは久方ぶりだ。
 いっそ笑い、嗤う。
 自らが創り出したラテメアには気の毒だが、その衝突の結末を察し切った。

 ロジックに縛られたこの世界の存在が、その先に踏み出すその光景。
 未知の領域に1歩、足を踏み入れるその瞬間。

 論理崩壊。

 その存在を相手にしては、欠陥を抱える無機物型ではいささか分が悪い。

「キャラ・スカーレット!!!!」

 日輪属性の男が叫ぶ。
 見れば分かる。

 “火曜の破壊が、木曜の威力で発動した”。

 ロジックの枠内に存在してはならぬ威力。
 その一撃は、燃え盛る虎を脳天から斬り裂いた。
 無機物型にとって斬激などは問題ではないが、剣の周囲には炸裂するような破壊の魔術。
 剣から吹き飛ぶように射出された魔術は、ラテメアの身体を粉砕する。
 “核”の確認など不用であろう。
 火曜の力を常に纏ったラテメアの末路は、敵の攻撃を封殺できなかった時点で決定する。

 引きちぎられた炎の身体は四散し、男の背後で爆音を奏でた。

「ここにもいたか―――“線超え”が……!!」

 この瞬間は、何度見ても心躍るものがある。

 ミツルギ=サクラは絶句した。
 あれは、本当にアキラか。あんな山をも砕く化物を真正面から切り捨てたのは、本当にあのヒダマリ=アキラなのだろうか。
 だが、この眼で確かに見た。
 あそこまで非日常的な光景を、アキラはあの剣1本で作り出してみせたのだ。
 魔力の原石。脅威の武具。
 しかしサクは、首を振る。
 違う。自分はずっと見てきた。あの男がどれだけひたむきに己を磨いてきたのかを。
 剣など、きっかけに過ぎない。
 あれは、日々積み重ねたことが、たまたまここで開花した。ただ、それだけ、師にとって誇るべきことであるだけの結果だ。

 グリース=ラングルは驚愕した。
 あの男は、とうとうその領域に足を踏み入れた。
 このタンガタンザで再会したときも、贔屓目に見ても自分の方が勝っていた。
 だが今や、あの姿だ。
 人間とは、ここまで成長できるものなのか。
 少しだけ悔しくもあり、正直、まだまだ足りない部分はあるのかもしれないが―――それでも。
 奴は確かに、『ターゲット』の守護をしてくれた。
 今はただ、それを喜ぶべきなのだろう。

 そして、ヒダマリ=アキラは。
 俺はもしかして、伝説の武具とやらを手に入れてしまったのではないか……、と恐怖していた。
 そして穴が空くほど剣を注視する。
 正直なところ、確かに全力で放ってみたが、予想すらできなかったが、見るも恐ろしい化け物を一撃で屠れるとは思ってはいなかった。未だに信じられない。
 だが、確かに覚えている。
 火曜の力の再現は、今まで敵を滅してはいたものの、自分も弾かれるような衝撃を受けていた。しかしそれは今、木曜の力で抑え込まれた。
 木曜の力の再現は、今まで敵を滅してはいたものの、剣の攻撃というより棒きれで強引に敵を引きちぎっていた。しかしそれは今、火曜の力で剣そのものの破壊力を両立させた。

 未完成な攻撃の、完全なる補完。
 敵を滅する最たる例の2属性の同時再現は、やはり、この剣によるところが大きい。
 そして。暴走するような威力の中でも、振るった剣は狙いを損なわなかった。

 アキラが今まで培ってきたものが、パズルのピースを嵌めるようにひとつの絵を描く。

 これは、自惚れかもしれないが―――“当然の結果だ”。

 日の出まであとほんの僅か。
 背後で争いを続けていた魔物の大群はとうとう全滅したようで、中央のエリアには静けさが戻ってきている。

 これで、最も欲したものは、動かない―――

『残念なことだ』

 そこで。
 不気味な“聲”が聞こえた。

 遠方。
 サクとグリースがいる、さらにその先。崩れ切った山。
 そこに、月灯りを浴びた何かが立っている。

 その場全員の視線がそこに向いた。

 アキラは歩き出す。注視する。
 あれが何なのか分からない。

 1歩ずつ、1歩ずつ、前へ進む。
 そして徐々に見えてきた。

 あれは―――『鋼』だ。

『しかしミツルギ家の兵器と“線超え”が相手では、この損害は妥当なところなのだろう。何せ、2年前の敗北は、“線超え”だけで演出されたようなものなのだから』

 アキラは眉を潜める。
 痛烈な嫌悪感。
 あの存在の空気が、熱気包まれる戦場にあって、不快な寒さを持っている。
 まるで、触れれば切れるような、正しく鋼のように。

「……、」

 悪寒がする。未知なる領域に踏み入れたアキラの感性は、それゆえに、鋭敏に恐怖を拾う。
 アキラはさらに進んだ。
 駄目だ。あの存在を完璧に視認できなければ危険だと、頭の中で何かが叫ぶ。

 あの存在の正体は、考えずとも分かる。
 今自分が撃破した存在とは別格。
 情報通りの姿をしているそれは。

 『世界の回し手』―――アグリナオルス=ノア。

 アグリナオルスは続ける。

『さて、間もなく日の出か。後数分であろう』

 アグリナオルスが立つのは西の崖。
 中央のエリアは膨大だ。その中央に在る『ターゲット』までの距離を考えれば、最早勝利と言ってよい。

 だがアキラは、その時間を短いとは感じられなかった。
 “ジャスト”。
 2年前の戦争で起こった事態。
 その話が記憶に蘇る。

 そう。
 後数分で―――“あの位置から『ターゲット』が破壊される”。

『帳尻を合わせんといかん。戦略的に行きたいところだったのだが、やはり中々に難しい。そもそも根本的に、俺は戦略を取る気質では無いのだろう。属性としても、そういったところがあるしな』

 アキラは身体中に魔力を張り巡らせた。
 危険。
 中央のエリア総てが危険区域。
 そしてこれが―――タンガタンザ物語の最終戦。

 今。
 このタンガタンザを壊滅状態に陥れた存在が。

『“結局俺がやった方が早い”』

 世界を回す。

「ォォォォォォオオオオオオーーーッッッ!!!!」

 『鋼』は身体中から魔力を放出し、地獄の底にも響き渡るような唸りを上げた。
 太陽が訪れる直前の夜空が、別の色に染め上げられる。

 色は―――“翠”。

 鮮やかな色が、『鋼』の身体を覆い尽くす。

「木曜属性!?」

 前方でサクが叫んだ。
 アキラも正しく危険性を理解する。
 人間が宿すだけで自分の何倍もある魔物を容易に叩き伏せられる、身体能力を司る属性。

 それが。
 『鋼』の身体を持ち、人間を遥かに超える力を持つ“魔族”が操れば、どうなるか。

 ゴォオッ!! と、嵐が躍った。

「―――!!」

 アキラが察した瞬間には、アグリナオルスは土煙を上げ、目前まで迫っていた。
 西の崖は、アグリナオルスが駆け出した途端倒壊を始める。
 魔力の切れている様子のサク、速度不足のグリースは容易に追い抜かれ、一直線に『ターゲット』を目指して進んでくる。
 その速度は、先ほどの炎の虎はおろかサクすらも超えていた。
 駆けているのに跳んでいるようで、飛んでいるようなその動き。
 翠の軌跡を残すそれは、美しさすら感じられた。

 技巧を凌駕した純粋な身体能力を有する、規格外の魔族。
 それが。
 直後に勇者と激突する。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 アキラの身体からオレンジの閃光が漏れた。
 歴史が証明している。ミツルギ=サイガの軍には止めようがない。ここが最後の防波堤だ。
 身体中の魔力を暴走させるように発動し、剣には変換前の魔力を宿す。

「うぉぉぉおおおっっっ!!!!」

 前進。
 破壊光線とも形容できる“翠”を、ヒダマリ=アキラは迎撃する。
 鋼の鉄仮面は、進路を逸らせることも無く向かってきた。

「キャッ!! ラッ!!」

 論理崩壊。
 限界の超越。
 ヒダマリ=アキラの総てが、アグリナオルスと激突する。

「スカーレットッッッ!!!!」

 夜空を朝に変貌させる閃光が炸裂した。
 全ての者の視覚を潰すような魔力の暴爆と共に、鋼と鋼の衝突によって響いた甲高い破裂音が聴覚を奪い去る。

「づ―――」

 アキラは、身体をのけ反らせた。
 火曜の再現と木曜の再現。既存のロジックを超越した、圧倒的な破壊への特化。
 その一撃は、確かにアグリナオルスの動きを止めた。

「見事だ。“成長型”の勇者よ」

 が、それだけ。
 閃光が去り、その向こうに不動の魔人が現れる。

 アグリナオルスは動きを僅かに止めただけだった。
 生物では生存できない破壊が確かにそこにあったはずだ。
 姿勢を崩されたアキラの正面、鋼の腕で剣を受け、それでもなお、姿勢を崩さない。
 この魔族も―――“論理を超越している”。

「―――っ、」

 やられる。
 体勢を大きく崩されたアキラが察した悪寒は、しかし最悪の方向に裏切られた。
 翠の線は。
 アキラの真横を通過する。

「ハ―――」
「マジか―――」

 アグリナオルスは、最初から、ヒダマリ=アキラを見てはいなかったのだろう。
 狙いは―――『ターゲット』。
 そして。
 “ヒダマリ=アキラが抜きされられた”という事実が意味するものは―――

「ヒダマリ!!」

 先の衝撃で未だ痺れているような空気の中、優しさすら感じる爆音がアキラの元へ到着した。
 巨大な兵器。“車”。
 その物体を操る男は、慌ただしく叫んだ。

「ツバキ降りろ!! 今は邪魔だ!!」
「はっ、はい!!」
「ヒダマリ乗れ!!」

 何故か乗っていたミツルギ=ツバキとすれ違うように、アキラは言われるがまま車に飛び乗る。
 直後疾走。
 思わず車から跳び落ちそうな衝撃に、アキラはドアを掴んで必死に耐えた。
 隣の運転手、ミツルギ=サイガは叫ぶ。

「今から奴を追い抜く!! お前は奴に食らいつけ!!」
「追いつけんのかよ!?」

 叩きつけられるような暴風の中、『ターゲット』へ疾走する翠の線が見える。
 尋常ならざる速度。すでに西側の崖から半分ほども進んでいる。
 これでは、日の出までの破壊など、ゆうに間に合わせてみせるだろう。

「そのためのに作ってんだよ!! “今から足場を改善する”!!」

 流石に親子か。
 ふたりの乗る巨大な車は更なる速度に到達した。兵器の力は、速度だけならアグリナオルスを凌駕する。
 ミツルギ家の軍が壁となってアグリナオルスを迎え撃っているのが見えた。
 だが駄目だ、大して時間稼ぎにもなっていない。
 それに回り込むように、サイガはペダルを強く踏み込む。

「させるかよ」

 暴風に紛れ、サイガの呟きが聞こえてきた。
 そして睨む先は、大回りして追い越したアグリナオルス。
 今度は直角に曲がるように急転回して『ターゲット』への道を目指す。

「降りろ!!」
「っ、ああ!!」

 ほとんど急停止した車から、アキラは放り投げられた。
 着地は身体能力強化を強引に使用して完了。

 後は再び、アグリナオルスとの激突が勃発する。

「お、お、おぉぉぉおおおーーーっっっ!!!!」

 再び、論理を崩壊させる。
 アグリナオルスの鉄仮面は、ミツルギ=サイガの軍に囲まれながらも、アキラを見て嗤った。

「野郎、上等だ」

 アキラは呟き疾走する。
 勇者と魔族。
 両者の力が激突する。

 そして―――“再び抜き去られた”。

「乗れ!!」

 今度は倒れ込んだアキラに、再びサイガが叫んだ。

 あのアグリナオルスは、アキラを見てもいない。
 倒そうとすら考えていない。
 ただ、自らが思うまま、その道をひた走る。

「あの、野郎、」

 車に飛び乗り、アキラは歯を食いしばった。
 手は痺れ、頭は割れそうに痛む。
 だが、これから何度だって、奴に食らいついてやる。

 その光景は。
 奇しくも2年前のスライク=キース=ガイロードの戦闘と、同様だった。

 どれだけ人が食らいつこうが、それらを振り払い、アグリナオルスは我が道を行く。
 全てを我が身で突き破る。
 それだけで、生き抜いてきた。

 “最強して最古の魔族”。

「ヒダマリ!! てめぇが最期の防波堤だ!!」
「分かってる!!」

 敵残存勢力。

 魔物―――0体。

「ラァァァアアアーーーッッッ!!!!」

 叫び、魔力を暴走させるように射出し、アキラはアグリナオルスに剣を振るう。
 そしてまた、一瞬程度の足止めに終わる。

「――――――――――――ィィィィィィィィィィィィィィィ」

 知恵持ち―――0体。

「―――、」

 ミツルギ家の軍は、前進を命じられたカラクリのように、餌に群がる蟻のように、アグリナオルスに密集する。
 そしてまた、一瞬程度の足止めに終わる。

「ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ」

 言葉持ち―――0体。

「ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ」

 アグリナオルスは変わらない。
 そして笑う。嗤う。鋼が擦り合わされるような聲と共に、歓喜する。
 やはり元来の気質として、己が力を振るうことに愉悦を覚えてしまう。
 今年も随分と楽しませてもらったが―――そろそろ幕が下りる頃合いだ。

 間もなく日の出。
 もう目前に迫っている。

 だが。

 魔族―――アグリナオルス=ノア。

 “その1体が、止まらない”。

「ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィハァアッッッッッッ!!!!!!!!」

 魔族の聲が、その場総てを制圧する。

「っ!!」
「なっ、」

 もう何度乗り降りを繰り返したか。
 アグリナオルスを大回りで追い越して、ほぼ直角に曲がった直後、アキラとサイガの身体は宙に浮いた。
 サイガが操作を誤ったわけではないことは、アキラの目の前に浮いている巨大な車輪が証明している。
 無理な運転による、故障。今までもったのも、あるいは奇跡だったのかもしれない。
 大破した車から跳ね飛ばされ、高速で飛行するアキラは、身近なサイガを強引に掴まえ、魔術で身体を守る。
 グシャッ、と、耳を覆いたくなるような音が響いた。
 ふたりでもつれるように大地を転がり、先に飛んでいた車のパーツにぶつかって停止する。
 身体中に激痛が走った。土が直接肺に入ったようで、痙攣しながらむせ返る。
 どうやらサイガが魔術を発動したようで、ふたりとも無事らしい。
 だがサイガは、倒れ込みながら、アグリナオルスを睨んでいた。
 もう追いつくことはできない、翠の閃光。
 それは、『ターゲット』の屋敷に到達した。

 こうして。
 最期の防波堤は崩壊した。

―――***―――

 『ターゲット』の女の子。
 リンダ=リュースはその光景を、当たり前のように見ていた。

 『ターゲット』の屋敷。鉄の塊。その2階。
 リンダは、グリース=ラングルと共に“知恵持ち”を撃破したのち、身を隠しながらこの屋敷に戻ってきまま、ずっと、戦場を見守っていた。

 西側に備え付けられた小さな窓。間近で石を投げつけても割れない強度を持っているそうだが、鉄の屋敷も含め、今から襲う衝撃には紙切れ同然だろう。
 窓から、翠の閃光が向かってくるのが見える。
 正直なところ、赫の閃光にはそこまで驚異を覚えていなかった。
 赫の魔物は、どうせ失敗する。それは、“分かっていた”。

「はあ……」

 溜め息ひとつ、リンダは吐き出した。
 翠の閃光。何度も何度も、オレンジの閃光が―――あれは、自分の想像通りの人物だろうか―――炸裂しているようだが、まるで勢いが収まらない。

 その結果を、リンダは知らない。
 と言うより、赫の閃光の結末が“降りてきた”のも奇跡に等しいのだろう。
 今の自分は、ノイズだらけの世界から、情報を拾えないのだから。

「はあ……、って溜め息ばっかね」

 何となく、呟く。
 言葉を出さなければ、身体中が押し潰されそうだから、と何となく言い訳を思い浮かべ、リンダは苦笑した。

 拾えた情報は、もうひとつあった。

 2年前。
 どうやら自分と同じ境遇の存在がいたようだ。
 数多の魔物を撃破し、勝利を確信し、しかし、自分自身の結末は哀しいものに終わった人物。

 “彼”は、あの光景を前に、爆発物と共に奈落へ落ちた。
 あの翠の閃光に破壊される前に、届き得ない闇の中へ飛び込んだのだ。
 そうすれば、爆発物が鳴るか否かで彼の生存を証明する。彼が絶命すれば、その衝撃で、“そのタイミングを知らしめる”はずなのだから。
 2年前、日の出が訪れたとき、『ターゲット』の死亡を確認できなかった魔族軍は敗北。
 最後に僅かな時間稼ぎを成功させた『ターゲット』は、しかし、この世を去ったのだろう。

 それが、2年前の勝利。
 だが今年は、どうやらその手は使えないらしい。
 残念なことにここは2階程度の高さだし、リンダは爆発物も持ってはいなかった。
 精々魔法で反撃することはできるかもしれないが、所詮無駄なあがき。
 未完成な自分では、あの翠の閃光に立ち向かうことも逃れることもできはしない。

「はあ……」

 3度目の溜め息。
 哀しいことに、今日は随分と調子が良い。
 巨大物体への“遮断魔法”を1回。未来予知を1回。そして過去参照を1回。
 今まで生きてきた中で、ここまで連続して“魔法”が成功したことは無かった。
 “経験から学ぶことができない自分の属性”を、ここまで意のままに操ったことは無かった。

 間もなく日の出。
 その前に。翠の閃光が到達する。

 これは。
 世界からの、最後の優しさだろうか。

「今さら遅いよ。馬鹿じゃないの」

 リンダは大いに世界を嘆いた。
 そしてやはり苦笑する。

 こんなときくらい、他の人間のことを案じられないものなのか。
 もう自分は駄目だ。分かりやすい破壊が目の前に在る。もうすぐ屋敷ごと“破壊”される。ならば、例えばそこに見える兵士に、例えば自分のために戦ってくれたあの鎧の男に、今すぐ逃げてと、私のことは構わないからと、言えないものなのだろうか。
 でもきっと、そんなことはできない。
 自分はそういう人間だ。

 自分の境遇や、世界を恨んでばかりで、清く正しい心とやらを持つことはできない。
 生まれも生まれなのだから。
 誰かに構ってもらいたいと思うような、ひとりでは何もできない、そんな醜い人物なのだ。

 だから。
 そうだ、最後だって。

 大いに世界を恨んでやろうじゃないか。

 窓が風圧で大きく揺らぐ。震災のような振動が屋敷を傾ける。
 そして―――目の前の壁が吹き飛ぶ。

 2階に乗り込んだ翠の閃光は、リンダ=リュースを確認した。
 その異形の姿に、最早恐怖も無い。
 リンダは棒立ちのまま、呟いた。

「私って、ほんと不幸」

 翠の閃光は、鋼は、アグリナオルスは。
 その鋼の腕をかざし、リンダ=リュースの身体を引き割いた。

「―――、」

 “はず、だった”。

「ぐえっ」

 きっと、醜悪な心であるから不意の衝撃に醜い悲鳴が上がるのだろう。
 ドンッ、と正面から胸を圧迫され、リンダは背中を強く壁に打ち付けた。壁に亀裂が入るほどの衝撃。油断すれば壁を抜けてしまいそうなほどの衝突。だが、そもそもそういう造りなのか、衝撃は僅かばかり和らいでいるようだ。
 それでも、激痛は激痛。身体中が痙攣する。

 だがそれよりも。

 リンダは目の前の人物に、身体中が震え上がった。

「……、何を、した?」

 鋼の魔族もその光景に動きを止めていた。
 “いや、止めざるを得なかった”。

「……最後の最後で、油断したな。確かにお前の想像通り、お前を抑え込めるような奴は全員前線に出てたよ」

 その人物は、衝撃で砕けた剣を放り投げた。
 その転がっていった剣の先。部屋の隅。
 いつの間に現れたのか、いや、そもそも存在を確認できなかっただけなのか。
 白衣を纏う淡い女性が立っていた。

「私が運んだだけだ。ヒダマリ=アキラが君を止めている間に、“ミツルギ=サイガの再現”をして―――“与えられたもうひとつの兵器を使って”」

 アグリナオルスは鉄仮面を歪ませる。それは、2年前の光景を彷彿とさせた。あのときの、淡い印象を抱かせる人間だ。

 空を行く船を量産したミツルギ家。
 あの移動兵器も量産されていても不思議は無い。
 だが、速度は。ミツルギ=サイガの足場改善の魔術があって始めてアグリナオルスの速度を上回れる。
 この女性は、“それすらも”再現可能というのだろうか。

「一応私も、お前に個人的な恨みがある」

 淡い女性は、無表情のまま言い切った。これだけ余力を許さない戦争で、よく今まで存在を秘匿できたものだ。それもある意味才能か。

 そして、ミツルギ=サイガ。
 ヒダマリ=アキラが最後の防波堤と叫んでいたのも――――演技か。
 総てはこの介入を想定してのものだろう。
 最後も、ここまで駆け抜けた勢いそのままに『ターゲット』を襲えば守護者ごと抹殺できたものを。
 膨大な力を持つあまり、アグリナオルスには必ず油断が生まれる。
 それでいて、遥か太古より生き残ってしまうのだから改善のしようが無いし、何より治す気が無い。

 アグリナオルスは、笑い、嗤った。
 “こういうことが起こるから、面白いのだ”。

 正面の『ターゲット』の攻撃を抑え込んだ男が、1歩前へ出た。

 剣を砕かれ、身に纏う鎧すら砕かれ、アグリナオルスの鋼の爪を衝き刺されても、その男は立ち続ける。
 そして、断言する。
 『ターゲット』の屋敷の中で。

 グリース=ラングルは、“差し込めた朝日を浴びつつ断言する”。

「タイムアップだ」

 グリースは、鋼の巨体に向かい合う。
 背後に、『ターゲット』の少女を庇いながら。

 正直なところ、このままアグリナオルスが素直に引き下がるとは思えない。
 相手は“魔族”。条約を反故にしてこのまま襲いかかって来た方が自然だ。

 だが。

 鋼の魔族は、鉄仮面をグリースに向けたまま、ゆったりと、言った。

「見事」

 そして背を向け歩き出した。
 多くの死者を出した今年の戦争。敵軍で唯一生き残った魔族は去っていく。

「来期はこの屋敷に“指を差そうか”。敗北のままで終わるのは面白くない。建て直しておくといい」

 アグリナオルスは、最後にそんなことを呟いた。本当に、もう『ターゲット』を狙う気が無いようだ。
 今なら分かる。
 ミツルギ=サイガの言葉の意味が。

 アグリナオルスは変わっている、と。

「は、はは」

 思わず笑いが込み上げてきた。
 これで。
 今年の戦争は、終結した。

「……グリース。私、壁よりあんたの鎧で押し潰された方がダメージ大きかったんだけど?」

 背後から、憎まれ口が聞こえてきた。
 血が滴る胸を抑えながら、グリースは振り返る。木曜属性の突撃は、流石に常軌を逸していたが、何とか致命傷ではないようだ。

「お前なぁ」
「……はは、駄目だ。私、こういうときにもこんなこと言っちゃう。哀しいわ。性格とか、性格とか、」
「性格とかな」

 頭に手を置いたら、即座に払われた。
 子供扱いするなという抗議の視線が突き刺さる。

「……なあ、リンダよ」

 グリースは。
 眼を瞑って切り出した。
 きっと、こういうときでもなければ、自分は言えない。
 普段では邪魔をするだろう。その、性格とかが。

「お前はさ、本当にわがままだ」
「なによ」
「最後まで聞けよ。自分勝手で、普段の生活態度もろくなもんじゃねぇ。誰かを労うこともしなければ、苦労している奴を指差して笑うような奴だ」
「それ、全部グリースにしかしてないんだけど」
「……はあ、まあともかく。そんでもって、お前は不幸。試験を受ければ続柄だけで落とされるし、手段はどうあれシリスティアを改革しようとすれば妨害されるし、大陸を渡れば戦争のど真ん中に引き込まれる。本当にどうしようもねぇよ。性格も、境遇も、救いようがねぇ」
「……グリースも、巻き込んでるしね」
「ああ、本当にいい迷惑だ。だけどな、」

 グリースの視界が滲み始めた。
 傷の影響だろうか。多分良くない兆候だ。
 でも、言葉は続ける。
 気を抜いたせいで、疲労がまとまって襲ってきただけだと信じたい。

「最後の言葉が不幸っていうのは見過ごせない。俺はお前が自分の性格を嫌っているのも知ってるし、お前に罪が無いところで悲劇が起こっているのも確かだ。本当に、最悪の人生を送っていると思う。自分を認められなくて、しかも不幸は止まらない。それはお前も理解してるし、俺はそれも含めて全部知ってんだ。だけど、最後がその言葉じゃ、俺がいる意味無ぇじゃねぇかよ。俺は、お前にしてやりたいことが、ちゃんとあるんだ」
「……なによ、それ」

 グリースの意識が遠のき始める。
 それでも。

「俺はお前を幸せにしたい。いつか来る最後の言葉を、幸せだったにしてやりたい。それはずっと―――揺るがない」

 自分は多分、他の誰でもなく、この少女を幸せにしたいのだ。

「……なにそれ、プロポーズ?」

 ぷいと顔を背けた少女の身体は、小刻みに震えていた。
 笑われているのだろうか。
 グリースは緊張しながら言葉を待った。

 やがて、リンダは振り返った。

「じゃあ、私を、」
「ふたりとも」

 そこで、抑揚の無い声が届いた。

「グリース=ラングルはかなりの傷を負っている。話は後にして、早急に治療すべきだと思うが」
「なんなの!! なんなの!! なんなの!!」

 最後の最後に活躍したアステラ=ルード=ヴォルスの抑揚の無い声に乗って、ヒステリックなリンダの叫び声が木霊する。
 グリースは、これもまた、不幸気質の影響かと楽観して、ゆっくりと意識を手放した。

 折角の機会ではあったが、アステラの言う通りだ。話は後にしようか。
 どうせ明日も。明後日も。
 彼女と言葉を交わすことができるのだから。

 敵残存勢力。

 魔物―――0体。

 知恵持ち―――0体。

 言葉持ち―――0体。

 魔族―――0体。

―――***―――

「アキラ」
「あ、サクラちゃんじゃん」
「お、い」
「すんませんっしたっ」

 ぼんやりとしながら返答したのがまずかったのか。
 ヒダマリ=アキラは歩み寄ってくるミツルギ=サクラに頭を下げた。

 ここはミツルギ家の集会所兼鍛錬所。
 アキラたちが“飛行機”を最初に見た場所であり、普段訓練を行っていた場所でもある。
 暗い。灯りは付いていなかった。屋根の隙間から刺し込める月の灯りが、広いホールの各所に光を落としている。壁に背を預け、アキラはその光をぼんやりと眺めていた。
 戦争が終わり、アキラたちが再び飛行機でミツルギ家に到着したのは今日の午前。
 そこからどっぷり眠ったせいで、妙な時間に目が覚めてしまった。
 目の前のサクも同じなのか、暇を持て余しているようにも見える。

「こんなところで何をやっているんだ?」
「ん、いや。お前と同じ」
「お前も身体を動かしていたのか。誘えば良かったな」
「あ、ごめん。適当なこと言った」

 駄目だ。自分と彼女では基準が違い過ぎる。
 そして考えてみれば、自分こそ鍛錬に励むべき存在なのではないかと思い当たる。
 戦争は終結。しかし自分は“勇者”である。
 ある意味この世界総てに戦争を仕掛けている“魔王”を撃破すべく、日夜特訓に励まなければならないのではないだろうか。
 などと、アキラが申し訳ないような気持ちになっていると、

「冗談だ。私も今まで眠りこけていたよ」

 ふ、と柔らかく笑い、サクもアキラの真横に背を預けた。

「終わったんだよな」
「ああ。勝ちはした」

 何となく含みのあるサクの言葉は、アキラにも良く分かる。
 “アグリナオルス=ノア”。
 あの存在は、結局生き長らえた。
 今年の平和は獲得できたが、来年も『ターゲット』の選定が行われる。

 勝利は勝利。
 だが、それには不純物が混ざっている。

 その違和感に、もろ手を上げることはできなかった。

「なあアキラ。お前、アグリナオルスを倒そうと思うか?」
「……どうだろうな」

 それは―――分からなかった。
 サクの話だと、アグリナオルスはどうやら魔王直属というわけでもないらしい。
 つまり、完全なアナザーストーリー。
 性質としてはあの“鬼”の事件に近い。
 もっとも、決定的な違いとして、この百年戦争は日輪属性の数奇な運命が引き寄せた事件では無いということだ。

 そして、アグリナオルスのあの力。
 恐らく、あの場にいた総ての人間の中で、アキラが最もアグリナオルスの力を感じられた。
 まともに衝突したあの瞬間。
 論理の先にあるその領域で、奴の鋼の腕と自分の剣は交差した。

 木曜属性であっても、アグリナオルスは、知っているのだろうか。
 あの領域―――“世界のもうひとつ”を。
 サクが帰りの飛行機の中で、言っていたことも気になる。

 だが、今はただ、こうしてぼんやりとしていたい。

「そういやさ、宴会とかすんのかな? 2年ぶりの平和に」
「いや、しばらくは無いだろうな。報せが大陸に広がるのも時間がかかる。それに、しばらくは別れの犠だ」
「別れの儀?」
「お前はこの戦争、何人が死んだと思う?」
「……、そか」

 自分の感覚が麻痺しているのが分かる。
 そうだ。そもそも自分自身、アグリナオルスに蹴散らされたミツルギ=サイガの軍を見ている。叫び声ひとつ上げずに突撃していたが、確かに、見えている範囲だけでも犠牲者は多い。
 自分たちがミツルギ家にこもって戦争の備えをしていたときにも、あんな戦いが繰り広げられていたのだろう。

 そして。共に戦争の備えをしていた男がひとり去ったことも知っていた。

「ツバキの様子は?」
「さあな。戦場で見かけてからは会ってはいない。帰りは別の機体に乗っていたらしいしな」

 アキラは眼を伏せた。
 ツバキがこれを乗り越えられるか分からない。それに、もしかしたら、知る必要の無いことなのかもしれない。
 寂しいことだが、彼女の人生も、自分にとって、アナザーストーリーだ。

「だが、一応ツバキも、この事態を想定はできていたはずだ。ツバキは“従者”だったのだから」
「?」

 その、含みのある言い方にアキラは眉を潜めた。
 “従者”。その言葉は、何か、特別な意味があるのだろうか。
 アキラの表情を見て、サクは力なく微笑んだ。
 どうやらアキラに疑問を持たせることが狙いだったらしい。

「ミツルギ=サイガの評価をさらに下げようか」
「なんだよ」
「そして、ミツルギ=サクラの評価も下げよう」

 サクは差し込める星明かりを眺めながら、ぼんやりとした表情を浮かべた。
 それは彼女らしくない表情なのだろう。

「ミツルギ家は、代々誰かに仕える仕事をしていた」

 これは。
 いつかこの場所で、ミツルギ家の歴史を語ったとき、彼女が言葉を濁した彼女自身の過去の話だろうか。

「命がけで、その人と、その人の世界を守る仕事。ミツルギ家の血族だけでなく、その弟子たちも、数多の豪族を守り続けてきた」

 その話は、以前どこかで聞いたような気がする。
 少々違うかもしれないが、元の世界でいう護衛会社のようなものだろうか。
 俗な言い方にはなるが、相手が豪族ならば、十分な給料が貰えるだろう。それでここまで巨大な屋敷になったのか。あの兵器たちも、そうした蓄えで開発生産されたのだろう。

「だがな。ミツルギ=サイガの代からその意味は変わった」
「?」
「主君と従者の関係が、“戦争に勝つためのものになった”」

 アキラは意味が分からず眉を寄せる。
 サクは、眼を伏せ、強く奥歯を噛んでいた。

「なあアキラ。お前は、大切なもののために人は強くなれると思うか?」
「は?」
「いいから答えてくれ」

 サクの真摯な声色に、アキラも真剣に考える。
 大切なもののために、人は強くなれるか。
 陳腐さすら覚える質問だが、アキラは多分、答えを持っている。
 だが気恥ずかしくて、首を縦に振るだけに留めた。結局自分は、そういうことを口に出せない。
 サクも頷き返し、言葉を続けた。

「私もなれると思う。私自身はまだ分からないが、ミツルギ家の者としては、なれると答えないわけにはいかない」

 サクから聞いた話を思い出す。
 かつて、タンガタンザを救った英雄―――“ミツルギ”。
 自分を救ってくれた豪族の娘と共に、紛争が絶えないタンガタンザを練り歩く、勇気の物語。
 その男の伝説は、大切なものを守るための戦いだった。

「勿論、ミツルギ=サイガもそれを信じている。いや、そんな言い方ではあの男を言い表せないか。そうだな、あの男は、大切なもののために人は強くなれることを―――“理解している”。“それを計算できるほどに”」

 アキラは、空想のような力が、現実にロジックに落とされるのを感じた。
 そして少しだけ寒くなる。
 何となく、話の流れが見えてきた。
 予想通りならば、ひと月ほど前アステラから聞いた、ミツルギ家が行っている戦争の暗黙ルールと関係しているのだろう。
 ミツルギ=サイガは効率的に魔族軍と戦うべく、毎年ゲームの戦争に全力を出すわけではないという話。つまり、『ターゲット』を“捨てる”ことがあると。

「あの男はタンガタンザにとって有益―――つまりは、“アグリナオルスが指を差す可能性のある人間”を主君として、従者を付ける。そして、ふたりに時間を共有させ、絆を作る。そうすることで、主君が『ターゲット』にされた場合、従者が生み出す力を“活用”しようとしているんだ。それが無い他の何かが『ターゲット』にされれば―――“捨てる”。戦争の勝率を管理している」

 アキラは、心の中の何かを鷲掴みされたような嫌悪を覚えた。
 大切なもののために生み出す力。
 あくまで空想で、あまりに陳腐で、そして多分、尊いであろうその力。
 それをあの男は利用しているのだと言う。
 そうなると、クロック=クロウもいずれは『ターゲット』になり得る人物だったということか。
 恐らく今年、ミツルギ=サイガが想定していなかった人物が『ターゲット』にされても捨てなかったのは、あのグリース=ラングルの存在があったからだろう。
 グリースの想いを、利用した。
 絆。その言葉を、ここまで醜く感じたのは初めてだ。

「幻滅したか? あの男に」
「今さら何聞いても、あの人の評価は変わらないよ」

 そう、変わらない。
 あの男が非情で、非道で、遵守すべきものを土足で踏みつけるような奴であることなど、この2ヶ月で理解し切っている。
 そして、結局そのやり方で、今年1年の平穏を獲得したのは事実であることも、知っている。
 アキラは考えることを止めた。
 善か悪であの男を判断できないし、する必要も無いのだろう。

「なら、私の方は幻滅するかもな」

 サクはふと笑って、腰の刀を抜いた。
 そして抱きかかえるようにしゃがみ込む。
 長身の彼女だが、座り込んだ今、途端に小さくなった。
 いや、小さく、見えた。

「母の話だ。自由な母でな。サイガが戦争に没頭している中、近所の子供たちを集めて道場を開いていた。場所は丁度ここだ。私はここで刀の扱いを学んだ」

 隙間から刺す月光が作り出した幻覚か、アキラには、日差しの中並んで刀を振る大勢の子供たちが見えた気がした。
 その中にいる小さなサクも、真剣に、木刀を振っている。無理をして、大人用の長い木刀を振っている。
 必死に。

「変な話になるが、そのときの私はサイガを父として尊敬していた。いつか自分も戦争の舞台に立って、タンガタンザを救おうと、本気で考えていた。そんなとき、父に言われたんだ。さりげなく、でも多分、悪魔的なことを考えながら、……“サイガ”が言った。同じ道場に通っていた、エニシ=マキナという少年と仲良くしろと」
「……エニシ、マキナ」

 顔も分からないが、その人物を、アキラは知っている。
 2年前の奇跡の、そしてバッドエンドの物語。

「刀の腕は、一応先輩だった奴の方が上だった。だけど、あっという間に追い越してやったよ。あいつはいつも、別のことを考えているような奴だったから。妙な雰囲気の男でな。そうだな、お前に似ている」
「それはどういう意味なのか詳しく」
「そういうところだ。変な奴だったよ」
「俺の名誉のために、詳しく」

 サクは笑って、抱え込んだ刀を撫でた。
 アキラの言葉は無視されたようだ。

「言われた通り、私は何も考えずに奴と親しくなった。一緒に道場をサボったり、奴の父の仕事場に紛れ込んだりしたよ。そのあと、私は母に、奴は父に手酷く怒られた。随分沈んだのを覚えている」

 しかしサクは、笑っている。
 だが、目の焦点は合っていなかった。
 遠くを、遠くの日々を、追っている瞳。

「そして、この刀だ。お前も知っているだろう。奴は鍛冶屋の息子だ。当時は一流とは言えなかったが、何度も何度も忍び込み、何度も何度も怒られながら、私のために、私のためだけに、刀を創り出してみせた。そのときのことは今でも覚えている。嬉しかったよ。もっとも、長過ぎると文句を言ったがな」
「……それで、」
「ああ、もう察したか。ある日、母に呼び出された。マキナも一緒だ。私は、エニシ=マキナの従者となる―――はずだった」

 そこから、サクの人生は、転じたのだろう。

「そこで同時に聞かされた。主君の意味。従者の意味。幼かった私だが、その話は理解できたよ。だけど」

 『恐かった』、と。サクは呟いた。
 何事にも真剣で、そのせいで、差が無いミツルギ=サクラは、大切なものを守るために生み出す力を、信じられなかった。
 そう―――小さく、呟いた。

「本来、マキナにとってはありがたいことだったのかもしれない。なにせ、『ターゲット』に指定されたとき、“捨てられる”ことは無い。『ターゲット』に指定される可能性がある以上、ミツルギ家の全力のサポートが受けた方がいいからな」
「エニシ=マキナは、なんて言ってたんだよ」
「一言。奴がたまに見せる、総てを見通すような瞳で、呟いた。『こいつとはもう遊べないのか』と」

 アキラも、そのときのエニシ=マキナの言葉の意味が分かる。
 サクを従者とする以上どうなるか、分かる。

「奴は分かっていたんだろうな、私の性格を。私は馬鹿みたいに堅苦しくてな。道場をサボらされたときも、奴が色々手を回していたくらいだ。そんな奴に主君として見られたら、今までみたいにからかい合ったり、笑い合ったり、遊び回ったりは―――決してできない」

 これまでの関係は崩壊する。
 とても居心地の良かった関係が、消滅してしまう。
 サクはそういう性格だ。そういう―――下手な性格だ。
 きっとギチギチになって、エニシ=マキナを守り切るためだけに生きてしまう。余裕も無く、自分のことを考えられなくなってしまう。
 よく知っている。

「そこからが醜い話だ。私はそれまで言いつけ通りに生きてきて、戦争の舞台に立ちたいと思っていた。だけど、その一言で、身体が止まった。何が何だか分からなくなった。今まで当然のように通っていた道場が、醜く歪んで見えてしまった。そして、」
「旅に出た、か」
「違う。逃げたんだよ。不服があったら家出をする、子供のように」

 子供。サクはそう言った。
 だがその子供は、道に迷って困ることは無かった。お腹が空いて座り込むことも無かった。
 彼女には才能がある。“ひとりで旅を続けられてしまったのだ”。
 だから―――家に戻る“言い訳”ができなかった。

「私は本当に馬鹿だ。旅の途中、ずっと思っていた。どうして誰も探しに来てくれないのか。どうして誰も迎えに来てくれないのか。どうして、どうして、どうして、と」

 その嘆きは恨みに変わった。
 あらゆるものを捨てたくなった。
 だから彼女は、自分の名前すら捨てたのだろう。

「そんなのは当然だった。何せ私が悪いんだ。私が従者になっても当たり前のように今まで通りに笑っていればよかった。私に―――大切なものを守りきる自信があれば、そんなことは簡単だった」

 彼女に、余裕が出来さえすれば。
 共に笑い合うことなど、当然のように、できただろう。

「ツバキを見て気付いたよ。あの娘には余裕があった。従者なのに、主君と共に笑い合っていた。きっと、少しだけ時間があれば、“いつも通り”を取り戻せたんだろう」

 だけど、サクは、速過ぎた。
 戻ろうと思っても、彼女の足は、もう戻れない場所まで駆け抜けてしまっていた。

「そして2年前。案の定だよ。エニシ=マキナは“指”を差された。結果は―――知っているだろう。あいつはもういない。私が現実から目を背けている間に、いなくなったんだ」

 小さな身体は小刻みに揺れていた。

「あいつは、死なない、って言ったんだ。私が家を出る日、見透かしていたように見送りに来て、死んだら何も残らないからって言ったんだ。頭が冷えたら戻って来れるように、私の居場所になると言ってくれたんだ」

 声も、揺れる。揺れる。

「アキラ、1度だけ、言わせてくれ」
「……ああ」
「多分、初恋だった」

 アキラは、自分を全力で殴りたくなった。
 自分は今まで何を見てきたのだろう。
 サクは、あるいはあのアルティア=ウィン=クーデフォン以上に、子供なのだ。
 才能があり、理知的に見えているようで、アキラよりふたつも年下の、小さな女の子なのだ。夢も見るし、恋もするし、傷付きもする―――普通の、女の子。
 強くて、真面目なサク。
 だけどそれは無理をしていて、彼女はその無理を続けられるから、誰もそれに気づかない。
 そんな彼女を、自分は頼って、頼り過ぎていた。メンバー最強だからとふざけたことを考えて、きっと、神格化していた。
 きっと彼女の母親も同じ。彼女の無理を、成長だと思って、思いたくて、真実を口に出した。受け止められるという幻想を抱いていた。
 全員が、彼女を誤解していたのだ。

 本当に、自分は、救いようの無い馬鹿だ。

「なあサク」
「…………」
「お前は、俺がお前にもう背負わせないって言ったら信じるか」

 ぼんやりと、虚空を眺めながら呟いた。
 サクの方に顔も向けない。向けられない。
 自分は今、きっと、らしくないことを言おうとしている。

「無理して朝早く起きなくてもいい。足が痛いなら駆けなくていい。疲れたら倒れ込んでいい。その分俺が無理をする。お前はもっと、休んでいいよ。それだけのことを、お前は今まで築き上げてきたじゃないか」
「……お前にできるのか?」
「は、出来るさ。お前と違って、俺は今までサボりまくりだ。だけどきっとできる。めちゃくちゃ恥ずかしくて、言葉にするのは避けたけど、俺は信じてる。どれだけ濁ろうが、それは確かにあると、俺は信じている」

 アキラは、瞳を開けたまま、言った。

「絆のために、人は、強くなれるんだ」

 ああ、死にたい。
 言い切って、アキラは強烈な自己嫌悪に襲われた。
 きっと今、自分はものすごく、恥ずかしいことを口走った。
 吐き気もしてきたくらいだ。

 それでも。

 アキラは自分が信じるものを口にした。

「……なあ、アキラ」
「…………な、なんだ」
「私と決闘しないか」

 緊張しまくりながら言葉を促したら、お前を殺すと言われた。
 アキラが完全に停止すると、サクは愛刀を壁に立てかけ、部屋の隅から木刀をふたつ持ってくる。
 ひとつを差し出され、それを機械的な動作で受け取ると、サクは満足気に数歩下がった。

「随分と長い間、私たちの決着は保留中だ。そろそろ完結させたくてな」
「そうか、そんなに俺の言葉が腹立たしかったか」
「はあ、やるぞ」

 月下を浴びるサクは、普段通りに構えた。
 木刀を左手で腰につけ、右手を添える。
 腰を落とした彼女の姿は、いつも見てきたものだ。
 知っている。

 アキラは溜め息ひとつ吐き、ゆっくりと、構えた。
 身体の前に木刀を構え、腰を落とす。

「ヒダマリ=アキラだ」
「ミツルギ=サクラだ」

 名を言って、言われて、ふたりは対峙する。
 そして、サクが、消えた。

「…………」
「……一応訊いておこうか。何故止めると分かった」

 ピタリ、と。
 木刀を前に構えていたのに、サクの木刀はそれをすり抜けたように、アキラの首に添えられていた。
 本当に、洒落にならない速度だ。

「……知ってるからさ。何回授業受けてると思ってんだよ。止める気があるのは、分かるんだ」

 そもそも―――決闘なのに、木刀だ。

「ぶっちゃけ、全く反応できないってのもあるけどな。お前はやっぱりすげぇよ。残像が見えた」
「……“残像”、か。そんなもの、本当は見えちゃいけないんだけどな」
「?」
「夢見ているだけだよ。私の理想」

 呟いて、サクはアキラの喉元から木刀を離した。
 そして癖なのか、腰に戻す。
 木刀を手で握っただけの姿でも、やはり映える。

「はぁぁぁあああ~~~、やっぱり駄目だ」

 らしくなく、盛大な溜め息を吐き出したサクは、疲労を感じさせる顔をアキラに向けた。

「私はお前を斬れない」
「だろうな。俺もお前を斬れない」
「……だろうな。困った、これでは決着が付かない」
「ああ、困ったな」
「本当に困った」

 笑って、笑われた。
 とても、穏やかな空気だ。

「だから、仕方ない」
「なんだよ」
「仕方ない」
「なんだよ」
「だから、仕方ないって言っているんだ。私が、その、……折れる」

 サクは、ゆったりと立てかけてある愛刀に近付いていった。

 アキラに向かい合い、そして。

 愛刀を横に倒し、サクは跪きながらアキラに差し出すように両手で前に突き出した。

「“決闘のしきたり”により、私、ミツルギ=サクラは、勇者様に仕えさせていただきたく思います」

 決闘のしきたり。敗者は勝者に絶対服従。
 そんな記憶が確かにあったが、アキラは、ただ黙ってサクに向かい合っていた。
 余計なことは考えない。
 月明かりの中、その姿を、純粋に美しいと思えた。

「いいのかよ」
「いいんだよ。そもそも私が始めてしまったことだ」
「お前はそれを嫌って、家から出たんじゃないのか」
「ああ。だけど、きっとお前となら、正しい絆ができると思う。今度こそ、だ」

 ああ、今度こそ、だ。
 アキラもぽつりと呟いた。

「貴方のあらゆる障害を斬り払おう。貴方の道は、私が作る」

 アキラは、思わず笑いそうになった。
 サクの顔が、暗がりでも分かるほど、赤くなっている。

「よろしくお願いします。アキラ様」

 自分も彼女も、結局同じ。

 無理をして、背伸びをして。
 きっと何かを守っていくのだ。

―――***―――

 数日後。
 ヒダマリ=アキラとミツルギ=サクラはミツルギ家の街外れに来ていた。
 朝日が訪れたばかりの早朝。いち早く戦争停止の報せを受けた町並みは、いずれ訪れる多くの客に備えて働き回っていた。
 随分と逞しい。そんな逞しさこそが、この戦争の大陸を生き抜く秘訣なのかもしれない。

「モルオールへは、単純に北に行けばいいのか?」
「そうですね。ここから交通機関が生きている街を転々とするので……、何度か乗り継ぎ、最後は徒歩ですが……。はい。北に向かいましょう。まもなく馬車が出ます」

 慣れないサクの口調に背筋がかゆくなりながらも、アキラは言われた通りターミナルに向かう。
 魔物対策は休戦中でも一応施すらしく、ミツルギ家の街のバリケードはいまだ健在。
 それが解除される時間を待って、今度は裏口でも、空でもなく、そして、家出でも無く、正規の出口から、ふたりは街の外へ、大陸の外へ出る。
 随分と遅くなったが、逸れたふたりの待つ、モルオールへ。

 結論から言えば、逸れたふたりは無事らしい。
 ひと月ほど前。サクの読み通りに届いた手紙によれば、随分と親切な施設に世話になっているそうだ。場所も分かる。数日前に届いた手紙で、こちらが迎えに行くことに合意が取れた。
 逸れてふた月。そして恐らく、辿り着くまでにひと月はかかるだろう。
 都合、3ヶ月。
 夏が終わり、秋が姿を現す頃に、ようやく再会できる。

 場所の劣悪さは―――行けば、分かることだ。

「さ、行こうぜ」
「はい」

 出発前。サクはミツルギ=サイガの元を訪ねたようだ。
 大して時間もかからなかったところを見ると、一声かけてきただけらしい。
 だがそれで、家出ではなくなった。
 それは彼女の中で、何かの意味を持っているのだろう。
 随分と長い寄り道だったが、それだけで救われる。

 これで彼女にとっては、心置きなく、この地を去れるのだから。

「って待てよ」

 そこで。
 背後から声をかけられた。
 眩しい日差しで目を細めた男は、大股で歩み寄り、日陰に入ってアキラと対面した。

「おい、どういう量見だ。一言ぐらいかけていけよ」

 不服感を隠しもせずに、グリース=ラングルはアキラに冷たい視線を衝き刺してきた。
 アキラは適当に笑って背を向けた。

「ってコラ!!」
「わ、分かってるよ」
「その素で忘れてましたって顔はどうにかなんねぇのか」

 言って、グリースは肩を落とし、言葉を続けた。

「まあ、お前も忘れてたわけじゃねぇんだよな。俺がずっとリンダのとこにいたからか……。今は連れてきてねぇよ」
「そか」

 アキラはほっと息を吐いた。
 自分たちが死力を尽くして救った『ターゲット』―――リンダ=リュース。
 だけど自分は彼女に会えない。会うわけにはいかない。
 彼女が今、どのような立場であろうと―――“あの夜”。
 自分と彼女の道は、確かに別れたのだから。

「リンダもお前と似たようなこと考えてたよ」
「もう回復したのか?」
「まだ寝た切りだ。どっと疲れがきたらしい。ただ、『助かった』とだけ伝えろってさ」

 謝罪でも感謝でもない、ただの事実の受け渡し。
 それが今の自分と彼女の関係だ。
 心残りはあったが、安易に訪ねに行かなくて本当に良かったと思う。

「なあグリース。お前たちはこれからどうすんだ?」
「さあな。リンダが回復するのを待って、どっか別の大陸に行くかもな。問題はあの団子頭とリンダが妙に仲良くなってきたことだが……」

 ミツルギ=ツバキの情報には素直に驚いた。
 屋敷の中で姿が見えないと思っていが、ツバキは、『ターゲット』―――いや、もうそうは呼べないのか―――リンダ=リュースの元を訪ねていたらしい。
 心配していたが、どうやら精神的な回復は順調のようだ。グリースも自覚はしていないが面倒見が良いようだし、とりあえずは安心だ。

「知らせてくれてありがとな」
「はっ。まあ、一応俺はお前たちに感謝してるしな」
「リンダのことか」
「それだけじゃねぇさ」

 グリースは、拳を握り絞めていた。

「ぶっちゃけよ、この3ヶ月余裕が無かった。だけどよ、多分その時間は、俺にとって楽しいもんだったって気付いた。お前は確かに、人の心を開けるよ。属性頼りってのが、なんか洗脳されてるようで気持ち悪ぃけどな」

 最後はおどけて、グリースは、笑って見せた。
 笑って、いた。

「俺はこの先、ずっとリンダを守っていく。だからお前はもう、俺たちのことを気にすんな。お前は心置き無く、魔王をぶっ殺せ」

 グリースは拳を突き出した。

 今度こそ。
 自分にとっても、心置きなく旅立てる。

「頼むぜ勇者」
「任せろ守護者」

 拳を合わせ、アキラとサクは歩き出した。
 振り返ることも無く。

 これで自分は、今度こそ、リンダとも、そしてグリースとも逢うことは無いだろう。
 道は別れた。

 だけど。
 その別れは以前とは違い、少しだけ、きっと良い方向に。

―――***―――

『趣味悪ぃな、覗きかよ』

『なぁに言ってんだいラングル君。折角清々しい別れだ、俺が出ていったら台無しだろう?』

『自覚はあんだな。まあ、髭面当主。俺はお前にも感謝してる。お前はなんだかんだ言って、リンダを救ってくれたからな』

『俺が救ったのはタンガタンザさ。……まあ、それより面白いニュースだ』

『んだこれ?』

『今朝の新聞だよ。世界の事件が分かるんだ。“やっぱり”大分前の話だけど、ようやくタンガタンザにも届いた。興味あるだろ、シリスティアの話だ』

『これ、は?』

『“伝説堕とし”。シリスティアが国を上げて実行した計画と、その結果だよ』

『……ちらっとヒダマリから聞いたが……、何だこりゃ』

『伝説は堕とされた―――“勇者ヒダマリ=アキラによって”。彼の魔力色は目立つからね。きっとその存在は知れ渡ったんだ』

『これ、あいつらに、』

『もう遅いさ、馬車は出たよ。あーあ、ラングル君のせいで伝えそびれちゃった』

『……ちっ、どっち道知るだろ』

『まあそうだね。でも―――』

『?』

『もうこの勢いは止まらない。世界はヒダマリ=アキラが勇者だと認識する。待望した勇者が現れたと歓喜する。彼がモルオールに着く頃には、タンガタンザの百年戦争を止めたという尾ひれまでつくだろう。俺の娘は、大変な奴に仕えたよ』

『戦争の件は間違いなく事実だ。奴はリンダを救ったんだ』

『そうそう、礼を言い忘れたよ。まあ、ヒダマリ君だけじゃないけどね』

『あん?』

『ラングル君。態度からはそうは見えないが、俺は君に感謝している。君と彼女の絆が、タンガタンザを救ったんだ』

『はっ』

『だからきちんと言っておきたい―――我が主君を、タンガタンザを救ってくれて、ありがとう』

―――***―――

「で、だ」

 どうやらタイミングが良く、いや、悪く、ミツルギ家から出発した馬車は閑散としていた。
 早朝という時間と、モルオールへ向かうルートはそもそも客が少ないのか、アキラとサク以外、客はいない。
 そんな中で。

 アキラは正座させられていた。馬車の揺れは酷い。

「私の記憶が確かなら……いつだったか。お前は約束したな。“剣を”、“毎日”、徹夜覚悟で手入れすると」
「はい……。言いました」
「だったらどうして紛失沙汰になるんだ!!」

 ふたりきりになった途端、サクが豹変した。いや、通常通りになったと言った方が良いだろうか。
 がらんとした馬車に怒号が響き、運転手が一瞬だけ振り向いた。

 思い起こすは今日の早朝。まだ日も昇っていなかったと思う。
 戦争が終わり、流石に精神の回復が必要と穏やかな日々を送っていたアキラは、自分がどこに剣を仕舞ったか分からなくなっていた。
 サクに頼んでまで探し続けていたのだが、結局例のアステラ=ルード=ヴォルスが戦争から戻ってきたときから延々とメンテナンスしていただけだった。

 それだけなら良かったものを、アステラは、

『私はヒダマリ=アキラに伝えたはずだ。ヒダマリ=アキラも了承したと思ったが』

 と、サクの目の前で真実を語ってしまった。
 確かに、ミツルギ家に戻った直後、アステラに話しかけられ、生返事をした記憶がある。
 あのときに掠め取られていたとは、流石の手際だ。

「いや、アステラの存在感のせいなんだ、そう、気付かなかっただけなんだよ」
「私が言っているのはその事実が、何故、今朝になって発覚するのかということだ」
「…………でも、見つかったもん」
「口調口調。って、そういう話をしてるんじゃないんだよ。というか何だ、お前、貰ったときは伝説の武器だとかなんとか喜んでいて、それで無くなったことにも気づかなかったのか」
「…………正直言うと、サクが持ってるんだろうなぁって思ってた」
「降りろ。今すぐ馬車から飛び降りろ」
「…………だぁっ、あれじゃん、お前俺の従者じゃん!! 俺最低なこと言ってると思うけど、…………怒らないで欲しい。自分の駄目っぷりに、ちょっと泣きそう……」
「子供か!!」

 サクは、まったく、と呟き。

「いいか、私はお前の剣の師だ。そういうところは、きちんとしていきたい」
「本当に申し訳ありませんでした。サクラちゃん」
「お前今ふざけられる立場にないことを分かっているのか……?」

 変わらない。

「分かった。もう誓う。絶対に武器のこと忘れない。次破ったら死んでもいい」
「……いや、そこまで誓われると、お前が死にそうで恐い」
「誓いを破るってか、嘘だろ!? この俺が!?」
「どの口が言っているんだ」

 変わらない。

「はあ……、改めて思い知らされた。お前は時々やらかすと。お前の従者になって、ある意味良かった。目を離したら、『あっ、剣が無い!!』とか戦場で叫んでそうだ……」
「サクの中で主君と従者の関係って何になったんだよ。世話係? お目付役?」

 変わらない。
 結局、大切なものは変わらない。

 サクは。
 疲労に塗れた溜め息を吐き出し、窓へ顔を背けながら、言った。

「絆だよ。それは変わらない」
「……ああ、そうだな」

 アキラは慎重に立ち上がり、サクの隣に腰を落とした。
 未だに窓を眺めるサクの視線を追って、高速で過ぎ去る世界を眺めた。

 日差しを浴びて、馬車は次の街へ進んでいく。
 随分と長く、熱く、燃えるような日々を過ごしたこの大陸から離れるように。
 少しの変化と、変わらないものを引きつれて、旅は続く。

 だがとりあえず。

 タンガタンザ物語は、完結だ。

------
 後書き
 …………正直、反省しています。更新頻度は元より、今度の長さは異常でした……。
 次で完結とか言った手前、じゃあ盛るか、盛るか、盛るか、となってこの始末。
 多大な疲労感を与えたことを深くお詫びいたします。無駄に長いと、話の中心、ボケちゃうんですよね……。この辺りも力量不足なのでしょう。
 ちなみに、今回の長さは通常の2.5倍でお送りしています。(完成後、これでも結構削ったのですが、酷いことに。中編の裏技を使うべきだった……。)
 さてさて、それはともかく。

 お読みになっていただきまことにありがとうございました。
 ようやく完結したこの大陸の物語。いかがだったでしょうか。
 ご指摘にもあった通り、私自身、鬱陶しい部分が強かったと思います。
 元々タンガタンザではこの戦争の話のみを書くつもりだったので、3件ほど物語があったシリスティアとのバランスを考えた結果の濃度になってしまいました。
 タンガタンザ物語全編を通してのテーマは、“伏線発生”。はっきりしない感もこの辺りから来たのでしょう。
 丁度中間地点くらいの時期に物語の根幹にかかわる部分を描こうという計画は当初からあったので、その結果、いろいろなものと混在しました。(ここで中間とか失笑ものですよね……。)
 次回はもっとスマートに作成したいと思います。

 また、ご指摘ご感想お待ちしております。
 では…



[16905] 第三十八話『氷が解けるその前に』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2017/10/08 03:08
―――***―――

「セリレ・アトルス」

 カイラ=キッド=ウルグスという少女がいる。

 ウェーブのかかった黒髪に、気苦労が見え隠れする顔立ちをしている修道院の人間だ。
 出身はモルオールの最西部にあるレスハート山脈に建てられたマグネシアス修道院。雪山をくり抜いたようなほら穴にあるその修道院で彼女は生まれ、神に身を捧げた者として道を歩んでいる。常に修道服を身に纏い、彼女の年齢である18年間、就寝時時と防寒具を除き、別の服を着たことが無い。
 身長こそ女性にしてはやや高めであるが、小柄で、どこにでも潜り込めそうな身体つきをしている。反面筋力に乏しく、修道院での力仕事は修道院の別の人間に任せきりになってしまってはいるが、修道院の中ですら異質なほど神と真剣に向き合う彼女を責める者は決していない。

 そんな彼女は今、マグネシアス修道院最奥の、院長室を訪れていた。

「この言葉を、貴女は知っていますね?」

 この空間が特別な場所であると認識させるために敢えてそうしているのか、マジックアイテムではなく数十本を超える蝋燭が薄ぼんやりと光源を担い、浮き上がるような錯覚を覚える小部屋の中で、再び老婆のしがれた声が響く。

 カイラは背筋を伸ばしたまま慎重に答えた。

「はい、知っています。わたくしの記憶違いでなければ、このレスハート山脈の伝承であったと。『沈まない太陽』でしたか」

 我ながら模範的な解答であったと思うが、最奥の部屋面積の半分は占める巨大な机の先の老婆の表情は窺えなかった。
 ミルシア=マグネシアス。齢百を超えるとさえ噂されるこの老婆は、マグネシアス修道院長を務めている。

 常に修道院服をすっぽりと纏い、常にこの部屋の最奥に座っているこの女性を、18年もこの修道院にいるカイラすら詳しくは知らなかった。
 集会や夕食時にも姿を現さないばかりか、この部屋の外で彼女を見たことは1度も無い。
 たまに出される指示もほとんどは人伝で、ここに呼び出されたことのない者たちには、空想上の生き物と無礼な噂まで立てられていた。
 実際、カイラ自身、彼女と対面した総ての時間を足し合わせても、1日にも満たないような気さえする。

 だが、例え僅かな時間であっても、この声色は、この雰囲気は、身体の中から微塵にも抜けていかない。
 総勢数十名を誇るマグネシアス修道院の主である、ミルシア=マグネシアス。

 はっきり言って、カイラはこの女性が、苦手だ。

「熱心なことです」
「それで、セリレ・アトルスが何か?」

 そんな老婆に、途端呼び出されたカイラとしてはたまったものではない。
 呼び出しを受けたとき、一瞬、3ヶ月ほど前からこの修道院で保護している“大変愉快な子供”のことで大目玉でも受けるかと身をすくませたが、どうやら違うらしい。
 それはそれとしても、どの道長居したいと思える相手ではなかった。

「2日ほど前、客人が訪れたのを知っていますね?」

 質問を質問で返された。
 カイラは僅かばかり口元を抑えると、慎重に頷く。

「ええ。わたくしが救助した男性です。本来男子禁制ですので、あまり出歩かないように伝えておりますが」

 カイラは、このレスハート山脈でビバークを試みていた男を思い起こした。
 凍傷を危惧し、止むを得ず修道院で治癒することになったが、問題なさそうで、あと数日もすれば麓へ送り返すことになりそうだ。

「その方が、大変興味深いことを仰っていました」

 ただでさえ会うのが難しいミルシア=マグネシアスと会話したというのか。
 そうなると、あの男は修道院内をうろついていたことになる。
 カイラは絶叫しそうになるも寸でのところで堪え、ミルシアの言葉を待った。

「何でも、闇に浮かぶ日輪を見た、と」
「……! それは、」
「セリレ・アトルスの可能性があります」
「…………しかし、わたくしはここ数ヶ月、そんなものを見た覚えは無いのですが」
「正確な時刻までは聞き出せませんでした。それに、カイラ=キッド=ウルグス。貴女は就寝時間を過ぎてまで夜空を見上げていたことがありまして?」

 カイラは押し黙らざるを得なかった。
 実のところはあのガ……、いや、天真爛漫なお子様の教育方針について悩み、ここひと月はまともな睡眠をとっていない。
 だが、品行方正で通っているカイラにとって、そんなことはおくびにも出せない。
 だからカイラは、至極一般的な疑問でお茶を濁した。

「見間違いでは?」
「些細な常識に縛られて流れた血が、この世に如何ほどあったでしょう」
「…………」
「セリレ・アトルス。災厄の証。夜空に登る日輪などあってはならぬことなのです。分かりますね」

 院長にこう言われて、首を横に触れる人間をカイラは知らない。
 静かに、そして消えゆくように、カイラは、はいと答えた。

「そこでカイラ=キッド=ウルグス。貴女にお願いがあります」
「わたくしに、ですか」
「ええ、貴女だからこそです」

 表情はフードに隠れて見えないが、何となく、この修道院長様は、悪魔のような笑みをにっこりと浮かべたような気がした。

「伝承とは本来尊いものですが、災厄をもたらすとなると話は別です。少なくとも、客人が見た日輪の正体は暴かなければなりません」
「わたくしが、ですか」
「ええ。“ワイズ”を有する貴女なら、少なくとも他の者たちよりも容易かと」

 ぐ、とカイラは思わず唸ってしまった。
 このミルシアという老婆は、ろくに会ったことも無いのに、修道院のメンバー全員の情報を持っているようだ。
 本当に見間違いかもしれないものに神への想いに費やすべき尊い時間を費やすなど、カイラにとっては冗談ではない。
 カイラは何とか逃げ道を探そうと口を開いたが、次のミルシアの言葉で思考が停止した。

「まずは客人の話を聞くのが良いでしょう。早急にお願いいたします」
「っ、」

 ありえない。
 本当に、この老婆は、修道院のメンバー全員の情報を持っているのか。
 だとしたらこれはありえない。
 例え“ワイズ”を有していても、カイラにとって、この依頼は完全にミスマッチだ。

 ありえない。

 ありえない。

 ありえない。

 このカイラ=キッド=ウルグスに、異性と会話しろというのか。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「ぎゃーぁっ!!」

 今日の朝、自分は、絶対に。こんなに醜い悲鳴を上げる日になるとは思わなかった。

 背中に纏めた赤毛が特徴の女の子、エリーことエリサス=アーティは思わず座り込んだ。
 何が起こった。
 僅かばかりに残った理性でエリーは状況を整理した。
 自分は、3ヶ月ほど前から滞在しているマグネシアス修道院の奥、多くの古書が誇りを被っている書庫を朝から漁り、昼食を済ませてまた漁り、ようやく目当てのものを探り当て、それはもう気分上々に廊下に躍り出ただけだ。
 そして、部屋に戻ったらどれから読むべきかとプランを張り巡らせながら、それこそ鼻歌でも奏でかけるほど上機嫌に、かつ、数冊の分厚い本を身体で抱えながら歩き始めたところで。

 あ、雪だ、と思った瞬間顔面に雪玉が炸裂した。

 原因なんぞ、考えるまでも無い。

「あ、あああああ、ゆきりん様がぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」

 この、ガキだ。
 涙目で絶叫している目の前の子供に、エリーは吹雪など生ぬるい絶対零度の視線を放った。
 青みがかった短髪に、つい先ほどまで外にいたと思われる防寒具を纏った子供、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは足元の水溜りを見て大いに嘆いている。
 が、本来加護欲をそそるであろう情景を前に、エリーは拳を叩き込みたくなっていた。

「…………この犯行の動機は?」

 プルプルと声を震わせながら、エリーは立ち上がり、ティアの首を掴み上げた。

「あっ、エリにゃんっ、って、大丈夫ですか!? ごめんなさいっ。その、一刻も早く見せようと持ってきたら、ゆきりん様が段々解け始めて……。でもあれです。あっしの最高傑作だったんですよ。いやあれですよ、本当にまん丸の雪玉が大小ふたつ。これはもう作るしかないと思った次第で、」
「もうやだなんでそれであたしが攻撃されたのゆきりん様とやらは凶器だったの?」
「たはは……、その、溶けた雪で滑って転んじゃいました」
「室内に雪を持ち込まない!! 廊下は走らない!! 基本でしょう!?」
「ごめんなさい……」
「あーあ、本濡れてないかな」

 顔面に撃ち込まれたのが雪だと分かると、途端身体が寒くなってきた。
 エリーは本の無事を確認すると、顔の雪をハンカチで拭い取る。
 目の前の子供は、自身がずぶ濡れになりながらも、水溜りを名残惜しそうに眺めていた。

 エリーは真剣に悩み始めた。
 最近でもないが、ティアが、それはもうブレない。恐ろしささえ感じる。
 エリー自身マグネシアス修道院を訪れた当初は、アイルークではあまり見る機会の無かった雪に心躍るものがあったのだが、最近では生活の一部として程度の認識しかない。
 しかしティアはこの3ヶ月近く、全力で雪と戯れ続けている。それはもう、昼夜を問わず。
 その様子も脅威なのだが最も深刻なのは、何人かの若いシスターと共に外にいることをしばしば見かけることだ。
 あのときの彼女たちは、雪は見飽きているであろうに、まるで初めて雪を見たような表情を浮かべて遊んでいた。
 そして日に日に、人が増えていく、ような気がする。

 今、マグネシアス修道院という尊いであろう空間は、アルティア=ウィン=クーデフォンという存在の脅威にさらされていた。

 エリーは思わず外の空気を求めた。
 しかし洞穴の中に建てられたマグネシアス修道院の奥に位置するこの廊下には窓が無く、目の前にはアルティア=ウィン=クーデフォン。

「あれ? エリにゃん、何で下がるんですか?」
「ううん。気にしないで……ください」
「?? よそよそしくないですか?」
「いやまさかそんな。あり得ませんよ」
「あ、それよりゆきりん様の片付けしないとですね」
「って、そうよ。早く拭かないと」
「ふふふ、任せて下さい。こんなこともあろうかと、あっし、雑巾持ってます」
「どうしてそこには気がつくのよ」

 もっこもこの外服から雑巾を取り出し、鼻歌交じりで掃除を始めるティアを見るに、どうやらゆきりん様とやらへの未練は立ち切ったようだ。

「ああ、でもエリにゃんにも見てもらいたかったです……」

 訂正。最早雑巾と一体化したそれをティアは名残惜しそうに眺めていた。
 エリーは脱力し、バケツを探しに歩き出す。

 そして、目を細めた。
 不安だ。
 自分たちは魔王を討伐する旅をしている。
 今は止むを得ず旅を中断しているが、怠けていて良いというわけではない。
 それなのにこの3ヶ月、自分はまるで前へ進めていないような気がする。
 勿論身体を動かしてはいるが、外が雪で埋もれていては、普段ほどの鍛錬を行えないのは事実だ。
 上達したことと言えば、モルオール流の料理や裁縫、あとは衣類のシミ抜き位か。
 そんな家事スキルを磨いているのは女の子としては上等かもしれないが、魔術師としては何の役にも立たない。
 一方逸れた仲間のふたりは、“あの”タンガタンザを乗り越えて、もうすぐここへやってくるらしい。
 “あいつ”は、今、どれほど成長しているのだろうか。

 もしそうならば。
 自分は―――“やるしかなくなってしまうのだろうか”。

「エリにゃーん!! かんっぺきに掃除が終わりました!! ぶぼうっ!?」

 その完璧に掃除した廊下とやらで、ティアが水に滑って転んでいた。
 水跡を残して自分の元へ滑ってくる雑巾を、エリーは行儀悪く足で止め、怒鳴りつけようとしたところで。

 ギィ、と。書庫よりさらに奥。堅牢な扉が開いた。
 書庫にたびたび足を運ぶエリーには見知った扉だが、開いたところは1度も見たことが無い。
 そしてそこから、顔面蒼白にした女性が心中でも図ろうとしているかのような足取りで、のっそりと現れた。

 カイラ=キッド=ウルグス。自分たちを保護してくれた修道院の女性だ。
 カイラはふらふらとした足取りのまま進むと、ようやく存在に気づいたかのように、乾き切った唇を開いた。

「エ、エリサスさん、たい、大変、です」
「それよりティアが大変な馬鹿」
「た、い、へ、ん、な、バ、カッ!?」

 叫ぶティアを無視し、エリーはカイラと向き合った。

「お願い、お願いが、あり、ます」
「へ?」

 この様子も、頼み事というのも、カイラにとっては珍しい。少々妙なところはあるものの、少なくとも落ち着きは持ち合せている女性のはずだった。
 エリーはようやく事の重大さを認識し、慎重に言葉を待つ。

 するとカイラは身体を振るわせたまま、ゆっくりと、泣きそうな表情で、言葉を紡いだ。

「わたくしに、その、い、異性との会話を教えて下さい」
「おおっ、カーリャンそれならわたくしにお任せ下さいっ!! あっという間に過ぎ去る時間を提供することに定評のある不詳ティアにゃんことあっしが、微力ながらお力添えを、」
「お願い黙っててっ!!」

―――***―――

「ふぅん。いつもの強気なカイラはどこいっちゃったの?」

 カイラが完全に失敗したと思ったのは、旅人であるエリサス=アーティに自室へ向かう道すがらに事情を説明してしまったことだ。

 まさしく必要最小限と表現できるカイラ=キッド=ウルグスの部屋は、ベッドの乱れや衣類の無精などは微塵も存在せず、埃ひとつ落ちていない。
 このまま客室として提供できるほど整頓されているその部屋に通されたのは、カイラが不覚にも思わず泣きついてしまった相手のエリサス=アーティと、何故建物の中でそうなれるのか甚だ疑問であったが全身水浸しになっていたアルティア=ウィン=クーデフォン。流石にその姿のまま他人の部屋に入らないほどには良識があったらしいティアは、一旦自室に戻り、風邪を警戒してか室内でも首元に羽毛の生えた防寒具を纏ってここを訪れた。

 まあここまでは、いい。
 カイラにとっては慣れ親しんだ吹雪よりも脅威なティアの強襲により、丁寧に仕舞い込んだ私物を炸裂させられるのではと懸念したが、今は大人しく座っている。その程度の良識も、どうやら持ち合せていたらしい。

 だから最大の問題は、廊下での会話を盗み聞いていたらしく、いつの間にやらカイラの部屋で招くように待機していたもうひとりだ。
 “彼女”は、エリーは勿論あのティアですら(!)大人しく座っている用意した円卓に着かず、カイラが丁寧に整えたベッドの上で快適そうに腰を揺らしている。
 同僚とはいえ他人の部屋にたびたび転がり込んでくるその女性に、最早カイラもかける言葉が見つからず、無視を決め込むことしかできなかった。

「でもさ、カイラにとっては凄い1日だね。院長に会うだけでもレアなのに、その上そんな厄介事押し付けられるなんてさ」

 しかし構わず彼女は話しかけてくる。
 アリハ=ルビス=ヒードスト。
 このマグネシアス修道院において、カイラの姉的存在と言える先輩だ。
 背中まですらりと伸びた茶が入った髪はカイラとは違いくせが無く、色白ではあるが健康的なラインを割ってはいない。少々目が垂れていること以外は特筆することも無い顔のパーツは、しかし整っていて、身体つきも申し分なく、黙っていれば美人で通る部類だろう。
 だがそれでも、彼女の最も特徴的なのはその全身からの気配だ。
 ゆるい。本人はそういうつもりではないらしいが、身体全体から気だるいというかだらしない雰囲気を醸し出している。
 それはアリハの性格というか性分から滲みでているものだろうとカイラは思う。
 何せ彼女の生活態度はおよそ修道院に務めるものとしては相応しくなく、集会の遅刻や寝坊は当たり前、果ては全員に支給されているフードすら紛失する始末だ。
 今もベッドの性能を試すかのように身体を揺すり、さらりと流れる髪を振っている。くせ毛のカイラのやっかみも入るのだが、その髪は本来、フードに覆われていなければならない。

「でもさ、大丈夫。みんなで一緒に考えよう、何とかしないとね。エリーちゃんもティアちゃんも頑張ろう」

 そしてその規律に関して疎いアリハは、面倒なことに、他人の厄介事に首を突っ込みたがる節がある。近年少々大人しくなってきたようだが、実のところカイラは、アリハが自分ひとりに的を絞っているのではと勘繰っていた。
 そして、自分にも他人にも厳しいカイラにとっては正反対に位置するようなアリハなのだが、誰も、あの院長すらもアリハの態度に特に何も言ってこないのがカイラにとっては業腹だ。
 はっきり言って、アリハ=ルビス=ヒードストはカイラにとって修道院内で2番目に苦手な人物に当たる。

 だが今の問題は、カイラ=キッド=ウルグスにとって、世界で最も苦手な部類の存在への対策だ。

「カイラさん、その、男の人が苦手なんですか?」

 水を割ったのは正面に座るエリーだった。
 急遽取り繕っただけだが、円卓に腰をかけているのが影響してか、わざわざ小さく挙手をして発言している。隣のティアに至っては、アリハの動きに影響されているのかせわしなく椅子をカタカタ鳴らしている。
 やはり良識ある人と話すのは気分が良い。
 アリハは似合わないことに書庫に籠ることがあるのでエリーとの面識があるだろうし、波長が合うのかティアと行動を共にしているのだろう。ティアは問題外として、エリーがアリハに影響されなかったのはカイラの唯一の救いだった。
 エリーは迷える子羊と化したカイラをじっと見つめ、深刻な面持ちをしていた。頼りになりそうだ。
 カイラがその他のふたりを視界に入れないようにして口を開いたとき、横やりを入れたのはアリハだった。

「カイラはあれだよね、生まれたときからここにいるもんね」

 それは貴女も同じでしょう、と言いそうになり、カイラは口を噤む。アリハは時折、修道院の遣いとして外の世界へ行くことがあるのだ。
 カイラは、憤りを抑え込み、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「その、ですね。わたくし、異性とはあまり話した経験が無いんです。何と言うか、その、苦手意識を持ってしまっている、と言うべきでしょうか」
「自覚しているのなら後1歩だよカイラ。さあ、頑張って踏み出そう」
「確かに……、生まれてからずっとここだと、女性にしか囲まれてないですもんね」
「そうですね、カーリャン、笑顔が大切です。いつでもにっこり笑っていると、苦手なことなんて無くなりますよ、あっしがそうでした。嫌いな食べ物が半分くらいになったのが実績です」
「そうなんです。嫌い、というわけではないはずなんですが、気後れしてしまうというか……、異性の近くにいる自分をイメージできないというか」
「好きの反対は無関心と言うけど、嫌いの反対は多分好きだよ、カイラ。上手い感じに反転すれば、何とかなるって思うんだけど」
「あれ? 遭難者の方とかよく運んでますよね? この間も、男性を運んでいたと思うんですが」
「でも、中々それだけでは解決しませんよ。最近気づいたことです。自分が笑うと相手も笑ってはくれますが、その中に冷笑と分類されるものがあることにあっしは気づいたんです。何故でしょう……」
「それは当然のことです。迷える者に差はありません。人命のためならば、わたくしの心情など些細なことですので」
「うん、素晴らしい心がけだよカイラ。だけど自分を殺すのは良くないよ。変わっていこうカイラ。カイラには見える? 目の前にある扉が。その扉を開ければ、きっと世界が変わるんだよ……。カイラ?」
「うーん、そうですね……。じゃあ、そう、職務。職務としてなら、大丈夫なんじゃないですか? その旅の方から話を聞き出すのは、もしかしたら誰かの命を救うことになるのかもしれないですし」
「……あれ。あれ? 何かが決定的におかしいです。何故か、壁に向かって独り言を呟いているような錯覚を起こしているんですが……」
「あ、ティアちゃんも……?」

 ざっくりと雑音を無視し、カイラは考えた。
 確かにエリーの言う通りだ。
 これは職務。
 このマグネシアス修道院で、最も熱心であると自負できる自分は、院長からの直々の命により、その職務を全うする。
 流石に旅の魔術師、頭の中でカチリと何かが嵌る音がする。
 恥を曝してまで相談して良かった。……のだが。やはり少し及び腰になってしまう。

 エリーもカイラの表情が優れないのを悟ったのか、再び深く考え始めた。どうやら彼女も彼女で思いついたこと言っただけのようだ。

 そこで、ボーンと。
 古時計の音が響いた。聖堂に設置してある巨大な時計は、修道院中に定刻を知らせる。
 定時の仕事が始まる時間だが交代制だ。本日カイラには特務以外の仕事は無く、生活の一部として聞き流したが、最も反応したのはティアだった。

「は!!」
「用事ですか、アルティア。それでは気を付けて」
「早いっ、早いですよカーリャンッ!! もっと上手い感じに厄介払いをして下さいよっ!!」
「自分で言いますか。あと、アリハ。貴女も仕事があるのならそちらを優先して下さって結構ですよ」
「大丈夫だよカイラ。私は今日、風邪で休んでいるから」

 厄介払いはひとりまでか、と、この女に天罰を下すためにはどれほど神に祈ればいいのか、を同時に考えられた自分の脳をカイラは絶賛した。
 ともあれ、どうやらティアの用事は本当らしく、『お力になれずすみませんが』とその通りの言葉を吐き出し立ち上がった。そして口元まで防寒具を閉じ、首元の羽毛に口をつけ『……もこもこもこ』と怪しげな呟きと共に部屋を去った。
 勿論ティアには最初から期待していない。カイラがティアに苦手意識―――僅か3ヶ月で、ティアはカイラの苦手な人物第3位まで駆け上がってみせた―――を持っているというもあるにはあるが、そもそも異性との会話の助力に子供は不適切だろう。
 エリーも別段何も言わずティアを見送っていたが、僅かばかり眉を潜めていた。もしかしたら、彼女もティアの用事が何か見当をつけられないのかもしれない。

 ともあれ、だ。
 カイラは少々音源が落ちた部屋で、再度対策会議を始めた。少々表現が大げさではあるが、自分にとって、それほどの意気込みが必要な課題だ。

「エリサスさん。職務というのはわたくし自身、納得できます。ですが話を訊く、ともなれば、少しは会話の種が必要なのでは、と思ったりして……」

 呟いたカイラに返ってきたのは、少しだけ遠いエリーの瞳だった。
 この色は知っている。修道院の前で雪と全力で戯れるティアを見るときの色だ。
 一瞬でカイラは青ざめた。もしかして、自分は、随分と的外れなことを言っているのかもしれない。もしくは、厄介なことを言い出したと思われているのかもしれない。
 カイラは言葉を止め、今さら恥も外聞も無いが居住まいを正し、表現を変えた。

「ええと、ですね。エリサスさんにお訊ねしたいのは、旅の中で、異性とどのような会話をしているのか、とか」
「ああ、そうだね。私も聞きたいな、旅の話」

 アリハも少しは興味を持ったのか、エリーの言葉を大人しく待つようだ。
 するとエリーは、僅かばかり視線を宙に泳がせ、眉を潜めると、しかし首を振り、最後は困ったような微笑を浮かべた。

「その、あの、いろいろ、です。そう、色々」

 今度はカイラが遠い目をする羽目になった。
 もしかしたら彼女も彼女で自分と同じ境遇なのではないだろうか。と、カイラが危ぶむと、表情を読み取ったのかエリーは言葉を続けてきた。

「その人の生まれた場所の話、とか? そういうの、します。結構、話してるはず……よね……、は、話してますよ?」
「カイラ、期待し過ぎは可哀そうだよ。エリーちゃんにも難しいこと分からないみたい。カイラと違って、恐怖症ってわけじゃないみたいだけど」
「アリハ、わたくしは苦手なだけで、恐怖症というわけではありません。ええと、も、……申し訳ないです、エリサスさん。わたくし、旅の方と言えば、経験が豊富なものとばかり」
「い、いやいや、全然話さないわけじゃないですよ? でもこれだ、というものが無いくらいで、普通に会話とかはしてます、そう、しますよ、挨拶、とか? 調子、とか?」
「でも、生まれた場所の話というのは悪くないかもね、カイラ。相手が旅人なら、そういう話題は喜ばれるかも」

 信じられないことに、エリーよりもアリハの方が優秀に見えてきた。今もエリーは何とか挽回しようと支離滅裂に言葉を発している。
 だが、旅人がどこから来たのか、というのはいい。女性の旅人には自然と良く訊いている話題だ。どうやら自分が深く考え過ぎていたようで、相手が異性でも万人共通の話題というものはあるようだった。
 あとは、やはり苦手意識。異性との距離感というものさえ掴めれば万事解決だ。それももしかしたら、万人共通の距離感というものがあるのかもしれない。
 カイラはこれ以上建設的な意見が出ないであろうと判断し、早急に依頼を達成しようとしたところで。

「……で、でも、あたし、こ、婚約者はいるし」

 苦し紛れなのかエリーが顔を伏せながら発した言葉には驚愕した。
 そして、対策会議だけで夜の帳が訪れたことには愕然とした。

―――***―――

 マグネシアス修道院がある地、レスハート山脈。
 タンガタンザとモルオールの両大陸の境を埋め尽くしているだけはあって、その規模は広大だ。大陸の境は橋をかけているように狭まっており、レスハート山脈はその橋からモルオールの西部を埋め尽くすように展開している。
 その巨大な山脈には、雪に埋もれた廃村が点在していた。
 それはなにも、彼らがレスハート山脈の劣悪な気候に抗えず、村を去って廃れたというわけではない。
 単純に、真っ向から、力をもって、魔物に滅ぼされたのだ。

 モルオールの魔術師隊には、毎年戦争を強要されている“非情”なタンガタンザをも超える戦力が集中している。
 魔術師隊のひとりひとりの戦力は言うに及ばず、その数すら他の大陸の倍を超えており、悪い例ではあるがモルオールの魔術師隊だけで他の大陸を滅ぼすことも可能だろう。
 モルオールの魔術師隊に配属されることはそれだけ名誉であり、モルオールの魔道士ともなれば、“中央の大陸の魔道士にすら”その名を認知されることになる。

 それで、拮抗。
 人間の精鋭たちが、圧倒的な数を有しているにもかかわらず、それでようやくモルオールの魔物たちと渡り合える程度である。
 モルオールの魔道士たちは死力を尽くして魔物軍と抗争を続けているものの、首都部に集中しているため地方の方には中々手が回らず、滅び、逃れ、なお滅び、逃れ―――と、地方の者は衰退を続けている。
 言い方は悪いが、国も、大陸自体を滅ぼされぬために、地方の者たちを半ば捨てるような形を取らざるを得なかった。
 認知すらできぬ滅びが、モルオールには常に降り注いでいる。

 その代わりと言うのも酷だが、現在ではレスハート山脈唯一の建造物となったマグネシアス修道院には、西へ逃れながらも志半ばで滅びた村の霊を静める役割が求められている。
 広大なレスハート山脈のどこかで倒れた何者かの霊を悼み、祈ることが僅かな救いになればと願われ、マグネシアス修道院は墓標のように建てられたのだ。

 だから。

 レスハート山脈で、いくつの村が滅びたのか、どのように滅びたのか、誰も知らない。

 レスハート山脈で、かつてとある魔族の実験が行われていたということも、勿論。

―――***―――

「あの、カイラさん。そんなに苦手なら、あたしが話してきましょうか? その、セリレ・アトルスでしたよね。それについて聞いてくればいいんですよね?」
「それは違うと思うな。だって、院長はカイラに頼んだんでしょ? だから院長は、カイラにはそれが必要だって判断したんだよ」

 アリハの言葉に、エリーははっとし、そうですね、と呟いた。
 エリーの言葉が悪魔の囁きに、アリハの言葉が天使の囁きに聞こえることなど想像もしていなかった。

 所変わって、マグネシアス修道院の最西部。
 夜の帳が訪れ、薄ぼんやりとした光源が浮かぶだけの不気味な廊下は、本堂から大分離れた客間へ続く道だ。
 雪山ともなると避難所を兼ねる必要があるとはいえ、男子禁制の修道院ともなると流石に距離とる必要がある。
 この狭い廊下の先には、修道院の面積の1割にも満たない空間が広がっているが、別途設けられた医務室や浴槽など、設備は充実している。
 以前、遭難者扱いであったエリーやティアもそちらで生活していた時期があったが、事情を鑑み2ヶ月ほど前に本堂にもある客間へ移動。今は、問題の遭難者の男しかいない。

 カイラは今、アリハとエリーを引き連れ、いや、“引き連れられ”、その男の元へと向かっていた。

「カイラ。会う前からそんなにびくびくしてもいいこと無いよ。ほら、前歩いて歩いて」
「し、しかしですねアリハ。この時間は本来消灯時間です。出歩いて良いのは、有事の際と、聖堂で祈りを捧げるためだけで、」
「あのカイラが職務に対して言い訳を始めるとはね。これは一応有事だし、急ぎなんでしょ。それに、そんなの気にしてちゃ始まらないよ。私よく、夜の雪を見に出かけてるしね」
「神の怒りがわたくしの耳には聞こえます」

 どうあっても騒ぎを起こす末路しか見えないティアを強引に寝かしつけては来たものの、アリハを出し抜けなかったのは失敗だった。
 エリーに協力を依頼している都合上、アリハ同行という例外を認めないのもカイラにはできない。そのエリーも堂々としたもので、消灯時間を過ぎて出歩くことをなんとも思ってないようだ。
 旅の経験があるというのはこうも違うのか。自分だけびくびくしているカイラは見えないように唇を尖らせた。

「そういえば」

 廊下は長い。足音を控えながら、声色を控えながら、エリーが呟いた。

「その遭難者の方って、どういう人なんですか? あたし会ったこと無くて」
「男性です。なんでも雪山でお仲間と逸れたとか。それ以外は」

 身体的特徴という意味で聞いてきたのなら悪いことをした。
 カイラは遭難者を見つけたら取り得ず救助をしているが、男性となると直視するのもはばかれる。
 一方エリーは眉を寄せいていた。そういえば、彼女も彼女で仲間と逸れていたのだ。

「じゃあカイラ。その逸れた仲間っていうのは今雪山の中なの?」
「そのはずですが、その遭難者の方が問題無いと言ったそうで。大方、逸れたお仲間の方は装備が充実しているのでしょう」

 冷たいようだが、カイラははっきりと言った。
 そもそも自分は便利な運び屋では無い。と言うより、いざとなったら助けてもらえると“あて”にされて雪山に飛び込まれても困るのだ。頼まれればいくらでも探しに行くが、雪山に挑んだ以上、それなりの覚悟はしてもらわなければならない。

「さ、ついたね」

 辿り着いた場所は、丁度壁をふたつに割いたような空間だった。
 中央には、今歩いてきた廊下と比べていささか狭い通路が走り、その側面には茶色の扉が並んでいる。もともと壁をくり抜いて作った場所らしい。
 突き当りには浴場があり、その直前には医務室を現す僅かばかり色の違う扉がある。
 その隣、灯りの漏れている部屋があった。
 ここだ。

「じゃあカイラ、どぞー」

 ここからはカイラが先に行け、ということらしい。カイラは渋々頷き、拳を握るとおずおずと踏み出した。
 女性の来客を訪ねることは何度もあるが、男性の部屋へ向かうのはもしかしたら生涯初かもしれない。夜間ともなればなおさらだ。出来る限り緩慢にしていた歩行の中、カイラは部屋の灯りを凝視していた。もし、あの灯りが消えてしまえば仕方ない。夜分に迷惑だろう。聞き込み調査は明日へ持ち込みだ。
 しかし結局、何事も無く扉の前へ辿り着いてしまった。生唾を飲み込み、カイラは慎重に扉を叩く。
 が、その直前。

「なにか?」
「ひょわっ!!」

 叩く前に、扉が開いた。
 廊下の光源とはまるで強さが違う光が漏れ、カイラは奇妙に叫び、思わず目を塞ぐ。
 内開きの扉が途端に開いたせいで踏み込み掛けたが、カイラは機敏に離脱する。
 ガンッ、とカイラの頭は背後の扉に激突した。

「大爆笑したら怒る?」
「……ありとあらゆる祈りを捧げて、貴女に天罰を下します」
「きっとそれを、人は呪いと呼ぶんだよ」

 アリハを睨むように一瞥し、カイラは頭をさすりながら、伏し目がちに開いた扉に視線を向ける。
 当然だが、男が立っていた。背は高めだろう、細身の男だ。
 表情は穏やかで―――そうだ、思い出した。救出したときも、この男はにこやかにビバークするつもりと言っていた―――カイラの様子を微笑ましいとでも言うように笑っている。
 カイラはこの男を、直感的に妙だと感じた。正面から直視して、始めて違和感を覚える程度だが。

「ごめんごめん、人の気配がしたもんで。大丈夫?」
「ええ、夜分に申し訳ありません。お騒がせしました」

 おお、思った以上に自然に話せるではないか。
 カイラは内心感激しつつ、顔を上げ、部屋の中から歩み寄ってくる男を見定めた。
 そのとき、僅かに見えた部屋の中、妙に長い杖が目に止まった。

「んんっ?」

 そこで、エリーから声が漏れた。
 男はエリーに気付くと、僅かばかり目を見開き、そして再び穏やかな表情になる。

「……久しぶりだね、エリサスさん。君たちもモルオールに来てたんだ」
「マ、マルドさん、何でここに?」

 明らかに動揺しているエリーとは違い、マルドと呼ばれた男は冷静さを保ったままのようだ。
 だが、その直後、マルドは目を瞑り、そして深刻そうな色を瞳に浮かべた。
 懸念。
 今はその色を、狭い廊下で確かに浮かべている。
 それを見て、エリーも息を呑んだように同じ表情になった。

「でも。………これはまずいかもね。こうなると、“刻”の臭いが強過ぎる」

 ふたりは知り合いらしいが、再会の事実以上に、優先すべきことがあるらしい。

「ねえカイラ、やったねやったね。大分話しやすそうじゃん」

 張り詰めた空気の中、アリハの能天気な言葉だけが、空々しく響いた。

―――***―――

 言葉にするのは、アルティア=ウィン=クーデフォンにとって簡単だ。思うだけで口から想いが飛び出し、その想いは、誰かに届くと信じている。

 どれほど静寂に包まれていても、きっと自分は口を開くのだろうとティアは思う。騒ぎを立てることは許されない空間があるというのは勿論理解しているが、自分にはその空気をかぎ取る力に乏しいことも同時に理解してしまっている。何より、静寂を破ることはちょっとした快感だ。気不味くて押し黙っているより、誰かと賑やかに語らっている方がずっといい。

 話せば、その言葉は世界に残る。
 自分の声が、誰かの声が、空気を振るわせたという結果が確かに残る。

 簡単なことで世界に何かを残せるのなら、それは幸せなことなのだろう。

 だけど。
 言葉に何かの意味を持たせることは、意味を残すことは、沈黙を守ることより遥かに難しい―――当然、なのだろうが。

「……寒くない寒くない」

 小さく笑って、白い息を吐き出しながら、ティアは小さく呟いた。
 ほら駄目だ。やっぱり寒い。

 抜け出した寝室。
 修道院を回り込むように登った坂の先は、丁度修道院の屋上に当たる位置に続いている。
 レスハート山脈の全貌とはいかないまでも、大分高度があるようで、随分と遠くまで見通せる。日中来たときより雲が随分出てきているようだ。もしかしたら、また雪でも降るのかもしれない。弱々しい星のせいか、谷間にどっぷりと溜まった闇は呑み込まれそうなほど黒かった。
 それでも、夜の雪景色というものに、未だ飽きは訪れない。

「とと、いけませんいけません」

 戒め。この景色をぼんやりと眺め、随分時間を使ってしまった初日を思い出す。
 ティアは首を振ると、ゆっくりと左の手のひらを胸の前で開けた。
 ぼんやりと、スカイブルーの光が漏れ始める。しばらくして、ゆっくりと右の手のひらを乗せた。
 ぐにゃりと光が歪み、穏やかに大気へ溶けていく。成功だ。

 随分安定するようになってきた。
 ティアは胸をなでおろすと、今度は強めの魔力を左手に宿す。

 この3ヶ月、ずっと、ずっと繰り返してきた工程だ。

「……」

 今頃、カイラたちはここを訪れた遭難者の部屋で語らっているのだろう。
 本来ならばそちらへ行きたいところだが、毎日のノルマはこなさなければならない。
 こなさなければ―――また、あんな思いをすることになるのだろうから。

 端的に言って、自分は戦力外だ。
 最初から分かっていたことだが、どうやら自分にはあふれ出る戦闘のセンスというものが無いらしい。
 後方支援という役割にそこまでの戦闘センスは求められてはいないのだろうが、単騎の戦力では他のメンバーに大きく後れをとってしまう。
 実際のところ、それでもいいとティアは思う。
 自分ひとりにできないことが多くても、誰かが求めることに応えられるのなら十分だ。

 しかし今、応じることができているだろうか。
 猫の手にすらなっていないのではないか。

 そう考えると眩暈がする。
 自分に出逢って良かったと思ってもらうためには、手助けの水準を引き上げなければならない。

 モルオール。4大陸最強のここに落とされて、自分たちの旅にひとつの節目が訪れているのは自分の頭でも分かる。逸れたふたりはタンガタンザに落とされたそうだから、ここで丁度世界一周。
 自分の、いや、自分たちの小さな世界はとうとうここまで広がった。
 広がる世界に追い付こうと、みんな躍起になっている。

 そして、多分、余裕も無くなっている。
 逸れたふたりはどう思っているか分からないが、少なくとも、エリーはそれを深刻に受け止めているようだ。本人は気にしない風を装っているようだが―――自分には、分かる。

「エリにゃんも、私を頼ってくれると嬉しいんですけどね……」

 ぽつりと呟いて、ティアは自嘲気味に微笑んだ。
 悩み事は打ち明けるだけでも楽になると言うし、エリーもそれは分かっているだろう。
 だけど自分に打ち明けることは無い。そこに差別的な意味合いが含まれていないと信じたいが、恐らく、潜在的に、ティアに頼ったところで解決できないと感じているからだろう。
 それはそうだ。
 自分は今まで、数合わせになる程度の働きしかしてこなかったのだから。

 それが、どうしようもなく、悔しい。
 力になれない自分自身が、悔しい。

 だからこれは、完全な自虐だ。

 しっかりと、受け止めよう。
 あの死地から生還したあの日、心の底から思ったことを、何度だって口に出す。

「恨みますよ、アッキー」

 言葉は意味を持つ。
 そう信じて、現状を受け入れよう。

「私は私の力の無さを、精一杯、恨みます」

 いつか。
 誰かの力になるために。

 バシュ、と手のひらの光が強く弾けた。
 やはり順調だ。
 ここまで到達すれば、後は魔力の強弱で調整できる。

 ようやくできた。小躍りしたいところだが、この辺りで暴れるなとカイラに怒鳴りつけられたことを思い出す。
 ティアは若干口を尖らせた。心配してもらえるのは嬉しいが、子供扱いはなんとかならないものだろうか。

「むぅ……、あ、寒い。寒い、です!」

 雪山の風は酷く堪える。
 集中力が途切れたら途端寒くなってきた。頃合いだろう。それに、そろそろ戻らなければ空の寝床を見られるおそれがある。

 ティアは怒鳴りつけられる光景を想像し、さらに背筋を凍らせて、せめてもの抵抗で鼻歌交じりに歩き出そうとしたところで。

「むむっ!?」

 奇怪、としか形容できない光景を視界の隅に捉えた。
 光源が星しかないはずの雪山。
 眼下の闇が支配する景色。

 その中に。

 昼を思わせる光源が灯った。

 距離は離れて、ほぼ同時に。

“3つほど”。

―――***―――

「は? え、は!?」
「静かにした方がいいんじゃないかな。一応夜だよ」
「え、あ、そうでした。え、でも……えー……」
「というか、手紙でやり取りしていたんじゃないの?」

 同行者にエリサス=アーティを選択したのは正解だった。
 狭い室内で会話が止まることを何より危惧していたカイラにとって、エリーは最大級の貢献をしてくれている。
 どうやら遭難者の男とエリーは知り合いだったようで、随分と会話が弾んでいる。

 マルド=サダル=ソーグ。
 柔和な印象を抱かせるこの男は、ベッドの脇の壁に背を預けて、実に穏やかな表情を浮かべていた。
 狭い客間には机も用意されておらず、結局全員棒立ちで会話をすることになったのだが、今もへたり込みそうなエリーにとっては椅子があった方が良かったもしれない。
 もっとも、会話を横から聞いていたカイラ自身も座り込みそうになったのだが。

「ヒダマリ=アキラ」

 マルドは再度、“その名前”を口にした。
 カイラにとってその言葉は、何度か聞いた覚えのある、エリーたちが逸れたという仲間のひとりの名前というだけの意味を持っていた。
 だが俗世から離れたこの修道院を置き去りにして、その名前は、世界に大きな意味を持たせている。

「世界待望の“勇者様”になったらしいね。“アドロエプスの失踪事件”の解決に“百年戦争”の停止。双方知名度抜群の事件だ。今どこに行ってもその話題だらけだよ。その手の話題が広がるのは、まあ早いっちゃ早い」
「えー、何であいつが……えー……」

 エリーは未だ納得いっていない様子だが、カイラは内心興奮していた。
 そのふたつの事件は、数多くの伝承や伝説を知るカイラにとっても最上級の存在だ。
 別格と言っても良い。

「“百年戦争”は……まあ詳細は知らないからともかくとして、なんで“アドロエプスの失踪事件”も? あれ、どちらかというとシリスティアの魔道士隊の活躍ですけど」
「変な言い方になるけどそっちの方が都合良いからね。“勇者様”の存在は話題性抜群だ。それに、エリサスさんじゃなかったの? 生存が危ぶまれた“勇者様”の近況を記した手紙出したの」
「……へ? あ」

 カイラはふと考えた。
 そういえばエリーはここに到着するや否や、知り合いに無造作に手紙を送り出していた。その中に、シリスティアの魔術師隊の女性へ宛てたものがあったはずだ。
 そうなると、ここにも近々シリスティアから何か送られてくるかもしれない。
 それを麓から運ぶのはカイラだ。間もなく定期が訪れる。そのときの積み荷は覚悟しなければならないかもしれない。

「ど……どうしよう……」

 エリーが小さく呟き、暗い表情を浮かべ口を閉ざした。

 それにしても“勇者様”とは。
 目の前のエリーが神話に成り得る人物だと思うと、カイラは目も眩む思いだった。
 もっとも、ティアがそうなると考えると何故か頭痛が酷くなるのだが。

「さて、と」

 エリーは力なく項垂れていた。
 並ぶアリハはぼんやりとマルドの長い杖を眺めている。
 そんな中、壁から背を離したマルドの視線がカイラへ向いた。

 来た。

「カイラさん、だったよね。俺に何か用事があるんじゃないかな」

 落ち着け。エリーとの会話から考えるに、人当たりのいい性格だ。
 それに、安否を問う程度のものではあるが、彼とは以前話したことがあるではないか。
 これは職務だ。それと、何だったか、故郷を問うのだったか? いや、笑顔だった気がする。違う違う、これは違った。では、確か。
 情報が頭の中を目まぐるしく暴れ回っているカイラを見て、マルドは再び壁に背を預けた。
 圧迫されているような前傾姿勢を崩してくれたおかげで、少しだけ気が軽くなった。
 今だ。今を逃す手は無い。

「セリレ・アトルス!!」

 夜の修道院の離れで裏返った声が響いた。
 自分の口から出た声だとは信じ難かったが、どうやらそうらしい。
 何の号令だ。カイラは泣きたくなったが、ここで止まるわけにもいくまい。

「貴方は、それを見たと、聞きました。院長、から。その、はい」

 たどたどしく紡いだ問いには、すぐに応答があった。

「あれ、もしかして、俺が夜に出歩いたことを怒ってたりする?」
「い、いえ、そう、ではなくてですね……。いや、それもあります。貴方は院長とどこでお会いになられたんですか?」
「いや、悪いとは思ったんだけど、ちょっと外の様子が見たくなってね。たまたまだよ。聖堂で」

 どうやらこの男は本堂まで歩き回っていたようだ。
 背筋が凍る思いだが、それよりに気なるのは院長だった。彼女も消灯時間が過ぎてから歩き回っているらしい。

「今後は控えて下さい」
「本当にすみませんでした。その代わり、俺に答えられることならなんでも答えるよ」
「そう……、ですか」

 カイラは内心歓喜していた。何だ、思ったよりも会話できるではないか。

「では、本題です。貴方はセリレ・アトルスを見たのですね?」

 マルドは眉を細めて、言った。

「ああ、見たよ。“災厄の証”」

 その言葉に、エリーも顔を上げた。
 カイラも眉を潜める。この男も伝承を知っているらしい。
 打って変わって真剣な声のトーンだ。見間違いにしても、マルドにはある程度の自信があるようだ。

「実はそいつが原因なんだ、俺が逸れたのは。時間は分からないけど、日付は変わっていたと思う。遠くの山と山の間に浮かんでいたんだよ、“太陽”が。その瞬間、駆け出した奴が居てね」

 マルドは顔を上げたエリー見て、さらに言葉を続けた。

「例の如く、異常には敏感でね。エリサスさん、“そっち”もそうでしょ。日常の総てが伏線になる感覚。何でもありませんでした、とか、見間違いでした、なんてオチにはなってくれない」

 今ひとつ、カイラにはエリーとマルドの関係が見えなかった。
 別グループで行動しているらしいのに、妙な共通認識で繋がっている。

「まあ、少なくとも災厄はあったよ。なにせ逸れた。ひとりぼっちだ。“あいつ”が駆けた出したと同時に、ついて行っちゃった娘がいてね。離れていくあいつを止めようとしたもんだから、掴み上げられてたよ。煩わしかったんだろうね。そのまま鞄みたいに持たれてふたりで雪景色の彼方。雪も降ってきてたから、俺は追うのを諦めたよ」

 今の話、腑に落ちない。カイラは眉を寄せた。マルドの仲間は、人間を掴み上げて走り去ったという。一体何の話をしているのか。
 助けを求めてエリーを見ても、同じような顔つきをしていた。

「あれ? エリサスさんは知ってるでしょ。ほら、港町での」
「え……?」
「キュールだよ、ほら。あの娘」
「え、あの娘!?」

 待て待て待て。カイラは思わずマルドを睨みつけていた。
 マルドが逸れた仲間は問題無いと言っていたと聞き、自分は装備が充実した屈強な山男を想像していた。だがまさか、子供がいるというのか。それも、掴み上げて駆けられるほどの幼子が。
 この極寒の雪山に、間もなく雪も降りそうだと言うのに。
 それは、カイラにとって、セリレ・アトルス以上に優先すべき事柄だ。

「っ、今すぐ!!」
「へ?」
「今すぐ探し出さなければ、この雪山は大変危険なんです!!」

 マルドはピンとこないような表情を浮かべて何か口を開こうとしたが、それよりも早くカイラは言葉を続けた。

「逸れた場所は貴方を見つけた場所ですね!? 早く、早く探し出さなければ……、何か、目印になるようなものは、」

 マルドはふと考え、口を開いたが、同時。
 今度はけたたましい足音にかき消された。

「たたたたたたたたたたた大変です!! 見ました、あっし、見ました!!」

 そのドアを壊したら一生かかっても修繕させてやる、そう思いたくなるほど、ドアをドアとして見ない開け方をした来訪者は、ノブが壁にぶち当たる騒音にも負けず、深夜の修道院で喚き立てた。
 その人物は誰あろう、寝ていたはずのアルティア=ウィン=クーデフォン。
 外にいたのか防寒具に身を包み、息を切らせたティアはけたたましく言葉を続けた。

「オレンジの光、一瞬でしたけど、ピカッと!! もしかしたら、来たのかも!! でも、おっかしーんですよねぇ……」

 何故そうも自己完結できるのか。騒ぎ立てた上でティアは首をひねって考え込み始めた。
 一方マルドは満足気に頷いて、カイラに向き合いこう言った。

「それが目印だ」

―――***―――

 身体が二分するイメージというものを、人はどうしたら持てるであろう。

 だが少なくとも、魔術に精通した者ならば、魔術を放出するイメージを持っているし、その程度は日常茶飯事のはずだ。身体が二分するイメージはそれに近いものがある。
 イメージ。
 その抽象的な行動は、魔術師にとって最も必要なものであったりする。
 ありとあらゆる魔術はその空想によって始まり、空想によって力を増していく。
 人がただ単に生きていくだけならば決して必要でないはずの魔力は、しかし現代の様子を鑑みるに、照明しかり、自衛しかり、不可欠なものとして存在する。
 ゆえに、人は、最低限の“魔力”を学ぶ。幸運にもロジックに落とし込めたイメージを、学問として。
 そこまでは、万人共通のロジック。
 しかしそこから先、やはり抽象的なものに過ぎないイメージには、いかに解明しても相性というものが存在する。
 同じ説明をされても、理解できない者、異なるイメージをする者と、千差万別である。
 最も分かりやすい区分けは、魔力色としても現れる7属性。水曜属性の者に、金曜属性の魔術の話をされても異なるイメージをすることになるであろう。
 最大限に分かり難いと考えられる区分けは、間違いなく“具現化”だ。できる者と、できない者。あくまで噂でしか聞かないその存在は、どの属性でも再現は可能らしい。
 そう、どの属性でも、いや、あるいは魔術を理解できない者にすら、その奇跡とされる力は降り注ぐのかもしれない。変わらず、曖昧なまま。
 極端な例をふたつ出したが、今目の前に在る存在は、それらの中間、あるいは中間から“具現化”寄りに位置する事象であろう。

 物体ではない。しかし確かに質量が存在する。
 生物ではない。しかし確かに脈動を感じる。

 未だ不明点が多いらしいらしく、術者にもいまいち理解できていない、この事象。
 発動するためにはどのようなプロセスを行えば分かってはいるが、他の者に説明できることなどできはしない、この事象。

 何故できるのかと訊かれたら、きっと、カイラ=キッド=ウルグスはこう言うだろう。

 ただ。
 自分の離れた半身が、竜となって空を行くのをイメージした、と。

「キュゥーイ」

 甲高く、鳥類を思わせる鳴き声がレスハート山脈の夜空に響き渡る。
 分厚く曇り、ついに雪が降り始めた広い空に、スカイブルーの光源が弾けるように飛んでいた。
 姿は竜。
 全長30メートルほどの、村にでも出現されれば即座に壊滅せしめるであろう巨大な竜。
 しかしその竜には、山を噛み砕くと言われるような牙も、鉄板を切り裂くと言われるような牙も無く、全体的に丸みを帯びた姿をしていた。

「ワイズ。あちらの山の麓へお願いします」

 降り始めた雪に合わせてフードを被ったが、予備動作無く進路を変えた竜にすぐに風圧で飛ばされてしまった。
 カイラは僅かに苦笑し、自らが出現させた“事象”の背を撫でる。

 召喚獣・ワイズ。

 それは、カイラが出現させた、物体とも生命体ともつかない“事象”だ。
 いつから自分がこの空想を実現できるようになっていたのかは知らないが、幼い日、このワイズを前にして、心が打ち震えたのを覚えている。まだ自分が不出来な心構えをしていた頃、時たまレスハート山脈の空を自由に飛ぶのが好きだった。
 もっとも、今となっては麓からの荷運びと、遭難者の救助のときくらいしかこうして空を飛ばないが。移動に長けているというのも考えものか。

 アルティア=ウィン=クーデフォンが客間に飛び込んできた直後、ティアから簡単な方角だけを訊き、カイラはひとり、レスハート山脈の空へ飛び立った。
 ワイズを出現させた際、ティアがやたらとやかましかったのが未だに耳に残っているが、こんな夜の雪山に子供の同伴は論外。場所を知っているのだからとしきりに訴えていたが、本人の様子を見るに、曖昧なことしか分からないのだろう。それなら方角だけ聞き出し、レスハート山脈に慣れている自分ひとりで行った方が良い。当たりは付いている。日は経っているが、子供の足だ。マルドを救助した場所付近だろう。

 雪が更に強くなる。間もなく吹雪が訪れる。

 カイラはきゅっと口を結んで、ワイズに下降を指示した。
 高速で流れる地面は、一瞬だけスカイブルーに照らされ、即座に闇に落ちていく。
 一瞬、エリーにくらいは協力を要請すべきだったかと後悔したが、首を振る。
 彼女たちは山を舐めている。該当エリアに到着したら、ワイズから降りて足で探すことになるかもしれない。二次災害の末路しか見えなかった。

「……ワイズ、ここからはゆっくりお願いします」

 巨竜は応じると、翼をはためかせながら、器用に空中で止まってみせた。そして対空しつつ、徐々に旋回するように進み始める。
 ここが最初のポイントだ。
 カイラは今まで以上に慎重に目を光らせる。
 ティアの情報にあったのは3つの光源。
 慌ただしく要領を得ない言葉を発し続けていたところを見るに、ふたつは見間違いだろう。“あの色”が、同じ場所で3つも発生するわけがないのだ。
 だが何にせよ、魔力による灯りだろう。その中のひとつに、あのマルドという男性の仲間がいるかもしれない。

 雪が強くなる。吹雪が横から身体を叩く。ワイズで飛ぶのもそろそろ危険かもしれない。

 カイラは自分を戒めた。
 マルドを救助した際、深く話をして、小さな子供が逸れていることを聞き出せればこんなことにはならなかった。
 この凍てついた世界の中で、小さな子供が震えていると思うとカイラは気がおかしくなる。
 子供には未来がある。多くの人にとっての希望がある。だからこそ清く正しく育って欲しい。決して、こんな雪山にいていい存在ではないのだ。

 祈るように目を凝らして、カイラは肩を落とした。
 いない。
 どうやら最初のポイントは空振りのようだ。大方魔物同士が暴れ回り、その魔力色を見間違えたのだろう。
 と思えば丁度良く、雪が妙に荒れているエリアを発見した。
 吹雪に埋もれ始めたそこは数ヶ所、掘られたように雪が暴れ回っている。どうやら魔物同士の戦闘はここらしい。
 カイラは警戒して高度を上げた。流石にレスハート山脈に巣くう魔物たちと交戦したいとは思えない。いざとなれば高速移動が可能なワイズの背にいる以上、カイラの安全は確保されている。

 外れと分かれば次のポイントだ。
 カイラがワイズの背を撫で、次なるエリアへ向かおうとした―――その、“刻”。

「……ち。召喚獣かよ」
「あひゃあっ!?」

 ダンッ、という振動と共に、背後からそんな声が聞こえた。
 カイラは目をきつく結び、身体を硬直させる。
 理解不能な現象と、予測不能な自分の末路に動けずいると、再びダンッ、と音が響き、背後の気配が消える。
 今のは、人の声だ。
 たっぷり1分、動けずにいたカイラはそれだけの結論をようやく出せた。未だ動悸が激しい。
 慌てて振り返るも、見えるのは最早吹雪だけで、勝手に背中を使われたことに不服そうに喉を鳴らすワイズの鳴き声が夜空に響く。
 慎重に辺りを見渡す。雪山だというのに、今の一瞬でカイラは汗を滝のようにかいていた。
 僅かばかり飛行して、気付いた。近くに崖がある。探すことばかりに気を取られて気付かなかったが、ワイズはその中腹を飛んでいたようだ。“侵入者”は、どうやらそこから飛び乗ったらしい。
 魔物であれば問答無用で殺されていたであろう。どうやら自分も山を舐めていたらしい。“侵入者”は、そこへ戻っていったのだろう―――いや。
 人であれば、飛び落ちるはともかく、飛び乗るは不可能だ。高過ぎる。

 多大なる疑念と共に、カイラは崖の上へ向かうことを決めた。身体は未だ震えている。
 崖の下という危険地帯から一旦離れ、旋回して頂上へ向かう。するとほんのり、妙な光源が吹雪の先に見えてきた。
 赤い色の、一般的なマジックアイテムの灯り。それが、ようやく見えた穴ぐらの中から漏れている。
 やはり、人がいる。
 光源から目を離さず、ゆっくりと近付く。慎重に、慎重に。

 そして。

「まぁたてめぇか。暇な奴もいたもんだなぁ、おい」

 再び、今度は横から。
 ワイズの上、座ったカイラからは見上げても見上げても顔が見えない高さから、“男性”が、声をかけてきた。

 限界だった。
 カイラは、声にならない何かを喉から漏らし、意識が遠のいていくのを感じた。

 身体に力が入らない。
 頭が真っ白になる。
 ワイズはそれに合わせて、淡いスカイブルーの光体となって溶けていく。

「ち」

 落下の浮遊感と、地面で誰かに抱きかかえられた衝撃。
 そして。

「その人、どうしたの?」
「知るか。遭難者だ」

 そんな屈辱的な会話だけを、落ちていく意識の淵で拾った。

―――***―――

 “やはり、必然的にこうなった”。

 あてがわれた部屋。ふたり分のベッドと、小さなクローゼットだけが置いてある小奇麗で、静かな部屋。

 マルドの客室から戻ってきたエリサス=アーティは、ベッドに正面から倒れ込み、先ほどの会話を思い起こす。

 先ほどまで無人だったこの部屋は、まだ、少し寒い。

「…………会いたい」
「アッキィィィイイイーーーッッッ!! エリにゃんがデレてますよーーーっ!!」
「うぉりゃーーーっっっ!!!!」
「ぼうっ!!!?」

 と言っても、この子供がいれば途端部屋は暖まる。
 エリーが全力投球した枕の一撃を顔面に受け、宙返りするほど大げさに吹き飛んだティアは、挙句床に後頭部を打ち付けた。

「ぅぅぅ……、エリにゃん、夜ですよ、夜」
「ティアが最初に喚いたんでしょうがっ!! …………なにその、しー、のポーズ。腹立つんだけど」

 時間は深夜。修道院のメンバーから離れた部屋とは言え、叫ぶのは好ましくない。
 しかし名だたる騒音発生機・アルティア=ウィン=クーデフォンには、興奮しているのか寝静まる様子は無かった。
 ティアは頭をさすりながら、さもご機嫌といった様子で自分のベッドに座った。

「しっかし、いよいよですよ。とうとう到着したんじゃないですか? うれしーなっ」

 ようやく声を静め、朗らかに微笑むティアとは対照的に、エリーは表情に影を落としていた。

「……そりゃ、嬉しいは嬉しいけど」
「嬉しい。えへへ」
「……っ、“逸れたふたりと合流できるのは”嬉しいけど、状況が変わってきてるわ。そう手放しで喜んでばかりじゃいられない」

 エリーは頭を抱えて思考した。
 “ヒダマリ=アキラが名実ともに勇者となった”。
 先ほどマルドから得たこの事実は、あまりに重い。

 マルドから詳しく事情を聞いたところ、やはり事の発端はエリーがシリスティア魔術師隊の、サテナ=アローグラスという女性に手紙を書いたことだったそうだ。
 自分たちの足音がシリスティアから消えたあの事件。シリスティアは大々的事件の解決を前に、その事実を中々公表できずにいたらしい。
 彼らからしてみれば、明らかに伝説は堕とされた。
 あの巨獣を撃破したのは、間違いなく5万超というシリスティアの総力の結果だ。
 しかし同時に、数多の人間が、目立つことこの上ない“あの魔力色”を認識してしまい、その術者の末路を確認している。

 全世界待望とも言える日輪属性。確認者が多い以上、噂も流れる。シリスティアの事件解決の公表には、同時にその犠牲も記さなければなるまい。
 大樹海を捜索しても成果を上げられず、さんざん考えあぐねたシリスティアの魔道士隊は、結局事件解決“だけ”を公表し、噂は噂と跳ね飛ばす算段であったらしい。
 しかしそこに、魔術師隊から情報提供があった。
 エリーが手当たり次第に手掛かりを求め、大量に送りつけた手紙の内のひとつ。日輪属性の者と行動を共にしていたサテナ=アローグロスという魔術師が、その手紙の情報を提供したというのだ。
 エリーたちが雪山に籠っている間に、手のひらを返したシリスティアでは大捜索が行われたらしい。曰く、日輪属性であり、かつ大樹海の事件を解決した人物は、“勇者様”に足る存在である、と。
 あの魔力色に、やや脚色されているがその実績であれば、紛れも無い“勇者様”として扱われるであろう。
 その大捜索は、良くも悪くも続けざまに起こった偉業によって中止される。

 タンガタンザの“百年戦争”の停止。

 はっきり言って、エリーにとっては寝耳に水だ。
 あの男と行動を共にしている仲間からの手紙には、遅れるとだけあり具体的なことはなにも記されていなかった。
 それがまさか“百年戦争”などに参加しているとは。
 良く無事だったなという乾いた感想と、脱力感に襲われ、最早驚く気にもなれない。

 ともあれ名実ともに、あの男は―――“ヒダマリ=アキラ”は、“勇者様”となったそうだ。

「マルドンは凄いですよねぇ、シリスティアのこと、何でそんなに詳しいんでしょうね」
「あの人にはあの人の情報ルートってのがあるんでしょ。あたしたちとは大違い」

 ティアが愛称を口に出しても容易に脳内変換できるようになっている自分の頭を強く振り、エリーは深く肩を落とした。

「でも……そうね、やっぱり駄目。ちゃんと会って話をしないと。駄目、駄目、駄目ね。今後の身も振りも変わるでしょうし……、だって、あいつの名前を出しただけで、今後は周りの人の目の色が変わるってことでしょう。まともに依頼なんてうけられるのかな……」

 エリーは座ったまま指で膝を叩きながら、呟き続ける。
 そう、変わる。変わるのだ、世界が。
 今や“自分の妹”以上に名の広まった“勇者様”。
 そして、恐らくはその実力も、想像以上のものとなっているかもしれない。

「エリにゃん?」
「駄目ね、やっぱり、駄目。会わないと、ううん、話、しないと」
「エリにゃん、そんなに気にしなくてもいいじゃないですか」
「それでも、それでも、ううん、変わる、変わるんだ」
「アッキーが有名になった。それだけのことじゃないですか」
「それだけのことじゃないでしょう!?」

 その名を聞いて、思わず叫んでいた。
 ティアは目を丸くし、部屋の空気が張り詰める。
 エリーは、丸まるように膝を抱き、呟いた。

「ごめん」
「……いえ、いいんですよ。私も多分、無神経なこと言っちゃいました。すみません」

 弱々しく微笑んだティアに、エリーは罪悪感を覚えた。
 自分は最低だ。彼女に当たっても仕方がない。

「……ごめん、あたし、ちょっと歩いてくる。ティアはもう寝なさい」
「……はい、そうですね。正直言うと、もう、限界、だったり……」

 彼女は身体にスイッチでもあるのか。頭をぐるぐる回し始めたティアは倒れ込むようにベッドに横たわった。どうやら限界だったらしい。ただ、普段の行いを見るにそのスイッチは故障しているようだが。

 エリーはティアに毛布を被せると、小さく謝罪の言葉を口に出し、ゆっくりと冷えた廊下に歩み出た。

―――***―――

「……ん……」

 意識を取り戻すと同時に、覚醒。
 怠惰な自分を戒めてから、毎朝行ってきたプロセスだ。しかし見上げた天井は何故か見慣れた純白ではなく、いびつな岩石が支え合っているような黒だった。ほんのりと灯っている赤い照明が、闇の深さを強調している。柔らかなベッドもどうやら天井と同じらしい。身体の節々が痛む。

「目、覚めた?」

 その天井に、見知らぬ小さな顔が現れた。
 自分は看病でもされていたのか。覚醒しているはずなのに、気を失う前の情景が思い起こせない。
 とりあえずその疑問は置き去りにし、カイラ=キッド=ウルグスは、目の前の少女に語りかけた。

「ここは……?」
「山。雪山。それ以外、わたしには分からない」

 遭難者か。
 ふと連想されたその言葉で、カイラはようやく記憶を取り戻した。
 そうだ、自分は確か、小さな子供の救助へ向かっていたのだ。

「ああ、良かった。神に感謝いたしましょう。怪我はありませんか?」
「わたしは大丈夫。あなたの方こそ大丈夫?」
「ええ。介抱感謝いたします」

 色彩の明るい長い髪を首のあたりで縛った小さな顔が、にっこりとほほ笑んだ。
 少女のくせ毛なのか、少々髪が荒れ、ところどころ飛び出していた。同じく酷くくせのある髪質のカイラは妙な親近感を覚え、返すように微笑んだ。

「わたくしはカイラ=キッド=ウルグス。このレスハート山脈のマグネシアス修道院に務めております。貴女のお名前は?」
「キュール。キュール=マグウェル」
「キュール。本当にありがとうございました」

 キュールというのか。この愛らしい子供は。
 カイラは飲み込むように頷いた。

 さて。
 自己紹介も終わった。謝礼も重ねた。

 よし。

「ではキュール。貴女を保護します」

 その言葉を発した途端、キュールの顔が凍りついた。
 そして後ずさるように視界から消える。

 カイラは慌てて身を起こした。
 身を起すと、随分と広い洞窟だということが分かった。
 入り組んでいるのか入口は見えず、奥にもまだまだ続いている。自分が横になっていたのは、この洞窟の中腹辺りだろうか。冷気が遮断されているのか妙に温かい。
 そしてキュールは、洞窟の奥の方へ後ずさっていた。愛らしい表情とは打って変わって眉を寄せ、カイラを怪訝な瞳で見つめてくる。

「あなた、は、」
「わたくしは貴女を助けに来たの。わがままを言っても、通りません」

 キュールは凍りついたまま動かない。
 カイラは真剣そのままの表情でキュールを見つめた。

 このパターンか。
 カイラは過去の事例を反芻する。
 カイラが助け出した遭難者には、勿論重傷を負って動けない者、資源が枯渇して途方に暮れていた者と様々な種類がいるが、最も厄介なのは、自分が遭難者だと自覚していない者だ。
 客観的に見れば末路など容易に想像できるにもかかわらず、当人はまだいけると思ってしまう。
 流石にキュールほどの子供は見たことが無いが、そうした自覚症状の無い遭難は若い旅人に多い。
 そうした者たちを説得し、時には強引に救助するのがカイラの仕事だ。

「さあ、行きますよ」
「や、やだ!」

 洞窟に響く声と共に、キュールは結わった長髪を振り回して首を振った。
 こうなれば腕ずくだ。
 わざわざ大げさに腕を広げ、カイラはにじりよる。
 それが想像以上の恐怖を与えたのか、キュールはわき目も振らずに洞窟の奥へ駆け出した。
 奥は光源が無く、漆黒だ。一瞬でキュールの姿が消える。

「ま、待ちなさい!!」

 カイラも駆け出す。少し脅かし過ぎてしまった。
 あの暗さでは、流石に危ない。
 カイラも駆け出そうとしたところで、キュールが駆けた闇から、ズッと嫌な音が聞こえた。
 足を滑らした。
 そうカイラが判断し、思わず身を固めたところで、ガンッ、と。
 およそ人と自然物が衝突したとは思えぬ音が響いた。同時。闇の入口で、目を焼くような色が爆ぜる。

 目を焼かれたカイラは即座に瞳を閉じたが、その直前。
 キュールの小さな身体が、イエローの球体に覆われていたように見えたのは、気のせいだろうか。

「……キュール?」

 自分は足を滑らせないように、カイラは手探りでキュールの元へ向かう。
 2歩3歩と進み、ようやく視力を取り戻したカイラはゆっくりと瞳を開いた。
 すると。

 キュールが目の前に浮かんでいた。
 やはり目の錯覚だったのか、黄色い球体は存在せず―――?

 “浮いている”?

 キツネにつままれたような表情を浮かべるカイラに対し、キュールの表情は不満げになっている。
 まるでそれは、カイラのせいで、言いつけを守れなかった子供のような表情だった。

 すると。
 その、キュールが浮いている奥。

 “ぬっ”、と。

 高い位置から金色の眼光が闇から現れた。

「今は、しー、だよ」
「てめぇが騒いだから起きる羽目になったんだがなぁ」
「……ごめんなさい」

 目の前で、背中を無造作に掴まれた者と掴んだ者が会話をしていた。

 その男は。
 巨大で、白髪で、金色の眼で。
 私服に麦色のコートを無造作に羽織っただけの、雪山を舐めているとしか思えない服装で。

「次気絶しやがったら、雪山に放り出すぞ」

 カイラが気を失った直前に聞いたような気がする、辛辣な言葉を放った。

―――***―――

 ぼんやりと、窓から雪を見ていた。
 雪は暴れ回り、遠くの様子など見えようも無い。
 だが分かる。一歩外に出るだけで、この身は凍りつくだろう。枝の1本も掴めぬほどに、足の1本も動かせぬほどに―――そう、何もできない。
 でも“ここ”は、外に比べれば温かだ。
 決定的な温度差。外と中は、そうして区分けられている。
 だけど思う。思ってしまう。

 そんな区切りは、いずれ消えてしまう。
 触れれば震えるほど冷やされた窓は、まるで氷だ。
 いずれ消えゆき、内にいる自分は瞬時に凍りつくかもしれない。

 ならば外へ行かねばならない。外を直接感じ、強さを得なければならない。
 例え熱という熱が奪われ命が尽きたとしても、こう思ってしまう。

 高がその程度のことで世界が広がるのならば、あまりに安い代償ではないかと。

 エリサス=アーティがマルド=サダル=ソーグに声をかけられたのは、大聖堂の窓から外を眺めてそんなことを思っていたときだった。

「勝手に出歩いていたらまた怒られますよ」
「いやあ、性分でね。実はじっとしてられなかったりするんだ。幼い日を思い出すね。よく姉に怒られていたよ」

 消灯時間が過ぎてからの出歩きという点では、エリーもマルドと同罪だ。
 マルドは気付いているのかいないのか、何気なくエリーに並びながら、窓を眺め始めた。
 誰かを見つけて雑談でもできれば儲けものと思っていたのか、マルドは特に目指す場所が無いらしい。

 変わらず雪が吹き荒れている。
 外へ向かったカイラは無事だろうか。エリーには実現できぬ手段で飛び立った彼女の様子は、想像のしようもなかった。

「そういえば、マルドさんってセレンさんといつまで一緒にいたんですか?」

 エリーとマルドの関係は、生徒と教師の弟にあたる。
 リビリスアークの孤児院で、家庭教師兼手伝いのセレンの存在が無ければ、こうして会話をすることも無かったかもしれない。
 いや。どの道自分たちと彼らのパーティは、何らかの形で巡り合っていたのだろうか。

「いつまでかなぁ、もう覚えてないや。でもひとつだけ。彼女が辛かったときに、旅を出たのを覚えている」
「それは、」
「んん、言い方が多分悪かった。そうだな、“彼女の人生に辛くなかったときなんて無かったときに”、かな。そんで俺は追い出されるように旅立った。ふたり分の生活費って、結構馬鹿にならないんだよ」

 さも他人事のようなマルドの言葉に、エリーは眉を寄せた。
 だが、想像できてしかるべき家族構成に、追及することはできなかった。

「軽蔑されたっぽいね」
「い、いえ」
「ま、お互い結構サバサバしててさ。出発の日も、行ってくる、じゃあさよなら、みたいなもんだった。エリサスさんの考える家族とは違うかもしれないけど、今でもちょくちょく手紙はやりとりしてるしね」

 そんなものなのだろうか。
 そう考えると、エリーはこれまで、普通の家族というものに触れて来なかった気がする。
 親を失い、修道院で育ち、近頃は修道院にいる。それゆえに、家族というものに甘い幻想を抱いているのかもしれない。

「……ま、ぶっちゃけて言っちゃうと」

 窓を眺めながらマルドは言葉を続けた。
 吹雪は強く、激しく、時折窓を強く叩く風が、過酷な大陸を覆い尽くしているかのようだった。

「旅に出たかったと言うより、彼女と一緒にいたくなかった、って感じだったんだろうね」

 その言葉に、エリーは胸を衝かれたような気がした。

「そりゃ旅は楽しいし、やりがいのある役割も定めたところだ。でも旅に出た理由は、言っちゃえば逃げたってとこかな。ううん、逃げたって言葉は時にかっこよく使われることもあるね、じゃあこう言おう。見捨てたんだ。職についても何らかの問題が発生して、地方を転々と歩き回る羽目になるような我が姉を、俺は見捨てた。彼女といたら、俺は決して幸せになれないと思ってしまった」

 エリーはマルドの言葉を聞きながら、見捨てられたというセレンのことを思い浮かべていた。
 魔術師試験のために、ありとあらゆることを教えてくれたやり手の彼女だが、彼女自身の話を聞いたことはほとんど無い。
 ほとんど無表情の上にそれでは、出会ってからしばらく彼女のことを恐れていた自分に非は無いと考えていた。
 しかし彼女も彼女で、過去にはそれだけのものを抱えていたのだ。
 時間差で、自分が少し恥ずかしくなった。
 自分と彼女の関係は、正しい距離を保っていたのだろうか。

「……マルドさんは今でもセレンさんのことが嫌いなんですか?」
「嫌い? いや、まさか。……ってそうだよね、うん、嫌いだった時期は確かにあったよ。子供のときは養ってもらっていることも分からず不満を蓄積させるもんだしね。でも離れてみれば、ってのもあってさ、今はそうじゃない。そもそもそうなら手紙なんて書かないよ」

 窓に映ったマルドの表情は、笑っていた。

「子供の頃、それとは逆に、こう思ったこともある。幸運とか、不運とか、そういうどうしようもないものは、本当にどうしようもないのかってさ」
「?」
「“元”があるんじゃないか、ってこと。枝がいずれ自分を刺すなら、枝より大木を切り倒した方がいい。いずれ吹雪が暴れるなら、雲を消した方がいい。さもなきゃこうだ、枝にも雪にも負けなければいい。うん、言ってみると、どっちも俺らしい解答じゃないな……。俺ならこうだ、枝は伸びる前に避けるし雪が降るなら傘を差す。一番時間を使うのは原因の特定かな。前者のふたつは、俺を置いて山の中だ」

 皮肉っぽく言っていても、彼は彼で室内という環境に満足しているようだった。
 マルドの比喩は、きっと史上2回目の神話に見立ててのものだろう。
 ただどうやら、マルドは彼の仲間の身をカイラより案じていないようだった。それがあのふたりへの仲間としての信頼なのか、彼らの技量への信頼なのかは感じ取ることさえできなかった。

「ま、そんなわけで、俺は原因を解決しようと試みたことがある。結果は失敗。大木も雲も見つからなかったよ。多分単純な力不足だったんだろうね」
「それが旅に出た本当の理由なんじゃないですか」
「さあ、本当の理由なんて、実はひとつも無いのかもしれない。多くの想いの理由だけ薄れて、旅に出たいという欲求だけ蓄積された結果かもね。どの道、彼女を見捨てたことには変わらない」

 そういうものなのだろう。
 エリーには、そんな淡白な解釈しかすることしかできなかった。勿論、理解することもできない。

 エリーはぼんやりと考える。
 甘いことを言えば、喜びも悲しみも共有するのが家族というものだ。もっと言えば、ひとつの集団は能力の善し悪し無く、喜怒哀楽を共有する。
 だが冷たく言えば、それを甘受する権利があるのは、能力のある者だけなのだろう。

 仲間。家族。姉と弟。そして、姉と妹。
 距離感の最適化は、能力無くして図れない。

「とまあ、俺の話聞いてても何も生まれないし、誰も得しないよ。それより、丁度良かった。エリサスさんに会えたのは好都合だ」
「……もしかして、あたしに用があったんですか?」

 マルドはエリーの部屋へ来るつもりだったのかもしれない。
 だとしたら悪いことをした。話を振ったのはエリーだ。
 もっとも、港町の物語では冷静沈着だったマルドの違う一面に触れられたのは良かったのかもしれないが。

「いや、うん、そうじゃないと言えばそうじゃないよ。会えたのは偶然だ、そもそもエリサスさんの部屋知らないし」

 違う一面が、もうひとつ増えた。
 マルドは僅かに眉を寄せ、戸惑っているような様子を浮かべている。

「確たる用事があったわけじゃないんだ。だけど、“刻”を引き寄せる“あのふたり”が同時にこの地に来ているとなると些細なことも見逃せない」

 それは骨身に染みている。
 ひとりいるだけで毎日が劇場の舞台のように豹変するのだ。
 エリーは慎重に頷いた。

「もしかしたら気にし過ぎなのかもしれないし、エリサスさんには何の話をしているのか分からないかもしれない。そのときは、不安を煽るようなことを言って悪かったと謝るつもりだ」
「何か、変なことでもあったんですか?」
「ひとつ。ひとつだけ、エリサスさんに訊きたいことがある。さっき、俺の部屋に来たときのことだ」

 散々大げさな前置きをし、マルドはようやく、言葉を見つけたのか表情を硬くした。
 そしてゆっくりと、言葉を吐き出す。

「あのときあの部屋にいたのは、全部で何人だった?」

―――***―――

「もうっ、この娘はわたくしが育てます!!」
「や、やだ!」
「このガキとアマ……。マジで外に放り出してやろうか」

 1歩外に出れば極寒の世界が広がる洞窟内、その最奥。
 カイラ=キッド=ウルグスは絶叫していた。

 人が3人もいれば熱気も溜まるのか比較的温かな空間で、カイラの感情は白熱の一途をたどる。
 温厚を自称するカイラがここまで激昂しているのにも訳がある。

 目の前の、壁に背を預けて座り込んでいる大男だ。
 おずおずと名を訊ね、スライク=キース=ガイロードとだけ返してきたこの男は、子供を何だと思っているのか。

 キュールの防寒具は十全かと訊けば、知るか。
 キュールが安全に山を降りられるのかと訊けば、ガキに訊け。
 キュールとの関係を訊けば、勝手についてきた。
 キュールの教育方針はどうなっているのかと訊けば、俺はもう寝る。
 そもそもレスハート山脈に何の用があるのかと訊けば、Zzz……。

 話にならない。

 結果、カイラがキュールを保護しようと引き寄せ、そのキュールがスライクの足にしがみつくという構図が完成した。
 ある意味ふたりがかりで引いているのに対し、スライクの長い足は微動だにしない。

「まったく、貴方はこの娘の保護者では無いんですか!?」
「だぁ、かぁ、らぁ、よ。勝手について来たっつってんだろうが」
「例えそうだとしても子供を守るのは大人の義務です。ああもう、良く見ればこんなに擦りむいて……、貴方、ちゃんと子供の歩幅で歩いていますか?」
「言葉の意味伝わってんのか。勝手についてきたのに歩幅も何もねぇだろう」
「それで無理をしてこんなことに……、膝当てとか……。肘もですか。貴方、いずれ天罰が下りますよ。 ねえキュール。貴女からもちゃんとお願いしないと、このままでは取り返しのつかないことになりますよ」
「大丈夫。わたし、がんばってついていくから」
「わぁ、こんなにいい娘なのに……なんでこんなことに。わたくし発狂しそうです!!」
「狂って外に躍り出ろ。そのまま戻ってくるな」

 こんな男なのに、キュールの懐き度が最大と言っていいほど高い。
 最早何事だ、だ。これほどの不条理がこの世にあってたまるものか。
 カイラは半ば泣きそうになって座り込んだ。
 キュールの擦り向いた患部が照明の紅さも加わり酷く痛々しく見えてきた。
 即座に治癒を施したいところだが、キュールはカイラが何らかの挙動を見せるたびに震えてスライクにしがみつくようになってしまった。
 話せるようになったとはいえ、この大男に近付くにはもう少し勇気がいる。スライクは鬱陶しそうに顔をしかめながらキュールの方に視線も向けていなかった。
 もし自分がキュールにこれほどまで懐かれていたらと考えると不覚にも涙が溢れてくる。
 きっとここまで不憫な扱いはしないだろう。それどころかきちんと育て上げてみせる。“しきたり”を始めとする一般教養を教えるために、各地で行われる儀式というような雑学まで交えて明るく楽しい授業を施してみせる。日常生活の世話や言葉使い等々。教えることは山盛りだ。何せ話を聞く限り、この男は放任主義を通り越して、キュールを認知すらしていないようにしか思えないのだから。

 そこでふと、カイラはスライクをじっと見た。
 恐い。キュールのためとはいえ、自分が話せるようになった理由が分からなかった。

「だ、だい、大丈夫」

 キュールにはカイラがスライクを睨んでいるようにしか見えなかったのだろう。
 スライクを庇うように立ちはだかり、眉を寄せてカイラの様子を窺っていた。

「わたしは、怪我しないから」
「してるでしょう!?」
「ひっ、で、でも、シリスティアじゃこれが普通だった!!」
「シッ、え、あ、はい」

 カイラは途端言葉を止める羽目になった。
 シリスティア。勿論カイラは行ったことがない。
 『想像でしか知らない外の世界では これが普通らしいのだ まる』と、妙に納得してしまった自分がいる。
 いやいやいや、そんなわけがあるか。だが、キュールは一応旅人様だ。それも待望の女性の旅人。自分が目を輝かせて話を聞く対象だ。
 そうなると、途端カイラの根底が崩れてしまった。
 自分は、そう、普通から遠い。嫌っているわけでもないが、縁が無い。そんな人生を歩んでいる。
 故に『普通そうだ』と言われると、非常に弱かったりする。

 カイラは脱力し、へたり込んだ。

「……そう、ですね。とりあえず、そう。でも、怪我をしたら治すでしょう?」
「……うん」
「じゃあ、おいで」

 自分に宿っていたものが消えたかのように、キュールは近付いてきてくれた。
 カイラはキュールの膝に手を当て、スカイブルーの光を宿す。
 眼前に出された膝は、思ったよりは酷い怪我ではなかった。それどころか、その傷跡から子供らしい逞しささえ感じる。最近の怪我では無い。これは成長の証かもしれない。
 これも普通、なのだろうか。規律が厳格に定められた修道院の生活しか知らないカイラには、痛々しさの中に輝かしさすら感じられた。

 そう、経験。
 自分には、経験が絶対的に足りない。

 そこでカイラは胸の中で手を打った。
 そうか経験か。このスライクと会話できるのも、先ほどマルドとの会話という経験を積んだからだ。
 僅かばかり得意げになり、鼻歌でも歌いたかったが、生憎と怪訝な表情でこちらを見ていたスライクと目が合った。

「なにか」
「なんでそんな顔……」

 返答は泣きそうになっているキュールから来た。
 カイラは表情を正し、キュールの治療を終えたところで、はたと気付いた。

「こほん。そういえば、お伝えするのを忘れていました。今、わたくしの務めるマグネシアス修道院にマルド=サダル=ソーグという男性を保護しています」

 彼らが仲間だと関連付ける分かりやすい反応はキュールからしか上がらなかった。
 キュールは顔を輝かせ、スライクは特に反応も無く目を瞑った。

「そこで、どうでしょう。そこでマルドさんと合流されては。貴方たちの装備は山を舐めているとしか言いようがありません」
「会えるの?」
「ええ、勿論。だから……、そうですね、吹雪が止んだら、わたくしがお連れします」
「あの、大きいので?」
「ええ、あの大きいので、です」

 キュールは子供らしく上機嫌になっていた。
 どうやら苦手意識を薄れさせることには成功したらしい。
 これで本人の同意の上で、キュールを保護することができる。
 カイラも上機嫌になり、何の気なしでスライクの方を窺うと、彼はいつしか瞳を開き、眉を寄せていた。
 カイラも同時、眉を寄せる。

 嫌な予感がする。

 先ほど会ったばかりの相手だというのに、彼がそうした表情を浮かべていると、自分まで妙な焦燥感にかられてしまう。
 不安であれば訪ねればよいのに、カイラは何故か、スライクの言葉を待っていた。

「……おい、そこの修道女」

 流石にこれにはカチンときたが、一応返事をした。

「そこにはマルド以外、何か妙なのがいねぇだろうな」

 妙なの。
 その言い方は何を差しているのかカイラには分からなかった。
 だが少なくとも、スライクは何かを察している様子を見せている。
 一体どこに彼が眉を寄せる理由があるのか。あるいは、“どこにも存在しない理由”を、彼は得ているのだろうか。
 訳が分からない質問には答える必要は無い。
 だが生憎と、これだと言える“妙なの”にカイラは心当たりがあった。

「そうですね。貴方も態度を改めざるを得ない方々がいらっしゃいます。巷で話題の、“勇者様御一行”も我がマグネシアス修道院を合流場所に決めたとか」

 巷で話題の。1度でいいから言ってみたかった台詞だ。

 しかしカイラの渾身の台詞を、スライクは聞き流したようだった。ただ小さく唇が動いた気がした。
 そしてそれきり、彼は何も言わなかった。

「ではキュール。貴女は休みなさい。吹雪が止み次第、わたくしがお連れいたします」
「が、がんばる」
「流石に夜は寝るものでしょう」

 頭が揺れていたキュールに微笑みながら、カイラは優しく頭を撫でた。
 やっぱり子供はいい。どこかのお子様に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ、効果があるとは思えないが。

 カイラは敷いた自分の上着の上にキュールが横になったのを確認して、洞窟の外へ様子を窺いに向かった。
 生憎と、まだ吹雪の音が聞こえてくる。上着が1枚ないだけで随分寒い。。
 この雪の向こう、自分がいないマグネシアス修道院は問題が起こっていないだろうか。

 消灯時間を過ぎているとはいえ、暴れ出す子供―――ああ駄目だ、一応彼女も“勇者様御一行”だった。だとすると、やはりお子様が妥当なのだろう―――がいるのを知っている。
 それと、他の懸念点として……。

 ……?

 ああ、そうだ。
 アリハ=ルビス=ヒードストがいたか。あの自由奔放な彼女は、アルティア=ウィン=クーデフォンと同じレベルで警戒する必要がある。

「……そう考えると、早急に戻る必要がありそうですね。セリレ・アトルスの調査は後日にしましょう」

 どうせ見間違いの類だ。
 何かしら院長が納得するものを提示した方が、幾分現実的だろう。

 そういえば。マルドはスライクが、何かを見たと言っていたのを忘れていた。

 この、凍てつく世界の中で。

―――***―――

「全部で3……4人……、あ、5人ですよ。ティアが最後に突っ込んできたのを足して」
「……そう、だ。ごめんね、不安がらせるようなこと言って」

 前述通り謝罪してきたマルドに対し、エリーは手を振って応えた。
 確かにマルドらしからぬ質問に不安を覚えたが、解決したのなら安心だ。

「それじゃ俺はもう寝ようかな。あのカイラって人、あいつら見つけられたかなぁ」
「はい、お休みなさい」
「……うん、エリサスさんもね」

 そう言いながらマルドは背を向けて去っていった。
 そしてエリーは、再度窓の外を眺めた。この激しさではカイラも戻っては来まい。
 カイラ自身はこの山には慣れているだろうから無事だろう。

 だから気がかりなのは。ティアが見たと言う3つの“根源の色”。

 エリー自身、ティアの見間違いを差し引いても、ふたつは当たりだと感じていた。
 もしカイラが、“自分たちにとっての当たりを引いたらどうなるだろう”。
 内と外が混じり合うその“刻”がやってくる。例え今当たりを引かなくとも、数日もすればやってくる。
 窓が消失するのなら、自分は、やるべきことがある。

 氷が解けるその前に。



[16905] 第三十九話『集う、世界(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:fab57741
Date: 2016/06/04 15:02
―――***―――

 山脈は晴れた。

 あれだけ暴れ狂っていた吹雪は一晩も経てば雲ごと静まり、本日は雲ひとつ無い快晴だ。
 層の厚くなった白い大地は浮き上がるように輝き、覆い尽くされた植物の代わりに活力に満ちていた。横倒れになった細々強い木々も、雪に強い影を残している。

 日の出前、に。

 山脈は晴れた。雲ひとつ無く。
 間もなく山の向こうから日輪が顔を出し、世界中を輝かせるだろう。
 世界を先取りしたようなその地帯も、間もなく日光と融和する。

 溶けるように、混ざるように、気取られぬように、何も残らない。

 ただ。
 日の光をその場に残した記録だけは、どこかに静かに刻まれた。
 別の何かを、押し退けるように。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 カイラ=キッド=ウルグスという女性の本日のコンディションは、最悪だ。
 まず頭痛。目もしばしば霞み、強い太陽のもとではまともに開けていられない。喉の奥を生ぬるいスプーンか何かで押さえられているような感覚もするし、熱っぽかった。
 風邪気味だ。昨日、雪山の洞窟などという場所で過ごすことになったのが原因だろう。初期症状なのだと信じたかったが、昨日のドタバタの疲労もあるのだろう、具合が悪い。
 加えて徹夜である。
 睡魔には強いのだが、もともと体力がある方ではないカイラにとっては、ただ起きているだけで苦痛だった。
 いや、別にいいではないかとカイラはふと思う。
 自分は修業の身だ。苦痛大好物、苦行大歓迎のはずではないか。だったら問題無い、それどころか、これを凌駕してもらっても構わない。苦痛よ、もっと来い。むしろ自分の身体はそれを望んでいる―――とカイラが寝ぼけた頭で良からぬ方向に思考を引きずられていたとき、マグネシアス修道院に到着した。

 重ねることになるが、カイラ=キッド=ウルグスは不調だ。
 立ちくらみも起こしているし、瞳を閉じるだけで深い眠りにつけそうな気さえする。

 そんな彼女は。
 今日も、山脈の麓から“数百キロ”の生活物資を修道院に運び込んでいた。

 マグネシアス修道院の門前。
 山のように積まれた木箱を前に、カイラははっと白い溜め息を吐く。
 慣れた作業だったとはいえ、“空”の世界は身悶えするほど寒く、手袋をはめた手も指の先から悴んでいた。頬もピンと張りつめ、表情を僅かに変えただけでヒビが入ったように痛む―――が。暖気を溜め込んだ自室に飛び込み毛布に包まりホットドリンクを飲むことはできない。自分には仕事がある。

「ワイズ。お疲れさまです」

 頭痛が酷くても、聞き慣れた鳴き声は頭に響かなかった。
 カイラの目の前にいる三十メートル近い存在が鳥類を思わせる声を上げる。

 召喚獣・ワイズ。

 巨竜とカテゴライズされる存在から攻撃能力の一切を削り取ったような姿は、全体的に丸みを帯び、カイラの魔力色を反映したように青い体色をしている。
 カイラがワイズの足に括りつけた荷物の紐を外すと、ワイズは最後にひと鳴きし、快晴の空に光となって溶けていった。
 以前、マグネシアス修道院を訪れた専門家に話を聞いたところ、ワイズは移動に長けている召喚獣だそうだ。
 カイラは他の召喚獣を見たことが無いし、何より使役できているとはいえ召喚獣について詳しくないので良く分からないが、とりあえず、それ以来修道院の生活物資の荷運びは自分が担うこととなった。
 不出来であった幼い自分は何度も不平を漏らしたものだが、今となっては誇らしい。何より自主的に始めたこのレスハート山脈の見回りは、数多くの遭難者の命を救ってきたのだ。
 もっとも、どう考えても過剰と思える荷物を毎度運ぶのは些か不満がある。麓への注文を行っているのは院長だが、意外にも彼女は大雑把なのかもしれない。
 ただ、それを差し引いても、今日は荷物が多かった。

「……これ、毎回運んでいるんですか?」

 ギクリとして振り返った。雪に足を取られて転びそうになり、なんとか踏ん張る。
 そんなことを気取らせぬように振る舞いながら、顔を上げると、真っ白の世界に、赤毛の少女を見つけた。
 エリサス=アーティ。3ヶ月ほど前からこの修道院で保護している女性だ。
 彼女をこの時間に見かけたことは今まで無かった。

「おはようございます、カイラさん。昨日は吹雪が止んで良かったですね」
「え、ええ。おはよ……んん、おはようございます。お陰さまで、んん、2名を救助できました」

 人に出すような声色ではなかったかもしれない。
 カイラは喉を押さえ、調子を整えると、続けるように言った。

「エリサス様」

 そう。
 目の前のエリサス=アーティ嬢は、誰あろう、“話題”の勇者、ヒダマリ=アキラ様のお仲間なのだ。

「……エリーでいいですって」
「いえいえ、そういうわけにもいきません。お早いですね、あまり無理をなさらずに。ここは冷えますので」

 何だこの完璧な対応は。本当に自分は不調なのか。もしかしたら、自分が気づいていないだけで、絶好調なのかもしれない。
 小躍りでもしたいところだったが、止めておいた。

「これ、中に運ぶんですよね、手伝いますよ」
「いえいえ、そんなわけには。量もありますし、中の者にやらせますので」

 変わりにカイラは、ピシッと姿勢を正し、さもこの修道院の支配人のように振舞ってみた。
 やってみたかった。後悔はしていない。
 ただ、目の前のエリーは、はあ、と声を漏らしただけだった。
 調子に乗り過ぎたかもしれない。だが、勇者様には最大級の敬意をという“しきたり”の後ろ盾もある。
 のだが、流石にそろそろ慣れぬ真似は止めた方が良いだろう。
 見知らぬ仲でもないのだからとカイラは姿勢を崩し、うんざりするような表情を作って荷物の山を見上げた。

「今日はずいぶん荷物が多くて……」
「いつもはもっと少ないんですか?」
「ええ、まあ。院長ももう少し考えて発注していただけると助かるんですが」

 声を殺して呟いた愚痴に、エリーは初めて笑った。
 そこでカイラは眉を寄せた。そういえば、今まで彼女はどういう表情を浮かべていたのだろう。思い出そうとしても、ぼやけた頭では記憶を拾えなかった。
 だが、代わりに別のものを拾ってきた。

「そうだ、そうです。もしかしたら、シリスティアからの献品かもしれません」

 昨日、遭難者として修道院で保護している男性、マルド=サダル=ソーグがそんなことを言っていた気がする。
 麓での検品のときも、郵便物としてシリスティアから送られてきた荷物がいくつかあったはずだ。
 箱の山をざっと見渡して宛名を見つけると、確かに、エリサス=アーティ宛ての箱があった。どうやら、シリスティアの魔術師隊から送られてきたようだ。

「そのようですね。ではすぐに中に運びましょう」
「あたし宛て、ですか?」
「ええ。手紙を書いたのは貴女だからでしょうか。ああ、本当に凄いです。貴女が“火曜の魔術師”として認識されているのでしょう」

 感動に打ち震えたカイラに、エリーは何も言ってこなかった。
 それだけ枠から外れた反応だっただろうか。カイラは怖くなり、もう1度咳払い。

「では、わたくしは人を呼んできます。いつまでもここにいたら本当に風邪をひきそうでして……。エリサス様も、」
「エリーでいいです」
「え、ええ、では、エリサスさんも、行きましょう」
「あたしはいいです。もう少しここに」
「そうですか、では」

 普段は気にしていないが、積荷の見張り番も欲しいところだ。
 以前この警備体制の穴を突かれ、つまみ食いをされたこともあるし、エリサス=アーティは適任だろう。

 ……?

 誰に穴を突かれたのだったか。
 カイラは考えようとして、止めた。

 これ以上、頭痛と付き合うのはたくさんだ。

―――***―――

 ヒダマリ=アキラという異世界来訪者は雪を見慣れていない。

 元の世界のどこに住んでいた、という話はこの世界の人間にしても仕方が無いので省略するが、少なくとも、雪国と言われる地域ほど頻繁に天気の崩れるような場所には住んではいなかった。
 ただ、決して威張れることではないような気はするが、自信を持って自分は童心を捨ててはいないと言えるアキラにとって、雪とは喜ぶべき天からの宝物である。
 雪だるま、雪合戦、カマクラ……は手間がかかるから作ったことは無いが、とにかく、雪で遊ぶ方法などいくらでも思いつける。

 そんなアキラは、深々と白い息を吐き出し、呟いた。

「雪死ね」
「聞こえた……こほん、聞こえましたよ、アキラ様」

 レスハート山脈のとある地点。
 温かそうだから、という安易な理由で選んだ橙色のコートを首までうずめて歩くアキラに、隣から非難の声が聞こえてきた。
 長刀を腰に差し、アキラと同じ色のコートを纏いながらも胸元から紅い衣を覗かせている長身の女性は僅かばかり背後を気にし、触れれば切れるような瞳で冷ややかな視線を送ってきた。これ以上凍えさせられるなど冗談ではない。
 アキラは息を殺して弁解した。

「でもよ、サク。昨日の吹雪は何なんだよ……。あんなの、ティアだったらぴゅーんって飛んでくぞ。地獄ですよもう」
「……不満なのは分かったから口を慎め。その地獄に住もうとしている人たちがいるんだぞ」

 サクも声を殺して呟いた。
 この少女、サクことミツルギ=サクラは紆余曲折ありひと月ほど前からヒダマリ=アキラの従者となった長身の女性だ。
 逸れた仲間と合流すべく、アキラと彼女がこのレスハート山脈に入ってから今日で2日。
 最初は物珍しかったものの流石に全く景色が変わらないとなるとアキラの心も折れかけ、止めは昨日の吹雪である。
 延々と続く登山活動に、アキラも弱音を吐きたくなってきた。
 しかしどうやらそれは自分だけらしく、隣の旅慣れたサク、そして、背後に続く4人の男たちからは不満の声は上がっていない。
 今も全員が同じ白いコートを頭から被り、忙しなく視線を周囲に向けている。

 彼らと自分たちが出会ったのは、昨日、このレスハート山脈を猛吹雪が襲う直前のことであった。ようやく逸れた仲間が足止めを食らっているレスハート山脈に辿り着いたものの、アキラには登山経験が無かった。旅慣れているサクも流石にここまで見事な雪山となると経験に乏しいらしく、しかし麓で足止めを食らっていても仕方ないと想像できる必須用品だけを抱え、特攻するような覚悟で雪山を進んでいた。
 そのときだ。どうやら同じようなルートで雪山を進んでいたらしい彼らと出会ったのは。
 何でも彼らは元々モルオールの住人らしく、住居を求めてモルオールを調査している集団の一員らしい。
 アキラはそのとき初めて知ったのだが、モルオールは現在深刻な土地不足に陥っているらしい。
 荒れ地全てが危険地域とされるタンガタンザと違い、モルオールの魔物たちは村、あるいは町といった人の集団を狙う習性があるそうだ。
 そのため多くの住居が失われ、俗に言う浮浪者というものが増えている。
 そんな背景もあり、モルオールには住居調査団という組織が作られていた。
 魔物に狙われるとしても、住居というものは人の生活には必須となる。
 しかし数多の浮浪者に勝手に村を作り出されても結果は目に見ているので、彼らはモルオール中を練り歩き、魔物に耐え得る場所であるか、運搬ルートを確保できる場所であるか、生活を営める場所であるか、等々を調査するのが住居調査団だ。
 そのメンバーである彼らは幸運なことに、登山に同行してくれた。
 数人では心細かったから丁度いいとのことだが、雪山初心者のアキラにとっては大歓迎だ。
 実際、彼らがいなければ昨日の吹雪を乗り切れたとは思えない。彼らの装備が人数に比してやや過剰だったのは幸運だったのだろう。
 その交換条件に、彼らの土地調査を手伝う羽目にはなったのだが、アキラもサクもこぞって首を縦に振った。
 しかし、そんな大恩人な彼らには酷だろうが、アキラにはこのレスハート山脈が住居に適した場所だとは到底思えなかった。

「と言っても、モルオールはもうそんな僅かな可能性にかけ続けなければならないのですよ」

 アキラの心を読んだように、後続のひとりが呟いた。長身の男だ。どうやら先ほどのサクの囁きが聞こえていたらしい。

「ああ、すまない。アキラ様もそんなつもりで仰ったわけではないんだ」

 長身の男は力なく微笑み、そしてアキラはサクの裾を引いた。
 そしてぼそぼそと呟く。

「……サク。その言葉使い、何とかならないのかよ」
「何を言うアキラ。私はお前の従者だぞ。お前も世間体というやつを気にした方が良い。お前は“勇者様”だ。百年戦争を止めたとなれば、流石にそろそろ騒ぎになるだろう」

 ふたりきりだとこうした口調なのにどうしてこうなった、とアキラは大いに嘆いた。
 確かに自分は百年戦争を止める特殊護衛部隊とやらに属していたが、未だにピンとこない。元の世界ではその他大勢の内のひとりでしかない自分が有名になる(らしい)というのも想像ができなかった。
 あの燃えるような戦場をやり過ごして今や凍える雪山。
 人生とは何が起きるか分からないものである。

 そんな悟りを開いたアキラは、ふと思いつき。

「じゃあ、その噂が広まるまでだ。それまでどうか普通のお前でいておくれ……」
「今さらは無理だろう……、まあ、考えておく」
「そこを何とか」
「……ご命令であればそう仰って下さい、アキラ様。何でもいたします」

 こういうのを何と言うのだったか。慇懃無礼だったか。使いどころが違う気がするが、少なくともサクから敬っている気配は見受けられなかった。
 どうもあの“刻”から、サクとの距離感が図り難い。

 そこで背後から、『“アキラ”……。やはりどこかで聞いたような』という呟きが聞こえてきた。最後尾を歩く小柄な男だ。
 一瞬サクにも聞こえたかと様子をうかがったが、どうやら彼女は聞き逃したようだった。
 山道は続く。

「おお」

 誰かから声が漏れた。
 開けた丘だ。雪山の中腹であるが頂上付近で傾斜も緩い。落石や雪崩の心配も薄そうだ。
 何より景色が良い。
 遠くの空まで見渡せる上、レスハート山脈が一望できる。加えて今日は快晴だ。寒さを我慢すれば空気も澄んでいて爽やかささえ感じられた。

 4人の男たちは僅かに会話をすると、ひとりを残して即座に散らばった。
 何度か見たが、調査の時間だろう。

 土地調査、というものが具体的に何をするのかまるで分からないアキラとサクは、彼らの警護が主な仕事になる。もっとも、朝から魔物の姿は見ていないのだが。

 サクが散らばった男たちの周囲を警護しにいった。
 アキラは残った、恐らくはリーダーと思われる年輩の男の護衛となり、楽なのだが、ここまで見晴らしが良いとなるとむしろ危険なのは身動きしていないこの男だ。
 気を引き締めねばなるまいと決意しつつ、サクは働くなぁ、と男たちを回る彼女をのんびりと眺めていた。

 “過酷”なモルオール。
 そう言われて気を引き締めていたが、出現頻度も、そして魔物のレベルも高くなく、アキラは正直肩すかしをくらっていた。
 それともモルオールの中でこのレスハート山脈は比較的安全な場所なのだろうか。
 だとしたら最高だ。
 何せ逸れたふたりは、彼女たちは、今この地にいる。
 無事でいてくれればそれだけでいい。そう願ってあの煉獄から日々を絶って、今、ようやくここだ。
 手紙にあったマグネシアス修道院はタンガタンザとモルオールの境にある。彼らの調査がひと段落つけば、自分たちは迷わず彼女たちを目指せる。
 本当に、ようやく、会える。感動に、思わず涙腺が緩みそうになった。

 そして。
 もうひとつの感動。

 方角は違うかもしれない。
 そして、決して届くわけがない。

 だがアキラは、山を眺め、そしてその遠くを見通すように、ひっそりと、呟いた。
 “平和”な大陸に落とされ、“高貴”、“非情”と巡って、ようやく辿り着いた“過酷”。

 そこには。

「やっと来れたぜ―――“イオリ”」

 彼女には、色々と訊きたいこともある。

「ところで」
「は、はい?」

 途端声をかけられ、アキラはいささか大げさに振り返った。
 残った年配の男が、咳払いと共に話しかけてきた。この男とは初めてまともな会話をした。どうやら昨夜の吹雪は、このメンバーの親交を温めたらしい。

「よく僅か2名でモルオールに入ろうとされましたな」

 あまり声を聞いたことは無かったが、思った以上に渋い声だった。

「え、ええ。この山の魔物って、あんまり強く無いんですかね?」
「さあ、私どもはそちらの方はからっきしで」

 じゃあどうやってモルオールの山に入ろうと思ったんだ、と内心思ったが、アキラは何も言わなかった。
 もしかしたらそもそもレスハート山脈には魔物がほとんど生息しておらず、自分たちが出遭った魔物は、自分の属性が引き寄せただけなのかもしれない。

「旅は長いようですな」
「え、ええ、まあ? それよりあいつの方が長いですよ。小さい頃から旅してたらしくて」
「それはそれは。お付き合いいただいてますが、助かっています」
「それは俺たちも同じですよ。昨日は酷かったし」
「はは、お互いいい出会いだったようで」

 思ったよりもずっと人当たりのいい人のようだった。
 声と同じく渋めの顔で勝手に苦手意識を持っていたのは悪かったのかもしれない。

「それと、失礼ですが」
「はい?」
「いや、少々気になりまして。もしかして、あなたは高貴なお方なのでしょうか。何分世辞には疎いもので、失礼があると申し訳なく」

 サクの態度の影響で、彼もアキラに委縮していたのかもしれない。
 それはそれで面白いと思ったが、サクの態度についての問題を思い起こし、アキラは頭を押さえた。

「いや、そんなことはないです。あいつが大げさなんですよ」
「は、はあ」
「それより、あなたたちっていつも4人で行動しているんですか?」

 話を逸らすだけのつもりだった。
 目についたものをそのまま口に出したような気持ちで出した軽い質問に、年輩の男は、あっけにとられたような表情を浮かべた。

「……え?」

 何だ。この、表情は。

「いや、だから、いつも4人で、」
「お待たせしました。ここは、おっと、お話し中でしたか」
「ああ、いや、すみませんが、お話はまた後ほどでよろしいですかな」

 いつしか調査団のひとりが駆け寄ってきていた。どうやら調査はひと段落していたらしい。
 アキラは頷いて、ゆっくりと距離を取った。仕事の邪魔をするのもはばかれる。
 漏れてくる会話を盗み聞けば、どうやら芳しい成果を上げられなかったようだ。これからも調査は続くだろう。

 それに比べれば、自分の疑問など、所詮、そう、“所詮、ただ僅かな違和感を覚えた程度だ”。

 それからすぐに、サクと男たちが戻り、さらに別の土地へ向かうことになった。
 山道は続く。
 いたって普通に。

 だが妙に、先ほどの男の表情が脳裏に残る。あの、不意を突かれたような、認識できない言葉を聞いたかのような表情が。

 進みながら、アキラはひとり黙考し、そして首を小さく振った。
 つい先日まで戦場のただ中にいた自分は、もしかしたら過敏になっているのかもしれない。ただ、自分の言葉が聞き取れなかっただけかもしれない。

 “いや、例えそうだとしても”。

 アイルークの銀の魔族。
 シリスティアの鬼。
 タンガタンザの百年戦争。

 そうだった、とアキラは心の中で呟く。

 これらは全て、自分がその大陸に訪れた“刻”に渦中に巻き込まれた事象であり、“事実”だ。

 そしてこのモルオール。今自分は、初めてこの地の旅をしている。
 もしこの山脈に事件の“種”があるとすれば―――間違いなく、芽吹く。

「なんにせよ警戒か」
「? どうした?」
「いや、なんでも」

 サクに小声で返し、アキラは表情を引き締めた。

 凍えるように冷えた世界で、今までただただ震えていた感覚に、しかしアキラは強く拳を握り絞める。

 来るなら来い。
 それならそれで、用意がある。

 アキラは背に縛り付けた剣の感触を探った。

―――***―――

 そこに、誰かが、座っているような気がした。

「……あ、カイラ。……今度は止まってくれたね」

 修道院に入ってすぐに構える大聖堂。
 誰が来るのか参拝者用の整列された幅のある椅子にくだけて座っていた彼女は、最奥中央の巨大な偶像から首だけ動かしてこちらを見た。
 茶が入った癖の無い長髪で、垂れ目の、全身から気だるい雰囲気を醸し出す、女性。

 ……?

「……あ、ああ、アリハ。おはようございます。貴女にしては随分な早起きですね」

 多分自分は、呆けたような表情を浮かべていただろう。
 カイラは悟られぬように顔を引き締め、彼女、アリハ=ルビス=ヒードストに向き合った。

「うん、眠いよ。でも、……ううん、そうだね。おはようカイラ。いつもの宅配便?」

 さて、さて、さて。
 これ以上彼女を相手にしている暇は無い。

「それではアリハ。わたくしは急ぎますので。エリサスさんをいつまでも寒い中荷物番にしておくわけにはいきません」

 言って、カイラはそのまま聖堂脇の扉へ向かった。
 今から自分は、荷を運ぶ人員を確保しなければならない。
 普段から仕事をさぼるようなアリハは最初から戦力外だ。

「ところでさ、カイラ」
「ひゃあ!?」

 廊下へ足を踏み入れたカイラは、突如冷たい手を首元に押しつけられた。
 ギクリとして振り返ると、いつの間に背後に立っていたのかアリハがにこやかに笑っている。
 恐らく青筋を浮かべているであろう自分の顔をアリハに押し出し、カイラが怒鳴ろうとしたところで、

「私、手伝おうか?」

 そんなことを言い出した。

「……は?」

 これは夢か。
 あの役に立たないアリハが何を言い出しているんだと思わず口に出そうとし、カイラは思い至った。
 そうだ。彼女は自分の仕事はサボるが、有事を抱えた人を見ると妙に積極的になるのだ。何故忘れていたのだろう。
 それで、昨日も、確か。

「……そうですね。表にワイズに運んでもらった荷があります。それも、大量に」
「荷物? ……あ、それでエリーちゃんが見張りをしているんだ」

 そうか、思い出した。
 積荷を盗み出すのはこの女だ。
 カイラはわなわなと震えつつ、当てが外れたように口を尖らすアリハに続けて言った。

「ですので、人を呼んできて下さい。わたくしも呼び集めます」
「ふぅん。前は、あの寒い聖堂で皆カイラを待っていたんだけどね」

 そういえばそんな時期もあったか。おぼろげで、もうほとんど覚えていないが、時間を見計らって何人か集まっていたことがあった気がする。どうやら今は皆、カイラが呼ぶまで部屋から出て来ないようだが。非力な自分ができない仕事を頼む手前、カイラにとってはそちらの方が気は楽なのだが。

 そこでふと思い至った。

「そういえばアリハ。貴女は何時からあの聖堂で遊んでいたのですか。随分手が冷たいようでしたが」
「…………そか」

 アリハは、小さく、呟いた。

「酷いなぁ、カイラ。私は昨日サボっちゃった分、ちゃんと聖堂の掃除してたんだよ」

 打って変わって、胸を張ってアリハは言った。
 出発時には聖堂にそんな様子は見受けられなかった。自分がワイズでこの山を上り下りしている間にしていたのだろう。ひとりで掃除というとまあまあ妥当なところなのかもしれない。
 嘘でなければ、だが。

「まあ、それはいいでしょう。それより今は人集めです。5人もいればいいので」
「うん、了解。じゃあカイラは休んだ休んだ。召喚獣って、結構疲れるんでしょ?」
「そういうわけにはいきません。特に、貴女に任せるのはわたくしにとって危険極まりないので」
「酷いなぁ、本当に。でもカイラ。立派に、なったよね」
「?」

 ゆったりと微笑んだアリハに、カイラは眉を寄せた。
 随分と久しぶりに見たような、もしかしたら初めて見た表情かもしれない。
 自分が立派になったと言うのなら、彼女はどうだろう。
 付き合いだけなら―――生まれたときから一緒だ―――かなり長い。
 それほど長い時間の中、彼女はどう変化したのだろう。しかしその答えが、カイラには分からなかった。

 あるいは、自分の変化さえも把握できてはいない。
 自分は立派になった、らしい。確かに不平不満を口に出すだけの子供の頃より、自分は立派になった。その自信はあるし、一方でまだまだ精進が足りないという向上心も持ち合わせている、と思う。
 だけど―――神よ、お許しください―――自分は、この修道院だけで生涯を終えるのだろうか、と考えると、妙な寒気がしてしまう。
 外界から隔絶され、麓から荷を運び、遭難者を救助し、神に祈るだけの毎日は、本当に世界を輝かせているだろうか。
 子供の頃に覚えた悪しき想いだ。
 世界は悲哀に満ちている。
 遭難者を救うことは大変価値あることだと思うが、例えば自分が、無事に下山できる“かもしれない”人間を救っている間に、世界のどこかで、手を差し伸べれば救えた尊い命が確実に消滅している。

 命に差は無い。だが、自分が差し伸べるべき手は、果たしてどちらだろう。

 そこで。

「っ」

 浮ついた気持ちが引き締まり、さっと血の気が引いた。
 ふと目に入った窓の外。その向こうに、長身の人物を見つけてしまった。
 雪に紛れ込むような白髪に、腰にぶら下がった大剣。
 特徴的な後ろ姿は、まるで背後を惜しむことなく、ずんずんと山を下っていく。

「…………アリハ、絶対に、わたくしが頼んだことをお願いします。わたくしは、今から行かなければならないところがあるので」

 アリハは見ていなかったようで、首を傾げている。
 だが、人員集めはアリハに何としてもやってもらわなければならない。

「あのさ、カイラ」
「あれ、だけ……」
「もしかしたら、ごめんなさいになるかもしれないけど、やっておくよ」
「あれ、だけ、部屋から出るなと言ったのに……!!」
「カイラ、聞いてる?」

 アリハの言葉を聞き流し、カイラは男の後を追った。

―――***―――

「どこへ行く、おつもりですか」

 いくら男性に苦手意識を持っているとしても、この男だけは例外だ。野放しにすることは心情に反する。

 雪の足場を崖に気を付けながら駆け、2度3度の呼びかけにも応じず突き進んでいた男の前に回り込み、それでも、口元だけは笑みを作りながらカイラは男を睨んだ。
 マグネシアス修道院の正門から正面へ進むと、落差の激しい崖がある。うねった坂道を4往復もすると崖の下に降りられるが、道幅は狭く、雪山に不慣れな者ならば危険極まりない道だ。
 これでも一応、マグネシアス修道院へ向かう正規ルートという扱いだが、召喚獣を操るカイラにとっては久しく使っていなかった道だ。何なく下り切れるとは、どうやら登山の能力は錆ついていなかったらしい。
 もっとも、上から声をかけたときにこの男が足を止めてくれればそんな検証をするまでもなかったのだが。

 目の前の白髪の男は足こそ止めたが、息を弾ませるカイラを静かに眺めるだけだった。
 スライク=キース=ガイロード。
 この長身の男は、昨日、幼い少女のキュール=マグウェルと共にカイラが雪山から“救出”した人物だ。

「昨夜、お伝えしましたよね。どういうわけか、キュールは貴方に懐いています。貴方が勝手に出歩いてしまうと、あの娘も危険な目に遭うかもしれません」

 白い息を弾ませながら、カイラは昨夜の様子を思い起こす。
 キュールという、小さな少女。彼女はやたらとスライクの身近にいたがる節がある。
 今この場にいないということは、この時間だ、未だ眠りの中なのだろうが、スライクが雪山へ向かったとなれば目を離した隙に後を追ってしまうかもしれない。
 カイラはこの雪山の危険性を理解している。
 彼女は子供だ。束縛することは行き過ぎとしても、大人は子供に道を示さなければならない。
 故に彼の態度は、看過できない。

「……、」

 スライクが、口を開きかけた。
 カイラは表情を険しくして、言葉を待つ。昨日の彼の態度は放任主義を立て前にしたような不認知。それだけは何としても正さなければならない。
 だが、彼が口にしたのはカイラがまるで意識していない言葉だった。

「セリレ・アトルス」

 脳のツボを押されたような気がした。
 スライクが発したその単語は知っているはずなのに、カイラはまるで反応できない。
 スライクは、昨日の嘲るような表情とは違う、“どこにもない何か”を捉えるように、金色の眼を雪山に向けた。
 朝日に輝く雪山が、何故か、カイラには一層寒く見えた。

「昨日の場所ならおおよそ分かる。俺は今からそこへ行く」
「は……、え?」

 ようやく思考が働き始めたカイラには、数々の疑問が浮かんだが、それよりも早くスライクは言葉を続けた。

「あのガキに纏わりつかれちゃ洒落にならねぇ。だから今行くんだよ」

 歩き出そうとしたスライクを、カイラは手を開いて防いだ。説明が不十分だ。
 真正面に立たれると妙に委縮してしまうが、彼は諦めたように足を止めてくれた。

 物騒な物言いで強引に突破してくると思ったが、意外にも彼は白い息をゆっくりと吐き出しただけだった。

 何故こうも、彼は静かな表情を浮かべているのか。
 カイラは荒ぶっていた感情を抑え込み、ようやく質問を絞れた。

「貴方は、セリレ・アトルスについて何かご存知なのですか」

 セリレ・アトルス。
 『沈まぬ太陽』と言われるそれは、このレスハート山脈の伝承だ。
 闇夜に浮かぶ日輪。
 自然の摂理に逆らう“災厄の証”ともされ、不吉の象徴として細々と語り継がれている。
 レスハート山脈で滅びた村の人々の魂と言われており、目にした者は魂が抜かれるらしいという逸話まである。
 幼き日、修道院の誰かに怪談話のように教わったカイラも、恐怖で眠れぬ夜があった。
 もっとも、そうした怪談はレスハート山脈だけに留まらず、世界各地でいくつもある。何が真実で、何が作り話で、何が単なる身間違いなのかは分からないが、少なくとも、今のカイラにとっては修道院長様直々に調査を命じられた対象だ。

「マルドの野郎が調べたことだが」

 マルド、とは、現在修道院で保護しているマルド=サダル=ソーグという男性だ。
 昨日はうやむやになって訊き出せなかったが、やはりマルドはセリレ・アトルスについて何か知っているらしい。

「この雪山で、消えている奴が何人もいる」
「……ええ。レスハート山脈では、いくつも村が滅びています。それはわたくしも知っていますよ。ですから、わたくしどもが毎日悼んで、」
「てめぇは、ここ数十年で何人消えたか知ってんのか」
「……?」

 スライクが静かに続けた言葉に、カイラは眉を寄せた。
 知らない。そうとしか答えられない質問だ。
 レスハート山脈にいるとはいえ、ここはモルオールの国からあまり管理されていない。ほとんど放置と言ってよい。
 だから、その不特定多数の人間の霊を、不特定多数のまま弔うために、マグネシアス修道院があるのだ。

「正確な人数なんざ知らねぇし興味もねぇ。だが、物好きな野郎が調べた限りじゃ大都市だってでき上がるそうだ。村を創り始めた奴も、もともと住んでいた奴も、登山客も合わせてだがな」
「そ……それは、“過酷”なモルオールですから。魔物も、凶悪です、し」

 スライクの口調は淡々としていた。何の感情も無い乾いた声。
 だが、カイラは自分が責められているような錯覚に陥っていた。
 外の情報が極めて集めにくい閉ざされた空間では気付けない。もしかしたらこのレスハート山脈は、呪われた地とでも言われているのだろうか。

 自分が神に祈っている間に、一体何人雪山に沈んでいたのだろう。

「だがよ、ぶっ殺した限り、この雪山の魔物の質はほどほどだ。そもそもモルオールの危険地帯から逃れた先がこの山なんだからよ。だが何故か、まともに生活できねぇらしい。例外なく村を滅ぼすなんざ、どう考えてもそこらの魔物じゃ無理だ。必ず取りこぼしが出る」
「……で、では、貴方はこう考えているのですか。この雪山には、よく見かける魔物以外にも、例外なく村を滅ぼせる魔物がいると」
「ああ。そして数人だがな、運良く逃げ帰れた奴らは見たらしい。夜の日輪を、な」

 そしてカイラの頭の中で、ひとつの結論に結び付いた。

「まさか……、貴方は“セリレ・アトルスが魔物の仕業”だと?」
「それを今から見に行くんだろうが」

 スライクは当たり前のように肯定した。
 だがそのロジックに、カイラは頷けなかった。
 セリレ・アトルスはあくまで単なる噂話。“災厄の証”というのも、単なるこじつけであろう。見た人が多いと言うのは、そういう錯覚を起こす気候的な理由である。
 カイラの中で、セリレ・アトルスというのはそういう存在であるし、多くの人もそう思うだろう。
 一方スライクは、セリレ・アトルスという空想の存在を現実の世界に落とし込んで考えているようだ。
 だが、セリレ・アトルスが魔物の仕業であるとしたら―――“魔力の仕業であるとしたら”、常識に疎いカイラでさえも、分厚い壁を乗り越えなければならない。

「つまり貴方はこう言っているのですよ―――“日輪属性の魔物が存在すると”」
「斬り殺すのに相手の色が関係あるかよ」

 だからどうしたと言わんばかりに、スライクは“異常”を飲み込んでいた。

「俺は今からそこへ行く」

 スライクは繰り返し言った。昨日見た、嘲るような表情でも、激怒している表情でもなく、獲物を狙う狩猟動物のような瞳で。
 どこか遠くを、睨んでいる。

「分かったらどけ。あのガキなら、どうせマルドが言いくるめる。お前には関係ねぇだろう」

 反発心もあったのだろうか、カイラは何故か、指示には従わなかった。
 この男が不在の間、どうやらキュールの世話はマルドがするらしい。昨日見た、穏やかな印象を抱かせる男性だ。少なくともこの男よりは子供の扱いには長けているだろう。
 であれば、カイラにとって、この男を止める理由は無い。キュールが無事なら問題無いし、この男が単身で雪山に進んでいっても沈む姿は何故か想像できない。

 しかし、ふと思う。

 この男の、今の、静かな空気。
 それは、彼の言葉を借りるならば、周囲の人間との、あるいは、世界そのものとの繋がりを斬り殺して作り上げられたものではないかと。
 今の彼のような空気を持った人間を、カイラは何人か見たことがある。
 遭難など恐れもせず、ひとりでこの雪山を訪れ、マグネシアス修道院に立ち寄った旅人たちだ。
 壁に隠れて出発の様子を見ていたカイラは、いつも、彼らが修道院を切り捨てて行くような錯覚に陥っていた。
 きっと彼らは、旅先で、この修道院のことを思い返したりはしないだろう。この何も無い雪山の建物を、忘れていってしまうだろう。誰かに訊かれれば思い出すかもしれないが、それまで、記憶の奥に沈んだままだ。ましてや、カイラ個人を覚えているような人間などいない。目の前の彼もきっとそうだろう。

 だから彼は、静かなのかもしれない。
 カイラにとって関係の無い世界へ向かうのだ、熱を込めて口を開くことは無い。
 ただ事務的に、“その他”を払いのけるためだけに口を開き、視線は自分の世界を追っている。
 当然と言えば当然。

 そして、自分もだ。
 自分は、過去に救った遭難者の顔をほとんど思い出せない。
 男性が苦手で、言葉をほとんど交わさなかったというのは言い訳にならない。遭難者には女性もいた。
 だがそのほとんどを、自分は事務的に保護し、事務的に手当てをし、そして見送った。閉じられた日々を繰り返した弊害だ。
 恩を売るつもりはないが、きっと、自分が救った遭難者はカイラ=キッド=ウルグスを覚えているというのに。
 こんなことでは、自分が何をしているのか見失って当然だ。

 強く想おう。
 自分が覚えた存在が、自分のことを忘れていく。
 それはとても、寂しいことだ。

「分かりました」

 言って、カイラはスライクを見据えた。
 近距離だと仰ぎ見るような体勢になってしまう身長差だが、どうやら男性と目を合わせることには慣れてきたらしい。

「セリレ・アトルスの調査はわたくしの仕事でもあります」

 寝不足と、体調不良のせいにしておこう。
 荷運びの仕事は終わっていないが、それ以外の仕事は特務で欠勤。問題無い。
 ちょっとした冒険だ。結局ただの見間違えだったとしても、それはそれで、きっと自分の存在は何かに刻まれる。

 カイラは最後の段差をはしたなく飛び下り、目僅かに開けた雪の上で目を閉じ、“自分の分身”をイメージした。
 そして、雪がスカイブルーに輝いた。
 カイラが目を開けると、愛嬌のある巨竜が喉を鳴らしていた。

「ワイズ、ごきげんよう」

 いつも通りの光景に微笑み、カイラは得意げになって振り返った。

「貴方も、空から行った方が楽でしょう?」
「着いてくんな。煩わしい」
「ちょっと!?」

 雪山を進むスライクに並走飛行して、召喚獣の便宜性を雄弁に語り続けると、彼はようやく舌を鳴らして飛び乗った。

―――***―――

 何かの分野で、自分の限界はここだと決めつける。そういう考えを、マルド=サダル=ソーグは否定しない。
 自分を客観的に見積もることは、決して、不利益ではないのだから。
 可能性を自ら摘み取る。努力が足りない。そういう酷評はごまんとあるが、所詮他人だ、言わせておけ。
 だから否定はしない。見積もりが正確で、本人がそう言うのであれば、それは確かにそうなのだろう。
 その人物の、その分野での限界は予め決まっている。残酷でもあるが、それは事実だ。
 しかしそれが正しいと認める一方で、マルドはそれが言い訳になるとはまるで思っていない。
 何かの分野で限界があることは認めている。だが、人生の中、迫りくる数々の問題を解決するためには、別の分野の力を借りればいいだけだ。
 算術に疎くとも記憶力があれば典型的な問題の答えを丸暗記して解答率を上げることは可能であるし、記憶力に疎くとも鋭い論理的思考が備わっているのであれば古事の事柄を推測できるかもしれない。
 幼少の頃、地方を転々としていた影響でまともに学問を受けられなかったマルドはまっとうな学習を諦め、各科目のツボ“ではなく”、いずれの分野でも“総合力”で迎え撃つ方法を考慮し続けた。
 今にして思えばまともに学習しても同じ労力だったのかもしれないが、過去の出題率から教諭の性格までも情報として集め、試験問題に臨んだものだ。

 学業を修めた後でも、どうやらその癖は抜けていないらしい。
 例えば雪山の魔物に抗える戦闘能力に乏しくとも傭兵を雇えば戦力を補って山を登れるし、財力に乏しくとも情報に聡ければ魔物が出ない安全なルートを割り出せる、と考えている。

 不遜な考え方だが、迫りくる問題に、正面から正々堂々向かう必要は無いのだ。
 大切なのは能力の分配。真っ向から解決できない問題には、自らの能力を問題解決のための分野に適切に配分すればいいだけのこと。要は、裁量だ。能力を上手く裁量できれば、最適な行動が取れ、問題の解決に近付く。
 それが1度で解決できないことならば、複数回に渡って布石を打ち、結果を手に入れれば良い。
 無理なら無理で、かわしてしまえばいいとさえ思う。諦めて他の方法を視野に入れるのは、立派に裁量だ。

 だから今、マルドは思う。
 諦めるか、数度に渡って運べばいいのに、と。

「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!!!!」
「いやもうどう見ても無理でしょ、それは」
「いいえっ、マルドン!! あっしの限界はここではありません!! こんな木箱のふたつやみっつ、容易く持ち上げて見せましょう!! って、あ、お騒がせしてます!!」

 自身の腰ほどの高さ。両手を精一杯広げてようやく抱きつけるほどの幅。
 どうしてできると思ったのか甚だ疑問だが、ティアと呼ばれていた少女、アルティア=ウィン=クーデフォンは重なった3つの木箱を持ち上げようとしていた。
 マグネシアス修道院の門前。
 一体いつから置かれていたのか、うず高く積まれた木箱を発見したのは、つい先ほど。この修道院の目覚まし時計の役割でも兼ねているのか、聞き覚えのある奇声に誘われて足を運んだときだった。

 一応男子禁制らしいこの修道院で、朝から堂々とうろつくのもどうかと思ったが事情が事情だ。
 同じく何事かと飛び出してきた修道院の面々に驚かれはしたものの、呆れたような表情で微笑まれただけだった。
 飛び出してきた彼女たちの様子を見るに、ティアのあれは今に始まったことではないらしい。
 その元気を上手く分配できれば、筋力に乏しくとも3往復するぐらい訳は無いと思うのだが。

「えっと、あれは何故こんなところに?」
「ああ、きっとカイラさんが運んで来たんですよ。そっか、今日その日だったんだ。そろそろだとは思ってたんですけどね」

 数人横並びになっていた集団に声をかけると、その内ひとりが答えてくれた。
 修道服をびっしりと着込んだ名前も知らない若い女性だ。その他の女性たちも全く同じ服装なので初見ではなかなか区別できない。
 だが、昨日訪ねてきたカイラとは違い、どうやら普通に話せるらしかった。

「ふぅん、そのカイラさんはどこに行ったのかな」
「うーん、いつもなら部屋まで呼びに来てくれるのに」

 ほとんど独り言のような言葉も拾って返してくれた。言葉にも棘が無い。どうやら自分はここにいて良いようだ。
 昨日注意された手前、彼女たちも何か言ってくるかと思ったが、どうやらこの修道院にはルーズな人間もいるらしい。
 最奥のひとりが笑いながらからかうように『ティアちゃんファイトー!!』と叫んでいるところを見ると、修道院といえども年相応、ということか。
 ティアもそれに答えてさらに力を込めたところで、流石に危ないと察してマルドは木箱に手を添えた。
 彼女の方も力を抜き、真っ赤になった手で頭をかいた。

「あ、言ってませんでした、おはようございます。今日はいい天気ですね、マルドン!」
「うん、俺も言ってなかったけどマルドンは止めようか」
「えっ、じゃあ、別の何かを考えた方が……」
「……」

 愛称以外で人を呼ぶことは心情に反するのだろうか。
 ティアという少女とあまり会話をしたことは無かったが、あのエリサス=アーティにこういう仲間がいると聞いた記憶がある。
 ともすると原型が留まっている今の方がマシかもしれない。
 マルドが曖昧な笑みを浮かべて首を振ると、ティアはにっこりと笑った。

「ではマルドン、ありがとうございました。いっやー結構重いですよこれ。あっし、もう……手が……。すっごい量ですね、何十人分でしょう?」
「そりゃこれだけ大きい施設だしね。まあ、休んでなって。それより、カイラさんは? 荷物を分けて運んでいるのかな?」
「あ、そうかもしれませんね。はっ!? ということは、ここで待っていればワイズに逢えるということですか!!」

 それはこっちが訊きたかった。
 マルドは首を傾げた。
 どうやらティアは、カイラに頼まれて奇声を上げていたわけではないらしい。
 となると彼女はどこにいるのだろう。人を呼びに中に入って入れ違いになったのだろうか。

「くぅ、しかし、失敗しました。みなさんがいない間に全部運んで驚かせようとしたのですが……」

 何故あの大声でばれないと思ったのか。この少女の頭の中身にレスハート山脈を超える寒さの恐怖を覚え、マルドは気を取り直して木箱を叩いた。
 重い感触がした。随分と中が詰っている。
 そして数は多い。

「とりあえず、これは中に運べばいいのかな?」
「あ、助かります!」

 待っていたと言わんばかりの笑顔で修道院の女性が答えた。
 邪険に扱われなかったのもそれが事情かもしれない。
 彼女たちの筋力不足を、自分を利用することで補ったわけか、とそこまで考え、爽やかな朝には相応しくない思考だとマルドは首を振った。
 それに、こちらとしてもありがたい。
 不穏な臭いのするこの場所で、誰かから情報を得られる貴重な機会だ。

「これ、どこまで運べばいいのかな?」
「あ、ご案内します」

 修道院の女性は手慣れた様子で小さな木箱をひとつ抱えると、優しく微笑んだ。
 マルドは重そうな木箱をみっつ抱え、小さく呟いてから持ち上げると、女性についていく。
 重さはほとんど感じない。

「わあ、男の人がいると、やっぱり助かります」

 正門まで進んで振り返った修道院の女性が、愛想良く微笑んだ。
 訂正するのも面倒だ、マルドは曖昧に笑みを返した。

 木箱の格納庫は、正面聖堂に入って右奥の通路の先に在るらしい。
 このマグネシアス修道院の構造は、誤解を招く表現だろうが夜な夜な徘徊し、大まかに把握している。
 山をくり抜いて造られたマグネシアス修道院は、上空からは山の中にすっぽりと隠れて見えるだろう。奥行きは不明だが、横幅数百メートル程度の施設だ。住居スペースを考えると地下階もあるかもしれない。その辺りは、エリーやティアあたりに訊けば分かることだろうが、丁度いい。
 おぼろげに想定している施設の内情を知る良い機会だ。

「この建物って、面白い構造してるよね。地下とかあるんだ、山なのに」
「え、ええ、そうですね。私も初めて来たときは驚きました」

 やはり、地下階はあるらしい。

「というと、君の生まれはここじゃないんだ」
「はい。去年……になるのかな、私が来たのは」

 思わず理由を訊ねそうになったが、僅かに目を伏せた様子を見て止めた。
 不幸であることは平凡。そう言われるほど、モルオールは不幸に溢れている。

「ここに入るのって結構自由なんだ」
「ええ、そうですね、割と融通聞きますよ。修道院って聞くと結構堅苦しいイメージですけど、決まった集会とかは上の人たちしかやってないし。そうそう、その上の人ですけど、ここの修道院長。めちゃめちゃ怖いって評判ですよ。あのカイラさんですら苦手意識持ってるみたいですし」

 実際にあったマルドは、そんな印象は受けなかった。
 この修道院の最初の夜、聖堂で祈りを捧げていたらしい彼女と出会ったが、慈愛に満ちた笑みでマルドの話を聞いていた記憶がある。
 もっともあれがあるべき修道院の形としてなら、その厳粛さが身内に向かえば厳しいのかもしれない。
 完璧な笑顔の対応の裏には涙がある、ということだろうか。

「上の人たちって、やっぱり皆厳しいのかな?」
「さあ……、私は会ったことありませんね。というか、実はほとんど知りません」

 なるほどかなり、適当らしい。

「ま、でも。仕事さえしてれば、結構自由ですよ。私は決まった言いつけとかほとんど無いですし」

 起床時間と消灯時間は流石に決まっていますけどね、と彼女は続けた。
 少し予想を裏切られた。
 きっとあの修道院長の元、全員が集結して聖堂で祈りでも捧げているのかと思ったのだが、違うのか。
 どうやら妙な先入観に捉われていたらしい。
 それはそうか。ここは―――墓なのだった。

「……ここって随分大きいけど、いつ頃からあるのかな」
「私も詳しくは……。ただ、私が幼かった頃から歴史ある建物だって噂は聞いていましたよ」

 彼女は見た目以上に年輩なのかもしれない。
 だが、その程度のことならばマルドも知っている。
 傍から見れば気分屋にしか見えないあの『剣』がここを目指してからある程度の情報は集めた。
 残念ながら、“勇者様”の噂が強過ぎて思うように集められなかったのだが。

「でも、国が随分援助している場所だと。そうでなければ、私もここへ来ることになりませんでしたから」

 その言い回しには、無視をした。

「もともと関所のつもりなんだっけ、ここ」
「? 知っているんですか?」
「少しだけね。巡り巡って修道院になったのは何でだろうねぇ」
「ええ、何故でしょうね」

 マルドは嘘を吐いた。概ね知っており、予想もある。

 この修道院は、墓標だ。
 レスハート山脈だけでなく、モルオール大陸全ての墓標。
 そして同時に、避難所でもある。

 目の前の彼女のように、何らかの事情でここを訪れる者は、本当の命が絶たれる前に、自ら進んで墓標に入る。
 モルオールは大陸にいられない者への避難所として、このマグネシアス修道院を造り上げた。
 訪れる人間は様々だ。
 あらゆる主義思想を持つ数多の人々。そんな者たちがひとつの場所に留まることなどできはしない。
 そう。人はあらゆることを思想する。マルド=サダル=ソーグはそう思う。
 だが一方で、それを縛るものがあることを知っていた。

 “しきたり”。

 一般人では決して相対することのない、天上の存在―――“神族”。
 彼らが言う“しきたり”には、伸びる枝の方向を縛り上げる力がある。大木を切り倒すでも、身を守るでも、避けるでもなく、方向そのものを縛り付ける。
 そういう意味でも、神の教えを遵守する修道院は適任だ。
 そして、男子禁制のこの空間が、栄えることは決して無いという意味でも。

 子孫は産まれず、逃げ惑う女性のみが入ることを許されたこの墓場に、モルオールは援助を続けているのだという。
 手は打てない。大昔からあるこの修道院というシステムに、手を差し伸べる余力はモルオールに無い。現状を、ただ回すしかないのだ。
 どうあっても止まらない。

 ここに未来が無いことを知ったら、目の前の彼女はどう思うだろう。例えそれが、いずれ分かることだとしても。

「“過酷”だねぇ、どうも」
「はい?」
「いいや、何でも。それより手が痺れてきた」
「あああ、はい、ここ、ここです!!」

 大慌てで女性は突き当りの古びた扉を開けた。
 印象とは違い、カビ臭くない。

 マルドは指定された置き場にゆっくりと木箱を重ねた。またつまらない嘘を吐いてしまった。
 少量の光源で見えにくかったが、奥は随分と広いらしい。この反対の廊下を歩いていたときに見つけた妙な出っ張りはこのせいだろう。
 今から後何往復したら荷運びは終わるだろうか。

 マルドは額の汗を拭く素振りをし、そこでようやく自分が何の情報も得ていないことに気付いた。
 どうかしている。

「そういえばさ、ここって何人くらい人がいるのかな。随分な大荷物だから」

 女性は、マルドの顔を見返し、首を傾げて木箱を見た。
 今しがたマルドが運んできた荷物だ。

 すると女性は、眉をしかめた。

「え、ええっと、あれ、そういえば多いですね。お客さんでも来るのかしら。この修道院にはせいぜい十数人程度しかいないのに」

 マジックアイテムが照らす女性のぼんやりとした顔に、ぞっとするほど寒くなった。

―――***―――

「ひっ、す、少しは行動を改めて下さい!! もしかしたら、大変歴史的価値のあるものなのかもしれないのですよ!!」

 開かない棚を蹴り壊したくらいで何を言う。
 スライク=キース=ガイロードは背後でヒステリックな声を上げる女性に辟易していた。

 どれほど貴重なものであろうが、誰にも認知されないのでは存在しないのと変わらない。 
 この腰に下がった剣と同じように、例えどれほどの価値があろうが、目で見て手を伸ばさなければ所詮、物は物だ。
 そういう意味では、廃れ果てているこの場所は、久方ぶりに存在するこの意味を取り戻したのかもしれない。
 認識されて、初めて物は存在となる。

 スライク=キース=ガイロードとカイラ=キッド=ウルグスの両名は、スライクの記憶にあったセリレ・アトルス出現地を訪れていた。
 カイラの操る召喚獣・ワイズは移動能力に長けており、驚異的な速度で目標地点に到達したものの、結局細かい調査はしらみ潰しに行うことになる。
 早朝から始まった調査は昼となり、スライクの忍耐が頂点に達しかけた頃、ひとつ、妙な洞穴を発見した。

 それがこの―――“研究所”だ。

 今まで見てきたどの洞穴よりも広い。岩が崩れて塞がりかけていた入口を強引に通り、妙に入り組んだ狭い通路を進んだ先、向かいの壁も見えないほど“ごっそり”と空いた部屋は、奇妙な物品や書物で埋め尽くされていた。
 天井は気の遠くなるほど高いようで、照明具を用いても存在を確認できない。階段はあるようだが、灯りで追えた限り山の中身を大回りするような螺旋階段で、傾斜も緩く、律儀に登ろうとは到底思えなかった。もっともその螺旋階段は、壁中に配置された無数の本棚をなぞるように回っており、本来の用途は足場であるようだが。
 スライクは当然のように踏んではいるが、足元にも足の踏み場も無いほど紙類が乱雑している。カイラが通路を確保しようと几帳面にも丁寧に重ねて除けているそれらは、恐らく無数の本棚から落下してきたものだろう。
 スライクは旅の道中、膨大な資料が格納されている図書館があり、幾重にも積み重なれた本棚に書物が敷き詰められていると聞いた覚えがある。
 そのときこんな空間を想像したが、恐らくこの場所は、書物の数も文字の数も、図書館をゆうに超えているであろう。山の中身を丸ごと削り取って書物をギチギチに詰め込んだようなここが相手では、流石に建物では分が悪い。適当に突っ込んだとしか思えないこの場所の保存方法では、図書館は名乗れないであろうが。

 そう、決して名乗ることはできない。
 ここはあくまで“研究所”だ。

 この星の数ほどの書物は、この空間の主役足りえない。

 この空間の主賓は―――中央の、“物体”。

「これは……一体……?」

 書物を除けることを結局断念したらしいカイラは、書物を踏み越え、ようやく中央付近に設置してある『卵』に辿り着いた。
 大きさは、人がふたり手を回してようやく囲えるほど。部屋の巨大さに錯覚させられるが異質なほど巨大だ。
 色は黒ずんでいるが、形状は真円“だった”のであろう。本来転がりにくい形状をしているものだが、『卵』は台座の上で固定されており、微動だにしない。
 そしてその周囲には、“本棚ごと”資料を集めたのか、砕かれた木片が書物とともに散らばっている。他にも正体不明の野太く黒い紐や四角い板が転がっているが、まともな形状を保っているとは思えなかった。唯一あるままの形であったのだろうくすんだ棚も、スライクの“開封”で書物と共に散乱していた。

 そして、『卵』は。

「……中、いませんね」

 『卵』のほぼ真横に空いた穴を、恐る恐る覗き込んだカイラは険しい顔付きで呟いた。
 彼女も直感的に、『卵』は何らかの箱ではなく、生物の卵だと察したようだ。そう考えると、ここにある無数の書物は、装置は、この中身のためだけにここに集められたかのように思える。
 いかに異質とは言え、こうした光景を見ると、思いつくのは“生物実験”。
 “しきたり”で強く禁じられている、忌むべき“探求”だ。

 実行したのは、神をも恐れぬ人か、あるいは。

「し、信じられません。まさかこのレスハート山脈にこんな場所があるなんて……。わたくしの知らぬ間に、こんなことが行われていたなんて……」
「てめぇは前世の記憶でも引き継いでんのか。どう考えてもお前が生まれる前のことだ」

 生々しさが完全に消え失せた『卵』を流し見て、スライクは足元に散らばった紙類を睨むように目で追った。
 何らかの文字が書いてあるようだが、擦り切れているのか、はたまた最初からそうなのか、ほとんど読み解くことができなかった。
 一瞬“裏側”から何かが降りてこようとしたが、鬱陶しくて跳ね飛ばした。

「おい、修道女」
「カ、イ、ラ。カイラです!」
「お前その辺のゴミの文字が読めるか」
「ゴッ、……いえ、それよりも、わたくしの名前はカイラ=キッド=ウルグスです! 昨日お教えしましたよね?」
「読めねぇならいい。ここにいても時間の無駄だ」
「~~~!! 読みます、読んでみせますとも!!」

 ほとんど期待せずに言ってみただけだったのだが、思ったよりも面倒なことになった。
 カイラはしゃがみ込むと、意地になっているのか必死に解読可能な紙類を探し始めた。
 スライクは最後に周囲を流し見て、この女ならば放っておけば修道院に帰るかと結論付けた。
 そしてさらに奥へ進む。入口の対面は、未だ調査をしていない。小さくだが風の音がする。もしかしたら穴でも空いているのかもしれない。

「ぁ……」
「あん?」

 思わず振り返ったところで、うずくまっているカイラと目が合った。

「……一応お訊きしますが、貴方、わたくしを置いていこうとしませんでしたか?」
「向こうに出口がありゃそうなっただけだ。それで、何を見つけた」
「い、いいでしょう。わたくしがいかに必要な人材であるかお教えします」

 拳を震わせ、わざとらしく咳払いをすると、カイラは1枚の廃れた用紙を持ち上げた。

「こちらの資料を解読したところ、恐らくここでは生物実験が行われていた可能性があります」
「色々と曖昧なこと言ってんなぁ、おい。お前、そいつが読めるんだろうな」
「うぐ……。で、ですが、一応、ニュアンスのようなものは分かります。魔法を解読するような感覚ですが。飛ばし飛ばしですが、認識できる文字がちらほらと。この資料は、実験が成功した場合の効果について記されているようです」

 役に立たなそうならそのまま歩き出すつもりだったが、思った以上に使えそうだった。信じがたい速度で理解不能の文字列を解析している。
 実験が成功した場合の効果。
 『卵』の中身が外に出ている可能性がある以上、それは今現在“引き寄せている”ことが何であるのかに直結する。

 スライクが億劫に歩み寄ると、カイラは再び目を落とした。紙類は、黒ずんでいるように見えるほど、文字で埋め尽くされていた。よくもまあそれを読む気になったものだ。

「認識…………意識……処理……確認…………歪み……置換。これって、何かの魔術でしょうか。冒頭は、“生物創造”から始まっているようですが、続いているのはこんな文字ばかりです。走り書きのようで、そもそも文字としては形が崩れすぎですが」
「ほう。思ったより読めてるじゃねぇか。続けろ」
「え、ま、まあ、わたくしは世界各地の儀式に精通してたりもしますからね。そこで使う解読不能な術式の解析なども、余暇があるときにしたりするんですよ。だからこうした、」
「何喜んでんだ。得意げになってねぇで続けろ」
「あ、貴方は、……ああ、もう。ええと、ですね。…………あら?」

 その資料の解読はこれ以上困難なのか、カイラは次なる資料に目を走らせた。
 そしてひとつの資料を慎重に取り上げ、首をかしげた。

「どうした」
「こちらの資料ですが……、やっぱり。文字の全ては読めませんが、なんだか……そう、同じようなことを書いてあるような……?」
「バックアップか」
「かもしれません……。……欠落……記憶……やはり、置換。そうですね、他は同じ……」

 スライクの想像以上に、カイラは優秀らしかった。こうなればこの女をしばらくここで解析に没頭させて、自分は奥を見に行った方が効率的だと判断すると、カイラはさりげなくスライクのズボンの裾を掴んできた。逃がさないつもりらしい。

「あら?」

 蹴り飛ばしてやろうかと思い至ったところで、カイラは小さく声を上げた。
 運のいい女だ。

「要所要所に出てきていたんですが、中々分からなかった単語が解読できました。両方の資料に登場しています」

 カイラはスライクの裾を離し、立ち上がると、2枚の資料をスライクにかざしてきた。
 見せられても読む気はない。

「読んでいるとどうも認識誤認の魔術……そうですね、感覚妨害の水曜魔術・バーディングを連想させますが、文脈の中に異質の文字があります」
「……何だ」
「“太陽”です。文章で続けると……太陽が、隠れる……置換……。『日蝕』、でしょうか。“太陽が置換する”……? 太陽を、かもしれませんが……。太陽といえば……“セリレ・アトルス”。まさか、ここで創造されていたのは、セリレ・アトルス……? 太陽が……太陽を、押しのける……? その表現が主語に使われているようです。セリレ・アトルスは、『日蝕』として表現されている……? 『日蝕』が、セリレ・アトルスが……認識、処理……上書きする……?」

 たどたどしく解読を続けるカイラの言葉で、スライクの脳裏に、何かが掠めた。
 普段は切り捨てている“裏側”の感覚の残滓が、不運にもスライクの意識に触れてしまったらしい。
 小さく舌打ちすると、スライクは呟く。そしてその呟きは、文脈を解読したカイラと重なった。

「“『日蝕』が記憶を上書きする”」

―――***―――

「今夜はここで夜を明かすことになりですね」
「ああ、そうだな」
「思ったよりも進行速度が遅いです。逸れたふたりのいるという修道院はまだ見えませんし」
「ああ、そうだな」
「……まあ、どの道、彼らに付いていかなければ危険は危険か。今日は晴れているが、昨日の夜も同じようだった気がする」
「ああ、そうだな」
「…………あーきーらー。あ~き~ら~。……。……ふう、聞こえてない、か」
「……聞こえてるよ。どうやら俺は、考えながら人の歌を聞けるようになったらしい。さ~く~らー~」
「き……、聞いていたの……、か」

 ヒダマリ=アキラは腰かけていた岩からゆっくりと立ち上がった。
 レスハート山脈を照らす太陽は赤みを帯び、今にも山の向こうへ消えて行きそうだ。
 住居調査団の4名は、アキラたちの背後の洞穴で寝食の準備をしている。そのうちひとりは穴の前で火の用意をしていた。
 洞穴の中では女性であるサクを気遣って寝具の位置取りを決めているらしいが、あの狭い穴の中がどのように改造されるかアキラには想像もつかない。だが、ここは彼らの経験則に委ねよう。
 彼らだけに準備をさせるのは気が引けるが、アキラなど邪魔なだけであろうし、仕事を手伝ってもらったお礼もしたいそうだ。すっかり客人扱いとなってしまった。どうやらサクのアキラへの態度は、リーダーと思われる年輩の男だけでは無く、他の面々にも誤解を生んでいるらしい。

「なんだ、もう歌ってくれないのか?」
「泣き声なら上げられそうな気がする」
「は?」

 ミツルギ=サクラはうずくまって雪の粒を数えているかのようだった。
 ようやく顔を上げると、じっとりとした瞳でアキラを見上げてきた。

「お前、卑怯だぞ。悩んでいる風に装って、近付いたらこの仕打ちか」
「生返事してたのは謝るけどお前が歌い始めたんじゃないか」

 サクは再び顔を伏せた。もう触れない方が良いのかもしれない。
 だが悩んでいた、か。自分はどうやら随分と顔に出やすいらしい。
 いや、もしかしたらそれだけ旅を続けてきたということか。以前なら、何をぼうっとしているんだ、くらい言われていたかもしれない。

「……なあ、アキラ」

 サクは顔を伏せたまま、呟き声のようなものを漏らした。

「私は多分、ものすごく変なことを訊くかもしれない」
「歌うんじゃなくてか?」
「お前はっ!! ……その、だな」

 勢いの余り立ち上がり、サクは目を逸らした。火を起こしている男がこちらを見た気がして、何となくアキラはサクを視界から隠した。

「……敬われるのと蔑まれるのはどっちが良い?」
「お前は何を言っているんだ」

 もしかしたら本日最大の違和感は彼女かもしれない。
 多分自分は、先ほどの年輩の男以上に、あっけにとられた表情を浮かべている。
 その2択で後者を選ぶほど、自分は特殊では無いと信じだたい。

「ああ~、ええっと、違う。そうじゃなくて、だな。もういい、言おう。その、だな。迷うんだよ、お前への接し方に。今さらながら」

 たどたどしいサクの言葉の意味を、アキラはなんとなく拾えた。
 彼女が言っているのは、きっと、第三者の前での自分への接し方のことだろう。
 “あれから”、ひと月ほどふたり旅をしているが、他者がいるのはこれが初めて。
 吹っ切れているようで、彼女は彼女で揺らいでいたようだ。

 そこまで察して、アキラは拳を振るわせた。

「お前は普段、俺を蔑んでいたのか……!?」
「それは違う、誤解だ。精々数じゅっ……、いや、だが、3ケタには届いていない。決してだ。それに最近はそれほどでも無いしな」
「お前のフォローはほんっとに下手だということが分かった」

 根が正直というのはこういうものか。
 今、全力で泣き声を上げれば彼らの前では従者で通っているサクにとって辛い展開になるだろうが、流石に陰湿すぎるので止めておいた。

「自覚はしてるよ。でも、嘘じゃないさ。最近は、そうだな、立派になった。と、思う」

 サクは目を逸らしたまま呟き、そしてゆっくりと視線を合わせてきた。

「だから、訊きたいんだ。お前は、私にどういう私でいて欲しい? 中々態度を使い分けるのは難しいんだ。いずれの私でも、お前への忠義は変わらないよ」
「さっき普段通りでいてくれって言ったこと、まだ気にしてたのか」
「…………まあ、実はそうだ。お前は今まで通りが良いらしいが、お前は主君で、私は従者。私も私で切り替えるのが難しくてな。だけど、お前が意向に合わないことは、うん、するわけにはいかない」
「…………お前に任せる」

 アキラは、答えを変えた。

「おい」
「違うって。適当に言ったわけじゃない」

 もう機会は無いかもしれないほど稀有なことを自分は今している。だけどたまには年上らしいことをするべきだろう。

 結局彼女は、自分と同じだ。
 彼女が過去に嫌った関係の変化。その中に、正しい距離感を見出すことができない。
 アキラも分からない。彼女と同じで、迷走中だ。
 だけどこれを自分が決めたら、結局サクは何も得られないことだけは分かる。
 これは経験則だ。
 何かに総てを任せることは、大層楽だ。だけどその結末を自分は良く知っている。

 物語に総てを任せた自分は、物語を恨むことしかできなかったのだから。

「お前が決めたお前の距離感なら、誰も後悔しないよ」

 やはり目を合わせては言えなかった。
 アキラはサクに背を向けた。夕食の準備は佳境らしい。洞穴の中から別の男が鍋のようなものを抱えて現れた。

「なあアキラ」
「ん?」
「これからもずっと、旅をしよう」

 妙に優しい声に、アキラは手を振って応えた。
 そうだ。そんな日常を積み重ねて行こう。そうすれば、こんな違和感は、時と共に消えていくものだ。

 それから。
 メインディッシュらしい鍋の準備を待たずに、アキラたちは火の回りに座り込んだ。リーダー格の年輩の男も座り込み、時間にしては早めの夕食が始まる。
 明日も調査は行われるだろう。

 あとは、ゆっくりと、この日常を、

 ……?

 アキラがふと顔を上げると、火を囲って座るサクと、住居調査団の3人が目に入る。そして、配膳が終わり―――

「……、……、」

 その光景に、アキラは妙な焦燥感にかられた。このまま時間を進めることに、強烈な危機感を覚える。

 分からない。また違和感だ。
 いや、違う。

 “自分はこれを違和感程度にしてはならない”。

「あの」

 アキラは急かされるように口を開いた。
 サクも自分の突然の様子に目を丸くしていた。

 本当にこれは“異常”なのだろうか。
 あまりに自然すぎる全員の表情に、アキラは震え、そして言葉を紡ぐ。

「ま、“待たなくてもいいんですか”……?」
「は?」

 火を起こしていた男から声が漏れた。
 他の面々も口にこそ出さないが同じ表情をしている。

「ええっと、仰っている意味が、」

 駄目だ。“彼らにはもう分からない”。サクの表情も、彼らと変わらなかった。
 アキラは突如として立ち上がり、洞穴を睨んだ。
 今現在の自分だからこそ、この異常を感じ取れる。
 数秒後には消えゆくかもしれないこの感覚を、決して離してはならない。

 アキラは洞穴に駆け出し、中を覗き込んだ。
 そして。

「アキラ? 何だ、何が起きた?」

 背後からサクの声が聞こえた。即座に追いついたらしい。
 それでもアキラは視線を鋭く室内に突き刺す。
 灯りを点けて見渡せば、思ったよりも広いようだった。
 下るような入り口から、僅かに折れ曲がった先、開けた空間がある。やはり巣として使われていた方が相応しい形状だ。
 中央を囲うように寝具が展開し、僅かに離れた所にひとつ。あれはサクのためのものだろう。
 だが、その数は。

「……な、なあサク。確認させてくれ」
「どうした?」
「俺の記憶だけが、他の事実と一致しない」
「は?」

 住居調査団の面々も何事かと駆けつけてくる。
 人が密集した空洞で、ほんのりと灯った光源の中、アキラだけが焦っていた。

「少なくとも。少なくともだ。今日昼に、そうだな、1回目の土地の調査を手伝ったときのことだ」
「あ、ああ」

 アキラは喉を鳴らし、呟いた。

「あのときあの場所にいたのは、全部で何人だった?」

―――***―――

「ふぅ、やっと着いた」
「それ、なに?」
「この修道院のメンバーの名簿さ。入居のときに記録するらしい。以前は足を踏み入れた人全員分とっていたらしいし、歴代分だから、数があったけど」

 ボスン、とマルド=サダル=ソーグは一抱えほどもある複数の書物をベッドの上に重ね上げた。

「とりあえず、足がかりになる」
「これで何が知りたいの?」

 “遭難者”にあてがわれた一室。マルドが広げた資料をベッドの上から覗き込むのはキュール=マグウェルという幼い少女だ。
 険しい顔をして資料に目を走らせているキュールを見て、マルドは小さく微笑んだ。
 ここにあるのはマグネシアス修道院の歴史書だ。名前のリストだけならまだしも、世辞にも話が飛んでいるせいでたいそう分厚くなっている。読んでいるだけで頭が痛くなる代物だ。文字も満足に読めないであろうに随分と熱心である。
 もっとも、珍しく言いつけを守り、日が昇ってから落ちるまで部屋で待機していたせいで鬱憤が溜まっているのかもしれないが。

「俺が知りたいのはここで“異常”が起きるとして、一体何が引き起こされるのかさ。結果が分かれば過程も想像がつく。上手くいけば“こと”が大きくなる前に元凶を叩けるかもしれない。―――もう、手遅れかもしれないけどね」
「?」

 1日部屋の中にいた彼女には何を言っているか分からないだろう。
 この“異常”は、疑念を持って、修道院を巡り、職員と言葉を交わしてようやく見えてくる。

 朝の荷運びが終わり、マルドはまず、今までこの修道院に運び込まれた積み荷の確認作業に入った。
 あのカイラ=キッド=ウルグスはかなりの几帳面な性格のようで、今まで行った運搬の記録を全て保管していた。
 その記録を照らし合わせて調査すると、まず目を引いたのは過剰な運搬量。
 これだけ大きい施設なのだから妥当なのかもしれないが、運搬頻度と照らし合わせてみれば、どう贔屓目に見ても百人分はある。
 災害時の保存分を勘案したとしても、高々十数人分の食料では決してなかった。
 実際食物庫を確認してみれば、消費されない食料がうず高く積まれていた。案内を頼んだ女性に訊いたところ、定期的に捨ててまでいるそうだ。

 そこでマルドは、修道院中を回り、職員たちに同じ質問をぶつけてみることにした。流石に居住スペースへの侵入は許されなかったが、やはりあのカイラという女性が厳しすぎたようで、職務中の女性たちはみな気軽に応じてくれた。

 マルドが見つけた職員は6名。
 その全てに、訊いたことは。

「なあキュール。この修道院、何人くらい働いていると思う?」
「? えっと、50人くらい?」
「ああ、それも“答えのひとつ”だったよ」
「どういうこと?」

 キュールは首をかしげて顔を近づけてきた。
 自分たちの旅の後を追ってきたときは警戒心剥き出しだったというのに、随分と親しくなれたものだ。
 こうして見るとどこにでもいる普通の幼子だ。
 “普通”を毛嫌いしていたような彼女だが、“普通”の強さを、“普通”の優しさを知って、少しずつ成長している。

 それはともかくとして。

「何人かに同じことを訊いたんだけど、答えは見事にばらばらだったよ。百人って答える人もいれば、十数人って答える人もいた。そして見えてきたのは、その人が認識している修道院メンバーの数は、その人の入居時期に対応している。サンプルは少ないけどね」

 例えば料理の下ごしらえをしていた女性。一昨年からこのマグネシアス修道院に勤め始めたという彼女は、この修道院の職員は20名程度と言った。
 例えば裏の川で水を汲んでいた女性。随分と貫禄があり、生まれも育ちもここだという老婆は、この修道院の職員は百名と言った。
 そして朝、荷運びを共に行った、去年からここに勤めているという彼女は、十数名と言った。

 年々、“認識されている人数が変わっている”。

「さすがにいろいろ混乱してきてね、とりあえず俺は、“この修道院にいる職員の平均的な人数”を調べることにした。人に訊いても答えはばらばら。住居スペースにも入れないとなれば、残るは記録を見るしかない。ここを去った人の記録があればよかったんだけど、どうやらどこにも無いらしい。だったら入居時期と年齢から割り出すしかない」
「手伝ってくれる人はいなかったの?」
「みんな忙しいらしいし、ちょっと試してみたけど駄目そうだ。同じ時期に入居した人の名前を突き付けてみても、首を傾げられるだけだったし。こっちが混乱しそうだ」

 そしてマルドは作業に入った。
 資料室にあった歴史書は数十冊にも及んでいたが、最新ナンバーから10冊。1冊30年分の資料だ。最新の資料は20年分ほどで、去年の入居者までしか記されていない。できれば今年のものも欲しいところだったが、まだ作成されていないらしい。作成者は、マグネシアス修道院の院長、ミルシア=マグネシアス。
 彼女にも話を訊きたいところだったが、修道院の中でも彼女の姿を見た者は極少数らしい。

 そして、概算は終わった。

「約80名。それが、毎年マグネシアス修道院にいるはずの人数だ。そして今も。つい最近大量退職でもあれば話は別だけどね」

 もっとも20名前後のブレはあるだろう。大分適当な概算だ。歴史の中には、もっと人数がいたこともあるかもしれない。
 そう、どうあっても、朝の彼女が言ったように十数人ではない。
 朝の話では、ここの職員は思ったよりも集団行動していないそうだが、それでも、およそ50人前後の人数を認識していないのは無理がある。

 やはり人は、いないのだ。

 であれば、去年からここで暮らす今朝の彼女の言葉のみを信じるならば、その差分、およそ50人前後の人は、一体どこに行ったのか。

 どこに―――“消えたのか”。

 この異常を、筋道を立てて考える。
 人が数十人単位で消失している。推測とはいえ、毎年平均80名の人数が存在するはずの修道院で20名程度しかいないのであれば、あまりに規定外の値だ。異常が発生しているのは間違いない。
 足りない人々がどこに消えたのかは不明。そして生死も不明だ。
 昼に職員に聞き出したことからして、職員は毎年逓減していると考えられる。

 それが、今回の異常。

 だが。

 マルドは目を瞑って黙考した。
 これは、本当に、何が起こっている。
 今自分が覚えている違和感の根拠は、言ってしまえば、ここの職員は共に働くメンバーの数を知らないだけ、ということだ。大量に発注され、大量に廃棄されている食料だけが、精々裏付けの物的証拠だろう。
 例えば人が消えたとすれば、仕事は増えるだろう、生活サイクルが乱れるだろう、普段の風景というものががらりと変わるだろう。
 そんな異常事態を、ただの小さな違和感としてしか処理できないような連中がここに集められたとでもいうのだろうか。そんな抜けた集団であればとっくに雪山に沈んでいる。
 大量に人が消失し、そして誰も認識していない方がよっぽど無理がある。

 例えば今朝の女性が、『えっ、数年前に疫病が流行ったんですか? 私共々新人たちは知りませんでした。住居スペースの奥にあるあの大部屋にその方たちが今も安静に暮していると……? 食事も喉を通らない? 大変、看病して差し上げないと』とでも言ってくれれば、肩透かしと共に安堵の息を吐けるというのに。

「ふぅ」

 マルドは息を吐いた。
 仮説はある。人が消えているという仮説が。だが裏付けは弱い。頭が痛くなってきた。

 マルドは何となく、この修道院で出会った人々を思い浮かべた。
 十人にも届かない、ごく少数。
 出会ったのは、確か、

 ……?

 何かが脳裏をかすめたが、それはすぐに消えていった。

 が。

「そういえば」
「どうしたの?」

 その小さな悪寒が、マルドの意識を覚醒させた。
 こんな感覚を、昨日味わった覚えがある。それが連動的に、とある人物を思い浮かばせた。

「今日いろいろ回ったのに……、エリサスさんって、どこに行ったんだ?」

 そこで、ドアが、吹き飛ぶように打ち抜かれた。

「こここここここんばんはっ!! あのっ、こちらにっ、うわっとキュルルンッ!?」
「ひっ!?」

 襲撃だった方がマシだったかも知れない。
 ぼうっとしているところにキュールに不意を突かれ、マルドはベッドに倒れ込んだ。
 マルドの腰の辺りを力の限り掴んで引いたキュールは、そのまま自身を庇うようにマルドを盾にする。
 この1日、姿が見えない赤毛の少女とは違い、このアルティア=ウィン=クーデフォンには行く先々で遭遇した。

「お久しぶりですっ!! なんですかぁっ、マルドンはキュルルンとお知り合いだったんじゃないですかっ!! 言って下さいよぉ、あっし、今日1日……とと、そんな場合じゃなかったんだった!!」
「ど、どうしたの?」

 恐る恐る顔を出したキュールはマルドを挟んでティアに応じた。
 するとティアは、未だ飛び込んできた勢いそのままに口を開いた。

「あっし、エリにゃん探しているんですが、って違う、エリにゃんを探しているのは確かなんですがそれはお知らせしたいことがあって、ってもう“無くなっちゃうかも”、ああっ、カーリャンもいないですし、あっしはこの大発見をどうしたら!?」
「何があったんだ?」

 落ち着きを取り戻せたマルドが低い声で訊くと、それに応じて落ち着いたのかティアも神妙な顔つきになった。

「こっち、です。こっちに来てください!! 今なら見える!! ああっ、急いでください!!」

 結局慌ててバタバタと駆け出すティアに、マルドはキュールの手を引いて続いた。
 そしてたどり着いたのはマグネシアス修道院の本堂と客間をつなげる長い廊下、その中央。巨大な窓が設置された踊り場だった。

 そしてそこからは、強い夕日が、差し込んでいた。

「…………、これか」
「はい」

 3人並んで窓から見上げた空には、太陽が浮かんでいた。
 レスハート山脈を照らす明るい光。
 マルドは愕然とした。これほど明らかに存在するのに、何故気づかなかったのか。

 その光源は、いつまでも、いつまでも浮かんでいそうな巨大な真円。
 もうとっくに―――日没は終わったはずなのに。

「エリサスさんと、あのカイラって人はいないのか」
「はい。あっし方々駆け回ったんですが……、おふたりとも見つからず」
「スライクもまだ戻ってきてないよな」
「うん、わたし、ずっと待っているのに」

 そっちは大丈夫か。
 この緊急事態に、呆けたような会話をしながら、マルドは静かに判断した。
 あの3人は“認識されている”。

 ならば次は、どうするか。

 3人並んで夕日を、“刻”をもっても沈まぬ太陽を見上げながら、マルドは静かにスイッチを入れた。

 “普通”は終了だ。
 ここから先、とらわれることは許されない。
 “あの色”を前には、足場の確認は死を意味する。
 先ほど自分が実現不可能と考えた認識の錯誤さえ、“あの色”は容易く実現するだろう。

「……とりあえず、すぐに探そう。エリサスさんたちを」

 ここで見上げていても始まらない。
 マルドは空を睨むと駆け出した。
 ティアとキュールも静かに走り出す。

 事は一刻を争う。

 “あれ”も何の目的もなく浮かんでいるわけではないだろう。
 賭けてもいい、今この瞬間、修道院に“異常”が引き起こされている。

 自分ができることはその防止。撃破は自分の役割ではない。

 だがマルドの頬には、嫌な汗が伝っていた。

 敵の出現だというのなら、それを打ち払う『剣』の出番だ。

 だが“あれ”は―――セリレ・アトルスは、巨大すぎる。

―――***―――

 その異変は、レスハート山脈の全てに伝わった。

「キャラ・ライトグリーン!!」
「行く気か!?」
「ああ!! サクは捜索を続けてくれ!!」

 腰を落とし、空を睨みつけたアキラは、サクの声に一も二も無く頷いた。

 人が消えた。
 姿も認識すらも失われたひとりを探し出すべく、調査団の面々を残して周囲を散策していたアキラとサクは、空に浮かび上がる異変にいやが上にも気づかされていた。
 即座に身体能力強化の魔術を施したアキラの身体から、僅かばかり日輪の色が漏れる。
 身体に魔術を施し、それが漏れるともなれば相当の魔力量を示すことになるが、そんな些細な成長は、夜空に浮かぶ日輪によって塗り潰されていた。

 サイズも、距離も、測定不能。
 目前にあるようにも、遥か虚空の彼方にあるようにも見えるそれは、あまりに巨大で、神々しくも禍々しく燃えていた。
 “太陽”。
 夜空に昇ってはならぬはずのそれは、レスハート山脈総てを支配しているようにも見えた。

「人が、消えたんだ!! それであんなもんが出てきたら、それはもう―――“俺の呪いのせいじゃねぇかよ”!!」

 その叫びは、直後、アキラが駆け出した爆音に塗り潰された。
 凍りついた木々、つもりに積もった雪、山々の景色が、高速の世界で流れていく。
 暗がりであるはずの獣道を駆け続け、アキラは一直線に“太陽”へ向かう。

 白い息を吐き出しながら、アキラは割れそうに痛む頭を振って、思考を働かせた。

 あれが、元凶。
 そう確信せざるを得ないほど、まざまざとした異変を見せつけられた。
 人の失踪と認識誤認の現象を目の当たりにして、アキラは真っ先に銀の魔族と結びつけたが、どうやら違うらしい。
 日輪の魔力色を持つあの巨大物体。
 生物なのかあるいは装置なのか正体は不明だが、アキラが多少なりとも慣れ親しんだこの世界の常識と照らし合わせると、あれは“在ってはならない色だ”。
 存在するらしい天界や魔界ではどうだかは知らないが、この世界の5大陸には存在しない。自然発生するとはどうしても考えられない。
 となると何かがその法則を捻じ曲げて、“あれを想像したことになる”。

 そして。
 逸れた仲間、エリーとティアのふたりは、タンガタンザに飛んだ自分たち同様、この山脈の“特定エリア”に飛ばされている。

 アキラは、歯が砕けるほど奥歯を噛んだ。
 空に浮かぶ異変を睨みながら、アキラは、叫ばずにはいられなかった。

「てめぇのせいじゃねぇだろうな―――“ガバイド”!!」

 そこで、ガグンと体が浮いた。

「お前もいたか。そりゃこうなるよなぁ、おい」
「ぐっ!?」

 肩をつかまれたと思ったら、身体が一瞬宙を舞い、背中を強く打ちつけた。
 慌てて体勢を立て直すと、凍てつく暴風が身体に叩きつけられる。
 吹き飛ばされぬように何とか身をかがめられたときには、アキラはレスハート山脈の夜空を飛んでいた。

「は!? は!?」
「ちょっと、貴方どういうおつもりですか!? いきなり高度を下げろと言ったり上げろと言ったり、って、ひっ!?」

 ようやく状況を認識できたアキラは、自分が何に乗っているのか気づかされた。
 夜空を矢のように走る、青く、巨大な飛行生物。
 ファンタジーの定番とも言えるこの生物は、この世界では見かける機会の少ない飛竜だ。
 水曜属性のスカイブルーの魔力色を宿し、巨大な翼で力強く飛翔しているが、敵意は感じられない。敵であれば本格的に絶望だったが、味方と判断しても良さそうだ。

 だが、それ以上に。
 共に飛竜の背に乗るふたりの人物を見つけた。
 自分のように錯乱している女性は飛竜の頭部付近に座っている。となるとこれはやはり召喚獣なのだろう。彼女が使役し、操っている。
 そしてもうひとり、腰を落とし、いつでも飛びかかれるような体勢で“太陽”を睨む巨大な男。

 スライク=キース=ガイロード。

 “世界を最期まで周った”アキラが認識している中でさえ、トップクラスの戦闘能力を保有する“もうひとり”だ。

「お、お前っ、」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐな。修道女もだ。で、だ。てめぇ少しは使えるんだろうな?」
「……」

 スライクの、敵に向けるような視線をそのまま受けて、アキラは頷き返した。
 ズキリと頭が痛む。
 しばらくぶりの感触だ。

 “記憶の封が解けかけている”。

 以前彼と出逢ったときは吹き飛んだものだが、今回は随分と大人しい。
 もしかしたら時間と共に、封じ込められた記憶たちは薄れていっているのだろうか。

 だが今は、追想よりも目の前の現実だ。

 訊きたいことは山ほどあるが、今は飲み込み、現状を見つめよう。

 青い飛竜に乗る3人は高度を上げに上げ、高速で“太陽”へ飛んでいる。
 それで距離が詰められていないのは、彼我の圧倒的なサイズの差なのだろうか。
 ここまで来ると、仮に到着できたとして、一体何ができるのか。

「あの野郎、高度を上げてやがる」

 冷気と酸欠でまともに頭が働かない中、ひとり、正確に距離感を掴んでいるらしい男が呟いた。

「あれ、生物なのか!?」
「んなことはどうでもいい。どの道目障りだ。だが、“そろそろ斬り殺せなくなる”」
「?」
「う、ぐぅっ」

 飛竜の頭部付近に座っていた女性の身体が揺れた。
 体を震わせ、強風になびかせる腕には力が入っていないようだ。

 何故、と思うまでもなかった。
 一体どれほど高度を上げたのかは分からないが、地上とは別次元の冷気と気圧が彼女を襲っている。
 この高度を耐え切れるのは、属性柄耐性のあるアキラとスライクくらいなのだろう。

「も、もう戻るぞ!! 流石に限界だ。人間の居ていい高さじゃない!!」
「ち」

 女性の方を見もせずに目つきを鋭くしたスライクも限界を悟っているようだ。
 例えどれほど唯我独尊だとしても、自分たちをこの高さまで運んだ召喚獣の術者が倒れればどうなるかは子供でも分かる。

「ま、まだ、行けます!!」

 しかし、当の本人は応じなかった。
 振り返りもせず、這いつくばるような姿勢になった女性は口だけ動かし、叫び声を上げた。
 身体を震わせながら、それでも、顔だけは“太陽”へ向けて飛翔を続ける。

「必ず、お連れ、します!!」

 アキラにはそれが、自分たちを巻き込んでの集団自殺にしか見えなかった。

「い、いや、いやいや、戻ろう!! 次の機会が絶対あるはずだ!! 次頑張ろう!!」

 アキラは、先ほど湧き上がった感情がすっかりこの空で冷まされていることを悟った。
 口から出るのは最早命乞いに近いが、その願いが聞き入れられることはなく高度は増していく。

「修道女!! やるならやるで、俺をそこまで届けてみせろ!!」
「言われ、なくても!!」

 スライクが叫び、召喚獣の女性が応じ、アキラは決して下を見ないように自分の無事を祈ったとき、“太陽”の光が一層強くなった。
 巨大すぎて現実感が無いが、どうやら到着が近いようだ。
 スライクはさらに腰を落とし、金色の眼を光らせながら腰の剣を抜き放った。

 見えたのは、そこまでだった。
 一瞬にして、周囲がカッとした光に包まれる。
 まともに目も開けない煌々とした“太陽”付近は、これだけの光源を放っているのに、灼熱地獄どころか温かさすら感じられなかった。

 不気味。
 圧倒的な不快感が身体を襲う。

 頭が割れそうに痛む。そして、感じる。

 これは―――“セリレ・アトルス”は、決して神々しい太陽などではなく、もっと歪で、禍々しい、悪しき化身だ。

「おい勇者!! どこでもいい!! 港町の雑魚に使った技で切り付けろ!!」
「は!?」

 言うが早いか“太陽”の光の中、スライクの気配が殺気に変わった。
 アキラは立ち上がり、感覚の薄れた手で言われた通りに剣を振り抜いたが、光が強くて結果は分からない。
 まるで前が見えない。
 目の前にいたはずのこの飛竜を使役する女性の背中すら、認識できなかった。

「……ち」

 舌打ちが聞こえた。
 光が強すぎる。何も見えない。
 おそらく攻撃を仕掛けたのであろうスライクは、果たして成功したのだろうか。

「おい、どうだった」
「言われた通りに振ったけど、何にも分からねぇよ!! つーか当たったのかさえ分からない!!」
「……ほう」

 罵られても怒鳴り返そうと思っていたアキラは、スライクの返答に肩透かしを喰らった。
 何とか現状の把握に努めようとアキラは光に耐え、片目をこじ開けたところで、スライクの姿が目に入る。
 彼は、巨大な剣を真横に伸ばし、気配を尖らせていた。

 何かを狙っている。

 その瞬間、アキラは思わず、戦闘態勢に入っていた。
 鋭く突き刺さるように尖った殺気に、全身に警鐘を鳴らす強い危機感。

 触れることすら許されない大剣が、手を伸ばせば届きそうな場所にある。
 生物的に、アキラは目の前の剣が恐ろしかった。

 だが次の瞬間―――光が、消えた。

「―――!?」

 一瞬にして空が星の世界に戻る。
 余波なのか、暴風が吹き荒れ、巨大な“何か”が地上へ落ちて行った。
 今度は暗闇になれることを強いられた瞳は、その何かを捉えることなどできなかった。

「……お、おい、倒したのか?」
「勝手に逃げてっただけだろうな。やることやり終わっただけかもしれねぇがな」

 目を慣らしながら、アキラはスライクが大剣を腰に下げているのを見た。
 戦闘は、いや、戦闘と言えるかどうかさえ不確かな、未知の生命体だか物体だかとの邂逅は終わった。
 曖昧なものが曖昧なままで終わった。

「おい、修道女。戻るぞ」
「え、ええ、ちゃんと、できた、でしょう?」
「当然だ」
「少し、は、ねぎらう、もの、でしょうが」

 高度を下げていく青い飛竜の背の上で、ふたりのやり取りを聞きながら、アキラはまがい物の太陽が消えた星空を見上げて呟いた。

「俺、超部外者」

―――***―――

「17人? たったそれだけか」
「でもでもマルドン、あっしたちにも入れない部屋はいくつかあります。もしかしたらみなさんそこにいるんじゃないですかね」
「わたし、いくつかこっそり入ってみたけど誰もいなかったよ」

 マグネシアス修道院の聖堂で、マルド=サダル=ソーグはアルティア=ウィン=クーデフォンの報告を受けていた。もっとも、正確な内容はキュール=マグウェルのみから伝わってきた気がするが。
 事態が事態だけに早急に人数の把握をする必要があったマルドは、消灯時間が過ぎた職員たちの寝室にティアとキュールを派遣し、直接数を数えてもらった。
 あいまいな返答は一切認めず、直接目で見た人数だけをカウントした結果がこれだ。
 詳しいことは、ティアには伝えていない。
 今日一日見て分かったことは、事態を伝えようものならこの少女は雪山を駆けずり回ってでも探し始めかねないということだ。

 しかし、17人とは。
 あくまで想定した人数だが、この修道院には少なくとも百名近くの人間がいるはずだ。
 確認した人数が多少不確かでも、それだけ膨大な人数が消えたとは未だに信じがたい。集団生活の中、それだけの人数が消失すれば、必ずどこかに異変が起きる。
 だがそれほど強烈な異変でも、“あの色”を前には薄れてしまうというのだろうか。
 今までマルドが旅した中でも、こうした異変は確かにあった。自分が今日まで当たり前にしてきたことが捻じ曲げられるような痛烈な変化があったとしても、各々“自分の都合のいいように”解釈し、そのままそれは日常となっていく。そんな恐怖に知らざるうちに侵されている人々は確かにいた。
 さすがに今回ほどの規模ではなかったのだが。

 マルドは目頭を摘まんだ。
 まるで悪夢を見ているようだ。
 現在自分が認識していることさえ不確かな、宙に浮かんでいるような気分になる。着地する場所を間違えれば、今自分が抱いている疑念すらも消失してしまいそうだった。

 セリレ・アトルスはすでに夜空から消えている。打てる手は、現状ではあまり無い。強烈な異常の発生に、立ちくらみがする。
 しかし思考の停止は、マルドには許されなかった。

「……そうだ。エリサスさん」

 ふと、思い起こした。
 “いないことを認識していたから”軽視していたが、結局彼女を見つけていないではないか。
 修道院の中にいなかったとなると、外にいるのだろうか。
 マルドは、はっとして聖堂の扉に視線を走らせた。

 “あれほどの異常が起きて、外から戻ってこないとはどういうことか”。

 そこで、過剰に反応した者がいた。

「エリにゃ―――とととぉっ!?」

 先読みして服を掴んでおいて良かった。
 真っ先に駈け出そうとしたティアは、首輪付きの猛獣のようにつんのめり、聖堂の床に無様に転ぶ。そのまま滑っていくところを見るに相当な勢いだったようだ。
 悪いことをしたとは思ったが、彼女をこのまま行かせるわけにはいかない。

「ぅぅ、マッ、マルドン!! 何するんですかぁっ!! そうですそうですエリにゃんです!! こんな時間まで戻ってこないなんて大変です!! あっし、探しに行かないと!!」
「頼むから落ち着いてくれ。そんな服装で外へ行ったら一発で氷漬けだ。俺も探す。とにかく、着替えてからだ」
「わたしも行く」

 取るものも取らず特攻しては、二次災害が目に見えている。
 エリーの不在が消失なのか単なる遭難なのかは分からないが、いずれにせよ危険であることには変わらない。

「わっ、分かりました。おふたり共ありがとうございます。では、急いで―――うおおっと、ふぼうっ!?」

 彼女には何か強烈な呪いでもかかっているのだろうか。今度は部屋へ駈け出そうとしたティアには、別の障害物が待ち構えていた。
 慌てて避けようとし、再び床を滑って行ったティアを見送りながら、マルドはその人物を見て息を呑んだ。

 ミルシア=マグネシアス。

 以前もこの場所で出会った修道院の主が、薄暗い聖堂の中でぼんやりと立っていた。

―――***―――

 地上。
 これほどの極寒でも、遥か上空の地獄と比べれば温かく感じるのは不思議なものだ。
 アキラは、夜の世界に戻った雪山で、スライクの後に続いていた。

 地上に戻り、アキラは当然サクと合流したかったのだが見たこともない場所に降ろされてはそれも叶わない。
 雪山の知識が無く、装備もほとんど無い自分が一晩そこらで過ごせるはずもなく、一縷の望みを託してスライクと共に行動することとなった。
 まかれないところを見ると、どうやら承諾してくれたらしい。

 空を見上げてみる。
 今夜は天気に恵まれたようで星が姿を現しているが、美しくは見えない。アキラの目には未だチカチカと、まがい物の光の残滓が停滞していた。
 つい先ほどまで自分たちがいた場所を眺め、アキラは肩をすくめる。
 あれほどの場所に自分たちを導いた女性は今、気絶した体をふたつ折りにされ、スライクの肩に乗せられていた。
 彼女が気絶するのが後少し早かったら、自分は間違いなくあの夜空の星のひとつとなっていただろう。

 アキラは首を振り、スライクの背を睨んだ。彼の鋭い眼光を目の当たりにしてしまうと、彼を見るとき自然と自分まで視線が鋭くなってしまうのは仕方がない。

「なあ、あれは何だったんだよ」
「知るかっつったろ。最近話が通じねぇなぁ、おい」
「お前はあれを倒しにここに来たんじゃないのかよ」
「んな律儀なことするわけねぇだろ」
「じゃあ何しにここに来たんだよ」
「どうでもいいだろうが」

 情報収集したいところだったが、会話をまともに続ける気はないらしい。
 そして、それもそうかと妙に納得してしまう自分がいた。
 自分にあるのかと訊かれると自信を持って首を縦に触れるわけではないが、彼には使命感というものがまるで無い。
 あの港町でもそうだった。彼はただ、自分の思うまま、その剣を振るうのだ。
 例えその一太刀に、力なき者たちから、どれほどの期待がかけられようとも。

 アキラは目を伏せた。
 認識されるだけで意味を持つ物体とは違う。
 人は、自らが動き出して初めて意味を持つ。
 幸運であれば他者から手を差し伸べられることもあるが、何もせずに助力を得られないことを嘆いてはならない。それは不運ですらなく、必然であるのだから。

「ここだろ」
「は?」

 呟きと同時に、スライクの足が止まった。
 アキラは眉を潜めて周囲を見渡す。
 先ほどから妙な既視感を覚えていたが、ようやく分かった。
 ここは、自分がスライクに拾われるまで走っていた場所だ。

「おお……、おお……!!」
「で、だ。この修道女、持って行け」
「……は?」
「聞こえたろ。この辺にお前の寝床があんだろうが」

 まさか、この男がここまでアキラを導いたのは、アキラのその女性を押し付けるためだったのだろうか。
 てっきりスライクの仲間かと思っていたがそうではないのかもしれない。

「ちょ、ちょっと待てよ。そういやあれ、お前、キュール……たちはどうした? 一緒にいるはずだろ」
「ちっ、てめぇもこの修道女と同じことを……、どうでもいいだろうがそんなことは。気絶してんなら俺についてこれねぇだろうが」

 自分たちが逸れた仲間と合流するために必死になっているというのにこの男は。
 西の大陸タンガタンザで彼の生い立ちを聞いたからか、彼に妙な親密感を覚えていたアキラは裏切られたような感覚を味わった。
 だが、冷静に考えなくとも彼はもともとこうだった。
 不要なものは全て捨て置き、ただその凶刃のみで突き進む、『剣』そのもの。
 そもそも2年前の“戦争”の話も、彼が義に厚く情が深いような男などだと感じるようなエピソードではなかったと記憶している。
 そこで、ひとつ思い出した。

「……お前は今も、呪いを暴こうとしているのか」
「……あん?」

 思ったよりも冷静に、スライクの鋭い眼光を受け止められた。
 唐突に連れ去られたせいで思い起こすのに時間がかかったが、アキラはあの過去話を聞いたとき、スライクに訊ねたいことができたのを思い出した。

 彼の過去。
 彼が旅に出た理由。
 あたかも物語の主人公のように、日常全てが伏線となり、身近で開花する、“日輪属性の呪い”。
 それを求め、暴き、あまつさえその元凶を斬り殺そうと、彼は単身旅に出た。
 彼の旅は、物語の苦楽を受け止め、それを乗り切り、定められたエンディングを目指す主人公とは真逆の物語。

 彼はしばらく沈黙し、そしてやがて顎を上げて不敵に嗤った。
 身体が雪山の冷気を思い出し始めたアキラには、その顔に震えるような恐怖を覚えた。

「……はっ、そういやてめぇはタンガタンザにいたんだったなぁ。あの病人、まぁだあの戦場にいやがったか」
「何にも言わなかったけど、お前に会いたそうにしてたぞ」
「あいつも下らねぇこと覚えてるもんだなぁ、おい。で、だ。“呪い”の話か。それを聞いてどうすんだ」
「分かったことがあるなら教えて欲しいんだよ」
「あん? はっ、随分働きもんじゃねぇか。外伝まで手を出してたら、本筋はどうするよ」

 スライクは、ただ嘲ているわけではなく、本心からそう言っているようだった。
 情報の出し惜しみをしているわけではなく、本筋を進んでいるアキラには不要な情報だと判断しているのだろう。
 事実、アキラにとって“呪い”とは、決して幸運ばかりではないが、確実に自分の血となり肉となる経験を与えてくれるものでもある。
 しかし、アキラは食い下がった。

「悪いけど、“今の俺は”そういうわけにもいかねぇんだよ」

 シン、と風が止み、アキラの声は妙に大きく響いた。
 スライクは目を瞑ると、顔を上げ、その鋭い眼光で星を睨んだ。

「お前は天界や魔界に行ったことがあるか」

 天界。この世界を統べる神族の世界。
 魔界。この世界を蝕む魔族の世界。

「……いや、無い」
「俺もだ。だが、方々駆けずり回った結果がある。呪いの現況元凶を探すには、この世界は狭すぎる」
「それは、この世界には答えが無いってことか」

 答えるまでもない、とスライクは鼻を鳴らした。

「神門とか、魔界へ通じる門……魔門とかって言うのか? そこには行ったのか」

 魔門にアキラは行ったことが無いが、その存在とおおよその場所は大陸の地図で見た記憶がある。

「論外だ。どっちも条件が必要なのか、行っても無反応か門前払い。場所だけ知ってても到達できやしねぇ」

 この男は神門どころか魔門にも行ったことがあるのか。
 神門は勇者の“証”が無ければ意味は無いが街の中だ。一方驚異の激戦区と言われている魔門へは血で血を洗う戦場を駆け抜けなければならない。アキラの知らないアナザーストーリーはもしかしなくとも本筋より荒れているようだった。

「まあ、んなもんは後でどうとでもなる。それよりも、いま俺が探してんのは“もうひとつ”だ」
「―――っ、それ、は」
「てめぇもあるだろう。自分が知りえない情報。自分が存在し得ない時間。鬱陶しいことこの上ない、そいつを感じた経験が」

 あの、自分以外の全てが止まり、勇者の応えを世界が待つ、あの全能の瞬間。
 経験したことは何度もある。幾度も助けられたゆえに、スライクのように鬱陶しいとは思えなかったが。

「旅の途中の情報だ。そいつは天界でも魔界でも無ぇ。だがそこに、答えがある」
「“世界のもうひとつ”……!!」
「はっ、名前付けんのが好きな奴だなぁ、おい。まあいい。問題はそこへ行く方法……いや、そこにいるかもしれねぇ元凶を潰す方法だ」
「お前はどこで、それを知ったんだ」
「言ったろ、道中だ。具体的に言やあ―――」

 スライクは、近くの洞穴を睨んだ。
 この雪山には不自然なほど洞穴が多い。

「―――“研究所”。丁度あんな洞穴みてぇな所に、この世界の各地に点在している場所でだ。ここにもあったぜ、どこだかもう忘れたがな」

 爪が掌の骨に突き刺さったような気がした。
 固く握り絞めた拳は、抑えているのに震えている。

 やはりそうか、“あの魔族”。
 今日の出来事も、奴が元凶。
 そして奴は―――“その領域を知っている”。

「だが、暇な奴がいるみてぇでなぁ。ほとんどぶっ潰された後だった。お陰で殆ど空振りだ。面倒なことこの上ない」

 アキラは眩暈がした。
 “そういうことをする”人物には心当たりがあり過ぎた。
 その人物が野放しである以上、スライクの情報収集は思ったように進まないのだろう。

「だが、そろそろ頃合いだ。俺も人のこと言えねぇなぁ、おい。一時的にでもメインルート通らねぇと、解けるもんも解けやしねぇ」
「……!」

 今度のスライク眼光は、遥か彼方の大陸を捉えたようだ。
 決して見えない、雪山の向こう。そこを鋭く捉えている。

「行く気なのか―――“ヨーテンガース”に」

 東西南北に分かれた大陸の、その中央。
 “最後の大陸”―――ヨーテンガース。

「はっ。気が向いたらな」

 四大陸の研究所をスライクと“心当たりの人物”が潰し回った以上、そこに答えがある。

「さて、満足か? だったらこの修道女を持って行け。俺は今から行くところがある」
「まさか“あれ”を追う気なのかよ」
「望み薄だが、次に昇られるとうぜぇことこの上ない。潰しにいく。“俺が飽きるまでだがな”」

 などと、彼らしい言葉を吐き出し、スライクは肩に乗ったままの女性をアキラに放り投げようとした。
 が。
 ガシリッと音が聞こえるほど、スライクの身体が強く揺れた。
 片腕で腰の辺りを掴み上げようとしたスライクは、怪訝な顔つきで、しがみついてきた荷物を睨む。

「あん?」
「き……、聞きましたよ……。貴方、またおひとりで行くつもりですか。ほとんど当てもない状態で……!!」
「随分早ぇ回復だなぁ、おい。とっとと降りろ」
「降りません……。わたくしが朝に言ったことをもうお忘れですか。ここからどうやって修道院へ戻るおつもりで?」
「戻ってどうする。用はねぇよ」
「あ、な、た、は……!!」

 駄々っ子のようにスライクの肩から動こうとしない女性の言葉を聞いて、アキラは、はっと息を呑んだ。
 修道院。その単語には聞き覚えがある。

「修道院って、まさかマグネシアス修道院って修道院?」
「ひっ、え、ええと、そ、そうです。ええと、と、とりあえず降ろしてください!!」
「てめぇが降りようとしなかったんだろうが」
「投げ捨てられないようにしていただけです」

 今までアキラに足を向けていた女性は、スライクの隣に降り立ち、それでいてスライクの服をしっかりと握り絞めながらようやく対面した。

「え、ええと、貴方、マグネシアス修道院へ行きたいのですか?」

 どこかおどおどとしている女性は、それでも徐々に冷静になり、真摯な態度でアキラにぎこちない笑みを浮かべた。
 どうやら彼女はそこの職員らしい。
 これは幸運だ。アキラはすぐに頷いた。

「もうしばらく休めばワイズを呼べそうです。少し休憩させてください。そうしましたら、ほら、完璧です」
「てめぇの頭の中で繋がったらしい1本の線は俺の中じゃバラバラだ」
「貴方はまだ、雪山の怖さが分かっていません。遭難してからじゃ遅いんですよ」

 おどおどとしていた割に、スライクの鋭い睨みによく対抗している。
 そして、ようやく思い出した。
 面識はほとんど無かったが、よくよく考えると、彼女には見覚えがある。
 確か、彼女は。

 どうやら今回はアナザーストーリーのようだ。
 アキラが肩を落とし、しかしどうやら修道院への足は確保できそうだと楽観したところで。

「アキ―――ラ、っ、さ、ま」

 声をかけようとして、人がいることに気づき、辛うじて言葉を正そうとしつつも、迷い、結局妥協したような言葉を紡いだ女性が現れた。

 息を切らし、一瞬スライクを見て目を見開いたが、彼女は、サクは、戸惑った瞳をアキラに向けてきた。

 アキラには、それはまるで、彼女自身が何故この場にいるのかを必死に思い出そうとしているように見え―――そして。

 アキラは思い出した。

―――***―――

「……ここで会うのは2度目ですね」
「ええ。また勝手に出回ってすみません。重ねて謝らなければならないかもしれませんが、これからちょっと外へ行きます」
「……と、すると」

 事態が事態だ。
 マルド=サダル=ソーグは見た目の割にはしっかりと立つ老婆、ミルシア=マグネシアスをすり抜けようとし、しかし老婆の言葉に足を止めた。
 ミルシアの言葉は、震えていた。

「どうかされましたか?」
「え、ええ、いや、悪寒がすると、ここに来るものでして」
「……キュール。悪いけど部屋に戻って俺の上着とバッグ持ってきてくれ。ふたりとも準備してからだぞ」
「うん、分かった」

 何もふたりであの長い廊下を抜けて部屋に戻ることもあるまい。
 マルドはキュールとティアを送り出すと、ミルシアに向き合った。
 マルドが行った地下以外の探索で彼女の姿は見ていない。彼女が寝食を行っているという巨大な扉は開かなかった。
 何か情報を持っているかもしれない。

 星明りに戻った薄暗い聖堂から、子供たちがパタパタと離れていく。
 言葉を先に発したのは、聖堂の巨大な像を見上げたミルシアだった。

「また」
「はい?」
「また、この感覚です」

 随分と聞き取りにくかった。少なくとも以前よりは、年相応のか細い声をミルシアは出していった。
 もしかしたらそれは、マルドに言っているのではなく、目の前の、巨大な偶像に囁いているのかもしれない。

「先代からマグネシアスの名を預かり、わたくしに今、できることは―――」

 その姿は、その小さな姿は、マルドが最初にここへ来た夜に見た気がする。
 あのときも、彼女がマルドに気づくまで、ずっとこうして見ていたと思う。

「結局、何も、何も」

 ミルシアは振り返り、マルドを見上げ、ふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
 その笑みに不気味さを覚えるのは、薄れていた彼女の気配が虚栄によって強まったように感じるからだろうか。

「さて、旅人様。お待たせいたしました。ご用件は」
「……あなたは今、いや、以前から、この修道院に異常が起きているのを知っていますか」
「それは……分かりません。最近細かなことは分からなくなりましてね……。わたくしも歳なのでしょう」

 虚栄の部分が小さくなったのを感じた。
 上手く頭が回っていないのだろう。
 マルドは言葉のペースを落とした。

「この修道院には、一体どれだけの人がいるんですか?」

 今日何度、この質問をしただろう。
 マルド自身やや飽き飽きしていたものだが、彼女への質問にそんな不純物は混ざらなかった。
 今の彼女が、他の職員のようには、自信満々に誤答を出さないように見えた。

「駄目ですね、本当に。こう老いると、何もかもが分からなくなってきます。だから皆、嫌気が差すのでしょう。それはそうです、こんな場所」
「……人がいなくなっているのは分かるんですか」
「やはり、そうなんですか。中々会えないはずです。怖いものですよ、この歳になると日常の些細なことすら忘れていきます。何よりも許せないのは、わたくしが、あの娘たちの顔すら思い出せないことです……」

 マルドは目を閉じた。
 彼女は、消失そのものは認識している。そして認識した上で、人の消失という異常を、“自分の都合のいいように捉えている”。
 弱弱しく消失感に苛まれるという、当たり前にしても侘しい“普通”に落とし込んでいる。
 以前会ったときはそんな様子ではなかったように思えたが、もしかしたらあのときマルドは、この聖堂の雰囲気に押されて彼女の虚像だけを見ていたのかもしれない。

「こんな場所じゃあ、何もありませんからね……。去っていって当然です。そしてわたくしは、その娘の顔すら思い出せない……」

 ミルシアは再び、巨像を見上げた。

「ああ、分からない。どうすればいいのか、何をすればよかったのか。本当に怖い、怖いものです―――また今夜も、わたくしは何かを忘れました」
「今夜……今夜も、誰かがいなくなったんですか……!?」

 はっとマルドは顔を上げる。
 そうだ。あのセリレ・アトスルが、あれだけ派手に出現して、何もしなかったわけはない。
 しかし、ミルシアからの返答は無かった。
 ミルシアの肩だけが、小刻みに震えていた。

 やがてティアが戻り、キュールが戻り、マルドは渡された防寒具を着込んだ。
 エリーと、そして誰を探しに行けばいいのだろう。静寂を破らないように、マルドは極寒の世界へ大股で向かった。
 最後に一言声をかけていこうと思ったが。
 背後の老婆が、この冷え込んだ聖堂で小さな肩を震わせながら、巨像に若かりし頃の自分を見ている気がして、振り返ることは、とてもじゃないが、できなかった。

 この日。
 ひとつの存在が、その認識すらも、世界から押し退けられた。



[16905] 第四十話『集う、世界(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:5814a249
Date: 2017/01/03 07:38

―――不思議なんだ、とっても。

―――最初は、誰かに何か伝えようと思っても、後でいいか、って思って口を閉じちゃう。
―――誰かが自分に目を合わせてくれなくても、今忙しいんだろうな、って思って後を追おうとしない。そんな消極的な性格のつもりじゃなかったんだけどね。
―――それで、しばらくそんなことが続いて、気づくと、うん、もう手遅れになる。

―――声を枯らして叫んでも、肩を掴んで呼び止めても、振り向いてはくれるけど、みんな、なんだびっくりした、くらいの顔しかしないんだ。そしてすぐに、そんな些細なこと気に留めなくなっていく。

―――無関心。
―――周りの全てが、自分に無関心になっていく。

―――自分という存在が、『2、3人』とか、『5人くらい』、とか、そんな風に表現した場合の、その曖昧な部分の存在になっていく。
―――興味無いかもしれないけど、私はね、結構適当な性格なんだ。だからそんな風な、大体何人、なんて表現はよく使っている。

―――痛感したよ、本当に。私は“その他”で、そしてそれが認識されないことは、本当に悲しいことなんだって。
―――もしかしたらだけど、私自身、そういう風に認識して、そして認識しなくなっていった人っていたかもしれない。ああ、やっぱりそうだ。私も何かを忘れている。そんな気がするよ。

―――だからさ、分からないんだけど、何となく、外を歩きたくなったんだ。どこへ向かおうとしているのか分からないんだけど、とにかく、どこかへ歩いて行きたくなっちゃうんだ。ところどころに洞穴があるから、少なくとも雪に沈むことはなさそうだよ。運がいいよね。

―――すごく、寒いね、ここは。でも私にとっては、誰もが自分に無関心になる場所より、居心地がいい。そう思っちゃうんだ。ここまで来ると、達観しちゃってるのかな、私は。

―――本当に、後悔ばかりだよ。私は知ったよ、誰かが話しかけてくれることって、本当に嬉しいことなんだって。だから私も、もっと多くの人に話しかければ良かったって。全然足りなかったんだね、私は。

―――だからさ、もしかしたらもう私の声は届いてなくて、届いていたとしてもすぐに忘れちゃうかもしれないけど、言うよ。

―――それは、止めた方がいい。
―――ううん、言い方が柔らかいかな、してはならないことだよ。
―――私はこう見えても、結構書庫に籠るんだ、面白いからね。そこで何度も会ったの覚えてる? ああ、無理か。だけど、その本の内容は知ってる。今やろうとしていることが、どういうものなのか。

―――それは自殺、だよ。

―――たとえ成果がどれほど魅力的でも、対価が重すぎる。……ああ、そういえばその本には、対価はちゃんと細かく書いてなかったんだっけ。でも私は知っている。危険なことだって。

――それに、成果だって、そもそもそこに書いてあることが本当かどうかも分からない。本当だとして、ちゃんと正しい手順が書いてあるかも分からない。

―――だから、ダメ。

―――……ああ、でも、なんでだろうね。そう思うのに、私は身体を使ってでも強引に止めようと思えない。
―――気力がちっとも湧かないんだ。きっと寒いからだね、ここが。

―――悲しいよ。悲しくて、本当に悔しくて、そして、寒い。

―――私はもう行くよ。きっとこの会話も、忘れちゃうんだろうな。何でだろう。本当に、何で、こんなことに。

―――分からない。分からないから、行くしかない。少しでも温かい光のところへ。

―――例えそれが、偽りの日輪だとしても。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「ど、どどど、どうでした。わ、わたくし、きちんと礼を払っていましたでしょうか……!?」
「ちっ、けーっきょく夜が明けやがった」
「ど、どうでした……? ああ、何か失礼なことをしていたり……」
「くっ、あーあっ、寝みぃなぁ、おい」
「そ、そうですか、では、まだ、まだ何とか。ですが、これからまだまだ取り戻していかなくては」
「……」

 さて。この鬱陶しい騒音を聞き流すのと、この女を雪山に沈めるのでは、どちらの労力が上か。
 遠方の山々から本物の太陽が姿を現したのは、スライク=キース=ガイロードがそんなことを真剣に考えていたときだった。
 巨大で屈強な体躯に、それをも上回る大剣を腰に携え、大岩にどかりと腰を落としている様はなかなかに荘厳なのだが、修道服の女が傍で喚き散らしていたのでは台無しだ。
 カイラ=キッド=ウルグス。このレスハート山脈に存在するマグネシアス修道院に努めている彼女は、未だに慌ただしく身なりを整え続けている。

 事の始まりは昨夜だった。
 極寒の風が吹く夜、雪積る極寒のレスハート山脈、その虚空に、『太陽』が浮かび上がったのだ。
 そこへ向かうべく、スライクが“馬”を走らせていると、途中、面白いものを見つけてしまった。
 あれば便利くらいに考えて拾ってみたものの、これがなかなかに面倒な事案を抱えていた。

「ですが!」
「…………」
「わたくしたちは中々の貢献ができたのではないでしょうか。何せ、こほん、“勇者様”のお手伝いができたのですから!」
「…………」
「そうでしょうそうでしょう、ですがまだまだこれから―――」

 大岩に語り続けるカイラを意識の外に放り出し、スライクは目をひそめた。
 そして睨む。本物の太陽を。
 勇者の探し人も、修道女の戯言にも興味はない。
 すでに若干飽き始めているが、完全に飽ききるまでは、斬り殺すことを考えよう。

 沈まぬ太陽―――セリレ・アトルス。

 現在この、レスハート山脈全体に降り注いでいる、異常の光を。

―――***―――

「どういうことだ……」

 この岩に座りながら、もう何度呟いただろう。
 ヒダマリ=アキラは昇った日の光の強さに目を閉じながら必死に昨夜のことを思い返していた。
 夜通し走り回っていたというのに、眠気は不思議とない。それよりも、昨夜の珍騒動が、胸の奥をきりきりと締め付けていた。

 昨夜、共に雪山に挑んでいた“土地調査団”のメンバーの男ひとりが忽然と姿を消した。
 それですら大問題なのだが、さらなる問題は、『同行者のひとりが雪山でいなくなった』という異常事態に、誰ひとりとして“危機感を覚えなかったこと”。あるいは、その男の“存在自体を忘れかけていたこと”、だ。
 危機感というか、常識というか、そういう、“意識していない当たり前のこと”が崩壊していた感覚を味わうことになった。
 おそらく、あの場で最も恐怖を覚えたのは自分だろう。
 アキラは手を広げて眺めた。魔力を込めれば、この寒空の下でも暖かな熱が籠るように思えるこの力。
 オレンジの色を放つ―――日輪属性。
 闇を裂き、魔王を討つこの力は、“勇者”の証明と言ってもよいほど強力で、その性質上、“異常”に対する圧倒的な耐性がある。
 空気は薄く、意識も刈り取るような暴風が吹き荒れる高度にいてもある程度は耐えられるし、骨が砕けるような負傷をしても、治療次第では数日程度で完治する。その耐性は身体だけには留まらない。意識を誘導するような些細な精神攻撃にも、即座に違和感を察知できる。アキラ自身、そうした搦め手に対する耐性をかなり拠り所にしていた。

 しかし、この件に関しては違った。

 1度は気づけた。ひとりの失踪が騒ぎになったのはアキラが叫んだからだ。

 しかし、僅かな間を置いただけで。
 自分は確かに、忘却していた。

 原因は、はっきりしている。
 『沈まぬ太陽』―――セリレ・アトルス。

 昨夜遭遇したあの存在は、アキラと同じ、オレンジの色を放っていた。

「そう気に病むな」
「……」
「まあ、私が言える次元の話ではないかもしれないがな」

 日本刀に酷似した刀を携える長身の女性は、静かにアキラの隣に腰を掛けてきた。
 サクことミツルギ=サクラ。彼女は、アキラがこの異世界に迷い込んだ最初の大陸から共に旅をしてきた仲間だ。
 年下とは思えないほど冷静な彼女に、何度助けられただろう。そして今回ほど、彼女の存在をありがたく思ったことはなかった。

「マジで助かったぜサク。お前がいなきゃ、俺は多分、今も忘れていた」
「なに、“主君様”の命令を守っていただけだよ」

 失踪した男の捜索中、忘却していたアキラに異常を思い出させてくれたのは彼女の行動だった。
 自分がスライクに半ばさらわれるような形で元凶に向かっていた中、彼女だけは、男の捜索を続けていた。
 その姿がなければ、捜索は自然消滅していただろう。音も立てずに崩れ落ちていく自分の常識と共に。

「まあ、うまい具合に補完できたじゃないか。お前が気づいて、私が忘れない。それでいいんだと私は思うよ」
「ああ、そうだな」
「……まあ、それはそれとしてもだが」

 サクは、眉を寄せた。
 アキラも同じ表情をする。昨夜の騒動が静まったあとでも、未だ頭を悩ませている問題がある。

「時にアキラ。“見つかった男”も何も覚えていない。そんな魔術がこの世にあるのか?」

 結論から言って、失踪者は発見できた。

 発見したのは、離れたところで大岩に座り込んでいるスライクと、その傍で何かを喚いているように見える修道服の女性だ。
 “勇者様”には最大限の敬意を、というのがこの世界の常識だそうで、彼女は事情を話すとすぐに捜索に加わってくれた。
 主に行ったことと言えば常識に捉われずに無視を決め込んだスライクの周囲でさんざん喚き散らし、探索要因に引きずり込むことだったようだが、ともあれ、その数分後に、彼女とスライクは遭難した男を連れてきてみせた。
 ワイズ、といったか、彼女が使役する、この雪山での捜索を容易くこなした 巨大な“召喚獣”には衝撃を覚えたが、乗る気でないスライクの説得という利益か死の極限の行動を行ってくれた彼女に深く感心したのを覚えている。

 だが、それ以上に、見つかった遭難していた男には恐怖を覚えた。
 カイラの話では、彼は近くの洞窟で、ただただ“自然”に眠りにつこうとしていたらしい。
 一見ひとり旅のようにも見紛える男は、強引にここへ連れてこられたときも、まるで当たり前のようなことのように落ち着いたまま仲間たちに合流していた。
 向かい入れた仲間たちも、失踪事件などなかったことのように自然に向かい入れ、今は静かに眠っている。
 どこまでも自然に、常識が崩れたまま。

「どこへ向かおうとしていたのかも覚えていないらしいな」
「ああ。それどころか、本人は軽い散歩くらいの感覚だったみたいだぜ。わざわざ迎えに来てくれたのか、ありがとう、ってさ。ビバーク紛いのこともしていたらしいのにさ。念のために聞いとくが、この世界では、極寒の雪山で勝手にひとり出歩いて、一夜を明かすことを散歩っていうのか?」
「そういう事態に巻き込まれそうな奴が目の前にいるから何とも言えないが、この世界では違うな」
「……巻き込まれたら助けてね?」
「まあ、そんなことはどうでもいいとして、正直私は、この“異常”、遭難した男が見つかればある程度解決の糸口が見つかるかと思っていた。だが結局空振りか」
「ふーん……」
「悪かったとは思うが、口調と拗ね方に腹が立つ」

 アキラは首を振って意識を切り替えた。どうやら徐々に眠気が迫ってきているらしい。
 だが時間はない。
 あの太陽が沈む頃には、再び偽りの太陽が浮かび上がるだろう。
 それまでに“何か”が分からなければ、再び“何か”が起こってしまう。
 雲を掴むような具体性のない方針だが、タイムリミットは日没まで。
 せめてセリレ・アトルスがどういう存在なのか掴まなければならない。
 悠長にしてはいられなかった。

「正体なんざどうでもいいが、殺し方なら概ね掴んでいる」

 ゾクリとする声に、アキラは顔を上げた。
 いつの間にかスライクが歩み寄り、猫のような鋭い眼でアキラを睨むように見下ろしていた。

「あ、あの、“勇者様”はお疲れのご様子。ひとまずあの方々と一緒に我が修道院までお連れしましょう。お連れの方たちも首を長くしてお待ちしていますよ」

 何やらカイラが慌てて間に入り、愛想笑いのようなものを浮かべていたが、アキラはスライクの眼光をまっすぐ睨み返していた。
 逸れたふたりとの再会は、何よりも優先したいところだが、スライクの眼光が、アキラの感情を押し潰す。
 この男。昨夜の接触で、すでにセリレ・アトルス撃破の方法を掴んでいるというのか。
 これが棒立ちに近かったアキラと、セリレ・アトルス自体には興味はなく、ただただ敵を殺すことだけを考えていた者との差か。

 スライクは僅かに剣に手をかけ、顎を上げた。

「面貸せ。戻る前に話がある」

―――***―――

 身体が熱い。
 ピリピリと、身体中が痺れている。
 暗く深い空間で、自分の身体だけが浮かんでいた。

 身じろぎをしてみると、身体が何かの膜で覆われていたことに気がつく。
 動かし続けると、音のない空間で、パキリ、と子気味のいい音が響いた。

 身体の痺れが、少し引いたことに気がつく。
 痺れの原因は、どうやら身体を覆う“膜”だったようだ。
 調子づいて、身体をがむしゃらに動かし、膜を破壊していった。
 身体中が解放されてくる。鬱陶しく感じていた熱が、少し収まったように感じた。
 とうとう膜をすべて取り払うと、この上ない解放感に包まれた。身体全体で、外の空気を感じられる。

 そこで、気づく。いや、確信する。

 自分は、この膜を、決して破壊してはならなかった。

 籠っていた熱も、身体中が痺れるように感じていたのも、今の自分がそう思わなかっただけで、生まれてからずっと存在していた大切で必要なものだった。
 今の自分の行いは、痛みを覚えたからといって、痛覚を消滅させたようなものだ。

 慌てて周囲を探ると、粉々になった膜の残滓が、泡のように溶けていくのを感じた。
 持っていなければならなかった壁。
 その防波堤を、自分は鬱陶しいからと強引に破壊してしまった。

 ゾッとする。静かに涙が零れた。途方もない喪失感を覚える。

 そしてくる。外から、本物の熱が。
 膜がなければ、自我が崩壊しそうなほどの熱量。暗闇は、いつしか業火に包まれていた。

 助けを求めて泣き叫ぶ。
 誰も手を差し伸べてくれない、自業自得だ。

 燃える、燃える、燃える。
 超えてはならない一線を越えてしまった者を襲う灼熱は、身体を焦がしていく―――

「……熱い」

「いやいやまだまだ足りませんよキュルルンッ!! もっと、もっとあっためないと!!」
「今の、わたしじゃないよ」
「ふえ?」

 エリーことエリサス=アーティが目を覚ますと、再び暗闇に捉われていた。
 身動きひとつできない。よくない夢を見ていた気がするが、どうやらまだまだ悪夢は続いているようだ。

「え、えっ!? なに、なにっ!? 埋められているの!?」
「エ、エリにゃん!! お目覚めですか!! ううぅ、良かった、良かったよぅ」
「顔、塞いじゃってるよ」

 くぐもった元気な声と、冷静な幼い声が聞こえたのち、エリーの顔から毛布のようなものが取られた。
 最初に目に入ったのは自分の身体の上に積まれた毛布の山。
 何が彼女をそこまで駆り立てたのか、天井付近まで伸びる毛布の塔は、エリーを埋葬しているようにすら見えた。
 建設者は間違いなく、隣で泣き腫らしているティアことアルティア=ウィン=クーデフォンだろう。
 小柄で小さな少女だが、それよりも幼いキュール=マグウェルが冷静に毛布の塔を崩しながらエリーの救命を行っている様を見ると、彼女の活気さは年相応というわけでもないらしい。

 エリーは弱々しく窓の外を見た。日が昇っている。
 どうやらあれから一晩経っているようだ。

「もしかしてあたし、遭難してた……?」
「そうですよっ、昨夜は色々変なこと続きで……うう、あっし、もうどうしたらいいのか分からなくて……。マルドンは大丈夫だって言っていたけど、身体中冷たくて、心配で心配で」

 3人で捜索して、自分を見つけてくれたようだ。そして夜通し看病していてくれたのだろう。
 ようやく常識の範囲内の毛布の量になってきて身体は軽くなってきたが、どうも心が重かった。

「……ごめん、ふたりとも、本当にありがとう。マルドさんにも、お礼言っとかなきゃ」
「はい、そうですね」

 にっこりと、ようやくティアは微笑んだ。そしてゆっくりと、水差しから水をとって差し出してきた。
 常温の水のはずだが、ビクリとするほど冷たい。どうやら身体が燃えているというのは、案外比喩ではないのかもしれなかった。
 エリーは、自分の身体が、こうなってしまった理由を知っていた。

「……何やってんだろうね、あたし」

 ティアは静かに黙り込んでいた。
 こういうときに何も聞いてこないのは、彼女の美徳かもしれない。
 そうした態度が、ありがたくもあり、同時に、自分自身が酷く情けなく思えた。

 失敗、か。

 エリーは心の中で呟いた。
 感覚で分かる。“あの魔術”は失敗した。
 何度も手順を確認していた自分が言うのだから間違いがない。施している途中で、意図した形とはまるで違う方向へ魔力が流れていたのを確かに感じた。
 そしてその対価に、自分の大切な何かが削り取られたような感覚も味わった。
 生きているだけでも儲けものか。

 ……?

 おかしい。
 自分が見つけた“あの魔術”の対価は、命までとは書いていなかった気がする。正確には、失敗時の対価は“不明”だった。
 だが、今の自分は、対価の存在に確信を持っている。
 自分はこの知識をどこで得たのだろう。
 また。
昨夜、この魔術をある程度把握している人物と会話したような気もする。
 あれは、誰だったのか。

「……」

 エリーは目を瞑り、軽く首を振った。
 終わったことは、いつまでも悩んでいても仕方がない、今に向き合おう。
 身体は言うことを聞かないが、とりあえず頭は働かせられる。

 今は“あの男”がこの雪山に入ってきているのだ。どんな異常も敏感に察知しなければならない。

 まずは、とティアに目を走らせた。
 ティアも失言だと思っていたのか、慌てて席を離れようとしたが、エリーは鋭く呼び止めた。

「ねえティア」
「いやいやエリにゃん、今はゆっくり休んでいてくださいっ」
「昨日、変なこと続きだって言ってたわよね?」

 ティアが下手な口笛を吹き始めた。
 病人の自分に下手な気は使わせたくなかったのだろうが、いらぬ世話だ。

「昨日何が起こったのか、話して」

――――――

 世界は劇場。
 自然は道具。
 生物は演者。

 劇場の中で、決まったものが演者になり、演者には役割があり、道具を使い、筋書き通りに言葉を発し、歌い、踊り、事を成す。

 それでは少し堅苦しい。
 筋書きを、少し荒くする。

 決まったものが演者になり、演者には役割があり、事を成す。

 それでもまだ、面白みがない。
 まだまだ荒く、もっと荒く。

 とある人は、演者になる可能性があり、演者には役割があり、事を成すかもしれない。

 これでは舞台は崩壊する。
 多少固くする。

 とある人は、演者になる可能性があり、演者には役割があり、事を成すかもしれない。
 だが特定の存在は、決められた演者になり、決められた事を成す。

 概ね世界は、このように、固まった大きな流れと、不安定な小さな流れでできている。

 これが、前提。

 では、不安定な小さな流れをすべて特定の報告に向ければ、大きな流れを阻害することはできるのだろうか。
 言い換えれば、起きる可能性のあるに過ぎない小さな事象が、すべて特定の方向に発生すれば、劇場は崩壊するのだろうか。

 例えば記憶。
 特定の集団で、とあるひとりが、『誰かひとり』を忘れたとする。
 だが、周囲が覚えていれば、とあるひとりの記憶はすぐに蘇るだろう。
 しかしその、とあるひとりが、特定の集団の全員だったらどうなるか。
 たまたま『誰かひとり』と関わらないという稀有な一日を、全員が過ごし続けていたらどうなるか。
 『誰かひとり』もその日々に疑問を感じなかったらどうなるか。

 そんな実験が、かつてこのレスハート山脈で行われた。

 執行者も忘れ去っているような、この忘却の土地で。

―――***―――

 カイラ=キッド=ウルグスの使役する召喚獣―――ワイズは想像以上に有能だった。
 彼女自身とスライクは当然として、アキラ、サク、および同行していた調査団の面々すらも軽々と乗せ、レスハート山脈の大空を優雅に羽ばたいてみせた。
 調査団の面々は仕事を中断する羽目になったが、事情が事情だ。何とか説得し、ひとまず全員でマグネシアス修道院へ向かう運びとなった。
 その説得の際、カイラがヒダマリ=アキラは“勇者様”であると喚き散らしてくれたお陰で、移動中ずっと背中に羨望と畏怖が混じり合ったむずかゆい視線を浴びる羽目になったのだが、アキラは空の景色に意識を集中させ、何とか目的地に辿り着いた。
 そして。
 絶景に心洗われ、何とも優雅な気分になっていたアキラを待っていたのは。

 騒音だった。

「アッッッッッッキーーーーーーッ!!!!!!」
「……」
「サッッッッッッキューーーーーーン!!!!!!」
「っ」

 自分は誓った。
 彼女と次に出逢うとき、心の底から感謝を捧げると。

「ブギャッ、おおおおおおーーーっ!?」

 最早攻撃とも表現できる猛チャージに、アキラはとっさに身をかわし、最小限の動きで足払いをかけてみた。
 雪の大地に顔面から飛び込み、ずささーっ!! と滑っていくティアを見ながら、アキラはサクに視線を走らせた。
 サクは小さく頷いて見せる。
 どうやら、自分がやらなければ彼女も同じことをしていたようだ。

「ううぅ、なっ、何するんですかアッキー!! せっかくの感動の再開を!! あっし、この日をどれだけ心待ちにしていたか!!」
「いや、その、急に来るから」
「きーっ!! そんなこというと、あっしがこの数か月でどれだけの雪遊びを編み出したか話しませんからね!!」

 アキラの心の底からの足払いは、どうやらお気に召したらしい。沈黙という最高の選択をティアはしてくれたようだ。
 彼女とあの死地で逸れて約3ヶ月。以前と変わらぬ実家のような安心感を彼女は与えてくれる。

「でも、マジで久しぶりだな、ティア。いい子にしてたか?」
「むむぅ……、まあ、それはもう、こほん、ようこそ、マグネシアス修道院へ!!」

 ティアが広げた手の向こう、山の腹部に築かれたマグネシアス修道院は、アキラがイメージしていた修道院とはかけ離れていた。
 海辺にポツンと建てられている教会のような建物を想像していたのだが、マグネシアス修道院は横に長く、山の腹部にガチリとはめ込まれているようで、奥行きはまるで分らない。
 山と一体化したこの建物は、穴倉のようにも見えた。
 だからだろうか。直感的に、この建物に底知れぬ“寒さ”を覚えてしまったのは。

「……ま、いいか。それで、ティア、その、あいつは?」
「エリにゃんですか? そだそだ、そうですね! ……でも残念ながら、エリにゃん風邪をひいちゃってて、今お休み中です」

 随分と間が悪い。久方ぶりとはいえ、押しかけるのも迷惑だろう。
 やや気落ちしながら視線を泳がすと、修道院から男が歩み寄ってくるのが見えた。
 マルド=サダル=ソーグ。
 スライク=キース=ガイロードと行動を共にしている男だ。よく見れば、足元にキュール=マグウェルもいる。
 ふたりは、アキラを一瞥して軽く会釈すると、スライクに歩み寄っていった。
 他者を拒絶するような男なのによくもまあ人が集まるものだ。自分たちはまだ全員がきちんと再会できていないというのに。
 アキラが筋違いの恨みがましい視線を送っていると、スライクは、意外なことにマルドに歩み寄っていった。
 そして短く呟く。

「何が分かった」
「色々と、ね。そっちの情報と合わせれば、大分クリアになると思う」

 それだけ聞くと、スライクはそのまま修道院へ向かっていった。
 マルドはそれを見届けると、アキラの方へ向き直る。

「一緒に来てくれ。多分“そういう”問題だろ?」

 そうだ。
 とりあえず、再会の前に済ませておきたいことがある。

―――***―――

「起こしてしまいましたか、申し訳ありません」

 無意識に身じろぎしたら、真横から聞き覚えのある声がかけられた。
 別に、眠ってはいなかったが、人が来たことに気づかなかった。
 ひたすらに身体の熱と戦っていただけだ。どうやら大分感覚が麻痺しているらしい。

「カ……カイラさん?」

 普通に呟いたつもりだったが、潰れてほとんど声が出なかった。
 顔だけ横に倒してみると、修道服の女性が毛布を畳みながら積んでいる。
 もしかしたらあの量が、自分を責め苦しませていた元凶だろうか。

「アルティア……さ、ん、なら、いませんよ。しばらく戻ってこないでしょう。大変恐縮ですが、あの方は加減が分かっていません。なんの儀式かと思いました。どこから集めたのか分かりませんが、人を殺せる量の毛布……」

 どうやらカイラがティアを近づかないように計らってくれたらしい。未だに身体中に重い痛みが残る。原因は、毛布の量だけではないのだろうが。

「もっとも、加減を知らないところがよいのかもしれませんが。どうぞ」

 差し出された水に手を伸ばすと、またピキリと膜が壊れたような感覚を覚えた。
 カイラに気づかれぬように自然な動作で水を飲む。
 人肌に近い水のはずなのに、氷のように冷たかった。

「それでも、わたくしがいたらこんなことにはならなかったのに。いずれにせよ、ご無事で何よりです。遭難されたとか。お体を大事になさってください」
「すみません……。あれ、カイラさん、外出していたんですか?」

 なんとなく話を逸らしただけだったが、カイラの口元が微妙に動いた。

「いえ、エリサスさん。今はお休みになってください」
「ああ、あたしなら大丈夫です。人と話していた方が元気になりそうなんで」

 事実、そうだった。
 寝てばかりでは億劫になるばかりだったが、思考を働かせるたび、身じろぎするたびに、身体が軽くなっていくような気がするのだ。
 寝汗をかいて身体が冷えそうなのに、かえって身体中に熱が漲る。
 小さな痛みと、膜が壊れるような喪失感は未だ付き纏うが、エリーは気にしないことにした。峠は越えている、はずだ。

「ま、まあ、そんな大げさなことではありません。その、昨日少し、わたくしは冒険、しまして」

 適当に話を逸らした割には、なかなかいい展開になってきた。恐ろしく話したそうな様子をしておられる。
 先ほど結局ティアは話を逸らして、遂には逃げ出してしまったのだ。
 何とか聞けた話は『セリレ・アトルス』という単語。
 カイラはその件にかかわっているはずだ。話を容易く聞き出せるかもしれない。

「じゃあ、是非あたしに、」
「じ、実はですね、」

 待ちきれなかったのか、かぶり気味にカイラは口を開いた。
 非常に良い展開だ。

「昨日わたくしは、『セリレ・アトルス』の調査に向かいましてね。怪しげな書物が散乱している空間や、セリレ・アトルスの影響を受けたと思われる方の捜索やらを飛び回り、」
「は、はあ、」
「遂には、遂にはですよ? セリレ・アトルスの目前まで、わたくしと……まあ、もうおひとりいらっしゃいましたが……“勇者様”と共に迫ったのです、わたくしのワイズで!」
「は……はぁっ!?」

 もう汗は出ないと思ったが、身体中から発汗した。
 カイラを調子に乗らせた天罰を受けた気分だ。

「ど、ど、どういうことですか!?」
「ま、まあ、わたくしのワイズは飛行性能が高くてですね、……まあ、わたくしはほとんど覚えていないのですが、満点の星々の世界にすら到達し、セリレ・アトルスの―――」
「そっちじゃなくて。そっちじゃなくて!!」
「え……、あっ、そうでした。“勇者様”をお連れしましたよ。そもそもわたくしは、それを伝えに来たのですが、失念していました」
「ちょっ!?」

 力いっぱい起こした上半身は、良識的な量になっていた毛布を吹き飛ばし、ベッドを強く軋ませた。
 慌てて周囲を警戒したが、視界に入るのは目を丸くしているカイラだけだった。

「あ、“勇者様”なら今、別室でお話しされていますよ。アルティア……さ、ん、もそちらにべったりのようで」
「そ、そう、ですか」
「あとで尋ねるとおっしゃっておりました。どうされます、お連れしましょうか?」
「い……いえ、それより、……そだ、話、聞かせてください」
「そ、そうですか、では、」

 促しておいて失礼だが、エリーはカイラの冒険談をほとんど聞き流していた。
 遂に、来てしまったこのときが。
 同じ建物の中に、あの男がいる。

 どうやら彼は、この地でも“異常”に巻き込まれ、そしてそれを打破すべくもがいているようだ。
 彼のそれは今に始まったことではない。
 ありとあらゆる地で、ありとあらゆる“異常”が発生する。それも、彼が逃れられない形で。
 彼が来ているということは彼女も来ているだろう―――サクも、その異常性を危惧していたように見えた。
 シリスティアの“失踪事件”は自分も当事者だが、タンガタンザの“百年戦争”に巻き込まれたと聞いたときは胸が潰れるかと思った。
 しかしそれでも彼は、まだ前を見て、今度はモルオールの伝説にすら手を伸ばそうとしている。
 一緒に旅を始めた彼は、今ではこの僻地にすら名が轟く“勇者様”だ。

 それに比べて自分は何をしているのか。
 彼の眼には輝いて映ったらしい自分の姿は、エリー自身では見つけられない。
 結果ばかりを求めて、自爆して、結果このざまだ。

 本当に、自分は、

「……何をしているのでしょうね」

 ぎょっとして顔を上げると、先ほどまで意気揚々と話していたカイラが目を伏せていた。

「……いえ、昨日の出来事。エリサスさん方の旅に比べれば、あまりに小さな事かもしれません。でも、わたくしにとっては大冒険でした。行き尽したと思っていたこの山脈も、まだまだ知らないことだらけでした。そして思うのです。もっと、もっと、広い世界を見てみたいと。だから、思うのです。わたくしは、何がしたいのか、何をやっているのか、と」

 カイラの視線は、窓に向いていた。そして、山々のさらに向うを眺めている。
 生まれも育ちもここという、外を知らない彼女の眼には、今、何が映っているのだろうか。
 彼女にあるのは外への欲求だろう。もともと潜在的に持っていたのかもしれない。
 昨日経験したらしい冒険で、その意欲が強く刺激されたのだろう。
 そしてその一方で、この修道院の想いもある。
 そんな感情が伝わってきた。

「ああ、申し訳ありません、変なことを言い出して。エリーさんもお疲れでしょう」
「いえ……」

 エリーも倣って外を見た。それがどちらの方角かは分からなかったが、故郷のアイルーク大陸を思い浮かべた。
 境遇はまるで違うだろうが、隔離されたような地に住んでいたのは自分も同じだ。
 なんとなく、口を開いた。

「あたしも旅に出る前、田舎の小さな村に住んでました」
「アイルーク大陸の、でしたっけ」
「ええ。そのときは、カイラさんと違って、外へ行きたい、とか、冒険したい、とか、そんなこと、思っていませんでした。嫌だった、っていうわけじゃなくて、想像もできなかったんです。安定した職について、安定した生活をする、っていう、変な夢を持っていたんです」
「変、といっても、普通の方は、そうなんじゃないですか?」
「あ、そうですね、今のあたし、やっぱり変わったかも。なんかそれが、“自分の普通”じゃないと思い始めているのかも」
「では、なぜ旅に?」
「多分、理由はふたつあったと思います。ひとつは、あたし、妹がいるんですけど、その娘、本当にすごくて。多分、あたしの方が先に魔術について勉強し始めたと思うんですけど、あっという間に―――ううん、“彼女が魔術に意識を向けた瞬間”に追い抜かれちゃって……。魔術師試験、あっさり受かっちゃったんです」
「それは……すごいですね」
「で、あたしは落ちちゃって……ものすごく落ち込んだんですけど、ね。多分そのときからです。早く追いつきたい、早く外へ向かいたいって強く思うようになったの」
「……そう、ですか」

 カイラは何か思うところがあるのだろうか。少しだけ眉をひそめた。

「それで、1年越しで、何とかかんとか魔術師試験に受かって、空を見上げたら……ふたつめが、落ちてきました」

 あえて言葉を濁した。カイラは察したのか、追及してこなかった。

「それで、旅に出ました。きっと、魔術師隊に入っても、あたしは後悔することはなかったかもしれない。でも、旅に出た今も、……そう、後悔していない。もちろん、もし魔術師隊に入っていたら、って何度も思ったことはあるし、悩みっぱなしだけど、それはどっちでも同じことだったと思う。だから、カイラさんも、無責任に言うかもしれないけど、思った通りにして、悩んだ方がいいと思う。……なんて、ティアみたいなこと言っちゃった」

 漠然とあの頃のことを思い出す。
 自分の魔術師への夢を経った男が現れたときのことを。
 あのとき自分は、彼を心の底から恨んでいたと思う。だがそれと同時に、期待もあったかもしれない。遠すぎる妹の背中を追うことを諦めかけていたという情けない理由もあったかもしれないが、それ以上に、自分がまだ知らない、見たこともない世界が、目の前に広がる予感を覚えていた。

 そんな悩み続けていた自分の姿を、彼は輝いて見えたと言ってくれた。
 そして、まったく頼りにならなかった彼も同様、ここまでの旅で、悩んで、苦しんで、それでも前へ進んできた。
 そんな彼を、自分は、疎ましく思っていただろうか。

 エリーは目を閉じた。
 これは、本当に自爆だ。
 自分は共に旅を始めた彼の背中が遠のいた気がして、きっと焦っていたのだ。
 “勇者様御一行”など仰々しい看板をぶら下げるのに、自分の力に不足があると強く感じてしまったのが発端だ。
 彼の世界と、自分の世界が切り離されるような感覚に陥っていた。離れていたとしても、確かにつながっていたというのに。

 焦る必要なんてなかったのかもしれない。
 彼がそうしたように、もがき苦しみながらも前へ進んでいればよかっただけなのだから。

 焦らず、急いで、強くなろう。

「大変恐縮ですが、わたくしと境遇が似ているかもしれませんね」

 カイラがふっと笑った。

「え……?」
「理由ですよ。わたくしも、多分ふたつあります」

 カイラは外から視線を外していた。エリーがそうしていたように、追憶するような遠い目をしている。

「ひとつは昨日の出来事。あっという間の出来事でしたが、わたくしの中の感情が揺さぶられました。それと、もうひとつ」
「それは?」
「わたくしにもひとり、血は繋がっていませんが、姉妹のような間柄の方がいましてね。幼いころからどうやって山を下りているのか……修道院の仕事があるのに、当たり前のように外に飛び出て、叱られて、エリサスさんの妹様に比べると、あまりに出来損ないですが」

 妹のように思っていた相手なのかもしれない。
 カイラの口調は、エリーの知る限り、最も優しい。

「でも、叱られた帰りに、わたくしの部屋を訪れてきて、何度も土産話を。ほとんど自慢話でしたが。わたくしも不出来な頃がありまして、つい聞き入ってしまいました。お土産をこっそり頂いたり、本当に、もう」

 話を聞く限り、どちらが姉でどちらが妹と例えているのか分からなかった。
 ただ、カイラにとって、この異郷で、叱られるのを覚悟で外の旅を話してくれるその人物は、無二の関係だったのかもしれない。

「そのせいです。わたくしが、外へ出たいと思うようになったのは。ワイズの姿があのようになったのも、そのせいかもしれません。今でも聞こえるようです。眠りにつこうとベッドに横たわったら、ドアを強く叩かれて、彼……女……が、」
「その人は、今も修道院にいるんですか?」

 カイラに目を合わせようと顔を上げたエリーは、凍り付いた。
 カイラは、目を丸くして、身体を震わせていた。

「あ、の?」
「ア、アリハ? アリハは!?」

 ただ事ではない様子でカイラは立ち上がった。
 エリーが気を静めようと起き上がろうとしたところで、ドアが叩かれると同時に開いた。

「あの」

 扉には、小さな少女が立っていた。
 キュール=マグウェルは、幼さを感じさせない静かな表情で、取り乱しているカイラを見据えて頷いた。

「こっち来て。スライクたちが呼んでる」

―――***―――

「ようやく異常が特定できた、かな」

 アキラの机を挟んで正面、マルド=サダル=ソーグが机に乗り出しながら言った。
 この場にはサクも、そして離れてふて寝しているようにも見えるスライクも、その隣でおとなしく座っているキュールもいるというのに、自分とその隣のティアにのみ言い聞かせているような様子が気になったが、彼の中では、この場で最も理解が遅そうなふたりと判断しているのかもしれない。

「スライク。もう1度確認するけど、お前が見た書物だらけの“空間”はセリレ・アトルスが産み出された場所だったんだろ?」
「……」
「だったらもう間違いない。この山脈の伝説の正体は、“集団記憶喪失”だ」

 スライクは無言を返しただけだったが、彼らの間ではそれは肯定らしい。特に気にした様子もなくマルドは続ける。

「セリレ・アトルスは―――記憶を操作する“魔法”を操る」

 記憶操作の魔法。
 普段なら何を馬鹿なと言うところだが、昨日経験したばかりの身としては、その言葉に納得できた。
 昨夜雪山で苦楽を共にした仲間の存在を確かに自分は忘却したし、この修道院も不自然なほど人が減っているらしい。
 そして、あの色。
 日輪属性の力ならば、そんな超常的な事件を発生されられるだろう。

「ヒントになるかもしれないが、」

 アキラは、記憶を辿りながら呟いた。

「前に出遭ったサーシャ=クロラインとかいう月輪属性の魔族。そいつは、意識を操作する魔法を使っていた。……サクも覚えているだろ?」

 渋い顔でサクは頷いた。
 彼女にとっては苦い思い出だろう。

「それと似た魔法なのかもしれない」
「でもでもアッキー。あっしが聞いた話では、アッキーには効かなかったって」
「いや、効かなかったわけじゃないだ。確かに効いていた。だけど、途中で気づくんだ。なんて言ったらいいのかな、確かに意識が誘導されるんだけど、思っていたことが180度変わると目が覚める。騙し切られはしなかったけど、騙されなかったわけじゃないんだよ」

 だけど、今回は違う。
 自分の意識が、記憶が、書き換わっても、何か発端がないと気づかない。
 気づけたとして、小さな違和感くらいだ。

「まあそれはともかくとして、だ」

 話が脱線し始めていると感じたのか、マルドは咳払いをして話を戻した。

「起こっている現象は、記憶操作。だけど、その狙いが分からない。もっと言うと、失踪している人たちは今どうなっているんだ? 聞いた話じゃ、」
「“どこか”へ行こうとしていた、だ」

 確認のためにスライクへ視線を投げたが、彼は腕を組んで目を閉じたままだった。
 昨日彼に救出された男は、仲間から離れ、ひとり雪山を進んでいたという。

「だけどさ、凍死させるのが目的ならそんな面倒なことをするか?」
「俺が気になっているのはそれもあるんだ。スライクが見つけた男は身支度まで整えていたんだろ? 本当に、目的があって行動していたようにしか見えなかったって」

 そう、目的。
 それが理解できない。
 だが、考えられる理由はいくつかあった。

「アキラ。これは、“失踪事件”、と言っていいんだよな」

 口を開いたサクにアキラは頷いた。彼女も同じことを考えていたようだ。
 ティアも表情が険しくなる。
 自分たちがモルオールで合流する羽目になったその理由は、彼女にとっても忌むべき記憶だ。

「あの魔族。あの野郎は、ガバイドは、各地方から“実験素材”を集めているらしい。アドロエプスのような“転移装置”がこの雪山にもあるのかもしれない」

 そもそもティアたちは、ガバイドが転移先として保持していたマジックアイテムでここにきているのだ。

 やはりこれが、事の顛末か。
 おそらくこの雪山のどこかに―――各所にかもしれないが、あの強制転移を行うマジックアイテムが設置されている可能性がある。

 失踪者たちは、この雪山のどこかへ向かい、そして。
 煉獄へ転移している可能性がある。

「そんだけ分かりゃあ十分だ」

 スライクは身を起こし、猫のように鋭い視線をマルドに投げた。

「細かいことは知ったこっちゃねぇ。こっちは奴の殺し方は分かってんだ」

 スライクは視線の鋭さそのままでアキラを睨んだ。

「だけど、セリレ・アトルスを“呼び出す方法”が分からなかった。だろ?」
「ああ。だが今ので概ね掴めた。その勇者の言ってる通りなら、奴は狙った人間を特定の場所に呼び込んでる。だったら、」
「却下だ。お前、どこかへ向かおうとする“誰か”の後をつけようとしているだろ」

 マルドとの間で鋭く交わされた会話に、アキラはスライクを睨んだ。
 この男は、また当たり前のように犠牲を見逃そうとしているのか。

「ああ、その手もあるな。だがそんな日が来るのをちまちま待ってられるかよ」
「だな。そもそもその“誰か”を全員が忘却している可能性もある」

 冗談だったのだろうか。マルドは特に気にすることもなく呟いた。
 このふたりの会話は分かりにくい。

「ふん。だが俺が言いたいのはこの修道院には今いいエサがいるってことだ。本当なら昨日だか今日だか分からねぇが、本来失踪してたはずの奴がいるだろ」

 “エサ”という表現は気に食わなかったが、アキラはようやく理解が追いついた。
 セリレ・アトルスの撃破の方法は概ね掴んでいる。だが、今現在奴がどこに身を潜めているのか分からない。
 だから、スライクは、

「昨日のあの男を囮にする気か!?」
「でけぇ声だすな。なにも奴がまたふらふら出ていくのを待ってるわけじゃねぇ。あのデカブツにとって、昨日の“救出”は想定外のはずだろ。奴の周囲に―――つまりここに、あのデカブツがのんびり浮かび上がるんじゃねぇかって言ってんだ」

 スライクの言うことは分かる。
 確かに“魔法”を受けたあの男が未だこの雪山にいることは想定外のはずだ。
 早ければ今夜、セリレ・アトルスが浮かび上がる可能性はある。

「だけどここは危険だろ。この近くにおびき寄せるって……、ここに何人いると思ってんだよ」
「その前に殺せば済む話だ。それとも何か、あの男をここから離れた雪山に置き去りにでもするか?」

 さすがに言葉が詰まった。
 言っていることは間違っていないとは思う。いや、言い方が違うだけで、結局のところアキラもその手段を取っていたかもしれない。想定通りなら、今あの男はこの雪山の伝説に目をつけられていることになる。ひとりにするのは危険すぎる。
 何とも言えない感覚に、アキラは自分が駄々を言う子供のような気さえして頭を痛めた。
 この男は、やはり自分とは違う世界線にいるのかもしれない。

「ひとりじゃ弱いな」

 おそらくスライクと同じ世界線にいるのであろう男が静かに呟いた。
 マルドはすでに、この場所を戦地として考えているようだ。

「この雪山だ。仮にどこかに転移装置があって、そこへ人が向かうとして。必ず取り零しがでる。魔物に襲われるかもしれないし、そもそも凍死するかもしれない。セリレ・アトルスをおびき寄せるには、もう数人、犠牲になるはずだった存在が欲しい。敵に、この手はもう通じない、とはっきり伝えたいところだ。確率を少しでも上げた方がいいだろう」

 淡々とした口調に、アキラは、昨日我に返ったときのことを思い起こしていた。
 レスハート山脈の“伝説”。このふたりは、それをただの事実として受け止め、粛々と撃破することを考えている。
 静かに思考を進めているサクと、案の定話について来られずに頭が揺れているティアと、そして悶々としているアキラ自身。
 あまりのスピード感の違いに、アキラは少しだけ焦りを覚えた。

 しばらく目を閉じていたマルドは、はっと顔を上げた。
 そしてキュールに視線を投げる。

「なあキュール。昨日、ここの修道院長に会ったよな。そのとき彼女が、」
「うん。マルドが聞いた話だよね。昨日、もうひとりいなくなったかも、って」
「……はっ。それならあっしも覚えています。エリにゃん探すときに、他にもいるかも、って言ってたやつですよね?」

 スライクは続きが読めたのか、さも面倒そうに呟いた。

「昨日なら、まだこの辺りにいるかも、ってか」
「ああそうだ。そして、捜索隊が誰かは言わなくても分かるよな。周辺は俺も探してみるけど、そこそこ距離が離れた場所だと―――そうだな。“セリレ・アトルスの対象の救助実績がある人間”が望ましい」

 スライクは、殺意をそのまま込めたような視線をマルドにそのまま向けると、響くような舌打ちと共に窓を睨んで呟いた。

「あの修道女を呼んで来い。歩きは面倒だ」

―――***―――

 マルドが言いたかった望ましい救助隊編成。
 それは、おそらく日輪属性の人間、という意味だ。

 想定されるセリレ・アトルスの能力は脅威だ。
 記憶操作。仮に戦闘になったとき、それを利用されればどうなるかは、アイルーク大陸の魔族戦で承知している。
 ゆえにその魔法をかけられた人間を探すとなれば、ある程度は耐性のある属性、日輪属性が望ましい、ということだろう。

 それを理解しているからこそスライクは、マルドの案に猛烈には反対しなかったのだろう。

 アキラもそれを理解していた。
 だから、不機嫌さを隠そうともしないスライクと、挙動不審なカイラと共に空を行くことに、まったくもって、何の不満も、なかった。

「こっちで合ってるのか」
「……は、はい、マグネシアス修道院から降りたとなると、出口は数か所しかありません。となればまずはあちらへ向かえば……、ちょうど人が夜を過ごせる、洞穴がいくつもあった……かと」

 感情のない声でカイラに尋ねると、彼女は震えた声で応じてくれた。
 やはり挙動不審だ。
 この世界の“しきたり”に準じているらしい彼女にとって、“勇者様”が隣にいるというのはそれほどまでなのだろうか。

 今、アキラたちが乗っているカイラの召喚獣―――ワイズ。この存在が、彼女の精神状態によって影響を受けるようなものだったとしたら、アキラは今、絶体絶命の危機に瀕していることになる。

 これ以上カイラを刺激しない方がいいと判断し、アキラはワイズの後部で陣取っている大男に視線を投げた。
 ふて寝でもしているかと思いきや、意外にも彼は猫のような眼を眼下に走らせていた。
 やるからにはすぐに終わらせる、ということなのだろう、アキラも倣って視線を投げる。

 高速で通り過ぎる雪景色から人ひとりを見つけ出すことはほぼ不可能とようやくアキラが理解した頃、山のふもとに開けた地を見つけた。
 もしかしたらあそこが、カイラが往復しているというマグネシアス修道院の生活物資が届く場所なのかもしれない。

 案の定そこへ着陸すると、カイラはワイズの頭を優しく撫で、ワイズは青い光の粒子になって雪景色に溶けていった。

「手分けして探せ。俺は向うへ行く」

 ワイズが消え切る前にスライクは歩き出していた。
 あの行動力は見習うべきものなのかもしれない。

 アキラも周囲を見渡して歩き出そうとしたとき、カイラがワイズの消えた場所を呆然と眺め続けていることに気づいた。

「あの?」
「……ああ、申し訳ありません。捜索、ですよね。では、わたくしはあちらを」

 彼女がさした場所は、スライクが進んでいった場所だった。

「大丈夫、か? 俺のことなら気にしなくていいから、」
「……あの、“勇者様”には大切な方、というのはいらっしゃいますか?」
「……は?」

 ものすごく意外なことを言われ、アキラは言葉に詰まった。

「わたくしには……いた、はず、です。ただ、なんでだろう、分からなくなってしまって」

 これは、彼女の独白だろう。
 おそらく、自分の日輪属性の力が働いている。
 きっと今彼女は混乱していて、混乱したまま言葉を吐き出しているのだろう。
 本当にこれが日輪属性の力だとしたら、我ながら酷い属性だ。

「さっきからずっと、頭に何か引っかかり続けて……。多分その人が、今大変なことになっているのに、分からなくなって……、すぐにでも探しに行かなくてはならないのに」
「……まさか、遭難している人が?」
「分かりません。その人だったか、自信はありません」

 カイラの表情は、恐ろしく静かなものだった。
 修道服に身を包んだ雪女のようにさえ見える。

「……俺と一緒に行こうか。そんな様子じゃ危ないだろ」
「……はい、恐縮です」

 カイラに歩幅を合わせて、ゆっくりと歩を進めた。
 さすがに土地勘はあるのだろう、進む先に迷いはなかった。

「先ほど簡単にお話は伺いました。我がマグネシアス修道院は、魔物に攻撃されていたのですね」
「ああ……。言いにくいけど」
「分かっております。ただですね、それを聞いて、本当に怖くなりました。今探している方だけではない、わたくしの大切な人は、もっと、ずっと多くいたはずです」

 あたりをつけた最初の洞穴は、空振りだった。昨夜人が過ごしたとなればその痕跡があるはずだったが、小動物すらいない。
 昨夜からの時間を逆算すればこの辺りだとカイラは言うが、今の彼女の様子から、まともな計算ができているとは思えなかった。

「先ほどわたくし、思い出したんですよ。その人のこと。……でも、ダメですね、今それが薄れています。多分それは、いつものことです。日常で、その人がいる日も、感情は薄れていまして……。それが魔物の攻撃のせいだけだとは、思っておりません」

 ふたつめの洞窟も、空振りだった。
 動物が生活している様子があったことから、アキラたちは即座にその場所を離れることを決めた。
 途方もない捜索だ。
 消えたかもしれない人がいるかもしれない場所を探し続けることになるとは。
 カイラの言葉に耳を傾けながら、アキラはカイラこそ不憫だと感じた。
 大切な人が消えたかもしれないから、いるかもしれない場所を探し続けているのだ。
 あやふやなのは、足取りだけで十分なのに。

「そうなると、思ってしまうのです。その人は、自分にとって、本当に大切な人だったのか、って。大切なのは、もしかしたら過去の、刹那的なものだけだったのではないか、と。本当に、わたくし発狂しそうです」
「それは……分からない」

 3つ目の洞穴が見えてきた。
 アキラは入口に足跡でも残っていないかと探りながら、ぼんやりと応えた。
 なんとなく、自分の中の感情を刺激されたような気がする。

「本当に分からないよ、それは。でも俺は、そうじゃないと願いたい。…………例えばさ、過去、大切な人がいたとして―――“今の俺は俺じゃなくて、今のあいつはあいつじゃない”。そんなとき、俺はあいつを、大切だと言い切れない……だろうな」
「……似たような経験が、おありなのですか?」

 アキラは答えなかった。

「でもさ、俺はさ、旅をして、何度も思ったよ。ここを選んで良かったって。それも、刹那的なことかもしれないけどさ」

 今が辛いと先を焦がれて。今が楽だと先を恐れて。やはりそれはずっとあり続けるのだろう。

 カイラはほんの少しだけ首をかしげていた。
 分からなくていい。これは誰かに自慢したい話ではないのだから。

「俺難しいこと分からなくてさ、そんなこと、細かく考えられなかったよ。今も悩み続けて、流れに身を任せて……。でも、多分、今は―――どうだろうな」

 少しだけ歩を速めた。
 この答えは、今は出せない。

「だけどさ、いつか答えを出す。もう、それでいいじゃないかと思う。大切かどうかとかに限らずさ。自分で決めればいいんだ、って。例えそれがすぐに後悔につながる刹那的な感情だったとしても―――それでまた悩んだって、いいんじゃないか、って」

 カイラはようやく微笑んだ。
 少しは彼女の気は紛れたのだろうか。

「エリサス様と似たようなことを言いますね」

 その言葉にアキラの背筋が凍りついたとき、ふたりは3つ目の洞穴に到着した。

―――***―――

 カイラがこの部屋を離れてから数分のこと。
 気分新たに先へ進むことを決意したエリサス=アーティの―――病状が、悪化した。

「ぁ……ぅ」

 ひとり、ベッドの上。
 エリーは身じろぎひとつしただけで声が漏れた。

 最初は本格的に風邪を引いただけかと思ったが、どうやら違うらしい。
 寒気は覚えず、むしろ熱い。
 それどころか身体を僅かにでも動かすと、そこに熱した鉄板を押し当てられたような鋭い痛みを覚える。身体中が火傷していたとしたらこんな感じなのかもしれない。

「本格的に……やばい、かも」

 全身に行き渡る血液は、沸騰しているかのようで身体を熱で蝕み、何とか逃れようと身体を動かせば再びそこから熱が湧き出す。
 風邪ではない。むしろ身体中の感覚が毛先の一本に至るまで鋭敏になり、研ぎ澄まされている。身体中が敏感になっているからこそ、この熱を正しく感じてしまっていた。

 危機感を覚えるほど身体中が発汗していることに辛うじて気づけたエリーは、痛みをこらえてベッドの脇の水差しに手を伸ばす。なりふり構わずそのまま口に運んだエリーは、水が蒸発しないことに違和感を覚えるほど、水からは何も感じなかった。

 が。

「ぁ……ぇ」

 何とも奇妙な感覚に、エリーはかすれた声が漏れた。
 水を飲んだおかげではない。何の脈絡もなく、少しだけ熱が引いた気がしたのだ。
 だがそれは外に逃げていったわけではなく、熱は、身体の中に潜り込んでいったように感じる。
 底知れない恐怖を覚える。
 身体の中の、どこか熱を感じられない部分をその熱が燃やし始めているのかもしれない。
 続けて、脳に重い痺れを覚えた。
 チカチカと視界が揺れ、何かが見えるような気がした。むしろ、今見ている部屋の風景が薄れ、その“何か”の比重が大きくなる。
 脳が溶け出し、何かと融和するように、現実と空想の区別がつかない。
 こんな経験は前にもした。アドロエプスからどこかへ強制転移させられたときに、脈絡もない光景が眼前に広がる―――あの、全能感。
 幻覚まで見え始めている。もしかしたら、自分はすでに死んでいるのかもしれないとさえ感じた。

「……死ぬ前には、会いたいわね、流石に」

 精一杯の作り笑いを浮かべると、エリーは気絶するように眠りに落ちた。

―――***―――

 そこに、誰かが、いる気がした。

「ア……、あ、れ」
「遅いよ。もう……、聞こえてないかもしれないけど」

 結局、3つ目の洞穴も空振りだった。
 だが、何とか気を取り戻したカイラは、アキラと離れて捜索を開始した。
 そしておぼろげな記憶を辿っていたところ、ふと、マグネシアス修道院がかつて使用していた運搬ルートを思い出したのだ。
 急斜面で、申し訳程度の線路はあるものの、荷台をほとんど引きずりあげるような形になるルートは、カイラが荷運びを担当してからほとんど使われなくなったマグネシアス修道院への正規ルートだ。
 その麓。
 カイラが現在荷を受け取っている地点から僅かばかり山を登った個所にある洞穴のひとつ。

 そこに、誰かが、いる気がした。

「でも、よく分かったね。ここ、私がよく修道院を抜け出すときに通ってたんだ。酷いよね、ちゃんと正規の道から出入りしているのに、みんなあんなに叱らなくていいじゃん―――あれ、叱ってくれたみんなって、誰だっけ。―――はは、私も同罪だ」

 少しだけカイラは我に返った。
 今、自分は、雪山で遭難した人物を―――いや、違う、セリレ・アトルスの犠牲になった、だったか、いや、ともかく、この周辺にいる存在を探していたのだ。
 見つけた。彼女だ。

 なぜかほんのりと明るく、神秘的にさえ思えるこの空間の中央。おぼろげな表情でこちらを見ている彼女が、救出対象だ。
 彼女は座り込んだまま動かない。足を負傷でもしているのだろうか、すぐに向かう必要がある。

 だが、なぜか足が動かない。
 まるで彼女の正体を思い出すまで、彼女に手を差し伸べることが許されないように。

「分かんないんだ、私。はは、おかしいな、カイラが来てくれて、嬉しいはずなのに、そんな気が起きない。自分では、もうちょっとあっさりした性格だったつもりなのに、気力が湧かないんだ。そっちに行ったら、私、ひとりになっちゃう―――そんな気がして」

 漠然とした無気力感。それを覚えているのはカイラも同じだ。
 身体が思うように動かない。だが、感情は、確かに焦りを覚える。

「みんなに悪気はないんだって、今でも思ってる。ただ、いろいろ間が悪かっただけなんだよね、私に対して無関心なのは。私はよく、分かってる。だから不満を上げなかったんだよ。だけど、それが最大の間違いだった。言えば良かっただけのはずなのにね、私を見て、って」
「あな、た、は、」

 カイラは振り絞るように声を出した。
 身体は動かない。だが、何としてでも彼女を繋ぎ止めておかなければならないと、身体の中で何かが訴えている。

「ここ、で、何をしているのですか」
「……はは、懐かしいや。よくカイラに言われたよ、その言葉。カイラ昔から、私がサボって隠れている場所見つけるの上手かったよね。見つけ出したときの第一声。大体それだった」

 パキリ、とカイラの頭の中で何かが砕けた。
 知っている。自分は目の前の彼女を、知っている。

「……ワンパターンなんですよ、貴女は」

 ぼそりと、呟いた。
 手ごろに空腹を満たせる予備の食糧庫。裏庭の吹雪の日でも暖かさを感じる僅かな窪み。屋上に上って外壁から降りた絶景が見える最上階の窓辺。
 あれで自分から隠れているつもりだったのか。幼少のころ、自分と共に見つけた場所がほとんどだったではないか。

「はは、とうとうここも見つかっちゃった。教えちゃ危ない、って思って、私はカイラにも言わなかったのに」
「いつの話、ですか。ここであれば、今はもう、わたくしがお連れした方が早いというのに」
「ほんとだよ。でもカイラ、中々サボってくれないから」
「貴女は、本当に、もう」

 目の前の女性は、静かに目を伏せた。

「……でも、遅いよ、もう。そんな話、いつでもできたのに。もっと早く、いっぱい話したかったのに。少しだけ後ろ髪引かれちゃうじゃん。でも、もう、決めたから」
「な、にを?」
「“行こう”と思う。分かってる。危険なことだって分かっている。だけど、諦められなくなってる。“この先には”、今じゃないここが待っている――――そう、思っちゃうんだ」

 彼女がしゃがみ込んだ足跡。そこに、“石”のようなものが埋まりこんでいるのが見えた。
 この洞窟の、ぼんやりとした光源が分かった。
 あれは、何らかのマジックアイテムだろうか。
 マジックアイテムらしき物体の光が、強くなっていく。

 しかし、それよりも。
 彼女の乾いた瞳に、強烈な違和感を覚えた。

「―――ぅ」

 視界に収めた途端、カイラの身体中から汗が噴き出した。身体の中で焦っていた感情が、早鐘のように胸を打つ。

「ごめんね、弱くて。私、自分がみんなに関心を向けられない日々を、耐えられなかった」

 最後にこちらを向いた彼女は、泣いていた。

「アリ―――」
「そこから離れろっ!!」

 爆音のような怒号が、洞穴内に響き渡った。
 カイラが振り返ろうとすると同時、疾風のようにオレンジの閃光が自分を追い越す。

 目の前の少女は一瞬呆気にとられたようだが、即座に足元の“石”。手をかざした。
 オレンジの光に身を包んだ男は、襲い掛かるような勢いで彼女に手を伸ばす。
 しかし、彼女の動作は早すぎた。

「っ」

 そして。
 オレンジの閃光は、彼女がいた場所を通過し、岩壁に鋭く激突した。
 洞窟内にいるのは倒れ込んだ男と、立ち尽くすカイラ。

 それだけだった。

「ぐっ、まだ!!」
「どけ」

 倒れ込んだ男が立ち上がると同時、再び背後から声が聞こえた。
 最早糸の切れた操り人形のように力が入らないカイラは、通り過ぎた大男に突き飛ばされるように倒れる。

 直後、ガギィ、と鈍い音が響いた。
 顔を上げれば、ヒダマリ=アキラが手を伸ばそうとしていた先ほどの“石”を、スライク=キース=ガイロードがその大剣で真上から叩き割っていた。

 眼前で起こっているのに遠い世界の出来事のように感じる光景を眺めながら、カイラはようやくその名を呼べた。

「……アリハ」

―――***―――

「とりあえずこれで全員、かな。誰にも確認できないけど」

 マルド=サダル=ソーグはマグネシアス修道院の奥、食堂の扉をぱたんと閉じて呟いた。
 一番人が修道できそうだと判断したこの空間には、修道院長も、職務に励んでいた修道院の面々も、昨日この施設に保護された“土地調査団”の面々も揃っている。
 各員には、各々極力手をつないでいるように、と指示しておいた。記憶を書き換え、人を雪山へ連れ去ってしまうセリレ・アトルス対策だが、男性に慣れていない修道院の面々にも、儀式ような行動に慣れていない土地調査団の面々にも大分不審がられてしまい、“勇者様”であるヒダマリ=アキラの指示であると嘯いておいた。それは容赦してもらおう。

 昨日連れ去られた可能性のある存在の探索は、見立て通りあっさりと終わった。足ですぐに行ける距離にいるわけがない。そもそも昨日エリーを探す際に概ね調査を終えているのだ。
 一応任を果たしたマルドだが、やるべきことは終わっていない。
 万全とは言い難いが、修道院の面々の安全は確保した。
 次は、セリレ・アトルス対策だ。

 今、スライクたちが調査へ行っているが、救出できるかは日輪属性のふたりがいても五分五分だろう。相手も日輪属性だ。
 ならば“釣り餌”は十分とは言えない。
 セリレ・アトルスは、今夜空に昇らない可能性がある。

 あの飽きっぽいスライクのことだ。早ければ明日ここを離れてもおかしくない。それまでに、何としてでもセリレ・アトルスを撃破しなければならないのだ。

 二手三手と検討する。
 策と、その策が失敗したときのためのことを。
 自分は、そうである必要がある。

 マルドは歩き出しながら、もう一度食堂の大きな扉に振り返った。

 彼らはこの伝説の被害者だ。
 それでも自分たちは、この場所を戦地に選んだ。そのことは彼らに伝えていない。ましてや、その中のひとりがエサであることすら知らない。

 まさしく悲劇だろう。
 伝説に生活を蝕まれ、同じく伝説になるであろう存在たちにいいように利用されている。

 だが、彼らに悪気は覚えても、マルドは同情はしなかった。

 例え作戦が失敗し、彼らが犠牲になったとしても、マルドは振り返ることもしないだろう。
 弱者は守られるべき存在なのだろうが、守られるとは限らないのだから。

 マルドは深く思考する。

 それゆえに、我々は、万全を尽くさねばならないのだ。

―――***―――

「何故こんなことを、―――なんて言わないだろうな」
「……っ」

 眼前には人のものとは思えないほどの大剣が突き刺さり、その所有者の眼光を鋭く受けながら、アキラは、それでも、睨み返していた。

 スライク=キース=ガイロード。
 今しがた発見した救助対象が消えた道を、迷うことなく砕いた―――自分とは違う、もうひとり。

「それでも、訊く。……なぜやった」

 アキラは声を震わせながら立ち上がった。
 しかし頭は酷く冷静で、右手に明かりを灯し出す。以前の自分だったら、この右手は剣を握っていたのかもしれない。

 薄明かりの中で、スライクは大剣を抜き去り、切っ先についた石の残骸を振り払いながら腰に収めた。
 リロックストーン。
 スライクが剣で砕いたそれは、魔族が利用すると言われる転移用のマジックアイテムだ。
 そしてその転移先は、おそらく。

「彼女は正気じゃなかった。そんな状態でこの先に行ったら―――どうなるか分かるだろ」

 スライクは鼻を鳴らしながら呟いた。

「分かるなら、何故行く必要がある」
「お前、は、」

 強く言ったつもりだが、アキラは、まったく声が張れなかった。

「理由を訊いたな。答えてやる。この場からもし、お前が消えればセリレ・アトルスは撃破できない。そうなりゃ少なくともひとつのエサがある修道院は近々壊滅だ。お前がそれほど絶望するものがこの先にあったなら―――尚更だ」

 分かっている。分かっていた。
 自分が熱くなり、考えもなしに彼女を追ったとしていたら、この場に戻っては来られなかっただろう。仮に戻って来られたとしても、それは先の話になる。
 自分はスライクに救われた。

 分かっている。分かっていた。
 でも、納得はできない。
 それは、この男と行動を共にすると、必ずぶつかる壁だった。

「それが彼女を見捨てる理由になるのか」

 自分が嫌になった。嘘を吐いているような心境になる。

「俺にはなる―――そう言っている」

 スライクも分かっているのか、投げやりにそう答えてきた。

 揺るがない。この男は揺るがない。
 アキラは酷く自分が情けなく思えた。
 彼はたったひとつだけ目標を定めていて、自分は八方美人に手を伸ばそうとする。そして今、すべてを取り零すところだった。
 自分には“情報”があるという絶対的な優位性を、自分自身の手で砕いてしまったように感じた。

「……わたくしには、なりません」

 洞窟の入り口から、カイラの小さな声が響いてきた。
 反響しなければ聞こえなかったであろうか細い声は、彼女の心境を表すように、強く迷いが感じられる。

「すべての方に救いの手を伸ばす。―――“勇者様”として、あるべき行動だと、思います」

 カイラは立ち上がり、とぼとぼと歩み寄ってきた。
 視点は定まっていない。

「それを咎めるのは、違うでしょう」
「……咎めちゃいねぇよ。こいつが決めたことだ。邪魔はしたがな」

 苦々しく呟いたスライクに、カイラは視線を上げた。
 それでもまだ、スライクの胸元に泳いだ視線を見て、アキラはカイラの気持ちが理解できた。

「俺が“それ”を語るのは妙な話だがな」

 スライクは呟いた。

「“勇者”は希望かもしれないが、世界の全員に救いの手を差し伸べるなんてことできるとは俺には思えねぇ。物理的に不可能だ」

 必ず取り零しが出る。
 世界と比すれば圧倒的に狭いこの山脈の中ですら、セリレ・アトルスが取り零しているように。

「救われた奴は、たまたまだ。運が良かった。そう思うべきなんだ」

 その言葉に、アキラは違和感を覚えた。
 淡々とした言葉を選ぶスライクの声色が、僅かに変わったように思える。

 救われた者は、救われるべきだから、救われる。
 その真理とも言える筋書きめいたものを、スライクは酷く嫌悪しているように感じた。

「多くを救えばそいつは英雄だ。だがな、救われなかった奴が英雄を非難するのは―――馬鹿馬鹿しい。そいつは運が悪い上に―――」
「だから、それを救うのが、“勇者様”でしょう」

 あるいはスライクの態度が違えば、カイラは納得したのかもしれない。
 おとなしく、申し訳なさそうに、消えた彼女を救出する術をなくしたことを詫びれば、カイラも行先のない憤りを抱えたまま、沈んでいたかもしれない。
 本当に、不毛な会話だ。

「―――運が悪い上に、自分じゃ解決できなかった奴ってことだろ」

 しかし、スライクは少しだけ声を荒げた。
 猫のような眼光が、カイラを鋭く射抜く。
 ひょっとしたらスライクにとって、あの決断は、確固たる信念に基づくものだったのかもしれない。

「“勇者”はすべてを救い、魔王を倒す」

 スライクは、この世界の“普通”を語った。
 そして。

「そんなもん信じてどうすんだ。勇者いようがいまいが、死ぬ奴は死ぬ。特に、悲劇が起これば、勇者が来ると盲信しているような奴からな。悲劇が起これば助かるはずだ―――そんなもん信じててどうすんだよ。救いの対価は悲劇じゃねぇぞ」

 ぴしゃり言われ、カイラは口元を歪めた。
 アキラにはなんとなく分かる。
 ここへ飛び込んでくる直前、中の会話が少しだけ聞こえていた。

「わたくしは今、途方もない怒りを覚えています」
「かもな」
「……ですが、それは、貴方の言う通りであれば、貴方への怒りではないのでしょうね。ですが、言わせてください。言葉にしないと、また、やっと掴んだ答えを、取り零してしまいそうで」

 カイラは、彼女が消えた地点に身体ごと向き直り、両手を胸の前で組んだ。

「わたくしには、アリハ=ルビス=ヒードストという大切な友人が、いました」

 彼女は、そしてアリハという女性は、今回、不運にも、悲劇に襲われた。
 そしてアキラも、スライクも、その悲劇から彼女を救うことはできなかった。
 彼女は、救いの手がさし延ばされる幸運な存在ではなかったということだ。
 ただ―――それだけのことだった。

 静かに目を瞑るカイラに倣って、アキラも目を閉じた。
 アキラも今、怒りを覚えている。
 カイラも同じだろう、この状況で、不運を振り払えなかった自分自身への怒りを、確かに覚えていた。

「……戻るぞ。もうこの場所には用は無ぇはずだ」

 沈黙を破ったのはスライクだった。
 彼はあえてそうしているのか、無遠慮に足音を鳴らし、歩き出す。
 その背を、カイラはしばらく見つめ、そして、意を決したように呼び止めた。

「貴方は」
「……あん?」
「先ほどこう言いましたね。救いは、待っていてもどうしようもないと」
「さあな」
「ならばわたくしたちは、自らが奮い立ち、自らを救わなければならないのですね」
「…………できねぇなら、そこから先は運任せだ」

 信じる者は救われる。彼女の信仰としてあるはずのそれは、スライクの言葉とは真逆のものなのかもしれない。
 だが、カイラは得心が言ったようで、目を瞑り、呼吸を落ち着かせ、スライクをまっすぐ見据えた。迷いは見えない。

「でしたら、わたくしは奮い立とうと思います。大切な方を―――もう2度と、失わないために」
「……そうか、なるようになるだろ」
「で、ですから、わたくしを―――」

 彼女の言葉の続きは、聞こえなかった。
 直後、爆音とも言うべき振動が洞窟内を揺さぶり、カイラはよろけて倒れ込みそうになる。
 アキラは即座に警戒した。
 元の世界で言えば、空港の発着場にいるときのような音源が、何を意味しているのか即座に分かった。
 考えるまでもない、この音は、ほど近い上空を、巨大な物体が高速で飛んでいる音だ。

「―――はっ、夜まで待つつもりはねぇってか」
「な、な、な、」
「すぐに出るぞ。修道院だ!!」

 状況が呑み込めなかったカイラを、スライクが小荷物のように抱え、即座に外へ走り出す。
 アキラはそれを追いながら、強く拳を握った。
 まさか今来るとは思わなかった。
 だがもう、切り替えよう。

 偽りの太陽―――セリレ・アトルス。
 この不運を、今日で最後にするために。

―――***―――

「こっち、こっち、こっちです!!」

 修道院は別の爆音に襲われていた。
 下手な不安を煽らないためにも全員を食堂に集めていたのだが、今頃食堂内もパニックになっているだろう。
 マルドは、いつ転んでもおかしくないような慌てた姿で駆けるティアを追って、修道院の廊下をひた走っていた。

 セリレ・アトルス。
 ティアが発見したそれは、どうやらここへ一直線に飛んできているらしい。

「他のみんなは!?」
「アッキーたち戻ってきてないエリにゃんお休み中サッキュンもう外キュルルン見当たらない、です!! あっ、キュルルンいた!!」

 何の呪文だ。
 走りながらようやくティアの言葉が解読できたころ、キュールが合流した。
 ティアの大声も捨てたものではない。どうやら事情は察しているらしい。

 この周辺の探索が終わったあと、ティアはセリレ・アトルスの見張りを行うと言っていた。
 どうやら律儀に昼から見張りを行っていたらしく、それが好転したようだ。

 マルドは思考する。
 セリレ・アトルスが出た。どうやらエサはひとつで十分だったらしい。
 しかし、まさか昼から出るとは。

 いや、とマルドは考え直す。
 記憶を操作するセリレ・アトルス。
 もしかしたらそれは、思考を読む力をある程度有しているのかもしれない。日輪属性だ、無い話ではないだろう。
 つまり、セリレ・アトルスは、“自分たちがセリレ・アトルスの狙いに気づいたと同時にこちらの動きに気づいた”可能性がある。

 だから、今。
 警戒が強まる夜ではなく、今、この瞬間に、セリレ・アトルスが現れた。
 しかもそれは、従来の記憶操作による襲撃ではない。
 ティアの話通り、こちらへ向かってきているということは、魔法による攻撃ではなく、物理的な突進を仕掛けている可能性が高い。

「来ました!! お連れしました!!」
「来たか、どうする!?」
「ぅ」

 修道院の外で待っていたサクが指さすそれが、否が応でも目に入り、マルドは思わず息を詰まらせた。

 視界いっぱいに、太陽が広がっていた。

 唖然とした。
 遠方、なのか、敵が巨大すぎで分からないが、空に小さく浮かんでいる本物の太陽を超える巨大物体が、煌々と輝きながら空に浮かんでいる。

 あまりに現実感のないサイズ。
 やはり―――巨大すぎる。

「あの!! あれ、本当にこっちに!?」
「ああ、さっき言った通りだ。分かり辛いが、確かに接近している。距離感は―――だめだ、分からない」

 最早それは破滅の光にしか見えなかった。
 視界を急速に埋めてくる巨大物体は、山脈の影を根こそぎ奪いながら、なおも接近してくる。
 かつてこれほど巨大な存在に出遭ったことはない。
 接近するそれを前には、眼下の山も、いや、山脈も、途端に小さく感じてくる。
 山ひとつをまるまる投げつけられることは未来永劫無いであろうが、あるとすれば、目の前の光景に出遭えるであろう。
 そして、距離感も、許された時間も、まるで分からなかった。

「落ち着け!!」

 マルドは声を張り、自分にも言い聞かせた。
 ここにきて、ヒダマリ=アキラとスライク=キース=ガイロードが修道院から離れたのが効いてくる。
 いや、向うはそれすらも察知したからこそこれほど直接的に狙ってきたのか。
 あるいは、この修道院が消滅すれば、セリレ・アトルスの役割は終わる―――つまり、この修道院が、レスハート山脈の最後のターゲットということか。

 終わらせない。
 間近に迫ってきている死を前に、マルドは深く考えた。

「セリレ・アトルスの本体は、あれほど巨大な存在じゃない」

 整理するために、マルドは今まで集めた情報を口に出す。
 先ほど、セリレ・アトルスに接触したスライクから得た情報だ。

「あれは“魔力”の基本中の基本、防御膜だ」

 スライクは、セリレ・アトルスと接触しながら、アキラが攻撃した場所を見たといった。
 土曜属性を模倣した魔術攻撃は、セリレ・アトルスの防御膜を破壊していたそうだ。

「ただ特例中の特例なのは、防御膜なのに身体の周辺で留まらず、それが膨張している―――つまり、想像を絶して層が厚い、ってことだ」
「な、なら、突撃されても本体まで来なければ大丈夫、ってことですか!?」
「いや、防御膜ももちろん物理干渉はあるよ。それに、日輪属性の防御膜だ。触ったら何が起こるか分かったもんじゃない」
「じゃあ、わたしが止める。マルド、わたしを空へ連れてって」
「キュールなら……確かに。でも、俺はそれで手一杯だ。球体を一点で止めるのがどれだけ難しいか分かるか?」

 使えるカードは、自分の力とキュールの力、のみだろうか。これでは足りない。
 マルドは鋭く視線を走らせる。
 サクは白兵戦向きと見えるし、これほど巨大な敵との空中戦は難しいだろう。
 ティアに至っては、もう、何が何だか分からない。

 どうする―――

「あの、ですね!!」

 そこで、ティアが声を荒げた。

「もしかして、マルドン空中へ行けるんですか!? カーリャンみたいに」
「ああ」

 似たようなものだ、それでいいだろう。

「なら、ならですね、ちょっといろいろ分かっていないんですが、お伝えします。みんなが助かるなら、私を連れて行ってください」

 ティアは、マルドをまっすぐ見据えて、言った。

「私は、あの防御膜を破壊できます」

―――***―――

 騒がしい。
 ティアか。いや、修道院全体がざわめいている。

 妙な感覚と共に、エリーは目を覚ました。
 熱は引いている。
 心も落ち着いていた。

 かつてここまで目覚めの良かったことはないかもしれない。

 だが。
 何故かまともに頭が働かない。
 冷静なのに、身体が勝手に身支度を整え始めている。
 脳が指令を飛ばしているとは思えないのに、身体は的確に“戦闘準備”を始めていた。

 妙な感覚だ。
 眠るたびに思っていた。
 “分かっていることが多すぎる”。
 自分が知りえないことが、勝手に記憶として脳に染みついている感覚がするのだ。

 もしかしたら昨日の術式の副作用で、未来予知能力でも備わったのだろうか。だとしたらそれこそ大失敗だ。
 そんな馬鹿げた思考ですらも、今のエリーは落ち着いて分析を始めている。

 両手を握ってみる。
 何も変わっていない。
 自分は自分だ。

 妙な予感は勘が当たっただけだと楽観的にとらえ、エリーはゆっくりと部屋を出る。

 さあ、行こう。

―――***―――

 本当に中途半端だ。
 マルドは自分を嗤った。

 ティアのできること、キュールのできること、カイラのできること、そして、あるいはスライクのできること。
 自分はすべて実現可能だ。
 そう言えば、自分はすべての存在を超えているように思えるかもしれないが、事実その逆だ。

 自分はすべての存在に劣っている。

 彼が、彼女らが、片手間に、息を吐くようにできることを、思考を研ぎ澄まし、精神を集中させ、必死に術式を組み上げ、ようやく実現できるのだから。
 そこまで必死になってやったとしても、その次の瞬間にはその過程はすべて無に帰している。
 だから何度も何度も繰り返し、過程からやり直して、何とか同じ結果を何度も出せるように苦心している。
 ある程度勘所は分かってきたつもりだが、自分が自信満々に使えると言える魔術は、実のところ何ひとつない。
 だからマルドは、常日頃から、自分が使用するであろう魔術を、あらかじめ、使用ギリギリのところまで組み上げている。魔法ともなればなおさらだ。
 戦闘でも、日常のことを考え、日常でも、戦闘のことを考え―――本当にやっていられない。

 やっていられないが、成功したときの喜びは他の魔術師の比ではないだろう。

 今回も何とか成功した。

 月輪属性大魔法―――フリオール。

 “銀”のヴェールに包まれた3人は、レスハート山脈の空に“浮かび上がり”、巨大な隕石へ向かっていた。
 一応金曜属性で、防御に近い力が使えると言ったサクを最後の砦として修道院へ残し、マルド、キュール、ティアは宙を浮き、セリレ・アトルスへ突撃する。

「あとどれくらい時間がありますか」
「もうすぐだ。やっと距離感つかめてきた。キュールも準備いいか」
「うん。わたしは大丈夫」

 目指すはセリレ・アトルスの中心だ。
 マルドは自らにかけた魔法で精神を研ぎ澄まし、強い光を睨みながら、慎重に中心部へ移動する。
 彼我の差はあまりに大きく、3人の影を足しても太陽の黒点にも満たないかもしれない。

 今から行うことは、キュールがセリレ・アトルスを物理的に止め、ティアがセリレ・アトルスの防御膜を魔術的に破壊することだ。

 この作戦は、修道院近辺では絶対にできない。
 たとえ両者が成功しても、セリレ・アトルスの本体が暴れ回れば修道院は即座に崩れてしまうだろう。
 ゆえにセリレ・アトルスが修道院に辿り着くまでに、空中で処理しなければならないという難易度の高い芸当をしなければならないのだが―――マルドはこの状況を作り出すことで限界だった。
 あとはふたりに任せる他ない。

 間もなくセリレ・アトルスと接触する。

「信用してくれて、ありがとうございます」

 巨大物体の接近が影響か暴風が吹き荒れる中、“銀”に包まれるティアが発した言葉は耳に届いた。
 彼女は精神を研ぎ澄まし、卵を形作るように両手を構え、魔力を溜めている。

「できるんだろ」
「ええ」
「なら、そういうことだ」

 不安がないと言えば嘘なのだろう。
 セリレ・アトルスの防御膜。
 そんな未知のものを破壊できると言えるのは、怪しいと言えば怪しい。
 だが彼女は、スライクがその話をするときその場にいて、“勇者様御一行”の水曜属性の魔術師として、あのときそう発言した。
 信じるか信じないかは問題ではないのだ。
 やれ。マルドはそう言っている。

「来るぞ、キュール。ここが中心だ」
「うん」

 どれだけ幼かろうとも、使えるカードはすべて使う。
 そして、巨大物体を前に怯えもせず、幼さを見せない少女を前へ送り出した。

 キュール=マグウェルが瞳を閉じ、蹲るように身をかがめたその瞬間。
 セリレ・アトルスに比べてあまり矮小な円が彼女の周りに展開した。

 “制限時間付絶対防御”。
 スライクの剣ですら打ち砕けないその強固な“盾”は、一定時間、ありとあらゆる障害から彼女の周囲を守りきる。

 衝突―――

「―――っ―――」

 相当な衝撃が大気を震撼させた。
 手を伸ばせば届く距離に、太陽がある。だがそれは、あまりに小さいキュールの球体と拮抗していた。

 ひとまず成功だ。

 マルドが使用した魔法―――フリオールは、空中浮遊の魔法ではない。
 キュールの防御膜とは違い、術者が指定する事象以外を、都合よく遮断するという魔法だ。
 例えば重力。
 一定の重力を遮断するだけで、対象は月輪のように浮かび上がる。
 例えば大気。
 一定の温度を遮断するだけで、対象は極寒の上空ですら無事でいられる。
 例えば光。
 一定の光度を遮断するだけで、対象は太陽が眼前に迫っても目を開けていられる。
 例えば音。
 一定の音量を遮断するだけで、対象は巨大物体の衝突音を前にすら平然といられる。

 遮断できるものは何で、何を調整できて、何ができないことなのか。そんなものは勿論分からない。魔法は論理ではないのだ。

 セリレ・アトルスの突撃はキュールによって一定時間停止させることには成功したようだが、予断はできない。
 あるは自分の恐怖心が、ほんの僅かな精神の乱れが、魔法という超常現象にどのような影響を与えるか分からない。
 暴力的なサイズのセリレ・アトルスを眼前に置きながら、マルドは何度も魔法を精査する。
 自分は落ちてもいい。何としてでも、キュールとティアをこの場に維持しなければ、修道院は壊滅する。

「行きます―――」
「―――」

 そこで、マルドはティアをキュールの背後からセリレ・アトルスへ近づけていった。
 常日頃騒がしい彼女は、神妙な顔つきで、両手をかざし、そして。
 魔術を発動した。

「バーディング」

 ため込んでいたからなのか、はたまた加減が分からなかったのか。
 おびただしい量のスカイブルーがセリレ・アトルスの防御膜を包んでいった。

 バーディング。
 水曜属性の術者が操るそれは、魔術を崩す妨害魔術だ。
 魔力を血と例えるならそれはウィルスのような存在で、魔力の影響を受けている場所に正常な動作を許さない。
 防御膜が巨大すぎるセリレ・アトルスへの対抗としては、ある種セオリーあのかもしれない。

「ぬ、ぬぬぬぬぬううううううううう!!」

 巨大すぎて影響が分からないのか、ティアはさらに強く魔力を押し流す。
 だが、マルドには分かった。
 謎に包まれる日輪属性に対して効果があるのかは不安だったが、少なくともこの魔術は、セリレ・アトルスへ絶大な効果を発揮している。
 現に今、セリレ・アトルスの防御膜が徐々に大気へ四散していた。

「だぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!」

 ティアの叫びが大気に響いているが、マルドには他の音も聞こえていた。
 自分だけ解除した外の音。
 その中に、鳥類を思わせる悲鳴が混ざっていることを。
 セリレ・アトルスは今、確実にダメージを受けている。

 だが、気は緩めない。
 このままキュールが止め続け、ティアが攻撃し続け、自分はこの状況を維持し続けなければならないのだ。
 何分巨大すぎるせいで、ティアが破壊し尽すまでの時間が長い。

 マルドの頬に汗が伝う。
 キュールを流し見たが、彼女も焦りを覚えている。
 ティアのバーディング、自分のフリオール、キュールの絶対防御。
 そのいずれも、制限時間はあと僅かに思えた。

 が。

「おおっ!?」

 途端ティアの体制がかくんと崩れた。
 キュールも同じように鋭く顔を上げる。

 フリオールの影響で分かりにくいが、眼前の巨大な球体が、消滅した。

「な―――」

 即座に状況に気づいたマルドは思わず手を伸ばそうとした。
 だが、間に合わない。

 セリレ・アトルスは、この3人の突破が困難と判断し、“防御膜を解除した”。

「お―――わ」

 一瞬で消失した太陽の上空、巨大な鳥が羽ばたいていた。

 黒。

 逆行だからではない、足も、翼も、眼球ですら塗り潰された漆黒の怪鳥が、空の青を汚していた。
 全長30メートルはあるだろうか、羽ばたくだけで大気を支配するその怪鳥こそが―――セリレ・アトルス。
 先ほどの太陽と比べればあまりに矮小ではあるが、それでも規格外。
それはまさに、レスハート山脈に落とされた巨大な影のようだった。

 自らの防御膜という卵から産まれ出たようにも見えるセリレ・アトルスは、僅か嘶き、直後。

 マグネシアス修道院への突撃を開始した。

「ま―――」

 マルドが口を開こうとした瞬間、フィルタがかかったような景色や音が、復活した。
 まずい。
 これは、タイムアップだ。

「ちょ、ちょちょちょ!?」
「みんな!! わたしにつかまって!!」

 キュールがいれば、自分たちは例え何千メートル上空から落下しても無傷でいられるだろう。
 だが、修道院は間に合わない。
 太陽の突撃よりは多少はマシであろうが、あの鳥が修道院へ到着しては、結果は何も変わらないであろう。
 遠ざかるセリレ・アトルスを見ながら、マルドは強く歯を食いしばり―――

―――そこで、“着地した”。

「間に合わせろ」
「もちろんです!!」

 気づけば自分たちは、別の巨大生物の背に乗っていた。

「ティア、よくやった」

 高速で景色が過ぎる中、巨大生物の前方に、獲物に飛びかかるように身を屈めた内のひとりが、振り返らずに呟いた。

「あとは任せとけ」

―――***―――

 ミツルギ=サクラは焦りを覚えながら、慎重に魔力を研ぎ澄ませていた。

 遠方で様子は分かりにくいが、どうやらティアたちは成功し、そしてセリレ・アトルスがそれを上回ってしまったようだ。
 巨大な太陽は消滅したが、不気味で、不吉の象徴であるような漆黒の怪鳥が、今度こそこちらへ向かって突撃してくる。
 そして徐々に、身体に日輪の色を宿し始めていた。

 最初よりはずいぶん小さいが、それでも巨大だ。
 概ね距離感は掴めるから、この場所に到着するころ、あれがどれだけのサイズになるかは推測できる。

 サクは防御力が売りの金曜属性を有しているが、その実、防御をすることはまずない。
 彼女自身の戦闘スタイルによるところも大きいが、そもそも魔術に関しては素人に近いのだ。
 それでも使える魔術は、足場改善。
 足場に魔力の足場を発生させ、たとえ雪山だろうとトップスピードで駆け抜けられる攻撃用の魔術だ。

 だから目の前の巨大生物の突進について、自分は回避する術しかない。

 だが。

「やるべきだろうな」

 あのティアがあそこまでやったのだ。自分が遅れをとるわけにはいかない。

 狙うは、端的に言って、“蹴り”だ。

 セリレ・アトルスの眼前に、“足場”を生成する。
 セリレ・アトルスは物理的に衝突するだろう。
 奴がどれほど空中を縦横無尽に飛び回ろうが、自分はその動きについていく自信がある。

 必ず奴を止められる。

 サクは少しだけ苦笑した。
 こんなこと、前の自分では考えなかっただろう。
 奴をかわし、その首をはねる。
 そんな発想しか、出てこなかっただろう。

 敵を討つだけではなく、“止める”。

 そんな戦いをさっそく迎えるとは―――あの戦争の経験も、無駄ではなかったようだ。

「……」

 ただ、奴の衝突は止められるとはいえ、戦場がこの修道院になることは変わらない。
 それが気がかりだった。

 そこで。

「―――だったら、あたしがやる」

 穏やかな声が聞こえた。

―――***―――

「止み……ましたか?」
「いえ、まだ、揺れていますよ」

 マグネシアス修道院の食堂内、修道院長ミルシア=マグネシアスは慎重に顔を上げた。
 生涯をこの地で過ごしてきたミルシアにとっても、今回のことは異例であった。
 “勇者様”がこの修道院を訪れたこともそう、食事時でもないのに食堂に全員が集まることもそう、そして何より、セリレ・アトルスという“伝説”が本格的に姿を現したこともそう。
 修道院の面々の手前、慌てたそぶりは見せられないが、確かな焦りを覚えていた。

 そして。
 ざっと周囲を見渡す。
 気を紛らわすためだと提案された、互いに手をつなぐという方法を、自分たちは実直に守っているが、その輪が、あまりに小さかった。

 周囲に気づかれないように、顔を伏せて、目を強く瞑った。
 まただ。
 自分はまた、途方もない喪失感に襲われている。
 ここ数年、自分は酷く混乱していた。
 日々何を失い、それに気づけないという、根拠もない恐怖をずっと覚えている。
 だから、あの真面目なカイラ=キッド=ウルグスに、“伝説”の調査などという途方もない依頼をしてしまった。

 自分の信念が、この歳になって崩れているように感じる。
 いや、歳のせいであろうか。生涯真摯な神の子であった自分が、理由もない不安を前に、“変化”を求めるなど。

 この修道院の意味を、ミルシアはよく知っている。
 ここは、失うことがあまりに多いモルオールで、変化を封じた場所なのだと。
 だからすべての存在は、ここで凍り付くように時を止める。
 若い者たちは聞かされていてもピンと来ていないだろうが、自分を含め、ここに長くいる者たちは知っている。
 この場所に発展はない。モルオールの脅威から身を潜めるだけの、何もしない場所なのだから。
 この事実に気づいたのは、何年前だったろう。
 もう覚えていない。
 覚えていないが、そのときも、すでに歳をとっていて、遅すぎた、と思った記憶はある。そう思うと、自分はどうやら真摯ではなかったのかもしれない。
 他の年配者たちはどうだろう。気づいたときに、自分と同じことを思ったのだろうか。あるいは、愚かなのは自分だけで、他の者たちは、そもそもそれを願っているからこそここを選んだのかもしれない。

 いずれにせよ、答えは出ない。

「こんなときに何なのですが」

 緊張に耐え切れなかったのか、修道院の面々の円から離れて、別の輪を作っている内のひとりの男が声を出してきた。
 確か、土地調査団、だったか。明朝カイラが救助して連れてきた男性たちだ。

「この辺りで、その、人が住めそうな場所を知りませんか? 私たち、この山脈を調査していまして」
「え、ええ。中々うまくいっていないんですよ」

 男が口を開いたのが緊張を和らげたのか、別の男も口を開く。視界の隅では、修道院の若い面々が、小声で会話を始めていた。

「この山の麓から少し行った先に、確か、ですが。……あれ、村があったような……」
「おお、あとで教えてくれませんか?」

 修道院に長らくいる者が勝手に答えた。
 本来なら無駄口を慎むように注意すべきだろうが、今くらいはいいだろう。

「どんな人が住むんですか?」
「いや、それは分かりませんが、来たいと思う人は大勢いますよ。老若男女さまざまです。ほら、土地不足が深刻でして」
「……そうなのですか?」
「あ、私ここ来る前に聞いたことあります。あとあと、えっと、この山の裏手にはもう行かれましたか?」
「ちょっとティアちゃんの口調移ってるよ」

 勝手な雑談が続く。張りつめていた空気が四散したのは、彼らのおかげだ。まずは彼らに感謝しよう。
 ミルシアは静かに耳を傾けながら、ぼんやりと、追憶した。
 気のせいかもしれない。だが確か、昔、自分はこの山を何度か下りていたような気がする。もっと言えば幼い頃、自分はこの修道院を抜け出して―――

「そんなにここに近いところに多いなら、どうですか。しばらくここを拠点として、調査を続けたいのですが」

 男がそう言った途端、修道院の面々が静まり返った。
 この場に自分がいるからだ。
 自分は周囲にはどう映っているだろう。規律に厳しく、恐怖の対象でもあるだろうか。まさしくその通りだ。
 そんな存在が、怪我人ならともかく、修道院を宿代わりに使わせるなど許すはずもない。

 ミルシアは視線が自分に集まっているのを感じ、顔を上げた。
 禁句を言ってしまったのかと焦る男は、愛想笑いを浮かべて続けた。

「ま、まあ、修道院長様のご意見をうかがわなければ、もちろんしませんから。修道院長様がお決めになってください」

 世辞で言われたことは分かった。
 だがその言葉に、ミルシアは胸を打たれた気がした。
 自分は変化を求めていた。それは認めよう。
 そして諦めかけていた。自分は遅すぎたからだ。

 だが、それでも。
 この地に住む場所ができるだけで、救われる者たちがいる。
 この地で新たな生活を始めようとする者の中には、自分よりも年配の者もいるかもしれない
 そんな者たちも、新しいことを始めようとしている。
 そんな迷える子たちには、何をすべきなのか。

 そして。
 それを決めるのは、自分自身なのだ。

 ミルシアは、慣れない愛想笑いなどせず、表情ひとつ変えず、強い口調で言った。

「興味深いお話です。是非お続けになってください」

―――***―――

 外に出たら、サクがいた。
 そして眼前には、巨大な黒鳥。

 “すべて、知っていたことだった”。

「サクさん下がっていて。あたしが止める」

 サクは即座に飛び退いた。流石理解が早い。

 エリーは拳に力を込める。
 眼前の黒鳥は、身体の周囲にオレンジの光を纏い、それも徐々に膨張していた。

 黒鳥の飛行速度と、オレンジの膨張速度。
 エリーは、それらを悠然と眺め、いつ自分が拳を突き出すべきか―――完全に理解した。

「なんだろう……変な感じ」

 その全能感は、大気に触れたせいか、徐々に薄れている。
 もうすぐ自分は、この感覚を失うだろうということすら分かっていた。
 だがもう十分だ。
 必要なものはすべて拾った。

 あとは、前へ行ける。

 あの黒鳥の、その背後。
 巨大なスカイブルーの召喚獣の上の存在が視界に入り、エリーは小さく微笑んだ。

 この先迷わないかと言われれば、多分嘘になる。
 ずっと迷い続けるだろう。傷つき続けるだろう。もしかしたら再び、怪しげな魔術に手を出してしまうかもしれない。
 そんな不安は常にある。
 それでも、少なくとも、今の自分は、焦らない。
 自分の世界がみんなの世界と離れても、再び逢えると、感じられたから。

 巨大な黒鳥が眼前に迫る。

 あの全能の感覚の中で、最初から自分のものであったかのようにこの手に転がり込んできた魔術。
 眼前の敵が、どれほど巨大であろうが、その力は、それを跳ねのけることができるだろうと強く感じる。
 その感覚を手放さないように、エリーは、拳を強く突き出した。

「スカーレッド・ガース」

―――***―――

 目を焼かれたのは、昨夜に続いて2度目だった。
 カイラの操る召喚獣―――ワイズの背に乗り、セリレ・アトルスを猛追していたアキラは、修道院の正面で、大気を揺るがす爆音と共に空を焼くような赤を見た。
 それは、爆撃などという生ぬるいものではない。
 隕石と隕石が地上で正面衝突したような天災とさえ思えた。
 それと同時、どうやら修道院前から“突き飛ばされた”セリレ・アトルスは眼下の別の山へ落ちていく。
 セリレ・アトルスの向こう、修道院が、いや、修道院が建つ雪山が未だ存在することに、強い違和感を覚えるほどの、非現実的光景だった。

 だがアキラは何故か、誰が、どのようなことをしたのかを悟れていた。

「お、おおお」

 背後でティアが感嘆の声を上げた。それはそうだろう。
 最早建物のようなサイズの飛行物体が弾かれ、墜落して行ったのだから。

 しかしアキラは。

 その赤に、胸が締め付けられるような恐怖を覚えた。

「ちっ、下りろ!!」
「っ、急に方向なんて変えられません!!」

 高速で過ぎ行く世界。
 そのまま修道院へ直進するワイズの背に乗り、セリレ・アトルスの墜落現場を通り過ぎても、アキラは修道院の前の少女を見ていた。

「もう―――いったん下りてください、すぐに立て直します!!」

 結局修道院にたどり着くまで減速しきれなかったカイラは、修道院の前で放り投げるように全員を下ろした。
 そして勢いを殺しながら修道院の門ギリギリでワイズを消滅させると、再び召喚獣を呼び出しながら駆け寄ってくる。その動作は淀みなかった。

「乗ってください!! 追いますよ!!」

 再び、ワイズの上で空を行く。
 ただ、今度は、隣の乗客が変わっていた。

「久しぶり」
「ああ」

 会話はそれだけだった。
 今はふたりとも、いや、全員が、墜落したセリレ・アトルスを睨んでいる。

 ようやく全員揃った。
 あれだけ待ち焦がれていた再会だったが、アキラは自分が思った以上に冷静なことに僅かばかり戸惑いを覚える。

 だが。

 アキラ、エリー、サク、ティア。
 そして、スライク、マルド、キュール、カイラ。

 この全員が、この場所にいることを当然と思う。

 たとえ思想が違っても、世界が分かれていたとしても、目指すものは同じなのだ。

 集う、世界。

 隣通しでも、隣にいなくても、見ているものが変わらなければ、世界は集う。

「勇者!! お前は横から殺せ!!」
「ああ!!」

 眼下に見えたセリレ・アトルスは、小高い山の開けた大地に墜落していた。
 見晴らしもいい。かえって好都合の場所だ。
 アキラは迷いなくワイズから飛び降りた。
 黒く塗り潰されているセリレ・アトルスの表情は見えないが、こちらを敵として認識しているようだ。エリーの攻撃の影響か、動きが億劫にも見える。
 セリレ・アトルスは即座に防御膜を張り始めた。
 分厚く、この山脈すべてを欺き続けてきた、日輪の力。

 アキラは強く睨み、セリレ・アトルスの正面に降り立った。

―――***―――

 スライク=キース=ガイロードは己の剣の鼓動を感じる。
 生きているかのように錯覚する感触がした。
 求めれば応じるように、この剣は脈打つ。

「何をするおつもりですか!?」

 他の面々がすべて降り立ったワイズの上、スライクと残されたカイラは声を荒げた。
 先ほどの、一度消失させてから再び出現させるという召喚方法は無理があった。
 一瞬で根こそぎ魔力を持っていかれた気がする。
 ワイズを維持できるのも僅かかもしれない。
 だが、そんな焦りを、目の前のスライクは気にもしていなかった。
 彼は、巨大な剣を腕ごと水平に伸ばし、猫のような鋭い眼光で眼下の獲物を睨んでいた。

「奴を殺す。確実にな」
「―――は」

 カイラは自分から変な声が出たのを感じた。
 スライクが掲げるその大剣。
 そこから漏れるその色は、

「な、な、え、ええ?」
「喚くな。迷わずに、奴に向かって突撃しろ」
「―――はい」

 カイラは、意を決した。
 そうだ。その色が何であろうと、そんなことは関係ないのだ。

 自分とカイラは、悲劇に見舞われた。救いの手は来なかった。

 今日のことは、自分は一生後悔し続けるだろう。それは変わらない。
 しかし、本当に後悔するのであれば、自分は塞ぎ込むわけにはいかないだろう。
 遅すぎたかもしれないが、悔やむ以上、2度と悔やまないように、あらゆる手段を用いて自分の今を、変えていこうではないか。
 例え自分を変えたことで悔やんだとしても―――今の自分に、未来への恐怖はない。

 もう待つだけはしない。

 だから、今、目の前の敵に、彼を導こう。

「行きます!!」

―――***―――

「キャラ・ライトグリーン!!」

 グンッ、とアキラの身体能力が急速に引き上がる。
 それでもまだ、足りない。
 だが。
 魔力の原石の剣には、アキラの身体への魔術干渉を受けつけなかった―――変換前の魔力が蓄えられている。

 論理崩壊。

「行く気なの!?」
「ああ、打ち合わせ通りだ!!」

 エリーに強く応え、アキラは構えた。
 眼前のセリレ・アトルス。
 嘶き、黒光りする嘴をアキラに向けたその巨大な黒鳥は、自身の防御膜で、その姿を徐々にひそませ始めていた。

 だが、その攻略法。
 身体を分厚い防御膜で覆ったこの存在の撃破方法は、スライクが初戦で看破していた。

 自分は光で見えていなかったが、どうやら自分の土曜属性の攻撃を再現した一撃は、セリレ・アトルスの防御膜を破壊していたらしい。
 だが、彼が言うには、セリレ・アトルスは即座にそれを修復していたというのだ。
 ならば、成すべきことはふたつある。

 ひとつ目は防御膜を破壊すること。
 これも並の方法ではできない。
 昨日のアキラのような即座に回復される破壊では意味がなく、さきほどのティアのように時間のかかる破壊では逃げられてしまう。
 防御膜すべてを一瞬で機能しなくなるほどの一撃―――スライク=キース=ガイロードの木曜属性の力を再現した浸食の攻撃が必要となる。

 ふたつ目はセリレ・アトルス本体を破壊すること。
 こちらは最も危険が伴う。
 防御膜は基本中の基本であることを考えれば、セリレ・アトルスには記憶操作以外にも特殊な力が備わっている可能性もある。日輪属性以外の者では、何をされるか分かったものではない。
 だからこそ、日輪属性の術者が放つ即座に死を確定させられる一撃―――ヒダマリ=アキラの火曜属性の力を再現した破壊の攻撃が必要となる。

「いくぞアキラ!!」
「ああ、頼む!!」

 サクは即座にアキラの前に回り、足場の魔術を展開する。
 この雪山でも、セリレ・アトルスへ道は、何不自由なく駆け抜けられる。

 セリレ・アトルスが僅かに動いたように感じた。こちらの思考を読む力が備わっているのかもしれないが―――もう遅い。
 セリレ・アトルスは、ヒダマリ=アキラとスライク=キース=ガイロードの両名に、決して同時に出遭ってはならなかった。
 考える時間は与えない。

「っは!!」

 まずはスライクが高速で落下するワイズと共にセリレ・アトルスに突撃した。
 その高速の落下の中、スライクはさらにワイズを強く蹴り、膨張していた防御膜へ向かって大剣を振り下ろす。

「っ―――」

 バギッ、と殻の割れたような音と共に、耳をつんざくような悲鳴をセリレ・アトルスは上げた。
 防御膜中に同色の魔力が稲光のようにまとわりつき、卵に入ったひびのように防御膜は浸食される。
 スライクのこの一撃は、生物、魔力に対する圧倒的な殺傷力を秘めている。
 木曜属性の力の殺意のみを詰めたような『剣』の一撃は、セリレ・アトルスの脅威の防御膜を即座に破壊し尽した。

 そしてその中央、再び視界に入った巨大な黒鳥。
 あまりに巨大な防御膜に守られて、スライクの一刀のみでは本体には届かなかった。
 嘶くということはスライクの攻撃の影響を受けてはいるようだが、死滅しないということは、もしかしたら純粋な生物ではないのかもしれない。
 あまりに未知な日輪属性の魔物の撃破方法は、やはり不明なのだ。

 だが、何ら問題がない。

 それが生物であろうと、物体であろうと、破壊しろと言われれば、今のアキラは容易く頷ける。

「そういう次元の威力じゃねぇぞ……!!」

 ひとりにつきひとつの属性という常識とも言える前提を、乗り越えられるヒダマリ=アキラの日輪属性。
 極限まで高めた身体能力が、極限まで破壊を追求した力を放つ。
 計算式など存在しない、論理を超えた破壊の一撃。

 迷わずアキラは突き進み、剣を振り下ろした。

「キャラ・スカーレット!!」

 爆音と共に、セリレ・アトルスを正面から切り裂いたアキラは、勢いそのままに駆け抜けた。
 身体が軽い。腕への反動も押さえつけられる。そして、剣も砕けない。
 最早必然の結果に、アキラは、剣を収めた。
 真っ二つになったこの山脈の伝説―――セリレ・アトルスは、悲鳴を上げる間もないまま、撃破された。

 そして。

「よぉし!! キュール!!」
「わ、わ、わ、」

 魔物の撃破。それも、大型だ。
 さらに言えばあのガバイドの放った可能性が高い魔物となれば、戦闘不能時に備えないことはあり得ない。
 たまたま視界に入ったキュールにアキラは一目散に駆け寄った。

 が。

「わっ!?」
「生き埋めになりてぇならひとりでやってろ」

 目の前のキュールという希望は、スライクによって奪われていった。
 彼はキュールを掴みながら、迷わず崖へ向かっていく。

「マルドッ!! 準備はできてんだろうな!!」

 理解できていないのは自分だけか。
 自分以外の全員がスライクを追って駆け出していく。
 アキラもようやく察し、即座に駆け出した。

「ああ、何とか間に合ったよ。全員迷わず飛べよ!? フリオール!!」

 崖の前で待っていたマルドが、その長い杖を振りかざすと、全員が銀の膜に包まれる。
 よく知るアキラは迷わず崖から飛んだ。

 直後、背後から聞こえる爆発音。
 それが戦闘不能の爆発だけだったのか、それともアドロエプスで見た強制転移の粉をまき散らす罠だったのか、振り返らなかったアキラには分からなかった。

―――***―――

「さてさてさて!! どこ行きます!? 何食べます!? 何のお話しましょうか!?」

 翌日。
 マグネシアス修道院の正門前。
 しきりに盛り上がるティアをサクに任せ、アキラはセリレ・アトルスを撃破した山を遠目で眺めていた。

 伝説になるほどまで長くこの地を破滅に導いていたセリレ・アトルスはもういない。
 想定通りに撃破できた。
 だが、再び偽りの太陽が昇らないとは言い切れない。
 それを繰り返さないか否かは、自分の、自分たちの腕にかかっているのだ。

 アキラはふと、ティアから距離を置いて立っているエリーに視線を移した。彼女は自分の手のひらを見つめていた。
 なんとなく照れ臭くてあまり話はしていないが、これから先、そんな機会は幾度となくあるだろう。

 だが。

 アキラは胸を押さえる。
 彼女が放った、セリレ・アトルスを弾き返すほどの間あの魔術。
 あれを見て、自分はその光景に確かに恐怖を覚えた。
 あの感じは、まさか。

「……あ。またよろしくね」

 エリーは視線に気づいたのか、微笑んで、見つめていた手のひらを小さく降ってきた。
 その仕草が自然に見えて、アキラも小さく振り返す。

 この不安は、置いておいた方がいいだろう。
 ようやくまた、旅が始まるのだ。

「断る」
「そうでしょうそうでしょう……って、え!?」

 アキラたちと僅かばかり離れた修道院の正門前で、スライク=キース=ガイロードは恐ろしく面倒な相手に絡まれていた。

 小耳にはさんだ話では、このマグネシアス修道院は、以前とは在り方を少し変えるらしい。
 昨日マルドがここの面々と土地調査団だとかいう連中を同じ食堂にいれたのが事の発端らしく、修道院としての在り方は変えぬまま、来客用のエリアを少し拡張し、周囲に人が住める場所を作る拠点とするそうだ。そして徐々に、エリアを拡大していくというのを計画しているとか。
 細かな話はまだまだ決まっていないらしいが、それが成功すれば死地とさえ言われているレスハート山脈は、遠い未来、あらゆるところに人が住み始めるようになるかもしれない。

 そんな話はどうでもいいと眠りについた自分をスライクは呪った。
 たとえ吹雪が酷くても、こんな女に絡まれることになるのであれば、昨日中に迷わずこの地を離れるべきだった。

「いいですか、貴方は昨日わたくしの有用性に気づけたはずです。セリレ・アトルスを追い掛け回し、遂には撃破まで!!」
「ああそうだな、助かった。これでいいか? もう二度と会うことはねぇだろうがな」
「大体、この雪山を下りるのだって一苦労でしょう。ああ、もう、キュールのような小さい子に無理をさせて……」
「こいつらとはたまたまここで遭遇しただけだ。ついてこいとは言ってねぇ」
「ああ、もう、……いや、でしたら!! わたくしも勝手についていきます。いいですか!?」
「失せろ」
「うっ!? ぐぐぐぐぐぐ」

 唸り始めるカイラに、スライクは睨みながら続けた。

「大体、お前はこれからここでやることがあるだろ。お前は使える。荷物運びにな」
「っっっ、痛いところを……!!」

 カイラは頭を抱え始めた。いい頃合いだ。この地を離れよう。
 いい加減、雪も飽きてきた。

 しかし、スライクが背を向けようとすると、カイラは、強く言い放った。

「確かに、わたくしはすぐにはここを離れられません」
「だろうな」
「ですが、間もなく人が来るでしょう。それも、大勢。そうすれば、徐々にわたくしの負担も減るでしょう」
「そうだな。百年後くらいだといいな」
「ぐっ、しかし、昨日修道院長様は、わたくしのこの気持ちを理解してくださりました。貴女が決めたことなら、とおっしゃってくださいました」

 カイラは、祈るように両手を握りしめ、スライクの眼を正面から見据えてきた。
 始めてこの女の眼を見たような気がするほど、スライクには強く見えた。

「憧れというだけではありません。わたくしは、昨日の件で、強く思いました。世界の不幸を、わたくしは無くしたい。貴方が不可能と言ったとしても、わたくしは、それを望み続けたいのです。でも、わたくしひとりでは力不足です。わたくしがいることで、貴方の選択肢が増えれば……、貴方なら、きっと何かを成せると思います」

 スライクは、何も返さなかった。

「だから、中途半端にはここを離れられません。ですが、すぐにやるべきことを片付けて、きっと貴方を追います。貴方の力の行く先は、もっと正しい方向へ向けるべきです」
「……それを判断するのは、俺だ」
「ええ。それでも、わたくしにそのお手伝いはできませんか?」

 スライクの脳裏に、太古の記録が過った。
 召喚の力は、決して強く道を指し示すものではない。だが、あの誰にも影響されない太古の超人が、前人未到の速度で奇跡を起こせたのは、何者かの導く力があったからだという。

「ふん」

 鼻を鳴らして、スライクは今度こそ背を向けた。
 マルドがカイラに妙なメモを手渡したのが視界に入る。どうも嫌な予感がするが、もう気にする気にもなれなかった。

 近くにいれば利用するが、いなければ他の方法を考えるだけだ。
 本当に、どうでもいい。
 奴らがどう動こうか、カイラが先ほど言った通り、自分には関係の無い世界のはずなのだから。

 だが。

 スライクは、他の修道院の面々に盛大に送り出されようとしている“勇者様御一行”―――その内のひとり。

 赤毛の少女を流し見た。

 あの女。
 昨日、修道院へ突撃しそうになったセリレ・アトルスを迎撃した、あの瞬間は今でも覚えている。

 特殊な術式を使っていたわけでもない。
 マジックアイテムを使用したわけでもない。
 そして、日輪の力や月輪の力が宿っているわけでもない。

 だが、それなのに。何故。

 あの赤毛の少女の攻撃は、ヒダマリ=アキラの攻撃と同じく―――論理が崩壊していたのか。

 頭を軽く振り、スライクは今度こそ歩き出す。
 それが何であれ、結局のところスライクには関係の無い話だった。



[16905] 第四十一話『なんでもない話』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f7516213
Date: 2017/10/08 03:10
「あ、サクさん」

 宿屋の部屋へ向かう途中、その廊下で見つけた人物に、エリーことエリサス=アーティは思わず声をかけて近づいた。
 サクという女性は、赤い衣を羽織り、女性にしては長身で、艶やかな黒髪を後頭部で結わっているのが特徴的な少女だ。比較的短めにしているその黒髪は、髪の長いエリーにとっては勿体なさを感じる。
 腕を組み、壁に背を預け、ぼんやりと窓の外を眺めていた目の前のサクは、エリーに気づくと、僅かばかり肩を落として柔和に微笑み返してくる。

「エリーさんか。部屋にいないからどこに行ったと思ったら、その様子は買い物か?」
「ええ。山の上ほどじゃないけど、やっぱり寒いしね。それに、ありがたかったけどあたしたちの防寒具、貰い物でサイズも微妙にあってなかったから」

 エリーとサクは、とある事情で最近まで別行動を取っていた。それぞれの旅で何があったのかは思い出したくもない記憶のせいで詳しく話しあってはいないが、エリーはここしばらく、秘境とも言える雪山の中にいたのだ。
 その山を下り、延々と東へ向かって旅を続けていき、ようやくまともな買い物ができる町にたどり着いたのが昨夜のこと。エリーは早速休日宣言をし、朝から意気揚々と買い物に出かけていたのだった。

「それなら前の村にも……その前にもかな、店はあった気がしたが。……あれ、前にも買っていなかったか?」
「まあいいじゃない」

 笑ってごまかしてみたものの、エリーはサクが若干恨めしかった。
 同じ店でも、いろいろ違うのだ。大きな町と村では、品ぞろえの豊富さも違うし、もちろん好みだってある。どうせなら、品ぞろえの良い中から選びたいと思う。
 目の前の少女は、その方面にはあまり頓着しないようで、適当に買ったような服でも着こなしていた。

「ほら、あたし半ば禁欲生活してたようなもんだしね、そのせいで、ね」
「……まあ、一緒にいたはずのもうひとりは今ので大いに満足しているみたいだが」
「あの子は例外……でしょ。今もこの寒い中元気に散策してたわ」

 思い出すのは止めよう頭が痛くなる。
 まあ、一見無駄に見える“彼女”の行動だが、一晩も経てばたどり着いた街の様子に詳しくなってくれているのは助かることもあるのだが。
 サクも似たようなことを考えているのか、ときおり窓の外へ視線を投げ、小さく息を吐いていた。

「まあいっか。……そうだ、あいつは?」
「ああ、アキラなら依頼を受けに行ったよ」
「……え。大丈夫なのそれ」
「私が行くと言ったんだがな、昨日は私が夜の番だったからかな。ゆっくり休んでくれと言われた」

 それで今まで宿屋でひとりだったサクは手持ち無沙汰にしていたわけか。
 サクはやはり窓の外を見てはため息を繰り返している。

「とりあえず名前だけは出すなと言っておいたよ」
「……そうね」

 今彼は、とある事情で世界有数の“有名人”となっている。
 人相までは伝わっていないようで、顔を隠さなければならないほどではないが、つまらない騒ぎを起こしたくない自分たちにとって、その名前は公共の場で絶対に出したくない。

「まあ、今までの村で私たちがアキラを隠すようにしてきたせいかな、表には出していなかったが、不満が爆発したんだろう。よりによって、この大きな町で、な」

 同じ女性である自分の心情は察せなかったのに随分とまあ。
 エリーは僅かばかり眉を寄せたが、それよりも、“あの男”がひとりで依頼を受けに行くという主体性に強く感じるものがあった。

不安だ。

「まあ、問題ないだろう、ひとりで依頼を受けるくらい」

 そう言いながら、サクは窓の外にまたも視線を投げていた。
 少しだけ近づくと、始めて使いに出した子供の安否を伺う母親のような表情が見え、エリーは小さく口を開けた。

「というか、あたしはあいつが何を“引き当てるのか”っていうのも気になるんだけどね」

 気づかないふりをして、エリーは冗談めかして呟いてみたが、サクの表情は変わらなかった。なんとなく面白くない。

「それはどうでもいいさ」
「ん?」
「いや、別にいいじゃないか、アキラが何を受けてこようと」

 窓の外を見ていても解決にならないとようやく気付いたのか、サクは壁から背を離し、穏やかな表情で歩き出した。

「私はそれを、完遂するだけだよ」

 すれ違いざまに呟いたサクのその声が、驚くほど優しく聞こえ、エリーは彼女が部屋に入るまで、廊下に立ち尽くしていた。

「ん……んん?」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「宝探しだ!!」
「燃えますね!!」
「やり直し!!」
「ファイヤーッッ!!」
「ティアじゃなくて!!」

―――ヴァイスヴァル。

 モルオールの西部に位置するこの町は、強大な魔物ひしめく“過酷”な大陸の中で希少な“成功例”と言われていた。
 というのも、モルオールでは基本的に、村や町が栄えるということが無い。
 村が生まれても、数年もすれば、人に引き付けられるのか魔物が村の周囲に巣を作り出して被害をまき散らす。
 村の寿命50年と言われているほどで、村は―――人間が集団で営む生活は、人の寿命より長く続かない。
 人間側も生活に必要な拠点が奪われてばかりではなく、別の地域に村を作り出し―――そして再び魔物が現れる。
 このように、あまりに短いサイクルの中で、村は生没を繰り返していた。
 集団で住む者たちもそれを重々理解していることが原因で、村の繁栄に尽力するものは少なく、出稼ぎに行くばかりなのだから、生まれた村は、ほとんど宿のような認識しか持っていない。
 その結果、常にモルオールの3割近くの人間は、ほとんど移民のような生活を繰り返していた。

 一方でこのヴァイスヴァルは、モルオールでは唯一と言ってもいいほど希少な、産業が盛んな巨大な町だった。
 周囲を山に囲われたこの町は、一説ではモルオールが“過酷”と呼ばれるより以前から在ると言われるほどの歴史があり、そして、魔物に対する防衛策も一風変わったものが多い。
 世界のほとんどの村や町が採用している防衛策は、魔物が近づくと爆音や振動、あるいは魔術を発動して撃退するものであるが、ヴァイスヴァルでは魔物の嫌がる音、匂い、あるいは感じ取られる魔力の質を人工的に生成し、町の周囲に設置している。
 この、魔物をそもそも近寄らせないという技術は、歴史を、あるいは滅んでいった村たちを見るに大いに成功しており、モルオールに新たな村を作る際にはヴァイスヴァルに協力を仰ぐことがほぼ必須とすらなっていた。
 またその一方で、その技術は魔物対策だけに留まらず、鉱物の加工、農作物の収穫や動物の狩猟にも用いられ、人々の暮らしを極めて安定させていた。
 国はヴァイスヴァルを重要拠点と捉え、魔導士隊の本部を村の中に設置し、モルオール唯一の安全地帯は万全の状態で歴史を重ねていく。
 残念なのは、ヴァイスヴァルの技術力は他の大陸から見ても喉から手が出るほど欲しいものであるのだが、その技術が“ただモルオールにある”という理由だけで、訪れるものが多くないということだろうか。
 産業の技術はともかくとして、あまりに万全なヴァイスヴァルの魔物に対する防衛策は、他の大陸から見れば過剰であるし、何より―――その防衛策を譲り受けているモルオールの村たちも、滅び続けているのだから。

「ちょっと待てよ。そんなに不服か?」


 この寒い中、やっとの思いで受けていた依頼を元気よく発表したのに、目の前の少女はより冷めた視線を投げてきやがった。

 ヒダマリ=アキラは、宿の自室に集まった面々を見渡しながら、現状を大いに嘆いた。ひとり部屋にしては今までの宿屋より広い上に、部屋の隅まで暖気が回っている質のいい宿屋だが、視線のせいで少し寒い。
 暖かいのは、曇りない眼をキラキラ輝かせているティアの視線だけだ。

「不服ね」

 ティアとは正反対の冷めた目を向け、エリーはきっぱりと言ってくる。
 何がそんなに不服なのだろう。分かりやすく説明する必要があるようだ。

「いやな、話を聞いてくれよ。この町の西の山、ほら、俺らが昨日ぐるっと麓を回ってきたあの山。あそこに宝が眠ってるって。次の依頼はそいつを見つけることになった」
「どうしよう全然分からない……」

 現在、この面々は少々奇妙な状況にあった。
 実はこのヴァイスヴァル、世界有数の技術力を持ち、モルオールで最も貴重な“平穏”という環境にあるため、著しく物価が高い。
 この宿もそう、エリーが回った衣服店もそう、値段は他の村の水準を大きく超え、1週間もすれば小さな土地なら買えてしまうほどの金額をヴァイスヴァルに下ろすことになる。
 とは言っても、金銭的な問題ならば、実はこの面々にはあまり無い。
 少し前、とある事情で、別の国から多額の献品があったのだ。
 雪山にいたエリーたちに半ば強制的に送り付けられたその品々の一部は、雪山で助けてもらったお礼として置いてきたが、現在でも旅費としては過剰すぎるほど懐が潤っている。
 とはいえ、今まで見たこともないような大金を前にしてみたものの、アキラは豪遊する気にはなれなかった。
 他の面々も同意見のようで、何があるか分からない旅での緊急手段として蓄えておこうという算段となったのだ。
 ヴァイスヴァルの物価の高さに不本意ながらも一部使うことにはなったが、基本的には今まで通り、依頼をこなして旅を続けるつもりである。
 そうなると、問題となるのはやはりヴァイスヴァルでの滞在費だ。
 あの雪山を抜けてようやく落ち着ける町にたどり着いたのだ、情報収集もかねて少しはゆっくりとしたいというのも全員の共通認識となっている。
 そのため、その滞在費を安定して稼ぐため、毎日依頼をこなしていく必要があるのだ。

 しかし、大金が目の前にあるというのに節約するというのも寂しい気もする。膨大な所持金と、依頼の報酬をどうしても比べてしまい、今まで通りの報酬だと少ないと感じてしまうのだ。
 ゆえにアキラは、報酬が高い―――つまりは、ギャンブルのような依頼を受けてきたのだ。

「あのね……、あんたあんまり依頼受けに行かないから知らないかもしれないけど、宝探しって成功報酬でしょ? その宝があるかどうかも分からないのに……。断ってきてよ、もっといい依頼なかったの?」
「いや、一番いいだろ。宝探しだぜ」
「馬鹿なのかな?」

 一方エリーは堅実な依頼を求めているようで、その視線が冷めたものから憐みを帯びたものになっていた。

「宝探しって、ほとんどでっち上げみたいなのよ。注目浴びたい、とか。見つからなければ報酬無し、見つかれば依頼主と山分け。前金はあるし、あまりに酷いと依頼が出せなくなるらしいけど、依頼主にとってのリスクはそれだけなのよ。ほとんどスカね」
「え……、そうなのかよ」

 なんと。この世界でもそんな詐欺まがいのことがまかり通っているとは。
 ヒダマリ=アキラという異世界人は、この世界のことを誤解していた。ご都合主義に包まれた優しい世界。依頼所の依頼はすべて意味があるのだろうと思っていた。
 以前、南の大陸―――シリスティアで依頼がらみで詐欺の被害にあったことはあったものの、あれはあれで意味のある依頼だったとは思う。
 自分がひとりきりであれだけ苦労して受けた依頼がスカと言われると、心に来るものがある。
 流石に楽をして一攫千金、とまでの夢を持つほどではなかったが、僅かなロマンと割の良い依頼を受けるようにという厳命を両立させるいい依頼だと思っていたのだが、エリーの反応を見る通り、この手の依頼はどこの町でもあったようだ。
 今まで敏いふたりが受けてこなかったということは、宝とやらがある可能性は万にひとつあるかどうか程度なのだろう。

「でもでも、宝探しってロマンですよねぇ……。どんなお宝なんでしょう?」

 口を挟んだティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは、青みがかった短髪を愉快そうに揺らし、まだ見ぬお宝に思いを馳せていた。
 僅かなロマンで、ここまで頬を緩ませられるのはうらやましくも感じるが、こういう純粋無垢な魔術師が詐欺の被害に遭っていると思うと心が痛む。
 エリーを見ると、軽くティアを顎で指していた。
 火がついたティアを責任とって静めろということらしい。

「でもさ、1回くらいいいんじゃないか?」

 エリーの説得と、ティアの相手をすることの難易度をほぼイーブンとみたアキラは、とりあえずエリーの説得から始めてみた。
 自分が受けてきた依頼でティアをその気にさせてしまったという負い目もある。

「宝探し受けたことないだろ? 資金も余裕あるし、仮にスカでも、いい思い出になるじゃないか」
「そうですよ、エリにゃん!」
「……資金が底をつく未来が見えた気がする」

 エリーが酷く悲しげな表情を浮かべ、助けを求めるように視線を泳がせた。
 そして1点でピタリと止めて、顔を強張らせた。

 その視線の先、サクはアキラが依頼の話を始めてから目を瞑り、小刻みに頷いている。
 腫れ物に触るように慎重にサクを見つめるエリーの喉が見て分かるほどごくりと動いた。
 アキラはエリーをいぶかしげに見つめていると、サクがゆっくりと目を開く。
 現在賛成2反対1。
 彼女が賛成なら、多数決で子供の夢を叶えられるかもしれない。

「よく分かったアキラ。やり直しだ」

 ダメだった。
 その口調からはエリーよりも強い意志を感じる。
 エリーはようやく理解者が現れたからか、肩の力を抜いて椅子に深く座り込んでいた。

「お前に依頼をひとりで受けに行かせたのは私だ。できる限り尊重しようとしたんだが、どうしても、な」
「じゃあどうすんだよこのティアのやる気をさ!」
「いやそれは知らないが……、ともかく、返してこい。一緒に行ってあげるから」

 動物を拾ってきたが、難色を示す親に怒られている子供の気分を味わった。
 どうやらこれは無理そうだ。
 ティアが見て分かるほど沈んでいるのが視界の隅に入ったが、このふたりの説得となると流石にティアをなだめる方が楽に思える。

 アキラはティアを刺激しないように静かに立ち上がった。
 これからまた、依頼所までの長い道を歩くと思うと憂鬱だ。
 アキラはコートを羽織りながら、曇り空が見える窓を眺めた。寒そうだ。

「実際護衛みたいなもんなんだけどな……」
「ん? なに?」

 ため息と共に、口から出てきた言葉をエリーが拾った。
 そういえば、依頼の詳細を話した記憶が無い。

「いや、依頼だよ依頼。宝探しの」
「いや護衛って……、え、なに、ちょっと見せて」

 なんと。
 完全に諦めていたのにエリーの興味を引くことに成功した。
 アキラは言われるがまま大切に折りたたんだ依頼書を取り出し、エリーの前に広げてみせた。

「え……これ、公的依頼? は? どういう…………」
「私もいいか?」

 熟読するエリーの脇から、サクまで身を乗り出して眺め始めた。
 良い兆候だ。

「って、護衛みたいなもんじゃなくて、護衛じゃない! しかも依頼主……ヴァイスヴァル研究所? って、」
「あっ、あのおっきな建物ですか! あれだけ庭が広いといいですよねぇ……。今日はあんまりでしたが、雪とか積もり放題で!」

 昨日到着したばかりなのに町の様子が分かっているティアには素直に感心したが、アキラは首を振った。
 雪が降ると単純に喜ぶものなのか。最初に雪かきの苦労に思い至ったアキラは目が覚めた。童心を忘れている。もしかしたら自分は、少しずつでも、大人になっているのかもしれない。

「それに依頼額……この宿に1週間はいられるわね。どうしたのこれ? 宝探しって何よ?」
「いや、書いてあるだろ。なんかさ、定期的に山狩りしてるんだと。そこに太古のお宝が……」
「宝とは書いてないわね……。というか、多分これ、調査よ。調査依頼。研究材料だかが欲しくて、山にとりに行ってるんじゃない?」
「えー、宝探しだよ」
「あんたのそのどうでもいい意地は……いや、いいわ。受けましょう。あんたの熱意に負けたわ。宝探しよ。ロマンがあるわ。ね、サクさん!」
「……そうだな。アキラ、よくやった。宝探しだ」
「お……、おお、そうだよな。ティアももちろんいいだろ?」

 ふたりの説得に成功したアキラは、拳を握り締め、満面の笑みを浮かべてティアを見た。
 するとティアは、恐ろしく優しい表情で、目を細めながら呟いた。

「アッキー。私はですね、アッキーのこと、いつでもとても心配しているんですよ。今も」

 ティアの様子が腑に落ちないが、ともあれ。
 今回の依頼は、宝探しに決定した。

―――***―――

 ヴァイスヴァル研究所の依頼。
 その詳細は、依頼を受けたときに説明されるものではあるのだが、アキラは説明を受けたことだけを覚えており、内容は聞き漏らしていた。
 その結果、アキラも知らぬ存ぜぬで通し、エリーたちは、依頼の情報はアキラが持ち帰ってきた依頼書だけになっていた。
 もっとも、アキラはいい加減な気持ちで依頼の内容を聞いていたわけではない。
 そのときアキラは、半ば放心状態であっただけだ。

 このヴァイスヴァル研究所の依頼。
 それは、研究所が定期的に行っている“技術調査”だった。

 ヴァイスヴァルの西に位置する山脈には、モルオールの最先端を行くヴァイスヴァルが発達できた“理由”が存在するのだ。
 太古、強大な魔物たちが出没し、闊歩し、ありとあらゆるものが破壊されつくされていた頃―――モルオールが“過酷”と呼ばれ始めた頃、西方の山から妙な噂が流れた。

 “魔物が出没しない地点がある”。

 それは、すべてに見放され、自ら死を選んで魔物が出没しやすい山に足を運んだ者から流れた単なる噂話。
 いつまでたっても終わりの来なかった生存したその者の話では、話に聞く西の大陸のタンガタンザの“とある村”のように、小型の魔物1匹すら湧かなかったそうだ。

 大陸すべてが危険地帯のモルオールではその噂話は信じ難いものではあったが、あまりに魅力的なその噂を、ほんの数人ではあるが、真に受けた者たちがいた。
 モルオールに後がないものなど幾らでもいる。
 その例に漏れなかった彼らは玉砕覚悟で調査に臨んだ。

 その結果、発見されたのが、現在までヴァイスヴァルを、いや、モルオールを支え続けている最後の砦。

 “魔物が避ける匂い”だった。

 それが存在していたのはほとんど奇跡だった。
 その山は、魔力を蓄える魔力の原石が何故か多分に存在し、どこの誰が遺したのか分からない奇妙なカラクリに反応してその匂いを発し続けていたようだ。

 結局のところ、調査を行った彼らは、モルオールは、その名前もない山に眠る“お宝”に救われたことになる。彼らはその仕組みを山から運び出し、こぞって研究し、徹底的に分析して、それの複製に成功した。
 そして現代。
 その技術に着想を得た彼らは、彼らの意思を継いだ者たちは、研究を続け、魔物が避ける音、光など、今でも価値あるものを産み出し続けている。

 それも、単なる噂話。
 だが、事実。現代まで山の調査は続けられている。
 終焉を迎えたと思われたモルオールを救った先人に倣い、“何か”が見つかるかもしれない、という理由で、ヴァイスヴァル研究所は先人に倣っているのだ。

 と、いうのが調査の詳細なのだが、実はこの依頼、モルオールの未来を考える使命感溢れる者たちにとってでなくとも、“大人気”なのだ。

 まず安全性。
 世界屈指の危険地帯とされるモルオールだが、ヴァイスヴァル研究所の依頼ともなれば最優良の魔物対策が施される。
 町の中は勿論、町から山へ向かう道中、山の散策、常に魔物へのけん制に、最新の技術がいかんなく発揮されることになる。
 それでも万全に、がモルオールの基本思想なので旅の魔術師たちへ依頼、さらには魔導士隊の応援を仰ぐことになるのだが、何の問題もなく依頼が定期的に行われている通り、せいぜい魔物を遠目に見る程度で、ただの1度も魔術を使わずに戻って来る者も多い。

 そして報酬。
 これが最大の魅力だが、研究所が有する研究費は桁外れなのだ。
 念には念を重ねる程度で、旅の魔術師たちにとっては目玉が飛び出すほどの額が動く。

 実はこの依頼、請負人が殺到するため、応募者の中から抽選で選出される。

 今回、それを引き当てたのが興味本位で応募したアキラである。
 ほとんど期待せずに応募して、他の依頼を物色していたときに名前を呼ばれたアキラは目を見開いた。
 アキラは、元の世界でも宝くじはおろか雑誌の応募ですら当選したことが無い。
 事前に報酬の額を見ていたことも手伝って、ほとんど放心状態で説明を受けたのだ。

 丁度。
 そのときにされたはずの、そんなような説明が、目の前の研究者から行われた。

「万が一のときはお願いします。次に、調査方法ですが、」

 実に事務的に、淡々とした説明が続く。
 アキラが想像していた研究者というものは、薄暗く、本がうず高く積まれた部屋の中で、厚底の眼鏡をかけた男たちがひとつの机を囲んでいるというものだ。
 それは完全な偏見であるということは自覚しているのだが、目の前に立つシルヴィ=コーラスと名乗ったその女性は残念ながらそのイメージを払拭させてはくれなかった。

 依頼を受けた2日後、雲ひとつない空の下、ヴァイスヴァルの町外れ。
 シルヴィの姿は整え切れていない橙色の長い髪をそのまま背中に垂らし、煤で汚れたような色の白衣を纏っているものだった。
 これで眼鏡でもかけていてくれれば完璧だったのだが、目の下に跡が残っている程度で、どうやら外出時には裸眼になるらしい。
 年齢は若く見えるが、この調査の責任者のような佇まいから、ある程度の経験を重ねているか、あるいは相当優秀な女性ということになる。
 淡々とした口調で説明を続ける彼女の前には、アキラたちを含め、十数人の旅の魔術師たちが横並びになっていた。
 どうやらこの依頼、複数組に依頼をしていたようだ。彼らもアキラ同様、当選者ということなのだろう。

 アキラは先ほどからシルヴィの説明を聞いていたのだが、どうもやる気が削がれていた。
 ティアに火をつけたのは悪いが、話を聞く限り、どうもその身ひとつで大海原に乗り出すような宝探しではなく、安全が保障されたダンジョン調査ということらしい。

 他の旅の魔術師に視線を走らせても、使命感に燃えている者は皆無で、小声で雑談を始めている者もいる。拾った話では、彼らはこの依頼の経験者らしい。複数回も当選するとは幸運のようだ。
 緊張感の無さは死に繋がる。
 そう自覚していたが、アキラはひっそりと、背後のヴァイスヴァルの町並みを眺めた。
 この危険地帯と言われるモルオールで、この町は、平穏を手に入れているという。

 この緊張感の無さは、油断だけから生まれるものではなく、この町が実証してきた確たる技術の結晶でもあるのだろう。
 そう考えると、悪い気はしなかった。

「では、出発までお待ちください」

 まるで決まりきったセリフを言い終わっただけのような彼女は、抑揚のない声でそう言うと、彼女の背後に停まる馬車へ歩いて行った。
 5台ほど停車している馬車に変わった様子は見えない。
 だがあれには、ヴァイスヴァルの技術が注ぎ込まれているのだろう。

 シルヴィが乗り込んだ馬車の前には、見たことのある服装を纏った男が立っていた。
 あれは、魔導士隊の制服だ。

「ね、ねえ、どうする?」

 シルヴィが去ったことで、今まで以上に雑談が飛び交う中、隣に立つエリーが声をかけてきた。
 アキラが首をかしげると、エリーは眉を顰め、首をかしげる。

「ちょっと待って。話聞いてた?」
「ああ、一応な。それより見ろよ、魔導士いるぜ」
「……聞いてたの?」

 白を基調とした新しい防寒具に身を包み、機嫌が良かったはずのエリーがジト目になった。見世物ではないというのは分かるが、せっかくエリーが喜びそうなものを見つけて教えたというのに。

「今回の依頼、組み分けして、それぞれの組に魔導士が入るってあの人言ってたじゃない。流石モルオールね……。公的依頼だとしても、魔導士が当たり前のように介入するなんて、他の大陸じゃ考えられないわ」

 アキラが“この世界”で面識のある魔導士は、シリスティアの港町で出会ったひとりだけだ。魔術師には何度も出会ってはいるが、それだけに、魔導士というものの希少性が伝わってくる。
 だが、確かにシリスティアで出会った魔導士は非常に頼りになる存在であったというのは記憶しているが、馴染みが無くてあまりピンと来ていないというのが本音だ。

「魔導士って、やっぱ凄いんだよな?」
「はっ、」

 大声を出しそうになったのか、エリーは自分の口を手で押さえ、信じられないようなものを見るような目をアキラに向けてきた。
 まずい。
 彼女にこの手の話題は禁句であると知っていたのに、失敗した。

「凄いなんてもんじゃないわよ。魔導士ってね、魔力が高いとか、魔術に詳しいとか、もうそういう次元じゃないの。魔術師試験の突破なんて始まりですらない。尋常ならざる魔力を持ち、既存の知識は当然持ち合わせ、未知の脅威にすら活路を開く―――“それができて当たり前”なのが魔導士なの。魔導士が魔術師の延長線上にいるなんて考えは甘すぎるわ」
「どう、どう」
「…………む」

 力説するエリーを何とかなだめながら、アキラはなんとなく思い返す。
 確かにシリスティアで出会った魔導士は、そういう存在だったと聞いていた。

「……って、あ。魔導士で思い出した」
「どうした?」
「……、……、んー、こっちの話。まあいいじゃない。それより、組み分けどうする?」

 エリーはパタパタと手を振り、話題を戻した。
 そうだ。先ほど彼女は組み分けと言っていた。

「どうするって……、俺らでいいじゃないか」
「そういうわけにもいかなくなった」

 そこで、サクが歩み寄っていた。
 その後ろには、恐らく最も話を真面目に聞いていたティアが、未だ興奮冷めやらぬ様子で、くるりと振り返る。

「え? この4人じゃダメなのか?」
「メンバー構成。さっきの人、魔導士1、研究者1、旅の魔術師2って言ってたでしょ。……というか、依頼時の通達通りって言ってた気がするけど……」
「ああ、そうだ。そうだったな」

 適当に取り繕って、アキラは周囲を見渡した。
 この人数では、10組ほど出来上がりそうだ。

「じゃあ適当にクジかなんか作るか」
「……ええ。そうね……。あんたとティアが組まなきゃそれでもいいわ」
「どういう意味だよ」
「考えただけで恐ろしい」

 不服であるが、彼女にとって、自分とティアが魔導士と行動を共にすることは想像することもできないようだ。

「面倒だな。アキラが決めてくれ。私かエリーさんの2択で頼む」
「……あの、さっきからお話聞いているんですが、とても悲しい気分になっているあっしのことを覚えてますか?」

 覚えているとも。覚えているからふたりとも警戒しているのであろう。
 自分もそちらにカテゴライズされているような気もするが、アキラは特に考えもせずに口に出そうとし、固まった。

 エリーの背後に、背の高い魔導士の男が立っていた。

「……どうするの? ってなに?」

 アキラの視線を追って振り返ったエリーも固まった。
 エリーのあの口ぶりからして、魔導士とは殿上人にも近しい存在のようだ。その存在が間近に表れ、エリーは声も出せずに動きを止めた。
 魔導士の男は、エリーの様子に半歩下がると、少しだけ周囲を警戒し、姿勢の体躯をそのまま崩さずにアキラをまっすぐ見据えてくる。

「ヒダマリ=アキラ様ですね。失礼ですが、お伺いしたいことがあります」

 今度は全員の視線がアキラに向いた。
 突然名前を言い当てられたアキラも目を見開いて男に見据え返す。
 自分を見た視線の中に、何をしでかしたと言いたそうな目があった気がしたが気にはしていられない。

 男は、被っていたフードを払い、金の短髪と真面目そうな印象を抱かせる整った顔立ちを晒すと、僅かに微笑んで言葉を続けた。

「私はブロウィン=ルーティフォンです。ヒダマリ=アキラ様、でお間違いないですよね?」

 さも自然に名前を呼び続けるブロウィンに対し、アキラの不信感は自分へ向いた。
 この男の態度。間違いなく、この男は自分がヒダマリ=アキラであると確信を持って言っている。
 だが、何故。

「ああ、失礼しました」

 アキラが答えに辿り着くよりも早く、ブロウィンはローブから名簿のようなものを取り出した。
 それと同時、アキラも思い出す。

 この依頼。応募する際に、確かに。
 自分の名前を伝えた気がする。

「請負人の名簿にそうありますましたので。もし勘違いであれば大変失礼なのですが、伺いたいことがありまして」
「……ブロウィンさん、だったか。分かった。すぐに向かわせるから、少し待っていてもらえるか」
「あたしからもお願いします。絶対に向かわせますが……少し、内々で話があるので」

 馬車でお待ちします。
 それだけを残し、ブロウィンはあっさりと引き下がった。
 アキラは去っていくブロウィンの背中を名残惜しそうに眺め、冷めた視線を突き刺してくるふたりに向かい合う。
 エリーとサクが、同時に口を開こうとしたので、それより早くアキラは言った。

「名前は名乗った。ふっ、文句あるか?」
「開き直ってんじゃない!!」

―――***―――

「同姓同名ということも考えたんですが、今、“その名前と言うだけ”で、無用な騒ぎが起きるのも避けたいだけでして。ああ、非難しているつもりは毛頭ないということはご理解いただけると幸いです」

 ブロウィン=ルーティフォンは穏やかな笑みを浮かべながら、あくまで堂々と言葉を発した。柔和なイメージを抱かせる男だが、それなりの貫録を感じさせる。

 アキラが招き入れられたここは、用意されていた馬車の1台。それも、魔物を避ける仕組みが施されたこの調査の核となる魔導士隊の馬車だった。
 馬車の先頭にある入り口から2人がけのベンチが前を向いて5、6台ほど並び、最奥にはひとつの机を囲むような打ち合わせエリアがある。
 核と言っても、打ち合わせエリア以外、アキラが今まで見てきた移動用の馬車と内装はほとんど同じだ。
 どこで魔物を避ける仕組みが作動しているのか分からないが、少なくとも他の馬車と内装はほとんど変わらないようで、特別感などまるでなかった。
 出発すれば普通に馬車は揺れ、打ち合わせリアは机のせいで窮屈ですらある。
 あるとするならば、ぽつぽつと座っている乗客たちは皆、世界屈指の実力者である魔導士と言うことだろうか。もっともこの馬車が、先頭を走っているというだけで大きな意味があるのかもしれないが。
 少しでも自分の態度が悪ければ怒鳴りつけてきそうな赤毛の少女と別行動になれたことを、アキラは今だけは感謝した。

「回りくどく聞いても無駄になりそうなので、確認しておきます。あなたは、“あの”ヒダマリ=アキラ様ですか?」

 対面に座ったブロウィンが、アキラの眼をまっすぐ見据えて聞いてきた。

「…………まあ、そうだけど」

 下手に否定してもどうせぼろが出る。
 アキラはあっさりと認めた。エリーほどではないが、ブロウィンの様子は堂々たるもので、アキラも少し委縮していた。
 だが、それでは駄目だ。
 自分は“勇者様”。
 威風堂々としていなければならない。

「やはりそうですか。モルオールに入ったという噂は聞いていたのですが、実際にお会いすると感慨深いものがある。まあただ、無用な騒ぎを避けるため、この依頼は基本的に我々と行動してもらえると助かります」

 友好的な言葉の裏には、しっかりとした意思の強さを感じた。
 アキラは端的に考える。
 これは単純に言えば、特別対応だ。

 自分は“勇者様”だから、大衆の中に放り込めば騒ぎが起きる。
 ましてや今は依頼中だ。
 依頼の本分を疎かにしてしまうものも出てしまうかもしれない。
 自分が有名人という自覚を持て、と常日頃からサクに言われていたが、アキラはピンと来ていなかった。だが今、それを僅かばかり感じてしまう。
 騒ぎが起きる“可能性がある”だけで、特に魔導士隊が参加するような今回の依頼では、彼らは過敏に反応せざるを得ないのだろう。
 各々の席に座っている魔導士隊は時折振り返ることこそすれ、こちらに集まってこようとしない。
 勇者様には最大限の敬意を、という“しきたり”があるとは言え、彼らにとっては仕事を増やした厄介者でしかないのかもしれない。
 この男ブロウィンも、業務で自分を隔離しているだけなのかもしれない。それは考えすぎだろうか。
 だがそう思うと、ブロウィンの態度にも裏があるような気がしてきてしまう。

 アキラは目を瞑る。
 東の大陸アイルークに落とされ、シリスティア、タンガタンザ、そしてここモルオール。
 自分を、自分たちを取り巻く環境は徐々に、だが確実に変化しているのを感じた。

「まあ、それはともかく、」

 ブロウィンは、わざとらしく咳払いをした。
 すると彼はあくまで柔和なままの口調で、少しだけ目を輝かせた。

「実は私も、“勇者様”と話してみたかったのです。お疲れでないなら、お話聞かせてもらっていいですか?」
「……え、ああ、まあ」
「いや実は色々気になることがありまして。ああ、何から聞こうか。やはり、“失踪事件”……、いやいや、そうだな、やはり―――」

 しっかりした口調に気圧されたわけではないが、アキラは少しだけ身体を引いた。
 なんだろう。
 先ほどまで感じていた申し訳ないような気分が薄まり、ティアにでも絡まれているような錯覚に陥ってきた。

 このブロウィンという男。
 もしかしたらアキラの隔離よりもこちらが目当てでこの馬車にアキラを連れてきたのだろうか。単純に、“勇者様”へ強く興味を持っていただけの行為。
 アキラが持つ、日輪属性という力。
 それに対して、中途半端な嘘は吐けない。
 本腰を入れて欺こうとしなければ、明確な好意か、明確な敵意がむき出しになる。

 アキラは軽く頭を振った。

 これはもしかしたら、恥ずべきことだったのかもしれない。
 自分たちの環境が変わっているだけでなく、人の好意を斜に構えて受け取るように“アキラ自身が変わってきている”。
 アキラは拳を握り締めた。
 もっとも、ブロウィンの様子は、先ほどアキラが思い浮かべた依頼を蔑ろにする輩と同じような気がするのだが。

「ブロウィン君」

 早速嗜めるような声が、隅の席から聞こえてきた。
 口を挟んだのは、今まで打ち合わせエリアの隅で窓の外を眺めていたシルヴィ=コーラス。先ほど依頼の説明を行っていた女性だ。
 彼女もこの依頼の主催ということで、この魔導士隊の馬車に乗っていた。

「念願の勇者様に会えて騒ぎたくなるのも分かるけど、今は私の依頼中。興味があるなら終わった後にでもお時間頂いた方がいいんじゃない?」
「いいじゃないか、シルヴィ。この馬車、君が設計したんだろ? きっと完璧だよ」
「おだててもダメ。微塵にも信用していないくせに……。それに、あなたたちにとって恒例行事でも、私たちにとっては毎回真剣な調査なの。例え“勇者様”でも……、いえ、“勇者様”がいるからこそ、今回は絶対に成果を上げたいわ。期待します、“勇者様”」

 途端視線を向けられ、アキラは思わず頷いた。怯みはしない。
 ブロウィンとシルヴィの様子。
 どうやらふたりは旧知の仲らしい。
 この依頼は定期的に行われているらしいから、その繋がりだろうか。

 そういえば。
 とアキラは気になっていたことを思い出す。

「そういえば、この依頼、今まで何か見つかったことがあるのか?」

 するとシルヴィは分かりやすく下唇を噛んだ。
 ブロウィンは珍しく裏のあるような笑みでシルヴィを眺める。

「大した成果は無いです」

 シルヴィは手元にあった小型の水稲をブロウィンへ投げ付けつつ返答してきた。

「年に1回くらいですかね。いつの時代かも分からないようなガラクタが見つかるのは。解析して改修しようとしても失敗ばかり。一応、新しい製品のヒントになってはいるのだから、無駄と言うわけでもないんですが、そのまま使えそうなのは今までは……」

 この依頼、どうやら本当に宝探しのようだ。

「……ブロウィン君。あなた他人事のようにしているけど、一応あなたも出資者なのだから、笑い事じゃないのよ」
「それは俺じゃなくて、ルーティフォン家がやってることだよ」

 分かりやすいようなため息がシルヴィから漏れた。
 あえて訊きはしなかったが、ブロウィン=ルーティフォンも色々とあるらしい。

「だけど……そうだ」

 そこで何かに思い当たったように、ブロウィンは手を打った。

「シルヴィ。悪いが勝機は我にある。君が求める新たな製品のヒント。“勇者様”は持っていると思うよ」
「…………そう、いえば」

 再び視線がアキラに向いた。
 シルヴィの瞳の奥には、何故か強い怒りが見える。

「“百年戦争”の話。それにはどうしたって“ミツルギ家”が絡むはずだ。“勇者様”はそこにいたんですよね?」

 ブロウィンの瞳の色が深くなったように感じる。
 アキラは頷いた。
 タンガタンザの“ミツルギ家”。
 一応世界をぐるっと回ってきたアキラの認識として、それはこのヴァイスヴァルと比肩する技術力の高い町だ。

 するとシルヴィは小さく舌打ちした。

「奴らがやっていること。差し支えなければ教えていただけます? 覚えている範囲で構いません」
「前に、ミツルギ家に技術協力を仰いだときに断られてしまったそうで」

 シルヴィの様子を横目に、ブロウィンは小声でアキラに呟いた。
 シルヴィは忌々し気に続ける。

「技術提供がなかったばかりかこちらの技術者十数名引き抜かれましてね……。余裕がないのはそちらもこちらも変わらないのに……!」

 ミツルギ家現代党首ミツルギ=サイガ。
 彼が人のヘイトを集める天才だということをアキラはよく知っている。
 大陸を渡っても、彼の高笑いを思い浮かべることになるとは思っていなかった。
 その男の娘が、後ろを走る馬車に乗っていることを伝えたら彼女はどんな顔をするだろう。想像するのは止めておいた。

「それに加えて」

 ブロウィンは止めとばかりに続ける。

「ヒダマリ=アキラ様は“異世界来訪者”。そう聞いていますが、そちらも噂通りですか?」

 アキラが頷くと、シルヴィの眼は、今度は輝いて見えた。
 事実そうだが、自分のパーソナルデータが出回っていると思うと恥ずかしい。

 そしてアキラはブロウィンの狙いが見えてきた。
 どうやらシルヴィを巻き込んで、結局アキラから話を聞き出したいのだろう。
 技術者にとって、異世界の技術とミツルギ家の技術というものは聞いておく必要がある重要な情報なのだろうから。

 迷惑をかけた対価だ。応えられる範囲でなら、と腹をくくったアキラが口を開こうとすると、ふと。
 勝ち誇っていたブロウィンの表情が強張ってきたことに気づいた。

「あれ、そういえば」

 シルヴィが呟くとブロウィンの方が揺れた。

「ねえブロウィン君。前に言ってた“異世界来訪者”と話をさせてくれる件。今どうなってるの?」

 今度はアキラの表情が強張った。
 “異世界来訪者”。
 超常現象と表現してもよいそれは、この世界では、ごくごく珍しい例として、現実のものだと認められている。
 そんな存在が、アキラ以外にも存在することは無い話ではないのだろう。

 だが、心の底で強い感情が生まれる。
 アキラは、その“存在”が、“誰”を指しているのか本能的に悟れてしまった。

「ま、まあ、あれはその。向こうにも都合があるみたいで……。妹にも伝えてあるんだけど」
「へえ。……じゃあ、私が妹さんに連絡とってもいいのね?」
「いや、俺がする。大丈夫だ。魔導士隊への連絡は結構面倒だし」
「いっつもそう。どうせ連絡してないんでしょ。いいわ。私がします。ついでに、ご両親にも伝えておくわ。魔導士様が“勇者様”に迷惑をかけていたかもしれない、って」
「おいおいおいおい」

 軽口を叩きあっているその様子を、アキラは遠い世界の出来事のように眺めていた。
 そして強く胸を押さえる。
 そうだ。
 間もなくそのときが―――来る。

「……あ、失礼しました。実はですね、数年前。ルーティフォン家が保護したんですが……“異世界来訪者”が発見されまして。そして、今、」

 シルヴィの補足は必要なかった。
 頭がずきずきと痛む。アキラは奥歯を強く噛んだ。

 そして、今。
 その人物は、魔導士となっている。

―――***―――

「アッキーとエリにゃんが組むと、ズドーン。アッキーとサッキュンが組むと、スパーン。アッキーとあっしが組むと、えっと、」
「ぐちゃぐちゃーね」

 共に旅をしていてようやく解析できるであろう言葉に、エリーはほとんど反射で回答した。
 揺れる馬車は、危険地帯のモルオールの荒野を進んでいるというのに平穏そのものだ。
 ひとつ前の馬車に施されたヴァイスヴァルの技術とやらで、魔物の出現は無い。
 他の大陸でもそうは経験できないこの平穏を考えると、宿屋の料金の高さも当たり前のことなのかもしれない。

「あの、エリにゃん」
「なに?」
「あっしはですね、こう、怒りを言葉以外でも表現したいです。どうすればいいですか?」
「なんであたしに聞くのよ……」
「やはりその道のプロに……ってて、それですそれですごめんなさい!!」

 怒りどころか、辛うじて拗ねてることくらいしか感じなかったティアの表情が、恐怖に歪んだ。
 表情豊かな子供だ。

 人の感情を読み取るために大切なのは、自分に経験を求めるか、相手との間に時間を求めることだ。
 ティアは元から分かりやすかった気もするが、自分たちはそれほどの旅をしてきた。
 期間にして1年経っていない程度だが、その薄さを凌駕する密度の濃い時間を過ごしているように感じる。
 それでも、さっぱり分からないときがある、前の馬車に乗った男は、いつでも悩みの種だ。

 自分たちは、つい先日まで別行動を取っていた。
 あの、雪山で隔離されていた時間。
 あれだけ話をしたいと思っていたのに、合流後、結局今日までまともに話をしていない気もする。

「アキラが心配か?」

 小声で、窓際に座ったサクが呟いてきた。
 “アキラ”。
 その名前を密集している場所で出すことは最早リスクだ。
 そのあたりの気遣いができそうにないティアが、人を愛称で呼ぶ信条だかなんだかよく分からないものを持っていることが今はありがたくもある。

「ええ、そうね。心配」
「……やけにあっさりしているな」
「魔導士たちに失礼な態度取ってないか、ってね。まあ、どうせどうでもいい雑談してました、とかでしょうけど」
「私たちは共通見解を持っているようだ」
「む」

 思わず口を付いて出た。
 サクは苦笑している。
 面白くなくて、エリーは視線を他の乗客たちに向けた。
 ばらばらと座っている旅の魔術師たちは、ティアの声には慣れたのかこちらに視線を向けようともしない。

「あと、3属性、か」

 エリーの視線を誤解したのか、サクが呟いた。
 だが、その言葉の意味は理解できる。

「とうとうモルオールだ。流石にそろそろ、本腰を入れなければもう1周だぞ」
「ちょっと。あいつみたいなこと言わないで」

 ヒダマリ=アキラ率いるこの面々は、何も目的もなく世界を回っているわけではない。
 魔王を倒すという崇高なる目的のために旅を続けているのだ。
 だがその前段階。
 とあるプロセスを踏む必要がある。
 例外がある手前、絶対ではないのだが、自分たちは特定の仲間を集めなければならないのだ。

 すなわち―――七曜の魔術師。

 それを集めることが、具体的にどういうメリットとなるのかは分からない。
 だが、漠然と、踏む必要のあるプロセスという認識がある。

 だが、アイルークからぐるっと回って辿り着いたモルオール。
 そこまでで仲間となったのは日、火、水、金の4人だけ。
 ひとつの大陸につきひとりずつという都合のいい話にはならなかったのが現状だ。

「サクさん、今までであってきた人の中で、それらしい人いなかった? なんなら戻って勧誘した方がいいまであるわ」
「そうは言ってもな……。残っているのが月、木、土となると」

 そう。
 根本的にまずい問題はそれだった。
 世間一般的に、最も多い魔術師の属性は水曜属性だ。
 時点で金曜属性、そして火曜属性と続く。

 この現状は、言い方は悪いが集まりやすい属性が集まっただけなのだ。
 希少性から言えば、日輪属性、月輪属性、木曜属性、土曜属性の順となる。
 土曜と火曜の間には、分厚い壁がある印象だ。

「とりあえず最難関の……月輪属性のあてはあるんだよな?」
「……あんまりあてあて言い過ぎるのもあれだけど、ね。でも考えると不安になるわ……。あの子、こういうの興味ないかもしれないから」

 月輪属性のあては、エリーの双子の妹だ。
 姉としての贔屓目を完全に取り払っても、月輪属性で世界最強の魔術師だ。
 最近手紙のやり取りはできていないが、今も魔導士として活躍しているだろう。

「……あ、あと。いや、何でもないわ」
「ん? ……ああ、マルドさんか?」
「……え? ああ、そっか、マルドさんか。心強い気はするけど」

 マルド=サダル=ソーグという月輪属性の魔術師を思い出す。
 つい先日、行動を共にしていた男だ。
 だが彼は、恐らく仲間にはならないだろう。

 数度話しただけだが、分かる。
 自分たちと彼は―――“彼ら”は違う。

 そう考えると―――思う。
 マルド=サダル=ソーグは異質としても、他の魔術師たちにも、少なからず同じような違和感を覚えてしまうのだ。
 一応、自分たちは世界を一周している。
 その中には、探している属性を有している者たちもいた。

 だが、本当に、“何となくという理由”で、彼ら彼女らを旅に誘いすらしなかった。
 しきたりの存在がある上、魔王討伐のためというあまりに巨大な大義名分を出せば、逆らうものなどほとんどいないだろう。
 いささか汚い手口だが、自分たちにはそれをしようという発想すら浮かばなかった。

 ふと冷静になってみて、サクとティアに視線を走らせる。
 仮にだが、このふたりが旅を共にすることを拒んだら自分はどう思うだろう。
 仮定の話ではあるが、自分も、そしてあの男も、躍起になって勧誘を続ける姿が容易に想像できた。
 漠然とだが、旅の中で出会ってきた面々と、このふたりは違う。そう感じてしまう。

 そう感じた半面、ふと、思ってしまうこともあるのだが。

「……アキラにあてがあると思うか?」

 ふいに、サクが呟いた。エリーの思考が現実に戻って来る。

 ヒダマリ=アキラ。異世界来訪者の勇者様。
 この世界で、彼が知っていることはあまりに少ない。
 そんなことは分かっているのに、エリーは首を横には振れなかった。

「……分からない」
「……私もそう思う。というより、あてがあっても不思議に思わない、と言った方が正確か」

 エリーも同じことを考えていた。

 面々がこのモルオールで合流して、旅を再開してからだが、一応エリーもこの旅の目的を再度考え直した。
 大きな目標としては魔王の討伐だが、その前に必要なプロセスとして存在する七曜の魔術師の仲間探し。
 世界を一周したとあっては流石にそろそろ本腰を入れる必要があると思っていたのだが、アキラは特に情報収集する様子もなく先に進もうとする。
 あの男から行動の迷いを感じない。
 普段なら怒鳴りつけるところだが、ことこういう事柄に関して彼の行動に追及する気が起きないのだ。

「アイルークから続いている“隠し事”。それに関係してる気がする」

 ぽつりと呟いて、見えるはずもない前の馬車の男に視線を投げた。
 この予想は、きっと正しくて、だから彼は迷わずに前へ進んでいるのだ。

 シリスティアの、あの大樹海で、彼が見せた行動に近いものを強く感じる。
 もしかしたら今、彼に問いかければ答えてくれるかもしれない。

 だが自分はそれをしないだろう。

 だからだろうか。
 離れ離れになってから、あれだけ話をしたいと思っていたのに、結局今日までまともに話ができていないのは。

「ま、そうね。言いたきゃ言ってくれるでしょ」

 暗い思考を、頭を振って追い出した。
 大丈夫だ。今は何も心配ない。それが自分の出した結論だったではないか。
 だから、それがたとえどんなことでも。

 聞いておきたい。

「ふ……。随分信頼しているじゃないか」
「それは―――サクさんもでしょ」

 エリーの言葉に面食らったようにサクは固まっていた。

「そう、だな。それだけ旅をしている」
「……そうじゃない気がしているんだけど。あいつともまともに話してないな、って思ったけど、サクさんともよね」
「……そうか?」

 エリーは頷いた。
 傍目からでも分かる。
 分かってしまうほど、旅をしている。

 彼女のアキラを見る目が、変わっていることは。

 だから、ちゃんと聞いておこう。
 エリーは小さく息を吸って、サクに向き合った。

「ねえサクさん。あいつとふたりで旅をしているときに、何かあったでしょ?」
「え? それってサッキュンがアッキーの従者になったことですか?」

 思わぬところから回答があった。
 エリーは鋭くティアを睨み、そして再度サクに目を丸くして向き合った。

 何ら非は無いティアを強く睨みつけ、当事者と思われるサクに視線を突き刺すことをためらった。
 どうもよくない。長く旅を続けているからと言って、ティアへの態度が雑なものになりつつある。サクはそれだけの信頼を築き上げていると感じるのに対し、ティアからはどうも安心感を覚えられない。ティアだってそれなりに、いや、かなり旅に貢献してきている。それはサクと比べてもそん色ないはずだ。だが、高さは同じでも、サクが真剣に石を積み上げて巨大な塔を建築していると感じるのに対し、ティアは笑いながら子供のおもちゃを積み上げて遊んでいるような不安感を覚える。実際にそんな状況に陥ったら、大丈夫ですよ、昇ってみてください、と自信満々に胸を張るティアに背を向け、自分はサクのもとへ向かうと思う。後ろで、風に吹かれて倒れたガラクタの前で泣きわめくティアが容易に想像できた。

 と、エリーは自分の思考が飛んでいると感じ、再び現実と向き合ったが、どうも自分は頭が悪くなったようだ。
 言葉の意味が分からなかった。
 従者。
 言葉の意味は分かる。
 だが、誰が誰の従者と言ったのか。

「は? ……へ? へ!?」
「いや、まあ、そうだな」

 サクの態度を見るに、どうやらティアの妄言というわけではないらしい。

「まあ、そうだな。いい機会だ。目的地に着くまで、私の家の話をしようか」

 ふ、と笑ったサクに、妙な余裕が見え、エリーは眉を寄せた。
 というか、なんだ。
 サクは安眠を確保するためでもにティアに話したのだろうが、この状況は、つまり。

「あれ? エリにゃんご存じなかったんですか。……え、えっと、あ、あー……。ああ! あっしもよく知らないですよ、実は。ええ!? どういうことですか、サッキュン」
「やめて。いいのよ。たった3人しか知らなかったことだし。……4人旅だけどね」
「ちょちょちょ、どうするんですかサッキュン!! ちゃんと話しておかないから、エリにゃんがひとりぼっちになって、……あ、ちょっと涙目に」
「やめろっつってんでしょ」
「……あ、あっしも涙目得意です。見てください。今、恐怖で涙が出ています」
「……これは私のせい、なんだろうな」

 ティアが騒ぐものだから、流石にほかの乗客たちもこちらの様子をちらちらと伺っている。
 何故こんな辱めを受けなければならないのだろう。
 最早頭が追いつかず、エリーの肩がぷるぷると震え始めてきた。

「よし、そうだな、じゃあこうしよう。私も気恥ずかしくてな。簡単に話すから、あとはアキラに聞いてくれ。エリーさんがアキラと組むといい」

 自分のせいでここまでのことになるとは思っていなかったのだろう。
 慌てたサクは、自分を宥めるつもりなのか、依頼のことを持ち出した。
 それが自分を宥めることになるとサクが思っていることにも憤りを感じたが、言い返す気にもならず、エリーは視線を合わせないまま頷いた。

「うん……。組む。組みたい」
「エリにゃんが素直だーっ!!」

 久しぶりに、人に対して拳が出た。

―――***―――

「……何してんの? あんた」

 馬車が歩みを止めた場所は、周囲をもの寂しげな木々に覆われた湖畔だった。
 所々が凍り付いている半径20メートルほどの湖は、奥の山々から続く川の水のせいか辛うじて凍結しておらず、澄んだ波を立てている。
 川を追えばすぐ目の前に、緩やかな傾斜が始まり、その先にそびえているのが今回調査対象の岩山だ。
 馬車で近づけるのはここまでのようで、この場所をベースとして調査を行うそうだ。
 配布された地図によると、組み分けしたグループの一部は山の中腹まで上ることになるそうだが、この場所からそんな位置までも、魔物対策の力は及ぶらしい。

 ところで。
 この凍りかけている水辺の傍で、この少女はどうしてそこまで冷ややかな目ができるのだろう。

「……いや、な」
「電気という現象の特性についてもう少しお願いします。コンセ……なんでしたっけ、その装置から発生するのですか?」
「どうせ真似できないことより百年戦争の話聞いた方がいいって、な。あ、お疲れさま」

 アキラの肩に手を置いたシルヴィ、シルヴィの方に手を置いたブロウィン。
 そんな電車ごっこで遊んでいるような奇妙な存在たちが馬車から出てくると、人はここまで瞳を冷めさせられるのだろうか。
 確かに自分もそうなる自信がある。

 エリーに気づいたシルヴィもようやくアキラから手を放し、居住まいを正した。

「こほん。そういえば依頼でしたね。私説明の準備をしますので、それまでごゆっくり」

 また後ほど、と馬車へ戻っていくシルヴィから視線を投げられたが、アキラは気づかれないように首を振った。
 エリーのいぶかしげな視線を受けたが、こちらだって望んで絡まれていたわけではない。むしろ馬車が止まったことを好機と見て逃げていたのだ。
 周囲の馬車を見渡しても、他には誰も降りてきていない。
 どうやらエリーはひとりでこの馬車へ来たようだ。

「で、どうしたのよ、あれ」
「元の世界の話をしてみたんだが、随分興味があったらしい。研究者だからかな、原理をめちゃくちゃ聞かれたんだが、無駄だよな。俺にも分からないっていうのにさ!」
「よく知らないけど……、それって威張れそうにないわよね。というか、元の世界の話って、あたしもろくに聞いたことないんだけど」
「元の世界トークする?」
「若干苛立ちを覚える口調だけど……機会があればね。今は依頼でしょ」

 エリーの視線が魔導士のブロウィンに向いているのに気付いたアキラは肩をすくませた。
 シルヴィの頭から依頼の存在が消えたのは、ブロウィンが彼女を焚き付けたからだったりする。

「あれ、馬車で待機のはずですけど」
「あ、すみません、こいつが迷惑かけてないかって思って……」
「いやいや、外は寒いからです。良かったら中へ」
「い、いえ、戻りますんで」

 そう言いながらも、ブロウィンは身動きできなくなったエリーに小さく微笑み、馬車のドアを閉めた。
 外は寒い。望んで立っている者以外にまで、この苦を背負わせることはない。

「ところで、恋人さん?」
「は!? いや、」
「あなたからもお願いできますか。百年戦争の話、聞きたくて」
「いやいやいや、違うんですって。あたしたち、こんやっ……って違って、その、別に、」
「はい?」

 アキラは辟易してふたりの様子を眺めていた。
 本来なら否定すべき誤解なのだろうが、正直馬車の中での質問攻めで会話自体に疲れたのだ。
 エリーが何故か情緒不安定に見える。テンパって何か良くないことを言っている気がするが、今は依頼までゆっくりとしたい。

 周囲の木々からは、アキラが感じられるようになった“魔力の匂い”―――すなわち、魔物の気配が感じられない。
 ヴァイスヴァルの技術の結晶。
 その力はこの危険地帯のモルオールにすら対抗できる。

 この力があの熱気漂う百年戦争のときにあったとしたら、あの戦いですら、何か変わっていたのだろうか。

「……ていうか、あたしも百年戦争の話聞いてない」
「なら、ちょうどいい」

 しまった。
 ふたりから意識を離していた内に、意気投合し始めている。
 このふたりは魔導士と魔術師の卵だというのに、依頼に対する緊張感が無いのだろうか。
 アキラは頭を痛めてふたりに向き合った。

「では、お願いします。百年戦争の話」

 そこで、ブロウィンの眼をまっすぐ見たアキラは、妙な違和感を覚えた。
 この道中、何度か会話をこなしていたからだろうか。
 感覚レベルの話だが、ブロウィンから、妙な気配を感じる。

「……その前に」

 アキラは、思ったままを口にした。

「どうしてそこまで百年戦争に拘るんだ?」

 根拠もない。ただなんとなく感じる。
 だが、このブロウィンが百年戦争の話を求めるとき、彼は何故か、本当に、魔導士に見えるのだ。

「……。興味がある……というのは正直ですが、」

 ブロウィンは、変わらずはっきりとした口調のまま言葉を続けた。

「ミツルギ家現代党首ミツルギ=サイガ。あの男が掴んでいることを、知りたいからです」
「……!」

 確固たる口調だった。
 周囲がより一層静かになった気さえする。

 ミツルギ=サイガ。
 タンガタンザで、共に戦った中でさえ、あの男の存在は掴み切れなかったし、掴もうともしなかった。
 知っているのは、ひとつだけ。
 あの男の行動は、すべてタンガタンザの繁栄へつながっているということだけだ。

「どうして」
「……シルヴィもいないしちょうどいい。他言無用でお願いしますよ。実は私は、世界各地の有力者の調査をしているんです。魔導士の業務の枠外で、魔導士の力を使って」
「それは……、別にいいんじゃないですか? 魔導士なら、情報収集は大切、だと思うし」

 エリーが口を挟む。
 だがブロウィンは首を振った。

「実は、そんな崇高な目的のためじゃないんです。異世界来訪者の勇者様なら感じるんじゃないですか? ……この世界の“違和感”を」

 あくまで小声で、風に消え入りそうな声でブロウィンは呟いた。
 そして、その小さな言葉に、アキラは胸を突かれた気がした。

 この世界の“違和感”。

 アキラは拳を強く握り絞めた。
 まただ。
 旅の道中、またこのモルオールで、この感覚を覚えてしまった。

「異世界の話を聞くたびに思う。何故この世界にはそれが無いのかと。例えば、さっきお話にあった“電気”。それは話を聞く限り、圧倒的な需要があるはずの力だ」
「その代わり、この世界には魔力がある。それが代わりになっているのは何度も見てきたぞ」

 言って、アキラは自分の言葉に説得力がまるでないことに気づいていた。
 そうだ。
 元の世界が言う便利と、この世界が言う便利には、

「決定的に違いますよ。自慢に聞こえるかもしれませんが、魔導士だから分かる。魔力は強いルールで縛られている。だが、電気は違う。属性を問わない動力だ。言わばすべての属性がひとつになっているようなものです」

なんとなく電気というものを誤解しているようだ。
 アキラは漠然と考える。
 電気にも種類があるはずだ。少なくとも、元の世界の国内と国外では電圧が違うと聞いたことがある。周波数というものも存在する。
 その地域で、最も使用しやすいものが広まっているに過ぎないと思う。

 だが、ブロウィンが覚えている違和感には思うところがあった。
 原理が未だにピンと来ていないが、アキラはひとつ、元の世界で有名な言葉を知っている。
 “規格”。
 一般生活を送るにあたって、家庭に用意された穴にコンセントを差し込むだけで、ありとあらゆるものが動く。
 基本的に、それが存在することを前提に電化製品は作られるのだ。

 だがこの世界にはそういうものがない。
 何故なら動力となる魔力というものが一般的には5種類もあり、それぞれ出来ることと出来ないことが大きく分かれているからだ。
 応用力が無さすぎる。

 いや、それを利用する器具の技術が大きく劣っているのだろうか。

 例えば、と考える。

 この世界に、最も多い水曜属性。
 この力を元として、ありとあらゆるものが動くようにすればどうだろうか。
 確かにもっと効率のいい属性の魔力が存在するかもしれないが、それらを動力としての使用から排他すれば、製品の開発者は労力を集中することができるかもしれない。
 だが、この世界はそうしようとはしない。

 そう。問題なのは。

 動力ではない。動力の規格が無いのだ。

「一方で、異世界より優れていると感じる点がある。元の世界では、大陸を渡ると言葉は通じない、というのは本当ですか?」
「……ああ。本当だ」

 一方で、そちらの方は整備が行き届いている。

「ちぐはぐに感じてきたんですよ。今まで疑問に思わなかったことが、何故か。“彼女”と話してから」
「……!」

 アキラは再度拳を握った。
 やはりそうか。
 この世界の“違和感”。 周囲の馬車を見渡しても、他には誰も降りてきていない。
 どうやらエリーはひとりでこの馬車へ来たようだ。
 またもその蓋を最初に触ったのは彼女だったか。

 ちぐはぐに感じる。
 言いえて妙だ。
 この世界には電気がない。だが、恐らく電気の登場よりもずっと後に生まれたものがきっと存在している。
 元の世界から来たアキラでも、ある程度不自由なく暮らせているのもそのためなのだろう。

「ちょっと待ってください。よく分からないですけど、確かに、こいつの世界はなんか凄いのかもしれません。でも、この世界だって進歩していけば、」
「……それが、私が世界を調査している理由です」

 ブロウィンは少しだけ目を鋭くさせた。

「異世界来訪者。話すと感じることがある。魔力はともかくとしても、思考や意識などの能力はほとんど変わらない。それなのに、」
「同じ年月、同じような存在が生活しているっていうのに、進歩の速度が違い過ぎる」

 アキラは目を閉じながら、ブロウィンの言葉を続けた。

 今、この世界は百回目の魔王の恐怖にさらされている。
 99回目の魔王の出現は、太古の出来事だという。

 その膨大な年月の間。
 この世界の住人は、いったい何をやっていた。

「魔物の存在。そういうものも影響しているのかもしれません。だけど、むしろ逆な気もする。外敵が存在すればするほど、技術というものは進歩するはずだ」

 それで、か。
 アキラにはブロウィンが魔導士の枠外で調査を行っている理由が分かってきた。

「魔力の不便さ。外敵の存在。それだけ課題があるのに、この世界はそれに向き合っていない。言語などより幾らでも手を加えるべきところはあるというのに」

 それは、暗に。
 この世界の“管理者”を責めた言葉だった。
 エリーはわざとらしく視線を外している。
 確かに魔導士としては問題発言だろう。

 ブロウィンは首を振って、わざとらしく咳払いをした。
 彼が熱くなってしまったのが自分の属性のせいだと思うと申し訳なくなってくる。

「だから、その改善策を探すために、有力者を探っているのか?」
「……え、いや、まあ、それもある」

 珍しく言い淀んだブロウィンは、すぐに取り繕った。

「そこで、気になったのがミツルギ=サイガなんだ。彼はヴァイスヴァルに負けない技術を保有している。いや、組織立った戦闘においては彼の技術力を超えるものはいない。だが、何故か彼はそれを公表しないんだ。タンガタンザ国内にすら。それが妙に気になる」
「……それは……、そうだな」
「魔族とすら対抗できる技術。つまり―――この世界の基準としてはオーバースペックな力。そこに、うまく言えないですが、何かを感じたんです」

 もう2度と会うこともないし、会おうと思わないだろうと思っていたが、ミツルギ=サイガに問いただしたいことができてきた。
 確かにこの世界に、仮に裏があったとしたら、その答えに1番近いのは現段階ではあの男かもしれない。

「そして、数奇な運命も持ち合わせているようです。エニシ=マキナ、スライク=キース=ガイロード、リンダ=リュース、そして―――ヒダマリ=アキラ。ここ数年ですら、月輪日輪の者と、彼は多く関わっている」

 すらすらと名前が出てきてアキラは面食らった。
 調べているというのは本当のようだ。それも、かなり詳しく。

「不穏な感じがするんですよ、本当に。彼は今、異世界の技術力と最も近いところにいる。つまり、この世界の技術者の終点だ。その先に、何があるのか……」
「……つまり、それは、」

 アキラは何となく、ブロウィンの気にしていることが見えてきた。

 彼の覚えている違和感―――いや、恐怖か。
 彼はきっと、進歩の見えない世界の中で、進歩を使用している存在に何が降りかかるのかを知りたいのだ。

「シルヴィに、この先に何が起こるのか……。それを、知りたいってことですか」
「……まあ、気にはしています」

 あっさりと答えたブロウィンに、アキラは小さく微笑んで、記憶を反芻した。
 話疲れてはいるが、エリーもいるし、丁度いい。
 人づてに聞いた話も混じるが。

 百年戦争の話を、してみようじゃないか。

―――***―――

 ヒダマリ=アキラの人生の中で、中々こういうことは少なかったように感じる。
 それは、例えば大衆の中で、誰かひとりを選ぶとき、十中八九自分に白羽の矢は立たない。
 あれは小学生のときだろうか。
 クラス内で、学級委員長を選ぶとき、誰も立候補せず、結局クラス全員でくじ引きを行ったことがあった。
 アキラは、学級委員長という責任を負う羽目になるのは避けたいと思う反面、もし自分が当たったら何を行っていくだろうかと建設的なことも考え始めた。
 脳内で色々と考えてしまい、期待と不安が半々となったところで、結局自分とは深い親交もない学友に白羽の矢が立つ、という結果に終わる。
 自分は選ばれし者ではない。
 そう感じた。

 それから何度も、特に求めたわけではないが、大多数からの抽出では自分は選ばれない現象を目の当たりにしてきている。

 それがひっくり返ったのは、異世界に訪れてからだ。
 白羽の矢が立ちすぎて、穴だらけになっていそうな自分は、選ばれし者。

 それは、この依頼の権利を勝ち取るという幸運なことだけに留まらず、不運なことにも適用されるようだ。

 先ほど地図で見た、山の中腹まで向かう不運なグループは、自分たちらしい。

「……寒」

 人工的な匂いを感じさせる山道は、緩やかな傾斜で、山を往復するように続いていた。
 徐々に高く、そして奥へ進んでいくこの道から見下ろせば、先ほど自分たちが馬車を下りた湖畔が木々に遮られながらも見える。
 もう少し上れば、遠方にヴァイスヴァルの町も見えていそうだ。
 雲もなく、大気は澄んでいる。視界は良好だ。
 岩山特有の身も凍るような寒さも、山道の傾斜も、先日旅をしたレスハート山脈とは比べものにもならないが、やはり、寒いものは寒い。

 人ふたりが横並びになるのが精一杯のこの狭い道は、ヴァイスヴァル研究所の手の者が定期的に整備しているそうだ。
 こうした岩山には洞穴が点在しており、中の調査は定期的な依頼に任せるとして、とりあえず、人が通りやすいように大岩を砕いたりしているらしい。山の中腹エリアの調査が行えるようになっているのは見えざる彼らの尽力によるところだろう。
 だったら手すりでもつけてくれと言いたくなるところだが、見下ろせば飛び降りられるほどの距離に先ほど通った下の道が見える。
 ある程度の安全性は保障されているとはいえ、それだけこの山を往復しなければならないとなると気が滅入ってくる。
 帰りは、無理を承知で飛び降りてもいいか提案してみよう。

「ほんっとに魔物出ないわね」

 延々と歩いているのに流石の彼女も飽きたのか、背後から語り掛けてきた。

 エリサス=アーティ。
 そして、アキラの前を歩くのはブロウィンとシルヴィ。
 この4人が、山の中腹までこの道を歩く羽目になった不幸な面々だ。

「さっき、馬車で待機してもらっているときに、強い音を出しました。少なくとも日中、魔物は出てこないでしょう」

 答えたのはシルヴィだった。
 魔物が嫌がる匂いだけではなく、音も発生する装置があの馬車には詰め込まれていたらしい。
 あれだけ離れた場所からどれだけの効果があるのかは分からないが、シルヴィの様子を見るに、相当自信があるようだ。
 彼女は特に警戒した様子もなく、ブロウィンとの会話に戻っていった。
 対してブロウィンはシルヴィと会話をしながらも、周囲を警戒しているように見えた。
 あれが魔導士としての在り方なのだろう。
 確かに彼は、シルヴィの技術力に対して微塵にも慢心していないようだった。

 あるいは。
 モルオールの魔物に対する警戒心が勝っているのか。

「ねえ、さっきの話」

 今度は小声で、エリーが囁いてきた。
 アキラはさりげなく歩を緩め、前のふたりから距離を取った。

「なんだよ。百年戦争なら話しただろ」
「ええ。サクさんのこととか言いたいことも色々あったんだけど」
「随分余裕だな。いいのか? 魔導士と一緒の依頼中だぜ?」
「む。警戒してるわよ。あんたといて、まともに過ごせたのなんて指で数えられる程度じゃない」

 それは酷い。一応2桁には達しているはずだ。
 ただ少なくとも今回、山の中腹まで歩く羽目になったのはアキラの数奇な運命のめぐりあわせかもしれないので、何も言い返せなかった。
 彼女も彼女で、自分がどういう存在なのか確信レベルで認識しているらしい。最早メタだ。
 何も起こらなければいいが。

「まあ今はいいわ。それより、ブロウィンさんの話よ」

 エリーは特になんてことでもないように話を区切る。
 アキラはさらに歩を緩めた。
 ブロウィンにとって、シルヴィには聞かせたくない話だろう。
 自分の行く末が不穏だなどと、シルヴィだって思いたくは無いはずだ。
 もしかしたらルーティフォン家が保護したという異世界人とシルヴィを引き合わせないのは、彼の思惑があるのかもしれない。

「ほとんど分からなかったんだけど、結局この世界がおかしい、ってことよね」
「どうしたそのまとめ方。お前はもっと頭のいい子だったはずだ。まさかティアと一緒にいたから……!」
「怒鳴りつけたい。けど、ティアと一緒にいてそう感じたことが事実あったから、否定できない」

 エリーは、ぽすぽすとアキラの背を叩きながらやり場のない憤りを逃がし、再度呟いた。

「そうじゃなくて。ええっと、そうね。あんたは? あんたはどう思うの? この世界」
「進歩の話か?」

 ふむ。
 とアキラは考える。
 確かに、この世界は何かがおかしい。
 そう感じたことは何度かあった。
 だが、その陰りに手を入れて、あまりに重い代償を払うことになったアキラには、それを探ることが正しいのかは分からなかった。

「確かに、おかしいよ。というか、さっきの話で改めてそう感じさせられた」

 アキラはそれだけを返した。
 この異世界。
 自分は勇者で、すべてのことが上手くいく。

 ご都合主義に彩られた世界。

 いいとこ取りをした―――世界。

 だがその“いいこと”は、果たしてどこから現れたのか。
 裏を返せば、それは、歪な世界だ。

「一応」

 思い返すのも吐き気がするが、アキラは思い返す。

「俺は、この世界でも“電気”と思われるものを見た。というか、それを前提に動いたような機器を見た。あの野郎の研究所とやらでな」
「……ぅ」

 エリーにとっても苦い思い出だ。
 だが、ここまで考察したんだ。
 先に進んでしまおう。

「ガバイド。あの魔族。あいつが言っていたんだ。あいつは多分、“その場所”から、その技術を手に入れたんだ」
「“世界のもうひとつ”。あたしも、なんとなく聞いてたわ」

 その場所。その領域か。

 異世界を含めて、すべての世界に共通して存在するそれは、“すべての世界の情報”を保持しているらしい。

 あの場所で、電気を見たとき、アキラはどうしようもない焦燥感と、恐怖を覚えた。
 すべての前提が覆り、自分の見ていたものがどす黒く染まり、足元が音もなく崩れていくような―――絶望感。
 あの場所では、本当に、ろくなことが無かった。

「それもあって、俺は確かに、おかしいと強く感じ始めている。うまく説明できないけど」
「それは……しょうがないと思う。それに、あんたに無理なら、あたしたちは無理よ」
「どうしたよ。知識面で俺に頼ったらこの旅は終わるぞ」
「そうじゃなくて。あたしはね、この世界がおかしいって感じないのよ。それが普通だから」

 エリーの言わんとすることが、なんとなく分かった。

「完全に推測だけどね。あたしたちは、比較対象がないの。おかしいって感じるのは、異世界が存在するからでしょ。あたしたちと同じような思考の人たちがいて、より優れた文明を築いているから、この世界の進歩は、“それと比較しておかしい”、ってことなんでしょ」

 この世界の住人にとっては空想話のようなことなのに、よくついて来られる。
 確かにエリーの言う通りだ。
 この世界がおかしいと感じられるのは、異世界という比較対象を知っている、もしくは、その匂いを感じ取れるものだけだ。

「その点、ブロウィンさんは凄い、のかな。あたしは異世界、って聞いてもピンと来ないのに、あんなに考えてて」
「……異世界人に会ったからだろ」
「あれ? おかしいな。ねえねえ聞いて。あたし、実は異世界人知ってるんだけど。なんにも分かんない。なんでだろう」
「俺より優秀な異世界人なんだよ。悪かったな」

 わざとらしいエリーの口調に、アキラは何となくむっとして、口を滑らせた。
 エリーは見逃さず、アキラの横に身体を割り込ませてきた。

「やっぱり。さっきブロウィンさんが言っていた“彼女”って……。ああ、もう。単刀直入に訊くわ。答えたくなかったらそれでいい。それ、知っている人?」
「……ああ。知ってるよ」

 下手にごまかさず、アキラは投げやりに答えた。どうにでもなれ。

 答えが返ってくるとは思ってなかったのだろう。
 エリーの瞳が少し大きくなり、そして、ゆっくりと前を見た。

「……なんかごめん」
「謝んな。いいよ、これくらい」

 アキラは拳を強く握った。
 彼女に当たっても意味は無い。
 やっぱり駄目だ。
 先ほど馬車でも感じた痛みが頭を、胸を襲う。

 “彼女”のことを考えると、いや、“彼女に関してのことで自分の考えが当たっていたとすると”、自分は普通でいられない。

「会おう。その人と」
「……は?」

 エリーは何も聞かないで、そんなことを言い出した。
 アキラがあっけにとられていると、エリーは小さく笑っていた。

「多分なんだけどさ。会った方がいいんでしょ?」

 要領を得ない彼女の言葉。
 彼女は自分の顔を見て、どう考えたのか、そう結論付けたようだ。

 だがそれは、結局のところ、自分自身が出す結論であったと感じる。

 なんとなく、胸に温かみを感じ。
 アキラは大分離された前のふたりを追って速度を上げた。

 そうだ。
 まずは会わなければ何も始まらない。

 そして、自分は。

「そろそろ着きますよ。準備はいいですか?」

 ブロウィンに軽く手を振り、アキラは気を引き締めた。

 まずは依頼。
 頭を切り替える前に、アキラは心に強く想いを押し込んだ。

 そして、自分は。

 きっと彼女に、謝らなければならないのだから。

―――***―――

「ふうー、ふうー、ふうー」
「随分気合が入っているな」
「もちろんです。宝探しですよ!」

 彼女の意識が高すぎて見えない。糸の切れた凧のようだ。

 山の麓にほど近い洞穴。
 サクはティアと共にいくつ目かの探索を行っていた。
 共に探索を行っている研究者と妙齢の魔導士はどうやらこの依頼に頻繁に参加している
顔見知りのようで、軽口を叩き合っている。
 最も、魔導士の方は鋭く切れるような気配で周囲を探りつつのようだが。

 ピリピリとしている。いい意味でだ。
 魔物が一切出現していないにも関わらず、あの熱気漂う戦場のような空気を感じる。
 これが、魔導士。それも、危険地域の魔導士の空気か。

 珍しく取り残されているように感じた。
 何度スカを引いても意識を途切れさせないティアと、魔導士。
 自分は随分と弛んでしまったようだ。

 手に持ったマジックアイテムで前を照らす。
 今までの洞穴と違いある程度は深いようだが、魔物の巣にしか見えない。
 前方で珍しい形の石を拾ったらしく、目を輝かせているティアに向かって灯りを投げ付けたくなったこと以外何もなく、すぐに次の洞穴に向かうことになるだろう。
 このペースだと、このグループが一番早く探索を終えそうだった。

「……それにしてもすごいな。魔物の巣なのに。魔物が出ない」
「ええ。それはもう」

 結局スカだった洞穴を抜け、次のエリアへ足を運ぶ道中、サクは研究者たちの会話に混ざることにした。
 『何かの形に似ている気がするんですけどいったい何の形なんでしょう、この石』ゲームに参加しているよりはいささか建設的な話が聞けるだろう。

「確かに効果は目を見張るものがある。もっとも、警戒はしなければならないがな」

 調子に乗っては困ると飄々とした研究者を戒めたのは、眼鏡をかけた声も貫録のある魔導士だった。
 彼の言葉が魔導士としての立場の言葉なのか本心なのかは分からないが、少なくとも、魔導士としてもヴァイスヴァルの技術力は認めているようだ。

「何か見つかればいいですがね。私も長いこと調査してますが、手に入れられたことは実は無いんですよ」
「そうなのか?」
「まあ、もっともこの依頼、日ごろ研究所に閉じこもってばかりの我々の気分転換も兼ねているようですし。ほら、あのシルヴィも自分で探索に出てるくらいです。……ああ、もちろん見つかれば値千金ですが」

 目の前の魔導士への建前か、研究者は最後早口でまくし立てた。
 シルヴィとは、アキラたちのグループの研究者。
 この依頼の説明をしたのも彼女だ。彼女はある程度地位のある人間なのだろう。

 だが、どうやらこの依頼。ティアのやる気には申し訳ないが、本当に“おいしい”依頼のようだ。
 見つかることが無い宝を、依頼者も、旅の魔術師たちも期待せずに探すだけ。
 誰からも非難されず、依頼の成果も必要とせず、ただ依頼料が支払われる。
 あのアキラが引き当てたとあって、少しは警戒していたのだが、どうやら杞憂に終わりそうだ。

「ああ、でも何年か前、惜しかったことがありました」
「ん?」

 研究者が手を叩き、ちらりと魔導士の様子を伺った。
 すると魔導士は僅かばかり顔を歪める。どうやらその何年か前とやらの話に、この魔導士もかかわっているようだ。

「あの事を言っているのなら、惜しかった、ではない。結局何も見つからなかった、だ」
「何かあったのか?」

 すると研究者は肩をすくめた。

「いや、実は調査しようとしていた場所で、山崩れがあって。魔物が暴れたのでしょう。結局そのときの依頼は崩れ落ちてきた岩の撤去で終わってしまいました」
「どうせあそこにも何もない。地盤が緩かったのだろう。今も閉鎖されている」

 魔導士はぴしゃりと研究者に言い切った。
 慣れた仲だからか研究者は笑いながら魔導士に悪態をつけ始める。

 きな臭い。

 ふと、そんなことを感じた。
 この調査依頼。“何か”が起こったことがある。それがどうしようもなく、警鐘を鳴らす。
 非現実的な予感だが、それが現実のものとして降りかかる光景を、サクは今まで何度も見てきた。

「ありました!! 行きますよ!! ファイヤー!!」

 新たな洞穴に息巻くティアを無視し、サクは思わず山の中腹へ視線を向けた。

 雲が出ていた。

―――***―――

 ぞくり。

 それを見たとき、アキラは何故か、身震いした。

「つ……次は、……あそこ、……ですね……」

 山の中腹の調査が始まってからようやく3つ目の洞穴が見えてきた。
 体力に乏しいのか息も絶え絶えのシルヴィに、疲労を微塵にも感じさせないブロウィンが手を貸しながら、このグループの調査は続いていた。

 最初の洞穴は、最早ただの窪みだった。
 灯りをつけたらすぐに壁が見えたほどで、アキラの属性について道中の話題になった程度だった。
 ふたつ目の洞穴は、明らかに見て分かるほどの魔物の巣だった。
 魔物こそいなかったが生活臭が強く、調査もそこそこに、この山にも『伝説の童歌』の替え歌があるのだという雑談に切り替わった。

 そしてこの3つ目。
 一歩も踏み入れていないこの洞穴から、端的に。

 アキラは嫌な予感を感じ取った。

「警戒してくれ」
「ん」

 小声で言っただけの、訳の分からない言葉。
 それを即座に拾った隣の少女は頷いた。

 即座に察してくれることは素直にありがたかったが、アキラは心の中で、違う、と思った。
 あまりに感覚的なことなので言葉にすることはできないが、今までの悪寒とは“種類が違う”。

 今までの悪寒は、歩みを進めた先に存在する脅威が温床だった。
 強大な敵、あるいは、非現実的な事象。
 しかしそれは、どれほど異常なことだとしても、所詮は自分が進む道の延長線上にあるものだ。
 結局アキラは歩みを止めることは無かった。

 だが今回は、違う。
 血で血を洗う戦場に足を踏み入れるようなあからさまに感じる危機感とは違い、無味無臭の毒薬が周囲に充満しているような、恐怖。

 アキラは今、心の底から、あの洞穴に近づきたくなかった。

「……行くんでしょ」

 エリーは慎重に歩を進める。
 彼女には察せない。
 引き留めようとしても、口も身体も上手く動かなかった。

 楔のようなものを撃ち込まれた気分だ。
 あの場所に近づいたら、自分は自分でいられなくなる。

 断言してもいい。
 あの洞穴は、自分の物語には関係の無いものだ。

「では、まず私が入りますので背後をお願いします」

 先ほどまでの手順の通り、ブロウィンが先陣を切る。
 灯りを灯し、慎重に洞穴に向かって足を進める。

 だが。

 アキラはその肩を、力強く掴んで止めた。

「っ―――」

 ほぼ反射だったのだろう。
 ブロウィンは即座に振り返り、鋭い睨みをアキラに向けてきた。
 しかしアキラに気づくと、ほっとした表情で握った拳を開く。
 彼の反射神経が鈍かったら、アキラは魔導士の魔術を間近で浴びせられていただろう。

「っと、どうしました?」
「……今度は俺が先に入る」

 何か言おうとしたブロウィンは、アキラの顔を見て、口を閉じた。
 そして静かに頷く。

 今自分はどんな表情を浮かべているかアキラには分からなかった。
 だが、そんなことはどうでもいい。

 そして睨む。
 目の前の洞穴を。
 人ひとりしか通れそうにない入口の奥には暗闇が充満している。
 気配なのか、匂いなのか、なんだか分からない悪寒、いや、嫌悪感かもしれないが、醜悪な予感は変わらずある。
 だが、いや、だからこそ、自分が行く必要があるのだろう。

「後ろ頼む」

 アキラは気配を振り払うように、ブロウィンを真似て洞穴に足を進めた。
 背後はいつしか静まり返っている。
 妙な緊張感が汗となって頬を伝う。

 自分で行くと言ったばかりなのに、アキラはすでにこの場から消え去りたかった。
 取り越し苦労ならそれでもいい。
 ちょっとした恥で済むなら大歓迎だ。

 アキラはごくりと喉を鳴らし、洞穴に足を踏み入れた。

「…………」

 今のところ、何も起きない。

 自分の手のひらが照らす先は、細い道のようになっていた。
 天井は手を伸ばせば触れそうなほど低く、ごつごつとした岩がむき出しになった曲がりくねった道で、奥は相変わらず見えない。
 しかし、思う。
 この“通路”には、妙な清潔感がある。
 どう見ても、人工物には見えなかった。
 アキラは更に一歩踏み出す。

 そこで。

「ち―――」

 ゴッ、と入り口付近の岩が“動いた”。
 崩れたのではない。
 入り口付近で突起していた“丁度入り口を塞ぐほどの巨大な”岩が、壁から剥がれるように転がったのだ。

 急速に奪われる外の光。
 だがアキラは冷静だった。
 手があるわけではない。
 “どうせこういうことになるだろうから自分が入ったのだ”。

 アキラはそれでも抵抗を試みようと、即座に振り返り地を蹴った。
 しかし時すでに遅く、アキラの手のひらが照らす巨大な岩は、まるで最初からそこにあったかのように、入り口をぴたりと塞ぐ。
 外の世界とこの暗闇は完全に二分されていた。

「……はあ」

 これは自分の数奇な運命が引き寄せた結果だろうか。
 そうだとするなら、決して良い状況ではないが、不幸中の幸いだ。
 これで他の者が巻き込まれていたと思うとぞっとする。

 だが。

「……って、…………は?」
「あっぶな……、挟まれると思った……」

 アキラの手のひらは、入り口を塞いだ大岩と同時に、赤毛の少女を照らしていた。

 エリサス=アーティ。

 彼女は何故、こちら側にいるのだろう。

―――***―――

 何かが起こったことは間違いない。

「サッキュン……、あっし、とっても悲しいです。悔しくて……悔しくて……」

 自らの担当範囲の調査を終え、湖畔で待機していたサクはティアを、話を聞き流しながら宥めていた。
 彼女ほどこの調査依頼の目的を強く求めていた者はいないであろうし、実際サク自身も、無いとは思いながらも“お宝”に少なからず期待していたようで、何の成果も上げられずにこの場に戻ってきたことは不本意ではある。
 ゆえにティアの気持ちも分かるのだが、下手に相槌を打つと何を思いつくか分かったものではないので、返事もそこそこに、サクは山の様子を眺めていた。

 ひときわ巨大な岩山がずん、とそびえ立ち、それに従うように山々が奥へ奥へと連なっている。
 到着したとき、こうして眺めていたときにも思ったが、自然の中なのに、まるでこの湖畔が山に包囲されているような閉塞感を覚える。
 そして不気味だ。
 先ほどから出始めた雲が、山々に影を落とし、それがあまりに急速に広まっていく。
 山の天気は変わりやすいとは聞くが、それはこういう風に、空模様が激変していくことではないような気がする。
 アキラは無事だろうか。

「……!」

 ぽつぽつと戻ってきた旅の魔術師たちを眺めていたサクは、妙な動きをしている魔導士たちを見逃さなかった。
 速足で馬車の前に入ったと思えば、即座に馬車から出てきて、今度はゆっくりと、さりげなく山へ向かっていく。
 遅れてふたり。
 先ほどの男よりも僅かばかり早く山へ向かって歩いていく。
 そのうちのひとりは、自分たちの班の担当だった魔導士だ。
 依頼を終えた旅の魔術師たちは気づかない。いや、魔導士たちが気づかれないようにしている。無用な混乱を避けるためだろう。
 あとは待機するのみであった魔導士も向かったとなると山で何かがあったことは間違いなかった。

「サッキュン、あの」
「……ああ。大人しくしていろ」

 ティアも気づいたのか眉を寄せている。
 サクは魔導士たちに倣ってさりげなく馬車へ向かった。
 妙な汗が出てくる。

 サクは馬車の窓から見えぬように身を屈めると、ピタリと身体を馬車に張り付けた。
 傍目からは背を預けて休んでいるようにしか見えないはずだ。

「―――」
「―――、―――」

 中の音が辛うじて拾えた。

 細かくは聞こえないが、単語は拾える。
 サクは神経を集中させて、話を聞いた。そして、山を睨む。

 そこで。

「だから、君も下手に動かないで欲しい。いや、動くな。二次災害をまずは防がなければならない。これは魔導士としての発言だ」
「!」

 音が急にクリアになった。
 見上げれば窓から魔導士の男が額に汗を浮かべながらサクをまっすぐと見据えていた。

 話を聞くことに集中し過ぎて気づかれたようだ。
 あるいは魔導士は、その前から気づいていたのかもしれない。

 サクは、あくまでゆっくりと馬車に乗り込んだ。
 中では山を切り取った地図を囲った魔導士が数人。神妙な面持ちでサクを見返していた。
 もっと多くの人数が入っていたと記憶していたが、他の者は気づかぬうちに馬車から出て行ったようだ。

 サクは、馬車の扉を閉め、魔導士たちと同じ焦りの表情を浮かべて訊いた。

「アキラが遭難したというのは本当か」

 魔導士たちの答えは、サクの聞いた通りのものだった。

―――***―――

「言いたいことがある」
「あたしもあるわ。先でいい?」

 洞穴の入り口―――アキラがいる側からは出口にあたるそこを塞いだ岩山の前。
 とりあえず外と連絡を取ろうと一通り大声を出したあと、ふたりは音も光も遮断されていると結論付けた。
 やろうと思えば砕けるであろうが、岩山の中にいるとなると、下手に刺激すれば洞穴ごと潰れかねない。
 結局大人しく待っていようと座り込んだアキラは、同じく座り込んだエリーに話を切り出したのだが、待ったがかかった。

「いや、俺が先だ。お前ここで何してんだよ」
「あたし? そうね、遭難中。次あたしでいい?」

 まともに答えてもらえなかったのに、アキラのターンは終わるらしい。
 エリーはにっこりと笑っていたが、オレンジとスカーレットの灯りに照らされる彼女の顔に、妙な恐怖をアキラは覚えた。

「……怒ってるよな?」
「ええ。返答次第だけど」

 あっさりと認めてエリーはアキラをまっすぐ見据えてくる。
 返答次第。
 とても普通の言葉ではあるのだが、この言葉が使われるときは碌なことが無い気がする。

「あんた。こうなることが分かってここに入った?」

 分かるわけがない。
 自分が一歩入っただけで洞穴が塞がれるなどとは。

 だが、その返答は正しくないということをアキラは分かっていた。
 エリーもそういう、“現実的な目線”での思考を飛ばした質問をしているのだ。
 自分の質問はまともに答えてもらえなかったのに、自分は何と真摯に相手の質問の意図を探ろうとしているのだろう。
 いささか不公平な気もしたが、アキラはとりあえず、正直に回答した。

「……近いことは起こると思っていた」

 返答次第で彼女は怒り出すらしいが、どうやら怒りの方を引いたらしい。
 彼女の手のひらのスカーレットの灯りがカッと強くなる。

「分かってて入ったの?」
「じゃあどうしろってんだよ。危ないからって人が入るのを呑気に眺めてろってか?」

 エリーから感じる怒りの感情を押し返すようにアキラは声を張り上げた。
 そんなことを言うならば自分だって怒っている。
 あのままならばきっと、ブロウィンがこの場所に閉じ込められていた。
 結果論ではあるが、アキラが警戒していたことは正しかったのだ。
 それの何に文句があるというのか。

「そうね。どうすればいいかなんて分からないわ。じゃあ……そうね。あたしが何に怒っているかも分からないでしょ。“そういう発想”じゃ」
「あのな……。てか、お前こそだよ。何してんだ。どうしてここにいる?」
「あんたが警戒しろって言ったんでしょ? その結果よ。岩山が揺れたから飛び込んだの」
「おまっ……、ほんっとに何してんだ……」
「“安全な方に飛び込んだの”。どうにかなるんでしょ?」
「……まあ、何とかなるとは思うけど」
「そういうところよ。ばーか」
「は!?」

 エリーはぷいと視線を外し、立ち上がった。
 先ほど試したばかりなのに、ピクリともしない岩を押し開けようとしている。

「なあ、何に怒ってんだよ」
「言わない。絶対言わない」

 エリーは岩を無駄に押すことに飽きたのか、スカーレットの灯りを強め、洞穴の奥を照らした。

「それより、どうする?」
「……奥か」

 エリーの機嫌の悪さは諦めよう。
 こういうときのセオリーは、どう考えてもその場所から動かないことだろう。
 だが、岩は動かず、砕くこともできず、外の音も聞こえない。
 そうなると、どうしても奥に続く道が脳裏にちらついてしまう。

 アキラは、相変わらず奥へ進むことの嫌悪感を覚えている。
 だが、このままじっとしていることにも耐えられそうにない。

「……お前はここで、」
「じゃあ先頭よろしく」

 アキラが定めたプランは、言い終わる前に潰された。
 ふてくされた表情でアキラがエリーを睨むと、より強いジト目で睨み返された。
 どうも彼女の様子がおかしい。

 いや。とアキラは思い返す。
 そういえば、あの煉獄で離れ離れになったあと、彼女とまともに話していない。何らかの変化があったのだろうか。

 もうどうにでもなれとアキラは歩き出した。
 覚えているのは嫌悪感。例えば魔族に出遭ったときのような途方もない危機感を覚えているわけではないのだ。
 何とかなるだろう。

 そう。
 この先に待っているのは、危機ではない―――気がする。

「あのさ」
「……ん?」

 ほとんど一本道だ。
 背後の彼女の表情は見えない。
 ぴたりと背後に付かれている。まるで見張られているかのように。

「どうして百年戦争に参加したの?」
「さっきの話の続きか?」
「まあね」
「さっきも言ったろ。百年戦争の参加者に、ちょっと縁があってな」
「理由はそれだけ?」
「まあ……そうだな。あと、サクも関係してた」
「……そう」

 ごつごつとした細い道。
 生物の気配がまるでしない。
 ここはいったい何なのだろう。

「なんだよ。それがどうかしたのか?」
「あんたさ。それだけで参加しちゃうの?」
「それだけって……、何言ってんだ。サクもいたんだぞ?」
「じゃあ……、そうね。サクさんがいなかったら? そうしたら、どうだったの?」

 意味のない仮定の質問だ。
 だが、なんの代わり映えもない道が続く。
 まともに考えてみようか。

「……参加、してただろうな」

 思ったよりも早く、結論を出した自分に驚いた。
 それは、状況に流されやすい自分を推測してのものか、あるいは。

「“勇者様”、だから?」
「……かもな」

 しばらく、お互い無言になった。
 アキラは考える。
 自分はこんな人間だったろうか。
 自分は、危険と思ったら、迷わず逃げ出す存在だった。
 選ばれし者ではない自分は、挑む存在ではなかったはずだ。

 それなのに。
 今は何故、こんなにも、挑み続けようとする自分がいるのだろう。

「あのさ、こんなこと言うのもなんだけどさ」
「……なんだよ」

 なんとなく、エリーの感情が伝わってきた気がする。
 そして、今になって、サクの言葉も思い出してきた。
 あの、百年戦争に参加を決意したあの場所で。
 その直前、彼女はアキラにこう言った。

 “日輪属性の呪い”。
 関係の無いことにまで首を突っ込んでいたら、魔王を討つ前に、その首は―――

「そういうの、なんか嫌だな」
「そか」

 洞穴は続く。
 もうずいぶんと長い距離歩いてきたようだ。
 下り、昇り、そしてまた下り。
 徐々に下へ向かっているようだ。
 背後から入り口の岩が砕かれる音が聞こえたら、即座に戻れるように注意をしていなければならない。

「正直言っちゃうとさ、あんた、“勇者様”って向いてない、気がする」
「それは俺も常々思ってるよ」

 表情の見えない会話というのは楽なものだ。
 歩きながら話していると、言葉も選ばず思ったことがポンポンと出てくる。
 もしかしたら酸素が薄いのかもしれない。頭がぼうっとする。
 彼女も同じなのだろうか。

「あんたの噂を聞いたときさ、あの修道院で。ぱーっと色々思ったのよ。なんか。凄い人になったなぁって。あたしの弟子が」
「そこ強調していくんだな」
「まーね。……でさ、まあ正直あたしさ、嫉妬したんだと思うんだけど……」
「嫉妬って……」
「結構来たのよ、色々。雪山に閉じ込められてる、っていう閉塞感もあったし。でもさ、それ以上になんか怖くってさ。あんたの周りが、そんな風に持ち上げると、あんた、きっとそれに応えようとする。ううん、応えちゃおうとする。それが悪いこととは言わないんだけどさ」

 彼女の言葉を反芻して考えてみたが、答えは出なかった。
 どうもよくない。本格的に空気が怪しい。
 やはり下手に動き回るべきではなかったのかもしれない。

「でさ、結局何とかなるんでしょ? なんかよく分からないけど、結局何とかなっちゃう。それってさ、嫌なんだ。なんか。危ないのに飛び込んで、ケロッと帰ってくる。それに慣れちゃうの、やだなぁ、って」

 漠然とした言葉に、アキラの思考は追いつかない。
 だが、なんとなく、彼女の意思が伝わってくる。

「“勇者様”でもいいけどさ、あんたはあんたで、いて欲しいって思うんだ」

 その言葉は、なんとなく、耳に残った。

「あーあ、言わないつもりだったのに……。ちょっとまずいかもね、空気。頭がぼうっとする。っていうか、あれ? この話、前もしたっけ?」
「あー、そうかもな」
「そうよね……。前にもおんなじことあった気がするんだけど」
「ええっと……ん、いや違うって、あれは―――」
「しっ」

 思ったままを返答しそうになったアキラの言葉は、エリーに遮られた。
 徐々に思考がクリアになる。
 戻ってきた感覚が、音を拾った。
 あれは、風の音だ。ようやく空気に巡り合えた。

「どこかに穴が開いている」
「そうみたい。この先よね?」

 いつしか通路は広くなっていた。
 数人横並びにはなれそうだ。
 エリーはアキラの隣に並ぶと、こくりと頷く。
 ふたり同時に慎重に進んだ。

 外の空気が入ってきていることには助かったが、それは同時に、モルオールの魔物が出現する可能性もある。
 ここがどこだか分からないが、随分と歩いてきているのだ。ヴァイスヴァルの魔物対策の範囲外の可能性すらある。

 アキラは剣の感触を確かめると、オレンジの灯りをより強く灯し、前を照らした。
 前へ進む。

「ってきゃ!?」

 エリーの大声にびくりとしたが、彼女は眉を寄せて天井を照らしているだけだった。
 見上げたアキラの額に、水滴がぽつりと降ってくる。

「え……、まさか、スライム? とか?」
「……いや、これ、雨、か?」

 耳を凝らすと、風音に交じって雨音が聞こえてくる。
 それも徐々に大きく、激しくなっていく。

「これ、すぐ外に出れそうね」
「そう、だな」

 答えたアキラは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 外は雨のようだ。
 それも、かなり強い。
 その寒さのせいだと信じたいが、アキラの身体の芯が、凍り付いているようにジン、と痛む。
 足を進めることが、恐ろしく億劫だった。

 この先に―――進みたくない。

 だがせっかく見つけた外への出口。
 歩みを止めるわけにはいかなかった。

「あ、あそこ。なんか広そう」

 やはりこれは通路だった。
 手のひらが照らした先に、極端に開けた空間が見える。
 ここはあそこへ向かう道だったのだろう。

 エリーも口では気楽に言っているものの、そのあまりの不自然さに警戒を怠っていない。
 慎重に慎重に“空間”へ向かう。風音より、雨音とは違う、水の音が強くなってきた。

 間もなく到着というところで、ふたり顔を見合わせ頷くと、鋭く“空間”へ身を滑り込ませた。
 そして。

「なに、これ」

 そこは、洞穴の中の湖だった。寒さのせいか、外の湖とは違い凍り付いている。
 人ひとりが米粒のような巨大な空洞。対面がほとんど見えない。
 “空間”は卵の中身がごっぞりと抜かれたように、高い高い天井は丸みを帯びていた。
 中央いっぱいに底の深い湖があり、その周囲をぐるっと足場が囲っている。
 アキラとエリーが出てきたのは足場の部分で、湖を丁度見下ろせた。足場には、他にもいくつか穴が開いていた。そのうちのいくつかは、外の雨水なのか川なのか分からないが、湖に勢いよく水を注いでいた。
 いずれあの水たちも、湖と一体となって凍り付くのだろう。

「すご……、って、ほら、あれ、光が漏れてる。普通に外に出れそう」

 エリーが指したのは、アキラたちが出てきたように足場に空いた穴だった。
 円周の8分の1ほど先にあるあちらの穴は、薄暗いが光が漏れている。
 壁伝いに進んでいけば、問題なく外には出れそうだ。

 だが。

 アキラは湖を見下ろし続けていた。

「……どうした、の? ってなにあれ?」

 エリーも気づいたようだ。
 湖の中には巨大な影がある。

 生物ではない。
 魔物ではないのだ。ここには危険はないのだから。

 あくまで無機物だ。
 ただそれが、ここには絶対にあってはならないというだけで。

「あれ……家? っていうかお城? なのかな?」

 確かにそれに目が行くだろう。
 巨大な四角い、建物。
 堅牢な要塞にも見えるが、あくまで建物だ。
 この世界ではあまり見ない形だが、作り出せる範疇のものだ。“材質”がどうかは分からないが。
 それよりも、浮かび上がって凍り付いている“棒”。

 “紐”が絡まり、見るも無残な形になっているが、アキラにとって、それが何か特定するのは容易かった。
 そうなると。
 あの四角い建物は、城でも要塞でもない。“住宅”だ。

「……あんた、あれ知ってる?」
「ああ」

 乾いた回答を返した。
 アキラは冷ややかな目で氷の中の建物を見下ろしながら、呟く。

「“マンション”。……まあ、そんなことはどうでもいい。それより、あの棒。あれは―――“電柱”だ」

 この世界は、一体何なのか。そんなことを考えても、何も答えは生まれない。
 だからアキラは、この言葉を血が滲むほど拳を握り締めるだけで、呟けた。

「ここでは、かつて。“電気”を使った大規模な生活が行われていた」

―――***―――

 最早大騒動だった。
 突然の豪雨に待機していた旅の魔術師たちは慌てて馬車に飛び乗り、魔導士たちは騒ぎに乗じて隠しもせずに山とこの湖畔を往復している。

 サクは、そんな魔導士たちの様子を、待機を命じられた馬車の中で眺めていた。
 そろそろこの馬車でも、旅の魔術師たちが早く町へ退避したいと騒ぎ出すだろう。

「アッキーたち、大丈夫でしょうか」
「……問題ないさ」

 サクは爪で窓を叩きながら返した。
 ティアは窓の外を見ながら笑って呟く。

「そうですか? 私は不安です。ものすごく」

 サクはぷいと顔を背け、深々と座り直した。
 視線は、無駄と分かっていながら岩山に向けてしまう。

「悪天候ぐらいでどうこうなるふたりじゃないさ。それにあの魔導士たち。相当手練れだろう」
「たはは。そうですね。サッキュン抜け出そうとしてすぐ気づかれましたしね」

 眉間にしわが寄った。
 確かにそうした事情もあって、サクは今大人しくしている。

「でもですね。そういう話じゃないと思うんですよ。私だっておふたりを信じてます。絶対に無事で戻って来るって思ってます。でも、“そうじゃないんですよ”、こういうことは」

 要領を得ない。
 意味をきき返そうとしたが、止めておいた。

「サッキュンだって分かっていると思います。だから私は、おふたりが戻って来るまで、不安で不安で胸が押し潰されそうになりながら、大人しく待っています」
「……お前は、それでも笑えるんだな」

 サクは、ティアを見て、正直尊敬しそうになった。
 彼女は、微笑みながら、まっすぐに、やはり岩山を見ている。

「サッキュン。あっしから笑顔を奪ったら、一体何が残るっていうんですか?」
「その口を閉じたら改めて考える」

 ティアが拗ねたように見える。
 前に彼女が言っていたのだが、彼女も真剣に怒ることがあるそうだ。そのとき頼んでもいないのに見せてもらった表情は、普段拗ねているときと何ら変わらなかったので、今の彼女の表情の意味が分からない。
 それを彼女に伝えたら、また彼女は拗ねるのだろうか。

「しかし、退屈だな。私ならあの岩山まですぐに行ける。伝言係くらいにはなれるのに。主君の危機に、従者がのんびりしているのもな」
「アッキーだって分かってくれますよ。色々と」

 色々と。
 それは、自分の、自分たちの感情だろうか。
 彼はそうしたことに敏くないが、今はどうだろう。

 サクは再び、空模様を眺めた。

―――***―――

「じゃ、じゃあこれ、世紀の大発見じゃない」
「そうかもな」

 湖の中を食い入るように見つめながら、アキラは必死に平静を装っていた。

 これは―――なんだ。

 ガバイドの研究所で見た電気とは違う。
 今、眼下で凍り付いている存在は、明らかに“生活”の痕跡だ。

 先ほどのブロウィンの話。
 彼はこの世界に“電気”が無いことが不自然だと言っていた。
 そしてアキラは思った。“規格”が無いのが不自然だと。

 だが今目の前にあるそれは、その両方。広範囲に“電気”を届ける“電柱と電線”だ。
 あれがある以上、目の前の巨大なマンションもその恩恵に預かっている一旦に過ぎない。
 もしかしたら湖の底はずっと深く、そこに巨大都市が沈んでいるのかもしれなかった。

 だが―――何故。

 これだけの都市が、これだけの進歩が、何故この世界の生活に痕跡すら残していないのか。

 記憶を掘り返す。

 サクの話。
 魔族―――アグリナオルス=ノアと直接遭った彼女は、その魔族から“歴史のリセット”という言葉を聞いたらしい。

 いかような進歩も、アグリナオルスが削除する、と。

 今目の前にあるこれは、アグリナオルスに“リセット”された“歴史”なのだろうか。

 胸が痛まる。鼓動が不規則になる。
 本当にそれだけか。
 それだけで、ここまでの発展がこれほど無残になるというのか。

 アグリナオルスの力はアキラもよく知っている。
 だが、本当にそれだけ、なのだろうか。

 分からない。

「それで、どうしよっか?」

 それはこっちが聞きたかった。
 彼女の言う通り、これは世紀の大発見だ。

 この光景を代替的に公表すれば、人々の生活が進化するだろう。
 自分は、この世界に、とてつもないほどの貢献ができる。

 だが。
 そうしたいと―――思わない。

「……とにかく、外に出て……、伝えよう。このことを」

 まったく違う言葉が口から出てきた。
 アキラは戸惑い、それでも訂正せずに出口を睨む。
 弱い光が漏れている。
 何とか外には出られそうだ。

「あのさ……、えっと」
「なんだよ」
「……そうね。このことは、あんたに任せる。うん。そうする」

 任せる。
 そう言われて、何故か少しだけ気が楽になった。
 ともあれ、今は脱出だ。

 遭難してから大分時間が経っている。
 とにかく外に出よう。早く、早く。

 拍子抜けするほどあっけなく、外への出口が見えた。
 どうやら外は茂みに覆われているだけのようだ。

 外の雨音は、まるで何かの怒りに触れたかのように激しく荒ぶっている。

 傾斜のある、這って進むような細い道を、泥だらけになりながら抜けていく。
 エリーは問題なくついてきているようだが、先行したアキラの方は外から川のように降り注ぐ雨を顔面に浴びながら進む。
 好きなタイミングで呼吸ができない。
 目がまともに開けられない。
 強い苔の匂いがする。
 全身が凍り付きそうだ。

 それでも前へ前へと進んでいく。

 アキラは、自分が何のために進んでいるのか分からなくなってきた。
 外へ出たいのか、逃げたいのか。

 そしてふと、頭に浮かんだ。

 この世界の技術力の終点。
 そこに何があるのか。
 その未知を―――ブロウィンは恐怖と捉えていた。

「ぷっ、は、はっ、はっ、はっ、」

 泥だらけになって這い出たそこは、森の中だった。やはり茂みに覆われた藪の中が出口になっていたようだ。
 空気が薄くない。
 どうやら山の麓まで降りてきていたようだ。

「って、ぶっ、んーーーっ!!」
「掴まれ!!」

 アキラが抜けたせいで、雨はエリーを襲っていた。
 アキラは手を突っ込んでエリーの腕を捕まえると、力強く引き上げた。
 お互い泥だらけになりながら、座り込んで肩で息をした。

 空は。
 先ほどまでの天気が嘘のように、どす黒く染まっていた。

 まるで、脅されているように、アキラは感じた。

「は、は、はあ……、って、ここどこ?」
「俺が知るかよ……、あ、知ってた。あそこ、さっきの湖畔じゃないか?」
「え……? あー、そうね。そうかも」

 疲弊やらなにやらで、ふたりは他人事のように眺めた。
 木々の合間に、辛うじて馬車が見える。

 相当な長い距離、自分たちは遭難場所から動いていたようだ。

「とにかく、助かった。行こう。今頃俺たち探し回って岩山で大捜索でもしてんじゃないか?」
「そうね、そうね……」

 ふらふらと立ち上がって、ふたりは歩き出した。

 水を吸った衣服と身体は鉄のように重い。

「なんとか、なったな」
「ええ、でも、あんたと……いると、……ね」
「なんだよ」
「疲れる、って言ったの」
「そう……かよ」

 勝手に飛び込んできたというのに酷い言い草だ。
 だが、良かった。
 また無事に、戻って来られた。

 この幸運は、いや運命は、あと何度残っているのだろう。
 今回のことは、アキラを取り巻く“ご都合主義”の一部なのだろうか。

 疲弊した頭では、それより先の答えは出なかった。

「……!」

 誰かがこちらに気づいた。
 ぼやけた視界では判断がつかないが、どうやら魔導士のようだ。

 こちらに駆け寄ってきて、ようやくそれがブロウィンだと気づいた。

「なんで、なんでここに!?」

 彼の差し出した毛布を即座に身にまとい、アキラは身体の震えを抑えた。
 何故ここにいるのか。
 そんなことは、もう分からない。
 “勇者様”として振る舞いたいところだったが、そんな余裕はアキラにはなかった。

「―――!!」

 遠くから、赤い衣が近づいてくるのも見えた。
 サクだ。
 後ろには、ティアもいる。
 ふたりとも、雨を気にせず駆け寄ってきてくれていた。

 今までこの程度のこと、いや、この程度では済まない地獄を駆け抜けてきたというのに、随分と必死で。
 だが、逆の立場なら、やはり自分もそうしただろう。
 彼女たちを信用していないのではなく、彼女たちとはそれだけの数共にいて、旅を、してきている。

 そこで、ふと。
 アキラは思った。

 エリーが、怒っていた理由。

 彼女は、彼女たちは、もしかしたら、自分を心配してくれたのだろうか。
 危険を―――“刻”を呼び込んでしまい、それに、何とかなると軽はずみな気持ちで飛び込んでしまう自分を。

 結果としてどうにかなるかという視点ではない。
 何とかなるとは信じている。
 だが、どうしても、それを手放しで見てはいられない。

 そういう感情だ。
 だから自分も、エリーが飛び込んできたとき、怒りを覚えた。
 結局自分もエリーも、同じ理由で怒っていたのかもしれない。

 もし彼女たちが、自分は“勇者様御一行”の一員だからという理由で、危険な真似をしたらどう思うだろう。
 覚えるのは、不安、怒り。
 信頼とは、違う軸なのだろう。

 だからエリーは、アキラが“勇者様”として振る舞うことに、難色を示しているのかもしれない。
 その役割に引きずられていないかと。

「は……、はあ……、」

 息も絶え絶えに、アキラはようやく湖畔に到着した。
 ブロウィンに支えられながら到着したそこでは、安全地帯の馬車の窓から物見遊山で見下ろしてくる旅の魔術師たちが出迎えてくれた。

 例外として、ひとり傘を差しながら女性が駆け寄ってきた。
 シルヴィだ。
 彼女も無事下山していたようだ。

「大丈夫でしたか? 勇者様?」

 アキラは頷くだけで返した。

 “勇者様”として、彼女にはいろいろと伝えなければならないことがある。
 あの光景をシルヴィが“利用”すれば、世界に多大なる進歩をもたらすだろう。
 それは最早、全人類の希望とすら言ってもいいかもしれない。

 だが、それを取り除いたヒダマリ=アキラとしてはどうだろう。

 アキラは思った。
 あの光景が、あの進歩が、怖い、と。

 雨音は増す。
 止む気配はない。
 岩山まで探しに行ってくれている魔導士たちが戻ってきたら、すぐに撤収になるだろう。

「あの、“勇者様”? なにかあったんですか?」

 その問いに、アキラは、空を見上げた。
 共に歩くエリーは何も言わない。

 アキラは思った。
 オカルト染みた不気味さを感じさせる“進歩”。
 世界の歪さ。
 技術の終点。
 そんなものに巻き込むな―――勝手にやっていてくれ。

 自分は“勇者様”だが、“あの”ヒダマリ=アキラだ。
 脅しにも屈するし、怖かったらさっさと逃げる。

 だからアキラは、素直に、ゆっくりと、自分の言葉で彼女に返した。

「何も、ありませんでした」

―――***―――

「エリにゃんが乱心してました」
「……は?」
「いや、様子を見に行ったんですけど。アッキー、昨日何かありました?」
「あったつうか、遭難中に結構話した気がするけど、頭ぼうっとしててほとんど覚えてない」
「そうですか……。エリにゃん風邪ひいてるのにベッドでじたばたしてて……。安静にしないと大変です……」
「風邪?」
「そうなんですよ。そだそだ、ところでアッキー知ってますか、風邪ひかない方法」
「お前は知らなそうだよな」
「寒いときにはあったかい恰好……、って、なんでですか。知ってますよ!」
「ちょっと聞いただけで知識の薄さが分かった」
「なんだとー!!」

 エリサス=アーティは、風邪をひいて寝込んでいるらしい。
 無理もない。
 極寒の洞穴を歩き回り、最後は水浴び。
 風邪のひとつでも引いていた方が自然だ。
 自分が引かなかったのは、日輪属性の力だと信じたい。あの環境にも“適応”していたから気づかなったが、エリーにとっては酷な道のりだったのだろう。
 決して『ば』のつくあれではない。

「って、違うか。ティアは風邪ひくもんな」
「アッキー見てください。エリにゃん直伝の怒ってる感じ!!」

 拗ねている。
 そう結論付けて、アキラは窓の外を見た。
 昨日の豪雨とは打って変わって晴天だ。

 ここはヴァイスヴァルの宿屋。
 アキラの自室。
 昨日の依頼で思ったよりも疲弊した面々は、今日は思うままに過ごしている。
 せっかくの休養日に風邪とはついていない。
 あとでエリーの部屋にお見舞いにでも行ってみようか。

「それよりこれからどうします? あっし、いろんな人に聞いてみたんですが、中々いないんですよ、木曜属性の人。いろんな人に探してもらえるように頼んではみたんですが」
「え、ああ、そうなのか」

 生返事をしながら、アキラはティアの行動力に感嘆していた。
 今は間もなく正午。
 流石に疲弊していたアキラが起きたのはつい先ほど。
 その間、ティアはせっせとこの町にネットワークを構築していたらしい。

「……って、ちなみに、土曜属性は?」
「……へ? あ、ああ!!」

 あまり期待はできなさそうだ。
 というより、ティアには悪いが、その辺りで見つけてきたような奴、アキラ自身認めない。

 これから自分たちは、“彼女”に出会う。
 そして、自分は、彼女に。

「ん」

 ぐっと伸びをした。
 やはりそのことを思うと、胸が痛い。
 そのときまでに、気持ちの整理はしておこう。
 もう間もなく、だが。

「それにしても残念でした……、絶対お宝見つかると思ってたんですが……」
「そんなもん、見つからない方がいいことだってあるんだよ」
「えっ、どういう……」
「夢が終わるだろ。宝が見つからない限り、俺たちの宝探しは終わらない!!」
「お、おお!! そうですね!! よーし次も見つけないぞーーっ!! ってあれ?」

 ティアをからかいながら、アキラはもう一度伸びをした。
 随分と気が楽になった気がする。

 昨日、いつしか自分が呑み込まれていた看板に、ぷいと顔を背けられたからだろうか。
 これでクズに逆戻り―――となると問題だが。

 そう、昨日は発見も恐怖もない―――無駄骨だった。

 物足りなささえ覚える、物語でさえない。

 なんでもない話。

 それだけだ。

「そだな。依頼、行ってみるかな」
「えっ、どうしたんですか急に?」
「いや、お見舞い。なんか買ってやろうかと思って」
「おお、いいですね!! 昨日の依頼料は宿代に充てるってエリにゃん言ってましたし」

 依頼所で、今度は、うっかりではなく、ちゃんとヒダマリ=アキラと名乗ろう。
 “勇者様”と言われようが、何と言われようが、なすべきことは自分で決めればいい。

「サッキュンも誘いましょう。エリにゃんを驚かせるんです!!」
「いや、俺だけで行くつもりだったけど……、まあいいか。ひとり留守番すれば」
「……え、あれ? 今あっしを見て言いました? え? え? あっしが留守番ですか!?」

 まあ、別に誰だっていい。
 誰が依頼に行こうが、誰が残ろうが。
 どうなっても成功することは、オカルト染みた根拠ではなく、今までの旅が証明している。

 それだけの、旅をしてきた。

「うし。行くか」
「アッキー!? ちょっと!? アッキーッ!?」

 部屋を出て、怒鳴り込んできた宿屋の主人とすれ違いながら、アキラは勢いよく廊下を進んだ。



[16905] 第四十二話『名前を付ける(前篇)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:da33c2b2
Date: 2017/12/11 22:06
―――***―――

「イオリーーーッ!!」

 ピクリ、と。
 ホンジョウ=イオリは肩ほどのまでの髪を揺らして資料を閉じた。
 無機質な執務室に籠っていれば難を逃れられるとでも自分は思っていたのだろうか。

 部屋の外からけたたましい足音と共に声が聞こえてくる。
 そろそろだと思っていたが、ついに、か。

「……」

 机の上には各地方の事件のファイルが散乱していた。気づかないうちに散らかしてしまっていたようだ。

 ファイルの中には、一般に広まっているもの概要的なものからイオリ自身の魔導士の権限を使ってまで集めた詳細な調査結果も織り交ぜられている。

 目を引くのはやはり、今現在最も話題性のある―――“勇者様”であるヒダマリ=アキラという人物についてのこと。
 “伝説の失踪事件”に“百年戦争”。
 最早神話とさえ言われるふたつの事件の解決については勿論のこと、噂が噂を呼び、ありとあらゆる事件の影には勇者様がいたのではないか、と報じられている。
 近頃では“雪山の伝承”や“魔門破壊”が目を引く事件だ。後者は怪しいものだが。
 一方で、イオリはもうひとつの“存在”についても目を配らせた。
 以前、シリスティアで“魔族”が出たという世界でも異例の大事件。
 その事件の中心にいたとされる男―――スライク=キース=ガイロード。
 詳細な調査の結果、彼は前々回の“百年戦争”に関わっていたことが分かっている。
 その後も彼は各地を回っているそうで、今現在、各地はそのふたりの情報が溢れ、入り乱れ、嬉しい意味での大混乱に陥っていた―――いや、3人だろうか。まあ、それはいい。

 それよりも、もうひとつの情報。

 定期的に“神門”へ攻撃を試みている魔物。
 その迎撃は毎度のことならが強大なオレンジの閃光によってなされているようだ。

 これは。

「……」

 イオリは目を閉じ、資料を乱雑に重ねて跳ねのけた。
 今は駄目だ。考えがまとまりそうにない。

「イオリ!? いる!?」
「……ああ、いるよ」

 来訪者の勢いがそのまま伝わってくるようにドアが叩かれた。
 声を返せばドアが強く開け放たれる。
 彼女にしてみれば少しは遠慮したのかもしれないが、壁のドアノブの傷に新たな衝撃がピタリと刻まれた。

「イオリ……、いた……」
「随分慌ててるね、サラ」

 イオリは静かに立ち上がって小さく息を吐いた。
 対照的に慌ただしい目の前のサラ=ルーティフォンは、手を両膝について息を弾ませている。
 金の長い髪に大きな瞳、大人しくしていれば様になるほど背丈もあるのだが、その性格が周囲に抱かせる印象はまるで逆だった。

 彼女との付き合いは、そう、2年になる。
 自分の、親友だ。

「それで、どうしたのかな」
「どうしたじゃないよ、隊長が呼んでるの! ああ、“グルグスリーチ”のことじゃなくて」

 分かっていたことだった。

「とすると、襲撃かな」
「おおぅ、よく分かったね、そうそうウォルファール」

 上からの通達通りだったようだ。現在ウォルファールという港町には厳戒態勢をしくように、と言われている。
 原因は複数あるのだが、最も大きいのは数か月前、モルオールの北部に位置するベギルガという大きな港町が魔物の襲撃によって壊滅的な被害を受けたことだろう。
 ただでさえ訪れるものの少ないモルオール。交通機関の損壊は、そのまま大陸自体の滅亡へと繋がってしまう。
 ウォルファールほどの小さな港町ですら、今のモルオールにとっては重要な施設であるのだ。
 他の大陸では自衛の魔術師隊で十分なのだが、モルオールで守るとなると魔導士を派遣することになってしまう。
 魔物にいいように弄ばれているようで、あまりいい気はしない。

「休暇なんだけどね」
「そんなこと言ってる場合じゃないって! ほら、副隊長でしょ!!」
「冗談だよ、急ごう」

 イオリは手早くラックにかけているローブに近づいた。
 一瞬だけ鏡に自分の横顔が映った。平然としている。

 酷い顔だ。

 今着ているワイシャツと紺のスカートを隠すようにローブの裾から身体を通し、腰辺りをベルトで絞める。
 モルオールが支給する魔導士のローブは実に機能的で動きやすいが、少し着にくいと感じる。
 ローブを着たときに頭に止めている小さな飾りのついたヘアピンが僅かにずれたような気がした。一瞬だけ迷ったが、鏡に向かって整えることにした。

「お待たせ。みんなを待たせてるんだろう?」
「みんなもう出発してるよ。まあ、イオリの方が早く着きそうだけど」
「サラ、もしかして僕をあてにして呼ぶ役を買って出たんじゃないだろうね」
「えっへっへっへっ、ってまーた“僕”……」
「もういいじゃないか、行こう」

 イオリがまっすぐに見据えると、サラはジト目を止め、すっと居住まいを正した。

「はい。お願いします、副隊長」

 イオリは目を閉じた。
 自分の、特殊であろう一人称。
 それは多分、サラの敬語と、同じようなものなのかもしれない。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「待たせたなイオリ。やはり私もお前と行けばよかったか。サラが正解だったな」
「へへへ……、ごめんなさい」
「お待ちしてました。状況はもうまとめてあります」

 ウォルファールが一望できる小高い崖の上、堂々たる魔術師隊が集結している中、それを率いる隊長―――カリス=ウォールマンは見事な身体さばきで止まったばかりの馬から飛び降りた。
 年齢は30半ばだが、茶系統の色の髪をオールバックでぴっちりと決め、目つきは衰えを感じさせないほど鋭い。
 この“奇妙な少女”―――ホンジョウ=イオリの所属する魔術師隊の隊長を務める魔導士だった。

「それで、状況は」

 カリスは眼鏡を正しながらイオリに問いかけ、そして同時に今後の戦略のために思考を働かせた。
 彼女の報告に余計な労力を割く必要はないと分かっていたからだ。

 それは別に、彼女を邪険に扱っているわけではない。
 むしろ逆だ。
 彼女の報告は、群を抜いて正確で、何より分かりやすいのだ。
 それこそ、考え事をしていたとしても脳に溶け込んでくるほどに。

 カリスの思考に妙な邪魔が入る。

 “ホンジョウ=イオリ”。

 魔術師試験を突破してから僅か1年程度で魔導士まで上り詰めた天才魔術師。
 世間一般ではそういう解釈をされているだろうが、“彼女の本当の異常性”に気づいている者はどれほどいるだろう。

 彼女のことは噂では聞いていた。尋常ならざる魔力を持った魔術師が存在していると。
 そのときは話半分に聞いていたものだが、この魔術師隊が新設され、自分が隊長の座に就き、当時魔術師だったイオリを部下に招き入れ―――理解した。

 モルオールの魔導士達は何ひとつ、ホンジョウ=イオリの異常性を理解していないことを。

 カリスが気づいたイオリの異常性―――それは。

 彼女は、“知りすぎている”。

「隊長? 聞いてますか?」

 珍しくイオリの言葉が頭に入ってこなかった。
 カリスは軽く頭を振り、顔を上げる。
 するとイオリは、一言、集中していなければ意味のない報告をした。

「聞くより見た方が早いです」

 イオリが促したその向こう。ウォルファールの港近辺。
 そこで。

 “オレンジの光が強く爆ぜた”。

「な……ん……」

 妙な思考がカリスの頭から跳ね除けられた。

 いたるところで鋭くイエローの一閃が走り、魔物が次々と爆ぜていく。注視してみて、それがようやく高速で移動するひとりの人間によるものだと視認できた。
 自衛のためか、密集して一塊になった魔物たちへはスカーレットの爆撃が襲来する。それに比すれば魔物の戦闘不能の爆破の衝撃など、あまりに矮小すぎで聞き取れないほどだった。
 遠方からの魔物の魔術は、スカイブルーの魔術に包まれ見当違いの方向へ逸れていく。狙いを正確にしようと僅かでも近づいた魔物から、同色の魔術で迎撃されていた。

 そして、戦場を駆けるオレンジの爆撃。

 習性なのか、再び魔物が群れを成そうと寄り添っていくが、止めておいた方がいい。局的な超爆破は2枚も存在している。
 思わず魔物の指揮を執とっているような気分になってしまい、カリスは首を振った。
 あまりに明確に雌雄が決していると、よこしまな考えが生まれてしまうようだ。

 村を容易に滅ぼす魔物の群れ。
 世界屈指のモルオールの凶悪な存在たちは、僅か4名によって壊滅状態にあった。

「勇者……様?」
「例の“ヒダマリ=アキラ”様だろうな。連れもある程度情報通りだ。現在モルオールで活動していると聞いてはいたが、まさか出逢う日が来るとは」

 カリスは冷静に状況を把握した。
 この魔物の規模となると、自分たちが到着してからでは港は危なかった。
 厳命されていた港町の守護をしてくれたとは、まことにありがたい。

「……お前たち。いつまでぼうっとしている。勇者様の加勢だ。4名は町の北部に当たれ。港へ向かっている魔物が見える。イオリ、被害状況はまとめてあるな」
「ええ」
「あまり更新することに意味はなさそうだが……、一応、再度調査してくれ」
「はい」

 カリスは手早く伝え、最後にちらりと“勇者様”たちを見下ろす。
 そこで、一瞬。ヒダマリ=アキラがこちらを見たような気がした。

「……」

 カリ、と。

 隣でイオリが爪を噛んでいたが、カリスは振り返らずに前へ進んだ。

―――***―――

 この場所に来るのはいつ以来だろう。
 この町に来たことは間違いないが、通されたこの部屋は、あのときと同じ部屋だろうか。

 おぼろげな記憶を追うことに大した意味もないと思い直し、ヒダマリ=アキラはただ眼前の光景に向き合った。あのときに比べ、部屋にいる人数は随分と減っていた。

「遠路はるばるよくぞお越しくださいました。改めまして、私は第十九魔術師隊、隊長のカリス=ウォールマンです」

 最奥に座る男が、毅然とした態度を崩さぬまま決まりきったような台詞を言いきった。
 カリスという男に対し、あまりいい印象を持っていなかったアキラだが、この態度には逆に好感が持てた。
 ヒダマリ=アキラは現在、世界有数の著名人。神が定めた“しきたり”によるところの、最大限の敬意を払う必要がある“勇者様”。
 その敬意をはき違えぬカリスの様子は心地よく感じる。
 入り口に立つ女性―――確かサラ、だったか―――は凍り付いたように動かない。彼女もいずれ自分の立場というものを見つめ直すときがくるのだろうか。

 だが、そんなことはどうでもいい。アキラは他人事のように部屋を見渡す。壁には魔術師隊のエンブレムが飾ってあり、最奥にカリスの座る事務机からは高級感を覚える。
 部屋の中央に置いてある長机も、そういうことに疎いアキラでもそれなりの品だということがうかがい知れる。
 そんな部屋に今、6人の人間が集まり、語らっている。

 なんて、物寂しい部屋だ。

「それで、こちらにはどのようなご用件でいらしたのか。いや、邪推しているわけではなく、お引き留めしてもらっても良かったものかと」
「……私たちがここに来たのは、たまたまだ。宿を探していたら魔物を見かけたので加勢させてもらった」

 カリスの言葉にはミツルギ=サクラが返答した。
 旅が長いだけはあって魔術師隊の前でも堂々たる様子なのは頼もしい。
 憧れの魔導士の前だからか借りてきた猫のように大人しいエリサス=アーティと、戦闘の疲れからか今にも眠りに落ちそうに頭を揺らしているアルティア=ウィン=クーデフォンは現状あまり役に立ちそうにないともなればなおさらだった。
 アキラはアキラで、考えなければならないことが―――やらなければならないことがある。

 今、この部屋にいるのはアキラを含めて、たった6人だけ。
 “彼女”はいなかった。

「いや、そういうことなら、助かりました。宿を探しているなら、短期間であれば提供できます。もっとも、食事などは出ない、泊まるだけの施設になりますが」
「夜露が凌げるのならこちらこそ助かる」

 淡々と進む会話を流して聞き、アキラはゆっくりと顔を上げた。

「頼みたいことがある」

 突然声を出したアキラに全員の視線が集まった。
 その中でもとりわけ隣のエリーから鋭い視線が突き刺さった気がしたが、気にしている場合ではない。
 今は、一刻も早く、彼女に逢いたかった。

「探している人がいるんだ」

 ここにいることは知っているが、最低限、言葉は選んだつもりだった。
 だが、アキラの様子にカリスは眉をしかめ、こほりと咳払いをし、鋭くサクに視線を走らせた。

「ここに来たのは偶然、と言っていたようですが」
「嘘ではないさ。この町に訪れたこと自体は偶然だ。人を探して方々尋ね回っていてな」

 カリスの眉がピクリと動いた。
 印象通り神経質な性格のようだ。サクもどちらかと言えば几帳面な性格だった気がしたが、随分と柔軟になったような気がする。

 アキラはふたりの様子を気にしないようにして、ゆっくりと立ち上がる。

「あんたたちなら知っているはずだ。俺は、」
「……あら」

 カリスに向き合ったアキラの背後で、サラが小さく声を上げた。
 振り返れば彼女は、眉をしかめて部屋のドアを小さく開けていた。どうやら人の気配がしたらしい。

「……って、入ってくればいいのに」

 サラが小声で廊下に呟き、同時にアキラの背筋が強張る。
 身体中が熱くも冷たくもない何かで覆われる。

 アキラは、その扉の先にいる人物を、直感的に察した。

「てて、ちょっと、どこに、」

 根を張ったような足を強引に動かし、アキラはズカズカと扉へ向かった。
 ドアの前に陣取るサラをやや強引に追い抜かし、勢いそのままに廊下に躍り出る。

 そして。

 そこには、魔導士としての立場を思わせる、洗練された黒いローブを纏った少女の背中があった。

「……あ、の」

 アキラは慎重に、その背中に声をかける。
 息が詰まる。言葉が出てこない。
 “彼女”にかけようと思っていた言葉が、頭が、一瞬で真っ白になった。

 今は立ち止まっている彼女は、どうやらこの場を去ろうとしていたようだった。
 そうする理由もおぼろげながらにアキラは察してしまい、さらに頭が白くなる。

 伝えなければならないことがある。

 今日の今この瞬間、ここに来るまでの間に、ずっと考え続けていたことだ。

 しかしそれらはすべて虚ろになり、何から口に出していいか分からなくなってしまった。

 そして、そもそも。
 “彼女”は自分が想像した通りの“状態”なのだろうか。

「誰が来たんだ? ……イオリか? いるなら挨拶くらいしろ」

 部屋の中から、カリスのしっかりとした声が届く。
 その声で、アキラも思考も現実に戻ってきた。

「……はい。そうですね」

 カリスの声に、目の前の少女は応じた。
 そしてゆっくりと振り返る。

 向かい合ったとき、アキラの心の底が解けるほど熱くなった。
 立場を現す魔導士のローブ。知的さを思わせる落ち着いた風貌。未来を見透かすような静かな黒い瞳。

 彼女はまっすぐに、アキラの瞳を見返してきた。その中の色は読み取れない。
 言葉がまとまらない。何も分からなくなった。
 見つめ返している彼女の瞳が、言葉を発さないアキラを責めているような感覚すら湧き上がってくる。

 彼女もこちらを図っているのだろうか。
 それとも、何も知らず、ただ突如部屋を飛び出してきた不審な男を訝しんでいるだけだろうか。
 アキラからは、彼女の内心を一向に図れない。
 ただ、いずれにせよ、こうしてふたり廊下に立ち続けるのは限界のように思えた。
 部屋に戻って、ゆっくりと、仕切り直しをしたいと強く思う。

 だが、この機を逃せば問題がずっと先延ばしになるような悪寒が背筋を走った。

「一言、いいか」

 いつの間にか乾ききった喉がかすれた声を出した。
 彼女はアキラを見返しながら、小さく頷く。

 アキラは、今、この瞬間で。
 最低限確認したい、“前提条件”を口にした。

「……俺は―――煉獄を視た」
「―――」

 これ以上廊下で話すのは無理だろう。
 彼女は目を瞑り、部屋に向かって歩き出した。
 ただ。
 アキラの脇をすれ違うように通りながら、耳元に小さく囁いてきた。

「あとで話そう。……アキラ」

 それが。
 この“三週目”で初めての、ホンジョウ=イオリとの出逢いだった。

―――***―――

「エリにゃんどうしましょう!! ちょー暇です!!」
「わー、ちょー大変ね。どうしよー」
「サッキュンどうしましょう!! エリにゃんが冷たいです!!」
「ん、ああ、そうだな。それは困ったな、ああ」
「ティアにゃんどうしましょう。孤立してます……」

 ここはサラに案内された、魔術師隊の宿舎の一室。
 カリスは眠るだけ、と言っていたが、流石に魔術師隊と言うべきか、部屋はこの3人が縦並びになって眠っても余るほど広く、窓の冊子に埃ひとつ落ちてないほど清潔だった。
 その分物は無く、ベッドやら部屋の中央に置いた机やソファーは他の部屋から運び込んだものだ。
 サラの話では緊急時に数十人が押し寄せて眠りにつくことを想定されて作られたそうだが、今までその機会は訪れていないらしい。
 カリスには一応、有事の際には部屋を開けてもらうことになるとは言われているが、どうやらその心配はなさそうだ。

「……うん」

 エリーは視界の隅でようやく大人しくなったティアの様子を探りつつ、荷物の整理を進めていた。
 今も武器の手入れに勤しんでいるサクほどではないが、流石にモルオールの魔物と昼夜戦っていることを考えれば、自信を守る装備の様子を見たくもなってくる。
 最も使用する拳のプロテクターはやはり損壊が激しい。
 エリーが使用している武器は指の付け根の関節を守る、軽量な鉄製グローブだ。
 1度攻撃力が向上するかと思い、まるまる鉄でできた物々しいガントレットを使用してみたこともあるが、威力も損傷具合もあまり変化が実感できず、価格的にも釣り合わなかったことから結局どこにでもあるような速度重視の装備に落ち着いた。
 とはいえ、旅先でいつでも手に入るわけでもないので、有事に備えてこうして予備も持ち歩いている。
 今使用しているのを除けば残りはふたつ。充分過ぎる。
 肘や膝、脛を守る装備も充分整っていた。問題ない。

「珍しいな。エリーさんが武器を見ているのは」

 刀の整備を進めつつ、サクが声をかけてきた。

「あたしだって整備くらいするわよ。サクさんほどじゃないけど」
「まあ、そうだろうが……、まあいいか」

 含みを持たせるようなサクの物言いに、エリーは荷を押し込むように片付けて、肩の力を強引に抜いた。

「じゃあ話でもしましょうか。当然―――イオリさんのこと」
「……そうだな」

 やや面食らったようなサクの様子にエリーは面白くないものを感じた。
 だが、いずれにせよ、この問題については話さなければならない。
 何しろ、自分たちが遠路はるばるこの地方まで来たのはまさしくホンジョウ=イオリに逢うためだったのだから。

 ホンジョウ=イオリ。
 モルオールの魔術師隊に属するひとりで、並外れた魔力を持ち、僅か1年程度で魔導士まで上り詰めた“異常者”。
 なまじもうひとり“異常者”をよく知るエリーにとっては、かえってその超常性が感じ取れていた。

 前段として、ヒダマリ=アキラ率いるこの“勇者様御一行”には、魔王を討伐するという大目標以前に、達成すべき目的がある。
 すなわち、“特定の属性”の仲間を集めなければならないのだ。

 “土曜属性”。
 そのあまりに希少な属性を、ホンジョウ=イオリは有しているという。
 モルオールの旅の道中、仲間集めの情報収集の際、彼女の名前はいたるところで必ずと言っていいほど聞いた。
 率直に言って、魔王に挑むという目標がある以上、仲間は強力であればあるほどいい。
 そのため、エリーたちは勧誘目的で、彼女のもとを目指してこの地方までやってきたのだ。

「それで、どうだった。さっき顔通ししてみて」
「はい、もっと怖い人かと思ってましたが、イオリン綺麗な人でした!」

 エリーはたまたま目に留まった枕をティアにぶん投げた。
 ただ、ティアが妙なイメージを持っていたのももっともだ。

 ここに来る道中、この地方に近づくにつれ、彼女の噂は“強く”なっていったのだ。
 常軌を逸した戦闘力。副隊長の役職では収まらないほどの管理能力。先ほどの魔術師隊は、知謀と経験のカリスと、才能と魔力のイオリが2大英雄と褒めたたえられ、モルオール最強の部隊とさえ称されていた。

 通常。噂というものは、“震源”から離れれば離れるほど大きく、過剰になっていくものだ。
 それは実物を身近に感じないから、想像、妄想が膨らみ、頭の中に大きな像を作ってしまうためである。

 しかし、“ホンジョウ=イオリ”は違った。

 その異常性は、遠方の者では信じられず、身近な者は信じざるを得ない。

 エリーの自慢であり、最愛の妹である“彼女”と、イオリは同じ性質を持っている。
 自分の妹の異常性を本当の意味で信じられるのは、生まれたときから傍にいた自分と、今頃隣で戦っているであろう彼女の仲間くらいだ。

 話に聞いただけでは、嘘だと思う、思いたくなる異常性。
 そうした人間は、確かにいるのだ。

 そしてそんな彼女は今、我らがヒダマリ=アキラと別室で話をしている。

「エリーさんは心配なのか? アキラが魔導士相手に失礼ないことでもしてないかと」
「……べっつに」

 サクの的外れな言葉に強く返した。本人が分かっている風なのが癪に障る。

 本当に、別にいいのだ。
 これは多分“そういう話題”だから曖昧なままにしているが、今、確信していることがある。

 ヒダマリ=アキラはホンジョウ=イオリを知っていた。

 アキラのその妙な行動は別にもういい。
 こちらから強くは訊かないことにしたし、わだかまりもとっくの昔に解消している。

 恐らく、いや、間違いなく。
 アキラがあのヴァイスヴァルの調査依頼のときに話していた、“逢わなければならない人”は、ホンジョウ=イオリのことなのだろう。
 自分はあのとき、それを聞いて、ちゃんと逢うべきだと強く思った。
 そして今も、アキラが彼女に出逢えて、本当に良かったと思っている。

 の、だが。

「それで、エリーさんはどうだった。イオリさんに会ってみて」
「雰囲気だけだけど、立派な魔導士だな、って思った」

 それも本当だ。
 心の底からそう思った。
 だが、彼女を見て、それ以上に持ったこともある。

 危機感を覚えた。

「私も同意見だ。アキラの勧誘が成功するかは分からないが、彼女なら戦力としては申し分ない。……勧誘しているかどうかも分からないが、多分しているんだろうな」

 刀を整備していたサクの手元から、工具同士がぶつかり合うキン、とした音が響いた。
 下手に刺激しないでおこう。彼女にも彼女で思うことがあるようだ。

「だが、魔導士はそう簡単に旅に出ていいものなのか?」
「さあ。一応大義名分があるから、本人の意思次第になるのかな? その辺は分からないわ」

 投げやりに答え、エリーはベッドに寝転んだ。
 行儀が悪いとは思うが、アキラがイオリと話している間、自分たちが待機させられている現状は、面白くない。

「もう駄目。……誰か買い物にでもいかない? 港町だし、色々あるかも」
「……はっ、エリにゃんのお誘いを断るわけにはいきません!! お供します!!」

 枕の直撃から復活したらしいティアが元気よく応じた。
 彼女ではないが、今、じっとしているのが妙に辛い。というより、アキラがイオリと語らっているであろう今、自分たちが気を揉んでいるというのはやってられないという気分になる。
 丁度サクも切りが良かったようで、久々の3人での町の散策となった。
 良くない思考を振り払うように、エリーは強く廊下へ踏み出した。

 だがその、振り払う直前。聞こえなかったことにした言葉を、ふと思い出す。

 先ほど、アキラがイオリへ伝えた最初の言葉はエリーには聞こえてしまっていた。
 駆けるように部屋を飛び出たアキラを思わず追って、身を乗り出したせいかもしれない。

 サラは首をかしげていたが、あの言葉にエリーは妙に胸がざわついた。

 今、この廊下の、どこにあるか分からないどこかの部屋で。

 彼らは語らっているのかもしれない―――“煉獄”について。

―――***―――

「なんとなくだけどそんな予感はしていたよ」

 イオリに通されたそこは、“二週目”同様、小さな応接間だった。
 冷たく固い木の椅子に腰を下ろしながら、小さなテーブルの向こうでイオリが神妙な顔つきで見つめてくる。
 妙に委縮するのもどうかと思い、アキラは姿勢を正した。
 そうでもしないと、まるで尋問にあっているかのように思えてしまう。

「さて、どこから話そうかな」
「……その前に確認させてくれ。お前は“覚えてるんだよな”?」

 これは最終確認だ。
 ほぼ間違いなく、目の前の彼女は“あの”イオリだ。

 彼女と逢えて少しは気が紛れたのか、アキラは冷静になっていた。
 “この情報”は、この物語の核心部分にあたる。
 外部に漏らすことは致命傷になりかねない。

 だから彼女の口からはっきりと、確信できる言葉が聞きたい。
 聡明な彼女のことだ。上手く話を合わせているだけの可能性すらある。

「そうだね……」

 アキラの意図に気づいたのか、イオリは手のひらで口を押えながら目を細めた。
 そしてゆっくりと、アキラの眼を見つめた。

「エレナ=ファンツェルン、マリサス=アーティ。この名前を出せば、信用してもらえるかな」

 確定だ。

「……久しぶりだな、イオリ」
「うん」

 顔を伏せて、アキラは拳を握り締めた。
 彼女への謝罪や後悔が呑み込まれるほど、身体中が暖かな何かに包まれる。
 やっとだ。やっとこの世界で、自分と同じ存在に出逢えた。

「……無事でよかった、とは言い難い再会だけどね」

 イオリが呟いた言葉に、アキラは顔を上げた。
 ひとまず落ち着こう。
 今はまず、状況の確認だ。

「イオリ、訊きたいことがある。お前が“二週目”に言っていた“予知能力”。それは、“一週目”の記憶だな?」
「“二週目”……? ああ、そういう表現をしているのか。そうだね、お察しの通りだよ。僕はこの、繰り返しの世界の中で記憶を維持し続けている」

 “二週目”でははぐらかされていた回答を、今度のイオリはあっさりと答えた。
 そんなイオリの様子に委縮するも、アキラは喉を鳴らして言葉を続けようとする。
 だが、その言葉はイオリの鋭い視線に遮られた。

「訊きたいことがあるのは僕の方もだ。アキラ。君はこの“現象”に心当たりがあるのか?」

 妙に確信めいたイオリの瞳に、アキラは息を詰まらせた。
 だが、ここで躊躇はできない。
 自分は、この現象の説明を彼女にするために、彼女と話すためにこの場に来たのだから。

「イオリ。お前には話さなきゃならないことだ」

 イオリに対して“この事実”を誤魔化してしまっては、彼女に対しても、そして、自分に対しても、一生顔を合わせられないと感じる。
 アキラは再び喉を鳴らし、語り出した。
 “二週目”でも、多分この部屋だ。彼女に対して、今まで起こったことを語ったのは。

 発端は、魔王に挑んだ“一週目”だった。
 魔王を討ったそのとき、生き残ったのはアキラと世界最強の魔術師だけ。
 その結末を受け入れられなかったアキラは、膨大な魔力の半分を使って“彼女”に世界を巻き戻してもらった。

 そして、すべての元凶たる、醜悪な物語の“二週目”。
 未来の自分から送られた最強の力を手にした馬鹿な男が、物語を破壊し、蹂躙し尽し、その上で、僅かな気の迷いからすべてを台無しにした。
 そして当然、子供のように駄々をこね、残りの半分を使って再び時を巻き戻した。

 そして今。
 この“三週目”。
 前回の記憶を引き連れ、アキラは三度、この地に立っている。

 話しているうちに、自覚していたはずの自分の矮小さがより際立ったように感じた。

「しかも、俺の記憶は不完全なんだ。時折蘇るというか、なんというか……。特に“一週目”は全然だ」

 本当に自分が情けなくなってくる。
 静かに話を聞いてくれたイオリは瞳を伏せて思考を巡らせているようだった。

「……確かに」

 情けなさを紛らわせるように言葉を続けていたアキラの話を遮って、イオリが呟いた。

「この“現象”。“彼女”なら可能なんだろうね。“時”を司る月輪属性の最高峰。旅の道中、いや、最後の瞬間まで、彼女の力の底は、見えるどころか感じることすらできなかった」

 イオリは、あくまで冷静に、言葉を続ける。
 それはアキラに対しての言葉ではない。それがかえって、アキラの胸を抉った。

「それに、僕の記憶が残った理由もおぼろげに分かったような気がする」
「え、分かったのかよ」
「ああ。多分“彼女”がその魔法を放ったとき、僕はまだ生きていたんだろうね。そして―――、いや、いいか」

 イオリは頭を振り、そしてアキラを見据えてきた。

「だが、ようやく分かったよ。長年の疑問が解消した気分だ。2回目となれば慣れたものではあったけど、“始まった”ときは気でも触れたのかと思ったさ」
「お前はこの“三週目”、いつから記憶があるんだ?」
「そうだね……、もうすぐ3年、くらいかな。前回同様、サラに救われてね」

 やはり“二週目”よりは随分とタイムロスしているらしい。あのときは2年前と言っていた気がする。

 そこで、アキラの脳裏に何かがかすめた。
 2年―――いや、今では3年前か。

 “この世界線でも”その時期に起こった出来事をアキラは知っている。

「ところでアキラ。その話納得できないところがある」

 再びイオリの視線が鋭くなっていた。
 意識が離れかけていたアキラは我に返り、背筋を凍らせる。

「君の記憶だよ。何故今回は、君も覚えているんだ? 前回は覚えていなかったんだろう」

 訊かれるとは思っていた。イオリなら見逃さないだろう、その矛盾は。

 だが逆に、アキラの中に混乱が生まれる。
 今、目の前にいるイオリは、極めて現状の把握に努めようとしていた。
 静かに事実を訊き、淡々と自分の中で処理し続けている。
 それならそれでいい。むしろまともに取り合ってもらっているだけでもありがたい。

 この事実をイオリに伝えるときに、自分は何を期待していたというのだろう。
 アキラは思う。
 もし自分が誰かの身勝手な行動のせいで、2年、いや3年もの間、混乱の中に落とされたと知ったら、自分ならなんと思うだろう。
 不安だろうか。怒りだろうか。

 その上で、自分は“彼女の忠告”を半ば無視するような行動をしたのだ。
 それなのに、イオリはまるで気にしないように状況の把握を進める。
 感情をため込んでいるだけだろうか。そういう風にも見える。

 イオリにとって、自分はどう映っているのだろう。
 分からない。

「アキラ?」
「え、あ、いや。……今回は記憶を持ってきたんだ。その代わり、『力』は持ってこれなかった。どっちか片方だけ、ってことでさ」

 どうせ突かれると思っていた疑問には、用意していた答えを返した。

 イオリは目を細め、小さく爪を噛んだ。
 アキラは下手に口を出さず、ただ机に着いた小さな傷を眺める。

 せっかくの再会だった。念願の再会だった。
 それなのに、まるでイオリと会話できていないような気さえした。
 感情が口から出てこないせいで、イオリと本心で話せていないせいだろうか。
 事務的な状況確認が、かえって感情を鈍化させているように思えた。

 気にもしていないような彼女の素振りが、消えはしない罪悪感を薄れさせてくれるように、口からは何も出てこなかった。
 彼女はまるで謝罪など求めていないように見える。
 では何を求めているのだろうか。
 分からない。

 いっそ分かりやすく攻めてくれた方が気は楽だった。
 叫び、掴みかかってくれた方が、贖罪に変わる何かとして、アキラは受け入れられたかもしれない。
 それなのに、イオリはそうしない。
 静かに質問をしてくるだけだ。

 たまらなく辛かった。たまらなく自分が情けなく感じた。
 アキラが用意してきたつもりの謝罪など、彼女に何の影響も与えないのかもしれない。
 彼女が何を感じ、何を想っているのか分からないのに、意味もなく謝り、自分だけ気が楽になろうとするのは、酷く不誠実なことだと思えた。

 だから。

「イオリ。あのさ、」
「イオリ!? ここ!?」

 アキラの言葉は先送りになった。
 廊下からけたたましい足音が響いたと思うと、扉が強く叩かれる。

「サラ?」
「いた!! って、あ、“勇者様”も。お騒がせしました」

 もしかしたら、アルティア=ウィン=クーデフォンが成長したらこんな女性になるのだろうか。
 まるで飛び込むような勢いで部屋に入ってきた女性は、アキラの横を通るときは形で慎重に、そしてイオリへ向かっては飛びつくように接近し、勢いよく腕を掴んだ。
 イオリから小さな悲鳴が漏れる。場の空気を一変させるのも、ティアによく似ていた。

「お話し中大変失礼しています。イオ……、副隊長。目撃されたそうで……、隊長がすぐに呼んで来いって」
「目撃……? え、えっと、」
「なに惚けてるんですか、“グリグスリーチ”ですよ!! ここからちょうど北部の……、って、あとは報告書を読んでください」
「……分かった」

 どうやら魔導士としての職務のようだ。
 サラに地図のような書面を渡され、イオリは顔つきを変えてそれを眺める。
 勢いに乗せられ、アキラは思わず立ち上がった。
 そしてサラと目が合い、首をかしげる。

「あ、グリグスリーチって魔物が、最近この辺りに出没しているんです。イオ……、副隊長がその担当で。カリス隊長は休暇も何もない、って」
「サラ、それは当然だよ」

 イオリは地図と、そして何かが細かく書き込まれた書面を眺めながら、静かに返した。
 仕事モードというやつかもしれない。
 あるいはサラと過ごして培った集中力だろうか。
 だがおかしい。ティアと過ごしている自分には、その力は宿っていない。

「てか、そんな危険な魔物なのかよ」
「ええ、それはそれは。だって噂では……、ってイオリ、隊長はあくまで調査に徹しろって言ってるからね?」
「それはその場の状況次第さ……。場所は分かった。夜までには戻って来る」

 イオリは立ち上がり、地図を胸にしまい込んだ。
 そしてアキラに視線を合わせず歩き出す。

「すまないがアキラ、話は中断だ。これから仕事でね」

 廊下に歩を進めるイオリを見て、アキラは強い危機感を覚えた。
 危険な魔物の調査を、たったひとりで任される、魔導士としてのイオリ。
 その機敏な動きが、まるで彼女自身の在り方を示しているように、アキラとの住む世界の違いを感じさせる。

 今、あの背を見送ったら、

「……なあイオリ。俺も行っていいか?」

 思わず口から出てきた言葉に、イオリはピタリと動きを止めた。

「あ、いや、邪魔はしないから、その、無理か?」

 仕事というものに対するイメージが柔らかいアキラは、怒られるかと思った。
 魔導士の職務は、赤毛の少女に訊けば日が暮れるまで語らってくれると思うが、アキラは知らない。
 旅を続けているだけの自分では、かえって足手まといかもしれない。
 そもそも自分は、彼女との会話で居心地の悪さを覚えていた。
 だが、それでも。

 妙な危機感を覚えた。今、イオリを見失うことは、したくなかった。

「え」

 イオリから声が漏れた。
 アキラは身を固めているイオリの背中をまっすぐに見つめる。

 すると彼女は振り返った。
 そして、何故か。
 おびえたような瞳を浮かべて呟いた。

「い……、いいの?」

 その目は、アキラの脳裏に焼き付いた。

「い、いや、“勇者様”に何かあったら……、イオリも何言って、」
「うん、そうだね」

 視線を外したイオリは、いつもの表情に戻っていた。

「アキラ、助かるよ。行こう、騒ぎが大きくなる前に」

 イオリはサラに視線を突き刺し、再び歩き出した。
 アキラはその背中を不確かな足取りで追う。

 やはり、イオリは分からない。
それは今に始まったことではなかった。
 共に旅をしていたというのに、彼女のことを理解できたことはなかったのかもしれない。

 感情が感じられなかった言葉だけの会話に、今の表情。

 彼女のことを理解していたら、簡単に分かることだったのだろうか。
 “二週目”にこの部屋で会話をしていたときも覚えたような不確かさだ。

 ホンジョウ=イオリ。
 彼女は、今、何を思って、何を考えているのだろう。
 まるで、赤の他人のように遠く思える。

 アキラは振り返り、なんとなく部屋の中を眺めた。
 隊長に報告すべきかを葛藤しているサラから視線を外して、意味もなく机の隅に置かれたメモ帳を眺める。

 『日溜明』と『本条伊織』。
 そんな異世界の文字が書かれた紙きれは、当然ながら、逆行と共に白紙に戻ってしまったようだった。

―――***―――

 4大陸最強の地―――モルオール。
 そこでは異形の群れが大陸中を襲い尽し、人間の営みの中心とも言える町を、人間の寿命よりも短いサイクルに陥れた。

 異形の群れが町々を襲うのは他の大陸でも起こり得る事象だ。
 だが、モルオールが“過酷”と言われるのは、その全大陸共通の脅威の“質”にある。

 通常、魔物は群れを成す。
 それは個の力の限界を、あるいは個の力でもたらせる被害を“作り手”が重々と承知しているからであり、事実、一般人より矮小な魔物は集団で行動し、魔術師隊をも勝る脅威を生み出している。

 しかし、群れを成す必要すらない強大な魔物も存在している。
 集団で動くことすら必要としないそうした魔物は、驚くべきことに、集団動く魔物たちとは別格の被害をもたらし、最警戒対象に挙がっている。
 集団を凌駕する、通例を捻じ曲げる、強力な“種”は実在するのだ。
 集団で行動することは、力が劣っていると証明するに他ならないとでも言うように。

 モルオールは、“そうした魔物が群れを成している”。

 そして、その上で。

 モルオールにも存在する。
 他の大陸では想像することもできない―――群れを成す必要すらない魔物が。

「グリグスリーチ」

 イオリが、遠くで何かを呟いている。

「今僕が追っている魔物だ。目撃証言では人型に近い。幸いなことに“町”単位での被害は出ていないが、どうも上の人のご家族を手にかけたそうでね。そして不幸なことに僕に即時解決を求められたって隊長は憤慨していたよ」

 風の音が強い。

「まあもっとも、隊長も僕も形だけは全面協力しておかないと、色々とやり辛くなるって知っているからね。噂を聞くに、僕が所属しているのは結構自由な隊らしいよ」
「イオリ、マジで聞こえない。あ、俺の声も聞こえないか!?」

 ビュッ、と騒音が耳を切ったような気がした。

 例の“グリグスリーチ”とやらが出現したらしい港町の北部へ、アキラたちは“遥か上空”を高速で移動していた。

「だってさラッキー。もう少し下を飛べないかな?」
「グ、ググ」

 どうやら聞こえたらしいイオリの声に応じて、眼下の巨獣が喉を鳴らす。

 岩石のようにゴツゴツとした鱗に覆われた肌。
 力強い四肢に鋭い爪と牙。
 生物すべてを威圧するかのようなたてがみを靡かせ、巨大な翼で空を行く巨竜。

 “同種”とは数か月前に出会ったばかりだが、あちらを移動用と表現するならばこちらは戦闘用だ。

 ホンジョウ=イオリの召喚獣―――“ラッキー”。

 攻撃的な姿をしている巨竜が天空から降下していく姿は、まるで眼下の町々を襲い尽そうとしているかのような光景だが、イオリ曰く、大人しい召喚獣とのこと。
 そのことをまるで信じられなかったアキラは、いつ暴れ出すか気が気ではなかったが、とりあえずここまで運んでくれたことを見るに、いきなり取って食われることはなさそうだ。

「とりあえず、アキラ、隣に来てくれ」
「え、あ、ああ!」
 アキラはラッキーのたてがみを掴みながら慎重に前へ進み、イオリの隣に腰を下ろした。
 眼前で風を切るさまが目に焼き付く。まるで操縦席なような空間は、妙に座り心地が良かった。

「グリグスリーチのことだ。聞こえてなかったかな?」
「ああ、聞こえてなかった」

 目の前の光景に目を奪われながらそう返すと、隣からため息が聞こえた。
 文句を言われても困る。

「まあいいさ。どうせくだらないことだし」
「それよりお前寒くないのか? 俺は大丈夫なんだけど」
「ん? ああ、魔導士隊のローブは優秀ってことだよ」

 以前冬空の遥か上空で召喚獣の術者が生死の境を彷徨ったことがある。
 必然共に生死の境を彷徨うことになったアキラは、イオリの様子を伺った。
 どうやら大丈夫のようだ。

 イオリはまっすぐに前を見て、大空を飛んでいる。
 黒髪をなびかせ、鋭く前へ進むその光景には、美しさすら感じられた。

「……アキラ、その、近い」
「あ、ああ」

 惚けて返すと、イオリはこほりと咳払いし、話を戻した。

「グリグスリーチ。そう呼称されている魔物は、どうやら一癖も二癖もあるみたいでね。まず、出現時刻に規則性がない。深夜に襲われた報告もあれば真っ昼間に襲われた話もある。出現条件は不明、場所もバラバラ。郊外で襲われたっていう場合は、大抵魔物の巣に近づいた、ってのが多いのに、グリグスリーチはそういうことも無いみたいだ。でも、」

 クン、とラッキーが方向を変えた。
 よろけたアキラをイオリがすぐに捉まえると、すぐに安定した軌道に戻る。
 どうやら空にある気流か何かを避けたようだ。

「たまにあるから注意してくれ」
「ラッキーも警戒しなきゃいけないってのにか?」
「だから、大人しいって。こんなにかわいいのに」
「かわっ!? って!?」

 再びガクン、とラッキーが気流を避けたようだ。
 前にも何度か乗ったことはあるからある程度は信頼しているが、どうも雪山で落下の危機に瀕したのが良くなかったらしい。高所にくると、精神が不安定になるようだ。
 イオリの価値観が疑われるような発言があった気がしたが、多分空耳だろう。

「でも、グリグスリーチの出現条件はおおむね予想を立てている」

 イオリは前を見ながら、瞳を細めた。

「人間が少数で行動していること、だ。そもそもグリグスリーチは、町や村を襲わないのに、何故問題視されていると思う?」
「人間を襲ってんだろ、問題じゃねぇか」
「……そうだね、言い方が悪かった。常に被害をもたらされているモルオールは、たったひとりを救うことは後回しにされがちだ。それを優先すると、もっと多くの人が被害に遭う。どうかとは思うけど、確かに町や設備が破壊された方が失われる命は多い」

 冷たい考え方だが、それほどモルオールは切迫しているのだろう。
 イオリが言っているのは、少数の人を襲うに過ぎないグリグスリーチに対し、魔導士隊の副隊長を投入するほどの事態に何故なるのか、ということだ。
 隊長や副隊長は管理職だ。
 本来隊員が行動を起こすべきなのだろうが、その戦力では不十分だと判断されているということになる。

「さっき言った問題もあるけど、グリグスリーチが襲う人に問題がある」
「どういうことだ?」
「グリグスリーチって魔物はね、組織そのものと戦おうとしない。少数で行動する実力のある存在を襲うんだ。これまでに何度も、名を上げた魔術師たちが被害に遭っている」

 名を上げた魔術師。
 そう呟くイオリは、神妙な顔つきになっていた。

「モルオールで少数行動できるなんて世界有数の実力者だ。当然、モルオールの人々は、いや、世界中の人々が期待を寄せる。だけど、そんな存在が敗れたと知ったら大衆はどうなる。夢も希望もなくしてしまう。グリグスリーチはね、人間たちの僅かな士気すら奪う魔物なんだよ」

 夢を閉ざす魔物。
 グリグスリーチはそういう存在なのだろう。

 例えば自分は、世界でも通じるほどの有名人になっているらしい。
 もしかしたら世界の裏側で、自分に期待を寄せている者たちが数多くいるかもしれない。
 世界を平和にしてくれ、と。
 そんな夢が潰えたら人は何を思うだろう。次に夢を見ることができるだろうか。

 そんな魔物を今から探しに行く。
 いや、討ちに行く。
 調査、と言っていた気がするが、どうせ、だろう。

 だが、それよりもアキラは、確認したいことがあった。

「なあイオリ。色々言っているけど、このグリグスリーチとやらの事件、」
「そうか。君は忘れているんだったね。……もちろん、僕の“記憶”にあるよ。君の言うところの、“一週目”の事件だ」

 圧倒的なアドバンテージがこちらにある。
 今はイオリとふたりだけ。

 アキラの記憶の封は解けてはいないが、このアドバンテージを惜しまず使うことができる。

「なんだよ」
「でも油断しないでくれ。目撃証言を聞くに、僕が記憶していた情報と少し違う気がする。まあ、“一週目”でも誤った目撃証言はあったけど」
「ずっと前の出来事だろ? 少しくらい記憶違いはあるもんだろ」

 軽口を叩いたが、アキラは冷静に、慎重に、集中力を高めていた。
 記憶はあれば使うが、頼りはしない。
 それが今の自分の戦い方だ。

 しかしイオリは、少しだけ拗ねたような表情を浮かべて言った。

「記憶違いなんてない、忘れるわけないじゃないか。これは、僕と君の、最初の冒険だ」

 高めていた集中力が、散漫した。

―――***―――

 本を開くと、清く正しい人間の姿しか見つからない。

 いや、語弊がある。
 清く正しい人間は、仲間たちと語らい、笑い、物語を謳歌できるのに対し、そうではない人間は、何らかのペナルティを払わされる。
 そうしたストーリーは往々にして人の胸を打ち、目を輝かさせ、そして世界に伝播する。

 善人には都合がよく、悪人には都合が悪い。

 これが、物語のあるべき姿という奴だ。

 そしてそれは、本を開いた人間に想いを残す。
 善人たちのように、自分もこうありたいと。あるいは、こうあり続けたい、と。

 現実に、そんなことは不可能だ。
 頭で考えるまでもなく、現実を知っている人間は、ほとんど反射で、これは物語の中だけの存在なのだと本を開く前から感じてしまっている。

 だけど、例えば子供のころ、現実を知る前に、本を開いた人間は、胸にくさびを打ち込まれている。
 いい言い方をすれば、夢を抱いてしまう。憧れを持ってしまう。

 こうなりたい、と。

 成長して、世界のいろいろを知って、頭では理解したとしても、本能に根付いてしまうのだろう。

 自分も、誰かとの関係も、何ら穢れの無いものにしたいという、潔癖感を持ってしまう。

 そうでない関係を、自分は知らない。
 知らないから、自分の世界では存在しないことになる。

 だから。

―――***―――

 ゴッ、と眼前に巨大な拳が見舞われた。

「―――」

 アキラは目を細めて右にかわし、態勢を整えようとした眼前の巨体を、迷うことなく切り裂いた。

「イオリ、無事か!?」

 アキラがイオリと共に“着陸”したここは、どうやら魔物の巣と言われる場所だったようだ。
 深い森の中の、開けた草原。靴がすっぽりと覆い隠されるほどうっそうと生え茂った草木は南の大陸の大樹海を思い起こさせる。
 モルオールにおいてこうした地形は、気候からか、あるいは魔物の脅威からか見覚えもないほど珍しい。
 そして今、その場を巨大な足音が蹂躙している。

「ああ、問題ない」

 近くから、イオリの極めて冷淡な声が聞こえた。
 アキラは振り返らずに胸を撫で下ろすと、再び目の前の敵に注力する。

 姿で言えば、ゴリラなのだろう。
 記憶を辿れば、東の大陸で遭ったクンガコングを思い起こすが、目の前の存在は生物としてさえも異質だった。

 身の丈は、アキラの倍ほどもある。
 灰色の体毛に覆われ、貌は正面から押し潰されたように醜く歪んでいた。
 豚鼻をひくつかせているのは、相手との正確な距離を測るための基幹なのかもしれない。
 だが、もっとも特徴的なのはその手足だった。
 四肢はまるで大木をそのまま突き刺したように見えるほど太く、黒ずんでいる。そして手は、人ひとりを覆い隠せるほど巨大に発達している。
 足も、手と同様に“開く”ことができるようだ。
 その足で、あるいは手で、目の前の魔物はこの草原を飛び回る。

 手が4つほどあるかのような不気味な姿のこの魔物の名前を、アキラは知らない。
 分かるのは、他の大陸では群れの主になり得るであろう、“モルオールの魔物”だということだけだ。

 そしてそれが十数体――――

「っと、」

 横なぎに見舞われた“大木”にアキラは身を引き、即座に接近する。
 とりあえずこの草原でも瞬間速度は自分の方が上らしい。
 まだまだ数がいるようだが、直撃することはなさそうだ。

 気がかりなのは、移動してきたばかりだからかラッキーを召喚していないイオリだが―――

「―――!! ―――!!」

 この魔物たちの悲鳴を、呻きを初めて聞いた。
 振り返れば異形の魔物が、声にならない叫びを上げながら倒れ込んでいくところだった。

 その灰色の体毛は、“より濃い同色の色”によって塗り潰されている。

「クウェイク」

 冷淡な声と共に、再び巨獣の叫びが上がる。
 その先。

 ホンジョウ=イオリが、抜き放った獲物と共に次の魔物へ狙いを定める。

 あれが、“二週目”でも見た彼女の戦闘スタイルだ。

 剣の柄を鉄製の紐でつなげたそれらは、重量を感じさせない一対の短剣だ。
 突き刺したところで魔物たちの腕はおろか指すら貫通させることはできないだろう。
 だが、何ら問題はない。
 魔物を消し飛ばそうと剣を振るうアキラとは違い、彼女が狙っているのは“当てること”。

 それだけで、あの色は、あの色が宿す力は存分に発揮できる。

「ふ―――」

 再びイオリが魔物の腕に切り傷をつける。
 そして、その直後。

 おびただしいほどのグレーカラーが傷口から溢れ出す。

 再び彼女は呟いていた。
 あまりに希少な、その、土曜属性の魔術を。

「クウェイク」

 土曜属性。
 世界を回ったアキラは、あらためてその力の希少性を、そして強力さを認識していた。

 土曜属性は、一般的には魔術防御に適した属性として広まっている。
 その耐性は他の属性の群を抜き、爆発物の性質を併せ持つ火曜属性同様、魔術以前の“魔力”そのものにそうした特性があるようだ。

 魔術を封殺する、魔力。
 あるいはそれは、アキラの剣に使用されている“魔力の原石”に近しい性質があるのかもしれない。
 そんな魔力に干渉し、魔術として操れるとなると、相当な鍛錬か、あるいは天性の才が必須となるであろう。その希少性も頷ける。

 そんな土曜属性だが、操ったときの脅威は当然尋常ではない。
 並大抵のことでは“魔術”に変換できない“魔力”である土曜属性の力は、あらゆる魔術攻撃を遮断する。

 そして。
 そんな“異常”である魔力が流し込まれた対象は、どうなるか。

「―――!! ―――!!」

 魔物たちの断末魔が響く。
 魔物たちも体毛から土曜属性なのかもしれないが、イオリの“魔力”を封殺できていない。
 あまりに不動な土曜属性の魔力は、体内に溶けた鉛を流し込まれたように正常な魔力の運用を阻害し、そして即座に固まり、剥がれない。
 今の今まで流していた魔力が突然せき止められるのだ、対象からすればまるで雷にでも打たれたかのような衝撃があるだろう。

 その現象を、イオリは魔物に攻撃をかすめさせるだけで起こしている。
 魔術防御が特性とは言われているが、魔力の流れを奪い去る土曜属性は、“生命の流れを奪い去るあの属性”と共に、殺傷力が極めて高い力だとアキラは思う。

 そして。

「クウェイル」

 警戒したからか、一歩距離を取った魔物に対し、イオリは間髪入れずに腕を振るう。
 鋭く放たれたのは食器のようにも見える、小さな銀のナイフ。
 先端が広がり、フォークのような形状のそれは、風音と共に魔物の喉元に刺さり、そして土曜の脅威を押し流す。

 近づけば短剣の速度を活かされ、離れれば投げナイフに貫かれる。
 それらに触れただけでも終わりなのだ、魔物にとっては尋常ならざる脅威であろう。

 そしてその上で、彼女の真の切り札は別にある。

 これが、ホンジョウ=イオリという魔導士。
 この過酷な大陸で、即座に魔導士まで上り詰めた存在。

「―――ふう。アキラ、そっちは?」
「ん? ああ、なんとかな」

 最後に切り裂いた魔物と距離を取り、アキラは剣を収めた。
 魔物の死骸の爆発を確認すると、アキラは改めて周囲を見渡す。

 降り立ったときには歩きにくいと思っていた草原だったが、いくつもの爆音によって随分と快適になっていた。
 こうしてまたモルオールの自然が失われたと思うと胸が痛む。

「降り立って早々悪かったね。グリグスリーチが目撃された場所から割り出して、こっちの方に来たんだけど、下りやすそうな場所があったから。まさか出迎えがあるなんてね」
「……いや、いいよ。これくらい」

 アキラは周囲を伺うふりをして視線を外した。
 これは、彼女の記憶にあった出来事ではないのだろうか。
 どうも胡散臭さを覚える。

 だが、負い目がある自分には問い質すことはできなかった。
 結局まだ、謝られていない。
 今は仕事中、という言い訳をして。

「これくらいと言えるのは君だからだよ。一応は民間人である君と共にウィルズドに囲まれたなんて知られたら、僕は謹慎じゃすまされない」

 今は亡き魔物たちの名前はウィズルドというらしい。
 どうやら危険極まりない魔物たちだったらしいことを、それを容易く蹴散らした人物が言っていた。

「それで、グリグスリーチはこっちにいるのか?」
「ああ、いるはずだ。こっちかな」

 確信を持ったその表情。
 やはりこれは、彼女の記憶の中にある事柄らしい。

 イオリに連れられ、アキラは森の中へ歩を進めた。
 空はやや曇ってはいるが、太陽は出ている。
 それなのに、森の中は妙に暗く感じた。
 イオリもちらりと空の様子を伺い、そして緩慢な動作で灯りを取り出した。

「ところでアキラ」

 もうどれほど歩いただろう。
 灯りに照らされた道を進むイオリが小さく振り返った。
 今まで黙々と進んでいるばかりだったからか、彼女も口を開きたくなったのかもしれない。

「君は“一週目”の記憶がたびたび蘇ると言っていたけど、今はどうかな」

 こうした話題を気軽に話すのは初めてだ。
 一瞬頭の中を探り、アキラは首を振った。

「いや、解けてない。てか、何故か最近あんまり無いんだ」
「無い?」
「予兆、っていうのか、なんていうか。記憶の封が解けるときは、こう、いい感じで頭が痛んでたんだけど……、それも無い」
「……そうか。何故だろうね」
「でも、とりあえずはいいじゃないか。お前はこの事件覚えてるんだろ?」
「ああ、覚えている。細部もね。だけど……、おっと、ここだ」

 辿り着いたのは、魔物たちが暴れたのか、複数の大木が横倒しになって開けた空間だった。
 草木も先ほどの草原と違いほとんど生えておらず、動きやすい。
 大木が倒れているおかげで、日が差し、視界は良好だ。
 こんな特徴的な場所だったからか、イオリは迷わず足を止めていた。

「で、いないけど」
「今はいないみたいだね。ただ、ここに来る、はずだ」
「?」

 記憶があるにしては弱い言葉を使うイオリは、倒れ掛かっていた大木の下に潜り込んで腰を下ろした。
 その妙な動作にアキラは眉をひそめる。

「何やってんだよ?」
「…………雨宿り、かな」
「は?」

 アキラは空を見上げた。
 確かに雲は出ているが、晴れている。
 少なくとも港町に戻るまでは、雨具の心配は要りそうにない。

「とりあえず、俺も入っていいか?」
「ど、どうぞ」

 このまま自分だけ立っているのも居心地が悪い。
 アキラはイオリの明けたスペースに、剣を下ろして潜り込んだ。
 とりあえずしばらくは、ここでグリグスリーチを待つことになるのだろう。

「ねえ、アキラ」
「なんだよ」
「そういえば、君のここまでの旅の話を聞いてなかったね」
「……ああ、そうだな」

 そういえば。
 “二週目”で、あるいは“一週目”でも語らったであろうその話は、この世界のカラクリの話で終わってしまった。

 いや、話そうとすれば話せていたかもしれない。
 わだかまりがあるから、だろうか。

「その話、後でもいいか。それより今は目の前の敵だ。お前は知ってるかもしれないけど、俺は覚えてないんだよ。何が起こるか分からない」
「……分かった」

 自分への苛立ちからか、荒れた声が出てしまった。
 アキラは気づかれぬように拳を握り締める。
 あとは、グリグスリーチとやらを倒した後にしよう。

「……ねえ、アキラ。少しだけ記憶の話を蒸し返してもいいかな。実は、今の状況にも関係している」
「?」

 おずおずといった様子で、イオリは呟いた。
 定期的に空を伺っているのは、本当に雨を警戒しているようにも見える。
 素人目には晴れているのだが、ここから雨が降り出すことがあるのだろうか。

「あ、ああ。なんだ?」
「“彼女”の時を巻き戻す魔法。それによって戻った僕たちは、本当に経験した通りの事象をそっくりそのまま受けるんだろうか」
「……? どういうことだ?」

 そっくりそのままか、と聞かれればそうではない。
 以前は記憶が存在するがゆえに手痛い思いをしたことがある。
 だが、基本的に、今の自分の旅は、忘却の彼方にある“一週目”と同じもののはずだ。

「大まかな出来事は同じだったろう。それは僕も実体験している。現に、君はこの地に現れたしね。グリグスリーチだって、記憶通りの出現だ」
「それが、“刻”ってやつだろ」
「……ああ、そうだ。だけど、マクロな視点じゃなくて、もっとミクロな視点で、だ」

 超常的な話をしているのに、イオリの表情は真剣そのものだった。
 この仕事への集中力の高さを感じさせるこの凛々しさは、魔導士としての彼女の顔だろう。

「例えば、そうだな。君がこの場所まで来るためにかかった日数。それは、“一週目”とまったく同じじゃないみたいだね」
「そりゃあ……、そうだろ」

 過去とまったく同じ行動を起こすことは不可能だ。
 イオリの言う、ミクロな視点であれば、利用した交通機関は違うだろうし、もっと言えば歩く速度なんて当然違う。
 その微妙な影響を超越し、物語をあるべき形に落とし込んでいるのは、随所随所に埋め込まれている特定の“刻”。

 日輪属性の者は、その“刻”を時間にとらわれず芽吹かせる運命にある。

「でもそのミクロな影響は、本当にマクロな世界に影響を及ぼさないのかな。大局は、ミクロな影響じゃ揺らぐことは無いのかな」
「揺らいでもらわなきゃ困るんだよ」

 力強く、アキラは言った。
 イオリがびくりとしてこちらを見る。

 思ったより苛立った声を出してしまった。
 イオリは誤解したのか、慌てたように言葉を続ける。

「あ、いや、そうだね、結論を言った方がいいね。実は、どのミクロの影響かは知らないけど、この依頼、“すでに僕の記憶と違ってきている”」
「…………は?」

 思わず顔を向けると、イオリは爪を噛んでいた。
 冷静そうに見えていたが、それは努めてそう見せていただけで、彼女は今、困惑しているようだ。

「違うって、何がだよ」
「いや、こんなことが今までなかったわけじゃないんだ。すべての事象を、細部まで、完璧に覚えているわけじゃなかったけど、記憶と違うことは今までも何度かあった。僕が過去の僕を完璧に模倣できなかった影響かもしれない。もっとも、大局は揺るがなかったから、僕は記憶のアドバンテージを存分に活かせていた」

 動揺すると、彼女は早口になるのかもしれない。
 必死に思考を進めながら、イオリは何度も空を見上げる。

「だけどよりによって、この依頼……この依頼で、記憶と違うことが起きてる」
「だから、それは何なんだよ」
「空だよ」
「空?」
「……“あの日”は、雨が降っていた。だから僕たちは、ここで一旦雨宿りをしたんだよ」
「……え?」

 あまりに深刻そうに言うから身構えていたのだが、拍子抜けした。
 雨、か。
 アキラは空を見上げた。やはり降りそうにない。
 今までもっと致命的な“記憶違い”があったアキラにとって、それは些細なことのように思える。
 だがイオリはそう思っていないようで、自分を落ち着かせるように目を閉じていた。

 彼女はあまりそういう経験は無かったのだろう。だが、問題は無い。
 結局のところ敵はグリグスリーチとやらであるらしいし、それを撃破するこの仕事は変わりなくここにある。
 あとはイオリの記憶通りに刻むだけだ。

「……ヒダマリ=アキラに……ホンジョウ=イオリか?」
「―――!?」

 突然、ガシャン、という何かの音と共に、声が聞こえた。
 イオリの気配も鋭くなる。
 アキラは縮こまりそうになる身体を必死に動かし、滑るように外に躍り出る。

 くぐもった声の主の気配が、倒れた大木の向こうからする。
 森に迷い込んだ冒険者だろうか。
 思わず剣を握っていた手を、しかしアキラはさらに強め、慎重に迂回する。

 ごくりと喉が鳴った。
 本能的に、あの声の主に警戒心を覚える。

 そして。

「いっ」

 真っ先に目に飛び込んできたのは“人骨”だった。
 手首を吊り上げられた人骨が、隣にも、その隣にも並んでいる。
 そして、その人骨たちの手首は、“その存在の躰”に楔で打ち込まれていた。

「……ようやくだ」

 姿は通常の生物とはかけ離れていた。
 重々しい、闘牛のような四足歩行の生物の顔から、人間の上半身が生えている。
 半人半獣のケンタウロスに見えるが、その上半身。
 人の身の数倍ほどある巨躯を覆い隠せるほどの人骨で覆っている。
 貌は骸骨そのもので、刳り抜かれた目の奥から、不気味な光を煌かせていた。

 人外の存在。
 そして言葉を発したその意味は。

「……“言葉持ち”、か」

 アキラは迷わず剣を抜いた。
 四大陸最強のモルオール。
 こうした事態もあるだろうと思っていたからか、思ったよりも冷静に動けた。
 “言葉持ち”。
 言葉すら理解する、魔物の中の“異常”。

「探していたぞ、貴様らを……!!」

 間違いない。
 この存在が、“夢”を奪う魔物―――グリグスリーチ。
 知識があるゆえの行動だろう。
 どこで仕入れたのか分からないが相手は自分たちのことを知っているようだ。

「気が合うな、俺たちもお前を探していたよ」

 努めて人骨を見ないようにしながら、アキラは挑発的に返した。
 あの見せしめのように吊るされている人骨たちは、この魔物に刈り取られた“夢”たちのなれの果てなのだろうか。
 アキラは奥歯を強く噛み、そして背後の気配を探る。

「イオリ。どうする。こいつは何をしてくる?」

 さっさと人任せになろうとしたアキラの背後、イオリは、何も言わなかった。

「イオリ?」

 焦ったアキラはグリグスリーチから意識を離さないように背後の様子を伺う。

 そこでは。
 イオリが短剣を抜きながら、眉をひそめてグリグスリーチを睨んでいた。

「お、おい、イオリ?」
「……悪いけど」

 イオリも奥歯を強く噛んでいるのが分かった。
 そしてふつふつと、アキラに嫌な予感が浮かんでくる。

「まさかとは思うが、」
「……ああ。僕はこの魔物を―――“知らない”」

 ミクロな影響は、マクロな世界に影響を及ぼす。
 それが実証されたような気もしたが。

―――どうやら久方ぶりの、ハードモードのようだった。

―――***―――

 ボス、ボス、ボス。

「え、そうなんだ。まあ、仕方ないんじゃない。魔導士の仕事だし、重要なんでしょ。それよりあたしはあいつが迷惑かけてないか心配だわ。あいつもただの民間人、ってわけではないけど、やっぱり魔導士の職務って旅の魔術師への依頼とは別格のものだもの」
「あの、エリにゃん。お気持ちは分かるんですが、枕に罪は無いですよ」
「ん? え、何が?」
「ひっ、もちろんですが、ティアにゃんにも罪は無いです!!」

 あの状態のエリーに絡もうとするとは、ティアの胆力には相変わらず度肝を抜かれるし、背筋を凍り付かせられる。

 サクは買い物から帰ってくるなり、事情を聞かされたエリーが陣取るベッドの上から視線を外し、再度来訪者に言葉を投げた。

「それで、いつ戻って来るかは分からないのか?」
「イオ……、副隊長は夜までには戻るって言ってましたけど、あんまり当てにはなりません。前もそうやって調査に出かけて、結局解決するまで戻ってこなかったこともありましたし」

 来訪者は、先ほども出会ったサラという女性の魔術師だった。
 町で別行動となったサクは、意外と長くかかった買い物を終えて部屋に戻る途中、廊下で頭を抱えている彼女を見つけ、とりあえずはと部屋に招き入れたのだった。
 どうやら困り果てているようだった彼女の話を聞いていたところに丁度ふたりが戻ってきて、ひとりは今、ベッドの上で枕を殴り続けている。

「とりあえずエリーさんも落ち着いてくれ。ところでサラさん、だったな。アキラたちが向かった場所に今から行くことはできないのか?」
「は? 何が? ん、どうかしたのティア?」
「……タスケテ」

 近づいたのはお前だ。
 サクは助けを求めるティアを無視し、ふたりは放っておこうと決めた。
 自分だって、あの男の行動に思うところはある。

 何となく不安で先に戻ってきたのだが、案の定だ。
 あんなになるのであればエリーも戻ってくれば良かったものを。
 もっとも、手遅れだったようだが。

 アキラは今、あのホンジョウ=イオリと、ふたりで、とある魔物の調査に出かけているらしい。
 それはともかく、その調査。

 ヒダマリ=アキラが関わった以上、ただの調査で終わるとは思えない。
 噂に聞くホンジョウ=イオリと行動を共にしているともなれば何かあるとは思えないが、心労は絶えない。

 やはり、不安だ。
 今まで彼が、理由もなくいなくなったことがあっただろうか―――いや、かなりあった気がする。

「気軽に行けるような場所じゃないです。副隊長だからいけるんですよ……。それにしても大変申し訳ありません。“勇者様”を危険な目に遭わせるなんて……」

 “勇者様”ともなれば“それ以上の危険”に挑もうとしているのだから問題はなさそうに思えるが、“それ以外の危険”に巻き込まれるのはサクとしても不本意だ。
 サクは息の塊を吐き出した。

「あのカリスという隊長はなんて言っていたんだ?」
「言えませんよ、こんなこと。だから私どうしたらいいか……。イオリのやつ。戻ってきたら、私、流石に怒ります」

 彼女も彼女で色々と板挟みにあっているようだ。困った挙句、廊下でうろうろしていたのだろう。
 ただどうやら、彼女もホンジョウ=イオリが戻って来ることを確信しているような口ぶりだった。
 ふたりがあんな調子だし、アキラも不在。
 サクはとりあえず自分だけはまともであろうと、立ちっぱなしだったサラを椅子に座らせた。
 どうも彼女は“勇者様”をというものを誤解している魔術師のようだが、ある意味都合がいい。

「ところでサラさん。すまないが、あのイオリさんとは付き合いが長いのか?」

 情報収集は続いている。
 アキラが自分たちとは違う理由でもイオリを探していたのはもう間違いないだろう。そうなれば、彼女を仲間として迎え入れることになる。
 信用に足る人物かどうかは、ある程度図っておく必要があるだろう。

「え、あ、はい。そうですね。副隊長……、イオリとは、もう、2、3年前ですかね、“彼女がこの世界に来た”ときからの知り合いです」
「……!」

 その言葉に、サクも、そして奥のふたりも即座に顔を向けた。
 まさか、彼女は。

「“異世界来訪者”。噂には聞いていましたが、私も出会ったのは初めてでした」

 世界でもごく少数ながら、存在を認識されている“異世界来訪者”。
 ホンジョウ=イオリはその存在らしい。
 一応祖先がそうであるサクにとってはそこまで馴染みの無い話ではないし、その上、目下悩みの種であるあの男も同じ存在だ。

「アキラ様も“異世界来訪者”だ。そうか、まさかそれで、なのか……?」
「ああ、やっぱり噂通りなんですね。そうか、確かにあのふたり、雰囲気というか、似てるような気もします」

 そこでサラは、気づいたようにサクを見つめてきた。
 自分にもその血が流れている。
 そして、もしかしたら。

「あ、じゃあアッキーとイオリンはもともとお知り合いだったのかもしれませんね!」
「イオ……リン?」
「え? サララン今そういうお話じゃなかったですか?」
「サラ……ラン?」
「気にしないでくれ、ああいう病気だ」
「!?」

 ティアの人に対する呼称は置いておくとして、言っていることは自分が考えていた通りだった。
 異世界とやらがいくつあるのか知らないが、確かにアキラとイオリの雰囲気は似ている。
 冷静に考えれば性格から何から違いそうだが、それなのに、そういった印象を抱かせるほど根底が近しく思える。

 どこで仕入れた情報か知らないが、だからアキラはイオリを探してここまで足を延ばしたのだろう。
 まずい。想像以上に面白くないと感じている自分がいる。

「それで、」

 サクは頭を振って余計な思考を追い出した。

「イオリさんは、この世界に来たときどうしていたんだ?」
「それは、その、身内自慢じゃないですけど、イオリは倒れてたんです、私の家が管理する、森に。兄が魔導士になったので、私もそれを目指そうとしていた訓練中のことでした。魔術に集中して、周囲にも気を配っていたのに……、イオリは突然、現れたんです。そのあと、ルーティフォン家で保護しました」

 そういえば。
 アキラにもこの世界に来たときの話を聞いたことがある。
 本人はやや暗い顔をしながら、とある高い塔の頂上付近の壁にしがみつかされていたと言っていたが、どうやらイオリの方は安全な地面に下ろされていたらしい。
 この辺りは、想像でしかないが、日ごろの行いの差なのかもしれない。

「それで、彼女も魔導士に?」
「ええ、それが凄くて。異世界ってこの世界の文字とは違うみたいですね、それなのに、イオリはすぐに覚えて、魔術師試験の勉強を始めて……、で、あっという間に」

 比較になるが、アキラは、読みはできてもこの世界の文字を書くことはできない。
 だが、言葉も違うようなのに、彼は問題なく話すことができている。
 この辺りの謎を真剣に考えたことはなかったが、どうやら意思疎通するのに必要なことは最低限できる状態で異世界に落とされるようだ。
 だが、魔術師試験には筆記もある。ホンジョウ=イオリはその最低限で良しとせず、勉学に励み、魔導士の地位まで瞬時に上り詰めてみせたということか。
 そしてその地位にいるということは、魔力も、そして戦闘能力も高いのだろう。
 実力は、確かに折り紙付きのようだ。

「本当に、あっという間、でした」

 サラは小さく呟き返した。
 数年付き合った相手が、本当に遠くにいるように、虚空を見つめていた。

「……でも」
「?」

 視線の焦点がようやく定まったサラは、小さく呟いた。
 言葉を待ったが、サラはそれきり黙り込んでしまう。

 相手の心を開くらしいアキラがこの場にいたら、サラが言おうとした何かを最後まで聞くことができたのだろうか。

 どうにも気が散る。
 今、サラも、そして自分も、この場にいない人間のことばかり考えている。

「はあ」

 サクは頭を振った。
 やはり駄目だ。待つばかりなのは性に合わない。

「サラさん。イオリさんが向かった場所は知っているんだな?」
「え、えっと、場所は分かりますが、行く方法が」
「馬車でもなんでも借りられないのか? ここは魔術師隊の宿舎だろう」
「あるにはありますが、それには許可が……、あ、でも大丈夫かも。管理している人には貸しがあるし……、ってまさか」
「ああ、行こう。このまま部屋にいたら気になって仕方ない」

 サクは手早く身支度を整えた。
 当然のように準備を始めたエリーとティアに肩を落とし、再びサラに向き合う。

「協力してくれるな?」
「でもみなさんまで危険な目に遭わせるなんて、」
「なあに、ただの散歩だよ」
「え……っと、そうですね。もうすぐ夜だから、ってことにしちゃいましょう。副隊長の様子を見に行かないと。ただ、みなさんくれぐれも注意してください」

 あっさりと建前を作り上げたサラは、外で集合とだけ伝えると、部屋を後にした。
 隊長への報告に悩んでいたとは思えないほど、意外とふてぶてしい。自分も自分だが。

「じゃあ、行こうか」

 エリーから、少しだけ意外そうな目で見られていることに気づいたが。
 仕方あるまい、理由がある。

 従者は主君のもとへ向かうものなのだから。

―――***―――

 グリグスリーチは、武器を有する魔物だった。
 長さにして3メートルの棒状の先には、不釣り合いなほど小さな半月状の刃がついている。
 武器、と言うよりは高い木の枝を切る伐採用の鎌に見えた。

 獣の躰に突き刺すようにしまってあったその獲物をゆったりと抜き放ち、日が落ち始めた森の中、グリグスリーチは空高く鎌を掲げる。

 そして。

「―――!!」

 ブッ、と振り下ろされた瞬間、アキラは反射的に駆け出した。
 それと同時、アキラの立っていた地点は、鋭く走るスカイブルーの一閃に切り裂かれる。

「フ」

 次いで横なぎ。
 即座に身を屈めたアキラの頭上で、再び鋭く何かが命を刈り取ろうとする。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 身体能力を高めたアキラは森の中をひた走る。
 そして決してグリグスリーチから目を離さない。

 この技は過去の戦いで見たことがある。
 シリスティア、あるいはタンガタンザで、グリース=ラングルという男が放った水曜属性の魔術だ。
 彼がクオンティと詠唱していたこの攻撃は、想定できる武具の攻撃範囲を容易く塗り替える。

「ち―――」

 右から、左から、上から、あるいは下から。
 鋭く走る一閃は、遠方の敵を狙い撃つ。

 木の陰に逃げ込んでも、縦一閃、横一閃に、木々が容易く切断される。

「ふー、ふー、ふー」

 森の中に逃げ込んで、息を殺す。木の陰だけで駄目なら森の闇にも紛れればいい。
 星明りに照らされ出したグリグスリーチを探ると、再び鎌に魔力を帯びさせているようだ。
 そこまで連続で放てるわけではないのだろう。その点は過去の戦闘よりは楽だった。

 グリグスリーチの身体中に吊るさった躯たちが視界に入る。
 あれは奴が葬った世界の夢のなれの果てなのだろうか。
 おぞましさより怒りがこみ上げてくる。

 だがアキラは剣を握る拳に怒りを逃がすと、息を殺して冷静に考えた。
 この足場。
 多少なら強引に駆けられるが、更地に比べるまでもなく動きが鈍くなる。

「―――、」

 ビュッとグリグスリーチがアキラから離れた木々を切り裂いた。
 あちらからはこちらが見えないのは幸いだ。
 夜になって助かった。

「……」

 アキラはグリグスリーチが繰り返す森への攻撃の中、冷静に獲物を見据える。
 言葉持ちの知能だ、あそこから無理に攻撃してくることは無駄でしかない。

 それに、あの技は“使用者本人”から聞いたところ、不意打ちでこそ真価を発揮するそうだ。
 アキラも身に染みて分かっている。
 “想定できていた攻撃範囲”が膨大に広がるからこその脅威。
 あらかじめ想定されていたら回避率は格段に上がってしまう。
 あの躯たちの中には初撃で討たれた者もいるだろう。

 だが、アキラはすでに、グリグスリーチの攻撃を何度も見ている。
 グリグスリーチも知恵があるのであれば焦っているはずだ。
 これ以上、その魔術を無駄に放つことは相手に“知られ過ぎる”ことになると。

 ゆえに、このまま身を隠していたら。

「……」

 息を殺し、木の陰で、グリグスリーチの気配に全神経を集中させる。
 あるいは身を屈め、あるいは木々を移動し、アキラは暗闇の中、グリグスリーチが定期的に放ってくる魔術の残光を頼りに、暗い森を移動する。
 そして徐々に、自分の都合のよい―――森から即座に飛び出せる位置に着いた。

 すると、ようやく来た。
 再び鎌に魔力を溜めながら、ゆっくりと、アキラのいる地点にグリグスリーチは近づいてくる。

「―――キャラ・ライトグリーン!!」

 自分の攻撃範囲まで入ったと感じた瞬間、アキラは即座に森を駆け、グリグスリーチに接近した。
 そこまで近づいてくれれば流石に捉えられる。

 足場は悪く、走るたびに草木に足を取られるような気がする。
 即座に気づいたグリグスリーチは鎌を迷わず振るってきた。

「っ―――」

 グリグスリーチは次々と斬撃を繰り出してきたが、流石に距離が近ければ放てる数も大幅に減る。充分速度を保ったまま接近できる。
 最期に横なぎに繰り出された斬撃を前傾姿勢のまましゃがみ込み、木曜属性の再現に力にあかせ、アキラは不気味な躯の前で大地を砕くように跳んだ。

「速い―――」
「キャラ―――、!?」

 一瞬、何かを口走ったグリグスリーチの姿が目の前から消えた。
 気づけば遠方。
 あの下半身の獣は背後に高速で動けるのか、グリグスリーチは草が生い茂る足場をものともせずにアキラの攻撃範囲から離脱する。
 見た目に似合わず、あの機敏性。
 グリグスリーチは“知恵持ち”を超えた“言葉持ち”。
 ある程度の計算があっての接近だったのだろう。

「ち」

 当たれば決められていたものを。
 アキラは強く歯を噛んで足場を探る。

 アキラが放てる、絶対的な破壊。
 火曜属性と木曜属性の同時再現だが、いくつか条件があることはアキラも自覚していた。

 結局のところ、トップスピードで敵に接近し、そのままの勢いで剣を振り下ろしてこその一撃だ。
 足場の悪い森の中な上、グリグスリーチが放つ攻撃はアキラに加速と直進を許さない。

 突撃に絶対の自信を持っていたタンガタンザの“炎虎”や動きを鈍らせていたモルオールのセリレ・アトルスなら容易く屠れたが、どうやらグリグスリーチは見た目とは違い技巧派のようで、アキラとまともに切り合おうとしない。

 実力の拮抗している個体に対して、あの破壊は使いどころを考えなければ当たりはしない。
 晴れていてこれなのだ。イオリの言うように、雨でも降って大地がぬかるんでいたらどうなっていたか。

 そこで、アキラはようやく思い出した。
 そういえば先ほどからイオリの姿が見えない―――

「グ、オオオオ、」

 突如、グリグスリーチが呻いた。
 そしてその脚力を活かしてその場から離脱する。
 僅かに見えたのはグレーカラー。

「イオリ!?」
「アキラ、追撃を!!」

 彼女も森の暗がりに身を隠していたのだろう。
 暗がりでよく見えないが、その言葉にそのまま従いアキラは駆ける。
 狙いは青みがかった光を帯びるグリグスリーチ。

 魔物に対して使うことが正しい表現なのかは分からないが、珍しいらしい“水曜属性武具強化型”の敵は、攻撃を緩めればすぐにでも自身の治癒を始めてしまう。
 ふたりとも姿を現した以上、畳みかける必要がある。

「ふたり相手は厳しいか……?」

 再びグリグスリーチの声が聞こえた。
 感情の読み取れない、冷たい声だ。

 アキラは気にせずグリグスリーチに突撃する。
 機動力に長けた相手だ。力いっぱいに武器を振り下ろしては再び回避される。

 アキラは武器に宿した魔力を探ると、グリグスリーチを睨みつけた。

「―――」

 獣の下半身に、未だに残るグレーの魔力を見つけた。
 傷としてはあまりに矮小なその攻撃は、確かな損傷を残している。

 ならば―――

「当然“登録済み”だ―――キャラ・グレー」

 イオリの魔術を受けた影響だろう。動きが極端に鈍い。
 振りかぶりもせず速度だけを考えて放ったアキラの攻撃は、グリグスリーチの胸を抉る。
 鎌で防ぐこともできなかったその剣撃が残した傷跡は、しかし致命傷には届かない。

 だが。
 起爆を今か今かと待っている“オレンジ”の魔力が残り続ける―――

「グ―――ガ、ガァ、」

 そのままの勢いで通り過ぎたアキラの背後で、声にならない叫びが上がる。
 速度重視で振るったとは言え、木曜属性の腕力で放った一撃だ。
 並の魔物ならそれだけで絶命するだろう。
 だがそれに加え、今なお雷のように滾るオレンジの魔力は、傷口にさらなる損傷を与える。

 土曜属性の再現。
 火曜属性のように分かりやすい破壊攻撃ではないため使用頻度は低いが、随所随所で役に立つ、アキラのもうひとつの攻撃方法―――

「アキラ!! 下がって!!」
「い!?」

 イオリの声に、アキラはグリグスリーチの攻撃を避けたとき以上の機敏さで地を蹴った。
 直後、本家本元の土曜属性の魔力を帯びたいくつもの投げナイフがグリグスリーチに向かって鋭く飛んでく。

 そのそれぞれが土曜属性の魔力で稲光を放っていた。
 全弾がグリグスリーチの獣の足に突き刺さり、直後、おびただしい土曜の魔力が前後の右足を覆うように埋め尽くし、グリグスリーチは再び声にならない悲鳴を上げる。
 機動性が著しく下がるだけでなく、放っておけば絶命しそうなほど強烈な魔力の奔流だった。

「アキラ」

 思わず同情しそうになったアキラは、駆け寄ってきたイオリの声で我に返った。
 グリグスリーチは呻いたまま動かない。

「……頼むから油断しないでくれ」
「? お、おう」

 半ば非難しているようなイオリの言葉を理解できないまま頷いた。
 それだけの力があるのに、アキラが必死に息を殺して森の中を動き回っていた間、身を隠していただけのイオリに言われるのも違和感がある。

 だが、今は気にしていても仕方がない。
 頭を振って、アキラは身体と剣に魔力を宿した。
 相変わらず足元の草木は鬱陶しいが、それ以上に、グリグスリーチは今動けない。

 これならば決められる。

「キャラ・ライトグリーン」
「……アキラ?」
「下がっててくれ。これで決める」

 アキラは勢いよく駆け出し、未だイオリの魔術の呪縛から逃れられないグリグスリーチに突撃する。

 “言葉持ち”ではあったが、戦闘力はさほどでもなかった。
 あるいは不意打ちの攻撃を初撃でかわせたのが大きかったのかもしれない。

 なんにせよ、これで撃破だ。
 今はこの“刻”を無事に刻もう。

「―――無理か」

 それが最期の言葉でいいのだろうか。
 この期に及んで冷たく感じるグリグスリーチの言葉を無視し、アキラは飛びかかった。

「グリースのが強かったぜ―――キャラ・スカーレット!!」

 力強く振り切った剣はグリグスリーチを背後から襲い、纏った躯は衝撃で吹き飛ばされた。
 僅かばかり心が痛んだが、彼らもようやく解放されたのであろう。
 グリグスリーチの撃破と共に。

 などと、神妙な気分になりながら、アキラは全力で駆け出した。

「ってイオリ!! 何やってんだよ、逃げないと!! 爆発すんぞ」
「……やっぱり君は今までもそうやって戦ってたんだね……」

 イオリは呆れたように呟くと、慎重にグリグスリーチの死骸に歩み寄った。
 思わず手を引こうとしたが、イオリは冷静に手をかざし、グリグスリーチの死骸を自身の魔力で覆った。

 そして。

「ため込んでいた魔力も分からないんだ。森の中で爆発されるのは流石にまずい」

 ドゴッ、と、鈍い爆発音がグレーカラーの中で響いた。
 土曜属性の魔力防御。
 その力は、戦闘不能の爆発さえ抑え込むらしい。

「これで終わったな……」
「そうだね、結局雨は降らなかったか。すっかり夜だね、きれいな星空だ」

 魔導士としての仕事を容易く終えたイオリは、のんびりと空を眺めていた。

「というか、“一週目”はどうだったんだよ」
「ん? なにが」
「グリグスリーチだよ。お前、こんな魔物知らない、って言ってたじゃないか」
「ああ、そのことか。確かに何故だろう……。僕の知っているグリグスリーチはもっと小型で……えっと、なんて伝えればいいかな。猫? 狼? いや、蛸?みたいな?」
「……は?」

 先ほどのグリグスリーチは骸骨の化け物だ。
 というか、猫または蛸とはどんな生物なのだろう。両者には尋常ならざる差がある。
 いずれにせよ、違うどころでは済まされない。

「目撃証言とかなかったのかよ」
「一応、“今回”の目撃証言通りではあるようだけど……当てにはしてなかった。“前回”も似たようなものだったし。そもそも、ほとんどまともなものは無かったよ。何しろ出遭ったら終わりの相手だ」

 “一週目”も情報とは違う相手との、ある意味ハードモードな戦闘だっただろう。
 ただ、イオリはそう言うが、今は亡きグリグスリーチにそこまでの圧倒的な力は感じなかった。
 あるいはイオリがいたから、楽に撃破できたのだろうか。

「……アキラ。どう? 記憶は戻った?」

 アキラが色々と考えを巡らせていると、イオリが空を眺めながら訊いてきた。
 アキラも同じように空を見上げる。
 空気が冷たいからか、余計に星が輝いて見える。

「いや。戻らなかったよ。最近、多いんだ。“一週目”の自分が経験しているはずのことでも、思い出せない」
「……そうか」
「アイルークやシリスティアにいた頃は、結構思い出してたんだけどな。それこそ頭の中何度もぶっ飛ぶくらい」

 封がされているような感覚のしていた記憶たち。
 それはどこへ行ってしまったのだろう。
 まるで思い出せないわけでもないが、徐々に薄れているように感じる。

 それが“過去”のルートから外れている証のように思えば心地は良いが、その一方で、どうしようもなく不安になる。

 頼らないとは決めた。
 だがもし、何のアドバンテージも無しにこのまま時が流れていったら、自分は、“あの出来事”を変えることができるのだろうか。

「それはいいことなのかもしれないね」
「そうなのか」
「僕はそう思うよ。知っていることは得なことばかりじゃないから」

 イオリは目を伏せ、遂には閉じてしまった。
 アキラは、なんとなく、彼女の言葉の意味を察した。
 “二週目”。
 彼女は確か、隊長だった。副隊長の座にはあのカリス=ウォールマンが就いていた。

 その結果をアキラは知っている。

 もしかしたら、過去では。
 だから、今は。
 でもそれは、きっと。

 彼女に対して思うことはいくつでも頭の中に浮かんできた。
 だが、再び静かに星を見始めた彼女を見ると、相変わらず鈍化したままの彼女への言葉と同じように、沈んでいってしまった。

 漫然とイオリと並んで星を見る。
 イオリは―――記憶を保持し続けていたイオリは、この世界で都合6年超生きていることになる。

 まだまだこの世界に慣れ切れていないアキラにとって、想像もできない年月だ。
 多大なる混乱の中、そんな長い年月を生き続けなければならなかったイオリに、それでも、立派に成長を続けたイオリに、自分ができることが見つかるだろうか。
 夜空の中でひとつの星を見つける方が、それよりも遥かに簡単に思えた。

 イオリが、小さく白い息を吐いた。

「さあ、戻ろうか。流石に冷えてきた。僕は戻って報告書を書かなきゃいけないからね」
「反省文もです!!」

 戦闘直後で気が抜けていたからか、アキラもイオリもびくりとして視線を向ける。
 茂みは、ガサガサと揺れてひとりの人間を放り出した。

「サラ? 何でここに、」
「なんでじゃないよ。イオリ、ああ、副隊長。調査なのにどれだけかかっているんですか!?」
「調査……、ああ、グリグスリーチは撃破したよ。“勇者様”のおかげでね」
「あ、の!」

 サラに詰め寄られるイオリを見ながら、アキラは小さく笑った。
 イオリが少しだけでも、楽しそうに見えたからだろう。
 それだけでも自分は嬉しいと感じる。

「撃破って何ですか撃破って!! 敵の情報が圧倒的に足りないってのに、」
「まあいいじゃないか。どうせ隊長にも同じようなことでこれから怒られるんだし」
「イオリ。私、本当に怒ってる」
「……悪かったよ」

 イオリは静かに謝罪をした。
 サラの感情は、傍から聞いているアキラにも分かる。

「とにかく、今すぐ戻るよ。場所は覚えたから、明日の事後調査は私が案内しておくから」
「いや、それは僕の仕事だよ」
「だ、め、です。撃破はしたんでしょ? 前に私と約束したよね。休暇返上したらその翌日は、」
「ああ、分かった分かったから」

 どうやらイオリは、大きな混乱の中でも隣にいてくれた人がいたようだ。
 何の安堵か分からないが、アキラは胸を撫で下ろした。

「……と言うわけでアキラ。話はまた明日でいいかな。今日はこれから色々仕事がありそうだ」
「ご機嫌取りか?」
「言い方はあれだけど……、まあそうだね。そしてそれは、君ものようだけど」

 当然気づいていた。
 アキラは刺激しないように背後から離れようとしたが、肩にポンと手を置かれる。

「やあアキラ様。こんなところで奇遇ですね」
「……はい」
「―――言いたいことは分かるな?」
「……いや、お前がいればもっと楽だったんだけどな! ここ足場悪くてさ、めちゃくちゃ大変だったんだぜ。その点お前は凄いよな、こんな場所でも全然余裕だろうしな!」

 サラと共に来たのだろう。
 いつしか背後を取っていたサクに一気にまくしたて、可能な限り機嫌を取ろうとしてみた。
 冷ややかな視線を向けてくるサクにも並々ならぬ危機感を覚えるが、ある意味これは前哨戦でもある。
 サクの背後。

 静かな微笑みを浮かべているエリーが視界に入った。
 穏やかな光景だ。
 隣に落雷に怯えているように頭を守って蹲るティアがいなければ。

「……ふふ」
「は……はは」

 エリーが笑った。

 言い訳はある。
 魔術師隊の任務があったのだ。
 それはそれは急を要する。
 この前危険に気軽に飛び込むなと言われたことや、つい伝言を忘れてしまったことなど、その大義の前では些細なこと―――では無さそうだとふたりの様子が言っていた。

「そうだ、イオリ」

 このままでは起爆する。
 アキラは即座に現状を把握すると、あっちはあっちでサラに捉まっているイオリに駆け寄った。

「来たときと同じように空から帰ろう。このままだと危険なんだ」
「切迫しているようだけど、この時間になると空は冷えるよ」

 イオリはくすりと笑い、歩き出したサラを追っていった。馬車があるのだろう。
 だが、冗談じゃない。このまま馬車に乗ろうものなら何が起こるか。

 エリーやサクが心配してくれるのはありがたい。
 戦闘も終わって、また日常に戻れる匂いを確かに感じる。
 だが、好んで怒られたいとは思えないのだ。

「大体、言ってくれても良かったじゃないかよ」

 アキラはすがり付くようにイオリに追いつくと、前のサラに聞こえないように小声で、非難めいた口調でイオリに言った。

「お前、みんなが来ること知ってたんだろ? それならとっくに離脱しておくべきだろ……!!」
「……君がどれほど彼女たちを恐れているのかは知らないけど、そんな言い方ないんじゃないかな」
「だって……、だってさ……!」
「っ、アキラ、落ち着いてくれ」

 イオリは駄々をこねる子供を落ち着かせるように歩幅を緩めると、瞳を細めた。

「知らなかったさ」
「?」

 イオリの言葉に、アキラの眼も細まる。

「彼女たちがここに来たのは、“初めて”だ。前に君と来たときは、とっくに村に戻っていたからね」
「マジか」

 それだけ以前のグリグスリーチは弱かったのだろうか。
 出現した時刻も違ったのかもしれないが、雨が降っていたという。
 そんな条件の中、グリグスリーチを瞬殺したというのだろうか。

「お前のラッキーが蹴散らしたのか?」
「……言い方も酷い」

 イオリは拗ねたように言った。どうやら違うらしい。
 アキラが首をかしげていると、イオリは唇を噛んで、アキラの眼をのぞき込んできた。

「君だよ」

 顔が違いと感じた。
 だが、その言葉に、アキラの思考が止まる。
 彼女は何を言っているのだろうか。

「グリグスリーチは君が撃破した。僕が介入する間もなくね」

 馬車が見えてきた。
 星明りが差し込めるそこは、浮かんでいるようにも見える。

「……そうだね。君の言うところの、“一週目”。“一週目”の君は―――」

 サラは馬車の操縦席に乗り込み、後ろの3人は間もなく茂みから出てくるだろう。
 そんな中、イオリは歩みを止めて振り返り、小さく、しかし強い口調で、アキラの眼を見据えて言った。

「―――今の君より、遥かに強かったんだ」



[16905] 第四十三話『名前を付ける(中編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:da33c2b2
Date: 2020/03/19 00:51
―――***―――

「はーい、今持っていきまーす!!」

 今度は―――なんだろう。ただの棒切れに見える。
 サラ=ルーティフォンは言われるがままに馬車から機材を持ち出すと、金の長い髪を揺らしながら昨晩も訪れた森の中を走った。

 昨日、最近この辺りを騒がせていた魔物―――グリグスリーチは撃破された。
 大勢の強者を屠っていた怪物が討たれたことにより、人々は歓喜の声を上げ、モルオールでは束の間の平和が約束された―――となれば良かったのだが、魔術師隊に属するサラにとって、それは始まりに過ぎない。
 魔術師隊にとって、最も忙しくなるのはその後だ。

 規格外の魔物が討たれた現場には、魔術師隊が詰めかけ、最も厄介な仕事が始まる。
 魔物の属性、魔物の性質は当然として、可能であれば犠牲者の特定などなどなど。
 いわゆる事後調査が始まるのだ。

 戦闘不能になった魔物は爆発するので痕跡が残らない、となってくれれば諦めが付くが、残念ながらモルオールの技術力はそんな甘えを許してくれなかった。
 魔物の爆発の後には、人の目には見えない情報が満ち溢れている。
 すでに魔力の残り香すら感じられない地面の抉れた地点から、魔物の全長、魔物の姿形まで分析できるというのだから驚きだ。

 と、物珍しく現場検証を楽しんでいたのは配属されてからの数回くらいか。
 当然解析は容易くなく、朝からきているのにもう昼を回っている。

 解析事態に詳しくないから楽しくないのかもしれない。
 実際、今魔物の爆発地点で座り込んでいる小太りの魔術師に渡したものが、単なる定規なのかマジックアイテムなのか分からなかった。

「あ、ごめん。これじゃない。隣になかったか? もっと短いメモリの付いたやつ」

 どうやら定規を求めていたらしい。一緒に運んで来ればよかった。
 サラは申し訳なさそうに微笑むと、再び馬車へ走る。

 もっとも、こんな程度なら断然ましだ。
 自分が参加しなくてよかったと心の底から思ったのはふた月ほど前に起こった“魔門破壊”の事後調査。
 未だに終わっていないらしいその調査は新人に限らず何人もの魔術師が過労で倒れているらしい。
 いや、極寒の中調査が続けられているセリレ・アトルスの方が危険だろうか。
 いずれにせよ、魔術師たちは奔走する。

 華々しく敵を討つ英雄たちの陰では、涙と汗を流す努力があるのだ。
 血を流すよりは遥かにましなのだろうが。

 それでも、これは必要なことなのだ。
 ありとあらゆる規格外の魔物を把握できれば、その対策を考えられる。
 モルオールの凶悪な魔物たちの前では、事前情報を持つことがどれほど重要なことか、そしてそれでどれだけの命が救われるか。
 考えなくても分かるし、だからサラは調査に全力で協力する。

「報告通りだな」
「ああ」

 馬車に向かって駆けながら、そんな声を拾った。
 この現場。はっきり言って、調査は容易だ。

 この現場は、何しろ無から調査しているわけではなく、信頼のおける情報の再確認、程度なのだから。

 ホンジョウ=イオリ。

 昨日この現場でグリグスリーチを討った、サラの所属する部隊の副隊長であり、親友だ。
 彼女が昨日帰ってから共有してきた情報はあまりに正確で、新事実など何も出てきていない。
 この現場に彼女がいればとっくに撤収の運びになっているだろうが、このところ働き詰めの彼女に気を利かせて自分が案内役を買って出たのだ。
 少しばかり段取りは悪いが自分の親友のためだ、みんなには安い涙を呑んでもらおう。今日は気候も安定してある程度は暖かいのだし。
 それに慎重に捜査するに越したことはない。

「えっと、定規定規……っと」

 馬車に戻って目当てのものを物色すると、自分が棒状のものをとった横に、メモリ付きの棒を見つける。
 サラは棒を取り換えようとして、ふと考え、両方を掴んで駆け出した。
 使うから持ってきたのだ。どうせ必要になるだろう。

 サラは歩いているとはバレないような速度で森を進む。
 すると、足元に何かが転がっていることに気づいた。

「ん?」

 拾い上げると、それは小さな棒だった。随分棒に縁のある日だ。
 赤茶けて、先端には小さな鎌が付いている。
 誰かの私物かとも思ったが、ここで草むしりをしている人はいないであろう。となると以前ここを通った誰かが落としたものか。
 持ち上げたものを投げ捨てるのも抵抗がある。特に考えもなく、サラは鎌を腰に差し、現場へ駆けていった。

「おお、ありがとう……、あ、悪いんだけど、さっきのも―――ああ、それそれ」

 どうやらふたつ持ってきて正解だったようだ。
 当然、この小汚い鎌の方はお呼びではなかったようだが。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――“一週目”の君は、今の君より、遥かに強かったんだ。

「……」

 ヒダマリ=アキラに宛がわれたこの部屋は、女性陣のそれに比べ、大層狭いものだった。
 元は小物を補完している―――放り込んでいる、とアキラは解釈したが―――小さな倉庫。
 そこにベッドを運び込み、即席の寝室としたらしい。
 申し訳程度に部屋の中央に小さな丸テーブルが置いてあるが、そのせいで部屋を出るには荷物をまたぐ必要ができてしまった。
 ドアには鍵が付いているが、外からしかかけられないのだから宿としては片手落ちだ。
 “勇者様”だからと寝床を提供してくれるのはありがたいが、勇者様自身への微妙に扱いが悪い気もする。

 だが。
 そんなことは今のアキラには些細なことだった。

「“一週目”の俺、か」

 ベッドに身を投げ、アキラはぼんやりと天井を眺めていた。
 昨日の戦闘の疲れもあるのかもしれない、まるで身を起こす気がしなかった。

 “それ”をここまで強く意識したことは無かっただろう。
 “今”の自分は、あくまで過去の自分の物語をなぞっているに過ぎない。
 同じだけの旅をしている。同じだけの距離を歩き、同じだけの経験をしたはずだ。

 いや、それどころか自分には“一週目”の自分には無い“記憶”という絶対的なアドバンテージがある。
 超えている、はずだ。過去の自分は。

 それなのに、昨夜、彼女は言った。

「遥かに強い……」

 昨夜、最近この辺りを騒がせていたらしいグリグスリーチとの戦闘があった。
 その出来事は、“一週目”でも起こっていたらしい。

 アキラの記憶は結局解けず仕舞いだったが、記憶していたイオリははっきりと、“両者”を比較できたはずだ。

 ホンジョウ=イオリは魔導士だ。
 戦力分析においては信頼がおける。その彼女が断言したのだ。

「そんなに、なのかよ」

 今の自分は、かつてこの地を踏んだ自分より遥かに弱い。
 イオリの言葉は、あるいは事実は、アキラの胸に重く圧しかかった。

 ある程度の自信はあった。
 世界を巡り、死地と言われるモルオールですら旅を続けられている。
 単純な戦闘力という点においては、当面の課題は無いように思えていた。

 だが、遥か先に、過去の自分の背中がある。
 見えもしない。どれだけの距離があるかも分からない。
 縮め方も、縮まるかどうかも分からない差が、すでに生まれてしまっている。

 その漠然とした遠さは、今までの自分を否定されたように思えた。
 遠くの背中に、アキラは思わず歯を食い縛る。

 イオリとは午後に会う約束をしていた。
 そのときに、その理由を訊く勇気は、今は無かった。
 それは、未だに払拭しきれていない彼女に対する負い目からなのか、過去の自分に対する負い目からなのか、あるいはその両方か。
 何もかもが分からなかった。

「……!」
「いる?」

 ノックと共に、ぎくりとする声が聞こえた。
 エリーだ。

 アキラは反射的に身を起こして、ベッドの隅に毛布を放り投げる。
 顔を腕でこすりながら応答すると、立て付けの悪いドアが軋みを上げて開いた。

「あ、起こしちゃった?」
「いや、起きてはいたよ。入ってくれ、廊下の冷気が来る」

 アキラは精一杯自然さを装い中央の椅子に座る。
 部屋を分断する丸テーブルの向こうに、ドアを閉めたエリーがおずおずと座った。
 面と向かって上座に座ると、自分が偉くなったような気がする。

「どうした? 今日は休みだって言ってなかったか?」
「え、ああいや、そうじゃなくてさ。鍵が開いてたから、いるのかな、って」

 エリーはさりげなく部屋を見渡していた。妙に緊張する。
 彼女たちが寝泊まりしている部屋を見せてもらうことはできなかったが、隣の部屋の位置を見るに、大分広そうだ。
 やはり勇者様の扱いが悪い。

 アキラが僅かに不遜な気分になっていると、エリーはアキラの様子を盗み見るように伺っていた。

「なんだよ」
「……やっぱり寝てたでしょ。ほら、寝癖寝癖」
「お、う」

 適当に髪を撫でつけていると、エリーはこほりと咳払いした。

「それで、どうなの?」
「何が?」
「何がって、イオリさんよ。勧誘してるんでしょ?」
「……ん?」

 そういえば。

「ぁ、えっと、だな。そう、」

 一瞬固まったが、何とか言葉をつないだ。
 しかし、当然のようにエリーは見逃さなかった。

「忘れてたでしょ」

 やはりという表情を浮かべるエリーに、アキラは息を詰まらされた。
 エリーは進捗確認のためにこの部屋を訪れたのだろう。

 イオリはもろもろ複雑な相手なのだ。そもそもそういう話になっていない。
 だが、説明のしようがなかった。

「ま、いいんだけどね。あんたが勧誘を忘れても……ううん、“勧誘なんてどうでもよくなるような話”をしてても、さ」

 前に思わず、エリーにはイオリについて口を滑らせてしまったことがある。
 細部は無理であろうが、大枠の話の流れは彼女の中でも想像できているのかもしれない。

「いい、って……。いや、勧誘するよ。そうする。もうすぐまた話すんだ。そのときに」
「あのさ」

 アキラの言葉にかぶせるように、エリーは視線を外しながら言った。

「……あんたの“隠し事”だけど、訊いてもいい?」
「は……?」
「なーんて、ね。いつの話してんの、って感じか」

 エリーはパタパタと腕を振って誤魔化すように笑った。
 しかし次第に腕を下げると、アキラをまっすぐに見据えてきた。

「昨日さ。馬車の中で話したこと、覚えてる?」
「え、ああ、まあ」
「そう? 私はさ、聞いてないように見えたんだ」

 こんな問答は、前にもあったように思える。
 シリスティアの崖の上の町でだったろうか。
 エリーはそういう挙動については敏感なのかもしれない。

 そしてそれは驚くほど正確だ。
 何しろ、昨日の帰りの馬車の中で、自分は、ずっと。

「ちゃんと聞いてたよ。報告・連絡・相談だろ」
「じゃあさ」

 辛うじて耳が拾っていたらしい単語を言ってみた。
 エリーは酷く優し気で、そして酷く悲し気な表情を浮かべている。

「相談してみてよ」

 エリーは息を大きく吸った。

「あんたはイオリさんと、もともと知り合いなんでしょ。それなのに、やっと会えたのに、そんな顔してたら、誰だって気になるわ」

 どんな顔だろう。鏡がないから分からない。
 だがどうやら、エリーがこの部屋を訪れたのは、そちらが本当の目的だったようだ。

「あのさ。あんたから説明してとは言わないけど、正直に言って欲しいことがあるの。
イオリさんは、あんたの“隠し事”を知ってるの? ううん、知ってるんでしょ?」

 彼女の推測は、恐ろしいほど的を射ていた。
 旅の道中、自分が思わず、何度も零してしまった言葉を拾い集めると、確かにそうなるのかもしれない。
 だが、ぎくりとはしたが、不快感は無かった。
 だからアキラは静かに頷いて返した。

「じゃあさ、そんな問題、あたしたちは分からないじゃん。どうしようもない、ってなるじゃない。だからさ、」
「何とかする、よ。俺がやらなきゃ、駄目なんだ。気にしないでくれって」

 アキラは弱々しく返した。
 だが、意志は強かった。
 “隠し事”。
 アイルークから始まり、一度は折り合いの付いたこの問題を、彼女は知りたいと言う。
 だが、この問題は、身から出た錆だ。
 自分自身で解決しなければならない。

 エリーの様子を見ると、彼女は口を震わせていた。

「分かりたいって思ってるんだけど」

 口調は静かだった。
 だけどアキラはエリーから確かな怒りを感じた。
 息が止まる。

「最初はさ、あんたがひとりで、って言うならそれでもいいか、って思ってた。だってそれでうまくいくんでしょ。でもさ、モルオールで合流してからずっと感じてる。上手く言えないけど、ちょっとでも誰かの力を借りれば済むことを、あんたはひとりで悩んでるって。それが“隠し事”のせいだって言うなら、とっとと話しちゃえ馬鹿、って」

 エリーはまくし立てると、息を吐き、力を抜いた。

「……ごめん」

 言い過ぎたと思ったのか、エリーは最後に咳払いをして視線を外した。

 旅を始めた頃は、“隠し事”があると言ったことで、関係を円滑に進められた。
 だが今、世界を周った今、それが再び目の前に訪れれば、彼女は違うことを想うのだろう。
 自分たちの旅は、アイルークからの延長線上にある。
 だけど、関係は変化していくものなのだろう。
 だから彼女は今、旅の初めで出した答えに、満足できなくなってきたのだろうか。

「ま、要するにさ。あたしはあんたがやりたいってことを助けた……助けてやってあげようと思ってるんだけど……。背中叩くにしろ、あんたがどっち向いてるか分からないと、殴りようがないのよ」
「叩いてくれよ、それは」
「うんそうね。思いっっっきり叩いてあげる」

 エリーは笑ってそう言った。

「……いつか必ず話す」

 そして、アキラはそう返した。
 前にも言った言葉かもしれない。
 だけど、乗せた想いは違う。

 今の彼女に通じるか分からないが、確たる口調で、アキラは言った。

「そう、それが答え?」
「ああ」
「イオリさんは知ってるのに?」

 妙な喰らい付き方をしてくる。
 だけどアキラは視線を外さなかった。

「ああ。……だけど、お前と話してて楽になったよ。ありがとな」
「あっそ。ならいいわ」

 エリーはあっさりと席を立った。
 肩透かしにあったような気分になり、アキラも思わず立ち上がる。

「いいのか?」
「いいのよ。実はなんとなく部屋の前通って様子見に来ただけだから。ちょっと熱くなっちゃったけど」

 気まぐれで訪れたというのか。
 色々と考えすぎていたアキラは脱力した。

「なんとなくで寝起きに来たのかよ」
「うん、なんとなくで来たの」

 エリーはドアに手をかけながら、振り返らずに言った。

「最近、ちょっと……、そう、自覚しかけてることがあるのよ。多分、そうなんだと思うことが」
「?」
「それじゃ、また後で。イオリさんの勧誘、頑張ってね」
「ああ、分かったよ」
「それと、結局話してくれなかったけど、ひとつだけ」

エリーは振り返って、何も分からないまま、神妙な顔つきで言った。

「思い詰めないで。あたしも多分、あんたと同じ顔してたのかもしれないから」

 ふと脳裏に、妙な悪寒が走った。
 アキラはせかされるように荷物をまたいで廊下に出る。
 エリーは後ろ手で、手を振りながら歩いて行った。

 自分はやはり、単純な人間なのかもしれない。
 彼女と話しただけで、ずっと楽になったような気がする。
 自分にとって、エリサス=アーティはそういう人物のようだった。

 だからこそ。何を捨ててでも、彼女を。

「……」

 このままの延長線上に、自分の望む未来は無い。
 それが分かっているから、足掻き、それを超えようとした。してきた。
 本気でそう思っていたからこそ、今の自分が進んでいる道を迷わず歩くことができたのだ。

 だがどうやら、過去の軌跡はすでに遥か未来にあるらしい。
 アキラの目指す、理想と思っていた目の前の道は、すでに踏み荒らされたものだった。

 エリーの背を見送りながら、アキラは気づかれないように、行き場のない憤りを拳に込めた。

 心の中で、強く呟く。
 今の自分より、遥かに強いらしい、過去の自分へ。

 “お前”はそれでも届かなかったのか。

―――***―――

「ふんふふーん、ふふふんふーん」

 調子はずれな鼻歌を止めることは諦めた。
 そもそも、彼女の口を閉じることはとうの昔に諦めている。

 サクはいつしか慣れてしまった聴覚の遮断を行いながら、宛てがわれた部屋の中で目の前の“品々”を物色していた。
 現在、このメンバーには昨日エリーやサクが行っていた武具の点検以外にも、整理する必要のあるものがある。

 以前、とある事情で、南の大陸シリスティアから多数の献品があったのだ。
 旅をしている以上、当然身軽な方がいい。
 かさ張るものや、取り立てて利用するものがいない武具は貨幣に変えたが、持ち運べる小物は乱雑に袋に詰め、持ち運んでいた。
 何しろ数が数だ。いちいち把握していられない。
 そういうところは割としっかりとしているエリーが整理することを放棄するほど、放り込んだ袋の中は乱雑になっている。

 細々としたものではあるが、数があると重く、重いと旅の邪魔になる。
 それは分かっているのだが、以前適当に取り出してみた用途の分からない鏡のようなものを、売るつもりで鑑定してもらったところ、ちょっと驚くような値が付いたのだ。
 確かに小物はいずれも高級感を漂わせる小箱に収められている。
 そうなると、流石に雑に売りには出せず、そこまでかさ張りはしないので、結局そのまま持ち運んでいるのだった。

 だが、いつまでもこのまま持ち運んでいるわけにもいかない。
 ゆえに、今日のような休息日には整理も兼ねて荷物の点検を行っているのだった。
 連日モルオールの魔物たちと戦っているせいで、武具の整備ばかりになり、最後に点検を行ったのは果たしていつだったか。

「サッキュン見てください見てください、どうですか、がおー!!」

 視覚も封印しなければならなかったのかもしれない。
 共に荷物を物色していたティアがたてがみの付いた獣のような面をつけて楽しそうに頭を揺らしていた。
 丁度サクの手元には恐らく笛であろう棒切れがあった。
 この高級品であの高級品を叩き割ったらふたつも減る。旅も楽になるだろうか。

「それは売るか。どう考えても用途が思いつかない」
「え、いいじゃないですか。ほら、威嚇するために! とか。あ、はい、冗談です。威嚇しないでください……」

 ティアは名残惜しそうに、面を荷物の隅に追いやった。
 今回の整備で売却を決めたものはその面で3つ目。
 あとは箱の開け方自体分からずそのまま放置したり、ティアが遊んでいたりする。
 毎回こんな調子だから、作業が捗らない。
 エリーの都合は合わないし、必ずと言っていいほど都合の合うティアはやる気だけが満ち溢れている。
 アキラは、必ず参加しているティアと噛みあったときの絶望感が容易に想像できるためそもそも呼んでいない。
 もしかしたらこの問題に真摯に取り組んでいるのは自分だけなのではないか、とサクがため息と共に奥の小箱を強引に引きずり出したときだった。

 なにか妙な感じがした。

「わわ、サッキュンなんですかそれ、箱の色が、なにか」
「他とは違うな」

 シリスティアからの献品は、暖色系の包装で統一されていた。
 だがその箱は、遠目から見れば見分けがつかないが、僅かばかり青い。
 その上で、妙な高級感を覚える。
 自分でもよく手に取ったと思う。

「何が入ってるんですか?」

 言われずとも開けにかかったサクは、妙な緊張感と共に、包装を丁寧に外していく。
 ぴっちりと封がしてあるようで、意外にも容易く外せた包装紙を退けると、中から茶色の小箱が出てきた。

「わあ、わあ、わあ!!」

 箱を開けると、ティアが目を輝かせた。
 武具以外には疎いサクだが、箱の中のものには思わず息をのむ。

 中にあったのは宝石だった。
 着飾る、と言うよりは置物に使うような拳大の宝石が、宝石店のような紺のケースに収められている。

 スカイブルー、イエロー、そしてグレー。

 昼間だというのに、3つの宝石は、そのそれぞれが輝いているように見えた。

「ちょちょ、ちょっとよく見せてください!」
「こ、壊すなよ」
「な、馬鹿にしないでください!」

 とてつもない掘り出し物が現れた。
 そんな予感が、極度の緊張感を産んだ。
 なかなかの値段が付く品々とは言え、現在は決して金銭に困っていたわけではないからと、この袋を粗雑に扱っていたかもしれない。傷ついていないで本当に良かった。
 サクは、この子供にこれを近づけることに危機感を覚えたが、これを見てなお身を乗り出せるティアに敬意を表し、小箱の前をゆっくりとティアに明け渡す。

「わあ……、なんか宝石自体が光っているような気がしますね、これ、あれですね。きっとお高いですよ。あ、見てくださいサッキュン。顔を近づけるとあっしが映ります。ははは、歪んでて変な顔ですよ、ってあれ、ちょっとよく見えなくなりました。もうちょっと……、ん、むむっ、埃が落ちちゃってますね、ふー、ふー、あれ、なかなか取れないです、えっと、じゃあ、ふーっ、ふーっ、ってあれ、むぅ、ふふふふふ、あっしの怒りに触れましたね。もうこうなったら直接、って―――あああっ!!!!」
「知ってた」

 若干の冷静さを取り戻したサクは、ティアから上がった悲鳴を、まさしく冷静に受け止められた。

「どうして壊した」
「ち、違いますよ、壊してないです。で、でも、見てください」

 覚悟がいるが、サクは肩を落として箱に視線を移した。
 すると。

「……何をした?」
「いや、何もしてないです。触れてもないですよ。でも、」
「今度こそ光っているな」

 見ればスカイブルーの宝石が、僅かに、だが確かに光を帯びていた。
 この気配に、サクはようやく宝石の正体を察した。
 なかなかの品であることは間違いないようだ。

 見守っている中、スカイブルーの宝石の光は徐々に淡くなり、ついには元の輝きに落ち着いた。

「これあれですね。マジックアイテムみたいですね」
「そうだな。売らない方がよさそうだ」
「あ、じゃああっしが、」
「触るな。そして近寄るな。それだけ守ってくれればいい」
「最大級の否定ですね。はっはっは。じゃあ、あっしはあっちの隅で泣いているので、お片付けになったら呼んでください……」

 ティアがとぼとぼと離れていったのを見送って、サクは静かに小箱を閉めた。
 そして再び包装して、現状維持と決めた他の小箱たちと一緒に置く。
 やはり掘り出し物はあるようだ。
 物色も、ついでに言うならこの袋の扱いももっと慎重になった方が良さそうだ。

 サクは気持ちを新たに別の小箱に手をかける。
 これだけの量ならば、やはり献品のリストくらいは欲しかった。
 以前エリーに聞いたところ、シリスティアからの手紙は、雪山の修道院に寄付した物に紛れてなくなってしまったらしい。

―――***―――

「今日は話さないといけないことがある」

 昨日と同じ部屋だった。
 昨日と同じ椅子に座り、昨日と同じ相手も、同じ位置に座っていた。

 自分の、相手の、考えていることも、想っていることも、昨日と同じく分からない。

「アキラ。君は覚えているよね、“前回”ここで何があったのか」
「……ああ」

 だが今は、現在迫っている脅威に立ち向かう必要があった。

「サーシャ=クロライン」

 ホンジョウ=イオリはその名を鋭く口にした。
 恐らくは、彼女の魔導士としての声色なのかもしれない。

 “魔族”―――サーシャ=クロライン。
 昨日グリグスリーチを撃破した際、いや、そもそもこの港町に訪れる前から、アキラ自身、ずっと脳裏にあった重大な懸念事項だ。

 “二週目”。
 あの魔族がこの町を、いや、この魔術師隊を襲ったことは忘れたくても忘れられない。

「なあイオリ。“一週目”の事件、詳しく話してくれないか。今回はその事件をなぞる可能性が高いだろ」

 イオリは頷く。彼女ももちろんそう考えているらしい。

「被害者はあのサラ=ルーティフォン。彼女はあのサーシャに“囁かれて”、僕をリオスト平原へ呼び出した。そして……」

 イオリは軽く頭を振った。
 アキラは記憶に残っている、あのカリス=ウォールマンとの戦闘を思い出す。
 “二週目”で発生したその戦闘は、“一週目”ではイオリとサラとの戦闘だったらしい。
 サーシャ=クロライン。
 “支配欲”に強い関心を示すあの魔族は、思考にささやきかけ、人を操る力を持っている。

「サーシャについて、何か情報は無いのか? 俺もこの“三週目”にあいつと遭ってるけど、結局詳しいことは分からず仕舞いだったんだよ」

 襲ってくる敵が分かっているなら、それ相応の対策が討てる。
 こういう思考の進め方は初めてかもしれない。
 今のアキラは、イオリが持っている記憶のアドバンテージを最大限に利用できる。

「……僕もあまり分かっていないよ。それに前回は僕が経験していた出来事と大幅に変わってしまったからね。“彼女”の存在が、サーシャ自身の出現自体を抑え込んでしまったから」

 歪な形をしていた“二週目”。
 そのときの圧倒的な存在は、今回いない。

「でもサーシャについて、僕が調べた限りのことを話そう」

 イオリは部屋の隅に置かれていた固い皮の鞄から、ファイルのようなものを取り出した。
 昨日は見た覚えがない。今日イオリが持ってきたのだろう。

「記憶に残っている限りだと、最初に目撃されたのは10年前、かな」
「10年だって?」

 自分の年齢を考えると、その半分ほどの年数を決して短いとは言えなかったが、旅の道中もっと大きな単位を聞いてきたアキラにとっては少し拍子抜けだった。

「意外かな。でも、そんなことを言えば魔王だってそうさ。魔王の存在を人々が広く認知したのも精々数十年前だ」
「え、そうなのか」

 そういえば。
 今まで漠然と魔王がいる、という認識は持っていたが、アキラはそれがいつから現れ、そしてそもそもどのような被害をもたらしているのかの詳細は知らなかった。
 そんな様子のアキラを見て察したのか、イオリは一旦ファイルを閉じた。

「……君は打倒魔王を掲げている割に魔王に関心が無さすぎないか?」
「いや、そんなことはない……はずだ。ってか、魔王の狙いは分かってるし」

 売り言葉に買い言葉のように、アキラは力強く言った。
 確かに自分は魔王をよく知らない。
 正面に立ち、言葉を交わしはしたが、魔王のことはよく分からないままだった。
 だが、狙いだけは分かっている。
 魔王との戦いは、そこまで激化しないであろうことも想像できていた。
 何故なら奴の狙いは。

「……なるほど、ね」

 ざっくりとあらましを伝えたら、イオリは眉をひそめた。
 随分わき道に逸れてしまったが、一応、アキラの旅の目的でもある魔王の狙いは他者から見たらどうなるか知りたいところでもある。

「魔王の狙いは“世界の破壊”。召喚獣に魔力を溜め込み、魔王自体が一瞬で事切れることで、召喚獣を爆発させる……か」
「だから俺の作戦はこうだ。ジリジリ消耗戦で戦うってのも考えたけど、確実なのは、“一週目”も“二週目”もやったように、一発で倒して“あいつ”に魔王の召喚獣の魔力を封じてもらうことだ。人頼みだけど、俺じゃそれしか思いつかない」

 アキラは妙な新鮮な気持ちに捉われていた。
 遥か先にある魔王戦。
 その戦闘の手筈の話など、今まで誰にも話したことは無かった。

「そのためにも、俺はそれだけの爆発力が出せるようになってなきゃいけないけどな」

 暗に昨日の彼女の言葉が蘇り、少しだけ強く言った。
 イオリは目を閉じ、黙考しているようだった。

「ところでさ」

 妙な沈黙が辛い。
 アキラはイオリの注意を引くように、言葉を続けた。

「イオリなら分かるかもしれないけど、召喚獣が爆発するなんてことあるのか? 正直、召喚獣のこと詳しい奴なんて今までいなくてさ」
「……そうだね」

 顔を上げたイオリは、やや困ったような顔をしていた。

「突拍子もない話で、少し混乱したよ。魔王の狙いは世界そのものの破壊……。ある意味当然の狙いなのかもしれないけど、……ちょっとまずいね」
「まずいって……、まあ、そりゃあ」

 勢いよく話していたが、確かに自分はとんでもないことを言っていた。
 世界が破壊される。
 自分がこんな言葉を当たり前のように会話に出せるのは、あのときあの場で、魔王自身から聞いたためだ。
 あの場にいなかったイオリにとってみれば、荒唐無稽な話と思われても仕方がない。

「いや、僕がまずいと言ったのは、それだけじゃないさ」

 イオリは目を細め、僅かばかり奥の窓から外に目をやった。

「その話通りなら、ある程度の実力者なら“誰が魔王のもとについても世界が破壊される”ってことだ。その場に“彼女”クラスの存在がいれば話は違うが、魔王の召喚獣の爆発を封殺できるのは“彼女”くらいのものだろう」

 ぞっとした。
 そして脳裏にひとりの男が浮かぶ。
 あの男なら。

「スライク=キース=ガイロード。君も旅の道中で会ったんだろう。彼なら、魔王に迫り、魔王を撃破“してしまう”可能性がある」

 あの男はあの雪山で言っていた。
 中央の大陸―――ヨーテンガースに向かうことになるかもしれない、と。
 今でこそ魔王の撃破を考えていないようだったが、もし、あの男の興味が魔王そのものに向いてしまったら―――

「やばいじゃないかよ」
「やばいんだよ」

 イオリは眉を寄せて爪を噛んだ。
 自分が呑気に旅をしていた間にも、時計の針は進んでいた。
 やや超常的な理論を拠り所にすれば、自分が刻む“刻”であれば時間は関係ないと考えてもいいのだが、面倒なことにスライク=キース=ガイロードも“刻”を刻む運命にある。

「さっきの質問。本当に召喚獣が爆発するか、だけど。答えはイエスだ。通常、術者が弱れば召喚獣から本能的に魔力を回収してしまうから、基本的には召喚獣は術者より先に消失する。だけど、瞬間的にパスが切れれば召喚獣は一時的に生物になり、魔物になる。そして術者がいなければ召喚獣は活動を行えない。つまり……、戦闘不能の爆発は知っているね」

 冗談じゃない。
 そんなことが起こるのであれば、今この瞬間にでも世界が滅びる可能性がある。
 スライクの活動力は知っている。
 今現在にヨーテンガースにいたところで驚きもしない。

「魔術師隊の力を借りて、スライクを見張れないか?」
「……無理だね。一応君らの動向は定期的に探らせてもらっていたけど、普通に行動していた君たちでさえ時折見失っていたんだ。スライク=キース=ガイロードの行動にいたっては、まるで掴むことはできなかったよ」

 魔王は自分以外が倒してはならない。
 何故自分はそんな簡単なことにも気づかなかったのか。
 アキラが苛立ちと絶望感に頭を抱えていると、イオリは追い打ちとばかりにもうひとつの情報を口にした。

「……それに、魔王討伐を志しているのは何も君たちだけじゃない。……一応、もうひとり」

 なんだと。
 アキラは泣きそうになるのを堪えながら弱々しくイオリを見た。
 これ以上、魔王を撃破“してしまう”可能性がある者がいるのか。

 だがイオリは、神妙な顔つきで、ひとりの人間の名前を挙げた。

「リリル=サース=ロングトン」

 聞き覚えのある名前だった。
 イオリはゆっくりと続ける。

「最近、名前をよく聞くようになった“勇者様”だ。解決した目立つ事件だと、中央の海の連絡船を沈め続けていたコート=ドクラ、モルオールでは神話クラスの山喰らいフェリヴァルの撃破なんかがあるね」

 見たことも聞いたことも無い何かが、アキラの知らないどこかで撃破されていたようだ。
 イオリの口ぶりからして、どちらも分かりやすく有名な魔物なのだろう。
 一体どのような戦闘だったのだろうか。

 リリル=サース=ロングトンという女性は、知ってはいる程度だがアキラも覚えがあるので、微妙に胸躍る感じもするし、一方で、そこまでの戦闘力があるのであればタイムリミットが極端に短くなったような絶望感もする。

「そして」

 イオリは、いつのまにか閉じていたファイルをまた開いている。
 そして、そこに目を落としながら静かな声で言った。

「さっき言った、サーシャが最初に目撃された10年前。当時幼かったリリル=サース=ロングトンは、その目撃者で―――滅んだ村の生き残りだよ」

―――***―――

 モルオール最北部。村の名前はフィーリリア。
 町や村の生命サイクルが異常に短いモルオールにおいて、百年近くの歴史があった港町。
 特に漁業の発達は目を見張るものがあり、それに伴う魚類の加工や、船を使っての運搬業でモルオール北部指折りの資金源となっていた。

 “こと”が起こったのはいつなのか定かではない。
 時期は正確ではないが、フィーリリアと貿易をしていた近隣の村々が最初に察したそうだ。
 運ばれてくる積み荷が、いつしか近隣の村からの運搬物ばかりになり、フィーリリア自体から届く海産物が少なくなっていったことに。
 とはいえ、物を運んできてくれるのだから問題ないし、何より他の村にとっては今日を生きることが何よりも重要である。
 それに、フィーリリアに赴けば、相変わらず新鮮な海産物を振る舞ってくれるし、日持ちのする乾物も手に入れることはできる。

 そんな調子で数年の歳月が過ぎたところで、フィーリリアに隣接する村の若者がはっきりと“異変”に気づいた。
 漁業と、それに伴う事業を村一丸となって展開していたフィーリリアの姿が、いつしか事業ごとに独立し、それぞれにかなりの軋轢が生まれていることに。

 その道に明るい者が歴史を振り返れば、それは生き残るための前向きなシステムの変化ではなく、単なる劣化だったという。
 事業が独立したことで、村自体の資金繰りが厳しくなり、かと言って、近隣の村々も手を差し伸べる余裕はない。
 いつしか自衛の体制も機能しなくなり、当然のように、魔物の脅威にさらされることになったという。

 魔術師隊が到着した頃には、町としての生命線は完全に断たれている状態だったらしい。
 現在は殉職しているらしいが、町の調査を行っていた魔術師隊の一員の報告によると、町の中からはいくつか不自然な点が見つかっていると言う。

 “町の被害が、魔物によるものだけとは思えない”、と。

 そしてその不自然な点は、辛うじて救い出せたひとりの少女の証言によって、さらなる波紋を産むことになる。

 少女は言った。
 “町は、町の人が、破壊した”、と。

 そして少女は見たという。
 魔物が襲ってきているにも関わらず醜い争いを続ける人々の中、高らかに笑う、銀に輝く不気味な存在を。

「……ち」

 イオリとの会話は、一旦休憩の運びとなった。
 どうもやり残した仕事があるらしい。休暇だと言っていたのによくやるものだ。
 魔王討伐のタイムリミットも気がかりだが、イオリは結局、焦って目の前のことを取り零しても仕方がないと判断したようだ。

 宿舎の庭で、アキラは手ごろな岩に座って資料に目を通していた。
 イオリから預かったサーシャ=クロラインについて調べられたこのファイル。
 知らない文字で書かれた記事ではあるが、読むだけならアキラは問題なくできる。

 その結果、胸糞の悪い物語ばかりに目を通すことになったが。

 10年前の事件を皮切りに、サーシャの目撃証言が一気に増加したように思えた。
 その場所はモルオールだけに留まらない。
 高貴なシリスティアではとある貴族の夫婦が不仲になり、いつしか人々から過剰な税を巻き上げるようになったという。
 平和なアイルークでさえ、旅芸人の集団がいつしか村々を襲う窃盗団に成り代わっていたという事件が起こっている。
 タンガタンザでの事件は無いらしいが、あの“過酷”にいたアキラには、その理由も察せる。あの大陸は、もうどうしようもないほど、戦火に包まれているのだ。

 いずれの事件も、シルバーに輝く不気味な存在が目撃されていた。
 目撃されただけでこれなのだ。実際の被害はもっと多いだろう。
 そして今現在も、恐らくは発生している。
 サーシャの目撃証言が増えたというのも、サーシャがまいた種が一気に芽吹いただけのことだろう。

 サーシャ=クロライン。
 人の思考に囁きかけ、自身の思った通りに人を操る“支配欲”の魔族。
 “狂ってしまった”人々も、もとは小さな感情を歪んだ方向に発展させられたのだろう。

 例えば、フィーリリアの人々は、もとは町をもっと発展させたいと思っていただけのはずだ。
 それが、自分が町を発展させたいに変わり、自分だけが町を発展させられるに変わり、自分以外は町の発展の妨げであるに変わっていた。
 あくまで想像だが、そうした思考の変化があったのかもしれない。

 人は、大なり小なり必ず悩みを抱えているものだ。
 サーシャはそうした部分を突いてくる。

「魔族……魔王、か」

 かつて、アイルークで魔王の被害に遭った人々を見たことがある。
 自分が平和に過ごしている中、世界のどこかで、必ず何かが失われているのだと強く感じた。
 その意識はあったから、アキラは具体的な被害を追おうとはしていなかった。
 しかし今、目の前にあるファイルは、アキラが目を閉じていた世界の嘆きを訴えかけてくる。

 アイルーク、シリスティア、タンガタンザと回ってこのモルオール。
 戦いのレベルは確実に上がってきている。

 今まで撃破してきた“知恵持ち”、そして“言葉持ち”の魔物。
 それらを束ねる魔族の力は、アキラも骨身に染みて分かっている。

 ぞくりと身が震えた。
 襲ってくる魔族を迎え撃つ。
 それはタンガタンザでも経験した。

 あのとき見た魔族の力は、来ると分かっていても抗えないほどの脅威だった。

「あ、こ、こんにちは」
「!」

 反射的にファイルを閉じ、アキラは声の主に目を向けた。
 するとそこには若干着崩れたローブを羽織ったサラ=ルーティフォンがおずおずと立っていた。
 長い金の髪が、日の光を反射してキラキラと輝いているように見えた。

「あ、あれ。調査に行ってるって」
「はい、ちょうど今戻ってきました」

 遠目で男たちが馬車から宿舎に荷物を運んでいた。
 昨日アキラたちが撃破したグリグスリーチの事後調査を行っていたことは知っていたが、随分と早い帰りだ。

「イオリが一日かかるとか言ってた気がするんだけど」
「はは、そのイオリのおかげですぐ済んでいるんです」

 にこにこと人懐こそうな笑みを浮かべるサラに、アキラは自分ばかり座っているのも申し訳なく思い立ち上がった。
 すると彼女は大仰に手を振ってアキラを再び座らせた。
 やはり、彼女は“誤解している”魔術師のようだ。
 そのぎこちない態度はが妙にくすぐったかったが、誤解を解くのも面倒だ、好きにさせておこう。

「そっちが立ってると座ってるの辛いんだけど……」
「あ、え、は、はい。その、失礼します」

 最低限の礼儀としてアキラが身を開けると、サラはゆっくりと隣に腰を下ろした。
 隣にいるだけで強い緊張感が伝わってくる。
 気紛れで話しかけてきただけだったのだろうが、こちらが申し訳ないことをしているような気分になる。

「あっちは良いのか? まだ荷物運んでるみたいだけど」
「あ、はい。人手のいるものは終わりました。今運んでいるのは大事なものだそうです。現地では好き勝手に取りに行かせたっていうのに」

 そう言いながら、サラは嫌味を感じさせない笑顔を浮かべた。
 明るい女性だ。屈託のない笑みが印象的だった。
 彼女がこの3年イオリの傍にいてくれたと思うと、素直に嬉しく感じる。

「そういえば……、ブロウィンさん、だっけ。会ったよ。兄妹なんだよな」
「え、お兄ですか? あ、いや、兄ですか? ああ、そういえば手紙に書いてあったような……、ごめんなさい。何か失礼なことをしませんでしたか?」
「あ、いや、そうじゃない。立派な人だったよ」

 お世辞ではあるが、嘘ではない。
 きちんと距離を測れていたようにも思う彼の態度は、心地良かったりもした。

「それなら良かったです。まあ、実は兄の手紙に書いてあったことは大体知っていたし……、って、あ、これ言ってよかったんだっけ」
「何が?」
「いえ、その、大変失礼しているのですが、“勇者様”の情報は、魔術師隊がある程度集めているんです。言っていいんだっけ……」

 そういえば、イオリもそんなことを言っていた気がする。

「イオリにも聞いたから、多分大丈夫なんじゃないか? 四六時中見張られてるわけじゃないんだろ?」
「え、ええ。それは勿論。一応、勇者様ともなると、立ち寄った村や町で興味本位の人たちが何をするか分かりませんからね。通達レベルで魔術師隊にも連絡が入るんです。一応、簡単な警護をさせてもらってます」

 なんと。
 有名税というやつだろうか。
 エリーやサクが名前や身分を隠せと言っていたが、それはそういうことを懸念してのものだったのだろう。
 村や町でよく人と目が合うと感じていたが、それは人を引き付ける日輪属性のスキルだけではなく、魔術師隊の見張りも混じっていたのかもしれない。
 裏では彼らが自分たちの身を守ってくれていたとは。エリーではないが、魔術師隊への敬意が高まった気がした。

「でも凄いことにならないか? 勇者って結構いるんだろ? 毎回魔術師隊はそんな目に遭ってるのかよ」

 勇者は、名乗ろうと思えばいくらでも名乗れると聞いたことがある。
 ゆえに自分たちは確たる証を求め、七曜の魔術師の集結を目論んでいるのだ。

 すると、サラは首を振った。

「全っ然です。勇者様と言っても、魔術師隊が介入するレベルの方は片手で数える程度です。だからむしろ、魔術師隊には心待ちにしている人が多いですよ。私の同期なんて、この前休暇を取ってまで他の町の部隊に協力しに行ってました。勇者様が来るかも、って町に。ああ、そうだ、あなたに、ですよ。会いました? 髪を2本結って背中に垂らしている子なんですけど」

 会った記憶は無い。
 まさしくそういう輩から、魔術師隊は自分たちを守ってくれているのだろう。
 悪い気はしないが、押しかけられても確かに困る。
 こういう気分は、もとの世界では絶対に味合わなかっただろう。

「その子大ファンなんです。自慢しちゃいましょうか、お話できたこと……、って、あ、お邪魔してましたか?」
「あ、いやいいよ。丁度退屈してたし」

 基本的に話好きなのだろう。
 そして表情がコロコロ変わる。
 犬が耳を伏せたような表情を浮かべられたら、アキラには拒めなかった。
 気づかれないように、イオリに渡された資料を岩の隅に追いやった。

「ははは、良かったです。かくいう私も、えっと、はは、お話したいな、って思ってたんですよ。……ってあれ、どうしました?」
「う、生まれて初めて、自分のファンとやらに出会った」

 驚きすぎて、感情が生まれてこない。
 そもそもそうだった。
 ここは異世界。ご都合主義に彩られた世界。
 最近忘れていたが、まっすぐ見ている限りはアキラにとってこの上なく優しい世界なのだ。

 サラは、にっこりと笑っていた。

「それなら私が第1号ですね。これも自慢しちゃいます」

 まずい。
 嬉しさがこみ上げてくる。
 何か言おうと思っても、言葉が出てこなかった。

 アキラが口をパクパクしていると、サラは、はっと気づいたように手を叩いた。

「あれ、そういえばイオリと話してましたよね? イオリ、何か言ってませんでした?」
「へ? イオリ? いや、そういう話はあんまり」
「そうですか……。イオリもそうだと思ってたんだけどな。勇者様の情報収集は欠かさずやってたし……、って、これ本人に言わないでくださいよ」

 違う気がした。
 彼女の勇者への関心は、そういう類ではないのであろう。
 彼女のそれは、正常な“刻”を刻むための、必死な作業なのだから。
 だがそのせいで、近くにいたサラに影響を与えてしまったのかもしれない。

 アキラは浮かれた気分を落ち着かせると、静かに目を開いた。
 そうだ。
 近いうち、このサラが襲われてしまう。
 表がどれだけ明るくとも、自分は、闇が蠢く裏の光景を視なければならない。

「……そうだな。この隊のこと聞かせてくれないか? 噂では聞いてたけど、普段どんな感じなんだ?」

 サーシャ=クロラインの手段は知っている。
 だが資料を見た限り、サーシャの狙いは特定個人というより集団を的にしたものが多い。
 となると“二週目”にアキラが経験したサーシャの攻撃はあくまで導入に過ぎず、個人ではなくもっと大きな、具体的に言えばこの魔術師隊そのものである可能性が高いのだ。

「え、えっと、はい。私がお答えできる限りですけど、そうですね」

 サラは顔を上げて、建物の3階付近を軽く指した。
 あの位置は、昨日通された会議室のような場所だ。

「カリス隊長がまとめる私たちの隊……、第十九魔術師隊は、リオストラに拠点を置く、遊撃部隊です」

 たどたどしくも、サラは入隊直後の隊員が受ける説明のような台詞を吐き出した。

「基本的には町の警護が主な仕事ですけど、実際、こうして各地を回ることが多いですね。特に重要なのが、アイルーク大陸へ凶悪な魔物が流れそうになるのをせき止める任務です」

 知っている言葉が出てきて、アキラは息を呑んだ。
 “過酷”なモルオールに隣接する、“平和”なアイルーク。
 この大陸の魔物が1匹でも流れれば何が起こるか分かったものではない。

「それと、昨日のグリグスリーチもそうですけど、異変の調査、なんてのもあるみたいです。詳しくは私じゃ分かりませんが、隊長とイオリがよく首都に呼び出されていたりします。そんなことがあるせいか、いろんなとこにここみたいな支部があるんですよ。そのたびに私は外来の方のために部屋の掃除やらベッドメイキングやらなにやら……もうモルオール東部の町、全部回ったんじゃないかな」
「めちゃくちゃ大変そうだな」

 最後のは私怨だろうが、自分たちも世話になっている。サラがまだまだ外部の人との接し方について把握しきれていないからであろう。
 だが、町の護衛で済む魔術師隊とは違い、随分と様々なことをさせられているのは事実のようだ。
 たまに聞く、魔導士隊とやらの行動に思える。
 詳しくは知らないが、魔導士隊は魔術師隊を遥かに超える行動範囲を求められるそうだ。魔術師隊であるこの隊には、いささか重荷が過ぎるように思えた。

「凄すぎるんですよ、隊長と、そう、副隊長が」

 サラが目を細めた。
 カリスとイオリ。
 そのふたりは、噂では二大英雄とまで言われている。

「私も伊達に各地を回っているわけじゃないです。結構他の部隊を見てるんですよ。でも、完全にあのふたりは別格です。見えている世界が違い過ぎる。アイルークの防波堤な以上、拠点を定めなければならないから名目上魔術師隊ですが、戦闘力は魔導士隊と比べてもそん色ないです」

 その言葉は、酷く冷たく聞こえた。
 あのふたりが存在するから、この部隊は強力である。
 裏を返せば、あのふたり以外の隊員は、装飾品のように、隊を成すための数合わせでしかない。
 考え過ぎだろうか、そんなことを言っているように聞こえた。

「そ、そういえば、そのイオリを保護してくれたんだよな」

 雲行きが怪しくなったと感じたアキラは、強引に話題を変えた。
 サラはふと顔を上げると、記憶を掘り起こすように眉を寄せた。

「ええ、そうですよ。昨日お連れの方にもお話しましたけど、森で倒れているのを見つけて。あ、そうそう聞きたいことがあったんですよ」
「ん?」
「イオリ、異世界来訪者なんですけど、勇者様もそうなんですよね? もしかして、おふたりはお知り合いだったりしました?」

 昨日の自分の行動は、サラの目から見ても何かを感じたのだろう。
 エリーにもそう思われていたようだし、もうそういうことにしていた方が都合は良さそうだ。
 アキラはゆっくりと頷いた。
 嘘を吐くことの罪悪感には慣れられそうにない。

「やっぱりそうなんですね。そっか、だからか」
「はい?」
「いえいえ。イオリ、勇者様のお名前聞くと、軽く髪を撫でるんです。見てると面白いんですよ」

 彼女と付き合いが長いだけはある。
 イオリのことをよく見ているようだ。
 だがそれは、サラが邪推しているようなものではなく、危機感からくる条件反射のように思えた。

「それに、最近のイオリの様子……、えっと、うん、変でした。きっと、勇者様がモルオールを旅していたからですね。うん」
「……イオリは、何かに悩んでいたか」

 サラはイオリをよく見ている。言葉が詰まったサラの様子に、アキラは思わず訊いてしまった。
 自分を悩ましている、彼女が思っていること。
 それは、サラからは見えていることなのかもしれない。

 するとサラは、思わず口を滑らしてしまったように、口に手を当てた。

「……そうですね。私はそう思います」

 サラは神妙な顔つきになって静かに言った。

「きっと、勇者様に会おうとしていたからだ、って思っていた……、思おうとしていたんですけど、ね」

 サラは立ち上がった。
 もう随分長いこと話し込んでいる。
 そろそろ彼女にも、別の仕事があるのだろう。

「上手く言えないですけど……、勇者様。イオリが何に悩んでいるのか分かったら、ううん、言わなくていいです。だけど、私にできることがあったら言ってください。あんなに悩んでいるイオリ、見たことない。きっと……」

 サラは歩き出しながら、小さく呟いた。

「苦しんでる」

 聞こえた声は、アキラの耳に確かに残った。
 知っている。知っていた。
 イオリが苦しんでいるであろうことは。

 サラからすれば、それは自分のことのように辛いのかもしれない。

「失礼します、勇者様。どうかイオリをお願いします」

 ぺこりと頭を下げ、サラは駆け出していった。

 アキラは払いのけていた資料に目を落とす。
 やがてこの場所を襲撃するサーシャ=クロライン。
 狙いはこの魔術師隊だ。

 サラの話を聞く限り、確かにこの魔術師隊には魔族が攻撃するに足りる理由がある。
 だがその初手はどうなるか。
 “一週目”ではサラ。
 “二週目”ではカリス。

 どちらを守るべきなのだろう。
 サーシャ=クロラインが相手だ。ひとつのミスが致命傷に繋がる恐れもある。

 現状、もっとも可能性の高いサラからは、特別異変は感じなかった。だが、その状態から人を支配できるのがサーシャだ。油断はできない。
 そしてカリス。あまり話せてはいないが、現状不安要素は無いように思える。“二週目”では隊長のイオリへの劣等感が刺激されていたようだが、現在の隊長は彼だ。

 そろそろ日も落ち始めてきた。自分のファン第1号との会話はもう終わった。
 ここから先は、目を背けずに、裏を見て、そして読み解かなければならない。

 遠ざかっていくサラの背中を見送りながら、アキラは目の前に、暗い闇が浮かび上がっていくのを感じた。

―――***―――

「いや、当然両方見張ることになるよ」
「だよな」

 夕食を済ませた後、再びイオリのもとを訪れたアキラに、彼女は当たり前のように言った。
 夜の廊下は窓と部屋から漏れている灯り以外光源がない。
 薄暗く、人の気配に敏感になれる。
 暗がりで、距離も近く、小声で話していると恋人同士の密会にも思えるが、会話の内容はまるで穏やかではなかった。

「確かにサラがサーシャに襲われる可能性は高い。だけど、カリスも当然無視はできないさ。一応、手を打ってはいるけど」
「それはお前が副隊長になってることか?」

 イオリは頷いた。
 やはりそうなるように立ち回っていたようだ。

「サラも同じくだ。極力同じように接したかったけど、前々回と同じだったらあのときの二の舞だ。可能な限り前々回と同じようにした上で、サラとの接し方は考えさせてもらった」
「お前は器用だな」
「そうでもないさ。何せ不安はまだ尽きない。だからふたりとも見張るんだ」

 イオリはちらりと廊下の先を見る。
 そろそろ目も慣れてきた。
 あの先には、先ほどカリスが入っていった部屋がある。昨日通された会議室の3つほど隣の部屋が就寝用の部屋らしい。

「いいかアキラ。昨日の魔物の襲撃の損害調査は今日終わった。念のために明日までここにいるつもりだけど、別の場所で事件があればそっちへ向かうことになる。だから今日……遅くとも明日だ。何かあるとしたら、ね」
「お前の記憶ではいつだったんだよ」
「グリグスリーチの事件の翌々日、つまりは明日だったよ。だけど、思ったより調査がすぐに片付いちゃってね。“時”を信じるか、“刻”を信じるか。僕としては“刻”が正しい気もするが、いずれにせよどちらも見張れば済むことだ」

 すっかり戦闘態勢のイオリは、魔導士のローブを羽織って、短剣も腰に差していた。
 闇に紛れた装束は、こうした活動に適しているように思えた。
 不安なのは、あの鋭そうなカリスに見つかったときに言い訳し難いことくらいだろうか。
 一応剣は持ってきているが、服装に何の工夫もないアキラなど言い訳のひとつも浮かばずに、すぐに見つかって説教でもされそうだった。

「分かった。じゃあここは頼む。俺は―――」
「何を言っているのかな」

 ものすごく、怖い声が聞こえた。
 底冷えする空気に充てられ、アキラは一歩下がる。
 暗がりでイオリの表情はあまり見えないが、どうやら笑っているようだ。笑みは威嚇の一種であるらしい。

「男性の君が、女性のサラを、夜に、見張るって?」
「いや確かに俺何言ってんだろうな悪い」

 早口でまくしたてると、イオリから強いため息が聞こえた。
 だが一応弁明しておくと、決してやましい気持ちがあったわけではない。
 カリスが怖いのだ。
 彼の武器で滅多打ちにされかかった記憶もあるし、何より真面目な人間とアキラとの相性は最悪だったりする。

「はあ。というわけでここを頼む。じゃあ僕はサラを見張ってくる。2階だから、声を出せば聞こえるよ」
「てか、お前とサラならふたりで話し込んでたらどうだ? それならサーシャも手は出せないだろ。あの子、元気だし」
「……いつの間に親しくなったのかは聞かないでおくけど、それは止めた方がいい。サーシャが現れるのを防げるかもしれないけど、それは今回だけだ。次はいつ訪れるか分からないタイミングで襲われることになってしまう」

 確かにそれは困る。
 サーシャが相手となると、来ると分かっていてようやく対等に渡り合えそうなのだ。
 ふたりには悪いが、囮になってもらうしかない。

「だから君も、カリスの部屋を訪れないでくれよ。それじゃまた後で」

 頼まれてもお断りだ。
 アキラはイオリを見送ると、壁に背を預けてゆっくりと腰を下ろした。

 音がしない暗闇だ。
 神経が鋭敏になっていく。
 耳がどこかの部屋から聞こえてくる時計の音を拾った。
 規則正しく時を刻むその音を振り払い、アキラはゆっくりと月明かりが差し込める窓を見る。

 満月が浮かんでいた。

「……!」

 どれだけそうしていただろう。
 カリスの部屋から物音が聞こえる。
 アキラは思わず剣に手を当て、座りながら前傾姿勢を取った。

 何かあったのだろうか。
 時間はもう分からない。
 とっくにみな就寝している時間だろうか。

 ではあの物音は何か。
 冷えた廊下だというのに、妙な汗が頬を伝う。

 音を殺して息を呑んでいると、妙な気配がした。
 嫌な感じだ。

 サーシャ襲撃の可能性として考えられるふたり。
 カリスとサラ。
 自分たちが囮にしているとは言え、いずれもまっとうな人間だ。
 そんな人物たちが襲われそうなのに、自分はここでこうしてじっとしている。
 イオリの言うことも分かる。
 来ると分かっている今だからこそ、対等に渡り合えるのだ。
 だがそのために、彼らには危険な目に遭ってもらうことになる。
 本当にそれでいいのだろうか。
 しかも、襲撃はもしかしたら明日かもしれないのだ。
 今日サーシャが訪れなければ、彼らには二日続けて囮になってもらうことになる。
 いかに安全策とは言え、それは流石に忍びない。

 それに、同じように見張りをしているイオリは。
 イオリは無事だろうか。

「……どうする」
「少なくともそうだな。私なら背後にも注意を払うでしょうな」

 その背後からの声にビクリと身体中が跳ね上がった。
 剣を手にしたまま、強く地を蹴って鋭く反転。
 アキラが鋭く睨みを聞かせると、闇夜に慣れた目が、背後に立っていたらしい存在の輪郭を拾った。
 比較的大柄な男のようだ。

「……って」
「動きは、流石と言ったところですか。ですが、勇者様ともあろう方が、深夜に武装をして魔術師隊の支部を歩き回るのは感心しません。それとも何か用があったのでしょうか―――私に」

 雲の隙間から差し込めた星明りが照らし出したのはカリス=ウォールマン。
 アキラの背後の部屋にいるはずの人物が、闇に紛れる魔導士のローブを羽織り、厳格な顔つきでアキラを見下ろしていた。

「……いや、ちょっと話をしてみたくて」
「……」

 適当な言い訳を口走ってみたが、カリスは当然納得していなかった。
 徐々に冷静さを取り戻したアキラはゆっくりと立ち上がると、カリスの眼光を見返した。どうやらサーシャに操られているわけではなさそうだ。

「……まあいいでしょう。こちらへ」
「……はい」

 説教を受ける前の子供の気分を味わった。
 カリスは近くの部屋を開けるとアキラを促す。
 内装は、昨日訪れた部屋と同じようだ。
 同じようにカリスは最奥の机に腰を下ろしたのを見て、アキラはゆっくりと扉を閉めた。

「さて、どのようなお話ですか」
「あ、いや。それより、部屋にいませんでした?」
「妙な気配を感じましてね。部屋を抜け出したのです。すると勇者様が廊下でひそんでいるではないですか。私は夜目が効くのでね―――何をしているのか聞きにいったわけです」

 ぎろりと睨まれた。
 アキラは委縮する。流石に魔導士か。アキラの不慣れな潜伏など容易く見破れるようだ。
 勝手に見張っていたことも相まって、カリスの正面はアキラにとって大層居心地が悪かった。
 カリスは就寝していたと思われるのに、すでに髪もぴっちりと決めている。その佇まいも、アキラを威圧するように強く感じた。

「えっと、話、だけど」

 気配だけで圧倒してくるようなカリス。
 “二週目”では剣を交えた相手でもある。
 だが、委縮してばかりでも仕方がない。どうせ見張りは失敗したのだ、この際話でもしてみよう。

「ホンジョウ=イオリ」

 アキラは、自分とカリスの唯一の共通話題を口にした。
 そうだ。
 確かにカリスには訊きたいこともあった。

「彼女を、魔王討伐の旅に連れていきたい」

 “二週目”では、仲間たちは次々と集まり、あらゆる伏線を断ち切って進んでいた。
 だから気にしたことは無かった。
 旅に出るということは、そこでの生活を終えることになる。
 エリーやティアもそうだったろう。
 だがイオリは、それに加えて魔導士としての職務がある。
 この世界に触れて、この世界の生活というものに触れて、その辺りのことはどのようになっているのかは気になってきた。

「……なるほど」
「いいのか?」
「いいも何も、それは本人に聞いてください。我々にとって、魔王討伐以上に優先すべきことは無い。休職扱いにすれば済む話です」

 意外にも協力的だ。
 この辺りが、自分と、そして異世界の意識のずれなのだろう。

「しかし、本人がどう言うか」

 カリスは表情を崩さないまま、顎に手を当てた。
 アキラの表情も固まる。
 本人の自由意志の問題。
 そう言われると、アキラは何も答えられなかった。
 彼女の内面を、自分は知らないし、そして分からない。

「勇者様は、イオリのことを知っていたのですか?」
「……それは、まあ」

 本当でもあり、そして嘘でもあった。
 彼女のことを思い浮かべると、何もかもあやふやで、地面ではないところに立っているように不安になる。
 これだけ悩んでいるに、靄は晴れなかった。

「…………。では、一応、勇者様に協力的な身分として、言っておきましょう。彼女を通して、私が感じたことは、きっと旅でも感じるでしょうから」

 カリスはアキラの感情を探るように目を光らせると、遂にその表情を僅かに歪めた。

「彼女を理解できる者は、いないのかもしれない」

 その言葉は、アキラの中で悲しく響いた。

「もっとも、誰かを理解した、などとはおこがましくて言うことはできない。ですが、私はイオリを知れば知るほど、訳が分からなくなった。一応、業務上差し支えない程度には把握しているつもりですが……。勇者様もそんなことを思ったことは無いですか」

 まさに今、そうだ。
 カリスより事情を知っているアキラでさえ、イオリのことは分からない。

「一方で、彼女は優秀だ。あまりにも。そんな彼女といると、自分さえも分からなくなってくる。時折あるのですよ、妙に眠れない日が。目が冴えて、無性に苦しくなる。彼女の得体の知れない力が、いつしか自分を蝕んでくるような感覚を味わう。誇らしい部下であるはずなのに」

 それは、悔恨のようにも聞こえた。
 逆行と共に史実から消滅した“一週目”と“二週目”。
 この“三週目”は、それらと地続きではないが繋がっていると感じることがある。
 カリスもその苦を味わっているのだろうか。

 得体の知れないもの。見えないもの。何か分からないもの。
 それを人は恐怖と捉えるのだろう。

 アキラは思う。
 自分の前にもそれがある。
 感じていることは、カリスと同じだ。
 妙な恐怖が漠然と正面に広がっている。

 自分は何をしたら、そこから歩き出せるのだろうか。
 彼女のもとまで。

「……いかんな。アルコールが効きすぎているようだ。申し訳ないがそろそろ解散としましょうか。いずれにせよ、勧誘は本人にお願いします。その後、報告はするように、と」
「……あ、ああ。分かったよ。ありがとうございます」

 ぎこちなく言葉を口にして、アキラは一歩後ずさった。
 隊長であるカリスですら、イオリのことを把握していない。
 彼女が抱える何かを、自分も分からない。

 彼女の身に起こった事実は知っているつもりだ。
 だが、その中で、彼女が思ったことは分からない。

 彼女にもあるだろう。悩み、不安、そしてあるいは恐怖。
 彼女はそれを打ち明けず、当たり前のように行動している。
 傍から見れば、問題ない。

 だが、サラは言った。
 イオリは苦しんでいる、と。

 “そういうことを考えている者から”―――

「!?」

 カリスが席を立とうとした瞬間、床下から物音が聞こえた。
 今のは、何かが砕ける音だ。
 もしかすると、

「なんだ、窓が割れたのか?」

 アキラとカリスは競い合うように部屋を飛び出た。
 今の音は下から聞こえた。2階だろうか。そこにはイオリとサラがいるはずだ。

「私は装備を整えすぐに追う!!」
「ああ!!」

 アキラはカリスと別れると、廊下を踏み砕かん勢いで駆け出した。

 遂にサーシャの襲撃だろうか。
 ふたりは無事だろうか。
 どこの窓が割れたのか。
 混乱した頭に様々な言葉が浮かんでくる。

 落ち着け。
 今は、ふたりの無事を確認することだ。

 階段を見つけ、飛びかかるように踊り場に着地して反転。
 再び一歩で階段から飛び降りたアキラは、勢いよく駆け出そうとし、

「きゃ!?」
「わっ!?」

 危なく誰かとぶつかりそうになった。
 アキラは身をよじってかわすと、窓を背に身を固めていた人物を見つけた。

「サラ!? 無事だったか」
「え? えっと、どうしました?」
「いや、なんか割れた音がしただろ」
「ああ、そうなんですよ。だから隊長に報告しようとして。どうかしましたか?」
「いや、無事ならいいんだ。それよりイオリは?」
「え、えっと?」

 見ていないらしい。それだけ聞ければ充分だ。妙なものが目に留まったが、今はそれどころではない。
 アキラは即座に廊下をひた走る。
 カリスは自分と話していた。サラは無事。
 となるとサーシャのターゲットは。

「ちっ」

 拳に力が籠る。
 何故考えなかった。いや、考えないようにしていた。
 “過去”の事実はそうであっても、この“三週目”では違うターゲットが選ばれる可能性があることに。

 相手はあのサーシャ=クロライン。
 誰であっても、例外なく、襲撃を受ける可能性があるのだ。

「……!」

 走った先、不自然に開いているドアが目に留まった。
 中から僅かな明かりが漏れている。

 アキラはわき目もふらずに部屋の中に飛び込んだ。
 そして。

「きゃっ!?」
「だぁっ!?」

 部屋から飛び出てきた誰かに、今度こそぶつかった。
 ガチャンと何かが落ちて砕けると、辺りは再び闇が落ちる。光源だったようだ。

 アキラがよろめきながら立ち上がると、同じように尻餅をついていたらしいぶつかった人物が目に留まった。
 それは。

「……は?」
「い、た……。って、アキラ」

 ホンジョウ=イオリ。
 アキラが必死に探していた人物が、当たり前のように目の前にいる。

「そうだ、サラは? サラが部屋にいない。荷物もだ」

 差し出した手を掴んで立ち上がったイオリは、鋭く廊下に目を走らせた。

「いや、サラならさっき、変な音がしたから隊長を呼びに行くって……」

 ふと、アキラの頭に、先ほどぶつかりかけたサラの様子が浮かんできた。
 彼女が窓に背を預けていたあの光景。
 確か自分は、見たはずだ。彼女が何かを背負っていたような気がする。
 あれは、旅支度のようにも思えた。

「変な音がしたからだって? 窓が割れたのはサラの部屋なのに?」
「どうした、ここか?」

 駄目押しとも言わんばかりに、サラが呼びに行ったはずのカリスがひとりで到着した。
 アキラは呆然と、騒ぎを聞きつけ起き出してきた隊員たちを眺めていた。

 自分は何故、あんなにもあっさりと、今夜最も襲撃を受ける可能性の高いサラをひとりにしてしまったのか。
 何故この非常時に、むしろイオリに注意を向けてしまったのか。

 まさか。
 囁かれたのはサラだけではなく―――

「……俺にも、囁いたのかよ」

 遠くから、馬が1匹いなくなっているとの報告が聞こえてくる。
 闇夜に紛れ、森を走り、どこへ向かったかは分からないそうだ。

「サーシャ=クロライン」

 勇者と魔導士が見張っていたのに、まんまと襲撃を成功させた魔族の名を、苦々しく呟く。

 夜空には、不気味なほど巨大な満月が浮かんでいた。

―――***―――

「まったく、何が起きている」
「窓に妙な仕掛けがありますね、これは?」
「分からん。だが、窓伝いに隣の部屋に行った足跡がある。私も先ほど、似たような経験をした」
「?」

 遠くでカリスが隊員に囲まれながら何かを話している。
 難しいことは分からないが、どうやらサラは、部屋に入ったあと、隣の部屋へ窓から移動したようだ。
 サラの部屋は東側。馬小屋は建物の西側にある。
 物音を立て、イオリが部屋に飛び込んだタイミングで、隣の部屋から飛び出したのだろう。
 そうすれば、悠々と階段を下りて馬車へ向かえる。
 途中で誰かがサラを捕まえていれば、そんなことにはならなかったのだが。

「……悪い。俺があのとき、捕まえていりゃ」
「いや、僕のミスだ。そもそもサラは僕の担当だったんだから」

 イオリはそう言うが、アキラはまともに顔を上げられなかった。
 自分のあの行動。
 イオリを探した自分。
 それは、もしかしたら、イオリを信じきれなった自分がいたせいなのかもしれない。
 何を考えているか分からないイオリ。
 それに接して、自分は、彼女への疑念を増幅させていたのだろうか。
 そうなると、本当にサーシャに囁かれたのかどうかさえ怪しくなってくる。
 自分の行動理念も、あやふやになっていく。
 イオリが何を考えているか以上に、自分自身が、イオリをどう思っているのか分からなくなってきた。
 何の不純物もなく、イオリの身を案じたのだと、はっきりと言えない。
 思っていることが言葉に、形にならない。形にならないものは、存在しないことになる。

 魔術師がひとりいなくなったことは、流石に事態が重いようだった。
 深夜だというのに、魔術師隊の面々は起き出し、細かくサラの部屋を調査している。
 サラの部屋にこの人数が押しかけるわけにもいかず、アキラとイオリは廊下の壁に背を預けて立っていた。

「お前、隊長にはなんて説明したんだよ」
「比較的正直に。妙な気配がして、廊下を見回っていたら、サラの部屋から物音が、って。流石に怪しまれていたけど、いつものことさ」

 さらりと答えたイオリは、しかし、眉を寄せて下唇を噛んでいた。感情の無い声だった。
 アキラは窓の外を眺める。
 月明かりがあるとはいえ、遠目に見える木々は闇をすっぽりと被っている。
 この暗がりでは、イオリの召喚獣でも探しきれない。
 サラを完全に見失ってしまった。

「どうする」
「一応考えはある。サラの襲撃は前々回と同じだった。だから多分、明日の朝に報告があるはずだ。リオスト平原へ向かった、って」
「……」

 その場所はアキラも覚えがある。
 “二週目”、今さらの部屋の中で調査を進めているカリスとアキラは剣を交えた場所だ。
 イオリは襲撃を受けた場合のことも考えてはいたようだ。

「……冷静だな、お前は」
「そうでもないさ―――叫び出したいくらいだよ」

 ギリ、とイオリは強く歯を噛んだ。
 無神経なことを言ってしまったようだ。
 アキラは目を伏せる。

 彼女は怒りを覚えているのだろう。
 それはアキラに対してか、自分自身に対してか。
 努めて次を見据えているイオリの様子からは、簡単には分からない。

「とにかく、これでルートは確定したんだろ。こいつは“一週目”だ」
「……そうだね。そういうことらしい」
「なら明日、リオスト平原とやらに行ってサラを救いにいく。そうすりゃいいんだよな」
「……そうならないために、見張っていたんだけどね」

 イオリは顔を伏せながら、爪を噛んでいた。
 身体が震えている。

「っ、……どうして、どうして。なんで部屋に飛び込んだんだ……」
「おい、イオリ?」
「気づけたはずなのに……。ドアを開けるだけで良かったはずだ……。……もっとうまくできたのに」
「こっちだ。歩けるか?」

 肩に手を置き、アキラは人の輪からイオリを連れ出した。
 流石にこれ以上魔術師隊の中で会話を続ける気にはならなかった。

「落ち着けイオリ。とにかく教えてくれ。こうなったら“一週目”をなぞった方がいい。明日、俺は何をすればいい?」
「……なにも、だよ。できればそうだな、見ないでくれればそれでいい」
「?」

 妙な言い方をする。
 アキラは下手に声を出さず、イオリの言葉を待った。
 “一週目”。
 何が起こったのだろうか。

「あのとき、君は同行するだけで、何もする必要がなかった。それほど、僕とサラの戦闘力の差は大きい。だから、」

 イオリは顔を上げた。
 弱々しく、正気の抜けた表情が、アキラをまっすぐに捉える。

「僕がサラを殺すところを、見ないでくれ」
「―――」

 それが。
 “一週目”の出来事、だというのか。

「―――ば、ふざけんな。サーシャがいなくなれば支配は解ける。そんなことしなくたって」
「知っているんだ、僕は。君が忘れたこと、忘れてしまったことを。サーシャの力には“段階”がある。徹底的に、ひとりに的を絞ってサーシャの力を使えば、それはもう、完全支配。サーシャが消え去っても、その支配は解けることは無い」
「だけど、“二週目”。あのカリスは、元に戻っただろ」
「それはカリスだからさ。彼は圧倒的な魔力と強い自制心がある。一時操られた程度じゃすぐに克服できる。でも、サラは」

 魔導士ともなれば別格。
 旅の道中、何度も聞いた言葉が蘇る。
 魔族の干渉にすら耐性のある魔導士 ともなれば、常人では必死の襲撃すら静観してみせるのだろう。
 だが、その魔導士すら一時的に操られるサーシャの魔法が、魔術師レベルに降りかかればどうなるか。

「もともとサーシャの狙いはこの隊の壊滅。だから、僕にゆかりがあって耐性の低いサラが選ばれたんだろう。前回は、“恐ろしく戦闘力の高いふたり”がいたからね。サラを支配しても何も状況が動かないと判断したんだろう」

 また感情の無い声で、淡々と言葉を続ける。
 諦めたような口調に、アキラは憤りを覚えた。
 ふざけるな。
 そんな程度で諦められるものか。

「だったら今からでも遅くねぇだろ。探しに行くぞ。森に火をつけても探し出す。方向だけは分かってるだろ」
「そんなことをする理由は? 意味は? 捜索にはどうしたって魔術師隊の協力がいる。出来事としては重いけど、結局のところ高がひとりいなくなっただけだ。ただ夜に出歩いただけだって思う隊員がほとんどだろう。一晩だけじゃ誰も魔族の襲撃なんて信じやしない」
「なりふり構っていられるか。副隊長のお前と、勇者様とやらの俺。ふたりで騒げば、流石に」
「それに」

 イオリはアキラの手を振り払った。
 魔導士のローブを整えるように払うと、アキラに背を向けて呟く。

「そんな勝手なことをしたら、今度こそルートは崩壊だ。君の言う“一週目”や“二週目”。そこで―――“失われなかった命”にどうやって責任を取るつもりだ」

 それは。
 アキラが旅の道中で何度も思ったことだった。
 この記憶を最大限に利用して流れを変えれば、物語が崩壊する。

「少しくらい……、ほんの小さな変化だけなら大丈夫だと思った……、思おうとした。でもそんな、いいとこ取りをしようとするような弱々しい手じゃ何もつかめなかった。結局駄目だ。僕はあのときと同じように行動するしかない」
「……」

 やっと、分かった。
 イオリは、目の前の魔導士は、この“三週目”を始めたばかりの自分と同じだ。
 周りを気にして、異質であることを隠そうとして、そしてもがき苦しんでいる。

「俺も」

 アキラの気持ちは決まっている。
 例え物語が崩壊しようと、自分が望む世界を作るために、未来を変えていこうと強く思う。

「何度も思った。これでいいのかって。俺が寄った町や村で出た犠牲者は、“二週目”には無事だったはずだった。だけど、それでも、救える奴は例え“一週目”の犠牲者だろうが救ってきているつもりだ。それが、悪いことかよ」

 言って、イオリが冷めた目で床を眺めていることに気づいた。
 まるで、聞き飽きた説教を聞いているような表情だった。

 未来を変える。アキラが強く思うこと。
 だが、そう思えたのは何故だったか。
 エリーやサク、そしてティアと共に時を過ごした自分だからこそ、例え歪であっても、輝いた世界を作り出そうと思えたのかもしれない。
 だがイオリは。
 ずっとひとりで、その葛藤を続けていた。

「そうだね。……でも、それは止めた方がいい。今回のことではっきり分かっただろう。やっぱり、前々回が正常な物語なんだ」

 聡明な彼女のことだ。
 アキラの決意など、アキラが思いつくようなことなど、とっくに検証済みなのだろう。

「物語の崩壊は、何を優先しても避けなければならないみたいだ。そうじゃなきゃ……そうしなきゃ、魔王のもとまで辿り着くこともできないかもしれない」
「そんなこと、やってみなくちゃ分からないだろ」
「やってみた本人が言っているんだ……!!」

 横を通り抜けようとした魔術師の男が、ぎくりとして立ち止まった。
 視線も向けないでいると、いそいそとサラの部屋に向かっていく。
 イオリは未だ、顔を伏せていた。

「君の言う“二週目”。そこでも話しただろう。僕はこの世界に“バグ”を作り続けていたって。物語を、どうしても変えたくて。だけど結果は散々だった。立派な隊長でいたはずのカリスが被害に遭って、僕は聞かされたくもない言葉を浴びせられた。本当に、酷かった」
「それでも“二週目”。サラは無事だったろうが。一応は、魔王の元へも行けた。それなら、」
「それは“力”があったからだよ」

 ズン、と胸に杭を打ち付けられた気がした。
 何かを口に出そうとしても、何かに邪魔されてうめき声ひとつでない。

「あれだけ歪だった前回が、それでも前へ進めていたのは“君の力”と“彼女たち”の存在が大きい。いや、すべてを占めている。それが無い今、物語を壊したらどうなる? どうやって世界を守れるんだ?」

 何も浮かばない。
 いや、想いは浮かんでいる。
 だけど、彼女が考え続けていた答えに対して、すぐに思いつくような言葉は届かない気がした。

「……だから、諦めるのかよ」

 ようやく口に出せた言葉は、自分の声とは思えないほど、黒く濁って感じた。
 安い挑発のような、負け惜しみのような言葉。
 イオリは顔を上げた。
 その表情を見て、アキラは、サラの言葉を思い出していた。

 彼女は、苦しんでいる、と。

「諦めたくて、諦めているわけじゃない」

 彼女は、アキラ以上に、時計の針を戻し続けたこの世界に、捉われている。
 まるで状況が分からなかった“二週目”。そして、この“三週目”。
 彼女なりにあらゆることを試して、あらゆることを封じて、それでも生きてきていた。

 サラの命と世界の物語。
 その両方が天秤にかけられた今、彼女の冷静な思考は、世界に傾いているのだろう。
 だが、感情まではそうではない。
 徹底してそうすべきなら、そもそも今夜、見張りなど立てようとはしなかったはずだ。
 サラを囮になどせずに、サラを犠牲にして、正常な“刻”を刻むことこそが、冷徹ではあるがそうあろうとする人間の正しい行動だ。
 だからイオリは、少しだけ手を伸ばした。
 その禁忌を犯してまでも、救いたいと願ったはずだ。
 この見張り。アキラとはかける想いがまるで違った。それなのに、彼女からそんな素振りを感じられなかった自分が、酷く情けない。

 だけど、それでも。

「サラの救出は明日の報告を待ってからだ。僕ひとりで向かうよ。アキラ、君は町を頼む。“襲撃があるからね”」

 グイと顔を拭い、イオリは廊下の闇へ消えていった。
 その背中にかける言葉も見つからないアキラは、調査を進める魔術師に声をかけられるまで、呆然と立っていた。

―――***―――

 目覚めは最悪だった。
 あまり寝た気がしない。

 それでもアキラは覚醒と同時に強引に身体を動かし、窓の外を見た。
 火の手も上がらず、空は快晴。穏やかな町並みが広がっている。
 どうやらまだ、魔物の襲撃は来ていないらしい。

 サラは目撃されただろうか。
 もしそうなら、イオリはすでに出発しているかもしれない。

 ずん、と身体が重くなる。
 下手に身体を動かしたくない気分だ。
 何とでもなれと思ってしまっている自分がいる一方で、何かをしなければならないという妙な使命感を覚える。

 昨日のイオリとの会話。
 彼女はこの3年、いや、もっとずっと前から、こんな風な気分を味わい続けているのだろう。

「……起きなきゃな」

 何をすればいいのか分からない。彼女の何を伝えればいいのか分からない。
 それでも、今日起こることは分かっていた。

 サラが目撃され、そして魔物の襲撃がある。

 それが“刻”。
 それを正しく刻むことは容易なのだ。

 だけどそれは、許されない。

「まずは、話を聞かないと」

 誰にだろう。
 何についてだろう。
 分からない。

 イオリには、どんな言葉をかければいいのだろう。
 何も思いつかなった。

 だけど、このまま部屋にいたら気が狂いそうになる。

「って、」
「あ、はは。もう起きてたんだ」

 ドアを開けると、昨日同様の来訪者の姿があった。

「もう起きてたもなにも……、サクはとっくに起きてんじゃないか?」
「ああ、そうなのよ。それであたしも目が覚めちゃって。まあ、昨日の騒ぎで結構寝不足なんだけどね」

 小さく笑うエリーを連れて、廊下に出た。
 随分と冷えている。
 慣れたものだが、寝起きの身体には刺激が強い。
 エリーが向かうのは朝の鍛錬だろう。
 自分も一応は調子を合わせて、廊下を進んだ。

「あ、そういえばあんた、昨日の騒ぎ知ってる? なんかあったらしくて、様子見に行ったんだけど魔術師隊の人でごった返してたわ」
「ああ、知ってるよ」

 エリーたちもあの場にいたのだろうか。
 アキラは適当に答えた。
 昨日のことを思い起こすと、朝の寒さに磨きがかかったような気がした。

「ねえ」
「ん?」
「イオリさんも知ってるかな」
「……ああ、知ってるよ」

 また、適当に答えてしまった。
 魔術師がひとりいなくなった。エリーにも伝えるべきことなのに、妙に気乗りがしない。あのときのことが頭に引っかかり続けて、あいまいな言葉しか出てこない。
 そんな態度だからか、隣のエリーの口調が強くなった。

「あのさ。イオリさんと喧嘩でもしたの?」
「……さあ、どうだろ」

 あれは喧嘩だったのか。
 そうと思えばそう思えるが、そんな稚拙な言葉で片付けられるようなテーマではなかった気がする。
 だが、主義主張の違いという意味でとらえれば、大なり小なりそれはただの喧嘩なのだろう。

「あ、の」

 アキラの腕がぐいと引かれた。
 そこでようやく、アキラはエリーの表情を見た。
 露骨にむっとしている。

「勧誘してたんでしょ? 怒らせちゃ駄目じゃない」
「あーもう、うるせぇな。じゃあ仲直りの方法でも考えてくれよ」

 言って後悔した。
 完全に八つ当たりだ。年下の女の子に。
 アキラがばつの悪そうに頬をかくと、目の前のエリーは、相変わらず不機嫌そうなまま、息を吐いた。

「じゃあ、問題ないんじゃないの」
「は?」

 エリーは先行して歩き出した。
 アキラは慌てて追うように隣に並ぶ。
 エリーは表情そのまま前を向き、ずんずんと廊下を進んでいた。

「仲直りしたい、って思ってるんでしょ。じゃあそうなるじゃない」
「何を言ってんだお前」
「もう、うるさいなぁ。……受け売りだけどね。どんな風に喧嘩をしたって、別れたって、またそうなりたい、って思っているうちは、縁は切れてないものなのよ。あんたは仲直りしたい、って思ってるんでしょ」
「そんなもんかよ」
「そんなもんよ」

 諭された。年下の女の子に。

「でもさ、分かんねぇんだよ。何したらいいかさ」

 単純な言葉だったからだろうか。
 アキラは息を吐き出して、正直に、自分の気持ちを言った。
 分からない。それに尽きるのだ。
 イオリにかける言葉が見つからない。

「あいつが何を考えていて、何をしたらいいのか……。正直、俺じゃ何をやっても失敗するような気しかしない。てか俺自身も、あいつに対して何を思っているのか分からなくなる。だったら何すりゃいいんだよ」
「何の嫌味?」
「?」

 エリーの機嫌がこれまで以上に悪くなったのを感じた。
 アキラが気圧されていると、エリーは諦めたように言葉を続ける。

「そんなの、思うだけなら自由じゃない。不安になったり、心配したり、疑ったり、自分じゃどうしようもないんだろうな、って思っても……、結局助けたい、知りたい、って思うなら、それでいいじゃない。あんたがイオリさんをそう思ってるなら、何とかしたいと思い続けるべきなのよ」
「……ティア理論みたいなことを言い出したな」
「うっさいばか。それくらい許してくれなきゃやってられないわ」

 眠気があるのか、エリーは両手で軽く自分の頬を叩いていた。
 言葉にならない感情も、抱くことはできる。
 それが形にならなくて苦しむことがあっても、それを含めて相手を想っていることになる。
 それでいいと、彼女は言う。

「どうせ、考えても何も思いつかないでしょ。だったらイオリさんに会って……何度でも会って、そう思ってることを相手に分からせればいいのよ。言葉なんて予め考えても無駄でしょう。それでいつか、なんの気なしに、言葉になったりするものよ」
「……そんなに上手くいくもんか?」
「今のところ微妙ね」
「そんなに険悪そうに見えたのかよ」

 エリーが早足になった。
 目の前には外への扉がある。
 外ではサクが、あるいはたまにやたらと早くなるティアもいるだろう。

 イオリに対して、何も思いつかない自分。
 だけど、思いつこうとし続けた自分はいた。

 彼女の闇を、得体の知れないものに、カリスは恐怖にも似た感情を抱いていた。
 それでも、自分はそれを知りたいと思った。

 誰かを理解したなどという言葉は、不遜であるのだろう。カリスも言っていた。
 だが、理解したいと思うこと自体は、許されることなのではないだろうか。
 あれこれと悩んで、なんとか形に、言葉にしようとして、しかし失敗し続けることは、正常なことなのだろうか。

 なら自分は、素直に、自分の思った通りに行動すればよい。
 準備ができるのを待っても、アキラの頭からは上手い言葉なんて出てこない。

 だから。

「……なあ。俺、用がある」
「はいはい」
「それと、気をつけてくれよ」
「……分かったわ」

 アキラはそれだけ言い残し、建物の裏庭へ走った。
 間もなくこの村は、魔物の襲撃に遭う。
 不安は尽きない。
 だが、それよりももっと大きな事態に、自分は向かわなければならない。

 残していく彼女たちなら問題ない。
 それに、この場にはあのカリス隊長が残る。彼の能力は、アキラは骨身に染みて分かっている。万が一にも危険はないだろう。

 だからアキラは、迷わず、強く地面を蹴って、走り続ける。

 “二週目”の襲撃は、朝の鍛錬中。
 ちょうどその頃だ。
 あの報せが届いたのは。

「敵襲だぁぁぁーーーっっっ!!!!」

 正門の方から、よく聞く大声が響いた。

 アキラが通り過ぎた魔術師たちが、何事かと正門へ走っていく。
 流れに逆らいながら、建物を曲がった。
 そして。

「……!」

 目の前に、巨大な竜が出現していた。

「……アキラ」

 息を弾ませるアキラに対して、イオリは静かに召喚獣の前に佇んでいた。

「随分早いじゃねぇかよ」
「……少しズルをした。報告を届ける隊員を途中で待ち伏せしてね。あの騒ぎに巻き込まれていたら遅くなる」

 随分と酷い副隊長様だ。
 アキラは息を整えて、イオリの正面に立った。

「俺も行く」
「来ないでくれって言った」
「分かってる。だけど行く。そしてサラを助ける」

 イオリは黙ってラッキーに上り始めた。
 何を言っても無駄だと思ったのか、あるいは違うのか。
 アキラが同じように上りきるまで、イオリは飛び立つことはしなかった。

「方法は?」
「分かるかよ」
「……そうだね」

 イオリはゆっくりとラッキーの背を撫でた。
 すると巨獣の翼が、大きく広がっていく。

 再び向かう、あの場所。
 すっかり搭乗者は少なくなっていた。

 きっとずっと、自分は、誰であっても、人を理解し切れることはないのだろう。
 だけど、理解し続けたいと思い続けることは、少なくともできると思う。
 そんな名前の分からないような感情を、自分は抱き続けて、迷い続ける。
 名前が付けられることがあれば、それは幸運であり、そして幸運でしかないのだろう。

 イオリのことは、分からないまま。
 だけど、知りたいと思えているなら、それでいいと思える。
 それだけで、歩み続けてもいいのだから。

 迷子でい続けることに抵抗は無い。

「場所はリオスト平原。ラッキー、いけるかな」

 術者の声に巨獣が嘶き、羽ばたきひとつで建物を超えた。



[16905] 第四十四話『名前を付ける(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:da33c2b2
Date: 2020/03/19 00:50
―――***―――

 思わぬ拾いものだった。

 布石として手に入れた存在の頬を撫でながら、妖艶に笑い、唇を舐めた。

 自らの欲望のために、快楽のために、自分は人間というものをよく知ろうとする。
 人が生きていく以上、必ず流れというものが存在する。
 その流れに、ほんの少しだけ、あり得る範囲で手を加え、いずれは巨大な渦を作り出す。そうすることで、人の営みが崩壊していくことに、至極の興奮を覚えられるのだ。

 そうしていく中でも、簡単には崩壊しない流れがあることがまた面白い。
 今まで数多の流れを狂わせてきた自分でも、人間を理解した、などとは流石に言い切れない。
 あの物狂いの魔族はそんなことを気にも留めずにその手で調べ尽してはいるが、自分はそれに美学を感じない。
 多少の理解はしているが、謎は謎のまま、未知は未知のまま、しかしそれでも操るからこそ、これだけの興奮を得られるのだ。

 自分が投じた一石が、いつの間にか、誰も気づかず、得体の知れない何かを束縛し、そして意のままに操れるようになる。
 太古では、有無を言わさず完全なる支配をしていたものだが、今思えば自分は未熟であった。それでは面白みがないではないか。
 だがそれも正常だ。自分の欲望も変化する。
 そんな自分の変化ですら、謎に満ちており、そして美しく思えた。

 もっとも、自己の欲を偽り続ける“魔族”の同胞もいるほどなのだから、自分の変化など可愛いものなのだが。

 再び、今回の布石の頬を撫でる。

 拾いもののせいだろう。どうも今回は、石としては巨大で、変化としてはいささか過剰かもしれない。だが、それも含めて、愛おしく思えた。

 今、この人間の中の心は変わっていっている。
 不純物の無い、純粋な感情など存在しない。
 好意には悪意が、善意には計算が、自信には劣等感が、必ず裏に潜んでいる。
 ほんの少し、あり得る範囲で、その感情を増幅させ、あるいは縮小させ、自分の意識と同化させる。
 波は大きく、小さく、揺らいで、徐々に望んだ形へ向かっていく。

 欠けては満ちる、月のように。

――――――
 おんりーらぶ!?
――――――

「3回目だね……ここに来るの」

 着陸したラッキーから飛び降りると、イオリからそんな呟き声が聞こえた。
 アキラは白い息を吐き出し、周囲を見渡す。
 ここはリオスト平原。現在失踪扱いのサラ=ルーティフォンが目撃された場所だ。

 一方を森林に、残る三方を岩山に囲まれたその平原に、草木はほとんどなく、足もとの土も砂のようにざらつき、大地を覆っている。
 木々は先日向かったグリグスリーチの出現場所とは違い、葉が抜け落ち、天気がいいのに冷えた風が熱を奪っていくような感じがした。
 ふたりだからか、平原から少し離れた森林に着地し、様子を伺いつつ接近するらしい。そうイオリは言ったが、心の迷いが感じられる。

 周囲を木々に覆われたここも、相変わらず、寂しいと感じる場所だった。

「ありがとう、ラッキー」

 どうやら前回と同じ場所に着陸しているようだ。ここから歩くのだろう。
 イオリが鼻先を撫でると、ラッキーは光の粒になって消えていく。
 その光が消え切るまで、イオリは呆然と空を見ていた。

「……さあ、行こうか」

 落ち着き払って、淡白で、そして慎重な口調でイオリは呟く。
 表情も静かに、あくまで次の行動を見据えて、あるべき行動を取ろうとする。

 そんな彼女を見ていると、アキラの胸は強く痛む。
 今から彼女は、サラ=ルーティフォンを殺しにいく。
 あれだけ容易く、当たり前のように、親友と呼び合っていた相手を。
 それが、あるべき物語の姿であると知っているがために。

「アキラ」
「……どうした」

 ふたりで歩く森林は、虫の声ひとつせず、静寂に包まれていた。
 イオリは魔導士のローブに首をうずめる。足取りは重い。

「その……、村は大丈夫かな。案の定襲撃があったみたいだけど」
「それはお前が一番よく知ってるだろ」
「……そうだね。カリスがいる以上は余程のことが無い限り……いや、余程のことがあっても問題ないか」

 意味のない会話だった。彼女らしくない。
 現在、アキラとイオリが抜け出してきた村は魔物の襲撃に遭っている。
 アキラはともかくとして、イオリの離脱は戦力的には大きいだろう。
 だが、あの場所にはエリーもサクも、そしてティアもいる。その上であのカリスがいるともなれば、戦力的には問題ないと言い切れる。

 集中できていないのだろう。
 イオリが何かを考えるように顎に手を当てているが、虚ろな瞳が、何も考えていないことを感じさせた。
 いや、集中しているからこそ、なのだろうか。
 まるで自分が殺される場所に赴いているようなイオリの様子は、周囲の木々など問題にならないほど痛々しく映った。

「……なあ、イオリ」

 励ましの言葉など、思いつかなかった。だけどアキラは、考えるより前に呼びかけた。
 これ以上、彼女にこのまま歩いて欲しくはなかった。

「もし、仮にだ。サラを救う方法が見つからなかったらだけどさ」
「……うん」

 サラは救えない。
 言いたくはなかった。
 だがアキラの冷静な部分が、判断してしまっている。
 イオリが想定した範囲に彼女を救う方法が無いのであれば、アキラが思いつく範囲にそんな方法は無い、と。

「……俺がやる」

 イオリが顔を上げたのが分かった。
 アキラは目を合わせないように、前だけを見続ける。

 人を、殺す。
 その判断を下せるほどの勇気も、その出来事についての覚悟も、自分は持ち合わせていない。
 絶対に超えてはならない一線だとぼんやりとは分かる。
 だがそれを、今のイオリにさせたくはない。1度だってさせたくないことを、2度もさせてたまるものか。

「いや、俺はさ。結構忘れっぽいからさ。案外気にしないと思うんだよ」

 無神経なことを故意に言ってみた。
 未知の世界だ。自分だってどうなるかは分からない。
 今は寒さで震えているだけだが、いずれ勝手にこの手は震え出すだろう。それは今だけでなく、未来永劫、その苦に身を締め付けられるかもしれない。
 そんなアキラの想像の上でしかない漠然とした恐怖を、イオリはかつて経験している。
 だから、自分がやればいいと感じた。
 自分が身代わりになれば、イオリに対する贖罪の足しになるかもしれない、と、自分でも的外れだと思うことを。

「……これ以上」

 冷たい声だった。
 それでいて、耳に確かに届く声。
 イオリと話していると、よく聞く、何もかもが分からなくなる声色だった。

「これ以上、君に迷惑をかけさせないでくれ」

 アキラは思わず、イオリに視線を合わせてしまった。
 彼女の瞳はまっすぐに、アキラに向けられている。
 初めて見たかもしれない。
 動揺が目に見える、すがるような瞳は。

「め、迷惑かけてんのは俺の方だろ。……くそ。もう、はっきり言う。お前を何度も何度も巻き込んでんだ、俺は。お前が怒るのも無理ない。悪いと思ってんだよ、ずっと、ずっと」

 なんの気なしに言葉になるとエリーが言っていた気がするが、少しは考えて話した方が良かった気がする。
 苛立ちを隠さないままの言葉は、果たして謝罪と呼べるだろうか。

「だから、償いじゃないけど……、俺がやる。お前がこれ以上、辛くなるならやらせない」

 まくし立てて、アキラは歩を早めた。
 情けない。こんなことでは、結局励ましにもならないだろう。
 拳を握りながら歩いたアキラは、ふと、隣のイオリの気配が消えたことに気づいた。
 振り返ると、イオリは元の位置で立ち尽くし、幽霊でも見るような顔でアキラを見ていた。

「なんだよ」
「……え、っと」

 眉を寄せて、珍しく混乱しているようなイオリは、恐る恐るというような様子で、アキラの表情を伺ってきていた。
 こんな表情は、あのグリグスリーチの調査へ向かう前にも見た気がする。

「それは……、何の話?」
「は?」

―――***―――

「カリスン、カリスン。あの、あっしは何故ここに……」
「カリスンとは私のことか?」

 カリス=ウォールマンは恐ろしく不機嫌な声で威圧してみたが、どうも目の前の少女には通用しないらしい。

 ここはウォルファールの魔術師隊支部の庭。
 魔物の襲撃に合わせ、臨時の作戦本部として作られたことには、建物から運び出された机が所狭しと並んでいる。
 その最奥にカリスは陣取り、そして鋭く村の地図に目を落としていた。
 “伝令”から新たに入ってくる情報を加え、常に部隊の行動を整備する。
 魔物は北と東から攻めてきているようだ。
 だが、やや北の魔物が徐々に西に傾き始めているように感じる。
 現在現れている魔物は陽動の役割を兼ねているのかもしれない。ならば予め西に―――いや、本命は南だろう。向こうにしてみれば、北と南で挟むのが、一番の理想形だ。伝令が途切れぬように注意を払い、南を固め始めた方がいいだろう。
 カリスにとって、戦闘とはチェスゲームのようなものだ。
 モルオールの魔物は尋常ならざる戦闘力を保有しているが、軍と軍の戦闘では裁量がものをいう。
 魔物の数はおよそ2百から3百。こちらの戦力はおよそ50名。
 これだけの数だ。もしかしたら知恵持ちクラスもいるかもしれない。
 だがいずれにせよ、戦略で上回れば問題ない。

 そして個の戦闘力。
 すれ違いに出てしまったイオリと勇者様の離脱は痛かったが、残っていた“勇者様御一行”は指示に従ってくれた。
 ああいう旅を続けている者たちは独断で動くことがほとんどだが、どうやらいい戦いに恵まれているらしい。

「あの、あっしは……?」
「君はここで待機だ。医療班としてその力を発揮して欲しい」
「はっ、分かりました!!」

 うるさいが、やる気は伝わってくる。
 だが、今のところ負傷者は出ていないようだ。

 カリスは目を瞑り“村の様子を探る”。

 北の最前線にはあの赤い衣の少女が立っているようだ。
 遠目でも見えたあの動きは、光に例えられるほど速く、そして鋭い。
 その存在のおかげか、魔物の陽動作戦はまともに機能していないようだ。
 それで盤石に南を固められる。
 港の警護も問題ないようだ。腕っぷしが強い者揃いのローヴン=ヒトラのチームが固めている。
 キャルス=ワン=トートの遊撃部隊も、“伝令”通りに2名が南に向かっていった。
 東は、まずい。スヴェル=カインのチームに負傷者が出たようだ。すぐにこちらに向かわせて、空いた穴は“伝令”の一部を向かわせよう。

 目を閉じたカリスには、村のあらゆる場所の、あらゆる情報が飛び込んでくる。
 膨大な情報を整理し、処理し、しかるべき情報を目の前の地図に反映していく。

 正門の前を、目も口もない人間ほどの背丈の泥人形が駆けて行った。
 敵ではない。たった今、東に向かわせた戦力だ。
 そして彼が、“彼らが”、この村中に配備した伝令係でもある。

 召喚獣―――ラドウス。

 カリスの操る、複数召喚タイプの召喚獣は、村のあらゆるところに存在し、そしてその情報をカリスに伝えてくる。
 イオリのラッキーのように個としての莫大な力は無いが、カリスのように知ることが勝利につながるタイプにとって、最も適した存在だと言えた。

「……間もなく負傷者が来る。準備しろ」
「はい!! あっしに任せてください!!」

 お前ではなく、他の者に声をかけたつもりだったのだが。
 気合が入った大声を聞いて、カリスは頭を痛めた。
 他の救護班といつの間にか親しくなっているのも気になるが、どうも戦闘中の緊張感が感じられない。
 もっとも、救護班が殺伐としているよりは、怪我人にとってはいいのかもしれないが。

「……」

 間もなくラドウスたちが到着する東に注意を向けたカリスは、思わず目を覆った。
 目を焼くような爆発が小型の魔物をまとめて吹き飛ばし、よろけた馬のような魔物―――スリジブル、か―――が目を背けたくなる勢いで殴り飛ばされる。
 その爆音は、この場所にも現実の空気を伝って届いてきた。

「……」

 あくまで冷静に、慎重に、向かわせたラドウスたちを引き返らせる。
 いい方向にではあるが、なかなか計算が合わない。
 いつしか東の最前線に立っていた赤毛の少女。
 彼女がいれば東は問題なさそうだが、正直、魔物の中で暴れ回っているようにしか見えなかった。
 様子を見るに、落ち着きはあったように思えたが、どうも色々とあるようだ。
 あの年代はそうなのかもしれない。

「……」

 ふと、カリスは思い起こす。
 あの年代の女性―――イオリと、サラ。
 今イオリは、まさにそのサラの捜索に向かっている。

 詳しいことは分からないが、イオリが出向いたのだ。
 どういう形であれ、問題は解決するだろう。

 カリスは苦笑した。
 ホンジョウ=イオリ。自分と同じ魔導士に1年で上り詰めた、まごうことなき天才。
 その存在に、自分は何を思ったか。何を感じたか。
 恐怖。劣等感。誇らしさ。信頼。
 ありとあらゆることを思ったように感じる。

 不気味さを覚えた。
 それは確かな事実。昨夜勇者様にも話したことだ。

 だが自分が彼女に対して思ったことは、そんな単純な感情ではない。
 結局のところ、ホンジョウ=イオリも、あの赤毛の少女と同じ年頃の女の子だ。
 魔術師隊に入り、実績を重ねていく彼女を、娘のように思っていたかもしれない。
 感情を言葉にしたときに大人びていても、冷静なように見えていても、思うことの根幹は、誰しも酷く似通っているのだろうか。

 戻ってきたら、ゆっくりと、話でもしてみるか。

「はっ、お怪我ですか!? 大丈夫ですか!? おうさっ、私にっ―――」

 そこから先は耳を塞いで被害を避けた。
 カリスは息を吐く。
 救護は全く問題ないだろう。
 彼女の魔力は一昨日見ている。この場に残る救護班を数名遊撃に回すべきだったかもしれない。
 つくづく計算が合わない。

 カリスは自分の思考に苦笑しつつも、再び町中へ意識を向ける。

―――***―――

「何の話って……、そりゃ」

 アキラは頬をかいた。
 何も考えずに口から出た言葉だ。上手く説明しきれない。
 だけど、漠然と思っていること、思い続けていたこと。

 この世界の時計の針を好きなように弄り回しているアキラが抱えなければならない罪。
 その一番の犠牲者は、間違いなく目の前のイオリだろう。

「俺はさ」

 アキラは白い息を吐き出して、目を閉じた。

「“二週目”。お前の忠告を、ちゃんと聞かなかった。お前があれだけ願ったことを俺はできなかった」

 圧倒的な力のあった“二週目”。
 イオリは最終局面で確かに言った。その力を惜しむことなく使って欲しいと。
 危機感は確かに覚えていた。自分も必死になろうと努めた。
 だが結果はあの通り。
 僅かな躊躇を見せたアキラは、力の出し所を誤り、すべてがあの地で終わりを迎えてしまった。

「いや、“一週目”だってそうだ。詳しくは思い出せないけど、俺はお前を救えなかった。誰も、救えなかったんだ。そのせいで、お前はこの場所を……、こんな経験を何度も繰り返しちまってる。それなのに、当の本人は気楽に旅を続けてたんだ。お前からしてみれば、ふざけんな、って感じだろ。……悪かったと、心の底から思っている。お前に謝るために、俺はお前に会いに来たんだよ」

 まともにイオリの顔を見られない。
 だけど、ようやく吐き出せた言葉だった。
 アキラは目をこじ開け、強引にイオリに顔を向けた。目を背けていいことではないと、強く感じる。
 だが。

「え……っと」

 こほりと咳払いをしたイオリは、視線を外していた。
 気まずそうに顔を背け、目が泳いでいる。
 ピクリと指が動いた気がしたが、彼女は手を振りそれを払った。

「……僕の話をしてもいいかな」

 イオリはまた咳払いをして、息を吸った。
 そしてゆっくりとアキラに歩み寄ってくる。
 これだけで許して欲しいとは図々しくて言えないが、彼女の様子が想像とは違う。
 アキラは身構えると、イオリはまた深く息を吸った。

「僕はさ。アキラがずっと怒っていると思っていた」
「……は、い?」
「いやだって。久しぶりの再会だっていうのに、……あんなに淡々としててさ」

 それは。
 アキラが、イオリに対して思ったことだったと思う。イオリもアキラに対して、同じことを思っていたとでもいうのか。

「でもそれは当然だよね。僕はあんなことをしたんだから、ってさ」
「あんなこと?」
「……決まっている。前回だよ。未来予知だとか適当なことを言って……、もっとはっきり言うべきだったんだ」
「そんなの、お前だって訳も分からずあの状況だったんだろ。未来予知だって思ったって、」
「いや、そうじゃない。僕は君と会う2年間、真面目に考えていたんだよ。あの経験が未来予知なんて言葉じゃ片付けられないほどのものだと思っていた……いや、確信してたんだ。時間は巻き戻っている、ってね。未来予知っていうのは、下手をしたときの言い訳用に使っていたんだ」

 あの現象の正体など、イオリであれば容易く辿り着くであろう。

「それなのに」

 イオリはギリと歯を噛んだ。

「僕は答えを知っているのに、みんなに伝えることができなかった。この先に待つものが何なのかを必死に訴えられれば、あの結末は変えられたはずなんだ。2年間周囲を欺き続けていたバチが当たったんだよ。嘘を簡単に吐き続けていた僕は、誰かに本当のことを伝えることができなくなっていた」

 嘘を吐くことは、精神を蝕むらしい。
 サラは言っていた。イオリは苦しんでいると。
 目の前のイオリの表情を見ると、その言葉が、本当の意味で理解できた。

「でも、それはお前のせいじゃないだろ。そもそも“一週目”、俺がしくじったのが原因だ」
「君は僕たちを救うために時を戻したんだ。感謝している。少なくとも、前回僕は思っていた。理由は分からなかったけど、あの結末から離れて、もう一度チャンスが貰えたんだ、って」

 エゴの塊のようなあの行動でも、救われる者はいたというのか。
 あの場所へ挑んだ当事者だからこその言葉かもしれないが、アキラは心が揺らいだのを感じた。

「それなのに、さ。答えを知っているような僕は、君の役に立つようなことを何ひとつ伝えられず、結局同じことを繰り返した。もし僕の記憶が残っていたことに意味があったとしたら、……それを全部無駄にしたんだ」

 もし自分が、答えを知った状態で、あの“二週目”を経験していたらどうなっていただろう。
 そして結局、魔王の策略通りにすべてを失ったらどう思うだろう。
 仮定の話だが、最悪の気分になった。
 きっと自分は、延々と後悔し続けるだろう。
 イオリを悩ますそれは、きっと解かれることは無い。

「君がこの場所を訪れて、そして真相を知ったとき、いや、“君の記憶もあることを知ったとき”、僕は情けなくも怖かったよ。ずっと責められているように感じた。“お前は知っていたのに、何をしていたんだ”、って。そのことに触れられないまま会話が続くたびに、暗に非難されているように」

 イオリは両腕で自分の身を守るように抱いた。
 震えているのが分かる。

 イオリと話していたあの部屋で、自分がそうしていたように、イオリもアキラを探っていたと言う。
 それを聞いて、アキラは黙っていられなかった。

「俺が怒るわけないだろ。大体、“二週目”はお前の記憶と変わってたんだろ」
「それは僕が好き勝手に暴れ回っていたせいだ。自分の都合のいいように時が戻って、馬鹿みたいにはしゃいで……、さ」
「それはむしろ俺のせいじゃねぇかよ。俺が、全部ぶっ壊したんだ。全部、俺だろ」
「……そう、だね。そうだよ。アキラはそういう人だったんだよね……」

 イオリは、力なく腕を下げ、乾いた笑い声を出した。
 毒気が抜けていくような様子は、アキラの中の泥のような何かも、少しだけ流されていくように感じた。

「……てか。俺はお前が怒っていると思ってた。同じこと思ってた」
「僕が? そうか……。あのときは、色々複雑だったんだよ。ようやく長年の謎が解けたり、やっと君がこの場所を訪れてくれたり、君になんて詫びればいいのか結局思いつかなかったり、グリグスリーチやサーシャの問題もあって、正直、混乱してた」
「そうは見えなかった」
「怒ってるように見えたんだって? そうだね。来るのが遅いよ」

 ふたり横並びになって、歩き出した。
 イオリは随分と多忙だったようだ。自分の抱える問題が少なく思える。

「でも多分、きっと。……君の言う通りの感情もあったのかもしれない。まったく思わなかったなんて……嘘は、もう吐かない。だけどそれ以上に、ね。君も同じじゃないか?」
「いや、まったく。完全に俺のせいだと思ってる。今も、な」
「知ってた。なんて、臆面もなく言えないけど、君はそう言うんだろうね」

 ふたりで進む森林は、間もなく終わりそうだった。遠目に平原が見える。あれがリオスト平原だろう。

「だけど、それは嫌だな。君がそう思い続けるのは、嫌だ。責任を感じるな、なんて言っても無駄だよね。だったらそうだな。あの出来事は、君のせいでもあり、僕のせいでもある。そんな風に思うことはできないかな」

 できない。
 口を開けば、自分は多分そう言うだろう。

「……アキラ。卑怯なタイミングかもしれないけどさ」
「ん?」
「このことが終わったら、僕は君と一緒に旅に出るんだよね」
「……そりゃ、そうしたいけど、え、駄目だったのか?」
「まさか。良かった。正直、断られるかと思ってたりもしたんだよ」
「土曜属性の魔術師が、いや、旅の仲間がお前以外あり得るか」
「嬉しいこと、言ってくれるね」
「てか、そんなこと考えてたのかよ。そんな繊細な奴だっけ?」
「君が誤解してたという僕の怒りを教えようか」

 イオリが震えたように感じたと同時に、アキラは歩を早めた。

「あのさ」

 そして森林を抜ける。

 目の前には広大な平原が広がっていた。
 周囲の三方を岩山に囲まれたこの場所に、魔物の姿は見えない。
 普段はいるのだろうか。ただならぬ存在を本能的に察知し、ここから離れたのかもしれない。

「一緒に旅するなら、多分、お前はまた怒るかもしれない。俺はさ、お前と違って計算高くないから、目の前の奴を救おうとする。それが“一週目”に救われなかった奴だとしても。それが物語を壊しても。もともと俺が狙っているのは物語の崩壊だ。難易度なんてどうだっていい」
「……そうだね。結末だけ変えるなんて虫のいい話はない、か。君が、じゃない。僕たちが、だよ」

 振り返るとイオリは、変わらず落ち着き払った様子で平原に視線を走らせていた。

「君と長く話したせいかな。……そんな気になって来る。君のお陰だろうね」

 それはきっと、自分の手柄ではない。
 日輪属性のスキルは、人の心を開くことだ。
 イオリの本心が表に出てきたに過ぎない。彼女が言っていた通り、サラを諦めたくて諦めているわけではないのだ。
 その力がようやく土曜属性の力を超えて届いたような気がした。

「アキラ。協力してくれ。サラを救う」
「……方法は?」
「分からないさ」

 アキラは苦笑し、そして視線を鋭く平原へ投げた。
 人影が見える。

「……早速変化があったな」
「ああ。洞窟じゃなくて、ここで、らしい」

 ふたりで慎重に、ゆっくりと人影へ近づく。
 隣のイオリが少しずつ震えてきているのが分かった。
 多少はましとは言え、アキラも拳が震える。

 人影は案の定、サラだった。
 魔術師のローブを纏い、金の長い髪をなびかせ、背中を向けて立っている。

 周囲に他の影は見えない。彼女ひとりだ。

「……サラ」

 イオリが呟く。
 会話で気が紛れていたとはいえ、イオリの問題は解決していない。

 アキラは必死に、彼女を殺さずに救い出す方法を考えていた。
 彼女の罪を被ってどうする。イオリを救えるのは、サラを救うことで果たされる。

 敵はサーシャ=クロライン。
 “支配欲”を求める魔族。
 断じてサラではない。

 アキラは歯が砕けるほど食いしばりながら、周囲を探る。
 イオリが言った“完全支配”が達成されていようがいまいが、まずはサーシャをこの場から引き離さなければ話が始まらない。
 心拍数が極端に上がる。
 いつしか剣を握っていた手から汗が滴る。

 そこで。
 サラを視界に収めながらも慎重に接近していたアキラとイオリの耳に、ひとつの声が届いた。

「ヒダマリ=アキラに……ホンジョウ=イオリか?」

 ゾクリとした。
 慌ててイオリに視線を走らすと、彼女も眉を寄せて双剣を抜き放っていた。
 この、声は。

 そんな動揺をよそに、目の前のサラが、ゆっくりと振り返る。
 表情の無い顔だった。
 虚ろな瞳と、半開きの口から、正気を失っていることは分かる。
 だが、理解できなかったのは、彼女の武器。
 両腕で、しっかりと抱え込むように握られたそれは、1メートルに満たない長さの棒。そして先端に、不釣り合いなほど小さな半月上の刃が付いている。
 長さこそ違えど、その物体には、そしてあの声には、覚えがあった。

「……イオリ。記憶の使いどころだ。“一週目”。サラはあんなもの持ってたか?」

 イオリは首を振る。
 彼女も当然、思い至ったようだった。

「……なるほどそういうことか。どうやら一昨日の討伐報告は誤りだったらしい」

 頬に汗が伝う。
 アキラもおおよその事態が飲み込めた。

 剣を抜き放つ。
 足場は、多少の草木はあるが一昨日ほどではない。
 ここでなら、十分に動き回れる。

「……ハードモードだ。サーシャを探りつつ、まずはあいつを片付けるぞ」
「ああ」

 ふたりの視線は棒状の物体に向く。
 どうやらあれが本体だったらしい。
 戦闘不能の爆発に紛れて消えたとばかり思っていたが、どうやら無事で、そして今目の前に戻ってきたようだ。

 アキラは剣に力を込めながら、深く深く戦闘に意識を落としていく。

「サラから離れやがれ―――グリグスリーチ」

―――***―――

 物体生成。

 それは魔術を修める者にとっての究極の到達点であり、そして夢物語である。
 日輪属性と月輪属性いう魔法を操る属性ならば、という希望はあるが、その両属性の存在は稀であるし、そして物体生成を行えるものはもっと稀な存在となる。
 そのまるで一般的ではない出来事を一般的に言うと、“具現化”という現象となる。

 一方で、禁忌とされている別の夢物語がある。

 “生物生成”。

 現象として受け入れられている“召喚獣”とは違う恒久的な生命を、通常の流れとは異なって生み出すその事象は、神族によって固く禁じられ、しかし禁じる必要もないほどの不可能な聖域である。

 しかし、魔族はその聖域を荒々しく踏み荒らす。
 魔物すべてがそうであるかは定かではないが、明らかに生物としての機能が無い、襲撃だけを目的とした種族も存在する。
 生物とは何か、と問われれば、人によって答えは千差万別であろう。
 だが、その答えのひとつに意思と答える者もいる。
 どうやら魔族は、生物に、あるいは何かの存在に“意思”持たせる力があるようだ。
 世の理を捻じ曲げて、世界に新たな意思を落とすことは紛れもない禁忌であろう。
 だが魔族にしてみれば、世に害をなす存在が、生物であるのか物体であるのかは重要なことではない。

 そして成功例として、脅威の“無機物型の魔物”が存在している。
 その成功例の裏方。
 失敗例の魔物も存在する。

 “寄生型”。

 いかに意思を持ったところで、単なる物体は行動できない。
 当然だ。物体はそもそも行動するために存在しているわけではない。
 その法則を捻じ曲げる成功例はまさしく神秘と言えるが、失敗例には法則に抗う力は無い。

 だから、憑くのだ。
 人に、動物に、あるいは、魔物自体にまでも。

 物体に宿るほどの強大な意思は、生物の脳を蝕み、その存在を意のままに操る。
 こうした存在たちは、人間たちにしてみれば悪夢でしかない。

 人に、動物に、魔物に、寄生型の存在が混ざり込み、脅威を脅威と気づけない。
 その存在が明るみになった当時は、人間同士で疑心暗鬼になり“僅かでも違う”という理由で迫害が始まり、ひとつの国が滅んだという。
 魔族にとっては失敗作を捨てるようにばらまいただけだったのだが、親族が介入するほどの大事件として人間界の記憶に刻まれることになった。

 そんな失敗作として捨てられた寄生型の魔物に、魔族は感心を持っていない。だからその意思は、生まれたばかりの生物の本能として、少しでも生き延びることに向いている。
 だから彼らは求めている。
 今の主より、強力な存在を。

 寄生型の魔物―――グリグスリーチ。

 古来より生き延び続けたその存在は、生き続けるがために、より“安全”な存在になりたいとあり続けてきただけで、こう呼ばれている。
 強者を滅ぼす、夢奪い、と。

―――***―――

「クオスカリア」

 サラの声。そして流れるように棒が横一線に振るわれた。

「―――っ」

 アキラは即座に身を屈めた。
 そして案の定、頭上を鋭い鎌が通過する。
 一昨日の想定通りだ。あの一閃は、距離を選ばない。間合いの存在しない一撃をかわすには、どうしても過剰なまでの反応が必要となる。

 が。

「!!」

 身を起こそうとしたアキラの目に、頭上に留まるスカイブルーの一閃が飛び込んできた。通過したと思っていた先ほどの攻撃だろうか。
 背筋に悪寒が走ったアキラは身を屈めたまま大地を強く蹴る。

 その瞬間。

「アキラ!! もっと離れるんだ!!」

 ドゴンッ、と。
 留まっていた一閃がさく裂した。

 辛うじて難を逃れたアキラは土煙の中で歯噛みする。
 一昨日戦ったグリグスリーチの魔術とは違う。
 剣のような鋭さで放たれた斬撃が、魔術攻撃のように爆ぜるとは。

「クオスカリア」

 今度は縦一閃。
 過剰なまでにその身を翻し、過剰なまでに距離を取る。
 そして爆音。

 肩で息をしながらアキラは叫んだ。

「イオリ!! どうなってる!?」
「分からない!! だけど、サラは水曜属性の魔術師だ!!」

 グリグスリーチは昨日も水曜属性の魔術を操っていた。
 昨日アキラが見たあの躯の魔物の正体は分からないが、グリグスリーチは水曜属性の生物に憑くと力が増すのだろうか。
 不確かな推測の中、サラの声が、その詠唱が幾度となく発される。

「―――け、結局!!」

 考えても答えは見えない。
 だが、戦い方はもう分かる。

「離れたままじゃやられるってことだろ!! キャラ・ライトグリーン!!」

 爆風に目を焼かれるのも気にせず、アキラは駆けた。
 剣を下げ、姿勢を落とし、それでも鋭くサラへ接近する。

 が。

「クオ・ヴァパトラ」

 サラが鎌を振った瞬間、その斬撃が空中で散開した。
 分散したスカイブルーの一閃、いや数多の斬撃が、檻のように編み込まれ、眼前に壁となって接近する。

「ちっ―――」

 アキラは迷わず後退した。
 その直後、けたたましい爆音と共にアキラのもといた位置を吹き飛ばす。
 怯まず巻き起こる土煙を注視していると、案の定鋭い一閃が飛んできた。

「―――どうするよ」

 また距離を取って回避した先で、アキラは呟いた。
 背後には、イオリが立っている。
 イオリも当然、事の深刻さは分かるだろう。

「ハードモードって言っても、ここまでかよ。まるで近づけねぇ」

 思い返せば、ここまで遠距離攻撃主体の存在と戦った経験はほとんどなかった。
 斬撃が飛んでくるどころか、回避しても爆発するのでは容易く駆けられない。
 辛うじて接近できても、先ほどの檻のような壁で襲われれば離脱以外の選択肢はない。

 まともに距離を詰められないのでは、アキラの攻撃能力は無いに等しかった。

「……問題ないさ」

 だが、イオリは目を細め、ゆっくりと双剣を腰に仕舞った。
 そして小さく息を吐く。

「考えがある。僕が行こう」

 静かな声。
 しかし芯の強さを感じさせる声だった。
 イオリの目は、いや魔導士の眼は、土煙が晴れて姿が見えてきたサラを捉える。

 アキラは頷き、腰を落とした。
 イオリの自信と確信に満ちた表情は、何よりも信頼できる。

「行くよ。グリグスリーチ」

 イオリは鋭く駆け出した。
 速度だけならサクにも、そしてアキラにも及ばないだろう。
 だが、その足取りは確かで、確実に道を切り開く。

「“まず、その魔術だけど”」
「クオスカリア」

 サラから一閃が放たれる。
 しかしイオリは速度を変えず、そのまま駆け続けた。
 捉えられる。
 アキラがそう思った瞬間、イオリはその場でピタリと静止した。

「な―――」

 思わず声を上げたアキラの目は、斬撃が爆ぜた瞬間を捉えた。
 爆風に包まれるイオリの姿は見えない。
 だが次の瞬間、土煙の中からイオリが飛び出してきた。

「斬撃を魔術で爆発させているんだろうけど、そのタイミングは術者の任意だ。狙った場所に相手がいなければ意味がない。決して一昨日の魔術の上位互換じゃないんだ」

 冷静な声が聞こえる。
 イオリが突如動きを止めたのは、着弾ポイントをずらすためだったのろう。
 至近距離で魔術を受けることにはなるが、斬撃を受けるわけでも、斬撃を避けたばかりの無防備な体勢で魔術を浴びせられるわけでもない。
 多少の傷を覚悟すれば、接近することはできるのだろう。
 “いや、そもそも”。

「クオスカリア」

 再びサラから斬撃が走る。
 鋭く飛ばされた攻撃に、イオリは静かに応じた。

「メティルザ」

 小さく呟き、グレーの魔力に手を覆わせ、イオリは迷わず眼前の斬撃を“掴んでみせた”。
 そして目障りだと言わんばかりに、地面に叩きつける。物体ではない、魔術攻撃を。

「そしてそもそも、僕にその攻撃は通用しない」

 土曜属性。
 絶対的な魔術防御を誇るその力は、魔術攻撃を封殺する。
 正常な発動を許されずに叩きつけられたスカイブルーの一閃は、小さな光の残滓となって消えていった。
 魔術攻撃本体ですらあれなのだ。
 余波程度など、イオリに傷ひとつ負わせることはできないだろう。

「クオ・ヴァパトラ」

 急速に距離を詰めるイオリの眼前に、再びあの檻が出現した。
 アキラはもう、結果など見なかった。
 はっきりと分かる。
 ホンジョウ=イオリとグリグスリーチの間には、埋めようにも埋まらない、絶対的な力の差がある。

「メティルザ」

 今度は両手にグレーの魔力を帯びさせたイオリは、単に壁を押すように、檻を突き飛ばす。
 制御を失った魔術など、単なる魔力の塊でしかない。
 容易く砕けた檻は引き裂かれ、イオリの足を止められなかった。

 サラの眼前に迫ったイオリは、双剣を抜き放つ。
 イオリに魔術攻撃など通用しない。
 そう判断したのか、虚ろな瞳のまま、サラは応じるように鎌を掲げた。

「ホンジョウ=イオリ……、次は、お前を、」

 サラの声ではなかった。
 一昨日聞いた、不気味な声が聞こえる。

 イオリは怪しく輝く鎌を鋭く睨むと、ピタリ、と。

 その場で足を止めた。

「容赦しないでくれ」
「分かってる!!」
「―――!?」

 サラが掲げた鎌―――グリグスリーチ。
 その背後から急速に接近したアキラは、込めた魔力を更に滾らせる。

 イオリがあれだけ注意を引いたのだ。
 背後に回ることは容易だった。
 正体不明のグリグスリーチ。
 他にも手段を隠し持っている可能性もある。
 ならば。
 有無を言わさぬ一撃で、その存在を消滅させることが最善。
 アキラは剣を握った手を、力の限り振り切った。

「ヒダマリ=アキラ―――次は、」
「うるせぇよ。キャラ・スカーレット!!」

 この日一番の爆音が轟いた。
 爆ぜた閃光と衝撃に、イオリも思わず目を背ける。
 サラの腕ごと吹き飛ばすようなアキラの一撃はグリグスリーチを正確に捉え、その衝撃で両断された鎌は吹き飛んでいく。

 アキラは見た。
 自らの捉えた鎌が平原の遠方に落下した瞬間を。
 そして、その2か所から、あまりに小さな破裂音が聞こえた。
 グリグスリーチの撃破には、どうやら成功したらしい。

「……やり過ぎだよ」
「容赦すんなって言ったのお前だろ」

 恐る恐る見てみると、サラは力の抜けたように座り込んでいた。掲げていた左腕をだらりと下げているが、無事ではあるらしい。
 力の限り振るったこの剣は、なんとかグリグスリーチだけを攻撃できたようだ。

 しかし、改めて見て、実感する。
 ホンジョウ=イオリ。
 最早模範解答とでもいうべき行動で、グリグスリーチを無力化してみせたこの魔導士は、巷での噂通り本物だ。
 アキラとグリグスリーチの交戦を見て、魔術を解析していたのだろう。そして詰めるように撃破してしまった。
 あまりにあっけない決着に、アキラ自身、動揺が隠せない。
 ホンジョウ=イオリのような戦略的な行動はどうにも取れそうになかった。

「……お前やっぱり、」
「……その先は中傷だと、僕は思っているんだけど」
「馬鹿みたいに強……、え、いや、褒めてんだけど」

 イオリが怒った。
 それが分かった。

 アキラは押し黙ると、ゆっくりと、先ほど自分が腕を吹き飛ばしかけた相手を見る。
 膝だけで立ち、首を差し出すように脱力しているサラは、何も発さない。

「……サラ、無事か?」

 イオリが慎重に声をかけた。
 未だ動かないサラは、何も発さない。

 戦闘の後遺症か、妙に感覚が敏感になっているアキラは、喉を鳴らした。
 顔を伏せるサラから、未だ、異様な空気を感じ取る。

「サラ。無事、なんだよね?」

 イオリは座り込むサラに近づかず、その場で声をかける。
 それは魔導士としての判断でもあり、親友としての祈りでもあるのだろう。

 これで終わっていて欲しい。
 アキラも強くそう思っている。

 慎重に見守る中、サラがピクリと身体を動かした。

「……とう」
「サラ?」
「ありがとう、ふたりとも」

 サラの声だった。
 先ほどの詠唱のときにも聞いた、しかしそのときよりも意思を感じさせる声色だった。

 ごく普通の、当たり前の、声。

「あの鎌、邪魔だったの」

 サラは立ち上がった。
 ゆらりと揺れる霊のように。しかし、意思を持った人間として。

「これでやっと、まともに戦えそう」

 サラが怪しく浮かべたその笑みだけが、日常に混ざり込む歪だった。

“―――*―――”

 共に時間を過ごすにつれて、分からなくなったものがある。

 最初に彼女を発見したとき、自分とは違う、未知の生物に見えたのが本音だ。

 倒れている、人間と思われる存在。
 声をかけようと思い、しかし言葉が通じるか分からなくなり、目の前の恐らくは怪我人を前に、自分は、しばらく呆然としていたのを覚えている。

 噂には聞いていたが、空想上の存在とも思っていた“異世界来訪者”。
 人を呼んで、何とか保護して、親たちが色々と話を聞き出して、数日後にようやく出せた結論は、自分の中に思ったよりもすんなりと入ってきた。

 “異世界来訪者”の扱いは、神の教えでは、特に取り決めが無い。
 ただそれだけの理由で迫害することを禁じるに止めているに過ぎず、細かなことは発見者の厚意に委ねられるそうだ。

 新し物好きの父の方針か、彼女はルーティフォン家で保護することになった。
 そういう意味では、彼女は幸運だろう。
 客観的に言って、ルーティフォン家は名家だ。いかにモルオールとはいえ、この家に保護される限り、彼女の安全は高い水準で担保される。

 こうして彼女は居候となった。

 そして、恐らくは幸運な彼女を保護したルーティフォン家も、恐らく幸運だったのだろう。

 発端は、せめてもの恩返しと家の掃除を行っていたらしい、彼女が見つけた本。
 それは自分が無精にもリビングに出しっぱなしにしていた魔術師試験の参考書たった。

 はっと息を呑んだ。
 ゆったりとソファに腰を落とし、静かな表情で、すべてを見通すような瞳を本に落とす彼女の姿に、再び自分は呆然としてしまった。
 彼女は自分に気づくと、少しだけ気まずそうな表情を浮かべて、本を閉じて差し出してきた。

 ここは自分の家のはずなのだが、まるで彼女の聖域を汚した侵入者になったような気分を味わい、強引に彼女の隣に座り込んだのを覚えている。

 そこで初めて、彼女とまともに会話をした。
 別に嫌悪感があったわけではない。
 異世界来訪者という異質なものに触れ、戸惑いのせいか、少しだけ遠慮がちになってしまっていただけだったようだ。
 口数は多くないようだったが、話してみれば意外と普通で、小さなわだかまりのような何かはすぐに消えてしまった。
 それから彼女に会うたびに話しかけ、会うたびに笑った。

 こうして彼女は友人になった。

 友人となってから―――いや、やはり、発端は彼女がその道を見つけたことだろうから、友人になる前からだろう―――、彼女の異常性に気がついた。
 異世界人だからなのか、それとも彼女本来の才能なのか、魔術師試験の内容を、いや、“魔道そのもの”についての知識が急速に高まっていた。
 気づけば試験勉強中、静かに書物を読み進める彼女に、自分が質問をしていることがあるほどだ。
 希少種の土曜属性な上に、実技もまるで問題なく、初歩の魔術など即座に把握してみせた彼女を見て、そのときは純粋に、驚き、そして嬉しく思った。

 そして、一般的な試験勉強期間に比べてあまりに短い時を過ごしていく中で、自分の中で、ある確信が生まれる。

 仮に、共に試験を受けたら、彼女だけが合格することはあっても、その逆はあり得ない。

 そんな確信の中に、多分、黒い感情は無かった。
 勿体ないと、心の底から思った。

 だから自分は、両親に掛け合い、彼女も試験を受けられるように計らってもらった。

 そして合格発表の当日。
 彼女は祈るように目を瞑って、いつしか彼女の席となった窓際の席に静かに座っていた。
 今から思えば、あれは、彼女自身のためではなく、自分のために祈っていたのかもしれない。
 何故なら、自分も確信があったとはいえ、同じように、彼女の合格を祈っていたのだから。

 吉報を受け取り、力強く彼女に抱き着いた。
 そのとき、落ち着き払った様子でいた彼女の身体も震えていたことに気づいたのは内緒にしている。

 そのときも確信した。やはり自分の勘はよく当たる。
 彼女はこの程度ではない。
 魔術師程度では済まされない、もっと違う、もっと高い、何かになる。

 彼女の世界はこれからもっと広がっていく。
 共に合格を目指した日々は短い。自分との出会いなど、その中の小さな一部となっていくだろう。
 それがどうしようもなく苦しく思えた。

 だからその夜。
 ふたりで枕を並べて、色々なことを話した。
 もしかしたらいつものように自分が一方的に話していただけかもしれないが、彼女も微笑みながら静かに聞いてくれた。

 その両親のような余裕が、また、怖いと思った。自分の中で徐々に変わっていく何かが、油断すれば彼女との関係が終わってしまうかもしれない何かが、少しずつ大きくなって言った気がした。
 友人という言葉では、容易く千切れてしまいそうな奔流が確かに見えた。
 だから、別の名前を付けたかった。

 こうして彼女は親友になった。

 これは、彼女にとって重荷になるだろうか。
 だけど自分は、それを彼女に楔を打ち付けるつもりで提案したわけではない。

 ある意味これは、自分への決意だ。
 これから先、彼女は遥かな高みへ登っていくだろう。
 それを自分は、見続けたいと思う。

 だから自分は、もっとずっと、励まなければならない。
 自分が親友であることが汚点にならないように、それどころか、誇ってもらえるように、もっと、もっと。

 もっと、もっと、もっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと。

―――***―――

「ち―――」

 最悪の展開だった。
 アキラは警戒しながら剣を構え、目の前で微笑むサラを睨んだ。

 傍から見ればいたって正常。
 当たり前の姿で、当たり前の雰囲気で、そこにある。
 だが、隠しもしていない戦意だけが、イオリに正面から浴びせられていた。

 当たり前の中にある、ありふれた違和感。
 日常の中に、当然に存在する悪意。
 それが気紛れにイオリに向けられたと言われれば、すぐにでも納得してしまいそうだった。
 だが今、それは確実に、狙った通りに発生している。
 これが、“支配欲”の魔族の力なのか。

 サラは魔術師隊のローブに空いたスリットに手を滑り込ませた。
 自らの太ももに備えてあったのか、ふたつ折りの白い棒を取り出す。
 折られた状態の長さで先ほどの鎌と同等。それをひとつに組み立てると、スティックのようなサイズの杖に変わった。

 流れるような自然な動作に、アキラは呆然とそれを眺めていた。
 それが彼女の戦闘準備だということは分かっていたのに。

「じゃあ」

 そして、見えた。
 杖の先端にはめ込まれた―――青く光る宝石。
 あれは。

「始めよう」
「―――!?」

 距離にして5メートル。
 暴走した何かがイオリとサラの間で炸裂した。

 草原に爆ぜるはスカイブルーの爆撃。
 離れて見ていただけのアキラも目を逸らし、吹き荒れた暴風に身体中を叩かれる。

「ィ―――」

 音が上手く拾えない。
 大地が根こそぎ剥がされたように、上下感覚すら薄れていた。
 アキラは必死に目をこじ開け、なりふり構わず前へ出る。

「―――アキラ!! 伏せて!!」

 遠くで響いたように聞こえる声を耳が拾った。
 アキラは即座に身体を地面に叩きつけるように倒れ込む。
 その直後、頭の上をおびただしい量の何かが通過した。

 倒れ込んだ先、アキラはそれでも身体を跳ね返らせ強引に立ち上がる。
 暴れ狂う風が平原を切り刻むかのように取り囲み、竜巻が直撃したかのような惨状の向こう、イオリが両手で自身の前に魔力の壁を展開しているのが見えた。
 先ほどの魔力の応用だろうか、どうやらイオリは無事らしい。
 だがサラはどこにいったのか。
 イオリの目の前にいたはずのサラはいつしか姿を消し、周囲は引きちぎられた草や土砂が今なお凶器のように飛び回っている。

「―――っ、アキラ、一旦離れよう!!」

 どっちが前なのか。
 状況が掴み切れないアキラは、走り出したイオリを本能的に追った。
 身体を強打する土砂や風の中で、それでも必死に歩みを続ける。
 その状況は、あの終焉の地を彷彿とさせた。

「―――か、はっ」

 身体の感覚がまるで無い。
 今なお竜巻に襲われているような感覚に陥っていたが、イオリが足を止めたと同時にアキラは息の塊を吐き出した。
 気力だけは保てるように鋭く振り返り、アキラはぎょっとした。

 それは最早天災だった。
 まるで上空から放たれた槍が螺旋を描き、範囲にして数メートルのそこに突き刺されたように見えた。
 竜巻は今なお続いており、その高密度の槍は、魔力は、あたかも物体のように周囲の存在を隔絶している。
 空間を削り取るような魔力の奔流は、時折スカイブルーの稲光を放ち、周囲を、そして竜巻の中を、無差別に襲っていた。
 自然現象を生み出したかのような超常的な現象。
 この攻撃を仕掛けた人物はひとりしかいない。

「……どうなってやがる。モルオールの魔術師はこんな奴揃いなのかよ」

 アキラは口の中の土を吐き出しながら竜巻を睨んだ。

「そ、そんなわけない。でもサーシャの影響があれば、いや、でも、」

 考えがまとまらないのはイオリも同じか。
 ふたりとも警戒しながら目の前の光景を眺めることしかできなかった。

「とにかく、サラを探すぞ」
「これでも防ぐんだもんな、イオリは」

 探すまでもなく、ありふれた、普通の声が聞こえた。
 声と同時、嘘のように瞬時に消えた竜巻の向こう、まるで物音を聞きつけて通りすがっただけの人物のように、サラ=ルーティフォンは僅かばかり肩を落として現れる。
 竜巻の強襲は平原に惨たらしい爪痕を残し、まるでクレーターのように大地を陥没させていた。
 その光景を作り出したのは、あの目の前の女性なのだろう。
 手に携えた杖の先端には、未だ煌々と輝く青い宝石が埋め込まれている。

「イオリ!! とにかく畳みかけるぞ。相手が水曜属性なら、この距離じゃ一方的にやられちまう!!」
「分かってる!!」

 言うが早いかアキラは即座に駆け出した。
 荒らされた大地を強く蹴り、剣を構えてサラに突撃する。

 対するサラは杖を持ちかえるように回すと、静かな眼を宿して呟いた。

「シュトローク・フィズ」

 呟きと同時、スッ、っと周囲の風が止んだ。
 ゾクリと背筋を撫でる悪寒に従い、アキラは周囲を警戒する。その瞬間、横なぎに風の気配を感じた。

「―――つ」

 アキラは急反転してその場から離脱した。すると眼前を何かの塊が通過する。
 対象を逃した何かは轟音を残して虚空の彼方に消えていった。

「な、なんだ!?」
「アキラ!! その魔術は“出所が存在しない”!!」

 最も数の多い水曜属性。
 平凡と言われる属性ではあるが、当然、極めた者には多大なる恩恵がある。
 数多の偉大なる先人たちが残した技術技量の膨大さは、他の属性の追従を許さない。

 大いなる先駆者の中に、こんなことを思った者がいたそうだ。
 天候を操ることはできないか、と。

 魔術による自然現象への介入。
 それはすでに魔術の領域ではないことは当然気づいていたが、それでもその先人は試みたそうだ。
 そしてひとつの結論を出す。
 無条件下では難しい。
 だが、仮に、戦闘が行われ、周囲に魔力の残滓が漂っている場合。
 遠距離からその魔力に働きかけ、風を巻き起こすことくらいならできる、と。
 並々ならぬ魔力制御を誇る水曜属性ならば、その現象を現実のものに出来る。

 事実、その先人は、自分から遠く離れた地点にそよ風を起こすことに成功した。
 もっと突き詰めて研究すれば、強風を起こせたであろう。
 もっと突き詰めて研究すれば、風の中にさらに魔術を発動させられたであろう。
 だが想定される必要な魔力や技術はいささか現実離れしているものだった。

 それでも、その先人は、その非現実的な結論をまるで気にしなかった。それどころか自分の研究はここまでだと割り切った。
 どうせ、だ。

 どうせ未来、どこかの誰かが現実のものとする。
 水曜属性の圧倒的な母数があれば、賭けるチップなどいくらでも存在するのだから。

 そして今。
 その先人の数多くの後継者が確立した魔術が、目の前で暴れ狂う。

「シュトローク・フィズ」

 上か。
 辛うじて発動個所を察したアキラは迷わず大地を蹴った。
 アキラのいた地点に叩きつけられた何かは再び竜巻を発生させる。
 何かに衝突することがあの竜巻の魔術の発動条件なのか。
 最初から外にいれば竜巻自体は小規模だ。
 だが削られていく大地を見るに直撃したら無事では済まない。

 グリグスリーチ戦の焼き回しのようだった。
 上下左右から突如として発生する暴風に、思ったようにサラに接近できない。

 周囲を警戒しつつイオリを見ると、彼女も竜巻には苦戦しているようだった。
 進行方向に叩きつけられる竜巻を周り込むように回避しているせいで満足に前進できていない。
 問題なのは竜巻の周囲に飛び散るスカイブルーの魔力だ。
 それもランダムに飛び散るせいで、竜巻からは必要以上に距離を取らなければならない。

 気づけば平原は捲りあげられたように荒れ、いたるところが陥没している。
 こうなってくると戦場は遠距離攻撃が有効となるのだが、アキラにはその手段はとれない。
 一刻も早くサラを捉えなければ勝負が決まってしまうだろう。

「……無茶するか」

 アキラは息を吸い、そして身体と剣に魔力を迸らせた。
 キッとサラを睨むと当時、アキラは身体中の魔力を変換する。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 吹き荒れる暴風を消し飛ばすようにアキラは駆けた。
 上げに上げた身体能力は大地を踏み砕き、アキラの身体を一直線にサラへ向かわせる。

「―――!!」

 イオリに魔術を放った直後のサラは一瞬硬直し、即座にアキラへの攻撃を開始した。

 気配を感じる。
 横なぎの暴風が来る。
 それでもアキラは速度を落とさず突き進んだ。
 アキラを捉えようとした暴風は、アキラの背後の大地を削り取った。

「つ―――シュリスロール!!」
「!!」

 サラが眼前に迫った瞬間。
 アキラの速度を把握したのか、サラは攻撃手段を切り替えた。
 風ではなかった。
 杖から伸びる魔力が青い竜のようにとぐろを巻き、アキラの眼前を塞ぐように展開される。

「ち―――キャラ・スカーレット!!」

 直撃は避けられないと判断したアキラは剣を鋭く振り下ろした。
 視覚と聴覚が根こそぎ奪われるような閃光と爆音。
 圧倒的な破壊と同時に発動したサラの魔術は周囲の竜巻の残滓すら四散し、平原すべての景色を揺さぶった。

「ぁ―――」
「ぐ―――」

 やはり上級魔術を下手に刺激するのはまずかったようだ。
 あまりの衝撃にアキラは背後に倒された。背中を強く打って肺が痙攣する。
 辛うじて見えたのは眼前のサラ。
 今の爆風で同じように倒れ込んでいる。

 アキラは、声になるかも分からないまま、叫んだ。

「行け!! イオリ!!」
「ああ!!」

 アキラの叫びに応じた彼女は、すでにサラに詰め寄っていた。
 あの爆風の中、彼女だけは問題なく行動できていたのだろう。
 迸る魔力の奔流の中、土曜属性の彼女は揺るがない。

 イオリは短剣を引き抜いていた。
 倒れたサラは息も絶え絶えに杖を握り込む。
 彼女は典型的な水曜属性の魔術師だ。あの距離ならイオリに軍配が上がる。

 だが。
 イオリは短剣で何をするつもりなのか―――

「ま―――……」
「シュトローク・フィズ!!」

 アキラに悪寒が走った瞬間、再び惨劇が巻き起こった。
 イオリの短剣がサラに向かって伸びていく刹那、ふたりの姿は竜巻によって消し飛ばされる。
 アキラは慌てて立ち上がり、竜巻に向かって走った。
 青い稲光の向こう、辛うじて魔導士のローブを見つけ、アキラは迷わず腕を突き入れる。
 イオリがぎょっとして振り返ったのが分かったが、構わず引きずり出した。

「く―――はっ」
「おいイオリ、無事か!?」

 ローブの正面に鋭い斬撃のような傷が刻まれていた。
 肩や二の腕辺りも破損し、露出した肌は赤く滲んでいる。
 ぞっとしてイオリを揺すると、目をきつく閉じていたイオリは呻きながらアキラの手を掴み返してきた。

「見た目、よりはね」
「……離れるぞ」

 土曜の魔術耐性は本人が意識していなくとも効力を発揮するのか、あるいはただのやせ我慢か。
 アキラはイオリに肩を貸してゆっくりと背後で暴れる竜巻から離れる。
 眼前に広がる荒れた大地を改めて見ると眩暈がした。
 サーシャは人が持つ選択肢を操作して思うまま人を操るという。
 こんな光景が、日常の先にあるとは思いたくはなかった。

「イオリ。お前さっき、サラをどうするつもりだったんだ」

 ピクリとイオリが動いたのが分かる。
 答えが分かっている質問だった。イオリの手に握られた短剣が嫌でも目に入る。
 苛立ちが制御できない。
 詰問のようなアキラの言葉に、イオリは自虐するように口元を歪めた。

「……殺そうとしたよ」

 アキラの言葉の意図には気づいているだろう、それでもイオリは、正直に返してきた。
 怒鳴りつけようとし、アキラは行き場のない怒りを溜め込んだ。

 戦闘の前、彼女も言った。サラを救うと。
 だがそんなことは勿論イオリも覚えているだろう。
 その上で、彼女はその選択をしようとした。
 考えがあるのだろう。葛藤もあるのだろう。
 それは分かる。
 だからこそ、アキラはこれ以上なく心が冷めていくのを感じた。

「は、はは、は。やっと、直撃して、くれた」

 弱まり出した竜巻から声が聞こえた。
 アキラは冷めた瞳で竜巻を睨む。
 前と同じようにサラは、すっと掻き消えた竜巻の向こうに立っていた。

 だが、今度は様子が違った。

「は、はは」

 彼女の姿は戦場に相応しいものになってしまっていた。
 纏っていた魔術師のローブは最早衣服としての意味を成しておらず、肩と腰回りに残骸が張り付いているに過ぎない。
 それが彼女の私服なのかは定かではないが、ローブの下に着込んでいた白を基調とした運動着も、土と血に塗れている。
 千切れ飛んだ服から覗かせる膝や腹部は、泥のように黒ずみ、それが皮膚なのか土なのか、アキラには判断できなかった。

「お前……自分ごとやりやがったのか」
「こうでも、しないと、ね。当たって、くれないんだ、イオリは」

 緊急回避手段としては上等なのだろう。
 現にサラは至近距離でイオリから逃れられている。
 だがサラの口ぶりが勘に触った。
 身を守るためではなく、あくまでもイオリを狙ったと強調したいようなその口ぶりに、そしてそれを言わせているのであろうサーシャ=クロラインに、どうしようもないほどの怒りを感じる。
 サーシャに操られた存在にとっては、自分のことなど目に入らないのだろう。

 アキラは射殺すような視線をサラに向けた。
 サラのローブが消し飛び、見えた彼女の首元には、首輪のようなものが嵌められていた。
 そしてそこから伸びる鎖は、サラの胸元辺りに小さな石を垂らしている。
 あれは、かつてアイルークでも見たマジックアイテムだ。

「そこにいるんだろ、サーシャ」

 小石は反応しない。
 だがアキラは睨みを効かせ、構わず怒気を孕んだ口調で言った。

「とっとと出てきやがれ。何のためにとか、何でサラを狙ったとか、そんなことは聞く気はねぇ」

 アキラはイオリの資料を読んだことを思い出す。
 サーシャに操られた者たちの被害を、そして末路を知った。
 栄えた町も、人々に夢を届けていた旅芸人たちも、変り果てて行ってしまったという。
 盛者必衰。そんなことは分かっているが、サーシャはあらゆる存在を操り狂わせていく。

 聞いているだけではピンとこない。いつものことだ。
 打倒サーシャの正義感に燃えたわけではない。いつものことだ。
 だが、目の前で起こるのであれば、アキラは迷わず怒りをぶつける。それもいつものことだった。

「お前を殺す。今、この場でだ」

 小石は反応しない。

「勇者様」

 代わりに応じたサラは、息の粗さを隠しもせず、自分の身体をかばいもせず、静かに言った。

「私ね。多分、もう戻れないんです。そう言われたから。でもね、悪くないって思ってるんですよ、今の狂った私」

 アキラやイオリと戦い、自分をも襲い、それでも対面に立つサラは、微笑んだ。
 その笑顔が、その悲しそうな笑みが、アキラの脳裏に焼き付いた。

「だってね。イオリ、私よりずっと強くて、ずっと優秀で」

 肩を貸していたイオリがピクリと反応した。

「だから、多分思ってたんですよ。イオリと親友になったとき。イオリに親友になろうって言ったとき。私、もしかしたら本当は、彼女に見捨てられるのが怖かったんだって」

 魔導士と魔術師。
 ふたりは同時に魔術師試験を受けたらしい。
 見捨てる、という言葉は、突拍子もない表現に聞こえる。
 だが、なんとなく、サラの感情がアキラには分かった。

「そんなつもりじゃない、って、そのときも思ったんですよ。本当に。だけど今から思えば、“思ってなかったってことは、本当は思っていたんだって”」

 言葉の裏。感情の裏。
 気にしていない、と言われれば、気にしているのだな、と多くの人は思うだろう。そんな裏取りが存在するのは、人と人の間だけではなく、ひとりの思考の中でもそうだ。
 人の感情は、あまりにも不確かだ。辿り着かない答えは無いほど人の感情は、思考は、無限に広がっている。

「そんなことを感じてたからですかね……。ねえ、聞こえてるよね、イオリ。私たち、変なところで遠慮し合ってなかった?」

 またイオリの身体が動いた。
 そしてゆっくりと顔を上げる。
 視線でとらえているのがサラなのか、サーシャなのか、アキラには分からなかった。

「私はイオリに負担をかけて、イオリは私のペースに合わせて。ずっと違和感があったの。一緒にいても、話していても、そういう話題は意図的に避けてたよね。私、知ってるんだよ。私がこの隊に配属されたのは、イオリが色々と手を回したからなんでしょ?」
「それは違うよ。君がこの隊に配属されたのは、戦力として認められたからだ」

 震えながらも、淡々とした口調。
 イオリの様子から、諦めのようなものを感じる。
 アキラは震えたが、イオリはアキラの方を見ようともしなかった。

「そう、ありがとう。……ねえ、イオリ」

 サラにはイオリの言葉が通じていないのは見て取れた。
 イオリはぼんやりとサラを眺めている。

「私はずっとイオリに嫉妬していた。どれだけ努力しても、簡単にずっと先に行けちゃうイオリが羨ましかった。それでも、それなのに、イオリはずっと何かに悩んでるよね。私の見えないものが見ているイオリに、どうしようもないほどの悔しさを覚えた。親友なのに、何の助けにもなれない自分自身が酷く情けなかった。私はきっと、ずっとそんなことを感じてた」

 浴びせかけるように、吐き出すように、サラは震えてそう言った。
 アキラは呆然と彼女の言葉を聞いていた。
 そんな悩みや苦悩を感じている人を知っている。
 いや、もしかしたらどこにでもあるありふれた悩みなのだろう。それだけに、軽視は決してできないものだ。

「は、はは。やっとはっきり言えた。こんなことにならなきゃ、私、この先もずっと遠慮して黙り込んでた。だからきっと、狂えて良かったんです。イオリと、何も隠さず、正面からぶつかり合いたいと、多分思ってたんです」

 だから、こんなにも狂った光景になっているのか。
 サラへの僅かな理解と、そして憤りを覚える。
 つまらない悩みでは決してないのだろう。だがそれだけで、これほどの事態になるのか。

 この場の節々から、アキラが感じることがある。
 サラの根底にあるのは、イオリへの、親友への想いだけだ。

 サーシャが行動を支配したところで、その部分は変えられない。

 信頼、不安、そして羨望や嫉妬。
 裏を取ったらきりがない、数多の感情。

 それだけの強い感情を、アキラは誰かに思えるだろうか。
 それだけの強い感情が―――アキラが抱くことができない、この感情の結末が、こんな光景だと認めていいのだろうか。

「ねえイオリ。私ははっきり言ったよ。やっと言えた、やっと吐き出せた。今度はイオリの番だよ。言いたいこといくらでも言ってよ」

 イオリは言い淀んだ。
 アキラには分かっている。

 イオリには決定的な負い目がある。
 イオリのここ3年の行動は、すべてこの“刻”に正常に世界を回すためのものだった。
 勝手な行動をしたと言っている“二週目”の経験をもとに、“一週目”の焼き回しをするべく行動していたのだ。
 そうなればあらゆる裁量にはどうしても意思が介入する。
 イオリのことだ、2回目3回目となればより良い回答が見えたであろう。だがそれでも、彼女は“一週目”に拘らざるを得ない。
 その行動そのものに、サラは違和感を覚えたのだろう。その裁量の意思に介入しているのは、親友という楔を打ち付けた自分なのではないかと感じてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。
 共にい続けたサラだからこそ、その違和感を強く覚え、そして強く苦悩した。
 事実、イオリの意思に、裁量に、親友への想いというものの介入はあるのかもしれない。それも無理からぬことだ。

 イオリは下唇を強く噛み、必死に何かを考えている。
 少しでも時間をかければ、イオリのことだ、何か理由を産み出して、それらしく話せるのだろう。
 きっと、これがサラの目には違和感を生み出すのだ。

「……そう」

 サラはこれ以上イオリに時間を与えなかった。
 彼女はもう察している。
 イオリは自分が望む答えを出さないと。
 すべてを知るアキラは、苦渋を舐める思いをした。自分のせいで大切な親友とこんな形で対立させられたイオリと、狂ってなおイオリの様子を察せるサラ。ふたりは、当たり前の日常にいられたはずなのに。

「でもいいよ、言えないなら。無理に聞かない。ここまでこじれちゃね、今更だもんね。もう親友には戻れない、よね」

 消え込むようなサラの声に、イオリは表情ひとつ変えなかった。
 サラは自分が狂っていることを自覚している。
 恐ろしく悲しげな様子が、日常の中に存在するであろうその表情が、戦場の中で浮かんでいた。

「でもね、イオリ。どうせ殺されるなら、私はやっぱりイオリがいいな」

 今度こそイオリの表情が変わった。
 アキラも察した。
 サラは、正常な思考で、自分の異常な状態を把握しているようだった。

 すべてを吐き出したのは、思い残すことをなくすためか。
 サラは、努めて怪しく笑い、わざとらしく手を広げた。

「さあ、イオリ。私は“勇者様”に手を上げて、魔術師隊副隊長も同時に襲った重罪人です」

 表情は優し気で、まるでイオリに“理由”を与えているようだった。
 アキラは後者のような気がした。
 サラは、きっと、自分自身を諦めている。
 狂った自分が元に戻れないことを理解した上で、幕を引こうとしているのだろう。

 イオリもすでに察している。そして、同じように諦めている。
 すべてイオリの想像通りだったのだろう。おそらく昨夜から、彼女はすでにこの状況を察していた。
 ここに来るまでの話も、イオリにとっては、状況も見えていないアキラがひとりで騒いでいただけのように見えていて、話を合わせただけなのかもしれない。

 だが。

「また負担になっちゃった。ごめんねイオリ。今まで楽しかった、です。だから私を―――」

 サラを殺せば、サーシャの被害はこの地から消える。
 大局を見ればリスクは無い。
 “一週目”と同じに“刻”を刻むことが、魔族を相手には何よりも優先すべきこと。
 細部は違うとはいえ、イオリの思考はそうなのだろう。

 だが、アキラは思う。
 それは、

「―――殺して」
「……それは、無いな」

 イオリの考え方は知らない。
 だが、“一週目”のために払うリスクなど、気にすることは無い。

「サラ。お前は助かるし、イオリだって無事だ。俺と一緒にどこかで転んだことにすりゃあいい」

 自覚はしている。
 馬鹿げたことを言っている。
 だがそれでもなお、目の前の光景に比べれば幾分マシな気がした。

 目の前の光景は、馬鹿げている。

「ちょっと仕事サボって喧嘩しただけじゃないかよ。それでなんで殺すとかって話になるんだ」

 虚言だ。何も根拠は無い。
 それでも自分がそうだと思っていればいい。

 目の前の光景が日常の延長にあるというならば認めてやる。
 だがその結末までも認めるつもりはない。

「……アキラ。もう止めよう。これ以上は君の“刻”に関わる」

 イオリから小さな呟きが聞こえた。
 アキラは顔をしかめる。
 だが、そんなものはどうでもいい。
 サラに聞こえないように配慮したのだろうが、目の前のサラはイオリが何か呟いたところまでは察せたようだ。悲しげに瞳を伏せる。

「親友なんだろ、諦めるのか。サーシャ如きが茶々入れてきただけで、諦めんのかよお前は」
「そういう次元の話じゃない。相手は魔族だ。今の君は知らないかもしれないけど、魔族は、」
「言い方変えてやる。諦めたいのか、お前は」
「―――あ、諦めたい」

 意地になっての言葉かもしれない。
 イオリは震える声で返してきた。

「君の覚えていない前々回。結局今と同じことが起きた。聞きたくなかった、サラの言葉を、結局聞かされて―――いや、今回はもっと酷い。彼女が本心で話してくれているのに、僕は本当の答えを返せない。分かるだろう?」

 悲痛な声だった。
 “一週目”はどうだったのだろう。イオリも本心でサラと話せていたのだろうか。
 すべての記憶を保有するイオリは、この秘密を知らない者とは、決して本心から話せない。
 呪いのようなものなのだと思っているだろう。
 事実サラの思考もその影響を受けている。

「仮にサラを救えても、僕は彼女が望む答えを言えない。言わない。サラの言う通りだ、ずっと負い目を感じ続ける。……全部元通りにはならないんだよ」

 イオリの声が小さくなった。それはサラを殺す理由にはならないことを彼女も分かっている。
 もしかしたらそれが自棄を起こしている本心なのかもしれない。
 サーシャの被害は、サーシャを退けるだけでは終わらない。

 だが、それでいいのか。
 イオリには、サラには伝えられないことがある。それを伝えられない理由は、ヒダマリ=アキラというふざけた人間のせいだ。
 そんなことが、許されるのか。

「―――元通りも何もない」

 幼少の頃、当たり前のように見ていた日常の光景が、破滅へ続いていたことを知ったとき、自分は何を思ったか。
 幼い自分には何も見えていなかったのかもしれない。
 だけど、その日常を、すべて否定したいとは思わなった。
 その狂った日常のすべてが誤りだったことにはしたくないと強く思った。
 後から見れば歪んだ感情なのだろう。
 それでも、アキラは辿り着いた結果がすべてだとは思いたくなかった。

 この光景を許したら、今度こそ、誰かを想った結果が、必ず破滅へと行きつくと自分は思ってしまいそうだった。

「変わってないだろ、何も」

 これは。

「相手が言いたいこと言って、お前は言いたいことがあるのに言えなかった。それだけじゃないかよ。それだけの、ことじゃないか」

 自分の価値観だ。
 酷く曖昧なものだ。

「俺だってよくあるぜ。好き放題言われたり、言ったり。言いたいことがあっても黙ってたり。日常茶飯事だ」

 元の世界で、アキラには親友なんて呼べる存在はいなかった。よく行動を共にしていた者たちはいたが、いちいち親友などと言うのも照れくさい。
 この世界でも、“彼女たち”を除けば精々タンガタンザで数か月行動を共にしていた男がいた程度だ。

 自分は、彼ら彼女らに、言いたいことをすべて言っただろうか。
 言わなくてもいいことを言わなかったろうか。
 そしてそれで、関係がすべて壊れただろうか。

「漫画みたいに、嘘もなく本心から語り合える相手なんていやしない。本心隠すなんてザラだ」

 言葉にすると、自分の周りとの関係があまりに希薄のようだった。
 だが、アキラはそう感じない。
 だからこれは自分の価値観なのだろう。
 美しい物語の中にあるような関係など、アキラの世界からは見つからない。

「それでも平気な顔して一緒にいられるんだ。だけど、また会おうと思えるんだ。会いたいと、思えるんだ。それが嘘だらけの感情とは思わない」

 だからこそ、彼女たちが羨ましいと感じられた。
 曖昧なアキラの世界ですら許容しているそれが、昇華され、より高位のものとなっているのに、こんなつまらないことで崩れることはあってはならないと思える。

「イオリ、お前に対してもだ。ここにきて、すぐに言おうと思ってたのに言わなかったりした」

 それでも。
 思ったことがある。

「だけど、そのたびに何度も思った。次こそは、ってな。会うたびに胃が痛くなるって分かってても、また会いたいと思ったんだ。魔王の討伐なんてどうでもいい。イオリ、お前に会おうと思ったんだ」

 自分には、それだけが確かにあった。
 どれほど罪悪感に苛まれても、またイオリに会おうと思い続けられた。
 あのときの感情も曖昧なものだった。

 名前の無いものは思考を妨げる。
 だから人は、曖昧なものを嫌うのかもしれない。

「今回だってそうじゃないのかよ。相手に好きなように言っただけで、相手に言いたいことがあっても結局言えないだけで。それでちょっと喧嘩しただけだろ。どんなことでも清算できるわけじゃないって、お前たちならとっくに分かることじゃないのかよ」

 清廉潔白な関係というものは、アキラには分からない。
 アキラの世界には存在しない。
 だけど、少なくとも、そんな曖昧な関係なら存在する。

「隠し事はする。言いたいこともある。不満だって溜まる。だけど、会いたいと思う。言えなくても、伝えたいと思う。そのせいで衝突することもある。それでもまた、会おうと思える。そんなの普通じゃないのかよ」

 その曖昧なものを形にしろと言われたら。
 アキラは曖昧に、投げやりに、それでも、自覚をもって。

 名前を付ける。

「それを友と呼ぶんじゃないのか……!!」

 いい加減で曖昧なものだらけのアキラの世界には存在しない、親友と呼び合うふたりには、分からない言葉かもしれない。
 だけど、アキラにとって存在しないそれが、より高位のものであるそれが、普通の延長線程度で壊れないと信じたかった。

「……イオリ」

 アキラは剣を構えた。
 壊させない。
 この関係を、サーシャ如きには壊させない。
 アキラは祈るように呟いた。

「サラを救う。手を貸してくれ」
「……ああ」

 今度は本心であって欲しい。
 静かに応じたイオリにアキラは安堵の息を吐くとサラの首輪を睨んだ。

 アキラは強く望む。
 イオリとサラ。ふたりが本心で語り合える未来を。
 自分が魔王を倒して、この狂った物語を刻み終えれば、イオリはきっと、サラにすべてを伝えられる。

「―――アキラ。それは私からの頼みだよ。サラを助けたいな」
「―――、」

 振り返ると、イオリはすでに短剣を構えていた。

「……助けるに決まってんだろ」

 アキラは顔を軽く振って、腰を落とした。

 サラを救い、そして問題なく “刻”を刻み、魔王を倒す。

 手段は分からない。
 自信もない。
 やることだけが山積みの今、それでもアキラは、それを我がままなことだとは思わなかった。

“―――*―――”

 呆然と、その光景を見ていた。

 新たに出逢った自分と同じ“異世界来訪者”のホンジョウ=イオリ。
 そしてその親友というサラ=ルーティフォン。

 嫉妬なのか、劣等感なのか、日常に存在する当たり前の感情が増幅し、サラはイオリに牙をむいた。

 戦闘自体は壮絶だった。

 サーシャ=クロラインに操られた者は戦闘力が増幅されるようだ。
 魔術の対価は魔力、時間、生命。
 洗脳下にあるサラは、恐らく迷わず生命を犠牲することができるのだろう。

 極度の緊張感で痛覚が鈍る現象に似ている。
 常人では開けることすらできない生命の代償という扉を開かせるサーシャは、やはり忌むべき存在なのだろう。

 だが、それでも。

 見れば分かる。
 サラ=ルーティフォンではまさしく命を犠牲にしても、ホンジョウ=イオリを勝り得ない。
 それだけの差があれば、普通は劣等感や嫉妬を飛び越え、羨望を覚えるものであるが、ふたりの間にある“親友”という楔がそれを許さないのだろう。
 並び立つことを諦めきれない、強い感情。
 誰かを強く想う、感情。

 自分にはできない、その行為。

 呆然と、その光景を見ていた。

 イオリはきっと、本心ではサラを救いたいと強く思っているだろう。
 だからこそ、必死に数多のことを試み続け、失敗し続け、その結果戦闘が長引いている。
 イオリの悲痛な表情が目に焼き付く。

 呆然と、その光景を見ていた。

 イオリはサラを救いたいと思っている。
 サラもきっと、またイオリと共に語らい合いたいと思っているはずだ。

 だからこそ、自分は手を出すことはできなかった。

 自分が手を出してしまえば―――彼女たちの想いを、あっさりと踏みにじって終わってしまう。

 戦場の中にあって、祈るように目を閉じてみた。

 もし、仮に。
 仮に再びこの光景が眼前に広がることがあったら、自分には何ができるだろう。
 彼女たちを救える自分になっているだろうか。

 久々に覚える、このどうしようもないほどのもどかしさを、打ち破ることができるだろうか。

―――***―――

―――このまま、終わらせることなんてありえない。

「シュトローク・フィズ」
「キャラ・ライトグリーン!!」

 吹き荒れた暴風がアキラの背後を襲った。
 構わず突き進むアキラに対し、サラは再び杖を振るう。

 左方に魔術の気配。
 即座に察したアキラは急反転して回避した。

 何度も受ければ流石に分かってくる。
 魔術の匂いを強く感じる。

 恐らくサラの杖には何らかのマジックアイテムが使用されている。
 彼女の魔力を増幅させているのだろうが、あくまで彼女本人のものではない。
 そうなると、魔術発動に僅かなラグが存在する。
 元は何ら気配もなく敵を討つ魔術なのだろうが、その膨大過ぎる力が逆にあだとなり、魔力の“うねり”のようなものを確かに感じた。

 サラを睨む。
 彼女は、歯を食いしばりながら自分とイオリに魔術を放っていた。
 魔力はマジックアイテムから補給できているとは言え、体力の方はそうでもないらしい。
 水曜属性ならば治癒魔術は容易く使えるはずだが、彼女は使用していないようだった。
 それが攻撃にすべてを割くためにサーシャがそうさせているのか、あるいは決着を早めるためにサラがそうしているのか定かではないが、彼女は危険な状態にあることは間違いない。
 もし再び不用意に飛び込めば、彼女はまたも自分ごと魔術を放つだろう。
 そうなれば、彼女は。

―――終わらせられない。

 駆けながら、アキラは気づく。
 彼女はアキラに魔術を察知されていることは気づいているようだ。徐々にアキラを特定の地点へ誘導するように魔術を放っている。特に魔力が充満しているポイントなのだろう。
 アキラは即座に既定のルートから強引に離脱した。
 サラが苦い顔をしたのが分かる。随分と好戦的だ。

―――終わらせない。

 結局サラは、イオリの話を、言葉を聞けなかった。
 サラが覚え続けた違和感を、イオリは決して離せないだろう。
 アキラのせいで、そうなっている。

 この物語にいる限り、イオリはサラにすべてを語ることはできないだろう。
 サラが違和感を覚えてしまった以上、その亀裂は決して埋まることは無い。
 サーシャが見つけた心の裏はそれだ。

 だからこそ、終わらせられない。
 自分のせいで、自分の世界に存在しない関係が壊れる結末は、認められない。

 イオリには、サラに伝えたいことがあるのだ。
 言おうと思っても、決して破ってはならない掟のようなものを自分に課し、そして苦しんでいる。
 その掟も、まさしくアキラが原因なのだ。

 “一週目”。
 彼女を救うことはできなかった。
 恐らく何ら制約のなかった状況でも、サーシャの完全支配を受けたサラを止めるには、彼女の命を絶つしかなったという。
 そのとき、イオリは、サラに何かを伝えられたのだろうか。
 後世には美談として伝わるような、親友との戦闘は、多くの者を涙させる素晴らしくも下らない話になったのだろうか。

 “二週目”の最終局面。
 あのときもそうだった。
 失うものがあり、それでも、何かを手に入れる。そんな胸糞の悪い物語の結末。
 どうやら大円団のハッピーエンドは流行ってくれていないらしい。

 虫のいい話なのだろうか。
 何もかもを手に入れたいと思うことは。
 都合のいい話なのだろうか。
 何も失いもせずに望んだ結果を手に入れたいと思うことは。

 それが物語の形を成さないというのであれば、いいだろう、物語から脱却しても構わない。

 サラを救い、そして問題なく “刻”を刻み、魔王を倒す。

 都合のいい願いだが、それくらいは許してもらいたい。
 ままならない旅を続け、すっかりと忘れていたが、この狂った物語に対してようやく言える。

「せっかくの逆行ものだ。好き勝手やらせてもらう」

 かわし続け、ようやく、サラが射程に入る。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 ドンッ!! とアキラは大地を蹴った。直後に竜巻で吹き飛ぶ大地。流石に抜かりが無い。
 先ほどの流れ通りだ。
 サラは典型的な魔術師タイプ。
 それも、ラグのある魔術を主軸とするようで、速度を上げたアキラを捉えきることはできない。
 驚異的な力ではあるが、流石にアキラとイオリ相手では戦闘力には開きがある。大地を破壊し尽しでもしない限り、何度やってもこの状況に陥るのだ。

「―――、」

 サラは即座にアキラに杖をまっすぐに向けた。

―――来る。

「シュリスロール!!」

 当然、サラも無策ではない。
 本来は攻撃用であるはずのこの大魔術だが、術者が自らの負傷を気にも留めないのであれば話は違う。
 自らの身体を取り囲むように発生する巨大な青い竜は、攻撃魔術であるがゆえに、侵入者に、そして術者自らにも多大な威力を発揮する。

 アキラは思考した。
 この魔術を突破すること自体は可能だ。
 だが、それでは先ほどの大惨事が起こる。

 ならば。

「―――、」

 自分に、できるだろうか。
 ひたすらに破壊の力のみを追求してきた自分に。

 だが、やるしかないと、思う。

 自分が望んだ未来を手に入れるために、今すべきこと。

 それは―――魔術だけを無力化すること。

 できるはずだ。
 それを自分は、先ほど見ている。
 もしかしたら彼女は、そのために、自分にあの光景を見せていたのかもしれない。

 攻撃するだけの魔術だと思っていたこれは、この力は。
 魔術を無力化するためにある。

 ありったけの魔力を込めて。
 魔術という曖昧なものを、確かな形として捉えるように―――

「―――キャラ・グレー!!」

 バジュ!! と、熱した鉄に水をかけたような音が鳴り響いた。
 アキラが振るった剣が捉えた巨大な青い龍は、オレンジの光に浸食されて稲光を放つ。
 幻想的な光景だった。

 アキラの剣に使用されている魔力の原石は、魔術を弾く。
 もともと物体として捉えるような性質を持つが、剣の斬撃の規模となると大規模魔術にはその場しのぎにもならない。しかし、先ほどのようにアキラが魔術を使用しながら振るえば当然、魔術と魔術の衝突を起こしてしまう。
 しかし今、アキラが発動した魔術は青い龍の“発動”を許さず、全身に伝わっていく。
 そして龍の身体を伝い、その浸食は、サラの付き出した杖にまで及ぶ。

「っ―――」

 短い悲鳴と共に、彼女は身体を硬直させる。
 日輪属性の魔力はあらゆる属性を兼ねるのか、土曜のそれに似た衝撃が彼女の身体前進を駆け巡る。
 その媒体であった龍は稲光のたびに動きが鈍り、次第に淡くなり、そして徐々に透けていく。

 まるでそれは、あの存在が還る光景のようだった。

「召喚獣みたいだね―――ラッキー!!」

 鋭い指笛が響いた。
 魔力を使い切ったアキラの頭上に、大きな影が現れる。

 消えた青い龍の向こう、目の前の光景に戸惑うサラが見えた。
 イオリは上空に召喚獣を出現させ、迷わずサラに向かって飛び込んでいく。
 サラは思わず、といった様子で杖を握る。

 が。

「無駄だよ―――」

 ズンッ!! と出現したラッキーが大地を押し潰した。
 思わず身を屈めたアキラが襲る襲る周囲を探ると、どうやらラッキーはその四肢を立たせ、3人を外から覆い隠すように身を伏せている。
 先ほど見たラッキーより遥かに巨大だ。イオリが流す魔力の量で召喚獣のサイズを変えられることは知っていたが、ここまでの規模で出現させることができるとは。

 そして感じる。
 あれだけ肌を付くような何かの刺激が充満していたのに、一瞬にして消え失せている。
 これは。

「ラッキーの下に、魔力なんて漂ってないさ」

 先ほどの緊急離脱をさせないためか。
 ラッキーは土曜の召喚獣だ。この存在の下では、魔術など容易に発動できない。

 イオリは短剣を構え、サラに向かって突き出す。

 その光景を見て、アキラは思わず叫びそうになった。
 だが、強引に口を閉じた。
 きっと、大丈夫だ、と。

「―――っけ」

 鋭い一閃がサラの首元を襲った。
 小さな金属音と共に、うめき声を上げてサラは倒れ込む。

 身をよじって何とか近づいたアキラは、サラの首輪にグレーの魔術がまとわりついていたのを見た。
 そしてしばらくして、その首はパキリと割れる。
 そこから下がっていた、不気味で、不吉で、災厄の訪れを告げる、石と共に。

「……できるじゃないかよ」
「……これからだよ。リロックストーンを破壊したからと言って、サラが支配されていないなんて、証明できないからね」

 努めて冷静に、イオリは言った。
 確かにそうなのだろう。
 そんなものは悪魔の証明だ。人の心は分からない。
 問題は山積みだ。
 決して“一週目”のような、あっさりとした幕引きには決してならないだろう。

「だけど、少なくとも。前々回の結果とは違う。これが今後どうなるか分からないけど―――アキラ」
「ん」
「ありがとう」

 イオリは、変わらず静かに、サラの前で腰をかがめた。

「サラ。今は多くは話せないけど、きっといつか言うよ。それまで、親友でい続けてくれると嬉しいな」

 気を失っているはずのサラが頷いたのが見えたが、イオリの肩が震えていることに気づき、アキラは、空に溶けていくラッキーを見ていたことにした。

―――***―――

 その日は、天気だけが良かった。

 東の大陸―――アイルーク。
 伝説発祥の地であるリビリスアークでは、ようやく厳しい寒さを超え、随所に新しい命が芽吹き、春の到来を知らせていた。
 もともと緑の多い大陸、と、他の大陸の者たちからは大雑把に認識されているが、彼女が思うに、ある種正当な評価だと感じる。

 セレン=リンダ=ソーグ。
 幼い頃より他の大陸を含め各地を回っていた彼女は、緑豊かなアイルークの正当な評価者である。
 根無し草の生活を続けていたセレンは、当時家庭教師としてこの村を訪れた。
 その縁あって、今は孤児院の手伝いをしているが、その教え子は旅立ち、ついでに言うなれば、弟も今頃どこかの大陸のどこかの場所で、やはり悠々自適な旅を続けていることだろう。
 ことごとく、自分には旅というものが付き纏うようだ。

 セレンは自笑し、孤児院の郵便受けから朝の新聞を取り出した。
 憂うように見るばかりだったこれも、最近では随分と変わってきている。
 どうやらまた、何か、世界から憂いが消えたようだ。

 ヒダマリ=アキラ。
 そして、スライク=キース=ガイロード。
 あるいは、リリル=サース=ロングトンか。

 最近世間を騒がしている彼らは今、神話に最も近い位置にいる。
 この記事も、世間の噂が幾重にも交わり、多くの者には確かな真実は分からないだろう。

 だが、内、ふたつのグループの動向を知れるセレンにとっては見極めることなど造作もない。
 これは自分が知らない出来事だ。
 ともすれば、手紙が遅いかリリル=サース=ロングトンが解決したものだろう。

 ある意味幸いだ。
 セレンは胸を撫で下ろす。

 もしこれがあの男―――ヒダマリ=アキラの手柄だと考えるだけで恐ろしい。

 かつて彼を邪険に思ったことはあるが、それが理由ではない。
 ヒダマリ=アキラという存在は、この村にとって、もっと言えば、村長にとって、恐ろしく重大な意味を持つのだ。

 “伝説の誘拐事件”。“百年戦争”。
 その件が広まったときは酷かった。

 この辺鄙な村で、誰の目からも明らかなほどの“宴”が模様されることになる。
 村の発展にはいいのだろう。
 だが、熱心な“勇者信者”である村長は加減というものを知らない。

 村の若手や女手は残らずかり出され、解放されたのは頭が損得の勘定もできないほど疲弊しきった後であった。
 あんなことを頻発されては村ではなく村人の命に関わる。
 年配であるのにあの狂乱の宴を容易く乗り切ってみせた村長の活発さを前に、セレンは自らの老いを感じさせられたせいなのか村長への怒りなのかよく分からない感情に揉まれ、柄にもなく―――いや、やはり、思い出すのは止めておこう。

 そういう経緯もあり、セレンは最近の新聞を別の意味で憂いて見ていた。
 自らの雇い主であり、教えの子の育ての親であるエルラシアと相談し、“雪山の伝承”の事件を知らぬ存ぜぬで押し通した自分を褒めてやりたい。

 宴をするなとは言わない。だが、頻度を考えろ。
 ただ。
 このご時世でそう考えられるのは、ある意味“次”があると確信しているがゆえなのだろう。

 セレンは小さく笑った。
 次、とは。

 あれだけ同じ場所に留まらない自分が、これほどまで長く滞在する場所があるとは。

 思わず乱れた口元を何気なく隠し、セレンは手早く郵便物を籠に入れる。
 これもすっかりと習慣となってしまった。

 そのとき。

「―――?」

 遠くで騒ぎが聞こえた。
 もしかしたら新聞を読んだ村長が詳細を訪ねに自分のもとを訪れようとしているのかもしれない。
 この時間だ、居留守は上手くいくだろうか。などと、不敬なことを考えながら目を凝らすと、どうやら違うようだった。

 彼は―――確か、この村の魔術師だ。
 何かを喚き散らし、しかし全力で駆けながら、必死に、何かを訴えている。

 分からない。
 分からないが、セレンは何か懐かしい空気を感じた。

 まだ控えめな寒さの残るこの早朝に、じっとりと手のひらに汗が吹き出し、しかしそれでいて、身体が小さく震えるこの感覚。

 いつしか早鐘のようになり始めた心臓を抑え込み、魔術師の声を拾おうと耳に全神経を集中させる―――その前。

 雲だろうか。
 大きな影が、リビリスアークを覆い始めたのに気がついた。

 セレンは、確信めいたものと、そして同時に、僅かな祈りを捧げながら、ゆっくりと、空を見上げた。

 その日は、天気だけが良かった。

―――***―――

「……悪いとは思うけど、これでいいか」

 気を失ったサラを、イオリは入念に縛り上げていた。
 せめてもの配慮か自身の魔導士のローブでサラを包み、慎重に大地に寝そべらせる。

 大地に座り込んでいたアキラがなんとなく気まずくて視線を外すと、転がっているサラの杖が視界に入った。
 先ほどの衝撃のせいか、先端のスカイブルーの宝石にはひびが入っている。
 あの宝石は、やはり見覚えがある。
 だが、今は深く考える気にはなれなかった。

 妙に空気が澄んでいる。
 焼け爛れた大地の焦げ臭い匂いも空に吸い込まれるように昇っていき、遠くからサラサラと優しい風の音が聞こえていた。
 日常から離れた光景が、日常に戻っていくようで、少しだけ穏やかになれる。
 だが、やるべきことはいくらでもあるのだろう。

「……それで、どうする?」
「どうもこうもないよ。流石に3人乗せてすぐに飛び立てるほど余裕はないし、少し休んで戻ろうか」

 見た目では分からないが、流石にイオリも疲弊しているのだろう。
 イオリはアキラの隣に腰を下ろすと、肩をさすった。
 魔導士のローブの中には元の世界のものなのだろうか、学生服を纏っている。
 そのままだと流石に冷えるだろう。
 気が利いていれば羽織っていたコートを差し出すようなことができていたかもしれないが、アキラはいたるところが焦げ付いたボロボロの上着くらいしか渡せなかった。

「サラはどうなるんだ」

 ふたり並んで、ピクリとも動かないサラを眺めながら、アキラは呟くように言った。

「さっき言った通りだよ。君はああ言っていたけど、流石に問題にせざるを得ない。カリスには事情を話すし、魔族に洗脳されているなんてことになれば魔術師隊での扱いは難しい。モルオールの魔術師隊がそんなリスクを許容できるわけがないからね。しばらく養生は必要だろうけど、それから先、彼女に何があるかなんて分からないよ」

 サーシャは結局出現しなかったが、退けたと考えていいのだろう。戦闘が終わり、サラも生きている。
 だが、どうやら素直なハッピーエンドにはならないらしい。
 これはサラの人生に関わるような問題だったのだ。
 現実というのは世知辛い。
 これは正規のルートから逸れた代償なのかもしれない。
 サラにとって、本当に問題が訪れるのはこれから先なのだろう。

「だけど、それは、先の問題だよ」

 沈んでいたアキラに、しかしイオリは、少しだけ満足げに言った。

「確かに、今思いつく限りでもサラは酷い扱いを受けると思う。魔術師の資格ははく奪されるかもしれないし、そんな状態じゃ生涯監禁されるかもしれない。僕もここを離れるし、彼女をかばうことはできないよ」

 アキラが息を呑んでいると、イオリは少しだけ笑って言葉を続けた。

「だけど、もしかしたらサーシャの完全支配は失敗しているかもしれない。グリグスリーチの影響もあったせいで正規の手順でサラを洗脳できなかったかもしれないし、あの杖の力でサラは守られていたかもしれない。明日にもサラが目覚めて、すべて元通りになっているかもしれない。旅先で、彼女との手紙のやり取りを楽しみにすることになるかもしれない」

 イオリが随分と曖昧なことを言い出した。
 アキラが眉を寄せると、やはりイオリは満足げに言った。

「これは本当に都合のいい考え方で、ただのエゴかもしれないけど、サラが生きていることだけでも良かったと思う」

 今日起こった出来事は、ただの“一週目”の焼き回しではなかった。

 もしかしたらこれから先、サラからしてみれば、ここで命を落としていた方が良かったと思える過酷が待ち受けているかもしれない。

 だが、もしかしたら、サラは今にでも起き上がり、自分たちに笑いかけてくるかもしれない。
 当たり前のように復職し、当たり前の日常を過ごすかもしれない。
 勇者のファンとやらの友人の前で、アキラと出会ったことを自慢げに話すかもしれない。
 そして、遠い未来、イオリと共に暖かく語らうかもしれない。

 靄のかかったような、すっきりとしない曖昧な終わり方でも、そんな可能性は残せたのだろうか。
 そしてイオリは、その可能性を見ることができているのだろうか。

「前々回。こんな気持ちにはならなかったよ。ただただサーシャを恨むだけだった。そこに悩みや不安は無かった。でも今はそれを感じるよ。これからどうしようか、ってね」

 イオリの表情からは見えないが、彼女は彼女で、この結果を良しとしているようだ。
 前々回―――“一週目”。
 そのとき彼女がどういう表情を浮かべていたのか、アキラには思い出せなかった。

「……なあ、イオリ」
「ん?」
「“一週目”の俺だったら、もう少しちゃんとした結末になったのかな」

 なんとなく、そんなことが口を突いて出てきた。

 記憶も何もなかった“一週目”の自分。
 その存在は、今の自分より遥かに強いらしい。
 今の自分がそんな状態だったら、もしかしたら、サラを完全な形で救い出すことができていたのだろうか。

 アキラが情けなさと申し訳なさが同居したような瞳でイオリを見ると、彼女は目を伏せて息を吐いた。

「前に言ったことを気にさせちゃったみたいだね……。ごめん」
「いや、いいんだよ。それよりもっと聞かせてもらいたい。俺は、」
「アキラ」

 イオリは首を振ってアキラの目を見返してきた。

「これも考え方次第なんだろうけど、多分、聞かない方がいい。聞いてしまうと、どうしても同じようにできなくなる。君なら乗り越えられるかもしれないけど、“知っている”ってことは、得なことばかりじゃない。いや、苦痛になることがほとんどかもしれない」

 イオリはちらりと寝そべっているサラに視線を向けた。
 親友であり、イオリのその違和感を最も近くで覚え続けた人物。

 未来のことを一部知っているだけのアキラでさえ、旅の序盤、あれだけ苦しみ抜いたのだ。
 イオリはそれを最も感じた存在だった。
 彼女でさえ使いこなせなかったそれを、アキラが使いこなすことはできないのだろう。

 アキラは、はっと息を吐き、拳を握り締めた。

「正直さ、不安なんだよ。なあイオリ。俺はちゃんと“俺”か? 少なくとも俺は、俺をやれてるか?」

 むちゃくちゃな言葉だとは思った。
 だけど、それが一番知りたい、そして知りたくないことだった。
 もしかしたらイオリと出逢うことに複雑な感情を持っていた理由のひとつはこれだったのかもしれない。

 “一週目”の自分を知っているイオリ。
 “勇者様”であるヒダマリ=アキラを知っているイオリ。

 自分の遥か先にいるらしい過去の自分は、せめて今のヒダマリ=アキラの延長線上に存在しているのであろうか。
 失った記憶の中のヒダマリ=アキラは、どういう存在だったのか。

 それを考え出すと、気が狂いそうになる。
 表情や話し方、思考の進め方に、そして想い。
 千差万別のそれが、過去の自分と今の自分が地続きでいないと考えると、言い表せない恐怖を覚える。

 イオリは目を細めて、じっとアキラの表情を伺っていた。
 自分の表情は、彼女の記憶の中の自分と同一だろうか。

「深く考えないってのが俺のスタンスだと思ってんだけどさ。たまに自分が分からなくなる。だから、少なくとも知った方がいいかと思ってたんだけどさ。……いいや、忘れてくれ」

 これは自我を失うことへの恐怖かもしれない。
 自分の一挙手一投足が、自分という存在を上書きしていくような錯覚に陥る。

 今だから分かる。
 記憶を失うことは、ある意味命を失うこと以上の恐怖だ。

 “一週目”の自分は旅の最後に、それを代償に差し出したことになる。
 そう考えると、今の自分と“一週目”の自分は、決定的に違うのかもしれない。

「……少なくとも、さ」

 黙っていたイオリは、アキラから視線を外さずに言った。

「……君は、前々回の君ができることができていない」

 小さく思った。
 死刑宣告のようなものだ。

「そして、君は前々回の君ができなかったことをやった。起こらなかったことを起こした」

 それは、賛辞なのだろうか。
 だがアキラはぼんやりと、思い続けてしまう。
 今のヒダマリ=アキラは過去のヒダマリ=アキラとは違うのだと。

「だけどさ。それでも、前々回の君と、今回の君。それに、前回の君だって、同じヒダマリ=アキラだって思うよ」

 アキラの意図を察しているのかは分からなかった。
 だけど、イオリの表情は優しく感じられた。
 根拠のない、傍から聞けば意味も分からない言葉だったが、僅かだけ救われたような気がする。

「そして君は今回、サラを救ってくれた。アキラ、僕はね。そう見ないかもしれないけど、本当に君に感謝しているんだよ」
「……そ、か」

 その表情のまま、イオリは微笑んでいた。
 斜に構えず、まっすぐ受け取ると、心にあった小さなわだかまりが無くなっていくように感じる。
 この先悩まないとは思えない問題だが、とりあえず今はこの結果に満足すべきなのかもしれない。

「……あ、そういやさ、お前さっき」
「ん?」
「僕、ってか、私、ってか。あれ、なんか、」

 すごく説明が難しいが、イオリは察したのか微笑んだ。

「そうだね、アキラ。僕は、元の世界ではあまり一人称を使う話し方をしなかったんだよ。もともとは私、だったかな。あんまり関心がなかったんだ。それで、異世界にきて何の気なしに使ってみているだけなんだけど、どうする?」
「どうするって……、僕でいいんじゃないか。聞き慣れてるし、……、その、まあ、似合ってる? ってか」

 視線を外して言ってみた。
 するとイオリは満足げに笑った。

「さっきの、半分嘘なんだ」
「は?」
「一人称にあんまり関心が無かったのは本当だけど……、まあ、癖、みたいなものかな。妙に畏まると、つい、ね」

 そう聞くと、妙に申し訳ないような気になってくる。

「……お前はずっと、張りつめてたのかよ。“二週目”も」

 思い起こせば、自分は、ホンジョウ=イオリという人間を理解していなかったような気がする。
 “二週目”。共に語り合い、笑っている中でも、彼女は彼女で、目に見えない何かと戦い続けていたのだろう。
 彼女にとって、あの旅は、苦痛なものだったのかもしれない。
 気を張り続けて、何も休まらない彼女の隣で、自分は何も気づかずに高笑いしていたのだろう。

「……まあ、そうだよね。そうか」

 しかしイオリは目を細め、少しだけ考え込むように爪を噛んだ。

「一応事実ではあるんだろうけど、それだけじゃない。……これくらいはいいかな。言っただろう。半分嘘だって。何の気なしに使ってみている、っていうわけじゃない。理由は……いや、原因は君だよ」
「原因だと」

 わざわざ言い直したイオリは、白い目を向けていた。
 気のせいだろうか。
 アキラ自身、イオリの表情の変化が、少しだけ見えるようになっているのは。

「旅の途中、思わず口から出たとき、君が随分騒いだんじゃないか。やれ僕っ娘だとか、これでいこうだとか、どうのこうのって」
「へえ、そんな馬鹿がいるんだな」
「それからもふざけて使ったら、君は騒いだっけ。からかわれているような気がして、かえって意地でも使い続けることになったよ。それが当たり前になるくらいに。むしろ自分でも気に入りかけてきた。誰かの洗脳のせいかもしれないね」
「サーシャじゃね? ……分かった。忘れてくれ、……ください」

 遥か先にいるらしい自分の背中が透けて見えた。
 そんな負の遺産があったとは。自分の知らない自分を知っている人物とは恐ろしい。
 ますます、過去の自分を知りたくなったが、碌なものではなかったようだ。

「忘れないよ」
「おい」
「何せ、サラを失って初めて大声を出したときのことなんだから―――そして今回も、君は“僕”を選んだね」

 イオリは遠くを見ていた。
 アキラには何も見えない。
 そこには、自分の遥か先にいるアキラがいるのだろうか。
 そこでは、“一週目”の旅の光景が輝いているのだろうか。

「アキラ。君は変わっていく。だけど、それは成長であって、君自身が作り替えられているわけじゃないと僕は思う。不安になったらいつでも言ってくれ。言わなくてもいいけど、少なくとも僕がいることだけは忘れないでくれ。だからさ、」

 要領を得ない言葉。
 曖昧な解決。
 それでも、それを良しと出来る関係と、それは似ていた。

 イオリは立ち上がる、まっすぐにアキラを見て微笑んでいた。
 純粋な、晴れ晴れとした表情ではない。
 まっすぐに見返しても、見抜けない部分はある。
 それでもアキラは、自分がこの先世界を何度周ろうと、何度でも彼女の元へ向かうだろうと思えた。

「君が君であることの証明に、僕は僕であり続けるよ」

 言葉にはできない感情は、何をやっても想うことしかできない。
 だからアキラは、照れ臭さを乗り越えて、せめてその視線をまっすぐに見返していた。

 彼女を知ろうとすることは、知ろうと思い続けなければできないのだろう。
 誰に対してだって同じだ。
 かかる時間が違うだけのように思える。
 いや、かけようと思える時間が違うだけなのかもしれない。

 だけど自分には不安は無かった。
 そう思い続けられると思えた。
 これから先、旅の中で、ずっと知ろうと思い続けられるだろう。

 胸が焦がれるほど出逢いたかった、新たな、そして旧知の仲間を。

 そして―――これから。

「さあ、アキラ。世界一周ご苦労さま。改めて、僕を仲間にしてくれるかな」
「土曜の魔術師がお前以外にあり得るかよ」
「嬉しいこと言ってくれるね。……はは、また同じ話してるね、僕らは」
「そういうもんだろ」

 そういうものだ。無駄と思えるかもしれないけれど、当人たちは無駄とは思わない。
 そういう関係は、どこまでも、心地の良いものだ。

「……ただ」

 微笑んでいたイオリは、いつもの冷静そうな顔つきになっていた。
 アキラも察する。
 今、脳裏を何かが過ったのだ。

「これから向かう場所は、僕にはもう分かっている」
「……ああ。俺も今思い出した」

 ざわつく風が、一層冷たく感じた。
 終わりきるはずだった物語を、終わりきらない形にしながらも、自分たちはそれを放り出して、これからとある村へ向かうことになる。

「……そろそろ戻ろうアキラ。僕は船が出るまでの間に、サラの問題を何とかしなきゃいけない」
「ああ。俺に手伝えることがあったら何でも言ってくれ」
「……適材適所だ」

 イオリはアキラの提案をバッサリと切り捨てると、指で輪を作り、口に当てる。
 戦力外通告というのは中々に堪えるが、確かにアキラも、何を頼まれても手に付かないだろうと感じていた。

「どうせ僕が何も言わなくてもそうなるのが、少し悲しいけど―――」

 イオリは目を伏せながら呟いた。

「―――“彼女”の傍に、いてあげてくれ」

 過去の出来事から分かる、未来の情報。
 間もなく、世界中の新聞が賑わうことになるだろう。
 もしかしたら、もうすでに、港町には連絡が入っているかもしれない。

 “平和”な大陸―――アイルーク。
 初代勇者発祥の地にして、ヒダマリ=アキラがこの異世界に落とされた村。

 リビリスアークが、壊滅した。



[16905] 第四十五話『得るものは何もない』
Name: コー◆34ebaf3a ID:bddfb80d
Date: 2018/01/05 22:02
―――***―――

 その日は久しぶりに夜まで続く雨が降っていた。
 湿った木の匂いが鼻をくすぐるが、天気が崩れるのは嬉しい。あの日を思い出さずに済むからだ。
 もう少し本降りになって、すべての記憶を洗い流してくれはしないだろうか―――それは、高望みしすぎかもしれない。
 砕かれた家屋も、割れた大地も、崩れ去った塔にも平等に降り注ぐ雨は、洗い流すどころか悲壮感を増すだけだった。

 世界には憂いがある。
 それは例え、魔王と呼ばれる脅威が過ぎ去っても、必ず存在するだろう。
 それは、喜びと表裏一体なのだ。
 どこかの喜びは何かの憂いであるし、逆もまた然りである。
 もし喜びも憂いのいずれもないのであれば、それこそ最大の憂いであるような風に思えるのだから、完全に手詰まりだ。

 そして、今回の世界の憂いはこの、自分が立つ地に現れた。
 きっとこの憂いは、誰かの喜びとなってどこかに現れているだろう。そう考えれば、そう考えなければ救われない。

 持参した花を、廃墟の前に静かに置いた。
 膝まずき、目を閉じ、僅かばかりの言葉を心の中で呟いて、ゆっくりと立ち上がる。
 今日も日課が終わった。
 あとは帰って眠りにつこう。
 一応は礼儀として、この村―――もう、村とは呼べないのであろうが―――の入り口付近に停めてある馬を目指しながら歩く。
 建物に使われていた木材の破片が散乱している中を歩いていると、ふと、窓から明かりが漏れている建物が目に留まった。
 僅かばかり亀裂が入っているが、辛うじて建物の体裁を守っているその家は、庭に座り込んでいるのをよく見かける老夫婦の家だ。どうやら忘れ物でも取りに来たらしい。こんな時間にくるとは、よほど大切なものなのかもしれない。
 その点自分は抜かりない。あまり私物を持たないのが幸いして、あの惨事の中でも滞りなく避難できた。
 あの、笑ってしまうほど、あっけなく過ぎ去った脅威の中でも。

 振り返る。
 雨が強くなってきたようだが、空は見上げない。
 何もかもが無くなったこの村を見ると、何も残していないのに、途方もない喪失感にかられる。

 やはり―――駄目だ。

 誰も見てはいないのに、目元を拭うのも、日課になってしまっていた。
 こんな雨の日も、それは、変わりはしなかった。

「……?」

 村の入り口に付くと、遠くから、何かが向かってくるのが見えた。馬車のようだ。
 こんな時間にこの村へ向かってくる者は限られている。
 ひと月ほど前までは調査のために魔術師隊が大挙して押し寄せていたが、今となってはそれも終わり、あのときのまま時間が止まったような廃村である。
 となると村の者か。
 だが、この村に訪れそうな者は皆、今それどころではないはずだ。
 では、物見遊山の旅行者か。それならばよくここに辿り着けたものだ。
 嫌でも目に付くこの村のシンボルは、既に存在しないというのに。

 いくらか考えても、どうにも答えは出そうにない。
 馬の手綱をほどき、優しく撫でながら馬車の様子を伺う。

 次第に雨足も早くなっていく中、遂に目の前で停まった馬車の様子をうかがっていると、その扉が、勢いよく開いた。

「セッ、セレンさん!! よかった、無事だったんですね」

 面食らったのは向うも同じだったようだ。
 雨の気にせず飛び出してきた赤毛の少女を自分はよく知っている。

 エリサス=アーティ。
 この村で自分が家庭教師を務めていた教え子であり、今や世界クラスの活躍をしている人物だ。
 すると、と思って馬車に目を走らせると、中から数人、防雨のコートを着た女性たちが下りてくる。

 そして、最後に。

 神妙な顔をした、ひとりの男が下りてきた。

 男は、村の様子を一瞥すると、力強く、まっすぐに、視線を合わせてきた。

「何があったんだ」

――――――
 おんりーらぶ!?
――――――

「そうですね、もう、2ヶ月になりますか」

 セレン=リンダ=ソーグ。
 この村でエリサス=アーティの家庭教師を務め、そして孤児院の手伝いをしていた女性だ。アキラも覚えがある。冷たい、というよりは、鋭い印象を受ける女性だった。
 彼女に通されたのは、廃村の小さな小屋だった。
 もともとは魔術師隊が調査のために急きょ建てた小屋だそうだが、調査が終わったあとも難民たちの一時しのぎとしてそのままにしていったらしい。
 手狭な部屋に無遠慮に置かれた中央の机が妙に冷たく感じる。
 対面に座るセレンは雨でぬれたからか結わいていた黒髪を背中に垂らし、曇った眼鏡を静かに拭いている。弱々しくは感じない。だが、その淡々とした一挙手一投足に、まるで活気というものは感じられなかった。

「あの日、この村に、巨大生物が現れました」

 それは、ここに来る道中でも聞いた話だった。

 間近で見た者すら、それを魔物と断ずることはできなかったという。
 この平和な大陸においては規格外の存在が、突如として出現した。
 セレンの話では、時刻は早朝。村の魔術師隊の男が最初に気づいたらしい。
 彼は我が目を疑いながらも必死で村中を駆け回り危機を知らせたらしいが、時間も時間で効果は薄かったという。
 襲撃をしてきた巨大生物は、どうやら北の方向から現れたとのことだったが、それ以外は不明だという。
 現在も魔術師隊が調査を行っているそうだが、その詳細まではセレンは知らないそうだった。

 彼女の説明は流れるようで、分かりやすかった。
 きっと何度も、魔術師隊に説明をした内容なのだろう。

「すまない。その巨大生物をあなたは見たのか?」

 ミツルギ=サクラが口を挟んだ。
 振れれば切れるような視線ではあるが、セレンに対する労りを感じる。
 それでも、村に漂う悲壮感には取り込まれていないようだった。
 こうした村など、彼女はいくらでも見てきたのかもしれない。

 セレンは頷き、そして眉をしかめて記憶を辿るように目を瞑った。

「……見ました。あのときは私も逃げることに必死で、確かなことは分かりません。ですが、
辛うじて視認できた姿を見るに……、いや、うん、まさかとは思いますが、“マーチュ”、のようでした」
「マーチュ……!?」

 エリーが声を上げた。
 サクの気配が鋭くなるのも感じる。

 アキラは会話を聞きながら、拳を握り締めた。
 やはり、そうだったか。

「マーチュってあの、え、マーチュですか? あの小さな」

 エリーはまさかという顔でセレンを見るが、彼女はいたって真面目な表情で頷いた。

「信じられはしないが……、私は聞いたことがある。この辺りにマーチュの巣があるだろう。そこに、信じられないほど巨大なマーチュが生息している、と。私はその調査依頼を受けたことがある。ほら、お前たちと初めて会ったときのことだ」

 サクの言葉を聞いても、エリーはまだ信じられないような表情を浮かべる。
 そして何かを思い出したように、アキラに視線を投げてきた。
 そういえば、あのとき自分は頑なにマーチュの巣への侵入を拒み、エリーに不審がられたものだった。

「そして」

 自分でも、嘘のような話をしていると分かっているのだろう。そしてそんな話を何度もしてきたのだろう。
 セレンはエリーの様子を気にも留めずに、話を進める。

「その巨大マーチュは、ただ、歩きました。この村の上を」

 エリーは息を呑み、そしてセレンの表情がさらに険しくなる。
 その日。その2ヶ月前の出来事を思い出しているのだろう。

「本当に、それだけだったんです。その巨大生物からは意思はほとんど感じませんでした。暴れ回ったわけでもない。明確に攻撃してきたわけでもない。ただ散歩するように、進み方を覚えた赤子のように、歩いただけ。その結果―――」

 窓の外の様子を探る。
 民家は“ひしゃげ”、大地は所々が陥没して雨水を溜めている。
 いたるところに砕けた瓦礫が散乱し、それがもとはどのような形だったのか想像もつかない。
 この惨状でも、魔術師隊が調査に来たのであれば多少は整理されているのであろう。
 歩くこともままならないようなこの場所には、最早何も残っていない。

「リビリスアークは壊滅しました」

 マーチュ。
 正式名称とやらは忘れたが、土色で、ネズミのような小さな魔物。
 ヒダマリ=アキラがこの異世界で最初に倒した魔物でもある。
 攻撃方法は突進にもならないような体当たりと、精々牙をむく程度。
 危険性は著しく低い魔物だ。
 だがそんなマーチュでも、身体のサイズが極端に巨大となればどうなるか。

 その脅威を、アキラは知っている。
 ここではない、どこかの世界線で、自分はその巨大な脅威と出遭っていた。

「あの……、みんなは無事ですか?」

 話を終えたセレンに、エリーは恐る恐る知らなければならないことを聞いていた。
 この地へ向かう途中、彼女の青い顔を何度も見てしまった。

「みんな、とは」
「みんなです。お母さんは、お母さんはどこに……?」

 背筋にひやりと冷たいものが走った。
 エリーと同じく、アキラは祈るようにセレンの言葉を待つ。
 するとセレンは、ようやく柔らかく笑った。

「エルラシアさんは無事よ。孤児院があんなことになって、今も引き取り手を探して奔走してるけど」

 エリーから身体中の力が抜けていくのを感じた。

「村長も似たようなもの。今も援助を求めて他の村を駆けずり周ってるけどね。あのおふたりがいなければ、今頃村人たちはどうなっていたか」
「良かった……手紙が来ないから、本当に、どうなってるかって……」
「それについてはごめんなさい。村がこんなことになって、エリサスの手紙が受け取れなかったから……。どこにいるか分からなくてね」
「いや、いいんです。本当に」

 アキラは呆然と聞いていた。
 会話が妙に静かに聞こえる。
 身体中にまとわりつく湿気が、身体中の活気を奪い去っていくようだった。
 もしこれが、あの出来事通りならば、話がそれで終わりではないことを知っていたからだ。

「……ただ」

 視線に気づかれたようだ。
 セレンはアキラをちらりと見ると、諦めたように言った。

「魔術師隊の話では、死傷者は約80名。村の様子の割には幸いにも少なかったようですが……、そのうちのひとりは、孤児院で面倒を見ていた子でした」

―――***―――

 今は近くの村で寝泊まりしているらしい。
 一通り話を終えると、セレンはこの雨の中帰っていった。
 どうやら彼女も村長やエリーの母の手伝いをしているようで、明日も人と会う約束があるという。
 廃墟と化したリビリスアークの主要人物たちは、今なお元の生活を取り戻せていない。
 村ひとつが壊滅するという出来事に対して、人ができることはあまりに少なく、それだけに、時間は膨大に必要なのだろう。

「アキラ。寝泊まりできそうなところ、見つけたよ」

 半壊して傾いた建物のお陰で雨が凌げる場所を見つけた。
 壁に背を預けてぼんやりと雨を見ていると、現れた少女が同じように隣で背を預けた。

 ホンジョウ=イオリ。
 アキラと同じ異世界来訪者の彼女は、数か月ほど前から行動を共にしている仲間だ。
 雨ざらしの廃村を眺める彼女の瞳の色からは、相変わらず、何を想っているのか分からなかった。

「ありがとな。まあ俺はその辺でも良かったんだけどさ」
「エリサスが言い出したんだよ。放っておけば君はそういう無精をするってね。まったくもってその通りだよ」

 イオリがくすくすと笑った。
 あまり面白くない。

「この村。元がどうだったのか僕はよく知らないけど、魔術師隊がやったんだろう、そういう避難所、結構あるんだ。たった2ヶ月でほとんど使われていないってことは、それだけこの村の村長の手際がいいということかな。みんな、別の村で新しい生活を始められているみたいだね」

 不幸中の幸いという奴なのだろうか。
 だが、アキラは強くは思えなかった。

「それか、それだけここにいたくない奴が多かったってことだろ」

 苛立った声は雨音に紛れたようだった。
 だが言い直す気にもならない。
 アキラはいつしか雨を、そしてその先の北の洞窟を睨んでいた。
 あそこから現れた脅威。笑ってしまうほど巨大な影。
 それが出現したという。

「なあイオリ。セレンさんが帰るときさ、みんな言ったろ、雨が強くなってきたから今晩はここに泊まっていった方がいい、ってさ」
「……ああ」
「セレンさんがすぐに断ったとき、俺は見たよ。一瞬だけど、目が泳いだの。いや、震えていたのを」

 身体中が金縛りにあった気がした。
 静かに、淡々と状況を説明したセレンが、その目に、明確な恐怖を浮かべたのだ。
 提案したのは無遠慮だった。
 彼女にとって、いや、この村の人間にとって、この村に留まること自体が恐怖となっている。突如として日常を砕かれた場所なのだ。その恐怖が根底に根付いてしまっている。
 それをまざまざと見せつけられた気がした。
 そして、その原因は、恐らく。

「なあイオリ。俺が思い出せたのはこの出来事だけだ。ここで起こった、この被害だけだ。お前は知っているんだろう、こいつが何故起きたのかを」
「……前にも言ったけど、僕から答えられることは無いよ」
「そうか、じゃあ俺が思ってることそのまま言う。この村が襲われたのは、俺が“勇者様”になったからだ」

 ヒダマリ=アキラが“勇者様”ということは今や世界中に広まっている。
 少し調べれば、異世界来訪者ということも分かるだろう。
 そしてその異世界来訪者であるヒダマリ=アキラが、この世界に落とされた村が、このリビリスアークだということも。

 北の大陸モルオールからは、船を乗り継ぎ、馬車の業者に無理を言い、慌ただしくこの地へ向かってきた。
 その道中、何度も考えたことだ。
 このタイミングでリビリスアークが襲われる理由は何か。
 平和な大陸と言われるアイルーク。そんな事件など起ころうはずもない。
 だが確かに起こったこの悲劇に理由があるとすれば、それはこの村が勇者を輩出したからだ。
 つまり、この事件はこうも考えられる。

 魔王軍による、報復、と。

「またやっちまった。これは“二週目”に起こらなかった事件だ。これは、」
「アキラ」

 イオリがアキラの腕を掴んできた。
 力は無い。だけど、それを振り払う気にはなれなかった。

「この村を襲撃したのは巨大なマーチュだ。君じゃない」

 その言葉が響いたわけではない。道中で自分でもそう思おうとしたことだ。
 改めてこの村のなれの果てを見て、この村の住人に会って、事前の心構えなど消え去ってしまった。
 ただ、この憤りをイオリにぶつけても仕方がないことは思い出せた。

「……あいつはどうしてる?」
「エリサスなら割と元気だよ。むしろ、僕たちの中で一番。ある意味一番覚悟を決めていたしね。そんな彼女がそうしているんだ。僕たちが気にしすぎてもかえって彼女を苦しめる」

 的確な正論だった。
 モルオールにいたイオリや、あるいはタンガタンザにいたサクにとっては、こんなことは日常茶飯事だったのだろう。残された者に対する接し方も心得があるようだ。
 だが、それでもアキラにはそんな接し方ができるような気はしなかった。

 孤児院の子供たちは、アキラも知っている。
 ひとり残らず顔も浮かぶし、名前だって呼べる。
 その中のひとりが亡くなったという。
 セレンには誰が被害に遭ったのかまでは怖くて聞けなかった。
 彼女もそれが分かっていたから、深くは語らなかったのだろう。
 エリーもそれ以上何も聞かなった。
 彼女にとって、孤児院のメンバーは家族のようなものだったはずだ。今の彼女の心境は、怒りだろうか、悲しみだろうか。それでも彼女は、何も、言わなかった。
 アキラでさえ、気が狂いそうなほどの感情が、今にも口を突いて出てきそうだというのに。

 こうしている間にも、世界の裏側で、誰かの命が消えている。
 そんな簡単に言える当たり前のことでも、その命が、自分が知っている者のものである想像はしたことは無かった。
 それが今、現実に起こってしまった。
 恐らくは、自分のせいで。

「ねえ、アキラ」
「ん?」
「僕は明日、近くの村を周ってみるよ。魔術師隊に話を聞いてくる。どこまで調査が進んでいて、今どうなっているのか」
「お前は知っているんじゃないのか?」
「意地悪なことを言うね。同じ出来事でも、何かが変わっている可能性がある。もしかしたらすでに討伐されているかもしれないんだ」
「そんなもん、見に行けば分かるじゃねぇか」
「……気持ちは分かるけど、落ち着いてくれ。彼らも彼らで、この問題には真摯に取り組んでいるはずだ。下手に刺激したら、迷惑になるかもしれない」

 元魔術師隊らしい発言だった。
 イオリは念押しするようにアキラの腕を強く掴むと、視線を合わしてきた。

「アキラ。君の責任じゃないと言っても、届かないかもしれない。だけど僕だって同罪だ。この事件を知っていた。だけど何の手も打たなかったんだよ、僕は」
「お前には事情があっただけだろ」
「そうさ。だから僕は深刻に悩んでいない。だけどね、君が苦しんでいるのを見ると、本当に悔しくて、苦しいんだよ。そう言っても、きっと半分も伝わらないかもしれないけどさ」

 瞳の色からは、やはり何も分からなかった。
 イオリは身体を離すと、さりげなく髪を触って空を見上げる。
 相変わらず雨は強いままで、どす黒い雲が空を覆っていた。

―――***―――

 自分が想像していなかったほど、目覚めが良かった。
 寝袋の中で身じろぎすることも無く、アキラはすっと身体を起こす。

 アキラの就寝用に見つけた小屋は寝泊まりするために作られたわけではないようで、酷く狭く、土と埃の匂いが強くする。急造だからか、木の壁のつなぎ目には隙間があり、日光が漏れていた。
 どうやら雨は止んだようだ。静かな朝だ。

 廃村となったリビリスアーク。
 彼女たちは建物ふたつ分ほど離れた場所で夜を過ごしたはずだが、すぐに向かう気にはならなかった。

 アキラは緩慢な動作で身支度を整えると、動かしただけで軋むドアを開ける。
 部屋の中を満たす光に、アキラは思わず目を塞いだ。
 どうやら雲ひとつない快晴のようだった。

「ようやく起きたか」
「……何してるんだよ、ここで」

 突然声をかけられたが、思ったよりも冷静に返答できた。
 振り返ればサクが、小屋に背を預けて立っている。
 すっかり乾いた地面を歩み寄って来るサクを見て、アキラはようやく、今の時刻に気づいた。

「悪い、寝すぎた。もう昼か」
「まあ別に構わないが……、それより、これからどうするつもりだ?」

 アキラは眉を寄せる。
 鋭いサクの視線が、どうにも自分を探っているような気がした。

「どうするって、何がだよ。他のみんなはどうしたんだ?」
「エリーさんたちなら朝早く近くの村へ向かったよ。イオリさんに連れられてな。やはり母親のことが気になるらしい。まずはセレンさんを訪ねるそうだ」
「そか」

 すると今、この村には自分とサクしかいないようだ。
 この時間だ。本当は、この通りはもっと賑わっていたのだろうか。今は瓦礫を押しのけ、人が通れるように強引に開かれた一本道がむなしく村の外へ続いているだけだった。

「そういやサク。お前はなんでここにいるんだ? 一緒に行かなかったのか」
「私はお前の見張りだよ。エリーさんとイオリさんからくれぐれも、と頼まれてな」
「見張り、ね」

 その意味は、なんとなく察せられた。
 察せられるということは、今、心穏やかに思える自分が、“そういうこと”を考えている、ということなのだろう。

「それでだ。アキラ。これからどうする?」
「見張りとか言っておいて聞くのかよ」

 アキラは呆れたように頭をかいて、ぼんやりと北の方向を探った。

「巨大マーチュを殺したい」

 ぼそり、と。アキラは呟いた。
 自分の心は、妙に静かだった。
 意思も、覚悟も、決意もない、あまりに漠然とした感情が、その言葉を吐き出した。
 それほど自然に、自分の心はその答えを出していた。

 乾いた笑いを浮かべ、サクを見る。
 しかしサクは、小さく頷くと、アキラに並び立った。

「……なら、ふたりで行くことになるな」
「え、いいのかよ」
「何がだ」

 サクは変わらず笑っていた。

「見張りって、俺の見張りじゃないのか?」
「いや、合っているよ。お前の見張りだ。エリーさんも、イオリさんも、何度も言っていたよ。お前は絶対に勝手に行動するから、片時も目を離さずにこの村に留めておけ、とな」

 ふと、思う。
 サクはいつからこの小屋の前にいたのだろう。

「それでもいいのか」
「ああ、いいさ。ふたりには悪いが、主君様からの命令が下った」

 軽々しく言い放ち、サクは歩き出した。
 どうにもこの関係を悪用しているような気がする。

「そして私はお前が望むなら、その道を切り開く義務がある。さて、ぐずぐずしていると帰ってきてしまうぞ、急ごうか」
「…………分かったよ。止めだ。大人しくしてる」

 どうにも調子が狂ってしまう。
 サクはピタリと止まると、また小さく笑った。

「いいのか?」
「行くなら全員で行った方が安全だ。それくらいの計算はできる」
「そうだな、夕食と同じ携帯食料だが、昼にしようか。こっちだ」

 上手く扱われたようで面白くない。
 面白くはないが、少しは冷静になれたような気がする。

 サクは、赤い衣を日の灯りに照らしながら、アキラの前を、堂々と歩いていった。

―――***―――

「アルティア=ウィン=クーデフォン、です!!」
「うん」
「ティアにゃん、です!!」
「……うん」
「ささ、どうぞ」
「アルティア、静かにしよう。流石に目立っている」
「くじけそうです……」

―――ウッドスクライナ。

 リビリスアークの隣町にあるこの村からは、周囲をうっそうとした森に囲われ、木々の隙間から切り立った岩山が見える。
 以前、あのサーシャ=クロラインが出現した場所であるとアキラから聞いていた。

 “記憶”では、訪れることになっていたのは別の村だったはずだが、どうやら今回は違うらしい。
 いずれにせよ大きな村への中継地点のひとつであったことには変わりないので、この辺りは特に確定していない要素だということなのだろうか。

 イオリは静かに周囲を伺う。
 リビリスアークの壊滅から2ヶ月。この村は、ある程度の落ち着きを取り戻しているようではあるが、時折視界に魔術師隊の者が入る。
 村の者たちは知らないのかもしれない―――この村が元凶の岩山の麓に位置していることに。
 そのおかげか、村は、のどかに感じられた。

「イオリン。聞いてくれますか」

 その村で、ひとり、のどかさを破壊しようと躍起になっているような少女が腕の裾を引いてきた。
 青みがかった髪を揺らし、妙にいきり立っている。

「実はですね、あっしの愛称について、イオリンにお話をした回数が、今ので99回目となったんですよ」
「数えていたのか……。じゃあ、僕があしらった回数も99回になるね」
「冷たいことを言わないでください……。でも、でもですね。今度こそです。記念すべき100回目では、イオリンを頷かせてみせますよ」
「僕の方の記念すべき100回目になると思うけど」

 ティアが騒いだ。
 イオリは少しだけ距離を取る。
 こんなことになるならティアはエリーに任せ、自分は魔術師隊の宿舎へ向かうべきだった。

 アルティア=ウィン=クーデフォンについて、自分が、分かっていることを考える。
 彼女には分かるはずもないのだが、イオリにとって、ティアは旧知の仲だ。
 狂ってしまったこの物語。繰り返しの魔王討伐への旅。
 彼女と共に過ごした時間は長い。
 そのはずなのだが、彼女を知っているとは声を大にしては言えなかった。
 分からないのだ―――次に何をしでかすか。

 今回だったか、前回だったか。それとも最初だったか。
 アキラはアルティア=ウィン=クーデフォンを善意の塊だと表現していた気がする。
 胸に何かが刺さった気がした。
 情けは人の為ならず。好意には、必ず見返りというものが付き纏う。
 ホンジョウ=イオリの根底には、そうした考え方があるのだろうと自覚した。だからこそ、裏の見えない彼女の好意は、自分にとっては眩しく、ともすれば恐ろしいのかもしれない。
 根は単純なアキラや、彼女を子供扱いしているエリーやサクでは感じない恐怖なのだろう。
 信じられないわけではない。むしろ、最も信用のおける仲間である。ここまで旅を続けて、皆に改めて馴染めたのも、しきりに関わってくる彼女がいてこそだと思い、感謝もしている。
 だが、どうしても、自分の影を際立たせるその純真な瞳を前には、劣等感にも似た後ろ暗さを覚えてしまう。
 端的に言えば、イオリはティアが苦手だった。
 もしかしたら、もっと単純に、子供の相手が苦手なだけなのかもしれないが。

「エリサスはまだ来てくれないのかな……」

 現在、自分たちはとある宿舎の前に立っている。
 昨日去り際に、セレン=リンダ=ソーグが教えてくれた現在の彼女の住居がここだ。
 エリーが建物に入ってから数分。その間一体、何回ティアに絡まれただろうか。個人的な理由を抜きにしても、怒りを覚えていい回数のような気もする。

 本来ならば自分ひとりで魔術師隊を訪ねて情報収集を行うつもりだったのだが、エリーも外出するつもりだったらしく、どうせならとこの場所まで同行することになった。
 あまり細かくは思い出せないが、“初回”もそうだったような気がする。

「イオリン、イオリン」

 また裾を引かれる。あのときは、この子供はどこにいただろうか。
 いまいち覚えていないが、こんな風に世話を焼いた記憶は無いから、リビリスアークに残っていたのかもしれない。

「アルティア、落ち着いてくれ。頼むよ。昨日はちゃんとできていたじゃないか」
「むぅ、ティアにゃんですけど……、そうなんですよ、あっし、昨日は静かにしてました。最早あっしの存在が消えているレベルでした。はっきり言ってしまうと、今その反動が来ています……。……あっ、記念すべき100回目です!」
「そうだねアルティア」
「止め差しに来ましたね。100回達成おめでとうございます……」

 どうせザル勘定なのだろうが、遂に辿り着いてしまったようだ。達成感は無い。
 それよりも、その反動とやらの被害が今自分に来ていることを大いに嘆いた。

 彼女の頭の中では101回目の第一歩をどう踏み出そうと作戦会議が始まっているのだろうか、ティアがうんうんと唸り始めて少し大人しくなったとき、ようやく宿から目当ての人物が歩いてきた。

「お待たせしました」
「…………。あ、エリにゃん。聞いてくださいよ、イオリンがついにあっしのことをティアにゃんと!」
「嘘を吐いているのか、それとも妄想と現実の区別がつかないのか」
「……本当にお待たせしました」

 現れるなり脱力し切り、エリーはイオリを庇うように間に割って入ってくれた。
 うちの子が迷惑をかけてすみません。そんな様子が目に留まる。
 どことなく疎外感を覚えるが、助かったのは事実だった。

「それで、どうだったのかな。セレンさんは?」
「あ、セレンさん、やっぱり出かけているらしくて。結局何も分からずじまいです」
「それもそうか。昨日約束でもしておくべきだったかな」
「無理は頼めませんよ。きっと村長やお母さんの手伝いで忙しいだろうし」

 そう言いながらも、エリーは未練があるように宿に視線を流していた。
 危険な魔物が出現して、ここに来るまで消息不明だったのだ。子供としてはすぐにでも会いたいだろう。
 少なくとも無事だったことは分かっているのだが、その目で見るまでは安心できないはずだ。

「じゃあ、僕は魔術師隊を訪ねてみるよ。エリサスたちはどうする?」
「あ、付き合ってもらっちゃってすみません。あたしも行きます。……あと、エリーでいいですって」
「…………君もなのか」
「あ、一緒にしないでください」

 便乗しようとしていたティアが、エリーの冷たい言葉に静まり返った。
 人を愛称で呼ぶのは慣れない。ちょっと意地みたいになってはいるが。

「こっちだ」

 小さな村で、何がどこにあるかほとんど見渡せるのだが、なんとなく魔術師隊の頃の癖で、声に出して進路を伝えた。
 エリーからの視線が妙にむず痒い。
 彼女は魔術師隊に並々ならぬ関心を持っており、その立場だった自分に対する敬意のような感情が、どうにも気恥ずかしかった。

「あの、これからどうするんですか?」

 イオリの行動に興味津々といった様子で尋ねてくる。特に考えもなく情報収集しようとしていただけなのだが、彼女の目に自分はどう映っているのだろう。
 だが、気にしていても仕方がない。

「とりあえず話を聞かないとね。ここから見えるあの山がマーチュの巣なんだろう。ことが起こってから2ヶ月。今どういうつもりなのか聞かないと」
「どういうつもり、って言うと?」
「アイルークだから勝手が分からないけど、危険な魔物が出たら魔術師隊は当然討伐を考える。変な言い方になるけど、僕の名前を出せば話を聞かせてくれると思う。襲撃に遭った村の調査も終わっていたようだったし、流石にそろそろ動きがあるはずだ」

 言って、無神経なことを口走ったと気づいた。
 恐る恐るエリーを見ると、しかし彼女は感心したような表情を崩してはいなかった。

「エリサスは、大丈夫なのか?」

 思わず、訊いてしまった。
 藪蛇のような気もするが、口を突いて出てしまったのだ。自分が嫌になる。

 あのニュースが流れてから、ここまでの道中、彼女の口数はあまりに少なかった。
 自分たちは、下手な励ましなどできず、爆発物を扱うように、彼女を刺激しないことしかできなかった。
 そして到着した今、あの事件の被害を知った。彼女の家族とも言うべき子供がひとり、亡くなったそうだ。
 その心中を察することができるなど、とてもじゃないが言えなかった。

 エリーは、少しだけ目を大きくすると、力なく笑った。

「駄目駄目ですよ、本当に」

 意図したわけではないだろう、彼女の拳が強く握られたのが見えた。

「夜は眠れないし、身体は震えるし……、それに、被害に遭ったのは誰だろ。昨日は怖くて聞けなったな」

 見ると、ティアがエリー以上に目を伏せて、沈んだ表情を浮かべていた。
 感受性が豊かなのか、どこまでも人を想えるせいなのか。アルティア=ウィン=クーデフォンという人物も、あるいはエリー以上に心を痛めている。
 そう考えながら、自分自身の震えを逃がした。

「あーでも、止め止め。弱音はここまでです。そうじゃないと、気にし過ぎちゃう奴がいて。ティアもね、うりうり」
「わわっ、エリにゃんっ、頭撫でるの止めてくださいっ、嬉しいじゃないですか!」
「どういう……こと……?」

 とらえきれないティアの言葉にエリーが固まる。
 イオリは、息を吐き出し、その気にし過ぎちゃう奴とやらを思い起こす。

「……難しいよね、こういうの。もっと深刻に考えてくれる人がいると、自分の不幸をいつまでも悲しんでいられない。本当に辛くても、泣いている場合じゃなくなるから」

 おぼろげにだが、イオリもエリーの心境が理解できた。
 自分が悲しむと、その人が悲しむから。自分が苦しむと、その人が苦しむから。不幸に躓くことができなくなる。
 辛いだろうに。
 自分も似たようなものだった。

「まあ、嬉しくはあるんですけどね、そういうの。不幸を望むわけじゃないし、悲しいときは悲しまないといけない、って思うんですけど。でも、こういうのいいなぁ、って思っちゃったりもして」
「……そうだね。無理してでも、強引な理由をつけても、その人に自分は大丈夫だって伝えたい、って思う方が強くなるからね」
「……そうですね。大体、自分のことなら平気な顔してくるくせに、逆になると辛そうになってくれたり塞ぎ込んだりしてくれるなんて虫のいい」
「ああ、そういうところあるよね」
「雲行きが怪しいですね。今すぐ止めないとあっしは大声で泣きますよ」
「なーに言ってんの、すっかり晴れてんじゃない」
「ひぃ……」

 エリーの満面の笑顔を向けられてティアがすくみ上った頃、ようやく魔術師隊の支部に到着した。
 おっ建て小屋のようにも見えるが、木製の壁は、太い木の幹が使われ、随分と頑丈そうに思える。
 だが、それを伝って、声が聞こえてくる。中は妙に騒がしいようだ。
 我に返ったイオリは慎重に歩み寄ると、数度ドアを叩く。
 応答があった。開かれたドアから、女性の魔術師が顔を覗かせる。
 隙間から中の様子がちらりと見える。魔術師が6名。随分と多い。この村の者だけではないだろう。

「あの……?」
「ああ、少しお話を伺いたくて」
「え、っと、あ、」

 女性の目が大きくなった。
 イオリの魔導士のローブを見たのだろう。

 威圧されたように後ずさってドアを開けた女性を追って、イオリは中へ足を踏み入れた。
 部屋の中は物寂しかった。廃れている、と言った方が的確か。アイルークの僻地の支部などこんなものなのだろう。
 部屋の隅には書類が片付けられていない事務机が置かれており、奥に見える階段からは生活感が漂ってくる。家屋の一部を魔術師隊の支部にしているのだろう。
 そんな支部で、6人もの魔術師が立ち話をしていた。
 この部屋にはこのローブの意味を知っている者しかいないのだろう、ぎょっとした視線がイオリに突き刺さる。

「お話し中すみません。何かあったんですか?」

 ざわつきの中、最奥の初老の男が口を開いた。
 彼はこの村の魔術師隊のようだ。

「いや、今しがたこの人たちが来て。多分、マーチュの話かと。明日なんですか? こちらもいきなり言われても」
「だから、それは中止になったって話をしているんですよ」

 声の大きい男が苛立った声を上げた。
 眉を潜めながらイオリは先ほどドアを開けた女性の魔術師に視線を向ける。

「何が中止になったって?」
「あ、はい。例の巨大マーチュの件です。魔導士隊が討伐をする作戦で、この村の方々には避難勧告を出していたんです。私たちはその作戦中止を近隣の村に伝えに来ていて」
「ん?」

 巨大な魔物の討伐の際、近隣の村には避難を命ずることがある。
 山の麓のこの村は当然その対象だろう。
 だが、中止とは。何か問題が起こったのだろうか。
 少しだけ背筋が冷たくなった。
 魔導士隊の行動が少しでも鈍くなったとなれば、“あの男”が何を言い出すか分かったものではない。

「じゃあ、マーチュをどうするつもり―――」
「だから!!」

 イオリの言葉は声の大きい男に遮られた。
 彼が苛立っているのは、きっと朝から同じような説明を方々にしているせいなのだろう。
 ピンと来ていないこの村の魔術師に、この大きい男は自棄になったように騒ぎ立てた。

「巨大マーチュはとっくに撃破されたんだよ。あのリリル=サース=ロングトンに!!」

 イオリの悪寒は、良い方向に裏切られた。

―――***―――

「ルールがおかしい」
「ん? そうか?」

 息も絶え絶えになりながら、アキラは恨みの籠った念を送ってみた。
 もう何度か試しているが、その程度では彼女の速度は鈍らないらしい。

「まあいいじゃないか。休憩は終わりでいいか? 折り返し行くぞ。次はそうだな、次の次の休みの昼食代でも賭けようか」
「え、俺は何? 次の休みに荷物持ちして昼飯奢って夕飯奢って次の次の休みがなんだって?」

 ちょっともう覚えていない。
 ただ、このままいくと今後の休みはすべて消滅するという危機感だけは覚えていた。

「もうちょい休もう。そしてルールを変えよう。何でお前と徒競走で何かを賭けなきゃいけないんだよ」

 座り込んだアキラに小さく笑って、ミツルギ=サクラは隣に腰を下ろした。

 滅んだ村―――リビリスアーク。
 “平和”なアイルークらしく、滅んだ村にも、その外にも、魔物らしい魔物は見えない。

 アキラはサクに誘われて、村の外で身体を動かしていた。
 だが、この何もない―――何もかもが無くなってしまった村で、ただ漠然と身体を動かすのも中々に辛い。どうせなら何かを賭けようとアキラが言い出したのだが、それが良くなかったらしい。
 ほんの少しの準備体操くらいの気構えで来たのだが、サクは本気で来た。どうやら甘い考えだったようだ。
 何もないのであれば、精々走り回るくらいしかできない。結果として、ふたりは魔力禁止、魔術使用禁止の徒競走を行うことになったのだが、はっきり言って、相手が悪すぎた。

「ハンデ付けよう、ハンデ。勝てるわけないって」
「さっきも言っていたが、どうする? 魔術ありにするのか?」
「それこそ勝ち目無いだろ。そうだな、サクは両手両足を縛り、ついでに目隠しをする」
「警戒し過ぎだ。お前はそれで勝って嬉しいのか」
「ああ」
「勇者……だよな……?」

 本気で心配しているような表情を浮かべて見せた。
 出逢った頃を思えば表情が豊かになったように思う。
 いや、自分が、彼女のことを少しは分かるようになったからだろうか。

 打開策を却下されたアキラは、それなら休憩だと言わんばかりに足を投げ出した。
 サクもゆっくりと足を崩す。
 どうせ目的も何もない運動だ、ぼんやりとしても罰は当たらないだろう。
 腰を下ろした地面は僅かに湿っているようだが、今日は幸いにも晴れて、順次乾いていっている。
 元の世界ならば地球の裏側にだってすぐに行けるというのに、モルオールからこの場所に来るのに随分とかかってしまった。
 その期間、この大地は何度雨に濡れ、日の光にさらされたことか。
 そしてその間も、目の前の廃村は滅びたままだったということになる。

「なあアキラ。今更ではあるが、この世界には慣れたか?」

 同じように村を眺めていたと思っていたサクは、どうやらもっと遠くを見ていたらしい。
 その視線を追いながら、アキラはしばし考える。元の世界を想っていたからか、唐突な質問だとは思わなかった。

「慣れる、ってのがどんな感覚か分からない……って、まあ、むしろそれくらいは慣れているのかもしれない」
「そうか、もう1年以上経っているしな。驚かされることも少なくなってきたろう」
「お前それティアを相手にしてても言えんのか?」

 サクが渋い顔をした。今日はサクの表情が良く変わるように思える。

 アキラはぼんやりと、今は無き高い塔の姿を記憶に追った。
 この世界にアキラが落とされたのは、丁度こんな天気だったようにも思う。

「まあ、でも、やっぱり慣れたんだろうな。そういえばお前に逢ったのも、ああ、いや、なんでもない」

 気恥ずかしくなって、言葉を濁した。
 彼女と出逢ったのは、この世界に落とされた初日だ。
 サクは、シリスティア、タンガタンザ、モルオールと、ずっと離れず共に旅をしてきた唯一の相手だった。
 そう考えると、とてつもなく凄いことに思えるし、反面、当たり前のようなことだとも思ってしまう。
 自分はこの世界に慣れられた。今ならもっと、自信を持って言えるような気がした。

 サクを見ると、聞き返すこともなく、また同じ方向を眺めていた。
 ようやく分かった。
 向うはマーチュの巣だ。彼女と最初に出逢った場所でもある。もしかしたら彼女も同じようなことを考えているのかもしれない。

「私も慣れたな。誰かと旅をするなんて、考えてもいなかったよ」

 ぽつりと呟いた言葉を、アキラは拾わなかった。
 タンガタンザで聞いた、彼女が旅をしていた理由。それが思い起こされる。
 彼女は何よりも早すぎたのだ。
 誰も彼女に追いすがることができなかったのだ。
 だから彼女は止まれなかった。

 その印象は、出逢ったときから変わっていない。
 初めて逢ったときから、彼女はアキラのずっと前を駆けている。
 その速度に自分は、引きずられるように、惹かれるように進んでこられた。
 彼女がその気になれば、後続など引き剥がすことはできただろう。

 それをしなかった理由は、今は形を変えて目の前にある。
 自分はそれに甘えないように、足を緩めない。
 そうあるべきだと、強く思えた。

「なあサク。俺はまだまだ弱いかな」

 モルオールの港町でしまい込んだ感情がなんとなく口から出てきた。
 あのとき感じた身体中に広がるような苦みは、何故か収まっているのを感じる。
 サクが口を開く前に、その答えが予想できていたからかもしれない。

「ああ、まだまだだな」

 彼女ならばそう言うだろうと思っていた。
 だが、辛辣さは感じない。
 剣の師としての彼女の顔は、どこまでも真摯で、優しすぎるほど厳しかった。

「だからアキラ、もっと強くなれ。月並みな言葉だが、お前ならそれができるだろう」

 不思議なものだ。
 あれだけ焦りに化けた冷酷な事実も、些末な問題に思えてくる。
 自分には至らないところがあり、そしてそれを魔王戦までに克服していく必要がある。
 旅の最初に思ったことと何も変わらない。

 そして今は、どこにでも瞬時に辿り着ける最高の師がいるのだ。何の不安があろうか。
 まっすぐに、振れれば切れるような清々しい瞳を携え、彼女は遠くを眺めている。
 過去の自分を超えることなど、主君として、彼女に恥をかかせないことに比べたら、やはり些末な問題に思えてきた。

「ん?」

 腰を起こそうとしたアキラの耳が、音を拾った。
 振り返れば、遠方から馬車がこちらへ向かって走ってくる。

「なんだ、この村に向かってるのか?」
「エリーさんたちじゃないか?」
「いや、あいつらならイオリと一緒に飛んでくるだろ」
「向こうで分かれたかもしれないじゃないか」

 サクも立ち上がり、ふたりして馬車を注視する。
 かなり豪華な馬車のように思えた。
 いや、豪華というより、妙に飾り立てられている。

 ただ事ではないような予感が浮かぶが、何も思いつかない。
 答えの出せないまま呆然と立っていると、馬車は目の前で停まり、そして勢いよく扉が開く。
 ほぼ一瞬でサクがアキラを庇うように立ったのと同時、馬車の中からは転がり落ちるようにひとりの男が現れた。

「勇者様っ、わざわざ訪ねてきてくださるとは光栄です!! おい、すぐに用意しろ!!」

 馬車の中から、数人の男ががやがやと蠢き、機材のようなものを運び出してきた。
 思わず耳を覆いたくなるような音量と共に現れたのは、リゼル=ファリッツ。
 滅びたリビリスアークの村長であった。

―――***―――

「それでは、私たちは他の村にも伝えに行かなければならないので」
「ええ、ご協力ありがとうございます」
「いえ、滅相もありません」

 分かったのは断片的なことだけだった。
 伝令を務めている魔術師隊を送り出すと、イオリは思わず爪を噛む。
 どうやら今回も、自分の記憶とは違う方向に物語が進んでいるらしい。

「イオリンイオリン、やっぱりイオリン凄いんですねっ、握手まで求められるなんて!!」

 さりげなく自分の隣に並んで愉快そうに全員と握手していた人間が何を言う。
 もっとも勇者様の情報を当然持っている魔術師隊にしてみれば、自分とアルティア=ウィン=クーデフォンの差など大したものではないだろう。
 ただ、実際に彼女を見て、勇者様御一行の一員だと気づけた者がいたならばの話だが。

「えっへっへ、でもでも凄いですね、リリにゃんは」

 自分自身が世界からどのように評価されているかまるで分かっていない当の本人は、上機嫌で会ってもいない人物を愛称で呼んでいた。いろんな意味で末恐ろしい。

「あのイオリさん、さっきの話ですけど」
「ん、ああ。君たちも聞いたことはあるだろう、リリル=サース=ロングトンのことは」
「ええ、まあ。何度か……は」

 エリーの視線が一瞬だけティアに走った。
 ティアはにこにことしながら首を傾げている。どうやら世界的に有名な人物であるリリルのことを知っているのは、エリーだけのようだった。
 アキラも知らなかったようだし、世界中を旅しているはずのこの面々の情報は、知ってはいたが随分と偏っているようだ。

「別に驚くことじゃないさ。リリル=サース=ロングトンなら巨大マーチュを討伐できても不思議じゃない」

 巨大マーチュはリリルに討伐された。
 魔術師隊の話では、数日前にリリルが近隣の村に構えた作戦本部に現れ、討伐報告をしたらしい。
 アイルークでは類を見ない危険生物として依頼も出されていなかったというのに、リリルは巨大マーチュを討ったという。
 ボランティアにしては危険が過ぎる。前回はあまり接点がなかったが、彼女も彼女で、前々回と変わらないようだ。
 イオリの肩が少しだけ震える。

「え、じゃあどうします? マーチュはもういないんですよね」
「……そうだね」

 エリーの言葉尻に妙な悪寒がしながらも、イオリは思考を働かせる。
 巨大マーチュは討伐された。
 リリルならば不思議なことではない。
 だが、妙に胸がざわつく。
 リビリスアークの件は、アキラやエリーに深く関わる問題だ。
 変わって欲しいと思った未来は変わらないのに、慎重になりたいと思ったことは分かった形で訪れる。
 ままならない。

「とりあえずリビリスアークに戻ろうと思う。できることはなさそうだし」

 それがいい。
 このむず痒い気持ちを、旅の道中でアキラも味わったのだろう。今はアキラに相談したかった。

「えっと……、じゃあ、あたしはもう少しここでセレンさんを待ってみます。夜には戻ると思いますけど」
「エリサス?」

 妙な気配が強くなった気がした。
 エリーは所在なさげに視線を泳がしている。
 イオリが訝しんで口を開こうとすると、それより先に、部屋の奥から咳払いが聞こえた。

「まったく」

 思わず長々と話してしまったが、ここは魔術師隊支部。もっと言うと、奥の初老の魔術師の自宅だった。
 見るからに不機嫌そうな男はイオリの視線に気づいても、表情を変えなかった。

「ああ、すみません。すぐに出ていきます」
「ん? ああ、いや、あなた方のことじゃない。あいつらのことですよ」

 魔術師の男は、つい先ほど魔術師隊が出て行った扉を顎で指した。

「いつもいつも突然現れて、こっちの都合も考えずに。避難勧告出すのだって一苦労なんですよ」
「はあ、大変そうですよね。村の皆さんにも事前に言っとかなきゃなんですよね?」
「ん、いや、そういえばまだ伝えていなかったか」
「なんと!」

 ここぞとばかりにティアが絡みにいった。
 重大な職務放棄が聞こえてきた気がしたが、ここは自分の管轄ではないとイオリは自分を抑えた。

「そのくせこっちの話は聞かないくせに。分かりますか」
「分かります分かります。お願い事を聞いてもらえない気持ち、あっしにはすごく分かります」

 魔術師の男は、職務態度はともかくとしても、魔導士である自分やティアに対しても弁えて接しているようだった。
 過剰な待遇をしないところは、流石にベテランと言ったところなのだろう。
 問題はティアが話し相手になったことで、長そうな愚痴が始まりそうな気がすることか。

 エリーに視線を送ると、彼女は頷いた。
 これ以上ティアを放置することは危険が伴う。
 慣れた様子でエリーがティアを引き剥がそうと背後に回ったとき、魔術師の男が呟いた。

「じゃあスライムの大量発生はいつになったら何とかしてくれるんだ、って話ですよ。マーチュだって増え出した頃から言っていたのに」

 ぴたりとエリーが固まった。
 イオリの脳裏に何が掠める。

 物語が大きく崩れた前回。
 確かその話を、ヒダマリ=アキラがしていた。

「あ、じゃあ、あたしが何とかしましょうか」

 まずいと思ったときには遅かった。
 エリーが微笑みかけると、魔術師の男は僅かばかり感心したような表情を浮かべる。

「ちょっと、エリサス」
「え、ああ、いいですよ、ふたりは。ティアもイオリさんと戻ってて。近くなんですよね?」
「ああ、そうだ。少し歩くが。待ってくれ、それなら今依頼を」
「いいですって。ほら、リリルって人もやったみたいだし、あたしが勝手に行くだけですから」

 話が変な方向へ進んでいる。
 捉われ過ぎるのもよくないと思って、可能な限り思浮かべなかったのだが、前々回にこの地で刻んだ“刻”は、巨大マーチュの撃破だけだ。
 他の“刻”は、ヒダマリ=アキラに選ばれなかった。
 その“刻”をリリル=サース=ロングトンが刻んだことによって、歯車が狂い始めている。

 イオリは奥歯を噛んで、話を進めるエリーの腕を引いた。
 魔術師の男の前から引き剥がすと、聞こえないように囁く。

「エリサス。まずはリビリスアークに戻ろう。巨大マーチュの話をまずはしないと」
「え、でもそれなら別に後でもいいし……、それに、イオリさんは戻るんですよね? あたしはちょっと、身体動かしたくて」

 それが本音か。
 あまり気にしていないと言ってはいたが、やはりこの一件に相当気を揉んでいたのだろう。
 その巨大マーチュがいなくなって、行き場のない憤りのはけ口が目の前に現れてしまったのだ。

 はっきり言って、そのスライムの件は未知数だ。
 前回は最大にして最強の“異物”が葬り去った敵である。

 イオリとしては何としても先にアキラと話がしたかった。
 だが、エリーの意思は思った以上に固いらしい。

 止むを得ない。
 卑怯だと思うが。

「エリサス。僕はアキラの様子が気になるんだ。君も言っていただろう、彼は今不安定になっている」

 するとエリーは、分かりやすく不満げになった。
 まあまあの効果は認められたと思ったが、エリーはすぐに表情を崩すと、少し口を尖らせて言った。

「多分、大丈夫だろうって思います。サクさんが一緒だし」

 瞳は寂しげだった。諦めたように遠くを見ている。

「あたしじゃ、駄目だろうな、って思うんですよ、これ。あたしがいると、あいつは絶対気にしちゃうし。気にしないで、って言っても、当事者のあたしが言ったら空々しいし。だから、あいつとずっと一緒にいたサクさんに任せなきゃ駄目だろうな、って。……はあ」

 正直、舐めていた。
 流石に世界を周ってきた4人だ。
 本当に上手く回っている。

 イオリが言葉を選んでいると、魔術師の男が書面を一枚したためていた。

「いや、手間をかけてくれるんだ。依頼ということにしておくよ。少ないが、これでいいかな?」

 魔術師の男はイオリを見ていた。
 どうやらただ働きを咎めていると思われたようだ。
 酷く惨めな気持ちになる。

 イオリは腹をくくって空気の塊を吐き出した。

「いや、結構です。エリサス。行くなら僕も行く。それでいいかな?」
「もちろんあっしも行きます!!」
「あ、すみません、イオリさん。わざわざ」
「エリにゃん、せめて一瞥くらいはしてください……」

 この場の“刻”は変更された。
 ならば最善を尽くすしかないだろう。

 ただ。
 スライムと同時に脳裏に掠めた、前回のアキラの話が、心の隅に黒く残った。

―――***―――

「こんな場所で大変失礼しております。ささ、どうぞお召し上がりください。夜にはささやかですが宴もご用意いたします」

 止め役がいない。

 ファリッツが乗ってきた馬車から運び出されたのは折り畳みのできる食卓と、椅子。そして食料の入った樽だった。
 樽の中には蒸された肉に色鮮やかな野菜。デザートまである。アキラの鼻が確かなら、の目の前に並々と注がれた赤い液体はアルコールだろう。
 滅んだ村の隣で野外に豪勢な食事が並ぶこの光景は、戦慄すら覚える。

 世界を一周したアキラでさえ、これほどまでに勇者をもてなす人物はひとりとしていなかった。
 記憶の中のファリッツは、どうやらそのままの人物であったらしい。すこしやつれたようにも思えるのだが、満面の笑みからは強い力を感じた。

「えっと、ありがたいんだけど、」
「ところで、そちらは確か……」
「あ、ああ。私はアキラ様の従者だ」
「おお、それはそれは。これほどまでにご立派な武人を。流石でございます。ところで、エリサスは? 何をしているんですか、勇者様を放っておいて。おい、探して来い」
「ああ、いや、あいつはセレ……、いや、近くの村に情報収集に行っています」
「おお、そうでしたか。それで、どうですかな、旅の調子は」

 目を輝かせるファリッツには悪いが、アキラの声が聞こえなかったらしくエリーを探して廃村に駆けていくファリッツのお付きの人を追っていた。
 最早暴君に見える。お付きの人も気苦労が絶えないだろう。こうした行動は、よくエリーの母にたしなめられていたように思うのだが、生憎と不在だった。

 アキラはファリッツに旅の話をしながら、助けを求めるように、西の暴君の娘に視線を走らせた。
 同席しているが、食事には手を出さず、まっすぐな瞳をファリッツに向けている。
 若干複雑そうな表情ではあるが、妙に誇らしげな瞳の色を見て、アキラは悟った。
 ファリッツを止めてくれそうにはない。

「ええと」

 アキラは意を決し、話の流れを切った。
 過剰な待遇は好まない。
 そしてそれ以上に、眼前の廃村と、目の前に出された豪華な料理との差が気になってしまっていた。

「やや、何か至らぬ点でも?」
「いや、そうじゃない。ありがたいと思う。けど、こんな、」
「それはそれは大変申し訳ございません。実は先ほどセレンから勇者様が訪れたと聞いたばかりで……、本来ならばお招きしたいところだったのですが、急な話で会場が取れず……、まずは、ということでこんな形に。しかしご安心ください。夜には、」
「そうじゃない」

 分かっていた。
 ファリッツが“そんな”素振りをあえて見せようとしていないことを。
 だがその好意を、気づかないまま受け取る器はアキラには無かった。

「村が、こうなって……。今が一番大変なときでしょう。こんなことをしている場合じゃ」
「している場合ですよ。勇者様が一時とは言えお戻りになったのですから」

 ファリッツは確たる口調で言い切った。
 その固さが、アキラの心に強く刺さった。

「止めてくれ。もしかしたらこれは、俺の―――」
「それこそお止めいただきたい」

 言いたいことは山ほどあった。
 こんな辺鄙な村が襲われたのだ。マーチュの山からより近い村もあるというのに、何故かこの場所が襲撃に遭ったのだ。
 誰でもヒダマリ=アキラとの関連を連想する。

 だが、気圧された。
 言葉が止まる。
 ファリッツの瞳はまっすぐにアキラを射抜いてくる。
 アキラがごくりと喉を鳴らすと、ファリッツはすぐに笑顔を浮かべた。

「ささ、それよりも今はおくつろぎくださいませ。若い者でも連れてくればよかった、その辺り、夜は抜かりなくさせていただきます」

 どこまでも純粋な瞳の色は、ファリッツが作っているものなのだろうか。
 自分には分からない。

 ファリッツは、色々と無理難題を言うような男と記憶していたが、この際限のない待遇も、この男の特徴として記憶していた。
 ファリッツ家というのは、太古、初代勇者の援助を務めた者の先祖であるらしい。この村長は、それを過剰なまでに誇りに思い、恐ろしさを感じるほどだとエリーが言っていたような気もする。
 こんな田舎にいる割には野心家で、村の発展には貪欲な男だ。自分という勇者候補が現れたと騒ぎ立て、危険な目に遭わされもした。
 彼の利害と自分の利害が一致しているから、彼は笑みを絶やさないのだろうか。それは考え過ぎだろうか。
 大人のことは、自分には分からない。
 物怖じすらしてしまうほどのファリッツの善意は、自分の暗い部分を浮き彫りにされるように感じる。
 彼はどこまでも、アキラを“勇者様”として扱い、もてなしてくる。
 それともこれがこの世界の普通なのだろうか。

 前言は撤回すべきかもしれなかった。
 自分は未だ、この世界には慣れていない。

「…………サク」
「どうかしましたか?」
「ちょっと」

 すっかり従者として振る舞っているサクの手を引いて立たせると、ファリッツから離れた。
 いろんな意味で話し難い。
 ファリッツに曖昧な笑みを浮かべると、彼はお気になさらずと言ったように頭を垂れた。

「……やりにくい」
「何を言っているんだ。いい人じゃないか」
「おい」

 サクはやはり満足げな顔を浮かべている。
 どうしよう、味方がいない。
 アキラは念を込めてサクを見返すと、彼女は優しく微笑んでアキラと向き合った。
 どうやら今度の念は通じたらしい。

「まあ、事実いい人なんだろう。村がこんなときに、精一杯歓迎してくれるのだから」

 精一杯、とは。
 アキラにはどうも、無理をして、の方が合っている気がした。

「これは、むしろ意地のようなものかもしれないな。タンガタンザでも見たことがあるよ。自分の村が滅んだのに、それでも平気な顔をして普段通り振る舞う者たちを」

 そういう意味では、滅んだ村の真横で食事を始めることも、やせ我慢のポーズのようにも思える。彼は村長だ。もしかしたら誰よりも、胸が潰れるような苦しみを味わっているのかもしれない。
 それでも自分は気にしていない、と暗に訴えかけているようにも思えた。
 心の中では数多のことがうず巻いても、普段通りを貫こうとする。意地とはそういう意味なのだろうか。

「だがな。私はその意地を、決してつまらないものとは思わない。彼らは立派だ。苦しいことを苦しいと言うことは誰でもできる。だけどなアキラ。自分の苦しみを伝播させないことは、何よりも難しいんだよ」

 その言葉に正しさを感じられたかと言えば嘘になる。
 苦しいことを苦しいと言うことが何よりも難しいことになる場合だってある。
 自分の心に正直でないと、心は痛み続けてしまう。

 だけど、そういうサクの横顔は、ずっと大人びて見えた。
 今回の場合、ファリッツの行動は、どうなのだろうか。やはり大人のことは分からない。

「じゃあどうすりゃいい」
「お前も普段通り振る舞え。彼もきっとお前の考えていることは分かっているはずだ。お互い演じ合っていると分かっていても、それを続けることも情けだと私は思うよ」

 ファリッツの善意に応えるために、自分は自分を演じ続ける。
 とてつもなく苦しく、そして、不毛のようなことに思えた。

 しかし、そうでなければ、自分はどんな応答をしたかったのだろう。
 腹を割って話して、ファリッツから恨み言のひとつでも浴びせられれば満足なのだろうか。
 しかしそれは、自分が楽になるためだけに、そうしたいと思っていたのかもしれない。
 ならばファリッツの対応をそのまま受け取ることが、彼に対する罪滅ぼしになるのだろうか。

「さあ胸を張ってくれ主君様。勇者らしく、堂々と接してみせよう」
「サク。お前が従者で良かったよ」
「ようやく思ってくれたか」
「今までも思ってたさ。これからも何度も思うだろうけどさ」

 ファリッツに向き合い、アキラは胸を張って食卓に戻った。
 ファリッツの笑みに、アキラも笑い返す。
 胸は痛んだ。だけど、この痛みを忘れてはならないと思う。

 痛みを抱えたまま、言葉を交わすことが、この滅んだ村への手向けのようにも感じられた。

 が。

「……?」

 アキラは眉を潜めた。
 妙な気配を感じる。
 違和感はやがて焦燥に変わり、鼓動が荒くなる。アルコールには手を付けていないのに。

「……なあ、サク」
「ん、え、あ、どうした?」

 サクに視線を走らせると、彼女は軽く顔を振り、そして視線を鋭くする。
 彼女も気づいたようだ。
 何か嫌な予感がする。
 ふたりの様子にファリッツも笑顔を崩し、恐る恐るといった様子でアキラの顔を覗き込んできた。

 この感じ。
 確かに感じる何かの流れ。

 “戦闘の匂い”―――

「―――っ、上だ!!」

 ほとんど反射で食卓に飛び乗り、ファリッツを抱きかかえて離脱した。
 背後の食卓でドゴッ、と地鳴りが響き、食器が甲高い音で砕かれる。
 ファリッツのお付きから短い悲鳴が上がった。

「―――、アキラ!!」

 サクが即座に駆け寄ってきた。
 食卓の隅に預けていた剣を届けてくれたらしい。
 アキラはそれを静かに受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。

「村長。すぐにこの場から逃げてくれ」

 振り返る前に、何が起こったのか思い至っていた。
 何度も頷き、そして慎重に後ずさる村長を見送って、アキラはギロリと睨みを利かせる。

 こうなるならば、無理を言ってでもイオリに聞いておけば良かった。
 彼女ならばこの来訪者を知っていたかもしれない。いや、考えるのはもう止めよう。

 空から降り立った、それは。

「あー、あー、あー」

 二足歩行の太った龍。そう表現すれば分かりやすい。
 身体中泥色で、いたるところに毒々しい膿のような瘤が浮かび上がっている。
 大木のような四肢と胴。存在感がある巨大な顔は、その半分が鋭い牙を宿す口に割られていた。
 その口が、言葉を吐き出す。

「お、前、ら、魔、術、師、か?」

 不気味な声だった。
 誰も逃げ出せられない。
 精々アキラの背後、ファリッツが何とか後退しようと蠢いているだけだった。

 アシッドナーガ。
 タンガタンザで少しは詳しくなった魔物の情報を集め合わせれば、“言葉持ち”の“幻想獣型”と言ったところか。
 モルオールでもこのレベルの魔物は見たことはついぞ見なかった。
 そもそも竜を模した魔物など、この世界では珍しい。

 アキラは苛立ちを抑え、その既知の化け物と向き合った。

「そうだ」

 化け物の目がアキラを捉える。
 そこでようやく、金縛りにあっていた周囲の男は、一歩ずつ後ずさり始めていた。

「そ、う、か。俺、は、魔、王、様、直、属、の、ガ、バ、イ、ド、様、直、属、の、ゲ、イ、ツ、だ」

 しまったと思った。
 分かっているのだから、聞くべきではなった。
 今でもその名を聞くと、身体中の殺気がざわめきを起こす。

「そんな野郎が何しに来やがった」

 抑えろ、と自分に言い聞かせても、まるで効果が無かった。
 身体の底から黒い何かが吹き出すのを感じる。
 だがもう少しくらいは会話を続けて、ファリッツたちを安全地帯まで離す必要があった。

「俺、は、探、し、て、る。キャ、リ、イ、を、殺、し、た、奴、を」
「……?」

 少しだけ意識が散漫した。
 キャリイ、とは。
 アキラの記憶では。

「巨大マーチュが……死んだ?」

 グォウ、と。
 アキラの呟きを拾ったゲイツが鋭く唸った。
 思わず言ってしまった。だがそれほど衝撃的だった。
 “二週目”の最初の強敵。
 巨大マーチュは撃破されたという。

 巨大マーチュは、当然自分が刻む“刻”だと思っていた。
 だからこそ、その次の強敵であったゲイツのことが思い浮かばなかったのだ。

 だが、ゲイツが現れた理由は分かった。
 この出現は、“二週目”と同じらしい。

「そいつが誰なのか知っているのか」
「分、か、ら、な、い。だ、が、キャ、リ、イ、は、い、な、く、なっ、た。せっ、か、く、育、て、た、の、に、キャ、リ、イ……!!」

 これ以上はゲイツも知らないらしい。
 だが、別にそれほど興味があったわけではなかった。
 精々こう思っただけだ。

 誰だかは知らないが、余計なことを。

「し、か、し、お、前」

 ゲイツの目が鋭く光る。
 アキラを睨む圧が、さらに強くなった。

「何、故、知っ、て、い、る。キャ、リ、イ、の、こ、と、を」
「……隠し事だよ」

 流石に言葉持ちか。知能は相当程度あるようだ。
 だが、不信感を出しているのは、この場でゲイツだけだった。
 サクは慣れた様子で、腰を落としている。

 アキラも剣に手をかけた。
 ファリッツたちはもう大分離れられたようだ。
 やっと、離れてくれた。

 初めてかもしれない。
 襲撃されて、それに僅かな喜びを感じてしまったのは。

「朝から結構気を紛らわせてもらってたんだが、やっぱ駄目だ」
「力足らずで悪かったな」
「いや、助かったよ。お陰でこいつと行き違いにならないで済んだ」
「慎重に……、と言っても無駄なんだろうな」
「ああ」
「お、前、た、ち。何、を、話、し、て、い、る。何、を、隠、し、て、い、る」

 気を静めるのはもう諦めた。
 ようやくこの感情のはけ口が現れてくれた。

「隠し事ね……」

 挑発的に顎を上げて、堂々と胸を張り、アキラは廃村を背後に立つゲイツに睨みを利かせる。
 これはきっと、復讐なのだろう。

「俺を倒せたら教えてやる」

―――***―――

 職業柄、怒りに身を任せる存在を多く見てきた。
 怒りに身を任せることは判断力を鈍らせることにつながるだろうから、あまり望ましいことではないと多くの人は言う。現にイオリ自身、そうした行動は好まない。
 だが、今まで見てきたその存在たちを思い起こしてみると、実のところ“それ自体は”あまり戦果に影響を与えていないように思う。
 怒りに支配されていようが、悲しみに支配されていようが、普段通りでいようが、敵を討つときは討つし、討てないときは討てないのだ。
 それどころか、怒りに身を任せた者の方が本来以上の力を出すこと多かったかもしれない。
 いずれが例外なのかは定かではないが、結局のところ、怒りに任せて戦うかどうかではなく、誰が怒るかであるのだろう。
 感情を抑制できる者、感情をそのまま行動に乗せる者。
 後者の場合、結局のところ、感情を戦果につなげられる者であるかどうかが問われているに過ぎない。

 そういう意味では、彼女―――エリサス=アーティは間違いなく、感情の高ぶりを戦果につなげられる者だった。

「ノヴァ」

 ボッ、という明かりが灯ったと思えば、振動と、小さな爆発音が聞こえてくる。
 魔術師の男に伝えられた場所は、ウッドスクライナからやや離れた岩山だった。
 近辺では呪いの童歌の替え歌まで作られるほど危険な岩山であるらしい。
 しかしそんなことを気にもせず、エリーは到着するなり岩山に空いた小さな空洞を見つけ、あっさりと入り込んでしまった。

「ノヴァ」

 再び前方から爆発音が聞こえる。
 暗く、足元もおぼつかない洞窟は、イオリとティアが同時に飛び込むと、不気味なことに崩れ、出入り口が塞がれてしまった。
 自分がいれば問題なく壁を崩して外に出られると伝えたのだが、エリーはどうせならと奥へ進んでしまい、今に至る。
 どうやらここはスライムの巣らしい。濁った水のような物体は、一応は無機物型であるプロトスライム。
 それが洞窟という地の利を生かし、四方八方から襲い掛かり、そして散っていった。

 彼女の灯す赤い光を道しるべに、イオリとティアはエリーを追っていた。

「く、暗いですね。そして怖いです」

 ティアが小声で呟く。
 恐怖の方はエリーのことを指しているのだろう。
 自分だって、下手に彼女を刺激したいとは思えなかった。

 注意を払っているが、エリーが通った跡に魔物など残っていなかった。
 壁伝いに這い回って彼女の死角から迫ろうが、気配を殺して彼女を待とうが、エリーはこの暗がりで討ち漏らしもなく、的確に歩を進めていく。
 その背中に、声をかけることはしたくない。

 断言できる。
 彼女は怒りをその身に宿して進んでいる。
 巨大マーチュの討伐の話を聞いたとき、彼女はつまらなそうな顔をしていた。
 余計なことをとでも思っていたのかもしれない。
 しかしそれを不遜なことだとはイオリには思えなかった。

 口では何と言っていても、エリサス=アーティは感情を戦闘に持ち込むタイプだ。
 その光景を何度も見ている。
 だが、この状態のエリーはイオリでもあまり見たことが無い。

 多少の感情の起伏であればすぐに戦闘に分かりやすく乗るのだが、ある一定を超えると、途端に逆になる。

 今回の例は最悪であり、凶悪だった。

 彼女の怒りが臨界点を超えると、彼女は恐ろしいほど冷静になる。
 一挙手一投足が丁寧に、状況判断は的確に、そして感情の起伏でさえも抑え込む。
 壁の窪みから、死角から、あらゆる場所から飛び出して襲い掛かるも、プロトスライムたちはエリサス=アーティの進行を止められなかった。

 流石に姉妹か。
 とぼとぼと歩き続け、あまりに正確に敵を破壊し続けるその光景は、彼女の妹を思わせるようだった。

 そして、感じてしまう。
 その静けさが、何かを限界まで抑え込んでいるからこそ生まれているのだと。

 触れることは許されない。触れようものならば、その何かがすべて浴びせかけられる。
 揺さぶりをかけることも許されない、静かなる剛は、最も相手にしたくないタイプの存在だった。

 火曜属性の破壊は、水曜属性のスライムでも容易く打ち砕き続ける。
 あれで少しでも気が晴れればよいのだが、アイルークの魔物にそこまで求めるのは酷なのだろう。

 彼女の背が随分と離れていく。
 流石に焦ったイオリは、足を速めた。

 あの状態の彼女を放置したと知られたら、アキラに何を言われるか分かったものではない。

「ぁ」
「?」

 エリーの背中を捉えた。
 彼女が立ち止まったそこは、何やら開けた空間に繋がっているように見える。
 イオリが歩み寄ると、彼女は何かを見上げているようだった。

「―――、」

 “その気配”に気づくと、イオリは手で背後のティアを制した。

 “これか”。
 ヒダマリ=アキラの話に出てきた魔物は。

 プロトスライムたちとは違う、澄んだ色だった。
 その青が、洞窟の中に作られたホールのような巨大な空洞を埋め尽くしている。
 スカーレットの灯りに照らされたそれは、暗いせいで見上げても頂上が視認できない。
 常軌を逸した、規格外の物体。
 そして、それが意思を持っていることは、蠢くように揺らす身体が物語っていた。

 巨大スライム。

 この岩山に大量発生したスライムの元凶がこの存在だろう。

 さて、と。イオリは考える。
 事前に話に聞いておいて良かったと思う。
 規格外ではあるが、手に負えない相手では無さそうだった。油断は禁物とは言え、最悪の事態まで考えていたイオリにとっては許容できる相手だ。

 問題は、この洞窟内で、どうやって安全に討伐するかだ。

 が。

「イオリさん。爆発抑え込めますか?」

 遅かった。
 エリーの拳に宿る赤が、彼女の感情を吸い取るように深く濃くなっていく。
 彼女の瞳は静けさを保ったまま、巨大スライムにまっすぐに向いていた。

 イオリは息を吐き出す。
 彼女は巨大マーチュへ向かうはずだった力を持て余していたのだ。
 それを少しでも連想させる巨大な姿で現れたスライムが悪い。

 正直、“戦闘不能の爆発”よりも、エリーが打ち出す衝撃の方が問題だった。最低限は巨大スライムが吸収してくれると信じたい。
 いや、信じるしかなかった。

 こうなった彼女を止める言葉を、残念ながら自分は持ち合わせていない。

 百代目勇者候補ヒダマリ=アキラの、火曜の魔術師―――エリサス=アーティ。

 前々回。
 結局最後まで、総てを破壊するその拳を、真正面から受けられた者は存在しなかった。

 いや、今回もだろう。
 数多の火曜の術者を押し退け、後に破壊の魔術師と称される存在の原型は、すでに形作られている。

「いいよ、僕が何とかする」
「すみません、わがまま言って」

 少しは気が晴れてきたのかもしれない。エリーは悲しげに笑っていた。

 だがこれ以上は気を散らしていられない。
 イオリは、頭を押さえてしゃがみ込むティアを庇うように前へ出て、魔力を滾らせた。
 耳を塞ぎたいところだったが、生憎この両手はこれから巨大スライムと洞窟を抑え込むのに忙しくなる。

 エリーが、その赤く滾る拳を突き出した。

「スカーレッド・ガース」

―――***―――

 分かりやすく血が滾っていた。
 身体中が沸騰しそうなこの滾りを、僅かな理性が抑え込む。
 今日この日まで戦場を駆け抜けてきたこの感覚が、その吐き出し方を良く知っていたからだ。
 この威を、ヒダマリ=アキラは剣に乗せることでしか吐き出せないと悟っていた。

 アシッドナーガのゲイツ。距離にして数メートルほどだろう。
 敵の巨躯は、否が応でも視界いっぱいに広がっていた。

 ゲイツは、鋭いながらも敵を捉えていない瞳で虚空を眺め、あまりに自然に立っている。
 それが単なる油断ではないことは悟れていた。

 静かに。
 アキラがゆっくりと腰を落としたとき、ゲイツが軽く回した首からいびつな骨の音が響く。
 それが、火蓋だった。

「キャラ・スカーレット!!」

 強く地を蹴ったと同時、アキラの剣はゲイツの眼前に迫っていた。
 並の相手では死を確定させられる鋭い強襲。
 オレンジの閃光と共に、あたりに轟音が鳴り響いた。

「―――お、前」
「ち―――」

 初撃は、轟音が鳴り響いただけで終わった。
 閃光が張れた眼前、ゲイツは両爪でアキラの剣を掴むように抑え込んでいる。

 感覚的には分かっていた。
 ここは4大陸中最も“平和”なアイルークではあるが―――目の前のゲイツはアイルーククラスの魔物ではない。
 警戒していたがゆえに初撃から決めにいったのだが、流石にそれは甘かったらしい。

「勇、者、だ、な」

 ゲイツの瞳がアキラを捉える。
 向うもこちらを“敵”として認識したらしい。

「ふ」
「う―――おっ、」

 ゲイツが腕を振るったかと思えば、アキラの足は地面から離れていた。
 剣ごと宙に放り投げられるように弾き飛ばされたアキラは、着地と同時に体勢を立て直す。
 それは勢いも何もない、単純な腕力による迎撃だった。
 力比べはするまでも無いようだ。

「サク!! 奴の背後に回ってくれ!! 挟むぞ!!」
「ああ!!」

 ゲイツに構えながら、アキラの目はすでにゲイツの背後に回っていたサクを捉えた。
 気持ちよく返事をしてくれたようだが、どうやらとっくにそのつもりだったらしい。

 ゲイツもサクの存在には当然気づいていたようではあるが、軽く流し見をした程度で、やはり自然に立っている。

 この、“戦場に在ってそのままである様子”。
 ゲイツからはおよそ戦闘に切り替わった空気というものが感じられなかった。登場したときの気配、威圧感を持ったままそこに在る。言い換えればそれは、戦場そのものを在り所としている存在だ。
 “幻想獣型”の“言葉持ち”。
 今まで幾度か“言葉持ち”を撃破したことはあるが、先ほどから嫌な汗が頬を伝っていた。

「勇、者、か。何、故、勇、者、が、こ、こ、に、い、る」
「何言ってやがる」

 反発するようにアキラはゲイツに食って掛かった。
 ゲイツは再び虚空に目を泳がせてはいるが、何か思考しているように感じられた。

 本当に、分かっていないのか。
 アキラはちらりと隣の廃村を見る。
 家屋が、道が大地ごと砕かれ、廃村と化したリビリスアーク。
 その元凶とも言うべき存在は、変わらず目を泳がせていた。

「廃、村、に、何、か、あ、る、の、か」
「……?」

 アキラの視線を、ゲイツは捉えていたようだ。
 首を回して村を眺めると、やはり何か思考しながら視線を外す。

 本当に、分かっていない。
 相変わらず腹の底は分からないが、ゲイツにとぼける理由などない。
 いたずらな挑発など不要だ、アキラの頭はとっくに沸騰している。
 だが、それでも、僅かに残った冷静な部分が、状況を捉え始めていた。

 ゲイツは、リビリスアークを知らない。
 ただの滅んだ村としてのみ認識している。
 ならば巨大マーチュはどうか。“1年前”は単なる獣だったが、今は知性を付け、アキラの落とされた村を把握していたとでもいうのだろうか。いや、やはり腑に落ちない。

 とすればこれは、ただ巨大マーチュが暴れただけの、単なる―――

「……」

 アキラの手から僅かに力が抜けた。
 どうしようもなく、やるせなくなった。

 “一週目”にもこの事件があったことは思い出した。
 ゆえに、何か理由があって―――もっと言えばヒダマリ=アキラが原因となって発生した事件だと思っていた。
 だが、そうではない。
 特定の“刻”ではあるのかもしれないが、リビリスアークの崩壊はもっと普通の、当たり前の、ありふれた悲劇でしかなかった。

 そう考えた途端、少しだけ肩の荷が下りたような感覚がして、心底自分が嫌になった。
 自分のせいではない。そう伝えられたも同然だ。
 責任感から解放されたような気分を味わった。最悪の気持ちだ。

 だからアキラは息を整え、雑念を振り払って剣を握った。
 責任感が消えても、何も変わっていない。
 重苦しい荷を下ろしたばかりだが、次の理由は、分かりやすく目の前にぶら下がっていた。

 やはりそうか。
 これはただの。

「も、う、1、度、聞、く。勇、者、が、こ、こ、で、何、を、し、て、い、る」
「さっきも言ったろ。知りたかったら聞き出してみろよ―――って言いたいとこだが、答えるよ」
「?」

 村長には悪いが、勇者としての責務など要らない。戦う理由はそこにはない。

「復讐だ」
「そ、う、か」

 ググ、とゲイツが僅かに蹲ったかと思った瞬間、身体中の瘤から毒々しい光を放ち始めた。

 来る。
 そう思った瞬間には、ゲイツは両手を上げて身体を広げ―――四方八方に泥色の球体を放出した。

「―――、ぐ」

 危険を察知したアキラは鋭く向かってくる球体の回避に徹する。
 泥水をバケツでぶちまけたような汚らしい光景だった。ひとつひとつの大きさはゲイツの拳ほどだろう。
 だがそれが弾幕のように展開し、平原中を飛び回る。
 着弾した地面は抉りこまれるように容易く陥没し、そしてなおも罠のように稲光を放ち続けていた。

 この魔術。
 詠唱も何もなく放たれているが、間違いなく土曜属性の攻撃魔術だ。
 単純な破壊をもたらす火曜と違い、土曜や木曜の魔術は受ける被害が想定できない。

 ならば。

「キャラ・グレー」

 回避を続けることは困難だと察し、アキラは目の前の球体に剣で応戦した。
 土曜の魔術を再現したこの力であれば、比較的安全に球体を切り落とせる。

 攻撃が四方に分散しているのが幸いした。
 球体を対処できるのであれば、発生源に接近、つまりは攻勢に移れる。

「―――!?」

 弾幕を切り裂いたアキラの目に、魔術の発生源が飛び込んできた。
 しかし、そこにゲイツの姿が無い。
 あるのはゲイツが踏み砕いた机の残骸と、順次射出されている魔術の“残り香”だけだった。
 この弾幕は目くらましだったのだろう。

 しかし、あの巨躯を、この開けた平原で見失うとは―――

「アキラ!!こっちだ!!」

 声は意外なところから聞こえた。
 アキラは反射的に上空を睨む。

 見れば日輪を汚すような禍々しい翼を広げ、ゲイツが身体中に魔力を滾らせている。
 そして、それに追いすがるサクの姿―――

「お、前、飛、べ、る、の、か」
「ああ。醜い翼が不要なほどにはな」

 タン、とサクが軽々しく宙を駆ける。
 金曜属性の魔術によって、サクが踏み出すその一瞬だけ空中に足場を作り出す。

 ゲイツはサクの接近を見て、再び空中で球体の魔術を放ち始める。
 地上で待つアキラは慌てて動きを止め、剣で球体を薙ぎ払う。
 しかしサクは、アキラのように球体を迎撃することも無く、宙に展開した足場を駆け回るだけで容易く回避し、ゲイツへの接近を続けていた。

「ふ、む」
「!」

 恐らくは大規模魔術を放とうとしていたのだろう。
 ゲイツはサクの接近を止められないと判断すると、魔力の解放を抑え、墜落するように地面に滑空してきた。
 僅かに元の場所から逸れた大地に着地すると、再び自然な佇まいで立つ。
 その様子からは、今の攻防でゲイツが何を思ったかはまるで分らなかった。

「……翼があっても空中戦を避けるか」
「…、…、…、…」

 アキラの隣に着地してきたサクは、あえてそうしているのか挑発的にゲイツに構えた。
 ゲイツは立ったまま動かない。動じない。
 鋭い眼を持ちながら、その瞳は虚空を追って彷徨っている。
 その辺りは、主に似ていると言った方がいいかもしれない。

「魔王の直属の直属だったか。まさかその程度ではないだろうな」
「…、…、…、…」

 サクが挑発を繰り返すその合間、ゲイツと一瞬だけ視線が合う。
 眼前まで切りかかっても、魔術を放たれても、アキラはまるでゲイツの存在自体を推し量れなかった。
 巨大マーチュを討った相手を探していると言っていたが、感情を感じられなくなった今はそれすら不確かに思える。
 こちらがどのような感情を向けても、ゲイツからは何も返ってこない。
 その底知れない様子も、主によく似ていた。

「勇、者。一、行、か」

 ゲイツが呟く。
 挑発の中でも、やはり何も動じていない。
 その様子に、歯噛みした気配を隣から感じた。

 彼女は理由のない挑発はしない。劣勢を覆すためか、決着を急ぐときくらいだろう。
 サクのその様子の理由は、アキラには察しがついていた。

 まるで君臨するように立つゲイツの周囲。
 リビリスアークの周囲を覆う草原は、凹凸の激しい荒野へと変貌しつつあった。
 未だ魔力の稲光を放つ大地は、隣の廃村に酷く似通ってきて、あまりに痛々しかった。

 ほんの僅かな攻防でこれなのだ。
 これ以上戦いを長引かせれば村どころか大地そのものが滅んでしまう。
 今まで幾度か“言葉持ち”を下してきてはいるが、息をするようにここまでの被害をもたらすゲイツの危険度はそれらを容易く上回っているように思えた。

 やはりだめだ。脳が熱で溶け出しそうだ。
 あのいかれた魔族の息のかかった魔物は碌なことをしない。
 ゲイツも、そして巨大マーチュも、思うまま動くだけでこれほどの悪意を振りまけるのだ。

 その力を―――リビリスアークに向けたのか。

「……サク。さっきの魔術、何回くらいできるんだ?」
「何か思いついたか?」
「いや、何も」

 だが、思ったことはある。

「だけどあいつはとっとと倒すぞ。これ以上好き勝手に荒れ地にされてたまるか。空中をお前が防ぎ続けている間に、俺があいつをぶっ潰す」

 アキラはさらに“入っていく”。
 荒れ果てた平原を意識の外に放り出し、ゲイツのみを意識に埋め込んでいった。

「……分かった」
「ああ、頼むぞ。だから、一応限界を知りたくてな」
「限界か、分からない」

 意識が少しだけ持っていかれた。
 サクにしては珍しい回答だ。

「だが、ゲイツを討つまでは続けられるよ、必ずな。私の限界は、主君様の望みが叶うところまでだ」
「……頼もしい従者だな、本当に」
「それに、私事もある」

 サクは、自分自身を嘲るように笑った。

「―――あのとき私がマーチュの調査をやり遂げていたら、こんなことは防げていたんだろうか」

 気にしていないように演じる。それが何よりも難しい。
 彼女はそう―――言っていた。

「―――やるぞ」

 かける言葉はこれだけだった。
 ゲイツの討伐でしか、その想いには応じることはできない。

 この問題は、数多の選択の中から生み出された結果だ。
 誰のせいでもあり、誰のせいでもない。
 純粋な悲劇。

 だけど、戦う理由はさらに増えた。

「―――っ、キャラ・ライトグリーン!!」

 荒れた大地を強く踏みしめ、アキラはその身を暴風と化してゲイツに突撃する。
 高速で近づくゲイツの身体が、僅かに身じろぐ。アキラは努めて冷静に魔力を剣に滾らせた。

「グ、ア、アッ」
「キャラ・グレー」

 正面からの魔術攻撃など通用しない。アキラは泥色の球体を剣で無力化する。
 散弾のように放たれた魔術が再び大地を砕くのを思考の隅に追いやり、ゲイツの巨躯だけを睨みつけた。

「グ、ウ―――」
「……!」

 宙を彷徨っていた目が一瞬アキラと合った瞬間、ゲイツは不気味な翼を広げた。
 やはり空に逃げる気か。
 ゲイツの基本戦術は遠距離戦なのだろう。あるいは相手が苦手とする戦術を取っているだけなのかもしれない。これが“言葉持ち”ということか。戦術というものが存在する。

 ブオンッと翼をはためかせ、ゲイツはその巨体を宙に浮かせた。

 いかに巨大な翼でも、あの巨躯を容易く空に運ぶとは。
 イオリのラッキーもそうだが、物理法則を容易く捻じ曲げる。
 “幻想獣型”の“言葉持ち”。
 アシッドナーガのゲイツは、既存の生物の常識を、限界を容易く超えていた。

 だが、その領域は、すでにこちらも踏み入れる。

「サク!!」
「ああ!!」

 アキラの背後から、疾風が空中に射出された。
 アキラの肩を蹴ったように見えたが、衝撃は無い。
 ミツルギ=サクラの足場生成。
 世界を周った彼女の足は、あらゆる場所へその刀を運ぶ。

 飛翔直後の不安定なゲイツに飛び立ったサクはすでに抜刀体制に入っていた。
 巨躯のゲイツに比して、小柄な彼女の身体は、しかし矢のように鋭かった。

―――が。

「そ、う、お、前、だ」

 悪寒が走った。
 ゲイツの目は、宙を彷徨わず、サクだけを捉えている。

 タンガタンザでもそうだったとアキラは聞いた覚えがある。
 あの激闘の終盤、サクと対峙した炎の虎は、彼女の速度を警戒して拮抗した戦いを演じたらしい。
 “言葉持ち”の戦闘は、極めて適格だ。
 戦場で最も警戒すべき相手を即座に見抜く。

 今回も警戒すべきはサクだ。

 アキラを相手にするゲイツにとって、最も有効な戦術は空中からの遠距離攻撃。
 ならば最初にすべきことは、空中での安全を確保することだ。

 だから、ゲイツは、サクに狙いを定める―――

「―――っ」
「アキラ!!」

 サクが叫んだ。
 アキラは腰を落とす。
 彼女も察したのだろう。この突撃は、早計だったと。

「ギ、ガ、」

 ゲイツの身体が泥色の魔力に覆われる。
 放たれる稲光は余波の残った大地の比ではない。
 蒼天の虚空に、雷雲が浮かんでいるかのようだった。

 アキラは震える身体を必死に抑え、叫んだ。

「サク!! 歯ぁ食いしばれ!!」
「ク、ウェ、イ、ク!!」

 爆発と同時に視界が灰色に覆われた。
 落雷のような衝撃が脳髄を揺さぶる。
 アキラは必死に目をこじ開け、ゲイツの姿だけを睨んでいた。

 アキラは剣の魔術で身を守れるが、サクにはその術はなく、しかも空中にいた。あの大規模魔術から離脱する術はない。
 だが、だからこそ、今を逃すわけにはいかない。

 灰色に染まった眼球が、それでも辛うじてゲイツの姿を捉えている。
 魔術を放った直後だからだろう。
 ゲイツは今、僅かに宙に浮いているに過ぎない。

 あそこならば、まだアキラの剣は届く。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 土曜の魔術の衝撃に、身体中が凍り付いたように動かない。
 それでも痺れた身体を力づくで動かすと、バキリという気持ちの悪い音がどこかから響く。
 だが構いはしない。
 サクが単純に攻めたのも短期決戦を狙うためだ。この機を逃せばすべてが無駄になる。

 始めは蠢くように数歩。
 しかし次第に足は進み、やがて身体が風になる。
 突撃する先は、大規模魔術を放った直後で動きを鈍らせているゲイツだ。

「ぐ、う、おおお―――」

 己の身を、そして仲間を顧みずに突撃するアキラを、ゲイツが睨んだような気がした。
 魔術の直撃を受けたサクは無事では済まないだろう。よりによって金曜属性の弱点である土曜の魔術だ。
 だがそれで歩みを止めることは許されないと、これまでの旅が証明していた。
 また、ゲイツを討つ理由が増える。だがそれはすぐには吐き出さない。

 溜め込んだこの憤りは―――この魔物を討つときに吐き出すことに意味がある。

「―――ゲイツ!!」
「来、る、か」

 ゲイツは動じていなかった。
 アキラを冷静に眺め、そして翼をはためかせる。
 巨躯がアキラのいる大地と切り離されていく。
 ここで離脱できればゲイツの勝利は揺るがないだろう。

 アキラの速度は万全ではない。未だ土曜の魔術に身体を押さえつけられているような感覚がする。そもそもあの魔術は威力だけではなく、そうした意味もある魔術なのだろう。

 ゲイツの計算は正確だった。
 眼前に迫ったアキラの攻撃は間に合わない。無理に迎撃に移る必要はなかった。

 それはアキラも今までで培った戦闘の感覚で理解していた。
 “今”の自分ではゲイツの離脱は止められない。

 だが。それでも。
 “数秒後”の自分が乗り越えられれば問題ない。

「―――、」

 迷いはなかった。
 不安もなかった。
 むしろ、“それ”を前提とした行動を取っていた。

 アキラが今まで拠り所としてきたその力は、言うまでもなく、誰かの模倣だ。
 そしてその模倣は、教えを乞うこともなく、見ることで手に入れてきた。

 それならばあまりに容易い。
 このアイルークで旅を始めて、ずっと顔を合わせてきた相手を模倣するなんてことは。

 今、必要な力は、ゲイツに剣を届かせる能力。

 例えばそう―――ミツルギ=サクラのような驚異的な移動能力。

「キャラ・イエロー!!」

 ダンッ!! とアキラは“空”を蹴った。生まれてからずっと歩み続けてきた大地が今、眼前に、空中に存在する。
 翼を振り切り、アキラの眼前から空に逃げたゲイツを、同じ速度で追撃した。
 さしものゲイツにも焦りが見える。全力で距離を取った相手が眼前にいるのだ。
 背面へ飛んだゲイツは身体を差し出すように身を開いていた。
 彼我の勢いには圧倒的な差がある。

「お、前、も」
「キャラ・イエロー!!」

 ゲイツが空に逃れるたびに、再び“空”を蹴る。
 信じられないほど魔力が削られていくのを感じた。これが空中歩行の代償か。
 だが、瞳の力は強めてゲイツを睨んだ。
 アキラとの距離に辛うじて背面で飛べるだけのゲイツならば、不慣れなこの力でも追いつける。

「キャラ―――」

 ゲイツの翼に抱きかかえられているように見えるほど接近したアキラは、掲げた剣に魔力を込めた。
 初撃はその固い爪で防がれたが、その出た腹なら切り裂ける。

「グ、オ、オ―――、オ、オ、オ!!」
「……!!」

 ドッ!! と眼下から何かが射出された。
 視界の隅に飛び込んできたのは鋭く走るゲイツの尾。
 棘だらけの攻撃的なそれは槍に見えた。
 初撃以降、アキラに対して距離を取り続けてきたゲイツが遂に、“幻想獣型”の力をアキラに対して発揮する。

「っ―――」

 剣で受ければ串刺しは避けられるであろうが、それではゲイツを追うことはできない。
 それどころか、こんな空中で勢いをつけているのだ。防いだところで、強大な肉体の力を誇るゲイツの攻撃の衝撃で、アキラの身体は粉々になるかもしれない。
 アキラは自分の不幸を呪い、そして心の底から安堵した。
 そもそもゲイツを終えたのは先ほど空中を蹴ったので限界だ。
 必死に攻めて、ゲイツが攻撃に転じたのは―――そこで動きを止めてくれたのは幸運だった。

「アキラ―――歯を食いしばれ」
「ああ、そうするよ」
「―――!?」

 尾をアキラに繰り出したゲイツの背後、身体中が吹き飛ばされたような姿のサクが跳んでいた。
 思っていた通りだった。
 何の保証もないのに、ゲイツに迎撃されたサクがすぐに現れるような気がしていた。
 大したものだ。

 お前は本当に、どこにでも現れてくれる。

 迫りくる衝撃に構えることも思わず忘れ、アキラはしばし呆然とした。
 赤い衣は千切れて消し飛び、泥をかぶったように薄汚れ、身体中が切り裂かれ、いたるところから流血する彼女は、しかし美しかった。

 ドンッ!! と身体中が砕けるような衝撃をその身に受けた。
 勢いそのままアキラは空中に放り出される。

 運が良ければ死なないだろうか。
 他人事のように思いながら、アキラはサクを眺めていた。

 彼女の愛刀が鋭く走る。
 いかに固い鱗を持つとは言え、駆動する必要のある関節は別だ。
 生物としては致命的な損傷だろう。
 サクの刀は、ゲイツの首筋を正確にとらえていた。

「……キャラ・ライトグリーン」

 そろそろだと思い、小さく呟いて、せめてもの抵抗をしてみた。
 グシャリ、と耳を覆いたくなるような音と共に強く腰を打ち据えて、アキラが声にならない悲鳴を上げていると、遠い空から巨大なゲイツの爆発音が聞こえる。
 あれほどの上空に、自分は昇り詰められたのか。そしてあの高さから落下したのか。どこをどの程度負傷したのかまるで分らない。
 言いようのない恐怖を自分の身体に覚え、蠢きながら、アキラは空を見上げる。

 九死に一生を得たようだが、その感動は、後にしておこう。

 今から、最後の力を振りぼって気を失ったらしい従者様を、何としてでも受け止めなければならないのだから。

―――***―――

「俺は自分が怖くなる」
「あ、アッキー。駄目ですよ、ちゃんとお休みしてないと!」
「いや、俺もそう思うんだが、なんか動くんだ。身体が」
「え……、打ち所が悪かったんでしょうか……。あれ、打ち所が良かったんでしょうか……? ですかね」

 ティアが深刻そうな顔つきで見上げてくる。
 アキラだって怖くなった。
 大規模魔術を間近で受け、上空から地面に墜落し、そして最後は“落下物”を抱きかかえて地面を転がり周った。
 そんなこんなでいたるところを負傷し、指一本動かせなかったのだが、戻ってきたティアの治療を受け、日が沈む頃には、行動可能となっていた。
 未だ節々に鈍い痛みを感じるが、人間どころか生物の枠組みを超えているような自分の身体に、底知れぬ恐怖を覚える。

「うう……、アッキーが前に話してくれたゾンビみたいになってますね。襲われたらあっしもそうなるんでしょうか」
「あれ。てかサクも結構大丈夫そうだったぞ。異常なのは―――お前だ」
「はっ、あっしがボスでしたか」

 ティアを適当にからかいながら、アキラは賑わっている人々を眺めた。いたるところにテーブルが展開し、昼も見たようなこの場には不釣り合いに見える料理が所狭しと並んでいる。立食形式のようで、人の輪が各所に点在していた。

 ここは廃村と化したリビリスアーク。
 しかし難を逃れていた村長の計らいで、各所に点在していた元リビリスアークの村民が集まり、大きく賑わっていた。
 近くの大きな町で開くつもりだったそうだが、アキラの容態を気遣ってここで開くことになったという。
 アキラを名目に集めたようだが、彼らにとっては久方ぶりに故郷の仲間たちと出会える貴重な機会なのだろう。話には花が咲いているようだ。耳が拾った話では、リビリスアーク以外の者も幾人か混じっているようだった。

 こうした光景を眺めていると、たとえ眼前が廃墟だとしても、リビリスアークは滅んでいるようには見えなかった。
 襲撃を受けた瞬間を覚えている者が参加しているかどうかまでは分からない。だが、例えそうであってもここは彼らの生まれ育った場所なのだ。彼らはただ、まだこの場所に集まりたかっただけなのかもしれない。
 気になると言えば、アキラが参加できるかも分からなかったろうに、よくあの村長が開催に踏み切ったことだ。

 それでも。
 ほっと息を吐く。まだ休んでいるサクも連れてくればよかったかもしれない。こんな光景を見るだけで、身体の痛みが引いたような気がした。

「アッキー。まだお休みになっててください。あっし、さっきお料理運んでくる、って言いましたよね?」
「あ、期待してなかったから自分で来たんだよ。運ぶときに落としそうだし」
「なんと」

 下手をすれば騒ぎになると判断した自分の予想は、ティアが恨みがましい瞳を向けてきても何ひとつ揺るがない。
 まだ誰もアキラには気づいていないようだが、村長に気づかれたら何が起こるか。
 とっとと当初の目的通り、自分とサクの食事を確保して、寝床に戻った方がいいだろう。
 アキラが食事に目を走らせると、遠くからイオリが手を振って近づいてきた。

「アキラ。もうすっかり治ったみたいだね。日輪属性っていうのは本当に―――いや、止めておくよ」
「……ああ。って、あれ、お前いつもの服は?」
「こういう場では騒ぎを起こしたくなくてね。魔導士のローブは脱いでるんだよ」

 元の世界の制服のようにも見えるが、色は大人しい。彼女は落ち着いた色を好むが、大体の制服のようなものを着ている気がする。
 だが、そうした服装が目立つと感じるのは、アキラが元の世界の住人だからだろうか。この世界の住人には、紛れ込んだら見つけられないだろう。

「お前いくつなんだっけ」
「殴るよ」

 酷く冷え切った声が聞こえた。
 盾を探して彷徨った右手がティアを見つける。
 流石に怪我を治してくれた恩人を差し出すのは忍びなくて結局頭を下げた。

「はあ。でも、流石アルティアだね。村長は日を改めるつもりだったらしいけど、アキラをすぐに治して見せる、って大見得切ったんだから。実際その通りになった」
「お前か」
「そうですそうです。すべてはこのティアにゃんの図り事よ!」

 先ほどのボス設定がまだ続いているのだろうか。ティアは何故かイオリを向いて元気よく胸を張った。
 イオリは軽く視線を流し、賑わいの奥に視線を向けた。

「そういえばそうだ。村長が君の容態を聞いてきたよ。みんなの前に姿を見せて欲しいってさ」
「無理にとは言ってないだろ」
「ああ、無理なら身体をお休めください、ってさ。でも僕がすぐに良くなるって答えておいたよ」
「敵しかいねぇのか」

 別に村長を邪険に扱っているわけではない。
 ただ、やはり、どうしても。
 この人数を見ると、痛感してしまう。
 自分の存在が、彼らの住居を、そして命を奪った一因であることは変わらない。この場所が勇者の出身地という理由であろうがなかろうが、“刻”に選ばれてしまった理由はやはりアキラなのだろうから。

 彼らが気にしていないように演じ、そして自分もそれに応えようと“勇者”を演じても、この胸の痛みは正常に感じていなければならない気がした。

「仕方ないじゃないか。エリサスを救うためだよ。君の代わりに村長にずっと捉まっていた。目で助けを求められてね。容態見てくるって言ったら抜け出せたみたいだ」
「でもあいつ来なかったぞ」
「あれ? 行き違いかな。あ、いや、あそこに」

 振り返ると見知った赤毛の背中が人込みに紛れて消えていった。
 料理を持っていたようだが、随分と器用に歩くものだ。
 届けに来るつもりだったらしい。

「……俺も戻るか。村長に捉まったら大変らしい」
「君がそう言うなら、僕が村長の相手をしているよ。そういうことも勇者様のお勤めとは思うけどね」
「苦手なんだよ、そういうの」
「知ってるさ―――リリルとは違うってね」
「?」

 イオリはいつの間にか歩き出していた。
 声をかけようと思ったが、その前にイオリは振り返ってティアを呼び寄せた。

「おお、イオリンに誘われるの珍しいです! 張り切っちゃいますよ!」
「ああ、君の力が必要だ。協力してくれるかな」
「もちろんです。あっし頑張りますよ! 何をすればいいですか?」
「何もしなくていい。村長のところに向かうから、いつもの調子でいてくれればそれで」
「? あ、はい!!」

 ふたりは喧騒の中へ消えていった。
 イオリは特に何もするつもりはないらしい。
 かのアルティア=ウィン=クーデフォンが行ったのなら村長に見つかることもなさそうだ。

 身の安全が保障されたアキラは、もう一度、廃墟に集まった人々を眺めた。
 穏やかな気分になれる。
 だが、英雄の気分を味わえるほどには自分には酔えなかった。

 得るものは何もない。

 所詮今日の出来事は、復讐でしかなかったのだから。

―――***―――

「聞いたぞ」
「……何を?」

 騒ぎから離れた瓦礫でできた小道の先に、赤い灯りに声をかけてみた。
 応答はあったが、振り返る様子はない。

 アキラは無遠慮に近づき、隣に並んだ。
 小屋に戻ると寝息を立てていたサクの隣に料理が並んでいた。どうやら行き違いになったらしい。だからアキラは、思い至った場所へ向かい、思った通り見つけた。

 エリサス=アーティは、孤児院のなれの果ての前に立っていた。

「巨大なスライム。殴り殺したんだって?」
「討伐したの。変な言い方しないでよ」
「人にはあんだけ大人しくしてろだのなんだの言ってさ」
「たまたまよたまたま。事故みたいなものよ。それを言ったらそっちだって、」
「俺らの方こそマジで事故だから」

 妙な言い合いになっている気がして、アキラは口を閉じた。
 そして孤児院を眺める。
 暗がりで良く見えないが、建物のど真ん中を踏み抜かれたのだろうが、周囲に散乱する瓦礫で、原形は留めていない。どこの建物も同じようなありさまだったが、この建物は、今でも姿を思い起こせるがゆえに、損害が特に著しく感じた。
 建物のなれの果ての隅に、まだ新しい花が置いてあることに気づいた。きっとセレンが置いたものだ。この村と運命を共にした子供へ向けたものだろう。

 この損壊は、事故では済まない。
 ここに立っていると、空気が無くなったように息ができず、重苦しかった。
 もしかしたら、彼女は昨日も、あの雨の中、ここに来ていたのだろうか。

「巨大マーチュは倒されたんだってさ」
「ああ、俺も聞いたよ」

 エリーの声は比較的明るかった。
 灯りに照らされた彼女の横顔も、いつもと同じように見えた。

「なんか、不完全燃焼、って感じ。もうあれね。スライム大きくて良かった、みたいな」
「お前に八つ当たりされたスライムも不憫だったな」

 むすっとした様子が隣から感じられた。
 思った以上にいつも通りだった。だが、その瞳が孤児院を捉え続けているのが分かってしまう。

「……なあ。お前が魔術師になりたかったのは、ここのためなんだよな」

 隣の気配がピクリと動いた。
 その話を聞いたのがいつなのかは覚えていない。
 だが、エリーの様子から、それが今も変わっていないことが分かってしまう。

「俺はまたやっちまったな。何度目だよ、本当に」

 ゲイツは撃破した。
 巨大マーチュも、巨大スライムも討伐されている。
 この近辺にはまだ何らかの危険な魔物がいるかもしれないから、明日も調査をすることになるだろう。
 しかし、それを何度繰り返そうとも、現実は変わらない。
 やはりこれは、ただの復讐だったのだ。
 得るものは何もない。

 赤い灯りが揺らめいたのを感じた。
 アキラが振り向けずただ立ち尽くしていると。

 バンッ!! と背中に衝撃がさく裂した。

「いっっって!? お、ま、」
「はい、これで気にしないで」

 人の平手とはここまでの衝撃を生むことができるのだろうか。
 地面に倒れ込んだアキラの頭上で、不敵な声が聞こえた。

「口で言っても分からないでしょ。これであんたはもう気にしない。あたしももう気にしない。それでいい?」
「っ……、っ……っ……」
「あれ、そんなに痛かった?」
「一応、俺、は、怪我、人だから、な」
「ごめんごめん。ほら」

 差し出された手を掴んで立ち上がると、アキラは背中に手を回して様子を探った。抉れていても不思議ではないほどの衝撃だった。まさかとは思うが、魔力を込めるなどということはしていないだろうか。

「次から口で説明したら信じるから、もうやめろ」
「ごめんってば。まあ……蒸し返そうとしたあんたに対する苛つきも若干あったけど」
「怖っ」

 エリーは小さく笑うと、灯りの付いた手を空に掲げた。
 その先には何もない。だが、方角的に何があったのかは思い至った。

「さっきまで、あんたの代わりに村長とずっと話してたのよ」
「ああ、聞いたよ」
「本っっっ当に色々聞いてくるわ聞かせにくるわ。……あ、あんた村長と勝手に話しちゃだめよ」
「なんでだよ」
「絶対に」
「?」

 エリーはこほりと咳払いして掲げた手に力を籠め、村長に聞いたのであろう話を口にした。
 いかに輝きを増しても、その先には何もなかった。

「あの塔。あんたが現れた場所。崩れたの、1度や2度じゃないんだって」
「そうなのか」
「それに村が壊滅したのもね。初代勇者様の頃からある由緒正しい村―――なんて言っても、場所だってアイルークを転々としてた頃だってあるそうよ」

 エリーは灯りを消し、空を見上げた。
 本当に星がよく見える村だ。
 遠くからの喧騒すら容易く呑み込むように感じる夜空の下は、灯りを消しても十分に明るく思えた。

「それでも。そのたびに、村長の先祖が村を起こしたんだって。そしてそのたびに、あの塔を建てたんだって。この場所がリビリスアークなんじゃない。勇者様がいつでも降り立てる場所が、リビリスアークなんだってさ」
「それは……すごいな」
「そしてそんな感想しか言えない人が、今回降りてきたわけだ」

 酷い言われようだが、それ以外感想が出てこなかったのだからどうしようもない。
 思ったことはいくらでもあった。だが、言葉にはできない。

「村長言ってたわ。すぐにでも村を復旧させるって。今は少し準備しているだけだって。ついでに約束してきた。その村には孤児院を作ってくれるってさ」
「……そうか」
「あの村長、いつもは迷惑なだけだけど、たまに村長だなぁ、って思うことがあるのよね」

 彼女は笑っていた。アキラは、肩の力が抜けたような気がした。
 そんな単純な約束だけで、心から救われたような気がする。

 アキラが得るものは何もなかった復讐などをやっていても、村は、アキラの知らないところで逞しく蘇ろうとしている。無用の心配だったのかもしれない。

 リビリスアークは滅びない。

 だから、彼女の夢も途絶えはしないのだ。
 それを聞いただけで、身体中に熱い何かが生まれたようだった。

「だからさ。ねえ、勇者様。村長から伝言よ。何も気にせず、魔王を討ってください、ってさ」

 彼らは決して弱くない。
 いかに魔物が襲撃してこようが、この世界を強く生き抜いている。
 気がかりだった多くのことが薄れ、アキラは、今は未だないその塔を見上げていった。

 今回は、演じる必要もなく、頷いた。

「ああ。必ずだ」
「ま、それはあたしもだけどね。……婚約者だし」

 アキラが顔を向けると、エリーは歩き出そうとし、そして何かに気づいたように立ち止まった。

「……あ、そうだ」
「ん?」
「あんた、あたしの夢ふたつも潰したのよね」

 振り返った顔は、いたずらを思いついたような表情だった。
 嫌な予感がし、アキラが立ち去ろうとすると、エリーは手で制し、もう片方で孤児院の瓦礫を指さした。

「あたしの部屋、あの辺なの。見つけて欲しいものがあるんだけど」
「何ってんだ、夜だぞ?」
「い、い、か、ら。お気に入りの服。探すの手伝って」
「おま、もうそんなのボロボロになってるだろ」
「直せばいいでしょ。持ってこなかったのちょっと後悔してたんだから」

 今度は普通に背中を押され、孤児院に入っていく。
 どうやら手伝う羽目になりそうだが、少なくとも今は、贖罪になるような行動が身を軽くしていく。彼女もそう思ったのだろうか、それは考え過ぎか。

 瓦礫を退かしながら、アキラはこの孤児院での日々を思い出す。

 いつの日か。
 彼女はここで、あるいはここではないどこかで、子供たちと笑うことができるのだろう。

「……って、そうだ、お前。エルラシアさんは? 会えたのか? 俺も世話になったし、様子見たいんだけど」
「え? あ、ああ、それがね」

 離れた場所で同じく瓦礫を退かしていたエリーは、寂しそうな表情を浮かべた。
 そしてエリーは、掴んだ瓦礫を強引に放り投げると、つまらなさそうに言った。

「お母さん、用事でしばらく遠出してるんだって。一応手紙出したけど、会えるのはもう少しかかりそう」
「かかりそうって……、それならこっちから行こうぜ。どこにいるんだよ、アイルークにはいるんだろ?」
「いいの? ありがとう」

 すると彼女は、下手に遠慮せず、照れたように笑った。
 そして。

 アキラも聞いたことがある町の名を口にした。

「お母さんがいるのはクロンクラン。結構離れてるけど、大きな町よ。あたしもわざわざ何度も行ったことあるくらい」

 クロンクランは、サーカスなどの見世物もやっているらしい。



[16905] 第四十六話『たまには脇役でも』
Name: コー◆34ebaf3a ID:ee31518b
Date: 2020/03/19 00:52
―――***―――

 昨夜は雨こそ降らなかったものの、どんよりとした雲が空を覆っていた。
 ここ、アイルークに戻ってきたときから、どうも天気には恵まれていない。
 晴れたかと思えば雨が降り、逆も然り。風がやたらと強い日もあった。

 今日は昨日の曇り空を引きずっているようで、身体にじっとりとした湿気が絡みついてくるようだ。
 季節で言えば、春を少し過ぎたあたりなのだろう。そう考えれば、今は元の世界で言うところの梅雨なのだから、今日の天気は正常なのかもしれない。

 ヒダマリ=アキラは太陽の見えない空を仰ぎ、そして呼吸を整えた。
 久しぶりだ、ここは。
 軽く肩を鳴らし、そして精神を集中する。
 強張りすぎているのもよくないと思い、アキラはあえて不敵に笑って見せた。
 そして“それ”を3つほど拾い上げる。
 今度こそ決める。

 さあ。

「リベンジだ」
「わっわっわっ、どうしたんですかそれ、落ちてたんですか!?」

 常々思っていることではあるが、彼女は気配を完全に断ち切ることでもできるのだろうか。背後で爆音を出される前に察知することができない。
 アキラは手に取ったボールを取り零しながらそんなことを考えた。

「……ジャグリングだ」
「おお、アッキーできるんですか?」
「ジャグリング、だったんだ」
「…………え、諦めてます?」

 このだだっ広いだけの公園の周囲は住宅地であるそうだ。
 旅芸人か子供かが忘れていったのであろう、いくつかのボールが公園に落ちている。
 生憎の天気でも元気に駆け回っている子供たちを遠目に眺め、アキラは背後からの襲撃を受けて取り零したボールを改めて拾う。
 そしてこちらの子供に向き合った。

 アルティア=ウィン=クーデフォン。小柄で、いつもニコニコとしている彼女が公園を走り出せば、背景と同化して見失ってしまうかもしれない。

「よし」
「はい」

 ちょっとした過去への挑戦だったのだが、観客が増えてしまった。
 アキラは小さく息を吐き、ふたつ持った方の手でボールをひとつ投げる。
 果たしてどのタイミングで次を投げればいいのだったか。雑念が入った投球はボールを持ったままの手に当たり、転がっていく。
 しばしの沈黙。そして事もなげにボールを拾い、再びティアと向き合った。

「いや、俺できるんだよこれ」
「言葉で語られましても」
「あ、信じてないな。なら見せてやる。サク、見せてやれ」
「そうなりますか」
「あれ? サク?」

 ミツルギ=サクラ。整った顔立ちに、目につきやすい赤い衣。
 タンガタンザの主要な都市の娘にして、何とヒダマリ=アキラの従者である。
 そしてその従者は、なんとアキラの言葉を無視してみせた。
 少しだけ離れたベンチに腰を掛けていた彼女は、とてものどかな表情で公園を走る子供たちを眺めている。
 視線を向け続けると、やんわりと微笑み、軽く手を振られた。
 達観した保護者のような態度だった。誰のだ。ティアのか。

「あの、あの」

 この公園の入り口付近には、魔術師隊の小さな小屋が立っていた。元の世界での交番のようなものなのだろう、現在、残るふたりは道を尋ねに行っていた。
 大して混んでいなかったようだから、すぐ済むであろうが。

「あのー、アッキー」
「分かった分かった、今見せてやるから」
「いや、そうじゃなくてですね。良かったらあっしがお手本お見せしましょうか? あっし実はめっちゃ上手いです」
「はは、はははは」
「笑うところだと思っているんですか」
「次は鼻で笑うことになるかもしれない」
「むむっ、いいでしょう。片づけをしないからとお母さんに封じられたあっしの特技、今こそお見せしましょう」
「片づけはしろよ。これ、一応拾い物だから」

 一応念を押して、ティアにボールを放り投げる。
 おぼつかない手つきでボールを受け取ったティアは、精神を集中しているのか頭が痛いのかなんだかよく分からない表情のまま、勢いよくボールを空へぶん投げる。
 何やってんだこいつ、と思ったのも束の間、ティアは第2投第3投と空へ放り投げ、アキラを見て不敵に笑った。

「行きますよ、ティアにゃんの奥義」
「……お、おお!」

 落下してきたボールは、流れるようにティアの手元に吸い込まれていった。
 そしてぐるぐると回り始める。
 アキラがイメージしていたクロスするような流れではなく、円を描くようにボールが回されていく。
 正直、驚愕した。ベンチに座って眺めていたサクも信じられないような顔つきをして立ち上がっている。

「頭に全弾命中するオチだと思っていた」
「ふふふ、普段アッキーがあっしのことをどう思っているかはなんとなく分かりました。しかし、あっしは実は器用なんですよ!」
「はは、はははは」
「あれ、これを見せてなお笑われている……。こうなったら後には引けません。アッキーまだボール落ちてますよね。投げ込んでみてください」

 信じられない光景におぼつかない足元を進め、ボールを拾い集めてくる。
 ボールを回しながら話せるということはかなり余裕がありそうだ。

 世界の神秘に立ち会っているかのような感動を覚えながら、アキラはひとつ手元に投げ込んでみた。
 するとティアは軽く膝を曲げ、新たに増えたボールも取り込んで見せる。
 すごい。単なる暇潰しで寄った公園でここまでのものが見られるとは。
 プロならいざ知らずあのティアだ。金を払ってもいい。

「ふふん、まだ余裕ありますよ」
「全力で投げ込んでみてもいいか?」
「ふふふ、簡単なことですよ。ボールが落ちて、あっしは大声で泣くだけですから」

 若干ドヤ顔が鬱陶しくなったが、そんな会話の中でもティアはボールを回し続ける。
 アキラは感動そのまま、優しくさらに1球増やした。やはり回る。
 このまま限界まで見せてもらいたいところだったが、借り物だし、子供たちの注目も集まってきたようだ。

「いや、悪かったティア。お前本当に器用なんだな」
「分かればよいのです。ではアッキー。ひとつ頼み事を聞いてもらえませんか?」
「おお、いいぞ。なんか買って欲しいのか?」

 するとティアは回転するボールに目を配りながら、小さく呟いた。

「これ、どうやって止めるんですか? 助けてください」
「…………あ、あいつら戻ってきた。じゃあそろそろ行くか。急がないと置いてくぞ」
「あ、はい。じゃああっしは多分、しばらくここで沈んでいるので後で迎えにきてください」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――クロンクラン。

 アキラたちは、アイルークの中でも指折りと言われる商業都市に訪れていた。
 いや、単純に商業都市というのには語弊があるかもしれない。

 町のライフサイクルが短いモルオールや、領土という考え方が非常に強いシリスティアとは違い、アイルークでは町や村の発展を阻害するものなどほとんどない。
 その上、他の町との交通も距離こそはあれど容易いとなれば、町々は援助をし合いながら、徐々に肥大化していく。
 もっとも、そこに住む人すべてが寛容で人と人との絆を大事にしているというよりは、あまりに潤沢な土地や資源を前に関心が薄いと言った方が的確かもしれない。

 もし、遥か上空からアイルークとモルオールを見比べれば、人々の生活の、特に効率性というものの歴然とした差が分かるであろう。
 過去、世界情勢に詳しい者がアイルークのずさんな管理体制にメスを入れようとしたことがあったようだが、その辺りの感度の鈍いアイルークの人々に訴えたところで結果は知れていた。
 あまりある資源を前に、アイルークの人々には心の余裕が生まれる。
 そうした前提こそが、アイルークが“平和”と言われる所以でもあった。

 一方でこのクロンクラン。
 その過去のアイルーク発展活動の影響を受けた町でもあった。
 当時、他の大陸から移住してきた者が、魔物の危険度が低いことに目を付け、複数の町にそれぞれ専門的な技術を培わせようと計画したことがある。
 運搬が容易なのだ。ある町には産業のみを、ある町には工業のみを、ある町には商業のみをそれぞれ専門的に行わせ、それぞれの町を協力させれば圧倒的な効率化が図れる。
 しかし流石のアイルーク。
 本来運搬用に整備するはずだった道を作らず、その複数の町を移動させ、おおらかに大雑把に合併してみせた。
 大量の樹木が伐採されたことは未だに国の問題としてやり玉に挙げられることがあるが、“平和”なアイルークでは争いは極めて起こりにくい。むしろ、多くの町がひとまとめになったクロンクランは、とりあえず行けばよい町として人々が集まり、結果としてアイルークに多大な貢献をしているとなれば黙り込むしかない。

 こうして、総合都市となったクロンクランは、今日も平和に発展を続けていた。

「あれ、ティアはどうしたのよその顔」
「なんだと思いますか?」
「あたしを笑わせようとしている?」
「もうしばらく拗ねています」

 大都市の中で5人も固まって歩くとなると難しい。
 気づけば随分と人が増えてきたなと思う。喜ばしいことなのだろう。
 時折人の往来に遮られながら、アキラは先頭を歩く赤毛の少女を見失わないように歩を進めた。
 エリサス=アーティ。今、ティア対策として手をしっかりと握り絞めている彼女は、足取りも軽やかにクロンクランを進んでいく。
 それもそのはず。自分たちがこのアイルークに再び訪れることになった理由の大半は、彼女の母親の安否を確かめるためである。
 無事であることはすでに知っているが、やはり会ってこそだ。
 エリーの母は、魔物の襲撃を受けた村から離れ、今クロンクランで援助を要請しながら仕事をしているとのこと。そしてようやく今、そこへ向かっている。
 この町に辿り着いたのは昨日の晩。彼女はなかなか眠れないからと、夜中に町を軽く走っていたりもした。それに付き合わされていたからか、アキラも少し身体が重い。
 そうかそれでジャグリングが上手くいかなかったのかと邪推していると、ただでさえ見え辛かったティアの姿が完全に消えた。手を引かれていてもなお転んだらしい。
 即座に歩み寄ったサクが反対側に回り、ティアは搬送されるように両手を掴まれていた。

「あいつはなんであんなに転べるんだろうな」
「僕たちと見えているものが違うのさ。何でも真新しく感じられるから、足元よりも興味が優先されるんだろうね」

 応じたのはアキラの隣を歩くホンジョウ=イオリだった。
 流石に大きな町では目立つと判断したのか、普段の魔導士のローブは脱いでいる。
 黒髪についたピンをさりげなく触ると、周囲を警戒するように視線を走らせていた。

「でもよ、イオリ。ティアってえっと、中学3年か高校1年くらいだろ。……えっ、高1であれ!?」
「自分の言葉に驚かないでくれ。それに失礼じゃないか。女性の年齢の話をするのは」
「そうだな、そうだ」

 アキラと同じ異世界来訪者であるイオリは、元の世界の会話もさらりと返せる。
 こうした経験はアキラにとっては新鮮だった。そういう意味でも、イオリの存在はありがたい。
 などと考え、必死にティア挙動からは意識を離した。
 深く考えない方がいい。

「見て見ろよ。サクがひとつ上だった気がするんだが、信じられるかあれ」
「見事に失敗しているね。一応言っておくけど、元の世界とは違うんだ。年齢は大して重要視されてもいないしね。この話は止めよう」
「そしてイオリは俺の……4つ上くらいか」
「だから止めようって言っていたんだよ!! 君と同じ年だから!!」

 イオリが怒鳴ったのと、前方でティアが喚いたタイミングが重なった。クロンクランの喧騒に紛れて消えていく。
 以前シリスティアでも大都市を訪れた経験がある。
 規模で言えばあのファレトラの方が大きいらしいが、比して米粒身にも満たないアキラにとってはどちらも変わらないように思える。
 もっともこちらはあの都市とは違い、他者への関心が強いらしく、先ほどからちらちらと視線を感じた。
 イオリが視線を走らせると、立ち止まった人々は慌てたように流れに乗って紛れていく。

「いいかなアキラ。次に僕の年齢がどうとか言い始めたら……迷わずラッキーを呼ぶ」
「それでいいのか魔導士」
「それが返答か。ラッ……」
「二度と言わない」
「誓って」
「誓う」

 この手の話題は、先頭を行く面々の前では話し辛い。
 ふたりの間でも明るい話題ではないのだろうが、雑談程度であればイオリも気にせず言ってくるのだからそれでいいのだろう。
 もっとも今回は、前振りの話のつもりだったりするのだが。

「なあイオリ。この町で起こることは俺の記憶通りか」

 雑踏に紛れ、アキラは小さく囁いた。
 イオリは髪を触り、やはり周囲に視線を走らせる。

「言えない。……と言いたいところだけどね。流石に被害が多そうだ。不確定すぎて魔術師隊に動いてもらえないけど、警戒はしておくべきだろうね」
「……え。あ、ああ、そうだな。いや、それもそうなんだけど、俺が聞きたいのは、」
「分かってるさ。でも、どちらにしても不確定だ」

 ヒダマリ=アキラにある、“二週目”の記憶。
 この町では大きなことがふたつ起こった。
 いや、大きなことはひとつだけだったかもしれない。

 ひとつは魔物の襲撃。
 町に入り込んだサーカス団のひとりが実は魔物でした、などという小さな物語だ。
 一応アキラも気にして昨夜の運動がてら周囲を見回ろうとしたのだが、何しろ規模が規模だ。まるで調べられなかった。
 似たような集団が多く町に入り込んでおり、ほとんど把握できないまま宿舎に戻ることになってしまった。

 ただ、そんなことは所詮些事に過ぎない。
 だからアキラが気にしているのは、もうひとつの出来事だった。

「不確定なのは分かっている。だけど、一応な。すでに心臓バクバクいってるんだよ」
「ふ、そうだろうね。だけどアキラ、ぬか喜びになったときには悲しいよ」
「そうだけどさ」
「“彼女”はいずれ僕たちの前に姿を現す。ある種確信めいたものもあるよ。だけど、それがここでなのかは分からないだろう」

 それもそうだった。何しろ1年ほど前にこの近辺にいたのを見かけただけだ。今はどこにいるか分かりはしない。
 仮にこの町にいたとしても、この町が魔物の襲撃に遭おうが彼女なら平気な顔をしてやり過ごしもしそうだ。もっとも、襲撃者の正体を知らなければ、だが。

 ぬか喜びを避けようと、色々と考えを巡らせたが、やはりまた失敗してしまった。
 意識を離せそうにない。
 いつ出逢えるだろう。

「アキラ、色々と期待しているところ悪いけど、少し気になっていることがあるんだ」
「……なんだよ」

 イオリの声のトーンが落ちた。アキラは歩幅を落とす。

「この前のリビリスアークの話だ。あれからいろいろ考えていてね」
「ああ。そういやあんまり話せなかったな」

 辛うじて聞けたのは、“一週目”の完全な記憶を持っているイオリが想定していなかった事態が起こったということだけだった。

「君とサクラが襲撃に遭ったという、アシッドナーガのゲイツ。その出現は、前々回は無かったんだ」
「そう言ってたな。だけど、あいつとの戦闘は“二週目”で刻んだ“刻”だ。たまたま今回は噛み合ったんだろ」
「僕も最初はそう思っていた。だけど、どうも釈然としない。何故なら前々回、アイルークにアシッドナーガが出たという事件自体が発生していないからだ」

 アキラは首を傾げるが、イオリの表情は真剣そのものだった。

「“幻想獣型”の“言葉持ち”。どちらか一方でもアイルークにとっては致命的な大事件なのに、その両方を持つ魔物が出現したとなれば、世界のどこにいてもそれを察知できるはずだ。それなのに、旅を続けていた僕らはそのニュースを知らなかった」
「だから、誰も“刻”を刻まなかっただけだろ」
「想定でしかないが、“刻”に関しては概ね結論は出ている。理屈は分からないが、君が原因で発生しているわけではなく、君がいるときに発生率が急激に高まるようなものだと」

 “二週目”でイオリが言っていたような気がする。
 “刻”の事件は、ヒダマリ=アキラが引き起こしているわけではないが、事件の種を芽吹かせてはいると。そして、アキラが近寄らなければ、それは勇者に選ばれなかった事件として結局は発生するのだ、と。
 自己弁護のつもりはないが、その推測はしっくりくる。
 何故なら世界の裏側で、勇者に選ばれなかった事件は発生し続けているのだから。

「だがゲイツの件はそうじゃない。聞けば近隣を飛び回って巨大マーチュを討った相手を探し回っていたそうじゃないか。“単純な時系列として考えて”、ゲイツはやはり、前々回も目撃されていなければおかしいと思う」
「時間で表現できないのが“刻”ってやつだろ」
「そうなんだけど、……だから、釈然としない、と言っているんだ。前々回、ゲイツは君に選ばれなった事件だったかもしれないが、“ゲイツの存在自体が消えるわけじゃない”だろう。それなのに、あたかも“ゲイツは前々回存在しなかった魔物”のように感じるんだ」

 イオリの言う前々回。アキラの言う“一週目”。
 その世界に、ゲイツは存在しなかった。イオリはそう感じると言う。

「待てよ。お前はこう言っているのか。ゲイツという“刻”は“二週目”から存在しているって」

 イオリは頷く。そして表情は硬い。

「アイルークでの出来事。総合して話を聞いていたら、前々回と前回の出来事が混ざり合ったような事件だった。僕はね、アキラ。時々思うことがあるんだ。前々回、や前回、そして今回。それは横並びじゃなくて、1本に繋がっているんじゃないか、ってね」

 ぞっとしない話ではある。
 アキラがハードモードと呼称する現象。記憶通りにならない物語。超常的な現象であるがゆえに、漠然としかアキラには捉えられない。
 だが、イオリはあくまで地に足をつけて検証を進めている。いや、すべての記憶を有するイオリだからこそ、その違和感を覚えられるのかもしれない。

「そうなってくると、僕の記憶が絶対なんて言い切れない。今まで“たまたま”同じようなことが起こっているだけの可能性さえある。魔物の襲撃は無い日だと思い込んでいても、突如として襲ってくるかもしれないんだ。そう思うと、“記憶”の使いどころは難しくなってくる」

 圧倒的なアドバンテージのあるイオリがここまで慎重な行動を取るのはそうした理由もあるのだろう。
 例えば“二週目”では敵だったからと先手を打って切りかかったら、実は善良な市民でした、なんてことになったら目も当てられない。

「まあ、ただの杞憂かもしれないけどね。心配し過ぎなのかも」

 イオリはあっさりと言ったつもりなのだろうか。
 表情が変わらないから、アキラにはまるで響かなかった。
 イオリもアキラに視線を走らせると、慌てたように続ける。

「本当だよ。もしかしたら前々回はあの出来事とタイミングが重なってうやむやになっただけかもしれないしさ」
「あの出来事?」
「……ああ、いや、こっちの話だよ」

 下手に誤魔化そうとして墓穴を掘ったように思える。
 “幻想獣型”の“言葉持ち”。その大事件がうやむやになるような出来事がこの先待っていると言っているようなものだ。
 アキラは深くは聞かなかった。それこそどうせ誤魔化してくるだろう。

「まあいずれにせよ、僕は会って話をしないといけない人がいる」
「……それは?」
「決まっているだろう。君を逆行させた人物だよ。“彼女”なら、何かを知っているかもしれない」
「つってもな、あいつの記憶も無いんじゃないか」
「え、そうなの?」
「言ったろ。持ってこれたのは俺の記憶だけだったんだ。そんな大罪犯しているとは」
「―――大罪?」

 今度は自分の口が滑った。
 下手に動揺すればイオリは見抜いてくる。だからアキラはさらりと言葉を続けた。

「ああ、記憶を有したままの逆行は大罪なんだってさ。だから俺は“具現化”を代償に捧げたんだよ。言わなかったっけ?」

 嘘が上手くなっている気がする。きっと良くないことだろう。
 アキラが内心びくびくしながらイオリを探ると、彼女は爪を噛んでいた。

「前から思ってたんだが、砂糖でもついてんのか?」
「…………」
「悪い、少し黙る」

 気づけばエリーたちと距離が離れていた。
 アキラは少しだけ足を速める。
 イオリも合わせてきたが、相変わらず表情は固いままだった。

「アキラ、それは確かか。彼女は大罪という言葉を使ったのか」
「あ、ああ」

 相変わらずの人ごみの中、先頭を行く赤毛の少女と赤い衣の少女が足を止めていた。
 辛うじて見える挟まれたティアが元気よく跳ね回っている。食事処のようだった。エリーの母、エルラシアは今あの場所に勤めているのだろう。

「……アキラ。罪とは何だと思う?」

 合流の中、イオリがいたって真剣に、哲学的なことを言い出した。
 罪とは規則を守るためにあるもの。そう浮かんだが、イオリは言葉を続けた。

「シンプルにさ。単純に言えば、罪とは―――“誰かが誰かを裁く理由”さ」

 裁かれるのは自分であろう。
 だがそう考えれば。

 誰に、裁かれるのだろうか。

「こんにちはーーーっっっ!!」
「どうしてあたしより嬉しそうなんだろう、凄いと思う」
「えへへ、ありがとうございます!」

 エリーが言葉を失っていると、店の中から様子を見に来た店員が顔を覗かせる。
 その中のひとりが小さな声を出した。
 恰幅のいい女性が店を飛び出すと、エリーに向かって真っすぐに歩いてくる。

「感動的な親子の対面だね」
「ああ、私もそう思う。だけどなイオリさん。私はもしかしたら冷たいのかもしれない。あそこまで喜べない」
「僕もだよ」
「うう……、ぐす、あっし、もう泣きそうです。いや、泣いてます。良かった……エリにゃん、良かったよぅ……、ぐす、ごほっごほっ」

 泣きすぎて何故かせき込み始めたティアの騒音の影響か、エリーはいたって冷静に母の手を取れた。
 そして振り返り―――そして固まった。

「あ……れ。あいつは?」
「あら。アキラさんも来てくれたの?」

 固まりながら、次第に震え始めたエリーを見て、イオリは振り返る。
 そこには誰もいなかった。

「な、え、イオリさん、アキラと一緒に歩いていなかったか?」
「……警戒してたんだけど、流石としか言いようがない」
「?」

 イオリは思わず漏らした声を、誤魔化そうともしなかった。
 そして雑踏を眺める。人の流れは、相変わらず激しかった。

「いっ、」
「あれっ!? アッキーがいねぇぇぇーーーっっっ!?」

 エリーよりも何故か騒がしいティアの大声を聞きながら、イオリは、今度は口元を隠した。

「……行ったか、アキラ。“彼女”によろしくね」

―――***―――

 がっ、と女性に首元を掴まれた。
 そして、いきなり口を塞がれ、突き刺すような視線を間近で向けてきた。
 甘い香りのするウェーブのかかった亜麻色の髪とピリリとした殺気が鼻をくすぐった。
 生物を容易く殺せると認識しているその手のひらが、首元にしっかりと押し付けられた。
 そして、鼻と鼻が付くほどの距離で、不敵な笑みを向けられ、耳元で、『見つけた。来い』と囁かれ、手を引かれた。

 その状況で、その腕を強引に振り払える男がいるだろうか。
 いや、いない。

 そんなこんなで、アキラは、店の前で突撃してきた女性と、皆から大分離れた路地裏に駆け込んでいた。
 路地裏に設置してあった樽の影にふたりして腰を下ろせば、互いに聞こえる息遣いだけがその場を満たす。

 アキラは、身体中が震えていた。

「ようやく見つけ―――」
「エ、エレナ!!」
「え、あ、そうだけど」

 反射的にそうした所作をするのは癖なのだろうか。アキラの大声にきょとんとした顔が愛らしい。

 エレナ=ファンツェルン。
 ぬか喜びになるからと釘を刺され、自分を抑えながらも結局は失敗していた、この町で起こる大きな出来事。
 それが、彼女との再会だった。

「ああ、そう言えば私名乗ったわね」
「マジかよ、やっぱり会えた、本当に。良かった、」
「まあいいわ、私、聞きたいことがあるのよね」
「ずっとアイルークにいたのか? いや、どうでもいいか。元気だったか?」
「ちょ、聞いてる?」
「俺もうお前に色々言いたいことあるんだよ。ミーナさんから聞いた話とかもあるし、」
「今は私が話してんでしょ!!」

 涙ぐむほどの再会だったのだが、胸ぐらを掴まれて本当に泣きを見る羽目になった。
 記憶に深く刻まれているその表情は、あからさまに不審人物を見る目になっていた。

「てかよくあの別れ方でそれほど喜べるわね」
「……あー、ああ、そうだったな」

 直前に“一週目”や“二週目”に関わる話をしていたせいか、その辺りの自制があまり効いていないことを自覚する。
 一応、この“三週目”。アキラはすでにエレナと出逢っているのだ。そのときは、あまり友好的な関係ではなかったのだが。

 エレナはため息ひとつと共にすくりと立ち上がり、軽く前かがみになって土を払った。
 胸元を強調するような服装も、ちょっとした所作も相変わらず洗練されているように見える。
 ほとんど反射的にやっているのであろうその佇まいは、アキラの記憶とピタリと重なった。やはり泣きそうになる。

「……ん? あんた今、ミーナって言った?」
「ああ。実は俺たちシリスティアに行ってさ。ミーナさんに色々聞いたんだ。だからもう色々渦巻いて渦巻いて。そっちはどうだったんだよ? 元気だったんだよな?」
「ぐいぐい来るわね。話が早いのは私好みだけどちょっと怖いわあんた。……元気、よ。そりゃね」

 エレナの表情が若干ひきつっている。意外と押しに弱そうな一面を見た気がした。
 気を静めながら、アキラはゆっくりと立ち上がる。
 以前彼女と出逢ったときの自分は、この“三週目”に不慣れな頃だ。
 確かにもう少し消極的だったようにも思える。

 彼女の正面に立って、まっすぐに瞳を見据えた。
 ほとんど同じ高さの瞳をのぞき込むと、困惑しているような色が見える。

 “一週目”。
 そういえば今と同じように突然路地裏に連れ込まれた記憶がある。
 あのとき彼女は甘い笑顔と声をアキラに向けてくれていたと思うが、どうやら今回は最初からハードモードらしい。

「俺を探していたのか?」

 ようやく落ち着きを取り戻したアキラは、とりあえずはと切り出した。
 出逢えたのは僥倖だが、一応誘拐された理由くらいは聞いておきたい。
 するとエレナは鋭く頷いた。
 彼女もようやく落ち着き、アキラを誘拐した理由を思い出したらしい。

「そうよ。えっと、何か話せばいいのか……。あんたのせいで整理してたのがぶっ飛んだわ。とりあえず、あんたがヒダマリ=アキラでいいのよね?」
「ああ」
「よし。それじゃあ単刀直入に行くわ。あんたガバイドに遭った?」

 その名を聞いて、自分の表情に嫌悪感が浮かんだのが分かった。ほとんど反射だ。
 エレナはそれだけで、アキラの答えが分かったのか冷えた瞳を浮かべる。

「まだそこにいたか」

 呪いのように、冷え切っていて、それでいてじっとりとした声色だった。
 路地裏の暗さも相まって、ぞっとするほどの殺意を覚える。
 エレナ=ファンツェルンという人物の殺意の根源。それは“二週目”でも、確かに肌で感じている。

「てか、何で知ってんだよそれ」
「は? 知ってるも何も、いたるところで聞いたわよ。アドロエプスの魔物撃破と、勇者様の失踪事件は。その後タンガタンザだかモルオールだかに行ったんでしょ。じゃああんたもガバイドから逃げられたのね」

 未だにピンと来ていないが、自分の行動は色々と世界に筒抜けらしい。
 だが、失踪後の出来事を推測できるのは、世界広しと言えども彼女だけだったのだろう。
 ただ、どうも言い回しが気にかかった。

「逃げたって」
「逃げたんでしょ」
「逃げたけどよ。悪かったな」

 下手な意地を見せたが、エレナは完全にあのときの出来事を想像できているようだ。アキラがガバイドを撃破している可能性をまるで想定していない。
 投げやりになって答えたアキラを見て、エレナは変わらず冷えた瞳で虚空を捉えていた。

「気にしないで。あの野郎がどうせ生き延びてるってのは分かってたから。ガバイドは殺せない」
「そうかよ」
「ええ。私以外はね」

 狂気を孕んだ表情には凍えるほどの恐怖を覚え、そして暖かいほどの信頼を覚えさせられた。
 エレナ=ファンツェルン。彼女はこの“三週目”も、変わらずそこに在ってくれた。

 さて。
 問題は、ここまでまっすぐな殺意を宿した彼女をどうやって勧誘すればよいのか、だ。
 “二週目”。厳密に言えば、エレナ=ファンツェルンは打倒魔王を志す仲間というわけではなかった。彼女のその眼が向く先は、やはりあのいかれた魔族なのだから。
 彼女は縛られることを酷く嫌う。アキラから聞くだけ聞いたらあっさりと背を向ける可能性さえあった。
 “二週目”と違い、彼女に有益な力を示すことはできない。
 あるいはサーカスの猛獣よりも扱いが難しい彼女に下手なことを言えばどうなるか。想像したくない。

「さて、じゃあ色々と聞かせてもらう前に」
「あ、ああ」
「私を連れていって」
「へ?」
「へじゃないわよ。どうせ行くんでしょ。ついでだからいいじゃない。弾除けくらいになってくれたって」

 エレナは自分が至極まっとうなことを語っているように言い切った。
 言葉に裏があるようには全く思えない。
 この女性は、どうやら世界の期待とやらが乗っているらしい“勇者様”を、本当に弾除けと思って言っている。自分の目的を果たすための。
 だが、それはつまり。

「まあいいかそれでも」
「なによそれ」

 どう切り出したものかと思っていた勧誘が、あっさりと終わってしまった。
 ある意味彼女らしいと言っていいのだろうか、なんにせよアキラにとっては問題ない。

「な、なら、よろしくな。打倒魔王だ」
「え? ああうん。そうね」

 試すようにわざわざ口にして、手まで差し出したのにエレナは興味なさげに返答しただけだった。
 何となく不安になるが、せっかく上手くいったのだ、下手に刺激しない方がいいだろう。勇者の旅とは皆の心が一丸となっているものだというのが通例だろうが、エレナにとってはどうでもいいことのようだ。大丈夫なのだろうかこれは。

「じゃあもっと話聞かせてもらうわ……そうね、その前に。ねえアキラ君。私、喉乾いたなぁ」
「今更」
「だめ?」

 散々殺すだのなんだと言っておきながら、この甘い声。
 分かりやすく演技だと思えたが、やはりその所作は一級品だった。金を払ってもいい。そうかだからお茶を御馳走することになるのか。いやちょっと待て。と、アキラが思考していると、エレナはまるで嫌味を感じない、優しい微笑みで続けた。

「私と、デートしてくれる?」

 文句は出なかった。

―――***―――

「ぐす。でもアッキーどこに行っちゃったんですかね? ぐす。あっし、実はあの直前に振り返ったんですよ。ううぅ。そのときはアッキーいたと思ったんですけど。ずずっ」
「喋るか泣くかどっちかにしてよ」

 エリーは、挙動不審になっているティアの手をがっちりと掴み、クロンクランの大通りを歩いていた。
 ティアを大泣きさせた自分とエルラシアとの再会は、仕事があるからと夜まで中断となった。ここまで感動されると、自分の方はかえって冷静となってしまう。
 現在はその再会の最中、突如として姿を消した男の捜索。
 集合場所を決めて二手に分かれているが、未だ発見できていない。
 一番いなくなりそうなティアに目を光らせていたから油断してしまったが、最初から集合場所を決めておいた方が良かったかもしれない。
 よくよく考えれば、突如として消えるのはあの男の方が多いのだった。

 雑踏の中で、行き交う人を眺めながら、エリーはゆっくりと歩いた。果たして奴はどこに行ったか。

「ぐす。あれ、エリにゃんどうしました?」

 表情に出ていただろうか。涙が徐々に収まり始めたティアが見上げてきていた。

「ううん。たださ、こういうの久々だな、って思ってさ」
「? アッキーのことですか?」
「そ。あいつさ、この世界に来たばかりのとき……、今もか。結構迷子になってたのよね。自覚があったかどうか知らないけど」
「ええっ、そうなんですか。でも普段、あっし結構アッキーと一緒にいること多かったですよ」
「うん。だから迷子になってたのよね。自覚があったか知らないけどね。ティア」
「あっしと同時にでしたか」

 自分とサクの苦労を言って聞かせたところで分からないだろう。

「それに町の外でもね。いきなりいなくなるなんて日常茶飯事だったわ」
「そうですね……。だとしたらやっぱり心配です。アッキー何かに巻き込まれたんじゃないかって」
「そうね、心配。それが久々だな、ってさ」

 エリーは小さく呟いて、再び人込みを眺める。
 やはり見つからない。

「ここ最近、ずっと気を使わせちゃってたみたいでさ。なんか分からないけど、そんなことしなかったのよ、あいつ。そのせいで、あたしの方が気になっちゃった。何かは分からないけど、邪魔しちゃっているような気がしててさ」
「そんなことないですよ。でも、そうだとしたらあれですね。アッキーもエリにゃんがお母さんと会えて、安心して失踪できたのかもしれませんね。……ててっ、手っ、手が痛いです!!」
「許してるわけじゃないけどね」
「あ、あ、あ、あっしもですか!? エリにゃん手がっ」

 エリーはティアの手を緩め、代わりに反対側で拳を作る。
 あの男が消えるのは今に始まったことではない。それについて、自分が色々と苦労するのもだ。
 だけどその感情が、今は少しだけ心地良かったりもした。

「まったくあいつは仕方ない奴よ。でもさ、なんかね。ちゃんと戻ってきてくれそうな感じもしてるんだ。それが、そうね。ちょっと嬉しいわけよ、先生としては」
「むふふ。エリにゃん。あっしはニマニマしますよ、たとえこの手が砕けようとも」
「そう」
「嘘っ、嘘です!! 手は大事です!!」

 人の波が切れたタイミングで、エリーはティアの様子を見た。
 定期的に目視で確認。迷子を出さない定石だ。

「ま、今日からちゃんといなくなるなら、こっちも今日からちゃんと怒鳴れるわけよ。すぐに全部元通りってわけじゃないけど、乗り切った感じがしてきてさ」
「ううぅ、良かったです。ぐす」

 まずいぶり返した。
 アイルークの“平和”にあてられたようだ、随分と気が抜けているかもしれない。
 ただ、母に会えたからか、ようやく自分も本当の意味で普段通りに戻れたと考えれば、やはり心地良く思えた。

 心に余裕ができれば視野も広がり、そして思い至る。
 そういえば。

「ねえティア。次はさ、ヘヴンズゲートに行こうか」

 手が緩んだのを感じた。
 エリーは構わず続ける。

「やっぱりさ、会った方がいいよ。親にさ」

 リビリスアークの襲撃を聞いたときから、心の片隅にはあったことだった。
 だけど、恥ずかしいことに、気を配れる余裕はなかった。

 このアイルークにはティアの両親がいるのだ。
 自分と同じく育ての親ではあるそうだが、それでも立派な彼女の家族だ。
 いつでも元気な彼女からは感じられないが、もしかしたら自分と同じように気に病んでいたかもしれない。
 思い返せばここ数日、ティアが妙にいきり立っていたような気もする。
 元気づけてくれた恩返しと言うわけでもないが、このほっとするような気持ちを彼女にも感じてもらいたかった。

「エリにゃん」
「ん? ……って、ひっ、」
「うううぅぅぅ、あっじのごどを気遣ってぐれるなんで感激……ぐずっ、ううぅ、エリにゃんのやざじざに、あっじはもう、う、ううえぇあああ」
「や、やっぱり会いたかった……、ってそっち? ちょ、止めて泣き止んで。なんかあたしが虐めてるみたいになってるから!!」

 戦慄するほどガチ泣きしていた。
 本格的に人々の注目を浴び始める。

 こんなことになるなら場所を選ぶべきだった。
 エリーは手を引いて足を速め、助けを求めるように周囲を見渡す。
 一刻も早くアキラを見つけ、この大通りから離脱しなければ。

 そんな祈りを込めながら探っていくと、見知った後姿を見つけた。
 曲道の門で足を止めているのはサクとイオリだ。
 どうやら回り回って合流してしまったらしい。

「あれ。サッキュンとイオリンですね。何してるんでしょう?」
「戻ってる……」

 目は赤いが復活したティアが指を差したふたりは、身を潜めるように建物の角に身を隠していた。
 何故かふたりは、自分とティアがそうしているように手をつないでいる。
 明らかに不審だった。

 近づこうとすると、気配を察知したのか、イオリが振り返る。
 そして、自分を見て、酷く憔悴した表情を浮かべた。

「あああ……。アルティア!!」
「はい!! ティアにゃんですが?」
「エリサスを連れて離脱しろ!! 今すぐにだ!!」
「へ? あ、はい!!」
「?」

 ティアのじゃれつくような妨害など、何の意味も持たなかった。
 エリーは目を細め、ふたりに近づく。

「別にいいだろう。合流するだけだ」
「そうなんだけど、今どうなっているのか分からないし……、下手に刺激しない方がいいかもしれないし……、あー、もうどうでもよくなってきた」

 珍しくイオリが混乱している。
 ただ、サクを掴んだ手だけは離さないようにしていた。

「あ、やあエリサス。こっちは僕たちが調べておくよ」

 エリーに気づいたイオリが爽やかに挨拶してきた。
 明らかに挙動がおかしい。
 好奇心に駆られて、エリーはイオリをかいくぐるように通りへ躍り出た。

 すると。

「へえ」
「あ、アッキーじゃないですか。どなたかと一緒にいますね。わわっ、すげー、すごい、で―――むぐっ」

 ティアが喚く前に、イオリが背後から口を押えたのが視界の隅に映った。
 まあそれはどうでもいい。
 エリーは小さく笑った。

「むぐっ、むぐっ」
「アルティア。暴れないでくれ。今3対1になったらどうにもならない」
「むぐぐんむぐぐぐっ!!」
「何言っているかは伝わってくるね。これ以上暴れたら絶対にそう呼ばないよ」
「むぐぅ」

 何やら騒がしいが、それよりも、自分には行くべき場所がある。

「ほんっと、久々ね、こういうの」

 アキラがいるのは通りにせり出している店の野外スペースだった。
 他の席には家族ずれや若いカップルが座っている。
 そしてその中央。
 アキラにも連れがいるようだ。

 それも、女性の。

「―――、―――」
「―――」

 距離がある。何を話しているかは聞こえない。
 だが、人の波の隙間から、女性の顔が見える。

「ぁ」

 思わず声が漏れた。
 甘栗色のウェーブのかかった髪が、ふんわりと風に靡く。微笑みからは、柔らかな優しさも、貫くような聡明さも同時に感じる。服の上からでも、スタイルの良さが容易く見て取れた。
 女性のエリーから見ても、びくりとするほどの美女だった。通行人にも、ふと足を止めている者がいる。
 そして、彼女の目の前にいる男は、楽し気に笑っていた。

「……大勢で押しかけてもお店に迷惑ですね。あたし行ってきます。……言い訳を聞きに」

 イオリからは返答がなかった。一応視線を走らせると、彼女は何故か空を仰いでいた。
 彼女たちが何故ここで足を止めていたのかは知らないが、自分の行動に別におかしなことはない。探し人が見つかったから迎えに行くだけだ。
 いきなりいなくなったのだ、ああなったのにも何か事情があるのかもしれない。
 ただ、ほんの少しだけムカッとしているから、少し大げさな送迎になってしまうかもしれないが。

 エリーはずんずんと店に歩み寄り。

 そして。

―――***―――

「じゃあ、エレナは今まで方々回ってガバイドの研究所を潰してたのか」
「そうなるわ。あの魔族を探してたから……、まあ、ついでにね」

 何となく入ったそこは、カップル御用達、といったようなおしゃれな店だった。
 今日は生憎の曇り空だが、暑すぎず寒すぎず、外出には適している。
 野外に並べられたパラソル付きの席に通され、絶世の美女と会話をしているのだが、その内容は非常に殺伐としたものになっていた。

 最初はこうした話を民間人の前でしているのもどうかと思ったが、意外と人の会話には意識を向けないもののようで、アキラも気にせず会話を続けられる。

 どうやらエレナの旅は、ガバイドの研究所巡りになっていたようだった。
 以前、自分と同じ属性の“もうひとり”が言っていた。ほとんどの研究所は“何者か”によって潰されていると。
 やはり思った通り、犯人はエレナだったようだ。

 確かにガバイドは世界各地の研究所に移動する術を持っていた。
 ガバイドを探すのならそれも取り得る手段のひとつなのだろう。
 いや―――と。アキラは考え直す。
 もしかしたらそれは、ガバイドを殺す唯一の手段なのかもしれない。

「“あの場所”には行ったのか」
「んだからそれをするために、弾除けがいるんだっての」

 答えが分かっていて聞いてみた。それにあっさりとエレナは答える。
 大雑把のように見える彼女は、実のところかなり慎重な性格をしている。
 凡人には大仰に見えるその態度は、凡人が慎重になることを容易く行えるからだ。
 彼女にとっても困難なことを前には、彼女は誰よりも思慮深く、警戒を怠らない。
 それほどまでに、あの死地は。

「それで、そんなときに聞いたのよね。ヒダマリ=アキラが現れた村が崩壊したって。ここで張ってりゃそのうち現れると思ってたわ」

 すごく感動した。
 自分が焦がれていた彼女との再会は、彼女も望んでいて、そして今日、ついに実現したことだったとは。
 涙が出てくる。

「私は思ったわ。便利な奴がいる、ってね」

 涙が出てくる。

「そういえばエレナ。よく俺を覚えてたな。あんまり話せなかったのに」

 強い心を作って、アキラは話題を変えた。
 エレナはじっとアキラに顔を覗き込み、つまらなそうに口を曲げた。

「……たまたまよ。って、そうだ。それもあったんだったわね。誰かのせいで順番めちゃくちゃになったわ。あんた、ガバイドについて前から知ってそうだったわね」
「……それは、」
「ま、別にいいわ。居場所は掴めたし。今更よ」
「そうか」
「あんたが話さないなら、時間の無駄だしね」

 何気なくとったカップは、冷めてしまっていた。
 見逃してもらえたのか、あるいはアキラ自身に強い関心がないのか。
 ともあれエレナは、遠くを見るような目をしていた。

 時間の無駄。慣れたような物言いだった。
 エレナは、こういう風に今までも生きてきたのだろうか。
 周囲を欺き、周囲を利用して、自分の本能に誠実ささえ覚えるほど貪欲で、自分以外の一切を切り捨てるような冷たさを覚える。
 彼女が必要性を見出せば、アキラの口を強引にでも割らせるだろう。この“三週目”で会ったときもそうされかけた。あのときも、彼女の中で、アキラが口を割らない、割らせることは時間の無駄だと判断したから見逃されたのだろうか。
 共に旅をした“二週目”でも、エレナ=ファンツェルンという人物が仲間に加わった直後、そんな感想を抱いたことがある。彼女の色香に惑わされていた自分でさえも、自分に利用価値が無ければ、彼女はあっさりと背を向けていたかもしれないという感覚を本能的に味わった覚えがある。

 彼女はどこまでも冷たい。
 だが、今のエレナがそうだとしても、それが彼女のすべてではないことを自分は知っている。
 共に旅した中で、もしかしたら一番変わったかもしれないのはエレナだった。
 それなのに、今のエレナがそうであることが、何よりも辛く思えた。

 この“三週目”。
 当然のように、彼女は彼女に戻っている。

 やっと実感した。
 自分は、エレナ=ファンツェルンに出逢えた。それでも、すべての記憶は消えているのだ。
 逆行の影響は、気づけばいつも自分の胸を貫いている。
 それはこの旅路で仲間に会うたびに思っていることだった。

 途端に口が開けなくなる。
 エレナは自分の犠牲者だ。そんなことを考えてしまう。
 浮き足立っていた旅の序盤ではここまで深く考えられなかったが、エリーも、サクも、ティアも同じ。
 イオリのときのように謝ることもできない。本人は知らないことなのだから。

「アキラ君、さ」

 エレナの声に顔を上げれば、彼女はまだ遠くを見るような瞳を浮かべていた。
 すべてが眼中に入っていないような瞳に、自分は映り込むことができるだろうか。

「さっき、ママに会ったとか言ってた?」
「……え。ああ。ミーナさんだろ。会ったよ」
「私と会ったこと、言ったの?」

 アキラが眉を潜めると、エレナは整った髪をガシガシとかく。

「だから、私が生きてるってさ」
「いや、言えなかった。なんか、事情がありそうだったから。……そのあと死ぬほど後悔したけどな」
「そう」
「元気にしてたぞ。だけど、お前の無事を願っていた」

 エレナは、息の塊を吐き出し、瞳を伏せた。

「そう」

 同じ素気の無い言葉だったが、少しだけ、聞いたことのある声色のように感じられた。

「……なあ。エレナ」
「いっ、いましたっ!! あの女です!!」

 アキラの声が、怒号のような言葉に遮られた。
 思わず振り返りながら、反射的に思い出す。

 そういえば、先ほどイオリと話していたときには思い出していたこの町の物語。
 この騒ぎも思い起こしていたのだが、エレナの登場ですっかりと頭から消えてしまっていた。

 自分たちを囲んでいるのは作業服を着た複数人の男たち。
 その中央の小太りの男がエレナを指差していた。

 奴は。

「お……、お早いお目覚めね……」
「仲間もいたのか!!」

 怒号が舞う。
 店内どころか通りの人々も足を止め、騒然となっている。
 エレナはアキラの耳にはしっかりと聞こえる舌打ちを響かせ、くるりと振り向いてきた。

「アキラ君。助けて……怖い」
「俺はお前が悪いと思っているんだが」

 イオリが言った。“一週目”や“二週目”ではそうだったとしても、“三週目”ではそうではないかもしれないと。
 エレナも今回は無実である可能性はあるのだが、何故かアキラは白い目でエレナを見ることを止められなかった。

「何故バレたし」

 エレナはちろっ、と舌を出し、悪戯めいた可愛らしい笑みを浮かべた。

「とにかく謝れって」
「アキラ君……。私のこと信用してくれないの……? ちょっと売上奪っただけなのに……」

 しゅんとした表情を浮かべ、子犬のように弱々しくアキラにしなだれかかってくる。
 いちいち可愛らしい強盗だった。

 男たちはアキラが思わず手に取っていた剣を警戒しているのか、慎重に、しかし着実にじりじりと距離を詰めてくる。
 相手は民間人だ。しかも、明らかに悪いのは背後の女ときている。アキラがどうしたものかと頭を抱えていると、エレナが小声で呟いてきた。

「逃げるわよ」
「マジか」
「こんな目につく場所で暴れたらこの辺りには居づらくなるわ。上手く路地裏まで誘い込めればどうにでもなる」
「怖えよ何する気だ!?」
「じゃあ逃げ切るしかなくなったわね。犯罪者になりたくないでしょう勇者様」

 強盗が脅迫者になった。
 恐ろしく後ろめたい気持ちはあるが、これ以上騒ぎは起こしたくない。今は逃げた方がいいだろう。
 アキラは意を決してエレナにアイコンタクトを送ろうとする。

 すると、エレナは当たり前のように駆け出していた。

「酷くね!?」

 鋭く走り、店の柵を超える。
 強盗の補助に加えて食い逃げか。清廉潔白に生きていたはずだったのか、いつの間にか2犯もついている。
 こんな街中で魔力を発動でもしたら自分を追いかける鬼に魔術師隊も加わるだろう。普段の早朝トレーニングで培ったダッシュを往来で披露しながら、アキラは全力でエレナを追いかけた。

「なんでこっちに逃げてくんのよ!? ふつう散るでしょ!?」
「犯罪者のてにをはなんか知るか!! 今すぐ金返して謝って来いよ!!」
「いやよもう私のでしょ!!」

 シリスティアで出会ったミーナのことを思い出す。
 世界有数の大都市ファレトラの良家の出であり、あのほんわかとした美しい女性の娘は今、慣れた様子で罪を犯していた。
 何事もなければ、あんな世界の財産とでも言うべき理想的な女性がもうひとり増えていたのだろう。

「許せねぇ、ガバイド」
「なんで私を見ながら言ってんの!? ……ちっ、振り切れないわね」

 人の波を避けながらとなるとなかなか速度が出ない。
 エレナは鋭く視線を背後に走らせる。
 となると次に彼女が取る行動は。

「―――っ!?」

 知っていたはずなのに。
 構えていたはずなのに。
 エレナの手は、アキラの胸ぐらを掴んでいた。

 その鋭さに、アキラはまるで反応ができなかった。

「アキラ君。弾除けの仕事よ」
「使うの早くねぇか!?」

 エレナはアキラの様子をまるで気にせず不敵に笑う。
 何が起こるかはアキラには察しがついていた。彼女はアキラを、弾除けというより弾として背後の男たちに投げ込もうとしている。

 “二週目”では、アキラの身にあの強大な力が眠っていたがゆえに助かった。しかし今、その後ろ盾は無い。
 だからこそ強く警戒していたのだが、無駄だったようだ。
 あのときはまるで反応できなくとも諦めがついていたが、今は、自分への小さな落胆と、彼女への大きな羨望が浮かんでくる。

「―――は。世界一周分くらいじゃ足りないのかよ」
「? まあ、任せた―――」

 アキラを掴んだ彼女の手に魔力が籠るのを感じる。
 ああ、これは―――やられる。

「……ひっ、ひやぁぁぁあああーーーんっっっ!!?」
「―――は?」

 雑踏の中、エレナの嬌声が響いた。
 がくがくと震え、エレナは足から崩れて座り込む。

「何、が」
「は……、は……、は、え、な……、な、に」

 投げられると思っていたアキラは、エレナを見下ろし唖然とした。
 まるで状況がつかめない。
 だが、男たちは変わらず全力で追ってくる。

「……もういい」

 どうにでもなれ。
 アキラは震えるエレナを担ぎ上げると、せめて“彼女たち”が見ていないことだけを祈り、身体中に魔力を展開した。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 ここまでの旅である意味最も頼りにしていたこの魔術。
 窃盗の逃亡に使ったのは初めてだが、この魔術の発動は、悲しいことに、今まで以上にしっくりきた。

―――***―――

「あ、イオリンお疲れさまです!! 大変でしたねぇ。わわ、お疲れのご様子です。あっしもお手伝いできればよかったんですが……」
「いいよ、もう。誰も僕の苦労は分からないだろうし、ちょっとアキラに八つ当たりしたい気分になっているだけだしね。はは」
「おおぅ」

 色々と、色々と、色々と。アキラに言いたいことがある。
 具体的に言えば行き場のない怒りをぶつけたいし、愚痴を聞いてもらいたい。
 その辺り、ティアは親身になって聞いてくれるだろうが、今の自分は色々と口が滑りそうだから、やはりアキラしかいない。と言っても、原因の半分近くはアキラにあるのだが。

「なに? 僕はこれから魔術師隊に説明をしてサーカスの方々に謝罪をしてアキラたちを探してエリサスとサクラを宥めてなんだっけ? ああ、魔術師隊の方は終わったか」
「イオリンが病んでいます……、イオリン。うん、あっしお手伝いします!! 何でも言ってください!!」

 猫の手も借りたいが、ティアの手は借りるわけにはいかない。オチは見えている。
 ホンジョウ=イオリは頭を抱えて身近な椅子に腰を下ろした。

 アキラを見つけたまでは良かった。しかも、どうやらこの町で“彼女”に逢えていたようだったのだから喜ばしいことこの上ない。
 ただ、問題は同伴していたサクが一言も発さず、まっすぐに距離を詰めようとしたところだ。
 表情は普通だったが、通り過ぎただけで頬が切れたような感覚を味わうとは。何か良くない予感がして、何とか止めたのだが、そこに止めのエリサス=アーティ。
 その辺りから記憶がぼやけている。
 こういう騒ぎはまるで慣れないし、色々と知っているがゆえに自分は酷く損な役回りになっている気がする。
 あの一間で、モルオールで魔術師を指揮しているときの倍の疲労感を味わった。

 様子を見るに、今回は前回と同じ流れのようだ。前々回はどうだったか。あの騒動で記憶があいまいになっている。
 このまますべて忘れてしまったら楽になれるだろうか。

「まあまあ、イオリン落ち着いてください。それに、エリにゃんとサッキュンなら大丈夫ですよ、ほら」
「すみませんでした!!」

 エリーの声が聞こえてくる。
 ここは、朝に寄った公園よりも広いサーカスの拠点だった。
 いくつも浮かんでいるバルーンがあらゆる種目を大々的に主張している。

 今日もここで公演があるそうだ。先ほどエルラシアが自分たちのためにチケットを買っているとか言っていたような気がする。
 問題は、その団員たちと街中で荒々しい戦闘を繰り広げたあのふたりがそれを純粋に楽しめるかだが。

「売り上げが盗まれちゃったみたいです。さっきアッキーと一緒にいた人に」
「らしいね。さっき魔術師隊のところにも団員が来ていたよ」

 イオリは乾いた目で団長と思しき男に頭を下げているエリーとサクを眺めた。
 反射的に飛び出していったふたりには団員たちがアキラを襲っているように見えたのだろう。図らずも、アキラと“彼女”の逃亡の手助けをしてしまったようだ。

「それでアルティア。怪我人は?」
「ふっふっふ。もうばっちりですよ!! ティアにゃんがぽぽんっとね☆」

 苛つきを覚えた。心にゆとりがないのだと自覚して、今は素直に感心しておこう。
 中々に凄惨な様子に見えたのだが、人助けとなると底が知れない。

 さて。

 イオリはしきりに頭を下げているふたりを視界の外に出し、公園中に視線を走らせる。
 小さなテントが点在しているが、奥には巨大なテントがふたつあった。
 片方は客を入れるテントであろうが、もう片方。
 鼻につくような空気を感じる。

 ティアの治療は流石のようで、先ほど見た顔も公園中を歩き回っていた。その中のひとり。巨大なテント付近に立つ、小太りの男を見つけた。
 前回アキラから聞いた話通りなら、恐らく。

「……すみません。災難でしたね」
「え? ああ、先ほどの。いえいえ、事情を知らなかったようですし。こちらこそ場を治めていただいてありがとうございました。……お嬢ちゃんも、ありがとうね」
「……例え笑われようとも言わねばなりません。あっしは大人のレディです」

 ティアには口を閉じていてもらいたい。今少し真剣になっているのだから。
 目の前の男―――確か、アキームだったか。ティアににこやかに笑い、そして言動にも不自然な点は見つからない。
 客商売を全うしているように、イオリに対しては僅かにへりくだったように応答し、愛想が良かった。
 どこからどう見ても人間だ。あるいは、“それほど”なのだろうか。

「このテントには何が入っているんですか? 随分と大きいようだ」
「いえいえ、大したものではありませんよ。ただ、サーカスに使う猛獣が入っていまして」
「わ、わ、わ、ちょこっとだけ見てもいいですか!?」
「あ、こらこら危ないよ。女性ならもっとおしとやかに。ね?」
「はっ、はい。当然です!!」

 ティアはわざわざ口を両手で塞ぎ、姿勢をピンと張った。本当に愉快な子供だ。
 それはさておきこの男。
 本当に人間なのだろうか。
 前々回、前回の記憶を保有するイオリにとって、幾度となく目の前に立ち塞がってきた問題だった。
 どれほど自分が確信していても、それを過信することは許されない。
 だが、そのせいで、それを信じること自体ができなくなっている。

 アキラの話では―――この男は敵。それも、ゲイツに匹敵するほど危険な存在だ。
 それを前にしていても、自分はその道を踏み抜けない。アキームが善良な一般人である可能性は、やはり未だあるのだから。

「……魔物が芸をするそうですね。このサーカスの目玉のようで」

 あくまで人として接しながら、イオリはアキームの様子をくまなく観察した。ちょっとした所作。反応。それをいくら見ても、やはり確信は持てなかった。

「……それはそれは。お耳が早い」
「いえ、先ほど魔術師隊に足を運んでいたので。ちょっと小耳に挟んだんですよ。大丈夫なんですか?」
「問題ないですよ。私の前では大人しい限りで」

 アキームは妙な愛想笑いを止めていた。
 向うもこちらを訝しむ様子を見せている。それも、商売人としては当然なのだろうか。
 やはりそう簡単にボロは出さない。イオリは頭を軽く下げて背を向けた。
 やることは未だいくつもある。
 これ以上はここにいても仕方がない。

「そういえば、ホンジョウ=イオリ氏、ですよね」
「……ええ。よく分かりましたね」

 背後からの声に、足を止めた。
 アキームは、やはり穏やかに笑いながら、言葉を続ける。

「ええ。何でもあのヒダマリ=アキラ様と共に旅をすることになったとか。先ほど伺ったところ、今夜の公演をお楽しみいただけるようで。そういった方々にお見せできるのは大変喜ばしく思います」
「それはそれは。恐縮です」

 アキームの顔が、不敵な笑みを浮かべているように見えた。
 考え過ぎだと思うことにする。
 先ほど言葉を交わして分かった。彼はセーフティの範囲でしか応答しない。
 そしてイオリのその考えを、アキームも感じ取っているようにも思えた。

「ただ、申し訳ないですが、危険を感じた場合、対処させていただきますよ」
「ええ。もしもそんなことになったら町中が大変なことになるでしょうね。その場合はぜひお願いします。大丈夫ですから」

 ピリとした空気を感じた。アキームからも、背後の巨大なテントからも。
 大丈夫、か。何に対して言っているのか。

「では、今夜」
「はい。お待ちしております」

 イオリも不敵に笑い、これは本当に配慮として、言った。

「今夜、僕たち“全員”で楽しませてもらいます。気難しい者もいますが、期待しています」

 背を向けて、イオリはエリーたちに向かって歩き出す。
 いつものごとく確信は得られなかったが、確信していることはある。

―――***―――

 今度は投げ捨てずに済んだ。
 とうとう魔術まで使用して離脱した店からは随分と離れた路地裏。
 アキラは背負った荷物をゆっくりと下ろし、壁に背を預けさせる。

 触れていた彼女の身体は、ガラスのように繊細に感じた。

「……大丈夫か?」
「……、…………、なんでそっちに座ってんの?」
「刺激しない方がいいと思って」

 正面に腰を下ろし、アキラはエレナの様子をじっと見ていた。
 高揚した頬に、荒い息遣い。
 邪に考えれば恐ろしく魅力的であるのだが、善意で見れば風邪の初期症状のようにも見える。

 この光景は、“二週目”でも見た。
 そしてあのときは、無遠慮に彼女を揺すろうとして、見るべきではない“闇”を見てしまったような気がする。

「…………あんた、さっき何をやったの?」

 エレナの口調はまるでうわ言のようだった。
 だが、それについてはアキラも聞きたい。

「それは俺が聞きたい。お前何をしたんだ。キュトリムじゃないのか」
「……へへ、バレたか」

 乾いた笑いが聞こえた。
 魔力も、生命も奪い去る、振れただけで殺す魔力。
 エレナはアキラの力を一時的に奪って投げ込むつもりだったのだろう。
 だが、それは何故か正常に発動しなかったようだ。

 それは“二週目”に起こった出来事と同じだった。

「……エレナ。その魔術、日輪属性には効かないのか?」
「……どうして?」
「いや、なんとなく」
「……通用するわ。そりゃまず見ないけど、日輪属性の魔物を殺せたもの」

 ガバイドの研究所巡りをしているとなればそんなこともあるのだろうか。
 だがやはり腑に落ちない。
 何故自分にはそれが効かなかったのか。今の自分に、エレナの魔術を退けるような莫大な力は眠っていないはずなのに。

「てか」
「ん?」
「発動はしたわ……。なんかね、分から、ないけど……、流れ、込んで、きたら、ビリッと来たのよ……なんか」
「あー、分かった。とりあえず休んでろって」

 荒い息をしながら呟くエレナに上着をかけると、アキラは眉を潜める。
 あのときエレナがこうなった理由は、あの“力”にあると思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
 とすると単純に相性の問題だったのだろうか。
 エレナの息遣いだけが聞こえる路地裏で、アキラは空を仰いだ。
 路地裏に縁のある日だ。日の当たりにくい、ひんやりとした空間だった。

「アキラ君さ」
「なんだよ」
「よく怒んないわね、あんた」
「怒ってるぞ、これでも」
「あっそ」

 エレナの容態は変わらない。
 随分と勢いよくアキラの力を奪おうとしたようだ。
 その反動でそうなっているのなら、しばらくここに身を潜めることになるかもしれない。

「退屈ね。アキラ君。私がガバイド殺そうとしている理由知っているでしょ?」
「ああ、知っている……と、思う。ミーナさんから聞いた話だったら」
「そう、ね。じゃあ、退屈しのぎに聞かせなさい。アキラ君はなんで勇者なんかやってんの?」

 口調とは違い、弱々しい声だった。
 だがその問いは、この旅の道中幾度となく、自分の前に立ち塞がった重い問題だ。
 そして確たる理由を口にしたことはない。

 だが、もし今、色々なしがらみを取り払って言うならば。

「罪滅ぼし」

 彼女の自由さに充てられたからだろうか。アキラは正直に言った。エレナの視線から探るような気配を感じたが、これ以上は言えない。
 出した答えは、相変わらずひどく醜かった。それが俺の使命だから、とでも言えば格好がついただろうか。
 だが、罪滅ぼしとは。言い得て妙だ。
 そしてエレナも、愚かな自分の犠牲者である。

「似たようなもんね、私の復讐も、声を大にして言えない理由だわ」
「さっき散々殺すだのなんだの往来で言っていたけどな」
「は、そうね。で、だからなの? アキラ君が勇者っぽくないの」
「酷い物言いだけど、そもそも勇者っぽくないってなんだよ」
「弾除けを請け負い、犯罪の片棒を担ぐ」
「すべて今日起こったことだ」

 酷い一日だと思うが、エレナに逢えた幸運を思えば帳消しどころかお釣りがくる。
 大分回復してきたのか、エレナは身体を起こし、アキラに上着を放ってきた。

「ねえ、アキラ君。勇者を途中で投げ出さない?」
「どういう意味だ」
「あの“死地”までちゃんと行けるかってこと」
「行けるよ。てかそういう約束だろ」
「そうね、弾除けだものね」

 釈然としないエレナの問いだった。
 もしかしたら自分は、彼女に試されているのだろうか。邪推しかけたが、考えを読むことは諦めた。彼女の考えは捉えどころがない。

「それとさ」

 だからアキラは、構わず続けた。
 世界を一周してきて、宿題も色々と増えている。

「全部終わらせたら、エレナ。シリスティアに戻ってくれよ。ミーナさんに、俺言ったんだよ。お前は絶対に無事だってさ。分からないけど、何か理由があって戻らないだけだって」
「あー、同情、ってやつ?」
「……かもな」

 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
 自分はエレナの境遇を知っている。あのガバイドという魔族の酷さを知っている。だからそう思っているのだろうか。
 だが。
 適当に応答してしまったが、少し違う気がする。

 罪滅ぼし。そう言ったのは自分だが、本当にしっくりくる。
 そうか。自分が願っているのは、そもそも。

「幸せになって欲しいから、か」

 掠れた声で呟いた。聞こえてもいないかもしれない。それで構わなかった。言葉にすると随分と格好のいい理由だ、我ながら惚れ惚れする。だがそれは、エレナの言うように、声を大にしては言えないことだった。これは彼女たちのためを思ってではなく、自分のためだ。自分が招いたことへの贖罪だ。

 だから自分は、“二週目”の最後に彼女たちのことを強く想った。
 わがままな自分に付き合わされた被害者たちを、救わなければならないと思ったのだ。
 それが利己的で、不遜で、自己満足に過ぎないことだとしても、そう思った。
 自分の旅は、そういう旅だったのだ。

「……私がファレトラに戻らない理由はさ、中途半端に安心させたくないからよ。戻ったって、ガバイドを殺しにすぐ出ちゃうもの。この旅を続けている限り、幸せにはなれそうにないわ」

 聞こえてしまっていたようだ。
 何事にも中途半端な自分に嫌気が差す。
 しかしエレナは深くは聞かず、ゆっくりと立ち上がった。

「あんたがママに言わなかったのは正解よ。それとも分かってた?」
「……さあな。ただ、なんとなくそんな気はしてた、かも。じゃあ、とっととガバイドを殺さないとな」
「ええ、そうよ」

 完全に回復したようだ。
 エレナはアキラを見下ろしながら不敵な笑みを浮かべていた。
 その笑みが本当によく似合う。

「じゃ、結構離れたし、2件目行くわよ」
「……あれ。どうしてそうなった。てかやば、俺あいつらに合流しないと」
「もう少しくらいいいじゃない。ちょっとお腹減ってきたし。今度は私が奢ってあげるから」
「さっき奢るどころか食い逃げになったんだが……、つーかそれ、奪った金だろ」
「だからもう私のだって」

 まるで気にもしないエレナの様子を見て、アキラは大いに嘆き、そして笑った。自分の言ったことは嘘ではなかった。
 エレナは元気過ぎるほど自由に生きている。
 色々忘れて、もう少し話をしていよう。

 毒を食らわば皿までだ。
 人様の金を使うことになるが、エレナを止められそうにない。

―――***―――

「ほんっっっとにどこに消えたのよあいつ」

 今日は随分とおかしな日だった。
 エルラシアと念願の再会を果たしたはずだったのだが、どうもそれが霞む。原因は分かりきっている。

「……ま、まずいですね。もうすぐサーカスの時間です。アッキー戻ってきますかね? やっぱりあっしたちも別々に探した方がいいじゃないですか?」
「あいつは知らないし、今もどこかで遊び惚けているんでしょうね。それよりティア、手!!」

 若干距離が離れた気がしたティアに手を伸ばす。
 サーカスの団員たちとのいざこざもあり、アキラを見つけられずに時間ばかりが過ぎていった。
 こうなってはもう草の根分けてでも探し出すつもりで、エリーたちが採ったのは3手に分かれての人海戦術だった。
 迷子がもうひとり増えるのが容易に想像できたため、エリーだけティアのお目付け役も兼ねている。
 本人は不服そうだったが、今は何に怯えているのか震えながら大人しく手を差し出してきた。

 人がずっと増えてきた。夜店も始まりつつあるようで、通りは随分と賑わってくる。
 恐らく自分たちと同じサーカスへ向かおうとしているのだろう家族連れとすれ違い、惨めな気持ちになってきた。

「ティア。何としてでも探し出すわよ。それはもう今すぐにでも」
「エリにゃん、手ががが」

 走らせた視線が、昼間アキラを見つけた店を捉えた。
 随分と荒らしてしまったが、今は無事に営業を再開しているようだ。植木が僅かばかりかしいでいるようだが。

 アキラと共にいた女性を思い出す。
 勢いよく向かっていったはずなのに、姿を見た途端、びくりとして足を止めされられた、あの女性。
 アキラはおそらく今も、あの女性と一緒にいるのだろう。

「そういえばアッキーと一緒にいた人、凄かったですね」
「……ええ」
「それはもう、その、凄かったです。ずるいです」

 ティアはぺたぺたと胸を叩いていた。珍しく目が乾いている。
 短絡的な思考のティアの目に飛び込んできたのが何かは想像できる。
 そして今、もうひとりその短絡的な思考の男が彼女と共にいるのだ。

 ヒダマリ=アキラは世界中でその名を知られる勇者となった。
 その事実は、モルオールにいたときから肌に感じている。
 町を歩くだけで魔術師隊の視線を感じ、依頼を受けようものならものによっては介入してくることさえある。
 イオリの話を聞くに、民間人には勇者の現在地の情報は伏せられているそうだが、魔術師隊には混乱防止のため広められているそうだ。
 そしてそうなると、多少は情報が漏れてしまう。
 魔術師隊が防いでいるらしいが、興味本位でアキラに会いに来る者も出てくるだろう。
 それでいて、あの男には危機感がない。
 相変わらず名前を聞かれれば当たり前のように答える上に、人に厳格な態度で接することなどせず、言い方は悪いが相手が有象無象であっても求められれば応じてしまう。
 親しみやすいと言ってしまえばきっと長所なのだろうが、やはりどうしても考えなしのように思えるのだ。
 もしかしたらあの女性も、ヒダマリ=アキラが勇者と知って、興味本位で近づいてきたのかもしれない。
 ただ、勇者というエサに食いついてきたのが、有象無象どころかそれ相応の女性だった。
 腹立たしいことこの上ないが、あの男が鼻の下を伸ばしていても仕方がないと思ってしまう。
 だが、あの女性はサーカス団から金を奪って逃亡しているのだ。アキラに取り入れば無事にこの町を脱出できるだろう、もしかしたらそのつもりでアキラに近づき、そして利用しているのかもしれない。
 今更あの男がこのアイルークでどうにかなるとは思わないが、それでも心配は心配だ。
 あの女が窃盗をしていると知っても、あの男なら庇いかねないともなると不安は尽きない。

 そこでふと考える。
 思い起こすのを避けていたが、あの女性。
 以前どこかで見たことがあるような気がした。

「エリにゃん。もうすぐ約束のお時間です。アッキーならきっと何とかなりますし、あっしたちは捜索を続けます。でも、エリにゃんは駄目ですよ。お母さんとの約束守らなきゃ」
「分かってるわよ。まだ走れば間に合う。それより探さないと。もうこの辺りにはいないのかな……」
「むふふ、アッキー優先なんですね」

 ぴたりと足を止めた。
 掴んだ手からティアの気配が消える。
 見ればティアは蹲り、頭を押さえて震えていた。
 怯えられているようで、その実からからかわれているのが見て取れた。ティアにはよくやられている気がする。

「―――そうよ。あいつ優先」
「…………ふ……え?」

 取り繕ったりはしなかった。これ以上言葉は続けない。
 エリーはティアをそのまま放って歩き出した。

「わ、わわわわわ、わわわわわわわわわ」
「ちょっとティア? 早く探さないと」
「ちょ、ちょちょちょ、待ってください、エリにゃんどうしたんですか!? お熱でもあるんじゃ、あわわわあああ、ごほっごほっ」

 錯乱されていた。その上せき込み始めた。
 失礼だ。

「だから、あたしは探したいの。いい?」
「げほっ、ごほっ、ああああ、ええええ、おおおお、こほっ、おえっ」
「こいつ……」

 まるで収まらないその様子に、身体中が熱くなってくる。
 この熱気を頭に叩き落としたい衝動に駆られたが、少しだけ気が楽になったような気もしていた。
 それでもやはり、言うべきではなかっただろうか。熱い。

「……真っ赤です」
「む。まだ何か言う気?」
「い、いやいやいや、違いますよっ、エリにゃんじゃなくて、」

 ティアが慌てた様子で指を差す。
 それを、目で、追うと。

「―――、」

 空が、燃えていた。
 もうもうとした黒い煙が上がり、空の雲と同化していく。
 エリーたちの様子に周りの人々も空を見上げ、小さな悲鳴を上げていた。

 火災。
 通りの向こう、遠方で、非日常的な何かが起こっている。

 そして、その方向は。

「っ……」
「エリにゃん!?」
「行かないと!! あれ、さっきの公園の方よ!!」

 建物の隙間から見えていたサーカスのテントが、赤く、黒い煙に包まれ見えなくなっている。
 原因は知らないが、出火元はサーカスのテントのように思えた。

 そしてそこには今、エルラシアがいるのだ。

 ティアを置き去りにし、足を止めて空を見上げる通行人を潜り抜け、エリーは必死に駆けた。

 嫌だ。
 今すぐに、この目で見ないと安心できない。ひたすらに急がなければ。

 以前シリスティアにいた頃、同じようなことがあった。
 港町で突如として起こった災害のような事件。あんな異物が、このアイルークに混ざり込んでいるような恐怖を直感的に思ってしまう。
 ただの火災であればいい。今、この町でだけは何も起こらないで欲しい。
 悪寒と、楽観的な思考が頭の中で巡るましく浮かび、その混乱のまま身体を動かす。
 人知を超えたあんな出来事、今日だけは許して欲しい。

 駆けて、駆け続けて、エリーは人の波が強くなったのを感じた。
 未だと奥にあるあの火災現場から必死に逃げているのか、エリーを襲うように人が向かってくる。

 何が起こっているのか。
 意識を向けると、人々の狭間から、はっきりとした異常がエリーの目に飛び込んできた。

 それには、黒くまるまるとした球体の身体に、小さな耳と手。そして背中にも小さな羽根。
 それだけがその存在の姿だった。
 人の胸ほどの高さに羽ばたきながら不気味に浮かび、時折バチバチとスカイブルーの光を纏っている。

 リトルスフィア。
 エリーの認識では、マーチュと同じく最低クラスに位置する低級な魔物だ。
 動きは鈍く、逃げ回る一般人を追い切れていない。
 精々驚かす程度のことしかできていないようだった。

「ノヴァ!!」

 鋭く詰め寄り殴り飛ばすとリトルスフィアはまさしくボールのように弾かれ、地面に落下して四散する。
 たまたま魔物が紛れ込んだだけ。道の隅で息を整えている一般人はそんなことを考えているかもしれないが、エリーはまるで違ったことを考えていた。
 クロンクランに、こんな弱小の魔物が入れるわけがないのだ。町の防衛策を突破できるわけがない。
 むしろ分かりやすいほどの異常が発生している。

 多少冷静になったエリーは、未だ喧騒と共に駆け出す民間人をやり過ごし、サーカスの火災を睨んだ。
 あの場で何が起きているのか。こうなってはもう、最早ただの火災であるという希望は消えた。
 そして。

「……え」

 人の波が途切れてきた。
 視界が良好になる。
 店が立ち並んだクロンクランの大通り。その、先。
 ぞっとするような光景が広がっていた。

「エリにゃん!! 大丈夫ですか!?」
「あれ……」
「へ……、いっっっ」

 追いついてきたティアは絶句し、エリーは呆然とした。

 それは波だった。あるいは海だった。
 リトルスフィアが群れを成し、大通りを埋め尽くさんとひしめいている。
 終点は見えない。視界に入るすべての道が、大量の黒い球体に覆われ、サーカスのテントからぎっしりと敷き詰められていた。
 そしてそれは徐々に近づき、町中に展開していく。
 絵空事のような光景が、クロンクランを覆いつくしていた。

 あのシリスティアでの港町に起こった出来事。
 あるいはそれ以上の脅威が、この村を襲っているかのようだった。

 そして。

「うっ、わ。まじかよ」

 あのときもこんな風に合流したような気がする。
 思わず身体が動いた。
 振り返らずに駆け出せば、隣に並んできてくれた。

「今は。今はいいわ」
「不吉な物言いだなそれ。みんなは?」
「あんたをっ!! 探してるっ!!」
「づ、今はいいって言ったとこなのに」

 耳元で怒鳴ってやった。
 今は上手く言葉は出てこない。だから、今はいい。
 戦慄するほどの光景が眼前に広がっているが、足が軽くなった気がした。情けないことに、理由は何となく分かってしまう。

「ねえ。お母さん、サーカスにいるかもしれないの」
「何だと!?」

 彼は慌てて剣を抜き、迷わず海のような魔物の群れに飛び込んでいった。

「一気に倒すぞ!!」
「そのつもり!!」

 オレンジとスカーレットの閃光が大通りを明るく照らした。

―――***―――

「さて……、どうしよっかな。どうすればいいと思う?」

 エレナ=ファンツェルンはゆっくりと道を闊歩しながら、通り過ぎようとした球体に声をかけた。
 弱小ながらも人々に悲鳴を上げさせる、純然たる魔物は、羽を激しく羽ばたかせ、必死に先を急ごうとする。
 当然、返答を期待していたわけではなかったが、その態度を不満げに眺め、エレナは緩慢な動作で歩み寄った。

「ま、そうよね。そういう態度よね」

 辛うじて方向転換できたらしいリトルスフィアを、背後から優しく撫でてあげた。
 すると可哀想なことに、小さな破裂音と共に消滅してしまった。
 なんということだろう。

 その様子を見ていたのか、周囲に浮かぶ黒い球体も、必死に身体を動かし、方向転換を試みている。
 町中に浮かび上がる黒い球体たちは、圧倒的な物量を持っているにもかかわらず、エレナに近寄ろうともしなかった。

 それが普通だ。

 ただの魔物は分かりやすい。
 計算もなく、ただ純粋に人を襲い、そして純粋に脅威からは離れていく。
 その単純さは人間も持ち合わせているはずなのだが、心があると難しいことになるようだ。
 だから人は、人に対して裏を読もうとし、ともすれば自分さえも騙して行動する。
 エレナにとって、魔物よりも人間の方がある意味信用できない。
 当然、欲望や本能に正直な人間もいることをエレナは知っている。いいお客様たちだ。

 自分には目的がある。そしてその目的のためならば何でも使う。
 例えそれが世界の希望と言われているような存在であったとしても。
 それができる自信があったし、実際その通りにはなった。

 だが。

「ふ……、ふふ」

 ギリ、と奥歯を噛んだ。
 気に入らない。端的に言えばそれだった。

 あの男とすでに出会ってしまっていたことは失敗だったと考えていた。それも自分の機嫌が悪いときに、だ。あの男は自分を知っている。いつもの手は使えない。
 ならばいっそと脅しつけようとしてみたのだが、出会い頭に妙な騒ぎ方をするものだからそれも失敗してしまった。
 しかし、最早どうしたらいいか分からず駄目元で言ってみたら、何故か思い通りになってしまった。
 なんて私は運がいいのだろう、あるいは美貌の恩恵だろうか、などと考えられる奴は頭の中に花でも詰まっているに違いない。エレナはそうではなかった。

 ヒダマリ=アキラは明らかに何かを知っている。以前もそうだった。
 こちらが色々と手を尽くして利用しようとしているのに、あの男が見ているのは目の前にあるものではないような気がする。
 自分にとっては今まで生き抜いてきた立派な武器だというのに、そんなことはどうでもいいと言うように、自分を求めてくる。
 酷い物言いをしてみたり、こちらから裏切ってみたりしても結果は変わらなかった。
 沈むような柔らかさに、不安を覚えてしまう。それは今まで、自分が利用してきた者たちが嵌っていったものだと知っているのだから。
 まるで自分の方が利用されているようだ。そんな相手も今まで見てきた。地面に沈ませるか別れも告げずに置き去りにしてやったが。

 ただ、始末の悪いことに、あの男は倒れ込んだ自分を見捨てなかった。それだけで信用できるわけでもないが、彼が呟いたあの言葉。
 あれは多分、本心のような気がする。

「幸せに、ねぇ。私が?」

 軽く腕を振るったら、浮かんでいた球体が弾き飛ばされ店の分厚い窓ガラスをぶち破ってしまった。
 酷い。魔物の襲撃が、建物の中までをも蹂躙している。なんて許されざる悲劇だ。

 手を汚し続けている自分に対してよくもまああんなことが言えたものだ。聖人君子か。
 しかし、認めないわけにもいくまい。あの男と自分は縁がある。面白い表現になるが、地元まで押さえられているのだ。
 そして自分の母にも会ったと言う。
 もう顔も思い出せないが、子供の頃の自分にとってはどんな親だったのだろうか。
 会えれば思い出せるかもしれない。

 やはり人の言葉を深く聞いては駄目だ。ほんの少しだけ揺らいでしまったではないか。
 深く考えないことが自分の長所だと思っているし、今までもそうして生きてきている。
 気に入らない。

 認めはしよう。大なり小なり好意はある。自分の心は割と単純なのかもしれない。実際、役に立つものにはきちんと好意を向けてあげられる。勇者ともなればもう大好きと言っておいてやってもいい。

「はあ、やばいわね、これ」

 試しに球体を掴んで投げてみたら、密集していた球体が砕かれるように四散した。街灯のポールが砕かれ倒され、並んだ露店が下敷きになって数件潰れた。ひどい。このまま奴らの暴挙を許せば、クロンクランが壊滅してしまう。

 エレナはゆっくりと歩を進め、未だ煙が立ち上る場所へ向かって歩いていた。
 あの場所は、自分が売り上げを奪いがてら探りを入れていたサーカスがあり、そして、火の手を見るや否や飛び出していったヒダマリ=アキラが向かっていった場所でもある。
 自分をほっぽり出して去っていった相手も初めてだ。

 本当に気に入らない。

 エレナは目の前に浮かぶ球体をドンと弾き飛ばした。
 背後で何かが崩れる音がしたが、まあそれはどうでもいい。魔物の被害だ。

 それよりも、もう少し落ち着かなければ。

 まずいことに、あの男と話しているだけで、妙に脳の奥をくすぐられるような感覚に陥る。魔術をかけようとして失敗し、あられもない声を上げたことも揺さぶりをかけられているような気がした。
 そんな感覚をけたたましいほどに味わってしまった。興味というものが出てきてしまう。

 やはり、まずい。
 理由を求めるようになったら末期症状に近い。
 そんなものはせせら笑い、ただ正直に生きていくことが自分のスタイルだというのに。

 このままでは。

「本気になりそう」

―――***――

「ちょっと!! 町を壊す気!?」
「仕方ないだろ!!」

 濁流のようになだれ込むリトルスフィア。
 大通りを埋め尽くす大群に比べて川の小石のような勢力は、その流れを完全にせき止めていた。

「キャラ・スカーレット!!」

 アキラは、力強く剣を振るう。
 容易く四散した魔物は、周囲に勢いよく飛び散り、周囲の同種を弾き飛ばす。
 個であっても群であっても、あっさりと撃破できるリトルスフィアたちは、まるで抵抗でずに無残に散っていく。

 弱い。
 アイルークの魔物だからなのか、あまりに戦闘力には開きがある。
 囲まれようとも剣を振るえば容易く吹き飛び、アキラは未だかすり傷ひとつ負っていなかった。

 だが。

「あっ、また!!」

 吹き飛ばされたリトルスフィアたちは建物に叩きつけられ、あっさりと戦闘不能に追い込まれる。
 そしてそれと同時、子供の爆竹のような小さな破裂音を響かせた。
 しかしそれが連鎖の始まりだった。

「やっば」

 バババババッ!! と騒音が響く。
 ひとつひとつはあまりに小さな衝撃。しかしそれが数百と同時に起こるとなると話が違う。
 アキラが起爆させた魔物の爆発の連鎖は、ここら一体の建物中に亀裂を走らせ、街灯も外壁も砕けるように砕けていく。
 矮小な力しか持たない魔物でも、いや、矮小だからこそ容易く倒れ、群れを成せば町に甚大な被害をもたらしてしまうようだ。

「建物の方に斬り飛ばさないで!! そこら中が更地になっちゃうから!!」
「んなこと言ってもどうすんだよ!?」
「じゃあ、……よし、見てて!!」

 離れて戦っていたエリーが怒鳴りながら駆け寄ってきた。
 そして僅かに身を下げて、道の中央に立つ。
 僅かばかり間を置くと、リトルスフィアたちは徐々に、ゆっくりとエリーに向かっていった。
 そして。

「スーパーノヴァ!!」

 ゴッ、と鋭い拳が正面のリトルスフィアを打ち抜いた。
 道とほぼ水平に打ち抜かれたリトルスフィアは、その衝撃を綺麗なほどまっすぐに後列に伝える。
 建物付近にいるリトルスフィアたちには衝撃が届いていない。
 エリーの芸術的な攻撃は、リトルスフィアたちを多数撃破し―――大通りの中央を破壊し尽して再起不能なほどの傷跡を残した。

「……おい。……おい!!」
「……いい手だと思ったのよ」
「もうこの町は終わりだな。破壊しようとしている奴が多すぎる……」
「あんたもそのひとりでしょ!?」

 ぎゃあぎゃあと怒鳴り合いながら、大通りの道を進んでいく。
 やはりリトルスフィアたちは弱い。その上動きも遅かった。もしかしたら民間人でも恐怖心さえ捨てれば迎撃できるかもしれないというほどに。現にここまで被害に遭った人を見ていない。
 放っておけば時間はかかるとはいえこの町の魔術師隊が駆除し切るだろう。
 その上エリーが、もう、絶好調だ。本当に魔術師隊に任せた方がいいような気がする。

 だが気になる。
 “二週目”。
 この魔物たちはここまで弱かっただろうか。
 単純な物量ならあのときの比ではないが、個の力が明確に低い。

 ただ幸運なことに、こんな様子であればエルラシアはもうとっくに避難している可能性の方が高かった。
 もしくは、あまりに多くの群れに行く手を阻まれ、サーカスの近くの建物か何かで籠城しているかだ。
 エリーもそう感じているだろう。焦りは見えない。
 ただ、いずれにせよあの火災現場には向かう必要はあるのだが。

「バーディング」

 いたるところから破裂音が響く中、リトルスフィアたちの挙動がおかしくなった。
 大きな流れはうねりになり始め、餌に食いつく魚群のように未知の中央に集中していく。
 それぞれの身体を押し退け、昇り、大群が空中で巨大な球体のようになっていく。

「シュロート!!」

 その中央をスカイブルーの閃光が討ち抜いた。
 爆撃個所から始まった戦闘不能の爆発は、時間差で、ゆっくり上と下へ向かっていく。
 花火のように見えた。随分と綺麗な光景だ。
 空中に集まったリトルスフィアたちは弾け飛ぶも、被害は空中で完結した。

「ふふんっ、どうですか!?」
「ほら見ろ。あれがお手本だ」
「くっ」

 話は聞こえていたみたいだ。
 色んな意味でたまに信じられないことをする。
 ティアが魔術を飛ばしている中、アキラがエリーの見張りをしていた方が町に優しそうな気がした。

 アキラが剣を小降りに操り、ティアが広範囲を撃破していくと、通りを埋め尽くさんとしていた大群もまばらになってきていた。
 あとは放っておいても魔術師隊が撃破するだろう。先に進んでも良さそうだ。
 拗ねているエリーと得意げなティアを引き連れ、魔物群れを駆け抜ける。

「でも、なんでこんな同じ魔物ばかり……」
「出所に行けば分かるだろ。それよりサクとイオリは? 一緒じゃなかったのか?」
「あんっ」

 反射的に耳を塞いだ。流れるように正面のリトルスフィアを切り裂き、さらに足を速める。
 概ね事情は分かった。
 彼女たちのことだ、この騒ぎとなればサーカスの公園に向かえばいずれ会えるだろう。

「アキラ!!」

 そこで、上から声が聞こえた。

「? サクか!?」

 見上げたと同時、鋭い何かが正面に降り立った。
 反応が遅れて思わず後ずさると、目の前に、赤い衣の少女が立っている。

「あ、ぶっ、」
「やあアキラ。久しぶりだな」

 冷たい声だった。
 まるでよくかわしたとでも言いたげな上空からの襲撃者は、エリーの姿を見つけると、僅かに微笑む。

「エリーさん。エルラシアさんなら上にいる。さっき、魔術師も来てくれたところだ」
「上にいるの?」
「ああ、逃げ遅れていたらしいが、もう大丈夫だ。避難してもらう」

 見上げれば、3階ほどの高さの建物の屋上から見知った顔が見下ろしていた。
 隣にも数人の男女が見える。彼らも一緒にここで足止めを食らっていたようだ。
 サクはあそこから降りてきたらしい。分かってはいるが、アクションスターのようだった。

「ありがとうサクさん。近くにいたの?」
「いや、私は大分離れていたと思う。道がこんなことになっていたから、屋根を渡って移動していたんだ。そしたらエルラシアさんたちを見つけてな」

 もっとそれらしいことをしていたらしい。
 目を輝かせているティアをさりげなく引き寄せた。
 子供にはヒーローに憧れる権利があるが、ヒーローと同じことをしてはならないという不条理もある。

「ティア。真似するなよ」
「なんでわざわざ言うんですか!? しませんよ!! 有事にしか!!」

 だから言ったのだが、これ以上は構っていられない。

「サク、何が起こっているのか知ってるか? テントが燃えてるのか?」
「……今はいいか。悪いが建物が邪魔で見えないんだ。魔術師を連れてきたりしていたから、ずっと見ていたわけではないし」
「じゃあ行くしかないわね。急ぎましょう」
「いいのか? エルラシアさんに会わなくて」
「事情が事情だもん。終わったらでいいわ。あんたも会うんでしょ?」

 随分とあっさりしているものだ。その通りだが。
 駆け出すエリーを追って走る。
 未だ通りを埋め尽くすようにリトルスフィアたちが浮いているが、この辺りにはとうとう人気が無くなってきた。救助を求める人たちもいないようだ。魔物の数を考えれば奇跡としか言いようがない。
 そして、角を曲がると今度はリトルスフィアたちの姿も極端に少なくなってくる。

「あれ?」

 道を間違えた。誰かがそう言った気がしたが、頷く余裕はなかった。

 街灯が軒並み消えているほの暗い道。
 空気が熱され、煤の匂いが強くなってきた湯だったような空間。
 建物の隙間から漏れる火災の灯りが照らす、正面の角から。

 ぬっと。
 巨大な存在が姿を現した。

「ひうっ」
「ティア落ち着け落ち着けあれはラッキーだ」

 声は震えていた。
 運命を呪いかけていたにしては声が出ただけマシだったが。

 町を闊歩する巨獣は、唸っていた。
 イオリの姿は見えないが、彼女もこの場所に来ているらしい。

 アキラは息を吸って吐いた。
 この町の記憶は持っている。
 ラッキーは味方だが、イオリがリトルスフィアなどよりもよほど被害をもたらす可能性のあるラッキーを呼んでいる理由は、ひとつしか思い当たらない。

 ラッキーが唸り、振動を残して後退する。
 アキラは意を決してラッキーの元へ駆け出した。

 そして。

「……やっぱりか」
「ぎゃーっ!!」

 ティアが叫ぶ。
 眼前に広がった光景は、熱中しかねないほどの、映画の世界だった。

 ラッキーが唸る、その正面。
 そこには召喚獣にも匹敵するほどの巨大な球体があった。
 リトルスフィアとは比較にもならないほど澄んだその存在は、球体から上半身が生えているように見え、野太い腕は球体を胎児のように抱きかかえている。
 貌は竜種のように見えた。
 サーカスの公園を背後に置き、巨大な翼の羽ばたきで燃え盛ったテントの残骸を揺らしている。
 マザースフィア。そんな呼称が付けられていたかと思う。
 右も左も分からぬあのときとは違い、この魔物の不気味さにアキラは顔を歪めた。

 イオリの召喚獣と、“幻想獣型”とも“無機物型”ともつかない巨大生物。
 建物に囲まれた、建物よりも大きなふたつの存在が、獰猛な唸り声を上げて対峙していた。

「ォォォォォォオオオオーーーッッッ!!!!」
「いっ」

 耳をつんざくような雄たけびがラッキーから上がった。
 同時に周囲の“気配”が拭い去られる。
 まるで魔力が感じられなくなった空間で、稲光のような衝撃がマザースフィアの腹部を打っていた。

「ちょ、あれ!!」
「ああ、見えてる!!」

 エリーが指さした先では、マザースフィアが無数の球体を“産み落として”いた。
 生まれたと同時、ラッキーの攻撃によって消滅していく存在はリトルスフィア。
 やはり、あの存在があれだけの数の魔物をこの町に出現させたのだ。
 しかしラッキーを前に、数はごっそりと削られている。
 土曜の魔術で討たれたリトルスフィアたちは、その動きも、戦闘不能の爆発さえも封じられ、何もできずに消滅していった。

「あれが一番のお手本だぞ」
「むううう」

 ラッキーよりも獰猛そうな唸りが聞こえた。
 これ以上刺激する度胸はないし、遊んでいる余裕はもっと無い。
 町への被害を抑えることを最優先にしているのか、ラッキーはマザースフィアを満足に攻め切れていないようだった。
 どれだけ魔力を溜め込んでいるか分かったものではない。あれが公園から離れて暴れ回れば、被害は甚大になるだろう。
 ならば。

「イオリを探してくれ!! とっとと倒すぞ!!」
「何する気!?」
「だから、」
「考えていることが同じなら、話が早くて助かるね」

 まるで戦闘音がなかった暗がりから、イオリが姿を現した。
 背後ではグレーの魔力に包まれた球体たちが、振動の無い爆発を起こしている。
 真っ赤に燃える火災の中、涼しい顔をして現れた彼女は、巨獣たちの戦いを気にもせずに歩み寄ってきた。

「待ってたよアキラ。テントから魔物が溢れ出てきたと思ったら、あれが現れてね。下手に攻撃したら抑えている余裕がなくなるから、均衡させるくらいしかできなかったんだ」
「最初からこの近くにいたのかよ。それでお前は暇潰しでもしてたのか?」
「はは、そうだね。暇だったしラッキーが討ち漏らした魔物とじゃれてたんだよ」

 冗談を言ったら冗談を返された。
 冗談のような光景の召喚獣を操っているはずなのだが、随分と余裕だ。
 イオリは優しく微笑み、アキラをまっすぐ見てくる。

「じゃあアキラ。悪いけど、行こうか」
「……一応聞くけど、お前俺に何させる気だ」
「君がやろうとしていたことだと思っているんだけど、違う?」

 やたらと皆からの当たりが強い気がした。
 悲しくなってティアに視線を向けたら、戦闘中なのに目の前の巨獣対決を最前列で鑑賞していた。

「ちょっと、何する気?」
「ラッキーで飛んで、アキラが突撃する。動きは鈍いし、下手に追い込んだら何をするか分からないからね」

 ゆえに、一撃での撃破を狙う。
 同じことを考えてはいたが、傍から聞くと危険極まりない。
 ラッキーが魔術で守ってくれれば無事だろうが、それでも相当な勇気が必要になる。だから勇者の仕事なのだろうか。

「他はラッキーが討ち漏らしたリトルスフィアを倒してくれ。どうも“子供”の能力を調整できるみたいだ。動きが早かったり、妙に耐久力があったりする個体もいる。放置はできない」

 イオリが毅然とした態度で指示を出し、砲弾に向かって歩み寄ってきた。
 覚悟は決めた。

「はい! はい! あたしがやります」

 わざわざ挙手してエリーが前に出た。
 一瞬ティアかと思ったが、奴は未だ巨獣の戦いに没頭しているようだった。

「って、何言ってんだ」
「いいでしょあたしでも。同じようなもんだし。ほら、とっとと残党狩りでもしてなさいよ」
「あれどう見ても水曜属性だろ? 俺が行った方が、」
「関係ないってこと、見せてあげる。ほらほら」

 邪魔とでも言われているように手で追い払われた。
 そういう意味では信用しているが、不安になる。

 イオリはさりげなく背後を気にしてから、静かに視線をエリーに向けた。
 少し考えるようなそぶりを見せたが、やがて頷く。

「分かった。その方が都合はいいかもしれない。―――アキラ」
「―――ああ。分かってる。頼むぞ」

 ふたりを見送って、アキラはティアの目の前で力強く手を叩いた。
 騒ぎながら尻餅をついたティアが現実に戻ってきたことを確認すると、巨獣の戦いの周囲に浮かぶリトルスフィアに視線を走らせる。
 今日は随分と地味な仕事ばかりだ。
 だがそれも仕方がないか。

 アキラは、小道の陰から妙な気配を感じたが、気にせず駆け出した。
 今日は仕方がない。

―――***―――

 私情だこれは。仕方がない。

「エリサス、次にラッキーが唸ったら走るよ」
「はい」

 巨大生物たちの戦いを至近距離で眺めながら、タイミングを計る。
 あの水色の球体には、普通にやったらこの拳は届かない。
 やるとするなら、イオリの召喚獣の背に乗って突撃するしかなかった。

「正直、意外だったよ。エリサスがくるとは」
「ごめんなさい。あたしで」

 口を突いて出たのは、自分の耳にも嫌味に聞こえた。
 自分が嫌な奴になっている気がする。こういうのは気を付けなければ。
 イオリは気にした様子もなく、小さく首を振るだけだった。
 大人な対応をされたようで、悔しくなった。

 振動が続く。
 ラッキーがにらみを利かせ、巨大な球体を押し込むように突き飛ばす。
 羽ばたきながらもふわふわと浮かぶ魔物は、暴れ出したりせずに公園に押し戻されていく。
 器用な戦い方だった。あれだけの巨体同士が暴れているのに、町がほとんど無事なのは異様だ。
 イオリは涼しい顔をしてタイミングを計っている。
 タイミングは、あの球体が次にリトルスフィアを生み出したときだ。
 ラッキーがそれを抑え、その隙に背中に飛び乗り突撃する。そのタイミングならば、戦闘不能の爆発までには再び魔術を放てるようになっているだろう。
 イオリはそれを見計らっている。

「ふー」

 身体に魔力を張り巡らせながら、気を落ち着かせる。
 しかし、やはり、悔しさを感じてしまう。

 自分が魔導士相手にそんな感情を持つことになるとは。羨望の眼差しだけを向けていた存在に、そう思うような日が来るとは。
 そうなった理由には思い当たることがある。というより、自覚したことがある。

「……役割被りまくっているのがなぁ」
「そうでもないさ。単純な破壊力ならアキラを超えているかもしれないし」
「うぐ」

 静かに応答された。
 そういう態度はずるいと思う。見通されていて、子供扱いされているように感じてしまう。ティアが常日頃から味わっているものだろうか。
 ちらりとイオリの横顔を見る。

 彼女のことは―――そう、分からない。
 彼女が仲間になったとき、アイルークのことを聞き、どたばたとこの地へ戻ってきたのだ。腰を据えて話せたことはない。自分の魔導士への憧れも関係しているのだろう。
 ヒダマリ=アキラと元々の知り合いであるらしいホンジョウ=イオリ。
 最初に彼女を見たとき、妙な危機感を覚えた。だからこそ、自覚する羽目になってしまったのかもしれない。

 アイルークに戻り、エルラシアの無事を聞き、今日はついに再会できた。
 サーカスを見ることはできなくなったようだが、そんなことはあまりに気にならないほど、心にゆとりができた気がする。
 そのせいか、やはり目についてしまう。
 アキラとイオリは、何か強い共通認識を持っていると。
 先ほども、自分には分からない何かを伝え合っていたように思える。
 いや、自分がそういう目で見るようになってしまったのだろうか。
 まずいかもしれない。頭の中に花でも詰まっているようだった。

「多分、そろそろ、かな。エリサス。どこを狙うか決めているんだよね」
「頭ぶち抜きます」
「……くれぐれも言うけど、ラッキーから離れすぎないでね」

 そう言えばあの男は空も飛べるようになったとか。見せてもらったが、数度で落下して悶絶していた。慣れていないだけで、きっとすぐに使いこなせるようになるだろう。
 そういう意味でも、イオリはこの作戦で彼を抜粋したのだろう。意地になって邪魔してしまったが。
 彼は様々なことができるようになってきている。

 だから、自分は、ちゃんと焦ろう。
 あの雪山で感じたような黒い感情ではなく、もっと、そう、澄んだ感情で。

 隣にいたい。
 女の子の役割ではないかもしれないが、少なくとも、この破壊だけは譲らない。

「……エリサス」
「はい」

 球体が怪しく光り始める。ラッキーが唸る。
 ついに来た。

 自覚してから、心が豊かになったり、貧しくなったりして、かなりペースを乱されている。
 だが、不思議と、できないことはなさそうな気もしていた。
 不思議だ。

「行くよ」
「はい!!」

―――***―――

 酷い光景を見た。
 巨獣と巨獣がルールを守ってきちんと戦っていたのに、巨獣から射出された小さな影がマザースフィアの顔面を消滅させた。
 ジオラマの戦いに突如として大砲でも撃ち込まれたかのような光景に、アキラは呆然とし、戦慄もする。

「ぬわ……なんてこった……、なんてこった……」

 特等席で巨獣たちの戦いを観戦していたティアが、唖然としながらリトルスフィアを正確に打ち抜いていく。
 本人も言っていたが、本当に器用なようだ。

 マザースフィアにはグレーの魔力を覆いながら、ラッキーは小さな影を空中で拾う。
 アキラはこみ上げてくる笑いを抑えて、爆発を抑え込まれながら消滅するマザースフィアを眺めていた。

「終わったな」
「ああ、そうだな」

 サクが愛刀を収めながら駆け寄ってくる。
 リトルスフィアは一通り撃破したようだ。
 通りには、リトルスフィアの爆破と、ラッキーの足跡が残るのみとなっている。
 被害としては最小限なのだろう。
 アキラは旋回して戻ってきたラッキーを見上げながら、ほっと息を吐いた。
 多少誤差があったようだが、どうやら今回は記憶通りのようだ。
 小さな、しかし強い予感と共に、アキラも剣を収めた。

「き……、貴様ら」

 ラッキーからエリーとイオリが下りてきたとき、背後から声が聞こえた。
 鋭く振り返ると、脇道から、顔中に血管を浮き立たせた小太りの男が現れる。

「! まだ人が残っていたのか」
「あ、サーカスの。大丈夫でしたか!?」

 踏み出そうとしたサクとティアを手で制す。
 目の前の男の異様な雰囲気に、空気が冷たくなった気がした。

「やあ、お久しぶりですね」
「会ったのか?」
「ああ。君が失踪している間にね」

 イオリの口調は軽かった。
 それに激高したのか目の前の男は、震え始める。

 そして徐々に身体が肥大化していく。

「ちょっと、あれ、え、大丈夫なの?」

 心配が先に出るほど、目の前の存在は人間だった。
 しかし筋肉が隆起し、人の皮膚が割れ、頭に2本の角がそびえ立つと、エリーもようやく事態が呑み込めたようだった。

「……オ、オーガース……?」
「ぎ、擬態……!?」

 鬼を模したような化け物だった。
 拳は鉄球のように発達し、それをも軽々しく操る巨大な体つき。
 背中まで伸び切った茶色の毛は、それぞれが槍のように怪しく光る。
 ただそこに立つだけでもたらす圧力は、あれほど巨大だったマザースフィアをはるかに超えていた。
 “幻想獣型”の“言葉持ち。
 アイルークどころか、どこかに出現すること自体が異常事態と認識される、最悪の存在だった。

 ビリと、焼けつくような殺気をアキラも感じる。
 リビリスアークで遭遇したゲイツと同等か、あるいはそれ以上の重圧を感じた。

「よくも……、よくも、私がガバイド様から賜った宝を……!!」

 規格外の存在。
 ここまで町に被害をもたらした驚異の魔物。
 その上、やはりあの魔族と関係があるらしい。

「……馬鹿野郎」

 だがアキラは。
 このときばかりは、この存在に心から同情した。

「貴様が“勇者”だな」
「知らないのも無理ない。だけど、それはまずいぞ」

 アキラは聞き流して呟いた。
 オーガースに冷めた視線を向ける。

「今、この町で、」

 この騒動、自分は何ができただろうか。
 町の被害を抑える戦いをティアに見せられ、エルラシアの救助はサクにとられ、マザースフィアの撃破はエリーとイオリにとられた。
 あまり役に立った感じがしない。
 オーガースを撃破できれば大金星なのだろうが、それは叶わなくなった。

「その名前を出すことが、どういうことなのか、」

 だが、仕方がないのだろう。我慢しよう。

「知らなかったじゃすまないんだ」

 これはどうしようもない。

「ねえ。あんた今ガバイドって言った?」

 オーガースの殺気に満たされていた息苦しさが消滅した。
 総てを凍り付かせるような空気が、そのすべてを押し潰していく。

 道を、まっすぐに、オーガースに向かってくる影があった。

「あらアキラ君。酷いわね、私とのデート抜け出して他の子と遊んでいるなんて」

 誰も声を発せなかった。
 食って掛かることすら、誰もできなかった。
 現れたのは台風のようなものだ、じっとしてやり過ごすべきだとこの場の全員が察知する。
 本当に笑えない冗談だった。
 アキラは喉を鳴らす。
 現れるとは思っていたが、まさか臨戦態勢で現れるとは。
 イオリが魔力を拭ってくれた大通りは、マザースフィアとは比較にもならない魔力の奔流に襲われていた。

「ま、いいわ。それで? あんたガバイドを知ってるの?」
「き、貴様、昼の、」
「? なに? ああ、ちゃんと会話はできないの?」

 巨大なオーガースに比べ、細枝のような女性が速度を落とさず接近していく。
 その光景は、何度見ても異様だった。
 だが、それはこの世界では当然のことなのだろう。傍目でも分かった。魔族に最も近いとされる“言葉持ち”と比してさえ―――纏う魔力が、次元が、違い過ぎる。

「ま、多少口が利けるならいいわ」
「ぐっ、」

 エレナの腕が消えたと思った瞬間、オーガースの首を締め上げていた。
 その動きは、直接受けたアキラですら辛うじて追える程度だった。やはり鋭い。
 オーガースは呆然としている場合ではなかった。なりふり構わず、全力で逃げるべきだったのだ。彼女の射程に入ったら、その動きから逃れる術はない。

「ぉ、ぉ、ぉ」

 エレナは片手のみで、巨体を容易く釣るし上げる。
 そしてどこまでも冷めた目で、オーガースへ囁いた。

「お使い頼まれてくれる? ガバイドに伝えて。必ず殺すって」
「ぎ、ぎ、さ……、ま……」
「私の気が変わらないうちに……とか言ってみようとしたけど、もう気が変わっちゃったわ。さようなら」

 わがままさを感じる自由さで。
 花を摘むようにあっさりと。
 ゴギリ、と気持ちの悪い音が響いた。

 エレナの手元から漏れる光は―――ライトグリーン。

 5属性の中で、最も希少なその力。
 その力は、希少のみならず、あらゆる魔術の天敵とも言われる―――強大な異常属性。
 “木曜属性”。
 その術者は、身体総ての力を跳ね上げ、あらゆる力で他を上回る。
 そしてその魔術―――キュトリムは、魔力を、そして生命力すらも奪い去る。

「キ……、キ―――」

 エレナの前に、あっけなくオーガースは事切れた。
 そして無残に投げ捨てられ、リトルスフィアよりも遥かに小さな爆発音を響かせる。

 何度見ても、憧れるほどの強さだった。
 ほとんど何もせず、体力が有り余っているアキラは、しかし疲れて座り込んだ。

「さ、アキラ君。とっとと行きましょ。私遠くに行きたいなぁ」

 たった今巨大な鬼を握り殺した女性は、甘い声を出した。
 それはひょっとして脅しつけたいのだろうか。
 離れたいのは、この町で窃盗を働いたからだろうし。

「アキラ。彼女と知り合い……、というか見たな昼に」
「わ、わわわ、お知り合いですか!? 紹介してください。いや、もうあっし行きます!!」
「あら。なにこれ」
「なにこれって……。えっ、あっしに言ってます!?」

 戦闘が終わったからか、エレナが臨戦態勢を解いたからか。その場の空気が弛緩したら、途端に騒ぎが起こった。
 今この状況で、すぐにエレナに駆け寄ったティアは流石としか言いようがない。涙目になっているような気がしたが、放っておいた。

 イオリに視線を投げると、彼女はほっと息を吐いていた。
 どうやら彼女の記憶と合致はしてくれたようだ。肩の荷も下りたのだろう。
 アキラも胸を撫でおろす。

 すると背後に、ピタリと誰かが立った。
 振り変えると、赤毛の子が震えていた。

「せっ、」
「……えっと」
「説明しろーーーっ!!」

 戦闘後のせいか、妙にいきり立つエリーから離脱した。
 ふー、ふー、と息を荒げ、震えながらアキラを睨んでくる。

 助けを求めようとしたが、冷ややかな視線を送るサクと目が合い、その後ろでは、何をしでかしたのかティアがエレナに頭を掴まれ宙づりにされている。イオリに至っては我関せずといった顔で町の様子を眺めていた。
 扱いも酷い日だ。

「と、とりあえず戻ろぜ。ほら、もう疲れたし」
「あんたが何をしたーーーっ!!」

 痛いところを突いてくるが、エレナ=ファンツェルンが居合わせたとなれば止むを得ない。
 いいではないか。

 たまには脇役でも。

―――***―――

「と、いうわけで、」
「きっとまた会えると思ってました!! おはようございます!!」
「ちょ、止めろ、何なのこの子!?」

 宿を出るなり、ティアが犬のように駆け出し、目の前の人物に突撃していった。
 ティアとは何なのか。それはむしろアキラが聞きたい。

 翌朝。
 昨日の騒ぎで、未だに町にはいくつもの傷跡が刻まれている。
 多くの店が閉められているようだが、何とか無事だった宿を取れたのは幸運だった。そしてその宿の出口でエレナが待っていてくれたのも、もしかしたら幸運なのかもしれない。
 昨夜、あのあと彼女が夜の町へふらりと消えていったのを不安に思っていたのだったが杞憂だったようだ。
 突然の出現に、エリーとサクはピシリと固まっている。

「情緒不安定なのはいつものことだ」
「いいえアッキー。あっしはもう縋るしかないんです。エレお姉さまに、どうやったら色々と大きくなれるのかを学ばねば」

 しがみつくティアを、相手にするだけ損だと考えたのか。エレナはそのままものともせずに歩み寄ってきた。
 昨夜あれだけの邂逅で、あそこまで懐けるティアは相変わらず謎だ。
 あるいは何か感じるものでもあるのだろうか。そうだとしたら、少しだけ喜ばしく思う。
 ティアがやたらと切実そうなのが心に来るが。

「……ち、この。まあもういいわ。ねえ、アキラ君。私、聞きたいことあるの」
「おう、どうした?」
「ちょっと待てアキラ。何故彼女がここにいる」

 復活したらしいサクが間に割って入ってきた。
 長身のふたりが並んでいると中々絵になる。ぶら下がるようにしているティアがシュールだが。

「昨日言ったろ。エレナも一緒に来ることになったって。……言ってない?」
「言っていないな」

 言ったと思うのだが、自信がなくなってくる。
 突如としていなくなったことの顛末の説明はしたのだが、色々と圧力を感じる会話で、ぼそぼそと喋る羽目になった気がするが。

「そんなことよりこれよ」

 エレナが、ずいと破れた紙を突き出してきた。
 サクが受け取り、しばらく見つめ、エレナと見比べ始める。

「手配書みたいだね。一応、“君から話を聞いていたから”、魔術師隊に要請しておいたんだよ。勇者様の誘拐を」

 イオリが小声で囁いた。
 彼女にしてみれば、過去の出来事に寄せる目的もあったのだろうが、エレナには言わない方がいいだろう。後が怖い。

「いくつか破り捨てたけど、通りいっぱいに張り出されていて元を叩きに来たのよ」

 それはそうだろう。要請した奴が魔導士なのだから。誠心誠意働くことになったのだろう。
 叩きに来たという表現がとても怖いが。

「ま、どっち道来るつもりだったけど、町を出るまでまともに行動できないわ。今すぐ出るわよ」
「……すみません。あたしたちこれから少し用があるのでお引き取りください」

 努めて冷静に、エリーが頭を下げて応答した。昨日とは違って大人の対応をしているようだが背中から何かを感じる。
 ピクリとエレナの眉が動いたのが見えた。
 朝から何故これほど神経を使わなければならないのだろう。

「これからそいつの母親に会うんだよ。ようやく会えたんだ」
「……へぇ。そういうこと言うんだ」

 エレナがにやりと冷たく笑う。いっそ諦めて見返していると、エレナは大きく息を吐き出した。
 卑怯なことを言った自覚はある。

「まあいいわ。それなら、適当にこの辺ぶらついてるから終わったら迎えに来て」
「お前いいのかよ。町中手配書だらけなんだろ?」
「見つかってもまあ何とかなるわ。魔術師でしょ」
「何する気だそれ」
「待って。え、本当に一緒に来るの? え、エレナさん、だっけ。か、彼女が?」

 エリーがくるくると顔を回して自分とエレナを見比べてくる。背中に垂らした赤毛が振り回され、ティアが面白そうに眺めていた。

「だからそうだって。昨日見たろ? しかも木曜属性だし」
「そ、そうよ、それはそう、うん、見たわよ見た。でも、その、あー、えー」

 そういう意味だけでエレナを歓迎するわけでもないが、世界を周ってもまともに見つからなかった木曜属性となればエリーも頷かざるを得ないだろう。
 エリーはぴたりと頭を止め、恨みがましい視線を送ってくる。
 エレナがにやりと笑ったのも怖かった。

「じゃあ待ってるわ。その代わり、終わったらとっとと行くわよ、ヨーテンガース」

 中央の大陸―――ヨーテンガースが目前に迫っている。その事実を容易く口にするエレナはやはり頼もしく思えた。
 ただ、先を急ぎたい気持ちは分かるが、そうもいくまい。エレナの機嫌を取るのは難しいが、集団行動となるとやるべきことは出てくるのだ。

「いや、せっかくここまで来たし、次はヘヴンズゲートに行くんじゃないか? ティアも行きたいだろうし」
「は? 何でそう、……ぐえっ」
「お、おおおおおっ。アッギーまで!! うっ、うううっ、あっじまだなびだがっ」
「ちょ、ちょっと絞めてる絞めてる!! 絞められたいの!?」

 エレナにしがみつきながら、ティアが号泣した。もう少ししたら本当に泣きを見ることになるだろう。事情を話せばエレナも分かってくれるだろう。むしろティアの方が両親の元に着くまで生き延びてくれることを祈らなければならないが。

「なあ、次はそうだろ?」
「……うん、うん。そうね、そうよね」
「エレナも一緒に来るけど」
「うーん、うー、うん。仕方ない……のか」

 そちらこそ即答して欲しかった。
 この町で盗みを働いた相手を信じるのは難しいだろうが。

 それでも。

 この地から始まった小さな旅は、徐々に大きくなっていき、ついに―――あとひとりだ。
 世界中から勇者ともてはやされたときとは比較にならない大きな感情が、胸の中に湧いてくる。

 あのとき。あの絶望した日。
 ばらばらになってしまったピースが再びひとつになっていくのを実感した。
 ようやく、固まってきてくれたのだ。

「アキラ。とりあえず僕は魔術師隊に上手く言ってくるよ」
「私はそうだな。彼女を見張っておく。また何かするかもしれないしな」
「ううう、アッギーもやざじぐであっじばぁぁぁあああ」
「ちょ、誰か!! この子の保護者はいないの!? このままだと本気で潰すわよ!?」
「じゃああたしはこいつの見張りか。お母さんにも会うんでしょ?」

 固まってきてくれたのだ。

 アキラは空を仰いだ。
 結局振り出さなかった雲は消え去り、本日は快晴。

 今日も暑くなりそうだった。



[16905] 番外編『最近忙しい』
Name: コー◆2cf7133f ID:8587b165
Date: 2020/03/19 00:52
―――***―――

「サクさん。はい、依頼の報酬」
「ん? ああ、ありがとう。悪いな、任せてしまって」

 アイルーク大陸のとある村。

 一行は現在アイルークの主要都市であるヘヴンズゲートへ向かっているところなのだが、どうやらその途中の町や村は栄えていないらしい。
 この村も最低限の施設の他には小さな家屋がポツポツと立っている程度で、昨夜自分たちが宿泊したのも宿屋というより村人たちの避難所のような場所だった。
 アイルークに着いてからというものどたばたとしていたから、少しは羽を伸ばしたいところだったのだが、居心地はあまり良くなく、空もどんよりとした雲が覆っていた。
 生憎昨日から天気には恵まれておらず、今にも降り出しそうではあるが、何とか持ち堪えているようだった。
 降るなら早く振って欲しいというのに。

 エリーが指し出した封筒を、村の外れの森で身体を動かしていたサクが一礼して受け取った。
 口調や鋭い目つきから他を威圧するような印象を受けやすいが、彼女は非常に礼儀正しい。こういうところが、エリーがサクを好ましく思っている理由でもある。

「わざわざ探してくれたのはありがたいが、皆が揃ってからでもよかったのに」
「全員のお金持って歩き回るのも落ち着かないし。それに、なんだかんだ言って集まり悪いからね」
「目を離すと消える奴が多いからな……。すまない」

 サクが謝罪のようにも同情するようにも見える瞳を向けてくる。
 そんな彼女は、“とある男”の従者ということになっているらしい。
 そしてそのとある男は、目を離すと消える奴の筆頭候補だったりする。
 まるで我が事のように捉えている様子に、エリーは首を振って応じた。彼女に非は無い。

「それで、他の面々は?」
「サクさんが最初。小さな村なのに見当たりもしない……。あたしが依頼所に行っている間に……一体どうなってるのよ」

 ほら見たことかと言ったように、エリーは懐に入れた複数の封筒を眺めた。
 この中には、昨日達成した依頼の報酬が入っている。先ほど、エリーが依頼所で人数分に分けたものだ。

 今まで割と適当に分配していたのだが、流石にそろそろ人数も増えてきており、下手な禍根を残さぬようにきっちりと管理することになったのだった。
 そうなると、そういうことができそうな人物は限られてくる。
 面々を見返すと、確かにしっかりした人間もいるのだが、論外レベルの人間が多すぎる。個々の資金や共益費まで考えると、今までもそうした役回りだったエリーが適任のようだった。
 貧乏くじを引かされたと思ったが、冷静に考えるとやはり自分が適任だったりするのが虚しい。

「すまないな。私も協力しようか?」
「あ、いいわよ。邪魔しちゃ悪いし。サクさんには日ごろ“あっち”の方守ってもらってるしね」
「しっ」

 サクの目つきが鋭くなり、狩猟動物のように森の木の枝一本に至るまで周囲の気配を探り始めた。
 失言だったとエリーも口を押える。

「エリーさん」
「ご、ごめん。軽率だったわ」

 サクが主な担当になっているのは、いわゆる金庫番だ。
 金庫番と言っても、旅の共益費を守っているわけではない。
 エリーたちはとある事情から、多額の資金を蓄えているのだ。
 小物も大分売り払い、エリーの故郷の補助として幾ばくか使ってはいるものの、未だ目もくらむような大金を持ち歩いている。
 サクはその資金をすべて預かり、そして守ってくれていた。
 敵からではない。悲しいことに、味方からだ。

 周囲に気配がないことを確認すると、サクは息を吐き出した。

「存在を知られることすらまずいんだ。聞いたか。一昨日、私たちが立ち寄った町で、盗賊の被害が出たらしい」
「……もう、泣きそう」

 サクの真剣そのものな目を見て、エリーは目頭を押さえた。
 ともあれ、そんな融通の利かないような性格のサクには、金庫番はぴったりだった。

 エリーは何とか立ち直ると、封筒を懐に収めて背を向けた。

「じゃあ、あたしは他のみんなに配って来るから。サクさんもほどほどにね。雨も降ってきたら面倒だし」
「大丈夫だ。降ってきたら走って戻るよ」

 彼女なら濡れずに戻って来ることすらできそうだと思ったが、妙に不安になった。
 きちりとしているようで、どこか無計画な返答は、“何らかの悪影響”ではないだろうか、と。

 エリーは空の様子を確かめながら、懐の感触を探る。
 時刻はそろそろ正午になろう。
 雨の降る前に全員を見つけたいところだが、少なくとも、自分の休日は散策で潰れそうだった。

――――――
 おんりーらぶ!?
――――――

「わ……、エレナさん。これ、依頼の報酬です」
「ん? ああ昨日の? ……ってなによ」

 エレナ=ファンツェルンを見つけたのは、村の入り口付近にある小さな飲食店だった。
 昼時だというのにまるで客が入っておらず、最奥のカウンターは不用心にも無人になっている。
 店の裏には畑があり、馬が2頭停まっていたから、本業は他の村への運搬かなにかで、店は趣味でやっているのかもしれない。

 そんな店の中央の大きな机で、エレナはずらりと並べられた料理を悠然と眺めていた。

「こ、これ、なに、なんですか」
「え? 何って料理よ」
「この村に肉料理とかってあったんだ……」

 エリーが唖然としながら眺めていると、エレナは妖艶に笑った。

「私の口に合う食べ物が無くて、って言ったらこうなったのよ。まあ、ここまで出てくるとは思ってなかったけど。……まだ裏で作ってるんじゃないでしょうね」
「ちょ、いくらになるんですか?」
「さあ。まあ、今回は払うつもりだけど」
「払う払わないからですか」

 エレナが立ち上がり、椅子を引いた。
 座れということらしい。確かに空腹ではあるが、彼女が絡むと何かよからぬことの片棒を担がされそうな気分になる。
 エリーが恐る恐る腰を下ろすと、同じようにエレナも元の席に座り、優雅に微笑んだ。

 このエレナ=ファンツェルン。
 女性のエリーから見ても、容姿も愛らしさと美しさを備えている。
 スタイルもより女性的で、彼女に正面から見られるといささか劣等感を覚えてしまう。
 だが、騙されることなかれ。
 エリーが認識している彼女は、呼吸をするように人を騙し、瞬きをするように窃盗を行う極悪人だ。
 簡単に言ってはいたが、今も裏で料理を追加している店の主人に何を言ったことやら。その容姿を存分に活かして、店の主人に取り入ったのだろう。

「まあ、運が良かったと思って好きなだけ食べなさい。私、あんまりお腹空いてないのよね」
「ひどい……」

 料理を見て食欲が失せたのは初めてだった。
 店の主人がエレナのために作った料理を、彼女は興味なさげに眺めている。

 しかも、自分たちがこの村に滞在している理由は大部分がエレナにあったりするのだ。
 ヘヴンズゲートを目指していた一行は、昨日天気が崩れかけているからと近くにあったこの村に立ち入り、旅を早めに切り上げた。
 しかし夜になっても雨は降り出さず、エリーは今日出発しようと提案したのだが、エレナがそれを否定した。

 理由は、雨で服が濡れると嫌だかららしい。

「エレナさん」
「なによ」
「明日は出発しましょうね。今日の夜までには降りそうですし」
「えー。泥道歩くつもり?」
「今までどうやって旅してたんですか……」

 数日前に仲間になったばかりだが、分かったことがある。
 エレナは恐ろしく我がままだった。
 いたって真面目に生活していたつもりのエリーにとっては、彼女の行動は色々と新鮮過ぎた。
 目の前の料理を見るだけでも、金遣いの荒さも感じる。
 先ほど渡した依頼の報酬は、果たして明日まで残っているだろうか。

「それで、正妻ちゃんは報酬配り回っているの?」
「せっ、」
「なによ。あんたが言ったんでしょう」
「言ってないです!!」

 店の奥でカタリと音がした。
 様子をうかがったら、奥から顔を出した店の主人と目が合う。
 エリーに軽く会釈をすると、エレナにはにっこりと笑って再び奥へ入っていた。
 くだらないことで敗北感を覚えた。

「ぷ……くく。それで? ヘヴンズゲートには式でも挙げに行くの?」
「なに……あたしはなんでこんな目に遭っているの……」
「あんたたまに壊れるわよね……」

 テーブルに突っ伏しながら、エリーは涙目で顔を上げた。
 エレナは変わらず余裕の表情を浮かべている。

「……そ、それじゃあ、エレナさん。あいつにちょっかい出すの止めてもらえますか」

 これまたとある事情から、エリーと“とある男”は婚約者となっている。
 事情をエレナに知られてからというもの、やたらとからかわれているがそろそろ反撃に転じよう。
 エレナが言い出したのだ。“立場”を利用させてもらう。

「なに。まだ根に持っているの?」
「持ってます。というか今日の朝にも更新されました」

 仲間になってからというもの、エレナには毎朝悩まされていた。
 何のつもりか、エレナは毎朝エリーの婚約者の部屋に忍び込んでいるのだ。
 返事が聞こえないからとドアを開けたとき、目に飛び込んできた光景は未だに忘れられない。
 そしてそれからのことはよく覚えていない。
 ベッドの上で抱き合っている―――ように見えた瞬間、何かが色々と吹き飛んだというか、吹き飛ばしたというか。
 それからというもの、自分とサクは、交代で朝の見張りをすることになったのだが、毎度毎度上手くすり抜けられてしまう。
 仲間が増えれば仕事も増えるものだろう。だが、何か違う気がする。

「つまり、正妻としては浮気してもらいたくないって?」
「ぅぐ、そうでもなくて、あたしたちの旅はそういう旅じゃ―――ああ、もう。じゃあこうしましょう。婚約者がいる人に手を出すの止めてください」
「いやよ」

 色々と呑み込んで言ったのだが、エレナは変わらず余裕そうに微笑むだけだった。
 やはり手玉に取られているような気がする。

「気になる相手が結婚してようが何だろうが、それって関係あるの?」
「あるでしょう……」

 脱力して、何とか言葉を吐き出したが、響いてはいないだろう。
 常識が離れすぎている。会話が成立している気がしない。

「ま、冷める前に食べなさいな。あんたも色々大変でしょう」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「正妻だと色々気苦労も多いのね」
「正妻じゃなくてエリーって呼んでください……」

 息も絶え絶えに言ったところ、その言い回しに、ピシリとエレナの表情が固まった。
 エレナはしばらく見つめ、そして思い当たる。
 色々とやりたい放題のエレナだが、この面々の中に、苦手としている存在がいることを。

「……正妻ちゃん。報酬配っているって言ってたわよね」
「……ええ」
「あのガキには?」
「まだですけど」

 思い当たった自分が酷く失礼なことをしている気はしたが、罪悪感は無い。

「……ち。どこに潜んでるんだか。見つけたら、私には会わなかったことにしなさい」
「はい」

 散々いじめられていた自分に、エレナを攻撃するチャンスが来たような気がしたが、これは流しておいてあげよう。

「てかあんたら本当にまとまりないわね。この小さな村でどこにいるか分からないなんて」
「それを思ったのは今日何度目か……。だからエレナさん、お願いします。これ以上あたしを混乱させないでください……」
「わ、分かったわよ。もろもろ用事済んだら大人しく宿に戻るわ。雨も降りそうだしね」

 懇願したら、エレナは理解を示してくれた。ちょっとした感動を覚える。それとも今の自分はそんなにも哀れに見えるのだろうか。

「じゃあ、あたしは他の人たち探してきます。誰がどこにいるか知りませんか?」
「さあ? あ、でもあの魔導士はどうせ魔術師隊の支部でしょ。毎回毎回よくやってるわ」

 彼女は魔術師隊の支部にいるらしい。また情報収集でもしてくれているのだろう。
 相変わらず頭が下がる。

「えっとじゃあ、あいつは?」

 すると、僅かにエレナは目を細めた。

「それは知らないわ」
「? そうですか」
「でも、こっちの方にはいなかったわよ。村の裏の方にいるんじゃない?」

 視線を追って窓を見ると、空は降り出さないのが不思議なくらい曇っていた。
 エレナのさも面白くなさそうな表情と、目の前の料理が目に留まる。

「……エレナさん」
「なによ」
「探したんですか? あいつのこと」
「それが、なに?」
「そうなんですよね。あいつ、いきなりいなくなるから、一緒に出かけようと思っても遅かったりしますもんね」
「……」
「ふ。だからこんなに多いんだ、料理」
「……っ」
「可愛らしいですね。すごく」

 エレナが普段浮かべる余裕の表情とは、こうやって浮かべるのだろうか。
 含み笑いをしながら、それでも相手を労わるように気持ちを向けてみる。

 正解かは分からなかったが、そうした表情を浮かべると、どうやら相手は怒るらしい。

「正妻ちゃん」
「あ、あたしまだ配り終えてないんで!!」

 空で雷が鳴る光景が、ありありと目に浮かんだ。
 エリーは全力で店を飛び出る。
 エレナは追ってこない。料金を払うと言っていたが、本当にそうしてくれるようだ。

 なんとか痛み分けに持ち込んだような達成感を得られたが、冷静に考えると、見つけられていないのは、自分も同じだった。

―――***―――

「イオリさん、はい。これ、昨日の報酬です。お疲れさまでした」
「ああ、エリサス。ありがとう。でも、こんなには要らないよ。多少は貯えがあるしね」
「え、でも」
「それなら半分は旅の資金にしようか。いつもありがとう」
「この差」

 探していた人物は、エレナの話通り魔術師隊の支部にいた。
 エリーにとって一応憧れの場所ではあるが、各町や村に義務的に置かれているような廃れた場所では見慣れ過ぎていた。どうやらこの村は規模に相応しく至って平和で、魔術師も設備も必要最小限しか設置されていないようだった。奥には廃れた部屋の風貌からすると意外なほど若い魔術師が立っているくらいで、真新しいものはほとんどなかった。

 異質と言えば、今目の前にいるこの女性だ。
 ホンジョウ=イオリ。
 自分たちの旅に加わるその前まで、凶悪な魔物ひしめく北の大陸の魔術師隊に所属していた魔導士だ。
 休職中ということにしているらしいが、立ち振る舞いはエリーの思い描く理想の魔術師そのもので、その上彼女が持つ資格は魔術師の上の魔導士だったりする。
 この辺鄙な村で過ごしていた奥の魔術師にとっては雲の上の人物だろう。姿勢を一部も崩さず、委縮し切っている。
 魔術師を目指すエリーにとっても、イオリは夢のさらにその向こうにいるような人物だった。

「夜でもよかったのに。大変だね」
「ああ、サクさんにも言われたんですけど、ずっと持っているの落ち着かなくて」
「悪いね。手伝えたら良かったんだけど」
「いえいえ。いいんですよ。イオリさんは忙しいでしょうし」

 旅を共にするようになってから、エリーが見ていたイオリは、新たな町や村に着くたびその魔術師隊の支部に足しげく通っている。
 前に聞いてみたところ、情報収集や自分たちの存在で騒ぎが起きないように手配してくれているらしい。
 かなり名が売れてきたらしい自分たちが旅を円滑に行えているのも彼女の存在あってのことなのだろう。
 そんな事情もあって町や村で共に行動することは少ないが、同じく同行することが少ない、いきなり消えたと思えば厄介事を持ち帰ってくるあの男や、窃盗騒ぎを起こして回っているエレナとは雲泥の差だった。

「何か分かったこととかあるんですか?」

 思い浮かべてしまった今までの苦労を追い出し、エリーは努めて友好的な表情でイオリに向き合った。
 冷静沈着で、サクとはまた違った凛々しさを感じる彼女を前にしていると、つい自分も表情が強張ってしまう。それが凛々しいと思われるならそれでもいいのだが、どうやら自分のその表情は怒っているように見えるらしい。

「ん……、いや」

 イオリは僅かに奥に視線を走らせてから、柔らかく微笑んだ。

「この辺りでは特にトラブルも起こっていないらしいよ。モルオールにいたからかな、少しに気に過ぎているだけみたいだ。流石に“平和”な大陸だよ」

 このアイルークは“平和”な大陸と言われている。
 ここの大陸で育ったエリーもそれは体感していたはずなのだが、つい数日前を振り返るとその自信も揺らいでくる。
 自分たちがこの大陸に戻ってきてからというもの、“過酷”なモルオールですら出現したら大騒ぎになる“言葉持ち”と言われる魔物が立て続けに出現しているのだ。

 そんなことを考えると。原因、と言ってしまうと責めすぎであろうし、事実そういうわけでもないのだが、そういった事情に陥る理由を、エリーはどうしても思い浮かべてしまう。

「そういえばイオリさん。あいつ見ましたか?」
「ん? ああ、昼食のときは一緒だったけど、それから分かれて……。そうだ。村の裏の川には行ってみたかな。釣りをしてみたいとか言ってたけど」
「え」
「まあいいじゃないか。何か少しでも怪しいことがくすぶっているならすぐに呼ぼうと思ったけど、この村では本当に何も問題は起こっていないみたいだし」

 自分が全員分の依頼の報酬を受け取りに行っていた頃、そして恐らくエレナが探していたであろう頃、あの男はどうやらイオリと行動を共にしていたらしい。
 なんとなく浮かばれない気持ちになり、イオリの顔をじっと見つめてみた。

「エリサス?」
「いえ。ああ、そう言えばイオリさん、あいつと元の世界で知り合いなんでしたっけ?」
「……え、ああ、そうだね。そうだよ」

 あの男は異世界来訪者だ。
 そして、目の前のイオリも同じく異世界来訪者で、元の世界では互いに知れた仲だという。
 そんな話をするたびに、あの男も、そしてイオリも妙にぎこちなくなるのをエリーは感じていた。

「あいつって釣り好きなんですか?」
「いや、知らないよ。そもそもほら、そんなに深い交流があったわけでもないからね」

 尊敬すべき立場のイオリだが、この件になると全く信用できなかった。
 髪を触りながら視線を外しているイオリは、大抵何かを誤魔化そうとしているような気がする。最近自分が、人の所作に妙に敏感になっているような気がした。
 自分がそういうつもりで見ているからだろうか。ほとんど知らないとイオリは言っているが、妙にあの男に詳しい気がしていた。
 気にはなるのだが、深くは聞けない。もし爆発物でも掘り当てたら、自分は立ち直れないような気がしていた。

 イオリは、くすりと笑った。

「まあ、でもそうだね。そんなに好きじゃないと思うよ。多分もう飽きてるんじゃないかな。あの張り切り方はすぐに息切れしそうな感じだったし」
「むぅ」
「エリサス?」
「邪魔しちゃってごめんなさい。それじゃああたしはあいつを探してみますから、イオリさんも雨が降る前に戻ってきた方がいいですよ」
「ああ、そうするよ。見つけたら彼にもそう伝えてくれると助かる。天気のことは忘れてそうだ」

 これ以上ここにいると自分の諸々の感情に押し潰されそうだった。
 イオリとの会話は不快ではないが、何かと現実に目を向けられそうになる。

 エリーは出口の横に立てられた鏡を見つけ、少しだけ表情を正してみたが、やはりどうやっても、イオリのような凛々しい表情にはなれないようだ。

 せめて姿勢を正し、魔術師隊の支部を出た。
 残る封筒はふたつ。

 案の定というかなんというか、あて先は、最初に懸念したあのふたりだった。

―――***―――

「あっ、いた。はいティア、お小遣い」
「納得いきませーーーんっ!!」

 平和で辺鄙なこの村に、森がざわめくような大声が放たれた。
 エリーは慣れた様子で耳を塞ぐと、首を傾げて封筒を差し出し続ける。

「どうしたのよ、要らないの?」

 アルティア=ウィン=クーデフォン。
 小柄な彼女は、道の角を曲がった直後に目の前に現れた。
 平常時において、逸れた彼女に遭遇できる確率はほぼ0と見ていたエリーにとっては幸運以外の何物でもなかったのだが、どうやらティアには不服があるようだった。

「エリにゃん」
「なによ」
「まずは言いましょう。いつもありがとうございます。お疲れでしょうし、大変ありがたく思っています。ですが、あっし最近気になっていることがあるんです」
「その話長い?」
「ちゃんと聞いてください」
「はい」
「エリにゃん。あっしたちは今、打倒魔王を掲げて順調に旅を進めています」
「長いやつだこれ」
「このアイルークから始まり、シリスティアと回っていって、イオリンやエレお姉さまも仲間に加わりました。そして旅の中では多くの苦楽があったのです」
「ティア、どうするの? 要らないの?」
「あ、要ります。欲しいものいっぱいあるんです。何から買いましょうか……ってて、そうじゃないです、話は終わってません」

 人通りが少ない辺鄙な村なのに、人だかりができ始めていた。
 ほほえましい笑みを浮かべて通っていく村人たちは、自分たちを姉妹だと思っているかもしれない。

 ティアはビシリと封筒に指を差した。

「こほん、エリにゃん。それは何ですか?」
「だから、ティアの分よ。そろそろお小遣い欲しい頃でしょ?」

 ティアの頬が膨れた。お腹でも減ってきたのだろうか。

「あっしたちは、苦楽を共にする仲間なのです。そこに差があってはいけません」
「なによ。みんなちゃんと均等に分けてるわよ? ティアも頑張ったもんね」
「えへへ、ありがとうございます。って、そうじゃありません。実はあっし、こっそり見ていたんです。エリにゃんがサッキュンに封筒を渡すところを、木の陰から」
「え」
「前から気にはなっていました。そして予感は的中したのです。エリにゃんは、サッキュンに“依頼の報酬”と言って渡していました」

 ティアは名探偵にでもなったつもりなのか、不敵に笑い、そして受け取った封筒を両手で握り絞めた。

「なんであっしだけ“お小遣い”なんですか……。さてエリにゃん。なにか言い訳はありますか?」
「……。なんでそのとき出てこないの。散々探したでしょ」
「今そういう話してないです!!」

 ふんす、と言った様子で胸を張るティア。
 憤慨しているのかもしれない。だが、やはり怒っているというより拗ねているようにしか見えない。
 しかしこのティア。よくあのサクの索敵から逃れられたものだ。普段騒がしい彼女は、口を閉じると体格も相まって、完全に気配を遮断できるのだろう。素晴らしい才能だ。

 そんな風に心の中で褒めてみたのだが、ティアの機嫌は直らないようだ。
 確かにティアの言うことももっともなのかもしれない。
 どうも最年少のティアを見る自分の目は曇っているようだ。
 だが、長いこと孤児院で子供たちの面倒を見てきた自分には、戦闘面はともかく日常面でティアを分け隔てない目で見ることはなかなか難しい。

「そんなわけで、あっしは今、大変ご立腹です」
「……、お腹減ってるの?」
「むむむっ、あのですね……って、そういえばそうですね。食べるの忘れてました。そだそだエリにゃん、もうお昼ご飯食べましたか? 良ければご一緒しましょう。あっし、ご馳走しますよ!」

 にっこりと笑うティア。
 多重人格を疑いたくなるほどの切り替えの早さだった。情緒不安定とも言える。
 頭の中の構造が不安になってくるが、生憎と昼食はエレナと共にとっていた。

「あ、そだそだ。ところでエリにゃん。今日のあっしを見て何か気づきませんか?」

 今にも降り出しそうな曇り空。
 晴天のような笑みを浮かべるティアは、とてつもなく面倒臭い質問をしてきた。
 何かいいことでもあったのだろうか。いつにもまして妙なテンションなのはそのせいか。
 だが、分からない。
 つい先ほど機嫌を損ねたばかりの負い目もあるのだが、正直さっさと用を済ませて宿に戻りたかった。

「えっと」
「ふふふん。ヒントもありますよ」
「あ、答えでいいわ」
「ヒント……。ヒントがあるんです……」
「……ヒント、頂戴」
「それはですね、あっしが抱えている最大の問題が解消されつつあります」
「勉強でもしたの?」
「あ、答えを言っていいですか。続けると多分心が壊れます」

 乾いた瞳で俯いたティアは、次第に震え始めた。
 正直立ち去っても気づかないのではないかと思ったが、空は曇るばかりで降り出さない。もうしばらく付き合ってあげよう。

 俯いたティアは、まるで火山の噴火のように顔を上げると、両手を広げて高らかに叫んだ。

「あっし、背が伸びたんです!!」
「ギャグセンスを磨いたってこと?」
「エリにゃん!?」

 乾いていた瞳が嘘のように潤って、涙目で縋りつかれた。
 引き剥がしながらさりげなく頭の位置を探ったが、残念ながらエリーにはティアとの身長差が変わったように感じなかった。

「で、本当なの?」
「そうですそうです。信じられない奇跡ですよ。あっしは起きるたびに毎朝背を測っていたんですが、ついに……、ついに……、うう、違う数字を見たんです」

 他者からすれば分からないような差でも、本人からすれば多大な進歩のようだ。
 素直に祝福してあげたいが、実感できないものには心からの賛辞を贈ることはできない。
 だが、常々背を伸ばすための努力をしていると言っていたから、それが実ったということなのだろう。微笑ましい。

「それもこれもエレお姉さまがあっしの足を掴んで振り回してくれたお陰です。多分、寿命は縮んだと思いますが……」

 どうやら努力の方は実を結んでいなかったらしい。思った以上に物理的だった。
 ティアがエレナにじゃれつく犬のように絡んでいるのをよく見る。
 そのたびに何をしているのか怒号と悲鳴が聞こえてくるのだが、ティアは懲りずにエレナに関わろうとしていた。
 そのせいか、あのエレナとも随分と会話する機会が増えている気がする。
 旅を円滑に進めるために最も尽力しているのは、イオリではなくティアなのかもしれない。

「見ててくださいよ。あっと言う間にエリにゃんを追い越して、目指すはエレお姉さま!!」
「うん。頑張って」
「頑張ります!!」

 温かい目で見つめたら、ティアはまっすぐに受け取って輝いた瞳で空を見た。
 彼女の目に何が映っているかは分からないが、きっとそれは瞳と同じように輝いているのだろう。

「しかしですよ。エリにゃん冷たいですね。あっしの重要な変化に気づかないなんて」
「そんな無茶な」
「むむぅ、まあいいです。気づいてくれた人もいますし」

 ちょっと驚いた。
 恐らく数ミクロンレベルであろう差に気づける人間がいるとは。
 ティアは得意げに笑って胸を張った。

「あっし背が伸びたんです、って言ったら『あー、そうだなー』ってアッキーが!! まったく、気づいてくれていたんなら言ってくれればいいのに。ふっふっふ」
「あ、多分それ違うわ」

 くるくる回って喜びを全身で表現しているティアには聞こえなかったようだ。

「って、あいつに会ったの? どこにいたか教えてくれない?」
「え、ああ、エリにゃんみなさんに依頼の報酬を配っているんですよね。そうですそうです。アッキーとはさっきまであっちの川で一緒にいましたよ」
「釣りしてたの?」
「おや、御明察です。だけど、なかなか釣れなくて……。あっしはエリにゃんが探しているだろうから戻ってきちゃいました」
「へえ、まだ釣りしてたんだ。飽きてなかったのね」
「? エリにゃん?」

 少しだけ気が楽になった気がした。
 エリーはティアが元来た道に向かって歩き出す。

「あ、行くんですか? だったらあっしもご一緒しましょう。ご案内しますよ」
「いいわよ、どうせすぐそこでしょ。それよりティア。雨が降りそうだから戻ってなさい」
「え、でもエリにゃんは……」
「大丈夫大丈夫。ほら、もうすぐヘヴンズゲートだし、ティアが風邪ひいちゃしょうがないでしょ。久しぶりの故郷だもんね」
「え……。あ、あはは、えへへ。ありがとうございます。それじゃあエリにゃん、くれぐれもお気をつけください」
「うん。ちゃんと戻るのよ」

 元気に駆けていくティアを見送って、エリーははっと息を吐いた。
 ようやく最後だ。

 狭い村ではあるが、この村の地理に大分詳しくなってしまったような気がする。
 歩き回って正直疲れたが、足取り軽く、エリーは川へ向かって歩き出した。

―――***―――

「どう? 釣れてる? 依頼の報酬を……って、あの」
「…………」

 応答はない。
 規則正しい寝息が聞こえてくる。
 釣りをしながらつい日ごろの疲れで、とも思ったが、糸は川に垂れておらず、木を背に竿を抱きかかえるように眠っていた。

 飽きていやがった。
 完全に寝るべくして眠っている。
 ぎりぎり村の中ではあるから危険は無いのかもしれないが、野外で寝息を立てているとは、順応性が高いというか大雑把というか。

 ヒダマリ=アキラ。
 彼が現れてから1年も前になる。このアイルークに落とされた異世界来訪者。
 共に世界を1周し、今や世界的に認められ始めた“勇者様”であり、不慮の事故から自分の婚約者となった男だ。

 空の様子を眺めると相変わらずの曇り。だが、いつまで経っても降りはしない。サクもそうしていたが、こういう日は外に出るのにうってつけなのかもしれない。
 エリーは静かにアキラの隣に腰を下ろした。
 ここは、川が流れているからかより涼しく、居心地が良かった。

 ティアが放っていったのだろう釣竿を掴み、適当に川に糸を垂らす。
 空っぽのバケツを見る限り、釣果は芳しくないようだ。目を覚ましたときに魚が入っていたらどういう顔をするだろう。

「結局降りそうにないな……、あんなに曇ってるのに」

 気温も下がっていかないし、風も大人しい。
 天気が崩れやすい季節だから警戒していたが、杞憂で終わるかもしれない。

 釣竿の浮きから目を離し、隣の様子を探るが、一向に起きる気配がなかった。
 ティアといたときも、眠気を堪えていたのかもしれない。

「サクさん、あんたの悪影響受け始めてる気がするんだけど」

 ミツルギ=サクラは女性陣の中で最も付き合いが長い。
 真面目で、まっすぐに前を見る彼女の瞳は鋭く、年下だが尊敬できる相手だ。
 アキラの従者となったと聞いたときは度肝を抜かれたが、前よりも活き活きとしているように感じる。

「エレナさん、探してたわよ。豪勢なお昼一緒に食べようとしてたみたい」

 エレナ=ファンツェルンのことは正直よく分からない。
 ただ、彼女が抱えているものは、自分では想像もつかないようなことなのだろうとは感じる。だが、なんとなく、彼女の微笑みに陰りは感じなかった。周囲を欺き続けてきたような旅をしていたらしいが、この面々には少しずつ気を許してくれているのかもしれない。
 アキラに好意を寄せているらしいが、どこまで本気なのやら。

「イオリさんはあんたが釣りに飽きてるだろうって読んでたわ。その通りだったみたい」

 ホンジョウ=イオリは、感覚的に、最も警戒している相手だったりする。
 異世界来訪者の彼女は、妙にアキラと共通認識を持っているのだ。また、行動の節々からアキラのことを良く知っている様子が見て取れる。邪推しすぎだろうか。
 たまにめげそうになる。

「そうだ、ティアは背が伸びた……ことになっているから。あんたは気づいてたふりしててね」

 アルティア=ウィン=クーデフォンは、身長はともかく、一番成長しているように感じる。
 自分たちと共に旅をして、それを乗り越え、なお前を向き続ける強さを持っている。
 最も長く旅を共にしている自分は、それを肌で感じ続けていた。
 アキラが異世界に馴染めたのも、ティアの貢献によるものかもしれない。
 彼女の前ではつい子供扱いしてしまうが。

 魚はもう諦めた。適当に竿を振りながら、エリーはぼんやりと考えた。
 いつの間にか仲間が多く集まっている。
 こんなに多くのものを巻き込んで世界を1周することになるとは、自分の夢が壊れたあの日には、ふたりでリビリスアークを出たときには全く想像していなかった。

 改めて考える。
 ヒダマリ=アキラとはどういう人間なのだろう。
 捉えどころがあるのかないのか。捉えられるところは、真剣なのかふざけているのか。
 確たる信念がありそうで、なさそうで、今にも降り出しそうなのに、そのままで漂っている雲のようだ。

「たまーにマジになるのは何なんだろうね」
「……」

 軽く身体を揺すったが、反応はなかった。大事に抱きかかえられた釣り竿が泣いている。

 他のみんなは、彼のことをどう思っているのだろう。
 自分と同じように、彼を想っているのだろうか。

 いずれにせよこの旅は、もうふたりの問題ではなくなっている。
 婚約者騒動も遠い昔の話のように思えた。今や彼は、自分たちは、世界有数の希望らしい。

「あーあ」

 エリーは大きく息を吐き出した。乱暴に胸を叩くと、拗ねたように呟いた。

「最初から分かってたらどうなってたんだろうね」

 不安になったり、焦ったり。
 落ち着かない。ティアではないが、情緒不安定だ。
 でも、それが楽しかったりもする。

 最近忙しい。

 足を投げ出し、釣竿を抱え、彼と同じような態勢になってみた。
 確かに眠くなる。雨雲も耐えてくれているし、いっそ寝てしまおうか。

「―――ル」
「っ」
「……ん、あ、れ」

 パタリと釣竿が倒れた。
 放心した様子で首を振ると、徐々に目の焦点が合ってくる。
 自分が眠っていたことをようやく理解できたのか、大きな欠伸をしながら肩の骨をパキリと鳴らした。
 目を覚ましたアキラは、ゆっくりと顔を向け、ようやく硬直していたエリーに気づいたようだった。

「……え」
「お、お目覚めのようね」
「何してんだ、お前」

 お前に言われたくはない。
 エリーはさりげなく身体を離すと、破れかぶれに釣り糸を川に投げ込んだ。

「お前も釣りに来たのか」
「え、ええ、まあ」
「知ってるか。釣りってエサがいるんだ」
「その割には持ってないみたいだけど」
「ああ、俺も来てから気づいたんだ」
「…………」

 呑気というかなんというか。
 眠気眼をこすりながら、アキラも釣り糸を放り込んだ。

「エサは?」
「無い。とるのも面倒だし、もしかしたら行けるんじゃないかってティアが」
「何故信じたの」

 絶対に引かれない浮きを眺めていると、ようやく心臓は治まっていった。

「そういやティアは? お前探しに行ったんだけど」
「さっき会ったわよ。雨降りそうだから戻るように言っといたわ」
「雨? あーそういやそうだな。……降らないな。で、お前はどうしてここに来たんだよ」

 間延びしたような声を聞いていると、なんだか腹が立ってくる。お腹が空いたわけではない。

「依頼の報酬。ずっと持ってるのもあれだし、配ってるのよ」
「それならこんなとこで暇潰してる場合じゃないだろ」
「あんたが最後なんだけど」
「そうなのか……。じゃあ、預かっといてくれ。俺もあんまり持ち歩きたくないし」
「こいつ……」

 方々探していたのが馬鹿らしくなってくる。
 アキラはエリーの様子にまるで気づかず、眠たげな眼で浮きを眺めていた。

「あ、の」
「え、いいだろ。いつもそうだったんだし。足りなくなったら言うから」
「またそういう……」
「信用しているんだからいいだろ」

 ずるいと思った。
 アキラは半分冗談で言っているのだろう。それは分かる。
 だけど自覚できるほど、喜びの感情が昇ってきた。酷い病気だこれは。
 封筒を叩きつけてやろうかと思ったが、まったく、仕方がない。何とか抑え込んだ。
 とりあえず、今日の自分の仕事は終わったらしい。

「なあ」

 ふいに、アキラが呟く。
 エリーが顔を向けると、アキラは妙に寂しげな表情で、動かない浮きを眺めていた。

「俺、何か言ってたか」
「何かって?」
「……いや、寝言とか」
「さあ。さっき来たばかりだし」
「そうか」

 それきり、アキラは静かになった。
 エリーは見切りをつけ、釣り糸を引くと、丁寧に仕舞い始める。
 こういうとき、彼はきっとひとりになりたいと思っているのだから。

「じゃあ、あんたも雨降る前に戻ってきてね」
「ああ、そうするよ」

 静かに、音を立てないように、エリーはその場から離れようとした。
 彼はまた、何かに悩んでいるのかもしれない。
 知りたいと思う。だけど、そんな表情を浮かべられたら、すぐに聞く気分にはなれない。

 捉えられるようで、捉えられない相手を、知りたいと思ってしまう。
 エリーは息を吐く。
 本当に何でこんなことになったのだろう。

「だけど、」

 アキラが顔を上げた。
 エリーも気づいた。やはり、杞憂だったようだ。

「もう降らないだろうな」

 木々の向こう、分厚かった雲はいつしか薄れ、夕焼けに染まりつつあった。
 目に見えて赤くなっていく空の向こうには、確かな光があるのだろう。

「分からないもんね。天気って」
「ああ。明日は出発できそうだな」

 まあ今は、このままでもいいか。
 エリーは小さく呟くと、ふっと笑った。

「そろそろ戻るか。お前も疲れたろ」
「誰のせいだと」
「分かった分かった。ありがとな」

 アキラは呑気に笑っていた。陰りは見えない。
 まったくもって、酷い休日だった。
 だけど、我ながら馬鹿だと思うが、そう言われただけで報われたような気持になってしまう。
 だからまあ、天気に免じて、今日はそういう日だったということで納得しよう。

「あ、引いてない?」
「は? 何が……、あ」

 動いていた気がした浮きは、再び静まり返っていた。

―――***―――

「集合!!」
「はい!!!!!!!!」
「うん、5人分の返事をありがとう。他のみんなは?」
「お出かけしました」

 現実はかくも残酷なことか。
 もうすぐヘヴンズゲートに着くというときに、再び迎えた休日。
 依頼の報酬を受け取って戻ってきてみれば、ものの見事に全員が宿から姿を消していた。

「あはは。それなら皆さんに残っているように言っておけばよかったのに」
「休みの邪魔しちゃ悪いじゃない。でも大丈夫。ティアが姿を消してなければ、あたしの負担は半分減っているわ」
「ふふふ、そう思ってあっしは残っていたんですよ。決してお財布が空っぽだからどうしようもなかったわけではありません」
「もう使い切っちゃったの……」

 もしかしたらティアの報酬は自分が管理した方がいいのかもしれない。完全お小遣い制だ。
 だが、そうするとティアはますますへそを曲げるだろう。
 何とも気苦労が絶えないが、とりあえず、ひとり目はこれでクリアだ。

「あ、じゃあエリにゃん」

 まるで砂漠で干からびているときに水を与えられたかのような輝いた笑顔を浮かべたティアは、元気に手を上げ、善意の塊のような視線を向けてきた。

「今回はあっし、お手伝いしますよ!! お任せください」
「えっと、イオリさんは魔術師隊のところかな……、あとは……、分からないか……」
「無視ですか……」

 主要都市のヘヴンズゲートに近づいてきたからか、この町の広さは前の村とは比較にならない。
 まったく忙しい。
 エリーは気合を入れると、残る封筒を大切に懐に仕舞った。
 歩き出そうとすると、ティアが必死に視界に入るように飛び跳ねながら、存在をアピールしてきた。

「エリにゃん……、あの、やっぱり大変じゃないですか。エリにゃんもお休みの日なのに。あっし、手伝いたいです」
「ん? ああ、いいのいいの」

 エリーは微笑んでいった。

「好きでやってるから」

 今日も休日は、町の散策になりそうだった。



[16905] 第四十七話『別の世界の物語(起)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2018/06/13 22:28
―――***―――

 習慣になってしまったことがむなしい。

 エリーことエリサス=アーティは慣れない枕で目を覚ますと、慣れたように耳に全神経を向ける。
 宿屋に泊まっているのに、野宿をしたとき以上に周囲の気配を必死に探った。
 普段の起床時刻よりはまだまだ早いはずだ。
 以前なら2度寝をするか、諦めて外で身体を動かし始めるところだろう。

 だが最近、そうもいかなくなってきた。

 世界中を探し回ったどころか、比喩なく一周して、ついに見つけた木曜属性の魔術師―――エレナ=ファンツェルンが仲間に加わったのだ。
 そしてその数日前、この時間に、エリーにとっては重大な問題が発生したのだ。

 朝、妙な物音がすると思って共に旅する男の部屋へ行ったときのこと。部屋の中では、ベッドの上でその男に覆いかぶさるようにエレナが横たわっていたのだ。
 事後的にその男に話を聞くと、エレナが早朝に突然部屋を訪れてきたとのことで、邪推するようなものではなかったとこのことだが、正直記憶が跳んでいてあのときのことはよく覚えていない。
 ただエリーの中に、エレナは最警戒対象であるという認識だけが残った。
 エレナに散々言ってはみたもののその翌日には当たり前のように男の部屋に侵入しようとしていたのだから、僅かな気に緩みも許されない。

 正直言って、エリーはエレナという人間をよく知らない。
 いつの間にかその男と行動を共にし、いつの間にか仲間になったような相手だ。自分たちについてきた理由もよく分からない。
 その男にしたって、彼女のことを詳しくは知らない、はずだ。
 確かに、自分よりスタイルも良く、挙動も愛らしく、容姿も優れているかもしれないが、自分の方が、ずっと長く一緒に旅をしている、と思う。

 僅かばかりの自信もなくなってきた。
 あくまで眠気を晴らすために目をこすり、エリーは雑念を払って周囲の気配を探り続ける。
 例の男の部屋は隣だ。
 そこが最奥。部屋の前を誰かが通ればすぐに分かる。

 そこまでするなら自分が隣の部屋に入っていればいいのだろうが、そこまでの勇気はない。
 エレナの妨害をすることしかできない自分にむなしくなるが、正義は我にあり、と自分を奮い立たせる。

「……!」

 そこで、案の定というか何というか。廊下から物音が聞こえた。
 この宿の他の客の可能性も捨てきれないと思ったのも束の間、忍び足で近づいてくるのを感じる。
 もう間違いはない。彼女だ。
 エリーが素早く身を起こし、ベッドから飛び出そうとしたところで、キィ、と静かに“この部屋”のドアが開いた。

「……エリにゃん。起こしてしまいましたか。ごめんなさい。あ、おはようございます」

 小動物のように僅かに空いたドアから身を滑り込ませ、ドアの前で力なく腰を落とした少女が囁くように言った。
 この数日エリーを悩ませているエレナとはある意味対極の姿をしている目の前の少女はティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 彼女はこの時間だというのに、今まで回し車で全力疾走していたかのように息を切らせていた。
 同じ部屋で寝泊まりしていたはずなのだが、いつの間にか隣のベッドから抜け出していたらしい。

「ティア? なに、また眠れなかったの?」
「しー、エリにゃん、しー、です。静かにしないとだめですよ」

 エレナの姿を自分と比べたとき以上にショックを受けた。
 探すには目ではなく耳を使えと仲間内で常識になっているティアに静かにするようにと言われるとは。
 そしてそういう場合は、大体ろくでもないことの方が多い。

「実はですね。あっし、外が暗いうちに目が覚めちゃいまして」

 エリーの冷ややかな視線を受け、ティアはぽつぽつと囁き声で話し始めた。
 彼女の声が聞き取りにくいと思ったのは初めてかもしれない。

「それでですね、エリにゃんを起こさないように、そーっと、そぉぉぉーっと部屋を出たんですよ。そしたらですね、なんと……、なんだと思います?」

 静かに話しているのに、何故かうるさいと思ってしまった。
 そして苛つきを覚える。

「部屋を出てすぐ、ばったりエレお姉さまに会ったんですよ」
「……え、エレナさんそんな早く来たの?」
「しー、です」

 鋭い視線を隣の部屋に向ける。物音はしない。
 ティアに見つかって諦めてくれたのならよいが。

「まだまだ暗いのにエレお姉さまはこうシャキッとしてましたね。すごいです。あっしなんか足元もおぼつかないままふらふらと廊下を歩いていたのに」
「怖……」

 この少女は、恐ろしくエレナに懐いている。
 何が彼女をそうさせるのかと考えてみようと思ったが、よくよく考えればティアに人見知りという概念が存在しないのはいつものことかと納得してしまい、そして再び何が彼女をそうさせるのかという疑問にぶつかった。
 自分の方が回し車に乗っているような錯覚に陥る。

「多分、あっしが起きちゃったのもエレお姉さまのせいですかね、なんか寝てる場合じゃねぇ、って感じの夢を見たんです」

 優秀な番犬だ。
 彼女と同室で良かった。

「でも、悪いことしちゃいました。寝ぼけていたあっしは、エレお姉さまの胸に手を伸ばしてあっしにも分けてくださいと掴みました。……鬼ごっこの始まりです」

 優秀なピエロだ。
 どうやら今日、エレナの興味はティアに向いたらしい。
 朝から何をやっているんだこいつは。

「それで、今まで逃げてたの?」
「尋常ならざる恐怖でしたよ。必死に廊下を走るあっしに、音を立てずに容易く追いついてくるエレお姉さま。暗くてろくに前も見えないし、灯りをつけたら自分の場所を教えるようなものです。あるときは食堂の机の下に身を滑り込ませ、またあるときは積まれていた羽毛の寝具に身を隠し……」

 そんな騒ぎがこの宿で起きていたとは。
 割と神経は使っていたつもりだったが気づけなかった。
 ただ、他の客にも宿の主人にも大迷惑な行動だが、この宿から出なかったのは利口だ。
 障害物の無い外に出たら彼女はこうして今目の前で話せていなかっただろう。

「それでようやく命からがらここに逃げ帰って来れたわけ?」
「ええ。まあ、意を決してここへ向かったのは、せめて最後のお別れを言いたいと思ったからですが」
「どれだけ怖い思いしたのよ」

 懐いている割に、随分と挑戦的なティアは、追いかけられたときのことを思い出したのかカタカタ震えていた。

「まあ、でも良かったわ。今日はエレナさん変なことしなさそうだし」
「むふふ。良かったですね、エリにゃん」
「え? なに? なにが?」

 思わず零した言葉がしっかり聞きとられた。
 ティアはわざとらしく口を押えて笑っている。
 口を滑らせたのはやはり失敗だった。彼女には事情を知られている。それから妙に気を使われているような気もするのも、逆に困っていた。

「今日、やっぱりもう起きてたんですよね? サッキュンと交代で見張っているんでしたっけ? でもエリにゃんは、ここ最近ずっと早起きさんじゃないですか。ふっふっふ、あっしが気づいていないとでも思ったんですか?」
「笑わないで……」
「笑いません、笑いませんとも。でも、ほんのちょっと、その、ニマニマしちゃいます」
「…………」
「お隣の部屋なのも嬉しいですよね、なんかこう、ちょっとしたことが嬉しいって聞いたことがあります。エリにゃんもきっとそうなのでしょう」
「……、…………」
「今日はエレお姉さまは来ないみたいですし、いっそエリにゃんが行ってみたらどうですか? アッキーのお部屋に。むっふっふ」
「……、…………、あ、あー、あたし今目が覚めた。うん、良く寝たわ」
「?」

 目が覚めたら、目の前に、人がいる。大変びっくりした。
 だけど見知った仲だったので、エリーはにっこりと笑って手を振った。

「あっれー、アルティアさん!? アルティア=ウィン=クーデフォンさんじゃあないですか!? こんなところで何やってるんですかー!?」
「エリにゃん!?」

 コンコン、と。
 ドアがノックされた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――ヘヴンズゲート。

 昨夜到着したこの町は、アイルークの神門を中心として栄えた商業都市だ。
 1年程度前になるだろうか、ヒダマリ=アキラが最期にこの町を見たときは魔物の襲撃のせいでいくらか損壊していたものだが、もうすっかり元通りになっているようだ。
 アキラたちの旅は、物騒なことが立て続けに起こっていたが、同じ時間、ここは平和に守られて、何事もなかったようにここにある。
 箱状の建物が並ぶさまも、露店の数も、そして、見上げれば嫌でも目に入る天に続いているかのような高い岩山も、変わっていない―――きっと、あの岩山の麓に落ちている影も、そのままなのだろう。

 呆然としてその巨大な岩山を眺める。
 妙に感覚が鈍かった。あれだけの影を見た場所であるのに、アキラ自身、何事もないかのようにそれを眺められる。
 最近の朝はいつもそうだった。
 エレナの乱入や、エリーの怒鳴り声など心にも耳にも残る騒ぎが起こっているのだが、それも時間が経てば綿に包まれるように、身体中が静まり返る。

 原因は、目覚めと共に覚える妙な感覚。
 その直前まで走り回っていたかのように、身体中が覚醒している。
 夢と現実の境界線が酷く曖昧に感じ、まるで疲れが取れているような気がしない。

 眠りが浅いと言ってしまえば、それまでなのだが。

「…………なんか、近くね」
「私としては仕事をしているつもりだ」

 この身体はようやく覚醒し出してくれたのか。現実の違和感に対する感度が戻ってきたようだ。
 アキラがピクリと指を動かすと、さらりとした手に触れる。
 それほどの距離に、サクことミツルギ=サクラが立っていた。

 赤い衣を纏う長身の彼女は、アキラとほとんど背丈が変わらない。
 普段からそうだが、艶やか黒髪をトップにまとめていると、人形のような精緻な顔立ちをかえって際立たせ、大層目立つ。
 現在他の面々を宿屋の前で待っているところだが、行き交う人々の視線が妙に痛く感じた。
 そんな彼女は、アキラの従者ということになっている。
 身に余る関係に、ちょっとした優越感を覚える、といきたいところだったが、人々の視線を集めているのはサクの容姿のせいでもなければ、人を惹き付ける日輪属性のスキルというわけでもないことをアキラは察していた。

 サクは、この町中で、さながら戦闘中のような鋭い眼と気配を隠しもせずに周囲に放っていた。

 アキラを傍から見れば、今すぐにでも路地裏に連れ込まれて金品を巻き上げられそうな男だと思われるのかもしれない。
 護衛のつもりなのかもしれないが、逃げ出したくなってくる。

「また魔物が来るとでも思ってんのかよ?」
「魔物ならいいさ。魔物ならな」

 サクが嘲るように微笑んだ。とても怖いと思った。

「言った通りエレナさんには警戒しているんだろうな」
「あれ冗談じゃなかったのか」

 この大陸に再び訪れて、アキラにとっては待望の出来事だったエレナ=ファンツェルンとの再会を果たし、そしてついに彼女と共に旅ができるようになった。
 アキラは感極まって泣き出したくなるほどだったのだが、どうも他の面々からの評判が良くない。
 朝ベッドに忍び込まれたことには驚きこそすれ、懐かしさとも言える喜びがあったし、まあ、純粋にちょっといい思いをしたとも思えている。
 ここに来る途中立ち寄ったいくつかの村で金品が消えるという事件もあったのだが、本人は、反省してまーす、とちゃんと毎回言っているし多少は大目に見てあげて欲しい。あれで色々と大変な思いをしているはずなのだ。
 それでもめげずにアキラがエレナと面々の緩和材に立ち回っていたせいだろうか、面々からの当たりが強くなってきた気がする。
 主に、エリーとサクの。

「今日の朝は大丈夫だったのか? まあ、エリーさんが警戒してくれていたはずだが」
「何もなかったよ」
「そうか。その、毎日見張れればいいんだがな」

 相当警戒している。
 特にサクはエレナと相性が悪そうだ。
 何事にもきちんと取り組むサクから見れば、エレナは天敵に近いのかもしれない。
 エレナが旅に加わった翌日の朝、アキラの声を聞きつけて部屋に駆け付けたサクは顔を真っ赤にして固まっていた。少しトラウマになっているようだ。そういう意味でも相性が悪い。
 そういうエレナに対抗、というか突撃できるのは、どうやら我らがアルティア=ウィン=クーデフォンのようだが。

「そういやティアとエレナを見たか?」
「見ていない。だからこうして警戒しているんだ」
「物陰から襲ってくるとでも思ってんのかよ……」
「まあ、エレナさんは知らないが、奴なら先に実家へ行ったんじゃないか? 昨夜は遠慮したが、奴にとっては家に帰った方が良かったかもな」

 このヘヴンズゲートには、ティアの実家がある。彼女が仲間に加わったのもこの町の出来事だった。随分と昔のことのように思える。
 アキラたちは、アイルークに来たついでと言っては失礼だが、ティアの両親の様子を見に来たのだった。

「でも、あのふたりの声、朝聞いたような気がするんだよな……。夢だったのかな―――あれも」

 アキラはこきりと首を鳴らし、なんとなく岩山を見上げた。
 あの岩山は、天界へと通じる門らしい。
 自分たちはあの場所で、神に逢うためには、ひいては魔王を倒すためには七曜の魔術師を集める必要があることを聞いたのだ。
 現在6人は集まった。あと1歩というところまできてはいるが、それよりもこの仲間同士で警戒している現状の方が重要課題のように思えた。

 そんな嘆きを抱えていると、宿屋からもうひとり、エレナを警戒している人物が会計を済ませて出てきた。

「お待たせ。……どう?」
「異常なしだ」
「そう」

 現れたエリーとサクの間で、まるで看守の交代のような会話がかわされた。
 嘆かわしい。
 さりげなくエリーもアキラを挟み込むように隣に立った。連行されているような気分だった。

「それで、どうする? なんかイオリさんも、魔術師隊の人と話に行っちゃったし」
「マジか。あいついつも話聞きに行ってんな」
「凄いわよね、やっぱり」

 ホンジョウ=イオリは現役の魔導士だ。
 現在は休職してアキラたちと共に旅をしているが、その資格と実績はどこの町に行っても有効らしい。こうやって盛んに譲歩収集に勤しんでくれている。
 魔術師隊には、町の混乱防止のため、“勇者様”であるヒダマリ=アキラの旅の動向がある程度伝わっているらしいから、彼女も話が通しやすいのだろう。
 最近は特に魔術師隊の支部に出入りしているようで、ある程度名が広まったアキラの旅が窮屈になっていないのも、陰で彼女が尽力しているおかげなのかもしれない。
 そんなイオリは、魔術師の卵であるエリーにとっては憧れの存在なのだろう。
 だが、順調な旅ができているというのに、朝っぱらから6人中3人しかいないとは。あの高い岩山が、1年前以上に遠く感じた気がした。
 上手く全員の仲を取り持たなければ。

「とりあえず、どこかのお店にでも入ってましょうか。イオリさんとは昼にここで待ち合わせることになってるし」
「それよりティアとエレナを探そうぜ。ティアは家に帰ったのかな? じゃあ、エレナだ。一緒に話でもしてようぜ」

 エリーの瞳が黒ずんだような気がした。

「ふたりなら朝町に歩いて行ったわ」
「あ、ティアも一緒なのか。じゃあ迷わずに済みそうだな」
「はは、エレナさんなら大丈夫よ。ひとりでも戻って来れるだろうし」
「ん? ティアも一緒に行ったんだろ?」
「ええそうよ? でも、エレナさんならひとりでも大丈夫よ」

 なんだろう。怖い。言葉は分かるのに、意味が分からない。
 エリーの瞳が黒いと思ったが、今度はその瞳が空のその先を見ているようになった。

 深くは触れないと心に決め、アキラは視線を彷徨わせた。
 めぼしい店が見つからず、適当に歩き出したらふたりしてピタリと両脇についてくる。普段ティアはこんな気分なのだろうか。
 両手に花だ。喜ばしいと思わなければならないが、頼もしいと思ってしまう。
 何とかしてエレナとの関係を改善したいのだが、一体自分に何ができるだろうか。

「そう言えば、久々だな」

 変わらない平和な街並み。その通りを進みながら、サクがぽつりと呟いた。

「いやなに。そういえば最初はこの3人だったな、と思ってな」
「そう、か」

 サクの言葉に気が緩んで思わず立ち止まりそうになった。

 サクの言う通り、この旅は、この3人から始まったのだ。
 アキラは、この異世界に訪れてすぐ、このふたりに出逢った。
 エリーとはリビリスアークで。サクとは、マーチュの巣の入り口で。

 長く旅をしてきたが、アキラにとって、旅とは、彼女たちと共にいるという意味なのかもしれない。
 思い出話をするような年代でもないのかもしれないが、振り返れば数々の出来事が目に浮かんでくるようだった。

「ま、まあ、だから何だという話だが、……その、忘れてくれ」
「いいんじゃない、どうせ暇だし。そうね、じゃあサクさんがこいつに斬りかかったりしたときの話とか」
「そうか。それならエリーさんの入隊式の話を聞きたいな」
「あ。あたし悲鳴を上げそう。ごめんなさい」

 当てもなく歩きながら、からかい合いながら、ふたりは笑って思い出話を始めた。
 そんな光景を見ると、やはりアキラは、何度だって、この場所を選んで良かったと思える。

 3度落とされたこの異世界。
 その始まりの日、自分は何を思っていただろうか。

 決して許されざることを犯し、決して許されざる方法で、自分はこの場所を選んだ。
 この“三週目”の旅は、“一週目”にも“二週目”にも存在しない志で始めた旅だ。
 流されるままの人生を送ってきた自分が、弱々しくも己の力で立ち、何かを成したいと強く願った旅だ。

 その願いは力を増してくれているだろうか。
 自分は過去の自分から、どれだけ成長できているだろうか。
 それを測るのも、やはり自分なのだろう。
 何とも不確かなものを、何とも不確かな基準で測る。不安で押し潰されそうになる。

 それでも何とかして、前へ前へと駆け出そうとした。
 そして、そこで、黒い壁に身体が打ち付けられる。

 自分の評価など一笑に付す、客観的な評価。
 不完全なアキラの記憶とは違い、完全な形ですべての記憶を保有する彼女。
 ホンジョウ=イオリはこう言った。

 “一週目”の君は、今の君より、遥かに―――

「……あ」

 気づいてよかった。
 エリーとサクが会話に夢中になって、アキラから離れて歩いていた。
 アキラにとって、ティアと同じように、目を離すと消えるとまで言われているのは大変不服だったりする。
 たまには、いや、もしかしたら初かもしれないが、自分から逸れていることを伝えてやろうではないか。
 少しは彼女たちも自分を見直すかもしれない。
 この人ごみで逸れても、自分はきちんと合流できるのだと。
 空しい気分になりながらも、アキラは足を早めようとする。

 が。

 どくり、と胸が痛んだ。
 周囲の雑音が消え去ったようなこの感覚。何度か味わったことがある。
 総ての時が止まったような感覚。それと共に、何かに引きずり込まれるような感覚。
 ここ最近味合わなかったこの感覚を、アキラはこう名付けている。

 “刻”の引力。

「ぉ、」

 声が出せない。思考だけが正常に働いているのに、身体がそれについてこない。
 凍り付いた深い海の底にいて、他のすべてが停止しているのに、自分の思考だけが正常な時を刻んでいく。目の前にいるのに、アキラとは違う世界線にいるような全能感。
 時が止まったと思えるほどだった。

 だが、こんな街中で、何故こうなるのか。
 こうなるのは、決まって戦闘中などの緊急事態だけだった。

 これは、なんだ。

「……?」

 異常を探ろうと周囲に視線を走らせると、アキラは違和感だらけの光景から、さらなる違和感を探り当てた。

 時が止まった世界に、いた。
 人ごみの向こう、自分と同じ世界線に入り得る存在を感じる。
 奇妙な感覚だった。どうやら自分は、そちらに引きずり込まれそうになっているようだった。

 正体を探ろうとしたが、人が邪魔だ。
 身体が動かず、視界に収めることができない。

 アキラは遠慮がちに、そちらへ向かおうとする。
 しかし、動かない。
 ならばとアキラは、今度は確たる意思を持って、その足を踏み出そうとする。

 すると。

「っ―――」

 音が戻った。
 世界の光景が流れ出す。
 どうやら当たりを引いたらしい。アキラの足は止まらず、ずんずんと進んでいく。
 早鐘のように鳴る心臓。そしてさらに鼓動が高まっていった。

 行動を強制されたようなこの感覚。だが、不思議と嫌悪感はなかった。
 まるで自分が最初から、自分の意志でそうしたかのような一体感を覚える。

 迷いなく人をかき分け、アキラは進んでいく。
 遠目で、その何かが路地裏に入ったのが見えた。
 どうやら人のようだ。ローブを纏っているようで、正体は分からない。

 安心感を得られたせいか、アキラの足が軽くなった。
 次第に駆け出し、アキラも路地裏に入る。

 すると。

「っと」
「わっ、失礼しました」

 路地裏から飛び出てきた女性に危なくぶつかるところだった。
 女性に怪我がないことを確認すると、アキラは路地裏に視線を走らせる。
 誰もいない。
 通りの向こうへ出てしまったのだろうか。

「悪い。誰かここに来なかったか?」
「? いえ、誰も」
「……そうか」

 少しだけ失望した。
 もしかしたらこの感覚の正体を暴くチャンスを逃してしまったのかもしれない。
 路地裏から見える向うの通りを眺めながら、アキラはふと、目の前の女性に向き合った。

「あれ。こんな場所で何をしていたんだ?」
「え? 私ですか? お恥ずかしい話ですが、道に迷ってしまったようで。……もしよければ、魔術師隊の支部がどこにあるのか教えていただけますか」

 女性がオレンジのフードを下ろすと、肩ほどまでの銀の髪が揺れる。
 髪と同じ色の眼が、すっとアキラの瞳を捉えた。
 雪のように白い肌は、言葉通り恥ずかし気に僅かに朱に染まっている。

 正面から向き合い、アキラの中で、何かが震えたような気がした。
 まさか、彼女は。

「……あんた、は」
「ああ、失礼しました。名乗りもせずに」

 彼女は表情を凛と正し、やはり堂々とした風に、アキラと正面で向き合って微笑んだ。

「私はリリル=サース=ロングトン。―――勇者を、務めています」

―――***―――

 人生のツケを払うときが来ていた。
 自分の人生は、ツケを払い終わってから始まったと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。

 エレナ=ファンツェルンはヘヴンズゲートの町並みを、いつも以上に乾いた瞳で眺めながら歩いていた。
 のどかな街並み。愛想笑いではなく、本心から喜んでいるように見える表情を浮かべた人々が、自分の道を迷いもなく、あるいは迷いながら歩いている。
 旅の中で何度も見てきているありふれた光景だが、エレナはこうした町を歩いていると、ヒダマリ=アキラではないが、ふと、自分が異世界に迷い込んできたような錯覚を覚える。
 自分が味わったってきたものを一片でも見せれば、彼らは同じように笑えるだろうか。

 いや、これは傲慢なのかもしれない。もしかしたら自分以上の闇を見えた者も紛れているのかもしれないのだから。
 自分が世界で最も不幸だと思うことは、それ自体が誰にでもできて、そして誰もがしてはならないことなのかもしれない。

 などと、崇高なことを考えながら、エレナは意識をひたすらに外していた。
 この街並みの中ですら、煌々と輝いているとも言えるほど、満面の笑みを浮かべ続けるひとりの子供から。

「エレお姉さま、エレお姉さま。何かお探しだったりしますか? それでしたらお任せください。何せこの町はあっしの庭も同然。逆立ちしたってホフク前進したって一周できます。ささ、どこに行きたいのか何なりとお申し付けを!」

 道に明るいことを自慢したいのか体力が有り余っていることを自慢したいのか。
 アルティア=ウィン=クーデフォンがじゃれつく犬のようにエレナの周りを駆けながら付いてくる。
 首根っこを捕まえて路地裏まで連れ込むときには死んだような目を浮かべていた彼女だったが、当たり前のように復活し、今に至る。
 結果、寝不足だわ宿に戻っても誰もいないわで散々だ。
 ついでに、自分と同じく逸れたこの子供の面倒を見る羽目になってしまった。

「てかあんた。アキラ君たちがどこ行ったか分からないの?」
「そうですよね……。皆さんいなくなってしまっているとは悲しいです……。それもこれもあっしがエレお姉さまを怒らせてしまって……そのあと、う、あれ、頭に何か引っかかって……思い出せない……」

 記憶障害が起こっていた。
 言語は正常。物を考える力がある。しかし何かが欠落している。
 エレナが今まで下してきた敵の中でもこの症状になった者はいなかった。まずいかもしれない。
 だからエレナは拳を振り上げ思い出させてあげることにした。

「あ、そだそだ。もしかしたらアッキーたちは、あっしの家に行ったのかもしれません。目的地はあそこですし」

 無意識にくるりと回って回避してみせた。足元は相変わらずおぼついていない。
 反射的にティアの腕を捕まえ大人しく歩かせる。
 見ていられなかった。

「あんたそんな調子でよく旅をしていられたわね。保護者が優秀だったのかしら」

 真っ先に思い浮かべたのはあの赤毛の少女だ。
 聞けば孤児院で子供たちの面倒を見ていたとか。
 随分と面倒見の良い性格のようだ。向こうからは敵意を向けられているようだが、些細な問題だ。
 戦力からしても、“あの領域”に踏み込む基盤は形作られているような気もする。

 この数日、エレナはその基準でこの旅の面々を、直接的な言い方をすれば値踏みしていた。

 だが、このティアは、今も、そしてこれからも読めなかった。
 まっとうな人生というものを送っていない自分は、常識からずれているだろう。一般教養ですら、知らないものも存在する。旅をする上で必要なものしか知らないのだ。それは自覚していた。
 だが、あえて語ろう。常識的に考えて、ティアは何か軸がずれている。

 狂っているように見えるが、実際に狂っているわけではない。
 物事を考える力はある程度備わっている。
 だが、その行動には、何とも言えない危うさを感じてしまうのだ。

 底の無い好意は、底の無い悪意を上回って恐ろしい。
 エレナが違和感を覚えるのは、その底を覗こうとしてしまったからだろうか。人の様子を伺おうとするタイプほど深みにはめてしまうタイプだ。
 あのイオリがティアを苦手とする理由も分かる。

 そこで、ふと、魔術師隊の数人が駆けながら裏道に入っていくのを見かけた。

「……」
「エレお姉さま? どうかされました?」
「……、何でもないわ。この辺りに魔術師隊の支部でもあるの?」
「はい、ありますね。あっちの道です。いや、ちっちゃい頃はあっしもよく連れていかれましたよ」

 それはひょっとして、笑わせようとしているのだろうか。そして今より幼い身で何をしたんだこいつは。
 気にはなったが、それよりも。
 あの魔術師隊たちから、何かの“空気”を感じた。

「もしかしたらアッキーたち、魔術師隊の支部に行ったかもしれませんね。イオリンがいつも行ってますから。ご案内しましょうか?」
「あんたはいいの? 家に行かなくて」
「いえいえ、エレお姉さまをおひとりにするわけにはいきませんよ」
「……人のことばかり優先して」
「はえ?」
「あんたは、何を、考えてんの」

 また、不安を覚えて、苛立った声を出してしまった。
 彼女にとって優先すべきことは何なのだろう。
 どこまでも人を追い続けるその瞳は、自分の姿を映しているのだろうか。

 エレナは、頭を振った。
 深く考えるのは自分の趣味ではない。
 アルティア=ウィン=クーデフォンが何であれ、自分は自分として目的に向かって歩けばいいのだ。

 そして視線を今自分の目の前に起こっていることに向ける。
 あの魔術師隊たちの様子。
 町の雑踏に紛れていたが、自分は何かを感じた。
 エレナが旅の道中で、最も信頼しているのは自分の勘だ。そしてその勘がざわついた。

「……早いこと済ませて、この町を出るわよ」

 エレナは頭をかきながら呟いた。
 前までなら面倒なことに巻き込まれる前にとっとここの町を出ているところだが、残念ながら今は荷物が増えている。

 あの良からぬことを引き付けるらしいヒダマリ=アキラや、求められれば当たり前のように応じるアルティア=ウィン=クーデフォンがいる今、何かが起これば巻き込まれているのは見えている。
 逸れているのは全部で4人。手早く見つけ、とっととここを離れよう。

「とりあえずあんたの家からね。アキラ君たち見つけて、すぐに、……」

 逸れているのが全部で5人になった。
 もしかしたら逸れているのは自分ひとりかもしれない。

 おひとりにするわけにはいきません、と宣ったあのガキが、いつしか消えていやがった。

「……」

 ひとりは好きだ。何不自由なく、快適と言う他ない。
 あまりの嬉しさに、エレナはプルプルと震えながら、決して崩壊しないように露店の主人に近づいた。

「あの、すみません」
「はい、……い、いらっしゃい、ませ」

 エレナを一目見て中年の主人が硬直したが、いつものことだ。
 初対面の人に取り入るには、冷静に、いつもの調子で接すればいいのだ。もしかしたら飾ってあるガラス物のアクセサリーでも渡してくれるかもしれない。円滑に旅をするコツだ。

「人を探しているんですけど、ご存じないでしょうか」
「はい、はい、何でしょう。誰を?」
「そうですね……、その、なんかこう、わさわさしたガキよ」

 思わず事実を伝えてしまった。
 中年の主人が硬直する。
 しかしすぐに、頷くと、気のせいだろうか、エレナに同情しているような瞳を浮かべた。

「えっと、ティアちゃんかい? やっぱりさっきのそうだったのか。戻ってきてたんだね」

 通じてしまった。流石地元民。どうやら奴は有名らしい。
 エレナが苛ついた瞳を主人に向け続けると、やはり主人はやや怯えながらも同情したように頬をかいた。
 どうやらアクセサリーは諦めた方がいいかもしれない。

「それならさっき、あっちに駆けて行ったよ。いつもみたいに全力疾走で」

 ティアの底にあるものが何であれ、エレナにとっては手間のかかる子供でしかなかった。

―――***―――

「リ……、リリル=サース=ロングトン……?」
「はい」

 屈託ない瞳は向けられ慣れている。
 彼女は快活に、しっかりと、アキラの目を見て応じた。

 二の句が継げない。
 頭が真っ白になる。
 アキラの頭の中であらゆることが巡り回った。
 まさしく今こそ、時を止めて欲しかった。

「え、ええっと、」
「もしかして、私をご存知ですか?」

 アキラは辛うじて頷けた。

 さて、どうすればいいのかこの状況。
 この“三週目”。
 突如として“既知”の相手に出逢ってしまうことは少なくなかった。
 だが世界を一周して、ほとんどの存在と出逢い終え、つい先日のエレナに至ってはこちらから向かっていったほどだ。

 その“刻”も無事にこなし、はっきり言って、油断していた。

 リリル=サース=ロングトン。
 “魔族”のサーシャ=クロラインに襲撃を受けた村の唯一の生き残り。
 現在“ヒダマリ=アキラ”、“スライク=キース=ガイロード”と並び、世界中から注目を集めている“勇者様”。
 このアイルークではあの巨大マーチュを撃破したらしい。

 脳が断片的に呼び起こしたのは、この“三週目”で手に入れた情報ばかりだった。
 いや、“二週目”ですら、1度依頼を共にしただけであって、彼女のことを深くは知らない。

 だが、直感的に思う。
 この出逢いは、危険だと。

 イオリが言うに、彼女は“魔王を撃破してしまう”可能性のある人物だ。
 何らかの形で、アキラの旅に関わってくるであろう存在である。

 下手なことをすれば、何かの崩壊につながってしまう可能性があるのだ。

 迷いなく旅を進める決意はしたものの、流石にいきなり目の前に現れられてはどうしても史実を追いたくなる。
 “一週目”では、自分は彼女になんと応じたのか。
 あるいは、そもそも彼女との出逢いはこの場所だったのだろうか。

 突如として爆弾でも手渡されたような感覚に、アキラはリリルの瞳を見返すことしかできなかった。

「ふふ」

 彼女は笑った。誇らしげに。

「すみません、少し嬉しくて。私も少しは世間に認められつつあるということでしょうか。今後も誠心誠意頑張りますので、期待していてください」

 アキラの様子をおののいているように捉えたのか。
 リリルの雪のような肌が赤くなり、僅かに高揚したのが分かる。
 胸を張って上機嫌のようなその様は、精緻な人形のような印象をいい方向に砕かせた。
 屈託のない笑みに、アキラはようやく身体の硬直を解いた。

 ひとつ、思い出した。
 “二週目”。彼女は、あの依頼の場にいた誰より、勇者であろうとしていた人物だ。

「あ、長々と失礼しました。話は戻りますが、魔術師隊の支部をご存知でしょうか。確かこの辺りと聞いたんですが」
「え、ええと、確か、あっちだった気がする」
「良かった、助かります」

 曖昧な案内なのに、彼女はにっこりと笑った。
 その笑みに、アキラも自然と笑みがこぼれ、そして同時にどうしようもなく胃が痛くなった。

 まずい。
 同業者だと言い出すタイミングを逃してしまった気がする。
 だが、このまま別れれば、とりあえず急場は凌げるかもしれない。

 答えを教えてくれるとは思えないが、今は何としてもイオリに会いたかった。

「って、あいつも支部にいるんじゃ」

 去ろうとしていたリリルの背中がピタリと止まった。
 多分、自分は声に出していない。出していたとしても、かすれ声だ。
 それなのに、リリルはくるりと振り返ると、少し嬉しそうに笑っていた。

「あなたも魔術師隊の支部へ行くんですか? だったら一緒に行きませんか。私、人通りの多い道は苦手なんです」

 日差しに弱いのか、フードを被りながらリリルは顔を赤くしていた。表情が手に取るように分かる。嘘の吐けないタイプだろう。

 アキラはあらゆるものを天秤にかけた。

 リリルという人物の重要性と危険性。
 物語の姿。
 道に迷って困っている女の子。

 アキラはごくりと喉を鳴らした。
 そして思い出す。
 以前あのスライク=キース=ガイロードと出逢ったときは記憶の封は消し飛ぶように外れた衝撃があったことを。
 それが今は無く、むしろ靄のかかったように記憶の奥底に眠っていて大人しい。

 ならばそこまでの危険は無いのだろう。
 そもそもイオリも何も言っていなかった。まずいことがあるなら流石にそれとなく伝えてくれるはずだ。

「俺は」

 逸れた仲間がいる。
 そう言おうと思った。そしてこの場からすぐに立ち去ろうとした。だが、音になる直前、何かがアキラの口を止めた。今度はリリルも聞き取れなかったようだ。じっとりとした汗が背中を伝う。
 得体の知れない何かが、リリルとここで分かれることに抗おうとアキラの身体を乗っ取ったように動けない。
 記憶の封は未だ解けない。それなのに、身体が何かを訴え続けている。こんな感覚は初めてだ。
 リリルは首を傾げてアキラを見返してくる。
 こんな状況だというのに、その笑みには不審な感情はまるで上がってこない。それも初めてだった。

「……こっちだ。案内するよ」

 ぎこちない身体を何とか動かし、アキラは歩き出した。リリルは礼を言って後ろからピタリとついてくる。
 パーソナルスペースが随分と小さい女性のようだった。
 それとも日輪属性のスキルが、何かよからぬ作用をしているのかもしれない。

 妙な緊張感と違和感を拭うために、アキラはリリルの横に並んだ。

「魔術師隊の支部には何をしに行くんだ?」
「情報収集を兼ねて、です。あなたも、」

 リリルはちらりとアキラが背負った剣に視線を向けた。

「そういう旅をしているのなら、行ってみた方がいいですよ。思ったよりは皆さん優しくて、依頼所以上に詳しい話も聞けます。魔術師隊も、旅の魔術師も、ただ資格があるかどうかだけだと思っている方も多いですし」

 カラカラと明るくリリルはそう言った。
 適当に話を振ってみただけなのだが、意外なことを聞けた。
 支部は魔術師隊のためだけにあり、その代わりに依頼所が旅の魔術師のためにあると思っていたのだが、どうやらそんな垣根は旅の魔術師、というよりアキラが勝手に作り出したイメージなのかもしれない。
 となると、普段イオリが足しげく通っているのは、魔導士としてというより旅の魔術師としての情報収集ということになる。
 旅をしている期間は自分たちの方が多いと思っていたのだが、イオリは旅を円滑に行う術を体得しているのだろう。
 だが、少し気になる。

「それって、シリスティアでもか?」

 アキラが言わんとしていることが分かったのか、リリルの顔が僅かに暗くなる。
 本当に感情が分かりやすい。

「すべてがそうというわけではありません。お察しの通り、シリスティアでは魔術師隊と旅の魔術師が不仲ですしね。旅の魔術師は頼まれても支部に寄り着かないし、支部の方も見かけようものなら追い出そうとしてくるところもあるみたいです」

 意外と人懐こい性格をしているようだ。
 表情も分かりやすく変わり、快活に言葉を紡ぐ。
 これなら魔術師隊の支部にも抵抗なく入っていけるだろう。
 近しい人物に似たような女の子がいるが、声のトーンからかリリルからは騒がしいという印象は受けなかった。

「あ、でも」

 リリルは小さく手を叩き、嬉しそうに微笑んだ。

「最近は、そのシリスティアに吉兆があるんです。魔術師隊の依頼が以前よりずっと依頼所に回されているそうですよ」
「へえ」

 それは意外だった。アキラが体験したシリスティアは、旅の魔術師を前にはっきりと好かないと言ってくる魔導士もいたくらいなのだ。

「それもきっと、あの出来事のお陰だと思います。ご存知ですよね、1年……にもなりますか。“あの事件”」

 アキラは自分の表情が暗く落ちていくのを感じた。
 “あの出来事”。
 世界中を震撼させ続けていたシリスティアの“誘拐事件”。
 アキラが体験した結末は、世界に広まっている輝かしいものではなく、もっと黒ずんだ情けない逃亡劇だった。
 対して、リリルの方の表情は明るかった。何を思い出しているのか、キラキラと輝いて見える。

「ふふ。実は私、当時その場にいたんですよ。魔術師隊と旅の魔術師が手を取り合って大事件に挑む、あの瞬間に」
「えっ、いたのか?」

 思わずアキラの足が止まった。
 リリルも合わせて足を止め、ごく近い距離で顔を見上げてくる。思った以上にずっと近い。人通りの多いところは苦手と言っていたのは本当のようで、何が何でもアキラから逸れないようにしているらしい。

「え……と。もしかして、あなたもあの場所に?」
「あ、ああ」
「まあ、凄い偶然……と言っても、アイルークからもかなりの人数が参加されていましたからね。ご無事だったようで何よりです」
「……お互いにな」

 視線を外し、アキラは表情がばれないうちに歩き出した。
 今の自分はどんな表情をしているだろう。

「犠牲になった方もいましたからね。ですが、事件は解決して、今はもう新たな被害は出ません」
「……そうか」
「憂き目の多い昨今ですが、それでも、その内のひとつが無くなりました。それは世界にとって希望になります。私も、“彼”のようにならなければ」
「……」
「えっと、あの。ご存知ですよね、その顛末を」
「ああ、知っているよ」

 言い切って、アキラは歩を早めた。
 タイミングを逃したが、アキラは今、本当に名乗らなくてよかったと思っていた。
 名乗っていれば、その希望とやらの顛末を尋ねられていたかもしれない。

 世界の希望になった。それは結構なことだ。
 世界の裏側で、勝手に幻想を抱かれて、それを糧に人々は生きていくのだろう。
 だが目の前で、何も知らないのに嬉々として語られるのは心に強い影が落ちてしまう。
 リリルに罪はない。だが、“あの魔族”のほんの気紛れ程度で、人々が一喜一憂するその光景は我慢ならなかった。

「ええと、では、ご存知ですか、このアイルークで今起こっていることを」

 アキラの様子を察知したようで、リリルは強引に話題を変えてきた。
 また自己嫌悪に陥る。

「アイルークでって……、リビリスアークのことか?」

 リリルは首を振った。
 そのリビリスアークを壊滅させた巨大マーチュを撃破したのは彼女だそうだが、些末なことだと思っているらしい。

「どこから話しましょうか。ご存知ですよね、“魔門破壊”」
「?」

 リリルは神妙な顔つきになっていた。
 “魔門破壊”。意味は何となく分かるが、アキラは眉を潜めることしかできなかった。
 魔門とは、人間界と魔界を通じる出入り口のようなものだと聞いたことがある。
 この町にある、神界に通じる新門の真逆の存在だ。
 それが破壊されたとは、リリルの口ぶりの通り、それも大層有名な出来事らしい。

 リリルはバツの悪そうな顔をして、新聞の切り出しでも思い起こしているように口に手を当てた。

「ええと。以前、モルオールの魔門が破壊されるという奇跡が起こりました。スライク=キース=ガイロードをご存知ですよね」
「……あ」
「彼が起こした前人未到とも言えるその出来事に世界中が―――と、すみません。ご存じなかったんですよね」

 リリルが首を傾げてくる。
 申し訳ない気持ちになったが、実はアキラはその出来事を当事者のスライクに聞いていた覚えがあった。
 彼は事も無げに魔門へ行ったと言っていたが、破壊までしていたとは。
 だが冷静に考えれば分かりきっていた。彼がそんな場所へ向かったとなれば、破壊されて然るべくだろう。

 ますます名乗らなくてよかったと思った。
 アキラが巻き込まれた出来事は、過激とも言えるスライクの行動と比べると幾分大人しく思えるのだ。
 しかし“魔門破壊”とは。
 あの男の目的を知ってはいるものの、過剰なほどの手段を取る男だ。
 いや―――とアキラは考える。もしかしたら彼の、そして自分の目的のためには、思いつく以上の手段を取っても届かないのかもしれない。

「まあ、ともかく。その出来事で、“魔門”は破壊できるという新たな概念が生まれつつあるんです」
「概念とはな」
「それで、なんですが」

 リリルの声が小さくなった。
 周囲を警戒して目を走らせているが、歩きながらの会話というものは意外と周囲から聞かれないとアキラは知っていた。

「確かなことは言えませんが、このアイルークでも、魔門を破壊しようと計画されているらしいんです」
「は?」

 足を止めそうになったが、強引に動かし続ける。
 今彼女はなんと言った。この平和なアイルークで、そんな巨大な計画が動いていると言ったのか。

 寝耳に水だったのは、自分が世間の事情に詳しくないせいだけではないだろう。
 アキラはイオリの顔を思い浮かべる。
 リリル同様足しげく魔術師隊の支部に通っている彼女だ。
 一般には伏せられているのであろうが、勇者として有名なリリル=サース=ロングトンが入手できる情報を、魔導士の彼女が知らないはずがない。
 だが、彼女は何も言っていなかった。

 つまり―――隠していた、ということなのだろうか。
 また彼女は、何かを抱えているのだろうか。

 魔術師隊の支部が、街角に陣取っているのが見えてきた。
 妙な感覚がする。いや、悪寒かもしれない。
 悲しいことに、こうした予感はよく当たる。
 不穏なものを感じながら、アキラは歩をさらに早める。イオリはそこにいるはずだ。
 リリルから僅かに離れているのを感じながらも、構わず門の前に辿り着くと、そのままの勢いで門を開く。

 すると。

「だっ、かっ、らっ。言ってるでしょう。私だって何度も上に言ったわ。馬鹿じゃないの、って」
「それでも数か月は無理ですって」
「それも掛け合ったわ。だけどやれの一点張り。失敗してもいいんだから、やるだけやってみましょうってことに」
「下手に魔門を刺激して無事に済むわけがないでしょう!」
「そりゃそうなんだけど、無事に済む確率を上げるために私が……、って、あら」

 ドアの前には、妙齢の女性が立っていた。
 ボリュームのある茶髪をトップで結わい、首筋を覗かせている。
 勢いよく奥のディスクに手を付けながらも、首だけ振り返ってきたその女性は、アキラを見るとこほりと咳払いした。
 だが遅い。アキラの耳は魔門という言葉を拾っている。

「これ以上は奥で話しましょう。聞かせる話じゃないわ」
「ええ、分かりました。答えは変わりませんが。イオリさんも同席してくれると助かります……イオリさん?」

 女性と言い合っていた男の視線を追うと、壁際にホンジョウ=イオリの姿も見つけた。
 アキラを見ながら目を丸くし、そして苦々しく口元を歪める。まるで悪事が暴かれたような表情だった。
 予感が的中したような感覚を覚える。

 アキラは言いようのない焦りを覚え、ずいとイオリに向かって踏み込む。

「イオリ。何の言い争いなんだ?」

 油断すると険しい表情になりそうだった。
 イオリは僅かに思考を巡らすような顔をして、しかし首を振った。

「……いや、まとめてから話すよ。色々とね」
「ああ、頼む」

 言質を取ったような感覚を覚えた。
 彼女を糾弾するつもりはないのだが、記憶絡みのこととなるとイオリはまたひとりで立ち向かってしまうかもしれない。

「……。ええと」

 振り返ると、茶髪の女性が、頬をかき、そしてアキラをじっと見つめてくる。
 柔和な表情なのに、ずいと重く感じる視線だった。
 アキラは怯まず向かい合う。

「私はアラスール=デミオン。アイルークの所属じゃないけど、魔導士よ。君は? イオリちゃんのお知り合いなんでしょう?」

 答えが分かっているような物言いだった。
 背後に、息を弾ませたリリルが入ってきた気配がする。
 アキラは振り返ることもせず、アラスールを見据えたまま言った。

「ヒダマリ=アキラだ。勇者をやっている」

―――***―――

「魔門流し」

 アキラたちが通された部屋は、細長の机が連なって輪を作っている会議室のような部屋だった。広い空間で、椅子もきちんと整えられているようだが、白塗りの壁に立てかけてあるボードに、強引に腕で拭ったような汚れがついている。
 有事の際には魔術師隊の大勢が輪を囲むのであろうが、日当たりも悪いようで熱気はまるで感じない。
 無機質な臭いが鼻をくすぐる、物寂しい空間だった。部屋の隅にごく少数が集まっている光景もそれを助長させていた。

「数百年ごとくらいかしら。早ければ数十年。魔術師隊や魔導士隊には、そうした行事があるの」

 余裕そうに微笑み、射貫くようでも押し潰すようでもない不思議な眼を浮かべる女性は、アキラの表情を伺うように言葉を紡いだ。
 アキラは負けじと見つめ返すが、彼女の表情は変わらなかった。
 アラスール=デミオンと名乗ったこの女性、魔導士と名乗っていたが、なるほど確かにと感じてしまう。例えば隣に座っているこの支部の責任者であろう男と比べると、明確に違う存在のように思えた。
 いや、あるいはイオリと比べてさえ、だろうか。
 アラスールの実力は不明だが、彼女の存在は妙に日常と切り離されているように感じる。
 底の見えない引き込まれそうなイオリの雰囲気とは違い、ただそこに在るだけで周囲を傷つけるような荒々しさ。
 友好的に見えるようで、その笑みからは、攻撃的な空気を覚えた。

 ちなみに、彼女が何の話をしようとしているのかはアキラにはまったく分からなかった。

「待った。その前に、魔門の説明をした方がいいと思う」

 その様子を察知してくれたらしいイオリが声を上げた。
 僅かばかり目を瞑ると、神妙な顔つきとなる。その一瞬が、言葉を選んでいるようにアキラには見えた。

「アキラ。魔門についてはどこまで知っている?」
「ほとんど知らない。魔界に通じるとかなんとか。魔物とか魔族がそっから出てくるんだろ?」
「そうだ。だけど、僕が言っているのはどちらかというとその“現れ方”だよ」

 イオリは机に手を置いた。

「ここが、人間界としよう。とすると、魔界はどこにあると思う?」
「机の下か?」
「一般レベルだと、その認識でおおむね間違いない。だけど、実は細かく言うと違うみたいなんだ。答えは“分からない”、だ」

 アキラが眉を寄せるのを見つめてから、イオリは部屋中を見渡し始めた。

「魔術的な壁なのかは分からないけど、魔界は、この世界に重なるように存在している“異世界”だとするのが通説なんだ」
「……!」

 アキラは背筋に冷えたものを感じた。
 魔界は、重なるように存在している―――“もうひとつ”。

「だけど、この世界とは強く結びついているらしくてね。切っても切り離せないらしい。歴史にもあるように、人間界は、新界と魔界の狭間の世界ということらしいから」

 異世界。そんな馬鹿な。とは、異世界来訪者であるアキラは言えなかった。
 何となくではあるが、魔族や魔物は地中から湧き出てくるような印象を受けていたから、少し意外な程度だ。

「ただ、一応地中という認識はあながち間違ってはいないよ。人間界と魔界をつなぐ入り口のようなもの。それは4大陸すべて地中に埋まっているんだからね」
「それが魔門か?」

 イオリは頷いた。
 アキラは少しだけ足の力を入れてみた。足の下のさらに向うに魔界があるわけではなく、ただそこに、異世界同士をつなぐワープゲートのようなものがあるということなのだろう。

「それで、魔門っていうのはどんな形なんだ? リロックストーンみたいな石とか?」
「あらびっくり。リロックストーンは知っているのね」

 アラスールが目を丸くしてわざとらしく両手を上げていた。
 この世界の常識からして偏った知識なのだろう。
 茶目っ気を感じさせるように舌を出したアラスールは、それでもその瞳の色を変えぬまま、アキラをまっすぐに見据えてきた。

「魔門の話なら私がしましょうか。何せそっちゅう見てるもの。私以上に詳しい人間はなかなかいないわ」
「それで?」

 若干の苛つきを覚えたアキラの口は、感情をそのまま載せた声が出した。
 するとアラスールは手のひらを天井に向けて、指をうごめかせた。

「小さいとこれくらいのサイズの……闇、と言った方がいいかしら。霧、と言った方がいいかしら。“黒い何かの塊”よ」
「は?」
「あら。詳しいと豪語する割には、って顔ね。でも嘘は言っていないわ。試しに聞いてみるわね。今この場に、“私が今言った情報以上に詳しいことを知っている人間がいる”?」

 返答は誰からも来なかった。
 アラスールは満足げに深く椅子に座る。

「でね、最初の話に戻るんだけど、その謎多き魔門。4大陸ではそれぞれひとつずつの計4つ存在が確認されているんだけど、年々、巨大化していくのよ」

 アラスールは手のひらを目いっぱいに広げて、その不思議な眼でそれを見つめた。

「周囲の何かを取り込んでいるのか、それとも、“向こう側”から何かが広げているのか……分かっているのは、魔門は成長する、っていうこと」

 彼女が言っているのは、門は広くなっていくということだろう。人間界と魔界をつなぐゲートが広がっていく。
 その先の結末など想像もしたくない。

「だからね」

 アラスールは握りつぶすように手のひらを握った。

「定期的に魔門をちびちび削っていっているのよ。消滅はしないまでも、少なくとも魔族クラスが通れないほどにね。小さいと通れないのか、一応効果があるみたいだからね」
「それが、」
「そう。“魔門流し”、ってわけ。ね、簡単でしょ?」

 アラスールは隣の魔術師隊の男に笑いかけた。
 しかし、アラスールの瞳を受けてなお、男は口元を歪めた。

「簡単なんて口にもしないでください。魔門流しなど……、あんなものは二度とごめんです。10年前だって犠牲者が、」
「だから、私も無理だって言いまくったのよ」
「自分で簡単だと思ってないこと人にやらせないでください。大体、あなたが言っているのはそれどころの騒ぎじゃなく、」
「おい。その魔門流しとやらをやる気なのか?」

 アキラが割って入ると、魔術師隊の男は救世主が現れたとばかりに顔を輝かせた。
 威圧されたようにも思え姿勢を正すと、男は、今度はイオリにすがるような目を向けた。

「イオリさん。ご助力は願えないんですよね?」
「え、いや、」
「では、計画破綻です。そもそもこれは、“勇者様”がいなければ成り立たない計画。勇者様を魔術師隊の事情に巻き込むわけにはいかないでしょう」
「ちょっと待て!!」

 まくし立てる男に、アキラは思わず怒鳴っていた。
 そして鋭くアラスールを睨む。
 話が呑み込めない。これでは先ほどここにきたときの言い争いの焼き回しだ。

「最初から、全部、事情を話してれ」

 声を荒げたアキラに、アラスールは眉ひとつ動かさなかった。
 そして口元に含み笑いを作る。
 アキラを懐柔すれば事が進むと考えているような表情だったが、それでもすべてを聞きたかった。

「近々。ヨーテンガースで魔門流しが行われるわ」

 ヨーテンガース。
 世界を語るときに例外とされる中央の大陸。
 この魔術師隊の所属ではないと言っていたが、アラスールはヨーテンガースの魔導士なのだろうか。
 アキラの喉がごくりと鳴る。

「詳しい話は置いとくけど、そのイベントには最善の注意が求められるの。どれだけ時間がかかろうと、どれだけの資源を使おうと、そして、どれだけの犠牲を払おうと―――コンマ数パーセントの成功率向上が求められるわ。“私たち”まで召集されるほどにね」

 アラスールは、日常ではありえないほど冷徹な瞳の色を浮かべた。
 今はっきりと分かった。アラスールと隣の男の差。
 潜り抜けてきたものが違う。

「その準備を粛々と進めていたとき、世界中を震撼させた出来事が起こったわ。そして知ったのよ―――魔門は破壊できるのだと」

 握った拳に力が入った。つい先ほど聞いた話だ。
 あの男は、“概念”を生み出したと。

「それなら、“流す”のではなく“破壊”した方が成功率は高い。そういう結論になったわ」
「?」

 その言い回しが気になった。
 成功率。それは、魔門の話ではないのだろうか。

「そして、そのためには事前の検証が必要なのよ。本当に魔門は破壊できるのか。そしてそれは、どのように実現できるのか。……一応聞くけど、スライク=キース=ガイロードの足取りは?」
「いえ。ここ最近はまるで」

 落胆したように魔術師隊の男は首を振った。
 あのスライク。英雄なのか指名手配犯なのか分からない扱いを受けているらしい。

「なんか事情があることは分かったけど、何でこのアイルークなんだ」

 魔門流し。いや、ここで目論んでいるのは魔門破壊だ。
 男の様子を見るにまともなことではない。この“平和”なアイルークでは物騒では済まされない事態だろう。

「理由は3つあるわ」

 アラスールは3つ指を立て、ひとつ目を折った。

「ひとつ。アイルークは10年前に魔門流しを行っているの。つまり、魔門が弱っている状態なのよ。破壊の成功率が高いとみなせる」

 犠牲者が出たとか言っていた話か。
 アラスールの淡々とした口調に、アキラは口を挟めなかった。
 確率と口にする彼女は、本当の意味で勝算を立てているように感じられた。

「ふたつ。他の大陸では実行不可能なこと。シリスティアは昨年の“伝説落とし”で余力が無く、タンガタンザは“百年戦争”で検証もままならないと判断したためよ」

 アラスールが機械的に折るふたつ目の指を見て、アイルークを不憫に思った。
 そんな消去法のような理由で、爆弾を押し付けられているようなものなのだから。

「そして」

 アラスールは、最後の指を、折らずにアキラに向けてきた。

「みっつ目の理由はあなたよ。“勇者”ヒダマリ=アキラ。あなたがこの地に向かっていると判明して、条件は整ったの」
「……俺に、魔門を破壊させようとしているのか?」
「まさか。勇者様にそんなおそれ多いことを。ただ、より戦力がいた方が万が一の場合に人間を守れる確率が高い―――そう、判断したの」

 アキラは、アラスールを探るようにじっと見た。
 魔術師隊の男への口ぶりは、自分は使い走りで問答しても仕方がないといった様子だったのに対し、アキラに対してはまるで自分の決断のような言葉を使う。
 使い走りのような言葉は、口だけのようにアキラは感じた。彼女の中ではすでに、このアイルークでの魔門破壊の実行を決定している。
 そしてそれにアキラが気づいたことも察されているようだった。

 つまり、自分は脅されているのかもしれない。
 ここで首を横に降れば、アイルークの人々に甚大な犠牲が出るのだと。

 身を乗り出そうとしたところで、イオリと肩がぶつかった。力の籠っていない肩だった。
 アキラは顔も向けずに口を開こうとしたとき、アラスールは、ふと、今更気づいたように目を丸くした。

「えっと、そういえば大丈夫? 具合悪そうだけど」
「は、はひ」

 呂律の回っていない返事が聞こえた。
 アキラはアラスールの視線を追い、そして。

「リ、リリル? お、おい! 大丈夫か?」
「えっ、え、だ、だいじょうぶ、です。はい、まったくもって。はい」

 驚愕するほど真っ赤な顔が隣に浮かんでいた。
 リリル=サース=ロングトン。
 彼女は、この部屋に共に通されてから、何ひとつ音を発さず、背筋を過剰なほど正してアキラの隣に座っていた。
 ちらりと見ると、両手は膝を握り締め、カタカタと震えている。
 泳いだ眼が時折アキラを捉えては、すぐさま首を振って誰もいない向かいの机をまっすぐに見つめ始めていた。

「休んだ方がいいだろ、なあ、医務室とかないのか?」
「ひっ、いえ、その、お構いなく」
「構うよこれは。毒でも盛られたのか?」
「い、医務室ならこちらに」
「あー、あそこ? それなら私が連れてくわ。女の子の方が何かといいでしょ」

 意外にもアラスールが立ち上がり、リリルの肩に手を置いた。
 慎重に立たせると、未だに顔を赤くしたままのリリルの肩を預かりゆっくりと歩いていく。
 そのリリルに、アラスールが、またあの瞳の色を浮かべているのが妙に気になった。

「たく。ヨーテンガースの連中は」

 会議室のドアがパタリと閉じた途端、魔術師隊の男が毒づいた。
 アキラが顔を向けると、軽々しい愛想笑いを作ろうとし、そして失敗していた。

「ヨーテンガースの魔術師と何かあるのか?」

 魔術師の男は眉を潜めると、行儀悪く机に肘を置いた。
 どうやら腹を割って話をしたいらしい。

「イオリさん。あなたもご存知でしょう。ヨーテンガースのやり方を」
「ええ。僕も何度か」
「おいおい、何の話だよ」

 イオリは困ったように笑みを浮かべ、そして魔術師隊の男に確認を取るように小さく頷いた。

「実はね。魔術師隊は基本的にその大陸の魔導士隊が管轄しているんだけど、ヨーテンガースはその指揮系統に割り込む権限を持っているんだ」
「割り込み?」
「ああいや、上司というわけじゃない。公には、魔術師隊に対して、本来の業務を阻害しない範囲で協力を仰ぐことができる、必要に応じて命令権を持つ、という形なんだけど、実際はかなり強引だよ。彼女はまだ柔和な方だ。有無を言わさず命令せず、会話をしてくれるんだからね」

 イオリも魔術師隊にいた頃は色々と悩まされたのだろうか。
 会話もせずに命令権だけ使われたら魔術師隊もたまったものではないだろう。

「その上、いろんな場所を引っ掻き回すくせに、ヨーテンガースの情報はほとんど他の大陸に出回らない。ヨーテンガースは謎だらけの大陸ですよ。去年だって、いきなり神門調査だとかで町の整備を大慌てですることになったし、はあ」

 魔術師隊の男からどっぷりと疲れたような空気を感じる。
 “平和”な大陸の魔術師隊は随分と楽な仕事なのだと思っていたのだが、申し訳なくなってきた。
 ちゃんとお仕事なのだろう。

「だけど」

 イオリは、だらけたような様子の男に聞かせるためなのか、僅かに大きな声で言った。

「その実力は本物だよ。ヨーテンガースでは魔術師でさえ他の大陸の魔導士にだって匹敵する。それに、他の大陸への命令権があるのは、“管轄範囲が世界全体”だからだ。あの女性、アラスールも相当だろうね」

 イオリの言うことをすんなり納得できたのは、あのアラスールと会話したからだろう。
 何の変哲もない一挙手一投足から、刺すようでも、押し潰すようでもない、ピリとした雰囲気を確かに感じた。
 確かに裏打ちされたものは持っているのだろう。

「てかさ、それならそいつら他の大陸に来てもらえば色々問題解決するんじゃないのか。シリスティアとか」

 見当外れなことを言っていると、途中で気づいた。
 これには、魔術師隊の男もまるで理解を示さないような表情を浮かべている。

「ヨーテンガースの情報はほとんど分からない。魔導士の僕ですら、知らされる情報はほんの一部だ。だけどね、彼らは“何か”をやっている。何せ、“世界そのものを守るための部隊”なんだから」

 アキラは奥歯を噛んだ。
 そうだ。
 ヨーテンガースには、“あの存在”がいる。

 イオリは、小さく肩を落とした。

「だから、あんなことは日常茶飯事さ。何かに通じていることなんだろうけど、僕らがそれを知れることはほとんどない。いち旅の魔術師になった今の僕としては関わり合いたくないのが本音かな」
「大事そうだったけど」
「彼ら彼女らが何かを持ち込むときはいつも大事のように話すのさ。そしてそのたびに問答がある」

 イオリは同意を取るように魔術師隊の男に微笑み、そして男も頷いた。彼も何度か巻き込まれていると聞く。
 疲労を顔に浮かべるように見えるイオリに、アキラは心の中で安堵した。
 リリルのことは聞く必要があるが、この件は魔術師隊としてはよくある内輪もめなのだろう。彼女が魔術師隊の支部に通っているのは、こうした面倒事と自分たちが関わらないように立ち回っているからだという。今回も物騒な話だとは思うがイオリの口ぶりからするに、その関わらないようにしている面倒事なのかもしれない。
 イオリの態度も、首を突っ込みかねない自分が来たから、面倒事が増えたと思ったせいなのだろう。
 邪推したが、今回は“一週目”の出来事でない可能性も出てきた。

「まあそれでも、魔門流しのときくらいは協力を仰ぎたいものですがね」

 アラスールが戻って来る様子がない。リリルと話でもしているのだろうか。
 魔術師隊の男の愚痴は、最早会議の体を成していない。話は終わりのようだ。

「そうだったら……、ああ、私の先輩だった方がね、犠牲になったんですよ」
「その魔門流しでか?」
「ええ、危険でしょう。だから言いにくいですが、正直魔門には関わりたくないんです。職務放棄ですがね」

 暗にアキラに断ってくれと言っているようだった。
 アキラが首を縦に振れば、交渉の材料が減ってしまうのだろう。
 自分がアイルークの魔門破壊決行の理由のひとつなら、関わらないことで計画破綻に追い込める。この男が考えているのはそういうことだろう。
 だが、アキラは感じる。あのアラスールは、結果として魔門破壊を決行するだろう。
 そして下手をすれば、アイルークに甚大な被害が出る。

「自分の代で魔門流しなんて、運命を呪いました。魔門流しの時期は一般には伏せられて、秘密裏に行われますからね。まさか自分がやることになるとは思ってもみなかったです」

 確かに同情すべきだ。
 “平和”なアイルークで、唯一と言っていい狂気の行事に参加する羽目になったこの男を。
 そしてアキラの返答ひとつで、この男はその数奇な運命を改めて呪うことになるかもしれない。

 アイルークの魔門はその尊い犠牲のお陰でしばらくは大人しいらしい。
 アラスールも魔導士なら流石に無謀なことはしないだろう。アキラが断ることでそのリスクが軽減できるなら、彼女風に言えば、作戦決行の確率が下がるなら、確かに断った方がいいかもしれない。イオリがうまく立ち回ってくれたことを無駄にしかねない。
 リリルのこともあり、彼女には事情を詳しく聞きたいが、“一週目”の出来事でも無ければヨーテンガースのわがままに付き合うことも無いだろう。教えてくれるとは思えないが。

 あまり長いはしない方がいいだろう。
 いずれにせよ、イオリとふたりで話をしたい。
 だがアキラは、その前に、興味本位で男に聞いた。

「その先輩、どんな人だったんだ?」
「アキラ、行こう」

 イオリから、思わず、と言った様子の声が出た。
 視線を向けると、イオリは視線を外す。
 そして、ふと、脳の片隅で、何かが蠢いたような感覚がした。

「ああ、“ふたりとも”いい人だったよ。今でもよく覚えている。私の教育係をしてくれた人だ。フォール=リナ=クーデフォンとルーシャ=クーデフォン。ああ、ルーシャさんの方は旧姓を使ってたんだっけ」

 このときばかりは、アキラもイオリの顔を見る気にもなれなかった。

―――***―――

 人を本気でぶん殴ろうと思ったのは初めてだった。嘘だが。
 ただ、とりあえず、あのガキに、この拳を勢い良く振り下ろせばスコーンといういい音がするかもしれないとは思っていた。そんな音を聞きたい一心で、エレナは町を歩いた。

 彼女を見つけ、そして、それを止めた。
 ここで騒ぎを起こすのは、いかに自分でも不躾だと思う。
 死者への冒涜だ。

「それ、誰の墓?」

 人に尋ねて導かれるままにエレナが進んだのは、大通りから外れた墓所だった。
 巨大な建物の裏に広がった、雑草だらけの墓石の群れ。
 エレナは整った墓所が嫌いだった。面積を最大限に活かすためだけに整列するように墓石が並ぶ空間は、生者の都合で主役であるはずの死者の魂を強引に縛り付けているように見えるからだ。それなら、亡くなったその場所で、静かに弔った方が彼ら彼女らにとっては安らげるかもしれない。
 もっとも、死人に口なし。何を想っているのかはまるで分らない。

 それなのに、アルティア=ウィン=クーデフォンは会話をするようにまっすぐに立っていた。

「エレお姉さま。どうしたんですか。急にいなくなったりして」
「わーお」

 死者への冒涜もありかもしれない。
 だが許して欲しい。いつものように目を丸くして自分を見てくるこのガキを、貴様らの仲間に加えてあげるのだから。
 まあ、ご両親の前のようだから許してやろう。
 歩み寄りながら、墓石に刻まれた文字は目に入っていた。

「なんでここに?」
「エレお姉さまが聞いたんじゃないですか。私が何を考えているのか。それならご案内しようと思いまして。お父さんとお母さんにご挨拶もしたかったですし」

 ご案内とは突然の全力疾走のことを言うらしい。知らなかった。今度ふたりで魔物に囲まれたら安全な場所にご案内してやろう。

 優れたガイドは墓石の前でしゃがみ、目を瞑った。

「いつ?」
「私がちっちゃなときです。でも、今でも覚えてますよ、最後に出かけたときと、最後にお帰りになったときを。もう、助からないとみんなが言っていました」
「……死に目には会えたのね」

 何の慰みにもならない言葉をこの口が言った。
 ティアは目を瞑ったまま、静かに続ける。

「あのとき、魔門流しをやったそうです。だけど上手くいかなかったみたいで、詳しくは分からないですが、お父さんとお母さん、何かに浸食されているように苦しんでいました。誰も、何もできなかったんです」

 エレナも目を瞑った。
 散々死者だの魂だの考えていたが、実のところそういうものはエレナ自身信じていない。
 だがそれなのに、冒涜することはできない。不思議なものだ。

「私はもう、びっくりしましたよ。何が起こったのか分からないままで。いつものようにおふたりを見送って、いつものようにおふたりを待っていたのに、突然、です。私の知らないところで、始まって、終わって」

 ティアの背中は、小さかった。
 その背中は、かつての自分の姿かもしれない。
 何も知らないまま始まり、何も知らないまま終わる。
 それがどれだけの不安と絶望を感じるのか、自分はこの身で味わっていた。

「エレお姉さま。私が何を考えているのか聞きましたよね」

 ティアは立ち上がり、微笑んだ。

「私はですね、そのとき思ったんです。誰もが無理だと言うのなら、私がそうなろうと。私が一生懸命頑張って、どこへでも駆けつけて、どんなに傷ついている人でも救おうと。だらから、私は誰かの役に立ちたい。そうじゃないと、あのときの気持ちをまた味わうことになる。そんなの嫌です。あはは、私はやっぱり、自分勝手なんでしょう。誰かを救っても、結局自分のためなのかもしれない。それでも、それでも誰かが助かるのは、とっても嬉しいことなんだって思うんです」

 目的と手段が入れ替わっている。
 冷めた心で聞けばそう響く。
 だがエレナは、口を挟まなかった。

「漠然としていて、具体的にはやっぱり分からないですが、誰かを救いたい。喜んでもらいたい。それが私の考えていること。したいこと。されたいこと。私の―――ルーツです」

 本質的に、自分との違いを感じる。
 ティアは絶望の淵から、二度と繰り返さないために救いを選んだ。
 対して自分は、原因の破壊を選んだ。
 根本的なこの差は、埋まりようもないのだろう。

「やっぱりあんた、変ね」
「なな、いやいや、実力不足は重々承知ですが、これからも精進いたしますよ」
「だから変なのよ」

 エレナは、背を向けて歩いた。
 背後で慌てた様子の足音を聞きながら、エレナは嫌でも目に入る巨大な神門を見上げた。

 あそこからなら、魂とやらは見えるのだろうか。
 アルティア=ウィン=クーデフォンの行く末を、見守ることはできるのだろうか。

 うんともすんとも言わない神門は、エレナにとっては、くだらない岩山にしか見えなかった。

―――***―――

 誰か親切な人に運ばれた。
 女性だったと思う。何か自分に言っていた。期待を向けてくれているのだろうか。申し訳ないが、まるで頭に入ってこなかった。
 ここは医務室らしい。
 ベッドにうつ伏せになりながら、顔を全力で枕にこすり続ける。

「話しちゃった、話しちゃった、話しちゃいました」

 リリル=サース=ロングトンは、枕をベッドからふるい落とさんばかりの勢いで身体中をうごめかせた。
 震える指先で何とか枕を掴むと、力強く抱き寄せる。
 顔は、燃えるように赤くなっていた。

「ヒダマリ=アキラ、彼が、そう。ああ、声は聞いていたのに……!」

 ガシガシと頭を掻きむしり、リリルはようやく動きを止める。
 ヒダマリ=アキラの存在を認知したのはあの“誘拐事件”だ。
 当時多くの魔術師が参加した中で、未熟な自分も活躍しようと意気込んでいたのだが、結局のところ大群と一緒になってあの巨獣に砲撃を浴びせることしかできなかった。
 というのも、アキラとその一派がすでに伝説の巨獣を撃破寸前まで追い詰めていたからだ。手柄を取られたような感覚も味わったが、その顛末に、彼らはどこかに“飛ばされて”しまった。
 だが、そのときの彼の行動は心に焼き付いた。
 危険をいとわず巨獣に立ち向かう勇気。わが身が犠牲になろうと迷わず被害を最小限に抑えようとした叫び。その姿は、自分が目指す勇者という像に他ならないと。

 それからというもの、彼の噂は所構わず耳に入った。
 百年戦争、雪山の伝承、どれもこれも、誰もが1度は耳にしたことがあるであろう神話クラスの大事件だ。
 魔門破壊も彼がやったという噂があったが、それが異なることは知っていた。自分の情報収集に抜かりはない。
 そしてその話を聞くたびに、勇者として彼に負けられないと自分を奮い立たせられたものだ。
 追いつこうとするたびに、その背中が離れていく。そんな先輩の勇者と、きっといつか会って話をしてみたいと思い続けていたものだ。

 なのに。

「馬鹿ですか私は」

 道案内をしてくれる親切な人だと思い、そして、自分を知っていたことにいい気になってしまうとは。
 そして彼にとっては分かりきったような話を調子に乗って得意げにしたような気もする。
 そういえば、迷惑そうな顔もしていた。
 アキラがアイルークを訪れると聞いて、遠路はるばるここまで来たのに。油断した。最悪だ。

「ああ……、時間を戻したい。ほんの数時間、やり直したいです……」

 だが生憎と、自分はその力を使えない。

「とに、かく」

 リリルはベッドから跳ね上がるように立ち上がり、ぐっと拳を握った。

「今ならまだ挽回できます。そして、勇者としての心構えをお聞きしなければ。うんうん、私はまだやれます」
「あら良かった。元気そうね」
「ひぅっ」

 せっかく熱が引いてきたと思った顔が、また熱くなっていく。
 顔を向ければ、医務室の出口に、先ほどあった女性の魔導士が立っている。

「今の、聞きましたか?」
「聞いてないわ。そう言わないと、また倒れられちゃいそうだしね」

 何とか持ちこたえられた。
 女性は静かに中に入ってくる。
 確か、アラスールと名乗っていた。彼女がここまで運んでくれたのだろう。

「ご快方ありがとうございます。ですが、もう大丈夫です」
「ええ、さっきも聞いたわ。それより、あなた、リリル=サースロングトンよね」

 リリルは、すっと身体の熱を引き、神妙に頷いた。
 魔導士にそう言われるということは、真剣な話なのだろう。

「さっきの話、どこまで聞いていた?」
「一応は。魔門流しならぬ魔門破壊をするつもりのようですね。噂は聞いていましたが。正直、正気の沙汰とは思えません」

 アラスールは満足げに笑った。

「そうね、成功率は格段に低いわ」
「あら。楽観視するようなこと言っていませんでしたか?」
「私はこれでも隊長職でね。と言っても、十人いるかいないかの小さな部隊のだけど。だから士気を下げるようなことは口に出せないわ」
「このアイルークでやることがどういうことか分かっているんですか?」
「残念ながら、“決定”なのよ。この実験は。上にかけ合ったのは本当。馬鹿じゃないの、ってね。失敗したときの被害なんて分かりもしない。でもね、失敗してでも実験しろってさ。だからね、私はそれを実行するわ。決まってしまったことの成功率を可能な限り上げるお仕事だもの。国仕えの悲しき性ね」

 アラスールは歩み寄ってきた。
 ピリとした空気が伝わってくる。彼女は意図せずなのかもしれないが、発する言葉に、態度に、雰囲気に、鋭さと重さを確かに感じた。

「あなたまで来てくれたのは幸運だった。それで、どうする?」
「……彼は何と言っていましたか」
「ヒダマリ=アキラならイオリちゃんとデートの約束があるって帰っちゃったわ。……って、何静かに座り込んでいるのよ。デートは冗談よ冗談。なんか怖い顔してたけど」

 アラスールは隣に腰かけてきた。
 彼女が自分を尋ねてきた理由は分かる。

 成功率が格段に低い。
 失敗したときの被害は計り知れない。
 だが成功すれば、多くの者が救われる。

 それを前にしたときの自分の答えは、いつだって、決まっている。

「私はやります。ご協力しますよ、勇者として」

―――***―――

「ここで話そう」

 手ごろな路地裏を見つけたから、アキラは歩む速度を緩ませず突っ込んだ。
 背後からついてくる気配を探りながら、大通りの声が聞こえなくなったところで立ち止まる。
 イオリは、いつもの冷静な瞳を携えていた。

「今回ばかりは聞かせてもらうぞイオリ。魔門破壊。こいつは、“一週目”でもあった出来事だな?」

 クーデフォン。
 その名を聞いて、すべてが確信に変わった。
 この出来事は、自分たちの旅に大きく関わっている。

 イオリは、この事件にアキラたちを関わらせないようにしていた女性は、ゆっくりと頷いた。

「何から話そうか」
「全部だ。お前がやってきたこと、全部、話してくれよ」

 イオリはピクリと指先を動かした。だが口には運ばず、代わりに大きく息を吐いた。

「このアイルークに来てからだ。僕はずっと、この事件のことを考えていた」
「それで魔術師隊の支部に通っていたのか」
「全部が嘘じゃないさ。騒ぎが起きないようにしていたのは本当だ。そして同時に、気づかれない範囲で、話を聞き回っていた。今回も、魔門破壊の計画が進んでいるのかってね」

 イオリは壁に背を預けた。

「流石に小さな村の支部じゃ何も分からなかったけど、やはり噂は漏れるものだね。モルオールの魔導士がこの町に訪れていると話を聞いたよ」
「アラスールとかいうあの人か」
「ああ。そして彼女がいるということは、やはり“起こる”と思ったよ。アルティアの故郷でもあるし、ここへ向かう自分たちの進路を変えるわけにもいかなかったしね」

 自分たちが選んで向かった道は、過去に踏み荒らされている。
 記憶の封が解けない“一週目”。
 自分たちは、やはり同じ道を選んでいる。

「それで、何でだ。何でそれを避けようとするんだよ。“一週目”の出来事なら、やった方がいいだろう」
「避けられるなら避けた方がいいと思ったんだよ。アラスールも言っていただろう。成功率がどうのこうの。その確率が、僕は極めて低いと判断した」

 頭に血が上っていくのが分かった。

「何を今さら言ってんだ。確率? それを語ることに意味が無いってお前だって分かっているだろ」

 ヒダマリ=アキラの日輪属性の力なのか、あるいはこの世界が“三週目”だからだろうか。
 細部は違えど大局は揺るがない。
 だからこそこうして自分たちは再び出逢い、旅をしている。
 そんなことは、目の前のイオリが誰よりも理解しているはずだ。

「なら、言おうか。結末から。この魔門破壊は“失敗する”。まさしく実験さ。僕たちは命からがら逃げ延び、どこで使われる分からない何かの糧になった。そんなリスクを君はとれるのか?」
「なっ」

 ホンジョウ=イオリが失敗と断じる。
 それがどれほどの意味を持つのかアキラは深く知っていた。

「失敗って……、アイルークはどうなったんだよ。まさか、」
「……いや」

 イオリは小さく首を振った。
 その動作だけで、アキラの脳裏をよぎった最悪の光景は消えていく。

「魔門破壊は失敗したけど、最悪の事態は防いだよ。あの後も、アイルークは平和そのものさ。大事にはなったけど、被害としては最小限さ。その辺りは、君やエレナたちの功績だと言える。失敗したときのリスクを、可能な限り軽減できたんだから」
「なんだよ」
「可能な限り、だったけどね」

 含みのある言い方をされた。
 アキラは奥歯を噛んで、震えた声を出した。

「なあ、イオリ」
「ん?」
「お前、今の俺が弱いって言ったな。だから、今回は参加させないようにしていたのか」

 ずっと、頭の中にあった黒い思考が噴き出してきた。
 待て、と思う前に、口が動いた。

「お前は俺を、信頼していないよな」

 イオリが顔を上げた。その瞳の色は見えない。そこに映った自分の顔も分からなかった。

「……そんなわけないさ。今の君は僕とサラを救ってくれた。だから、感謝している」
「そんなことを聞いてんじゃねぇよ。“一週目”の俺だったら、俺がその域に達していたら、お前は隠したりしなかったんじゃないか」

 イオリが拳で壁を殴ったのが見えた。
 言い出したら止まらなかった。酷く後悔する。
 自分の倍の記憶を有するイオリは、また、苦しんでいるのだ。

「……否定はできない。信用はしている。けど、頼ることはできない」

 イオリが滲み出すような声で断じたその事実を、アキラは重く受け止めた。
 背中が見えているかどうかも怪しい“一週目”の自分。
 それですら、魔門破壊は失敗したと言う。

 今の自分では、イオリはこの事件が危険だと判断したのだろう。
 だけど、物語を捻じ曲げると、手痛いしっぺ返しを食らうことも同時に知っている。
 だからこそ、苦悩して、迷って、それでもここまで旅を続けてきた。
 “一週目”の出来事を忘れた自分が恨めしい。その苦しみの半分も理解できていない。

「イオリ」

 アキラは、イオリに詰め寄った。
 殴るなら殴れという位置で。

「お前の悩みを分かっているなんて言えない。そして、こんなことを言う資格が無いのも分かっている。だけど、俺を、俺たちを信頼してくれないか。お前が悩んでいるのは、全部俺のせいじゃねぇかよ。俺が世界を狂わせたせいだろ。だから、どんなことだってしてやる。全部俺に放り投げてくれよ」
「……それは、できない」

 震えた声だった。
 信用はできるが、信頼はできない。
 それが、今の自分に下された正当な評価だった。
 彼女は苦しみ続けている。それは、この“三週目”で出逢ったときから変わっていない。
 知っているがゆえの毒々しい呪いに、彼女はひとりで立ち向かい続けている。
 だから、アキラは諦めるわけにはいかない。彼女のことを知り続けることを止めなられない。
 自分が救いたいと思っている存在のひとりだ。

「なら」

 アキラは、まっすぐにイオリを見た。
 この答えが、彼女が苦悩して出した答えに背を向けることになると分かっているが、それでも。

「今回は魔門の破壊を成功させる。それで信頼してくれ。“一週目”の俺に出来なかったことを、今の俺がやってやる。それでどうだ」

 イオリは、ふうと息を吐いた。
 自分が言い出しそうなことなど、きっと自分が魔術師隊の支部に訪れたときから察していたのだろう。

「アキラ。さっきも言ったけど、前々回の君にできなかったことを今の君はできたんだ。サラを救えた。だけどこの魔門破壊はそうはいかない」
「それでも、やってやる。だからイオリ、やろう」

 グ、と喉の音が聞こえた。

「なら、君が決断してみてくれ。君は犠牲を払うことを選べるか?」

 うつ向いたままの囁くような声だったのに、脳裏を揺さぶった。
 選べるか。
 とてつもなく、重い言葉だった。

「何を言って……」
「魔門破壊。それ自体はまさしく成功率の問題だろうね。今回は、確かに成功するかもしれない」
「じゃあ、」
「だけど、確実に失うものもあるとしたら、君はそれを選べるか?」

 話が見えない。
 イオリが戦っているものの正体が分からない。

 彼女は、顔を上げ、アキラの顔を睨みつけるように見た。

「前々回の魔門。その過程で、あのときの君にとって大きな問題が起こった」
「……何が起きたんだ」

 頭の奥で、何かが熱くなってきた。
 潮の満ち引きのように、煮えたぎる何かが漏れ出し、収まり、それでも徐々に脳が侵食されていく。

「前々回の魔門破壊。破壊は失敗したけど、アイルークは無事。だけど、犠牲者は確かに出たんだ」

 熱に浮かされたように、頭が熱くなってくる。
 視界は揺れ、得体の知れない何かが身体中を揺さぶる。
 イオリの眼に映る自分の姿が、一層見えなくなってきた。

「犠牲者の名前はリリル=サース=ロングトン。僕らが散々探し回って見つけた最後のピース。ヒダマリ=アキラの最初の月輪の魔術師だ」

------
 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 今回の話は、アイルークでの最後の物語を予定しています。
 最後の大陸の話が始まる前の、最後の物語。
 しっかり終わらせて、さっさと話を進めていきたいんですが……また、(起)を使ってしまった……。
 お付き合いいただけると幸いです。
 では…



[16905] 第四十八話『別の世界の物語(承)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2018/11/17 23:39
―――***―――

 力いっぱいに斬りかかったら、空を切った。
 泳いだ身体を強引に引き戻すと、今しがた攻撃を放ったはずの正面から、一撃、二撃と鋭い斬撃が飛んでくる。
 魔術を発動。身体能力を極限にまで上げ、力強く地を蹴って背後へ離脱した。
 すると、読まれていたかのように追撃が来る。
 ならばこちらもと攻撃の軌道を読み、迎え撃つように斬撃を見舞った。

 バヂン、と歪な音が響き、相手の武器が宙を舞う。
 好機と思った瞬間、違和感が脳裏をよぎる。
 悪寒を強引にもみ消し、僅かも硬直せずに追撃を放つべく前へ出る。

 その瞬間、足が払われた。
 再び泳ぐ身体が、背後の相手が再び武器を手にした感覚を拾った。

「私の勝ちでいいか?」

 ピタリと首筋に充てられる木刀。
 実戦ならば命を刈り取られていただろう。

 ミツルギ=サクラのその言葉に、ヒダマリ=アキラはゆっくりと頷いた。

「……お前が武器を手放すとはな。軽すぎたよ」
「誰の影響かな。ただ、反撃してくるとは思わなくてな。もし力を込めていたら、手が使い物にならなくなっていたかもしれない」
「大丈夫だったか?」
「まあ、ギリギリだ。少し痺れている」

 本気で切り上げた奴が言うのもどうかと思ったが、悪かったとだけ呟き、アキラは離れ、再び構えを取る。

「もう少し付き合えるか?」
「……いいぞ。ただ、武器は変えた方がいい」

 サクはしびれを取るように手の様子を確かめると、新品の木刀を取りに歩いていく。
 使っていた木刀は、いつの間にかひしゃげていた。

 日も昇っていない、早朝。いや、深夜と言った方が近いかもしれない。
 アキラたちはヘヴンズゲートの広場にいた。
 周囲は商店が囲んでいるが、どうやら民家ではないらしい。魔術師隊の見回りに何度か声をかけられたが、騒ぎを起こしても問題はないようだ。

 この町に来た目的である、アルティア=ウィン=クーデフォンの両親に会う用事は、昨日達成できた。
 ティアの両親に会い、旅の話を語らい、夕食を振る舞ってもらった。
 多分自分は、うまく笑えていたと思う。
 そしてティアを一旦家に預け、翌日の合流場所を伝え、自分たちは再び宿に戻って寝た。

 だが、身体の奥で蠢く何かが、夜明けまで何もせずにいることを許さなかった。

「ほら、アキラ」
「ああ、ありがとう」

 ティアの両親は武器屋を営んでいる。サクは鍛錬用にいくつか木刀を購入していた。
 受け取った木刀は、またすぐにでも破損しそうなほど、弱々しく感じた。

「アキラ。本気で私に勝つつもりか?」
「ああ」

 この時間は普段、流石のサクも眠っているらしい。
 だが、不穏なことに自分には交代制で見張りがついていた。今日はサクの番だった。彼女が忠実にもアキラの部屋の前で座り込んでいるのを見たときは度肝を抜かれたが、無性に身体がざわついた。
 彼女はアキラの従者であり、そして剣の師でもある。

「言っては何だが、これは私に有利すぎるぞ」

 サクに頼んだのは、魔術ありの実戦形式の鍛錬だった。
 常識外れの時間だったが、彼女は深く聞くことなく頷いてくれた。
 宿からこの広場に来るまでの間も、何も、聞かないでいてくれた。

「アキラ。私は対人戦なら基本的に負けない」

 サクは鋭く言う。
 彼女の言葉は、アキラの目の前に高い壁を作るようだった。

「剣技と速度。僅かにでも隙があれば急所を切り裂ける。対してお前は武器がそれでは本気で魔術を発動できない。―――さあ、どうする?」

 アキラは無言で木刀を構える。
 不可能だ。
 頭で計算すればすぐに分かる。

 サクの言った通り、この戦いは彼女の土俵だ。
 アキラの勝ち目など万にひとつもないだろう。

 だがサクは、諦めろとは言わなかった。
 無理難題を押し付けて、それでもなお、彼女は退路に目を向けさせない。

「キャラ・ライトグリーン」

 魔術で身体を強化し、アキラは突撃する。
 サクの身体が僅かに引いたと思った瞬間、目の前から木刀が鋭く飛んでくる。

 彼女は速く、鋭く、強かった。
 辛うじて防ぐも、その一手二手がアキラに隙を作るよう計算されている。
 いたるところから飛び続ける鋭い斬撃に、アキラの選択肢が急激に狭まっていくのを感じた。
 打破しようと離脱すれば、それこそ彼女の言う隙を生じることになるのだろう。

 何が足りない。
 木刀を振り、アキラは冷めた瞳で前を睨んだ。

 自分は、この世界に来て、ほとんど毎日、こうして鍛錬を続けている。
 マメを何度も潰すほど必死で剣を振るい、倒れ込むほど走り続け、激闘も潜り抜けてきた。世界中で勇者ともてはやされていることは気恥ずかしいが、それに見合うほどの道を歩んで来たという僅かばかりの自信もある。

 だが、足りていない。届いていない。そう断じる確たる理由がある。

 その背中が、まるで見えない。

「っう!?」

 読みが当たった。
 繰り出されたら最も苦しいと思った位置に強引に木刀を振ったら、バチリと鈍い音が響く。木刀は宙を舞わず、彼女の手に留まっている。衝撃は響いたはずだ。
 少しでも衝撃を受け流すためか、くるりと回ったサクに接近しようとし、慌てて背後へ離脱する。
 悪寒の通り、サクは回りながら左手に持ち替え、アキラの接近を目論んでいた。

「はっ、はっ、はっ」
「……それでいい」

 右手を振りながら、サクは静かに微笑んだ。
 アキラは息を切らせながら、木刀を下ろす。

「不穏なものを感じたらすぐにでも離脱しろ。お前も実戦を通して、そういう勘を養ってこられているんだ」

 こちらを見通すようなことを言うサクは、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「休憩にしよう。まだ日も昇っていないのに疲れ果てるのもどうかと思うしな」
「少し休んだらまた頼む」

 どかりと座り込み、アキラはそれでも、木刀を強く握った。
 数度打ち合っただけの木刀は、何とも頼りなく感じられた。

 サクは隣に腰を下ろし、丁寧に木刀を脇に置く。

「ふ」
「何がおかしい」
「いや、昨日の話を思い出してな。私たちが最初に逢ったときのことだ。見違えるほどだよ、アキラ。お前は随分と強くなった」
「俺はまだまだなんだろ」
「ああ、そうだな。だけど、その成長を認めないわけにもいかないさ」

 彼女は深くは聞いてこない。
 ただ隣にあり、そしてアキラの目の前に広がる道を共に見ているような瞳を浮かべる。

「エリーさんから魔術を、私から剣技を。お前はなんだかんだ言いながらも着実にこなし、成長している。まあ、突然いなくなるのは昨日で最後にしてもらいたいが」

 昨日はサクたちから突然離れたことで、大目玉を食らったことを覚えている。
 ティアの家でなんとか合流できたときには大騒ぎで、両親との感動の再会に水を差してしまった。
 もっともそんな騒ぎが起こったことが、ティアとの出来事らしくて少し笑ってしまった。
 ああ、なんだ。ちゃんと自分は笑えていた。

「魔力も、体力も、そして、気力も。当時とは比べものにならない。きっとお前は、まだまだ成長していくんだろうな」
「随分持ち上げるじゃないか。調子に乗るぞ、俺は」
「そうだな、私にしては少し言い過ぎたかもしれない。だが事実だよ。そして、それで怠けることももうしないだろう」

 なら、何が足りない。何が、届いていない。
 何を間違えたのか。

 何も聞いてこないのに、サクはアキラの壁が見えているようだった。
 彼女の肩は小さく、しかし頼もしく感じた。

 剣の師は、まっすぐな瞳で前を見ていた。

「お前の言葉を返すようだがな。お前は、確実なものを築き上げてきているよ。だから、そんなに焦るな」

 その言葉はジンと心の中に落ちていった。
 しかしそれは、黒い何かに呑まれ、すぐに見えなくなっていく。
 この黒い感情は、いつまでも心の中に蠢き続けている。

「ん。それとだ」
「?」
「せめて今だけは集中して私を見ろ。怪我をしても知らないぞ」

 サクが立ち上がり、距離を取った。

 そろそろ月が沈み、そして日が昇るだろう。

 アキラは緩慢な動作で構えを取った。
 この黒い感情が、汗と共に少しでも流れ出てくれることを祈って。

 ヘヴンズゲートに到着してから3日目。

 2週間後に、魔術師隊が計画している魔門破壊が行われるらしい。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 リリル=サース=ロングトン。
 昨日出逢ったばかりの少女で、そして、ヒダマリ=アキラ、スライク=キース=ガイロードと並ぶ勇者として、世界中へ話題を提供している。

 あの劣悪で凶悪な“北の大陸”モルオール出身で、生まれ育った村は魔族の被害を受けて滅んだという。
 それからの足取りは不明だが、ここ最近、目立って活躍するようになってきている。

 どうやらこの世界では、事件が起こると数段階に分類されているようだ。

 ひとつは一般クラス。
 国同士の政治的な問題や、商品技術の公表だ。
 この手の情報は出回るのが酷く遅い。
 何度見返しても昨日の日付の新聞なのに、載っている情報は古いものでは半年前の内容だったりする。
 同じ大陸の内容でも、知るのに数週間はかかるそうだ。

 次は襲撃情報。
 ほぼすべての出来事がここに分類される。“知恵持ち”や“言葉持ち”レベルの魔物の出
現や、大規模な町村の破壊などが挙げられる。
 アイルークのリビリスアークの壊滅や、クロンクランの出来事もこのレベルに該当した。
 情報の出回りはある程度早いが、同じような事件が頻発してすぐに流れていってしまう。
 また、原因不明の被害が出た場合も、一応このレベルで発信されているらしい。

 そして、滅多に起こらない神話レベル。
 シリスティアの誘拐事件、タンガタンザの百年戦争、そしてモルオールの魔門破壊。魔族の出現情報もこれに該当する。
 奇跡と言う他ない大事件の解決は、襲撃情報クラスに比べて広まるのは僅かばかり早い。
 また、当然のことながら延々と紙面を飾り続ける。
 未だに大樹海の事件を取り上げられている紙面があることには少なからず驚いたが、匹敵するものがあろうがなかろうが、広く世界に周知されるべき出来事なのだろう。

 最後に、最も早く出回り、世界に轟くのが、神族の行動だ。
 最近ここではないどこかの神門が襲撃に遭ったらしいが、神の奇跡と言わんばかりに魔物はすべて滅されているらしい。

 アキラはふと、空を見上げる。
 建物が邪魔でここからは神門がある岩山は見えなかった。心地よく思える。

 アキラは珍しくも勤勉に、図書館に来ていた。元の世界では図書館には足を運んだことも無く、なんとなく暗いイメージを持っていたのだが、ここは妙に洒落ていて、テラスのような読書スペースがあった。
 サクとの鍛錬後、宿に戻って軽く汗を流し、そのまま何も言わずに宿を出た。
 昨日の今日でこれだ。あとで色々言われるだろう。だが、集合場所は決めてあるし、なにより少しでもひとりになりたかった。

 未来で起こることを経験している、ホンジョウ=イオリとは、昨日以降、まともに会話をしていない。

「……これもか」

 まったく外の情勢に触れていなかったアキラは、目に留まった限りの新聞を持ち出し、内容を飛ばしながら読んでいた。
 確かに随所随所に自分の名が出てきているようだ。そして、スライク=キース=ガイロードも登場してくる。
 そして、次に目を引く名前は、リリル=サース=ロングトンだった。

 イオリが前に言っていた通り、この3人が、世界中から注目を浴びる存在となっているのは間違いなかった。

 リリルは主に、襲撃情報レベルのニュースによく名が出てくる。世界平和への貢献度合いが強く感じられた。
 その部分に関して、ほとんど神話クラスにしか名が出てこないスライクには見習って欲しい。
 ただ、リリルも神話クラスの事件を何度か解決しているようだ。

 そして今、彼女はこのアイルークのこの町にいる。
 アキラたちがこの大陸に来た理由でもある巨大マーチュは、彼女が撃破した。
 見返すと、彼女は世界各地の大規模な被害にすぐにでも駆け付けている。
 そして、その原因を下し、少しでも平和をもたらせていた。

 流されるままに巨大な事件に巻き込まれているアキラとも、目的以外のものには何の興味も抱かないスライクとも違う、平和のために活動的な勇者。

 そんな印象を受けた。

「月輪の魔術師……か」

 彼女に出逢ったとき、自分は爆発物でも押し付けられたように距離を取ろうとした。
 下手に“二週目”で出逢っていたからだろう、何らかの火種のような気がして警戒心を露わにしたのだ。
 だがもし、“一週目”だったらどうだったか。

 “今”のアキラにとって、月輪の魔術師は“例の彼女”以外にあり得ないと強く思っている。一刻も早く逢いたいと願う。

 だがそれが無かったとき、自分は何を思うだろうか。
 その問いに、遠く離れた場所に立つ、自分の背中は答えてはくれなかった。

 イオリは言った。
 1週間後に計画されている魔門破壊は失敗すると。
 そしてその過程で、ヒダマリ=アキラの月輪の魔術師―――リリル=サース=ロングトンは命を落とす、と。

 魔門破壊などという厄介事を持ち込んできた魔導士―――アラスール=デミオンには返事をしていない。会ってさえいなかった。
 現在、自分にはこの町をすぐにでも立ち去る権利がある。
 だが“一週目”。ヒダマリ=アキラは協力することを選んだ。
 そしてその結果、リリルは犠牲者となった。

 “一週目”の出来事には可能な限り則った方がいいはずだ。
 それが物語の在るべき姿のはずなのだから。

 だが、高がその程度のために、リリルという世界の希望を犠牲に出来るのか。
 自分にそれを選べるのか。

 イオリは自分に強く問うてきた。
 犠牲を選べるか、と。

「……くそ」

 借り物なのに、新聞を握り締めていた。

 イオリは、リリルの命を考えて、この事件そのものをアキラの耳に入れないようにしていたのだろう。それを自分は、話してくれないイオリに業を煮やし、心の中で酷く非難していたのだ。
 自分が選んだ道だ、どれほどの苦難があろうともそれに挑み、それを乗り越えるつもりだった。だからこそ、圧倒的優位な情報を持ちながら理由をつけてはそれを隠すイオリに憤りを感じた。
 彼女の眼前に広がっているものなど何ひとつ考えようとしないまま、半ば強引に背中を押していたのだ。

 なんてことだ。
 自分は、イオリの悩みを、苦しみを、その半分どころか微塵にも理解していなかった。
 彼女のことを知りたいと、思い続けていたはずだったのに。

「こ、こほり」

 背後でわざとらしい咳払いがした。
 新聞を握り締めたことを咎められたと思い、慌てて手を離すと、咳払いの主はまっすぐにアキラの正面の席に回り、ぎこちなく微笑んだ。
 衝撃を受けた。

「ご、ごきげんよう、です。こちらの席、よろしいですか?」

 オレンジのローブに真っ白な肌を覗かせて、リリル=サース=ロングトンが目の前に現れた。

「リ、リリル」
「あ、はい、リリルです。昨日は、その、ええと、すみませんでした」
「……具合が悪かったなら仕方ないし、俺は何もしてないよ」
「そうではなくてですね、あの」
「とりあえず、座ってくれ」
「は、はい!」

 図書館にしては元気な返事が聞こえた。
 丁寧に椅子を引き、背筋を立たせたまま、静かに腰を下ろす。
 カラクリのような動きだった。

「し、新聞ですか? 勤勉ですね」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、リリルは何をしにここへ来たんだ?」
「実は私も、その世界情勢を知るために……。ですが、すべて貸し出されていたので」

 悪いことをした。
 アキラは無遠慮に手あたり次第持ってきたのだが、マナー違反だったのかもしれない。

「いえ、いえ。いいんです。お、お読みになっていただいたあとで」
「?」

 新聞を差し出したら、腕をピンと伸ばして首を振ってきた。
 挙動がおかしい。昨日の病を引きずっているようにも見える。顔色を覗こうと首を傾げたら、彼女はその白い頬をローブですっぽりと隠してしまった。

「……そういえば昨日は悪かった。隠そうとしていたわけじゃないんだけど」
「あれはこちらが悪かったと思っています。お話を聞きもせず、強引に」
「それでもだ。自己紹介ってのは、結構慣れてなくて」

 ポーズで新聞をまくってみたが、まるで頭に入ってこなかった。
 爆弾、再び、か。
 彼女とこれ以上関わりを持つべきか、否か。
 判断しようにも、アキラの頭は正解を導き出せなかった。

 ただ、これ以上妙な誤解を生まないためにも、下手な嘘は吐かないことにした。

「改めて。俺はヒダマリ=アキラ。勇者をやっている」
「はい。存じ上げています。私はリリル=サース=ロングトン、です。同じく勇者を務めています」

 冗談交じりに、姿勢を正してリリルは笑った。
 アキラも釣られて表情が柔らかくなるのを感じた。
 神聖な雰囲気を宿しながらも、それを壊すことをいとわずにリリルは明るく笑う。
 この世界で初めて逢った、まともに会話が成立する同等の存在。
 一応ライバルということになるのであろうが、彼女の様子にまるで棘は感じられなかった。

 アキラは新聞をかさりと鳴らした。

「名前、結構見たよ。本当にいろんな人を救っているんだな」
「はい。ただ、本当は何かが起こる前に私がいられれば良かったんですが。それが救いになっているかは分かりませんが、少なくともそのお手伝いができていれば幸いです」

 模範のような回答だった。
 その返答には卑屈さも感じず、まっすぐな意思を感じる。
 心の底から思っていなければ出ないような声色だった。

「でも、それはアキラさんも同じですよね。ううん、それ以上の……。ええ、私も頑張らなければならないと思っています」
「俺は……、そう、かもな」

 リリルと違って、言葉を濁すことしかできなかった。
 平和。希望。夢。
 自分がそうでなければ、勇者とはそういう存在だと思っていただろう。
 だが、今の自分は果たしてそうだろうか。

 自分の旅は、自分の意思が強く反映された、自分勝手なものだと思っている。
 そしてそんな旅についてきてくれている彼女たちに報いなければならないのだと。

「……リリルはひとり旅なんだよな。色々大変じゃないか?」

 “二週目”に彼女と話したときも、そんなことを聞いた覚えがある。
 確か、あのときも彼女は得意げになって、微笑んでいたように思う。

「ええ。ですが、月輪の勇者レミリア様のように誠心誠意、頑張ります。……あ、そういえばご存知ですか? レミリア様を」

 アキラを知っていたとなると、異世界来訪者であることも知っているのだろう。
 何かの新聞にもそう書かれていたと思う。
 下手に嘘は吐かず、アキラは首を振った。

「レミリア様……、レミリア=ニギル様は、初代勇者様、そして、二代目勇者ラグリオ=フォルス=ゴード様に次いだ、三代目勇者です。証も何もなく、ひとり魔王を討ったお方です」
「それは、凄いな」

 前にも聞いた覚えがある。
 ひとりで魔王を討った、レミリア=ニギル。
 旅の辛さを知り、仲間に頼りきりのアキラからすれば、常軌を逸した存在のように思える。それは勿論、目の前のリリルに対しても思うことだが。

 アキラの視線を受け、しばらくすると、しかしリリルは口をもごもご動かして、我慢できないといった様子で息を吐いた。

「……その、一応、説明はさせてください。誤解は作りたくないんです」
「?」

 リリルはこほりと咳払いをした。

「レミリア様は、その名を広く知られている方です。……史上最低の勇者として」
「は?」

 リリルはまるで我が事のように、暗い表情になった。
 本当に表情がころころ変わる。

「当時のことは詳しく分かりませんが、最高峰の魔術師の結集と言われた初代、圧倒的な速度と最小限の被害で魔王を撃破した二代目と違い、レミリア様は、魔王の被害が世界中に広がり、あわや人間界の壊滅寸前と言ったところで、辛うじて魔王を討った方だったと言われています」

 なんと。
 この世界は1度滅びかけていたとは。
 平穏なアイルークにいる今、にわかに想像し難い。

「旅の道中、数多の方が犠牲になったそうです。仲間を得ては、失い。守るべきものも守れず、それでも、前へ進み続け、魔王の元に辿り着いたときには、最早すべてを失ったあとだったと聞きます。最終的にレミリア様は、失うことを恐れ、友を得ることすらできなくなっていたそうです」
「……それは」
「あ、それでも私は尊敬しています。レミリア様を」

 はっと気づいたように、リリルは両手を振った。

「レミリア様は、どれほど自分が疲弊していても、被害を受けたあらゆる町や村を訪れては、多くの方を救おうとしたそうです。あるときは何ひとつ救えず、あるときは敗れ、あるときは囚われ、それでも、決して諦めずに世界のすべてに救いの手を伸ばそうと奔走したお方です。その姿が勇者でなくて何なのでしょうか」

 以前、スライクが世界の裏には手を伸ばせないというようなことを言っていた気がする。
 アキラもそう思うし、今こうしている間にもどこかで誰かが被害を受けているだろう。
 それに救いの手を伸ばすことは、不可能だ。
 だがレミリアとやらは、それをやろうとしたらしい。
 話だけ聞いていると恐ろしく要領の悪い女性のようだが、誰もが思い描く勇者とは、きっと、そういう存在のはずだった。

 すべてを救おうとした結果、世界が壊滅しかけたレミリア=ニギル。
 己が思うまま進み、迅速に魔王を撃破したラグリオ=フォルス=ゴード。

 偉大なる先輩たちは、それぞれが自分のやり方で世界を救ったらしい。
 そうなると、気になってきた。

 自分と同じ系統の勇者―――初代勇者とは、どのような人物だったのだろうか。

「ですから、ですね」

 リリルが、熱が籠った声を出した。
 顔が赤くなっている。気が高ぶっているときは分かりやすい。

「私もそうありたい。いえ、世界を滅ぼしかけたいわけではないですが、世界のすべてを救いたい。先を見ていないと言われようとも、目の前のことに自分のすべてを注ぎたい。そうすることで、誰かが救えると信じて疑わない人でありたいです」

 熱弁だった。
 言葉以上に、彼女の感情を強く感じた。
 彼女のまっすぐな誠意が伝わってくる。

 レミリア=ニギルもリリルのような人物だったのだろうか。
 史上最低の勇者と言われているらしいが、それは埃を被った資料を見ただけの何も知らない歴史学者が、ただ被害数で言っただけなのだろう。
 腹が立った。

 そして、拳を握ってまで理想を追うリリルを見る。
 もし自分が、“例の彼女”に逢う前に、リリルとこうして話をしていたら、この口は何と言っていただろう。
 彼女はひたむきで、まっすぐに前を見ている。
 自分たちと同じ志のリリルに対し、自分は、共に旅をしたいと思ったのではないだろうか。

「……あ! す、すみません。私ばかり話して」
「いや。色々知れたよ、ありがとう。……なあ、リリル。昨日の話だけど、魔門破壊は、」
「え? はい。協力しますよ」

 なんてことのないように彼女は言った。
 求めれば、ためらうことなく応じる。
 そのまっすぐな姿に、アキラは心の濁りが強くなるのを感じた。
 運命が、彼女の行く末を力強く決定付けているようだった。

 そして彼女の大きな瞳が、あなたも当然参加するのだろうしという善意の黒みを帯びて、アキラを捉えてくる。

「こ、こほり」

 握った拳を口元に持ってきて、また、わざとらしく咳払いをした。

「では、私の話はここまでとして……。あの、で……、……できたらアキラさんのお話を聞かせてくれませんか? あの、私も勉強させていただきたくて、ですね」

 自分の経験から勉強することなど何もないのだが、リリルは強い興味があるらしい。
 新聞のことなどもう目に入ってはいないようだ。
 話すのは別に構わないが、しかし、時間がそれを許さなかった。

「悪い。俺、そろそろ戻らないといけないんだ」
「え」

 待ち合わせの時間が迫っている。
 丁度、リリルと同じようなことを考えている“彼女”を迎えに行かなければならないのだ。
 名残惜しいが、昨日の今日で行かなかったら何を言われるか分かったものではない。

「新聞、読むんだろ? いくつかは残した方がいいか?」
「また……やって……しまった…………」
「リリル?」
「ふえ? あ、はい。そのままで結構です……、私が使いますので……」

 全身が透けて見えるほどリリルが気落ちしていた。
 色々教えてもらったのに、こちらから何も話さないのも悪い気がする。

 ひと回りもふた回りも小さく見えるリリルの姿を見て、アキラは思考を働かせようとした。

「明日」
「え?」
「明日も、会えないか? そのとき今日のお礼をしたいんだけど」

 結論を出す前に、口が動いていた。
 沈んでいたリリルが飛び上がったかと錯覚するほど明るくなっていく。

 しまった、と思った。
 それと同時に、まあいいか、とも思った。

「で、で、では、ど、どちらにお迎えに行けばいいですか?」
「ここでいいよ。時間は作れると思う」
「はい! では、お待ちしています」

 これ以上ここにいると妙な気に捉われるかもしれない。明日合う約束をするあたり、もう手遅れかもしれないが。
 アキラはできるだけ簡素に手を振り、背を向けて歩き出す。

 アキラ自身、失礼ではあるが爆弾だと思っているリリルと、明日も会う約束をしてしまった。
 よく言われるし、自覚もしているが。

 自分が何をやっているのかのか分からなかった。

―――***―――

「え、めんどくさいわね」

 ホンジョウ=イオリが小さな賭けでもするつもりで説明したら、目の前の女性は大きな欠伸を返してきた。
 ここは宿から離れた喫茶店。
 時間は外れているようで、店内には自分たちしかいないようだ。
 合流時間までは未だ時がある。
 その前に、最も難を示すと思われた人物に声をかけたのだが、感触は思った以上に悪かった。

「ったく。珍しくあんたが私に声かけてきたと思ったら魔門破壊ですって? そんな面倒な……。それで、アキラ君はその話知ってるの?」

 エレナ=ファンツェルン。
 仲間内に向ける口調とは裏腹に、顔立ちもスタイルもすべての女性の理想と表現できる彼女は、頼んだお茶のカップをさも面白くなさそうに指でこすっていた。

「ああ。昨日その場にいたよ。それで、エレナはどう思う。正直、今の僕たちの戦力でも成功するかどうか」
「それであの正妻ちゃんやアキラの従者には知らせずに私に、ってこと。そうね。無理でしょうね」

 人智を遥かに凌駕する力を持つエレナは、容易くそう告げた。

「戦力うんぬんはどうでもいいとして。魔門なら私も見たことあるけど、あれは破壊するとかそういう感じじゃないわ。中から何が出てきてもぶっ殺してやるけど、そうね、空気みたいなもんよ。空気を壊せ、って言われてもね」

 乱暴なことを言うが、言っていることは正しい。
 魔術師試験や魔導士試験をパスしたイオリには分かる。
 魔門はガスのようなものだ。消し飛ばそうにもただ漂う。
 それを破壊とは、まさしく概念に対する挑戦だ。

「で、そう言ったらアキラ君は諦めたの?」
「返事は保留中だよ」

 痛いところを突いてくる。
 エレナなら、強引にでもこの町を離れてくれそうな期待もあったのだが、やはり賭けには負けそうだった。

「それに。ヨーテンガースの魔導士が破壊するって言ってんならある程度算段があるんでしょ? 大方魔門流しの応用ってとこかしら?」

 また痛いところを突かれた。
 まともに魔術を習っていないはずなのに、戦闘経験からか天性のものからか、エレナにはそういう感性がある。
 下手に隠し立てしてもこれ以上に機嫌が悪くなるだけだ。

「ああ。魔門流しは決して中を刺激しないように微弱な魔力を当てて規模を縮小させるんだけど、計画している魔門破壊はまるで逆だ。魔門はある程度魔術に近しいところがあるみたいでね。強烈な魔力を押し当てて、魔門の細部に至るまで術式を分解する」
「あら。そんなことしたら」
「そうだね。中から何が出てくるか分かったもんじゃない」

 魔門流しは、細心の注意を払った脳手術のようなものだ。
 難解な手順で、魔門の形式を維持したまま規模だけを縮小させることを狙う。
 僅かでも誤れば攻撃行為とみなされ、中から良くて魔界クラスの魔物の群れ、悪ければ複数の魔族が出現する可能性すらある。
 そんなものに対して強烈な魔力を流すのは脳みそに直にメスを投げ入れるようなものだ。
 地獄の門を力強く叩くことになる。成功しようが失敗しようが、大勢の何かが出迎えてくれるだろう。

「は、あのガキを届けに来ただけでこんなことになるなんてね。流石ねアキラ君。ほんっきで力いっぱい抱き絞めてあげたいわ」
「エレナはやる気なのかな」
「まあいいわよ。“あの場所”へ行く前にいくらか修羅場くぐってないと甘すぎると思ってたくらいだし」

 賭けには負けた。妙にエレナがやる気なのは誤算だった。
 こうなると、“あれ”が決定事項と言うことになる。
 イオリは気づかれないように拳を握った。

「あんたは否定派なの?」
「……そうだね。専門家の立場から言わせてもらうと、死ねと言われているようなものだよ。まだ魔族討伐の方が現実味はある」
「悲観的ね。まあ、あんたみたいなのがこの連中の中にいると分かっただけでも収穫だわ。楽天的な奴だらけだし」

 恐らく皆からは、エレナの方が楽天的だと思われているだろう。
 イオリはため息ひとつ吐き、握った拳をほどいた。
 どうにでもなれ。

「それで。その強烈な魔力ってのは? ヨーテンガースの魔導士がやるの?」
「いや、彼女が準備してきた。魔力の原石を使う」

 エレナの眉がピクリと動いた。

「何? 原石でどうするって?」
「彼女が用意してきたのは魔力の原石というより……魔力の秘石だ。ある意味、本当の意味でのそれだけど」

 魔力の原石とは、魔力を蓄え魔術を弾く性質を持つ。
 アキラの剣にも同じ素材が使われている。
 そしてその名は、最初に発見されたとき、無限とも思える魔力を蓄えていたため、すべての魔力の源とさえ思われたために付けられたのだ。
 近年、同じ性質を持つ材質は、魔力が蓄えられておらずとも同様の名で呼ばれているが、発見された当時のように、膨大な魔力を宿したままのそれは、あえて魔力の秘石と呼ばれていた。
 目の前のエレナ=ファンツェルンには、深い縁のある品でもある。

「困ったわ。盗んで売って、とっととこの町を離れてしまいたくなる」
「それならそれで、僕は君を咎めないさ」

 心の平穏のためにはそれが最も良い展開だと思う。
 しかし、エレナの言う通り、この面々はアイルークのぬるま湯に浸かり過ぎているようにも感じる。
 旅のプロセスとして、修羅場はいくつかくぐる必要があるのだろう。

 だが。

「それで、その秘石。今どこにあるの?」
「アラスールが肌身離さず持っているよ。盗むのかな? だけど、実はそうもいかない」

 運命の流れが強すぎる。
 イオリは諦めたように懐を探った。
 ミツルギ=サクラに無理を言って借り受けてきたものだ。

「…………それ、何でここにあるの?」
「訳は話さないけど、正規の手順でここにあるものだ。邪推はしないでくれるかな」
「話さないときたか。まあいいわ、想像はつくし」

 イオリが取り出したのは茶色の小箱だった。
 妙に高級感を漂わせる造りのそれの正体を、エレナは良く知っているはずだ。

 箱を開けると、宝石店のようなケースが現れ、見るも鮮やかな拳大の宝石がはめ込まれていた。
 イエロー、そしてグレー。
 サクの話によると、モルオールを離れる前には3つあったそうだ。
 事情を察したイオリは、紛失の原因の容疑者とされた涙目の少女を庇ったのを覚えている。
 かつて、シリスティアからの献品として受け取ったものの中に混ぜられていた、ファンツェルン家の宝だ。

「結構減ってるみたいだけど……、まあ、弾はまだまだあるってことね。いいわ、分かった。じゃあ余ったらそれ、私に頂戴」

 ぜひ渡したいところだったが、イオリは眉を潜めるだけに留めた。知らないふりは慣れている。

「まだやるとは言っていないよ」
「そんなものまで持ち出しておいて? あんた何がしたいのよ」
「エレナと話をしたかった、じゃ駄目かな」
「気持ち悪いわよあんた」

 思われたことは多いだろうが、直接言われたことはなかった。
 酷いことを言う。

 だが、何がしたいか、か。
 それはとっくに見失ってしまった。
 職業柄、リスクを常に考えてしまう。
 どう転んでも最悪の事態を避けるために、成功したときと失敗したときの両方を考慮し、そしてそもそも実行したときとしないときの両方を検討する。
 無限に分岐する道に、自分は立っている。
 道を選ぶ権利は自分にはない。だから自分は、強く背中を押されるのを待っているのかもしれない。

「はっ、なんだかんだ言っても、勇者様ってのは必要ね。アキラ君がやると言えばやるんでしょう」
「……そうかもね」

 集団行動には、船頭が必要だ。
 その決断に考慮がかけていたとしても、それは他の者が補えばいい。
 必要なのは、決める力だ。
 運命に翻弄されながらも、やるぞ、と言える存在が不可欠なのだ。

 だから自分は、彼が何を求めても応じられるようにすべての手筈を整えておこうとした。
 それなのにここ最近、自分は自分の意思が反映されるように舵を操作しようとしていたのだろう。
 その結果、昨日の口論だ。いざとなったら彼に責任を押し付けるようなことを言ったようにも思う。
 悪いことをした。

 ヒダマリ=アキラ。
 信用はできるが、信頼はできないと自分は言った。
 現に今も、彼が今回の件を乗り切る姿を想像できない。

 駄目だ。どうも前々回の彼と比べてしまう。

「じゃあ、私も同じでいいわ」
「エレナ?」
「アキラ君待ち。彼がやると言ったらやってあげる。弾が残れば豪遊し放題よ」

 サクが管理しているこの面々の財は相当あることに、エレナなら察しがついていそうだが、彼女は何も言わなかった。
 自分も、何も言わず、彼の結論を待つことにしよう。可能な限りの準備をして。

 例えそれが、彼にとって、最も辛い出来事と結びついたとしても。

―――***―――

「俺はちゃんと向かっていた。ただ、迷っただけなんだ」
「私はアキラが見当外れの方向に歩いているのを見て、連れてきた」
「すまない、少し魔術師隊の支部に寄ったら長引いてしまって」
「え? まだ集合時間じゃないでしょ?」
「サクさんありがとうイオリさんお疲れさまですあんたとエレナさんはちょっとこっち来て」

 集合時間を過ぎた、集合場所。
 正午にヘヴンズゲートの東部にある広場の前に集合と決めたら、酷い有様になった。

 エリサス=アーティは頭を抱えながら問題のふたりを招き寄せると、疲労困憊の笑みを浮かべた。

「なに。私の誠意が足りなかったの? もっと頭を下げて、地面に擦り付けるまでして集まってくださいお願いしますって言わなければ時間を守ってくれないの?」
「何言ってんだよ。俺はちゃんと来ようとしたんだって」
「え? これ何の話? 今回は早目に来たわよ?」
「これはあれね。誠意が足りなかったのね。ごめんねこんなあたしで」
「また壊れてるわね……。あら。あのガキは? いないじゃない」

 エリーが涙目で訴えても、目の前のふたりの態度は変わらなかった。
 アキラを怒鳴りつけるのが先かエレナに本当の集合時間を教えるのが先か迷ったが、どちらも無駄そうなので、さらなる絶望に目を向けることにした。

「そう、いないのよ。もういいかな、何も考えなくて」

 わざわざ回りくどく集合としたのは、この町に実家のあるアルティア=ウィン=クーデフォンの提案によるものだった。
 旅の慰安に、今日はティアがこの町を案内すると言い放ち、全員をこの場所に集めたのだ。
 家の場所は昨日も行ったし、エリーは迎えに行くと提案したのだが、それだと家族の前で格好がつかないとかなんとかぬかしやがった。
 そんなわけで、観光スポットであるらしい噴水のあるこの広場を集合場所として指定し、昨日は元気よく手を振っていた。

 そしてガイドが来なかった。

 噴水でも見てぼうっとしていたい。しかしそれは、誰もいなかったこの場所で、先ほどもやったことだった。

「エリーさん、どうする? 迎えに行くか」
「何言ってんだよサク。こういうときは下手に動かない方がいいんだぞ」
「お前は未だ迷子の気分でいるのか」

 適当な会話が聞こえてくるが、すべて無視した。
 最近、怒りやら絶望やら何やらいろいろな感情が混ざり込んで浮かび、何をしていいか分からなくなるときがある。
 偏頭痛や情緒不安定を患わないか不安でならない。

 はてさてこれからどうしたものか。
 ガイドを買って出ようとしたほどだ、流石に地元民のティアは迷子というわけではないだろう。
 広場の入り口を眺めてみても、彼女の元気な駆け足は聞こえてこなかった。

 手持ち無沙汰に今度は面々を眺めてみる。
 同じように退屈に立っているように見えるが、アキラとイオリの目が合い、少しだけ神妙な顔つきになったのをエリーは見逃さなかった。
 あれは。

「……じゃあこうしよう、俺が見てくるよ。どうせその辺りで転んでいるんだろ」

 じっと見続けていたせいか、アキラが息を吐き出すように提案した。
 酷いことを言っているようだが、無くはない。
 頭をガシガシとかきながら歩き出そうとしたアキラを、エリーは止めた。

「あんたは単独行動禁止よ。昨日の今日でこれだもん」
「だから俺は……、まあいいや。お前も来るか?」

 振り返ると、イオリは完全に背を向けてサクと話していた。
 サクの表情に妙な違和感を覚えるも、とりあえずあのふたりがいればエレナが好き勝手することもないだろう。

「仕方ないなあ、もう。さっさと捕まえてきましょうか」

 簡単に声をかけ、アキラと共にティアを探しに歩き出した。
 広場を抜けると路地に入る。
 大通りに面していない広場は比較的静かで、涼し気だったが、向うに見える通りから人の熱気が伝わってきた。

「で。何があったの?」

 囁くように、顔も向けずに呟いた。
 聞こえなかったならそれはそれで構わない。

「あった。つうか、起きてる」

 隣から、意外にも素直な返答が来た。
 エリーは口を開こうとしたが、複雑な感情のせいでそのまま無言で歩く。

「聞かないのか」
「聞きたいわ、凄く。でも、話せる範囲でしか話せないんでしょう。なら整理するまで待つわ。ティアがすぐに見つかるとは思えないしね」

 路地を抜けると、昨日も通った大通りに出た。
 囁き声は隣にだって届かない。
 エリーは人の波に気を付けながら、聞き耳を立て続けた。

「……今、魔術師隊がでかい計画をしている」
「そう」
「驚かないのかよ」
「わあびっくり、って言ってもいいけどね。今更よ」

 彼といると、危機への感度が鈍くなる。
 たった今、巨竜が町を襲撃しても、驚きこそすれこの足はすくまないだろう。

 何が起きても当然。この旅を通して、骨身に刻まれていた。

「で、何するのよ」
「まだ俺が参加するか分からないけどな」
「そうなの?」
「ああ、一応魔術師隊からの依頼ってことになっているんだろうな……。“魔門破壊”だ」

 流石に眉を潜めた。
 以前、モルオールでそれが成功したと聞いた覚えがある。
 今それが、このアイルークで計画されているらしい。
 わあびっくり、だ。

「イオリさんは知ってるのよね」
「昨日イオリと魔術師隊の支部で聞いたんだ」
「で、なんて」
「……乗る気じゃなかった」

 話の流れが見えてきた。
 それであの雰囲気だったのだろう。
 エリーが横顔を伺うと、アキラの表情はよく見るものだった。

「で、どうするの」

 聞こえなかったのかもしれない。アキラの表情は変わらないままだった。
 エリーは一応道の隅々まで目を通しながら、小柄な少女を探す。
 このままだと彼女の家についてしまうだろうから、迷子ではないようだ。
 迷子なら隣にいる。

「成功しなかったらあたしたち全滅するのかしらね」
「簡単に言うなよ、洒落にならない大事らしいぞ。それに、返事はまだしていない」
「分かってるわよ」

 エリーは含み笑いをした。
 そして少しだけ、怒りの感情が浮かぶ。
 彼にも、そして、自分にも。

「で、何があったのよ」

 アキラの顔が向いたのが分かった。
 エリーはぐっと息を呑むと、視線を合わせた。

「何を悩んでんのよ。正直、参加することになった、とかいう事後報告するのがあんたじゃない。返事はしてないとか。魔門破壊よりびっくりよ」

 以前、彼に対して、危険に飛び込まないでくれと言った覚えがある。
 あらゆる事件を引き寄せる彼には、しかし、それに慣れて欲しくないと感じたのだ。
 だが今、そうではない彼に、強い違和感と苛立ちを覚えてしまう。自分にも、だ。
 いろいろな感情が混ざり込んで浮かび、本当に、自分を見失いそうだった。
 だが、せめて今この場で自分だけはそうなるわけにはいかなかった。

「何で分かるんだろうな、お前らは」
「どれだけ一緒にいると……お前ら? むう……。で、何なのよ。何を迷ってるのよ」
「……お前らが危険だ」
「いつものことでしょ」
「…………魔王討伐と、直接関係ない」
「寄り道も同じくよ」
「成功するかどうか分からないんだぞ」
「それを言い出すなら魔王討伐って同じでしょう」

 楽観的に、そう言った。彼ならそう言う。
 だから、それが彼の本音でないことは分かった。
 アキラは、観念したように、拳を握って震わせた。

「犠牲になるかもしれない奴がいるんだ」

 彼は、犠牲というものを、酷く嫌う。
 それを迫られたとき、彼は震えるように声を出し、瞳は、過去を追うように深くなる。
 “何か”を知っている、彼。
 彼の恐怖は、すべてそこに繋がっているような気がした。

「俺が参加するって言ったら、間違いなく魔門破壊は実行される。そうなったら、そいつは」
「じゃあ、参加しなければ?」
「……いや、それでも魔門破壊が行われる可能性が高い。そして、そいつはもう、参加することになっていた」

 その犠牲が、確定しているようなことを言う。彼がたまに口にする言い方だった。

 しかしそうなると、彼の立つ分岐点は、酷く脆い道に見えた。
 どちらに進もうとも、足元が崩れ去る。それゆえに、足を踏み出すことを躊躇してしまう。
 同調はできた。同情もできた。
 だけど、エリーはその感情を表に出さなかった。

「じゃあ、やろうよ」
「……おい」
「あたしが言ったの、やろうって。それで、あんたはどうするの?」

 彼の中の答えは決まっているように思えた。
 犠牲になるかもしれない存在がいるのなら、彼は自分の預かり知らぬところでそうなることを嫌うはずだ。
 それでも今、脆い選択肢が見えているせいで、その足が踏み出せない。
 それなら自分が踏み出そう、踏み抜こう。

「ふ。失敗したら、あたしのせいだね」

 難色を示したらしいイオリには悪いことをした。
 だが、何も知らないからといって、軽々しく言い放ったわけじゃない。
 選ぶ権利は彼にある。だから自分は、その選ぶ負担を、苦悩を、分かち合おう。
 選んだ道の責任は、自分もしっかり取ればいいのだ。
 彼が道を選ぶことを、少しで楽にしてあげたい。

「……お前は」
「なにか?」
「…………は」

 やっと、笑ってくれた。
 彼がそうあり続けられるためなら、自分は誠意を尽くそうではないか。

「……あれ。そういえば犠牲になるかもしれない人って……誰?」
「お前は知ってると思うぞ。リリル=サース=ロングトンって奴を」
「……は?」
「お前って新聞読んでなかったっけ。リリルも昨日、魔術師隊の支部に、い……て……」

 もちろん知っている。リリル=サース=ロングトンは有名人だ。
 自分から笑顔が消えたのが分かった。
 悟られないようにしてみたが、硬直したアキラの顔を見るに失敗しているらしい。

「返して」
「なんだって?」
「いろいろ返して。もう、なんか分かんないけど」
「何言ってんのか俺も分かんないんだけど……」

 大きく息を吸った。
 人のざわめきが可愛く見える。
 予感と自信があった。今声を出したらすべてを塗り潰せるだろうと。

 悲鳴に似た声ともならない叫びになりそうだが、とにかく今は、何も考えずにそうしたかった。

 そして。

「あんっ」
「あああああっ!!!! アッキーーーーーーッッッ!!!! エリにゃーーーーーーんっッッ!!!!! たいっへんですっっっ!!!!!!!!」

 完全に力負けした。
 自分の全身全霊を込めた一撃が、真上から叩き潰されたのだ。
 自信は砕かれたが、まるで心は痛まない。
 爆撃音とも見舞うような大声の主など、考えるまでもない。

 見れば我らがアルティア=ウィン=クーデフォンが、人ごみに紛れながら全力で駆け寄ってきていた。

「最早テロだろあれ」
「あ、でも気にもしてない人多いわね」

 地元では周知の事実なのかもしれない。
 露店の主人など、人ごみに揉まれて息も絶え絶えになりながらかけ続けるティアに微笑ましく手を振っていた。

「げは、ごほごほっ、あのっ、ごほっ」

 ようやく自分たちの元に辿り着いたティアは、満身創痍といった様子でむせ返っていた。
 ただ事ではない様子だ。
 だが、彼女の場合、ただ事である可能性があるので、エリーは静かに息が落ち着くのを待っていた。

「どうしたティア。水でも飲むか? さっきの広場に浴びるほどあったぞ、みんなもいる」
「冗談言っている場合じゃないです!! お父さんが、ああ、あっしはどうしたら!?」

 頭を抱えて混乱気味のティアの言葉の節々から、怪訝なものを感じた。
 本当にただ事ではないらしい。

「お父さんに何があったの?」
「喧嘩!! 喧嘩です!! 止めようとしたんですけど、聞く耳持ってくれなくて、その上追い出されて、」

 ピクリとアキラが動いた。
 色々と要点がつかめないが、騒ぎが起こっているらしい。
 エリーはしばし考え、そういうことなら男手の方がいいだろうと決断を下した。

「家で起こってるの? じゃああんたは先にティアと行ってて。あたしはみんなを連れてくる」
「ああ、分かった」

 短い返答と同時に、彼は駆け出した。
 ティアがすぐにアキラを追っていく。

 今日は慰安でのんびりとする予定だったが、上手くいかないらしい。
 これも彼の運命によるトラブルか。
 巻き込まれる自分たち以上に彼を不憫に思ったが、また自分の知らぬところで女性と関わりを持っていたことは、忘れてやらないことにした。

―――***―――

 アルティア=ウィン=クーデフォンの実家は、武器屋を営んでいる。
 サクが言うに、中々に上質な武具を取り扱っているらしい。
 奥には工房もあり、店の看板には鉄槌と剣がその存在を物語っている。

 そして今、昨日も見たその看板は、中からけ破られたようにひしゃげ、その正面に、門番のように店の主人が息を荒げて立っていた。

 グラウス=クーデフォン。
 無精ひげに煤で汚れた灰色の服から隆々とした筋肉を覗かせている、ティアの伯父であり、育ての親である。

「まだ何か用があんのか?」

 殺気を孕んだ台詞を、恐らくは喧嘩相手だろう目の前に座り込んでいる男に吐いた。
 座り込んでいる男は、口元を拳で拭いながら黙ってグラウスを見上げている。
 アキラが目を見開いたのは、座り込んでいる男の服装だった。
 紺を基調としたその服は、魔術師の資格を物語っている。

 その異様な光景に、通行人は足を止めかけるも、グラウスの睨みですぐに立ち去っていく。
 そそくさと足早にすれ違っていく人の気配が消えたころ、アキラはようやく、魔術師が昨日会った魔術師隊の支部長であることに気づいた。

「……何があった」

 背中に隠れるようにしがみついているティアをそのままに、アキラは神妙に声を出した。
 グラウスは殺気交じりの瞳のまま、睨むようにアキラを見てくる。
 アキラに気づいても、その瞳の強さは変わらなかった。

 昨日、この店を訪れたときも、彼はアキラを下手に敬おうとはしなかったのを覚えている。

「ルーフに聞け。この馬鹿が、馬鹿げたことをぬかしやがっただけだ」

 魔術師隊の男はルーフというらしい。
 アキラをちらりと見ると、やはり態度を変えずにグラウスの前に立った。
 この男がいるということは、もしかしたら。

「何度でも言う。グラウス。協力を仰ぎたい。武具が必要だ。可能な限り」
「駄目だね」

 グラウスはにらみを利かせたまま、胸を叩いた。

「俺は覚えてるぞ。俺たちが生きている間は、もう二度と、魔門には手を出さないって言ったよな。それでなんだ、お前は何を言ったんだっけ?」
「金は払う。客としてな。魔門を破壊するために」
「はっ」

 話にならないと言わんばかりにグラウスは鼻で笑った。

「金か。ありがたいな。10年前と同じだ。商品を根こそぎ持っていって、あいつらもいなくなって、空っぽの店に馬鹿げた量の金だけ残った。てめぇはそのとき約束したな。忘れたとは言わせねぇぞ」

 アキラの背中で何かが震えた。
 それが父の怒気によるものだけではないことが、アキラには分かった。

「答えろ。お前は何のために偉くなったんだ。そうならないために隊長になったんじゃねぇのかよ。それとも何か。このままぶちのめせば、隊長不在で中止になってくれんのか?」
「……すでに決定事項だ。中止にはならない」

 拳が飛んだ。
 耳を塞ぎたくなるような音が聞こえる。ティアが短い悲鳴を上げる。
 アキラが動こうとしたら、ルーフとやらは首を振ってそれを制した。

「だからこそ、お前の協力が必要なんだ。今この町で、最高の武具はここにある。魔術師隊の支給品なんかより、よっぽど頼りになるものが」
「笑わせんな。そいつを使ってさえ、結局どうなったか覚えてないわけじゃないだろう」

 アキラは口を挟めなかった。
 結局魔術師隊では、魔門破壊の実行が決定されたらしい。

「お父さん、あの、ですね、私、」
「アルティア。お前はとっとと出かけろって言っただろ。何戻ってきてんだ」
「ひっ」

 一瞬だけ頭を出したティアは、すぐにひっこめた。
 怖いもの知らずと思っていたが、父の怒りは怖いらしい。

 しかし、彼女の本当の父は、魔門の怒りに触れたのだ。

「頼むグラウス。協力してくれ」

 あのアラスールという魔導士に指示された結果だろう。
 だがそんな事情など、ルーフは一言も口にせずに頭を下げる。
 その誠意は、グラウスには届いていないのだろうか。
 だが、グラウスも分かっているはずだ。協力を拒もうが、向かえる未来は変わらない。

「……ティア。お前、どこまで知っている」

 アキラは、小さく呟いた。
 グラウスも聞き逃さず、ギロリと睨んでくる。
 ティアは、おずおずと身体を離し、隣に立って肩を下げた。

「事情は、分かりました。魔門、ってあれですよね。あの」

 ぼそぼそと、聞き取りにくい声だった。
 フォール=リナ=クーデフォンとルーシャ=クーデフォン。
 彼女の本当の両親は、10年前の魔門流しで命を落としたという。

「アッキーは知っていたんですか? 魔門流しのこと、とか」

 頷いた。
 視線はグラウスに向けたままだ。

 ルーフは、そこでアキラとティアの顔を見比べ、目を見開いた。
 まさか、といった表情を見るに、アキラの旅の小さな同行者を知らなかったらしい。

「…………。私も決めました。あはは、頑張りましょう」

 参加することが決まっているようなことを言う。
 アキラなど、未だ迷っているというのに。
 魔門のせいで自分の両親を失ったというのに、彼女は関わることをいとわない。

 何故だ。
 エリーも、ティアも、そしてリリルも、どうしてそう在れるのだろう。
 目の前にあるものは、とてつもなく巨大なものであるのに。

 このヒダマリ=アキラという存在は、それほどのものを預けられるように見えるのだろうか。
 自分ではまるで分からない。

 今まで経験していた事件は、すべて、過去に通り過ぎていたものだという確信があった。
 それゆえに、自分は軽はずみに足を踏み入れてこられたのだろう。

 ティアの台詞を聞いて、グラウスの怒りが爆発した。

「アルティアッッッ!!」
「ひぅっ」

 ビリリと棘のような空気が身体中に突き刺さった。
 地を踏み砕くほどの勢いで、グラウスが詰め寄ってくる。
 アキラは一歩も動けなかった。いや多分、動いてはいけない気がした。
 辛うじて、ティアを庇うように身をよじった。

「お前いい加減にしておけよ。旅をするくらいならともかく、魔門に関わって何が起きたか忘れたか」
「お、覚えてます。1日だって、忘れたことなんてありません」

 グラウスの顔が見られなかった。
 世界中からアキラが勇者と認識されていても、グラウスにとっては所詮自分の娘が共に旅をしている仲間でしかないのだろう。
 想像だけで持ち上げる人々とは違う。グラウスは、自分と会って、話をした人物なのだ。
 不安は尽きないだろう。

 グラウスの怒気に、ティアは震えながらも、アキラの裏から顔を出して、しっかりと親の目を見ていった。

「こういうときのために、色々頑張ってきたんです。犠牲を出さないように、って。……だ、大丈夫です、皆さんと一緒なら」

 彼女にも彼女なりの理由があるのだろう。単なる親への反発ではない声色だった。
 身体中が凍り付く。
 いつもであれば気力が高ぶるはずの期待が、身体中を縛り付けた。

 確実に分かっていることがある。
 この魔門破壊は失敗し、リリルは命を落とした未来が存在する。
 その事実が目の前にぶら下がっているのに、それに足を踏み入れられるのか。
 自分が犠牲になるだけならともかく、リリルの命も、そしてティアの想いも失うことになる。

 アキラは旅というものが途端に怖くなった。

 知っていることは得なことばかりではない。
 イオリの言葉が蘇った。

 一部の未来を知っている自分は、どれほど危険な事件でもためらわず足を踏み出し、結果として世界を救う英雄としてもてはやされている。
 命からがらに付いてきてくれた皆は、それを乗り越える力を身に着けているのだろうが、アキラ自身には宿っていないようだ。
 唇が震えた。
 自分は今まで、こんな気持ちを皆に味合わせていたのか。
 皆は、こんな自分の後に続いて、それで何が起きても後悔などないと思っていたのだろうか。
 全員を乗せて、欠陥だらけの舵を切っていた自分は、彼女たちに何を思われていただろうか。

「……俺は」

 ひとつだけ、思ったことがある。
 エリーの言葉で、感じた素直な感情だ。

 自分は、犠牲を、絶対に出したくはない。

 自分が何をしようが、リリルは魔門破壊に参加するだろう。
 そしてその運命は、何もしなければ変わらない。

 ならば最初から答えはひとつだった。

 だけど自分は、その危険に、皆を連れて飛び込むことを思い悩んでいた。
 自分ひとりが参加しても何もできないというのに、周囲を巻き込むことをためらっていた。
 こんなにも頼りにならない自分の背中に、着いてきてくれと胸を張って言えなかった。

 だけど。

「―――“俺たちは”」

 グラウスの目が見開いたのが分かった。ルーフの耳にも届くだろう、もう後戻りはできない。

「魔門破壊に参加する」

 リリルを救うために、そして、それ以上に、共に旅を続けるために。
 今、この瞬間に、焦がれるほどに欲するものがある。

 それは彼女たちが、自分に着いてきて微塵にも後悔しないようなもの。
 それは彼女たちから向けられる期待に、誠意をもって応えられるもの。 そしてそれは、きっと世界の希望となり得るもの。

 アキラはグラウスをまっすぐ見て、力強く言った。

「―――俺を信頼して欲しい。犠牲は出さない」

 グラウスの目が怒気を孕んだのが見えた。
 今現在、当然の評価だ。娘を預けている親としての、不安や疑念が入り混じった、至極当然の評価だ。

 だが、それだからこそ、そのすべてを自分はまっすぐに受け止めなければならない。
 自分の中の不安や、疑問は乗り越えて、この目を逸らしてはならないのだ。

 “一週目”の自分が達成できなかったことを今、乗り越える。

「俺は止めたぞ」

 ギリと奥歯を噛んで。吐き捨てるようにそう言って。グラウスは店に戻っていった。
 手でも上げられそうだったが、一応は勇者である自分の顔を立ててくれたのだろうか。

「ルーフさん、だよな。魔門破壊、やるんだよな」
「……ええ。助かりました。夜にでも支部に来てください。私はもう少し、グラウスに頼んでみます」

 アキラは頷き、息を吸って振り返った。
 後を追ってきた皆が到着していたことは、とっくに気づいていた。

 これが最後だ。
 今信頼されていない自分が言う、信頼されるための最後のわがままだ。

「やるぞ。魔門破壊」

―――***―――

 蠢くそれは、闇だった。
 蠢くそれは、混沌だった。
 蠢くそれは、始まりだった。

 そして、蠢くそれは、終わりでもあった。

 人の誰かがそう言った。おそらくその言葉が、最も“それ”を正しく表現している。

 人とは分からないものだ。
 無力無知であるにもかかわらず、時折、答えに辿り着いてしまうことがある。
 その先は、人の得意分野だ。
 ある者はそれを解明し、ある者はそれを改良する。

 最初のきっかけさえあれば、後は時代の流れに乗せ、形を成し、鋭く敏くすることができる。
 そしてその粋を極めたものを、自分はたまらなく愛おしく思う。

 重要なのは最初のきっかけだ。
 後は勝手に、自分の最愛の何かを形作ってくれるのだ。

 だからこそ、自分はきっかけを与え続けよう。

「ふ」

 首を振った。
 そしてすぐに気を静める。

 高ぶるな。冷静になれ。今自分が辿り着いている真理を疎かにするな。

 そうでなければ自分はまた、全てを失ってしまう。

 だがやはり、どうしようもなく、期待してしまう。

 この大陸中に配置した自分の配下からは、蜘蛛の糸を伝うように情報が入ってくる。
 その中に、極上の獲物がかかったのだ。

 見込み違いであったとしても、問題はない。
 いつものように、問えばいいのだ。

 だからこそ。

 目の前の“それ”に押さえつけるような眼光を浴びせ、重々しく呟いた。

「魔門よ。余計なことをしてくれるなよ」

―――***―――

「きゃあきゃあきゃあ」
「え、えっと?」
「ううん、何でもなーい。ああ、ごめんねイオリちゃん、話の腰折っちゃって」

 夕刻。
 言われた通りに魔術師隊の支部を訪れたアキラたちは、昨日の会議室に通され、支部長のルーフとイオリから魔門破壊の説明を受けていた。
 淡々と説明を続けるイオリに、アキラは口を挟めなかった。
 彼女があれだけ反対した魔門破壊に、自分のエゴで巻き込んでしまったのだ。彼女の胸中は知れないが、自分が酷く悪いことをしているような感覚に陥っていた。

 外出していたらしいモルオールの魔導士、アラスール=デミオンが現れたのは、そんな苦い毒が心を犯し始めていたときだった。

「あらあら。勢揃いじゃないの」

 重苦しい会議室を軽々しく歩き回り、アラスールは奥の椅子に腰を下ろした。
 そしてにっこりと笑顔を浮かべる。

「ねえ」

 隣のエリーが小声でささやいてきた。
 ここに来てからエリーの声を初めて聞いた。魔術師隊の支部だから緊張でもしていたのだろう。

「あの人が魔導士の?」
「ああ、さっき言ってたろ、アラスールってモルオールの魔導士がいるって」
「……そ、そう。あ、あたし何かしちゃったかな……」

 エリーの心拍数が上がったのが隣にいても分かった。
 魔導士に対するあこがれが並々ならぬエリーに、アラスールの笑みがまっすぐに向けられていては仕方がないのかもしれない。

「ああ、私はアラスール=デミオンよ。みんなは……、ま、追々聞くとして。ごめんね、遅れちゃって。話なら一緒にした方がいいって思って、ばったり会った子を連れてきたのよ」

 ドアを見れば、リリル=サース=ロングトンが凛として立っていた。

「リリルも来たのか」
「はい。魔門破壊の話ですよね、私もお聞きします」

 リリルは周囲を見渡して、ゆっくりと手ごろな席に座った。
 そして真摯な顔つきでルーフとアラスールをまっすぐに見る。我が物顔で座り込んだアラスールとは対極的だった。
 昼とは様子が随分と違う。仕事のときは、ああした様子なのかもしれない。

 そんな様子を見ていたら、隣から小さく唸り声が聞こえた。

「あの、それで私たちは何をすればいいんですか?」

 魔門破壊の主要メンバーが揃ったところで、エレナがか細い声でそう言った。
 可愛らしい挙動に引っかかったのは、どうやらこの部屋では硬直したルーフだけだったようだ。

「イオリちゃん、どこまで話したの?」
「秘石を使うところまでは」
「なら、その先は私が引き継ぐわ。一応この作戦のリーダーを任されているわけだし」

 アラスールはわざとらしく咳払いをして、面々を見渡した。
 そして小さく頷く。

「アイルークの魔門があるのはここから北東にあるマースル地方の大樹海。周辺が岩山に囲まれていてね。普段は閉鎖されているし、民間には伏せられているから興味本位で近づく人もいない。思いっきり暴れられるわ」

 随分と野蛮なことを言う。
 そう思ったが、アラスールは次に首を振った。

「ま、はっきり言って暴れる予定なんかないけど。作戦はいたってシンプルよ。魔門に察知されないギリギリから、一気に接近し、膨大な魔力を押し当てる。ある意味魔門流しより楽かもね。特別な術式を瞬時に組み立てる必要もないらしいから」

 そこでサクから手が上がった。

「膨大な魔力、というのは、先ほどイオリさんが言っていた秘石とやらを使うのか? 詳しくは知らないが、それだけなら今までやらなかった理由は何なんだ」

 アラスールの言った作戦は単純で、ともすれば稚拙だった。
 それを試した古人がいなかったと思えないほどに。
 アラスールは肩を落とした。

「やらなかった理由? そうね、私も聞いた限りは分からないわ。だけど想像は付く。もし、私が“あの出来事”を知らなったとしたら、そんなことやろうとする奴はぶん殴ってでも止めるわ」

 アラスールの隣のルーフが表情を暗くした。
 まったくと言っていいほど未知の魔門。
 触れることすら許されないその存在に、そんな暴挙を犯したらまさしく何が起こるか分かったものではない。

「だけど、それをやった奴がいる、ってことか」

 アキラはごくりと空気を飲み込んだ。

「結局、モルオールでは何が起こったんだ? あいつも、スライクも同じことをしたのか?」
「その事件、どこまで民間に伝わっているの?」
「今日見た限りじゃ、モルオールが平和に一歩近づいたとかなんとか。具体的な方法については何もなかったよ。だったよな、リリル」

 ピンとリリルの背筋がさらに伸びた。

「は、はい。私も知っているのはそのくらいです。ですが、脚色されているのかは分かりませんが、スライク=キース=ガイロードは魔術師隊の制止も聞かずに危険地帯に飛び込んでいったらしく、魔門の周囲は地獄絵図になったとか」

 アキラがアラスールに視線を向けると、彼女は何も語らなかった。
 どうやらリリルの補足に間違いはなく、そして情報はそこで打ち止めらしい。

「……明日もう少し調べてみますか?」
「いや、魔術師隊が知らないってことはそれだけなんだろう」
「……そう、ですね」

 こんなことならあの雪山であの男に会ったときに詳しく聞いておくべきだったかもしれない。
 ただいずれにせよ確かなことは、魔門が破壊できるという事実。
 未知の魔門さえ、あの剣からは逃れられなかったということだけだ。

「はあ、もういいわ。結論からいきましょうよ。“弾”は何がいくつあるの?」

 エレナが脱力して苛立った声を出した。
 どうやら会議に飽きてきたようだ。ルーフとリリルがびくりとしたが、エレナは構わずアラスールに視線を投げる。

「秘石を使うわけだから、属性を合わせる必要がある。どうせそいつら以外は邪魔をさせないように魔門のエリアで雑魚狩りってとこでしょう」
「あら、話が早くて助かるわね。そうね、私が用意してきたのは水曜の秘石よ」

 ガタっと椅子が倒れる音が会議室に響いた。
 振り返ればティアが勢い良く拳を天井に突き出している。

「なんと、なんと、これは、遂に、来ましたか……!!」
「ティ、ティアちゃん、」

 感涙しているティアに、ルーフが青い顔で近づいていった。
 しかしティアは構わず、震えた声で続ける。

「こ、これはあっしの出番だということですね? ふっふっふ。この日をいつから待ち望んでいたことか。お任せください、このティアにゃんが、見事魔門を、」
「あの、話の流れで分かると思うけど、秘石を使うのは私よ。水曜属性なの」
「……ほう」

 水をかけられたようにティアは座り込んだ。
 彼女も複雑な思いがあるだろうが、いつもの調子なのか空元気なのか判断がつかない。
 だが、アキラは小さな違和感を覚えた。
 普段のティアなら、もっと粘りそうなものだが、あっさりと引き下がるとは。

「ま、万一失敗しても、幸運なことに……イオリちゃん」
「ああ、参加する以上、こちらも協力するよ。実は他にも秘石がある。持っているのは、金曜と土曜だ」

 イオリは懐から見覚えのある石を取り出し、机に置いた。
 美しい石だ、隣のエリーも身を乗り出している。
 問いただす気も起きず、アキラは静かにサクとイオリの顔を見た。

「だけど残念ながら、土曜の秘石は使用するよ。作戦はこうだ。当日。ラッキーで高速接近して魔門に魔力を叩きつける。あとは高速離脱。この人数をラッキーに乗せるとなると、魔力が足りないからね」

 アキラは部屋を見渡した。
 この面々で魔門に接近することになるのだろう。
 マースル地方の大樹海とやらがどれだけの規模かは知らないが、イオリの召喚獣のラッキーは戦闘向きだ。
 モルオールで見たカイラ=キッド=ウルグスの召喚獣と異なり、移動に特化しているわけではない。
 この人数で魔門に接近し、離脱するには何らかの補助が必要なのだろう。

「作戦というにはシンプル過ぎるが、相手は未知だ。シンプルな方が臨機応変に動けるだろう。アラスール、サクラ、そして秘石の余力があれば僕が魔門の破壊を狙う。他のみんなは、トラブルの対処や退路の確保をお願いしたい」
「トラブル?」

 思わず口を挟んでしまった。
 全員の顔が向いたが、アキラは構わず続けた。

「そもそも、魔門を攻撃すると何が起こるんだ? 魔物の大群でも現れるのかよ?」

 アキラの言葉に、イオリは力なく笑った。その笑みに応じるように、アラスールも頭をかいて苦笑いをする。

「そうね、具体的な話をしていなかったわね。でもごめんなさい、具体的な話はできないの」

 アラスールは記憶を辿るように天井を仰ぐと、確認を取るようにルーフに視線を投げた。

「そうね、例えばこのアイルークでは何が起こったことがあるのかしら」
「……私が知っている限りでは、『魔物の大群』、……それと、『毒性のある瘴気の発生』ですね」
「あら、優しいものね。『魔族の出現』は無かったみたいね。あと、『大規模爆発』も」

 ティアの身体が震えたのが分かった。
 瘴気の発生が、彼女の両親の命を奪った出来事なのだろうか。
 神妙な顔つきのルーフは元より、あっけらかんとした態度のアラスールも声色は変わっていた。

「……予測は不可能よ」

 アラスールは諦めたように瞳を閉じた。

「魔門への攻撃……それどころか刺激が引き起こすのは、まったくのランダム。過去の事象を見ても、傾向すらつかめない。一応極秘だけどね、一説には魔門は魔界の決まった場所と通じているわけじゃない。魔界にある魔門の出口は移動しているのではないか、と言われているわ」

 魔門は魔界を移動している。
 釈然としないが、発生する事象を見るにそう考える者もいるのだろう。
 だがそれならば、存在するかは定かではないが、魔界でも比較的安全な場所に通じていれば、脅威ではないのだろうか。それならば、運が良ければ何も起こらないかもしれない。
 そう考えて、自分を戒めた。こんなことを考える奴がいるから、極秘なのだろう。

「だけど比較的、分かりやすい“敵”の出現が大多数よ。その場合の対処をお願いすることになるわ」
「あ、の」

 再び苛立った声をエレナが上げた。
 苛つきを微塵にも隠さず、アラスールを睨むように視線を投げる。

「まあぶっちゃけ、なんかが出てくるなら蹴散らしてやるけど……でもね。聞いている限り、私ら頼り過ぎな気がするんだけど、魔術師隊の方々は何をするおつもりで?」
「あら、言われているわよ支部長さん。……って、私もか。魔術師隊の面々には普段の魔門流し通りに行動してもらうわ。つまりは退路の確保と伝令係。そして、万が一に備えてその“危機”が大陸に広がらないように徹底防衛」

 エレナの舌打ちと、アラスールが言葉を続けたのは同時だった。

「でもね、今あるリソースを考えれば、成功率が最も高いのはこの方法なのよ。今、この大陸にいる、各属性の最強の魔術師は、ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師なんだから」

 堂々とした声だった。世辞のようにも称賛のようにも思えるその言葉は、その声色からか骨身に染みるように感じる。
 エレナも目を細めた。

「もちろん私も責任は持つわ。ティアちゃんだっけ、ごめんね、水曜の秘石は私が使う。だから、イオリちゃん、もしものときはお願いね」
「……もしも、とは」
「分かってるくせに。私が失敗したら作戦は終わり。そしたら多分私死んじゃってるから、作戦リーダーはイオリちゃんになりまーす」

 明るく、普段通りの口調で、アラスールは当たり前のように言った。決して冗談の類ではない。
 ゾッとする。
 恐怖を感じたのは、魔門の脅威にか、はたまた死との隣接が日常であるかのようなアラスールの態度にか。

「一撃離脱よ」

 アラスールは懐から、スカイブルーに輝く石を取り出した。

「弾は、秘石は、このたったひとつ。イオリちゃんの協力はありがたいけど、私の想定では移動以外に使うつもりはないわ。予備というか、存在しないと思っていていい。失敗したら、後のことは任せるわ。何事にもとらわれず、常に臨機応変に。何事も気を抜かず、常に真摯に。そうじゃなきゃ、簡単に死んじゃうから」

 アラスールは最後の全員を見渡して、自然に微笑んだ。
 それが激励のようにも、威圧のようにも見える彼女は、普段、何を見ているのだろうか。

「それじゃみんな、よろしくね」

―――***―――

 それからの2週間は、取り立てて大きな出来事もなく、平穏無事に過ぎ去ったと思う。

 魔術師隊の支部で作戦を立てて以降、魔術師隊の介入もなく、アキラたちはヘヴンズゲートで日々を過ごした。
 時折依頼を受け、依頼の無い日は、リリルとよく話をしたと思う。

 エリーやエレナにはよく買い物に付き合わされたが、いよいよ休まりたくなるとティアの実家にお邪魔して、図書館と見紛うようなティアの部屋で漫画を一緒に読んだ。
 不安で押し潰されそうなのは自分だけなのか、ティアはいつのも調子で元気に笑っていた。
 ティアに案内してもらって、共に両親の墓前に立ったときも、彼女は、笑っていた。

 グラウスとは別段話をすることはなかった。ただ、あの支部長のルーフにこっそりと話を聞いたところ、グラウスの協力は得られたそうだ。ティアと過ごしているときも、鉄火場から音が響いていたのを覚えている。

 イオリとは顔を合わせ辛かったのだが、日が経つにつれてお互いいつもの調子に戻れたと思う。
 魔術師隊の支部でリリルと過ごしていたときも、よく現れてはいつものように冷静に作戦の復習をしてくれた。
 イオリには、自分以上に、リリルへ思い入れがあるのかもしれない。

 いたって平和な生活を起ってはいたが、日々激しさを増すサクとの鍛錬が精神の状態を常に高ぶらせてくれた。
 日輪属性とは便利なものだ。身体中に青あざができても、簡単な治癒魔術で元に戻る。
 それを知ったからか、サクの攻撃は鋭さを増し、試しに数えてみたら1回の鍛錬で10は死んでいた。
 念のための秘石の係を任されたこともあり、使い方を聞いているのか、イオリと共にいるのもよく見かけるようになった。
 真面目な彼女は、過ごす日々そのすべてに緊張感をもって取り組んでいるのだろう。

 緊張感という意味では、エレナも妙にやる気を出していたようだ。
 普段は遊び惚けているように見えるが、姿が見えないときには依頼を受けに行っているようだ。
 ただの暇潰しなのかもしれないが、エレナの力でそれをやられると、依頼が根こそぎ消滅し、ヘヴンズゲートの人々の生態系を崩すようなものだった。
 自重を促そうにも、勤勉に働いているだけの彼女は責められない。依頼の報酬が、遊ぶ金としてあっという間に消えていっているのは、ある意味経済を潤滑にしているのかもしれない。

 街でたまにすれ違うアラスールには、また違う女性を連れているとよくからかわれた気がする。
 エリーといるときが最もしつこかったが、大抵はこちらが何かを言い出す前にどこかへ行ってしまう。

 しかし、その去り際に、彼女は必ず言うのだ。自分たちが非日常にいることを、忘れさせないように。
 最後に聞いたのは3日前。

 あと3日、と。

 そして、“その日”。
 現場の指揮を執るアラスールが最初に下した命令は―――

―――魔門破壊の中止だった。



[16905] 第四十九話『別の世界の物語(転・前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2020/04/19 13:34
―――***―――

「いかんな」

 異変を最も早く検知したのは、“その存在”だった。

 とはいえ、異例の事態というわけではなく、至って正常な“活動”だ。

 “それ”には周期のようなものがある。
 あるときは水面に浮かぶ木の葉のように平穏で、あるときは荒ぶる猛獣のように猛々しく、潮の満ち引きのように漂いそこに在る。

 人間たちでは知りようもないであろう、間近で観察して初めて“それ”の胎動するような波を感じ取れる。

 だから、知りようもないだろう。
 “それ”は今、何かに呼応するように脈打ち、しかし物言わずに漂う。

 あるいは自己の昂りが、影響を与えてしまっているのかもしれない。

 そう―――昂るのだ。
 この日、このとき、この場所に立ち、“その存在”は自らの高揚を強く感じていた。

 今自分は、千載一遇の状況にある。
 どちらに倒れても、“満たされる”のだ。

 ゆえに、“それ”の胎動は抑えられない。
 この高揚が負に働き、例えすべてが台無しになったとしても、抑えることは無いであろう。

 猛り、昂り、己が思うまま求め続ける。

 それでこその―――“欲”だ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――
 マースル地方。

 ヘヴンズゲートの東方に位置するそこは、アイルークに長く住む者もその地の名を聞いたことはないであろう、地図上から抹消された地域だった。

 世界の3大樹海のひとつと言われるアイルークの樹海は、大陸全土に広がっており、アイルークの人々は自然と共存している。
 無限を思わせる木々は時折粗雑に扱われ、クロッククランの歴史にあるように、大規模な伐採が行われることもしばしばである。
 その資源がやはり有限であることに気づき、そして領地という概念が生まれ始めるのはいつになるか。だがやはり、少なくとも、今この時代において、無限の資源は全員のものとして扱われている。

 それゆえに、その膨大な規模の樹海のほんの一部に、明確に領地が定められていることに人々は気づかない。
 地図に敏い者であれば、自然と共存するアイルークの中に、完全に独立したエリアが存在することに気づくであろう。そしてもっと敏い者であればそのエリアについて言及しない。

 彼らは、一般教養として知っているのだ。
 自分たちが踏みしめているこの大地のどこかに、“それ”が存在していることを。
 そしてその場所を知ろうともしないことが、何よりも安全で、何よりも平和だということを。

 マースル地方。アイルーク大陸の『魔門の地』。
 魔術師隊のみが知らされる、平和に落ちるどす黒い影。

 その地に今、自らの意思で辿り着いた者たちがいる。

「待った」

 じっとりとした汗が身体中に絡みつく。木々の匂いが熱を帯び、汗の匂いと混ざり込んで鼻腔を絶えずくすぐってくる。
 樹海の中は昨日の雨のせいか湿気が高く、常に意識が朦朧とするような不快感に苛まれていた。

 それでも、その声に、ヒダマリ=アキラは意識を覚醒させた。踏み出そうとした足をピタリと止める。
 一歩後ずさり、可能な限り気配を殺して振り返れば、魔導士の制服を纏った女性が冷静な瞳で周囲を見渡していた。

「え、もう範囲内なのか? 俺……どうすれば……」
「いや、かなり近いけどまだだよ。ただ、この辺りで魔術師隊の見張りと落ち合うはずだ」

 湿気と熱を帯びた樹海の中でも、彼女はさも落ち着いた様子で周囲の気配を探っている。

 このホンジョウ=イオリはアキラの仲間であり、そして現職の魔導士だ。魔道を極める者にとっては最高峰とも言うべき資格を持っている。
 そんな魔導士様は、ここ数日、これから挑むことになる魔門について、ありがたくも可能な限り詳しく教えてくださった。
 魔門は接近するだけで大地を砕き天を割るような天変地異を巻き起こし、生きとし生けるものすべての命を奪いかねない、と。

 表現は違ったかもしれないが、この件に関して真剣に考えたアキラの出した結論はそれだった。
 結果、馬車で樹海の前まで辿り着き、徒歩で魔門の地へ向かっている間も、アキラはさながら地雷原でも歩いているかのように慎重に歩を進めていたのだ。
 だが、まるで生きた心地がしていないアキラとは違い、振り返ると連れ立っている面々は、思った以上に肩の力が抜けているようだった。

「ねえ、まだなの? 私もう疲れてきたんだけど。とっととやりましょうよ」

 その代表格であるエレナ=ファンツェルンは甘栗色の髪をかき上げ、さも下らなさそうに欠伸を噛み殺していた。
 エレナは疲れているらしいその身体で、背後に隠れていた少女をぐっと掴むと、手荷物のように持ち上げて、腹話術の人形のように前にかざして見せる。

「ほら。このガキも武者震いしまくってんじゃない」
「ふ、ふぅ」

 持ち上げられたのはアルティア=ウィン=クーデフォンだった。
 顔中に汗を滴らせ、身体中が震えている。

「ア、アッキー、気を付けてくださいよ。一歩でも間違えたらボーンです。バーンです。ドカーンです。あっし、吹き飛ばされてこれ以上小っちゃくなったら立ち直れません」

 断じて武者震いではなかった。
 魔門の影響でも受けたのかと危惧したのも束の間、ティアもアキラと似たような想像をしていたらしく、カタカタ震えている。
 吹き飛んだら決してそんなコミカルな感じにはならないのだが、今は何を言っても無駄であろう。
 この件は、彼女にとっては深い思い入れがあるはずなのだが、いつも以上にいつもの調子でこちらの調子が狂ってしまう。

 だが、警戒しているのは結構なことだ。
 最悪の想定をしていても、イオリからは訂正するような言葉は出てこない。
 今は未だ圏外らしいが、その想定は、必ずしも空想ではないのだろう。

 現在、魔門の地の目前まで近づいているのはこの4人のみ。
 自分たちは、残りの面々をこの辺りで待つことになる。

 魔門の地どころかその周辺にすら、少数ずつ入るのが習わしだそうだ。可能な限り魔門への刺激を軽減するためらしい。
 この辺りで見張りの魔術師と落ち合い、それから伝令が樹海の外で待っている者たちに出発の連絡をしに行くそうだ。

 先ほど馬車を止めたときもそうだった。無秩序に放置されている地域かと思えば、近づいた途端に魔術師隊に囲まれた。明確に規則や防衛ラインを定めているのだろう。
 重苦しい空気を感じる。平和なアイルークから、まるで別世界に迷い込んだようだった。

「―――出てきなさい」
「ぎゃっ!?」

 最初に反応したのはエレナだった。
 軽々しくティアを後方へ投げ捨て、鋭い視線を木々の向こうへ投げる。
 遅れてアキラも構えを取ろうとしたが、その前に気の合間から魔術師の姿の男が両手を上げて現れた。

「魔術師隊の者です、落ち着いてください」
「ああ、良かった。ここで合っているのかな」
「いえ、もう少し先に……、あ、いや、ここで大丈夫です。すぐそこに木々が開けた場所があるので、こちらでお待ちください」

 エレナに殺気を当てられたからか、気が動転している魔術師の男にイオリが冷静に応対した。
 アキラが全く気付かなかった気配を察し、そして正体も分からないまま迷わず殺気を放ったエレナに頼もしさと恐怖を覚える。
 エレナの意識は、見た目以上に鋭く尖っているようだった。

「で、ではこちらでお待ちください。お、おい」
「ええ、分かりました」

 再びびくりとした。どうやらふたり連れだったらしい。
 声をかけられたもうひとりの男は、慎重に静かにアキラたちが来た道へ歩いていく。彼が伝令係なのだろう。
 ドクリと心臓が高鳴る。
 あの男が残りのみんなを連れてきたら、いよいよ魔門破壊が開始される。

「ねえ、アキラ君。あっちに座ってお話でもしていない?」
「ん? ああ」

 再び肩に力が入っているのを感じ、意識して肩を下げた。
 今からこの調子では、ミスは許されない場面で何をしでかしてしまうか分からない。
 エレナの提案に乗り、地面から飛び出した木の根に向かう。

 エレナは僅かばかり湿っていた根を軽く払い、ゆっくりと腰を下ろした。
 横目で見ると、イオリは魔術師の男に何かを話している。こういうときにも、イオリは情報収集に余念が無いらしい。

「正直どう思う?」
「どうって、魔門破壊か?」
「ええ、そう。魔門破壊」

 恐らくその言葉をここまでにっこりと笑って口にした人間はいないだろう。
 見下げる形になったエレナは、とても小柄で、とても可愛らしく見える。
 名残惜しかったが、アキラは大人しく隣に姿を下ろした。

「魔門破壊、できると思う?」
「エレナはできないと思っているのか」
「私? そうね、正直失敗すると思っているわ」

 エレナは他人事のようにそう言った。
 アキラが認識している中で、エレナは最も高い戦闘力を持っているであろう。
 普段の所作からは想像もできないような鋭い動作と破壊力を備えている。
 彼女がその気になれば、今ここで座っているその状態からほんの数秒で、ここにいる全員を地に伏せさせることもできてしまうかもしれない。
 それほどの彼女が失敗と断じていた。

 アキラは意識して歯を食いしばる。
 思わず、巻き込んで済まなかったと言おうとしてしまった。
 だがそれは、今目の前にいる彼女に対して、自分の意思に従ってくれた彼女に対して誠実な態度ではないと感じる。
 報いるために必要なのは、そんな下らない保身塗れの戯言ではなく、結果を手に入れることだけなのだろう。

「でもまあ、作戦らしい作戦じゃないけど、一応試してみる価値がありそうなことだし、協力してやらないこともないわ」

 エレナは欠伸をしながら、鋭く視線を走らせる。
 思わず追うと、先ほど投げ捨てられたティアが頭を押さえて呻きながら立ち上がるところだった。

 彼女はこの場すべての異変を誰よりも早く検知する。
 それでいて、普段通りの態度をとっていた。
 そんな違和感には覚えがある。この作戦の指揮を執っている、ヨーテンガースから来た魔導士のアラスール=デミオンも、日常の所作の節々に、戦場の匂いを感じさせていた。
 アラスールがどれだけのものを見てきたのかは知らないが、目の前のエレナも、絶望を見てきているはずの人間だ。

 そんな彼女が仲間であることは頼もしくもあり、そして、やはり言い知れぬ恐怖を覚えてしまう。
 彼女にとって、この魔門破壊という危険ですら、日常の一部なのだろうか。
 そんな彼女を見ていると、胸が押し潰されそうになる。
 危機感が麻痺しているのではない。そもそも危険と日常が混ざり込んでいるのだ。

「エレナ。お前の目的は“あの魔族”を殺すことだよな」
「ええそうよ」

 即答だった。誰もが恐怖し慄く魔族という存在をも、彼女の日常の一部。
 そんな人間の心はどのような形をしているのだろう。
 少なくとも、自分に着いてきてもらって、当たり前のように危険な目に晒し、万が一彼女を失ったとしたら、自分は正気ではいられない。
 ようやく気付く。自分も、ここまで同じことをしていたのだろう。あの赤毛の少女が抱いていた懸念は、今自分が思っている感情と同じなのかもしれない。

「あら。もしかしてアキラ君、私を心配してくれているの? 嬉しいなあ」
「……多分、そうなんだろうな」
「即答して欲しいわねそれは」

 可愛らしく頬を膨らませ、エレナは踵で地面を蹴った。

「断言してあげるわ。私に何かあるようなら、その前に誰かが死ぬわ。ざっくりだけどそれくらいの差があるもの。だから安心してね、アキラ君♪」

 笑顔だが、微塵にも可愛らしさを感じない物騒な物言いだった。
 たが、エレナには分からないのだろう。見上げている者からの不安は。
 彼女は誰もが危険と判断する領域を軽々しく進んでいける。
 だからこそ、それゆえに、最も危険に近いのだ。

 何が起こるか予測不可能な魔門の繰り出す危険に、きっと彼女はひとりでも立ち向かえてしまう。
 そしてその領域に、危険に、彼女はひとり身を晒してしまうことになる。
 誰にも手が届かない。

 だけど、自分は彼女に言わなければならない。

「エレナ。もし何かあったとき、一番対処できるのはお前だと思う。俺も死ぬ気でやるつもりだけど、お前を頼ることになるかもしれない。だから、頼む。犠牲を出さないために、協力してくれ」

 歯が砕けるほど食いしばった。
 自分は卑劣なことを言っている。
 だが、成功させるためには、アラスール風に言えば成功率を上げるためには、エレナの協力は不可欠だ。
 だからこそ、自分は彼女に言わなければならない。
 危険を対処してくれと。

「……魔門を破壊するためにじゃないのね」

 ふふんと鼻歌が聞こえた。
 エレナは変わらぬ様子で足をばたつかせている。

「アキラ君、大丈夫よ。私にしては珍しく、ちょっとやる気出しているもの。ま、あんたらに着いてきて、いきなりこんなことになるとは思ってなかったけど」

 記憶を保有するアキラやイオリと異なり、彼女にとっては日が浅い付き合いだ。
 彼女の胸中を、アキラは察せない。

「でも、まあやるってんならやってやるわ。ようやくあんたらの顔と名前も一致してきたし」
「まだ覚えてなかったのかよ」
「ふふ、まあいいじゃないそんなことは。でもアキラ君、わざわざそんなことを言うなんて。ちゃんと協力するわ。私の心を深読みしなくてもいいわよ、至ってシンプルだもん。使える奴は好き。使えないのは要らない。そう―――、それだけよ」

 同行しているということは、自分たちに価値を見出してくれているのだろう。
 だが、そんな理由はどうでもいいとアキラは思う。どんな形であったとしても、自分に着いてきてくれるのだ。報いなければならないと強く感じる。

 そしてエレナは、飛び切りの笑顔をアキラに向けた。

「それに、なんかもっとやる気出てきたしね」

―――***―――

 ミツルギ=サクラは湿気がまとわりつく樹海を慎重に進んでいた。
 やはり危惧した通り、昨日の雨で濡れた木の葉が足場に散乱し、移動に適した状況ではない。
 歩くだけで普段より僅かに体力を奪われるし、木の葉に隠れた地面の窪みは小さな沼と化し、天然の罠が仕掛けられている。
 自分にとっては問題ではないが、サクは常日頃から周囲の状況を観察している。こうした積み重ねが、例えば魔力が切れたとき、武器を失ったときに生存率を上げるのだと生まれた大陸が教えてくれた。

 間もなく魔門破壊が開始される。
 自分も魔門破壊の鍵となる秘石を預かっているのだ。神経は、いつも以上に研ぎ澄まされていた。

 だから、邪魔しないで欲しい。

「リリルさんはモルオールの山喰らい……えと、フェリヴァルでしたっけ。その事件を解決してますよね。でもその数週間後にシリスティアで難破船の救助をしてますよね、どうやって移動したんですか?」
「ええ、あのときは大慌てでした。乗り継ごうにも船が無く、途中まで陸路で進んで、何とか漁船に乗せてもらえまして」
「よく行こうと思いましたね……」
「いえ、誰かがお困りならば。それよりも、エリサスさんたちのお話をきかせてください」
「エリーでいいですって」
「では、エリーさん。シリスティアからどうやってタンガタンザへ向かわれたんですか?」
「う……。ま、まあ、何とか。あたしはタンガタンザには行ってないんですけど」

 背後に続くふたりがやたらと意気投合していた。
 赤毛のエリサス=アーティと、銀の髪にオレンジのフードを被ったリリル=サース=ロングトンが並んでいるのは妙に見栄えがいい。

 声量は抑えているようだが、世間の情勢に明るいふたりは会話のレベルが合うようだ。
 そう考えると、自分たちの中でエリーとまともに会話ができるのは常日頃魔術師隊の支部へ行ってしまっているイオリしかおらず、彼女にとってリリルは待望の話し相手なのかもしれない。

 リリル=サース=ロングトンは自分でもその名を耳にしたことがあるほどの有名な勇者だ。
 初めて支部で会ったときも、例の如くアキラと関わりがあるようだったのは妙に気になったが、魔門破壊の協力者としてこれほど心強い者はいない。
 明るく笑っている彼女を盗み見ると、とてもそうは思えないのだが、有事には頼りになるだろう。

 それでも、日常会話がこれほどまでに緊張感を削ぐとは。
 だが、魔門のエリアはまだ先だそうだ。
 先行したアキラたちはすでに待機しているらしいが、未だそこについていない自分たちの肩に力が入り過ぎているのもよくないかもしれない。
 現に隣を歩く魔導士のアラスールも、まるで散歩でも楽しんでいるように鼻歌交じりに進んでいるのだから今のところ問題は無いのだろう。

「それより、シリスティアのお話聞かせてもらえませんか? 遠目では見えたんですけど、具体的に何があったのか分からなくて。アキラさんもいましたよね?」
「そうですね、いましたよ。あたし、実は魔物の攻撃受けちゃってて、それで、あいつが助けてくれたんです」

 いや、問題はあった。
 少しピリとした空気を感じる。先頭を行くものの義務として、敵襲だと叫ぶべきだろうか。だが生憎と、その空気は後ろから感じた。

「流石ですね、アキラさん。やはり、仲間と共に助け合って旅を続けているんですね」
「いえいえ、でもあいつ、そのとき思いっきり後ろからガバッって押さえつけてきて。未だに忘れられませんよ」
「……そう、ですか」

 今すぐに会話を止めて欲しい。
 敵に注ぐべき注意力の残量が結構減ってきている。由々しき事態だ。
 アイルークで魔門破壊に備えているとき、アキラに紹介されたのか、このふたりが話しているのを遠目で見たことがある。しばし考え、近寄らなかったのだが正解だったようだ。

 心境の変化があったのか、最近エリーの態度が露骨になってきているような気がする。
 自分は最近気づけたのだが、アキラには届いているのだろうか。

「ねえねえ、サクラちゃん。あなたは混ざらなくていいの?」

 隣のアラスールがにたにた笑いながら小声で聞いてきた。
 今の自分の心境を教えて欲しいのなら、すぐに応えられる。
 とりあえず、ああいう争いには巻き込まれたくない。

「私はアキラ様の従者だ。あいつに妙なストレスは与えたくない」
「あらあら。あらあらあら。いーないーな、若いっていーな」

 ならば年相応の態度をとって欲しい。
 仲間のイオリは、想像していた魔導士像に足る立派な人物だが、このアラスールは型破りとでもいうのか、今まで見たどの魔術師とも違っているように感じた。
 だが、身に覚えのない態度ではない。

「でもサクラちゃん、後ろばっかり気にしていると足元危ないわよ? だったらいっそ混ざっちゃいなさいよ」
「……サクでいい」
「気になってたんだけど、あなたたちって愛称を自己申告してくるわよね」
「そうしないと妙な愛称を広める奴がいるからな」

 適当に答え、サクは眉間にしわを寄せた。
 そうだ。
 この飄々とした態度が、自分の親を連想させる。
 孤立無援だ。早く辿り着いて欲しい。

「ふふ。じゃあサクちゃん。胸にしまったそれ、使いどころを間違えないでね」

 懐に仕舞った秘石の感触を探った。
 アラスールはまっすぐに見てくる。
 日常会話の中に、常に戦場を意識させるような言葉を混ぜるのもあの男を連想させた。

「……存在しないと思っていろと言わなかったか」
「ええ、言ったわ。だけどそういう意味じゃないのよ。魔門のためじゃないわ。いざというときに逃げるためよ。命からがらね。でも何も考えずにとにかく逃げろなんて言わないわ、最後の一瞬まで思考を止めないのが長生きの秘訣よん」

 ジジジ、と虫の鳴き声が聞こえる。
 アラスールの表情は、逆光でちょうど見えなかった。

「アラスールさんは慣れた様子だが、ヨーテンガースではよくあるのか?」

 皮肉のつもりで言ってみた。
 後ろも不穏ではあるが会話しているのだ。サクは溜まっていた息を吐いてアラスールを流し見た。

「慣れてなくて何が魔導士よ。でも、流石にこれは初めてね。計画的にやろうとするのは史上初だもん」

 難しいことを簡単に言う。エレナもこういう言い回しをするような気がした。
 常に戦火に包まれている大陸に生まれた自分でも、彼女たちは別の世界にいるように錯覚する。
 そしてサクは良く知っている。戦場を日常に落とし込んでいる者が、長く生きられるのだと。

「それでも、史上初なんてのは見飽きたわ。言ったでしょう、常に真摯にいること。思考を止めないこと。僅かでも成功率を上げるために。それが人からどう見えるのかなんて気にしないわ、隊長職としてはどうかと思うけど、それが私のスタイルだもの」

 もちろん人によるのだろう。例えば後ろのエリーは、戦闘になれば即座に切り替えられる女性だ。

「堅苦しく考えなさんな若人よ。自分が考え抜いて、自分が必要だと思うタイミングで、その秘石は使ってね」
「そうか。それなら私は魔門破壊にこれを使おう」

 アラスールの目が細まった。
 サクは胸を掴み、感触を確かめる。

「あら。魔術師隊としては嬉しいけど、個人的には、使うような事態になるなら逃げて欲しいんだけど」
「なら私も個人的な理由だ。魔門は破壊する」
「……あーら。気が高ぶり過ぎてるわね、少しは落ち着きなさいな」
「悪いな。私はそんなに器用じゃない」

 常に刃物に身を晒すように、鋭く意識を尖らせていく。
 そして誰よりも早く道を切り開いていく。
 それが自分のスタイルだ。

 その結果、失ったものもあり、後悔したこともある。

 そして、得たものもある。

「主君の願いを叶えたい。だから私は、今から気を張り続けよう」
「……ふ。あなたたち中々まとまっているじゃない。―――適正あるわね、“あの場所”の」
「―――?」

 顔を向けたが、アラスールの表情はまた逆光で見えなかった。

「……あ。私、勇者様の女性問題が新聞に取り上げられたら、涙を流して笑う自信があるわ」

 刀に手をかけたが、すでに笑いを堪えられていないアラスールには、殺気が無いことがばれているようだった。

―――***―――

「この地点からの距離はおよそ50km」

 ポツリ、とアラスール=デミオンがそう言った。

 後発組が合流した直後、面々の顔を見渡して、にっこうりとした笑顔を浮かべ―――鋭く視線を走らせた。
 エレナと雑談をしていたアキラは思わず立ち上がり、拳を握る。

 いきなりのことのように思えた。
 僅かばかり解れていた気持ちが手元から漏れ、拾い切れない。
 思わず面々の顔を見渡すと、日常と戦場が入り混じっている者とそうでない者がはっきりと分かった。

「離陸地点は?」
「もう確認してある。こっちだ」

 淀みなく先導するイオリに、アキラは足を強引に動かしてついていく。
 そうだ。
 この地に踏み込んだ以上、開始の合図など敵も味方も行ってくれない。

 アキラは共に歩く面々を流し見た。
 強張っている者、普段通りの顔つきで進む者の様々な顔色をうかがいながら、その中に、リリル=サース=ロングトンを見つける。

 まっすぐに前を見て歩く彼女は、微笑んでいるようにも見えた。
 心拍数が上がる。
 樹海の不快さは気にもならなくなり、暑さのせいとはまた違った嫌な汗が額に噴き出す。

 ヘヴンズゲートで過ごす日々で想ったことはいくらでもある。
 だが、アラスールの空気に引きずり混まれ、幸運にも今は抑え込まれているようだった。

「ここだ。まだ入らないでくれ」

 先行したイオリが、それだけ口にして踏み込んだのは、数十メートルほどの野原だった。
 樹海の中で不自然なほど整った形をしているその場所は、どうやら人工的に開けた広場のようだ。よく見ると、木々が伐採された形跡がある。
 アイルークにも召喚獣使いがいるのだろうか。魔門流しの際にも使用しているのかもしれない。

 イオリはまっすぐに中央へ向かうと、懐から拳大の石を取り出す。
 あれが魔門破壊の成否を分ける最重要アイテム―――魔力の秘石。
 イオリの魔力を増幅させ、彼女の召喚獣でこの面々が魔門に高速接近する手はずだった。聞いていたときには容易な手順のように思えたが、鼻に付くような鋭い空気が、身を凍えさせる。
 彼女だけが立つその広場が、生半可な覚悟では踏み入ることすら許されない聖域のように思えた。

 イオリはしばし秘石を見つめると、静かに振り返った。

「いつでも」

 アラスールが頷く。今頃、この樹海の各所に散らばった魔術師に、作戦開始の連絡が伝達されているであろう。
 連絡が届き渡るまで、改めてこの場で待機ということになる。

 シン、とした樹海の中、アキラはようやく思考が追いついてきた。

 まるで着いていけない。
 つい先ほどまで、自分はエレナと座り込んで話していたはずだ。
 それなのに、気づけばこの場所に立っている。
 自分がどのように足を出し、どれほどの距離歩いてこの場所に着いたのか分からなかった。
 見知った顔に囲まれて、歩き慣れたアイルークの樹海にいて、当たり前の動作をしただけだというのに、まるで別の世界に迷い込んだかのように思えた。

 声を出すことすら、呼吸をすることすら禁じられたかのような空間に圧迫されて、いつしか握っていた拳が震え始めてくる。
 問題の魔門まで、まだ50kmあるというのに。

 これだけの緊張感を、生涯味わったことは無い。
 あのタンガタンザの百年戦争ですら、いつも通りの自分でいられたと思う。

 失敗したら、ここにいる全員が何の比喩なく死ぬ。
 魔門破壊というものは、それほどのものだ。そしてそれを選んだのは、自分だ。
 そう漠然と思ったとき、アキラはようやく分かった。

 そうか―――これが信頼を得ようとする者の責任感か。
 焦がれるほどに欲したものは、ヒダマリ=アキラという存在が持つには、あまりに重いもののようだった。

 今自分は、日常と戦場の境界線に立っている。

「―――っ」

 震えた手が、隣の誰かに触れた。

「あ……はは」

 顔を向けると、赤毛の少女が乾いた笑い声を出した。

「は、始まるね」

 笑みを浮かべようとしているらしい。
 エリーは汗を浮かべてひきつった顔を向けてくる。
 彼女も自分と同じ、日常の住人のようだ。

「あら、エリーちゃん。今はこの場で待機よ。少しだけなら気を抜いていいわ。その代わり、合図があったらすぐに行くわよ。前にも言った通り魔門のエリアで活動許可をしているのは40分」

 事前の打ち合わせで聞いたことを今更ながらに思い出した。
 自分を保てていない証拠だ。

「そのときは今よりもーっと気を張ってもらうから、今のうちに自分のリズムを整えてなさいな」

 到着するなりその辺りの切株に座り込んでいるエレナは、その自分のリズムとやらを順調に刻んでいるようだ。
 エリーがカチコチに固まっているのが見て取れる。
 いかにも民間人代表のような顔つきだった。
 自分も人のことは言えないのであろうが。

「……ほ、ほら、顔強張ってるわよ。リ、リラックスリラックス」

 言っている本人が固まっていた。
 エリーは目を泳がせたまま必死に作り笑いをしている。
 だけど不快には思わなかった。
 汗がじっとりとまとわりつく樹海の中でも、暖かさを感じる。

 また、歯を食いしばる。
 言おうとしてしまった。巻き込んですまなかったと。

 自分が何をしているのか途端に見失った。
 そもそも、彼女たちを魔王討伐などに巻き込んでおいて、今更自分は何をやっているのか。

 今までの彼女たちとの旅すべてが黒く淀んで見えてきた。
 これほどまでに不確かな自分は、今まで何を考えてきたのか。あるいは、何も考えてなかったのか。
 戦いの次元は遥かに上がってきている。
 それなのに、自分はこのアイルークから旅立ったときから、何も成長していないように思えた。

―――ピッ、と。

 首筋に、誰かの指が触れた。
 ひんやりとした、心地の良い刺激だった。

「……ぇ」
「大丈夫ですか、アキラさん。具合が悪いようですが」

 ゆっくりと振り返ると、リリルが優しい瞳で、アキラを見上げていた。

「リリル?」
「もうすぐ始まりますね。お互い頑張りましょう」
「あ、ああ」

 やはり彼女は微笑んでいる。
 魔門破壊という異常事態に巻き込まれているのに、彼女は何故こんなにもにこやかなのだろう。
 いつも逸らされている印象の、彼女の澄んだ瞳に、アキラは吸い込まれているような錯覚を覚えた。

「リリルは随分落ち着いてるな。流石に慣れてるのか」
「いいえ、私も緊張していますよ。ですが、嬉しいんです。魔門を破壊すれば、多くの方が救われますから」

 彼女はまっすぐにそう言った。妙な感情が混ざっていない、澄んだ声色だった。
 それが、彼女という人間そのものであるのだろう。

 そうだ。
 難しいことを考えるな。
 自分は彼女の未来を変えるために、この魔門破壊に参加しているのだ。
 信頼されるために行動するのではなく、信頼されるような行動を取ればいい。

 良くない何かがその指先から吸い取られ、気が静まっていくのを感じた。
 妙に冷静になれる。

 しばらくそうしていると、リリルはようやく顔を背けた。

「こ、こほり。もう間もなくのはずです。戻ったらまたお話聞かせてくださいね」

 アキラは息を吸って吐いた。
 遠ざかっていた世界が、ようやく目の前に戻って来る。

「―――ああ。約束だ」

 熱に浮かされたようだった頭が落ち着きを取り戻していく。
 手のひらの感覚は問題ない。
 視界も良好。

 ようやく広場に足を踏み入れることができそうだ。

「こ、ほ、ん。終わったら、話があるから。あんたによ」

 一応時と場所を選んでくれているらしい。
 隣から荒々しい咳払いと共に、脅しのような言葉が聞こえたが、顔を向ける勇気はなかった。

「あらあら、もろもろ落ち着てきたみたいね。そろそろ始まるわよ」

 アラスールが微笑んだと同時、森の影から魔術師隊の男が姿を現した。
 重々しい顔つきで、ゆっくりと頷く。
 彼は伝令係だろう。その合図の意味は、この場にいる全員が察した。

「イオリちゃん」
「ああ、始めるよ―――」

 イオリが手に持った秘石に力を込めた。
 何も起こらない、と思ったのも束の間。

 風の音が、止んだ。

「―――ラッキー!!」

 口笛を響かせ、イオリは自らの召喚獣の名を叫ぶ。
 同時、視界がすべて土色に染まり、比喩ではなく呼吸ができなくなった。

 辛うじて煌々と輝く秘石が見えたが、まるで味わったことのない空気が、身体中を押し潰している。

 話には聞いていた。
 秘石は、純度の高い魔力を膨大に有していると。
 イオリの属性はグレーに輝く土曜属性だ。
 あらゆる魔力を押さえつけ、その流れを強く阻害する。

 魔力を前提とした旅を続けてきた自分が、この場全てから強い違和感を覚えるのはそのためか。
 強大な魔力が目の前に存在しているのに、周囲に漂うべき魔力の奔流が微塵にも感じられない。

 秘石を操るイオリ自身、魔導士の資格を持つ規格外の魔力を持っている。
 そんな者が、その力を振るったらどうなるか。

 答えは、目の前に突然現れた。

「―――いっ」

 視界はようやく晴れた。
 しかし、今度は物理的に塞がれている。

 目の前に唸る巨大な岩山が出現していた。

 土色の肌ひとつひとつにあるコブは岩石のように隆起し、畳まれた翼はその状態ですでに人の住む建物ほどもある。
 身体に阻まれて全貌が把握できないが、もしアキラが知った通りの姿をしているのであれば、あの凶暴な顔つきはさらなる進化を遂げているのであろう。

 召喚獣―――ラッキー。
 魔導士であるホンジョウ=イオリの切り札たるその存在は、秘石の魔力を得て、別次元の怪物へと成長していた。

 前にイオリに、使用する魔力の量によってラッキーの姿が変わると聞いたことがあったが、ここまでとは。
 見上げに見上げたその背中に、イオリが冷静な眼で周囲を見渡していた。

「―――今から40分よ。すでに気づかれた可能性すらあるわ」

 アラスールの声に、弾かれるように全員がラッキーに飛び乗る。
 それだけで登山のように駆け上がることになるが、動きを止める者はいない。
 誰もが一刻一秒を争う事態であることを理解していた。

「全員乗ったね!? 行くよ!!」

 ボッ!! と爆発音のような羽音が聞こえた。
 普段イオリが召喚しているラッキーは、精々3,4人程度しか乗れないのだが、その倍を背中に乗せても、遥かに上回る速度で飛空する。

 一瞬とも思える間に樹海を見下ろす形になったアキラは、すぐにラッキーの前方へ移動する。
 音すら暴風に閉ざされた世界で、イオリと、魔門破壊を担当するアラスールはすでに遠くを睨んでいた。

 以前モルオールでカイラ=キッド=ウルグスの操る召喚獣に乗ったことがあるが、それよりも遥かに速い。
 カイラの召喚獣は移動に適した存在のようだったが、イオリのラッキーは戦闘向きだ。
 その戦闘向きの存在が、あのときより遥かに速い速度で魔門に接近していく。

 アキラは目を凝らした。
 秘石を持たない自分の役割は、異変の排除。
 細心の注意を払い、僅かな変化も見逃さず、即座に対応する必要がある。

 だが、そんな必要はなかった。

「―――!?」

 迷わず突撃していくラッキーの前方に、分かりやすいほどの“巨大な球体”が見えた。

 グンッ!! と身体が引かれた。
 イオリが指示を出し、その球体を即座に回避する。

 体勢を立て直す前に真横を通り過ぎた球体は、一瞬で遥か後方に消えていった。
 あれは魔門が起こした現象だったのだろうか。

 ズン、と頭が重くなる。
 つい今しがた見たはずのその球体が、靄がかかったように記憶の奥に吸い込まれていく。

 今の、は。

 アキラは強く首を振った。
 恐れるな。
 攻撃だったのかもしれないが、それならそれでいい。魔門が目前に迫っていることになる。
 いや、事実そうだ。
 このうっそうと生え茂った樹海の中、ラッキーが一直線に目指している開けたエリアがある。
 あそこが魔門の場所に違いない。

 そこで。

―――ズ―――――――――

 強い不快感が襲った。
 眼球が裏返るような圧力で頭の上から押さえ付けられる。
 鋭い刃のように走っていた暴風が流れを止め、溶かされた鉛のように全身にまとわりつく。
 身体中に血栓ができたように四肢が痺れ、神経がまともに機能しない。
 ようやく呼吸を思い出すと、肺の裏にこびりついた鉛がようやく流れ、今度はむせ返るような苦々しい空気が肺に取り込まれてきた。

「なん―――だ」

 依然、ラッキーは高速で魔門へ向かっている。
 だが今、言いようのない何かを、この空の世界で確かに感じた。

 ぼやけた視線を走らすと、ラッキーの背中に乗った全員の姿が見える。
 無事だ。
 だがその誰もが、今の自分と同じような―――絶対的な危機を感じ取っていた。

「―――、」

 ドッ、と今度は心臓が鳴った。
 音が消えた世界。
 高速の風の中。
 しかしアキラの世界は、ゆったりと流れる。

 頭がガンガンと鳴り、汗が噴き出す。

 これは―――“刻”なのだろうか。

 そして見た。
 先ほど見た巨大な球体が、前方に再び浮かんでいる。

 今度は―――ふたつ。

「―――止まって!! イオリちゃん!!」

 脳内に大声が響いた。
 アラスールの声だ。
 何らかの魔術を使って声を届けたらしい。

 アキラは鈍くなっていた感覚の中で、そんなことを思った。
 それよりも。

 遠方に小さく見える、“その存在”が、何故か自分の手の平よりもくっきりと見えていた。

 あれが―――あの遥か彼方にいる存在が、攻撃とも見紛うほどの空気を放っていたというのか。

 ラッキーが上空で急停止すると同時、身体中に別の何かが纏わりついた。
 ガクンと身体が揺れたが、ラッキーから放り出されることは無い。
 イオリが魔術を放ってくれたのだろう。

 上空で巨大な翼をはためかせ、ラッキーは速度を急激に落としていった。
 接近してくるふたつの巨大な球体は、ゆらゆらと揺らめく。

 アキラはその球体を―――その“赫い球体”を知っていた。

「―――中止よ!! 即時撤退!! 作戦は失敗!!」

 アラスールが腕を大きく振り、怒鳴るように叫ぶ。
 彼女も見えたようだ。
 アキラがずっと睨んでいる、“その存在”に。

「何があったんですか!?」

 アキラを追い越し、リリルがアラスールに駆け寄っていった。
 アラスールはリリルを見もせずに叫び続ける。

「今すぐこの場所から離脱!! 冗談じゃないわ、あんなのがいるなんて!!」
「説明をしてください!!」

 リリルが叫んで聞き返す。
 後部に乗っていた面々も、何事かと集まってきた。

 突如発生した異常事態に、張りつめていた緊張は臨界点を超え、パニック状態に陥りかけていた。

 鈍った感覚の中、アキラは拳で強く胸を叩いた。

 魔門まではあと僅かだ。このままラッキーで高速接近すれば、当初の想定通りに魔門破壊を開始できる。
 一撃離脱を果たせば、後は退避だけを考えればよい。それは容易いようにも思えた。

 だが、本当に優先すべきことは何なのか。
 それだけは―――間違えるな。

 アキラは振り返り、叫んだ。

「―――全員、逃げることだけ考えろ!! イオリ!! 離脱してくれ!!」
「わ、分かってる!!」

 イオリが応じた。
 だが、ようやく急停止できたラッキーを、その影響か思うように制御できていないようだ。
 その僅かな揺らぎを“その存在”は見逃さず、再び巨大な球体を放ってくる。

 今度は―――みっつ。

 最初のふたつは揺らめきながら迂回するようにラッキーの背後に回り、退路を塞ぐように進んでいった。

「ち―――」
「何!? どうしたの……よ……」

 エリーが駆け寄り、そして、自分たちが見た者の正体を見て、言葉を失った。
 必死にラッキーに指示を出すイオリの隣、アラスールは振り返り、改めて叫んだ。

「今すぐ戻るわよ。度を越しすぎてる。これも魔門が起こした現象だっての!?」

 アラスールも“奴”を知っているのだろうか。
 向うもこちらを眺め、そして―――嗤う。

 奴は。

「“魔族がいる”。それもただの魔族じゃない―――“欲持ち”よ。ううん、それどころか、“魔王直属”―――」

 周囲の木々は、“それ”がそこにいるだけで、力なく倒れ始めていた。

 黄金の鎧に身を包み、純金の髪を逆立て、しかしなお、身体中、指先一本にまで至る赫が痛烈に目に焼き付いた。
 鬼のような形相を燃えるように赫く燃やし、黒く塗り潰されたその眼はギロリと鋭く、まっすぐに、こちらを見上げてきている。
 この距離で、焼け付くような空気が、体内を侵食し、身体中が燃え付いて呼吸もままならない。

 それは。

「―――リイザス=ガーディラン」

 “財欲”を持つ、規格外の怪物だった。

「あ、あいつ……あいつって、アラスールさんも知っているんですか!?」
「後よ後よ!! 魔門から出てきたのか知らないけど、秘石があること嗅ぎ付けやがったのね……!!」

 リイザスは“財欲”の魔族だ。奴は、秘石に価値を見出しているのだろう。
 考え得る最悪の状況だった。
 まだ何が起こるか分からない魔門の方が安全にすら思える。
 だからこそ、アラスールに全面的に賛成できた。
 今は、逃げの一手に尽きる。

「シュロート!!」

 叫びながら、アラスールは腕を振るった。
 退路を塞ぐように展開していた球体に向かうスカイブルーの一閃。
鋭く走る水曜の魔術は、迷いなく球体に吸い込まれていく。

「きゃあ!?」

 ドンッ!! と大気が揺れた。誰かの悲鳴が遠く聞こえる。
 身体中が揺さぶられるような振動に、アキラは危なくラッキーから放り出されそうになった。
 あれが直撃したら、放り出されるどころか空中で爆散していただろう。

 この技は、以前も見たリイザスのアラレクシュットだ。
 追尾性能を持った、火曜の魔術。
 振れれば発動する特性から、迎撃は可能だが、これほどの破壊力を以前は持っていなかった。

 急場をしのぎ、アラスールは追撃に備える。
 今リイザスがいる遠方からの攻撃であれば、彼女がいればある程度対処だろう。
 あの技は、それほどの速力が無かったと記憶している。

 だが。

「っ……」

 カッと目が焼かれた。リイザスの周囲が樹海に火を放ったように赫に染まると、気づいたときには球体が群れを成し、目を疑うほどの速度で高速接近してきた。

 最早数えきれないほどの量。ラッキーの飛行速度を超えるほどの速度で、前方から濁流のように球体が迫ってくる。
 間違いない。
 あのリイザスは、以前のときとは違い、魔力減少のペナルティを受けていない。
 リロックストーンで現れたのではなく、何の制約もない正真正銘の魔族。

 人の認識では図ることもできない破壊の濁流が、瞬時に空を埋め尽くしていた。

 ティアも遅れて狙撃を開始したが、ふたりしかいない狙撃手の攻撃は焼け石に水のようだった。
 アラスールは最優先で背後に回ろうとした球体を打ち落としているが、空中で続く大爆撃に、イオリが操るラッキーの態勢が上手く整っていない。
 このままではあっという間に取り囲まれてしまう。
 アキラは歯噛みした。

「―――っ。多少強引だけどこのまま急上昇する!! 今すぐこの場所から離脱するよ!!」
「ええ!! お願い!!」

 イオリが叫び、アラスールが空を見上げる。
 目を塞ぎたくなるほど球体が浮かんでいるが、さらなる上空は包囲が甘い。
 直線の退路から逸れるということはそれだけ危険も高まるが、今のままよりは安全なように思えた。

 いずれにせよ、魔門破壊は失敗だ。

「―――待ってください」

 爆音の中、芯を揺さぶるような叫び声が響いた。
 向けば、リリル=サース=ロングトンがラッキーの先頭に立ち、前を見据えている。
 赫く染まる空の元に立つ彼女の、冷ややかささえ感じられる声色は、この場の全員の脳に響くようだった。

「行くなら下です。上空に退路はありません」

 思わず上を見上げる。アキラには道が開けているように見えるが、リリルには違う何かが見えているのかもしれない。

「駄目よ!! 方針を変えないで!! ち―――でも、」

 アラスールも空を見上げ、歯噛みした。
 未だ開いているように見える空に、彼女も危険を感じたようだ。

「―――問題ありません。皆さんは下りたらすぐに逃げてください。……魔門から」

 しかしリリルは冷静な顔つきで、オレンジのローブを脱ぎ捨てる。
 そして瞳は、まっすぐにリイザスを捉えていた。

「私は、リイザス=ガーディランを撃破します」

 その言葉に、アキラの脳が砕けるように騒ぎ立てた。

「―――く。とにかく下りるよ!! 全員捉まってくれ!!」

 そこからの行動は早かった。
 イオリはあえて魔力を抑えたのか、ラッキーの身体が途端に縮まっていく。
 重さに耐えきれないように下降を始めるラッキーに捉まり、アキラは強引に顔を上げた。

 リリルがしがみつきながらも、リイザスの姿を目に焼き付けようとしているのが目に入る。

 まさか、本当に、彼女は。

「―――なっ」

 吸い込まれるように樹海に近づく中、誰かの声が響いた。

 我に返ったアキラもラッキーの向かう先を見て、そして、絶句する。

 大地が、黄色に、輝いていた。

 赫の世界から逃れた先、リイザスの鎧のように樹海が黄色の光を帯びている。
 いとまも無い怪現象に、アキラは思考もできず、ただただ向かっていくその現象を眺めていた。

 発光しているようにも見える木々は倒れ、それでも光はその場所に留まり続ける。
 黄色の光は波のようにうねり、まるで樹海が津波に襲われているかのようだった。
 刺激の強い光に僅か目を閉じると、再び開いたときにはいたるところに建造物のような柱が立ち、空を貫くように伸びていく。
 遥か上空から見えるその世界は、高速に流れる時間の中で、人が木々を伐採し、建物を作り出している様に思えた。

 いよいよ魔門の力が発動した。

「―――総員衝撃に備えてくれ!!」

 イオリが叫んだ。
 それと同時、ゴッという鈍い音と共に、貫かれたような衝撃が走る。一瞬失った意識から覚醒すると、身体が空に放り投げられていることが分かった。

 投げ出された身体から目だけを動かして見ると、高速に伸びていた黄色の柱に、ラッキーが貫かれるように衝突していた。

 見える範囲、全員が宙を舞っている。

 赫に染まる空。黄金に輝く大地。
 逃げることだけを考えていたのに、それすらまともにできなかった。
 無力感と異常に挟まれた身体は、成す術なく地面に向かっていく。

―――思考を止めるな。

「……っ、キャラ・イエロー!!」

 バンッ!! とアキラはいち早く“地面”を蹴った。
 脳髄まで揺さぶる衝撃に身体中が悲鳴を上げる。

 減速もままならないまま地面に引き寄せられるも、再びアキラは空中に“地面”を作る。
 しかし辛うじて発動できたに過ぎない足場の魔術は、アキラの意図する方向とは逆に進んでいった。

 離れていく。

 先ほどまで共にいた皆は、空中で弾けるように別れ、魔門の森へ落ちていった。

 何人かは、空を行く術を持たない。
 アキラは必死に仲間の元へ向かうように魔術を発動させるが、やはり無駄に終わる。
 アキラは祈るように歯を食いしばった。

 何が起こるか分からない魔門。
 その脅威が、今になって、ようやく骨身に染みた。
 怪現象の数々が、正常な思考すらも阻害する。

「く……そ」

 直後アキラは本当の地面に墜落した。

――――――

 誰かが救われることは、本当に嬉しいこと。

 三代目勇者レミリア=ニギル様はそう教わって育ったらしい。

 聞いて、素敵だな、と思った。
 苦手な足し算や文字の読み書きの勉強と違って、まっすぐに心に入ってきた。

 今まで宿題から逃げるように家から出ていたのに、その日から、困っている誰かを探すために家から出るようになった。

 隣の家の庭でおじさんが雑草をむしっていたから、水を持っていってみた。
 広場でおばあさんが休んでいたから、肩を揉んでみた。
 同じ年頃の男の子が道に迷っていたから、一緒に歩いて、一緒に迷子になってしまった。

 でも、みんな笑ってくれていた。

 素直に嬉しいと思った。
 でも、特別なことをしたとは思わなかった。
 お返しも欲しいとは思わなかった。

 たったこれだけの行動で、みんなが笑ってくれるなら、それ以外要らなかった。

 だったらもっと、たくさんのことをしたい。
 できるようになりたい。

 たくさんのことを覚えれば、たくさんのことができるようになる。
 そんな風に考えた。

 特に計算は苦手だったし、嫌だったけど、それが誰かを救うことにつながるなら、なんてことは無いように思えた。

 宿題をしっかりやったら、お母さんが笑ってくれた。

 世界がキラキラ輝いて見える。
 小さなことでも、何かに繋がっていくように見えた。

 だから自分は、将来、誰かを救うことをしたいと思った。

 この村のみんなが笑顔になったら、自分は何をすればいいんだろう。
 そんな幸せな悩みが浮かんで、夜遅くまで眠れなかった。

 村の様子がおかしいと思ったのは、いつもお菓子をくれる隣のおじさんが、何も言わずにすれ違っていったときだった。

―――***―――

「……っ、ぁ……あ……?」

 瞼から光が漏れてくる。
 呻き声は自分のもののようだった。
 感覚が鈍い。意識を失っていたのだろうか。

 頭が割れるように痛む。
 身体の節々がジンと痺れ、手足の感覚がほとんどない。

 だからヒダマリ=アキラは生きていることを確かめるように、もう一度呻き声を上げた。
 そして、目を見開いた。

「は……?」

 目の前に、黄色に輝く壁があった。
 思わず手のひらを当てると、ひんやりと冷たい。

 力を籠めたら、僅かばかり沈む。弾力性があるようだ。

「なんだ、これ……」

 よろよろと立ち上がり、後ずさると、背中にも壁が触れた。

 ようやく視界が戻って来ると、自分が黄色の壁に挟まれていることに気づいた。
 壁は、左右にずっと続き、その先は、再び壁。
 いや、どうやら曲がり角のようだった。

「道……、迷路……?」

 思考がようやく晴れてくると、自分が今、黄色い壁に挟まれた狭い通路のような場所に立っていることが分かった。
 風は微塵にも感じない。不気味なほど静かだった。

 壁の高さは、正確には測れなかった。
 上空に見える太陽の光と黄色に輝く壁が溶け込むように見え、距離感がつかめない。
 だが、どうやら登れる高さではないらしい。

「!」

 はっとして、アキラは再び空を見上げた。
 赫い球体は浮かんでいない。
 どうやらあちらの脅威からはひとまず逃れているらしい。
 だが、この壁はなんだ。

 アキラは不穏な気配を感じ、必死に周囲の気配を探る。

 自分は確かに、樹海に落下したはずだ。
 事実、樹海特有の草木の香りが漂っている。

 だが今、何故か迷路のような場所にいるのか。
 いや、確か自分は落下の最中、樹海のいたるところに黄色い柱が立っているのを見た。
 もしかしたらこの壁は、あの柱なのだろうか。

 しかし、目の前の壁は隙間なく進路を閉ざしている。
 もしかしたら自分が気を失っていた間も、黄色い波は姿を変え続けていたのだろうか。

 アキラは身体を触り、状態を確認する。
 かなりの速度で落下していたはずだが、どうやら動けはするようだ。
 森の木々やこの弾力性のある壁がある程度のクッションになったのか、はたまた日輪属性の回復スキルか。
 それは定かではないが、もし後者なら、他の面々は無事だろうか。
 落下は何とかしのげたとしても、ここは魔門の森。
 この黄色い壁すら、始まりに過ぎない異変かもしれない。

 そんな場所で、自分たちは、また―――

「ぐ」

 アキラは強く壁を叩いた。
 衝撃を吸い取るように呑み込まれたその拳を強く握り、顔を上げる。

 過ぎたことを悔やむな。
 今は全員無事でこの森から出ることを考えろ。

 アキラは歯を食いしばり、顔を上げた。

「…………、いや……、……いや」

 大声を出そうと思ったが、口を閉じる。
 壁を攻撃しようかと思ったが、剣を収める。

 正体不明の壁。
 今はただ通路のようになっているだけだが、刺激を与えると何が起こるか分かったものではない。
 今全員がこの壁の中にいると考えると、下手な動きは得策ではないだろう。
 まず、皆を探すことを最優先に行動しなければ。

「…………」

 アキラは太陽の位置を確認した。

 壁に遮られながら見えるその位置から、おぼろげにだが方向が分かる。
 他のみんなもこうして太陽が見えるなら、方向くらいは掴めているだろう。

 そしてその上で、どちらに進むか、だが。

「……」

 今すぐにでも逃げ出したい魔門の森の中、アキラはおそらく全員が向かうであろう、魔門の方向へと歩き出した。

 そして恐らくは、その方向に、“奴”もいる。
 上空から見た魔門とリイザス=ガーディランの距離はさほど離れていなかった。
 この黄色の壁が魔門の周囲まで展開しているのであれば、リイザスもこの迷路のどこかにいるということになる。

 だが、それでも逃げるなら方向はこちらだ。
 ラッキーの速度は全員が体感している。
 魔門まであと僅かというところまで樹海を進んできてしまっているのだ。
 樹海から出るためには、イオリと合流することが前提となる。

 アキラは黄色い壁に手を預け、ほぼ直角の道を曲がる。
 案の定、黄色い壁がずっと遠くへ続いていた。

 樹海とはまるで思えない、本当に迷路のような空間だった。
 ところどころほぼ直角の曲道があり、その先は、黄色の光でぼやけて見えない。
 空に浮かぶ太陽だけが、辛うじて方向を記している。

 この迷路を作り出したのは魔門なのか。あるいは、魔門から出てきた何かなのか。
 理解の範疇を超えた光景に、アキラは夢遊病者のような足取りで歩を進めた。

―――呆然とするな。

「……っ」

 グ、と足に力を籠め、神経を尖らせる。
 この迷路には仲間もいるが、リイザスもいる。いや、それ以前に魔門の森だ、何が出てくるか分からない。

 1秒だって油断をすることは許されない。
 黄色い光を押し返すように視線を走らせ、アキラは身体の細部に至るまで気を張り巡らせた。

 この壁は異常事態だが、今のところただそれだけだ。
 今最も危険なのは、この森にいることが分かっているリイザスだろう。

 奴に出遭わないように行動することは、生き残る上での必須条件だ。

「―――違う」

 意識の外から口が動いた。

 遭遇するわけにはいかない相手だが、遭遇しないと考えるとは楽観的過ぎる。
 リイザスもこの迷路の中にいると考えれば、自分たち8人が誰ひとりリイザスに遭遇せずに合流する必要があることになる。
 そんなことがはたして可能なのか。
 少ない希望に賭けることはいかにも美談だが、現実問題、それほど都合のいいことが起こるだろうか。
 可能だとすれば、少なくともリイザスの位置を全員が把握していなければならないのだろうが、この迷路でそれは事実上不可能だ。

 ならばせめて、リイザスの足止めくらいはしなければ全員生還の道はない。

「ち―――」

 アキラは必死にリイザスの位置を思い出す。

 魔門の右方に立っていた。
 当面の方向はこちらでいい。
 リイザスの脅威はあの距離からでも感じられた。
 この迷路の構造は分からないが、近づけば何らかの気配を感じられるだろう。

 こんな複雑な道でリイザスに出遭ってしまえば逃げることは叶わない。

 自分の力が通用するかは分からない。
 油断をすれば、身体中が震え出しそうだ。
 だけど、速度は緩めない。緩められない。

「―――、」

 どれほど歩き、どれほどの分岐路を曲がっただろう。

 遥か上空で感じた、吐き気を催すような嫌悪感が、何倍もの濃度で痛烈に正面からぶつけられた。
 身体中が燃え尽きたように呼吸が止まり、膝が力なく崩れる。
 前後左右から押し潰されて、骨格が歪んだように感じた。
 徹底的に打ちのめされた精神が崩壊し、前もろくに見えなくなっていく。

 そんな中、アキラは壊れたように笑った。
 この、理想的な状況に。

 いる。

 眼前の道をまっすぐ進めば、“それ”がいる。
 一歩進むごとに、身体中の肌がひりつき、鋭い刃物が矢のように降り注いでくるようだった。
 アキラは足取り軽やかに、前へ前へと進む。

 もしかしたら自分は狂ってしまったのかもしれない。
 そう自覚してもなお、アキラは笑う。

 戦闘に慣れ過ぎたのだろうか。
 どれだけの恐怖を覚えても、飛び込んでしまえば何も考えずに済むその空間が好きだった。
 結局のところ、頭ではとっくに分かっていたことだった。

 上手くリイザスに見つからずにこの森から出ることなど、夢物語だ。
 この樹海に落ちた時点で、自分がすることなど最初から決まっていた。

「―――久しぶりだな」

 自分のものとは思えないほどの低い声が出た。
 通路の先、ゆったりと進んでくる存在がいる。
 通るだけで、壁そのものが恐れおののくように避け、“その存在”の周囲は開けた空間のように姿を変えていた。
 迷路の存在を捻じ曲げ、黄金の鎧を軋ませて近寄ってくる。

 黄色に輝く壁が容易く塗り潰され、眼前に燃えるような赫い世界が広がっていた。
 そして、その世界の主は、足を止めた。

「貴様らの狙いは魔門破壊か。運が無いな。もしこの悪戯で貴様らを見失ったら、私が腹いせに魔門を破壊していたかもしれんのに」

 重く響く声だった。魔門の現象すら、悪戯扱いなのか。
 リイザスが立ち止まると、アキラの後方の壁すら歪み、委縮したように下がっていく。
 無機物かとも思えるその壁は、アキラよりもはるかに敏い行動を取っていた。
 今、この場総てが危険地帯なのだ。

 燃え盛る隕石を思わせる赫い貌を上げ、黒く塗り潰された瞳がアキラを捉えてくる。
 見るだけで対象を燃やし尽すような殺気は、身体中の血液を煮えたぎらせた。

「忘れていないぞ―――貴様のことは。本来ならば我が宝庫で迎えてやろうと思っていたのだがな」

 アキラは剣を抜いて応えた。
 頭の冷静な部分は燃やし尽くされたのかもしれない。

 この場には、“奴”と自分しかいない。
 リリルは向かってきてしまっているのだろうが、自分が1番乗りのようだ。何と幸運なことだろう。

「まあいい、問おう。貴様にも分かりやすく。私は魔門などに興味はない、貴様らの持つ秘石を渡せ。後は好きなようにするがいい」
「何で知っている」
「なに。総ての財を集めるための過程でな」

 異形との会話は、さほど違和感を生まなかった。まったく嬉しくないが、今までの経験が存分に発揮されているようだ。

 アキラは息を吸って、燃えた肺から熱風を吐き出した。
 そして睨みつける。

「リイザス=ガーディラン」

 旅を始めたばかりの頃。
 このアイルークで出逢った規格外の魔族。
 “財欲”を追求するその存在が、かつての制約を取り除いた状態で、今、目の前にいる。

「俺は秘石を持ってないし、渡す気もない」

 リイザスの眉がピクリと動いた。

 結局のところ、何を言おうが、何を渡そうが、相手は魔族だ。
 結果は知れている。

 それよりも、今ここで、リイザスを食い止めることが、全員の生存率を上げられると感じた。
 ならば挑もう。
 万が一、億が一、太刀打ちできない相手だとしても。

「計画通りなんだよ。秘石で魔門を破壊する間―――俺は雑魚狩りだ」
「ほう」

 リイザスはにぃと笑う。
 その様子に違和感を覚えるも、アキラは剣を構えた。

「ならば試してみよ。魔門など物の数にも入らん―――魔王様直属の力をな」

―――***―――

「あら、目が覚めた?」
「……アラ……スールさん?」
「ええそうよ。お目覚めね」

 エリサス=アーティが目を覚ますと、にっこりと笑う女性が目に飛び込んできた。
 びくりとしたが、身体中に鈍い痛みが走り、すぐには動けない。
 アラスールは顔を離し、エリーの肩に手を当ててくる。
 ひんやりとした心地のいい魔力を感じた。どうやら治療してくれているようだ。

「……ここは?」
「樹海の中よ。ま、最早樹海でもなんでもないけど」
「?」

 もがきながら身体を起こして周囲を見渡したら、黄色い壁が目に飛び込んできた。
 夢でも見ているのだろうか。
 だが生憎と、身体中に走る鈍い痛みが現実だと告げてくる。

「ちょっと、まだ動いちゃだめよ。骨は折れてなかったみたいだけど、どれだけの高さから落ちたと思ってるの」
「え……、あ、そうだ、あたしたち」
「そう。残念ながら作戦は大失敗ね。活動可能時間なんてとっくの昔に超えちゃったわ」

 エリーは顔を振り、意識を覚ます。
 だが覚ましてなお、思考が追いつかない。
 赫い球体に黄色い森。一生分の衝撃を同時に受けたような感覚だった。
 ただ近づいただけで理解の範疇を軽々しく超えてしまった。
 魔門を正直軽視していたかもしれない。

「他のみんなは?」
「さあね……。壁の向こうにいるかもしれないんだけど、分からないわ」

 前後は壁に挟まれ、ずっと向こうに続いている。大樹海に道ができていた。

 エリーは立ち上がって壁に手を触れてみた。
 妙な弾力がある。
 魔力色を見るに、金曜属性の魔術なのだろうが、こんなものは当然見たことが無い。

「え……弾力?」
「そう、柔らかいのよこの壁」

 金曜属性といえば硬度が特徴的だ。
 だが、そのはずなのに、目の前の壁は押せば僅かに沈む。

 立て続けに数多の現象に巻き込まれたことも手伝って、自分の中の常識が崩れていくのを感じた。

「壁……少しざらついているわね。それに押しても多少は沈むけど押し切れない。いくつもの細い魔力を編み込んでいるのかしら。だとすれば継ぎ目に部分的に弱いところがありそうね。崩せるかも」

 隣で同じように壁に手を触れていたアラスールは静かに呟いた。
 流石に魔導士だ。
 状況は最悪だが、彼女と共にいられるというのは心強い。

「アラスールさん。助けてくれてありがとうございます。早くみんなを探しに行きましょう」
「何言ってるのよ、まずはエリーちゃんの怪我治さないと。そんなんじゃまともに歩けないわ」
「え、でももう治療してもらって……っ」

 歩き出そうとした足がガクリと崩れた。
 危なく倒れ込みそうなところをアラスールが支えてくる。

「え、あれ、なんで……?」
「何でも何も、まだ治療中よ」
「あたし、そんなに酷いケガしてたんですか?」
「酷いも酷くないも、そんなにすぐ治らないわよ」
「あ……れ……?」

 思考が上手くまとまらない。
 アラスールの言う通り、エリーは大人しく座り込んだ。

「アラスールさん、この後どうしますか?」
「まあ、作戦は失敗したから、生き残ることを考えましょう。とにかくイオリちゃんを見つけるわ。彼女がいなければ、明日になってもこの森から出れないわ」

 流れるようなアラスールの言葉に、エリーは舌を巻いた。
 この状況が、彼女にとっても想定外であることは間違いない。
 それなのに、アラスールは的確に状況を把握している。
 エリーの夢の、さらにその先に存在する魔導士は、自分たちとはまるで完成度が違うように思えた。

「もう大丈夫です、行きましょう」
「そう?」

 まだまだ身体は軋むが、黄色い壁に囲まれていては落ち着けない。

「さて、どこへ行きたい?」
「どこへ……って、どういう?」
「ああ、イオリちゃんに合流するために、ってこと。エリーちゃんの方が、こういうときにイオリちゃんが何を考えるか分かるかなって」
「……あたしにはイオリさんの考えは分からないですけど、合流するならみんな魔門の方へ行くと思いますよ」

 思ったままを口にした。
 あの面々が散り散りになったとしたら、全員が魔門へ向かって歩き出すだろう。
 アラスールは、正解を導いた生徒に向けるような微笑みを見せて、太陽の位置を確認した。

「こっちね」
「はい」

 黄色い壁に挟まれた通路を進む。
 落ちている木の葉も金でできているように輝いて、幻想的な発光をする迷路は、まるで距離感がつかめなかった。

「まあ、でも、あなたたちには悪いけど、この森に入ったのがこの面々で良かったわ」

 アラスールはぽつりと呟いた。

「だって、アイルークの魔術師たちじゃ、もう収集つかないようなパニックになってたわ。合流なんて不可能だったと思う」
「そうなん……ですか?」

 自分の希望の就職先だから、少し遠慮がちに言った。
 だが事実、そうかもしれない。
 もし自分があのまま魔術師になり、アイルークで日々を過ごしていて、突然こんな状況に陥ったら、その場で座り込み続けるか必死に魔門から離れようとしていたかもしれない。

「こういう風に逸れたら、まず合流を考える。でも、目印なんてない樹海じゃ、どうしようもない。だから、例えそれがどれほど危険なことでも、唯一の目印の魔門を目指す。私はそう考えるわ」

 エリーの思考もそれに近い。
 だが、他の皆はどうだろう。
 漠然と、魔門へ向かっているような気はする。だが、それぞれそこへ至る思考は違う気がした。

「魔門まで着いたらどうするんですか?」
「そうね、他の子たちが全員無事と仮定するなら、可能な限り静かに大人しく集まるのを待つわ。もちろん、意味があるか分からないけど魔門からある程度の距離を取ってね。リイザス=ガーディランに見つからないことが最優先事項だけど」

 機械的な言葉に、エリーの胸が締め付けられるように痛んだ。
 全員が無事。
 それすらすでに仮定なのだ。
 必死に意識を向けないようにしていた恐怖が、身体を揺さぶった。

 この森には、魔門にも加え、あのリイザス=ガーディランという魔族もいるのだ。
 最早生物が存在できる次元ではない。
 あの世界に名だたる“死地”とも引けを取らない領域に、自分たちは散り散りになって落とされているのだ。

「あ、ごめんね、怖がらせるようなこと言って」

 迷路を迷いなく進むアラスールは、背後のエリーの様子を感じ取ったようだ。
 ぎくりとして背筋を正したが、アラスールは気にもしない様子で足を進める。

「役職柄、最悪の事態を考えるべきなのよ、私は。魔門の近くで待機してイオリちゃんと合流したら、どれくらい待つべきなのか、とか。そもそもイオリちゃんと合流できなかった場合どうするべきなのか、とか」

 足取り軽く進んでいるアラスールからは、そんなことを考えている様子は感じ取れなかった。
 思考を止めない。彼女の言葉だ。
 自分が不安に押し潰されそうになっているときにも、魔導士はそう在って、目の前にいる。

「でもね、良くないことだけど、実は私、あんまり心配してないのよ」
「?」
「なんでかな、すでに成功率はゼロだって頭では分かっているのに、何の問題もなくこの樹海から生還できるし、もしかしたら魔門だって破壊できちゃうかもね」

 状況がまるで分っていない子供のようなことを言う。
 だけどアラスールは否定せず、くるりと振り返って微笑んだ。

「なんかね。その顔見てると思っちゃうのよ。確率なんかじゃ測れない。不可能なんて存在しないって」
「?」

―――***―――

「あんたクジ運悪いわね」
「運の悪さは自覚しているよ」

 ミツルギ=サクラは、この樹海の中で、自分が最も安全な場所にいることを自覚していた。

 召喚獣の背から一直線に向かった樹海が突如として黄色に輝き、変貌し、巨大な迷路のような空間に変わったのはつい先ほど。
 身構えていたものの、流石に反応しきれない超常現象が正常な思考を阻害した。
 結果、空中で面々が散り散りになったときも、辛うじて近くの人に近づくことしかできず、結果迷路に呑み込まれてしまった。

 サクは、足場改善の魔術が使用できる。
 魔力の消費は大きいが、空中に足場を生成することが可能だ。
 全員は無理でも、もしかしたらもう少し多くの人を安全に樹海に着地させることができたかもしれないのだが、結果、たったふたりだけしか助けることができなかった。

 問題なのは、その助けられたふたりが、別段自分の手助けが必要そうでない存在だったことなのだが。

「まあ、よりにもよってこの面々とはね。誰か、他の奴らがどうなったか見た?」
「僕が目で追えたのはアキラと……エリサスかな。ふたりとも無事そうだった。エリサスはアラスールが近くにいたし」

 ホンジョウ=イオリ、エレナ=ファンツェルン。
 空中で近づいて、慌てて魔術を発動させたときには、ふたりは冷静に着陸地点を見定めていたように思える。

 恐らくこの場にいる3人は、ひとりでも問題なくこの樹海に着地できていただろう。

「はあ。それで、従者ちゃんは?」
「私も辛うじて見えたのはアキラだけだ。あとは目の前のふたり」
「ったく、どうにでもなりそうなアキラ君の様子なんてどうでもいいでしょうが。何で皆してそこ見てんのよ」

 見た目に反して荒々しく毒づくと、エレナは腹いせのように黄色の壁に蹴りを入れた。
 エレナもアキラの様子は知っていたのだろうか。
 聞いたら面倒くさいことになりそうだったので、サクはエレナに攻撃された黄色の壁を見た。

 妙に弾力がある。
 黄色ということは、自分と同じ金曜属性の魔術なのだろうが、まるで正体が掴めない。
 金曜属性の特長にも反しているし、何より規模が異常だ。
 以前シリスティアで魔導士から聞いた、“詠唱”という奴なのだろうか。
 魔門が起こした超常現象なのか、魔門から出てきた何かが放った魔術なのか。
 いずれにせよ、自分の知識量では考察を進めることは難しいようだった。

「で、分からないのはあのガキと勇者ちゃんね。勇者ちゃんは何とかなるでしょ、仮にも、なんだし。問題はあのガキね、ペチャっと潰れてんじゃないでしょうね」

 ない話ではない。
 だからサクは先ほどから耳に意識を集中させていた。
 樹海の迷路は不気味なほど静まり返っていた。

「アキラとアルティアは下手に騒ぎを起こしていないかな。アイルークとは言え魔門の森だ。何が発端となって別の現象が起こるか分かったもんじゃないし」
「あのガキはそこまで馬鹿じゃないでしょ。むしろアキラ君でしょ、やりかねないのは。騒ごうもんならあの魔族だって寄ってくるわ」

 そう言いながら、エレナはまたも壁を蹴っていた。
 刺激を与えると何が起こるか分からないのだから、大人しくしていて欲しいのだが、苛立つ彼女に声をかけること憚られた。

 今この樹海には、分かりやすいほどの危険がふたつある。
 魔門は元より、遠方に見えたリイザス=ガーディラン。

 以前この地で出遭ってしまった魔族が、再び現れたのだ。
 これもアキラの数奇な運命を引き寄せる特性によるものか。

 だとしたら、彼がこの迷路を進んだら―――

「これからどうする」

 結論を急ぐように、サクは切り出した。
 嫌な汗が頬を伝う。
 この迷路で偶然出会わない限り、アキラはひとりだ。
 何が彼の身に降りかかっているか分かったものではない。

 聞くと、ふたりは当然のような顔をしてこう言った。

「魔門へ向かおう」
「魔門へ行くわ」

 やはり、この場所が最も安全な地点だ。
 迷いのないその答えに、サクも頷く。

「この樹海から帰還するためには、ラッキーの飛行が前提だ。だけど、この迷路のような細い道じゃ、ラッキーを飛行できるサイズで召喚できない。でも、これが魔門の“攻撃”なら、むしろ魔門の周囲は開けているかもしれない。危険だけど、この樹海、この迷路の中にいること自体、すでに危険なんだ。だったらいっそ、魔門へ近づいた方が安全だろう。魔門を目指す人が他にもいるだろうしね、合流できる」
「この迷路、蹴った感じやっぱりなんかの魔術っぽいのよね。魔法かも。で、あのリイザスとかいう魔族は火曜属性なんでしょ? じゃあ魔門からなんかが出てきて魔術でも使ったんじゃないかって思うわけよ。それならそいつをぶっ殺せば、このうざったい壁ともおさらばってことでしょ。ちまちま迷路を駆けずり回って探すより、目障りなのを無くしてから探した方が楽じゃない、合流できる」

 ふたりの見解を聞いて、サクは眩暈がした。
 結論は同じでもそこに至る思考が違うというのはよくあることだが、今具体例を見た気がする。
 特にエレナが酷い。

「エレナ。とりあえずは魔門を目指すけど、下手に刺激することだけはしないでくれ」
「分かってるわよ。私だってやばそうなら大人しくしててあげる。でも、全員集まるまで悠長に待つなんてことができるといいわね」

 エレナは肩を軽く鳴らし、イオリはため息を吐き出した。
 頼もしさと恐ろしさを覚えたが、サクはそれ以上の懸念事項を口にする。

「それで、リイザス=ガーディランはどうする」
「どうするも何も、火曜属性でしょ? この壁と関係ないじゃない、無視よ無視」

 エレナは魔族を軽々しく扱うように手を振ったが、その奥、イオリの表情が暗くなっていた。
 いつしか握っていた拳が、サクの視線に気づいて解かれる。

「……あ、ああ。そうだね。遭遇しないことを祈るばかりだ。こんな場所でリイザスに出遭ってしまったら、流石に生還できない」

 ふと、サクの脳裏に、あの赫に染まる空の下で見た、リリル=サース=ロングトンの横顔が蘇った。
 彼女はまっすぐに、リイザスを見ていたように思える。
 そしてその光景を、あの男も見ていた。

「……イオリさん」
「―――駄目だよ」

 低く、そして凍えるほど冷たい声だった。

「エレナの言う通り、リイザスを相手にしたら命がいくつあっても足りない。今僕たちが考えるべきは、ひとりでも多くこの樹海から離脱することだ」

 酷く悲観的な表現だと思えた。
 すでに犠牲を出すことを見据えているような言葉だった。

「……だが、リイザスは“財欲”の魔族と聞く。奴の狙いがこの秘石なら、私たちを追ってくる。いずれ遭遇してしまうかもしれない」
「そうだ。だから、今は一刻も早く、ラッキーが召喚可能な場所へ移動することが不可欠なんだよ」

 イオリの視線を受けただけで、サクは一歩後ずさりした。
 知的で、冷静で、決断力があるイオリだが、今、欠伸をしているエレナより、彼女が信用できなくなった。
 もちろん、彼女の言っていることは正しい。

 だがそこには、事実しかない。

 今まで経験してきた旅では、不可能と思えるようなことを達成してきている。
 そうして培われた感覚が、真っ向から否定された気がした。
 カラクリのように正確なイオリの言葉は、自分が漠然と感じている仲間たちへの信頼や信用が微塵にも存在しない、事実だけで形作られていた。

「ま、冷静になりなさいな。とにかく魔門へ行くわよ。どうせそっちの方が人集まるでしょ」

 エレナがそう言って歩き出した。
 大仰に見える所作だったが、彼女に隙は見当たらない。態度からは分からないが、彼女も警戒しているようだ。

 後を追いながら、サクは言われた通りに冷静になる。
 自分は危なかったのかもしれない。
 イオリがいなければ、自分が出した結論は、恐らくリイザス=ガーディランを目指す、だっただろう。
 お目付け役がいて、自分の命は救われた。

 だから、祈る。
 この樹海にひとり落とされたあの男が、自分たちと同じく、魔門へ向かってくれていることを。

―――***―――

「キャラ・ライトグリーン」

 赫に染まった迷路の中、アキラはそれをさらに塗り潰さんとするように、オレンジの魔力を身体中に張り巡らせた。
 同時、剣にも魔力を際限なく注ぎ込む。

「―――ほう。詠唱を覚えたか」

 黄金の鎧をまとった赫の魔族が嗤う。
 アキラはリイザスを見て、思考がクリアになっていくのを感じた。

 “詠唱”という言葉を最初に聞いたのは、確か、リイザスからだ。
 今発動している身体能力強化の魔術を発現させたのも、リイザスとの戦いの中だ。
 そして、今、あらん限りの魔力を込めているこの剣も、リイザスの宝庫から拝借したものだ。

 この魔族とは妙な縁がある。

 この世界に落とされたばかりの頃に挑んだこの魔族には、まるで歯が立たなかったのを思い出す。
 今はどうだろう。

 だが、図ることはしない。

 アキラはあのタンガタンザの熱戦で、“線”を超えたその先に存在する敵と剣を交えたことがある。
 それゆえに、知っている。
 魔族という存在が、人と比して、体躯も、魔力も、全てが別次元で構成されている紛れもない化物だということを。

 だから、自分に取りうる選択肢はひとつだけ。
 自分の持てる最上の破壊を、この初撃に込めることだ。

 論理崩壊。

「―――む」

 総ての“破壊”が整った。
 ギッ、と睨むと、リイザスは顔をしかめる。
 何かを感じ取られたようだ。

 だが、もう遅い。

 ダンッ!! と大地を踏み砕き、アキラは魔族へ突撃する。

「キャ!! ラ!!」
「む―――ぅぅぅううううう……!!」

 突撃の最中、掲げたリイザスの腕から、膨大な魔力の波動が迸った。
 その余波だけで、アキラは正面から暴風を浴びせかけられる。

 だが、それでもこの突撃は止まらない。
 リイザスの初動が遅れた今が好機。

 アキラの思考はひとつに絞られる。
 論理を超えた破壊の一撃を、あの魔族に叩き込む。

「スカーレット!!」

 この世のものとは思えない爆音が響いた。
 振り下ろしたアキラの剣は、リイザスが防ぐように出した腕の鎧を容易く砕き、赫も、黄色も、日輪の色で塗り潰す。
 魔門をも超す天地鳴動の大爆撃に、アキラの身体は木の葉のように吹き飛ばされる。

 直後、衝突。

 背中が強く黄色の壁に打ち付けられ、アキラはようやく我に返った。
 自分の魔術を抑え込めなかったのは久方ぶりだ。

 顔を上げた先にある爆心地には最早何も存在せず、オレンジの魔力が稲光のように弾けては消えていた。

「は……は……」

 短く息を切って、アキラは立ち上がった。
 破壊の魔術は会心の出来だ。

 生物に限らず、万物の存在を許さぬ破壊が、今、確かにそこに在った。

 “だから、分かる”―――この感覚は、経験済みだ。

 人の理をあざ笑う、存在そのものが論理のその先を現す、魔族。
 タンガタンザでのあの激戦でも、この感覚は確かに覚えた。
 線を越えた先、非論理の世界で、同じ次元に存在する敵と剣を交えた言葉にできない不思議な感覚が告げる。

「ち―――、通用はしたみたいだが、足りねぇか」

 今の全身全霊の一撃は、リイザス=ガーディランの撃破には届かなかった。

「ぐ―――ふぅ」

 爆心地の先。
 アキラと同じように壁まで吹き飛ばされた存在が蠢いた。
 上半身の鎧は砕け、赫に染まった岩石のような肉体を晒し、漆黒に染まったその瞳をアキラに向けてくる。

「防ぎきれんとはな」

 リイザスは立ち上がる。
 そして、黄金の鎧の残骸を、紙でも引きちぎるように脱ぎ捨てた。
 両腕にはアキラの斬撃を受けた惨たらしい傷を負っているが、魔族の肉体にすれば、些細な障害なのだろう。
 あの爆撃から生還したリイザスは、嗤っていた。

「……」

 アキラは強い違和感に捉われる。
 こいつは本当にあのリイザス=ガーディランなのか。

 アキラの想像の中にいたこの魔族は、財を要求し、拒めば激昂する“財欲”の化身だ。
 だが何故今、これほどまでに冷静―――ともすれば温厚なのか。
 嵐の前の静けさのような、言い知れぬ恐怖を覚え、アキラは剣を握り直した。
 理由は分からないが、今の内だ。もう一度、いや、何度でも破壊を狙い続けるしかない。

「―――ヒダマリ=アキラ」

 リイザスの声は、耳によく響いた。

「私が何故、“財”を求めるか知っているか」
「何を言っている……?」

 その声色に、アキラは気を削がれ、眉を潜める。
 リイザスの声は震えていた。

「“財”は、すべての存在が求めるからだ。総ての欲の根源だとは思わんか」

―――耳を貸すな、構えろ。

 アキラは剣を握り直す。
 リイザスの言葉に惑わされず、冷静に隙を探せ。
 アキラは先の衝撃で痺れた手先の感覚を探り、リイザスの一挙手一投足をその目でとらえた。

「否定するものもいるだろうが、なに、発想の転換だ。例えば今、貴様が私と相まみえているのも、秘石という財を守るためであろう」
「……それだけじゃねぇよ」

 アキラは思わず応えた。
 リイザスと最初に出遭ったあの赫の部屋。
 そこでもリイザスは、教えを説くように、妙な演説をしていた。

「だが、思考を進めれば辿り着く。すべての行動、感情は、財へ繋がると。貴様にとってそれは秘石か? 仲間か? それは構わん。財というものは、それそのものが美しい。それが真理でなくて何と言う」
「何の話をしていやがる」

 リイザスはゆったりと構え、アキラをまっすぐに見据えてきた。

「ヒダマリ=アキラ。お前も幾度か魔族に遭ったことがあるであろう。“欲持ち”の魔族は好むのだよ。妙な遠慮をする人間とは違い、自らの欲を口に出すのがな」

 サーシャ=クロライン、ガバイト。そして、アグリナオルス=ノア。
 この“三週目”でアキラが出遭った“欲持ち”の魔族たち。
 それらは確かに、あの港町で出遭った“鬼”とは異なる何かを感じた。

 “欲持ち”とは―――なんなのか。

「そしてそうすることで見定めるのだ―――自らの欲の妨げになる相手かどうかな。そして敵とみなした相手は人間であろうが同種であろうが殲滅する。太古よりだ。生き続けている魔族は、それだけで、いやそれこそが、強者である証なのだ」

 魔界で何が起こっているかは知らないが、想像通り、自然淘汰に晒される過酷な環境なのだろうか。
 言葉を続けるリイザスから覚える違和感は依然として変わらない。

「だからこそ、私は総ての行動理念である―――財を求めると口に出す」

 ビッ、と何かが頬を割いた。
 身体中が割れるような軋みを上げる。

 分かってしまったような気がした。
 リイザスから覚え続けているこの違和感。
 それは、財を拒んだアキラに対し、リイザスが覚えている感情の一端を理解してしまっていたからだった。

「財を守ろうとする者は、自らの財よりも大きな力を得ているものだ。あるいは私の問いに首を垂れる者すら、奪い返そうと力を求める。それは、魔族であろうと人間であろうと変わらないのだと私は知っている―――太古より、そうした者と幾度となく拳を交えてきた」

 財を得ようとする力。財を守ろうとする力。
 財の定義はそれぞれだろう。だがこの世界において、財のための力は、他者を淘汰するために得る力は変わらない。
 リイザスの“欲”は、その力と衝突することにもなる。

 リイザスは、自らの欲を拒んだアキラに対して―――歓喜している。

「ヒダマリ=アキラ。現に貴様はそうなった。私が課した死を乗り越え、そこまで上り詰めたのだ。魔王様に従ったのはやはり正解だった、やはり、こうした相手は、魔族だけに限らんのだ……!! 」

 気づけば握った剣が強い熱を持っている。
 アキラの爆撃ですらしのぎ切った魔力の原石の剣が、今、ただそこに漂う空気だけで熱し切られているようだった。

「見込み違いであれば財だけ奪うつもりであったが、“線”を越えたのであれば最早言葉は要らんであろう。今!! ここで!! その力を存分に振るうがいい……!!」

 財を求めるときとは違い。
 財を拒まれたときとは違い。
 比較にならないほど感情を露わにしたリイザスは、存在するだけで周囲を灼熱地獄に変えていく。
 黄色の迷路は焼けただれたようにしなだれ、世界が塗り替えられていく。

 ようやく分かった。
 リイザスが、今、求めているものは―――

「さあ、戦闘を再開するぞ。自らの“財”を守るために、このリイザス=ガーディランとの死合いを乗り越えてみせよ……!!」
「何が“財欲”だ―――“戦闘欲”の間違いだろ……!!」

 臨界点間近だった空気の熱は爆発に変わった。
 蒸気に包まれ視界が塞がる。
 アキラは思わず身を屈め、そして即座に背後に飛んだ。

「そうだ、よく動いた」
「づ―――」

 蒸気の中、眼前に突如として赫の巨体が現れる。
 振り上げられた右腕には最早黒にさえ見る赫の魔力を纏い、下がったアキラに構わずその腕を地面に振り下ろす。

「―――ぶっ」

 音は聞こえなかった。
 分かったのは目の前の地面に赫の魔力を打ち付けられ、直後自分の身体が木の葉のように吹き飛んだことだった。

 樹海中に轟いたであろう大地の揺れは、壁を軋ませ、いたるところに亀裂が走っていく。
 頼りなくなった壁に強く背中を打ち付けるも、アキラは辛うじて立ち上がった。

「ち―――」

 今の爆撃は、すでに自分の限界火力を超えていた。
 割れるように痛む頭を必死に覚醒させ、アキラは蒸気の中のリイザスを探る。

 リイザス=ガーディランは火曜属性。
 破壊を司る攻撃的な属性だ。
 ただ腕を振り下ろしただけで、アキラの力など軽々しく超える魔族が今、破壊の力を纏ってすぐそばにいる。
 僅かでも判断を誤れば、身体の欠片すら残らない。

「―――キャラ・ライトグリーン!!」

 蒸気の中、一瞬だけ見えた赫の身体にアキラは突撃した。
 火曜属性に対して後手に回っても結果は知れている。
 危険地帯に飛び込むことに対する危機感は、とっくの昔に死んでいた。

「!!」
「キャラ・スカーレット!!」
「ノヴァグランテ!!」

 アキラが振り下ろした剣に対し、リイザスは拳を打ち出してきた。
 交わる剣と拳。
 暴風が巻き起こり、蒸気が一気に吹き飛ばされる。
 再び爆音かと身構えるも、剣の爆撃は、その拳に吸い込まれるように抑え込まれた。

「いいぞ、ヒダマリ=アキラ。もっと来い。お前の“財”を守るためだ」
「はっ、はっ、はっ、」

 黒く塗り潰された瞳に睨まれ、押し切れないと判断したアキラは、即座に下がって距離を取る。
 この技の威力は初撃でリイザスも把握しているはずだ。
 だが、奴は迷わず相殺を選んできた。
 火曜属性には、破壊の他に、その破壊から自らを守る抑制という特徴もある。

 不意打ち紛いの攻撃であれば初撃のように傷を負わせることもできるようだが、臨戦態勢のリイザスに対し、破壊の攻撃は効果が無いようだった。

 ならば。

「ふん。アラレクシュット!!」
「な―――」

 アキラが思考を進める前に、リイザスは次の手を放ってきた。
 眼前いっぱいに広がる複数の赫の球体。

 空でも見た爆撃の魔術が、アキラひとりを目掛けて放たれる。

「キャラ・グレー」
「―――ほう」

 迫った球体を前に、アキラは即座に土曜属性の再現を行う。
 複数個同時に迫ってきた球体を、剣で迷わず切り裂いた。

 土曜属性には魔術を抑え込む特徴がある。
 破壊とはまた違ったアキラの攻撃方法は、赫の魔術を発動させずに背後にやり過ごすことができる。

「器用なものだ。全能の日輪とはよく言ったものだな」

 球体を凌ぎ、リイザスに再び突撃したアキラは歯噛みした。
 今の魔術は、身を守るためには見せたくはなかった。

 数度剣を交えただけで分かる。
 リイザス=ガーディランには、正面から挑んでも勝ち目はない。
 不意を突ける攻撃方法を、ひとつ失ってしまった。

 ゆえに、突撃する。
 これ以上こちらの手の内を知られては、本当に勝ち目を失ってしまう。

 強い。
 分かっていたはずのことだが、魔族の力とはここまでなのか。
 攻撃は通用せず、敵の攻撃はまともに受ければ命を落とす。
 自分は、論理のその先の世界に踏み込むことができる。
 だが、目の前の敵はその“線”の先、遥か彼方に座しているように思えた。

 感じてしまう。
 死力を尽くして挑むアキラに対し、リイザスは、まだ小手先の戦いしかしていないと。

 自分の力は通用しない。

「キャラ・ス―――づ、キャラ・ライトグリーン!!」
「スーパーノヴァ!!」

 アキラの突撃に対し、リイザスは今度は迎撃を狙ってきた。
 真正面に打ち出された赫の拳は、それだけで、周囲の音を奪い去る。触れたらどうなるかなど分かりきっていた。

 辛うじて回避するが、急な動きに足がまともに動かない。
 だが、リイザスは、すでに次の拳を振り上げていた。
 見えているのに、アキラはまともに動けなかった。

 ドクリ、と時が止まる。

 拳を振り下ろさんとするリイザスの動きが、ゆっくりと見える。
 壁の動きや風の流れすら、今のアキラには細部に渡って感じられた。

 これは―――“刻”だ。

「―――来た」

 自分の危機には決まって訪れる、全能の世界。
 そこでは自分の思考だけが正常な時を歩むことを許され、無限の選択肢が広がっていく。
 今まで幾度となく救われてきた、自分だけの時間。

 考えろ。
 今、リイザスの攻撃から逃れる方法は何か。

 時は緩やかに流れる。

 思いつけ。
 今、リイザスに対抗する手段を。

 その破壊の拳は、すでに眼前に迫ってきている。

 だが。

「な」

 頭の中でけたたましい警告音が鳴り響いた。
 目の前が赤く染まる。
 取り得る選択肢を総て考慮した結果、分かってしまった。

 手段が無い。

 リイザスのことも理解してしまった。この魔族は、アキラの経験など比較にもならない戦場を潜り抜けてきている。
 こと戦闘において、この魔族に小細工など通じない。
 この一撃を回避しても、2手目3手目で詰んでいる。

 総てが分かった。
 ヒダマリ=アキラは、リイザス=ガーディランには対抗できない。

「よもや」

 ほとんど防衛本能のみで、剣を構えたアキラに対し、リイザスは囁いた。

「私の攻撃を、“受けられる”とでも思っているのか?」

 感覚は消えた。
 魔族の拳が放たれたと思った瞬間、目の前が白くなる。

 振動だけが感じられた。
 今まで生きてきた中で、当然に感じられていた自分の身体の感覚が根こそぎ奪われる。

 何が起きたかすら分からなかった。

「悪くはなかったが、まだ早すぎたか」

 何かが聞こえた。

「まあいい、貴様の財を奪いに行こうか。貴様の仲間もある程度はやれるのだろうしな―――む」

 音が聞こえる。言葉かもしれない。

「ほう、まさかと言っておこう。人の身も砕けんとは、少し自尊心を傷つけられたな」

 もしかしたら、自分は立っているのだろうか。
 右手からは何の感触も感じない。剣を離してしまったのだろうか。
 反射的にそちらに意識を向けると、小さな衝撃。
 膝が砕けて座り込んでしまったのかもしれない。

「だが、そこまでか」

 ようやく、視界が戻ってくる。
 リイザスの魔力のせいか、自分の血のせいかは分からないが、視界がすべて不気味な赤に染まっていた。
 自分は案の定、壁まで吹き飛ばされていたようだ。
 身体中の感覚が無い。動かすことができない。
 爆心地に立つリイザスを見上げながら、アキラは必死に身体へ意識をつなげようとした。

「だが、私は嬉しいぞ、ヒダマリ=アキラ。貴様はまた、これをきっかけに力を増すのであろう。財を奪われた者は、心を失うか力を増すかだ。貴様が力を増すことを、私は望む」

 何を言っている。
 リイザスは、自分に止めを刺すつもりが無いのだろうか。
 そうすることで、再び殺し合いをしようというのか。
 どうやら自分は、今命を奪われないらしい。

 だが、今自分が奪われる財とは何だ。
 それは、彼女たちのことだろうか。

「貴様が勇者として再び私の前に立つ日を願う」
「お―――い」

 身体は動かない。
 剣を握ることもできないだろう。
 だが、そんな勘違いをしてもらっては困る。

「締めようと……してんじゃねぇよ」

 手探りで、剣を探す。
 脳が指令を飛ばした手が動いているかも分からない。

 リイザス=ガーディランは正真正銘の化け物だった。
 “知恵持ち”や“言葉持ち”の魔物など、あるいは魔門すら、確かに物の数にも入らない。
 世界の魔族という存在に対する認識すら、遥かに甘いものなのだと感じ取ってしまった。

 いずれ自分はそれを越えていけるようになるのだろう。
 旅を重ね、経験を積み、挫折して、それでも努力して。総てを出し切り、華々しく神話のページを飾った伝説たちのように。

 だが、自分の物語が、そんな悠長なものだと勘違いされては困る。

「次なんかねぇよ。今……ここで。お前を倒す」

 リイザスは、背を向けた。
 そして歩き出してしまう。

「再戦は近いかもしれんな」

―――動け。

 身体の感覚が少しだけ戻ってきた。
 痛覚は麻痺してくれているのか、激痛は昇ってこない。
 だが、動かない。
 歯を食いしばり、顔を上げても、ピクリとも前へ進んでくれなかった。

「くそ、行かせる……わけには……」
「はい、その通りです」

 誰かに、背中を抱えられた。

「ぇ」
「アキラさん、動かないでください。遅れてしまってすみません」

 リイザスの歩みが止まる。

 そして振り返ると、再び小さく笑みを浮かべた。
 アキラの身体を壁に預け、静かな瞳でリイザスを見据える参戦者に。

「貴様は。何と良き日だ。貴様にも用があったところだ」
「アキラさん、大丈夫ですか? すみません、私、治療が苦手でして」

 リリル=サース=ロングトン。
 樹海の空で分かれた彼女が今、目の前にいる。

―――止めろ。

「リ、リリル、逃げ、」
「問題ありません。お休みになっていてください」

 アキラの言葉を遮って、リリルは優しく微笑む。
 常軌を逸した化け物を前に、リリルは静かび一歩踏み出した。

「言ったじゃないですか。私がリイザス=ガーディランを撃破すると」
「ば」

 壁に預けられて、かえって身体が言うことを聞かなくなった。
 目の前の光景を、自分は静かに見ていることしかできない。
 その状況に、アキラは底知れぬ恐怖を覚えた。

 犠牲者の名前は―――

「リ、リル……」
「私のことなら大丈夫です」

 アキラの叫びに、リリルはゆったりと構えた。

「私は月輪属性です。でも、予知もできない、治療もできない、空だって飛べません」

 リリルの気配に、リイザスも構えた。
 リイザスの魔力が作り出すこの灼熱地獄に、別種の空気が舞い込んでくる。

「仲間もいません。明確な役割も無く、目の前のすべてに手を伸ばそうとして、中途半端な結果に終わることだって少なくありません―――ですが」

 ひんやりとしているようで、どこか寂しさを思させるその魔力は、目の前の少女から漂っていた。

「月輪の勇者の証は、“比類なき戦果”。私は、戦闘の世界でしか、自分の価値を証明できない」

 彼女の両手が銀に輝く。
 その小さな背中は、何にも増して大きく見えた。

「リイザス=ガーディランを撃破します。あなたは、魔門破壊最大の障害です」

 そのまっすぐな視線を受け、リイザスはやはり嗤う。

「最初から撃破が目的か。手間が省ける、挑んでくるがよい」

―――***―――

「しっ」
「……!!」

 アラスールと共に黄色の迷路を進んでいたエリーは、突如動きを止められた。
 身を強張らせて周囲を探り、びくりとする。
 息を殺している自分の気配が何よりも大きいことに気づいた。

「……あの」

 かすれ声のような小さな声を出すと、アラスールはピタリと壁に背を預け、気配を消し続ける。
 そして彼女の瞳は、微塵にも動かず目の前の曲がり角を捉えていた。

 黄色い迷路は、想像とは違い遥かに平穏だった。
 この迷路のどこかにあのリイザスや魔門があることを考えると生きた心地はしなかったが、魔族どころか魔物と出遭うことも無く、壁の黄色い光のせいで視力が落ちそうなことを覗けば、至って順調に進んでこられた。

 エリーは恐る恐る空を見上げる。
 そして、気づく。
 経過した時間を考えると、太陽の位置的に、ここは。

「着いた……みたいですね」
「……ええ」

 とはいえ、迷路のせいで距離感は狂っているかもしれない。
 また、あの角を曲がったらすぐまた曲がり角の可能性もある。
 だが、そんな楽観的なことは考えていないのか、アラスールはスカイブルーの秘石を取り出していた。

「攻撃するんですか?」
「馬鹿言わないで。これは最早護身用よ。全員揃っていないのにそんなことしたら、本当に生きて帰れないわよ」

 ならばこの場で待機ということか。
 エリーは身構えながらも遠くに見える曲がり角や背後に視線を走らせた。
 もし全員無事で、魔門を目指しているのであれば、この場で合流できるかもしれない。

「……ち。いる」

 アラスールが苦々しく呟いた。
 エリーは意味を尋ねなかった。

 やはり曲がり角の先は魔門なのだろう。

 アラスールは、そこに“何か”がいると言っている。
 それがリイザスなのか、あるいは、この黄色い迷路を作り出した主か。

 いずれにせよ、常識では測れない存在であることは間違いない。

 今、何をするべきか。

 敵の姿を確認するべきか、あるいはこのまま息を殺しておくべきか。

 考えても答えは出ないであろう。
 どちらも正解になり得るし、不正解にもなり得る。
 あるいは、正解の行動など既に存在していないかもしれない。

 エリーは意識して心を強く持つ。
 混乱している場合ではない。
 アラスールは言っていた、思考を止めるなと。
 思考を進め続けなければ、身体中が恐怖に支配されてしまいそうだった。

「どうします……」
「相手がこの迷路の主なら、私たちの場所は知られている。でも、こちらは相手の正体を見なきゃ始まらない。…………」

 アラスールはまくし立て、ちらりとエリーを見てきた。
 ぐ、と喉が鳴る音が聞こえる。

「やるか」
「はい」

 アラスールは息を吐き出し、鋭い動きで曲道を曲がっていった。
 エリーも反射的にアラスールを追う。

 そこは、迷路の出口だった。
 人工物のような黄色い壁は終わり、切り抜かれた樹海の一部が広がっている。

 いくつかの木々は倒れ、何かが腐敗したような臭いが漂う、その中央。
 明らかな異物が存在していた。

 大きさは人間程度。姿形も、人のように見える。
 だが、身体や顔に凹凸が無く、前後すら分からない。
 人の型を取った大きな人形が、樹海の中央に立っていた。

 色は、迷路の壁と同じ、イエロー。
 それは、樹海の中にあって、自然界の中にいてはならないもののように見えた。

「……あなた、言葉は分かる?」

 アラスールが嘲るように、未知の“それ”に声をかけた。
 異物への問いかけに慣れているのか、アラスールはうっすらと笑い、落ち着き払った様子で対峙する。
 が、ピリ、と毛色の違う空気を感じる。

 人の形をした、人ならざる者。
 魔門の森で、唯一樹海の形を保ったままの空間。
 日常と異常が交わった、形容しがたい匂い。
 エリーは、今更ではあるが異次元に迷い込んでしまったような錯覚を起こした。

 黄色い人形は動く気配が無い。

 だが、その、正体が分からない黄色い人形の足元。
 どす黒い不気味な煙が上がっていた。

 まさか、あれが。

「……アラスールさん、下手に刺激しない方が」
「発想が逆よエリーちゃん。まさかあなたまだ、“何もしなければ助かる”なんて場所にいると思っているの?」

 アラスールはこちらを一瞥もせずに黄色い人形をくまなく観察していた。
 エリーも倣って人形を見るが、やはり、動く気配が無い。
 何が起こるか分からない魔門。
 人形の色からしてこの迷路を作り出したのはこの存在なのだろうが、未だ動きを見せないこの人形は放っておいた方がいいようにも見える。
 だが、魔導士の判断は違うようだった。

「……ボクが」
「……!」

 びくりと身体が強張った。
 何の動作も見せない黄色い人形から、声が聞こえる。
 子供のように高い声だ。
 あるかどうかも分からない口は動かない。脳の中に直接響かせているような音だった。

「なんで迷路に出口を作ったと思う?」

 エリーたちが今まさに辿り着いた迷路の答え。
 だがそれは、大まかな方向さえ分かっていれば抜けられる程度の迷路だ、遅かれ早かれここには来ることができていただろう。
 しかしそうなると、魔門へ繋がる道に誘う必要はない。出口など作らず、閉じ込めてしまえば事足りるのだから。

「動くのが面倒だからだ。ここで待っていた方が、楽に終わると思ったからだ」

 所作の分からない黄色い人形。魔力を纏っているのか、その輪郭さえぼやけて見える。
 その物体はぼそぼそと、しかし脳に響く声で呟く。
 明らかに敵意を持っている自分たちを前にして、黄色い人形は静かに佇む。

 こいつは、なんだ。
 “言葉持ち”の魔物か。
 いや、まさか。

「驚いたよ。いきなり魔門に連れてこられて。おまけにリイザス=ガーディランもいるんだろ、何でボクが『守護者』に選ばれたんだか。いや、それが理由なのかもしれないね」

 ブツブツと呟き、黄色い人形は、ようやく動作を見せた。
 黄色い足で、黒い煙が噴き出している地面を撫でる。
 脱力したような所作だった。

「分かった、分かっているよ、やるよ。だから分かりやすくここへ向かってもらう道を作ったんだ。はあ、何でこんな面倒事に巻き込まれるんだ、今はそれどころじゃないのに」
「……誰と話しているのかしら」

 黄色い人形に、アラスールは怪訝な顔つきを向ける。
 黄色い人形は気づいた―――ような挙動をして―――ようやく、背筋を伸ばしてアラスールと向かい合った。

「別に、大したことじゃない。魔門は大きく分類すれば魔物でね、意思を持っている。誰が生み出したかは知らないけど、身の危険が迫ると魔界に突然現れるんだ。今回はボクが被害者ってわけだけど、無ければ無いで不便だから、“恩”は売っておこうと思ってね」

 未知の魔門に対し、黄色い人形は至極当然のことを言うような口調で続ける。

「ただし、リイザス=ガーディランは勘弁してくれるかな。まともにぶつかれば今後に差し支える。やるべきことが目前に迫っているんだ」

 魔門の煙が、主人に首を垂れる犬のように、妙に大人しくなったように見えた。

 黄色い人形は、人々が恐れる魔門を平然と従える存在なのだろう。
 ならば答えは、やはり、ひとつしかない。

「“魔族”……よね、あなた」

 張りつめた空気がさらに膨張した。
 アラスールが口にした単語は、覚悟していたが、魔門が起こす現象の中でも最悪の部類に入る。

「そういう君はアラスール=デミオンだね」
「……!」
「知っているよ君のことは、最近よく耳にする」
「どういうことよ」
「んん、そうだね、まあいいか」

 わざとらしい咳払い。
 違和感が強まる。黄色い人形の所作は、どこか演技染みていて、まるで人間の真似を必死にしようとしているカラクリのように思えた。

「ボクは『光の創め』のルゴール=フィル。ボクがするのもどうかと思うけど、宣言しよう」
「―――ひ、光の創めって」

 アラスールの目が見開かれた。
 ルゴールというらしい人形が、さらに背筋を伸ばす。
 いや、いつしか、身体自体も大きさを変えていた。

「『光の創め』は“参戦”する。これから去る者に言っても仕方がないことだけれどね」
「ち―――」

 その動きに誰も反応できなかった。
 軌跡さえ見えない速度で腕を突き出したアラスールは、詠唱も無しに砲弾のような魔術をルゴールへ放つ。
 着弾。遅れて、風割くような音が響いた。
 気づけば眼前のルゴールは、スカイブルーの軌跡を残し、遥か先まで吹き飛ばされている。

「エリーちゃん!! 下がってて、近づいちゃだめよ!!」

 ボッ、とアラスールの身体がスカイブルーに発光した。
 エリーは気づいた。アラスールが、迷わず魔力の秘石を使用していることに。

「シュリスロール!!」

 ルゴールは、樹海の隅、黄色い迷路の壁まで吹き飛ばされていた。
 アラスールは、迷わず大規模魔術を発動させる。
 身体中の光が前方に集まったと思った瞬間、塊となった魔力から、樹海ほどの太さの青い魔術が、ルゴール目掛けて幾重にも放たれた。

「―――ぃ」

 初撃の着弾から、振動と爆音が絶え間なく響く。
 エリーは思わず後ずさり、決して魔導士の攻撃範囲に踏み入らないように身を固める。
 打ち切ったのか、アラスールは前方に集まった魔力が小さくなると、即座にエリーの腕を掴んで離脱した。

「え、ちょ、アラスールさん!?」
「隠れるわ。見失うとは思えないけど、遮蔽物があった方がぼうっと立っているよりましでしょ」

 大規模魔術を放ったアラスールは、機敏な動きで木々の間に身体を滑り込ませる。
 そして、生存どころか原形を保てているかも怪しい爆撃の煙の向こうをじっと睨みつけた。

「……!!」

 直後、エリーたちが先ほどまで経っていた地面に黄色い矢のような魔術が突き刺さった。
 突き刺さったそれは、氷のようにどろりと解け、地面に溶け込むように消えていく。
 ルゴールは、生存しているようだ。

「―――っ」

 まるで展開についていけない。
 アラスールとは別の木々に身を潜ませ、エリーは拳を握り締めた。

 魔族戦を経験していないわけではない。
 だが、即座に秘石を使用したアラスールには、迷いというものが一切感じられなかった。
 その判断力の早さが、日常にいる者と常に異常にいる者の差なのか。

 戦闘に集中しろ。
 エリーは煙の向こうの気配を必死に探りながら、気力を取り戻す。

「アラスールさん、今の効かなかったんですか!?」
「効いちゃいるわよ、多少はね。でもあんなもんで撃破出来たら、世界中お花畑よ」

 アラスールが苦々し気に呟いた直後、煙の中から黄色い矢が四方八方に放たれた。
 エリーは慌てて地面に倒れ込み、頭上で鋭い斬撃音が響くのを聞いた。
 倒れてくる木を見もせずに、エリーは別の木々へ移動する。

 その直後、煙が張れ、変わらぬ様子で立つルゴールが現れた。

「よく避けたね。だけど大人しく死んで欲しい。これ以上騒ぎを起こしてリイザス=ガーディランに来られたら面倒臭いんだ」

 やはり、生きている。
 アラスールは多少は効果があったと言ったが、エリーの目にはルゴールには何ら負傷は見当たらなかった。

「―――ふ」

 エリーは短く息を吐き、ルゴールへ向かって駆け出した。
 はっきり分かったことは、相手には遠距離攻撃がある。
 だが、自分ができるのは近接戦だけだ。
 アラスールの攻撃だけでは効果がない以上、攻め手を増やすためにも接近する必要がある。

「……、そうか、もうひとりいたね」
「スーパーノヴァ!!」

 詰め寄った先、ルゴールの身体はいつしかエリーの倍ほどまでに膨らんでいた。
 かえって狙いやすくなった腹部に、煌々とスカーレットに輝く拳を放つ。

「……ぇ」

 ボッ!! と鈍い音が響いた。
 鋭くはなった拳は、確かにルゴールに届いている。
 だが、想像以上に衝撃が無い。
 見ればルゴールの腹部はエリーの拳を飲み込むように凹み、衝撃を逃がしているようだった。

「ああ、そういう狙いか、それは困るね」
「ぎ!?」

 ガッ!! と黄色い手に頭を掴まれた。
 そして無造作に腕が振り下ろされる。
 地面に頭から叩きつけられ、一瞬真っ白になった景色が戻ると、ルゴールが大地を蹴ったのが見えた。

「ち、」
「駄目だよアラスール。魔門は破壊させない」

 よろめきながら立ち上がると、魔門へ突撃していたアラスールの元へルゴールが高速で接近していく。
 アラスールは即座に反応し、離脱した。
 エリーが突進したのを見た直後、アラスールは魔門の破壊を狙ったようだ。

 木々に身を隠しながら、魔門の上に立つルゴールに魔術を放ってけん制しながら、アラスールはエリーに駆け寄ってきた。
 そして庇うように立つと、ルゴールを警戒しながら囁いた。

「エリーちゃん、大丈夫」
「……な、ん、とか」

 視界がぼやける。
 思考がまとまらない。
 だがそれでも何とか意識を覚醒させ続け、アラスールの隣でルゴールに構えた。

「……アラスールさん、魔門、破壊するんですか」
「ひとつの可能性よ。……モルオールで行われた魔門破壊。事後調査は酷く難航したらしいわ。何せ、魔界から出現したと思しき“事象”が何ひとつ残っていなかったんだから」
「それって、」
「魔門が起こす“事象”は、召喚獣と近しい事象があるのかもしれないってのが仮説として立てられたわ」
「つまり、魔門を破壊できれば、あのルゴールとかいう魔族も消滅するってことですか?」

 リロックストーンという、魔族が用いるマジックアイテムをエリーは知っている。
 遠方に転移させる力を持つ道具だが、リロックストーンが砕かれると転移先から強制的に戻されることになる。
 だが、リロックストーンには、転移先での魔力減退と満足な移動が行えないという強い制約があったはずだ。
 魔門とはその制約が無い転移装置のようなものということだろうか。
 確かにそれならばアラスールの言う通り、召喚獣という言葉の方が適切かもしれない。ルゴール=フィルは、魔門の力でこの場所に“召喚”されたのだ。

 いずれにせよ、あのルゴール=フィルは魔門とパスのようなもので繋がっており、その大本、つまりは魔門を破壊できれば目の前の脅威はこの地を去ることになる。

「本音を言えば、あいつの撃破をしたいところだけどね。あいつが『光の創め』なら、魔界へ帰さない価値は大きい」
「光の創めって、さっき」

 アラスールが苦々しげに口走ったその単語は、ルゴールが発した言葉だ。
 それが何を差すのか分からないが、アラスールは変わらずルゴールを睨んでいる。

「近々ヨーテンガースで面倒なことが起こるの。この魔門破壊もそれに繋がっている。そしてその面倒事に首を突っ込む可能性の高い魔族たちがいるのよ」
「魔族……“たち”?」
「それが『光の創め』よ」

 『光の創め』とは、何らかの集団、いや、魔族の組織名か何かなのだろうか。
 魔族の世界のことは分からないが、1体出現するだけですべてが無に帰す魔族が徒党を組むとなると最早想像ですら測れない。
 それは最早、魔王軍と遜色ない、人類の脅威だ。

「でも、単騎で出てきてくれたのは幸運ね。いずれにせよ、ルゴールと応戦しながら魔門の破壊を狙うわよ」

 幸運とはエリーはまるで思えなかった。
 交戦して分かった。あの魔族は次元が違う。
 払いのけられるように地面に叩きつけられただけで、未だに頭が割れているような感覚がするし、首はねじ切られたように感覚が無い。

 魔族は、人間とは身体の造りも有する魔力も別次元。
 樹海にこれほどの迷路を展開しているというのに、ルゴールにはまるで負担になっていないように思えた。

「まあでも、これ以上巻き込むわけにはいかないわね。エリーちゃんは上手く隠れていて。私は何とかやってみるわ」
「……行けます」

 それでも、エリーは引かなかった。
 アラスールはきっとひとりでも挑むつもりだろう。
 交戦して分かったが、力の差は歴然としている。

 だけど、ここで引くわけにはいかなかった。

 アラスールはエリーの顔を見て、小さく息を吐いた。
 これ以上何を言っても押し問答になると察してくれているようだ。

「なら、もうちょっとだけ頑張ってくれるかしら。ルゴールを引き付けて。その隙に私は魔門を破壊するわ」
「はい」

 ためらわずに了承した。
 未だに視界が白黒する。頷くこともできないし、閉じているはずの口が自然にだらりと下がってしまう。
 だけど、囮くらいはできるだろう。

「ああ、それは困るな」

 また、頭に声が響いた。
 魔門の上に立つルゴールは、穏やかな声を届けてくる。
 こちらの声は聞こえていたようだった。

「なるほどね。それだと確かに、魔門が破壊されてしまうかもしれない。なら、もう、リイザス=ガーディランに気づかれるのは覚悟するか」
「……?」

 ルゴールが、その黄色い身体を丸め込んだ。
 何を、と思った瞬間。

「エリーちゃん!! 逃げて!!」
「えいっ」

 子供のようなふざけた声が聞こえた瞬間、ルゴールの身体が空を貫かんとする巨大な柱と化した。
 あっけにとられることしかできず見ている間も、黄色い柱は高速で伸び続け、天を貫かんとするほどに伸び切ると。

 高速で膨張を始めた。

「くっ、シュリスレンディゴ!!」

 地面を、木々を、その場の存在総てを魔門から押し退けるように迫ってくる黄色い巨大な壁を前に、アラスールは両手を突き出した。
 大規模魔術のように展開した魔力の塊は巨大な盾となり、エリーとアラスールの前に展開する。
 ず、と黄色い壁と青の盾が接触する。
 衝撃は無かった。
 アラスールの盾を気にもせず、ただただ淡白に、膨張を続ける。
 アラスールの背がエリーにぶつかり、エリーは慌ててアラスールの背を支える。

 だが、まるで歯止めが利かない。
 黄色い壁はそのままの速度で盾ごと自分たちを押しのけ、容易く後退させていった。
 そして背後。
 なぎ倒された木々の向こうには黄色い迷路の壁がある。
 このまま壁まで押し退けられたら、何が起こるか。

「つ、潰す気ね!?」

 金曜属性の特徴は硬度。
 エリーもその属性には明るくないし、その上仲間の金曜属性は例外的な力の使い方をしている。
 だが、その本分から考えれば、金曜属性の攻撃とは、鋭く固めた魔力での斬撃か圧殺なのだろう。

 逃げ場は存在しない。
 背後の迷路の壁は迫ってくる。
 ただ膨張するだけの壁ですら、魔族の魔力で放たれれば、単純すぎるほどに強力だった。

「エリーちゃん、腹くくってね!!」

 アラスールは盾を放棄した。
 そして先ほどよりもよりや早く押し込まれながら、壁に手を触れる。

 何かの魔術を発動させる気か。エリーは即座に判断し、背後の壁まで退避した。
 ゾッとするほど近くにある背後の壁の前、アラスールは努めて冷静に術式を組み上げているようだった。

「……ここ、じゃなかったら死ぬわね」

 アラスールが口早に何かを呟いた。
 すると。

 衝撃。

 樹海すべてに膨張した柱はついに迷路の壁まで届き、樹木は黄色い壁に挟まれて潰れる。

 ようやくすべてを圧殺した柱が嘘のように消え去ると、世界が塗り替えられていた。

 エリーたちが入ってきた迷路の出口は原形を留めていない木々や地面の土が押し込まれ、綺麗な形の新たな壁を作っている。
 逃げ場のなかった木々は、柱と迷路の壁に挟まれ、徹底的につぶされ、およそ形というものを何ひとつ残していない。
 樹木がうっそうとしていた樹海のエリアは、遮蔽物など存在しない更地になっていた。

「驚いた」

 しかし、何もなくなった樹海エリアに立っていた者がいた。
 アラスール=デミオンは、両手を前に突き出し、静かに笑う。

「私に迷路を歩かせたのは失敗ね。部分的になら壊せるのよ」
「ああ、なるほどね、崩したのか」

 その後ろ、エリーは一部始終を見ていた。
 アラスールの手のひらからスカイブルーの光が漏れたかと思うと、黄色い壁を伝い、あるときは止まり、人ふたり分の小さな輪を作ったのだ。
 その輪の中央をアラスールが強く押すと、弾力とは違った感触で黄色い壁が凹み、ず、と窪みが作られた。

 どっぷりと土を浴びたが、その隙間が幸いし、圧殺されずに済んだ。
 この迷路に落とされて以来、アラスールは魔術の解析を進めていたのだろう。

 魔導士とは既存のみならず未知の脅威にも対抗策を作り出す。
 人間界の化け物とも言うべき存在は、天変地異を思わせる現象を乗り切り、凛として立っていた。

 そして、何ら遜色なく、村を一瞬でかき消すと言われる魔族もまた、何事もなかったように立っている。

 戦いの次元は上がってきている。
 そう何度も自分に言い聞かせてきたものの、認識の甘さを思い知らされた。

 自分たちは、最早別の世界に足を進めてきているのだ。

「アラスールさん、行きますよ」
「ええ。お願い」

 これ以上遅れは取れない。
 エリーはようやく、自分の意識が深く研ぎ澄まされていくのを感じた。

 平然としているアラスールにも限界はある。いかに秘石の力を用いたとしても、あの大規模魔術はそう何度も崩せない。
 短期で決着をつけなければ。

「いいか。崩されても」

 子供のような声が頭に響いた。
 ゾクリとする。
 踏み出そうとした足が凍り付き、遠い世界のことのように思えていた目の前の光景が、ずっと近づいてきた。

 その結果、感じた。感じてしまった。

 今、自分たちの目の前にいるその存在。
 意思も、力も、努力も、想いも、人間ごときの能力など一笑に付す、“魔族”という存在そのものを。

「あと何度か試してみよう。次の手はその間に考えておくよ」
「―――な」

 ルゴールが再び身体を丸める。
 この一帯を容易に更地に変えた魔術が、再びやすやすと放たれる。

「アラスール。“次も当たるといいね”、つなぎ目の場所」
「づっ」

 丸まったまま顔を上げたルゴールは、無表情ながら笑っているように見えた。
 アラスールの顔色が変わる。

 まさか。アラスールの力でも、この魔族の魔術は、確実には崩せないということか。

 まずい。
 エリーは迷わず駆け出した。
 端まで追いやられた自分には絶対に届かない位置で、ルゴールはまるで日常所作のように、大きく伸びをする。

 そのとき。

「らあっ!! ―――たく、服が汚れたらどうすんのよこれ。てかなに、ここで合ってんの?」

 木々と地面が押し込まれた迷路の出口が吹き飛んだ。
 ルゴールは動きを止めて静かに吹き飛んだ出口を見る。
 駆けていたエリーも思わず足を止めた。

「エレナ、もっと慎重に―――と、言いたいけど、急いでよかったみたいだね」
「エリーさん!! アラスールさんも一緒か!?」

 解き放たれた出口から、素早く現れた者たちがいた。

 ホンジョウ=イオリは静かに佇み、周囲を見渡し。
 ミツルギ=サクラは即座にエリーに詰め寄り。

 そして。

「で、こんなうざいことしたのあんた? とっとと消すか死ぬかして欲しいんだけど」

 エレナ=ファンツェルンは、ルゴールに向かって、緩慢な動作で歩いて行った。



[16905] 第五十話『別の世界の物語(転・後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2018/11/17 23:48
――――――

 歪みは、生まれ始めていた。

―――まったく、失礼しちゃう。ねえ聞いてよ、せっかく庭のお手入れを手伝ってあげたのに、彼、なんて言ったと思う? ほら、隣のおじさんよ。

 晩御飯の時間、いつも微笑んでいる母が、不満を露わにしてそう言った。
 いつもなら小さな笑い話で済むはずの出来事も、小さな棘になって胸に落ちる。

 それでもやっぱり小さなことだと思ったから、自分も真摯に受け止めず、母に形だけの同調をして、その場をやり過ごしていった。

 父はいつも仕事で遅いし、隣の家のおじさんとおばさんにはよく面倒を見てもらっている。
 母も、世話になっているから、が口癖のようになっていて、よくお裾分けを自分に持っていかせていた。
 たまたま今日は、いや、今日もおじさんの虫の居所が悪かったんだろうな、そんな風に考えていた。
 その口癖を、もういつから聞いていないだろう。

―――最近妙にお野菜が高いわね、お店変えようかしら。それに、お魚も。いっそ自分で釣りにでも行ってみようかしら。

 小さな自分にはよく分からない話が多かったが、母が口にする言葉は不満が多くなっていったような気がする。
 ピンとは来ないが、大したことではないと思えた。前にも聞いたことがあるような話だ、ありふれた、当たり前の不満だ。
 自分だって、友達と水をかけあって遊んでいたら、自分だけ先生に呼び出されて怒られた。
 その友達は素知らぬ顔で見事逃げおおせて見せているのだ。謝りにも来ない。不満は尽きないのだ。
 だけど、母には言わないことにした。
 これ以上不満の空気がこの家に増えたら、大好きなシチューの味が悪くなりそうだったから。
 隣の家のおじさんの話題は、まったく出なくなっていた。言外に、もう行くなと言われているような気さえした。

 何かがおかしい。でも、総て些細なことのように思える。
 路地を曲がった正面にあった駄菓子屋が無くなったのも、坂を上った先にある公園が無くなったのも不満だったが、最近、自家製の野菜を育てるのが流行ったせいらしい。
 色々と散策して、困っている人を探しに散歩するのが好きだったのだが、気づけば一言も喋らずに家に戻って来る日が増えていった。
 たまたま宿題を忘れてしまったら母に、遊び歩いていないで家にいなさい、とすごい剣幕で起こられてしまった。
 それは今まで蓄積された母の不満が端を切ったように出てきたようで、自分の身体は恐怖で縛り付けられた。
 昨日も一昨日も、同じように、八つ当たりのように先生に怒られていた友達を見ていたからだ。

 不満は伝播し、蓄積し、爆発する。そして誰かにぶつけても、減ることは無いのだ。
 こんな思いをするのであれば、人と人のつながりを微塵にも感じられない外になど出たくはないとまで思った。

 道で誰も見かけない。
 村の声が、随分と小さくなっていった。

 何かがおかしい。みんなは気づいていないのだろうか。自分が見えていた、大好きだった世界が、こんなにも様変わりしているのに。
 何が起きているのだろう。子供の自分には分からない。でも、直感的に危機を感じた。

 だけど、思い起こしても、どれもこれもありふれた、本当に小さなことばかりだった。あまりに小さなことが大量に積み重なり、どうしようもないことのように思えた。だから、何が良かったとか悪かったとか、そういう風に振り返ることもできなかった。

 ある日、長かった宿題を終えると、夜になっていた。
 言い知れぬ恐怖に駆られ、こっそりと、何かから逃げるように外に出た。
 ぞっとするほどシンとした夜の村で、理由も分からず泣きそうになった。

 自分は何をしたいのだろう、何をしてもらいたいのだろう。
 必死に抑え込んでいた胸の中に溜まった棘が、身体中から吹き出しそうになった。

 空を見上げた。
 そこには、不気味なほど巨大な満月が浮かんでいる。
 見れば見るほど、自分の中の黒い感情が吹き出しそうになる。

 だけど、抑え込んだ。
 今それをしてしまえば、それが伝播し、もう取り返しがつかなくなるように思えた。
 諦めたくはない。

 あまりに漠然としたこの恐怖を取り除くために何をすべきか。

 決まっていた。全部だ。
 小さな不満がこれ以上降り積もらないように、自分はすべてに手を伸ばそう。
 駄菓子屋も母や友達を誘って探せばいい。遊具だってどこかに作って友達を誘ってみよう。隣の家にももっと遊びに行けばいいのだ。

 それを、今まで自分が見過ごしてきたすべての小さいことに出来れば、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
 まだ間に合うだろうか。

 月を睨み、自分は決めた。
 この村を、この言い知れぬ恐怖から守りたい。

 だから自分はすべてに挑もう。
 魔力を高め、気力を高め、漠然とした、しかし絶対的な巨悪に挑もう。
 この場所だけ、譲れない、譲りたくない。

 それは、村が滅ぶ2ヶ月ほど前の出来事だった。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 ヒダマリ=アキラはピクリとも動かない身体を壁に預け、眼前の光景を眺めていた。

 赫く、燃え上がるような巨体を携え、鬼の形相で悠然と立つのはリイザス=ガーディラン。
 そしてその眼前。
 アキラとリイザスの中間に、小さな肩の少女が凛として構えていた。

「リイザス=ガーディラン。魔王直属の魔族ですよね。あなたに遭えたことは幸運です」

 リリル=サース=ロングトン。
 ヒダマリ=アキラ、スライク=キース=ガイロードと並び、現在世界中で勇者候補と認められている彼女は、この燃えるような灼熱の空間で、異形を前に、涼し気に立っていた。

「ほう、気が合うな、リリル=サース=ロングトン。一応問おうか。貴様らの持つ秘石を差し出せ。ヒダマリ=アキラの治療もあるであろう、その方が、互い理に適うと思うのだが?」
「魔族に何かを差し出す気などありません」

 リリルは、アキラの方を振り返りもせずにきっぱりと言った。
 彼女は秘石を持っていない。
 だが、そんなことは微塵にも出さず、魔族の提案に聞く耳を持たなかった。
 勇者としての在るべき姿に最も近い彼女には、魔族との交渉など端から選択肢にないのだろう。

「ふん。亡くすには惜しい命だと思うのだが、致し方あるまいな」
「あら、それなら場所を変えませんか? それこそお互いの理に叶うと思うのですが」
「―――ふ」

 リイザスの視線がアキラに走った。
 その眼光の圧だけで、重症のアキラは身体中が凍り付く。
 リイザスは、嗤っていた。

「見つけたぞ、お前の財を。ならば移動は論外だ。今、この場所でこそ、お前の真価が発揮されるのだろうからな……!!」
「……」

 リリルの喉が鳴った。
 アキラは訳も分からずその光景を眺める。
 だが、少なくとも分かったことは、今この場所にいると、この戦に巻き込まれるということだ。
 必死に動こうとしても、身体は微塵にも動いてくれなかった。

「再戦を望んでいたが、欲において言葉を違えるわけにはいかん。お前の財がそこに在るというならば致し方ない。さあ、死力を尽くしてもらうぞ、リリル=サース=ロングトン。お前の敗北は、ヒダマリ=アキラの死にもつながるのだからな」
「……それは、元よりです」

 リイザスの魔力の奔流が暴れる中、リリルが悠然と構える。
 いつの間にか自分の命がかかっていることになっていたアキラは、薄れゆく意識を必死につなぎとめていた。
 まずい。ついに戦闘が始まる。
 リリルの力は分からないが、戦ったアキラには分かった。
 リイザス=ガーディランは何ら遜色なく、規格外の化け物と言える。

 そんな魔族にリリルはひとりで挑むこの状況は、アキラにとって最悪の光景だった。

 犠牲者の名前は―――

「づ、」
「動かないでください、アキラさん」

 暴れ狂うリイザスの魔力を前に、リリルは優しくそう言った。
 心地よい声色に合わせて、涼やかな柔らかい風が鼻孔をくすぐる。
 感覚の鈍くなっていたアキラもようやく気付いた。
 リイザスの荒々しい魔力とは違う、柔らかく、静かな魔力が、すでにリリルの周囲に漂っていることを。

 膨大な魔力を前に、アキラはいつも危機感を覚えていた。だが、これには気づけなかった。
 吹き荒れるわけではない。包み込むようなその魔力は、しかし、荒ぶるリイザスの魔力と比べても遜色ない。
 そしてアキラは、その魔力を、何故か懐かしいと感じた。

「安心してください、大丈夫です」

 当たり前の言葉も彼女が使うと、身体中が和らいだ。
 その声は、安らぎと覚悟に満ちている。
 強大な敵を前に、まるで物怖じしないその姿を、人は何と呼ぶのだろう。

「約束しましょう、リイザス=ガーディラン」
「!!」

 リリルの手のひらが輝いた。
 周囲を満たした彼女の魔力が、その光に吸い込まれるように溶けていく。

 まさか、これは。

「私は死力を尽くします。いつも通り、徹頭徹尾。下手な探りは要りませんよね……!!」

 魔力を吸い込み続ける光は、徐々に形を変えていく。
 この魔力の動きを、アキラは幾度も見たことがあった。

 いかに魔道を極めようとも、到達できない領域がある。
 魔術師はおろか、魔力、魔術を知り尽くした魔導士でさえ、その領域に踏み込むことを許されない。
 血の滲むような鍛錬を積み、才に恵まれ、ありとあらゆる者から認められようとも、目の前に“扉”が現れることすらごく稀で、開くことができる者は更に限られる。
 使用者など存在しないと言い切ってしまっても構わない、“線”のさらに遥か先にあるその領域。

 今、ひとりの少女が静かに、しかし確かな足取りで、足を踏み入れた。

「ベルフェール・モッド」

 光を掴んで振るった手には、純白の槍が握られていた。
 彼女の背丈ほどのそれは、棒の部分には余計な飾りなどまるでなく、頼りなさを覚えるほど細かった。
 しかし、その先端。一抱えほどある巨大な漆黒の刃が矢印のように装着されていた。
 煌々と黒光りするその刃は、彼女を纏う優しい空気の中で、唯一にして絶対的な危機を周囲に警鐘させていた。

「ぐ―――“具現化”……!?」

 リリルは黒白の槍を羽のように振るって、構える。
 そしてその静かな瞳でリイザスを捉え、呟いた。

「―――ファロート」

 ブ、とリリルの姿が消えた。

 気づけばリリルは驚異的な速度でリイザスに迫っていた。
 槍の先端を敵に向け、リリルはその姿を銀の矢のように鋭く尖らせ突進していく。

 リリル=サース=ロングトンは月輪属性。
 日輪属性に並ぶ希少性が著しく高い―――“不可能を可能にする属性”。

 ファロートという魔術は、以前アキラもこの身に受けたことがある。
 あたかも木曜属性のように身体能力を強化し、それに伴う認識能力も上げる戦闘用の魔術だ。
 受けた身としては、自分だけが他の時間から切り離され、世界のすべてが遅く感じるほどに戦闘力が向上する。
 他の属性の力ですら、月輪属性は模倣し、使いこなすことができるのだ。

「ハ―――フンッ!!」

 リリルの突撃に対し、リイザスは正面から拳を打ち出した。
 燃え上がる隕石のような拳を前に、リリルは即座に突撃を止め、宙を舞うように回転して拳を回避する。
 そしてそのまま流れるように槍を持ち変えると、拳を繰り出したリイザスの腕を目掛けて鋭く一閃を走らせた。

「はっ!!」
「む!?」

 狙われた腕を、リイザスは強引に振り下ろし、槍の一撃を回避した。
 だが、それだけに留まらずそのまま拳をピタリと止めるとリリル目掛けて殴りつけるように振り上げる。
 ボッ、と戦慄するような拳をリリルは辛うじて回避し、再び舞うように槍を突き刺す。
 だが、リイザスも即座察知し、容易く回避してみせた。そして即座にリリルとの間を詰める。槍を相手に距離を保つことは不利だと考えているらしい。
 互いの距離は平均しておよそ1メートル。
 黒白の槍と赫の拳が怒涛の応酬を繰り広げる中、互いに攻撃がかすりもしない。
 超近距離の極限領域で、巨大な影と小さな影が巡るましく暴れ回っていた。

「スーパーノヴァ!!」
「―――っ、」

 バゴッ、とリイザスの拳が大地を打った。
 動きを読んだのか、リリルの行き場が封じられる。
 好機を逃さずリイザスは即座に接近し、再び赫の拳を振るった。

「―――ベルフェール・アグル!!」

 リリルが叫んだ瞬間、リリルの持つ槍が中間でパキリと割れた。
 面食らって動きを止めたリイザスに、リリルは刃の付いていない左手の棒を鋭く突きさす。
 しかし、次の瞬間、その棒の先端には右手に持つ槍と同じような漆黒の刃が出現し、黒い軌跡を残してリイザスの胸に吸い込まれていく。

 ザシュ!! と鋭い斬撃音が響いた。血なのだろう、リイザスの胸から赤い体液が飛び出す。
 リイザスの目が見開かれたと思ったのも束の間、リリルは迷わず右手の槍を鋭く繰り出した。

「グッ―――ガァッ!!」
「な!?」

 今度は追撃しようとしたリリルが目を見開いた。
 リイザスの身体中から膨大な赫の魔力が吹き出し、リリルに浴びせかけられた。
 即座に離脱を決定したのか、リリルは迷わず背後へ飛び、魔力の塊と化したリイザスから離れて息を整える。

「ふう……、ふう……、ふう……。ベルフェール・モッド」

 両手にそれぞれ握っていた黒白の槍は、リリルが束ねるように持つと、再びひとつの長い槍に戻っていた。
 そして構えを取る。

 これがリリルの戦闘スタイルなのだろう。
 肉弾戦ではファロートを使用して身体能力を引き上げる。
 そしてあの具現化。
 中距離では長槍、短距離では二対の短槍と、状況に応じて姿を変えるらしい。
 リイザス=ガーディランとあの超近距離で争い、生還するどころか攻撃を見舞ってくるとは。
 リリル=サース=ロングトン。
 ただひとりで旅をして、世界で勇者と認められる存在は、これほどのものなのか。

「ハ―――ハハハハハ」

 響くような歓喜の声と、それに伴う暴風のような魔力が巻き起こった。
 胸から体液を垂らし、しかし微塵も庇う様子無く、リイザス=ガーディランは打ち震えるような喜びを表し、その形相でリリルを睨んだ。

「いいぞ、最高だ。リリル=サース=ロングトン。今まで幾人も月輪を見てきたが、ここまで戦闘に特化した者はほとんどいなかった。飛び回ることしか能のない下らん輩もいた、児戯にも劣る光弾を放つだけの輩もいた、だが、貴様は強い」
「魔族の言葉など、まるで嬉しくありません」
「ふん、連れんな。だが私は貴様を高く買うぞ、リリル=サース=ロングトン。“設計図”をそこまで戦闘に落とし込めたお前となら、至高の死合いができるであろう」

 ズギ、とアキラの頭が痛んだ。
 感覚の死んだ身体が、それでも警鐘を鳴らした。

「設計図? 具現化のことですか」
「ふ、面白いな、全知の月輪が分かっておらんとは。無意識なのか。仕組みも知らんでは真価も発揮できまい。“それ”は、貴様が“認められた”証なのだ」
「傷が癒えるまでの時間稼ぎですか? それなら聞く気はありませんが」

 リリルは冷たく言い放ち、突撃しようと構えを取る。
 だが、リイザスは動じず、口元を歪めた。

「落ち着け、この傷はそう簡単には癒えん。だからこそ惜しいのだ、貴様が足りていないことが。月輪は“知る”ことで力を増すのだから聞いておくのだ。さすれば次はこの首を跳ねられるかもしれんぞ」

 リイザスは高らかに笑いながら言い放った。
 アキラの頭の中で警鐘が鳴り続ける。
 自分は一体、何をこれほどまでに恐怖しているのか。

「貴様は“あの領域”から“設計図”を取り寄せる権利を持っている。魔力での物体生成作り出すための設計図だ。さあ自覚しろ。お前の中に確たる接続権が見えるはずだ。その形をお前の思い描く通りに心の中にな……!!」

 リリルの力に歓喜し、嬉々として語るリイザスは、無邪気な子供のようにも見え、そしてすべてを修めた見識者のようにも見えた。
 身体が震える。
 分かった。
 自分の悪寒の正体が、分かってしまった。

 まずい、このままでは。

「…………なるほど」

 リリルがぽつりと呟いた。
 手に持つ槍から溢れ出すような光が収まり、アキラの目にはその姿がより具体的に見えてきた。
 感じる。リイザスの言葉で、きっかけで、リリルの具現化はより完全なものに近づいたのを。

「一応、耳は貸すものですね。お望み通り、次は首を跳ねましょう」

 リリルの力が強化された。
 その光景に、リイザスは嬉々として嗤う。

 アキラは身体を必死に動かそうとした。
 未だ感覚が無い。
 だが、危機感だけが沸き上がる。

 認めよう。
 リリルは確かに、アキラなどよりもリイザスに対抗し得る力を持っている。

 だが、先ほどの攻防で、アキラは感じてしまった。
 傷を負ったのはリイザスだが、リリルの方が圧倒的に消耗している。
 リイザスの魔力が暴れ回るこの戦場、立っているだけで気力も体力も奪われるのだ。
 リリルは涼しい顔を崩さないようにしているが、先ほど魔力の暴風を浴びせかけられただけで、身体中焼け爛れたように負傷しているだろう。
 その上彼女はファロートをその身にかけている。木曜属性の力とは微妙に異なり、あの魔術は身体に強い負荷がかかる。

 未来が見える。
 きっとリリルはまたあの極限領域に踏み込み、リイザスと死闘を繰り広げるであろう。
 戦いは続き、そしてずっと消耗し続ける。
 リイザスにとっては望ましいその戦いの結末は、もう、見えていた。

 そして、その上で。
 恐らく、リイザスは。

「アキラさん。もう少し待っていてください。絶対に、大丈夫ですから」

 強く清く聞こえるその言葉は、まるでガラスのようだった。
 直接手を合わせた彼女自身、恐らくもう、分かっている。
 それでも、毛ほども不安を外に出さない彼女は、まっすぐにリイザスを見ていた。

 そして呟く。
 彼女の未来が定まっているかのように、また死地へ飛び込むために。

「―――ファロート」

―――***―――

 ホンジョウ=イオリは速やかに状況把握に努めた。
 逸れた仲間のエリサス=アーティ、そしてアラスール=デミオンとの合流は成功だ。
 空は開いているから、ここなら召喚獣を呼び出して、全員で離脱できる。
 問題は姿が見えないヒダマリ=アキラ、そしてアルティア=ウィン=クーデフォン。
 そして、リリル=サース=ロングトンだ。

 ここへ来る途中、この樹海で、何度も轟音が響いていたのは聞いている。
 恐らくすでに、別の場所でも戦闘が始まっているのだろう。

 イオリは慎重に考える。
 “過去”、自分はこの依頼に参加している。起こることはすべて知っているはずだ。
 だが、すでにその規定事項に大幅な齟齬が生まれていた。

 ひとつはリイザス=ガーディラン。
 まさかあの魔族が出現するとは。
 いや、もしかしたら“あのとき”も出現していたのかもしれない。
 あのときは、“魔門”が起こした現象がこの樹海を“知恵持ち”や“言葉持ち”で埋め尽くし、状況把握もままならないまま終わってしまったのだ。
 もしかしたら、魔族も数体紛れ込んでいたかもしれない。
 説明しようにも、イオリ自身必死で目の前の敵を撃破し続けることしかできなかった。
 誰が何をやって、何が起こったのか自分も知らない。
 知っているのは、アイルークの大陸に広まりかけた魔物の群れをすべて掃討できたことと、ひとりの命を失ったことだけだ。
 事切れた“彼女”を背負ってきた“彼”は、何も言ってくれなかった。

 この魔門破壊、以前とはまるで様子が違う。
 恐らくは、目の前のふたつ目の齟齬のせいで。

「ねえ、聞いてんの? わざわざ私がお願いしてんだけど。とっととこの黄色い壁消せって」

 エレナ=ファンツェルンが苛立ちを隠しもせずに言葉を浴びせているのは黄色い人形だった。
 リイザスが魔門から現れたのかは定かではないが、この黄色い人形はおそらく魔門が起こした現象だろう。
 現に、黒い煙を漂わせる地面の上に立ち、エレナの言葉を聞き流している。
 エレナの言う通り、樹海を迷路に変えた黄色い壁を作り出したのはこの人形だろう。
 疑似的にとは言えこれだけの建造物を作り出し、維持し続けるなど人の図れる魔力の量を超えている。

 具体的な現象は違えど、もし、魔門が起こす現象の“質”が同等のものだとすれば、あの黄色い人形はあのときの地獄絵図と等価ということだろうか。

 周囲を見ると、木々はなぎ倒され大地は至るところが反り返っている。
 すでに一戦交えたらしいエリーとアラスールは無事のようだが、危機的状況には変わらない。

 どうする。

「エリーさん、あいつは、なんだ。魔族なのか」
「魔族みたい。ルゴール=フィルって名乗ってた」
「金曜属性……だな」

 同じく金曜属性のミツルギ=サクラが腰を落としたのが視界の隅に入る。
 ルゴール=フィル。やはり知らない魔族だ。
 はっきり言って、分からない相手とは戦いたくない。全員の命を考えると、臨戦態勢のサクを制して強引にでも召喚獣を呼び出すべきだろうか。
 だが、相手の攻撃方法が分からない。
 下手に1か所に固まると、どんな被害を受けるものか。

 ちらりと見ると、アラスール=デミオンも臨戦態勢に入っていた。
 同じ魔導士の彼女は、戦うのが最善と判断しているようだ。

 さて、自分はどうするべきか。
 魔導士として判断すべきか、あるいは、“記憶を持つ者”として判断すべきか。
 戦場に立つたびに、必ず目の前に現れる壁だった。

 ゴッ!!

「……!」

 轟音で我に返った。
 見れば痺れを切らしたらしいエレナがその拳をルゴールと名乗ったらしい魔族に突き刺していた。
 ルゴールはまさしく人形のように殴り飛ばされ、迷路の壁まで軽々しく飛んでいく。
 自分にもあの思い切りの良さが欲しい。

「……なるほどね」

 拳を突き出したまま、エレナは小さく呟いた。
 イオリもすぐに短剣を取り出し、構えを取る。
 どうやら今は、アラスールと同じく、魔導士としての判断をするべきなのだろう。

「な……」

 壁まで殴り飛ばされたルゴールから、耳を覆いたくなるような勢いでぶつかった音が響いた。
 ルゴールが生命体なら生きているとは思えないほどの衝撃だが、エレナの表情はいつしか険しくなっていた。

 そしてイオリにも見えた。
 吹き飛んだ人形が、壁の前で、平然と立ち上がった光景を。

「魔導士ふたり!! 魔門を壊せ!! あんなのがうじゃうじゃ出てきたら面倒だわ!!」

 叫び、爆発的な速度でエレナが走った。
 魔門を平然と踏み潰し、立ち上がったルゴールに高速で接近していく。
 そこで、初めてルゴールが口を開いた。

「驚いた、アラスールだと思っていたのに。君だ、君が危険だ、何よりも」
「るっさい人形ね。……!」

 接近したエレナに応じ、ルゴールの身体が光り始めた。
 危険な気配を感じ、魔門へ接近していたイオリは動きを止める。
 直後、ルゴールの身体から黄色い矢が飛び出し、魔門へ向かおうとした者に向かって放たれた。

「メティルザ!!」

 イオリは全員の前に立ちはだかって魔力を展開させた。
 眼前にグレーカラーの壁が出現する。
 ルゴールから放たれた黄色い矢は、壁に触れた途端動きを止め、衝撃すらなく消失していった。

 疑似的な盾を出現させられる属性は多いが、イオリの土曜属性は魔術に対して強い抵抗力がある属性だ。
 魔族の魔力を前にしても、それが魔術攻撃である以上、ましてや得意とする金曜属性ともなれば、イオリの魔力量ならほぼすべて完封できる。

「イオリちゃん、ナイスよ!!」

 背後からアラスールの激励が飛ぶ。彼女は魔門を破壊すべく動いたのだろう。
 だが、イオリはまるで喜ばなかった。
 褒められたところで、目の前の光景がそれより遥かに異次元の領域だった。

「はっ、」

 魔族の魔力で放たれた無数の矢の中、平然と前進を続ける者がいた。
 エレナ=ファンツェルン。
 5属性の中、最も希少な木曜属性を有する彼女は、身体能力において他の追随を許さない。
 常人では存在すら許されない攻撃の嵐の中、彼女はその身ひとつでかわし切り、遂にルゴールの目前へ迫っていた。

「ふう、やっと着いたわ」

 爆発音としか聞こえない打撃音が轟いた。
 エレナが再び見舞った拳はルゴールの顔面を捉える。

 ゴッ!! という鈍くも激しい打撃音が響く。しかしルゴールは、今度は吹き飛ばなかった。

「……人形って、あれか、粘土の方か」

 エレナの拳に、ルゴールの顔面は原形を留めていなかった。
 拳の軌道そのままに大きく陥没し、首から上が数メートルも背後に伸びている。
 だが、それゆえに、エレナの打撃を受け流しているようだった。

「……やはり危険だね、君は」
「あらありがとう、人形さん。どこから喋っているのかしら?」
「無駄だよ、時間稼ぎは。キュトリムは怖いんだ」
「!」

 一瞬、ルゴールの動きが目で追えなかった。
 気づけばルゴールの身体は遥か上空に跳んでいる。

 そして再び光を放つと、今度は上空から黄色の矢をイオリたち目掛けて降り注いできた。

「―――づ、メティルザ!!」

 放たれた魔術に対し、イオリは上空に盾を展開した。
 降り注ぐ矢の中、アラスールに視線を走らせ、退路を探す。
 矢だけなら構わないが、ルゴール自身がこの魔門へ向かって落ちてくるのが見えていた。
 魔族と至近距離にいたいと思える者などエレナくらいであろう。

 やはり奴の狙いは魔門の守護。
 そうやすやすと破壊させてはくれないらしい。

「危ないな」

 ルゴールは、まっすぐに魔門の上に着地し、再び悠然と立ちはだかった。
 離脱し、距離を取り、イオリは構える。

 跳躍力は把握した。遠距離攻撃も把握できた。
 それゆえに、召喚獣を出現させ、全員が乗り込み、無事に離脱するのは容易くはない。
 意識を目の前の敵から離さないまま思考を進め、活路を見出す必要がある。
 今までずっとやってきたことだ。

「……エレナ。あの魔族はどれだけ強い」

 戻ってきたエレナにイオリは呟くように聞いた。
 恐らくエレナは、アラスールよりも、あの魔族の力を正確に測れているだろう。

「……そんなことはどうでもいいでしょう。それよりあんた。どうするつもり? 逃げたいの? 倒したいの?」

 それを判断するために情報が欲しいのだが、言っても無駄だろう。
 エレナから冷ややかな視線が浴びせかけられた。もしかしたらエレナの推定では、旗色が悪いのかもしれない。
 自分とエレナの物の考え方は根本的に違う。
 情報から目的を決定するのか、目的から立ち回りを決定するのかだ。
 エレナの考え方はより実践的であると思われるであろうが、イオリの経験上、多くの場合そこに優劣は生まれない。
 何故なら生きたいのか、勝ちたいのかと問われているようなものだからだ。

「私は魔門をぶっ壊したいわ。ついでにそこの薄汚い人形もね」

 そして、エレナの目的は決まっていた。
 他の面々に視線を投げると、皆まっすぐにルゴールと魔門を睨んでいる。

 まただ。
 また目の前に、無数の選択肢が広がっていく。

 自分には“情報”があり、そして選択肢が存在している。

 今この場で、全員をこの場から連れ出せるのは自分だけ。
 その自分が深く戦闘に介入すれば、万一の場合この樹海から離脱する術を全員が失ってしまう。
 一方で、戦闘に介入しなければ魔門破壊を達成することはできないかもしれない。

 この場にいないアキラは言った。
 魔門を破壊する、と。
 彼は自分の出した問いに、応じてみせた。
 それなのに、自分は未だ、過去の記憶に縛られて、いつでも退避できるように立ち回ろうとしている。

 遠くから定期的に爆撃音と振動が届く。
 きっと彼は今、迷路のどこかでリイザスに応戦しているのだろう。この場に魔族がもう1体増えれば、魔門破壊は不可能だろう。
 彼もまた、勝つために行動している。

 その誠意に、自分は一体どう応えればいいのだろう。

「エレナさん。奴は打撃に強いのか?」

 不安定な自分を追い越して、サクがエレナの隣に並んだ。
 その長すぎる愛刀を握りながら、前を見ている。

「あら。妙にやる気じゃない。そうね、最初に殴ったときは固くて、次に殴ったら柔らかかった、そんな感じね。切り替えられるんじゃない?」
「随分感覚的な表現だが……、誰のせいかな、よく分かる。それならこちらも攻撃方法は増やした方がいいだろう」

 サクの手が、胸に仕舞った秘石に伸びたのが分かった。
 彼女も、この場の離脱を考えていないようだ。

 まずい。このままだと。

「……」

 止めようとしたが、ふたりの表情に、口が閉ざされた。
 今ならまだ離脱できる可能性があるが、魔族と正面からぶつかれば余裕が残るとは思えない。
 このままだと死傷者が間違いなく出てしまう。

 思考は確かに危険を訴えている。
 だがそれが、専門家の知識からくるものなのか記憶からくるものなのか分からなかった。

「イオリさん。私たちは奴を引き付ける。その間に魔門を破壊してくれ。私の秘石は奴に使う」
「……くれぐれも無茶だけはしないでくれ。こんな樹海の中じゃ助からない」

 辛うじて言葉を発した。何の意味もないことは分かっている。
 この場で治療ができそうなのはアラスールだけとなると、深手を負ったらそれだけで致命となるであろう。

 せめて、

「……あのガキは来ないでしょうね」

 言わんとすることが分かったのか。つまらなそうにエレナが口走った。

「魔導士。あいつの強さを聞いたわよね? 上の下よ。下手に刺激したらどうなるか分からないけど、まあ何とかなるでしょう。だからね、あのガキはここには来ないのよ」

 エレナの身体から徐々に魔力が漏れ出した。

「短い付き合いでも分かったわ。あのガキはとことん馬鹿ね。あの子にとって、両親の仇とか、使命とか、どうでもいいのよ。ただただ危険な場所に行っちゃうの。そこで助けを求めている人がいると思って」

 溢れた魔力はいつしか暴風となり、エレナの周囲を荒々しく暴れ回る。
 ルゴールから、ピリ、という空気が漏れた。
 もう後には引けない。
 魔族がこちらを警戒対象として認識してしまった。

「魔導士とは真逆のこと言うけど、従者ちゃん。精一杯無理しなさい。使えなかったら承知しないから」
「……酷い物言いだ」
「利用し利用されの人生だもの。あんたも都合よく私を使ってみなさいな」

 仲間として息の合った戦闘を彼女とすることは不可能だろう。
 直感的にそう思った。
 ならばそう割り切るのもひとつの手なのかもしれない。

「じゃないと、もっと危険なのとやり合っているアキラ君が可哀想でしょう」
「……ああ。そう言われたら仕方ないな」

 サクとエレナがルゴールに対峙する。
 イオリは余計な思考を追い出して、戦闘に意識を落としていく。

 ルゴールは、ちらりと足元の魔門を見て、そして笑った、ように見えた。

「なるほど。やっぱり秘石で破壊するつもりだったのか。でも、秘石持ちの所在は知れたね」

 エレナが巻き起こす魔力の暴風の中、魔族は悠然と構えを取った。

―――***―――

 月輪属性は未だ謎に包まれている属性ではあるが、魔術師隊にも一定数存在するらしい。多くの場合、事象の遮断や未来予知と言った魔法が期待され、別枠で扱われることが多いそうだが、リリル=サース=ロングトンはその期待をすべて裏切るであろうと自覚していた。

 未来など見えたことも無いし、一説によると可能らしい時間操作もままならない。
 多少の攻撃魔術や治癒魔術は使用できるが、特に治療は得意ではない。

 旅を始めた当初、自分にできることは何なのかと探りに探った結果、生まれた結論―――自分には、何もできない。

 何をしても、他の属性の方が圧倒的に優位に立ってしまう。月輪属性は、他の属性が息をするように容易くできる事象を、回りくどく勿体付けて、幾重にも魔術を発動させなければ、再現できないのだ。
 月輪属性は、完成された状態で、初めて人に必要にされるのだと認識した。

 村を滅ぼされ、変える場所も行く場所も無く、残されたこの身体にすら、何もないという現実。

 たくさんのことができるようになりたい。たくさんの人を救いたい。
 幼い頃に思い描いた自分の像は、自分の世界のどこを探しても存在しないと痛感した。
 世界を救うなどとは口が裂けても言えないほど、すべてに劣った自分に、リリルは絶望しかけていた。

 “しかしそれは、誰かを助けない理由にはならなかった。”

 誰かと共にいても、足手まといになるというなら自分ひとりでも進む。
 自分がただそこにいるだけで、誰かが救われるなら、それでよかった。

 “扉”が目の前に見えたのは、一体いつからだったろうか。

 そしてそれから、自分はたったひとつのことができるようになった。

「ふぅ―――ふぅ―――ふぅ―――」

 赫い拳が眼前から迫る。離脱は追撃をかわせない。頬を掠らせるほど最小限に身をよじり、足を踏み出す―――は不正解。足元を爆破されたら至近距離で動きを止められてしまう。槍を分けて拳を迎撃する。拳に槍を突き刺す寸前、その拳がピタリと止まり、薙ぎ払うように野太い足が放たれた。上へ? 下へ? いや、今度は離脱が正解。しかし追撃を許さぬように槍は正面に伸ばしたまま。回避と同時、迷わず突撃する。動きを牽制されていた“敵”は片足のまま止まっている。このまま串刺し―――と思ったのも束の間、今度は“敵”が槍の一撃に身を掠らせながら突撃してきた。離脱はせず、すぐに槍をふたつに分け、その突撃を周り込むように側面に移動し、ふたつの槍で連撃。決まりかけた瞬間、離脱した。“敵”は身から魔力を強引に放出させ、“攻撃”してくる。ならばと槍をひとつにまとめ、灼熱地獄に槍を突き刺した。しかし離脱されていたのか、燃えるような赫の煙の向こうに手ごたえはなかった。再び接近しなければ。

「ふぅ―――ふぅ―――ふぅ―――」

 リリルは自らの“武器”を操りながら、リイザス=ガーディランを攻めていた。
 自らの時を早めるファロートという魔法により高められた知覚は、脳に目まぐるしく変わる戦闘の状況を強引に処理させる。

 リリルが現出させた具現化―――『ベルフェール』は戦闘に特化した武具である。
 用途に応じて姿を変えるこの武具は、月輪属性としてはいささか型破りなリリルの戦闘力を大幅に上昇させる戦闘用の具現化だ。
 槍の先端に付く漆黒の刃は、土曜属性の力と特徴が近しいのか魔術的な防御を許さない。
 強大な魔力を持つ敵は、打撃であろうが斬撃であろうがその魔力で封殺してしまうことが多く、旅を始めた当初、リリルも店で購入した武具を幾度となく砕かれていた。
 相手が破壊と封殺を得意とする火曜属性ともなれば、まるで歯が立たないであろう。
 だがこの具現化は、リイザスに封殺を許さない。
 リイザスの身体の物理的な固さに阻まれて致命傷を負わせられてはいないこそすれ、着実に損傷を与えられている。

「ふぅ―――ふぅ―――ふぅ―――」

 著しい情報が頭の中をかき回すように巡る。
 こちらの攻撃は通用するとはいえ、相手は一撃でもこちらに浴びせれば勝利だ。
 火曜属性のリイザスは、相手を完全に封殺しながらも、必殺の一撃を放ち続ける戦闘スタイルなのだろう。
 決して深追いはせず、決して引きすぎず、相手が最も戦いにくい状況を作り続けなければ瞬殺されてしまう。
 食らいつき、食らいつかれず、自分のすべてを戦闘に注ぐ。
 魔族との至近距離での戦闘は、傍から見れば正気の沙汰ではないが、リリルは経験上、自分にとって最も安全な戦闘方法であることを知っていた。

 リイザスは言った。
 自分の“財”を奪うと。

 自分の“財”とは何だろう。
 自信をもって、この世界すべてのことだと断言できる。

 しかしそれだけだろうか。

 背後で倒れている“彼”も、この世界にとって重要な財産だ。
 自分にとっても、尊敬すべき、憧れの人物だ。

 それらをすべて奪うと言っているのだろうか。
 負ければすべてを失うと言っているのだろうか。

 僅かでも判断が遅れれば間違いなく死ぬ。
 だが恐怖は無かった。いつものことだ。
 誤ればすべてを失うのはリリルにとって、竦む理由ではなく奮い立つ理由だった。

 そうやって今までも、人々の救いを築き上げてきた自信がある。

「ハッ!!」
「ッ―――」

 また爆撃による目くらまし。もう何度目だろう。リイザスのただの防御行動で、身体中が燃えるように痛む。
 リリルの戦闘経験上、リイザス=ガーディランは最強の敵だと断言できる。
 これほどまで長く、自分の前に立っていた敵は未だかつていなかった。

 だが、撃破しなければならない。
 この魔門破壊最大の障害を取り除くことは、アイルークの人々にとって、ともすれば全世界の人々にとって大きな希望となる。

 焦るな。頭と身体の動きを止めるな。
 攻め続けることしか、自分にはできないのだから。

「ベルフェール・モッド!!」

 防御の爆撃をかわし、リリルは槍を突き出した。
 爆撃の向こうで再び空を切る。
 予想していたリリルは迷わず熱風に飛び込み槍をさらに突き出す。僅かな手ごたえに、リリルは深追いせず、すぐさま敵の迎撃に備えた。
 爆炎の中、巨大な影を視界の隅に拾い、思考を高速で動かす。

 爆風。
 リイザスは想定した行動パターンの中で最も確率が低いと思っていた行動を取った。
 リリルの突撃に対して行っていた防御用の魔力の放出。
 眉を潜めてその身を引かせると、リイザスは拳を振り上げ、リリルを必要に牽制する。

 何か狙いがあるのか。
 その防御をされるとリリルは離脱せざるを得ないが、今までの行動上、連続では放出できないはずだ。その分隙が生まれる。

「ベルフェール・アグル!!」

 リリルは再び突撃し、リイザスに連撃を浴びせかける。
 巨体の割に素早くかわすリイザスが接近してくるのを見ると、リリルは回り込もうとする。
 だが。

「っ……!!」

 再び身体から魔力を放出する。
 接近ができない。
 だがそれはリイザスにとっても上手く無い手のはずだ。無駄な魔力の浪費になる。

 いったい何を。

「―――ズッ―――」

 自分の口から変な音が漏れた。
 赫で染まっていた周囲の色が、一瞬黒くなる。

「―――やはりか」

 リイザスの声が妙に遠く聞こえた。
 放たれる拳を今まで通りに回避し連撃を放つ。
 今まで通り、何も変わっていない。

「リリル=サース=ロングトン。貴様は強い。だが、私以上の敵と戦ったことがあるか?」
「―――ヒュ―――ヒュ―――」

 口から空気が漏れた。
 苦しい。まともに息ができない。

「“私はあるぞ”。自らより高みにいる敵と戦ったことが」
「―――カ―――フ―――」

 たまらずリリルは離脱した。
 僅かながら何が起きたか理解できた。
 ファロートは身体への負荷が高い。それは単純に身体だけではなく、ありとあらゆる情報を処理する脳への負荷が高いのだ。

「自らの“最善”が通用しない敵。惜しいな、お前も出会いに恵まれていれば、私の行動をもっと警戒できていたであろう」

 リリルもファロートの負荷からくる自分の限界を理解していないわけではなかった。
 戦況は巡るましく変わる。
 リイザスが最適な行動を取らなかったことでそれがノイズとなり、リリルの“最善”を操作されていた。
 本来ならば一呼吸できるタイミングで、思考の停止が許されない一瞬が連続で現れた。
 深追いしないと決めていた限界ラインに、片足が僅かに触れてしまったのだ。

 その一瞬は、リイザスにとって十分すぎた。
 魔族の巨大な身体が高速で接近してくる。

「至高の時であったぞ、リリル=サース=ロングトン。よくぞここまで耐え抜いた」
「っ、っ」

 少しでも何かを思い浮かべただけで、脳に痛みが走る。
 分かっているのは、振り下ろされようとしている赫の拳。
 点滅するように暗転する視界が、その死を知らしめていた。

 リイザスの拳が、爆炎と共に、放たれる―――

「―――その通りだ。よく耐えた!!」

 血を流れていた耳が、響くような声を拾った。

「キャラ・スカーレット!!」

 爆撃。
 よろけていた身体は吹き飛ばされ、しかしすぐに捉まえられた。
 激しい頭痛は治まり始め、視力がようやく戻って来る。

 肩をしっかりと掴んでくるのはヒダマリ=アキラ。
 先ほどまで、背後で倒れていた勇者様だった。

「…………まさかな」

 アキラの攻撃に弾き飛ばされたリイザスが、悠々と立ち上がった。
 しかし表情には驚愕と愉悦が浮かんでいる。

 リリルにとっても何が起こったのか分からない。
 彼は半死半生で、倒れていたはずだ。

「ヒダマリ=アキラ。再戦は近いと思ったが、まさか今ここでとは、楽しませてくれる。聞くが、何をした? 日輪属性とはいえ、この場での再起は難しいと考えていたが」
「俺は七曜の魔術師を集める勇者らしい。リリルと違って、仲間に助けられてばっかりだ」

 アキラはリイザスを睨みながら不敵に笑っていた。

「……うちにはいるんだよ。優秀な治療担当が」

 振り返ると、そこには小さな女の子が立っていた。
 胸を張って、堂々と。
 そしてすぐに駆けよってくると、自分にその手のひらをかざしてきた。

「間に合った!! 間に合いました!! 良かったよぅ、リリにゃん、じっとしててください!! すぐに治します、大丈夫です!!」
「ア……アルティアさん……?」
「大丈夫です安心してください、ティアにゃんさんです、絶対に治します!! ごめんなさい遅くなって、あっし、迷路苦手なんですよぅ!!」

 頭痛が酷くなったが、スカイブルーの光を浴びて、身体中から燃えるような熱が急速に引いていった。
 アルティア=ウィン=クーデフォン。
 ヒダマリ=アキラの水曜の魔術師として紹介されていたが、彼女がアキラを治したというのだろうか。

 しかし、これは。

「まさかな……。貴様、あのときの子供か」
「ひっ、ちょちょ、待ってください。アッキー、あの、もう少しお時間ください、リリにゃん火傷だらけですぐに治さないと……!!」

 気づけば自分はいつの間にか重傷だったらしい。
 戦闘が途切れ、身体中に痛みが走る。
 これもリイザスに戦闘をコントロールされていたせいかもしれない。あのときでなくとも、自分は近いうちに倒れ込んでいたのだろうか。

「ティア、リリル、ふたりは逃げろ!! 今度は俺が引き受ける……!!」

 アキラが庇うように前に出た。
 睨む先は、満身創痍の自分とは違い、悠然と立つリイザス=ガーディラン。
 限界まで戦っても、あの魔族には届かなかった。

 そして、その魔族は、そんなアキラを見て顔をしかめた。

「その子供を、いや、名を覚えよう。アルティア、というらしいな。邪険に扱うな。私にとって今日最高の出遭いかもしれん」
「ひぅ……」
「何言ってやがる」

 リイザスの眼光を浴び、震えるティアはしかし着実に治癒魔術をかけてくる。
 だが、これは本当に治癒魔術だろうか。
 今まで治療をしてもらったことはあるが、これがあれと同種だろうか。

「リリル=サース=ロングトン。貴様は気づかんか。魔族の攻撃だぞ。治るわけが無いのだよ、ヒダマリ=アキラが、この短時間で」
「?」

 アキラは眉を潜めているが、リリルもリイザスの言わんとすることが分かった。
 もしかしたら、アキラにとって、いや、アキラの仲間にとって治癒魔術とはアルティア=ウィン=クーデフォンを基準に考えられているのかもしれないから、分からないのかもしれない。

 彼女の治療は―――早すぎる。

「……ありがとうございます」
「わわ、リリにゃん駄目ですまだ、」
「いや、“大丈夫なんです、あなたのお陰で”」

 未だに痛みは走るが、この程度、動きに何ら支障はない。
 動揺と共に、アキラと共に立ち並んだ。
 隣のアキラは、身体中が焼けただれているように見えるが、十分すぎるほどの活力を感じる。
 これもティアの力によるものか。

「ティアさん、あなたは……いえ、後にしましょう。アキラさん、共闘させていただきます」
「それは俺のセリフだ。リイザスを撃破するぞ」

 隣に誰かが立って戦闘するなどいつ以来だろう。
 だが、強い安心感を覚える。
 先輩の勇者様に、その仲間の特異なバックアップ。
 今まで以上に力が振るえそうだった。

「はい。反撃開始です……!!」

 パンッ、と手が叩かれた。

「良いぞ。良いぞ良いぞ。勇者がふたりに、治癒の枠を超えた水曜の術者。今日は良き日だ。これではまるで、私に戦い続けることを強いているようではないか……!!」

 愉悦に貌を歪ませ、“財欲”の魔族は高らかに笑う。
 その笑みにリリルは眉を潜ませると、隣のアキラからピリとした空気を感じた。

「戦い続けるのは良いが、私ももう少し楽しませてもらいたい。アルティア。今度は貴様を見定めよう。はたして、どこまでその治癒が可能なのか……!!」
「ちっ、駄目だ!! リリル、ティア、逃げろ!!」

 アキラが叫んだ。
 彼は何か決定的な危機を感じているようだ。
 その正体は分からないが、危機感だけは伝わってくる。

 そしてそれは、リリルも即座に分かった。

「―――リリル=サース=ロングトン。誇ってよいぞ」

 赫の世界が歪み、流れを生み、リイザスの周囲を舞い始める。

「……っ、やっぱりか」
「ま、まさか、アキラさん、知っていたんですか……?」
「いや、知らなかった――――だが。“詳しすぎると思ってはいた”」

 渦巻く風は、魔族の巨体に吸い込まれていく。

「人の身で辿り着くとは。並々ならぬ研鑽の産物か、はたまた数多の試練がもたらしたのか」

 風が、魔力が、集い、固まる。

「ならばこそ、この試練。乗り越えてみせよ」

 リイザスが拳を掲げ、“ここではないどこか”から、何かが引き寄せられてくる。

 “線”を越えた者にすら、扉には出会えない。
 “線”を超えた者ですら、扉は開けない。
 歴史に存在する、華々しく神話を作り上げた者たちですら、その多くが得ることは叶わなかった力がある。
 しかしそれは人間の歴史であった。

 魔族の力はその聖域を荒々しく踏み荒らす。

 今―――固く閉ざされた扉さえも、容易く砕かれる。

「―――ドグル・ガナル」

 現出したそれは、リイザスの巨体に似合わぬ小さな腕輪だった。
 赫色の身体に逆らうように、あるいは映えるように、鮮やかな藍に染まっている。
 装飾などまるでない、単なる腕輪。目を凝らすと、その腕輪には、読めもしない何らかの言語がびっしりと書き連ねられていた。

 だが、リリルの頭では警鐘が鳴り続ける。

「“具現化”……!!」

 その力はリリルが良く知っている。
 何もできなかった自分が、仮にも勇者として活躍できているのは他でもなくその力のお陰だ。
 その力を魔族が振るえばどうなるか想像もしたくなかった。

「そう構えるな」

 超常現象ともいえる力を容易く現出させた魔族は、肩を落としてそう言った。
 だがそう言われても、警戒を解くことなどできない。

「リリル=サース=ロングトン。貴様と違い、ドグル・ガナルは私の戦闘力を直接上げるものではない」
「なら何のつもりだ」
「なに、一応万全に放ちたくてな。何しろこれは、その治癒が“どこまで治せるのかを測りたいがゆえに”取り出したのだから」

 ビッ、と頬を魔力が切った。
 ドグル・ガナルが嵌められたリイザスの右腕に、再び魔力の気流が巻き起こる。
 収まった頭痛が激しく脳を揺さぶった。
 自分も月輪の端くれだ、予知はできなくとも全能の空間から致命的な危機だけは下りてくるらしい。

「ドグル・ガナルは私の力を上げはせん。笑ってくれるなよ、これは“護身用”だ。私とて、“これ”を容易く放ちたくはないのでな」
「ふたりとも!! 私の後ろへ!!」

 アキラを強引に引きずり倒すように後ろへ引かせた。
 “何か”が来る。
 そのどうしようもない予感だけが、自分を突き動かさせた。

「“これ”は」

 リイザスが腕を振り上げた。
 リリルは即座に“設計図”を取り寄せる。

「“結果を先に得る”―――対価の後払い。もたらすのは、火曜の神髄―――“破壊”」

 リイザスの不気味な聲が頭に響く。
 リリルは思考を高速に働かせる。
 いかなる絶望が眼前に広がろうとも、目を逸らさずに、そのタイミングを見定めろ。

「魔術の枠を外れた―――終焉の赫。それは、“必ず何かを奪い去る”……!!」
「っ―――、ベルフェール・パーム!!」

 固まった銀の魔力は形を成し、リリルの前に漆黒の盾を現出させた。
 その周囲に、花弁のように純白の装甲が広がり、自分たちの身を完全に隠す。
 リリルもめったに使わない、ベルフェールの別の形態―――鉄壁の防御壁。

 だが、リリルは見てしまった。
 その盾に身を隠す直前。目の前の障害に何ら興味を抱いていない、火曜属性の術者特有の瞳を。
 火曜の術者がその力を振るうとき、目の前のすべては消失する。

 リイザス=ガーディランが、“魔法”を放った。

「スカーレッド・ガース」

―――***―――

 気に入る気に入らないで言えば、何度でも言える。気に入らない。
 日頃の生活態度もそう、旅先で立ち寄った村人たちにかける迷惑もそう。
 決して貧窮しているわけでもないのに、その容姿で村人たちにも取り入り、さらに貢がせ、悠々自適に人の生活を荒らしている。
 ミツルギ=サクラは、旅を始めたときからずっと守っていることがある。貸しを作らず、借りを作らず、もし作ってしまったら、必ず清算して次の町を目指す。
 旅とはそういうものだと認識していた。
 もともと自分の不誠実さから招いた旅だ、人に迷惑だけはかけたくないと考えていた。
 アキラたちと同行することになったのは、その禁を犯したからゆえだから、今はそこまで貸し借りを毛嫌いしているわけでもないが、基本的なスタンスは変わっていない。

 それなのに、最近になって、自分が守ってきたものを平気で壊す人物が同行するようになった。
 まったく理解不能だ。何を考えているのかすら分からない。
 やはり、気に入らなかった。どうしようもなく。

 だが、共に並ぶと何と心強いことか。

「エレナさん。どうする」
「どうも何もさっきと同じよ。あいつをぶっ飛ばして魔門から引き剥がす。残ったあんたらは魔門を壊してなさい」

 背後の3人に軽く視線を投げてエレナは不敵に笑った。
 今、彼女の周囲には荒々しい魔力の奔流が巻き起こっている。
 これは本当に人間が放てる魔力なのか。
 息を吐くように町や村を消し去るとされる“あの存在”と言われても信じてしまう。

 エレナ=ファンツェルンは紛れもない化物だ。

 その化物は、目の前の化物に殺気を向ける。

「凄いねエレナ。君は本物だよ。魔門を守るために呼ばれたけど、いい土産話もできた」
「あら、死後の世界にお友達がいるの? じっくり聞かせてやりなさいな」
「ああ、一応いるね。でも先に『光の創め』の面々にかな。いや、連れて帰りたいくらいだ。君に色々試したいことがある」
「少しは考えて物を言いなさい―――ますます殺したくなったわ」

 瞬間的にでも自分より早く動く存在を久方ぶりに見た。
 隣に立っていたエレナが一瞬消え、気づけばルゴールへ向かって突撃していく。

 慌てて追おうとしたが、サクは腰を落として懐の秘石の感触を探った。
 使い方は身体だけではなく、秘石自体も覆うように魔術を発動させることらしいが、初めて使う。
 果たして上手くいくだろうか。

「はっ!!」

 エレナの拳が放たれた。
 ボッ!! と暴れ回っていた魔力が1点に集中して炸裂する。

 原型など残るとは思えない痛烈な打撃が、ルゴールの腹部に炸裂した。
 だが。

「ち―――」
「何度も吹き飛ばされたくないんだ。多少は痛みを覚えるしね」

 エレナの拳はルゴールの腹部に吸い込まれていた。
 放った威力からか、その腹部ははるか後方にまで伸び切り、しかし威力を殺し切っている。

 あの魔族は一体何なのか。
 黄色い人形のような身体が伸び縮みし、打撃攻撃がまともに聞いていないように見える。
 タンガタンザで出遭った無機物型の魔物を思い起こさせるが、あれと同種の魔族が存在するというのだろうか。

「なら―――」
「駄目だよそれは」

 エレナは拳が呑み込まれたまま魔術を発動させようとしたのだろう。
 しかしいち早く察したルゴールが状態を逸らすと、伸び切った腹部を急速で縮小させる。

「っ!?」

 バンッ!! と砲台のようにエレナは空中へ吹き飛ばされる。
 人間ひとりを容易く打ち出した魔族は、さも平然と魔門の上を守り抜いていた。

「拳は重いが君は軽いね」

 嗤うような仕草をし、ルゴールは黄色い身体から魔力を流出し始めた。
 まずい。あれは先ほど見た矢のような魔術を放つ攻撃だ。空中にいるエレナでは回避できない。

 ならば。

「これは利くかな―――ぇ」

 ギンッ!! と今度は斬撃音が響いた。
 上空に意識を逸らしたルゴールの首元目掛け、サクは高速で愛刀を抜き放つ。
 エレナの打撃を呑み込んだときと異なり、鋼鉄のような感触。致命には至らない。
 エレナの言う通り硬度は調整できるらしい。

 だがそれよりも、サクは自分の動きに衝撃を受けていた。

「……サクとか呼ばれていたね。輝石持ちの」

 遥か後方からルゴールの言葉が聞こえた。
 振り返ればルゴールの身体が小さく見える。

 いったい自分はいつ、ここまで移動していたのか。
 サクは常日頃、足場に波を作り、自信の速度を上げて戦闘を行っているが、その波が今、暴走したかのようにサクを敵目掛けて“射出”した。
 辛うじて刀を放てたが、ほとんど自分の目で追えていない。

 胸元の感触を探る。
 これが秘石の力か。
 まるで実感が湧かないのに、自分の魔術が大幅に強化されていた。

 自分のものではないかのような身体の動きに動揺している暇もなく、戦闘は続行する。

「た、だ、い、ま」
「……流石にそろそろまともにやらないと駄目そうだね」

 難なく着地したエレナは、再びルゴールに今度は蹴りを叩き込んでいた。
 身体を伸ばして衝撃を殺すと、ルゴールは、その両手の指をまとめ、槍のような形状を作り出す。

「ちょ、あぶなっ」

 雷雨のような連続の刺突がエレナに向かって放たれた。
 黄色い閃光が激しく見舞われるも、エレナは距離を離すことなくすべて回避している。
 禁忌の魔門の真上で、ひとりと1体は超常的な攻防を繰り広げていた。

 だが、“その攻撃をしているということは”。

「エレナさん!! 避けろよ!!」
「―――は!?」

 自分は冷たい人間なのかもしれない。
 サクは遠方から高速で突撃し、ルゴールがエレナに放つ槍目掛けてためらわず愛刀を見舞った。
 その攻撃は、金曜属性の本分の硬度を利用したものだ。先端部分は刃のように強化されている。だが、今伸び切っているその腕はどうだろう。
 固めていては柔軟な連続攻撃はできない。

「―――へえ。仕方ないね」

 サクの斬撃が放たれる寸前、ルゴールはようやく後方へ跳躍した。
 止めることもできず振り切った愛刀を、エレナも上手くかわしたらしい。
 今度は息過ぎず自分の身体を制止させ、離れたルゴールに向き合う。

「私を殺す気!?」
「避けれたじゃないか」

 騒ぐエレナは不機嫌そうに舌打ちする。
 だが事実、エレナを巻き込むつもりで放ったとはいえ、彼女に当たるとは思っていなかった。
 移動速度では自分の方が上のようだが、瞬間的な動作において、エレナは圧倒的に鋭い。
 秘石の力で高められて、改めて彼女の戦闘力の高さが分かる。
 やはり気に入らない。
 彼女は一体どうやって、ここまでの力を手に入れたというのか。

 だが、今の自分ならついていける。
 懐の秘石の感触を探る。
 魔術の鍛錬はそれほど深くやっていないが、魔力の増強でここまで力が増すとは。
 道具に頼るというのも気に入らないが、サクの脳裏に、ふと、幼い頃の憧れが過った。

「まあいいわ。ようやく場所が開いたわね。あいつと遊んでくるからあとよろしく」

 不機嫌さを隠しもしないエレナの言葉に我に返ると、彼女はルゴール目掛けて突撃していた。
 この戦い方は悪くない。
 至近距離の戦闘にめっぽう強いエレナがルゴールと応戦し、自分は隙を縫って斬撃を見舞う。
 ルゴールを魔門に戻さぬようにしている間に、残る面々が魔門を破壊すればいいのだ。

「―――いや」

 サクは自分の甘い思考を追い出した。
 自分はタンガタンザで何を学んだ。

 状況が優勢なのはこちらだ。だからこれを繰り返せばいい。
 その考え方は、当然向こうも察している。
 あのときは、“言葉持ち”ですら状況を変えてきたのだ。
 相手は“魔族”。
 何をするか分かったものではない。

「ふ―――」

 隙を見つけ、サクは鋭く愛刀を見舞った。
 こちらの速度が把握されたのか、ルゴールはエレナと応戦しながら危なげなく回避する。
 ならばと変化をつけて直後に2撃目を放つ。
 読まれていたようで、ルゴールは今度は身体を固めて斬撃を防いでくる。

 魔門から引き剥がすことには成功しているが、ルゴールをあと1歩攻め切れない。
 考える猶予を与えてはならないと感じる。
 相手はこの巨大な迷路を作り出すほどの魔力を持った魔族だ。
 猶予を与えてしまえば何が起こるか分かったものではない。
 魔門の近くにアラスールたちが集まっている。ルゴールか魔門、早くどちらかは片付けて、早々に決着をつけなければ。

「ところで、エレナ」
「あん?」

 ルゴールが、突撃してきたエレナに子供のような声で囁いた。

「拳での攻撃が減ったようだけど、もしかして、痛めた?」
「うーん、そうね、分かんないわ。もうちょっと試させてくれる?」
「ふう。君は強いね」

 苦し紛れの台詞だったのだろうか。
 爆音を響かせながら、ルゴールに必殺の攻撃が見舞われる。
 エレナと応戦しているルゴールは、最早原形を留めて戦っていなかった。
 拳の数だけ身体中が陥没し、伸び切り、ハリネズミのように背後にその身体を尖らせている。
 切れるかと思いその背中に斬撃を浴びせるも、当然のように金属音が鳴り響いた。

「―――ち」

 アラスールたちが魔門に近づいたのが見えたのか、ルゴールは身体中を光らせ始めた。
 無数に放たれる矢の魔術は至近距離では回避できないのか、エレナは舌打ちしながら背後へ飛ぶ。
 しかし、魔門目掛けて放たれた金の矢はイオリによって阻まれた。

 万全だった。
 ただただ今を繰り返せば勝利できると思える局面だ。

 だがそれは、正しい道なのか。

「―――!」

 鋭く動くエレナの動きにサクは違和感を覚えた。
 確かにルゴールの言う通り、拳での攻撃が減っている。
 木曜属性は身体能力強化に秀でた属性だ。
 その気になれば、その身を刃すら通さぬ強靭な肉体にすることすらできると聞く。
 だが、相手はその分野においては最も秀でた金曜属性の魔族だ。
 事実、エレナはルゴールの斬撃を受けず、回避している。

「その強さだ。エレナ。君は―――“自分より強い者と戦ったことが無いんじゃないかな”」
「―――!?」

 ルゴールの動きが突如変わった。
 放たれたと思われた槍の手は、瞬時に巨大な手の平に作り替えられ、グッ、とエレナの腕を掴む。
 相殺すら力でねじ伏せようと勢い良く放たれたエレナの拳をそのまま強く引き寄せると、ルゴールはその勢いのままエレナの腹部に膝蹴りを見舞った。

「ぐっ―――ハ」
「斬撃だけじゃないよ、魔族はね、“強いんだ”」

 エレナを背後に放り投げ、ルゴールは突如魔門目掛けて突き進む。
 足止めしようとサクが構えると同時、走りながらルゴールは身体中を光らせ始める―――

「っ―――イオリさん!! 行ったぞ!!」

 不意をつかれたにもかかわらず、イオリの行動は早かった。
 秘石を取り出し魔門に向かい合っていたアラスールを強引に引き寄せると、土曜の盾を出現させて離脱する。

 魔門破壊には及ばなかったが、イオリがいればルゴールの遠距離攻撃は問題ない。
 だが、同じ金曜属性のサクには感じ取れた。

 ルゴールが身体に纏う魔力の量が、先ほどまでとは明らかに異質だった。

「分かった、分かったよ、まじめにやる。ボクはね、忘れていないよ。魔門を守るためにここにいるんだ」

 誰と話しているのか。
 ルゴールは呟きながら纏う魔力を膨張させていき、黄色い人形は駆けながらいつしか巨大な姿に変わっていった。
 歩幅も広がり、酷い振動が樹海を揺さぶる。

 ルゴールは、魔門だけを見つめていた。
 あたかもこの場所には、それ以外のものが存在しないかのように。

「詠唱しよう、真摯な態度の証として。『光の創め』は、“確かに君を守ったんだ”」

 身体の膨張が終わった。それは、纏う魔力の臨界点を迎えたように見える。
 気づけば迷路の高さほどに化けた巨大人形は、魔門の上に悠々と到着すると、振り返りもせずに呟く。

「エトリーククオル」

 その巨人は、巨大な柱と化した。
 この場所に辿り着く直前、迷路越しに見た光景と同じだ。

 だが決定的に違うのは、その柱の側面が所々陥没し、その窪みに黄色い魔力の気流が生み出されていることだった。

「いいか、全弾行こう」

 柱の中から、子供のような声が響いた―――瞬間。

 無数の窪みから、巨大な砲撃が連続で射出された。

「―――、」

 秘石のお陰か、反応はできた。
 ルゴールが放っていた矢の連続攻撃に近い魔術。
 だが程度が違い過ぎる。

 ルゴールは最早巨大要塞と化していた。
 無数に取り付けられた砲台から、このエリア総てに金曜の巨大な砲弾が降り注ぐ。

 自分を狙っている攻撃だけでその数15から20。
 退避ルートは無い。

 先ほどまで優勢と考えていた自分は、何も分かっていなかった。
 ルゴールがその気になっただけで、この場にいるすべての仲間が死に直面している。
 これが魔族の力だというのか。

 サクは、苦し紛れに眼前に“足場”を生成しようとするも、その結果は考えるまでもない。
 数度止められようが圧倒的な物量で凌駕され、その先は全弾が直撃する。
 生身どころか甲冑に身を包んでいたところでこの攻撃を防ぐ手立てはなかった。

 明確な死が突然眼前に広がり、サクの思考がそこで止まる。
 眼前が、すべて赫に染まった。

「―――せめていくつかは防ぎなさい」

 そんな声が聞こえた。

「―――、」

 シリスティアの港町でのことを思い出していた。

 あの港町は魔族の脅威にさらされ、町の形を変えられた。
 確かあのときも、敵の攻撃は金曜属性だったと思う。
 奇跡と言われる魔力による物体生成に最も近いことが行える金曜属性。
 術者の力が増せば疑似的に生み出せる物体の物量が増えるらしい。
 そう言われているらしいが、残念ながら自分にはそんな器用なことはできないし、今までもずっとこのままでやってこられた。

 だが思い返せば、自分が普通の金曜属性の術者だったら、と思いたくなることばかりだった。
 あの港町で降り注いだ巨大な物体から、人々を守れていたであろう。
 タンガタンザでは守るための戦いをすることになった。

 スタイルは人それぞれ。そんな的外れな言葉があるが、サクは知っている。
 別の道を歩むことは、常に後悔に苛まれることになると。

 だから今、自分は後悔している。
 自分が金曜の魔術師らしく盾でも生成できていたら、少しは負担にならずに済んだのではないかと。

「…………」

 砲撃は止んだ。
 出現した巨大な黄色い柱は徐々に縮小し、何も変わっていない世界に黄色い人形が立っている。
 周囲は、目も覆いたくなるほど悲惨な世界が広がっていた。
 大地はいたるところが人ひとり入るほど陥没し、ルゴールが作り出した迷路の壁すら砲撃に貫通されて破壊されつくしている。
 巻き上げられた土煙が視界を覆い、肺にそのままなだれ込んでいる。
 身じろぎひとつするだけで、不安定となった大地は崩れ去り、穴に吸い込まれそうだった。

 モルオールの魔門が破壊された後、そこは地獄絵図だったらしい。
 ならばここもそう表現しよう。

 自分たちは、地獄に足を踏み入れた。

「……流石にリイザスに気づかれたかも。でも運が良かった。ほど近い場所で祭りでもやっているらしいね」

 その地獄の主は、平然と立ち、ふざけるように遠くを仰ぐ仕草をした。
 サクは、歯噛みして睨んだ。

 自分は無事。
 せめていくつかは防げと言ったが、結局自分は、この地獄で何ら負傷しなかった。

 すべて、目の前で止まったからだ。

「さて。さっさと帰りたいんだ。会いたくないんだよリイザスには。そろそろいいかな、エレナ」
「……そうね、私も帰ってシャワーでも浴びたいわね」

 小さい声だった。
 目の前に立つ女性は、顔だけを上げて応答する。

 右腕は、上がらないのかだらりと下げ、毒々しい血が滴っている。
 足はどこかを砲撃に削り取られたようでまるで力が入っていない。
 額が割れているのか顔中血が滴り、目を片方強く閉じている。

 あの砲撃から生還しているだけで驚嘆できるが、半死半生。
 常日頃の彼女を知っている身からすれば、信じがたい光景だった。

「あーあ。服が汚れたわ、どうしてくれんのよ」
「エレナさん、今すぐ―――」
「あん? ああ従者か。生きてて良かったわね。さて、おい魔導士!! 生きてんだろ!!」

 エレナの叫びに、ルゴールの向こうの土煙がごそりと動いた。
 遠目で見えないが3人分の影が見える。
 土曜属性のイオリがいたこともあり、彼女たちも何とか生還できたようだ。

 サクはギリと歯を噛んだ。
 あのルゴール=フィルは、エレナですら対抗できていない、凶悪な魔族だ。
 今も平然として立っている。
 あの魔族を越えなければ、魔門を破壊できないとなると、それはもう不可能のように思えた。
 それどころか、一刻も早くエレナを治療しなければならない。

「……」

 イオリが無事だったのが幸いした。
 サクの脳裏にひとつの選択肢が生まれる。
 少なくとも今は、イオリの召喚獣で、

「魔導士ども!! やることは変わらないわ。とっとと魔門を破壊しろ!!」
「……!」

 だが、その本人はそう叫んだ。

「エレナ。君は、君だけは分かっているだろう。さっきからずっと、分かっているだろう。ジリ貧なのは君たちだよ。君は強いけど、ボクには勝てない。何しろ、『光の創め』の中でも、“よりによってボク”だ。魔門は破壊できない」

 ルゴールの言葉に、サクはピクリと震える。
 自分は優位だと思ったあの戦闘。
 だが真実は、ルゴールにとってはまるで問題にならない鍔迫り合いだったのだろう。

「エレナ、君は強い。だから初めてだろう、自分より強い相手と戦うのは。だから正確に判断できていない。死ぬまであがき続けるのは自由だけど、さっきも言った通り、ボクはとっとと帰りたいんだ。言葉を返すよ。早く死んでもらいたい」
「……は」

 血だらけの顔をぐいと左手で拭い、エレナは笑った。
 動いているだけでも信じられないほど負傷して、しかし、ルゴールの言葉を理解できていない表情を浮かべた。

「……あんた私の何を知ってんの?」

 エレナは力を込めていなかった足で大地を踏みしめた。
 血が吹き出し、土煙の中に飛び散る。

「てか従者もよ、何その顔。わけわかんない。もしかして、私らしくないとか思ってんの? 笑えるわ」

 彼女は本当に笑っていた。
 いつでも圧倒的な力を振るい、常人が行えないことを容易くこなし、優雅に美しく戦場に立つ彼女は、半死半生で、それでも、何ら態度を変えなかった。

「せっかくだから教えてあげるわ、私のこと。“いつもこんなんよ”、特に魔族とやりあったときなんて」

 ぞっとした。
 今この瞬間にでも死を迎えてもおかしくない状態で、エレナ=ファンツェルンは優雅に立つ。

「私より強いやつなんで腐るほどいたわ。死にかけたこと? いちいち数えてらんないわ。心臓も何度か止まってるし、あとはそうね、首が落ちかけたこともあったっけかな」

 エレナが僅かに身じろぎするだけで血と泥が混ざった汚物がしたたり落ちる。

「最近は落ち着いたと思ったんだけど、今日はひっさびさに無茶しちゃおうって気分なのよね、私」
「やはりちゃんと判断できていないね。エレナ、もう終わりだよ。魔門にさえ手を出さなければ、悠々自適に過ごせるだけの力があったのに、惜しいね」
「平凡に過ごすのは―――普通に過ごせることは諦めてるわ」

 は、とエレナは自嘲気味に笑った。
 平凡に過ごすことを、人は退屈だという。
 だが、サクは知っている。普通に逆らうことがどれほど過酷なのか。
 そこで得られるものすらない。得られたとしても、それは普通の生活でも得られるもののはずなのだ。
 普通を手に入れられない者からは、当たり前と言える後継こそ、喉を掻きむしるほど渇望するものだ。

「でもさあ、それ、やれって奴がいんのよ。お家に帰って幸せに暮らせってさ。それなのに、そいつ私に今日は頑張って欲しいらしいのよね。協力してくれ、ってさ。こんな場所に連れてきた後でよ? わざわざ、さ」

 エレナが今まで、人とどういう付き合いをしていたかは分からない。
 付き合いの浅い彼女に、自分たちがどう映っているのかは分からない。
 彼女が何を想うのか分からない。

 だけど、利用し利用されの人生だと彼女は言った。

「なるほど。君は命令で動いているのか、分かった、仕方ない。面倒だけど、続けようか」
「は? ううん、違うわ、逆よ逆。そいつさ、そう言った直後よ。魔族が見えて、なんて言ったと思う? すぐに逃げろ、よ。信じらんないでしょう、魔門を破壊したいって言ったり、逃げろって言ったり、は、何がしたいんだって話よ。今にも魔族に飛びかりそうな顔しながらさ」

 エレナは笑った。
 息も絶え絶えになり、血と泥が混ざり合い、彼女の姿はもはや変貌している。
 日頃見ていた彼女はすでにそこにはいない。

 だが、おどろおどろしい姿になっても、彼女は、美しかった。

「―――引けるかよ。魔門もあんたも、私の目的も……全部ぶっ壊して、私はとっとと帰りたい」

 エレナは息を吸って天を仰いだ。

「アキラ君ッ!! 魔門は片付けとくわ!! そっちも死ぬ気でやんなさいっっっ!!」

 応答はない。
 それでも気にせず、エレナは再び魔力を展開する。
 荒々しく纏う魔力は、先ほどまでと遜色なかった。

「私に魔術攻撃したのは失敗よ。ご馳走様。バラバラにしてあげる」

 サクは愛刀に手をかけた。
 脳裏に浮かんだ離脱の選択肢を握り潰すと、サクは秘石に力を籠める。

 はっきり分かった。エレナは気に入らない。

 あそこまで言われて、彼女に後れを取るわけにはいかなかった。

―――***―――

「―――?」

 ヒダマリ=アキラは、その衝撃が何をもたらしたのか分からなかった。
 リイザスが拳を振り上げ、突き出すと同時、目の前に純白の防壁が現れ、耳をつんざく轟音が鳴り響いたのは分かった。
 だが、自分も、思わず庇ったティアにも、何も起きていない。

 それどころか、眼前に広がった純白の防壁すら、そのままの形でそこに在る。

 いや、と。
 アキラはその防壁が、光の粒子となって空に溶けていくのを見た。

 赫の世界に現出した異物が空に連れていかれるような光景に、言いようのない虚脱感を覚える。

 そして。

「―――素晴らしい。だが、目論見通りにはなったか」

 リイザスの聲が聞こえる。
 音は遠く聞こえ、視野は妙に狭くなっていた。

 何が起こったか、理解ができない。

 しばらく身を固めていると、ザ、と何かが崩れる音が聞こえた。

「……ぁ」

 声が漏れた。
 自分の口からか、ティアの口からかは分からない。

 だが、もっと分からないのは。

 目の前で倒れ込んでいる人物だった。

 頭がズキズキと痛む。
 ほとんど反射で、倒れ込んだ人物を抱え起こすと、赫が織りなす灼熱地獄の中、ぞっとするほど冷え返っていた。

「―――リ、リリル!?」

 ようやく我に返った。
 抱え起こした彼女の目は開かれている。その目や耳から力ない血がさらさらと流れ、彼女は泣いているようだった。
 そして、身じろぎひとつしない。まるで彼女の時間だけが止まったかのように。

「おい……、おい!!」

 何ら応答の無い彼女を揺らすと、パキリ、とリイザスの方から音が聞こえた。

「む。使用して正解であったか。“設計図”に対して放つのは、やはり危険だったようだ」

 リイザスが現出させた藍のリングが砕けたようだった。
 欠片となったリングの粒が落ち、徐々に空気に紛れて溶けてく。

「だが、素晴らしかったぞリリル=サース=ロングトン。よもや我が力を防ぐとは、やはり面白い」
「何言ってっか分かんねぇよ!! リリルに何をした!?」

 リイザスはリングの残骸を落とすように腕を振るい、小さく嗤った。

「言ったであろう、“破壊”だと。ドグル・ガナルはその対価となって砕け散った。それだけに、素晴らしい。生命に及ぶ対価を、ドグル・ガナルは請け負うことができる」
「っ、リリル、リリル!! くそ、ティア!!」
「は、はい!!」

 話が分からない。思考がまとまらない。
 だが分かることは、リリルが危険だ。すぐにティアに治してもらわなければ。

「だが、多少は予想が外れたな。リリル=サース=ロングトンも命を対価に出来る者だとは。どの程度の負傷を治せるのかを見たかったのだが、そうなるとは。だがいい。いずれにせよだ。ヒダマリ=アキラ。再びお前と死合おうか」
「づ―――、ティア!! リリルを頼む!!」

 怒鳴るように叫んだ。
 ティアが慌ててリリルの身体を抱き寄せる。
 リイザスの言葉通りになってしまうが、今は何をおいてもリリルを救わなければならないと身体中が叫んでいた。

「む。ヒダマリ=アキラ。貴様の財はそのリリル=サース=ロングトンも含むのか。愉快でもあり惜しくもあるな。貴様らはまだまだ伸びるのであろう。だが、互いに財となってしまうと奪わざるを得んか。いや、いずれかだけを奪うのも長く見れば正しい選択なのだろうか。となればヒダマリ=アキラを残すか。リリル=サース=ロングトンはどうなるか分からんしな」

 リイザス=ガーディランの言葉に、アキラは身体中が震えた。

 この魔族は、財を守るための力とやらと正面から衝突することに欲求を覚えている。
 あるいは、財を奪われた者が生み出す力とやらと、か。
 だからこそ、その言葉に嘘はない。自分かリリルのいずれかの“財”を奪い尽し、再戦でも望んでいるのだろう。
 リイザスは、今まで出遭ったサーシャ=クロラインやガバイドとは違い、正々堂々と魔族の強大な力を向けてくる。

 だが、結局は己の欲を満たすために、いともたやすくその破壊を振りまいているのだ。
 魔族の思考の一端を理解してしまい、それゆえに、アキラは身体中が怒りで震えた。

「ティア。俺のことは気にしないで、リリルのことだけを考えてくれ。死ぬ気で治せ」
「はい、はい、でも、」
「ティア」
「うぅ」

 振り返ることは怖くてできなかった。
 だが、背後から溢れ出す魔力の波動を感じるほど、ティアはリリルに治癒を施している。
 ティアの治療が通用するかは分からない。
 力なく倒れたリリルの身体に触れて、あのどうしようもないほどの絶望を思い出したほど、打つ手が無いように見えてしまった。

 それで結局、人任せ。自分は何も成長していない。
 だが、自分がなすべきことははっきりと分かっている。

「俺も死ぬ気でやってやる。お前がリリルを診ている間に―――俺がリイザスを撃破する」

 望み通りの展開だろう、リイザスは不敵に笑った。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 際限なく魔力を放出し、アキラはリイザスに斬りかかった。
 斬撃音は響かず、絶望的な爆音が響く。
 初撃は防がれ、続く攻撃もリイザスの火曜の魔力に覆われた身体に食い止められる。
 リイザスが迎撃するごとに爆音が轟き、アキラの身体は幾度となく空を泳がされた。

 身体中が怒りに震えるも、アキラはリイザスが致命的に相性の悪い相手であることは気づいていた。
 自分が最も得意な攻撃は、魔力を併用し、理を超えた破壊を放つ火曜と木曜の魔術の同時再現だ。
 だが、その破壊の最高値を火曜属性のリイザスは防ぎきることができる。
 アキラの攻撃は通用しない。
 対して、リイザスの破壊はアキラを容易く葬ることができる。

「―――ち」

 リイザスの魔力の放出に身体が泳いだアキラは、すぐさま離脱した。
 頭に血が上る。
 幾度斬撃を放っただろう、握り潰すほど強く握った剣は、リイザスにまともな損傷を与えられていなかった。
 答えが無い。
 分かっていた。ヒダマリ=アキラの力は、リイザス=ガーディランには通用しない。

 だからこそ、冷静にはなれなかった。
 冷静になってしまえば、分かりきったその答えに、この身体が動かなくなるだろう。

―――構えを上げろ。下がってきている。

 腕の力が抜け始めていたのか、アキラは下げていた剣を掲げ、再びリイザスに斬りかかった。
 リイザスはすでにアキラの攻撃の限界値を把握している。
 抑え込んだ上で、迎撃を放ってきた。
 辛うじて回避するも、それすら読まれていたのかリイザスの追撃の拳が唸りを上げてアキラを打った。

「ぎっ―――」

 辛うじて剣を合わせられた。
 だが、防いだはずなのに小枝のように吹き飛ばされ、意識が戻ったときにはアキラは背中から離れた地面に叩きつけられていた。

「アッ、アッキー!!」
「っ、リリルから気を逸らすな!!」

 叫びは言葉になっていただろうか。
 リイザスと応戦しているだけで、その熱気のせいで身体中が燃えているように動かなくなってくる。
 剣を数度放つだけで、体力も魔力も根こそぎ奪われる。
 呼吸もままならない灼熱地獄に、もうほとんど視力も失われてきていた。

―――顎を上げるな、力が下がる。腰が高い、応戦できないぞ。

 リイザスが突撃してきた。
 アキラは姿勢を落として拳をかわす。

 リイザスを撃破しなければ、リリルも、ティアも、そして樹海に落ちた他の皆も奪われてしまう。
 考えたくもない未来が、目に見える形としてすぐ目の前に存在している。
 だからこそ、リイザスを撃破しなければならない。
 だが、どれほど渇望しても、目の前の現実はあまりに過酷だった。

 想いの強さではどうにもならない。役に立たない。通用しない。
 思考がすべて赫く、黒く染まり尽す。

―――思考を止めるな。

「―――キャラ・グレー!!」

 浸食してきた黒い思考を振り払うと、眼前から赫い球体が高速で飛来してきていた。
 即座に魔術を発動させてすべて切り伏せる。
 だが防いでなお、至近距離の振動に身体中が悲鳴を上げ、視界が暗転する。

 まだだ。
 まだ諦められない。
 ほとんど見えていない目をこじ開け、赫の怪物の姿を捉える。

 リイザスは未だ無限を思わせる魔力でアキラの攻撃をすべて防ぎ、容易く必殺の魔術を放ってくる。
 リリルは倒れ、アキラもすでに限界を超えていた。

 冷静に考えれば完全に詰んでいる。
 だが、それでも考えなければならない。
 リイザスに通用する攻撃を思いつけ。

 今の自分ができることを、全力で考えろ。

―――お前は未だ、そんな無駄なことを考えているのか。

「―――、」
「ハッ!!」

 リイザスが放った横なぎの蹴りに、アキラは慌てて背後に跳ぶ。
 が、魔力を放出しながらの蹴りは爆音を響かせ、掠めただけで抉り取られるような衝撃を受け、内臓が潰れたような感覚がした。
 木の葉のように吹き飛ばされ、迷路の壁に背中を打ち付けた。
 身体中が焼けただれている。腕や足の感覚が無い。
 だが幸いにも自分は立てているようだった。
 身体が動かない。自分の限界値が、あまりにも分かりやすく訪れていた。
 遠くて誰かが悲鳴のような叫びを上げている。どうやら音も聞こえなくなってきたようだ。

―――身体を開くな。姿勢を曲げるな。それくらいはできるはずだ。

「……、……誰だ」

 総ての感覚が薄れていく中、それでもはっきりと聞こえる、この言葉は、誰のものだ。

―――俺か? 俺は……―――

「……!」

 リイザスから球体の魔術が放たれる。
 何故か身体が動かせたアキラは、即座に剣で切り伏せる。
 爆風に身が躍るも、それさえ利用してリイザスへ向かって突撃する。

「む……!!」
「キャラ・スカーレット!!」

 放った攻撃は案の定防がれる。
 アキラは即座に距離を取り、痛む身体を強引に動かして構えを取った。

 知っている。
 この身体は知っている。
 自分の知っている限界を、超えられることを知っている。

 妙な感覚だった。
 もうこの身体は動かないことが分かっている。
 なのに、その身体の動かし方を知っていた。

 何故だ。何故自分にそんなことができる。

―――“お前じゃない”。

 身体の動きの違和感が強まった。
 放たれたリイザスの必殺の拳を、頬が掠めるほど小さくかわし、剣を突き刺す。
 自分では取り得ない危険な選択肢を、何故か容易く選んでいた。

 その違和感の正体が、分かりそうだった。
 いや、これは。

―――“思い出せ”。無駄なことに思考を使うな。

 何だ。この身体が叫んでいる。
 今この絶対的な危機の中、自分は何かを忘れているのだろうか。
 だがそれは何だ。
 考えて分かることだろうか。

―――それは……―――

「良いぞヒダマリ=アキラ!! まだまだ行けるようだな!!」

 音が戻った。
 灼熱地獄の中、リイザスの高笑いが聞こえる。
 どうやらまだまだ自分は戦えているらしい。
 だが。

「違うな―――“俺じゃない”」

 なぜ自分は忘れていたのだろう。
 ヒダマリ=アキラができることなど探しても、当然活路など存在しない。

 自分は痛感していたはずだ。
 自分の世界には何もない。できることなど何もない。自分は、目も当てられないほど最低の人間だ。
 下手に旅を続けられて、自分が何かをできると勘違いしていただけだった。
 だから、そんな無駄なものは探すな。存在しないのだから。

 それゆえに、自分が考えるべきことは、自分に何ができるかではない。

 “誰ならこの状況を打破できるかだ”。

「アラレクシュット!!」
「―――、」

 至近距離で放たれた遠距離魔術はアキラの視界を完全に塞いだ。
 アキラは即座に距離を取り、そしてティアたちの元へ駆ける。
 回避はできたがこの方向、あのふたりを巻き込んでいる。

「キャラ・グレー」

 寸でのところで魔術を切り伏せた。
 睨むとリイザスは愉快そうに嗤い、変わらず悠々と佇んでいる。

「ほう、手元が狂ったか。だがヒダマリ=アキラ。よくぞ防いだ」
「……」

 何ら悪びれないその態度に、アキラは何も感じなかった。

「アッ、アッキー!! もう、もう駄目です、急いで治さないと」

 そんなに酷い状態に見えるのだろうか。
 ティアの悲痛な声が聞こえるが、アキラは何も感じなかった。
 ティアが庇うようにしがみついてくる。感覚はほとんど無かった。

 自分なんてどうだっていい。
 何で自分は忘れていたのだろう。
 そんなもの、この世界に来る前からの前提だったというのに。
 知っていたはずだ、自分には何もできない。

 自分の行動は、いつだって、誰かの模倣だったのだから。

「ティア、どいてくれ」
「リリにゃんは絶対に助けます、でも、今、今はアッキーが、アッキーが」

 自分の世界には何もない。
 だから自分の想いなど、何の役にも立ちはしない。
 だからそれは諦めろ。
 何かをしようと思うなら、迷わず誰かを頼ればいい。

 少なくとも自分は、魔門破壊を達成した人物を知っている。

「そうじゃない」

 アキラの身体が強い魔力を帯び始めた。
 出し尽したと思っていたのに、どこから湧いてきたのか。そう考えようとして、すぐにやめた。
 無駄だ。自分がそんなことを考える必要はない。

 奇跡を起こした勇者様として称えられることがあっても、ヒダマリ=アキラという人間は、決して自分を認められないだろう。
 その前提があるがゆえに、自分が何かを成したという達成感を得ることは永遠にない。
 呪いのように纏わりつく、しかし残酷な現実。

 今、そしてこの先。自分が何かを成したとしても、その力は所詮借り物だ。

 遥か先にいると思っていた過去の自分の背中など、見えるはずもなかった。
 過去も、今も、そして未来も、自分はずっと同じ場所に立っていたのだから。

 自分が第一人者になれることは決してない。
 自分の世界から生み出されるものなど存在しない。

 いつだって、ヒダマリ=アキラの力の出所は―――

「そこにいられると―――あの野郎を、斬り殺せないだろ……!!」

 別の世界の物語。

「―――“キャラ・ブレイド”……!!」

------
 後書き
 お読みになっていただきありがとうございます。
 案の定、前編後編沙汰でしたが、いかがだったでしょうか。
 今回の話で50話を迎え、作者としては、当初の予定ではもうアイルークの話終わっているはずなのに……、と首を傾げているところです……。
 ここまで長く続いているのも読者様方のお陰だと思っております。
 今後もよろしくお願いいたします。

 なお、年内の更新はこれが最後になるかもしれません。
 少し気が早いですが、良いお年を。

 では…



[16905] 第五十一話『別の世界の物語(結)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2019/03/02 20:35
“―――*―――”

 自分は、漠然とこんなことを考えていたのだろう。
 特別な存在と言われる人は、最初から特別になることが決まっているのだと。

 才能というものはこの世界に確かに存在し、才能を持たぬ者はそれに抗うために並々ならぬ努力をする。
 しかし、並々ならぬ努力ができること自体がすでに、比類なき才能である。

 才能然り努力然り、有する者、成せる者は、紛れもなく特別な存在だ。
 ゆえに、才気溢れ研鑽を行たらぬ者たちは、最早言葉では表せないほどに眩しく輝いている。

 自分はと言えば、黄金に輝くその存在たちを遠くから見て、時に歓喜し、時に劣情を向け、己の日々を淡々とこなしていた。
 彼ら彼女らを、純粋にすごいと思えた。純粋に憧れた。
 そしてきっと苦悩もあったのだろうと、訳知り顔で口にする。
 そんな想像もできない日々を想像し、自分には真似できないと笑いながら笑えないことを口にする。

 言い訳はいくらでも思い浮かんだ。
 その分野において、自分には才能が無い、その努力は自分にはできない。
 暗にその分野は自分のものではないと示すように。
 そして自分の才がピタリとはまる分野を、いつまでも子供のように待ち続けていた。
 よく耳にする。人は誰でも特別な存在だと。
 だから、自分も特別なはずなのだと。
 自分はあらゆる分野に目を逸らしてきてはいるが、自分の存在自体を決して諦めていなかった。

 自分は、本当はこんなことを考えていたのだろう。
 特別な存在と言われる人は、自分が特別となれる分野に出会えた幸運な人なのだと。

 だから変化を求めていた。
 まだ誰も歩いたことのない、自分のためだけの世界を強く求めていた。
 自分の手も足も動かさずに、変化を求め続けていた。

 変化はあった。
 自分は幸運だったらしい。
 気づけば自分は、元の世界から切り離され、異世界に来訪していた。
 それどころかご丁寧にも、自分には特別な力が宿っているという。

 身体中が沸騰しそうなほどに滾り、喜びに打ち震え、自分は迷うことなく足を踏み出した。
 ようやくなれたのだ。
 自分が憧れた幸運な人たちに。

 自分が望んだ通り、それなりの苦悩は訪れた。
 最初はそれすらも、言うなれば楽しみながら乗り越え、前へ前へと進んでいけた。

 だが、遂に気づく。
 この世界も、元の世界と何ら変わらず、輝かんばかりの先駆者がいて、才も努力も求められていることに。
 旅の途中、ふと振り返れば、自分はあまりに平凡に成長しているに過ぎず、精々、最初から宿っていた特別な力が鈍く光っているだけだと気づいてしまった。

 取り返しは付かない。
 そのときにはすでに、後戻りできない場所まで自分は歩いてきてしまっていた。

 何もしてこなかったわけではない。
 確かに鍛錬は積んでいた。
 だが深く考えれば、それは所詮、元の世界で学校にでも通っていたのと同じくらいの濃度だったかもしれない。
 もっと詰めて研鑽していれば、こんな不安はなかったかもしれないと思ってしまった。
 同じだ。元世界と同じことを感じ取ってしまった。

 あれだけ望んでいた変化が訪れたのにもかかわらず、自分はそのあまりある幸運を活かすことができていないという、絶望的な恐怖だけが身体中を支配した。

 ようやく分かったことがある。
 邪魔なものがあった。
 自分への執着だ。

 自分を一点の穢れもない輝かんばかりの存在にしたいがために、この現実と真摯に向き合えていなかったのだ。
 輝かんばかりの光を放つ彼ら彼女らの苦悩など、この分野であれば味わうことなどないと、心のどこかで傲慢にも思っていたのだろう。
 地べたを這おうが泥を啜ろうが、足掻きに足搔いて前へ進もうとしていれば、こんな恐怖に絡めとられることは無かったはずなのだ。

 なら、もう、要らない。
 自分など、要らない。

 嘲笑されようが侮蔑されようが非難されようが構わない。

 自分が特別な存在になることは決してない。
 認めよう。自分には才能は無い。

 元の世界でもこの世界でも、自分だけに出来る特別なことなど存在しないのだ。
 だから、二番煎じだっていい。誰かに従い、誰かに倣え。

―――ヒダマリ=アキラは、ヒダマリ=アキラを、諦めた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 アイルークの魔門の樹海。
 その地帯は最早樹海とは名ばかりの凄惨たる灼熱地獄に変わっていた。
 樹木は愚か突如として出現した黄色に輝く迷路の壁すら溶け出すようにしなだれ、視界総ては煉獄の赫に染まり尽している。

 その狂気の世界の中心では、地獄から現出したかと思わせる赫の巨体が堂々たる威圧を放ち、鬼を思わせる凶暴な貌を歓喜に歪ませていた。

 リイザス=ガーディラン。

 この世界の悲劇の根源―――“魔王”に仕える、魔王直属の魔族は、比類なき力を見せつけながらも、敵に対峙する。

「―――“キャラ・ブレイド”……? またもオリジナルの詠唱か。ヒダマリ=アキラ。まさかまだまだ楽しませてくれるとはな。それとも“それ”が切り札か。よくぞここまで温存していたな」
「……切り札?」

 ヒダマリ=アキラは、リイザスの言葉を漠然と聞きながら、ゆらりと剣を構えた。
 動かないはずの身体。出し尽したはずの魔力。
 だが今、四肢に力が滾り、纏う魔力はかつてないほど昂っている。

 自己の身体を慮ってみようとしたが、頭の奥から溢れてくる殺意が、総ての疑問を塗り潰した。

「これが切り札かどうかなんて―――“俺が知るわけないだろう”」
「……ふん、見掛け倒しでないことを祈ろうか」

 衝動に任せてアキラは大地を蹴った。
 迷うことない突撃は、即座にリイザスとの距離を詰めていく。

「―――アラレク・シュット!!」

 最初からそう決めていたのか。至近距離まで接近したアキラに対し、リイザスは遠距離攻撃の球体を放つ。

 球体は、計4個。
 総てアキラ目掛けて高速で接近してくる。
 その瞬間、爆発的な情報量が頭を埋め尽くした。

 次の足を踏み出す位置を僅かに変えるだけで、対処しなければならない球体の数が変化する。
 最も安全なのは右へ迂回するルートだ。
 切り伏せる必要のある球体はひとつのみになる。
 だが、別の道をアキラは見つけた。
 僅かにも触れることを許されない球体同士に、半身ほどの小さな隙間がある。

 “だからアキラはそこへ向かった”。

「―――はっ」

 傍から見れば直撃だった。
 直撃すれば骨すら残らぬ球体の隙間を、身体ひとつですり抜ける。

「―――その目。“来ると思っていたぞ、ヒダマリ=アキラ”」

 そのルートは完全に読まれていた。
 抜けた瞬間、目の前で赫の巨人が拳を振り上げている。
 一撃必殺の剛腕は唸りを上げ、迷わずアキラを狙い撃つ。

 “だからアキラは剣撃を放った”。

「―――!?」

 突き刺すように放った剣は、まっすぐにリイザスの首へ向かっていく。
 中途半端に傷をつけても効果は無い。
 この魔族が言っていたことだ。首を落とせばこいつは死ぬ。

 これにはリイザスも対処せざるを得なかったのか、アキラを狙った拳を引き留め、鋭く走った剣を弾く。
 逸れた剣はリイザスの肩ほどを掠めるように貫き、赫の世界に鮮血が舞う。

「グ―――、ち、」

 懐に入りこめたアキラは身体を回して居合のように剣を放った。
 次に狙うは守りの固い首ではなくその巨躯の胴体。
 リイザスは僅かばかり反応が遅れたものの、すぐに魔力を迸らせ、火曜の抑制でアキラの一撃を抑え込む。

 ならば次だ。

「……!?」

 剣の攻撃が抑えられたのなら、開いた左手に仕事をさせよう。
 アキラはそのままの勢いでリイザスの顔面に拳を放つ。
 リイザスはその巨躯に似合わぬ俊敏さで背後に跳ぶと、アキラから距離を取って構える。

 ようやく、リイザスが放った魔術が背後で爆音を轟かせた。

「やっとまともに回避したな。全部が全部効かないわけじゃない。当たり前だが攻撃してりゃいつかは殺せるってことか」
「……貴様本当にヒダマリ=アキラか。その魔術の影響か? 戦い方が変わったな」

 アキラはコキリと首を鳴らした。
 身体は動く。魔力は十全だ。
 気になるのは前に受けた腹部の損傷だが、あばら骨にいくらかひびが入った程度だろう。問題ない。

「先ほどまでより動きは僅かに遅い。剣の威力も落ちている。だが何故だ、圧倒的に戦い難くなったぞ」
「何故? 日輪属性にいちいちそんなこと聞くなよ。解析するのはお前らの仕事だろ」

 不遜に言い放つと、リイザスは漆黒の目を見開き、そしてすぐに歓喜に歪める。
 赫の巨体を震わすと、身体中から天地に轟かんばかりの魔力を奔出させた。

「ハ―――ハハ、ハハハ……!! そうだ、そうだな、ヒダマリ=アキラ……!! すまなかった、下らんことを聞いたようだ。日輪は結果しか求めんか。『魔力回復』に『戦闘力向上』。日輪は、“その事実のみを求めれば良いのだからな”。確かにそうだ、その理由や方法は他の属性にそれぞれ解釈させておけばいい」

 ヒダマリ=アキラの有する日輪属性。
 世界的に最も希少価値の高いその属性は、“魔法”を操る。
 特に水曜属性に顕著ではあるが、他の属性は“魔法”を解析し、自己の属性で実現可能なプロセスを確立し、“魔術”に落とし込む必要がある。
 “魔法”と“魔術”の決定的な違いは、そのプロセスを乗り越えることができるかどうかだ。

「非礼を詫びよう、ヒダマリ=アキラ。そして日輪属性。拳を交えることも稀なのでな。今日は良き日だ。貴様の謎、そして貴様自身にも、挑ませてもらうぞ……!!」

 アキラは目を細める。
 想定していた以上にリイザスに残っている魔力が多い。自分やリリルと戦闘を繰り返しているのにも関わらず、未だに奴は小手先の戦闘しかしてこなかったのだろう。
 そして今、こちらの戦闘スタイルが変わったことも認識し、戦闘経験豊富なあの魔族も戦い方を変えてくるだろう。

 だが、想定以上ではあるが想像以上ではない。
 必要ならばとリイザスの正確な残力が“降りてきそうになった”が、溢れんばかりの殺意の奔流に呑まれて消えてしまった。

 余計なことは考えなくていい。
 奴を殺す。それだけを考えろ―――あの男のように。

 アキラは再び赫の巨体へ鋭く走る。

「キャラ・ブレイド!!」

―――***―――

 ホンジョウ=イオリは考える。

 ヒダマリ=アキラにとって、エリサス=アーティとはどういう人物だろう。
 ヒダマリ=アキラにとって、ミツルギ=サクラとはどういう人物だろう。
 ヒダマリ=アキラにとって、エレナ=ファンツェルンとはどういう人物だろう。

 この旅を通して彼が見てきた彼女たちは、どのように映っているであろうか。
 きっと、想いを育み、絆を強め、憧れを抱き、キラキラと輝いているのであろう。

 では、自分は彼にとってどういう人物なのだろうか。

 色々と勿体をつけて、言い訳をして、表現を変えて、のらりくらりとかわしてきたが、はっきりと、認めた方がいいかもしれない。
 彼の言うところの“一週目”。ホンジョウ=イオリは、ヒダマリ=アキラに、仲間以上の感情を抱いていた。

 勝手の分からぬ異世界に落とされ、同じ境遇の人に出会えたからか。
 共に旅をして、笑い合い、時間を共有したからか。
 それは分からないし、そういうことに関しては考えれば考えるほどまともに思考が働かない。
 ただ、いつの間にかどこにいても、彼を目で追うようになっていた。
 かと言って、魔王討伐を目指す旅の中でそんなことは口にできない。
 特に彼は“勇者様”だ。自分などより、余程の重圧が世界中からかかっているであろう。

 だから少しだけでもいいから、彼の重みを分かち合おうとした。
 彼の望みを叶えたいと思った。
 幸いにも、自分は魔導士としての経験がある。旅の方針のサポートはできそうだった。

 彼は仲間をこよなく愛する。
 だから自分は彼女たちが危機に陥らないように日夜奔走した。
 我ながら損な役回りだと思う。
 だけどそれで良かった。何しろ、態度から伝わらないことは自覚しているが、自分も彼女たちのことを大切に想っているのだから。
 もし、いつか、彼が彼女たちの誰かに強い想いを抱くことになったとしても、自分はきっと、自分に言い訳をして、それに協力してしまうだろうとも思っていた。

 だから、“あの結末”を迎えて、自分は心の底から大声で泣いた。

 前回の旅や、今回の旅はどうだろう。彼や彼女たちに対する感情は、形を変えてしまっているのだろうか。
 すべての記憶を保有する自分は、1回目の役回りだけを引き継いで、同じことを繰り返しているだけに過ぎないのかもしれない。

 だから、彼の望みと途轍もないほど高い壁が衝突したとき、この身体は動かなくなってしまうのだろう。

「イオリさん。エレナさんを今すぐ手当てしないと……!!」

 エリサス=アーティの言葉に、イオリは奥歯を噛み締める。
 視線の先、完全に滅ぼされた大地の向こう、半死半生の女性が立っていた。

 エレナ=ファンツェルン。
 イオリの記憶の中でも、すべての戦場をほぼ無傷で容易く乗り越えてきたエレナは今、身体中から血を滴らせ、荒い呼吸を繰り返している。

 その中間。
 エレナにそれだけの被害をもたらせた存在があまりに無表情で立っている。
 黄色い人形のような姿をしている“魔族”―――ルゴール=フィル。

 あの魔族が放ったこの場総てを襲う砲撃を、エレナはその身に浴びてしまった。

 エレナの背後にいるミツルギ=サクラはほぼ無傷。
 こちらも自分が砲撃を土曜の魔力で辛うじて防ぎきって被害は出ていないが、“魔族”とまともに戦闘が行えるエレナが負傷したのはあまりにも痛かった。

 だが。

「なに……これは」

 自分の背後のもうひとり、ヨーテンガースの魔導士のアラスール=デミオンが声を漏らした。
 自分も身体中が震えている。

 エレナ=ファンツェルンはもともと見た目ではまるで危険性を感じ取れない人物ではある。
 だが、今にも倒れ込みそうなエレナの周囲には、先ほどのルゴールの砲撃に勝らぬとも劣らぬ魔力が暴走するように吹き荒れていた。

「……あたし、行きます。これ以上エレナさんに無理させられない……!!」
「ま、待って!」

 飛び出そうとしたエリーをアラスールが止めた。
 歴戦の魔導士らしい、正しい危機管理だ。
 今あの場所へ向かうことは死を意味する。

「エレナちゃんは、あれ、何なのよ。あんなのもう―――“魔族”そのものじゃない」
「でも、だからって、」

 イオリは拳を握り締めた。
 エリーも、今目の前で暴れ回っている魔力の危険性を理解していないわけではない。
 だがそれでも、彼女は純粋に、エレナの身を案じているのだ。

 一方で、アラスールの判断も正しい。
 魔道を齧ったことのある者ならすぐにでも分かる。
 今から起こることは、まさに魔族と魔族の激突だ。
 たかが人間が介入できる余地はない。

 仲間としての自分、魔導士としての自分。
 それぞれの行動として、やるべきことは決まっている。
 だがその最初の一歩は、前々回でも前回の自分としてではなく、“今回”の自分の意思で踏み出さなければならない。

「んじゃ再開しましょうか。小汚い人形さん」
「……本当に名前を覚えておくよ、エレナ=ファンツェルン。この結末がどうあれ、君は大きなリスクだからね」

 ルゴールの子供のような声が響いた―――瞬間。

 エレナ=ファンツェルンが突撃した。

 ―――ギギ―――ギ―――ギ――――――

 周囲で気味の悪い金属音が響いた。
 この地帯を囲っている迷路の壁が軋みを上げ、濁った色に変色していく。
 変貌していく空間の中、進むごとに身体から血を吹き出す小柄な女性は、荒れた大地を鋭く進む。

「―――、」

 エレナの突撃に対し、ルゴールは黄色の矢の魔術を発動させた。
 人形のような黄色い身体が全身輝き、無数の矢がエレナひとりを目掛けて放たれる。

「キュトリム」
「!!」

 牽制程度にはなると思っていたのだろう。
 しかしエレナはその怒涛の矢に迷わず飛び込んだ。
 エレナが手を突き出すと、黄色の矢はすべてその手のひらに吸い寄せられるように集まり、着弾と同時に消失してしまった。

「なあ。だから魔術攻撃は止めた方がいいって言ったろ」
「づ―――、今まで回避してたのは―――」
「は? 面倒だからに決まってんでしょ」

 ついにルゴールまで到達したエレナは、その拳をその勢いのまま放った。
 その挙動だけで暴風が巻き起こり、さながら隕石のような衝撃がルゴールの腹部に叩き込まれる。
 グンッ!! と。鈍い打撃音と同時に黄色い人形の腹部が背後に伸び切った。ルゴールの腹部は今まで以上に伸び、枯れ果てたような迷路の壁付近まで届く。
 仕組みは分からないが、ルゴールの身体は伸縮自在のようだった。エレナの一撃は、黄色い人形の身体に衝撃を吸い込まれる。

「あら。これなら千切れてバラバラになるかと思ったのに」
「悪いね。ボクの限界はまだまだ先だよ」
「っ!」

 伸び切った腹部が即座に縮小を始めた。
 エレナは拳を離すと鋭く身をかわす。直後、戻ってきた腹部がその勢いを利用して槍のように正面に放たれた。

「―――掴みやすいわね」
「棘だらけだよ?」

 伸びた腹部を掴もうとエレナが手を伸ばした瞬間、その腹部のいたるところが鋭く隆起した。
 腹部だけでなく、ルゴールの身体中が鋭い棘を持つ薔薇のように変貌する。
 しかしエレナはまるで躊躇せず両手を棘に突き刺すように掴むと、血を滴らせながらルゴールを力の限り放り投げた。

「~~~っ、痛った!! 魔導士ども、後はやっとけ!!」

 軽々しく放り投げられたルゴールは、空を泳ぎ、遠方の地面に叩きつけられる。
 ルゴールが守っていた魔門が開き、エレナは血をまき散らしながら突撃していく。

「―――今よ。魔門を破壊しましょう!!」

 最初に硬直が解けたのはアラスールだった。
 イオリも即座に魔門へ向かって走り出す。

 起き上がったルゴールへ向かって走り続けるエレナを見て、何度も何度も頭を振った。

 アラスールもそうだろう、魔導士として見ると、あんな戦いは常軌を逸している。
 ヨーテンガースの魔導士ともなると、魔族との戦いは何度か経験しているであろう。

 魔族戦自体例外中の例外の事案であろうが、戦い方はある程度定められているのだ。
 大多数の魔導士が参戦することが前提な上、決定的なのは“魔族に接近しないこと”。
 魔族は、魔力の総量は元より身体の造り自体別種の存在だ。正面から立ち向かえば人間側に勝ち目はない。
 ゆえに、遠距離から魔術を放つ消耗戦が基本となる。
 だが今、エレナ=ファンツェルンは魔族に迷わず接近し、正面から戦いを挑んでいる。
 あれは最早戦闘ではない。殺し合いだ。

 身体中が凍えてくる。
 エレナの力は、この場にいる中で自分が一番知っている。
 戦闘という面において、彼女は最も信頼できる存在だ。
 だが血をまき散らし、ルゴールと争うたびに惨たらしい姿になっていく彼女を見て、どうしようもない恐怖に駆られた。
 彼女は自分とは、あるいは自分たちとは決定的に違う。
 彼女は戦場の生き物だ。彼女からすればあの血生臭い光景も、自然なものなのかもしれない。

 いや。とイオリは考える。感じる。
 彼女は今、目の前のことに必死なだけだ。

 彼女は言った。この地で、アキラに頼られたと。だからそれに力を貸すと。
 力を貸すと決めた彼女のやり方は、目の前のことに必死になることなのだ。

 魔物を破壊すると決めたアキラの言葉を、彼女はそう解釈した。
 同時に全員の無事を願うと言ったアキラの言葉を聞いてなお、エレナ=ファンツェルンは威風堂々と魔族にだって立ち向かう。

 彼の言葉はまるで魔法だ。
 理想や夢が詰まっていて、自分たちはいつもそれを解釈して奔走する。
 彼も、自分の言葉を実現するために、今もどこかで死闘を繰り広げているのだろう。

 その魔法が、実現することを信じて。

 ならば、自分は。

「ここね……!!」

 辿り着いたそこは、ルゴールの砲撃から唯一被害を逃れた地点だった。
 周囲が削り取られたせいで盛り上がり、妙な黒い霧が瘴気のように噴き出している。

「スーパーノヴァ!!」

 禁忌の魔門に、エリーが躊躇うことなく魔術を放った。
 アラスールは反射的に抑えようとしたが、首を振って彼女も魔術を大地へ向かって放った。
 今は一刻を争う状況だ。多少危険でも早期解決が求められる。
 2度3度と魔術で土をまき散らし、盛り上がった大地を削っていく。

 魔門はまだ見えない。
 地中にあるらしい“それ”は、果たしてどれだけ深くに埋まっているのだろう。
 だが、沸き上がる瘴気が強くなっていった。

「……アラスール!! 多少危険でもいいね!?」
「―――イオリちゃん……?」

 次の瞬間、ルゴールが放り投げられた地点で、爆音が響いた。
 土煙が立ち上り、それそのものが狂気のような魔力が鋭い稲光を放つ。
 色は、イエロー。
 またあの砲撃でも放ったのだろうかと身構えるが、立ち昇る煙の中から攻撃は飛んでこなかった。

「魔術は無駄だっての」
「いや、今のは身体から魔力を噴出させただけだよ。それに、どうやら無駄でもないらしいしね」

 爆撃音が轟く。
 土煙の中、エレナとルゴールの影がけたたましく動き回り、エレナの拳がさく裂するたびに樹海が揺れた。

 樹海を覆った迷路が変貌していく。
 迷路の壁が、まざまざと色を失い朽ちていく。
 抜かれた色素のようにも見える光の粒子が周囲に漂い、土煙の中に吸い込まれるように消えていった。

「あら。ようやく面倒な迷路消してくれるみたいね」
「よく言うよ、君も多少はその手で“吸い取っている”だろう。だけど決めたんだ。エレナ。もう君を人間とは思わない」

 煙の中の動きが激化した。
 ルゴールは迷路生成に回していた魔力を回収したのか、煙の外からでもはっきりと見えるほど黄色い身体を輝かせ、エレナ=ファンツェルンに襲い掛かる。
 今まで受けや返しの行動ばかりとっていたルゴールが“攻撃”を開始する。
 対するエレナもまだ余力があったのか、動きをさらに高めていく。
 樹海の一角で拳や魔術が飛ぶたびに、大陸中に轟くほどの爆撃音が響き、常人には存在を許さぬほどの密度の魔力をまき散らす。

 完全に別次元の殺し合いだった。
 話の中でしか聞いたことのない魔族同士の抗争。その想像のさらに上。
 ひとりと1体は命を削り合う死闘を繰り広げていた。

 我ながら、思う。
 よくこの死地に“飛び込もうと思ったと”。

「クウェイル!!」

 鋭く投げたナイフがまっすぐに飛ぶ。
 単純な魔術なら、ふたりが戦い合った結果でしかない残留した魔力に呑み込まれているだろう。
 だが、ホンジョウ=イオリの有する土曜属性の魔術は他の魔力魔術の影響を受けにくい。
 結果、ルゴール目掛けて投げたナイフは黄色い人形の身体に吸い込まれるように鋭く走った。

「―――、へえ」

 ルゴールが即座に察知し背後へ飛ぶ。
息次ぐ間もなく争い合っていたふたりの身体がナイフで割かれるように離れると、イオリは身体を滑り込ませるようにエレナの前に立った。

「……ハ、ハ。何しに来たのよ」

 冷たい言葉が背後の仲間からかけられた。
 それはそうだ、自分は邪魔をしてしまった。

「いい作戦だと思ったよ。あの“魔族”とあれだけ至近距離で戦っていれば、魔門の方へ注意を向けられないからね。その間に魔門を破壊してしまえば良かったんだ」

 冷たい口調でそう言った。
 確かにそうだ。自分は本来、そう考えるような人間だろう。
 魔門破壊を達成するためには、化物同士の戦いには手を出すべきではない。

 正面に立つルゴールは、抜かりなく魔門との距離を測っているようだった。
 だが、すぐに魔術を飛ばさない。
 最警戒対象のエレナの前でその隙を見せることを今はしないだろう。

 その上、魔門破壊を狙っているふたりは手間取っているようだった。
 地中深くに埋まっている魔門。
 掘り起こすこと自体、そもそもできるだろうか。

「だけどね、僕は魔門を破壊しに来ただけじゃないんだ。勇者様の命令だよ、犠牲は出すなってね」

 言って、自己嫌悪に陥った。
 また自分は対外的な理由を求めている。

「あら。こう見えて、私まだまだやれるわよ」
「君はそうかもしれないし、事実そうでも……アキラは君を止めるはずだ」

 血と土が混ざり合い、赤色の泥を全身に浴びているような姿をしたエレナ。
 そんな姿を見て、あの男がどう行動するか。
 本人が何と言っていようが、力尽くでも止めているだろう。

「だから、せめて僕も参戦するよ。見た目よりは無事そうなら―――ラッキーで戻るのが多少遅れてもいいだろう」
「は。私よりもアキラ君たちの方が死にかけてたらどうするつもり?」

 ああ、それがあったか。
 感情的に動くのは、抜け漏れがあるから嫌いだった。

「僕は魔門を破壊しに来たんじゃないし、……もっと言えば、犠牲を出さないためだけに来たんじゃない」

 だけど今は、はっきりさせよう。
 今までのアキラやエレナの行動を見て、熱くなれないほど自分は大人ではないらしい。

「―――彼を信頼するために、犠牲無く、魔門を破壊しに来たんだ」

 これは、自分への試練なのかもしれない。
 双剣を引き抜いて、ルゴールに対峙する。

 異次元の力を見せつけている魔族相手だが、勝算はある。
 そして彼の言葉を実現しよう。

 これは、記憶を有し、今まで安全圏にい続けた自分への試練だ。

 いずれは越えなければならなかった前々回の旅。
 前回だってそう思っていた。だが、結局結末は変わらなかった。

 いずれでは間に合わない。
 今、この瞬間に乗り越える。

「随分と実入りのある日だね、今日は。また“歴史”を得られそうだ」

 子供のような声が響くと同時、イオリは魔力を滾らせ突撃した。

―――***―――

 死闘に明け暮れ、数多の強敵を下し、リイザス=ガーディランは同種の中でも別次元の怪物となった。
 自己の力を極限まで発揮し、命を削り合うような争いは、他の欲やあるいは自然と生み出される恐怖すら塗り潰すほど、リイザスの本能を昂らせる。

 魔族は特定の欲を求める性質にある。
 ゆえに、結果として他者を淘汰する力が求められてくるのだが、リイザスはその結果だけを追い求めた。

 しかし、他の物には目もくれず、気も遠くなるほどの年月戦いに没頭していると、遂に敵が存在しなくなってしまった。
 あまりに長く生きていたからだろう、多少は知恵を身に着けたリイザスは、それが自己の力が高まり過ぎたことだけが理由ではないと気づいた。

 当然だった。戦闘力というものは、魔族にとって結果でしかない。
 魔族が求めるものは、力ではなく、やはり“欲”なのだ。

 多くの魔族の中でも、特に拳を合わせたい相手である、“最古の魔族”すら、その膨大な戦闘力を自らの欲にのみ注いでいる。
 リイザスが戦闘を求めても、あの魔族は興味なさげに精々配下を差し向けてくるだけだった。
 言うならば、相手にされないのだ。
 そしてリイザス自身、気の無い相手と争いを起こしても、自己の求める死闘は実現しないのだと知っていた。
 事実、歴戦の魔族と争いを起こしたときも、血の最後の1滴まで絞り出すように争ってはくれなかった。

 ならばとリイザスは策を思いついた。
 相手をその気にさせれば良い。

 相手の欲を傷つければ、そのために、命を懸けてくるだろうと。

 結果として、成功だった。
 激昂した敵は血眼でリイザスと争うようになった。

 それどころか、意外にも、人間すら魔族たるリイザスに挑むようになった。
 そして最も意外だったのが、その人間が、時には魔族を超えるほどの力を振るい、リイザス=ガーディランという怪物と死闘を繰り広げてみせたのだ。

 多くの魔族は言う。人間など敵としてすら認識していないと。
 だがリイザスは、そんな下らないことを言う魔族などよりよっぽど人間を知っていた。
 金を、領土を、友を、仲間を、夢を、理不尽にも奪われたとき、信じがたい力を発揮して立ち向かってくる人間がいることを。

 ゆえにリイザスは、自己の望み通り、そうした者たちとの死闘を繰り広げ、そのすべてを凌駕してきた。
 至高の時を、再び取り戻せたのだ。

 “財欲”の魔族リイザス=ガーディランは歓喜する。

 久方ぶりだ。
 今目の前に、自己の“欲”そのものが存在していることを。

「―――ッッ、ハッ!!」

 リイザスの迎撃をものともせず突撃してくる男は、剣を鋭く走らせて首を狙ってくる。
 やはり初撃に受けたあの超常的な“破壊”より弱い。
 抑え込むことは可能である。

 だが。

「ふん!!」

 走った剣をリイザスは機敏に回避した。
 そしてすぐに構えると、振るった剣が今度は突き刺すように自らの胴に吸い込まれてくる。
 先ほどまでより決定的に2撃目が早い。
 魔術で抑え込むにしても、その分僅かに隙が生まれるであろう。
 目の前の剣は縦横無尽に暴れ回り、僅かな身体の硬直も見逃さない。

 弱いと言っても、魔族の身体を切り裂けるほどの威力はある。
 絡みつくような距離にいられるとなると、油断をすれば首を跳ねられそうだった。

「ハ―――、ハッ!!」

 距離を取るために、リイザスは身体中から魔力を噴出した。
 魔族の魔力はそれだけで凶器となる。
 相手は即座に離れると、剣を構えてじっと立つ。
 あれだけの動きを見せておきながら、魔力はまだまだ余裕があるようだ。

 一体どこにそれだけの力を隠していたのか。
 あるいはなぜ、それだけの力を発揮できるのか。
 もしそれが、自分が口にした“財欲”の結果であるとするならば。

「―――この上ない愉悦を覚えるぞヒダマリ=アキラ。日輪との争いが、ここまで血を滾らせるとはな……!! 貴様の力を称えよう、紛れもなく、私が争った“人間”の誰よりも強い……!!」

 “百代目勇者候補”ヒダマリ=アキラ。
 リイザスが求めて止まない死闘を行える存在。

 そのリイザスの賛辞に、ヒダマリ=アキラは僅かにも表情を崩さない。
 あるいは魔族のように冷たい瞳だった。

 そうした瞳を持つ人間は幾度となく見てきたが、戦闘中に切り替わるとは面白い。
 切り替わったと言えばこの戦闘スタイルもそうだった。

 この樹海で最初に出遭ったときは、動揺は顔にすぐに出て、決めの一手を放つ前には必ず強い意志が瞳に宿る。
 攻撃には起伏があり、仕掛けるタイミングを決めてから戦闘を行うタイプだった。
 破壊の威力に自信があったのだろう、今までの戦闘も一撃必殺で切り抜けてきたと感じる。

 だがあの瞳になってから、恐らくは細かなことを考えず、その場その場の反射で敵を狙う、野獣のような動きになっている。
 先ほど戦ったリリル=サース=ロングトンとも違う。彼女の途切れることのない連撃は、無秩序のようで実に計算された動作だった。
 今のヒダマリ=アキラのように、攻撃のために命知らずの行動を取るようなことは無かった。

 戦闘中に感情が高ぶり、そうした変貌をする人間は少なくはないが、基本的には悪手である。
 通用しない以上、戦闘スタイルを変えることは有用と思いがちだが、リイザスに言わせれば生兵法だ。
 自分に最も慣れ親しんだスタイルでい続けることこそが最も勝利に寄与する。ゆえに世に達人と言われる者たちほど、自分を崩さないことを徹底するのだ。

 だが何故だ。
 ヒダマリ=アキラはスタイルを変えてなお、実に自然に襲い掛かってくる。
 これではまるで、別人と戦っているようだった。

「む……?」

 構えているヒダマリ=アキラの周囲、僅かに気流のようなものが見えた。
 リイザスはいぶかしみ、ようやくひとつ、謎が解ける。

「……『魔力回復』の種はそれか。ヒダマリ=アキラ。確かにそうか、貴様、周囲から魔力を取り込めるのか」
「あん……? ああ、“そうなのかもな”」

 まるで無頓着に答えるも、その周囲は依然として気流が生まれている。
 流石の日輪属性、原理など気にはしないか。だがリイザスは確信した。

 木曜属性の術者に稀にあるらしいが、周囲の魔力を吸い込み、自己の魔力に還元することができるらしい。
 この場ではすでに延々と戦闘が繰り広げられている。リイザスの魔力も多く漂っているだろう。
 ヒダマリ=アキラはその場で呼吸をするように魔力を補強している。
 魔族の魔力を自らの力に変えているとなれば、ヒダマリ=アキラが元々有していた魔力よりむしろ多いくらいであろう。

 身体の傷は癒えないようだが、魔術を用いての行動ならば、ヒダマリ=アキラは現在何ら制限なく行えることになる。
 “結果としての総量”だけなら、消費を続けるだけのリイザスより高いこととなる。

 まったくもって、リイザスの望み通りだった。

「良いぞ。その魔術……いや、魔法か。決して絶やすな。それならば私も、この時を味わい続けられることになる。ヒダマリ=アキラ、頼むぞ。下手を打って私の拳を浴びてくれるな。即死されてはつまらん幕引きになってしまうからな……!!」

 リイザスは腰を落とした。
 原理はともあれ、ヒダマリ=アキラの戦闘スタイルは変わっている。
 ならばそれに合わせ、こちらも最小限に動き、敵を打つだけだ。

 戦い方を変えるのは生兵法ではあるが、問題はない。
 リイザスにとっては、むしろそちらの方が得意分野だ。そうすることで、勝ち続けてきたのだから。

 リイザスにとって、今のヒダマリ=アキラすら、かつて幾度となく下してきたタイプだった。

―――***―――

 駆け出したと同時、背後から暴風のように突撃するエレナ=ファンツェルンに追い抜かれた。
 2歩、3歩と進む間に、エレナはすでにルゴールに拳を放とうとしている。
 圧倒的な身体能力を有する木曜属性。
 それにイオリは追いすがろうと、さらに速度を上げていく。

「―――、」

 エレナの拳が被弾した瞬間、イオリは素早くナイフを向かって右手に投げた。
 エレナの身体でルゴールからは見えていないだろうが、見えていても問題ない。
 ルゴール=フィルは金曜属性の魔族だ。
 イオリの土曜属性の攻撃は嫌うはずだ。

「ち―――」

 反射的に離脱しようとしたルゴールは、退避ルートがひとつ潰れていることに気づいたようだ。
 僅かに身を固め、反対側に離脱しようとする。

 その、瞬間。

 バゴンッ!!

 エレナが本気で叩き下ろした左拳がルゴールの顔面を捉えた。
 イオリのナイフが直撃するなど可愛いものだっただろう。
 身体を伸ばして衝撃を受け流すこともできない角度で、凶器そのものの拳が唸りを上げて叩き込まれる。
 強い振動。ルゴールが叩きつけられた地面は陥没し、黄色い人形は大地に埋め込まれた。

「―――!!」

 追撃を放とうとしたエレナが離脱した。
 ルゴールの埋め込まれた地面から、一瞬で黄色い柱が槍のように伸び、接近を許さない。
 その直後、その柱のいたるところが陥没し、その穴には膨大な魔力の気流が蠢く。

「エトリーククオル」

 子供のような声と共に、この地帯を地獄に変えた砲撃が再び放たれた。
 イオリはようやくエレナに追いつくと、その前に出て両手をかざす。

「エレナ!! “接近するよ”!! ―――メティルザ!!」

 砲撃の方向は把握できた。
 先ほども見た。この砲撃はやや誘導性を持っている魔術だ。中途半端に離れると被弾する砲撃が増える。
 だがこの方向、そしてこの距離ならば、ここに盾を現出させれば全員をカバーできる。

「―――ぐ」

 グレーカラーの盾が砲撃を受けるたびに、両手が砕けるような衝撃を受けた。
 先ほども受け切れたが、得意な属性相手にして、この破壊力。
 2度3度と受けるたびに目に見えてグレーカラーの盾が縮小し、過剰な魔力を使ったとき特有の息もできないほどの圧迫感が身体を襲う。
 だが意識を僅かにでも手放せば、この砲撃で全滅する。

「……っは!!」

 ルゴールが自己防衛のために狙いも定めなかったのが幸いした。
 砲撃をすべて防ぎ切ったと同時、グレーの盾が自然に消失する。

 辛うじて顔を上げると、いつから飛び出たのかエレナがすでにルゴールへ向かって突撃していた。

「ち、面倒だね―――、!!」

 木曜属性の身体能力にすら匹敵する疾風が走った。
 エレナを追い越し、一瞬でルゴールの背後に回っていたのはミツルギ=サクラ。
 ルゴールと同じく金曜属性だが、彼女の魔術はまるで一般的ではない。

 キンッ、と甲高い金属音がルゴールの首筋で響く。
 身体を硬化させて防いだようだが、サクの狙いはそれではない。

「ら、あっ!!」

 再び爆音。
 拳が出せるはずのない擬音が、エレナの拳から炸裂する。
 今度は吹き飛ばされたルゴールは、大地を転がっていく。

 そうだ、それでいい。
 サクも察してくれたようだ。

 イオリは冷静に状況を把握する。

 今までの戦闘を見るに、不意打ちをしても、ルゴールは何故か即座に察知して、防御策を取る。
 ならばそれは撒き餌でよい。
 防がれようとも無視はできない攻撃で、ルゴールの動きを多少コントロールすればいいのだ。
 陽動という意味において、神速ともいえる動きを持つミツルギ=サクラ以上の適任者はいないであろう。
 その結果、僅かにでも動きが鈍ればどうなるか。
 魔族を殺せる存在が、その力を存分に発揮する。

「あんた、こんな私をこき使おうっての?」
「まだ大丈夫だって聞いたけど」
「性格悪いわね」

 身近な侮蔑を吐き捨てて、エレナはルゴールへ突撃していく。
 エレナにも察されたようだ。
 イオリは苦笑し、双剣を構えた。

 性格の悪さは自覚している。
 だけど、ちゃんと相手の気持ちも考えてあげられるのだ。

 現に、サクとエレナがルゴールと戦闘している間も、自分は冷静に、ルゴールの立場になって思考を巡らし、最も嫌がる動きを強いているのだから。

 エレナの右拳が迫ったとき、ルゴールはその手の方向に避けたいはずだ。逆に動けばエレナの左拳がそのまままっすぐに放たれる。
 そのやや後方から、サクがそのルートを狙っていた。動きが止められることを嫌うルゴールの退避ルートは上空になる。

 ならばと上空にナイフを放とうとしたが、イオリは左にナイフを放った。
 上空へ飛べば択が狭まる。
 ルゴールが最も行きたいのは、ナイフの方向だ。

「“君のせいか”」
「……!」

 土曜の魔力を纏ったナイフはルゴールの胸へ突き刺さった。
 エレナの拳を警戒し、身体を柔軟にしておきたいはずだから当然だ。
 しかしルゴールは、あらかじめ予見していたかのように動きを止めず、ナイフが刺さったままイオリに突撃してきた。

「君は邪魔だよ、やりにくい」
「……お互い様さ」

 弱点であるはずの土曜の魔術を受けながら、ルゴールはものともせずに急接近してくる。
 イオリは三度双剣を構えると、そのまま地面へ突き刺した。

 この双剣は、ひとりのときはそのまま武器として使っているが、こうした後方支援になりがちな集団戦では別の用途で使っている。
 定期的に取り出しては魔力を流し、瞬間的に大規模魔術を発動させる準備をしておくのだ。
 こちらへ向かおうとしたサクとエレナを目で制すと、イオリは際限なく魔力を大地に放った。

「ギガクウェイク!!」

 直後大地が鳴動した。
 落雷が突き刺されたように双剣の周囲の大地が消し飛ぶと、その衝撃が地中を伝い、ルゴールの小さな体に波のように襲い掛かる。

 バジュッ、と肉の焦げたような音が響いた。
 大規模魔術が直撃したルゴールの黄色の身体にはイオリのグレーの魔術が纏わりつき、なお暴れ狂う。
 ルゴールにしてみれば虚を突いたと思った相手から、強大な魔術が浴びせかけられた形になる。

 しかしイオリは双剣を仕舞うと、即座に両手を前に突き出した。

「容赦しないよ……!!」
「ッ―――メティルザ!!」

 ルゴールは、グレーの稲光を纏いながらもその歩みを止めていなかった。
 効いてはいるが流石の魔族。
 人間の基準で百度殺したと思っても、魔族はまるでものともしないという。
 大規模魔術を放ったばかりのイオリの隙を狙い、黄色い人形は急接近してくる。

「ギャッ―――」

 ルゴールが突き出した腕は、グレーの盾を容易く貫いた。
 その腕は槍のように変貌し、イオリの胸に突き刺さる。

 ドン、と身体が強く押され、カッと胸が熱くなる。
 運が良かった、盾で逸れていなければ首を貫かれていたところだった。
 意識が飛びそうになるも、大地を踏み絞め、倒れ込むことだけは避ける。
 倒れるのは駄目だ、動きが止まる。
 幸い急所は外れているようだ、エレナに比べれば大した負傷じゃない。

「容赦しないと言ったよね」

 声が出なかった。ルゴールの拳が今度は腹部に突き刺さる。辛うじて盾を出せたが、魔族の力を前にはまるで勢いを殺せず身体が浮き上がる。
 骨は折れ、内臓が潰れたかもしれない。

 だが上等。
 この至近距離なら多少は“攻撃”になりそうだ。
 イオリはこみ上げてくる吐き気を強引呑み込むと、素早く指を口に当てる。

「ラッキーッッッ!!」
「―――!?」

 眼前に巨大な壁が現出した。
 物理的な存在の出現に、ルゴールは押し潰されていく。

 分かってはいたが魔族の力は常軌を逸している。
 だからこちらも、惜しげもなく切り札を投入しよう。

「ギガクウェイク!!」
「―――グッ、ッッッ!?」

 ラッキーの背中に飛び乗ると、イオリは迷わず召喚獣目掛けて魔術を放った。
 魔法にほど近い召喚獣、仕組みは不明だが術者の魔術攻撃は効果が無いようだ。
 効果があるのは、今、ラッキーの下敷きになっているルゴール=フィル。
 ラッキーの身体を伝い、放たれた魔力が押し潰された魔族を襲う。

 ミツルギ=サクラほどではないが、ホンジョウ=イオリも土曜属性の本分である魔力防御からはやや離れた特性を持つ。
 立場や性格、あるいは魔術師隊の上司の影響から後方支援に回りがちだが、イオリが最も得意なのは“攻撃”だ。
 基本的に大規模魔術というものは連続して放てない。
 だがイオリは、その有する膨大な魔力により、それが“常人の尺度からは”可能である。

「さっき、の、は―――!!」

 ラッキーの下からルゴールの呻き声が聞こえてくる。

「ああ、最初の魔術は下位魔術だよ。理解がある相手との戦闘はやりやすいね」

 イオリにとって、魔導士試験の最難関と言ってもいい分野は“詠唱”だった。

 “詠唱”とは、自己の最高率の魔力の流し方、その量を特定し、魔術の質を高めるものだ。
 理屈も分かるし原理も理解している。
 だがイオリは、魔術を学び始めてから徹底的に“魔術”というルールを自分の身体に落とし込んだ。
 そんなイオリにとって、最高率の組み合わせの特定など、名前を付けるまでもない。
 正常な成長をする前に―――“詠唱”という仕組みを形作る前に、魔術を学びきってしまったのだ。

 隊員の前でそんな弱みを見せられないから意識して詠唱するようにはしているものの、イオリは魔術をほとんど直感で使用していた。これではアキラを馬鹿にできない、自分の方がずっと感覚的に生きている。魔導士が常に精緻な計算と研鑽の上に成り立っていると思っているであろうエリーにも幻滅されるかもしれない。

 結果として、イオリは“嘘”の詠唱ができるようになった。通用して1度程度だろうが、下手に魔術の知識がある相手には切り札になる。
 本当に自分が嫌になる。自分は自分にも嘘を吐くのが得意のようだ。

「魔導士!! すぐにどけ!!」

 エレナの声が聞こえてからは、ほとんど反射だった。
 イオリが即座にラッキーを引かせると、天を貫かんばかりの黄色い柱が出現する。
 ラッキーに押し潰され、絶大な威力を誇る土曜の上級魔術をその身に浴び、しかしルゴールはそれを耐えきったらしい。
 あのまま上にいたら、ラッキーどころか自分ごと串刺しになっていただろう。

 イオリは口に溜まった血の塊を吐き出すと、即座に柱に向かって突撃する。

「サクラ、エレナ!! 乗ってくれ!!」
「エトリーククオル」
「メティルザ!!」

 放たれた砲弾を前に、巨大な盾を出現させて、全神経を注ぎ込む。
 耐久力、その攻撃性。やはりルゴールは強大な魔族だ。
 だが、問題ない。想定をもう一段階上げられた。
 サクとエレナ以外、ルゴールとの近接戦闘は不可能だ。だからこのふたりを守りきらなければ全滅する。
 あの魔族には二度と接近を許さない。

「―――次はここでやろうか」
「……!?」

 目の前の砲撃は止まらない。
 それなのに、子供のような声が後ろから聞こえた。

 反射的に振り返ると目の前の盾が崩れ去り、慌てて前を向き、再び展開する。

「流石にそろそろ魔門も掘り起こされそうだ、ここでなら全員まとめていけそうだしね」

 振り返ることができない後ろから、やはり、声が聞こえる。
 目の前の砲撃は鳴り止まない。
 だが、状況は分かった。ルゴールが使用する砲撃の魔術は、自身の周囲に展開する魔術なのだと完全に思い込まされていたのだ。
 イオリよりもずっと前から、ルゴールはこの戦闘で“撒き餌”をしていたのだろう。
 術者の周囲に展開する魔術だと思い込んでいた目の前の黄色い柱の中に、ルゴール=フィルはいない。

「魔導士、そっちは任せた!!」

 どれほどの距離にいるのだろう。
 エレナとサクがラッキーから慌てて飛び降りた気配を感じる。

「エレナ、これで詰みだよ。君は周囲の魔力を自分の力に変えられるみたいだけど、その手の平からだけだろう、“魔術”を分解できるのは。だからその召喚獣使いみたいに、周囲は守れない」

 考えろ。
 自分は動きを止められ、ルゴールはまたこの魔術を放とうとしている。
 何もできないならせめて頭を働かせろ。
 どうやったら自分以外でこの魔術を防げるか。

 ルゴールの言う通り、状況的には詰んでいる。
 何でもいいから思いつけ。そうでなければ、間違いなく全滅する。

「―――いや、」
「……!」

 ひとつの答えに辿り着き、イオリは身体中を震わせて叫んだ。

「サクラ!! エレナ!! ルゴールから離れろ!!」

 砲撃は止んだ。
 イオリはすべてを防ぎ切り、朦朧とする意識のままラッキーと共に飛び立つ。
 即座に魔門とルゴールの間に着陸すると、肩で息をしながら両手をかざす。
 どうやら、ルゴールの砲撃の魔術は放たれてはいなかったらしい。

「やっぱり君は邪魔だね。狙いをあれこれ変えるのは良くないみたいだ」
「エレナ、サクラ、こっちに……。せめて僕のやや後方にいてくれ」
「イオリさん、今……、いや、それより無事か」
「いやまあ、問題ないよ、生きてるし」

 サクの問いかけに投げやりに答えた。
 正直分の悪い賭けをしたと思うが、何とか凌げたようだ。

 目の前には、身体中から鋭い棘を伸ばしたルゴールがいる。

「君は魔族が怖くないのかな?」
「怖いさ、それはもう。だけど、それを倒そうっていうんだ、過大評価ばかりしていても仕方がない」

 自分はエレナとルゴールの争いを何度も見た。
 次元の違う戦いだったが、サクが隙を見て急所を狙えるように、まるで介入できない戦いというわけではない。

「さっきの魔術。何度も使えはするみたいだけど、“連発”はできないんだろう。そりゃそうだよね、そんなことができたら僕たちはとっくに全滅している。それどころか樹海に迷路なんか出現させないで、砲台で埋め尽くしてしまえばいいんだから」

 魔族は無限を思わせる魔力を有する。
 瞬時に村や町をかき消す、常人では理解もできないほどの規格外の化物。
 一般的にはそう広まっている。
 それはそうだ。別種の存在を、自分が理解できるロジックに落とし込もうとするものはごく少数だろう。

「魔族は化物だ。人間には到達し得ない力を持つ。だけど限界はあるし、制約もある。集団で挑めば人間が討伐することだってできるんだ」

 魔術の制約ならイオリは徹底的に学んでいる。
 一口に魔術の才能と言っても、貯蔵する魔力が多いこと差すこともあれば、瞬間的に放出する魔力が多いことを差すこともある。魔力を正確に魔術に昇華させられる技法や、その持続性。魔術とは、ありとあらゆる技術が凝縮された力なのだ。
 その技術の中で、最も難しいのはまさしく連続放出。
 ほとんどの魔術を直感で放つイオリでも、最大級の威力を連発することはできない。全力で走り続けることが不可能なのは、人間も魔族も変わらないのだ。
 だからどうしても、連続で放つとなると自分の最大限の力が発揮されることは無い。
 もちろん、魔族は人間の起こせる大規模魔術など容易く連続で放ってみせるだろうが、自分自身の最高値は連発できないはずだ。

 黄色い柱の魔術は、ルゴールの最高値のはずだ。
 その威力、まさに魔族というに相応しい破壊をもたらし、すでに樹海は原形を留めていない。
 だからこそ、イオリはその線を捨てた。
 すると次の疑問にぶつかる。
 背後を取ったルゴールは、何故不用意に声をかけてきたのか。

 それはあの周囲を貫く棘だらけの姿が証明していた。
 虚をつかれて接近したサクとエレナのふたりの不意を突いて突き刺すためだ。

「僕に襲い掛かってみたり、魔門を気にしたりするふりをしているけど、結局君の狙いはエレナだろ。彼女さえ倒せばどうにでもなりそうだからね」
「いや、それも変わりそうだよ。中々難儀だよ、『守護者』に選ばれてはいるものの、ボクの狙いはエレナ、そして君、イオリだっけ。ふたりをこの場で殺すことになりつつある。『光の創め』にとって、そちらの方が有益だろうしね」
「……」

 また口にしたその言葉。
 『光の創め』。
 “ホンジョウ=イオリ”が知らない言葉がこの世界に存在しているという事実は重い。
 イオリは胸に手を当てた。
 血が際限なく流れてくる。痛みはもうほとんどないほど、神経が死んでいた。
 このままだと全員をこの樹海から連れ出すのは無理かもしれない。
 そんな状態で魔族の標的となってしまうとは。
 我ながら運が無い。

「まあでも、うんうん、分かったよ。“ちゃんとやることはやるさ”」

 背後に圧気を感じた。
 思わず振り返るといつの間にか、今度は漆黒の柱が現出している。
 注視すると、それが瘴気のようなものの集合体であることが分かった。

 まさか、あれが。

「“魔門”―――掘り起こせたみたいだね。じゃあもう、戻らないとね……!!」
「!!」

 ルゴールの身体が黄色い柱と化す。
 連発は無理でも魔力の残量はまだまだ余裕があるのか。
 再び驚異の砲撃が放たれる。

「―――っ、ふたりとも、ラッキーに乗って!!」

 叫びながらイオリはルゴールの姿を睨み付けた。
 黄色い身体が柱と同化していく。
 だが一瞬、何かが動いた。
 先ほどもそうだったのだろう、ルゴールがあの柱から離脱したのだ。

 この砲撃を放たれては、自分たちはこの場所に釘付けになってしまう。
 今度こそ、ルゴールは魔門へ向かうだろう。
 自分がこの場にいる以上、魔門側の守りは弱い。

 そんな場所に、この魔族が襲い掛かれば―――

「エトリーククオル」

 子供のような声が、残酷に響いた。

―――***―――

 アルティア=ウィン=クーデフォンは目の前の女性に全魔力、全神経を注ぎ続けた。
 深い眠りに落ちているように身じろぎひとつしないリリル=サース=ロングトン。
 自分たちを守るために、魔族の絶大な一撃を防ぎ切った“勇者様”だ。

 彼女は、自分たちには何が起こったのか分からないほど完全に、魔族の攻撃を遮断してみせた。
 だがあの魔族は言った。リリルはその防御に、自分の命を対価に捧げたのだと。

 まともに魔術を学んできていないティアでも知っている。
 魔術の対価は“魔力”、“時間”、そして“生命”だ。
 だが、“生命”を対価に使用できる者はごく少数だという。ティアは以前魔力が完全に底をつくまで魔術を放ったことがあるが、全身に極度の虚脱感が襲い、遂には意識を失ってしまった。おそらくその一線を越えれば、“生命”を対価にすることになるのだろう。
 自分にはそれができない。だが、リリルはそれができるのだ。できてしまったのだ。

 恐怖で身体中が金縛りになる。
 そんな症状になった相手に治癒を試みるのは初めてだ。まるで効果が出ているように思えない。
 治癒は得意なつもりだが、その仕組みや治療されていくプロセスなどまるで分らない。だから自分はいつも、自分がこうだと思う方法で、目の前の相手に全力を注いでいる。
 だが、それでは足りないのだろうか。それならば、何故自分はもっと学んでこなかったのか。

「……、うぅ、お願いします……。お願い、します……!!」

 ひたすらに魔術をかけ続ける。
 それでも、目の前の女性はピクリとも動かない。

 鼓動が早鐘のようだった。涙で前が見えない。意識が朦朧とさえしてくる。
 空の彼方にいる両親を、ヘヴンズゲートにいる第2の両親を、今もどこかで戦っている仲間たちにも、必死に願う。

 お願いします。
 これからはちゃんと勉強します、漫画も捨てます、迷子になりません、言うことを聞きます、泣き出しません、大人しくしています。
 だから今、目の前の女性を助けさせてください。

 この魔門で誰かを失うことを、もう二度と繰り返したくない。

「―――、―――、―――ぁ」

 赫のエリアの一角は、ティアのスカイブルーの魔力で塗り潰されていた。
 大いなる先駆者たちから見れば、それはあまりにも無駄の多い暴走に近かったであろう。
 加減を知らぬ子供のように、喚き散らす赤子のように、稚拙な治療だった。

 だが今、生物としての動きを完全に止めていた女性が、僅かに動いた気がしたのだ。
 焦らず、しかし惜しむことなく、そのまま魔力を放ち続けた。
 女性の顔に、次第に生気が戻ってくる。

 まだ焦らない。
 頬をボロボロと零れた涙が伝う。魔力の残量が残り僅かなのか、頭がずきりと痛み始めた。
 身体の仕組み上抗えない虚脱感が全身に襲い掛かってくる。
 だけどこの手は、彼女の胸から決して離さない。

 そして、その、離さなかった手の平が、鼓動を拾った。

「―――、…………、あ……、あ……、ぇ、え……?」
「リリにゃん!!」
「カ―――フッ!?」

 その目が僅かに開いた瞬間、我慢ができなかった。
 当たりどころが悪ければ、生還した瞬間に止めを差す羽目になっていたであろう。
 横たわるリリルに、ティアは全力で抱き着くように覆いかぶさった。

「か、―――ふ、アル、アルティア、さ、ん……?」
「良かった、良かった、合ってた、間違ってなかった、良かったようぅ、良かった……、リリにゃん、具合どうですか!? ティアにゃんさんが治します!!」
「ティア、さん……。……耳が、……痛いです」
「わっ、わっ、わっ、大変です!! でも大丈夫です、ああ、良かった、治します、どこですか、右ですか!? 左ですか!?」

 痛みを訴えていたはずなのに、リリルはグイとティアの身体を押しのけると、立ち上がろうとしていた。流石に名だたる“勇者様”というだけはある。生死の境を彷徨っても、治癒は不要とばかりに痛みを堪え、倒れていることを良しとはしないとは。
 だが、身体には力が入っていないようで、ティアが支えると、今度は頼ってくれたようでもたれかかってきた。
 未だに鼓動が激しい。
 喜びのせいか魔力切れのせいか。それは分からない。だけどそれは、彼女が生還してくれたことを前には些細な疑問だった。

「……ティアさん、リイザスは、アキラさんはどうなりましたか……?」

 リリルの瞳はくすんでいるように見えた。まだ近くのものしか見えないらしい。息を吹き返したばかりの彼女にとって、この灼熱地獄のような空間は身体に厳しいだろう。
 だがティアはリリルを支えたまま呼吸を整えると、目の前の現実に目を向ける。

 そう聞かれて、リリルを救った喜びが、急激に萎んでいくのをティアは感じた。
 “彼”からの指示は守った。自分の信念に懸けて。
 だがそれで終わりではない。
 自分にはまだやるべきことが残っている。

「アッキーならいますよ。今―――殺し合いをしています」

 樹海に轟く爆音は、感覚の鈍いリリルにも届いたのだろう。
 ふたりして身体をびくりとして竦ませた。

 赫の世界の真っ只中で、剣と拳が縦横無尽に暴れ回る。

 剣を振るうはヒダマリ=アキラ。
 身体中が燃え滾るように赤く染まり、必死の形相でその剣を振り回している。
 対するは魔族リイザス=ガーディラン。
 その巨体とは思えぬほどの俊敏性で、振れれば身体が千切れ飛ぶほどの拳を容易く放ち、その度に、怒号のような爆音を奏でていた。

 戦いが見えているティアの目からも、何が起きているか分からない。
 ふたつの影は時に離れ、時に入り交じり、狂気の空間は更なる熱気を帯びていた。

「戦っている……戦っているんですか、アキラさんが、おひとりで?」
「そうです……。リリにゃんを治す時間を稼いでくれました。でも、あれは、あんなのは」

 まともに戦闘が目で追えないティアにも、アキラの戦闘方法の決定的な変化は感じ取れていた。
 アキラの戦闘は、エリーに近かった。
 強敵と当たると基本的にはまともにやり合わず、隙を見てため込んだ魔力を放出し、必殺の一撃で決着をつけている印象がある。
 だが今、彼は延々と命の取り合いを続けている。
 剣を振るい、突き刺し、時には拳や蹴りを見舞い、がむしゃらに敵に向かって突撃を続けていた。
 リイザスの攻撃はそのひとつひとつが必殺だ。だが今アキラは、決して身を引かず、限界ギリギリまで引き付けてから“攻撃”をし続けている。
 これはまるでかつて見た、あの大きな体躯を持つ“もうひとり”のようではないか。

 結果としてはそれが功を奏しているのであろう。攻撃行動を押し付け続けることは敵の攻撃行動を減らし、防御にもつながるらしい。
 だがそれは短期決戦においてのみだ。
 自分がリリルに治癒を施している間、彼はずっと血で血を洗うような殺し合いを続けている。

 ティアにとって、アキラは友のような存在でもあり、兄のような存在でもある。
 世界中を共に旅してきた大切な相手だ。
 そんな人物が、今、命を賭して戦っている。
 それを前に、自分がすべきことは何なのか。

 リイザスが魔力を際限なく放出したらしい。
 灼熱の余波がここまで届いて身体を強く打つが、とっくに火傷していた肌の感覚は死んでいた。
 アキラもたまらず離れたようで、ふたつの影に距離ができる。
 グ、とティアが身体に力を入れようとしたところで、噴煙立ち昇る赫の世界の中心部から聲が響いた。

「ハ―――ハハ、驚嘆に値するぞアルティア。よもやあの状態から生還させるとは!!」

 気づかれたようだ。
 リイザスの言葉で、アキラもちらりとこちらに視線を向ける。だが、すぐにリイザスに視線を戻していた。

「立ち上がれるならまだまだやれるのであろう、リリル=サース=ロングトン。貴様も来い!! 貴様らと同時に死合えるともなれば、今日が我が最良の日となるであろう!!」

 リリルが動き出そうとするのが分かったが、まともに力が入らなかったらしく、崩れるようにティアにしなだれかかってきた。
 ティアは両足で踏ん張ると、キ、と顔を前へ向ける。
 リリルは限界だ。今ですら、気を抜けば再び倒れ込む可能性だってあるのだ。彼女に戦闘をさせられない。

「ティア!! 治せたんならリリルを連れてとっとと逃げろ!!」

 その叫び声は冷たく聞こえた。
 彼の声からはいつも感じられていた、自分たちの身を案じるような温かさは無く、戦闘の邪魔だからという単なる事実だけがある冷え切った声色だった。

 リリルを支えた自分の腕に力が籠る。

「アッキー!! 今すぐ逃げましょう!! もう駄目です、限界です!! 死んじゃ駄目です!! 命を懸けることと、命を捨てることは違うんです!!」

 自分の大声は、今の彼に届いただろうか。
 声が大きいらしい自分は、声だけでなく、想いも、相手に届いているのだろうか。

「興が削がれることを言うなアルティア!! 分からんのか、今のヒダマリ=アキラは私を殺し得る力を持つぞ!!」

 それでも歓喜に染まり、心から喜びに震えるような聲をリイザスが叫ぶ。それは果たして事実なのか、それともアキラの意欲を絶やさぬための方便なのか。
 恐怖を覚えるリイザスの戦闘への意欲。太古より、その欲を証明し続けてきた規格外の化物だ。
 だが、その魔族の欲など、ティアにとっては関係が無い。

「それでもです!! こんなの駄目です!! “魔門なんて、どうだっていいじゃないですか”!!」

 魔門は両親の仇だ。憎いかと聞かれたら迷わず憎いと言える。
 だが、それは、ティアにとって、目の前の出来事と比べれば些細なことだ。
 アキラから、怒号のような声が轟いた。

「とっとと逃げろって言ってんだろ!! こいつは今、ここで、殺さなきゃなんねぇんだ!!」
「そんなの、どうでもいいです!! そんな義務とか、責任とか、どうだっていいんです!! 私は、ただ、アッキーに絶対死んで欲しくないんです!!」

 そうだ。
 自分は、勇者様御一行の水曜属性の魔術師だ。使命感は、小さいながらにもずっと持っている。
 だけど、この光景を容認するような使命感なら、そんなものは欲しくない。

「そんなに俺が信じられないのか!!」

 それでも引けない。引くわけにはいかない。引きたくない。

 彼は言っていた。信頼されたいと。
 自分たちを魔王討伐に巻き込んだ責任があると思っているのかもしれない。
 だが、やはりそれも、ティアにとってはあまりに小さい問題なのだ。

「信じてます!! アッキーがそんなことを気にしなくても、私はずっとずっと―――アッキーを信頼してます!! でも、それは関係ないじゃないですか!! “そういうことじゃないんですよ”、これは!!」

 声が枯れるほど叫んだ。
 止まらない涙は一瞬で蒸発するように消えていく。
 現実が見えていないのは自分でも分かっている。リイザスが自分たちを無事に逃がすとは思えない。
 だけど今すぐ、目の前の殺し合いを止めたかった。
 戦闘自体は得意ではないティアでも分かる。このまま戦いを続けたら、間違いなくアキラは殺される。

「分かりませんか!? もうアッキーは、“信頼されているんですよ”!! 私だけじゃ駄目ですか!? でもみんなとっくにそうです!! だからこれ以上続けることは許しません!!」

 精一杯息を吸った。
 燃えた空気が肺を焦がし、それでも、強く声を届かせるために、胸が張り裂けるほど大きく、自分の想いを届けるために。

「私だって―――怒るんです!!」

 届いただろうか。
 この大きな感情は、大きな声に乗ってくれただろうか。
 アキラはしばし沈黙し、しかし、ゆったりと剣を構えた。

「リイザス―――続けるぞ」
「ほう、いいのか。アルティアの力は測り終えた。遠慮なくこの場総てを戦場に出来る。驚異の才だ、失うには惜しいが?」
「才能? は、心にもないことをべらべらと」
「ふ、そうであったな。お前でいい。お前だけでいいぞヒダマリ=アキラ。さあ、再開だ。総てを絞り出し、挑んでくるがよい」

 もう止まらない。止められなかった。
 彼があの、暖かな声色で大丈夫だと言ってくれていたら、自分はそれを信じられただろう。だけど今の彼は、自分の命などまるで何とも思っていないような目をしている。
 最悪の事態がありありと眼前に浮かんだ。

 ティアが震えていると、リリルがよろめきながら身体を動かし、ティアを庇うように戦場から離れ始めた。
 そんな弱い力ですら、ティアは引かれて下がっていく。
 先ほどリリルを救えたときの歓喜の熱が、完全に消え失せてしまった。
 自分は絶望的なまでに無力だと、感じてしまった。

 震える身体の背後で、聞き慣れた、しかし聞き慣れない冷たい声が聞こえる。

「キャラ・ブレイド」

―――***―――

 ミツルギ=サクラは懐の秘石の感触を探りながら魔術を発動させた。

 たった今、何度目かの砲弾が放たれた。
 人も樹木も、あるいは大地さえ容易く命を刈り取る脅威の魔術は、しかし、ホンジョウ=イオリが抑え込んでみせている。
 となれば問題は、魔門へ向かって走る黄色い人形のような姿をした魔族。
 魔族が向かう魔門は、地中から掘り起こされたようで、濛々とした漆黒の煙が現出している。日が傾きかけてきた空に立ち昇り、夜の訪れを助成させるように見えた。

 今、魔門にはふたりしかいない。
 この危険な魔族がその場に到達したら、せっかく掘り起こせた魔門の破壊は困難になる。

 イオリは魔術の防御で足止めを食らい、エレナに至っては今にも倒れ込みそうに見える。

 サクは魔族へ向かって駆けた。まともに動けるのは自分だけだ。
 追いつくのは容易い。この場で自分以上の速力を持つ者は存在しない。

 だが。

「ふっ」

 即座に追いついて見せたサクの攻撃は、キンッ、と甲高い音に阻まれる。
 ルゴール=フィルという魔族は、身体をある時は硬化させ、ある時は軟化させ、自分とエレナの攻撃を受け流し続けている。
 サクの速度に追いついて身体の硬度を切り替えるなど、やはり信じがたい反応速度だ。
 相手がただの生物ならばサクはもうすでに、この魔族を5度は殺せているというのに。

 ルゴール=フィルはサクの妨害などものともせずに魔門へ向かって突撃していた。

「く。また、止めるための戦いか」

 サクは歯噛みした。
 自分もルゴールと同じく金曜属性だ。物理的な防御に秀でた属性だが、サクはその力を真っ当には使えない。今日は幾度となくこの壁に直面する。

「っ、エリーちゃん、ごめん、凌いで!!」

 魔門の破壊を試みているアラスールが叫んだ。
 彼女は秘石の魔力を用い、寒気を覚える未知の魔門の前に慎重に立つ。
 魔門に対する刺激は計算ずくめのプロセスを徹底的に守った上で執り行われることはサクも知っていた。そこに高出力の魔術を当てて破壊するなど正気の沙汰ではないが、ようやく巡ってきた魔門破壊のチャンスだ。不意にするわけにはいかない。

 ルゴールが魔門へ到達するまであと僅か。
 高速の世界に生きるサクには選択肢が生まれていた。

 この魔族を倒せないまでも足止めをしなければならない。
 ならばサクができることはひとつだけ。
 今足場に展開している魔術をあの魔族の正面に展開することだ。

 あの魔族の正面に立ち、蹴りを放つように魔術を放つ。
 金曜属性の魔術の物理的な防御だ。多少の足止めにはなるだろう。

 そのひとつだけ、だった。

 懐の秘石の感覚を探る。

 “もうひとつだけある”。
 今、この強大な秘石の力を借りられている今だからこそ、サクの脳裏にもうひとつの方法が浮かんでいた。
 足止めではない。

 その反応速度を上回り、この魔族を殺すことだ。

 だがそれが自分にできるか。
 “あれ”は、最早夢物語だ。子供の頃に夢見た、単なる憧れだ。
 それはこの魔力があればできるのだろうか。

「―――、」

 サクは首を振った。
 不確かなものに頼るなど自分らしくない。
 総てが分からなくなって、家を飛び出したあの日からずっと今まで、最も確かな道を自分は選び続けてきた。

 空想の世界に別れを告げると、サクはさらに速度を上げた。
 魔族を追い越し、正面に回り込む。
 イオリの盾の魔術すら容易く破った魔族だ、下手をすれば、いや、完璧に魔術を発動させたとしても怪我では済まない。
 自慢のこの足も、骨が砕けるくらいはするだろう。最悪致命傷を負うかもしれない。

 だが、まったくもって構わない。
 魔門破壊は主君の命令だ。
 今、この場で、アキラの意思に最も実直に応えているのはエレナ=ファンツェルン。
 自分が嫌うあの女性は、しかし自分以上に、彼の意思に真摯に向き合ってみせたのだ。

 これはもう意地だ。やらないわけにはいかない。

 彼は言った、信頼して欲しいと。
 彼に直接、信頼しているかと聞かれていたら、自分はきっと、そうだと答えていた。
 でも聞かれないから、その想いは伝わっていると思っていた。
 自分はあまり多くを語らない性格をしている。
 そのせいだろうか、彼はずっと、不安と戦っていたのかもしれない。

 今、この場で彼の不安を払拭させたい。
 それだけを、考えろ。

「ふっ」

 サクは意を決してルゴールに接近した。
 2度、3度と気を逸らすように愛刀で牽制し、そこからさらに加速してルゴールを追い抜く。
 これだけの速度で、目の前に物理的な障害ができれば流石にルゴールも動きを止めるだろう。
 サクは即座に急反転し、ルゴールへ向かって突撃した。
 愛刀に手をかけ、さらに速度を上げていく。
 自分の攻撃が通用しないことにしびれを切らした様子を装い、ルゴールの首だけをまっすぐに睨む。

 間もなく衝突。
 今だ。

「!?」
「危ないな、ぶつかったら結構痛そうだよね、それ」

 子供のような声が頭上から響く。
 サクは目を見開き、何が起きたのか理解できなかった。

 ルゴールの眼前へ足場の魔術を発動し、衝撃に備えると、しかし、ルゴールは狙っていたかのように飛び越えてみせた。
 表情の見えない黄色い人形は、不敵に笑っているように見える。
 あり得ない。
 身体の軟化硬化といい、こちらの行動に何故ここまで容易く反応できるのか。
 これが魔族の力だというのか。

 人間では到底達し得ない領域の化物は、魔門の前にいるふたりを獲物のようにまっすぐに捕らえている。

 だが、もっとあり得ないのは。

「!?」
「っは、随分元気ねぇ、あんた」

 飛んだルゴールを、獲物に飛びかかる猫のような影が拾った。

 血が飛び散り、それでも美しく、ルゴールの背後へピタリと付いて飛ぶ女性は、掴みやすそうなルゴールの頭を乱暴に握り締めた。

 エレナ=ファンツェルン。
 あれだけの傷を負ってなお、この速度についてきていたとは。
 致命と思われる負傷と出血。だがエレナは、未だ戦場の生物だった。

 ドンッ、と、エレナはルゴールを下敷きにして大地に落下した。
 掴んだまま頭を地面に叩きつけたようで、ルゴールの頭は原形を留めておらず、落とした卵のように地面に散らばって伸びる。
 ようやく獲物を手中に収めたエレナは、ルゴールの上で狂ったように笑っていた。

「さぁてようやく捕まえたわ」
「凄いねエレナ、まだここまで動けるんだ」
「言い残すこと、ある?」
「……、……、そうだね、まだまだ猶予はありそうだしね、何にしようか」

 エレナに押さえつけられてなお、子供のような声に怯えや震えは感じ取れない。
 余裕を含んだルゴールの口調に、立ち上がったサクは不穏なものを感じた。

「…………あんた、やっぱり、多少は心でも読めるみたいね」

 肩で息をしながら、エレナは絞り出すように言った。

「色々変だと思ったのよ、こっちの秘石持ちを把握してたり、妙に読まれていたりする感じがするわ。それに身体の硬さを切り替えるって言っても、あの乱戦で判断が早すぎるしね」
「ああ、流石エレナだ。やっぱり分かっていたか」

 なんてことの無いようにルゴールは肯定する。
 ルゴールの反応は早すぎた。サクが覚えた違和感の正体なのかもしれない。
 強大な力には必ず仕組みがある。当然、小手先の攻撃は魔族相手にまるで通用しないであろうが、人間が魔族に太刀打ちできないという常識は、魔族そのものへの恐怖心から生み出される幻想なのかもしれない。
 エレナは、その恐怖をまるで感じさせない猛攻で、遂に魔族を捉えて見せたのだ。

 だが、違和感は依然として残った。
 それはいつしか言い知れぬ不安となり、身体中を支配する。
 その力を暴かれたルゴールから、まるで緊張感というものを感じられなかったからだ。
 それこそ、心を読み解く力すら、魔族の力の一旦に過ぎないかのように。

「途切れ途切れの私の思考を読むのは難しかったでしょ」
「ああ、難しかったよ。だけど今は読める。流石に無理し過ぎているのかな。キュトリムを使うのは少し時間がかかるみたいだ」
「ち、魔門を破壊しろ、すぐにだ!!」

 エレナが叫ぶが、サクの目にはアラスールが問題なく魔術を発動しようとしている姿が見えていた。
 問題ない。
 問題があるとすれば、本当に秘石で魔門を破壊できるかだが、それはもう賭けるしかない。

 だがなんだ、この悪寒は。
 アラスールはルゴールの動きが止まったことを確認すると、目を閉じ、両手を魔門へ向ける。彼女が握った秘石が煌々とスカイブルーの輝きを放っていた。

 間もなく魔術が発動する。

 その、一瞬前。
 サクは見た。
 ルゴールがエレナから見えないように手を隠し、それを大地に突き刺しているところを。

「―――アラスールさん!! 逃げろ!!」
「!?」

 鮮血が舞った。
 辛うじて反応できたのか背後に跳んだアラスールの腕に、地中から伸びた金色の槍が突き刺さっていた。

「づ、づ、づ……!!」

 串刺しになった腕は、身を引いた勢いに逆らえず、腕を抉るように数センチほど腕の中を移動する。
 ルゴールが地中からその腕を這わしたのだろう。肉も骨も貫く槍は、アラスールの右腕をズタズタに引き裂いた。
 持っていた秘石は弾き飛び、離れた地面に転がった。

「ア―――、ギ、やるっ、わよ!!」

 流石に魔導士、絶叫することも無く、動く左腕を魔門へ突き出す。
 秘石から魔力は取り出せているのだろうか、アラスールは必死の形相で魔門を睨んだ。

 エレナはすぐにルゴールを掴み上げると、魔門から離すように放り投げた。
 抑え込んでいるとまた地中から攻撃を放たれる可能性がある。

 歯噛みしながらサクもルゴールに対峙する。
 問題ない。状況は変わっていない。

 アラスールは未だ魔術を放てる。
 砲撃を防ぎ切ったイオリも召喚獣と共にこちらに向かってきている。
 むしろ好転しているくらいだ。

 だが、ルゴールは慌てた様子も無く立ち昇る魔門の煙を眺めていた。

「アラスール。秘石の魔力、ちゃんと全部取り出せたかい? 中途半端な刺激は魔門が何をするか分からないよ? 何かあったら大問題だ。それでも撃つんだね?」

 思わず魔門を見てしまった。
 禍々しい煙が、この世のあらゆる恐怖の元凶が、手をかざすアラスールを前にまるで反応を示さない。
 アラスールの表情にも、負傷の苦痛以上の焦りや不安が浮かんで見える。
 博打のような攻撃なのだろうか。
 エレナが言った、ルゴールはある程度思考を読むと。
 今のルゴールの台詞は悪あがきの言葉ではなく、読み取ったアラスールの思考をそのまま口に出しただけなのだろうか。

 ルゴールはやはり、笑うような仕草をしている。
 まるで、魔門が起こす第2の“現象”を、最前列で心待ちにしている子供のように。

 そこで、静かな声が聞こえた。

「アラスールさん。まったく問題ありません」

 その声が聞こえて、ようやくサクの不安が解消された。

「―――ふー、」

 エリサス=アーティはゆっくりと息を吐く。

 自分でもびっくりするほど役に立てなかった。
 近接戦では軽くあしらわれ、遠距離攻撃をされたら守ってもらうだけ。
 たった今、アラスールが地中からの攻撃に腕を割かれた瞬間に、庇って代わりに貫かれることでもできていたら少しは格好付いたかもしれないのに。

 だけど、せめてはと全員の戦闘は眺めていた。
 注視していたのは秘石を持った面々の魔力の残量だ。
 事前の計画では秘石を最大限に使用して魔門を破壊するはずだったのだが、現れた魔族が強力過ぎて、結果秘石を戦闘に使わざるを得なかったのは痛かった。
 目算ではアラスールとイオリの持つ秘石が魔力の残量が多いようだが、計画と比べたら大幅に総量が落ちている。 

 あの秘石にどれだけの魔力が溜まっているのかは―――よく知っている。
 だから、自分がやらなければならない。
 秘石の総量に匹敵する魔力を放つことは、“この身体ならできる”。

「アラスールさん、下がってください!!」

 エリサス=アーティは拳に魔力を纏った。
 眼前には、濛々と立ち昇る魔門の黒い霧がある。

 魔族と乱戦を繰り広げたサクやエレナ、魔族の攻撃を凌いでくれたイオリやアラスールと比べたら、とても小さな働きだ。
 胸を張ることなんてできもしない。

 だが、それでもいい。
 何故なら自分が言ったのだ。魔門を破壊しようと。

「エリーちゃん!? 何をする気!?」

 魔門への中途半端な刺激などもっての他だ。
 拳を構えたエリーを見て、アラスールは自分の腕の怪我も忘れて駆け寄ろうとする。
 危険だ。
 そこにいたら“巻き込んでしまう”。

 エリーはアラスールを目で制し、再び魔門を睨み付ける。

「……まさか、だよね。死にたいの? “未知の魔門”だよ?」

 ルゴールの子供のような声が響いた。
 そう、未知の魔門だ。
 だから自分が放てる、最大級の威力で吹き飛ばそうとしているのだ。

「―――ち。無知とは恐ろしいね。させないよ……!!」

 ルゴール=フィルが駆け出した。
 何を言っているのかは分からないが、様子を見るに、“これ”は魔門へ通用するらしい。
 だが、ルゴールが焦らなくても確信はあった。
 魔門を見たとき、自分が妙に落ち着いたのを覚えている。
 というより、今まで見てきたあらゆるものを攻撃対象として見たとき、必ず思うことがある。

 “破壊可能”だと。

「アラスール!! 君なら分かるだろう、その赤毛を止めるんだ!! 殺したいのかな!?」
「なぁに言ってっか知らないけど、通すと思ってんの!?」

 振動が響く。ルゴールはエレナに捉まったらしい。

 集中集中。
 彼女たちなら、絶対にこの場所を守ってくれる。
 そんな彼女たちに返せる、唯一の小さな貢献だ。
 この魔門を―――破壊する。

「……、まさか。エリーちゃん!! ……。いえ、でも。エリーちゃん、私が攻撃した直後に放てる!? せめてそうして!!」
「……?」

 ルゴールの焦りが伝線したのか、アラスールが叫んだ。
 同時、アラスールの攻撃を前にしても反応のなかった魔門の黒煙が蠢いた。
 何かを察しとられたのか。
 いずれにせよ、考えている時間はなさそうだった。

「はい!!」
「―――シュリスレンディゴ!!」

 言うが早いかアラスールは、即座に魔門への攻撃を開始した。
 スカイブルーの閃光が走ったと同時、エリーも駆け出す。

「止めろ止めろ止めろ!!」

 ルゴールの叫びが聞こえる。
 ようやくだ。
 ようやくここへ辿り着けた。

 だがここも通過点。
 すぐに“彼”の元へ向かわないと。

「―――?」

 一瞬。
 魔門の靄の向こう側で、薄ぼんやりと何かが光ったような気がした。
 それは恐らく目で、片方は赤く、片方は青く、怪しく光っている。

 エリーはそれを、冷めた目で見つめた。
 依然として破壊可能。障害には興味が無い。

 興味があるのは、自分たちだけで魔門を破壊したと知ったときの、彼の顔だ。
 だからとっとと、排除しよう。

「スカーレッド・ガース」

 その拳から膨大なスカーレットの魔力が射出され、魔門の黒煙は朱に染まった。

―――***―――

 慣れることができない。
 ヒダマリ=アキラは冷静にそう判断した。

 剣の振り下ろしに対するリイザス=ガーディランの対応。
 左へ回避。右へ回避。身を引いて回避。身を屈めて回避。拳での迎撃。魔術での迎撃。拳での反撃。魔術での反撃。魔力での相殺。全身からの魔力放出。大地を砕いて離脱。
 そのすべてをアキラは幾度となく見た。
 そしてそのたびに、姿勢を、あるいは速度を変えた行動をし、アキラをリイザスの動きに慣れさせない。
 そしてそれに対するアキラは、対応を1手でも間違えたら、拳で粉砕される。
 まるで難易度の高い時限爆弾の解体でもやっているようだ。切るたびにコードが復元し、そして正解のコードが毎回変わる。
 それをアキラは躊躇うことなく斬り続けた。

 ブッ、と拳が振るわれる。
 必殺の一撃だが、アキラは回避を続けられている。
 それはそうだ、リイザスには焦る理由が無い。
 この空間で戦っているだけで、相手は身体中が燃え尽き、呼吸すらままならなくなってくる。
 戦闘を楽しみたいというのもあるだろう、無理に短期決戦を狙わず、安全圏からの攻撃を続けている。

 だがそれは少しまずい。
 リイザスの言う通り、どうやら自分は周囲の魔力を自分の力に変えているようだ。
 だが、体力の方はそうはいかない。
 ほとんど動かなくなっている身体を、傀儡のように“魔法”で操って戦っているだけだ。
 自分が見た“あの男”の動きに合わせて、動きを、判断を魔法に委ねているに過ぎない。

 結果として戦闘力も上がっているようだが、絶命してしまえばいかに魔法とて操ろうにも操れないだろう。
 ゆえに自分が死ぬ前に、リイザスを殺さなければならないのだ。

 考える。
 火曜属性のリイザスは強大な破壊力を有しているが、アキラが最も問題視すべきはその防御力だ。
 これは破壊と表裏一体の、火曜属性のもうひとつの特徴。
 それがある限り、リイザスに致命は負わせられない。

 どうするべきか。

「……!!」

 リイザスの行動の対処を、僅かに失敗した。
 アキラは即座に判断して背後へ飛ぶ。
 リイザスの魔力から身を離すため以外で離脱する羽目になるとは。
 攻撃の機会が減ってしまった。

「どうしたヒダマリ=アキラ。来ないのか?」

―――余計なことを考えるな。

 ああ、そうだった。
 今自分は、それらしい作戦でも立てようとしていたのか。
 そんなことを考えていたから、リイザスへの対応が僅かに遅れてしまったのだろう。

 先ほどから妙に落ち着かない。妙に心が騒めき立てる。

 アキラは振り払うように首を振った。
 発動した魔法に逆らうな。自分の色など出そうとしなくていい。
 今、この場でリイザス=ガーディランに対抗できるのは“あの男”だけなのだ。
 下らないことを考えて、リイザスの撃破の邪魔をするな。

「っは!!」

 アキラはすべての思考を置き去りにして、リイザスに突撃した。
 飛来する球体、唸る拳。そのすべてを我が身に浴びるように進撃し、リイザスの首をまっすぐ目指す。
 振るった剣は回避された。
 攻撃は不発になったが望ましい。
 リイザスが回避するということは、抑え込むことができないということだ。
 威力的に、あるいは、立ち回り的に、リイザスは回避をせざるを得ない状況を作り続ける。そうすることで、この殺し合いに変化が生まれる。
 そうだ。“あの男”は、攻撃を続けながら活路を見出すことができる。
 尋常ならざる身体能力で敵を圧倒し、理不尽なほどの殺意を押し付け、獲物を斬り殺す。

「ギッ―――」

 リイザスの腕から血が舞った。
 放たれた迎撃を弾くように狙い撃ち、相手の拳の勢いをも利用して剣を鋭く突き差す。
 あわや腕が落ちるか、と言ったところでリイザスは魔力を放出し、アキラの剣を抑え込んだ。
 放たれた逆側の拳はアキラの身体を掠めて大地を震動させる。

 ようやくまともな手傷を負わせられた。
 アキラの意識は更に戦場に落ちていく。

 自分は未だ、自分に執着がある。
 生意気にも、中途半端に自分の身を守ろうとしているらしい。
 身体を纏う魔法に操られたアキラの身体は、すでに筋も骨も千切れ始めている。
 自分の身体能力ではなし得ない戦闘の対価がこれだ。

 “だからもっと、対価を捧げよう”。
 身体中が千切れ飛んで、肉塊と化しても構わないだろう。
 そうすることで、この身体はより完全にリイザスへの殺意のみに姿を変える。

 自分など、要らないのだから。

「―――ハ、……ガ―――、ハ―――グ」

 攻撃を見舞ったアキラの方が、離脱と同時に吐血した。
 内臓もいくらか潰れているのかもしれない。
 まともに呼吸ができない。
 アキラは自然に剣を見た。
 ああ、良かった。剣は未だ砕けていない。まだ戦える。
 自分の身体より先に武具の様子を慮った自分に僅か驚き、しかし歓喜に包まれる。
 先ほどよりもはるかに深く、この戦闘に入り込めている。

「……ヒダマリ=アキラ。よもや限界というわけではあるまいな」

 吐血した様子を見ていたのか、リイザスの漆黒の眼が僅かに別の色を帯びて睨み付けてきた。相手の様子を探ってまで戦闘の続行を望むとは。
 リイザスもこの戦闘に込める力を上げてきている。
 アキラ同様、リイザスも、傷つけられた腕の様子など気にもせずに構えていた。

「ヒダマリ=アキラ。私はお前のように化けた者を数多く見てきた。それは研鑽の結果であったり、お前のように絶対的な試練を前であったりと様々である。ゆえに、私は楽しみでならないのだよ。今のお前をもう一押しすれば、ただ死を迎えるのか、あるいはもう一段化けるのか」
「わざわざ……下らない、演説なんてしなくて、いい。逃げたりしない。お前はここで……殺す、からな」

 途切れ途切れの言葉は届いたようだ。
 ふん、とリイザスは満足げに鼻を鳴らす。
 リイザスが気にしているのは先ほどの誰かの言葉か。必死に離脱を訴えていたように思える。

 リイザスの言う通りだ。
 自分はこの戦闘で、リイザスに唯一対抗し得るこの魔法を発動できた。

 今、この瞬間で逃走などあり得ない。
 ヒダマリ=アキラという小さな人間は、今を凌げばすべてを忘れ、必ずリイザスを避けるようになることを知っていた。
 魔法が解ければヒダマリ=アキラは平凡な人間と成り下がる。
 今、この場で、この殺し合いを続ける以外、リイザス=ガーディランを撃破する方法はない。
 それ以上に優先すべきことなど存在しない。
 刺し違えてでもリイザスを殺せ。

「……そうじゃない、だろ」

 掠れたような小さな声が口から零れた。誰の言葉だ。
 分からない。
 だが、頭の奥で響くような声ではなく、胸の内から漏れ出すような声色だった。
 これは、殺意で潰し切れていない自分の想いか。
 早く捨てろ、そんなものは。

―――リイザスは、この野郎は、“あのとき”、リリルを殺したんだぞ。

「……そうだ」

 身体の奥で、思考と思考がぶつかり合う。
 そしてすぐさま殺意の波が荒ぶり、胸の中の小さな呟きは呑まれて消えていった。

 流れていく波の中に、様々なものが見えた。
 蠢く魔物に埋め尽くされた樹海。散り散りになる仲間。現れる強大な赫の魔人。
 “一週目”。自分が情けなくも逃げ出した死地。

 リリル=サース=ロングトンは、少しでも時間を稼ごうとして―――

「……」

―――今度こそ、こいつを殺す。今、この場でだ。

 あの出来事を繰り返すな。
 逃走したら、リリルは必ずあのときと同じ行動を取る。
 成す術なく逃げ出し、ほとぼりが冷めた頃戻ったときに見た、彼女の姿を今でも覚えている。
 自分に力が無かったから。いや、自分が完全に誰かに成り切れなかったからだ。
 想いなど、何の役にも立ちはしない。
 そう自分に言い聞かせていたのに、あのとき、自分の感情に従って、リリルを信じてしまったのだ。
 彼女はきっと無事に切り抜けると。そう感じた自分の意思に従ってしまった。

―――だからこそ、本当にすべてを失ったあのとき―――“お前に力だけを託したんじゃないか”。

「……。…………」

 身体の水分は絞り出し切っているはずだった。それなのに、頬を涙が伝う感覚がした。

 そうか。自分はあのとき、結局楽な方へ逃げたのか。

 自分ではない別の誰かなら、リリルと共にリイザスへ挑んでいたかもしれない。それなのに、自分はその誰かではなかったから、彼女をひとりで魔族へ向かわせてしまった。

 言い訳はある。魔物の数はそれこそ尋常ではなかった。
 その上で魔族との交戦などしたら、打ち漏らした魔物が大陸中へ広がってしまう恐れもあった。
 そう誰かが言ったのだ。いや、それは言い訳か。結局自分も、それに賛同した。
 リリルは魔族との交戦が可能なほど卓越した戦闘力を持っていた。適材適所。あの地獄のような状態から、大陸への被害を食い止められたのは、その犠牲を払ってこそだった。

 これが“一週目”に起こった出来事だ。
 だから自分は、自分を本当に信じなくなった。
 自分の判断も何ひとつ信用せず、ただただ目の前の敵に飛び込んで剣を振るう狂者となった。
 自分がすべての敵を打ち払えば、もう二度とあんな悲劇は起こらないと思った。思い込んだ。

「……だけど結局、“繰り返しちまったじゃねぇか、俺は”」

 声が絞り出てきた。身体が芯から震え出す。
 そうか、思い出した。
 自分は“一週目”、早々に自分自身に見切りをつけて、スライク=キース=ガイロードの力を模倣した。
 それからの旅はあまりに簡単だった。当然ながら、こと戦闘において、圧倒的な力を見せた。
 それが足りないと気づいたのは、この魔門破壊でだ。
 自分は未だ、ヒダマリ=アキラに執着があったのだと思い知らされた。
 もっと自分を捨てなければならないと痛感した。

 周りから見て、そんな自分の姿はどう見えていただろう。
 何ひとつ信用しない自分は、何ひとつ周りを見なかった自分は、精々戦闘では便利な奴とでも思われているくらいだと、そう思っていた。
 それでも、それでよかった。

 それが違うと分かったのは―――“あのとき”。
 “彼女”が、自分を庇うように前へ出たあの瞬間だった。
 また、自分は、繰り返す気か。

「……最優先は、あいつらの想いに応えることだ」

 今度の言葉は、とくり、と胸の中に落ちた。
 そこからジン、と波紋が広がる。

 ああそうか。自分はこの“三週目”に学んだはずだ。
 信じることと、身を案じることは違うのだと。

 先ほどティアが、そう、叫んでいたはずだ。

「―――っっっ!!」

 殻が割れるように頭から血が噴き出した。
 踏ん張ろうとしたら、今度は足が崩れかける。
 まずい。これは。

「……限界か」
「笑わせんな―――キャラ・ブレイド……!!」

 余計な思考は即座に洗い流された。
 危なく魔法が切れるところだった。この魔法は今やアキラの生命維持装置のようなものだ。
 魔法の力でヒダマリ=アキラの身体の形を強引に形作っているに過ぎない。

―――まだお前は、自分を信じているのか。

 アキラは首を振った。
 ヒダマリ=アキラを信じるなど。笑えない冗談だ。世界中で最も信用できない存在だ、それは。

 “お前もそうだ、ヒダマリ=アキラ”。お前もまるで信じられない。
 この破壊の衝動に身を任せた結果があの結末だ。

 だが、しかし、今だけはすべてを忘れよう。
 今はただ、目の前の魔族に、この殺意のすべてを注ごう。

「どうやら潮時のようだ。何事も、終わりがあるからこそ欲がそそるのであろう。ならばいくぞ、ヒダマリ=アキラ。これが最後の試練だ、乗り越えて見せよ……!!」
「―――させるかっっっ!!」

 リイザスが腕を掲げると同時、アキラは迷わず駆け出した。
 破壊の限りを尽くされ、すでに大地は原形を留めていない。
 アキラがかける崩れた大地の先、赫の魔族の周囲に不自然な魔力が漂い始める。

 あの魔族は、再び“具現化”を狙っている。

「ハッ!!」
「む!?」

 接近と同時、リイザスへ向かって乱暴に土を蹴り上げた。
 灼熱に熱され、マグマの弾丸のような目くらましが飛び散ると、リイザスは迷わず両腕で上から叩き潰した。
 アキラはその拳に追いつくような速さで身を屈めると、剣を振り上げる。

 即座に反応したリイザスは、同じようにアキラへ向かって土を蹴り上げた。

「―――づ!!」
「!?」

 アキラはその弾丸へ飛び込んだ。
 人体に穴が開くような速度の弾丸をその身に受け、アキラは剣を突き刺す。
 まともに懐に飛び込めたのは久方ぶりだ、この身がどうなっても、機会を逃すわけにはいかない。

「ぬ―――、ノヴァ!!」

 絡みつくほどの距離、リイザスが拳を放ってくる。
 回避、いや、それはない。
 ここで距離を取られるわけにはいかない。
 アキラは左手をかざした。

「な―――」
「ギ―――ガッ、アッ!!」

 嫌な音が響いた。
 意識が根こそぎ刈り取られる。
 アキラはリイザスのその必殺の拳を、その身に浴びた。

「シ―――シュ―――シュ―――!!」

 歯を食いしばり、衝撃を耐え切る。
 左腕ごと上半身が破壊されつくされたようだ。
 アキラは強引に魔力で“形”を整えると、剣を握った右腕を振るう。
 強引に力任せで振るった剣は、リイザスの腹部に深々と突き刺さった。

「グ―――ギ―――ァァァアアアッ!!」

 ほら、自分を捨てれば上手くいった。
 絶命さえしなければこの身体は戦い続けられる。
 リイザスもアキラが剣以外で攻撃を受けるとは思っていなかったのだろう。
 捨て身のような猛攻で、ようやくリイザスを殺しかけられた。

「ハッ、腕なんか掲げてるからそうなんだよ!!」
「ヒダマリ=アキラ、貴様―――」

 次いで嵐のように剣を振り回す。
 斬る。斬り続ける。斬り殺し続ける。
 身体の感覚がまるでないアキラは、機械仕掛けのカラクリのように至近距離からリイザスに猛攻をし続けた。

「―――貴様、余程“これ”は受けたくないと見える」
「ち……!!」
「アラレク・シュット!!」

 眼前に展開した球体は即座に切り捨てた。
 爆風をこの身に浴びながら、アキラは必死に目をこじ開け続けた。
 赫の閃光に目が焼かれる。だが、それでも即座に奴の姿を探し出せ。
 奴はやはり、歴戦の魔族。こちらが最も避けたい攻撃を完全に把握している。

 今、アキラが死に物狂いでリイザスに襲い掛かったのは、そうするより他なかったからだ。
 リイザスが放てる、この身体を確実に殺し尽す魔術―――いや、魔法。
 その発動を、許すわけにはいかない。

「ふ。ドグル・ガナル……!!」

 その絶望的な聲は背後から聞こえた。
 あの爆炎の中、リイザスはアキラの姿を見失ってはいなかったようだ。
 不自然に漂っていた魔力がいつの間にか一点に凝縮され、リイザスの藍の腕輪として形作られている。

 具現化。神秘の武具。
 それは、リイザスの放つ魔法の代償を受け持つ神秘の魔具。

 まずい。

「ラァアッ!!」

 ならば発動自体を止めるしかない。
 アキラは見えた陰に突撃し、剣を迷わず突き刺した。
 万人に共通するが、リイザスの唯一と言ってよい隙は何らかの魔術、魔法を発動した直後。
 先ほども具現化を行おうとしていた瞬間だからこそ奇襲が成功したのだ。
 ならばこの一瞬。
 この瞬間だけが、リイザスの首を跳ねる最後の機会だ。

「来ると思っていたぞ、ヒダマリ=アキラ……!!」
「!!」
「ノヴァ!!」

 アキラの突きに対し、リイザスはまっすぐに拳を放ってきた。
 切っ先に拳がぶつかり、激しい衝撃で剣が吹き飛びそうになる。
 火曜の魔力を高めた破壊の拳に、アキラの突撃は完全に撃ち殺された。

「お前ならこの瞬間に飛び込んでくると思っていたぞ」

 最後の機会は呆気なく封じられる。
 具現化をしたばかりだというのに、リイザスには僅かな隙すら存在しなかった。
 リイザスはアキラの動きは最早容易く予想できるようだ。
 そして予想できさえすれば、隙を生み出すことなく防ぎきれるらしい。

 結果、リイザスの腕輪が再び赫の魔力を纏っていった。

「ぐっ!!」

 間に合わない。
 そう判断しても、アキラはリイザスへ飛び込んだ。
 離脱することに意味はない。

 あの魔法は、眼前の景色総てを塗り替える。

 それなら、もう―――仕方がない。

「いくぞ」
「ああ、“こっちも”だ!!」

 アキラが吠え、そしてリイザスは、嗤った。
 不思議な感覚だった。死闘の共演者ゆえか、自然とこれから起こることが互いに通じ合う。

 アキラには勝算があった。
 リイザスの唯一の隙。
 その破壊の力を振るったその直後。
 眼前総てを塵と化すリイザスの力を振るったその瞬間、奴には隙が生まれる。

 ならばやることは簡単だ。先ほどのように―――“その破壊を受ければいい”。
 自分が絶命する前に、リイザスに剣を届かせればいいのだ。

 これは最早勝算ではないだろう。
 未来はふたつにひとつだ。リイザスを撃破できるか、できないか。
 だが、いずれにせよ、ヒダマリ=アキラは絶命する。跡形すら残らないだろう。リイザスが放つのは、今までの魔術攻撃とすら比較にならない“魔法”だ。

 リイザスはアキラの賭けに乗ってきた。
 命のギリギリを攻め切るような死闘を、奴は望み続けていた。

 アキラは思う。
 リイザスは、アキラの思う、幸運なのだろうか。
 魔族としての力を持ち、その力を振るう機会に恵まれた、幸運な存在なのだろうか。

 自分を信じられないアキラとは違い、絶対的な自負の元、格下の自分との勝負に乗ってきている。
 目の前の欲に貌を輝かせ、すべてを注ぎ込めているのだ。
 そんな存在に挑むのだから、命など対価にもならないだろう、くれてやる。
 お前を殺せるのなら、それだけで十分だ。

 やりたかったことは―――それか。

 ふいに、胸の奥で、何かが囁いた。
 魔法だけに支配されたこの身体が、押し潰し損ねた何かが蠢いた。

「スカーレッド―――」
「キャラ・ブレイド!!」

 眼前に迫る、煌々とした赫の拳。
 その色に、アキラの胸の蠢きが強くなる。集中させろ。今余計なことを考えている場合ではない。

 仕方ないだろう。
 確かに自分はこの“三週目”、目的を持って訪れた。あの誓いに嘘はない。
 だが今、このリイザス=ガーディランを打ち漏らせば、その目的ごと奪われてしまう。
 魔王討伐の方は、スライク=キース=ガイロードやリリル=サース=ロングトンがきっと自分なんかより上手くやる。
 記憶が無くたって、世界の破壊さえ防いで見せるだろう。
 そうだ、最初からそう考えていればよかったのだ。世界中の人々も、ヒダマリ=アキラを勇者と認めて持て囃すのは結構だが、泥船に乗っていることには教えてあげなければならない。彼らにとっても、今この結末は都合がいいはずだ。

―――ようやく気づいたか。

 ああ、ようやく分かった。
 恥ずかしい限りだ、こんな危険な場所にリリルなんて世界の希望を連れてくるなんて。強引にでも止めるべきだった。命を懸けるのは自分だけでいい。

「―――、」

 誰かが言っていた。
 命を懸けることと、命を捨てることは、違う、と。

「っ―――」

 アキラは反射的に溢れ出す感情を抑え込んだ。
 しかし拙い自分の手では、感情の波を抑えることはできなかった。

 自分など、何の意味もない。それは分かる。
 自分を信用できるかと言われたら、それは当然できない。
 それは最初から、分かっていたことだ。

 でも何故だ。
 何故自分は―――彼女たちに、信頼してもらいたいと思ったのか。

 身勝手な自分の旅に巻き込んでしまった単なる償いもある。
 だが、それ以上に、彼女たちを想っているのだ。
 何度でも言える。彼女たちには、幸せになってもらいたい。

―――だからそれを今、果たすんだろう。

 そうかもしれない。
 だけど。
 ああ、これはやはり、自分を捨てきれていないのだろうか。

 自分は、本当はこんなことを考えていたのだろう。
 彼女たちを幸せにしたい、と。

「―――、」

 今、問われている。
 燃え盛り、迫りくる赫の拳に問われている。

 自分が犠牲になることを、彼女たちが容認してくれると思っているのかと。

 少なくともひとり、アルティア=ウィン=クーデフォンは示してくれた。
 許さない、と。今までの日々で培ってきたものを、彼女は大声で吐き出してくれた。

 答えはもう見つけていた。
 自分が求めた、彼女たちからの信頼。
 それには、相手からの感情だけではなく、絶対的に必要なものがあったのだ。

 今、問われている。
 状況に流されているばかりで、主体性の無かったヒダマリ=アキラは、問われている。

 彼女たちに求める、自分への信頼。
 それに応えるだけの、自信と覚悟はあるのか。
 自分を捨てることが、彼女たちの想いに応えることになるのか。

 “一週目”の自分は首を縦に振った。
 だが、今の自分は間違えるな。
 確かに答えろ、この問いに。

 これまでの日々を、否定できるか。

「違うな―――“そんなのは俺じゃない”」

 アキラの目の色が、僅かに変わった。

「―――ガースッ!!」
「“キャラ・イエロー”!!」

―――すべての偶然が重なったのかもしれない。

 今この瞬間が切り抜かれたように、時が止まった。無音の世界で、総ての光景がありありと見えた。

 リイザスの渾身の拳が火を噴いた。その刹那、アキラの足元が爆発した。
 リイザスにしてみれば初めて見る、空中にすら足場を生成するミツルギ=サクラの魔術の再現。
 とっさのことで、まともに発動できたかも分からぬ魔術は、アキラの身体を跳ね上げた。

 対象者を見失ったリイザスの魔法は爆音を奏で、爆風が炸裂する。アキラの身体は糸の切れた凧のようにリイザスの頭上を泳いだ。

 アキラは目を見開き続けていた。
 眼下のリイザス。
 前方へ伸ばし切った藍の魔具が彩るその輝きに、アキラは僅か目を奪われた。

 そして、その直後。
 見えたのは、やや前方に倒れたリイザスの―――首。

 だからアキラは、反射的に、剣を振るった。

「―――キャラ・スカーレット」

 リイザスの首から、ドッ、と血が噴き出す。
 地面が近づいてくる。
 アキラはそのまま落下すると、静かに身体を魔法で纏った。

 そうして初めて、音が戻った。

「……、…………。卑怯だと思うか」
「……卑怯? 自らを強者と思い込んでいる者の言葉だな、それは」

 首に剣を受けてなお、リイザスは即座には絶命していなかった。
 だが、発生源を失った魔力は即座に薄れ、すっと周囲から赫の色が引いていく。
 色を取り戻した荒れ果てた地。いつしか、黄色い迷路も消失していたようだ。

「俺の剣は……、届いたのか」
「ふん、貴様も分かっているであろう。致命だ、これは。治りはせん。動こうとすれば即座に首が落ちるであろう」

 赫の魔人は立ったまま、ただ真っすぐを眺めていた。

「遥か太古より―――こうした景色が、いつも私の前に広がっていた」

 赫の魔族の眼前は、最早何も存在していなかった。本来あの場所にいたはずのヒダマリ=アキラは、今、巨大な身体の背後で倒れ込んでいる。

「あらゆる研鑽を積み、あらゆる死闘を乗り越えて、それでもなお生き残った者を、私は幾度となく下してきた。気が付けば私は、いつもこんな景色と向かい合っていたな」

 リイザスに倣ってアキラも視線を向けた。
 死闘の跡。何ひとつ残らない大地。この魔族は、何度もこんな景色を眺めていたという。

「ヒダマリ=アキラ。貴様、私の欲を“戦闘欲”と言ったな」
「……ああ」
「ふ。同族にもそう言う者もいるが、誤りだ、それは。実のところ、私には欲はないのかもしれんな」

 リイザスの言葉を、アキラは黙って聞いていた。

「私は知っている。“欲”―――自らが本当に求めて止まないもの。それを手に入れるために、それを守るために、力というものは生み出されると、私は知っている。それは貴様ら人間が言うところの想いの強さ、というところか。夢物語のようで、それは実在するのだ」

 その強さと正面から衝突することを望んだ。そして、衝突し続けてきたリイザス=ガーディラン。
 だが、この魔族自身の欲は無いという。

「私はその力と死合うことを求める反面、その力そのものを自らのものにしたいと求めていた。だが悲しいかな、誰も我が欲を刺激することはできなかった。巡り合わせなのか、あるいは少々、力を付け過ぎていたか」

 欲に溺れ、それゆえに、人間界に深刻な被害をもたらしている魔族。
 人間からすれば害悪以外の何物でもないその存在たちは、リイザスにとっては、キラキラと輝いて見えていたのだろうか。
 自らの力を存分に振るえる世界に、リイザスは出会うことは出来なかったのだろうか。

「最後の最後。血を極限まで絞り切った先の先。勝ちたい、生き残りたい。そう思える者が、結果としては勝者となる。私もその世界を見たかったのだが―――ふん。それは私にとって別の世界の物語か」

 リイザスの身体が揺らいだ。
 限界が近いようだ。

「ヒダマリ=アキラ。最後の最後、何故回避を選べた。騙されていたのなら閉口する他ないが、お前は私と刺し違えるつもりだったであろう」
「……ああ、自分でもよく分かってないよ」

 本当に、そうだった。
 無我夢中で飛び込んだあの一瞬、胸の奥底からそれを止めた誰かがいた。
 あんな意思が、こんな自分に潜んでいたとは驚いた。

「ただ、何だろうな……。あの最後の一瞬―――ここで終われない。そう思った」
「……ますます惜しいな。貴様と死合い続ければ、私もそこに辿り着けていただろうか」

 ドスン、と。
 リイザス=ガーディランの身体が倒れた。
 辛うじてつながっている首からは、依然として鮮血が滴り凹んだ大地に溜まっていく。

「ふ。妙に落ち着いた気分だな。最期にお前と死合えたからか、死を恐怖するには生き過ぎたからか。このまま私は終わるとしよう。ヒダマリ=アキラ―――“無事にやり過ごせよ”」
「……?」

 そう残して―――リイザス=ガーディランは息を引き取った。

「アッ、アッ、アッ、アッキーッッッ!!!!」

 直後、リイザスの拳のような爆音がさく裂した。
 辛うじて身を起こしていると、ドタドタという賑やかな足音。

 その音で、ようやく。
 アキラの身体の底が震えた。

「撃破したぞ―――魔族を……!!」
「そんなのどうでもいいです何やっているんですかっっっ!!」

 突撃してきたのは当然アルティア=ウィン=クーデフォン。
 駆けてきた勢いそのままに目の前に座り込むと、身体中に響く大声でがなり立てた。

「私言いました、ちゃんと言いました、すぐに逃げましょう!! って!! 何で言うこと聞いてくれないんですか!! もうあっしは、あっしは、うぅうぅううううえええああああーーーっっっ!!!! 生きてたよぅ、生きて……う、うぇぇぇええあああ!!」

 大声で泣きながら、ティアは攻撃と見紛うような魔術をアキラに浴びせてかけた。
 ティアがいて良かった。リイザスが倒れ、すでに周囲の魔力を散り始めている。アキラが魔法で生命を維持できるのもいずれは限界が来てしまうだろう。
 ティアの治癒を浴びながら、アキラは肩の力を抜いた。

「ティア……。悪かったな」
「もういいです、今はいいです。でも今度こそ、徹底的に怒りました!! とにかく今は静かにしていてください!! 絶対あんせーです!!」

 口を開こうとしたら、ティアが涙目で睨んできた。とにかく大人しくしていろということらしい。
 ティアも魔力が切れかかっているのか頭をぐわんぐわんと回しているが、瞳の強さは変わらない。器用なものだ。大人しくしていよう。
 だが、心の中では深い感謝を捧げる。
 多分自分は、何か大切な道を踏み外しそうになった。
 ティアという支えがいなければ、きっと今頃、自分は―――

「……ぁ……」
「アッキー!!」
「違う、そうじゃない」

 口を開いたことを咎められたが、それどころではない現実を視界の隅に拾った。

 倒れた赫の巨体。
 それが今、バチバチと、スカーレットの魔力を帯びて膨張し始めていた。

 これは―――“戦闘不能による爆発”。

「づ―――、ティア!! 掴まれ!! とにかく逃げるぞ!!」
「え? へ、あ、あ、忘れてました!! え、え、どど、どうすれば!?」

 身体がまともに動かない。
 ティアの治療を受けながらも、アキラの魔法はほとんど自分の命を維持するためだけに使われていた。
 逃げなければ。だが、どこへ、どこまで逃げれば済むというのか。
 リイザスは魔力をまだまだ残したままで倒れた。
 魔族の魔力がそのまま爆発物と化せば、下手すればこの樹海ごと吹き飛んでしまう。

 最後のリイザスの言葉はこの事態を予期してか。
 頭がまともに働かない。
 そこで。

「良かったです、間に合って」

 熱された身体に心地よい、ひんやりとした冷静な声が聞こえた。

「わ、わ、わ、リリにゃん!! 駄目ですまだ安静にしていないと!!」
「いえ、大丈夫ですよ、もう」

 ゆっくりと歩いて近づいてきたのはリリル=サース=ロングトン。
 彼女もまた、ティアによって命を救われていた。
 足取りは軽やかに見える。十分に回復したのだろうか。
 彼女はリイザスの死骸に歩み寄ると、今すぐにでもさく裂しそうな爆弾に向かって手をかざした。

「リリル……防げるのか……?」
「ええ、勿論です」

 静かな声だった。
 彼女の周囲にシルバーの魔力が流れ、集い、そして固まる。

「『安心していてください。絶対に、守り抜きますから』」

 彼女のその言葉で、頭の中にひびが入った。

 そうだ。
 自分は知っている。
 この光景を見たことがある。

 絶望を前に、彼女は当然のように足を踏み出し、そして優しい表情を浮かべていた。

「リリル……、おい、リリル!!」
「『大丈夫ですよ、アキラさん。私を信用してください』」

 動悸が激しくなる。
 視界が揺らぐ。“あのとき”の彼女が、今目の前の彼女と重なって見える。

 まさか―――ふざけるな。
 リイザスを撃破したというのに、“これは確定事項だとでもいうのか”。

「ベルフェール・パーム」

 具現化が発動する。
 リリルがかざした手のひらに、漆黒の盾と周囲を纏う純白の羽が展開する。
 だが、様子がおかしい。
 リイザスへ向かって盾をかざした彼女の背中が震えている。
 よろめいたのは、歪んだ大地のせいではなさそうだ。

 止めろ、止めろと心は叫び続ける。
 だが身体が動かない。

「『アキラさん』」

 リリルは最後に振り返った。
 血の気が無い。脂汗を浮かべ、今にも倒れそうなほど弱々しかった。
 命を取り留めたに過ぎないのは明白だった。

 それでも彼女は、優しく微笑んで、心地の良い声色であのときの言葉を囁いた。

「『ありがとうございました』」

―――***―――

 耳の奥で甲高い音が強く響いた。
 何も見えない。
 何も聞こえない。

 もがくと、どうやら自分は座り込んでいるらしいことが分かった。
 胸が締め付けられるように痛む。
 そのどうしようもない苦痛は、しかし、どこか懐かしかった。

「―――リーちゃん!! エリーちゃん!! 大丈夫!?」
「ぁ……へ?」

 ようやく目が見えるようになると、アラスールが青い顔をして覗き込んでいた。
 意識がまともに覚醒し、エリーはびくりとして立ち上がる。

 今、自分は魔門を攻撃した。
 魔門の反撃でも受けたのだろうか。
 身体中の感覚がほとんどない。
 身体から力を抜いても、身体がまるで休まらない。延々と疲弊し続けているように、身体中から活力が沸き上がらなくなっていた。
 やはり、懐かしさを覚える感覚だった。

「まさかね。……魔門に放つ馬鹿がいるとは思っていなかったよ」
「あら、身体透け始めてるけど、死ぬの? 嬉しいわ」
「は、それこそまさかだよ。魔門が破壊されたから、“召喚”されたボクは元居た場所に帰るのさ」

 エリーは身体中に力を込めて声の方へ向き直った。
 サク、エレナ、イオリに阻まれ、魔門の守りに戻ることができなかったルゴールが佇んでいる。
 はっとして魔門を見ようとしたが、見当たらない。
 最後の瞬間を見逃したらしいが、魔門は消滅したようだった。
 そしてそれに伴い、ルゴールもこの場を去ろうとしている。
 アラスールが言っていた仮説は正しかったようだ。

「エリー、だっけ。君のことも覚えておくよ。そこまでキてる奴、魔族にだってそうはいない」
「……どう、いう意味……?」
「エリーちゃん。後で話しましょう」

 アラスールがエリーを制し、庇うように前へ出た。

「ルゴール=フィル。悪いわね、私たちは魔門破壊を完遂させたわ。『光の創め』の連中にもちゃんと報告しておきなさい」
「はは、アラスール。無駄だよ無駄。挑発したって余計な情報は渡さない。君も分かっているはずだ、せっかくボクを呼び寄せた魔門には悪いけど、アイルークの魔門など、最早問題にはならないんだよ」

 アラスールが分かりやすく舌打ちした。
 そうだ。
 何度かそんなことを言っていた。
 『光の創め』。それはアラスールにとって、魔門以上の意味がある言葉らしい。

「それどころかこちらとしては大収穫だよ。なるほどなるほど。ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師か。“欲”を言えばヒダマリ=アキラにも会いたかったけど、しょうがない。ここらで幕引きとしよう」

 薄らいでいくルゴールは、満足げな仕草を取った。

「概ね見せてもらったよ、君らの力は。ありがたいね、情報は多いに越したことは無い。もし次に会ったら、ちゃんと殺せそうだ。ねえ、エレナ」
「いちいち話しかけないでくれない? 気持ちの悪い人形ね」
「まあ、そう言わないでくれよ。次は邪魔なく全力でやりたいな。……“お互いに”、ね」
「……お断りよ」
「はは、連れないね。だけどおめでとう。いやいや、やられたよ。魔門破壊、お見事でした」

 パチパチと、黄色い人形は機械的に手を叩いた。
 耳障りな金属音が混ざった拍手は、ルゴールの身体と共に次第に薄れ、そして消えていく。
 あれだけの猛攻を受け、こちらに被害をまき散らしながらも、目立った負傷もしていない人形は樹海から姿を消す。

 達成したとはいえ、魔門破壊の瞬間を見逃したことも手伝って、何とも後味の悪さを残し、アイルークから魔門は消滅した。

「さ。次よ次」
「エレナ! 駄目だ、今は休んで」
「んだから別に平気だっての。あのガキもいんでしょ? 尚更行かなきゃでしょ」

 見た目とは違い、相変わらずエレナは無事そうだ。
 そうだ、彼女の言う通り、今すぐアキラの元へ向かわなければ。
 彼はあんな魔族と今も死闘を繰り広げているかもしれないのだ。
 自分はまだやれる。最後の最後、ほんの少し魔門破壊に協力できただけだ。余力が一番残っているのは自分だろう。

「イオリちゃん、召喚獣にみんな乗せられる? 急いで救出へ向かって、早くここから離脱しないと」
「ああ、問題ない。秘石はほと―――使わなかっ―――ね」
「抜け目―――、―――さん」
「魔道―――、―――り手―――、―――でしょ」

 みんなが話している。だけど、とうとう言葉が聞き取れなくなってきた。
 分からない。思わずしゃがみ込む。だけど、まったく楽にならなかった。
 もがくように、身体を倒した。駄目だ。
 まるで回復しない。

 分からない。何も分からない。
 魔門の現象だろうか。
 それとも。
 あの魔族が言った言葉が妙に耳に残る。

 無知。
 自分は何かを知らないのだろうか。駄目だ、ちゃんと勉強しないと。魔術師試験に合格できない。
 あれ。そうだっけ、違う。なんだっけ。

 誰かが駆け寄ってくる振動だけ感じた。
 思考がまとまらず、解れ、バラバラになり、沈んでいく、何とも形容できない感覚。

 だがやはり、エリサス=アーティにとって、懐かしさを覚える感覚だった。

 暗転。

―――***―――

 まただ。
 また自分はやった。

 分かっているはずの死に、彼女を送り出した。

 爆音すら、聞こえなかった。
 押し殺された弱い衝撃だけが、大地を伝ってこの身を打った。

 見上げた先、リイザスの死骸が最期を迎えた地点。
 リリル=サース=ロングトンは、それを抑え込むように、現出させた盾でそれを閉じ込めていた。

 それは誰の魂なのだろうか。
 リリルの盾が音も無く崩れていく中、白い煙のようなものが細々と空へ向かって立ち昇っていくのがアキラの目には見えた。

「リッ、リリル!!」

 身体の怪我も忘れ、アキラは無我夢中でリリルに駆け寄った。
 足にまるで力が入らず、無様に転び、その衝撃だけで意識が奪われかける。
 それでも身体の中の叫び続ける何かが、アキラの身体を這ってでもそこへ向かわせた。

 意識が混濁する。
 向かう先に誰がいるのかも分からなくなる。
 目が見えない。音が聞こえない。

 身体に滅茶苦茶に命令を飛ばし、ようやくそこへ辿り着いたとき、余計なことに、光と音が戻った。

「……お、い」

 覆いかぶさるようにリリルを抱きかかえ、身体を揺する。
 あれだけの煉獄の中にいたというのに、彼女の身体は氷獄のように冷え切っていた。

「ご、無事、で、―――さ」
「……!! リリル!!」

 絶望感に押し潰されかけたとき、彼女の口が小さく動いた。

「ティア!! 俺はもういい!! リリルを診てくれ!!」
「え、は、はい!!」

 ティアの治癒の光がアキラの身体から離れ、アキラの身体が崩れるように揺らいだ。
 激痛など最早感じない。神経ごと破壊し尽されているのだろうか。
 だがそんなことはどうでもいい。
 今は何としてでもリリルを救わなければ。

 だが、伸びたティアの手に、リリルは小さく首を振って拒んだ。

「アキ、ラ……、さん、を。私は、いい、です」
「何言ってる……。何言ってんだ、いいって何がだよ……!!」

 ティアを睨み、リリルへの治療を強引に始めさせる。
 溢れんばかりの魔力がリリルの身体に注がれるが、しかし、その色が目に見えて小さくなっていった。

「あ、あれ、」
「ティア?」
「だ、大丈夫です!! 問題ない、です!!」

 ティアの魔力はほとんど残っていないのだろう。
 終始治癒に立ち回り、一度は命を落としかけたリリルを救っているくらいだ。
 だがだからこそ、その実績のあるティアの魔力はすべてリリルに注がなければならない。
 自分はまだ大丈夫。
 自分は、魔法で強引に命をつなげられる。それがいつまでもつかなど、知ったことではない。

「いい、んです、よ。私、は。超えちゃ……いけない線。超えちゃっ―――です、から」
「もういい喋んな。今何とかしてもらう!!」

 リリルに目立った外傷はない。
 だが身体を支えたアキラにはひしひしと感じられた。
 彼女から、何か“重さ”のようなものが確実に失われていく。
 これが生命を対価に捧げた者の姿か。
 穴の開いた砂時計のように、刻一刻と“何か”がリリルの身体から滑り落ちていった。

 その光景を、アキラはかつて、見たことがあった。

「駄目だ……。ふざけんな。リリル。おい、おい!!」
「良かっ、た……んで、す。あな、たが無事……なら」

 ティアは脂汗を浮かべながら、リリルの身体に治癒の光を浴びせ続けていた。
 だが、出力が明らかに落ちていることは明白だった。
 リリルから抜け落ちる“何か”を、ティアの治癒が上回らなければ彼女の生還は無い。
 今はティアだけが頼りだった。

「希望、を、守、れた。私、は、あの日……から、きっ、と」
「リリル!! 喋んなって言ってんだろ!!」

 叫ぶ、身体を許す。
 それでのリリルから何かが失われていく。
 そんな中、彼女はこの上ない幸福に身を包んでいるように、ゆったりと、美しく、微笑んで見せた。

「誰か、のために―――この身を、捧げ、たかった」

 彼女は何を言っている。アキラは身体が震えた。

 彼女が顔を輝かせて語った“三代目勇者”レミリア=ニギルのように我が身の犠牲を厭わず生きたかったと言っているのだろうか。
 世界中のあらゆる憂いに迷わず向かい、仲間も友も得られず、ただひとりで旅を続けた偉大なる先駆者に倣いたかったと言っているのだろうか。

 レミリア=ニギルはその崇高な志の反面、自分を捨て過ぎた。
 そうしてまでも世界を救おうとした彼女の心の中を理解できる者は、歴史の中にすら存在しない孤高の存在。
 自己犠牲を伴う献身をレミリア=ニギルはなんと最後までやり遂げてみせたのだ。

 その想いに準じたリリルは、心の底から、自分がどうなろうと世界を救おうと考えていた。
 だがその結果、自己犠牲が目的になってしまっていたのだろうか。

「何笑ってんだよ……。何で嬉しそうなんだ」
「あな、たを。守れ……た」

 アキラが言っても説得力などないかもしれない。
 つい先ほどまで、自分の命を捨てようとしていた。
 恥ずかしくもリリルたちに希望という名の責任を押し付けようとした、大馬鹿野郎だ。
 目の前の少女は、先ほど前のアキラだ。まさしく命を捨てて、アキラを守った。
 生死の境を彷徨っていた直後に、魔族の爆発を防げばどうなるかなど分かり切っていたのに。

「ティア!! まだなのか!?」
「うぐぐ、待って、待ってください……!! 必ず何とかします!!」

 ティアはほとんど倒れ込むような体勢でリリルに治癒を浴びせていた。
 しかし、魔力の光があまりに淡い。
 最後の1滴まで絞り出そうとしながらも、ティアは必死に治療を続ける。

 今にも永遠の眠りに落ちそうなリリルは、やはり、幸福そうに微笑んでいた。

「ずっ、と、怖かった。レミ、リア……様のように、魔王を討って、私には、何が……残るのか、って。それが、誰か、の希望になる、なら。それでも、いい、って、思っていても。ずっと、怖く、て。偽物なん、です、所詮、ね」

 レミリア=ニギルの最後の物語。
 魔王を討つ頃には、彼女はすべてを失って、何ひとつ信頼できないようになっていたという。
 魔王討伐の事実だけがキラキラと輝いて後世に伝わっているが、その後、レミリアはどのように生きたのだろうか。
 彼女の想いを感じようとし、彼女を目指した者にしか、推測すらできないだろう。

 リリルは血と混ざった涙を流した。
 彼女は真面目でひたむきだ。
 この小さな身体で、レミリアを想い、それと正面から向かい合っていた。
 誰に笑われても魔王を討つと言い放ち、世界中の憂いと向き合い続けてきた。
 その後に残るものなど何ひとつないと知っていながら。
 ずっと、そんな恐怖と戦っていたのかもしれない。

「だから、ここで……終われて。良かった、ん、です」

 そんな彼女が最期に漏らした弱音に、アキラは怒りにも似た感情が沸き上がってきた。

「お前はレミリア=ニギルじゃない。リリル=サース=ロングトンだろ!! 諦めていい命じゃない!!」

 例えそれが、レミリア=ニギルの真似をしていただけだとしても。

「自分の村滅ぼされても、自棄にならずに、まっすぐに、誰かを救おうとしたんだろ……!!」

 例えそれが、偽物の勇者だとしても。

「世界中飛び回って、必死になって、世界中の希望になってんだろ……!!」

 リリル=サース=ロングトンは、きっと、アキラが憧れて止まなかった幸運な人物だ。
 自分の才能がピタリとはまる世界に出逢え、そして“勇者様”として世界中から認識されている。
 彼女の生まれや、境遇の過酷さは知っている。
 それでも彼女はそれに負けず、ただ前を見て進んでいった、アキラとは比較にもならないほどキラキラと輝いている存在だ。

 そんな彼女は、今までもずっと、世界中の人々を想って生きてきた。
 孤独の恐怖に苛まれることもあるだろう、それでも、前だけを見据えて。
 それは偽物なんかではそんな真似はできない。紛れもない本物の彼女の物語だ。

 これは願いだ。
 自分にはなれなかったキラキラと輝いた彼ら彼女らに対する、凡人たる自分からの厚かましい願いだ。
 自分には届かないその領域にいる彼ら彼女らには、最後まで、輝いていてもらいたいという、自分の強い想いだ。

「そんなお前の人生が、バッドエンドでいいわけないだろ……!!」

 この人物を終わらせてはならない。
 こんなところで幸せそうに微笑むな。こんな最期は認められない。
 彼女はきっと、自分では到底成し得ないことができるはずだ。

「ぎぅ……ぐ、」
「ティア?」
「大丈夫、です、まだ、まだ……!!」

 スカイブルーの光が消えた。
 ティアはリリルに手を当て続けるが、何も起こっていないのは明白だった。
 とうとうティアの魔力が切れた。
 その絶望的な事実だけを、アキラは呆然と見ていた。

「嘘……だろ」
「大丈夫、です、さっきだって、こうやって、あれ。まだ、です、まだ!!」

 ティアはほとんど寝そべっていた。
 動かないのか身体を強引に起こすと、再びリリルに手を当てる。
 何も起こらない。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらティアは喚いた。

「何でですか!? さっきだってちゃんと、私、治したんです、治せるんです!! こうやって、ちゃんとやれば、治せるんです!! だから、だから、……やだ、やだよ。私、決めたんです、治すって、ちゃんとみんな治すって……!!」

 荒れた大地にティアの叫びだけが響く。
 魔術はまるで発動しない。

 考えろ。

 身体中が恐怖に支配される。
 だが、思考を止めるな。
 ティアの魔力が切れたなら、アラスールと合流して秘石を貰えれば魔力を回復できるはずだ。だが、そんな時間は残されていない。

 考えろ考えろ。

 せっかくここまで辿り着けたのだ。結末が変わらないなんて許せない。
 必ず救う。

 自分は―――ここに、こんな光景を避けるために来たのだから。

「…………。ティア」
「待ってください、まだです、まだ間に合います!! 諦めちゃだめです、だめ、だめなんです……!!」

 だが、アキラは諦めていた。

「遠距離攻撃。いよいよ俺に教えられなかったな」
「アッキー……?」

 考えてみれば、当たり前のことだった。
 彼女に師を頼んで、魔術の遠距離攻撃を習い始めてから1年。まるで進捗は無い。
 ティアの教え方が悪いと思っていたのだが、それは違ったらしい。

「は。俺が、悪かったんだな」

 そうだ。
 ティアの真似をして魔術を放とうなど、いくら時を費やしてもできるわけがない。

 ティアを脳裏に映すと、その姿は決まっていた。

「お前のその手の平は―――」

 敵を撃つために突き出されるものではなく。

「―――誰かを救おうと差し伸ばされるところしか、想像できない」

 身体中の魔力を暴走させた。
 騒ぎ立てるように、暴れるように。
 しかしそれは、荒々しくも優しく、自分とリリルの身体を包んでいく。

 初めて発動させる。
 しかし不安はなかった。
 この旅で、自分は幾度となくこの力に救われ続けてきた。
 これでやり方が分からないと言ったら、それこそティアに許されないだろう。

 日輪のおびただしい魔力は、その場総ての憂いを払うように、騒ぎ続ける。

 それは、最早蘇生の領域だった。

「“キャラ・スカイブルー”」

 当然のように、驚異の治癒魔術が発動した。

 その余波だけで、アキラの身体すら傷が癒えてゆく。
 足りないかもしれない。過剰かもしれない。
 不確かな魔力の量を、そのままリリルの身体にぶつけた。
 だがやはり、不安は全くなかった。

 しばらくすると、小さく、リリルの胸から鼓動を感じる。
 呼吸まで聞こえ出し、ようやくアキラは魔術を抑えた。

「アッキー。今のは……」
「当然だろ、お前の力だ。治らないわけがない」

 唖然としていたティアに、アキラは弱々しく微笑んだ。

「は、はは。アッキー」

 頭で響く、自分の声は、いつしか聞こえなくなっていた。
 決定的に違う道に足を踏みしたように、目の前の背中は消え去っていく。

「え、へへへ。あっし、お払い箱ですかね?」
「何言ってんだ」

 涙で濡らした顔を歪めて笑うティアに、アキラはまっすぐに向き合った。

「全部お前のお陰だよ。お前のお陰で、俺は、誰かを救えたんだ」
「ふぇっ、うぐ、ううぅうぅっ」

 ティアが泣きながら抱き着いてきた。
 いつもより僅かに高くなったような気がするティアの頭の向こう、飛んでくるラッキーの巨体が見えた。
 どうやら魔門の方も片が付いたらしい。

 異次元に迷い込んだようなこの依頼も、ようやく幕を閉じたようだった。

―――***―――

「……。…………あれからどれくらい経った?」
「今は明くる日の昼過ぎだよ。いや夕方かな。もう日が落ちてきた」

 目を開けると、ホンジョウ=イオリがベッドの横に座っているのが目に入った。
 いつもの魔導士のローブや制服のような姿ではなく、浴衣のような病人服を纏っている。
 しばらくそれを見つめていると、イオリは髪を触ってため息を吐いた。

「随分神経が立っているみたいだね。僕を見つけて開口一番それだ。もう大丈夫、ヘヴンズゲートに戻ってきているよ」

 イオリ曰く昨日。自分たちは魔門を破壊すべく辺境の樹海を訪れた。
 その帰り、ラッキーの背中に乗ったところまでは覚えているのだが、いまいち記憶が整理できていない。
 あの後自分は気でも失ったのだろうか。

「町に着いたところまでは覚えているだろうけど、それからの話はしておこうか。魔術師隊の宿舎に運ばれたときは、みんな半死半生でね。アルティアが秘石の力を使ってひっきりなしに全員診てくれたよ。何人かはまだ寝ているだろうけど、命に別状はないそうだ」

 ここは魔術師隊の医務室か何かなのだろうか。
 ヘヴンズゲートに着いたときは自分の意識はあったらしい。
 どうやら記憶の混濁が激しいようだ。
 イオリの言葉もまともに聞けなかったが、とりあえず全員無事であることだけは分かって身体を深くベッドに預けた。
 節々が強く痛むが、潰れた気がしていた左半身も人の形を保ってくれている。これもティアが診てくれたのだろうか。

「お前は? 何でここに?」
「ああ、一番僕が動けそうだったからね。見回りさ。アルティアも泥のように眠っていたよ」

 イオリが来たときに起きるとは随分とタイミングがいい。それともイオリが来たから目が覚めてしまったのだろうか。
 流し目でイオリの様子を見ると、左手は裾を通していないようだ。負傷しているのだろうか。

「ん? ああこれ? 大したことじゃないよ。魔族の攻撃が掠めてね」

 腕を上げようとしてみせて、それを止めたのが分かった。
 そういえば帰りに聞いた気がする。
 自分たちがリイザスと戦闘をしているとき、魔門の方でも魔族が出現したらしい。

「君らに比べれば全然だよ。でも、上手く魔力を温存できた。ラッキーが飛べなくなっていたら流石に誰かが命を落としていたかもしれない」
「魔族相手に温存、か。……相変わらず馬鹿みたいに強いな、お前は」
「……、ああ、そうだね。馬鹿だね、僕は」

 言い返されると思ったが、イオリは自嘲気味に笑うと、肩を落とした。
 夕日が差し始めた外からは、人々の喧騒が聞こえてくる。
 彼らは、つい昨日、このアイルークで何が起きたのかをまだ知らない。

「―――奇跡だよ、これは」

 ポツリ、と。イオリが言った。

「君は本当に、やって見せた。犠牲も無く、魔門を破壊してみせたんだ。もう、何だろう、言葉が思いつかないよ」
「……そういや、魔門破壊、任せっぱなしだったな、そっちに」
「今そういう話してないよ。まったく」

 イオリは柔らかく笑った。
 初めて見る表情かもしれない。
 彼女のこんな表情が見えるなら、命を捨てずに良かったと心から思った。

「魔門なんかより、魔王直属の魔族を倒したって? はは、信じられないとしか言えないよ」
「倒した……、か。あんなのはただのラッキーパンチだ。百回やったら百回殺される。千回の内の1回が、たまたま起こっただけだ」
「君は本当にそういう言い方をするね」
「ああ……。……。だけど、その1回を起こせた」

 思わず口から出た。
 せめてそう言わなければならない気がして。
 偶然だとしても、あのリイザス=ガーディランという魔族を上回った事実を否定することは、酷く失礼で、許されないことのような気がして。

「少し、変わったね」
「かもな」

 これは自分の変化なのだろうか。
 何もないと思っていたこの身体に、何かが宿っているのだろうか。
 いや、あの地獄を切り抜けた事実は、この身体に宿らせなければならないのかもしれない。
 そうでなければ、イオリと会話する資格が無いような気がした。

「……お前には、言っておこうと思う」
「? 何を」
「夢……見てたんだよ、今。多分、“一週目”の魔門破壊だ」

 それが夢なのか、記憶なのかは分からない。だが自分の記憶はどうやら解放されたらしい。
 解放を拒みたいほどの地獄がそこに在った。

「お前が止めた理由、ちゃんと分かった。あれは……地獄だな、本当に。誰がどこにいて、何をやってんのか分からない中で、目の前の脅威を凌ぎ続けて……気づいたら、失ってた」
「……ああ、そうだったね」
「そんな中に、今の俺が飛び込もうとしてたんだ。誰だって止めるだろう。悪かったな、イオリ」
「……」

 イオリは目を閉じた。
 全ての記憶を有する彼女が脳裏に映すのは、アキラの夢よりももっと生々しい、あの血と死の匂いが充満する戦場だろうか。

「思い出したなら……、少し話そうか」
「ああ、頼むよ」
「あのときの君は、信頼できる強さを持っていた」

 魔門の樹海に落ちてから、いや、もしかしたらずっと前からだったかもしれない。
 あのとき響いたあの声は、この身体に刻み込まれていた“一週目”の自分のものだ。

「だからね、あのとき君が魔門破壊に参加すると言ったとき、勝算はあると思っていたんだ」
「……それでも」
「ああ、失敗したよ。というより……失敗させたのは、僕だね」
「?」

 イオリの表情が、ずっと遠くにあるような気がして、見えなくなった。

「魔物がそれこそ吹き出すように現れてさ。全員大パニックさ。そのとき僕は色々考えることになったよ。魔導士として、どのように立ち回って、どのように被害を最小限に抑えるか。そして、導き出した結論は―――撤退。これ以上魔門を刺激しないように魔物だけを撃破して、あの樹海から逃げ帰ることだった」
「……それは、仕方ないだろう。そうしなきゃ、全滅してたんだろ」
「ああ、そうだね、きっと正しかったね。でも、多分、撤退とした決め手は……、君だった」

 イオリは弱々しく笑った。
 塗り替えられた歴史を紐解く彼女の瞳の色は、今までよりもずっと深かった。

「責任転嫁じゃないよ、僕のせいだってことは分かっている。あのときの君を見て、僕が撤退を決めたんだ。あのとき君が、死ぬ気になっているように見えたんだよ」
「俺が、か」

 無いとは言い切れなかった。
 過去の自分は、自分自身を完全に諦めていた。
 その結果として世界中から持て囃される勇者となったらしいが、自分の命すらどうでもいいと思い込んでいた。

「君が怖かったんだよ、魔門なんかよりもずっと。君を強引に撤退させたのは僕だ。その結果、リリルは……。だけど、僕にとっては―――ああ、誤解を承知で言おう、そんなことよりも、君を離脱させることを優先させたかったんだ」
「……そう、かよ」

 イオリを責める気持ちは当然まるで浮かばなかった。
 命を懸けて、いや、命を捨てて戦う自分をイオリは救ってくれたのだ。
 リリルが命を落としたという“一週目”の魔門破壊。
 イオリがいなければ、犠牲者が自分であってもおかしくはなかった。

「俺は―――自分の命なんてどうでもいいと思ってた」
「アキラ?」
「お前は言ったな、“一週目”の俺も、今の俺も、同じヒダマリ=アキラだって。確かにそうだったみたいだ。リイザスと戦って、それを強く感じられたよ、自分の中にいる、もうひとりに。やばい奴みたいだけど、そんな“声”みたいなのが聞こえたんだよ。そいつは、確かに……死ぬ気だった」

 記憶が無くとも、きっとそれはこの身体に染みついていて、溢れ出したのかもしれない。
 自分自身を諦め切ったヒダマリ=アキラも、自分のひとつの形として、確かに胸の奥にしまわれていた。

「でもさ、なんだろ。そいつの言う通りにやろうとしたら、今度は心の奥が、それは違うって叫んで、真っ向からぶつかって……。もう、聞こえなくなっちまった。は。何言ってんだろうな、俺は」
「……。そうか」

 自分は“一週目”、イオリとどんな話をしていたのだろう。
 彼女のことをどこまで知れていたのだろう。
 彼女に、こんな行き場のない感情を溜めたような表情を、浮かばせてしまっていたのだろうか。

「……あのときは、しばらく口も利いてくれなくなったよね。責めることすらしてくれなかった。それだけのことをしたと思っていたから、僕も何も言えなかったよ。だから、謝りたいと思っていた。ごめん」
「……そうだな」

 自然と口から零れた。
 イオリのせいではないと、他人事のように言うことは出来なかった。
 心の奥でくすぶる感情が、当事者のままならない感情が、あのときの心境を蘇らせてくる。

 ああそうだ、あのとき自分は、イオリのことを心で強く責めていた。
 だが冷静な頭に命を救われたと囁かれ、吐き出せない感情に酷く苦しめられていたのだ。
 まったくもって最低な男だ。

「君のことは信頼していた。……でもね、あの土壇場で、君なら切り抜けられると信じ切れなかった。魔導士としての判断を優先してしまった。きっと君のことを信頼はしていても、信用はしていなかったんだね、僕は」
「は……。それじゃあ逆だな、今と」

 本当に同一人物か疑いたくなる。
 過去も、今も、それぞれ何かが足りなかったのかもしれない。
 どちらも彼女たちへ向き合うために、必要なものなのに。

「?」

 力なく倒していた手に触れられた。
 目を向けると、イオリが両手で労わるように、アキラの手を握っていた。

「本当はもっと前にこう言って、そうしているだけで良かったのかもしれないね。でも、ちゃんと言う。今の君は、ちゃんと応えてくれたんだ」
「……イオリ?」
「ふう……」

 イオリは息を吸って吐いた。

「君のことは、信頼も信用もしているよ。世界中で誰よりも」

 まっすぐに見据えてくるイオリの黒い眼に吸い込まれそうになった。
 息を止めて見返していると、イオリは静かに手を放して髪を触る。

「さて。そろそろ行こうかな。それだけ言いに来たんだから」
「言いに来た……って、見回りは?」
「……そうだね、だから次に行かないと」

 立ち上がって背を向けたイオリは、傷を労わるように静かに歩き出す。
 その背中が、妙に小さく見えるのは、自分の気のせいなのだろうか。

「どうしたんだよ。お前大丈夫か?」
「大丈夫さ、ただ、何だろう。上手い言葉が見つからなくてさ」
「?」

 イオリは首を傾げながら、病室のドアを開ける。
 自分ももう少ししたら、みんなの様子を見に行ってみようか。

「……失恋。なのかな、これは」
「は?」
「お大事に」

 部屋を出る直前にイオリが漏らした言葉に、アキラは怪訝に眉を潜めた。
 どうやらまだまだ彼女について知らないことだらけらしい。

 外ではいよいよ日が落ちて、人が灯した灯りが浮かび上がり始めていた。
 彼らはまだ知らない。アイルークからひとつの脅威が取り除かれたことを知らずに、日々を刻んでいく。

 自信を持って言うべきなのだろうか。
 自分たちは、その脅威を取り除いたのだと。

 過去の自分が成し得なかった偉業。
 そこへ正面からぶつかった自分は、外から見ればキラキラと輝いて見えるのだろうか。
 それに応えるだけの光を、自分は放てているだろうか。

 眠気が襲ってくる。まだまだ回復し切っていないようだ。
 身体を深くベッドに預け、目を閉じる。

 過去の自分は、自分を捨てた。そうすることで、魔王の元まで辿り着いたという。
 だが今の自分は、その道にとうとう背いたのだ。
 そこに覚えるべきは不安か、あるいは自信か。

 道標を失った身体は、漠然とした浮遊感を覚える。
 思わず過去の自分を思い起こそうとして―――止めた。

 過去の自分がどんな道を歩んだとしても、今のアキラにとってそれは所詮、別の世界の物語に過ぎないのだから。



[16905] 第五十二話『神のみぞ知る』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2019/06/23 22:59

―――知り合いの魔術師から何か聞けたか?

―――あまり詳しくは。だけど、噂は嘘じゃないみたいだぞ。

―――お、おお。

―――魔王直属のか? ああ、そう言えば嘘だとは言っていなかったな、多分、本当の話だ。

―――はあああ。じゃあ本当にそうなのか。本当に魔門は破壊されたのか。それどころか魔王直属の魔族すら撃破したってのか。

―――おい。あんたら詳しいのか、こっちに来て聞かせてくれ、奢らせてもらう。

「ふ……。ふふ」

 エリサス=アーティは街の雑踏から聞こえるその噂話に、辟易していた。
 1本に結わいた赤毛を揺らし、胸に抱えた買い物袋をカサリと鳴らし、足取り軽やかに宿を目指す。

 まったく、いい年をした大人がこんな昼間から酒場に入り浸り、酒を呷り、通行人の迷惑も顧みずに大笑いをしているとは。
 偉大なる神様が現れる神門のある街だというのにみんな気を抜きすぎだ。
 いくら平和なアイルークだとはいえ、もう少し何とかならないものか。
 大体、魔王を討つという使命を持つ勇者様の話だ。今さらそんなことに目を丸くしているとは。

 エリーはさりげなく足を止め、店の前から事情に詳しいらしい男がいる席に耳を傾けた。

―――それで、結局誰だったんだ、新聞通り、ヒダマリ=アキラなのか?

―――俺はリリル=サース=ロングトンだって聞いたが。

―――魔門破壊はスライク=キース=ガイロードの専売特許だろ。

「む」

 魔門破壊に参加したのはヒダマリ=アキラとリリル=サース=ロングトンだ。間違えないで欲しい。
 厳密には彼と彼女は魔門の破壊には参加せず、より危険な相手と戦っていたのだが、あそこまで間違われるとむっとくる。

 あの魔門破壊から10日。
 その奇跡とも言える出来事はすぐに噂となり、ニュースとなり、世界中に広まっていった。
 今も語らう彼らは、その奇跡を起こした当人たちがこの街にいることを知らないだろう。
 魔門の場所は秘匿されており、噂の中心人物がこの街から魔門へ向かい、そして今この街で休養中ということも知らないだろう。

 そういう意味もあって、街のいたるところでそういう話をするのは控えてもらいたい。
 “あの男”が調子に乗ってしまうではないか。

 まあ、ただ、調子に乗ってもいいことを成し遂げたのは事実だ。
 うむ、とエリーは頷く。少しくらいなら、まあいいか。

―――いや、ヒダマリ=アキラとリリル=サース=ロングトンが参加したらしい。まったく、本当に話題に事欠かない勇者様たちだ。行く先々で奇跡を起こしている。

 うんうんと頷き、ギュッと買い物袋を抱きしめた。
 自分は変わったかもしれない。
 前は彼が話題になるたび、胸が締め付けられるような焦燥感に駆られていたのを思い出す。
 もちろん今もその感情は湧き上がるが、それ以上の誇らしさのようなものを覚える。
 頼りがいを覚えるというか、何というか、そう、楽しくなってくるのだ。
 彼が得たいと言っていた信頼は、きっと今、形になっている。そう思うと、自分のことのように喜ばしい。
 まあ、黄色い声援が混ざってくると話は変わってきそうだが。

 ひとしきり感心しきっている男たちを流し見て、エリーは預けていた壁から背を離した。
 そろそろ戻ろう。彼ら彼女らにその名を轟かせた勇者様の元に。

―――で、ここからが知り合いの魔術師に聞いた話なんだけど。

―――おお、どうした。

―――魔門を破壊したのは勇者様じゃないらしい。

 どよりとした空気が酒場から沸き上がった。
 エリーも思わず足を止める。

―――なんでも、ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師がやったそうだ。火曜の魔術師。エリサス=アーティって女性らしいけど。

―――え。アーティ、って確か前にも。

―――ああ、あの噂のな。まあ、血縁者かどうか分からない。

 流石に耳をそばだてた。魔術師に知り合いがいるらしいというあの男。本当に詳しい事情を聞いたらしい。
 エリーにしてみれば最後の最後、本当に少しだけ力を貸せただけだ。あまり貢献出来たとは思っていないのだが、噂を頼りにする彼らにとっては関係ないのかもしれない。

―――さすがに勇者様。そりゃ仲間も傑物揃いか。さぞかし優秀な魔術師なんだろうな。

 止めて止めてとエリーは顔も赤くしながら首を振った。
 通行人が不審な目で見てきているような気がしたが、気恥ずかしさからくるむず痒さを払うことを優先した。

―――ああ、そのことなんだが……。信じられないことにその女。魔門を殴って壊したらしい。

―――は、はは。そんな馬鹿な。そんな脳まで筋肉でできているような人間が……、いや、勇者様の仲間ことだ、本当かもしれない。

「…………」

 自分から笑顔が消えたのが分かった。
 そして忘れかけていた焦燥感が沸き上がってくる。
 この噂が広まろうものなら、自分の名前は意味を持つ―――女性として社会復帰できないレベルで。

「まずは噂を漏らした魔術師を探さないと」

 酷く冷静になり、エリーがゆっくりと顔を上げると、歩みを緩める通行人たちが震えた表情を浮かべて道を開かれていく。ついている。

 魔術師隊の支部までの地図を頭に描いた。
 そういえば、中央の大陸から来た魔導士が、話があると言っていた気がする。丁度いい。

 エリーは、一刻も早く悪しき噂の温床を叩くべく駆け出した。

―――だがこうなると、いよいよか。彼らもそろそろ“あの場所”へ向かうだろう。

―――ああ、そうなるか。ヒダマリ=アキラの噂、もう中々聞けなくなるだろうなぁ。

―――まったく、勘弁して欲しいぜ、中央の大陸様にはよ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「っはぁぁぁあああ……」
「ふ。いつにも増して楽しそうだね」

 ヒダマリ=アキラはべったりと机に張り付くように上半身を倒し、身体中から息を吐き出した。
 ここはヘヴンズゲートの魔術師隊の支部。
 医務室や会議室を通って奥まで進むと、誰かの趣味なのか古風な喫茶店を思わせるような休憩室があり、ここ数日アキラはここに入り浸っていた。
 それなりの資格を有する者たちの支部で、最初はそんな彼らに立場上色々と気を回されていたのだが、幾度となく足を運んでいるとそれなりに馴染んでくる。
 今では簡単な挨拶程度で奥まで通されるようになり、アキラにとってはこの街で数少ない憩いの場になっていた。

 コトリ、と目の前にカップが置かれた。僅かに甘い香りがする。
 アキラが座っているのは休憩室のカウンター席で、バーテンダーの位置に立っているのはホンジョウ=イオリ。
 彼女は憐みに満ちた顔でアキラを眺めると、差し出したカップを小さく指で弾いた。

「冷たい飲み物もいいと思ったけど、いい茶葉が売っていたんだ。疲労回復の効果があるらしい。ここのを使ってもいいと言われているけど、こう連日じゃ流石に悪い気がしてね」

 清潔さを印象づけるような純白のブラウスの上に、皴ひとつない紺のエプロンを身に着け、イオリは姿勢を正して微笑んだ。
 様になっている。そのまま奥の椅子に腰を下ろし、本でも開いていたら絵になるだろう。
 差し出されたカップに口を突けると、適温の液体が甘い香りと共に喉を潤した。

「お前お茶とか淹れられるのか。凄いな」
「茶葉があれば割と誰でもできることを褒められてもね。まあ、少し趣味にしたことはあるよ。どちらかというとコーヒーの方が好きなんだけど、この街だと見当たらなかった」
「コンビニとかあればな」
「まあ無いものねだりしてもしょうがないよ」
「イオリはあんまりコンビニ行かなそうなイメージあるけどな。なんか専門店ばっか行ってる感じする」
「……女子高生、舐めてる?」
「昔の話だろ」

 冷たい視線が突き刺さった。
 ここ数日、こんな話ばかりしている気がする。
 アキラがここを訪れると、イオリは決まってさりげなく奥に入り、あれこれと世話を焼いてくれ、時間がゆっくりと流れるような空間で話をする。
 元の世界の話が通じる人間は目の前のイオリだけだから、最初は新鮮さもあったのだが、今となっては雑談程度の感覚しかない。
 彼女が共に行動するようになってから色々と駆け足だったこの旅の中、こんな時間はなかったように思うが、今となっては昔の話だ、その頃彼女とどんな話をしていたか具体的に思い出せない。
 ただ、イオリの表情が、前より柔らかくなったような気はしていた。

「それで、今日はどうしたって。誰を撒いてきたのかな」
「さあな、多分どっかの町の魔術師か魔導士だと思う。道を曲がったらばったりだ。顔も割れてきたらしい。とにかく事情を聞かせてくれってうるさくてさ」
「はは、それでここに逃げ込んだのか。灯台下暗しって奴なのかな」
「ここの支部の人には目を瞑るように頼んでるから、ある意味一番安全だ」

 今、アキラは色々と悩まされていることがある。
 10日ほど前、自分たちは魔界へ通じるという魔門の破壊を成し遂げた。
 全員半死半生状態だったため、現在はこの街に留まり休養中なのだが、どうやらそれが良くなかったらしい。

 事後調査として、数多くの魔導士や魔術師がこの街へ押しかけたのだ。
 今までも大きな事件を解決してきたが、その場所に留まったのはこれが初めて。今までもそうした調査がされていたのだろう。
 破壊されても魔門の場所は秘匿であるため、事を大きくしないように民間人に扮して街に入ってきている彼らは、まずこの支部に情報収集の協力を仰いだらしい。
 そしてある者は魔門の跡地へ向かい、そしてある者は最も詳細な情報を持っているはずの勇者様を直接訪ねてきたのだ。

 本来、魔術師隊からの勇者様への過度な接触は禁じられているらしいが、魔門破壊、そして魔王直属の魔族の撃破ともなると話は違うらしい。
 結果アキラは、昼夜を問わず、事件の詳細を当事者の目線から幾度となく話す羽目となった。

「てか、魔術師隊は仲悪いのかよ。今日も前にした話を聞かれたぞ。俺はいったい何度同じこと言えばいいんだ」
「あそこまで無計画に情報収集するのは珍しい、というかまずないよ。だけど流石に事が事だ。魔術師隊の本部でも大慌てなんだろうね、アラスールも何度も報告を求められて辟易していたよ」

 愉快そうに笑うイオリの脳裏には、多方面から指示を飛ばされ、右往左往している魔術師たちの姿でも浮かんでいるのだろう。

 アラスールとは、魔門破壊に参加した中央の大陸の魔導士だ。
 この街に戻ってきてからアキラは姿を見ていないが、今頃彼女は報告書と向き合っているか逃亡しているかだろう。

「イオリ、そういうの得意そうじゃないか。手伝ってあげればいいのに。というか俺を助けてくれればいいのに」
「嫌だよ、僕は休暇中の身だ。……僕が何のためにこの支部に入り浸っていると思っているんだ」
「お前、最初からこうなると分かっていたのか」
「事後調査が盛大に行われるのはね。そのとき勇者様が旅立っていたら仕方がないけど、当人がいるなら聞いた方が早いのは当然の成り行きだろう」
「協力してくれよ……」

 数日前、とうとう噂は民衆にも広まったようだ。アキラを尋ねる者も増えるかもしれない。
 そう言えば最近、イオリが魔導士隊のローブを身に纏っているのを見ていない。
 この騒ぎを見越して民間人に扮していたのだろう。

「協力する気は起きないよ」
「イオリ……頼むよ」
「だって、これは嬉しい悲鳴だ。君が上げさせた世界の歓喜の声だ。君が得た―――信頼だ。静めさせる気は起きないな、僕自身が見ていたいから」

 からかわれているのかどうなのか分からなかった。だが、イオリの笑みは柔らかく見える。
 あの事件を超えて、自分は変わったらしいが、アキラはイオリにも変化があるような気がしていた。
 そう考えると、あの事件は自分たち全員に何らかの変化をもたらしたのかもしれない。
 そしてそれはきっと、悪いことではないのだろう。
 ひとりを除いて。

「……ところで」
「ん?」
「触れようかどうしようか迷っていたけど、流石に聞いてみるかな。アルティアも何か飲む?」
「いえ、今は任務中です。そしてティアにゃんです」

 アキラの背中からくぐもった声が聞こえた。
 普段背に下げている剣は今は無く、その代わりに青みがかった短髪の少女が覆いかぶさるようにぶら下がっている。

 アルティア=ウィン=クーデフォン。
 小柄な彼女はアキラの背中をよじ登って首に腕を回すと、おぶさった姿になってアキラの耳元に顔を出した。

「ティ……、ティア、さ、叫ぶなよ……。っ」

 こめかみに銃口を突き付けられている気分になって、アキラが震えた声を出すと、ゴン、と頭を打った。
 彼女は首でも傾げようとしたのだろう。
 背から降り、しばらく頭を押さえて蹲っていたが、しばらくするとやや不服そうにアキラの隣の席に腰を下ろした。

「まだ続いているんだね、それ」
「はい、油断はできません。というか、ちゃんとイオリンも目を光らせてください」
「で、何か飲む?」
「い、いえ、あっしはまだ、お仕事中でして」
「そうか、甘めのお茶もあるんだけど」
「……うう、イオリン、ずるいですよ。飲みたいです……」

 イオリは笑って別の茶葉の支度を始めた。
 アキラがため息交じりに隣を見ると、にこにこ笑っていたティアが思い出したように表情を正し、アキラを睨んでくる。笑わせようとしているようにしか見えないが。

 事が起こったのは一週間ほど前だろうか。
 魔門の地から戻り、アキラは身体中が砕けるほどの重傷を負っていた。
 しかしこの世界の優しさの最たる例である日輪属性の力。
 尋常ならざる治癒力で、アキラはすぐにベッドから起き上がれた。

 しかし、起き上がれただけだった。
 身体を労わるようにゆっくりと立ち上がったのだが、特に損傷の激しかった左半身の感覚がまるでなく、アキラは糸のように切れた人形のように倒れ込んだ。

 問題だったのはそのシーンをこのアルティア=ウィン=クーデフォンに見られたことだった。

 そのときのティアは凄かった。
 街中に轟くほどの大声で泣き、溢れんばかりの治癒をアキラの身に浴びせ、警邏をしていた魔術師隊が魔物の襲来と判断し、危うく多くの町に備わっている避難命令が住民総てに出されるところだったのだ。

 医学の道に明るい専門家を呼び、命に別条がないと診断を受け、ようやく事は治まったのだが、ティアは納得しなかった。
 アキラも負傷はしているものの気力だけはあり、何より他のみんなの様子が気になってベッドを抜け出そうとしたのだが、目を光らせていたティアに毎度のように見つかってベッドに戻された。
 そんなことを繰り返しているうちに、すっかり治った今も、ティアはアキラが部屋から出ると、必ずと言っていいほど行動を共にするようになった。
 街に繰り出し、人ごみに紛れそうになると、身体に張り付いてくる。目を離すといなくなるかららしい。
 魔術師や魔導士の調査から逃げるときなど、背負わなければならないほどだった。最早怪我人がやっていい運動量ではない気がする。
 リハビリには丁度いいのかもしれないが。

「なあティア。俺はもう治ったんだって。もう大丈夫だよ」
「いーえ。駄目です。あっし、もう分かったんです。アッキーは無茶するって知ったんです。あっしの目が黒いうちは、好き勝手出来ると思わないでください」

 ティアはふんす、と腕を組んだ。
 問答無用なようだ。
 彼女のことだから放っておけばすぐに飽きると思っていたのに、なかなか粘り強い。
 実はまだ身体の節々が鈍い痛みを発しているのだが、そんなことを口に出そうものならどうなるか。

 自分たちは魔門破壊を達成し、自分は信頼を得たはずだ。
 しかし残念なことに、ティアにとっては両親の仇のはずの魔門破壊などどうでもよく、逆にアキラは彼女の信頼を失ってしまったようだった。
 ままならない。

「ほら、アルティア。少し甘さを強くしてみたよ」
「ティアにゃんですけど? ……わわ、めっちゃ美味しそうです。あっし、見た目とは違って、実は甘いの好きなんですよ」
「今日一番笑ったよ。鼻で」

 猫舌なのか何度も息をカップに吹き替えるティアには、イオリの言葉は聞こえなかったようだ。
 そんな様子を見ながら、アキラはイオリに助けを求めるように視線を投げる。
 イオリは肩を落として首を振った。
 味方がいない。
 ティアの気を逸らせるようなことが見つかればなんとかなると思ったのだが。

「……そういやティア。お前背が伸びてないか?」

 ちびちびとカップに口を突けるティアを見ながら、アキラは何となく口にした。
 ティアはピタリと止まると、彼女にしては珍しく、無表情で首だけ向けてくる。
 言葉の意味が理解できていないようだった。

「え……。え。本当、ですか?」
「いや、気のせいかな……。なんか、その椅子、足ぶらぶらさせると思っていたのに、つきそうだし」
「え、え、本当に、本当にですか。わわ、あのときよりもですか?」
「あのとき? いや、よく分からないけど、なあ、イオリ」
「うーん。言われてみれば、だけど」
「そういえば最近測れていなかったですが……、え、え。わ、わ、あ、あっし、どうすれば」

 わなわなと震え出した。
 言って気づいたが、ティアが大騒ぎしかねないことだったかもしれない。
 だが、真に感極まると、彼女は動揺を隠せないらしい。
 恐ろしいものを見る目で、自分の姿をぺたぺたと触っていた。

「もしかしたらアルティアはまだ成長期なのかもね。きっとまだまだ成長するんだよ」
「お、おおお、おおおお、そう、そう、ですか。そう、ですよね……!!」

 すごい。呼び方を訂正しないほどティアが動揺している。
 これを上手く利用すれば悩みの種がひとつ減るかもしれない。
 アキラは何とかティアを持ち上げようと、記憶を呼び覚ました。

「そうだティア。やっぱり気のせいじゃないよ、成長してる。俺にしがみついてたときも、そう感じた」
「へへへ、そうですかそうですか。あはは、困っちゃいますよ」
「もしかしたらエレナの影響もあるのかな? あいつの近くにいれば、あんな風になれるんじゃないか?」
「なんと! やっぱりエレお姉さまのお陰ですか! ふふふ、それもこれも、エレお姉さまがあっしの足を掴んで振り回してくれたお陰です……! ああ、なんて感謝すればいいんでしょう」
「あぶ……、まあともかく、やっぱりエレナがいい影響を与えてるんだよ。育ってる育ってる。ほら、胸だって結構当たってたし」

 ティアの笑顔がピシリと凍り付いた。
 喜びに震えていた彼女の表情がすっと失せ、ゆっくりと自分の胸に手を当てる。
 そしてぎこちなく顔をアキラに向けたとき、彼女の顔は真っ赤に変わっていた。

「え……、あ、わ、わた、私、当てて、当ててて、た、たん、です、か」
「あれ。え、どうしたこの空気。お前ティアだろ、どうしたんだよ……!?」
「う、うわ、うわわわ、ごっ、ごめんなさーーーいっっっ!!」

 逃げるように駆けて行ったティアの悲鳴が木霊した。
 あの往来ですら平然と抱き着いてくるあのティアが、あそこまで顔を赤くしたところを見たことが無い。
 もしかしたら身長だけでなく、羞恥心というものも育っているのだろうか。
 仲間のエレナのことを思い描いたからだろうか、余計なことを口走ってしまったらしい。

 とりあえず、ティアの監視は逃れられたようだ。
 開け放たれたドアの外にはすでにティアの姿は無く、アキラは静かにドアを閉めて元の席に戻った。
 すると、目の前のイオリが、ジト目になって、口元を歪めてこう言った。

「最っ低」
「自覚している」

 また信用を失ったような気がする。
 ままならない。

―――***―――

 ミツルギ=サクラはこの一週間余り、とある課題に直面していた。
 普段身に纏っている赤い衣は背後の椅子に預け、借り受けた鉄さびだらけの作業着を身に纏っている。
 鼻に付く鉄の臭いは強いが、もともと好きな臭いだった。

 ここは共に旅をしているアルティア=ウィン=クーデフォンの実家。
 彼女の両親は鍛冶屋を営んでおり、店内には武具が並び、店の奥には鍛冶場もある本格的なものだった。
 この店の店主は魔門破壊で協力を仰がれた。今は目も眩むほどの大金を手にしているためだろう、店は臨時休業となっており、この鍛冶場だけよしみで貸してもらっている。

 この場所で、自分はやらなければならないことがある。

「はあ。どんな使い方をしたらこうなるんだ」

 目の前には、ヒダマリ=アキラが使用していた剣がある。
 タンガタンザで鍛え上げた魔力の原石を使用しているこの武具は、こと魔術においては絶対的な耐性を持つ。
 サクが理解している戦場の必須事項は、武具を失わないことだ。
 強力な魔術が飛び交う戦場では、魔力の原石以上に頼りになる武具の素材は存在しない。

 だが、あの戦闘が終わったこの武器は、見るも無残な姿になっていた。
 刃はいたるところが欠け、ひびが入り、少し力を込めただけでもバラバラに砕けそうなほど損壊していた。
 魔力の原石が、魔術の力でここまでになるとは。
 しかし、彼が立ち向かった敵を考えれば道理だともいえる。

 いや、むしろよく原形を留めていたものだ。
 留めてくれていたものだ。

「よく守ってくれた」

 毎日のようにここへ通い、鍛冶屋の店主であるティアの父に助力を仰ぎながらも、徐々に修繕されていくこの剣に、サクはいつものように呟いた。
 意図して口にしているわけではない。いつも自然に出てしまうのだ。

 サクの主君である“勇者様”。ヒダマリ=アキラは、魔王直属の魔族と死闘を繰り広げた。
 自分はその場に居合わせなかったが、その光景はこの武器が物語っている。
 中央の大陸の魔導士が居合わせたという正確性もあるのだろう、魔門破壊の方が先行して民衆に広まっているらしいが、魔門破壊に劣らず、魔王直属の魔族の撃破は異例中の異例だ。
 今までの伝説級の事件の解決とは毛色が違う。それは最早、魔王撃破すら視野に入ってくるほどの大手柄だ。
 世界中が何ら迷いなくヒダマリ=アキラを世界の希望と認識するだろう。
 裏を返せば、それだけの相手なのだ。

 首皮一枚で勝利を収めたというアキラ。
 もしこの武器が砕けていたら、アキラは間違いなく命を落としていた。
 そう考えると、身体中が恐怖で凍り付きそうになる。
 そして同時に、サクは思うことがある。

 アキラはまだまだ先の世界へ向かっていく。

 きっとこの先、成長を止めない彼は必ず直面するだろう。
 彼以外では飛び込むこともできない敵の中へ、彼以外では斬りかかることもできない敵へ、挑まなければならないときに。
 そのとき、彼が迷いなく剣を振るえるように、総てを整えておかなければならない。

 竈を熱し切った。サクは作業に入る。
 幸い、破損して失った魔力の原石は代わりがあった。
 魔門破壊で使用した魔力の秘石は、素材としては原石だ。すべてサクが預かってきている。
 すでにひとつは補修のために使い切ってしまっていた。

 サクは次に自分が使った金曜属性の原石を取り出すと、ふと、あの激闘が脳裏に思い浮かび上がった。
 魔力の秘石。魔力が限界まで詰まった魔力の原石。
 その膨大な魔力を、自分は一時的に使用した。
 あの感覚は利用者でなければ分からないだろう、無限にも思えるその魔力により、身体中総てが沸き立った。

 そして、見えたものがある。
 幼い頃に見た、遥か遠い夢。
 誰が笑おうとも、胸の奥で信じ込んでしまったあり得ない到達点。

 膨大な力を得て、まるで存在しなかった概念がこの身に降りかかってきたような感覚を味わったあの瞬間、ひとつの理想が姿を現した。
 今まで存在すら感じ取れなかったその世界が、霞がかりながらも、確かに認識できたのだ。

 そしてそれは、今までの、そしてこれからのすべての積み重ねの先にあると確認できた。

 サクは魔力の原石を溶鉄しながら、胸の高鳴りを感じた。

 アキラはきっと、今まで以上に過酷な世界に足を踏み入れるだろう。
 だが、そこには、必ず自分も飛び込んでみせる。

 課題は見つかった。
 あとはいつもの通り、惜しみない研鑽を積もうではないか。

―――***―――

「はい。私は魔門の方へは向かえませんでした。ですからそちらの方は詳しい話はできません。ですが聞いた話では、火曜の魔術師が魔門を殴り壊したらしいです。エリサス=アーティという女性ですね」
「そこだーーーっっっ!!!!」

 ヘヴンズゲートの大通り。
 まだまだ日も高く、平和な大陸らしく明るい顔を浮かべた人々が行き交っている。
 魔術師隊の支部へ向かう途中、エリサス=アーティは念願の人を見つけ出した。
 その見知った顔が目に入ったと同時、彼女の話し声が耳に入ったのだ。

 リリル=サース=ロングトン。
 オレンジのローブを身に纏い、見とれるほど白い肌を興奮気味に高揚させている彼女は、複数人の男女と会話をしていたようだ。
 エリーの剣幕に押され、男女はさりげなく距離を取って離れていく。おそらくあれは、話に聞いた民間人に紛れている他の町の魔術師隊の方々かもしれない。
 申し訳ないことをしたかもしれないが、今のエリーに気を回している余裕はなかった。

「あ、エリサスさん。こんにちは。お買い物ですか?」
「そうだけど、そうじゃないです」
「?」

 リリルはきょとりと首を傾げた。
 とても可愛らしく見える所作だ。

 だが、人は見た目によらないと言うように、目の前のリリルは我らがヒダマリ=アキラと肩を並べる世界的に有名な“勇者様”だ。
 10日前の魔門破壊でも、その力を存分に発揮したらしい。

「今あたし、魔術師隊の支部へ向かっていたんです。なにか良からぬ噂を流している魔術師がいるらしくて」
「え、なんてことを。私も行きます」
「でも違ったんです。魔術師隊の人じゃなかったです。犯人」

 やはり首を傾げるリリルに脱力していると、彼女は小さく微笑んだ。

「こうしてまともに話せるのも久しぶりですね。色々と質問や報告ばかりで会えませんでしたし。実は今、丁度エリサスさんの話を報告していたところだったんですよ」
「それなんですよ、それなんです。リリルさん、それなんですけど、」
「本当にありがとうございました」

 エリーの気苦労などまるで感じていないようなリリルは、はきはきと礼を言って頭を下げた。
 勇者様という立場もあるが、彼女がそうすると、まるで世界中の人々の代表の言葉を受け取ったようで息が詰まった。
 大げさな所作に、道行く人も歩みを緩やかにする。

「あなたのお陰で魔門が破壊できたと聞きました。私、ずっとお礼を言いたくて」
「え、ええ、でもあたし、ダメダメでしたよ」
「いえ、でもあなたがいなければ魔門は破壊できませんでした」
「あの、そう、それなんですけど」
「でも、本当にすごいです。魔門を殴って壊したなんて。やっぱり、鍛えているんですね」
「わあ! 面白い冗談を言うんですね!! そんなの嘘ですよー!! 嘘でーす!!」

 往来に響く声で火消しを行ったが効果はあるだろうか。
 余計に注目を浴びたように思え、エリーは酷い焦燥感に駆られた。
 これ以上広まろうものなら、自分はすぐにこの街を去らなければらなくなる。だが、世界中から注目の集まるこの事件の噂はどこにでも広がっていく。
 どこまで逃げればいいというのか。

「う、嘘? でも、私が聞いた話だと」
「あ、ああ! え、えっと……、エレナさんの話ですか? きっとエレナさんのことですよそれ! 殴り壊したの! エレナ=ファンツェルンって人じゃないですか!?」

 やや大きな声で思わず生贄を差し出してしまったが許して欲しい。
 話して分かったがリリルには悪意というものがまるでない。
 だから魔術師隊の方々の調査に、存分に付き合って事実を伝えてしまうのだろう。
 それどころか、魔門を殴り壊したことが栄誉なことだとすら思っている。
 それが女の子の話でもだ。
 事実、仲間のエレナがいなければ、魔門破壊は実現し得なかっただろうから、嘘というわけでもない。

「ふふ。謙虚なんですね」
「あ、あはは、違いますよ、エリサス=アーティはほとんど役に立ってなかったってだけですよー」

 言っていて悲しくなった。むしろ泣きたい。
 笑い事ではないが、とりあえず今はこの噂が収まればエリーとしてはいいのだ。
 ちゃんと―――課題も見つかっている。

「うーん。そうですか」

 リリルは眉を潜め、やや腑に落ちない顔をしながらも、これ以上悪評を広めることを止めてくれた。
 エリーは胸を撫で下ろす。

「でも、アルティアさんもそう聞いたと言っていたんですが……あれ?」
「ああ、あたし人捜しているんですよ、ちっちゃくてうるさい子供なんですけど、見かけませんでした?」

 もうひとり、もっとやばいのがその噂を知っていた。
 それどころか“破壊”を“殴り壊した”と言い換えたのは奴の可能性が高い。リリル同様その場にいなかったのに、いや、それゆえか、魔門破壊は彼女の頭の中でどう変換されたのか想像がつく。
 もし魔術師隊に質問を受けようものなら、あのお人好しは何度だって応じ、あることないこと織り交ぜて、大興奮で語るだろう。

 エリーが人ごみに耳を傾けるが、あの大声は聞こえてこなかった。

「ああ、それなら魔術師隊の支部へ行きませんか? 私もそこへ行こうと思ってまして」
「支部? いいですけど、なんでまた」
「もうひとり。お礼を言わなければならない方がいまして。あれからあまり話せていないんです―――アキラさんと」

 自分が浮かべていた笑みが少し引いたのが分かった。
 リリルはまるで大切なものでもしまい込むように胸に手を当てる。

「前にアルティアさんがお見舞いに来てくれたときに聞いたんです。アキラさん、普段は支部にいるって。勤勉な方ですね」
「え、そうなんですか」

 日中魔術師隊の質問から逃げ回っているとは聞いていたが、支部に行っていたとは。
 自分だってアキラとはあまり話せていない。
 色んな意味でリリルをここで見つけてよかったと思った。
 それなら最近アキラと張り付くように共にいるティアも一緒かもしれない。色んなものを同時に叩くチャンスだ。

「本当に、夢のような時間でした」

 歩き出しながら、リリルは小さく呟いた。
 その横顔に、エリーは息が詰まりそうになる。
 肌は白く、きめ細やかで、モルオールの雪山で見たキラキラと輝いた大地を思わせた。神は絹のようにサラサラと流れ、まつ毛も長く、整った顔立ちは、女性としても、あるいは生物としても美しい。
 それでいて、リリルは朗らかに笑うのだ。
 あどけなさがあるようで、しかし凛々しさも同居し、じっと見つめているとその瞳に吸い込まれそうになる。

 そして彼女は今、自分も詳しくは知らない、あのときのことを思い出し、興奮交じりに頬を朱に染めている。
 付き合いが短くとも、彼女はまっすぐで、その表情や言葉はすべて本心なのだと感じ取れた。
 だからこそ、かなりの危機感を覚えるのだが。

「魔王直属―――リイザス=ガーディラン。まさかあれほどの力とは。私も想像していなかったです」
「……本当なんですか。あいつがリイザスを倒したっていうのは」

 最初に聞いたのは誰からだったか。各方面から質問攻めに合い、この10日間はあっという間に過ぎたように思える。
 だから、本人の口から、まだちゃんと話を聞いてはいない。
 別に彼を疑っているわけではないが、相手は魔王直属だ。
 エリーは今まで、魔王直属の魔族と何度か遭っている。
 一番濃い記憶はあの死地での出来事だ。対抗できないどころか、勝負にすらならなかった。
 それと同格の化物を相手に、あの男は勝利を収めたという。

「本当ですよ。それも、私はほとんど手を出せませんでした。アキラさんは、本当に魔族を倒したんです」
「……でも、守ってくれたんですよね」

 ティアから聞いた話。
 リリルは、命を懸けてふたりの命を守ってくれたらしい。
 誰かひとり欠けていても、この未来には辿り着いていなかっただろう。

「お礼。あたしも言わないと。ありがとうございました」
「はい。でも、こちらこそです」

 彼女は屈託なく笑い、エリーの感謝を受け取った。
 そういうものなのかもしれない。そう在るべきなのかもしれない。
 きっと今、自分たちは世界中から感謝されている。
 それをまっすぐに受け取れるようにならなければ、この先に行ってはいけないような気がした。
 自分は、魔門を破壊したと、自覚を持とう。
 ただ、手段については、少し言葉を濁させてもらう。

「それに、危うく命を落とすところを、結局アキラさんやアルティアさんに助けていただきました」
「あ、そう言えばそんなことを……。あいつ、治癒もできるようになったって」
「ええ。……あ、そういえば」

 リリルがふっと笑った。
 そして少しだけ得意げな顔になって、エリーを流し見た。

「本当だったんですね、アキラさんが助けてくれたときのこと」
「?」
「ええと、その、気恥ずかしいですが、思いきり抱き締められたような気が」
「は?」

 自分のものとは思えない低い声が出た。
 リリルは顔を真っ赤にして、小さく震えながら歩みを進める。
 徐々に違う方向へ向かっているような気がしたが、止める気にはならなかった。

「ああ、駄目ですね、やっぱり。ちゃんとお礼を言わないと。ふふ」

 足が自然と早くなった。
 やはりしっかり話を聞かなければ。
 しかし、だが、少し怖い。あんまり深堀しない方がいいような気もしてくる。
 よく味わう感覚だ。
 これはよく、彼とイオリが話しているときに覚える感覚で。

「……あ」

 魔術師隊の支部。
 そこにアキラがいるらしい。だがそこには、まさしくそのイオリもよく足を運んでいる。
 この10日あまり、自分は彼とまともに話もしていないのに。

「リリルさん、急ぎましょう」
「え? ええ、はい」

 自分にとってかなり深刻な問題が進行していたとは。ようやくまとまった時間が見つかったからと言って、呑気に買い物をしている場合ではなかった。急がねば。

 ようやく見えた魔術師隊の支部。
 いつでも身も引き締まる思いになるが、今は物怖じしている場合ではない。
 エリーは早足の勢いそのままにドアを開けようとした、その直前。

 中から女性の悲鳴のような大声が聞こえた。
 聞き覚えのある声だ。

「! 誰かが襲われている?」
「……いや、分からないですけど、多分大丈夫な気がします」

 悲鳴の理由は分からないが、声の主の方がこの街で一番危険な存在だ。
 焦るリリルを落ち着かせると、エリーははたと考える。
 “彼女”に悲鳴を上げさせたなら、むしろ上げさせた方が危険だ。焦った方がいいかもしれない。
 どうせくだらないことだろうが。

 魔門破壊から10日。
 そろそろ戦場の空気も薄れ、各々いつもの調子に戻ってきているのだろう。

 魔門破壊という偉業を成し遂げたというのに、いつの間にか、いつも通りに、周囲は課題だらけになっていた。

―――***―――

「あーら、アキラ君。こんなところにいたんだ、誘ってくれないなんて酷いなぁ、探してたのに」

 エレナ=ファンツェルンが魔術師隊の支部の休憩室を訪れたのは、昼過ぎのことだった。

 フリルの付いた青のキャミソールを身に纏い、小さな紺のハンドバックを肩にかけているところを見ると、買い物でもしていたのだろう。
 長い髪を丁寧に編み込んで頭の裏で束ね、控えめな主張をしている宝石があしらわれた髪飾りが小さく揺れた。
 スタイルのいい彼女がそんな肌を露出した恰好をしていたらさぞかし目立つ買い物だっただろう。魔術師隊の質問責めは勿論、ナンパにも幾度となく巻き込まれそうに見える。
 しかしエレナはまるで疲労感を見せずに、鼻歌交じりにアキラの隣に行儀よく足をそろえて座った。

「それとも、逢引の邪魔しちゃったかしら?」
「やあエレナ、元気そうだね。ブラックリスト入りおめでとう。この前、負傷した他の町の魔術師が医務室で治療を受けていたよ。彼女に近づくなってうわ言のように言っていたよ」

 エレナの挑発のような言葉に、イオリは冗談であって欲しいような台詞で返した。
 アキラがびくりとしてエレナを見ると、いつの間にか彼女は机に膝をつき、イオリの反応に面白くなさそうな表情を浮かべていた。

「エレナ、お前何してんだよ」
「私だって最初はちゃんと説明してあげたわよ。でもあんまりしつこいから、あんまり来ないでくださらない? って頼んだの。……無事に故郷に帰りたいでしょう、って」
「一応僕には感謝してもらいたいな。もみ消したとは言わないけど、それなりに立ち回る羽目になったんだから」

 イオリがこの支部を離れない理由は単に逃げ回るためだけではなかったのかもしれない。
 こういう事態に備えてでもあるのだろう、主にひとりのためだけのようだが。
 やはりイオリは、自分の知らない間も色々と損な役回りをする羽目になっているようだ。
 労うとはいかないまでも、近いうちに彼女への感謝を形にしたいと思う。彼女の仕事が手伝えるとは思えないが。

「ところで店員さん。メニューは何があるのかしら?」
「そうだね。水、かな。お湯もあるけど」
「魔導士。あんた随分と優しくなったじゃない。ちょっと表で白黒つけましょうか」
「魔術師隊の支部ですら当然のように騒ぎを始めようとするから、僕はここから離れられないんだよ」

 物騒な雰囲気になったが、前に見ていた景色と、少し違う気がした。
 あの魔門破壊。自分は詳しくは知らない。
 大筋は聞いたが、彼女たちの中でどんなやり取りがあったのか分からない。

 だがこれはきっと、変化だ。
 自分の変化。自分が知っている変化。自分が知らない変化。
 それぞれが織り交ぜられ、形となって自分たちに降り注いでくる。

 その兆しを自分は感じ取った気がした。
 良くも悪くも、あの魔門破壊は、やはり、この“三週目”の物語の中で、大きな分岐点だったのかもしれない。

 この10日間、ただひたすらに身体を休め続けてきた。
 魔術師隊に追われ、何だかんだ、落ち着けることは無かったかもしれない。
 だけど、ようやく、実感できた気がした。

 自分たちは、乗り越えたのだと。

「……そういえばエレナ、よくここが分かったね。一番来ないと思っていたから、意外だったよ」
「そりゃ私だって来たくは無かったわよ。でもあのヨーテンガースの魔導士に見つかってね。アキラ君がいるって言ってたし」
「アラスールが? なんでアキラがいるって分かったんだろう、魔術師に聞いたのかな」
「あのガキに聞いたんでしょ、一緒にいたわ。なんか半べそかいてたけど。正妻と従者も探してるとか言ってたわ」
「……僕らに何か用なのかな」

 イオリが怪訝な表情を浮かべたと同時、エレナは思い出したように手を叩く。
 そしてくるりとアキラへ向き直り、にっこりと笑った。

「そうそう、アキラ君を探していたのよ。もう具合よくなったんでしょ」
「ん? ああ、まあな」

 何気なく左手を握ってみた。
 違和感がある気がするのは後遺症ではなく、久々に動きを思い出したからのような気がする。
 未だに原型を留めているのが信じられないほどの衝撃を受けたのだが、それだけティアの力や日輪属性の治癒力が桁外れだということか。

「じゃあさ、聞いたんだけど、ちょっと見せてもらいたいものがあるんだけど」
「?」
「治癒魔術よ」

 微笑むエレナの瞳が、一瞬だけ鋭くなったような気がした。
 彼女は時たま、美しさの裏に、こうした鋭さを見せる。
 薔薇の棘が光るように、周囲を伺い、警戒し、そして測るのだ。

「いい加減この街にいるのも退屈でしょう。そろそろ旅に戻る頃合いよね。それで次は? どこへ行くにしても、このままアイルークで旅を続けられるなんて甘っちょろいこと考えてる奴いないわよね」

 空気が一変した。
 イオリの気配も鋭くなったように感じる。

 アイルークは世界の大陸の中で最も“平和”な大陸だ。
 この大陸に戻ってきてから数多くの試練があったとはいえ、それは所詮、例外中の例外だ。
 この大陸に留まっても得るものなどほとんどない。

 エレナは知っている。理解している。
 自分たちが向かうべきところを。

「魔門破壊は成功したわ。でも分かってるはずよ。いくら世界的に例を見ないことだとしても、それは“通行許可証”に過ぎないってね」

 試練を乗り越えた者には、それ以上の試練に挑む権利と義務が生じる。
 大きな山場を乗り越えても、ここが終点ではないのだ。

「だからより詳しく知っておきたいの。あんたらの力を。まずはアキラ君からね」

 鋭く光る棘は、視線となってアキラに刺さってきた。
 彼女は自分のことを単純だと言っていた。だからきっと、単純に、先の先を見ている。

「成功したとはいえ、全員課題が見つかっているはずよ。……私もね。魔導士ちゃんに後で話があるわ」
「……ああ。僕でよければ」

 最も警戒心が強いという木曜属性の魔術師。
 だからこそ、彼女の話は真摯に聞くべきだ。
 だが、問題がある。

「……いや、できるかどうか分からないんだけど」
「え? そうなの?」

 アキラは自分の手のひらを見た。
 記憶はある。
 感覚もなんとなくは覚えている。
 だが、あのときは必死で、限界を超えたその先の自分がやったことだ。
 この10日間、試そうと思いもしたが、不審な挙動を取るとティアが即座に止めてきたから結局何もできていない。

「まあいいわ。とりあえず試してみましょう。私相手なら何が起きても何とかなるわ」
「うーん」

 そういう意味であればエレナは適任だろう。
 魔門破壊が終わり、かなりの重傷を負ったと聞いたが、彼女は嘘のように元通りだ。
 あまり人のことは言えないが、どういう身体の構造をしているのだろう。
 傷だらけで負傷していると聞いたときは焦って見舞いへ行こうとしたが、その前に逆に見舞いに来られたほどだ。
 肌を露出した服を纏っているのに、彼女の肌は傷やシミひとつなく、いつも通りに輝いて見えるほどだった。
 しかし、あの治癒魔術をするとなると。

「じゃあやって見せてよ」
「……でも、なあ」
「ほーら。遠慮しないで」
「いや、問題はそれだけじゃなくて。それに、あのときは必死だったんだよ」
「……あ、いった。身体中痛いわ、後遺症かも。だめ、私、死にそう」
「エレナがここまで言っているんだ。助けないと。アキラ、試してみよう。僕も見ておく必要がありそうだ」

 わざとらしいエレナの演技に、イオリも乗ってきた。
 だが言われていることはまさしく正論。持っているカードも分からずに旅を続けるのはこの先の世界が許してくれない。
 覚悟を決めよう。

「……分かったけど、邪推しないでくれよ。エレナ、立ってくれ」
「? ええ、こうでいい?」

 椅子から降り、エレナと正面で向かい合った。
 スタイルの良さから分かり辛いが、意外と彼女は小柄な方だ。
 エリーとサクの中間程度で、イオリよりは僅かに背が高い。
 腕を回せば彼女の額が丁度口元にくる。

「ちょ、ちょっと。アキラ君?」

 更に近づこうとしたら、胸に両手が当てられた。
 アキラはエレナに回そうとした腕をピタリと止める。
 止めて欲しい。自分は雑念を振り払うのに精いっぱいなのだから。

「え、えっと、治癒魔術よね。え、なに。何で抱き付こうとしているの」
「だから邪推しないでくれって。俺だってやり方分からないんだよ。でも、あのときはこうやって」
「あの。ほら、私結構歩いてきたし、ね。汗かいてるかも」

 さんざん言われてやる気になったのに、急にエレナが難色を示した。
 汗をかいているようには見えない。
 アキラが少し不服そうな顔をしてじっと見ていると、エレナは口元をきっと結んだまま沈黙したのち、観念したようにゆっくりと息を吐き出した。

「ちょっと待ってね」

 エレナは身を離し、さりげなく服を払った。
 スカートのポケットからハンカチを取り出し、優しく叩くように肩を拭いて、ついでのように身なりを整える。
 アキラの目からは何も変わっていないように見えた。
 こほりと可愛らしく咳払いをすると、呼吸を整えてアキラに向き直ってくる。

「じゃ、じゃあ。まあ、やってみましょう」
「お、おお」
「……え。僕はなんでこんなものを見せられているんだろう」

 だから乗る気ではなかったのだ。
 エレナのような理想の女性と密着できるのは本心から言えば嬉しいが、真面目な雰囲気だったから遠慮したかった。
 再びエレナに近づくと、彼女に優しく腕を回す。エレナが硬直したのが分かった。
 甘い香りが鼻孔をくすぐる。妙な気分になってきた。

 だが、アキラは再び雑念を振り払う。
 そして思い出す。あのときの自分を。

 自分はただひたすらに必死だった。
 目の前の光景を避けたくて、死に物狂いであの魔術を発動させたのだ。

「……ぁ、ちょっと、ア、アキラ君。……強い」

 力加減は存在しない。
 “彼女”はいつだって全力で、目の前の人を救おうとする。
 自分の持て総てを注ぎ込み、足掻き、望んだ世界を手に入れようとする。

 だから自分もそれに倣おう。
 自分の命を幾度となく救ってきた日輪属性の治癒力を、この瞬間に、彼女のように―――アルティア=ウィン=クーデフォンのように爆発させる。

「……っ、ちょ、これ、ア、アキラ君!? えっ、やばっ、ま、魔導士!!」
「アキラ、止めろ!!」

 ああ、思い出した。自分はこうやって、誰かを救えたんだ。

「キャラ・スカイブルー」

 直後、休憩室が日輪の色一色に染まった。
 窓から零れた強烈な光は、外の太陽と混ざっていく。

 アキラは身体中に活力が漲るのを感じた。あのときもそうだった。
 この治癒魔術は、術者の傷すら癒していく。
 だから自分は今も生きていられるのだろう。

「……できた」

 魔術は完全なものとして発動した。
 身体の鈍い痛みはより静まっている。
 生死の境を彷徨っているような相手には絶大な効果をもたらすようだが、健常者に対してはそこまでの効果は見込めないのかもしれない。

 だが、少し魔力の消費が激しいようにも感じた。
 魔力切れとまではいかないが、自分が瞬間的に出力できる最大値は持っていかれたような気がする。
 あまり乱発はできないということか。
 エレナの言う通り、試しておいてよかった。使いどころを見極めなければ。

「エレナ、できたぞ。身体はどうだ? ……エレナ?」

 いつしか強く抱きしめていたエレナは、アキラに力なくもたれかかったまま動かくなっていた。
 心臓の鼓動や荒い息遣いは感じるが、揺すっても反応がない。
 アキラがぎくりとして顔を上げると、イオリが軽蔑の眼差しを向けてきていた。
 この冷たい視線はいったい今日何度目だろう。

「エレナの悲鳴は聞こえなかったのかな。それに止めろって言ったよね」
「……あれ? エ、エレナは大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思うよ。悲鳴というか……嬌声というか」

 胸の内のエレナの身体は痙攣するように震えていた。
 身体が動かせない。
 我に返ったアキラは、エレナの身体の感触が伝わってくる。
 熱を帯びた柔らかい身体に密着され、アキラは身動きが取れなかった。

「何とかしたら。自分で」

 助けを求める視線を送る前に、イオリから拒絶された。
 酷く冷たい。

 そして、しばらく硬直していると。

「失礼しま……ひぅっ、」

 休憩室の扉が開かれた。
 入ってきたのはリリル=サース=ロングトン。
 エレナを抱きしめたままのアキラを見て悲鳴を上げると、目を隠してうつむいた。

 そしてその後ろ。
 エリサス=アーティが、無表情のままアキラと動かないエレナを見比べて、様子をうかがっている。
 思わずイオリに視線を送ると、彼女は我関せずと言った様子で本を開き、アキラが思い描いた絵面を作り上げていた。
 復活したのか、腕の中のエレナにも肩を弱々しく掴まれる。

 本能的なものか、今までの旅の経験からか。
 なんとなく、怒られるような気がしていた。

 味方がいない。見せてみろと言われたからやっただけなのに。
 頭がおかしくなりそうだった。

「はぁい、お久しぶり。また賑やかなことやってるみたいね」

 それは、救いの神様の声のように聞こえた。
 しかし同時に、日常で鈍った感覚を刺激するような鋭い気配を拾う。
 何らかの挙動を見せようとしていたエリーとエレナも動きを止める。

 廊下の向こうから、コツコツと足音が近づいてきていた。
 それに続く気配も感じる。複数人いるようだ。

 アキラは慌ててエレナを立たせると、その来訪者をじっと待った。
 聞こえ覚えのある声だ。
 この街で幾度となく耳にした。
 日常にいることを良しとはしない、戦場の臭いを伴う不思議な声。

「やっぱりここの方が集まる確率は高かったわね、エリーちゃんたちもいるなんて。全員すぐに集まったわ」

 扉の前に姿を現したのは、魔門破壊にも参加した中央の大陸の魔導士―――アラスール=デミオン。
 10日ぶりに見る彼女は、あのときと変わらず、飄々とした態度と凛とした固い気配を伴っていた。

 その後ろには、サクやティアも見える。彼女に連れてこられたらしい。
 アラスールが集めたとなると、また厄介事を持ってきたのだろう。
 彼女の存在自体、この平和なアイルークにとっては異物中の異物だ。
 彼女は―――戦場を知っている。

「ま、とりあえず久しぶりの再会を喜びましょうか。イオリちゃん、私にも何か淹れてくれる?」

 水かお湯で帰るような客なら、イオリはすぐにでも準備していただろう。

―――***―――

「魔力の好み?」
「そうね。まあ占いみたいなもんだけど。ほら、水曜属性は土曜属性に惹かれる、みたいな。まあ、弱点の属性と違ってあんまり知られていないけど」

 エリーはアラスールと共に休憩室の奥のテーブルに座りながら、ぼんやりと周囲を流し見た。
 みな思い思いのところに座っているが、気になるのは店員のような役回りになっているイオリだ。エリーの憧れの資格を持つ魔導士様にそんなことをさせるのは酷く申し訳ないような気がする。
 だが、妙に様になっていて、邪魔するのもはばかれた。その上、エリーの目の前にいるのも、同じく魔導士なのだから動きが取れない。
 最重要課題の男は、自分の隣に座っているから、問題ないと言えば問題ないのだが。

「でも、弱点ってことじゃないのか? エレナは“不慮の事故”で身動き取れなくなったんだけど、結局日輪の力の影響が強かったってことだろ?」
「どの口が」

 事情は聞いたが、それゆえに、エリーは物凄くやりきれない気持ちになっていた。
 あのエレナが、治癒魔術を浴びただけであんな悲鳴を上げるとは。
 その本人は今、信じられないことに顔を真っ赤にして奥の椅子に蹲るようにして座っている。

「うーん、弱点というか、ちょっとニュアンスが違うのよね。例えばそうね、エリーちゃん。木曜属性の魔物と戦うとき、ちょっと気分良かったりしない?」
「そうですね、うん、まあ」
「そりゃいいだろうよ。気持ちよさそうにぶん殴ってるもんな」
「今あたし、その表現に過敏なんだけど」

 アキラに睨みを利かせ、エリーは記憶を辿る。
 確かにそんな気分になることはあった。

「てか、火曜は木曜に強いんだろ。当たり前じゃないか?」
「そうね。でも、やっぱりそれだけなのかな。戦いやすいというより、やる気になる感じはするかも」
「例えが悪かったわね。じゃあサクちゃんにしましょうか。ねえ、火曜属性の魔物と戦うとき、やりやすかったりしない?」

 カウンターに座っていたサクは、真面目にもアラスールの言葉に記憶を掘り起こしているらしい。
 金曜属性と火曜属性の強弱の関係は無い。

「そうだな……。多少、程度だが。前にタンガタンザで火曜の“言葉持ち”と戦ったことがあるが……、そんなような気もする。……うーん」
「ま、言われてみれば、って感じでしょうしね。人にもよるし。そんな感じよ、好みの属性ってのがあるの」

 エリーは頭の中で各属性の相関を思い描いた。
 試験勉強中、自分のノートに綴った5属性は、綺麗に強弱が記されている。
 だがアラスールの言う“好み”は、それとは違う軸で存在するのだろう。

「本当に占いみたいだけど、元の発祥は魔物の習性の調査からきているからある程度の信憑性はあるわね。で、エレナちゃんの話に戻るけど、見た感じ、苦手な力を浴びたというより、好みの力を過剰に受けたから、って感じなのよね。特定の魔力に敏感、って感じかしら」

 それであのエレナがああなるのか。
 聞こえているのかいないのか、エレナは小刻みに震え、時折顔を上げようとしているが、それも叶わないようだ。
 医務室に運ぼうとしたのだが、涙目で断ったエレナに、胸の奥でドキリとしたのは内緒にしておこう。火曜は木曜に惹かれるというのも案外嘘ではないのかもしれない。

 そんなエレナの様子を尻目に、隣の男は呑気に自分の手のひらを眺めていた。
 女性にとってかなり深刻な様子のエレナに同情しつつ、エリーはイオリが淹れてくれた茶を啜った。
 程よい温度で、甘くて美味しい。

「木曜は水曜を好むらしいけど、特に日輪を好むのかしらね。いや、それとも他にもあるのかも。ねえ、勇者様。まだ余力あるならもっと試してみない? 日輪属性の相関関係なんて、まず調べられないもの」
「論外です!! あんたもよ。その魔術、加減できるようになるまで禁止だから」
「わ、分かってるよ」

 殊勲にも、アキラは本当に分かっているようだった。
 それどころかエレナが完全に復活したら自分はどうなってしまうのかと震えている。
 からかっていたのか、アラスールはくすくす笑っていた。

「でも、それだと困りますよね。加減しようにも、練習もままならないとは」

 口を挟んできたのは隣の席に座っているリリルだった。
 実に下らない問題でも、彼女は真剣に問題に向き合っている。
 しかし、確かに彼女の言う通り、この先の旅を考えれば治癒担当を増やすことは急務なのだ。
 ティアがいれば当面は問題ないかもしれないが、今回の魔門破壊のように二手に分かれることもあるかもしれない。
 事実、致命的になりかねない場面もあった。

「……うん。アキラさん、私が協力しましょうか? 多少なら耐えられると思いますが」
「月輪が一番日輪に惹かれるって噂あるんだけど、試してみる?」

 エリーが口を挟む前に、アラスールが囁いた。
 リリルは硬直し、ゆっくりとアキラと、そして未だうつ向いたままのエレナを見比べ、顔を伏せて深々と座った。
 エレナには悪いが、あんな悲鳴を上げる羽目になるのは女性としては避けたい。

 エリーはじっと考える。自分はどうだろう。
 興味は、それは、まあ、多少はある。
 だけど流石に羞恥心というものが先行してしまう。

 アキラが頭を抱えている向こう、リリルは口元をもごもごと動かしながら机の一点を見つめていた。
 彼女もそういう感覚なのかもしれない。
 試してみたいが、勇気が出ない。
 そこでふと、いい案を思いついた。

「あ。その魔術の責任者に頼みましょう」
「そうか。そうだな、ティ、ア……」

 アキラが顔を向けた先、エリーは、珍しいものを見た。
 エレナの隣に座り、ふかー、と、威嚇している猫のような様子のティアは、アキラを警戒するように見つめていた。
 何があった。自分の知らないところで何かが進んでいる。
 エリーは苦肉の策で他を探すと、サクはあからさまに視線を逸らしていた。
 主君の問題だというのに、あの従者様は関わらないことを決めているらしい。

「それじゃあ仕方ないわね。一応魔術の耐性が高いのが売りだし、イオリちゃんに頼んだら?」
「アキラ。僕にやったら、本気でキレるよ」

 イオリにしては珍しい乱暴な言葉。
 彼女はエレナの惨状を最前列で見ていた人物だ。それほどだったのだろうか。

 気を利かせてお代わりを持ってきてくれたらしいイオリは、アキラに冷ややかな視線を浴びせかけると、アラスールの前にカップを置いた。

「課題はともかく、アラスール。今日はそんな話をするために来たんじゃないだろう。僕たちを集めて何をするつもりなのかな」

 そもそもアラスールは街を周って自分たちを集めていたらしい。
 彼女はまた、何か依頼を持ってきたのだろうか。

「ふふ、せっかちね。久しぶりにお話でもしたかったのは本当。でも、確かに依頼もあるわ。あなたたち7人を集めろってね」

 部屋の視線がアラスールに集まった。
 エリーはごくりと喉を鳴らす。
 魔導士の依頼。それも中央の大陸のだ。
 また自分たちに、魔門破壊と同等以上の試練が降りかかるのだろうか。

「ちょっと話を聞かせて欲しいって頼まれてね。まあ、すぐに済むとは思うけど」

 肩透かしを食らった気分になった。
 結局彼女も情報収集をしている魔術師隊の方々と同じなのだろう。
 とすれば本当の狙いはアキラたちか。
 アラスールは魔門側にいたから、アキラたちが戦った魔族の方の情報を求めているのかもしれない。

「また魔術師にかよ。何度同じ話をすればいいんだ」
「あ、それなら私が説明します。お任せください」

 アキラはもううんざりしているらしいが、リリルは律儀にすべてに応えてきている。
 彼女に任せれば悪いようにはならないだろう。
 下手に魔門破壊の方に話がいったら、表現を改めさせることを忘れないようにしなければ。

「ううん、相手が違うわ。だからわざわざ私自身にあなたたちを集めるように依頼したのね。この街からすれば部外者なのに」
「?」

 アラスールはイオリのお茶に手を伸ばし、口に運ぶ。
 ゆっくりと机にカップを戻したときには、あの戦場を思い起こさせるような、日常と異常が混ざり込む、鋭い気配を伴っていた。
 彼女は、魔導士として発言する。

「ヒダマリ=アキラの七曜の魔術師。およびリリル=サース=ロングトン。重要な伝達があるわ。本日夕刻、“神王”の招集に従い、新門に集合してください」

 理解が追いついたのは、アラスールが元の表情に戻ってカップに手を伸ばしてからだった。

―――***―――

 神のみぞ知る。

 そういう言葉がある。
 アキラが思うにその表現は元の世界で、結局は運任せであるという意味だ。
 人がどれほどの才を持って生まれ、人がどれほどの研鑽を積んだとしても、どのような人生を歩めるのかは結局のところ分からない。
 アキラの目には眩いばかりにキラキラと輝いて映る彼ら彼女らですら、過去や今を輝かせられるだけで、来年、明日、あるいは1秒先のことだって、未来のことは分からないのだ。

 この世界においては、それはより具体的な意味を持つ。
 その、人の手が届かに領域を意味する存在が、“実在”するのだ。

 いずれにせよ、人の領分を弁えさせられる言葉であるということは、どこの世界でも変わらないということか。

 ヒダマリ=アキラは、仲間たちと共に延々と長い階段を上っていた。
 そり立った高い岩山にむき出しで形作られている階段は、中ほどまで登るとヘヴンズゲートの街並みが一望できる。
 筆舌し難い絶景ではあるのだが、それよりも、昇った先にまさしく神々しさを感じる美しい白い巨大な門が強烈に目を引き付けてきた。
 日も落ちてきて、吹き下ろしの風が身体を打つも、不思議と身体は高揚し、足は前へ前へと突き動かされる。

 あの先に、この世界を統べる者がいるのだ。

「良かったんでしょうか。私も来てしまって」

 そう言いながらも、胸を張り、実に堂々と隣を歩くのはリリル=サース=ロングトン。
 透き通るような白い肌を晒し、見ているだけで吸い込まれそうな瞳をまっすぐに白き門へ向けていた。
 彼女ひとりが昇っていれば絵画にでもなったかもしれないが、生憎と、後ろをぞろぞろと挙動不審な連中が付いてきている。

「呼ばれたんだからいいじゃないか。多分、魔門破壊の話だろ? 参加メンバー呼び出しくらった感じだろこれ」
「ふふ。呼び出しなんて、酷いですよ。でもそれならアラスールさんも召集されるはずですよ。それなのに彼女は下に残っています」

 表情がコロコロ変わる。
 微笑んで、思慮深げに顎に指を当てたリリルは、ちらりと背後を伺った。
 ヘヴンズゲートの平和な街並みを見て、彼女はまた、心安らぐように微笑むのだ。

 ちなみにアキラは振り返る気になれなかった。
 ガチガチに緊張しているエリーや、一言も発さずについてきているエレナを、この高い階段の上で刺激する気にはなれない。

「そりゃあ、な。証、だっけ、神様に逢うのに必要とかいう」
「ええ、そうです。でも、月輪の勇者に証なんて存在しませんし」
「それを言うなら俺たちだって、7人集まってないんだぞ」
「うーん?」

 神聖な雰囲気を壊すことを厭わない彼女は、子供のように可愛らしく首を傾げた。
 うちの預かっている子供は今、エリーと共に緊張しながら付いてきているようだ。幸運なことに大人しくしていてくれている。

「あ、もしかしたら私が月輪の魔術師として数えられているのかもしれませんね。だから、でしょうか」
「それは……、そう、なのかもな」

 何かを言い返そうとしたが、途中で言葉を失った。
 ホンジョウ=イオリは言った。
 リリル=サース=ロングトンは、ヒダマリ=アキラの最初の月輪の魔術師だと。
 “一週目”。
 自分と彼女の間にどんなやり取りがあったのかはもう思い出せない。
 彼女を失った自分は、彼女とどのように接していたのだろうか。

「……迷惑、じゃないか」
「え?」
「リリルは勇者だろ。それなのに、俺の魔術師に数えられて、さ」

 そんなことを言ってしまった。
 彼女がどれだけの想いの強さで勇者を名乗っているか。一端だけかもしれないが、自分は知っている。
 リリル=サース=ロングトンという存在は、確かに魔王に辿り着ける力を、そして意思を持っている。
 月輪の魔術師として、彼女はあまりにも分かりやすく目の前に現れてくれたのだ。

 しかし、今の自分が、なまじ知識を持っているからだろう。
 何も言えなくなってしまう。

 あの最悪に辿り着いた月下で。最後に見た“彼女”は、泣いていた。

「さあ、どうでしょう」

 リリルは、悪戯でも思いついた子供のような表情でそう返してきた。
 彼女にしては珍しく、そして、やはり吸い込まれそうな妖艶な表情だった。
 その意図をくみ取る前に、リリルは、すぐまたいつもの微笑みを浮かべ、白く巨大な門を眺める。

「アキラさん。お礼、まだ言ってなかったですね」
「礼? って何を」
「ふふ。そう言うんですね。私の命を救ってくれたことですよ」
「あ。俺こそだ。リリルがいなかったら普通に死んでた。助かったよ、本当に」
「……先に言われちゃいました。私こそです。ありがとうございました」

 そう言って、リリルは静かな表情でアキラを見つめてきた。
 夕日が映る彼女の頬や眼は朱に染まり、美しく輝く。
 感情がすぐに表情に出て、分かりやすい女性だとアキラは思っていた。
 だけど今、月の満ち欠けのように、時に鋭く、時に妖しく、時に優しい彼女の感情が、アキラには分からなくなった。

「なんとなく思うことがあるんです。今回の魔門破壊。アキラさんがいなければ、私死んでました」
「だから俺こそだよ。リリルがいなきゃ、」
「いいえ。上手く説明できませんが、感じるんです。アキラさんは多分、いえきっと、私がいなくても乗り越えていっただろうな、って」

 歩みを続ける彼女の姿が、壊れそうなほど小さく見えた。
 肩が触れるほど近づくと、ようやくアキラは距離感を思い出し、僅かに身を引いた。

「弱音、聞かれちゃいましたよね。ぼんやりとですが覚えています。魔王を倒す、世界を救う、なんて言いながら、私はきっと、死ぬ場所を探していたのかもしれません」
「おい」
「怒らないで聞いてください。こんなこと言えるの、アキラさんだけなんですから。それに、アキラさんにはもう叱られています。あのときほど、自分の限界を感じたことはありませんでした。それどころか勇者なのに、自分のことよりもあなたの無事が心の底から嬉しかった」

 いつもはきはきと喋る彼女の声が、とてつもなく聞き取りにくかった。
 いや、この耳がその音を遮断していた。
 だが、それは聞かなければならないような気がする。
 彼女が弱さを見せてもいいのは、世界中で自分だけなのだろうから。

「だから、例え神様が違うと言っても、私は思います。あのときの私は、確かにヒダマリ=アキラの月輪の魔術師でした」

 気づくと彼女は、いつものように胸を張って歩いていた。

「覚えていますよ、アキラさん。忘れられません。私はあなたに叱られて、どうなるか分からない未来への不安が晴らされたように思えるんです」

 あのとき。
 自分たちは、必死だった。
 目の前のことにただただ全力で、ひた向きに前進した。

 未来という領域には、人の手は届かない。
 理不尽な不運や不幸に襲われ、積み上げたものが突如として崩されることもあるだろう。
 来年、明日、1秒先。今までのすべてが否定されるときが来るかもしれない。

 だから、人は問われる。
 総てが無に帰すかもしれないが、今この瞬間に、必死になれるかと。

「まだまだ私も精進しないと駄目ですね、月輪の勇者なのに、今でもあなたの言葉を支えにしています」

 リリル=サース=ロングトンは、愉快そうに朗らかに笑い、そして、夕日に染まった顔で呟いた。

「私の人生は、ハッピーエンドになるんだって」

 自分の気持ちに素直になれば、答えは分かり切っていた。
 自分は彼女と共にいたいと感じている。
 彼女を幸せにしたいと思えるのだ。

 難しいしがらみを取り払って、今だけは、彼女の優しい微笑みを眺めていよう。

 丁度そのとき、夕日に染まる長い階段を、登り切った。

―――***―――

『……ああ、お前らは“そういうパターン”なのか』

 その台詞を聞いたのは2度目だった。
 白い門に入った直後、神の従者であろう、奥から白いローブに身を包んだ長身の男が現れる。
 色彩の薄い髪を首筋で束ねているから、不気味なほど白い肌と少しとがった耳が印象的に目に映った。

 岩山に入ったはずなのに、街の名の通り、天国のような世界だった。
 透けるほど高い天井の廊下には、神々の世界を現しているような絵画が描かれ、高級そうなアンティークが定期的に飾られている。床も壁も色は輝くような白で統一感を出していた。

 その神話の世界で、現れた男は、名乗りもせずに背を向けて歩き出した。
 ついて来いという意味らしい。

「ね、ねえ。そういうパターンって何かしら」

 服の裾が引かれた。
 ガチガチに震えた声を出したのはエリサス=アーティ。

 極度の緊張がピークに達したのか、いつの間にかアキラの背後にピタリと張り付き、決して粗相のないように背筋を伸ばしている。
 青い顔で、しかし姿勢だけはいい。感情表現が苦手な人が作ったブリキの人形のようだった。
 自分もかつてはこんな様子だったのだろうか。
 生憎と2度目となると多少は緊張こそすれ、失礼だがそこまで無様な姿にはなれない。

「……あの男に聞いてみればいいだろ」
「わ、わ、アッキー、駄目です、怒らせちゃ駄目って気がします。きっと神族様ですよっ」

 ぐいと左手が引かれた。
 いつもの元気はどこへやら。アルティア=ウィン=クーデフォンもエリーと同じく青い顔を浮かべている。
 昼の騒ぎから妙に距離を取られていたが、エリーと同じく小市民代表のティアはアキラの手を強く握って離さない。
 本人は精一杯握っているのかもしれないが、蚊ほどの刺激も感じない手を見ていると、ティアははっとした顔になった。

「いっ、今だけ! 今だけですからね!!」
「ちょっ、ティア!!静かに!!」

 ふたりの叫びが廊下に響く。
 目の前を歩く男は苛立ったように踵を鳴らすと、聞こえていたのか振り返った。

「“七曜の魔術師を集めるパターン”という意味だ。ぞろぞろ仲間を連れた勇者一行は、今まで一番多い」

 愛想笑いをエリーが浮かべたのが分かった。
 声のボリュームはいつも通りだが、いつになく下手に出ている。
 この世界において、“神”という存在はそれだけ大きいということか。
 だが、勇者のリリルや名家の出であるサクは実に堂々とした様子で、イオリも職業柄こうした雰囲気には慣れているのか落ち着いている。
 残念ながらこの世界にも格差というものは存在していた。

 そしてもっと残念なのは。

「ねえ、あんた神族? この廊下どこまで続くのよ」

 エレナ=ファンツェルンが復活していたことだった。
 荘厳な雰囲気に押されるどころか煩わしさを覚えているのか、押し返すように不機嫌な声を出した。
 階段を登っていたときは大人しかったからこのまま何事も無くやり過ごせるかと思っていたのだが、残念ながらいつもの調子に戻ってしまったようだ。

 目の前の男は足を止めずに、同じく苛立った口調で返してくる。

「気が短いな。貴様らがここを歩けるだけでも誇りに思え。人間には過ぎた経験だ」

 アキラは全力で考えた。どちらを止めるべきだろう。
 エレナに対してその返答は逆効果だ。最悪ここで殴り合いでも始まる可能性がある。
 木曜属性なのに燃え盛る火のように殺気を飛ばすエレナに、油を注ぐ目の前の男。
 エリーとは別の理由で、アキラの胃が痛くなってきた。

「失礼ですが、本日は神王様にご招待されました。ご用件を伺っていないのですが、何かご存知でしょうか。ご無礼があってはいけませんので」

 気を回してくれたのか、ホンジョウ=イオリが口早にそう言う。
 イオリに感謝の意を注ぎたかったのだが、エレナがどんな表情を浮かべているか考えたくも無く、振り返る気にはなれなかった。

「イオリン、流石です、凄いです。エレお姉さま、落ち着いて……わ、わわっ、まずいです、エレお姉さまめっちゃ怒ってますっ」

 馬鹿野郎。
 イオリの機転を無に帰したティアは、振り返りながらぐいぐいと手を引いてくる。
 もしかしてこいつは緊張しているふりをしているのではないかとさえ思ってしまう。
 アキラは徹底的に無視することにして、じっと目の前の男の返答を待った。
 結果としてはティアの行動がエレナに水を注いだのか、怒鳴り声は聞こえてこなかった。

「魔門破壊の件であろう。主の望みに応えられるよう記憶を呼び起こしておけ」
「あ、の、さぁ」
「分かった、そうする。エレナも、な?」

 その高慢さは、あるいは当然のことなのかもしれない。
 その様子に分かりやすく反発しているのはエレナだけで、他の面々は静かに続いている。
 爆発する前に、素早く振り返って無駄とは分かりつつもエレナを宥めるために愛想笑いを浮かべた。
 奇跡的にも彼女は眉を寄せ、しぶしぶと言った様子で口を閉じてくれた。恨みがかった視線が背中を差すようになったが、この場で騒ぎを起こすことに比べたら安い代償だ。

 この世界を統べる神―――神族。
 彼からすれば、たとえ世界の希望の勇者であろうとも、所詮は人間という扱いなのかもしれない。
 アキラは息の塊を吐いて、透けて見えない天井を見上げた。

 この世界に落とされても、人の営みは大きく変わっていないように思えた。
 だが今、この世界の根底にある、神族という存在をひしひしと感じる。
 アキラの生まれた国とは決定的に違う、絶対的な統率者という概念。

 その存在は、世界を最後まで周ったアキラですら、何も掴めていない。

「ふ」

 突如として、目の前の男は足を止めた。
 男が手をかざすと、どこまでも続いて行くような廊下の中腹に、黄金色に輝く巨大な扉が現れる。
 白を基調とした廊下にあっては見逃すはずもない物体が、突如として現出した。
 呆然として見ていたあのときとは違う。
 これは魔術か、あるいは魔法か。
 この世界の存在らしく思考を働かせていると、答えに辿り着く前に男がその場に跪き、頭を垂れた。

「ヴォルド=フィーク=サイレス。主の命により、現れた勇者一行を連れてまいりました」

 ようやくこの神族の名を思い出した。
 ヴォルドがちらりと振り返り、同じように頭を下げるように促すが、あるものは気配に押され、あるものは従う気が無く、身動きせずに立ち尽くしていた。
 この目の前の扉の先に、何がいるかを感じ取れてしまう。

「そう。通しなさい」

 静かな女性の声が聞こえた。
 しかし透き通るようなその声は、脳に直接届いているようにしっかりと聞き取れる。

 声は人を現す。
 人ではないのかもしれないが、その声色から、人柄が感じ取れることがある。

 しかしこの声は。
 高圧的。温厚。真実。虚実。
 その一言だけで、ありとあらゆる可能性が浮かぶ。

「ヴォルド、ご苦労だったわね」

 再び脳を揺さぶる声。
 黄金の扉が重々しく開いていく。

 扉の向こうから漏れ出す光を見に浴びながら、アキラはその声にひとつの結論を出していた。
 ただただ圧倒されていたあのときとは違い、相手を見る目が養ったからかもしれない。
 だが辿り着いた結論は、あのときと同じだった。

 これは、統べる者の声だ。

「よく来た、勇者。入りなさい」

 惹き付けられるように、全員の足が進む。

 開ききったドアの向こう、黄金色の王座に薄いローブ姿の女性が座っていた。
 身に唯一纏っているのは銀のローブ。
 それに隠された、雪のような白い四肢はキラキラと輝くように美しく、その容姿も同様だ。
 王座と同じ黄金の長い髪をトップで纏め、エメラルドの大きな瞳は総てを見定め受け止めるような寛容さを備えている。

「ヴォルド、ドアを」
「はい。お前たち、粗相のないようにな」

 この世界に飛び込んで、一瞬で、荘厳な廊下の世界の記憶が失せた。
 ヴォルドが下がり、扉が音も無く閉まると、夢物語の世界に取り残される。

 だが、周囲を囲う、眩いばかりの金と銀の装飾が並ぶ巨大な空間ですら、やはり意識から外れてしまう。
 まっすぐに伸びる赤いカーペットの先に座す“彼女”。
 人の身では容易く気圧される世界の先の先。

 アキラはある程度“その存在”について少しだけ調べてみていた。

「私は女神、アイリス=キュール=エル=クードヴェル。天界を統べる者です」

 神。
 人が祈り、人が求めるそれが、この世界には確かに存在している。
 世界各地にある神門。
 そこに彼女は現出し、神門を襲う魔物を容易く払い除けるという。
 絶対的な力を持ち、未だに神門が被害を受けたことは無い。
 村や町が滅び続けるあのモルオールですら、神門は依然として存在し続けている。

 その力を目の当たりにした者は、僅かにでも明るい未来を願い、その名の欠片だけでも子に託すことさえあるという。

 この世界の絶対的な支配者が、今、目の前にいる。

「勇者、名は?」

 永遠に聞いていたいと思わせるような声色で、アイリスは言った。
 アキラは顔を振って気を逸らすと、エメラルドの瞳をまっすぐに捉えた。

「ヒダマリ=アキラです」
「私はリリル=サース=ロングトンです」

 アイリスの瞳がアキラを、そしてリリルを捉えてくる。
 その瞳が妙に蠢いたような気がした。
 しばらくすると、アイリスはしばし目を閉じて、ゆっくりと甘そうな息を吐き出した。

「そう」

 気のない返答。自分で呼びつけておいて、まるで無駄なことをしているかのような仕草だった。
 アキラは眉を寄せる。
 やはり、この存在は分からない。“一週目”と態度は同じだった。
 だがなんだ、この違和感は。
 自分は勇者。神の敵である魔王を倒すための存在であるからこそ、広くに認められ、希望となっている。
 だが、目の前の神は、まるで勇者に興味を示そうとしない。

 激励しろとは言わないが、まるで関心がないというのはどういうことなのか。
 ならば何故呼びつけたのか。
 自分が勇者であると自覚をもっている今だからこそ感じることなのだろうか。

 最初に逢ったときはここまで深く考えなかった。アキラの思考が黒く濁っていく。
 世界を周り、感じたことがある。この世界は何かがおかしい。

 ならばその狂った世界の支配者であるこの神は―――何だ。
 分からない。

「……魔門破壊、ご苦労でした」

 しばらくの沈黙のあと、アイリスはそう呟いた。
 その瞳で全員見渡すと、ようやく優雅に微笑んだ。
 作り笑いだとアキラは思った。

「それだけの力があれば、すぐにでも魔王討伐へ向かえるでしょう」

 魔王討伐。
 その言葉を送ったのは、自分に対してか、リリルに対してか。あるいは両方か。
 意図が拾えない。
 リリルのように裏表のないわけではない。エレナのように裏を感じ取れるわけでもない。
 裏があると確信できるのに、それに決して辿り着けないような声色だった。

「魔王は中央の大陸にいます―――ヨーテンガースの魔導士の船で向かいなさい。西の海辺に停泊しています」

 アイリスは、容易く旅の進路を定めた。
 神のみに許される特権のように、勇者の行く先を確定させる。

「今回の魔王は英知の化身、ジゴエイル。何を企んでいるか分かりません。早急に倒す必要があります。……頼みましたよ」

 最後に。
 女神アイリスが、魔王の名と、お決まりのような台詞を口に出し。

 神との邂逅は終わった。

―――***―――

 言葉にできない。

「もう何と言いますか、すっごく、すっごく綺麗な方でした! ええと、エレお姉さまもお綺麗ですが、種類が違うというか、雰囲気が違うというか。エレお姉さまは、こう、お近づきになりたい!! って感じですが、そういうのとは違うんですよね、あっしが呆然としていることしかできないレベルです。イオリンみたいに知的な雰囲気でしたし、サッキュンみたいに緊張感もある感じで、かんっぺきでした!! ねえ、聞いていますかお母さん!!」

 言葉にできない感情を何とか吐き出してみたのだが、目の前の母には伝わっているだろうか。
 日もとっくに落ち、大通りから外れたこの店の外はどっぷりと暗い。
 帰りが遅くなったとき、シンとした裏通りの中、ぼんやりと温かさが溢れているように光が漏れるこの店が、ティアは大好きだった。

「聞いているわ。でもその話、お父さんが返ってきたからにしましょうね」

 そうだ。父にも聞かせなければ。
 夕食の片づけを進めている母は、にっこりと笑った。

 だが、心が落ち着かない。
 幼い頃から何度侵入を試みたことだろうか。あの高い岩山へ続く階段に、自分は堂々と足を踏み入れられたのだ。
 一刻も早く語りに語り尽したくて、うずうずしてしまう。

「そういえばお父さんはどこへ行ったんですか? お戻りはいつなんでしょう」
「さあ。魔術師隊の支部に行くって言ってたけど。さっき出かけたばかりだし」
「なんと。入れ違いでしたか」
「それよりティア、明日は夕飯どうするの?」

 見つめてくる母の顔見ながら、ティアはお腹に手を当ててみた。

「……あ。明日どころか今日も食べてないです。お腹空きました」

 クスリと笑って母は支度を始めた。
 作るものは決まっているのか迷うことなく野菜を取り出し、水で洗い始める。

「そういえばごめんなさい。今日、帰り遅くなりました……」
「まったく、いつも言っているでしょう、時間に帰って来れないならそう言ってって」
「ごめんなさい……」

 別の用事が入るとすっかりと忘れてしまうのは自分の悪い癖だ。
 治さねばと思っているのだが、中々治らない。母にはいつも苦労を掛けている。
 せめて何か手伝おうと思ったが、調理をしようとすると母に本気で怒られるのだ。

 ふと思い出す。今よりもっと幼い頃だ。

 自分の名前はアルティア=クーデフォンだった。
 ミドルネームは、自分の親がミドルネーム持ちか、親を失った子供に引き取り手が見つかると付けられるのがこの世界では一般的だ。
 本当の両親を失って、自分がアルティア=ウィン=クーデフォンになってしばらく経ってからだったと思う。

 自分の無力さを強く感じていた頃だ。
 突き動かされるように、せめて何かは手伝おうとして、自分の手を勝手に取り出した包丁で切って大出血したことがある。
 どうしようもなく痛くて、大声で泣いて、大人たちがすぐに止血してくれても、それがまた情けなくてまた泣いた。

 ようやく血が止まったら、いつも優しかった叔母さんに思い切り頬を張られた。
 そのときのことは今でもよく覚えている。
 痛い思いをしているのに追い打ちをかけるようなことをする叔母さんを内心恨み、そして同時に、今の自分の母はこの人なのだと子供ながらに感じた。

 そんな思いをしたからか、台所はティアにとって禁断の地のようなものだった。
 台所を横切れば早いのに、わざわざ廊下を大回りして自分の部屋に戻っていた時期がある。
 食事の時間が近づくと、軽快に聞こえる包丁の音が、たまらなく怖かった。

 治ったのはいつからだったろう。
 母のつまみ食いを見て思わず笑ってしまって、共犯にされるために手招きされてからだったろうか。あれはいつの出来事だったか。
 今はこうして自然に足を踏み入れられる。
 父の職場も、確か最初は怒られて、でもいつの間にか入れるようになって。

 この家のいたるところに、自分の思い出が詰まっている。
 追憶と共に、目の前で食事の準備を進めてくれている母の背を眺めると、少しだけ、小さくなったような気がしてきた。

「……お母さん」
「なに?」
「私、ご飯しばらく要らなくなります」

 ティアは呟いた。
 散々言われ続けてきて、初めてきちんと言えた気がする。
 母は振り返らなかった。

「旅に出るんです。魔王を倒すための旅に。私は、七曜の魔術師として使命を果たします」

 言葉は自然と出てきた。
 1年ほど前、自分は多分、どこかへ出かける程度の心構えだったと思う。
 だけど今度はきちんと言わなければならないといけない気がした。

「出発が近いの?」
「近日中です。具体的な日は聞いてませんが、そう長くはここにいられません」
「……。じゃあそうね。明日はアキラさ……勇者様たちもご招待しましょうか」

 淀みなく調理を進める母は、外の様子を気にするように窓に視線を投げた。
 父もいずれ帰ってくるだろう。
 彼にもきちんと言わなければならないことだ。

 母はしばらく調理に没頭していた。
 ティアは姿勢を崩さず、まっすぐに立ち続ける。
 ひと段落つき、いい匂いが漂ってきたとき、母はぽつりと言った。

「大丈夫なの? ご迷惑おかけしていない?」
「それは……」

 ティアにはひとつ、信念がある。
 自分が力不足なのは重々承知。だが、それを理由に何もしなければ何も生まれない。
 だから今役に立てなくとも、関わることで、関わりながら成長することで、きっといつか自分がいて良かったと思ってもらえるようになれるのだと。

 人に言わせれば、きっと何でも安請け合いする人物なのだろう。
 身の丈に合わないことでも容易く頷いていた自分は、人から見れば愚かなのかもしれないし、事実そうだ。
 それどころかまさに迷惑をかけていただろう。

 だけど、目の前の母に言いたいことがある。
 それは、魔門破壊を成し遂げたことでも、魔族の撃破を果たしたことでも、神様と面会できたことでもない。

「私を必要としてくれる人がいるんです」

 彼を思い起こすと、胸の奥がうずうずする。
 昼は急にパニックになって、身体の中がかっと熱くなった。
 不快ではなかったが、自分らしくなかったように思える。これも成長なのだろうか。

「お前のお陰だって。お前のお陰で人が救われたって、言ってくれた人がいるんです」

 今でも鮮明に覚えている。
 自分の願い続けてきた何かが、目の前で形になっていくのを強く感じた。

「私はそれに応えたい。応え続けたい。だから旅に出るんです。その先きっと、ご迷惑もおかけすると思いますが、私がそうしたいと思うんです。それ以上に、あの人の、あの人たちの助けになりたいから」

 自信を持たなければならない。
 自分の存在は、きっと彼らにとって必要なのだと。
 不遜なのかもしれないが、この先に足を踏み出すためには必要なものなのだと強く感じる。

「お母さん。ここまで育てていただいて、本当にありがとうございました。恩返しもできていませんが、きっといつか返します。でも今、ここから先は、私にやりたいことをさせてください」

 頭を下げたら、涙が零れそうになった。
 そうか。自分はきっと、これから初めて旅に出るのだ。
 出かけるように飛び出たあのときとは違う。この自分の思い出が詰まった家から、飛び立つときが来たのだ。

 身体が震えた。初めて怖いと思った。
 やはりみんなは凄い。旅に出るということを、自分の家から出ることをあんなに簡単にできるなんて。
 だがその不安を、今母に見せることは出来ない。
 自分は、七曜の魔術師なのだ。

 頭に手が置かれた。
 柔らかく、暖かな手だ。頭を撫でられるのは、包み込まれているような感じがして、ティアは大好きだった。

「まったく」

 深いため息が聞こえた。
 顔を上げようとしたら、撫でられていた手に押さえつけられた。

「親からの恩なんて無理に返すもんじゃないわ。その代わり、元気に精一杯頑張りなさい。いいわね」
「そういうものですか」
「そういうものなのよ」

 母の手が引き、食器の音が聞こえた。
 配膳くらいは手伝える。

 間もなく帰ってくる父にも言おう。自分は七曜の魔術師として旅に出るのだと。
 そして感謝の言葉を伝えよう。

 母の教え通り、元気に、精一杯。

「わっ、わっ、わっ」
「ちょっ、は!?」

 気合を入れた配膳は失敗した。
 大きいお皿を割ってしまったが、涙目で謝ると、母は何故か大きく笑った。

 多分そのとき母の顔を、自分は生涯忘れないだろうと思った。

―――***―――

「そういえば」
「なに?」
「聞きそびれたな。アキラを元の世界に返せるかどうか」
「……あ、あーうん。そういえばね」
「……まあいいか」

 街の喧騒に紛れて、エリーとサクの投げやりな会話が耳に入る。
 時刻は昼前。
 随分と長いこと泊まることになった宿屋の前で、アキラは遠目に聳える岩山を眺めていた。

 数日前に逢った、あの岩山の主の言葉通り、自分たちは今から中央の大陸目指してこの街をたつことになる。

「……結局あれから接触してこなかったね」

 同じように隣に立って岩山を眺めるイオリの言葉もどこか投げやりに聞こえる。
 あの面会からここ数日、毒気が抜かれたような雰囲気が妙に付き纏う。

 神―――アイリス=キュール=エル=クードヴェル。
 天界を、いや、この世界を統べる者。

 起こったことは、ただの面会だ。
 威圧されたわけでもなく、特別な質問をされたわけでもない。
 それなのに、妙な感覚をこの身に味わった。

 “共通認識”を持つイオリとはあれから何度か神について話し合ったが、どれも憶測の域を出ず、結局この形容しがたい雰囲気に呑まれてまともに考察できていなかった。

「イオリ。何度も聞くようだけど、“一週目”ではこの街で神には逢わなかったんだよな」
「ああ。それは間違いないよ。それより君はどうなんだ。前回はこの街で神と面会したんだろ。何か違いとかなかったのかな」
「……うろ覚えだけど、多分無い。精々俺の“具現化”の話が出たくらいだ。あとは……そうだな。エレナが暴れかけたくらいか」

 小声でイオリと話しながら、離れて立つエレナを流し見た。
 アキラの視線に気づくと、少しだけむっとして睨んでくる。狙っているのかは分からないが、やはり可愛らしい表情だった。
 あの治癒魔術の不慮の事故以来、妙にエレナに意識されているような気がした。
 彼女には悪いが、あれが理由で大人しくしてくれているのなら、神との面会前にやっておいてよかったとも言える。
 “一週目”では、まさに神をも恐れぬエレナに随分と肝を冷やされた。

「今回はリリルの存在があったから、なのかな。どうも勇者がらみの方の事例は調べても分からないことだらけだ。七曜の魔術師が揃っていたから、とも考えられるんだけど、それなら前回は何だったんだろうね。土曜の魔術師不在で面会があったんだろう?」

 “二週目”については特例とも言える根拠はあるが、考えても分からないことだらけだ。
第一、 今回にしたって、リリルは正式には七曜の魔術師ではない。
 今回も特例ということだろうか。

 リリルも今頃、自分が止まっていた宿屋から出て、この場所に向かっているだろう。
 この付近には中央の大陸へ向かえる港は無い。
 中央の大陸へ向かうには、神の言ったようにアラスール=デミオンが乗ってきた船に乗せてもらうのが最短だ。
 ここを集合場所として、今から自分たちは中央の大陸へ向かう。
 そういう意味では、アラスールがこの街を訪れていた時点で、自分たちの次の目的地は決まっていたようなものだった。

 歪だった“二週目”と違い、総ての出来事が一本につながっていく。
 もし何の事前情報も無ければ、物語の進行は美しく、そして明快だったろう。
 リリルを正式に勧誘すれば、仲間を集めることを目的としたすべての大陸を周る旅も綺麗に完結し、いよいよ打倒魔王の旅が本格的に始まる形だった。

 だが今は、無駄なく進行していく物語に、言い表せないほどの不安を覚える。

 アイリスというこの世界の絶対的支配者からの視点ではどうなのだろう。この世界の、この物語の未来をどう見ているのだろう。
 それを問おうにも、岩山の扉はすでに固く閉ざされてしまっていた。
 今更遅い。すべての未来はあの扉が閉じたときから、再び神のみぞ知る領域に隠されてしまった。

「アキラ。リリルは勧誘するのかな」

 イオリも似たことを考えていたのか、遠くに視線を投げながら呟いた。
 視線の先、オレンジのローブを羽織った女性が歩いてくるのが目に入る。

 リリルについて。自分はどう思っているか。
 素直な気持ちに従えば、彼女の共にいたいと強く思っている。
 自惚れで無ければ、彼女もきっと、自分たちと共にいることを良しとしてくれるだろうとも感じていた。
 そうなったとき、多分自分は心の底から喜べるだろうとも思う。

 だが、例えそうだとしても、そうなったとしても。
 アキラは絶対に決めていることがある。

「例えどうなろうと、俺は“あいつ”に逢わなきゃいけない。それは絶対に変わらないんだ。だから何も問題ない。それにな、俺は、魔王討伐に向かうのが7人って決まっているわけじゃないとさえ思っているんだぞ」
「……はは。それもそうか。ふ、はは」

 イオリは何がおかしいのか、いつまでも笑みを絶やさなかった。
 アキラも釣られるように笑う。今はそれでいい。
 そう感じて、やはり笑ってしまった。

 世界を一周したというのに、相変わらず自分は八方美人に手を伸ばそうとする。
 たったひとつに手を伸ばそうとして、壊れた世界を知っているから。
 この話をした“彼女”は今、どうしているだろう。

 その答えは、これから自分たちが向かう大陸にある。

「おっ待たっせしました!! いやいや、旅立ちの日にうってつけなお天気ですね!! あ、これお母さんから皆さんに差し入れです!!」

 見えていたリリルが歩みを緩めたタイミングで、背後から全員が集合したことを意味する騒音が聞こえた。
 実家に寝泊まりしていたティアも、これからまた旅に出ることになる。
 夕食に招かれたときに挨拶は済ませたつもりだが、もう一度くらい娘を預かる身として両親に頭を下げに行くべきだったかもしれない。
 表に出すつもりはないとはいえ、この旅には、不穏なものを感じているのだから。

「はい。これ、アッキーの分です」

 ティアの声に、振り返る。
 そうすると、胸の中の黒い塊が引いていった。

 いつもの調子に戻ったティアがにっこりとして小さな小包を渡してきていた。食料か何かだろう。
 少しだけ背が伸びた気がするティアは、今後も成長して変わっていくのだろう。だが、見ているだけでも救われるような、この眩しい笑顔は、変わることが無いような気がした。

 エレナはうるさいのが来たとでも言うように耳を抑えながら気だるげに欠伸をしている。その姿すら美しく見える彼女にはいつも通り、加減と油断を間違えないという頼もしさを覚えた。

 サクは全員集合と見て姿勢を正し、視線をまっすぐに向けてきた。常に真摯な彼女は、アキラが休息に徹している間も剣を鍛え直してくれた。感謝の言葉は言い尽くせない。

 イオリは念のためとでも言うように全員を見渡し、小さく頷く。この街のことを思い起こすと、彼女といた時間が一番多かったように思える。自分は彼女のことを少しでも理解できただろうか。漠然とした予感だが、少なくとも、この先彼女の行動を不穏に想うことは無いような気がした。

 リリルは軽く会釈すると、やはり堂々と胸を張る。彼女がそうしていると、不思議と自分にも自信が湧いてくるような気がする。正史では命を落としたらしい彼女は、そうは思えないほど、世界中に希望を振りまける存在に見えた。

 エリーは速やかにティアの手を掴むと、逸れないように自分の身に引き寄せた。
 たったふたりで始まったこの冒険。多くの仲間に恵まれたのは、アキラの日輪属性の力だけではなく、彼女の振る舞いがまとめ上げてくれたお陰かもしれない。

 あの月下。
 すべてを失ったあのとき。
 自分が誓った想いが、形として目の前にあるような気がした。

 ここで終わりではない。まだ自分は何も成していない。そう自分も戒めるも、目の前の光景はキラキラと輝いて見え、胸の奥で蠢く闇が薄れていくように感じた。

「アラスールが馬車の手配をしているはずだ。アキラ」

 イオリがそう言い、アキラは頷く。

 自負を持ち、不安は表に出さない。
 それが率いる者の使命だ。

 あらゆる重圧に押し潰されて、ヒダマリ=アキラという人間は1度自分自身を諦めたことがあるほどだ。
 だから自信と覚悟が欲しかった。彼女たちからの信頼が欲しかった。

 それを得たはずの今、しかしアキラは随分と遠回りをしたのだと感じる。
 ほんの少し、顔を上げるだけで良かったのかもしれない。

「よし、それじゃあ。いよいよだ」

 そんな不安を覚えることは、この輝かんばかりの世界がそもそも許してはくれなかった。
 まだ見ぬ未来へ足を進めることを、まるで恐れられない。

 だから、漠然としたものではなく、自分の確かな意思として、言える。
 自信と覚悟を胸に抱き、彼女たちの眩しさと正面から向き合えれば、どれだけ荒唐無稽なことですら、実現できるはずなのだから。

「世界を救いに行こう」

 彼女たちのお陰で、やっと自分は、勇者になれた。



[16905] 第五十三話『下らない世界(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2019/09/29 21:44
―――***―――

―――ヨーテンガース。
 4大陸に囲まれるように、統べるように中央に位置するこの大陸は、数多くの謎に包まれていた。

 現在世界中の注目は、とある3人に集約されている。
 スライク=キース=ガイロード、リリル=サース=ロングトン、そしてヒダマリ=アキラ。
 彼らの起こした奇跡は世界中に響き渡り、人々に希望を振りまいているのではあるが、過去を遡ってみれば同程度の奇跡を起こせた者も少なからずいる。

 過去、そんな話題に事欠かない者たちがこのヨーテンガースに幾人も向かっているのだが、それを最後に世界中の情報からその名が消え失せることになる。

 まるで不幸があったかのような現象に、当初、ヨーテンガースとはそれほどの大陸なのかと世界中の人々は絶望に包まれたことがあった。
 しかし、以前物好きな者が捨て身の思いで向かったところ、ばったりと、話題だった英雄に出会い、心配は杞憂に終わった。

 だがその出来事が発端で、ヨーテンガースの異様さは際立つことになる。

 当時の記録の中で、その人物は自分の身に何が起こったのかを語っている。
 意を決して辿り着いた謎多きヨーテンガースで最初に見たのは、あまりに平和な人々の日常だった。
 港町は活気に溢れており、商人が声を張り上げ、主婦はせわしなく駆け回り、子供たちはよく笑う。
 故郷の友人たちには今生の別れを告げたつもりの挨拶をしたというのに、随分と肩透かしを食らったという。

 それどころか知ろうと思えば世界中の出来事、果ては小さな噂話まで容易く収集でき、まるで自分が恐れ多くも神の視点を持っているかのような錯覚を起こした。
 居心地の良いその場所に、その人物はこの地に骨を埋めても良いと思ったほどだったそうだ。
 その数か月後、英雄の消息を知るという目的も果たしたことだしと故郷に戻ろうとしたとき、ヨーテンガースの特徴を知ることになる。

 大陸に入るときにはほぼ素通りだった関所から、出国の許可が下りなかったのだ。
 それがルールなのかと申請を出してみたものの、返答があったのはさらにその数か月後。それから連日、尋問のような監査が続く羽目になる。
 確認してみたところ、自分がヨーテンガースに来て最初に書いた故郷宛ての手紙すら関所によって止められていた。どうやら、手紙の中身すら徹底的に確認されていたらしい。

 居心地のいい場所であることも手伝い、そこまでされるならと故郷に帰ることを諦めたくなったものの、その異様さに言い知れぬ恐怖を覚えたその男は、懸命に出国の申請を出し続け、念願叶った頃には数年もの歳月を費やしていた。

 やっとの思いで故郷に戻ると、消息を絶ったことになっていた自分は故人として扱われており、その人物はようやくヨーテンガースの仕組みに気づけた。

 ヨーテンガースは、入る者をまるで拒まず、出る者を強く拒むのだ。
 それは人物に限らず、物や情報にも及ぶ。

 英雄たちが起こしたであろう奇跡すら、ヨーテンガースから出ることができなかったのだ。

「ちっ、違うんです!! あっし、帰りたいわけじゃないんです!! 船にっ、船にっ、あっしの荷物忘れただけなんですよーーーっ!!」
「申し訳ありませんが規則です。しかるべき申請を出していただけないと」
「出します出します、何でも出しますから!! お願いします!!」
「ちなみに、何をお忘れになったんですか?」
「お菓子です。まだ半分残ってたんです……」
「諦められませんか」

 ヒダマリ=アキラには、喜ばしく思っていることがある。
 自分たちは打倒魔王を掲げ世界を救う旅をしているが、殺伐とした集団ではなく、いい意味で仲がいい集団だと。

 だが今、アルティア=ウィン=クーデフォンが泣きながら起こしている喧騒には、誰ひとりとして助け舟を出そうとしていなかった。

「ふっふふ。賑やかねぇ。着いた途端これだもの。お陰で道中退屈しなかったわ」
「常に賑やかなのはあいつくらいなんだけどなぁ」

 本日は快晴。浜風が気持ちよく頬を撫でる。
 そんな空気に混ざり込むような独特の雰囲気を纏った女性が朗らかに笑っていた。

 アラスール=デミオン。
 この大陸の魔導士であり、アキラたちが東の大陸アイルークから直接ここに来られたのも、彼女のために用意された臨時の船があったからだ。
 悠然と立っているようで、いや、事実ただ自然に立っているだけなのだろう、それなのに、彼女の様子からは様々なものが感じ取れた。
 精神を研ぎ澄ましているわけでもない、興奮状態なわけでもない。だがその声色、仕草、一挙手一投足が、そのままの様子で買い物にも戦場にも赴けそうな―――日常と戦場が混ざり込んだ形容しがたい雰囲気。

 彼女と共にアイルークを旅立ったのはひと月ほど前になる。
 その間も、彼女にとっての日常と戦場の境界線を見つけることはアキラにはできなかった。
 そんな様子にあてられると、自分がどこに立っているのか分からなくなる。
 アキラは彼女のことが少し苦手だった。

「それで、これからどうするの? 勇者様」
「相談してみるけど、多分あの街に寄ることになると思う、かな」

 アキラはさっと周囲を見渡した。
 喜ばしいことに大所帯となってきた面々は、流石に船旅で疲れたのか思い思いのところに立って身体を伸ばしている。
 前にも乗ったことはあるが、中央の海を渡る船の乗り心地は最悪だ。
 少なくとも今日は、この港町で夜を明かすことになるだろう。

「そう、それじゃ残念だけど私とはここでお別れね。私ものんびりしたかったけど、ご丁寧に関所に連絡入っていたわ。すぐ戻れってさ。国仕えの悲しい性よね」

 わざとらしく肩を落とし、アラスールは視線を街に向けた。
 その瞳は、賑やかな港町を惜しむようにもその遥か先を捉えているようにも思える。
 どうやら最後まで、彼女のことはよく分からないままで終わりそうだった。

「ま、勇者様たちはゆっくりと慣れなさいな―――この大陸に。縁があったらまた会いましょう」

 そう言って、アラスールは更に近づいてきた。
 思わず姿勢を落とすと、アラスールは満足そうに笑って小さな紙きれを手渡してくる。

「そうそう、その通りよ。色んなことにちゃんと警戒してね。そんでもって、気が向いたらここにきて」
「……これは」
「ただのお仕事の募集よ。ビラ配りみたいなもの。あなたたちに手伝ってもらった方が成功率が上がりそうなのよね」
「依頼か? 一体何の、」
「ただの“引っ越し”よ」
「?」

 アラスールは纏う空気を換えぬまま背を向けた。
 他の面々への挨拶は済ませたのか、それともアキラだけで十分だと思っているのか、彼女はそのまま去るらしい。

「それじゃあ勇者様。お互い死ななかったらまた会いましょう」

 去り行くアラスールの背を見ながら、アキラあの、日常と戦場が混ざり込む空気が消えていないことに気づいた。
 気にし過ぎなのだろうか。“3度”降り立ったこの大陸そのものから、同じ匂いが感じられるような気がする。

 港町からは喧騒が聞こえる。港を羽ばたく鳥たちの声はのどかに響き、波は不規則にも平穏に揺れていた。

 アキラはふと、船の中で赤毛の少女に教えてもらった、この大陸の話を思い出した。

 “平和”なアイルーク。
 “高貴”なシリスティア。
 “非情”なタンガタンザ。
 “過酷”なモルオール。

 4大陸に囲まれるように、統べるように中央に位置するこの大陸は、こう呼ばれているらしい。

 “矛盾”のヨーテンガース、と。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――クラストラス。
 中央の大陸の北西部に位置するこの港町は、“入り口”という表現がピタリとはまるだろう。
 上空から見るとこの大陸は、楕円のような形状をしており、中央はうっそうと生え茂る大樹海で分断されている。
 さらに周囲が険しい岩山で囲われており、この北西部のみその岩山が途切れ、中央の海に面しているのだ。

 面積だけで言えば、クラストラスはシリスティアのファレトラに匹敵する。
 何しろ唯一の入り口だけはあって、整備は行き届き、あらゆる資源がこの街に集中し、ヨーテンガース北部の人口は概ねこの街に集約されていた。
 港町というと漁業や運輸業が主とした収入源になるが、それを唯一担うとなるとその活用方法は、他の大陸の品を増やす商工業や製造業、金融や宿泊施設などのサービス業など多岐に渡る。
 結果として北部にいるのであればこの街から離れる意味は無いとまで言われていた。

 例外的に、ヨーテンガースには、大樹海で活動を続ける古きゆかしい民族が多くいたりもするが、彼らがすべて反社会的というわけでもなく、その民族の多くも当たり前のようにクラストラスに出入りし、経済活動を活性化させていた。

 まさしくシリスティアのファレトラのような発展を続けているこの街だが、不思議なことに、人口の増加は見られない。

 来る者を拒まず去る者を拒むヨーテンガース。つまり、増えていくはずの人口。
 その出口が拒んだ者がその後どうなったのかなど、ヨーテンガースに住む者は、子供だって口にしない。

「ちょっと聞いて欲しいことがある」

 エリサス=アーティは神妙な顔を浮かべて目の前の少女に呟いた。
 青みがかった髪を揺らし、愉快そうに微笑んでいるのはアルティア=ウィン=クーデフォン。
 大通りで見つけた雰囲気のいい宿屋のベッドの上で、泣き止ますために先ほど買い与えた菓子の袋を大事そうに身体に抱えていた。

「あたし、そんなに時間かけちゃったかな。フロントに行って、ちょっとだけ話して、戻ってきただけなんだけど」
「そうですね、10分くらいでしたかね」
「じゃあ……あれ。なんでみんないないの……?」

 景色が滲んで見える。
 アイルークから旅を始め、遂に辿り着いたヨーテンガース。
 期待と不安を胸に抱き、ようやくこの地に足を下ろしたときは何とも言い難い感動に包まれたのを覚えている。
 逸る気持ちを抑えつつ、まずは船旅の疲れを癒そうとこの宿屋に入ったのはつい先ほど。
 フロントで支払いや宿屋の説明を聞いて戻ってみれば、どの部屋ももぬけの殻だった。

 最後の大陸。ここにはあの魔王もいるという。
 それなのにうちの面々は、頼もしいことにいつも通りだった。

「わわ、エリにゃん泣かないでください。だからこうしてあっしが残ってたんですよ! 失われたあっしのお菓子を買ってくれたこと、全力で恩返しします」
「恩を返そうと思ってたならみんなを引き留めてよ……。これからのこと相談しようと思ってたのに……」

 ティアのお菓子を買ってあげたのはうるさかったからというだけではなく、僅かばかりの罪悪感に苛まれた結果でもあった。
 船を降りるとき、一応船内を見回ったエリーはティアの忘れ物を確かに見たのだが、ゴミと判断して処分してしまったのだ。
 そうでなければ荷物卸もそこそこに、船で溜まった鬱憤を晴らすように港を駆け回っていたティアの助けなどするものか。

 そんなエリーの気持ちを知ってか知らずか、ティアは変わらず買い物袋を大事そうに抱えている。

「元気出してください……。あ、お菓子食べますか? この街にもあってびっくりしました。あっし、子供の頃これ大好きだったんですよ」
「ありがとねティア。笑わせようとして励ましてくれて」

 エリーはベッドにゆっくりと腰を下ろす。
 行儀が悪いかもしれないが、足がジンと熱くなり、心地よかった。

 やはり中央の海を渡る船は身体に堪える。
 みんなも同じだろう、今日は依頼を請ける気になれない。
 だから休業日と判断して我先にと街に繰り出したのだろうか。
 頼もしくも判断が早い。

「まあ……でも。ついに来ちゃったわね」

 外から定期的に、声を張り上げる商人の喧騒が聞こえる。
 ドタバタと駆け周る子供の笑い声が響く。
 それらが悲しく響く狭い宿屋の一室で、エリーはポツリと呟いてみた。

「そういえば前聞きました。エリにゃんって、ヨーテンガースにいたことあったんでしたっけ」
「うん、まあね。本当の意味で子供の頃。あたしたちもここから出るとき苦労したのかな?」
「本当の意味で子供の頃ってどういうことですか」
「まあまあ。ま、そんな記憶、この旅で塗り潰されちゃったみたい」

 自分はこの大陸出身の人間だが、もうほとんど覚えていない。
 ヨーテンガースの特徴だって、噂話として他の大陸に広がっている程度のことしか分からなかった。
 子供ひとり船に戻ろうとしただけなのに頑なに通さないあの関所の様子を見るに、もしかしたら自分たちもこの街でしばらく過ごすことになったのだろうか。

 あの頃のことは―――ほとんど思い出せない。
 分かっているのは、自分たちが両親を失い、逃げるようにこの大陸を去ったことくらいだ。

 だから自分の思い出は、アイルークから始まっている。
 そしてこの旅の記憶は、最も深く、この胸に刻まれている。

 今自分は、あのころと比べて大人になった。
 巻き込まれるばかりだった子供のときとは違い、自分の意思で、物事を決めていかなければならない。
 そして今の自分は、勇者ヒダマリ=アキラの火曜の魔術師だ。
 ふたりで始めたこの旅は、終点に近づいている。

 異世界から現れた彼との約束を果たすときも近い―――だから。

「はあ。ほんと、覚悟決めなきゃな」

 エリーは立ち上がり、宿屋の窓から外を見下ろした。
 上から見ると、商人が並べた商品の陳列棚が一望でき、大通りは色鮮やかに染まっている。
 シリスティアでも似たような光景を見たが、今見ると、物悲しい気持ちになってきた。

「なーんで覚えてないかなぁ、あたし。ちょっとだけでも覚えていたら、道案内くらいできたのに」

 頬を叩いて気持ちを正そうとする。
 アイルークで“自覚”してから、自分の思考はまずい方向に走っていることが分かった。
 使命を果たすための勇者様御一行に、こんな、魔王討伐より優先したいものがある人間が混ざっているとは、世界中に申し訳が立たない。

「エリにゃん。お出かけしませんか?」
「んー? またなんか買って欲しいの?」
「いえいえ。探しに行きましょう、アッキーたちを。エリにゃんが道案内しに行きましょう」

 にこにこと笑って、ティアは立ち上がった。
 大切そうに買い物袋を自分の枕の横に置く。

「だから、覚えてないって」
「街を歩いていたら思い出すかもしれないじゃないですか。そしたらきっと、助けになりますよ」
「ティア理論ね」
「ですです」

 エリーは笑って頷いた。
 ティアは鈍いように見えて、たまに鋭いときがある。まさに子供のそれだ。
 これも彼女なりの気遣いなのだろう、今回は甘えておくべきかもしれない。

「よし。それじゃあ散策しまくりましょうか!」
「おーっ!!」
「……?」

 元気よくティアが手を上げた瞬間、エリーの耳が何かを拾った。
 視線をドアに向ける。

 すると外からどたばたとした騒音と共に、小さな子供の悲鳴が聞こえてきた。

「やっ、やだ!!」
「待ちなさい!! ちゃんと日焼け対策しないと、痛くなってからじゃ遅いんですよ!!」

 ティアと顔を見合わせる。
 自分たち以外に宿屋に迷惑をかけるような輩がいることに半ば驚きながらも、どうにも聞き覚えのある声だった。

 ドタン、と物音が聞こえる。
 声の主は、丁度この部屋の前で倒れ込んだようだ。
 エリーは恐る恐るドアに近づき、小さく開いたドアの隙間から外の様子を覗き見た。

 すると。

「ああ!! 大丈夫ですか? ほら、廊下を走ってはいけないんですよ。痛いところはありますか? 大変、膝すりむいてます! なんてことでしょう、ほら、早くわたくしたちの部屋に戻りましょう。治療と消毒と……、やっぱりちゃんとした防具を整えなければ」
「助けてっ、助けてっ」
「安心してください。わたくしはあなたを助けようとしているんです。ああ、長旅でこんなにも心が荒んでしまうなんて……、わたくし発狂しそうです」

 見知った修道服の女性がしゃがみ込んで、小さな子供と向かい合っていた。というか、押さえつけていた。
 子供は泣きじゃくり、修道服の女性は頭を抱えながらも子供が逃げ出さないようにしっかりと手を握る。

 彼女らを見て、エリーは金縛りにあった。
修道服の女性が、ドアが開いていることに気づいたようで立ち上がり、恐ろしく早い所作で頭を下げる。

「たっ、大変お騒がせしました。何分旅は不慣れなもので。ほら、キュールも謝って。失礼のないように……、え」

 顔を上げた相手に、エリーは考えがまとまらなかった。
 この少女がいるということは、彼女はやはり、“もうひとり”と行動を共にしているのだろうか。

 目を丸くして、目を丸くしている彼女たちと向き合う。
 修道服に身を包んだ女性―――カイラ=キッド=ウルグス。
 涙で目を腫らした少女―――キュール=マグウェル。

 ここは旅の終点の始まりの唯一の入り口。
 クラストラス。そこには、世界中を騒がす者たちが、集うのだ。

―――***―――

 とてつもなく嫌な予感がした。

 ヒダマリ=アキラは、クラストラスの街並みを見渡しながらゆっくりと歩いていた。
 人が大いに賑わっているのは大変結構なことだが、あの船旅の直後だと中々刺激が強すぎる。
 隣には、もっと刺激的な女性が歩いているのだが。

「あら、そんなの人ごみ通っていれば増えるじゃない」

 エレナ=ファンツェルン。
 丁寧に編み込んだ甘栗色の長い髪からは甘い匂いを振りまき、薄手のトレンチコートが風に吹かれればそのスタイルの良さが浮き彫りになる。
 彼女にしては珍しく露出が控え目の服装だが、どんな服装も着こなす彼女の魅力は損なわれない。
 几帳面なほど整備された街並みや、商店街を彩る数々の花すら、彼女の引き立て役に過ぎなかった。

 船旅で疲れたし、今日は宿屋で休もうと思っていたのだが、アキラはこのエレナに、街に誘われたのだ。
 そこでふと、毎日のように新しい服を着ているエレナに、どこから資金を捻出しているのか尋ねてみたら、案の定の答えが返ってきたのだった。

「お前また追いかけられたらどうすんだよ」
「やーねアキラ君。せっかくふたりっきりになれたのにお説教? 分かった分かった、もうやらない。はんせいしまーす」

 なら、いいか。
 アキラは思考を止めた。
 深追いしても得が無いような気もするし、何より彼女の機嫌を損なうのは躊躇われた。
 どうやら中央の海を渡る船はエレナのお気に召さなかったらしく、今の彼女の表情は解放感に包まれている。
 他の面々も今日は身体を動かしたい気分だろう。

「あら、アキラ君見て見て。あれ、多分シリスティア産の楽器よ。前に家で見たことあるわ」

 厳粛そうな建物を構える店に顔を向けると、笛のようなものが分厚いガラス越しに見えた。
 声が出そうなほどの値が付いている。客寄せ用の品だろう。

「流石名家のお嬢様……」
「欲しいの? うーん、ちょっと大変ね、5往復はしないと」

 エレナの腕を引いて店から離れた。
 彼女ならやりかねない。
 晴れ晴れと大きく笑うエレナを見て、からかわれていたことに気づいたが、アキラはその表情をしばらく見つめていた。
 過去。彼女がこの大陸で、どんな目に遭わされたのかをアキラは知らない。今の彼女が浮かべている笑顔は、本物なのだろうか。

「エレナ」
「なに、コツ? 基本は視線よ。ほらあの男。ちょっと視線高いでしょ。ああいうのが狙い目よ。チェーンとかで身体に財布をつなげれば十分とか思っているのは甘いわ。最大の防衛は意識と視線。自分の大切なものから目を離さないことが重要なんだから」

 早口で何かの教えを伝えられた。
 アキラは一応記憶しておくことにはしたが、神妙な顔を浮かべた。
 自分の気のせいだったら笑い飛ばされるだろうが、引いたエレナの腕が、小さく震えていたような気がしたのだ。

「ようやく……この大陸に来たな」
「……」

 触れないようにしていた話題だということに、自分もエレナも気づいていた。
 船の中では、ヨーテンガースに向かっているという認識はあったものの、それが意味することを口に出した者はいない。
 だからみんな、いつも以上にいつも通りを過ごそうとしていると感じた。

「はあ。せっかくのデートなのに台無し。でもそうね。そういうことになるわね」

 歩きながらエレナは呟いた。
 アキラも並び、僅かに頭を下げる。

「いきなりそんな話始めるなんて、アキラ君どうしたのよ。随分真面目じゃない」
「空元気に見えたんだよ。口数も多いし」
「あーら」

 エレナは含み笑いをした。そっちの方が、彼女の本当の表情のような気がする。
 人一倍警戒心が強いと言われる木曜属性。
 そんな彼女がこの終点の大陸に来て、何も思わないわけがない。
 それでもいつも通りに振る舞う彼女を見て、アキラはどうしようもない不安に駆られた。

「エレナ。変な言い方だけど、思うことがあるなら言ってくれよ。ぶっちゃけ俺は思うことがある。この大陸、多分“今まで”が通用しない。何が起きても不思議じゃない―――今まで以上にな。変わらないといけない気がするんだよ」

 のどかな街並み。
 だがその地続きに、“あの領域”が存在する。

 思い出すだけで身体中が震え出す。
 もしかしたら、自分はエレナを案じたのではないのかもしれない。
 自分自身が、この大陸に恐怖を覚えている。

 エレナは柔らかく微笑んだ。
 そしてアキラの心中を察するかのように、少しだけ寄り添ってくれる。

「怖い?」
「ああ。は、世界の希望の勇者様の台詞じゃないか」

 アキラは自分を笑った。
 震えていたのは、エレナの腕ではなく、自分の方だったかもしれない。

「あら奇遇ね。私もよ。正直めっちゃ怖いわ」
「!」

 アキラをなだめるように寄り添ってくれていたエレナは、しかし震えていた。
 遠目から見れば恋人がじゃれているように見えるだろうか、だがそれは、単なる傷のなめ合いだった。
 自分たちは―――この大陸から逃げ出したことがある。

「私さ、今日で最後にするつもりだったのよ。適当にやるの。この大陸じゃ、そんなの命取りになる気がして。アキラ君に気づかれるくらいだもんね、はしゃぎ過ぎたみたい」
「それは……そうしろよ」
「はは。後はそうね、色々考えたわ。ぶっちゃけ私、魔王とかどうでもいいのよね。勇者様御一行ごっこなんてしてないで、今すぐあの野郎を殺しに行きたいくらい。だって、私の人生はそのためだけにあるんだもの。大所帯でトロトロ動き回ってないで、特攻でも仕掛けてやろうかしら、ってね」
「エレナ」

 咎めるように声を出す、エレナはピクリと震えた。
 そしてそれを押し隠すように、アキラの腕に強くしがみついてくる。

「ま、でも。アキラ君がそこまで言うなら、気が変わったわ。仕方ないけどあんたらに付き合ってあげる。世界最高の弾除けだもの、捨てちゃ勿体ないわ」

 優しい声だった。
 エレナはアキラの腕を離し、大きく伸びをする。

「アキラ君。その怖さは克服なんてしないでね。怖さは大切な危機管理能力だもの。それに押し潰されそうになったら私が跳ね退けてあげる。だから私も守ってね?」
「弾除けだからな。お前もそうなったら、すぐに言ってくれよ」
「ふふふ」

 満足そうにエレナは頷く。

「俺だけじゃなく、他のみんなにも」

 エレナの表情が冷めたのが分かった。
 しばらくすると、エレナは息の塊を吐き出し、呆れた表情を浮かべる。

「やーよ、過剰な馴れ合いはしないの。もう決めたわ。私はいつも通りいってやる。欲しいものは手に入れて、気に入らない奴はぶっ飛ばして、好き放題やり続けるわ。さあアキラ君、何か欲しいものはある?」

 露店を舐めるように指差したエレナは、先ほど以上に空回っているような気がした。
 まるでここから見えるすべてのものが自分のものであるかのように振る舞い、高らかに笑う。
 だけどアキラには、先ほどよりも明るい表情に見えた。

「……あ。あれ、さっきティアが買ってもらってたやつだな」
「ん? ああお菓子? そうみたいね」
「お前そんだけ金あるならティアに買ってやれよ。自業自得だけど、あいつの金欠は、やたらと人にご馳走しているからなんだぞ」

 依頼の報酬は均等に分けられているはずなのに、ティアはいつも金欠だ。
 人のために行動するが心情の彼女だが、そのことに限ってはそれが原因ではなく、まとまったお金を持つと気が大きくなるのが原因のような気がする。
 お金を預けてはならない典型的なタイプのように思えた。

「…………」
「エレナ?」
「なによ」
「いやだから、ティアになんか買ってやったら、って思って。……あれ。そういやティア、いつも金ない金ない言ってたのに、何で船にあんなに菓子持ち込めたんだ?」
「……わよ」

 エレナは視線を逸らして小さく呟いた。
 耳を向けるとわなわなと震え出し、舌打ちする。

「買ってあげてるわよ何度か。はっ、変な誤解しないでよ。あのガキが泣きわめくから、黙らせるためによ」

 まくし立てると、エレナは背を向ける。
 機嫌を損ねたらしいが、アキラはしばらくその背を見つめ、呟いてみた。

「過剰な馴れ合いはしない」
「……っ」
「木曜属性は水曜属性に、」
「アキラ君。私言ったわよね。気に入らない奴は―――」
「分かった、分かったよ。でもあんまり甘やかさないでくれよ」
「笑うなぁっ!!」

 顔を赤くして詰め寄ってくるエレナを宥めながら、アキラはそれでも笑うのを止められなかった。
 ティアが懐くのもよく分かる。
 他の面々には一線引いているように見えて、エレナも―――

「――!!」

 自分から笑顔が失せた。
 エレナの向こう、人ごみの中。
 その中央に、知っている顔を見つけた。

 “その大男”は、迷うことなく足を踏み出し、道の中央を歩く。

 完全な白髪に、猫のように鋭い金色の眼。
 向こうもこちらに気づいたようで、その巨躯で風を切り、威風堂々と近づいてくる。
 腰に提げたその巨躯と同等の巨大な剣は、アラスールのそれとは違い、純粋な戦場の匂いを届けてくる。

 スライク=キース=ガイロード。
 アキラと同じく、世界中の希望を担う“もうひとり”だ。

 とてつもなく嫌な予感がした。

「ん? アキラ君どうしたの? あ? なにあいつ。こっち睨んでない?」

 この予感は、恐ろしく奴と相性が悪そうなエレナが、早速睨み返していることからくる、くだらない悪寒だろうか。

 それとも。

「……てめぇもいんのか。はっ、面倒なことになりそうだなぁ、おい」

 この大陸で起こる面倒なことの予兆だろうか。

―――***―――

「付き合ってもらって悪かったね、サクラ。危なく面倒事に巻き込まれそうにもなるし」
「いや、こちらから頼んだことだ」

 ミツルギ=サクラは人ごみをかき分けようやく建物から外に出られた。
 今、自分たちはクラストラスの魔術師隊の支部の前にいる。

 隣にいる、ホンジョウ=イオリは街につくと、必ずと言っていいほど支部に足を運んでいた。
 目的は主に情報取集だそうだ。
 今は休職中だが彼女は現役の魔導士で、魔術師隊の構造というものを良く知っている。
 サクが情報収集するときは依頼所や酒場に足を運ぶことが多いのだが、イオリが言うに、魔術師隊の支部の方が、情報が多く精度も高いらしい。
 旅を長く続けているサクだが、旅の魔術師が魔術師隊の支部へ向かうという発想は持っていなかった。旅の魔術師と魔術師隊が不仲であるシリスティアの印象のせいだろう。
 そういう見分を広げるという意味でも、イオリと行動を共にしてよかった。

 払った労力を差し引かなければ、だが。

「いろんな種類の人がいるな」

 ようやく人ごみから解放されて呟いた。
 今、魔術師隊の支部の前には建物の中まで続く行列ができている。
 老若男女、出で立ちも様々だ。
 サクは目立つ赤い羽織を纏っているが、この集団の中においては埋もれるだろう。
 純白の装束を纏った集団もいれば、深い緑のフードをかぶった男もいる。サクに話しかけそうな素振りをした女性は、サクの服装によく似たベージュのコートで身を包んでいた。仲間だと思わたのかもしれない。

 この人々の多くは、ヨーテンガースの樹海で生活を営む数多の民族だという。
 樹海の民族と聞くとサクは野生児のような生活を続ける者たちか、怪しげな儀式を執り行う集団だと想像するのだが、想像した通りに地べたに座り込んでいるグループや輪になって目を瞑っている者たちもいれば、明るく雑談している若者たちもいる。
 そんな様々な集団は、魔術師隊の協力を仰ぐべく、または魔術師隊の許可を取るべくここに並んでいるらしい。
 通行人たちも気にせず歩いていくところを見ると、これが当たり前の光景なのだろう。

「イオリさんがいなかったら私も並ぶ羽目になっていたんだろうな」
「はは。サクラがそう言うってことは、相当堪えたみたいだね。僕も旅に出て初めてだよ、自分が魔導士であることを私利私欲で利用したのは」

 明るく言うイオリに、サクは下唇を噛んだ。
 自分たちはこの列を追い越して中に入るという割り込みだ。その上担当者を捉まえて長々と話をしてしまったのだ。
 何事も正しくありたいサクにとっては許容しがたい行為のはずだったのだが、その上イオリに言われるまで気づかなかったとは。
 これは旅による成長なのか、堕落なのか。

「少しは手伝うべきだったかな」

 気恥ずかしくなり、サクは先ほどあった魔術師隊の女性を思い浮かべる。
 額に汗を浮かべ、それでも機敏に民族たちの要望を捌いていた受付の女性は、イオリを見るなり顔を輝かせて協力を要請してきたのだった。

「いやだよ。彼らの相手をしていたら、冗談抜きで日が暮れるよ。しかし、他の大陸の魔導士に平常業務の協力を仰ぐなんて、まさに来る者を拒まないヨーテンガース、って感じだね」

 いつでも厳格な魔導士然としていたように思えるイオリは、子供のようにからからと笑っていた。
 こうしたイオリを最近はよく見る。
 これも旅を通した成長か堕落なのだろうか。

「次はどこへ行くんだ?」
「ん? ああ、依頼所だよ。魔術師隊から聞けることにも限界はある。噂話のようなものを無責任に言わないだろうからね。今度はその噂話を聞きに行くんだ」

 確かな情報を収集した上で、噂話を精査する。
 イオリの行動は酷く効率的なようにも思えるが、その分労力はかかるだろう。
 イオリは町に着くたび、いつもこうした行動を取っていたのだろうか。
 エリーが目を輝かせて尊敬しているだけはある。

「ところでサクラ」

 日が高く、影の短い市街地を歩きながら、イオリは視線を前に向けたまま聞いてきた。

「もちろん歓迎なんだけど、今日はどうしたのかな。付いてきたいなんて。さっきので分かったと思うけど、大して楽しくはないよ」

 サクはしばし考えた。
 付いてきた理由はあるのだが、何と表現していいか分からない。

「なんだろうな……。知りたかったんだ、これから何が起こるのか」
「……」

 この旅には大きな前提がある。
 新たな大陸、新たな町。そこに到達するたびに、必ず何か事件が起きるのだ。
 何もなかったことなど数えるほどしかない。
 だからイオリの言うように、細かな噂話すら、この耳に入れておきたかったのだ。

「イオリさんを信用していないわけじゃない。私が聞くより、イオリさんが聞いた方がずっと確かだろう。だけど、何でだろうな。私も直接聞きたかったんだよ」
「…………アキラのため、かな」

 小さな声だったのに、ずんと胸の内を突かれたような気がした。
 流石にイオリだ。一言で表現するなら確かにそうだ。
 巻き起こる事件は―――最早全員が確信している―――アキラが引き寄せているものだ。
 自分の主君たるあの男は世界中から注目も事件も集める勇者様。
 だから今回彼が引き寄せてしまう何かを、1秒でも早く知りたかった。
 それは従者として使命感からだろうか。

「……そうだな。アキラが遊んでいる間に、私はやるべきことをやっておきたい」

 宿での出来事を思い起こす。
 船旅でなまった身体を動かすべく、アキラでも誘おうかと思った矢先だ。
 エレナがアキラの手を引いて、宿から出ていくのを自分は見た。遊びにでも連れていかれるのだろう。

 追いかけようかと思うも、身体が止まった。
 エレナの晴れ晴れとした笑顔を見て、邪魔をするのを躊躇ったからだ。
 そういうものに疎い自分だが、見れば分かるほど、彼女はアキラに好意を抱いている。アキラも満更では無さそうだった。
 従者である自分が邪魔をするのは違うだろう。
 ならばと次にイオリが出かけるのを見かけて付いてきたのだ。エリーには悪いと思ったが。

「ねえサクラ」

 イオリは人のことを本名で呼ぶ。
 慣れない呼び方だが、誰かと一緒にされそうで訂正するのは止めていた。
 だが、イオリがそう言うと、サクは妙に、自分の心の声のような感覚に陥る。

「この旅が終わったら、僕らはどうなるんだろうね」
「……今は目の前のことに精一杯だ」
「そうだね。気分を害してすまない。でも、暗くばかりなっても仕方ない。明るい話をしようよ。魔王を倒し、世界が平和になったその後だ」

 イオリの言葉は、暗に、ここが最期の大陸だと告げていた。
 自覚しなければならないこと。
 旅の終わりが近いという事実。
 ヨーテンガースに着いたばかりで皮算用のようだが、イオリの声は、やはり自分の声のように胸の中で蠢いた。

「……エリーさんは言っていたな。アキラを元の世界に返す、って」
「そうだね。でも、どうなんだろう。アキラは戻りたいのかな」

 イオリの目の色が深くなった。
 理路整然としている彼女は今、空想の世界の中に意識を飛ばしているように見えた。

「イオリさんはどうするんだ。同じ異世界来訪者だろう?」
「僕は……。そうだね。戻らない、と思う」

 やや言葉を濁したイオリを見て、サクは彼女の思考を追った。

「アキラが戻らないなら、か?」

 あまり言いたくない言葉だった。
 こういう問題に巻き込まれると頭が熱くって、碌に思考が働かなくなる。
 いつもエリーがそういう状態になっているのを、遠くで見ていることが多い。

「……サクラ。僕の話は置いておいてくれ。悪いけど。それに、もう言った方がいいよね。僕たちは全員、大なり小なりアキラに好意を持っている」
「……」

 上手い言い方だと思った。肯定でも否定でもなく、自分の質問は、綺麗に受け流されたように感じる。
 彼女が仲間となってから大分経つが、彼女の本心を知れたと思ったことは1度として無いような気がする。

 お互いに目を合わせなかった。
 思考が上手く働かない。だから苦手なんだ。

 それでも何とか、這い回るように思考を進めると、良くない感情が芽生えてくる。

「もし、アキラが元の世界に戻りたいと言ったら、どうしようか」

 アキラの姿を思い描く。
 彼はこの世界で、確かなものを築き上げ、確かな地位に座している。
 楽観的だがもしこのまま魔王を倒せば、彼はこの世界で至上の存在になれるだろう。
 対して、彼に聞いた元の世界の話はいたって平凡らしい。
 比較すれば、どちらが良いかなど一目瞭然だ。

 だが、それは感情論なのかもしれない。
 サクにとって、故郷というものにはあまり愛着が無い。
 だが、自分の親のように、故郷をこよなく愛する存在がいることも知っている。

 もし彼が、あの笑顔の裏で強く望郷していたとしたら。
 もし彼が、世界中の期待を重荷と思っていたら。
 もし彼が、戦いの日々に疲れ果てているとしたら。

 大雑把なように見えて、アキラは繊細な心の持ち主だ。
 自分に自信がなく、いつも不安に苛まれていたことを、自分は恥ずかしいことに、アイルークでの魔門破壊での件が無ければ気づいていなかったかもしれない。

 だからもし、アキラが望めば、魔王討伐の報酬として、神の力で元の世界に戻ってしまう。
 旅が終わった先、彼は、いなくなるかもしれない。

「……嫌だな」

 聞こえなかったのか、聞こえないふりをしてくれたのか。イオリは何も言わなかった。
 サクは自分を律した。主君の望みを叶える従者とは笑わせる。
 だが、真剣に向き合わなければならないものが、目の前に迫ってきているのだ。
 最後の大陸ヨーテンガース。
 自分たちはこの地で、すべての決着をつけなければならない。

「もうすぐ依頼所に着きそうだ。悪かったね。明るい話をしようとしたんだけど失敗して。慣れないことはしないものだね」

 イオリは苦笑いを浮かべた。
 単なる雑談にしては色々と考えさせられる羽目になってしまった。
 そういえばほとんどアキラの話しかしていない。
 エリーのことを笑えない。自分も手遅れなのだろうか。

「じゃあ目の前のことに戻ろうか。足元救われたら流石に笑えないよ」
「ああ。そのための情報収集だ」
「……杖」

 イオリが呟き、足を止めた。
 転ばぬ先の何とやら。ごく近いであろう未来に備えるために足を運んだ依頼所から、ひとりの男が機嫌良さげに現れた。

 しばし沈黙。
 向うはこちらを見ると、冷静に微笑み、歩み寄ってくる。

「……すでに噂は流れていたよ。君たちがいるってね。これはまた面白いことになりそうだ」

 山吹色のローブに、それよりも特徴的な長い杖。
 マルド=サダル=ソーグ。
 その男の存在は、世界中が認識している“もうひとり”がこの街にいることを示していた。

「もし情報収集しに来たなら、俺があらかた聞いてきたけど……。話でもする?」

 人々は何も気づかず歩みを進める。
 当事者たちにしか分からぬ不穏な空気の中、男はやはり、機嫌良さそうに笑うのだった。

―――***―――

「いえ。そこまでしていただくわけにはいきません」
「いやいや、あんな依頼料じゃ恩を返せていない。それに、是非とも本番の方にも参加してもらいたいんだ」
「そちらはまた改めて依頼をお受けします。それに、お気持ちはありがたいんですが、宿はもう取ってしまっているので」

 リリル=サース=ロングトンははきはきと答えながら、戻ってきた街並みを眺める。
 間もなく夕刻。港町の喧騒も落ち着きつつあり、人々は足早に帰路を急いでいた。

 こんなふうに、人が自分の生活と向き合っている光景を見ていると、リリルの心はとても安らぐ。
 そこに在る当たり前の光景こそが、リリルが何を犠牲にしてでも手に入れたい光景なのだ。

 だからリリルは、今日もその当たり前の光景を得るために、船旅が終わって早々に依頼所へ向かった。
 アキラたちはあの大所帯だ、身動きがとりにくいだろう。その分自分が世界に対する貢献を行わなければならない。
 街を散策するようなことを言っていたアキラには後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも何とか奮い立ち、依頼書に従ってタイローン大樹海まで足を運ぶことになった。

 タイローン大樹海とは、ヨーテンガースを二分する巨大な樹海である。
 その樹海には多くの民族が住み着いているらしく、今日の依頼主はその民族の内のひとつ、サルドゥの民だった。
 依頼内容は、タイローン大樹海からこの港町までの護衛。
 どうやら近日中に彼らが定期的に行う儀式が催されるらしく、第一段階として民族およそ30名の人々を、この港町まで無事に送り届けるという内容だった。

 合流地点からこの港町まで大した距離は無く、出くわした魔物も大して強くはなかった。
 ヨーテンガース初の依頼で神経を尖らせていたリリルにとっては、やや肩透かしな結果に終わったのだが、目の前の男にとってはそうではないらしい。

 無精ひげを蓄えた恰幅のいい大男は、感心し切った顔でリリルを見ながら、響くような声で笑う。
 ヤッド=ヨーテス=サルドゥ。今回の依頼人であり、サルドゥの民の族長だった。

「いやいや。ここだけの話、最初にこんな少女をよこして依頼所は何を考えてんだ、って思ったもんだが、どうしてどうして、相当な武人だった。まったく、俺の目も曇ったものだ、すまんかったな」
「いえ。ご期待に添えたようで何よりです」

 背筋をピンと伸ばしてリリルはまっすぐに答える。
 身なりや強面の顔から、リリルは少しだけ苦手意識を持っていたが、ヤッドの態度には好感が持てた。嘘は吐かない人物のようだ。
 街の入り口で馬車から荷下ろしをしている男たちは、こちらの様子を伺いながら、やや呆れ、やや笑いながら手を動かしている。
 ヤッドはいつもの調子なのだろう。サルドゥの民たちからも愛されている族長のようだった。

 自分の方も、随分と気に入られてしまったようだ。
 ヤッドの方から依頼料の上乗せとでも言うように、宿代を負担しようと言い出されたのだ。
 もっとも、この依頼の定員は5名ほど。結局リリルしか請けなかったらしく、依頼料は随分と安上がりで済んだようだが。

「しかし、あんたが受けてくれてよかった。俺たちは樹海の中なら何とかなるんだが、外に出ると何があるか分かったもんじゃない。あんたが受けてくれなかったらどうなってたか。あとで依頼所に文句言ってやる」
「そのことでしたら、依頼所は少し騒ぎになっていましたよ。なかなか上手く機能していなかったみたいです」

 依頼所は、多くは酒場のような内装をしている。
 依頼の受付や発行が本来の仕事なのだが、それゆえに多種多様な人々が集まり、必然、情報交換が盛んに行われるのだ。
 リリルに限らず、情報収集は主に魔術師隊の支部と依頼所で行うことになるのだが、リリルは混雑していた魔術師隊には入らず、そのまま依頼所へ向かうことにしたのだった。

 そこで耳にしたのは。

「……、」

 日は間もなく落ち、人の声も聞こえなくなっていくだろう。
 リリルはオレンジのフードを被り直し、塩風の吹き抜ける街並みに目を向けた。

 今、この街には3人の勇者がいる。

 自分とヒダマリ=アキラに加え、もうひとり。
 リリルはその人物と出逢ったことはないが、噂話だけでも、ヨーテンガースに足を踏み入れるに足る傑物だ。

 流石にヨーテンガースといえどもこんな事態は稀であろう。
 依頼所はひっきりなしに自分たちの噂をしていた。

 そして、そこで小耳に挟んだ噂のひとつは、リリルの心の奥にとくりと落ちた。

「では、私はこれで失礼します」
「ああ、残念だ。だが、是非とも本番の方も依頼を請けてくれよ。2日後だからな!」

 ぺこりと頭を下げて、リリルは街の中へ歩を進めた。

 これからどうしようか。

 中途半端に時間が余ってしまった。大人しく宿に戻ろうか。
 リリルは人込みを避けて裏通りに入り、自分が取った宿の外観を思い起こす。

 見慣れていない裏通りでは、人の喧騒が嘘のように静まった。
 遠くから規則的に、波の音が耳に届く。
 街灯がいくつか壊れているのか、空気が眠りに落ちたように暗くなり、遠くの路地が浮かび上がるように見える。
 幼い頃、何度か見たような、物寂しい空間だった。

 まるで別世界のようだ。
 道を覚えるのは苦手で、どうやって宿に戻ったらいいか分からないが、幸いと時間はある。のんびりとしていこう。
 もしかしたら偶然、彼に会えるかもしれない。

「……なんて」

 リリルは頭を振った。
 “あの噂話”が自分の中で消化し切れていないのだと、冷静に自己分析してみる。

 下らないことを考えていないで、今は目の前の現実に向き合おう。
 今この街にいるヒダマリ=アキラ。
 彼は噂通り、立ち寄る町や村で事件に巻き込まれている。そしてそれを乗り越えてきた立派な人物だ。
 そしてもうひとり―――スライク=キース=ガイロード。
 彼も同じく、行く先々で騒ぎが巻き起こっている。

 そうした星の下に生まれた、などと非現実的なことを考えてみるが、しかしそれは、現実問題として起こっている。
 そんな彼らが今この街にいるのだ。
 そうなると、何かが起こらないわけがない。

 ならば、自分は。

 リリルは顔をぺしぺしと叩いた。
 そうじゃない。自分が考えなければいけないことは、“そういう順番”ではない。

 やっぱり駄目だ。
 あの噂話が頭の中に残って離れない。

「―――ヒダマリ=アキラは月輪の魔術師を仲間にした」
「……!」

 その声に、機械的に進めていた足がピタリと止まった。
 何故気づかなかったのだろう。
 通り過ぎようとしていた路地の隅に、すっぽりと収まるように紺のローブを被った女性が座っていた。
 女性の前にある小机は、絹のテーブルクロスですっぽりと覆われている。
 そこに水晶玉でも乗っていれば占い師そのものだったが、机の上には何もなく、女性は行儀悪く膝をついて身を乗り出していた。

 何故か背筋が凍りついた。
 こんな光景を、自分はどこかで見たことがある気がする。

「あなたは?」
「お気に障ったのならごめんなさい。私はヴェルバ。ただの旅の魔術師よ。人を見るのが趣味でね」

 ならば何故、彼女はこんな路地裏にいるのだろう。
 人をあまり区別しないようにしているリリルだったが、先ほどのヤッドと違い、このヴェルバと名乗った女性には警戒心を覚えた。

「あなた、リリル=サース=ロングトンよね」

 人に覚えられていることを、いつもは誇らしく思うのだが、このときばかりはリリルも眉を寄せた。
 言いようのない不快感を覚える。
 陰にすっぽりと収まったヴェルバという女性は、フードから僅かに覗いた口元を妖艶に歪める。
 声色から、歳は若そうだ。
 だが、それ以外の情報がまるで見えない。
 闇と一体化しているかのようだった。

 自分が具体的には何に警戒しているのか分からない。
考えようとしても、頭の中に靄がかかったように見えてこなかった。

「悩み事がありそうね。私に話してみない? 気が楽になるわよ」
「……それには及びません。私、急いでいますので」

 思わず嘘を吐いてしまった。
 ヴェルバはゆったりと笑う。
 見透かされているようなその口元に、リリルの心の中に生まれた小さな罪悪感が蠢き、足を進めることを躊躇わせる。

 その隙を突かれるように、ヴェルバは言葉を続けた。

「噂話の真実を知りたいの。ねえ、リリル。あなたは勇者? それとも月輪の魔術師?」

 考えないようにしていたことを突き付けられた。
 まるで自分の言葉のようだった。
 この女性と二言三言交わしただけで、頭や胸の中で様々な感情が蠢き、もがき苦しむようにリリルは胸を抑えた。

「そんなに怖い顔をしないでよ。実は私、あなたのファンなの。だから、興味津々でね。リリル=サース=ロングトンは気高き孤高の勇者なのか、寂しがり屋の女の子なのか」
「っ」

 今日、依頼で、ヨーテンガースの魔物と始めて対峙したときより、精神が高ぶった。

「アキラさんたちは、そんな理由で一緒にいるんじゃありません」

 言って、リリルは自覚した。
 やっぱり駄目だ。順番が違う。
 今自分は、自分のことよりも、アキラたちのことを言われたように思って怒りが昇ってきた。
 自分の思考や、感覚や、感性が、彼を軸にして回り始めている。
 止めようと思っても止められない。

 同時、その感情はヴェルバには見透かされたような気がした。
 身体が震える。
 もしこの感情を言葉にされたら、自分はもう正気ではいられないような気がした。

「ごめんなさい、怒らせるつもりなんてなかったの。本当よ」

 意外にも見逃された。
 それどころかヴェルバの声色は、本当に謝罪をしているようなものになっていた。

 リリルは頭に昇った熱が下がっていくのを感じ、ゆっくりと息を吐き出した。

「噂は噂のままにしておくわ。急いでいるんでしょう、呼び止めてごめんなさいね」
「いえ。こちらこそ失礼しました。では」

 リリルは足早に、逃げるように路地を急いだ。

 ヴェルバとの会話で、自覚してしまったことがある。

 自分は勇者と名乗り、世界平和に貢献してきたつもりだ。
 そこには誇りもあり、まだまだ精進せねばと思ってはいるが、ある程度の自負もある。
 だから、アキラたちとはライバルということになるのだろう。

 だが、あの噂話―――リリル=サース=ロングトンは、ヒダマリ=アキラの月輪の魔術師となった。

 それを聞いて、自分が思ってしまったこと。
 複雑な感情を置き去りにすれば、自分はきっと、その噂話に―――心地良さを覚えてしまった。

 間もなく裏路地を抜けそうだ。その先には何があるか分からない。
 リリルは、呼吸を整えながらゆっくりと足を踏み出していく。

 今も裏路地に残っているであろう彼女が何者なのかまるで分らなかったが、振り返る気にはなれなかった。

―――***―――

「バオールの儀式」

 ホンジョウ=イオリが聞き覚えのある固有名詞を口にした。
 “二週目”。この地で起こった出来事を、ヒダマリ=アキラは確かに覚えている。

 日も沈んだクラストラスの宿屋。
 アキラにあてがわれた部屋がこうした話をするときの会議室を兼ねるようになったのはいつからだったろう。
 面々は思い思いの場所に座り、その際奥、ベッドに深々と腰を下ろしながら、アキラは窓の喧騒からとり変わった波のせせらぎを聞いていた。
 多少の問題はあったとはいえ、平穏無事に過ごせた休業日。しかしこんな日が続くわけがないということは、この場の誰もが認識している。

 ゆえに定める必要があるのだ。これからの動向を。

「サルドゥという民族がいる。彼らは2日後、恒例の儀式を執り行うらしいんだけど、その護衛任務が依頼所に出されていた。勝手に決めて悪いとは思ったけど、この依頼を受けよう」

 早速方針を口に出したイオリは、肩を下げて形式張った謝罪をした。
 本当に形だけだろう。口ぶりからするに、すでに決定事項のようだ。
 依頼に関し、イオリに異議を唱える者はいないであろう。だが、この場の全員を代表するつもりで、アキラは口を挟んだ。

「なあ。もう全員“会った”んだろ? 回りくどく話してもしょうがない。イオリ。この依頼、あいつらも絡んでるんだよな」

 間髪入れずにイオリは頷いた。
 アキラはごくりと喉を鳴らす。ちらりと聞いた話では、イオリとサクはあのマルド=サダル=ソーグに会ったらしい。
 あの面々の中で最もまともに会話ができるのはあの男だ。情報を1番持っているのはイオリたちだろう。
 だが、イオリは口を開く前に、面々を見渡した。

「詳しくは話すけど、その前に、みんなの話も聞きたいな。マルドの話だと、彼らもある程度方針は決まっているらしいけど、どうなるか分かったもんじゃない、ってさ。話を聞いているだけで頭が痛くなったよ。何しろ今から関所を強引に突破して、4大陸に戻る可能性すらあるとかなんとか。彼の想定の広さには舌を巻いたよ」

 それはマルドが優れているというよりは、例のあの男が何をし出すか分かったものではないというアキラにとって単なる事実確認に過ぎなかった。
 もっともそれに付き合えるマルドも相当なのだろうが。
 イオリが頭を抱えていると、先程からうずうずしていた子供がひとり、元気よく手を上げた。

「あっし、キュルルンと遊びました!」
「あたしがカイラさんと話したこと伝えますね」

 全員がエリーに注目した。ティアが何かを言っていたが、耳を貸す者は誰もいない。

「そのバオールの儀式ってやつなんですけど、カイラさんも言っていました。打倒魔王を願う儀式らしいです。カイラさん、そういう各地の儀式とか好きらしくて結構詳しかったですよ。情報がほとんど出回らないヨーテンガースのものなのに有名だそうで。もしかしたらその依頼、カイラさんの希望なんじゃないかな……」

 世間知らずな風でも意外と押しの強いカイラならあり得るかもしれない。確かにマルドの言う通り、そういうものを嫌うあの男ならすぐにでもここを離れてもおかしくはないかもしれない。
 バオールの儀式。その儀式そのものは、1度経験しているアキラの記憶もほとんどおぼろげだった。

「儀式……ねぇ」

 思わず口から嘲るような声が出てしまった。
 エリーが鋭い睨みを利かせてくるがアキラにだって言い分はある。
 そういうオカルト染みたことはこの世界ではいまいち信憑性に欠ける。
 魔術というものは存在しているが、それには確かにロジックが存在する。信仰の対象である神すらも実在しているとなれば、ある意味この世界は、元の世界よりもオカルト領域の規模が小さいと言えた。
 当然、例外はあるのだが。

「アッキー、そう侮れるものではありませんよ。キュルルンも言ってました。中には偽物も多いらしいですが、本物を見たことがあるって。シリスティアで雨乞いなるものが成功したことがあるらしいです」
「偶然だろ? 雨が降らない日がずっと続いたら、そりゃ近々雨が降る」
「むぅ……むむむ」
「ちっ。私も半信半疑だけど、一応何らかの術式を組み上げる儀式なら見たことあるわ」

 言葉に詰まったティアに助け舟を出したのは意外にもエレナだった。
 部屋の壁に背を預けて立ち、苛立ったままの顔を窓の外に向けて続ける。

「何のためにやっていたかは知らないけど、儀式を執り行っていた連中は明らかに魔力を消費していたわ。でも結果、その場では何も起きなかった。それっておかしいじゃない? 対価を払って何も起きないなんて。だから、“何か”は起きたのよ」
「おお。おおお。夢がありますね」

 ティアがニコニコとして頭を揺らす。こうしたロマンがある話は彼女の大好物だ。
 しかし、エレナの言うことにも一理ある。漠然としたままだが、妙に信憑性があるような気がした。
 確かに、魔力を消費したら何らかの現象が発生するはずだ。

「でも意外ね。信じてないんだ。あんたはティア側だと思ってたけど」
「お前はどうなんだよ」
「あたしは……半々ね」

 エリーの返答には珍しさを覚えた。彼女なら徹底的に信じているか、全く信じていないかのどちらかだと思ったのに。
 まあ、アキラも同じく、まるで信じていないと言うわけではない。
 ただ今は、そうしたオカルトの世界ではなく、目の前の現実に目を向けたくなっているだけだ。

「……アキラ。それに、エレナさんもか」

 表情が険しくなっていたのか。それを見て、イオリの隣に立つサクが同じ表情で真っ直ぐに見てきた。
 やはりか。エリーとティアはその話を聞かなかったらしいが、どうやらそちらも、マルドから自分たちと同じ情報を得てきたらしい。

「あの男に会ったんだろう。それなら、あの話は聞いたか?」
「聞いたよ」

 アキラは立ち上がり、窓の外を眺める。
 昼間。あのスライク=キース=ガイロードと再開したときのことを思い出す。
 案の定、圧倒的に相性の悪かったエレナをなだめるのに随分と神経を使う羽目になったが、それでも少しだけ話すことができた。
 その中で出てきた儀式などよりも遥かに印象深い“とある固有名詞”は、事態の深刻さをアキラの脳髄に刻み込んだ。

「俺が聞けたのは少しだけだ。今、スライクたちは大きな依頼を受けるたびに面倒なのに絡まれているらしいな」
「こちらも聞いた。だからマルドさんからこの依頼に誘われたんだ。それに、この港町には今勇者が3人もいる。どうせ何かが起こるなら1ヶ所で起こった方が都合がいいとな」

 エリーとティアは首をかしげる。
 回りくどく話していても仕方がない。結論を言おう。
 ヨーテンガースに来て早々、再び大きな山場を迎えているのだと。

「『光の創め』」

 エリーの目が見開かれる。エレナの機嫌が、より一層悪くなったのが分かった。
 アキラが口にしたのは、すべての記憶を保有するイオリですら知らなかった、魔族の集団と思われる存在。
 その中1体は、ほぼ全員の猛攻を受けてなお、ほとんど無傷で去っていったらしい。

「スライクたちは魔門破壊を成功させてから、奴らに付け狙われるようになったらしい。多分、今回もそいつらが現れる」

―――***―――

 自分の勤勉さに涙が出てくる。
 ヒダマリ=アキラは、クラストラスの図書館に足を運んでいた。

 情報収集ならば魔術師隊の支部や依頼所で事足りることが多いのだが、現在街を騒がしている張本人がそんな場所に出向くのも憚れる。
 半ば消去法のようにここを選んだのだが、アキラ自身、自分の考えをまとめることが苦手なのもあって、話を聞くより自分で調べた方が色々と気が楽であったりもする。
 それにクラストラスの図書館は、街のいたるところに情報が流通しているのも相まって、昼過ぎだというのに閑散としていた。
 気を落ち着けたい今のアキラにとってはますます都合が良かった。

 昨夜。
 スライクたちから聞いた『光の創め』という魔族集団。
 一応アキラも魔門破壊のあと、調べようと思ったのだが、残念ながらアイルークでは全くといっていいほど情報が集まらなかった。
 遭遇する可能性が高まったからというわけではないが、アキラも個人的に件の魔族集団には興味がある。
 依頼は明日。
 その前に、調べられることはなんでも知っておきたい。

 そういう意味ではこの場所以上に最適な場所はないであろう。
 ヨーテンガースの入り口であるクラストラス。ここには数多くの情報が収集されている。
 閑散とした図書館を見てあまり期待できないと思ったのだが、適当に手に取った書物には、当事者がぞっとするほど正確にアイルークの魔門破壊での出来事が載っていた。
 それどころか参加者と思われている面々の簡易な人相書きまで載っている。これではまるで指名手配だ。
 手に取った書物はどうやらシリーズものらしく、各メンバーからその個人にスポットを当てた別の書への索引まで記載されており、辿っていくと自分たちの旅の軌跡すら読み解けるほどである。
 最も、そして圧倒的に索引が多いのは、魔門、そしてアキラたちが撃破したリイザス=ガーディラン。次いで、リリル=サース=ロングトンだった。

「……」

 ふと、誰かの視線を感じた。
 反射的に怒られそうな気になって、アキラは散乱させてしまった書物を記憶の限り手早く元通りにする。
 だが、視線の主からの気配は変わらない。どうやら“違う”らしい。
 アキラは平静を装って気配のする本棚の陰に歩み寄る。
 アキラが顔を出す前に、陰から小柄な影が静かに顔を覗かせた。

「よ、お。リリルか」
「こ、こんにちは」

 噂をすればというやつか。
 リリル=サース=ロングトンが、小さな本を小脇に抱えて小さく微笑んだ。
 この港町についたあと、街を回っていたのに見かけもしなかったが、丁度いい。
 明日のこともあるし、話がしたかったところだ。

「リリルも調べ物か?」
「は、はい。その、昨日は依頼が思ったよりも長引いて時間がなくなってしまって……。今日はじっくり情報収集をしたいんです」
「そうか、同じだな」

 ぎこちなく笑うリリルに違和感を覚えるも、流石の活動力には驚嘆した。
 あの船旅の直後に依頼を受ける気になるとは。
 アキラも戻し損ねた本を抱え、奥の読書スペースに彼女を促した。

「アキラさんは何を調べにきたんですか?」
「まあちょっと。明日の依頼に関係ありそうなことを」
「すみません、邪魔をしてしまって」

 いつものはきはきとした口調とは違う。妙に元気がないような気がした。
 彼女は感情がそのまま外に出る。なんとなく自分が悪いことをしたような気になる。
 アキラは椅子に座りながら、我慢できずに正直に言った。

「いや、邪魔なんかじゃない。リリルも宿はこの近くだろ。会えそうな気もしてた」

 照れ隠しに本を開いた。顔が上げられない。
 リリルがすとんと隣に腰を下ろしたのが分かった。

「私に……?」
「あ、ああ。なんとなく、だけど」
「そう、ですか。じゃあ、同じ、です」
「……そう、か」

 妙に緊張する。
 最近、リリルと会うと、妙に意識してしまう。
 彼女も持ってきた本を小さく開いては閉じを繰り返し、静かな図書館の中でその音だけが聞こえてくる。

「そうだ。リリル、話があるんだよ」
「え、あ、はい。何でしょう」

 気まずさを振り払うために、アキラは頭を振って話題を変えた。

「明日、俺たちはある依頼を受ける。できればリリルも一緒がいいんだけど、空いてるか?」
「はい、大丈夫です。空いていますよ。どんな依頼ですか?」

 こういう話になると、リリルはしっかりした物言いになる。
 あらゆるものに対して実直な彼女の美徳なのだろうが、その迷いのなさには少し不安を覚えてしまう。

「サルドゥの民の……なんだっけかな。何かの儀式の護衛だよ」
「まあ!」

 リリルの背筋がピンと伸びた。
 アキラがびくりとした視線を送ると、彼女は赤面して小さく咳をした。

「それなら私も別口からお願いされていました。丁度良かったです」

 そんな事情があるならよく空いていると言ったものだ。
 もっとも彼女なら、どちらも同時にこなすつもりだったと言いかねないので、口を挟む気にはなれなかった。
 それよりも、彼女に伝える必要があることがある。

「でも、アキラさんたちはどうしてその依頼を?」
「そのことなんだが結構事情が複雑でな。リリル、今この街で何が起こっているか知っているか?」
「……ええ。現在この街に、“もうひとり”がいるんですよね」

 リリルの瞳の色が深くなる。
 流石に知っていたようだ。そして、どうやら事情も把握したらしい。

「何かが起こるなら1ヶ所で、って感じだ。サルドゥの民には悪いけど、それでも放っておけない」

 サルドゥの民には本当に災難だろう。
 スライクたちが参加するだけで既に大事になりかねないのに、その上自分たちも参加するとなれば事件発生は確定だ。
 だがそれゆえに、こちらも万全を尽くさなければならない。

「……アキラさん」

 リリルが神妙な声を出した。

「アキラさん、それに、スライク=キース=ガイロードも、行く先々で事件に巻き込まれていますよね」
「ああ」

 とっくの昔に自覚していることだ。
 今さら疑いはしない。

「思ったことはありませんか? 自分が依頼を受けなければ、そんな事件は起こらない、って」

 アキラが顔を上げると、リリルははっとして首を振った。

「違いますよ、責めているわけじゃないです。聞きたいんです、辛くないのか、って。私は月輪属性だからなのか、偶然が必然になるという感覚があまりありません。事件に向かっていくだけです。でも私はあの魔門破壊で、確かに見ました。異常を超えた異常を。そんなことに毎回巻き込まれていて、アキラさん、大丈夫なのかっていう、その、興味、です」

 早口でまくし立てたリリルから、自分を責める気持ちがないことは確かにないとは感じられた。
 だがその瞳は、単なる興味本位ではなく、何か真剣さすら覚える意思を感じる。

「だけど仕方ないんだよ。例え俺やスライクが何もしなくても、選ばれなかった“刻”として事件は発生する。日輪属性の呪いだよ。だから、」

 言葉を続けようとして詰まった。
 聞いた言葉をそのまま自分の中に刻んだだけの事実。
 日輪属性の呪いは、そういうものなのだと。
 だが、口にして、今の自分とは重なっていないことに気づいた。
 リリルの真摯な瞳に対して、今の答えでは不十分のような気がした。

「……違うか。外から見れば被害まき散らかしているように思える張本人が何言ってんだ、って感じだけど―――その辛さを乗り越えたい。偶然だろうが必然だろうが関係ない。逃げられないから逃げないんじゃないよ」

 逃げたいと思ったことなど、数え出したらキリがない。
 だから今まできっと、逃れられないから飲み込まれていただけなのだろう。
 だけど今はそうではない。この世界で起こることから、逃げ出したくないから逃げないのだ。

 いっそ自分のせいで起こると言ってもらって構わない。だが、それ以上に、自分のお陰で救われる人をひとりでも増やしたい。
 利己的なものかもしれないが、それでも誰かを救うことに、自分のすべてを賭けようと思える。
 アキラは自分を笑った。本当に自分は変わったようだ。
 呪いに挑むスライクの意思や、誰かを救いたいと思うティアの願いや、目的をまっすぐに見据えるエレナの覚悟。挙げていけばそれこそキリがない。
 自分に関わってくれた多くの人々に影響され、しかしそれは自分のものになり、それが混ざり合ったような言葉が、この口から出てくるとは。

「多分俺は、この世界が好きなんだろうな」

 だから、すべてに向き合いたい。この呪いにも、挑みたいから、逃げられない。
 よりにもよって、出口の厳しいヨーテンガースに入ってから自覚するとは。
 我ながら運がない。

「……アキラさん」
「あ、悪い。てかなんか、そんな感じ。俺は大丈夫だよ」
「あの」

 喋りすぎたような気がした。
 照れ隠しに本を開く。しかしリリルはまっすぐにじっと見つめてくる。
 視線を向けると、リリルは神妙な顔をして、アキラの目を見据えていた。

「お話があります」
「……なんだ?」

 その様子に、アキラは姿勢を正した。
 ごくりと喉が鳴る。

 リリルがゆっくりと口を開く、そのとき。

「ねえ、見つけたわ。これでしょ? って、……リリルさん?」

 はっとして顔を上げたら、赤毛の少女がどこから引っ張り出したのか帯が壊れかけた古びた書物を抱えて睨んできていた。
 エリサス=アーティ。こっそり宿屋を抜け出そうとしたところで彼女に見つかり、案内役兼アキラのお目付役として図書館までついてきてくれたヨーテンガース生まれの女の子。
 先ほどの人相書きは、やはりあまり似ていない。この凄みは本人にしか出せないのだから。

 エリーはアキラを見て、硬直しているリリルに視線を移し、再度アキラは見据え、小さく息を吸った。
 大好きなこの世界でも、向き合いたくないことがあった。
 こっそり宿屋を抜け出そうとしたという事実と、リリルがここにいるということにはなんら繋がりがないのだが、エリーからはどう見えるか。
 リリルには偶然会っただけなのだと強く主張したいのだが、生憎と、今さっき偶然だろうが必然だろうが関係ないとこの口は言っていた。

「……人ばっかりに働かせて。リリルさん、どうもです」
「エリサスさんと一緒だったんですね、こんにちは」
「だからエリーでいいですって」

 ティアを筆頭に、リリルが口にする愛称は定期的にリセットされる。エリーのこの台詞を聞いたのは何度目か、随分と辛抱強いと思うが、アキラは口を挟まなかった。

 エリーはとりあえずこの場では色々と飲み込んでくれたようだ。
 姿を消したと思えばまた女性と一緒にいる、と毎回のように言われ、エリーにまたぐちぐち言われるのかと思ったが今のところは救われたらしい。
 アキラは可能な限り気配を消す。
 “それ以上の負い目”もあるアキラにとって、今のエリーを刺激するのは絶対に避けたかった。

「では、エリーさん。それは?」
「えっと、ねえ、どこまで話したの?」
「明日の依頼受けるところまで、かな」

 リリルは頷く。
 そうだ。真剣に依頼に向き合おう。余計なお喋りはご法度だ、時間がない。何しろ明日だ。

「じゃあ『光の創め』についてはまだなのね」
「……!」

 リリルの瞳が深くなる。
 自分とリリルは魔門には行かなかったから実物は見ていないが、その脅威は当然聞いている。

「明日の依頼、また例の魔族が出てくるってことですか?」
「かもしれない、だ。だからこそリリル、明日の依頼、気が抜けない」
「問題ありません。私はいつも通り、真剣に協力します」

 リリルのまっすぐな視線を受けていると、視線が遮られた。
 拗ねた表情のエリーがリリルとは反対側の隣に座ったと同時、腕を伸ばして、やや乱暴に古びた書物をアキラとリリルの間を通して机の上に置いた。

「……どこにあったんだよこれ」
「あっちの方。情報が多過ぎて探すの苦労したわ。事件別にはまとめられているみたいだけど、存在別……横串のまとめ方があんまり無いみたい」

 そういえば先ほど見た索引はほぼ別の事件につながっていた。
 ここにはあらゆる情報が集まるという。人物、あるいは魔族ごとにまで整理していたら処理が追いつかないのだろう。
 多少無駄になろうが、事件別に整理していた方が楽なのかもしれない。そういう意味ではアキラが見つけた索引付きのあの書物はかなりの当たりだったのだろう。
 誰が纏めているか知らないが、随分な物好きがいたものだ。

「こんなに有名な集団なんですか? 私も調べてみたんですが、何も分からなかったのに」
「リリルも知らなかったのか。ヨーテンガースの図書館が凄いってことか?」
「そうじゃないわよ。これ、別に『光の創め』だけがまとまっているわけじゃ無いみたい」

 目の前の古びた書物は正面から向かい合えばかなり分厚い。
 これらがすべて奴らの情報ならかなり有益になりそうだったのだが、エリーは肩を落として本をめくった。

「これ、今まで現れた魔族の集団についてまとめられている本みたい。具体的に言えば歴代魔王軍ね。ほとんど字が色褪せてて前半は読めたもんじゃないけど、後半に出てくるわ」
「歴代魔王軍……か」

 過去の勇者たちが、自分の先人たちが討ってきた諸悪の根源。
 リリルは三代目勇者の大ファンだ。表情を隠せない彼女は、少し残念そうな顔をしていた。
 自分だって初代勇者が討ったという魔王に興味は引かれていたが、余計なことに時間を割いている場合ではない。

「つうか、歴代魔王と同じ本に纏められるって、やっぱ結構やばい奴らなのか」
「そういうことになるわね」

 相変わらずなんてことのないように彼女は言う。
 度胸があるのか、そういう風に振舞ってくれているのか。
 こういうときのエリーには、頼もしさの反面で、リリルとは別種の言い知れぬ恐怖を覚える。

「あった。こいつね、あたしたちが遭ったのは」

 分厚い本をめくっていくと、後半、そのページに辿り着いた。

 『光の創め』。
 主にヨーテンガースを中心に目撃されている魔族集団。
 目的は謎に包まれているものの、噂では数世代前の魔王が猛威を振るっていた頃ですら活動していたという太古の存在たち。
 魔王を討つという使命を持った歴代の勇者たちも、その多くは出遭うことすら叶わなかったという。

「……」

 アキラは概要を読んで、以前と同様の感覚を味わった。
 “正規ルート”から外れた存在。
 それは以前、4大陸を滅ぼし回っているという最古の魔族―――アグリナオルス=ノアを思い起こさせる。
 魔王の討伐に死力を尽くすべきである勇者たちが手を伸ばせなかった魔族。それが、このヨーテンガースにも存在している。

 そして。エリーが指差したそこには、魔門破壊の際に現れたという『光の創め』の一員が記されていた。
 エリーも、そしてリリルも、気づいているのであろう、目を見開いていた。

「お前たちは遭ったんだな、この―――『盾』のルゴール=フィルに」
「『盾』……って。え、ちょっと待って、他は?」

 エリーがゆっくりとページをめくっていく。
 ページを読み進めると、『光の創め』は世界で起きた大きな事件の随所に関わっていることが分かってきた。
 しかし『 光の創め』自体の活動はそれほど大きなものではなく、あくまで小さなノイズとしての役割しか果たしていない。
 それ故に、歴代勇者たちも積極的に討伐しなかったのであろう。
 だが、アキラの受ける印象はまるで別だった。ひとつひとつは小さい。目的も分からない。しかしそれぞれに、なんらかの意図のようなものを感じざるを得なかった。
 巨大な光の陰で、まるで何らかの調整をしているような印象を受ける。

 そして見つけた『光の創め』の最終ページ。
 より危険とされる構成員。

 『剣』のバルダ=ウェズ。

「……ちょっと真剣に、有事の際の編成を考えた方が良さそうね」

 見つけられた情報はそれだけだった。
 エリーは表情を正して本を閉じる。

「『盾』に『剣』。もし『光の創め』が、”あの存在たち“と同じ役割を担っているとしたら……まずいですね」

 リリルも神妙な声を出した。
 流石に有名な役割の話だ。アキラですら知っている。

「なあ、お前たちが遭ったのは、本当にこのルゴール=フィルなのか。『盾』だぞ」
「そうね。金曜属性だったし、ほぼ無傷だったんだから納得はできる。でも、あれで『盾』?」

 もたらした被害は、魔門の樹海全域に及ぶ。
 もしエレナのように単騎で対抗できるような存在がいなければ、その“攻撃能力”にあの面々は容易く全滅していたかもしれなかったらしい。
 『盾』という言葉を安直に捉えるのもどうかと思うが、魔族ともなれば例え防御を担う役割であったとしても、規格外の被害をもたらすのだろう。
 だがもし、記されていたこの『剣』が現れようものなら、その被害は想像もつかない。

「魔門破壊のときのようなことにはならないようにしましょう。私が口を挟むのも妙ですが、アルティアさんは絶対に戦線に出さないでください」
「あたしもイオリさんにそう言うつもりです。ティアは徹底的に温存。それに、カイラさんたちにも話さなきゃ。治療ができそうなのはカイラさんと……、あと、多分マルドさんもできるんじゃないかな」

 治療可能な者は有事に備えなければならない。
 治療すら焼け石に水になる可能性すらあるが、もし戦線に出て離脱しようものなら、万が一があったらアウトだ。
 何より攻撃役の方が潤沢に揃っている。治療者は貴重なのだ。
 自分たちより『光の創め』に詳しいあの面々なら、この意図も伝わるだろう。

「それに……。アキラさん。あなたも戦闘は可能な限り控えてください。多少コントロールできるようになってきてはいますが、やはり蘇生クラスの魔術となると消費は大きいです」
「ああ」
「この前だって、わた、し、に」

 真剣に考察を進めていたリリルが、はたと気づいたように顔を上げ、真っ赤になった。
 アキラも意識が明日から今目の前の現実に戻ってくる。
 すると目の前には、無表情になったエリーがいた。
 アキラは知っているが、エリーが最も危険なのは、顔から表情が消えたときだ。

「とにかく、誰でもいいから見つけよう。今日中にスライクたちとも話をしておきたい」
「待って」

 立ち上がったアキラは裾を掴まれた。
 エリーは、アキラとリリルの表情を見比べて、なお無表情だった。

「なんだよ、急ぐぞ。真剣なんだ」
「違う気がする。なんだろう、あれ、何か引っかかるの」

 真摯な表情を浮かべているつもりなのだが、エリーは動じていなかった。

「ねえ。治癒魔術、上手くなったの?」
「ええと、まあ少しはな」
「でもあたし見てない。でもリリルさん知ってる」

 カタコトだった。
 アキラの背筋がさっと冷えていく。

「ま、待ってください!」

 真っ赤になって震えていたリリルが勢いよく立ち上がった。
 すぐに分かった。彼女は火に油を注ぐつもりだ。

「私が言い出したんです! 練習しましょうって、その、船の中で。私も初めてで、全然ダメで、もう本当にすごかったから、ほとんど気絶しちゃって、その、あんまりお役に立てなかったですが、でも、だんだん私も慣れてきて……、今では良……あ、ええと、その。必要なことだったんです!」
「ふえ」

 エリーが何か奇声を発し、俯いた。
 目を瞑ってまくし立てたリリルが震えながら腰を下ろす。
 アキラもゆっくりと隣に腰を下ろし、明日の天気について真剣に考え始めた。

 3人で横並びになり、静けさを取り戻した図書館の中、ただじっと、日が落ちていくのを待った。

―――***―――

「わくわくします。キュルルンたちまだですかね? 同じ宿なのに、カーリャンもいなかったですし」
「ティア!! お前ふざけんなよ!! 昨日どこにいた!?」
「ええっ!? あっしが何かしましたか!?」
「お前がいたら、お前がいたら、きっとあんな空気には……くそ」
「わ、わ、わ」

 翌日。
 クラストラスの港で、アキラたちはサルドゥの民の依頼開始を待っていた。
 依頼の案内人と思われる女性が海の向こうを眺めながら、周りの視線にびくびくしながら独り言を呟いている。
 開始時刻は間も無くだ。だが、どうやら海の向こうからくるはずの積荷が遅れているらしい。まずまずの大人数が集まったこの港で、自分のせいではないのに視線を突き刺されるあの女性には同情するが、つい八つ当たりをしてしまったティアの方が可哀想だった。

「エリにゃん、エリにゃん、あの、アッキーが怖いです。めっちゃ荒んでます。あっし昨日、キュルルン探して迷子になってただけなんですよ」
「それが悪い」
「エリにゃんもだーーっ!?」

 ティアがエレナに泣きつきに駆け寄っていくのを横目で見て、アキラはエリーから顔を背けた。
 昨日の一件以来、めちゃくちゃ気まずい。
 リリルも先ほど見かけたが、彼女も彼女で顔を背けて離れていってしまった。

「アキラ。もうすぐ依頼が始まるぞ。あまり遊んでばかりもいられない」
「そうだね。ほら、積荷を乗せた船も見えてきた」
「……ああ、分かっているよ」

 逃げ込むように立ち寄ったサクとイオリのいつもの様子に、自分の荒んだ心は落ち着きを取り戻せた。

 アキラは頬を張る。
 辛うじて自分たちが集めた『光の創め』の情報をサクとイオリに伝えたところ、作戦には異議がないようだった。
 彼女たちは初日と同じく、ふたりで情報収集に勤しんでいたらしい。
 決して楽観できる相手ではないということは、多少沸き立っているとはいえ、今この場に立つ自分たちの共通認識になっている。
 まもなく、日常が終わる。

「……アキラ」
「ああ、お出ましだ」

 アキラは思わず鋭く視線を向ける。
 離れていたリリルも、姿勢を正しているのが分かった。
 参加した他の旅の魔術師たちも、情報は掴んでいるようで、担当の女性に突き刺していた急かすような視線を外し、その様子をじっと眺め始める。

「はっ、始まってねぇのかよ。随分悠長だなぁ、おい」

 ひとりの大男がその大きな歩幅で歩み寄ってくる。
 アキラも、そしてリリルも思わず歩み寄り、その場の視線はただ一ヶ所に集められた。

「初めまして。あなたの噂は聞いていますよ。今日はよろしくお願いします」
「あん……? ああ、お前が、か。はっ、ますます愉快なことになりそうじゃねぇか」
「知ってはいるみたいだな。依頼の前に、話しておきたいことがある」

 リリル=サース=ロングトン。
 スライク=キース=ガイロード。
 そして、 ヒダマリ=アキラ。

 この依頼に参加した、他の旅の魔術はこう思うだろう。この依頼は盤石だと。
 だがその当事者は、味わい慣れたこの危機感に、微塵にも表情を崩さなかった。

 そして。

「……」

 “その存在”を視界の隅に捉え、アキラは気づかれぬように拳を握った。

 当然、忘れていたわけではない。
 謎多き『光の創め』が現れる可能性が高いこの依頼。
 しかし、アキラにとって、出遭ってすら未知の存在も現れることを。

 日常は終わる。
 この依頼は、まるで予断を許さない。
 この3人の勇者がいてなお、この依頼は磐石と思えない―――諸悪の根源が存在するのだ。

「みんな、こっちに火を焚いた。潮風は冷えるだろう。依頼も始まりそうだし、こっちで休むと良い」

 好意的な態度を振る舞う、紺のローブを纏う男性。
 ブロンドの長い髪をそのまま垂らし、皆を労わるように微笑みを携えている。

 いかに人間のように振る舞ったとしても。忘れていないぞ―――その顔は。

「勇者様たちもどうですか? 私はラース。この依頼では頼りにしていますよ」

 “魔王”―――ジゴエイル。



[16905] 第五十四話『下らない世界(中編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2020/03/19 00:53
―――***―――

「無視しよう」

 散々考えあぐねた結果だ。
 いかなる非難も甘んじて受け入れる覚悟がある。

 ヒダマリ=アキラが拳を握り締め、震えるように、しかし震えるように出した言葉に、意外にも、ホンジョウ=イオリは静かに頷くだけだった。

 サルドゥの民が毎年行なっているバオールの儀式。
 それは今向かっているベックベルン山脈のガオールの地とやらで執り行われるらしい。

 参加者もそれなりの人数がおり、街で見かけた気がするような旅装束の者から、着慣れていないと一目で分かるような重装備に身を包んだ民間人のようなものも混ざっている。
 老若男女が入り混じるこの依頼。
 小耳に挟んだ話では、サルドゥの民はどこから資金を調達しているのか気前が良いらしく、毎年のこの行事はちょっとした小遣い稼ぎに最適らしい。
 ヨーテンガースという油断が許されない大陸の依頼だというのに、住んでいる者たちにとっては慣れたものだということなのか。

 もっとも、特に今回に限っては、彼らは至極安全だとタカをくくっているのかもしれない。
 現在、この依頼にはアキラを含め、3人もの勇者が参加している。
 だがアキラは、それが何の保険にもならないことを同時に知っていた。

 全員が囲うように歩いている馬車の後方を盗み見る。
 あくまで好意的に振る舞い、旅の魔術師たちからの信頼を着々と築き上げているブロンドの男。
 どこからどう見ても人間にしか見えないそれは、アキラたちが目指す、諸悪の根源なのだ。

 そして、アキラがその存在に対して出した結論は、無視だった。

「聞かないのかよ、理由」
「いや、僕も同意見なんだよ。前回の依頼では、結局何をしていたのか分からなかったんだろう。単純に僕らの様子を見に来ているだけの可能性もある。ただでさえ『光の創め』なんていう面倒事を抱えているんだ。表現はあれだけど、無害なら下手に手を出さない方がいい」

 歩幅も表情も何ひとつ変えず、イオリは言い切った。
 言いようのない安心感が好みを包む。
 多少は歯がゆくもあるが、イオリも“魔王”は相手にしないつもりだったらしい。

 ホンジョウ=イオリはアキラが忘れてしまった“一週目”の記憶すら保有している。
 迷わず相談できる相手がいるのは本当に助かった。
 しかしそれは、現状そのイオリすら知らなかった『光の創め』の方が魔王より脅威だと言っているようなものなのだが。

「それよりアキラ。下手なことをしてこちらのアドバンテージがバレることの方が問題だ。馬車の中にいるようにとも言ったのに」
「いや、色々思い出してきてな。この族長、やたらと話好きなんだよ。代わりにティアを差し出して、俺は逃げてきた」

 自分が勇者であるということは、どこから漏れたのかサルドゥの民はおろか他の依頼を受けた旅の魔術師たちですら知っていた。
 今も馬車を警護しながら共に歩く他の者たちからの興味の視線が何度も突き刺さっている。
 おまけに隣の馬車の巨大な車輪は、泥を引っ掛けたのか定期的に服に飛ばしかけ、いらぬ神経を使わされる。

 だが、それでもここの方が圧倒的にマシだった。

 何故なら馬車の中では、族長の話に大盛り上がりのアルティア=ウィン=クーデフォンと、共に話を聞いている各地の儀式に強い興味があるカイラ=キッド=ウルグスが、キュール=マグウェルに過保護を発動して半泣きにさせているも、一切を無視して壁に背を預けて目を瞑っていたスライク=キース=ガイロードがいることに、外を歩くのは面倒だからと馬車に乗り込んだエレナ=ファンツェルンが機嫌の悪さを隠そうともしていない上に、ティアのお目付役として馬車に乗ったエリサス=アーティがたまたまリリル=サース=ロングトンの隣に座ってしまい気まずい空気が流れている。

 今、馬車の中だけには絶対にいたくない。

「まあどこにいてもいいけど、アキラは可能な限り休息に徹してくれ。向こうの面々にも話したんだろう? 治療者は徹底的に温存だって」
「ああ。一応そうしてくれているみたいだ。だけどあのマルドって人、治療できるみたいだけど外にいるし」

 馬車の反対側だろうか。
 あちらには仲間のミツルギ=サクラが付いているはずだ。
 おそらくマルド=サダル=ソーグという長い杖を持つ男もいる。
 面識はあるし、ふたりとも慎重な性格のようだから気が合って話でもしているかもしれない。
 サクのことだから、無駄話などせず、すでに臨戦態勢でこの依頼に真摯に取り組んでいるかもしれないが。

「そういや最近、イオリとサクって一緒にいること多いよな」
「ん? ああ、そうだね」
「ふたりのとき何話してんだ?」
「何って……、まあ、依頼や魔術の話とかが多いかな。最近サクラは魔術関連のことに興味があるらしくて」
「サクが?」

 頭の中はほとんど武器と剣術のことで埋め尽くされていると思っていたから意外だ。
 そんな顔をしていると、イオリがジト目になっていた。
 失礼なことを考えていると見抜かれたらしい。

「アキラ。君は一応彼女の主君だろう。彼女は色んなことを考えている。もっともそれは彼女だけじゃない、エリサスやエレナ、それにアルティアだって変化している。当然みんな違うんだ、見える範囲に限らずね。ちゃんと考えていないと、いつか愛想つかされちゃうかもね」
「大丈夫だと……思うんだけどなぁ」

 気楽にそう言うも、アキラの目は僅かに遠くなった。
 自分はきっと、旅を通して変わっていった。だがそれは、イオリの言うように彼女たちにも変化をもたらしているのだ。
 自分たちの関係性だけでなく、彼女たち自身の内面も、当然成長や変化を繰り返しているのだろう。
 今まで自分のことばかりに必死で、周りをしっかり見ていたかと言われると、正直自信がない。

 だが、自惚れでなければ、近頃感じることもある。
 少なくとも、自分という存在は、彼女たちを何らかの形で支えていると思いたい。
 頼ってばかりの記憶しかないが、自分の存在が彼女たちの一部になっていればいいと思うし、そう在りたいとも思うのだ。

 だが、だからこそ、どうしようもなく不安になる。
 もし、ヒダマリ=アキラという存在が、この世界から、

「アキラ?」
「ん? ああ悪い、何の話だっけ」
「……何でもないよ。そうだ、それで思い出した。アキラ、世界が平和になったらどうしようか」
「どうした急に」
「この前サクラとそんな話になってね。明るい話をしようって」
「その前には暗い話してたのかよ」

 真面目なふたりの会話というものは想像できない。
 もしかしたら、いつも厳粛な空気になっているのだろうか。

 イオリは髪を触りながら無視して続けた。

「アキラはどこか行ってみたいところとかある? 僕はシリスティアに行ってみたいと思っているんだよ。季節問わず綺麗な花が咲くんだってね」
「は、イオリにしちゃ意外だな」
「それはなに。僕に花は似合わないと?」
「いや、違うって、そんな空想みたいな話をするなんてさ」

 適当に言ったら、イオリはまた拗ねた。
 アキラは目を瞑り、拳を握って空を仰いだ。

「俺は……。そうだな。この世界をもう一度周りたい」
「へえ」
「勇者としてじゃなくて、単なる旅の魔術師として。全部だ、全部行きたい。荒地だらけのタンガタンザだろうが、ほとんど滅んでいるモルオールだろうが、全部」
「……ふ。そうだね。特にモルオールは案内するよ。タンガタンザはサクラかな」

 アキラは、心の底から笑った。
 とっくに慣れ親しんだ勇者としての重圧を取り除いて、自由気ままに、大好きなこの世界を周りたい。
 馬車の車輪は、いつしか泥を落としたのか、綺麗に回転していた。
 アキラは落ちた泥のために、振り返ることはしなかった。そうあるべきなのだから。

「実現させるぞ」
「ああ、勿論だ」

 イオリは強く頷いた。3度も繰り返した彼女には、その日々に辿り着く権利がある。
 アキラも頷く。自分には、この世界の狂った歯車を元に戻す義務がある。

「……! さて。そろそろ現実に戻ろうか」
「ああ」

 最初に気づいたのはイオリだった。
 遅れてアキラも、前方の草むらが不自然に揺れているのを察知する。
 姿は見えないが、どうやら数は揃っているらしい。

「魔物の群れだ。それも、ヨーテンガースの。アキラ、馬車のみんなに伝えてきてくれ。迂回しよう」
「分かった」

 入りたくない馬車の中だが、有事となれば別だ。
 依頼は始まったばかり。無用な費消は避けるべきであろう。
 普段はいかに折り合いの悪そうな面々でも、このときばかりは一致団結してもらわなければならない。

 アキラは馬車に素早く入ると、すぐさま迂回を提案した。

「えー、遠回りとか面倒じゃない。真っ直ぐ行きましょうよ」
「なに。魔物? あたし行ってくる。……ティアはここにいること!」
「私も出ます。任せてください」

 弾かれるように立ち上がった3人に加え、奥のスライクは、いつの間にか馬車の外へ飛び降りていた。

 イオリが言うには、みなそれぞれがそれぞれ変化しているらしい。
 アキラもそう思うのだが、こうした光景を見ると自信が揺らぐ。
 旅を始めたときから、作戦は、直進ばかりだ。

「頼もしいなぁ」

 戦闘要員がほぼ全て外に飛び出て、一層広く見える馬車の中、アキラはおどけてそう呟いた。
 馬車の速度は変わらない。
 車輪に挟まっていた泥は、今はもう、視界に入れることすらできなくなっていた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 予想よりずっと早く目的地に到着した。
 直線で3時間の道を3時間で進めばそうなる。
 これには族長も大満足で、随所で旅の魔術師たちを労っていた。

―――バオールの地。
 ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈にほど近いこの場所は、側から見れば単なる樹海の一部だった。
 その樹海が開けた半径15メートル程度の空間は、多少草木は慣らされているもののほとんど整備されておらず、とても固有名詞が付いている場所とは思えない。
 小耳に挟んだところによると、ヨーテンガースに数多くいる民族たちは、それぞれが自分たちの特別な場所を定め、それぞれのやり方で何らかの儀式を執り行っているらしい。
 サルドゥの民にとっては神聖な場所、旅の魔術師たちにとっては縁もゆかりもない雑草に覆われた樹海の一部。
 ヨーテンガースというだけはあって旅の魔術師たちの警戒心はある程度高いようだが、所詮は樹海の一部であるだけの辺鄙なこの場所に強い興味を持つ者は、ひとりを除いていなかった。

「スライク様、見てください、ほら、あそこ。四隅に妙な窪みがあるでしょう。きっとあそこに矢倉を設置するんです。わたくし挿絵でしか見たことがありませんが、なんとあのタンガタンザ製の組み立て式の建物ですよ。樹海の中の建造物などすぐに魔物に壊されてしまい、儀式を執り行うのも大掛かりだったそうですが、十数年前にタンガタンザが売り出した、“運べる建物”は、世界中の儀式に多大なる貢献をしたそうですね。わたくしも実際に見るのは始めて……あれ、ちょっと、どこに行ったんですか?」

 水曜属性の人間というのはみんなあんな調子なのだろうか。だとしたら大変だ、世界で最も多い属性なのだから。
 修道院育ちの世間知らずであるカイラ=キッド=ウルグスは、あるいはサルドゥの民以上に聖地に立った感動に打ち震え、話し相手を探していた。
 彼女が口を開いたときから一言も発さず離れていくスライクをアキラは見ていたが、巻き込まれると面倒そうなので放っておいた。
 うちの水曜属性は、キュールと話でもしているのかまだ馬車から降りてこない。
 孤立したカイラの目は、次の仲間を探し始めたようだが、生憎と、その男は今、アキラに向かってまっすぐ歩み寄ってきていた。

「ようやくゆっくり話ができそうだ。本当はあのイオリって子もいて欲しいけどね」
「イオリならついさっきサクと周りを見に行ったけど、追いかけるか?」

 山吹色のローブに長い杖。
 飄々としているように見えて、力の入れ所を間違えない。
 アキラがこのマルド=サダル=ソーグという男に覚えている感想はそれだ。
 自分は何度かこの男と会っており、彼の姉とまで話したことがあるが、この男とまともに話せたことはほとんどない。
 だがそれでも、“もうひとり”の面々とまともな会話をするならこの男が最適だろうと思っていた。

「いやいい。そっちも後でやるつもりだけど、今は君との話が先だ。最強クラスの魔術師たちを率いている人とは是非話をしておきたい」

 話をしやすい男だった。
 下手に持ち上げず、しかし乗せる言葉も混ぜ込んでくる。
 人を見透かし、衝突を避けるのが得意そうな男だった。あの色物揃いの面々の中で唯一の良識人というだけはある。

「役割柄、最悪のケースを想定しておかなきゃならなくてね。率直に言おう。『光の創め』の話がしたい」
「こっちでいいか」

 声量を落としたマルドを、聖地の隅に促した。
 この場には自分たちの他にも事情を知らぬ旅の魔術師が十数人混ざっている。
 混乱は避けるべきだ。

「一昨日イオリたちと話したんだろう。一応聞いてるけど、どこまで話したんだ?」
「多分君が聞いたのが全部だ。俺も予定があって時間がなくてね。依頼の話と、『光の創め』に絡まれてるってくらいだよ」

 マルドは分かりやすく肩を落とすポーズをとった。
 困っているようには見えないどころか、僅かに笑っている。

「俺もスライクから聞いたけど、モルオールの魔門破壊をしてからだってな。お前たち、何で魔門なんか破壊しようと思ったんだよ」
「さあね。もともとスライクは各地を回りながら魔門にも足を運んでいたんだ。でも何故か無反応なことが多くてね。でも、業を煮やしたのかあるとき突然破壊するって言い出して。そのときだって、カイラが間に合わなかったらきっともっと不味いことになってたよ」

 アキラはカイラに視線を向ける。
 話し相手がいなくなっておろおろしながら歩き回り、どうやらエリーを見つけて目を輝かせていた。
 修道院からスライクを追っていったらしい彼女の初陣は、どうやらあまりに過酷なものだったらしい。

「そういえば知ってるかな? 俺たちも、そしてそっちも魔門を破壊した。そのせいか、今残るふたつの魔門は凶暴性が増しているらしい」
「は?」
「言っただろう、最初は無反応なことが多かったって。魔門も危害を加えないなら近寄られても何もしないことが多かったんだ。だが、“魔門は学習した”。“魔門は破壊できると人間が認識したことを”。だから今、接近すらできない状況になっているらしい」

 魔門を破壊した者たちから聞いた話がある。
 魔門はある種、魔物のようなものなのだと。
 つまりは意思がある。人間は敵なのだと本格的に認識してしまったのかもしれない。
 アイルークの魔門を破壊し、世界平和に多大な貢献をしたと思ってばかりいたのだが、その結果、残る魔門が手のつけられない状況になっているとは。
 定期的に行っていたらしい魔門を弱体化させる“魔門流し”なる魔術師隊の対応は、困難を極めてしまっているらしい。

「まあ、そんなことを気にしていてもしょうがない。それに、どの道今は魔門に近づくのは絶対に反対さ。何しろ魔門は今、近づけば十中八九“召喚“するだろうからね―――『光の創め』を」
「……!」

 マルドの気配が、より周囲を探るようなものになった。
 ここから先が本題らしい。

「俺たちが魔門を破壊したとき、現れたんだよ、『光の創め』が。そして、少しは情報を引き出せた。仕組みは知らないけど、魔界に繋がっているらしい魔門は、『光の創め』を呼び出す頻度が高いみたいだ」
「そうなのか」
「半分推測だけどね。それに、現れた魔族がこう言ったんだよ。『またか』、とね」

 自分の仲間が戦った『光の創め』からはそれほど情報を得られなかったらしい。
 となると、多少は口の軽い魔族が現れたということなのだろうか。

「……俺たちが戦ったのはルゴール=フィルっていう奴らしい。そいつは知っているか?」
「知っているさ。俺たちが会ったのはそいつ含めて3体さ。面倒なことに、大きな依頼のたびに現れては交戦している」

 マルドの返答に気落ちと同時、辟易した。
 依頼のたびに魔族と戦う羽目になるとは、なんと危険な旅をしていることか。
 マルドは疲弊感を吐き出すようにため息を吐く。わざとらしいポーズだが、妙に合っていて嫌味には見えない。

「毎回なんとか痛み分けのようになっているけど、特に同族嫌悪なのかスライクと向こうの『剣』の相性は最悪でね。そういう意味でも、高速で移動できるカイラが来てくれてよかったよ」
「『剣』……確か、バルダ=ウェズとかいうやつか」
「調べたみたいだね。『剣』のバルダ=ウェズ。君らが交戦した『盾』のルゴール=フィルと並んで、『光の創め』でも多少は存在が知られている奴だ」

 昨日調べただけのあまりに浅い知識だが、アキラが最も危険視した魔族だ。
 『盾』と交戦したというのに、自分たちは全員半死半生まで追い詰められたという。
 それが『剣』ともなれば、被害など想像もできない。

「どんな奴なんだ」
「属性は土曜属性。戦い方はいたってシンプルさ。そういう意味では、まさしく『剣』だね。敵を討つことに長けている」
「よく生き残ったな」
「こちらにも対抗できる『剣』があるからね。それに、4大陸まで移動してくるのになんらかの制約があるのか、大体は決着は付かずに向こうが引いていく。結果だけ見ればこちらが抑え込んでいるけど、俺にはどうもね、向こうが探りを入れてきているだけの気もしているんだ。最初から使う力を決めていて、あわよくば撃破を、って感じで」

 魔門やリロックストーンという転移石。この世界でアキラが見てきた魔族の移動方法だ。
 魔門の方は知らないが、リロックストーンは制約がある。
 『光の創め』がどのようにして移動をしているのか知らないが、ヨーテンガースを主とした活動範囲としている奴らは、なんらかの制約を払ってスライクたちの前に現れていたのかもしれない。

 だが今、このヨーテンガースに自分たちは足を踏み入れた。
 奴らも制約なく動いてくる可能性が高い。
 この依頼にも現れるとなれば、警戒しても仕切れない。

 それだけに、これ以上の面倒事を引き起こすわけにはいかなかった。

「……あの男がどうかしたのか」
「……!」

 思わず目で追っていた。
 旅の魔術師たちと柔和な表情で語らいでいるラースという“存在”を。
 表情に出ていただろうか、マルドは表情も変えず、周囲には聞き取りにくい声量でさらりと言う。
 無視をすると決めていたアキラだが、今、マルドにだけは話すべきかと心が揺らぐ。
 言葉に詰まったアキラに対し、マルドは大きく伸びをして、不自然な硬直をごまかしてくれていた。
 どうする。

「ヒダマリ=アキラ様ですね、それに、マルド=サダル=ソーグ様も」

 口を開こうとした瞬間、声をかけられた。
 虚を突かれたのは同じだったらしい、マルドは自然な表情で顔を上げるが、その手が僅かに杖に伸びたのをアキラは見逃さなかった。

 声の主は、紺のローブですっぽりと顔を隠しており、表情は見えない。
 声色から女性だということは分かるが、年齢も、体格も、そして表情もすべてが包み隠されている。
 まだ日も落ちきっていないというのに、彼女の周囲はまるで夜のようだった。

「お話中すみません。私はヴェルバ。よければ私たちもお話に加えていただけませんか?」
「あれ、リリル?」

 ヴェルバと名乗った女性の背後から、リリル=サース=ロングトンが顔を覗かせた。
 お互いローブをまとっているが、明るく顔を出しているリリルとはまるで対照的に見える。
 アキラは反射的に不審に思った。こんな女性、これまでの道中で見かけた記憶がない。

「リリル、知り合いか?」
「ええと、はい。この街に来た日に会った方です。たまたまこの依頼でもご一緒していたみたいです」

 口調は相変わらずはきはきとしているが、妙に違和感を覚える。
 何となく、リリルはこの女性を苦手にしているような気がした。

「話とは?」
「いえ、そんな身構えるようなことではなく。私、人の話を聞くのが好きなんです。お陰様で早々にこの場所まで着けたので、是非高名な勇者様たちのお話を伺いたくて」

 表情が見えないのに、ヴェルバが柔和に笑ったような印象を受けた。

「それに、私は日の光が苦手で、今まで馬車で休んでいました。その分夜で挽回させてくださいね」
「そう、か。よろしく」

 好意的な声色だった。
 リリルの知り合いとなると邪険には扱えないが、そのリリルは僅かに身じろぎしながらヴェルバから離れる。
 リリルの態度としては珍しい。

「リリルもそういや日の光って苦手だよな」
「え、ええ。肌が弱くて。すぐ焼けてしまうんです」

 人混みと日光が苦手らしい勇者様は分かりやすく顔を赤くする。

「まあ、それならいい塗り薬があるらしいですよ。私には少し高価で手が出せませんでしたが、街で見かけました」
「そうなんですか?」

 表情が見えないのにヴェルバが微笑んだと分かった。
 対照的なようにも、同じようにも見えるふたりを見ていると、妙に混乱してくる。

 アキラがマルドに視線を送ると、彼は毛とられない範囲で肩を落とした。
 旅の魔術師がこの場にいては、これ以上『光の創め』の話は難しい。

「あら。もしかしたらお邪魔してしまったのでしょうか。すみませんね、ヨーテンガースにいると噂は細かく入ってくるのですが、やはりご本人にお話を伺うのとは違って。私は普段、街で占いをしているものですから、人の噂に人一倍敏感で、好奇心が強くて」
「いえ、こちらも大した話をしていたわけではないですよ、それより占いですか、いいですね。俺たちもこんな旅をしているから、是非占ってもらいたいですよ」

 マルドが明るく笑い、ヴェルバに一歩近づく。
 いつもの様子だが、アキラはマルドの隣にいて初めて分かった。この男の目の色は、正面からは分からない。横から見ると相手を探るような色をしていた。

「あら嬉しい。でも、占いは夜だけと決めています。そうだ、依頼中なのに悪いですが、夜にでもお話しませんか? 今はやっぱりお邪魔みたいなので、私は他の方たちにもご挨拶してきます」
「そうですか、残念です。では、夜に」

 結局彼女はただの話好きの旅の魔術師だったのか。
 思った以上にあっさりと去り、別の集団へ向かっていく。

 しかしマルドは、たったそれだけのことだというのに、ヴェルバの背をやはり探るように見ているのだ。
 それを感じてしまえば、ヴェルバ以上に、マルドからは不気味さと恐怖を覚える。
 自分と話していたときでさえ、きっと彼はこの目の色をしていたのだろう。
 相手が勇者であろうが、旅の魔術師であろうが、マルドにとっては同じく探りを入れる対象でしかないのだろう。

 あらゆる可能性を考慮し、最悪の事態を回避する『杖』。
 そんなマルドを有するスライクたちと、自分たち、そしてリリルという最高レベルの戦力が揃っている。
 警戒はしてもし足りないとは思うが、こちらが万全の布陣というのもまた事実なのだ。

「……さて。水を差されたな。俺は少し周りの様子を探ってくるよ」
「イオリたちも周ってるぞ?」
「ああ、それでもだ。自分の目で見ておきたい」
「なら俺も行こう。リリルはどうする?」
「……私もご一緒します」
「そうだな。それじゃあ歩きながら話そうか」

 僅かばかり元気のないように見えるリリルを連れ、アキラたちは樹海へ向かう。
 マルドの目があれば確かであろう、危険は先に拾えるはずだ。

「リリルさんもいるならちょうどいいか、『光の創め』の話を続けよう」
「バルダ=ウェズとかいう奴の話の続きだったな。それでそいつは、」
「相手が『剣』なら、細かな作戦なんか立てるだけ無駄だよ、全力で迎え撃つだけだ」

 マルドは慎重に樹海に足を踏み入れながら、周囲を探ってあっさりと言った。
 アキラにとっては想像上の存在でしかないが、やはり『剣』が相手となると、細かな駆け引きは無駄らしい。
 まるで無策というわけでもないだろうが、アキラも覚悟を決める必要がありそうだ。

「だけど、“そいつならまだいい”」

 意を決し、アキラも樹海に踏み込んだところで、マルドは苦々しげに呟いた。

「言ったろ。俺は“最悪のケース”を想定してなきゃいけないって。これも同族嫌悪なのかね、この大人数の依頼だと、問題なのは『剣』じゃない」

 静かに振り返ったマルドは、疲労感を吐き出すようにため息をついた。
 今度のその仕草は、どうやらポーズのようではないらしい。

「『杖』だよ」

―――***―――

「休んでろって言ったのに」
「まあ適正はある方だよ。むしろアキラが特定の場所にじっとしている前提で作戦なんて立てられない」
「……それは……、まあ、そうですけど」

 つい吐き出してしまった不平不満を拾われて、身も蓋もないことを返された。
 エリサス=アーティは支給された木箱を荷台から下ろしながら肩をすくめた。

 ここはバオールの地から西に外れた地点。
 今回の依頼内容はサルドゥの民が行う儀式の護衛となる。
 大まかな概要は、バオールの地を中心とし、旅の魔術師が東西南北を固めるというものだ。
 儀式は明日の早朝に執り行われるため、護衛は儀式のための準備をしている現在から明日の帰路まで続くことになる。
 そのためサルドゥの民から支給されたこのテントやら何やらを台車に乗せ、運びにくい樹海の中をなんとかここまで運んできたのだ。
 この地まで来るのにあまりに順調だったのだが、いつの間にか夕刻になっている。日の光があるうちに野宿の準備をしないと面倒だ。

 魔術師試験の勉強中にも感じたことだが、時間というものは、あればあるだけ無駄に使ってしまうものなのだろう。

「イオリさん、ここに張ればいいですか?」
「そうだね。あ、いや、もう少し右かな。去年のだと思うけど、妙に平らな場所がある」

 エリーは、尊敬すべき仲間のイオリと共にこの西部の警備を行うことになる。
 この場所は他に、エレナ=ファンツェルンも警備をすることになっているのだが、到着するなり彼女は周囲の見回りと称して姿を消していた。

 バオールの地はヨーテンガースの北西に位置する。
 そのため、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈に最も近くなるのはこの西部と北部だ。
 参加した他の旅の魔術師たちもこちらの方向の警備は避けたかったようで、自分たちが西部、そしてあのスライク=キース=ガイロードたちが北部を担当することになったのだ。
 そして、最も負担の大きいのは、その各方面の旅の魔術師たちの様子を見回る遊撃担当。

 休憩や交代の計画は立てているだろうが、その担当に真っ先に手をあげたのは我らがヒダマリ=アキラだった。

「あいつ、自分が治療できるっての忘れてるんじゃないでしょうね」
「サクラも一緒だしそんなに無理させないはずだよ。それに、頼りきりになるのも危険だけど中央にはアルティアも控えている。考えられる布陣としては万全だ」

 中央から離れるとき、名残惜しそうに大声で手を振りながら自分たちを送り出したティアを思い出す。
 あれで控えているとは、いくらイオリの言葉でも不安になってきた。

「さあて、こんなところかな。エレナも気に入ってくれるといいけどね」

 エリートの中でも超トップクラスの魔導師様は、手慣れた様子で野宿の準備を整えると、しゃがみこんでテントの床越しに地面をペシペシと叩く。
 魔術師隊や戦闘中は知的な表情を崩さないのに、覗き見た横顔は随分と柔らかい。
 最近になってそんな表情をよく見る気がする。イオリのことは尊敬しているが、こういうところがずるいと思っていた。

「イオリさん、機嫌いいですね」
「ん? そう見えるかな。このところずっと船旅だったから、久しぶりの野宿も新鮮なのかもね。エリサスも気を張り続けても仕方ないよ、少しは緑でも眺めよう」
「樹海パワーってやつですか」
「はは、アキラ? アルティア? いいね、そういうの」

 出どころはすぐにバレた。
 イオリはテントの入り口に腰を下ろして優雅に笑う。地べたに座っても様になって見えるのがますますずるい。

 よく考えれば自分とイオリはひとつ違いだ。
 それなのに、妙に差を感じた。
 ふたりきりだし、夜は長い。ちょうどいい機会だ、尊敬してばかりいても仕方がない。
 エリーはイオリの隣に腰を下ろすと、一旦考えるのを止めて樹海を眺める。
 季節としては夏になるが、樹海を通して頬を撫でる風は気持ちよかった。

「イオリさんって、元の世界でどんな生活してたんですか?」
「どうしたの、急に」
「今まであんまり聞いてなかったなぁって思って。イオリさんの話。その、話したくなければいいですけど」

 ホンジョウ=イオリはヒダマリ=アキラ同様、異世界来訪者だ。
 この世界では存在は認知されているとはいえ、稀有な存在になる。ある意味日輪属性や月輪属性と同様だ。
 今まで何か怖い気がして聞けていなかったが、ふたりして樹海を眺めている今、口をついて出てきた。

「いいよ。元の世界の話か。なんて言えばいいのかな、普通、だよ。いや、普通って言ってもこの世界とは違うのか」

 以前あの男に聞いたことがあるが、普通、までで話が終わって悲しい気持ちになった。
 イオリは察してくれたようだ、自分と、アキラとイオリの普通は、異なるのだと。

「僕は学生、と言えば伝わるかな。国によるけど、僕らの国は、全員が10年ほど一律同じ教育を受けるんだよ」
「全員がですか?」
「ごく少数例外はあるけどね。誤解を生む表現だけど、強制的に教育されるんだ。そうだね、この世界で言うと神の教えのようなものさ」
「10年、ですよね?」
「ああ。まあ、朝から昼過ぎくらいまでだけど」

 それほどの期間強制的に教育を受けさせられるとは。
 この世界では、神の教えも含め、一般教養や勉学は家庭ごとに行うのが普通だ。仕事が忙しい親たちのためにそれ用の施設もあるが、強制力はほとんどない。
 エリーがいた孤児院でも、勉強は昔は孤児院の大人たちに教えてもらい、昨今では自分が教えていた。
 極論、主体的に教えよう、教わろうとした者だけが学ぶのだ。

「酷い想像をしているようだけど、そんなでもないよ。この世界にも学校はあるけど、お金がいる。だけど、僕らの国では、国がそのお金を出してくれるんだ。この世界にもそういう地域はあるって聞いたけど」

 そう聞くとかなり羨ましかった。無料でものを教えてもらえるとは。
 そうなると凄まじい世界に思える。目に入る人すべてが、小さい頃から勉学を納めていることになるのだから。

「え。それってあいつも同じってことですか?」
「ああ、当然」
「なんだと」

 動揺が隠し切れなかった。
 そんな凄まじい世界の人間だとは。アキラもイオリ同様、エリーのひとつ上だ。
 自分が受けてきた一般教育は数年程度で、あとは孤児院で働いていた記憶しかない。そう考えると、彼の方がよっぽど学んでいることになる。
 この世界では有効活用できない知識なだけで、もしかしたら彼はとてつもなく頭がいいのではないだろうか。

「まあ、学ぶと言っても、本当に基本的なことだけだよ。当時はそれに気づけないから難しく思えるだけで。で、僕はその約10年の期間、義務教育と言われるものを終えて、次にまた学校に入った。高等学校っていうんだけど」
「まだ勉強してたんですか?」
「ああ。義務教育だけで十分と考える人もいるけど、より専門的なことを教えてもらいたいと考える人もいる。そういう人が入るんだ。ここからは自分がお金を出すことになるけど」

 動揺が治まってきたと同時、イオリへの尊敬が強まった。
 10年も学業に努めた上でなお、さらに学ぼうとは。

「やっぱりイオリさんすごい……。あたしなんかじゃとても、」
「…………。どうしよう、言ってみようかな。アキラは高等学校で学んだあと、さらにそのあと大学に入っている」
「うそだーっ!!」

 心臓の鼓動が信じられないほどに跳ね上がった。
 脳が処理する前に心が暴れ回る。考えただけで胸が苦しく、頭が熱くなってきた。
 恋かもしれない。そうなのだが。

「詳しくは本人に聞くといいよ」
「うう……ううううーん……」

 イオリはいたずらが成功したような笑みを浮かべていた。
 もしかしたら冗談だったのかもしれない。
 エリーは頭を振って熱を払う。確かに本人に聞くべきだろうが、詳細次第では、もっと敬うように接する必要があるのかもしれない。

「それはともかく。僕はその高等学校の2年目にこの世界に来たんだよ。そうだね、学校生活はそれなりに過ごせていたかな。両親が共働きだったから、家ではひとりだったけど、たまに外に出て気晴らししてたよ」
「ええと……近所の人たちとですか?」
「ふ。そんなことも昔はあったかな。そうか、そうだね、この世界と大きく違うのは、娯楽の数だよ」

 的外れなことを言ってしまったのかもしれない。
 イオリは笑いながら記憶を辿っていた。

「仲のいい人たちと共に過ごす人も多いけど、ひとりでも楽しめる色んなものがあるんだ。ショッピングはもちろん、多くの物語が見られる映画館や汗を流せるスポーツ施設。お腹が減ったら1日中空いている飲食店に行けばいい。もったいない言い方だけど、時間を潰すなんてことは簡単だよ」

 前にアキラが“電気”という言葉を口走ったことがある。
 聞いてみたところ、要領を得なかったが、彼の世界では重要な役割を占めているそうだ。
 なんでも絵を動かしたり、馬車なんかよりもずっと高速で遠方に自分を運んだりしてみせるだとか。
 そちらの方がよっぽど魔法だ。

「娯楽ならアキラの方が詳しいと思うよ。遊び回ってそうだ。今度また一緒に話そう」
「ええ、是非お願いします」

 聞いているだけで楽しくなる。夢のような世界だ。
 ただ、同時に不安になる。果たしてその全能の世界に、この世界が優っているところはどこだろうかと。

「……大丈夫。聞いたんだ、僕は。アキラは魔王を倒したら、この世界に残るって」

 考えが読まれたのか、同じことを考えていたのか。
 イオリは低い声でそう言った。
 エリーは目を見開く。

「そう、なんですか?」
「ああ。エリサスが夢見ているところ悪いけど、アキラも、僕もこの世界に魅力を感じている。もしかしたら元の世界は素晴らしかったのかもしれないけど、それはそこで育った僕らには分からない。ちょうどエリサスが僕らの世界に魅力を感じているようにね」

 無い物ねだりと言われてしまえばそうなのだろう。
 この世界には魔術があり、魔物がいる。エリーにとっては魔術なんかより電気の方がよっぽど便利だし、魔物なんて危険なだけだ。
 だが彼らにとってはそうではないらしい。
 しかし不安は残る。彼が今、この世界を望んでいても、それは新鮮だからだ。
 この世界に慣れ切ってしまったとき、冷静な目で見比べたとき、彼が何を選ぶのか。

「イオリさん。イオリさんも、この世界を選んでくれますか?」
「……。……ああ。僕はこの世界の住人として生きていきたいと思っている」

 色々なものを呑み込んだような返答だった。
 イオリがこの世界にいる期間はアキラより長い。ましてやイオリだ、元の世界とこの世界をとっくに冷静な目で見比べている。
 だからその答えは、短絡的なものではないのだろう。

「はは。……意外だね。エリサスは、僕が元の世界に戻った方が良いと思っていそうだったから」
「イオリさん、あたし怒りますよ」

 イオリと話していたるからか、自分の頭の回転も良くなったのかもしれない。

 イオリが何故、エリーがイオリが元の世界に戻った方が良いと思っていると考えたのかも察しがついた。
 イオリは冗談で言ったことも分かっている。
 全部理解した上で、自分ははっきりと、怒れた。

「イオリさん。もう、はっきり言います」

 面食らっているイオリに、エリーは大きく息を吸って吐いた。
 このヨーテンガースに降り立ってから、ずっと考えていたことだ。ちゃんと向き合う必要があると。

「あたしはあいつが好きです。ずっとあいつの隣にいたい」

 自分の顔が何色になっているか分からない。
 視界は滲んでいた。

「あいつが元の世界に戻るなら、いっそあたしも行ってやろうかって思ってたくらい、本気で想ってますよ。でも、イオリさんたちとも一緒にいたくて、もう上手く言えないけど、どうしたら良いんだろうって考えても分からないのにずっと悩んでて」

 イオリは静かに聞いてくれていた。
 自分が何を言っているのか分からない。

 だけど漠然と考えていたことがある。
 自分は多分、この世界の魅力を知っている。
 そして彼らの世界にも魅力を感じている。
 だから、自分は多分、世界なんてどこでも良いと思っているのだろうと。

 自分にとって重要なのは、アキラと、そしてこの仲間たちだ。それが自分の望む世界だ。
 ヨーテンガースに到着し、終わりが始まったこの旅に、どうしようもない不安を持ち続けていた。

「だから、ふたりともこの世界に残るって聞いて、分かんないけど、なんか、わあ、ってなったんですよ。冗談でも怒ります」

 まくし立てて、考えがまとまらない。回転がよくなったと思った頭は、ティアのような感性になっていた。
 だけど言い切った。怖くて言い出せなかった言葉を、1番怖いと思っていた相手に言えた。

 イオリは目を細め、静かに微笑んだ。

「……え、と。まずは、ごめん。冗談でもよくなかったね。それに、ありがとう。多分今、わた、僕、嬉しいと思ってる。うん」

 イオリのたどたどしい言葉を聞き、荒くなっていた呼吸が治まっていく。
 徐々に落ち着きを取り戻し、エリーは自分の顔の色に確信を持った。

 イオリは髪を触り、目を泳がせると、こほりと咳払いをした。

「そうだね。ずっと一緒にいたいね」

 現実問題、難しいことは分かっている。
 魔王を仮に倒せたとしても、自分たちはこの形のまま旅を続けることはない。
 元の生活に戻ることになるのだ。
 それもご丁寧に全員の戻る場所は世界中に散っている。

 だけどイオリは心からそう言ってくれていた。

「エリサスがそんなにも僕たちのことまで考えてくれていたのは、ああ、まずいな、嬉しいよ」
「……ええと、その前にあたしが言ったこと前提みたいに進めるんですね」
「……うん」
「分かりやすいですか?」
「そういうことには苦手な僕が確信するほどにはね。……普通に本人にも伝わっていると思うけど」

 顔が上げられなくなった。
 伝われば良いなと内心思っていたが、実際に言葉にされると呼吸ができなくなる。

「イオリさん」
「なに?」
「イオリさんはどうですか。あいつのことどう思ってるんですか?」

 完全に道連れを探していると自覚した上で聞いた。
 尊敬するイオリに、しかも元の世界でアキラと面識があったらしいイオリに、1番危険だと思っていたイオリに聞くとは。
 自分も随分と成長したものだ。思い起こせばアイルークから始まったこの度は随分と長く続き、瞳を閉じるだけであらゆる光景が浮かび上がってくる。
 追憶という名の現実逃避をしながら、エリーはイオリの言葉を待った。

「…………何度目かな」
「え?」
「いや、なんでもない。そう、だね」

 イオリの表情は一層静かなものになった。有事の際に思考を働かせる表情にも見えるが、涼風にざわめく木の葉のように、あるがままを感じ取っているようにも見える。
 もしかしたら先ほどの自分と同じかもしれない。
 きっとイオリは今、初めて自分に、頭ではなく感情で浮かんだ言葉を返してくれるのかもしれない。

「僕は、アキラのことが、―――!!」

 イオリが弾かれるように立ち上がった。
 エリーも即座にテントから距離を取る。
 流れるように構えを取ると、テントの向こうの樹海から、物音が近づいてきた。

「やっと着いた。あれ、エレナは?」
「……や、やあアキラ。見回りは順調かな」
「順調も何もないけど、何も出ないぞここ。騒ぎひとつ起きないし。昼に見た魔物が最後だ」

 遊撃担当の見回りが、この西部に到着したようだ。
 ここまで近づかれるまで気づかないとは不甲斐ない。

 アキラの後ろにはサクもいる。
 アキラはともかくサクは、遊撃という役割には最適のように思えた。

「ここも何も起きてないようだな。……ふたりして何をしているんだ?」
「ちゃんと警戒してたのよ」
「そうか、ここも大変なんだな」

 完全に臨戦体制で並んでいたエリーとイオリは、サクから尊敬半分同情半分の視線を受け、さりげなく警戒をとき、硬直した身体をほぐした。
 つい先ほどまで座り込んで色恋沙汰の話をしていたとは、口が裂けても言えない。

「遊撃の方はどういう立ち回りなのかな」
「え? いや、細かい作戦なんかないぞ。それぞれ休憩するタイミングは話し合ったけど、2、3人ずつでぐるぐる回っているだけだ。そうだ、なんかあったら大声出せよ、近くの奴らが集まるから」
「なるほどね。じゃあ頼りにさせてもらうよ」
「ああ。で、エレナは?」
「彼女ならこの辺りを見回ってくれている。ひとりは危険だけど、彼女はその辺りきちんと線引きできるから大丈夫だと思う」
「そう、だな。あんまり遅いようなら言ってくれよ」
「分かった。そっちも気をつけて」

 恐らくサボっているだけであろうエレナをさり気なくフォローし、イオリは手を振った。
 微妙に小刻みになっている手にアキラは首を傾げながらも次のポイントを目指して樹海に入っていく。
 ようやくふたりを送り出すと、エリーとイオリは盛大にため息を吐き出した。
 顔を見合わせると、思わず笑いがこみ上げてくる。

「間の悪い奴」
「酷い言い方だね、まあ、僕も同じことを思っていたけど」

 イオリはクスリと笑って、今度こそ本当に警護を始めたようだ。
 中央に座り、静かに周囲の気配を探る。
 どうやら話は終わりのようだ。生憎と彼女の本心を聞きそびれたが、聞き直す勇気はいつの間にかなくなっていた。

 エリーもイオリと背中合わせになるように座り、仕事を始める。
 間も無く日も落ちる。灯りの準備もしなければならない。
 いつも通り集中していないと、真面目に取り組んでいるサクにも申し訳が立たない。

「そうだ、エリサス」
「はい、なんですか?」

 樹海の様子を眺めながら、イオリは顔も向けずに言い切った。

「負けないから」

―――***―――

 遊撃担当の仕事は順調に進んでいた。何しろ魔物が出ないのだから。それどころか気配すら感じない。

 ヒダマリ=アキラは、ミツルギ=サクラと共に樹海の道無き道を押し進んでいた。
 と言っても、そこまで道がないわけではない。毎年行われているだけはあり、ある程度地面は慣らされ、歩く方向は概ね特定できる。
 遊撃担当は5、6グループおり、アキラたちは北、西、南を往復するように周っている。
 大分アバウトな体制であるが、通年これでやってきたらしく、魔物の出現率を見るとヨーテンガースの依頼とは思えないほど難易度は低い。
 夜間の仕事を苦にしないのであれば、旅の魔術師たちが多く参加しているのも、頷ける。

「アキラ、ペースが早い。前のグループを追い抜くつもりか。それに、樹海は意外と体力を削られるんだ、夜まで持たないぞ。大体お前は治癒担当でもあるんだろう。体力もだが魔力も温存することを考えてくれ」
「分かってるって」

 そのアバウトさを良しとしないサクに注意されたのは何度目か。
 アキラは素直に速度を落とすと、灯をともすマジックアイテムを取り出した。
 治癒担当として、可能な限り魔力を温存しろと言われたのだがここまでとは。随分と徹底している。
 この世界に訪れた当初ならいざ知らず、今のアキラにとっては自分の手に灯をともすなどなんの負担もないのだが。

「魔物出ないなぁ……。そういやサク、昼に出た魔物、あの、ネズミみたいなのってどっかで見たことある気がすんだけど」
「あれは確か、あ、ちょっと待て、思い出すから。ヨーテンガースの魔物だが、シュ……ええと、シュなんとかマーチュだった気が」

 最近勉学に勤しんでいるらしいサクは、魔物の名前も覚え始めたらしい。今もなお思い出そうとしているサクには悪いが、どうやらあれはアイルークで見た魔物の親戚らしいとアキラは結論づけた。
 警戒に警戒を重ねていたが、一応ここはヨーテンガースの入り口ということもあり、魔物の質は多少低いようだ。

「アキラ。分かっていると思うが、」
「ああ、大丈夫だよ。出ないと暇だけど、出ないに越したことはない。正直今でも神経すり減らすほど周囲を探ってるぜ?」

 他の旅の魔術師にとっては単なる依頼。それどころか味方の陣営は随分と豪華だ。
 だがそれも相まって、アキラにとってはこの依頼は混沌を極める。

 3人の勇者に『光の創め』。そして無視すると決めてはいるものの魔王すらいるのだ。
 ヨーテンガースという地に降り立って初めての依頼だというのに、考慮すべき要素が多すぎて何をしなければならないのか見えてこない。
 だからアキラは、せめて発生した事象だけはすべて対応できるように警戒し続けているのだ。

「いたっ」

 警戒していたのに、後頭部に手刀をくらった。
 振り返ると、主君の頭を叩いた従者様がお怒りのご様子でまっすぐ目を射抜いてきていた。

「何すんだよ。冗談で言ってないぞ」
「あのな、アキラ。お前、私と旅を続けてどれくらいになる」
「ずっとだよ。ずっと一緒にいただろ」

 サクは固まると、しばらくしてため息を吐いた。

「あのな、お前が警戒しているのなんて、私は分かっているんだよ。本心で言っているって、分かっているんだよ。だから、神経をすり減らしているって、分かるんだ。それなのに、お前は無理してでも明るく振る舞うじゃないか。せめて私といるときは気を抜け、本当に持たないぞ」
「嘘だろ……サクがサボれって言ってくる」

 手刀が再びアキラの額に当てられた。
 甘んじて受け入れたアキラは、サクの目を見返しつつ周囲に気を配った。
 そしてすぐに見抜かれて、サクはまた不機嫌な顔になる。

「前に言ったろ。お前の分も、俺が無理をするって。あのときは、悪いな、正直何をすればいいのか分からなかった。ただ必死になろうと思っただけだった。だけど、ようやく見えてきたよ。俺は勇者としているべきなんだってさ。まあ、真面目な路線は無理そうだから、せめて不安な顔なんて見せないようにしないとな」

 もし顔色というものが心情に直結していたら、何色になっていただろう。
 これから向かうのは南部の警護地点だ。事情を知らぬ旅の魔術師たちがいる。そんなところに神経を尖らせ、死にそうになった顔つきの勇者様が現れたら彼らはどう思うだろう。
 だから自分はそうあってはならない。
 前にサクが自分に言ったことでもある。外からの目というものを気にしろと。
 最近になってその意味が分かってきた。

「そんなのは当然だろう」

 従者であり、同時に師でもあるサクは、厳しく正しく言い切る。
 彼女の言葉を聞くだけで、自分の心の揺らぎが正されるような気がした。

「だがな。私もか、私にもか? さっきも言ったが、お前は分かりやすいんだ、私にとっては。辛いだろうに、いつでもどこでも笑っているお前を見て、私がどう思うと思う?」

 サクは歩き出した。
 空には、とっくに星々が浮かび上がっていた。

「少しは人の気も考えてくれ」

 ゆっくりとアキラも歩き出した。
 サクに並び、いよいよ灯が必要になった樹海の道を進む。
 きっと、自分には勿体ないほどの、有難いこと言ってくれたのだと思った。

「私も最近思うことがあるんだよ」
「なにを?」
「いやな、お前を主君とした私は、従者としてどうあるべきかと」

 自分とサクの関係は、形式的にはそうである。
 だがそんな形式的なものは漠然としていて、お互いにどうあるべきかなどまるで見えていなかった。

「アイルークでの魔門破壊。あのときが1番強く感じた。誤解するなよ? 私はな、命を賭けてもお前の望みを叶えようと思った」
「それは止めろよ」
「怒るな。私の性格は知ってるだろう」

 知っている。サクがアキラのことを分かるように、自分も彼女のことが分かる。それだけの時間を共有してきたのだ。

「だがな、はあ、本当に不服だよ。あのときあの場所で、最もそう在れたのはエレナさんだった」

 それについては、アキラも未だに引きずっている。
 あの危険地帯で、自分はエレナにそうするように頼んだのだ。彼女の力は不可欠だった。その結果、彼女はかなりの傷を負ってしまった。

「お前の言葉で、エレナさんはそう在ったんだ。そして彼女には、それに応えるだけの力があった。地獄のような魔門破壊の依頼だったが、成功した今になっても思うよ。もう一度最初からやって、私がそう在りたかったと」
「……」

 魔門破壊は達成した。
 だが同時に、全員課題も見つかったのだ。

「分かっている。多分私では、彼女ほどの働きはできなかった。この目で見て思ったよ。エレナさんは世界が違う。お前が、我が主君が、真っ先に頼るのも頷けると」
「おい、そういうつもりで、」
「いいんだ、これは、私の思い込みでもあるというのは自覚している。だが事実、そうだった」

 世間体というものを考えろ。
 アキラがそれを理解できたのは最近だ。
 自分はずっと見えていなかった。自分の一挙手一投足が、周りから見てどう思われるのかを。
 本人がどう思っていようが、形として残るものというものは、確かにあるのだ。

「だけどこれからはそうならない」

 サクの足元で、小枝が割れる音が聞こえた。
 見下ろすこともなく、彼女は真っ直ぐに道を進む。

「いいかアキラ。絶対にだ。私はお前が真っ先に頼る存在になってみせる。お前が困難に直面したときに、いや、何が起きたって、最初に声をかけるのは私だ。武器に関してだけじゃない。魔術だって、魔物だって、魔族だって、なんでも応えてみせるよ」

 多分、サクの顔は見ないほうがいいような気がした。
 知っている。彼女がどんな表情を浮かべているのか、自分には分かる。
 イオリが言っていた。みんな色んなことを考えていると。
 だけどサクは、アキラが思っていた通りに、思っていた以上に真っ直ぐに、ひとつのことを考えてくれているように感じた。

「…………まあ、その。そんな、わけだ。だからな、アキラ。私の前では無理をするな。困ったらすぐに言え。必ず応える」
「……まじかよ。でも剣の手入れサボると怒るじゃないか」
「当たり前だろう、無理してでもやれ」
「は。了解」

 相変わらず厳しくて、あまりにも真っ直ぐな従者様だ。
 迷いのない眼は、それだけで眩しく輝いて見える。
 先ほどまですべてが敵に見えた樹海の中でも、足取りが軽くなった気がする。
 そうしたらきっとまた、ペースが早いだの警戒を解くなだの、頼れる従者様に口出しされるのだろうが。

「……!」

 まもなく南部の警護地点に着くであろう、そんなとき。
 正面に灯りが見えた。
 ゆらゆらと動き、こちらに近づいてくる。
 一瞬警戒するも、それが同じく遊撃担当の灯だと察し―――アキラは警戒を強めた。

「……ああ、勇者様たちか。お互いに順調そうだね。アキラ君、でいいかな。それとサクラさんだったね」

 柔和で、人当たりがよく、それでいてしっかりとした重みのある声色。
 ブロンドの長い髪は、マジックアイテムの赤い灯りで燃え上がっているように見えた。

 男は、アキラの正面に対峙するように立つと、あまりに人間らしい笑みを浮かべる。

「お互い何事もないようで」
「ラースさん、だったな。……ひとりなのか?」
「実は今相方は休憩中でね。日が本格的に落ちる前に警護の皆さんに差し入れでもと思って配っていたんだよ。ほら」

 すでにサクとも面識があったようだ。
 ラースは食料が入っているのかひと抱えほどの紙袋を持ち上げ、やはり柔らかく笑う。
 アキラは、その紙袋を見て、妙な胸騒ぎを覚えた。

 そして、イオリに心の中で謝る。
 やはりこいつを放置はできない。

「それならもう日も落ちたし、俺たちと一緒に行かないか?」
「…………、ああ、そうだね。一緒の方がこちらとしてもありがたい」

 勇者と魔王。
 この遊撃部隊は、戦力だけなら十全だろう。

 サクの配慮はありがたかったが、心情を顔に浮かべるのは当分お預けのようだった。

―――***―――

「本当に来るのかな、『光の創め』」

 キュール=マグウェルの言葉に、いちいち反論しようとは思わなかった。
 退屈な時間を過ごして、愚痴のように出てきただけだろう。本人だって重々承知のはずだ。この依頼。十中八九どころか確実に何かが起こることを。

 北部の警護地点。
 マルド=サダル=ソーグは周囲を警戒しつつ、思考に思考を重ねていた。

 頭の中にこのバオールの地を中心とした各員の配置を浮かび上げた。
 北部には自分とキュール、そしてスライク=キース=ガイロードが配置されている。
 西部はエリーとイオリ、そしてエレナ。
 中央には治療担当のティアと高速の長距離移動が可能のカイラが待機している。
 東部と南部は他の旅の魔術師で固めているが、東部の遊撃はリリル=サース=ロングトンが務めており、配置箇所の危険性から言って万全の体制であろう。

 だがだからこそ、最悪の事態を想定する必要がある。
 散々襲撃をしてきた『光の創め』。
 昼にヒダマリ=アキラと話したときに、『剣』はまだ良いと言ったのは、本心でもあるが、半分は冗談だ。

 『剣』は脅威だ。『剣』のバルダ=ウェズ。
 どれだけ十全に備えても、奴が現れただけで確実に死傷者が出るとマルドは確信している。
 だが一応、これだけの戦力が揃い、配置にも隙がないように計らえば、“全体の半分ほどの死者”で撃退はできるであろう。

 ゆえに最悪の事態はそれではない。
 マルドが最も警戒する『杖』の出現。
 奴は、この依頼の関係者を“全滅”させる可能性がある。

 さらに言えば『剣』と『杖』の同時出現、あるいは、『光の創め』の全魔族が出現する可能性すらある。
 ゆえに思考を止めるわけにはいかない。些細なことも見逃すことは許されない。
 マルドの思考はさらに進む。
 自分の目で見たすべての事象を考慮する。
 そうなると、どうしても頭の隅に引っかかることがあった。
 昼間。あのヒダマリ=アキラは、何故あの旅の魔術師を気にかけたのか。

「マルド。あの人まだ帰ってこないんだけど、探してきてもいい?」
「駄目だって。俺もキュールもカイラに怒られちゃうよ」

 北部の担当なのだが、スライクは当たり前のように姿を消していた。周囲を探っているのだろう。
 キュールは不服そうに足を投げ出すが、カイラの名前は効いたらしい。

 カイラは元修道女だけはあって、規律には厳しく、特にキュールには非常に過保護だ。
 自分たちの旅を崇高なものと信じて止まない彼女が同行するようになってからというもの、随分と旅の形が変わったように思える。
 表向きではスライクを勇者様として支えているように振る舞うが、人の目が無くなるとスライクの日々の行動に我慢ならないのかやたらと衝突している。
 奇妙な言い方だが、計画性のない自分たちの旅が是正されてしまったように思えた。
 スライクとカイラの相性は最悪だが、マルドが考えるに、いや、スライクも同じことを思っているだろう、カイラは“使える”。
 『召喚』の力を持つ彼女が同行するようになったことで、とうとう自分たちも“二代目勇者御一行”と同じ形を成していた。
 その結果なのか本来の形に戻ったこの旅は、いよいよヨーテンガースまで続いてしまった。

「ん? 誰?」

 キュールも気づいた。誰かがこの地点に近づいてくる。
 その歩幅からスライクでないことはすぐに分かった。

「また会いましたね、マルド様。それにキュール様も。こちらは問題ないですか?」
「……ヴェルバさん、だっけ。昼間はどうも。それにリリルさんも」

 現れたのはまたも昼に見た組み合わせだった。
 東部方面の遊撃を担当しているリリルとヴェルバ。
 リリルは顔を出しているが、ヴェルバは変わらずフードを深く被っている。昼は日の光が苦手のようなことを言っていたが、フードを被っているのは日の光とは関係ないらしい。

「護衛、お疲れ様です。……おひとりいないようですが」
「スライクなら、どこかに行っちゃった。戻ってこない」

 リリルがさっと周囲を見渡してから聞くと、キュールが余計なことを言った。
 スライクは色々と敵を作るタイプだが、この依頼においては特に相性が悪そうな人間が多い。
 同族嫌悪だろう、アキラの仲間のエレナ=ファンツェルン。
 正反対だからだろう、我らがカイラ=キッド=ウルグス。
 そしてこのリリル=サース=ロングトンも、カイラと同種のようで不誠実さを受け入れられない性格をしていそうだった。

「スライクは周囲の見回りだよ。そっちも異常なかったかな」
「ええ。スライクさんにも会いませんでしたが」

 せっかくフォローしたのだが、リリルにはあまり効いていなかった。
 ふたりは昼に共闘したのだが、スライクは敵を確認した途端戦いを止め、馬車に戻って眠り始めたのだ。
 マルドは感覚が鋭い方で、その聴覚が、スライクが戦場から去る際に『下らねぇ、やっとけ』とわざわざリリルに口走ったのを拾っていた。
 そのあと馬車からリリルと言い争いのようなものが聞こえたのは、マルドの鋭い聴覚でなくても拾えた。

 『光の創め』で頭がいっぱいだというのに、これ以上面倒事を増やさないで欲しい。
 『杖』とは割りを食う存在なのだろうか。
 連想して思い浮かんだあのヒダマリ=アキラの表情も、今の自分と同じような顔色を浮かべていた。

「ではリリル様。私たちも少し休憩しましょう。少し疲れました」
「え、あ、はい。分かりました」

 本人が疲労を訴えていては断りにくいだろう。
 リリルはいかにもまだ見回りが続けたそうな意欲を隠せていなかったが、頷かざるを得なかったようだ。

「マルド様、こちらにいてもいいですか?」
「……ええ、勿論。キュール、コップがあったよな」
「うん、今やるよ」

 パタパタとかけていき、木箱をひとつずつ開けて中を確認するキュールは、今にも箱の中に落ちてしまいそうなほど危うげて微笑ましかった。
 こうした光景を見ると、カイラがキュールに対しあれほど過保護なのが理解できるが、もし『光の創め』の『剣』が現れたら、マルドは真っ先にこの『盾』の少女を向かわせるつもりでいた。

「では、休憩ということで、マルド様。いかがですか、私の占い」
「ああ、昼に言っていたやつですね、どうしようかな、リリルさん、どう?」
「いえ、私は道中お話ししていましたので」

 やんわりと断られた。
 占いが嫌なわけではないが、このヴェルバという女性、どうも妙な感覚がする。
 占い業を営んでいるだけはあって、人心掌握や行動の操作が得意そうだ。この手のタイプはできれば相手主体で話をさせたい。
 占いとなると占い師主体で進むと思いきや、その実悩みや相談事をまずこちら主体で話す必要が出てくるだろう。
 できればその光景を一歩引いた状態で見ていたいというのが本音だ。

 次の相手を探そうとしたが、残るは木箱の奥に手を伸ばそうと悪戦苦闘しているキュールに、戻ってきたとしても話も聞かずに眠りにつくであろうスライクくらいである。
 マルドが視線を泳がすと、幸運にも別の姿を拾った。

「あっ、危ない!!」
「わっ!?」

 驚いたキュールが木箱と共にひっくり返った。
 するとマルドの横を疾風が通過し、即座にキュールに詰め寄る。

 恐ろしく早い所作でキュールを抱きかかえると、彼女は、カイラは、冷たい視線をマルドに送った。

「キュール、大丈夫ですか? ああもう、無茶をして。マルド、どうして目を離したんですか? 暗くなってきているのに……あら。お客様。それに、スライク様は?」

 中央待機をしていたはずのカイラが何故かこの場所に現れた。
 マルドは別段驚きもしていない。大方キュールの様子が気になって見にきたのだろう。
 便宜上中央に配置しているだけで、マルドにとって、カイラがこの樹海のどこにいるかは重要ではない。この樹海にいることだけが重要なのだ。
 危険を知らせる信号弾が上がろうものなら彼女は樹海のどこにいても即座に駆けつけてみせるだろう。

「大きな声出すから……」
「ああ、ごめんなさいキュール。わたくし驚いてしまって。でも、気をつけなければ駄目ですよ。木箱は手を切るかもしれませんしね。何が欲しかったんですか?
わたくしがやりますよ?」
「マルド、助けて」

 もしかしたらキュールは水曜属性の人間と相性が悪いのかもしれない。この世界には水曜属性の者が圧倒的に多い。彼女の不幸体質もそこからきているのだろうか。
 昨今ではカイラ=キッド=ウルグス。昼はアルティア=ウィン=クーデフォンに絡まれている。そのせいで、妙にキュールに頼られることが多くなり、懐かれているような気もしてきた。

「カイラ、ちょっとこっち来てくれるか?」
「? ええ、はい。ところでその、スライク様は?」
「ああ、ちょっと見回りに行っている。で、ここ座ってくれ。じゃあヴェルバさん、お願いできますか」

 一歩引いた場所を確保できた。
 本当にカイラは使える。

「……ふふ。カイラ=キッド=ウルグス様、ですよね」
「え? はい」
「私はヴェルバと申します。休憩時間を利用して、ちょっとした占いをさせていただこうかと」
「占い!」

 カイラの背筋がピンとした。
 別にカイラを生贄に差し出したかったわけではない。
 自分とて人間だ。物事や人を冷たく考えることがほとんどだが、修道院で長く過ごしたカイラに色んなことを経験させてやりたいという人情も多少はある。
 事実カイラは目を輝かせてヴェルバと正面から向き合っていた。

「では、そうですね。何を占いましょう。何かお悩みはありますか?」
「悩み……ですか。そうですね、…………ううん」
「それなら、例えば昨日のことでいいです。大声を出しましたか?」
「……お恥ずかしながらあります」
「それは、人に対してですね? 誰にですか?」
「ええ。その、スラ……、そこにいるキュールに」

 昨日スライクと言い合っていたのをマルドは覚えているが、カイラはぐっと堪えたようだ。もっとも言い合いというより、スライクが、カイラの言葉をほとんど聞き流していただけだったようだが。

「それは喜びですか、怒りですか?」
「怒り……なのかもしれません。キュールが、手を解いて駆け出してしまって」

 キュールが小さく唸った。より具体的に自分の話になったからだろう。
 だが、マルドの予想は当たっていた。占いには、自分もそうだが月輪属性のような未来予知の他に、会話だけで行く末のアドバイスをするに止めるものがある。
 会話の中で、相手の性格や考え方を聞き取り、それらしいことを言うのだ。もっともそう馬鹿にしたものではない。未来予知などより、自分に対する客観的なアドバイスの方がよっぽど実益がある。

「それは怒りというより怖さからくるものですね。キュール様のことを大事に思うあまりの」
「そう、です。そうなんです」
「立派なお勤めをしているとはいえ、まだ幼くもありますものね」
「はい。わたくしは子供は世界の宝だと考えています。立派な大人になって欲しくて。子供は覚えもいいから、特に今の時期が肝心なんです」

 カイラはようやく理解者が現れたと言わんばかりに顔を明るくした。完全に教育ママのようなことを言い出している。

 どうやらヴェルバは単純な質問から相手の言葉を引き出し、性格を探るタイプのようだ。
 となるとこの占いは、やはり人生相談のようなものだ。

 改めて思う。自分でなくてよかったと。
 自分はこういうことを考えてしまうから、素直な言葉が吐き出せない。ヴェルバもやりにくくなって、気まずい雰囲気になっただろう。
 その点、カイラは本当に優秀だった。

「その考えは、昔からお持ちですか? 例えば修道院にお勤めされていた頃からとか」
「え、お分かりになりますか。実はそうなんです。そう考え始めたのも……その頃からですね」
「……」

 カイラは修道服をまとっている。ヴェルバでなくても誰でも分かる。
 マルドは視線を外して、鼻から息を吸った。
 カイラは最早わざとやっているのではないかと思うほど、占いにのめり込んでいた。

「ではその素晴らしい考えを持ち始めたのは何かの影響かもしれません。思い出してみましょう。そうすれば初心に帰って、今の悩みも軽減されるかもしれません」
「はい」
「あなたと同じ考えを持った方は、同じ修道院にいましたか?」
「……そう、ですね。皆さん同じように思っていたと思います」
「では、子供について話をした相手はいましたか? 例えば、意見がぶつかった方はいましたか?」

 そこでぴたりとカイラの言葉が止まった。
 そしてゆっくりと息を吐いて、答える。

「いました」
「どんな話をしましたか?」
「わたくしは子供は分からないことが多いから、教えて差し上げなければと思っています。でも、その人は、分からないなら大怪我するまで放っておくと言いました。自分で覚えなければ、本当の意味で分からないって」
「それについて、あなたはどう思いましたか?」
「理解はできました。わたくしも不出来な頃は口うるさく言われることを煩わしく思っていました。でも、今は感謝しています。わたくしがどれほど愛されていたのか、今になって分かるんです」
「その方はどんな人ですか?」
「院長様の言いつけも聞かず、大怪我する人でした。わたくしはあの人に何度怒りをぶつけたか数え切れません。でも、ずっと一緒にいて、一緒に育った……親友です」
「……その方は今はもう亡くなりましたね?」

 ヴェルバの言葉にカイラの目が見開かれた。
 そして小さく頷く。
 マルドは、カイラにとって最も苦い記憶だということを知っている。

「原因はなんでしたか?」
「……事故、ですね。魔物の襲撃に遭って」
「ではそれは、あなたの考え方が正しかったということでしょうか。その方は、危険に飛び込んでしまったせいで亡くなったのかもしれません」
「それは、」
「いえ、もしかしたらですよ。些細な考え方の違いで、小さな行動が変わります。そしてその小さな行動は、大きな結果に結びつきます。日々の行動は生涯に影響する。時間は大切なものだと、そうは思いませんか?」
「それは、そう思います。時間はとても大切です」
「それではあなたは間違っていません。あなたは正しい。あなたの悩みは、ただ単に、あなたの正しさが伝わらないことだけなのです」

 ヴェルバも商売なのだから、口を挟む権利は自分にはないだろう。
 だが、話の方向性がおかしくなった。
 妙な感覚が強まる。
 さりげなくリリルとキュールを探るったが、ふたりとも表情は見えなかった。
 空気が重い。

「過去から今に戻りましょう。今、あなたたちは打倒魔王を目指していますね」
「はい」
「それは何故ですか?」
「魔王は世界の脅威だからです。わたくしは、魔王を倒せるスライク様の力添えをしなければなりません」
「お仲間はみんな同じ考えですか」
「……その、はい」
「少し言い澱みましたね。自信を持ってください。あなたは正しい。もしお仲間が違うなら、もっと話す時間を増やして、伝えることをしなければなりません」
「正しい……ですか」
「ええ。もしあなたと違う考えの方がいれば、ただ伝わっていないだけなのです。話せば分かり合えますよ」
「そう、なんですか?」
「はい」

 マルドはじっと、ヴェルバという女性を見ていた。
 表情が見えない上に、声色が変わらないから感情が読み取れない。

 打倒魔王。
 彼女が口にした言葉は、全世界待望の願いだ。
 だが、自分たちはその正規ルートから随分と前に外れている。
 今でこそヨーテンガースにいるが、スライクの力ならとっくに魔王の首を跳ねていても不思議はない。
 まるで強制力のない旅を、自分たちは続けてきていた。
 マルド自身、多少は興味はあれど、魔王に対して特別な意識を持っていなかったが、これからは本格的に目指すことになるかもしれない。
 ヴェルバが出した結論は、それをさらに明確にしたような気もした。

「ですが、わたくしは少し違うと思いました」

 カイラが、静かな声でそう言った。

「違うとは?」
「いえ、お恥ずかしい話ですが、多分、わたくしたちがやるべきことは、わたくしが思っていることと違うと思うんです」

 ヴェルバの気配が僅かに変わったのを感じた。

「わたくしは思います。子供は世界の宝です。魔王は倒すべきでしょう。それが正しいと思っています。ですが、それは別の意見が正しくないというわけではないと思うんです」

 この旅についてのカイラの意見というものを初めて聞いた気がした。

「正直に言いますと、スライク様は魔王討伐に興味がありません。それどころか、勇者様として、世界中の方に救いの手を伸ばすこともしません。だからわたくしは、いつもあの方と言い争いをします。でもそれは、彼には彼の、わたくしにはわたくしの意思があるからです。あの方は言いました、救われるべき者なんて存在しない。救われたのだとしたらただの運。本来は、自分の努力で自分を救わなければならないのだと」

 優しい世界の形は、歪なのだ。

「わたくしはその意見を理解していますが、完全に納得できてはいません。ですが、それがわたくしたちの関わり方でいいと思っています。志をひとつにして、在るべき道を全員が納得して通る。それが正しいことなのだとわたくしは思いますが、同時に、意見をぶつけ続けて、まるでまとまらなくて、結局誰も納得しない道を選んでもいいのではないか、とも思うんです」

 誰も得をしない。誰も損をしない。何も生み出さない。物語にすらならない。そんな道でもカイラは良しとする。
 マルドも思い起こす。今までの旅は、確かに漠然としていて、目的もなく、客観的に見れば能力の無駄遣いだ。
 仲間に加わって時期も浅いカイラは、それを理解し、しかしその旅を許すと言う。

「修道院にいたわたくしには、正しさはずっとひとつでした。ですが、そうではないことを知りました。教わりました。いくら話し合おうと、いくら説明しようと、お互いが完全に納得する形になることの方が少ないです。それぞれが自分の正しさを持っているのだから。だからあの人も、アリハも、きっと正しかった。ただ、不運だった。今ではそう思っています」

 カイラは顔を上げ、キュールを引き寄せた。

「ですから、ヴェルバさん。貴女のご意見も、きっと正しい。そうなのかもしれないと思いました。でも、わたくしは違うと思う。それでいいと思います。だから、キュール。わたくしは貴女を立派に育てます。それがわたくしの正しさですから。分かっていますよ、キュールもキュールなりの考えがあるって。それを押し潰そうとは思っていません。わたくしも引く気はありませんが」

 それはキュールがどれほど嫌がろうがカイラが教育するという宣言だろうか。
 キュールはもがくが、カイラは離さない。

 導く『召喚』の力。
 しかしそれは、進むべき道を強く指し示すものではない。

 相手の意見を曲げることをするのではなく、相手と意見をぶつけることをするだけだ。
 何も変わらないこともある。だがそれは、少なくとも、視野を広げる機会を生む。

 だからなのだろうか。あの太古の超人が、その傍に存在を許したのは。

「……立派なお考えをお持ちですね、カイラ様。私の占い、あまり参考にならなかったようで、すみません」
「い、いえ、そんなことは。貴女のご意見、非常に参考になりました。ああ、それに気が楽になったような気がします。やはりこうしたことを話す機会というのはないですからね」

 カイラは晴れ晴れとした顔色を浮かべ、立ち上がった。
 随分と楽しかったようだ。
 立ち上がってマルドを見ると、少し照れたように視線を外す。
 ようやく存在に気づかれたような気がして、こちらの方が申し訳ない気持ちになる。

「では、休憩もそろそろ終わりですかね」
「……あ、そうでした、わたくしもすっかり長居してしまって」
「カイラは何しに来たの?」
「もう、キュールが心配で、です。遊撃の方が転んだとかで怪我をして中央に来て。それでいてもたってもいられずに」

 キュールを抱きかかえたカイラが力を強めたようだ。
 不機嫌そうに身体を暴れさせるキュールに、カイラはにっこりと笑っている。
 しかし見回った限り平坦な道ばかりなのに、治療が必要なほどの転び方をする奴がいるとは。

「カイラ、そいつどうして転んだんだ? 何か言っていたか?」
「え? いえ、特には。なんでも誰かの叫び声が聞こえた気がしたとかで慌てて走ったそうです。でも、結局誰も襲撃になんて遭ってなかったらしく、気のせいだったかも、と」
「……」

 本当だろうか。
 他の旅の魔術師たちにとってはあまりに暇な時間が生んだ幻聴とも考えられる。
 だがマルドは同時に矛盾を感じていた。
 何故その人物は被害者がいないと分かったのだろうか。この樹海には、地方を守る者たちの他に、遊撃担当の者たちもいるのに。
 ヨーテンガースの依頼を受けるような旅の魔術師が、それほど視野が狭いだろうか。まるで騒ぎが起きるのを避けているような印象を受ける。

「カイラ。俺もその人に会いたいんだけど、」
「では、私たちはこの辺りで」
「え、ああ、そうだな」

 マルドは歯噛みした。
 彼女たちもここを離れるとなると、キュールをひとりにするわけにもいかず、自分はここに残らなければならない。
 今になって消えたスライクが恨めしい。

「さあ、リリル様、行きましょうか」
「……待ってください」

 リリルは神妙な顔つきで、ヴェルバを見据えていた。
 占いの中、自分と同じようにじっと様子を伺っていた彼女は、僅かに震えながらヴェルバと対峙する。

「どうかしました?」
「ヴェルバさん。失礼ですが、お顔を見せていただいてもいいですか?」
「? あら、どうかされました? 実は酷い火傷を負っていて、人様にお見せできるものではないんです」
「……そう、ですか。すみませんでした」

 そう言われると追及し辛い。
 リリルは頭を下げたが、その顔はやはり怪訝なものだった。

「では、行きましょう」
「待った。リリルさん、どうかしたのか?」

 妙な危機感だけがマルドを動かした。
 話が流れるのを避けるため、リリルを追求する。
 顔の傷と言われ、言葉に詰まっていたリリルは渋々話し始めた。

「……勘違いだったらすみません。だけど今の占いを聞いていて、幼い頃のことをやっと思い出したんです」

 幼い頃の記憶力は優れている。
 勘違いかもと言いつつ、リリルはその記憶を元に、確信した様子だった。

「私はあなたに会っている。あなたはあのときも、私の町で占いをしていた。……今と、同じ姿で」

 リリル=サース=ロングトンの故郷は、とある魔族に滅ぼされたという。

「……あら」

 気配だけで、ヴェルバがにやりと笑ったのが分かった。

「ごめんなさいね、私の方は覚えてないの。滅ぼしたものが多すぎて」

 バジッ!! と眼前で光が炸裂した。
 ヴェルバが放った何かが、マルドが展開した防御魔術と衝突する。

「うそ。防げるんだ」
「『杖』に初撃が通じるとでも?」

 ブッ、とヴェルバが背後に身を引く。
 リリルと話しながら自分を狙ってくるとは。
 近接戦が得意そうなリリルを避けて確実にこちらの戦力を削ろうとするのは、“想定していた中でも“比較的発生する確率は高かったが、流石に動揺する。

 距離をとったヴェルバはフードに手をかけ、ゆっくりとめくる。
 覗かせたのは、金の長い髪に、銀の眼。眉は長く整い、唇は柔らかく冷たく輝いて見えた。幻想的なほど端麗な容姿は、見る者の心を奪い、それなのに、見る者を心の底から震え上がらせる。

 こいつは。
 マルドは眉を寄せるが、リリルが一歩踏み出した。
 そして震える唇が、忌々しさを隠しもせずに言い切る。

「やはりあのときの占い師もあなたでしたか―――サーシャ=クロライン……!!」

 リリルが口にしたその名は、マルドももちろん知っていた。
 サーシャ=クロライン。魔王直属の“魔族”だ。

「よく覚えていたわね、リリル=サース=ロングトン」

 まるで迷惑を被ったとばかりに肩を落とすサーシャに、リリルから殺気が漏れた。
 マルドはリリルのことも一応調べているが、やはり、彼女の街を滅ぼしたのは目の前のサーシャであるのは間違いないらしい。

 だがこの状況。
 想定していた中でも、“最悪だった”。

 マルドはカイラに視線を投げる。
 カイラは動揺しつつも信号弾に手を伸ばしていた。

「ちょっとちょっと、待ちなさいよ。カイラ=キッド=ウルグス。ここにみんな呼ぶ気? 魔族が出たぞーって」
「ええ、そのつもりですが?」
「少しだけ私の話を聞いてもらえるかしら? 悩み事を聞いた仲じゃない」

 ギリ、とカイラの奥歯が鳴った。
 つい先ほどまで話していた相手が魔族となると、カイラも怒りが登ってきたようだ。

「待てカイラ。待ってくれ」
「マルド!?」

 マルドは怒りを覚えていない。それは思考を妨げる。
 カイラはより憤慨したようだが、今、信号弾は上げるべきではないのだ。

「あら。マルド=サダル=ソーグ。状況が分かっているみたいね。今上げるとどうなるのか」
「……」

 マルドは言葉を返さずじっと対峙する。
 そして今にも飛びかかりそうなリリルも手で制した。
 歩いて数歩のところに、街を瞬時に滅ぼすとされる魔族が立っている。だが、その恐怖に飲まれることは許されない。

 この事態も想定していた。
 この依頼で警戒すべきなのは『光の創め』。だがそれは、あくまで“自分たちの問題”として発生する可能性が高い事象だ。
 ヒダマリ=アキラたちも、数奇な運命を持っている。
 となれば、“正規ルート”の方でもなんらかの問題は起こるかもしれないと考えていた。
 あえて同じ依頼を受け、戦力の集中を図ったときからこの事態も考慮済み。

 だから判断できる。
 “本格的に戦闘が始まらなければ、信号弾は上げてはならない”。

「マルドさん。どいてください」
「駄目だ。それよりもサーシャ、だっけ。聞きたいことがある。『光の創め』を知っているか?」

 無駄口は叩かない。
 今、サーシャが放った自分への攻撃は、挨拶のようなものだろう。そうでなければあんな盾、魔族の魔力で吹き飛ばされているはずだ。
 サーシャが話をしたいというならこちらとしても好都合。相手が魔族でも、今は情報収集すべきだ。

「あら。私の目的とかより、まずはそれ?」
「分かっているだろう。あんたらにとってもこれがどういう事態なのか」
「……ふふ。そうね、その勇気に免じて教えてあげるわ。魔王様にとっても『光の創め』は障害でしかないわよ」

 マルドはサーシャの様子を伺う。
 サーシャは唇を釣り上げた。
 フードを脱ぎ捨て、表情が見えるようになったのに、何故かより一層何を考えているのか分からなくなった。
 嘘をついているかもしれない。表情からは分からない。だが、自分の推測が当たっている可能性は少しだけ高まった。

「マルド、どういうことですか? 信号弾は、」
「上げるな。上げたら本当に“始まる”ぞ。このサーシャって奴が現れた時点で、硬直状態なんだよ」

 『光の創め』はまだ姿を現していないが、奴らに関しては現れる前提で考えていた方がいい。
 マルドが調べた『光の創め』。
 奴らの行動や目的は分からなかったが、少なくとも、魔王一派ではないのだ。
 そして、魔族というものは、基本的に他者を排除して生き続けているものだという。

 そうなってくるとひとつ考えられることがある。
 魔王一派にとっても、『光の創め』は面倒な存在のはずだ。
 何しろ同じ魔族とはいえ、人間と違って同族に対する交流の仕方がまるで違う。
 目的が異なれば、排除する敵でしかないのだ。

「もしここで信号弾を上げたら、サーシャだって交戦せざるを得ない。そんなことになったら大人数がここに集まって戦うことになる。そんなとき、手薄になったところを『光の創め』が襲撃してみろ。それに、サーシャにとっても美味くないはずだ。俺らと戦って消耗したら、『光の創め』に襲われる可能性があるんだぞ」

 この状況は、最初に争いを始めたふたつが大きく不利だ。
 漁夫の利を狙われることになる。

 サーシャが襲いかかってきたら最早歯止めは聞かないが、少なくともそこに立っているだけなら本当に最悪の事態は避けられる。
 キュールはすでに先頭に立ち、いつでも『盾』を展開する準備をしていた。
 もし襲ってくるなら、こちらもすぐに戦闘に移れるという意思表示は必要だ。

「マルド=サダル=ソーグの言う通りよ。私も困っていてね。どうしようかしら?」

 マルドは思考を止めなかった。
 不自然なことがある。

 硬直状態というのはどうやら間違いないらしいが、それならば何故、サーシャは姿を現したのか。
 わざわざ人に化けてまで現れたのは何のためだったのか。
 リリルの追及など、根拠は所詮、今思い出したような記憶頼りだ。いくらでも言い逃れはできたはず。

 そして、マルドの耳はひたすらに樹海の気配を探る。何も感じなかった。
 おかしい。
 小規模ながらも今の戦闘音を、“あの男”が聞き逃すはずがない。
 あの男が向かった先でも何かあったのだろうか。

「…………お前以外にも、いるな?」
「あら」

 サーシャは驚いたような表情を浮かべた。
 わざとらしい。
 見抜かれたと言わんばかりの表情だが、実際に見抜いたことに何の意味もないことをマルドは理解していた。

「やっと分かった。カイラがここに来るように仕向けたのもお前の仕業か? こいつの目的は、俺らの足止めだ」
「足止めですか?」
「今の状況。手も出せない、離れられない、信号弾も上げられない。サーシャだって同じだ。だけどだからこそ、サーシャは現れた。俺らはここに釘付けだ」

 サーシャはやはり、わざとらしく小さく手を叩いていた。
 正解らしいが、やはり正解しても意味がない。
 サーシャが足止めということは、魔王一派は“サーシャだけではない”ということだ。
 音沙汰のないスライクが出くわしているのは、他の魔王一派かそれとも『光の創め』か。

「現れた目的くらいは聞きたいな。どうせお互い暇だろう?」
「ふふふ。私の目的は目的ってほどのものでもないわよ、様子を見に来たようなもの。魔王様を狙う勇者とやらが、どんな人間なのかをね」
「……まさか、今、スライク様は」
「襲撃されているだろうね。戦闘音は聞こえないから、もしかしたら向こうも睨み合う羽目になっているのかもしれないけど」

 ある意味依頼としては大成功だ。
 魔族の出現とあっては、そこらの魔物は近づこうともしないであろう。
 あとは目の前のサーシャや共に来たらしい魔族が下手な気を起こさずに去ってくれれば万事解決だ。

 マルドは小さく笑う。サーシャに気づかれたが、気づかれても問題はない。

 作戦通りだった。
 ヒダマリ=アキラにあえて同じ依頼を受けるように仕向けたのは、この構図を期待してのものだ。
 いずれにせよ魔族には遭遇する。
 だが、戦闘が避けられないというわけではない。この状況が作り出せれば、互いに動きが取れないはずなのだ。
 想定していた中では最高ではあるのだが、魔族といつ終わるとも知れない睨み合いを続けなければならないというのは、“最悪だった”。

「マルド=サダル=ソーグ。あなたは少し足りないみたいね」
「……そうかな」

 サーシャが不意に微笑んだ。
 この魔族、心が読めるのかもしれない。

「だって論理的すぎるもの。月輪属性なのに。知っているでしょう、それじゃあ届かない領域があるのを」
「……」

 下手に耳を傾けるな。
 何を企んでいるか分からない。
 だが、その意味は理解できた。

 そう。
 もしこの状況でも、漁夫の利を狙われない方法があるのだとしたら、戦闘が発生する。
 静かな樹海の中、そんな方法があるとは思えないが、しかし同時に、存在する可能性があった。
 論理では届かない、その領域に。

「退屈凌ぎに賭けをしましょう。私と共に来たとある魔族は、自分の目的を果たせるか。私は命をかけてもいいわ、“あのお方”は、必ず達成するってね」

 いつしか登った不気味なほど巨大な満月が、サーシャの瞳を怪しく照らしていた。

―――***―――

 ヒダマリ=アキラは、自分が彼を訝しんでいることを、彼が気づいていることに、気づいていた。

「勇者という立場の者と言葉を交わす機会なんてそうないものでね」

 日も落ちた樹海の中。
 儚げな光源に柔らかく微笑んだ表情を写した男は言う。

 ラースと名乗ったこの男の正体は、魔王。

 最終局面に辿り着いた自分が持つ、確かな情報だ。
 今目に見える姿や口調、その様子から、まるでそうとは思えないが、揺るぎない事実である。

 もし仮に、自分がそれを知らなかったとしたら、自分はこの男にどう接するだろう。そう考えようとして、止めた。
 そういう演技は自分にはできないことを知っているし、無理にしようとすればより不審な目を向けることになってしまう。

 だからアキラは、下手な芝居をせず、ただ真っ直ぐにこの男を両の眼で捉えていた。

 ここは西の警護地点を北に少し過ぎた辺り。
 南部から折り返してきたアキラは、途中自分の仲間たちが固める西部の地点を通ってきた。
 共に遊撃を担当するサクに無理を言って西部に残ってもらい、たったひとりでこの男と共に歩いている。
 事前に事情を話していたイオリのラースへの対応は実に自然なもので舌を巻いたが、サクを残してひとりで行こうとする自分に、裏でこっそりと、震える眼で何かを訴えてきたように思う。
 多分あれは、相当怒っていた。

 だがそれでもいい。
 自分はこの男に、自分の仲間を近づけたくはなかった。

「時にアキラ君。君は異世界来訪者だそうだね」

 急遽仲間を置き去りにし、自分から片時も目を離さないアキラに対し、ラースは何ひとつ聞きたださず会話を続ける。
 アキラを訝しがらないわけがなかった。それほど今の自分の態度は異常であると自覚している。
 だがラースは、出来るであろうにそれらしくアキラに不審な目を向けることはなく、気にする素振りさえまったく見せない。
 朗らかな口調や表情は、徐々に堂々とした様子となり、確かな足取りで樹海を、自分の道を進んでいた。
 まるでアキラが何をしたところで、大局には影響がないとでも言うかのように。

「過去。異世界来訪者で魔王を討った勇者は多い。それだけに、世界中の希望が君の双肩にかかっているというわけだ。頑張ってもらいたい」
「とっくの昔に自覚している」

 形式だけの激励。わざとらしい。お前が魔王だろう。
 思い浮かんだことはいくらでもある。だが、そこまでは言えない。それは言い過ぎだ。
 態度ならまだしも、言葉にしてしまえばこの存在と戦闘をせざるを得なくなる。

 それは向こうも同じだろう。
 互いが互いの正体を知っている上、それを双方気づいているのに、ただ今は、たまたま依頼で出会った旅の魔術師同士を演じている。

 薄氷を踏むような感覚を味わい、しかしアキラは大地を強く踏みしめた。

「そんな異世界来訪者である君は、もしかしたら、歴代の勇者と魔王の戦いを知らないのではないかな?」
「……ああ」

 極度の緊張感が身体を縛り付けているアキラに対し、ラースは変わらず柔和な表情で言葉を続ける。
 話題を提供してくれるのであればありがたい。

「では、そうだな。この繰り返される勇者と魔王の戦い。それについては諸説あることを教えておこう」
「……それは……、“魔族説”とか“中立説”とかってやつか?」
「ほう。それは知っているんだね」
「聞いたことがあるだけだ。詳しくは知らない」

 ラースは僅かに思考を巡らすような表情を浮かべた。どこからどう見ても人間にしか見えない。

「ならば簡単に話しておこう。まずは“神族説”。これは最も広まっているね。魔王をはじめとする魔族は神族や人間にとって害にしかならない。故に、魔王が現れた場合、即刻排除しなければならないという倫理感に基づいた説だ」

 ラースは教鞭をとるように指を立てた。
 倫理、とは。この世界に広まる、あるいは世界中を縛り付ける神族の“しきたり”に準じるものだろう。
 この世界の住人にとっての“当たり前”。
 異世界来訪者のアキラにとってすら、物語の在るべき姿として認識できる。
 だが、それについてアキラは気になっていることがあった。
 目の前には答えがある。どうせならば聞いておこう。

「なあ。俺は魔王一派とは関係のない魔族に何度か遭遇している。そして、魔王も魔族なんだろ。だったら、魔族と魔王の違いはなんなんだ。魔王はこの世界で何をしている?」

 踏み込み過ぎたかもしれない。
 ラースは僅かに目を見開き、しかしそれでも出来の悪い生徒を見るような眼差しを向けてきた。

「……そうだね。歴代魔王も、なんらかの目的を持ってこの世界に訪れているらしいけど、基本的には己の“欲”を満たすため。そこにその辺りの魔族との差なんてない。君が感じる疑問もそこからきているのだろう。だが、決定的な違いはある」
「違い?」
「ああ。具体的には魔物。その辺りにいる魔物は、野良の魔物と言い換えようか、奴らは基本的に自分の生活を守るために活動するんだ。極論、自分たちの住処や餌場に敵が近づかない限り攻撃の意思はない。自然動物のようなものだ」

 ふと、アイルークで出逢ったマーチュという魔物を思い出した。
 愛くるしい見た目で、害らしい害はない。
 巣穴ができてしまってリビリスアークの村長に討伐依頼を受けたのだが、過剰繁殖されると駆除しなければならないのは、魔物だろうが自然動物だろうが同じことだ。

「だが、魔王が現れると、魔物は僅かに人間を能動的に襲う習性になる。攻撃性が増すと行ったほうがいいだろう。戦闘不能の爆発と言われる現象も、魔王がいるときといないときでは随分と被害に差があるみたいだ」
「それは、」

 大した影響ではない、と言おうとして、アキラは自粛した。
 この世界には何千何万では収まらないほどの魔物が存在している。
 その存在たちの凶暴性が一律僅かにでも増せば、人間の生活にもたらされる被害など想像もできない。
 アイルークのヘヴンズゲートで見た、大切なものを失った人々は、そうした被害を受けた者たちなのだろう。

「……それは、魔王が何かの影響を与えているってことか」
「正しくもあり誤りでもある」

 ラースは毅然として言った。

「魔王はただ、“そこに在るだけ”、だ。魔王は無関係ではないが、魔王が特別何かをしているわけではない。そうした“役割”を持った魔族。それを魔王と呼ぶんだよ」

 ラースの瞳が怪しく光った。
 “役割”。その言葉を聞いてアキラは目を細める。
 存在するだけで魔物の凶暴性が増す魔王。何が基準で魔王と呼ばれるのかは分からないが、それは“特性”と言った方が適切なような気もした。

「初代の魔王は今の話を如実に表していたようだ。特にその役割が強く、世界中の魔物が一斉に凶暴化した。当時はまだ人間たちの魔術の練度も低くてね。至る所で悲劇が起こったそうだよ。そんな中、才気あふれる者たちが魔王を討ち、世界は一時の平和を取り戻した」

 初代勇者。始まりの勇者。
 自分はその存在と同じ系統らしい。
 弱き人々を救い、悪をくじく勇気。
 物語のあるべき姿を守った存在。

「次は、“魔族説”だ。支持する者は少ないね、何しろ魔族の理屈だ。初代の魔王から幾数年。再び現れた魔王。彼は、強く主張していたらしい。人間界は神界と魔界の中間にある。ならば魔族側に同等期間、人間界を魔族に明け渡すべきであると。人間界はおろか神門にすら猛攻を仕掛け、人間界を掌握しようとした。だが、」
「……倒されたんだな。二代目勇者に」
「そうだ。ラグリオ=フォルス=ゴードという規格外の怪物に。想像を絶する魔族魔物の大軍に、かえって世界中が彼の狩場と化したという。好戦的な魔王であったがゆえに、前線でラグリオ=フォルス=ゴードと衝突したらしい」

 圧倒的な速度で魔王を討ったという二代目勇者。
 その存在は戦場の生き物だったという。

「そして最後に“中立説”。本来魔族は神族との争いを前提に行動していたが、三代目の魔王は違った。初代、そして二代目の敗北を受け、人間こそが魔族の敵であると認識した。神族にある種洗脳され、倫理観を植え付けられた人間こそ、人間界を掌握するための最大の障害なのだと。仮に人間界をフラットな状態で考えれば、善悪の考え方など神族が吹き込んだに過ぎない。故に、三代目の魔王は人間界を徹底的に洗おうと考えた。私が知る限り、三代目魔王は史上最も狡猾で、最も残忍な粛清の権化だ」

 今の人間界はおかしい。
 そう考えた三代目魔王は、この世界を一度滅ぼしかけたという。
 三代目勇者レミリア=ニギルが魔王を討つまで、この世界は粛清にさらされていたのだろう。

「その後も魔王が現れた。特異な魔王も多少はいたが、基本的にはそのいずれかの説を採っているように思える。神族を滅ぼそうとするか、人間界を奪おうとするか、人間界を修正しようとするか。だが結局、いずれも勇者に倒されている」
「…………あんたは、どの説を採っているんだ?」

 言い過ぎたと思いながらも、アキラは撤回しなかった。
 ラースは足を止め、ゆっくりと振り返る。
 その目には、なんの動揺も浮かんでいなかった。

「君は今の話を聞いてどう思った。質問を質問で返すが、君はどう思う? 魔族を滅ぼすべきか、人間界を明け渡すべきか、それとも今の人間界はおかしいと思うか」
「……説なんてどれでもいい。だけど、人間に被害があるってんなら滅ぼしてやる」
「神族説、とまでいかないが、その方向か。言葉が過ぎたら悪いが、下の下だよ。受動的すぎる」

 ラースはゆったりと首を上げた。

「思考が中途半端に原始的だ。自分、あるいは自分の仲間に害があるなら行動する。崇高に見えて、そこには自分の欲望がない。まだ神族に洗脳されている人間の方が好感が持てる。アキラ君。意思を持て。自分がすべきこと、やりたいことを見定めろ。自分自身を定義するんだ。それができないのは、間違えることを恐れているからだ。どれでもいいと言ってしまうのは、恐怖の現れだ。どの説も違うのであれば、断じろ。自分にとって不要であると」

 じっとりと額に汗が浮かんできた。
 そしてようやく気づいたことがある。
 この道は、遊撃担当の経路から随分と外れているようだった。もうとっくに北部についていてもおかしくないのに。

「質問に答えよう。私にとってはどの説も不要だ。つまらないと思わないか、例えどの説であったとしても、結局は魔王が勇者に倒されることの繰り返し。魔王というキングが現れたら開始されるチェスゲームでしかない。それが今に至るまで、途方も無い期間にまたがり、99度も繰り返されているのだから」

 アキラは拳を震わせた。
 ラースの姿が、過去と重なり、今、目の前に確かなものとして存在している。

「さて。君が仲間を置いてきたのは私にとっても行幸だった。話したかったし、見定めることもできてきた。ヒダマリ=アキラという勇者を」

 アキラは、剣に手を伸ばした。
 それを見ても、ラースという存在は笑う、嗤う。
 そしてその存在を中心に周囲の木々がざわめき立ち、ピリピリとした鋭い気配がアキラの身体中を突き刺した。

「次に、計らせてもらおうか。君の本当の意思を。どういう手段かは知らないが、君は私に最初に会ったときから気づいていたね。立場上、視線というものに敏感なのだよ。統べる者は、こうあるべきなのだろうから」

 いつしか浮かんでいた月を眺め、ラースは、ゆったりと笑った。

「私はジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース。魔王と、呼ばれている」
「っ―――、―――!?」

 背後からの暴風に反応できたのはジゴエイルだけだった。
 人間の姿のまま軽やかに背後に飛び、その一閃の軌道をかわす。

「……スライク=キース=ガイロード。多少は順番を守ってくれると思ったのだが、噂に違わぬ狂犬ぶりだな」
「はっ、かわせたってことは案外ホラじゃねぇみたいだなぁ、おい。少なくとも魔族か」
「お前、なんでここに」

 スライクは応じず、振り返りもせず、ただ真っ直ぐに獲物を捉える眼をジゴエイルに向けていた。
 アキラも口を噤み、剣を抜く。
 相手が本当の名を名乗った以上、最早交戦は必至であった。

「まあいい。そもそもそのために足を運んだのだからな。ふたり同時となるとより都合がいいか。始めよう」

 ジゴエイルは片手を掲げ、戦場と化したこの空間ですら、柔和に笑った。

「“招待しよう”。ただここで始めてしまっては、余計な客を招きかねんからな」

 僅か離れて立つジゴエイルは、何かを狙っている。
 頭ではそう判断できた。だが、ジゴエイルが掲げた手に、アキラは何も感じなかった。

 アキラも、スライクも、相手の初動に即座に反応できる体制を整えている。
 だが、ジゴエイルからは、この旅で幾度となく感じた魔力の気配すら感じない。

 星灯りに照らされる樹海の中、勇者と魔王が対峙する。
 戦場の緊張感にこの身が曝される。だが魔力を感じないがゆえに、目の前のただ手を上げているだけの存在に、危機感を覚えられなかった。
 一体奴は、何をしているのか。

 ジゴエイルは、静かな眼のまま、呟く。

「部分召喚―――“ルシル”」

 その瞬間、アキラの景色は、一瞬で暗転した。

―――***―――

「……イオリさん、大丈夫ですか?」
「…………」

 聞こえてはいたが、反応することが億劫だった。
 今は身体中の感覚をアキラが向かった北部の樹海に向け、残るリソースはすべて思考に費やしている。

 西部の警護地点。
 ホンジョウ=イオリは極度の興奮状態にあった。

 アキラが、アキラ曰く魔王であるらしいラースという男を連れてきたときすら心臓が破裂しそうだったのに、あの男はサクを残してふたりだけで樹海の闇に入っていたのだ。

 『光の創め』が現れる可能性がある以上、余計な刺激はしないでおこうと話し合ったのに、あの男は当たり前のように魔王と行動を共にしている。

 自分から会いに行ったわけでは無いだろう。
 出会ってしまったから自分が目を光らせているに過ぎないのだろう。
 だが、彼はそういう演技ができないし、そのことも彼自身自覚している。
 それなのに、その上で、彼は自分たちを魔王から遠ざけたのだ。

 無視しようという彼の言葉を信じるべきではなかった。
 あの魔門破壊ですらそうだった。彼が困難にぶつかったとき、最初に考えるのは自分たちを危機から遠ざけることだ。
 彼自身、命を投げ捨てるようなことはもうしないだろうが、見えない危機に対しては直感的に自分だけが近づいていく節がある。

 そして今だに覚えている。あのラースという男の瞳。
 好感が持てそうで、しかし全てを見通しているようなあの色。すでにこちらの思惑が露見している可能性だってある。
 そんな存在とアキラが行動を共にすれば、何が起こるかなど分かり切っている。

「……やっぱり少し様子を見てくる。エリサス、サクラ、ここを頼めるかな」
「イオリさん、やっぱり変ですよ。具合悪いんですか?」
「……、いや、少し退屈でね。僕も遊撃に志願すべきだったかな」

 全く騙せていないことは明白だった。
 エリーはジト目になり、サクからすらも不審な目を向けられる。
 すべての記憶を保有している自分はこうした目に曝されることは慣れていたつもりだが、心が痛んだ。

「何かあるんですね。あたしも行きます」
「いや、私が行くからふたりはここを守っていてくれ。アキラの様子を見てくるだけなら、私がひとりで行く方が効率的だ」

 そして、この旅の道中、恐らくはアキラにも延々と同じ視線を向けてきたふたりは即座に立ち上がった。
 何かある前提で行動を開始しようとしている。
 アキラも頼もしい仲間に恵まれたものだ。だが流石に事情が事情だ。
 それに、本心としても自分が行きたい。
 今はまだなんの騒ぎも起きてはいない。だが、いつ何かが始まるかと思うと、ここに残っていては正気が保てないような気がした。

「!」

 そこで、念願の気配を検知した。
 イオリは即座に口に手を当て召喚獣を呼ぼうとする。
 しかし、その気配の主は、この場の緊張感を壊すかの如く、欠伸をしながらゆっくりと樹海の闇から姿を現した。

「あら。みんな無事みたいね。ってあれ、従者ちゃんじゃない。あんた確か遊撃とかじゃなかったっけ?」
「エレナさんか。今までどこに?」

 警護地点を放棄して散歩でもしていたのだろう。
 現れたエレナ=ファンツェルンに対し、そういうことを良しとしないサクが冷めた視線をぶつける。
 流石のエレナはサクの睨みなどものともせずに歩み寄ると、乱暴に腰を下ろして手で顔を仰いだ。

「何って見回りよ。……え、何この空気」

 まるで事情を把握していないにしても、イオリは少なからず怒りを覚えた。
 彼女の自由さは美徳だと自分に言い聞かせてみても、アキラが深刻な事態に巻き込まれている今彼女をフォローする気が起きなかった。
 樹海の中は随分と静かだ。散歩にはうってつけだっただろう。

「エレナ。悪いけど少しこの場にいてもらえるかな」
「え? いいけど、私はまだいけるわよ?」

 エレナは少しむっとした表情をした。
 こっちの感情だ。
 イオリは自分を落ち着かせると、エリーとサクに目配せする。
 ようやく戻ってきたエレナにこの場の護衛を押し付けるのは、満場一致で決定したかのように思えた。

「何よ。というかあんたら、3人もいるなら少しくらいこっち来てもらいたかったわ。それとも怪我でもしてたの?」
「エレナさん、悪いが今、散歩している場合じゃ無いんだ。引き受けた以上、最低限の仕事はしてもらいたい」
「あれ。もしかしてあんたら怒ってない? 何よ、せっかくゴミ掃除してきたってのに」
「……、待った」

 サクが口を開こうとしたところを、イオリは止めた。
 膨れているエレナの服が、僅かに汚れているような気がする。
 樹海を散歩してきたのだから当然かもしれないが、身だしなみに気を使う彼女にしては珍しい。

「エレナ。聞きたいんだけど、樹海で何かあったのかな? 随分遅かったけど」
「……あんたら、分からなかったの?」

 ここにきて、ようやくエレナの目つきが変わった。
 イオリの頭の中で警鐘が鳴る。
 普段の行いから分かり辛いが、エレナは意外と慎重だ。
 そんな彼女が、『光の創め』が現れるかもしれないこの依頼で、これほどの長時間単独行動をするだろうか。
 そしてこの樹海。
 アキラは何も起こっていないと言っていたが、仮にもヨーテンガースの樹海だ。遊撃担当の巡回経路にも、そしてそれ以外を歩き回っていたエレナの身にも何も起きていないというのは、あまりに出来すぎている。
 そう考えると、ようやく、当たり前だと思っていた目の前の光景が、歪んで見えてきた。

「私は相当数の魔物と遭遇したわ。全滅させてきたけど、増援が来ないからそっちも何か起こったんだと思っていたの。……あんたら、本当に気づかなかったの?」

 この樹海は―――静かすぎる。

「信号弾は?」
「上げてないわ、大したことじゃなかったし、あの程度で騒ぎ立てるのもどうかと思ってね。……失敗したみたい。この樹海、すでに何かいるわね」

 さりげなくエレナは胸元を探り、そして静かに手を戻した。
 真面目に考えているふりをして、そもそも信号弾は持ち忘れていたらしい。
 だが、疑心暗鬼にかられたイオリにはそれにすらなんらかの意図を感じた。もし、全体の警戒心を薄れさせ、信号弾すら持ち忘れるように仕向けられていたとしたら。

「……全員、僕の言葉をよく聞いてくれ。エレナはこの場に待機。いざとなったら中央へ向かって依頼主を守ってくれ。他は全員で樹海の見回りだ。僕はラッキーで空から見回る。そして、何か少しでも妙なことが起こったら、“絶対に信号弾を上げてくれ”―――“上げるべきではないと自分が思ったとしても”」
「それって……」

 エリーの瞳が見開かれる。
 そう。自分が下した判断すら疑わなければならない現象が、今この樹海で起こっている。
 気にし過ぎかもしれないが、何もなかったのならそれでいい。だが今は、“何かが起こるという前提”を持つべきだ。

 気づかないうちに、何かが、始まっている可能性が高い。
 そして、そうした事象には、ひとつの可能性がイオリの頭に浮かんでくる。

「敵がいるかどうかも、いたとして、どんな敵なのかも分からない。だけど―――“サーシャ=クロライン”。当の本人か、それに準じる力を持つ敵がいる可能性がある」

 イオリは口に手を当て、静かな樹海に口笛を響かせる。
 過去の記憶から、多少の油断があったのかもしれない。サーシャ=クロラインは人間を操る魔法を使う。
 その副産物としてなのかは分からないが、多少は人の思考を読むことができるのだ。
 そうなると、自分たちが“魔王”の存在に気づいていることに気づかれている可能性が高い。

「―――っ」

 今は速度だ。
 杞憂で終わればそれ以上のことはない。

「ラッキーッ!!」

 乱暴に現出させた召喚樹は、せっかく立てたテントを傾けた。
 イオリは気にせず飛び乗ると、振り返りもせず空を飛ぶ。

 目指すは北部だ。
 仮にサーシャがいるとしても、まずはより危険な存在と共にいるアキラの姿をこの目に収めなければ。

 そこで。

「は?」

 空から樹海を見下ろして、イオリは一瞬、我を忘れた。
 アキラが向かった、西部と北部を結ぶ、遊撃担当の巡回経路。そこから僅か外れた、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈。
 そこが。

「なんで……“山が消えているんだ”……」

―――***―――

「……」

 リリル=サース=ロングトンは、震える指先を抑えるのに精一杯だった。

 目の前にはサーシャ=クロラインいる。
 自分の故郷を滅ぼし、今もなお、多くの人々に被害をもたらしている魔王一派の魔族。

 共にいる長い杖を持った男、マルド=サダル=ソーグが言うには、騒ぎを起こして『光の創め』に隙を作らないように、手を出せない状況らしい。

 理解はできるが、リリルはまるで納得していなかった。

 具現化を発動させ、サーシャに詰め寄り、その首を跳ねる。
 自分なら、2秒もかからずにそれを実現できる。
 仮に『光の創め』が突如として現れたところで、それすら撃退すればいいのだ。

 だが、これは私怨なのかもしれない。
 自分の感情に任せて、多くの人を危険に曝していいものだろうか。

 リリルはあくまで冷静に、全ての事柄を天秤にかける。

「ところでリリル=サース=ロングトン。あなたは今にも襲いかかってきそうね」

 話しかけられるのは、とてつもなく不快だった。

「ええ。あなたが私たちの足止めに現れたということは、裏で何か企んでいるのでしょう。であれば、いつまでもあなたに付き合っているわけにはいきません」
「ちょっと。マルド=サダル=ソーグ。もう一度ちゃんと説明してくれない? 今がどういう状況なのか」
「…………」

 マルドはサーシャの言葉を無視したようだった。
 彼は今、思考を巡らしているのだろう。

 マルドの言うように、騒ぎを起こさないのが正解かもしれない。逆の見方をすれば自分たちもサーシャを足止めしている。
 僅か数人で魔族の動きを縛っている現状は、人間側にとっては望ましい。戦闘すら発生しないとなればこの上ないだろう。
 だが、リリルの言うように、サーシャがその対価を払ってまでもここにいるということは、その価値があることをしようとしているということになる。
 現状、魔族側の思惑通りに事が運んでいるということだ。

 だからこそ、彼は考えている。サーシャを出し抜く方法を。

 残念ながら、自分はそうではない。
 目の前に山があるなら、登山ルートや迂回する方法を考えるより早く足を動かすタイプだ。
 今だって、もし自分ひとりならサーシャが何を言ったところで襲いかかってしまっていただろう。
 自分は器用ではない。万能ではない。
 残念ながら、幼い頃からとっくに気づいていることだ。

 だが、だからこそ、リリルは精神を落ち着かせる。

 目の前に仇がいようが、高ぶる身体を抑えて、冷静に考えなければならない。
 魔族との戦闘が勃発すれば、この依頼に関わった全ての人間に被害が及ぶ。
 マルドやサーシャが言う通り、今、動きをとるべきではないと、自覚しなければならないのだ。

「ところでサーシャ=クロラインだっけ。あんたと一緒に来た魔族。そいつの狙いはなんだ?」

 マルドが慎重に声を出した。
 何かを思いついたのか、単に情報収集しようとしているのか。

「答えるとでも思っているの?」
「なあに。あんたも言ったろ、退屈凌ぎだ。互いに睨み合っていた方が都合がいいのは理解している。だけど、今ここには、まさしく今にも襲い掛かりそうなリリル=サース=ロングトンがいる。この状況はあんたの想定通りなんだろう。だったら、それを崩さないために俺たちを説得してみせてくれよ」
「……へえ」

 挑発ギリギリの笑みを浮かべたマルドに、サーシャは不敵に笑う。

「もし、あんたらがやっていることが、俺たちにとって不利益……『光の創め』に横から攻められる以上に不利益なことなら、俺も今すぐにでもこの場を離れるべきだと考えつつある。もしそうだとしても、人を騙すのが得意そうだ、俺たちがこの状況を保つべきだと信じられる理由を説明してみてくれよ」

 嘘でもいいから。見破ってみせるから。そう言外に語っていた。
 マルドの瞳は挑発と自信の色を写している。
 サーシャは、しばし考え、そしてやはり、不敵に笑った。

「薄いわね、マルド=サダル=ソーグ。あなた、魔族の嘘が見破れると思っているの?」
「ああ、やってみないことにはね」
「……だから浅はかよ。あなたには見破る自信なんてない。ただ、会話から打開策のヒントを得ようとしているだけって分かるもの。決めたわ、私は何も言わない。それはあなたに見破られることを避けるためじゃなく、ヒントを与えないためよ」
「なるほど、つまり俺たちがこの場を離れかねない目的があるってことかな?」
「……」

 サーシャは微笑んだまま無言を貫いた。
 マルドはわざとらしく肩を落とすが、単なる演技だけというわけでもないようだ。
 サーシャは人間を知り尽くしているように見える。マルドのような人間にも幾度も会ってきているのだろう。
 人間は理由をもとに行動を起こす生き物だ。
 理由がない以上この硬直状態、つまりはサーシャの望み通りの状態を続けざるを得ない。

「……?」

 そこで、リリルは異変を感じた。
 静かな樹海の中、月の光に照らされていたサーシャの身体に影が刺す。
 雲でも出ているのかと顔を上げると、リリルは目を見開いた。

「ちっ」
「あれ、え? イ、イオリさん……?」

 サーシャの表情が渋くなった。それと同時、リリルの目には星空を行く巨大な召喚獣の姿が入り込んでくる。
 遥か遠くの景色のようにも見え、樹海の空を巡回するように飛ぶラッキーを、リリルは他人事のように眺めていた。

「……何か変だと思っていたけど、そういうことか……!!」

 マルドが苦々しげに呟く。
 ようやくリリルにも分かった。
 イオリの召喚獣から、“何も感じない”。
 遥か遠い景色に見えるのは、魔力も、風も、音すらも届いてこないからだ。

 警護地点の外の出来事は、護衛地点からまるで感じ取れない。

「スライクが戻ってこないのは睨み合っているからじゃない―――“もうすでに何か始まっている”。サーシャ、狙いはスライクか!?」
「あら。バレちゃったみたいね。ヒダマリ=アキラの一派か。あちらにももう少し手心を加えるべきだったかしら」

 とぼけたことを言うサーシャは、思惑通りといった様子でにやりと嗤う。

「もう遅いわ、狙い通りに始まった。その通りよ、私たちの狙いは当然“勇者”。ここまで時間を稼がせて貰えば、最早邪魔は入らない」

 リリルは冷めた心で考える。
 自分がこの北部の護衛地点を訪れたのは随分と前だ。
 そうなれば当然、西部の遊撃担当が訪れていてもいいはずだ。
 だがそれがない。
 そして、その西部の遊撃を担当しているのは。

「―――っ、」

 空を飛ぶイオリの召喚獣が、止まった。
 そしてしばらくすると、一直線に西へ飛び、樹海の向こうへ消えていく。
 彼女は異常を検知したらしい。もし自分の直感が正しければ、その先には、彼がいる。

「流石にそうだよな。それどころか現れているのは、」
「そうよ、焦りなさい。もっと、もっと焦りなさい。わざと分かるように言ったんだから、正しく現状を理解しなさい」

 サーシャは樹海の闇に溶けるように徐々に下がっていく。気配を感じぬ樹海の中に、消え込んでいく。
 リリルの頭がかっと熱くなってきた。

「そして光栄に思いなさい―――“魔王様”が直々に手を下すなんて、人の身には過ぎたことよ」

 リリルは、身体中に魔力を漲らせた。
 姿が消えつつあるサーシャに、最早なんの興味も持っていない自分に気がつく。
 今自分の頭にあるのは、一刻も早く、ホンジョウ=イオリが飛んでいった方向に駆け出すことだけだった。

「待って、あれ!!」

 僅かに残った聴覚が、子供の叫び声を聞いた。
 見ればキュールが、慌てた様子で樹海の向こうを指している。
 目を凝らすと、そこには中央で待機しているはずのサルドゥの民のひとりが、なんの護衛も連れずに歩いているのが見えた。

「なんでこんなところに!?」

 叫び声を塗り潰すように、樹海のどこかから、嗤い響く。
 マルドが慌ててサルドゥの民へ向かって駆け出すと同時、サーシャの声色が怪しく囁いてきた。

「あなたたち、私を舐め過ぎたわね。足止め程度で満足するわけないじゃない。みんなとても仕事熱心よ。今、きちんと儀式を成功させるために―――“この樹海中を散り散りになって、みんなで見回っているんだから“」

 “支配欲”の魔族―――サーシャ=クロライン。
 あの魔族は、自分たちと対峙している間も、この樹海中に魔法をかけていたのだろう。
 人の思考を、本人が気づかぬうちに捻じ曲げ、操り、支配する。

 儀式をやり遂げるという思考を僅かに捻じ曲げられたサルドゥの民達は、今、儀式を成功するためにヨーテンガースの樹海を散り散りに見回っているというのか。
 危機感というものが欠落している。

 なんの魔術を使ったのか、この樹海は不自然なほど静かだ。どこで何が起きているのかまるで察知できない。
 もし、戦闘を生業としないサルドゥの民がヨーテンガースの魔物に遭遇すれば、助けすら呼べずに命を落としかねない。

「『光の創め』の横槍なんて、初めから気にしちゃいないわよ。私は、人を好きなように操って、そんな隙を与えることもなくあなたたちを全滅させられるんだから」

 リリルは歯を食いしばった。
 今すぐにでも魔王の元へ向かわなければならない。だが、一刻も早くサルドゥの民を救わなければならない。
 しかし手段は思いつかない。満足に探せもしないサルドゥの民をどうやって救うのか。

 樹海には、サーシャの高笑いが響き続ける。

「リリル様。行ってください」

 そこで、カイラ=キッド=ウルグスが、サーシャの聲を塗り潰すように強く言った。

「あのサーシャという魔族が何をしたかは分かりませんが、要は、樹海中の方々をお救いすればいいのでしょう」

 サーシャの笑い声が止まったような気がした。
 カイラはリリルに柔らかく微笑みかけてくる。
 だが、その瞳が少し冷えているのをリリルは感じた。

「サーシャ=クロライン。貴女、わたくしに一度その力を使いましたね? それが貴女の最大の落ち度です」

 闇に向かって、カイラは強く言い放つ。
 何も感じないはずの樹海から、サーシャの殺気にも似た気配を感じ取った。

「ですからリリル様。すぐに魔王の元へ向かってください。こんな前座は、相手にしなくて結構です」

 サーシャの気配を色濃く感じる。
 魔族の殺気だ。だがカイラは、物怖じすることなく、挑発するような強い言葉を言い放つ。
 リリルは感じた。サーシャはよりそうであるが、カイラもまた、怒りを覚えているのだと。

「お任せします。私は、魔王の元へ行きます」
「はい。お気をつけください」

 カイラという女性がどういう人物なのか、自分には分からない。
 樹海中に散り散りになったらしいサルドゥの民がどうなるのかも分からない。

 だがリリルは初めて、自分の意思で、窮地に陥った人々に背を向けた。

 魔法をかけて、疾風のように樹海を突き進む。
 分からない。熱くなった頭は、自分が何を考えているのかまるで分からない。

 自分のこの足が、魔王を目指しているのか、その場にいるであろう彼を目指しているのかすら、リリルには分からなかった。

―――***―――

 異世界来訪者であるヒダマリ=アキラは、自分が異世界に迷い込んだように思えた。

 音も光もない“ここ”は、自分以外、すべてが存在していないかのように思えた。
 熱くもなく、寒くもなく、風もなく、それどころか、空気すらあるのかどうか分からない。
 呼吸ができているかどうかも分からなかった。
 そうなると、もしかしたら、自分という存在すら、この場にはないかのような錯覚を起こした。

 焦燥に駆られたアキラは、慌てて手を掲げ、魔力の灯りをともす。
 ようやく光が生まれた世界で、アキラは、息の塊を吐き出した。

「おい勇者。あの野郎はどこだ?」
「ぃっ」

 突如として声をかけられ、アキラは心臓が止まりそうになった。
 意識を失った記憶はないが、この無の空間が突如として現れたせいで、共にいた男のことを忘れていたらしい。
 照らすと金色の眼が、いかにも不機嫌そうに光っていた。

「スライクか。お前、気づいてたんなら灯りくらい点けろよ」
「的になるような真似誰がするかよ。それよりなんだここ。あの野郎、何しやがった」

 暗闇の中唯一の光源であるアキラは今、この場にいる全ての存在から位置が認識されている。
 スライクが周囲を探るに留めていたのはそれを嫌ってのことだろう。
 自分に危険が迫っていることを自覚したアキラは、しかし、半ば投げやりな気持ちで手のひらを灯し続けた。

「……?」

 別の光源を見つけた。
 目の前のようにも、遥か遠方のようなものにも見える小さな灯火は、ゆらゆらと揺れ、徐々に近づいてくる。
 いや、違う。よくよく見れば光源は二対で、アキラたちに向かう通路を形作るように数が増えていく。
 光源が増えて、ようやく通路に備え付けられた燭台に順次灯りが灯されているのだと分かった。

 色は―――オレンジ。
 そして光はいつしかアキラたちの周囲を取り囲み、自分たちのいるここは、どうやら円形の広間のような空間らしい。
 足場も壁も石造りのようで、さながら太古の遺跡に迷い込んだようだった。

「ようこそ我が牙城へ」

 その光の道を歩いている影の正体は、考えずとも分かった。
 ゆったりと近づくその存在の聲と足音が反響する。
 その存在が辿り着くと同時、通路の光が消失し、薄ぼんやりと照らされているのはだだっ広い円形の広間だけとなった。

「おう、魔王。ここはどこだ? 俺たちゃ樹海にいたはずだが」

 声色で分かった。スライクが、いつも以上に苛立っている。
 ジゴエイルはスライクの睨みに僅かな含みをもたせた笑みを浮かべ、大袈裟に肩を落とす。
 その仕草、そして表情。やはりどう見ても人間しか見えない。
 名乗られ、アキラも確信しているというのに、目の前の存在が世界全てに被害をもたらす魔王と認識することが難しかった。

 だが一言、このジゴエイルという存在を表すのなら。

 不気味。

「突然の招待で失礼だったろうが、いいだろう? 友好的な関係では決してないのだから。だが質問には答えよう。ここは我が召喚獣の中だ。今この周囲には数多くの存在がいる。邪魔が入らぬように、招待させてもらった」

 ジゴエイルは天井を見上げた。

「“巨大生物移動要塞”―――ルシル。完全な隠密性を持つ我が召喚獣だ。この樹海は“狭すぎてね”。部分召喚でも山をひとつ潰してしまったらしい。だがそれでも―――誰もこの現出には気づかない」

 予想通りの答えだった。
 この空間に飲まれる直前、ジゴエイルはその名を呼んでいた。

 アキラは知っている。
 このルシルという存在が、どういう召喚獣なのかを。
 その全貌は見上げても見上げても頂上には届かない。内部に入れば、それは自然物としても建造物としても巨大なダンジョンが広がっている。
 だがそれなのに、眼前に現れるまでまるで察知できない。
 あれほどの巨体であれば、身体を支えられないであろう、身じろぎひとつで暴風が起こるであろう。だが、それすら察知できない。
 この世界ですら非論理。魔法であるからこそ実現できるこの召喚獣の隠密性があれば、今自分たちがルシルに飲まれたことに気づいた者はいないかもしれない。

 だがひとつ、アキラの心に引っかかる言葉があった。
 “部分召喚”。
 その言葉が意味することは。

「ところで、君は何か質問はないのかな、アキラ君。形はどうあれ久々の客人だ。ある程度はもてなしたくもなる」
「……」

 アキラはじっと考える。
 ジゴエイルが現れた理由。
 アキラが持つ情報と組み合わせれば、恐らくだが、ジゴエイルはおそらく、自分たちの力を測りにきたのだ。
 “いずれ自分を討たせるつもり”の勇者が、今現在どれ程の力を持っているのか。

 世界破壊。
 自らの召喚獣に蓄えさせた無尽蔵の魔力を暴走させ、世界を破壊し尽くすことが百代目魔王ジゴエイルの狙いだ。
 そのために必要なのは、使役者たる魔王と召喚獣のパスを瞬断―――つまりは魔王の命を一瞬で奪わせる必要があるらしい。
 故に見定めにきたのだ。自分たちが、確実に“トリガー”を押すに足る存在なのかどうかを。

 となると残る問題は、ジゴエイルは何故アキラが訝しんでいたことに気付いたかだが。
 大方、ジゴエイル自体に心を読む能力が備わっているか、サーシャでも依頼に紛れ込んでいるかだろう。
 仮にそうだとして、心がどこまで読まれているのかだが、ジゴエイルの表情からはまるで読み取れなかった。

「…………いや、特にないな」

 アキラはポツリと呟いた。
 自分の物語の根底が覆されかねない事態を前に、しかしアキラは、自分の精神状態に驚いていた。

「“念願の魔王”を前にして、もっと色々思うことがあるかと思っていたんだが、シンプルだったよ―――お前を倒せばゲームクリアだ」

 アキラは剣を抜き放った。
 隣のスライクが嗤う。

「そうだなぁ、おい。しかしうぜぇな、着いて早々こうなるとはよ。俺は魔王なんざどうでも良かったが」

 スライクもゆったりと剣を抜いた。
 彼が自虐のようにも見える笑みを浮かべると、何も感じないこの空間を、焼け付くような殺気が埋め尽くしていく。

「まあいい。ここが召喚獣の中ってんなら、お前を殺せば外に出られるってことだよなぁ、おい」
「好きに解釈すればいい」

 戦闘の火蓋は、大義も正義も悪もない男の突撃から始まった。

 一瞬前まで隣にいたスライクの姿をアキラは見失う。
 気づけばスライクはその大剣を振り上げて、ジゴエイルに襲いかかっていた。

「―――っ」

 ザンッ!! と、何も感じないこの空間で、落雷を思わせる斬撃音が響き渡る。
 アキラは目を見開いた。あまりにあっけなく、スライクの剣はジゴエイルを確かに捉え、魔王の肩から腰までを容易く切り裂く。
 下半身と切り離されたジゴエイルの表情は、驚愕しているようだった。

 しかし。

「……あん?」
「驚いたな。まさかすでに充分とは」

 ジゴエイルは絶命していなかった。
 必殺の一撃を受け、その身を切り裂かれても、変わらぬ落ち着きのある口調で嗤う。
 常識を覆される光景だった。
 切り離された上半身は、まるで宙に浮いているようにその場に留まっている。

「なるほどいかんな。こうなると、口元が釣り上がってしまう」
「ちっ」

 魔王の生存を見て、スライクは振り下ろした剣を振り上げた。
 今度は首元。今なお嗤う魔王の命を奪おうと、その凶刃を振り放つ。
 が。

「!」

 魔王の身体が消失した。身体中がオレンジ色の粒子になったように移ろい、周囲の光と同化する。
 理解が追いつかぬアキラの耳に、背後から魔王の聲が聞こえてきた。

「次は君だ、アキラ君。君は何を見せてくれる?」
「―――、」

 ほとんど反射だった。
 振り返ると同時にアキラは剣を抜き放つ。
 いつしか背後にいたジゴエイルは、スライクに切り裂かれたはずの身体も修復され、元の人間のような姿のままで立っていた。

「ちっ、キャラ・スカーレット!!」

 狙いは正確そのものだった。
 魔族に対し、小手先の攻撃は通用しない。
 迷わず首元を狙ったアキラの斬撃は、ジゴエイルの首を切り飛ばす。
 しかし案の定、またもジゴエイルは光の粒子となって消えていった。

「なんだ……これは」

 剣が奴を捉えた衝撃、肉を切り裂く感触、魔力を十全に放てた確かな応え。
 幻覚などでは断じてない。この手に残る感覚が、そう強く訴えている。
 間違いなく、奴の首を跳ねたのだ。

 だが響く。この何も感じない空間で、魔王の笑い声だけが不気味に響き続けていた。

 以前このヨーテンガースで、同じような体験をアキラはしていた。不死の魔族との戦闘は、自分が見たものですら信じられない地獄のようなものだった。

 まさか、今目の前にいる魔王も、“奴”と同じく―――

「―――スライク!! こいつは何なんだ!?」
「知るか!!」

 冷たい怒鳴り声が返ってきて、アキラは自分の意識がぐっと戦闘に飲み込まれたのを感じた。
 “何故か”散漫していた意識が、目の前の現実に集中する。
 これはジゴエイルの仕草や表情が人間にしか見えないがゆえの油断だったのだろうか。

 敵は魔族の王―――魔王。
 その力は、今まで出遭ってきた魔族を凌駕していてしかるべきだ。
 
「はっ」

 今度はふたりの中間程度に現れた魔王に向かって、スライクは突撃していく。

 アキラは駆け出さず、顔を振ってスライクと魔王の激突を注視した。
 今度は剣を突き刺したスライクは、しかし次の瞬間、ひとりで床に剣を突き刺していた。

「……」

 今のも、攻撃は確かに命中していた。
 直前で回避したわけではない。
 魔族と言えども生命はある。ならばあの一撃は、確実に魔王の命を奪ったはずだ。
 だがそれでも嗤い聲は響き続ける。

「……随分冷静じゃないか、アキラ君。戦闘ではそういうタイプなのかな」

 背後からの聲に、アキラは剣で返答した。
 現れた魔王は背後に飛んで剣を回避する。

「……ふー」

 魔王に何を言われても、アキラは思考を止めなかった。

 目の前にある事実。手にした情報。
 それらを勘案しつつ、勇者としてのあるべき姿で魔王に対峙する。

「……ふ。まあいい。君が何を思っていても、大局に影響はなさそうだ」

 魔王は小さく呟いた。
 心の底が覗かれているような気分になる。
 スライクの攻撃を受けて充分と言ったり、アキラの背後に棒立ちになっていたりと、魔王のすべての挙動がアキラを試しているように感じた。

「……だが、やはり、いかんな」

 アキラと話していても無駄だと思ったのか、ジゴエイルは貌を上げ、ゆったりと構えるスライクをその眼光で捉えた。

「私の目的からすれば、最早充分。実は、君たちの様子を見にきただけなのだよ。我が命を狙う者たちが、今どの程度なのかと。それを知れた今、これ以上ここに留まる必要はない」

 単なる答え合わせだった。

 僅かに流れた視線がアキラを舐め、やはり、試しているような錯覚に陥る。
 しかしその釣り上がりつつある口元を見て、アキラの直感がそれを否定した。

 覚えている。
 アイルークで経験したあの死闘が、目の前の魔族の挙動と重なり始める。

「しかしだ。まったく。やれ魔王だ、やれ“英知の化身”だなんだの言われても、結局私は魔族でしかない。自らの欲望には逆らえない」

 ジゴエイルは。
 口元を釣り上げ、目を爛々と輝かせ始めた。貌中に血管が浮かび上がり、ただの人間からおどろおどろしい化け物へと表情を変えていく。
 初めて魔族としての貌を見せ始めたジゴエイルは、しかし、今まで以上に、欲望に忠実な人間の顔付きだった。

「正直に言おう。私は、魔王の器ではない」

 ジゴエイルは強く断じた。

「それどころか魔族の器ですらないであろう。他者を、理を捻じ曲げてでも“我”を通す。魔族の考えの根底にはそれがある。だが、私は思ってしまうのだよ―――全くもって煩わしいと」

 ジゴエイルの視線がスライクを捉えた。
 お前なら分かるかもしれない。その瞳はそう語っていた。

「昔の話だ。自らの望みのために争う魔族すら、私は煩わしく思っていた。そんな下らないことをしているくらいなら、私は静かに、本でも読みながらチェスの棋譜でも並べていた方がマシだった。だが、少々知識をつけすぎたのかな。ついに書物やチェスですら煩わしくなってきた。新たな魔術の理論すら、私の中ではすでに完成していた。未知の物語ですら、その序章を見るだけで展開が手に取るように分かってしまう。チェスの対戦相手は決まった通りに駒を動かし、この世界のすべてが私の想像の後を追う。付き纏われているような足音が常に頭に鳴り響いていた」

 何も感じない空間で、燭台のオレンジが風に揺れたようになびいた。

「腹いせに、書物を、チェスボードを、対戦相手をバラバラにしてみたよ。そこでようやく気づいた。あれだけ煩わしかった騒音がピタリと止んだ。存在しなくなったものからは付き纏われることもないのだと、ようやく気づけた。我ながら愚かなものだ、それが自分の本当の欲望だと初めて気づいたのだ。総ての煩わしさを消滅させることが、私にとっての最大の望みであるのだと」

 ジゴエイルの周囲に、オレンジの気流のようなものが生まれた。
 しかし何も感じない。
 アキラはそこでようやく、このルシルの特徴に気づいた。
 ここではアキラが今まで頼りにしていた、魔力の気配というものが存在しない。
 故に、今、目の前で、魔族が力を解放していたとしても、何も感じないのだ。

 戦闘の気配というものを頼りにしすぎていた。
 目の前にいるのは魔族である。頭では分かっていたはずのその事実に、身体が反応しきれていない。

「アキラ君。君が何を思っていようが関係ない。君が何を考えたところで、想定外であろうが想像外にはなり得ない。私が思い描くすべての可能性の中、“最も確率が低いであろう事態”であったとしても―――“存在しなくなってしまえば”それまでだ」
「―――スライク!! 来るぞ!!」
「分かってんだよそんなことは!!」

 ようやく危機感を取り戻したアキラは、スライクと共に走った。
 ジゴエイルは突撃してくるふたりに対し、両手を掲げて高らかに笑う。

「からかうのはこの辺りにして―――多少は魔王らしくいこうか。我は魔王。“破壊欲”の魔族―――ジゴエイル。魔王に刃向かう煩わしい勇者共よ。我が力で破壊しよう」
「―――ぐっ!?」

 放たれた瞬間に、攻撃されていると認識できなかった。
 予備動作はほとんど存在しない。
 いつの間にかかざされていたジゴエイルの手のひらから、オレンジの光弾が飛来し、偶然にもアキラの剣に直撃する。
 その衝撃に電流でも流されたかのように動きが止まる。
 念のために魔力を流しておいて救われたが、腕が痺れて剣をまともに握れなくなった。

 魔力の流れを感じ取れないこの空間では、ほとんど視覚情報のみで反応しなければならない。
 光の速度とまでは言わないが、放たれてから反応するのはほとんど不可能である。

 アキラは痺れた右手を下げ、左手で剣を握ったが、突撃は躊躇した。
 事前の検知が困難な魔術が、これほどの威力で放たれるとなると、形だけ突撃しても末路は見えている。

「ちっ―――」

 続く第2撃。
 今度はスライクに襲来する。
 スライクはやや大振りに剣を振って魔術を切り裂いた。
 アキラとスライクの剣は共に“魔力の原石”という魔術を弾く特徴を持つ材質が使われている。
 接触しても発動を許さず背後にやり過ごすことはできるが、それは剣で魔術を捉えられればの話である。
 アキラより反射神経は鋭いであろうが、スライクも魔術の気配を前提として戦闘を行ってきたであろう。

 分かりやすく動きを鈍らされたスライクに、なおも魔術が飛来する。
 辛うじて反応できたようだが、放たれ続けるジゴエイルの魔術を前には次第に防戦一方にされていった。
 初めて見たかもしれない。スライク=キース=ガイロードが、その剣を振り上げて、敵を捉えられなかったところを。

「ふっ」

 痺れた右手を強く殴り、アキラは強引に剣を握って突撃した。
 ほんの一瞬で分かった。スライクでこうなるのであれば、こちらの攻撃の機会は著しく少なくなる。
 多少リスクを払っても、常に間合いを詰めていかなければ、ジゴエイルに到達することなどできはしない。

「はっ!!」
「!?」

 ジゴエイルが叫んだと同時、前方から暴風がぶつけられた。
 何らかの魔術なのだろう、アキラもスライクも身体が浮き、背後に身体が投げられる。
 体勢を整えて着地すると、魔王との距離がずっと離れていた。

 間合いに入れないつもりらしい。アキラもスライクも武器は剣のみだ。
 この距離で攻撃可能なのは、ジゴエイルのみ。
 余裕すら見える魔王は、手をかざしたまま不適に嗤った。

 アキラは大きく息を吐いた。
 甘かった。“二週目”に容易く撃破できたゆえに、アキラはジゴエイルのことをまるで知らなかった。
 目の前にいるのは、あのリイザス=ガーディランすら配下に置いた、魔族なのだ。

「まったくもって煩わしい。ヒダマリ=アキラ、スライク=キース=ガイロード。そのどちらも、魔王の元に辿り着けもしないのは―――“想定通りだった”」
「はっ!!」

 スライクが吠え、即座に駆け出した。
 アキラも追従するように駆け出す。
 やはりジゴエイルは手を突き出したまま、静かに魔術を放った。そしてたったそれだけで、再びその場に止まらざるを得なくなる。
 スライクは、苛立ったのか、床を剣で切り裂いた。

「ほう、多少は賢いなスライク=キース=ガイロード。“測っているな”、今どこまで接近できたのか。もしくは、お前が駆け出してから私が魔術を放つまでの時間か? いずれにせよ知らなければゲームにすらならない。自分という駒が、どのマス目まで進める駒なのかな」
「いちいち癪にさわる野郎だなぁ、おい」

 スライクの睨みに、ジゴエイルはすべてを見透かすような笑みを返した。
 アキラも言われてジゴエイルとの距離を測る。
 剣を事前に構えておくことを前提にだが、この距離かあと数歩進んだ地点が、ジゴエイルの魔術を防げる限界のように思えた。
 だがそれでも、剣の射程には程遠い。

「はっ!!」

 再び暴風。距離を取るだけの魔術のようだが、アキラもスライクも迷わず床に剣を突き刺した。
 身体中が浮き上がるような感覚の中、剣を頼りにその場に留まろうとする。
 しかし、こじ開けていた目が、ジゴエイルの右手がオレンジに光り始めているのを捉えた。

「ちっ!!」

 アキラは剣を抜いて暴風に身を預けた。直後、自分が今いた場所に光弾が突き刺さる。
 ジゴエイルはこの暴風と同時に攻撃可能ということか。
 続く第2撃はスライクを狙ったようで、スライクも剣を抜いて暴風の中で光弾を切り裂いた。

「チェスというよりスゴロクでもやっている気分になるな。好きなだけスタートに戻るといい」

 ジゴエイルの挑発に、アキラもスライクも乗らなかった。
 これが続けばどうなるかが分かっていたからだ。

 ジゴエイルの基本戦術は察知が困難な魔術攻撃を放ち、ある程度近づかれたら暴風の魔術で距離を取るものだ。
 剣しか攻撃手段のない自分たちにとって、ジゴエイルに攻撃を浴びせるのは至難の業であろう。
 だが、あくまで困難であるだけで、多少は身体が慣れ始めてきていた。いずれは足を止めずに回避できるであろう。魔力も体力も十分に保つ。
 この状況は、歯がゆくもあるが着実にジゴエイルとの距離を詰めていけるのだ。

「―――とでも考えているのだろう」

 ジゴエイルは、さもつまらなそうな表情を浮かべた。
 アキラは身体を硬直させて、剣を持ち直した。

「両者とも自覚するがいい。この魔王の一撃を凌いでいる時点で、お前たちはすでに人間離れしている。だが悲しいかな、それでは足りん。理由は明白である。器でないと言ったが、一応私は魔王。“魔族を凌駕した魔族”なのだよ」

 人間と魔族には根本的な力の差が存在する。
 身体の造りひとつをとっても、人間が抗える余地など存在しないという。

 その魔族すらをも超えると言うジゴエイルは、再び手をかざしてきた。
 そしてその手のひらから、オレンジの光弾が次々と生み出されていく。
 生み出された光弾はジゴエイルの手のひらを中心に回転し、射出のタイミングを今か今かと待ち望んでいるように見えた。

「そして私は、王道を通る。リイザスとは欲望の根本が違うのであろう。明確な力の差があるのであれば、相手に合わせたりせず、魔力で、暴力で、そのまますり潰せばよい―――つまりだ」

 ジゴエイルは不敵に笑った。

「数を打てばそのうち破壊できる」
「ぃ―――」

 数発で脅威だったオレンジの光弾が、マシンガンのように射出された。
 詠唱もなく、特別な能力もなく、色は違えどアキラが幾度となく見てきた魔術攻撃が、ただ単純に飛来する。
 アキラもスライクも剣で応戦するが、光弾ひとつをやり過ごすたびに剣は軋み、腕の骨が砕かれるほどの衝撃を受けた。やり過ごした背後の壁に光弾が直撃し、魔力を感じない空間で爆音と振動が骨髄すらも揺さぶる。

 これほどの距離をとっても、魔王の単なる魔術攻撃は凌ぐだけで精一杯だった。
 回避に移ろうとしても魔術の猛襲に足は釘付けになり身動きが取れない。
 近づくことすら許されない存在は、この光の嵐の先、表情ひとつ変えずに手をかざしているだけなのだろう。

 魔術攻撃をしてくる敵など幾度となく遭遇している。
 連射だってそうだ。
 魔術の検知が鈍らされているのも、もう言い訳はできないほど慣れつつある。
 こんな単純な攻撃は、今までいくらだってくぐり抜けてきたのだ。

 だがこの攻撃は、まさしくチェスを打つように、無視はできない場所へ、無視はできない威力で放たれ続ける。
 まるで単純ゆえに避けようのない、スライク=キース=ガイロードの剣のように。

 いつ終わるとも分からない嵐の中、アキラは必死に活路を探した。
 だが、思いつかない。
 この状況はリイザス=ガーディランと戦ったときと同じだ。
 相手が何らかの策を持っているのであれば利用できる余地が生まれる。
 だが魔王は、魔族という絶対的なアドバンテージをそのまま活かしているだけだ。
 世界中から勇者と言われていようが、所詮は人間。魔族の敵ではない。
 ジゴエイルは、その覆ることのない事実の元、ただただ魔族の力を振るっているに過ぎなかった。

 精緻に、丁寧に、苛烈に、魔族の力が正面から襲い来る。
 この単なる魔術攻撃を見るだけで、その道に明るくないアキラすら確信してしまう。

 こと魔術攻撃において―――“魔王”ジゴエイルは、アキラが認識するすべての存在を超えていた。

「―――っ、勇者、接近するぞ!! これ以上付き合ってられるか!!」

 『剣』が吠えた。
 そして一閃。
 スライクの大剣が光弾をまとめて斬り飛ばし、嵐の中に一瞬の隙を生んだ。
 その瞬間、アキラとスライクは駆け出し、魔王目掛けて突撃する。

 一層激しくなった光弾の中、アキラはただ前へ進むことだけを考えて、目の前の光弾を次々に切り裂いていく。
 あるものは回避し、あるものは切り裂き、足だけは止められないように光弾の嵐をかいくぐる。
 しかし回避すれば回避するだけ飛来する光弾は苛烈さを増し、切り裂けば切り裂くだけ身体中が揺さぶられ勢いを殺される。
 ヒダマリ=アキラというコマが進める方向、距離を計算し尽くされ、結局はキングに辿り着けない道を選ばされているような錯覚に陥った。いや、事実そうなのだろう。

「中々の適応力だ。この空間にも大分慣れてきたようだな。先ほどよりは近づけているほどに」

 接近を続ける中、 ジゴエイルの落ち着き払った声が聞こえた。
 スライクと共に光弾の中を進んできたアキラが、そろそろ二手に分かれようとした瞬間、ジゴエイルは光弾を放つ手とは逆の手をかざす。

「“次の挑戦”はどこまで伸びるか楽しみだ。今回のように、私の想定通りでないことを願おうか。―――っは!!」

 光弾の暇、再び暴風がアキラとスライクを襲った。
 剣を利用して踏み留まることもできず、当たり前のように後方へ吹き飛ばされる。

 まるで下らないゲームに付き合わされているようだった。
 どれほどの困難を超えても、結局はこの暴風の魔術でスタート地点に戻される。
 何も変わらないスタート地点では、スライクの過剰なほどの殺気だけが蔓延していた。

「次も……そうだな。お前たちは剣の射程までは入れない」
「あん?」

 苛立ちを隠しもしないスライクに対し、絶対的優位に立っているジゴエイルは、しかし、なんともつまらなさそうな表情を浮かべていた。

「次も。その次もだ。そしていよいよその次か。ようやくスライク=キース=ガイロードが私に一太刀浴びせるだろう。しかし私はやはり光の粒子となり、別の場所に現出するだけ。そしてその次は、駄目だな。疲弊がたたってほとんど接近できないだろう」

 ジゴエイルは。
 これから起こる未来図を、さも下らなさそうに口走る。

「だが、ヒダマリ=アキラか。治癒魔術を使うのか、傷を癒し、再び私に向かってくる。それは一体、いつまで続くことか」
「面白い妄想だなぁ、おい」

 ジゴエイルの表情には、まるで感情は浮かんでいなかった。
 当たり前のことを、当たり前に言っただけのような、まったくの無表情だった。

「妄想ではない。現実だ―――ほぼ確実に起こる未来だ。アキラ君。そしてスライク=キース=ガイロード。思うことはないか。人間が魔王を目指し、苦難を乗り越え、ついに討ったとしても、結局同じ配置に戻って、同じことを繰り返す。これの何が面白い?」

 この構図は、ジゴエイルが形作ったこの盤面は、何かの暗喩に思えてきた。

「いかに私が魔族として一線を画していると言っても、無限を思わせる魔力を有しているとしても、潰えぬものはない。限界というものは必ず存在する。事実、お前たちが私を殺せる可能性も多少はあるのだから。だからこそお前たちは必死になり、私もそうならぬよう付け入る隙を与えないようにする。しかし私は思ってしまう―――それがどうしたのだと」

 繰り返される人と魔族との争い。
 自分たちは必死になって前を目指しているが、それは側から見れば勝者も敗者も滑稽で―――下らないゲームだ。

 アキラは世界が酷く矮小に思えてきた。
 自分の選択、自分の決断。それが大局に及ぼす影響はほとんどない。
 ならば自分が何かを成したところで、それは所詮、過去に誰かがやったことの繰り返し。
 過去の自分が、自分自身を諦めた感覚が、今更ながらに蘇ってきた。

「さあ続けようか、茶番を。誤解のないように言っておこう。私は特別なことはするつもりはない。すればそれが隙になる。ここで死ぬわけにはいかんのでね、私が勝利する最も確実な方法を取らせてもらう」

 手の痺れは、とっくに取れていた。
 だが、ジゴエイルの言うように、徐々に剣の射程まで近づけている。
 次は無理かもしれないが、いずれ奴に攻撃する機会が訪れるだろう。確かに勝機はあった。

 しかし、思ってしまった。
 この戦いは、この物語は、つまらないと。

 恐らくジゴエイルが遥か昔に気づいたであろうこの世界の構図に、アキラ自身が、納得してしまっていた。
 あれだけ好きだと思っていた世界が、この何も感じない空間で、ゆっくりと色褪せていくような気がした。

「……おい勇者。お前、奴の攻撃をいくつ受けられる」
「は……?」

 そこで、小さな冷たい声が聞こえた。
 ジゴエイルに毛取られぬよう視線を送ると、スライクが、狩猟動物のような眼でジゴエイルを捉えていた。

「やる気がねぇなら別にいい。俺ひとりで行く。だが行くなら次が最後だ。あの野郎を斬り殺す」
「まさか、お前」

 ジゴエイルが言った未来図は、恐らく発生確率が最も高いと思われるものなのだろう。
 あの光の光弾を凌ぎながら接近するには、確かにあと何度か挑戦する必要がありそうだ。

 だが今、スライクは考えている。防ぎながらでは接近が遅くなる。
 ならば防いでばかりではなく、ある程度その身に受ければ、多少は距離が縮まるのではないかと。

「正気かよ。受けたら即死の可能性もあるんだぞ。それに攻撃を食らえばその分動きも止まる。大して変わらないんじゃないか?」
「多少は変わんだろ。それに、奴の言うことももっともだ。下らねぇゲームはとっとと終わらせるに限る」

 スライクはギロリとジゴエイルを睨んだ。
 止めるべきだとアキラは思った。リスクが大きすぎる。

 だが、止めてどうなるというのか。

 アキラが止めようが止めまいが、いずれスライクはジゴエイルに斬撃を浴びせるだろう。
 そして結局、奴は光の粒子となって移動し、同じ構図が作られるのは変わらない。
 アキラの選択は、大局に影響がないのだ。

「っ」

 ぶん、とアキラは頭を振った。
 駄目だ。ジゴエイルの言葉に惑わされるな。

 達観するな、今の自分と向き合え。
 自分は今まで、大局に影響があるかないかだけで物事を判断していたわけではない。
 だが。

「見ろ。背後の壁。ぶっ壊れかけてやがる」

 視線も送らずにスライクは呟く。言われた通り見ると、アキラとスライクがやり過ごした光弾がルシルの体内の壁を破壊しつつあった。

 アキラの中に光が生まれる。あの壁を破壊できれば、外に出られるかもしれない。

「もし床と同じ強度なら、あの魔術の威力も知れている。数発なら耐えられんだろ」
「っ」

 スライクは剣で床を攻撃していた。そのときに、同時にルシルの強度も図っていたのだろう。その情報をもとにした策のようだ。
 だがアキラにとってそれは狂気の発想だった。
 外に出るという選択肢がある中、スライクは、その情報を目の前の魔族撃破のために活かそうとしている。

「……なんでお前はそう思える」
「あ?」

 聞いた瞬間、しまった、と思った。
 上手く、騙せていたはずなのに。
 今自分が、酷く情けない感情に支配されていることを自覚してしまった。
 だが、止まらなかった。

「なんでそこまで揺るがない」

 アキラは知っている。
 スライク=キース=ガイロードは、決して力だけがある愚者ではない。
 彼は狡猾で、冷静で、その力を存分に発揮する術を心得ている。
 それなのに、彼はこの状況でも、理に叶わないことを選択するのだ。

 勇者としての適性があるにも関わらず、それに倣わず。
 それだけの力を持っているにも関わらず、誰かを救おうとはせず。
 目的があるにも関わらず、その目的からすれば寄り道に過ぎない事柄にも、正面から向き合う。

 しかし、彼は彼であり続ける。

 状況に流されるだけのアキラには、そうした姿は、どうしても、キラキラと輝いて見えてしまうのだ。

「……あの野郎が鼻に付くからだ」

 変わらなかった。
 アキラの中で、スライク=キース=ガイロードが言うと思っていた言葉が、そのまま彼の口から出てきた。
 しかし予想が当たったのに、アキラはジゴエイルのように、つまらないとは思わなかった。

「魔王なんざ興味なかったが、あそこまでムカつく野郎だとは思わなかったぜ。この場にいるなら殺してやるよ」

 彼の目には、世界はどう映っているのだろう。
 この色褪せたルシルの体内の中でも、キラキラと輝いているのだろうか。

「前にも言ったろ―――俺の世界に普通はない。別にいいよなぁ、魔王を殺すのが勇者じゃなくても」

 多分、自分は、スライク=キース=ガイロードのように、キラキラと輝いた存在には決してなることはない。
 一生かかっても、ヒダマリ=アキラという人間は、ヒダマリ=アキラに過ぎないのだ。
 それはとっくに自覚している。

「……そう、だな」

 そして、これから起こることは。

 単なる答え合わせだ。

「……!」

 振動音だけは聞こえてきていた。ルシルからは発されないその音は、すなわち他者の介入の証に他ならない。
 崩れた壁が薄く、しかし徐々に強く光を帯びた。

 色は―――グレー。

「―――抜けたか!?」

 背後の壁が柔らかく崩れた。崩れた壁は光の粒子となって消えていく。
 同時、外気が音もなく取り込まれ、身体を打つ。

「……イオリ。よくここが分かったな」
「アキ……ラ? ここは……? ……!!」

 状況が飲み込めていなかったイオリは、ジゴエイルの姿を見て即座に身構えた。
 アキラは小さく笑う。この場に来てくれたのがよりにもよってイオリとは。本当に天啓でも受けている気分だ。

「発見したことも驚きだが、よくルシルを“崩せた”ね。そうか、君も召喚獣使いか」
「イオリ、外はどういう状況だ?」

 突然の来訪者に、しかしジゴエイルは落ち着き払っていた。
 確率はどうかは知らないが、外部からの介入もジゴエイルの想像の内だったのだろう。
 状況が飲み込めていないイオリは、珍しく動揺して目を泳がせていた。

「外、って。アキラ、君を探しに来たんだよ。今、この巨大な蛇みたいな召喚獣は海岸に横たわっている。一体何が起きてるんだ?」

 ホンジョウ=イオリは召喚獣使いだ。
 そしてジゴエイルも召喚獣使い。

 先の見えていたアキラは殊勲にも、イオリから召喚獣の仕組みについて学んでいた。
 ほとんどのことは謎に包まれているらしいが、使役している本人から、召喚獣の制約や召喚方法について何度も確認していたのだ。

 召喚獣とは、召喚される前はこの世界に存在しないこと。
 召喚できるのは、ひとりの術者につき1体のみであること。
 複数召喚するタイプも存在しているが、それは所詮、同じ召喚獣を分断させているに過ぎないこと。
 そして最も大きいのは、召喚獣は、召喚術師からそう遠くにはいられないことだ。

 そして。

「イオリ。今すぐ教えてくれ。“部分召喚”ってのはどんな召喚だ?」
「? いや、なにを?」
「イオリ」
「ええと。前にも教えたと思うけど、召喚獣を一部分だけ現出させることだよ。ほとんど意味ないから、小型の形で使役する限定召喚の方しか使われないけど」

 思っていた通りだった。
 この空間は、部分召喚されたルシル。恐らくはルシルの首に相当する部分だけなのだろう。
 つまり。

「……待った。これは……まさか、ルシルの部分召喚なのか……?」

 小声で呟いた。流石にイオリは気づいたようで、目を見開く。
 アキラは静かにジゴエイルを睨み―――自分の存在を思考の片隅に追いやっていく。

 ルシルの部分召喚。
 そう聞いて、アキラが最初に思ったことは、このルシルはどの規模で召喚されたかだった。
 ルシルは体内に膨大な魔力を貯蔵し、魔王の死をもってそれを解放する。
 だが今の部分召喚であれば、その魔力の核と言える身体まで召喚されていないのではないか、と。

 ゆえに今、世界規模の破壊をもたらす爆弾は、この世界に存在しないことになる。

「………は。やっとはっきりした。ああ、そうだよな。それが、“それだけが気になっていたんだ”。そうだ、そう」
「……アキラ?」

 まったくもって理想通りの展開だった。
 予想できていたとはいえ、世界崩壊のリスクがある以上慎重にならざるを得なかったのだ。
 だからきっと、その分自分の動きは鈍かった。
 だからきっと、奴に明確な殺気が向けられなかった。
 だがしかし、専門家が現れてくれたおかげで、自分の懸念など杞憂に過ぎないと確信できた。
 まるで神の使いのようだ。自分が進むべき道を指し示してくれた。
 勇者たる行動をとるようにと。

―――“魔王”を倒す“刻”をもって、俺は、

「……構うか」

 アキラは呟いた。その声は、まるで自分のものではないように聞こえた。

 自分は、“この魔法”が嫌いだった―――自分自身を諦め切った証拠に他ならないのだから。
 そして今、スライクも、現れたばかりのイオリも、ジゴエイルをまっすぐに睨みつけている。
 その真摯さに、自分の矮小さがより浮き彫りになるような気がする。

 だが今、そんな矮小さが有難い。
 勇者としての大義の前に、容易くもみ消されてくれるのだから。
 余計なことは考えるな。

 世界の危機という制約が取り除かれた今、唯一覚えるべきは―――敵への殺意。

「“キャラ・ブレイド”」

 胸に痛みが走った。押し潰し損ねたヒダマリ=アキラの残滓だろうか。

「スライク。お前、奴の攻撃をいくつ受けられる?」
「奴が死ぬまでだ」
「……そうだな。俺もよく似た答えだ」

 ジゴエイルの言葉で灰色に見えかけていたこの世界の色が、さらに褪せた。

 繰り返される人間と魔族の争い。
 勇者たちが紡ぐ物語。
 キラキラと輝いた、異世界。

 ジゴエイルの言うことももっともだ。下らない。

 さあ。
 この下らない物語を終わらせよう。



[16905] 第五十五話『下らない世界(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2019/09/29 21:52
―――***―――

「……ひっ」

 エレナ=フェンツェルンは、自分らしからぬ声に僅か赤面し、周囲を警戒する。
 どうやら誰にも聞かれなかったようだ。

 エレナが西部の護衛地点で待機してしばらく経った頃、シンと静まり切った樹海の闇の中から、まるで海底に潜む深海魚のようなゆっくりとした挙動でひとりの男が現れたのだ。
 好みの顔立ちではなく、お金も持っていなさそうだったので、エレナはまさしく幼い頃に連れて行ってもらったことのある水族館の客のように悠然と眺めていたのだが、今は依頼中であり、さらに男の服装が依頼主のサルドゥの民であることに気づき、ようやく我が目を疑った。
 男を半ば強引に捉え、事情を聞いてみると、儀式を目前に控えたサルドゥの民たちは、旅の魔術師たちだけに任せてはおけず、自らも巡回を始めたと言う。

 不審に思ったエレナは、殊勲にも男の身を案じて元の場所に戻るように懇願した。
 身近にあった大木の一部を握り潰し、転がっていた男の身体ほどの丸太を踏み砕き、これ以上面倒事を増やすんじゃねぇというささやかな想いを冷め切った瞳に宿し、愛くるしくお願いしたところ、エレナの誠意が届いたのか、男は我に返ったように瞳を開き切り、逃げ出すように中央の儀式の地へ戻って行った。

 そして再びひとりに戻ったエレナだったが、珍事があったせいで集中力を欠いてしまった。
 不可思議なことにこの樹海では、自分が頼りにしてきた魔力の気配や直感というものがどうにも鈍くなる。
 周囲の気配を探ろうにも何も感じられず、メラメラと揺れる焚いた火の前にポツンと座っていると、自分だけが世界に取り残されているような感覚がした。
 何らかの攻撃を受けている可能性が高い中、じっとしているとどうにも落ち着かない。具体的に言えば苛立ちを隠せなくなる。

 一応護衛地点であるこの場所に留まることに意味はあるのだろうが、護衛対象であるサルドゥの民があんな勝手な行動を取っていては最早この護衛の位置的な意味は無いかのように思われた。
 そして、先ほどのサルドゥの民が言われた通りに元の場所へ戻ったのだろうかと思いつき、男の身を案じ、エレナはしばしこの護衛地点を離れることを決意したのだ。
 もし途中で再びあの男と出会ったら、驚きのあまり、誤って魔物に遭遇したときの対処をしてしまうかもしれない。

 そして、辿り着いた中央の地。ここでは儀式の準備がある程度進んでおり、矢倉のような建物が中央に鎮座していた。
 夜明け頃に行われるらしいバオールの儀式とやらのときは、あの矢倉を中心にサルドゥの民が集い、エレナにはまるで興味の無い何らかの術式を組み上げて、盛大に行われるのだろう。
 今と違って。

 そこは閑散としていた。
 人の気配がまるで無い。あれだけ乞うようにお願いしたというのに、先ほどの男すらいなかった。
 それどころか野営するためのテントはいくつかは組み立て途中で、用途は分からないが中央の矢倉から少し離れた場所に突き立てたれた妙な柱も、装飾品もそこそこに柱の根元に転がっている。
 儀式の準備も住んでいないのに奴らは一体どこに行ったのか。
 この緊急事態にエレナは焦り、とりあえず金目の物でもないかと順々にテントに顔を覗かせていると、天罰が当たったのか、テントに入ってすぐに、膝を抱えた姿で微塵にも身動ぎしない生命体らしきものに迎えられた。

「は、え、なに、こいつ」
「…………ふえ。んー。…………ん、あれ、エレ、お姉さ、ま?」

 微動だにしなかった奇妙な生命体が目を覚ましたようだった。
 エレナの冷静な思考はこの場からの離脱を強く訴え、即座にテントから外に出ようとしたのだが、遅かった。
 目を覚ましたアルティア=ウィン=クーデフォンは、眠気眼のままエレナの袖をがっちりと掴み、エレナに引きづられるようにテントから這い出てくる。

「ちょ、服伸びるでしょ、離してよ!」
「あはは、幸せな夢ですね、エレお姉さまに会えるなんて。いいですよ、身長でも胸でもどっちでもいいです」
「おい、お前、起きてんだろ!?」

 怒鳴りつけると、ティアは目を何度も擦り、若干据わった目をエレナに向けてきた。いつもの満面の笑みを見てからだと、夢遊病者のような引きつった笑いを浮かべている今はシンプルにホラーだ。しな垂れ掛かられている自分の方が殺傷能力が高いとは誰も思うまい。

 そういえば、このガキは中央で待機するのが仕事だったと今更ながらに思い出した。
 それだというのにサルドゥの民はひとり残らず消失し、このガキはこの場所で眠りこけているとは。
 エレナは必要以上に身体をゆすり、覚醒させると、ティアはようやく自分の足で立った。

「…………あれ。エレお姉さま。どうしてここにいるんですか?」
「どっかの誰かが眠りこけているからでしょ」
「んん……。ええっ、あっし、寝てたんですか!? すみません、なんか、休まなきゃ!! って思ったんです」

 このガキが訳の分からないことを口走るのは今に始まったことではないが、今はどうやら異常と捉えた方が良さそうだ。
 この樹海全体で何かが起こっている。
 ティアも何らかの攻撃を受けたのかもしれない。

「それよりあんた。あの連中は? 人っ子ひとりいないじゃない」
「え? あれ。わ、わわっ、皆さんはどこに!?」

 期待はしていなかったが、やはりティアの寝てる間に皆どこかへ行ってしまったようだ。
 先ほど会ったあの男のように、周辺を見回っているのだろうか。
 ヨーテンガースの樹海だ。確かに警戒し過ぎるということはない。だが、それで儀式の準備が疎かになったら本末転倒ではないか。

「あ、あ、あ、あっしのせいです!! 探さないと! あれっ、カーリャンもいないです!! まだ戻ってきてないんでしょうか!?」

 慌てた犬のように儀式の地を駆け回るティアを尻目に、エレナは空を見上げた。
 断片的な情報を思い起こすと、確かあの気にくわない大男の一派のひとり、召喚獣使いの女もこの場所の護衛をしていたはずだ。
 もし彼女もこの辺りの巡回をしているのであれば、召喚獣で空を飛び回っているかもしれない。

「……雨?」

 見上げた頬に、ポツリと何かが当たった。
 水滴のようにも思えたが、頬に染み入っていく雪のようにも思え、エレナの意識は徐々に覚醒していく。
 覚醒して、初めて自分の目が霞みがかっていたことに気づいた。
 晴れた視界の先、不気味なほど巨大な満月が浮かんでいる。そして、どうやらその雨とも雪ともつかないそれは、満月の中央、ポツンと浮かぶひとつの陰から降り注いでいることに気づいた。

「ん。あ、あ、あ、あれ、いましたエレお姉さま! カーリャンです!! 見つけました!」

 このガキは一体どういう視力をしているのだろう。エレナには相変わらず小さな粒にしか見えない。
 視力とて身体能力の一部である。ティアによもや自分を超えている身体能力があるとは衝撃だった。

 小さな身体で両腕を存分に振り回し、奇怪な愛称を口走りながら駆け回る姿は、この聖地とやらで行われる怪しげな儀式を先取りしているようにも思えた。

「あれ、あんたの知り合い?」
「何言っているんですか! カーリャンですよ!!」

 しばし見ていると、ようやくエレナにも確認できた。あの“もうひとり”の一行にいた、いかにも口煩そうで、自分とは馬が合わないであろうとエレナが感じていた女が、召喚獣なのだろう透き通るような青の体をした巨龍に乗って夜空を旋回していた。
 そしてその身体から、星々に紛れるようにスカイブルーの粒子が樹海中へ降り注いでいる。

「……どうやら、この異常はあっちに任せたほうがいいみたいね」

 ようやく思考がクリアになってきた。
 おそらく、何らかの魔術あるいは魔法がこの樹海全体に発動していたのだろう。あのサルドゥの民の男の妙な挙動もそのせいか。
 意識をある程度コントロールする類のもので、これほどの広範囲となれば至ってシンプルな操作となるであろう。

 となれば。

「いつまでも遊んでないで行くわよ」
「へ、あ、そ、そうでした! み、皆さんを探さないと……!!」
「大方この樹海をうろつき回るようにでもされたんでしょう。とっとと見回って、全員この場所に連れ戻すわよ」

 もしこの状況が、なんらかの意思の元行われているとなれば、狙いは陽動の可能性が高い。
 しかし乗らざるを得なかった。あの空の召喚獣使いが気づいているということは、“もうひとり”の面々もこの事態に動き出しているのだろうが、樹海に散らばったサルドゥの民を全員連れ戻すとなると圧倒的に人手不足だ。

 エレナはこの樹海中に厄介なことをした、どこにいるとも知れぬ相手に聞こえるように大きな舌打ちをすると、今度は手元に持ってきていた信号弾を空に掲げた。

 信号弾は、所有者の魔力に反応して光を帯びるという。
 話に聞くタンガタンザの戦場のような砲撃音が、樹海の夜空に轟いた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 カイラ=キッド=ウルグスは、自分が大変な辱めを受けているような気分になっていた。

 カイラたちの前に現れた魔族―――サーシャ=クロラインは、樹海中に魔術をかけたという。
 魔族の魔術など、どの次元の力なのかほとんどピンと来ていないが、修道院を離れて旅に出てから、サーシャ=クロラインの噂は幾度か聞いていた。
 その魔族は、人の思考に囁きかけ、人を意のままに操るという。
 町や村を瞬時にかき消すとまで言われる魔族だ、聞いた程度では小さい話だと思いがちだが実のところそうではない。
 人間によって成り立つ社会に、魔族の思想が入り混じれば、町や村どころか国家ですら没する可能性があるのだ。
 現に、修道院で幾度か聞いた事件の中にも、サーシャ=クロラインが介入していると思われる事件があった。
 それどころか、“サーシャという魔族が存在していること自体”が社会規模の問題となっている。

 ある国家で内乱が起こったことがあった。内政に自信のあった国王はその内乱をいぶかしみ、サーシャに囁かれたと思われる者たちを強引に投獄したという。
 それに触発され、内乱は勢いを増し、他の国の魔術師隊でも抑えられないほどの武力抗争にまで発展したらしい。
 事後調査では、サーシャに囁かれていたのは実は国王の方ではないかと推測された。内乱自体も国王自身が手引きしていた可能性が高いとも見られている。
 以後、秩序が保たれていた近隣の人々は疑心暗鬼になり、結果として滅んだ町や村は両手では数えきれないほどに登った。

 その全てにサーシャが関わっていたかは定かではないが、神の名の下に団結していた人間たちの結束を容易く崩壊させたのは、サーシャが人々の心に影を差したからに他ならない。
 存在しているだけで、目の前の人間を、あるいは自分自信すら信じられなくなってしまう。
 ここまでの広範囲に被害を撒き散らすあの魔族は、人間にとって害悪そのものだった。

「ワイズ。次は東へ向かいましょう」

 青い巨龍が喉を鳴らす。
 カイラの使役する召喚獣ワイズは、こと移動においては同種から頭ひとつ抜けた存在だった。
 満月に迫るほど空へ高く舞い上がり、樹海の空を悠々と飛び回る。

「バーディング・レプルス」

 ワイズの背に乗るカイラが呟くと、ワイズは青白く発光し、身体中から小さな光の粒を樹海へ落としていく。

 サーシャはこの樹海中に魔術をかけたらしい。実際にかけられた人を見たところ、どうやら簡単な意識操作をされている様子だった。
 大方、樹海中をうろつき回るように仕向け、こちらの陣形を崩すのが狙いなのだろう。
 意識を操作するなど最早魔法の領域だ。汎用性に富んだ水曜属性のカイラですら人の操作などまともに使えない。

 だが、カイラにとって未知の力は得意分野だった。
 正面から挑んでくる相手より、搦め手で攻めてくる相手の方が対抗しやすい。
 先ほど見た、被害に遭ったサルドゥの民もサーシャの影響は浅いようだった。そんな被害者を正気に戻すなどカイラにとっては容易くできる。
 問題は、その範囲だが。

「バーディング・レプルス」

 カイラは再び魔術を放った。
 不気味な月光が降り注ぐ樹海を洗う雨のように、青の粒子は降り注ぐ。
 この魔術は、人の精神を落ち着かせる、治癒魔術の亜種である。理由はあえて言わないが、ストレス解消とリラックスの効果があるこの魔術を、カイラはよく自分にかけている。

 カイラはそれを分散させ、大雑把に樹海中に散乱させていた。
 ここまで拡散させるとなると、サーシャのように人を意のままに操るどころか、ほんの少し被害者たちに我に返る切っ掛けを与えるだけに過ぎないだろう。
 だがそれで充分だ。

 ただ、神に仕える自分が、こんな風に対象も定めず、乱雑に魔術を撒き散らすとはなんてはしたない。
 ワイズに乗って注目を集めながらやる羽目になるこの魔術は、本当に恥ずかしくて嫌いだった。

「なら止めちゃえば?」
「……!」

 ワイズの正面に、浮かぶ月輪と見紛うような輝く銀の存在が現れた。
 サーシャ=クロライン。
 夜空に浮かぶ絶世の美女の姿をしているその魔族に僅か見惚れそうになるものの、カイラは冷たい目つきを返した。

「お戻りですか。どこかへ行ってしまわれたのではないのですか?」
「あら冷たいわね。頑張っているようだから見に来てあげたのに」

 ワイズに乗るカイラと違い、サーシャは幻想的にも優雅に浮かぶ。
 月輪属性の魔族。
 カイラの仲間にも月輪属性はいるが、その力には多くの謎が隠されている。

「残念ですが貴女の魔術はわたくしが解除しますよ」
「あらそう。恥ずかしいの我慢してでも?」

 カイラはギロリとサーシャを睨んだ。
 軽口を叩きながら、こちらの心を読んでいることを露骨に伝えてくる。
 それが挑発だと気付いても、目の前の存在に対する嫌悪を抑えられなかった。
 先ほどまで、噂に聞く占いなるものをしてもらい、気分が高まっていた自分が恥ずかしい。相手が魔族だと知っていたら、口も利かなかっただろうに。

「交渉しない? それ、止めて欲しいんだけど。死にたくないでしょ? 私もあまり派手にやるなって言われているし。ねえ。ただで占いしてあげたじゃない」
「そんな話をするために来たんですか?」

 サーシャはサルドゥの民を正気に戻すのを止めろと言いにきたのだろうか、銀に輝く目の前の存在の本心は分からなかった。
 仲間のマルド=サダル=ソーグの言うように、サーシャたち魔王一派も派手に行動したくないというのは本当なのだろうか。
 だが、カイラには不快な感情しか浮かんでこない。

「生憎と、その占いのおかげで思い出せたんですよ、この方法を」
「アリハ=ルビス=ヒードスト?」

 その名を聞いて、自分でも驚くほど強い激情が胸に押し寄せた。
 失った大切な友人を、サーシャは自分の心から読み取ったらしい。
 サーシャはにやりと笑う。
 カイラがアリハを思い浮かべた瞬間、何かが掠め取られた不気味な感触が胸を襲った。

「『ねえカイラ、見つからないならさ、せめて諦めないように応援すればいいんじゃないかな』」
「……っ」
「『そうだ、ワイズに乗ってさ、逸れた辺りに治癒魔術とかを滅茶苦茶に降らせれば、とりあえず生きていてもらえるよ』」

 目の前の口が、その声を発した。
 数多くの遭難者が出た修道院でのある日のこと。何名かはワイズに乗って発見できたものの、未だ雪山の中にいる数多くの遭難者に対し、あのアリハが、珍しくもまともな案を出したのだ。

「『ははは、良かった良かった。みんな助かったじゃん。でもカイラ、ぷぷ、ワイズに乗って攻撃でも撒き散らしてるのかと思ったよ、私笑っちゃって笑っちゃって』」
「―――シュロート!!」

 激昂に身を任せ、カイラは目の前の害悪に魔術を鋭く放った。
 アリハのことを思い浮かべれば思い浮かべるほど、サーシャはそれを読み取り、その口から吐き出してくる。
 サーシャは優雅にカイラの攻撃を回避すると、そのままゆったりと浮かびながら妖しく微笑んだ。

「これ以上の侮辱は許せません……!!」
「あら。怒らないでよ。大切なお友達のことを思い出させてあげたのに。それにしても、珍しくよ? 私が心底同情するわ、アリハとかいう子の末路。あの変態魔族に誘拐されるなんてね」
「っ……」
「すぐに死ねたかしら? それともまだ生きている? まあ、まだ生きていたら死んでいた方がマシだろうけど」
「あ、ああああああーーーっ!!!!」

 叫び、カイラはサーシャに突撃した。
 ワイズは攻撃に適した召喚獣ではない。だが、抑えられなかった。
 サーシャは身体を浮かせ、樹海の空を飛び回る。
 猛撃するカイラだったが、サーシャの言葉だけは、この暴風の中でも確かに聞こえてきた。

「『立派になったねカイラ。すごいよ、世界を救う旅なんて』」

 記憶にない、しかし、彼女が言いそうな言葉が、彼女の声で聞こえてくる。

「『雪山で人助けしてたんだもん、カイラには向いてるよ。でも、やっぱり心配になるな』」

 あったかもしれない未来で、アリハは語りかけてきた。
 目の前のサーシャが演じているのか、自分の記憶の彼女が囁いてくれているのか、カイラには分からなくなってきた。

「『だってさ、カイラ、ちゃんとしているようで、抜けてるし。真面目にやろうとしても、実は大雑把だって私には分かってるんだよ? だってさ、』」

 前方を飛ぶサーシャが突然止まり、ゆっくりと振り返る。
 その口元は、優しささえ感じるほど柔らかく微笑んでいた。

「『私のこと、見殺しにするし』」
「――――――っ」

 我が目を疑った。
 目の前にアリハがいる。
 いつものようにいい加減に、軽口で、残酷なことを口にした。
 自分が今まで何を追っていたのかすら、カイラには分からなくなった。

「カイラ!! 魔術を止めるな!!」
「ちっ」

 一体いつの間に自分は動きを止めていたのだろう。
 ワイズの上でカイラは我に返り、頭を振る。
 覚醒した頭は、自分が樹海から離れ、遥か上空の暴風に身を晒していたことに気づいた。

「あらマルド=サダル=ソーグ。何をしにきたのかしら?」

 サーシャの銀に向かっていく別の銀を見た。
 樹海の中で別れたマルドは、自らも魔法を使ってこの空の世界に訪れたらしい。

「マルド……わたくしは、」
「カイラは早く魔術を再開してくれ!! またサーシャが魔法を使ってる!!」

 マルドは叫び、サーシャと対峙する。
 カイラはようやく事態が飲み込めた。
 自分はサーシャの口車に乗って、樹海への魔術をいつしか止めていたようだ。
 サーシャの、目論見通りに。

「ぐっ!!」
「なによ、いい夢見れたでしょ?」
「とんでもない悪夢です!! 貴女は―――」
「……キュール!!」

 憎たらしく笑うサーシャに向かってなお突撃しようとした瞬間、目の前で銀の光が弾けた。
 眼前に浮かぶのは仲間の小さな少女キュール=マグウェル。どうやら自分はサーシャに攻撃されたようだ。一体いつ攻撃されたのか訳も分からないが、マルドと共に来たこの『盾』の少女に救われたらしい。

「ってキュール!? 何をしているんですか、こんな危険なところで!! マルドと一緒に樹海で皆さんを、」
「カイラ、悪いが後にしてくれ。ヒダマリ=アキラの一派に合流できたんだ。今樹海じゃ手分けしてサルドゥの民を連れ戻している。俺とキュールはこいつの足止めだ。カイラが魔術を止めたら、せっかく救ったサルドゥの民がまたバラバラになっちまう」

 マルドは額に汗を浮かべながらサーシャに対峙する。
 今樹海では事態は終息に向かっているらしい。
 だがそれもサーシャが手を加えれば再び振り出しだ。自分の役割は、サーシャの魔法を徹底して妨害し続けることなのだろう。
 カイラは拳を痛いほど握った。

「マルド、お任せします。わたくしはすぐに戻って皆様をお助けします。……キュールも、気をつけて」

 魔族という途方もない相手がいるのに、キュールを残すなど気が狂いそうだった。
 だが、彼女の力は認識している。魔族相手となると不可欠な存在であるとも。
 しかしそれ以上に、この場を離れるために歯を食いしばらなければならない理由があった。

「あら、いいのかしら? キュールを残していって。仮にも私は魔族よ? 死んじゃうでしょうね、アリハみたいに」
「耳を貸すなカイラ。適当に相手するだけだ」

 サーシャのカイラを引き止めるような言葉には、マルドが挑発を返した。
 サーシャから殺気が漏れたのを感じる。どうやらマルドを排除する敵として認識したようだ。

 だがカイラは、最後にあえてサーシャの言葉に乗った。
 サーシャに背を向けたワイズの上で振り返り、震える唇を強引に開く。
 ぐいと拭った目元には、いつしか涙が浮かんでいた。

「サーシャ=クロライン」

 キュールがいるというのに、これは、教育上大変よろしくない。
 だが言わざるを得なかった。

「貴女に天罰があらんことを」

―――***―――

 ホンジョウ=イオリは千載一遇のチャンスを、冷ややかに眺めていた。

 ここは“召喚獣”ルシルの体内。目の前に存在するのは諸悪の根源―――“魔王”ジゴエイル。
 自分が得た様々な情報を勘案すると、魔王の死と共にルシルが世界規模の爆発を起こす可能性は低いと思われた。

 自身も使役する召喚獣というものについての仕組みを改めて調べ直したところ、召喚術師によって召喚方法が異なるらしい。
 イオリのように、召喚するたびに完全な状態で現出するタイプが最も多いが、中には前回現出していたときの状態を引き継いで召喚するタイプもいるそうだ。
 前者は使役者が力を増すことによってのみ召喚獣の力が上がるが、後者はそれに加え、召喚獣自体も成長するらしい。
 その分、召喚獣が負傷した場合、治癒する時間が必要であるが、成長速度は突出しており、使いこなせれば強力無比な召喚方法である。

 魔王ジゴエイルの召喚獣―――ルシルは、成長型の召喚獣だ。
 世界規模の爆発を起こす魔力を体内のどこかに圧縮して保持し、今なお成長を続けている。
 だが今、ルシルは身体の一部を現出する“部分召喚“で呼ばれている。その爆弾とも言える箇所は、“ここではないどこか”に残り、この世界には存在しないのだ。

 故に今、目の前の魔王を撃破することは、世界の消失に繋がらない。
 “あの死地”に乗り込まずとも、今、ここで、すべての決着を付けられる。

 その好機に、感情が沸き立つはずだった。
 だが、同じく事情を知っているはずの男は、底冷えするほどの殺気をまとい、静かに立っている。

「……アキラ。君は、」

 声を出したと思ったのだが、口がパクパクと動くだけだった。
 この空間は外の樹海のように魔力の流れが極端に鈍い。しかし、この何も感じない空間で、ヒダマリ=アキラの周囲に妙な気流が生まれている。
 見知った顔が、別人のように思え、イオリは震えた。

 これが、

「遂に発動したね、キャラ・ブレイド。それがリイザスを撃破した魔術……魔法か。ようやくやる気を出したようだね、アキラ君」

 ブロンドの髪を軽くかき分け、魔王は配下を下された魔法を冷静に眺める。
 イオリにとって初めて見る魔王の姿は、なんとも辺鄙で、まるで人間のようだった。殺気を撒き散らし、狩猟動物のように対峙するアキラと、どちらが人外か判断ができなかった。

 そして。

「―――、」

 アキラの足元が爆発したかのように思えた。
 剣を掲げ、鋭く走るその姿はイオリが今まで見てきた彼の姿とはまるで異なり、凶暴性を露わにした野獣のような動きだった。

「ふ」

 その獣に、ジゴエイルは手をかざした。
 魔力の気配の鈍さに慣れていないイオリが、それが攻撃であると気付いた瞬間、獣に向かってオレンジの魔力が連続で射出される。
 思わず息を呑むほど美しい魔術の軌道は、走るアキラを目掛け狂いなく走る。

 直撃。
 そう思った直後、アキラは魔術に身体をかすめさせるほど小さく身を捩り、そのままジゴエイルへ向かって突撃する。
 もしここに魔術の鞭をとったことのある者がいれば怒鳴りつけるほど危険なその行動は、しかし、アキラの身体を迷いなく魔王へ運ぶ。

「……死ぬ気か?」
「殺す気だ」

 ジゴエイルの呟きに返したのは、もう1匹の猛獣だった。
 アキラに追従するように、あるいはそれを追い越すように、魔王という獲物を我が物にせんとばかりに駆けるひとりの大男―――スライク=キース=ガイロード。
 アキラと同じように、あるいは、アキラ以上に魔王の魔術をやり過ごし、猫のような眼と巨大すぎる剣を光源の乏しい闇の中でギラつかせる。

 ほぼ直進するふたつのオレンジの光を、無数の同色の魔術が狙うが、ふたりの速度はまるで落ちない。

 側から見ているイオリにも分かった。ふたりには回避する気がない。
 受けたら受けたで良いと思っているのだ。
 戦闘が佳境に入り、勝ち目がないと悟り、それでも、僅かな可能性に掛けた捨て身のような行動を、このふたりは当然のように遂行する。
 魔導士となって戦場を幾度も経験してきた。だが、イオリは、初めて目の前の狂者たちの行動に、背筋が震えた。

「―――ぐっ!!」

 魔王の攻撃がついにアキラを捉えた。
 剣が弾かれ、身体が泳ぐ。正確な攻撃の嵐の中、許されない僅かな隙が生まれ、アキラはその光弾に身を晒す。

 だが、イオリは見た。
 アキラの惨状にまるで興味を示さず、それでもなお駆け続けたスライクが、ついに魔王に辿り着いたのを。

「ほう、想定外だ。もう辿り着けたのか。想像の範疇ではあるがね」
「はっ、―――遺言はそれだけか?」

 その狂気の一刀が魔王を脳天から引き裂いた。
 地面ごと叩き割らんかという雷撃の一閃が、何も感じない空間で暴風を巻き起こす。
 しかしその次の瞬間、イオリは再び目を疑った。
 スライクが撃破したかと思われた魔王は、オレンジの光の粒子になって溶けていく。

「ち、面倒くせぇなぁ、おい。殺したら死ねよ」
「だから言っただろう。下らないゲームだと」

 魔王の声は、離れた地点から、脳に響くように聞こえた。
 ぼんやりと照らされるジゴエイルのその姿は、なんら損傷を負っていない。

 イオリはその様子を注視すると、アキラに向かって駆け寄った。
 足止めをくらい、その場で光弾の処理をせざるを得なかったアキラは、やはり別人のような顔つきで、再び現れた魔王を睨んでいる。

「アキラ、無事か!?」
「……離れてろイオリ。奴を殺さなきゃなんねぇんだ」
「……アキラ?」

 目立った負傷は負っていないようだった。
 身体を纏う魔力も―――この距離なら感じられる―――煮え滾るように溢れている。
 この魔術は、あのスライク=キース=ガイロードの模倣だ。
 リイザス=ガーディランの死闘で手に入れた―――いや、自分自身を捨て去った前々回のアキラが操る、敵を殲滅するためだけの魔術だ。
 イオリは拳を握り、感情を殺した。

「アキラ、あれが魔王の基本戦術か?」
「らしいな。だが問題ない。次は俺が斬り殺す」

 射殺すように魔王を睨みつけるその瞳を見て、イオリはより背筋が冷えた。
 ずっと近くで見続けていたアキラの姿だ。
 信頼はできても、信用はできなかったアキラのひとつの可能性だ。

 だが何故か、イオリは悪寒とも言える違和感を覚えた。
 迷いなく魔王を睨みつけているはずのその瞳が、一体何を捉えているのか分からなくなった。

「殺さなきゃなんねぇんだよ。俺は、魔王を」

 なら何故だ。
 何故アキラは自分に言い聞かせるように呟くのか。

「キャラ・ブレイド……!!」

 何かを押し潰すように、あるいは、祈りを込めるように、その魔術を発動させるのか。

「ジゴエイル!!」
「また繰り返しだ。だが、宣言しよう。今度は到達できない」

 再び見た光景が展開された。
 アキラとスライクが魔王目掛け、光弾をその身に浴びんばかりに突撃する。
 魔王の宣言は当たった。
 最早確率の問題だろう、捨て身な故に当然リスクは高く、ふたりともほとんど近づけないまま光弾の処理を強要された。
 そして魔王が強く手を突き出す。
 突如としてふたりを襲った暴風は、アキラとスライクを元の位置まで吹き飛ばした。

「……」

 アキラの様子が気がかりだが、イオリは冷静にその戦闘を眺めていた。
 幾度となく繰り返される光景。
 あるときは到達し、あるときは到達できず、しかしいずれも魔王との距離が開いた状態で戦闘が開始される。
 スライクもそうなのだろう、剣だけを攻撃手段とするふたりにとって、あれほど正確な魔術を操る魔王は天敵にも等しい。
 そして決定的にまずいのは到達できても魔王に攻撃が通用しないことだった。

 だからイオリはひたすらに様子を伺い続ける。
 自分も参戦すれば、魔王に辿り着ける確率は飛躍的に上がるだろう。

 だが、延々と続く同じ光景。
 こちらの勝利条件が見出せない。

 自分は今、それを見出すことに全神経を使うべきなのだ。

「……!」

 今度はアキラの剣が魔王を捉えた。
 再び光の粒子となる魔王を見て、イオリははたと気付く。
 幻想的な演出のようで、しかし確かに見覚えがある。それは、今まで自分が幾度となく見ていた光景だった。

「ふたりとも、“そいつじゃない”!! ―――メティルザ!!」

 イオリは叫び、駆け出した。
 足止めを食っていたふたりの前に盾を展開すると、魔王の光弾を弾き飛ばす。
 流石に魔族の攻撃か、呼吸が止まるほどの衝撃を受けながら、イオリはすべてをやり過ごした。
 暴風の魔術が放たれるが、殺傷能力は低いと判断してその身を委ねる。

「イオリ、どうした……?」

 同じく飛ばされたアキラの姿を見て、イオリは顔をしかめた。
 すでに幾度か魔術をその身に浴び、破れた服の下は簡易な防具が陥没し、露出した肌は赤とも黒ともつかない色に染まっている。
 肩で息をしながら魔術を保っているが、体力が尽きかけているのは見て取れた。

 イオリが睨むと、ジゴエイルはなんとも静かな表情で遠方に立っていた。

「想定通りこの回で気付いたか。このくだらないチェスゲームのカラクリに」
「…………」

 イオリは静かに睨み続けた。
 自分の行動も、ジゴエイルにとっては予想できていたらしい。
 だが、勝利条件はようやく見つけた。

「ふたりとも聞いてくれ。“あれはジゴエイルじゃない。ルシルだ”。粒子になって溶けていく……あれは召喚獣が消滅するときの光景だ」

 ギロリと、殺気だった視線が周囲を索敵した。
 スライクは立ち上がると、剣を地面に突き刺す。

「は、なるほどな。道理で同じ硬さなわけだ」

 これほど巨大なルシルを操るジゴエイルは、イオリにしてみれば召喚獣のエキスパートだ。
 自分が想定する限界をひとつ上げれば、答えは分かりやすくぶら下がっていた。

 部分召喚されたルシルは、そのはずなのにあまりに巨大。
 山をひとつ押し潰し、ヨーテンガースを囲っていた岩山を海岸に変えたほどだ。
 そのスケールに感度が鈍くなっていたが、魔導士隊に属していたときの自分の上司は、召喚獣を何体も現出させていたことを思い出した。
 召喚獣はひとりにつき1体。その原則を捻じ曲げるような召喚方法ではあるが、しかしそれは例外ではなく、あくまで1体の召喚獣を分裂させているに過ぎないのだ。
 それはある意味、召喚獣が自分の分身を召喚しているようなもので、性質の全く異なる分身を生み出すことはできないが、独立して動く兵隊としては活用できる。
 そしてその分身は、本体の魔力が尽きぬ限り、延々と生み出すことができるという。

 つまり、今自分たちが飛び込んでいるこの空間がルシルの本体。遠方、静かに立つジゴエイルの姿をした存在が、ルシルの分身だ。

 となればこの戦いの勝利条件は、ジゴエイルの本体を見つけ出し、撃破することになる。

「なら魔王はどこだ。ルシルの中にいるんだろうな」
「ああ、いるはずさ。召喚術師は召喚獣からそれほど距離を取れない。いるなら外じゃなくて中だよ」

 魔王が存在しうる、最も安全な場所はルシルの体内だ。
 召喚獣をコントロールもしながら戦闘を行うとなると、この戦いが見える位置にいなければならない。
 オレンジの明かりで薄ぼんやりと光るこの空間のどこかに、魔王は静かに佇んでいるのだろう。
 この魔力の気配を感じにくい空間は、魔王が自身の姿を隠す上でも好都合だ。

「……当たりはついてるぜ」

 スライクは薄ぼんやりと照らされる広間のその先を睨んでいた。
 イオリの話を聞き、その狩猟動物のような嗅覚が、何かを拾っているようだ。

「魔導士の女。よくやった。つまりこういうことだろう……、これまで奴が魔術を放たなかった方向に野郎がいるってな」
「お前、分かるのかよ」

 イオリは頷き、スライクの視線を追う。
 一応イオリも今までの戦いの位置どりは把握していたが、スライクの方が情報が多いようだ。
 一定の方向だけを睨んでいる。
 そこで、ルシルの一部が手を叩いた。

「そうだ、いいぞ。その通りだ」
「あん……? 移動する時間稼ぎか?」

 ジゴエイルの姿をしたそれは、首を振った。
 ジゴエイルが操るそれは、あるいはジゴエイルそのものなのかもしれないが。

「いや、動かんよ。そういうゲームとしたのだから。だが、君たちは真理に辿り着いた。繰り返される魔王と勇者の戦い。だがそれに本当の意味で終止符を打つには、チェスボードを破壊するか、駒を配置する者を破壊することだ。分かるだろう、どれだけ突撃しようが、どれだけ策を弄そうが、結局は破壊でしかこの下らないゲームの幕を下ろせない」

 ジゴエイルは、愉快そうに言った。
 だが、もし目の前の、ジゴエイルですらないルシルの一部が人間だとすると、なんともつまらなそうな表情を浮かべているのか。

「アキラ君。そういえばまだ、何故私が魔王だと分かったのかを聞いていなかったね」
「……!」

 ジゴエイルの言葉に、イオリはどきりとした。
 やはりこの戦い、魔王に自分たちの警戒が察し取られたから始まったようだ。

「正直に言っておこうか。サーシャが読み取れたのはそこまでだ。だが何故君は私と戦うことを躊躇する」
「どうでもいいんじゃなかったのか」
「そのつもりだったが、やはり興が乗った。もし私の想像の内のひとつ、“最も可能性が低い自体が起こっていたとしても”、君が私を討つことを躊躇する理由がないのだよ―――“今なお”、ね」

 アキラは何も答えなかった。だがイオリは、アキラが拳を強く握ったのを見逃さなかった。
 魔王の言葉は、自分たちの旅の核心を突いてくる。だがその危機感を、アキラと自分が共通認識を持っていないような、漠然とした恐怖が勝った。

 ジゴエイルに下手な小細工で探ってくる様子はない。
 イオリが知る、この旅の核心すらを飛び越えて、堂々とアキラと向き合っている。
 すべての記憶を保有する自分が初めて覚える疎外感。
 アキラの姿が、ずっと遠くにあるような錯覚を起こした。

「アキラ君。私はね、飽きてしまったよ。自らの“破壊欲”にすら。だからこそ目を輝かせざるを得ないんだ、君という存在に。私の想像の外にあるのならそれを知りたい。そしてそれを……破壊したいと思うのだよ」

 アキラは、ジゴエイルの姿から目を切った。
 そしてスライクと共に並び立つ。
 その言葉を本当に発している本体を捉えるために。

「イオリ。俺は魔王を殺す」

 彼は何度その言葉を呟いただろう。
 勇者としての使命を果たす決意の現れのようにも聞こえるそれは、やはり、祈りの言葉のようにも聞こえる。

「……」

 イオリには分かった。
 同じだ。
 前々回で、何度も聞いたあの冷たい声だ。

 すべてを投げ捨てたいと思っている声だ。

 アイルークの魔門破壊で乗り越えたと思っていたのに―――また彼は、取り込まれつつある。

 ジゴエイルが言う、アキラの躊躇。
 それが、この悪寒の正体なのだろうか。

「キャラ・ブレイド!!」

 そして彼は、その躊躇を塗り潰すように、狂者となって駆け出した。

―――***―――

「あの……、えっと、起きましょう!! 朝で……、その、朝ではないですが、えっと、危ないですよ、こんなところで!!
あ、ああ、良かった、お気づきになったみたいで、こっちに来てください。エレお姉さま、そっちはどうです、……ってぎゃーっ!? またやってる!?」

 エリサス=アーティは、樹海の中でとんでもないものを目撃した。
 魔力の流れが鈍い樹海の中、神経を尖らせて進んできたら、夢遊病者のように歩くサルドゥの民に対し、丁寧に話しかけて覚醒させるティアとは対照的に、迷うことなく当身を喰らわせ大人しくさせているエレナの犯行現場に出くわした。

「あら、正妻ちゃんじゃない。ちょうど良かったわ、人手不足よ」

 気絶したサルドゥの民の男を肩に担ぎ上げ、エレナは事も無げに言う。
 人をまるで荷物のように扱うエレナの表情からは、いつも以上の機嫌の悪さが見て取れた。

「エレナさん、何してるんですか!?」
「何って護衛任務よ。こいつらこうでもしないとうろつき回るんだもの。それと、私の言いつけを無視した罰ね」

 エレナは担いでいる男と知り合いなのだろうか。
 殺気混じりのエレナの様子に、ティアが覚醒させた男も凍りついている。
 依頼主に対する行動ではないが、目を瞑らざるを得ない状況だということはエリーも把握していた。

「事情は後で話すわ。とにかくこいつら広場に運ぶわよ」
「事情ならなんとなく把握してます。さっきマルドさんに会って」

 エリーは表情を正し、夜空を見上げた。
 最も目立つのはあのカイラが操る召喚獣ワイズが樹海の空を旋回するように飛び、雨のようにも雪のようにも見える魔術を降らせている光景だ。
 しかしその向こう、さらに上空に、銀に輝く複数の飛行物体が激しくぶつかり合っている。

 サーシャ=クロライン。

 あの魔族がこの樹海に来ているらしい。
 マルドはサルドゥの民を探すようにだけ伝えると、小さな少女と共に空へ向かって行ってしまった。
 人手がいると判断してエレナを呼びに西部の護衛地点へ向かっていたのだが、まさかティアまでいるとは。

「なら話は早いわ。飛んでる召喚獣のお陰かしらね、もう何人かは正気に戻ってるけど、特にサルドゥの民は“かかり”が深いわ。……ねえ」
「ま、待ってくれ、俺たちはただ、儀式のために見回りを―――ぎっ」

 マルドの話では、サルドゥの民たちの儀式にかける想いを利用して思考を捻じ曲げているらしい。
 エレナは事情を把握しているのか、あるいはすでに見つけたサルドゥの民たちの様子を見た経験則か、サーシャの影響が深いと思われる者たちは気絶させた方が早いと判断しているようだ。
 せっかくティアが叫んで正気に戻そうとしていたというのに、エレナは迷うことなく腹部に拳を叩き込んでいた。

「こっちは私ひとりでいいわ。南の方はまだ行けてない。あんたらふたりで行って来なさい」

 エレナはふたり目を軽々と担ぎ上げ、顎で南を指し、中央の広場へ向かって駆けていってしまった。
 カイラのお陰のようだが、サーシャの影響は軽減されている。
 この先彼女が見つけるサルドゥの民たちが、影響が深いとエレナに疑われるようなことを口走らないことを祈った。

「エリにゃん、急ぎましょう。後少しのはずです!」
「え、ええ」

 民間人に当たり前のように手をあげる光景のショックは未だ拭い切れないが、今は有事と自分に言い聞かせ、ティアを追って走った。
 手段はどうあれあのエレナが勤勉に働いているのだ。ここで遅れを取るわけにはいかない。

「ねえティア、サルドゥの人たちは中央の広場にいたのよね? 中央で何があったの?」
「……うう、気づいたらみんないなくなっちゃってたんです……」
「みんな!? 護衛の人たちも!? ティアは大丈夫だったの?」
「……あっしは眠ちゃってました」

 さも申し訳なさそうに、その身をさらに竦ませながら駆けるティアに、エリーは半ば呆れ、しかし思い直す。
 あのサーシャ=クロラインが来ているのだ。
 ティアも何らかの影響を受けての行動だったのかもしれない。

「でも、今のところ皆さん無事です。護衛の方々も今中央でサルドゥの民たちを守ってくれています。何人かは口も利けない状態ですが……」

 それは無事というのだろうか。エレナの被害者たちだろう。あるいは魔物に襲われていた方がマシだったかもしれない。
 魔族が襲って来たのだから仕方がないかも知れないが、バオールの儀式とやらの実行がさらに危ぶまれた。

「カーリャンほどとはいかなくても、あっし、魔術で目を覚まさせるつもりだったんです。でも、エレお姉さまがやったら殺すとまで言ってきました……」

 本気で睨まれたのだろう。ティアはカタカタ震えている。
 しかしエレナの判断は正しいと思う。彼女は当初の作戦通り、ティアの魔力を徹底的に温存しながら事態を対処しようとしているのだ。

 空を見上げる。
 夜空ではまるで異次元に迷い込んだかのような光景が広がっていた。

 カイラは変わらずこの樹海に恵みをもたらすかのように魔術を振りまき、銀の飛行物体たちはどうやら拮抗しているらしい。あのキュールの防ぐ力は魔族相手にすら通用する。
 壮絶な状況だが、この感度を鈍らせる樹海のお陰で、エリーはかえって状況を冷静に把握できた。
 適材適所とでもいうように、皆の行動がぴたりとはまっているようで、あのサーシャ=クロラインの攻撃を防げているのだ。

 だからこそ、エリーの不安は強くなる。
 あれほど分かりやすくサーシャが襲いかかって来ているというのに、“あの男”が行動を起こさないのは不自然だ。
 絶対に何かに巻き込まれている。

「エリにゃんたちはアッキー探してたんですよね? 見つかりましたか? 」
「見つからなかった。そうだ、サクさんとイオリさんには会った? こういうの、サクさんの方が得意だと思うけど」
「サッキュンには会いましたよ。サッキュンやっぱりめっちゃ早いですよ。マルドンにも会ってたらしくて、あっという間に東の方を制圧していました」

 酷い表現だが、エリーの心労が少しだけ晴れた。
 不特定多数の探索となるとサクは圧倒的なパフォーマンスを出すだろう。
 マルドやエレナたちと出会い、すでに探索でも成果を上げているらしい。ひとつ年下らしいのに、自分の方が彼女の行動の後追いをしているみたいだった。
 こうなってくると、ヨーテンガースの樹海を非武装でうろつくという危険極まりない行動をさせられていたサルドゥの民たちは極めて安全に思えた。
 下手をしたら自分たちが向かっている南側すら、サクが探索を終え、すでにサルドゥの民たちは全員揃っているかもしれない。
 まさに適材適所だ。

 “だからこそ、エリーは震える”。

「……いいティア。絶対に魔力を使わないで」
「…………はい」

 神妙に言うと、ティアは素直に頷いた。
 彼女も分かっている。

 所在の知れないこちらの主要戦力は、3人の勇者とホンジョウ=イオリだけだ。
 “もうひとりの男“の方は知らないが、残りは異常があれば絶対に行動を起こす。

 適材適所という言葉を使うのであれば、彼らは、“サーシャすら問題にならない脅威”を担当している可能性がある。

「あと、ひとつお願いがあるの」
「?」

 エリーは目を細めながら、暗い樹海を駆け続ける。
 これは、あくまで念のためだ。
 エリーは握った自分の拳を見つめ、呟く。
 あの“魔門破壊”を乗り越えたあと、ヨーテンガースの魔導士―――アラスールに教わったことがある。

「あいつとあたし。もしもどちらかしか治せないときが来たら―――あいつを治して」

―――***―――

 スライクが睨んだ場所は、確か最初にジゴエイルが歩み寄って来た通路のような場所だった。
 今は通路の明かりは落ち、漆黒の闇を蓄えている。

 あの通路の先に本物のジゴエイルがいる。
 そう思うとアキラの身体は喜びに震えた。

 ようやく、終わらせられる。

「さて。君らが察知した場所は正解かな。飛び込んでみるといい。どの道、私の想像の範疇に収まってしまうのだろうが」

 耳障りな雑音が、ジゴエイルの姿をしたルシルから聞こえた。
 その想像とやらはどこまでだろう。
 ジゴエイル本体の所在は正解か、不正解か。正解だとして、自分たちの剣はジゴエイルに届くか、届かないか。勇者が魔王を下せるか、敗れるか。
 そのすべてが想像の範疇とやらなのかも知れない。

 不毛だった。
 ジゴエイルはなんとも退屈そうな瞳の色を浮かべていた。言った本人も、雑音だと思っている。
 起こる事実だけを並べ立てれば、所詮、勇者が魔王に挑むという物語が繰り返されているに過ぎない。
 あるときは勇者が敗れ、あるときは魔王が敗れ、そして、再び勇者と魔王が現れる。
 永遠に繰り返されるチェスゲーム。

 魔法があり、魔物がいて、勇者がいて、夢と希望に溢れた、この素晴らしくもお約束の世界は、それ故に、同じことが起こり続ける。

「―――キャラ・ブレイド!!」

 すべてを振り払うように、アキラは魔術とともに駆け出した。
 目指すは通路。
 頭では判断できている。
 もし本当にあの奥にジゴエイルがいたら何が起こるか。

 通路の先はどうなっているか分からないが、少なくとも細く長い通路だ。
 眼前から魔術を放たれれば回避する術は無い。

 だが向かわずにはいられなかった。
 今駆け出さなければ、自分の足は地面に張り付いたように動かなくなる気がした。

「ふ―――」

 背後のジゴエイルが嗤ったのを感じた。
 顔だけ振り返れば複数の光弾がアキラを撃ち抜こうと高速で接近してくる。
 あくまで今はチェスボードの上。対戦相手の駒は、ジゴエイルの姿をしたルシルだということか。

 だが、アキラは止まらなかった。
 億劫だ。光弾を対処するより、このまま駆け続けていたかった。

「勇者!! てめぇが殺してこい!!」

 自棄になっていることを自覚したとき、背後から爆音が聞こえた。
 振り返りもせず、アキラは辿り着いた通路に突入する。
 薄ぼんやりとしたオレンジの灯りが途切れ、アキラの身体は漆黒の闇に吸い込まれる。

 視界が塞がり、速度が緩む。
 それでももがくように足を動かした。

 感覚が鈍い。
 それは、この空間が特別なせいだけでは無いと分かった。
 あれだけ切望していた魔王を討つ今、結局自分は、自分の感情を殺さなければ前に進めないのだと分かった。
 自分が旅の道中に覚えた感情や感動を、不要なものとして扱わないと、ヒダマリ=アキラは魔王に立ち向かえないのだと悟らされた。
 戦力だけの問題ではない。この、自分自身を諦めた象徴の魔術を使わなければ、魔王を前に、この足は前に進まないのだ。

「……!」

 だから、進み続けた闇の先に、自分と同じように小さく光るオレンジの人影を見つけたときも、感動ではなく、やっぱりか、という感想しか浮かんでこなかった。

「―――、」

 がくんと速度が下がる。頭痛が酷くなった。
 それが魔力切れの症状だとはすぐに気づけた。

 この魔術は周囲の魔力を取り込み、アキラが本来持つ魔力を超えて魔術を発動させ続けるはずだ。
 しかし、この空間は、魔力の流れが鈍いらしい。その影響か、周囲からほとんど魔力を取り込めていないようだ。
 同様の仕組みを操るスライクも、もしかしたら限界が近いかも知れない。

 その危機をも、アキラには他人事のように感じた。

「……この感覚か」

 それは、ジゴエイルの謀なのかも知れなかった。
 魔術の質は高いが、淡白なだけの、なんら面白みのない戦場を用意したのも、何かの暗喩のようにそれを繰り返させたのも、もしかしたら奴は、自分と同じ感覚を味わってもらいたかったからなのかも知れない。

 スライク=キース=ガイロードが眩しい光を放っているのを見て、なおそう思う。自分とは熱量が違うと。

 ヒダマリ=アキラという主人公は、異世界から現れた勇者であり、物語はループする。
 そして勇者は、魔王を討つ。

 それだけのあらすじしか残らない、さもつまらない物語。

 下らない世界。

 自分はたった3度繰り返しただけだ。
 ジゴエイルがいつ生まれたのかは知らないが、勇者が魔王を討つという下らない物語を、一体何度見てきたのだろう。

 「正解だよ。私はここにいる」

 オレンジに光る人影が、淡白にそう言った。
 そして手をかざしてくる。
 それが攻撃行動だと察知したが、アキラは漫然と足を動かし前へ進むだけだった。

 きっと直撃する。
 狭い通路では回避する術はない。
 動きを止めて対処すれば狙い撃ち。
 魔力も底を尽きかけている。

 絶対的な危機を前に、しかしアキラの脳裏には、先ほどのジゴエイルの言葉が蘇ってきた。

 “それがどうしたのだと”。

 光弾が、射出される。

「―――メティルザ!!」

 漫然と突撃していたアキラは、正面から壁に激突した。

 勢いを殺せず転がるように倒れたアキラの目には、狭い通路で両手を突き出すイオリの姿が飛び込んできた。

「イオ……リ?」
「アキラ、伏せろ!!」

 鋭い視線を真っ直ぐにジゴエイルに向け、飛来してくる光弾をグレーの盾で防ぎ切る。
 爆撃の光弾で時折通路の闇が払われ、アキラにもジゴエイルの姿がはっきりと見えた。
 どうやらこの通路は袋小路になっているらしく、ジゴエイルはその最奥に、偽物と同じ姿をして立っていた。

「……アキラ、少しは落ち着け!! 僕が時間を稼ぐ!!」

 怒鳴られて、アキラは自分の魔法が切れかけていることに気づいた。
 身体も全身痺れ始めている。
 イオリが時間を稼いでくれている間に、整えなければ。

 しかし、荒い呼吸を繰り返し、立ち上がろうとすると、イオリが静かな声で言った。

「―――引こう」

 イオリから、ギリ、と歯を食いしばる音が聞こえた。
 魔王の攻撃を一手に引き受けたイオリは、魔王を睨みながら苦い表情を浮かべていた。

「なに言ってんだ!! 魔王はすぐそこだぞ!!」
「ああそうだ!! だけど、君は今戦うべきじゃない!!」

 光弾が飛来するたびに、イオリの身体が大きく揺れる。
 振り返ることなく、魔王だけを睨んでいる。

「ここで引いてどうすんだ!! 俺は勇者だ、勇者が魔王を倒すとこだぞ!!」

 在るべき物語なら。
 キラキラと輝く物語の世界なら。
 今がクライマックスだ。

 一時光弾が止む。
 次に放たれたのは暴風の魔術だろうか。
 イオリは盾を展開したままそれを抑え込む。
 魔術の影響を受けにくい土曜属性の術者でも、魔王の力をいつまでも正面から浴び続けることなどできない。
 しかし、イオリは両手をかざし続ける。

 風が止んだのか、イオリは盾を解除した。
 痺れた手を庇うように下げ、肩で呼吸を整える。
 魔王に意識を向けたまま、イオリは小さく振り返った。

「僕は構わない。今ここじゃなくたって」

 この世界の旅を3度も繰り返す彼女にとって、魔王討伐は悲願だろう。
 今も、切実な表情を魔王へ向けている。
 しかしそれを押し潰し、イオリは震えた声で言った。

「君は感情が乗るからね。すぐに分かるよ、何か理由があるんだろう。魔王の言うように、何か迷いがあるんだろう」

 魔王の言葉はイオリにも当然届いていた。
 感じ取られてしまったのかもしれない。
 彼女にも話していない。この物語を描くために、ヒダマリ=アキラが払った代償を。

「今話さなくてもいい。だけど、そんなやる気もないまま行っても蜂の巣だ―――メティルザ!!」

 再び光弾が飛来する。
 オレンジの魔術は、花火のように破裂し、イオリの身体を揺さぶった。

「……冷静じゃなかったのは認める」

 アキラは頭を振った。
 イオリだからこそ、今の自分が過去と重なって見えていたのだろうか。
 信頼はできても信用はできない“一週目”の自分と。
 見ている側にとっては、どうしようもなく不安に駆られるあの存在と。

 危なかった。ティアにもあれだけ散々言われたのに。
 また繰り返す気だったのか自分は。

「助かったイオリ。だけどもう大丈夫だ、下がっててくれ。迷いも―――ない」

 一瞬光弾が止む。
 アキラは落ち着きを取り戻し、静かにジゴエイルを睨んだ。視界はクリアになり、敵との距離がより明確になった。
 この距離ならば、やりようによっては光弾を耐え切って接近が可能だ。
 イオリが割って入って休まったからか、ほんの少しだけ魔力が高まったのを感じた。
 今なら、いける。

「それは」

 だが、イオリは道を譲ってはくれなかった。

「君が、君じゃないからだろう」

 これ以上会話を続けることは危険だと、アキラは直感的に思った。

「やっと言えた。前々回からずっとそうだ。君は、迷わないためにしか、その魔法を使わない」

 魔王の光弾が再び放たれる。
 イオリは盾でその全てを受け止めながら、怒りにも似た瞳でアキラを睨んだ。

 冷静に、冷静に魔法を維持する。
 やはり彼女と話すのは危険だった。最も言われたくない言葉を言われた気がした。

「君の意思なら尊重する。どんな危険な賭けだって、いくらでも協力できる。だからこそ聞きたい。今ここで、魔王を討ちたいのかと」

 討つべきだと、言おうとした。
 だがそれが答えになっていないことも同時に分かった。

 しかし自分の本心など、微塵にも出せないようにすり潰す他なかった。
 そんなものは勇者じゃない。
 世界中の、そして彼女たちの期待に応えられる存在とは程遠い。

 そもそもリイザスのときとは状況が違う。これは確定している犠牲だ。
 いくら自分が必死に抗っても、今度こそどうしようもない事実なのだ。
 だからこそ心を殺し、機械的に敵を討つべきだと、アキラは判断したのだ。

 それなのに、イオリはヒダマリ=アキラの答えを求めている。

「迷いはないって? 僕が君を何度見てきたと思っているんだ。君が迷いなく勇敢に戦ったことなんて、ただの一度もなかったよ」

 ヒダマリ=アキラは。
 迷っていてもいいのだろうか。
 迷い続けていてもいいのだろうか。

 誰から見ても眩いばかりの勇者でなくとも、いいのだろうか。

 君が君であることの証明に―――

 イオリは、以前、そう言った。

「……でも俺は、そんな俺が嫌いなんだよ」
「分かってないね。だからいいんじゃないか。嫌いな自分と向き合って、それでもなんとかしようとするところに……ドキッっとするんだよ」

 からかわれたのかどうかは分からなかった。
 だけど思わず笑えた。

 彼女のおかげで、最後のその瞬間まで、自分は自分でいられるらしい。
 身体の痺れは、取れた。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 魔術に切り替えたと同時、抑え込んでいた感情が爆発しそうになった。
 アキラは歯を食いしばり、真っ直ぐに顔を上げる。

「イオリ、協力してくれ。光弾が止んだら俺は行く」

 勇猛果敢である勇者は、こんな苦悶の表情を浮かべはしないだろう。
 神話のページには決して描けはしないだろう。

 だが―――この決断には意思がある。

「倒してくるよ―――魔王を」
「……ああ」

 イオリの柔らかい声が聞こえて、顔は見せられなかった。
 だけどそのおかげで、地面に張り付きそうだった足が少し、軽くなった。

「―――む」

 光弾が止んだ瞬間、アキラは駆け出した。
 極限にまで身体能力を高めた木曜属性の魔術の再現。
 魔法に任せるのではなく、魔術で高めた身体能力を自分の意思で操作する。
 先ほどよりも速く、ジゴエイルへ接近していった。
 暴風の魔術には、魔術を切り替えるせいか、僅かなラグがある。その一瞬を駆け抜ける。

 光弾の数は先ほど戦っていたときよりも少なくなっているように感じた。
 スライクが今も広間で戦っている影響だろう、召喚獣を操りながらとなると、同時に放てる魔術の限界数に制限がかかるようだ。

 問題は、次に放たれるであろう暴風の魔術だが―――

「―――っは!!」
「イオリ!!」

 正面から暴風が襲ってくる刹那、背後から指笛の音が響く。
 アキラは身をかがめて衝撃に備えた。

「ラッキー!!」

 容易く暴風に吹き飛ばされたアキラは、即座に背後の障害物に衝突した。
 狭い通路を埋め尽くすように現れたホンジョウ=イオリの召喚獣に、アキラは身体ごと衝突し、さらに暴風に押し潰される。
 人間を軽々と吹き飛ばす暴風だ。狭い空間で逃げ場を失った風は圧縮され、骨が軋むほどアキラの身体を襲う。

「がっ、っは」

 呻き声を上げながら悶え、それでも歯を食いしばり、ジゴエイルが距離を取らせるために放った魔術を凌ぎきった。

 認められていなかった。
 この物語は、バッドエンドだ。ヒダマリ=アキラはエピローグには辿り着けない。
 ひとりの馬鹿な男が、勝手に世界をかき回して、そして勝手に死ぬ物語。

 だから心を乾かせた。
 達観した風に装って、ただそれだけのことだと思うようにした。
 その方が、辛くないから。

「っ」

 拳で地面を叩き、強引に身体を起こす。
 足に力を入れて踏ん張ると、再びジゴエイルに向かって駆け出した。

「速いな―――想像の範疇だがね」

 身体中が悲鳴を上げている。
 息もまともにできない。
 足を踏み出すたびに、意識が刈り取られそうになるほど辛い。
 だが目前に迫ったジゴエイルを捉えて、アキラは笑った。

 自分は―――この痛みも知らないまま逝くところだった。
 アキラにとって、彼女たちにそんな顔をさせる方がよっぽど辛いのだと、分かりもしなかった。

「ジゴエイル」

 こいつはこの世界を下らないと言った。ジゴエイルにしてみればそうだろう。
 起こることが分かっていて、事実その通りになる。全てのあらすじを事前に伝えられた物語など、読むに値しない。
 だから改めて思う。この魔族は、不憫だ。
 世界全てが色褪せて見えるだろう。

 喜びも悲しみもないことは、語るに及ばないほど物悲しい。
 こんな思考にすら、辿り尽くしてしまったのだとしたら始末に負えない。
 気が狂いそうになるだろう。だからこそ、ジゴエイルは自分が望む望まないに関わらず、想像の外にあるものを反射的に求めてしまうのかもしれない。

 だからせめて、最後にその想像外とやらを起こしてやろう。

「ふ―――」

 ジゴエイルが光弾の魔術を構える。
 剣の射程外。
 射出は十分に間に合う。

 だがアキラは、剣を掲げた。

 挿絵でよく見る、魔王に挑む勇者の姿。
 雄々しく叫び、勇敢に巨悪に挑む勇者の姿は、どこからどう見ても見飽きた光景だった。

 だがその次のページでは。

「キャラ・スカーレット!!」
「!?」

 勇者は魔王に―――“剣を投げつけた”。

「づ―――がっ、あああ!!」

 もしサクがこの場にいたら迷わず殴りかかってくるだろう。
 破壊の魔術を発動させた剣が、光弾を放とうとした魔王に向かって鋭く投げ付けられた。
 ほとんど運任せに近い攻撃は、狭い通路での回避を許さず魔王の胸元に突き刺さる。

 ジゴエイルは目を見開いていた。
 それがジゴエイルの想像のうちなのかは分からない。
 だがアキラは、そのまま詰め寄ると、突き刺さった剣を両手で乱暴に掴む。

 血が滴り、魔王の鼓動を確かに感じる。
 今度こそ偽物ではない。本物のジゴエイルだ。

「―――、」

 剣を掴んだ瞬間、アキラは走馬灯のようなものを見た。
 それはあまりに明確で、“ここではないどこか”の気配を色濃く感じた。

 “確定”、なのだろう。
 現実感のなかったこの物語の代償が、確かな存在を訴えてくるかのようだった。

 脳裏に移される光景は、誰の視点なのか、自分自身すら登場している。
 鮮明な光景なのに、表情は、何故か見えなかった。

「っ」

 ジゴエイルに言わせれば、勇者の旅などいくらでも見てきたもので、いくらでも予想できる下らないものだろう。
 しかし、ジゴエイルからすれば些細なことであっても、自分にとってはそうではないと感じられた。
 最後にいいものが見えて、良かった。

「ジゴエイル。お前が嫌いなこの世界、俺は好きなんだよ」

 不敵に笑ってやろうとしたが、できなかった。

 やるんじゃなかった。死にたくない。もっとずっと、旅を続けたい。
 もっと賢いやり方があったはずだ。
 大義など知ったことか。勇者など放り出して、気ままに暮らしたい。
 いっそ全員に事情を話して、自分の死を回避する方法を一緒に探してもらいたい。
 今すぐにでも“彼女”に会って、助けて貰えば良かった。
 もう一度でいいからみんなに会いたい。

 後悔だらけだ。恐怖しかない。死後の世界など、考えただけで身体が震える。
 イオリは言った。魔王討伐はここでなくともいいと。
 それに甘えれば良かったではないか。
 今、どうしようもなく辛い。

「勇者が俺で悪かったな」

 本当にジゴエイルが不憫だ。
 魔王に挑む勇者は、自らの使命に実直で、迷いなく魔王を討つのだろう。

 スライク=キース=ガイロードや、リリル=サース=ロングトンのように、自らの意思に迷いなく身を委ねられる存在たちは、はたから見ていてもキラキラと輝いている。
 それなのに、よりにもよってヒダマリ=アキラとは。

 だが、自分は一生変われないらしい。
 どれだけの決意をしようが、ほんの僅かに時間が経てば薄れてしまう。
 ジゴエイルも魔王の器ではないと言っていたが、アキラも勇者の器ではないのだ。

 だから、自分は、せめて最後まで自分らしく。

「本当に嫌だけどな、お詫びに―――」

 この迷いと共に行こう。

「―――俺も一緒に逝ってやる……!!」
「ギ―――ぐ、まっ」

 アキラは剣を、振り抜いた。

「キャラ・スカーレット」

―――***―――

「!」

 マルド=サダル=ソーグは明確に戦況が変わったのを感じた。

 あまりに頼りない自分の浮遊魔法を用いたサーシャ=クロラインとの空中戦は、つい先ほどまで辛うじて食い下がれていた。
 カイラの魔術の防止を狙うサーシャは、空中戦が可能なマルドから撃破すべきと判断し、魔族の戦闘力をそのまま自分たちへ向けてきたのだ。
 魔法の時間制限もあるがそれ以上に魔族との戦闘は想像以上にマルドの魔力を蝕み、限界が近い。
 甘いとは思っていなかったが、キュールがいなければ何度即死したか分からなかった。

 なんとか凌ぎ続けてきたものの、今にも落下しそうになった頃、サーシャがふいに攻撃を止めたのだ。

「……?」

 同じ月輪属性から見れば惚れ惚れするような浮遊魔法を操るサーシャは、空中でピタリと止まり、西の樹海の先を呆然と眺める。
 あの方向は、確かホンジョウ=イオリが飛んでいった方向だ。

「……マルド?」
「しっ」

 サーシャの挙動に眉をひそめたキュールを嗜める。
 何かの作戦かもしれない。ここで感情が表に出るような表情は浮かべられない。
 表面上だけでも、こちらの限界が近いことを悟られないようにしておかなければ。

「……?」

 だが、マルドもつい眼下の樹海に視線を落としてしまった。
 気のせいだろうか。
 ほんの僅かだが、樹海から何かの気配を感じる。
 一体何の気配なのか。

「!」

 いや、問題はそこではない。“感じる”のだ、魔力の気配を。
 普段よりも圧倒的に鈍いとはいえ、今まで切り取られるように遮断されていた樹海からの気配が、何故か蘇っている。

「ぇ……」

 声が漏れた。
 目を離しすぎたと思い、マルドは動揺しながらサーシャに視線を向ける。

 しかしサーシャは、やはり空中でピタリと止まったまま、じっと西を眺めたままだった。

 そして、次の瞬間、サーシャが発光した。

「っ―――」

 目を焼かれるかのような閃光に、キュールは慌てて盾を展開した。
 攻撃なのだろうか。
 マルドは強引に光の強さを選択遮断すると、すぐさまサーシャを視界に収めようと目をこじ開ける。
 しかし、次の瞬間サーシャの姿が空の世界から消えていた。

「見失った!!」
「いや……いない。引いた、のか?」

 キュールが騒ぐが、今度こそサーシャの気配は感じない。
 口数の多い魔族のことだから、去り際も何か嫌味でも言って消えると思っていただけに、マルドも怪訝な表情を崩せなかった。
 気配を感じるようになりつつある樹海といい、下で何か起こったというのだろうか。それも、サーシャが即座に行動するような何かが。

「……勝ったの?」

 キュールの問いには答えられなかった。
 聞きたいのはこっちの方だ。

 樹海ではヒダマリ=アキラの一派がサルドゥの民を救い終えている頃だろう。
 遠方に飛ぶカイラも、こちらの様子に気づいたのかゆっくりと近づいてきている。
 彼女の方も魔力を使いすぎたのか、ふらついているようにも見えるが、立派に役割を全うしたようだ。

 釈然としない幕引きだが、どうやらサーシャの攻撃は凌ぎ切ったらしい。
 今この瞬間だけで言えば、こちらの勝利なのかもしれない。

 だが。

「……降りよう。そろそろ限界だ」

 底を尽きかけた魔力をなんとか維持しながら、ゆっくりと、樹海に降下していく。
 魔力切れの頭痛と共に、嫌な予感が頭の中で鈍い痛みを発していた。
 降りる途中でカイラの召喚獣に乗せてもらいながら、マルドは険しい表情のまま空を見上げる。

 空には、不気味なほど巨大な満月が浮かんでいる―――それだけの、はずだった。

―――***―――

 波の音が聞こえる。

「…………?」

 息苦しさに身体を起こした。
 立ち上がろうとしたが、力が入らなかった。

 地べたに座り込んだまま、ぼうっと前だけを見ていると、次第に視界がクリアになっていく。
 どうやらここは樹海のようだ。

 今度こそ立ち上がろうとした。
 すると多少は感覚が戻ってきたのか、鋭い痛みが身体中に走る。

 驚いた。死後の世界でも痛みは感じるのか。

「あ……れ」

 ヒダマリ=アキラは自分がヨーテンガースの樹海の茂みに寝転がっていることに気づいた。
 意識してしまえば息苦しい、鈍い流れの空気が鼻孔をくすぐり、呼吸感が圧迫されているような重苦しさを覚える。
 もがくようにして立ち上がると、ジン、と頭が鈍い痛みを発していた。この度で何度も経験した、魔力切れの症状だ。

「アキラ。よかった、気づいたみたいだね」

 反射的に振り返ろうとしたら、足元が崩れた。
 再び倒れそうになるが、身体を支えられる。
 肩を貸してもらい、頭を振ると、ようやく隣にいるのがイオリだということに気づいた。

「イオリ……? 俺は……?」
「あの野郎はどうなりやがった」

 鈍い空気の向こうから、今度は男の声が聞こえた。
 その大剣を握り締めたまま、スライクはゆっくりと歩み寄ってくる。

 つい先ほどまで、魔王の召喚獣ルシルの体内に入っていた3人は、いつの間にか外の樹海に放り出されていたようだ。

「アキラ、魔王は?」
「……いや、分からない。確かに斬り裂いたと思ったんだけど……」

 感触は未だこの手に残っている。
 そして、感覚的にだが、あれが本物の魔王であったという実感もある。

 だが、それなら何故、自分は。いや、となると。

「……悪い。逃げられた」

 アキラはようやく、しっかりと顔を上げられた。

 眼前には、信じがたい光景が広がっている。
 樹海の木々はなぎ倒され、ヨーテンガースを囲う岩山が削り取られ、月光に照らされた大海原が波を揺らしていた。
 ここにルシルの一部が横たわっていたのだろう。

 アキラは想像しようとして、止めた。
 それよりも、自分の矮小さが目立ってしょうがない。

「は、はは。悪いなスライク。譲ってもらって取り逃した」
「ち。まあいい。だが勇者。多少は気が変わったぞ。次にあの野郎が目に止まったら殺す」

 スライクは剣を地面に突き立ててどかりと座った。魔力を周囲から取り込むスライクも、この魔力の流れが鈍い空間ではまともに供給できていない。彼も限界が近いようだ。

 アキラは肩を落とす。
 この今にも魔王を追いそうな凶暴な男が、魔王に興味を向けてしまったのはアキラにとっては誤算だったが、少しだけ心が軽くなる。

「まあ、もともと様子見のつもりだったんだろうね。惜しくはあったんだろうけど、いつでも離脱できるように用意していたのかもしれない」

 アキラの知る、ジゴエイルの目的からすれば当然の立ち回りだろう。
 イオリが冷静に言い、アキラはやはり、自分の矮小さを笑った。

 仮にも勇者だというのに、魔王を逃した悔しさより、自分が生きていることの喜びの方が大きいのだから。

「アキラ、随分機嫌がいいね」
「そう見えるか?」

 イオリは頷いた。
 また、自分の矮小さが目立つ。

 惨めで、恥ずべきことで、消えてしまいたいと思う。
 だけど、それでいいと思えた。

「なあイオリ。俺は今、迷っているか?」
「……あれ。さっきの根に持ってる? いいじゃないかもう」

 イオリが顔を背けた。
 照れくさいのは自分も同じだ。

「責めてるじゃない。……感謝してるんだよ」

 小さく呟いた。肩が触れているこの距離なら、聞こえてしまったかもしれない。

 自分はヒダマリ=アキラだ。
 この矮小さも、迷いも、恐怖も、すべて自分の中にある。

 それを認めてまっすぐに前を見れるのなら苦労はしない。
 いくら自覚していようが、一生認められもせず、克服もできない自分の弱さだ。
 だが、多少は向き合えたような気がした。

 だからアキラは、安心して、笑った。

「悪いなスライク。……先に魔王を殺すのは、俺だ」

 こんな自分でも、迷いながらでも、ヒダマリ=アキラとして、その決断ができるのだと。

「……はあ。さて、ふたりとも。とにかく近くの護衛地点に戻って治療しよう。仮にもヨーテンガースの樹海なんだ。“ヨーテンガースの洗礼”って知っているだろう? 並みの魔物でも要注意だってね」
「洗礼なら今どっぷりと浴びたよ。お前がいりゃ大丈夫だ。魔王とやりあってピンピンしてる」

 無慈悲にも預かっていてもらった肩を落とされた。
 イオリはブンブンと腕を振り、アキラを見下すように睨んでくる。
 非難するように見上げていると、月下の中、イオリは、柔らかく笑ってくれた。

「ああ、やっとアキラだ」

 静かな樹海で、シンと時が止まったような気がした。
 ルシルの影響が色濃く残った樹海の中、少しだけ、心地よい風を感じる。

 彼女は、アキラにとって、自分を見返す機会を与えてくれる女性なのだと、そんなことを思った。

「じゃあ、僕はひらけた場所を探してくるよ。ラッキーが出せそうなね」
「ああ、頼……む、……?」

 見上げたイオリの肩越し。
 空には不気味なほど巨大な満月が浮かんでいる。
 月と星だけが支配する空間。

 しかし、あれはなんだろう。
 逆光でぼやける視界の先、満月の中。

 “黒点”が、浮かんでいた。

「―――っ」
「……は……?」

 何が起こったのか分からなかった。
 何かが光った。それだけは分かった。
 だが、それだけだ。

 それだけなのに、何故、イオリの胸に―――“光の矢が突き刺さっているのか”。

「……お、い、」

 倒れてきたイオリを力なく支えると、血が、止めどなく流れてくる。
 一言も発さないイオリの身体は、随分と軽かった。

「かっ!!」

 スライクが吠えた。
 理解がまるで追いつかない。
 思わずイオリに突き刺さった矢をつかもうとすると、光の粒子となって消えていく。

 魔術攻撃。

 そう判断するまで、アキラはただ呆然としていることしかできなかった。

「イ、イオリ!? おい、イオリ!!」

 ピクリとも動かないイオリの胸からは、なおも血が溢れてくる。
 必死抑えてみても、何も変わらない。
 混乱する頭は、ただ純粋な怒りを、夜空に向けさせた。

「何やってんだてめぇ!!」

 それは。
 確実に人間ではなかった。

 巨大な捻れた角を生やし。
 漆黒の髭が顔中を支配し。
 巨大な眼は片方は赤く、片方は青く、怪しく光っている。

 獣をそのまま人型にすればそのような容姿になるだろう。
 上半身は隆々とした筋肉が鎧のように纏われており、3メートルはあるであろう巨体が、野生そのものの威圧感を放ってくる。
 しかし、獣であるはずのそれは、その手に、身の丈はあろうかという巨大な棍棒を握りしめていた。

「相変わらずうぜぇタイミングで現れやがんな―――『光の創め』。よりによっててめぇかよ」

 ふらつきながら、それでも剣を構えたスライクは、苦々しげに呟いた。

「『杖』のグログオン……!!」

――――――
 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 消費税上がる前に間に合いました。
 今回は2話更新です。書き溜めをしたいのに終わると投稿してしまうという……。だったら推敲してればいいんですが、それをしないから一向に誤字脱字がなくなっていかないのでしょう。本当にすみません。
 さて、ようやく最後の大陸の1話が終わり、物語のゴールが見えてきたりこなかったり。
 次回の更新も遅れそうですが、それでも可能な限り早く書き上げてこうと思っています。
 では……



[16905] 第五十六話『容赦はしない』
Name: コー◆34ebaf3a ID:8587b165
Date: 2020/09/29 08:58
―――***―――

「杖? そいつはどんな奴なんだ」

 ヒダマリ=アキラは、マルド=サダル=ソーグが口にした『光の創め』の構成員に眉をひそめた。
 どうやら『光の創め』は、“あの存在たち”と同じ役割を持っていることは間違いないようだが、分かりやすい『剣』や『盾』と違い、残るふたつはいまいちピンとこなかった。

「詳しくは分からないけど異質でね。というよりあれは、魔族なんだろうか」

 マルドは言葉に詰まったように空を見上げた。
 アキラは隣を歩くリリルに視線を向ける。彼女も"あの役割“への理解はあまり深くないように見える。

「属性は?」
「さあ」
「戦術は?」
「さあね」

 質問しても、マルドからはまともな回答は返ってこない。
 もうすぐ護衛の時間も始まるというのに、こんなまとまりのない話をしながら樹海を歩いていると焦りが生まれてくる。随分と自分も真面目になったものだ。

「交戦したんだよな?」
「したね」
「だからどんな奴なんだよ」

 やはりマルドは具体的な話をしてこない。
 アキラは苛立ちとともにマルドの隣に並んだ。

 そこで、びくりとした。
 先ほどまで魔族との交戦について淡々と話していたマルドの表情は、いつの間にか、憎悪に歪んでいた。

「現れたら全滅だ」

 低く、冷たい声だった。
 アキラはマルドを内面を見せない人物だと感じていたが、彼は今、感情そのままで話しているように思えた。

「前に交戦したときは、依頼主を殺された。一緒に参加した魔術師たちも全滅している。旅をしていて初めてだね、敗走する羽目になったのは」
「スライクが、か」

 信じられなかった。
 それほどの怪物が存在するとは。

「聞いているだけじゃ信じられないのも分かるけど、“奴”はね、そういう戦いをしないんだ。面と向かって、用意ドンでの戦いなんかしてこない」
「不意でも付かれたのか?」
「ああそうだ。と言っても、“奴”はそうなんだろうね。そういう意味じゃ、奴の方が戦闘力は上だ」

 マルドは、嫌悪感をむき出しにして拳を握った。

「絶対的に優位な状況以外じゃ存在さえ毛取らせない。もし、『光の創め』の介入がなかったとしたら、いるのは奴だ、こちらが隙を与えなかったってことなんだろうから。逆に言えば、“奴”が現れたら絶望的な状況だってことだ。現にあのときも、スライクは深手を負っていた。奴はただ、それを待っていたんだろうね。依頼達成と同時に、全てを台無しにされた」

 人間に限らず、限界というものは存在する。
 物語には、必ず結末というものが存在する。

「そのせいで、俺はいつでも考えさせられている。小さな依頼ひとつとっても、辛勝なんて許されない。ノーミスクリアだけが、奴を避ける唯一の方法だ」

 全てを出し尽くし、限界を越えた先の先。
 伸びきった糸を切り裂くような存在なのだと、マルドは言った。

「クソ野郎だよ、『杖』のグログオンは」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 樹海の中はシンと静まり返っていた。
 ただ身体を伝う熱い液体だけが、アキラを辛うじて現実に引き止めていた。

 魔王を退け、依頼達成間近と思われたその瞬間に、全てを黒く濁された。
 マルドから聞いていたというのに。

 ぼんやりと月夜に浮かぶ怪物に、アキラは苦々しげに震えた声を出した。

「あれが……『杖』のグログオン……!!」

 胸の中のイオリは、ピクリとも動かない。

「……勇者、お前はその女を治せ」

 冷たい声を出しながら、スライク=キース=ガイロードは、グログオンとの間に身体で壁を作った。
 大剣を握り締め、ふらつきながら殺気を空へ飛ばす。
 空に浮かぶ獣のような姿の魔族は、じっとその様子を見下ろすだけだった。

「……そうだ、イオリ……!!」

 胸を矢で貫かれたイオリは、ぐったりと身体を預けてきている。
 脈は怖くて測れない。即死していないことだけを祈った。
 とにかく、一刻も早く治療しなければ。

「キャラ―――」

 魔力を込めようとした途端、ズキリと頭が痛んだ。
 そして全身が痺れたように動かなくなる。

 魔力が底を尽きていた。そんなことは分かっている。
 だが構うか。今すぐにイオリを、

「―――ギッ」

 限界を越えようとした。魔力が尽きたなら別の対価を差し出せばいい。
 魔術の対価は魔力、時間、生命だ。
 命を対価にする光景を自分は見ている。

 しかし、差し出せるものならば全て差し出すつもりで挑んだというのに、アキラの身体はそれを許可しなかった。
 いや、“許可されなかった”。

「く、そ!!」

 身体中がガッチリと拘束されたような感覚に、アキラは危なくイオリの身体を落としそうになる。
 色濃く匂う、“ここではないどこか”からの干渉が、アキラの願いを容易くもみ消した。
 魔力消費の激しい治癒魔術は、使えない。

「ち、下がってろ!!」

 スライクが叫んだと同時、月夜に浮かぶグログオンは杖を構えた。
 攻撃と判断し、アキラはイオリを抱きしめながら、スライクから離れて木々の間に身を滑り込ませる。

 グログオンは、その杖の中間をその巨大な両手で掴むと、ゆっくりと、右手を引く。
 気づけば杖の両端から糸のようなものが右手に伸び、その中央には、いつしか先ほどイオリを貫いた矢が装填されていた。
 弓と化した杖を構え、グログオンは静かにこちらに狙いを定めている。

 魔力色は―――判断できない。
 光としか形容できない矢を、放った。

「伏せてろ!!」

 それは一瞬だった。
 グログオンが矢を放ち、スライクが鋭く剣を振り抜く。

 バジュッ!! と嫌な音が響いた。
 ほとんど見えない速度で放たれた矢は、スライクの剣に弾かれ、アキラのすぐ隣の大木が爆破される。

 アキラは手を震わせた。
 あんな矢で、イオリは射抜かれたのか。

「勇者!! 今すぐ修道女を連れてこい!! マルドもだ!!」
「わ、分かった!!」

 イオリをゆっくりと木に預ける。退避は大賛成だった。自分ができないならすぐにティアを連れてくる必要がある。

 そして同時にスライクの意図も分かった。
 あのグログオンという魔族。属性は分からないが宙に浮いたまま遠距離攻撃が可能のようだ。
 となればスライクでは凌ぐことはできても撃破はできない。
 対抗できるのは空中戦が可能な人物だ。

「……!」

 そこで、アキラは気づいた。
 目の前で倒れているイオリも、空中戦が可能な人物だ。

「まさ、か……」

 グログオンが攻撃を最初に放ったとき。
 あのときならば自分でもスライクでも誰でも攻撃できたはずだ。
 しかしグログオンは、勇者ではなく真っ先にイオリを行動不能にした。
 結果、グログオンは圧倒的優位に立っている。

 それが、狙いだったのか。
 そんなことのせいで、イオリが狙われたのか。

「イオリ、絶対死ぬな、死なないでくれ。今すぐティアを連れてくる」

 溢れる怒りは強引に飲み込んだ。
 今、怒りに囚われている場合ではない。
 彼女を死なせないことだけを考えろ。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 恐らく発動はしていないであろう。
 それでもアキラは僅かに残った魔力を絞り切り、駆け出した。
 魔力は完全に尽きたらしい。
 リイザスと戦ったときは、魔力は周囲に漂っていたが、この樹海は今なおルシルの影響で魔力の流れが極端に鈍い。
 周囲から魔力をまるで取り込めないせいで、行動に強い制限がかかる。

「!」

 そして、それは、

「ヂ―――」

 背後から呻き声が聞こえた。
 切り飛ばし損ねた矢が、スライクの腕を掠めたらしい。
 右腕をだらりと下げ、スライクは剣を大地に突き刺した。
 グログオンは、意にも介さず再び矢を構えている。

「おい!!」
「止まんな!! とっとと行け!!」

 スライクも同じだ。
 彼も周囲から魔力を取り込み自らの糧にする。
 ただでさえ魔王などという規格外の魔族と戦った直後だ。
 あるいは自分以上に、彼も魔力の限界は近い。

―――旅をしていて初めてだね、敗走する羽目になったのは。

 マルドの言葉が蘇る。
 あの獣ような魔族は、グログオンは、絶対的に優位な状況でしか姿を現さない。

「す、すぐに戻る!! 死ぬなよ!!」

 アキラは叫び、逃げるように駆け出した。

「……?」

 そこで、初めて。
 遥か上空にいるはずのグログオンの、低い聲が確かに聞こえた気がした。

 心臓が鷲掴みされたような感覚が襲う。
 身体中が底冷えする。

 それは、獣の呻き声にも似た、絶望をもたらすような聲だった。

「”論理―――崩壊“」

 思わず振り返った。
 グログオンは、やはり矢を構えている。
 今度はその色が確かに見えた。

 いや。

 その”複数の色”が瞳に飛び込んでくる。

「なに―――が」

 グログオンが構えた矢は、弓をとして使われている野太い杖に、2本乗っていた。

 燃えるような、赤。そして―――凍えるような、青。

「―――、」

 直感だった。
 アキラは駆け出した勢いそのまま木々の間に飛び込み身を伏せる。

「っが!?」

 鼓膜を突き破る爆音と衝撃が炸裂した。
 身を伏せたアキラに吹き飛んだ木々のかけらが容赦なく突き刺さる。

 もはや想像できる矢の威力を遥かに超えていた。
 アキラが向かっていた先の木々がまとめて吹き飛ばされたらしい。
 息も絶え絶えに顔を上げると、あれだけ鬱蒼と生え茂っていた樹海の一部が更地と化し、その爆風に巻き上げられた土が混ざった黒煙が立ち上っている。

 身体中が砕れたような衝撃に、身が起こせない。
 あと一歩でも進んでいたら、あの木々同様アキラの身体も木っ端微塵になっていただろう。

「…………、逃す、つもりはねぇってか……!!」

 衝撃にスライクも身を伏せていた。
 アキラは青ざめ、這ったままイオリを探す。
 彼女の身体を預けた木に、イオリはいなかった。
 見れば彼女は、衝撃に吹き飛ばされ、数メートル離れた樹木に激突したのか、抱きつくようにしなだれかかっていた。

 死んだ、かもしれない。

「あ―――、ああああああ!!」

 アキラは立ち上がって駆け出した。
 足が折れているのか、まともに進まず。
 目が潰れているのか、ほとんど前も見えない。

 グログオンは再び矢を構えている。

 何が起こっているか分からない。
 何が悪かったのか分からない。

 淡々と矢を放つグログオンがどんな魔族なのかも知らない。
 空を飛べない相手を、空を飛べる相手がただ攻撃してきているだけだ。

「論理―――崩壊」

 対抗する術はない。
 こんな不条理が許されるのか。

 これが―――ヨーテンガースの洗礼だとでもいうのか。

「イオリ!!」

 ようやくイオリの元へ辿り着いたアキラは、脇目も振らずにイオリを抱き起こした。
 大木に激突したせいか、額からさらに血が流れている。
 潰れた額を労わるように、アキラはイオリの顔に手を触れた。
 信じたくないほどに、彼女の頬は冷え切っていた。
 もう何も考えられなかった。グログオンは当然攻撃態勢を整えているだろう。
 だが、この場所から離れることは、肉体的にも精神的にも、今のアキラにはできなかった。

―――思考を止めるな。

「下がってください!! ベルフェール・パーム!!」

 次の爆撃はほど近い場所で聞こえた。
 しかし衝撃はほぼなく、音すらフィルタがかかったように霞んで聞こえる。
 祈るように顔を上げた。
 涙で顔を晴らしたアキラは、しかし、思わず顔を伏せてしまった。

「……アキラさん、あれがグログオンですか!?」

 そこにいたのは、リリル=サース=ロングトンだった。
 具現化を操る彼女は、その純白の花のような盾を展開し、グログオンを睨み上げる。

「リリル、ティアは、他のみんなは!? イオリが、イオリを助けないと、」
「……すみません、アルティアさんは分かりません。ですが、カイラさんたちなら先ほどまでサーシャ=クロラインと交戦していたようです」
「なん、だって?」

 リリルは空を舐めるように視線を這わし、スライクは強く舌打ちする。

 ジゴエイルから聞いてはいたが、今この樹海にはサーシャ=クロラインがいるという。
 そのサーシャと交戦したのが、よりによってカイラたちだというのか。
 その決着がどうなったかは知らないが、少なくとも、魔族との交戦がどれだけ消耗するものかをアキラは身をもって知っている。

 では、何か。
 今こちらの召喚獣使いたちは、皆行動不能だというのか。

「……下がっていてください。私が防ぎます」

 リリルが神妙な声を出す。
 リリルの表情が視界の隅に入ってしまい、アキラはすぐに顔を伏せた。
 事の深刻さはリリルも察したのだろう。彼女も自分の言葉が、力を持っていないことが分かっている悲しげな表情を浮かべていた。見られたくないだろう。そして自分の顔も、見せられるものではない気がした。

 アキラはイオリを庇いながら、頼りにならない近くの大木に身を隠した。
 リリルという救援が来てくれたのは僥倖だったが、状況が動いていないことを妙に冷静になってしまった頭が告げていた。

 そもそもそうだ。
 空から見下ろしているグログオンは、リリルの接近にも当然気づいていただろう。
 だが、問題ないと判断し、援軍を呼びに行ったアキラの動きを止めることを優先した。

 分かっているのだ。“それだけをやればいいのだと”。
 この場にいるアキラ、スライク、そしてリリル。
 勇者が3人もいるというのに、遥か上空にいるグログオンには指一本触れることはできない。
 そして今この瞬間に、空から助けが来ることも―――ない。

「くそ……くそ……くそ」

 そして、空を見上げながらアキラは毒づく。
 いくら魔力の探知が鈍るこの樹海でも、立ち上った黒煙は誰からでも見えただろう。
 しかし、こちらの状況を証明するように、誰も助けにはこなかった。

―――クソ野郎だよ、『杖』のグログオンは。

「“だから現れやがったのか”」

 青と赤。
 光の雨が降り注ぐなか、アキラは身動ぎひとつせず、イオリを支え続けていた。

「きゃ!?」

 爆音がよりクリアに聞こえた。
 グログオンの放った矢が、リリルの盾を避け、周囲に放たれたらしい。
 リリルの盾は強固だが、キュールのように周囲を完全に遮断するものではない。
 爆風で周囲を包めば、彼女の防御を崩すことは可能だ。

 爆風に身もだえながら、アキラはイオリを守ることだけを考えていた。
 もうしばらくすれば、きっと誰かが来るだろう。
 リリルがいれば、そのもうしばらくが稼げるだろう。

 だが、その僅かな間に、胸の中のイオリは命を落とす。
 もう来ているかもしれないその限界に、アキラは気が狂いそうだった。

―――誰ならこの状況を打開できるか。

「……違う。俺が、やるしかないんだ」

 ガチガチと震える歯を食いしばり、アキラは目の前の現実に向き合う。
 諦めるな。投げ出すな。
 迷って迷って、考え続けろ。
 出来がいいとは言えないが、こんなときこそ頭を使え。

 魔力は完全に尽きている。周囲の魔力はルシルの影響で流れが鈍く、まともに吸収できない。
 だが、治療には対価が必要だ。

 イオリを救えるならこの命だって惜しくはない。だがそれは、とっくの昔に払った対価だ。使わせてはもらえない。

「っざっけんな!! ―――女勇者!! お前はもっと下がれ!!」

 グログオンは淡々と爆破の矢を射出する。
 リリルが防げない範囲の攻撃には、スライクが即座に反応した。

 何でもいい。どんな方法でもとってやる。
 グログオンはスライクとリリルが凌いでくれている。
 今、イオリの命を救うことだけに向き合え。

 問題は、魔力の供給だ。
 考えろ。それは、どこにある。

「……イオリ、悪い」

 ひとつ、思いついた。
 そんな器用なことが出来るかどうか分からない。だが、やるしかなかった。
 自分の力を、多少は信じてやれ。

 アキラはイオリを強く抱き締める。
 ジゴエイルとの戦闘中、僅かだが、魔力の回復を感じた瞬間があった。もしあれが、気のせいでないとしたら。

「―――キャラ・ブレイド」

 発動した瞬間、全ての感情が塗り潰されかけた。
 イオリを射抜いた獣の魔族。
 矮小なヒダマリ=アキラの感情が、グログオンへの殺意のみに押し潰される。

「づ、づ、ぐ、っぎ……!!」

 胸の中のイオリすら乱暴に投げ出し、今すぐ敵へ襲いかかれと感情が爆発する。

「ふー、ふー、ふー」

 だが、歯が砕けるほど食いしばり、殺意に震える身体を沈め、その獰猛な本能をアキラは必死に抑え込んだ。
 狂気に染まる膨大な思考の嵐の中、小さなアキラは抗うように立ち続ける。

 落ち着け。

 所詮は模倣だ。自分の力ではない。
 だが委ねるな。イオリが教えてくれたことだ。自分を消すために魔法を操るな。

 そうすれば、嫌いなこの魔法も自分の支配下に置ける。

「お、おおお……!!」

 イオリの身体がピクリと揺れた。
 辛うじてだが生きている。
 安堵しつつも、しかしアキラはイオリにとって酷な力を使い続ける。
 キャラ・ブレイドは抜群の戦闘性能を誇るスライク=キース=ガイロードの模倣だ。
 戦闘能力向上に魔力回復。身体を操り人形のように動かし、敵を殲滅するためだけの魔術だ。
 だが、模倣が故に、完全ではない。完全でないが故に、分解できる。

 例えば今、周囲からの魔力を取り込む性質のみを利用し、ホンジョウ=イオリから魔力を吸収出来ているように。

「っは」

 魔力の流れが鈍い空間だが、魔力を有した者と接していれば流石に吸収できる。ルシルの体内で、彼女が近づいてきたときに魔力が回復した気がしたのも、対象との距離が縮まったからだろう。
 死にかけのイオリにはあまりに厳しい衝撃だろうが、問題ない。“彼女”ならそんな相手でも救い出すことができる。

「キャラ・スカイブルー!!」

 放てるだけの魔力が溜まったと同時、アキラは即座に魔術を切り替えた。
 オレンジの光がふたりの身体を暴れ回る。

 息継ぐ間も無く治癒魔術を発動したアキラは、ようやく泣きながら笑った。
 魔王と交戦したというのに、イオリの身体にはまだまだ魔力が蓄えられていたらしい。

 辿り着いた。この魔術まで、繋がった。
 だから、頼む。
 彼女を、死なせないでくれ。

「がっ、はっ」

 イオリが胸の中で血の塊を吹き出した。
 揺さぶろうとし、慎重に木に身体を預ける。
 助かった、のだろうか。
 イオリはうなされるように荒い呼吸を繰り返し、身体を痙攣させている。

「イオリ、おい、イオリ!!」

 呼びかけには応じなかった。一命を取り留めたようではあるが、リリルのときのように復調していない。
 血を流しすぎたからだろうか。
 治癒魔術の原理など分からないアキラは、ようやくたぐり寄せた細い糸を決して離さぬように、イオリの手を握り締めた。

「アキラさん!!」

 盾を展開しながら、リリルが叫んだ。
 ようやくアキラの耳に戦場の音が戻る。
 振り返れば、戦況は変わらず、グログオンが放つ矢をスライクとリリルが防ぎ続けていた。

「イオリさんを連れて逃げてください!! スライクさん、あなたもです!! ここは私ひとりで凌ぎます!!」
「できりゃあとっととそうしてる!! あの野郎は構うだけ無駄だ!!」

 叫びながら、ふたりはグログオンの矢を凌ぎ続けていた。
 だがそれも時間の問題か。
 明確にこちらの戦力を削り取るグログオンの攻撃は、着実にリリルの魔力を消費させている。
 余裕ができたアキラは、ようやくグログオンの姿を両目で捉えられた。
 そして今度こそ、まっすぐな怒りを敵に向ける。

「……『光の創め』。いつまでも“そこ”が安全な場所だと思うなよ……!!」

 イオリを、今すぐにでも安静な場所に連れて行きたい。
 それを邪魔するというのなら―――グログオンはここで撃破する。

「リリル!!」

 グログオンの矢が止んだ瞬間、アキラはリリルに駆け寄った。
 凛々しく空を見上げて盾を展開していたリリルは、横目だけでアキラを捉える。

「悪い、協力してくれ」
「はい、何でも言ってください」
「少し魔力をくれないか?」
「はい!! ……はい?」

 本当に悪いと思ったが、有事だ。
 イオリにこれ以上無茶はさせられない。
 アキラはリリルに詰め寄ると、流れるように抱き締める。
 イオリの血をどっぷりと浴びているのも申し訳ないが、リリルは固まったままその身を委ねてくれた。

「ふあ。あの、え、え、私怪我はしてないですけど……」
「……キャラ・ブレイド」

 文句なら後でいくらでも受けよう。
 彼女と密着して雑念を振り払うのは、何度練習しても上手くはいかなかった。
 呼吸に合わせて魔力を取り込んでいくと、固まっていたリリルの体が少しだけ和らいだ。
 練習通り、力を抜いてくれているようだ。

「ありがとう」
「……はい。はい」

 なんとも締まらないが、アキラにしてみれば真剣だった。
 魔力はある程度回復できた。
 そして、魔力さえあれば、日輪族属性たるアキラは、不可能を超越できる。

 アキラは、“空に向かって駆け出した”。

「キャラ・イエロー!!」

 一歩ごとに小さく足場を生成し、アキラは宙へ向かって飛んでいく。
 ミツルギ=サクラの魔術の再現。
 グログオンはこちらの飛行可能な存在たちの状況を考慮して出現したのだろうが、この魔術を見落としている。
 飛行とは言い切れない単なる移動だが、少なくとも、空の世界がグログオンのものだけではないと知らしめられる。

「―――、」

 樹海を抜け、さらに高度を上げるアキラは、まるで海から陸に登ったような開放感を味わった。
 樹海の中は想像以上に魔力の流れが鈍かったらしい。
 新鮮な空気を得たように、身体中に活力が漲り、アキラは勢いを増してグログオンへ突き進む。

 対して、グログオンは、しばらくアキラの様子を見たのち、ゆっくりと杖の弓を構えた。

 空から自分の動きは見えていたであろう。
 ヒダマリ=アキラはグログオンの攻撃に反応できていない。
 距離も近づき、空中にいるともなれば、回避のしようがないだろう。

 そう―――勘違いしている。

「―――、」

 矢は放たれた。
 魔術の色が判断できない、光の射出。
 だがアキラは、放たれる直前に剣を構えた。

「見てなかったのか?」

 振るった剣はグログオンの矢を捉え、遥か彼方へ斬り飛ばす。
 獣の魔族の僅かな動揺を感じ取った。
 その隙にも、アキラはぐんぐんと昇りつめていく。

「“俺は見てたぞ、スライクが対応していたところを”―――キャラ・ブレイド!!」

 予想通り、この高度ならルシルの影響は残っていない。
 今、この夜空にはグログオン自身の魔力が充満している。
 リリルから得た魔力は極小だ。
 この場所まで来られれば、アキラの魔力は無尽蔵となる。

「キャラ・イエロー!!」

 魔法から魔術へ切り替え、魔術から魔法へ切り替える。
 模倣の力を使いこなし、アキラはグログオンへ接近していく。

 使うべき瞬間に、使うべき魔術を放つ立ち回りは、魔力切れをしていたとき以上にアキラの頭を蝕んだ。
 だがここで止まるな。反射で動け。
 彼女たちから、スライクから、一体何度見本を見せてもらったと思っているんだ。
 ヒダマリ=アキラとして、ヒダマリ=アキラの力を使いこなせ。

 グログオンは、今度こそアキラを捉えようと弓を構える。

 だが、“そこはすでに射程圏内だ”。

「キャラ・ライトグリーン!!」

 直前で切り替え、アキラはさらに速度を上げた。
 敵との距離がぐんと縮まる。

 不意打ちのようだが、それは向こうが最初にやったことだ、詫びる気は無い。
 アキラは剣を握り締め、弓を構えたばかりのグログオンの眼前へ飛び出した。

 容赦はしない。

「キャラ―――」
「まさか」

 グログオンの低い声が聞こえた。

「そこまで、おごりが過ぎるとは」
「―――!?」

 ガンッ!! と甲高い音が聞こえた。
 弓と化していたはずの棍棒が、目に追えぬ速度で降り抜かれた瞬間、アキラの腕に衝撃が走る。
 身体を開かされたアキラは、剣が虚空へ弾き飛ばされていることに気づいた。

「な……」

 単純な攻撃をされただけなのに、我が目を疑った。
 木曜属性の力で強化されていたはずの身体能力が、その一振りで、武器を失うことになるとは。

「癒えれば五分。飛べれば五分。それは慢心ですら無い。幻想と知れ」

 見上げる形になったグログオンは、星空の世界で、再び杖を振りかざしていた。
 本来の使い方となった棍棒のようなその杖からは、今はなんの魔力も感じない。
 ただ、魔族が、魔族の力を持って、振るわれる。

「我は『杖』のグログオン。『光の創め』に必勝を」

 無防備になったアキラに、グログオンは、

「避けてーーーっ!! 死ぬわよ!!」

 即座に蹴りを放った。

「ガフッ!?」

 意識を刈り取られるような衝撃だった。
 蹴り飛ばされたアキラは高速で落下する。

 だがその直前、自分の耳は、恐ろしい声を聞いた気がした。

「ちょっ、カイラさん!! あっち!! あっち受け止めて!!」
「わ、分かってます!!」

 落下しながら、それとは別の暴風が接近してきた。
 こじ開けていた目が捉えたのは、青い巨竜の姿と、そしてその背に乗る赤毛の少女だった。

「ぎっ!?」

 労ってくれたのだろうが、ほとんど落下の衝撃そのままに巨竜の背に落とされたアキラは、状況把握もままならないまま賑やかな喧騒の中にいた。

「カイラさん!! 今度は上、上!! あいつ、絶対敵です!!」
「むっ、無理ですそんなに行ったり来たり!! 一旦降ります!! 捉まっていてください!!」
「むう」

 煌々と拳が赤く光っていた。
 その色を徐々に抑えながら、仰向けで倒れていたアキラの視界に手が差し伸ばされる。
 アキラはおずおずとその手を取った。
 触れるのが怖いから見なかったふりをしたと言ったら、きっと怒られるだろうから。

「無事?」
「無事に見えるか?」

 エリサス=アーティは、こちらの苦労など知らずに、あるいは、知っているからそうしてくれているのか、意地悪く笑っていた。
 身体中が砕けるように痛む。イオリの治療と同時に得た体力も、魔族の蹴りで根こそぎ持っていかれたようだ。
 だが、やはり自分はヒダマリ=アキラだと思い知らされた。
 この顔を見るだけで、何とかなると思ってしまった自分がいる。

「遅ぇぞ。何してやがった」
「なっ、何をしてって、わたくしがどれほど活躍したかご存知ですか? 魔力も使い果たして……。わたくしでなければこれほど早くは、」
「わ、わ、わ、イ、イオリン!! イオリン!! た、大変です、大丈夫です、すぐに治します!! てて、アッキーもですか!?
すぐにそこに並んでください!!」

 下の樹海はもっと賑やかだった。
 着陸と同時にティアが泣きながら溢れんばかりの魔力をイオリに注いでいる。
 隣には息を切らせたサクがいた。
 彼女がティアを連れてきてくれたのだろうか。

「何か、起こってると思って、担いで、来た。正解、だったな」
「ああ……。ああ……!!」

 砕けた骨など知ったことか。
 アキラは激痛に歯を食いしばりながら立ち上がった。
 足元がふらつく。
 だがまるで気にならなかった。

「他のみんなもじきに来る。驚いたぞ、爆風が上がったと思ったらお前が空を跳んでいて。あいつが『光の創め』か……!!」

 アキラも気づかなかったが、グログオンもアキラに注意を向けて気づいていなかったのかもしれない。
 グログオンが登場するに至った圧倒的優位な状況は、覆されてきていた。

「お前こそ舐めてただろ」

 彼女たちを。
 この、騒がしい、かけがえのない仲間たちを。

 ルシルの影響も、ようやく消えかけていた。
 スライクも、すでに魔力を取り戻しつつある。

 そして背後には、さらなる足音が増えていた。

 本当に自分は矮小だ。
 優位に立つと、気が大きくなる。
 だがこの悪癖は、直さないことにしよう。

「続けるぞ……!!」

 防衛の布陣は完全だった。魔術攻撃を吸収するエレナに、攻撃そのものを無効にするキュール。
 空中戦が可能なカイラとマルドも合流していた。
 降りてこようものなら、スライクやリリルを筆頭に、数多くの白兵戦担当がその力を存分に振るうであろう。

 凌ぎ続け、ようやく辿り着いたのは、勇者3組の最高戦力。
 魔族を倒し得る、人間たちの集結だった。

「どうせ引くさ」

 駆けてきたマルドが息を切らせながら投げやりに言った。

「カイラの復帰速度を侮っていたな。俺らが集まる前に決められなかった時点で終わっている。そうだろう、グログオン。お前は、必ず勝つ戦いしかしないんだから」

 挑発のように聞こえるマルドの言葉の真意は分からない。
 だが杖同士の対面は、その両者だけに通じる何かがあるのかも知れない。

 グログオンは、握り締めた棍棒を、下げた。

「……ォオオオオオオーーーッ!!!!」
「ぐ」

 耳をつんざく巨大な雄叫び。
 グログオンが月下に吠え、大地を震わす。
 しばらくすると、グログオンの背後に、不気味な、黒い煙のようなものが現れた。

「……あれ、まさか……」
「魔門……!!」

 エリーの言葉に、アキラは思わず構えた。
 あんな場所にあるとは思えないのだが、実物を見た彼女が言うのだから間違いない。
 グログオンがさらなる追撃を放つと判断し、警戒に警戒を重ねていると、しかし、グログオンの身体が煙に巻かれ、見えなくなっていく。

「……終わりだ。『光の創め』が引くときは、必ず”あれ“が現れる」

 マルドも警戒はしているものの、その緊張を解いていた。
 そして言葉通り、グログオンは空から姿を消し、黒い煙もいつしか見えなくなっていった。

「魔門……。本当にあれ、魔門だったのか?」
「え、ええ、多分。マルドさん、あれって、」
「イオリン!! 良かった、良かったです!! 良かったよぅ……!!」

 エリーの言葉は騒音に流された。
 どうやらイオリは無事らしい。
 元気が有り余っているのだろう、ティアの徹底温存は正解だった。

 相変わらず攻撃しているとしか思えないような、加減を知らない治癒魔術を浴びながら、アキラはどかりと座り込んだ。
 結局逃げられた。スライクたちは、いつもこんな煮え切らない結果で終わっているのだろうか。

 アキラはエレナに背負られているイオリを見ながら、その無事に安堵の息を漏らし、しかし、苦々しげに呟かざるを得なかった。

「……『光の創め』」

―――***―――

「おい、ベックベルン山脈が砕かれてたって聞いたか」
「そんなの嘘だろ、あの山に何かしたら、今頃ここは更地になってる」
「ゴズラードとかいう化け物だっけか。まあそうだよな。だけどさっき、念のため見回りに何人か出掛けるのを見たぞ」
「お前ら、静かにしていろ。始まるぞ」

 エレナ=ファンツェルンはサルドゥの若い男たちの会話を適当に聞き流し、間も無く儀式が始まる様子の祭殿の前を無遠慮に通り過ぎた。
 樹海の中、このか弱い女性を集団で取り囲んだワニのような魔物たちはどうやらゴズラードというらしい。
 自分にもっと知識があったら、あの時点でなんらかの異常が発生していたと察知できていたのだろうか。
 まあ、過ぎたことだ。

 時刻は間も無く夜明けを迎える。
 樹海を支配していたあの感覚が鈍くなるような影響も薄れ始め、エレナは大きく深呼吸して樹海の新鮮な空気を取り込んだ。

 話し合いの結果、魔族の出現についてはサルドゥの民たちを始め、気づかなかった他の護衛たちには、無用な混乱を招かぬよう、魔族の複数出現については話していない。

 サルドゥの民たちにとっては多少のハプニングはあった程度で、間も無く、バオールの儀式とやらが開始される。

「あーらアキラ君。ここにいたんだ」

 歩いていると、輪から離れて木陰に座るアキラを見つけた。
 エレナは声量を落とすこともせずに話しかけると、ゆっくりと隣に腰掛ける。何人かサルドゥの民が咎めるように振り返ったような気がしたが、そっちも勝手にやっているのだ、こっちも勝手にやらせてもらう。

「いろいろやばかったわね」
「エレナか。ああ、そうだな」

 諸悪の根源である魔王。そして、自分も遭ったことがある『光の創め』の一派。
 彼はその2体の魔族と連続で衝突したらしい。
 ヨーテンガースについて早々そんな事態になるとは、流石のエレナもアキラを取り巻く運命が愛おしくてたまらない。

「魔道士ちゃんは? 意識は戻ったの?」
「……まだ眠っている。でも大丈夫だ、ティアが付きっきりで診てくれているよ」

 そっちの心配はしていなかった。一時期危なかったらしいが、あのアルティア=ウィン=クーデフォンの治療能力は尋常ではない。
 医学的な知識はからっきしだが、彼女が命を取り止めると言ったら事実そうなる。
 そこでエレナは、座り込んだアキラが右腕をだらりと下げていることに気付いた。骨折でもしているのだろうか。
 思わず口を出そうとし、エレナは言葉を飲み込んだ。バオールの儀式などどうでもいいが、彼が耐え忍んでいる静寂を乱すことは躊躇われた。

 祭殿の四隅に立てられた松明のようなものに火がついた。
 揺らめく炎に導かれるように、厳かな衣装に身を包んだサルドゥの民が祭殿の前に立つ。
 儀式が本格的に始まるようだ。

「……あんな奴もいるんだな」

 顔は儀式に向けたまま、アキラがポツリと呟いた。

「事前にさ、聞いてたんだよ、あのマルドって人に。『杖』のグログオンがどんな奴か」

 マルドを始め、あの4人は4大陸でも『光の創め』と頻繁に抗戦していたらしい。
 彼らは今どこにいるのか。
 探そうとも思っていない自分の目は、儀式が執り行われている広場から彼らの姿を拾えなかった。

「魔王やサーシャの出現もあって、何が偶然で、何が狙ってやったことなのか分からない。だが奴は待っていた。こっちが疲弊しきって、しかも空を飛べなくなるタイミングを」
「でも、アキラ君は向かって行けたじゃない」
「あんなもん、奴にとっちゃ誤差でしかねぇよ。どういう理屈か知らねぇけど、奴は本当の意味で空が飛べる。抗戦したってまともに攻撃できないさ。現に……」

 アキラが右手を上げようとして、言葉を止めたのが分かった。
 エレナは気づかないふりをした。

「しっかし、天敵ってレベルじゃなかったみたいじゃない。勇者3人揃ってたってのに、ふふ、誰も空の敵を攻撃できないなんてね」

 カラカラ笑って、エレナは立ち上がった。再びサルドゥの民から非難めいた視線が向けられるが、知ったことじゃない。
 半ば放心状態のようにも見えるアキラを見下ろし、エレナは不敵に笑った。

「遠距離攻撃ができない。致命的な弱点、ってわけじゃないけどね。でもそれはまあ、“他の大陸なら”、だけど」

 本当にいろんなことが起こった夜だ。
 話に聞くヨーテンガースの洗礼が、正面切って襲いかかってきたような夜だった。
 サルドゥの民が預かり知らぬところで、彼は心身ともに、随分と疲弊した。
 だがエレナは、その負担を分かち合おうとは思わなかった。そんなものに縛られるのは、自分の性分ではない。

「エレナ、お前だって他人事じゃ、」
「あーらアキラ君。―――私にそれができないなんて、言ったことあったかしら?」

 声量は、抑えた。
 つい、言葉が漏れてしまった。
 自分の目的を考えたら、言うべきではないのだろう。だが、言わざるを得なかった。

 これは、本格的にまずいかもしれない。
 人とは基本的に深く関わらない、エレナの信条に関わる問題だ。多かれ少なかれ、誰もが何かを抱えている。自分のことを疎かにしてまで、それと関わろうとするのは愚の骨頂だ。
 今まで人に関わることが少なかったゆえに気付いていなかっただけで、自分という人間は情というものに弱いのかもしれないと、彼らと共に旅するようになって気づかされた。
 だから、ますます関わるべきではないと冷静な頭は告げていた。
 関わってしまえば、言ってしまえば、自分はきっと彼に囚われる。
 そう思っているのに、エレナは自分に苛立ちながら、投げやりに言ってしまった。

「今回はたまたまよ。近くにいてあげられなくてごめんね」

 やはり、まずい。
 自分の中に最も似合わない、責任感というものが生まれてきている。
 全世界から勇者という責任を負わされている彼よりはマシかもしれないが、そう考えている時点で手遅れなのだとエレナは知っていた。
 責任とは、ある意味自分が最も忌避するものだ。
 だが彼が顔を上げたのを見て、意外にも、気持ちは重くならなかった。

「だからね、アキラ君。先のこと悩んでくよくよする必要なんてないわ。次からはこのエレナさんがなんとかしてあげる。機嫌と気分によっては、助けてあげないこともないから」

 いつも自分が、周囲から受けている印象そのままの言葉を言い切った。
 やはり彼とこれ以上関わるのは危険かもしれない。
 辛うじて浮かべられた不敵な笑みが崩れそうだった。

「……分かったよ、やばいときは頼らせてくれな」
「ふふ。頼られてあげる」

 茶番には付き合ってくれたらしいが、妙にむず痒い。
 少しは落ち着いたようだ。これ以上は何も言わない。自分はそういう人間なのだ。

 エレナはそのまま踵を返すと、聞いたこともない呪詛のようなものを唱え始めたサルドゥの民を視界の隅に追いやり、歩き始める。

「だけど」

 そこでエレナの取り戻した鋭い感覚が、悪寒を拾った。

「お前たちは軽々しく無茶しないでくれよ」

 その出所は、祭壇か、あるいは。

「ああ、俺やっぱ変になっちまったかも。腕、折れてるみたいなのに、全然痛み、感じねぇんだよ。やっぱ麻痺してんのかな、はは」

 放って置けなかったとはいえ、迂闊だった。
 ヒダマリ=アキラという人間を一端でも理解していれば、彼がどういう心境なのか、理解できそうなものだったのに。

「一発攻撃受けただけで、このザマになるほどの力の差があるんだぜ。腕は折れて、サクには飛んでった俺の剣、探しに行ってもらっているほど疲れ果ててんのに―――今すぐ殴りかかりにいきそうだ」
「……アキラ君、落ち着きなさい」

 焼け石に水なことも分かっていた。
 ヒダマリ=アキラという人間は、未完成な人間だ。
 結果として無事だった、もう過ぎたこと、などという大人の思考は、この事実を前にはまともに働かない。

 彼は仲間を、こよなく愛する。

「エレナ、お前たちもそうだったんだろう―――被害に遭った」

 アキラの眼は、エレナが竦むほど、怒りに燃えていた。

「『光の創め』は俺が叩き潰す。勇者の仕事じゃなかろうが、容赦はしねぇ」

―――***―――

 リリル=サース=ロングトンはひとりで樹海の調査を進めていた。
 断片的に聞けただけだが、この樹海は魔王やあのサーシャ=クロラインという名だたる複数の魔力の影響下にあったのだ。
 もう日が昇り始めている。順調に行けばバオールの儀式が始まっていることだろう。そんなときに、魔王たちの影響を受けた樹海の魔物たちが何をするかは分からない。
 見回っている限り平穏だが、油断は禁物。魔王と抗戦したヒダマリ=アキラたちとは違い、自分は魔力をまだまだ残しているのだ。自分は誠心誠意働かねば。

 甚大な被害をもたらした北西の樹海はやや焦げ付いた木々の匂いが鼻に付くだけで、何事もない。
 魔術攻撃による火災が発生していたのだが、彼らの中の誰がやったのか、ものの見事に鎮火している。
 焦げ付いた大木がなぎ倒されて草木が散乱している大地を周るように歩きながら、リリルは夜明け空を見上げた。
 現時点では、今日この樹海で起こった出来事を知っているものはそう多くない。今日の昼にでも魔術師隊たちの調査が行われるだろうが、サルドゥの民たちのほとんどは魔族襲撃に気付きもしなかっただろう。
 余計な不安を煽るだけなら、せめて儀式が終わるまでは、何も伝えないほうがいいと、自分が最初に提案したのだ。

「……どの口が」

 酷く黒い言葉が出てきた。リリルは自分の口を思わず抑える。
 見上げた空には、満月の輪郭が薄ぼんやりと浮かんでいた。

 自分は世界の憂いすべて払うことを志す勇者だ。
 そして今日、目の前に、サルドゥの民たちを全滅させる恐れのある魔族が出現した。村ひとつ、町ひとつ、たやすく滅ぼすことのできる力を持つことは、自分が誰よりも知っていた、因縁深い魔族だ。
 そしてその魔族の影響下にあったサルドゥの民たちを前にして、自分は一体何をしたのか。

 ゆっくりとしゃがみ込むと、地面が滲んで見えた。

 結論から言えば、自分の取った行動は正しかった。
 カイラ=キッド=ウルグスの力はあの盤面では絶大な効果をもたらし、たとえ自分がサルドゥの民たちの救出に全身全霊をかけていたとしてもさした効果はなかったであろう。
 魔族が3体も出現したこの依頼、被害は最小限に留められたのも、すべてが噛み合ったからだと言っていい。

 だけど、胸を締め付けられるような痛みがリリルを襲っていた。

 理由は分かっていた。
 多分、これは自分の感情の問題だ。最近、律しようと思ってもまるで効果のない、この感情が原因だ。

 命の危機にさらされたサルドゥの民たちを放り出し、魔術の消費を気にもせずに樹海を全力で駆け続け、そして、血だらけのホンジョウ=イオリを前にしても。

 自分は、彼の無事を、心の底から喜んでしまった。

「……?」
「どうした、具合でも悪いのか?」

 辛うじて拾えた気配が、声をかけてきた。
 ヨーテンガースの樹海で無防備になるなど信じられない。ますます自分が嫌になる。
 ゆっくりと立ち上がり、いつも通り正面に向かって立つと、目の前には赤い衣を纏った少女が立っていた。

「サクラさん。どうかしましたか?」
「……サクでいい」

 ミツルギ=サクラが彼女の名前だ。そういえば、前もそんなことを言われた気がする。
 エリーや、特にティアだが、自分は度々人の呼び方を忘れてしまう。
 ひょっとしたら自分は冷たい人間なのかと思い悩んだこともあるが、どうも誰かと深い関係を築くのがそもそも苦手なようだ。

「それより、今日は魔族と抗戦したんだろう。アキラを救ってくれたことには本当に感謝している。見回りなら私がついでにやっておくから、戻って休んでくれ」
「いえ、大丈夫です。それに、結局またアキラさんに助けてもらいましたし」

 珍しい話し相手だった。彼女が無口なことも相まって、まともに会話したことなど数える程度だ。

「サクさんはどうしてここに?」
「主君の剣が樹海のどこかに吹き飛ばされてな。仕方ないから探してやっているんだ」
「私も手伝いますよ。サクさんも、ずっと走り回っていたんですよね?」

 リリルは反射的に言った。
 サクはため息と共に、苦労半分怒り半分の表情を浮かべているが、どこか暖かな気配をリリルは感じ取った。柔らかさと、しかしそれでいて、妙な焦燥感を覚える、最近よく感じる感覚だ。

「いやいいよ。一応私の仕事、みたいなものだからな。まったく、ヨーテンガースに着いて最初の仕事が、前々から言っていた武器関連のこととはな」

 サクには断られたが、二手に分かれるのも妙なので、流れでリリルもサクに同伴した。
 年下と聞いた覚えがあるが、背は高く、並んで歩くと妙な頼もしさを覚える。リリルはあまり人を盗み見るということはしないのだが、思わず視線を走らせると、サクの横顔から、ほんの少しのあどけなさが感じられた。
 ひとりで旅をしていたときと違って、妙に周囲が気になり出す。
 その変化は、果たして成長なのか。

 そういえば。

「……サクさんは」
「ん?」

 暗い樹海を差し込める日の明かりだけですいすい進むサクに、リリルも速度を落とさずに着いていく。
 周囲に気を配りながら、幾度目かの横薙ぎになった大木を跨いだとき、リリルは思わず声を漏らした。

「以前聞いたのですが、サクさんもひとりで旅をしていた頃があったそうですね」
「ああそうだな。あまり格好がつかないが家出して。今は何の因果か魔王討伐を目指しているよ」
「それは、」
「まあ仕方ないさ。リリルさんほど立派じゃない。たまたま主君が勇者で、たまたま望みが魔王討伐だったんだから」

 凛々しい横顔が、柔らかく崩れていた。
 寡黙で、それでも真剣で、話したことは少ないが、生真面目な印象を受けていただけに、そんな冗談めかして話すとは思っていなかっただけに意外だ。
 主君、とは、アキラのことだろう。サクは彼の従者らしい。深くは聞いたことはなかったが、自分のような部外者が触れていい話ではないような気がしていた。

「アキラさんほど立派な方の従者だと、色々と気苦労も多いでしょうね」

 リリルも冗談めかして言うと、サクの方は微妙な表情になった。
 自分は冗談が得意ではない。妙なことを言ったのかと口に手を当てて見ていると、サクが苦笑していることに気付いた。

「ああ、立派だな。立派だよ。うん」

 自分に言い聞かせているように呟くサクを、リリルはしばらくじっと見ていた。
 視線に気付き、サクは息を吐き出し、しかし思い直したように視線を向けてきた。

「いや、そうだな。違うか。アキラはな、立派になったんだよ」

 剣捜索の巡回経路は、樹海を縫うように進んでいるらしい。
 踵を返すように折り返したサクにリリルも続く。

「主君の評価を落とすようなことは口にしないようにしていた。まあ、飛んでいった方向程度しか分からない剣を探す苦行に対する仕返しもあるから言ってしまおうかと思いもしたが、違うな、そうじゃない」

 サクは唸るように呟くと、今度は笑っていた。

「最初にあったときのあいつは信じられないくらい酷くてな。妙な縁を感じはしたが、行く当てのない私ですら、主君にするならこいつだけはないなと思っていたものだよ」
「そんなこと」
「あったんだよ、本当に。何しろ、あいつはいく先々でトラブルに巻き込まれる。その力が強すぎるのに、奴にはそれを跳ね返すだけの力がない。妙な自慢みたいになるが、エリーさんや私に会わなかったら、あいつはとっくの昔に潰れていただろうな。そう確信するほどの強い力を感じさせられたよ。必ず周りを不幸にする。そんな印象だった」

 ヒダマリ=アキラ。
 リリルが知っているのは、立派に勇者になった彼の姿だけだ。
 エリーとサクは、彼がこの世界に落とされてからずっと共に旅をしているらしい。
 勇者として完成する前のヒダマリ=アキラは、その頃から、日輪属性の影響下にあった。
 そして、それでも彼女は、ヒダマリ=アキラを選んだのだ。

「だがな、それは奴の恥ではないと思うよ。着実に力を付け、呪いのようなトラブルも跳ね返せるようになった。その過程は、奴を否定するものにはなり得ない」

 サクは頭を振り、表情を正した。

「まったく、気苦労だらけだよ。奴は立派な奴じゃない。立派になった奴なんだ。そして、その成長は今も続いている。従者の私にとってはたまったものじゃない。今も昔も、手がつけられないんだから」

 サクがピタリと立ち止まった。
 彼女の視線を追うと、まるで見つけて欲しいように、アキラの剣が樹木の中腹に突き刺さっている。
 
 サクは肩を落とし、歩み寄ると、剣を掴んだ。

「私は毎日必死だよ。そんな奴の従者として、奴に見合うだけの存在になるために、なり続けるために、な」

 リリルの喉が、意図せず鳴った。
 胸の奥をつかれたような気になった。

「……少し、話しすぎたかな。魔物が出ないのも考えものだな。剣は見つかった。手入れくらいはあいつにさせるか。リリルさんは?」
「…………私はもう少し見回りを続けます」

 心配そうな表情を浮かべていたが、サクは頷くだけで去っていってくれた。
 その背中が見えなくなるまで立ち尽くし、リリル=サース=ロングトンは考える。

 自分のしたいこと、されたいこと。
 そして、自分がすべきこと。

 静まり返った樹海からは、答えなんて返ってこないことは分かっていた。

―――***―――

「ひやりとしたな」

 こちらの台詞だ。
 サーシャ=クロラインはその背を追って、黙って歩き続ける。

 ジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース。
 百代目魔王にして、“あえてこのサーシャ=クロライン”を配下に選んだ異例中の異例の魔族。
 いや、自分だけではない。

 サーシャ=クロライン。
 リイザス=ガーディラン。
 そして、ガバイド。

 百代目魔王直属の魔族たちは、その全てが、ある種“別枠”として扱われていた魔族だ。
 その主たる魔王ジゴエイルは、遠目から見れば夫婦が夜逃げでもしているようにしか見えないほど、人間にしか思えない表情で微笑み続ける。

 サーシャは美に固執する故に人の目を惹く姿をしており、フードを被らなければ人目を集めてしまうのに対し、ジゴエイルはどこまでも平凡な人間に化けることができる。
 そんな人間は、朗らかに笑いながら、先程の勇者たちとの激突を思い起こしていた。

「……」

 サーシャは口を挟まなかった。
 人間魔族問わず心を読むことができるはずのサーシャだが、ジゴエイルの心はまるで読めなかった。
 読み難いではなく、読めない。
 “心を読むことが他者の思考プロセスを追う唯一の手段”であるサーシャにとって、ジゴエイルの存在は、あるいは人間が魔王に抱くそれより恐ろしかった。

 この魔王は、先ほど最も有望な勇者候補ふたりと交戦し、危うく討たれるところだったはずだ。
 だがそれでも、さして感想もないのか、やはり、どこまでも普通の人間のように歩き続ける。

「サーシャ。仕込みはできたんだろうね」
「……ええ。仰せのままに」

 今回この魔王が自分に指示してきたのは勇者候補たちへの妨害と、サルドゥの民の儀式への介入だ。
 勇者候補たちへの妨害の方は、想定外の自体もあったが、問題なく遂行したと考えている。
 府に落ちないのは、勇者候補たちに比べ、あまりに矮小なサルドゥの民たちへの儀式の介入の方だった。
 自分は言われた通りに言われた手順で儀式の術式を組み換えたのだが、“全知”とも言われる月輪属性だというのに、何の効果があるのかまるで分からなかった。

 “全能”たる日輪の魔王は、何も聞き返さずに歩き続ける。
 わざわざ魔族に介入させるほど重要視している儀式の妨害だというのに、その出来を確認しようともしない。
 ありえないが、もし自分が、儀式への介入の手順を誤って行っていたらどうするつもりなのか。
 信頼されていることの証明とも考えられるが、それが誤りであるとサーシャは分かっていた。

 何が起ころうとも、想定以上であろうが想像以上ではない。

 時折この魔族が漏らすその言葉が、“支配欲”の魔族、サーシャ=クロラインに不気味なほど巨大な折を想像させた。
 その折の中で、指示通りに動こうが、指示を無視して動こうが、ジゴエイルにとって、些末な問題に過ぎないという、絶対的な支配者の姿がそこにあった。
 欲の重複は魔族にとって禁忌である。

 だがサーシャは、この魔族に反旗を翻す気にはなれない。
 たとえば今、自分が背後から襲い掛かったとして。

 それすらも、この存在にとって想像以上ではないのだろうから。

―――***―――

「至急調査に向かいます!」
「不許可だ」

 待ってましたと言わんばかりの勢いで立ち上がったのだが、光沢のある長机の最奥の男に止められた。
 アラスール=デミオンは、思わず怒りの眼で男を睨みつける。
 シワひとつない軍服をピッシリと身に貼り付け、汚れ仕事などしたこともないような綺麗な指を組み、産毛ひとつない顎を乗せ、さも自分は偉いのだと言わんばかりに厳粛たる態度をとっているこの男は、グリンプ=カリヴィス8世。いや、7世だったかもしれない。
 魔導士隊と直接の関わりは無いらしいが、自分も知っている魔導士隊のお偉方が、彼の指示には従うよう、何故か自分には何度も言い聞かせてきたのを覚えている。

 グリンプの胸には、誰が恵んでやったのか黄金の勲章が3つほど横並んで付けられていた。
 お偉方のすることは、相変わらずアラスールには理解できないし、したいとも思わなかった。

「グリンプ氏」

 アラスールは精一杯、“あの死地”を、激闘の日々を思い起こし、高そうな会議机をギリギリ叩き壊さない程度で叩きながら、グリンプに殺気混じりの視線を飛ばす。

「今の報告、私の聞き間違いでなければ、人類にとって重大な事件が発生したらしいですが?」
「もちろん聞いていた。昨夜クラストラス近辺に魔王が出現したらしいな」
「だったら!」
「昨夜だろう。すでにクラストラスの魔術師たちが調査に当たっているというじゃないか。今さら君の出る幕はないだろう」

 自分で言うのも悲しくなるが、グリンプはこの手の輩の相手は慣れているのだろう。アラスール渾身の睨み付けに、まるで動じず淡々と言葉を発する。
 アラスールは机に並ぶ面々を見渡したが、どうやら誰も自分に助け舟を出す気はないようだった。

「君。いつまでいる気だ。下がりなさい」
「は、はい!」

 扉を勢い良く開けて入ってきていた報告者が、グリンプの睨みに萎縮し切って脱兎の如く逃げ出す。
 久しぶりに味わえた外の新鮮な空気は、重々しい扉の音と共に閉ざされてしまった。

 正直、この会議を抜け出すためなら、アラスールはあの報告者が近所で野菜を安売りしていると叫んだとしても飛び出していっただろう。
 仮にそうなら諦めているのだが、今回ばかりは事情が事情だ。ヨーテンガースの魔道士として、引くわけにはいかない。

「グリンプ氏。クラストラスと言えばヨーテンガースにとって最重要拠点。報告した通り、勇者様候補もそこにいます。魔王が再び現れないとも限らない中、あまりに無警戒では?」
「あんな砂ばかりの場所に篭っていたせいで、見失っているらしいな、ヨーテンガースの戦力を。ファクトルから出てきた魔王など、クラストラスの部隊でも十分に迎え撃てる」
「なら、今が一斉に迎え撃つチャンスでしょう!?」
「魔王とて不用意に出てきたわけではないだろう。すでに離れた、ということは、今頃戻っているはずだ。それに、誤解をしているようだな。ヨーテンガースで最も重要な場所は、ここだ」

 グリンプは、険しい顔つきのまま指を机に突き立てた。
 あの死地に足を踏み入れたこともないというのにその名を軽々しく出すな。アラスールの怒りが臨界点を迎えようとしたが、美容に良くないとなんとか気を落ち着かせ、可能な限り優しい声でグリンプの後ろに立つ女性に声をかけた。

「ねえ、フェシリアちゃん。今魔王がどこにいるのか、“聞いてくる”ことはできないかしら?もし近辺にいるなら、最大最高のチャンスなんだけど」

 突然話を振られたフェシリアは凍りついた。
 金の長髪を背中に1本にして垂らし、やや小さい身体付きに魔道士のものによく似ている紺のローブを纏い、長時間に及ぶこの下らない会議である意味利口なのか一言も発さなかったこの女性は―――フェシリア=“アーティ”。
 硬直していた彼女は、全員の視線が自分に集まっていることに気づいて髪を前に持ってきて触り始めた。気も小さいようだ。

「……そ、そう、ですね。一応、」
「止めろ。無駄なことを『接続者』にさせるな。それに、『代弁者』にもその権利はないはずだ」

 ここが戦場なら、すでにアラスールは何度魔術を偉大なるグリンプ氏に叩き込んでいただろうか。
 だが、この男が、唯一の正解とは言わないまでも、徹頭徹尾正論しか言っていないことを残っていた理性が訴えてくる。

 確かにこれは、予断が許されない、“大仕事”なのだ。

 アラスールはようやく腰を落とし、怒りを抑えた。
 ちらりと顔を上げると、申し訳なさそうに目を細めるフェシリアと目が合った。巻き込んだのはこっちだ。あとで何かご馳走させてもらおう。

「では時間も遅い、そろそろ本題に戻ろうか。世界を脅かす“兄”の話に邪魔をされたが―――“歴史”を脅かす“弟”の対策を」

 アラスールの頭痛が強くなる。もともと自分は戦闘が本職だ。器用なだけであって、隊長職の適性が高いわけではない。それなのに、なんでこんなずっと座って頭だけを使わされ続けるのか。
 アラスールが魔道士としてあるまじきことに、この運命に神を呪っていると、意外にも、天罰どころか吉報が来た。

 もう何度聞いたか分からないような前置きののち、グリンプが言葉を続けようとすると、再び会議室の扉が叩かれる。

 不愉快さを隠しもせずにグリンプが来訪者を通すと、それは意外にも、自分の部下だった。

「お話中のところすみません。隊長」
「なに? 私?」

 それなりに付き合いの長い部下の男に呼ばれ、アラスールは軽やかな足取りで歩み寄る。

「魔王が見つかったのかしら? それとも魔物の襲撃?」

 少しくらいは喜びを隠せただろうか。長丁場の会議で思考が疲れているのか、声が弾んでいることにアラスール自身が気づいていた。この会議を抜け出せるなら最早なんでもいい。

「いえ、先ほどの魔王出現の報告を受けて、その、”彼女“がここを離れてしまいまして」
「!」

 グリンプの表情が崩れ、後ろのフェシリアも口元を押さえた。
 アラスールは背筋をピンと伸ばす。
 部下の男は、やや含み笑いをしながらグリンプから見えない角度で親指を立てていた。

 なんと誇らしい部下たちか。

「グリンプ氏。残念ながら、私はやるべきことができました」
「“彼女”が!? どこへ行った。アラスール、君の部下だろう!?」
「ええ、ええ。まったく、私の監督不行届です。待機続きで鬱憤が溜まっていたのでしょう。今すぐ探しに行きます」
「他の部下に任せれば、」
「私なら、すぐに見つけられる確率が高いですが」

 そう言って、背後に伸ばした手に、部下の男から紙切れを押し付けられる。彼女が残していった手紙だろう。
 グリンプが鼻を鳴らしたのを離脱を許可したのだと好意的に解釈して、アラスールは会議室を飛び出した。

「フェッチ。遅かったじゃない。他のみんなは?」

 廊下を走りながら、アラスールは息の塊を吐き出した。

「それなりのこと起こらないとダメでしょう。あと、みんな飽き飽きしてますよ。俺らも行かせてくださいよ」
「だーめ。全員いなくなったら流石に私の首が飛ぶわ」

 アラスールは彼女の残した手紙を確認すると、そっと大事に胸元に閉まった。
 カラカラと笑いながら、アラスールは出口へ向かってひた走る。
 グリンプの気が変わらぬうちに、さっさとここから離れよう。
 何しろ急務だ。

 これから起こることは、このヨーテンガースの戦力を結集させる必要があるとのことなのだから。




[16905] 第五十七話『番外編なんかじゃない』
Name: コー◆34ebaf3a ID:54b550c7
Date: 2020/10/02 19:01
―――***―――

 その日は日中雨が降っていて、夜になっても、どんよりとした雲が空を埋め尽くしていた。
 風が出てきたようだから、波打つように蠢く雲は窓の中から見ていると、いいように言えば幻想的で、悪いように言えば気分が悪くなってくる。
 言いようのない息苦しさを覚えて窓を開けてみたが、やはり湿度が高いのか生温かい風が流れ込んでくるだけだった。

 数日前までいた港町なら、潮風に頬を撫でられ、多少はマシだったろうか。
 もっとも、元の世界よりは、か。樹海の近くにあるこの街と、コンクリートに囲まれた街の風では、比べるべくもないのだろうから。

 ヒダマリ=アキラは、ベッドに足を投げながら、薄ぼんやりとした部屋でそんな無駄なことを考えていた。
 この街に辿り着き、当てがわれた宿屋の自分の部屋に入ってから、随分と時間が経ったようにも、まるで経っていないような気もする。
 日はどっぷり沈んでいる。夕食の時間もとっくに過ぎているだろう。みんなはもう済ませただろうか。
 首元を拭うと少し汗をかいていた。街についてから一度汗を流したが、もう一度湯を浴びた方がいいかもしれない。
 しかし、先ほども同じことを考えて、億劫だからと諦めたことを思い出した。

 風が少しだけ強くなった。
 部屋の奥でガサリと何かの音がする。吹き込んできた風が何かを倒したようだが、アキラはただ静かに窓の外を見上げていた。
 こうしていても、何も変わらないことなど分かっているのに。

 きっと、何かが悪かったのだ。
 だから、結局、いつもの通り、ヒダマリ=アキラが悪かったのだ。自分が最も愚かなのだから、そうに決まっている。

 かつての自分なら、きっとそう結論付けていただろう。
 だが、その思考は、責任感や自己犠牲など崇高なものではないと、最近は思う。
 その思考は、悪いことが起こった場合、自分ならなんとか出来たと傲慢にも思っているか、現実が見えていない愚者が考え付くものでしかない。なるほどまさしく自分だ。だからきっと、今までアキラは、その安直な答えにすぐに飛びついていたのだろう。
 自分を戒めるためにも、そのとき自分にできたことを探すのは必要だし、それは自体前提とも言えるほど誰しもが行う反省ではあるが、それがそのまま答えにはならないこともあると知っていなければならないのだろう。
 ああ、駄目だ。自分の頭では、これ以上難しいことを考えられない。

 だから、アキラはただ現実に起こったことを、ぼんやりと思い浮かべた。
 そういうこともあるのだと、知っておくために。

 全員が正しい行動を取った。
 だが、結果は悪かった。

 5日前のことだ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「ずっ、ずずっ、ずるいですっ!!」

 異世界来訪者たるヒダマリ=アキラは勇者に選ばれ、打倒魔王を掲げる頼もしい仲間たちと共に世界中を旅し、ついに最後の大陸、ヨーテンガースに到着した。
 魔王の牙城がある大陸ということもあり、到着した直後、他の大陸とは次元の違う洗礼をどっぷりと浴びたのがつい先日。なんとか難を逃れたアキラたちは、この港町、クラストラスで今後の方針を定めつつ休養をとっていた。
 自由行動となると各々が思うままに行動し出すのはいつものこと。今拠点としているこの宿屋に今何人残っていることか。
 仲間の赤毛の少女が頭を抱え始めていたのを横目で見て、巻き込まれる間に逃げてきたアキラの耳に、ちょうど向かおうと思っていた部屋から、よく聞く大声が飛び込んできた。

「? 入るぞ?」

 来客中で、しかも相手が奴なら気にすることもあるまい。
 軽くノックだけしてドアを開けようとすると、その隙間から鋭く氷が投げ込まれてきた。

「ばっ!?」

 辛うじてかわしたアキラが恐る恐る部屋の様子を伺うと、上半身だけ起こした女性がベッドの上でシーツに身体をくるんでいた。
 どうやら元気そうだ。

「わ、悪い、着替え中だったのか」
「出て」

 氷などよりも冷たい声に、何も言わずに従ったアキラが廊下でしばらく硬直していると、ようやく中からどうぞと聞こえた。
 今度こそ警戒してゆっくりと部屋に入ったアキラは、ようやく、部屋の主と向き合えた。

 ホンジョウ=イオリ。
 普段ぴっちりと魔道士隊の制服を着こなしている彼女は今、ややサイズが大きめのシャツを纏い、ベッドに座り込んでいた。
 服装こそラフだが、数日は寝たきりだったはずなのに彼女の容姿には乱れはなく、いつもの彼女の印象を大きく損なわなかった。
 ベッドの脇に鏡や日用品が置いてあるから、それで整えているのだろうか。氷の入った水も見つけた。先ほどはあれを投げつけられたのだろう。
 イオリの表情は、やや冷めたものになっている。それもいつもの印象だった。

「良かった、元気そうだな」
「うん、お陰さまで……と言いたいけど、どうして昨日できていたことが今日できなくなったのかな」
「?」
「ノックの話だよ。するだけじゃ意味がないって知っていたじゃないか」
「だから悪いって。もう誰かいたみたいだから……てかあれ、さっき……うわ」

 軽く室内を見渡したら、勇壮活発、自由奔放、24時間365日営業のアルティア=ウィン=クーデフォンが喉奥に何かがひっかっているのかお腹が空いているのか分からない表情を浮かべ、小柄な身体をさらに縮こまらせて、ベッドの向こうに座り込んでいた。
 無視しようかどうか迷ったが、一応大恩のあるティアを邪険にするのも憚れる。
 危険物に触れるように慎重に、アキラはティアの顔を覗き込み、軽く目の間で手を振った。目が付いてくるから、意識はあるらしい。

「ティア。イオリの様子はどうなんだ? もう大丈夫なんだよな?」
「……はい。イオリンはもう大丈夫だと思います。……大丈夫過ぎます」
「大丈夫過ぎる?」

 数日前に巻き込まれたというか飛び込んでいったとある依頼。
 それは、魔族が複数体出現するという世界でも類を見ない次元の大事件となった。
 辛うじて退けられたが、ホンジョウ=イオリは命を落としかねない深手を負わされ、現在も休養中となっている。
 このアルティア=ウィン=クーデフォンの治癒で一命は取り留めたが、胸を貫かれ血を流し過ぎたのか早期復帰とはならず、今も過度な運動は禁止されていた。
 もっとも、胸を貫かれたのに数日以内に復帰できるという時点で、この世界の治癒魔術は元の世界とはまさしく別次元なのだが。

「それでアキラ。待たせてしまって悪かったね、そろそろ次の街へ行こうか」

 触れないことにしているのか、様子のおかしいティアを一瞥もせずにイオリが言った。
 復調をアピールしたいのか姿勢を正して胸を張っている。
 アキラは訝しんだが、イオリには何か考えがあるようで、ベッドの脇に置かれた袋をガサゴソと漁り始めた。話を聞くだけは聞いておこう。
 イオリは、身体を捻って無理な姿勢をとっているのに、不自由なく動けているようだ。アキラはようやく胸を撫で下ろした。
 昨日来たときより、顔色もよくなっているようだ。

 イオリが取り出したのは、このヨーテンガース大陸の地図だった。
 今アキラたちがいるのはこの地図の北部の港町、クラストラス。ざっと見渡したところ、地図上の北部はこの港町が目立つばかりで、めぼしいところはほとんどないようだ。
 中央を大きく樹海が横切って、その下にあるのが南部。
 北部と違い、山岳地や巨大な湖のような記号もあり、同じ大陸だというのにまるで別世界のようにあらゆる地図記号が使い尽くされ、ごちゃごちゃとした世界の尺図のようにすら見えるほどだ。
 しかしそこで、最も目に止まるのは最南部の“砂地“。
 アキラの視線に気づいたのか、イオリは軽く地図を折りたたみ、最南部を隠した。

「みんな集まったときも話すけど、僕らはここから南下していくことになる。ただ、タイローン大樹海はある程度は迂回しないと行けないからね。いくつかルートは考えられるけど、僕たちが向かう場所はここになる―――“カーバックル“。初代勇者発祥の地、リビリスアークを模した、高い塔がある街だよ」

 イオリはチラリとアキラに視線を投げた。覚えているか、と聞かれているらしい。
 アキラは小さく頷いた。この街は、“過去“にも行ったことがある。
 イオリとしては、つまらないところで“物語“に逆らうのを避ける意味もあるのだろう。

「じゃあ、そうだね。近々出発しようか。エリサスたちにも予定は確認しておきたいけど」
「あいつならまだ宿屋にいたぞ。なんかフロントで頭抱えてた」
「なら話しておこうかな」

 当たり前のように立ち上がろうとしたイオリを、アキラは手で制した。
 イオリは無表情でアキラを見上げる。

 ホンジョウ=イオリが何を考え、何を思っているのか、理解できるものはいないかもしれない。
 アキラは過去、そんなことを言われた。
 誰もがそうかもしれないが、イオリは特に本心を隠すのが上手い女性なのだと、アキラもこの旅を通して感じている。
 だからこそ、疑うという訳ではないが、彼女の挙動は注意深く見なければならない。こういう風に大怪我をした直後は尚更だ。

「どうしたのかな。着替えたいから出て行って欲しいんだけど」
「イオリ、お前本当に治ったんだよな?」
「人のことになると随分心配性だね。もちろんだよ。そもそも昨日から調子は戻っていたのに、強引に寝かしつけられていたくらいなんだから。今日は身体を動かそうと思っていたくらいだ」

 柔らかく笑い、イオリは軽く拳を握って見せた。
 確かにアキラの目からは復調しているようにも見える。
 だが、そういうときこそ自分を信じるべきではない。
 彼女はアキラなど容易く騙し、無理をすることができてしまう。

「本当だな? まだ俺たちもこの街で情報収集とかやることはある。少しでも無理しているなら、時間はまだあるんだから治し切った方がいい」
「それは悠長だよ。僕たちは一刻も早く魔王を倒す必要があるんだか……いや、本当に大丈夫なんだって」

 言いながら、それは無理をしていると思われる理由だと気づいたのか、イオリはパタパタ手を振った。
 アキラがじっと見つめていると、イオリは視線を外して髪を触った。
 疑いの眼で見ているからか、彼女が何をしていても復調を偽装しているように見えてきてしまう。

「ふ……はあ、全く。心配し過ぎだよ。ありがたいはありがたいけど、それは昨日までアルティアにもされていて、食傷気味なんだ」
「そうだ、ティア、お前も大丈夫って言ってたな、本当か?」

 存在を思い出し、未だ蹲っているティアに視線を投げた。
 しかしティアは、カタカタと震え、視線が空を追っている。

「どうしたんだこいつ」
「さあ。さっき騒いだきり、あのままになったんだ」
「おーい、ティア? 生きてるか?」

 もう一度目の前で手を振ると、目が追ってくる。さらに振り続けていると、ティアはようやく目を細め、やや潤んだ瞳でアキラを捉えた。

「ティア。イオリは大丈夫なんだよな?」
「……はい。大丈夫だと思います。出血が酷かったって聞きましたが、この街のお医者さんにも見てもらって、色々と見てもらって……。でも、胸を貫かれた傷は、残るだろうって言ってました」
「え、」
「まあそれはあっしが治せたんですけど」

 こんな旅をしていて今更だが、女性にとって身体に傷が残るとは重大なことだろう。と、理解が追いつく前にティアが話を終わらせていた。
 敵への怒りやイオリへの謝罪の言葉が生まれそうなときにティアへの感謝が生まれ、存分に混乱したアキラがイオリに視線を向けると、彼女は視線を外して胸元を押さえた。

「よ、よかった、な」
「あ、ああ。うん。アルティアには感謝しているよ。さっきは傷ももう見えないって言ってて、ね。……はは、もう大丈夫だから、その話はよそう」

 男性がいる前で身体の話をされているのだ。イオリはやや顔を赤くして、しかし穏やかにティアを嗜めた。
 しかしティアはそう言われて、ああ、と感嘆した声を出した。叫んだときのことを思い出したらしい。

「イオリン治って本当に良かったです。今日もチコッとしたアザみたいのがあったくらいで、それも綺麗に消えました」

 治癒魔術が驚異的に優れているらしいアルティア=ウィン=クーデフォンは、怪我どころか女性の肌の悩みも解消できるのだろうか。
 元の世界の美容品のようなことを言い出した。
 一家に一台ティアがいると、医療と美容は賄えるらしい。ついでに防犯装置のような騒音もついてくる。家主に対しても鳴る警報だが。

「じゃあティアはどうしたんだよ。イオリは何か知ってるのか?」
「いや、知らないけど」
「イオリンが、ずるいんです」

 悲痛な声だった。
 イオリは首を傾げている。どうやら本当に知らないらしい。

「あっし、さっき治療のためにイオリンの肌に触れたんです。ちゃんと治ったかなって。それで治ってたんですよ、それはもう。そしたら、ああ、なんで昨日は気づかなかったんでしょう。イオリンの肌、めっちゃさらさらしてました」
「は?」

 今に始まったことではないが、ティアが何を言っているのか分からないことを言い出した。
 助けを求めるようにイオリに視線を投げると、しかし彼女は理解しているのか、慌ただしい所作でわざとらしくベッド脇の水を手にとり口を付けていた。

「な、治ったってことだろ?」
「そうじゃないんです。そうじゃないんですよ、アッキー。そんなレベルじゃないんです。なんでしょう。干したてのシーツみたいな肌触りなんです。お怪我をした場所だけかな、って思って他も触ってみたんですが、同じなんです。イオリンの肌触り、やばいんです」
「は、はは。す、少しは気を使っているから、ね」

 こいつは触診と称してセクハラをしていたらしい。
 イオリの顔がさらに赤くなっているが、小声でありがとうと言っている辺り、満更でもないらしい。
 そうなると居心地が悪くなってくるのはアキラの方だった。

「まあ、その、イオリは肌綺麗なんだな、その、はは」
「そうですそうです。そうなんですよ。へへ、へへへ、えへへへ、あっしの肌触ってみてください。あんな感じじゃなないです」

 不気味に笑い、腕だけ伸ばしてきたティアに遠慮がちに触ると、妙に熱を帯び、もちもちというかぷにぷにしていた。これだけ長く旅をしているのに、こいつは筋肉というものがついていないのだろうか。恐らく別の意味なのだろうが、ティアの腕も肌触りというか触り心地は良かった。
 正気を失っているらしいティアは、アキラの表情を見て、乾いた笑いを浮かべている。
 日頃から大人の女性とやらに憧れて止まないアルティア=ウィン=クーデフォンは、もしかしたら、身長や体格とは別の軸を見つけて、理想と現実の間が課題だらけだと感じてしまっているのかもしれない。

「えっと、とにかくイオリは大丈夫なんだな?」
「ええ、大丈夫です。ダメなのは、あっしの方です。もう……立ち直れません。アッキーも肌が綺麗な女性って素敵だと思いませんか……?」

 イオリの容体を聞きたかっただけだったのに、より深刻な重傷者を見つけた。頭のだ。ここまでくるとセクハラを受けているのは自分のような気もしてくる。
 錯乱しているティアを、口元に手を当てて視線を逸らしているイオリは止めるつもりがないようだ。
 アキラも下手に口を挟めない。
 多分それが原因だった。

「だから、ずるいんです」

 確たる口調だった。
 ティアの口から、いつもそうかもしれないが、思ったことがそのまま溢れ始めた。

「あっしは常々、卑しくもあっしと同じ悩みを抱える人を探して生きています。一緒に頑張ろうって、お互いに励まし合うために。自分勝手かもしれないですが、ひとりじゃないって思って欲しくて、思いたくて。だから今、ショックを受けているんです。だってイオリンも、あっしと同じく、まずはエリにゃんくらいのサイズを目指している仲間だと思っていました」
「アルティア」
「それなのに、イオリンがこんな武器を隠し持っているなんて、ごめんなさい、こんなあっしと同じ悩みがあるんだろうな、なんて思っていて。図々しかったです」
「アルティア」
「そりゃそうですよね、あっしとイオリンじゃモノが違います。胸のサイズなんてイオリンにとってはさして重要じゃないんですね。うぅ、どうして世界はこんなに残酷なんでしょう。身長もスタイルも肌も無いあっしは、一体どうしたらいいんでしょうか。アッキー、教えてくださいよ」
「ばっ、俺を巻き込むな!」

 ホンジョウ=イオリを理解できるものはいない。だがアキラは、ほんの少しだけ、彼女の胸中を察せた。
 顔は赤く、目を細め、唇はプルプルと震えている。握り締めたコップからは水が溢れ出しているが、彼女は一瞥もせずに自分たちをその瞳で射抜いていた。

 少なくとも、何かをしなければこのままやられる。

 いつしかティアにしがみ付かれ、逃げることは叶わないどころか、その震えが正常な思考を妨げる。
 とりあえずは、というつもりで、アキラは震えながら言った。

「ど、どんま―――」

―――***―――

「……めちゃめちゃキレてたな」
「……。ええ……イオリンって本気だとああいう風に怒るんですね……」
「完全にお前のせいだからな」
「最後の一言で五分に持っていったアッキーは流石だと思いましたが」
「気にすんな的なことを言おうとしたんだけどな」

 一応は怪我人の部屋から全力で逃亡したアキラとティアは、宿屋からやや離れた路地裏に身を隠していた。
 今日は快晴。湿度も低い。
 日陰に入れば潮風が頬を撫でつけ心地よいが、ふたりは今、汗だくで肩で息をしていた。

「しかし、これで目指すべきことが増えてしまいました。課題は山積みですが、イオリンからも肌のお手入れを学ばねば」
「最初からそれだけ言えばいいのに……。お前は整理してから言葉を発しろよ。……マジで怖かった」

 多少は元の調子に戻ったティアが、拳を握りしめた新たな誓いを立てていた。
 イオリの肌には結局触れていないが、ティアの肌はモチ肌、というのだろうか。女性の肌など詳しいことは分からないが、比べる軸が違うような気もする。
 だが、あれだけのことがあってすぐにイオリに向かっていこうとするティアは流石だった。

「あの様子じゃしばらく無理そうだ」
「そうですかね。ワンチャンいけないですかね」
「止めろ。仮に忘れていたとしても、俺のこともセットで思い出しかねない」
「むむぅ」
「何にせよ、機嫌を治してもらわないと」

 ティアは唸るが、アキラの気は多少晴れていた。
 動機はどうあれ、イオリが復調したというのは、単なる自己申告ではなかったようだ。
 彼女が部屋着で外に出ることを躊躇わなかったら、今頃港町全域を範囲にした鬼ごっこが始まっていただろう。
 入り組んだ住宅街がいくつかあるから、イオリが相手でも、多少は勝負になるだろうか。

「……」

 座りながら、アキラは空を見上げた。
 ある程度なら道案内できるほど、この街にも長く滞在している。数日前の大事件からも、やや落ち着きを取り戻せた。
 イオリの言う通り、そろそろ次の街へ向かう時期だ。
 ただでさえ、自分とは違う“もうひとり“は、あの日の内に、どこかへ去って行ってしまったのだから。

「えっ!?」

 突如、悲鳴にも似た大声が路地に響いた。
 アキラが、イオリの索敵に引っ掛かったのだと反射的に身構えると、しかし、目の丸くして立っていたのは赤毛の少女だった。

 エリサス=アーティ。
 自分たちの旅の面々はとにかくまとまりがなく、今日のように休日ともなれば各員が思い思いに町中に散らばっていってしまうほどだ。
 そんな中で、至って常識人のエリーという少女は、ある意味この面々のまとめ役でもあり、苦労人だ。
 そして、先ほどアキラが、そんな面倒ごとに巻き込まれないようにと宿屋で見捨てた少女でもある。

「え、え。ああ、一緒にいるのね。何してるのよ?」
「何に驚いてんだ」
「まさか街に出て最初に会うとは思わなかったのよ、ふたり同時に」

 エリーは、まるで何らかの予兆に出遭ったかのように身体を擦ると、慎重な足取りで歩み寄ってきた。

「それで?」
「いや、俺らは散歩みたいなもんだ。なあティア」
「ですです。エリにゃんはどうしたんですか?」
「……怪しいなぁ。あんたたちふたりでいるとロクなこと起こらない気がするんだけど」
「面白い冗談だな」
「面白い自己分析ね」

 随分と勘のいいことだ。
 ジト目になったエリーは、訝しむようにふたりを見ると、肩から息を吐いて首を振った。関わらない方が得策だと判断したらしい。

「あたしはこれからちょっと用事があるのよ。魔術師隊の支部に行かなきゃいけなくて」
「そうなのか」

 アキラは淡白に返した。
 エリーが少し恨みがましい視線を向けてくる。
 魔術師隊の支部へ行く用事など、あらかた想像が付く。こちらこそ巻き込まれないようにしておくのが得策だ。
 すると、エリーは諦めたように目を瞑った。イオリとは違い、エリーは割と感情が表情に出るように思える。
 少し悲しいような寂しいような表情に見え、このまま別れるのは躊躇われた。
 彼女の負担を増やすかもしれないが、聞きたいことがある。

「お前に相談があるんだ」
「え、何?」

 元々お節介の気質がある彼女は、やや明るく聞き返してきた。

「それがですね、今、イオリンの機嫌が最悪なんです」
「そんな、イオリさん怪我が……機嫌? あんたたち何したのよ?」
「そこでだ。何とかほとぼりを冷ます方法を教えて欲しい」
「何をしでかしたかは知らないけど、反省はしてないのね」

 エリーは頭を押さえ、唸った。
 完全に人ごとなのに、自分のことのように頭を抱えるのはエリーにしかできないことだと思う。

「何で怒らせ……いや、いいわ。巻き込まれたくない。それにどうせ分かっていないんでしょう? 何で機嫌が悪くなったのか」
「分かっていると思う。分かっているだけに、こう上手く難を逃れたい」
「じゃあ多分、分かっていないのよ」

 事情も把握してないだろうに、エリーは随分と訳知り顔で話す。
 それは彼女から見たイオリという人物像から想像しているのか、あるいは彼女から見たアキラやティアという人物から想像しているのか。
 弁明をしようと思ったが、エリーの言葉は何故か否定できなかった。

 それに。

「……な、なに?」
「いや、何でもない」

 エリーが再び身を捩った。
 怒らせた理由を思い起こしてしまうと、どうしても視線が彼女の身体の一部に向いてしまう。
 女性は視線に敏感だという。
 誓っては言えないが、悪意は無い。

「……むぅ。……まあいいわ。とりあえずイオリさん、怪我の具合はいいのよね?」
「……え? ……あ、ああ。そうなんだよな、ティア」
「ええ、それは大丈夫です。もちろん、身体が慣れるまで激しい運動はダメですが」
「良かった。じゃあ、復調祝いとかしないと。夜は皆でご馳走でも食べに行きましょうよ」
「それじゃん!」

 アキラが指差し、ティアが感心したように手をパチパチと叩いていた。
 エリーは頭の裏に手を回し、えへへと微笑む。
 イオリの復調をみんなで祝えば、なんやかんや上手い感じに有耶無耶になるかもしれない。
 流石エリーだ。この面々での旅を崩壊させないように縁の下で支え続けてきただけはある。

「じゃあみんな探さないと。放っておいたらいつ帰ってくるかも分からないし」
「だな。まったく、どこにいんだろうなみんな」
「せめて行き先くらい言ってからお出かけして欲しかったですね」
「はっ倒すわよあんたら」

 エリーが凄み、しかし、はと気づいたように、頭を抑えた。

「……って、ダメだ、あたし、用事があったんだ」
「魔術師隊の支部か? いいぜ、手伝う。とっとと終わらせようぜ」
「あっしもいます。お任せください! 何をすればいいですか?」

 そうとなれば話は違う。
 この広い町で仲間を見つけることにかけてはエリーの右に出るものはいないだろう。
 彼女の用事を手っ取り早く片付けることが、怒り心頭のイオリを沈める最善策のように思えた。
 ティアも同意見のようで、いつも以上に食い気味に身を乗り出していた。

「じゃあ手伝ってね。……あの事件の報告よ」

 アキラは目を細めた。
 数日前。この港町から西部に位置する樹海で、大事件が勃発した。
 魔族が3体も出現し、中には諸悪の根源、魔王すら含まれているという異常事態。
 しかし、この依頼、ヨーテンガースとしては重要な意味を持つ“儀式“の護衛だったらしく、多少の情報制限はされているらしい。
 毎年行っている儀式なだけに、魔族が複数出現したような話が広まれば、来年以降、依頼を受けようとする者など現れないだろう。
 噂は漏れるもので、焼け石に水なのだろうが、それこそある程度はほとぼりが冷めるまで秘密裏に調査をすることになったそうだ。

 そこで槍玉に上がったのは、その辺りの事情も鑑みられ、事件の詳細を知っている自分たち。
 以前他の大陸で大事件を解決したときのような、詰問染みた質問が、自分たちを襲うことになっていた。
 同じような立場の“もうひとり“は、予期していたのかは知らないが、とっくにこの地を去っている。

「本当はイオリさんの方が向いているだろうけど、今はとにかくゆっくり休んでいてもらいたいしね。イオリさん、いつも大変な思いしてるから」

 イオリはその騒ぎのとき、灯台元暮らしと魔術師隊の支部に身を隠していると言っていたが、彼女のことだ。恐らく裏でも色々と動いていたのだろう。
 そういえばあのとき彼女にお礼をしたいと思い至った気がするのだが、アキラが今日やったことは彼女の怒りを買ったことだ。
 また思わずエリーの胸元に目がいきそうになり、アキラは首を振った。これ以上厄介事を増やすことは許されない。

「あのときよりはマシだけどね」

 エリーはポツリと呟いた。

「定期的に話をしに行くくらいでいいって。あのときは街歩いててもつかまって話をさせられたでしょう? 平和なものよ」
「そういえば、そうですね。あっしも今回はあんまりお話できていません」
「でしょう? …………ん?」

 あのときは魔術師隊も大混乱で、同じ話を何回もさせられた記憶がある。
 ヨーテンガースはその辺り、魔術師隊の統制がされているということか。
 いや、とアキラは考える。
 もしかしたら、魔族3体出現という、他の大陸では考えられないような異常事態“程度”は、ヨーテンガースにとっては、起こり得ると想定されている事件だということなのかもしれない。

「じゃあ行こうか。それなら俺も協力できそうだ」
「ええ、お任せください」

 歩き出そうとしたら、しかし、エリーが正面から動かなかった。
 何かを思い出そうとしているように、彼女は眉を寄せていた。

「どうした?」
「エリにゃん? 具合悪いんですか?」
「ちょっと質問させて」

 エリーは顎に手を当てて、何かを考え込みながら言った。

「この前の依頼、そうね。魔族は何体出現した?」
「? 3体なんだろ?」
「じゃあさ、あたしたちはそんな魔族が出て、何してた?」
「あれ、エリにゃん覚えていないんですか? あっしたちは魔族の攻撃を受けてたみんなを正気に戻してたじゃないですか」

 自分たちを魔術師隊に連れて行く前に、記憶力のテストでもしているのだろうか。
 数日前のことなど、当然覚えている。
 そこまで自分たちは忘れっぽく見えるのだろうか。

「じゃあ、じゃあさ。最後ね」

 テストは終わるようだが、妙にふに落ちない。
 あの日のことなら何を聞かれても、しっかりと、覚えている。
 エリーは、ゆっくりと、試すように、質問してきた。

「あのとき、あたし。エリサス=アーティは、何をしたでしょう?」
「え? そんなん、俺ごと魔族を殴り殺そうとしてたじゃないか」
「エリにゃんは、確か、『ぶっ殺す!!』とかって言いながら空の魔族に特攻していませんでしたっけ?」

―――***―――

「……戦力外通告されたな」
「役に立てない悔しさで、あっしはもう涙が止まらないです……」
「それは多分恐怖じゃないか?」

 表情豊かなエリサス=アーティが最も怖いのは、顔からその表情が消えたときだ。
 『要らない』と冷たく言い放ち、去っていった彼女が見えなくなるまで、アキラもティアも一歩も動けなかった。
 とりあえず、エリーの力抜きで、自分たちはこの港町で仲間を探し出さなければならないらしい。

 こうして、他の面々を探すという、街を当てもなく放浪することと何ら変わらない休日が始まった。
 街の喧騒は天気に比してやや大人しめ。もしくは、自分がそれだけこの街に慣れたということなのかもしれないが。

 大通りを外れるとさらに人がまばらになった。
 大通りにあった派手派手しい服屋や魚市場のような巨大な店はなく、野菜や肉などの食料品を取り扱っている店や、雑貨店など、小ぢんまりとした店が続いている。
 歩いている人も、ややラフな服装の者が多く、どうやらここは住民たち用の商店街のようだった。

 菓子屋や物珍しい玩具のようなものを売っている店で度々足を止めるティアの手を引き、歩いていくと、正面に見知った顔がいるのが見えた。
 彼女もこちらに気づくと、少し小走りになり、ほんの少しだけ息を切らせて、可愛らしく微笑んだ。
 隣のティアが感動のあまり震えている。

 そんな小柄なティアとは正反対の姿の彼女は、エレナ=ファンツェルン。
 甘栗色の髪に、愛らしい顔つき。女性の理想を詰め込んだようなスタイルと、欠点など見当たらない彼女は、ティアが心酔して止まない仲間だ。
 そんな絶世の美女とも言えるエレナは、アキラの前にたどり着くと、甘い匂いのするほど顔を近づけて、耳元で囁いた。

「走るわよ。まだここじゃ人目がある」
「何してんだ」

 エレナの走ってきた方から妙な喧騒が聞こえる。
 嫌な予感がしたアキラは、状況が分かっていないティアの手を引き、さらに路地の外れに入って身を隠す。
 通りの向こうを駆けていく複数人の足音をやり過ごし、アキラはようやくエレナに向き合った。

「今度は何を盗んだんだよ」
「ちょっと。事情も聞かずに酷いじゃない。私だっていつもそんなことばかりやってるわけじゃないって、アキラ君なら分かってくれるでしょう? 今回は財布をいくつかだけど」
「おい」
「何よ。反省してるんだからいいじゃない」

 この可憐な女性は息を吐くように人を騙し物を奪う。
 それが原因でアキラも幾度か酷い目に遭ってはいるのだが、ちゃんと毎回反省しているらしいし、とアキラはそれ以上考えないことにしていた。

「でも、今回はそんなに私悪くないわよ? 奴ら、私が寄ろうと思った店の前で騒ぎを起こしててね。お店の人も迷惑してたわ。そこで私が少しだけ手を貸してあげたの。だから報酬を貰っただけだもの。奴らからも、……お店の人からも」
「ティアいいか。こんな子に育っちゃダメだからな」

 エレナの供述を聞きながらも、未だ一点の曇りもない輝いた眼でエレナを見上げるティアに念のために釘を刺した。
 ティアはややむくれ、今度はアキラを恨みがましい眼で見つめてくる。
 子供扱いされたと思ったらしい。

「ところで、あんたら何してたのよ。正直ふたりでいるとロクなこと起こらない気がしてるんだけど」

 言われたのは今日2回目だった。自分とティアの組み合わせはそんなに不穏に見えるのだろうか。
 つい先ほど、もっとロクでもないことに巻き込もうとしたエレナに言われたくはなかったが、そのお陰で思い出した。
 確かにロクなことが起こらなかったからエレナを探していたのだ。

「そうだ、今日、イオリの復調祝いをしようと思ってな。それでエレナに伝えようと思って探してたんだよ」
「魔道士ちゃんの? 随分仰々しいじゃない……とは言ってもあの怪我だったものね」

 エレナは目を丸くし、少し考える素振りを見せた。
 そしてしばらくして、じっとアキラの目を真っ直ぐに見つめてくる。その瞳は、やや揺らいでいた。

「……エレナ?」
「んーん。何でもない。そう、良かったじゃない。でも私、行けないわ。予定があるの」
「ええっ、エレお姉さまにご予定があるんですか!? そんな馬鹿な!?」
「私に予定があっちゃいけないの? ねえ?」
「ひぐっ!?」
「許してやってくれ。ティアは今日心が荒んでいるんだ」

 ティアが先ほどコンプレックスを覚えたらしい頬の肌が、エレナの手によって餅のように伸びていた。
 こうして見ていると仲の良い姉妹のように見えるのだが、エレナの力はこの面々の中でも群を抜いている。ティアにとっては万力で締めつけられているようなものだろう。
 不便に思い、何とかティアを救い出しながら、しかしアキラも同じことを思った。
 エレナ=ファンツェルンは自由人だ。特に平常時は思うまま行動していることが多い。その彼女が誘いを断る理由が、気が乗らないではなく予定があるだとは。

 イオリの復調祝いはできるだけ大人数で行いたい。祝いたいという気持ちがもちろん大きいのだが、大人数の方がイオリの怒りが有耶無耶になる確率も高いだろう。
 しかし、ここでその予定とやらを聞くと、下手をすれば疑っていると思われ、自分まで万力で締め上げられることになりかねない。

 ここは大人しくエレナの気分が変わることに賭けた方が得策だと思い、ティアに視線を送ったが、どうやら奴は納得していないらしい。

「アッキー。これでエレお姉さまのお誘いに失敗したら、あっしたちの沽券に関わると思いませんか」

 妙なことを言い出した。
 どうやらティアの中では、先ほどエリーにされた戦力外通告がまだ尾を引いているようだ。

 そして頭が痛いんだかなんだか分からない表情を浮かべたティアは、しばらくうろつき回り、今度は近づいてくる。
 怪しげなもの、というか面倒臭そうな気配を感じ、アキラはエレナに視線を向けた。

「エレナ、何とかできるか?」
「何で私がこのガキの面倒みないといけないわけ? 何とかしてよ、本当に予定があるの。……前に言ったでしょう、適当にやるのそろそろ止めるって。それ絡みよ」

 エレナは小声で囁いた。
 エレナ=ファンツェルンは見た目や態度とは裏腹に、かなり慎重な性格をしている。
 そんな彼女は、それゆえに、この最後の大陸に辿り着き、今まで通りでいることは難しいことを最も強く認識している。
 打倒魔王を志す自分たちの行動も、彼女から見えれば仲良しこよしの緩い環境に見えているのだろう。
 膨大な力を持つ彼女にとって、自分たちと行動を共にするメリットは薄い。
 アキラは背筋が凍り付いた。

「……でも、それは気が変わったって」
「また気が変わったの。ふふ、あらアキラ君、私がいなくなったら寂しい? ……って冗談よ。あんたらと別行動するってわけじゃないわ。多少、今のままじゃまずいとこだけ何とかしとこう、って感じよ」

 アキラの表情が曇るのを見て、エレナはからかうように言葉を続けた。
 思わずほっと息を吐くと、それすらエレナはにんまりとした笑みを浮かべる。

「アキラ君も分かっているでしょう。自分の、今のままじゃまずいところ。放っておくと、いずれ身動き取れなくなるわよ」

 自分の悪いところなど、該当箇所が多すぎて、絞り込めなかった。
 だが何故か、エレナのそれは、自分が考えに考えを進めて、最後に辿り着く答えのことを言っている気がした。

「ま、そういうわけで無理そうなのよ。あんたらも、復帰祝いはいいけど下手な馴れ合いは命取りになるってことは知っておきなさい。お互い利用し利用されの関係でこそでしょう」

 エレナは冷めた瞳を浮かべ、唸るティアから気配を殺して立ち去ろうとした。
 しかし運が悪いのか、それと同時に顔を上げたティアが優しい瞳を浮かべてエレナに歩み寄ってくる。
 エレナはさも面倒そうに顔を歪めたが、ティアが歩み寄ってくるのを一応は待つらしい。

「エレお姉さま」

 ティアは歩み寄ると、ゆっくりと顔を上げた。

「あっしたちは、かけがえのない仲間です。だからあっしは、イオリンが元気になって心の底から本当に嬉しいんです。元気になったお祝いに、みんなで美味しいご飯を食べて、プレゼントなんかも用意して、イオリンを盛大に祝いたくてうずうずしています」
「……そうね。顔にそう書いてあるわ。そこまでやりかねないと思わされるほど」
「でもそれは、料理やプレゼントなんかが大切なんじゃなく、皆さんが、同じ気持ちでいることが大切だと思うんです。皆さんも同じことを思うべきだ、なんて図々しいことは言えません。だけど、少しでも同じことを思ってくれたら嬉しいな、とあっしは思うんです」
「ちょ、ちょっと。私は別にそういう気持ちのあるなしの話をしてるんじゃないわよ。単純にやることがあるだけなの」
「ああ、良かった。エレお姉さまも同じ気持ちなんですね。もちろん、エレお姉さまのご予定を蔑ろにするつもりなんて微塵もありません。エレお姉さまもかけがえのない仲間ですから。だから、」

 ティアは、エレナの瞳を真っ直ぐ捉えた。

「エレお姉さまのご予定。あっしが全力でお手伝いします。そしてそれを少しでも早く終わらせれば、きっと間に合いますよ」
「止めて」

 再びの戦力外通告に、ティアの表情が凍りついた。そして身体を震わし、瞳には涙を滲ませ始める。
 エレナは頭を抱え、目を閉じた。頭の中で、今日の予定とやらの算段を計算しているのか、しばらく唸ると、彼女は大きく息を吐く。

「わ、分かったわよ。早めに切り上げる。それでいいんでしょ?」
「エレお姉さま!!」

 満面の笑みを浮かべたティアが抱きつき、エレナはじゃれつきなどものともせずに頭を抱え続けていた。
 エレナには悪いが、ティアの説得はどうやら成功したらしい。
 みんなが同じ気持ちでいることが大切。
 そんな気恥ずかしいような言葉も、ティアに言わせると心の底から出てくるから素直に聞けるのだろう。

「……ちっ、夕方くらいに宿に戻ればいいのね? 遅れるかもしれないけど」
「ああ、そうしていてくれると助かるよ」
「ああ、エレお姉さま大好きです!!」
「ちょっと、もう、いい加減離れなさいって、このガキ、」

 今なお抱きついてくるティアを引き剥がすエレナの瞳は優しく見えた。
 アキラは息を吸って吐く。
 何とかひとり目の勧誘には成功したらしい。

「いつもいつもエレお姉さま優しくて大好きです。お菓子も漫画もご飯もご馳走になってばっかりで、あっし、いったいいくつの恩をエレお姉さまに返せばいいのでしょう」
「アキラ君。このガキが勝手に言ってるだけだから」
「この前なんて、あっしが公園でつい居眠りしちゃったときも、あっしを宿まで運んでくれたんです! エレお姉さまのお背中、今でもよく覚えています。そのあと枕元にお水も持ってきてくれていて、あっし、嬉しすぎて嬉しすぎて。ああいうさり気ない優しさも―――」

 アキラはそこでティアの口を強引に閉じた。
 本日特に情緒不安定なアルティア=ウィン=クーデフォンの回想に、エレナが珍しく、顔を真っ赤にして震えていた。

 恐らくだが。今笑みを浮かべたら、殺されかねない。

―――***―――

「わざとだよな?」
「わざとじゃないです……。色々エレお姉さまを説得する方法を考えていて、溢れ出しちゃったんです……」
「溢れ出していたのは、毒素だ」
「ううぅ、不遜ですが、エレお姉さまにお説教しようと思って、途中で手伝えばいいんだと思い至ったんです。実はあっし、思ったことがすぐ口から出ちゃうんですよ」
「それは新事実だな」

 投げやりに返して、アキラはティアと街の雑踏を歩いていた。
 裏通りを抜けて、坂を下っていくと、建物の隙間から海の青が見えてくる。
 このまま進むと、何の店かは知らないが、赤い屋根の建物がある。そこを右に曲がれば、大通りに合流し、アキラたちの宿屋の通りに出るのだ。
 グルグル回って、宿屋の方向に戻ってきたらしい。
 帰巣本能というのだろうか。顔を赤くし、震えながら去って行ったエレナの背中を見送り、言い知れぬ恐怖に駆られた結果かもしれない。

「でも驚きました。エレお姉さま、意外と照れ屋さんなんですね」
「お前それ本人に絶対言うなよ。締め落とされるぞ」
「アッキー。確かにエレお姉さまは怖いときもありますが、とてもお優しいですよ。いっつもご迷惑かけてしまっていて、あっし、申し訳ないです。よく怒られちゃいますが」
「まあエレナは、そうだな、優しいよ。真剣に頼めばちゃんと聞いてくれるし、面倒見も良かったりするし、意外と押しに弱かったり……。あれ。もしかしてエレナって意外とちょろいのか?」
「アッキーこそ絶対に言わない方がいいですよ」

 アキラもティアほどではないが、思ったことがつい口から出ることがある。
 思えばエリーの機嫌が悪くなったのも、そんなふたりが一緒にいるものだから、何か気に触ることを言ってしまったのかもしれない。

 順調にメンバーは集まっているが、所々で心象というものを犠牲にしながら進んできたようだ。
 このまま復調祝いをしても、ターゲットのイオリ以外も敵だらけになりかねない。
 何とか機嫌を直してもらいたいのだが、本音で話している分、アキラもティアも何が悪いのか具体的には分からない。
 考えてみようとしたが、考えて分かることなら最初からやっていないだろう。

 例えばティアの言動の何が人の機嫌を損ねたのか、アキラは分かる。
 一方で、アキラの言動の何が人の機嫌を損ねたのか、ティアもまた分かるのだろう。
 だが、自分のことは分からない。言われたとしても、本当の意味で理解することできないだろう。特に、善意のつもりでやっていることは、その人間の本質に関わることだろうから、それだけに、人にどうこう言われても、本当の意味では改めようがない。

 全ての人間が優しくなれば、世界は平和になる。
 そんなことを人々は言い、掲げ、世界を回していっているが、果たしてそうだろうか。
 優しさというものは、個人差があるのだから、人には差が生まれ、なだらかな世界は生まれないように見えた。
 誰かにとっての称賛の言葉も、誰かにとっては侮蔑の言葉に変わることだってあるのだ。

「人の心って難しいな」
「哲学的なことを言い出しましたね」
「ああ、空が青いなぁ……」
「現実逃避的なやつでしたか。それよりどうしましょう、皆さんご機嫌斜めです」

 ティアも似たようなことを考えていたのかもしれない。
 確かに現状はよろしくない。

 赤い屋根の建物を宿屋とは逆に曲がると、静かな住宅街に出た。この時間では住民たちも少ないだろう。
 目的地を定めずに歩いているだけだが、この先に依頼所があるのを思い出した。この道は近道になるのだが、以前この道のどこかで住宅街を無闇に通らないで欲しいと住民と旅の魔術師が口論していたのを思い出す。

 住民が出した依頼を受けにいく旅の魔術師が、住民と争いを起こす。
 どちらも発端は善意なのに、争いは生まれる。
 悲しいことだ、そしてアキラとティアも、良かれと思ってやったことで、皆の機嫌を損ねてしまった。
 アキラが人を慈しむ精神で、なんやかんや上手い感じに怒られない方法を考えていると、その依頼所の方から凛々しく歩いてくる赤い衣の少女を見つけた。

 ミツルギ=サクラ。
 遠目でも目立つ赤い衣だが、彼女の見た目の最大の特徴はその威風堂々とした佇まいだ。
 女性としては高い身長、日本人形のように精緻な顔つきに、真っ直ぐに前を捉える瞳。腰には長すぎる長刀を携え、まっすぐに歩いているその姿を見ると、住民たちも下手に苦情はつけられないだろう。彼女も威圧しているつもりはないだろうが。
 心身共に研ぎ澄まされたそんな少女は、何とヒダマリ=アキラの従者である。
 そんな彼女は、主君たるアキラの姿をその瞳に捉え、

「げっ」
「げって何だよサク。だけどちょうど良かった、頼みがあるんだ」
「お前たちふたりを同時に見たからついな。それで何だ。今度は誰を怒らせた?」
「サッキュンすごい、よく分りましたね! イオリンとエリにゃんとエレお姉さまの機嫌を治す方法を教えてください」
「数……!!」

 凛々しいサクの表情が歪んだ。
 目頭を押さえ、曲がり道を指さした。何しろティアがいる。住宅街で騒ぎ立てるのを起こすのを避けるためだろう。

 サクに促されるまま進んでいくと、住民たちが使うのだろう、やや狭い公園が見えてきた。
 今も追いかけ合って遊ぶ子供に連れてこられたい親たちが、離れたベンチに座って穏やかに語らっている。

 公園に入り、ベンチに腰掛け、混ざってこなくていいのか、という視線をティアに向けたら、彼女は欠伸を噛み殺したような表情を浮かべてきた。

「さて。それで、お前たちは私も怒らせにきたのか?」

 従者様からまるで信用されていない言葉を浴びさられた。

「あのな、俺たちは今結構困っているんだよ。それに、お前を怒らせたいだけなら手持ちのカードをとっくに切っている」
「待て。すでに私の知らないところで何かが起こっているのか」
「サッキュン今はそういう場合じゃないんですよ。実はですね、あっしたち夜にみんなで一緒に集まりたくて、それで方々めぐっているんです」
「それで怒らせて周っているのか。お前たちがふたりでいると本当にロクなことがないな」
「みんな同じこと言うな」
「以心伝心ですね」
「実は私は予定があるんだ、あまり時間が取れないんだよ」

 主君に対してついに警戒心まで露わにし出した従者様は、頭を抱え始めた。
 アキラがこの世界に来から、ずっと共に旅をしているサク。最初に合ったときより、表情はずっと柔らかくなっているが、頭を抱える姿をよく見る。そう言ったら怒りそうな気がしたから、アキラは今度は黙っていることにした。

「皆さん予定があるって言いますね。でもサッキュン、晩御飯の時間にはどうですか?」

 エレナのときとは違い、サクが予定があると言うと、妙に信憑性がある。いや、あるいは逆にエレナの方が信憑性があったかもしれない。
 そんなことを思ったが、ティアは祈るようにサクを見つめていた。

「まあ取れる……と思う。少し身体を動かそうと思ってな、簡単な依頼を受けただけだ。……ああ、ひとりで問題ない」

 そんな様子を見たサクは、一緒に長く旅をしているだけはあって、ティアが次に何を言い出すかが予想できたようだ。
 何となく不完全燃焼したような表情を浮かべたティアは、しかしサクの返答には納得したのか、ニコニコと笑った。
 とりあえず、サクも夜には来てくれるらしい。

「それで何があるんだ? まさかまた下らないことじゃないだろうな」
「アッキーどうします? まったく信用されていませんよ」
「日頃の行いだろうな」
「そう思うなら悔い改めてくれ。少しは私とエリーさんとイオリさんの苦労も噛み締めて欲しい」
「あ、ですです! なんと今日は、イオリン復活のお祝いなんですよ。だからサッキュン、何とかイオリンの機嫌を治すのに協力をしてください」
「……だいたい繋がってきたな」
「ついでに他のみんなも機嫌悪くなってるから、上手くフォローをして貰いたいんだ」
「ほとんど繋がったな」

 サクは立ち上った。
 今から依頼なのに、サクの表情は疲労困憊だった。
 彼女にはいつも気苦労をかけているような気がする。
 いやそれは彼女だけに限ったことではないか。

「なあサク。例えばそうだな、サクが機嫌が悪いとき、何をすれば機嫌が治るんだ?」
「気に触る言い方だな」
「悪気はない。いや今日なんだけど、イオリの復帰祝い、ってのは勿論あるんだけど、俺たちは近々、この街を出ようと思っているんだ」
「随分急だな……、いや、急ではないのか。元々イオリさんが復調したら、というのは決めていたしな」
「だからなんていうか、決起会、ってわけじゃないけど、みんなも楽しんでもらいたい、っていうか」
「そう思うなら何故難易度を上げた」

 ままならないことなのだ。仕方がない。
 サクは、ふと考え、そしてそれを止めたようだった。そしてサクは、時折見せる、少しだけ優しい表情を浮かべた。

「他の面々に何をしてきたかは知らないが、とりあえず、イオリさんの喜びそうなことをした方がいい。むしろそれだけ考えておけ。そんなに器用じゃないだろう」
「……そう、だな」

 同意し、頷き、しかしアキラは目を細めた。
 妙に胸の奥を突かれた気がした。彼女との会話はいつもそんな気がする。

「じゃあ、その喜びそうなことって何だろうな」
「……それは自分で考えろ」
「とは言ってもな」
「月並みだが、お前が考えることに意味がある、というやつだ。私の話をしたな、私も多分そうだ、その人が考えてくれたことなら、少なくとも嫌な気持ちにはならない」
「まあ、サクは武器屋に連れていけばいいんだしな」
「全部繋がったな。みんなの機嫌が悪くなった理由が分かったよ。というか知ってたな」

 サクは背を向けた。

「私も私で考える。イオリさんには普段から世話になっているからな。だから、お前たちもお前たちで考えておけ。夕方くらいに宿屋でいいのか?」
「ああ、頼む」
「分かった。これ以上余計なことはするんじゃないぞ、頼むから」

 それだけ釘を刺して、サクは歩いていった。
 少なくとも、サクの機嫌を損なうことはしなかったのだろう、と思う。

 彼女はいつも正しく、厳しく、そして優しい。
 アキラの目にはそう映る。

 だから彼女が怒るのは、間違ったものを見つけたときだ。
 そして彼女が優しいのは、迷っている者を見つけたときだ。

 彼女に優しさを感じたのであれば、自分は何かを迷っているのかもしれない。
 何かを見抜かれているのかもしれない。
 だがそれが正しいと思いながらも、何を刺しているのか、あるいは全てを指しているのか、そしてそもそも自分は何に迷っているのか、アキラには自分のことは分からなかった。

「アッキーアッキー、いいんですか? サッキュン怒らせなくて」

 冗談めかして笑うティアに、アキラも笑って返した。

 だが、これでいいんだと言う気には、今は何故かならなかった。

―――***―――

「奇跡の大勝利でしたね。今3対3ですよ。これで皆さん機嫌治してもらえるんじゃないですか?」
「だな、やっと最悪の事態は脱せた感じがする」

 こちらの陣営はふたりほど戦力外なのだが、アキラもティアも深く考えないことにした。イオリは仕方ないが、エリーはそこまで機嫌が悪くなく、エレナは気分屋だから機嫌が治っている可能性もある。となるとやはり、サクの言う通り、イオリの機嫌を治すことに集中した方がいいだろう。多少は勝算が出てきた。

「でもでも、意外と皆さんお忙しいんですね。エリにゃんがいつもみんな遊びまわっている、って言ってましたが、ご予定ある人だらけじゃないですか」
「あいつが言っているみんなは、多分俺とお前とエレナのことだと思うがな」
「そのエレお姉さまにもご予定があったじゃないですか」

 アキラとティアが遊びまわっていると思われているのは不名誉だが、事実なのだから仕方がない。
 ティアではないが、同類と思われているであろうエレナにも今日は予定があったのだ。失礼ではあるが、妙に焦燥感に駆られる。

 イオリは言った。アキラは心配性だと。
 信頼と心配のバランスは何にも増して難しい。
 軸の違うものなのだとこの旅を通して理解はしたが、どちらも過剰にすると軸が違うのにどちらかが損なわれるような危うさを持っている。
 しかも、人によって千差万別だ。同じ量のそれぞれでも、誰かにとっては過剰で、誰かにとっては過小となる。
 明確な答えなど、世界のどこにもないように思えた。

 エリーは言った。アキラは分かっていないと。
 人の心を知るのは傲慢で、不遜だ。
 だが、知ろうとし続けることはできる。
 だからアキラは、彼女たちについて考えて、考え続けて、そして、いくつかの答えに辿り着いている。
 そこでアキラの思考は止まる。
 彼女の言葉が、その先に進まないことを指しているのであれば、確かにアキラは分かっていないことになるのだろう。

 エレナは言った。アキラはいずれ身動きが取れなくなると。
 彼女にしては珍しく外している。いずれではない。もう今、そうなりつつある。
 いや、彼女が指したのはさらにこの先か。息も詰まり、指一本動かせないほど身動きが取れなくなる状態が、近づいていることを見据えているのかもしれない。
 過去、そういう状態で、常人では選ばない道だけを示され、普通と別れを告げた彼女には、そうした人間がどれほど愚かな選択をするのか知っているのだろうから。

 サクは言った。アキラは器用では無いと。
 全員の機嫌を損なわないように生きていくのは難しい。
 誰かにとっての何かは、誰かにとっての何かではない。
 それぞれの人の顔色を伺い、その人に合わせた何かができるほど、やはりアキラは器用ではない。
 自分は自分らしく生きていく。それが簡単にできる人もいて、それは眩しく輝いているが、どうやらアキラはそういう種類の人間でもないらしい。

 アキラは頭を振った。
 どれだけ考えても答えが出ない、いや、出せない問題を、アキラはずっと考え続けているが、やはり自分に考え事は向いていないようだ。
 答えが出ないとき、悔いることよりも、思考の停止を選んでしまうのだから。

 リリル=サース=ロングトンと思しき後ろ姿が目に止まったのは、アキラがそんな思考の放棄をしたときだった。

「あれ? あれリリにゃんですかね?」
「だろうな」

 リリル=サース=ロングトン。
 アキラの同業者、具体的に言えば世界中の希望となっている勇者様だ。
 日に弱いらしく、往来では肌身離さずつけているオレンジのローブをすっぽりと被り、雪のように白い肌と絹糸のような銀の髪をいつもの如く隠していた。
 小柄ではあるが、普段背筋を伸ばして堂々と立つ彼女の姿からは、世界中の期待に応え続けている自信と気迫をまっすぐに感じるものだ。

 そんな彼女が、今、露天の前でじっと何らかの商品を見つめていた。

 リリルが微動だにせずに店の様子を伺うとは珍しい。それほどの品があるのだろうか。
 遠目から見るだけだと、その様子は彼女の持ち前の雰囲気も相まって、大袈裟にも露天の店主に天啓を下そうとしているかのようにも思える。
 店主としてはたまったものではないだろうが、その様子に満ちゆく人の歩幅も緩まり、何人かの客引きに成功しているようだった。

「……見つかったのはラッキーだな。行こうぜ」
「ええ。あっしたち優秀じゃないですかね、あっという間に全員見つけましたよ」

 様子がおかしいのが気になるところだが、こちらもリリルに用事がある。
 大通りに出て人通りも多く、思うようには進めないが、それでもリリルは依然として動かない。
 そういえば彼女は人混みも苦手だったはず。
 そんな彼女がそんな場所でじっとしているとは、ますます気になってきた。

 背後に回り込む形になって、アキラとティアはゆっくりとリリルに近づいた。
 骨格がいいのだろう。真っ直ぐに立つリリルは微動だにしていない。
 ここまで動かないとなると、リリル=サース=ロングトンを模した像なのではと訝しんだが、どうやら店は財布やアクセサリー類の小物を取り扱っているらしく、像は売り物ではないらしかった。

「……似合いますかね?」

 像から声が聞こえた。

「え、どれが?」

 思わず声を返すと、リリルは、くるりと身体ごと振り返り、無表情になった。

「……」

 するとそのままゆっくりと回り、またこちらに背を向ける。
 目が合ったような気がしたが、アキラに気づかなかったのかもしれない。
 中途半端に近づいたものだから、微動だにしなくなったその背中に声をかけにくくなった。
 とりあえず存在に気付いてもらおうと隣に並ぶと、トボトボと徐々にできつつあった店の輪から外れていく。
 その様子を訝しんでいると、リリルは再び振り返り、軽く会釈した。

「……リリル? どうしたんだ?」
「こんにちは、アキラさん」
「……あ、ああ。こんにちは」

 妙に間を外されたような気がするが、ぎこちない笑みを浮かべるリリルに、アキラは深くは聞かないことにした。
 自分たちの不審な様子を訝しんでいるような視線を感じ、そのままリリルを促して歩き始める。
 従ってくれたリリルは、今にも消え入りそうなほど身を固く、縮こまらせていた。こんな様子ではあるが、先に述べた通り世界中から認められている勇者様である。もしかしたら先ほどの視線は、情報に富むヨーテンガースの住民のことだ、自分たちの素性を知っているが故の好奇の視線だったのかもしれない。

「えっと……。店から離れて大丈夫だったか?」
「は、はい。私もふと足を止めただけですから。そう、暇なので、その」

 リリルの言う、『暇』や『空いている』という言葉を、アキラは全く信用していなかった。
 この少女は求められれば当たり前のように応じ、基本的に頷くことしかしない。
 僅かな時間でもあれば、すぐに他者の望みに応じ続ける。
 そんな身を粉にするような、あるいは不可能とも思えるようなことを実践し続けてきたのが彼女だ。
 自分の時間というものが取れているのかが心配になる。

「……リリルは暇なとき、何しているんだ?」
「何、というと」
「いや、リリルとは図書館とかでよく会うけど、情報収集とかって言うだろ。趣味とか何かなって思ってさ」

 聞きながら、まるでナンパしているような気分を味わった。
 軽薄な自分の態度に嫌気がさす。
 だが、流石のリリル。下らない問いかけにも顎に手を小さく当て、真剣に考え始めた。
 申し訳ないような気分になってくる。

「そうですね。大体は魔術師隊の支部へお邪魔して、お話を聞いたり、あとは、依頼所にも足を運んだりしていますね」

 それは情報収集とは違うのだろうか。
 その勤勉さにやや呆れていると、ようやくリリルは柔らかく笑った。

「ふふ、冗談ですよ。私だってたまには息抜きすることもあります」

 冗談を言うリリルという、珍しいものを見た。
 アキラはやや感動し、言葉を待つと、リリルは眩しそうに手で影を作りながら大通りを眺めた。

「趣味は、そうですね。散歩、でしょうか。人波を見るのが好きです。人込みは少し苦手なんですけど」

 道に迷いやすく日差しと人込みが苦手で趣味が散歩という、珍しい人間を見た。
 だが、リリルらしい。

 大きな積み荷乗せた馬車を操る商人がいる。野菜をのぞかせた手荷物を抱えせわしなく歩く主婦がいる。どこかで子供の大声が聞こえる。

 この光景は、リリルが守っている光景でもあるのだ。
 それは喜ばしくも誇らしくもあるのだろう。

「じゃあ悪かったな、邪魔して」
「え?」

 同じように街並みを眺めながらアキラは思わず口にしてしまっていた。
 自分の根底は卑屈なのかもしれない。
 黙り込むのもはばかれて、アキラはしぶしぶ続きを口にした。

「いやさ。リリルの時間を邪魔して悪かった、ってさ……」

 言いながら、卑怯で、そして言ってはならないこと言ったと自覚した。
 訊く前に、リリルの回答が分かっていたような気がしたからだ。

 リリルは、口元をやや強く結ぶと、アキラを見上げるほど近く歩み寄り、いつものようなまっすぐな視線でアキラの瞳をとらえてきた。

「……これが、私の好きな時間、です」

 やや肩を震わせて、精一杯言ったような彼女の言葉。その意味が分からないと言えば嘘になる。
 だが、ヒダマリ=アキラは急速に背筋が冷えていくのを感じた。
 この言葉に、自分は、目を逸らす以外の回答を持ち合わせていないのだ。

「アッキー!! ちょっと、聞いてくださいよ!!」

 止まったような時間は、近づいてきた大声で動き出した。
 我に返って振り返ると、リリル以上に身体を震わせ、やや涙目なアルティア=ウィン=クーデフォンが駆け寄ってくるのが見える。
 静かだと思ったら、いつしか置き去りにしていたらしい。

「あ、リリにゃんこんにちは!!」
「はい。こんにちはです。アルティアさん」
「ティアにゃんさんですが、ご挨拶遅れてすみません。いやあいい天気ですね。あっし、暑くなっていましたよ。そういえば知っていますか? この通りをまっすぐ行くと冷たくて甘いお茶を出してくれるお店が……」

 暑くなってきたのは駆けてきたからだろう。服をパタパタさせながら観光案内を始めているティアを冷ややかな視線で見つめていると、ティアはまるで何かにひらめいたように手を打った。

「そうだそうです。……アッキー」

 今度はティアにまっすぐ向き合われた。
 ティアに救われたような気分になっているアキラが、ややジト目をしながら言葉を待つと、ティアは深々と頭を下げた。

「……すみません。ものすごく心苦しいのですが、お金を貸して欲しいんです」
「は? ……ああ、お菓子か? いいけど」
「いや、お菓子ではないんですが。宿にお財布忘れてきちゃったみたいで。あの、土下座でも靴舐めでもなんでもいたしますので……」
「まさかとは思うがお前エレナにねだるとき、そうやって脅迫しているじゃないだろうな?」

 本当にやりかねないと思わせるほどティアには悲壮感が漂っていた。
 大方どうしても欲しいものがあったのだろう。
 甘やかしたらエレナのことは言えなくなるが、このままこいつの暴挙を許せば、勇者ヒダマリ=アキラは社会的に死ぬ。

「ティアさん、お困りなんですか?」
「あ、いや、えっと、ああ……、その、リリにゃんに言っちゃうと、いや、あれ?」

 何らかの葛藤ののち、頭の許容量を超えたらしい。
 捨てられた犬のような目のティアを見て、埒が明かないとアキラはティアが駆けてきた方に歩き出す。

「こっちか? で、何が欲しいんだよ」

 あいにく金には困っていない。
 浪費家のティアと違って、アキラはほとんど金を使わないのだ。むしろ持て余して、エリーに管理を頼んでいるほどだった。
 先ほど救われた恩もある。ご馳走くらいはしてあげよう。

 ティアの茶番に突き合わせて悪いが、リリルもついてきてくれるようだ。
 真面目にも心配そうにティアの様子をうかがいながら、元来た道を戻っていく。

「あー、えっと、もう駄目ですね。もう、仕方ないです」
「?」

 ティアが目指しているのは、先ほどリリルと出会った露店だった。
 あそこで逸れたのだろう、自分たちが離れていることも気づかず、目を輝かせて商品を眺めていたティアが容易に想像できた。

「ほら。リリにゃんさっき、めっちゃ欲しそうに見てたアクセサリーあったじゃないですか。だからあっし、日ごろの感謝も込めてサプライズプレゼント的なことをやろうとしたんです。でも、一生の不覚です。お財布を忘れてしまうなんて……。ですからアッキー、何とぞあっしにお恵みをば」

 オチが付くのはティアらしいが、よく聞く話のモテる男のようなことをやろうとしていたらしい。
 現に、隣を歩くリリルの顔がありありと赤くなっていく。きゃー、素敵! のような健康的な色には見えないが。
 赤といえばアイルークでの魔族戦。あのときもこの3人だったとアキラは現実逃避を始めた。

 どうやらさり気ない優しさとやらはもう諦めたらしい。
 そんなリリルの様子には気づかず、ティアはトテトテと商品の前に立ち、びしっと指をさした。
 露店の店主は、また来たかという顔をしている。
 財布を忘れたティアが、先ほどひと悶着でも起こしたのだろう。

「あれ? それだっけ?」

 ティアが見つめているのは小さな流星のマークがあしらわれている指輪だった。チェーンが付いているから、首から下げるもののようだ。
 この露店のアクセサリーは金属を加工し、ほんの少しデザインを加えているもので統一されているらしい。
 目線の高さから、リリルが見ていたのはもう少し上に並んでいる半月のマークの付いた細いブレスレットだったように思う。ますますアイルークでの出来事を思い出す。
 あくまで勘だったので、アキラが正解を求めてリリルを見ると、彼女は再び像と化し、真っ赤な顔をしてうつむいていた。

 何の気なしにブレスレットの方を取ってみると、思いのほか小さい。輪が開けるタイプのようだが、アキラの手首だとそもそも片側にはめ込むこともできなかった。

「リリ……」

 聞こうとしたが、彼女は変わらずうつむいている。
 値段も手ごろだったので、ティアが目を輝かせて見ている指輪の方も手に取ると、さっさと会計を済ませてしまった。
 これ以上、身じろぎしない像と大騒ぎする子供と共に営業妨害をするのもはばかれる。

「わ、わ、わ。アッキー、ありがとうございます。ああ、かわいいですね。キラキラしてますよ。ふふふ、幸せな気持ちになれますね。宿に戻ったら絶対にお返しします」
「いやいいよ。こんなときじゃないと使わないからな」

 もしかしたらリリルというよりこいつが欲しかっただけなのではないだろうか。
 手に持つなり掲げ、今にも小躍りしそうなティアを尻目に、リリルに近づくと、彼女は信じられないような目をしてアキラが手に持つブレスレットを見ていた。
 目は口程に物を言う。隠し事がどうも苦手そうなリリルの様子をそのまま受けて、気恥ずかしさを拭うようにアキラはリリルにブレスレットを差し出した。

「……これ、サイズ合うか分からないけど」
「え、あ、あの、い、いいんですか? その、今お金を、」
「いいんだよ。プレゼントだ。普段助けてもらっているし……」
「わ……。あの、ありがとうございます」

 そこまで喜ばれるとますます恥ずかしい。
 頷くだけで返したアキラに、リリルはブレスレットを受け取ると、まるで傷ついた小鳥を庇うかのように両手で包み、ほころぶように微笑んだ。
 そして割れ物のように慎重に扱いながら左腕につける。どうやらアキラとは違い、サイズは合っていたらしい。
 心の底から暖かな安堵が立ち上ってくる。あまり経験が無かったが、サイズに依存するプレゼントは特に緊張するようだ。

「た……。大切にします、ね」
「ああ、その、ありがとな」

 店主の前で言うのもあれだが、安物だ。だが彼女は、まるで宝物のように優しく扱い、心の底から笑みをこぼす。
 先ほど有耶無耶になった空気が、そして、アキラの中の焦燥感が蘇ってくる。

「……アキラさん。その……、お話ししたいことがあるんです」

 すっと見上げてきたリリルの眼は、まっすぐにアキラを映していた。
 びくりとする。心の奥が冷える。
 だからアキラは、リリルの言葉よりも、起こるであろう喧騒を心待ちにしていた。

「ああっ、アッキー!? ずるいです。あの、リリにゃん、これ、あっしからの……、あ、いや、アッキーからの? あれ、いや、もうあっしです。あっしもプレゼントを……!」

 横取りされたとでも思ったのだろう、ティアが慌てて駆け寄ってくる。
 リリルは少し苦笑いし、ティアにまっすぐ向き合った。

「はい。ありがとうございます」
「……あ……、あれ。はい。んんんっ」

 まるで聖母のような笑みを浮かべていたリリルだったが、表情が固まり、そして深刻そうな顔をしてティアをのぞき込み始めた。
 アキラは嫌な予感がしてうなり始めたティアの手元を見ると、彼女は自らの指を引っこ抜こうとしていた。

「は? って、あ、お前指に嵌めたのか? あんなに分かりやすく首から下げてくださいってなってたのに?」
「ぬぬっ、ぬぬぬぬぬっ」

 顔も指も真っ赤になりながら、ティアは自傷行為を続けている。
 いよいよ涙を浮かべ始めたティアを見て、リリルは顔を引きつらせながらティアの手を包み込むように触れた。

「あの、ティアさん。私お気持ちだけで充分です」
「ううう、でも、でも」
「大丈夫です。それに、ええと、そうです。その指輪ティアさんによくお似合いですよ?」
「わ、え、でも……、うう……。ありがとうございます。……あれ。でも、これ2度と外せないんじゃ……」

 今度は別の意味でリリルの顔が蒼白になっていく。女性のアクセサリーのことなどアキラには分からないが、こういうときはなんとかできそうなエリーか装飾品に詳しそうなエレナに聞いた方がいい。

「ティア、手は痛いか?」
「自分のせいなのか分かりませんが、赤いです」

 それは知っている。見るからに腫れている。
 だが指輪のせいというより、加減なく指輪を外そうとしたからのようにも見える。

「……情けないです。あっしだってリリにゃんにプレゼントをしたかったのに。……あ、そうだった。リリにゃん。今日の夕方お時間ありますか?」

 手はもういいのか。
 相変わらず情緒不安定なティアは再びリリルに向き合った。

「実はですね、今日イオリン復調のお祝いをするんです。リリにゃんにも来て欲しいんですが」
「まあ。それは良かったです。ごめんなさい、お見舞いにも行けなくて。もちろん大丈夫ですよ。ぜひお願いします」

 リリルももうティアの挙動には慣れているようだ。我がことのように顔をほころばせ、まっすぐに頷く。
 リリルはアキラを見て、そしてやはり微笑んだ。指は、先ほど嵌めたブレスレットを無意識に撫でている。

「じゃあ夕方までどっかで時間潰すか。そうだ、イオリにも復調祝いでなんか買ってくか」

 久しぶりに金を使ったからか自分の気も大きくなっているのかもしれない。
 復調祝いというより御機嫌取りが目的になりそうだが、渡したものを喜ばれると想像以上に嬉しくなるのだと今知った。
 しかし、求めれば当たり前のように応じるふたりの表情が曇った。

「うう……、これ以上アッキーに甘えるわけにはいきません。あっし宿に戻ってお財布持ってきます」
「……それと、誰か探してその指輪外してもらえ。そして指にはもう付けるなよ、首から下げるんだからな」
「分かってます……。あのチェーン、おまけじゃなかったんですね……。でもでもアッキー、ありがとうございます。では、リリにゃんもまた後ほど。夕方まで時間が無いです。急がねば……!!」

 ぺこりと頭を下げ、ティアはいつものように全力疾走していった。指の違和感も手伝っているのだろう。
 安物だし、最悪指輪は破壊すればいいだろう。勇者から外せない呪いのアイテムをプレゼントされるとは笑えない冗談だ。
 ここでいったん解散となったが、どうにかこうにか、全員を夕方に誘うミッションは完遂したらしい。

 肩の荷が下りたような気分のまま、今度はリリルに向き合う。

「えっと……。その、」

 リリルにしては珍しい歯切れが悪かった。
 しばらく思案したあと、首を振って、自分の顔を弱く叩く。今日は妙に、リリルらしからぬ挙動を見ている気がする。

「……すみません。私、これから依頼に行くところでして。その、夕方には間に合わせます」
「え……、いやこっちの方が悪いよ。遅れても大丈夫だからな」

 リリルらしいタイムスケジュールだった。やはり彼女の予定は当たり前のようにびっしりと埋まっており、そして求められると当たり前のように応じてしまうのだ。
 同じ勇者だというのに、時間を潰そうと考えている自分が恥ずかしくなってくる。
 そして、今断ったということは、今この時点で、時間制限いっぱいだということにもなる。

「リリル、じゃあ急いだ方がいいだろ」
「はい、すみません。慌ただしくて」
「謝るようなことじゃない、立派なことだろ」

 自分とは違って。
 今にも世界平和のために飛び出していきそうなリリルと比べると、自分はなんと愚かなことか。
 そんな羨望の眼差しを向けると。

「……」

 リリルの瞳の色が、深くなった。
 雪のように白い肌が、一層際立ち、そして、やはり柔らかな表情を浮かべている。

 知らない。
 表裏なく、すぐに感情が分かるリリルのことが、この瞬間、分からなくなった。
 表情から彼女の感情が読み取れない。だから多分、自分が初めて見る彼女の表情なのだろう。
 アキラは黙り込むことしかできなかった。

「……それでは、失礼します」

 優しい声色だった。
 それなのに、アキラは小さく震えた。
 先ほども味わったような、心の奥から滲み出てくる、暗く、怖い、何かの匂いを強く感じる。

 一気にたったひとりになり、アキラは別々の方向へかけていくふたりの背をぼんやりと眺めた。
 リリルが好きと言った、人波の光景にぽつんと取り残されたアキラは、とりあえず、考えないことにした。この匂いを前に、アキラは足を踏み出すことができない。
 まずは夕方のことを考えよう。イオリの機嫌を直すことを第一に。頭を振り、アキラも別の方向に歩き出す。

 暑い暑いと思っていたのに、汗はいつしか引いていた。

―――***―――

「……エレナさん」

 日も沈みかけ、窓から見える空は赤みがさしている。
 アキラたちの泊まる宿屋の近くの食堂は、だだっ広い部屋にテーブルが所狭しと並んでいる大衆食堂だ。遠目から見ると窮屈そうだが、2階までの吹き抜けで、座ってみればそれなりに居心地は悪くない。
 ヨーテンガースはずいぶんと日が長いようで、空席が目立たないくらいには人は埋まっており、外はまだまだ明るいのに酒を煽るものもいるくらいだった。
 そんな喧噪に包まれながら、最奥の大テーブルに陣取るアキラたちは、当たり前のように遅れてきたエレナ=ファンツェルンをややひきつった顔で出迎えた。

「何よこの店。もっといいとこなかったの?」
「お店についてはすみません。今日なんか大きいイベントあったらしくて、他のお店ほとんど閉まってたんです」

 言われると思っていたのだろう、アキラの隣のエリーが滑らかな口調で答えた。
 エリーは昼から魔術師隊の支部に缶詰だったのだから疲労もあるのだろう、エレナは憐みの瞳を浮かべるだけでこれ以上の苦言は避けてくれるようだ。
 だが、エレナは次に、怪訝な表情を浮かべた。

「……ん? あんたらどうしたのよ」
「エレナさん。……手に持っているそれはなんですか?」

 エリーがじっと見つめる先、エレナは小袋をぶら下げていた。
 立ったままで周囲の視線も今まで以上に集まってきたのを感じたのだろう、エレナは近くの椅子に腰を下ろし、やや放り投げるように小袋を対面のイオリの前に置いた。

「魔導士ちゃんの復帰祝いとかなんとか言ってたわよね、たまたま目に入ったから買ってきてあげたのよ」

 それだけまくしたて、エレナはさっさとメニューに目を通し始めた。
 冷ややかな流し目でアキラを威嚇してくるところを見ると、余計なことを言うなという脅迫めいた意思を感じる。
 どうやらエレナも、ティアが騒いでいたプレゼントという言葉が頭に残っていたらしい。エレナのそういう好意的な態度は、アキラは心から嬉しく思うのだが、今はそれ以上に頭を悩ませている問題がある。

「……ありがとうエレナ。本当に嬉しいよ。開けてもいいかな」
「……。何あんた、いつにも増して気色悪いわね。治ったんじゃないの?」

 本日の主役であるイオリは、努めて冷静に答えたように思えたが、鋭敏なエレナの感性はこの場の不穏な空気を正しく感じ取っているらしい。
 ひっそりと近くに寄ろうとしているティアを、顔を掴んで制しながら、じっと面々の顔を見渡してきた。
 そしてイオリは観念したように、はっと息を吐き、顔を上げた。

「ええと、その。みんな心配かけてすまなかったね。でもありがとう。この通り復調したよ。みんな集まってくれたのも、本当に嬉しく思う。……それでだ」

 イオリは、机の下から先ほど仕舞ったエレナのものとは別の小袋を取り出した。
 というより、取り出し続ける。

「エリサス、サクラ、アキラ、アルティア、そして……エレナだ。すごいね、奇跡だよ」

 それぞれ大きさは違うものの、イオリが受け取った紙袋が、ずらずらずらとイオリの前に並んでいく。
 紙袋には、みな同じく、ハーブのような模様がついているマグカップから湯気が立ち上り、芸細かくティースプーンが添えられているイラストのロゴが印されていた。
 そのロゴが何の店をさしているのか、アキラももちろん知っている。
 宿屋の前の通りを抜けたところにある、茶葉のお店だ。

「確かに趣味にしたことはあるよ。だけどね、僕だってお茶ばかり淹れているわけじゃないってことは知っておいてもらいたいな」

 イオリはにっこりしているが、それだけにリアクションに困っているのが目に取れた。
 エレナもきっとそうなのだろう。他の者も似たようなことを言っていたが、旅を通してイオリはいつも忙しく働いていることが多く、それだけに、アイルークで楽しそうに喫茶店紛いのことをしていたときの印象が強い。
 事実、彼女の淹れたお茶は、趣味にしていたというだけはあり、美味しかった。

「は、なに全員同じ店? ぷ、ははは、笑えるじゃない、ねえ」
「……ええ、エレナさんは笑ってください。あたしも笑いましたから。みんな、気が合いますね、って嬉しくなっちゃったりして。……まあ、今はみんな1回笑ったあと、これどうやって使い切るの? っていう現実に直面していますが」

 エリーの言葉に、エレナはようやく全員の心情を察したらしい。
 こぶし大の瓶が、一袋につき2、3個ほど入っているのだ。特にティアは、これが彼女の万年金欠の由来であろう、選ぶのが難しかったのか、大瓶小瓶合わせて8個も購入してきている。割れ物というのもあり、持ち運ぶには工夫がいる。
 プレゼントの本質は、人の好意そのものだ。イオリにとっては受け取らないわけにも邪険に扱うわけにもいかない。廃棄などもっての他だ。
 そして、渡した側も、ここまでくると申し訳なくなってくる。誰も悪くないはずなのに、渡すものが被ったことに不満を漏らせば自傷にもなり、謝罪すればそれは他者を傷つけるとなって身動きは取れない。
 後者は特に思い知らされた。エレナが来る少し前、その状況で身動きを取って、周りも巻き込んで自爆したアルティア=ウィン=クーデフォンによって。

「……いや、忘れよう。繰り返すけど、嬉しいというのは本当だから」

 イオリは柔らかく微笑んだ。最近よく見るようになった、その優しげなイオリの表情に、アキラも胸を撫でおろす。
 イオリの怪我が治ったことは何よりも嬉しい。
 そして、機嫌が悪かったのも、この珍事で有耶無耶となったようだ。ティアに小さくガッツポーズを見せると、彼女は身体全身で大げさに両拳を握り込み、エレナの脇腹に肘を突き刺していた。

「ただ、アキラ。これから毎日お茶を飲んでもらうことになりそうだから」

 顔面を握り潰されているティアを尻目に、イオリは冷ややかな視線をアキラに向けてきた。
 隣で、エリーがむぅ、と唸ったのが聞こえる。

 残念ながら、イオリの頭は自分たちほど単純ではないらしい。未だしっかり怒っているようだ。
 助けを求めてサクを見ると、彼女は素知らぬ顔でメニューだけを見ていた。よほど空腹なのだろう、主君の危機に気づけないほどとは。

 そこで、店の両開きの扉から複数人の何人かの男たちが入ってきたのが見えた。複数の団体客がきたらしい。エリーの言っていたイベントとやらが一区切りついたのだろうか。

「……まあいいわ。それで、何か注文したの? 騒がしくなる前にとっとと食べちゃいましょうよ」
「そうだね。今後についての話もしたいと思っていたし、……それに、僕たちも目立つようになってきたみたいだしね」

 イオリが言わずとも、全員が気づいていた。
 噂に敏感なヨーテンガース。この店内でも、ちらちらとこちらの様子をうかがっている者も見える。2階席から見下ろしてくる男は、確か依頼所でも見かけたような気がする。

 この場を選んだエリーが申し訳なさそうな顔をしているが、アキラは店の出入り口を未だ眺めていた。

「待ってくれ。リリルも呼んでいるんだ。今頃宿屋で伝言受けている頃かも」
「……ん? リリルさんなら依頼所ですれ違ったぞ。街外れで護衛をするとか言っていたが」
「あ、それかも。今日も割と大掛かりな儀式があるらしくて、魔術師隊も要請受けていたみたい」

 勤勉なおかげか、街の事情に詳しいエリーとサクが、やや怪訝な顔をして、しかし、いやと首を振った。
 ふたりも、リリルがたとえその依頼を受けていたとして、誘いを拒まない性格だということが分かってきたのだろう。
 ティアが心配そうな顔を浮かべていたが、埒が明かないとエレナは店員を呼び寄せ勝手に注文を始めていた。

「……まあ、待たせていたと思った方が彼女も心苦しいよ。じきに来るさ。気にせず頼もう」
「そう、だな……」

 本日の主役にこれ以上気を揉ませるのは控えよう。
 アキラは努めて明るく振舞った。

 だが、料理が届けられ、世話焼きのエリーに取り分けてもらいながら、アキラは、ふと、リリル=サース=ロングトンという女性について考える。

 彼女はいつも、自分の目指すものに邁進している。
 いや、世界の目指すものに、か。
 世界とは街で、人で、魂だ。求めるものは広く、多い。
 だから彼女はいつも、時間という制限をものともせずに、すべてに真摯に向き合い続け、そして達成し続けている。
 アキラが夢焦がれる、キラキラと輝いた存在だ。
 世間的には肩を並べているはずの自分と比べると、拭い切れない劣等感を覚える。自分が仲間と語らい、笑い、いい加減に過ごしているその時間の何倍もの密度で、彼女は世界の求めに応じ続けている。
 それが世界の裏側で、出征も知れぬ英雄がやっているのであれば、アキラはいつものように、羨望と劣情を同時に向ける一般人でいられただろう。
 だが、自分は、リリル=サース=ロングトンという少女を知ってしまっていた。

 強い部分も、弱い部分もきちんとあり、笑い、泣き、喜び、落ち込む、自分たちと変わらない、当たり前の人間でもある。
 だからアキラは妙に怖くなった。
 才ある彼女は、それゆえに、世界の求めに応じ続ける。
 それではまるで、才能の奴隷だ。
 求めに応えることが“できてしまうから”、彼女はきっと止まれない。凡人には理解できない、求められることの不幸とも、彼女は向き合い続けている。

 あの赫の世界。灼熱の中の死闘。
 死の淵に瀕した彼女が漏らしたあの弱音は、あの小さな身体に乗り続けていたものが、崩れ落ちてきたのだ。

 そんな彼女のことを、自分は、果たしてどう思っているのか。

「……来ないわね」
「ん? ……ああ、リリルのことか? そういや遅いな」

 エリーへの返答は、自分でも満足いくほど自然にできたと思う。
 だが彼女はジト目になり、グラスの水を飲み干した。
 まったく誤魔化せていないことがよく分かった。

「リリルさんのことだし、そこまでは心配要らないだろうけどね。それよりむしろ、ちゃんと誘ったの?」
「失礼な。ちゃんと誘ったぞ、元気に答えてたしな。なあティア」

 声をかけたティアは、机に突っ伏していた。寝るには早いが、理由は思いついていた。
 サクがため息交じりにテーブルのスペースを確保して介抱している。アキラの声には気づかなかったらしい。
 小さな声では向かいの席にも声が届かないほど、店内も随分騒がしくなってきたようだ。

「誘う、か」
「なんだよ」

 意味深に俯くエリーは、店の出入り口に視線を投げながらアキラを流し見た。

「なあなあみたいな感じになっちゃっているけど、リリルさんに月輪の魔術師なってくださいって頼んでるの?」
「は?」
「いや、なんとなくね、気になっちゃって。だってさ、宿が別でも、あんたよくリリルさんに会ってるんでしょう?」

 エリーは向き合いもしない。

「やけに気にかけてるっていうか。どういうつもりで会いに行っているんだろう、っていうか。いや、嫌だ、って言っているんじゃなくて、あたしだってリリルさんが仲間になってくれたら心強いし、嬉しいし、ああもう、あたしまたなんか変なこと言ってる」

 どういうつもり、か。
 その言葉が妙に心に残った。

「それで、勧誘するの?」
「いや、えっと……、てか。……“お前の妹”は月輪属性なんだろう」
「もしかしてあたしのせい? あてがあるとか言っちゃったから」
「……そんな感じだ。それに相手は本物の勇者様だからな」

 は、と、エリーが息を吐いた。
 彼女の表情だけを見て、アキラはエリーが恐ろしく不機嫌になったのが分かった。

「そんなの、大して気にしてないくせに」

 こうした彼女の様子は時たま見る。
 おおよそ、自分が、きっと嘘と呼ばれるものを吐いたときだ。
 アキラの自覚あるなしに関わらず、彼女はこうした、拗ねたような表情を浮かべる。

「でも、じゃあ何よ。どういうつもりでリリルさんのとこ行ってるの? ……ああ、ほら。あんなに忙しいのにあんたは邪魔しにいってるのか? ってね」

 また言われた。
 楔となっていた言葉が、さらに深く撃ち込まれたような感覚を覚える。
 確かにアキラはこの数日、街を散策するという名目で、リリルがいそうなところばかりを周っていた気がする。

 ヒダマリ=アキラは、リリル=サース=ロングトンを、どう思っているのか。
 それはきっと分かっていて、辿り着く方法も知っていて、それでも、アキラには辿り着けないものだ。
 だけど、出来ることはあるのだということも知っている。

「……いや、いつかお前に言われた通りにしているんだろうな、俺は」
「え?」

 アキラは、ぼんやりと、静かに答えた。

「どうすりゃいいか分からなかったら、どうにかなるまで会い続けろ、ってさ。そしたらいつか、言葉になるんだろ。……だからきっとそうしているんだ」

 何も考えず、自分はそう言っていた。
 だから多分、これは自分の本心だ。
 分かっている答えは形にならないが、ひとつだけならはっきり言える。
 これはエリーに言われたことだ。そう思っているうちは、縁は切れないものなのだと。

 自分は、彼女に関わり続けたい。

「……」

 隣のエリーがテーブルに突っ伏した。

「どうした?」
「……気にしないで。自業自得だから」
「食い過ぎか?」
「それはむしろ今からね。……いや、あたしも飲もうかな」

 伏せたままでエリーが見たのは、エレナが頼んだお酒だった。
 ずいぶん開けているようなのに、エレナは変わらずすまし顔で、今はイオリと話している。
 同じように突っ伏しているティアは、エレナの目を盗んで酒を口にしたのだろう。具合は気がかりではあるが、彼女があんなに簡単に静まり返るなら、これから常備しておくのも悪くないかもしれない。

「酒飲むのか?」
「ううん、初めて。でも、そうでもしなきゃやってらんないっていうか」

 伏せたままうんうん唸っていたエリーは、小さく息を吸うと吐き出しながら身を起こした。
 そしてようやく、アキラに視線を向ける。

「うー、はあ。分かったあんたに頼むわ」
「?」

 投げやりに、でも、まっすぐアキラの目を見て、彼女は言った。

「リリルさんを月輪の魔術師として勧誘して。あたしからのお願いです」

 不思議なものだ。
 彼女の言葉は、いつだって、アキラが思った通りにしろ、と言っているように聞こえる。

「……そうだな。頼まれちゃしょうがないな」
「そうね。しっかり勧誘してくるのよ。中途半端は駄目だから」

 エリーは結局、酒に手を出すのを止めたらしい。
 軽く髪を直すような仕草をして、今度は視線を落として言う。

「その代わり」
「……お前からのお願いなのにか?」
「そうよ。……文句ある?」
「いいや」

 まったくもって無かった。

「そうね。……今度さ、話があるから」
「話?」
「そう。それ、ちゃんと聞いてね。……そのとき、あんたが、その、どうなっていても」
「どうなっていてもって……、えっと、それだけでいいのか? そんなのいつでも、なんなら今でもいいし、」

 エリーは首を振った。

「今は駄目。でも今度。近いうちに。……話したい、ううん、言いたいこと、あるんだ」
「……」

 アキラの胸の奥が、ジンと熱を帯びた。
 身体中から浮かされるような熱気がゆっくりと立ち上り、心地よい、柔らかな感覚が背筋を覆う。
 しかし、それと同時、それを侵食するように、心の奥からどす黒い何かが体内を周り、暖かな波を、禍々しい毒素に変えていく。

「……」

 だが、それでも。

「ああ、分かった。……ちゃんと聞くよ」

 毒が回りきる前にそう言った。
 いや、回りきったとしても、多分自分はそう言ったかもしれない。

 自分の恥ずかしい勘違いでなければ、何となく、分かっていることがある。
 だからきっと、自分がどれほど恐れていても、近いうちに、答えを求められるのだろう。

 ヒダマリ=アキラは、エリサス=アーティという女の子を、どう思っているのかと。

「……。……。あ。えっと、そうだ。あの、イオリさん、その茶葉結局どうします?」

 エリーがやや強引にイオリとエレナの会話に割り込んだ。
 アキラも雑念を振り払って、今はイオリの脇に積まれた複数の瓶の袋を見る。
 そういえば、このふたりが話しているのは珍しかったのかもしれない。何度か一緒にいたのを見たことがあるが、いったいどんな話をしていたのだろう。

 呼ばれたイオリは、エリーと、そして袋を見て、頷くと、優しく微笑んでみせる。
 真横のアキラには、どうしようもない、という彼女の心の声が聞こえた気がした。

「一応みんなに振る舞おうとは思うけど、減らないだろうね。不遜な言い方になるのかは分からないけど、正直、これを使い切る前に魔王に戦いを挑むことになるレベルだ」
「どうする? 売り払ってきましょうか?」

 エレナがややつまらなさそうな顔で、ざっと店内を見渡した。
 商人の顔つきではなく、獲物を物色する盗人の瞳だ。彼女の売るは、店に留まらず誰か個人に対して、金を奪って代わりに置いてくる、という意味になるのかもしれない。

「それは悪いよ。さっきも言ったけど、僕は嬉しいんだから。……処理に難儀しているだけで」
「本音が隠しきれてないわね……。あ、でもそっか。ごめんね魔導士ちゃん。アキラ君とティータイムしたいんだっけ?」
「ああ、是非エレナにも来て欲しいね。朝昼晩だ」
「……ふうん。ま、いいわ。減らすつもりで使ってればそのうち無くなるでしょ」
「うーん、じゃあいっそ、何か料理とかに使えないですかね?」
「それだと……宿か何かの調理場を借りないといけなくなるね」
「面倒ね」

 話を逸らした先ではあったが、難問だった。
 この場にいる全員が加害者であり被害者にもなり得る。

 サクに視線を向けると、可愛らしくふるふると顔を振られ、視線を外された。
 こういう問題のとき、自然と被害の届かない場所で傍観しているのは本当にずるいと思う。

「……いっそ、そのまま食えたりするんじゃね?」

 アキラはぽつりと言った。
 エリーではないが、考え事をしていたからかあまり食べてなかったようで、小腹が空いていた。
 そのせいで、そんなことを思いついた。

「……茶葉ってそのまま食べれるんですか?」
「ええと、聞いたことがあるようなないような……。少なくとも僕はやったことがない」
「いけるんじゃないの? ほら、野草食べて生きてる奴もいるくらいよ」

 ほぼ投げやりに言ったのだが、思った以上に真剣に検討が進んでいる。
 ついにイオリがひとつ瓶を取り出し、ラベルかどこかに注意書きが書いてないかを確認し始めた。
 みんな疲れ始めているのだろう、とっとと宿題を片付けて宿に戻りたいのかもしれない。ここまで店が騒がしくなってきている上、ひとり完全に沈黙しているとなると、旅の話は明日に持ち越されそうだ。

「じゃあ、アキラ」
「……どうして俺? お前宛のプレゼントだぞ」
「発案者じゃないか。でも、確か大丈夫だよ、思い出した、元の世界では食べる人もいるんだ」
「あら、それなら問題ないじゃない。異世界組で処理できるってことでしょ」

 エリーはきょろきょろと店内の様子をうかがっている。飲食店で持ち込んだものを食べるのはマナー違反ということを気にしているのだろうか。
 アキラも気になったが、そういえば、イオリがそういうことに気づかないのも妙だ。
 ふと彼女のグラスを見ると、エレナのものと同じ色の液体が滴っていた。

「酔ってんのか?」
「そりゃあ多少は酔うものだと思うよ」
「さすが俺より大人だな」
「はは、多少感情が制御できなくなっているかもね。……。…………はい」
「……でかくね」

 イオリが差し出してきたのは、今なお突っ伏しているアルティア=ウィン=クーデフォンが買ってきた両手で持つほどの巨大な瓶だった。
 お徳用、と書かれていても違和感はない。
 中はやや朱がかかった茶葉で、知識のないアキラには何杯分の茶葉なのかは分からなかった。

「まあ、食べてみるけど」
「よかった、ひとつ減ったね」
「全部じゃねえよ?」
「いけるって」

 柔らかい口調だったが、彼女は昼に見た酷く静かな瞳でアキラを射抜いてきた。
 よく分かる。自分の不用意な発言で、彼女は怒っている。

「……えっと、」

 蓋を開けると、ふわりと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。香りがいい。
 茶のことなど詳しくはないが、それなりにいいものなのだろう。実際自分が言った店と同じ店でティアが買ってきたものだ。値段もそれなりのものがほとんどだったように思う。

 そのまま手を入れていいものか迷ったが、余計な所作をするとイオリの反感を買いそうだった。
 あまり他の部分に触れないように手を入れ、恐る恐るひとつまみ口にする。

「……どう?」
「……、……、うん、いや、まあ、食えるっちゃ食える」

 苦いのか、と思っていたのだが、香りが手伝っているのか味はあまりしなかった。ただ、舌触りは当然よくない。
 また、口の中に茶葉が残っているような感じもして、上手く飲み込めない。
 だが、少なくとも野草よりは上等な食材ではあるのだろう。

「ほらアキラ、水だ」
「ああ、ありがとう」
「ほらアキラ、次だ」
「……お前マジで許さないタイプだな」

 今度は丁寧にスプーンも差し出してきた。
 一定量食べなければ彼女の溜飲は下がらないだろう。

 興味本位で香りを嗅いでいるエリーに、スプーン1杯分の茶葉を分け与え、アキラは瓶に向き合う。
 エリーが抗議の視線を向けてきたが、アキラが挑む物量を見て、おとなしく引き下がった。

 スプーンから手に受け、口に運ぶ。
 先ほどよりも多い量口に含むと、香りよりも苦さが先行してきた。
 噛もうと思ったが、より苦くなりそうで、アキラは甘噛みしつつ水で流し込む。

「うん……。いけなくは……ないのか?」
「アキラ君、気づいて。一口ごとに何か言っている時点で、自分を騙しているってことよ」

 とはいえ、口に残る違和感にも慣れてきた。徐々にペースを上げ、茶葉の消費に取り掛かる。

 やたらと単独行動をするこの面々が一堂に会したのもティアの尽力が大きい。そのティアが買ってきたこの、直接的な表現を使えば、邪魔な巨大瓶が、場合によっては廃棄されてしまうというのも悲しいではないか。
 誠意には誠意を返すべきだ。

「……あの、アキラ。その、悪かった、冗談で言ったんだよ?」

 酔いが覚めてきたのか、はたまた瓶の茶葉を貪るアキラの姿に引いているのか、イオリが震えた声で諭すように言ってくる。
 だが、瓶の上から覗いているアキラにも、茶葉がどんどん減っていくのが分かる。
 ここまでくると、意地のようなものに近い。
 もしかしたらいけるのでは、という感覚が昇ってくる。
 ほら、水を飲めば簡易的にお茶を飲んでいることになる。思ったより楽勝だ。

「アキラ、やめておけ。なんというか、その」

 傍観者を決め込んでいたサクすら止めにかかってきた。
 邪魔をしないでくれ。もう少しで、底が見えてきそうなのだ。

「…………ぁ」

 何度目か。水を飲み込んだ瞬間だった。

 ぐらりと眩暈がした気がする。
 おかしい。酒は飲んでいないのに。

「ちょ、ちょっと、大丈夫」
「……ああ、ああ。だけど、なんか。あれ。変じゃね?」
「変なのはあんたよ」

 いいや変ではない。
 皆が善意でやったことを、善意で返しているだけだ。

 だが、何故だろう。
 頭が痛いというか、喉が痛いというか、胸が痛いというか、胃が痛いというか、なんというか。

「……宿に戻るわよ。ほら、あんたもいつまで寝てんの」

 テーブルの向こうで、エレナがティアを起こしている。
 すぐそこのはずなのに、ずいぶんと遠くに見えた。
 次に気づいたときは、ティアがエレナの背に乗っていた。いつの間にそうなったのだろう。微笑ましい。
 隣にいたはずのエリーは、その向こうからやってくる。会計を済ませていたのだろうか。随分と移動が速い。

「……肩を貸そう」

 誰かにそう言われたが、誰の声か分からなかった。
 ひとつ分かるのは、茶葉を食べても問題ないか、という問いに対しては。

 適量なら、という回答がどうやら正しいらしいことだった。

―――***―――

 どうやら近々雨が降るようで、夜になったら、どんよりとした雲が空を埋め始めていた。
 風も出てきたようで、波打つように蠢く雲は窓の中から見ていると、いいように言えば幻想的で、悪いように言えば気分が悪くなってくる。
 言いようのない息苦しさを覚えて窓を開けてみたが、やはり湿度が高いのか生温かい風が流れ込んでくるだけだった。

 ヒダマリ=アキラは、ベッドに足を投げながら、薄ぼんやりとした部屋でそんな無駄なことを考えていた。
 日はどっぷり沈んでいる。
 首元を拭うと少し汗をかいていた。冷や汗という部類だろう。シャワーを浴びようと思ったが、先ほども億劫だからと諦めたことを思い出した。

 きっと、何かが悪かったのだ。
 となるとやはり、ヒダマリ=アキラが悪かったのだろう。

 だが、果たして本当にそうだろうか。

 全員が、誠意に誠意を、厚意に厚意を返しただけだ。
 全員が正しい行動を取ったはずだ。

 だが、結果が悪かった。
 具体的に何が悪いと言えば。

「気持ち悪……」

 吐き気がする、というほどではないが、妙に体中がだるい。
 胃がムカムカし、横になっているのにどんどん具合が悪くなっていくような気もする。

 症状としては食べ過ぎ、なのだろうか。
 摂取し過ぎ、の方が的確かもしれない。
 お湯でこして飲むものをあれだけの量食べたということは、何らかの原液をひたすらに摂り続けていたことになる。
 今考えると、自分はいったい何をやっていたのだろう。

「あー、う」

 のそりと起き上がる。

 ベッドの脇を見ると水差しが置いてあった。
 誰かが用意してくれたのだろう。

 今は何時か知らないが、みんなはもう寝ただろうか。
 誰かに身を預けながら帰路についていた自分は、酒に酔っていたように見えたかもしれない。
 その間、やたらと同情的な視線を感じた気もした。
 世界中の希望を集める勇者として、情けないところを見せてしまったかもしれない。

「……あ」

 ベッドから立ち、アキラは思わず窓を見た。
 そうだ、すっかり忘れていた。
 結局自分たちが店を出るまで、最後のひとりが来なかったことを。

 依頼はもうとっくに終わっているだろう。
 アキラはそんなことを考えながらも、身支度を整える。

 彼女はもう、宿に戻っている頃だろう。
 そう分かっているのに、アキラは静かに部屋を後にする。

 湿気を帯びた、生暖かい廊下を進み、1段1段、音を立てないように階段を下りた。
 静まり返ったロビーに出ると、夜番の宿屋が小さく会釈してくる。
 アキラも頷き返し、やはり静かに宿の扉を開けた。

「……遅かったな」
「はい。お待たせしてすみませんでした」

 いると思っていた。だから、アキラは驚かなかった。
 彼女も、現れたアキラに、いつものような優しい笑みを返してきた。

「少し、歩きませんか?」

 彼女は散歩が好きらしい。

 具体の悪さは、いつの間にか治っていた。

―――***―――

 宿の通りを抜けていくと、飲食街に入る。
 先ほどアキラたちが夕食を済ませた店は1本外れた向こうにあり、この道はやや高級な店が並んでいた。
 赤いレンガを基調とした塗装された道は下り坂になっていて、上から見下ろせばすべての店が一体となった作品にも見える。
 この道の店はもう閉まっているようで、隣の道から、今なお誰かの笑い声が小さく聞こえてくるだけの、静まり返った空間だった。
 薄ぼんやりとした月明かりだけを頼りに、ゆっくりと、惜しむように、ふたりで歩を進める。

「依頼、どうだったんだ?」
「はい」

 リリルは聞かれると思っていたのか、すぐに答えた。

「儀式は無事に済んだようでした」
「どんな儀式だったんだ? なんか、大きなイベントって聞いたけど」
「知っていたんですか? そうですね、どうも大漁や豊作を願う儀式だそうです。規模としては、この前のバオールの儀式より大きかったですかね」

 思い出すように視線を泳がせたリリルに、アキラも想像し、目を細める。
 あの依頼には思うことが多すぎた。

「ただ、儀式、というよりは宴、という表現の方が近いかもしれません」
「みんな集まって飲み食いしてた、って感じなのか」
「ええ、飲んで、食べて、笑って……。大人数で盛り上がる。そんな儀式でした」

 彼女はほっこりと笑う。
 そうしたものが、リリルが好きな光景なのだろう。

「じゃあ、リリルはそっちにつかまってたのか」
「……え?」
「依頼、長引いてたみたいだから、飲まず食わずで大変だったのかな、って思ってたからさ」

 リリルは、少しだけ身をすくませ、呟いた。

「いえ、依頼自体が長引いてしまったんです。……私のせいで」

 飲食街の坂を下り切ると、波の音が聞こえてくる。
 じっとりと暑いのに、この音が聞こえてくるだけで冷ややかに感じるのは不思議だ。
 リリルはアキラを促すように、道を曲がり、あえて舗装された道から外れた。進んでいくと、今度は上り坂があり、確か、海を見下ろせる高台に出た気がする。

「本当にすみませんでした。せっかくお誘いいただいたのに、行けなくて。イオリさん、気を悪くしませんでしたか?」
「それは大丈夫だと思うけど……、どうしたんだよ。何かあったのか?」

 しばらく無言だった。
 足元を気にする素振りをしながら、整備されていない道をふたりで歩いていく。
 彼女が口を開いたのは、ちょうど上り坂に差し掛かったときだった。

「申し訳ないことに、儀式の像が壊れてしまったんです。私の不注意で」
「壊れた、って」
「もともと古かったそうですが、魔物の攻撃がかすめて、中骨が折れてしまったそうで。修復に時間がかかってしまったんです」

 アキラは胸を撫でおろした。
 リリルの身に何かあったわけではないらしい。

「それ、リリルのせいじゃないだろ。魔物のせいなんだから」
「……」

 波の音が大きくなってきた。
 昼に通ったときは、喧噪に紛れて聞こえない。
 だから彼女が、暑い吐息を吐き出した音もよく聞こえた。

「私が注意深ければ、防げたはずのことでした」
「そんなん、後からだったら誰でも言えるよ。それに、リリルだって真剣に依頼に参加していたんだろ?」

 いつもみたいに。
 そう告げる前に、彼女は気落ちした顔で、アキラを見上げてきた。
 すぐ近くで、熱すら感じる距離で、そして観念したように、呟いた。

「あのとき私、焦っていたんです。早くしないと、夕方に間に合わない、って」

 微笑むリリルに、アキラも微笑み返した。
 これは彼女なりの冗談なのだろうか。
 こんな他愛もない会話が、アキラにはとても心地よく思えた。
 彼女もきっと、同じことを考えてくれていると思う。
 自分の勘違いでないと思えるほど、彼女はいつも、まっすぐに笑う。

 そろそろ高台に着く。
 この散歩も、随分宿から離れてしまった。
 時間もどうやら深夜らしい。
 だがアキラは、それを惜しいとはまるで思わなかった。

「……アキラさん。お話があります」
「ああ、俺も話したいことがあるんだ」

 アキラは被せるようにそう言った。
 彼女は目を閉じ、言葉を選んでいるようだった。
 彼女は、珍しくアキラの言葉を待つ気はないように見えた。

 そういえば、何度目か。
 彼女が幾度か話があると言って、結局その機会を失い続けていた。

 もしそれが、自分と同じことを言おうとしているのなら、どれほどありがたいことだろう。
 彼女ほどの人物が共にいてくれるのであれば、魔王討伐を目指すこの旅で、恐れるものなどなくなる。
 いや、多分それは、言い訳に過ぎない。
 アキラは、自分に正直になって、素直に思った。
 彼女が共にいてくれたら、自分は、嬉しい。

 しかし。

 リリルは、静かに微笑んで、ゆっくりと頭を下げた。

「……今まで、ありがとうございました」

 時間が止まったような感覚を味わった。
 まるで頭が働かない。彼女は今、何と言った。

「リ……リリル?」

 我に返ると、深々と頭を下げたリリルが目の前にいた。
 落ち着け。今のは、どういう意味だ。

「私は、明日にでもこの街を去ります。これから先は別行動、ということに」
「……ぇ、」

 リリルを月輪の魔術師として誘うように頼まれている。それにきっと、彼女も同じように考えてくれている。それは、自分が勝手にそう思い込んでいただけで、彼女はいつまでもこの街に留まり続けていることにもどかしさを感じていたのだろうか。

 まるで考えがまとまらなかった。

 だがリリルは、アキラが落ち着くのをじっと待ってくれていた。

「……理由を、聞いてもいいか?」
「その前に、アキラさん。そろそろ着きます。行きましょう」

 彼女に続くと、浜風が頬を撫でた。
 それなのに、何の匂いもしない。
 身体中の感覚が、酷く鈍くなっているのを感じた。

「……」

 眼前に広がる海は、漆黒だった。
 月は雲に隠されていて、ほとんど何も見えない。
 遠目に見える灯台だけが、唯一の光源と言ってよかった。

 この時間に来たことはなかったが、この場所を教えてくれたのはリリルだ。
 こんなところに用があったのかと聞いたら、迷った末に辿り着いたらしい。
 必死に道を覚えてきたらしく、アキラを案内してくれた。
 あのときもこうして、ぼうっと海を眺めていた気がする。

「これ以上ご迷惑おかけするのもどうかと思いまして」

 リリルは、そう切り出した。

「私は、求められたらすべてに応えます。そういう人を目指していますから。だからきっと、団体行動には向かないんです、私。本当はもっと早く、この街を去るつもりだった程ですし……」

 勇者の形。
 七曜の勇者。役割の勇者。戦果の勇者。
 それぞれ主義思想が違う。だが、だからこそ、それぞれが魔王を打てる可能性を持っている。

 彼女が口にした理由は、その主義の違いを色濃く感じ、効率的で、なるべくしてなる、当たり前のようなものに聞こえた。

 だからこそ、アキラは妙に落ち着けた。
 それは、曲がりなりにもともに時間を過ごした相手に、リリルが思うことだとは思えなかったからだ。

 しかし同時に思う。
 自分は、リリル=サース=ロングトンという勇者を、本当に理解していたのだろうか。
 朗らかに笑う、裏表のない彼女。そう思っていたのは、自分が浅はかなだけで、ともすれば彼女も共にいることを悪からず思ってくれていると感じていたのも、自分の恥ずかしい勘違いだったのだろうか。

「……じゃああの噂、迷惑だったろ」

 薄氷を踏むような気持で、アキラは言った。

 リリル=サース=ロングトンは、ヒダマリ=アキラの月輪の魔術師となった。
 そんな噂は、各所で聞いた。
 そう聞いたとき、アキラは、肯定も否定もしなかった。
 しかし、悪い気はしなかったのだ。

 別に、勇者としての優劣をつけられることに喜びを感じたわけではない。
 アキラはアキラで、リリルはリリルだ。上下はない。対等の存在だ。
 だからただ純粋に、彼女とこれからも関わり続けていいという大義名分を得たような気分になっていた。

 それは彼女も同じだと思っていた。
 それなのに。

「……」

 眼前には漆黒の海が広がっている。
 海の底と同じように、人の心を見通すことは叶わない。
 以前明るいときに来た、底まで見渡せるような澄んだ海の色は、もう思い出せなかった。

「……ずるいですね、アキラさん」
「……」
「多分答え、知っていますよね」

 誰もいない高台で、彼女は海を覗き込みながら、懺悔のように呟いた。

「喜んじゃったんです、私」

 もしそうならいいな。そう思っていたこと。
 彼女の口から聞いても、アキラは思ったより驚かない自分に気がついた。
 それは多分、自分は彼女を信用していたのだろう。
 リリルは、邪険に思う相手に付き合って、いつまでも行動を共にするほど、弱くはない。

「だって私、多くの人の助けになりたいと、ずっとそう思っていました。あなたのことを知ってから、勇者ヒダマリ=アキラは私の目標です。……あなたと共に旅が出来るなんて、そんな幸せなこと、……ずるいですよ」
「だったら、何でなんだよ」

 すがるように声を絞り出した。

「リリル。そう思ってくれるのは嬉しいけど、俺から見たらお前の方がずっと凄いし、立派だ。俺だって、お前を心から尊敬してる。だから、お前といるのは、俺だって、その、嬉しい」

 言葉を選んで、選べずに、アキラは思ったことをまくしたてた。
 そのすべてを確かに聞きながら、リリルの頬が高揚している。彼女への想いは、確かに届いている。
 きっと、自分と同じ気持ちだ。
 それなのに、彼女は別れを告げるという。

「……私は多分、月輪の勇者じゃなきゃいけないんです」

 彼女は手首を撫でる仕草をした。
 昼に贈ったブレスレットを付けているのかは、暗がりで分からなかった。

「それでもいい。……月輪の魔術師じゃなくたっていいじゃないかよ、それに、その……」

 リリルは、微笑んで、泣きそうなほど微笑んで、首を小さく振った。

 アキラは言い淀んだ。
 自分の何かが、彼女を苦しめているような気がしたのだ。

「そう言っていただけると、思っていました。……分かるようになってしまいました。アキラさん。私のことを立派と言いましたよね」

 頷くと、彼女は困ったように笑った。

「私、ダメダメなんですよ。気を張って、気を張って、ちゃんと勇者をしていないと、ちゃんと勇者でいられないんです。いつでもどこでも、何かをするためには全力でいないと届かないんですよ。偽物なんです」

 いつも清く正しく、ただ前を見て、すべての求めに応じてきた、世界の希望のその言葉に、アキラはしかし、納得していた。
 いつでも誠心誠意振る舞う彼女は、それでも、いやだからこそ。

「それが出来るから、俺はお前を尊敬しているんだ」

 アキラが憧れる、世界を輝かせる存在たちは、才と、それを活かす術を心得ている。
 そして、その中でもアキラから最も遠いところにある、そのひたむきさは、それこそ何よりも得難い力なのだ。

「たとえ虚勢でも、重ね続けられるならそれは本物だろ」

 言うと、やはり彼女は、泣きそうなほど微笑むのだ。
 まるで、アキラがそう言うと、感じていたかのように。

「アキラさん。アキラさんには、何度も、いいえ、いつも救われています。あなたの言葉が、行動が、いつも胸の奥に届きます。……だから、です」

 リリルは、まっすぐにアキラを見据えていた。
 アキラの知る、彼女そのもののだ。
 強く意思を持つ、勇者そのものだ。

 だからこそ、この瞬間に、アキラは彼女の意思を曲げられないと悟った。

「アキラさん。私は多分、これ以上あなたに救われたら、きっともっとダメになる。今日だってそう。依頼に遅れたり、ミスをしたり、本当に、それこそ、本当にダメダメだった頃に戻ったみたいで。それが、今日だけじゃないんです。ここ最近、ずっとこんな感じで。だから、これからは、もっと気を引き締めないといけないんです」

 だから、離れるというのか。
 彼女にとって、心地よい空間は、避けるべき場所だというのか。
 根本的な考え方の違いだ。
 埋めようがない、どうしようもないと思わせるものだ。
 だが、“その程度”で、彼女との時間を失うというのか。

 しかし彼女の瞳は、アキラのその感情に揺らぐとは思えないほど、強かった。

「……少なくとも今日は、違うだろ。俺が依頼の時間なのに、リリルをつかまえたりしたから、」
「ふ……、ええ。そう言ってくれるんですよね、アキラさん」

 捨て台詞のように呟いたら、リリルはさも嬉しそうに、微笑んだ。
 彼女もきっと、アキラがどういう人間なのか分かるようになってきたのだろう。
 こういうとき、自分が何を言うか、想像できるようになっているのだろう。

「その優しさは、迷惑なんかじゃないですよ。でも、自分に甘い私には、もったいなさすぎました」

 だが、やはりリリルはヒダマリ=アキラという人間を理解していない。
 アキラのこれは、自己否定だ。
 自分が悪いと思うことから思考が進むから、いつだって人の非を咎めないだけだ。
 優しさなんてものじゃない。

 だが彼女は、それすらも感じ取っているかのように、優しい目をしていた。
 たとえ偽物でも、重ね続けたものは本物になると、この口も言ったのだ。

 同じ何かは、誰かにとってそうでも、誰かにとってそうではない。
 自分も、そしてきっとリリルも、共にいることを心地よく思っていたはずだ。
 しかし、下す結論は、異なったものとなる。

 やはり、駄目だ。
 彼女の意思は、硬いようだった。

 アキラは息を吸い、空を見上げた。残念ながら月は見えない。

「感じちゃいました、自分が、今も、……喜んでしまっている。次も、きっと甘えてしまう、って思ってしまうんです」
「……じゃあ、厳しくすればよかったのか」

 からかうように、自嘲気味に呟いたら、リリルは目を丸くした。

「……ふふ。……その、多分それでも駄目でしたよ」

 リリルは一歩踏み出した。
 海に落ちそうなほど淵に立ったリリルは、漆黒の世界を眺め、そしてそれとは違う別の何かを感じているようだった。

「レミリア=ニギル様」

 それは、リリルが憧れる、たったひとりで世界を救った“三代目勇者様”の名だ。
 遥か太古、彼女の旅路は、この眼前の海と交わっただろうか。

「あの方は、自分を律し、その意思を持って、比類なき戦果を上げたんです。そして私もそうありたい。そうじゃなきゃ、私は勇者でいられない。そうじゃなきゃ、あなたと対等でいられない。そうじゃなきゃ、」

 リリルはくるりと振り返った。
 暗がりのはずなのに、彼女の真っ赤な顔が、はっきりと見えた気がした。

「あなたに好きなってもらえない」

 波の音だけが聞こえ続けていた。
 どれだけ時間が経っているのか、まるで分らない。
 だが、彼女はいつまでも、目をそらさずに、アキラだけを見つめてきていた。

 どこまでもまっすぐなその好意を受けたのに、あの黒い毒素は、何故か身体を支配しなかった。

「あ、……あ、の、」
「……う、上手くいきませんね。つ、つい……。私、嘘は吐けない、みたい、です」
「……、その、あ、ああ、知ってる」

 ただでさえまとまらなかった思考が、より愚鈍になったような感覚のまま、アキラは頬をかいた。

「だから、そのですね。私は前のように、ひとりで、その、旅を続けようと思いまして……」
「そう……か。その、」
「それで、ですね。……競争、というわけではないですが。もし私が魔王を倒したら、伝えたいことがある、というか、……もう言っている、というか」
「わ、分かった、分かったから」

 消え入りそうな声で囁くリリルを抑えた。
 これ以上は、自分の方が耐えられなくなりそうだった。

「……こ、ここまで言うつもりはなかった、というか」

 ついにしゃがみこんだリリルの隣で、アキラはじっと、波の音を聞いていた。
 そして、静かに考える。
 特定の誰かに、もしくは、特定の誰かから、こういう感情を向けること、向けられることを、自分はどう受け止めるのかと。

 同じ何かは、誰かにとってそうでも、というやつだ。

 そして、その答えは、きっと今ここにある。
 おそらくそれは、アキラが本当に求めて止まないものなのかもしれない。

 だが、それは、きっと。

「……今まで世話になったな」
「……それは私の台詞です。今だから言いますけど、私、もともとあなたの大ファンだったんですよ。アドロエプスの伝説に、百年戦争。あなたが関わった記事なんて、図書館には申し訳ないことをしました、擦り切れるほど読んだんです。アイルークで会えたあの日なんて、もう今でも思い出せるほどです。……その、色々と」
「そりゃ悪かったな、本物はこんなんで」
「ふふ、そうですね。イメージとは少し違いましたけど、それでも、それだからこそ、こんなにも……、ひ、う」
「……」

 ぎゅ、と拳を握った。
 リリルがまた、固まってしまった。

「……ま、魔門はやばかったな……。本当に死ぬと思ったよ」
「……。……わ、私もです。ふふ、あれからですね、私がアキラさんには弱音を吐くようになってしまったの。こんなの、皆さんの前では言えません」
「俺で良かったらいつでも聞くよ」
「あとは、そう、治癒……魔術の、その、練習、とか」
「……その話は、やめておこう」

 再三自爆するリリルを待つ間も、アキラは拳を握り続けていた。
 しばらくして、リリルはゆっくりと立ち上がった。

「そしてこの、ヨーテンガースまで。そういえば、すみませんでした。……あのとき駆け付けたのが私で」
「え?」
「『光の創め』の襲撃のときです。あのとき、アキラさん、きっと治療が出来る方を求めていたんだろうな、って思いました」
「……。そんなの、リリルのせいじゃない。それに、イオリも助かったしな」

 そんなつもりはなかった。
 だがあのとき、イオリが深手を負っていて、潜在的に、そんなことを考えたかもしれない。
 女性は視線に敏感らしい。
 あのときの自分の目は、何を映していたのだろうか。

「……でも、それでいいと思いました。そうあるべきだと、思いました。アキラさんは、あの人たちのことを1番考えるべきで、私はそうじゃない。今の私は、きっと、あなたの歩く道の途中で、たまたま出会った人、程度なんです。……でも、だからこそ、です」

 向き合ったリリルは、精一杯笑って見せた。

「そうではないようになりたい。あなたに求められる人になりたいんです。でも私はこのままじゃ、あなただけに求められる人になりたいと思ってしまう。それはきっと、今じゃないでしょう。だから、私はひとりで行きます。私が心置きなくそうなれるように、世界を平和にしてみせます」

 祈るように、掲げるように、リリルは言い切った。
 やはり本物は違う。
 どれほど大きなことを語ろうが、彼女なら本当にそうしてしまうと確信できるほど、キラキラと輝いて見えるのだ。

「アキラさん」

 ふっと笑うリリルは、ようやく、分かりやすく泣いていた。

「『ありがとうございました』」

 そう言って、リリルは背を向けて歩き出した。
 あの背中に、かけるべき言葉はないのだろう。使命も決意も、あるいは自分すら投げ出してつかまえる覚悟が無いのであれば、何も言ってはならない気がした。

「……」

 あの泣き顔は、彼女が目標とし、そうあり続けた勇者が持っていてはならないものなのかもしれない。
 自らの身を犠牲にしてまで世界の求めに応じ続けてきた勇者が持っていてはならない、そして、彼女が今決別した、彼女自身の心だろう。
 自分の弱さを浮かび上がらせるヒダマリ=アキラという存在は、彼女にとって、足枷だったのだろうか。

 僅かな明かりに照らされ、去り行く彼女の手首に嵌められたブレスレットが目に留まり、アキラはじっと想いを馳せる。

 過去。それも、気の遠くなるほど昔のことだ。
 人にすら裏切られ、幾度となく失望し、それでもひとりでひたむきに旅を続け、ついには魔王を撃破した三代目勇者レミリア=ニギル。
 彼女は旅の終盤、誰も信用することはできなくなっていたそうだ。

 だが、もしも。

 たったひとつでいい。
 レミリア=ニギルにも、正義や大義や使命など、キラキラと輝く物語の装飾品ではなく、酷く利己的で、独善的で、幸せの総和がどれほど少なかろうと、彼女自身の幸せがあったのだとしたら。
 今のアキラにとっては、何よりの救いになるのかもしれない。

「……包帯要る? ま、持ってないんだけどね」
「……」

 気づけば、握った拳から血が滴っていた。
 驚いた。爪が長すぎるのかもしれない。不衛生だとサクに怒られる。

 来訪者には、驚かなかった。
 感覚が麻痺しているのかもしれない。

「エレナ、散歩か?」
「酔い覚ましにちょっとね。で、アキラ君は具合悪いの治ったわけ?」
「……おかげさまでな」

 手のひらを服で拭い、現れたエレナ=ファンツェルンに背を向けた。

「聞いてたか?」
「……大体わね。口の中甘ったるくなったわ」
「茶化すなよ。……勧誘に失敗したとこだ」

 言って、自分が嘘を吐いたと思った。
 そしてはっきりと自覚した。この感情は、多分そうだったのだ。

「俺は間違っていたかな」

 同じく打倒魔王を目指す旅。同じ大陸。また道すがら出会うことがあるかもしれない。
 そう考えるのは楽観的過ぎることを、アキラもリリルも知っていた。

 打倒魔王を目指すなら、それぞれ脇目も振らず、自分に不足しているものを探し続けることになる。
 ヨーテンガースは広い。一度離れた者と、偶然出会えるとしたら、それこそ強い運命だ。
 だが、リリルには、“刻”を刻む力はない。
 リリルは本来ならこのときこの場所にいない存在でもあるのだ。アキラの記憶も役に立たない。
 そして魔王を倒したそのあと、自分は。

 だからこれは、本当の別れになるかもしれないのだ。

「……っ」

 今になって思う。
 リリルが何を思っていても、自分が正直に、自分が思ったことを伝えれば、もしかしたら、別の未来が待っていたかもしれない。
 今も隣で、彼女が微笑んでいてくれたかもしれない。
 いや、今でも遅くない。駆け出して、彼女を見つけて、伝えれば、何かが変わるかもしれない。
 だけど、リリルはきっと、それを望み、それを拒む。
 ならば何をすればいいのか。

 これがエレナの言った、身動きが取れなくなる、というやつなのかもしれない。

「自分がそう思うならそうよ。でも、思わなければそうじゃない。アキラ君、言ったでしょう。適度に距離を保て、って。……特に、自分の本当に大切にしている部分ならね」

 エレナの言葉は身に染みた。
 自分は、人への好意も、人からの好意も恐れていると、勝手に思っていた。
 自分の根底にはそういうものがあると、勝手に思い込んでいた。
 だが実際に、体験してみれば、そんなもの、何の防波堤にもなっていないことに気が付いた。

「は。だってよ、リリルだって、きっと同じ気持ちだった。それなのに、別々になるって、訳分かんねぇよ。世界を平和にした後? なら、なおさら一緒にいりゃいいじゃねえか。それなのに、」

 単なる八つ当たりだった。
 それでもエレナは何も言わなかった。
 それが、彼女が言うところの、大切にしていない部分の話だから相手にされていないのか、それとも彼女なりの優しさなのか、今のアキラには分からなかった。

「どうしろってんだよ、……ああ、くそ、マジで……駄目だ、訳分かんねぇ」

 今になって、爪が刺さっていた手のひらが痛み出した。
 それでも拳を握り込んだ。
 口の中は苦く、波の音は耳障りにがなり立てる。ただただ苦しい。リリルといたときには抑え込めていた感情が、手のひらの痛みでもまるで紛らわされない。

 先ほど自分を抑え込んで、ようやく別れられたのに、今すぐにでもリリルに会いたいと思う。

 せっかく、この世界線では彼女はいるのに。
 立って、歩いて、微笑んでいたのに。

 はっきり分かった。
 今、自分は。

 失恋したのだ。

「……そろそろ戻りましょう。流石に夜は冷えるわ。女に振られて風邪までひいたら目も当てられないわよ」
「……」

 エレナの軽口が、毒にも薬にもならなかった。
 何も考えられない。
 何もしたくない。
 風邪などいくら引いてもいい。どうせすぐに治る。

 うつむいていると、エレナがアキラの頬を両手で包んだ。
 顔を上げさせられたアキラには、エレナの冷ややかな目が待っていた。

「私にも風邪ひかせるつもり?」
「……エレナは失恋したことあんのかよ」

 嫌味のつもりで言ったが、エレナの瞳はアキラを捉えて離さなかった。

「そうね。アキラ君がひとりの女しか愛せないような甲斐性無しならそうなるわ」

 彼女はそう不敵に笑う。
 そこで自分は、ようやくエレナがここにいるとはっきりと分かったのかもしれない。

「勇者ちゃんのことはしょうがないけど、それで私のこと放っていたら許さないわ。あなたの本筋はこっちよ。落ち着くまで待つ。いくらでも落ち込んでいてもいい。私はそんなこと言わないわ。自分勝手だもの」

 エレナはアキラの顔を話すと、今度は肩に手を置いた。

「行きましょう。勇者ちゃんは、ちゃんと歩いて行ったわよ。これ以上ここにいたら、愛想付かされちゃうでしょう」

 エレナの言葉で、ほんの少しだけ、前の道が見えたような気がした。
 そして今になって、自分には我が身を差し出してでも救いたい者たちがいることを思い出す。
 エレナもそのひとりだ。
 救われてばかりだが。

「……少しは落ち着いた」
「そう。じゃあとっとともっと落ち着きなさいな」
「……エレナ。お前は本当にいい奴だな」
「あーら。今頃気づいたの?」
「ちょろいとか言ってごめんな」
「ねえアキラ君ねえ」

 がっと首筋を腕で掴まれた。
 痛い。ちゃんと、痛みを感じた。

「飲んで帰りましょう。まだ店開いてたわ。……開いてない方が都合がいいけど」
「お前何する気だ。てか俺酒は、」
「今私に意見できると思ってるの?」

 にっこりと笑ったエレナから、ほんのり強めの殺意を感じた。
 きっと明け方まで付き合わされるだろう。付き合って、くれるだろう。
 そうしたら、エリーやサクに怒られて、イオリの淹れたお茶で酔いを覚ましている頃に、ティアには誘って欲しかったと泣き付かれる。
 自分たちの関係は今、付かず離れずの、アキラにとっては程よい距離感を保っている。

 これが自分の日常で、本筋で、本編だ。

 だけど、近づいてきて、離れてしまったリリルのことを、アキラは、きっとずっと忘れない。
 忘れられず、乗り越えられず、ずっと心に残って、自分を苦しめて、それでも何度でも、暖かな気持ちにさせてくれるだろう。
 彼女は確かに、自分と一緒に同じ道を歩いたかけがえのない存在だ。

 だから、きっと、リリル=サース=ロングトンという女性と共に過ごしたこの時間は。

「番外編なんかじゃない」

 聞こえもしない声で呟いた。

―――***―――

 再び生暖かい風が窓から入り込んできた。
 アキラは額の汗を乱暴に拭う。

 それからのことはあまり覚えていない。
 いや、多分嘘だ、覚えている。

 確かあの翌日、エレナが海に飽きたと騒ぎ出し、荷物をまとめて港町を後にしたのだ。
 大樹海を横断し、ヨーテンガースを南下するのは、確か、“二週目”で経験したときよりも大変だったような気がする。
 妙に森がざわめいているとかで、馬車を使える場所と使えない場所ができていたらしい。
 直線ルートとはいかないらしく、うねるように、あるいは港町に置いてきた心残りを巻くように、複雑なルートを進んできた。

 道すがら、みんなと、いろんな話をしたのを覚えている。
 それだ。自分がよく覚えていないのは。

 だが確か、誰もリリルの話はしなかったと思う。
 エレナが気を利かせるように言ってくれたのか、それとも黙り込まらせたのか、彼女ならどちらもしそうだった。

 多分、自分は、悪くなかった。
 もちろん、リリルも悪くない。

 だが、結果は、自分が望んだものにはならなかった。

 あのときよりは大分ましになったとはいえ、ふとしたときに、アキラはそんなことを考え続けている。

 そして、もし、自分がもっと早く、彼女に好意を伝えていたら、彼女の好意を受けていたら、こんなことにはならなかったのではないかと、幾度となく悔恨が襲ってくる。

 この先自分は、ずっとこの苦い感情と付き合っていくのだろう。

 自分のこの、誰かの好意に対する、あるいは、誰かに向ける好意に対する恐れは、幼少期のものだ。
 今から考えると、下らないことだったのかもしれないが、それでも、当時の自分にとっては深刻で、真剣な問題だった。
 それが今の自分の人格形成に関わっているのだ。
 いや、それは言い訳なのだろうか。そもそも自分という人間が、アキラには分からなかった。
 幼少期の話も、それらしいことを思いついただけで、もしかしたら、もっと別に何かあったのかもしれない。

 そういえば。
 この話をしたのは、確か、この街だった。

「―――、」

 耳を、疑った。
 生暖かい風に乗って、何か、心地よさを覚える音が入り込んでくる。

 あれだけ億劫だった身体が浮かぶように軽くなり、アキラはベッドから降りた。

「―――、―――」

 ほとんど道を覚えていないはずだったのに、アキラは宿屋の廊下を迷いなく歩いた。

 感覚に従えばいい。
 自分が思う方向に、自分が行きたい場所がある。
 港町からずっと引きずっていた、あの、息が詰まるほど身動きが取れなかった感覚が消え失せ、自分が求めた方向に、自分は歩き出せていた。

「―――、―――、―――」

 これは、もしかしたら、自分の心のありようが、そのまま表された歌だからなのかもしれない。

 “いつこうなってしまったのだろう”。

 そういうときに、歌う唄だと“彼女”は言った。

「……」

 宿屋の階段を、上り、上り、ついに、最後の扉に辿り着いた。
 屋上へと続くその扉は、半開きに、なっていた。

 アキラは、扉を、開けた。

「―――、―――、」

 屋上に出ると、少女が、いた。

 小さく胸の前で手を合わせ、屋上の縁に登り、すっと広がる町並みを見下ろしながら。
 彼女は透き通るような声で歌っていた。
 髪ごと羽織った漆黒のマントをはためかせ、村の中央にある、天高くそびえる塔に正面から向き合い、月下で、祈るように。

 そこにいる彼女は、凛とし、それでいてどこか遠くに想いを馳せているような神聖な雰囲気を醸し出していた。

「……」

 そこは、夢の世界だった。
 夢の世界の住人が、まるでアキラの願いを叶えてくれたかのように、現実感が無かった。

 身体中が震えた。
 今すぐにでも、叫びたかった。
 だが、彼女の作ったこの空間を、壊すことは許されない。
 彼女こそが、この夢の世界の住人で、願いを叶える―――叶えることが出来る存在そのものなのだから。

「―――、」

 心地よい音色が、終わる。
 アキラにとって、始まりと終わりの唄が、閉じられる。

 何を言えばいい。
 彼女は今、“どう”なのか。

 屋上の縁から、重さを感じさせずにふわりと降りた少女は、とぼとぼと、歩み寄ってくる。
 その半開きの眼から、感情を感じ取ったとき、アキラは、さらに震えた。
 彼女の瞳の中に、やっと何かを見つけた、というような光を見つけた。
 本当に顔がそっくりだ、彼女の姉と。

「……久しぶり」

 言うと、彼女はやはり半開きの眼のまま、しかし、見知った者には分かるように、笑った。

 失って、それでもここまで来て。自分はようやく、この場所に辿り着いた。

「―――待ってたっすよ、にーさん」

 最後の、そして最高の仲間―――マリサス=アーティがそこにいた。

――――――
 後書き
 読んでくださってありがとうございます。
 コロナ禍の影響で、身辺の環境が一新していく昨今、皆様どのようにお過ごしでしょうか。
 被害に遭われた方にはご冥福を、被害に遭われている方には一日でも早いご回復を願います。

 さて、物語については、更新がだいぶ遅れて恐縮ですが、ようやくここまで辿り着きました。
 いったいいつ以来の登場なのか。私自身感動しています。
 ここまでたどり着けたのも、長らく付き合ってくださっている皆様のおかげでございます。
 引き続きよろしくお願いいたします。

 では…



[16905] 番外編『もし自分が、たったひとつだけを選ぶとしたら』
Name: コー◆289da7e7 ID:bd50f6e3
Date: 2021/07/10 23:46
“―――*―――”

『……すげえな。俺、双子ってものを甘く見ていた』
『だから言ったじゃない』
『どんな奴なんだ? って訊くたびにお前が自分の顔見せてきた理由がよく分かったよ』

 姉が、得意げに笑う。
 姉が連れてきた男が、感心し切ったように自分たちの顔を見比べる。

 初対面で、いきなり顔をじろじろと見られるのは、慣れているとはいえ、苦手だった。

 自分たちにとって、瓜二つと言われるのは誉め言葉だ。
 知り合いの兄弟に聞いた話によると、家族と似ているといわれるのは、どこか自分の個性を否定されている気がして、あまり嬉しくないらしいけど、自分は違う。

 姉の方がどうかは知らないが、自分は、嬉しくなる。
 今でこそ自分は特別な扱いを受ける存在となっているが、昔から、いや、今でもなお、輝いて見える姉と同じと言われることが、自分にとって足りないものを隠してくれている気がして。
 とはいえ、いや、それだからこそ、慎重に見比べられたら、自分の欠点が浮き彫りになってしまう気がして、見られるのは苦手だった。

『これ、あれだな。めっちゃ失礼かもしれないけど、あれだ、2Pカラーってやつだ』
『また訳分かんないことを言い出したわね』
『格ゲー……って、ああ、えっと。イオリなら分かるかなぁ。どうすりゃ伝わるんだろう、この感動』
『またイオリさん……。あたしにも教えてよ』

 自分の半分の世界で、ふたりは他愛のない会話をしている。
 そこで少しだけ気づいた。
 見られるのは苦手だけど、あまり、不快になっていない自分に気づく。

 それが何故かは、このときは分からなかった。

『……、あ、そういや忘れてた。俺はヒダマリ=アキラ』

 昨今世界を賑わせている、勇者様。
 噂や、姉からの手紙で、それとなく人となりが分かっていたつもりだったが、思ったよりは、冷静そうにも見えた。

『マリサス=アーティ。マリーっす』
『マリ……ス? か。よろしくマリス』
『……いや、』
『じゃあ、みんな起こすか?』
『明日でいいでしょ。もうこんな時間だし』

 彼の瞳の奥を見ようとしていて、つい反応が遅れてしまう。
 呼び名を訂正する機会は失われたようだった。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 その出逢いが終わった翌日、マリサス=アーティは、高い塔をぼんやりと見上げていた。

 休暇ということで訪れた故郷を模したらしいこの町は、存外に広かった。
 だが残念ながら、この『初代勇者様が現れたとされる高い塔』を模造した建造物以外この町に特徴と言える特徴は無く、それも自分の故郷が本家本元ともなれば、この町でマリスの関心を引くものは無くなってしまう。

 マリス自身は別に休暇を取ろうとは思わなかったのだが、所属している隊そのものが休業ではどうしようもない。

 自分の部隊は特殊で、“あの場所”の調査が主な職務内容だ。
 そうした試みはこれまで幾度か行われていたようだが、自分の部隊は探索範囲、生存率共に高水準で、魔導士隊の上層部が味を占めたのか頻繁に出入りすることになってしまっている。
 そんな事情もあり、優遇されているのか、都度都度長い休暇が与えられる。
 マリスにとってはその休暇を潰す方が難題で、今回の休暇は、めぼしいものを読み潰してしまった魔導士隊の図書館を離れ、噂には聞いていたこの町に訪れたのだった。
 この塔を見上げ、到着してすぐに有意義な休暇は諦める羽目になったが、まさか昨夜姉と再会できるとは。
 職場とはまるで違う平穏な街並みを眺めながら、マリスは故郷を思い起こし、大きく息を吸った。

「ねーさん。散歩っすか?」
「マリーを探してたの」

 手を振りながら現れたのは、姉のエリサス=アーティだった。
 こうしてぼんやりとしていると、いつも姉が声をかけてくるような気がする。
 少し困ったような、少し怒ったような、心配そうな優しい声色だ。
 久しぶりの感覚を味わっていると、エリーは塔から離れたベンチまで自分の手を引いた。

「!」
「久しぶり」

 座ろうとしたら、いきなり抱き着かれた。
 もがくが、腕力は姉の方が上だ。
 されるがままにしていると、彼女はようやく拘束を解き、自分の顔を、本当の真正面から覗き込んでくる。

「昨日はあんまり話せなかったから。無事で良かった……。良かったよ、マリー」

 思い出したように涙ぐみ、夢ではないと確かめるように何度も自分の眼を擦り、姉は全身震えていた。
 マリスも姉との再会は何度も願っていた。だが姉のように、感情的にはなれなかった。

「手紙はぷっつり来なくなるし、そうかと思えばいきなり会えるし、もう、ああ、ダメだあたし、立ってらんないや」

 ゆっくりとベンチに座る姉に倣って自分も腰を下ろす。
 手紙は何度も出してはいたが、どうやらヨーテンガースの関所を通れなかったらしい。最近の手紙は、今頃あの港町のどこかにでも重ねられているのだろう。

 姉は未だに、寒さに耐えるかのように震えている。
 随分と心労をかけていたようだ。
 不遜な言い方かもしれないが、事実として、姉はマリサス=アーティを心の底から心配してくれる数少ない人物だ。
 朝から自分のことを探し回っていたのだろう。
 昨夜、ろくに話もせずに去った自分は、姉の心労をさらに増やしたのかもしれない。

 姉は最後に自分の顔をじっと見つめてきて、息の塊を吐き出した。
 優しく笑う姉を、自分の気持ちをまっすぐに出せる姉を見て、少しだけ自分の心が痛んだ。

「ねえマリー、後どれくらい一緒にいられるの?」
「細かく考えてはないっすけど、しばらくはいると思うっすよ」

 そう言った途端、姉の表情がぱっと明るくなった。
 姉は本当に表情がころころ変わる。
 姉と再会しなければ明日にはここを出ていただろうが、わざわざ言うこともないだろう。宿に話を通さなければならないが。

「今日は時間ある? みんなに紹介したいんだけど」

 ひとしきり喜びの笑みを浮かべたあと、姉は思い出したように切り出した。
 そういえば、とマリスも思い出す。
 姉、というより“彼ら”は今、七曜の魔術師として比喩なく世界を救う旅をしている。
 姉からの手紙には、幾度か自分に月輪の魔術師として力を貸して欲しいと書いてあったのだ。
 そこまで姉が意図したかは分からないが、そのみんなとやらに会うのは、面通しにもなるのかもしれない。

 自分は、といえば。
 満更でもない、というのが答えになるだろう。
 姉の頼みというのが一番大きいし、やることも今所属している魔導士隊の職務内容と大まかには同じなのだから大きな問題なく彼らの旅に加わることができるはずだ。
 流石に報告要るだろうが。

「それならねーさん。一応話をしておかなきゃいけない人がいるんすけど」
「……え、なに」

 姉の表情が強張り、そしてしばらくすると、ほっとしたように手を打った。

「……あ、そういうこと。違うわよ。勧誘とかじゃなくて、今日はただの紹介ってつもりだったの。あたしの自慢の妹のね。びっくりした……、同じ魔導士隊の方々に話、ってことね。……恋人でもいるのかと思ったわ」

 久々に見る姉の早とちりは相変わらずだった。発想が飛躍しやすい。いつも反応に困ることを言う。
 昔からそうした慌てふためく姉の姿をよく見てきた。
 そしてそのたび、姉が大切そうに抱きしめてきてくれる気がする。

 そうした自分たちを見て、大人たちはよく、妹想いの姉のことを記憶に刻んでいるようだった。されるがままにしているだけの妹を、彼らはどう記憶していたのだろうか。

 自分も姉のことをよく想っている、と思う。
 同じ顔で、同じ身体で、きっと同じように想っていると思うのだが、姉の様子を見ていると自信が無くなってくる。

「恋人……、って。いないっすけど、それ、どちらかと言えばねーさんの話じゃないっすか」

 手紙で知ったことを口に出して、少し後悔した。
 昨夜会った、“百代目勇者様候補”のヒダマリ=アキラ。異世界来訪者である彼は、来訪した途端、我が姉の憧れの魔術師隊の入隊式を台無しにし、あまつさえ婚約する羽目になったとか。
 自分の知る姉なら、それこそ人生の終わりを思わすかのような絶望の表情を浮かべるほどの大事件だ。
 姉にとって苦い記憶だろう。

 だがふと思い出す。
 その話を知ったとき、マリスは怒りとも悲哀とも形容しがたい気持ちになり、同時に、わめき散らすように書かれた姉の手紙の言い訳で、思ったほどは姉が傷ついていないことも知ったのだった。

 その人物の存在を知ったのはそれが最初で、それからの姉の手紙にも、必ずと言っていいほど登場している。
 ヒダマリ=アキラは、マリスにとっては想像の中の存在で、しかし想像できるほど知った人物だ。

 だが、昨夜会った彼からは、妙な感覚を覚えた。
 姉が手紙から思い描いた彼と、自分が直接会った彼の人物像が、妙に重ならない。
 単純で、思慮に欠け、しかし仲間想いで、柔和な勇者様。
 マリスはそんな想像をしていて、確かにそんな印象は受けた。
 だが、柔らかく暖かな光に包まれている中、マリスの頬に冷たい何かが触れたような小さな違和感が心の片隅に残っている。

 マリスは姉の言葉を待ちながら、ふと高い塔を見上げた。彼は“初代勇者様”と同じく、塔の上から落ちてきたらしい。

「……ね、ねえ、マリー」
「?」
「そ、そういう風に……、見えた、かな?」
「…………」

 姉は表情がころころ変わる。そんな姉が、初めて見る表情を浮かべていた。
 下唇を噛んで俯き、自分の膝をじっと見つめた姉の身体は、心なしか少し震えていた。
 顔は全く同じなのに、自分が決して浮かべられない表情をする我が姉が、妙に遠くに感じた。

「え。ねーさん。え」
「や、ちょっと待って。えっと、違うの。そうじゃない、……こともないけど」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて、ヒダマリ=アキラさ……、にーさんとは婚約していることになってるんすよね、って意味で」
「なんで今言い直したの……。まあ……、その、いいけどさ」

 ぷくりと膨れたエリーの様子を見て、幼い頃に見た遠くに飛んでいく赤い風船を思い出した。
 これはますます反応に困る。
 きっと喜ばしいことなのかもしれないが、相手はあの、自分が違和感を覚えた人物なのだ。
 彼を見る目は、もちろん長らく共に旅をしてきた姉の方が優れているはずなのだが、やはり気になる。

 マリスとて馬に蹴られたくはない。だが盲目とも言う。
 肉親として、もう少しくらい彼を探っておきたくなってきた。

「……ねーさん。月輪の魔術師、探してるんすよね?」
「……そう、だけど。いいの?」
「駄目っすか?」
「ううん、もちろんいいよ。でも、魔導士隊のこととか」
「大丈夫っす」

 話は通す必要があるが、マリスにとってある意味“あの地”より興味深いことが現れたのだ。
 そもそも魔導士隊に対してもそこまで強い興味があるわけでもないのだから、最悪退職したって構わないと思っている。
 姉と共にいたいというのもあるが、直接会って話をして、この姉から目を離すのは危険なような気もしてきたのだ。

 そう思って可能な限り明るく言ってみると、エリーは小さく頷いてくれた。

「……うん。あたしもマリーが来てくれるなら嬉しいよ」

 ただ、最後に姉が浮かべた表情は、今度こそ生まれて初めて見たものかもしれない。

「でもさ、今はあんまり言わないであげてね。月輪の魔術師って言葉」

―――*―――

 彼ら彼女らと共に過ごす日々に、マリサス=アーティは、頭を悩ませていた。

 人が最も多く抱える問題は、人間関係だという。
 どんな悩みでも、煎じ詰めればほとんどの場合、人間関係に行きつくのだから当たり前なのだが。

 マリスはそうした問題を、酷く面倒なものだと認識している。人とは、適度な距離感を保っておくのが心労を減らすコツだ。気質としてもひとりが好きなのかもしれない。
 一方姉は、そうした問題によく巻き込まれるというか首を突っ込むというか、色々な人間関係の悩みに囲まれがちで、昔も今も、マリスは心の底から感心していた。
 馬鹿にしているつもりはない。きっと姉の方が正常なのだろう。
 だが、いや、だから、だろう。双子の姉がそうなのだから、関わってしまえば、自分もきっと、そうした面倒事に巻き込まれるようになる。
 元を立つとでも言うべきか、マリスはそうした人間関係から一歩引いた位置にい続けた。

 そして昨今はというと、マリスは本当に珍しく、だが案の定、特定の人物を頭痛の種としていた。

 彼らと出逢ってから数日が経ち、現在は故郷を模したカーバックルから南東に位置する小さな村を拠点に活動していた。
 小さい、とは言っても、ヨーテンガースの南部の町や村はごく例外の地域を除き、それなりに重要な拠点であり、規模もアイルークの田舎町とは比較にならない。
 ここに住んでいるのも、魔導士隊の関係者や何らかの技術開発に携わっている者が少なくはないだろう。
 この町に腰を据えても、ヨーテンガースを旅する上での情報収集くらいは十分にできそうだった。

 マリスにとっての初めての旅が始まり、ここ数日ドタバタとしていたが、本日は定期的に定められているらしい休業日とのこと。
 皆思い思いに過ごしているのだろう。

 この村では時折ヨーテンガースとは思えないほど呑気な牧畜業の鳴き声が耳に届く。
 マリスにとってはこの村の方がカーバックルよりも故郷の情景を思い起こさせ、そして同時にそれはやることが無いことを意味していた。

 ここ数日を振り返る。
 旅は、思ったより楽しかった、と思う。
 たった数日で何を言っているのかと言われるかもしれないが、依頼所へ向かい、依頼主と話しをし、やるべきことを自分で考えるというのは、実は思ったよりも性に合っていたのかもしれない。
 大して気にはしていなかったが、魔導士隊と違い、そういう制限が無いのはなかなかに開放感がある。気づかないうちに仕事のストレスというものが溜まっていたのかもしれない。
 勇者の旅に同行する旨の手紙を送ったときはどう転んでもいいと思っていたのに、昨日許可された返信を受け取ったときは喜びの感情が浮かんだので、やはり自分は、こちらの生活の方が好きのようだ。
 きっと旅の魔術師も旅の魔術師でいろいろと悩みや不満があるのかもしれないが、最初に思いつく金銭面の問題は貯えがあるおかげで頭を悩ます必要はなさそうだった。

 だから、今、マリスは頭を悩ましていた。

 ここ数日を通して分かったことがある。
 この面々と、“ヒダマリ=アキラ”という存在だ。

 姉のように皆の感情を尊重し、旅を円滑にしようとする者。
 己も他者も律し、誤った道に進ませない者。
 他者との繋がりを大切にし、親密な関係を築き続ける者。
 思慮に長け、全体の不足を補えるように立ち回れる者。
 単なる馴れ合いを許さず、適宜警鐘を鳴らす者。

 そして。
 飄々としているようで、流石に勇者様と言うべきか、この面々を率いているのは彼だ。

 その軸とも言うべきヒダマリ=アキラという存在が、マリスの悩みの種だった。

 彼に対する感想を、端的な言葉で表すと、何になるだろう。
 初めて浮かんだ感情かもしれないが、最もしっくりくるのはこれだ。

 『怖い』

 姉が好意を寄せる男を見定めようと、ここ数日目を光らせていたのだが、マリスが得られた情報はほとんどない。
 具体的に何が問題なのかは分からない。だが、車輪の中央に歪が入っている馬車に乗せられているのに、変わらず道を進み続けているような、浮遊感のような悪寒が脳裏を支配して離れない。
 彼には妙な現実感の無さがある。どうしても、彼を信じ切れないのだ。

 そんなことを考えながら宿から出ると、通りの向こうに、まさしくその悩みの種が歩いていた。

「……マリス。お前もなんか用あるのか?」
「……。いや、にーさんを見かけて。何してるんすか?」
「俺? 俺はほら、身体動かそうと思ってさ」

 件の人物、ヒダマリ=アキラは、直接話してみると、軽薄そうであり、人畜無害そうでもあるような人物だ。
 ここがヨーテンガースということを考えると、道行く民間人の方がもう少ししっかりしているような気もするのが益々彼の現実感の無さを思わせる。

 彼がのんびりと指をさしているのは、遠目に見えるこの町の出口だろうか。外に出るつもりらしい。
 ヨーテンガースの魔物は一切侮れない。そんな理由なら村の中の公園でも駆け回っていろと言いたくなったが、アキラはそんなマリスの様子に気づかず呑気に肩を回している。
 こちらの毒気も抜かれるほどの緊張感の無さだった。

「依頼でも請けたんすか?」
「ん? あ、そうか。依頼でも請けりゃよかったのか。……まあ、今日はいいか。じゃあそういうわけだから」
「……一応自分、魔導士なんすよ」
「? ……、あ。一緒に来るのか?」

 休職中とはいえ、相手が勇者様だとはいえ、軽装備でヨーテンガースの町の外へ向かおうとする人間を魔導士が見過ごしたら色々と問題になる気がする。
 少し困ったように頬を描いた彼は、それでも同行を許してくれたらしい。

「旅には慣れたか?」

 町の外への歩みを進めながら、彼は気軽に聞いてきた。
 自分は無口な法で、世間話をすることはほとんどないのだが、何故か彼の問いかけには答えを返さなければならないような気がしてくる。
 マリスはこくりと頷いた。

「困ったことがあったら言ってくれよ。みんな頼りになるからな」

 困ったことはまさに今あるのだが、それ以外の問題ごとはほぼ解決している気がした。
 その言葉をここ数日で何度聞いたことか。
 というのも、ここ数日、自分が困り出す前に、彼らの仲間のひとりがそれこそ四六時中一緒にいてくれて、あれやこれやと世話を焼いてくれたからだ。
 今日はと言えば、いよいよ頼みごとのネタが無くなって、宿屋に潜んでいたほどだった。

「……ティアにも悪気はないんだ。許してやってくれ」

 きっと同じ人物を頭に浮かべたのだろう。
 彼は頭痛を抑えるように額に手を当てていた。
 自分にとっても頭痛のタネになりつつあることではあったが、一方で、彼女にはそれ以上の感謝はしている。
 この面々の内情をこの短期間で詳しく知れたのは彼女のおかげだ。
 だが、その彼女を介しても、ヒダマリ=アキラという存在の違和感は拭えていない。

 今日は意味いい機会だ。彼と直接話せば、何かが分かるかもしれない。

「旅のことなら、そうだな。サクとはもう話したか? あいつずっと旅してるから色々知ってるし」
「にーさんも長く旅してるっすよね?」
「俺なんかサクと比べたら短いよ。あいつこの前、方向も分からないような樹海の中で、獣道とか見つけて道案内してくれたんだぜ? 俺ひとりじゃ今でも迷ってたね」

 自信満々に情けないことを言う。
 だが彼はこの場にいない人物にも心から感心しているような表情を浮かべていた。

「旅慣れていると言えば……エレナもか。長く旅しているの。まあ、ティアと同じで初めて着いた町とかならあいつに聞くと色々教えてもらえるよ。……本当に色々な」
「じゃあこの町のこと、にーさんも教えてもらったんすか?」
「少しな。……真似するなよ。さっきの道入っていくと、呼び出さないと店員が奥から出てこない店があるらしい」
「……」

 反応に困ることを言う。
 マリスの職業を思い出したのか、アキラはすでに謝りに行っていると慌てて弁明してきた。
 すでに彼女の様子は聞いていた話だったので、今更どうこう言うつもりもないが、それよりも、自分がしたい話を有耶無耶にされている方が気になった。

「ま、あとはイオリか。魔導士同士だし、話合うんじゃないか? 分からないけど。あいついつも大変そうだからな……。手伝おうとすると断られるし」

 彼女たちの様子は、彼から聞いても、知っていた情報と相違はなかった。
 だからこそ、どちらかというと、ヒダマリ=アキラの話を聞きたかったのだ。

 彼と話をして分かったのは、彼は仲間の話をよくするということだった。
 それは同時に、彼自身の話はあまりしないということになる。
 もしかしたら、上手くはぐらかされているのだろうか。
 そう邪推したが、それ以上に、彼女たちの話を表情豊かに語る彼の邪魔をすることは憚られた。

「……みんな、凄そうな人ばっかりっすよね」
「ん? ああ、そうなんだよ。みんな凄いんだ」

 マリスがポツリと呟くと、彼は嬉しそうに笑ってみせた。
 捉えどころのない、ともすれば不気味に感じる彼だが、時折こうした様子を見せる。
 ひとつだけ分かったのは、どうやら彼は彼女たちのことを本当に好きなようだった。

「……」

 姉の言いつけを守ることにした。
 彼から覚える違和感を探るために、自分が用意してきた話題がある。
 だが、これだけ仲間想いの彼に、その話を振るつもりはとっくに失せていた。

 少し調べたら、すぐに分かったことがある―――ヒダマリ=アキラは旅の途中、月輪の魔術師を失ったらしい。

「でも、お前もやばいんだろ?」
「え?」
「聞いたんだけど、魔王の牙城を襲撃してたってんだから」
「なんか色々表現が気になるんすけど」
「あんな地獄で魔族や魔物を根絶やしにしてるなんてぶっとんでんな」
「足りないって意味じゃなくて」

 精一杯睨んでみたが、彼は軽く笑っていた。
 つい口を滑らしてしまい、姉が大騒ぎした数日前の出来事で、彼の中に自分はどういう存在で刻まれたのだろうか。
 自分がやってきたことは事実そうなのかもしれないが、何かよからぬ印象を与えている気がする。
 だが、目を輝かせ明るく笑う彼を見ていると、訂正する気も起きなかった。

「それにさ、魔導士の仕事って戦闘だけじゃないんだろ? 調査とか報告とかの雑務も山積みで、休暇だって呼び出されるって聞いたぜ? 滅茶苦茶忙しいだろうに、悪かったな、付いてきてもらって」
「……。……大丈夫っすよ」

 言えない。

 仲間の魔導士から直接聞いたのか、それとも姉から聞いたのか、彼も魔導士という職については理解があるようだ。
 彼の言う通り、魔導士の仕事はただ戦っていればいいというものではない。
 一時の勝利など魔導士隊にとっては些末なことで、それを常勝にするためには、調査分析報告が非常に重要だ。
 だが自分はといえば、ほとんどそちらには携わらず、もっぱら少年少女が思い描く戦闘ばかりに明け暮れる魔導士生活を送っていた。
 戦闘ばかりしていた自分は、雑務について他の面々の多大なサポートを受けていたりしたのだ。
 しかも今は休暇から休職にシフトし、あまつさえ魔導士隊から離れられた今を楽しんでいる。

 姉や仲間の魔導士が守ってくれたであろう魔導士隊のイメージを崩すわけにはいかなかった。
 それに。

「まあ、お前から見ればのんびりした旅だろうけどさ。手伝ってくれて助かるよ」

 彼の、自分にも向けられた、仲間に対する明るい表情を、少しでも崩したくないと思った。

「……あ」
「ん?」
「……いや、何でもないっす」
「そうか。……そろそろ魔物とか気を付けないとな」

 ヨーテンガースは僅かな油断が命取り。知り尽くしていたはずの自分がポカをした。
 気づけば村の出口に辿り着いていた。

 彼との会話に気を取られ、いつの間にかここまで来てしまっていたらしい。
 本当は魔導士としてここまで来たら彼を止めようと思っていたのだが、今言い出したら気づいていなかったと思われるだろう。小さなプライドが邪魔をして、自分も同行して外に出ることにした。
 ここから先は流石に油断禁物だ。
 例え魔力が高くとも、不意を突かれたらひとたまりもないのは誰でも同じだ。

 感覚的に魔力を広げ、索敵する。
 村の近くとなると防衛機能が働き、流石に魔物の気配はないが、しばらく歩いた先の樹海は別だ。
 一定以上の魔力を持った集団を感じる。向こうもこちらの様子を伺っているようなので、“知恵持ち”でもいるのだろう。
 彼はといえば、感じ取っているのかいないのか、そちらに向かって真っすぐ歩き続けていた。
 一応自分は周囲を警戒し、何が起きてもすぐに対応できるように気を張っているのだが、彼は村の中と変わらぬ様子でいる。
 勇者様とはいえ民間人である。職業的にその道のプロである自分の方が緊張しているようで、これもまた面白くなかった。

「……」
「……」

 特に会話が無い。
 自分はよく無口だと言われるが、こうした気まずさを覚えたのは初めてかもしれなかった。
 村の中と外は違うのだから当然と言えば当然。
 しかし、彼との会話を続けたいと思ってしまう。
 姉のためにも、彼を探らなければならないのだから。

 沈黙を自ら破りたいと思ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 それゆえに、どう切り出せばいいのか分からなかった。

「……そういえばさ」

 救われたような気がした。
 彼は村の中と変わらぬ声色で呟いた。

「どうしたんすか?」
「いや、聞いてなかったと思ってさ」

 縋るような気持で言葉を待つと、彼は、やはり変わらぬ声色で、言った。

「マリスは、月輪属性の魔術師になってくれるのか?」
「ふえあ?」

 変な音が出た。今のはなんだ。自分の口から出たのか。だとしたら今日という日が人生で一番の奇声を上げた日となってしまう。
 慌てて口を押えると、彼はぽかんとして足を止めていた。

 こちらが気を使っていたというのに、当の本人はさほど気にもしていないかのような、のんびりとした声だったのにも面食らってしまう。

 こういうところだ。
 自分がおよそ想像した行動を彼は取らない。それなのに、表面上はまるで人畜無害な様子なのだ。
 それが彼の妙な現実さの無さに、そして、怖さにもつながっているのだろう。

「……ど、どうしたんすか、急に」
「……」

 彼は僅かに笑いながら、動揺が落ち着かない自分をじっと見つめてくる。

 彼の瞳の色が濃いような気がした。
 マリスはジリと後ずさった。
 おかしい。今まで彼から感じなかった、顔を覗かれることの苦手意識が昇ってくる。

「いや。双子だなって思ってさ。……よく似ているよ」

 不思議と、初めて彼の声を聞いた気がした。
 誉め言葉のはずだった。

「……」

 頭を軽く振り、気を取り直して歩き始める。
 もう町からは出ているのだ。気を落ち着かせようと深く息を吸う。

 先ほどから妙に自分のペースを保てない。
 もしかしたらと思いついたのは、月輪属性は日輪属性の影響を受けやすいという眉唾物の噂だった。

「笑って悪かったよ。まあそんなに気にすんなって、面白かったし」

 機嫌を損ねたと思ったらしく、多少は笑いを抑えながら彼もついてくる。
 彼の推測通り自分の機嫌は悪くなっているし、謝ってくれているのだが、今まで以上に機嫌が悪くなった。怒りに近づいているかもしれない。
 また彼を睨んでみると、軽薄そうな表情のまま、首をかしげるだけだった。自分も怒った表情を作るのが苦手なのかもしれない。件の彼女とは違い、自覚したが。

「月輪の魔術師」
「ん? ああ、そうそう」
「自分でいいんすか?」

 話を戻すと、彼は、自分が言わんとしていることを察したようだった。
 しかし悩む素振りも見せず、微笑みながら頷いた。

「ああ、勿論。ありがたいよ。……前の月輪の魔術師のことは、知ってるのか?」
「少し調べた程度っすけど」
「……そう、か。でも、今度はなんとかなると思う」

 また意外だった。
 彼はもっと仲間に執着するタイプの人物だと思っていた。
 それなのに、他人任せのようないい加減な言葉を吐き出し、その上で、声色からは正の感情も負の感情も感じ取れない。
 ぞっとするような、何でもない何かが、マリスの耳から入って抜けた。

「勇者様なんすよね。そんな適当でいいんすか?」

 背筋がひりひりと冷えながらも、彼に応答する。
 触れてはならない何かが、目の前にあるような気がする。
 それでも逃してはならない。それが彼の違和感の正体だという確信だけはあった。

「ああ悪い。また怒らせたか? でも、しょうがない」

 流石にここまで近づけば嫌でも気づいた。
 目指していた樹海の入り口。
 この辺りに巣を作ろうとでもしていたのか、襲い掛かるというより追い返そうと身構える魔物が木々の隙間に数体見える。

 マリスは構えようとしたが、彼はそれを制すように、ゆったりと抜いた剣でマリスの前を塞ぐ。

「どうなるかなんて……―――“俺が知るわけないだろう”」

 そして。
 その日は、マリスが人生で一番の大声を出す日となった。

―――*―――

 その日々が終わりに近づいてきたとき、マリサス=アーティは、ベッドで蹲っていた。

 数日前までいた町からやや南東に位置するこの村は、いよいよ“あの地”に近づいているということもあり、住居はほとんどない商業都市だった。

 ヨーテンガースによく見られる物々しい外壁のようなものは無く、むしろアイルークにあるような町々のように開放的な外観をしている。
 この大陸の“入口”である港町ほどではないが、日用品から趣向品、あるいは各地の名産までひと通り取り揃えられており、金の巡りを証明するように積み荷を乗せた馬車の出入りが頻繁に行われていた。
 やや騒がしいが、もしここに住むことが出来るのであれば快適な都市なのであろう。
 演劇や酒場などの娯楽施設も整っており、退屈さを感じさせないところはシリスティアの大都市に似ていた。

 華やかな街並みではあるが、しかし、町を訪れる客の服装が影を落とす。

 マリスは、この町のことも、この町が何故ここまで賑わうのかも、この町の外壁が薄い理由も知っている。
 ここは、“あの地”に携わる魔導士隊のためにある都市なのだ。
 気が狂いそうになるあの激務の合間に、少しでも現実を忘れられるように設けられた娯楽の都市だ。

 ここから先の都市は、外壁のような防衛策をほとんどしていないだろう。
 ヨーテンガースの魔物だとしても、並みの魔物はそもそも出現しないし、仮に“あの地”から何かが流れてきたら、そんなものは何の役にも立たないのだから。

 ちらりと窓から外を見る。
 共に旅する仲間たちは、相変わらず思い思いに町を散策しているのだろう。

「マリー? 具合でも悪いの?」
「そういうわけじゃ……、ええと、知り合いに会うかもしれないから大人しくしていようと思って」

 ドアから心配そうに顔を覗かせる姉に、取り繕うように言葉を返す。
 姉は自分の部屋でもあるのに入りもせず、じっとこちらの様子を伺ってくる。

 返した言葉は本当だ。
 この町には魔導士隊の仲間に案内されて来たことがある。
 我を忘れたように遊ぶ彼ら彼女らのようには自分は楽しめず、いつも以上に距離感を覚えたのは苦い記憶だ。
 そんな彼ら彼女らと出くわしたら、またあの何とも言えない、自分の居場所を拒絶されたような虚無感を味わうことになるだろう。

 だが、正確な言葉だったこと言われると、マリスは自信を持って違うと言える。
 そんな気分ではないのだ。数日前から。
 そしてそんな表面だけの理由は、当然のように姉に看破された。
 少し怒ったように、そしてやはり優しそうな表情で、姉はゆっくりと部屋に入ってくる。

「あいつと何かあった?」
「……そう見えるっすか?」
「それもあるけど……、変なことになるときは大体あいつが原因よ」

 彼女たちの長い旅の中では今の自分のような光景は頻繁にあったようだ。
 そしてそのたびに、世話焼きの我が姉は首を突っ込んできたのかもしれない。

「……。にーさんから何か聞いたんすか?」

 これ以上言葉を濁しても姉の心労を増やすだけだ。
 渋々、しかしそれでも最後の抵抗で回りくどく聞いてみると、姉は肩を落とし、頭を抱えた。

「ここ最近マリーの様子が変だったから聞いてみたら……、なんか、怒られた、とか言ってた」

 彼らしい言葉選びだと思った。
 だがしかし、そう言われて、自分の感情が怒りに似ていたことも自覚した。

 姉は少し困ったように顔を覗き込んでくる。
 昔から、自分が部屋に籠っているとやってくる姉は、いつもこんな表情を浮かべている気がする。
 自覚はしている。大体こういうとき、自分は機嫌が悪いというか、へそを曲げているときだ。我ながら恥ずかしい記憶だが、姉とお揃いの髪飾りを壊したときや楽しみにしていた祭りが雨で中止になったときなど、幼い頃の思い出は今でも鮮明に覚えている。
 そしてそんな姉に気持ちを吐き出すと、不思議と気持ちが楽になることも覚えていた。

「……何日か前、にーさんと町の外に行ったんすよ。なんか身体を動かすとかなんとか言っていて」

 話し始めると、またか、と言わんばかりに姉は頭を押さえた。

「それで魔物を見つけて戦闘になったんすけど……、あれは、何なんすか」

 整理して、数日前のことを話してみようとしたが、失敗した。
 上手く言語化できない。
 数日前のことを説明できないとは、自分の事務能力はここまで低いのか。
 自惚れなく魔力関連の才能は優れていると認識しているが、それ以外はどうも振るわないようだ。
 一方姉は、それだけの説明で今度は深刻そうに頭を抱えていた。
 姉の方がその辺りの能力を持っていってしまったのかもしれない。

 姉はベッドに座り、顔の高さを合わせてきた。

「……マリーから見てどうだった? あいつ」

 素直な感想を求められ、マリスは冷静に数日前の様子を思い出す。
 魔物を見つけ、彼が剣を抜いた後の出来事だ。

「……暴走」

 発した言葉は、彼にも言ったかもしれない。
 そして同時に、それがすべてを表していないことを、あのときも思った。

 マリスを制し、魔物に向かったヒダマリ=アキラは、見事にすべての魔物を撃破して見せた。
 だが、その先頭を遠巻きに見ていた自分は、本当の意味での恐怖を覚えた。

 魔導士隊に、というより一般的に広く普及している戦闘方法は遠距離戦だ。離脱という選択肢を常に残すのは危機管理能力の証明である。

 勿論近接戦が得意な者もいる。
 だが、そうした者に要求されるのは立ち回りの能力だ。
 敵の位置には常に気を配って一定の距離を保ち、背後には細心の注意を払い、決められると思ったとき以外は接近しない。
 離脱の選択肢を常に残し続けられるかが生存に、そして勝利に直結する。

 だが、彼の戦い方は、それと真逆だ。
 ヨーテンガースの魔物だというのになんの抵抗もなく集団に飛び込み、囲まれても退路を探さず、より危険な地点へ向かい続ける。

 一見、この面々の中にもそうした戦い方をしているように見える者もいるが、彼女たちはそうではない。
 金曜の魔術師はどの位置にいても離脱可能な速力を持つし、一番強引に見える木曜の魔術師はある意味誰よりも離脱手段に敏感だ。
 彼女らは“知恵持ち”のような魔物たちが退路を塞ごうとした瞬間に察し、即座に次の手を打つ瞬発力と危機管理能力を持っている。

 だが彼は、そこまでの速度も状況判断能力も持っていない。
 ただ単純に、最も近い敵に向かって突撃していくだけのように見えた。

 結果として彼は無事ではあったのだが、ここまで旅を続けてこられたのが不思議なほど、運任せの戦闘だった。

 だから自分は、思わず危険だと思わず叫んだ。
 だが彼は、何も変わらず、すべての敵を倒したあと、冷めた瞳で見返してきただけだった。魔物の牙か何かで割かれたのか、血を流す腕を庇うこともなく。
 人生で一番の大声を出す直前のことだ。

「あんなの、死にに行っているようなものっすよ。魔物に飛び込んで、怪我までして、運よく生き残って……、それなのに、にーさん別に気にしていないような顔をしていて」

 だから怖かった。
 あんなのは最早素人だ。戦場で一番先に命を落とすような人間だ。
 それなのに前線に立ち、自己を顧みることもなく暴れ回り、生き続けている。

 戦闘狂のようなタイプなのかと思えばそうでもないようだ。
 身体を動かしたいと言っていただけなのに、あの狂人は、打倒した魔物についても、血を流す腕についても、何も思っていないようだった。
 自己の身も戦果も無関心ともなれば、いよいよ彼のことが不信を通り越して不気味に思えてくる。

 まさに何事もなかったように、怒鳴りつける自分に対し、大丈夫だったかと言ってきたのも怒りに拍車をかけたような気がする。
 やはりあまり怒り慣れていないから、伝わらなかったのだろうか。それが悔しく感じるほど、マリスは胸の底からカッと熱くなったのを感じていた。

 なんとか話してみると、目の前に、自分の顔が怒ったときにどういう表情を浮かべるべきなのかのお手本があった。
 姉はまず、自分の顔をじっと見てきた。

「それ、あたしがマリーにも思ってることよ」
「え……、いや自分は、」

 言いかけて、口淀んだ。
 魔物の群れに飛び込んで、特に気にした様子もなく返ってくる。
 自分の行動もそんな風に見えるらしい。

 あれはいつのことだろう。昔姉に強く怒られた。
 言い訳をさせてもらえれば、彼ほど酷くないし、自分は自分なりに考えているつもりだったのだ。
 だが、姉にそう言って、そういうことじゃないとさらに怒られた。
 力いっぱい抱き締められながら、姉の体が震えていたこともよく覚えている。
 双子の片割れだと思っていたこの人が、姉なのだと強く認識したのは、そのときからかもしれない。

「マリーも分かった? 見てる方は不安なの。本人がどれだけ平然としてても、ううん、平然としている方が心配なのよ」
「……心配なわけじゃないっすけど」

 話を逸らすように否定した。だが、嘘ではない。
 あのとき彼の行動に対して覚えた感情が心配だったかと聞かれると、おそらく違う。
 期待を損なわれたような、予想を外されたような、形容しがたい何かだ。

「それでもさ、無茶なことしてると、止めて欲しくなるの。分かるでしょ?」

 姉の言っていることは、よく分かる。
 たまに不安になるが、何せ双子だ、姉も、自分も、感じているものは同じなのだと思いたかった。それを表に出せるか出せないかだけが違うだけなのだと。
 上手く感情が表情や言葉に出てこない自分に対して、姉はお手本のように表現してくれる。

「だからマリーも無茶しないでね」

 釘を刺すように姉は言う。
 それを素直に受け取ったつもりだった。今も、昔も。

 だがそれでも、姉は変わっていないと思っているらしい。

 事実そうだった。
 今も、素直に聞く自分と、それを冷静に捉える自分がいる。

 姉は優しすぎる。
 無茶をしなければいけないときだってあるのだ。それがヨーテンガースともなればなおさらだ。
 彼らの旅のように世界を救うなどという大義は持ち合わせていないが、自分は姉に、平穏無事に暮らしてもらいたい。
 だから降りかかる厄災は、可能な限り払いたいのだ。
 その姿が周囲から無茶な様子に捉えられても、自分が優先すべきことはそれだ。
 昔は再三注意する姉を不遜にも疎ましく思っていた。皆のために奔走していたというのに怒られるのではやっていられない。だが、それが心配してくれているからだと気づくと、逆に、自分を奮い立たせる言葉に聞こえている。
 逆効果だと冷静な自分は捉えていた。余計に被害に遭わせるわけにはいかないと強く思ってしまう。その結果姉が悲しんだとしても、自分がやるべきことは変わらないのだ。

 だが自分は、それを上手く伝える術を持たない。

 ただ静かに頷くだけを返すと、姉は心配そうにしながらも、優しく微笑んでくれた。
 感情を表現できる姉が羨ましかった。

「でも、そうね。……あいつもね」

 今度の姉は複雑な表情を浮かべた。
 怒りとも悲しみとも表現できない、複数の感情が混ざり込んだ、マリスでは決して浮かべられそうにない表情だった。

「あいつさ、今ちょっと大変なんだ」
「前の月輪の魔術師のことっすか?」

 姉は頷く。悲哀の色が強くなった。

「今までも似たようなことあったんだけどさ。……今回はちょっと根が深いの。そっとしておこうって思ってて……、ここまで来ちゃったけど」

 姉は彼に対して、自分に接するようにできていないらしかった。
 感情を、表情や言葉に出そうとして、失敗しているような姉の息苦しさが伝わってくる。
 多分自分がいつも持ち合わせている感情だ。

「ねえマリー。お願いがあるの。あいつがさ、またそうやって危ないことしようとしたら止めてあげてくれない?」
「……自分が、っすか」
「目を光らせてくれているだけでいいから。ね」

 魔王に挑もうとしている身で危ないことも何も無いのだが、姉の言わんとしていることが分かった。
 だが、分かったからこそ、マリスは言い渋った。
 姉は、あのヒダマリ=アキラを心から案じている。
 昔からその庇護の対象は自分だったように思う。だが姉は、その自分に彼を守るように願ってきたのだ。
 誇らしさと一抹の寂しさを覚え、一方で、冷静な自分は判断を下す。
 暴走しているようにしか見えないヒダマリ=アキラだが、その力は流石に勇者を名乗るだけはある。いざというときに力ずくでも止められるのは、この面々の中ですら数えるほどしかいない。

 静かに考える。
 彼は、果たして姉に身を案じてもらうに値する人物だろうか。
 姉からすれば同じように見えるらしい自分は、姉のためにその身を危険にさらすことをいとわない。
 だが彼からは何も感じない。
 言ってしまえば暴れたいから暴れているだけのように見えるのだ。
 長らく共に旅をしていた姉や、あるいは彼女たちには、あの彼の冷えた瞳すら違って見えるのだろうか。
 感じるものは同じはずの双子の片割れは、自分と違うものを感じ取っている。
 自分もそれを感じ取る必要があると思って彼と行動を共にしてみた矢先に見たのがあの光景だ。
 それでも姉は、彼を案じている。

「……にーさんの様子は気にしておくっすよ、ねーさんために」
「何か悪意のある言い方ね」

 姉が睨み、そして笑った。

 姉がどう思おうが、昔も今も、自分は姉を案じ続ける。
 だから、自分の確信に近い黒い感情を隠して同じように微笑んだ。

 やはり自分は、感情を表に出すのは下手だと思った。

 引き続き彼を探る必要がある。

―――*―――

 間もなくすべてが終わるそのときに、マリサス=アーティは。

 現在、彼ら彼女らにとってはいよいよ、マリスにとってはまたまた、となる場所に到着している。
 にぎやかな街を後にし、気が遠くなるほど何もない道で馬車を飛ばして進むこと半日。
 草木も、虫も、人も、動物も、魔物すら見当たらない虚無の空間の先、外界の存在全てが距離を取る地域がある。
 他の大陸と別格と言われるヨーテンガースの魔導士や魔物、あるいは魔族ですら恐れおののく禁断の地。
 異次元とすら評される―――最後の地。

ファクトル。

 ヒダマリ=アキラ一行が訪れたのは、ファクトルに隣接するように設置された魔導士隊の支部のひとつだ。
 それこそ魔族に対抗すら可能な戦力を有するこの支部ですら、明日消滅していても誰も驚きはしないだろう。

 そんな場所でも、あの悩みの種は、緊張感のかけらもなく、機嫌よさげに階段を下っていく。

「……マリス。お前もなんか用あるのか?」
「……。いや、にーさんを見かけて。何してるんすか?」
「俺は……、あれ、前もあったな、こんなやり取り」

 勇者と言ってもこうした支部は特別な対応をしない。
 だが、自分や仲間の魔導士の存在もあり、ある程度融通を利かせてもらったのだ。幸運にも宿舎を借りられ、馬車も提供してくれるらしい。今は各自、この地に入るにあたっての準備を進めつつ、天候に恵まれる日を待っているのだ。
 決してここは宿屋でもないし、外は繁華街という訳でももちろんない。
 当たり前のように支部の玄関に降りた彼は、特に気構えることもなく外に出ようとしたところで、マリスの咳払いに気づいたらしい。

「まあいいか。そっと外行こうと思ってさ。……それじゃ後でな」

 扉で待機している魔導士のひとりが驚き半分怒り半分の視線をアキラに送っていた。
 当の本人は気づかずそのまま外に出ていってしまう。

 この魔導士隊の支部が勇者を、というより来訪者を特別扱いしないのは、当然わけがある。
 怖いもの見たさと言うべきか。どれほど危険を訴えようとも、ファクトルの危険さは外で聞いている分には魅力に感じる者もいるのだ。
 過去にどれほどの人間が自分を勇者と偽って訪れたことか。酷い例では、魔導士隊の支部の中で好きなように暮らし、結局そのまま帰っていった者すらいたそうだ。

 勇者には最大限の敬意をと神の教えにもあるが、物資も乏しい中、この禁断の地の最前線でそんなことをしていては神の裁きなどより前に命を落とす。
 かといって、関所のように封じていてはそもそも魔王を本当に倒せる者すら拒絶してしまう。
 ゆえにこの支部はそのしきたりを大きく損なわない程度に止め、基本的には傍観者を貫いているのだ。
 だからこそ、そこの門兵の気持ちも分かる。
 魔王を倒せる勇者はそれこそひとり。“外れ”の可能性が高い男がこの場所で気ままに外に出ていこうとすれば、自分たちが命懸けで守っているこの地の危険をまるで分っていない阿呆にしか見えないのだろう。

 マリスも気づかなかったふりをしてアキラを追った。
 ギリギリ入っていないとはいえ、十分何が起こるか分からないこの場所で、あの男はまた外に行くらしい。
 それこそファクトルに入りかねない。
 姉の頼み通り、自分が目を光らせておかなければ。

「……この辺はもう魔物はいないのか」
「馬車で説明したと思うんすけど」
「いや、とはいえ多少はいるのかな、って思ってさ」

 申し訳なさ半分、落胆半分の声色で彼は言う。やはり体を動かそうとしたなどという理由で外に出たようだ。
 一応この地の足場や空気に慣れるという意味は多分にあるのだが、それは朝、全員で済ませたことだ。
 勤勉なのは結構だが、彼がそうした行動をとると考え無しに行動しているようにしか見えない。

 彼は、朝そうしていたように、軽く肩を回すと、おもむろに剣を振り始めた。
 ビュッ、と鋭い風切り音が聞こえるたび、ファクトルが遠くに感じてくる。
 姿勢もよく、剣の先はぴたりと止まる。身体は揺るがず、しなやかのようで力強い。
 彼らと共に旅をするようになってよく見るその光景は、この地に来ても、何も変わらない。
 剣のことなど分からないが、あの戦闘中の光景と違い、今目の前の光景は、彼が積み重ねてきたものが感じられる。

 だがあの戦闘を実際に見たマリスは、酷く裏切られた気持ちになっていた。
 鍛錬でこれだけの動きが出来るのであれば、戦闘でも当然のようにその力を発揮できるであろう。
 あのときよりもずっと安全に、確実に、魔物を見事に撃破して見せただろう。
 それなのに、彼はこの今の力からあっさりと目を背け、まさしく型破りの戦いを演じた。
 この光景を見るたびに、マリスの中で、彼の不気味さが際立っていくのだ。

 どれほどそうしていただろう。
 彼も自分も一言も発さず、ファクトルの砂風をその身に受け続けた。

 マリスはやはり面白くなかった。
 彼といると、普段はむしろ好む沈黙が、大層居心地の悪いものに感じてくるのだ。

「いつまで続けるつもりっすか?」
「……ん。ああ、悪いな付き合わせて。俺なら大丈夫だ」

 だからそういう訳にはいかないのだ。
 まさに今自分に気づいたように事も無げに返す彼に憤りを覚える。

 自分がなおもじっと見ていると、彼はようやく素振りを止め、額の汗を袖で拭うと剣を仕舞った。

「……そういや、この前悪かったな。なんか怒らせたみたいで」

 そういうことなら今もまさに怒りを覚えつつあるのだが、彼は普段と変わらぬ表情で、いい加減に言葉を紡ぎ、自分の目を捉えてくる。
 彼に顔を見られることの嫌悪感は、やはり上ってこない。
 だが漠然と思った。というより、彼と数日過ごしていて覚えた違和感が、徐々に形を成していき、その先の結論がぼんやりと見えてきた。

 これはきっと、好意的な意味なんかじゃない。

「悪いと思っているなら中に戻って欲しいんすけど」
「まだ日も高い。大丈夫だって」

 軽くかわされ、彼は今度は足首を伸ばし始めた。
 このまま会話が止まれば走り出しかねない。
 ともすればファクトルに足を踏み入れかねない。
 目の前の男の軽率な行動がいつか命に係わる事態を起こすと思っていたマリスは、まさにその決定的な瞬間に居合わせているように思えた。

「もう充分っすよ。これ以上するくらいなら出発に備えて休んでいた方がむしろ勝つ確率が上がるっす」

 とりあえず彼を止めようとして、思わず上司のような言い回しをしてしまった。
 言ったことは、半分嘘で、そして半分本当だった。
 ファクトルはいくら準備してもし足りない。十全という限界など存在しないのだ。それこそ死に物狂いで鍛錬を積み続けるのは、つまりは彼の行動は、正しくもある。

 だがその一方で、彼が現在持つ力というものもある。
 若干トラウマになりかけているあの光景―――彼の戦闘は、過程こそどうあれ、ヨーテンガースの魔物を蹂躙して見せたのだ。
 少なくとも戦闘力という点においては、マリスの目から見ても、仲間の魔導士の誰よりも高い。それはすなわち、ファクトルに入る資格を十分に持ち合わせているということになる。

 正解というものが存在しないファクトルに対しては、数度入ったマリスとは言え、すべてを語ることはできない。所詮は結果論なのだから。

「……無駄かな、やっぱ」
「?」

 走り出すのは思い留まってくれたらしい。
 自嘲気味に彼は笑い、目を閉じる。
 無駄、とは。彼の言葉の意味が分からない。

「まあ、いいんだけどさ。……そうだ、マリスはここによく来てたんだよな。改めて見ると酷い場所だな、大変だったろ」
「……なにが」

 砂の音に紛らわせるようにマリスは毒づいた。

 のんびりとファクトルを眺めるアキラはマリスにとって謎だらけだった。
 友好的なようで自分のことは語らず。
 柔和のようで人の話は聞かず。
 温厚のようで激しい。
 そんな矛盾だらけの彼に対して、マリスは確信に近いひとつの答えに辿り着いた。
 今の自分の言葉も、彼には聞こえていて、そしてきっと聞こえないふりをしている。

「何も見てないっすよね」

 聞き取れなかったと言い訳できないほどはっきりと言った。
 彼は表情ひとつ変えずこちらに乾いた瞳を向けてくる。

 やはり苦手意識は上ってこない。
 それはそうだ。自分は姉との差を見つけられるのを嫌っている。
 だから彼に、何も見ようとしていない彼に見られても、何も感じない。

「にーさんは何のために魔王を倒そうとしてるんすか?」
「ん? それはほら、俺は勇者だからな。世界平和のためだよ」

 自分が言わんとしていることを分かっていて、彼は正しい不正解を返してきた。
 彼は勇者で魔王を倒す使命を持つ。
 そして彼の行動は、遠く離れた人々にはキラキラと輝いて見えるだろう。
 先日の戦闘すら、自らの危険を省みず魔物を倒したという美談に変わる。
 だが彼は。今ここにいる彼は、自分たちにとって遠く離れた存在ではない。

 だから彼が発する言葉が、行動が、何の熱も持っていないことに容易に気づける。

「じゃあ、仮に魔王を倒した後はどうするんすか?」
「は、今は魔王を倒すことで頭いっぱいだ。それから先のことは世界が平和になってから考えればいいんだよ」

 模範回答だった。
 だからこそ、マリスは目の前の存在が気持ち悪くて仕方がなかった。
 そんな作ったような表情で、そんな作られたような言葉を吐き出す目の前の存在が、異質に思えて仕方がなかった。
 埒が明かない。この異常な人間に、自分の姉は好意を寄せているという。
 今ほど、感情を表に出すことが苦手な自分が恨めしかった。
 殴り付けたくなるほどの激情を、冷静な自分は止めてしまう。

「……マリスはさ、なんで魔導士になったんだ?」

 どうしたものかと、とりあえず彼を精一杯睨みつけていると、彼はぽつりと呟くように聞いてきた。
 声色が少しだけ変わっていることにすぐに気づいた。
 ようやく本当のことを言うつもりなのだろうか。

「何でって……、別に理由はないっすけど」

 思わず適当に答えてしまった。多分、訊かれたことはなかった質問だ。
 自分には才能があり、その才能を活かせる職があり、その職は世界に貢献が出来るものだった。
 目指したわけでもないが、他にやりたいことも特になかった。多くの人が憧れ、羨む自分の処遇は、マリスにとって、自分の人生の延長線上であるだけだった。
 そしてそれは他者から見ても、当然のことで、当然過ぎて、誰にも訊かれたことはない。

「昔からなりたかったとか、誰かを守りたいから、とか、そういう感じでもないのか?」
「……深く考えたことはないっす」

 彼の静かな声に、急にいたたまれない気持ちになった。
 今の彼の声には、自分に対する妬みも羨望も含まれていない。純粋に、マリサス=アーティ個人の気持ちを求めている。
 だからこそ、大した意思もなく歩く自分の道が、途端に小さく思えてきた。
 最初から自分には才能があり、大した努力や代償を払わず、世界中の数多の人々が目指す魔導士の頂点の力を自分は有している。
 ゆえに、そこに自分の意思はない。
 意思が無いなら、“魔導士マリサス=アーティ”は、果たして―――“自分”なのだろうか。

「……そうか。なら、多分、俺とは違うよ」
「……悪かったっすね」
「いや、そういう意味じゃない。比較にならないほど……、凄いってことだよ」

 散々言われてきたことで、今更何も思わないはずの言葉だ。
 だが、彼の自嘲気味な物言いに、眉をひそめた。

「それなら伝わらないかもしれないけど、俺はさ、……勇者になりたかったんだ」
「なってるじゃないっすか」
「……ああ、そうかもな。でもそうだな、いや、勇者とまで言わないけど、なんか特別になりたかった」

 要領の得ないことを言う。
 だが彼は気にせず、その声色のまま言葉を続けた。

「これでも結構頑張ったつもりだったんだぜ? 失神するほど走ったり、剣なんて握ったこともなかったのに豆が破けるほど毎日振り続けたり。知ってるか? 豆潰れると何にも掴めなくなるほど痛いんだぜ。やっぱり止めた、何てことできないしさ、リセットなんて不可能だ」

 血の滲むような努力という言葉はよく聞くが、それをしたことのある人はどれほどいるだろう。
 それをした本人にとって、それは、言葉にするには軽すぎる。

「いや、甘かったよ。異世界ってもうちょい優しいもんだと思ってた。いや、優しかったのか。だけど俺は優しくしてもらってもこの様だ」
「……何を言いたいんすか?」

 分からない。
 彼が何を考えているのか分からない。
 だが、彼が苦しんでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃない。

 彼は強い勇者だとはっきり言える。
 だが不気味に見えるのは、彼の戦闘を見たからだ。そしてその一方で、普段鍛錬をしている彼を見たからだ。
 その両立しえないふたつの面を持つ彼は、今、どちらの存在なのか。

 その彼が、その瞳でこちら向いてきた。
 ジリとマリスは後ずさる。顔を見られるのは苦手だ。

「なあマリス。魔導士としてどう思う。俺は強いか?」

 答えはあるはずなのに言い淀んだ。

「……前にひとりで戦えていたじゃないっすか」

 彼は何も返さなかった。
 自分もそれは彼が聞きたい答えではないことが分かった。
 自分も同じだ。不正解と分かっていて、正しく間違えた。

 彼は、今目の前のヒダマリ=アキラという存在に対しての評価を求めている。

 そして。
 マリスはようやく、彼の真意が分かった。
 彼は、勇者になりたかったと、特別な存在になりたかったと言った。

 今の自分は、過去の自分の延長線上にいる。
 だがもし、自分に他になりたいものがあったとしたら、自分はどうしていただろう。
 当たり前のように前に進んできただけで、ありとあらゆる者から多くの期待と羨望を受けている自分は、その答えに辿り着けないことも知っていた。

 暴走しているように見えた彼は、遠くから見ればきっとキラキラと輝いているのだろう。
 だが、今目の前の、無心で剣を振り続けていた彼は果たしてどうか。その愚直なまでの研鑽の延長線上に、彼のなりたい自分は存在しているのだろうか。
 少なくとも、彼はその答えが分かってしまっているように見えた。

 答えに窮していると、アキラは笑った。とても、悲しげに。

「そういうことだ。俺はさ、“勇者にならなきゃ勇者じゃない”。勇者は魔王を倒すだろ? だから魔王を倒すんだよ。そしてそれをみんな望んでいる」

 そのみんなとは、彼を遠くから見る世界中の人を指しているのか。それとも近くから見る彼女たちを指しているのか。
 どちらとも取れ、どちらとも取れないような表情だった。

「だけどマリスは、マリスのままで、世界中の希望になれている。だから凄いと思うんだ。そんなの、俺とは比較にならないよ」

 自己否定の究極系を見ているのかもしれない。初めて聞く言い回しで羨望を受けたようだった。
 だが、違うと言いたかった。
 なりたい自分がいて、それに自分のままで届かない彼。
 なりたい自分もおらず、ただ日々を過ごした先にいる自分。

 羨ましがるのは果たしてどちらだろう。

「……変なこと聞いて悪かった。マリスの言う通り、俺も変な欲出してないで、とっとと戻るか。風が出てきた」

 答えていない。
 きっと彼が欲しかった言葉を、自分は答えられていない。
 戻ろうとしたアキラの前に回り、正面から彼を捉える。

 少なくともここで話が終わったら、後悔するような気がした。

「もう少し、ここで」
「……ああ、いいぞ」

 多分今、矛盾だらけの彼を紐解くことはできないだろう。
 だが今、目の前にいる彼は、姉や彼女たちが見てきた彼なのかもしれない。

 なろうとしたものを目指し、それがどれほど遠くても、あがこうとする人間だ。そしてそれは、マリスの目には影も形も映らない、遠い何かなのだろう。
 そしてそんな彼は、心の底から、素直に、その遠くにいる存在に憧れている。

 それは戦闘狂でもなく自殺志願者でもなく、どこにでもいそうな普通の人間だった。

 もし仮に、彼と、マリスが顔を見られることが苦手に感じる今の彼と、もっと長く共に旅をしていたら、お互いに何かを見つけ合うことができただろうか。

 そしてその彼は今きっと、ほんの少しだけ疲れている。それだけのことだ。

 彼がいい加減なのは本来の気質のようで、マリスもつられて適当に受け答えで話し込んでいたら、いつの間にか夕日が出てきてしまった。
 やはり彼と話していると他のことがおろそかになる。
 ふたりして慌てて戻ると、姉に烈火の如く叱られたが、彼が変わらずいい加減に受け答えをして、集中砲火を浴びてくれた。
 少し離れてふたりを見ると、彼から感じたあの痛烈な違和感は覚えなかった。

 きっと、少しずつ、彼は自分の知らない元の彼に戻っていくのだろう。
 姉が好意を寄せた彼のことを、自分はほんの一握りしか知らない。

 入念な準備や天候の様子を見続けた出発までの数週間。
 マリスは他の面々の監視をかいくぐって外へ足を運ぶアキラを追い、外に足を運ぶことが日課になった。姉の言いつけ通りなのだから仕方がない。

 ひたすらに剣を振り続ける彼をのんびりと眺めるのは、存外退屈ではなかった。
 その後に外でそのまま話すようになったのも、数日経てば当たり前の生活の一部になっていた。
 世間話はあまりしない方だが、話自体はありふれたものだったと思う。彼らの旅の話や、自分の魔導士隊の話などにはなるが、話題が無いこの地では過去の話をするしかない。
 彼らの旅の話は他の仲間にも何度か聞いていたが、彼の話は良い意味でも悪い意味で主観性と客観性が混ざり合い、それがむしろマリスの関心を引いた。
 マリスの魔導士隊の話では、適当に驚いたり感心したりしていた彼だが、時折顔を見られたときの苦手意識を感じることがあり、マリスは逆に、その日は勝ったような気分になっていた。

 ほんの少しずつだ。
 ほんの少しずつ、彼は戻りつつある。

 姉はそっとしておこうと言っていたが、もし自分との会話が彼を安らげているのなら、姉に背くのも悪くない。
 特別なことを話しているわけじゃない。
 こうしたありふれた、きっと彼らが今までの旅で積み重ねてきた日々が、今の彼にとって必要なことなのだろう。
 自分が知らないその時間の中で、きっと姉は彼を見続けてきたのだろう。

 話していると、色々と分かってきた。
 仲間内では共通認識だったらしいが、彼は、勇者というものにまったく向いていない。
 世界の使命を背負って、胸を張り、勇猛果敢に戦うような人間ではない。
 剣を握るには温厚で、争いに身を置くには優しく、栄誉あることであっても自分のためには動けない。それでいて、何もしないのは物寂しさを覚える、ごく普通の人。
 それでも彼がここまで勇者を続けてきたのはきっと、彼が見捨てるということが苦手だからだ。彼自身、流されやすいと自分を卑下していたが、それはきっと普通のことで、誰もがそうだ。
 何かを成し遂げても、流された先にあったもののように思えて完全には満足できないという、当たり前の悩みを彼も持っているだけだ。
 だけど彼は、流されるままでもここまで辿り着いたことに、全く後悔はしていないと笑う。その意思もその笑みも、マリスは羨ましいと思ってしまった。

 彼について分かったような気がしたことを、夜に姉に話すと、姉はさも知っていたかのように微笑んだ。
 そんな日は、マリスは負けたような気分になっていた。

 話していると、分かる。
 姉が好きになるのは、きっとこういう人だ。

 外に出るたび、強い砂風が頬を打つ。
 日に日に治まりつつあるが、もう少し、強くなったりしてくれないだろうか。

 聞くべきことはあった。彼は我が姉のことをどう思っているのか。
 姉の好意を、彼を知っているのだろうか。
 時折感じる、勇者ではない、勇者に憧れる彼に聞かなければ意味が無いことを知っていたが、その貴重な機会はつい自分たちの話で埋めてしまった。

 聞きたいことはあった。彼にとって、自分はどういう存在なのだろう。
 前の月輪属性の魔術師を失ってから現れた自分は、彼にとってはどういう風に見えているのだろう。
 都合のいい後釜だろうか。それとも単に、自分の婚約者の妹だろうか。
 聞けば済むと思っていることではあるが、それは同時に聞きたくないことでもあった。

 聞かれたいことはあった。自分は強いかと。もう一度だけ聞いてみて欲しい。
 答えはないが、聞かれたら、もう少しまともな答えが浮かぶような気がした。
 感覚的に、彼が探すことを諦めている魔王を倒す理由が、今目の前の彼自身の延長線上にあると願うようになっていたからだ。

 だが、それは違った。
 その理由を、延長線上どころか、彼はすでに持っていた。


―――それを知ったのは、世界が終わったその日だった。


 強い風が吹く。
 高く舞い上がってきた砂は、目も開けていられないほど強く身体を打つ。

 だが何も感じられないほど、目の前の光景はあり得なかった。
 マリスが願った光景と、絶対に避けたい光景が、混ざり合っていた。

「……俺は、何を、やってんだ……!!」

 彼の声は、熱を帯び、本来の彼自身のものだった。

「こうしないために……、こうならないために、勇者やってんじゃなかったのかよ……!!」

 彼は偉業を成し遂げた。
 世界を脅かす百代目魔王をその手で下し、百代目勇者となったのだ。
 ありとあらゆる者の希望でもあり、世界中から羨望を浴びる奇跡の存在に到達して見せた。

 だがそんなものには目もくれず、彼は、払った代償を強く抱きかかえていた。
 それは、マリスが加減もなく放った治癒魔術すら受け付けなかった、双子の片割れ。
 魔王の攻撃をその身で防いだエリサス=アーティの亡骸だった。

 どれほどの偉業でも、どれほど多くの者を救っても、彼が持っていた魔王を倒す理由は、果たされなかった。

 マリス自身、ショックで頭が回らない。
 あの姉が、自分と同じ存在が、目の前で息を引き取っている。
 到底受け止めきれない現実に、視界が白黒になったように思えた。
 そして、よりショックだったのは、その光景と同じくらい、ヒダマリ=アキラの絶望が自分の心を蝕んだことだった。

 折角、少しずつ、彼は自分を取り戻し始めていたのに。
 ようやく取り戻せたのに。
 ようやく辛く長い旅の終点に辿り着いたのに。
 待っていたのがこの結末なんて、信じられない。
 元々信心深い方ではないが、マリスは運命の神を呪った。

 許さない。許容できない。
 これだけ前に進んできた彼と、それを支えてきた姉が、こんな最悪の結末を迎えるなんてありえない。

 ほとんどパニックになった自分を、しかし冷静な自分が止めてくれた。
 疎ましく思ったが、その自分は口を借りていった。

「にーさん。すぐに他のみんなを探さないと」

 この魔王の牙城に訪れるまで、他の面々とは離れ離れになってしまっているのだ。
 魔王は彼女たちの状況を把握していたようで、全滅したと言っていたが、こちらを挑発するための嘘かもしれない。だが、少なくとも危険であるのは変わらないのだ。

 アキラから、ギリと歯が砕けるほどの音が聞こえた。

「……ああ、そうだ。けど……、は、やっぱ駄目じゃねぇか、こんな俺は」

 止めて欲しい。
 今目の前にいる自分自身を否定しないで欲しい。
 姉が恋をしたヒダマリ=アキラを、否定しないで欲しい。

 今ここで、やっと知れた。
 自分の前の月輪属性の魔術師のとき、どういうことが起こったのか。
 知って初めて、知りたくはなかったと思った。

 彼はきっと、自分と同じことをしていた。
 どれほど危険だと注意されようが、自分がやることが、結果として周りを救うと考えていた。
 いや、自分などよりよっぽど強く自分を抑えて、自らの身を危険にさらしていたのだ。
 時折垣間見えた本当の彼は、絶望的なほどそんなことには向いていないのに。
 自分は、そんな彼をつかまえて、不気味だと言っていたのか。

「…………悪いな。お前も辛いだろうが、行こう」

 静かに姉の身を降ろし、乾いた声色と共にアキラは立ち上がった。
 駄目だ。
 このまま彼を行かせられない。
 このまま行かせたら、きっと彼は今度こそ、二度と自分を認めなくなる。

 それは、姉の死と同じくらい、マリスには許せないものだった。

「……」
「マリス?」

 彼の前に立ちはだかった。

 考えろ。
 自分は全知の月輪属性だ。
 絶対に何か方法がある。

 考えろ。
 幸い、魔王がため込んでいた膨大な魔力は、その召喚獣と共に自分の支配下にある。
 世界を滅ぼすと言うだけはあり、何ら比喩なくすべてを滅ぼせるほどの膨大な魔力だ。

 考えろ。
 魔力が無限なら不可能なことなど存在しない。
 それが自分の属性なのだから。

「……大丈夫っすよ、にーさん」

 考えろ。
 ここで行かせるわけにはいかない。

「マリス?」

 考えろ。

「自分に考えがあるっす」

 いやむしろ―――考えるな、か。

「……逆行魔法」

 探し出せれば、辿り着ける。
 辿り着ければ、操れる。

 成功するとは限らない。しかし失敗するとも限らない。
 世界の裏側から、頭を鷲掴みにされるような違和感を覚えた。
 自分の頭には存在しない何かが、自分の脳に入り込んでくる。
 だがそれに、嫌悪感は無かった。

「逆行……って」
「……時間を巻き戻す。死者を蘇らせることはできないっすけど、この出来事をなかったことにできる」

 ほとんど適当に捲し立てた。
 死者を蘇らせる方法もあるかもしれないし、無いかもしれない。
 魔法は論理ではないのだ。
 だが少なくとも、今は自信満々に言わなければならない。

「それじゃあ……、こいつは、」

 マリスはこくりと頷いた。
 あまり身体を動かせない。
 魔王の召喚獣を抑え込んでいるということもあるが、何より今少しでも動けば、やっとの思いで掴まえた感覚を手放してしまいそうだった。

 そんなこともおくびにも出さずに、マリスはじっと彼を見つめた。

「じゃあ、もっと準備して、慎重に、」

 アキラは捲し立てるように言った。
 自分だって、目の前で横たわっている姉を1秒だって長く見たくはない。
 認められないこの現実から離れられるなら、どんなことだってしてみせる。

「……ファクトルに入り直せるのか」

 多くのものを失い続けた死地をやり直せるのか。
 マリスは頷こうとし、ピリと刺激を感じた。
 自分の頭と繋がる何かから、異臭のような感覚が届いた。

「記憶は許されない。時間を戻すとは、そういうことになる」

 自分でない何かがこの口を借りていった。余計なことを口走ってくれる。それが必要であれば、彼が求めるのであれば、自分は辿り着いてみせるというのに。
 これ以上この感覚に身を委ねれば、自分が自分でなくなるような気がしてくる。
 だがその自分ではない自分は、何かを知っているようだった。
 記憶を有した逆行は、許されざることらしい。

「それに、あの魔王が相手じゃ、どこからが既定路線だったかすら分からないっす」

 先ほど相まみえた諸悪の根源である魔王。
 撃破したとはいえ、マリスは未だに背筋が冷えている。
 ヒダマリ=アキラを不気味と感じていたとき以上に、あの魔王の思考はまったく捉えられなかった。
 多くの人が言う魔族に対する印象を軽んじてきたわけではないが、あの魔王は出遭ってきた他の魔族とすら違う。
 延長線上に存在しない、異次元の存在のように思えた。
 自分たちはあの魔族が想定する道のひとつを垣間見ただけのような気さえしてくる。仮に記憶を持っていたとしても、回避できる自信が無い。

「……それならいっそ、最初から。にーさんがこの異世界に来たばかりのときからなら、流石に何も縛られていないはずっす」

 言いたくない提案だったが、冷静な自分が後押しした。
 本当にすべてをなかったことにさえすれば、魔王の罠を買わせる可能性が僅かには上がると思えた。
 だがそれは、と考えて、マリスは思考を止めた。危険な思考だ。

「……それこそあり得ねぇよ。ここに立っているのが奇跡みたいなもんだ。こんな馬鹿に、世界なんか救えない」

 彼の声色は冷えていた。
 彼の思考だとそうなってしまうと思っていたから、別段驚きはしなかった。ただ、悲しさだけが身体を支配した。

「それに、マリス。お前もここに来るまでいないんだろ。せっかく仲間になれたのにさ」

 多分、それは彼なりの冗談だったのだと思う。
 だけど、言わないで欲しかった。考えないようにしていたのに。

「…………、だけど。そうだ、記憶は無理でも、……何か、……これは、どうなるんだ?」

 彼が目を向けたのは、先ほど現れたばかりの“奇跡”だった。

 “具現化”。

 それが彼に現れたのは、偶然か、この世界の優しさか、それとも彼自身によるものか。
 実際に同等の力を持つマリスでさえも、その条件は分からない。

 分からないからこそ、時間という概念に縛られるものなのかすら分からない。

 そしてその力は、たった1度見ただけだが、マリスの理外に座していた魔王ですら瞬時に滅ぼしてみせたのだ。
 もしこの力が最初からあれば、魔王の思惑どころか歴史すら徹底的に改変して見せるだろう。

「……出来るっすよ」

 危険すぎる。世界の異物になる。そう冷静な自分が口を挟んだが、無視をした。
 現状それくらいでなければあの魔王を超えられないとも思うし、何より今、彼の求めに対して否定することはしたくない。

 だから、自信満々に答えてみせた。彼は顔を輝かせたのを見て、心の底から嬉しくなった。
 世界の裏側からの感覚は、特に感じない。
 それはつまり、出来ないかもしれないが、出来るかもしれないということだ。
 彼が自分を諦めないためならば、自分は何度でも彼に応じよう。

「不可能を可能にするのが、自分の役割だから」

 マリスは、魔力を発動させた。
 吹き荒れる砂嵐の中、ひんやりとした銀の流れが生まれる。
 その風を、掴んだ。

「なら……、頼む。……今すぐに」

 マリサス=アーティの“具現化”が現出する。

 姉から目を背けることしかできない彼を見て、現出した銀の杖を力強く掴んだ。

「―――、―――、―――」

 どれほど魔力を消費するか分からない。
 だがもし足りなければ自分が許せない。
 論理的に用意できる最大の魔力を、非論理の力で用意して、未知の領域に足を踏み入れる。
 だがそこに恐怖は無かった。

「―――、―――、―――」

 湧き出すように口から零れていく旋律は、知っている唄だった。
 ふいに口から出てくる唄だ。
 彼と出逢ったときもこの唄を口ずさんでいたときだった。

「―――、―――、―――」

 ありとあらゆる技術を総動員しながら、未知の感覚に身を任せ、マリスはアキラを見つめた。
 よくこんな口から出まかせばかりを言った自分を信じてくれたものだ。
 結果として真実だったからよかったものの、自分は、いつからこんないい加減なことを言うようになったのか。きっと彼の影響だ。
 彼とよく話すようになって、彼を知るようになって、そのせいだ。

 絶対に失敗できない。

「―――、―――、―――」

 進むにつれて、白黒だった世界が徐々に銀一色に染まっていく。
 目の前の彼は、ただじっと、自分を見てくれていた。

「なあマリス。そのままでいいから聞いてくれ。もうすぐ全部忘れちまうんだろ?」

 片手間で成功するような魔法じゃない。論理では計れない魔法には、何が影響するか分かったものではない。
 そう思ったが、咎めようとは思わなかった。
 それどころか彼の声を聞くと、成功するイメージが強くなった。

「ありがとう。助かった。……はは、駄目だな、いくら言っても言葉が足りない」

 彼は、情けなさそうに頭を抱えた。
 ここまで術式が進んでも、自分は成功するか不安で不安で仕方が無いのに、彼は自分に絶対の信頼を寄せているようだ。
 愚直だと思うが、それが自分の力にもなるのだから不思議で仕方がない。

「―――、―――、―――」

 まもなく行ける。
 知らない力が世界を包み、知らない何かを潜り抜け、知っているどこかへ向かっていく。

 そこで彼らは、また旅をする。
 自分の知らない物語がまた、自分の知らないところで始まる。
 自分の記憶も消えるだろう。
 だから今だけだ、こんな気持ちになっているのは。すぐに忘れる。
 今は、何も考えないように、何も想わないように、この術式を完成させよう。

「―――、―――、―――」

 果たして彼の“具現化”をきちんと届けられるだろうか。
 彼には問題ないと言ったが、依然としてどうなるか分からない。
 だが、大丈夫だ。
 自分に自信が無いことの裏返しだろうが何だろうが、愚直なまでに剣を振るい続けた彼の姿は見飽きたほどだ。
 もし逆行が成功して、もし具現化を持ち運べなかったとしても、彼はきっとこの地まで辿り着いて見せる。
 彼が彼自身を信用しない分、自分は彼を信用しよう。

「マリス」

 唄を紡ぎ終える直前、言いたいことがまとまったのか、彼は、あの優しい声色で自分の名を呼んだ。

「俺にとって、お前―――」

 世界を銀が包み込んだ。
 その刹那。術式が完成する直前、マリスは一瞬思った。思ってしまった。

 その続きを聞きたい―――と。

―――*―――

 そのすべてが終わったあとに、マリサス=アーティは、苦しみと出遭った。

 ぼんやりと、高い塔を見上げていた。
 日も沈みかけ、この高い塔の向こうには薄っすらと月が浮かんでいる。
 気づくと、いつもこうしている気がした。

 このリビリスアークにある塔は初代勇者様が現れたとされ、周知されている通り、村の唯一の名所だ。
 他所から稀に訪れる権威者などを迎えるのもこの場所で、この村の冠婚葬祭も必ずと言っていいほどこの場所で執り行われる。

 とはいえ、実際にこの村で育ったマリサス=アーティにとってはこの場所は特別なものではない。
 季節に合わせて店先の色が変わる近所の花屋や、路地裏を通ると聞こえてくる声の大きい家族の笑い声の方が自分にとっては特別だ。

 “東の大陸“アイルークの象徴するものは“平和”。
 今日も無事に、この村は順守した。

 夕食の時間も迫っている。読みかけになってしまった本をパタンと閉じ、もう一度塔を見上げた。
 本当に高い。

「ねーさん。散歩っすか?」
「マリーを探してたの」

 こうしてぼんやりとしていると、いつも姉が声をかけてくるような気がする。
 少し困ったような、少し怒ったような、心配そうな優しい声色だ。

「そろそろご飯よ。手伝って」

 姉に頷き、とぼとぼと歩み寄っていく。
 夕暮れ時だが天気は良く、風も暖かだ。明日も晴れるだろう。

「マリー、最近ここによくいるけど、何してるのよ?」
「読書っすよ。……それと、」

 マリスは最後に、もう一度高い塔を見上げた。

「あの塔の上から人が落ちたら、危ないな、って思って」
「……もう。怖いこと言わないでよ」

 マリスが明確にこの世界に“合流”したのは、姉と共に迎えた二度目の11歳の誕生日の夜だった。

 やはりというべきか、どうやら魔法とやらはかなり適当な存在だったらしい。戻った時期でさえ、自分の意図したものよりずっと前に戻ってしまっている。
 だがそれ以上に、“到着”したばかりの瞬間に、マリスは決定的な違和感を覚えた。

 それは―――“自分が逆行してきたという自覚があること”。

―――記憶は許されない。

 自分の口を借りた誰かは確かにそう言った。
 だが事実、自分は“事態”を認識している。

 人の思考や論理などでは説明できない魔法という存在の中、あの言葉だけには確信めいた何かがあった。それだけに、自分の記憶が存在していることに漠然とした恐怖を覚える。
 もしや失敗したのではと訝しんだが、ベッドで目覚め、悲鳴を上げた自分を心配した姉が部屋に飛び込んできたとき、冷たくなっていった姉の顔を思い起こし、多大な安堵と共にマリスは大声で泣いた。

 手段はどうあれ、姉を救うことができた。
 それ自体はまさに奇跡と言うにふさわしい魔法の結果だ。ケチをつけるつもりはない。
 事実、姉の顔を見たとき、マリスは身体が打ち震えるほど喜んだ。

 だがしばらくして、ようやく頭の整理が追い付いたとき、マリスは、自分にとって地獄のような日々が始まったことに気づいてしまった。

 記憶を保有して逆行するということは、理想的なように思えていざ身に降りかかってみると、存外に厄介なことだと分かった。

 根本的なところでは、記憶とこの身体の年齢のギャップだ。
 未来の自分と当時の自分は、精神的にも肉体的にも当然変化していた。
 身体の動きは数週間もすれば違和感は薄れていったが、感情のコントロールが思った以上にできない。
 将来の自分ならば顔色ひとつ変えなかったであろう出来事でも、怒ったり、涙が流れそうになったりすることがある。
 それも、誤って花瓶を割ってしまったときや長時間仕込んだ料理を焦がしてしまったときなどの、ごくありふれた下らないことでもだ。
 思考や記憶は未来のものだが、肉体年齢だけでなく、精神年齢も当時のものになっているのだろう。
 下手に思考だけが成長しているから、当時は思いつきもしなかったことも想像するようになり、そのリアルさにこの身体はついていけないのだろう。
 大人が言葉を尽くして子供を脅しているようなものだ。特に自分自身が相手では、自分が最も恐ろしいと思う想像を容易に探り当てられる。ネガティブな思考に陥ると、それだけで、簡単に自分を泣かせられた。

 特に“今”の年齢は、世間一般で言う多感な時期だ。
 感受性は当時のままで、それを増長させる想像力は未来のものともなれば、自分自身のことながらまるで制御できる気がしなかった。
 分かっているのにできないという経験は、マリスの人生で初めて遭遇した難題だ。
 また、自分のそんな歪な苦しみを僅かながらに感じてしまったのか、姉が過保護になっているように感じる。
 未来の思考は“年下の姉”に面倒をみられるのは恥ずかしさや情けなさが支配し、当時の自分の身体は喜んだり疎ましく思ったりしてしまう。
 それもまた情けなくて、何度癇癪を起しかけたか分からない。

 そうした身体の問題以外にも、苦悩はあった。
 例えば、そう。孤児院の向かいの花屋の御主人は、来年亡くなる。
 その翌年には連れ立つようにその妻も亡くなり、遠方で働いていた息子夫婦が戻ってくる2年先ほどまで、廃墟同然になることを知っていた。
 花屋の前を通るたびに明るく声をかけてきてくれる彼らに、自分はなんと返せばいいか分からず、また何度も泣きそうになった。

 自分はこんな子供だったらしい。
 自分は自分のままで、ずっと同じようにしていたと思っていたのに、当時の自分は笑うし、泣くし、ちゃんと怒る人物だったようだ。
 人と話すのはあまり得意ではないと未来の自分は思っていたが、今この時点の自分の可能性はどうやら無限なのかもしれない。

 だが記憶を持つがゆえに、自分の可能性は大幅に削り取られていることに気づいた。
 自分は1年先、2年先、もっと先の出来事も知っている。

 例えば、向かいの花屋に未来の出来事を伝えたらどうなるだろう。
 自分が死ぬなどと伝えられたらマリスを非難するかもしれないし、そもそも信じてもらえない。だが、もし信じられた場合はどうなるか。
 今の内から息子夫婦に連絡を取り、共に暮らすようになるかもしれない。そうなった場合、息子夫婦がいた遠方の町での仕事はどうなるのか。
 例え小さなことでも、どれだけの影響が出るのか分からないのだ。それがどれほど未来を書き換えてしまうのか、マリスには想像もできなかった。

 そう考えると、身体中が金縛りにあっているような感覚に襲われた。
 自分の一挙手一投足が未来にどんな影響を与えるかを想像するだけで、身も心も震えるほどの恐怖を覚える。
 ほとんど覚えていないようなことですら必死になって思い起こし、“マリサス=アーティ”が取った行動を実直になぞろうとした。

 ちょっとしたボヤ騒ぎになる母が消し忘れた料理の火を見ても、翌日崩れてきて姉の頭に大きなこぶを作る棚の上の辞典を見ても、翌日近所の子供に踏み荒らされる花壇を整える村長宅の庭師を見ても、過去の自分は何もしていなかったはずだ。
 そして、そうなるたびに、制御できないこの身体は泣くのだ。

 自分のことも管理できない、周りの人を助けることもできない。
 しかし、“マリサス=アーティ”を演じ続ける必要がある。

 自分は、いや“この人”は最早―――誰だ。

 そんな苦悩すら、表に出すことも許されない。
 だがそれでも、様子がおかしいことには気づかれているのか、姉はやや過保護になっているように感じた。あの夜、ほんの少し泣いたのが切っ掛けか、姉の性格にも僅かながら影響を与えてしまうのだ。

 出来ることはと言えば、極力人に関わらないように、孤児院の図書室に自分のスペースを作ることだけだった。過去の自分もこうしていたはずだ。こんな風に逃避のためのものではなかったが。

 一方で、姉の方はと言えば、そんな自分とは逆に、つまりは未来とあまり変わっていないように見えた。
 同じにように笑うし、同じように怒るし、同じように面倒見がいい。
 今のマリスに可能性としてはあるその姿を、姉はそのまま未来へ持っていったようだった。
 そうした自分の半身を見ていて、マリスはようやく気が付いた。
 自覚は無かったが、自分が戻されたのは多分、自分が顔を見られるのが苦手になり始める頃だ。

 いつのことか覚えておらず、それほど特別なことだと思ったこともなかった。
 だけどきっと、あの誕生日の日だったのだ。
 ふたりで出かけて村を歩いていたときに、誕生日祝いだとふたり分の髪飾りか何かをくれた雑貨屋の店主が、目を輝かせて喜ぶ姉を見て言ったのだ。

『エリーちゃんは元気だね』

 自分もその場にいて、じっと髪飾りを見つめていた。
 何の悪気もない。むしろ大げさに喜ぶ姉を見た率直な感想だったのだと思う。
 自分も別段気にはしなかった。

 ただ、同じように成長してきた自分の半身だけにかけられた言葉は、当然、自分のための言葉ではないと感じた覚えがある。
 多分、それだけで思考を止めていれば、別だったのだろう。だが自分は思ってしまった―――それなら自分はどう見えたのだろう、と。

 この頃から自分はマリサス=アーティで、自分の半身はエリサス=アーティだったのだろう。

 姉が未来に持っていけたそれは、マリスにとって、キラキラと輝いて見えた。

 だから、か。
 マリスはあのとき起こったことを理解した。
 魔法は論理ではない。完成寸前まで進んでも、次の瞬間、無に帰すこともあれば全く違う何かになることもある。
 そんな確率をかいくぐって、達成するあの奇跡の瞬間、マリスは自分の意思が介入したことには気づいていた。

 だから、“自分がこの時期を選んだのだ”。
 あの魔法は、唄は、言っているのだから―――“いつこうなってしまったのだろう”、と。

 それでもマリスは、結局マリサス=アーティとしての道を選ばざるを得なかった。
 制御もできない自分の心と身体を持て余し、些細なことが起こるだけでも必死に思考を凝らして自分の行動を検討する羽目になるような、こんな地獄のような日々を過ごしていても。

 たったひとつだけ、希望があった。

 いつもの読書スペースで、窓の外の日が沈むのを見て、そろそろ夕食の準備だと立ち上がったマリスは、いつものように1冊の本に目を止めた。
 本棚のそこは、あまり読んだことのない、孤児院の子供たち用に用意されたおとぎ話のような本がまとめられている場所だ。

 それは、子供用に簡略化されているとはいえ、史実に基づいている教養も兼ねた絵本―――初代勇者と魔王の話。

―――*―――

 その日々の中で、マリサス=アーティは、たったひとつに縋っていた。

「え? そうなの?」
「興味ないっすからね」

 思った以上に自然に言葉が出てしまったが、自分に戸惑いが無いことに驚いた。
 あれだけ過去の出来事に沿うように生きてきたのに、姉はポカンとしているから、取り消すならば今だ。
 だが、答えを取り消すことができなかった。いや、考える時間はあるのだから、しなかった、が正しいか。

 今日は自分たちの誕生日。
 地獄のような日々を過ごし続け、自分は、そして姉も、今日で16才になる。
 他の町ではどうかは知らないが、この村ではとっくに働き出している者が多い。
 自分たちは孤児院に務めていることになってはいるが、育ての母から自分のなりたいものになりなさいとは言われている。

 姉はなりたいものを定めていた。

「ええと、……ううん、いいの。むしろその、ちょっと安心した、かも?」

 自分と姉は、ずっと同じ道を歩いてきた。
 だから姉も、きっと自分も同じものを目指すのだと思っていたのかもしれない。
 自分にもその感覚はあったので、姉が考えていることは何となく分かった。一応危険なことではあるが、それ以上に自分の半身が違う道を歩くことの違和感が勝るのだろう。

 マリスは、姉に誘われた魔術師への道を―――断った。

「なんだろう、ほらマリー。よく手紙とか届いてるし、偉そうな人も来てるじゃない? てっきりそういうつもりなのかと思ってた」

 その道は、もともとは昔受けた魔術適正試験に由来している。
 何かのイベントで、姉はその道に興味を持ったのだ。
 姉はその頃から魔術の勉強を合間合間にしており、一方自分はと言えば、付き合いで一緒に勉強することもあったがそれ以上に、その適正試験とやらの結果が騒ぎになり、国から勧誘目的の手紙やら人やらの対応に追われていた。

 そんな勧誘を受けていても、自分はそんな幼い頃からこの家を離れるつもりはなかったし、何よりそんな試験で何が分かると話半分程度に聞いていた。
 子供の自分はやはり単純なのか、もてはやされるのも悪い気はせず、明確に断ることもしなかったのも悪かったのだろう。
 “未来”の自分の姿を考えると、どうやらあの適正試験とやらはある程度信頼がおけ、毎度毎度こんな辺鄙な村に魔導士が足しげく通ったのも正しい判断だったらしい。

 姉は勉強の傍ら、そんな自分の姿を見ていたからだろう。
 この年齢になった今、自分も同じ道に進むのだと漠然と思っていたのかもしれない。

「ああいう勧誘は話半分っぽいんすよ。それほど熱心ってわけでもないっすし」
「ふうん……。でもそれでこの村にわざわざ来るかな……?」

 思った以上にすらすら言葉が出てきてマリスは自分の愚かさを痛感した。
 歴史の改ざんを可能な限り避けて生き続けてきて、この“分岐”でさえも自分は正しい道を選ぶと決めていたのに、正史に反することを心の中であらかじめ決めてしまっていたようだ。

 姉は不審に思いながらもマリスを見てきた。
 同じ顔で、同じ姿で、同じ存在の、しかし姉である彼女は、片割れの自分の様子には敏感で、その疑念を払拭することはできないだろうとマリスは思った。
 だが多少怪しまれても、マリスは自分の答えを変えるつもりはなかった。

「……まあ、いいわ。でも、もし分からないこと出てきたら教えてもらうかも。マリーは教えるの上手いもんね。将来先生とかになるのかな?」

 姉は冗談めかして笑って許してくれた。
 教師とは。魔術師と比べると随分と安全な職業だ。

 だが、残念ながら、こんな平和な大陸の魔術師なんかより、ずっと危険な目に遭う日々が―――大冒険の日々が控えている。

 この数年を過ごし続け。
 最近では、日々“マリサス=アーティ”として過ごすことに慣れ、身体の成長につれて身も心も制御できるようになっていた。出来事に対して必要以上に思考を凝らす必要も薄れてきて、当初に比べれば格段に安定した生活を送れていた。

 だがそれは、軸となる自分の希望があったからなのだろう。

 成長期に、成熟する前の精神で、何をしてよく、何をしてはならないのかを考えながら行動する日々は、確実に自分の精神を蝕んだと思われる。
 自分の家族と共に自分の村にいるのに、異国の地の見知らぬ街で知らない人々とその日暮らしをしているかのように、心休まる日など一切訪れなかった。
 村の皆にも、育ての母にも、そして自分の半身にすら、何も打ち明けられない自分はいったい誰なのか。
 思春期だったのも手伝ったのだろう、そんな薄黒い思考に蝕まれ、いつどこで何をしていても、息も詰まるような圧迫感が身体中を支配され続けていた。

 それを唯一軽減することができたのは、毎日身も心も疲れ果て倒れ込んだベッドで思い起こす、今の年齢からすれば遠い昔の、未来の記憶だった。
 それでも何度も思い越したせいで、未だに鮮明に覚えている。

 あの死地の手前で、とりとめもない話をしていたときを思い出すと、気が楽になった。

 彼も―――ヒダマリ=アキラも今頃、彼の世界で、自分と同じように悩み苦しんでいるのだろうか。だとしたら彼は自分を恨んでいるだろうか。
 そんな黒い思考に支配されたこともあったが、それよりも、彼はむしろ自分よりこの状況に適応しているか、それこそ歴史の改ざんなどお構いなしに好き勝手している姿の方が容易に想像できた。そう考えるだけで、胸の奥がすっと軽くなる。

 そして、あのとき彼は、最後に何かを言おうとしていた。
 彼にとって、自分がどういう存在なのかを示そうとしていた。

 それは今、いや、多分ずっと、自分が何者であるかを見失っている自分にとって、最も聞きたい言葉だった。
 それを目前にこの村を去ることは、マリスにはできなかった。

 そう。まもなく彼は、この異世界に訪れる。
 聞いたその“刻”は、姉の魔術師の入隊式だ。

 この大きな分岐を間違えたことで、冷静な自分の声は警鐘を鳴らす。
 いや、冷静にならずとも、自分はきっと、やってはならないことをやったと確信している。

 それでも、彼に、会いたい。

 彼は自分を見たらなんというだろう。
 今の自分も、可能な限り“マリサス=アーティ”として振る舞い生きてきた。
 だから何も変わっていないかもしれない。

 だけど、自分に宿る“もうひとつの自分”があるマリサス=アーティは、彼から見たらどう見えるだろう。
 振る舞いは過去をなぞったつもりだが、多少はきっと姉のように、明るくなれている、と思う。
 彼と話していたときのように、口数も多くなっていると信じたい。
 そしてそんな自分で彼ともう1度会って、胸を張って彼と正面から向かい合えれば、ようやく自分は自分を好きになれると思う。

―――姉が、魔術師試験に落ちた。

 深刻に落ち込む姉を見て、マリスは色々な意味で心が強く痛んだ。
 未来の情報として、その事実を知ってはいたマリスは、朝試験に出かける姉に顔を合わせることもできなかった。
 むしろ受かっていた場合はどうなるのだろうと不謹慎なことも同時に考えていたのがさらに心の痛みを強くする。
 最初は慰めの声もかけられなかったが、流石に姉。すぐに立ち直って翌年の試験を目指し始めていた。魔術師試験も魔導士試験も突破したマリスはせめてもの償いとして、本格的に教師役を買って出た。
 大いに未来の情報が活かされることになってしまうが、自分が好きに日々を過ごしているのに、姉だけが同じ苦しみを味わっているのは見過ごせなかった。
 やはり、自分の歴史の改ざんに繋がるかどうかの判定は、どんどん緩くなっていってしまっているらしい。
 だが、姉には来年絶対に合格してもらわなければならないのだ。

 そこまで来てしまえば、いっそという気持ちで、かなり忙しくなった。
 来年こそはとひたすらに勉学にいそしむ姉を尻目に、あまり興味のなかった世界の情勢を追うようになった。
 最初はしばらくこのアイルークを旅することになるだろうから、ひっそりと大陸の地図を買ったりして、“未来”の知識を総動員して旅のルートを考えた。
 より確実に力を付けられ、あまりに危険な場所は避け、順調に旅を進められるように計画を練っている時間は、楽しいというか、落ち着かないというか、すごくわくわくした。
 書き込みが増えすぎて見辛くなってしまったかもしれないが、それでもまだまだ書き足りないほどだった。
 彼との旅はどうなるだろう。姉も共にいるのに、自分と彼は、こそこそと、旅の相談をしたりするようになるのだろうか。
 色々考えて、また今日も寝不足だ。

―――姉が、魔術師試験を突破した。

 その合格通知が届いたとき、マリスは心の底から喜んだ。
 力いっぱい姉に抱きしめられながら、同じ顔で同じ涙を流した。

 “その日”が近づき、今まで以上に忙しくなった。
 下手に初代勇者様が現れた高い塔があるせいで、この近隣の村の者たちの魔術師隊の入隊式はこの村でやることになっている。
 大した人数は集まらないが、それでもその準備をするのは村長で、そしてそのお目付け役ともいえる自分たちの母で、ひいては自分たちだ。
 去年は姉には辛いだろうと準備をさせないようにしようとしたが、姉は歯を食いしばって手伝ってくれたのを覚えている。
 今年も一緒に準備を進める姉は、やはり去年よりもずっと輝いて見えた。

 そんな準備を進めながら、心の底から姉に謝った。
 今姉が想像している未来の光景は、まさにこの魔導士隊の入隊式の日に大きく塗り替えられることになる。
 そう思うと不憫で、しかし、きっとそれ以上の何かが待っているのだと、心の中で姉を慰めた。

 自分が話の中でしか聞いたことのない、キラキラと輝いた冒険は、すぐそこだ。

―――*―――

 そして、そのすべてが始まるときに、マリサス=アーティは。

 青空の下。
 この村のシンボルでもある、高く高く天を突くような塔の元。

 そこでは、今、“結婚式”が行われていた。

 サラサラと風が流れ、若草の匂いが舞うその草原は、村の中にそのまま自然を残したような教会の庭であったりする。
 周囲は、それ自体が敷居のように背の高い木々で囲まれ、その中心の芝生には、正方形に整えられた大理石の白く大きな足場。
 そこには、純白で木製のベンチが2列。一糸乱れず整列している。
 その、青の下、白と緑の世界。
 そこに集まった者の一部は、正装、とでもいうべきスーツやドレスを着て、優雅に腰を下ろしている。

 最前列というなかなかの特等席に腰を下ろしたマリスは、自分たちの仕事ぶりに我ながら感心していた。
 一応式場としての場所ではあるが、この村に住む自分たちにとっては日ごろ子供たちが走り回っていたりする空地同然のような場所だ。
 近隣の村々から人が集まるこの時期だけ、立派な協会に姿を変える。一応は管理者ということになっている牧師のような初老の男は副業で、本業は隣町の酒屋の主人だ。

 この場に集まった人々は今、漆黒のフードを被った怪しげな人々が囲う、塔の真下の台座に注目している。
 その中央には、花嫁の姿を模したドレスに身を包んだ我が姉が立っていた。

 今日は―――魔術師隊の入隊式だ。

 念願かなってこの日を迎えた姉は、相当緊張しているようだった。
 双子でなくても、幼い頃からエリーを知っている近所の面々にはしっかり我が姉の心境が手に取るように分かるようだ。

 注視するとプルプルと震え、今にも膝から崩れ落ちそうになっているのがこの距離からでも分かる。
 容姿を褒めると自画自賛になりかねないが、それでも今の姉は、息をのむほど美しく、輝いて見えた。
 控室で着替えを手伝ったとき、緊張と感激で泣き始めていた姉は、自分を取り戻せただろうか。

「いよいよね」

 ひっそりと、隣に座る育ての母が手を握ってきた。
 自分も強く握り返す。
 母の手に触れて、やっと気づいた。
 身体中が震えているのは、自分もだった。

 いよいよ、だ。
 身体中が震えてくる。
 やっと、やっとここまで辿り着いた。辿り着けた。

 零れそうになる涙を拾いながら、マリスは空を見上げた。
 高い高い塔の上。

 間もなくこの地に奇跡が起こる。

 姉が定められた婚姻の言葉を紡ぎ出す。
 合わせるように、マリスの緊張も最高潮に達してきた。

 彼は自分と同じように過去に戻ってどう過ごしていたのだろう。
 そもそも彼は記憶があるのだろうか。
 もし、“彼”が現れなかったらどうしよう。

 そんな期待や不安が膨らんでは萎み、腰が抜けたのか足に力が入らなかった。

 今必死に儀式を進める姉には申し訳ないが、この儀式は失敗する。

 入隊式は決まった台詞を言うだけなのだから関係はないはずだが、姉が立つのは“しきたり”として嘘が禁じられている場所だ。
 間もなくそこに乱入者が現れる。
 そしてそれは、姉にとって忘れられない出来事になるだろう。

 だが、ふと、マリスは思い至る。
 もし自分が手を出せば、そもそもそんな事態にすらならない自信がある。
 不意を突かれたとしてもその程度なら対処できるというのに、今は事前に知ってしまってすらいるのだ。
 どうやっても好きなように彼の落下地点をコントロールできてしまう。

 そうなれば、彼は、姉と婚約しなくても済む、ということになるのではないだろうか。

 未だ現れぬ彼を見上げ、はっと我に返って必死に頭を振った。
 いつまで経っても彼は現れない。そんな邪なことを考えていたからだろうかと自分を戒め、何度も何度も目を凝らす。

 だがそのとき、塔の上に、何らかの気配を拾った。
 身体中がガチガチに固まっていく。

 彼が、来る。
 最初になんて声をかけようか。それだけは、何度考えてもいいアイディアが浮かばなかった。
 何年も思考を費やしてきたというのに、考えがまとまらない。
 いや、下手に考えるな。彼と話していたとき、そんなことを考えなくても自然に話せていたではないか。
 だから自分は大丈夫。
 この先ようやく、自分が願った世界が訪れる。
 ようやく、自分の意思で、長い旅を始めるのだ。

 太陽が照らす塔の上、光が、何かの気配が、世界の裏側からの気配が、強くなっていく―――

「……ぁ……」

 そこで。
 マリサス=アーティは、理解した。
 気づかぬうちに、頬に、涙が伝っていた。周囲からは、姉を見送る、感動的な妹の涙に見えているだろうか。

 隣の母にも聴き取れぬほど、掠れるように小さく呟いた。

「もうすぐ……、だったのに」

―――この意思は、間もなく、消える。

 すべて。すべて理解した。
 記憶を有する逆行は、許されない。
 ゆえに自分は罰を受ける。
 自分が見ないようにしていたこの魔法の代償を、この魔法の神髄を、今この瞬間に理解してしまった。

 そうだ。そんな都合のいい話はない。
 自分は知っていたはずだ、魔法にも立派に対価があるのだと。
 そんなものに自分の意思を介入して大きく過去に戻ったり、歴史の流れを変えたりしたのだ。そんな自分が、見逃されるはずがなかった。

 この日のためだけに生きてきた。
 必死に自分を殺して。
 たったひとつに縋って。
 願い続けてきたその瞬間、自分はすべてを失うのだ。
 見事なものだ。自分にとって最も辛いことを、代償として支払うことにしてくるとは。

 もうすぐ自分は、自分の知らない“マリサス=アーティ”になる。
 そのマリサス=アーティは、いったいどういう人物だろう。身体中が震えるほどの恐怖を覚えた。

 いやだ。
 どうしても、いやだ。

 自分の意思が、逃れようとうごめくが、どうしようもない何かがそれを容易く抑え込んでくる。
 逆らう気力が起きないほど絶対的なその気配に、しかしマリスは辛うじてしがみついてみた。

 誰も気づいていない塔の上の光が、強くなる。

 もう“自分”には何もできない。
 今の“自分”は、最後の最後、消えかける残滓のような、ちっぽけな存在でしかなかった。
 だけど、想う。

 自分は、彼のことをどう思っていたのだろう。
 姉の婚約者。この地獄のような日々の唯一の救い。いや、それよりも、自然に話せる相手というのが今はしっくりくる。
 これは恋なのだろうか。それとも友情なのだろうか。
 自分の気持ちは、始まってもいないことに今更ながらに気づいた。
 その答えを見つけられるかもしれなかった旅に、どうやら自分は付いていくことはできないらしい。

 姉は、“未来”のように、きちんと旅立つことになるのだろうか。
 最初は喧嘩ばかりだったと聞くが、ちょっとでも拗れると旅自体が無くなってしまうかもしれない。
 念を押すように、姉に願った。
 大丈夫。彼は、立派に勇者として、魔王を撃破して見せたから。

 “マリサス=アーティ”は、ちゃんと旅に出ることを選択してくれるだろうか。
 自分のことながら分からない。
 興味ないの一言で、彼と姉の旅立ちをこの村で見送ったりしないだろうか。
 そうなったらすぐにでもこの意思は蘇って殴り付けてやると自分を脅してみる。
 彼との旅は、多分後悔だけはしない旅だろうから。

 彼は、具現化を持ち込んでいるのだろうか。
 自分自身を信頼しない彼。どこにでもいる、ありふれた彼。
 突出した力を持った彼は、きっと、当たり前のように堕落しそうだ。
 ああ駄目だ。彼のことを少しでも思い起こすと、自分は笑ってしまいそうになる。
 それでも彼は、少しくらい、足掻こうとしてみるだろうと思えた。

 消える。
 意識が、遠くなっていく。いや、はっきりしてくる、が正しいのだろう。
 “マリサス=アーティ”が、目を覚ますのだから。
 ようやく思えた。自分自身が、羨ましいと。

 このまま消えるのも面白くない。
 この絶対的な“何か”に、最後の最後に、挑戦しよう。

 自分が、意思が、消えてしまう。
 だけど何かは残せないか。

 もし自分が、たったひとつだけを選ぶとしたら。

「想いだけでも……残るといいな」

―――*―――

―――* ―――

―――**―――

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 後書き
 読んでいただいてありがとうございます。
 どんどん更新頻度が下がっているうえに番外編ですみません……。
 コロナ禍で、身の回りの生活が一変しており、なかなかまとまった作成時間が取れていませんが、少しずつでも完結に向けて頑張っていきます。
 (次から大掛かりなお話になる予定です……)
では…


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