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[14838] 僕と彼女と杖と魔女
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:01
*前書き*

最近このArcadiaに通い始め、投降されている作品を読むうちに、はるか昔に作ったキャラクター達の事がふと思い出され、
いい機会とばかりにデータをサルベージして手直ししつつ投稿してみることにしました。

拙い作品ではありますが、ご覧になる方々のホンの暇つぶしにでもなれば幸いです。

それでは、御用とお急ぎでない方はしばしお付き合い下さい。












prologue

 かつかつと不規則なリズムで、チョークが黒板を叩く硬い音が響く。そして、そのリズムに乗るように中年の男性の声が教室内を流れてゆく。

「――この流れによって、ようやく教皇のバビロン捕囚と呼ばれた状況は終わりを告げるわけだ。それに伴い、当時の教皇グレゴリウス十一世は、教皇庁の復権を知らしめる意図から、大々的に声明を発する事にしたわけだ。内容は、当時最も世界で興味がもたれていた事柄である、魔法の衰退に関して。『魔法は既に実用に耐えない技術であり、それに頼らぬ世の中を作るべきだ』という内容だな」

 教室の窓際、後ろから三番目の席に座る早坂優太は、同じく教室内のとある一点に視線を奪われていた。それは本来ならば学生であるところの優太が当然注視しているべき黒板ではなく、彼の席から前に二つ、右に三つの席に座る、昨日まではクラスに存在しなかった一人の女生徒である。

「だがこの声明については、既に一三五六年、カール大帝の金印勅書の中で同じような方針が語られていたために、世界史的にはあまり重要視はされないな。ただ、声明の翌年、グレゴリウス十一世が逝去した事を発端に、この声明に異を唱える一派がもう一人の教皇を立て、いわゆる大シスマの時代に入るきっかけになった事は覚えておくといいだろう」

 現在時刻は丁度正午を回ったところ。四時間目の授業もそろそろ佳境に入ろうかという時間帯である。いつもなら、空腹を抱え始めた生徒たちがそわそわとし始める頃合いなのだが、今日は教室の雰囲気そのものがピンと張り詰めており、しかし生徒たちが授業に集中しているかと言えばそういう訳でもなかった。

 敢えてそちらへ視線を向けるものは少数だが、教室内の意識は、優太も先ほどから気にしているただ一人に対して向けられている。

 その彼女はと言えば、周囲の関心に気が付いていないのか、それともそもそも関心を払っていないのか。彼女がこの教室でこの日とった言動からすれば後者の可能性のほうが高そうだったが、ともかく周囲からの視線や意識をその流れるような金髪で遮断し、宝石のような碧眼から中世ヨーロッパにおける魔法の衰退とその社会的な影響を語る世界史教師に親の敵でも見るような視線を向けたまま、身じろぎ一つしない。

 優太はふと、その彼女から少し離れた席に座る、別の女生徒へと視線を向ける。亜麻色の髪と瞳の、優太にとってはここ十数年の間ほぼ毎日見てきた見慣れた横顔は、教室の一角から発せられる威圧的かつ不機嫌な雰囲気にも全く動じていないように見えた。

 ――まあ、今回のことの仕掛け人だろうし、当然といえば当然なのかなあ……。

 今後の学校生活に微かな不安を覚えつつ、優太は一人密かにため息をついた。



 発端はあるのどかな秋の日の放課後、優太がのんびりと下校しているときの事だった。隣にはいつものように、同じクラスの女子、ルル・レイセスがいる。英中のハーフで、出会ってから十三年間、ほぼ毎日一緒に過してきた、いわゆる幼馴染という間柄だった。

 そんな二人が、今日の学校での出来事などについての話題に花を咲かせながら家路についていると、会話の途中でルルがふと立ち止まり、形の良い眉をひそめた。かと思うと、

「優太、ちょっとじっとしてなさい」

 語気鋭く発したそんな言葉と同時に優太は襟首をつかまれ、進行方向とは反対側へと思い切り引っ張られた。ワイシャツの襟がしまり、一瞬息が詰まる。

 ぐえ、とカエルが潰されたような声を漏らした後、一言抗議しようと自分の左手側を歩いていたはずのルルに向かって向き直ろうとした時には、彼女は行動に移っていた。

 優太より二センチ背の高い後ろ姿が、背中の中ほどまで伸ばした亜麻色の髪を揺らして前方へと躍り出る。

 そのまま制服のスカートを一瞬めくり上げると――優太は条件反射的に目を逸らした――太ももにくくり付けられていたホルダーから指揮棒のようなものを引き抜き、

「はっ!!」

 短く叫び、すくい上げるようにそれを振るう。その瞬間、優太がルルの行動に疑問を挟む時間すらなく、それは起こった。

 石と石をぶつけ合ったような硬い音が辺りに響き、ルルの眼前の空間が水面のように波紋を描く。二度、三度、四度繰り返されて、その現象はようやく収まった。

 優太はといえば、ルルの背後で目の前の出来事に理解が追いつかずにただただ呆然としているのみだった。

 優太の位置からはルルがどんな表情をしているのかは見えなかったが、やがてルルの正面、揺らめいていた風景が元に戻ったと同時に彼女が振り返る。優太の方をちらりと窺ったその横顔を見て、十三年の付き合いの経験からかなり機嫌が悪そうだと優太は判断した。

 そんなことを気にしていられる自分の思考に優太は少し落ち着きを取り戻し、ともかくいきなり訳の分からない行動に出て、訳の分からない事態を引き起こした幼馴染に声をかける。

「ねえルル。今のってなんだったの?」

 問われたルルは、すぐには答えず、先ほどの棒を胸の前に構えたまま、普段からややきつめの目つきをより険しくして油断なく辺りに視線を飛ばしていたが、やがて再び、ちらりと優太の方を窺う。わずかに眉尻を下げたその表情を見て、

 ――あ。なんかルル困ってるなあ。

 そんなことを思い、再度同じ質問をするべきか否かを優太が心中で検討していると、

「さっきのはね、魔法よ。優太」

 周囲への警戒は解かぬまま、ルルは優太の目をひたと見つめて言った。


「魔法?」

 オウム返しに問う優太に、そう、魔法よ、とルルは頷く。

「え? でも、あれ? いや、確かにあんなの魔法でも使わないとムリっぽいような気はするけど、でも、えっと、ほら、魔法って確か……」

 確か、世界史の教科書。おそらく明日辺りに授業に出る部分に魔法に関する記述があったような気がする。混乱しながらも記憶の糸をたどる優太の言葉をそうね、とルルが引き取る。

「大体六百年と少し前かしら。その頃に教皇庁とか神聖ローマ皇帝とかが魔法の廃棄を公式に宣言してるわね」

「でも、ルルはさっきのを魔法って言ったよね……?」

 優太のその言葉に対する答えは、ルルから発せられたものではなかった。

「つまり、全世界的に魔法は衰退してそのまま廃れてしまいましたが、ごくごく少数の力ある魔法使いによって、細々とですが現代まで生き残ってきた、ということですわ」

 いつの間にそこにいたのか、長い金髪と青い目の少女が優太と向かい合うルルの背後に立っていた。少女は、何処かルルに通じる印象のあるつり上がり気味の目を細め、唇の端をにい、と曲げる。実に攻撃的な笑顔だった。

「お久しぶりですね、大魔女さん? とは言ってもわたくしからすればほんの一週間ぶりというところですが。……まだこの国にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」

 明らかに日本人ではない外見ながら流暢に日本語を操る少女に向かって振り返り、不機嫌さを隠そうともせずににルルが対応する。

「できるならもう一生あなたとは顔を合わせたくはなかったんだけど、ね。ベアトリス・タルボット。封印を解いて二日と経たないのに襲撃してくるとは思わなかったわ。せっかちだこと。……それとも余裕がないのかしら?」

「はっ。馬鹿なことを。封印は解けました。わたくしが封印された場所に張り巡らせてあったトラップも突破して参りました。なかなか厄介でしたが、わたくしは無傷。以前のあなたの力量と、あの厳重さ、陰湿さからして、必殺を期した罠だったはずでしょうに、ね。そちらの手口も前回やりあった時に見せて頂きましたし、押し勝つ自信もあります。加えて先程の防御を見ると、随分と腕が落ちていらっしゃるご様子。――さて、余裕がないのは、貴女でしょうか、わたくしでしょうか?」

 ベアトリスと呼ばれた少女の言葉に、ルルが息を呑むのが表情の見えない優太にも伝わってくる。

 二人の会話の内容は優太には全く理解できないものだったが、それでも分かることはある。 突然現れたベアトリスなる少女は、どうにもルルとはかなり険悪な間柄であるらしい。そしてどうも、ルルのほうが不利な立場に立たされているような雰囲気である。

そこまで考えが及ぶと、その認識が優太を動かした。優太の行動に気づいたルルが制止しようとするのにも構わず、ルルを庇うように二人の間に割って入る。

「なんですか、あなたは?」

 いかにも邪魔臭いといった風にベアトリスがその青い目で優太を睨め付ける。思いがけず迫力のあるその視線に一瞬気圧されそうになったが、こちらも視線に力を込めて見返す。

「そっちこそ誰ですか。いきなり出てきて魔法だとか魔女だとか。何だかルルにケンカ売ってるようなことも言うし」

 ベアトリスは険しい眼差しの優太をしばし無遠慮に観察した後、優太の肩越しに、ルルに向かってにやりと笑う。

「これはまた随分勇ましい騎士様をお連れですこと。ファミリアの類にしては何も知らないようですし、さては大魔女様がその容姿で誘惑なさったのかしら? ……まあ確かに前回よりは年下ウケしそうな格好ですものね?」

 先ほどと同じく内容自体はよく理解できなかったが、明らかに馬鹿にした台詞に少しムッとした優太が一言言い返してやろうとした時、ルルの手が肩に置かれ、

「いちいち余計な口数が多いわよ。無駄話がしたいだけならさっさと国に帰りなさい。そうでないなら相手をしてあげるから、やっぱりさっさとかかってきなさい」

 言いながら、ルルは優太の肩に置いた手に力を込め、自分とベアトリスの間から優太をどけようとする。

「ちょっと、ルル、僕は……」

「優太。あなたはもういいから帰りなさい」

 髪と同じ、亜麻色の瞳をベアトリスへと固定したまま、有無を言わさぬ口調でルルは告げた。優太が反論しようとしたが、その気配を察したのか、畳み掛けるようにルルがさらに言葉を重ねる。

「今日、何が起こったのかは後できちんと説明してあげる。絶対に、よ。だからこの場は帰りなさい。私は大丈夫だから」

 そう言うルルの態度には、明らかな焦りが透けて見え、そしてその事に優太は少なからず驚いていた。

 ルルは、常日頃から年に似合わぬ落ち着きと老成した雰囲気を纏う少女だった。そのルルが、これほど焦燥を露わにするところを優太は見たことが無かった。

「でもルル……」

「いいから!」

 優太の言葉を最後まで聞かず、もはや強引に優太を押しのけてルルはベアトリスと対峙し、行動に移っていた。何事かを呟き、手に持っていた棒――彼女が魔法使いだというのなら、それは杖なのだろうか――を横薙ぎに振るう。

ルルの周囲、数箇所で風景が歪み、その歪みがベアトリスへ殺到する。が、彼女が豊かな金髪の中から引き抜いた、ルルのものとよく似た杖を振り下ろすと、その全ては消え去ってしまう。

「優太! 何をしてるの早く行きなさい!!」

 歯噛みして叫ぶルル。だが、優太はどうしても逃げ出せない。状況についていけないというのも無論ある。が、それよりもルルを置いて逃げ出すと言う選択肢をとることができずにいたからだった。

 そんな優太の状況を見て取り、ルルは自分自身が動くことで優太を遠ざけた。

 が、ルルは、前方にベアトリス、後方に優太を置く位置にいた。優太から遠ざかろうとすることは、即ち――。

「いい度胸ですわ! こちらに突っ込んでくるとは!」

 唇をはっきりと笑みの形にして、ベアトリスが手に持つ棒を振り上げる。

 優太に背を向け、ルルはそのベアトリスに向かって一直線に駆けていく。

 それが何もかもを無駄にする行為かもしれないと思いつつも、優太はルルの背中を追う。

 そして、ベアトリスが杖を振り下ろし、

 濡れた布を地面に叩きつけたような音が起き、

「ぐっ……!?」

 くぐもった声を漏らして

 ベアトリスが倒れこんだ。



「……え?」

 たっぷり十秒ほど固まった後、優太はそんな声を挙げた。

 頭の中は状況の変化についていけず真っ白だが、敢えてその心中を表すなら、

 ――さっきまでのピンチっぽい雰囲気はなんだったの!?

 と、いったところか。いやに焦った様子で自分を遠ざけようとしたり、遮二無二突っ込んで行ったりと、どう考えても追い詰められているような素振りだったのに。まあ、ルルが無事であるのは優太にとって喜ばしいことではあったが。

 そんな優太に向かい、先程までの険しさなぞどこ吹く風といった余裕を漂わせてルルが微笑む。

「さ、これでもう大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね、優太?」

「え? あ、うん。なんだかよく分からないけど、無事で良かったよ、ルル」

 まったくね、と笑顔で同意しながら、うつ伏せに倒れているベアトリスの襟を掴んで引きずりながら、優太の方へとルルがやってくる。

「……し、絞まる……」

 かすかな声は、ルルに引きずられているベアトリスのものだった。

「あらしぶとい。気絶させる気だったのに」

「っていうかルル。襟を持って引きずるのはちょっと酷いかもと思うんだけど……」

 それぞれにそんなことを言う優太とルルを、思うように動かないらしい体で何とか見上げるベアトリス。その目には強い怒りと疑問が見え隠れする。

「……な、なんで、いきなり、わた、くしの魔法、が、使え、ないよ、うに……?」

 喋るのにも苦労するのか、切れ切れに言う。

「あなた、自分で言ったでしょう? 封印が解けたら厳重かつ陰湿に、必殺を期した罠が張ってあったって。まさにその通り。あの場に仕掛けた罠はここ数年かけて凝りに凝って仕掛けたものよ。一つ一つにも十二分に威力があり、なおかつ、破られた場合には完全に回路が破壊される前に自壊して、お互いの回路を繋ぎ合わせて対象の……つまりあなたの中に最後にして最大の罠を仕込むの」

「な、な……?」

 ぱくぱくと口を開閉させながら、言葉にならない驚きの声を漏らすベアトリス。そんな彼女に対して、ルルは空いた手の人差し指をピンと立て、講義口調で語りかける。

「効果は魔力の封印。寸前まであなたが封印されてた場所での仕込みになるから、同系統の魔法に対して多少の支援効果も狙ったわね。で、仕込まれた罠は、鍵となる私の魔力を浴びた後、あなたが魔法を使うと発動するわけ。この条件を満たすために、あなたに攻撃魔法をしかけて防がせ、私に確実な止めの一撃を入れたいと思わせる状況を作った、と。ちなみに、封印がすぐに発動しなかったのは、確実に私の前におびき寄せるためね」

 ベアトリスはルルの説明を呆然としながら聞いていた。自分が完全に嵌められていたらしいと知って、言葉もないらしい。

 また、優太も同じく呆然としている。これは勿論ベアトリスとは事情が違う。そもそも優太はルルたちの言う魔法云々の話に全くついていけないし、理解も及ばないのだが、それでも今のルルの話から一つ分かったことがあった。

「つまり……さっきのルルの『私は大丈夫だから優太は逃げなさい』っていうのは……」

 ぽつりと零す優太から、ついと明後日の方向へと目を逸らすルル。

「ええと、大丈夫なのは間違いなかったし、一応魔法のやり取りはこの場で起きるわけだし、巻き添えが心配だったの。嘘はついてないわよ?」

「でも、明らかに焦って見せてたのは、全部演技なんだよね……?」

 なおも明後日の方向を向きつつ、人差し指で頬をかいたりなぞしていたルルだったが、やがてくるりと身を回し、優太の肩にやんわりと両手を――ルルの足元で何か硬いものが地面に落ちる音と、ごべっ!? と異様な声がした――置く。

「優太、怒ってるかしら?」

「……怒っては無いけど……。いや、ちょっと怒ってたかも。すごく心配したし。魔法とか何とか訳分からないし……」

 それを聞いてルルは両手を優太の頬へ持っていき、ふわりと笑う。

「心配かけてごめんなさいね、それとありがとう」

「あー。うん」

 つられるように優太も笑う。流石に照れ臭くなり、目線をルルの顔から逸らして下に向ける。

 そこには金色が広がっていた。先程ルルの手から落とされたベアトリスの金髪が地面に広がっていたのである。耳を澄ませば、く、屈辱です、わ……と呻いているのが聞こえる。

「……ルル。この人はどうするの?」

 ルルは一瞬考えるそぶりを見せ、

「このまま放って置くと色々面倒ごとになりそうな気もするし、とりあえず私の家まで持って帰りましょう。優太にも色々説明しないといけないし」

 そう言ってため息とともに、ルルは再びベアトリスの襟首を掴んで運ぼうとしたので、それはあんまりじゃなかろうかと思った優太は自分がおぶっていくと提案した。

それを聞いたルルはあからさまに不機嫌そうな顔をしたが、とりあえず承諾した後、優太には聞こえないようにベアトリスの耳元で囁く。

「そういう訳で優太があなたを背負っていくけれど、二重の意味で、妙なことをしたら命がないと思いなさい」



[14838] その1『過去と転校生』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:04
「さて、優太。今から色々と説明をしようかと思うのだけれど、その前にまずは現代において魔法というものはどういう認識をされているかしら?」

 住宅街をベアトリスを背負って歩き、ルルの家へと到着して、諸々の準備――紅茶とお菓子を用意したり、ベアトリスを縄で縛り上げた上に何やら不思議な文字の書いてある紙を貼り付けたり――を済ませた後、ルルがそう切り出した。

「えーと、中世だっけ、その頃までは世界中に魔法使いが沢山いて、生活とかにも利用されてたけど、ある時、急に使えなくなって、今ではもうほぼ完全に使えない技術、かな?」

 常に作り置きのあるルルのお手製クッキーをかじりながら優太が答える。

「そうね。正確に言うなら十四世紀中ごろ、突然殆どの魔法使いが魔法を使えなくなったの。そうなったら技術を伝えることもままならなくなって、そのまま魔法という技術そのものが衰退していったのよ。これを魔法に関わる人間の間では『大衰退』と呼ぶの。

ヨーロッパではペストの流行や百年戦争と重なってかなりの不便が出たわね。中国ではモンゴル帝国が倒れたんじゃなかったかしら? 

まあ、こんなところが一般的な現代の魔法に対する理解なんだけど、さっきそこのミノムシが言ったように、魔法は今でも絶えた訳ではないの。もちろん、魔法使いの数は昔とは比べるべくもないけどね」

 ルルはそう言って紅茶を一口含み、彼女の言うところのミノムシ……グルグル巻きにされたまま恨めしげにこちらを睨むベアトリスへと視線をやる。

「誰がミノムシですか。人が動けないのをいいことにこんながんじがらめにして下さって」

 徹底的に拘束されて観念したのか、ベアトリスはやたらと不機嫌そうではあったが、抵抗しようとする素振りは見せていなかった。

「あら、ご不満? じゃあトリスちゃんって呼んであげるわね」

「勝手に愛称で呼ばないで頂けますことっ!」

 ルルに掴みかかろうとするベアトリスだが、縛り上げられているのを忘れていたのか、思い切りバランスを崩して床に横倒しになる。

「あらあら、そそっかしいわねトリスちゃん。大丈夫かしら? 頭とか。色々な意味で」

 そんなベアトリスを冷え冷えとした目で見下ろし、口元だけで小さく笑うルル。

「ルル、とりあえずその辺にしとこうよ……」

 脳天から蒸気を噴出さんばかりに怒り心頭のベアトリスを助け起こし、そのベアトリスからも炎のような視線で睨まれながらも優太がとりなす。ルルはもう一度ベアトリスをちらりと見て唇の端に笑みを乗せると、表情を真剣なものに切り替えて優太に向き直る。

「ともあれ、その数少ない魔法使いっていうのが、私であり彼女なの。……黙っていてごめんなさいね、優太」

 言ってルルが軽く頭を下げる。優太は気にしていないという風に手を振って、

「それは別にいいんだけど。……いやまあすごく驚きはしたけど。魔法使いが今でもいるっていうのも、ルルがそうだっていうのも」

 だけど、と区切り、優太はルルとベアトリスにそれぞれ視線をやり、

「なんで二人はいきなりケンカ始めたのかがまだよく分かんないんだけど」

 優太の言葉に、二人は一瞬視線を泳がせたあと、

「トリスちゃんの方からケンカ売ってきたの」

「十三年前のリターンマッチですわ」

 同時に答えた。

 優太は回答の内容を頭の中で反復し、こう結論した。

「つまり、小さな頃の友達同士のじゃれあい?」

「違う!」

「違いますわ!」

 またも二人同時。やっぱり実は友達なんじゃないのかな、と優太は思うが、一応口には出さないでおく。

「だって、十三年も前だったら、えーと、ベアトリスさんはいくつか知らないけどルルは僕と同い年なんだから三つか四つだよね? その頃の話だったらそんなに深刻な話にはならないんじゃないかな、って思ったんだけど……」

 優太の発言に、ルルはどうしたものか、というような表情を見せ、ベアトリスは露骨に怪訝そうな態度を見せ、ついで優太を上から下までつぶさに観察する。図らずも優太はベアトリスと見詰め合う形になり、少々どぎまぎする。

今まで観察する余裕もなかったが、ベアトリスは結構な美少女だった。くっきりと整った目鼻立ちに、ウェーブのかかった金髪と青い瞳。少々釣り上がり気味の目はなんとなくルルと似ている。

そのベアトリスは優太を胡乱げにしばらく見つめたあと、ため息をついて口を開く。

「あなた。ルル・レイセスとは長い付き合いなのですか?」

「あ、うん。そうだけど」

「そう。ではそこの大魔女……ルル・レイセスについてあなたの知っている事をおっしゃってみて下さい」

 ルルがそう言ったベアトリスをちろりと睨んだのが優太にも分かったが、結局何も言わなかったので素直に質問に答えようと思い、口を開く。

「幼稚園のころにこの家に引越して来て、お母さんと二人暮ししてる。それから一緒に育って小、中、高校と同じ学校に通ってる幼馴染で、お菓子とかお弁当とかいつも作ってくれて、お父さんがイギリスの人で、お母さんが中国の人で、それから……」

 ん、と考える素振りをしながらルルのほうを見る。

 東洋のものとも西洋のものともつかない顔つき。色素の薄い亜麻色の髪、同じ色彩の少々釣り目気味の瞳に、たまにキツい言葉を紡ぐが、小さくて愛らしい唇。

 それと肉付きの薄い比較的ほっそりとした体つき――これについてはあまり言及すると機嫌が悪くなる――も相まって、人形のような可憐さがある。

 言動は基本的に厳しいが、それが不当であったことはない、と少なくとも優太は感じている。むしろ、こちらのことを考えてくれているのがよく分かる。

 この辺りの情報に主観を混ぜ、優太は思うところを正直かつ簡潔に述べた。

「綺麗で可愛い。あと、結構優しい」

 ルルとベアトリスが揃って固まった。ベアトリスは露骨に呆れた顔で。ルルはティーカップを口元に運んだ姿勢のまま、無表情に。

 そのままたっぷり二十秒ほど沈黙がその場を支配する。

「とても愛されていますわね、大魔女様?」

 呆れた表情を維持しつつルルのほうへと視線をやってベアトリスが言う。

「うるさいわね話の方向性がズレてるわね下らない事言うなら口も塞ぐわよ優太も突拍子もない事言わないのそれは知っている事実じゃなくて思ってる感想でしょう」

 こちらも先程と変わらない無表情、かつ平坦な声で言い返す。が、あう、と声を漏らしてしゅんとする優太とは対照的に、ベアトリスは調子を崩さない。

「あら、今のを息継ぎなしとはやりますわね。……そんなに睨まないで下さいまし。なんだか話を進めて欲しくないような様子でいらっしゃるから気を利かせたんですのよ?」

 ルルはそんなベアトリスをしばらく意図の窺えない目つきで見つめた後、鼻から息を抜いて、好きになさい、と零すと再びカップを口につけた。

「ふふふ。それなら好きに喋らせて頂きますわ」

 ルルに多少なりとも意趣返しができたと思っているからなのだろうか。グルグル巻きなのは相変わらずだというのに妙にベアトリスは楽しげだった。

「ではまず、私の知るルル・レイセスについてお話しましょう」

 そう前置きして、優太に向かってにやりと笑う。優太にしては、ルルとはもう随分長い付き合いだし、ほぼ毎日顔を合わせている。大抵のことは知っているという自負もある。

 だがベアトリスの口ぶりには、優太の全く知らないルルが存在するという含みが感じられた。

 事実、ルルが魔法などというものに関わる人間だということを優太は知らなかった。故に、居住まいを正して耳を傾ける。

 そして聴かされた言葉は、実に突拍子もなかった。

「ルル・レイセス。強大な魔力と卓越した魔法技能で知られ、大魔女の異名をとる魔法使い。

 魔法の衰退した現代において、幾つか存在する魔法使いのコミュニティのいずれにも属さず、年恰好を変えながら世界中を放浪し、約七百年前から存在を続けている、生きた伝説ですわ」

「またまたあ。なんか今日は魔法とか色々ワケわかんないことばっかりだけど、いくらなんでもそれは嘘だって分かるよ?」

 即座に顔の前で手を振って、ベアトリスの言葉を否定する。

「と、彼はおっしゃっていますが、何か一言ございます? 大魔女様?」

 水を向けられたルルは、優太を数秒見つめ、軽い諦めの混じった表情とため息を作り、

「……まあ概ね彼女の言う通りね」

 出てきたのはベアトリスの言葉を肯定する発言だった。

 優太の視線が、ルル、ベアトリス、天井、自分のティーカップ、窓の外の空へと移る。

 ――ああ、もう日が暮れるなあ――

 夕暮れの薄紅から濃紺へと変わりつつある空を眺めてそんなことを考えることしばし。

 約一分ほどを沈黙した後、今聞いたことを整理し、言った。

「……冗談?」

「意外に信用がありませんわね?」

「目の前で魔法を使ったさっきとは違って証拠を出したわけじゃないしね」

 前者の声は笑いを含み、後者の声にはまあ当然かというような響きがあった。一方の優太にはひたすら困惑の色が濃い。

「っていうか、ルルとはずーっと一緒に育ったんだし、七百歳だとか言われてもそんな馬鹿な、って思うし……」

「優太」

 語気鋭く名前を呼ばれ、優太はルルを見る。

「あなたを納得させるために色々と説明はするわ。でもまずはこれを理解して」

 ルルの瞳には、今日一番の真剣な色が宿っている。

「七百歳になるまではまだあと十年程間があるの。大台には乗っていないわ」

「……その、七百歳がどうこうって言うのがイマイチ信じられな」

「だから七百まではまだ間があるって言ってるでしょう?」

 優太の台詞をさえぎった、その声自体は丁寧に諭すような調子ではあったが、視線に込められた温度は限りなく低かった。思わず黙り込み、ここはどうしても譲れないこだわりがあるらしいと理解して、ともかく分かったと頷く。

「理解してもらえて幸いだわ。小さいけれど意義のある一歩ね」

「それだけ長く生きていたら誤差の範囲ではありませんの? 細かいことを気になさること」

「うるさいわね。ああもう話が進まないじゃないの。……ちょっと整理するわよ。私は十四世紀から生きてる魔法使いで、ある事情で歳をとるのが異常に遅くなったの。だけどそのままじゃ色々と不便だから、魔法で外見年齢を変えながら世界中を転々としてたの。

で、十三年前にこの柏木町に来て、いい感じに田舎なここが気に入ってしばらく滞在しようと思ったんだけど、いきなり見ず知らずの魔法使いにケンカを売られて、さんざんやりあった挙句に楓川の河川敷で封印したの」

 そう言ったルルの視線の先を追い、優太はひょっとして、という思いとともに、話を脱線させたのはそちらじゃありませんの……、などと呟いているベアトリスに向かって尋ねる。

「それが、ベアトリスさん?」

「虜囚の身に敬称は不要ですわ。まあそういうことですわね」

「じゃあ……」

 今までの話の流れから、一つのことを推測する。

「ベアトリスさ、……ベアトリスも見た目どおりの年齢じゃなかったりするの?」

 律儀に呼び方を言い直し、尋ねる。ルルが七百年を生きているというのが本当ならば、十三年前にやりあったときというのも今の姿から単純に十三年分の年月を引いた姿ではなかったのだろう。なら、ベアトリスの方にも同じようなことが言えるのではないだろうか。

「そうですわね……。答えはイエスでもありノーでもありますわ」

 まるでなぞなぞのような答えに、優太は首を傾げる。

「つまり、私は十三年前にルル・レイセスに封印され、そのままの姿で二日前に復活したわけです。……ですので、肉体的には見た目のままの年齢ですが、戸籍上は封印されていた分の年月はプラスされているかもしれませんわね」

「ちなみに何歳なの?」

「……いきなりレディに歳を聞きますか、普通。――まあよろしいですわ。十七です」

「へえ。同い年なんだ」

「戸籍上は三十路、というわけね。おめでたいことだわ」

「やかましいですわ七百歳」

「まだ七百じゃないって言うのが分からないのかしら。不具合があるのは耳? それとも脳?」

 話を聞くからに因縁浅からぬ二人のようなので、ことあるごとに睨み合いが始まってしまう。

「あー。えーっと……そうだ。ルルが七ひゃ――何百年も生きてるんだとしても、僕と初めて会った時はちゃんと子供だったよね? それからも普通に育ってたし」

 いかにも険悪な雰囲気を打破すべく、慌てて割り込む優太。言葉の途中でルルの視線を感じて訂正を入れつつも、さっきから引っかかっていた疑問を口にする。

「魔法でこまめに姿を変えていたんでしょう。実際、そうやって世界中を放浪していたと聞き及んでおりますわ」

 ベアトリスの指摘に、優太は内心でなるほど、と頷く。

 そして、自分はルルの本来の姿を知らないんだろうか、とか、いつまで経っても優太がルルを身長で追い越せないのはルルの意地悪か何かだったりするのだろうか、とか考えて優太は少し落ち着かない気分になる。

 ルルにどんな秘密があってもころころと態度を変えるような真似はするまい、とは思うのだが、ある日突然、お向かいのツルさん(八十七歳。趣味はカラオケ)と同い年くらいの外見になられると、それはそれで困るような気もする。

 お年寄りには丁寧に接するべきだし、ルルに他人行儀な態度はとりたくないし、と頭を抱えて悩み始める。

「……優太。頭の中でどんな愉快な想像をしてるのか知らないけれど、それは絶対に間違ってるわよ」

「じゃ、じゃあツルさんレベルじゃなくてお隣のタキさん(九十二歳。座右の銘は生涯現役)レベル!?」

「どっちも違うわ。確かにツルさんもタキさんも歳に似合わず尋常じゃなく元気だけど、それは私とはベクトルが違うわよ。……この際だからトリスにもバラすけど、十三年前、優太に出会った頃から魔法で姿をいじったことはないの」

 さらりと言い放つルルに、ベアトリスが噛み付く。

「ウソおっしゃいこのびっくり長寿世界一。御自身で加齢が遅いとか七百年生きているとおっしゃったクセに辻褄があふぁにゃいひゃひゃひゃ!?」

「既にこの場で警告は二回。三回目なのだから体罰よ?」

 満面の笑顔を浮かべながらベアトリスの頬を引っ張り、そのまま優太に向けて話を続ける。

「さて、この学習力も注意力も想像力も足りないトリスちゃんが言ったように、確かに私の言うことは辻褄の合わないところがあるわ」

「何百年と生きてる間、歳をとるのが遅くなってるのに、僕と一緒にいる間、魔法で成長したように見せたことはない、ってところ……?」

「そう。優太は聡いわね、二重の意味で」

 優しげに微笑みながら言い、ベアトリスの頬を引っ張る力を強くする。しかも捻りを入れる。

 当のベアトリスからはもはや言葉にならない悲鳴が上がっているが、ルルはその全てを黙殺し、さらには目線でもう許してあげたら? とサインを送る優太を笑みで威圧した。

「難しいところは省いて話すけれど、私はトリスを封印した時に、自分の体を普通の人と同じように歳をとることができるようにしたの。その時に体が四歳の状態まで巻き戻って、優太に会ったのはその直後の話ね」

 優太が言葉の意味を咀嚼して理解するより早く、雄叫びが上がる。

「は、はんひぇひゅっひぇーー!?」

「意味が分からないわよトリスちゃん。――ああ、脳の不具合が言語中枢にまで達したのね。あなたは気に入らないけれど流石に不憫だわ……」

「ルル、いい加減ほっぺたを開放してあげようよ……」

 仕方ないわね、とルルが手に込めていた力を緩めた途端、ベアトリスが吼えた。

「何て事をするのですか!? 抵抗できないからといってやりたい放題ですかこの大年増っ!!」

 咆哮を真正面から受け止めたルルの表情には何の変化もなかったが、その周囲の空間にドス黒い何かが放散されているのを優太は確かに見た、気がした。

 ――このままだと惨劇が起こる……!?

 そんな危機感から、慌ててルルとベアトリスの間に割って入った。さっきから似たようなことの繰り返しをしているような気がしてならないが、今はそれを考えている時ではないと思い直す。

「ルル、ルル。さっきから話がスイッチバック方式だよっ。全然進まないから仲違いは控えめの方向で! ベアトリスもテンションはしばらく据え置きでお願いします!」

 必死の形相での訴えに、視線をぶつけ合って火花を散らす女性陣もとりあえず矛を収めたようで、優太はほっと安堵の吐息を漏らす。

「そうね。負け犬相手に私としたことが少々大人気なかったわ」

「大年増だなんて、真理をついた発言はちょっと言い過ぎでしたわ」

 哀れな少年の安堵の吐息が空気に溶けるよりも早く、お互いの一言を受けてまたもや睨み合う二人。

 そしてついに。あまりに進まない話題と繰り返される展開に優太はキレた。

「あーもう! 二人ともなんでケンカすることにかけてはそんな息ぴったりなの!? もういいです! 今後は二人とも勝手に喋らないこと! 発言の際は挙手をお願いします!!」

「あの、優太?」

 優太の剣幕に一瞬毒気を抜かれ、少々気まずげに声をかけるルルだが、常になく力を込めた視線で射抜かれて口をつぐみ、おずおずと手を挙げる。

「はい、どうぞルルさん」

「ええと、ごめんなさいね、優太? 今日は私もちょっと動揺してるの。今からはもう少し冷静になるわ。それとベアトリス。拘束していること自体は悪いとは思わないけれど、あなたにも一応の謝罪をしておくわ」

 挙げた手をそのまま宣誓の形にして、神妙に伸べる。

 謝罪を受けた当のベアトリスは、むっつりとしたまま押し黙り、ルルと優太の視線を浴びている。

「……わたくし、この状態だと挙手はできないのですが、発言の許可をいただけます?」

 はっとベアトリスの状態に気付く。確かに手を挙げることなどとてもできそうにない格好だった。

「あ、ごめん。じゃあどうぞベアトリス」

 ベアトリスは優太に頷きを返し、咳払いを一つ。

「私も少々冷静さを欠いておりましたわ。みっともないところを見せたことは謝罪いたします」

 優太はしばし平坦な目つきで二人を眺め、

「もうケンカしない?」

「しないわ」

「いたしません」

 その返事を確認して、にこりと笑う。

「じゃあ、話を進めよう。大声出してごめんね。それで、えーっと……」

 どこまで進んだんだっけ、とクッキーを一つ口に放り込みながら考える優太。

「大魔女が十三年前に体の時間を巻き戻していて、それからは普通に成長を重ねてきた、という辺りですわね」

 ベアトリスがすかさず補足し、とても信じられたものではありませんが、と付け加え、そのまま疑念を視線に乗せて、涼しい顔でクッキーを口に運ぶルルに送る。

「別にあなたに信じてもらう必要もないわよ。この場は優太に色々と話しておくのが目的なのだし。……優太はどう? やっぱり信じられないかしら?」

「……正直なところ、信じる信じない以前にかなり話についていけてない感じなんだけど……。とりあえず、ルルは魔法使いで、何百年も生きてて、でも十三年前にベアトリスとケンカして、その後、若返りの魔法……みたいなのを使って四歳に戻って、ここで暮らしてた、ってことだよね?」

 優太は頭を捻って要点を整理する。これだけの話をするのになんだか精神的にとても疲れたような気もしたが、深く考えると余計に疲れそうな予感がしたので避けた。

「そうね、それで間違いはないと思うわ」

 満足げに頷くルル。対照的なのはベアトリスだった。どうにも話の流れに納得のいかないところがあるらしく、渋い表情を崩そうとしない。

「私には到底信じられませんけれど。あなたの数百年を生きる体質もそうですが、それを解除した上にそのあと若返ったなどと。そんな魔法は中世以前に遡っても聞いたことがありませんわ」

 ぶつぶつと呟くベアトリス。事態がよく飲み込めていないのは自分だけじゃないんだなあ、と優太は少し安心しつつそれを見る。

「そこは長年の経験と応用ね。まあ細かいことは伏せさせてもらうわよ」

 ベアトリスを横目に窺いながらのルルの台詞に、まあその辺りは期待していませんけれど、と肩をすくめたのと同時、

「あっ」

 優太が何かを思い出したように声を上げ、ルルとベアトリスはそちらに注目する。

「なんかすっきりしないなあと思ったんだけどね?」

 優太は二人を正面から見据えて、

「そもそも始めに、ルルとベアトリスがどうしてケンカしたのかって聞いたのにまだそれを教えてもらってないよ?」

 優太の疑問に、ルルもベアトリスも揃ってそういえば、といった表情を見せる。どうやら二人ともそのことが頭からすっかり抜け落ちていたらしい。

 でもね、と僅かにルルは首を傾げ、

「私は単にケンカを吹っかけられた方なのだし、はっきりとは事情を聞いてないわ。詳しいところはこっちに聞いた方が多分早いわね」

 言うなりベアトリスのあごを人差し指でつい、と持ち上げ、唇の端を上げて笑う。

「そういう訳だから、さっさと話して貰おうかしら。拒否してもいいけれど、その時は……ふふふ」

「ルル……すごい楽しそうに見えるのは気のせいかなあ……?」

 ルルは優太に向かって、この方が効率的でしょう? とくすりと笑う。対してベアトリスはしばし苦りきった顔をしていたが、やがて大きなため息と共に表情を幾分和らげた。

「確かに私は敗北して虜囚の身。意地を張っても仕方ないでしょう。さして伏せなければならない理由でもありませんし」

 そう言うと身をよじってルルの指先から逃れ、居住まいを正す。とはいってもグルグル巻きであるのは変わらないので、優太からは身じろぎをしたように見えただけだったが。

「端的に申し上げまして、私は大魔女ルル・レイセスを捕獲し、英国まで連れ帰ることを目的としてやって参りました」

「英国って……ルルの産まれた国だよね? ほとんどそこに住んでなかったって聞いたけど」

「そうね。実を言うと十五歳くらいまではロンドンにいたのだけれど……。それ以来、足を踏み入れたことも、踏み入れたいと思ったこともないわね」

 単純に思ったことを口にしているといった風の優太に対し、ルルははっきりと不愉快さを口に出して吐き棄てた。その態度からは、よほどに英国に対して嫌な思い出があるらしい容易に知れる。

「英国貴族の一員でもあるタルボット家は、魔法の復興を志向する一派です。ですが『大衰退』以来、誰もなし得なかったことですから、そうそう上手くはいかず、正直行き詰っていました」

 不機嫌そうな顔を続けているルルをちらと見やり、

「そこへ、ここ百年年ほど行方が全く掴めなくなっていた大魔女の情報が入り、協力を頼めないか、という流れになったのですわ」

「随分前にタルボットの人間に同じことを言われて、はっきり断ったはずなのだけど」

 斬りつけるような響きを持ったルルの言葉に、ベアトリスは一つ頷き、

「ええ、そういう記録も残っていました。百五十年程前のことですわね。大魔女がタルボットと血筋を同じくするものだということで、当時はかなり期待されていたようですが……それはそれはあっさりと拒絶されたという事ですわ」

「じゃあ、ルルとベアトリスって親戚同士なの?」

 ベアトリスの口から語られた意外な事実に優太は驚きの声を上げる。と同時に、その割には捕獲だとか物騒な話になっているなあ、とも思う。

「――私の叔父にあたる人物がタルボット家に婿入りしていたわね。……魔法使いには血筋も割と重要だから、血統が途切れるような真似はしていないでしょうし、本当にごく薄くではあるけれど、親戚と言ってもいいかもしれないわね。何百年も遡れば大抵の人は親戚にできそうな気もするけれど」

 瞑目したままルルが言葉を紡ぐ。その声にはいかにも淡々としていて、ただ事務的に事実のみを語ろうとしているように優太には思えた。

「ともあれ、そうした経緯もあって協力が得られない可能性も高いと思われておりましたので、いざという時には力ずくで協力させるためにとわたくしが参ったのですが……この有様ですわね」

 そう結んで、ベアトリスは悔しそうに唇を歪める。ベアトリスの言葉通りなら、彼女は自分の家や、属する一派の期待を受けて日本にやってきたのだろう。それが十数年の間封印され、それから復帰するや否や再度敗北を喫して囚われの身となっている。内心、忸怩たる思いが渦巻いているようだった。

「さて、優太」

 かたり、と、おそらく意図的に音を立ててカップをソーサーに置き、ルルが優太に向き直る。

「まだ色々と聞きたいこともあるでしょうし、聞いた話に理解や納得の及ばない部分もあるとは思うけれど。今日はもう帰りなさい」

「いや、でも……」

 ベアトリスの方を意識して、反論しようとする優太。確かに今は身動きの取れない状態になっているし、彼女が悪い人間ではないようにも思えた。が、いきなり襲い掛かってきて、なおかつルルを英国に無理矢理にでも連れて行くのが目的であるとはっきり口にした人物でもあるのだ。

 だからと言って正直、ベアトリスに対して優太自身にも自分には何もすることもできることもないだろうと分かってはいた。

 それでも、ルルに何かがあったとき、彼女を守り助けることが、ここ十数年の優太の行動原理でもあった。故に、今の状況で自分がルルのそばを離れることには抵抗がある。

 だが、ルルは優太から反論の言葉が出る前に畳み掛ける。

「今の彼女には私をどうこうする事はできないわ。明日には彼女の処遇についてもきちんと済ませて優太にも知らせられると思うから、今日はもう帰りなさい」

 その目には、いかなる反論も受け付けないという意思が、ありありと見て取れた。こうなったルルを説き伏せるのは非常に困難だと優太は知っていた。生来、押しの強い方ではない優太ではなおさらだった。

「……分かった。今日は帰るけど、何かあったらすぐに連絡して」

 優太が折れたのを見て取ると、ルルは微笑を浮かべ、優太の頭をそっと撫でる。ルルはなにかとこうやって優太を撫でたがるのだが、優太はこれを嫌がって何度もやめてくれと頼んでいた。もっとも、頑として聞き入れてくれないので結局は諦めてされるがままである。その表情はどうしても渋いものになってしまうが。

 やがてルルがご満悦の表情で頭から手を離すと優太は立ち上がった。

「じゃあ、また明日、ルル。ベアトリスも、えーと……」

 なんと言葉をかけたものか、優太が困っていると、当のベアトリスから助け舟が入る。

「ご機嫌よう、また会う事があるか、これが今生の別れかは分かりませんが」

「あ、うん。じゃあね、ベアトリス」

 言いながら、ベアトリスの物言いにふと不安を感じた優太はルルを見る。

「……そんな心配そうな顔しなくても、闇から闇に葬ったりとかしないわよ。今回はきっちり無力化して捕まえられたし、穏便に済ませるつもりだから。大丈夫よ」
 
 長年の付き合いからか、ルルは優太がなにを心配しているのか即座に見抜いて言って聞かせる。

 少々呆れたような様子のルルと、軽く驚いたような表情を浮かべたベアトリスに、じゃあね、と軽く手を振って、優太は部屋を辞した。

 玄関を出て、少し歩いたところでレイセス家を振り返る。小さな一軒家の、二階部分にあるルルの部屋の窓を見上げ、軽くため息を一つ。

 ――色々と心配事は多いけど、ともかく今日は一旦帰るしかないかあ。

 心中で呟いて、足を進めかけ、また立ち止まる。

「あら、優太君? こんにちわ」

 にっこり笑って優太に軽く会釈したのは一人の女性。見た目は三十代に入ったところ、という感じの、品の良さそうな婦人である。手には買い物袋を提げ、野菜や卵のパックなどが顔を出していた。

「あ、こんにちわ、おばさん」

「今までうちにいたの? なら晩御飯も食べていけばいいのに」

 買い物袋を提げていない方の手を頬に当て、軽く首を傾げて言う。年齢不相応の仕草だったが、不思議とそれがよく似合う。

 女性の名はリューリィ・レイセス。中国生まれで英国人に嫁いで女児を出産し、夫と死別した後に日本にやってきた女性で、つまりはルルの母親であり、優太にとっても、もう一人の母親と言っても良いほどに縁の深い人物だった。

「いえ、母さんも家で待ってると思いますし、また今度、ご馳走になりに行きます」

「そお? じゃあまた近いうちに来てね? 絶対ね? 待ってるからね?」

 丁重に断りをいれる優太に心底残念そうな表情を見せ、ぱたぱたと手を振ってから家に入っていく。

 ふと、リューリィが娘の部屋でグルグル巻きに去れた金髪碧眼の少女を見つけたときのことを思って心配になったが、要領の良さにかけては、ルルは優太の遥か上を行く。きっと上手くやるだろう、と思い直す。

 ――っていうか魔法云々の話はおばさんも知ってるのかな……?

 気になったが、わざわざ戻って聞く事もないだろう、と優太は結論する。

「必要ならおばさん本人かルルから話してくれるだろうし」

 良くも悪くもおおらかなところのある優太は、うんうん、と一人頷いて、家路につくことにした。

 



 古びた二階建てアパート。軽く見積もって築二十五年といった風情の建物。二階にある2DK、家賃四万五千円の部屋こそが、優太の帰るべき早坂家であった。

「母さん、ただいまー」

「おーう、お帰り、息子ー」

 玄関のドアを開けた優太を、奥の台所からの挨拶と、そこで調理中の夕食の匂いが出迎える。おそらく餃子を焼いていると優太は当たりをつけた。

「すぐ出来るから着替えて待ってなー」

 分かったー、と返事をして、二つの部屋のうち、自分に割り振られた部屋で手早く着替えを済ませると、台所へ出向いて夕食の準備を手伝う前にもう一つの部屋へと入る。

 部屋に据え付けられた仏壇の前に座り、三十代ほどの男性の遺影と位牌に向かって手を合わせる。

「ただいま父さん。今日はちょっと特殊だったけど、概ね平和な一日でした」

 本日の夕食は餃子に野菜炒めとしじみの味噌汁というラインナップ。テーブルに食器を並べ終え、親子二人が向かい合って座った。

 いただきます、と手を合わせ、食事を始める。

「しかしなんだな。食わせておいて言うのもどうかと思うけど、今日はしっかり歯磨きしろよ優太。あと牛乳も飲むこと」

「なんとなく母さんの言いそうなことは想像がつくけど、一応聞くね。どうして?」

「そりゃーお前、いつなんどき、ルルちゃんとチューするか分かったもんじゃないでしょうが。初心者のうちはその辺気ぃつかわんとなあ」

 うんうん、と感慨深げに呟く母親、早坂千佳に対して、優太は怪訝な顔をする。

「そういうことはしてないって何回言っても分かってくれないからそれについては諦めるけど、上級者になったら気にしなくていいの……?」

「あー。あたしが餃子食ったからヤだっつったら、晃太さんは『じゃあ俺がきれいにするよ』つってな、こう、特上に濃厚なヤツを……」

「分かった、もういいから」

 少々頬を赤らめて、やたら嬉しそうに語る母を制止する。話を遮られた方は不満を隠そうともしていなかったが。

 父親が死んだのは優太が七歳の頃で、正直なところ、記憶もところどころおぼろげになってしまっている。それでも、そんな大胆な発言と行動をするような人には見えなかった。
 
 もっとも、父、晃太の死後、母、千佳の語るこの手のエピソードには枚挙に暇がないので、単に子供だった優太にはそれが分からなかっただけなのかも知れない。

「まったくオクテなヤツめ。十も年下の高校生を孕ませた晃太さんの息子かそれでも」

「ムチャクチャな比較しないでよ。僕が今そんな年齢差の相手に何かしたら犯罪かつ変態確定だし、父さんだって高校生の頃はどうだったか分からないでしょ」

「そりゃまあそうだけども。少なくともルルちゃんに関してはチューくらいは臨戦態勢だろー。みどりさんだって優太のこと気に入ってるし、別に孫を作れって言ってるわけじゃないんだしさあ」

 千佳がこうやって優太をけしかけるのには、彼女がルルをいたく気に入っているから、ということもある。父親の生前から足繁くこの家に遊びに来ていたし、既に自分の娘でもある、という意識があるらしい。

 ちなみに〝みどりさん〟とは、ルルの母親、リューリィの名前の日本語読みからとったあだ名である。リューリィはどちらかというとのんびりとした性格で、千佳とは随分タイプが違うのだが、この二人は非常にウマが合うらしく、たまに二人して『孫の顔が見たい』とか優太に向かって言い出したりするのである。

 ともあれ、優太としては女手一つで自分を育ててくれた千佳に対して多大な尊敬と感謝の念を抱いてはいるものの、ルルの事に関しては自分なりの線引きもあるので勘弁して欲しい、と思う常日頃である。

「大体だな。毎朝連れ立って登校して、お弁当どころか日々のおやつまで手作りしてもらってるクセに何もないってどーゆー事!? あたしの学生の頃のマンガだってそんなのいねー!」

「ああもう。母さん、とにかくその辺の事は放っといてくれた方が事態がこじれないんじゃないかと思うので静観お願いしますっ!」

 へーへー、と未だ不満をぐちぐちと言いながらも千佳は引き下がる。優太にしても、母親のテンションが妙に高いのは、普段仕事で忙しく、こうして団欒を取る機会も少ないため、今を楽しんでいるのだと理解しているので、あまり強く言う事もない。

 もともとこういう性格であるという部分も大きいのは確かなのだが。

「で、晃太さんにはもう報告済ませたろうけど、今日はなんかあったか?」

 味噌汁を口に運びながら、優太はその問いの答えを考える。

 ――何かあったか?

 ――もちろんあったが、馬鹿正直に言っても信用はされないだろう。むしろ、信用されてしまう方が危ない。鉄格子のついた病院とかに連れて行かれるかもしれない。

「んー。取り立てて変わった事はなかったかな。いつもどおりの、平和でいい日だよ」 

 結局、何も言わない事にする。父親の霊前では特殊な事があったと報告したが、母親に同じ事を聞かせれば、溢れる好奇心のままに追求されるのに違いないので、敢えて嘘をつく事にした。明日はこの言葉どおりの一日になるだろうかと考えながら。



 一夜明けて。優太は再びレイセス家へと向かう。別段特別なことではなく、登校する途中でルルと合流するのが毎日の日課だからである。が、ほとんど毎日繰り返されていたその日課が、この日は少々違っていた。

「ごめんなさいねえ、今日は随分早くに学校へ出ちゃったのよ。……とりあえず、これは預かっているんだけど」

 チャイムを押した優太の前に現れたのはルルではなくリューリィで、済まさそうな顔でそう言うと、これまた日課になっているルルの作った弁当を優太に手渡す。

「あ、そうなんですか……」

 少々釈然としないながらも優太はぺこりと会釈し、弁当箱を受け取る。

 今までにも何らかの都合でこういうことがなかった訳ではないが、その場合でもほとんどは事前に優太には知らされていた。加えて言うなら、昨日の今日である。優太の心中が少なからず穏やかではないのも仕方のないところだった。

 とは言え、当のルルからは何の連絡もないし、リューリィの様子にも変わったところはない。しかもすでに学校には向かっていると言うのだから、今考え込むよりも、こちらも学校へ行って、そこで話を聞くのが手っ取り早いだろう、と優太は結論した。

 いってらっしゃい、と笑顔で手を振るリューリィにこちらも手を振り返し、少し足を速めて朝の道を歩く。やがて左右の風景が住宅街から林に切り替わり、道が緩やかな坂になり、その勾配も急なものになると、優太が着ているのと同じ制服姿が増えてくる。

 優太やルルの通う柏木高校はこの柏木町唯一の高校で、どういう訳か山の上に建てられており、通うためには毎朝二キロメートルほどの山道を登らねばならないという、学校紹介のパンフレット曰く、自然に満ちた――生徒曰く、通学にとても不便な――環境にある。

 実際、一年生は四月始めに筋肉痛になるものが続出するこの通学路だが、割とこの近くで育った優太はこの山に入って遊ぶことも多かったので、さほど苦ではなかった。ルルに関しても、通学途中に涼しい顔を崩したことはなかったので、おそらく問題なかったのだろう。

 とりとめもなく辺りの林を見やりながら歩き、やがて校門をくぐって下駄箱で靴を履き替え、今時かなり珍しいだろう木造の校舎の中へと入る。リノリウムではなく板張りの廊下を歩き、少し立て付けの悪い扉を開け、二年二組の教室へと到着する。既に登校してきている級友に挨拶し、教室内を見回して、

「あれ? ルルは?」

 同じクラスであるはずのルルの姿が見当たらない。

「今日はまだ見ていないな。というより、珍しく一緒ではないのか」

 独り言のつもりの台詞に、優太の斜め上から返答が来る。身長一九〇の巨体に、完全に剃り上げたスキンヘッドと、閉じているのか開けているのかよく分からない糸目、という非常に特徴的な男子生徒。

 柏木高校と同じ山の上に建っている寺の跡取りである彼は、その立地条件と自身の性格の関係上、ほぼ必ず教室には一番乗りしている。なのに見ていない、ということは、ルルはまだ教室には来ていない、ということか。

 教室へ来る前にルルの下駄箱を覗いて、学校にいることは確認していたのだが、教室にいないとなるとどこにいるのだろうか、と優太は首を捻る。
 その他の何人かの級友に聞いてみても、今日はまだ見ていない、との答えしか返ってこない。

 どんどんと心配の度合いが増してくる。校舎内をくまなく見て回ろうかとも考えたが、数分もすれば担任がやってきてHRの始まる時間だった。今教室を出たら入れ違いになるかもしれないと思い直し、じりじりと焦りながらも席に座る。

 やがて、教室のドアががらりと開き、担任であるところの、三十代半ばほどの男性教師が教室に入ってくる。それに続いてルルも教室に入ってくるのを見て、優太はほっと胸を撫で下ろした。

 どうにも気の回しすぎだったらしい、と脱力する。少し離れた席に座っているルルに、後でベアトリスについてのことや、今朝のことについてまとめて聞いてみようと思っていると、教壇で担任が咳払いを一つ。

「さて諸君。今朝は代わり映えしない日常に、少々の変化が訪れる。喜ぶといい」

 独特の口調と、落ち着いた色合いのブランド物のスーツ。メガネの奥にのぞく知性を湛えた切れ長の目。多くの生徒には『やり手サラリーマン』、一部の生徒には『インテリヤクザ』とあだ名される教師である。

 ちなみに担当教科は家庭科であり、調理実習の際はスーツの上に割烹着、というある意味この学校の名物とされている彼の言葉に、教室の生徒たちが注目する。

「今日からこのクラスに新たな一員が加わることとなった。かなり遠方からの転校となるので、ここでの生活に一日でも早く馴染めるよう、皆で協力してやることだ」

 担任の言葉に、クラス内が軽くどよめく。柏木町では、人が出て行くことは多くても、新しく入ってくることはそう多くない。

 なにせ電車が一時間に一本か二本しかこないのだ。その田舎っぷりは推して知れる。

 と、最前列に座っていたショートカットの女生徒がびしりと手を挙げる。

「なんだ倉沢」

「新入りは男ですか女ですかっ」

 クラスのほぼ全員の意見を代弁した言葉に担任は軽く頷き、

「すぐに分かる。……入りたまえ」

 扉を開けて入ってきた人物を見て、教室が再びどよめく。それは転校生であるという要素を除いても珍しい存在だった。

金の髪と青い瞳。一目で日本人ではないと知れる容貌。くっきりと整った顔立ちに、ややきつ目の眼差し。明らかに不貞腐れた雰囲気を漂わせているものの、十二分に〝彼女〟は目立っていた。

ざわめく周囲から切り離されたようにしばし呆然としていた優太は、はっとして少し離れた席の方へ振り向く。そこにはしてやったりといった風に唇の端を上げているルルがいた。

 ――よく考えるまでもなくやっぱりルルの差し金か……。

「では自己紹介をしてもらう。諸君。静粛に」

 驚きに口を半開きにして固まっている優太をよそに、担任の声が響き、喧騒に包まれていた教室がゆっくりと静まっていく。その中で〝彼女〟は担任からチョークを受け取り、生徒たちに背を向けて黒板に手を伸ばす。

 まずは流麗な筆記体で『B』と書き、しかし何かを思い出したようにはっとしてそれを消し、今度は日本語の文字を書き連ねていく。

 先程と違いぎこちなさが目に付く手つきではあるが、やがて文字を書き終わると、満足げに一つ息をついて再び生徒たちに向き直る。

 その表情からは先程までの不機嫌さはほんの少し薄れ、代わりにどこか得意げな色が揺らめいていた。

「英国より参りました、ベアトリス・タルボットと申します。以後お見知りおきを」

 優雅に一礼し、教室の一角に攻撃的な視線を送る。確認するまでもなくルルに対するものだと優太は察した。一方ルルは、余裕の笑みでその視線を受け流し、ただ一言。

「五十点ね」

 斬り捨てた。その言葉に物理的威力があったように、ベアトリスが僅かに仰け反る。が、すぐに体勢を立て直してルルを睨む。

「それはそれは。伝え聞いた作法の通りにしたつもりなのですが、何がいけなかったのかご教授下さいませんこと?」

 ――レイセスさんと知り合い? っていうかお嬢様言葉だ! 折角の金髪なのに縦ロールじゃないのが惜しい……。

 教室の中でそんな囁きが交わされる中、座ったまま黒板に書かれた文字に目をやるルル。

「確かにまずは黒板に日本語で名前を書くこと、とは言ったけれど……ねえ?」

 そう言って後ろの席に座る眼鏡を掛けて髪を三つ編みにした女子に話を振る。

「へ? うーん……ウチはかわええと思うよ~? なんやこう、親しみが持てて好感度アップ、みたいな~?」

 話を振られた方は、首を右に左に傾げながら、のんびりとした口調でそう言う。その周囲では数名の生徒が首肯して同意を示していたが、彼らと黒板の文字をいくら見返してもベアトリスには事情が掴めない。

「タルボットはレイセスの親族に当たり、英国から日本に来て間もないそうだ。言葉はほぼ完璧のようだが、色々と不便をすることもあるだろうから皆便宜を図ってやれ」

 担任は教室内へ鋭い視線を巡らせ、ベアトリスに開いている席を示して座るよう指示すると、教室から出て行く。それと入れ替わりに一時間目の数学を担当する教師が入ってくる。

 皆が教科書を取り出して準備を整える中、優太はルルに視線を向ける。ルルは先程から微かに笑みを浮かべ、妙に楽しそうにしているように見える。

 ベアトリスに視線を転じると、素直に指定された席に座りながらも、先程の自己紹介における話の流れが未だに理解できず、戸惑っている様子だった。

 そこまで確認すると教室の前、黒板に目をやる。

 ――ほんとに何がどうなってるんだろう……?

 そこに書かれた『べあとりす・たるぼっと』という平仮名の連なりを見ながら、優太は盛大にため息をついた。




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ルルとベアトリスに関する簡単な説明と、お約束の転校イベントでした。
感想がもらえるっていいですね。パワーになります。面白いと思ってもらえるように頑張ります。





[14838] その2『拒絶と我儘』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:05
「つまり、ベアトリスは貴族なワケかー。そりゃーあのタカピーっぷりも納得だなあたしゃ。むしろオーホホホ! って笑えって感じだ」
 
 昼休みである。

弁当箱に入っていたおにぎりをお茶で喉の奥に流し込んで、HRの際に転校生の性別に関して質問を投げかけていたショートカットの女生徒が貴族という存在に対する偏見満載の台詞をのたまう。

 教室の一角で、七人の男女が机を寄せて昼食を摂っていた。優太、ルル、ベアトリスに加え、クラスの生徒が四人、男女それぞれ二名ずつ。

 彼ら彼女らは普段優太やルルと一緒にいることが多い友人たちで、この面子で集まって昼食を摂るのはいつもの習慣であり、裏を返せばそうやっていつも集まっている面々しかこの一角にはいないのである。

 ほど良く田舎の学校に、金髪外人転校生の出現とあらば、昼食時などはその周囲はもう少し賑わっていても良さそうなものだったが、むしろこの七人の近くにはあまり近づかないように周囲が気を付けているフシさえ見られる。そのくせ、興味津々に様子を窺っていることも確かだった。

 実のところ、午前中は休み時間ごとに、クラス内のみならず他のクラス、他の学年からも見物人が詰め掛ける事態となっていた。
 
 ただでさえ人が少なく、高校であるというのに一学年は三クラスしかないので、ベアトリスの存在は瞬く間に全校に知れ渡る結果となっていたのだ。

 ルルや優太も関係者と目されてあれこれと聞かれたが、ルルは質問のほとんどをのらりくらりとかわすばかりだったし、優太はといえばそもそも何故ベアトリスが学校に来ることになったのか全く分からないままだったので、何も答えようがなかったのだった。

 そしてついに、来るべくしてその時は来た。三時間目と四時間目の間の休み時間、とうとう臨界点を越えたベアトリスが自分の周囲へと詰め掛けた生徒たちに向かい、

「わたくし、あなた方のよう下らない方々と馴れ合うような趣味も暇も持ち合わせておりませんわ! 不愉快ですので視界内から三秒以内に消失なさいませ! もしわたくしの言葉が理解できないとおっしゃる方がおられましたら今この場で名乗り出られるとよろしいですわ。皺の足りていない脳にきっちりとご自身の身の程を刻み込んで差し上げます!」

 と、氷点下の視線で傲然と周囲を見下しながら啖呵を切ったのだ。

 一瞬で静まり返った生徒達は、この時点では単に事態が良く理解できていなかっただけだろう。一様に驚きを顔に浮かべながらもその場に留まっていた。

 ベアトリスはそんな生徒達を女王の視線で睥睨し、

「散りなさい!」

 一喝とともに薙ぎ払うように腕を振って見せ、次の瞬間には生徒達は蜘蛛の子を散らすように退散していった。

 なまじ整った容姿と丁寧な言葉遣いでの苛烈な発言だったため、その効果は絶大だったようで、四時間目終了後の現在、今までのような喧騒はベアトリスの周囲にはない。

 それだけに、昼休みが始まると同時にベアトリスを捕獲して一緒に昼食をとり始めたルルと、当然のようにそこへ一緒にいた優太のところへごく普通にやってきて昼食を摂り始めた四人はなかなかの猛者と言えた。

 強引に引っ張ってこられたベアトリスは不機嫌さを隠そうともしてはいなかったが、自分から口を開くような必要はないという風に、沈黙を守りながら黙々と弁当を口に運んでいる。

 ちなみにルル曰く、ベアトリスの弁当はリューリィの作ったもので、箸を使わなくても食べられるようにメニューが工夫されていた。

 そんな訳で周囲から切り離されながらも注目された七人の食卓では、ルルがベアトリスの素性を――無論、魔法使い云々は伏せて――英国貴族の生まれで、今回日本に留学することとなり、遠い親戚である自分の家に滞在している、と説明したところである。

「ベアトリスの略称形はトリスだから、そう呼んであげるといいわよ、蘭」

 そういうルルをベアトリスが凶暴な目つきで睨みつけるが、意に介した様子はない。

 また、蘭と呼ばれたショートカットの女子も指についたご飯粒をぱくつきながら気軽にあいよー、と答え、それがまたベアトリスの眉間の皺を深くしている。

「まあ、なんだ。タルボットの事情ばかり聞くのも悪いし、こちらからも自己紹介をせんとな」

 重々しく頷きながら、スキンヘッドで大柄な男子が切り出す。

「とりあえず口火を切った者からいかせてもらおうか。俺は楓原観法。実家はこの学校のすぐ近くにある楓原寺という寺でな。それでこのような頭をしている。まあ宜しく頼む」

 軽く会釈をする観法だが、ベアトリスは完全に無視してサラダを口に運んでいる。観法本人はと言えば気にした様子も無く、軽く苦笑して肩をすくめただけだった。

「なんだよトリステンション低いぞー? もっとこう、『下賎の者と話すことなどありませんわっ』くらい言えよー、つまんねー。あ、あたし倉沢蘭ね。覚えれ」

「姉さんはテンション高すぎ。呆れ果てて何も言えなくなっても不思議じゃないよ。……俺は倉沢蓮。蘭姉さんとは双子なんだ。何でここまで似てないのか自分でも不思議だけどね。ともかくよろしく」

 二個目のおにぎりに取り掛かりながら、ベアトリスにぐっと親指を立ててみせるショートカットの蘭と、その隣でしずしずと蘭と同じ内容の弁当を消費していく男子、蓮。

 似ていないとは言うものの、顔立ちはむしろかなり似ている。もっとも、問答無用に元気の良さというかやかましさをアピールしている蘭に対し、蓮はひたすら物静かな雰囲気を醸し出しているので、あまり似ているという印象を受けにくいのも確かだろう。

「あ、ウチは紅原真白いうんよ? えーとえーと、とりあえずよろしく~」

 わたわたと周囲を見渡して、次は自分の番だと思ったのか、授業中、ルルの後ろの席に座っていた、おっとりとした感じの眼鏡の女子が、にっこりと笑みを浮かべてベアトリスに片手を差し出す。

 が、視線も向けずに黙殺され、しゅんとした様子で手を引っ込め、あう……とうめいてうなだれた。

「あ、ええと、僕は早坂優太……ってそういえば昨日自己紹介してなかったかな、うっかりして、た……」

 どうにか間を持たせようとした優太だが、ベアトリスから放散される怒りのオーラに当てられ、しどろもどろになる。

「なんだ早坂は知ってたのかよー。ズルイなチクショー。っていうかこんな珍しい転校生が来るなら昨日のうちに教えろよ」

「僕も転校してくるなんて知らなかったんだよ……」

 フォローのつもりなのかそれとも地か、尻尾を丸めてしまった優太に蘭が茶々を入れる。

 その間もやはりベアトリスは黙々と食事を続けるのみで、自身以外の全てに対して何の関心も払ってないかに見えた。

「さて、私は自己紹介するまでもないけれど……トリス。もう少し態度の取りようというものがあるのではないかしら? いつまでもあなたがそのままなら、私としても考えるところがあるのだけれど」

 あくまで頑ななベアトリスだったが、ルルのこの一言にはぴくりと肩を震わせた。

ゆっくりと顔を上げ、ベアトリスと視線をかち合わせる。そこには先程までの不機嫌さや無関心とは違い、悔しさが見て取れる。

「……その言い草は卑怯ではありませんこと? ええ、確かにわたくしはあなたに従う他ないのでしょうが……。こんな下らない事につき合わされるとは思いませんでしたわ。昨日の夕方の待遇の方がまだマシだったかもしれませんわね」

「下らない、ねえ。そんなだから友達の一人もいないのだと思うのだけれど?」

「単純に不必要だから、というだけのことですわ。……馬鹿馬鹿しい」

 ルル以外にはいまいち意味のつかめない会話だったが、まさに取り付く島もないといった風情のベアトリスに、一同は黙り込んでしまう。

 唯一ベアトリスと会話を成立させていたルルも、処置無しといった表情で肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。やがて、食事を済ませたベアトリスが立ち上がる。

「何処へ?」

「何処でもいいでしょう。戻ってくることは保証しておきますわ。それで文句はないのではなくて?」

 噛み付くように言うベアトリスに、ルルは軽くため息をつくが、それだけで止めるようなことはしない。やがてベアトリスがその場を歩み去り、ぴしゃりと教室の扉を閉じると、その場の空気がどっと弛緩した。

「……なかなかの難物だなあ。彼女は」

 スキンヘッドを撫で上げながら言う観法。皆がそれに同意を見せる。

「いやあもうすげー威圧感だったな! うちのポチにも見習わせたいくらいだ。……よし蓮。お前トリス口説け」

「会話の前半と後半の繋がらなさ加減は何事だよ姉さん。確かにポチはドーベルマンの割に気が小さいけどそれは姉さんが子犬の頃に散々苛めたからだし、それと彼女を比べるのもどうかと思うな。あと口説けってのはどういう脈絡なのさ」

「バッカお前知らないのか。あーゆータイプは惚れた相手の前ではメロメロになるもんだと相場が決まってるんだぞ? あたしらの楽しい食卓のために、そのいちいち姉ちゃんにツッコミいれずにいられない律儀さを武器に彼女のハートにカミカゼアタック!」

「それはつまり当たって砕けて死んで来いってことなのかな姉さん」

 とりとめもなく漫才を――本人たちはそんなつもりはないかもしれないが――続ける倉沢姉弟に引きずられる形で、少々重めだった空気が幾分軽くなる。

「まあ、気長に行くしかないかしらね。トリスもいつまでもあのままではいられないと思うし」

 そんなルルの呟きを聞きながら、できれば早めに溶け込めるといいなあ、と優太は思う。

ルルとベアトリスの間にどんな事情があって彼女が学校に来ることになったのかは分からないけれど、ともかくクラスメイトになった以上は、あんな風に周りを拒絶するより、一緒にいた方がきっとどちらにとっても楽しいに違いないのだ。

 そんなことを考えながらふと視線を巡らすと、左手に弁当箱、右手に玉子焼きを挟んだお箸、という姿勢で真白が固まっているのが目に入った。

「真白? 玉子焼き落ちるよ?」

 優太が問いかけたのをきっかけに、残る四人が真白に注目する。

「……また『お出かけ』かしら?」

 この少女がこうやって固まっている時は、大抵何事かを深く考え込んでいる時で、そうなるとなかなか思索の世界から帰ってこない。

 優太たちはこれを『お出かけ』と呼ぶ。現に今も、視線を明後日の方向に固定したまま、真白は周りからの注目に気がつかずにいた。
「ぬっふっふ。頂きます!」

 唐突に真白のお箸の先にある玉子焼きに食らいつく蘭。

「うひゃあ!? あー。ウチの玉子焼き~」

「美味美味。隙を見せるのが悪いぞ、真白」

「婦女子のやることではないなあ、倉沢姉」

「女の子として、っていうより人として間違いだと思うな。俺は恥ずかしいよ」

 流石に驚いて『お出かけ』から戻ってくる真白と、あまりといえばあまりに意地汚い蘭の行動に物申す観法と蓮。

「まあ蘭の行状については置いておくとして、何を考え込んでいたのかしら、真白?」

 真白は軽く目を伏せ、黙っている。が、やがておずおずと顔を上げてルルを見た。

「あのね、トリスちゃんて、今まで友達とかおらんかったん?」

 そうね、とルルは軽く腕を組んで天井を見上げる。気付けば、真白だけでなく全員がルルに注目していた。

「……ちょっと家庭の事情、みたいなものなのよ。同世代の人間がこんな風に大勢集まっている場所の経験すら少ないんじゃないかしら」

「そっか~」

 ルルの言葉に頷くと真白はまたも『お出かけ』を始めてしまい、そのまま昼休みが終わるまで戻ってこなかった。

 残った面々も、それぞれに先程までの出来事に考えをめぐらせたり、真白の弁当を根こそぎ食らい尽くそうとする蘭を拘束したりして残りの時間を過した。

 ベアトリスは昼休みの間中どこかに行ったままだったが、午後の授業が始まる直前になって教室に戻り、席に着いた。


 結局その日は午後の授業中も、放課後になり、いざ帰ろうという段になってもベアトリスは不機嫌オーラ全開の状態で、クラスの人間と友好的な雰囲気になることはなかった。

 学校からの帰り道、部活があったり帰る方向が違ったりで、友人たちとは離れ、今は優太、ルル、ベアトリスの三人、つまり、程度の差はあれ、ベアトリスの本当の素性……ひいては、魔法について知識のある者ばかりである。この段になってようやく、優太は朝から気になっていたことを問い質した。

「で、なんでベアトリスはうちの学校に来ることになったの?」

 ベアトリスは相変わらず自分からは口を開こうとはせず、ルルはそんな彼女を見て苦笑しながら優太に答えた。

「そうね。殺しちゃうわけにもいかないし、かといって放置してもおけない。英国に帰してしまえば今現在は封印されている魔法を解除してまた襲ってくる可能性もあるし、タルボット家が更に力を入れてちょっかいをかけてくるかもしれないわ。

 ……幸いにも無力化には成功してるわけだから、しばらく手元に置いておこうと思ったのよ。でも監禁しておくのも現代日本ではどうかと思うでしょう? 色々と面倒ごとになりそうだし。

 で、私の不利な方向に事態が動かないように幾つか手を打った上で、周りから不自然に思われないように学校にも行ってもらって、あとはある程度自由にしててもらおう、ってところかしら」

 人差し指を立ててみせ、滔々と説明するルルだが、優太としてはまだ腑に落ちない点がある。

「まあ、目的とかはそれでいいとして、なんで昨日の今日でもうベアトリスが転校してくるの?」

「……そうねえ」

 顎に手を当てて少し考える素振りを見せるルル。

「簡単に言ってしまうと、私、お金持ちなのよ」

「……は?」

 思わず聞き返した優太へルルは、つまりね、と一つ頷き、

「長く生きてる分、あれこれとコネが多いの。で、そういったあれやこれやで溜め込んだお金があるから、今回はそれでちょっと横車を押してしまったわ。うふふ」

「うふふって……もっとこう、魔法使いっぽい裏技とか使ったのかと思ったよ……」

 なんとなく夢を壊されたような気分になって脱力する優太。

「そうは言うけれどね優太。魔法がなくても今の世の中、お金があると大抵のことは何とかなってしまうものなのよ?」

「それは分かるけど魔法使いの口から聞きたくない台詞だよルル……」

 なかなか容赦のない現実に優太ががっくりと項垂れていると、ルルがさっととその手を取り、先ほどからむっつりと黙ったままのベアトリスの前へと回り込む。

「ところで、私たちはこれからちょっと商店街に寄って軽く買い食いでもしてから帰ろうと思うのだけれど、あなたはどうする?」

「わたくしは先に帰らせて頂きますわ」

 憮然としたとした表情を崩さないまま、優太ともルルとも目を合わせずに吐き棄てて、ベアトリスはそのまま歩き出す。やれやれといった顔でその背を見送るルル。

「大丈夫かなあ」

 迷いの感じられない足取りで遠ざかっていくベアトリスの後姿を見ながら、優太の口からそんな言葉が零れ落ちる。

「トリスなら少なくとも今すぐどうこうなる、という事はないわよ」

「しっかりしてるみたいだし、その辺はいいんだけど……。ほら、今ベアトリスが一人で家に帰ると……」

 そこまで言うとルルは優太の心配の種を察したようで、ポンと手を打ち合わせ、にっこりと笑ってみせる

「ああ、母さんのことね。そっちも大丈夫よ」

「そうなの?」

 思わず問い返す優太に、ええ、と頷くルル。

「母さんも素人じゃないしね。……まあ、その辺りの話もいずれしましょう」

「そうだね。……正直な話、現状だとルルの話だけでも消化し切れてないからその方が助かるかも」

 少しげんなりとしてみせる優太。ルルはそれを見てクスリと笑い、

「そう? でもごめんなさいね。別口で少し聞いてもらいたい話があるのよ」

「あ、やっぱり、何か内緒の話でもあるの?」

「あら、やっぱりってどういうことかしら? さっき私は買い食いに行くと言ったように思うのだけれど」

 そう答えながらもルルの顔には満足げな笑みがある。

「ルルと一緒に買い食いに行くことなんて滅多にあるもんじゃないし、そもそもタイミング良すぎだよ」

 実際、優太はルルとそこらの店で買い食いをすることがほとんどなかった。

 単純な話で、小さな頃から優太が食べるおやつの類は、そのほとんどがルルのお手製で、故に、友人たちとどこかへ出かけているときならいざ知らず、二人でいる時には外で何か食べるよりも、ルルが手ずから何か食べ物を用意することがほとんどだったのだ。

「そうね。今はまだトリスに聞かせられない話。折角だから、滅多にしない買い食いでもしながら話しましょうか」

 十分後。優太とルルは町の商店街の端で鯛焼きを片手にベンチに座っていた。

「まずは……そうね、現状の整理から、かしら」

 カスタードの鯛焼きを頬張って、ルルが人差し指を立てながら言う。

「最初に言っておきたいのだけれど、トリスをわざわざ私たちと同じ学校に通うようにお膳立てしたのには、さっき言った以外にも理由があるの。……優太、ベアトリスが午前中に爆発してから、私以外の人間とまともに口を利いてないのに気がついた?」

 全く気がついていなかった。粒あんの鯛焼きで口の中が一杯だったので声に出して返事することはできず、優太は首を振って答える。

「昨日優太が帰ってから、トリスに英国での状況を色々と聞いたんだけれど、どうもあの子には……っていうよりも、タルボット家の思想かしらね。ともかく偏った部分が目立つわ」

「偏った部分?」

 ようやく口の中の鯛焼きを飲み下し、オウム返しに尋ねる。

「そう。魔法至上主義、とでも言えばいいのかしら。現代に生き残っている……特に西洋の魔法使いにはその傾向が出ることが多くて……この辺は『大衰退』以降の魔法の歴史が関わってくるんだけど、今は置いておくわね。まあそんな風に考えやすい土壌の元で育ったせいと、トリス自身の魔力の強さがその傾向を強めているのかも知れないわね」

 強い力はあまり人にいい影響を与えない事が多いから、とぽつりと零し、そこで一旦言葉を切ってペットボトル入りのお茶を一口飲む。

「あの子は多分タルボット家の秘蔵っ子なんでしょうね。ただただ魔法使いとしての能力を高める事を、それこそ生まれる前から追求してきたはずだわ。近親婚の繰り返しによる血統の純化、儀式下における受精、母胎内での魔法調整、生まれてからの肉体改造もある程度やってるでしょうね。

 まあ、あれだけの才能ならそんな風にされてしまう事もあるでしょうけれど……。あんまり細かいところまでは聞いていないけれど、一族を束ねる連中の言いなりになって魔法のためだけに生きてきた、みたいなところが多分にあるわね。そんなんじゃ、私たちが通ってるような学校とか、友達付き合いなんかが下らないとしか思えないのも無理のないことかもしれないわ」

 ルルの口調には、どこか自嘲めいたものが混じっているように優太には思えた。ルルも生まれは英国の魔法使いだし、何か我が身に重ねるところがあったのかも知れない。が、今はそのことはとりあえず意識の隅に片付けておくことにした。

「そっかあ……ベアトリスも苦労してるんだね……」

「そうね。まあともかくそんな訳で、彼女はこの町では私以外の人間を見下す傾向にあるし、私に対してもやっぱりいい感情は持っていないわね。これは仕方のないことだけれど。本来なら勝てるはずの相手に小細工を使われて二回も負けているわけだから」

 困ったものだ、というようにルルがため息をついて鯛焼きにかじり付く。

「本来なら勝てる相手、って……ベアトリスってそんなに強いの?」

 優太の問いに、鯛焼きを咀嚼しながら頷くルル。やがて口の中のものがなくなると、真面目な表情を作り、

「強いわよ。さっきも言ったけれど、タルボット家の切り札的な存在なのは間違いのないところだと思うわ。普通はあれこれと手を尽くしてもあそこまでの力は持ち得ないものなんだけれど、これはやはり才能というものかもね。もしも真正面からぶつかり合いをしていたら私の勝ち目は二割ってところかしら」

 これには優太は驚く。実際、ルルは昨日、ベアトリスをあっさりと降しているのだし、話によれば十三年前にも戦って、結果ベアトリスを封印したのだという。いわば二連勝中なのだ。それが勝ち目二割というのはちょっと納得がいかない。

 考えていることがありありと顔に出ていたらしい。優太の方を見ながらルルがくすりと笑う。

「確かに私はトリスに二回勝っているけれど、十三年前は自爆技同然の呪いを使って彼女をやっと封印しただけで、昨日はその封印が効いている間に考えられる限りの罠を張ってその上で彼女を無力化しただけ。十三年前に使った手はもう使えないし、それを使った影響で当時より私は随分と弱体化しているから、なおのこと勝ち目は薄いわ」

「じゃあ、今の状況って結構危なかったりするの?」

 ルルの話を聞いているうちに、優太は急に心配になってきてしまった。ベアトリスの語る、ルルの大魔女という肩書きや、あっさりとついてしまった昨日の決着などから、二人の実力差はルルの方に大きく傾いているものだと思っていたのだ。

「まあ、魔法を使ってトリスの行動にはあれこれと制限を掛けさせてもらったし、そもそもスタッフも取り上げたからそんなに心配要らないわ。――まあ、本題はそのことじゃなくて、優太に協力して欲しいことがあるの」

「協力?」

「そう。私はね、優太。トリスが自分の意思で、ここに――いえ、ここでなくてもいいわ。彼女自身の為に生きて欲しいと思うのよ」

 多分それは単なる私の我儘なんだけれどね、と付け加えながら真正面から優太を見つめるルルの瞳には、真摯な色がある。優太はそれに引き込まれるような思いでルルを見つめ返していた。

「魔法は、確かにかつて世界中で使われ、繁栄していた技術だわ。でも……もうそうではないの。『大衰退』以降、まともに使える人間も激減し、道具の補助なしには満足な効果も出せず、しかも迫害を受けることさえあった。

 そんな中で魔法使いたちが自分自身を保つために、周りを見下して、以前のような力を求めて様々な手段を用いるのは仕方のない事なのかも知れないわ。……私もそんなところがあったし、ね」

 そう言ってルルは笑みを浮かべる。だがその笑みは、普段優太が見ている、優しげだったり意地悪だったり、しょうがないなあ、とでも言いたげな少し眉根を寄せたものとは違う、何処か虚ろな印象の笑みだった。

 だから、優太はルルの手を取る。そこから彼女の虚ろな笑顔に何かを注ぎ込もうとするように、華奢な掌をきつく握る。優太の行動が功を奏したのか、それともルルが優太を慮ったのか、彼女の笑顔は優太が見慣れたものへと変わる。ありがとう、とルルは小さく呟き、

「トリスを見ているとね、ずうっとずうっと昔を思い出すの。だからかしら、あの子に知って欲しいの。今の私を。私は、私の選んだ今が好きよ。今の暮らしが好き。流れる時相応に歳をとって、友達と端から見たら馬鹿みたいな話で盛り上がって、ほんの些細な変化を日常の中に見つけ出してそれに一喜一憂する。……この上ない贅沢で、眩暈がしそうだわ」

 それは、優太からすれば実感しにくいことだった。ルルの言う今の暮らしは、優太が生まれた頃から身の回りにあるもので、代わり映えのない日々を退屈に思うこともないわけではない。しかし、それを失って良いとも思えない。それは何故か。そこについて考えた時、優太はルルが何を考えているのか分かったような気がした。

「つまり、ルルはベアトリスと友達になりたいし、ベアトリスにみんなと友達になって欲しい、んだよね?」

 ルルは答えない。ただ、握られている方と反対の手を優太の頭に載せ、優しい手つきで頭を撫でる。

「ルル。やっぱりちょっと恥ずかしいんだけど……」

「あら。私は楽しいわ。――まあ、今日はこのくらいにして帰りましょうか。トリスのことはゆっくり考えましょう。クラスの大半はしばらく彼女に近寄れないでしょうから、まずは私たちの周りから、ね」

「みんなタフだしねー」

 自分の友人たち……今日も一緒に昼食をとった面々のことを思って、優太は微笑う。彼ら彼女らなら、多少どころではなくキツめのベアトリスが相手でも何とかなるかも知れない。

 それに、ベアトリスにしたところで、今は意固地になっているだけなんじゃないかと優太は思う。昨日の夕方にはそこそこ普通に話もできていたし、悪い人間だとは思えなかったのだから。

「んじゃ、明日から頑張ってみよう」

 ぐい、と拳を握りしめて優太は決意を新たにする。明日からは少し慌しくなりそうだった。


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当然のように馴染まないベアトリスVS優太と愉快な仲間達。
本文中に入れるとクドくなりそうだったので省いた友人たちのイメージなんぞをひとつ。
キャラ立てに関してはこれから本文中でガッツリやっていきたいところなのでさわりだけ。

倉沢 蘭(くらさわ らん)・ショートカット、猫っ毛。チャームポイントは黒目がちな瞳と八重歯。やかまし系。

倉沢 蓮(くらさわ れん)・姉とほぼ同じ髪型、髪質。姉よりちょっと目つきが悪いのが実は密かなコンプレックス。物静か系。

紅原 真白(べにはら ましろ)・眼鏡、三つ編み。外見的には「ザ・委員長」。おっとり関西娘。大人し系。

楓原 観法(かえではら みのり)糸目、長身、スキンヘッド。気は優しくて力持ち。どっしり系。



[14838] その3『好意と惰性』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:06
「おはよう早坂ぁ! 毎朝お迎えご苦労だな!」

 ルルと、そしてベアトリスと共に学校に行こうとレイセス家を訪れた優太を出迎えたのは、ルルでもリューリィでもベアトリスでもなく――

「……なんで蘭がここにいるの?」

「このおバカ! 挨拶されたらまずは挨拶を返せ!」

 びしり、と優太を指差して言う蘭。ともかく言うとおりにした方が話は早いし、間違ったことも言っていないのでその通りにする。

「おはよう。……で、さっきの質問なんだけど」

「姉さんだけじゃなくてみんないるよ。もう出てくると思うから、歩きながら話した方がいいな」

 言いながら靴を履き、門前で立ち尽くす優太の方に歩いてくる蓮。続いて観法の巨体が奥から姿を現し、真白が三つ編みを揺らして小走りにやってくる。

「おはよう、優太」

 最後に、ルルが昨日と同じようにむっつりとしたベアトリスを連れて出てくる。

「うん、おはよう、ルル、ベアトリス」

「……おはようございます」

 仏頂面のままだったが、ベアトリスから挨拶が返ってきたことに、優太は軽く驚く。

 よし! ブラボー! 進歩だ! とか朝からテンションを上げまくっている蘭を余所に、優太はルルに囁く。

「……どういうこと?」

「昨夜、『最低限の会話はするように努力してみなさい』って言ってみたの。勝者の権利ってやつかしら。あまり良いことではないけれど、せめてきっかけくらいは作らないと進展もなさそうだったものだから」

 そう囁き返してからルルは集まっている友人たちを見回し、

「この状況については、まあ蓮の言うとおり歩きながら、ね」

 楽しげに笑い、歩き出す。それをきっかけに、七人はぞろぞろと学校への道を歩き始めた。

「で、結局なんでみんな集合してるの?」

 玄関先まで出てきて、ニコニコと手を振っていたリューリィが家に入ったところで、優太が丁度隣を歩いていた観法に向かって疑問をぶつける。

 そもそも、今までこんなことは一度もなかった。蘭と蓮の姉弟は学校から見てルルや優太の家のある方角とは反対の位置に住んでいるし、真白はその中間辺り。観法に至っては、柏木高校のどの生徒よりも学校に近い位置に住んでいる。

 自然、下校時に集まって寄り道することはあっても、登校時に集まって歩く、という事態は起こりようがなかったのだ。

 話を振られた観法はふむ、と頭を撫で上げ、ちらりと後ろを見る。数歩分離れたそこには、会話のほとんどを生返事で流すベアトリスに対して、懸命に話しかけ、世間話を振っている真白がいた。

 どちらかというと気弱げな印象が先立つ彼女だが、邪険にされては一瞬怯みながらも、諦めずに甲斐甲斐しくベアトリス相手に会話を継続させようとしている。

「昨日の夜にな、俺と倉沢に紅原から電話があった。どうしてもタルボットが気になるんだそうだ」

 糸の様に細い観法の目が微かに動く。開けているのか閉じているのかいまいち分かりにくい彼の目つきは、いつでも笑みを浮かべているように見えるものだが、それなりに付き合いの長い優太には、彼が微笑しているのだと分かる。

「で、まずは、交友を深めるためのきっかけ作りに朝のお迎えを敢行したわけだな」

「うむ。トリスをあのまんま孤立させとくのも面白くねーし、真白にもお願いされたからな! ちょっとくらいの苦労はなんてことねー!」

「すごくいい事言ってるところ悪いけど、姉さんは苦労してないだろ。朝は起きないし、朝食を食べ損ねたって駄々をこねるし、挙句に人様の家の朝食をたかるし」

 いつの間にそばに来ていたのか、蘭と蓮がまるきりいつもの調子で会話に加わる。

「まあいいじゃないの。別にうちは迷惑でもなかったわよ? むしろ楽しかったわ」

「ほーれ見ろ蓮。この広い心を。己が器の狭さを恥じよ!」 

 いかにも上機嫌に言うルルに便乗して双子の弟をなじる蘭。とてもとても楽しそうだった。

「恥はむしろ姉さんに知ってもらいたいよ。まさかチャイムも押さずに『とーりーすーちゃーん、あーそびーましょー』とか大声出すとは思わなかったよ。小学生じゃないんだから。あと俺たちはこれから学校行くんだって分かってる?」

「くっ……ふーんだ、小姑め! 姉ちゃんは機嫌を損ねた! 真白ー、トリスー。あたしも混ぜれー」

 蓮のツッコミに怯んだのか、蘭はくるりと身を翻し、先程と変わらず真白が投げた会話のボールをベアトリスが受け止めるだけはするものの、その後投げ捨てる、という状況の中へと突っ込んでいく。

 嬉しそうな様子の真白と、眉間の皺が深くなるベアトリス。対照的な表情を浮かべる二人の傍まで行くと、早速色々と騒ぎたて始めている。

 呆れたように――実際、呆れているのだろうが――ため息をつく蓮の肩をごつい手が叩く。

「まああれはあれで考えて……はないのかも知れんが状況の改善のために努力してるんだろう。とりあえず今は見守ってやれ」

 女子三人の様子を眺めながらははは、と笑う観法。対する蓮は一層深くため息をついた後、そうだな、とだけ返す。

「ところで、ルルは混ざらないの?」

 優太が隣で、ベアトリスたちの様子を眺めていたルルに尋ねる。ルルは少し思案して首を横に振り、くすりと笑う。

「私が入るとトリスに妙に意識されてしまうもの。だから今は真白と蘭に任せておくわ。真白は気が弱いようで実は押しが強いし、蘭は言わずもがなだから。ベアトリスが爆発さえしないように気をつけていれば大丈夫でしょう」

 結局、真白が切り出し、ベアトリスが受け流し、蘭がかき回して真白がフォローしてまたベアトリスが受け流す、という形の会話は、通学路から学校内に入り、教室に到着してもしばらく続けられたのだった。





『優太と愉快な仲間達の挑戦』 ダイジェスト



ベアトリス転入二日目 昼食時の一コマ

「トリスちゃん、トリスちゃん」
「……なんですの」
「好きな食べ物ってあるー?」
「何でもよろしいでしょう」
「なんだ。何でも食うのか? よーし、んじゃ納豆食わせてやんぞー」
「あかんよ蘭ちゃん。あんなん人間の食べもんちゃうよー?」
「……トリス。そんな警戒して睨まないの。発酵食品の一種よ。真白は嫌いみたいだけどね。――気になるなら会話に加わればいいのよ」
「余計なお世話ですわ」



ベアトリス転入四日目 朝のHR前の一コマ

「なあタルボット」
「……何か御用ですの?」
「いや、まあ用と言うほどのこともないんだが……ああ、そうだ。先日も言ったが俺の家は寺でな。浄土真宗……と言っても分かり辛いか。まあ、仏教の一宗派な訳だが、タルボットは信仰はあるのか?」
「――Anglican church……この国では聖公会と言うそうですわ。熱心な信徒とは言えませんが」
「あ、あん、ぐ……?」
「アングリカン・チャーチ。英国国教会。イギリス発祥の……まあ、さっきの真宗の説明と同じく、キリスト教の一宗派と思えば問題はないかな」
「おお、すまんな蓮。だがまあ、これで一つ相互理解が進んだわけだな」
「……宗教の話題から入るのもどうかと思うけど……。すまないね。観法は観法なりに努力はしてるんだ」
「別にどうでもいいですわ」



ベアトリス転入六日目 放課後の一コマ

「ねえベアトリス」
「……そろそろわたくしのプロフィールも完成した頃かと思いますけれど、何か?」
「え? えーと、何のことかよく分からないけど……部活とかに興味ないかな。もしあるなら案内するけど」
「――ブカツ……?」
「club activities、ね。倶楽部活動、略して部活、よ」
「興味ありませんわ。わたくしがわざわざ課外活動にまで参加しなければならない理由も見つかりませんし」
「そ、そう……」
「そもそもあなた方も課外活動をされているようには見えませんが?」
「確かに私も優太も部活はしてないわね。放課後は定期的に楓原寺に用事もあるしね。まあ、興味が出たら誰かに言うといいわよ」
「結構ですわ」





「で、だ。我々は数々のミッションをこなしてきたわけだが! ……実際のトコどーよ?」

 三時間目が終わっての短い休み時間。優太、ルル、真白、観法、蓮、蘭の六人は、真白の机周辺に集まっていた。ちなみにベアトリスは授業の終わった後、ふらりと何処かへ消えてしまった。今までも度々そういうことはあったが、着席しなければならない時間になるとしっかり戻ってくる辺り、几帳面な性格がうかがえる。

「ベアトリスが来てから一週間経つけど……全然だよね」

「あら、そうでもないと私は思うけれど?」

 腕組みしてため息をつく優太とは対照的に、ルルの声は明るい。だが優太からすれば、一週間、六人で執拗に続けたアタックは、その全てがベアトリスに受け流されている感触だった。何処をどう解釈すれば成果があるように思えるのだろうか。皆同じ意見のようで、怪訝な視線がルルに集まる。

「よく思い出してみなさい。初日にトリスが切れて、その日は口を開くことさえほとんどなかった。次の日は聞かれたことには一応の返事はするようになった。そこから私たちが行動を本格化させて、ここ二日くらいはどう? 態度が無愛想なのはともかくとして、受け答えも多少まともになってきたようには思わないかしら?」

 ルルの言葉に、皆の視線が宙をさまよって記憶を掘り起こす。

「……確かにそう言えるかも知れんが、単純に最初と比較すれば、というだけの話ではないのか? 実際問題、目指すところには程遠いように思うが」

 いつも通りの糸目を向ける観法に対し、ルルは人差し指を立てて講釈を述べる。

「そうね。トリスが私たちに心を開いているとは言い難いわ。でも、私たちがひっきりなしにあの子に構う狙いは、そことは別の部分にこそあるべきだと思うの」

「別の部分て……なんやろ?」

「そもそも殆どの人間関係なんていうのは、劇的な始まり方をするものじゃないわ。むしろ近くにいる人間がなんとなく仲良くなっていく、というものの方が圧倒的多数だと思うの。故に。私たちが狙うべきは〝なし崩し〟よ」

 はあ、と要領を得ない頷きが返るが、ただ一人、蓮はルルの意図を察して頷く。

「――つまり、ひたすら彼女と会話を繰り返すことで〝慣れ〟を作ってしまおう、ということか」

「そういうことね。実際、トリスの方でも段々と抵抗が薄くなってきているみたいだし、気がついたら普通に会話していた、という状態にまで追い込んでしまうわよ」

「そ、それでいいのかなあ……」

 優太は首を傾げるが、ルルは気にした様子も無い。

「いいのよ。壁を取り払うまではいかなくても、まずはその高さを下げるの。最初は躊躇いが強く感じられる行為でも、繰り返すうちに慣れてしまうのが人間というものよ。良くも悪くもね。……まずはうやむやの内にでも状況を受け入れさせてしまうのが先だと思うの」

 少々釈然としないものを抱えながらも、他の面子はと優太は視線を巡らせる。

 真白は『お出かけ』を開始している。観法は表情を読みにくいものの、異論はなさそうである。蘭は『どっちにしろトリスにアタック掛けるのは変わらないんだからそれでいーだろ』とのたまい、蓮はルルの意見にはっきりと賛意を示していた。

 つまり、何処を見ても積極的に反対しようという者はおらず、優太にしても明確な反論ができるわけではなかった。

「んー。……とりあえず、現状維持ってこと……なんだよね」

 はっきりとしない口調で呟く。自分でも何が引っかかっているのかが分からない。しかし、自分たち――おそらく六人全員――は、何か大事な、それでいて基本的なことを見落としているような、そんな気がするのだった。

 そして、それが何なのかが分かるのは、意外に早かった。


 その日の昼休み。やはり恒例となった全員での昼食のため、ベアトリスを自分たちの傍に連れてこようとした時だった。ちなみにこの〝捕獲役〟は持ち回り制が導入されており、今回は優太の出番である。

 四時間目の授業が終わると同時に優太はベアトリスの席まで行き、昼食の誘いを掛ける。相変わらずしかめつらしい顔をしつつも同行して一緒に食事をするのがここ最近のベアトリスのパターンだった。が、どうにも様子がおかしい。

 まず表情が違う。にっこりと満面の笑みを浮かべたベアトリスを見たのは、少なくとも優太にとっては初の経験だった。

「申し訳ありませんが、辞退させて頂きますわ」

 まず断りの言葉から入るのはいつもの事だったが、そこに込められた抑揚が全く違う。今までなら刺々しい雰囲気が言葉の全体から感じられたが、今回は実に穏やかな口調だった。優太は驚き、ベアトリスをよくよく観察しようとして目を合わせ、その瞬間、寒気を覚えた。

 ――め、目が全然笑ってない……。

 思わず一歩後ずさりする優太。ベアトリスはそれを見ながらゆっくりと席を立つ。そして何を思ったのか、優太の手首を取り、ルル達が固まって座る場所まで引っ張って歩いていく。自分を見つめる六対の視線に対して頑なに笑顔を維持し、しかし目つきだけは欠片も笑わないままで、口を開く。

「わたくしは」

 少なくとも、今までのベアトリスの声色ではなかった。彼女はいつも不機嫌そうではあったが、逆に言えばその不機嫌さ、感情を隠すことに慣れていないか、もしくは隠すつもりもないのだと優太は思っていたし、その判断は間違っていないと今も思う。ならばつまり、凪いだ海のように、氷原のように平淡なこの声は……。

「流されるままにあなた方に迎合するようなことはありませんわ」

 怒っている。しかも、先程の話の内容を彼女は知っている。その場にいた全員がそう確信し、踵を返して歩き去るベアトリスをただ見送る。

「す……」

 たどたどしいながらも最初に口を開いたのは蘭だった。

「スパイは誰だ!?」

「落ち着け姉さん」

 が、動揺が表に出まくりで、双子の弟から即座にツッコミを受ける。……いつもの事と言えばまるきりいつもの事ではあったが。

 それに数瞬遅れて、椅子を蹴って立ち上がる音がする。ほぼ同時に二つ。

「優太、真白!?」

「追いかけて話してくる。お弁当は後で食べるよ、ルル!」

「右に同じくや~」

 ばたばたと教室から駆け出し、廊下に出た後で左右を見渡し、そのまま走り去る。

「レイセスは行かなくていいのか?」

 残った四人には教室中からちらちらと視線が送られていたが、それを一向に意に介せず、どっしりと座ったままの観法。

「……経緯は分からないけれど、こうなった以上、搦め手は不可。真正面からノーガードで打ち合う以外にないみたいだもの。私達の中でそういうのが最も得意なのは、間違いなくあの二人だわ。――私がついていくよりも任せた方が良いと思うの」

 気にした風も見せずに、既に広げてあった自分の弁当箱からアスパラガスの肉巻きを摘んで、ルルが答える。

 そんなルルを横目で見ながら、蘭が頬張っていたから揚げを飲み下してにやりと笑った。

「はっは。ルル。そんな寂しそうな顔してると男が釣れるぞ?」

「……あなたって時々凄いわ、蘭」

 一瞬箸を止め、ため息と共に言うルルに、蘭は笑みを濃くして親指を立ててみせる。

「乙女の勘ってやつだな」

「野生の勘なんじゃないかと思うよ、姉さんのは」

 そんなやり取りを聞きながらルルはもう一度ため息をつくと、今度はひじきの煮つけを口に運んだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちょっとリアルの方で凹んでまして、間が空いてしまいました。

そして展開が殆ど進んでいないし魔法とか関係ないよね? という状況ににまた凹む・・・。



[14838] その4『説得と傷痕』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:07
 ベアトリスは足音高く廊下を進んでいた。物珍しげな視線をすれ違う生徒達が向けてくるが、その一切を気に留めず、ただ歩く。ともかくも、周囲に人のいない場所へ行きたかった。

 全ての人間が、自分を敗北者だと嘲笑っているような気がした。

 いや、それが覆しようのない事実だということは自覚している。基本的に自由に動き回れるものの、大魔女に捕まってから施された魔法によって、英国との連絡も付けられない。そうできないよう、制限をかけられている。この状況がなによりの証左だった。

 しかし、その事自体は、屈辱的ではあるもののまだ受け入れる事もできる。ただ、その状況に流され、懐柔されかけていた自分自身がどうしようもなく腹立たしい。

 下駄箱で靴を履き替え、グラウンドを横切り、その隅にある古びたベンチに乱暴に腰を下ろす。外で食事をしようと中庭や屋上に出る生徒はいるが、わざわざグラウンド端にあるここまで出てこようという生徒は滅多におらず、やっと一人になれたとベアトリスは深く息を吐く。

「来なさい、ナトキン」

 ベアトリスの声に応えて、小さな影が彼女の肩に駆け上がる。耳の部分の毛が長く、一見するとウサギのようなシルエットを持っているリスだった。

 否。ナトキンと呼ばれたそれは、正確には最早リスではない。魔法によって自律する端末、魔法使い達の間ではファミリアと呼ばれる存在だった。

 封印を施された上、魔法の制御、増幅装置である杖――スタッフも奪われた彼女ではあったが、このファミリアは前述のように自律する存在であったため、彼女自身に掛けられている封印の影響下になかった。ただ、ベアトリス自身が魔法の制御をできない状態だったために、通常なら望んだ時に可能なはずのファミリアとの意識や記憶、感覚などの接続が不可能だった。

 不可能だったはずなのだが、今朝、急にそれが可能となっていた。他には何もできないものの、これを打開策の糸口として、ベアトリスはファミリアを学校内に忍ばせて大魔女の様子を探っていたのだった。

 訳も分からず遠い異国の学校へと通わされ、無学な日本人に囲まれた。初日に恫喝してからは随分マシにはなったものの、大魔女と行動を共にする数人はベアトリスに付きまとってきた。詳しい理由は分からないが、大魔女の何らかの思惑が働いた結果と想像するのはそう的外れなことではないとベアトリスは思う。

 実際に、今日盗み聞きした彼女らの会話は、自分を懐柔し、然る後に何らかの目的を達成するための相談だったのだから。

 たかが盗聴程度で現状をどうにかできるとも思えなかったが、結果的には良かったのだろう。おかげでこうして自分自身を戒める機会ができたのだ。

「かっ……!」

 手慰みにナトキンの毛皮を撫でながら考え事をしていたところに、突如として聞こえる声。背後から聞こえたそれに、ベアトリスは勢いよく振り向く。

「かわええ……!」

 両手を胸の前で握り締めて目を潤ませた、髪を三つ編みに結い、眼鏡を掛けた少女、真白と、

「ど、どうも……」

 いつも大魔女と行動を共にする、この学校内でベアトリスの素性を知る数少ない人間である少年がいた。




 ベアトリスはすっくと立ち上がり、その場を立ち去るべく一歩を踏み出す。

「あ、ベアトリス!?」

 優太が声を挙げ

「ちょっと……待って~!!」

 真白がバタバタと駆け寄って、ベアトリスの手をはっしと掴む。

「……離して下さいませんこと?」

 ベアトリスは自身を見上げる眼鏡越しの視線に、冷え切った視線をぶつける。びくりと体を震わせて萎縮するのが手を通して伝わってくるが、その手を離そうとせず、首を横に振って真白は言う。

「あかんよ。トリスちゃんに言うとかなあかんことがあるから、ちょっとだけ待って? ね?」

「そういうことだから、少しだけ話を聞いてもらえないかな、と思うんだけど……」

「お断りします。手を離して下さいませ」

 言下に切り捨てて、ベアトリスは真白を振りほどこうとする。が、真白は諦め悪くベアトリスの手をしっかりと握って離さない。

「迷惑極まりないですわ。さっさとお離しなさい!」

「あかんよう、お話聞いて?」

 手を握っているだけでは振り払われると思ったのか、ベアトリスの腕を抱え込む形で真白が懇願する。ベアトリスは舌打ちし、矛先を優太へと変える。

「ちょっと! どうにかなりませんの!」

「んー。真白は割と頑固だから、とりあえず話を聞いてもらうのが一番早い解決なんじゃないかと思うんだけど……」

 苦笑しながらの優太の台詞に、ぎり、と奥歯を噛み合わせ、真白に掴まれた手をそのままに、ベアトリスがベンチに腰を下ろす。真白がバランスを崩して転びそうになったが、そんなことは知ったことではないと顔を背ける。が、当の真白はといえばぱっと顔を輝かせ、

「トリスちゃん、お話聞いてくれるん?」

「わたくしはここに座っているだけですわ。あなた方がどんな世迷言を仰っても一切関知しません」

 目も合わさず、侮蔑を込めて言ったつもりだったが、全く効果はなさそうである。二人は無邪気にハイタッチなどして喜んでいた。これは何を言おうと無駄だろうと判断し、徹底的に無視することにする。そうした間に、優太がベアトリスの右に、真白が同じく左に座る。こほん、と優太が咳払いをした。

「えーと、今ベアトリスが怒ってるのは、三時間目が終わってからの僕らの話の内容を何処かから知ったからだと思うんだ」

 そこで言葉を切って優太がベアトリスの顔を覗き込むが、彼女は肩の上に乗せたリスの尻尾を弄りながら、完全に明後日の方向を向いていた。全く聞く耳持たないという態度である。優太は少し怯んだ様子を見せたが、ベアトリスを挟んで反対側に座っている真白と頷き合うと、話を続ける。

「どうにかして直接聞いたのか、誰かから聞いたのかは分からないし、正直どっちでもいいことだとは思うんだ。実際、ちょっと誤解を招く事を言ってたと思うし、まず初めに言うべき事を言ってなかった僕らも問題があったんだ。……だから、その事をベアトリスに伝えて、誤解を解くために僕らは追いかけてきた。ちなみに他のみんなが来ないのは、多分先走って出てきた僕らに全部任せてくれたからなんだと思う」

 相変わらず反応を示さないベアトリスに向かい、優太は熱のこもった口調で話す。

「あのね、ベアトリス。これは僕らの……この一週間、君の周りにいた、ルルも勿論その中に含めた、全員の総意なんだけど……」

 ルルを含めた、という部分を強調し――この事は、ルルとベアトリスの〝本当の事情〟を多少なりとも知っている自分がはっきりと伝えておかないといけないと優太は思った――真白と目配せを交わす。


「……トリスちゃん。ウチらは、トリスちゃんと、友達になりたいんよ」

 ベアトリスは全くの無反応で、端から見ればまともに聞いているかどうかさえも定かではないはずだが、真白は続けて言葉を紡ぐ。

「さっき優太君も言うてたけど、まずは打ち解けよ思て、はっきりそう言わんかったウチらも悪かったて思う。せやけどな、みんな同じように思っとるんよ? ウチも、優太君も、ルルちゃんも蘭ちゃんも蓮君も観法君も、みーんなや。……ウチ、頭あんま良うないし、トリスちゃんが怒ってるのは分かっても、その理由まではピンと来おへんねん」

 真白は全くの別方向を向いたままのベアトリスの横顔を真剣に見つめながら、せやけどな? と前置きし、

「トリスちゃんを今のまま放っといたらアカンねん。これは絶対やと思う」

 はっきりと断定した。ベアトリスは肩の上のナトキンを撫でる手を一瞬だけ止め、何かを言いかけたかのように口を微かに開いたが、結局何も言わず、目も合わせようとしない。真白もその事については気がついているのかいないのか、何も言及しない。ただ、優太が頷くのを見て、緊張しているらしい表情を微かにほころばせる。

「ウチ、今からワケ分からん話するけど勘弁したってな? ――ウチな、ここへ引っ越してきて二年くらいなんやけど、それまでずーっと地元でいじめられっ子やっとったんよ。小学校の低学年の時に、遠足のバスん中で気分悪なって戻してもうて、しかもすっ転んで自分で吐いたもんの中にダイビングや。それからはもう、『あいつは汚い』とか『クサい』とか言われて、えらいキツかったんや。もともとトロいところあったし、いっぺんそういう風になってしもうたら、なかなか抜け出せへんで、引越しするまではホンマに一人っきりで『もうウチの方から世間なんか見限ったるわー』とか拗ねた事考えとったりしたんよ」

 あはは、と笑い、誤魔化すように頭を掻く真白。その手や足はごく細かく震えているし、顔色も少し青ざめている。だがそれを見ても優太は何も言わないし、ベアトリスも真白の方を見ようともしない。

「せやから、こっちに引っ越してきてしばらくは人を寄せ付けへん子やったんや。トリスちゃんみたいに劇的なパフォーマンスするような度胸はなかったけどなー。せやけど……まあ、その、色々あって、仲のええ友達も出来て、ふと気付いたら、えらい勿体無いことしとったなあ、て思ったんよ。で、そのー。なんと言いましょうかー……えと、そんな経験に照らしてトリスちゃんを見てて、こうぴきーんと来たんや。今こそ利益還元の時ー! みたいな……?」

 段々と話の内容が感覚的になってきたのが恥ずかしいのか、わたわたと落ち着かない様子の真白。やがてパッと立ち上がり、意外に素早い動きで背けられていたベアトリスの顔の正面に回る。

「ちゅー訳で、ともかくトリスちゃんとお友達としてお付き合いしたい次第です! ご静聴ありがとうございました!」

 がば、と大げさにひとつお辞儀をして、にっこりと笑う。話しかけている相手は終始聞いているのかどうか分からない態度だったというのに、その顔は妙に晴れやかだった。

「えーと、僕からも少しだけ」

 ちらと真白の方を伺い、数秒考えてから優太がベアトリスに向き直る。

「ベアトリスがイギリスでどういう暮らしをしてたのかは僕にはよく分からないけど、その……家、っていうか一族の事情、とか、ほんとにちらっとだけなんだけどルルから聞いたんだ。それでね、ルルはベアトリスを見てると昔の自分を思い出すんだって言ってた。それから、今の自分が選んだ暮らしを教えたい、とも言ってた。ここにいてくれなくてもいいから、自分自身の為にベアトリスが生きられたらいい、って――だから、えーと、ルルとちょっと仲悪いのは仕方ないかなあ、とも思うし、正直今の状態で信用してくれって言うのも難しいとは思うんだけど、懐柔してどうこうしようとかそんなことじゃなくて、ほんとに純粋に……」

 そこまで言った時、優太の言葉をさえぎるように、ベンチを軋ませて勢い良くベアトリスが立ち上がり、二人に背を向けて足早に歩き出す。慌てて優太が呼び止めようとするより早く、肩越しに目線だけで振り向き、

「……戻らないと遅刻しますわよ」

 言い終わると同時に予鈴がなる。グランドの端にあるここから教室まで戻るとなれば、確かにもうギリギリの時間だった。ベアトリスはそのまま軽快に歩み去っていく。

 優太と真白ははっとしたように小走りでそれを追いかけ、しかしベアトリスに追いつくとそのすぐ後ろを歩調をあわせて歩き始める。さっきから変わらずベアトリスの肩の上にいるリスがそれに気付いて振り返り、ベアトリスも一瞬だけ目線を後ろにやるが、そのまま何を言うでもなく、歩調を変えることもせず、歩き続ける。

 やがて一行は下駄箱に到着し、それぞれに靴を履き替える。

 丁度優太が靴を上履きを履き終えた時、横手から割と派手な激突音と、「あいたあ~」と言う声が聞こえた。

 その方向を見てみると、開かれた下駄箱と、後頭部を抑えてそこにうずくまる真白と、目を丸くしてそれを見つめるベアトリスがいた。下駄箱から靴を取り出して履き替えた後、体を起こした時に下駄箱のふたに後頭部を強打してしまったらしい。

「うう~。えらい久々にやってしもた~。……って、あー。眼鏡何処行ったんやろ……?」

 頭を打った際に眼鏡を落としたらしく、きょろきょろと足元を探す真白。実は探し物はすぐ傍、既に上履きに履き替えていたベアトリスの右足の甲の上にあった。

 やがてその眼鏡を一つの手が拾い上げ、そのまましゃがみ込んで眼鏡を探している真白の眼前に差し出される。

「おお、ありがとさんやー」

 笑って礼を言い、眼鏡をかけたところでその手が誰のものか、真白はようやく気付く。

 きっかり三秒の空白。

「……トリスちゃん……ありがとうー!!」

 文字通り、諸手を挙げて喜びを表現する真白。そしていきなりのハイテンションに思わずたじろぐベアトリス。

「わたくしの足の上に落ちましたから……」

「ええんよええんよー。理由はどうでも。トリスちゃんが拾ってくれたんは事実やし、ウチはそれが嬉しいんや」

 勢いに押されたのか、思わず応えるベアトリスに、テンションを上げたままの満面の笑顔で真白が言う。ベアトリスはしばしそんな真白を驚いたような、呆れたような目で見つめていたが、

「あなた、わたくしが怖いのではありませんの?」

 唐突に問われた真白は、バンザイのポーズで固まったまま、小首を傾げて質問に質問を返す。

「何でウチがトリスちゃんを怖い思うん?」

「……さっき、ベンチで話をしている時、震えていましたでしょう」

 おお、と真白は得心のいった様子で、

「アレはちゃうんよー。昔のこと話すんがちょい怖くて、あと恥ずかしくて。それで、なんちゅーかその、あんまり思い出していい気分のもんでもなくて、えーと……トラウマ、いうやつかな?」

 えへへえ、と決まり悪げに笑う。ベアトリスはそれに対し、そうですか、とだけ返して黙り込み、二人の間に沈黙が流れる。

 ――とりあえず今はここまでかな?

 傍で様子を見守っていた優太が二人に近づき、

「えーと二人とも。そろそろ戻らないと時間が……」

 言うが早いか、午後の授業開始のチャイムが鳴り始める。

「あー、あかん、遅刻!?」

 声を挙げる真白と、く、と呻いて唇を歪めるベアトリス。如何に学校生活が不本意であっても、時間は守らないと気が済まないらしい。

「まだ間に合うよ! 走ってっ!」

 言うなり、二人を促して駆け出す優太。数瞬遅れて真白とベアトリスが走り出す。チャイムが鳴り終わるまでに着席すればセーフのはずである。

 階段を駆け上がり、教室のある二階に到着すると、ちらりと後ろを確認する。スタートは真白の方が早かったはずだが、既にベアトリスに抜き去られている。

 ともかくも二人とも走ってきていることを確認し、クラスのドアに向けて廊下を全力でひた走る。チャイムの最後の音階が鳴ったところで優太が、

「間に合った!」

 その音が響いているうちにベアトリスが、

「早くなさい!」

 余韻が消ようとするまさにその瞬間に真白が教室に飛び込み、

「セーフやー!」

 嵐のような勢いで三人がそれぞれの席に着く。さして長い距離を走ったわけでもなかったが、精神的に疲れたのか、揃って机に突っ伏して肩で息をしている三人を、周囲の人間がぽかんとしながら見ている中、既に教壇に立っていた教師によって午後の授業が始められた。





 何処か奇妙な空気を引きずったまま時間は流れ、既に放課後。普段なら適当に散会するはずの優太達一同は、HRが終わると同時にベアトリスを取り囲み、逃げられないようにした上で昼休みの大まかな顛末を優太と真白から聞き出した。

「そう……随分と楽しい昼休みだったのね。……良かったわ」

「……何が楽しそうだったと言うんですの」

 ベアトリスの正面で、頬を緩めながらいうルルと、相変わらず仏頂面のベアトリス。だが、昼休みに見せたような、凍りつくような怒りを秘めた無表情はそこにはなかった。

「えー。ウチ楽しかったよー?」

 すかさず口を挟む真白に鋭い眼光を飛ばすベアトリス。だが一向に怯む様子はなく、結局ベアトリスの方から視線を逸らす。

「一つ聞くけれど、どうしてわざわざ遅刻しないように走ってきたのかしら?」

 ルルの質問に、ベアトリスはすぐには答えない。自分の周囲にいる六人にぐるりと視線を巡らせ、それから諦めたようにため息を一つ。

「時間に正確であること。わたくしがわたくし自身に課しているルールですわ」

「でもそれは破ったところでどうという事もないルールよね? 授業にしたところで、遅刻してもそんなに大したペナルティがあるわけではないわ。周りからすれば、そんなのは些細な……悪く言えば、下らないこだわりだわ」

「何が言いたいんですの?」

 話の意図がつかめない、とベアトリスは首を傾げる。

「あなたも私達も大して変わらない、という話よ。――みんなそう。小さなこだわりとか、自分なりのやり方とか。そういうものを抱えて、周りと共有して暮らすのよ。今の貴女のように、閉じた自分を創っているよりも、きっと楽しく生きられると思うんだけれど」

 ベアトリスは黙り込み、何も言わない。

 何事か考え込んでいるその背中に、不意を突いて抱きつく者がいた。

「あーもー。うだうだ考え込んでねーで観念してあたしらのダチになれー! 大体トリス! お前いいヤツだろ。隠しても無駄だぞー」

「ちょ、何を、お離しなさい! ああもう! 何を訳の分からない事を言ってるんですの!」

 背後から首筋に腕を回して抱きついている蘭と、それを振り払おうともがくベアトリス。だが意外に蘭の力が強いのか、抵抗むなしく振りほどく事が出来ずにいた。

「だーってトリスってば、間に合うかどうかぎりぎりの真白に『早くなさい!』とか振り返って叫んでただろ。何でわざわざ気にかけたのかなー? なーんーでーかーなー?」

 ご丁寧にベアトリスの台詞を声色を真似て再現する蘭の言葉に、びしり、と抵抗をやめて固まるベアトリス。

「ああ、そういえば確かに言ってたね、間違いない。なんかその前後のインパクトが強すぎてちょっと忘れてたけど。姉さんにしてはいい記憶力だよ」

「そんなの、は、単にその場の、勢い、ってあなた! 何処を、押さえて! やめ、きゃあ!」

 蓮に対して反論しようとするベアトリスを、ぐふふ、と邪悪そのものの笑いを浮かべた蘭が怪しい手の動きと、耳に息まで吹きかける芸の細かさで封じ込める。ある意味この双子のコンビネーションは抜群だった。

「あの、ちょっと蘭。その辺にしといた方が……」

「いくらなんでもそれはセクハラというやつだろう、倉沢姉よ」

 見かねた優太と観法の言葉に、渋々ながらも蘭は一旦手を止める。

「んだよー。眼福だろー? むしろ喜べっつの」

「とにかく一旦離してあげなさいな、蘭。今のままじゃまともに話も出来ないんじゃないかしら?」

 ちっ、と舌打ちしてベアトリスを開放する蘭。明らかに目的を見失っている様子である。

 一方のベアトリスは、蘭の拘束から解き放たれるや否や、荒い息をつきながらくたくたと脱力して座り込んでしまった。慌てて駆け寄った真白が助け起こす。

 今までならここで拒絶するくらいはしそうなものだったが、疲れ果てているのか、ぐったりとなすがままになっていた。

「ねえ、トリス。ベアトリス・タルボット。私を、ルル・レイセスを信用できないのは分かるわ。それについてはそのままでいいの。私とあなたの事情を考えれば、仕方のない部分だわ。ここにいる事が不満なのも分かる。私のエゴの結果かもしれないと私自身も思うわ。……でも、私とあなたが抱える事情とは全く無関係に、ここにいるみんなはあなたと友達になりたいとそう言うの。それを受け入れてあげることは、できないかしら?」

 ベアトリスも、優太も、ルルの言うところの〝私とあなたの事情〟について意味の掴めない面々も、ただ黙ってその言葉を聴いていた。

「わたくしは……」

 たっぷり一分ほど沈黙した後、その場にいる全員の注目を受けながら、ベアトリスは口を開いた。



[14838] その5『不安と握手』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:07
「……で、今ベアトリスはどうしてるの?」

「家に帰るなり部屋に直行。で、閉じ篭ったままね」


 柏木高校から徒歩五分の位置にある、楓原寺本堂の縁側に並んで腰掛けて、優太とルルはそんな会話を交わしていた。

 結局、あのあとベアトリスはしばらく口篭り、今日は帰ります、とだけ言い置いてその場から去ってしまった。とりあえずその場で優太達も解散。

 家にちゃんと帰るかどうかはルルが後ろからついていって確認するということで、今日のところはこれ以上刺激しないようにしよう、というのが結論となった。

 優太はそのまま観法とともに楓原寺へやってきて用事を済ませ、ルルも一旦家に帰ってからここまでやってきたのである。

 ちなみに観法は本堂の隣にある自宅に戻っていった。優太とルルがこの場所で話し込むのは毎度の事なので、こちらから帰宅前に挨拶するまではここには来ないのがいつもの流れである。



「そっかー……。どうなるかな、ルル?」

 優太の問いに、ルルは細いおとがいに指を当ててしばし考える。

「……悪いようにはならない、と思いたいところかしら。割とおとなしく話も聞いてくれてたし、そこそこ楽観は出来るようにも思うけれど……どうなるかしらね」

 そのルルの言葉に優太は黙り込んでしまう。ルルも殊更に口を開く事もなく、山中の寺ならではの紅葉の景色にただ目をやっていた。


 なんとなしに重くなった雰囲気をどうにかしようと、優太は何か話題はないかと頭の中を検索する。――該当あり。

「ところでルル。今日、お昼休みにトリスがリス……だと思うんだけど、ともかく小動物を連れてるのを見たんだ。ルルも見た? 結構可愛かったよ」

「リス……? いえ、見ていないわ。どんな動物だったか覚えている?」



 問われて、昼間に見た動物を思い出し、その特徴を伝える。

「断定は出来ないけれど、それはヨーロッパに生息するリスだわ。日本には動物園にでも行かないと見かけないはずね。……おそらくトリスのファミリアだわ」

「ファミリア……? どこかで聞いたような覚えもあるけど、それ何?」

「いわゆる使い魔ね。どう説明すれば早いかしら……。ああ、随分前にテレビで見た、『マジカルグラディエーターありす』のお供のプードルみたいな感じかしら」

「あー。懐かしいねー、それ。……って、じゃああのリスが言葉を喋ったり人間に変身したり、後半の必殺武器になったりするの!?」

 数年前に流行っていたテレビ番組を思い出し、優太は頓狂な声を挙げる。


「流石にそこまではムリね。さっき挙げたのは立ち位置というか、主人との関係性を表す部分についてだから。個々人の技量にも拠るけれど、普通は主人との感覚
共有とか、その辺りの性能を付けて、偵察用なんかに使われるのが殆どよ」

 そこまで聞いて、優太の頭の中にある連想が浮かんだ。

「それってつまり……」

「ええ。お昼のベアトリスの態度は、ファミリア経由の情報によるものでしょうね。……それにしても、まさか使える状態になっているなんて思わなかったわ……」

 後半の台詞は、やや声を潜めて呟かれた。ルル自身も何かを考え込んでいるような印象を受ける声音だった。

「それって、そんなに難しい魔法なの?」

 単純に疑問を口にする優太に対し、一拍の間をおいて答えが返ってきた。

「作成は確かに繊細な儀式になるけれど、よほど身の丈に合わないファミリアを作らない限り、制御は殆ど手間がかからないわ。基本的に自律してくれるしね。情報の共有なんかに魔法の使用が必要になるけれど、その辺りも含めて、私の封印の影響下にあったはずなんだけど……。それが緩んできているんでしょうね」

「緩んでるって……、前は十三年も保ったんじゃないの?」

「以前使ったものと、今使っているものでは強度が違うのよ。事前に色々と仕込みをしていたのは一緒だけれど、以前は私の力が今より強かったし、自分自身にも相当の代償が跳ね返る形式の魔法だったもの。今の封印も準備に時間はかけているけれど、それだけね。それでも魔法を封じるだけなら十分かと思っていたんだけれど、思った以上にトリスの力が大きかったのか、それとも何らかの外的要因があるのか……」

 眉をひそめたルルの台詞に、優太の内心にも不安の影が落ちる。ルルは考えを整理するように数秒、瞑目してから口を開く。

「トリスが本来の力を取り戻せば、今の私の力だけでは勝つのは難しいわ。あの子にもきっとそれは分かっている。で、ある以上、封印が全て解ければあの子は行動に出るはずだわ。……もちろん、私も黙っていいようにされるつもりは無いけれど……」

 ルルは一旦言葉を切り、視線を優太へと向ける。一瞬だけ表情を哀しげに歪め、だがすぐにそれを消し、空を見上げてため息とともに告げる。

「今の私に使える手札であの子に勝とうとするなら、穏便に決着をつけるのは難しいと思うわ」
 
「それって……」

「ただ」

 ルルの言葉をやや時間を掛けて意識に浸透させた優太が言葉を発するより早く、ルルが再び話を続ける。

「封印が全て解けたら、という仮定の話よ。緩み始めているとしても、一週間かかってファミリアとやっと共鳴が出来る程度なら、彼女が全力を取り戻すにはそれこそ数年単位の時間が必要になるわ。もちろん加速度的に封印がほどけていく可能性もなくはないけれど、そこまでヤワな仕掛はしていないつもりだし、急速に変化が出たなら流石に私にも分かるもの。今回は封印の変化がゆっくり過ぎて見落としてしまっていたようだけれどね」

 だから当面は大丈夫よ、と安心させるように微笑むルル。
 
「ねえルル。ちょっと思うんだけどね」

 だが対照的に優太の表情は晴れない。

「ちょっと前提がおかしくない?」

「……前提?」

 ルルが微かに首を傾げて見せると、優太は一つ頷いて自分の考えを述べる。


「何でベアトリスの封印が解けたら即座に戦わなきゃいけないことになってるの?」

「それは……今までだってそうだったし、あの子にはあの子の事情があるもの。あの子が育ってきた背景を考えれば、それは簡単に曲がるものではないわ」

「うん。そうなんだろうとは思う。ただ、封印がどうとか魔法使いの家の事情とかは僕にはよく分からないから、僕に分かる範囲で話をするね」

 そう言うと優太は少し座り方をずらしてルルに体ごと真正面から向かい合い、少し視線を彷徨わせて考えを整理する。

「確かにこないだは顔を合わせるなり魔法の撃ちあいになってたみたいだけど、あれから一週間経って、お互いのことだって多少なりとも知ってるでしょ? 双方に譲れない事情はあるのかもしれないけど、物騒な事になる前に話し合いだってできるんじゃないかな」

 優太の言葉に何がしかの反論をしようとしたルルを手で制して、なおも優太が言い募る。

「そもそも、ルルだってベアトリスのことを気に掛けてたよね? 彼女が自分のために生きていられたらいい、ってそう言ったよね? ベアトリスと友達になりたいんでしょ?」

「……最後のについて明言した覚えはないわよ?」

 つい、と目を逸らして呟くルルに、優太は思わず笑みを零す。

「それ、言ったも同じだよルル。――ベアトリスだって、僕らの申し出に対して迷ってるんだと思うんだ。もし嫌ならあの場で即座にバッサリ断られてるはずなんだから。だからさ、ルル。ルルのほうからもちゃんと歩み寄ってあげようよ。悪いほうへ悪いほうへ考えるのはルルの性分だから仕方ないかもしれないけど、ベアトリスとちゃんと友達になって仲良くなる未来くらい想像したってバチは当らないよ」

 ルルは少し目を細めて優太を軽く睨みつけて、聞こえよがしにため息をついてみせる。

「優太は能天気ね」

 対する優太は堪えた様子も無く、にんまりと笑ってみせてこう答えた。

「『君心配する人、僕安心させる人』!」

「……なにそれ」

「前に蘭が言ってた。『お前とルルのキャッチフレーズだ!』ってさ」

「……まったく。どいつもこいつも……」

 その台詞に、常に無い乱暴な口調で毒づいてみせるルル。その頬が赤く染まっていることについてはこの場で指摘しないでおこう、と優太は思った。






 そして夜は明け、朝が来る。今日も今日とてレイセス家の前に雁首を揃えた、優太、観法、蓮、蘭、真白の五人。流石にいかばかりか緊張した様子で小洒落た一戸建てに向かい合う。

「よし行け早坂。玉砕だ!」

「チャイムを押すだけで玉砕するのはヤだなあ……」

 ある意味普段通りの会話をしつつ、優太の指がチャイムのボタンを押し込む。ぴんぽーん、と軽い音が鳴り、続いて微かな足音。それが徐々に大きくなり、やがて玄関のドアが開け放たれた。

「おはよう、みんな」

 軽く挨拶しながら出てくるルルに続いて、ベアトリスが神妙な顔つきで現れる。

「トリスちゃんも、おはよう」

「……おはようございます」

 ちゃんと挨拶は返ってきた。優太は隣の観法と目を合わせ、ぐ、と拳を握る。

「じゃあ、行きましょうか」

 ルルの号令の下、微妙な緊張感を孕みながら、七人は歩き出した。実は大変珍しい事に、全員が無言である。せいぜいが、レイセス家の玄関先で毎度の如くお見送りのリューリィに挨拶をしたのが最後だった。話を切り出すチャンスを誰もが窺いつつも、どうにも最初の一歩を踏み出せずにいた。

 そんなこんなでレイセス家から十分程歩いた頃だろうか。真っ先に忍耐力が品切れになったのは、やはりというか、倉沢蘭である。

「あーもー! なんなんだ朝っぱらからこの雰囲気は! 通夜か! 葬式かー!?」

「気持ちは分かるけど落ち着け姉さん」

 ストレスのあまりに道端の電信柱にケンカキックを連発し始める蘭と、それを羽交い絞めにして止める蓮。

「まあ、予想通りといえば予想通りだが、やはり倉沢姉がもたなかったか……」

「予想してたんならもうちょっと何か手を打とうよ観法……」

 優太に突っ込まれてついと目を逸らす観法。普段から年齢不相応の落ち着きを備えた、半ば仏道に足を突っ込んでいる彼とは言え、やはり先程の雰囲気ではなかなか動けなかったものらしい。


「ねえトリスちゃん」

 そんな中、騒動を少し離れて見ていたベアトリスに真白の声がかかる。途端、その場にいた全員、暴れていた蘭までもがぴたりと動きを止め、そちらに意識を集中し始める。突如として発生したプレッシャーに戦きながらも、真白はベアトリスに向き合い、視線を真正面から交わす。

「トリスちゃんは、ウチらのこと嫌い?」

 周囲からのプレッシャーが一層高まり、しかしその矛先はベアトリスへと移る。それを感じているのかいないのか、ベアトリスは真白から目を逸らそうとして、しかし思い直したように視線を受け止め、

「……嫌い、では……ない、と思いますわ。嫌うだけの理由が、ありませんし」

 真白はうん、と頷き、緊張をほぐすためか、少し俯いて三つ編みの先をしきりに弄り回す。やがて覚悟を決めたのか、眼差しを強めて顔を上げた。自然と、それを見守る優太達も思わず拳を握り締めて成り行きを見守る。

「ほんなら、……んと、ウチらと友達になってくれる?」

「それは……」

 場に緊張が走る。全員がベアトリスの次の言葉を待っていた。


「……分かりません、わ。その、わたくしは、そもそも友人というものを持ったことがございませんし、不要で下らないと思っていました。そんなものより優先すべき価値あるものが存在する、と。……いえ、今もかなりの割合でそう思いますわ。ですが……」

 ベアトリスは一旦言葉を切り、胸に手を当てて深く息を吸う。そして、ルルへと視線を向けた。

「昨晩、そこのルル・レイセスと少し話をいたしました。わたくしにとって価値あるものは、彼女にとって下らないもので、わたくしにとって下らないものは、彼女にとって価値あるものでした。しかし、わたくしが最初からその片方を切り捨てているのに対し、彼女は両方を手にした上で、手の中にある片方を下らない、と判断したのです。
 
 ――正直に申し上げて、わたくしは彼女を快く思っておりません。先程の質問も、彼女に関する限りでは嫌い、とお答えさせていただきますわ。ですが、この事では、わたくしは彼女に倣ってみようかと思います。目の前にあるものの両方を手にとって、それを見比べてみようかと」

 ベアトリスはもう一度深く息を吸い、吐く。そして優太達六人をぐるりと見回し、

「結局のところ、処々の事情で、私はしばらくここにいなければなりません。ならば、いつまでも孤立しているのも良い選択とは言えませんわ。ですので、友人に、というのは……まだ無理ですが、その状態に近くあるよう、努力はしてみようと思いますわ」

 言い終えて、知らず肩に入っていた力を抜く。そして正面にいる真白に向かい、問いかける。

「……いかがでしょう?」


 受けた真白はぐるりと半回転。そこには優太以下、事の推移を見守っていた面々が固まっている。

「提案を受け入れる人、挙手!」

 声に応えて、真白自身のものも含め、何本もの手が上がる。

「いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、なな……?」

「姉さん。片手でいいんだよ」

「あたしは二票持ってんだ」

 ともかく、全員の手が挙がっていた。真白は再び半回転。

「と、ゆーわけで、全会一致でした! よろしゅうにな、トリスちゃん!」

 顔全体で笑って、右手を差し出す。

「ええ、宜しくお願いしますわ。……ええと、その」

 その手を取ったものの、妙に歯切れの悪いベアトリス。真白は怪訝な表情をし、『あたし二番!』と握手の順番待ちに真白の背後に着いた蘭は早くしろとせっつく。

 そして、一番最初に気が付いたのはルルだった。

「あなた……さてはみんなの名前を覚えてないわね?」

 ぴくり、とベアトリスの肩が震えた辺り、図星のようだった。微妙に視線を斜め上に向け、ふ、と鼻から息を抜いて正面の真白と目を合わせる。

「それは……。申し訳ありませんわ。もう一度お名前をうかがえますかしら?」

「あはは。うん、ええよー。ウチは真白。紅原真白、な」

「はい、今度こそ覚えましたわ、マシロ」

 うん、と嬉しげに笑い、真白はベアトリスの手を離す。それを皮切りに、蘭、蓮、観法、優太の順で握手と改めての自己紹介を交わしていく。


「さて、じゃあそろそろ行きましょうか。いつまでもここで喋ってたら遅刻するわよ」

 ぱん、と一つ手を打ち、ルルがその場を仕切る。

「あれ? ルルちゃんはせえへんの? 握手」

「ああ、私は彼女と色々あるから、ね」

 困ったように笑うルル。ベアトリスもそうですわね、と首肯する。だが、真白は納得いかないという表情を隠そうともしていない。そしてもう一人。

「ルル、歩み寄り」

 優太が満面の笑みを浮かべてルルの肩を叩く。

 く、と軽く呻き声を漏らしたルルが助けを求めるように周囲を見渡すが、ベアトリスは不審そうにこちらを見ているだけで、残る面子は全て敵だった。

 それでも最後の抵抗のようにルルは優太をしばらく睨みつけていたが、その笑みが全く揺らがない事を悟ると、やがて諦めたようにため息をついた。

「……貴女がこれに応じるかどうかはともかくとして、私にも貴女と友人になりたいという意思はあるの。受け入れられるか否はさておいて、とりあえずそのことは知っておいて貰えるかしら」

 そう言って差し出されたルルの手を、ベアトリスはまるで目の前に突然現れた宇宙人を見るような目で凝視する。そのまま呼吸五回分の沈黙が流れる。


 いい加減、ルルが手を引っ込めようとした時、おずおずとその手が握られた。

「まあ、昨日マシロもそんなことを言っていましたし、わたくしも努力する、と口にしたところです。無下にすることもないでしょう」

 笑っているような困っているような、そんな表情を浮かべて、ベアトリスが握ったままのルルの手を軽く上下に動かしてからパッと離す。

「……そうね。まずはこんなところ、かしら」

 自分の右手に軽く視線をやってから、ルルはそういって微笑んだ。

「おーし! んじゃとっととガッコ行くぞ野郎ども!」

『おー!』

「どこの山賊だよ……」

 場をしめる様にあげられた、意気揚々といった風情の蘭の号令に引っ張られて、昨日まで六人と一人だった七人は学校への道のりを歩いていく。



[14838] その6『平穏と隠し事』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/02/03 01:30
 点差は二点。二死満塁。チーム二組女子、一打逆転のチャンスである。バッターボックスには四番を努めるソフト部所属の武田絵美。対するマウンドにはチーム一組女子のエース、こちらもソフト部所属の上杉陽子。

 基本的に一学年の全クラスまとめて行われる柏木高校の体育の時間。本日の女子の種目はソフトボール。グランドで一、二組の女子が試合中。三組の女子はただ今クラスで固まって練習中である。

 そして、双方が睨み合い、竜虎相打つダイヤモンドに引けをとらない熱さで、しかし試合とは全く無関係に打順待ちの二組女子達の会話は盛り上がっている。




「いえ、それは流石に信用できませんわ、ラン。本当に真実なのですか、マシロ?」

 あれこれと大騒ぎをした末、ゆっくり友達になろう、ということで落ち着いた『柏東三丁目の誓い』――倉沢蘭命名――から二週間。ベアトリスはそれなりにクラスに馴染みつつあった。

 外国人相手の気後れはやはりクラス全体に見られるものの、優太達のグループと上手く付き合い始めた彼女を見て、皆、おっかなびっくり接触を図り始めた、というところである。

「あー。うん。ホンマやでー」

「そう、ですか……。マシロが言うのなら、本当かもしれないですわね……」

「待てやトリス。それどーゆー意味? ねえどーゆー意味なのかね!?」

「ランとマシロでは発言の信頼性が違う、という意味ですわ」

「言い切りやがったよこのパツキン女ー!?」

 オーバーアクションで頭を抱えて絶叫する蘭。実際のところ、彼女は普段から虚実を混在させて話をする上に〝面白ければ大抵の事は許される〟と思っている節があるので、ベアトリスの評価もあながち不当なものではない。

 もっとも、それを別にしても、ベアトリスは真白に対して他の人間に対するものよりワンランク上の信頼を寄せているようだった。真白にしてもそれは感じられるらしく、この二人は一緒にいる事が多い。


「なんやったら本人に確認してみる? おーい、ルルちゃーん、ちょうこっち来たってー?」

 ベアトリスの反応を確認する前に上げられた真白の呼び声に、少し離れた所にいたルルが近寄ってくる。

「何か用かしら?」

 そのルルに、真白が、ここに座れ、と傍の地面をぽんぽんと叩きながら、

「トリスちゃんが聞きたい事あるんやてー。はい、どうぞっ」

 他の面子にある程度馴染んだとはいえ、やはりルルとの間には当然の如くまだまだわだかまりのあるベアトリスであるので、一瞬複雑そうな顔をするが、先程仕入れた情報の真偽が気になるのか、結局ルルに向かって問いかける。

「その、先程ランから聞いたのですが……あなたとユータはいわゆるステディではない、とのことでしたわ。常日頃のあなた方を見るに、到底信じられないのですが、マシロもそうだとおっしゃいますので……真偽の程を教えて頂けます?」

 ルルは、この問いに対して五秒ほど沈黙し、然る後、盛大に吹き出した。

「……何がおかしいのかおっしゃって頂けますこと……?」

 突然のルルの態度に、唇の端を引きつらせるベアトリス。ルルはしばしくすくすと笑った後、

「いや、あなた随分と可愛い事を気にするようになったわね。うん。いいことだと思うわよ?」

 そしてまた吹き出す。どうもツボに入ったようで、そのまま腹を抱えて悶絶している。

「ルルちゃん。トリスちゃんがヘソ曲げてまうからその辺にしとかな」

 真白に窘められ、ようやくルルが笑いを収める。余韻を断ち切るように一つ咳払い。

「ごめんなさいね。あんまりに意表を突かれたものだから。――で、さっきの質問だけれど、答えはイエスよ?」

「……冗談ではありませんの?」

 ベアトリスの言葉に、ルルはまたくすくすと笑う。それに反比例して、ベアトリスは眉根を寄せていく。

「ああ、今のはあなたに対して笑ったんじゃないのよ? ――なんていうか、そうね。優太の男の子としての意地を見守ってあげたい、ってところかしら」

 ルルは笑みを浮かべながらそう言うものの、言葉の意味が判らず、ベアトリスは首を傾げるばかりである。

「あ、ウチもその辺の話はちゃんと聞いた事ないから聞きたいなー」

 真白がそう言った時には、既に打順待ちをしていたクラスの女子達がルルたちの周りに鈴生りになっていた。やはりこの手の話題には皆興味津々であるらしい。

 ちなみに、ダイヤモンドではたった今、バッターがツーナッシングと追い込まれながらもファールで粘っているのだが、最早そちらには誰も注目していない。

「そうね……まあ、単純な話ではあるのだけれどね。去年、身長を測ったとき、私は一五五センチで、優太は一五三・五センチだったの。その差は一・五センチね。で、今年に入って身体測定やったとき、優太って『二センチ伸びた!』って大喜びしてたのよね……」

「あー。あたしなんかオチ読めてきたなー」

「ウチもそんな感じやー」

 真白と蘭の台詞に、周囲の女子の何人かも頷いて同意する。ちなみにベアトリスは分かっていない方のグループに属していた。

「大体予想通りだと思うけれど……、ともあれ、そのまま私のところにその事を報告しに来たのだけれど。――私、身長が二・五センチ伸びてたのよ。身長差が二センチに広がってしまったのね。優太ったら、この世の終わりみたいな顔して落ち込んでたわ」

 周囲の女子達がドッとウケる。ただ一人、ベアトリスだけはまだ理解が及ばないらしく、首を捻っていると、真白から注釈が入る。

「つまりやね、優太君はルルちゃんの身長を追い抜いてから正式にお付き合いしたいと思っとったんやろねー。せやけど、ルルちゃんの方が背が良く伸びててがっかり、ちゅーことなんちゃうかな」

 なるほど、と納得の様子で手を打ち合わせるベアトリス。

「あたしとしてはだな。早坂が落ち込んでるくだりのところでルルが滅茶苦茶うっとりしてるのは何でなのかと。その辺が知りたいぞ」

 蘭の疑問に、ルルはにっこり笑って、

「あら。だって可愛いでしょう?」

「うわ。ここにドSがいるぞ!?」

 ざざ、とわざとらしく一歩引いた蘭の一言とほぼ同時。快音がグランドに響き渡る。

 全員がはっとしてそちらを見ると、悠々と二塁から三塁へとランニングする武田絵美と、マウンドにがっくりと膝をつく上杉陽子。どうやら二組が劇的な勝ち越し点をあげた瞬間だったらしい。

 達成感溢れる笑みでホームを踏み、自分達のところまで戻ってきた武田絵美に対し、『すごかったね!』『応援し甲斐があったよ!』と口々に褒め称えるクラスメイト達。

 ちなみに彼女達の中に、一人として武田絵美のバッティングの瞬間を見ていた者はいない。

「……あれ、よろしいんですの?」

「気にせん気にせん。のーぷろぶれむ、やで?」

 笑って断言する真白に、そういうものですか、とベアトリスは納得することにした。



「と、いうことがあったのよ?」

「なんでそういう事を大々的に話すの……」

 同日、放課後。優太はルルと二人で家路を歩きながら、体育の時間の顛末を聞いていた。

 今更自分がルルをどう思っているのかとか、その辺りの事が本人やら周りやらに悟られていないとは思っていないので、その辺はまあいい。

 いや、本当は良くない。実際恥ずかしいし今も顔が赤い。しかし、とりあえずいい。ことにする。だが、身長云々のくだりについては流石に勘弁して頂きたいところである。

 自分でこだわりを持っておいてなんだが、そういうことを気にするのは器が小さいんじゃないかと思ったりもするのである。存外に優太は繊細な少年だった。


「ごめんなさいね、優太。でもね、なんていうか……こればっかりはやめられない気もするわ」

 がっくりとうなだれる優太。ルルはご満悦といった表情で優太の頭を撫でている。

「はあ。まあ過ぎた事を言っても仕方ないけどね……」

 何とか気を取り直し、猫背気味になっていた背筋をぴんと伸ばす。ともかく話題を変えようと思い立ち、上機嫌に横を歩くルルを見る。

「そう言えばずーっと聞きそびれてたんだけど、ベアトリスの封印って結局どうなったの? ナトキンが健在ってことは緩んだのが元に戻ってるって事はなさそうだし」

 ベアトリスの『ファミリア』である、欧州原産のリスを素体にして作成されたナトキンは、基本的にベアトリスのペットということになり、彼女の行くところについて回って放課後や休み時間には女子達のアイドルとして人気を博していた。

 ちなみに今はベアトリスや真白と共に、図書室で文芸部の活動に勤しんでいる筈である。

「あの後特に何も対策を講じていないけれど、見る限りでは本当に少しずつだけど緩み続けているわね。それでも普通に魔法を使えるレベルまではあと四、五年はかかるはずだし、今は現状維持でいいと思うわ」

「そっか……。もうベアトリスとはケンカしなくても済むよね?」

「そう――そうなればいいわね」

 きっと大丈夫だろうと楽天的に構えていた優太に対し、ルルの言葉は歯切れが悪い。

「やっぱりまだ難しい?」

 ルルは腕組みをして少し考え、

「今はトリスがここでの生活に順応する以外にない、という状態が出来てしまっているし、あの子もそれをそこそこ気に入ってるみたいだから、率先して事を荒立てたりはしないはずよ。でも、そういう枷が外れた時、私と一族の悲願を秤にかけてくれるかどうかは、ちょっと自信無いわね」

 淡々と、感情を挟まずに語るルル。それが逆に、優太には物悲しい。どうあがいても覆せない現実が、そこに突きつけられているような気がしてならないから。

「心底から仲良くはできないのかな……?」

 ぽつりと呟く。殆ど独り言のつもりだったが、ルルは耳聡く聞きつけていたらしい。

「そう出来たらいいわね。彼女が個人的に折り合いを付けてくれてもタルボットの一族がどう動くかは分からないけれど……」

 ほんとに面倒臭い連中だわ、と物憂げにため息を一つ。

 そんなルルに優太が確認するように問いかける。

「ルルは、英国には行きたくないんだよね?」

「ええ。ほとんど良い思い出もないし、あっちこっち放浪してた頃でも、ヨーロッパには殆ど近付かなかったわ。それに私は日本の、柏木町が気に入ってるもの」

 ルルが遠くへ行くつもりのない事、ここが好きであると言ってくれることは、優太にとっては嬉しかった。だが同時に英国について言及した際、彼女が表情を曇らせた事が気になった。

 『良い思い出がない』とのことだったが、英国はルルの故郷のはずである。何故そんなに嫌うのか。そもそも、柏木町に来るまで世界中を放浪していたというが、どんな暮らしをしていたのか。そんな事を考えてしまう。

 そんな考えがぐるぐると頭の中を回り続け、上の空になっている優太を気遣ったのか、並んで歩いていたルルがこちらとの距離を一歩詰める。

 肩が触れ合うような距離で、少し身をかがめて優太の顔を覗き込んだ。

「何か考え事? 良ければ話してごらんなさいな」

 言いながら、つい、と優太に顔を近づけ、思わず仰け反ってしまう優太を見ては、くすりと笑う。十数年一緒にいてこの辺りに慣れが出来ない優太も優太だが、こういう反応をする優太を見ていて楽しい、と日頃から公言して行動するルルもルルであったりする。

 殊にベアトリスがやってきてからはこの手の行動が増える傾向があり、しかも下手にツッコミを入れると、カウンターで弄られてしまうので敢えて何も言わず、出来るだけ当たり障りのない形でルルの問いに答える。

「ええと、ルルって世界のあっちこっちに行ったって話だったから、どんな所にいたのかなって思ってたんだ」

 そうねえ、とルルはこめかみに人差し指を当て、記憶をたどっている様子。

「まずは西ヨーロッパを出てロシアへ。そこから中国、日本、東南アジア、インド。しばらくその辺りをうろうろしてから新大陸へ行って、次にオーストラリア周辺。その後は中東経由でアフリカを回ったかしら。で、ここ百年くらいは中国にいたわ。大まかにはこんなところかしら。交通が発達してからは、割とあっちこっちに行ったりもしてみたけれどね」

 すらすらと並べられた単語を頭の中で地図に置き換え、それを辿って目を丸くする優太。

「ほんとに世界中だね……」

「ええ。あとは南極と北極かしらね」

 冗談交じりにそう言うと、ふと視線を遠くする。

「でも、あんまり一箇所に長くいた事は無かったかしら。例外はインドと中国くらいね。それぞれ何十年かずつ。……インドではちょっとした研究のまとめをやっていて、中国には支援者がいたから」

「そう言えばルル、カレーとか好きだよね……」

 思ったことがポロリと口から出た優太を、ルルはきょとんとした表情で眺め、やがて口元を押さえ、身を折って震えだした。優太の『インド=カレー』という安直すぎる図式がツボに入ったようで、必死に笑いを堪えている。

「え? 何かおかしいこと言った?」

 無自覚な優太の台詞がますますルルを追い詰めている。肩を震わせながら涙を拭うルル。

「ああもう。ほんっとにしょうがないわね優太」

 笑いを顔に貼り付けたまま、優太の頭を撫でる。そうしている内にも笑いが再燃するのか、くく、と押し殺した笑い声をあげる。

「まったく。これでも色々悩んでるのに。今日は笑わされてばっかりだわ。ほんとにもうっ」

 言葉の内容とは裏腹に、酷く上機嫌な様子のルル。その手は相変わらず優太の頭の上にあり、髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜている。

 優太も今のところはなすがまま、やりたいようにやらせながら、ふと気になった事を聞いてみる。

「色々って……ベアトリスのこと以外にも何かあったり?」

「え? ええと、そうね……」

 優太の問いに、ルルが表情を笑みから思案に切り替えて、何事か答えようとした時、二人の横合いから別の声がかかった。

「あら二人とも、お帰りなさい」

 優太とルルが視線を向けると、そこにはリューリィがにこにことした表情を浮かべて立っていた。買い物帰りなのだろう、愛用のマイバッグから卵のパックや野菜が覗いている。

「ところで、どうせイチャつくならわざわざ家の前でやらないで部屋の中で存分にやったらどうかと母さん思うんだけど……」

 二人がただいま、と返事を返す前に笑みの質を少し意地の悪いものに変えてリューリィがそんなことをのたまう。

「え、あ……!?」

 思い切り狼狽した優太が辺りを見回すと、そこは確かにレイセス家から徒歩15秒のポイントだった。

 そんな優太を見て呆れたようにため息をつく娘と、満足げににんまりと笑う母親のコンビ。

「と、いうわけで……優太君、うちに寄っていく?」

「あ、いやその。今日は帰りますんで、また明日!」

 片手を口元に添えて笑うリューリィに対し、しゅた、と手を上げて挨拶すると、優太はそのまま踵を返してその場から遁走する。

「あらら。行っちゃった。……私たちも家に入りましょうか、ルルちゃん」

「……そうね、母さん」

 遠ざかっていく優太の背を見送って、レイセス母娘は自宅へと引き上げていく。





「そういえばルルちゃん?」

 二人して玄関をくぐり、ダイニングでバッグを下ろしたところでリューリィがルルに問いかけた。

「優太君にトリスちゃんのことは教えなくてもいいの?」

「……トリスのことって?」

 買ってきた物のうち、野菜などを冷蔵庫に入れながら、問い返すルルの声を背中で受けたリューリィが言う。

「トリスちゃんの封印が今すぐ全部解けたとしても、脅威になる可能性はほとんどないでしょう? 優太君もその辺りを心配してるみたいだし、教えておいてあげたら?」

 ルルは沈黙したままキッチンに入ると、戸棚から急須と茶筒を取り出す。

 リューリィが醤油とみりんをコンロの下のスペースへしまいこみながら、さらに言葉を紡ぐ。

「仮に封印が無くなっても、トリスちゃんのスタッフはこちらで押えてある以上、あの子が魔法使いとしてこちらと戦って勝つ目はゼロに等しいわ。一からスタッフの作成にかかるとしても、設備も時間も足りない。完成どころか製作にかかる前段階で止めに入れるはずよ」

「どっちにしても結果が変わらないなら話す意味も必要も薄いでしょう」

 急須にお茶っ葉を入れ、ポットからお湯を注ぎながらルルが答える。

 本日の買い物の戦果をあらかた整理し終わったリューリィがそんなルルを見ながら聞こえよがしにため息を一つ。

「もう。母さんは心配して言ってるのよ?」

「これでも年頃の娘だもの。母親の小言には反抗的なものなのよ」

「自分でそういうことを言っちゃう辺り、やっぱり世間一般の年頃の娘さんとの年季の差が……ルルちゃん目が怖いわ~」

「余計な事言うからでしょ。……年季が入ってて悪かったわね」

 ルルは不機嫌な表情を崩さないまま、やや乱暴にダイニングのテーブルへ自分用とリューリィ用の湯呑みを用意し、お茶を注ぐ。



「それより、調べ物の方はどうだったの?」

 テーブルについてお茶をひと啜りし、視線の色を真剣なものへと切り替えてルルが尋ねる。

「それなんだけど……」

 リューリィはルルの対面に座り、両手で湯呑みを包み込むようにしながら少し考える素振りを見せ、口を開く。

「私が見た限りでは、はっきりとした異常は『舞台』には見つけられなかったわねえ」

「はっきりとしたものでなければ?」

 リューリィの言葉に、即座に問い返すルル。リューリィはその言葉に少し視線を中空に彷徨わせ、記憶の糸を手繰る。

「多少、目に付く部分はあったわ。印象としては隠蔽が一度綻びた跡のような……でも、もともと付与してある揺らぎの範囲内に収まってしまうようなものだし、もっと言ってしまえば私の気のせいかも知れないわ。せいぜいがその程度ねえ」

 そこで言葉を切り、リューリィがお茶を口にする。対してルルは眉間に皺を寄せ、厳しい表情を作っていた。

「私もね、昨日『舞台』に対して母さんと同じような印象を持ったのよ。で、気のせいかどうかを確かめたくて、先入観を持たせない為に母さんには何も言わずに、ただ『舞台』のチェックだけをお願いしたのだけれど……」

 ルルはそこまで言うと再びお茶を口にして喉を湿らせ、ひたとリューリィを見据える。

「予備知識無しに、私たちが二人とも同じように感じられた事を気のせいと片付けていいものかしら?」

 ルルの言葉に、リューリィの表情が僅かに固く強張る。

「でも、気のせいでないとするなら? 経年劣化の可能性はまだありえないはずだし……」

「人為的な干渉」

 ぽつりと零されたその一言に、リューリィが動きを止め、ルルはそこへさらに畳み掛けるように言葉を連ねていく。

「『舞台』に施された隠蔽を看破、おそらくは解除し、その上で隠蔽をほぼ完璧に掛け直した」

「でもそれは……」

 言いよどむリューリィにルルは憂鬱げな表情で一度頷いてみせる。

「私や母さんにはそんなことをする意味がない。今のベアトリスにはそれを行うだけの手段と力がない」

 少し冷めてしまったお茶をぐい、と飲み干してルルは大きく息を吐く。




「この町に私たちの知らない魔法使いがいる可能性が大きくなってきたわ。それも達人級の、ね」



[14838] その7『歴史と道化師』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:09
「ほな、また明日なー」

 ぶんぶんと子犬の尻尾のように手を振る真白に応えて手を振り返し、ベアトリスは踵を返した。既に町は夕暮れに染まる頃合である。

 このところ、学校から帰るのはいつもこの時間帯になる。

 真白に誘われるままに入った文芸部という集団は、基本的に図書室に集まって本を読むだけの集まりのようだった。他の集団と比較するに、随分のんびりとしたものであるようにベアトリスは思う。

 ただ、激しい運動を行う気もベアトリスにはさらさらなかったし、日本語の読み書きにはまだまだ習熟が必要だったので、これはこれで丁度良かった。

 大体、あの漢字という文字はかなりの曲者である。種類が多すぎるし、似たような字も多い。

 果ては同じ字でも違う読み方があり、複雑この上ない。表音文字であるところの、平仮名と片仮名の使い分けもなかなか面倒だ。

 ……とりあえず、自分の名前は片仮名で書くものだとは覚えたが。


 先日購入した――といっても実際に金を出したのはルルなのだが――携帯電話にこれでもかという勢いで送られてくる真白や蘭のメールを捌くうち、それら日本語特有の文字や文法、言い回しにも大分慣れが出てきた。

 また、自分の言葉遣いについて、日本に来たときから多少の違和感があったのだが、その正体も判明した。

 どうもベアトリスの習得している日本語は、どちらかというと富裕層や高貴な女性のものであるらしい。

 もともと魔法による速成学習で覚えたものだったが、その際の参考文献を選んだ人物が貴族にふさわしいものとして選んだのかもしれない。

 もっと一般的な言葉に矯正することも考えたが、クラスメートからは今のままがいい、と強硬に主張されたため、特に直すための行動も起こしていない。


 ――そもそも、本来ならばそこまで日本語に熟達する必要は無かったはずですけれど。

 ふとよぎった思考に、ベアトリスは軽く苦笑する。

 なんだかんだ言って今の生活に馴染んでいる自分が確かにいて――ルルに魔法や英国との連絡を封じられた結果、そうする以外に無かったのだと分かってはいても――それなりに今を楽しみ、より馴染むために日本語の習得に精を出しているのだ。

 この暮らしがいつ、どのようにして終わるのか分からないが、現状を変える策も見当たらない事だし、しばらくはこのままでいよう、とベアトリスは思う。

「まあ、わたくしにとっても悪いことばかりではございませんしね」


 実際問題、ここ数百年の間でルル・レイセスと個人的な繋がりを持った西欧の魔法使いなど、数えるほどしかいない。

 かの大魔女は、ヨーロッパの魔法使い達の勢力圏を避けるようにして――事実、避けていたらしいのだが――あちこちを放浪していた為、接触が困難だったのである。殊にここ百年程は、エチオピア辺りでの目撃を最後にぱったりと行方をくらましていたのだ。

 そういった事情を鑑みるならば、この状況はむしろチャンスとさえ言えるかもしれない。

 ルル・レイセスと友誼を結ぶ事ができれば、彼女をタルボットの一族に協力的な方向へ誘導できる目もなくはない。

 ――我ながら少々言い訳臭い思考ですが……。



「あれ、ベアトリス、今帰り?」

 取りとめもなく考え事をしていたところにかけられた声に、視線を横へ向ける。そちらには丁度商店街があり、優太が小走りにやって来るのが見えた。

「ええ、先程まで学校にいましたわ。そちらはお買い物ですか?」

 私服姿の優太は、手に提げた、割と大き目の買い物用マイバッグを目線の高さまで上げ、その通り、ということをアピールしてみせた。そのまま、なんとはなしに二人は並んで歩く。


「文芸部だよね。様子はどう?」

「主に本を読んだり、部員の方々と話をしたり、ナトキンが玩具にされたりしていますわ」

 最後の一つについてはため息混じりに言う。特に真白がナトキンをお気に入りで、触らせて欲しいと熱心にせがまれては断りきれなくなっている。

「あはは、ナトキン可愛いもんね。アカリスだっけ?」

「正確にはヨーロッパアカリスですわ。英国でももう随分と数を減らした種だそうですが」

 そうなんだ、と優太は頷き、それきり何も言わない。ベアトリスからも話しかけることは無く、しばらく無言のまま二人は歩き続ける。

「ねえ、ベアトリス?」

 唐突に優太が立ち止まり、問いかけた。普段とは少々違う雰囲気を察して、ベアトリスも歩みを止めて優太と向かい合う。


「ベアトリスはさ、やっぱり今もまだ……ルルを英国に連れて行くつもり、かな」

 ベアトリスは数瞬考え、首を縦に振る。

「ええ、それを諦めたわけではありませんわ。一族の長老達から命を受けた、ということもございますが、わたくし自身の価値観に準ずるところとして、そこを譲ろうという気にはなりませんわね」

「ベアトリス自身の、価値観?」

 はい、と再び首肯する。

「ユータ。あなたは、大魔女から魔法についてどの程度の知識を得ていますか? 技術的なことでも、歴史的なことでも構いません」

 ベアトリスから発せられた問いに、優太は考え、記憶を探りながら応える。

「詳しい事は殆ど聞いてない、と思う。ベアトリスの封印とか、使い魔のこととかも、こういう効果があるものだ、っていうことだけ聞いたかな? 歴史とかはもっとさっぱり。せいぜい教科書に載ってることと変わらないと思う」

「そうですか。以前から感じていた事ですが、大魔女はあなたに魔法の事を……ひいては今までの自身の事を知られる事に抵抗があるようですわね」

 ベアトリスの言葉に優太は俯く。確かに思い当たる節はある。魔法についてこちらから聞けば、大まかなところは応えてくれるものの、あまり突っ込んだ部分については触れずに終わる事が殆どだった。


「まあ、彼女には彼女の都合もございましょうが、わたくしにもわたくしの都合がございます。……少々、講義をして差し上げますわ」

「講義?」

 ええ、と頷き、ベアトリスはしばし左右を見渡す。

「ユータ。この辺りで座って話せる場所に心当たりは?」

「あ、そうだね……うん、近くに公園があるよ」

「ではそちらへ。少しばかり話が長くなるかもしれませんわ」

 優太は了解し、ベアトリスを小さな公園へと案内する。普段なら近所の子供たちの遊び場となっている場所だが、もう家に帰っている時間なのだろう。茜色の光に照らされたそこは無人だった。二人は隅にあるベンチに並んで腰掛ける。




「さて、魔法の技術的な説明はさておき、歴史……特に、ヨーロッパにおけるそれについてお話いたしますわ。よろしいですか?」

 優太が頷いたのを確認して、ベアトリスは語り始めた。

「魔法というものがいつから存在したのかは定かではありませんわ。ただ、遥かな古代からその存在を伝える記録は残っております。その頃の魔法は、今よりずっと単純で、そして強力だったそうですわ。その力は歴史を追うごとに落ちているといってもいいでしょう。

 魔法使いの質が少しづつ落ちているのか、星辰や地脈……星の巡りや土地の力のことですが……それらが変わっていったせいなのか。その辺りをはっきりと断ずる事は出来ませんが、全体的な流れとしては、魔法はその発生からからごくごく緩やかに弱っていったのだと言われています。

 そのままならさして問題は無かったのかもしれません。魔法が弱っていき、やがては他の技術に取って代わられたとしても、それは穏やかに移行していたでしょう。もしくは、長い研鑚の中で太古の力を取り戻していたかもしれませんわ。私は後者であると信じますが。しかし今から約七百年前、十四世紀に大規模な転換期が訪れました」

「……『大衰退』、だよね?」

 こくり、とベアトリスが肯定する。その顔はやや暗く沈んでいた。魔法と縁の薄い優太にはよく分からないが、生粋の魔法使いであるベアトリスには、『大衰退』の話題は憂鬱なものなのかも知れない。

「ええ。突如として魔法はその力を今までとは比較にならないほど落とし、結果、あちこちで大混乱が起きました。原因の究明と事態の打破のため、様々な研究と試行錯誤が行われたそうですわ。

 ですが、結局それらは報われず、当時のローマ教皇、グレゴリウス一一世によって、我々は魔法を棄て、新たな道を探すべきだ、との声明が出されました。これに前後する形で、各国は魔法を切り捨ててゆく事となります。

 わたくしは、それ自体は当然の流れかと存じます。魔法がそれまでの利便性を失い、それどころか存在そのものが危うくなったのは事実ですし、世界が早期に立ち直ったのは、手早く魔法に見切りを付け、次なる技術を求めた事が大きいのは間違いありませんわ。

 ただ、そうした世の中の流れとは別に、魔法を棄てず、かつての力を取り戻す事を夢見る人々もいました。タルボット家もそうした流れを汲む一派ですわ」

 ルルは一度言葉を切り、深くため息をつく。その口元には自嘲的な笑みがあった。

「ですが、それまでは当然の如く世の中にあった魔法が突如として見る影も無くなってしまったこと、そして、教会の最高位である教皇が魔法を否定したことの影響というのは、当時の、特に西ヨーロッパの魔法使い達にとって、思った以上の影響を与えました。

 ……この国の教科書ではさして重要視されていないようでしたが、やはりヨーロッパにおいては、カトリックの教皇の言葉というものには重みがあるものなのですよ。

 ……教会における魔法の位置付けは『神のご加護』ですわ。天なる主の恩寵が、魔力――教会では天より降るパンになぞらえてマナと呼びますが――という形でこの世に満ちている、と。だが魔法は消えてしまいました。何故か? ……これについては苦しい形ですが『試練』という形で建前を作っていますわね。

 まあ、問題はこの後ですわ。『神のご加護』たる魔法は最早世の中からほぼ消えてしまった。と、いうのに、『大衰退』から百年ほど経ってから、多少なりとも魔法を使う人々が現れました。

 彼らは魔法を見捨てなかった魔法使い達で、以前とは比べ物にならないほどに小規模、また、個人での使用はできず、多人数で大掛かりな儀式の末に、という形ではありますが、魔法を復活させてみせました。

 それは大変に使い勝手も悪く、実用性もないに等しい、復活というのはおこがましいものだったかも知れません。ですが、彼らは希望に満ちていたそうですわ。これが第一歩だ、と」

 話を始めた時、夕焼けに包まれていた公園は、少しずつ色を増していく夜陰の中にある。そして、それに引きずられるように、ベアトリスの話も暗い闇に包まれていくように優太には思えた。

「当時、ローマカトリックは魔法の復活の研究を放棄していたそうですので、教会内に魔法を使えるものはいなかったそうですわ。……『神のご加護』は『試練』という形で消え去り、しかし、その『試練』の最中に、魔法を使うものがいる。許しがたい事に、神の使徒の中には魔法を使える者はいない状況の中で。

 コンスタンティノープル陥落を見過ごし、またそれを為したオスマンやそこと繋がるイタリア諸都市が魔法以外の技術研究の中心となり始めていたことで、教皇の権威が翳り始めた時期だった事も良くなかったのでしょう。

 ……彼らは、悪魔に魂を売った者とされ、徹底的に弾圧を受けましたわ。歴史的に見て、それは仕方のない事だったのかも知れません。世界は魔法を棄て、それに頼らない成長をしなければいけない時期だったのですから。

 中途半端に人々に魔法を見せて、惑わせる者達を放置しておくわけにはいかない、と判断されたのでしょう。結果、タルボット家の先達も含め、彼らは弾圧から逃れて歴史の裏側へと潜り込みました。そしてそのまま隠れ潜み、今まで系譜を繋げてきたのです」

 話を終え、ほう、と大きく息を吐くベアトリス。その横で優太は一度にもたらされた情報を整理し、自分にとって重要だと思われる質問をした。

「じゃあ、今でも魔法使いは弾圧されてるの?」

 もしそうだとするならば、優太にとって魔法使いの世界の出来事は全く他人事ではなくなってくる。だがこれにはベアトリスは首を横に振る。

「確かに現在でも魔法使いを目の仇になさる方はいらっしゃいますが、ごく一部に限られますわ。数百年の間に、魔法使いは様々な技術の開発によって多少はその力を取り戻しています。非公式に教皇庁に詰めている魔法使いもいるそうですわ。

 もっとも、魔法使いとして力を振るえるだけの素質を有した人間の絶対数が少な過ぎますし、それでも『大衰退』以前にはまだ遠く及びませんので、魔法が歴史の表に出る事はまずありませんが」

 そこでベアトリスはベンチから立ち上がった。まだ座ったままの優太を見下ろし、

「大魔女ルル・レイセスは、『大衰退』をまたいで存在する、貴重な知識を有した魔法使いですわ。その協力を得る事が出来れば、いつかは現代に広く魔法をもたらす事も可能かもしれません。

 それはきっと、多くの人に益をもたらすのだとタルボットの一族は信じてきましたし、わたくしも信じています。ですからわたくしは彼女を諦めるつもりはございませんわ」

 ベンチに座ったままの優太に向かい、ベアトリスは畳み掛けるように言葉を紡ぐ。

「力ずくでも連れて行く、とあまりスマートではない選択をした事も確かですが、決して彼女を悪いようには致しません。私、ベアトリス・タルボットの名にかけて約させて頂きますわ。その事だけでも、覚えておいて下さいませ」


 言葉を切ったベアトリスはそのまま動かない。優太もしばし黙ったままだったが、やがて、彼女が自分の言葉を待ってくれているのだと気付き、顔を上げて立ち上がる。

「考えがまだ全然まとまらないけど……ベアトリスの言った事は覚えておくから」

 ベアトリスはその返答に微かに笑い、身を翻す。

「では、そろそろ帰ると致しましょう。もうすっかり日も暮れてしまいましたわ」

 優太が同意して、歩き出そうとした時だった。

「おーっとぉ、ちょっと待ってくれやそこの坊ちゃん嬢ちゃん」



 唐突に掛けられた声に、優太とベアトリスは足を止める。

 ――いつの間にそこにいたのか、公園の入り口に人影があった。街灯に照らされた、一人の男。見る限り年齢は三十代に入った辺りだろうか。

 一九〇cm近い長身に、赤褐色の髪と灰色の瞳。髪と同じ色合いの整えられた顎ひげをたくわえている。だがその外見で何より印象的なのはその服装だった。

 先ほどまでの夕暮れをそのまま写し取ったかのような、鮮やかなオレンジ色のロングコート。その随所にシルバーのアクセサリーをぶら下げ、コートの内側には真っ赤なベスト。スラックスは真っ白のくせに履いている靴は派手な紫色で、右手には古い外国映画の登場人物が持っていそうなステッキを弄んでいる。

 簡潔に言い表すならば派手でけばけばしい男だが、不思議とそれがしっくりと似合うようにも見えた。

 きょとんとした顔つきの優太と、警戒心も露に目を細めるベアトリス。男はそんな二人の前に、にやにやとした笑みを唇に貼り付けて立っている。

「……どちら様でしたかしら? わたくしの記憶に間違いが無ければ、初めてお会いするように思いますけれど?」

 刺々しい、という表現でもまだ生ぬるいような敵意丸出しのベアトリスの声音だったが、男はまるで気にしていないかのように唇を笑みの形に歪めてみせる。

「いやいや。間違いなく初対面……と、こりゃいけねえや。今日び、初対面の女の子にいきなり声かけちゃあポリスメーンの世話になっちまうよなあ。いやな? 面白そうな話が聞こえたもんだからよ。ついつい嘴を挟んじまったってぇワケよ」

 やや大げさに身振り手振りを交えて語る男の声は深く渋みのあるバリトンだったが、その口調の軽薄さがそれらを台無しにしている印象がある。

「あら。さして面白い話はしていなかったと思いますけれど?」

「チッチッチ。馬鹿言っちゃいけねえよお嬢ちゃん。随分とビッグネームを話題にしてたじゃねえの。興味も出るってもんよ」

 男が首を振り、右手のステッキをくるりと回してから立てた人差し指も振ってみせる。やたら芝居がかった仕草だが、むしろそうしている方が自然に見えてしまうような、役者然とした雰囲気が彼にはあった。

「ビッグネーム?」

 黙ったまま男を睨みつけているベアトリスの横から、事態を見守っていた優太が聞き返す。先程の話に出てきた固有名詞はそう多くはない。その中で今の表現を使えそうな人物といえば……。

「ここまでくりゃあ決まってんだろ? 大魔女、ルル・レイセスだよ」

 男の口からルルの名前が出ると同時、優太の横にいるベアトリスの様子がおかしくなったのに優太は気付く。

 眼前の赤系統の男を敵と認識して行動に出るつもりなのかと一瞬思ったが、そんな風にも見えない。身じろぎもせず、口も開かず、だが表情には色濃い焦りが見て取れた。

 そんなベアトリスを余裕の色を浮かべた瞳で見つめ、男はせせら笑う。

「はっはぁ。タルボットの秘蔵っ子とは言え、封印喰らってちゃ他愛無いモンだわなあ」

「……ベアトリスに、何をしたんですか」

 目の前の男が名乗ってもいないベアトリスの素性を知っていたこと、そして言葉の内容からこちらに対す害意を悟ったのか、優太にしては珍しい、険を含む声で問い質す。

「心配しなさんなって。ちょいと体の自由を奪っただけだよ。ま、念のためってヤツだよ」

 この期に及んでも、男の顔には朗らかな、まるで友人と話してでもいるような笑みが浮かんでいる。それが却って優太には恐ろしかった。

「あなたは……誰ですか」

「人に名前を尋ねる時にはまず自分からだぜ少年? と、言いいたいところだが、出! 血! 大サービスだ。だぁ~れが呼んだか、少なくとも俺じゃねえのは確かだが『道化師(クラウン)クラウン』たぁ俺のことよ! ……知ってるか?」

「……いいえ」

 口ぶりからすると、ルルやベアトリスのことをある程度知っている人物かとも思われたが、かといって信用する気にはさらさらなれなかった。じり、と靴の裏をこすりながら間合いを計る。

「なんだよ、魔法使いじゃないにしても多少はこっちの事情にも明るいかと思ってたんだが……」

 ガッカリしたようにその男、クラウンは肩を落とし、聞こえよがしにため息を地面に向けて零してみせる。が、そうしていたのも束の間、はたと何かに気が付いたようにぴくりとその身を震わせ、優太に向き直って口を開いた。

「っていうかお前さん、なんで……」

 そしてその台詞を最後まで口にする事は出来なかった。

 優太が手に持っていた買い物用マイバッグを男の方へと放ったのだ。

 ふわり、という形容が似つかわしい速度で己の胸元へと投げつけられたそれをクラウンが身を捻って避ける。

 その時には既に優太は動いていた。バッグを投げる寸前にその中から引き抜いた五〇cm程の金属製の棒を握り、中心部分を捻る。

 かしゃり、という金属音。

 その音に一瞬遅れて、クラウンの顔面に向かい銀光が弧を描いて走る。

「うぉわっ!?」

 寸でのところで仰け反り、ぢり、と顎ひげを掠っていくそれをかわすクラウン。この時点で、ようやく今の銀光の正体がいつの間にかその長さを三倍ほどに増した、優太の得物によるものだと認識する。

「ちょ、待……っ」

 もちろん待つつもりは優太には全くなかった。

 右から左へ振り抜く今の攻撃がかわされたと判断したその瞬間、大きく前へ踏み込み、棒の持ち手の位置も変える。棒の回転の中心位置を内側へ移動させることで旋回半径を縮小、棒の持ち方そのものもコンパクトなものに変更し、迅速に二撃目を打ち込む。

 狙うは先の一撃を仰け反って避けた影響で容易には動かせなくなっている足元。

 がつん、という手応え。クラウンの口元が歪む。――はっきりと笑みの形に。

 優太の二撃目が足を打つ直前、クラウンは持っていたステッキを足と棒の間に差し込んでガードに成功。そのまま優太の武器を空いている手で掴んでいた。

「あっぶねえガキだなあおい。おじさんびっくらこい……」

 今度の台詞も言い切ることは出来なかった。

 優太は自分の得物が掴み取られた瞬間、それを自分の方へ強く引いた。反射的にクラウンは棒を引き返す。

 それとほぼ同時、優太が棒から手を離した。

 自身の踏み込みと、クラウンが棒を自身の方へと引きつけようとした力も利用してその懐へ入り込む。

「おぉ……っ!?」

 今日何度目かのクラウンの驚きの声を聞きつつ、お互いの身長差も相まって、実に狙い易い位置にある標的に向かって優太が全力で膝をカチ上げる。

 ――手応え、あり。

 若干の罪悪感を感じつつ、即座に優太は反転。下腹を押えて内股気味に足を震わせるクラウンにもその足元に転がる自分の得物にも一撃目の前に放り出したマイバッグにも目もくれず、ベアトリスに駆け寄って、

「ごめん、ベアトリスっ」

 膝裏と背中に手を回し、俗に言う『お姫様抱っこ』の形で一気に持ち上げ、全速力でその場から遁走する。

 公園の出口を抜け、住宅街を駆け抜け、商店街のアーケードへ駆け込んだところで流石に息が切れ、やっと優太は足を止めた。



「は、はあっ、はあっ……はぁーっ……こ、ここまで来れば大丈夫、かな……?」

 荒い息をつきながら背後を振り返る優太に、公園を離れたことでクラウンのかけた拘束から解放されたのか、ベアトリスの声がかかる。

「……ユータ。とりあえず下ろして頂けますこと?」

 そう言われてはっと気付く。気の早い秋の夕日は既に地平線の向こうへ消えた後ではあるが、それでもまだ夕飯の買い物に商店街へ来ている人は多い。

 田舎の柏木町ではご近所さんの顔見知りも当然多いし、なにより優太自身もこの商店街の常連である。そんなところへ最近越してきた金髪転校生をお姫様抱っこしながら駆け込んできたとあっては……。

 そこまで思考してから、大慌てでベアトリスを地面に下ろす。流石に恥ずかしかったのか、ベアトリスの頬にうっすらと朱が差していたが、正直なところ優太はそれどころではなかった。

 ぎぎぎ、と音がしそうな動きで周囲を見渡す。ご近所のオバ様方や、馴染みの店主達がニヤニヤと笑いながらこちらを見てコソコソと囁きあっている。

 ――まーこんな街中で大胆な。

 ――優坊もいっちょ前に浮気かあ。やるじゃねえか。

 ――ルルちゃんがどんな顔するかねえ……。


「うわあ……」

 漏れ聞こえてくる……というよりおそらく半ば以上わざと聞かせている周りのそんな声に、頭を抱える優太。

 ベアトリスはそんな優太を見て密やかにため息を一つ吐き、

「それにしてもユータ。あなた意外に過激でしたのね」

「過激って……あ、いや、確かに同じ男としてアレはどうかとも思ったんだけど確実に無力化するにはものすごく有効な手だから……」

「そっちじゃありませんわよっ!」

 今度こそはっきりと頬を赤らめたベアトリスの叫びが商店街に木霊した。











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怪しい人登場&優太やるときはやりますのお話。

思い切り体調を崩したりあれやこれやと先の展開を弄ってみたりで大分間があいてしまいました……。

次はもうちっと早く上げられたらいいな、と



[14838] その8『警戒と確認』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:10
「……そう。なかなか災難だったわね」


 優太とベアトリスから公園における出来事を聞かされたルルは、いささか不機嫌そうにしながらそう言って頷いた。

 ちなみに、三人は現在、ルルの部屋で車座になって話し合っているところである。

 あの後、商店街まで逃げてきた優太とベアトリスは、家に帰るまでの間に再び襲撃される危険性を考慮し、携帯でルルに事の概要を連絡。商店街まで迎えに出てきてもらい、そのままレイセス家まで戻ってきたのだった。


「『道化師(クラウン)クラウン』ねえ。私にも聞き覚えはないのだけれど……。口ぶりからすると十中八九、私が狙いなんでしょうね」


 ほんとに次から次へと、と零してため息をつき、ちらりとベアトリスに恨めしげな視線を飛ばす。


「わたくしを睨まれても困りますわよ」


 そう言いながらも少々気まずげなベアトリスを見て、ルルが表情を緩める。


「冗談よ。……しかしまあ、気に入らない話ではあるわね」


「気に入らない話?」


 オウム返しに問い返す優太に、ええ、と頷き、


「トリスについての情報の把握が妙に正確なのが、ね」


「なるほど。確かにそうですわね」


「え? どういうこと?」


 ルルの言葉に、優太とベアトリスからはそれぞれ違った反応が返ってくる。


「ベアトリス・タルボットが私に挑んで返り討ちに遭った。ここまではいいわ。でも、十三年間封印され、そこから当事と同じ姿で解き放たれたこと、今は魔法能力を封印されていることまで知っているとなると、パッと思いつく可能性は二つね」


 そう言ってルルは指を人差し指と中指を立てて、軽く振って見せ、まずは中指を折る。


「――ひとつ。ベアトリスの封印解除以前からこの町は継続的かつ隠密裏に監視されている」


 それに長期間気付かないほど自分がマヌケじゃないとは思いたいけれど、と苦笑してからルルは言葉を切り、眉根を寄せて物憂げにため息を一つ。


「ただ、この町には、私が仕掛けた幾つかの魔法装置があるの。外来の魔法使いを察知したりするものとかがあるのだけれど……。それらに干渉された可能性が前回の定期チェックで出てきたのよ。最悪、それよりも以前からそれらを誤魔化されて潜伏を許していた、ということも考慮すべきね」


 そこでまたルルは言葉を切り、一瞬だけ迷うような素振りを見せてから人差し指も折り、口を開いた。


「――ふたつ。その道化師は、トリスの状態を知る何らかの手段を持っているか、少なくともそれが出来る何者かと繋がりがある」


「それってつまり……どういうことだろ?」


「あの悪趣味男はタルボット家の関係者である可能性が強い、ということですわね」


 首を傾げた優太へと諭すように、ベアトリスが無表情を保ったままきっぱりと言う。


「で、でも、それならベアトリスに対してもうちょっとこう、やり方があったんじゃあ? いきなり動く事も喋る事も出来なくされてたよね!?」


 やや取り乱したような優太の様子に、ベアトリスは対照的に穏やかな微笑すら浮かべてみせる。


「無理もないことですわ。実際問題、客観的に見ればわたくしは大魔女に懐柔、籠絡されているようにしか見えないでしょうし。それに、この町にルル・レイセスがいることについて、それに加えて私についての詳細な情報を持つとなれば、タルボット家が最有力の候補に上がるのは間違いのないことですわ」


「それは、そうなんだろうけど……」


 納得いかない様子で言い淀む優太に向けて、ベアトリスがほんの少し笑みを深める。


「まあ、気遣いを頂いた事には感謝を申し上げておきますわ。ユータ。公園でも助けて頂いたことですしね」


「あ、うん。どういたしまして」


 若干の照れを含んだようなベアトリスの声音に、優太も笑って感謝を受け入れる。






「……さて、じゃあ次の案件に移りましょうか」


 あくまで柔らかな口調でそう言ったルルの方へ視線を向けた優太は、何故だか勝手に背筋が伸びるのを感じていた。


「あら。どうしたの優太。そんなにかしこまって」


 ルルはにっこりと笑って優太を見つめている。だが何故だろう。優太はその笑みに、えも言われぬ恐れを抱かずにはいられなかった


「い、いや何となく。……あ、ほ、ほら。次の案件って何?」


 危機感に背中を押されるように話題を変えようとする優太。だが一瞬の後にそれが過ちだったと気付く。


「そうね。じゃあ『商店街お姫様抱っこ事件』について、とっくりと話をしましょうか」


 びしり、と優太が硬直する。

 何故それを。

 先ほど説明したときも、公園から逃げるくだりでは『ベアトリスを連れてその場から全力で逃げた』程度にしか話さなかったのに。

 商店街から帰る途中でもその話題には一言も触れなかったのに。


「……えぇと、ルル・レイセス? アレは何といいますか、そう、緊急避難ですわ。なので仕方がないのではないかと……」


 固まってしまった優太に代わり、ルルの放つ異様な迫力に気圧されながらもベアトリスが取り成そうとする。


「そうね。緊急で避難なのよね。それなら仕方ないのかもしれないわね」


 ベアトリスの言葉に、全く笑みを崩さないまま相槌を打つルル。その笑顔を見て、ベアトリスは何故か図書室で本を読むうちに見かけた、この国の伝統舞踊で用いる仮面を思い出した。


 ――あれは確か……そう、『NO』というものですわ。つまり否定の意を表す言葉であり、その否定の意思を舞踏によって相手にぶつけるもの。ならばこの笑顔から感じる攻撃的な何かも納得いくというものですわね……。


 現実逃避気味に異文化に対する理解を深めつつ、ルルを見る。彼女は懐から携帯電話を取り出して、少し操作をしてからそれをベアトリスに向けてきた。


「緊急だもの。仕方がないのよね?」


 ベアトリスと優太に見えるように掲げられた携帯の液晶画面で、動画が再生される。

 映し出されているのはベアトリスを抱きかかえて走る優太の姿。多少ブレているが、必死に走っているのが表情からもよく分かる。

 そして、ベアトリスが振り落とされまいとしてか、優太の首っ玉にひしとしがみ付いているのもはっきりと見て取れた。

「「何故こんなものが!?」」


 思わず異口同音に驚きの言葉を発する優太とベアトリス。


「花屋のゆかりさんが撮影してくれたのよ。写真だとブレてよく分からなくなるからと咄嗟に動画で撮ったんだとか。いい判断だわ」


 貼り付けたように表情を笑顔で固定したままのルルがさらに畳み掛けるかのように口を開く。


「ちなみに。あなたたちを迎えに行く途中、花屋の前を通った時にコレを貰ったのだけれど、その隣りの電器屋のご隠居とか向かいの乾物屋のシゲさんとかからも詳細にどんな様子だったかとか教えてもらったのよ」


 みんな噂好きで困ったものよね、と品良く笑うその声が優太の背筋を凍らせる。

 ――滅茶苦茶怒っておられる……!

 思わず内心で敬語になってしまうほど慄いている優太である。


「で、でもルル。ほんとに仕方なかったんじゃないかな、って思うんだけど……。それとも逃げないで公園でどうにかしてたほうが良かった?」


 及び腰になりつつも反論を述べる優太に対し、ルルは初めて笑みを崩して、目を吊り上げる。


「莫迦なことを言わないでちょうだい。即座に逃げを打った事に関しては全く問題ないわよ。向こうはあなたたちの前に姿をさらす前段階で何らかの仕込をしてたのは間違いないんだから。一発入れて勝てそうだから畳み掛けよう、なんて真似したら逆に二人とも捕まってたかもしれないわよ? トリスが私に負けた時だってそのパターンだったんだから」


「嫌な話を持ち出しますわね……ならどうしろと言うんですの?」


 ややうんざりとしたようなベアトリスの台詞に、ルルは一瞬固まってから視線を虚空へと走らせ、然る後に人差し指を立ててこう宣言した。


「肩に担ぐ」


「わたくしは荷物ではありませんわよっ!」


 扱いの悪さに思わず咆哮するベアトリス。


「うっ……はぁ、分かったわよもう。ちょっと拗ねてみただけじゃないの」


 勢いに押されて頭が冷えたのか、気まずげな表情でルルがベアトリスから視線を逸らす。


「何がちょっと拗ねてみたですか。いい年して」


「いい年は余計よっ!」


 年齢に関する話題に律儀に突っ込みを入れてから、ふい、と明後日の方向へ目を逸らす。


「……私だってあんな事されたことはないのに……」


「え? ルル、今何か言った?」


「いいえ全く何も。そう言えば優太。あなた公園に荷物を全部置いてきてしまったのよね?」


 ごく小さく、ぽつりと零された呟きは、優太の耳にはその内容を聞き取れなかった。優太がそのことについて尋ねようとすると、ルルがやや唐突に話題を変えてきた。そういえばそうだった、と思い至り優太はルルにぺこりと頭を下げる。


「あー、うん。ごめんルル。杖も放り出してきちゃった」


「いいのよ。最優先でトリスを回収して逃げたのは間違ってないわ。それに、武器に固執して負けたりしたら住職に地獄のシゴキを喰らうわよ?」


「う……そ、そうだよね……」


 ルルの言葉に顔を青ざめさせて冷や汗を流す優太。一方、この場で話の流れが理解できないベアトリスが首を傾げて尋ねる。


「どういうことですの?」


「えっとね、僕がさっき公園でやってみせたのは杖術って奴で、楓原寺の住職……観法のお父さんがお師匠様なんだよ。子供の頃から習ってて、あの携帯用の杖はルルがくれたんだけど……」


 もう戻ってこないだろうなあ、と優太は肩を落とす。


「そうでしたの……しかしユータ。あなた日常的に武器を持ち歩いてるんですの?」


 ベアトリスが新たに抱いた、ある意味当然の疑問に優太が答える。


「『折角身に着けた技術なんだから活かせる備えをしておきなさい』ってルルに言われて……。学校行く時も一応カバンの中に入れてるよ」


「……まあ、今回は実際助かりましたから何も言いませんけれど……」


 普段の物腰の柔らかさとは裏腹な、スパルタンな優太の一面に若干引き気味のベアトリスである。


「まあ、杖は私の方でまた新しいのを用意しておくけれど、それが届いてもあんまり無茶はしないのよ? 道化師にバッタリ出くわしてもすぐ逃げること。私の方で対処できるように策も練っておくから」


「あっさり動きを封じられたわたくしが言うのもなんですが……。あの程度ならそこまで警戒しなくても問題はないのではありませんこと?」


 やんわりと諭すようなルルの台詞に優太が答えるより先にベアトリスがそう口を挟む。対するルルは、やれやれと言った風情で首を振り、


「トリス。貴女が強力な魔法使いである事は間違いないけれど、そういういざとなれば力押し、っていう思考だから私みたいな力より技術、正面突破より搦め手、っていう相手にアッサリ負けるのよ? まあ、貴女の育った環境からくるものだ、ということもある程度想像できるから仕方ないところなのかもしれないけれどね」


 ルルの指摘に、うぐ、とうめきを漏らしてベアトリスが沈黙する。

 悔しげに口を尖らせるベアトリスを、ルルが仕方ないといった風な笑みを混ぜて見やり、


「それに、さっきも言ったけれどこの町に私が仕掛けた魔法に干渉された可能性があるの。痕跡が無いに等しいから、単なる揺らぎか本当に干渉されたかがまだ断言できないのだけれど……人為的な干渉があったとするならそれは相当な技術の持ち主の仕業だし、時期的に考えてその道化師か、あるいはその関係者がやったと考えるのが自然だわ」


 だから、と念を押すようにルルがずい、とベアトリスに顔を近づける。

 押されるように仰け反るベアトリスにやや真剣な色を混ぜた瞳でルルが言う。


「仮に直接的な戦闘能力が低いように見えても侮るような真似はダメよ、トリス。常に才能に勝るものが勝利するのなら、私は今まで生きていないもの」


「……分かりましたわ。助言に感謝を、ルル・レイセス」


 神妙な態度で礼を述べるベアトリスに向かって、どういたしまして、とルルがにっこり微笑む。

 ルルはやや照れたような表情を浮かべて自分と視線を合わせないベアトリスを見てもう一度微かに笑い、それからくるりと視線を優太へと回して話題を変える。


「ところで優太。買い物袋も公園で放り投げてきたのでしょう? 夕飯はどうするのかしら」


「うーん。まあ、母さんは今日は帰ってこないから今日のところはあり合わせでしのいで、明日また色々買って来るよ」


 明日安いのはなんだっけ、と商店街の特売予定を思い出しながら優太が買い物の予定を立て始める。


「なら今日はうちで夕食を食べていきなさい。冷蔵庫の残りで適当に作るよりはいいでしょう」


 考え込み始めた優太に向かってそう言うと、ルルは返事も待たずに立ち上がり、支度を手伝ってくるわ、と言い置いて部屋から出て行ってしまった。

 いってらっしゃい、と手を振る優太とルルが出て行ったドアの間で視線を二往復ほどさせてから、ベアトリスが優太に問いかける。


「確認もせずに行ってしまいましたが……よろしいんですの?」


「え? ああうん。ルルん家でご飯食べるのも珍しい事じゃないし、ヘンに遠慮するとむしろルルが怒るしおばさんがいじけるし」


 そんなベアトリスの疑問に、優太が笑って答える。


「考えてみたら、子供の頃から三食かおやつのどれかで必ずルルが作ったもの食べてたからなあ……。完璧に餌付けされてるのかも」


「……自分で言ってれば世話ないですわよ、ユータ……」


 心底呆れたといった風情のベアトリスのため息が部屋の中をぷかりと漂った。







 

 彼自身の二つ名と同じ題名のオペラ曲のメロディーをかき鳴らして、懐の携帯電話が着信を告げる。彼――クラウンはは面倒臭げにしばしそれを放置していたが、鳴り止まない着信音に根負けして、電話に出る事にする。


「はい、こちらクラウン有限会社でございます。本日の営業時間は終了しておりま……わーかった。俺が悪かったからそう怖え声出すなって」


 開口一番のふざけた口上を電話相手に断ち切られ、やれやれと肩をすくめてみせるクラウン。


「いやー。見事にしくじっちまったぜ。あのガキ容赦ねえのなんの。危うく再起不能になるとこだよ。再びタつこと能わず、ってな」


 がっはっは、とクラウンが自らの下ネタに笑ってみせるが、すぐに渋面を作る。どうも電話の向こうの反応が芳しくなかったらしい。


「いやいやいや。ちゅーかさあ、お前さんよ。前もって聞いてた話とちっとばかし食い違ってんじゃないかい?」


 電話の向こうに疑問を投げかけるクラウンの、身にまとう雰囲気が鋭さを帯びる。


「あの少年、ありゃあ色々とおかしいぜ?」


 言いながらクラウンは自身に色々な意味で痛打を食らわせてくれた少年が残していった、金属製の棒を手元で弄ぶ。

 普段は五〇cmほどの長さだが、中央部を捻る事で両端がバネ仕掛けで伸びるようになっている。

 まさか一介の高校生がこんなものを持ち歩いているとは、世の中物騒になったものだ。

 そんなことを考えつつ、その棒をくるくると回し、電話の向こうにいる相手が話す言葉を黙って聞いては、たまにふんふん、と相槌を打つ


「こっちでも知らなかったって、そりゃあそうなんだろうけどよ。まあ、大魔女が侍らせてるだけのことはあるってことなのかねえ」


 そう言ってにやりと笑い、再び沈黙することしばし。


「おいおい。そりゃあ早合点ってもんだぜ? 当方クラウン株式会社。この度上場を果たしまして、より一層の努力を持ってご依頼主様の要望は全力を持って叶えさせて頂きます」


 畏まった口調に笑いの色を混ぜながら、目の前にいない相手に舞台上の道化師がするように礼をしてみせる。


「……ん? ハハハ! 細けえことは気にすんなって。っていうか有限と株式の違いってなんだっけか? まあいいや。ともかく仕事はキチっとやるからよ。まあ期待しててくれや。……おう。んじゃあな」


 ピ、という電子音を残して電話が切れる。道化師はそれを再び懐へ仕舞い込むと、ぐ、と伸びをした。


「やーれやれ。依頼主サマはどーにも冗談が通じにくくてヤだねえ。ま、カタブツの観客にも楽しんでいただけるよう、せいぜい頑張って舞台で踊りますかね」


 今後の仕事を思って、くく、という笑いを喉から漏らす道化師の瞳は、その二つ名からは到底想像できない鋭い光を放っていた。



[14838] その9『杖と思い出』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/03/30 00:10
 場所は小さな公園だった。

 時間は夕暮れ時だった。



 目の前にいるのは亜麻色の髪の小さな少女。彼女はその頃から、その髪とおそろいの瞳に子供らしくない知的な光を灯していた。


「だからやめなさい、と言ったのよ。今からでも多分遅くないから二度と同じ事はしないでおきなさい」


 そう、話し方もこんな風に随分と大人びていた。今から考えればそれは当たり前の事だったのだと理解できる。

 対して自分は何と言ったのだろうか。思い出せない。ただ、その時抱いた意思だけは鮮明に記憶に残っている。

 彼女を一人にしてはならない。守らなくてはならない。

 そのとき、彼女には味方がいないように見えた。

 宝石のように見えた亜麻色の髪と瞳は、彼女を取り巻く大部分の者にとっては異質の証明としか受け取られていなかった。

 故に彼女は排斥されようとしていた。彼女自身がそのことに対してどう思っていたのかはさておき、それを静観する事は出来なかった。

 だから、先の彼女の言葉に対しては否定の言葉を返したのだ。


「それじゃだめって……何がだめなのか、はっきり言ってみなさい」


 言われて随分と悩んだことを覚えている。

 何故自分の言っている意味が分かってもらえないのかと、そんな事を考えながら、父親や母親の言葉を思い出して、必死に上手い説明を捻り出そうとしていた。

 彼女は半ば呆れた風にしながらも、拙い説明を急かすことなく最後まで聞いてくれた。

 そして然る後、盛大にため息をついて見せ、こう言った。


「……あのね。男が女を守らなきゃいけない、なんてのは時代遅れになって随分経つわよ?」


 確か父親もそう言った。だが、それでもなお、男はかくあるべし、と言って父親は笑ったのだ。

 そして母親はそんな父親が大好きで、自分は両親が大好きだった。

 だから、時代遅れだろうが、彼女の仲間とみなされて周囲から攻撃されようが、意見を変えるわけにはいかなかった。


「……ああもう、分かったから駄々をこねないで。……しかし困ったわね……」


 彼女はしばらく考え込んでいたが、やがて何事かを閃いたように顔を上げた。

 腕組みをしたままこちらをじろじろと観察した後、こちらには聞こえない小さな声でぽつりと呟く。


「……うん、素直そうだし、可愛い顔してるし……今からきちんと面倒見れば割といい感じになるかも……」


 突然、よく分からない行動に出始めた彼女に少々面食らいつつも、こっちの主張は決して曲げるまい、という不退転の意思を視線に込めて彼女を見やる。

 すると、彼女はこちらの視線に気付いたのか、視線を合わせてふわりと微笑んだ。

 金縛りにあったように体が動かなかった。

 真っ白になった頭の中で、きれいだ、とただ素直にそう思った。

 思えば、きっとこの時からもう自分の心の向く先は完全に決定付けられていたのだろう。

 彼女は、そんな自分に微笑みかけたままこちらに一歩近づき、腰に手を当て、何だか偉そうな表情を作って見せた。


「ねえ。あなたが私を守れるかどうか、テストしてあげるわ」


 言葉の意味が意識に浸透するまで約数秒、きょとんとしたまま彼女を見つめていた。

 やがて、彼女の言葉の意味を理解すると、一も二もなく頷いた。それを受けて彼女もよし、と頷きを返し、


「じゃあそこに真っ直ぐ立って、目をつぶりなさい。あと、何があっても私がよし、って言うまでは目も開けないし暴れたりしないこと。いいかしら?」


 これには即座に言うとおりにした。

 目をつぶって視界が真っ暗になってすぐに、頭を両手でがっちり掴まれた。何事かと思ったが、目は開けない。

 続いて、口元に何か柔らかいものが押し付けられた。

 しかも暖かい。

 何が起こっているのか不安で仕方が無かったが、まだ我慢。止めに、口の中に何かひどく柔らかいものが押し込まれるに至ってパニックを起こし、目を開けた。

 しかし、何も見えない。いや、そこには彼女の顔があった。あまりに接近しすぎていて、何が見えているのか分からなかったのだ。

 正直、口の中を縦横に動き回る柔らかいものの感触が恐ろしくて、彼女を突き飛ばして逃げ出したい衝動に駆られたが、約束を思い出してギリギリの線で耐える。

 やがて、口の中のものは抜き取られ、彼女の顔も離れる。ふう、と少し熱っぽい吐息を一つ。そして彼女は笑う。


「うん、大丈夫そうね。これからずっと、そう望むなら、あなたは私を守れるわよ。どう?」


 先程までの混乱も相まって、実のところ彼女が何を言っているのかはさっぱり理解していなかったが、ともかく頷く。

「そう。じゃあこれからは出来るだけ一緒にいましょう」

 そう言って彼女はまた笑う。ああ、やっぱりきれいだ、と、このときはそんなことばかり考えていた。

 ちなみに、先程の行為の意味を知って自分が慌てるのは、もう数年は後の事である。


「ああ、そうそう、まだ名前も教えてなかったわね。――私の名前は……」





「……うあ……?」


 優太はむくりと上半身を起こす。

 まだ寝ぼけた頭のままで辺りを見回すと、目に入ったのは畳に敷かれた布団とふすま。そこは公園ではなく見慣れた自分の部屋だった。


「……夢、かあ」


 随分と懐かしい夢を見たなあ、とひとりごち、夢の内容を反芻する。

 やはり印象に残るのは、夢に出てきた亜麻色の少女……ルルに唇を奪われた場面。

 あれ以来、彼女とそういった行為に及んだことは無いのだが、だからこそ、だろうか。初めての記憶は優太の中に鮮烈に焼きついていた。


「むぅ……」


 眠気に六割がた支配された意識の中で、夢で見たルルの姿をもう一度脳裏に描く。

 先ほど鮮明に夢に見たばかりなのでこれは容易だった。

 続いてそのルルの姿を現在のものへと置き換える。

 毎日顔をつき合わせているのでこれも簡単。

 ここまで済んだところで先ほどの夢の場面をレッツ再生。

 今現在の姿のルルが、こちらへと唇を寄せて――実際にはこのときに優太は目をつぶっていたので見えていなかったのだが、想像力で補完した――来る。


「……何ニヤついてんだ優太?」


「うわあっ!?」


 突如として掛けられたのはいつのまにか部屋のふすまを開けてそこに立っていた母親、千佳の声だった。


「かかかか母さん、どうしたの?」


「どうしたのってお前、なかなか起きてこないから様子見にきたら布団から上半身だけ起こして、目ぇ瞑ってニヤニヤしてたからなあ。そっちこそどうしたと言いたい」


 ぐぅ、と優太が唸る。眠気はいっぺんに吹き飛んでいた。

 あんな妄想をしていたところを見られたのが気恥ずかしいのも無論のことだが、それ以上に切実な理由からこの母親を何とか誤魔化さなくてはならない。

 このテのゴシップの好きさ加減と、その情報を周囲に拡散させる熱意やスピードについては、早坂千佳は柏木町でもトップクラスの危険人物である。

 万が一にも妄想の内容が知られた日には、どんなことになるかあまりにも想像が容易で恐ろしい。


「いやそのホラ! 起きたはいいけど今日はなんか眠くて、ついうつらうつらとしちゃって、二度寝って気持ちいいなあとか考えてたらなんか自然と頬が緩んで……!」


 布団を跳ね除けて立ち上がって言い募る優太を怪訝そうな瞳でしばらく眺めた後、千佳は興味を失ったかのようにくるりと背を向けた。

 とりあえず誤魔化せたようだと優太がほっとしたその瞬間、背中越しに千佳が振り返り、唇の端を吊り上げて、にやあ、と笑う。


「まあ、エロい夢見るのも朝元気なのもしゃーねえけど、欲求不満溜めてルルちゃんに無理やり襲い掛かったりしないようにな」


 言い捨て、くけけ、と悪魔のように笑って千佳がふすまをぴしっ、と閉める。

 あとには、夢見は良かったはずなのに朝からどっと疲れた優太が布団の上に膝を付いているだけだった。





 さて、優太とベアトリスがクラウンの襲撃を受けてから、既に三日目の放課後である。

 現在、ルルの提唱により、優太、ルル、ベアトリスの三人は可能な限り一緒に行動していた。


「結局のところ、優太もトリスも魔法使いと正面切ってやりあう戦力としては見られないもの。私のそばにいてくれたほうが安心だわ」


 というのがルルの弁である。こうして一緒にいる以外にもルルは何か考え、それを実行しているようなのだが、それについては優太にもベアトリスにも知らされてはいなかった。

 ともあれ、そういった事情からなるたけ行動を共にしようということになった結果、三人は今、図書室にいた。

 優太とルルはベアトリスが文芸部に顔を出すのに付き合っている形である。

 本来、ルルも優太も文芸部からすれば部外者であるのだが、真白やベアトリスの友人であり、そもそも図書室は公共の場として開放されているので、うるさく騒いでマナーに反しさえしなければこの場にいても特に何を言われる事もないのである。

 当初、こうして今までと変わらず学校生活を送る事にベアトリスは異議を唱えた。

 相手の素性や所在を調べ、攻撃の機会が巡ってくれば動くべきだが、わざわざ普段どおりに学校などに通っていては狙われる隙を増やすだけではないか、今は安全な場所に退避して守りを固めて敵を迎え撃つ態勢を取るべきだ、と主張したのである。

 これに対し、ルルは多くを語ることはしなかったが、ニヤリと笑ってこう言い放った。


「来るなら来い、ってところかしらね。こちらとしても迎え撃つ為の準備はしてるし、むしろガードを固めた事で向こうが様子見に入って深く潜伏される方が厄介だわ」


 つまり、敢えて普段どおりに過ごす事で、相手を釣上げてやろう、という目論見だった。

 ベアトリスは尚も反論を並べたが、最終的には、


「貴女だって同じような手口で釣れたじゃないの」


 という一言で撃墜され、ルルに従う事となったのである。



 黙々と本を読んだり、密やかに雑談に興じたり、すっかりマスコットとして定着しつつあるベアトリスの使い魔、ナトキンを愛でたりしている間に、時刻は夕方へと差し掛かりつつあった。

 そろそろ解散して帰ろうかという流れになっていた図書室へ、新たな来客があったのはそんな折である。


「お。早坂、ルル、トリス! これからちょっと付き合え!」


「姉さん、図書室なんだからもう少し声は抑え目に」


「あと、何の用件かもちゃんと言ってやれ」


 図書室のドアを開くなり、優太達三人に向けて元気良く呼びかけた蘭と、それに突っ込みをいれる蓮、観法のトリオである。


「付き合うって、どこに?」


 代表して尋ねた優太に向かって、蘭は満面の笑みを浮かべてこう答えた。


「親睦会だ」







「と、ゆーわけでここが『鶴の湯』だ! 英語で言うとクレーン・ユー!」


「くれーん・ゆー!」


 蘭と真白が『鶴の湯』と染め抜かれたのれんの前で天に拳を突き上げて、やたら楽しげに銭湯の紹介をする。


「なんで鶴=Craneがスラっと出てくるくせにその後がおかしいんだよ姉さん」


「というかアレは分かってやってるだろう確実に」


「だよねえ……」


 その二人を見て、呆れたように突っ込みを入れる蓮と、その横でぼそりと呟く観法に、その横で気楽な様子で笑っている優太。


「ランはいつもの事ですけれど、マシロのテンションが少しおかしいのではありませんこと?」


「トリスが初参加だから張り切ってるんでしょう。今までも不定期にここで親睦会をやっていたのよ」


 更に、眉を寄せて怪訝そうな表情で二人を見るベアトリスと、対照的に微笑ましげな目を向けているルルが続く。

 七人が集合しているのは、柏木商店街中ほどにある、銭湯『鶴の湯』の前である。

 創業七十余年を誇る老舗の銭湯で、地域住民の憩いの場として、部活帰りの学生から、散歩の途中のお年寄りまで幅広い客層が出入りする場所である。


「親睦会、ですか……。そもそもここはなんですの?」


 銭湯というものに対する知識のないベアトリスが首を傾げてみせると、待ってましたといわんばかりの表情で蘭が食いついた。


「知らないなら教えてやろう! ここは日本の伝統的大衆浴場、その名も銭湯! みんなで一緒にひとっ風呂浴びてハダカの付き合いをするところだ!」


「みんなで、一緒に……?」


 蘭の説明を受けたベアトリスが、ぐるりと周囲を見渡す。そして優太達六人の顔を順繰りに見た後、ボン、と音がしそうな勢いでその顔が赤くなった。


「じょ、じょじょじょ冗談ではありませんわよ!? いくらこの国の風習とは言え、殿方と一緒にお風呂になんて入れませんわっ!!」


「あー、トリスちゃんトリスちゃん。ちょい落ち着いて」


 首筋まで真っ赤に染めてわたわたと慌てるベアトリスに近寄り、どうどう、となだめる真白。


「これが落ち着いていられますか! だいたいマシロ! 貴女方も恥じらいというものを……!」


「いいから落ち着きなさい」


 いつの間にかベアトリスの背後へ忍び寄っていたルルが頭頂部にチョップを叩き込んで強制的に彼女を黙らせる。


「温泉地とかに行ったら混浴で男女一緒のお風呂とかもあったりするけど、ここはちゃんと男女別になっとるお風呂やで、トリスちゃん」


 ルルの手刀がイイところに入ったのか、頭を抱えて悶絶するベアトリスに、真白がそう言って勘違いを正してやる。

 ベアトリスはそれを聞いて、さっきとは別の理由で真っ赤になりながら居住まいを正して咳払いを一つ。


「そ、それならまあ、構いませんけれど……わたくし、着替えやタオルを用意しておりませんわよ?」


「タオルなら鶴の湯さんが貸してくれるよ。神田川、ってプリントされてる赤いヤツ」


「着替えは別にいいんじゃね? あたしは部活帰りで汗かいてるから替えの下着とか持ってきてるけど、トリスは今着てるのをもっかい着とけばいいだろ。特に運動したわけでもなし」


 自分の疑問に対する蓮と蘭の――特に蘭の――答えに、そ、そういうものなんですの……? と多少の驚愕を覚えながらも受け入れるベアトリス。


「ともかく中に入るぞトリス! 細かい事はそれからだ!」


 蘭がそう言うとベアトリスの襟首をはっしと掴み、そのまま銭湯の中へと引きずっていく。残った五人は軽く苦笑して顔を見合わせると、それぞれ男湯と女湯へ分かれて入っていった。




「さあトリス。ここが脱衣所だ。英語で言うと、ヌギヌギ・ルーム」


「蓮の代わりに突っ込むけれど、前半が酷すぎるわよ。蘭」


 番台で三百五十円を支払い、脱衣所の棚に並べられた籐カゴの前にベアトリスを連れてきて、蘭が怪しげな単語を口にし、ルルがそれに突っ込みを入れた。

 そんな一連の流れを横目に、ベアトリスは物珍しげに脱衣所の中を見渡し、真白がそんなトリスに対してレクチャーを施していた。


「ここで服を脱いで、このカゴに入れて……あちらが浴場ですの?」


「そうそう。手拭いとかバスタオルはあっちにまとめて置いてあるからそれを借りるんよ」


 そんなやり取りを交わす二人を見て、ベアトリスは真白に任せておけば良さそうだと判断してルルはさっさと服を脱ぎにかかる。

 制服のブレザーを脱いで畳み、棒タイを引き抜いてボタンを幾つか外し、ブラウスから片腕を抜いたところでふと手を止める。

 ちらりと横へ視線を向けると、蘭が妙に熱の篭った目つきでこちらを見ているのに気が付いた。


「……なにかしら、蘭?」


「いや、前々から思ってたんだけどさ、ルルの脱ぎ方って妙にエロスが感じられるよな」


 蘭は腕組みしてうんうん、と頷いてみせる。


「何を言ってるの貴女は」


 呆れてため息をつくルルに向かって、蘭は携帯電話を取り出して軽く操作をする。と、ゆったりとした、しかし妙に扇情的なメロディーが流れ始める。


「この曲に乗せて『ちょっとだけよ?』って言ってみてくんね?」


「言わないわよっ!」


 蘭の手から携帯電話をひったくり、電源を切ってメロディーを止めてから叩き返して、これ以上余計な茶々を入れられる前にルルは超速で服を全部脱ぐ。

 一方の蘭もぶちぶちと文句を垂れながらぽんぽんと脱いだ服を脱衣カゴへ突っ込み、赤い手拭いを手にとって、くるりと残る三人に向き合う。


「よし行くぞお前ら! あたしについて来い!」


 元気良くそう宣言すると再び身を翻し、浴場へと突貫していく。ルルはそれを見て苦笑しながら、真白はベアトリスを促して、ベアトリスはいかにもおっかなびっくりといった風情でそれに続いた。

 と、ベアトリスが浴場に踏み入れた時点で蘭が彼女を手で制し、睨み付けた。


「ちょっと待てトリス。それはどういうことだ」


「どういうことって……。何かおかしいところがございますの?」


 訳も分からず、首を傾げるベアトリスに向かって、蘭がびしりと指を突きつけて吼え猛る。


「銭湯にバスタオルを巻いたまま入ろうたぁどういう了見だっ」

 
 がぁー、と両手を振り上げて憤りをあらわにする蘭。


「そ、そうは仰いましても……」


「ええい問答無用! 公衆浴場のマナーを叩っこんだらあ!」


 叫ぶや否や、蘭は素晴らしいまでの早業でベアトリスの体を覆っていたタオルを剥ぎ取ってしまう。

 慌てて両手で体を隠そうとするベアトリスだが、いかにも心もとない様子で、顔を真っ赤にして縮こまってしまった。

 
「「おお~」」


 一方で、真白と蘭はそんなベアトリスを見て感嘆の声を挙げていた。


「な、何が『おお~』ですのっ!?」


「いやあ、トリスちゃんおっぱい大きいなあ、って思って」


「マ、マシロだって十分大きいでしょう!」


「トリスちゃんよりはちっちゃいし……。それにウチはお腹のお肉が……。トリスちゃんは細っこくてええねえ」


「っていうかやっぱりこっちも金色なんだな、というところにあたしは感心したんだが」


「ああああ貴女最低ですわねっ!!」


 最早涙目になってうずくまるベアトリスと、更にからかう蘭に、それをなだめる真白。きゃあきゃあと姦しい三人は周りから注目を集めており、ルルはそんな三人から微妙に距離を取り、そのまま離脱しようとする。

「おいおいルル。そんな離れてないでトリスの巨乳を拝んどいた方がいいんじゃね? おっぱいランキング最下位なんだから」


「最下位で悪かったわねっ!!」


 思わず反応したルルの叫びは、先ほどまでの騒ぎのどれよりも大きかった。



 ところで。

 前述した内容ではあるが、ここ『鶴の湯』は創業七十余年を誇る老舗である。

 故に内装はどちらかと言えば古色蒼然としたものである。

 脱衣所にロッカーではなくカゴを置いていたり、浴場の壁には大きな富士山が描かれていたり、男湯と女湯は構造的に繋がっており、片方で騒いだりすると二つを隔てている壁を越えて、声が聞こえたりするのである。


「みんな元気だね……」


「そうだな」


「姉さん大暴れしてるなあ」


「そうだな」


 女子チームが脱衣所やら浴場入り口やらで遊んでいる間に、さっさと体を洗って湯船に三人並んで浸かっている男子チームがそんなやり取りを交わしている。

 三人とも一様に湯船の縁に体を預け、天井に視線を向けつつ風呂を堪能している風情である。

 が、そこはやはり思春期盛りの男子高校生。

 壁一枚隔てたところから聞こえてくる、おっぱいとかふにふにとか金色とかピンクとかいう単語の混ざった女子達の嬌声は、正直色々と堪らんものがある。


「なんか僕、のぼせそうなんだけど……」


「じゃあ上がるか?」


「いや、それもちょっと」


「水でも被るかな……。っていうか姉さんに水をぶっ掛けて頭を冷やしてやりたい」


 心なしかぐったりし始めた三人だが、今湯船から立ち上がるのは色々と気マズいので湯に浸かり続ける。

 そんな中、比較的平気そうな様子の観法がふと思い出したように優太に問いかける。


「そう言えば、タルボットと一緒にいる時にタチの悪いのに絡まれて杖を使ったらしいな?」


「あー。うん。結局は一発カマして杖と荷物を放り出して逃げ出したんだけどね」


 あはは、と自嘲気味に笑う優太に向かって、観法は厳かに頷いてみせる。


「お前さんがそれが正しいと判断したのなら、それが最善手だったんだろう。結果的に二人とも大事無かったわけだしな」


 ありがと、と笑う優太に、観法はもう一度頷いて見せた。


「ところでさ」


 今度は蓮がそう言って口を開く。


「観法は家が杖術を伝えてるから、っていうので昔から修行してたのは分かるけど、優太は何でまたそんなの習おうと思ったんだ?」


「ふふ。そんなもの分かりきっているだろう。こいつの行動理由といえば一つしかあるまい」


 蓮の疑問に優太が答えるより早く、観法がそう言いながらニッと唇を歪めて笑ってみせる。

 蓮もそれだけで察したようで、なるほどね、と呟いてニヤリと笑ってみせる。


「……まあ別に間違ってないからいいけど。ルルってばハーフだから、昔は仲間ハズレにされてることが多くてさ。何とかしたかったけど僕はチビだし力も弱いしで、どうにもこうにも」


「で、そんな時に俺がウチの境内で親父殿にしごかれてるとこへ偶然やってきて、親父殿を拝み倒して弟子入りしたんだ」


「なるほどね。……しかし、いくら子供の頃でも、周りから嫌がらせされて黙ってるようなタマとは思えないんだけどな、彼女」


「今思い返すと歯牙にもかけてなかったような気はするけど……。まあ、それをほっとけるかどうかは別問題だったんだよ」


 実際、ルルは優太がそうやって自身を鍛えようとする、その意思を喜んでくれはしたものの、優太が身に着けた技がルルの役に立ったのかというと、そこには疑問符をつけざるを得ない。

 そんなことをつらつらと考えていると、優太の意識に何か引っかかるものがある。

 何が引っかかっているのだろうかと首を捻って考える事しばし。

「この話、どこかでしたなあと思ったら、蘭におんなじようなことを随分前に言ったんだけど、蓮は聞いてなかった?」


 優太の問いに蓮は一瞬考え込み、やがて首を振る。


「いや、聞いてないな。姉さんのことだから、聞いたはいいけど忘れてたんじゃないか? どうしようもないくらい飽きっぽいし」


 実にありそうである。蓮の言葉に、優太と観法はそろって、「ああ……」と声を漏らして納得顔を浮かべた。

 そんな風に雑談を交わしているうちに色々と落ち着いたので、一旦湯船から上がるか、と優太達三人が腰を上げかけた丁度その時、女湯から「野郎ども! そろそろ上がるぞ!」という蘭の号令が聞こえてきた。

 やれやれ、と顔を見合わせてから三人揃って湯船から上がり、のぼせかけた頭を振って脱衣所へ。

 パンツ一丁で腰に手を当てた伝統ポーズで牛乳を飲み干し、着替えて外に出てから待つことしばし。


 女湯ののれんをくぐって女子チームが現れる。まずは湯上りさっぱり、といった風情のルルに真白。続いてやたら上機嫌の蘭、最後に出てきたのは妙にぐったりとしたベアトリスだった。


「わたくし、二度と銭湯には足を踏み入れませんわ……」


「……ルル、どう思う?」


「……無駄な抵抗、かしら」


 風呂上りだというのに疲れ果てた様子のベアトリスを見ながら、優太とルルはくすりと笑い合う。

 
「何が可笑しいんですの……?」


 そんな二人を見咎めて、ベアトリスがじろりと温度の低い視線を寄越す。

 優太とルルが口を揃えて「別に?」と返すに至って、いよいよその視線は極低温へと成り果てるが、それも束の間、ぷしゅう、と音がしそうな様子でベアトリスから怒気が抜ける。


「ああもう。本当に今日は疲れましたわ。いちいち怒るのも億劫なほどです。さっさと帰りますわよ、ユータ、ルル・レイセス」


 言い捨ててすたすたと家路を行くベアトリスの後を、優太とルルが追いかけ、その背中に蘭の声がかかる。


「んじゃ、また明日なーっ!」


 優太が体ごと、ルルが半身で、ベアトリスが肩越しにちらりと振り返ると、四人が銭湯の前で手を振っているのが見えた。

 それぞれのやり方で手を振り返し、再び家路につく。まずは一旦優太を家に送り届けてからベアトリスとルルが家に帰るのがここ三日間の定番コースだ。


「ところでトリス。初めての銭湯は楽しかった?」


「貴女、目が腐ってるんですの……? わたくし、あ、あんな恥辱は生まれて初めてですわ……っ!」


 一体何があったんだろう、と優太は内心戦慄するが、具体的に内容を聞くのも憚られるので沈黙を通す事にした。


「じゃあ、みんなでお風呂、はもう死んでも嫌なのね?」


 笑みを含んだルルの問いに、ベアトリスは一瞬だけ固まって、しかしすぐに再起動し、恨みがましい目でちらりとルルを見てから、明後日の方へと焦点を合わせてぽつりと呟いた。


「前々から思っていましたけれど、貴女の物言いはいつも卑怯ですわ」


「前々から思っていたのだけれど、貴女の物言いって時々可愛いわね」


 ふん、とそっぽを向いたベアトリスが、少しヤケになったような表情で声を張る。


「どうせラン辺りがまた張り切って引っ張り込もうとするのでしょうし、郷に入りては郷に従えと言いますもの。付き合ってあげない事もありませんわっ!」


「今の聞いたかしら優太。これが巷で有名なツンデレというヤツね?」


「微妙に違う気もするけど……まあ楽しそうで何よりかなあ」


「よく分かりませんが、わたくし、今きっと莫迦にされていますわっ!」


 夕暮れ時の住宅街に、ほんの少しだけ楽しげなベアトリスの怒声が木霊した。



[14838] その10『魔女と傷』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/02/21 22:04
「あー……。マジで言ってんのかそれ?」


「無論、大マジよ」


 困惑した表情を見せるクラウンとは対照的に、ルルは傲然と腕組みしてにやりと笑って見せた。


「……悪辣な女だとは思っていましたが、よもやこれほどとは……」


「ベアトリス、そんな正直な……」


「優太、トリス。うるさいわよ」


 ルルはクラウンと正面切って対峙しつつ、背後でぼそぼそとやり取りする二人を視線も向けずにバッサリとやり、クラウンに氷点下の視線を投げつける。


「……で? 返事を聞かせてもらえるかしら、道化師?」






 事の発端は、先の会話から少しだけ遡る。



 銭湯での親睦会から更に四日。

 優太とベアトリスがクラウンと遭遇してからは一週間が経過した、その日の放課後のことだった。

 最早習慣と化した優太、ルル、ベアトリスの三人揃っての帰り道、住宅街を少し外れた楓川の土手沿いの道の上。

 一週間前と同じように、夕暮れに溶け込むようなコート姿で道化師は立っていた。

 道化師の顔を見ていなかったものの、その出で立ちから目の前の男の素性を察したルルが、優太とベアトリスに自分の後ろに下がるよう、手で合図する。

 その様を薄く笑いを浮かべながら眺めている道化師に向かい、優太であるならその場で背筋を伸ばして固まるような笑みを浮かべてルルが問う。


「貴方が『道化師クラウン』ね? 分かりやすくて大変結構だわ」


「お褒め頂き、光栄の至り。いかにも我が名は『道化師クラウン』。以後、宜しくお見知りおきの程を」


 わざとらしい口調のクラウンがその長身を意外なほど優雅に折りたたみ、ルルに向かって一礼する。

 その後で顔を上げてニヤリと笑って見せるのがらしいと言えばらしいのか。


「で、どういった御用かしら? チップが欲しいなら、この場で何か芸の一つでもしてくれれば考えないでもないわよ」


「いやはや、確かにこの道化めには、お嬢様方を楽しませられるような芸の持ち合わせもございますが、いかんせん今は準備不足」


 そこまで言うと、クラウンは残念で仕方がない、といった表情で大仰に肩をすくめ、平坦な目付きで自分を見ているルルに向かって唇の端を上げてみせる。


「しかし、もしこの道化めとご同道いただけるのでしたら存分に芸を披露させていただきますが?」


「手持ちの芸だけで勝負できない三流の招きに応じる義理はないわね」


 道化師の口上を真っ向から切って捨て、ルルが更に視線の温度を下げる。

 取り付く島もないと見たか、クラウンはわざとらしく肩を落としてため息をついた。


「ったく、手厳しい嬢ちゃんだなあ。――ああいや、嬢ちゃんじゃなくてバアさんなのか?」


「ブチ殺すわよ青二才」


 視線の冷たさはそのままに、ルルの唇の端がきゅっ、と釣り上がる。


「おお怖。おじさんいい年こいてチビっちまいそうだよ」


 言いながら身を竦めてぶるぶると震えて見せる道化師。もっとも、言葉とは裏腹に、その顔には恐れではなく薄ら笑いが張り付いている。


「なあ少年よ。お前さんも、お前さんのダチ連中もよくこんなおっかねえのと一緒にいるよなあ」


「ルルがおっかないのは、あなたがルルやその周りの人間に危害を加えようとするからだよ」


 揶揄するような響きを持ったクラウンの言葉に、ルルの背後にいた優太が真正面から反駁する。道化師は一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くすると、愉快そうに肩を震わせた。


「なるほど。いや、確かにそうだな。俺ぁ周囲を含めたお前さんたちに危害を加えようとする輩だ。間違いねえや」


 言いながら、くく、と喉を鳴らして哂う道化師。

 対する三人の反応は三様だった。優太は何が可笑しいのかと訝しみ、ベアトリスは道化師の態度が癇に障るようで眉根を寄せ、ルルは大きくため息をついて見せた。


「道化師。つまるところ、それがあなたの手札だと理解していいのかしら?」


 唐突なルルの台詞に、道化師は陽性な笑みを浮かべて頷いてみせる。


「そういうこったな。おじさんの機嫌を損ねちゃうと後悔しちゃうぜ~?」


 ふっふっふ、と得意げな顔をしてみせるクラウンに、優太が嫌な予感を覚えつつも疑問を口にする。


「……どういうこと?」


「つまりね、優太。こいつはこう言っているの。『俺の言う事が聞けないなら、お前らのお友達に痛い目見せてやるぞ』ってね」


 優太の疑問に、道化師よりも早くルルが答え、絶句した優太が思わず道化師を睨みつける。

 当の道化師は、我が意を得たりとばかりににんまりと笑い、くるり、と手にしたステッキを回してから両手を広げてみせる。


「大正解! 正解者のルル・レイセスさんは『道化師クラウン』の愉快なアジトへご招待~」


「謹んで辞退させていただくわ」


 温度の篭らないルルの台詞に、そら残念、と全く残念ではなさそうに道化師は嘯く。

 ルルはそんな道化師に注意を払いつつ、後ろにいる優太とベアトリスにちらりと視線を向け、目だけで微笑んでみせる。

 二人がその意図について考え、または尋ねるよりも早く当のルルはクラウンに向き直り、


「やれるものならやってみなさい、道化師」


 一言で斬って捨てた。


「ちょ、ちょっと、ルル!?」


「おいおいおいおい。いいのかおい。こういう場合は『卑怯だぞ!』とかとりあえず怒って見せるモンじゃねえの? それじゃワルモノの台詞だぜ」


 慌てる優太を視線も向けずに手で制し、興味深げな表情のクラウンに向かってくすりと笑うルル。


「あら。私、自分がイイモノだなんて言ったかしら?」


「なーるほどねえ。つまりお友達はどうなってもいいってことか。クールだねえ。さすが年の功」


 そう言って妙に可笑しそうに道化師が喉を鳴らす。

 自分の策を相手が気にも留めていないというのに、妙に余裕たっぷりの態度である。

 そして、逆に余裕を無くしていたのが優太だった。

 友人達に累が及ぶかもしれないというのも想定外なら、そのことをルルが看過しようとしているのは、さらに想像の埒外だった。

 堪え切れずにルルとクラウンに向かって突っかかっていこうとした時、肘の辺りをぐ、と掴まれて優太は動きを止め、自分の肘を掴んだ人物――ベアトリスへと視線を向ける。


「ちょっとベアト……」


「落ち着きなさいユータ」


 優太の言葉を遮って、小さく、しかし鋭くベアトリスが囁く。


「ルル・レイセスは、やれるものなら、と言いましたわ。あの性悪がそう言って、相手に実際にやらせるわけがないでしょう。違いますか?」


 ベアトリスの言葉が耳に入り、優太の頭が少し冷える。

 確かにベアトリスの言うとおり、相手にそれをさせないための布石を打ったからこそのルルのあの台詞だろう。

 そしてそれとは別に、先ほどはルルがあまりにきっぱりと言い切っていたために動揺したが、やはり彼女が友人達を危険に晒す事をよしとするとは思えなかった。


「やれやれ、穏便に済ませたかったんだけどなあ。面倒臭いし」


 そんな優太の思考を打ち切るように、いまいち真剣味に欠ける本音を漏らしつつ、クラウンがステッキをかつり、と地面に打ち付ける。

 魔法には疎い優太にも、彼がルルに対して魔法による実力行使に出ようとしている事がはっきりと察せられた。


「ちょっと待ちなさい、道化師」


 張り詰め始めた雰囲気を打ち払って、ルルが道化師に向かい、無防備に一歩踏み出す。対する道化師も、やや怪訝な顔を見せながらも、緊張を解いてみせた。


「いざ事を構える前に、貴方の目的を聞いておきたいのだけれど?」


「俺の目的? ああ、そういや言ってなかったか。お前さんを連れて行くことだぜ?」


 いやいや失敗失敗、と笑う道化師に対し、ルルは首を振る。


「それが貴方自身の持つ目的なのか、それとも他の誰かのものなのか。私が知りたいのは、そこよ」


「なるほどなあ。確かに俺はとある人物から頼まれて動いちゃあいるが、それが誰かは……」


「ああ、いいのよそこはどうでも」


 調子を上げて、またぞろ何か突っ込みを受けそうな事を言おうとしていたらしい道化師の台詞をバッサリと斬り落とすルル。

 そして、台詞を遮られてやや不満げなクラウンに向かい、にっこりと笑ってこう言うのだった。


「二倍。いえ、三倍、貴方の依頼主より多く払うわ。それでこっちに寝返りなさい」


「……………………は?」


 優太も、ベアトリスも、クラウンも、一瞬眼を点にして、そんな風に疑問符を口から漏らした。






 ここで、場面は冒頭へと繋がる事となる。



「く、くっくっく。はーっはっはっはっ!」


 返答を求めるルルの言葉に対して、道化師は哄笑を返す。


「いやあ参った。まさか買収にかかるとは思わなかった! 思い切りワルモノの思想だぜそれ」

 
 心底愉快そうに笑いながら、クラウンが褒めているのか貶しているのかよく分からない台詞をのたまう。


「言ったでしょう。私、別にイイモノを標榜しているわけじゃないもの」


 対するルルも、澄まし顔でさらりとそう言ってのける。


「で、どうなの道化師? 値上げ交渉がしたいなら応じてあげない事もないけれど。私、それなりにお金持ちよ?」


「いやあ。アンタいいなあ。すごくいい! 正直この場で跪いて服従を誓いたいところだが、残念ながらそういうわけにもいかんのよ、これが」


 今度は本当に残念そうにしながら、クラウンは肩をすくめて首を振ってみせる。


「ちょっとした借りが今回の依頼主にはあってねえ。裏切るわけにいかねえんだなあ。ままならねえもんだぜ」


「……意外に義理堅いのね、貴方。それなら仕方ない、か」


 ルルが軽くため息をつきながら、いつかのように太もものホルダーから細い棒――魔法使いの杖を引き抜く。


「ああ、仕方ねえよなあ。交渉決裂、ってワケだ」


 クラウンが笑みを浮かべながら、ステッキでぱしん、と掌を叩く。


 状況を見て取ったベアトリスが無言で優太の腕を引き、そのまま数歩、後ろに下がる。


 それが、合図になった。


「破っ!」


 掛け声とともにルルが手にした杖を振るう。と同時、彼女の周囲、何も無い空間に波紋が生じた。その数三つ。

 陽炎の如き空間の揺らめきは、生み出されてすぐ、先を争うように道化師の下へ疾走する。


「おおっとぉ!」


 だが道化師はその長身を巧みに操り、打ち出されたルルの魔法を回避してみせる。


「おいおい。話に聞いちゃあいたが、大したもんだな。流石は大魔女ってとこか」


「ちょっとした芸みたいなものよ。その証拠に二度目になると驚いてくれなくなるもの。トリスちゃんみたいにね」



 魔法の衰退した現代において、魔法使いたちが唯一、先人に勝るものとして挙げるのが、魔法を使用する為の道具や術式、その精度である。

 今までと同じでは魔法が全く使えないと結論付けた魔法使い達は、より効率の良い道具や方法論を探し、作り上げ、磨き抜いてきた。

 『大衰退』より七百年を数えて尚、魔法そのものの威力や規模は在りし日のそれに届かないが、それでも、届かない事を嘆く事が出来る程度まで魔法のレベルを引き上げたのは、魔法が人に容易く応えた時代にはありえなかった技術の進歩だった。

 そんな、ある意味現代で魔法使いを魔法使いたらしめている要素である術式の精度において、ルルのそれはまさに群を抜いていた。

 威力そのものは目を瞠るようなものではない。そういった面においては、ベアトリスの方が遥かに上を行く。

 だが、ルルほどに儀式を簡略化し、なおかつ連続での使用で今の威力を保つとなると、同じ事ができる魔法使いが果たして何人いることか。


 ――まあ、ある意味ズルみたいなものではあるのだけれど。


 道化師に叩きつける為の魔法を意識にのぼらせながら、心中でルルがぽつりと呟く。

 自身が魔法の精度に関してアドバンテージを持つのは、おそらく世界でただ一人、魔法の根幹にあるものを体験してしまったからだ。

 それ故に、ルル・レイセスは魔法使いの意思をより効率良く魔法へと変える術について、他の魔法使いの追随を許さない。

 だが、それは――


「噴っ!」


 己の思考を断ち切るように、ルルが何度目かの魔法を行使する。道化師はその都度、意外なほどの身軽さでそれらをかわし、またはステッキを使って打ち払っていた。

 
「なかなか大した身のこなしね。道化師を名乗るだけはあるのかしら」


「芸に感心したならおひねりを貰いたいところだねえ。金持ちなんだろ? ってかいくらなんでもおかしいぞアンタ! なんでこんなポンポン連発できるんだ!」


「他人の芸のタネを教わろうというのは感心しないわね。自分で考えなさい」


 自身の方へと突っ込んでくる道化師へ魔法を撃ち込み遠ざけながら、ルルは密かに吐息を漏らす。

 思った以上に粘る。あれだけ魔法をかわしまくる体捌きがあるのなら、接近されるのはいかにも不味い。

 どうにか遠ざけ続け、勝負を決める必要があるが……。

 
 ――かわすのはともかく、魔法に対する耐性が妙に高い……?


 かわしきれずに弾いたり、もしくは浅くヒットするものも一つ二つはあったはずなのだが、それらが動きに影響を及ぼしているように見えない。

 内心でルルが首を傾げた時、クラウンが魔法をかわしざま後ろへ飛び退り、やや距離を取って動きを止めると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる。


「やーれやれだ。しょうがない。あんまり使いたくはないん……って、うぉい!?」


 動きを止めたクラウンに向けて、ここぞとばかりにルルが魔法を連続で打ち込んだのだった。間一髪、横っ飛びでそれを回避する道化師。


「あ、アンタなあっ! こういう場合は相手のアクション待ちだろ普通!」


「ごめんなさい。私ってそのテの男の子のお約束に理解のない女なのよ」


 言いながらも更に魔法を発動させ、ルルが道化師を追い立てる。


「ったく風情もヘッタクレもねえな!」


 言うなりクラウンは懐から小さなナイフを取り出し、左の掌を切りつけ、そしてそのまま傷口をルルへと向ける


「『道化師クラウン』の十八番、とくとご覧あれ!」


 切り開かれた道化師の掌からは、血が零れていなかった。

 代わりに、傷口からは黒いもやのようなものが溢れ始めている。

 異様な光景ではあったが、しかしそれだけだった。

 そのもやは道化師の周りに少しずつわだかまっていくものの、それ以上の行動に出る様子はない。

 だが。


「……ルル? どうしたの?」


 最初に気付いたのは優太だった。

 そのもやを目にした瞬間から、ルルが一切の動きを止めていた。

 いや。彼女の全身は、細かく震えていた。


 優太の声はルルの耳に聞こえていた。ルルの目は周囲を見ていたし、ルルの意識は状況を把握していた。

 立ち止まっている場合ではない。動いて、魔法を行使し、道化師を無力化する必要がある。

 だが、動けない。



 『それ』を目にした瞬間、ルルの意識の奥底で、がちゃり、と音を立てるものがあった。

 忘れたい、忘れがたい、記憶の鍵が開く音。




 言の葉を紡ぐ数十人の魔法使い。
 
 整然と配置された数百の祭器。
 
 絡み合う無数の魔法陣。

 中心に立つ一人の男。

 否。

 全ての中心に在るのは、鎖に繋がれた一人の娘。


 低く、高く、強く、弱く、遠く、近く。

 歌われる、詠われる、謡われる、謳われる、呪文の声。

 絡み合い、溶け合い、喰い合い、混ざり合う、膨大な魔法の力。

 
 娘はそれらを感じていた。

 娘はそれらを受け止めていた。

 娘はそれらに犯されていた。

 何故なら。

 娘は触媒であり、巫女であり、――生贄だった。


 娘は虚ろだった。

 その瞳には、虐げられた苦痛も、奪われた絶望も、死にゆく定めへの恐怖もなかった。

 それらは全て、彼女を通り過ぎていったものだった。

 だから、それらは最早彼女にとっては過去のもの。

 もう、感じる事のないもの。


 そのはずだった。


 声は響き、祭器は震え、魔法陣が輝く。

 全てが高まりゆく。昇りつめてゆく。

 娘の前に立つ男の顔に、亀裂のような笑みが浮かぶ。

 達成の、愉悦の、嗜虐の笑み。

 その笑みを浮かべたまま、男は顔を上げ、天を見据える。

 そして娘も、ただの反射か、それとも僅かに残った何がしかの情動によるものか、同じく空へ瞳を向ける。



 虚ろな娘の視線が向く、その先。

 空に、

 穴が――




「ぁああ阿阿阿阿阿阿ぁああああ!」


 ルルが手にした杖を眼前にかざす。振り上げる。振り下ろし、薙ぎ払う。

 狂乱の叫びを上げながら、杖の軌跡が、流れる指運が、組まれる掌相が、魔法を組み上げ、操り、解き放つ。

 不可視の衝撃が、迸る雷撃が、熱を伴った白光が、四方から道化師へ向けて殺到し、


「ざーんねーんでーしたー。まーたあーしたー」


 その全てが道化師の掌から零れる黒いもやに遮られる。


「いきなりムキになっちゃってまあ。そんなに嫌わなくてもいいじゃないの。なんたってコイツぁ……」


「黙れ!!」


 斬り付けるように叫ぶや否や、ルルは再び杖を振り回し、全身の動きと呪文の呟きで先ほどに倍する魔法を道化師へ向けて撃ち出す。

 光が、熱が、雷が、黒に守られた朱色の男を覆い隠し、さらにその上から新たな魔法が撃ち込まれる。


「これが、ルル・レイセスの仕込みですか……。しかし、それにしても……」


 ルルは、道化師やその関係者との対決に備えて、柏木町のあちこちに大量の仕掛けを施していた。

 自身のコマンドに応えて発動する、いわば地雷の魔法版である。

 期間が短かった為、設置はルルたちの行動範囲近辺のみに留まっているが、そこから離れなければ、戦闘になった際、ルルは自身の攻撃力を大幅に水増しできることになる。

 先ほどまでの攻防の際にも、攻撃の穴を埋める為や、クラウンの不意を付く為に何度かそれらを使用してはいた。

 そして今、それらを全開にしてルルはクラウンを攻め立てている。


「何を考えていますの、ルル・レイセス!」


 苛立ちも露にベアトリスが叫ぶ。

 彼女には、前述のルルの仕掛けについては知らされていなかった。

 だが、今のルルの怒涛の攻勢を見れば、その裏にどういう仕掛けがあるのかはある程度察しがつく。

 逆に言えば、ここまで派手に仕掛けを使用し始めたから気付いたのであって、それまでのルルはそうした仕掛けがあることを気付かれないよう、巧妙に攻撃を組み立てていた。

 しかし、今のルルはそれら戦術を全て投げ捨てて、持てる全火力を投入したただの力押しを行っている。

 ほんの数日前、それをベアトリスに対して戒めたのは彼女だというのに。

 ヘタに手を出せば魔法の暴発を招きかねない為、ルルを直接にとめることは出来ない。だが、このまま指を咥えている訳にはいかない。


 ――魔法の行使の切れ間を狙って、ルル・レイセスを止めますわ……!


 視線を鋭くしてベアトリスが見つめる先、ひたすらに道化師がいる場所に向けて魔法を打ち込んでいたルルが、ふらりとよろめく。


「ルル!」


 素早く優太が駆け寄ってルルを支える。少しおくれて、ベアトリスもルルのそばへ歩み寄った。


「貴方、何を考えていらっしゃいますの? あんな力押し一辺倒な真似をして。……まあ、あれだけやれば流石に……」


 そう口にしてちらりと向けた視線の先。それを見てベアトリスは絶句した。

 今だその場にわだかまる黒いもや。

 それに守られるようにして立つ、


「『道化師クラウン』……!?」


 名を呼ばれた道化師は、優雅に一礼してから左手を……未だにもやの湧き出るそれをかざしてみせる。


「全く無茶するもんだぜ。そんなにコイツが嫌いかねえ」


 そこで一旦言葉を切り、唇の端を歪めて哂ってみせる。


「聞いてるぜえ? 世界中の魔法使い達の栄光と引き換えに、アンタに不老長寿を……」


 反応は劇的だった。


「黙れと、言ったわ!!」


 荒い息を付きながら優太に支えられていたルルが、射殺さんばかりの視線で道化師を睨みつけ、再び魔法を行使する。


「あ、ほいっと」


 しかし、ルルの生み出した衝撃は、道化師の周囲を守るように漂うもやに受け止められ、散ってしまう。


「く、こ、のぉ……!」


 ルルは歯噛みしたかと思うと、ば、と優太の方へと振り向き、その手首をがっちりと握る。

 この細腕のどこにそんな力が、と思うような強さで握られたその手は、何故か異様に熱く優太には感じられた。

 どうかしたの? と優太が尋ねる前に、うつむき加減になっていたルルがポツリと何事かを呟いた。

 日本語ではなかった。いや、これは優太の知るどんな言語とも違う。それははっきりと分かる。

 だが、その意味は分からない。

 今は、まだ。


「ル、ルル……?」


 未だに握られたままの手首の熱さと、自身の不可解な思考に戸惑いを覚えた優太がルルの名を呼ぶ。


「っ……優、太……?」


 呼ばれたルルが、弾かれたように顔を上げる。優太の顔をまじまじと見つめ、続いてその手首をがっちりと掴んでいる自分の手を見る。


 その時、優太が見たのはこれまでにないルルの表情だった。

 恐怖。悲哀。後悔。

 それらがないまぜになった、酷く辛そうな顔。


「ルル、一体……?」


「ち、違うの、私、違うのよ、優太。わ、私は……」


 どうしたのか、と尋ねようとする優太の言葉を遮って、ルルがうわごとの様に言葉を並べる。

 何故かは分からないが、ルルは何かに追い詰められている。

 ともかく優太はそう結論付け、まだ手首を掴んだままのルルの手に空いている方の手を重ね、落ち着かせようとした。


「だ、駄目っ!」


 ぱしん、と乾いた音が響いた。

 優太には一瞬、何が起こったのか理解できなかった。半ば真っ白に初期化された思考で、先ほど起こった事を思い返す。

 ルルが、重ねようとした優太の手を叩いて払いのけたのだ。


「え、えーと……」


「ち、違うの、今のは、違うのよ、優太。違うの……っ」


 手首を掴んでいた手も離し、ただ、違う、と繰り返すルルに、ともかくも何か声をかけよう、と混乱した頭で思いつき、一歩をルルの方へと踏み出した時だった。


「はーいそこまで。時間切れですよー」


 道化師の声が響き、優太の前面に黒い壁が立ち上がる。

 それが道化師の周囲にあった黒いもやが自分を囲んでいるのだと気付いた時には、優太達へと押し寄せた黒いもやによって、彼らの視界は黒一色に閉ざされた。






[14838] その11『弟子と幼馴染』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:a22f1959
Date: 2010/05/03 19:28
 ベアトリス・タルボットは生まれたときから、否、生まれるその前から、魔法を使う為の人間として創り上げられてきた。

 受胎し、母親の胎内にあった段階から魔法の影響下に置かれ、生れ落ちた直後から付与魔法等で魔法使いとしての知識と素質を精錬されてきた彼女は、かつて自分達が存在していた場所まで再び辿り着き、そしてそこを越えようとして魔法使いたちが営々と積み上げてきた技術の結晶といっても過言ではない。

 ルルと比較すると、知識や経験の面で見劣りする部分があるのは事実だが、タルボット家はもちろん、欧州で交流のある幾つかの魔法使いのコミュニティ内で見渡しても、彼女を上回る魔法使いというのは皆無と言ってもいいほどだったのだ。

 そのベアトリスをして、道化師の用いた術は異様としか言い様のない代物だった。

 いや、ベアトリスだからこそ異様であると感じられた、と言うべきか。

 生粋の魔法使いとして培われた感覚がベアトリスに囁くのだ。

 あれに触れるな、と。


 ――とは言え、現状では何も出来ないのですけれど。


 目の前で、唯一の戦力であるルルが優太もろとも黒いもやに飲み込まれて無力化されてしまった今、ベアトリスに現状を打破する手段はない。

 道化師の術について幾つか気が付いた事柄もあるが、そもそもにして対抗する為の実行力が無い以上、どうすることも出来なかった。

 ベアトリスがそう考え、歯噛みしながら道化師と彼から生じて優太とルルをその裡に閉じ込めた黒いもやを睨み付けた、その時だった。


「……九天応元……」


 聞き覚えの無い男の声で、そんな文言がその場に漂った。

 ベアトリスは声がしたと思しき方向、自分の背後へと怪訝な表情を浮かべて振り返る。

 道化師の反応はベアトリスより激しかった。驚きも露わに舌打ちを一つ。即座に黒いもやをその身に纏う。


「雷声普化天尊!」


 力強くその声が響いたと同時、黒い繭に覆われたような格好の道化師へと一条の雷撃が襲い掛かる。それは先ほどまでのルルの魔法と同じく遮断されてしまうが、道化師は眉を寄せて表情をしかめた。

 一旦は拘束した優太とルルが、黒いもやから解放されて道化師のすぐ傍に倒れているのだ。二人とも意識を失ったりはしていないようだったが、ルルの反応がやや鈍い。


「ルル、しっかり!」


 熱に浮かされたように視線の定まらない様子のルルを、優太が半ば引きずるようにして道化師から距離を取る。

 ルルを抱えた優太がベアトリスの隣りまで後退し、道化師を睨みつける。一方の道化師は、黒い障壁を張り巡らせたまま、優太達の背後へと視線を飛ばしていた。


「やれやれ。天気予報じゃ雷が落ちるなんて一言も聞かなかったんだがねえ。お天気アナウンサーとかから恨まれても知らねえぜ?」


「生憎とこの町には到着したばかりでね。天気予報は見ていなかったんだ。以後は気をつけるとしよう」


 道化師の軽口に、落ち着いた口調で先ほど雷撃の直前に聞こえたものと同じ声が応える。

 そこにいたのは一人の青年だった。年の頃は二十代半ばとみえ、仕立ての良いダークグレーのスリーピースに身を包んでいる。

 状況から鑑みて、先ほどクラウンに向けて雷を放ったのは彼で間違いないのだろう。だが、それはルルや優太、ベアトリスの味方であると言う事実には直結しない。故にベアトリスは警戒を抱きながら青年を見やる。


「……貴方、何者ですの?」


 青年と道化師の間から退くように双方から距離を取りながら、ベアトリスが問う。

 問われた青年は、道化師に向かって歩を進め、ルルとそれを抱える優太へちらりと視線を流し、そのまま二人を背に庇うような位置取りをする。


「ツァオ・レイシィ……いや、この国の流儀に倣って言えば、姓は趙、名は雷獅」


 朗々と名乗りを上げた青年――趙雷獅は、右手を、いや、その手の中の円盤状のものを道化師へ向けて掲げて見せ、穏やかに、しかし自信と誇りを窺わせる笑みを浮かべる。


「大魔女ルル・レイセスの弟子として、この場にてお相手しよう」


 突然の乱入者の言葉に、それをぶつけられた道化師よりもむしろ優太とベアトリスがまともに顔色を変え、図ったようなタイミングで同時にルルへと目を向ける。

 二人の視線の先で、ようやっと意識がはっきりしたのか、二、三度とかぶりを振ってからルルが雷獅を見る。その視線に込められているのは懐かしさと憂いのように優太には感じられた。


「意外だわ、雷獅」


 大きくため息をついた後、ルルはそれだけをぽつりと唇から零した。


「何が意外かな、ルル?」


「貴方に見つかった事もそうだけれど、何より貴方が私を助けた事が、よ。……恨まれていると、そう思っていたから」


 雷獅は道化師と対峙したまま、背中越しに聞いたルルの台詞に肩を震わせた。表情は優太やルルからは伺えなかったが、雰囲気から笑っているのだと知れる。


「そう思われる事の方が意外だよ、ルル。いつかの誓いは今もこの胸にある。ならば、私の立ち位置は君の味方以外にはありえない」


「……そう。なら、この場は頼りにさせてもらうわ」


 数瞬目を閉じてから、何かを振り切るように首を振り、ルルが体勢を立て直して自身を支えていた優太の腕からするりと抜け出す。


「ありがとう、優太。……少し下がっていてちょうだい。あとは私と雷獅でどうにかするわ」


「ルル、僕は……」


 道化師に向かって歩みを進めるルルに優太は思わす声をかける。が、それ以上の言葉は彼の口からは発せられない。

 結局のところ、この場において優太は戦力的に役立たずどころか足手まといでしかない。

 仮にルルにそうした意識が無かったとしても、優太本人はそれを強烈に意識せざるを得ず、故に、自分を背に庇って戦おうとするルルにかける言葉を優太は見つけられなかった。

 『ルルを護る』というのは、彼の今までの人生における至上命題といっても過言ではないのだから。


「いいの。大丈夫だから」


 ルルはそんな優太を肩越しにちらりと振り返り、目だけで微笑んで見せてから背中を向け、雷獅と並んで道化師と対峙する。


「待たせたわね、道化師。第二ラウンドと行きましょうか?」


「また随分と強気じゃねえの。コイツが怖かねえのかい?」


 道化師がにやりと笑い、体に纏わせていたもやを右手に集めて掲げてみせる。

 生き物のように蠢くそれを見て、ルルは微かに眉をひそめるも、すぐに表情を改めて笑みを浮かべてみせる。


「確かにヤなことを思い出させてくれたけれどね。私としてもこれ以上無様を晒すわけにもいかないのよ」


 触れたものを斬り落とす刃物のような鋭利さを、あるいは何者をも触れさせない鎧のような堅牢さを言葉ににじませて、ルルが道化師に向かって杖を突きつける。


「君に対して含むところは無かったがね、『道化師クラウン』。我が師、ルル・レイセスに対する非礼の償いはしてもらおうか」


 ルルに追従するように、雷獅が視線に力を込めて道化師を見据える。

 一方の道化師は、二人の魔法使いから向けられた敵意の重圧を欠片も感じていないかのような様子でひょいと肩をすくめる。


「ったく、どいつこいつも強気になっちゃってまあ。あんまり年長者をナメてると痛い目に遭うってことをおじさんが教育してやろうかね」


 言うが早いか、道化師の右手が体の前面に円を描くように動く。それに追随して、黒いもやも円を描き、やがて道化師の眼前に円形の盾のような形を取る。

 ルルと雷獅は警戒を強めつつも、互いに目配せを交わすだけで自分から手を出そうとはしない。道化師の黒いもやが持つ防御効果についてはさんざん体験させられている。今仕掛けても、単に隙を作るだけの結果になりかねない。

 無論、ただ座して待つ訳ではない。ルルは、現時点までの情報から道化師の魔法についてある程度の推測を立てている。

 はっきりとそう断定してしまうのは危険ではあるが、道化師の見せている黒いもやの魔法は、おそらく余り器用な取り回しが出来ないようになっている。折角捕らえたルルと優太を、雷獅が用いた震の法を防ぐ為に解放してしまったのがいい例である。

 ならば、ルルたちが狙うべきなのは、道化師がこちらに向けて仕掛けてくる、まさにその瞬間。カウンターの一撃を叩き込む事で勝負を決する。

 タイミングを計り、その一撃を撃ち込むのはルルの役目。雷獅はそのフォローに回る。

 何の打ち合わせもしていないが、この程度なら合わせられる。少なくともルルはそう確信していた。

 なんのことは無い。まだおむつも取れない頃から目の前の青年に魔法のイロハを叩き込んだのはルル自身なのである。


「道化師が芸を見せておひねりの一つも貰わずに帰ったとあっちゃあ名折れなんでねえ。もう一つ取って置きを使わせてもらうぜえ?」


 クラウンがもやで形作られた盾の向こうから上げた声に、ルルと雷獅が身構える。

 魔法使いの師弟の視線の先、黒い盾が急速にそのサイズを増す。せいぜいが道化師の上半身を隠す程度だったそれが、今や直径三メートル近い巨大な円となった。

 ここからこのサイズで押しつぶさんと迫ってくるのか、それとも道化師が取っておきと言った以上、まだ何かあるのか。

 反撃に移る瞬間を決して逃すまいと、ルルは黒い円に意識を集中する。


「さあ、道化芝居の幕開けにして幕引きだ! お代は見てのお帰りだぜえ!」



 事態が既に決定的に手遅れになっていたとルルが悟ったのは、道化師の声が高らかに響き渡ったその次の瞬間だった。

 ぱちん。

 聞こえたのはそんな音だった。


「……やられたわ」


 いっそ清々しい雰囲気すら漂わせたルルの呟きがその場に流れる。

 風船が弾けるように黒い円が消滅したその向こう側。そこにいたはずの道化師は、影も形も無かった。

 最後に聞こえた声は、おそらく遠くから飛ばしていたか、声のみをこの場に残して既に逃走に移っていたのだろうとルルは推測する。


「まさかあれだけ煽っておいて逃げるとは。一本取られたね、ルル」


「むしろあの道化師の外連味の強さからすれば予測しておくべきだったわね。……まあ、逃げてくれて助かったと言えなくもないけれど」


 雷獅とルルがしばし周囲を警戒してから、それぞれ手にしていた杖と円盤を仕舞い込む。

 実際、道化師の魔法に対して根本的な対策があったわけではないし、本当に何か隠し玉を持っていた可能性もある。襲撃に対して備えなければならない不便さを差し引いても、道化師が退いたことはルルたちにとって好都合と言っても良かった。


「とりあえず今日のところはもう大丈夫かしらね。……道化師が張っていた人除けも消えてるみたいだし」 


「人除け?」


 ベアトリスと共にやや下がっていた優太が聞きなれない単語を繰り返して小首を傾げる。


「これだけ騒いでいてもここには誰も来なかったでしょう? そういう仕掛けをあの道化師があらかじめしていたのよ。種類は幾つかあるから、細かい効果は推測するしかないけれどね」


 ルルの説明に、優太はなるほどと頷いてから、はっと顔を上げる。


「そ、そうだルル! 大丈夫なの!?」


「だ、大丈夫って……何が?」


 泡を食った様子でずい、と詰め寄る優太に若干驚くルル。だが優太はそんなことはお構い無しとばかりにさらに距離を詰める。


「ほらさっきの! あの黒いのにこう、がばーっと!」


「あ、ああ。それね。大丈夫よ。優太だって特になんとも無いでしょう?」


「それはそうなんだけど……」


 はっきりと無事を主張するルルだが、対する優太の歯切れは悪い。

 それも当然と言えば当然で、彼の意識には最初にあの黒いもやを見たときのルルの狂乱ぶりと、なによりその後の彼女の怯えが引っ掛かっていた。殊に、彼女の怯えはもやよりも優太自身に向けられていたとしか思えないものだったのだから。

 そんな優太の懊悩を見て取ったのか、ルルもやや表情に苦い物を混ぜて、しばし言葉を捜すように虚空に視線を泳がせる。


「その辺りも含めて、色々とお話を聞かせて頂きたいですわね? それから、そちらの御仁もご紹介下さいな」


 そんなルルに向かってベアトリスから声がかけられた。腕組みしてじっとりと投げかけられるその視線には、隠そうともしていない疑念が浮かんでいる。

 ルルはベアトリスの視線を正面から受けてから、大きく息を吐いて肩をすくめた。


「仕方ないわね。立ち話もなんだし……私の家に行きましょうか」






 道化師が逃げ去ってから約二十分後、レイセス家のダイニングにて、優太達はテーブルを囲んでいた。

 六人がけのテーブルに、ルルと優太が隣り合わせ、ルルの向かいに雷獅、その隣りにベアトリス、といった配置である。普段ならリューリィが家にいる時間帯なのだが、今日は所用で出掛けているとのことなので、現在、この家にいるのは四人だけである。


「さて、では雷獅。きちんと自己紹介をしてもらえるかしら」


 ルルに促された雷獅は一つ頷くと、すっと立ち上がってテーブルから横へ一歩ずれ、全員を見渡せる位置に立って優雅に一礼してみせる。

 身に纏ったスリーピースや余裕を漂わせる表情も相まって、ともすれば芝居がかって胡散臭く見えるこうした仕草が恐ろしく似合う青年だった。


「先程も言ったが、名前は趙雷獅。中国河南省に本拠を構える道士の家系、趙家の出だ。ルルは十五年前までは我が家に滞在していてね。その縁で魔法の手ほどきを受けていたんだ。ルルが趙家から去って以来、ずっと行方を捜していたんだが、やっとその情報を掴んでね。慌てて日本までやってきた次第だよ」


「……少し聞き捨てならないのだけれど。私がここにいるのって、割と知られた話だったりするのかしら」


 感慨深げに語る雷獅に、ルルが疑問を浴びせかける。当の雷獅はふむ、とあごに指をかけて考えるそぶりを見せ、軽く首を振る。


「いや、そんなことは無いと思うね。私は欧州のとある一派が手に入れた情報を横から覗き見したようなものなんだが、その一派は情報が外部に漏れた事に気付いてガードを固めたようでね。ルルの居場所以外の事はさっぱり分からなかったんだよ」


「わたくしからもよろしいかしら? ……その一派というのは?」


 続いてベアトリスが軽く手を挙げて雷獅に問いかける。


「英国のタルボット家だよ、お嬢さん。……どうしたんだい? その曰く言い難い微妙な表情は。ひょっとして何かタルボット家と繋がりが?」


「繋がりと言いますか……。申し遅れましたわ。わたくし、ベアトリス・タルボットと申します。故あって今はこの家に厄介になっている身ですわ」


 微妙な表情を浮かべたままのベアトリスの自己紹介を聞いた雷獅が、彼女とそっくりな表情を浮かべてルルの方を窺い見る。


「正真正銘、タルボット家の魔法使いよ。私を英国へ連れて行くためにここへ着たのだけれど、まあ、色々あって今はこの家の住人なのよ」


「それはまた、なんとも……。いや、ということは、さっきの道化師はタルボット家とは別口かい?」


「いいえ、今回タルボット家が絡んでいるのはあの道化師で十中八九間違いないでしょう」


 気を取り直すように頭を振る雷獅の発言を、ルルが落ち着いた声音で訂正する。

 ほう、と雷獅は片眉を上げて興味深げな声を漏らす。が、そのまま話を続ける事はせずに、先程からルルの隣りで黙って話を聞いている優太へと視線を向けた。

 自分の方を見て言葉を止めたままの雷獅の態度に、ややしてから優太は彼の意図に気付く。


「えぇっと、早坂優太です。ルルの……幼馴染、かな」


 かな、じゃないでしょう。と突っ込むルルの台詞と、幼馴染? と首を傾げる雷獅の台詞が重なり、三者が顔を見合わせた。


「私がこの町にやって来たのが十三年前。その時にトリスと戦って、彼女を封印したのだけれど、ちょっとトラブルが起こって幼児まで若返ってしまったのよ。優太とはその頃からの付き合いね。ちなみにトリスはそのときの封印からつい最近復活してきた、というわけよ」


 ルルがごく簡単に事情を説明し、雷獅はなるほど、と呟きながら優太に向かって視線を這わせる。


 ――なんか値踏みされてるっぽいなあ……。


 雷獅の視線を受けながら、優太はそんな風に心の中で呟いた。実際、的外れな感想ではないはずだと優太は思う。根拠は何かと言われれば明確なものは無いのだが、強いて言うのであれば、おそらく趙雷獅と早坂優太は、ある意味で同類だから、ということになろうか。

 自分がルルを想うように、おそらく趙雷獅も彼女に対して思慕の念を抱いている。雷獅と顔を合わせてからまだ僅かな時間しか経っていないが、だからこそ、それだけの時間でも感じ取れた印象に対して、優太は確信に近いものを抱いている。

 だから、優太はぐ、と視線に力を込めて、雷獅を見返した。睨む、というほど険はなく、しかし確かに強い意思の込められたその目を見て、雷獅はぴくり、と眉を震わせたが、すぐに表情を笑顔へとシフトして、よろしく、と爽やかに言い放った。

 こちらこそ、と優太が返し、そのまま男二人が当人同士にだけ分かる緊張感の元で見詰め合う事、約数秒。沈黙を破ったのは優太でも雷獅でもなく、ベアトリスだった。


「自己紹介も済んだところで、確認したい事柄がございますわ」


 やや硬質な雰囲気を声に滲ませて、腕組みしたベアトリスがそう言ってルルへと流し目を送る。


「あの道化師の用いた魔法。……あれは一体なんですの? 再戦の際にしっかりと対抗できるよう、お持ちの情報を開示していただきたいですわね、ルル・レイセス?」


「……あれがなんなのか、ね。私には分からないわ」


 ベアトリスの、ほぼ詰問と言ってもいいような強い調子の問いに、ルルは数瞬の考えるそぶりを見せた後でそう言葉を零した。当然と言えば当然だが、それでベアトリスが納得するはずもなく、彼女の眉がきゅっと危険な角度に釣り上がる。


「分からない? おかしなことを仰いますこと。なんだか分からないものを見てあれだけ取り乱したといいますの? わたくしを莫迦にするのも大概になさいまし」


「そう言われてもね。分からないものは分からないとしか答えようがないもの。本当のことよ?」


「貴女、まだ……」


「ちょ、ちょーっとストップ! 落ち着いてベアトリス!?」


 身を乗り出して椅子から立ち上がりかけたベアトリスを優太が慌てて制する。冷静さを失いかけていた事を自覚したのか、長い息を吐いてベアトリスは椅子に体重を預ける。それを見た優太もほっと安堵の息を吐き、次いでルルへと向かい合った。


「ねえルル。今のは、あれを見たことがあったり知っていたりするけど、詳しい事は分からない、っていうこと?」


「……そういうことに、なるわね」


 目を閉じて深々とため息をついた後、ルルは優太の言葉を肯定した。そのままやや恨めしげな半眼をつい、と優太に送り、次にベアトリスと雷獅を順に見やる。


「正直、トリスを怒らせて煙に巻くつもりだったのだけれど。優太のお陰で台無しだわ」


 そんなこと言われても、と凹む優太にくすりと笑いかけ、ルルはもう一度深く息を吐いた。


「もう何百年も前の話よ。たくさんの魔法使いと祭器が集められて、大規模な儀式が執り行われた事があったの。その儀式自体は当初の目的を果たす事が出来ず、失敗。……けれど、代わりにアレを呼び込んだのよ」


「あの道化師が使った魔法を、ですの?」


「正確には道化師が用いたあのもやに酷似した何か、をね。あの儀式の時に見たものと道化師の魔法は同じものとしか思えなかったけれど、全く同じものだともちょっと考え難いわ」


「それはどうしてかな?」


 雷獅の問いに、ルルは一瞬優太に視線を向け、口篭った。言うべきか否かを迷うような沈黙のあと、おずおずと答えが返される。


「私が昔見たものと道化師の魔法が全くの同一なら、今頃私も優太も、ひょっとしたら使い手の道化師自身も無事なはずはないもの。……そう言い切れるだけのものを、あの時私は見たわ」


 ごくり、と優太は自分が唾を飲み込む音を聞いた。魔法に疎い優太には、ルルが見た魔法儀式による光景がどんなものであったかは到底想像が付かない。だが、それでもなお、ルルが抱いている恐れは感じ取れた。それがいかに大きなものであるかも同じく。雷獅やベアトリスも同じような感想を持ったらしく、神妙な顔つきでルルを見ていた。

 ダイニングを沈黙が覆う。

 それを破ったのは、この沈黙をもたらしたルル本人だった。


「儀式の失敗によってもたらされた物だから、アレがどういったものなのかはさっぱり分からずじまい。私も色々と酷い目にあったから、はっきり言って思い出したくない部類の記憶だったのだけれど、ね」


 先程までとは雰囲気を変えて、からりとした口調でルルが肩をすくめて見せる。


「そういう訳だから、道化師に対しては実際に相対した経験から対抗策を捻り出す他無いわね。……ところでトリス。貴女はこれからどうするのかしら?」


「どういう意味ですの?」


 唐突に投げかけられた問いに、ベアトリスが首をかしげて疑問を返す。ルルはそんなベアトリスの目を真正面からひたと見つめ、


「裏が取れた訳ではないとはいえ、状況証拠からして道化師のバックにタルボット家がいるのはほぼ間違いないと思うの。ならば、ベアトリス・タルボットはこのまま“ こちら”にいていいのか、ということよ」


 ルルの台詞に、優太ははっとしてベアトリスを見る。確かに、道化師がタルボット家の意向を受けて動いているとするならば、彼はベアトリスにとってはある意味同志というべき存在となる。そもそも、彼女はルルに敗北したが故に魔法を封じられ、意に沿わぬ形でこの家に滞在している。事ここに至っては、優太達と共にいる義理も理由もないのではないか。

「確定事項でない以上、迂闊に動いて莫迦を見るのは御免ですわね。ついでに言うとわたくし、あの道化師に初対面で無礼を働かれたことを忘れていませんもの。ぶっちゃけるとあの男が気に入りませんわ」


 ふん、と鼻息をやや荒くして腕組みしたベアトリスが半ば吐き捨てるようにそう言う。


「……と、いうかですわね。貴女、わたくしにタルボット家やその関係者とコンタクトを禁じる制約をかけているでしょうに。そういう台詞はわたくしの行動の自由を回復させてから仰っていただきたいですわ」


 じろり、と温度の低い視線がベアトリスからルルに送られる。ルルはと言えば落ち着いた様子でベアトリスの視線を受け止め、


「向こうと合流したいというならその制約だけ外して解放するのも選択肢としてはアリだったのだけれどね。今の状況で潜在的な敵を直近に抱え込むリスクを考えればそうおかしな話でもないと思うわよ。……まあ、その意思がないというならこちらとしてはありがたい話ではあるけれどね」


 微妙に不機嫌そうな様子のベアトリスに向かって、僅かに苦笑してみせる。


「まあ、実際のところタルボット家が道化師のバックの最有力候補になった時点で始末されても文句は言えない訳ですから、生かされているだけでもこちらこそありがたい話ですわね」


「昔からルルは無駄な争いや殺生を避ける傾向があるからね。そのせいで色々と面倒を背負い込むことも多かったようだけども」


 やれやれ、といった風情で首を振ってみせるベアトリスの言葉に、何かを懐かしむような響きを含んだ雷獅の声が続く。

 ともあれ、ベアトリスの処遇については今までと変わりない、と理解した優太はほっと安堵の息を吐いた。


「さて、現状の確認については今日のところはこれくらいにしておいて……。雷獅」


「うん、何かなルル?」


 ぱん、と手を打ち合わせて他の三人の視線を自分へと集めたルルが、神妙な顔つきで雷獅へと向き直る。


「明日からのこちら側の体制について、貴方にお願いしたいことがあるのよ」









「やあ、お疲れ様。優太君」


 校門わきの門柱にもたれかかっていたスリーピースの青年、趙雷獅が、優太の姿を認めて軽く片手を挙げて声をかける。

 山の上にあるため、基本的に学生や学校関係者以外は訪れない柏木高校周辺においては、彼の出で立ちはひどく注目を集めていたのだが、本人はそれらをどこ吹く風と受け流し、平然としている。


「どうも、雷獅さん。ホントに来てたんですね」


「そりゃあまあ、頼まれたしね。付け加えれば、君にも興味があることだし」


 道化師による再度の襲撃を退けた翌日、ルルはこの日学校を休んでいる。色々と調べたいこと、準備したいことがある、とのことで、その間の優太やベアトリスの護衛を雷獅へ依頼したのだった。


「貴方、朝の登校時は目立たないように離れて付いてきていたでしょうに。どうしてまた放課後はこうも目立つ真似をするんですの?」


 呆れた、という感情を隠しもせずにベアトリスが口を開く。実際、先程から帰宅する生徒達がこちらをじろじろと見ながら通り過ぎていくのだ。これがしばらく前ならベアトリスがひと睨みすればある程度は散らせたのかもしれないが、最近では『結構キツ目だけど基本いい子』という情報が――妙に広い人脈を持つ倉沢蓮が意図的に広めた為――認知されているので、余り効果がない。


「いやあ。大人になるとね、こういう学び舎の風景が時折無性に懐かしくなったりするものなんだよ、ベアトリス嬢」


 はっはっは、と無駄に爽やかな笑いを振りまく雷獅に向けられるベアトリスの視線はかなり冷たい。


「つまり、特に意味はないけれど学校の雰囲気につられてやって来たというわけですわね」


「いやまあその通りなんだが……。ベアトリス嬢、妙に不機嫌だね?」


「ああ、いつもなら放課後は文芸部に行く予定なんですけど、今日はちょっと僕の用事を優先してもらったんで、そのせいだと思います」


「別にその件でマシロに拗ねられたからとか関係ありませんわよっ」


「何をこんなとこで分かりやすいツンデレやってんだトリス?」


 校門のすぐ傍で話し込んでいた優太達の背後からそう声をかけてきたのは、顔一杯に『なんか面白そうな事やってるぞ』という思考が透けて見える倉沢蘭だった。


「あれ、蘭。今日は部活休み?」


「ああ、ウチ顧問の奥さんが産気づいたとかでよ。副顧問も今日は出張だし……って、そこのホストみたいな兄ちゃんはどちらさん?」


 優太と受け答えをしながら、雷獅の姿を目に留めた蘭がそんな疑問を口にする。

 しまった、と優太は内心で焦りを覚えた。雷獅のことを周囲の人間にどう説明するか、全く考えていなかったのだ。ベアトリスの時には事前にルルが自分の親戚だと言うことをでっち上げてしまっていたのだが、今回はそういった『設定』は事前に決められていない。

 一瞬ならず言葉に詰まる優太に向けられる蘭の視線が、訝しげなものに変わろうとしたときだった。


「初めましてお嬢さん。私の名は趙雷獅。この学校に通っているルル・レイセスの古い知り合いでね。ちょっとした仕事で日本に来たんだが、そのついでにこの町へ寄ったんだ。優太君にはこの町をあれこれ案内してもらう予定でね」


「ふぅん? 古い知り合い、ね。……まあいいや。あたしは倉沢蘭。ルルや、そこにいる早坂にトリスの友達だよ。なんもない田舎だけど、柏木町へようこそ」


 蘭は雷獅の自己紹介を聞いて、一瞬だけ思案顔をする。が、すぐにそれはかき消され、にかっと笑って雷獅へと右手を差し出した。雷獅もすぐに手を出し、しっかりと握手をしていかにも好青年といった笑みを浮かべる。


「……で、案内ってーと何処へ行くんだ? あたしも付き合ってやんよ。ヒマだし」


「あー、えぇっと、今日は楓原寺に行くつもりなんだけど」


「観法ん家かよ。まあ他に観光ポイントっぽいとこなんて無いだろうけどさあ……」


 学校からすぐ近くにある、友人宅でもある寺の名を聞いて、蘭が半ば呆れたような表情を浮かべる。実際、楓原寺は三百年近い歴史を持つ寺であるので、そういった方面に興味のある人間であるならば見るべき部分はある。蘭や優太達にしてみれば、『友達の家』という認識の方がどうしても先に立ってしまうのだが。


「んじゃま、ともかく楓原寺までレッツラゴー!」


「いつの間にかランが仕切っておりますけれど……よろしいんですの?」


「蘭に見つかった時点でこうなる気はしたんだ……」


「賑やかなのはいいことだと思うよ、私はね」


 既に十メートルほど先を行っている蘭が、何してんだ置いてくぞー! と叫んでいるのを半ば聞き流し、そんな会話を交わしながら三人は柏木高校から徒歩5分ほどの位置にある楓原寺に向けて歩き出した。







 手にしている杖の長さは五尺五寸。一般に武道で用いられる杖よりはいささか長い得物ではあるが、優太の学ぶ流派においてはこの長さをもって杖と定義していた。

 自身の身長より僅かに長い杖を、時には短く、時には目一杯長く使って振るう。

 上から下へ、下から上へ。左右に薙ぎ、前後に突き、天地を叩く。

 そうして一通りの型をこなしたところで一旦動きを止め、大きく息を吐く。

 ――とりあえず、一旦休憩かな。

 胸中でそう呟いて、優太は構えていた杖を下ろす。

 道化師に関連するゴタゴタのおかげで、週に何度かここへ来て行っていた修練の時間がここ数日は取れていなかったのだが、そのことについて師匠であるところの楓原寺住職から呼び出しの電話を受けたのが昨日の夜。

 何か事情があって忙しいのだろうが、そろそろ顔を出せ、とのお達しを受け、今日はこうしてやってきたのである。もっとも、タイミングの悪いことに住職は今は急な来客の相手をしている為に優太一人で型稽古をしているのだが。


「お疲れ様だね、優太君。見事なものじゃないか」


 持ってきていたタオルで汗を拭いて、本堂の縁側に座り込んだ優太に、雷獅が声をかけた。

 さっきまでは優太から離れすぎない程度にベアトリスや蘭を引き連れて寺のあちこちを見物して回っていたはずなのだが、いつの間にか戻ってきていたらしい。ベアトリスも雷獅と一緒にやってきていたが、蘭の姿は見えない。ベアトリスによると、観法に用があるとのことで楓原家を訪ねていったとのことだった。


「ありがとうございます。でも、まだまだです。雷獅さんから見てもそう思うんじゃないですか?」


「いやいや。私だってまだまだだからね。他人にどうこう言えるような立場じゃないよ」


「……? どういうことですの?」


 優太と雷獅の会話の意味を測りかねたベアトリスが首を傾げ、優太に目線を向けて説明を求める。


「えっと、雷獅さんの雰囲気っていうか、そういうのから多分この人は何か武の心得があるんじゃないかな、って思ったんだ。ついでに言うと僕より強そうな感じだし。それでちょっと聞いてみたんだ」


「実際、趙家は武林の末席に身を置いているからね。まあ中国の道士は大抵武術を身に着けるものなんだけど」


 雷獅の台詞によって先の疑問は解決されたようだったが、ベアトリスはまだ物問いたげに首を捻っている。


「つまり、フィジカル・エンチャントが専門ですの?」


 フィジカル・エンチャント、即ち、肉体に魔法を付与する事で超人的な運動能力を得る魔法分野である。わざわざ武術を修めるということは、魔法使いとしての方向性もそれに追随するのでは、というベアトリスの思考から出た質問だったが、これには雷獅が首を横に振る。


「いや、もちろんそうした付与も扱うけれどね、どちらかと言うと我々は武術を修める過程での内功を魔法と結びつけているんだ」


「ナイコー……?」


 ますます分からない、といった表情を浮かべるベアトリス。雷獅はそんな彼女を見て微苦笑を漏らし、さてなんと説明したものか、と思案を始めた。


「呼吸なんかを制御する事で生まれる人間の内的なパワー、かな。武術の方法論でそういうものを身に着けて、それを魔法に応用するってことなんだと思うよ。昨日、雷獅さんが使ってたのは遁甲盤だったみたいだし、名乗りが道士っていうことは八卦になぞらえて魔法を使うんじゃないのかな?」


 雷獅が説明を始めるより早く、すらすらとそんな言葉を並べ立てたのは座ったまま二人の話を聞いていた優太だった。


「ユータ、貴方……?」


「え、何?」


 ベアトリスが驚きにかすれた声を出す段に至って、優太はようやく目の前にいる二人の魔法使いが自分の方を見ながら硬直しているのに気付いた。


「おおむね今優太君が言った事で正解なんだが……。随分詳しいね? ルルからは君は魔法に関しては素人だと聞かされていたんだが」


「え、ええっと、あれ?」


 優太本人も首を傾げる。特に考えることも無く口をついて出た言葉だったのだが、そう言えば自分は何処でこんな知識を得たのだろうか?


「ルルが魔法使いだって知ってから、図書室なんかでそういうのに関係する本なんかを読んだりしたこともあったから、それで覚えてたのかな……?」


「図書室に東洋魔法の、武術との関連性について語った本なんて有りましたかしら……?」


 ここ最近、すっかり図書室の常連となっているベアトリスが記憶の糸を辿ってはやはり首を傾げる。そんな本があったなら優太より先に自分が見つけて読んでいそうなものなのだ。

 そもそも、現代において出版されている魔法関係の本などというのは、歴史資料かトンデモ本のほぼ二択である。そうそう優太が語ったような内容の本は出回っていないだろう。


「でもベアトリスって、文芸部で図書室に行くと大抵他の部員に弄られてるし。そうこうしてる間に見落としたんじゃ? こないだも泣いた赤鬼を読まされて半泣きになってたでしょ」


「なななにを莫迦な!? わたくし絵本ごときで泣いたりしませんわよ!?」


 あからさまに狼狽するベアトリスを見て、こういう反応をするから部員達にあれこれと遊ばれるんじゃないかなあ、などと考えつつ、腕を組んで優太が考え込んでいると、その肩にぽん、と手が置かれる。


「まあ、知っていたということは事実なんだから、どこかでそういう機会が有ったんだろう。深く考えても仕方ないんじゃないかな?」


 ひょい、と肩をすくめる仕草をしながらそういう雷獅に、それもそうかな、と優太は思い直したときだった。


「よう! 休憩中か?」


 ひょい、と右手を挙げて、蘭がこちらへ向かって歩いてくる。


「うん。観法は?」


「親父さんの客と話をせにゃならんのだとさ。まああたしの用事はすんだからいいんだけどな」


 よっ、と掛け声とともに蘭も縁側に腰掛ける。


「ところでさあ、雷獅さん。ルルとはどういう関係なわけ?」


 優太達のように腰掛けず、すぐ傍に立っている雷獅に向けて、蘭が興味津々といった目付きで問いかける。


「関係か。……そうだね。ルルの母君が中国の出身だというのは知っているかい? かなり遠い血縁になるが、彼女は趙家の係累にあたるんだ。知り合ったのはその縁で、という事になるかな」


「ふうん。そのかなり遠い血縁に会いに、わざわざこんな田舎まで出向いてきたわけ?」


 面白がっているような、何かを探るような声音で蘭が問いを重ねる。


「そうだね。だがそう酔狂なことではないと自分では思っているよ。なにせ……」


 雷獅はここで一旦言葉を切り、ちらりと優太に向けて視線を送る。優太がその意味を考えるまもなく、雷獅がその場に爆弾を投下した。


「ルル・レイセスは私にとってこの世で無二の価値を持つ大切な女性だからね」


 他の三人からはすぐに言葉は出なかった。が、今の言葉に対する反応はそれぞれに異なる表情からある程度伺える。

 優太からは、やっぱり、といった心情が、ベアトリスからは、想定外だった、と言うような驚きが、ただ、残る蘭についてはその表情から心情を察する事は難しかった。彼女は、普段からすると奇妙なほどの無表情で雷獅をじっと見つめていた。


「雷獅さん。あんた歳はいくつ?」


「先月で二十七歳になったところだね」


「へえ。……まあ、千佳さんも十歳違いで結婚したっつってたし、まあアリっちゃあアリなのかね」


 優太の母親の名前を出しながら、蘭は平坦な表情のままで雷獅と優太の間で視線を往復させる。


「で、早坂は今のに対してどういうスタンスなワケよ?」


「勿論、負けるつもりはないよ」


 ほぼ確信に近いレベルでそうであろうと覚悟はしていたので、優太の動揺はさして大きくはなかった。むしろ、負けてたまるか、という熱量がごんごんと胸の奥底から湧き出してくるのを感じる。


 雷獅はそんな優太を見て、にやりと唇を歪めて笑う。今まで見た爽やかな笑みとは一線を画する、男臭い笑顔だった。


「なるほど。君とは色々と決着をつけないといけないようだ。なんならこの場で一戦やらかして勝った方が彼女を得る、なんてのもありかもしれないな」


 やや挑発的な声音で言い放った雷獅に答えたのは、表情を引き締めた優太を面白そうに見ていた蘭だった。


「言っとくけど、早坂はガキのころからここで鬼住職にシゴかれてるから相当なモンだよ。それでもやるっての?」


「私もそれなりに自信はあるからね。優太君はどうかな?」


 余裕の態度を崩さない雷獅を、しかし優太はどこか気の抜けた、彼にしては珍しい皮肉げな気配の混ざった目付きで見る。


「それ、本気で言ってるなら、僕は雷獅さんに対してなんの心配もしなくていいんですけどね」


 そう言い放った優太は、自分はやるつもりはない、ということを示すように両手を広げてひらひらと振ってみせる。


「……こういう場面は普通、ヒロインをかけて対決するものではありませんの?」


「だよなあ。覇気が足らんぞ早坂」


 女性陣から挙がる不満の声に、優太は僅かに苦笑してから雷獅の方を見やる。彼の方は先ほどの優太の言葉で言いたい事をほぼ悟ったらしく、同じような苦笑を浮かべていた。


「あのね、蘭、ベアトリス。仮にここで僕と雷獅さんがルルを賭けて勝負したとするよ? 多分僕の負けで雷獅さんの勝ちになると思うんだけど、まあどっちが勝ったにせよ、勝者が後でルルのとこに行って、『勝負に勝ったから君は僕のものだ!』って言うわけだよね。……どうなると思う?」


 ベアトリスはいまいち要領を得ないらしく、小首を傾げて考え込んでしまったが、蘭の方は即座にどうなるかの想像が付いたようだった。ぴしゃり、と額を叩いて天を仰ぐ。


「……ルルのヤツ、怒り狂うな。『私を景品扱いだなんて、随分とまあ舐めてくれたものだわ』とかなんとか言って」


 妙に上手い物真似を交えつつ、まだ理解していないベアトリスに向かって蘭がそう零す。言われてみれば、とベアトリスも納得の表情を浮かべている。


「ふむ。全くだな。どうやら久方ぶりに彼女に会って少し浮かれていたようだ。今日のところは一本取られたね」


 雷獅はそう言って笑みを浮かべると、少し頭を冷やしてくるよ、と言い置いてその場から立ち去っていく。とは言え、彼がここにいる主目的は優太とベアトリスの護衛であるので、余り離れるつもりもないらしく、再び境内のあちこちを見物して回るようだった。


「はあぁぁぁぁ……。疲れた……」


 雷獅がある程度離れた途端、優太がため息とともに仰向けに倒れこんだ。


「ったく毎度の事ながら情けねえなあ。もっとシャンとしろシャンと」


 蘭が思わず文句をつけるが、優太としては答える余裕も品薄のようで、寝転がったまま、うう、と唸る。


「今までにも似たような事があったんですの?」

 
 好奇心の光を瞳に灯して、ベアトリスが蘭に問いかける。


「まあなあ。ルルはどっちかってーとモテる方だから。ちょこちょこ言い寄られては本人が突っぱねたり早坂が防波堤になったりするんだよ。つっても早坂の存在が知れ渡るまでだから、そういうのは大体年度始めの四月から五月ごろだけになるけどな。……で、そういう鞘当てのたんびにこんな風に消耗してやがんのよ。コイツは」


「だって疲れるんだよ……。今回は特に、雷獅さんはルルと色々ありそうだし、向こうは大人だし僕より肉弾戦でも強いのは多分間違いないし……」


「こうやって愚痴るのも毎度のことだな」


 ばっさりと切り捨てる口調の蘭に、優太はぐ、と呻き声を漏らして脱力する。


「で、これも毎回言ってんだけどよ。あのルルが他の男になびくワケねえんだからもっとどっしり構えてろっての。ただでさえルルが絡まないことに関しては気が抜けまくりなんだからよ」


「そんなに抜けてない。……と思うんだけど……」


 やや不満げに口を尖らせた優太の頬を、蘭がつまんで捻り上げた。


「抜けてるつったら抜けてんだよ! 気は回らねえし自分から言い出した約束もホイホイ忘れてやがるし……!」


 憤懣やるかたない、といった風情で蘭が優太の頬をつまんだ指をさらに捻る。


「いひゃ、いひゃいいひゃい!」


「やかましい。反省しろ!!」


 ベアトリスがそんな優太の様子を見ながらくすりと笑いを漏らしたときだった。


 寺の裏手に建てられている楓原家から、観法と、彼に勝るとも劣らない巨漢の中年男性が出てくる。男性は優太が本堂の縁側に寝転がっているのを認めると、彼を呼ばわった。


「あ。住職だ。ちょっと行って来るね」


 その声に反応してがばりと起き上がった優太が、立てかけてあった杖を掴んで住職と観法のいる方へ向けて駆けて行く。どうやら今からまた修練を再開するらしい。

 境内の真ん中で杖を振るう優太達をぼんやりと眺めながら、蘭がぽつりと呟く。


「ったく面倒臭え」


「その割には楽しそうでしたわよ、ラン。まあ、妙に面倒見がいいのはあなた方の特徴ですわね」


 くすくすと笑いながらそうベアトリスが告げると、蘭は困ったように人差し指で頬を掻いた。


「あー。面倒見がいいっつうか、なあ。あたしは昔に、随分と早坂とルルに世話になったからよ」


「ランもあの二人と付き合いは長いのですわよね?」


「……だな。あの二人が三歳だか四歳だかの頃からで、観法がそっから半年ぐらいあと。あたしと蓮は小学校入ってからだからそこからさらに一年ちょいあとかね。ともかくそれ以来だ」


 かつての幼少期を懐かしむように、蘭が虚空に視線を彷徨わせながら語り始める。


「その頃のあたしっつったらそらーもう大人しくて、まさに可憐なお嬢様ってぇ感じでだな。……なんだその目は」


「いえ、まあご自身の思い出なのですから他人に迷惑をかけない範囲で改竄するのもよろしいのではないかと……」


「改竄とかしてねえっつの! 失礼なヤツだな全く。っていうかほんとにお嬢様なんだぞあたしは」


「ええまあ、その辺りは伺いましたけれども。お父上が地元の名士なのですわよね」


 名士っつーか単なる地主だけどな、と蘭はからからと笑う。実際、ベアトリスも真白に連れられて倉沢家に遊びに行った事があったが、かなり大きな屋敷で、使用人も存在していた。確かに、そういう意味では倉沢蘭は紛うかたなきお嬢様である。普段の言動からはとても納得できない事柄ではあったが。


「ともかく、昔はそれっぽいお嬢様だったんだよ。けどまあ、早坂達に会ったのがきっかけで色々あってな。今みたいになったわけよ。だからあの早坂とルルのコンビとか、観法とか、千佳さんとか、あのころ世話になった人たちには感謝してるし、なんかしてやらにゃなあ、と思うわけだ」


「つまり、今回の件ではユータとルル・レイセスの仲を応援したい、と?」


「まあ、あたしがなんもせんでもあの二人なら別に大丈夫だろうけどな。早坂に渇を入れてやるくらいはするさ」


 そう言って蘭が視線を向けた先では、優太と観法が杖を打ち込みあって試合形式での稽古に取り組んでいる。


「あまりイチャつかれるのもわたくしとしては少々腹立たしいのですけれど」


 蘭を横目にベアトリスがぽつりと呟いたその一言に、違いない、と蘭が快活に笑った。



[14838] その12『幻と道化』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:ebf219b0
Date: 2010/06/22 01:14
 かつ、かつ、かつ。

 響くのはチョークで黒板に文字を書きつける音。

 がらんとした教室に唯一つ置かれた机に座り、でかでかとした文字の羅列を優太は目で追っていく。

 そこにはただひと言、こうあった。


 ――魔法とはなにか――


「答えることは出来るかしら? 優太」


 彼女が問う。

 優太は答える。


「かつて世界を支えていた智慧。もしくは技術。今では世界の殆どから忘れられてしまった御伽噺」


「その通りね、優太。けれど、そうではないわ」


 彼女はゆるゆるとかぶりを振ってみせる。


「あなたの答えは、魔法に対する外側からの認識としては正しいけれど、その内側にある本質を指すものではないわ」


 彼女が黒板を背に、優太に語りかける。


「智慧、技術。確かにそうね。けれど、いつから魔法は“そう”だったのかしら?」


 木造の教室の床に、足音を高く響かせて彼女は優太の前までやってくる。


「そもそもの始まり。この世界の魔法の原点とは……なんなのかしらね?」


 彼女の掌が優太の頬を撫でる。優しく、しかしある種の熱をもってその指先が頬からあご先へと移り、最後に唇をなぞって離れていく。


「僕には……分からないよ」


 彼女の熱にあてられたかのように、やや上ずった声で呟く優太。彼女はそんな優太へ、微笑みを載せた視線を送る。


「そうね。けれど……もうすぐよ」


 そう言って彼女はにっこりと笑って見せた。





 早坂優太の性格を一言で現す場合、彼の周囲の友人達から最も多く挙がる言葉は『温厚』『温和』といった類の単語になるだろう。

 勿論、怒りを見せたりすることがない訳ではない。むしろ、実は感情の起伏は割りと激しい部類に入るだろう。だが、怒りというものを長続きさせるのにそもそも向いていない性格をしているのだ、というのはルルの弁である。

 そんな優太であるが、今、彼はあからさまに周囲に不機嫌オーラを撒き散らしていた。常であればそんな場合はルルがたしなめるなどの切欠で通常運転に戻るのだが、そのルルは優太のそばにはおらず、そのことがまた優太の感情を負の方向へと悪循環させているのであった。


「……トリスちゃん。優太君、どないしたん?」


 二時間目終了後の休み時間、ベアトリスの席へとちょこちょこと寄ってきた真白が呈した疑問に、いつの間にかそばに来ていたいつもの面子が計った様にこくこくと頷いてみせる。


「まあレイセス絡みで何かあったんだろうが、今回はどうも根が深そうだしなあ」


 腕組みしてちらりと優太に視線を向ける観法の言葉に、ベアトリスは人差し指をおとがいに当てて少し考える素振りを見せる。事情を全て話すわけにもいかないが、さりとて何も言わないではこの友人達は納得しないだろう。

 さらに言うなら知らぬ存ぜぬも通るまい。ルル・レイセスと早坂優太の間でなんらかの衝突、ないしはそれに類する出来事があったというのは最早彼らにとってはほぼ確定事項だった。その片割れである大魔女と同じ家に住んでいるベアトリスが何も知らないと言ったところで切り抜けられるとは思えなかった。

 そこまで考えて、ベアトリスは何だかもう面倒臭くなってきた。何故自分がここまで気を回さなくてはいけないのか。ベアトリスの見解としては結局のところ、あの二人の行き違いというのは痴話喧嘩でしかないのだ。


「ルル・レイセスに求愛している年上の男にポイントを稼がれて焦っているのですわ」


 だから、投げ捨てるようにそれだけを口にした。


 この発言に対する反応は二種類だった。


「ルルちゃんに求愛!? しかも年上!?」


 どひゃあ、とばかりに驚愕を露わにしたのが真白で、


「あー。あの兄ちゃんかあ」


 直接会って話をした蘭や、その蘭から話を聞いていた蓮。優太から鍛錬の後で相談を持ちかけられていた観法などは、そんな事態になっていたことに若干の驚きを交えつつも、納得の表情を見せる。それならば優太の心中穏やかならざるのも頷ける、と。

 ベアトリスがその一言以降は口を噤んでしまった為、蘭と真白を中心にして、具体的には何があったのか、という議論が行われ始める。

 さて、実際何があったかというと、顛末はこうである。

 いつものごとく登校前にルルを迎えにレイセス家までやってきた優太に向かい、ルルは今日も学校を休んで調べ物をする旨を伝達。ついでに今日も雷獅が優太とベアトリスを護衛することも伝え、これに対して、優太はささやかながらも愚痴を漏らした。


 ――結局、僕にできることは今回のことでは何もないんだよね。


 これを耳にしたルルは即座にこう返した。


 ――そうね。魔法がらみでなら雷獅の方が役に立つわね。それが自分でわかっているなら安心よ。


 優太にとって都合良く解釈するなら、自分に出来ることと出来ないことをしっかり把握していることに対して評価された、という意味にも取れる。

 が、無論別の意味にも取れる。

 お前は役立たずだから雷獅に任せて引っ込んでいろ、と。

 もちろん、優太とてそこまで極端な意味に受け止めたわけではない。ないが、従順かつ温厚がウリの優太とて恋する思春期の少年である。

 想いを寄せる相手が自分以外の男を評価し、自分を蚊帳の外に置こうとする事態に対して平静でいられるほど達観してはいない。さりとて、『そりゃあ雷獅さんは魔法使いだし大人だし僕なんかよりよっぽど頼りになるよね!』などと嫉妬全開の台詞をぶちまけるほど開き直れてもいないのだった。

 この辺りはある意味美徳でもあるのだろうが、そのせいで内側に色々と溜め込んで朝からむっつりとした表情を崩していないのだから物分りがいいのも良し悪しといったところだろう。

 ともあれ、そんなやり取りを経て、優太は不機嫌かつお悩み中というオーラを回りに振りまいているのであった。

 ちなみにそんな優太に対する周囲の反応がどういった形に落ち着いたかというと、


「まあ、しばらくすれば元に戻るだろう。ちょっと強力な恋敵が現れたというのもいい刺激なんじゃないのか」


 という観法の台詞に、皆それもそうか、と頷き、普段優太とルルが友人たちからどういう認識を持たれていたのかを如実に表す結果となったのだった。





 柏木高校が建っている山の上から住宅街へと降りていく坂道。

 道の両側を覆う木々の隙間から差し込む茜色の光と、町のあちこちに設置されたスピーカーから流れる音楽を身に浴びながら優太とベアトリスが家路についている。

 この二人を護衛する役割を負っている雷獅も近辺にいるはずだが、少なくとも優太たちの視界に入る場所にはいないらしい。雷獅本人の弁によると、


「たまにならいいけど、どうにも若い子達と一緒に歩くのには気後れしてね」


 ということだった。


「いつも夕方になると思うのですけれど、どうしてこう、物寂しい旋律をああしてスピーカーから流すのでしょうね?」


 横を歩く優太にちらりと視線を向けて、ベアトリスがぽつりと小さな疑問を口にする。


「あれは外で遊んでる子供に、もう家に帰りなさい、って教えるために流してるんだって前に聞いた気がする。僕も夕方にこれ聞くとなんか家に帰りたくなるよ」


 そうですの、と頷いたベアトリスは、再び優太へと視線を向け、遠く離れた土地から故郷を想って作られた旋律を聴きながら彼を観察する。

 今日は一日を通してどこか険の取れなかったその表情も、ようやく普段通りに戻りつつあった。やれやれ、とベアトリスはこっそりため息をつく。


「やっと落ち着いたようですわね、ユータ。まったく、男の嫉妬なんて見苦しくてよ。昨日もランが言っていたでしょう。もっとどっしりとお構えなさい」


「うう……ご、ごめん。……そんなに落ち着いてなかったかな、僕……?」


 ベアトリスの言葉に物理的な圧力を感じたように、ぐ、と仰け反ってから、今度はがっくりとうなだれる優太。


「弁護のしようもなかったですわね。ランが『ルル・レイセスのいないところでは気が抜けている』と言ったのに深く得心いたしましたわ」


「面目ないです……」


 バッサリと切って捨てられ、優太がさらに凹む。やや大げさに肩を落とす優太を横目に、ベアトリスは目を閉じて、やれやれ、と軽くかぶりを振り、ついとあさっての方へと視線を向けて口を開く。


「しかしまあ、それだけルル・レイセスの事に気を配っているという証左でもあるのでしょう。彼女のどこがそんなにいいのかは理解の埒外ですが、そうした姿勢は評価されても良いかとは思いますわ」


 しばらく前の自分からは逆さにしても出てこないような台詞だと思いながら、再び優太へと視線を戻そうしたのと同時。


 ぞくり、とベアトリスの肌が粟立つ。この感覚には覚えがあった。それがいつ、どこでなのか、記憶から掘り起こされるより早く、視覚から答えが入ってきた。

 優太の足元から立ち上る黒いもや。それは紛れもなく、


「道化師……っ!」


 ベアトリスが優太に向けて手を伸ばす。ベアトリスより一瞬遅れて自身の状況に気づいた優太も、それに応えるように手を上げかけて、しかしそれより早くもやに全身を飲まれてしまう。


「く……! チョウ・ライシ!!」


 近くにいるはずの道士の名を大声で叫ぶ。その呼び声が山道に響いて消えるより早く、爆発の如き着地音とともに、その場に趙雷獅が現れる。

 潜んでいた位置から、恐らくは魔法で強化した驚異的な脚力でここまで跳躍してきたのだろう。

 しかし、事態は既に中国と英国の二人の魔法使いの手を離れていた。

 趙雷獅のその場への到着から数瞬の間も置かず、甲高い破裂音が響き渡る。


「……そんな、莫迦な……」


 ベアトリスはようやくそれだけを唇から零した。

 つい今しがた間でそこにあった黒いもやも、それに飲み込まれたはずの優太も、影も形もなく消え失せてしまったのだ。

 立ち尽くす雷獅とベアトリスの頭上を、スピーカーから流れる音楽の最後の一音が余韻を引いて流れていく。


 




 かつ、かつ、かつ。

 響くのはチョークで黒板に文字を書きつける音。

 がらんとした教室に唯一つ置かれた机に座り、でかでかとした文字の羅列を優太は目で追っていく。

 そこにはただひと言、こうあった。


 ――『大衰退』とはなにか――

 
「答えることはできますかしら? ユータ」


 彼女が問う。

 優太は答える。


「魔法が力を失う事になった原因の事件。でも、実際に何があったのか、何故魔法が使えなくなったのかは不明のまま」


「その通りですわね、ユータ。けれど、そうではございません」


 彼女はゆるゆるとかぶりを振ってみせる。


「あなたの答えは、『大衰退』に対する外側からの認識としては正しいものですが、その内側にある本質を指してはいません」


 彼女が黒板を背に、優太に語りかける。


「原因不明。確かにそうですわ。けれど、誰にとって『大衰退』は“そう”だったのでしょう?」


 木造の教室の床に、足音を高く響かせて彼女は優太の前までやってくる。


「現在の魔法の在り方を定めたもの。その真実とは……どういったものなのでしょう?」


 優太の座る机に両手をつき、目線を合わせて彼女が問う。青く透き通ったその瞳に、優太は今まで彼女の中に見た事のない、何かを見たような気がした。


「僕には……分からないよ」


 何故か良からぬことをしている気分になって、わずかに彼女から目線を逸らして呟く優太。彼女はそんな優太へ、微笑みを載せた視線を送る。


「そうですわね。けれど……もうすぐですわ」


 そう言って彼女はにっこりと笑って見せた。






 一瞬で視界を塞ぐ漆黒。続いて全身を襲う浮遊感。

 それらに続く意識の断絶の後、優太は地面に投げ出されていた。


「……え……?」


 状況が理解できない。

 さっきまで自分はベアトリスと、おそらくは少し離れて警戒に回っている雷獅と一緒に下校途中だったはずだ。

 だが、今優太が体を投げ出して倒れている場所は先ほどまでの下校風景とはまるで違う。

 むき出しのコンクリートの床。おそらくどこかの建物の中。

 何故か全身を蝕んでいる指一本動かすのも億劫なほどの倦怠感の中、優太の目にそれは映った。

 はっきり言って趣味の悪い、派手な紫色の靴。こんなものを愛用している人物は、優太の知る限りではただ一人だった。


「道化師クラウン……!」


「はいはい。クラウンおぢさんですよー、ってな。ほい、ちょいと失礼」


 道化師が相変わらずへらへらとした笑いを貼り付けたまま優太へ近づき、手際よくその手足を拘束していく。その作業を終えてから、道化師は優太の視線の先、無造作に置かれているパイプ椅子に腰掛ける。


「いやー。突然こんなとこへ連れて来ちゃって悪いね少年。こっちも切羽詰っちゃって搦め手でも使わんことにゃあやってられんのよ」


 はっはっは、と状況に全くそぐわない陽気な笑い声を上げる道化師。拘束されている上に、相変わらず続いている極度の倦怠感の中、それでも首を動かしてまっすぐに道化師に視線をぶつける優太。


「そんな睨むなよ、少年……っつっても無理だわなあ。まあ、縮地法の影響が抜けるまでは力が入らねえだろうから、大人しくしてな」


「……人間を肉体改造も無しに地脈潜行で転位させるなんて、そんな技術はもう中国にだって残ってはないはずだ」


 もとより返答があることなど期待していなかったであろう道化師の言葉に優太がさらりと答えたこと、何よりその内容に道化師は一瞬だけ驚きに目を見開き、次いで笑みを深くした。


「少年。そういや名前を聞いてなかったよな。少年だけ俺の名前を知ってるってのも不公平だとは思わねえか?」


「……早坂優太。ルルの幼馴染」


 対する優太は、表情も言葉も、普段とは比べ物にならないほどに味も素っ気もない。突然拉致した上に拘束をかけて床に転がしてくれた相手に対しては応えただけでも丁寧なのかもしれないが。

 虜囚の身である優太からそんな対応をされた道化師はと言えば、怒りを見せるでもなく、また優太の態度を悪あがきとして嘲るでもなく、ただ興味をその瞳に湛えて笑みを浮かべている。


「なら優太。一つ聞くが……お前さん、何モンだい?」


 先の道化師の言葉にあった『縮地法』。捻じ曲げた地脈を渡り、長距離を一瞬で踏破する。即ち瞬間移動の魔法である。『大衰退』の前ですら使い手はほぼ絶滅していたと言われるこの技術は、仙人と呼ばれる、自身の肉体を魔法により改造した者達のみに成し得る現象だとされてきた。

 地脈の歪曲と、そこへ潜行、移動するための理論については現代にも粗方残ってはいる。それでも縮地法そのものが失伝しているのは、その前段階、仙人に至るための肉体改造の技法が残っておらず、普通の人間の肉体で地脈潜行を行うと、転位先に元人間の肉塊が現れるだけになるからだ。

 縮地、という言葉や、それが瞬間移動を指すということについては、仙人の伝説とともに知られていたとしても、まだ納得する事は可能な範囲ではある。が、先ほどの優太の言葉のような、仙人というものがどういった存在であったのか、また、縮地法の内実というような踏み込んだ内容は、断じて魔法が既に滅んだものと思っている圧倒的多数の一般人が知っているようなことでは有り得ない。

 そうしたことを語って聞かせる道化師だが、それを聞く優太の表情は冴えない。


「そう言われても、僕自身も何で知ってるのか不思議なんだよ」


 いかにも自信なさげに言う優太ではあるが、道化師はその目に油断や嘲りを乗せる事はしない。


「そもそもだ。お前さんと初めて会ったあの公園で、俺ぁタルボットの秘蔵っ子と一緒にお前さんの動きも縛るつもりだったんだぜ? だが、お前さんにゃあ効果はなく、挙句不能にされかけるザマだ。お前さんはタダモンじゃねえってな結論が出るのもしゃあねえだろ」


「いや、ほんとに僕はただ単にルルの幼馴染ってだけだから」


 殊更に白々しく優太はそう道化師の疑問に回答する。

 この受け答えには、ある程度優太の思惑もあった。

 優太自身、自分の言動は客観的に考えて不自然極まると考えている。ああもさらりと口から出た言葉が、自分でも良く知らない知識だと言ったところで説得力など皆無だろう。だが実際、ほぼ無意識のうちに、耳にした魔法関連の言葉に対する知識が口から零れ落ちていたのである。

 一度口から出た言葉を無かったことには出来ない。なら、優太に出来るのは既に出来上がってしまった状況を、最大限利用する事である。

 存在などしない――もしくは、優太自身がその存在を知らない――言葉の裏をちらつかせる事で道化師に警戒心を抱かせる。何かを警戒する、ということは、つまりその警戒すべき対象に意識のリソースを僅かなりとも割く、ということでもある。

 道化師を警戒させた結果として、優太自身に何らかの不利益が生じたとしても、ほんのつま先程度でも道化師の意識を自分に向けさせ、その他に対する注意力を減らす事が出来るのならそうすべきだ、と優太は結論した。

 現在、優太にはこの状況を打破する力はない。しかし、彼の幼馴染は必ず優太を救出するべく動くはずである。彼女に助けてもらう以外に窮地を逃れる術がない、というのは優太にとっては忸怩たる思いを抱えざるを得ないが、それを認めないこともまた、優太にとっては許容できないことだった。

 だから優太は、無力な振りをしつつ、何か奥の手をちらつかせている……と思われるような言動を道化師に対して心がける。幼馴染がこの場に現れたとき、少しでも彼女に対する道化師の反応が遅れ、彼女の身に降りかかる危険の総量が少なくなるように。

 ただ、不安があるとすれば、


 ……僕の嘘とかお芝居って、仲間内で見抜かれなかった事がないんだよね……。


 内心の不安を押し殺しつつ、優太は今この場で出来る戦いを始めるべく、道化師を正面から見据え、意思と覚悟を全身に巡らせた。







 優太が道化師の手によって拉致されてから約15分後。

 レイセス家リビングにて、ルル、ベアトリス、雷獅の三人が現状の確認と対策を話し合っていた。


「……そう。とりあえず状況はわかったわ」


 ルルはベアトリスと雷獅の話を身じろぎ一つしないままに最後まで聞くと、腕組みして目を閉じたまま考え込む。


 ……やられたわ。


 とにもかくにも、まずはその一言に尽きる。

 優太を拉致する際に使用されたのは、おそらく大陸由来の縮地法だとルルはベアトリスと雷獅の証言から既にあたりをつけていた。どうやってその魔法が抱える問題点を解決したのかもおおよその見当はつく。


 ……こちらの手を上手く使われたのだとすれば業腹だけれど……それだからこそこちらから打てる手もあるわ。


「すまない、ルル。私がその場にいながら」


 リビングの椅子に腰掛けたまま眉根を寄せるルルに、雷獅がそう言って頭を下げる。その表情には苦渋の色が濃い。


「気にしないで、雷獅。わざわざ攫って行ったのだから、すぐに優太に危害を加える事はしないでしょう。それに、私がすぐそばにいたとしてもこの結果を防げたかどうかは疑問だわ」


 ふ、と鼻から息を抜きながらルルはかぶりを振ってみせる。


 ……これについては慰めでも何でもなく、事実よね。


 事実、縮地法と、その補助に使われたであろう道化師の魔法、両方の特性を鑑みるに、瞬間的に行われた今回の拉致に対しては、事が起こってから対処するのは至難の業と言えた。

 ともかく、とルルは思う。

 道化師と相対した時に備えて相手の手の内を考察するのもいいが、それよりも先のことを考えるべきだ、と。

 さっきも自分で言ったとおり、優太が積極的に危害を加えられる可能性は低いと判断して問題はない。

 だがそれは相手にとって優太に利用価値があるということであり、人質として使用する事で価値を発揮されれば、こちらが不利になるのは言うまでもない。

 つまり、ここで必要なのは……。


「後の先。カウンターアタックよね」


 思考の結果として唐突にぽつりと落ちた呟き。


「いきなりなんですの?」


「……なるほど。しかし、そこに至る方法はあるのかい?」


 ベアトリスと雷獅がそれぞれに疑問を口にする。そして、ルルがそれに答えようとした時、リビングのドアが開く音がした。


「縮地法発動地点の調査終了です、ルル。転位先の特定に成功しました。詳しくはこちらに」


「……と、いうことよ」


 淡々としたその報告を聞き、メモを受け取ってから、雷獅とベアトリスを見渡したルルがニヤリと笑ってみせる。


 リビングに入って来て先の言葉を告げたのは、この家の住人の一人。ルルの母親であるリューリィ・レイセスだった。しかし、今のリューリィは普段のおっとりとした様子からは想像もつかないような無表情に固まっている。


「大したものだ……と言いたい所だけど、どうやってそれを割り出したんだい?」


 しかし、そんなリューリィの変化をまるで気に留める様子も無く雷獅が疑問に思ったことを口にする。


「この町には、我々の手による『舞台』があります。それを使用しました」


「『舞台』、ですの?」


 耳慣れない言葉にベアトリスが首をかしげる。


「失礼しました。索敵等の機能を付加した、柏木町全体をカバーする一種の魔法陣と思っていただければ良いかと。残念ながら相手方にもその存在は察知され、ある程度の解析を受けていたとの推測が成されており、敵対勢力の隠密行動を許していますが、縮地法は地脈干渉を行う性質上、地脈にどうしても痕跡が残ります。これを消す事は地脈そのものを消す事とほぼ同義のため不可能となり、その痕跡を『舞台』の魔法によって追ったのです」


 ベアトリスに向かって軽く頭を下げつつ、リューリィが無感情な声音で追跡成功のタネを明かす。なるほど、と頷きつつ、ベアトリスはリューリィにちらりと視線を送り、


「しかし、毎度思いますけれどユータ達がいるときとそうでないときのギャップが激しすぎですわね」


 かすかなため息とともにそう評する。確かに、普段の雰囲気とは似ても似つかない。優太たちに今のリューリィを見せたなら、よく似た別人だ、と言った方がまだしも信じるだろう。

 ベアトリス自身も、リューリィの“仕様”について詳しく知っているわけではない。ただ、彼女がどういった存在であるのかはルルから大まかに聞かされている。それでも、いや、だからこそ、と言うべきか。リューリィの持つ二面性には感嘆を禁じえない。

 ああ、と雷獅が頷く。


「趙家にいたころはずっとこんな感じだったけれどね。……ああいや、時々妙に明るい時があったな。あれはルルが制御に干渉している場合だったかな?」


「肯定です。私単体で表現できる情動はこれで限界ですので」


 リューリィが雷獅に会釈を送りつつそう答えたところでルルが立ち上がり、音高く手を打ち鳴らす。


「雑談はそこまで。向こうから接触してくるより早く仕掛けるわよ」


 無表情のままのリューリィ、神妙な様子のベアトリス、口の端に軽い笑みを乗せてみせる雷獅という順に視線を巡らせ、


「私と雷獅がこのメモの場所へ直接向かうわ。リューリィは別行動で先に現場へ突入。若干タイミングを遅らせて私達が殴りこむ。……トリスは留守番ね。この家の中にいる限りは今回みたいな奇襲は喰らわない筈だから」


「了解です」


「承知したよ」


「仕方ありませんわね」


 三者三様の答えを確認して、ルルは大きく一つ頷いて見せた。






 かつ、かつ、かつ。

 響くのはチョークで黒板に文字を書きつける音。

 がらんとした教室に唯一つ置かれた机に座り、でかでかとした文字の羅列を優太は目で追っていく。

 そこにはただひと言、こうあった。


 ――杖とはなにか――

 
「答えることはできるかな? 優太君」


 彼が問う。

 優太は答える。


「欧州ではスタッフ、中国では宝貝などと呼ばれる、魔法を使う際に必須の道具。形や名前が違っても、基本理念は変わらない」


「その通りだね、優太君。だが、それだけではないんだ」


 彼はゆるゆるとかぶりを振ってみせる。


「君の答えは、杖に対する魔法使いの認識としては正しいが、更なる事実に触れてはいない」


 彼が黒板を背に、優太に語りかける。


「魔法を使用する為の道具、触媒。確かにそうだ。だが、君にとっても“そう”なのだろうか?」


 木造の教室の床に、足音を高く響かせて彼は優太の前までやってくる。


「現代の魔法使いになくてはならないもの。しかし同時にただの道具。君にとってそれはどういった価値を持つのだろうか?」


 優太の座る机から一歩分の距離を置いて腕を組み、彼は優太を見下ろす姿勢で問いかける。


「僕には……分かりません」


 何とはなしに対抗心が湧いて、わずかに視線に力を込めて彼を見返しながら呟く優太。彼はそんな優太へ、口の端を曲げて笑みを見せる。


「そうだね。だが……もうすぐだよ」


 そう言って彼はにっこりと笑って見せた。






「おい、聴いてるか優太!?」


 ばんばんと肩を叩かれて、一瞬呆けていた意識を優太は正常に戻す。

 魔法で浚われてきた、剥き出しのコンクリートの内装の殺風景な部屋。先ほどまでの倦怠感もすっかり抜けた優太は、手首足首を拘束された状態で、胡座のような姿勢で床に直接座り込んでいる。


 ……なんでこんなことに……。


 そう述懐する優太の正面には、今しがた、結構な力強さで優太の肩を叩いてきた人物がいる。

 優太と同じく、どっかと床に胡座をかいて座り込み、いつも着ているオレンジのコートはパイプ椅子に引っ掛けて、右手に『大吟醸純米酒 九蓮宝燈』と書かれた一升瓶。左手には何処で手に入れてきたのか陶製のぐい呑みを携えて、手酌で日本酒を呷っては上機嫌に笑うその人物は、言わずと知れた道化師クラウンである。


「だからよ、なんであの酒屋のジイさんはあんなド迫力なのかってことだよ。おぢさんビビりまくりだったぜ!?」


 やたら楽しそうに道化師はそう言い、またぐい呑みの日本酒を飲み干して酒臭い息を一つ。優太は微妙に仰け反って酒の匂いをかわしつつ、脳内の知り合いリストから該当する人物を引っ張り出す


「ド迫力の酒屋ジジイというと……着流しに鋭角のサングラスの?」


「おう、着流しはよく分からんが多分それだそれ」


「それは椿酒店の陽蔵さんだね。……店番してるなんて珍しい」


「いやな、最初はツリ目でイキのいい姉ちゃんが店番だったんだけどな。意気投合して話し込んでたら奥からジジイ登場よ。『何をウチの孫娘口説いとるかこの毛唐がーっ!』ってな。マジで逃げ出そうかと思ったぜ」


「陽蔵さん、孫娘の茜さんの事となると容赦ないからなあ……」


「まあその後で店番の姉ちゃんが『お客さんに何しやがるこのボケ老人がーっ!』ってな。ものすげえ切れ味のヒザだった。危うく惚れそうだったぜ。お詫びっつって、このぐい呑みっての? こいつもくれたしよ」


「茜さんも、祖父の陽蔵さんに対して容赦ないからなあ……」


 商店街でもトップクラスにセメント気質の老人と孫の組み合わせを思い浮かべると、自然と優太の頬に笑みが浮かぶ。それを自覚してから、そんな場合ではない、と思い、慌てて表情を引き締める。道化師はそんな優太の様子に気がついたようで、歯を見せて笑ってみせる。


「おいおい優太。まーた表情がカタいぜぃ?」


 自分に対して向けられる陽性の笑みに、優太は内心でため息をつく。優太が彼なりの道化師との対決へと覚悟を決めたその時も、道化師はその表情を数秒観察した後、ひょいと片眉を上げて、言ったのだ。


 ――表情がカタいぜ優太。


 さらわれて来たのだから当たり前だという優太の反論に、それもそうかと至極あっさりと頷いた道化師は、ちょっと待てと言い置いて別室へと消え、戻ってきたときには一升瓶とぐい呑み持参で現れた。そして今と同じようにニカリと笑うと、コートを投げ捨てて椅子に向かって放り投げ、優太の前に胡座をかいて一言、


 ――まあ一杯やろうぜ。


 ――僕、お酒飲めないから。


 なみなみと日本酒を注いだぐい呑みを差し出したままの道化師は、なんとも同情をそそる表情のまま固まったのだった。




「やっぱお前さんも飲めよ優太。飲めないってことは試した事はあるんだろ?」


 事の発端を回想していた優太に向かい、そんな言葉がかけられる。


「だからいらないってば。そもそもなんで日本酒?」


「あのなあ、この国の諺にもあるだろうがよ。『郷に入りては郷に従え』ってよ。ドイツに行けばビールを飲む。フランスに行けばワインを飲む。日本に来たなら日本酒を飲む。是、当然の理ってな」


「うわあ。なんで僕、『何をバカな事言ってんだコイツ』って目で見られてるんだろう」


 そりゃあバカな事言ったからだろ、という道化師の言葉は無視して、優太は現状について考える。

 道化師に自分を警戒させて云々というのはもう意味のない話になっている。そも、道化師が絶賛一人宴会中なのである。むしろ今の彼に警戒心を思い出させるほうがよろしくない。

 そして、それとは別によろしくない事態が優太の中では進行中である。


 ……僕、この人のこと、嫌いきれないかも……。


 言うまでもなく、初めて会ったときから一貫してルルの敵であり、正体不明の依頼主の意向に沿って彼女をこの街から連れ去ろうとしている。ルルの過去に、負の方向で何らかの関わりを持つ魔法を操り、今も自身を誘拐して、おそらくルルに対する手札として活用しようとしている。

 優太から見た、『道化師クラウン』とはこうした人物である。いや、だった。


 ……過去形にするのもちょっと違うか。それだけじゃない、ってことだ。


 自分の手で虜囚とした優太に向けて酒を勧めてみたり、それを断られて落ち込んでみたり、優太もよく知る商店街の人々との交流を心底楽しげに語ってみたり。

 そもそも、初対面時の悪印象はお互い様だったはずなのだ。何せ優太は全力で道化師の股間を蹴り上げたわけである。隔意の三つや四つは当然あるべきだろう。だが、少なくとも優太に対しては道化師からは敵意を感じられない。浚ってきたのも拘束しているのも、それが目的上必要だから、という以上の意識を持っているようには見えず、以前の意趣返しに痛めつけるような真似もしない。

 無論、そのあたりは全て道化師にとって計算ずくで、優太を篭絡するか、そこまで行かなくとも心情に揺さぶりをかける事で、ルルに対する自身の立ち位置を有利に持っていこうという意図があるのかもしれない。いや、むしろそう考えた方が自然と言える。

 それでも、である。

 道化師がルルにとって、ひいては優太にとって排除すべき相手である事は間違いないが、それを憎悪や嫌悪といった感情に結びつける事が今の優太には少々難しいこととなってしまっている。


 ……こういうこと言うと流石にルルも怒るだろうなあ……。


 脳裏に幼馴染の怒りと呆れの入り混じった顔が鮮明に浮かぶ。とかく争いごとに不向きな優太のこういった性格は美点でもあるのだが、今のような場合には致命傷にもなりかねない欠点である。分かってはいるのだが、自分ではどうにもならないものなのだった。

 ままならないなあ、と心中でぼやきつつ、上機嫌に酒をかっくらう道化師を見て、優太はこっそりとため息をついた。



[14838] その13『拳と力』
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:ebf219b0
Date: 2010/10/07 20:15
 飲むべきか、飲まざるべきか。それが問題である。

 手首を拘束されてはいるものの、後ろではなく体の前面でそれは行われているので、コップに注がれた琥珀色の液体を口に持っていく事に支障はない。ついでにいうと肉体的な欲求としてそろそろ水分が欲しい。それを自覚すると、尚更に喉の渇きを感じてしまう。

 そこまで考えて、優太は自分の前、打ちっぱなしのコンクリートに置かれているコップから視線を上げる。その先にいる道化師は、一本目の一升瓶を空にして、今度は『純米大吟醸 大三元』と銘打たれた一升瓶の開封にかかっていた。結局日本酒一升を飲み干したくせに、全く顔色が変わっていない。とんでもないザルである。ともあれ、再び目の前のコップに目を向ける。前述の『大三元』を別室に取りに行った際、酒を飲もうとしない優太に道化師が持ってきたもので、彼曰く、烏龍茶である。


 ――見た目は確かに烏龍茶……!


 だが本当にそうだろうか。実際に手にとって確かめたいところだが、コップを持つ、と言う行為は『飲む』という意思の表現となるのではなかろうか。そうなった途端、なし崩しに飲むこととなり、実はコップの中身は烏龍茶に見せかけた酒とかその他愉快なリアクションを引き起こす液体であり『ひーっかかったなバーカバーカ!』などと高笑いされるのではなかろうか。


 ――いやいや、疑うべき方向が違うから。まだ自白剤とかそういうのの方があり得そうだから。


 気が緩みすぎだ、と自戒して、道化師の方をちらりと見る。器に注いだ『大三元』をぐいっと飲み干し、「っかー! 旨ぇ!」とご満悦の様子である。テンションだけ見れば酔っ払っているようにも見えるのだが、よくよく考えると彼は普段からテンション高めで生きているようにも見えるのでいまいち判断が難しい。


「で、なんでルルを連れて行こうとするの?」


 結局、疑問を一時棚上げして、別の疑問を道化師にぶつける。当の道化師は、んぁ? と胡乱げな視線を優太に返し、またもや日本酒をぐいっと呷ってから、


「そりゃーお前、依頼主に頼まれたからだよ」


「いやだから、その依頼主はなんでルルを連れて来いって言ってるの?」


「それはだな――」


 新たに注いだ酒をさらに飲み干し、


「俺もよく知らん」


 は、と言葉を出そうとして、優太は呼吸がのどに引っかかる感じを覚える。今までの緊張などによるのどの渇きが原因だと思い当たるのとほぼ同時、反射的に目の前にあるコップを両手で引っつかみ、一気にその中身を飲み干す。軽く咳払いをしてのどの調子を確かめ、深めに息を吸い込み、


「はあ!?」


 驚きと疑問と呆れの混じった声を道化師にぶつける。ぶつけられた方はと言えば、優太の顔と手元のコップの間で数度、視線を往復させている。その表情に題名を付けるなら『ええ~?』だろうか。


「理由も知らないでこんなハタ迷惑全開に行動してるの!?」

 
 優太の剣幕に、む、と唸ってガリガリと頭をかいた道化師は、軽い溜息をひとつ、手にしたぐい呑みの中に落とした。


「プロの仕事ってなぁな、そーゆーモンなんだよ。覚えとけ」


「……人さらいのプロ?」


 半眼でぼそりと呟く優太の言葉に、道化師は一瞬ぴくりと眉を上げ、ひょいと肩をすくめてみせる。


「クライアントの事情に首を突っ込まないのはカタギの世界でも変わらんとは思うがね。まあ俺の仕事が後暗かったり世間的によろしくなかったりってのは確かだけどよ」


 言葉の内容の割には悪びれた様子も見せず、にい、と笑ってみせる道化師。


「まあ、優太にしてみりゃ迷惑な話だろうけどな、こうして人質になっちまったんだ。もういっそさっぱりと色々諦めて大魔女に俺と一緒に来るように説得してくれたりしねえもんかね?」


「お断りします」


「そいつぁ残念」


 全く残念ではなさそうにそう言うと、道化師はまたも酒を煽る。既に二本目の一升瓶も残り三分の一を切ろうというのに、やはり欠片も顔色を変えていない。驚きを通り越して呆れを含んだ視線が優太から送られているのにも、気付いていないということはないだろうに、頓着する素振りも見せてはいない。


「……そもそもの初めから実力行使だったし、理由も聞かせてもらえないんじゃあどうしたって協力的にはなれないよ」


 道化師を横目に見ながらの優太のそんな一言に、道化師は口元に傾けていたぐい呑みをぴたりと止めて、灰色の瞳に興味深げな色を浮かべながら、優太をまじまじと見つめた。


「……お前さんは律儀だねえ。おぢさん感動しちゃったよ」


 くく、と喉を鳴らして笑う道化師。協力を拒絶したことについていちいち理由を述べたことが彼のツボにハマったらしかった。そうしてしばし肩を震わせてから、なんとなくバカにされたように感じてややムッとする優太に向けて、にやりと口角を上げてみせる。


「そうむくれんなって。割と褒めてるつもり……」


 なおも笑いながらそう言いかけた道化師が、突如として表情を改める。先ほどまでの緩んだ雰囲気も、酒精の気配も全く感じられない彼の様子に優太が一瞬息を飲んだのとほぼ同時、道化師は滑らかな動きでその場に立ち上がりると優太の襟首をぐい、と掴み、そのまま自身の背後、部屋の隅へと向かって無造作に放り投げた。


「痛っ!?」


 受身も取れずに壁に叩きつけられ、優太の息が詰まる。同時に、肉と骨がぶつかり合うような、ごきり、という音が、幾つも重なって耳に入る。さてはどこか骨を痛めたか、と優太は自身の体をチェックするが、打ちつけた背中以外に特に痛みはない。


 ――ならさっきのやたら痛そうな音は……?


 そう思って顔を上げた優太の視界に、二つの人影が映る。

 一つは真っ赤なベストの背中をこちらに向けた、先ほどまでの飲酒の影響など微塵も感じさせないしっかりとした長身の立ち姿。『道化師クラウン』


 その道化師と向かい合って立つ、もう一つの人影。何のつもりか、おたまを右手にいつの間にかその場に佇んでいたのは、優太もよく知る人物。


「……おばさん!?」


 リューリィ・レイセスがそこにいた。

 彼女は、自身の名を呼んだ優太の声にちらりと無表情な視線を向け、挨拶の代わりとでも言うように軽く左手を振る。すると、彼女の肘、手首、指の順に骨を鳴らす音が連続して響いた。

 リューリィの姿を見、彼女の発した音を聞いた道化師が、感嘆の色を含んだ声を漏らす。


「なんちゅー力技だよ。俺のやり口も大概だけどな、まさかそんなテで縮地法を実現させるたぁ思ってもみなかったぜ?」


 道化師の言葉からするに、リューリィは何らかの手段で縮地法を用いてこの場に現れたらしかった。

 まさか、という思いと、やはり、という思いが優太の中で交錯する。ルル・レイセスが魔法使いであり、永い時を生きてきたと言うのであれば、その母親と名乗る彼女もまた、ルルのように魔法に関わる存在であってしかるべきなのだ。

 今まで殊更にその事について話題にしなかったのは、ルルが魔法についてあまり詳しく語りたがらなかったということもある。が、それ以外にも理由があったことを優太は今この瞬間、自分自身が受けた衝撃によって悟った。


 ――僕にだけ、力がない。


 それは、ルルが強大な魔法を使うのだという事実によって燻り始め、趙雷獅の存在によって煽られた思いの火である。自分には、想う人々を守るだけの能力がないのではないか、という恐怖だった。

 魔法について知れば知るほど、ルルの周囲にいる人間が魔法使いであると明らかになればなるほど、それは本人すら自覚せぬままに優太を苛んでいたのだった。

 そして、そんな思いとは関わりなく、もしくはその怖れの通りに、優太の関与を許さないまま状況は進む。


「……念のために伺いますが、彼を大人しく返してこちらに投降する意思はありますか?」


 普段からは想像もつかない、平坦な声と表情で道化師に投降の可否を問うリューリィ。彼女のギャップに驚いている優太の視界に、背中を向けたままの道化師が軽く肩をすくめるのが見える。表情はうかがうべくもないが、彼が飄々とした笑みを浮かべているのが優太には簡単に想像がついた。


「その問答はこないだ大魔女との間で済ませたぜ?」


「はい。ですから念のため、と申し上げました。……では、参ります」


 道化師に向けてリューリィが言い放つとほぼ同時、ばしん、という音がその場に響き渡り、次の瞬間には彼女は道化師の左側面に移動しており、左の裏拳を彼の後頭部に向けて叩き込むところだった。

 うお、と驚きの声を上げ、ダッキングでそれをかわした道化師の頭の直上をリューリィの拳が通り過ぎる、と思いきや、まるで縫い止められたかのように彼女の拳はその場でぴたりと静止。裏拳を打ったことで開いた体を閉じる動きでおたまを持ったままの右手が左手と合流。拳が握り合わせられ、ハンマーナックルが打ち落とされる。

 岩を打ち付けるような鈍い音と共に、リューリィの拳が道化師の後頭部に激突する。最初の一撃を屈み込んで避けた道化師には、この一発はかわし切れなかった。だが、それでも両腕で後頭部を抱え込んで庇い、さらには自分から倒れこむことで少しでも衝撃を緩和させることには成功していた。していたが、それでも相当な勢いで道化師は床に五体投地する羽目になった。普通の人間なら、この時点でもはや動くことは出来ないだろうというくらいに。

 だから、傍から見ていた優太は、横たわる道化師の頭部へ向けて、それを砕かんばかりの勢いでリューリィが足を踏み下ろしたのにも驚いたし、道化師が床を転がってそれを回避し、即座に立ち上がったのには更に驚いた。

 優太からすれば、信じがたい光景だった。そもそもリューリィ・レイセスという女性は争いごとに徹底的に向かない性格なのだ。常日頃からおっとりとした言動を崩さず、暴力に訴えるどころか声を荒げるところすら滅多にお目にかかるものではない。

 だが、今、優太の眼前で繰り広げられているのは、そうした認識を真っ向から打ち砕く光景だった。優太の中で穏やかな女性ランキングのトップに君臨していた幼馴染みの母親が、自身の師匠である楓原寺の住職が本気を出してもここまでやれるかどうか、というような動きを見せたのだ。






「あっ、ぶねえなあオイ! くっそ、最近俺がやりあう相手はセメント系ばっかりだな!?」


 ぼやくように言いつつ立ち上がった道化師と向き合いながら、リューリィは自分と道化師の立ち位置を確認する。先程の回避は道化師にとっても咄嗟の行動であったはずなのに、しっかりとリューリィと優太の間に入るように動いている。可能なら、先に優太を確保してしまうつもりであったのだが、この状況では流石にそれは難しいと彼女は判断した。

 ただ、先程のやりとりから感じた手応えからするに、今回採った戦術については正解だったようだと内心で付け加える。

 前回のルルとの戦闘において、道化師の見せた黒いもやの魔法。加えて、彼自身の魔法攻撃に対する妙な打たれ強さ。それらを考慮した結果、現在のリューリィの仕様は物理攻撃を目的とした、肉体強化に偏向したものになっている。

 魔法を用いた結果として生じる炎や雷、衝撃なども物理的な攻撃手段と言えなくもないが、おそらくは道化師の防御手段は『魔法を介在して具現化した現象』に対する耐性の向上をもって根幹となされている、とルルは推測した。また、そうであるなら、空間に放たれて、ある意味で魔法使いから離れて独立してしまった事象はともかく、魔法使いの体内で制御が完結している肉体強化、フィジカル・エンチャントであるならば、そうした影響は気にせずに使用する事ができる。

 故に、リューリィは道化師を無力化すべく、彼に向けて突進を開始する。魔法によって底上げされた脚力は、道化師とリューリィの間にあるの数メートルの間合いを、一瞬でゼロにした。


 ――カタをつけます。


 爆発的な踏み込みと共に、リューリィの拳が道化師に向けて放たれた。






 商店街のはずれにある、現在は何のテナントも入らず一階の店舗部分のシャッターも閉鎖されているとある廃ビル。もはや人も寄り付かなくなって随分と経つ三階建てのこの建物が、道化師が優太を拉致して潜伏している場所である。


「……リューリィが道化師と交戦に入ったわ。私達も行きましょう」


 五分ほど前にこの場に到着し、慎重に罠の類の有無を調査を済ませてこの機を待っていたルルが、背後に佇む雷獅へと声を投げかける。


「了解。言うまでもないことだけど、慎重かつ迅速にね、ルル」


 ざっと建物の調査はしたものの、それはあくまで外側から、それもこちらの存在を気取られないように気を使いながらのものだ。発見できていない罠や仕掛けも、当然あると思ってかかるべきだろう。

 大魔女として名が売れていながら、多くの魔法使い達の目からその姿を隠しつづけてきたルルである。この手の警戒はそこらの魔法使いとは比べ物にはならない。が、道化師か、もしくはその仲間は、ルルが柏木町に張り巡らせた監視を潜り抜け、あまつさえそれを逆手に取って活動していた可能性すらある。気を抜いて良い相手ではなかった。

 本来ならばそのような事はいちいち言われるまでもない事なのだが、雷獅から言葉を掛けられたとき、ルルはそうした警戒がややおろそかになっている事を自覚した。

 優太をさらわれたという事態が、予想以上に自身に焦りをもたらしているのだと認識し、一度意識を入れ替えるために深く呼吸を行う。

 一度、二度。思考に掛かっていたノイズを肺の中の空気と一緒に吐き出し、頭の中をクリアーにする。


「お待たせ。じゃあ、行きましょうか」


 ルルと雷獅は頷きを交わし、廃ビルの勝手口へと回る。古びたドアノブに向けて、ルルがホルダーから引き抜いた杖を軽く当てる。そのまま動きを止める事数秒。ノブがひとりでに回り、勝手口がルル達を迎え入れるように開かれた。一瞬だけ視線を交差させて、魔法使いの師弟が道化師の根城に踏み込んでいく。

 もとは飲食店だったのだろう。勝手口から入った先は、厨房になっていた。流し台と調理台の間のスペースを、注意深く探査しながらルルと雷獅は厨房を抜け、二階へと上がる階段を向かう。いざ階段に足を掛ける前に、二階の気配を探る。事前の打ち合わせどおりならば、リューリィは道化師に対して徹底的に接近戦を挑んでいるはずなのだが、そうした激しい動きを感じさせるような物音も気配も伝わってこない。

 ならば、戦場は更に上の三階か、そうした気配を伝えないようにするための何らかの隠蔽が行われているか、既に決着がついたか。リューリィが戦闘状態に入ったことは彼女とルルの間に存在するある繋がりによって察せられたが、それ以上の情報となると、少なくともすぐ近くにいなければ難しい。ここからは自身の眼と耳で確かめていく必要がある。

 ともあれ、隠蔽の兆候は見受けられず、決着が着くにはまだ早いと判断し、最初の選択肢を採用したルルは階段に向けて一歩を踏み出した。







 ――驚愕に値します。


 リューリィは内心で小さく呟いた。

 戦闘開始から二分。既に少なくない打撃が道化師に対して叩き込まれている。だというのに、道化師の動きが全く鈍る様子を見せない。そこまで考えて、リューリィは自身の考えに首を横に振った。

 ダメージがないのではない。フィジカル・エンチャントによって増強された身体能力による攻撃は、魔法防御による減衰を受けることなくその威力を発揮している。道化師自身もおそらくは魔法によって身体能力を強化しているが、リューリィの見たところ、その二つ名にふさわしく、身軽さに重点を置いてそれは行われている。それでも身体能力強化に特化して今回の戦闘に臨んだリューリィの速度はその上を行くが、しかし道化師を倒すには至らない。

 回復速度が速すぎるのである。ダメージ自体は与える事が出来ている。ただ、それが与えた端からまさに無かった事にされているのだ。肉体の賦活、回復を行う魔法は確かに存在しているが、それの使用を前提に考えたところで道化師のそれは常軌を逸していると言わざるを得ない。

 せめてもの救いは、道化師がまっとうに痛みを感じているらしいことである。受けた攻撃によって肉体が損傷、機能低下という事態には著しく陥りにくいようだが、それでも攻撃を受けて後の数瞬、確かに動きが鈍る。そこへ畳み掛ける事である程度は道化師を押さえ込む事には成功している。だが、


 ――このまま押し切ることは不可能でしょう。


 肉体強化によるリューリィのパワーとスピードは、道化師にほとんど反撃を許さないレベルである。実際、反撃の魔法を使うことすら覚束ず、道化師はひたすらに避けに徹している。当然、あの黒いもやを用いるきっかけも掴めていない。

 だが、別の見方をすることもできる。

 リューリィは肉体強化の魔法を常時使用して道化師に攻撃を仕掛けつづけているにも関わらず、未だに決定打を与える事が出来ていない、とも。

 今のペースで攻撃を継続していけば、いずれリューリィは魔力の欠乏により動けなくなるだろう。もっとも、道化師も攻撃の回避に魔法を用いているし、この異常な回復力も魔法の恩恵によるものと考えるのが自然であるので、同じ問題を双方共に抱えている事は本来なら疑いないのだが、ただでさえ色々と予想外のことをしでかしてきている相手なのだ。楽観論を土台にして戦術を立てる事は避けたいところだった。

 打撃に効果が見られないなら、魔法によってそこらのコンクリートを削り出して、串刺しにしてそこらに縫いとめておけば回復されても問題はないかもしれないが、道化師に対して刃物を用いる事については事前の打ち合わせで極力見合わせることになっている。理由は、道化師を相手にする上で最大の脅威と見られる、あの黒いもやだ。アレを用いる際、道化師は自らの掌をナイフで切りつけた。もしも、切りつける場所を問わずあのもやを用いる事ができるなら、下手に道化師に切りつけることはこちらの不利を呼び込みかねない。

 魔法に対する異常なまでに堅固な防壁として機能し、道化師の意思に応じて自在に形を変えるあの黒いもや。ルルが過去において見た、最悪の災厄に酷似したあの魔法。アレが何を引き起こしたかを知らされているリューリィとしては、自然、道化師に対する警戒度はいやがうえにも高まらざるを得ない。だが、結局のところ、彼を無効化する手段が今のリューリィにはない。どうにも手詰まりだった。
 
 現時点では。

 状況が動いたのは、道化師に前蹴りを叩き込んで吹き飛ばしつつ、そこまで思考したときだった。




 以後の結果のみを簡潔に述べる。

 戦闘開始からニ分二十秒の時点でルルと雷獅が介入。そこから二十三秒、リューリィの転移からはニ分四十三秒で戦闘は終了した。

 道化師は、展開した黒いもやごと、優太の掌から発せられた渦状の力場によって文字通り雑巾の如く捻り上げられた。

 ルルやリューリィの攻撃を防ぎ、耐え切ってきた道化師に対して、あまりに一方的な威力をもってしての決着だった。



 次の日、優太はルルに別れを突き付けられた。



[14838] その15『杖と魔女』 前編
Name: のいえ◆9c42e1d8 ID:ebf219b0
Date: 2011/02/21 23:37
 その日、ベアトリス・タルボットは朝から不機嫌だった。

 ここしばらくの懸案事項となっていた『道化師クラウン』は、昨日ついに捕縛に成功し、大魔女の弟子、趙雷獅が母国に連絡し、人を寄越させて後の処理を行うとの事だった。とりあえず次の動きはそこで引き出される情報を待つ事になる。

 それについては特に問題はない。不機嫌の源は別にある。

 ベアトリスがちらりと視線を横へ向けると、そこには不機嫌の源その2であるところの早坂優太がやや力のない足取りで歩いている。普段であれば、その隣には不機嫌の源その1であるルル・レイセスがいるはずなのだが、道化師への対策のためとして家に篭っていた頃と同じく、今朝は共に登校してはいない。

 ルル曰く、道化師の無力化に成功したとは言え、その背後についてははっきりとした確定情報は得られていない。彼以外の人員もこの町に入っている可能性も否定できない以上、まだ気を抜くべきではない、とのことだった。

 その主張自体は全くもって正しい。今も趙雷獅あたりが隠れてこちらを見守っているのかもしれないが、それも妥当なところと納得する事は可能だ。

 だが、


 ――ルル・レイセスの言には大きな矛盾がありますわ。


 そう思い、再度優太へと視線を向ける。

 未だに状況が安全足り得ないというのであれば。

 戦闘か、それに準ずる事態となった際の備えが必要というのであれば。


「……何故、ユータを自身から遠いところに置こうとするのでしょう……?」


 昨日の道化師との戦闘の際、ベアトリス本人はレイセス家において留守番に甘んじていたが、緊急時の連絡等のため、ファミリアのナトキンをルルたちに同道させていた。

 そして、そこで起こったことをベアトリスはナトキンの視覚を通して確かに見たのだ。

 魔法とは関わりない人生を送ってきたはずの早坂優太が、信じがたいほどに強力な魔法を用いて道化師を正面から打ち倒すところを。

 断言してもいい。こと魔法の威力のみに焦点を絞るならば、優太の用いたそれはベアトリスが知る内で最強の一撃だった。それは、早坂優太という少年の戦力としての大きな有用性を示している。勿論、強大な魔法を使えるという一点のみで卓越した魔法使いと渡り合えるとは――自身のプライドの問題としても――ベアトリスには思えない。が、ルルや雷獅と優太が共にあり、あの威力の魔法を援護として使用されたならば。

 冗談ではない、というのがベアトリスの正直な感想である。そして、一流の魔法使いであるベアトリスにそう思わせるほどに厄介だということでもある。で、あれば、今のように戦力を分けることはむしろ愚策ではないのか。

 実際、ベアトリスははっきりとルルに対してそう言った。対するルルの返答はこうである。

 何故優太があれほどに強力な魔法を使い得たのかは私にも分からない。分からない以上、戦力として数えるつもりはない。

 この一点張りだった。
 
 何を莫迦な、とベアトリスは思う。

 かの大魔女が、傍にいた人間の魔法使いとしての素質を十数年に渡って偶然にも見逃し、その人物が危機に陥った際に偶然にも魔法を扱い、そして彼の才は偶然にも超一流のものだった、とでもいうのか。

 百歩、いや千歩も譲ってそこを認めたとしよう。分からないのであれば調べれば良いのではないのか。

 何も優太をモルモットにしろと言うわけではない。魔法に関する何がしかの事態が彼の身の上に起こっており、それについて理解が及んでいないのならば、それを放置する事の方がよほどに問題なのではないのか。

 ベアトリスがそう言い募っても、ルルはその全てを撥ねつけ、次なる襲撃者に対する対抗措置を構築するため、と称して昨夜から部屋に引き篭もったままである。分からないことだらけで、道化師を撃退しても全く事態が進展したようにベアトリスには感じられない。むしろ、より混乱してきたとさえ言える。


「ですけれど、一番混乱しているのは……」


 おそらくは自身の身の上に起こった不可解な出来事を消化しきれていないであろう、魔女の幼なじみをちらりと見やり、ベアトリスは深々と溜息をついた。







――夢を見ていた――




 リューリィに前蹴りをブチ込まれて道化師が吹っ飛ぶ。

 優太の正面を冗談のような速度で横切った道化師が、その勢いのままに壁に叩き付けらるのと同時、どがん、とやたら腹に響く音とともに優太の視界が揺れる。

 いや待て。いくらなんでもこんな音と衝撃が出るような勢いで壁にブチ当てられたら普通はミンチだ。壁に赤い薔薇が咲いてしまう。

 つい今しがた起こった現象について優太の心中にそんな疑問が湧き上がるが、それに対する答えはすぐに見つかった。音と衝撃の源は、道化師ではない。


「床がっ!?」


 抜けた。より正確に表現すると、砕けた。

 壁に叩き付けられた道化師の足が床に着く、その一瞬前を狙いすましたようなタイミングでの、範囲にして半径一メートル半の足場の破壊。両足を床につけて立ち上がるつもりだった道化師は、まともにバランスを崩して肩を下にする姿勢で床を構成していたコンクリートの瓦礫と一緒に二階へと落下を始める。

 この仕掛け人は当然のことながらルルであり、道化師と瓦礫の落ちゆく先にはルルと雷獅が待ち受けていた。不意打ちを仕掛けて体勢を崩したところで拘束する算段を立てていたのだ。

 仕掛けた当人であるルルは、この後の行動さえ迅速であるならばこれで詰みだと考えたし、これがルル達の仕業であると状況から推測した優太も同じように考えた。

 道化師の口元が、苦痛でも焦りでもなく、笑みの形に歪んでいるのを見るまでは。

 落下し始めた体を、道化師が勢いをつけて回す。何かを掴むように広げた五指を、自身が進む方向、つまり下へ。通常であれば床へ手を着くようなその動きは、彼と共に階下へ落ちようとする瓦礫の群れの中へと腕を突っ込む動きになっていた。

 リューリィから伝わる情報を元に二階の部屋から天井を砕いてみせたルルは、この時点で彼の狙いに気が付き、それを阻止せんと足を踏み出し、杖を振り上げた。が、致命的に時間が足りなかった。

 そして、そのまま瓦礫と道化師は一塊となって階下へ落ちる。

 轟音と、道化師の苦鳴が響き、ルルと雷獅の目の前に築き上げられた瓦礫の小山の頂から、黒が溢れた。


「なんて無茶な!」


 そう声をあげたルルを、道化師は脂汗を浮かべ、半ば這いつくばったままの姿勢で嗤う。

 その右腕は崩れた瓦礫の間でひしゃげ、潰されている。だが、本来なら血の赤であるべきそのその場所の色彩は、黒一色に取って代わられていた。

 この黒こそが、道化師の切り札にして生命線。彼の内側に在っては異常なまでの回復力の源となり、外側にあっては魔法に対する絶対的な守りとなる。

 道化師の意思に応じて彼の傷口から溢れ出すそれは、腕一本をまるごと傷つけたことによって、前回のように掌を切りつけた際とは段違いの規模でその場に顕れていた。

 先ほどまでと比べるとやや鈍い速度で道化師の肉体の損傷が修復されるにつれて外部へ流れ出す勢いは弱まっているようだが、先だってのようにそれを攻防に用いられれば勝算は限りなく少ないとルルには思われた。


「くうっ!?」


 そんなルルの思考を遮るように、道化師の周囲にわだかまった黒いもやが、その一部を蛇のようにくねらせて彼女へと踊りかかる。咄嗟にその場を飛びのいて難を逃れたルルだが、先ほどまで自分が立っていた床がスプーンで掬ったように抉りぬかれているのを目にして絶句する。

 前回見たときより殺傷力が桁違いに上がっている。大量に顕現させた事による変化なのか道化師が任意に性質を変化させているのかは判然としないが、次にアレに触って無事に済むというような楽観は捨てて掛かるべきだろう。

 そんな思考を経て内心を引き締め、再び道化師へと視線を向けたルルの表情がまともに引き攣る。


「……冗談でしょう……」


「この国の伝承にあんな感じの怪物がいなかったかな……?」


 同じく道化師のいる場所へ目を向けていた雷獅が呆気に取られたようにそんな言葉を漏らす。

 積み上がった瓦礫の上、先ほどルルを襲ったものとほぼ同じ大きさの黒の蛇達が鎌首をもたげていた。その数八つ。

 ルルの背を冷や汗が伝い落ちるのとほぼ同時、八つの黒蛇が一斉にその身を蠢き、くねらせて猛り出した。

 そのうちの一つがルルへと向けて真っ直ぐに襲い掛かる。が、その襲撃をルルは身を翻してあっさりとかわしてみせる。回避を行いながら、余裕のある今のうちに、と考えて大蛇に向けて一つ魔法を展開する。そうしながら雷獅の方へと意識を向けると、彼も同じように黒の蛇のうち一匹に襲い掛かられ、それから逃れたところだった。

 この一連の攻防で、ルルは一つの確信と一つの疑問を得た。

 まず、今の状態の黒いもやを、少なくともルルの使う魔法で破ることは難しいということ。
 
 それどころか、攻撃を防御する事すら危うい。事実、先ほどの交錯の際に、ルルは黒の蛇の進路上に防御に使う障壁の魔法を配置したのだ。が。黒の蛇は、その空間をまるで何もないかのように通り過ぎた。もしも、真正面から障壁でアレを受け止めようとしていたら、と思うと正直ぞっとするものがある。

 もう一つ、道化師はおそらくアレを制御しきれていないのではないか、ということ。

 先ほど生み出された蛇の頭は八つ。しかし、先ほどはルルに一つ、雷獅に一つの頭が襲いかかったのみで、残りはその場でのたくるのみだった。もっと効率的にあれらを運用すれば、下手をすると先ほどの攻防で勝負がついていたかもしれないのだ。

 付け加えるなら、道化師の目的がルルの確保である以上、あそこまでの威力を持つ魔法をルルに直接ぶつけようとするのもおかしい。

 で、あるならば、道化師は自身の裡から生じた黒いもやを持て余している可能性が高い。

 ――付け入る隙があるとするなら、そこしかないわね。

 ルルは心中でそう呟くと、ちらりと視線を横へと向けた。そこにいた雷獅と一瞬だけ視線を交わし、すぐに正面、瓦礫の山へと意識を向ける。

 先程までその頂で蹲っていたはずの道化師は、今はその場にしっかりと二本の足で立ち上がっていた。瓦礫に押し潰されていたはずの腕は、既にほとんど治癒を終えている。ただ、真っ赤に染まったシャツの袖が、彼が負っていたはずの負傷の跡を残していた。

 道化師とルルの視線が真正面から火花を上げてぶつかり合う。ルルは勿論のこと、常ならば人を喰ったような笑みを浮かべている道化師の表情も、今は強張っている。驚異的な速度で治癒するとはいえ、腕を潰された影響によるものか、それとも、やはりあの黒いもやが道化師の制御できる範囲を超えて顕現しているためか。どちらであろうかとルルが内心で疑問を抱いたそのとき、道化師の視線がルルから外れた。ほんの一瞬のことだったが、それは雷獅へと向けられ、釣られるように雷獅へと視線を向けかけたルルが彼の表情を目にするよりも早く事態は動いた。

 八つ首の大蛇が一斉にその身を震わせ、次の瞬間にはその全てが標的を定めて牙を剥く。

 二つがルルへ。

 二つが雷獅へ。

 残る四つが更に二手に分かれ、天井を豆腐か何かのようにやすやすと抉り抜きながら、それぞれに目標を定めたように突き進む。

 その行き着く先が何処であるか、三階に留まっていたリューリィとの繋がりによってルルは瞬時に悟った。

 二つはリューリィへ、最後の二つは、当然最後に残った選択肢である、


 ――優太を狙っている――!


 そうはさせじと、即座に肉体強化を全開にして、瓦礫の山を駆け上がらんとしてダッシュをかける。その頂に立つ道化師を打倒するか、即座のそれが叶わないならば、どうにかその脇をすり抜けて優太を救うために。が、当然、道化師の下からルルへと向かう二匹の蛇がこれを見過ごすはずもない。

 迎撃は不可能。防御も不可能。今のルルに取れる手段は回避のみ。だが、後退も停止も許容できない。少しでも早く優太の許へ辿り付かなければ、彼にはルル以上にこの蛇への対抗手段がない。少なくとも、現時点では。

 だからルルは瓦礫を蹴って駆け上がる足に更に力をこめる。前へ。ひたすらに前へと。

 一匹目の蛇が頭上からルルへと踊りかかる。対してルルは極端な前傾姿勢を取って身をかわすも、その代償としてバランスを崩した。すかさず二匹目がルルの横あいから迫る。

 く、と息を詰め、ルルは左手を前に突き出す。急勾配の瓦礫の山の途中で前傾していたため、あっさりとその手が瓦礫に届き、それを掴む。


「ふっ!」


 短く呼気を発してルルが両足と左手に力を込める。四足の肉食獣のようなしなやかな動きをもって、ルルの身が黒蛇の牙から辛うじて逃げ延びた。

 浮遊感がルルを包む。それもそのはず、瓦礫の山の中途から全力で飛び出した彼女は、現在、宙に浮いていた。このままならば、そのまま地面まで落ちる事だろう。まあ、せいぜい落下距離は二メートルほど。軽い怪我すらも負う事はあるまい。だが、そこから再び瓦礫の山を駆け上がって三階へと到達し、優太の許へたどり着こうとするならば、それは絶望的なタイムロスとなる。否、それ以前に今のように空中にある瞬間を蛇に狙われたなら、為す術もなく餌食になるしかない。事実、一度はルルを取り逃がした二匹の蛇は、今度こそ得物を仕留めんとしてぐるりと頭を巡らせてルルへと向かう姿勢を取る。

 絶体絶命。

 その四文字がこれほど相応しい状況もそうはあるまい。だが、そんな立場に追い込まれてなお、ルルの目には一片の諦めも絶望も見られない。それらの代わりに、現状を打開せんとする強固な意志の輝きを宿し、ルルは対処を実行に移す。

 ルル・レイセスは『大魔女』の異名を取る魔法使いである。

 これは、『強大な女魔法使い』という意味も含むが、それだけで付けられた名ではない。

 かつて『大衰退』以前の世界においては『魔女』と呼ばれる者達が用いる魔法が、一つの系統として存在していた。現代においてそれを忠実に再現する事は最早不可能となり、姿を消した魔女たちであるが、彼女ら、古くは自然崇拝の巫女として存在し、その象徴たる大地母神たちの零落に伴い、魔女の呼称を受けた魔法使い達は、皮肉にも魔法が忘れ去られた現代において、魔法使いという言葉のスタンダードイメージの一つとして人口に膾炙する存在である。

 大魔女の異名は、そうした魔女の秘術の一端を、ルル・レイセスが再現してみせたことに由来する。

 ――即ち、今もなお語られる伝説に曰く。

 魔女は、箒に乗って空を駆けるという――!

 ルルの意思を受けた魔力が右手のスタッフへ伝達され、制御と増幅を受けて、この世に有り得べからざる魔の法則を呼び寄せ、顕現させる。結果、彼女の四肢の先へと、箒――飛翔用の反発力場が出現していた。空中へ飛び出した体が地面に引かれて落下を始めようとするわずかな間に、そうしてルルは魔女の秘奥を展開し終えた。

 先ほどルルを仕留め損ねた二匹の蛇が、黒い矢のように彼女へと殺到する。ルルから見て左上方と右下方から襲い掛かったそれらがまさに戦果を上げんとするその直前、ルルの左のつま先が、そっと『箒』に触れる。羽毛が舞い降りるが如き繊細なタッチであったが、起こった変化は劇的だった。

 右前方へ、初っ端からトップスピードに乗ったルルの体が飛翔する。かと思えばすぐさま慣性を嘲笑うかのような鋭角のターンを決めて蛇たちを翻弄し、それでも食い下がろうとした蛇の顎を、軽やかにとんぼを切ってやり過ごす。

 先の蛇たちの突撃が矢の如くであったならば、ルルの動きは風の如くと言い表すべきか。四つの反発力場に触れることで制御された飛翔術によって鋭角と曲線を組み合わせた鋭くも流麗な軌跡が描かれ、大魔女は瞬時に襲撃者の攻撃範囲から逃げおおせてみせたのだった。

 数瞬の自身の安全を確保したルルは、次なる行動の指針を頭の中で組み立てる。状況を収めるために一番手っ取り早いのは、道化師を無力化することである。彼の意識を失わせてしまえば、あの黒い蛇たちも消えるとルルは踏んでいた。何故ならば、魔法とは意思に拠るものであると彼女は知っているからである。術者が意識を失ったり、術者から離れた状態で自律するような魔法を用いるには、それなりの下準備というものが必要になる。が、今回の道化師のそれは状況から判断するにどう見てもイレギュラー。彼の意識を断ち切ってしまえば、そこで魔法は消えてしまうはずだ。

 だが、それには大きな問題点がある。現状では、ルルに道化師を即座、確実に打倒できるだけの手札がない。時間をかければ可能かもしれないが、優太を速やかに救う為に虎の子の飛翔術まで使用したこの段階で、余計な時間を食うような手段は論外である。

 まずは優太を安全圏まで退避させる。

 ルルはそう決断を下し、優太とリューリィのいる三階へと躍りこんだ。




 突如として床が崩壊し、道化師がそれに巻き込まれて二階へと落下。よく分からないがこれで決着かと思いきや、床に空いた大穴から突然あの黒いもやが噴出し、八つ首の蛇の形へと収束した。八つのうち二つの首が二階へと飛び込んでゆき、やや間を置いて残る六つの首も動き出した。更にその中から二つがリューリィに向かい彼女を抑え、最後の二つが自分に向かってきている。

 そのときの優太から見た状況認識は、以上のようなものだった。一言に要約すると、大ピンチ、である。

 以前に飲み込まれた際には、身体的になんらダメージの見られなかった黒いもやだが、今回もそうだとは全く思えない。何故なら、あれらはコンクリートの床を抉りぬいてこちらに向かってくるのだ。いわんや人間の体をや、である。

 ともかく、すぐに立ち上がってアレをかわさなくてはならない。道化師に投げ飛ばされてしりもちを着いたままの優太が、足首を縛られたままの上体で器用に立ち上がってみせる。が、立ちはしたものの、歩く事さえままならない今の状態では、到底あの黒蛇をかわすような動きはできはしないだろう。

 それでもどうにか回避を試みようと向かい来る蛇を睨みつけたその向こう側、床に開いた大穴から、見慣れた顔が文字通りに飛び出してきた。

 ――ルル!?

 幼馴染みの魔法使いは、優太の姿を確認するや否や、何もない空中で直角に方向転換。蛇を追って、弾丸のように優太に向かって飛翔する。

 彼女が明らかに重力を無視している点について、優太は驚きはしたが、それを一時的に心の棚に放り込んでしまっておく。余計な事に気を取られているような余裕のある状況ではないのだ。

 ルルの速度は蛇にそれを遥かに凌駕していたが、彼女が三階に現れるまでのタイムラグが、蛇を彼女より先に優太の許へと到達させる。黒蛇の牙が突き立てられようとするより一瞬早く、優太が全身のバネをフル活用してその場を飛びのく。拘束されているとは思えないほどの反応であり跳躍であったが、これが悪手であったことを優太はすぐさまに思い知った。

 飛びのいた先、優太の眼前に、もう一匹の黒蛇が待ち構えていた。故意にか偶然にかは定かではないが、優太はまんまと誘いに乗せられた形である。しかも、どうあがこうと現状から回避に移れるような体勢ではない。

 目も鼻もない、真っ黒な口をぱっくりと広げ、同じく真っ黒な牙をこちらに突き立てようとする蛇を見ながら、優太は思考する。

 この体勢からはもう次をかわすのは無理。なら、どうにかして被害を最小限度に留めるしかない。


 ――腕一本、食い付かせれば、それを囮にして逃げられるかなあ。


 蛇の物理的な破壊力を目の当たりにしては、それも儚い希望と思えてならなかったが、それでも諦めて首や胴体を抉り抜かれるよりはよほどマシである。

 優太は覚悟を決めて、どうにか蛇から逃れようと体を動かしつつも、蛇の進路上に腕をかざして最悪の場合のダメージコントロールを図る。

 が、結局、優太が蛇の攻撃を受けることはなかった。蛇が優太に食いつこうとしたまさにその瞬間、彼の体が地面と水平に数メートルも吹き飛んだのだ。

 横合いから突如として激甚な衝撃を受けて吹き飛ぶ最中、奇妙にゆっくりな視界の中で優太はそれを見た。

 右腕を振りぬいた姿勢のリューリィ。優太を吹き飛ばしたのは彼女だ。おそらくはスタッフであるところのお玉を振るって、優太に向けて衝撃波を叩きつけ、蛇の脅威圏内から弾き飛ばした。乱暴ではあるが、上策と言えるかもしれない。

 少なくとも、優太の身の安全の確保に限って言えば、だが。




 リューリィの許にも黒蛇は向かっていた。道化師の抑えとなるために白兵戦に特化している今のリューリィにとって、蛇達をかわし続けるのは、苦労を伴いはするが不可能な事ではない。が、攻勢に出ることも出来ない。素手で殴りかかるのはどう考えても無謀であるし、今までの道化師との対決を振り返っても、生半な攻撃魔法の通じる相手でもない。

 お互いに決め手を欠いた状態のまま、蛇の攻撃をかわす事に専念したならば、リューリィがダメージを被る事はないだろう。が、そうして自身の行動を封じられたままでいれば、優太が蛇に食いつかれてしまう事は必定だった。

 ――考えた傍からその通り、ですか。

 リューリィの視界に、優太に迫る蛇の姿が映る。手足が自由であるならいざ知らず、拘束された状態で優太にあれから逃げ切る術はない、と彼女は判断を下した。

 故に、リューリィは決断した。

 自身の動きを決める要因の中で、蛇の攻撃をかわすということについて、その優先度を下げる。代わりに優先度の上位に浮上するのは、優太の身の安全。

 故に、リューリィは行動した。

 今にも黒蛇の牙にかからんとする優太に向けて、スタッフを振るう。彼女の意思に従って衝撃波が生み出され、優太に向けて撃ち出される。攻撃魔法としてはごく弱いものだが、それでも優太の窮地を救うには十分過ぎる威力がある。果たして優太は衝撃波を受けて吹き飛ばされ、蛇の牙から一端逃れる事に成功した。

 が、そのために支払った代償は決して小さくはなかった。

 右肘と左膝。

 その二箇所に黒蛇が噛み付き、次の瞬間にはその場所を通り過ぎる。蛇の通った後には何も残ってはいなかった。一瞬遅れてリューリィの腕と足から噴水のような勢いで血がしぶき、ぼとり、という肉の塊が地面に落ちる音と、どさり、と人ひとりが倒れこむ音が同期して響く。


 優太はリューリィの放った衝撃波に吹き飛ばされながらも、彼女が片手と片足を半ばから失って倒れる様をはっきりと見届けていた。ざあ、と耳元で聞こえるのが、血の気が引いていく音なのか、もしくは頭に血が昇る音なのか、判別は出来なかった。

 家族同然の女性の身に起こったことの衝撃のあまりに優太の脳ミソから論理的な思考が残らず蒸発して失せた。だから、このとき優太が取った行動は、杖術の鍛錬の過程で思考より深いところに刻み込まれたロジックによるものだった。

 壁に叩きつけられ、しかしその壁を支えにして倒れる事を拒否した優太が、真正面から迫る黒蛇を睨みつける。

 三度、こちらに向かって牙を剥く黒蛇に対して向き合い、倒れこむようにして敢えてそちらに向かっていく。黒蛇のあぎとに差し出されるような形となった優太の頭部がそのまま呑み込まれようとする寸前、重力に引かれるようにして優太の頭部が数十センチ落下した。

 膝をついて腰を落としたことで位置を低くして、黒蛇をやり過ごす。

 跪くような体勢のまま、優太の両手両足の先端に力が込められる。コンクリートの床をがっちりとホールドするイメージ。一瞬の後、果たして優太は全身のバネをフル活用して前方へ跳んでいた。すれ違い、後方へ流れていく黒の蛇身に寄り添うような軌跡を辿り、血の海に倒れ伏すリューリィの許へ向かおうとする。

 優太がほぼ無意識的な挙動から立ち直り、自身の意思を再起動させたのはここからで、彼が動けたのはここまでだった。

 リューリィの放った衝撃波によって一匹、自身の跳躍によって一匹の黒蛇をかわしはしたものの、その動きと勢いを持続するだけの術も力も、手足を拘束された状態の優太にはない。かてて加えて、状況は彼にトドメを刺しにかかる。


「三匹目と四匹目っ!?」


 リューリィに向かっていた二匹が、優太へと目標をスイッチしていた。

 微妙に高度をズラし、上下に並んで殺到する黒蛇に対し、跳躍からの着地直後の優太は反応できない。それでも、と身を捩って回避のための努力を行う優太。だが、無論そんなものに意味はない。優太の挙動はせいぜいが上半身の位置を数十cm単位で動かす以上の事はできず、一瞬の後に二匹の大蛇がその位置へと殺到し、交錯して通り過ぎた。



 強烈な浮遊感と、瞬間的に高度を増した視界。まず優太が認識したのはその二つだった。僅かに遅れて、背中から自身を抱きしめている細い腕の感触。

 ルルに背後から抱きすくめられているのだと瞬時に気付いたのは状況判断の賜物でもなんでもなく、彼女が愛用しているシャンプーの香りを嗅覚に捉えたからだった。
 
 そんなことに気付いたのは、おそらく交通事故に遭う人間が周囲がゆっくり見えるのと同じ理屈なんだろうと優太は思う。その証拠に、視界の隅には先ほど自分に向けて襲いかかってきた黒蛇がスローモーションで通りすぎていくのが見えていたし、最初に優太に向かってきていた二匹と、ルルを追いかけてきた二匹がこちらを包囲する形で殺到してくる様子も、その向こう側、床にあいた大穴の先に道化師がいるのもはっきりと確認できていた。

 正直に言って、全くありがたくない。今しがた、自分の足下を……宙に浮かんでいるので文字通りの意味で……通りすぎて行ったニ匹はともかく、残りの四匹の距離と速度は致命的だということを嫌というほど認識させられてしまうのだ。しかも、周囲を遅く認識出来たところで、行動速度が変わるわけでもない。ただただ迫り来る脅威を見つめていなければならないというのは控えめにいっても最悪である。

 それでも、と優太は思う。このまま手をこまねいていることは許されない。


 ――最悪、ルルだけでも……。

 
 囁き声が聞こえたのは、優太の脳裏をそんな思考が過ぎったのとほぼ同時だった。声の主は、優太の背後に寄り添ったままのルルだ。
 
 日本語ではなかった。英語でもないだろう。実際耳にしたことはないが、独語や仏語でもないはずだ。ひょっとしたら、声として聞いたということさえ優太の思い込みに過ぎず、何らかの手段を用いて意思だけを伝えられたのかも知れなかった。

 それでも、優太にはそれが理解できた。

 その意味は、こうだった。


 ――末端解放・限定三秒――


 その瞬間、優太は自分の裡で、硝子が粉々になるような澄んだ破砕音を聞いた気がした。

 気付けば、優太の右の手の甲にルルの手のひらが重ねられていた。ルルは優太の指の間に自分の指を絡ませ、手のひらを前方へ掲げる。そちらから迫る黒蛇と、その向こうの道化師へ向けて、真っ直ぐに。

 重ねられたルルの掌から、魔力が伝達される。ルルの意思を受け、魔法を呼び込むための鍵と化したそれが、優太の体を巡り、収斂され、魔法が顕現されようとする。その過程と理論の全てを優太は理解し、理解した端から忘却していく。

 ルルの指に力が込められる。

 それが引き金だった。

 鍵が回され、扉が開き、魔法が此岸に顕れる。掲げられた、重ねられた右手を、基点にして、始点にして、渦を巻く。

 魔法の産物たる不可視の力場が描いた螺旋が、その猛威を振るう。

 優太の前面から迫り、あと瞬き一つ分の時間さえあれば彼に死を与えていただろうニ匹の黒蛇が動きを止める。否、止められる。間髪を置かず、先だってから見せていた魔法に対する絶対的なまでの耐性が冗談であったかのように、雑巾の如く捻り上げられ、千切られて、あっけなく霧散した。

 優太達と黒蛇を結ぶ延長線上にいた、黒蛇の発生源たる道化師には、声を上げる暇もなかった。自身を取り巻いた力場に黒蛇たちと同じく翻弄され、蹂躙される。激甚な苦痛と、彼の持つ魔法に対する抵抗力を上回って叩きつけられた魔法によって、道化師は意識を断ち切られた。同時に、螺旋の力場に巻き込まれず残っていた黒蛇たちも消失する。


「……終わった……?」


 呆然、という形容が似つかわしい表情で、優太がポツリと零す。優太を支えて浮遊していたルルが高度を下げ、柔らかに着地する。

 ルルが軽やかに優太の背後から正面へと回った。目と目を合わせて、にっこりと笑う。


「ええ。優太のおかげよ」


 熱の篭った囁きが優太の耳朶に触れる。細くすべらかな指が頬をなぞり、首の後に腕が回される。


「え、ちょ、ルル!?」


 優太の動揺を素知らぬふうに、ルルの腕に力が込められる。ぐい、と顔を引き寄せられた結果、二人の額がこつん、と音を立ててぶつかる。


「素晴らしいわ、優太。あなたがあの道化師を倒したのよ。あなたは立派に私を守ってくれたの。胸をはって頂戴」


 まつげが触れ合うような距離でルルの亜麻色の瞳を覗き込んだ優太は、いつまでもこうしていたい誘惑と、すぐさまこの状況を脱したい居心地の悪さを同時に感じる。それらの心理が数瞬、優太の視線を泳がせる。ざわつく心を落ち着かせるために深く静かに息を吸い、吐く。再び真正面の写した視界に、薄く微笑むルルの顔がいっぱいに映り込む。そして、彼女は口を開いた。


「……とっとと起きろ」


 え? と優太が思う間もなく、ルルがす、と上体をそらし、勢いをつけて優太に向けて額を突き出した。素晴らしい速度で、ルルの頭突きが優太に迫る。








 四時間目終了のチャイムが鳴る。先程まで黒板に文字を書き付けながら教室に向けて催眠音波さながらの授業を行っていた老齢の倫理教師が教室を出るのも待たず、生徒たちは昼食のためにある者は学食へ走り、ある者は弁当を持ってどこかへ出向いて行ったり、机を動かしてグループで集まったりしている。が、そんな中で一人だけ動かない生徒がいる。優太だ。四時間目の半ば辺りから机に突っ伏して居眠りしたまま、まだ起きてこない。

 やがて、そんな優太のもとへ一人の女生徒がつかつかと歩み寄る。彼女は未だ眠ったままの優太の首根っこ辺りに手を添えて、軽く揺さぶってみる。が、反応はない。やれやれ、といった感情をため息に混ぜて吐き出すと、今度は優太の後頭部をわっしと掴む。


「とっとと起きろ」


 言うやいなや、後頭部をつかんだ腕に力を込めて、優太の額を机に叩きつけた。がつん、と鈍い音が響く。

 優太が全身をびくりと震わせ、やがてゆっくりと顔を上げる。緩慢な動作で顔を巡らせると、自分の頭に手を乗せている女生徒と目が合った。


「……蘭?」


「おうよ。もう昼休みだぞ。メシ食うんだからいつまでも寝てんなよ」


 友人の頭をかなり容赦なく机に叩きつけた直後とは思えない笑顔でそう言う蘭の顔をしばし見つめたかと思うと、再び優太は机に突っ伏し、


「二度寝すんな!」


 そして再び蘭に頭を叩きつけられた。




 結局、蘭に引きずられるようにして、四つの机を寄せ集めて座っているベアトリスに蓮、真白と観法が既に席についている場所まで連れていかれる優太。そのまま優太も席につき、弁当を開いて食べ始めるが、思考は別のところへ飛んでいた。

 莫迦みたいな夢をみた。

 あの時、道化師が魔力の渦に飲まれ、その場に崩れ落ちた。

 そこまでが現実だ。その時点で、優太も意識を手放した。だから、それ以降は全部夢の中だけの出来事だ。目が覚めて、自分が夢を見ていたのだと自覚したとき、自己嫌悪と羞恥のあまりに崩れ落ちてしまった。

 あの場所で気を失って、目を覚ましたときにはレイセス家のリビングのソファに寝かされていた。丁度その時目の前にいた雷獅から事の顛末を聞かされた。

 道化師は雷獅の伝手を用いて拘束し、情報の引き出しを行うこと、リューリィの損傷――雷獅はそう表現した――は酷かったが、心配せずとも十分に回復可能だということ。

 そこまでを聞かされたとき、リビングのドアを開けてルルが姿を見せた。ルルは、恐ろしいほどの無表情で優太を見た。常から感情の起伏を表に表す度合いが低い彼女だったが、これほどに凪の表情を見せた事はなかったかも知れない、と十数年一緒にいた優太が思うほどの。

 その無表情に気圧され、口ごもる優太に向けて、ルルは事務的な口調で雷獅がおこなったのとほぼ同じ説明を繰り返した。その上で、今のところは心配ないから家に帰るよう言い捨てると、またリビングから姿を消した。優太はそんなルルを呼び止めることも出来ず、その日は言われるままに家に帰り、そして次の日、つまりは今日、ルルに会うことも叶わずにこうして学校へ来ている。

 
 結局のところ、自分は徹頭徹尾、役立たずだったのだと優太は思う。いや、もっと悪い。あっさりと道化師に捕まって、ルル達をおびき出すためのエサに使われ、足手まといとなった。

 夢に出てきたルルの言動や笑顔は、優太の願望だ。彼女を守りたいと願い、傍に居たいと望み、しかし彼女を守る力を持たない優太の、都合のいい妄想だ。

 本当に、莫迦みたいな夢をみたものだと思う。何も出来なかったくせに、褒められたい、認められたいという願望だけは一人前だ。

 道化師の黒いもやが蛇と化して襲いかかってきたとき、優太はそれに怖じなかった。手足を拘束されながらも足掻き、状況を打破するための道を探そうとした。だが、それだけなのだ。結局、優太には何事も成せなかった。努力はした、という事だけで満足できるのなら、優太は杖術という明確な『力』を身につけてはいない。いざ事あらばルルを守る事ができるように、自身を鍛えてきたのだ。ルルを守る、という命題に関わる事柄に置いて結果を出せなかった以上、優太にとっては過程に意味を求めることは不可能だった。

 そこまで考えて、優太は箸を持つ自分の右手をふと見やる。

 昨日、道化師を打ち倒した魔力の渦は、ここから放たれた。ファミリアであるナトキンを通して昨日の光景を見ていたというベアトリスからも確かにそうだったと言われたし、あれが極めて強力な魔法であるとも言われていた。ならば、道化師を打倒したのは自分なのだと言うこともできるのではないか。脳裏をよぎったそんな思考に、しかし優太は内心で首を横に振る。そこに優太の意思は介在していない。加えて、一体何故あんな現象が起こったのか、優太には全く分からない。あの瞬間、見聞きした情景ははっきりと覚えているのに、自分自身がその時何をどう思っていたかは、さっぱり覚えていなのだ。その辺りも相まって、あれを自分が成したことだとは到底思えない。

 考えに没入する優太に向けて、周囲の友人たちは、それぞれに気遣わしげであったり、不機嫌そうであったりの視線を送っている。もっとも、優太はそれに気づく様子はなさそうで、互いに目配せをして食事を片付けようとしていたその時、教室のドアががらりと音を立てて開かれた。

 開いたドアの向こうにいる人物に一番最初に気がついたのは、ベアトリスだった。これは単純に座っている位置の関係上、ドアが視界に入っていたためで、彼女は驚きの表情を浮かべてぽつりと零す。


「ルル・レイセス……」


 がばり、と優太が勢い良く振り向く。そこには、確かに彼の幼馴染みであるところの、ルルが立っていた。感情のうかがえない目付きでルルは教室内を一瞥し、優太たちの座っている場所までよどみない歩調で進んでくる。


「随分とまあ、重役出勤だなあ、おい」


 机の傍まで寄ってきたルルに対して、最初にそう声をかけたのは蘭だった。


「そうね」


 対するルルの反応は実に素っ気なかった。表情を全く変えないまま、ちらりと目線だけを蘭に向け、一言呟くだけだ。普段から愛想がいいとは決して言えないルルだが、こういう態度は珍しい。蘭のみならず、その場にいた全員が怪訝な表情を浮かべる。


「ルル、その……用事の方はもういいの?」


 蘭が言うところの重役出勤の理由をおおっぴらにする訳にもいかないので、やや奥歯に物のはさまったような言い方をしながら優太が立ち上がり、ルルに近づく。いや、近づこうとした。


「……ルル?」


 優太が椅子から立ち上がり、ルルに向けて一歩踏み出すのに合わせて、彼女は一歩、後ろに下がっていた。


「え、ええっと……?」


 戸惑うようにルルの足下とその顔との間で視線を往復させる優太に向けて、ルルの言葉が降りかかる。


「……突然で申し訳ないのだけれど、私、この町を出ることになったのよ」


 耳に入ったその内容を、優太はすぐに受け入れることは出来なかった。脳裏で三回ほど再生しなおして、聴き違いではなさそうだ、と思いながらも後ろを振り向き、友人たちに『今、同じこと聴いたよね?』と目で問いかけてみる。皆無言だったが、表情から読み取れた反応は、優太と似たり寄ったり。つまり、確かにこの街を出ると聞こえたけど、何かの間違いか、もしくは冗談じゃないの? というようなところだ。そうした思考を視線に載せたまま、優太は再びルルへと向き直る。彼女は友人一同を見渡して、彼ら彼女らの考えていることを悟ったのか、浅い溜息を一つ。


「繰り返すけれど、この街を出るわ。……そうね、どれだけ長くかかっても四日後。準備やら何やらでばたばたするから、実質これでお別れになる可能性が高いの。だから挨拶に来たのよ」


 この発言に、何やらただならぬ雰囲気を感じ取って聞き耳を立てていた教室内の空気が丸ごと凍りついた。廊下や隣の教室から昼休みの喧騒が漏れ聞こえてくる沈黙が続くこと約五秒。最も早く再起動を果たし、ルルに声をかけたのは蘭だった。


「いやお前、街を出るって……引越し先はどこだよ?」


「……中国の予定よ」


「む、向こうの住所とかは、もう決まっとるん?」


「詳しいところはまだね」


「しかし本当にえらく突然だな。事情については尋ねても構わんのか?」


「悪いけれど詳しくは遠慮して頂戴。……大雑把に言えば家庭の事情よ」


「それにしたって四日後って。姉さんが長期の休みの宿題を滑り込みで片付けるのとは違うんだから」


「その辺りも含めて家庭の事情、というところかしらね」


 やや動揺を残しながらも、友人たちが次々に質問をぶつけ、ルルはそれに淡々とした様子で答えていく。沈黙したままなのは二人。ベアトリスと優太である。ただ、二人の様子は微妙に異なる。優太は衝撃からまだ立ち直っていないようだが、ベアトリスは最初のインパクトから立ち直り、何かを考え込んでいるようだった。


「わたくしは今後どうなりますの?」


 やがて自分の中で考えを整理したのか、ベアトリスがルルに問う。


「あなたはどうしたいのかしら」


 返されたその問いに、ベアトリスはすぐに答えることは出来なかった。ルルはそんなベアトリスをしばし見つめていたが、やがて興味を失ったようにふいと視線を外す。


「私が街を離れる前にこちらから連絡するわ。それまでに考えておきなさい。……こちらの邪魔にならない範囲でなら融通を利かせてあげられるわよ」


 言葉を終えると、ルルは友人たちの座る机から一歩遠ざかる。


「ル、ルル!」


 そのまま歩き去ろうとしたルルを、優太が呼び止めた。


「何かしら」


 足を止めはしたものの、ルルの反応は素っ気ないものだ。一方の優太も、呼び止めはしたものの、まず何を言うべきかを迷う。聞きたいこと、言いたいことは頭の中を渦巻いていたが、それらはこの場で言えないものか、はっきりと形を取らず、上手く言葉に出来ないものばかりだった。口篭ってしまった優太を冷ややかに見ているルルに向けて、立ち上がった蘭が優太の肩に手を置いて声をかける。


「諸々言いたいことはあるけどとりあえず置いといてだな。……早坂のことはどーすんのよ」


「どう、とは?」


 あくまで平坦に対応するルルに、優太はややたじろぎ、蘭は眉根を寄せた。


「だからよ、その、なんかあるだろ!? お前ら二人の仲なんだからさ。いわゆる遠距離恋愛になるかもってことだろ? もうちょっとこう、なんか言ってやれよ」


 がしがしと頭を掻きながらやや投げやりにそう言い切った蘭は、直後に優太の頭を結構な力ではたき、


「つーかお前も固まってないで自分で何か言えよ!」


 鬱憤をぶつけるようにそう吠えた。

 優太は顔を上げ、ルルと向き合う。その表情は先程から変わらず平坦なままだが、対する優太自身の方は蘭のお陰で、固まっていた心身が上手くアジャストされていることに気付いた。内心で蘭に礼を言いながら、口を開く。が、開いた口から言葉が発せられるより早く、ルルが手を上げてそれを制した。


「……優太。初めて会った日のことを覚えているかしら?」


 忘れるはずもない。夕暮れの公園でルルと出会った日のこと。彼女を守れる男でありたいと思った日のこと。それを彼女に誓った日のこと。だから優太は即座に頷いた。


「そう。……優太。あなたでは、無理だわ。だから、さようなら」


 今度こそ。優太は完全に凍りついた。それは、これ以上無い別離の言葉だった。踵を返して立ち去ろうとするルルを優太は呆然と見送り、しかし蘭が彼女を追いかけ、腕を掴む。

 流石にルルが足を止めるが、彼女は何を言うでもない。自身の腕を掴んでいる蘭の手を取り、それをあっさりと引き剥がす。対する蘭はなおも追い縋ろうとするが、結局立ち止まり、今しがたルルの腕から引き剥がされた自分の手のひらをちらりと見て、そのまま拳を握って立ち尽くす。そして優太もまた、ルルを追いかけることが出来ず、その場で彫像のように立ち尽くすしかなかった。






 


「……結局、連絡もつかないまま、かあ」


 時間は既に放課後である。優太は今、下校途中に公園のベンチに座り込み、操作していた携帯電話を懐に仕舞い込んだ。昼休みのあと、自分がどう過ごしていたかは優太自身、あまり覚えていない。ルル本人やレイセス家に向けて何度電話してみても、一向に繋がる気配もなく、結局無為に時を過ごすのみだった。

 否、どうしてもルルともう一度話がしたいのなら、午後の授業など放り出して、その足でルルの自宅まで押し掛けてしまえば良かったのだ。だが、優太にはそれができなかった。

 今まで、ルルを怒らせたこと、叱られたことは多々あるが、先程のように真正面から拒絶されたことは初めてだった。端的に言ってしまえば、優太は怖かったのだ。

 ルルを狙う道化師に対して、何の役にも立てなかったという事実。それによって、ルルを守るという自身の寄る辺が崩されたこと、そしてその結果として優太の中に生まれた、ルルに必要とされなくなるのではないかという思い。それが現実として目の前に現れたのだ。もう一度ルルのもとへ行ったとして、同じことの繰り返しになるだけなのではないのか。そう考えると、優太の足はレイセス家までたどり着くとこが出来ず、こうして公園のベンチで尻に根を生やしてしまっていた。


「やあ、優太君」


 突然かけられたその声に、優太はハッと顔を上げる。スリーピースのスーツに身を包んだ、隙のない立ち姿。そこにいたのは、ルルの弟子にして、優太にとっての恋敵である、趙雷獅だった。


「随分と元気が無いようだね」


「だったらなんなんですか」


 思わず口をついて出た刺を含んだ言葉に、優太は微かな自己嫌悪を感じる。雷獅の声には、ルルにさよならを突き付けられた優太に対する優越感のようなものは感じられず、単純に慮るような様子だったからだ。だが、それについて謝罪するだけの余裕も優太には無かった。故に、そのまま黙りこんでしまう。翻って、刺をぶつけられた側である雷獅はといえば、軽く眉を上げてみせただけで特に不快な様子も見せず、ふむ、とひとつ頷くと優太の隣に腰を下ろした。


「君と話がしたくてね、探していたんだ」


 視線を正面に向けたまま、隣りに座る優太に対してそんなふうに声をかける雷獅。


「……話、ですか?」


「そう。今日のルルの言動についての話、だ」


 相変わらず正面を向いたままの雷獅の言葉に、優太が激しく反応し、彼の方へと体ごと向き直る。それが分からないでもないだろうに、雷獅の側は、優太の方を見ようとはしなかった。


「なんで、わざわざそんな事を話しに来るんですか?」


 思わず、といった風に優太は疑問をぶつける。


「おかしいかな?」


 ここで初めて、雷獅はちらりと優太に視線を向けた。そこにどんな意図があるのか、優太には読み取れなかったが。


「だってそうでしょう? このまま放っておいたほうが、雷獅さんにとっては得なんじゃないですか」


 実際問題、優太はルルに会いに行くことも出来ず、この公園で燻っていたのだ。そこへ余計な燃料を放り込むことになりかねない雷獅の行動は、優太から見れば十二分に不可解なものだった。だが、雷獅は軽く笑ってそれを否定する。


「私はそうは思わないね。これは私の経験を踏まえた判断になるのだが。……ルルが以前、趙家、つまり私の家に滞在していたというのは知っているね?」


 優太が頷くのを横目で確認して、雷獅が続ける。


「だが、ある日突然彼女は消えた。当時の私はまだ子供だったが、彼女の弟子として認められていた。それでも、私は彼女から何も言ってはもらえなかった」


 雷獅はベンチの背もたれに体を預け、夕焼けに染まりつつある空を見上げながら深く息を吐き出した。


「何故、何も言ってくれなかったのかと悩んだよ。そして思った。彼女がどういう理由で趙家から去ったのか、それを話せると思わせることのできる男になろうとね。そして、いつか再びルルを見つけて会いに行こうと。もはや、執念と言ってもいいレベルだったね」


 優太は雷獅の横顔を見つめたまま、黙って彼の話を聞いている。余計な口をはさむべきではない、とそう思ったのだ。


「だから、ある意味ではあの時、ルルが私に何も言わなかったことが、今ここに私がいることの原動力の一つであったとそう思うんだ。……以上の私の経験と、これから話す事の内容から判断して」


 そこで言葉を切り、雷獅は優太を真正面から見やる。そして、唇の端を上げて皮肉げに笑ってみせた。


「つまり優太君。私は君に止めを刺しに来たんだよ」


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