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[16588] いつかのように歩く道【灼眼のシャナ・逆行】 生存報告
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2012/10/08 22:41
【生存報告】

お久しぶりです、草冠です。
このたび、ふと思い立って自分の作品を見に行ったところ、非常に驚いたことに未だ見て下さっている方々がいらっしゃり、どうしようかと悩みましたが、生存の報告をいたしました。

結論を述べさせていただきますと、執筆は継続中です。
自分なりに色々と悩むことがあり、中々筆は進んでおりませんが、書くことそのものはやめておりません。

年内の復活は厳しいと思いますが、近いうちに皆様のもとへ作品をお届けできればと思います。

それでは。
またお会いできる日まで。


【作品について】

□ 当作品は灼眼のシャナを元としたSSです
  具体的には、原作十九巻までを参考にしています。
  ただ、原作は一通り読みましたが、それでも見落としている部分はあるだろうと思われます
  そういった点に関しましては、ご指摘頂ければ非常にありがたいです

□ 逆行ものです

□ 原作設定は可能な限り大切にしていきたいと思っていますが、独自解釈、オリジナル設定も含みます





【更新履歴】

2010.2.18 プロローグ 投稿
2010.3.04 1-1 A 投稿
2010.3.24 1-1 B 投稿
2010.3.25 1-1 B 加筆・修正
2010.3.31 1-1 C 投稿
2010.4.04 1-2 A 投稿 1-1 B 加筆・修正
2010.4.27 1-2 A を1-2 B へ、1-2 A 新規投稿
2010.5.12 1-2 C 投稿 プロローグ 修正
2010.11.19 2-1 A 投稿
2010.11.26 2-1 B 投稿
2010.1.1 2-1 C 投稿
2011.10.6 タイトル一新
2011.10.14 外伝『アタランテ』1 投稿
2011.10.19 外伝『アタランテ』2 投稿
2011.10.26 2-1『交錯』 投稿



[16588] プロローグ
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2010/11/19 22:41
 先刻まで叩き付けるように降り注いでいた真っ白な雪は、今はしんしんと辺りに降り積もっている。
 異形の者達がひしめく広大な平野には、まるで星の屑篭をひっくり返したかのような光芒が満ちていた。


 喧騒の最中、どこかで冷たい金属の音がキン、と鳴り響く。





 銀閃が空を切り、そして絡み合い、はじけ飛ぶ。
 互いに惹かれ合うように走り、けれど決して交わることのないその光景を、悠二はまるで自分達の有りように似ていると感じた。
 異形の者達がおりなす戦場、世界の行く末を決める戦いの中にあって尚、その想像は悠二に苦笑にも似た笑みを浮かべさせた。

「どうしたの? 悠二」

 自分の前で、紅蓮の双翼をひらめかせた少女――シャナ、は怪訝そうに、しかしその手を休めることなく悠二に問いかけた。
 悠二もまた剣と竜尾による応酬を止めずに、シャナに答える。

「皮肉だな、と思ってね。結局、どれだけ君のことを想って、そして君に想われても、僕達はこうして刃の下で語り合うことしかできない」
「……そうね、でも――」

 強撃一閃、胴を払いにきた一撃を『吸血鬼ブルートザオガー』の刀身で受け止める。刹那、刀紋が存在の力を受けて怪しくゆらめき、シャナはその身を素早くひるがえらせた。
 互いに無傷、間合いは一間。
 悠二は『吸血鬼ブルートザオガー』を握りしめ、シャナは『贄殿遮那にえとののしゃな』をスッ、と構え直した。



「悠二。私は御崎市にいたとき、悠二の心がどこを向いているのかも、何を考えているのかもよく解らなかった。ううん、自分の心さえもよく解っていなかったんだと思う」

 シャナは淡い微笑みを浮かべながら、その表情とは間逆の激しさで大太刀の切っ先を弾頭に再び突っ込んでくる。
 悠二はそれを危なげなく受け流したが、しかし存在の力をを流し込む間もなく、少女の痩身は背後へと飛び抜けた。

「くっ!」

 背後から虚をつくように放たれた一撃を背中の竜尾で受け止め、はじき飛ばす。続いて放たれた連撃を今度は『吸血鬼ブルートザオガー』で受け止めた。
 やはり、純粋な剣技では叶うべくもない。空中という不安定な足場であることもあって、動きを予測できても、その速さと鋭さについていくのが難しいのだ。
 たて続けての切り結び。足りない技量を腕力と竜尾で補いながら、悠二は続くシャナの言葉に耳をかたむける。

「けど、今は違う。こうして戦う中で、私は悠二にどれだけ想われているのか、そして私がどれだけ想われているのかがよくわかった。……だから、私は悠二と戦うことを厭ったりはしない」
「……まったく、君って子は」

 初めて交わす睦言が白刃の上で、とは。
 再び悠二の口元に苦笑いがひらめく。ただし、それは先程のものよりも温かみに満ちたものだった。



 二度目の強撃、今度はそれをこちらから放つ。
 ふわりとそれを受け流し、後方へと飛ぶシャナ。悠二はそれを追撃することなく体勢を整え、そしてシャナも無理な突撃をかけることなく、そっと息をついた。
 瑞々しい唇から呼気が白くたなびく。そのさまに場違いにも『詣道けいどう』での口づけを思い出し、知らず悠二は頬をゆるめた。

「悠二」
「なんだい?」

 互いに構える白刃の向こうで、少女もまた柔らかな笑みを浮かべている。


「私が勝ったら、悠二。あなたには[仮装舞踏会バル・マスケ]と手を切って、私と一緒に来てもらう」
「……先刻も、言っただろう? 今になってそんなことはできない。そう――」

 言いつつ、流れてきた火球を『吸血鬼ブルートザオガー』で打ち払う。
 二人を取り囲む、広さ100mほどの空隙。フレイムヘイズと徒が入り乱れる最中、飛び交う炎は互いを打ち消しあって花と散り、鳴り響く剣戟の中にあって尚、そこには奇跡のように空白が生まれていた。
 徒は自らの長を守らんと、そしてフレイムヘイズはその長に挑まんとする『炎髪灼眼えんぱつしゃくがん』を助けようとした結果、乱戦の最中にあって尚、このような空隙が生まれたのである。

「――絶対に、無理なんだ」


 冷厳なまでの決意と、真摯さを込めた悠二の言葉、しかしそれを聞いて尚、少女の表情は変わらなかった。
 
「できるとか、できないとかじゃない。私はそれをする、ただそのためだけにここにいる。だから――私は、あなたを倒してみせる」

 言葉とともに、シャナの瞳は強く悠二を射抜く。
 揺るがぬ意思を秘めた決意。再びそれを目の当たりにして、知れず悠二の心の奥底からも感嘆と、歓喜の念が湧き上がった。
 歓喜のままに腕を振り払う。昂ぶる感情を表すかのように、腕に合わせて黒い火の粉が舞い上がった。

「ならば余も君を倒し、そして余の大命の元で、共に歩んでもらうとしよう。君が宿命から解放される、その時まで」
 













 悠二は深く息を吸うと、鈍くなってきていた両腕に力を込めた。
 すでに全身には大小いくつかの傷を負い、疲労感が身体の動きを鈍らせている。
 そしてそれはシャナも同様で、白く華奢な身体には血が滲み、纏うドレスにも焦げ目と裂け目が目立つ。
 だが、その表情と気迫にはいささかの衰えもなく、今も眼光鋭く悠二を見つめながら『贄殿遮那にえとののしゃな』を振るい続けている。
 それを悠二は力と宝具の特性で凌ぎ、時に炎を打ち合っては互いの『殺し』を突くべく戦い続けていた。


 悠二の本領はその、単純な力の強さだ。
 まともに受ければ腕はしびれて使い物にならなくなるであろう一撃を軽々と繰り出し、そして圧倒的なまでの力を持った炎を放つ。
 それに対してシャナは、持ち前の技と素早さで対抗していた。
 悠二の一撃を鮮やかにさばき、時には反撃に転じ、そして炎を避け、相殺していく様は神業と呼んでもさしつかえない。
 だが、それにも限界がある。

 長引けば長引くほど『存在の力』の総量、"紅世"に関わる者としての地力の差が如実に表れてくるのだ。
 現状はまだ五分だが、それはつまりこれ以上長引いても、悠二の有利になることはあれど、シャナの有利になることはないということにほかならない。
 そしてそのことを知悉し、敢えて攻め切らずに時間を稼ぐことに徹していた悠二だからこそ、真っ先にあることに気が付いた。


 シャナの炎が弱まってきている。
 先ほどまでならば自分と互角の力で打ち合っていた炎が、今は多少の拮抗の後に押し切られるようになってきている。
 気迫こそ衰えてはいないが、恐らくは全身を強い倦怠感に襲われていることだろう。

 勝機だ。


 悠二はそれまでの一歩を引いた守りの戦いから、攻めの戦いへと転じる。怒涛と剣戟を繰り出し、押し切らんとした。
 その切り替えに、シャナは応手が追いつかない。意識が追いついたとしても、疲労に包まれた身体では対応し切れないのだ。
 一撃、二撃とさばき、そうして三度目の攻撃を受けたところで、その体勢は大きく崩れた。

 気合とともに、その無防備な身体をなぎ払う、が。

「っな?!」

 避ける余力もないはずの状態、それをシャナはひらりと背後に宙返りをして避けた。
 そしてそのまま、身体のバネを生かして大上段から剣を振り下ろす。
 先ほどとは逆に今度は自らが体勢を崩している。それでも、咄嗟の判断で『吸血鬼ブルートザオガー』の刀身を頭上にかかげた。
 その力、触れた者に傷を負わせるという特性の前に、攻撃を止めるものと理性で悠二は判断する。しかし、シャナの行動は悠二の思惑を凌駕した。


 そう、シャナはそのまま刀身を振り下ろし、あろうことか鍔迫り合いに持ち込んだのである。

(ッ、馬鹿な?!)

 一瞬の驚き、それが生んだ隙は小さなものだったが、しかし、その状態においては致命的な一瞬だった。
 紅蓮の双翼が力強くはばたく。
 その煌きは今までのどれよりも大きく、それが生む力は、鍔迫り合いを続ける悠二もろともシャナの身体を地面へと飛翔させた。
 耳元で唸りをあげる風の音を聞きながら、ようやく悠二は『吸血鬼ブルートザオガー』にありったけの力を込める。
 不可視の刃がシャナの身体を刻み、瞬時に全身から血を噴き出させたが、それを意に介した様子もなく、シャナは地上へと疾走を続ける。

「シャ、ナァァァァァっ!!」
「悠二ッ!」


 ――炎の彗星は、地面へと叩きつけられた。




 全身を襲う衝撃。
 いかに人間を凌駕した存在であるとはいえ、それをまともに受けて無傷ではいられない。
 それでもどうにか目を開けると……そこには、自分に『贄殿遮那にえとののしゃな』を突きつけたシャナが屹然と立っていた。




 気付けば、周囲の戦いは小康状態になっていたらしい。
 先ほどまでの喧騒は嘘のように静まり、今では散発的に炎が飛び交うばかりになっていた。
 押し倒された姿勢のまま、悠二はそっと溜息をついた。

 負けた、のか。

「悠二」
「ああ、わかっている。……余の、余らの負けだ」


 大命を果たせなかったことへの後悔、敗北そのものへの悔しさ、双方が心を満たす。
 だが、心のどこかでは少女と共に歩めることに安堵を感じていることも確かだった。
 目を閉じ、心の中で敗北への折り合いをつける。
 そして再び目を開いたとき、悠二は少女の後方、雪原の上に一つの巨大な異形を見出していた。

 背中に巨大な翼を生やした悪魔のごとき姿。
 全身のいたるところから濁った紫色の炎を上げながらも、その異形は手にした巨大な槍を振りかぶり――

「ッ、シャナ!」

 ――その豪槍を突き出した。


 宝具『神鉄如意』。形状を自在に変える豪槍の穂先は濁った紫の炎に包まれ、シャナを討たんと迫る。
 シャナはそれに気付いていない、いや、仮に気が付いたとしても、満身創痍の身体では対応できなかったことだろう。

 悠二は突きつけられた刀で傷つくことも厭わずに満身の力で飛び起きる、驚きの表情を浮かべたシャナを、そのまま左腕で雪上に突き飛ばした。
 そして、悠二に取ることができた行動はそこまでだった。


 ぞぐっ、と鈍い音を立てて、豪槍が悠二の胸を貫く。
 槍の向こうと悠二の傍で、驚きの声が上がった、気がした。

 傷口から黒い炎が吹き出し、それと同時に全身から力が抜けていく。
 彼方で異形が稲光に打ち据えられた光景を最後に、悠二の身体は地に倒れ伏した。
 暗転する視界。そして地に伏して尚、炎は留まることなく零れ落ち続ける。
 胸を穿った『神鉄如意』の傷、そしてそれに比べれば小さなものとはいえ、十分に深手といえる首元の刀傷。二つの傷が致命傷なのは明らかで、それは悠二自身にもよく分かっていた。
 だが、そのことに悔やみはない。もしも自分が何もしなければシャナは討たれ、再び大命の成就を志すこともできただろう。だが、それを優先することなく自然と身体を投げ出すことができたのだから。



 不意に、ふわりと身体がぬくもりに包まれた。
 怪訝に思い、鉛のような瞼をどうにか開けると、そこには膝をついて自分を抱き寄せるシャナの姿があった。

「悠、二……悠二!」

 ほほを伝う、温かい雫。
 その表情に先ほどまでの面影はなく、そこにあるのはただ悲嘆に暮れる少女のそれだった。

 そういえば、彼女を泣かせてしまったのはこれが二度目だったろうか。
 何か言葉をかけるべきだとは思ったのだが、こういう時にどういう言葉をかければいいのかが分からない。
 
 結局、悩んだ末に悠二はシャナの頭に、ぽんと手をおいた。
 きょとんと自分を見つめる少女に、悠二はいとおしげに笑みかける。

「シャナ、これでも僕はこの結果に、それなりに満足しているんだ。予定とは全然違っていても、それでも。……だから、もう泣かないでくれ」

 シャナの表情が、くしゃっと崩れた。

「う、うるさいうるさい! そんな、勝手に……!」
「はは、その言葉――」

 ――久しぶりに聞いたな。
 言おうとして、声が出ないことに気が付く。
 どうやら、もう本当に限界のようだ。どれほど力を入れても瞼が閉じてゆき、ぬくもりさえも遠くなっていくように感じる。
 暗闇の向こうで少女が泣き叫んでいるような気がしたが、もうそれを確かめることも出来そうになかった。



 ……実の所、後悔がまったくなかったといえば嘘になる。
 できることならばもっと長く、この命が擦り切れるまで生を共にしたかった。
 もしも、次があるなら。

 薄れる意識の中でそう、未練がましくも思う。




 どこかで、歯車が軋む音がした。 



[16588] 1-1 『家路』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:17
 春風がそよそよと優しく頬を撫で、青い空から降り注ぐ暖かい春の光が身体を包む。
 気が付けば、悠二はアスファルトで覆われた道の上を歩いていた。

「……え?」

 辺りの人影はまばらで、橋から続く土手上の道には、自分の他に数えるほどの人しかいない。
 右手に立ち並ぶ家々と、左手を流れる大きな川とその対岸にそびえ立つビルの群れ。
 覚えのある、どころではない。
 片時も忘れたことのない、そして二度と見るはずのなかったその光景は、まるで夢から覚めたように。いや、それ以上の唐突さで悠二の五感を刺激する。

 まさか、ここは――


「御崎市……なのか?」










 悠二は土手に生えた草むらの上に寝転がり、気付けば手にしていた鞄を地面に置くと、遠くを流れる川――記憶が正しいのなら真南川だろう――を眺めていた。
 ときおり通りがかる人もわざわざ目を向けないような自然な光景。こうしている今も、目の前に広がる風景はかつての記憶と寸分違わぬままの姿でそこにある。
 だが同時に、それはありえない光景だった。

(たしか……いや、確かに、僕は死んだはずだ)

 寒気の走る、胸を深くえぐる感覚。シャナの温もり、最後の表情。
 それらの記憶は夢や思い違いで片付けるには、あまりにも生々しすぎた。


 だとするのなら、これは死んだ後の世界。俗に言うところの死後の世界という奴なのだろうか。
 "紅世" の真正の神、"祭礼の蛇" ですらその存在は確認できていなかったはずなのだが、こうして目の当たりにしているのだから、どうやら死後の世界とやらは実在していたらしい。
 ふと、陽光に右手をかざしてみる。
 時間というものがあるのならば、今は昼頃なのだろう。初春の日差しは悠二の顔に影を作り上げた。


 ……どうやら、身体が透けているなどということはないらしい。
 手のひらを開いたり握ったりとしてみたが、きちんと思った通りに動いてくれる。
 その動作には一切の違和感がない。まさしく、生前の肉体そのままだった。

(う、ん……胸の灯もあるし、これじゃあまるっきり死ぬ前と変わらないじゃ……待てよ?)

 そこまで考えて、不意に悠二は奇妙なことに気が付いた。
  "祭礼の蛇" の声が聞こえない。

 というよりも、その存在をまるきり感じ取ることができない。
 思わず身体を起き上がらせ、咄嗟にそれまでしてきたように心の中で声をかけてみる。
 しかしそれに応える者はおらず。竜尾を出そうとしてみても何も起こらかった。
 そしてもう一つ、奇妙な事に気が付く。生前にはそれこそみなぎるように全身に満ちていた『存在の力』が、今では一介のトーチと同じほどにまで目減りしているのだ。

(つまり、今の僕はそれこそシャナと出会う前のただのトーチ。いや――)

 もしもここが死後の世界だと言うのなら。
 ふと思いつき、意識の径を絞って依田デパートの辺りを探ってみると、果たして、薄くではあるが "徒" らしき気配を感じ取ることができた。
 その探知能力はまさに埒外の鋭敏さ、少なくとも、普通のトーチが持ちうる代物ではない。

(――奇妙なミステス、ってわけだ。
 それにしても、あの "狩人" とこんな形でまた関わるなんてなぁ……)


 生前は敵対していた間柄だったのが、こうして死んだ後に再び関わってみると、不思議と親近感のようなものを感じてしまう。
 盟主として "徒" と関わりを持っていたときの記憶が、彼の純粋な欲望を肯定しているためなのか。あるいは一度死んだせいで、闘争心だとかそういうものがすっぽりと抜け落ちてしまったのかもしれない。

(まぁ、あいつもここでならあの人と幸せに暮らしているんだろうし、そのうち顔を出してみるのもいいかもしれない。
 ……歓迎は、されないだろうけど)

 ふっと笑いがこぼれる。
 ロクに交友もなかった、殺し合いまでした相手だというのに、あの二人が仲睦まじげにしている光景を想像するとどうにも微笑ましい気分になってしまったからだ。
 同時に、わずかながらも嫉妬のようなものを感じる。
 シャナを助けたことに、後悔はない。"祭礼の蛇" と共に世界を変えることを志したことにも、また同様に。
 それでも、あの日あの時、自分が "祭礼の蛇" と行くことを選ばなかったのなら、今も自分達は彼らのように共に過ごせていたのではないか――


(やめよう、未練だ)

 悠二はぐるぐると回り始めた思考を振り払うと、腰を上げて鞄を掴む。
 水面に背を向け、行く当てもなく歩き始めた悠二の肩を、風がさっと吹き抜けた。
 















 西へと続く大通りを、悠二はゆったりとした足取りで歩いていく。
 人通りはそれなりで、驚いたことに車も行きかっている。今も交差点で足を止めた悠二の目前を、何台もの車が通り過ぎていった。
 その光景にわずかな驚きと、強い郷愁を感じる。
 それは "徒" として御崎市に訪れたときとは違う、遠くにある過去を懐かしむような感覚ではない。もっと身近な、故郷へと帰ってきたような感覚だった。
 赤い信号が青へと変わり、雑踏というにはすこしまばらな人の流れが動き始める。
 自らも意識せずに歩き始め、そして意識せずに身体が動いたことに、驚きを覚えた。


 道を曲がり、路地へと抜ける。
 目的地があったわけではない、何かを考えていたわけでもない。
 だが、郷愁に浸るうち、身体は自然と、そこへと足を向けていた。
 ふと、足が止まる。
 住宅地の一角、立ち並ぶ家々の中にそれはあった。
 二階建ての、何の変哲もない住宅。
 表札には、坂井とあった。




 表札に彫られた文字を指でなぞる。
 予感はあった、何から何までがそっくりなこの世界になら、もしかしたらあるのかもしれないと思った。
 けれどそれは思っただけで、悠二には確かめるつもりはなかったのだ。
 たとえこれが死後の世界で、ここは姿かたちが同じなだけの仮初であったとしても、ひとたび出て行った自分にはその資格はないと思っていた。

 世界で最も尊敬する人間である父、今まで自分を育ててきてくれた母。
 そして新たに生まれるはずだった命。それら全てを振り捨てた親不孝者。


 悠二は表札に手を当てたまま、そっと目を閉じた。
 やはり、自分はここにいるべきではない。
 思い、それでも何かひとつ別れを告げようと、そっと門をくぐり、誰の耳に届くはずもない呼び鈴に指をつけ、鳴らす。

 数秒、目を閉じそのままの姿勢で立つ。
 悠二はやがて目を開けると、さっと身体を翻らせた。
 今度こそ行く当てはない。どこか適当なねぐらを見つけるとしよう。そう思い、立ち去ろうとする。


 瞬間、背後で扉の開く音がした。


「……え?」

 驚き、振り向く。
 誰もいない、いや、居てはならないはずの住宅。その扉が開いている。
 悠二は我が目を疑う気持ちで、そこに立っている女性を見つめていた。

 片時も忘れたことはない、自分にとって大切な、守るべき日常、その一人。

「あら、お帰りなさい、悠ちゃん。……どうしたの? そんな鳩が豆鉄砲にでも当たったような顔をして」


 坂井千草。
 そこには、今も御崎市にいるはずの母が立っていた。



[16588] 1-2 『帰郷』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:28
 御崎市、御崎大橋の市街地側にある出入り口。
 空は薄鈍色に染まり、空気はどこか寒々しさを帯びていたが、それでもなお、その喧騒と雑踏は普段と比べてなんら衰えた様子がない。
 いくつもの巨大な建物は、まるで眼下を行く人々を睥睨するように立ち並び、そして人々はそれらに関心を持つでもなく、あるいは楽しげに語らい、あるいは黙々と、あるいは急くように行きかっている。
 悠二もまたその中に混じりつつも、かつてはなんとも思っていなかったその光景を心に焼き付けていた。

 もしかすると最後になるかもしれない、自分が守るべきその光景を。


 不意に、ぞくりと身体に震えが走った。
 曇り空の外気は少し肌寒くはあったが、そのためではない。これから自分が立ち向かう危難と、自分の非力さへの恐怖と、そして自らが選びその危難に立ち向かうことへの高揚のためだった。
 息を深く吸い、吐く。排気ガスを含んだ空気は喉にいがらっぽく感じたが、感じていた震えは収まり、静かな使命感が身体を浸す。
 再び歩き始めたとき、悠二は自分でも意外なほどに落ち着いていることを感じた。


 やがて、遠目にもはっきりと見えていた目的地を目の前にして、ふと足を止める。
 立ち並ぶ建物の中でもひときわ他を圧する、独特な形をした大きな建物。
 かつては賑わいを見せていたそこは、今ではすっかりと寂れた廃屋と化している。
 だが、事実を知る悠二には、それがまるで静かに息づく巨大な怪物のように映った。


 建物の名は、依田デパート。
 かつて一人の "徒" が命を落とし、今再び同じ "徒" が拠点としている、"紅世" に生きるもの達の巣窟である。



 悠二がここにいる理由、それは遡ること二日前のことになる。















 








 この世界には、"紅世の徒" という異世界より訪れた人食いが跋扈している。
 彼らは人を食う。そしてそれは物理的な意味での捕食ではなく、その人間がそこにあったという存在そのものを食らうのだ。
 かつて悠二はその "徒" に襲われて一度は死に、そして『本物の坂井悠二』の絞りかすから作り出された代替物 "トーチ" となった。
 そして自分が "ミステス" であると知り、様々な相手と関わるなか、悠二は強く、強くなり、いつしか人の枠を超えていた。

 だから、なのだろうか。
 すっかりと忘れてしまっていた。
 ……人は、"徒" の手によってでなくとも死ぬのだと。



「……母さん」

 心に苦く重いものがのしかかる。
 かつて自分は御崎市の皆やシャナ、守るべき人々を守ろうと志し、そしてそのほとんどに別れを告げることもなく御崎市を旅立った。
 それは "大命" を果たす上で必要であったこともあるが、それとは別に、因果を衝突させ争いを呼び込む『闘争の渦』に飲み込まれようとしていた御崎市を戦いの場から遠ざけるためでもあった。
 だが、その結果がこれだ。

 視線の先で柔らかくたたずむ母。
 そのお腹にはもう一つの、自分の弟か妹になるはずだった命も宿っていたのだ。
 その母が、今ここにいる。

 目覚めたときの驚きや、道を歩く最中に感じたような郷愁はない。ましてや、再会の喜びもなかった。
 自分は――坂井悠二という存在は、万能でもなければ全能でもない。
 それでも、自分は"トーチ" となる以前と比べてはるかに強く、強くなっていた、そのはずである。

 母がどんな最期を迎えたのか、それは分からない。
 けれど、いやだからこそ。もし自分がそこにいたなら、母を救うことができていたのではないか。そう思えてならないのだ。

(僕は……本当に、親不孝者だな)

 女手ひとつで自分を育てて来てくれた母は、人のよさそうな顔で自分を見つめている。
 恐らく母の中では、自分は消えたときのままなのだろう。悪意のない表情が、今は苦しかった。
 うつむきそうになる顔をどうにか堪える。
 自分のなしたこと、その結果から目を背けてはいけないと思ったからだ。


「……悠ちゃん?」

 悠二の表情になにかを感じたのか、心の機微には人一倍聡い千草は、身じろぎ一つしない悠二にゆっくりと歩み寄った。
 相手を包み込むような笑顔で、悠二の左肩にそっと手を乗せる。
 今ならば分かる、けして押し付けるようでない、それでいて相手を包み込むような自然な仕草。
 自分はこれまで何度、この微笑みに助けられたのだろうか。

「入学式で疲れたのかしらね。今日はもうゆっくりとお休みなさいな」
「、え?」

 何のことだ、と思い一瞬、悠二はようやく目の前の異常に気が付いた。


 かつて悠二は一度、人としての生を捨てたことで "紅世" との関わりがないものの記憶から忘れ去られていた。
 それは死によって忘却される、というような生易しいものでなく文字通りの消滅、存在そのものの欠落である。
 仮に母が再び自分のことを認識できるようになったとしても、その違和感は拭えるものではない。ましてや母はお腹の中の子と、自分自身の命を失っているはずなのだ。
 だが、それにしてはこの母の仕草はあまりにも自然すぎる。

 確かに母は強く聡明な人だったが、それ以前に一人の人間である。動揺の一つも見せないというのはあまりにも不自然だった。


 途端に悠二の頭がさっと冷え、素早く現状を整理し始める。

(自在法か宝具の中にでも囚われたのか?)

 自分はまだ命を失っておらず、今際の瞬間に誰かの手によって自在法か宝具によって作られた世界の中に放り込まれた。
 こう考えれば目の前の異常も悠二の記憶によって構成された物だと納得できないことはないが、そのような能力を持つ者の存在は聞いたことがないし、そもそもそのようなことをする理由が思い浮かばない。

 死後の世界ではなく、自在法の類でもない。
 死の瞬間に見るという走馬灯にしては存在感がありすぎるし、白昼夢を見ていたという可能性もさきほど消したばかりだ。


(だとするなら……いや、でも、それこそまさかだ)

 母が口にした入学式という言葉、夢まぼろしの類とも思えない光景、まるで昔に戻ったかのような身体。
 理性ではありえないと否定しつつも、現実は一つのことを指し示していた。
 自分の出した結論に、悠二は疑念を込めつつも口を開く。

「母さん、今日は何月の何日だっけ?」

 唐突な質問に千草は小首をかしげつつも、特に問い質すでもなくその質問に答えた。


「いやね、悠ちゃん。今日は四月八日、御崎高校の入学式の日じゃないの」










 悠二は千草の勧めるままにかつての自分の部屋に入ると、手早く部屋着に着替えると、当然のようにそこにあるベットに寝転がった。
 天井を眺めたまま、なんとはしにベッドの枠に指を滑らせる。やはりというべきか、その指には埃のひとつも付着していなかった。
 勢いをつけて起き上がり、今度は机やカラーボックスなども確かめてみたが、それらも記憶にあるまま、時間の経過を感じさせる要素はどこにもない。
 もっとも、それは予想していたことでもある。家に入った悠二は、まず自分の知り合いにかたっぱしから電話を掛け、そのほぼ全員と会話を交わしていたのだから。


 悠二は再びベットに寝転がると、そのまま窓の外へと目を向けた。
 澄み渡るような青空を、数匹の鳥がはばたいてゆく。
 おそらく、ガラスの向こうでは涼やかな風が吹き、暖かな日差しが大地を照らしているのだろう。
 それはまさに、記憶にあるままの平和な日常だった。
 最初は感傷を呼び起こしたそれらも、今では重々しい実感をともなって悠二の心へと飛び込んでくる。


 最初は馬鹿げた思いつきだと思った。
 しかしその思いつきを否定する要素はどこにもなく、自分の周りにはそれを肯定する要素しか転がっていない。


 これは記憶や幻ではなく現実なのだ。
 それも、悠二にとってははるか昔、まだ自分が何も知らない一介のミステスに過ぎなかったころの。


 どのような原理なのかは分からない。だが、思い起こせば意識を失う手前で何か歯車の軋む音を聞いたような気がする。
 もしその歯車の音が『零時迷子』によるものだとすれば、その時に干渉するという特性と、"祭礼の蛇" の権能である「造化」と「確定」が絡み合った結果なのかもしれない。
 しかし、今の悠二にはそれを知るすべなどない。そしてそれよりも重要な、考えるべきことが自分にはあった。
 
(重要なのはどうしてこうなったのかじゃない。これからどうするべきかなんだ)

 考えても分からないことに思い悩むよりも、まずは自分のとる行動を決める。その割り切りは、かつてフレイムヘイズの少女と過ごす中で手に入れたものだった。
 だがそのことに意識を向けた時、悠二の思考はぴしりと固まってしまう。
 

 "大命" を果たすことを目的とするなら、今度こそより完璧に計画を運べる自信がある。
 少なくとも以前のようなことにはならない。今すぐにでも御崎市を発って『仮装舞踏会バル・マスケ』に合流すれば、今度こそフレイムヘイズに『大命』の要諦を知られることなく動けるであろうし、それはすなわち計画のより円滑な完遂を意味している。
 向こうが悠二を信頼するかどうかは微妙なところだが、『戒禁』がある以上は『零時迷子』だけを取り出すという手段に訴えることはできないのだし、最悪の場合でも身柄を拘束されるだけだろう。
 そして『大命』が成ればフレイムヘイズと "紅世の徒" は互いの宿命から解き放たれる。それは悠二の望んだ結末のはずだった。

 だが、そうなった時は今度こそ絶対に、シャナの傍らに自分が立つことはありえない。
 そのことを悠二は誰に言われるでもなく確信していた。

 かつての自分ならば、それもまた仕方なしとしただろう。

 しかし。

 目をつむれば、わざわざ思い返すまでもなく蘇るシャナの顔、そして戦いの中で交わした約束。
 彼女との全てを裏切るのか、と心のどこかから非難の声が上がった。

 かといって、安易に『大命』とは関わらない、という道を選ぶのも躊躇われる。
 今でもあれはシャナを、フレイムヘイズと "徒" 、そして人間の全てを救う最良の手段だったと思っているし、こうしている今もその遂行のために幾人もの "徒" が動いている。
 『大命』と関わらないという決断は、今度はそれらを振り捨てる決断をするということに他ならなかった。

 どちらを選んでも完全な正答ではない、その二律背反は悠二の心を容易に定めることを許してはくれなかった。


(今、この僕はどうすればいい? ……どう思って、何をするべきなんだ?)



[16588] 1-3 『決意』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:29
 翌朝。
 悠二は薄らぼんやりとした頭で、どうやら自分はあのまま寝てしまっていたらしいことに気が付いた。
 毛布がかけられているところをみると、一度は母も起こしに来たのだろうが眠りが深かったので遠慮したのだろう。
 時計を見ると、その針はアラームが鳴るべき時間の三十分前を指している。日常の朝としては早起きだが、あれからずっと眠り続けていたことを考えると、寝坊の度が過ぎるというものだろう。


 悠二は毛布をつまみあげると、一瞬考えてからそれを綺麗に畳み直してから身体を起こす。
 そのまま立ち上がることはせず、ベットに腰を下ろす。すると、不意に悠二の身体を寒さが襲った。
 四月の初めといえばまだ寒さが残る季節だ。その上、朝早いこともあってか、部屋の中は肌寒い。
 だが、それにしてはこの部屋は寒すぎる。
 ふと窓の外を見れば、鉛色の雲が空を覆っていた。なるほど、寒さの理由はこれか、と悠二は得心する。


 そのまましばし、外の景色を眺め続ける。
 あれから結局、答えを出すことはできなかった。
 片方を選べば責任感と願望が、もう片方を選べば感情が邪魔をする。
 情けないとは思いつつも、どうにも心が定まらないのだ。
 はたして自分はどうするべきなのかが。


「そんな、簡単に……決められない、か」

 悠二は溜息を一つつくと、ゆっくりと立ち上がった。
 こうしていても埒が明かないし、それに今の自分は『坂井悠二』としてここに存在している。いつまでも考え込んでいるわけにはいかなかった。
 制服の詰襟を着込み、鞄を掴む。そういえば昨日は寝てしまったのだから当然、翌日の用意など済ませているはずもない。
 配布されていたプリントを見ながら教科書と筆記用具を詰め終える。
 まるで今の空のように鬱屈とした心持ちのまま、扉を開けて階段を下りた。

 居間に入ると、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐってくる。


「あら、やっと起きたのね、ねぼすけさん」

 見れば、今しがた来たばかりなのだろう、千草が盆の朝食をこたつの上に並べているところだった。
 考えてみれば、昨日の昼頃から何の食事もとっていない。途端に湧き上がった食欲に現金なものだと思いながらも、悠二は足を踏み出した。

「ごめん、母さん。……それ、並べるんだろう? 手伝うよ」

 悠二の言葉に、千草はわずかに微笑みを強くした。

「まぁ、悠ちゃんが自分から進んで手伝うなんて珍しいわね。それじゃあ、お願いしようかしら」

 千草はご飯と味噌汁、サバの塩焼き、ほうれんそうの入った炒り卵といった献立を手際よく並べていく。
 悠二もそれを少し手間取りながらも手伝い、箸やコップを並べていった。
 やがてすっかり並べ終えると、千草は悠二の反対側に回り込む。それに合わせて悠二もオレンジ色の毛布の中に足を滑り込ませた。
 こたつの火は落とされていたが、中は不思議と温かかった。テレビはあまり見覚えのないニュース番組を映している。
 さきほどまで感じていた焦燥と自己嫌悪が入り混じった重々しい気持ちが薄れ、穏やかな安らぎが広がっていった。


「……いただきます」
「はい、召し上がれ」






 魚を箸で切り分け、口に運ぶ。
 途端、口の中に懐かしい味が広がり、じん、とした感動が胸の奥から込み上げてきた。
 久しぶりに味わった母の味はとても美味しく、それ以上に心に働きかけてくる。
 同時に、かつて自分が置き去りにしてきたものの重さを改めて実感した。

(僕は……またこの人を置いていくのか?
 いや、でも――)


「ねぇ、悠ちゃん?」

 唐突にかけられた声に悠二ははっと顔を上げると、どこか真剣みの混じった表情の千草が悠二を見つめていた。
 悠二はあまり記憶にないその表情に怪訝な思いを抱きつつも、どうにか平静を取り繕って言葉を返す。

「どうしたのさ、母さん」

 すると千草は、んー、と少し唸るようにしたあと、至極なんでもないことのようにさらりと続けた。

「好きな子、できたの?」
「ぶっ! ごほっ、ごほっ……。何を、いきなり……」

 予想外の質問を受けて取り乱す悠二とは対照的に、その問いを放った千草は頬をゆるませた。

「よかった、その様子だと違うみたいね。
 ……ごめんなさいね。悠ちゃんの様子が普段と違ってて、それが昔の貫太郎さんと同じように見えたものだから」

(いつもと……違って、か。
 確かに、今ここにこうしている自分はかつて "トーチ" となった時以上に、本来の『坂井悠二』とはかけ離れてしまっている。
 僕がこれからどうするのか、というのは本来ここにいたはずの『坂井悠二』の延長。惰性としての繋がりじゃなく、今の『僕』が皆とどう新たな繋がりを持つのか、ということでもあるんだ)


 かつんと箸が茶碗の底を打つ。はっと我に帰ると、そこにはすでに食べ終えていた朝食の食器が広がっていた。


「……ごちそうさま」

 言って、席を立つ。
 食器を流しに下げ、鞄を掴みあげる。時間にはまだ余裕があった、急ぐ必要もなくゆっくりと行けるだろう。
 廊下から居間を覗いてみれば、ちょうど千草が食事を終え、食器を片付け始めているところだった。
 互いの目が合う。千草は記憶にあるままの微笑みを浮かべて悠二を送り出した。

「いってきます」
「いってらっしゃい」


 軽く声を交わして家を出る。
 何度も繰り返してきた日常が、これだけのことが、今ではたまらなく遠かった。














 交差点に立ち青信号を待つ。
 辺りには通勤途中のサラリーマンや、詰襟姿の学生がちらほらと見えていた。

(結局のところ、僕がするべきことは何一つ変わっちゃいない。
 "紅世の徒" として生きるか、"ミステス" として生きるかのどちらかを選ばなければならないんだ)

 信号が青に変わる。
 動き始めた人の流れに合わせて悠二も歩き始めた。

("紅世の徒" として生きるなら、ここでの人との関わりを全て失う必要がある。
 それはつまりここで出会った人、出会うはずだった人と別れを告げるということだ。逆に―― )


 正面から歩いてきた背広姿の男性が肩をかすめそうになる。
 悠二はそっと右に身体をずらした。

(逆に、ここに残るのなら運が良ければまたシャナと出会えるかもしれない。
 けど、それは『大命』を果たすという責務を忘れ、また流されるままに日々を過ごすということになる)


 校門をくぐる。
 時間はまだ少し早く、敷地の人気はまばらだった。遠くの方で陸上部なのだろう、体操服姿の集団が元気よく駆けていた。

 下駄箱を開けて靴を履き替える。
 昼でも明かりの消されることがない蛍光灯の白い光が、曇り空の校舎の中を無機質に照らしていた。


(要するに僕の問題はどっちの道を望んでいるのか、ということなんだろう。
 戦うのか、それともシャナと生きるのか。どっちもしっくりとは来ない。
 結局、僕は何を望んでいるんだ?)

 重い気持ちを抱いて、悠二は自分のクラスである一年二組の教室の戸に手をかける。
 その向こうは少し騒がしい。朝の早い生徒がすでに何人か登校してきているのだろう。そう思って戸を開く。

 教室を見回してみれば、やはり何人かの生徒が親しげに談笑していた。
 まだお互いに面識はないはずだから、恐らくは高校に入学する前からの知り合いなのだろう。たいして気にも留めずに視線を教室の真ん中あたり、あらかじめ黒板に割り振られた、しかしもう懐かしささえ覚える自分の席へと向ける。
 そして、思考を凍りつかせた。


 慣れ親しんだ空白の席。その隣には一人の女生徒が座っていた。
 長い黒髪を垂らした少女は悠二に背を向けて、傍らに立つもう一人の見覚えのある少女――そう、吉田さんだ――と親しげに会話をしている。
 有り得ない、そう思いつつも身体は自然と少女の方へと早足で向かっていった。

 あと数歩。
 流石にそこまで近寄れば気が付いたのか、吉田は不思議そうな目で悠二を見、そして軽い驚きを浮かべた。
 だが、悠二はそれに気を向ける余裕はない。今も自分に背を向けている少女の肩に手を伸ばし、

「シャ、ナ――……?」

 その手を止めた。


 違う。
 この少女はシャナではない。
 微妙な体格の違いだとか、そういう表面的なものではない。全身に纏う雰囲気――他者を威圧し、惹きつけ、凛とした威風を与えていたそれが、その背中にはまるで感じられなかった。
 びくりと少女が震え、悠二を振り返る。

 そして何より――

 スッと整った目鼻立ちに、おっとりとした雰囲気。
 見覚えのある少女の胸元には、ひとしずくの灯りが灯っていた。

 ――その少女は、人間ではなかった。











 平井ゆかり。
 それははかつて悠二が "紅世" のことを知る前にこの世から欠落し、いつしか別の少女を指し示す言葉になっていた。
 初めはそのことに反発していたのに、やがて悠二もそれを当然のことと受け入れていた。
 その少女が、"トーチ" となってここにいる。

 そのことを認識したとき、悠二の心に沸き上がってきた感情は悲しみでも恐れでもない、純粋な怒りだった。
 特別に親しかったわけでもない。印象深い思い出もない。恐らく、それは向こうも同じだったことだろう。それどころかついこの時まで記憶の片隅に追いやってしまってすらいた。
 だがそれでも、名を、声を、姿を知っていた。かつてわずかなりとも交流があり、もしかしたら友達となり得ていたかもしれない人が失われてしまっていたという事実に、悠二は怒りとやるせなさを覚えていたのである。

(そう、か)

 同時に、それまで悠二を悩ませていた迷い、焦燥の答えを理解した。いや、思い出したといったほうが正しいだろう。
 強く思い抱き、しかし "祭礼の蛇" として生きるうち、いつのまにか心の中から薄れてしまっていた決意。

(何を下らないことで悩んでいたんだ、僕は)

 好きな人たちを、守りたいと願った人を守る。かつて自分はそう願ったのではなかったか。
 だとするのなら、やるべきことは一つだった。

 御崎市を出るという選択肢はもはや取れない。やがて将来、"紅世の徒" として生きるという選択も同様に。
 そしてその上で、可能な限り理不尽なままに失われる命を減らすこと。

(無謀かもしれない。けどかつてシャナはその無謀としか思えないことに、満身の自信を持って挑んだんだ)

 ならば、自分もそれに挑まなくてどうするのか。



 気が付けば、『平井ゆかり』が悠二を怪訝そうに見つめていた。
 彼女にしてみれば、悠二は突然肩に手を伸ばした挙句に妙なことを口走り、そのまま何をするでもなく突っ立っていた変な人にしか見えていないことだろう。
 その現実に悠二は軽く頬をかくと、この場を収めるべく口を開いた。

「ごめん、昔の知り合いに似ていたものだったから。えっと……」
「……平井です。平井ゆかりといいます」
「そう、平井さん。本当にごめん、とても驚いたものだったから」

 話をするうちに疑念も晴れたのか、『平井ゆかり』は淡い微笑みを浮かべる。

「いえ、そういうことでしたら全然構いません。えっと、失礼ですがあなたのお名前は?」
「あ、ごめん。僕の名前は坂井悠二。上り坂の坂に、井戸の井、"はるか" の悠に数字の二って書いて坂井悠二っていうんだ」
「坂井さん、ですね。これから一年間、よろしくお願いします」
「……うん。こちらこそ」


 その一年後は来ないけれども、それでも悠二は『平井ゆかり』という名前を再び心に刻み付ける。今度は忘れることのないように、しっかりと。
 そしてもう一つ、心に決めた。


 これ以上、彼女のような犠牲を出させないためにも、可能な限り早く "狩人" フリアグネを討つ、と。



[16588] 1-4 『思索』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:30
 朝の静けさに沈んでいた教室は、やがて時間が立つにつれて朝の活気を取り戻してゆく。
 喧騒というにはまばらだが、静かというにはざわめいている中、悠二はその様子に目を向けるでもなく自分の思考に没頭していた。


(今、この僕がするべきことはなんだ?)

 身近な人々を守るという悠二の目的から考えれば、どうあろうとフリアグネとの対決は避けられない。
 御崎市の全てを融解させ己の力にしようとする彼は、悠二にとっては倒すべき敵だった。
 だが、ならば具体的にどう対処するのかという部分に目線を向けた時、その容易ならざることを思わずにはいられない。

 脳裏に浮かぶのは細面、その外見に見合わぬ練達さと力を備えた一流の "紅世の王" の姿。
 かつて悠二はシャナと共に戦うことでフリアグネを打ち倒したが、それは互いに助け合ったと呼ぶには拙いもので、ましてや今の悠二は一人である。
 力の規模は並みの "紅徒の王" と同じほどであり、"千変" などの怪物と比べれば劣るだろう。それはつまり、悠二との間には圧倒的とでもいうべき力の差が隔たっていることを意味している。
 加えて多数の "宝具" を操り、配下として何十もの "燐子" を従えた彼との戦力差を考えれば、これはもう比べるのも愚かしいくらいだった。

 真っ当に戦って勝てる相手ではない。
 ならば今すぐの性急な決着を見送り、やがて御崎市に訪れるであろうシャナと合流し、共同戦線を組むのはどうか。
 今の悠二は以前とは異なり、フリアグネ一党に対するかなりの情報を持っているうえ、悠二の力量もかなり成長している、勝つのは難しいことではないだろう。
 まして、シャナと再び出会うことは悠二にとっての大きな目的でもある。それを思うと、悠二の中の天秤は大きく傾きそうになった。
 だが、悠二はその考えを否定する。

 確かに、そうなれば勝てるだろう。
 しかし、シャナと合流して協力を取り付けること、これがすでにひとつの難関なのだ。

 彼女が御崎市を訪れた正確な時期を悠二は知っていない、たとえ知っていたとしても、何らかの事情により前後するということもあるだろう。そもそも訪れないという可能性さえある。
 フリアグネの企みに必要な残り時間はわからないが、そう先の話でもないはずだ。わずかな時間の遅れが最悪の結果を招かないとも言い切れない。

 それだけではない。仮に以前と同じ時期にシャナが訪れたとしても、どうやって合流すればいい?
 かつての悠二は偶然、"燐子" の捕食に巻き込まれ、そこに偶然シャナが飛び込んでくるという形で出会うことができたからこそ、シャナも特に警戒心を抱くことなく付き合えていたのだ。
 だが、今の悠二にそんな偶然を待つ余裕はない。
 いかに鋭敏な探知能力を持つ悠二とはいえ、"紅世の王" が支配する広大な御崎市の中から一人のフレイムヘイズを探し出すというのは難しい。仮に見つけ出したとしても、そこに作為が絡むかぎり、シャナが悠二に気を許すことはないだろう。
 時間に余裕があるならばまだしも、状況が差し迫り、強大な "王" を相手どったこの状況で、その齟齬は致命的なほころびを生みかねない。


 では逆に、自分が一人で戦うとした場合はどうだろうか?


 真っ向勝負は考えるまでもなく論外だ。
 とするならば不意打ちしかないが、相手は歴戦の手錬であり、その警戒を潜り抜けてたどり着くのは至難の業だろう。
 おびき寄せるにしたところで、今の悠二にはその材料がない。
 そして何より、仮に上手く不意を突けたとしても今の悠二には足りないものがある。

 決定打だ。

 どれほど巧妙に不意を突こうと、相手を倒す手段がないのでは意味がない。かつての悠二ならばともかく、今は大した "存在の力" もなく、"宝具" の一つも手元にはない。
 持っているものはせいぜいが "存在の力" を扱う技術だけであり、それは一介の "トーチ" としては破格なものの、"紅世" に関わる者にしてみればありふれた力だ。
 仮にどれだけ巧妙に不意をつけたとしても、悠二は名にし負う "紅世の王" に一太刀を浴びせたという名誉のみを手にし、たちまちのうちに命を落とすこととなるだろう。それでは意味がなかった。


(どうしたら……いいんだろうな)

 手詰まりというほどに逼迫した状況ではない。
 あるいは悠二が無理に動かなくとも、今回もまた特に犠牲が出るということもなく済むのかも知れない。しかし――

(それじゃあ駄目なんだ)


 かつてとは違う。今の悠二には知識があり、血肉となった経験がある。ただ震えて、誰かの影に隠れていた以前とは違うのだ。
 弱気になりかけていた心に叱咤をすると、再び悠二は自分の思考に没頭し始める。


 不意に肩が後ろから叩かれた。唐突に叩かれた肩を振り仰ぐ。と、


「……池?」
「よ、坂井。なんだ、随分と辛気臭そうな顔をしてるじゃないか」

 そこには中学生時代からの親友、頭も性格もよく、そして苦労屋な池速人が、笑みの中にどこか不思議がるような色を浮かべて立っていた。






 

「――B組の高田のことは聞いたか? ……そうそう。あいつな、青央高校に受かったんだってさ。前から頭のいい奴だとは思ってたけど、あそこまでとは思わなかった」

 悠二と池は、毎日の日課のようになっていた朝の雑談を交わし合う。
 その内容はおおむね中学時代のものであり、池にとっては昨日のように感じられることでも、悠二にとっては遠い昔の話だった。
 名前を挙げられても浮かんでくる顔は薄ぼんやりとしたもので、そのためだけではないにしろ、悠二の気持ちはいまいち沈んだものとなっている。
 いや、沈んだというよりは上の空というのが正しいだろう。

 先日、電話口に声を交わした時は思わず涙ぐみそうになったものだが、こうして顔をつき合わせて話をしてみると思ったよりも心は落ち着いている。
 むしろ目前に難題を抱えているというこの状況が、落ち着きだけならまだしもどこかうっとおしさのような感情さえ抱かせていた。

(……何を考えているんだ、僕は)

 池とこうして話をしていること自体は嬉しい。
 なにより、悠二は昔からの親友に対してそんな感情を抱いてしまったことを恥じた。


 そうして悠二が再び自分の顔を曇らせていると、不意に池がそれまでとは違った声色を発した。

「そういやさ、坂井」
「ん?……。」

 唐突に変わった声色につられて顔を上げると、そこには池の、がらりと変わった顔があった。
 笑みを浮かべていた顔は真剣に引き締められ、悠二のことを見つめている。
 その表情には数えるほどしか見覚えがなかったが、それでもその真剣味が伝わってきた。と同時に、悠二は池が真剣な話をするときはよく回りくどい話し方をすることを思い出す。
 池は少し口ごもるような仕草を見せたあと、静かな声で話し始めた。

「……昨日はいきなり僕のところに変な電話をかけてきたけど、何かあったのか? 聞いた話じゃ、お前、中学の時の他の知り合いにも同じようなことをしてたんだろ?」
「確かに、昨日は自分でもちょっと変な電話をかけたとは思うけど……」

 はて、と悠二は首をかしげる。
 滅多に見た覚えのない池の真剣な姿に、どんな言葉が来るのかと身構えていた悠二は、発せられた質問の意外さにきょとんとした。

「それが、どうかしたのか?」


 その返答に、池は髪をくしゃっと握りながら、軽く溜息をついて答えた。

「そりゃあ誰でもあんな電話を受ければ……いや、違うな。今朝お前に会うまでは俺もそんなに深刻に考えてなかったんだけど……。なぁ、坂井。お前――」

 言いながら、池はぐいっと身体を悠二に寄せてくる。

「何か、悩みごとがあるんじゃないのか?」
「……」

 その言葉に、悠二は思わず口ごもった。
 悩み、たしかに悩みならばある。だが、それは池に相談できるような類のものではない。
 いや、池に限らず、悠二はただの一人として自分から "紅世" について関わらせるつもりはなかった。


「いや、大丈夫だよ池。べつに何か悩みがあるわけじゃない」

 だが、池が悠二を気遣ってくれたという、その事実だけは素直に受け取るべきものだった。

「……そうか」

 池は寂しげに頬をわずかばかり歪めたかと思うと、ふっとその表情を消して笑顔を浮かべた。
 心中ではまだ納得はしていない。けれど、悠二がそのことについて今は話すつもりがないと見て取り、せめて少しでも心を晴らしてやろうとあえて陽気に振舞っているのだった。

「ま、何か厄介ごとがあったら相談してくれよな。その時はきちんと聞かせて貰うからさ」
「ああ、もしそんなことになったら、真っ先にお前に話しに行くよ」

 それを察していたからこそ、悠二も軽い調子で言葉を返す。
 その様子に一応は安堵したのだろう。池は手を軽く振ると、踵を返して自分の席へと向かった。
 そんな池の背中に、悠二は心の中で感謝した。


(ありがとう、池。お前のおかげで心が晴れた)

 気付けば、前途の多難さにめげかけていた心が軽くなっていた。
 自分には頼りになる、気のいい友達がいる。そして今もその友達は命の危機にさらされている。ならば、何を思い悩む必要があるだろうか。
 戦うこと自体が目的ではない以上、戦うからには勝たねばならない。だが勝敗とはまた別に、戦わねばならない時もある。

(また一から作戦の立て直しだな)

 池の背を見送っていた目線をぐるりと戻す。そうして初めて、目線の横で平井ゆかりが悠二のほうを見つめているのに気が付いた。
 心なしかその頬は赤く、顔つきもどこかぼうっとしている。その様子を不思議に思った悠二は、今もぼうっとしたままの彼女に声をかけた。

「どうしたの、平井さん」
「、は、はい?!」

 すると、彼女は普段の印象を裏切るような慌てた声を上げる。
 ますます不思議に思った悠二は言葉を重ねようとしたが、それよりも早く平井ゆかりは口を開いた。

「な、なんでもありません」
「……そう? でも、もし少しでも調子が悪いのなら、早いうちから保健室に行った方が……」

 彼女の灯はまだ強い、存在を燃え尽きさせる手前、自我が薄くなる辺りからも遠いだろう。
 ならば単純に体調が悪いのではないかと思ったのだが、彼女は首を横に振った。

「いえ、本当に何でもありません。体調が悪いとか、そういうことはないです」
「それなら……いいんだけど」

 まぁ、彼女ももう高校生である。自分の体調くらいは把握しているだろう。
 それに考えることはまだ多い。時間は有限なのだがら、有効に使うべきである。
 そう自分を納得させると、悠二は彼女から注意を逸らした。


 悠二の視線が外れた向こう、平井ゆかりは黒板に向き直ると横目でちらりと遠くに座る少年の姿を眺め、胸に手を当てるとほうっと小さな溜息をついた。











 走る。

(結局のところ)

 授業はすでに四時間目、それまでの授業を思索に集中するあまりに聞き逃していた悠二は、こうして走る今もそのことを考え続けていた。
 当然、何も走りたくて走っているわけではない。運動をする際の刺激で脳が活性化するという話を聞いたことはあったが、それを求めてのことでもなかった。
 理由は明快、たんに四時間目の授業が体育であり、その授業を担当する体育教師が実に陰険かつ横柄な性格をしており、おまけに自分が定めた規律の通りに授業を進めることに喜びを見出すという種の人間であったため、このような曇り空、寒空の下でランニングをやっているという次第である。
 それはもちろん体力測定を目的としたものだったのだろうが、その中に彼の私情が含まれていないとは、彼以外には誰も否定できないことであったろう。現に今も彼の視線はいやらしげに女生徒の足を追い、肝心の授業内容については、時折思い出したように手元の記録用紙に筆を走らせる程度だったからだ。

(どう動いて、どう作戦を立てたところで……何か『武器』が必要になる)

 悠二はその全てに意に介すことなく、ただ機械的に足を動かし続ける。
 実をいえばその速度は普段の彼、どころか陸上部の人間などと比べてもなお速く、しかも恐ろしいほどに一定のペースを保っていたのだが、当の悠二は無意識に "存在の力" を使って身体を強化していることも含めて、それに気が付いていない。
 特に身体を鍛えているようには見えない悠二がそのようなことをしているのは、控えめにいってもただただ異様だった。

(宝具みたいに気の利いたものがあればいいけど、そんなものがあるわけもなし。……あるいは掴みかかって、至近で "存在の力" を流し込めば……いや、だめだな。今の僕じゃあ "王" を倒せるだけの力は出せないだろう)

 意識せずとも身体を強化するというその様を、悠二に戦い方を教えた師である少女が見れば喜んだだろうか。あるいは人前で不用意に力を行使することを咎めたかもしれなかった。
 意識を思考の裏に沈ませ、走る。そんな悠二の背後に、少しずつではあるが着実に距離を縮める三つの人影があった。

(なら自在法はどうだ? たとえば火球を作ってぶつける、威力の上ではどうにかなるはずだ。けど、向こうには火よけの指輪がある。結界の展開よりも先に攻撃を撃ち込めるだろうか?
 それが無理なら、相手の指輪を腕ごと切って落としてもいい。ただ……それだけの隙をあのフリアグネが許すだろうか? いや、許すわけがない。
 だったら、まずはフリアグネを混乱させて隙を作るところから始める必要が――ん?)

 不意に、悠二の視界に白いものが現れた。
 いきなり現れたそれは一定のリズムで上下している。どうやら悠二と同じ男子生徒らしい。と、そこまでを見て取ったところで、その男子生徒は悠二に向けて顔だけを振り向かせた。
 無骨だが愛嬌のある顔立ち、大柄でありながらスリムというどこか相反するような要素を詰め込んだ少年。その顔に見覚えのあった悠二は、驚きで意識が止まった。


「よう、お前足速いなあ!」

 陽気な声で親しげに語りかけてくる、その様もまさに記憶の通りだった。
 企図せずしてその名前が口を突く。

「……田中?!」
「おお? なんだ、俺の名前を覚えててくれたのか、嬉しいねぇ!」

 そう言って男子生徒、かつての友人である田中栄太は嬉しげに顔を綻ばせた。
 思えば同じクラスにいて、しかも自己紹介もした(はずである、少なくとも自分の紹介はした覚えがある)のだから、ここで再会に驚くというのは実におかしなことだったろう。

「なに言ってんの、田中。それだけ大きくてゴツけりゃ一度見た人は忘れるわけないって!」

 そして再び、こんどは後方よりこれまた聞き覚えのある声が届く。
 口調は伝法ながらも、その声は紛れもなく女性のもの。予感があったからか、今度はそれに驚くことなく後ろを振り返った。
 はたして、そこには思ったとおりの姿がある。
 背が高く引き締まった体つき。ショートカットにされた髪には清潔感があり、汗の浮かぶそのその顔は、可愛いというよりは格好がいい。
 それほどに親密な間柄ではなかったが、それでも十分に友人と呼んでいいだろうその少女の名は、緒方真竹。

「緒方さん」
「あれ、私の名前も覚えてるの? んー、じゃあ、あいつの名前は?」

 そう言って、緒方は親指で自分の更に後ろ、見るからにへばっている少年を指した。
 美をつけてもいい容姿ではあるが、その外見からはどこか軽薄そうな印象を受ける。だが悠二は、その彼が心の中では強い芯を持つことを知っていた。
 かつての友人、親友と呼んでもいいかもしれない。だが今は初対面である佐藤啓作は、荒い息を吐きながら悠二の後ろ2メートルほどを走っていた。

「佐藤」
「へー、あんた、足だけじゃなくて名前を覚えるのも早いんだ。おーい、佐藤ー! もっと気張って走りなよ、遅れてるぞー!」
「はっ、う、うるせー。俺は、はっ、お前達と違って、スポーツマンって、わけじゃ、ない、んだ!」

 佐藤の顔は赤く息も絶え絶えであり、それでもどうにかといった様子で声を絞り出す。
 その様を見た緒方は、笑いながら根性なしめ、と口にした。
 悠二の頬にも笑みが浮かぶ、まるで昔に戻ったかのような空気に懐かしさを覚えたためだった。

(……あれ?)

 と、そう思ったとき、ふと妙なことに気が付いた。
 たしかに懐かしい、懐かしいのだが、同時にどこか新鮮味を感じるのは何故だろうか。
 佐藤を見る。そう、彼が体育の授業中にあそこまでへばっている光景というのは見た覚えがないし、よく見てみれば田中や緒方も程度の差こそあれ、額から汗を流して息を上がらせている。
 運動神経と体力に優れる彼らがここまで疲労している姿を見たことがなかったからこそ、悠二はその姿に新鮮味を感じたのだった。

 ではどうして彼らがここまで疲労しているのか。

「……あ」

 その時、悠二は初めて自分が身体を強化して走っていることに気が付いた。














「そういえば、坂井は何かスポーツをやってるのか?」

 あれから、一度走り始めたものをいきなり緩めるわけにもいかなかった悠二は、それでもわずかに速度を落とすと、改めて互いの自己紹介をした。
 もちろん、わざわざ自己紹介をされるでもなく彼らのことは知っていたが、向こうはそうではないし、何より今の悠二が知らないはずのことを口走るのは甚だまずい。そう思ったからこそ互いの自己紹介を提案したのである。
 快くそれに応じてくれた三名(うち一人は息も絶え絶えだったが)との自己紹介を終えたとき、開口一番に田中が口にした台詞がそれであった。

「いや……スポーツは特にやってないけど」

 ここで、ある、と答えられればよかったのだろうが、下手なことを言うと今度は何のスポーツをやっていたのか、という質問に発展するだろうし、そうなると悠二には答えが用意できなくなる。そもそも、この三人を相手に嘘をつくつもりはなかったが。
 その言葉を受けた田中は意外そうに、へえ、と呟くと、続けた。

「でもそれだけ走れるんなら、それこそ陸上部とかからは引っ張りだこだったんじゃないか?
 俺も、何か物凄く速い奴がいるなぁ、と思って追いつこうとしたくらいだし、なぁオガちゃん」
「うんうん。それもあれだけのハイペースで走ってて息ひとつ乱してないし……それでどこの部活にも入ってない、ってのが私には驚きだよ」

 そういえば、悠二はかつてシャナが田中のことを評して『この学校で一番の使い手』と言っていたことを思い出した。
 それは表現としては大げさだったが、要するにこの学校で最も身体能力に優れている、ということである。その田中をもってして『速い』と驚くような速度で走っていたのだから、なんのスポーツもやっていないという悠二の返答は実に奇異に思えたことだろう。
 このぶんなら、後で池あたりに不思議がられるかもしれない。何しろ悠二の中学時代の運動の成績といえば、せいぜいが真ん中あたりだったのだから。

「ん、でも本当になんのスポーツもやってないよ。中学も卒業するまで、どこの部活にも入っていなかったし」
「へぇ。でもそれなら後でどこかの部活から勧誘が来るかもな」

 悠二の隣を走る田中が、どこか面白がるように言った。
 とはいえ、悠二にはどこかの部活に入るつもりはない。やりたいスポーツがあるわけでもないし、何より時間をとられるのはまずかった。

「それは……ちょっと困るな」
「はは、諦めろ。それだけ走れるんだから、それこそ陸上部とかがほっとかないよ。喉から手が出るほど欲しがるだろ」


(――ん?)

 田中の言葉に苦笑いする悠二だったが、不意にその言葉が頭の中で引っかかる。

(喉から手が出るほど……欲しがる?)

 思い浮かぶのは "狩人" フリアグネの顔。
 かつて相対したときの彼は、貪欲なまでに悠二の『中身』に対して執着を見せていた。

(そうだ、あいつは僕の中の……宝具に執着して……)

 再び浮かぶのは、今度は "千変" シュドナイの苦悶の表情。

(同じように、僕の中の宝具を奪おうとしたシュドナイもそれで――)

 その時、全ての線が一本に繋がった。


「ありがとう、田中!」
「おわ?! な、なんだよ急に」

 唐突な言葉に、田中の表情に疑問が浮かぶ。
 だが、それに答えを返す事なく、悠二は心の中でもう一度礼を告げた。

(本当にありがとう、田中)

 "狩人" フリアグネを倒すための作戦。それが今、悠二の中で組み上がった。



[16588] 1-5 『対峙』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:31
 距離感を狂わせるほどに広大な暗闇の中、一人の青年が音も無く佇んでいた。
 周囲の闇にも染まらぬ純白のスーツと、その上に羽織った純白の長衣。細長く優美な輪郭の美青年。幽霊のようにあやふやな印象を与えるその身体は、奇妙なことに薄白く輝いていた。
 だが、そのようなものがなくとも、彼を一目見た者はそれが人間ではないと分かったことだろう。

 青年は、空に浮いていた。


 その青年――人を喰らう人ならざるもの、『紅世の徒』の一人である "狩人" フリアグネは、眼下で白く浮かび上がる巨大な箱庭を眺めながら、肩にちょこんと座っている人形をいとおしげに撫でた。
 表情を縫い付けられた小さな人形。その表情は変わらなかったが、彼女をよく知るフリアグネは、その人形の幸福げな心の動きを感じ取っていた。
 それを知り、フリアグネもまた心に満足感を得る。互いの間に言葉は不要だった。

 その二人の目の前にはフリアグネと同様、薄白い光に浮かび上がった巨大な模型が置かれている。
 ブロックや模型、玩具の部品で構成されたそれは、驚くべき精巧さで彼らの滞在する御崎市の全域を模していた。


 ふと、自らの左手薬指、そこにはめられた銀色の指輪にフリアグネは陶然とした面持ちを向ける。
 瀟洒なつくりのその指輪には、中心を取り巻くように奇怪な文字列が刻まれていた。その文字列が一つ一つ、暗闇に薄白く輝いてゆく。
 指輪が光る帯にくるまれたのを見届けると、フリアグネは左手をゆっくりと回した。
 ほどけるように、光る文字は少しずつ中空に縫いとめられてゆく。いつしか文字は暗闇を星空のように埋めていった。

 文字の星海をフリアグネと、その肩にとまるマリアンヌは共に見上げる。一瞬ののち、光る文字群は一つところに収束し、一個の巨大な光玉を作り上げた。
 同時に、マリアンヌの胸の内にも同じ文字による、しかしやや小さな球体が点る。


 その様を、フリアグネは強い歓喜とともに迎えた。
 そう、歓喜だ。この球体の文字列こそ、かつて天才的な自在師たる "螺旋の風琴" が遺した自在式の一つ。
 内臓するモノの在り様を作り変え、他者の "存在の力" に依存することのない存在として、この世に定着させる『転生の自在式』だった。

 彼にとっては、都市一つ分の命を奪い去り、その存在を欠落させる秘法『都喰らい』さえも、自在式の起動に必要な "存在の力" を集め、愛するマリアンヌを一個の存在とするための道具でしかない。
 そして、その仕込みはいまのところ順調だった。


 彼の前にある箱庭には、無数の小さな鬼火がうごめている。
 その一つ一つが、彼の望みを成就させるための種だ。小さな鬼火、つまり存在の力によって構成された "トーチ" には特殊な仕掛けが施されている。
 信管とでもいうべきそれが組み込まれた "トーチ" は、ひとたびフリアグネが合図を下すことによって爆発、その存在を欠落させ、一度に生まれた多大な欠落は坂を転がるように連鎖的な存在の欠落を作り出す。
 これによって作り出された大きな歪みを利用し、都市一つを丸々高純度の "存在の力" に変換する。それがフリアグネが心に期する計画の全容だった。

 そして、その計画は今も順調に進行しつつある。
 箱庭に映し出された "トーチ" の数は予定数にはわずかに届かないものの、今もその数は増えつつある。『都喰らい』を起こすのに必要なだけの "トーチ" が揃うのもそう遠いことではないだろう。


 そうして静かに箱庭を眺めていたフリアグネの表情に、ふと小さな疑念が浮かぶ。
 それを察したのか、肩に座る人形が案ずるような声で問いかけた。

「どうなさったのですか? ご主人様」

 愛する彼女の言葉に、フリアグネは優しげな微笑みで答えた。

「ああ、ごめんよマリアンヌ。いや、大したことではないのだけどね。どうやらここに、"トーチ" が一匹紛れ込んだらしい」
「……? それが、いかがなさったのですか?」

 フリアグネとマリアンヌ。彼らが滞在するここ、御崎市のトーチの数は極めて多い。ましてや彼らが居と定めた場所は人の行きかう街中にある、"トーチ" の一体や二体が紛れ込んだとしても不自然ではなかった。
 しかし、それを知りつつもなお、フリアグネの心中から疑問が消えることはない。
 フリアグネはその優美な指を、つっと箱庭に向ける。
 その箱庭の一角、ちょうどフリアグネが指し示した場所、彼らの居たる代田デパートの中ほどに鬼火がひとつ、うごめいていた。


「私はね、ここを居と定める際にどのような場所かを念入りに調べ上げた。その結果、ここはすでに廃墟で誰一人寄り付くはずはないと結論付けたんだ。
 もちろん、誰かがふとして入り込むことはあるかもしれない。けどね、マリアンヌ。そんな目的もなしに入り込んできた輩が、わざわざこんなところまで上がってくると思うかい?」

 その言葉を聞き、マリアンヌの声に動揺が浮かぶ。

「ご、ご主人様! まさかとは思いますが、あの討滅の道具らめがここを嗅ぎ付けてきたのでは……!」

 対して、フリアグネは平静な様子のまま箱庭を眺めていた。

「いや、それはないよマリアンヌ。仮にフレイムヘイズが私の居場所を知ったとしても、そこに "トーチ" を同道する理由はない。索敵という可能性もないだろう。彼らは構成員として人を使うことはあっても、"トーチ" を使うということはないからね」

 そう言われて落ち着きを取り戻したのか、すっとマリアンヌから動揺が消えた。
 消えて、しかし今度はフリアグネと同じように疑問を浮かべる。

「では……この "トーチ" はなぜここに?」
「……そうだね」

 フリアグネはふむ、と顎に手を当てると、奇妙な韻をきかせた声で自分の考えを語り始めた。

「考えられる可能性としては、二つ。
 一つは私達がまったく預かり知らない理由でこの建物、あるいは私達に用事があるという場合。
 ……もう一つは、この "トーチ" が何らかの感覚によって私達の、"紅世" の違和感を感じ取り、それに引き寄せられている場合だ」
「"紅世" の違和感……。では、ご主人様!」

 フリアグネの本質を表す "狩人" の真名、その獲物の到来にマリアンヌは声を弾ませる。
 その様子に、フリアグネはたしなめるように苦笑した。

「そう逸るものではないよ、私のマリアンヌ。そう都合よく "ミステス" が懐に飛び込んでくるものではないさ。ただ――」


 声を切ると、フリアグネはその口元に笑みを閃かせた。
 さきほどまでの相手を気遣うような笑みではなく、楽しみでならないという凶笑を。


「――もし "ミステス" だとするなら。いったいその中には何が入っているんだろうね。……うふふ、楽しみだ……」


 その瞳にはもはや慈愛はなく、ただ己が欲望に忠実な炯炯とした光が宿っていた。







◇◆◇◆◇







 悠二は窓から降り注ぐ、どこか白けたような光量の乏しい明かりを頼りに、迷路のような廃墟の中を進んでいく。
 その手元には明かりの類はなく、それどころか一つの道具もない。防備の足しになればと着込んだ厚手の上下の中に、わずかばかりの武器を隠し持っている程度である。
 デパートというだけあって中は広い。その上、そこかしこにちらばる廃材や、先の見通しにくい薄闇がより一層中を広く見せていた。
 すでに侵入を始めてから随分と立つ、何かアプローチがあるのならばそろそろのはずだった。
 それがないということは、向こうは悠二を手に掛けるかどうかを決めかねているのだろう。この時点での悠二はただの "トーチ" に過ぎず、襲うほどの価値はない。むしろ彼らの目的を考えれば、"トーチ" は一体でも多く残しておきたいはずだった。


(侵入者に気付いていない……ってことは、多分ないだろうな)

 相手はあの百戦錬磨の "狩人" 、その本拠地である。楽観するべきではなかった。
 そもそも楽観すべき要素など悠二にはない。今の悠二は力の繰り方を体得しているという点においてのみ並みの "トーチ" を凌ぐものの、力の規模は大差ない。"燐子" が相手だとしても、まともに戦えば恐らくは一捻りにされるだけだろう。
 ましてや相手は "紅世の王" の中でも有数の実力者。以前はいくつもの好機が積み重なったおかげで勝てたが、本来ならば手錬のフレイムヘイズでも勝ち目の薄い相手だった。

 そんな怪物を相手にただの一人で立ち向かう。苦境を通り越して、すでに笑い話にもならない状況である。
 だが、悠二の表情に悲壮感はない。それは心に渦巻く怒り交じりの使命感のおかげでもあったが、その最たる理由は悠二の中に一つの勝算があったからだった。
 フリアグネの目的、性格、能力を考え、組み立てた一つの作戦。確実なものではない、一つでも下手を打てばあっさりと悠二はその身を散らすだろう。
 だが、やらねばならないことだった。


 悠二はそっと胸に手を当てる。
 目前にある扉、その向こうからひしひしと伝わる強烈な違和感。
 戦いの時は、すぐそこだった。







◇◆◇◆◇






 
 ぎしりと重苦しく軋む音とともに、暗闇の中にわずかな光が差し込んでくる。
 その光景を、フリアグネは凶笑をひときわ強くして迎えた。
 その笑みを隠し、扉を開けた主らしい少年、その "トーチ" に歩み寄る。肩に座っていたマリアンヌは、箱庭の中に隠してあった。

 少年のほかに人影はない。
 すでにフリアグネは十中八九この少年がその身のうちに "宝具" を宿した "トーチ" である "ミステス" だろうと当たりをつけていたが、念のためにと口を開く。


「やあ、少年。こんなところになんの用だい?」

 微笑とともに問うフリアグネに、少年はどこか胡散臭いものを感じたのか、その表情をわずかに曇らせた。
 そもそも、すでに廃墟と化したデパートの中で、浮浪者ならまだしも白スーツ姿の男性と出くわすこと自体が異常といえば異常なのだが、それが日常であったフリアグネはそのことに気付かなかった。
 もしも気付いていたなら、その少年の表情に驚きの要素が少なすぎることに思い至り、多少は警戒を強く持てていたのかもしれない。

「えっと……大した理由じゃないんですけど、前からここのことが気になってて、中に何があるのかな、と思って来てみたんです」

 だが、思い至っていたとしても、彼は歯牙にもかけなかったことだろう。
 笑みを強く、強くし、歓喜の狂相を浮かべる。

「そうか。感謝するよ、少年」

 フリアグネは二重の意味で述べ、躊躇なくその右腕を突き込んだ。

 つまるところ、彼の弱点とはその豊富すぎる経験と力の強さからくる油断であり、彼の経験は自分にとってたかだか一体の "ミステス" など恐れるに足るものではないと声高に告げている。
 だから、その結果は不可避のものだった。


 ゴキリ、と。
 フリアグネの身体の奥底で、何かがずれる音が響いた。







◇◆◇◆◇






「、ッガ」

 目前の細面、秀麗な美男子の容貌が、苦痛以上の怖気によって歪められる。
 悠二はその様と、全身に走った奇妙な感覚から、自分の考えていた通りのことが起こったと知った。

「オオオ」

 砕け、折れたフリアグネの腕が、異様なまでの存在感を持って自分の中を漂う感覚。
 一度目は散々に苦しめられたその感覚は、しかし二度目の今となってはどうということもない。

「オオオオオオオオ、?!」

 腕を瞬時に取り込む。途端、内包していた莫大な量の "存在の力" が、悠二の身体に溶け込んだ。
 全身を満たす全能感、圧倒的なまでの力強さを感じつつ、上着の内側から一本の金属片を掴み出す。


 しゅ、と軽やかな音を立てて降り抜かれる、一本の包丁。
 "存在の力" を流し込まれて切れ味と強度を名刀の領域にまで高められたそれは、逆袈裟の一閃を残し、フリアグネの残る一本の肘から先をあっさりと切り飛ばした。

 薄白い炎が、フリアグネの両手の元あった場所から吹き洩れている。

「うぉぉぉぉぉぉっ!!」

 悠二は降り抜く勢いのまま包丁を投げ捨てると、空の左手でフリアグネの顔を殴りつけた。
 奇襲に次ぐ奇襲。反撃の手段と冷静さを失ったフリアグネは、その一撃をまともに受けて体勢を大きく崩す。
 どさっ、と倒れこんだフリアグネへと、悠二は一足で飛び掛った。

 両手を失った細い身体にのしかかり、押さえ込む。白いスーツは埃にまみれ、止まらぬ火花が地面を染め上げた。
 悠二は右手で首を掴む、と、その時、互いの目がはた、と合った。

 怒り、驚き、そして何よりも恐怖の感情。
 フリアグネが浮かべるそれらが、単なる自身の消失に対するものではないことを、悠二は実感として知っていた。
 共感が心に去来する。
 去来して、しかし悠二は膨大な "存在の力" を右腕に込めた。




 悠二の身体の下で細い輪郭が崩れ、崩れた身体が白い火の粉となって悠二を包むように中空へと散ってゆく。
 フリアグネは、すでにその意思が消えたことを伺わせる焦点の定まらない瞳を空へと向けていた。

 唇が、かすかに動く。
 それはもはや音を形作ってはいなかったが、それを間近で見る悠二にはその音が見て取れた。
 いや、目にしなくとも分かっただろう。


 音のない声が、一つの名前を呼ぶ声が、火の粉とともに溶けていった。



[16588] 1-6 『開幕』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:85e90152
Date: 2011/10/05 20:31
「あ」

 白い火の粉が舞う。その光景を、マリアンヌは引き絞られた視線で見つめていた。
 初め、自分の主を見送るときの彼女は余裕と歓喜に満ちていたし、状況が転じ、フリアグネが襲われる段となったときもあまりに予想外な展開のために凍り付いてしまっていた。

「、あ……あ、あああ」

 だが、自らが敬愛する主が組み伏せられ、白い炎と散ったところで、ようやく彼女の思考が現状を認識し始めた。
 有り得ない、予想だにしない光景。
 それが今、現実のものとなっている。

 彼女の敬愛する主の命は、今この時に失われたのだ。

「フリアグネ様あぁっ!!」






◇◆◇◆◇






 悠二は唐突に前方から湧き上がった気配に、すでに輪郭を失ったフリアグネから大きく飛び退く。バランスを崩しかけた身体を、迫る地面に両手をつき勢いのままにもう一回転。後ろへと跳んだ悠二は軽い足音と共に床を踏み締めた。
 軽業師のような芸当であったが、今の悠二には造作もないことである。だが、この状況を打破することは、造作のないこととはとてもいえなかった。
 名状し難い、聞く者に同情を抱かせる叫び声を上げながらフリアグネに取りすがる一体の影。
 見覚えのある、布によって作られたその小さな身体を視野に納めた瞬間、悠二は警戒心をにじませた。

 相手の名はマリアンヌ。ただでさえ強力なフリアグネの "燐子" の中でも最も優れた彼女は、"燐子" としては驚くべきことに宝具の行使も可能としている。
 対して悠二はといえば、フリアグネから奪い取った膨大な "存在の力" を持ってはいるものの、その強さはかつて "千変" から奪い取ったそれには僅かに及ばない。しかも手中に武器はなく、奇襲の優位も既に失している。
 今この時に限れば、あるいはフリアグネ以上の強敵というべきかもしれなかった。

 今や声も発さずにうずくまるマリアンヌの姿を見つめつつ、悠二はそう思案する。
 そうして、同時に自分がとるべき手段を模索し始めた。

 見たところ相手は動揺の中にあり、今のところは動く様子はない。
 肌を刺すような静寂が痛く、相手はただうずくまるばかりである。とはいえ、この膠着がいつまでも続くというのは楽観だろう。
 ならば先手を取るべきだろうかとも思いはしたが、悠二はその判断を戒めた。

 一つは距離にある。
 唐突な出現であったとはいえ、強化した身体で大きく飛び退いた悠二とマリアンヌとの距離は短くはない。
 踏み込むのはそれなりの時間がかかり、その動作こそが戦いの引き金となる可能性があった。

 そしてもう一つ、こちらが更に重要である。
 それは相手が何の宝具を持っているのか、ということだ。
 もしも下手に踏み込み、その結果相手が持ち出したものが回避のできない必殺の類のものであった(なにしろ、悠二はフリアグネの持つ宝具の全容を知らないのだ)などというのっぴきならない状況になってしまっては笑うに笑えない。
 マリアンヌの姿からして、複数の宝具を同時に用いることはできないだろう。ならば余裕のあるこの距離で、まずは相手の武器を確かめるべきではないだろうか。
 もちろん、相手が武装をしていない可能性も考えられる。その場合、悠二がこうして相手の出方を伺っていること自体が、相手を利する愚行になっているのだが。

 一瞬、薄く思考を流した悠二が出した結論は――待機。
 今は焦るべきときではない、一か八かの賭けに出ざるを得なかった先ほどまでとは事情が異なった。


 ――結果として、悠二は後々までこの判断を悔やむことになる。






◇◆◇◆◇






 失われてしまう。
 必死にマリアンヌが取りすがる下で、それでも彼女の主は消えてゆく。
 いつもならば優しく頭を撫でてくれていた腕は、すでにもう、ない。彼女を温かく抱きしめていてくれた胸は、原型を留めないほどに崩れてしまっている。

「フリアグネ様!!」

 叫ぶ。
 だが、主の目に意思の光が宿ることはなく、その口はどんな言葉も紡ぎはしなかった。

「あ、あああ、ああああ……!」

 そうして数秒。
 フリアグネの姿は、呆気なく宙に掻き消えた。





(どうして)

 声も上げず、うずくまる。
 涙はおろか、表情を変えることさえできない彼女の顔は普段と同じままだったが、その奥では無数の感情が渦巻いていた。


 彼女の主はもういない――――何故?

 それは討たれたからだ――――誰に?

 そう、それは目の前のミステスに――――だったら?


 ――許さない。
 同じだけの痛みと、同じだけの苦しみを。






◇◆◇◆◇






 不意に、うずくまるマリアンヌの姿がぶるりと震えた。
 悠二は相手がそのまま攻めかかってくることすら考えていたのだが、予想に反して、マリアンヌは奇妙なほどにゆっくりとした動きで顔を上げた。

「……っ」

 その瞳に込められた憎悪に、悠二の身体に戦慄が走る。
 何も映さないはずのガラス球の中には、黒々とした光がうずまき、眉一つ動かせないはずの表情からは、見間違えようもないほどの底冷えする感情が伺えた。

 憎悪、怒り。
 膨大なその全てが自分ただ一人に向けられている、その事実に悠二は慄く。
 指が緊張が硬くなり、足の裏がジンと痺れた。

 だが。

 そっと鼻から息を吸い、指の強張りを解く。足を再びしっかりと踏みなおし、再び悠二は目の前の相手を見据えた。
 自分の後ろにあるものの重さを思えば、たとえ誰が相手でも負けることは許されない。


 そうして自らを持ち直して見れば、今の状況はそれほど悲観したものでもなかった。
 武器はないが距離はある。そして相手に冷静さはなく、自分はいまだ冷静さを保てている。
 狂騒による捨て身の攻勢は恐ろしい反面、その攻撃は粗く単調になり、見極めることは難しくない。
 そして、相手の攻撃を見極めるという訓練ならば、悠二の身体にはしっかりと刻み込まれているのであった。

(シャナに教わったことは……多いな)

 思わず、その少女の姿を思い浮かべた瞬間、ぞわりとした感覚が背筋を走った。

(来る――)

 相手の動き、そのいかな動作を見落とすまいと意識を集中させる。
 しかし、悠二の警戒は予想もしない形で裏切られた。


(――上?!)

 そう、あろうことか、マリアンヌの小躯は悠二の身体を高く飛び越え、その背後へと疾走。開け放たれたままの扉を凄まじい勢いで潜り抜けると、薄闇の中へと消えていった。
 怒りに任せた全速の突進による必殺の一撃をこそ警戒していた悠二にとって、それはまさに意表を突かれたといってもいい。仮にマリアンヌが頭上からの奇襲を試みていたならば、あるいは成功していたかもしれなかった。
 咄嗟に悠二は自分の迂闊さを呪い、しかし首をかしげる。

(……どういうつもりだ?)

 悠二を倒すことを望むなら、逃げるなどという選択はおかしい。主を失った "燐子" は "存在の力" の補給もままならずに消えていく運命にある。よって長期戦は望むべくもなく、この場の決着をこそ望むはず、ましてや怒りで我を失った相手ならば、尚更。
 だが現実には今も、感知した気配の先ではマリアンヌは高速での遁走を続けている。

(こっちの戦力が不透明なのを理由に、姿を隠して不意を狙う。もしくは罠を張るか、そのどっちかなら楽なんだけど・・・・・・……いや)

 どうやらそう都合よくはいかないようだった。
 気配が静止し、そしてその向こうでいくつもの気配が新たに生まれる。恐らくは "燐子" のものだろう。
 悠二の脳裏に、かつての戦いの情景が浮かび上がる。
 かつて戦った時、フリアグネは多数の "燐子" を行使していた。その質はマリアンヌに比べれば劣るとはいえ、"燐子" としては一級品。その上、その時は剣の宝具で武装をしていた。
 勝算の計れない一対一の勝負を避け、数に頼んで戦う。それはまったく正しい選択であり、相手の中に冷静な判断力が残っていることを示していた。
 
(……まずい)

 先ほどまでならばまだ勝ち目はあった。
 だが、今は違う。怒りに暴走した宝具を使う一体の "燐子" は、今や数十もの "燐子" の集団と化している。
 素手で多数の "燐子" を相手取れるような卓抜した力量を持つわけでもない。"存在の力" こそ豊富にあるが、とある事情から "封絶" を使うことができない悠二にはそれを生かすすべもない。

(だとするなら)

 悠二は先ほどまでフリアグネが倒れていた床、そこに残された白い布に目を向ける。
 以前は気付かなかったが、それはどうやら宝具であったらしい。歩み寄ると、床に広がった白いそれを左手で持ち上げ、そっと指を触れさせた。

 当たりだ。

 触れた布、その向こうに広大な空間が広がっているのが分かる。あるいはと思っていたのだが、やはりこの宝具はシャナの纏っていた "夜笠" と同質の力を備えていたらしい。
 ずっと腕を差し込むと、広大でありながらあらゆるところに指が届くという、矛盾するような奇妙な感覚が伝わってきた。
 悠二はそっと目を閉じると、その空間を探り始める。初めて触る宝具であるにも関わらず、不思議とその使い方が理解できた。

 やがて、その指先が目当てのものを探り当てる。
 腕を引き抜くと、はたして、その手には思った通りのものが握られていた。

 一つは、剣。
 凝った意匠はなく、全長は1mほどの反りがない片刃で肉厚の片手剣。特別な力が込められている様子はないが、その刀身から受ける存在感は強く、かなりの業物であることが伝わってくる。
 悠二としては、剣であればなんでも良かったのだが、どうやら期せずして当たりを引き当てたらしい。剣を左手に持ち替えると、そこにはもう一つの目当てのものが握られていた。

 それは表面に複雑な模様の刻み込まれた、金色のコイン。
 一見した限りでは何の変哲もないコインだが、その実態は、無論そのようなものではない。
 悠二は親指でコインを宙へと弾き飛ばした。

 キィー……ン、と、どこまでも澄んだ音を響かせ、コインは宙へと舞い上がる。
 くるくると回る、その軌跡に金色の残像を残しながら、コインはどこまでも上がっていった。
 やがて、その高さが一定のところに達するのに合わせ、悠二は残像の根本である右の拳を引く。
 途端、その残像は長くしなやかな金の鎖となり、じゃらりと地面に垂れ下がった。

 そう、これこそが武器殺しの宝具『バブルルート』、その鎖は相手の武器に絡みつき、同時にその力を封じ込める能力を持つ。
 悠二は右手に作り上げたその鎖と、左手に握る剣とを再び持ち替えた。
 意識を向ける。気配はすでに扉の外、悠二からほど近いところにまで迫っていた。

 相手は数十の "燐子" 、こちらは一人。
 "存在の力" は充足し、二つの武器も手に入れたが、それでも誰の手助けを借りられるわけでもない。

 だが――


 悠二は力強く踏み込むと、扉を抜ける。
 予想通り、そこには数十の "燐子" が――ひしめいてはいなかった・・・・・・・・・・・。当然だ、この狭く限られた空間は、数十体もの人数が同時に戦うには狭すぎる。
 どこか不気味な印象を受けるマネキン姿の "燐子" は、遠くを囲むようにしているのが十体ほど、悠二の周囲で虚を突かれたように固まっているのが四体。残りの気配は逃亡を防ぐためにか、階下へと分散している。
 悠二は、左手の鎖を大きくなぎ払った。
 咄嗟の攻撃に、"燐子" 達はそれでもよく反応したというべきだろう。身をそらし、かろうじてその範囲から逃れた。
 が、出来たのはそこまで。
 不意打ちを受けた四体のマネキンは、あるものは尻餅をつき、中には不恰好にも手にした剣を取り落としているものまでいる始末。
 悠二はその中の一体、ちょうど自分から見て包囲の薄い右手に立つマネキンに踊りかかった。

 そのマネキンは、鎖から最も遠い場所にいたお陰か、多少姿勢を崩しながらも剣を握り締めている。
 突然の攻撃に驚いたのだろう。それでも自分に向かってくる悠二の姿を目にした彼女は、怒りと共に剣を振り下ろした。
 上段から切り下ろす一撃。
 シャナのそれと見比べれば、技ともいえないようなその一撃を、悠二は受け止めることはしなかった。
 その代わり、足に込める力をより一層強くする。結果として剣が振り下ろされる前にその懐へと潜り込むと、同時に右手に持った剣を一閃させながら背後へと抜けた。

 悠二の後ろで、たった今切り倒されたマネキンの気配が薄れていくのを感じながら、目前、薄暗い廊下を塞ぐようにしているもう一体に切りかかる。
 完全に不意をつかれる形となったその一体は、受ける暇もなく悠二の手に掛かった。

 悠二は崩れ落ちるマネキンを飛び越えると、今やもう遮るもののいない廊下へと飛び込んでいく。
 全力での疾走。その時になってようやく自分達の状況を把握したのか、"燐子" 達が動き始めた。


 ――状況は、それほど良いわけではない。
 二体を倒したとはいえ、相手はまだ数多い。勝算はよくて五分五分といったところだろう。
 そう、対等な戦場。

 "ミステス" 坂井悠二が初めて経験する、たった一人での対等な戦いというこの現実に、悠二は高揚を覚えていた。
 
(そう、ここには僕しかいない。勝つのも、負けるのも、僕だけの責任だ。
 僕の……僕だけの戦い)

 角を曲がる。
 その勢いのままに、背後へと迫っていたマネキンの胴を断った。
 マネキン達がわずかに立ちすくんだのを横目に、悠二は再び走り始める。

(だから……絶対に勝ってみせる!)

 戦いが、始まった。



[16588] 1-7 『邂逅』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:5f69fdb8
Date: 2011/10/05 20:32
 十二時を少し回った辺りの駅前は、どこまでも晴れ渡った空と、休日ということもあってか、どこかたゆたうようなざわめきが満ちていた。
 道行く人々の表情はどれもが笑顔を浮かべていて、所々に植えられた街路樹さえも降り注ぐ陽光の中、まるで笑っているかのように、青々とした枝をさわさわと風に揺らしている。
 日常。それは取り立てて特筆するべきところもなく、けれども、誰もが心を安らがせるであろう、そして延々と続くと信じているであろう、ごく当たり前の光景だった。


 そんな光景を、一片の感情さえ乗せることなく、一人の少女がじっと眺めている。
 どことなく幼さを残しながらも綺麗に整った顔立ちと、膝ほどまである長く艶のある黒髪。少女としてもやや小柄で、起伏に乏しい体躯に目を瞑らなかったとしても、十分以上に美少女と呼んで差し支えない。
 けれど一見した瞬間にその形容を躊躇われるのは、もしも笑っていたならばさぞ魅力的であったろうその顔に浮かぶ鋼めいた硬質の表情と、何よりも痩身から発される、奇妙なまでの存在感の強さのせいだった。
 少女は、チラチラと自分に向けられる周囲の視線をまるで気にした様子もなく街並みを眺め続け、やがてふと、小さな声で呟く。

「やっぱり、多い」
「うむ」

 瞬間、独り言のような少女の声に応える、深みのある男の声。
 常識的に考えるならば、その声は携帯電話の向こうから届いたと考えるべきなのだろうが、不思議と、少女の身体のどこにもそれに類する機械は見当たらない。
 けれども少女の方には、そのことを不思議と思っている様子はなかった。

「これだけトーチが多いってことは……この街には、よっぽどの大喰らいが潜んでいるのかな」
「あるいは、潜んでいるのは複数ということかもしれん。いずれにせよ、久々の大きな戦いとなるのは間違いないだろう」
「望むところよ。行きましょう、アラストール。まずはこの街の情報を集めないと」

 そう言って口を閉じると、少女はどこまでも平然としたまま足を動かし、周りから向けられる好奇の視線を肩で切る。
 そこにいた何名かは少女の姿を目で追ったが――やがてはそれも、雑踏の中に紛れて、消えた。






◇◆◇◆◇






 透き通るような暖かさと、耳に心地良い程度のざわめき。
 そんな平穏そのものともいえるような場所にありながら、悠二はふと、きつく握りこまれた自分の拳を意識した。
 ベンチに座り込んだ姿勢で、組み合わされるように握られた両手。苦笑して、引き剥がし、右手で左手の甲をそっと撫でる。

(思った以上に気持ちが昂ぶっている……ちょっと前の戦いをまだ引き摺ってるのか、それとも、こうしている今にも、あの人と出会うのが怖いのか。……両方、かな?)

 首筋、肩、腕、足。気付けば固くなっていたそこかしこを軽くほぐしつつ、そんなことを考えた。



 数日前に起きたフリアグネ一党との戦いは、間違いなく、悠二にとって命を賭けた戦いだった。
 単身、"紅世の王" が巣食う根城に忍び込み、これを討滅する。しかも相手は世に名を知られる練達者のフリアグネで――これはもう、大抵の者が聞けば瞠目するに足るだけの戦果だろう。
 それだけに、戦いは困難を極めた。フリアグネ当人は奇襲によって打ち倒すことに成功はしたものの、かといって、その配下たる燐子達もまた軽んじていい敵ではなく、おまけに戦闘の余波を外に洩らしてはならないというハンデ付き。
 それでもどうにか無傷で勝利を収めることが出来たのは、かつて培った戦闘経験のお陰もあるだろうが、やはり相当な幸運もあってのことだったろう。最後まで悠二に襲い掛かってきた宝具使いの燐子の狂相を思い返すにつれ、深々とそう思う。

 そしてそんな戦いを終えた後なだけに、悠二の神経が高揚を覚えていたのだろう。
 ならば彼がこんな街中で一人ぼうっと座っているのは、その高揚を静めるためかといえば、そうではない。悠二がここにこうしているのは、他にきちんとした理由があった。


 悠二の目的は、自分にとって大切な人たちを守ることにある。
 つまりこの街を訪れる "紅世" 関係の物事を、犠牲を出す前に解決するのが彼の行うべきことなのだが、そこまで考えた時にふと、頭の中に閃くものがあった。
 悠二はかつて、この御崎市を襲った者達を全て、起こったことの殆どを記憶している。だとするなら、今回もまたその記憶と同じことが起こるだろうか?

 答えは、否。悠二は既にフリアグネを討っている。
 もしも討っていなかったとしても、やはり記憶の通りには行かなかったろう。何故なら、強い目的意識を持って御崎市を訪れた者はともかく、中には気紛れ、偶然の結果としてここに訪れた者もいたからだ。
 それでなくとも世界中のあらゆることに偶然の要素は関わっている。まるきり同じように推移すると考える方が無茶であり、とするなら、かつての記憶を完全に当てにしてしまうわけにはいかない。
 しかし同時に、記憶の中には頼りとなる情報が混じっていることも確かだった。気紛れや偶然で行動した者が今回も同じ行動を取ると考えるべきではないが、反面、確固とした目的意識を持って動いていた者は、多少の偶然はあっても同じ行動を取るだろう。


 そう考えた末に、悠二が一つの方針として思いついたのが、こののんびりと街を眺めるという行動。
 勿論、ただ眺めているのではない。彼は何気なさを装いながら、ある二人の人物を探していた。

 片方の人物の名は、"屍拾い" ラミーこと、"螺旋の風琴" リャナンシー。
 そしてもう一人の名は、"蹂躙の爪牙" マージョリー・ドー。
 共に "紅世" に関わりを持つ者達の間に名を轟かせる自在師にして、追い追われる関係にある二人だった。







(ラミーはその目的からして、十中八九、この御崎市を目指す筈だし……それを追うマージョリーさんも、やっぱりここを目指すだろう。
 だったら僕のするべきことは、二人の戦いを止めて、協力を引き出すことだ)

 それこそが悠二の出した結論。
 彼一人の力では、今後予想される御崎市の危機に対抗出来ない。そのためには、どちらか一人。出来れば二人の力が必要になる。
 付け加えるなら、二人に恩義のある悠二としては、そういった打算も超えたところで、ラミーとマージョリーのためになることをしたいと思っていた。


(……まずは、二人の戦いを止めなきゃならない。そのためには、どちらか一方と接触するのが先決だ。
 けどマージョリーさんと会ったとしても、向こうにとって僕は初対面。性格からしても、止めようとしたって聞いてはくれないだろう。だったら、最初はラミーに会うところから始めるべき。
 ラミーがいつ頃、御崎市に到着するのかは分からないけど……でも、その行動を予測することは出来る)

 予測といっても、以前と同じ場所で待つのではない。
 ラミーの目的は消えかけたトーチを集めることだが、消えかけたトーチというのはどこにでもいるものではない。とするなら、それを探すにはトーチが沢山集まっている場所、つまりは人通りの多い場所を探すのが適している。
 そして、この御崎市で人通りの多い場所といえば、それは駅を中心とした市街地くらいなもの。悠二の探知能力をもってしても、この街全体からラミーを見つけるのは不可能だが、視界の中にいれば流石に気付く。足を使って地道に探していけば、そう遠くないうちに発見出来ることだろう。
 既に玻璃壇も回収してしまっているから、肝心の時間的な余裕もそれなりにある。だから、悠二はラミーを見つけられるかどうかについては、あまり不安と感じてはいなかった。


 不安があるとすれば、それはラミーを見つけた後のこと。
 ラミーの説得は難しくないが、マージョリーは説得を聞くような性格ではなく、したがって悠二はかの女傑と戦わなくてはならない。
 世に威名を轟かす "千変" シュドナイが認める、フレイムヘイズ屈指の殺し屋と。それはどう考えてみても、心躍る未来にはなりそうもなかった。

(僕が曲りなりにも、あのフリアグネに勝てたのは……相手が油断していたからだ。
 マージョリーさん相手に、そんな手落ちは望めそうにない。しかも、まさか殺してしまうわけにもいかないから、戦う力を奪うだけで終わらせなくちゃならない。
 ラミーに直接的な戦闘力は無いに等しいから、戦えるのは僕一人。果たして、そんな状況で本当に勝てるのか?)

 思わず空を振り仰いで、右手で髪をくしゃりとかき混ぜる。
 今の悠二が持つ武器は、フリアグネが秘蔵していた数多くの宝具と、王にすら匹敵するだけの存在の力。それは確かに十分すぎるほどの戦力なのだが、折に触れて思考を巡らせてみても、これといった作戦は思いつかなかった。
 期待するとしたら、後はラミーの力だろうか。戦闘力は無くとも、ラミーは卓越した自在師である。悠二が存在の力を提供することを前提とするなら、戦いに役立つ自在法の一つや二つは持ち合わせている筈だった。
 悠二一人では厳しくても、ラミーと協力して二人で立ち向かえばどうにかなるかもしれない――そこまで考えて、不意に悠二の胸の奥がちくりと痛んだ。


『二人で立ち向かえば、何だって出来る――』


 脳裏をよぎるのは、かつて自分にそう言って、悠二の手を引いた少女――シャナの姿。
 炎のように熱く、強く、そして使命感に満ち溢れた彼女が傍にいるなら、確かにどんな危難だって乗り越えられたことだろう。それこそ、マージョリーが相手だったとしても、容易く。
 だが、それは同時に叶わない相談だった。少なくとも、この御崎市で彼女に出会える可能性はかなり低い。

 ……何故なら、シャナにはこの街を訪れるべき理由がないからだ。

 わざわざ確かめたことはないが、多分、間違いはないだろう。彼女にとって御崎市を訪れたのはあくまでも日々の延長であり――つまりは、偶然、気紛れのようなものだった筈だ。
 もしかしたら、今回もまた同じ偶然、気紛れを起こすかもしれない。だが、そんなものを当てにするわけにはいかない。
 そのこと自体は悲しいことだが、まぁ、シャナを探して世界中を旅して回るというのも心の躍る未来ではある。
 本当ならば、今すぐにでも御崎市を飛び出してシャナを探しに行きたい。だがそれは、この街に降りかかる火の粉を全て払った後の話だ。

 全てが終わった後の、世界を巡る一人旅。決して楽なことばかりではないだろう。けれどそんな一つ一つも、きっと笑って乗り越えていけるに違いない。
 そして、やがていつかはバッタリと、どこかの街中で唐突に出会うのだろう――今、視界の先で道を行く、黒衣の少女のような何気なさで。


「……え?」

 
 悠二は一瞬、その姿を自分の空想が見せた身勝手な幻かと疑い……たっぷり一秒ほども凝視して、そうではないと理解した。
 膝ほどまである長い黒髪。幼さの残るその外見には余りに不釣合いな、仰々しい黒いコート。そして何より、強い意志を伺わせる、綺麗に整った横顔。
 それは何もかもが彼の記憶のままの姿で……それを認識した瞬間、思わず悠二は立ち上がり、声を張り上げていた。

「ッ、シャナ!!」

 付近を歩く人達が、驚きの表情で悠二に視線を向けてくるが、構わない。そんなことに気を向けている余裕など、今の悠二にありはしない。
 そして今、悠二の意識の一切を占める少女は、視線の一片さえも向けることなく、ふいとビルとビルの間にある、暗闇の中へと姿を消した。

(そうだ……僕が彼女にシャナという名前をつけたのは、ずっと後のことだったから……!)

 彼女にとって今の悠二は、いきなり奇声を上げた通行人の一人に過ぎないのだ。そしてそんな相手に、わざわざ意識を向けるような少女ではない。
 思わず、悠二は強化した脚力で歩道を越え、車を無視して車道を突破し、少女が姿を消した路地裏までの距離を一息で駆ける。背後からけたたましい騒音が響いてくるが、無視して、そのまま路地裏へと飛び込んだ。



 背筋を走る、氷のような悪寒。
 それがなんなのかを確かめる暇もなく、悠二の身体は反射的に前へと跳ぶ。空中で身を捻り一回転して受身を取り、膝立ちの姿勢で背後を振り返る――と、そこには、太刀を振り下ろした姿勢で目を見開いた、少女の姿。

 つまり彼女は、路地裏へと姿を消した瞬間に上へと飛び、姿を隠した上で悠二を待ち受け……彼が不用意に踏み込んできたところで、頭上から奇襲を仕掛けたのだろう。
 混乱の極みにある頭の中で、それでもどこか冷静さを保っていた部分がそう分析する。驚愕していたのは、まさか自分の攻撃が避けられるとは思っていなかったからか。
 一瞬の自失を乗り越えた少女の、形の良い唇が言葉を紡ぐ。


「――封絶」


 瞬間。
 炎が視界を満たし、何もかもが燃え上がった。

 目に映る全てが、まるで陽炎の中に沈んだかのように揺らぎ……次の瞬間には、深く、そして赤く澄んだ炎が埋め尽くしてゆく。
 足元には無数の文字とも、図形ともつかない奇怪な紋章が駆け巡り、内と外とを隔てる円形の陣を構成する。


 悠二が再び視界を取り戻した時――そこにあったのは、ゆらゆらと揺らめきながらも、赤く凍りつく孤立した世界。
 そして、そんな異常がまるで瑣末事に思えるような、激甚なまでの力を秘めてそこにある、赤い髪の少女の姿。

 少女は、硝子の刃を思わせる目つきを悠二に向けて、ゆっくりと太刀を構える。
 その口から、低く、それでいて不思議とよく響く声が、隠しようもない敵意を込めて発せられた。


「おまえは……何?」



[16588] 1-8 『齟齬』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:5f69fdb8
Date: 2011/10/05 20:33
 その時、少女がそのミステスを見つけることが出来たのは偶然だった。
 電車を降り、駅を抜け、最も人通りの多い通りを歩いていく。途中で見かけたトーチの多さに新ためて気持ちを引き締めて……そして、一際大きく変わった造りの建物に差し掛かった瞬間、不意にシャナはその存在に気がついた。
 じっと周囲の人の流れを見つめている、膨大な力をその身に抱え込んだトーチの姿に。それは余りにも異常な、有り得ざる光景だった。

《……アラストール》
《……うむ》

 少女の、僅かに霜の降りた心の中での囁きに、彼女の師にして友、父にして兄たる "天壌の劫火" アラストールもまた、どこか硬い声で答える。
 本体、トーチというものは "紅世の徒" が人を喰った際、その存在が失われることによる影響を緩和するために作られる。
 一人の人間をただ消し去ってしまうのではなく、徐々に、まるで蝋燭の炎が燃え尽きるようにゆっくりと喪失させてゆくことで、その影響を最小限に留めるための物。既に死んだ人間の残り滓。それがトーチだ。
 したがって、トーチが並みの "徒" を凌駕する、下手をすれば "王" にすら届きかねない存在の力を持つなどということは、絶対に有り得ない。それは強盗をした挙句に、被害者の懐へと大金をねじ込んでやるような行為だからだ。


 有り得ない、異様としか言い様のない光景。
 ……だが、何事にも例外というものはあり、そして少女とアラストールには、そんな例外に一つだけ心当たりがあった。
 その例外こそ、生身の人間が自らの意思か、あるいは誰かの意思によって直接、"ミステス" となった場合である。

 通常、大半の "ミステス" は誰の意思とも関係なく、トーチに対して無作為に宝具が転移してくることで発生する。
 この方法で生まれた "ミステス" は、保有する存在の力の量において、基本的には通常のトーチと何ら変わるところがない。蔵した宝具によっては多少、性質が変化する程度のものだ。

 しかし、例外中の例外として、人間から直接 "ミステス" となったモノ達が誕生する際に得るの力の総量は、"ミステス" になる人間の『運命という名の器』の体積に左右される。
 例えるならば、水瓶のようなものだ。この場合の水とは存在の力であり、大きさはその個体のあらゆる可能性、この世や他の存在への影響力の大きさ――言い換えるならば、人としての全てである。
 この大きさによっては、時として並みの "徒" を超え、"王" すら凌ぐ力を持つ "ミステス" が生まれることも有り得るのだ。かつて少女が対峙した、"天目一個" の名を冠した "ミステス" のように。
 もしも、彼女の視線の先にいる "ミステス" がそうであるとするならば、なるほど確かに莫大な存在の力を持っていることも頷ける。


 だが、
 
 
《その方法で "ミステス" が生まれるには……必ず、どこかで "紅世の徒" の手が入る》


 そう。
 通常の人間にとって "ミステス" などという存在は全く知る由のない知識であり、しかも人間を "ミステス" とするのにも "紅世の徒" の力が必ず必要となる。
 逆説的に言うのなら、この方式の "ミステス" とは、何らかの理由で "紅世の徒" がその "ミステス" が生まれることを望まなければ誕生することはない。
 そして、往々にして "徒" とは即物的な存在であり、彼らが力ある "ミステス" を欲する理由は、大抵が戦力として用いたいがためだ。

《かつて『異形の戦輪使い』という名で呼ばれた "ミステス" がいたと耳にしたことがあるが……その者も、どうやら "徒" に戦闘用として作られたそうだ。
 その力は凄まじく、消滅するまでに "王" を二人道連れにしたと聞き及んでいる》
《アレも、その同類だってわけ?》
《断定は出来ん。
 ……しかし、これほどのトーチがいる街にあれだけの力を持った "ミステス" がいるとなれば、その可能性が最も高いだろう》


 少女は軽く頷いて、彼の言葉を首肯した。
 確かに、"徒" が潜んでいるらしい街で、誰らかに作られたらしい "ミステス" を見かければ、そこに何らかの関係を疑うのは当然の流れである。
 そしてその関係とは、主従のそれが一番に考えられる。――だとするなら。

《あの "ミステス" を捕まえれば……この街に巣食う "徒" の情報を引き出せるかもしれない》
《うむ。見たところ、それほどまでに手強い相手といった雰囲気はない。油断をしていいものではないが、反撃の機をやらねば問題はあるまい》
《なら、やる》

 それきり、少女は口をつぐむと、"ミステス" から外す。
 意識をしている素振りさえ見せない。どこまでも何気ない挙動で "ミステス" の視線を横切り、そのまま目ぼしい路地裏へと入り込み――跳んだ。いや、正確には飛んだ。
 薄闇の中、少女の姿はあたかも掻き消えてしまったかのように、ただの一瞬で陽の光の下へと出る。音を立てずにビルの屋上へと着地すると、顔を出さずに足の裏で気配を探りながら、纏っている黒色のコート――『夜笠』――の中へと腕を差し入れ、引き抜いた。
 かと思えば次の瞬間には忽然と、その手にはコートの容積を完全に無視した大きさの、剥き身の大太刀が握られている。

 仮にあの "ミステス" が、この街に巣食っている "徒" の手勢だとするなら、フレイムヘイズたる自分を見過ごすことは有り得ない。
 報告のために様子を見張るか、あるいは気付かなかったことをこれ幸いと奇襲を仕掛けてくるか。どちらにせよ、彼女の姿を追ってこの路地裏へと足を踏み入れる筈。少女が罠を張っているとも知らずに。


 案の定、路地裏の中に慌しげな気配が流れた込んだ。
 少女は太刀をきゅっと握り、一息に飛び降りる。


 重力に従って落下する彼女の足元には、真上から襲い掛かられているなどとは露も思っていない様子の、間抜けな "ミステス" の姿。
 少女はその無様さを嘲りつつ、肩に担ぐようにした太刀の狙いを "ミステス" の肩口へとつけて……刀身へと意識を働かせた。
 いくら "ミステス" といえど、致命傷を受ければ命を落とす。そして彼女の目的は "ミステス" の殺害ではなく戦闘能力を奪うことだったから、このまま切りつけてしまうわけにはいかない。
 よって、その刀身が狙うのは生身への攻撃ではなく、"ミステス" の身体を形作る、自在式そのものへの干渉。

 少女は血の一滴も洩らさず、しかし一太刀にして両断する意思を持って、無防備な背中へと刀を振り下ろし――当たり前のようにあっさりと、刀身が空を切った。


(な)


 それも、少女が目測を誤ったのでもなければ、運剣を誤ったのでもない。どちらかであったとしても、彼女にとっては断じて許し難い失態であったろうが。

 相手は、少女の刀を避ける形で、前方へと跳んでいた。
 それだけに留まらず、宙でくるりと身体を捌き、着地した時には既に体勢を整えている。


(何故――?!)


 彼女が切りかかる瞬間、あの "ミステス" は少女のことを認識していなかった。それは間違いなく断言出来る。
 そしてその背中には、後一歩というところまで迫る太刀。そんな状況から無傷で逃れることが可能な人物など、少女の知る限りではたった二人。彼女の師をおいて他にはいない。いなかった、というべきか。
 それだけに、この『完璧に奇襲が成功したにも関わらず避けられた』という現実は、衝撃となって彼女の心へと圧し掛かった。


 だが、それでも少女は『炎髪灼眼の討ち手』である。
 彼女を育てた人達と、彼女自身がかくあるべしと望んだ理想のフレイムヘイズ。ならばここで、ここで無思慮な自失に呆けていていい道理はなかった。

 奇襲は破れた。
 ならば次にするべきは不意打ちによらず、ただ正面から自分の全力を持って相手を打ち倒すこと。最悪の場合、捕まえることを諦めることも視野に入れて。
 瞬時にそう判断した少女は、自身の身の内に滾る "存在の力" をほんの一欠けらだけ摘み上げて、燃やす。

 意思を導線に、炎を燃やし、煌かせ、形作る。
 複雑に絡み合い、びっしりと稠密に彫り込まれた溝の中に焼けた鉄を流し込む感覚。
 自身が望む自在法。その形を整え、作り上げた式を周囲の世界に浸透させる。


「封絶」


 瞬間、紡いだ力が、動き出した自在式が、湧き出した自在法が、
 世界の全てを内と外から切り離し、陽炎のように揺らめく凍りの世界へと作り変えた。

 封絶。自在法によって作り出された因果孤立空間の中においては、"徒" や "燐子" 、フレイムヘイズ、そしてそれらに関する物体以外の動作や意識が停止する。
 紅蓮に煌く火の粉が舞う中、人も、動物も、ビルも何もかも。あらゆる全てが静止し、しかし少女と、その相手たる "ミステス" はゆっくりと息を吐いて、視線を交わす。


 ――不意に、少女の脳裏を奇妙な違和感が襲った。


 いかな "ミステス" といえども、封絶の影響からは逃れられない。例外があるとすればそれは特殊な処置――戦闘を前提とした "ミステス" が封絶に止められていては話にならないので――を施された場合であり、その意味において、この "ミステス" が当たり前のように動いていることは、何ら驚くべきことではない。
 だから、少女が違和感を覚えたのは "ミステス" が当然のように動いていることではなく、もっと別のことだった。

 少女にとってもそうであるように、この "ミステス" にとって、彼女は相容れない敵の筈である。
 なのに不思議と、その顔には少女が慣れ親しんだ表情。敵意の色がまるで含まれていないのだ。それどころか、どこか彼女に対する好意のようなものさえ伺えるではないか。
 てっきり、相手もまた憎しみと敵意を向けてくるであろうと思っていた少女は僅かに毒気を抜かれて――それでも剣先と敵意を揺るがさず――意識せず、疑問をそのまま舌の先へと乗せていた。
 
 
「おまえ……何?」






◇◆◇◆◇






(おまえ、か。その呼び方も何だか懐かしいな。まったく、あの子らしいというか何というか……)

 まるで彼を人間と思っていない、それこそ物にでも語りかけるような無造作さで言葉を発した少女に、場違いにも悠二は心の中で苦笑を洩らした。勿論、実際に表情に乗せるなどというような真似はしない。彼はガソリンの海の上でマッチを擦るような、そんな馬鹿者ではないつもりだった。

(……それも、どうやら本当に『つもり』でしかなかったみたいだけど)

 これまで少女を含めて、周囲の人達からそのことで奇異の視線を向けられたことがなかったのでつい失念していたが、考えてみれば、今の悠二の力はトーチの常識に収まらない程に、強い。
 そんな自分の傍を通りかかっておきながら、しかし見逃す。よりにもよって少女が。
 そんなことがあるわけはないと、何より知っている筈なのは彼であり、そのことに、こうして実際に剣を向けられて初めて気付くというのはいかにも馬鹿げた話だった。不意打ちを避けられたのも、悠二に戦い方を教えてくれたのが他ならぬ少女であり、手の内を無意識で反応できるほどに把握していた。ただ単に、それだけのことに過ぎない。

(まぁ、気付いていたとしても、どっちにしろ飛び込んだんだろうけども)

 だがたとえ、危険があると分かっていたとしても、少女を追わないという選択肢は悠二の中にはなかっただろう。
 それこそ、強敵の大群が待ち構えていたとしても。だから行動そのものに後悔はなかったが、自分を恥じる気持ちと無縁ではいられない。しかし、そんな感情は後回しで、今は対処せねばならないことがあるのだった。
 ひとまず悠二は、少女を刺激しないようにゆっくりと両手を上げて、そのまま思考を巡らせる。
 そんな彼の様子に少女はちょっと眉を動かし、しかし動こうとはしない。ただ、視線を強くしただけだ。


(やっぱり。どうも、彼女の方から積極的に僕を消そうという気はないらしい。
 なのに奇襲を仕掛けてきて、しかも、敵意をまるで見せていない僕に対して、一向に戦意を緩めようとする様子もない。つまり、彼女からすれば僕は敵と見られているってことだ。
 それなのにわざわざ言葉を交わして、襲い掛かろうともしない。敵なのに、倒さない。そんなことをする理由はなんだ?
 ……何か、僕から引き出したいことがある? それも、この場合はどちらかといえば情報……。いや、そうか。つまり彼女は、僕のことをこの街にいるであろう "徒" の手下だと思ったわけだ)

 フレイムヘイズは基本的に、どこか特定の場所にトーチが多く密集していれば、そこに "徒" も潜んでいると考える。
 そしてこの御崎市には異常な程にトーチの数が多く――しかも既にここを拠点としていた "徒" が既に討たれているなどとは知るよしもないから、そこで悠二のようなトーチを見つければどう判断するかは、想像に難くない。
 最初の奇襲は、抵抗力と心理的な余裕を奪い取るための攻撃。たて続けに攻撃を仕掛けなかったのは悠二が反撃の素振りを見せなかったからで、口を開いたのは、そんな彼を不審に思いながらも、情報を引き出すという目的あってのことだろう。もしも悠二が敵意を見せていたら、きっと言葉を用いようなどとは考えずに、そのまま戦いとなっていたに違いない。
 ならば悠二がするべきなのは、彼女に自分が "徒" とは無関係な人間とは思わせること。もしくは、ここで討つのは得策ではないと判断させること、そのどちらか。


「……答えなさい。おまえは何? 誰の命令で私を追いかけてきたの?」
「命令? いや、ちょっと待ってくれ。君が何を言いたいのかが、まるで分からないんだけど……」

 悠二の言葉を、下手な言い逃れだと思ったのだろう。少女の双眸が細められ、睨むようになる。

「誰かの命令じゃないっていうのなら、どうしておまえは、私の後を尾けたりしたの? あまりふざけたことばかり言ってると、次はその腕を切り飛ばすわよ」
「どうして、って言われても……」


 悠二は軽く狼狽している風を装いながら、素早く頭の中で思考を回転させていた。
 少女の様子を見つめながら、言葉を選ぶ。ここが正念場ということを理解していたからだ。


「……君が、他の人とはどこか違うような気がしたから」
「……はぁ?」

 悠二の言葉に、少女は虚を突かれたような、呆れたような顔をする。
 それは当然の反応で、彼は構わず続けた。

「この感覚が、何なのかはよく分からない。
 けど色んな人を見ていると、たまに妙な違和感や、力の流れみたいなものを感じる時があって……それが君を見た時に、とても強く感じられた。
 だから、確かめようと思ったんだ。この感覚が何なのか」



 数秒の沈黙。
 肌がぴりぴりと粟立つような静寂が過ぎ、無表情に悠二を見つめ続けていた少女が、不意に小さく呟いた。

「…………そう」

 呟いて、向けていた刀をすいと外す。同時に、それまで少女から向けられていた敵意も、潮が引くように薄れていった。
 それでも一度たりと外すことのなかった視線が、落ち着き払った様子でぴたりと悠二の目を捕らえる。
 
「つまり、おまえは何の知識もないけど、それでも何か違和感を察知する感覚を持っていて、それで私を追いかけてきた。そういうことで間違いないのね?」
「ああ、それで間違いはないよ」
「……なら、いいわ。そういうことなら、私もおまえにいくつか聞きたいことがあるから」


 言って、少女が指を振る。
 途端、光と衝撃が沸き起こり、悠二はいきなり街中の喧騒に包まれた。
 陽炎の火線も、炎の紋章も無い、ごくごく当たり前の、普通の世界。気付けば少女の髪は燃え立つような赤から、普段の黒へと戻っていて、しかも悠二に背を向けて歩き始めている。

「ついて来なさい」

 少女はちらりと彼を振り返り、小さく告げた。
 その言葉に従いながら、悠二は思わず、しみじみと心の中で呟いていた。
 
 
 ――やっぱり自分に、演技の才能は無いな。と。






◇◆◇◆◇






《嘘ね》
《……だろう、な》

 少女の背後を静かについてくる "ミステス" 。それに意識を向けながら、彼女は鋭く断じていた。
 その口調は明快過ぎるほどに明快で、迷いの様子が一切無い。もしも誰かがそれを聞いたなら、きっと抗弁の無意味さを、一瞬で悟ったことだろう。

《何の知識もない奴があんな状況に陥ったら、まずは絶対に動転する筈。なのにあいつは、あまりにも落ち着き過ぎていた。
 最初の攻撃を避けたのだって、そう。並みの "ミステス" ならあんな動きは出来っこない。"存在の力" の規模が大きすぎる理由の説明にもなっていない》

 そこまで分かっているのなら、何故その言い分を聞き入れたのか。
 それは別段と難しい話ではない。要するに、そういった点を一つ一つ指摘していったとしても、無知というスタンスを貫かれる限り、いくらでもしらばっくれることが可能だからだ。
 無論、知らぬ存ぜぬを押し通されたとしても、ただ消すだけならば問題はない。そのこと自体は簡単で……だが、そうしたところで少女に大きなメリットがないのも確かなのだ。

《消すのは簡単。でもそうしたら親玉の手掛かりは手に入らないし、脅したところでそれが通用するような雰囲気でもなかった。
 だったら、むしろここは相手の嘘に乗っかってやればいい。『この程度の嘘に引っかかった間抜けなフレイムヘイズ』として振舞ってやれば油断をする。油断があればボロも出る。
 後はこの "ミステス" を見張って、その瞬間を待つだけ。尻尾を掴み次第に一網打尽にする。……どう? アラストール》
《ふ……む……》
《……アラストール?》

 どことなく渋い様子のアラストールに、少女は顔を曇らせた。
 自分は間違いをしたのだろうか。そう思って、問い返そうとした矢先、
 
《……いや、お前の判断は正しい。胸を張って構うまい》
《それなら……いいんだけど》

 返された言葉に、どこか釈然としない様子で少女が頷く。






 この時、アラストールの脳裏にあったのは、かの "ミステス" の眼差しの奥に浮かんでいた色が、どこか見覚えのある気がしていたことだったのだが、結局、彼はそれを気の迷いだと結論した。
 後になって、二人共が全く自然と、得体の知れない "ミステス" に背を向けていたことの異常さに気がついた時、その答えを思い出す結果となったのだが。
 それはまた、別の話である。



[16588] 1-9 『再燃』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:5f69fdb8
Date: 2011/10/05 20:34
 ……曰く、世界には人の中に隠れ、誰からも気付かれずに人を食い荒らして回る化物がいる。
 そんなことを言われれば、普通は端から笑って信じないか、あるいは運悪く信じざるを得ない状況に放り込まれたとしても、狼狽してパニックを起こす者が大半だろう。
 だが、悠二はそのどちらでもなかった。落ち着いて相槌を打ち、的確に情報をまとめていく。とっくに知っていた話なので、当たり前のことではあるのだが。

(表面上だけでも驚いてみせるべきだったかな……)

 先ほども考えたことをちらりとまた考えて、そして再び否定する。
 心の中では全く驚いていないのに、表情や仕草で驚いたように振舞うという、そんな器用な真似が出来る自信は悠二にはない。
 今現在の彼の振る舞いは少女の中の疑いをより一層深める結果にはなるだろうが、どのみち既に疑われきっているのだ。何を今更、というところだろう。

 ……まあ、それに。
 無理からぬことだったとはいえ、かつて同じことを悠二が聞かされた時には、ただ驚きうろたえるばかりだったという、散々な醜態を晒してしまっているのだ。
 せめて今回ぐらいは、一人の少年として彼女に対して格好をつけたかったという感情もある。それが一方通行な感情であるにせよ、だ。


 悠二は行き交う人の流れ、その内の一人と肩が触れ合う寸前でひょいと身をかわし、傍らを歩く仏頂面の少女に視線を向ける。
 そよ風を孕んで揺れる黒髪は、まるで極上の和紙に墨を流して梳ったかのよう。そんな清澄さとは裏腹に、時折、躍動的にぱさりと弾ける数房が、痩躯の中に眠る埋み火を思わせる。
 呆っと、数秒ほどもその光景を眩しそうに眺めた後、彼は名残惜しそうな声を少女の肩へと投げかけた。

「つまり……君はその "紅世の徒" を退治している、フレイムヘイズという集団の一員、ってことでいいのかな?」
「概ね、その認識で間違いはないわ。……まぁもっとも、フレイムヘイズは基本的に自分の力だけを頼むし、戦いに向かう事情や理由もそれぞれ別だから、集団というほどに纏まりはないけれど」

 少女は面白くもなさそうに――しかし質問には丁寧に答えながら――じっと前を見つめたまま、淡々と言葉を返した。
 そこには殊更の冷徹さや、冷淡さの色は含まれてはいないのだが……それだけに、無感情な言葉の端々から、悠二に対する敵意や警戒心がより一層伝わってくる。
 それが自分の錯覚ではないことを彼は理解していたが、それでも苛立ちや憎しみのような感情は、ちらとも湧いてはこなかった。前に向き直り頬を掻いてから、邪気のない苦笑いを浮かべる余裕さえある。


 悠二にとって既に既知である事柄について再び説明されることは、実は決して無駄なわけではない。こうして説明を受けることによって、知らない筈の知識を口に出してしまう危険性を減らすことが出来るからだ。同時にそれは、少女に対してもそれらの知識に立脚した行動をとることが可能となることを意味している。
 だがそんな理屈よりもまず、こうして彼女と会話すること、そのものへの楽しさが先に立つのも確かなのだ。
 両脇を流れる雑踏の中にあって、しかし決して紛れ込むことのない少女を意識しながら、悠二は胸の中で穏やかに灯る充足感を噛み締める。
 


「……おまえ、ちゃんと聞いてるの?」

 そんな風に、ぼんやりと心の内を漂っていた悠二を、鋼のように硬く冷たい声が引き戻した。
 ぎくりと肩を揺らして視線を向ける、と。そこには声から受ける印象そのままの表情が、先ほどよりも一歩踏み込んだ距離で、ぴたりと彼の瞳を捉えている。
 吐息が頬にかかるほどの距離ではないにせよ、急に近づいてきた少女の顔に、悠二は思わずどくんと跳ねる胸の内を鎮めながら、慌てて両手を顔の前で振った。

「も、もちろん! ちゃんと聞いてる、聞いてるよ!」
「……あ、そ」

 悠二の慌てぶりに呆れたのか、それとも、元々あまり興味がなかったのか……少女は短く言い捨てて、ふいと視線を外す。
 その仕草はどことなく不機嫌そうで――彼は表情を固まらせたまま、凄まじい勢いで頭の中で思考を巡らせて、少女の機嫌を取り戻す手段を模索しようとしていた。


 だが、悠二のその必死の思考も、結局は無駄になる。
 彼が、それこそ戦闘中並みの集中力で考え終え、思いついた行動を実行に移そうかと真剣に検討したその矢先に――ちなみに、その思いつきとは、メロンパンを買ってきて食べさせるなどという、非常にどうしようもないものだったりする――再び口を開いた少女が悠二に向けて、凛とした声を響かせたからだった。



「そういった事情を踏まえた上で、私からひとつ、提案したいことがあるわ。
 ――おまえ。私がこの街に潜んでいるであろう "紅世の徒" を倒すのに、力を貸す気はない?」






◇◆◇◆◇






「……おまえにはどうやら "紅世" に関わる事柄への優れた感覚があるみたいだし、この街で過ごしてきた経験もある。……おまえの協力があるなら、この街で人を食らっている "徒" を、迅速に討滅することが出来るかもしれない」

 本来、フレイムヘイズが人間を味方に引き込むことはあっても、"トーチ" を味方とすることはない。
 それにはいくつかの理由があるが、最たるものとしては、"紅世" に関わる者たちの共通認識たる "トーチ" への軽視が挙げられるだろう。

 "トーチ" とは、かつては人間であっただけの、生前の姿の絞りかすに過ぎない。
 それが正しいかはともかくとして、少なくとも彼らはそう認識している。フレイムヘイズとしてはどこまでも純粋な存在たる少女もまた、同様に。そしてそれは、"トーチ" が "ミステス" であったとしても、変わるものではない。
 
 
 ならばどうして、彼女は協力などを申し出たのか。
 無論、この街に潜伏しているであろう敵の情報を得るため――ではない。これまでの戦いの中で、少女がただの人間に対して事情を説明した上で協力を迫る……などということは一度としてなかったし、今後もまたそうであろう。それだけに、彼女は協力者など求めずとも、敵を狩り出す術を心得ている。
 ならば戦力としてかといえば、これも違う。全身にでかでかと黒文字で『怪しい』と書いているような相手に背中を任せるなど狂気の沙汰だし、そもそも、少女自身が他者の助力など必要としないだけの実力を備えているのだ。
 
 つまるところ、彼女の方からただの "トーチ" や "ミステス" に対して、協力を請う必要性はどこにもない。
 しかしそれが 『無関係』な "ミステス" ではなく、『敵の手下』である "ミステス" ならば、話は別だった。
 
 
 
 多くのフレイムヘイズがそうであるように、殆どの "紅世の徒" もまた、フレイムヘイズを討とうとする。
 それは別に難しい話ではなく、放埓気侭に生きることこそがこの世界における存在意義である "紅世の徒" にとって、彼らを討とうとするフレイムヘイズは邪魔者以外の何者でもない。
 とすれば融和を望むか戦うかだが、大抵の "徒" の願望と、フレイムヘイズの使命感は共存し得ないものである。ならば残るのは闘争のみであり、戦うからには勝たねばならない。そして勝つためには、相手の不意を突くのが一番である。

 その発想が行き着くところはつまり、不意を突くために必要な――情報を手に入れること、そして不意を突けるだけの状況を構築すること。


 とはいえ、"紅世の徒" とフレイムヘイズとでは、戦いに望む理由が決定的に異なる。フレイムヘイズが使命感や責務で戦うのに対して、"紅世の徒" はただ、自らが放埓に振舞うのに邪魔な存在を消し去ろうとしているに過ぎないのだ。
 従って、"徒" によっては、もしも情勢が不利と見たならばあっさりと逃げ出すことも十分に有り得るだろう。



 だがもしも……仮に、その相手が、かくも穴だらけな言い逃れに、あっさりと騙されるような間抜けであるならば。
 そしてその相手の側に、自分の配下を紛れ込ませることが出来ていたならば。

 ……果たして、彼らは敵に背を向けることを良しとするだろうか?
 
 
 ――考えるまでもない。
 彼らにとって、それはまさしく好機。万全の体制を敷いた上で、愚かしき敵を討とうと動くことだろう。それが彼女の望むところとも知らずに。
 彼女にとってはどのような陥穽、姦計が巡らせれていようとも、恐れるには値しない。むしろ、敵が動くということ、そのものを討滅の好機とさえ捉えている。
 
 だからこそ、少女はこのいかにも怪しげなミステス――それこそ、敵の一味としか思えない程に――に対して、律儀にも質問に答えてやっていたのだ。可能な限り自然に、この一言を切り出す、その代価として。


(さぁ……こいつは私のこの言葉に、どう答えてくる?)


 僅かに驚きの色を浮かべて、それでも頭の中で考えを巡らせていると思しき "ミステス" の姿を見やりつつ、少女は心の中でそう呟いた。
 もしもこの "ミステス" が、彼女のことを馬鹿だと判断したなら、首を縦に振る筈である。
 だが、仮にそうでないとしたら。少女の発言を擬態と見抜いたのなら……首を横に振るだけでなく、この場、この瞬間に襲い掛かってくる可能性さえあるのだ。

 少女がじっと静かに一挙手一投足を見つめる先で、"ミステス" はそのまま数秒程も考え込む様子を見せて……やがて、顔を少女へと向けた。
 そこに浮かんでいる表情は、微笑み。
 それを見て取った時、少女もまた笑った。炎のような華やかさと、獰猛さの入り混じった笑みで。……そして、続けられた一言に、彼女のそれが訝しげに細められる。


「分かった。僕で良いのなら、君の戦いに協力させて欲しい。
 それで、その代わりって訳でもないけど……これから協力するんだし、出来ればその『おまえ』って呼び方は変えてくれないかな?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ。これでも僕には、『坂井悠二』っていう名前がある。だから、今度からはそっちの名前で呼んで欲しいんだ」
「別に――」

 ――おまえの名前なんてどうでもいい。
 そう告げようとして、ふと少女は口を噤んだ。
 
 所詮、"ミステス" はかつての人間を模しただけの、モノに過ぎない。彼女にとって、"トーチ" や "ミステス" などは路傍の石にも等しい存在なのだ。そんなものの名前など、いちいち把握している必要性はまるでない。
 まして、そう遠くない内に滅ぼすであろう相手の名前を覚えるなど、それ以上に馬鹿馬鹿しい。

 なのだが、表面上に過ぎないとはいえ、一応は協力関係にある相手の申し出であり、それをそんな理由で突っぱねるのは不自然である。
 従って、その無意味さに辟易しつつ、それ以上に、そんな相手にとっても無意味である筈の申し出をわざわざしてきたことを訝しみつつも、彼女は頷かずにはいられなかったのだ。
 
「……そ。じゃあこれからは、おまえのことは坂井悠二と呼ぶことにするわ」
「ありがとう、助かるよ。それで、君の名前は?」
「…………え?」
「だからさ、君の名前だよ。僕のことを名前で呼んでくれるんなら、君のことも名前で呼ばなくちゃ居心地が悪いだろ? 『フレイムヘイズ』っていうのは、君みたいな人達全員の呼び名なんだろうし」

(私の……名前?)

 その言葉を聞いた時、少女の顔が不意に曇った。
 凛々しさの中に、僅かに不興の色を浮かべていた表情が陽炎のように揺れる。

 他者との関わりが極めて希薄な彼女にとって、名前というものの価値はそもそもが低い。自分に確固たる名前がないという事実にさえ、今の瞬間まで意識に上らせたことはなかった。
 自身が望み、他者からも望まれたのは、ただ使命感によってのみ動く『理想のフレイムヘイズ』として在ることであって、他の意味を求めたことは一度としてない。
 なのに何故、不意に心が揺らいだのか。

(そういえば……誰かに名前を聞かれたことなんて、今まで一回もなかった)

 そう、たかだかそれだけのこと。単に慣れないことをされたために、驚いただけ。何の意味もない、つまらない感情だ。
 そう理性で判断しながらも、少女は自分でも意識せずに、胸元の『コキュートス』を手でもてあそびながら、小さな声で答える。

「私は、このアラストールと契約したフレイムヘイズ、それだけよ。それ以外に、名前なんかない。
 一応、他のフレイムヘイズと区別するために、"『贄殿遮那』の" って付けて、呼ばせてはいたけど」
「『贄殿遮那』? それは……物か、何かの名前?」
「そうよ。さっきにも見せたけど、私が持っている大太刀の名前」
「そっか」

 "ミステス" ――坂井悠二はそう言うと、どことなく楽しそうな、それでいて何かを懐かしむような、そんな不思議な表情を浮かべる。
 彼はいつの間にか少女の前に出ていた、雑踏の中を歩む足を一瞬止めて、肩越しに彼女を振り返った。


「じゃあ僕は、君のことを『シャナ』って呼ぶことにする」
「……。勝手にすれば」

 答える声は、揺れていない。心底つまらなそうな、どうでもいいような響きに満ちている。
 そう、名前などどうでもいい。どうせこの街を離れればすぐにでも忘れ去り、誰も使うことがなくなるような、言葉の羅列に過ぎないのだ。
 フレイムヘイズの少女――シャナは、心の底からそう考える。どうでもいい、呼び名など。



 けれど――不思議と、嫌な感じはしなかった。



[16588] 2-1 『交錯』
Name: 草冠◆9820a1fa ID:a7ecba75
Date: 2011/10/26 01:39
 ふと、マージョリー・ドーは往来を行く足を止めて、青く瞬く夜空を見上げた。
 たかだか百年と少し前までは明瞭だった星の輝きは、過ぎ去る時の流れに押しやられ、今ではくすんだ光を細く地上へと映すのみ。
 恐らくは何百年もの年月をかけて、今この時に辿り着いたのであろうそれが、自身に課せられた悠遠な時間と重なる錯覚に、彼女は僅か眉をしかめた。
 
 街という奴は、生き物に似ている。
 物と者の血潮を巡らし、呼吸をするように金を吸い、発展という名の成長を遂げる。

 ならばせいぜい生き物らしく、夜にはきちんと寝静まったらどうなのだ――そんなことをボンヤリと考えて、マージョリーは鼻を鳴らした。
 
「……ハッ、そりゃ夜中を堂々出歩いてる、私の言えた義理でもないか」
「ヒャヒャヒャ! 月夜を肴に考え事かね。我が遠大なる哲学者、マージョリー・ドー?」
「お黙り、バカマルコ」

 突然響いた男の声に、道行く人々の何人かがギョっとした視線を向けるも、彼女はまるきり気にした様子もない。
 ただ、肩から提げた巨大な装丁の本を、少し乱暴に手の甲で叩いたのみで、向けられた視線の全てを黙殺する。向けた側も、何気ない彼女の様子に携帯か何かなのだろう、と勝手に思い込むと、それきり興味を失ったように自分の世界へと戻ってしまう。
 それら反応をいつものこと、と割り切るマージョリーは、つまらなげな視線を街並みに注いだまま、表情同様のつまらなげな声を発した。
 
「ったく、ミサキ市……だっけ? 何だってラミーの野郎も、こんな街を逃げ込む先に選びやがったのやら」
「そりゃまー、あれだろ。こんだけトーチの数が多けりゃ、あの腰抜けもついつい色気を出そうってもんだろうさ」
「んなことは分かってるわよ。付け足すなら、これだけの大喰らいの "徒" が、まだこの街に居るだろうってこともね」

 憎憎しげに、ぼやく――戦いを前にして、常の彼女からは珍しいことと、付き合いの長い彼、本型の神器 "グリモア" に意識を表出する "紅世の王" マルコシアスは訝る。
 
「我が消沈たる荒熊、マージョリー・ドー。久々の戦いにしちゃあ、ちっとばかし火付きが悪いと思うんだが?」
「……これから気分良く酒を呑もうってのに、いきなり横から水をぶち込まれたりしちゃあ、堪んないでしょうが」
「ヒャヒャ、そりゃお前さんがいつもやってることじゃねぇかブッ?!」
「バカマルコ。自分でやるのと、見知らぬ無礼者が横合いから、ってのは全然違うわよ」

 相棒の問いに面倒臭げに答えたマージョリーは、立ち並ぶビルの内の一つ、そこに嵌ったガラスの一枚が映す月の姿を何とはしに眺めた。
 冴え冴えと薄青い陽を照り返すそれは、今も昔も変わらない。何気なく口にしたことだったが、存外、それは酒という奴も同じなのかも知れなかった。少なくとも彼女の知る限り、酒は何時の世も変わらず、彼女を戦いの高揚とは異なった、緩やかな酔いを与えてくれる。

「……。結局のトコ、フレイムヘイズにとっては酒が一番の友なのかもね」
「ケーッ、何だかんだと理屈をつけて、要するに自分がただ呑みたいだけじゃねぇか!」
「そーいうこと。そんじゃあ行きましょうか、とっとと今夜の宿を見つけて、月見酒と洒落込むわよ。マルコシアス」

 鮮やかに笑う女性と、苦々しげに渋る男性の二人組。
 フレイムヘイズきっての殺し屋、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーと、彼女に契約し力貸す "蹂躙の爪牙" マルコシアスは、夜のしじまに紛れ込んで、街明かりの中へと消えた。
 
 
 
 
 
 
◇◆◇◆◇






 居慣れた自室で、坂井悠二は机に向き合い座ったまま、手にしたペンをくるりと回す。
 時刻は既に二十二時と少し、姿だけ見れば勉学の途中とも見える格好でありながら、机上には参考書の類はない。手にしたペンにしてからも、掌中で弄ぶ以上の挙動を見せる様子もなく、ただ何の気なしに手にしているだけ、という心向きが見て取れた。
 
 それもその筈、彼が頭を働かせていたのは今後の活動方針であり、言うなれば己を含む街の身命を賭けた思索である。重要でありながらも気楽という、深刻性のない学業についてではないのだから。
 悠二は真剣な視線を白紙のノートに注いだまま、脳裏で思考を検分する。
 
 
(当面の目的――今後、御崎市の被害を最小限に留める――を実現する為に超えなくてはならない障害は、大きく二つ……いや、三つか)


 現時点で、悠二が記憶する御崎市に被害を齎す可能性の高い、 "徒" 関連の出来事は、大きく分けて三つある。



 一つ目は、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーによる、"屍拾い" ラミーこと、"螺旋の風琴" リャナンシーの追走劇。
 この二人は御崎市に対し、少なくとも害意を抱いてはいない。特に後者については、そこらのフレイムヘイズ以上に気を遣っているくらいである。前者にそこまでの配慮は望めないが、だからといって無作為に暴れ回ることもあるまい。そういう意味では放っておいても構わないのだが、ある二つの事情から、そういう訳にもいかなかった。
 
 事情の一つとしては、リャナンシーの蓄える "存在の力" が、極めて莫大であることと、それを統御する方式が、彼女独自の技巧によるものであること。
 仮にリャナンシーが討滅されてしまえば、その莫大な力を制御する箍が外れ、中身が氾濫してしまうことで、甚大な被害を引き起こす可能性が高い。
 既に "狩人" フリアグネが蒐集していた『宝具』の数々は、『玻璃壇』も含み回収済みであることを思えば、悠二が何もしなくとも、彼女が逃げ切る公算は少なくないのだが……かといって、それは座視して何もしない理由にはならないだろう。
 
 またもう一方の事情は、これは彼個人の私情によるものが大きかった。
 以前の生では、両者共にそれぞれ恩義があり、友誼もある仲。悠二に出来得る範囲で、二人の問題を解決したい――あわよくば、助力を仰ぎたいとも思っている。
 なればこそ、両者に対して高い確率で関わりを持つことの出来る、今この時を見過ごすべきではない。

 面倒なのは二人が必ず訪れるとは断言できないことだったが……リャナンシーの目的――消えかけのトーチをより多く摘む――を達成するには、トーチで溢れ返った現在の御崎市を見過ごすとは考え難い。ならばそれを追って、マージョリーが現れる可能性も高いだろう。最低でも、リャナンシーと出会える確率は十分にある。
 
(リャナンシーと接触することが出来れば、戦力としてアテには出来なくとも……自在法について教えを請うことも出来るだろう。
 彼女は天才肌だから教えるのは得手ではないだろうけども、僕自身が独学で、というよりも遥かにマシな筈だ。それに、他にも頼りにしたいこともあるし……)
 
 薄く流す思考を乗せて、悠二の視線が自室にある物置へと向けられた。
 その中には、彼がかつて集めていた多種多様な、そして今では手に取ることもない玩具に混じって、極めて重要な代物が放り込まれている。

(……あれの扱いにも悩んでいたけれど、彼女の手を借りれればどうとでもなるだろう。
 協力を取り付けるために提示できる対価としては、『零時迷子』で回復する僕の "存在の力" が使える。莫大な力を欲しているリャナンシーなら、無視する訳には絶対に行かない筈。そこからは条件次第……だな)
 
 とはいえ、その交渉についても大方は問題がない、と悠二は判断していた。
 むしろ問題となるのはその前段階、如何にしてマージョリーを抑え込み、リャナンシーに対する今後の攻撃を控えさせるか――幾つかの案はあるにはあったが、どうにも決め手に欠けるのが現状である。
 
 
 
 二つ目の出来事は、"愛染自" ソラトと "愛染他" ティリエル。そしてそれに同道する、"千変" シュドナイの一行。
 実を言うと、この三者に対抗する方法は今の今まで考えていなかった。悠二が直接相対したことがなく、その情報は主にシャナから聞いたのみで――その上、御崎市で出会うことは恐らくあるまいと、そもそも視野の外に置いていた為である。
 
 彼らの目的は、御崎市そのものでも、この周辺にある何かでもない。それどころか『誰か』ですらなく――シャナの持つ大太刀、『贄殿遮那』を自らの物とすること。全く馬鹿馬鹿しく、そして実に "徒" らしい望みだった。 
 これを阻む為にはどうするか。阻むか否かはそもそも考えるまでもないと、悠二の思考は強風に吹かれる風車のように回る。

 "愛染自" だけに関して言えば、実は考えるまでもない。
 優れた剣技と、武装としては極めて厄介な宝具たる『吸血鬼』を持つとはいえ、所詮はそれだけの相手。『吸血鬼』に関していえば悠二がかつて愛用していた剣なだけに、封じ込める手段は簡単に思いつくし……そもそも、相手が "愛染自" のみであるのならば、悠二が出る幕でもない。それこそシャナに任せておけば、彼以上に上手くあしらうだろう。
 
 
 悠二が思考を向けるのは、"愛染自" 以上に、その妹たる "愛染他" の存在である。
 卓越した自在師であると同時に、極めて厄介な彼女独自の自在法、『揺りかごの園』による "存在の力" の常時供給。
 一度完成されてしまえば崩すのは容易ではなく、恐ろしく不利な状況で延々、戦い続ける羽目になる。
 
(まぁ、それでも戦いようはある。だけどどう戦うにせよ……急所になるのは、やはりシュドナイの存在か)

 そして最大の戦力にして、最も対処に心を砕かなくてはならない相手、"千変" シュドナイ。
 そもそも今回もまた共に現れるのか、という疑問はあるが、仮に彼がかの兄弟の護衛についていた場合、最悪、悠二たちはこの怪物を相手にしなくてはならない。
 個人の武勇は恐らく、全ての "徒" とフレイムヘイズの中でも最強の一人に位置し、加えて慢心も少なく、こと戦となれば豊富な経験を生かして、常に状況を冷静かつ明哲に分析する頭もある。全く、化け物と呼ぶより他ない強敵。
 もしも相手が彼一人で、こちらがマージョリーとシャナ、彼自身を含む三人で戦ったとしても恐らく、彼ならば跳ね除けて見せるだろう。
 
(付け込む隙があるとするなら、それはシュドナイじゃない。彼の後ろにいて、彼を使う立場にある "愛染の兄妹" の油断こそ、か)

 そんな怪物をかつて一度は退かせることに成功した理由は、ひとえに "愛染の兄妹" の失敗にある。
 最大の戦力たるシュドナイを自ら引き離して『揺りかごの園』の要を守らせ、かつ自身は二人で標的と戦う。
 それはひとつの作戦としては間違いではない。しかしその判断があったからこそ、"愛染の兄妹" とシュドナイを各個に対処する、という幸運を得られたのも事実。恐らく、発案したのはシュドナイではなく "愛染の兄妹" の側だろう。
 その推察から得られる情報を元に、伝聞でのみ聞き及んでいた敵手の姿について考察をする。
 
(……強いな自負があり、それに見合うだけの実力と、分析能力を備えてもいる。
 どちらかといえば結果よりも、その過程に楽しみを見出すタイプだろうな。『贄殿遮那』の奪取をシュドナイに任せず、二人だけで実行した辺り、そんな性格が見え隠れする。
 こういう奴は基本的に自信家で、しかも大なり小なり嗜虐の気がある奴が多い。 "愛染の兄妹" についてシャナは能力以上のことをあまり語りたがらなかったから、確認のしようもないけども。
 もしも僕の推測が正しいとすれば、付け込むチャンスは作り易いな)
 
 そこまで考え終えると、悠二は椅子に座ったまま、軽く身体を起こして椅子を軋ませた。
 おおよその方針は固まっている。後は来るか、来ないか。来るとして、その陣容はどうなっているのか。それに合わせて、再び考えるべきだろう。
 
 
 
 むしろ意識を割くべきは三つ目の、そして悠二が御崎市に留まることを決断させた最大の理由たる出来事の方。
 "探耽求究" ダンタリオンこと教授による、御崎市における歪みの拡大実験という、大規模かつ、とんでもなくはた迷惑な行いについて、である。

(彼が来るのか来ないのかは、"愛染の兄弟" よりも判断が付きにくい。何しろ途方もなく気紛れで、聞いた話では自分ですら行動律が分からない時がある、と言ったことがあるくらいだ)

 来るかどうかすらも分からない、おまけに来たと分かった時点では、かなりの確率で手遅れになる可能性の高い、非常に面倒な相手。
 その企図を許してしまえば、御崎市が消滅するのみではない。世界中に多大な影響を齎す可能性さえある以上、絶対に見過ごす訳にはいかなかった。

(……唯一の救いとしては、御崎市を襲撃する時期と、襲撃しなかった場合でもいつまで守ればいい、というタイムリミットがはっきりしていることか。
 この街にある歪みの調律が済んでしまえば、歪みを利用する実験も行えない。必然的に教授が御崎市を狙う理由はなくなるし、歪みに引き寄せられて "紅世の徒" が集まる危険性も一気に少なくなる。
 その時点で、僕が御崎市でやるべきことも、留まる理由もなくなる訳だけれど……)
 

 ふと、
 そのことに思いを馳せた時、悠二は鉛を飲んだような心地がした。
 
 
 ――悠二が御崎市に留まる必要がなくなった時。
 
 もしもその瞬間が来たのなら、彼は特に悩まず、この街を後にするつもりでいた。
 家族や周囲の人間のことを考えて、その時期は二年か三年程度ずらすことも考えていたが、悠二に許された時間を思えば、その辺りの差にさしたる意味はない。
 彼の心を捕らえて放さないのは、その出立の目的。シャナと再び出会うことにあった。
 
 悠二がこの先、どのような道を歩むのか。それに関わらず、彼女との再会は避けては通れぬ、また避けるつもりもさらさらにないことである。
 何を選ぶにせよ、まずはシャナと。そう考えていた彼にとって、この出会いは余りに早すぎ、そして出会った以上は、これから先のことを考えずにはいられない。
 
 
 すなわち、『大命』を成就させるべく動くのか、否か。
 
 
 "ミステス" 坂井悠二として考えた時、悠二の肩には責任がある。
 悠二はかつて心に気宇を抱き、数多の "徒" とフレイムヘイズ、そして人間を巻き込んだ世界規模の大戦を引き起こした。
 全てが全て、彼の手によって為された訳ではない。しかし彼が願いを叶えるために動いた結果、数多くのフレイムヘイズを、"徒" を、人間を、直接間接に殺したことは疑う余地がなかった。

 そんな悠二が企図も途中に、たかだか一度死んだ程度で全てを擲った挙句、罰も受けずに安穏と過ごすなど許される訳がない。
 たとえ誰もかもが知らないことでも、彼だけは覚えている。もしも安易な道に気安く逃げ込むような真似をすれば、誰よりも悠二は自分を許せないだろう。
 
 
 だが、理性では『大命』を成就し、その向こうにある罰を受けるべき、と考えると同時、ひとつ彼の心に蘇る情景がある。
 胸を貫かれ、死に行く中で感じ取ったシャナの慟哭と、その悲愁を。
 その情景は胸の傷以上に、彼の心を深く抉っていた。
 
(もしも……僕が再び、『大命』へと続く道を歩むとして。
 シャナは一体、どうするのだろう。また、あの時と同じような涙を流すのだろうか?)
 
 一人の男として、そんな光景は二度と再び見たくないと、悠二は心の底から痛感する。
 本質的に、感情に拠らず理性によって判断し、行動すると評された彼に殆ど唯一生まれた、それは逡巡だった。
 そして例外的であるが故に、その楔は心の奥深くで、彼の決断を延々と阻害する。
 ……かつては全く自然と、容易く下せていた筈のことでさえ。
 
 
 深く溜息を吐いた悠二は、思わずといった態で身体を反らし姿勢を崩すと、窓の外に広がる夜闇、正確にはその先に感じ取れている気配――彼を見張る、シャナの方へと振り返った。
 同時に小さく、心の中で自問する。
 
(僕が御崎市から消えた、あの時……君は一体、どういう気持ちを……その胸に抱いていたんだろう?)






◇◆◇◆◇






(……今。もしかしてアイツ、こっちを見た?)

 月明かりと、街明かりの他は何もない、仄明るい夜の中に、夜笠を纏ったシャナが身を潜ませている。
 黒絹のような玲瓏さで流れる長髪と、黒曜の瞳は夜に溶け込むには燦爛に過ぎたが、人間の目ではそう容易く発見は出来ないだけの距離がある。気配の方は、言うに及ばず。
 それを見つけ出したということは、あの "ミステス" には相当な探知能力があるか、余程に注意深く、かつ彼女の監視を予期していたということになるのだが、
 
「アラストール?」
「……仕草からして、全くの偶然という可能性は高い。が、油断をするべきではないだろうな」

 最も信頼する彼の言葉に、シャナは軽く頷きを返して、再び視線を眼下の住宅へと注ぎ直した。
 住人の内の一人は、既に寝静まっている。その女性を、間違いなくただの人間と判断しているシャナは、しかし奇異の念を覚えなかった。
 トーチに己の存在を割り込ませれば、人間の中に居場所を作るのは容易い。実感としてそれを知る彼女は、早々に女性を監視の対象から外して、今では一人、坂井悠二という "ミステス" にのみ、意識を絞り込んでいる。
 
 結果のみを言うなら、今のところは収穫がない。
 しかし悠二の監視は、シャナにとって他に取り立てて有効な手立てがない現状で、やらないでいる訳にもいかない行動である。そもそも性向として勤勉な彼女が、収穫がない程度のことで怠ける筈もなかった。
 そうして眼下の "ミステス" を見つめていると、シャナの心に微細な何かが湧き上がる。
 
 
 
(坂井、悠二)

 彼は、全く奇妙な "ミステス" だった。
 これまでに何度か、当て所なく街中を歩き回る彼に同行して、色々と言葉を交わしているが、その端々に深い知性と、フレイムヘイズのような現実主義を感じさせる。
 性格は基本的に陽気だが、時折、驚くほどの冷静さを示す。意外なことに甘い物に対する知識も豊富で、幾度か意見を参考にしたこともあった。

(どうしてだろう……。アイツのことを考えているのは、不思議と嫌じゃない)

 いつの間にか使命感だけでなく、自然と会話をしている自分を忘れてしまう程に。
 心のどこかに小さな温かさが芽生えかけていることも、気付かず。
 
(……。それでも、アイツはいずれ討たなくちゃならない、敵)

 少女は、ただ静かに夜の闇を視線で切り裂き続けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――因果の交差するその時は、近い。


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