「朝でふよ、太郎」
いつもと同じ、目覚めを告げる一切の感情を排除した幼い美声。
虚ろな思考がゆっくりと覚醒してゆくのがわかる、いつもと同じ朝の感覚。
上半身を持ち上げて、ゆっくりと目を見開き、朝特有の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み。
「おはよう、かーさん」
白い少女に頭を軽く下げて挨拶、見た目4歳ぐらいの少女が白いワンピースを纏って目の前を浮遊している。
同じく雪のように白い肌に、白い髪、風もないのに踊るように漂う様子は少し怖い。
全てが白で構成された少女、瞳は閉じられており、その色を窺い知る事は出来ない。
「おはよう、ご飯出来てまふ」
それだけを言い残して、部屋を出てゆくかーさん、床ギリギリまで伸ばした髪が触手のように蠢いて。
ドアをパタンッと閉める。
「ふぁ、んー、もう少し寝よう」
自分にはとことん甘い俺、かーさんがいなくなった事を良いことに再度夢の中へと。
バタンッ。
「太郎~、起きる」
いつものパターン、そしてまた入ってきたかーさんに頬をペチペチと叩かれる、冷たい手の感覚にため息をする。
でふでふと、不機嫌そうなかーさんの呟きは白い息となって朝の冷たい空気の中に消えてゆく。
無理やり叩き起こさないところがかーさんの良いところである。
「んー、やだ、寝る」
「でふ、学校に遅刻するでふよ、おかーさんとして、許さないでふ」
ムーーっと無表情ながらに一生懸命に俺を布団から出そうとするかーさん、白い髪の毛が俺の体にじゃれるように絡みつく。
サラサラとした心地よい感覚、体がゆっくりと浮き上がる……どうやら持ち上げられたらしい。
「このまま連行でふ」
「……眠い~~~~」
窓から差し込む光を嫌うように、かーさんの雪のような色の髪の毛に顔を埋めた。
■
ズズッ、味噌汁を口に含んで、ご飯をガツガツ、朝食はしっかりと食べるのが俺の信念。
今日は他のみんなの顔が見えない、先に出たのかな?
「かーさん、今日の味噌汁、グーっ」
「グーっでふ」
ガツガツと食べる俺の横で、かーさんはモグモグと静かに食べる。
本来はかーさん、食事は必要ないらしい、『本体』の端子である人間の肉体はどうだか知らないけど。
「今日は遅くなるでふか?」
「いや別に、かーさん、頬っぺたにご飯付いてるよ」
「??」
頬にご飯粒を付けたまま、キョトンと首をかしげるかーさん。
「はいっ」
「でふっ」
パクッ、取ってあげたご飯粒をかーさんに見せると勢い良く食いついてくる。
指をハムハムと噛まれながら、顎の力無いよねかーさんとか下らないことを思う。
「そう言えば昨日、家に帰る途中でシャッガイの昆虫が家の周りをうろついてたよ、ブーンってさ」
「でふ、たまに蜂蜜とかをお裾分けしてくれるでふ、良い虫でふ、蚊よりは好きでふ」
かーさんの本体を信仰している昆虫の皆さん、蚊よりは愛されてるらしい……哀れ。
テレビの修理とかもしてくれるありがたい虫なのに。
「蚊より好きってかーさん」
「でふ、蚊は嫌いでふ、血を吸われるととても痒いでふから」
かーさんの口から指を離して、ティッシュで拭きながら苦笑する。
何ていうか、かーさんおもしろ過ぎ。
「おっと、そろそろ行かないと」
携帯に表示された時間を見て椅子から立ち上がる、かーさんの眉間に僅かに皺が寄る。
「……む、一緒に『ごちそうさま』をまた言えなかったでふ」
綺麗に食べ終えたピカピカの食器、これが俺の。
そして僅かにご飯の減ったお茶碗に、一切手が付いていないおかず達、これがかーさんの。
簡潔に言えば、かーさんは食べるのが遅いのだ。
■
ドアを開けると、青々しい木々達が目に入る、空気が澄んでいるのは彼らのお陰。
この世界は『内包世界』あらゆる存在が共存している、不思議空間。
俺はここでかーさん達に育てられた、普通の、ただの人間、育った環境が少し普通の人と違うだけ。
ポケーっと突っ立ってると空中で浮遊する大きな鳥のようなものが目に入る、ニャル姉…ちゃんとチャーターしてくれてたんだ。
「ピルルーーー、おはよう」
『やあ、太郎様、おはよう』
ニャル姉の友達のシャンタク鳥のピルル、鳥とは言ってるけど体全体を覆う大きな鱗や頭部の馬のような愛嬌のある顔がそれを否定している。
「よいしょっ、じゃあ、いつもと同じで現世の穴まで直行してくれるかな?」
『心得た、しっかりと掴まっておるのだぞ、貴方の御身に何かあればニャルラトテップ様にボコボコにされてしまう』
ニャル姉は過保護、これは恥ずかしながらも事実であり、保護対象は俺になるわけで……最近になって恥ずかしさを覚えてきた。
何を考えてるかわかんないけど……俺のことはしっかりと見てるんだよな、ニャル姉、少し怖い。
体が浮き上がる独特の感覚を我慢しながらそんな事を思う、徐々に地面が遠ざかってゆく感覚は中々に怖い。
「おおっ!?も、もうちょっとゆっくり飛んでくれーーー!」
『太郎様は相変わらず怖がりでいらっしゃるな、了解した』
あまりの速度に体を縮こませるようにピルルの体にしがみ付く、青く広がった空の下では様々な種族が空を浮遊している。
太陽に照らされた彼らの姿は様々で、統一性の無いソレは人間のような均一な存在には少し羨ましい。
『おおーっ、太郎じゃねぇーか、こんなに朝早くに何処へ行くんだ?』
ピルルじゃない声が耳に入る、俺達の横にぴったりとくっ付いて浮遊する大きな影。
竜の友達のアジ・ダハーカ。
「おはよう、何処にって……学校に決まってるじゃん」
5歳ぐらいのときに現実世界のダマーヴァント山に幽閉されてるのを助けてからの親友、三頭、三口、六眼、そしてピルルの4倍もある巨体。
『悪の光輪者』の名に恥じない猛々しい姿をしているけど、俺にとっては少し年上の親友の感覚は拭えないわけで……内包世界にいる時はいつも一緒に遊んでいる。
『うげぇー、まだ現実世界に通ってんのか?魔法なら俺様が教えてやるぞ、何たって千の魔法を操る邪竜とは俺様の事よ♪』
『アジ・ダハーカ殿………太郎様を非行の道に誘うのはやめて頂けないか?』
ムスッとしたピルルの声、一応は自分より上位者のアジ・ダハーカに敬意を踏まえてるように見えるけど、声には毒気がたっぷりと塗りこまれている。
この世界では神性やら魔力を様々な基準に置いて7段階に分けている。
上位から『月』『火』『水』『木』『金』『土』『日』と名づけられたランクで言うならピルルは『土』程度の幻想でしかない。
だが最高の悪神であった『アンラ・マンユ』に生み出されたアジ・ダハーカのランクは『火』、圧倒的な力の差である。
『うっせぇな、這い寄る混沌のペット風情が俺様に指図するんじゃねぇよ』
「こら、そうゆう事は言わないの」
『チッ』
舌打ちしながらも去る様子の無いアジ・ダハーカ、ああ、そうゆう事ねと、納得する。
「今日は少し帰り遅いけど……それでも良いなら一緒に遊ぼう、えーっと、ほら、東の山に綺麗な泉見つけたって言ってたじゃん?」
『おう、そんじゃあ、良くわかんねぇけど、頑張れや』
「ありがと」
約束をして安心したのか、翼を大きく羽ばたかせて去ってゆくアジ・ダハーカ、近くを通りかかった送り雀の群れがピィピィと逃げる。
それが楽しいのか、何をするわけでもなくそれを追いかけるアジ・ダハーカ、性格の悪いやつ。
『太郎様、差し出がましいかもしれませんが、お友達は……』
「いいのいいの、あれで結構良いやつだし、唯一の欠点は性格が悪い…ってアレ?」
それって欠点って言うよりは、全体的な要素のような……まあ、馴れればあいつの悪態も味のあるものなんだ、うん。
そんなことを思いながら下を向くと、大きな山の中心にポッカリと開いた穴が見える、ああ、着いたんだ。
現世の穴と呼ばれる現実世界と内包世界を繋ぐたった一つの通路。
「あんがとなピルル、それじゃあ、また帰りに頼む」
『ああ、しっかりと勉学に育まれるように』
別れの挨拶とともにトンッと、硬い鱗を蹴って飛び降りる、馴れない感覚だけど絶対に保障された安全があるわけで。
落下しながら俺は大きく欠伸をする、どんどんと迫りくる大穴は一切の光無く俺を待ち受けている。
スポッ、そしていつも通りに軽い効果音とともに吸い込まれた。
■
屋上で彼を待つ、地面に走る四つの赤い光、四とは世界の安定を形にした数字。
四元素、四方位、そして今、異世界から来訪する彼の『場』を安定させる役割を持っている。
ポンッッ、やがて間抜けな効果音と同時に一人の青年が地面から出現する。
「太郎、おはよ」
「おはようフォルケール」
パンパンッと体についた埃を叩き落しながら彼は笑う、何処と無く人を安心させるような不思議な笑み。
田中太郎(たなかたろう)同級生であり、少ないお友達の一人……でもその名前は偽名。
育ての母親に名づけられた真実の名は…■■■■■■■■■■■■■■■、我々人類には発音不可能、なむー。
「ん、どした?」
「いえ、別に何でも無いですよ、太郎、今日の気分は?」
「良好」
よろしい、意味の無い会話、それが私達のやり取りの大半、足並みをそろえて屋上を出る。
隣を歩く太郎、黒目黒髪中肉中背ー、そんな平均的な日本人高校生の容姿をそのままに体現しています。
唯一常人とは違うのは瞳、目の中に時折光の角度によって浮かび上がる不思議な紋様がある。
今でも上手に確認できないソレは、さて、何なのだろう?
「人の顔をジロジロ見て、もしかして惚れたか?」
「いいえーー、ああっ、それとコレ、貴方のいない間の授業のノートです」
彼は一週間に2度しかこの学校に通うことができない、内包世界と現実世界の門は月曜と木曜にしか開かないからだそうな。
我が学園『北条学園』は世界各国から異能の使い手が集う不思議学園、でも、流石に内包世界から通っている存在は彼だけ。
理由は簡単、彼以外に向こう側の世界に行くことは不可能、もし常人があちら側に行けば発狂することは間違いないです。
だから彼は頭のネジがいくらか飛んだ壊れた人間です、これ、間違いないです。
「おおー、さんきゅー、今日は朝からアジ・ダハーカとピルルが出会っちゃってさ、気まずいの何のって」
無駄に施設が充実した我が学園、自動販売機でジュースを買いながらも彼は苦笑する……私も微かな苦笑い。
アジ・ダハーカって……ゾロアスター教に現出する最強の悪竜、千の魔法を行使したとされ、竜族でも最強の一つとして数えられる。
召喚科の先生でも命がけで召喚しないと呼びかけにも答えてくれないような上位の幻想はよりにもよって彼の親友らしい。
ピルルとはクトゥルフ神話に置ける夢の国(ドリームランド)に生息しているとされるシャンタク鳥、怪鳥”兼”彼の専用のタクシー。
どうりで彼自身は成績が良くない筈なのに、この学園にいれるわけだ、存在そのものが保護されるべき人外の中で生まれ育った男の子。
それが私の友達の『田中太郎』
■
『彼がこの学園にはじめて姿を見せたのは2年前の春の日だった』
内包世界と名づけられた世界が構築されているのは我々も知っていた、数々の幻想がそこに住み着き出していることも。
太陽が白羊宮に入ったのを確認して、北風の吹く方向へと顔を向けた、へっくしっ、くしゃみをする。
「うぅー、寒いです……」
ズズッと缶コーヒーを飲みながら思う、この世界は今から滅びるのだ、愉快な気分。
十分に魔力に満ちた今の自分なら、失敗は無いはず、あらゆる神話体系の中から選びぬいた存在、それを今から現世へと。
缶コーヒーを地面に置いて、深呼吸。
「ああ、シュブ=二グラス、大いなる森の黒山羊よ、我は、我こそは汝を現世へと現出させる者ぞ」
地面に跪き、嘆願する、ザワッと木々が蠢く気配、たったそれだけで場の魔力の濃度が上昇するのがわかる。
「汝の僕の叫びに、応えたまえ、力ある言葉を知る者よ、眠りから目覚め、千の我が子を率いて出現したまえ」
ヴーアの印とキシャの印を順に結ぶ、何度も練習した一連の動作はスムーズにできている、大丈夫。
汗が頬に流れる嫌な感覚を我慢しながら、言葉を紡ぐ。
「我は印を描き、言葉を発し、扉を開ける者なり、現れたまえ、我は鍵をまわす存在(もの)なり、再び地上を歩みたまへ」
とりあえずは噛まずに言葉を紡げたことに感謝しつつ深呼吸、魔力の濃度が上昇する場の中で息苦しさを覚えながらも動く。
炭に燻香を投げ込んで、指に魔力を込めて空中に蚯蚓がのたくったような文字を描く、むむっ、ブラエスの記号は割とめんどいです。
『……ザリアトナトミクス、ヤンナ、エティナムス、ハイラス、ファベレロン、フベントロンティ、ブラゾ、タブラソル、ニサウォルフ、ウァルフ、シュブ=ニグラス。ダボツ・メムブロト』
力ある言葉を告げ終えると同時に、紫色の強烈な光が天に向かって雄雄しく伸びてゆく、やったっ!成功ですっ!
ざまあみろと心の中で囁く、今更ながらに気づいた教師達が駆け寄ってくる気配、遅い、亀の歩みよりも遅いですよ。
平和ボケした魔術師達は、愚かとしか言いようが無い怠惰な存在、このような事態を想定していないとは、低脳ですね。
さあ、この世界を蹂躙するために出現せよ、外なる神よっ!外なる女神よっ!大いなる森の黒山羊よっ!口が三日月の形に歪む。
ポンッ、そして間抜けな効果音と共に……ふぇ?ま、間抜けな効果音?
「いたたたたっ、な、何だ?」
声がする、私と年齢の違いを感じさせない大人にはまだ達してないであろう青年の声。
しかも『場』は魔力の残滓が微かに残るだけで、先ほどの限界まで高められた魔力は空気にあっさりと四散したようだ。
そして目の前には一人の青年、黒目黒髪の普通の青年……内包世界に住まう数々の幻想を手違いで召喚した?
それにしても、目の前の青年はあまりにも魔力を感じさせない、普通の人間以外の何者でもないようだ。
「え、えっと、貴方は誰ですか?」
「俺?……俺は■■■■■■■■■■■■■■■」
口を蛸のように窄めて、人外の名を名乗る青年、およそ我々人類には発音不可能であろう呼吸音……どんな口の動きですか。
それが名だと言うのですから、私は顔を顰める、すると青年はああっと納得したように独り言を呟く。
「えーっと、俺のもう一つの名前は田中太郎だ」
「たなかたろう……ふむ、では、太郎で」
口の中で何度かその名を転がすように呟いてみる、自然体に名を呼び捨てに出来るとは、私自身驚くほどに珍しい。
目の前の青年は何処か夢見がちな、虚空をさまようかのような瞳でニッコリと微笑む、調子が狂うとはまさにこの事です。
「しかし、シュブ姉のところで仔山羊達と遊んでたはずなんだけど……ここ何処?」
シュブ姉?仔山羊?……微妙に違和感を感じる、何だか少しずつだが仮説を頭の中で練り始める、馬鹿らしい仮説。
目の前の存在は、田中太郎は、内包世界に住んでいる人間?
「ここは現実世界ですよ、ちなみにシュブ姉とは?」
何名かの強い魔力の波動を感じる、教師達がここを突き止めたらしい、さてはて、退学ですかねぇ、割とあの寮は気に入ってたんですけど。
ちょっと、ちょっとだけです、でも残念です。
「シュブ姉? シュブ=ニグラスって名前の家族……どうしたんだ?」
ははっ、魔力が尽きてしまったみたいです……でも、興味深い存在を呼び寄せた見たいですね私、これはこれでおもしろいかもです。
そんなことを思いながら、私と彼の出会いは終了した。