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[11004] 狸と瓢箪
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/08/13 07:22


文永二年。西暦でいう1593年。大坂に一人の男児が生まれる。


父の名は豊臣秀吉。日本史上、最も成りながった男にして、天下人。

母の名は茶々。淀君、と呼ばれるほうがしっくりくる女性である。
織田信長の妹、お市と北近江を支配していた大名、浅井長政の血を引く娘。
天下人、秀吉に見初められてその閨に入り、子を産んだ。
これまで数多くの側室を抱えながら一人として子が出来なかった秀吉にとって、待望の世継ぎである。
これより先に、鶴松という名の男児を茶々は産んでいるが、あえなく病死している。
もはや暗い老後を覚悟していた秀吉にとって、まさに雲間から太陽が出現したかの如き出来事であった。

生まれた男児は『拾』と名付けなれた。
奇妙な幼名だが、これには理由がある。
当時、「拾われた子は丈夫に育つ。神仏の子だからである」との民間信仰があった。
秀吉は前に死んだ鶴松の事を思い、今度の子は「自分の子ではない、ただ淀君の子である」として拾い子としての体裁を取ろうとした。
神仏を騙してでも、このただ一人の息子を守ろうとしたのだ。
実際に、生まれた赤子は一度大坂城の城門前へ置かれ、秀吉の旗本がその子を拾い、秀吉に見せる、という形式まで行った。

秀吉にしてみれば、57歳になってようやく出来た世継ぎの男児である。
まだ言葉も喋れるこの幼子に「お前には大坂城をやるぞ」と言ったという。
それほど、秀吉にとってこの子は待ち望んだ、諦めかけていた希望の子だったのだ。


例え、周囲の噂で「太閤様(秀吉)の種ではないのではないか」と囁かれていたとしても。
当然彼の耳にそのような囁きが聞こえることはなく、ただただ、この子を愛した。
老い先短い身を削ってでも、この子のために全てを残してやろうとあがき始めた。


―――――幼名、拾。

―――――後の豊臣秀頼である。


狸と瓢箪 ~序章~


拾―――つまり秀頼に関係のある事件がおきたのは慶長3年(1598年)のことである。
実父、豊臣秀吉が亡くなったのだ。
とはいえ、この時、秀頼はまだ5歳。
父が亡くなった、という事は理解できても、その周囲で起こっている政治的な動きはまるで理解していなかっただろう。

豊臣家内部の武断派と官僚派の対立。それを煽り、利用していく徳川家康という男。
ついには石田三成の失脚、上杉景勝に謀反の疑いありとして家康が挙兵。
大坂を留守にした隙を突くように石田三成が大坂に戻り家康討伐を掲げて挙兵。
世に言う関ヶ原の戦いへと突入することになる。
この間、秀頼は非常に微妙な位置にいた。
家康は豊臣家に弓引く上杉を討つ事を名目としている。また、豊臣家の家政を壟断している三成も反逆の徒として討つと宣言している。
三成は家康を弾劾し、豊臣家から天下を奪おうとする大悪人であるとしてこれを討つと宣言している。

・・・秀頼は双方から「この戦いは秀頼様のため」と担がれている立場であった。

関ヶ原の戦いについてはここでは割愛するが、結果として三成は敗れ、家康は勝った。
武断派を纏めて味方につけた家康率いる東軍は、官僚派である三成ら西軍を破った。
石田三成、小西行長らは捕らえられ、処刑された。

この後の論功行賞は当然ながら家康主導で進められ、家康に味方した武断派の大名達は軒並み加増した。
しかし、大きな領土を与えられながら、西国へと転封となり、重要な地である京都周辺や東海道は徳川家譜代の大名や家康の子たちに与えられた。
これにより天下人であった豊臣家はその領土を70万石程度の一大名へと地位を落とされた。
一方、徳川家は関ヶ原前の250万石から400万石へと加増され、さらに佐渡金山・石見銀山などの主要な財源をも手にした。
これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。

ここから豊臣と徳川の、奇妙な関係が始まることになる。


慶長8年(1603年)、徳川家康は朝廷より征夷大将軍を任じられる。これにより家康は幕府を開く権利を公的に認められたことになる。
家康は江戸城の普請を始め、ここに徳川幕府を開いた。
徳川家による武家政権の始まりである。
秀頼は、実質この時から権力の座から外されたと言えるだろう。


しかし奇妙なことに豊臣家は徳川家に臣従はしていない。
豊臣家としてはあくまで徳川家は豊臣家の臣下であり、こちらが主筋である、との認識で振舞っていた。
当然、家康としては面白くない。だけでなく、困る。
家康にしてみれば、すでに両家の力は隔絶しており、自分は将軍となっている。
当然、豊臣秀頼は臣下の礼を取り臣従するのが筋である・・・と思ってはいるが、こちらからそうせよ、と露骨には言えなかった。
『簒奪』というイメージが世間に定着してしまうのを恐れるためであった。
あくまで、豊臣家のほうから臣従するのが望ましい。
そこでまず、家康はたった二年で将軍職を息子の秀忠に譲ってしまう。
これは内外に「今後、征夷大将軍は徳川家が世襲する。当然天下も徳川家が世襲する」ということを示したのである。
家康は秀吉の遺言もあり2代将軍徳川秀忠の娘千姫を秀頼の嫁として娶らせる。
「千の婿殿も久しく見ておらぬ。久々に逢いたいものよ」との口実で秀頼に上洛を促すが、生母の淀君の強烈な反対あってこれは頓挫している。
やむなく家康は息子の一人を大坂城にやって秀頼と面会させているが、内心は苦々しい思いであっただろう。
「今、秀頼が上洛し挨拶に来ればそれで世間は豊臣家も徳川家の天下を認めた・・・となる。それが豊臣にとって最善の道であろうに」
家康にしてみれば様々に手を回してお膳立てをしてやっているのに、まだ自分達が主家・主筋である、との理論を振りかざす大坂の輩には辟易としていた。

慶長16年(1611年)、秀頼は、「正室千姫の祖父に挨拶する」という名目で、二条城で家康と会見する。
これは、加藤清正・浅野幸長ら豊臣子飼いと言える大名達が必死になって淀君を説得した結果である。
彼らにしてみれば、最早天下は徳川家のものである。このまま意地を張って徳川家と豊臣家との戦争ともなれば、自分達の立場が苦しい。
だから上洛して家康に会う・・・というこの行動を持って、どうにか丸く納めようとしたのである。

しかし、大坂の淀君が徳川家に臣従するなど認めるわけもなかった。二条城でも会見も加藤清正らが秀頼を命に替えても守るとの約束で認めたまでである。
つまり秀頼は、形式的には依然として家康の主筋だったわけである。あくまでも形式的には、だが。

しかし、この頃には秀頼は19歳である。当然、元服も終わっており、これからいよいよ人として盛んになっていく時期である。
一方で家康はすでに老齢であり、どう考えても秀頼よりは先に死ぬ。
未だ天下を取ったとは言え、その組織は完成しておらず、また豊臣家が臣従せぬ限り、他の大名達へも微妙な影響がある。


あくまでも臣従する気がないと言うのであれば。
自分が生きている間に禍根は全て断ち切っておくべきだ。

家康はそう考えた。

この二条城での会見後、家康は側近である本多正純らに工作を命じる。
「豊臣家を攻め滅ぼす、大義名分を得よ」と。
彼ら側近は大義名分を探すと同時に、豊臣家の力を削ごうと画策した。
秀吉の追善供養として畿内の寺社の修理・造営を行ってはどうか、と大坂方へ図ったのである。
膨大な寺社の修復や大仏の建造などに金を使わせて、豊臣家に残る力である金銀を枯渇させようとしたのである。
しかし、85もの寺社の修復・造営を行ってなお、豊臣家には尽きることのないと思うほどの金銀があった。
側近たちはむしろ大義名分を急ぎ得て、一気に降伏させて金銀を接収するのが良い、との結論となった。
すさまじきは豊臣秀吉がその手に握っていた金山・銀山から出る金銀と交易・商売で儲けた財の巨大さであった。


慶長19年(1614年)、世に言う方広寺鐘銘事件が起こる。
梵鐘の銘文が徳川家にとって不吉なものである、と言いがかりをつけたのだ。
「国家安康」は家康の文字を分断している、とし「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願いその反映の元で臣達が楽しむ、という意味だろうと言いがかりをつけた。
大義名分としてはかなりのこじつけというか、言いがかりだが、これを切欠に豊臣家と戦に及び、滅ぼすことが家康の目論見である。
こじつけだろうと言いがかりだろうと、隙を見せたほうが悪いのだ。

家康、そしてその側近達はおそらく大坂から慌てて片桐且元が駿府にきて弁明すると読んでいる。
そこで方広寺の件ではうやむやにして、「要は世間は豊臣が徳川に弓を引こうとしていると考えている。これをどうするか」と脅すつもりである。
片桐且元は豊臣の重臣であるが、小身の大名であり、家康に逆らうような気概もない。おそらく、どうにか平和に事を納めるためにその場で譲歩する言葉を言うだろう。
後は且元が大坂に戻るまでに、大坂城の女どもに色々と吹き込んで且元を悪人にしてしまえばいい。
淀君はせいぜい癇癪を起こして且元を追い払うだろう・・・それが結局、大義名分となる。
そういった筋書きである。
「せいぜい、且元には苦労して貰おう。なに、事が終われば加増してやれば済むことだ」
こうして罠を貼って待ち受けていた家康の側近であったが、彼らにとって意外な事が起こった。

弁明の使者として現れたのは片桐且元ではなく、大野治長であったのだ。




――――その頃の大坂城、天守閣。
上座に巨体の男が座っており、その前に若い男が平伏している。

若い男の名は木村重成。秀頼の乳母の息子であり、秀頼の幼馴染と言える存在である。
上座の男は当然、この大坂城の主、豊臣秀頼である。


「大野殿は本日には駿府に到着するかと存じます。秀頼様が自ら持たせた書状を大御所へと差し出すでしょう」
涼やかな、と言っていい風貌の若き侍は凛とした声で秀頼に語りかける。
「先日、秀頼様よりお指図のありました、四人の浪人には密かに渡りをつけております」
それに大して秀頼が声を発した。
「・・・どうだ?」
「はっ。真田殿、後藤殿、長宗我部殿はすぐにでも参陣するとのお返事にございます。明石殿はいくつか聞いて頂きたい議があるとのこと・・・」
「ああ、キリス・・・伴天連のことだろう。禁教令を解くことに問題はないと伝えてくれ」
「かしこまりました。それと、兵糧のことでございますが、堺のみならず近隣からも集めて米蔵に積み上げてございます。
 弾薬、武具、馬も順次城内へ配備しております。全て順調にございます」
「・・・そうか。わかった。世に溢れている浪人達もどんどん雇い入れよ。武勇のあるもの、知略のあるものはどんどん取り立てろ」
「承知。では」
そういって出て行く木村重成。彼にはまだまだ仕事が多く残っている。


一人、天守閣に残った秀頼は、眼下に広がる町並みを見ながら呟いた。

「目が覚めたら慶長時代・・・しかも俺はあの豊臣秀頼! 大坂の陣で負けて大坂城の蔵の中で焼死する運命って冗談じゃねぇぞ。
 くそ、あと五年早かったら、家康にこれでもかってくらい頭下げて大名なんてとんでもない、僕なんて千石でも貰って御伽集の端にでも加えてくれたら十分ですって言えたのに。
 すでにやる気まんまんじゃねぇか、あの狸爺め」

周囲に誰もいないことを確認して・・・彼は、豊臣秀頼は叫んだ。

「俺は死なねーぞ! 最低でも引き分けに持ち込んで身の安全を確保してやる!」

・・・声の割りに言っている事は小さい男であった。



[11004] 狸と瓢箪~又兵衛講義~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/08/14 04:57
「戦略とは、敵の最も嫌う事をやることです」

秀頼の前に一人の男が座り、威厳のある声でそう言った。
彼の名は後藤基次。後藤又兵衛とも呼ばれる男である。
木村重成が密かに連絡を取って、大坂に誘った浪人の一人であり、秀頼から名指しで指名された男でもある。
彼は京で物乞いのような生活を送っていたため、すぐに大坂へと参ずることが出来た。


「この戦、ただ戦い、ただ時を過ごせば万に一つの勝ちもありませぬ。
 敵は巨大であり、我らよりあらゆる点で優位に立っています」

大坂城へ入った又兵衛はすぐに秀頼に拝謁した。
そこで秀頼から関東との戦において如何に戦うべきか、忌憚のない意見を述べてくれと声をかけられたのだ。

「まず、関東の戦力において、冷静に判断をする必要があります。私はそれなりに戦場での生活が長かった者。
 大方の諸将についてはその手腕を存じております」

普通、秀頼のような身分の者から直接声をかけられ、意見を聞かれる事などない。
取次ぎや側近に対して声を上げて意見を言い、側近がそれを横にいる秀頼に語る、という手順を踏まなければならない。
秀頼は従二位右大臣という官位を持っており、又兵衛は無官である。
直接の拝謁すら、本来の武家のしきたりから言えばありえないことである。
それが直接対面したばかりか、周囲に信頼の置ける者のみを置いた場で意見を求められたのだ。
又兵衛は素直に感動すると共に、一つの感想を持った。

意外と、器量のあるお人かも知れぬ、と。

「関東は全国津々浦々から大名を集め、その物量で押しつぶす事が最も基本的な戦略となりましょう。そしてそれは正しいと言わざるを得ません。
 戦の基本は相手より多くの兵を集め、その兵力を集中的かつ効率的に運用することです。相手よりはるか大きい戦力を集める事ができれば、戦の準備段階は成功と言えるでしょう。
 そして、残念ながらどう足掻いても関東より多くの兵を集める事はできない・・・そうですな?」

そう言って傍らにいる若き側近、木村重成を見る又兵衛。
その視線を受けて重成が答えた。

「関ヶ原以降、巷に溢れかえった浪人達を集めております。その数はおよそ十万ほどになるでしょう。
 しかし、歴とした国持ち大名は一人として参陣することはない・・・というのが我らの予想です」

重成は我らの予想、と言ったが正確には秀頼がそう言ったのである。
重成や他の側近、又は奥の女中や淀君周辺の女どもは「豊臣家が激を飛ばせば世の大名はこぞって参集しよう」と思っていたが、秀頼は史実を知っている。
史実を知らずとも、世間に精通した者は今や巨大な領土、権力、兵力を持つ徳川家に逆らって大坂に参陣するなどという自殺行為を行う大名などいないと分かっている。
豊臣家恩顧の大名達ですら、関ヶ原で徳川についたのだ。絶望的な戦力差のあるこの戦で大坂に着こうという大名など皆無である。
これを聞いた又兵衛は頷いて先を続けた。

「関東はおよそ二十万以上の兵を集めてくるでしょう。倍を有する相手に正面から当たっては敗れるは必定。
 さらに関東は総大将を徳川家康殿が、別働隊を現将軍である徳川秀忠殿が率いてくる布陣となりましょう。
 各諸将の中には私と同じかあるいはそれ以上の戦歴を持つお方もおられます。例えば北の伊達氏、西では島津氏や毛利氏、私のかつての主君である黒田氏などです」

他にも立花宗茂、井伊直孝、藤堂高虎など挙げればきりがない、と又兵衛は語った。
又兵衛の語り口調は老先生が若き生徒に理論立てて講義をしているようになっていた。

「我ら、つまり大坂方における優位、これはまずなんといってもこの大坂城でありましょう。古今無双の巨城であり、これに十万の軍勢が篭ればそうは落ちませぬ。
 しかし、ただ守っているだけではいずれは内部より瓦解しましょう。これは多くの歴史が証明しております。長い篭城は士気を萎えさせ、脱け出る兵や寝返る者が相次ぐでしょう。
 そして防衛線は崩壊する。まず、篭城するのであればこれを防ぐ事が第一です。兵糧を多く積み上げ、弾薬と刀槍を充実させ、内部に娯楽も用意する。
 さらに守っているだけではなく、勝てるやもしれぬ、という気持ちを士卒に実感させることが必要です。それにはまず、浪人達を統率できる指揮官が必要となるでしょう」

そう言って又兵衛は秀頼を見る。
譜代や側近だけでは集まった浪人達を統制することは出来ない、そこをどうするのか、と問うているのだ。

「お主の他に、一人は明石全登を考えている。既に参陣するためにこちらに向かっている所だ」
秀頼はそう答えた。
わざわざ明石全登の名を出したのは又兵衛なら彼の事を知っているはずだと思ったからである。
案の上、彼は喜色を浮かべて言った。

「ほう、明石殿が来られるのですか。それは心強い。彼ならば万の軍勢を率いて手足のように進退できましょう」

この秀頼の答えに又兵衛は安堵していた。
浪人達の中で能力があり、指揮官として活躍できそうな人物は誰でも取り立てていく、と明言したと解釈したのだ。

「浪人は世に溢れている。浪人だけでなく、関ヶ原で敗軍となり幕府の監視の下、窮屈な生活を送っている者も多い。
 それらの人々をここ、大坂城に呼び集める。近い内に幾人かの将が参陣する。又兵衛、お主もよろしく頼むぞ」

秀頼からそう声を掛けたれた又兵衛は、深く頭を下げた。


謁見が終わり、退出した又兵衛は与えられた城内の邸宅へと入った。
蝋燭に火を灯して、薄暗く光る部屋の中で彼は口元に笑みを浮かべていた。

「関東の軍勢二十万、相手にとって不足なし。この上ない花道よ・・・」



その頃の秀頼は。
自室で又兵衛との謁見を思い出していた。

すげぇよ、後藤又兵衛だよ! ホンモンだよ!
京で落ちぶれていたとか本当だったんだな・・・確か、黒田長政と折り合いが悪くて出奔したんだよな。
後世にも戦上手として伝わってる人だ・・・戦略面は任せて大丈夫だろう。
史実では浪人達と譜代の間で確執があったり、淀君・・・つまり俺のお袋様が色々口を出してきて振り回される形になった浪人達が結局奮戦むなしく敗れたが。
すでにお袋様には「表の事には口を出してくるな」と強く言っておいたし実際に浪人との謁見や戦略会議には参加させてないしな。
どうにかしてあの狸親父の軍勢に渡り合って状況を変えないと。俺、死ぬし。
蔵の中で腹斬って焼死とか絶対に勘弁だぞ。
勝てるかどうかとか考える前に、このままじゃ負けるんだ。
和議の後、堀を埋められるとか冗談じゃねぇし。
史実に残るほどの名のある武将達の力で、必ず戦局をひっくり返してやる!

・・・まあ、現実を見るとどうやって勝つのか想像もつかんが。
豊臣家に集った浪人達対徳川家率いる全国の大名・・・だもんな。
普通に考えて・・・というか、俺程度が考えて勝てる戦でないことは確かだ。
幸い、実際に後藤又兵衛に会って意見を聞いたが、何か又兵衛には思案があるようだ。たぶん、史実の又兵衛も何か案を持っていたんだろうな。
実行しようにも出来なかっただけで。
どちらにせよ・・・俺に出来ることは優秀な武将達に指揮を取らせて万に一つの勝機を見出して貰うことだけだ。
そのためにも・・・まだ関東から決定的な手切れになっていない今、先に重要人物をこの大坂城へ呼び寄せているのだ。
きっとどうにかなるはず。いや、どうにかしないと俺が死ぬ!


こうして秀頼は急速に戦準備を行っていく。
どうせ何もしなくても、いつかは家康は豊臣家を滅ぼすために大義名分を掲げて攻めてくる。
それが分かっているから、大急ぎで準備を進めていた。
家康のほうも大坂が露骨に戦準備を進めているので、すぐに反応して全国の大名に動員を行うだろう。
それまでにできる限りの準備を行う。それが今の秀頼に出来る事であった。


後藤又兵衛が大坂城に入城してから十日後。
秀頼が名指しで指名した男の一人が参陣した。

後の世で五人衆と呼ばれる男達の一人。
真田信繁である。



[11004] 狸と瓢箪~真田参陣~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/08/17 00:24
かつて、防衛戦、あるいは篭城戦の名手がいた。
名を真田昌幸。上田城の城主にして表裏比興の者と呼ばれた智将である。
城とそれに付随する防御施設、自然の地形を最大限に利用しての防衛戦には定評があった。
特に、上田城という小城で徳川の大軍を二度も防ぎきっているという事実がそれを物語る。
家康公は城攻めが苦手、という評価に一役買った人物と言えるかもしれない。
だが、彼も関ヶ原の戦いで西軍につき、徳川秀忠率いる大部隊を中仙道で足止めしついに関ヶ原本戦に参加させないという抜群の武功を挙げながら、
西軍が敗走したために、敗者の地位へと追いやられた。
高野山近くの九度山にて息子の信繁と共に蟄居となる。死罪となるはずであったが、家康に仕えていた長男、信幸の助命嘆願により赦免されたためである。
九度山に蟄居して以来、国許から援助を受けつつ真田紐という紐を販売して生計を立てていたという。
関ヶ原から年月もたち、何度か家康に赦免を願う旨を伝えているが、遂に許される事はなかった。
彼は慶長16年に病で死ぬが、その晩年には家康に赦免を期待することを諦め、徳川家への恨みが残った。

彼は別の期待をしていた。豊臣家と徳川家の戦である。
豊臣と徳川が手切れとなれば、必ず豊臣家は自分を誘うであろう。
そうすれば自分が采を取り、あの大坂城を舞台に徳川家相手に三度辛酸を舐めさせることが可能である。
上田の城ですら落とせなかった家康に、我が采を振るう大坂城を落とせるわけがない。
その自信も戦略もある・・・だが、この身がそこまで持つかどうか。
そう息子である信繁に語っていた。


あの城を使えば、いかな大軍でも防ぎきる自信はある。
長き対陣を相手に強いれば、全国の大名の負担は増大し、不満が拡大するであろう。
そうすれば幾多の大名達の間に、徳川家を見限り、豊臣家に着く者が出る可能性はある。
いや、そのような流説が流れるだけでも効果はある。
そうしてさらに無理押しを徳川に強いれば、乾坤一擲の機会が必ずある。
そのためにはどう戦い、どう守り、どう攻めるか。
それをひたすらに夢想し、叶わぬと知りながら万が一の可能性に賭けていた。
が、彼の命数はそれに間に合わなかった。
無念さを抱えたまま、彼は死んだ。
「家康程度、あの太閤様が作った城を使えば・・・返す返すも無念である」
これを大言、老人の戯言と言い切れないのが彼の戦歴の恐ろしいところであるのだが、いかんせん寿命には勝てなかった。

それを側で聞いていた、息子の信繁が、豊臣家からの誘いに乗って大坂に入城したのは当然であろう。
彼には、尊敬する父の無念を晴らす絶好の機会であったのだから。
当然、このまま九度山に蟄居していても父と同じように許されることもなく、ただ逼塞して死んでいくだけという気持ちもあっただろう。
それ以上に、彼は華々しき舞台でもう一度六文銭の旗を掲げて真田の武勇を証明したいという気持ちが強かった。
だからこそ、使者の「秀頼様は信繁殿を名指しで必ず味方につけよと仰せられました」という言葉に歓喜し、急いで郎党を集めて九度山を降りた。
一応、浅野家の監視の下にあり、近隣の百姓達がその役目を担っていたのだが、彼は父の旧臣を集めると秀頼から送られた支度金を使って彼らを完全武装させた。
そのまま、夜間に麓の村を押し通ったのである。百姓に止められるものではなく、さすがに浅野家もこの百姓達を不問とした。
この時の信繁の心情をいい現すなら。
「家康に父の無念の分、きっちり落とし前着けて貰う」
と言ったところである。さすがに再び世に出るための出陣、しかも徳川家相手の大立ち回りぞ、と意気込んでいる侍たちを百姓に止めろというほうが無茶である。


なお、史実よりも秀頼からかなり大目の支度金を渡されていたので、兵装を整えることが出来たために、史実のように城門で山賊と間違われるような事はなかった。
むしろ大坂城の近くまで来た時に秀頼から再度使者が訪れ、立派な馬や真田の馬印を渡してくれたのだ。堂々たる行進であった。
このことも、信繁の秀頼に対する心証を良くした。

士を知っておられる。

そう思い、大阪城に入城した彼は早速秀頼との謁見に望んだ。


「大坂城に篭ってひたすらに防衛する前に、京へと部隊を差し向け、二条城を襲うべきです。
 敵よりも先に機先を制して出撃、大和の宇治、瀬田の橋を落として河川を天然の堀に見立て敵を迎撃。
 そのまま伏見城を攻略し、これを焼き払い、さらに京へと進撃するのです」

野戦で勝利を得ておくことにより、大坂方強し、の印象を敵に与え味方には勝てるかもしれぬ、との希望を抱かせる。
武威は大いに上がり、士気も高まるであろう。
その後部隊を撤収して大坂城を拠り所にして敵を防ぐ。
この初戦での勝利によってその後の流れが大きく変わるはずである。
これが彼の、というよりは父である昌幸の基本戦略であった。

「徳川方は全国から大名を動員します。集結には当然のことながら時間がかかり、先に大和へと進撃すればさほどの抵抗はないでしょう。
 堺を押さえるための出撃はもちろん、ここはどんな形でも勝利を掴んでおくべきです」

その後は寄せかかる敵を城壁によって撃退する。
最初に勝利を得ていれば、敵は必ず勢いを取り戻す為にも無理押しをしてくるだろう。
そうすれば撃退も容易になり、敵に損害を与えやすくなる・・・というのが信繁の戦略であった。

準備が整えばすぐにでも軍勢を動かし、一気に初戦の勝利を得る。
同時に大坂城の防備を強化しなければならない。
彼は城の南側に出丸を築くことを提言した。

「城の南方の防備が弱い、と太閤様はおっしゃったと父から聞いておりますが、なんの、この城の防備は南側とて十分です。
 されど、そこに出丸を築くことによって敵により多くの打撃を与えられるでしょう。
 敵も南方の防備が他に比べて弱い、ということを知っておりましょうから、そこを攻め立ててくるのは必定。
 そこで大いに敵を叩いておけば、やはりそう簡単にはこの城は落ちぬ、との印象を寄せ手に与えることができます」

史実でも同じような提案をし、その提案が譜代衆から退けられたことを知っている秀頼はこの意見を聞いてこう言った。

「確かにその作戦は大いに有効であろう。ただ守っているだけでは勝てない、との言はさすがに智将として知られた昌幸殿の薫陶を受けただけの事はある」

秀頼にしてみれば史実と同じように城に篭っていても同じような結末を辿る可能性が高いことを知っている。
一か八か、この信繁の戦略に乗って流れを変えなければならない。
このままだとどうせ負けるのである。出来る事は全てやっておきたかった。

「これが今、我らに味方すると返事をくれた者達である。すでにこの中で後藤又兵衛殿は入城しておる。
 続々と浪人達も入城しており、木村重成が編成を行っている。元信濃や甲斐出身の者達はそちの手につけよう。
 どうだ、その先発部隊、任せられる者はおるか」

信繁としては自分がその部隊を率いるつもりであったが、これは秀頼に止められた。
城の南に築く出丸の指揮を執ってもらわねばならないし、防衛戦となれば彼の技量が不可欠だと見たからだ。

自分の戦略が受け入れられたことにより、大いに満足していた信繁は早速出丸の普請に取り掛かることを約束。
提示された浪人衆の名前を見て、一人の男を指し示した。

「又兵衛殿には他の役割がありましょう。さすればこの中で名声があり敵もさるものよ、と相手に思わせるお人がおりまする」

彼が指し示した名前は二人。

「一人は御宿勘兵衛殿。さらに一人は明石全登殿でしょう」

明石全登を大将として、先駆けとして御宿勘兵衛がこれを率いる、という布陣を信繁は提案した。


この会談からまもなく、後の世で五人衆と呼ばれる一人、明石全登が入城した。



[11004] 狸と瓢箪~挑発~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/08/21 00:10
「あの時・・・関ヶ原でわしは秀家様の先陣として福島正則隊と戦った。戦況は一進一退、いや、うぬぼれるならわしが押しておったよ。
 何度も福島隊を押し返し、押し込み、何丁も退がらせた。だが、我ら宇喜田隊に後詰めはなく、どうしても関ヶ原中央に進出できなかった。
 今でも昨日の事の様に思い出せる。西軍のあと一隊でもまともに戦闘に参加していたら。毛利が山を降りていたら。
 全ては意味のない仮定じゃろうがの。結局、あの家康が石田三成より何枚も上手であったわけだ」


大坂城に入城した明石全登は、秀頼との謁見を済ませた後、真田信繁を訪ねていた。
自分を先制攻撃隊の大将へと押してくれたことの礼と、あの真田昌幸の息子に直に会ってその器量を確かめたかったのだ。
今、彼は信繁と差し向かいで酒を酌み交わしながら語っている。

「正午くらいか、それより前か。定かではないが、小早川隊が突如として大谷殿の部隊に襲い掛かった。
 秀家様は激昂し、口汚く秀秋殿を罵った。金吾を討て、金吾と刺し違えてでも奴を冥土へと送らん、と。
 全軍を小早川隊へと向けよ、と仰ったがわしが止めた。この場より落ちて再起を図りなされ、とな。
 果たしてそれが正しかったのか、今でも自問しておる・・・結局秀家様は捕らえられ、流された。今はどんな不遇な暮らしをなされておるか・・・」

そう言って酒をあおった。

「今は八丈島におられるとか・・・」
「左様。備前一国の国主であられたお方が、儚い事じゃ。わしはのう、信繁殿・・・」

酒の杯を置くと、明石全登はまっすぐに信繁を見詰めて言った。

「デウス様の教えを広めたい気持ちもあるが、それ以上に関ヶ原の雪辱を願っておる。
 確かに、世間の言うとおり、ほとんど勝ち目のない戦になろう・・・じゃが、わしは殿の代わりに秀頼様を助けねばならん。
 そうでなければ、顔向けが出来ぬわ」

「勝ち目は元よりほとんどない戦、されど秀頼様の下に集った者は強者が多く、士気は高く、死を恐れぬ者ばかり。
 我らが協力すれば、万が一の可能性も生まれましょう」

さようさな、とまた酒を注ぎながら明石が言った。

「秀頼様も、どうやら大将としての器が見て取れもうす。ことここに到って、女官やお袋様の言いなりのような柔和なお方だとどうにもならなんだが。
 又兵衛殿と信繁殿、それにわしや他の浪人達を使いこなすことができそうなお方じゃ。
 信繁殿、お主には何か策があるのじゃろう。絶対的に負けが決まっておる戦で、万が一の可能性を起こす策がの。
 言わずともよい。わしはわしの為すべきことを為そうぞ」

そう言って、明石は胸のロザリオに手を当てた。

「わしはこの通り、デウス様の信者よ。ゆえに自殺は戒律で禁じられておる。負けても腹は斬らぬが、手を砕いて働くことは約束しよう」

「忝く存じます。ともかく、まずは・・・」

「堺に進出し、幕府の蔵から兵糧を強奪、か。秀頼様も育ちに似合わぬお方よの。それが楽しみでもあるが。
 わしは浪人達を急ぎ纏めて、隊を指揮できる者を選抜し、軍容を整えよう。最初は伏見か・・・」

これから忙しくなるのう、と少し嬉しそうに明石は笑った。



明石全登が入城する頃には、大坂城に集った浪人達は十万人に達しようとしていた。
同時に、秀頼は近畿一円より兵糧を買い占める。
何年篭城するかわからないので、とにかく兵糧が多いに越したことはない。
ついでに近畿一円から兵糧を買い占めれば、徳川軍が現地での調達に困ることになろう、との又兵衛の進言でもあった。
遠くの地より兵糧を輸送してくるにしても、それはより遠征軍に負担を強いることになる。
秀頼は木村重成に、堺に軍を差し向け、幕府の蔵米を強奪してくるように命じた。
全国から集まった蔵米は一度堺に集められ、そこから運ばれる。
幕府の蔵米を強奪すれば、当然の事ながら豊臣家から戦を仕掛けた事になるだろうが、秀頼にしてみたらこの辺りが潮時であった。

どうせ家康は豊臣家を滅ぼすために軍を起こす。
相手が大義名分を掲げて準備している間に、強烈な先制攻撃をかけるべきであった。

かくして、大野治房が兵五千人を率いて堺に進出したのが、大坂の陣の最初の戦闘となる。
最も、堺には常駐している兵力はほとんどおらず、戦闘にもならずに街に入り、大急ぎで蔵米を運び出すのが主な仕事であったが。


この頃には駿府から大野治長も戻っていた。
大野治長は元々主戦派である。秀頼から方広寺の件で幕府へと弁明に行け、但し一切退くな、媚びずに挑発してこい、と言われたので意気揚々と使者として出かけていったのだ。
「君臣豊楽」のどこが悪い、主家である豊臣家を敬い、その元で天下泰平を願う目出度い言葉ではないか。
そもそも徳川家は豊臣家の大老であり、その職を降りるとは聞いておらぬ。ならば何が問題だコノヤロー、とばかりに挑発しまくったのだ。

簒奪か、お前ら簒奪するのか? 主家を攻め滅ぼして、自分達の天下か。

もの凄い上から目線で挑発しまくった大野。応対した本多正純のこめかみに浮き出た青筋が切れるかと思えるほどだったが、大野治長は堂々と言い切った。

「そもそも方広寺の件、そちらから豊臣家に対して質問を投げかけること、甚だ不敬である。本来であれば、そのような態度を取ることが許されるべきではない。
 秀頼様の寛容なお心によって、それがしがこうして使者として参ったのに、弁明はあるかとは何事か。
 ・・・お主ら、何か勘違いしておるのではないか」

将軍になったからって、立場が逆転したと勝手に思うなよ、と大野治長は言い切った。
この時、大野治長は大野治長で覚悟を決めている。
応対した徳川家の人間が激昂すれば、その場で刀を抜き、斬り死ぬ覚悟である。
不可能だとは思うが、この城には家康がいる。あわよくばその首を取って果てたいとさえ思っていた。

まあ、結局のところ、青筋立てたとはいえ、本多正純が切れるようなことは無かったのだが。


報告を受けた家康は思案に沈んだ。

まさか豊臣側から挑発してくるとは・・・いや、それ以上に秀頼である。
大坂は淀君を中心とした女どもが権勢を握っていたはず・・・それがどうだ、腹心の大野治長を遣わして堂々と挑発に来た。
元々、方広寺の件はかなり強引な言いがかりである。それでも片桐且元などはなんとか宥めようとして弁明に手を尽くすと考えていた。

豊臣秀頼・・・追い込まれた事によりその器量が発揮されてきたのか。
なんにせよ、このままこの安い挑発に乗るのは良いことではあるまい。
大坂にいる間者や協力者からさらなる情報を集めねばなるまい。
浪人達を大量に雇い入れるだけではなく、実績ある者を次々と登用しているとも言う。

負けることはあるまいが、今後の徳川の治世のためにも世間に簒奪者との印象が残るのは避けたい。
家康はしばらく物思いにふけっていた。



大野治長が駿府より戻る少し前、精強な一団を率いて大坂城に入城した者がいる。

元土佐の国主である、長宗我部盛親である。



[11004] 狸と瓢箪~土佐縁~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/08/29 06:30
土佐の国主だった長宗我部盛親は、関ヶ原後に改易になった元大名である。
改易後、京で幕府の監視を受けながら、寺子屋のようなものを開いていた。
在所から幕府の許可なしに離れることはできない立場であったが、それでも四散したかつての部下と密かに連絡は取っていた。

長宗我部家再興のために。

元が土佐一国の国主であったために、その配下の者は多い。
改易後、名のある武士は他家に仕えたりしているが、多くの者が浪人となった。
関ヶ原後に生まれた数多くの浪人の中でも、土佐は一大勢力であろう。

長宗我部盛親が大坂からの呼びかけに答えて入城する、と聞いたかつての臣下たちはこぞって彼の元に駆けつけた。
このまま貧窮の中で朽ち果てるよりは、華々しき戦場でもう一度、と考える者は多かった。

土佐兵と言えば、全国でも聞こえた強兵である。
入城した時は郎党を含めて千人に満たない人数であったその後も増え続けている。


長宗我部盛親が参戦する条件として示したのは、土佐の国主への返り咲きである。
が、これは体面に過ぎないであろう。
世間の観測はともかく、まともな国持ち大名が軒並み徳川についている状況で大坂が勝利するとは、盛親も思っていない。
むしろ、万が一に大坂が勝利したとして、再度豊臣の世が来るのであれば、長宗我部盛親の奮戦なくしてはありえず、その恩賞が土佐一国とは過少に過ぎる。

彼もまた、関ヶ原の雪辱を期す者であった。



「此度の戦、徳川には二つの命題があります。外様である、豊臣家恩顧の大名達にこの大坂城を攻めさせることにより、徳川家への忠誠を示させること。
 そして、今ひとつは譜代の家臣達に手柄を挙げさせることでしょう。これ以上、外様の者に恩賞として土地を授ける事は出来ぬでしょうからな」

秀頼に謁見した盛親はそう語った。
後藤又兵衛や明石全登と違い、元国持ち大名であり幼少の頃より高度な教育を受けてきた彼には、大名としての目線でこの戦の趨勢を見ることが出来る。
これは貴重な意見であった。


「大坂城の城壁へと最初に攻撃をかけてくるのは豊臣恩顧の大名達でしょうな。しかし彼らが大きな手柄を立ててしまえば、それなりの恩賞を与えねばなりませぬ。
 此度の戦、勝ったとて徳川の物になる土地は河内などの70万石程度。それも大坂と堺という要所があり今日に近いこの地に外様は置けますまい。
 となると、徳川は外様大名を譜代の家臣に率いさせて攻め上ってくると見るべきかと」

その意見に秀頼も同意する。

「それ以上に、大名達には深刻な問題として、この出兵事態が負担となることがあるでしょう。
 遠く領国から大坂まで大軍を率いて来るのは思う以上に大変な事です。戦が長引く事は嫌うはず。
 半年、一年と対陣が続けば国許が不安になるでしょうし、戦費は莫大になり補給もおぼつかなくなるでしょうな。
 しかも此度の戦、徳川としては一度始めると勝つまで止められますまい。降伏に近い形での和睦はありえるでしょうが、我らが勝っている状況では引くに引けない・・・。
 そういった状況をどこまで維持できるか、ということが勝機を見出す唯一の方法かと存じます」

遠国からはるばる出兵してきている大名達はさっさと国許に帰りたいのは当然である。
最大限の動員兵力をもって参陣し、攻撃に加わったのだから十分に忠誠心は示せた、だから早く終わって戻らせて欲しい、というのが心情であろう。

それが予想以上に長く対陣することになればどうか?

兵糧の不足、国許の不安、何より徳川の威信は傷つくに違いない。

「そこまで来て初めて、離反を考える諸将も現れるでしょうな。まあ、これは余り期待できないでしょうが。
 雪崩を打ったように時勢が変わる、というところまで我らが耐え切れば・・・あるいは、万が一もありうるかもしれませぬ。
 そのためには、数年間この大坂城に篭城する覚悟が必要でしょう」

最後に盛親は出された茶を飲みながら、静かにこういった。

「正直、私は自分に武略があるのか、将としての器があるのか、まるでわかりませぬ。
 関ヶ原では一弾も撃たず、槍を合わせることもなくただ退却しただけの男です・・・。
 が、少なくとも私が率いている土佐兵の強さだけは保証致しましょう」




盛親が退出した後、秀頼は自室で今後の事を考えていた。

大坂方の基本戦術は真田信繁の言った先制攻撃にて、一定の勝利を掴んだ後篭城する、ということで一致している。
軍略の基本戦術は信繁が立案し、盛親がそれを補完しつつ実際の戦闘指揮官として最前線で戦うのが全登となるだろう。
又兵衛は年齢やその軍歴、名声から言って各将の間に立っての調整役として自然に役割を見出している。
無論、大坂方は関東より兵数が少ない。指揮官の数も少ないので又兵衛も信繁も盛親も前線に出ることになるだろう。

秀頼はそれらとは別に一つの別働隊を組織するつもりでいた。
これは又兵衛と信繁にも打ち明けており、彼らもその有用性から是非組織したほうがよいと言ってくれている。
浪人の中から屈強の者を選び、小数の部隊を作る。
この部隊はいわば強力な遊撃隊として運用するつもりである。あるいは、機会によっては決死の突撃に使う可能性もある。

この部隊の人選は秀頼が行うことになっているが、信繁や又兵衛、全登などが浪人の中からこれはと思う人材を推薦してくれることになっている。
ただ屈強なだけではなく、敗勢になっても逃げない人物、この戦を死に場所としている者が必要である。

現状では以下の者がこの秀頼配下遊撃隊に組み込まれている。

塙団右衛門。
塙直之ともいい、出家した時は鉄牛と称していた。元加藤嘉明の鉄砲大将だったが、対立して去っている。

浅井政高。
元戦国大名であった浅井家の一族である。すでに五十を過ぎており、ここを最後の死に場と定めている老人である。

毛利秀秋。
織田家に仕えた毛利長秀の息子であり、嫡子であったが父の遺領は、子の秀秋を差し置き、娘婿の京極高知が対部分を継承してしまった。
なぜそうなったのか、本人は黙して語らないが、何事かがあったからこそ、大坂から呼びかけに応じて入城したのであろう。

大谷吉治。
関ヶ原で西軍として奮戦し、命を落とした大谷吉継の息子。父に変わって家に訪ねてきた太閤をもてなした経験もある公達である。

内藤元盛
大坂では佐野道可と名乗る。西国の毛利家より密かに使わされた武士であり、軍資金と共に入城した。
輝元からの依頼だが、あくまで大坂についたのは個人の判断である、との立場をとっている。

仙石秀範
信濃小諸藩藩主仙石秀久の息子。関ヶ原で西軍についたことで嫡男であったが廃嫡され勘当されている。

福島正守・福島正守
福島正則一族の者。福島正則は幕府から危険視されており、江戸に留守役として留め置かれているが、彼らは一浪人として入城してきた。

南部信景
北信景と名乗る。盛岡藩藩主である南部利直と折り合いが悪く、放逐された、と本人は語っているがどうやら南部利直が関東と豊臣に二股賭けのために送り込んだようである。
弓五百張り、金箔塗りで自身の名が書かれた矢を一万本、堺の金蔵にあった十二万両を秀頼に献上しており、盛岡藩はどちらに転んでも主家を守れるように立ち回ったのだろう。

井上時利
信長に仕えて、後に秀吉に仕えた古豪の武士。関ヶ原で西軍についたため、改易され浪人となった。
大坂で徳川の重臣の一人でも討ち取らん、との気概で参加してきた男である。



様々な立場、理由がありこの大坂に入った武士であるが、どれも一騎当千と呼べる武士である。
これらを部隊として統率し、制御して運用する将がいる。
又兵衛などは、自分などがその役目を引き受けるしかないか、と思っていたようだが、秀頼の考えは違った。

「最初に名指しで参戦してほしいと連絡を取った者のうち、最後の一人がいる。その者にこの部隊の指揮をやらせるつもりである。
 奴は必ず来る」

そう言って自分が引き受けましょうか、と言って来た又兵衛をさがらせた。
又兵衛には他にやって貰うことが多い。
機を見て戦場に投入し、遮二無二突っかかり将の首を取ってさっと退くのがこの部隊の戦い方となろう。
その軍勢の指揮官として、又兵衛は文句ないところだが、彼にはもっと大局的な戦略を練ってもらう必要がある。


秀頼は連日、城内を回りながらこの部隊で戦える人物を見極めては部隊に組み込んでいった。
同時に彼は最後の男を待っていた。

(土佐で山内家の保護下にあるから、そう簡単にはこれまいが、彼は必ず来る)



堺での戦闘とも呼べぬ、占領戦が収束し、そこに集積されている幕府の蔵から米や金などを大坂城へ運び込んでいる頃。
秀頼が待っていた男が息子を連れて大坂城にやってきた。

毛利勝永。
五人衆、最後の一人である。



[11004] 狸と瓢箪~開戦間近~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2009/10/02 20:48
豊臣側が戦力を整えている間、徳川も戦準備に余念がなかった。
家康はオランダから大砲を買い付け、また配下の者に大砲を製造させている。
巨大な城郭である大坂城を攻めるには大砲が不可欠との判断であった。
さらに各大名から幕府の命に逆らわないとの誓詞を取っている。
この頃、家康は密かに藤堂高虎に対し、大坂への先陣としての命を出している。
伊賀の大名である高虎は京、大坂へと進撃するに重要な位置にいる大名である。
彼が関ヶ原後に伊賀に封じられたのは偶然ではなく、将来の大坂攻めを考えての事であった。


大坂城では真田信繁、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親、木村重成、大野治長らが秀頼の前で軍議を開いていた。
議題は主に二つ。
明石全登を大将として送り出す伏見攻撃部隊の編成について。
そして、紀州への工作についてである。

現在の豊臣家の領地に接している紀州の民衆を扇動し、一揆を起こさせる。
それにより浅野家の足元を揺るがして大坂に加わる圧力を軽減する。
それが紀州工作の目的である。
紀州は元々独立心の強い風土がある。
雑賀衆が治めていた頃、信長に反抗し、秀吉にも対抗した国である。
今は浅野家の領土となっているが、領民は懐かず常に不満が燻っている状態である。
かつてこの国をまともに治められたのが、天下の調停人と呼ばれた豊臣秀長のみであったことが、この国の難しさを物語っている。

紀州への工作を担当するのは、大野治長。
又兵衛ら浪人衆と違い、彼は譜代の家臣である。
豊臣譜代の中でも重臣に位置する彼が直接出向いて工作することは危険も伴ったが、紀州の動乱を煽るためには必要な事であった。
彼が出向いてこそ、豊臣家が本気で支援するという気概を見せることにもなるのだから。
早速、軍資金と武器、浪人達から千人ほどを三十の組に分けて紀州へと潜入させ、地元の一揆へと加わらせるべく出立する大野治長。
目的は浅野家の戦力を国許に釘付けにすることである。足元が騒がしければ、そうそう出てはこれないだろうとの読みである。
浅野家だけが参陣しなかったとしても、全体から見れば微々たる敵が減るだけであるが、浅野家が地理的に最も先に大阪へと進撃することが出来る位置にいる。
この進軍を遅らせることは、伏見攻撃部隊にとって重要な事であった。


伏見攻撃部隊の大将である明石全登はこの作戦の目標を伏見城を焼き落とすことに絞っていた。
後藤、真田と協議したが、どう頑張っても伏見城を中心としてそこに防衛線を敷いても食い止めるには無理がある。
ならば、伏見城という名の知れた城を一つ、落とすことによって世間への印象を植えつける事こそが目標になると結論づけた。
すなわち、大坂方は弱兵ではない。むしろ命を惜しまぬ浪人達が集まっており、意外に強兵ではないか。
そう印象つけることが、今後の篭城において重要な要素になるであろう。


対紀州工作に大野が、伏見城攻撃に明石全登が出立する。深夜を選んで、騎乗の士を多くし、徒歩でも健脚な者が選ばれている。
伏見を攻撃している時に、徳川本隊が到着、などとなれば全滅はまぬがれない。風のような速度で伏見に進出、防備が整っていないうちにこれを撃破。
しかるのちに城に火を放って撤退、あるいは余裕があるようなら京の二条城もどうにかしたいところだが・・・と明石は思っていた。
が、これはその時の状況によるであろう。無理をする必要はないし、逆に無理をして敗れれば世間からはやはり上方弱し、と取られる可能性が高い。
先鋒として精鋭を率いる御宿勘兵衛もそこは同じ思いであった。
(ま、ほとんど守備隊のいない伏見は楽勝だろうが、問題は焼いてからの撤退戦になりそうだな)
あっさりと逃がしてくれるかどうか。
実際に瀬田で防衛線を行うことになれば、いよいよ退き時が重要になってくる。
その辺りの采配は明石全登に任されていた。


明石全登が軍勢を率いて出立したその日。
出陣を見送った秀頼は今後のことを考えていた。
真田丸の建造は順調であり、もうすぐ完成する。
後藤又兵衛による部署の割り振りも済んだ。
結局、大坂方としてはこの大坂城に篭る以外に戦いようがない。
古来より、篭城は援軍を期待してのものと決まっているが、彼らに今のところ援軍はない。
大坂方にあるのは、敵をよく防ぎ、損害を多く与えて相手から譲歩を引き出すか、あるいは寝返りを期待する事のみである。
寝返りと言っても、実際に今の徳川から豊臣についていいことなど一つもない。今のままの情勢なら、だが。
真田信繁、後藤又兵衛の勝利への戦略、とはまさにここにある。
万が一、それ以下の確立であっても、あるいはこの情勢をひっくり返せる可能性。

それはただ一つ、徳川家康の首を取ることである。

それがどんなに困難なことか、彼らには分かっている。が、この絶望的な状況を打開するにはそれしかないこともまた分かっていた。
「大御所の首を取れば、今の徳川家の体制は崩れる。崩れざるを得ない」
それが二人の稀代の名将の一致した考えであった。


果たして、本当に家康の首を取る方法があるだろうか?
戦を経験したことのない、平和な現代日本から来た秀頼にもそれが途方もない難事であることは分かる。
敵はこちらの数倍、正規軍であり、こちらは浪人軍団、しかも相手は用心深いことこの上ない徳川家康である。
(そう言えば・・・俺自身は徳川家康という御仁を知識でしか知らんのだった)
秀頼はそう思った。
彼が豊臣秀頼になってしまったのは、歴史上に有名な二条城での会談後である。
つまり、会った事も話した事もないのである。
(実際の徳川家康とは、どんな人なのだろう? 狸とか陰謀家、策士ってイメージが強いが、最近の研究では若い頃は血気盛んだったって説があるし。
 とは言え、家康に直に会って親しく話した事のある人間なんて浪人衆にはいないよな・・・片桐且元なら知ってるかも知れないけど、それでも親しく話した事はないか。
 織田政権時代を生き抜いた武将なんて、いても皆大名になってるだろうから大坂方ではないし・・・あ)
そこまで考えて、身近に一人、家康を知っている人間がいることを思い出した。

(・・・忙しさにかまけて全然会ってなかったけど、居たな、確実に知ってる人間が)

そう、秀頼の正室、千姫である。




後書きっつーか遅れた言い訳

ラブプラスが罠だったでござるの巻・・・。

元々5~6話で終わる中編にしようと思ったけどまともに戦闘が始まる前にすでに消化してしまったw
適度に続きます・・・。



[11004] 狸と瓢箪~狸について~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2010/03/23 01:10
徳川家の支配は、後に江戸時代として語られる時期と比べ、まだ完全に公儀として固まりきっていない。
領地、動員数は飛びぬけており、征夷大将軍を世襲しているが、世はまだ戦国時代の名残を残している時代である。
とはいえ、ほぼその支配も固まりかけている事は事実であり、最後の仕上げがかつての主家、豊臣家の処遇であった。
関ヶ原後、幕府を開いて天下の主となった徳川家だが、公式には豊臣家は徳川家に臣従していない。
二条城での会談もあくまで孫婿との対面というお題目をつけただけであり、秀頼が頭を下げて拝礼したわけではなかったのである。
徳川家としては、豊臣家が徳川の臣下として降り、今後は将軍を奉ります、と言ってくればかつての織田家の者のように適度な領地を与えて一大名として残す事も考えていた。
が、淀君を中心とする勢力は徳川家の下風に立つ事を嫌い、あくまでも自らが主家である、との立場を崩さなかった。
こうなれば、この日本で徳川家の天下を認めない勢力が大坂に巨城を構えているのは、はなはだまずい。
今は皆頭を垂れて家康の前で伏しているが、内心どう思っているかわかるものではない。
関ヶ原で大幅に領土を減らされた毛利、自らに責はなく非もないと恫喝交渉を仕掛けてきた島津。
北では関ヶ原の戦いの時期に、領土を切り取って拡張しようと策動していた伊達もいる。
伊達に到っては、「動かないこと、牽制に終始することが最も忠義である。戦が終われば特別に伊達には百万石を与えようと思っている」との空証文まで切っている。
その他、豊臣家子飼いの加藤、福島両家、前田家などは関ヶ原の謀略戦の一巻で一度は謀反の嫌疑を吹っかけて利家の正室である松を人質に取っている。
今は大人しく忠義の者として新政権に強力しているが、それは現当主、前田利長が政治的なセンスを発揮して新政権にうまく尽くしているからである。
もし、徳川家の支配が緩んで何事が起こるやもしれぬ、となった場合、彼らはどう動くか。
毛利・島津・前田などが豊臣秀頼を担ぎ、「悪逆なる徳川を誅すべし」とでもなれば伊達はすぐさま兵を退き、自国周辺で策動するだろう。
当然、それには徳川家の支配力が緩み、その威光が急速に衰えるような事が起こったのみである。
現状、そんな事は起こりそうにもなく、各大名はこぞって対大坂戦に参陣するために続々と国許を出立していた。

普通に考えて、圧倒的な兵力差に加えて相手は浪人。いくらか名の通った人物がいようとも既に伝説の武人となっている徳川家康の威光の前には全て霞む存在でしかない。
すでに二代である秀忠に将軍職を譲っているが、あくまで徳川家の最高権力者は家康であり、本人にその傾向が薄いとはいえ立派に独裁者である。

家康にとってみれば、今の豊臣家を潰すことになんの感慨もない。
元々、織田信長にとっての同盟者であった彼は、席次として当然織田家臣であった秀吉より上位であった。
それが奇術のような秀吉の手腕によってまたたくまに近畿一帯は秀吉の者となり、重臣筆頭の柴田勝家を破り、多くの味方を急速に増やした。
その間、家康は空白地帯となった信濃や甲斐を切り取り、不審に思った北条と交渉し、地道に石高を増やしていた。
その後、織田信雄の援軍要請に答える、との名目でやっと豊臣秀吉と対峙。
敵の中入り軍を打ち破り、秀吉の妹、実の母を人質に取ることでようやく上洛。
ぎりぎりまで自分の価値を高騰させて豊臣の中で最も重き立場を得たのである。
家康の中では秀吉など下賤の身からにわかに大名となった成り上がり者であり、本来なら自分の下風に立つべき者であった。
それでも天下のために豊臣政権下に入り、重臣として仕えてきた。
今、秀頼が当主の豊臣家など、本来であれば幕府を開いた時に列将と共に拝謁を受けさせてやる存在のはずであった。

しかし、一応彼は豊臣政権の大老という重臣の地位に居た。
たくみに乱を煽り、石田三成を思い通りに誘い込み、豊臣恩顧の大名を率いて合戦し、勝ったとはいえ、この公式の立場は消えない。

臣従しなければ滅ぼすしかない。

豊臣政権が北条家を攻め滅ぼしたように、自分達の幕府を認めぬ者は最早滅ぼして禍根を断つ。
それが家康に取っての、生涯最後の総仕上げとなる。

豊臣家がなくなれば、かつての主家はこの世から消える。
徳川だけでなく、他の大名にとっても同じであり、そうなれば全ての大名家は池に浮く浮き草のような存在となり、徳川家がどう扱おうが勝手である。
謀反気がある家や今後の治世に必要ない家は取り潰し、大規模な国替えを行い、直轄領をさらに増やして特に大坂などの重要都市の全てを直轄地にする。
そうすれば、最早どの大名も徳川家の下っ端役人すら恐れるようになり、石高の高い大名であっても譜代の一奉行程度で抑えられるようになる。

そのためにも、豊臣家をさっさと臣従させるのが一番の近道だったのだが、これは淀君のヒステリー気味な反対で消えた。
だから大義名分を用意し、全国の大名に大坂城を囲ませる事によって「かつての主家をお前も囲んでいる」との意識を共有させる必要がある。


その後、徹底的に豊臣家を断絶し、秀吉の墓を打ち壊してこそ社稷がたつであろう。
家康は自分が生きているうちに全ての問題事を片付けておくつもりであった。


一方で秀頼は"未来の知識"でこの大阪の陣、そして豊臣家の最期を知っている。
その未来を打開する方法は、現状ではほとんどないように思えた。
淀君の口出しを排除し、未来で語り継がれるほどの名将に戦略の全てをまかせても・・・勝ち目は薄い。
というか、ほとんど無い。
それは名将たち・・・真田幸村や後藤又兵衛や長宗我部盛親も分かっている。
分かっていてなお、全力を尽くして幾度かの幸運を物にすることによって、勝利に近い形を作ろうとしている。

戦略は彼らにまかせるしかない。
今は明石全登が率いた部隊の戦果を期待しつつ、城の防衛力を強化し、機会があれば討って出ることだ。
が、その前に徳川家康という人間を知らねばならない。

秀頼は大阪城の奥へと渡っていく。
渡りながら、自分の持っている知識での家康像をまとめていた。

徳川家康。
江戸幕府を開いた人物にして、天下人であり、稀代の謀略家という印象が強い。
あるいは忍耐の人、という評価が一般的であろうか。
幼少時代は波乱万丈の人生というにふさわしい。
今川家に人質として送られる際、織田信長の父、信秀によって奪われ、後に信秀の嫡男と交換で今川家に人質として入っている。
今川家では属将として育てられ、三河に傀儡政権を作るために利用されたという。
その後、桶狭間の戦いによって今川義元が死亡すると独立。織田と同盟し、外敵と戦っていく。
若い頃は血気盛んであり、自らの境遇に憤りを感じており、多分に博打的な戦を行うことも多かったという。
その性格の転機は三方原で武田信玄に大敗した事と言われており、その後の家康は耐え忍びながら好機を待つ将として成長していったという。
どこまでが真実でどこまでが虚飾なのか、それは遥か未来の歴史学者が判断することである。

戦についてはどうか。
野戦においてこの日の本で最も長い軍歴を持ち、その配下の三河武士軍団と合わせて強兵集団というイメージが強い。
事実、徳川配下の三河武士と、信州・甲斐などから召し上げた旧武田の武士は強力な兵団であろう。
野戦指揮官としても水準以上の者が多いが、この時期になっていると関ヶ原などで戦場を馳駆した古強兵は少ない。
大した戦場経験もない旗本が多くなっている。それでも、秀吉の親衛隊というべき組織よりは強いだろうが・・・。
徳川家、というもので見ればまずは徳川家康、次に評価は少し落ちるが十分に名将の器である秀忠。
連れてきている本多忠朝・井伊直孝・立花宗茂・伊達政宗・藤堂高虎等々、他の大名級も稀代の名将ばかり。

長宗我部盛親がいうには、旗本と大名には温度差がある、と言っていた。
忠義の形として、動員兵力限界の人数を連れてきた大名達。
正直、まだ国替え等で安定していない状況で出兵してきている大名もいる。
『損害を受ける前に、さっさと帰りたい』という大名達も多いらしい。
一方、旗本は手柄が欲しい。この戦が「総仕上げ」である限り、ここでの功名が最期の機会になる。
家康も大名たちよりは、自家の旗本に手柄をあげさせて、徳川家の所領を増やすほうがいい。
外様にはこれ以上の大封は与えたくない。
そういった情勢を踏まえて・・・どうにか徳川勢と大名達の戦意を削げないか。
援軍のない状況での篭城戦など、いくらでも手を打たなければただ衰弱して滅ぶのみである。


・・・だからこそ、家康の本質が知りたい。
世間で言われるような人物なのか、それとも真実の姿は天下泰平を願う人格者なのか。
その判断のために・・・合わねばならない。

秀頼は少し緊張しながら、それでも無作法に障子を開けて目的の部屋に入った。
突然秀頼が入ってきて驚いた女中が慌てて這い蹲るが、それに構っている暇は無い。
無視して奥へ進もうとすると、周囲の女中が止め始めた。
『この奥は千姫様の寝所。何用でありましょうか?』
この女中達は徳川家からつけられた千姫直属の者たちである。
彼女達から見れば、ここは敵地の真ん中で秀頼は敵総大将、という意識がある。
が、秀頼は彼女達に穏やかな口調で目的を告げた。
「我が妻に合いに来た。夫が妻の寝室に通うのがそれほど珍しいか?」
口調は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力を含んでいる。
女中は引き下がった。これ以上止めれば斬られる、と思ったのかもしれない。


女中がいなくなった後、寝室の障子の前で秀頼は少し止まった。
・・・開ければ、千姫が、秀頼の正妻がいる。
が、結婚の儀以来、公式な場でしか対面していない。
およそ、夫婦と呼べるような関係ではなかった。
まともに話したことすらない。

・・・それでも聞かないとな・・・。

どんな情報でもいいから欲しい。徳川家康の情報が少しでもあれば何か・・・何か勝機が見えるかもしれない。


秀頼は、決心して障子を開けた。



[11004] 狸と瓢箪~千姫~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2010/09/23 04:08

千姫とは?
秀頼は考える。

徳川秀忠の娘であり、母は江。江は淀君の妹である。
つまり、秀頼にとっては妻であり、従姉妹でもある。
秀頼と結婚したのは、実に七歳の頃である・・・ロリとかそんなレベルじゃない。もっと恐ろしい何かだ。

別に戦国時代では珍しくもないことだが。

大阪の陣が終結した後、秀頼と側室の娘、奈阿姫を自分の養女にしてその命を助け、娘として育てている。
歴史は言う。
秀頼とは中の良い夫婦であり、彼女は出家後、天樹院と称したときに豊臣桐を家紋としてかかげていたという伝説まである。

情は深く、天性のものなのか、人に愛される気性であり、家康・秀忠から深く愛され、兄弟である家光との仲が良かったという。

その彼女が、今、自分の目の前に座っている。
綺麗な黒髪、大きな目が驚いたように見開かれている。


(美人だな。同世代の他の女性と比べても、やはり姫として育てられた気品が感じられる)


突然訪問してきた秀頼に驚いたようだが、すぐに灯りをつけて布団の上に正座した。

それ以来、喋っていない。秀頼から何か言われるのを待っているのだろう。

「千」

と秀頼は短く名を呼んだ。

「はい」

と千姫も短く返事をした。

それきり、秀頼も千姫も黙ってしまった。
秀頼は、何から話せばいいかをまとめられていないから黙るしかなく、千姫も秀頼が喋らないので、自分から喋ることも出来なかった。

「そなたの祖父、家康殿のことをな、聞きにきた」

結局、秀頼は素直にそう切り出した。

「お爺様の事を、でございますか?」

千姫は少し驚いていた。
最近はほとんど逢っていない夫が突然訪ねてきたと思ったら、自分のことではなく祖父の事を聞きたいという。

「あの、お爺様の事と言われましても、何をお話すればよいか・・・」

戸惑った声を出す千姫に、秀頼は苦笑しつつ「そうであったな」と呟いた。

「なんでもいいのだ。幼い頃に何かしてもらったとか、どういう雰囲気かとか、何が好物が何かなど、なんでも」

そういって話を促すと、千姫は少し首を傾けて考え、話を始めた。



「お爺様は・・・大きくてお優しい方です。私が幼い頃はよく膝の上に乗せて頂きました。
 鷹狩りや水練を好むとお聞きしたことがありますが、実際に見たことはありませんので・・・」
 
優しい・・・か。孫にはそうだろうな・・・。
千姫に聞いても、実生活の中での家康像は見えないか・・・可愛がられている孫だもんな。
 
自分は千姫からどんな情報が欲しかったのだろうか。
千姫は徳川家の武将でもなければ、家康の息子でもない。

人格や考え方が聞きたかったのだろうか? 徳川家康ともなれば、自らの感情を完全に殺して政治的な判断をしてのけるだろうに。

「もう何年も会っておりません。秀頼様は、二条城という城でお会いしたと侍女から聞きました」

「ああ、確かに会った。が、特に何かを話したわけではないからな」

儀礼として「会った」という、形式ばった対面である。
例えば家康から「徳川家に臣従しなさい」と言い出すわけでもなく、世間話をするわけでもない。

決められた手順に沿って対面し、時間が来たら退出する、そのまま互いに二条城を後にするというだけのものだ。


最も、そこでは、まだ、俺は秀頼ではなく、秀頼は俺ではなかったわけだが。


家康は・・・そこで何を秀頼に感じたのだろう?
後世では、一目見た秀頼を傑物だと感じ取り、討伐を決意したというが、それも創作のような気がする。

家康が・・・豊臣家を滅ぼすのは、豊臣家への恨みや自己満足のためではなく、あくまでも政略の一部だろう。
秀頼が愚物であろうが、傑物だろうが、滅ぼすことに変わりはあるまい・・・。
この「豊臣家に対する戦」によって、全国の武家に対して、徳川家のみが絶対の主君であると知らしめるための、戦争。
戦争だと思っているのは、豊臣側であり、徳川にしてみればこれは政治の範疇・・・なんだろうな。

「あとは・・・凄く偉いお人なのだ、と子供心にも思っておりました」

偉い、ね。
確かに、前征夷大将軍であり、幕府の最高権力者だ。偉くないわけがない。
関白であった豊臣秀吉は、公家や朝廷の中では頂点であったが、武家の頭領ではなかった。
本格的に形式を突き詰めれば、征夷大将軍は朝廷より賜るものであり、天子の代理人たる関白のほうが偉いとも言えなくもないが・・・。
武家社会を統一していくには、やはり征夷大将軍のほうがいいんだろうな。

家康は、信長が幕府を開かなかったのを見ていた。
秀吉が関白になったのを見ていた。

あるいは、それらを見てやはり政権を運営していくには幕府という形式が最もよいと判断したのかも・・・。
なんにせよ、今や『徳川幕府』が出来上がっており、豊臣家討伐はその総仕上げということなのだろう。

ますます、なぜ千姫とこんな話をしているのか分からなくなってきたな。
いや、千姫とこうして家康のことで会話することによって、自分の中で家康という人物像を作ろうとしているのか。


「あの・・・秀頼様?」

考えに沈んでいた秀頼を心配して、千姫が声を掛けた。

「ん、すまん。そっか、家康殿は優しい祖父だったか」

(その優しい祖父である家康も、必要とあれば可愛い孫である千姫をためらいなく見捨てるだろう。
 それが出来るからこそ、実際にそうしてきたからこそ、徳川家康なのだ)

「はい・・・あの、私からもお聞きしたいことがございます」

まっすぐに目を見つめて千姫は秀頼に聞いた。

「侍女や供の者が言います・・・秀頼様とお爺様が、戦いになると・・・」

「事実だ」

秀頼は被せるように言い放った。
ごまかしや嘘を言ってもしょうがない。そして、その事について議論や批評をする段階は既に過ぎている。

その言い様に、千姫の体がこわばる。

「遠からず、この大坂城にまで家康殿が率いる軍勢が押し寄せよう・・・そして、この秀頼は」

一度息を切って、秀頼ははっきりと言った。

「この秀頼は大坂方の大将である。つまり、お主の祖父と弓矢を交えることになる」

言ってから、秀頼は内心で苦笑していた。
現代では戦争など遠い世界の話でしかない。
それが、一丁前に徳川家康とやりあうと宣言しているとは。

豊臣秀頼。その名を持つ者として立たねばならないというなら。
せめて無様な真似はしまい、となぜか自然に思える自分がいる。

(秀頼の最期を知っているからか、それとも秀頼本来の気質がそうだったのか、それとも俺が錯乱しているだけなのか。
 なぜか恐怖や躊躇いを感じないんだよな)

「だがな、千。私はお前を巻き添えにしたくはない」

そう、千姫は政治の道具にされただけだ。
自分や浪人衆に付き合うことはない。

「・・・秀頼様」

千姫は目の前の夫を見つめながら、しかしはっきりと言った。

「私はあなたの妻です」

それは自分だけが戦いの前に逃げ出すことを良しとしない、はっきりとした意思表示であった。

(武人の妻、武家の娘として育てられただけのことはあるが、それ以上に本人の気質か)

その強い瞳に魅入られるように、秀頼は千姫から目が離せなかった。



秀頼が千姫と床を共にした日から数日後、明石全登からの伝令が大坂城に駆け込んできた。

「我が隊、伏見城を焼き払ったり! されど敵兵力すでに京へと迫っており、これより大坂に帰陣するとのこと!」



[11004] 狸と瓢箪~大坂の陣にて~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2011/02/12 05:59
物事が劇的かつ衝撃的になればなるほど、日本人はその衝撃を内に秘める。
喜怒哀楽を表に出さないのが常であり、一般的な日本人と言える。
そう考えると、徳川家康とは、最も日本人らしい日本人とも考えられる・・・。

対極に居たのが、豊臣秀吉であろうか?
とにかくよく感情を溢れさせたという逸話が多く残っていることからも、そう窺える。
この大坂城を囲む今も、家康は特になんの感情も見せずに佇んでいるのだろうか。

そう考えながら、ふと豊臣秀頼ってのは、果たして利口か馬鹿かさえ後世に伝わっていないことを思う。
戦国時代の終焉を飾る主演の一人でありながら、とにかく無味無臭の人物という感がある。
本当のとこ、どうだったのか。
『豊臣秀頼』を演じなければいけなくなった男は、天守閣でそんなことを考えていた。


敵の兵力は少なく見積もっても20万以上。
大坂城に篭る兵力は戻ってきた明石隊を含めても10万足らず。
伏見城を落としたことにより、『まず一勝して城内の士気を高め、敵の出鼻を挫く』という戦略は成功した。
全体の戦局から見れば、ごく僅かな影響しかないかもしれないが、それでも大坂方が討って出たという事実は、徳川方に多少の警戒を抱かせるだろう。
今、大坂城の広間では将たちが敵の情報を整理し、兵の配置を話し合っている。

「では、南の出丸は問題ありませぬな」
「ええ、そこに来た敵はおまかせを。3万程度なら十分に防ぎきれましょう」
後藤又兵衛が真田幸村に確認している。

ちなみに、真田信繁は最近、幸村という名乗りを好んで使っている。
これは秀頼が信繁を「幸村」と呼ぶことが影響している。
幸村、幸村と呼ばれているうちにその名が通り名のようになっており、本人もその名を署などに記すようになった。
「幸村、と親しげに呼んで頂くうちに、気に入ってしまいましてな。今は周囲にもそう呼ばせております」
と彼は少し恥ずかしそうに人に語った。
豊臣秀頼という、新たな主君は謁見などで姿を見せるだけの存在ではなく、浪人たちに直接話を聞き、その戦略を取り入れてくれる。
気軽に声をかけ、名を呼んでくれる主君に、真田幸村という男は真の大将の器を見ていた。
彼だけではなく、他の将も「この人のもとでなら、戦えるだろう」と思っている。

本人は「真田信繁」という名前に馴染みがなかったので、通称である「幸村」で呼んだだけだが。

「さて、わしが伏見を焼いたことにより、大御所は怒っておろうの」
明石が楽しそうに言う。
「周囲に怒気を見せることによって、これ以上の失態は許さぬ、ということを知らしめるでしょうな。
 しかし実際には怒りに任せて攻め寄る、などと言うことはしますまい」
又兵衛が苦笑しながら言うと、明石も同意した。
「大御所は城攻めが苦手じゃ。逆に平地での決戦では無類の強さを誇るがの。
 この城を攻めること、憂鬱になっておろうな」
軽口を叩く明石。
「まあ、ここで我らが調子に乗って打って出てくれれば、くらいには思っていましょうが・・・」
「どうかな。大御所は甘い観測や楽観で戦はせん。まず、水も漏らさぬように城を囲んでから、流言や寝返りの誘いで中から崩そうとするじゃろう」
古来より、堅牢な城を崩すには内部からしかない、という事は定石である。
まして、日本一の巨城である。力押しだけで崩れるとは家康も思っていまい。
「誰の元に寝返りの誘いがあるか、それで敵の出方を図れましょう」
幸村が落ち着いて言った。
彼は兄が家康に仕えている。
寝返りを持ちかけるには適した人物だと思われているだろうが、それがいつ頃になるかで敵の焦りや内実を探れると考えていた。
「又兵衛殿と真田殿、それに土佐守殿にわしかな」
目立っておるからのぅ、と明石が笑った。


(そう、目立っているのは真田殿、土佐守殿、そして明石殿とわし・・・)

又兵衛は今までの戦の経緯と今後の展望をまとめながら、大坂城周辺の地図を見る。
地図は昔からあるものだが、今はそこに多くの敵方の将の名前が記されている。

(伊達は布陣した。これは手強いだろう。浅野家は大野殿が足元で盛大に火を煽っておる。まだ国許を離れられないようだ。
 前田も来たが、今は真田殿の出丸に引っかかっている。ふむ、真田殿の指揮も見事だが、前田家はある程度の損害を受けたら陣に退いている。
 外様の悲しいとこよな・・・ある程度、これくらいの損害を出すまで戦ったのだから良いだろうという気持ちが見えている。
 ここまでは順調と言えるか・・・)

今、秀頼の命令で真田配下の草の者(間者)が周囲の陣を探り、どこに誰が布陣しているかを次々に情報を持ってくる。
それを地図に書き込み、戦略を練っているのだが、どう見ても敵は力押しでこちらの気魂が尽きるまで囲む気だろう。

(しかし、一年以上はこの大軍を大坂に維持できまい・・・最も、一部を国許へ返し、他の着陣が遅かった者を新たに包囲網に入れるというのもあるか?
 いや、どちらにせよ、補給が追いつくまい・・・。となると、囲んだまま、降伏勧告と交渉でどうにかしようとするはずだ・・・)

彼らの考えている作戦の第一弾。それは相手が交渉してくるまで、勝っていることである。
相手がどんなに兵力が多く、様々な恫喝をかけてきても、勝っている限り交渉で下手に出る必要はない。
そこで、家康を、その本隊を前面に引きずり出す。

(それまで、ある程度勝っておくことだ。真田殿、土佐守殿は十分に守っている。
 これに明石殿とわしが加われば、そうそうこの城は小揺るぎもせん・・・)
 
そして、その状況で、いつか近い未来に行われる交渉後、自分達は勝負を賭ける。
どう計算しても、どう考えても、『勝つ』にはそれしかない。それしかなかった。

(我らが目立っておれば、その他の部隊にまで気が回るまい・・・。
 大御所よ、我らの全身全霊を賭けた大勝負、受けていただくぞ)
 
彼らが考える作戦の要となる部隊は、ようやく部隊の人集めが始まった頃である。
その部隊を率いる者の名は毛利勝永。
塙団右衛門、福島正守、青木久矩、浅井井頼、福島正鎮、大谷吉治などを集めている部隊である。

彼らは今は大坂城内で訓練している。

この戦争で『万が一』の奇跡を掴むために編成された部隊である。

それはまだ、この時点では牙を研ぎ続けていた。


天守閣の秀頼は毛利勝永が直々に見て回って集めている部隊の訓練を上から眺めていた。
先に延べたような元大名や大名の子の他に、自らの力を試したい武芸者なども入っている。

(宮本武蔵も紹介しておいたけど・・・どうだろう)

腕は確かだろうが、乱戦で功名に目もくれずに駆け抜けることができる人物だろうか?
そこが少し不安ではあった。

(ま、使うかどうか決めるのは勝永だ。どうにかするだろうさ)

天守閣から遥かに大坂城を囲む軍隊を見ながら、彼はぼそりと呟いた。

「簡単にはいかさない。そして・・・乾坤一擲を見せてやる」





~作者より~
あと・・・完結まで9話くらいかかりそうです。
暇を見つけては更新しますので・・・。



[11004] 狸と瓢箪~大御所の決断~
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2011/05/05 06:47
攻城戦は長い。
そもそも短ければ、それはどちらかが負けている場合であり、決着がついているということなのだが。
基本的な攻城戦というのは、城を部隊で囲み、幾重にも塀や堀を急造で作って、相手に心理的な圧迫を与え、準備を整えてから本格的な戦闘となる。
これが一般的な流れだが、たまに一気に大手門に大軍が押し寄せて、雪崩のように乱入、火を放って大将の首を取る、という場合もある。
ものすごくうまく行った場合のみ、成功することであり、大抵は城側の頑強な抵抗にあって撤退することになる。

城、とはそれ自体がまず居住空間であり、権威の象徴である。
しかし、それ以前に城とはまず要塞である。
兵が一気に攻めあがれないように通路は入り組んでおり、防御側は常に有利な位置で戦えるように工夫されている。
「虎口」とかがいい例であろう。

大坂城も、これはすさまじい要塞である。
力押しで落ちることは考えられない、と建設当時より言われ、海内一の堅城と名高かった。
大きさ、広さ、戦闘を想定した場合の仕組みも全て設計者である秀吉が工夫を凝らしている。

家康は城攻めが苦手、と世の評判にあるが、城攻めが得意な武将でも真正面から力押しでこの城を破ることはほとんど不可能といえる。

家康はこの城を搦め手から落とす、つまり内応・離間・政略によってどうにかしようと思っている。

すでに何人かの将に内応の使者を密かに送っている。が、これは全員に断られている。
これは予想できたことである。
いまさら徳川に内応したところで、どれほどの高待遇を約束されようと守られる確証などまったくない。
又兵衛に50万石、真田に23万石などと言ってはみたが、どちらにも興味もなく断れた。

ここまではいい。ある程度想定内である。
浪人者がこの城に篭った限り、ほとんどの者は「最期に何か一花」と思っているものが多いだろう、と家康も考えている。

しかし、それ以外の降伏を勧める使者などもまったく効果がない。
降伏を勧める使者は当然のことながら、正式の使者と秘密の使者があるのだが、なんと大坂方ではどちらの使者も秀頼本人が謁見するという。
そして「なんぞ、大御所は勘違いをしているのか。別に我らはまだ負けてもおらぬし、今すぐに糧食がなくなるわけでもないぞ?」と言い放つという。
さらに「そも、仕掛けてきたのはそちらじゃ。降伏したい、というのならそのために何ぞ証を持ってまいれ」とまで言われたこともある。

(・・・女どもが全てを決めている、という噂もあった。それが真実であったのは・・・途中まで。そう、あの鐘の件で大野という若侍が来たとき。
 あの前後から、明らかに秀頼本人が全てを取り仕切っているようだ。そうとしか考えられん)

たとえ浪人達が奮戦しようとも、顔を見せようとせず、公家のように振る舞い、女どもからの言葉しか受けない者の下では長くは戦えん。
それが、豊臣家を滅ぼすと決めたときの、一つの判断材料だった。

(・・・難しいか・・・旗本どもでは)

家康は最近、機嫌が悪い。周囲は調略も戦闘も思い通りに進んでいないからだろうと思われている。
が、そもそも家康は何事においても、自分の思い通りに、計算通りにことが進むと考えたことなどない人物である。
いまさら、調略が失敗していることなどで悩んだりはしない。調略は仕掛けるべきときは今ではない、と割り切れる男である。

家康の不機嫌の理由。それは三河武士・・・つまり家康直参の譜代・旗本たちの劣化にあった。

関ヶ原、それより以前の小牧・長久手、三河武士と言えば全国に響いた精鋭達である。
個人の功名よりも、主人の手柄。死を恐れることなく圧倒的な結束力と強力な団結力で戦場に錐のように打ち込まれる精鋭。
それが旗本たちであり、譜代の家臣たちであり、その配下の武将・足軽であったはずだ。

(それが今やどうだ。当主どころか侍頭や足軽まで代替わりし、さらにそこから代替わりしたものまでいる。
 やつら、戦場に来るにあたって煌びやかな装備だけは整えたが、まるで”赤気”がない。
 使い物になるのか、驕り上がった馬鹿な者たちめ)

徳川の旗本が驕るのも無理はない。
自分達が使えている徳川家は、この大坂の陣の前から征夷大将軍を頂点に武家を全て支配しているのだ。
長年の辛抱が報われた、当然、三河の山深い場所より付き従ってきた者は特権階級と呼べる旗本・譜代となる。
どんな大名がいようとも、彼らにしてみれば徳川家の下に連なる者達である。
千石級の旗本に万石を有する大名が頭を下げて通る時代が来ているのだ。
彼ら譜代のものにしてみれば、当然我が世の春。本気で戦争などする気になれないのは当然である。
父や祖父が命を散らしての奉公によって、自分達の地位は安泰である。
そうなれば、無駄に戦場で命を散らすことなど、彼らは考えない。
徳川家は他家を戦わして、自分たちはそれを監視する立場がふさわしい。
そう考える者・・・特に若い世代に多い・・・には家康は苛立っていた。

(三河武士も最早権力の中で出世を願う世代が中心か・・・次代のためにも豊臣家だけでなく、引き締めねばならん。
 そのためにも、攻撃側は譜代に行わせ、無理押しでも手柄を立てる機会を作ったというに・・・)
 
家康は元から今回の出兵一回で大坂城を廃墟にできるとは思っていない。
今回は相手に心理的な圧迫と損害を与えた上で、相手をある程度立てた講和を持ちかける。
そして、次の戦こそ、一挙にこの戦国時代に幕を引く戦にすると考えていたが・・・。



ところが、どうにも相手に損害を与えるどころか、こちらばかり損害が増えている

家康は爪を噛みながら、思案した。

まず、南の出城。通称「真田丸」。
真田幸村、と名乗る男が信州兵を中心に五千ほどがそこに立てこもり、神業のような防御戦術で前田家の軍勢を貼り付けている。
その技量、兵の掌握術を見ても、父、真田昌幸並みの男か。

その近く、八丁目口を守る長宗我部盛親。
あの元土佐国守、長宗我部家の嫡男だが、ここに集った土佐兵と苛烈な盛親の指揮によって、井伊直孝、松平忠直などがいいようにやられている。
その他、松倉重政、榊原康勝などもこの八丁目口に布陣しているが、松倉はそれなりに働いているが、井伊や松平に遠慮があるのだろう。
関ヶ原から徳川についた経歴から、この二人には強く意見は言えまい。榊原康勝は猛将型だが、配下の者が驕っている。
榊原康勝自身が全指揮を執れば火の出るように攻め立てることもあろうが・・・井伊直孝がこの方面の主将。勝手はできまい。
その他の古田重治、脇坂安元などはそれこそ遠慮しておろう。今回の戦は譜代に手柄を立てさせること。いわば、彼らは予備兵なのだ。
長宗我部盛親、土佐兵だけで四千を揃え、さらに四千の兵を秀頼からあてがわれているようである。
この調子では、八丁目口を抜くことなど夢のまた夢か。


東では後藤又兵衛がなにやら豊臣譜代の若者達と、様々な国の浪人衆をまとめて指揮しているとのこと。
その数はどうも一万ほどらしい。又兵衛のみではなく、なになら涼しげな若者を側におき、副将としているようだ。
この副将もよく働く。本多忠朝が何度も手ひどくやられた。時に城壁によって撃退し、機を見ては門を開いて打って出てくる。
本多康俊や、酒井家次もいるが・・・この顔ぶれではどうにも、か。
抑え、予備兵に強力な大名を配しているが、彼らをうまく使えるほどの器量もなさそうか・・・器が違う、か。

北・・・天神橋付近では明石全登が守っているか。伏見城を焼いた老将め。あやつのせいで城方の士気が下がらん。
おまけに一万の兵と大筒まで持ってきている。本多忠政に各諸将をつけているが、一歩も進めておらん。
こちらの持ってきた大筒は相手に心理的な圧迫を加え、不眠にさせること、かの城の女どもをして講和に走らせることのために砲撃しておるが。
やつら、こちらが砲撃した弾は拾っていって鉄砲の弾の材料に使っていると報告が入っている。実際にやっているかどうかしらんが、
大筒が何の効果ももたらしていない、と宣伝しておるのだ。
本多忠政以外の外様の将は抑えのみ。松平信吉などの者と協力して当たっているが、被害は増えるばかりか。

西には豊臣方の譜代や縁深い大谷吉治、さらには御宿勘兵衛が指揮を取っている。
ここは終始睨みあいのみ。ろくに戦闘も起こっていない。
攻めにくい上に配置されている兵も多い。さらに外様を多く張り付かせているから、せいぜい言葉合戦程度か。


潮時だな。


三河武士も落ちたものだ。

一度、何らかの処置を持って譜代の者達を立て直す必要がある。
が、それは戦後のことだ。


すでに城を囲んで4月。
これ以上待っても、譜代の者達では、古豪たちにはなす術なし。
兵糧の問題もある。


「やむなしよな。
 誰かある!」


この日、家康は譜代の家臣たちを前線から下げる決定を下し、各方面の主力を変更する命令を下した。
譜代たちはこの命令により家康の怒りを恐れて縮こまったが、それがまた家康の感に触った。
が、それを外部に見せるほど軽薄な男ではなかった。

「決着をつけるためにも、大坂には損害を与えねばな・・・しかし、浪人連中がこれほど結束して力を発揮するとはな。
 やはり・・・豊臣秀頼。世間で言われている阿呆ではない、か」



--大坂城南方・真田丸--
(ほう、前田が積極的にうごいてくるとは)
今までは、それなりの”戦闘”をしていて損害が大きくならないうちに退いていた。
それが明らかに兵の動き、その動作から幸村は”変わった”ことを感じ取っていた。
(本気でくるか、加賀の前田!)
槍を掴んで立ち上がると、大声で兵を配置に着かせる。
「来るぞ、これまでのまやかしではない、本物の前田家がな!」


--大坂城南方・八丁目口--
榊原・井伊・松平の旗が下がって消えていく。
それを怜悧な眼で見ながら、盛親はその部隊を見ていた。
「殿! 追撃を行いますか!」
部下の土佐人が叫ぶが、盛親はそれを止めた。
「出て行けば、百の首を取れるだろうが、千の味方を失うだけだ。
 どうやら、部署替えがあったようだな」
盛親が指差した先。
「九曜の旗に竹に雀の旗。伊達政宗と伊達秀宗だ」


--大坂城北方・天神橋--
「本多め。下がるか。あの世の忠勝にわびるのじゃな」
かっかっか、と快活に笑っていた明石全登だが、眼は笑っていない。
「本多が下がった。さて次の相手は誰じゃいの?」
確かに本多とその馬周りなどは下がったが、その他の諸将の軍はまだ前線にいる。
「この方面の主将を変えるか・・・ははぁ、なるほど、さすがは大御所じゃの。思い切ったものじゃ」
本多が去った後、その布陣と戦場の空気を見て、歴戦の士である明石は一つの旗を指差した。
「あれが主将になったということじゃろうよ。これは面白くなってきた」
その旗に描かれた家紋は「祇園守」。
立花宗茂のものである。


--大坂城東方面・平野川--
又兵衛の率いる部隊の前に平野川がある。
その川を挟んで相対する敵の陣地が動いた。
今まで一歩も動かず、ただそこに佇んでいただけの部隊が、静かに中央に出てきた。
「毘沙門天の旗・・・」
誰かが呟く。
かつて、常勝不敗・戦国最強の名を誇った家。
又兵衛は表情こそ変えなかったが、槍を握る手が白くなるほどに強くなっていることに気がついた。
「いよいよ本番ということか。毘沙門天に挑むほどの戦が出来ようとは、まこと、大坂に来た甲斐があるわ」


あとがき
よーし、ようやく戦闘っぽいことに入れるぞw
あい変わらず更新が遅いですが、なんとか完結まで書きたいと思います。



[11004] 狸と瓢箪~第一次攻防戦前~ 
Name: そる◆388a5b68 ID:f6eb2928
Date: 2011/05/17 01:12

古来より、戦は緒戦が大事、という。
小牧・長久手の戦いで初の双方激突で勝った家康は、後の外交においても有利になった。

関ヶ原も、極端に言ってしまえば、宇喜田勢と福島勢の優勢が勝負を決めている。

「緒戦を勝ちで飾れば士気上がり、逆に相手は恐れが混じる。この差は容易に埋められない」
それが戦の常道の一つであった。

本来、大坂方は伏見でまず一戦して一勝している。
伏見に大した兵がなかったにせよ、まさか大坂方が押し出してきて伏見城を焼き払うなどとは誰も考えていなかったのだ。
これにより大坂は「意外に相手も手ぬるい」という印象を足軽までが持ったし、徳川方は「相手が突出してくることもありえるか」と
思わざるを得なかった。
そして、徳川譜代の者たちはその後の戦闘において敵方に一歩も踏み込むことなく無為に被害を拡大した。
こういう場合、負けている側は徐々に士気が落ちていき、気分が萎えてくる。

通常の場合ならば。

しかし、今回家康は全国の大名を総動員している。

本来、家康はこの戦で譜代を大いに働かせ、それに十分な論功行賞を行うことによって家臣団の強化を行う腹があった。
が、家康が危惧した以上に譜代の家臣団は戦慣れしておらず、三河武士の剛強さ、粘着さなどがなくなっていた。
ここで家康は、すでに負けて士気が大いに下がっている譜代を下げた。

つまり、士気がさがってしまった、ようはケチのついた部隊を引き上げさせて新鮮な部隊を戦線に投入したのだ。
家康が連れてきた大名達の多さが分かる一面である。

家康は旗本を叱責すると同時に、彼から見て十分な戦力と戦略を持った者たちに書状を送って部署換えを断行した。

(・・・妙な感じだ。こちらが圧倒的に攻めているのに、相手の掌の上で戦っているような)

家康はこの手の戦場の感の鋭さでは、当世随一であっただろう。
この手の能力で彼を凌ぐのは、故織田信長、あるいは故太閤秀吉くらいのものであろう。

家康は伝令を呼んだ
「今、大坂に向かっている、まだ着陣していない大名にたいし、急ぎ登りまいらせよ」
家康は部署換えからまだ戦闘が起こっていない時期に、この命令を四方に飛ばした。
なにか、ひっかかるものがあったのだろう。


前田利長。
加賀の前田家という巨大な家の主だが、外様であり、その母を徳川家に人質に取られている。
関ヶ原以来、徳川家にひたすらに従順に従っており、それだけが家を守ることだと考えている。
利長は、あるいはその父、前田利家以上の才覚があるかもしれない。
前田利家がその武辺で獲得した加賀という広大な土地を治め、かつ、天下人に対して難癖をつけられないように苦慮している。
そのために、わざわざ徳川家から家老を譲り受けている。本多政重である。
家老といっても、目付け役であり、豊臣に万が一にも走ることのないように上位者のように監視していた。
この戦闘でも、利長はやる気がなく、この政重に任せていた。
が、いつまでたっても真田丸に損害を与えることができず、加賀兵の損害ばかり増えていた。
そこに、家康からの使者が来た。
用件は二つ。
・本多政重は本営に戻ること。
・前田利長は全力で真田丸を抜くこと。

以上二点である。

こうして前田利長は戦場に出た。
真田丸を抜くことよりも、ここ数年、自分達に頭ごなしに命令してきたいけ好かない政重がいなくなることが嬉しかったであろう。

「しかし、真田丸か。六文銭の旗、かくの如し。よほどの準備がいるな」
彼はこの日から、真田丸に対して米俵、戸板、土塀などを真田丸の眼前に作り始めた。
真田丸に対して、近接要塞戦を行うつもりであった。




伊達政宗。
いわずと知れた奥州の竜。いまだ天下への野望を捨てていないと評判の伊達男。
彼の率いる東北兵は言わずと知れた強兵である。
戦にも慣れている。
政宗そのものが、この戦国時代の中で生まれる場所さえ中央に近ければ、英雄の一人として人生を送った男である。
が、時勢は彼に時間を与えなかった。奥州を統一している間に、いつのまにやら豊臣政権という巨大な”天下”が出来てしまった。
関ヶ原の戦いがあれほど短時間で決着がついたのも誤算だっただろう。
家康との口約束の百万石は反故にされた。別に怨んではいないが。
戦国時代などそんなものであろう。

「長宗我部盛親か。四国の覇者たる父を持つ男。何なら語ってみたい気もするが。
 しかし我らも奥州伊達軍。龍に率いられた者と土佐の豪傑か。絵巻物にでもなるか」
 重長! と政宗は一人の男を呼ぶ。
 「先鋒だ。ひと当てやってみろ」
 政宗は片倉重長に先鋒を任すことを決めた。
 
 

立花宗茂。
鎮西一。古今無双の勇将。
関ヶ原後に大名に戻った男でもある。
指揮能力はきわめて高く、同時代ではあの本多忠勝と並び称された。
「養父(立花道雪)が凄かっただけだ」としか彼は他人に語らなかったが、彼自身の才覚も大きかった。
彼はそれほど大人数を率いていない。が、天神橋方面で後方に下がった旗本を除く全部隊を家康は彼の指揮下に入れた。
「難しいこと・・・相手は、明石殿か」
大坂城がある限り、正面からの力押しだけでは無理だと考えるのが普通である。
が、あえて宗茂は突撃体系を取らせた。
(機を見て押し込むことだ。相手は二重、三重の防御の中に退却できる。せめて大外の壁に張り付いている状況はなんとかせねば)
彼は采配を大きく頭上で円を描いた。
それに伴い、川を挟んで横に広く兵が展開した。
「では、まずはやろうか」



さて、後藤又兵衛と相対している武将である。
「毘」の旗が整然と並び、本営は歩哨すら身動き一つしない。
主、上杉景勝は極端に無口な男であり、一日一度も口を開かないことすらある。
戦場では全身に覇気をみなぎらせ、それを冷静に統御することに全力を傾けている。
その景勝の左に一人の将がある。
直江兼続である。
統率を景勝が、指揮を兼続が取るのが、この上杉家の軍法であり、それ以外は謙信時代より変化はない。
天下に隠れもない強兵集団であり、国力の差がなければ徳川家とすら戦えるといわれた家である。
「兼続」
短く景勝が言った。
「心得ております」
兼続がそう返して、全軍が一斉に動き出す。
「まずは様子見からですな。後藤又兵衛、我が上杉家の”車懸かり”をどういなすか、拝見しましょう」


あとがき
前回が大坂方から見た敵、だったので今回は逆にしました。
ぶつかるのは次回からです。
最初はどこがぶつかるか、お楽しみに・・・考えてないけどw



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