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[8512] 日出ずる国の興隆 第六天魔王再生記 <仮想戦記>
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/03/19 22:49




 <初めに>



 注意事項(書くに当たっての本文中の文面に対する御説明)


 1:当作品は戦国時代を題材とした織田信長の物語となります。その上で表記において登場人物の名前は、当時の官位中心の名前では無く、姓・名の表記で統一致します。
 <本来なら各人の事を上総ノ介や右府(右大臣)など官位や、他の通称である藤吉郎(豊臣秀吉)・権六(柴田勝家)・又左(前田利家)等で呼ぶのが正しいのでしょうが、この作品では判り易さを重視するため織田信長など姓名で統一致します>

 2:作品中に現代の和製英語・単語などが出てくる事もありますが、上記と同様に判り易さを重視するために使用しております(極力使わないようにはしますが)御理解下さい。

 3:作品中に作者が勝手に時代劇の言葉だと思う(若しくは思い込んでいる) おかしな <なんちゃって時代劇言葉> が出てくる可能性がありますがご了承下さい。










 この作品は作者 <Ika> が初めて書く連載作品となります。
 どうか皆様には御指導御鞭撻の程、どうかよろしくお願い致します。

 またこの作品は自身では戦記・内政物だと思って書いております。
 御意見、またはこうした方が良いのではという提案はどしどし書き込んでやって下さい。

 皆様に楽しんで頂ける作品を目指して頑張っていきます。




 <追加のご注意>
 作者は織田信長という人物を大きく美化して見ております。

 また、作品の展開上、寺社勢力への攻撃や虐殺したなどの表現が入ります。
 これらに注意した上でお読みください(それらの表現がある場合は本文の冒頭に注意文を明記致します)



















 <プロローグ>



 天正10年(1582年)6月2日 京の都・本能寺。
 殆どの人はすでに寝所に入り、起きている者は誰もおらぬであろう深夜。その日、その夜の帳(とばり)を引き裂き、具足の擦れ合わされるガチャガチャという音を響き渡らせながら、とある軍勢が京の町を駆け抜ける。
 誰も声は上げない。その兵達は唯々松明を掲げ、京の都の細い路地を無言で走り抜けて行く。
 住人達の中には、その軍勢が通り過ぎる大きな音に気づき、起きだしてきた者達もいた。だが、彼らは一様にその完全武装した兵達の姿を見て、これは一体何事か? と吃驚仰天し、慌てて家の中に逃げ込む。
 不吉な物を感じ取った彼らは戸を完全に閉め切り、部屋の片隅で災難が自身の身の上に降り注がないようにと必死に祈りながら、ただ不安に震えるのみであった。





 「上様! 上様! 起きて下さい! 一大事に御座います!」

 「如何したか、お蘭。騒々しいぞ」

 その日、織田信長とその一行は山城の国・京の都にある本能寺という寺に逗留していた。中国地方で毛利家相手に戦う羽柴秀吉隊への後詰めの準備の為に上洛して来たのである。
 そしてその日の深夜、信長は静寂を破る近従小姓の森蘭丸の悲鳴のような叫び声によって起こされた。

 「上様! 謀反にございます! すでに当寺は軍勢によって完全に包囲されております!」

 その森蘭丸の報告に勢いよく跳ね起きた信長は、すぐ傍に置いてあった手槍を手に取ると、すぐさま部屋を飛び出る。
 信長はその熱く煮え滾る心の内のままに叫び声を上げた。

 「誰が裏切ったぁ!」

 「旗印は水色桔梗の紋! 明智光秀様御謀反!」

 どかどかと足音も荒く、走りながら問いかけてくる信長のその怒号に、後を追う森蘭丸がすぐさま自身が見てきた様子を答える。
 その蘭丸の返答に信長は一瞬動きを止めた。だがすぐに笑いながら再度走りはじめる。

 「ふふっ、ぐわっはっはっはっはっは! キンカ頭めが、ようもやりおったわ! これはこの信長もいよいよ年貢の納め時よ! 流石は光秀じゃ!」

 「なにをおっしゃられますか! 我等が血路を開きます! どうか今すぐ脱出を!」

 「よい、光秀が相手ではそんな隙はあるまい。是非に及ばず。この後に及んではジタバタすまい。斬れるだけ斬った後は自害するだけよ。お蘭、我が首は光秀に渡すな!」

 主君の身を案じ、脱出を進言してくる蘭丸の言葉を無視し、あくまで戦う事を決断した信長。
 その信長の様子に焦りながらも何とかこの死地から主君・信長を落ち延びさせる事が出来ないか、と蘭丸は考え続ける。だがいくら考えても何も思い浮かんでこない。
 結局の所はそのまま信長の後に続き戦うという選択肢しか思い浮かばなかった。

 信長は女衆達は逃がし、残った男手を全員集め抵抗を試みる。
 各々が様々な武器を手に、塀を乗り越えて続々と侵入してくる明智軍の兵士達の群れに立ち向かって行く。
 しかし多勢に無勢。こちらは数十人、明智側は万を超す軍勢である。元々兵力差は圧倒的であり、どうにか出来るような状態ではない。
 いかな信長の精鋭側近衆といえども明智側の数に押され、味方は一人、また一人と、次々と力尽き、倒れていく。

 信長自身も弓矢手槍を手に、向かってくる明智方の兵を射殺し、槍で突き殺しと、思う存分に暴れる。だがその四十九歳に達した身体が先に根を上げてきた。息が乱れ、手足が震え、槍を振り廻すのも辛くなってくる。
 そして信長は自身の身体の限界と共に、最期の刻を悟った。一人、戦列よりゆっくりと離れ、蘭丸に最後の声をかける。

 「是非も無し…。流石、明智光秀が手勢。強者ぞろいよ…。誠、見事なり。これまでのようじゃな……。蘭丸」

 「はっ。ここより先には絶対に明智の兵は通しません。どうか存分に御最後を……」

 「うむ、最後まで良うやってくれたな……。蘭丸、大儀であった」

 「その御言葉だけで十分で御座います。上様と共に戦ったこの短き人生、本当に楽しゅう御座いました」

 驚くべき事に、森蘭丸は今際の際であるというのに、本当に安らかな笑顔を信長に見せた。
 それを受ける信長の方も、いつもと全く変わらない静かな覇気を纏う穏やかな笑みを浮かべる。
 最期の刻を迎えるその瞬間でも、二人の心はまったく平時と変わらず折れもしない。むしろこの状況を楽しんでいる風すらあった。

 「そうだな。楽しかった。この産まれ出でてより四十九年、思う存分暴れてやったわ」

 その信長の言葉に二人してニヤリと悪餓鬼のように笑いあうと、次の瞬間には蘭丸が踵を返し走りだす。

 「では、おさらばです! お先に地獄でお待ち下さいませ! 拙者も明智勢の足止めが終わりましたらすぐに参ります!」

 「ふっ、そうだな。先に逝っておるぞ」

 そして信長は蘭丸が向かった方向とは逆に歩きだす。
 順に自らの手で建物に火をかけて行き、唯一人、屋敷の奥に向かって進み行く。放たれた炎は、その物にまるで意思があるのでは? と思われるぐらい意味深にメラメラと揺らめき、すぐに建物全体に燃え広がった。
 その中で信長は一人で威風堂々と屹立し、歌うかの如く叫ぶ。

 「はーっははははは! 是非もなし! 全ては一瞬、夢幻しの如く也! なんともおもしろき世に産まれ! 尽きぬ楽しき夢を追い! 一心不乱に駆け抜けた我が人生四十九年! これぞ男子の本懐也! 人間五十年には一年足りぬが、これもまたおもしろき物よ! この日ノ本の行く末を見れぬは残念なれど、我が生涯に悔いは無し! 皆、後は頼むぞ! この国を南蛮伴天連共に負けぬ程の強い、良い国にしてくれ! さらばだ! 信忠、秀吉、光秀、家康、勝家、長秀、利家、一益、恒興、貞勝、成政、………………、………………、」

 信長は劫火の中、ゆっくりと脇差を抜き、自らの腹部に当てそれを横に引く。











 その夜、尾張の風雲児、味方・領民からは神の如く慕われ、旧態勢力・寺社勢力からは蛇蠍の如く嫌われた日本史屈指の英雄、織田信長は京都本能寺にて自害して果てた……。















 <200○年○月某日 某所>



 その日、大阪に住むサラリーマンの織田大助(33歳)は仕事の帰り、家路を急いでいた。

 大助はどこにでもいるような極々普通のサラリーマンである。未だ独身で家族もおらず一人暮らし。特に優秀な男では無いが、かと言って無能と言う訳でも無い。金持ちでも無いけど貧乏と言う程でも無い。
 本当に社会の中で埋没しているような平平凡凡とした男である。
 そんな彼の一番というか、唯一の趣味と言える存在は読書だ。
 彼は稀の休日にわざわざ外に出てレジャーやスポーツに興じると言うような熱意やバイタリティーとはまったく無縁な男である。大抵の休日は何所にも出歩かず、家の中でゆっくりとしながら読書をしながらぐうたらに過ごす。
 最近はそれだけに飽き足らず、ネットで素人投稿小説サイトのネット小説を読む事にハマっており、その素晴らしい作品達に触発された彼はここ最近は読むだけでは無く自分でも書いてみようかとも考えていた。

 大助の一番好きなジャンルは日本の戦国時代を題材とした小説である。
 その中でも自分の苗字と同じという事もあってか戦国大名の織田信長が大好きであり、最近は書こうとしている自分の作品の展開を考える事、自分が信長だったらこうする、ああする等々と妄想するのが趣味と言う、一種のマニアとも言えるような行動に耽っていた。

 しかしここ最近、仕事が忙しくその時間も取れなくなっている。
 本日も残業が深夜にまで及び、すでに日が変わってしまっている時間帯である。日々の激務に心身共に疲れ果てていた。

 だからであろうか?
 自らにむかって物凄い速度で突き進んで来ている暴走車の存在に気づくのが遅れてしまった。
 最後に残った記憶は、衝撃と共に廻る視界。そして浮遊感。
 そして薄れて行く意識。



 不思議と痛みは無く、むしろ心地よかったのが印象的であった。

















 <弘治元年(1555年)尾張ノ国>



 ふと、頬を撫でる心地よい風に促され、目が覚める。

 「ここは…?」

 信長はまだまだ寝ていたいと訴える身体に活を入れ、ゆっくりと眼を開けた。
 そして自身が河原の土手に横になっているのに気づき驚愕する。

 「ワシ(オレ)は……? ここがあの世という物か? どうなっている? たしか光秀の謀反に遭い、自害(車に撥ねられて)し、死んだはずだ……?」

 「殿? お目覚めですか? 如何なさいました? 何かありましたか?」

 「(!? 馬鹿な! 森可成(もりよしなり)! 随分と前に死んだ可成が何故!? それに若い!?)」

 目の前にいた、自分に声を掛けて来た人物を見て驚愕する信長。

 森 可成。自身の古くからの重臣であり、そして元亀元年(1570年)に信長の弟の織田信治と共に浅井・朝倉・比叡山の連合軍の攻撃を受け、武運つたなく討ち死にした人物である。
 その死んだはずの人物が自分の目の前に立っていた。
 驚きながらも周囲に目を配ると他にも見知った人物が、しかも記憶に残るよりも大分若くなっている人物が幾人もいる事気づいた。

 「(河尻 秀隆(かわじり ひでたか)、それに丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、前田利家に佐々成政も……?)」

 全員が甲冑を着込んだ軍装だ。そして自分も同様に甲冑を着込んでいる。
 だが不思議な事に、それは随分と古い型の物だ。そう、それはまるで自身がまだ尾張も統一できていないような時期に着ていた物のように……。

 「(どうなっている!? ワシ(オレ)は死んだ? いやワシ(オレ)の名前は織田信長(大助)?何かおかしい?何か違う物が混ざっている? 一体どうなっているのだ?)」

 混乱した頭で必死に考える。
 そんな信長の様子を周囲の皆は不思議そうにただただ眺めるだけであった。








 この物語は何の因果か未来の知識という新しい力を手にいれ、もう一度人生をやり直す事になったとある英雄の物語である。













 <後書き>

 どうも初めましてIkaと申します。
 今回皆様の素晴らしい作品に触発され書き始めました。
 この話しは信長公が自分の人生と現代人の知識をもった状態で、もう一度人生を生きる物語となります。
 皆様、どうかご指導ご鞭撻の程どうかよろしくお願い致します。

 ちなみに作中の織田大助は一度きりのキャラでもう出てきません。
 記憶と人格は信長と融合し、一人の新しい信長になったという設定です。大部分は信長です。
 ちなみに名前の由来は 織田大助⇒おだだいすけ⇒(け→き)⇒おだだいすき です。

 また融合した事によって信長の性格がほんの少しだけ穏やかになり、現代人的な心配りをできるような性格になっていると設定しております。



 今後もどうかよろしくお願いいたします。








[8512] 第1話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/26 02:15






<第1話>



まずは弘治元年(1555年)当時の尾張の状況を説明させて頂く。

当時の日本は応仁の大乱を経て、戦国の世となり果てていた。
その中において尾張の国は、守護大名であった斯波義統(しばよしむね)の力が大きく弱まり、それを傀儡とした清州城城主の織田信友がその実権を掌握していた。
しかし信長の父・故織田信秀がその実力により着々と尾張内での勢力を伸ばしていき、それはそのまま信長に受け継がれた(但しその支配地は尾張のごく一部)

信秀の死後に信長が家督を継ぐとそれを追い落としの好機とみた信友は自らの勢力を伸ばす為、織田家の内紛を誘う為に、信長の弟である織田信勝(信行の呼び方の方が有名の為、以下信行で表記)の家督相続を支持。
(注:同じ織田家という苗字であるが信長と信友の織田家は別の家である。それ以外にも尾張には沢山の織田家があった)

さらには信友は自らに敵対的な信長の暗殺を企んだのである。
しかし同じ清州城内にいる、信友に傀儡とされていた尾張守護・斯波義統にその計画が露見。
斯波義統は信長に恩を売るためにその計画を信長に密告してしまう。

当然の事であるが、それに気づいた信友は激怒。
信友は斯波義統の嫡男である斯波義銀(しばよしかね)がほとんどの手勢を率いて川狩に向かい、清州城内の斯波義統の周囲が手薄になったその隙をついて斯波義統を討ち取ってしまう。
欺かれた事に気づいた斯波義銀はそのまま戦わずに逃亡。信長を頼って名古屋城に落ち伸びて来る。

この事態を好機とした信長は、信友を主君 (この場合の主君とは室町幕府の任命した尾張守護である斯波義統の事) を殺した謀反人であるとの大義名分の元、信友に対する攻撃を開始した。
追い詰められてしまった信友はそれに対抗する為、信長の叔父にあたる織田信光に助力を要請する。
しかし信光は逆に信長に調略され、信友に協力するふりをし清州城内に入城した後、信友に襲い掛かりこれを討ち取る。

この戦いにより信長は清州城を手にいれ、名実共に尾張一の実力者となったのだ。



そしてその戦の帰路途中、軍勢を休めていた所で物語の冒頭に戻る訳である。













清州城に入城した信長は人払いをした上で部屋に籠り、一人になってからこれからの事、自分に今おこっている事をじっくりと考えて続けていた。
それはここに帰城するまでにも、馬に揺られながらずっとずっと考え続けていた事でもある。

「(ワシはどうやらまだ死んではおらんようだ。しかも今は弘治元年との事。尾張の統一もできておらず、さらに美濃でも斉藤義龍めの謀反もまだ起きていない。道三の親父殿も生きているような年代だ。
しかもなんだ、この記憶は?
織田大助……? たしかに判る。いまから400年以上もの後の世が。そこに生きていた記憶が、知識が、確かにある…… )」



信長は混乱していた思考を纏めながら、ゆっくりと少しずつ自分の今置かれた状況を整理してゆく。
ちなみに信長には認識できない事であるが、すでに信長と大助の二人の意識の融合が完了しており、新しい人格が形成されていた。
但し身体の持ち主という事もあってか、信長の意識の方が優勢で強く表面に出ていたのである。
悪い言い方をすれば、信長が大助の意識を吸収したとも言えるだろう。

しかしそんな事は当人達には理解できない事だ。全て意識の外で行われている事である。
当人達にはどちらも自分自身として違和感無く全ての融合が完了していた。



「(どうやらこれは夢でも無ければ地獄にいるという事でもないようだ。
しかしおもしろい。おもしろいぞ。
ワシはこれまで敵対する者たちは女子供といえども、数多も殺し、比叡山を焼き打ちし、一向衆門徒達を殺し、高野聖を殺し、殺して殺して殺して殺して、全てを滅ぼしてきた。
そんなワシを、天は何故生かす? しかも妙な知識までつけて……?
だがこの知識は使える!
ふははははははっ……! おもしろい! おもしろいぞ……! ワシはまた天下布武の夢をみれるという事か! )」




信長は歓喜に身体を震わせる。

もちろん信長には一度死んだ事に対する後悔はまったく無い。だがそれを除いても今の状態は愉快すぎた。
特に現代の自分の知らない、考えもしなかったような様々な知識の数々が新しい物好きの信長の心を大いに震わせる。
この知識があれば前よりもさらに強い国が、良い国が作れる。

それに一番歓喜したのは将来の世界に至るまでに偉大なる人間達が示したその可能性だ。

人は空すらも制したか!
人は海の底にすら到達したのか!
どんなに距離があろうとも話せるカラクリができるのか!
安土城よりも大きく高い建築物を無数に建てた街ができるのか!
空の上には宇宙という物があるのか!
さらには月にまで人はその足跡を記したのか!

その事が…、まるで我等に不可能などは無いと言わんばかりの、その凄まじい人間達の進歩の足跡が、唯々嬉しく、そして愉快であった。













だが、無邪気に喜んでばかりもいられない。

「誰か、誰かある!? 滝川一益を呼べい!」

いつまでも目の前で実際に起きている、それが例え信じられないような現実であってもその事実から目を背けるような信長では無い。
すぐに気持ちを切り替え、今しなければいけない事をする為に行動を開始する。
一番最初にある指示を出す為に信長は近従に、最近召抱えたばかりの臣・滝川一益を呼び出す事を命ずる。
呼ばれた滝川一益はすぐに現われた。

「お呼びにより滝川一益、参上致しました」

「うむ。こちらに参れ」

信長は目前で平伏する一益にもっと近くにくるように命ずる
これから出す命令は他人に聞かれると不味い類のものだからだ。

すぐにずずいと一益がにじり寄って来る。すぐ傍らに来るまで待ち、近くに来た所で信長は声音を抑え、小声で一益に話しかけた。

「一益、おまえに一つ頼みたい事がある。
そちは織田家に仕え始めてまだ日も浅い故、まだあまり顔を知られておらぬ。それに忍びの者も配下に治めておるとか?
此度はそれを使ってほしい」

「はっ、いかような事でも」

そこで信長はさらに声を低く小さくする。

「名古屋城城主の織田信光を暗殺せよ。
但し絶対にワシの仕業だと悟られてはならん。顔が割れぬように絶対に自分では動くな。配下の忍びの者を動かせ。
忍びの者に殺させるのも拙い。他人にやらせるよう段取りをおこなうのじゃ。
信光の家臣の中で、元は信友の家臣だったものがおる。この者は信光にかなりの恨みをいだいておるとの由。
この者を扇動し、信光を討ち取れるようにけし掛けてやれ。
またその行動を支援して上手く殺せるように段取りしてやれ。

さらに事が成った後はその者はすぐに討ち取れ。
信光の敵討ちをしたのは我々だと天下に知らしめる為じゃ。
そしてさらにその者がそんな所業に及んだのは織田信行の仕業であると尾張中に触れ回るのじゃ」

信長が一益に命じたのは、なんと味方であるはずの、自らの叔父でもある織田信光の謀殺であったのだ。
さらにその責任を弟の織田信行に負わせようと言うのである。
一益は命じられたその内容に内心驚くも、すぐにその明晰な頭脳でその策の目的と利点を理解し納得した。
受け賜りましたとの言葉を残し、部屋を静かに出て行く。

「(来年には美濃で道三の親父殿と斉藤義龍めの戦がある。それまでに国内の戦は一気に片付けようぞ。信行ごとき雑魚に、悠長に何年も構ってはおれぬわ)」

信長は静かに退出していく一益の姿を眺めながら、そう心中で呟く。








次に信長は村井貞勝・丹羽長秀・木下藤吉郎ら内政を得意とした者たちも呼び出していく。

その間にも信長は頭の中で、新しく手にいれた知識を一つ一つ整理していく。
例えば、前の世で自らが行ってきた内政(道路工事・楽市楽座・関所の撤廃等)は間違ってはいなかったし、後世でも評価されていた。
それらはこの新しい世でも同じく続けていこうと思う。

だが、後知恵でいえば出来る事はさらにたくさん出てくる。活用するのは新しく手に入れた知識でできる事だ。









まず床下土による硝石製造。

この手法は江戸時代以降には極一般的な製造法となっており、さらには加賀五箇山の硝石づくりなどが有名だ。
しかし現時点ではまだほとんどその存在は知られておらず、さらにそれらを知っている者達も自らの勢力を優位に保つ為に門外不出の手法として秘伝している。

実際に織田家ではかなり先になるまで、硝石の大部分は輸入に頼っていた。それゆえかなりの財がその購入の為に消費されてきた。
火薬の全てを自産できるならその利点は測り知れない。

これは着手してから実際に硝石を採取するまで時間(約2~3年)が掛かるので今すぐ手配しておく必要がある。
今まで輸入していた費用が浮いてくるので、他の事業に使えるようになるという利点もあるのだ。






続いて各河川の治水工事。

もちろん前世でも行ってはいたが、さらに大規模に行う必要があると信長は判断する。
治水工事には洪水を治めるというだけでは無く、さらに幾つもの利点があるのだ。
農地への農業用水の安定供給、それに伴う農産物の生産増大、さらには近隣住民の民心をがっちり掴める等の利点ある。(例えば甲斐の信玄堤などが有名)
それらは自身が考えていた以上の影響を近隣地域に与えるとの事だ。

さらに信長にとって目新しいのは、河川の流れその物を変えてしまうという後世の手法である。
今までの治水工事というのは、基本は植林を行ったり、河川の流れに沿って高い堤防を築いたりという手法が主流だった。
しかし後の世の人々は、曲がっている所や河川の合流地点そのものに新しい水の流れ道を作ってしまい流れそのものを真っ直ぐに変えてしまったりしてしまうのである。

この発想はなかった。
延々と高い堤防を築くよりも安全だし、さらには労力も費用も低く収められる可能性もある。
今まではどうしても手を付けられなかった暴れ川も収められる可能性があるのだ。
もし領内の河川を全て収められるのなら農産物の生産はかなり高まるだろうし、さらにはあの忌々しい一向一揆に走る農民も大分減るだろう。






次に銃の生産。

前世では、織田家では火縄銃を主力として使用していた(もちろん他の大名家もではあるが)
それを世界に先駆けてフリントロック式の銃に切り替えようと思う。
もちろん従来の火縄銃も並行して使用するが。

ちなみに日本でも江戸時代にフリントロック式銃を輸入した事がある。それは火打ちからくり等と呼ばれていたが結局定着はしなかったそうだ。

まずは火縄銃(一般にマッチロック式と呼ばれている)とフリントロック式のお互いの長所・短所を整理してみる。



<フリントロック式が火縄銃(マッチロック式)よりも優れている点>

・構造が単純で信頼性が高く、一丁当たりの製造コストが安くなる
・発射に対する必要な工程が少なく、より速く撃てる
・密集する事が可能である為、集団戦に向いている(マッチロック式の場合、発射時に大きな火花が飛んでしまう為、隣の兵士の火薬に引火するという事故が発生する可能性がある。それゆえ各兵士間に距離が必要。それにより当然、火線密度は下がってしまう)
・マッチロック式に比べれば、悪天候に比較的強い(但し、完全では無い)



<火縄銃(マッチロック式)の方が優れている点>

・命中率が良い
・火種が発火薬に直接あたる為、不発率が低い



と、上記の通りとなる。
やはり戦争に使うならばフリントロック式の銃の方が優れていると言えるだろう。命中率が悪いのは集団射撃での弾幕形成で十分以上に補える。

国内には製造している所は無いので自前で生産する必要があるが、むしろそちらの方が後々有利になる。
簡単には製造はできないだろう。
だが他国でもできているのだ。織田家ができない訳が無い。数年単位の試行錯誤の年月は必要であろうが絶対に実現させる。

また生産する銃には命中率のさらなる向上の為、肩付け形の銃床も付けよう。
(日本では明治時代に入るまで、なぜか銃を固定するのに、頬に銃本体を当ててほぼ腕力のみで固定して発砲していた。当然そのやり方では身体全体で発射の衝撃を吸収できないので命中率が下がる)

さらに忘れてはいけない必需品、銃剣もつけて自衛能力ももたせるようにする。将来的にはこの銃剣が主流になり、刀槍は無用の長物になるのだから。
騎兵が使用する短銃(拳銃サイズ)の開発・整備も必要だ。
できるだけマントン式の後期型の洗練されたフリントロック式銃を目指す。

またライフル銃の生産を目指して色々試行錯誤させよう。
人力でライフルを刻むのは物理的に不可能である事から、それらは動力の不安定な水車や蒸気機関(これは将来の事になるが)で刻む事になる。
それゆえ簡単には実現できないだろうが、極少数なら職人技で生産できない事もないだろう。
ちなみに欧州でも銃のライフリングが始まったのは1650年ごろからだと言われている(実用に耐えられるかは別問題として)

他にも銃の種類といえば前装式銃(今使用している銃のように銃口から弾を込める銃の事)と後装式銃(砲身の後尾から弾をこめる銃の事)がある。
但し、後装式銃は金属薬莢ができるまでは筒内を完全に密閉できないので、例え作っても前装式銃よりも性能で劣った者になるので作る意味はない。

将来への課題として、将来新たに作る予定の研究機関への課題としよう。





銃と同じく大砲の生産と装備。

これも前世より大規模に、しかも自前で生産する事を目指す。
もちろん欧州と同じように車輪が付き、移動の楽な武人の蛮用に耐えうる野戦砲を目指す。
一発撃つごとに壊れるような物は論外だ。

最初は球弾と葡萄弾を使用する。

球弾は城塞破壊に、さらにはそのまま人に向かって撃っても、跳ね弾になってかなりの損害を与えられる。
(球弾をほぼ水平に撃った場合、弾丸は運動エネルギーが無くなるまで跳ねたり転がったりしながらかなりの距離を進みます。黒色火薬でもその運動エネルギーは驚異的で人間の10人ぐらいは簡単に貫通します。最終段階の転がる砲弾でも当たれば足を吹き飛ばされます。)

これは主に中・長距離射撃時に使用する。

城塞破壊の場合は曲射。対人の場合はほぼ直線に撃って砲弾を転がすように撃つといった具合に使い分ける。

葡萄弾はある程度敵が接近してきた時点で使用する。この葡萄弾というのは言うなれば大砲版ショットガンだ。
近距離時の威力はまさに凶悪そのものだ。
(※注 上記の跳ね弾や葡萄弾という物がどうしても判らない方はナポレオンの時代の戦争を調べてみて下さい。)

榴弾も使用したいが、これは砲弾の弾殻を作る鋼鉄の材質その物が向上しないと、発射時の衝撃に耐えられないので将来への課題になる。
コークス高炉が実用化できればおそらく作れるようになるだろう。
但し大砲の製造・開発はフリントロック式銃の開発後になるであろうから、おそらく実用化には10年はかかるであろう。
また今はその費用も無いので大砲の開発・製造は後回しだ。





続いて鉄の生産。

一般に日本では鉄は存在しないと思われているが実はそんな事は無い。
鉄は地球上の、どのような所にでも存在する。それこそ、そこいらの砂の中にもある。
所謂砂鉄というものである。(もちろん砂鉄といっても、実際採取するのは砂からでは無く花崗岩からではあるが)

当時はその砂鉄の中でも良質で効率の良い物を採取して使用していた。

もちろんその量は必要量には絶対的に足らない物であったから輸入に頼ってはいた。
だから当時は、新しい鉄製品を作ろうという時は、古い鉄製品を溶かし何度も使いまわすというのが極一般的であった。
当時の鉄の需要に供給はまったく追いついていなかったので国内にあった鉄を全て溶かし武器に作り変えて戦っていたのだ。

ちなみに日本国内で良質の砂鉄が取れるのは出雲・播磨・備中・備後・陸奥・安芸・伯耆・美作・石見・日向・因幡・但馬の12カ国だと1633年に記された<国友鉄砲記>に記されている。

国力増大の為に鉄は絶対必要である。鉄が無ければなにも出来ない。
故にまず最優先ですべきは、国内で生産する砂鉄を商人を通じて確保すると同時に、海外から輸入できる体制を整える事である。

これには硝石を輸入しなくて良くなった分の費用を充てられる。
鉄砲の自力生産が軌道にのればそれまで鉄砲購入に使用していた費用も充てられるだろう。






さらには鉄の生産方式そのものの変更。

これは将来の事になるが良質な鋼鉄を得る為にコークス高炉を作りたい。
現在は主にたたら製法で生産しているが効率が良いとはいえない。(但し、日本の玉鋼は、質的にはかなり良い物だと作者は思っています)

コークス高炉には石炭が必要であるが、石炭は日本国内の九州・関東で生産できる。
実用化は鉄・石炭が安定的に入手できるようになってからになると思うが、欧州に先駆けて実現したい。
このコークス高炉は鋼鉄の生産量がそれ以前の生産の10倍以上に跳ね上がった画期的な発明だ。

さらにその先の転炉(ベッセマー高炉等)は遠い将来への課題だ。






続いて木綿の生産。

日本での木綿の生産は1500年代の初期に大阪周辺と名古屋周辺で本格的に始まっている。
江戸時代に入ってからは和泉木綿が有名で江戸時代、1800年代中期には年間総生産量は200万反にも達している。
当面はこの木綿と、さらに絹の増産を目指す。

人間が生きていく上で衣・食・住は絶対に必要なものであり、衣服に最適な木綿は需要が無くなるという事は無い。
当面の織田家の交易での主力商品はこの木綿とする。

さらに日本国の将来の貿易の主力商品としては、この綿織物と絹織物、それに刀剣、鉄製品、金、銀、銅、石炭、木材、食糧等を考えている。





他、活版印刷の実用化、情報伝達の為の組織・機械の開発整備、海軍の設立等々、信長の脳裏にやらなければいけない事、やりたい事が後から後から湧いて出てくる。




そうしている内に呼び出していた丹羽長秀等が到着したので一旦それらについて考えるのを中止する。
ほかにも色々とあるが今の所はこんなものかと考える。

そして到着した各人にそれぞれ指示を出していく。











そうして日々、尾張の国力増強の為に内政に励んでいた信長の元にある日、待っていた報せが届く。














「名古屋城城主 織田信光、部下の謀反に遭い死去」















<後書き>

できるだけ皆様に楽しんで頂けますように精一杯頑張ります。
ちなみにこの場で御報告させて頂きますが、Ikaにも武将の好き嫌いがあります。
故に大嫌いな武将は活躍致しません。
別に意図的に貶めたりもしませんが活躍したりは絶対にしないので、その武将が好きな方がこの作品を読んで不快に思われてはダメなので事前にご報告させて頂きます。

<Ikaの大嫌いな戦国武将>

上杉謙信、浅井長政、本願寺系の全武将、荒木村重
となります。

上記の戦国大名が大好きだという方はご同意の上、お読みください。






<追記・説明>

『フリントロック式銃の所で出たマントンという人物の人物象』

19世紀、英国で活躍した鉄砲工。彼の作る銃は兵器の域を超えもはや芸術品。
当時、上流階級の間でマントンの銃を使う事はステータス。
「決闘で勝ちたければマントンの銃を使え」とすら言われていた。

さらに革新的な研究も行っており、フリントロック式銃の銃尾をけずった改良やライフリングの研究、薬莢の研究等々様々な方面にその才能を発揮していた。
大砲にライフリングを施したのも彼が世界で初めて。







[8512] 第2話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/26 02:21





<第2話>




現在尾張の国は織田信光死去の報と、それに伴う信長の行動に騒然となっていた。

信光の死後、謀反を起こした家臣を討ち信光の敵討ちを達成した信長はその遺児達を保護。
残された10万石もの信光の所領は信長が吸収する形となった。
さらに信長はその謀反を裏で操っていたとして織田信行とその一派を犯人として大々的に発表。

そしてその直後に信長から信行の元へ、とある書状が送られてくる。
その内容は簡単に記すと下記の通りであった。




『此度の織田信行の織田信光謀殺のはかりごと、全て露見しておる。
 信光を斬った者が全て白状した。
 信行の此度の行い、織田家当主として絶対に許すわけにはいかぬ。
 よって織田家当主・織田信長の名において、織田信行に対して切腹を申しつけるもの也』




その情報はまたたくまに尾張中を駆け巡った。

もちろん信行はすぐさま自身の身の潔白を主張し、謀略を否定した。しかし全て判ってやっている信長にそれが聞き入れられる訳もなかった。
信長は信行からの釈明の使者を追い返し、信行に対して再度切腹を命じる。

だが信行側も 「はい。判りました」 と、馬鹿正直に切腹を受け入れる筈も無く、信長に対する為にすぐさま軍勢を整え始めた。
それに同調し、信行派の武将である柴田勝家、林秀貞とその弟の林通具等も出陣の用意を整える。
しかしである、織田信行に織田信光への謀殺疑惑がある為、また準備期間があまりにも短い為、兵の集まりが悪く、それに信長の方に寝返ってしまった国人衆もおり史実に比べて集まった兵数はかなり減ってしまっていた。
同じくそんな状態で集められた兵士達の士気は当然ながら奮わず、戦う前から信行軍は重大な不安要素を抱える羽目になってしまったのである。

しかし織田信行は窮地に置かれており、対策を行っている余裕すらなかった。残された道は勝利して生き残るか座したまま死ぬかのどちらかだけである。
信行にとっては、もはやいくら不安を抱えていようが前に進むしか道は残されていなかったのだ。
むしろそのような状態で戦わざるをえない状態に信行を追い込んだ信長の謀略を流石と言うべきであろう。




そして信長より書状が送られてから丁度7日後、尾張国内での覇権を賭けた織田信長対織田信行の戦いが始まる。
















この尾張での戦(いくさ)での双方の兵力は下記の通りである。

<織田信長方>
総兵力:2500(内鉄砲300 但し従来型の火縄銃)
総大将:織田信長
参加武将:丹羽長秀、木下藤吉郎、滝川一益、前田利家、佐々成政、森可成、河尻秀隆、佐久間信盛



<織田信行方>
総兵力:3000(鉄砲は無し)
総大将:織田信行
参加武将:織田信安、柴田勝家、林秀貞、林通具















「よしっ、情報通りじゃ! きたぞ、皆の者! 抜かるで無いぞ!」

信長は僅かに見える、こちらに無警戒で行軍してくる信行方の先鋒衆の姿を見て勝利を確信した。

信行方は現状、烏合の衆であり唯一怖いのは精強で鳴る柴田勝家隊ぐらいのものである。
さらに大将の信行が戦のなんたるかをまだ理解できていない。ようはまだ若すぎる上に経験が絶対的に足りていないのだ。
それを唯一補佐できる可能性がある信行側の将といえば柴田勝家ぐらいであるが、信行軍にとって勝家は指揮官として前線から絶対に引きはがせない存在である。

ゆえに信行は自力でこの軍を統率しなければならない。

林秀貞、林通具の兄弟は明らかに役不足だ。
さらに言えば準備不足の信行軍は万全の状態では無いのである。だが、信長には一切容赦する心は無い。何年も尾張国内で骨肉の争いをするつもりは無いのだ。
この一度の戦いで全ての決着を付けるべく采配を振りおろす。




「鉄砲隊、放てーー!」

信長の号令を受けて攻撃態勢を取っていた鉄砲隊が相次いで発砲し始める。
辺りに鉄砲を撃つ大音声が何度も響き渡った。

「ぐわっ!」
「ぎゃっ!」
「ひぃ、奇襲じゃ! に、逃げろ!」

信長軍の鉄砲隊300が相次いで発砲。信行軍の先鋒衆の兵士達がその銃弾の雨を受け、たちまちバタバタともんどりうって倒れていく。
その様子を前に士気高揚の為、信長が全軍に対して大声で激励を発する。

「よし! 見たか者ども! 敵先鋒衆、総崩れぞ! この戦、我々の勝利だ! 一気に勝負を決める! 者ども! この信長に続けぃ!」

「殿に遅れをとるは配下としての名折れぞ! 皆の者、信長様に続け! 功名は目前にあり!」

「うおおおおおおおおおおお!!」

信長は自ら先陣を切り、敵陣に突き進んで行く。
その行動に士気を大いに高めた信長軍が信行軍に向かって突撃して行く。
後に続くは信長自らが鍛え上げた側近馬廻り衆。その中には前田利家、佐々成政、森可成、河尻秀隆等の剛の者達が多数いる。

思わぬ奇襲を受け浮足立った信行軍に、その突撃を止められるものはいなかった。
名も無い雑兵達が算を乱し、次々に武器や甲冑を捨て逃げ始める。









この戦いで先手を打ち、最後まで主導権を握ったのは信長軍であった。

子供の頃より尾張国内を駆け巡り、その地理に詳しい信長は、忍びや地元の民の情報により信行軍の動向を事前に察知。信行軍の進路に先回りする事に成功し、伏兵として全軍を配置したのである。
信行軍が軍勢を整える7日という時間を、信長はこの為に使ったのだ。
それに加えて総大将である織田信行が諜報や物見の重要性を上手く理解していなかった為、またそれを理解できる程の経験をしていなかったのが致命的だったのである。
信長の目から見ればほぼ無防備の状態で行動していた信行軍は格好の獲物であった。

そして見事に罠にかかってしまった信行軍先鋒衆は鉄砲隊に撃ちすえられ大混乱に陥り、我先に逃げ出して行く。









「こ、これは何としたことか!?」

いきなり響き渡った鉄砲の大音声に混乱する信行軍本陣。そこで一人右往左往する織田信行。
しばらくすると一人の先鋒集からの伝令の騎馬武者が、信行軍本陣に駆け込んで来た。

「信行様! い、一大事! 一大事にござる! 先鋒衆が敵の伏兵に襲われております!」

「なんじゃと!? くそっ、先鋒衆の奴らは役立たずの集まりか!? い、如何すれば!? 秀貞、どうしたら良いか!?」

伝令の報告を受け、信行は思わず毒づく。そしてすぐ傍にいた林秀貞に助言を求める。
経験の無さが露呈し、この窮地に自分一人では何をどうすれば良いのかも判らないのだ。
秀貞もそれは理解している。すぐにそれに対抗する為の策を考え答えた。

「見捨てる訳にもいきますまい。取り急ぎ救援の軍を送るべきかと」

「うむっ! それもそうじゃの! 秀貞、誰を送れば良いか!?」

「ここは我が軍の中で一番精強で戦場の経験も長い柴田勝家殿が適任ではないでしょうか」

「あい判った! よかろう! そのように急ぎ手配せよ!」

「ははっ。承知致しました」





林秀貞の助言を受けた信行の命により、柴田勝家隊が伏兵に襲われている先鋒衆の援護に入る。
勝家はその持ち前の優秀な統率能力でなんとか奇襲を受けた先鋒衆を助け出す事に成功するが、自軍も少なくない損害を受けると共に先鋒衆の混乱に巻き込まれて身動きが取れなくなってしまう。

その間に信長本隊は側面から、信行の前に陣取っている林隊に向かって残った全部隊で持って突撃を開始。
信長みずから先陣に立っての突撃に、信長軍の士気は天を衝かんばかりに高まり信行軍の隊列を切り崩しながら前へ前へと突き進んで行く。
先鋒衆への伏撃から混乱も収まらない状態で受けたこの信長の電光石火の突撃に、信行軍はまったく対応出来なかった。
将も兵士達も為すすべも無く、ただうろたえるばかりであった。




「おう、貴様は林通具! 織田信長、推参! もはや逃げる事はかなわぬぞ! 覚悟いたせぃ!」

「ひ、ひぃ! の、信長!」

そのような中、一隊を率いる林通具も突き進んで来た信長に捕捉され襲いかかられる。
信長が猛烈な勢いで雑兵達を蹴散らしながら騎馬を進める。目標は指揮官である林通具だ。通具をその攻撃圏内に収めた信長は裂帛の気迫と共に通具に槍を突き入れる。

「せいっ! おおりゃぁぁぁぁぁああぁぁ!!」

「ぐはっ!」

通具はその信長の繰り出す豪槍の前にまったく太刀打ちできなかった。
僅か一合目で手槍を弾き飛ばされ、続いて突き入れられた二突き目で、その穂先が通具の胸板に吸い込まれて行ったのである。
たまらず通具は落馬。それにすぐさま信長の馬廻り衆が飛びかかって馬乗りとなり、その首級を掻き毟った。
それを眺めながら信長は大声を張り上げ、咆哮する。

「敵将、林通具! 討ち取ったぁ!!」

おおおおおおおぅぅぅぅぅう!!

味方の将兵達が大きな雄叫びでそれに応じる。
林通具が討ち取られると林隊はすぐに総崩れとなった。信長軍はそれを蹴散らし蹂躙しながら、さらに前へ前へと、信行本陣へと向かって突き進んで行く。
信長軍は前に進めば進むほど織田軍の士気は天を突かんばかりに上がって行き、その逆に信行軍の士気はもはや崩壊寸前である。


そして戦闘開始後僅か半刻で信長軍が信行軍本陣に雪崩込むと、信行軍は総崩れとなった。
織田信安も前田利家に討ち取られてしまう。
追い詰められた総大将の信行は、僅かな馬回りに守られ末森城に向って必死に落ちて行ったのである。



そして戦場に最後まで取り残されたのは、先鋒衆を救出してそれを建てなおしている間にいつの間にか戦の勝敗が決まってしまった柴田隊500名のみであった。














柴田勝家は現在の状況に激怒していた。

自軍が無様に罠にかかってしまった先鋒衆を助け出している間に、信行軍本隊が僅か一刻で潰走してしまったのである。
そのあまりにも早い無様な潰走ぶりに自隊は退却する機を逃してしまった。

総大将の信行と林隊の不甲斐無さに歯噛みする。
自軍は現在500名のみで信長軍に相対していた。
林隊および信行軍本隊を打ち破った信長本隊も合流し、自軍は既に半包囲状態に置かれている。

状況は絶望的だ。



「あのたわけ共めが! 不甲斐無さすぎるわ!」

信長軍は柴田隊の全面一杯に布陣を完了し、命令さえあれば後は柴田隊を容易く踏みにじれる態勢を整えていた。
これらの信長軍が総攻撃に移れば、自軍は30分程で壊滅するだろう。

勝家自身が生き残ろうと思えば道はただ一つ。柴田隊全軍を捨石としてこの場に見捨てて捨て置き、自分は僅かな側近騎馬衆だけを連れて全力で逃げるという方法だけだ。
しかしそれもこの後に及んではあまりにも遅すぎる決断であり、成功率は十中一・二あるかと言った所であろう。

正直な所、あまり望みは無い。

それに自身の自尊心がそれを許さない。勝家は悔しさのあまり采配を地面に叩きつけ、地団太を踏む。






その時であった。
信長軍より一人の武者が馬に乗って進み出てくる。
その人物を眺め、それが誰なのかを確認すると勝家は驚愕した。

「の、信長様!?」

まさか総大将が一人進み出てくるとは…! 勝家はその信長の豪胆さに呆れると同時にその堂々とした武者振りに僅かな好感を覚える。

「勝家! 柴田勝家はおるか! 信長じゃ! 姿を見せい!」

自分の事を呼んでいる信長。
敵方の総大将が、それも圧倒的有利にある側の総大将が一人で進み出てきているのだ。ここで自分が出ねば侍としての沽券に係わる。
勝家も信長に習い、単騎で馬を進めた。



「勝家はここにございます。お久しぶりです、信長様」

「うむっ、故あって敵味方に分かれた身同士で、しかも戦場でこんな言葉はおかしいかもしれぬが、息災でなによりじゃな。勝家」

勝家は続く信長の言葉を静かに待つ。

「もう勝敗はついた。これ以上の戦いは無意味であろう。此度の敵対、全て許し本領も安堵するゆえ、もう一度この信長に仕えよ」

「背いた私を許すと申されまするか」

「柴田勝家といえば織田家随一の猛将であり、柴田隊といえば織田家随一の精鋭。
それをこんなくだらない戦で失うは織田家の痛恨の極み。もしワシに敵対した事を悔いているのならこれよりの戦働きでその過ちを雪げばよい。
勝家よ。織田家随一の柴田家の力、もう一度ワシに貸してくれぬか?」





その信長の言葉に驚愕する柴田勝家。

完全に勝者の側にある信長の方から出た、寛大すぎると言える程の無罪放免の言葉。
続く言葉は柴田家の事を高く評価してくれる物だ。誰だっておだて上げられれば嬉しくなる。
勝家自身に尾張随一の武勇との自負があるだけにそれは一入(ひとしお)である。

さらにこの戦で見せた信長の器量。


<自軍の進路に伏兵を配させたその知略。
 みずから先頭に立って全軍を奮い立たせたその勇気と豪胆さ。
 また自ら林通具を討ち取ってみせたその武勇
 そして自身を許すといったその器の広さ>




勝家は自身が信長という人の器を見誤っていたのだと気づく。
すぐさま馬を降り信長の前に跪く。

「申し訳ございませんでした! 此度の行い、勝家が間違っておりました! 柴田勝家、これより信長様に忠誠お誓い申し上げます!」

「うむ、その忠誠嬉しく思う。これより末森城に向かう。我が軍勢に合流せよ」

「ははっ、かしこまりました。これからはどうか我が柴田の戦振り、存分に御見聞くだされ」








こうして合戦に勝利した信長は柴田勝家の軍500を吸収し、信行の居城である末森城に向かって進軍を開始する。










<尾張 末森城>


信長が末森城に到着し、包囲してからすぐの事、末森城よりの使者として信長と信行の生母・土田御前が信長の元に来た。
史実の通り信行の助命嘆願の為である。
しかし信長はそれを拒絶。土田御前をそのまま近くの尼寺に押し込めてしまう。ここで信行を許してしまえば今までの戦いの意味が全て無意味となってしまうからだ。なんとしても信行にはここで死んでもらわねばならない。

信長とて信行を殺すのに葛藤が無かった訳では無い。なんせ実の弟である。
またそれは先の織田信光の件でも同様であった。

だがしかしだ、この信長という男は物事を客観的に捉え、実と名、メリットとデメリットを冷徹に見定め、その中から実とメリットを冷酷に、冷静に選び出せる人間である。
さらに言えばこの葛藤は信長の中では何十年も前に既に決着の付いた葛藤でもあったのだ。
故に生かしておいては天下統一・天下布武の妨げになってしまう信行は織田家の為に殺す。但し、その子孫は(無能でなければ)厚く報いよう。
それが信長の下した決断であった。



末森城に今度は信長よりの使者が入る。

『信行に再度、切腹申しつける。切腹するなら城内にいる信行以外の全ての者は助命する。』

信行に対して再度切腹が通告される。
もはや信行に打てる手は何もなかった。

今、末森城にいる守備兵は僅かな数である。元から末森城の守備に残っていたのは約二百名。
しかしその内より信行敗北の報せを受けて雑兵の中に逃げ出す者が続出し、現在八十名。
それに合わせて敗走してきた信行以下五十名。

総数僅か百三十名だけであった。対してそれを囲む信長軍は三千以上。

林秀貞以下、信行に合力した国人衆は自らの城に帰って出てこない。どこからか援軍が来るというような予定もその伝もない。
まさしく状況は絶望的であった。
そして最後の頼みの綱であった生母・土田御前の調停も失敗に終わり、打つ手は無くなってしまった。

こうして自身の完全な敗北を悟った信行は自刃。





末森城は開城した。















こうして織田家内紛はわずか一戦で終了したのである。
ほとんどの国人衆は助命されたが、史実と違う点が一点だけあった。
林秀貞のみ、その罪を許されず厳しく弾劾され、切腹を命じられたのである。



『一つ 林秀貞は信長の一番家老であり、名古屋城の居留守役を務めた事もある重臣の身でありながら、このたび逆心に及んだ事。
 一つ 先の今川との戦に置いて、陣触れに応じず勝手に帰還した事。
      上の罪、けっして許せる物にあらず。
      故に林秀貞に切腹申しつけるものなり 』



こうして林秀貞も信行に続き自刃。その領地は没収。
ここに織田家筆頭家老・林家は途絶える事となった。









その後、信行との戦の事後処理が終わった信長は軍勢をそのまま岩倉城主・織田信賢攻めに向け、これを追放。
同じく謀反をくわだてていた斯波義銀も追放。






こうして信長は史実よりも数年早い尾張統一を達成したのである。























<追記・説明>

以下『林秀貞』の史実での立場

 
林秀貞は織田信長の一番の重臣の地位にある人物でした。

信長が嫡男として小さい時に那古野城が与えらますが、その時に織田信秀より一番家老としてつけられたのが林秀貞です。
ちなみに信長の傅役として有名な平手政秀は二番家老で、秀貞は政秀よりも高い地位にいました。

また秀貞は信長の元服でも介添え役を務め、まさしく信長の後見人的な立場でした。
まさしく信長の一番の家臣であり、織田家内でも宿老の地位にいました。

そんな重臣の身でありながら背いた事。
史実でもそれほどの活躍をしていない事から今回早々に退場して頂きました。






[8512] 第3話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/09/20 17:54




<第3話>





<美濃 稲葉山城>

ある日、斉藤道三の元に尾張の娘婿である織田信長から一通の書状が届いた。


『斉藤義龍に謀反の兆しあり。注意されたし』


その手紙の内容に道三はしばし熟考する。なにせいきなりすぎる。何か目的でも有るのであろうか?

たしかに自分と義龍の仲は年々不仲になっている。
義龍の実父が実は道三では無く、道三によって美濃を追われた美濃守護・土岐頼芸だという噂はかなり前から美濃中に流れており、自分にもそれが嘘か誠かは判らない。
生母である深芳野が自分の側室になった時にはすでに土岐頼芸の子(義龍の事)を身籠っていたというのはその当時から言われていた事だ。

また美濃統一の為に、その噂を利用して旧土岐家臣達を吸収してきたのも事実である。
その為に義龍に家督を譲り当主にしていたのだ。
まあ、それはあくまで名義上で実権は自分が持ってはいるが。

だが、実際に最近は義龍を持て余し廃嫡を考えているのも事実だ。
確実に血の繋がっている喜平次や孫四郎(義龍の兄弟。弟にあたる)の方に跡を継がせたいと思っている。
それに美濃を統一した今となっては旧土岐家臣の力は絶対に必要という程の物では無くなってきているし、これ以上力を持たれても困る。
逆にむしろなんらかの方法でその力を削るべきでは無いのか?



斉藤道三は、この件についてはもう一度、じっくりと考え直す必要がありそうだと気づく。



「(ワシにとって一番良いのは穏便な方法で義龍を廃嫡する事だ。だが下手をすれば内乱になる可能性がある。
内乱になった場合はどうだ?
ワシと義龍、どっちに兵が集まる?下手したら義龍に負ける可能性もある。

これは思った以上にワシの置かれた状況は危ないな……。こんな事を今まで見逃してきたとは……、ワシも年老いたか?
何か理由を付けて義龍を廃嫡できないか? 義龍は病弱な所があり国主の執務等はできない等の理由はどうだろうか?)」



道三は様々な対応を考えていく。

強硬策は取れない。
名目上であろうとも今の斉藤家当主は義龍だ。自分では無い。それに強硬策を取れば内乱は必至だ。
それに現状では旧土岐派の家臣は、義龍に付いてしまうだろう。

ひとまず自身の周辺勢力の引き締め。それに義龍側の者への調略を開始しよう。
最悪、内乱覚悟で義龍を処断する事も視野に入れる。










だが、道三は義龍を甘く見すぎていた。油断していたと言っても良い。

義龍に味方しようという者は道三の考えていた以上に多かったのだ。
道三の策動はすぐに義龍の知る所となり、義龍に先手を打たれる事になってしまったのである。






信長の便りより1週間後、衝撃の報せが道三の元に飛び込んで来た。

「道三様、一大事で御座います! 義龍様御謀反! 喜平次様、孫四郎様を討ち、稲葉山城を占拠!」

「しまった! 先手を打たれたか!!」

道三はその飛び込んできた報告に驚愕すると共に後悔の念に襲われる。

「(やはりワシは年老いたわ! 昔のワシなら悠長に待ってなどいなかった……!
殺らなければ殺られる。
そして弱肉強食。
それこそが戦国の習い。

それを身を持って知っているはずのワシがこんな失態を!
これでは今までワシが討ち取ってきた無能共と同じでは無いか!

麒麟も老いれば駄馬に劣るというというのはこの事かっ……!)」






道三は自身の衰えという物を改めて実感する。
状況判断の甘さ、そして体力低下による行動の遅さ。それらは若い頃には到底考えられなかったような事だ。

昔の若い時の自分であれば危機を察せば待ってなどいなかった。
先頭に立って相手に突っ込んで行くぐらいの覚悟や気概があった。それがいまやどうであろうか。
見る影も無くなっているでは無いか。
いつの間に自分はこんなに老いさらばえてしまったのであろうか?



だがこのままむざむざと義龍に討ち取られるのは自身の沽券に係わる。
道三は老いた身に気合いを入れ直し、義龍との戦の為に集められるだけの兵を集め始める。












尾張の信長よりの使者として丹羽長秀が道三の元に来訪したのはそんな危急の折であった。








「織田信長が家臣、丹羽長秀に御座います」

道三の前まで通された丹羽長秀が道三の前まで歩み寄り平伏する。
長秀は若くして織田家の家老の地位にある新進気鋭の若者だ。

「道三じゃ、して長秀とやら、この危急の折に何用かな? 恥ずかしながら今取りこみ中でな、歓迎の宴もできぬ。許して下されや」

「お気になさらないで下さい。こちらが我が主、織田信長より道三様への書状に御座います。御覧下さいませ」

道三は長秀より渡された書状を開き読み始める。




『御油断召されましたな、親爺殿。

 この戦、我が尾張勢が後詰め致す。
 親爺殿は東美濃においでなされ。
 
 此度の後詰めの報酬、美濃一国でよろしゅうござる』




その書状を読み、その内容を吟味した道三はおもわず苦笑する。
なんとも常識外れで無礼な書状では無いか。
だがこんな書状もあの信長からだと思えば妙な覇気と共に小気味良さすら感じる。



「長秀殿はこの書状の中味はご存じかな?」

「はい。恐れながら此度の戦、現状のままでは道三様に勝ち目は御座いません。道三様におかれましては、東美濃を所領に持久戦を、との信長様の御言葉です」

長秀のその言葉を受け現状を考える道三。
たしかにこの戦、このまま戦えば道三側に勝ち目はないだろう。
義龍についた者達の総兵力:13000名。それに引き替え道三側は僅か5000名である。

完全に主導権を持っていかれた形だ。ほとんどの者が勝つのは義龍側だと判断し、向こうについてしまった。
軍の勢いという物も義龍側にある。

道三は逆に長秀に問い掛ける。

「持久戦というたが期間はどれぐらいを思案している」

「およそ2~3年」

「なんだと!! それまでこの道三に生き恥を晒せというのか!?」

長秀の返答に道三はおもわず激昂して声を荒げてしまう。
道三は過酷な下剋上を潜り抜けてきた戦国大名である。商人から身を起こし、一代で今の地位を築いてきたのた。
その美濃太守としての自尊心が、自力で伸し上がってきたその誇りが、その案を否定したがる。

そんな見っとも無い状態など御免蒙る。そんな状態に陥る位なら華々しく討ち死にした方がマシだ。
だからこそのこの激昂である。

その道三の様子にも慌てる事無く、長秀は話し掛けて来る。

「あえて信長様よりの言葉をそのままお伝えさせて頂きます。

 『 道三の親父殿、信長の為に、天下の為に、今はあえて生き恥を晒して下され。
  この信長、天下統一の為、どうしても美濃一国、頂戴仕りたい。
  いや、美濃だけにあらず、これよりの天下の仕置きの一切、この信長にお任せあれ。
  耄碌されるのはまだ少しだけ早う御座いますぞ。道三の親父殿、老兵は死なず、ただ去るのみで御座いますれば』 」


その言葉に道三は一瞬、呆けたような顔をした。その後、壊れたように大声で笑いだす。

「くくっ、ふあっはっはっはっはっはっはっはっはっは! あのうつけ者め! 好き勝手言うてくれるわ!」

道三は思う。
この道三にも、世に何か残したいと思う自己顕示欲は人一倍ある。でなければ商人から1代で身を起こし、美濃太守とまでなった、生きてきた意味がないでは無いか?
だがそんな自分も、はや齢(よわい)63。身体も頭脳も見るも無残に老いさらばえてしまっている。
新たに何かをなせるような年では無い。
どうやら自分はここまで。美濃一国で終わる器であったようだ。
つまり我が天命はもはや潰えたのだ。

であらば、もはやジタバタしてもしようがない。
若い者に道を譲り、またそれを導くのもおのれの勤めでは無いか?

それに信長の言葉、老兵は死なず、ただ去るのみというのもおもしろい。
ある意味世の真理のような言葉では無いか。




「義龍に引導(いんどう)を渡される前に信長殿に引導を渡されたか……。のう光秀よ、世の中何が起こるか判らんのぅ」

「誠に」

道三は自分が可愛がっている家臣である明智光秀に話しをふる。光秀も苦笑しながらも、楽しそうに返す。

「よかろう、長秀! これを信長殿に渡してくれ! 美濃一国の譲り状じゃ!」

「ありがたき幸せ」

長秀は道三がその場で急いでしたためた譲り状を押し戴く。

「長秀、信長殿がワシに持久戦を求める理由は東の今川家か?」

「御意」

「もし信長殿が今川に負ける事あらば、ワシの好きにさせてもらうぞ」

「承知致しました」

「ならばよい。この美濃は任せい。信長殿の手が空くまでワシが支えておこう」

「ありがたき幸せにございます。しからば拙者は尾張に急いで戻ります。援軍8000名はすでに尾張・美濃国境にて待機しておりますので2日で到着致します」

「うむっ、こちらもすぐ動く」















こうして斉藤道三と斉藤(土岐)義龍の決戦は史実と大分変った形で始まった。

道三はいち早く纏め上げた自軍を尾張側の東美濃まで下がらせ、尾張からは織田信長の援軍8000名が進発。
結果、義龍軍に捕捉される前に織田軍との合流を済ませた。


これで兵力は13000名。両軍はほぼ互角である。


そして戦が始まるが、結果から言えば決着はつかなかった。
織田軍は元より決戦の意図は無く、ほぼ守勢を保ち防御に徹する戦法に終始していたのである。
そして織田・道三連合軍は義龍軍の攻撃をことごとく弾き返し、義龍軍に出血を強いて行く。





義龍の最大の失策は謀反の初期段階で道三を討ち取れなかった事である。





美濃には道三の勇名・名声が鳴り響いており、それは日を追うごとに義龍に圧し掛かってきていた。
さらには道三は善政を敷き民衆には好かれている人物であった為、人心の動揺も頭の痛い問題として同じく義龍に重く圧し掛かってきている。

それに続き戦線が膠着状態に陥いってしまうと勝ち馬に乗った気でいた義龍軍の国人衆の中にも動揺する者が出てきたのだ。
結果、義龍軍はさらに身動きが取りにくくなってしまったのである。


そしてその後も決着は付かず、何度かの小競り合いを経て時季は農繁期に入り義龍軍・信長軍共に撤退。

美濃の国はそのまま、東美濃20万石は斉藤道三が、西部美濃35万石は義龍が支配した状態で、両勢力は膠着状態に陥る事となった。















<後書き>
道三生存でのIFルートとなります。






[8512] 第4話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/09/21 00:24



<第4話>





<永禄元年(1558年) 岡崎城>

現在、織田信長は今川軍が撤退し無人となった岡崎城にいた。そこで今回の戦の戦後処理の為、各地に送る書状をしたためていたのである。



この世界での今川義元の尾張侵攻は史実より2年早く行われた。

今川家の尾張侵攻は、元は今川方の出城・大高城の救援が原因で開始されたのである。史実でもそれは同様だ。
つまり通説で言われていたような上洛が目的と言う訳では無いのである。
あくまでも尾張進出の拠点・大高城が織田家の圧力にさらされ落城しそうになった為の、その救援なのだ。

大高城救援と、そのついでに尾張を支配下に置こうとの動きであったのである。

この世界ではいち早く尾張を統一し、道三を北の盾として美濃からの圧力も無い織田家からの圧迫が想像以上に強く、2年程早く大高城に落城の危機が迫っていた。
その為、今川義元は西三河の松平勢を先鋒に20000名の軍勢を持って1558年には尾張への本格的侵攻を開始。


こうして尾張・三河国境での両者の激突が始まったのである。















結果から言うと戦闘の展開は史実とほぼ同じであった。

今川方は松平勢が大高城に兵糧・援軍を届ける事に成功した後は攻勢に出る。
織田が大高城攻略の為に築いた出城である丸根・鷲津の両砦に対して今川勢先鋒隊及び松平勢が攻撃を開始。
激闘の末、これを占領する事に成功したのである。
丸根・鷲津の両砦陥落の報せを受けた総大将・今川義元は機は熟したと見て拠点としていた沓掛城より進発。大高城に向う為、西に軍を進めた。




そして今川義元はその途上、運命の地である桶狭間山に陣を張ったのである。




今川軍の正確な動向を把握する為、国人衆や忍びにその動向を子細に調べさせていた信長は逸早くその動きを察知。

迅速な動きで今川軍本陣に向かって行軍を開始。
その本隊の脇までの迂回に成功する。

そして2年早く実施されたにも関わらず以前と同じように攻撃時に降ってきた豪雨の中、織田軍4500は今川軍本隊5000に突撃を開始。
完全に油断し、不意を突かれた今川軍本陣は大混乱に陥り組織的な抵抗が出来ないままズルズルと後退するしかなかったのである。
決死の抵抗も空しく田楽狭間に達した所で今川義元は織田軍に完全に捕捉された。
そして信長馬廻衆の服部一忠(小平太)及び毛利良勝(新助)両名の手によって、総大将・今川義元が討ち取られるという大敗北を喫してしまったのである。



その今川義元討ち死にの報せはすぐに東海道中に知れ渡った。

総大将討ち死にの報せを受けた各地の今川勢はたちまち総崩れとなり、撤退を開始。
瞬く間に皆が我先にと逃げ出し、後に残ったのは大高城の松平元康に鳴海城の岡部元信の僅か二将のみとなってしまったのである。


逆に尾張で守勢に立っていた織田家留守部隊はその今川義元討ち死の報せに士気を多いに高めた。
士気を高め勢いに乗った織田留守部隊(柴田勝家・森可成・河尻秀隆・佐久間信盛等)は今川軍に対して次々に逆襲を開始。
尾張・三河国境地帯の今川家についた者達の城を次々に攻略していったのである。
士気がどん底にまで落ち込んでいる今川勢に抵抗する力は残されておらず、味方になってくれた国人衆達を全て見捨てて撤退して行く。




そんな中、田楽狭間で義元を討った信長の部隊は尾張には戻らずに真っ直ぐ三河の岡崎城に向かって進軍。
守備兵が全て撤退し、空城となっていた岡崎城を抵抗無く占領する事に成功したのである。





ここで話しは冒頭へと戻る。















信長はまず鳴海城に入って守りを固めている今川方の武将・岡部元信に対して書状をしたためた。

この岡部元信という人物は今川家の中でも戦上手・随一の猛将として他国の大名に怖れられている人物であり、後に今川家を攻めた徳川家康をさんざん手こずらせた良将である。
今川家の滅亡後は武田家に仕え、高天神城の戦いで高天神城城代を務め、壮絶な戦死を遂げたという人物だ。

この人物が守る限り、鳴海城は簡単には落ちない。
史実においても鳴海城は結局攻め落とせず、義元の首級を返還するのを条件に講和し、開城させたのである。
ならば下手な損害が出る前にさっさと講和して駿河に帰ってもらうのが吉だ。

元信自身もこの籠城はただの意地であり、このまま鳴海城に籠城しても何の意味もないのは重々承知していたのである。
こんな無駄な、何の意味も無い戦いで大事な配下の将兵達の命を無駄に散らす訳にはいかない。
故に講和はすぐにまとまった。




ここで信長は喧伝の為にある行動を起こす。

なんと義元の首級だけで無く、同じく田楽狭間にて討ち取られていた、松井宗信・久野元宗・井伊直盛・由比正信・吉田氏好・一宮宗是等の主だった家臣の首級も返還。
さらに戦利品である武器甲冑(宗三左文字を含む)や義元の輿なども同じく修理し返還。
この気遣いに岡部元信は大いに感動した。

信長は岡部元信より 「織田信長殿は武士の情けを知る。誠に天晴れ者なり」 との書状を受けたのである。

この美談は東海道中に知れ渡る事になり信長はその評価を多いに高める事となる。
また岡部元信は色々な荷物が増えた為に、史実であった駿河帰路途上の刈谷城への攻撃は行わなかった。









もう一つの書状が大高城にいる松平元康に対しての物だった。





元康は現在の状況に頭を悩ませていた。
自身が動くより先に織田信長に岡崎城を占領され、行動の幅が極めて狭くなっているのが現状である。

「これは弱った……。如何致すか……?」

桶狭間の戦い直前までの松平元康の今川家の中での立場は、西三河周辺の国人衆を束ねる領主だ。
但しあくまで名目上は、である。
実際には岡崎城には今川家より派遣された城代がおり、その者が政務一切を取り仕切っていた。
元康自身は人質として常に駿河で生活している。

また戦の度に西三河衆は最前線に駆り出され、捨石のような扱いを受けていた為、今川家への不満は相当な物があった。
松平家にとって今川家からの独立及び元康の祖父・松平清康が統一した三河の再統一は悲願である。
そして今回の今川家の大敗は自身にとってまたとない好機だ。

但しそれはこの地より生きて帰れればの話しであるが……。





元康にとって最大の誤算は信長の行動が早すぎたことである。

義元の首級を揚げただけでは満足せず、すぐさま自身の根拠地である岡崎城を抑えられた。
例えば、もし信長が岡崎城を抑えなければ、大敗した今川軍の事だ。城代すらも駿河に逃げ出し、今頃自分は空城になった岡崎城に悠々と入れた事だろう。
それが信長の迅速な行動で全てがご破算である。

まったくもって忌々しい。

現状、自軍の置かれた状況は極めて悪い。
絶望的ですらある。

自身が今現在、率いている西三河衆は2500名。西三河の各地に守備隊として置いていたのが700名の計3200名。
今川軍はとうの昔に駿河に向かって撤退しており、もはやこの地には存在しない。
共に最後まで残っていた岡部元信の隊も撤退を開始したとの報告も入ってきている。

さらに自軍は一応は敗軍であり雑兵の中には逃げ出す者も現れてくるだろう。
どういう風に動くにしろ、はやく決断しなければジリ貧となるのは確実だ。









元康はこの窮地をどう脱するかを必死に考える。
考えられる選択肢はいくつかある。




まず一つ目は他の今川家部隊と同じ様に駿河に向かって撤退するという選択肢。

織田軍は撤退する部隊には追討ちをかけていないようなので全員を生かして撤退させることができるだろう。
但し、その場合、西三河どころか三河全土は織田家の物となってしまう。

さらに所領を失った我々松平家の立場は今川家の中でさらに悪くなる。
また所領を守れない領主に付いてくる者など、ほとんどいない。
皆、独自に織田家に寝返り、自身の領地を守ろうとする事が予想される。

故にこの選択肢は最悪の愚策だ。
それに先祖伝来の我々の土地を捨てたくは無い。
そんな事をするぐらいなら華々しく討ち死にした方がマシだ。




二つ目の選択肢は我々だけでの戦闘継続。

松平家の独立を獲得できるまでの徹底抗戦だ。
織田軍も岡崎城を占領しただけで西三河全土を占領したわけでは無い。違う視点で見れば信長は岡崎城に孤立しているともいえる。

そこで我々は織田家の攻撃が始まる前に、今いる尾張国境の占領地を全て放棄し三河に帰還。
岡崎城以外の西三河の地の全てを押さえ岡崎城に圧力を加えるのだ。

但し、総兵力でいえば我々松平勢は今川家の助力を得られぬかぎりは、織田家よりも数段劣る。
現在岡崎城に入っている織田軍単独で考えても、我等の総兵力とほぼ同数かむこうが上という程の体(てい)たらくだ。
簡単に落とせるとは到底思えない。

それに織田家がそれまで何も動かないという事はないだろう。
我々が岡崎城に向かって軍勢を動かせば尾張の織田軍が当然それに呼応し総大将を救えと全力で我等に立ち向かってくる事になるであろう。
尾張からさらなる兵力が入ってきた場合、負けるのはおそらく我々の方だ。
さらに桶狭間の勝利により兵の勢いも織田家の方が上である。
よほど上手く立ち回らないと待っているのは死だけだ。




三つ目の選択肢は織田家への降伏。

つまり今まで今川家に従属していたように今度は織田家へと従属し再起を待つのだ。
これが現時点で考えられる選択肢の中で一番安全策ではあろう。
だが、現状では居城である岡崎城を織田家に抑えられている為、条件はかなり悪い物となってしまう事が予想される。




四つ目の選択肢は、二つ目の選択肢と三つ目の選択肢を合わせた行動。

最終的な目標は織田家との講和とした上で、出来るだけ良い条件を引き出せるように織田家と争う。
いっその事、全ての地から守備隊も含めて全ての兵力を集めた上で全力をもって岡崎城に対して総攻撃を行うのはどうだろうか?
その場合、尾張から織田家の援軍が来る前に岡崎城を落とせるか、若しくは城は落とせなくとも織田信長に講和を決意させられるまで追いつめる事ができるかの時間との勝負となる。

さらに言えば、例え全てが上手くいって策通りになったとしても我が方の損害は甚大な物となってしまうだろう。
その時は良いが一年後に織田家に、若しくは今川家に滅ぼされる……、との結果に成りかねない。









元康は悩み続ける。

おそらく、今自分がこの場で下す命令で我等松平家の命運は決まってしまう。
一番確実なのは織田家への従属。意地を通すのなら徹底抗戦。
どの道が一番松平家の為になるのか?
元康がその背に背負い込んでいる責任はとてつもなく大きな物だ。
其れゆえすぐには決められない。一人孤独に悩み続ける。



その時であった。
一人、座しながらジリジリと考え込んでいるその時にそれは訪れたのである。





「元康様! た、大変です! 岡崎城の織田信長より使者が参りましたっ!」

「なにっ!」

松平家重臣の酒井忠次が慌てながら部屋に転がり込むように入室し、元康に現在岡崎城にいる織田信長よりの使者が来訪したと伝えてきたのだ。
その報告を聞いた元康も驚愕する。
何の為に訪れたのかすらもまったく予想できない。敵であるはずの織田信長が何故?
だが態々ここまで来たという事は何かの用があっての事であろう。
元康は悩むのはその要件を聞いてからでも遅くは無いと思い直す。


「すぐに会おう! 重臣達も同席させる! 忠次、皆を集めよ!」

「承知仕りました!」

その元康の指示を受け酒井忠次は来たときと同じ様に部屋を転がり出る。
元康の方は足早に応接の間に向かう。
信長の使者として来訪したのは織田家の重臣、家老の丹羽長秀であった。

そしてしばらくして松平家重臣の全員が集まった所で丹羽長秀が通されてくる。
元康は自身の前で平伏した長秀に声を掛ける。

「よう参られましたな、使者殿」

「お初にお目にかかります。織田家家老の丹羽長秀と申します」

「松平元康です。それで織田殿がこの元康に如何様な御用件で」

「こちらが我が主、織田信長よりの書状に御座います」



元康は長秀より渡された書状を開く。
そこには驚くべき事が書かれていた。


まず織田家は我々松平家とは争いたくないという事。
また現在織田家は貴家の岡崎城を占領しているが、それは決して三河の国に対する領土欲からでは無いという事。
そしてその証拠として我々が今川家から奪い返し、一時預かっている岡崎城を松平家に返還したいという事。
それらの対価として織田家・松平家との間での同盟の締結を求める。

等々、上記の事が書かれていたのだ。
あまりにも自軍に対して都合が良すぎる条件である。




「し、使者殿……、これは誠か?」

「御意。信長様は元康様と共にこの日ノ本を戦乱の無い、良い国にする為に共に戦いたいとの事です」

元康は思わず長秀に聞き返す。
織田家からの提案があまりにも自身に有利な為、驚愕し反射的に警戒してしまったのだ。










もちろん信長は単なる善意からこんな提案をした訳では無い。
理由はいくつかある。


一つ目はさっさと東(三河・東海道)方面の安全を確保し、西に向かって素早く勢力を伸ばしたい為。
補足で説明すると、史実では同盟締結まで桶狭間の戦いから2年、つまり永禄5年(1562年)に同盟締結と、結構な時間がかかっていたのだ。
それまでは当然織田・松平間は戦争状態にあったのである。その無駄を無くしたい為。

二つ目は精強な三河勢とは戦いたく無い為。

三つ目は現在の状況で、三河・駿河方面で下手に騒乱をおこすと武田家・北条家が介入してきて戦局が泥沼化する可能性がある為。

四つ目は松平家にたいして大きな恩を売れる為。

五つ目は攻めた場合のメリットより攻めない場合のメリットの方が大きいからだ。



今川義元亡き後の今川家は正直、恐るるに値しない。
義元の跡目である今川氏真は凡愚である。国主たる器量は無い。今川家のみが敵であれば、攻めれば簡単に駿河は奪えるだろう。

但し義元が死んだとて今川・武田・北条の三国同盟は健在だ。
攻めれば彼らが介入してくるし、武田信玄などは 「これが好機」 とそのまま今川家の領地を奪ってしまいかねない。







逆にそのまま放置していた場合はどうであろうか。

今川家は今川氏真の統治の元、失策を繰り返しどんどん弱体化していく事になろう。
そして松平家が西からその領地を侵食していく。
但しその動きはゆっくりした物の為、及び松平家の勢力が小さい為、早々に武田家・北条家が介入してくる事はおそらく無い。

逆に自らよりも小国である松平家に負け続ける今川家のあまりの弱体っぷりに両家共、駿河ノ国への野心が生まれる可能性の方が高い。
特に領内に海を持たない武田家は史実通り駿河にたいして動くのは確実だ。

但し、その場合三国で結んでいる三国同盟が逆に彼らの枷となる。



つまりは織田家が武田家に駿河に介入する大義名分を与えさえしなければ彼らは身動きが取れないのだ。
その場合、武田家は三国同盟を破棄しないかぎり南には入れないのである。

織田家にとって最も最悪な選択肢は何らかの方法で駿河への武田家の介入を許してしまい、武田家が三国同盟 (つまりは北条家との同盟) を継続したまま駿河を手に入れてしまう事だ。
その場合今川家は良くて武田の傀儡、最悪滅びている事であろう。

であれば、このまま今川家は放置し、織田家は東方(特に武田家)に向かって松平家と今川家(結果的には)という二つの防波堤を持つというほぼ史実通りの選択肢が一番ベストなのだ。
今川家の存在は良い時間稼ぎになる。
さらには良いバロメーターにもなりうる。今川家が滅亡するまでは東はほぼ安全という訳だ。








以上の事から織田家は松平家に対して恩を売りながら同盟を結ぶ事を目指したという訳である。
そうなれば織田家は即座に美濃・伊勢に向かって全兵力を送り込める。















「承知した。我等の土地が戻ってくる上、我等を対等に扱ってくださるなら否やは御座らん。信長殿によろしくお伝え下され」

結局の所、元康は迷ったが信長の提案を受け入れる事にした。
というよりもそれ以外に選択肢がなかったのである。先に述べた通り、自軍にこれより良い選択肢は現状では何も思いつかない。
正直この信長の提案は松平家にとってまさに天祐である。

滅亡の瀬戸際にまで追い詰められていた松平家が、生きながらえるだけでは無く、さらには悲願であった今川家よりの独立まで達成できるのであるのだから……。
現にその元康の判断に、廻りで聞いていた松平家の重臣達の間からも一斉に安堵の声が洩れた。


その雰囲気を縫ってさらに長秀が発言してくる。

「ありがとう御座います。それと元康様、もう一つよろしいでしょうか?」

「なんでござるかな?」

「我が主、信長様よりの御言葉です。これより我が織田家は天下統一に向けて家中全ての力を合わせて邁進してまいります」

「天下とな!? それはまた、なんとも大きな夢にござるな……。」

「いえ、けっしって夢まぼろしでは御座いません。我等はこの日ノ本全てを統一し、必ずや戦の無い、平和な国にしてみせます」


元康は長秀のそこまで言い切るその自信に驚く。
そして自らが小さき頃、人質として尾張に滞在していた時に会った信長の姿を何故か思い出す。

よくよく思い出せばあの頃から信長は、人質でしかなかった自分に良くしてくれていた。
年下という事もありまるで自らの実の弟のように扱い、武芸や馬術、はては大将の心意気など、様々な事を教えてくれたのである。
思えば信長はあの童の頃から既に我等とはどこか違っていた。
元康には信長が見ている未来という物が我等常人とはまったく違っていたように思える。
まだ童でありながら、たかだか尾張の小勢力でありながら、繰り返し言っていたあの言葉。
<天下統一> 
あの頃から繰り返し言っていたこの言葉と、その言葉を言い放つ威風堂々とした信長の姿を自分はとても大きく、眩しく思った物だ。










「織田家は東海道の守りを松平家にお願い致す所存に御座います」

「それについては任されよ。一度盟約を結ぶからには決して織田殿の期待は裏切らぬ所存」

「ありがとう御座います。なればもう一つ、元康様にお願いしたき儀があります」

「なんでござるか?」

「我等が天下統一をはたしたその時は、松平家におきましては我が織田家に臣従して頂きたいのです。
逆にもし貴家が天下に采配する立場になった場合は我が織田家が貴家に対して臣従させて頂く所存。
すなわち、これより後、織田家・松平家、我等のどちらかが必ず、この日ノ本から戦を無くし、平和な国を作るという誓いの盟約を結びたいのです」

普通の者が聞けば、遠まわしに臣従せよと言うこの言葉は無礼千万な物であっただろう。
だが元康はそうは感じなかった。
むしろある種の清々しさすら覚えたのである。

「ふふっ、なるほど。つまりこの同盟はたんなる同盟にあらず……、という事でござるな」

「御意」

「ふふっ、であらば良し! その件も承知しよう! 者共、聞いたな! 今日この日より我等は織田家と共に天下取りに挑む! 皆、今日まで良く耐えてくれた! だがこれよりは違う! 我等は自由だ! これよりこの日ノ本中に三河武士の勇名を刻みこんでやろうぞ! 我等三河武士これにありと、この天下に刻み込んでやろうぞ!!」

「応おうっ!!」









その後、岡崎城において信長と元康が会談。その場において正式な盟約を締結。
これにより織田家は東に対して信頼できる味方を手に入れた事により、北と西に戦力を集中できるようになった。












<後書き>

桶狭間の戦いは省略させて頂きました。あえて手を加えないのもありですよね?
史実ですでに下手な物語りよりもドラマティックなので改編の仕様がありませんでした。

ちなみにこの話しで書きたかったのは史実より速い松平家との同盟と松平家に恩を売るという事。







[8512] 第5話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/09/27 15:48



<第5話>





永禄3年(1560年)清州城内


その日、信長は清州城内で一つの報告を受け取った。

「ようやくできたか!」

「はっ! こちらが昨日完成した銃です!」

信長が新たに作った名古屋工廠にて5年の歳月をかけてようやく完成したフリントロック式小銃の第一号が工廠長の手によって信長の前に差し出される。
それを受け取り感慨深く眺める信長。
この銃が出来るまでは本当に試行錯誤の連続であった。


この任務についたのは尾張国内の刀鍛冶達である。
彼らは5年前に信長の命令によって集められ突然命じられたのだ。鉄砲を造れ、資金は全て織田家が持つ、と。
戸惑った彼らではあったが領主よりの命令には逆らえない。それに金は出すと言ってくれているのだ。特に自分達に損は無い。
彼らは従来の仕事と並行して銃の開発・製造を目指し働き始めたのである。

ただいきなりフリントロック式の銃は無理なのでまずは従来型の火縄銃の製造から始まった。
しかし実物があり、原理が解っているとはいえそれを実際に作るのはまた別問題である。

だが彼らは元からの日本刀を造る刀鍛冶としてのその腕を存分に発揮し、努力した。
毎日が試作品を作っては壊し作っては壊しの繰り返しであったが、苦節5年、この日ようやく日の目を見た訳である。
尾張国産銃の第一号だ。




「よしっ、放て!」

信長は早速、近従に命じて試射をさせる。
発射準備を全て整え、銃を構えていた近従がその信長の号令に合わせて銃を発砲。

鉄砲発射の大音声が辺りに響き渡り、放たれた弾丸は約30m先の的に見事命中。的は粉々に砕け散る。
その後信長は4発連続で撃たせるが造られた新式銃は早合装備で装填速度も申し分無い。
また従来型の火縄銃よりも部品数が少ない為、その分頑丈だ。
戦場において頑丈さ、武人の蛮用に耐えうるというのは想像以上に重要な要素である。




「これであれば性能的に問題は無い。月に何丁できる?」

新型鉄砲の試射を済ませ、その出来に満足した信長は銃を持ってきた工廠長に問いかけた。
工廠長は信長の前で平伏したまま答える。

「今はまだ製造するに当たっての信頼の置ける熟練工の数がまだまだ揃っておりません。現状では月に10丁が精一杯です。」

「で、あるか……。よかろう。まずは御苦労であった。今後の方針であるが銃の生産数についてはあまり考えなくて良い。まずはこれを作れる職人の数を速やかに増やせるように努力せよ。」

「はっ、かしこまりました!」

そう言い工廠長は下がっていく。
信長の判断は、まずは銃の数を揃える前にその生産体制の整備を優先する物であった。
腕の良い熟練工の育成には長い年月が必要である。今はその育成に力を注ぐべきだ、それが信長の判断である。

これで軍に支給する銃の生産については一応の段取りがついた。
但しその正式な運用はまだ先にはなるだろう。ある程度数を揃えたいし、訓練も必要だ。
それに機密保持という問題もある。できればここぞという所で使いたい。
おそらく正式な運用は上洛以後になるだろう。







また他の事項として、以前より着手していた硝石の生産についても順調に進んでいた。
すでに結構な量が備蓄され、織田家の鉄砲隊は潤沢な火薬を使って訓練を始めている。
それにより織田家の鉄砲隊の熟練度は日本の中でもかなりの物となっていた。


それ以外にも取り掛かりたい事はたくさんあるのだが、尾張一国での税収では到底足りないのが現状であり現在は一つずつ順番に、と取りかかっている所である。








また、それと同時に信長はある一つの改良にも取り組んでいた。
それは文字の改革である。

この時代、今でいう草書体(筆を離さずに一筆で書かれており文体も崩して書く為、極めて読みにくい文体)で書かれるのが一般的だ。
(実際に書き方に癖のある人が書いた文書などでは、読めないという事もあった)

それを誰もが読みやすくする為、また将来的に国民全員に読み書き算盤を教える時に覚えやすくする為に文体を楷書体に統一する事を決めたのである。
これは活版印刷の導入の為でもあった。
草書体のままでの活版印刷の導入は物理的に不可能だからである。
すでにその為の第一歩として、織田家内での公文書は楷書体で統一され初めていたのだ。
それに加えて正式にひらがなカタカナを織り交ぜ長期的に、そして段階的に現代で使用されているような文体を最終の目標として目指していく。

信長はこう思うのだ。現代の文書がどのような文体・書き方かを知った後では、この時代の文体は読みにくいことこの上無し。
そもそも文字とは情報を正確に、万人に等しく伝える為の手段なのだ。
それが人によって違う形で書き方もまちまち、しかも一つの字に書き方が何種類もあったりする。それでは意味が無いのだ。
だからこそ改良が必要であると判断したのである。
















また信長は内政だけに精を出している訳ではもちろん無い。
東を松平家との同盟により安泰とした織田家は勢力拡大の為の目標を北の美濃斉藤家、及び西の伊勢諸勢力に定めた。


まずは北、美濃の情勢である。

美濃は東に親織田家の斉藤道三がおり西美濃の斉藤(土岐)義龍とここ数年、小競り合いを繰り返していた。
双方共決め手に欠け、義龍の謀反直後からほとんど情勢は変わっていない。
しかし此処に来て情勢が変化してきたのである。
斉藤道三の同盟国である織田家が駿河の今川義元を討ち取り、さらには三河の松平家という同盟者を得た事によって美濃に対する圧迫を強めてきたからだ。
美濃の情勢は少しずつ、しかし確実に斉藤道三側有利に傾き出したのである。

しかしその状況の中においても信長は美濃を無理に力攻めはせずに、現在美濃においては諸将に対する調略が進められていた。
特に力を注いでいたのは義龍軍の中核、西美濃三人衆と言われる三将、稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)に対する調略である。
これには東美濃にて道三が生存している事、さらには調略がその道三の手によってなされている事、それに最近の道三側有利の状況から三将共に大きな動揺が走っていた。
しかしそれも未だに内応を決意させる程の決定的な状況には至っておらず、後一押しにかける、決定打が足りないといったような状態である。


但し信長は焦ってはいなかった。
焦らずにある一つの事を待つ。そう敵総大将の斉藤(土岐)義龍が永禄4年(1561年)に死去するのを待っているのである。
これは未来を知る事の最大のメリットだ。

義龍の跡目をつぐのは暗愚で有名な斎藤龍興である。
それにこの危機的な状況下だ。斎藤龍興側の団結の崩壊は、より一層加速されるであろう。
年若い斉藤龍興ではこの危機的状況を支え切れない。

無理しなくても自分の手の内に熟して落ちてくると判っている果実(美濃の国)を無理して取りにいく事も無い。
ここは未来を知っているという利点を最大限、活かすべきである。


よって現在、美濃方面については積極的な出兵はしておらず平穏といえるような状態となっていた。









続いて西側、伊勢方面である。

織田家では北の美濃方面が比較的平穏というような状況下で、唯一兵を出していたのがこの伊勢であった。
桶狭間の戦いに勝利してから織田家は積極的に伊勢に対して侵攻を開始したのである。

織田家の伊勢への侵攻は順調に進んでいった。
元から伊勢の北部・中部には現在の織田家に対抗できるような大きな勢力は無く、それぞれ小さな規模の国人領主達が独自の勢力を持っているというような状況である。
その中で南伊勢に勢力を持つ伊勢国司の北畠具教のみが唯一大身で警戒すべき勢力であった。

永禄2年(1559年)より織田軍は総力を挙げて伊勢に侵攻を開始。
怒涛の勢いで伊勢を北から南に向かって突き進み、侵攻より1年で伊勢北部及び中部の神戸氏・長野氏等の諸勢力を撃破。
伊勢の北部及び中部の制圧を完了し、残すは南伊勢の北畠具教(きたばたけとものり)のみという状況になっていた。

その北畠についても織田家圧倒的有利の状況下で各将に対する調略が順調に進んでおり、北畠具教の弟である木造具政より史実通りに内応の返事をもらい正に北畠家は風前の灯火といった状況である。


そして本年、永禄3年(1560年)最後の仕上げとして織田全軍を持って南伊勢に乱入。

北畠具教は弟・木造具政の織田家への内応もあり、野戦は仕掛けずに大河内城に籠城する事を選択。
織田軍はその間に電光石火の勢いで大河内城以外の全ての城を占領。
その後大河内城において2ヶ月に渡り熾烈な籠城戦が繰り広げたが、結局の所は北畠家の方には援軍がくるアテも無く、勝算も無い北畠具教は抗戦を断念。
開城し織田家に降伏する事となった。

伊勢を平定した織田家はその勢いのまま、志摩出身の国人、九鬼嘉隆を先頭に志摩に侵入。
同地志摩2万石の平定にも成功。



この後、降伏した北畠具教は後に謀殺され、八代続いた伊勢国司の名門北畠家は滅亡したのである。















そして年はかわり、永禄4年(1561年)

信長の元に、待っていた斉藤(土岐)義龍死去の報せが美濃より届いた。
その報せを受け信長はすぐさま重臣達を招集。清州城にて美濃攻めの軍議を開く。



「皆の者、時は満ちたり。これより美濃攻めの軍議を始める。」

信長が発言しながら重臣たちを見廻すと早速末席にいた羽柴秀吉が発言してくる。
ちなみに史実では秀吉はまだこの時期には評定に出れるような身分ではなかったが、この世界においては信長が勲功を稼げるように色々と仕事を与え、その様々な仕事の功績によりすでに侍大将の地位に抜擢されていた。
また改名もし、今は羽柴秀吉と名乗っている。

「義龍めの急死により西美濃方の国人衆に動揺が広がっております。未だ年若い龍興では頼りにならずと、すでに何人かからは内通したい旨の書状が届いております。」

「で、あるか。それは重畳。」

「時は満ちたり! 殿、先陣はぜひ我が柴田勢にお任せを!」

「あいや、またれよ! その先陣、是非ともわが滝川隊に御下命くだされ!」

「いや! 我が森隊に是非!」

本能的に勝ち戦の雰囲気を嗅ぎ取っている皆の士気は極めて高く、また先年の伊勢での戦勝もあり意気軒昂だ。
柴田勝家・滝川一益・森可成ら猛将達が早速我先にと先陣争いを始める。
それを信長はやんわりと押しとどめた。

「まあ待て。このまま攻めても勝てるではあろうが我が方の損害が大きくなろう。あともう一押し、何か彼奴らの戦意を圧し折れるような良い策は無いか。秀吉、おぬし何か妙案は無いか?」

「はっ! であれば美濃墨俣の地への築城は如何でございましょうや? あの地を押さえれば稲葉山城の命運は決したも同然でございます!」

「ふむ……、良しっ! 良策である! 墨俣に城が築かれれば稲葉山城は喉元に刃を突き付けられたも同然であるな! 秀吉、早速取りかかれ!」

「ははっ! お任せくださりませ! 必ずや成功させてみせまする!」

信長は力攻めの意見を退け、敢えて秀吉に話しを振る。
秀吉の返答は史実と同じ、墨俣築城であった。信長はすぐさまその案にお墨付きを与える。
しかしそれに反対してくる者が現れた。

「お待ち下され! そのような大任であれば尚の事、この柴田勝家にお任せ下されぃ!」

「然り。別に役不足という訳ではけして無いのですが、羽柴秀吉はまだまだ若く、経験も浅うござる。ここは経験の長い我が佐久間隊か柴田隊が適任かと存じます。」

墨俣築城の任を羽柴秀吉に与えた信長に、筆頭家老の柴田勝家と佐久間信盛が詰め寄ってくる。




だが信長はこう言われるのは予想していた。
ちなみに史実においてはこの二人が墨俣築城に失敗した後に秀吉が築城を成功させ、織田家中での立身出世を達成させている。

但し信長はこうも思っていた。
羽柴秀吉と柴田勝家の不和はここから始まったのではないかと……。

元々、柴田勝家は猛将であり、粗野な所、猪突猛進的な所と諸々あったりするが、けして悪い人間では無い。
むしろ前田勝家や佐々成政達に親父殿と慕われるぐらいの面倒みの良い人物である。

また本人も異常に若い者達で構成されている織田家の幕閣達の中で年長の自分がそれを支えていかなければ、との自負を持って日々行動していた。
(注 柴田勝家は1522年生まれで、他の家臣達とほぼひと回り年齢が違う)
そんな中である。
自身が失敗させてしまった墨俣築城をまだ年若い新参者の羽柴秀吉に、しかも自らが率いた数よりも少ない兵数で持って成功されてしまったのだ。

これによって柴田勝家は織田家内での自分の面子が丸潰れになったと感じたのである。
もちろん勝家も阿呆では無い。逆恨みであるというのは判っている。
それでもどうしても拭いようの無い確執・悪感情を秀吉に持ってしまったという訳なのだ。



この確執さえ無ければ柴田勝家と羽柴秀吉、両者とも案外上手くやるのでは無いか? 



そういう風に信長は考えていたのだ。
そうなれば人たらしと言われる秀吉の事である。上手い事勝家の事を立てながら行動してゆくだろう。

よってこの任務は最初から羽柴秀吉に任せようと信長は決めていたのだ。




「いや、此度の件は秀吉に任せよう。
勝家に信盛よ。お主らは織田家家臣団を纏める立場ぞ。もっと大局眼を持って動くようにせよ。時には若い者に仕事を任せて成長を促すのも、その仕事の内。
お前達が後ろでどっしりと構えていてくれるからこそ、他の若い者達が安心して働けるのよ。
それに案ずるな。お前たちに任せる重要な仕事は他にいくらでもあるからな。」

信長は勝家達の自尊心をくすぐるような言い方で宥める。
その言葉に勝家は信長の目論見通りに溜飲を下げた。

「ううむっ、かしこまりました。そこまでおっしゃって頂けますならこの勝家に否やはござりません。」

勝家は信長に一礼した後、次に秀吉に向きあう。

「秀吉よ、此度はこの柴田勝家が築城の後詰めを致す。ここまで殿がおっしゃって下さっておるのだ。失敗は許されんぞ。一所懸命励め。」

「はっ、柴田様に後詰め頂けるとは、百万の援軍を得るよりも心強うございます。この羽柴秀吉、身命を賭しまして励みます。」

信長の目論見通り、早速人たらしの本領を発揮し勝家を持ち上げていく秀吉。
どうやら上手くやっていけそうである。

「よしっ、決まりじゃな。双方存分に働くが良い。」








こうして軍議にて秀吉が墨俣築城の任を負う事が決定された。
他、細々とした事を話し合った後、軍議が終わり皆がそれぞれの準備をする為に走り出す。

羽柴隊は築城の為に進発しそれを援護する柴田隊が国境いに終結する。









織田家の美濃制圧の為の戦の火蓋が切って落とされた。













<後書き>

伊勢の北畠家もさくさくスルー。養子縁組等もこの物語では無しになっております。

御指摘にもありましたようにこれから技術チート・内政チートをだんだんと始めていきます。
尾張一国では本格的な事はできないと思い、作者の中では
<桶狭間以前は信長雌伏の時 それ以降は飛躍の時>
との思いもあり、あえて書いておりませんでした。
これからは作者も書くのが楽しくなるので、皆さまも楽しんで頂けたらと思います。   




現在の織田家の所領

尾張56万石 伊勢52万石 志摩2万石

注:石高には年代によって諸説あり、正確な石高というのは判りません。よって作者がこれぐらいだろうという物を独断と偏見で設定として作らせて頂きました。
  「こんなに石高多くないだろう?」という意見もあるでしょうが、そこはご了承ください。








[8512] 第6話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/03 01:03





<第6話>



信長の命令を受けた羽柴秀吉は墨俣築城の為の準備を始める。

単に築城とは言うが、此度の墨俣築城は至難の業である。なにせ敵の勢力下、それも敵の本拠地のすぐ近くに城を築こうというのだ。
敵は全力で持って妨害してくるであろう。
故にこの築城は時間との戦いである。

いかに敵に気付かれずに築城を初め、いかに短時間で築くか。
それを良く考え算段せねばならない。








この墨俣築城は羽柴秀吉のその才能を余す所無く発揮させた偉大なる武功。
今現在の現代人から考えても、称賛に値する偉大な所業であろう。


まずは城を築く各種部材を上流において事前に組み上げ、それを川に流し現地で一気に組み立てた。
これはまあ、少し無理やりな解釈かもしれないがブロック工法の先駆け及び流れ作業の先駆けといっても良いのではないだろうか?

さらには徹底した情報封鎖。
築城開始を敵に悟られぬように細心の注意を払っている。部材を現地調達したり、兵達を分散させて美濃に入れたのもその一環である。

続いて偽報による撹乱。
敵の判断を狂わせる為にあらゆる方法を用いて築城の開始を気づかれぬようにしていた。




この墨俣築城は長篠の戦いに先駆ける野戦築城の始まりとも言えるのでは無いだろうか?













秀吉は兵・人足達を分散させた上で美濃に侵入させ、西美濃斉藤方に気付かれぬように現地で集合させる。
そして夜の静寂を破り、工事を一気に進め始めた。

まずは長良川の上流に集まった者達。その者達は築城の為の木材を現地で切り出し、ある程度の形を整えた建築部材を組み立てる事を任務としている。
そしてその部材を筏に乗せて下流、墨俣中州に向けて流すのだ。
ちなみに筏自体も墨俣においてバラして建築用木材として使用する。

それを受け取る墨俣築城部隊の本隊も順次、墨俣へと侵入を開始した。
羽柴築城隊及びそれを援護する柴田勝家隊・前田利家隊が夜の闇に紛れて墨俣の中州に押し渡る。
その後、流された部材が長良川の静かな夜の流れに乗って墨俣に流されて来た。
それらの部材を回収し、秀吉の運命を賭けた築城が開始される。




「急げ! 時間が無いぞ! 生き残りたければ愚図愚図するなっ!」

「優先順位を間違えるな! 第一に木柵! 第二に櫓! 第三に空堀・土塁じゃ!」

「皆の者、急げぃ! 明日の昼すぎには謀られたと気づいた龍興軍が火のような勢いで攻め込んでくるぞ! 急げぃ! 急げぃ!」


墨俣一帯は工事の轟音と怒号に包まれる。

重要なのは夜が明け、稲葉山城の斉藤軍がこの築城に気づき、襲来してくる前に防御態勢を整える事だ。
それに間に合うように秀吉は一夜で墨俣の四方に防御用の空堀を掘り、櫓を建て、木柵を張り巡らせたのである。
実際に一夜で城そのものを建てた訳では無い。










<斉藤家 稲葉山城>


「龍興様! い、一大事! 一大事に御座います!」

夜が明け、墨俣での異変に気づいた斉藤側が物見を派遣。そしてその物見は一夜で築かれた墨俣の防御陣地を発見し驚愕する。
斉藤龍興側も織田軍の動向に警戒はしていた。
但し秀吉の手で <信長自身が織田全軍を率いて1月後に襲来する> という偽情報を流されそれを信じてしまい、それに合わせて準備をしていたのである。
見事に裏をかかれた状態だ。

墨俣へと建設された織田軍の防御陣地の件はすぐさま斉藤龍興へと齎(もたら)される。

「なんじゃと!? 話しが違うでは無いか!? おのれ織田信長め! 我等を謀りおったな! なんと卑劣なやつじゃ!」

「龍興様、今はそんな事を言っている場合には御座いません! あの地点に織田方に拠点を築かれてしまっては我等は終いで御座るぞ! すぐに御出陣を!」

「ううむっ、ワシにはそういう事はよう判らぬゆえ全てソチに任す。良通、頼んだぞ」

未だ年若く経験が圧倒的に足らない上に、果断さに欠ける龍興はこの非常時に何をすれば良いのか全く判らない。
だがそれも当然と言えば当然の事だ。
先代当主である父・義龍の急死を受けて急遽当主と擁立された斉藤龍興はこの時若干13歳。いくらなんでも若すぎる。
さらに言えばこの時、この家督相続を受けて斉藤家は大混乱に陥っていたのだ。

元々家督相続の時には細心の注意を払っても様々な混乱や不平不満が出てくる物である。
それなのに今回の斉藤家の家督相続は、さらに幾つもの悪い点が重なった。

まずは先代当主・斉藤義龍の早すぎる、しかも突然の急死。
この時、義龍は35歳。
今からが人間としてさらに脂が乗ってきて、まさにこれからが人生の本番と言うような歳である。
当然の事ながら今までに斉藤家家中において家督相続が話題に上がった事すら無い。
誰も35歳の義龍が急死するなどとは想像すらしていなかったのだ。

その義龍の突然の急死である。

それは人智の及ばない、どうしようも無い事なのだとしても結果的に最悪の時期であった。
まさしく織田家にとっては最高。斉藤家にとっては最悪の痛恨事。
その事による斉藤家の混乱は筆舌に尽くし難し。
この義龍の急死が斉藤家の滅亡の要因の一つとなった事は間違い無い。



ちなみに余談であるが織田信長はその節目節目でその強敵が次々に急死している。
一人目はこの美濃の斉藤義龍。
二人目は甲斐の武田信玄。
三人目は越後の上杉謙信。
これは信長の途轍もない強運なのであろうか、それとも若しかしたら他に何か要因があるのであろうか?
ただの関係の無い余談である。



話しを戻す。

さらなる悪い要因は先に書いたように斉藤龍興のその年齢である。
僅か13歳では満足な仕事はできない。
唯一良かった点と言えば、死んだ義龍に男子が一人しかいなかった事だ。これでもし男子が龍興以外にもう一人いれば、さらに滅亡は促進されていた事だろう。
もしもう一人男子がいれば、織田信長もそこに付け込み斉藤家の家中騒動・跡目争いになるように煽りに煽る。
そうなれば斉藤家は真っ二つに割れての内乱だ。

そうはならなかっただけでも一つの救いではある。
だが最悪の状態では無くても、龍興のその年齢は如何ともし難い。当然の事ながら補佐役が必要である。
そしてそれによって生じるのが重臣達による主導権争いだ。
この若い当主に取り入り、斉藤家を自らの利益になるように好き勝手に動かそうとする。

どちらにしても混乱は必至だ。あくまでもその度合いの大小でしかない。





そしてそのような事情の中で混乱中の斉藤家ではあったが、何時までも対応を後手後手にしたままではそれこそ滅亡してしまう。
龍興は墨俣築城の情報に、一番最初に駆け付けて来た稲葉良通(一鉄)にその対応を一任した。
別に深く思案して何か戦略があっての事では無い。どうすれば良いか判らなかったからである。

その龍興の命令を受けた稲葉良通は織田の築城を許さじと、すぐさま集められるだけの部隊を掻き集め墨俣の地に攻め寄せる。
















<墨俣 急造陣地>


「おうおう、やっと来おったか! 遅い遅い! 皆の者、防御態勢を整えよ! 段取り通りにな!」

目前に広がった斉藤軍の陣を眺めながら柴田勝家は大声で指示を出す。
墨俣の地において当然襲来してくるであろう斉藤軍の事を警戒していた織田軍は、準備万端それを待ち構える。

さらに墨俣築城部隊には信長より特別に鉄砲隊が増派されており、鉄砲隊の総数はなんと600丁。途轍もない火力だ。
その全火力が筒先を揃えて長良川を押し渡って突撃してくる斉藤軍にむかって火を噴くと、斉藤龍興軍の兵士達が次々にバタバタと打ち倒されてゆく。

「ひるむなっ! ひるむなっ! ここで築城を許せば我等はしまいぞ! 押せい! 押せい!」

なんとか兵の士気を高揚させようと馬上にて声を荒げる良通。
だがどうやっても織田家の優勢は揺るがせない。

木柵の中、最前線で防御を行う精強な柴田勝家隊。
その脇や櫓の上から柴田隊に対して援護射撃を行う羽柴秀吉隊と前田利家隊。
その圧倒的な火力に、渡河の途中で撃ち竦められ木柵にすら取り付けない。

「ふははははは! 雑魚がいくら集まろうとも所詮、雑魚は雑魚よ! 者共! あの者達の醜態を見よ! この戦、我等の勝ち戦ぞ!」

兵の士気高く、気炎を上げる柴田勝家。

果敢に何度も突撃を継続する斉藤軍ではあるが、防御態勢を整えた墨俣の陣地を落とせずに幾度と無く撃退されてしまう。
ただただ無意味に死者の山を築いてゆくだけであった。










「伝令! 伝令に御座る!」

そうこうしている内に稲葉良通の元に一つの報せが届く。

「織田信長率いる織田軍本隊及び斉藤道三の連合軍、計1万5千が国境を突破! ここ墨俣に向けて進軍中! 2刻後には着陣の模様!!」

その報せはとびきりの凶報、敵軍本隊の到着を報せる物であった。
そしてそれが意味するのは時間切れ。すなわち築城阻止の失敗。

「終わった……、しまいじゃ……、何もかも……」

その報告を受け、自軍の完全敗北を悟った稲葉良通。
ただ絶望だけがその心中を満たす。
良通はすぐに指揮下の全軍に稲葉山城に向かっての退却を指示する。

幸いにも織田家墨俣築城隊からの追い討ちはなかったので無事退却する事はできた。














「皆の者、此度の働き、誠に見事。大義であった」

そしてしばしの時が過ぎ2刻後。
墨俣に着陣した信長は武功を立てた羽柴秀吉・柴田勝家・前田利家を労う。

「特に秀吉、此度の働き、見事であったぞ。褒めてつかわす」

「いえいえ、私の働きも柴田様・前田殿の武働きがあればこそに御座います。私だけの働きではけして御座いません。特に前線で戦われた柴田様の奮闘は誠に見事の一言でございます」

「いやいや、なんの、秀吉の此度の段取りは見事にございましたぞ。ワシも秀吉の事を新参者と侮っておりましたが…、見事な段取り、見事な戦いぶりに御座いました。誠に立派な武者振り、ワシは見識を改めねばなりませんな! ぐわっはっはっはっはっ!」

人たらしの本領発揮で早速勝家の事を持ち上げる秀吉。
そしてそれがまんざらでも無い勝家。機嫌良く楽しげな笑い声を上げた。

「勝家も利家もようやってくれた。これで斉藤龍興はしまいぞ」

「すでに敵方国人衆より内応を確約する書状が山のように届いております。また西美濃三人衆よりも同様に」

「よし! これよりこのまま稲葉山城の攻略に移る! 全軍出立じゃ!」

「応おうっ!!」

その信長の声に皆が雄叫びで答える。








それからしばらくして稲葉山城は織田軍によって完全に包囲された。

斉藤家に味方しようという国人達はほとんどいない。大部分の国人達はすでに斉藤龍興を見限ったのである。
それほど今回の墨俣への築城が斉藤側へと与えた衝撃は大きかったのだ。

墨俣攻撃の時点で陣布れに応じなかった者が2割。
墨俣での敗戦の後に戦場を勝手に離脱し、そのまま自分の領地に引きこもって出てこなくなった者が2割。
そして織田家に内応し寝返った者達が5割に達し、稲葉山城に籠城した者は残った約1割程度。
結果、龍興側籠城軍は僅か2千名にすぎなかったのである。

それを囲むのは織田家3万(織田家に降った美濃国人衆・墨俣築城軍を含む)の大軍。なんと守備側の15倍に達したのだ。
その斉藤家の様相はまさに文字通り、総崩れである。
もちろんこれ程調略が上手く進んだのは道三の存在が大きい。




『勝敗はすでに決した』




それは城内・外、この地に集った全ての者達の共通認識であった。










敗北を悟った斉藤龍興は側近達の進言もあり、織田家に対して降伏を申し入れる。
信長は降伏を受諾。
斉藤龍興については道三の口利きと、また年若いという事情もありこれを助命。追放するに留めた。
その後、龍興は越前の朝倉氏に身を寄せる事となる。




またその信長の美濃平定と同時に東美濃の斉藤道三が高齢を理由に隠居を表明。
信長に対する美濃国主の地位の禅譲が行われ、その領土・家臣団の全てを信長が引き継ぐこととなった。
これは義龍謀反の時にすでに自身の限界を悟った道三からの申し出である。
後の事を全て信長に託したのだ。

この時に道三配下であった明智光秀及び竹中親子等々も織田家に参入。
以後、美濃三人衆と共に閣僚に取り立てられ、織田家の重臣として活躍していく事となったのである。





こうして斉藤龍興を追放した信長は永禄4年(1561年) 美濃全土を統一した。
以後、上洛に向かって準備を進めて行く事となる。














<後書き>

この時期に明智光秀が織田家に参入です。
作者は光秀嫌いじゃありませんから。




現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 







[8512] 第7話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/10 02:52





<第7話>



永禄4年(1561年)
美濃を統一した信長はその本拠地を、尾張の清州城から美濃の岐阜城(稲葉山城より改名)に移す。

それと同時に既にあった尾張工廠より1/3の職人を引き抜き、岐阜の城下町に新たに岐阜工廠を建てた。
現在のフリントロック式小銃の月産は約12丁。
職人を2ヶ所に分けた事もあり生産が軌道に乗るのはもう少し後の事になるだろう。





また、信長は領地が尾張・美濃・伊勢・志摩にまで広がった事で本格的な商業政策に乗り出す。
以前から順次、治水工事には取り掛かってはいたが、これまではまだ大規模な道路の整備はしてこなかった。
それは万が一敵が侵攻してきた場合、それを利用されてしまうからである。
特に領国が尾張1国だけの時では、東から今川家、北からは斉藤家という具合に各所からの圧力が掛っている内は怖くてできなかったのだ。

しかし現在では東には松平家という防壁がある。
さらにこれよりは守勢では無く攻勢を中心とした戦略を採る為、織田家全領地で一斉に道路の整備が始まったのだ。

4ヶ国の各拠点及び各港を幅の広い道路で繋げ、物流を促進する。
元々この4ヶ国は中世日本においては比較的経済規模の大きな国々に当たる。
尾張・美濃共、交通の要所にあり、また美濃は斉藤道三の長年の卓越した商業政策により日本有数と言われるほどに経済を発展させてきた。
また尾張・伊勢には良港があり、さらに伊勢神宮等もある。

それに加え、道路の整備に合わせて関所を全廃し、また港も整備していく。
特に関所の撤廃は大きい。
例えば具体的な例であるがこの時期、京~大阪間にはなんと500以上もの関所があったと言われている。もちろん一個一個通る度にお金を支払わなければならないのだ。
これでは経済が発展する訳が無い。

この関所の撤廃は商人・一般民衆より拍手喝采を持って迎えられたのである。


こうした政策により織田家の領内においては右肩上がりに年々経済規模が大きくなっており、莫大な税収を織田家にもたらしていた。





さらに織田家の税収の大きな支えになっているのが、信長の指示によって増産されている木綿である。

木綿は衣類に最適な材質であり、現在需要に対して供給がまったく追い付いていない状況である為、織田家で生産されている木綿は生産する端から飛ぶように売れていたのだ。
その状況を受けて元から生産していた尾張ではさらに大規模に、また新たに美濃・伊勢でも生産が始まっている。
前記の道路・港湾整備と関所の全廃とを合わせて日本全国から商人・南蛮人が集まってきており、その整備された名古屋港・津港・鳥羽港などは急速な発展を遂げており、今や堺や博多に追い付き追い越せの勢いで日々邁進していた。



そもそも港というのは流通の要である。

当然の事ではあるが、港そのものに生産能力があるわけでは無い。
直結する経済圏から物資を吸い上げ、それを違う経済圏に輸出する、又は違う経済圏から物資を入れ、それを直結する経済圏に吐き出す。
それが貿易という経済活動である。

この時代にある堺港を例に挙げていうと、堺港と直結する経済圏というのは畿内経済圏の事だ。
畿内各地から物資を集め、それを他の経済圏に持って行く事で利益を上げる。逆もあり他の経済圏から物資を持ってきて畿内経済圏で売って利益を上げる。

もちろんこれはある1側面の話しでありもっと複雑な話しはあるが、原始的な貿易の原理はこれである(特に陸路の交通手段が馬車までのような貧弱な時代での話)

織田家が整備した港が発展したのも簡単な理由である。
各港とも尾張・美濃・伊勢等の大きな経済圏をもっており、元々からある程度の流通、ある程度の規模の港は勿論あった。
それが織田家という一つの勢力によって統一された事により、簡単に言えば動き易くなったのである。

道路の整備、関所の全廃などもそれを強力に後押しした。
特に往路の安全・自由になったというのは大きな要因である。
さらには木綿という所謂、人気商品があった事と織田家が鉄を渇望した事。

結果、今までは陸路堺港まで輸送していたような物も織田家の各港を経由するようになった。条件がほぼ同じであれば、ようは堺と織田家の港、どっちが近いかだけである。




こうして織田家の各港は年々その規模を大きくし、発展を続けていた。
現在では輸入も安定しており、鉄についても十分な量が織田家に供給されている。










信長は内政に並行するように外政や人材発掘にも力を入れていた。

外交についてはまずは東の美濃と国境を接する武田家。
武田家については事あるごとに贈物を送り、極力友好的な関係を保てるように努力している。
現在ではまずは友好国といっていいような状態であり、武田家が上洛を目指すような状態になるまでは攻めてくるような事はないだろう。


続いて北近江の浅井家。
浅井家とは、史実通り同盟を結んだ。
但し、お市の方の輿入れを前提とした婚姻同盟では無く、通常の同盟である。
これの詳細については後に記述する。


それ以外の畿内の諸大名については攻撃対象になる為、こちらからは特に何も働きかけていなかった。
ついでに記載するが、史実であったような上洛しての足利義輝への謁見なども行ってはいない。
信長はこの足利将軍家についてはある腹案があり、こちらからの接触は一切行っていないのである。






続いて同時に行っている人材の掘り起こしだ。
すでに伊勢、近江等で藤堂高虎・田中吉政などの後に勇名をはせる者たちを他家に仕官する前に召し抱える事に成功している。



また本日も遠方、遠江の国より新規に召抱える者との謁見が行われていた。

「信長様におかれましては、我が非才の身にかかわらず、此の度、お取立て頂きまして誠にありがとう御座います。」

言上と共に信長に平伏する者の名は井伊直虎。
後の世に徳川四天王の内の一人、井伊の赤備えの勇名で知られる井伊直政の伯母である。
直虎という男名であるが、れっきとした女性だ。




この井伊直虎の生涯はまさに波乱万丈だと言えるだろう。
まずはこの女性の史実での歩みを御説明させて頂く。



井伊直虎は今川家に仕えるに井伊谷城領主、井伊本家の娘である。
しかし井伊家当主である父・井伊直盛に男子が産まれず、親戚筋である井伊直満の子・井伊直親を当主とする為の縁組みとして幼くしてその直親と許婚となった。
幼名は次郎法師。まさしくその為に名付けられた名前である。

しかし、天文13年(1544年)にまず第一の悲劇が起こった。
許婚・直親の父親・井伊直満が小野道高(政直)という人物の讒言により、今川義元の命令によって自害させられたのである。
もちろんこれは小野道高の謀略であり、井伊直満は潔白の身であった。

その事件の余波を受け、直虎の許婚であった井伊直親は信濃に逃亡。
弘治元年(1555年)に今川家に帰参を許されるまでは信濃にいたのである。
しかしその帰参する間に井伊直親は事もあろうか、この逃亡期間中に世話になった者の娘を正室に迎え、婚儀を済ませてしまっていたのだ。
それゆえ直虎との婚約は破棄される。
史実ではこの後、井伊直虎は生涯未婚であった。




さらなる第二の悲劇は桶狭間の戦いで起こる。
今川家の総力を上げて行ったこの戦いに当然、今川家家臣であった父・井伊直盛も出陣。
しかしその桶狭間での大敗により、その時本陣にいた井伊直盛は討ち死に。
そして井伊本家に他に男子がいなかった為、その跡目を元許婚であった井伊直親が受け継いだのである。

しかし悲劇はまだ終わらない。

今度は小野道高の子・小野道好によって再度、主君・今川氏真に讒言を行われたのだ。その結果、氏真の命令を受けた朝比奈泰朝の手によって井伊直親は斬首されたのである。
これも同じく井伊直親は潔白であった。
今回も小野道好の謀略である。

また、直虎の曽祖父の井伊直平が今川家・引間城城主の飯尾連竜の妻、お田鶴の方に毒茶を呑まされ、同じく謀殺された。

つまりは井伊一族は、その一族のことごとくを主であるはずの今川家の手によって殺されたのである。
跡を継ぐべき井伊直親の息子・虎松(後の井伊直政)は、この時まだ産まれたばかりであった為、井伊家当主には一族に唯一残った井伊直虎が女性の身ではあったが就任した。
虎松(井伊直政)はその直虎の養子となり次代の当主となるという扱いである。

しかしその後、所領である井伊谷城すらも小野道好に横領され井伊家は一旦、滅亡。
井伊家の面々は今川家の追手に命を狙われ、逃亡生活を送る事となったのだ。

その後、井伊家は天正3年(1575年)に井伊直政が徳川家に召抱えられ、御家再興を果たすまで延々と不遇を強いられたのである。









この世界では井伊直虎が当主に就任した時点で信長の命令によって間者が井伊家に接触。
織田家に召抱えられたという訳である。

元々、所領を小野道好に奪われていたので井伊家にとっても渡りに船であった。故(ゆえ)に話しはすぐに纏まった。
井伊家には美濃において代替え地が与えられた。
所領を小野道好に奪われ、まさしく塗炭の苦しみを味合わされていた井伊家の者達にとって、その織田信長の厚遇はまさに地獄で仏にあったような物である。
井伊家の者達は皆、涙を流して喜び、その受けた恩を返さんと今日ここまでやって来ていたのだ。







信長が井伊直虎に会うのは今日が初めてである。

信長にとって今回の井伊家召抱えの目的は、まず一つに将来有名をはせる井伊直政を召抱える事だ。
徳川家随一の忠臣であり、あの毛利家の小早川隆景が「天下を獲れる器量を持っている」と評したほどの名将である。
ただ本人はそんな物に驕らず、その死の直後まで一途に徳川家への忠義を貫き通した忠臣だ。
そんな良将である井伊直政を今の内に織田家に吸収し、活用しようというのが一の理由。

二つ目の理由が徳川家の弱体化である。
別に徳川家と戦うつもりは無いが、このまま放置していたらまず間違いなく徳川家に召抱えられるだろう。
徳川家内で特に家康の信任が厚く、数少ない外交が行える将であった直政がいなくなれば徳川家は難渋するであろうとのちょっとした意地悪であった。











「美しい」 それが井伊直虎を見て信長が最初に思った感想である。

直虎の歳は今年で25歳。女装束では無く男装束で信長の前で平伏していた。
凛とした雰囲気を持ち、艶やかな長い黒髪を現代でいうポニーテール風に結っている、容姿端麗な美人であった。
その美貌は流石、直政の伯母であると思わせる物である。
(注 井伊直政は容姿端麗な事で有名で、衆道にまったく興味が無かった家康が生涯で唯一愛した男性であったといわれている)
そのような美貌と凛とした雰囲気を持つ直虎に、信長は思わず見惚れていまう。


「うむっ、いや、何、今川家の無体な扱いに我慢できなかっただけよ。以後は我が織田家でよう働いてくれ」

「はい! ありがたき幸せに御座います!」

「それはそうと直虎よ。亡き直親の子供はまだまだ幼いと聞く。何かと大変であろう。ワシにも幼い子がおる。一緒に我が室に手伝わせようぞ」

「はっ!? いや、しかしそこまで御面倒をおかけする訳には……」

「なに、気にするな。我が家臣の子は我が子も同然よ。誰か、誰かある! 帰蝶達を呼んでまいれ!」

信長はそう言うとすぐに近従に命じて妻子達を呼ぶ。
ひたすら恐縮する直虎を前に、少し時間を置いて目的の人物達がやってきた。

「はじめまして直虎様。信長様正室の帰蝶です。よろしくお願いいたしますね」

「はじめまして、信長様側室の市です。よろしくお願い致します。」

「き、きみょうです! は、はじめまして!」

入室してきたのはまず信長正室の帰蝶(濃姫 以後帰蝶で統一)
それに信長の側室である市姫。そう、本来では浅井長政の正室であった市はこの世界では信長の側室となっていたのだ。
帰蝶は豊満で女性としての魅力に溢れる艶やかな女性。
市姫はこの時代の女性にしては背が高くスレンダーである。現代風に言うとモデル体型のすらりとした魅力的な女性だ。

ちなみに市は信長の従兄妹であり、妹では無い。
(注 市の産まれについては諸説あり、信長の妹であるというのが一番有力であるが、この物語では従兄妹説とします)

そして最後に信長嫡男の奇妙丸(後の信忠 現在4歳)
ちなみに奇妙丸の生母は市姫だ。





この信長一家の家族中は極めて良好である。

現代人的な思考を持った信長は戦国時代の冷淡な家族関係(子育ては全部人任せ等)に 「害にしかならない」 と判断を下し、積極的に子育てに参加しているのだ。
食事等も家族全員で取ったり、一緒に寝たりしており、実に細やかな気配りを行っている。

まあ、単にただの子煩悩と言われればその通りなのではあるが。実際に巷では信長は子煩悩大将などと呼ばれていた。

「おう、奇妙、よう挨拶できたな。偉いぞ。偉いぞ」

「えへへ。」

信長はちゃんと挨拶のできた奇妙丸をヒザに乗せ、抱きかかえ頭を撫でながら褒めてやる。それに嬉しそうに満面の笑顔を見せる奇妙丸。
直虎はそんな光景を面食らった様に、しかし眩しそうにただ眺めてている。




それに少し遅れて、未だ赤ん坊である虎松(後の井伊直政 現在1歳)が連れられてくる。

「わあ、かわいい子ですね」

「本当ですね。それに小さい頃の奇妙にそっくりです」

その可愛い赤ん坊に早速、帰蝶と市が反応し抱きかかえる。

「帰蝶に市よ。奇妙と一緒に虎松の面倒を見てやってくれぬか?」

「ええ。こんな可愛い子なら大歓迎です。おまかせ下さい」








こうして虎松は信忠と一緒に育てられる事となった。

正直な所、最初直虎は虎松が織田家に人質に取られたのだと思ったのである。
それは別にこの時代では珍しい事では無かったし、新参者の身だ。それも仕方ないとは思った。

だがそれもすぐに勘違いだと気づく。

信長の妻達は本当に親身に虎松の面倒を見てくれるし、自分が虎松をどこに連れていくのも自由だ。
それに信長自身が自分の子供である奇妙丸と同等に虎松を扱ってくれている。




直虎は今、本当に織田家に来てよかったと心の底から感謝していた。

直虎は思う。
思えば織田家に主を変えるという決断は、大変な困難とそして苦痛を伴う決断であった、と。
一族のことごとくを殺された旧主・今川家にそのまま忠誠を尽くすという選択肢はもはや無い。
しかし先祖伝来の土地を小野道好に奪われたとて、そこから離れるという選択肢はまさしく苦渋の決断だったのである。

それに織田家に対して思う所が無かったかと言うとそれは嘘になる。
なにせ桶狭間の戦いで当主であった父・井伊直盛を織田家に討ち取られているのだ。
だが、それは武士の習い。それに攻め込んだのは今川家の方である。
いまさら言ってもしょうがない事だ。
さらに信長様は討ち取った首を晒さずに返還するという好意を示してくれたのである。
ならば我等はこれ以上恨むのもやめようと思った。

そして実際に織田家にきてみれば信長様は想像以上というか、常識外れな程、自分達によ良くしてくれる。
それに奇妙丸様や虎松を可愛がる信長様は、今まで自分が会った事のある粗野な男達と本当に同じ男という生き物なのかと疑う程、違っていた。

思えば、自分は産まれてすぐに、今は亡き井伊直親の許婚となった。
だがあろう事かその直親は他の者と婚儀を挙げたのだ。婚約を破棄された自分のなんと惨めな事であったか。
この時に自分は生涯、男と結婚などせずに純潔なまま死んでゆこうと誓った。

だが今自分はその誓いに反して、信長様に強く惹かれているのにはっきりと気づいている。





信長様に虎(最近は虎と御呼び下さる)と呼ばれるたびに心の臓が跳ね上がる。
信長様が触れて下さると頬が燃えるように熱くなるのが自覚できる。
信長様が虎松を可愛がってくれるその時の笑顔に、身体が締め付けられる程疼いてしまう。
信長様のその優しさにふれるたびに何度も何度も惚れ直す。



だが信長様は我が主君。結局は諦めないといけない恋心なのであろう。
ただただこの思いを我が胸に静かに収め、信長様の御為に全力で忠勤をはたそうと思う。

そういう思いを直虎は静かに心に深く沈めていく。













しかし結局の所、そのような直虎の思いは帰蝶や市にはバレバレだったのである。
その傍から見たら物凄い判り易いその直虎の秘めた思いの為に、ここ最近で実に仲良くなっていた帰蝶に市が動いた。
帰蝶に市の暗躍があり、色々な紆余曲折を経て半年後、直虎は信長の二人目の側室に上がる事となるのである。


















<後書き>

市姫は信長の側室に。さらには井伊直虎も同じく。
市は元から考えてました。ただもう一人ぐらいほしいなと思っていた所、様々な事を調べている内に井伊直虎という人物にぶち当たりました。
こんな人物がいたのだと驚きました。
井伊直政の事はある程度知ってはいましたが、井伊家がこんな悲劇の家だったとは。

ぜひ、この物語りでは幸せになって頂きたいものだと思い、結局このような形になりました。
後、物語の展開上、信長の子供の生年が少しずれております。御了承下さい。


PS:男しかでていなかったこの物語ではじめての女性登場。しかし書いていて理解した事が一つ。
作者に萌えとかそういう類の物は書けそうにありません。なのでこの三人についてはあまり登場機会は無いと思います。
いつか力量が上がり、外伝的な物が書ければとは思いますが…。
また次話からはいつも通りになると思います。









[8512] 第8話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/15 02:22





<第8話>




美濃平定から約3年経った永禄7年(1564年)に入っても信長は上洛にはまだ着手してはいなかった。
理由はいくつかある。

まず一つ目は、上洛という行為はそれだけで地方の野心ある有力大名達の警戒を招き、否応なく戦に巻き込まれていく事になるからだ。
所謂、出る杭は打たれるという事だ。
史実での包囲網などがそれに当たる。

この時代、すまわち中世当時の日本の情報伝達は極めて貧弱な物だ。
通常、隣国(この場合の国とは尾張国、美濃国などの旧国名の事)ならばともなく、間に二つ三つ国を挟んだ国の情勢等は噂話で流れてくる程度である。下手をすればそれすらも無い場合すらある。
あくまで社会がその国一つで成り立ち完結しているのだ。
例を挙げて言えば、例えば甲斐の国に住む人々は尾張の国の人が何をしているのかも知らないし、別に知りたいとも思っていない。自分にはまったく関係の無い話しだからである。
そんな他国の事は、感覚で言えば遥か彼方の遠い国の話しでしか無いのだ。

但し、そのような中でも京の町だけは別格なのだ。
この町だけはどれだけ荒れ果てようが日本の中心として燦然とした輝きを放っているのである。


二つ目は、永禄8年(1565年)に起こる <永禄の変> といわれた事件が起こるのを待っているのだ。
永禄の変とは室町幕府の第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所にて、その時期畿内を治めていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀の軍勢に襲われ、殺された事件の事である。
その後、将軍職は彼らの傀儡である足利義親(後に義栄と改名)が就任した。
この事件は地に落ちていた将軍の権威をさらに失墜させ、室町幕府がもはや何の力も持っていない無力な存在である事を露呈した事件であった。



上記の理由に加えて信長は所領している四ヶ国の内政に専念していたというのもある。

但し、何もしていなかった訳では無い。
この期間に力を入れて一つの調略を行っていた。それは畿内各国の忍びの者に対してである。








ここでまず忍者という者に対しての説明をさせて頂く。

畿内で忍者として有名なのは伊賀の国・伊賀の里に住む伊賀流忍者と近江の国・甲賀の里に住む甲賀忍者であろう。
忍者という者達は怪しげな術を使ったり、物凄い身体能力を持っていたり等々と様々なイメージがあるが、実際の忍者はそんな物では無い。
当然の事ではあるが、彼らができるのは人間の身体能力の及ぶ範囲内だけだ。
ジャンプすれば5mはある城の塀を軽々と飛び越せたり、風よりも馬よりも早く走れたり、木の枝の上を飛び跳ねながら走ったり、分身の術等々、勿論そんな事できる訳がない。絶対に不可能である。
(当たり前の事ではあるが重要な事なので書かせて頂きました。この物語では超人的な力を持った忍者等はでてきません)



彼らが得意とする忍術というのは諜報活動に対する技術の総称の事である。



また広義的に言えば彼らは国人衆だ。
伊賀衆は伊賀守護である仁木氏の傘下に入っており、甲賀衆は六角氏の傘下に入っている土豪である。

彼らは普段は自らの土地で畑を耕したり、全国を行商をしたりして各地の情報を探ったりする一方、頭領から何らかの指令が下るとその指令を実行する工作員のような存在だ。
簡単に言い表せば良く訓練された特殊部隊員のような集団である。

但し、彼らは尊敬されてはいない。その行動全般が影働きである為、卑怯だと思われているからだ。
それ故、その扱いは極めて悪い。
その働きが表立って賞される事は無いし、名誉を貰える事も無い。
どこの大名家でも忍者衆を厚く報いている所は無いのが現状である。
中には元忍者という者が出世したという例があるが、それはあくまで表沙汰にできる戦働き等で手柄をたて出世したのであって、忍者働きで持って出世した者はいない。








だが信長は今のその忍者達の現状を調略の好機だとも思っている。

確かに忍者達の行動は武士道に合致せず、それから言えば卑怯と言える。だがここまで冷遇されなければならない程だろうか?
忍者達がすぐ裏切る(主を変える)等は、忍者を用いる側のその冷遇さが原因だとも言えるだろう。


情報という物は極めて重要な物なのだ。


特に今、織田家は未来を知っているおかげで他家に対して圧倒的な優位を確立できている。情報の重要性は身に染みる程痛感している。
それら情報を扱える忍者達はもっと評価されてしかるべきであるのだ。
(但し主家(織田家)にたいして忠誠をつくして働けるもの達にかぎるが)















誇り高き伊賀衆・甲賀衆よ。
我が織田家に仕え、天下に益する働きをせよ。
さすれば汝らは富を得られよう。名誉を得られよう。子供達の為に胸を張って働けるだけの誇りを得られよう。輝かしい未来を得られよう。
汝らけして卑怯者にあらず。


こうして戦国時代の常識から考えれば破格の条件でもって、両家に対しての織田家の調略が始まった。
条件は下記の通り。

1:所領として三万石を与える(伊賀衆は伊賀の国で三万石。甲賀衆は近江の国で三万石)
2:織田家は伊賀衆・甲賀衆共、士分として扱う。
3:各家頭領に織田家侍大将の身分を与える。
4:各家頭領に軍議に参加する権利を与える。








その書状を受け取った伊賀・甲賀双方共にて、同じように激震が走った。

「これは罠なのではないか? この条件、到底信じられぬぞ……」

「上手い事この伊賀をかすめ取った後に約束を反故にする気なのではないか?」

最初、伊賀衆・甲賀衆共この条件を信じなかった、というよりも信じられなかった。
今まで散々冷遇されてきたのである。
逆に戸惑ってしまう。

この条件は自分達をいきなり織田家の重臣として取り立てるという意味だ。
特に石高が凄い。一般に一万石を超えれば大名といわれる中での三万石。織田家内でもこんなにもらっている者は少ない。重臣クラスだけである。



だが日を追うごとに、どうやら織田信長が本気で言っているのだと両家共理解する。



両家共、織田家を信じるか信じないかで話し合いは紛糾した。
特に老人達は今までの経験からの慎重論が多かったが、若い者達は総じて輝かしい未来を望んだ。彼らはけして満足な生活をしていた訳では無い。
かの有名な徳川家の忍者・服部半蔵も困窮の末、伊賀の国を出て松平家に仕えたとの説もある。
若い者達は今の何の未来も、希望も無いこの困窮した生活にうんざりしとていたのだ。それゆえこの話し合いの場でも積極的に熱弁を振るう。

「じゃが、今のままでのこの暮らしに意味などあるのか!? ワシはこのままは嫌じゃ!」

「然り! ここは織田家を信じてみようではないか!」

「応! もし織田家が裏切れば、その時は我が伊賀衆の総力を持って後悔させてやれば良いのじゃ!」

それはまさしく彼らの魂の叫びであった。

彼らは本当に今の現状に絶望していたのである。
武士達は自分達を卑怯だ、何だと言う。そして自分達をまるで物のように扱う。文字通り使い捨てだ。
大名家によっては牛馬以下の扱いである場合もある。
なんらかの手柄を立ててもそれが評される事も無い。全て武士の手柄になってしまう。
死んでも手厚く弔ってすらくれない。

彼らは別に大金や名誉が欲しくてこんな事を言っている訳ではない。
ただ認めて欲しいだけなのだ。その仕事を、その生き様を、その価値を。
自分達は道具などでは無い、誇り高き人間である、と。






そしてその熱い思いは両家の頭領の心に確かに届いたのである。
そうして両家共、激しい話しあいの末、同じ結論を出した。 「織田家を信じて賭けてみよう」 と。
















こうして伊賀衆・甲賀衆を味方に引き入れた織田家は約束を履行する為に伊賀の国及び南近江に侵攻を開始した。


伊賀の国はすぐに決着が着いた。伊賀は隠れ国といわれる程、道路が貧弱で交通の便が悪い国である。
周囲を険しい高い山々で囲まれた攻めるに難く守るに易い要害の土地であるが、しかしその地理に明るい伊賀衆が味方についた以上、障害は何もなかった。

織田軍は一万の大軍でもって怒涛の勢いで伊賀に乱入し、侵攻後僅か一月で特に苦戦する事も無く伊賀全土を完全制圧したのである。
伊賀守護である仁木氏は自刃し、伊賀衆には元からの所領を中心に約束通り3万石が与えられた。





南近江の六角氏攻めも予想以上に順調に進む。

六角氏は前年の永禄6年(1563年)に観音寺騒動と呼ばれるお家騒動を起こしていた。
無能で小心者であった当主の六角義治が、こともあろうに家臣団筆頭で自分よりも人望の厚かった宿老の後藤賢豊を嫉妬から謀殺してしまったのである。

この事件は、途轍もなく深い亀裂を六角家にもたらした。
後藤賢豊は家臣団筆頭の身分であり、人望も厚く有能で、家中の諸処細々とした事柄を差配していた人物である。
そしてそのような立場にいた後藤賢豊の死は、六角家家臣団に重大な衝撃を与え主君・六角義治に対する家臣団達の信頼を無くす切欠を作ってしまったのだ。
この事件で六角家家臣団の中には隣国の浅井家に寝返る者も出たり、さらにはこの事件に不満を抱く一部の急進派家臣団の手によって一時的にとはいえ六角義治が居城・観音寺城より追い落されるという事態にも発展したのである。

言うなれば六角家は自らが起こしたお家騒動によって、織田家が侵攻する前からすでにガタガタになっていたのだ。

そして織田家四万の大軍の侵攻が始まる。
この時畿内では、すでに<永禄の変>が起こっており三好三人衆は六角家に対して援軍を送る余裕は無かった。

その為、六角氏単独での防衛戦となったが推移はほぼ史実と同じであった。
六角義治は緒戦において織田勢の羽柴隊によって支城の一つである箕作城を落とされると、早々に抗戦を断念。観音寺城他全ての城を放棄し甲賀群に向けて落ちて行ったのである。

その六角氏の逃亡により織田家は労せずして六角氏を駆逐し、南近江を拾った。
甲賀衆には約束通り、元の所領を中心に3万石が与えられる。

ちなみに甲賀衆が織田家に内応したのを知らずに甲賀に逃げた六角義治とその一党は、すぐに捕まり全員首を刎ねられその首は信長の元へ届けられた。







こうして織田家は後に織田家の眼と呼ばれた伊賀衆・甲賀衆を味方に引き入れ、さらにその所領を増やしたのである。
これより後、あらゆる局面で伊賀衆・甲賀衆は織田家の為のみに戦い、彼らが織田家を裏切る事はけっして無かったのだ。









<後書き>

忍者に関する解釈は作者独自の物です。事実とは異なる部分があるかもしれません。

作品中にも書きました通り、この作品中においては超人的な人物は出てきません。
また明らかに後世の創作である人物等も基本は出さない予定です(真田十勇士等)





現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 南近江45万石








[8512] 第9話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/11/03 23:38


<第9話>




永禄9年(1566年)8月 岐阜城
青々と茂った夏草が刺すような熱い日差しに照らされる季節。

「皆の者、いよいよ上洛ぞ!」

信長の号令の元、織田家居城・岐阜城において上洛の為の軍議が始まった。

「まずは百地丹波(ももちたんば)、望月吉棟(もちづきよしむね)、情勢を説明せよ」

「「御意!」」

信長はまず情報収集を任せている二人に命令を下す。
ちなみに百地丹波が伊賀衆の頭領、望月吉棟が甲賀衆の頭領である。この二人は織田家に参入する折の約束通り、既に侍大将として取り立てられ、現在では織田家の為の諜報活動の一式を担っていた。

その二人が交互に発言してくる。

「まず近畿の情勢でございますが、足利義輝公を討ち取った三好三人衆と松永久秀について御報告致します。彼らは足利義輝公を討ち取った直後から仲互いし、関係が決裂。内輪もめを始めております。三好三人衆が松永久秀の排斥を画策し、大和の国で松永久秀と敵対関係にある筒井家と連合し争っております。現状では三好三人衆側が優勢」

「続いて征夷大将軍への就任を謀っている義輝公の弟君・足利義昭公についてですが、結局は越前の朝倉氏の元に落ち着きました。義昭公は当主である朝倉義景に度々上洛を促しておりますが、義景自身には動くつもりはまったく無いようです。現状では周囲の大名も同じく上洛の気配無し。」

「うむ、で、あるか。」

「やはり三好が大敵にございますな。松永や筒井を調略を致しますか?」

百地丹波や望月吉棟の、その畿内情勢の説明を受けて滝川一益が発言して来た。
それに信長が答える。

「筒井についてはそうしよう。しかし三好と松永は断じてこれを討つ!」

「足利義輝公の敵討ちでござるな! いやはや、さすが信長様! 流石に御座います!」

その信長の言葉を受けて、すぐさま調子良く合いの手を入れてくる羽柴秀吉。
だがそれについて信長から返ってきた返答は秀吉の想像していた物とは違っていた。

「否、これは敵討ちなどにあらず。長秀、たしか越前の足利義昭より書状が来ていたな」

「御意。昨日越前より上洛支援の書状が来ております」

実は、『朝倉義景頼りにならず』 と見た足利義昭から信長の元にも上洛支援を要請する書状が届いていたのである。
現状で三好家を除いた状態で、京に一番近くてその上、実力もある大名といえば尾張から南近江にまで勢力を持つ織田信長だ。
当然上洛に一番近い立場である。
それなのに何故今まで足利義昭からの支援要請が無かったかというと、永禄の変から義昭放浪、越前に入るまでの期間が信長の南近江・伊賀攻略戦の時と丁度重なった為であった。それ故、足利義昭は危険な戦乱の起こっている近江の国には立ち寄らずに、そのまま若狭を経て越前に入っていたのである。

こういう事情があって義昭から織田家への上洛支援の要請は大分後になってから来たという訳だ。

「その書状、無視しろ。返書はいらぬ。」

「はっ!? いや、しかし……、よろしいので……?」

信長は吐き捨てるように命令する。丹羽長秀はその信長の言葉に驚いた。
足利義昭は殺された足利義輝の実弟であり、血筋的に言えば一番征夷大将軍に近い者である。良い大義名分にもなるはずである。
それを無視するという信長の言葉に皆、一様に驚く。


「上洛するに当たって皆の者にはっきりと申し渡す。此度の上洛、我等織田家は勤皇の志しを元に今現在、京の都において不遇に耐え苦しんでおられる帝(みかど)を我が織田家がお助けせんが為の物である。
応仁の大乱以降、すでに室町幕府がその力を失って久しい。逆に言えばこの乱世は彼奴ら、足利将軍家の責任だとも言える。
人の上に立ち、それを統べるべき者が力無きは悪じゃ。だからこそ、ワシは足利将軍家などには頼らん。三好めに擁立されておる足利義栄など将軍とは認めんし、義昭めを将軍にするつもりも無い。
そして足利家に民草を統べる力無き今、だれか別の力ある武士(もののふ)が帝の御為に上洛せなばならんのだ。
者共、この意味が判るか?」



信長より初めて明かされる事柄に皆一様に驚愕した。
今の言葉・宣言は足利将軍家には従わないという意味である。
そして帝の御為に新たな力を持つ武士が上洛し、帝を助けにいこうという事だ。



それは誰だ?もちろん我々の事だ。それはすなわち……!  将軍……!  新秩序……!  天下……!  栄光……!  武家の棟梁……!

皆が悟る。信長が何を目的としているかを…。

「と、殿! と、なれば我々は……!」

「そうだ。胸を張れ! 堂々と隊列を整え、轡をならべ、正々堂々と我等は京の都に進軍しようぞ! そしてこう言え! 我等は新たなる天下の軍であると!」



その信長の言葉はゆっくりと、しかしどしりと皆の心に響きわたってゆく。



「お、おおおおおおぅ!!」

「信長様! 信長様のその勤皇の志に、この明智光秀、感服致しました! この身、非才の身では御座いますが信長様の御為であらば身命を惜しまず全力で励みまする!」

この場にいる皆が思う…。この戦国の世に生を受け、武士となった本懐これにあり…!

織田家の猛将達は興奮に身を震わせ、明智光秀は感動すらして、泣いていたのである。
上洛を前に織田家の士気は天を衝かん程に高まってゆく。それはさらなる立身出世の期待感であったり、純粋な義憤であったり、武士としての戦に対する昂ぶりであったり、本当に人それぞれであった。

だが誰もが信長の元におれば大丈夫、この人に仕えていれば自分達の事を良き方向に持っていってくれる。
そう誰もが信じられる程の何かが今の信長にはあった。




「行くぞ、皆の者! 出陣じゃ!」

「おおおおおおおぅ!!」















そして織田家領内各国より織田軍が進撃を開始する。

上洛の為に今回動員された総数約六万名の大軍勢が一斉に西に向かい進軍を開始。
それに対抗できる勢力は近畿にはいなかった。
ちなみに今回の遠征に織田家同盟国である徳川家(松平より改名)及び浅井家は動員されていない。純粋に織田家のみの軍勢である。

進軍を開始した織田家の勢いはまさしく怒涛の如くであった。
山城の国と近江の国の国境地帯で、織田家が攻めてくると争いをやめ、再度手を組んだ三好三人衆と松永久秀の連合軍と一戦し、これを軽く一蹴すると敵方は総崩れとなったのである。
三好三人衆は他の領内を押さえる事ができずに史実通り畿内の領地を全て放棄し、阿波の国まで撤退。

そして残された、行き場の無い三好義継・松永久秀は織田家に降伏を申し込んで来た。だがしかしである、織田信長はなんとこれを拒否。
これは史実よりも戦力に余裕があり、今無理をせずにこれらを討ち果たせる事。それに国力も数段充実している今、この機会にこの近畿から信用できない勢力は根こそぎ排除しておこうという算段からであった。
下手に降伏を許しても第一次信長包囲網の折に裏切るのは確実な輩(やから)共である。包囲網の時に対処しなければいけない者共の数は少しでも減らしておきたいのだ。すなわち今の段階での各個撃破。

それに近畿は織田家の拠点として揺るがない存在であって欲しい。なにせこの時代では日本一の経済圏である。
そういう算段もあり三好義継と松永久秀は畿内で絶望的な戦いを強いられ、戦塵の中に散っていく事になったのだ。

三好義継は河内の国にある居城若江城にて絶望的な籠城戦の末、自刃。
松永久秀も自らの所領である大和の国で籠城半年の、しかし流石と言われる程の奮戦ぶりをみせるが、結局は織田家の数の前には敵わず、最後は居城信貴山城にて自らの自慢の茶器と共に火薬を胸に抱き爆死。




この上洛戦において織田家は電光石火の動きで近畿各国、すなわち山城の国、大和の国、摂津の国、和泉の国、河内の国の5か国をその支配下に納める事に成功したのである。
(但し、比叡山、石山本願寺等の寺社勢力は手つかずで存在している)














<山城の国 京の都>


織田軍が京の町に入城してくる。
最初、京に住む人々は織田軍が今までに京の町にやって来た他の諸勢力と同じように、この町で乱暴狼藉を働くのでは無いかと戦々恐々として脅えていた。だが彼らのそんな思いは良い意味で裏切られる。織田家の軍の規律は固く、そんな事はまったくしなかったからだ。

この時代の京の町は昔の栄華を全て失い、哀れな程に荒廃を極めていた。町には死体が溢れ、帝がおわします御所ですら、塀は罅割れ所によっては崩れているといった塩梅に荒れ果てていたのだ。
だがその現状を打破したのが、今回颯爽と上洛して来た織田信長だったのである。
信長はまず京の町全体の屍の清掃を兵達に命じ、その上で自身はすぐさま御所の再建に乗り出したのだ。

例えばこんな事件も言い伝えられている。とある日、織田家の足軽が道を行き交う女性に絡んでいた。それをたまたま見かけた織田信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身の手で即座にその足軽の首を刎ねたのである。
この無法を許さぬ、信長の厳格な姿勢には相次ぐ戦乱で荒廃を極めていた京の民衆を大いに喜ばせ、結果、織田家は歓喜の声を持って京に迎え入れられたのだ。






京の町に入った信長は東寺という寺を拠点とし、すぐさま諸々の手配を始める。


まずは朝廷への謁見。
ちなみにこれは今回が初めてでは無い。実は前々から家臣を派遣し、ちょくちょくと献金等をしていたのである。
それゆえ現在、織田家と朝廷の関係はかなり良く既に2年前に長期に渡る献金等の朝廷への貢献が評価され、従五位下・弾正少忠の官位を得ていた。

信長は京に入ってからいの一番で正親町天皇(おおぎまちてんのう)の元へと参内し謁見。信長は朝廷に銭3000貫文及び各種宝物を献上すると共に、荒れ果てた御所等の再建に乗り出す事を約束したのである。
それを受け正親町天皇も信長に対して正四位下・弾正大弼の官位を叙任し、感謝の意を示した。



ちなみにここで信長の考えている朝廷対策を記しておく。

信長は帝の後々の世にも渡る影響力を考え、表だって敵対するのは不利益しかないと判断。前の世界ではある意味、朝廷を過小評価していたのではと、今は思っているのだ。
それ故、今回はその権威を織田家の施政に取り込む事にしたのである。
この時代の朝廷と言えば、権威や影響力は勿論大きいのだが、しかしそれを裏付ける武力といったような物はまったく持っていなかったのだ。例えば御所に千人の兵士が攻め込めば容易く皆殺しにされてしまうぐらいの戦力でしかない。
故に信長は自分の上に据え付けてもそれほど怖くない、むしろその影響力を使えるほうが利点が多いと判断したのである。
前史の足利義昭の代わりだ。

将来的には征夷大将軍と共に関白等の官位も受けようと思っている。というかむしろ長い時間をかけ、官位等を織田家の者で独占していき、その朝廷組織その物の実権を奪ってしまおうと考えているのだ。

帝は 「君臨すれども統治はせず」 といった類の日本国の象徴・宗教の統括者といった役回りとしようと考えている。
信長はこれより積極的に朝廷に対して融和策を取り、また同じく積極的にその権威を利用していく事を考えていた。









続いて信長に無視された形の旧勢力である室町幕府への対応である。

今回信長は足利義昭を動向させずに上洛した。前の世界での上洛の大義名分は 「室町幕府の復興」 であったが、今回の大義名分は 「帝をお助けする」 という物である。
これは実質、室町幕府による全国支配構造の否定だ。

つまり今までは 
朝廷→室町幕府→各地の守護大名
とうい形であった統治機構(機能していたかは別として)が、織田家の単独上洛により
朝廷→織田家→各地の大名
という形に変えられようとしているのだ。

勿論織田家にその資格は無いし、権威も無い、その権限も無いので各地の守護大名が従う事も無い。
しかしそれは明確な織田家の方針として各国の大名に伝わり、各大名を驚かせた。つまりは 「室町幕府に代わってこれよりは織田家が日本を治める」 という意志表示である。
また当然ながらそれを認めない足利義昭は、信長の上洛後より信長の元に 「すぐさま自分を京に呼び寄せ、将軍に就任させよ」 という書状を何度も何度も送りつけて来ていた。しかしその全てを信長に無視され続けていたのである。

この織田家の一連の所業は天下に対する信長の露骨な野心として取られ、各国の大名との関係は間違いなく悪化するであろう。実際に織田家に非難の書状を送りつけてきた大名家もあった。
だが信長にとってはこの動きはむしろ望む所である。どうせ結局は同じ事だからだ。
上洛し、天下随一の権力を握った事で、当然それがおもしろく無い他の地方大名は織田家の天下は認めじと敵対してくる。
史実での信長包囲網の事だ。敵対時期が早いか遅いかの違いでしか無い。

信長は全国津々浦々、全ての大名を徹底的に屈伏させ、強力な中央集権国家を作るのが最終的な目標である。地方において織田の統治に服せず、その主体性を維持した大名などあってはならないのだ。
その為に邪魔な物は全て薙ぎ払い、殺しつくす。


そして室町幕府は信長のとってはもはや必要の無い、価値の無い物なのである。民を統べる能力を無くした足利家には何の価値も無い。
逆にその能力を無くした足利家が唯々権力の座にしがみ付けばしがみ付く程、この現世(うつしよ)にてさらに大量のいらぬ血が流れる。
なれば誰かが早々に引導を渡してやらなければならないのだ。
そしてそれは途轍もない悪名として残ろう。だが歴史が動く時には誰かがやらなければならないのである。悪名を恐れる者に、自分だけの名誉に拘る者に、天下に益する為の仕事など出来ないのだ。そんな者にこの日本という天下の元に生きる何千万という数の民草を幸せに導いて行く事ができようか?

だからこそ信長は迷わず進む。それが例え血肉に塗れ、屍を敷きつめた呪われた道であろうと、だ。胸を張り、誇り高く、何物にも折られぬ自尊心を持って。
土は土に、灰は灰に、塵は塵に。
一度全ての物を無となし、この日本の新しき秩序は織田信長が作る。その為に信長は魔王と呼ばれようともかまわない。むしろそれこそが誇り。

このような思いこそが信長の原動力なのである。














<後書き>

甲賀衆の頭領についてはオリキャラとなっております。理由は適当な人物が見つからなかった為です。
もし何か良い人物を知っておられたら教えて下さい。
特にオリキャラを使う理由は無いので誰か適当な人物がいればそちらの差し替えようと思いますので。
ちなみに甲賀月心の名前の意味  こうが げっしん → こうがのげっしん → こうがのけしん → 甲賀の化身
 
後、天皇陛下への対応について、信長はこんな対応しないだろう…というような意見はありますでしょうが、作者自身が陛下へ無碍な対応をしている信長というのを絶対に書けない(というか許せない)のでこういうような対応です。
また史実のように義昭を擁立したとして、その後の展開をみても、メリットよりもデメリットの方が大きいように思うんですよね。




現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 南近江45万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石




感想にあった疑問点への返答

・寺社勢力は現状ほとんど手つかずです。それについての説明・対応はこれより後の本編で。
・他、内政面での説明もこれより後の本編で。
・他、各人物の事もこれより後の本編で。
・誰がどこの所領を貰って~というのは基本的には設定いたしません。これは書く前から決めていたのですが、そこまで設定するにしても、まず納得が行く物ができないからです。
 なので史実とほぼ同じかそれより大きいぐらいの所領をもらっているぐらいで考えておいて下さい。





[8512] 第10話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/11/09 01:36




<第10話>



「なあ、今日やったっけ? 、あれがくんのは?」

「おう、そやで。ワシあれが楽しみで楽しみでなー」

「ワシもや。ウチの子も同じなんやで。なんや最近は文字も覚え始めてなー」

織田領にある、とある農村。そこの農民達が集まり話しながら歩いていく。向う先は村の中心部だ。
その村の中心にある広場には大きな木の板が据え付けられている。そこには村中の、それこそ老若男女、全ての村人が集まっている。

信長はさらなる民心掌握の為に、民衆の慰撫の為に、一つの政策を始めたのだ。
それは現代の新聞に通じるといっても良いような宣伝書の発刊である。といっても今の新聞その物のような存在では無い。
この時代には高札という物があり、それを掲げる高札所という所があるのだ。領主が領民に何かを知らせる必要があった場合、木の板に張り出して知らせる為の物である。

信長はこれを利用して定期的に織田家の考え方や方針などを知らせる場として使おうと考えたのだ。




元々史実において織田家が一向一揆衆の対応において後手後手に廻ってしまったのは宣伝戦の敗北のせいもあると信長は考えていた。
民衆達は自分の知り得た情報の中から自分の信じたい情報を信じる。それはいつの時代でも変わりは無い。そしてその点で言えば地域密着型の寺社は抜群に強かったのである。
彼らは説法を行いながら集まった民衆達に自分達に都合の良い情報・正義ばかりを民衆に伝える事が出来たのだ。

だからこそ、あれほどの力を発揮できたのではないか? と信長は考えたのである。

逆に言えば織田家 (というか全ての武士階級) はそういう情報伝達手段を持っていなかった。民衆達も上に立つ武士達が何をやろうとしているかなどは知らないし、武士達もわざわざそれを伝えるなどもしない。
その為、この当時の民衆達の知りえる情報といえば噂程度の物か、説法の時に坊主達が語る正義と真実のみが、彼らの知り得る情報の全てだったのである。これまでは武士~民衆という間の情報伝達の存在などなかったのだ。

そしてまさにそここそが今回、信長が眼を付けた所なのである。

信長はそれを宣伝戦(情報戦)であるとの認識の元、国家戦略として <政府広報> という情報誌の発行に着手したのだ。
発行は原則、月に一回。但し何か事があればその度に臨時に発行される。それが所領全土及び商人等を通じて他国にも配布されるのた。

さらにそれをより浸透させる為の法律も整備。
織田家の所領には村単位など全ての民衆が眼を通せるようになる範囲になるような単位事に高札所の設置が義務付けられ、同時にそれを領民全員が見る事も同じく義務付けられた。
またこの時点では民百姓にはそれを読めない者、つまり文盲の者が大部分の為、それを読み上げる者が派遣される。派遣されるのはその政府広報の内容を理解した織田家の武士達で、それを領民に理解させる事が任務として信長より命令されていた。
高札の内容は当然織田家の主張・方針が基本ではあるが、民衆に飽きられないように新聞的な中立に立った他国の出来事を伝える情報伝達も行ったのである。また同じく娯楽が少ない世である事を考え、様々な方法で持って娯楽的存在になるような内容になるようにも考えて作られていた。

古代ローマ帝国の統治曰く、民衆はパンとサーカスが揃っていれば簡単には反乱など起こさない物なのである。







「皆の者、揃っておるな。では今月の政府広報、読み上げるぞ」

一人の武士が村に入って来て高札場に入り、政府広報を張りだす。それは現代人の目から見ればみすぼらしい物である。
大きさは新聞紙一枚分ぐらいでしかない、ただの薄ぺっらい一枚の紙だ。そこに木板刷りや活版印刷で刷られた活字が躍る。だがそんな物でもこの時代の人に与える衝撃は測り知れない。
彼らにとって今まで自分達が知らなかった情報が得られるという事自体が、途轍もない喜びなのだ。

「えー、うんっ、ごほん、それでは順に読み上げるぞ。 
『大本営発表! 去る○月、我が織田家が行っていた美濃の国の○×川の治水工事が完了! これにより近隣の各農村の収穫量は………、』」

「えー、それより少年亜詩部の四画劇場がいいー!」

「いやいや、それよりも旦那、武餡歩将軍のさっと一品を先に読んどくれよ! わたしゃそれが楽しみで楽しみで!」

「ええい、慌てるでないわ! ちゃんと読むから! 順番があるのだ、順番が!」

政府広報を読み上げるその武士の声に、廻りで聞く子供や女性が茶々を入れ騒いで来た。それに返す武士の言葉に周囲から大きな笑いが起こる。
信長はこの読み上げる武士の選抜にも気をつけていた。できるだけ温厚な者を選ぶよう方針を示していたのである。
例えば読み上げる時に何か事があり、 『 無礼者 ザシュ!! 』 と、武士が民衆を斬って捨てたりしたら逆効果になってしまう。この政府広報の目的は民心掌握の為だからだ。

そして結果から言うと、この政府広報は大成功だったのである。
民衆達はすぐにこの政府広報を心待ちにし、そこに記載されている小噺や連載物語、そして情報そのものを楽しみにするようになった。
そして織田家に対して、その善政と合わせて強い親近感を持つようになったのである。

また、この政府広報の責任者に任命された竹中重治(半兵衛)の尽力も大きかった。
彼はこの大役を見事にこなし、さらには信長が示した情報重視・宣伝戦略をその生涯をかけ、さらなる形にまで昇華していったのである。
そして彼は伊賀衆・甲賀衆と協力し、後の世に続く大日本帝國の情報組織に繋がる組織の礎、そしてその精神の土台を築いた男といわれる事となるのだ。



それにこの政府広報は信長の思っていなかった効果も出したのである。民衆の中にそれを自分で読みたいと、文字を覚えようとする者達が出てきたのだ。
信長はすぐに読み上げる役の武士達に教師役を指示。
それにより民衆の中に読み書き算盤が出来る者達が出てきたのである。これはさらなる織田家の発展に貢献した。

また信長が毛筆よりも書き易い物を望んだ事により御懐中筆(軸中に綿を詰めてインクを垂らす方式 筆ペンの前身ともいうべき存在)と竹ペンが100年程早く実用化。
この実用化に伴い、政府広報に載っていた物語の影響もあり浮世絵文化と共に漫画の文化が数百年早く日本で花開いたのである。

同じく信長は、これは完全な娯楽としての存在であるが昭和初期まで史実でもあった紙芝居を娯楽として提供する事を決定。
この紙芝居も同じく政府広報を読み上げる武士が担当。これにはまたまた、信長が思いもしなかった効果が上がった。民衆の武士への親近感と同じく、武士の側からも意識の変化がおきてきたのだ。

子供隊にたいへん喜ばれる紙芝居や人々に心待ちにされている政府広報を扱いながら人々に接する武士達であるが、自らの行為が他人に多いに喜ばれるというのは自身にとっても途轍もない喜びとなり、また同じくやりがいにもなる。
武士の方もその仕事に楽しみを覚えるようになり、また政府広報や教訓的な紙芝居の内容にも影響され唯々支配者として接してきた武士達が自らを律し、民衆側に歩みより始めたのだ。
ようは良いかっこしいの心境である。他人に喜ばれれば、さらに調子に乗って世話を焼きたくなるのが日本人の心情・心構え。またそれだけ人に喜ばれる仕事というのが良い方向に大きな影響を与えた証拠でもある。

人の上に立つ武士達(あくまで現状では一部とはいえ)が自ら良い為政者として振舞うよう努力するようになり、信長の思いもよらなかった所で紙芝居を実施した事が織田家の統治に対して途轍もないメリットとして返ってきた形だ。

この風潮は信長の考えによりそのまま織田家の武士の規範となり、後にできる学校でも取り入れられ教育の基本になっていった。



これらの素晴らしい成果を残していった漫画・浮世絵・紙芝居等々、文芸作品は戦乱が無くなり平和になった日本においてさらに広く流通する事になり、華やかな文化活動の一翼を担い、民衆にとってのまたとない娯楽となっていったのである。





後の世にこういう小噺が民衆の間で作られた。

ある日織田の領内にある、とある村に一人の一向宗の僧侶が来て 『仏敵信長を討つべし』 と農民を扇動し一揆をおこさせようとした事があった。
それに対して村人達は 『政府広報が読めなくなるから嫌だ』 と断り、その僧侶を村から叩き出したのだ。

どれほど民衆が政府広報を心待ちに、そして楽しみにしていたかの小噺である。












<後書き>

織田家の宣撫工作です。本願寺対策の秘策その1です。
瓦版ができるはるか以前に、瓦版よりもはるかに大規模で日本中に浸透する情報伝達媒介を、という事でこんなのができました。

政府広報の内容についてはあくまでギャグです。こんな内容はおかしい、訂正してくれ等のマジレスは御勘弁下さい。
ちなみにギャグ繋がりでいえば、本当はこの政府広報の裏面には<闇政府広報 (淫らな巫女の奉仕活動)(いけない未亡人 疼く肢体)等々>という官能小説が記されており、夜に男の大人だけが集まりそこに書かれている官能小説を楽しむ…  というネタがあったのですが流石にこれはやりすぎだと思い没になりました。
作者、自重。



後。竹中重治の事を皆様気にされていたようなのでここで登場。如何でしょうか?


追加の追記

前回、甲賀の頭領についての情報を募集しておきながらお礼の一文を入れるのを忘れていました。
申し訳ございませんでした。ご助言ありがとうございました。
望月吉棟で変更させて頂きました。ありがとうございました。

また同じく、暖かい感想・御指摘を書いてくださる皆様も、いつもありがとうございます。
常にご意見を参考にさせて頂いておりたいへん助かっております。ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。








[8512] 第11話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/11/15 17:37





<第11話>



信長が京に入ってからはや半年。荒れ果てたとは言っても流石、日本の中心の町、都である。信長は後から後から湧き出てくる案件に多忙の日々を送りながらも様々な施政を行っていた。



まずは近隣大名への対応である。

今回、織田家の近畿侵攻においてその支配下に入った大名家の中で比較的大身だったのが大和の国の筒井家だ。
この時期の筒井家の当主は筒井順慶(つついじゅんけい)。前当主である父・筒井順昭が病気により急死した為、天文19年(1550年)に、僅か二歳で家督を継いだ人物である。
もちろんの事であるが二歳では政務などできない。其れ故、順慶の叔父に当たる筒井順政が後見人として補佐(というか代理)を努めた。
しかしそんな状態を組みし易しと見た、今は亡き故人・松永久秀が攻め込んで来たのである。
長く続く松永久秀との死闘の中、永禄7年(1564年)に後見人の筒井順政が死亡。この時順慶16歳。そしてこの混乱が致命的な隙となってしまい居城である筒井城を松永久秀に奪われてしまう。

そのような情勢の中、大和の国は織田家の近畿侵攻を迎えたのだ。

筒井家はいち早く織田家に降服。そして織田家の力を借りて居城の筒井城を奪還したのである。
その上で元の本領を安堵された筒井家は織田家に完全臣従。
またこの過程で特筆される事が一つだけあった。この時、織田家は条件として筒井家家臣の島清興(しまきよおき ※通称を島左近)を信長の直臣とする事を命令したのである。
(※この人物は島左近の通称の方が有名である為、これより以降、島左近の名前で統一)
これを筒井家が了承し、また本人もこれを了承した事からとんとん拍子に話は進む。そしてこれより以後、島左近は織田家で働く事となったのだ。




続いて足利義昭を擁立している越前の朝倉家。

信長はこれに対しても他の大名家と同様に対応。つまり当主の朝倉義景に対して 『帝の御為に』 という理由の元、上洛するように書状を出したのだ。つまり朝倉家が足利義昭を擁立していると言っても、それを理由に特別扱いはしなかったのである。
朝倉義景は当然の如くその信長よりの上洛要請を黙殺。返信の使者すら送らず完全に無視したのだ。
しかし信長にとってそれは予想の範囲内。義景がノコノコと上洛してくるとは思っていないし、逆に来られても困る。
これは帝の命令に背いたという事を大義名分にする為の方便なのだ。まがりなりにも足利義昭を擁立しているので慎重になる必要がある為である。

結果として織田・朝倉家の国境は日に日に緊張感が増してゆく。




そして畿内の寺社勢力だ。これは比叡山延暦寺や、さらには織田信長の最大の宿敵・石山本願寺等々の事である。

これらとは今の所、明確な敵対関係にはなっていない。だがそれも時間の問題という情勢である。
ちなみにここで最初に何故、寺社勢力と織田家の仲が悪いのかを御説明させて頂く。

この時代の寺社勢力というのは所謂、特権階級である。彼らは徴税の権利を持ち、寺社領という領地すら持っていた。
だがしかしである、その特権を侵す者が現れた。それが織田信長だったのだ。
信長の行った革新的な商業政策 (関所の撤廃・楽市楽座等) が彼らの権益を侵してしまうのである。その結果、彼らは関所を建てる権利を失い、さらには楽市楽座で寺社領内の経済に打撃を受けたのだ。
さらに言えば信長は今までの世の慣例を無視し、今までの常識を顧みず平気で自分達を殺すのである。この時代、僧侶を殺すのはタブーであった。いくら下々の配下・民衆信徒達が一向一揆等に参加して死のうが、その上に立つ上僧達の身は絶対安全だったのである。だからこそ腐敗した者達はやりたい放題出来たのだ。
それらの彼らが持っていた特権の一切合財が信長の行動によって覆されたのである。

つまるところ、織田家と寺社勢力との争いは結局の所は唯の権益争いなのだ。けして通説で言われているような宗教戦争では無い。織田家にとっては、あくまでも彼らの自治を認めず統制下に置こうとの争いなのである。
しかし世ではこれが信長の宗教に対する弾圧だと思われがちだ。
勿論それにも理由がある。人々がそう思うのは寺社勢力側がその唯の権益争いを、自らの信ずる神に対する反逆の如く仏敵等と言い放ち、その論点をすり替えてしまうからなのだ。
ちなみにこの手法は世の古今東西を問わず長い歴史の中で宗教勢力が良く使ってきた常套手段である。

つまり宗教勢力は自らの利益に反する行動をする者達に破門や神への冒涜者というレッテルを貼って異端者として扱う。そしてその信者を使ってその異端者を攻撃するのだ。そしてこの場合、そのレッテルを貼られる人物が本当に神に反する冒涜行為を行っていたかなどは関係無い。
いや、むしろ彼らの中では、宗教勢力の不利益になる事をする者=神に反する冒涜行為を行った異端者なのだ。例えその人物がどんなに信心深く敬虔な信者であってもである。
この昔から使い古された、しかし極めて有効な手段を持って遥かな昔の時代から宗教勢力はその権力を盤石な物とし、その権勢を拡大して来たのだ。

誤解されている事だが史実においても織田信長の方から特定の宗教を弾圧した事は無いし、ある特定の宗教の布教を禁止した事も無い。
織田信長自身にとって宗教とは全て平等に意味の無い、無駄に感じてしまうな存在だったのである。故に興味など無い。しかし民衆達がそれを信じるのは良しとした。だからこそ逆に自分に敵対せずに織田家の施政を受け入れた寺社勢力には極めて寛容であったのだ。

故に信長が宗教勢力全てに対して極めて好戦的でそれらを弾圧し根絶やしにしようとしていたとする解釈は誤りであろう。それらはイエズス会や本願寺等の寺社勢力の記した資料を元にした上での人物象である事を考慮しなければならない。
現に信長が一向一揆衆やそれ以外の宗教門徒達を全て皆殺しにしようとしていたとする史観は後の時代、江戸時代に入ってから本願寺の手によって広く流布されたものであるとの研究報告もある。
さらに言えば信長の方から寺社勢力に攻撃を加えた事も無い。全て最初に攻撃して来たのは寺社勢力側からなのだ。それは比叡山しかり、石山本願寺しかり、高野山しかり。全て最初に引き金を引いたのは彼らである。信長はそれらに対しても史実において自身から攻撃を加える前に何度も何度も翻意を促す使者を送っているのだ。

そしてその後、一度開戦し敵対したならばそれ以後は信長は彼らを許さない。信長は彼らを宗教勢力とは見ず、一つの敵対勢力として扱った。
ある意味、他の武士達と平等に扱ったのである。
その事を彼らは最後まで理解できなかった。ただそれだけである。
信長の最大の功績は日本国内での宗教戦争・宗教間戦争を根絶した事であるといっていいであろう。結果としてこの時代以降、日本にある全ての宗教勢力はすべからく、その時代の政府の管理下に置かれたのだ。
その結果、日本の宗教は世俗の利権より切り離されその本来の姿を取り戻したのである。これこそ信長の偉大なる功績なのだ。

それがあればこそ、現代の日本の素晴らしい宗教感が作り出されたのである。
いつもは誰もが気付かないような程ひっそりと目立たない存在。外国の人に日本人は無宗教であるとい誤解を受ける程目立たない存在でありながら、それは要所要所では必ず顔を出す。
日本の宗教とは極めて日本的に驚くほど自己主張をせずに、驚くほどひっそりと、しかし、しっかりと深く日本の地域・社会・風習に根付いているのだ。

そしてさらに凄いのは多くの日本人がそれらを宗教であるとすら思っていない事である。

日本人の宗教感の根底はまさしく八百万(やおよろず)の神々の精神。万物全てに神が宿り、神は人々のすぐ傍に常にいる。死んだ人間は仏になるという具合に神という存在が極めて身近に常にある社会なのだ。それらは逆に考えると日本人の身近には神々が居過ぎて、他の国・宗教の人々より神という存在との距離が近いと言う事なのかもしれない。
そして我等の常に身近にあるそれらは全ての人々に平等で、なんとも優しい存在なのだ。
厳しい戒律などないし、宗教間の区別すらも無い。仏教であろうが、神道であろうが、道教であろうが、儒教であろうが、キリスト教であろうが、イスラム教であろうが、ヒンドゥー教であろうが、ユダヤ教であろうが、その全てを許容する懐の深さがある。

それはなんとも素敵な事ではないだろうか? 良く言えばおおらか。悪く言えば無責任・適当・混沌。しかしそこにあるのは他者への友和、他者への寛容、お互いへの尊敬。
切欠さえあればキリストさんが七福神達と一緒に宝船に乗るような事があったかもしれないのでは、と思わせる程のおおらかさである。その横にアッラーさんが乗ってもいいと思う。
そしてそのような極めて柔軟な精神的土壌がこの平和な日本の土台になっているのだと思う。















当時の情勢に話しを戻す。

比叡山延暦寺についてはすでに公然とした敵対関係を始めていた。越前の朝倉家と協力し、織田家の領内を荒らすような行動を取り始めたのである。
また、この当時の比叡山延暦寺は極めて腐敗しており、京の町でもたびたび徒党を組んでは乱暴狼藉・盗賊行為を働いていた。その中でも有名なのは強訴であろう。
それらは帝をすら嘆かせる程の無法・無体であったのだ。




続いて石山本願寺。

本願寺については表面上は平静を保っていた。信長が命令した五千貫文の矢銭の供出にも応じ、一応は協力する態度を見せている。
しかし裏では、先程説明した通り関所の撤廃・楽市楽座等の政策に反発しており、さらにはキリスト教の布教問題でも苛立っていた。
こちらも暴発は時間の問題である。

但し信長には先の話しに記した秘策(政府広報)の他にもう一つ、石山本願寺対策があった。これはまた後の話しで追々説明させて頂く。














続いて堺の町である。

この時代、堺の町(堺衆)は大きな力を持っており、堺とは今で言う自治都市のような存在であった。
その堺に信長より二万貫文の矢銭の供出命令が出されたのである。今で言うと約二十億円程の金額となる。まさしく眼の玉が飛び出す程の大金だ。
他の諸勢力がその命令を受け入れる中、堺衆だけがそのとんでもない金額の矢銭供出を拒否。四国に逃れた三好三人衆と密約を結び、信長に敵対する態度を示したのである。

その後すぐに堺衆の援助を受けた三好三人衆が四国より畿内に再度上陸。しかしである、もはや三好三人衆と織田家との戦力差は明確であり三好勢は僅か一戦で蹴散らされた。
その余勢をかって織田軍はそのまま堺に攻め込む動きを見せる。この時点で堺衆は抗戦を断念し信長に降伏。
信長は矢銭を三万貫文に増額すると共に堺の自治権を剥奪し直轄領とする事で降伏を受諾した。

元々信長は商人達の自治など認めるつもりは無い。
さらにはそのやりようも気に入らない。誰かの影に隠れ、あらゆる勢力の間を上手く泳ぐ事で力を蓄えてきた。時には敵同士のその双方に物資を売り戦を煽りもしたのである。
別にそれが悪い訳では無い。武力・権威等を持たない商人達にはこの方法しか無いのだから。

だがしかし、それは信長の目指す国家の中では相容れない存在である。
この降伏により堺の町は信長の統制下に入る事となり、様々な制約、例えば鉄砲・馬の他国への販売禁止等を課される事となったのだ。














最後に内政の途中経過と結果報告だ。

織田家の所領が東海地方から一気に畿内一円にまで広がり、さらにその所領が日本一の経済圏を含んでいる為、やる事が大量に出てきていたのである。
まずは近畿各所にあった室町幕府の直轄領・もしくは義昭と共に逃亡した幕臣達の所領であるが、それらは全て織田家の直轄領に編入された。
この行動はもはや明確な室町幕府への宣戦布告であると言ってもいいであろう。



続いて現在のフリントロック式小銃の生産状況。
これは名古屋工廠・岐阜工廠の生産が軌道に乗ってきており現在の月産は約40丁。
またこれらを装備した部隊の訓練も十分に行っておりいつでも戦闘可能なレベルにまで仕上がっている。


さらには岐阜工廠において大砲の試作にも成功し、順次生産が始まっていた。

出来たのは2種類で小型な物と中型の加農砲である。これは青銅製の鋳造製造型の大砲で前装式の物だ。
軽砲の方は馬で引かなくても人力で複数人でひける程度の大きさ。グレープフルーツより一回り大きい程度の弾丸を撃ち出す大きな2輪付きの大砲である。
中型砲は馬での牽引がいる。人力でもひけない事は無いが、かなり重い物だ。大型砲については引き続き開発中である。
まだ出来ていない理由は、大型になればなるほど発射時の衝撃に耐える為に砲身に頑丈さが求められる為である。その為、試行錯誤中だ。
大型でも作るだけなら今でもできるのだが、実用的な耐久性・利便性・威力を兼ね備えた砲の生産を目指して鋭意努力中である。

火薬の生産も想像以上に順調で、余剰分で焙烙球のような手投げ爆弾も生産され始めた。これもある程度の数を揃えられるようになるまで使用せずに備蓄が命令されている。










続いて畿内の内政政策。

畿内の新たなる所領にも従来の所領と同じように、関所の全撤廃・道路の整備・川の治水を行い始めた。ちなみに河川の治水工事はすぐに全てをできるような物では無いので、順次着工予定である。
それに並行させて新所領の新田の開発を公共事業として開始したのだ。
これは戦国時代の全国どこでもいえることであるが、戦続きであるため国土が荒れているのである。良き耕作地になるであろう所(理由は様々。治水が必要であったり、戦で耕す者が居なくなった等々)が手つかずで放置されているなどは良くある事だ。
また領主達もそれを判ってはいても、そこを開拓するだけの余力が無い。やりたくてもできない、そんな余力があればその分は全て軍備にまわる。
そのような畿内各地の土地の開拓を始めたのだ。

これには治安維持の効果もある。各地から仕事が無いなどの食い詰め達が集められ工事に従事したのである。もちろん新たに開墾された新田はその者達に与えられた。
また同時に近畿各地に跋扈していた夜盗・盗賊の討伐を軍を動員してまで徹底的に討伐。
これにより荒廃していた畿内各地の治安は劇的に向上。畿内の民心は織田家におおいに好意的になったのである。





さらに税制の改革にも着手。
織田家領内での税制を一律化し上限を設けたのである。これは畿内まで制圧し、それにより、新技術の開発をしながらでも財政にある程度の余裕が出来てきた事により着手できた事だ。これの目的は民衆達の保護の為である。
農民に対する課税は4公6民を上限とし、それ以上の課税の一切合財を禁止したのだ。またこの上限には苦役等も含まれる。つまり今までは義務としていた工事への無料労働での動員もこれを禁止。労働力を動員するのであれば、その者達への賃金の支払いが義務付けされたのだ。
ちなみにこの4公6民の課税。これは一見、課税率が高いようにも思えるが、今までの課税方法ではさらにこの上に様々な課税理由(関所や地税、寺社領からの税等)をつけては税をかけていたのである。
それらを合わせれば実質の課税率は9公1民や8公2民にもなっていた。これが原因で農民達の生活は困窮し、米を作った者が米を食べられないと言うような悲惨な状況を作ってしまっていたのである。

信長は上記のように織田家以外の者が勝手に領民に課税する事を禁止(つまり全ての勢力を織田家の管理下にという意味である)し、農民達の保護を目指した。
寺社領等も織田家統治下においてはこれが適用され4公6民を上限とし、これを守らないと織田家への敵対行為と取られる。

但し、現在あきらかに織田家の支配のおよんでいない比叡山や石山本願寺・伊勢長島等にはこの政策は及んでいない。
しかしその事が原因になって彼らの領内にいた領民・商人達がより住みやすい織田領へと流出。これが後の対立の要因にもなった。





続いて町人・商人を保護する為の政策も実施。

徳政令の禁止と高利貸しの禁止である。徳政令とは領主が商人達から借りた借金を強制的に帳消しにしてしまう制度の事だ。それは商人にしてみたら堪ったものでは無い。それを織田家内では全面的に禁止したのである。
またそれだけでは商人達だけが一方的に強くなってしまう為、また領主達の腐敗を防止する為に、同時に高利貸しも禁止した。
金貸し業自体は別に何の問題も無い。無いのだが、その利率が問題なのである。あきらかに金を返せる利率では無いのが問題なのだ。借りざるをえない困窮した者達に返せない事を前提に金を貸して、当然それを返せない者達を半ば奴隷状態においたり、大事な田畑などを取り上げる等の事がこの時代は日常的に行われていたのである。
これでは健全な経済、健全な社会が形成される訳が無い。
この流れのままでは富める者はさらに富み、貧しい者達はさらに困窮するという悪循環に陥るのだ。
よってこの悪しき流れを断ち切る為の政策が、この利率上限の規制である。金貸し業についてはその貸付利率を上限月2%に設定。それを違反する者は罰せられる事になったのだ。




このように信長は新しい支配地、元よりあった支配地を問わず全ての民衆達、農民・商人・国人達に飴とムチのその両方を持って自らの政策を確実に浸透させていく。
これらの政策により、旧来よりの古い慣習、様々な規制から解放された織田家領の経済は信長の予想を超えて、さらに大きな飛躍を遂げていく事となったのである。










<後書き>

内政物の御約束、政治チート・技術チート発動。だけどこれを書くのが楽しいのでやっぱりやめられない。
内容がないよう。

追記
宗教云々はあくまで作者の主観であり、事実と異なる部分があるとは思います。ご了承下さいませ。






[8512] 第12話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/12/06 19:17




<第12話>



伊勢湾の潮の香りが漂ってくる港町・名古屋港。織田家の重要拠点であり、その貿易の中心地でもあるその港町は現在、これまでに無かった程の途轍もない空前の活気に満たされていた。

「何をしている! グズグズするな! さぼっていたら承知しないぞ! 早く作業を終わらせろよ!」

「それぐらいちゃっちゃと作れ」

「ちゃんと押さえてろ!」

町のいたる所から船大工達があげる怒声やその作業の音が響く。ガンガンと鉄や木材を叩く音。鉄を打ち付ける音。今やこの町では女子供老人すら総動員で皆が忙しく働いていた。
それだけでは無い。今やこの町には日本は勿論、さらには外つ国よりの南蛮人達が貿易の為に頻繁に訪れ、空前絶後の繁栄を実現していた。

その中でもここは信長の命令によって新たに造られた造船所・名古屋造船所である。ここでは現在、織田水軍に供給する軍船の建造が進められていた。
織田家では比較的予算に余裕が生まれてきた永禄7年(1564年)頃から本格的な水軍の創設を目指し整備を進めていたのである。現在この地で生産されているのは主にガレー船の範疇に入る安宅船(あたけぶね)と他関船・小早等、所謂日本に元からあった和船と呼ばれる類の船だ。

信長は当面の間は旧来通りのこの船で戦い抜く事を考えていたのである。
もちろん並行して南蛮船と同等の外洋型ガレオン船の生産を目指してはいるが、いくら信長(大助)でもガレオン船の作り方は知らない。其れ故、まずはその製造の指針となる物が必要だ。

一番手っ取り早いのはすでにその製造の為の方法を知る者、つまり南蛮人達にその製造方法を教えてもらう方法である。
しかしである、それらは普通に聞いても教えてくれる物では無い。ガレオン船の製造法は今で言う国家機密的な情報であるからだ。その製造方法は厳重に秘匿され、その禁を破った者は厳罰に処される。
だがここは欧州より遠く離れた極東の島国。本国(イスパニア・ポルトガル)の目の届かぬ範囲。それに誰も彼もが聖人君主では無い。中には不心得者というのが必ず存在する。
また技術というのは蔵の奥に後生大事に秘しているならまだしも、実際に表に出していればその情報は必ずいつかは洩れる物なのだ。
現在織田家は金で転ぶ不心得者に高い金を払い、あるいは相手の弱みを握ってと、様々な方法を用いその製造方法を聞き出し製造を目指している所である。

信長は安宅船の次には技術的段階を踏まずに一気にガレオンの製造を目指していた。しかしまったく新しい物で一からの挑戦である。試作一隻目ができるのにはおそらくは最低後5年は必要であろう。
但し信長はそれについては慌ててはいない。戦闘海域を日本近海沿岸部のみで限定すれば、むしろ人力で動くガレー船の方が戦い易いと信長は判断していたからだ。
それ故に当面の目標は安宅船を中心とした従来の和船型艦隊の数を揃える事を目指している。

ただ将来的にはガレオン船を使い、こちらからも欧州やそれこそ世界中に向けて交易船を派遣する事を考えているのでガレオン船を軽視している訳では無い。






話しを戻す。安宅船の製造については信長よりいくつかの注文が入っていた。
まず第一は大砲の使用(各船一隻につき約2~5門使用)を前提に作る事。但し、ガレー船はその構造上、側面に多数の櫂を取り付けている為、火砲を側面に装備する事はできない。
しかし日本の他の水軍の現在の状況で言えばそれで十分であろう。
現在織田家で生産されている大砲は陸上部隊では無く、この軍船の方に優先的に配備されていた。同じく焙烙玉もこちらに優先的に配備されている。

第二に船体に不必要な飾りは一切付けない事。
そんな物に手間暇資金を費やすぐらいなら、さらにもう一隻船を作れと信長に厳命されていたのだ。結果、その何も飾りのついていないみすぼらしい軍船は他の大名達の嘲笑の的となったのである。しかし後に彼らはその軍船の数と火力に後悔することとなるのだ。

鉄甲船についてはもう少し後になってから、ある程度数が揃ってからを予定している。








「状況はどうだ、嘉隆」

「はい。船体製造も、新しく配備された大砲・鉄砲の訓練についても順調です」

今回、名古屋造船所の軍船製造及び水軍訓練の視察に訪れていた信長は水軍実動司令官である九鬼嘉隆に問いかけた。
信長は港に停泊された一際大きい安宅船に乗り込む。織田水軍の旗艦・尾張丸である。信長が乗り込むとすぐに尾張丸は港を離れ、先に沖に出ていた船団と合流し見事な隊列を組む。

「よし、始めよ!」

そして信長のその言葉により織田水軍の訓練が始まる。信長のその号令と共に兵士達が一斉に動きだし太鼓や法螺貝の音が辺りに響き渡り、新しく導入された手旗信号が各艦に発せられる。
それらの合図と共に各軍船が隊列を組み動き出す。水面を滑るように走り、そして一斉に大砲・鉄砲を発砲。そしてまた一斉に方向転換。そしてまたまた発砲。それらを何度も繰り返す。

「ほう、見事な仕上がりよ」

「はっ、ありがとうございます。信長様が訓練用に火薬を大量に支給して頂けまする御蔭でございます。やはり実際に使わないと技量は上がりませぬゆえ」

信長はその艦隊の様子を眺めながら身体に感じる船の揺れや大砲発砲の衝撃、それに辺りに漂う硝煙の匂いなどを楽しみつつ嘉隆に話しかける。ひさしぶりに実際に目にするその艦隊の機動は見事の一言だ。
これでこそ多額の金と、そして労力を費やした甲斐があるという物である。

「これより西国を攻めるに水軍の存在は極めて重要な物となる。すぐに出番が回ってくる。準備を怠るでないぞ」

「はっ! けして信長様の御期待に背くような事は致しません!」

信長はこれ以降の戦い、特に対本願寺、対雑賀衆、対毛利家においてはこの水軍が最重要であり、必要不可欠な存在であると認識している。
史実においては、かなり後になるまで水軍戦力の脆弱さが原因で幾度もこれらの勢力に苦渋を飲まされてきた。だが今回は同じ失敗は侵さない。きたるべき大戦に備えて、準備万端、考え付くかぎりの準備を整えさせているのである。

だが海軍という物は極めて金食い虫な存在だ。故に織田家でも簡単には着手出来ず、整備はここ最近に入ってからようやく本格化してきた所なのである。
また信長は海軍の増強についてあくまで織田水軍として整備しており、その費用を全額負担していた。けしてこの水軍は九鬼水軍では無いのだ。それがさらに多額の費用を必要とした理由でもある。
これらの艦隊は全て織田家所有の軍船のみで構成された織田家の水軍であり、九鬼家の所有物では断じて無い。九鬼嘉隆は織田信長によって任命された実動部隊の総指揮官という扱いなのだ。
ちなみに織田水軍の最高司令官はもちろん信長であり、その下に組織の長としての丹羽長秀がいる。九鬼嘉隆はさらにその下の実戦部隊の最高司令官という扱いなのだ。これにより九鬼家が所有していた軍船は全て織田水軍が吸収するという形をとっている。

何故こんな面倒くさい事をしているかというと、信長が将来的に極めて重要になるであろう水軍(海軍)という存在を重視している為なのだ。
勿論、従来のように九鬼家に命じて水軍を整備させるという手段であらば掛かる費用は必要最低限で済むだろう。だがしかし、それで出来る水軍はあくまで九鬼水軍なのである。
それでは駄目なのだ。欲しいのは織田家の元にあり、織田家の為だけに働く織田水軍なのだ。
だからこそ信長はこの方法を取っているのである。そしてこの水軍は国家統一後はそのまま国家海軍へと移行させる予定だ。

この織田水軍の整備については、ほぼ何も無い状態から一から作り始めた為、どうせならと国家海軍の体裁・仕組み作りから始めているのである。後になって一旦形や仕組みが出来上がった物を改革するよりも最初から決めておけば混乱は少ないとの判断からなのだ。
これはこれより後、勢力を伸ばしていけば他の水軍衆を吸収する事もあるだろうが、それらについても適用される法である。つまり織田の完全な統制を受け入れない水軍は全て滅ぼす。
現在では織田家のその領海内においては、他の水軍勢力が勝手に行き来する商船から通行料等を取る事は全て禁止されていた。それらはあくまで織田家が税金として徴収する。
そのかわり領海の安全な航海は織田家水軍が保障する。
これの目的とは海の上に置いても自らの勢力化として捉え完全な統制下に置こう、他勢力の影響を排除しようとの動きなのだ。

織田の版図は陸に留まらず海にも及び、現在織田水軍は周囲の海賊行為を行う者達を討伐しながら練度を高める事に専念している最中である。
結果的に今までの利権を無くす形になった九鬼家等々には陸上での所領等を与えるなどをし、代替えの利権を与える事で納得させていた。
それについても九鬼嘉隆は織田家に対して大きな借り(九鬼家は一旦北畠家に所領を奪われ滅亡していたという事実があり、それを織田家の助力を得て所領を回復したという過去がある)がある為、強くは出れずに今回のこの動きにも素直に応じ特に混乱無く収まっている。
他の諸勢力も九鬼家が従った為、信長の命令を受け入れた。これにより織田家の元にある水軍は完全に一本化され織田家の統制下に入り、その牙を日々磨いているのである。










また織田家ではそれと同時並行して陸兵の整備にも尽力していた。
史実と大きく違うのは、より潤沢な火薬と鉄、自産態勢を整えた鉄砲と大砲の数、前回の世界よりもさらに豊富な経済力である。
特に鉄砲隊は日本一と誇れるほどの猛訓練を城下町に集めた兵士達にさせていた。その訓練は人を撃つという事に対する抵抗感を無くすようにも考え、人型のマトを使ったり、身体を動かすだけでは無く学科座学(と言っても極めて初歩的な簡単な物ではあるが)なども導入し、兵士達の考えを戦えるように誘導する事を考えたプランで行われている。

信長が望む兵隊は、命令通り戦い、命令があるまで逃げ出さない兵士達だ。ただそれだけで良い。
だが、書くだけなら簡単だが実際には至難の業である。さらに言えば現在の状況では全ての兵士達にこのような訓練をさせるのも到底無理だ。
故にせめて一部分、指揮官・下士官にあたる者達だけでもと日々訓練に当たっている。

また織田家の軍隊は兵農分離が進んでいて全ての兵士が職業兵士だと思われているようだがそれは誤りだ。織田軍といえども末端の雑兵達は半農半兵がまだまだ主流である。
但し信長はそれについては急いでの改革は必要無いと判断していた。全ての兵士をそうしてしまうと多額の資金が必要になると同時に使える兵力数が激減してしまうからだ。

戦争において数は命。これは戦場の絶対法則である。もちろん明らかに裏切るような味方は邪魔なだけではあるが。
信長はその考えの元これまで常に戦ってきた。戦術よりも戦略を重視し勝てる戦いに勝ってきたのである。それはこれからの戦いでも変わらない。敵よりも多い数の兵士を的確な指揮の元、適正な補給を行った上で侵攻させる。
これが信長の戦略の根底だ。
但し、だからといって練度を軽視している訳では無い。
城下町に集められた兵達は毎日猛訓練を行い、また実戦訓練として領内の方々を廻っては盗賊・夜盗等々の討伐を行っている。







信長があれこれ思考している内に水軍の訓練は終了し、尾張丸は舳先を港に向け動き出す。
信長はその船上においてこれよりの日々に思いを馳せる。今までは比較的平穏であったがこれより後は違うであろう。周囲は全て敵となり様々な戦場へと渡り歩く東奔西走の日々になる。
ならばそれに備え、それまでに必要な物資を備蓄し、全軍を急いで良く戦えるように整えねばならない。
それらの準備はこれより後の戦乱においてすぐに成果を上げていく事となるであろう。















<後書き>

海軍整備の話しです。






以下、作中の補足


<名古屋港> 作者があまり昔の等に地理に詳しくない(学校で使った地図帳を見て書いてます)のでこの名前を付けました。この名前なら名古屋のどっかあたりにあっても無理はないだろうとの考えから。詳しい設定から逃げたとも言います。

<金利について> 多分、農民に貸す・町人に貸す・武士に貸す・公家に貸す・それに時期・地域、それらによってそれぞれ様々なケースバイケースで何が正解なのか判らないと思います。なのでこの部分は削除しようかなとも思いましたが、消すのも勿体ないと思いそのままにさせて頂きます。あくまでイメージで信長がそういう事に制限(ルール)を設けたのだと御理解下さい。

<今の同盟国・周辺勢力について> 順次作品内で。お楽しみに。

<当時の人口・労働力> これについてはむしろ余っていると作者は認識しております。口減らしの為に兵士として他国に侵攻という話しも聞いた記憶がありますし。

<当時の寺社勢力> これは作者も信長にとっての一番の脅威は武田家でも上杉家でも無くこの寺社勢力であろうと思っています。それゆえこれへの対策には作中でも力を入れていこうと思っています(政府広報・他)

<各種技術について> 作品中においては実用化までに最低数年の開発期間を設け、すぐに出来た訳では無いとして信憑性を持たせるよう努力していますが、足りないでしょうか?
後、作者の考えですが、19世紀ぐらいまでの技術であれば、原理さえ判っていれば全て実用化はいけると思っています。その原理を試行錯誤する期間が最低数年です。
そして一度試作品が出来てしまいさえすれば、後は日本人特有の改良に継ぐ改良を加えて、凄い性能の物を作れてしまうと作者は思っております。
作者は元技術者でその経験から言えば、原理さえ判っていればやってやれない事はないかと。
ただその過程をしっかり書けないのは作者の力量不足です。





作品の補足・及び作者からのお願い

<作品の描写について> 人物が書かれていない、おきざり・おなざり、設定だけ等々。連載当初より続く御指摘であり、その通りであります。
ただここにきて少し悩んでおります。
当初は作者の力量不足であり、その内なんとか変化するのではと思っていましたが、ここまできてもどうしても書けないのです。
そこで良く考えてみました。作者はいったい何を書きたいのだろうかと。
元々、織田信長に憑依チートがつけばどうなるのかというコンセプトから書き始めました。そして気づいたのですが、作者の中では国・組織こそがメインであり、人物についてはそれほど重視していなかったのではと。
すなわちこの作品は、物語では無く、仮想戦記なのではないかと。

つまり何が言いたいかと言いますと、この作品の方向性であります。この部分について今後どうすべきか?
このままこの状態で突き進むか?
それとも一度やり直すか(例えば一人称とかだとどうなんだろう?)
もしくはこの作品をこの場で連載しても良いものかどうか? (小説では無いとの御指摘もありますし)
それとも何か他に良い方法がありますでしょうか?

最初からある程度は速い展開で進めるつもりでした。でないと完結(日本統一)まで何百話という容量になりそうですし、そんなに作者は絶対に書けませんし。
何か良い御意見・御指摘等々ありましたらお願い致します。






[8512] 第13話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/26 02:05




<第13話>



永禄10年(1567年)

畿内の情勢に一段落を付けた織田家は満を持して北に向かって軍を進めた。度重なる信長の上洛の要請にちっとも応じようとしない越前の朝倉氏及び若狭の武田氏討伐の為である。
その為に今回、動員された織田軍の数は四万に上った。
そしてその集められた軍勢が順次、京の町を進発し、琵琶湖の西を北に向かって進み若狭へ向かって粛々と進み行く。

その織田軍侵攻開始の報せを受け大きな反応を見せた大名がいた。
織田家の同盟国、北近江の浅井家である。









<北近江 浅井家居城・小谷城>


「だからワシは織田信長なんぞと同盟は結ぶべきでは無いと言うたんじゃ! あの成り上がり者めがっ!」

「信長め! まさか大恩ある朝倉殿を攻めるとは……! しかも我等になんの報せも無しにじゃ! 織田信長めは許せぬ!」

『織田軍、越前へ向けて侵攻開始』
その報せを受け緊急で開かれた浅井家の軍議は最初から織田家に対する怒りで満たされていた。
そこから出る意見は、その全てが織田家に対する怒りや憤りで埋め尽されていたのである。

「殿、如何いたしますか? すでに織田家の軍勢はかなりの所にまで進んでおります。事は急を要しますぞ」

浅井家家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)が主君・浅井長政に問いかける。

「ううむっ!」

その磯野員昌の言葉に、未だ決断が下せぬ浅井長政は心の内の迷いをそのままひねり出すかのように唸ったまま黙り込んでしまう。
元々この浅井長政という男には大それた野心などは何も無い。ただ自身の領地を守り、平和に過ごす。ただそれだけが望みであった。
それ故、今回のこの情報には悩まされたのである。長政は織田信長殿は要らぬ事をしてくれた、とただ憤るだけだ。

そんな長政のはっきりとしない煮え切らぬ様子に、浅井家前当主の浅井久政が激昂しながら発言してきた。

「信長めは我等浅井家が朝倉家にどれだけ恩があるか知っているはずじゃ! それを斯様な仕打ち! けして許せぬ! 許せる物では無いわ!」

「しかし久政様。織田家は強大でござる。此度の出兵での織田の兵の数は四万を越えると言われております。それに比べ我が浅井家はどんなに頑張っても六千五百の動員が限界です。朝倉様の兵一万八千と合わせても二万四千五百。到底勝てるとは思えませぬが……?」

久政の言葉に、比較的穏健派の宮部継潤(みやべけいじゅん)が慎重論を出す。
しかしそれに対して返ってきたのは久政のさらなる峻厳な言葉だった。

「黙れい! 我が浅井家と織田家が同盟する時の条文に、我等との相談無しに朝倉は攻めぬとの約束があったでは無いか! それを反故にしおって! さらには信長めは畿内の幕府領の横領も行っていると言うではないか! 信長は越前に居られる足利義昭様の命にも服さぬ逆心者の卑劣漢よ!」

その久政の言葉の後を継ぐように磯野員昌が言葉を付け足す。

「長政様。朝倉家より援軍要請の書状もきております。
 『我が朝倉家は今、信長の無法な攻撃を受け、危急存亡の危機にあります。どうか貴家に置かれては、この危機に際し援軍を送って下さいますようにお願い致します。
 我が朝倉家はこれまで長年に渡り、何度も何度も貴家の危機を援軍を出し、幾度もお救いしてきました。
 しかし我等が貴家に助けを求めた事はこれまで一度もありませんでした。
 今回が初めての事です。
 どうか過去の事を振り返り、貴家に少しでも我等の友誼が伝わっておりますれば、貴公に正義の心があらば、どうか我等の願いをお聞き届け頂き、どうか援軍をお願い致します』
との事です」

「それみよ! 朝倉殿にここまで言われて動かぬつもりか! 長政、お前は武士の心を持たぬのか! 一片の義心も持っておらぬのか!? 家臣一同の心は既に決しておるぞ!」

久政の言葉にほとんどの家臣が頷いた。頷かなかったのは遠藤直経と他少数の穏健派の者達ぐらいである。
今回のこの信長の越前出兵を受けて、浅井家内での織田家への感情が一気に悪化。元から浅井家内にあった反織田勢力、つまりは親朝倉勢力が一気に大きくなったのだ。
そして彼らは前当主・久政を担ぎ出し、織田家への攻撃を口々に主張していたのである。




そしてその家中の大勢を見た浅井長政はとうとう決断を下した。

「うむ、継潤…。斯くの如しだ。もはや何も言うな。我等は朝倉家に御味方致す。
長年にも渡って、何代にも渡って朝倉家から受けた恩は返さねばならぬ。
それにいかな強大な織田家といえども北に朝倉家を迎えている最中に、南を我等浅井家に襲われれば袋の鼠じゃ。そうなれば大軍の利など消し飛ぶわ。
越前におられる足利義昭様も各地の大名に我等に味方するよう書状で根回しをしてくれている。比叡山も我等の味方じゃ」

「かしこまりました。殿がそこまでおっしゃられるのであらば、我に否やはございません」

長政のその決断に宮部継潤は反論を止めた。継潤はそのまま黙って平伏する。その様子を見た長政は皆に号令をかける為に勢い良く立ち上がった。

「良し! 皆の者、出陣じゃ! 目指すは織田信長の首ただ一つ! 行くぞ!!我等江北武士の精強さ、彼奴等に見せつけてやろうぞ!!」

「おおおおおおおう!」

その長政の言葉に精強な浅井家家臣達が雄叫びで答えた。








こうして浅井家は織田家との同盟を一方的に破棄。
そしてすぐさま朝倉家への後詰めの為、織田軍を奇襲する為に、全軍を纏め小谷城から出陣したのである。
留守部隊として南部に宮部継潤と阿閉貞征(あつじさだゆき)のみを残し、それ以外の全ての部隊をもって出陣。その数約五千五百。
周囲の警戒をしながらも全力で織田軍が居る金ヶ崎の地に向かって進撃を始めたのである。

諜報によりもたらされた情報によれば、既に朝倉方の金ヶ崎城が落ちたとの情報も入っており、戦況は刻一刻と悪化していた。
それ故、朝倉家を救援しようと思えば、一刻も早く戦場に急がねばならない。

必然、その行軍は急ぎの物となってしまう。そしてその強行軍は隊列を長くするが、特に気にするものはいなかった。忍びや国人衆の情報等で、織田軍は金ヶ崎城の東、木ノ芽峠に向かって進軍中との情報が入っていたからである。
つまりは織田軍はまだこちらの意図にまったく気付かずに後方が無防備の状態で東の木ノ芽峠に向かって進軍中なのだ。

この千載一遇の好機を逃してはならない。




「長政様。後、少しで織田軍の後ろに廻り込めましょうぞ」

「うむ、皆に再度装備を点検させ戦闘準備を整えさせよう。いよいよぞ」

「だが兵力差はかなりの物です。何か算段が必要かと思われますが?」

「そうだな、今はまだ日が高い。一旦態勢を整えてから夜戦で決着をつけてやろうぞ」

浅井軍は強行軍を続け、早くも出陣二日目には目的地手前の隘路に差し掛かっていた。
これまでの行軍で隊列は大分伸びきっている。一度陣を建てなおす必要があった。

しかし浅井軍は流石の練度・精強さを誇っている。皆、命令に忠実で私語も無く行軍を続けていた。精強でなる浅井軍は織田軍に対する奇襲を成功させる為に備え、馬の蹄などに布をかぶせる等の音をたてないようにする対処すら行っていたのである。
長政は双方の兵力差を鑑み、夜戦の奇襲にて決着をつけようと考えているのだ。
そしてそれらは流石というべきの統率である。








だが、そんな彼らを嘲笑うかのように、破局は突然訪れた。


















それは本当に突然の事である。
左右、そして前方の山中より、それまでの静寂を破る雷鳴の如き轟音が鳴り響いたのだ。

「ぎゃっ!!」
「ぐわっ!!」
「な、何事じゃ!? 者共、お、落ち着けぃ!」

それは大量の鉄砲が一斉に発射された音であった。攻撃を受けた浅井軍の将兵達がバタバタと倒れていく。
しかもその鉄砲の攻撃はその後も途切る事無く続き、途轍も無い数の発射音が今も響き渡っていた。百や二百では無い。おそらく千は超えているのではないだろうか?

「ば、馬鹿な!? な、何事じゃ!! 静まれぃ! 静まれぃ!」

その予想すらしていなかった攻撃に、浅井軍は一気に混乱の坩堝に叩き込まれた。
それも当然である。奇襲をかける筈であった浅井軍が逆に奇襲されたのだ。誰もが狼狽し、すぐに収集がつかなくなる。
混乱を治めようと、状況を見極めようと、必死に馬上にて声を張り上げる浅井長政。

だがそれがいけなかった。射線が彼に集る。



続いての鉄砲のバババンという轟音が響き渡った瞬間、浅井長政は胸と腹にドシンという凄まじい衝撃と、熱湯を掛けられたかの如くの熱さを感じたのと同時にその意識を失った。
その身体はそのまま力無く乗馬から滑り落ちる。

























<金ヶ崎 織田軍本陣>


朝倉家討伐の軍を挙げた織田軍の進軍は、越前に入ってからも極めて順調であった。
織田・朝倉家の国境を突破してから僅か二日で朝倉景恒の守る金ヶ崎城を落とし、弱腰の朝倉家は全軍、木ノ芽峠一帯より以東に撤退したのである。

織田軍は抵抗らしい抵抗も受けぬまま、さらに進軍を続けようとした、まさにその時だ。
織田軍は突如、進軍を停止。信長の命令で本陣に指揮官達が集められたからである。






「皆の者に申し渡す。浅井長政が裏切った」

「なっ!? なんと!? 誠にございまするか!?」

集まった指揮官達を前に開口一番、無造作に言い放った信長のその突然の言葉に、事前に説明を受けていた者以外の者達は一様に驚愕した。
ちなみに全員に浅井家裏切りの説明をしていなかったのは情報漏れを防ぐ為である。
その皆の驚愕を完全に無視して信長はさらに話しを進めた。

「百地丹波、現在の状況説明を致せ」

「はっ、浅井長政は昨日、小谷城より軍を発し、こちらに向かってきております。数は五千五百。ほぼ全力出撃です。到着予定は明日の午後となりまする」

このように浅井家の裏切りを早期に察知したのは、信長の命令で伊賀衆が監視していたからだ。
そして信長はこの時こそを待っていたのである。信長は集まった家臣達に宣言した。

「皆の者、聞いたな。情勢は斯くの如し也。我等はこれより東に転進、裏切り者・浅井長政を討つ! 彼奴等はまだ我等が気づいた事を知らぬ! 今が好機ぞ! 一気に踏みつぶす!」

「皆様の陣場は信長様より決定されておりますので我等甲賀衆が案内いたします。付いて来て下さいませ」

その信長の言葉の後を継ぎ、望月吉棟が進み出て来る。
皆は同盟者・浅井長政裏切りの報せに混乱したまま、その混乱を治める間も無く、唯々命じられたままに動く。
この危急の折ではあるが、皆は総大将である信長がなんら慌てる事無く、自信満々にどっしりと座っている事から安堵し素直に従う。こういう時の上に立つ者のなんら動じない、しっかりとした姿は配下の者達に絶大な安心感を与えるのだ。

そして甲賀衆を先頭におき各隊の軍勢が移動を始める。




信長はここで軍を二つに分けた。

一手は柴田勝家を大将に佐々成政、森可成、河尻秀隆等を配下に置いた軍一万五千名。
この部隊はこのまま若狭の国及び木ノ芽峠以西の越前の制圧を目指し、さらに朝倉家が万が一攻め寄せてきた場合の足止め役である。

もう一つは信長率いる本隊二万五千名。
この部隊は浅井家の部隊の迎撃にむかうのだ。







「情報封鎖は万全か?」

信長は進軍途上、馬上より望月吉棟に問いかける。
同じく傍らの馬上より望月吉棟が答えた。

「はい。浅井方は我等の動き、偽情報に踊らされ誤認しております。今も一心不乱にこちらに向かって進撃してきております」

「で、あるか。まずは重畳」

信長は今回の為に打てるだけの手を事前に秘密裏に打っていた。
まず浅井方の物見の徹底排除。それに偽情報の流布。
さらには浅井家に潜入させている草を使い、浅井家中の織田家に対する敵対心を煽らせ敵対するようにすら、しむけていたのだ。
これは現状において織田家が史実よりも数段どころか、桁が違う程の国力を持っている為に、それに尻込みした浅井家が織田家と敵対するという選択肢を選択せず尻尾を丸められても困るからである。

これらの謀略によりほぼ浅井家中の態勢は 『織田信長討つべし』 で統一されたのだ。
つまりは浅井家はこれらの織田家の謀略に見事に引っ掛かってしまい、誘い出される形になってしまったのである。

元々信長は浅井家と敵対するつもりだったのた。
浅井家の所領は北近江という極めて戦略的に重要な位置にあり、もし浅井家が裏切れば織田家は京と美濃の間の交通を完全に遮断されてしまう。
信長はそんな要衝を潜在的な敵国である浅井家に任すのを良しとしなかったのである。最初から見逃すつもりはなかった。
同盟を結んだのも、上洛する折に北の安全を手に入れるのと同時にこの罠に嵌めるのが目的だったのである。

利用できるだけ利用したら後は朝倉家を攻める事によって浅井家を激発させ、それを攻め滅ぼす。
信長にとってはそれだけの価値しかない同盟だったのだ。

そして浅井家はその目論見通り、同盟国である織田家と旧恩ある朝倉家とを天秤にかけ、そして朝倉家を選んだ。
幾ら織田家がそうなるように裏から手を廻したとは言え、決断したのはまごう事なき浅井家自身である。その決断による結果・代償はしっかりと払って貰う。
政治の世界は冷たく、そして過酷な物なのである。




そして信長軍本隊二万五千名は猛進してくる浅井軍を伏撃するのに最適な高所・高台の地に軍を伏せ、浅井軍が来るのを待つ。
結果、浅井軍はそれに気づかぬまま織田の包囲網の中に入りこんでしまったのだ。













「さすがは信長様よ……。浅井如きでは相手にもならんな……。」

羽柴秀吉は眼下に広がる、何も気づかぬまま行軍を続けている無防備な浅井軍を眺めながら呟く。それと同時に、未だ何も気づかずに行軍を続ける浅井軍の姿に途轍もない勝ち戦の予感を覚え、身体を震わせた。
そしてその武者震いと同時に秀吉は信長への畏敬の念をさらに深める。

秀吉にとって信長は卑しい身分の出である自分をなんら差別する事無く、ここまで取り立ててくれたまさに神の如きのような存在だ。
馬鹿にする事も嘲笑する事もなく取り立てられ、今や秀吉は一廉(ひとかど)の城持ち大名である。まさしく秀吉にとって織田信長とは感謝してもし足りない、足を向けて寝れぬ人物なのだ。
そんな信長のこの見事な采配に秀吉は御世辞抜きで称賛し、さらにその忠誠の心を厚くする。
この人になら一生付いて行ける、付いて行こう、そう思わせてくれる仕え甲斐のある主君なのだ。




「鉄砲隊、準備は良いか? 敵の前方を塞ぐ滝川隊が発砲したらそれを合図に全隊攻撃開始じゃ。ぬかるでないぞ」

そのまま山中に部隊を伏せ、待つ事しばし、浅井軍の進行方向前方において鉄砲を撃つ大音声が響き渡った。

「よし! 滝川隊の攻撃が始まった! 攻撃開始の合図じゃ! 我等も攻撃開始ぞ! 放てぃ!!」

その斉射に合わせて、今まで各所に伏せていた羽柴隊以外の部隊からも同時に攻撃が始まる。

「ぎゃっ!!」
「ぐわっ!!」

その攻撃はまさに雷が一斉に落ちたかの如きの轟音を轟かせ、銃弾の雨が浅井軍に降り注ぐ。
織田軍の満を持したその伏兵達の効率的な攻撃に、射線に絡めとられた数多くの浅井軍将兵がバタバタと倒れていく。

「ば、馬鹿な!? な、何事じゃ!! 静まれぃ! 静まれぃ!」

そんな中、一人の身なりの整った位の高そうな若武者が羽柴隊の目前で混乱を治めようと声を張り上げていた。
そしてその目立つ行いは秀吉の目に留まってしまい、次の標的になってしまったのである。

「鉄砲隊、あの声を張り上げている若武者を狙えぃ! いくぞ……! 撃てぃ!

秀吉の号令と共に響き渡った発砲の轟音と同時に、その狙った若武者が馬から転がり落ちた。
秀吉はまさにしてやったりの心境である。あの傷ではもはや助かるまい。

将が討たれ、目の前の部隊が大混乱に陥いった。

「まだまだじゃ! どんどんいくぞ! 相手は精強な浅井家、皆の者、気を抜くでないぞ!」

「おおおおおううぅぅうう!!」

秀吉のその鼓舞の声に将兵達は大きな雄叫びで答える。
目の前に広がる怒涛の戦果、そして無様に慌てふためく浅井軍の様子に否が応(いやがおう)にも織田の将兵達の士気が高まっていく。









「殿、殿! しっかりして下さいませ! 殿!」

もんどり打って落馬した長政の元に遠藤直経が駆け寄って来た。
ぐったりとしてぴくりとも動かない長政を抱き上げ、その様子を確認した遠藤直経は、すぐにどうしようも無い程の絶望に包まれる。致命傷だ。すでに長政には意識も無く、胸の傷と口から血が後から後から溢れ出してきて止まらない。

「くそう! 信長め! 信長めぇぇ!!」

直経はその絶望を信長への憎悪に転化させ叫ぶ。
しかし戦場はそんな直経の怨嗟の声もすぐに戦場の喧噪の一つとして無慈悲に飲み込み、顧みはしない。
唯々に、淡々と無慈悲に時を刻むのみである。







<次話に続く>









<後書き>

これは前々から書きたいと思っていた場面です。
奇襲をかけるつもりであった浅井軍が逆に罠にかかりました。

正直やりすぎたかも……?



<追記 前回の方針お問い合わせについて>

沢山の方に暖かい御指摘・御感想を頂きましてたいへん感動致しております。どうもありがとう御座いました。
Ikaはこのままで執筆していこうと思います。
これからも色々な事があると思いますが、どうかこれからもよろしくお願い致します。










[8512] 第14話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/11/01 17:19

<第14話>



鉄砲の大音声が、兵達の発する雄叫びが、悲鳴が、断末魔が、普段は静かな金ケ崎の地に響き渡る。
戦場では浅井家の絶望的な戦いが続いてはいたが、これはもはや戦いというよりも虐殺であった。
隘路に嵌った浅井軍に向けて、高所に陣取った織田軍から矢・鉄砲の雨が間断無く降り注ぐ。

後方は包囲していなかったので、浅井軍はその十字砲火から一応は出る事はできたが、その先にも抜け目は無く伏兵が配されていた。
浅井軍の後方には逃げてくる者の掃討用に、大きく廻り込んで進出した明智隊・蒲生隊が配されていたのである。

状況は絶望的であった。




「皆、聞けぃ! 離れていては織田の鉄砲隊の的になるだけじゃ! 突撃じゃ! できるだけ近づけ! 接近戦に持ち込めば鉄砲は使えぬ!」

だが、そのような中でも独自の判断で血路を開こうとする部隊もあった。浅井家の名将・赤尾清綱が率いる部隊である。
清綱は今のままでは成す術も無く、ただ織田軍の攻撃の餌食になるだけであると判断。
すぐさま自部隊に反撃を指示したのだ。

「浅井の勇敢なる将兵達よ! 生き残りたくば、前へ進めぃ! 後ろは死地、前こそが我等が活路なり! 恐怖を飲み込んで唯、突き進めぃ!」 

清綱は突撃し、織田軍の陣列に突入する事によって、その鉄砲隊の攻撃を無効化する事を狙う。つまり乱戦に持ち込む事でこの危機を乗り切ろうとしたのである。
少なくとも今の状態では、殺されるのをただ待つだけだ。それは愚策である。

それにもしかしたら、伏撃する為に浅井軍を広く包み込むように布陣した織田軍の陣列は、考えているよりも薄いかもしれない。であれば、その包囲を突破して、逆に織田包囲軍の後方に廻り込んで攻撃する事が可能になるかもしれないのだ。
さらに言えばこの突撃が成功すれば二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなった他の浅井軍部隊の救援もできるかもしれない。
そう考えての清綱の突撃指示であったのだ。

清綱の指示を受けた赤尾隊は大打撃を受けながらも、織田軍に対して反撃に転じようとする。
だが彼らの反撃は、その先ですぐに障害にぶち当たってしまった。

「な、なんじゃこれは!」

先頭を走っていた者が何かを見つけ、その動きを止める。そのせいで後ろを勢い良く走っていた者とぶつかり、少なからぬ混乱がおきてしまった。
それは茂みや少し低くなった窪地などに巧妙に隠され、配置されていた逆茂木だったのである。
その障害物に行き足を止められ、足止めされてしまう。

これは織田軍が野戦築城に使用する為に開発した物であった。
形自体は今までの物とほとんど変わらない。歩兵・騎兵の足を止める為の柵(本体 高さ約1m)と大きく前方に突き出す杭から出来ている。
ただ織田家で使用する物には、戦場ですぐに使えるように事前に組み立てる為の切り込みや差し込み穴、固定用の杭などを事前に作ってあるのだ。
最初はバラバラの状態で軽く持ち運べ、それを戦場で組み立て固定用の杭を差しこめばすぐに使用できるように工夫が為されているのである。
それによって戦場などでも極めて手早く、そして静かに騒音を出す事無く組み立てる事が可能となったのだ。

防衛戦においてそういった類の物が一つでも有るのと無いのとでは雲泥の差である。
その柵は見上げる程高くもないが、かといって乗り越えるには高い。押し倒せないようにできているし、簡単には壊せない。
各所に並べられたそれによって足止めされ、団子状態になってしまった赤尾隊将兵は鉄砲の格好の的であった。

「放て!」

織田の将の命令の号令と共に鉄砲が一斉に放たれる。
その銃弾は混乱し、密集した赤尾清綱隊の者達をバタバタと撃ち倒していく。
そしてそれは赤尾清綱も例外では無かった。清綱もその身体に数発の銃弾を受けてもんどり打って倒れる。
結局の所、赤尾隊は逆茂木を乗り越える時間すら与えられず撃ち倒され、清綱は織田家の島左近の手によって討ち取られた。














<織田軍 滝川隊>


「うおおおおおおおお!!」

「うむ、あれはなんじゃ?」

部隊を指揮していた滝川一益は一人の騎馬武者が自軍に向かって突っ込んで来るのを見つけた。
滝川隊は信長本陣の前に位置しており、浅井軍の進行方向前面に位置する重要な地点を任されている。当然激戦が予想される地点であり、絶望的になった浅井軍部隊がせめて一矢と、織田信長の首級を狙って無茶な突撃をかけてくる事が考えられた事から厚い防備がしかれていた。
その滝川一益の陣に騎馬武者が単身突撃して来たのである。現在想像以上に浅井軍が上手く奇襲に嵌ってしまった為、ほとんど反撃らしい反撃も受けない中、直経の単身での突撃だ。
これは流石に予想していなかった。無謀すぎる行動である。

それは浅井長政を看取った遠藤直経であった。
あの後、すぐに長政は直経の腕の内で死んだのである。

「覚悟の突撃であろう。哀れな……。」

滝川一益はすぐにその遠藤直経の心底を察する。
つまりは覚悟の上での突撃、この敗戦に絶望した者の、ただ死に場所を得る為だけの突撃だ。

そしてその一益の予想は完全に正鵠を得た物だったのである。
直経の心の内にはもはや絶望しかなかった。
もちろんこの戦場での敗戦の事もあるが、なにより聡明な頭脳を持つ直経には、浅井長政亡き後の浅井家にはもはや滅亡が待つのみである事が判っていたのである。

致命的なのは長政に嫡男がいない事だ。これでは誰が家督を継ごうが必ず家中は乱れる。そしてそれはこの強大な織田家と敵対した今、致命傷なのだ。
前当主の久政がまた当主に返り咲きで就任などという事にでもなれば、もはや終わりである。

どちらにしろ浅井家はこの敗戦で、もはや詰みの状態だ。ここからの逆転は無い。
そして直経は主家・浅井家の滅亡する様なぞ見たくは無かった。そんな物は死んでも御免である。文字通りそんな事になるぐらいなら死んだ方がマシだ。
なれば覚悟を決め、万が一、億が一の奇跡を信じて織田信長の首級を上げる。上げてみせよう。

そのように考えての突撃であった。






だが直経がどうのような悲壮な覚悟を持って突っ込んで来ようと、はいそうですかと容易く通す滝川一益では無い。

「楽にしてやろうぞ…。鉄砲隊、放て!」

一益の号令一下、待ち構えていた鉄砲隊が一斉に火を噴いた。その銃弾は狙いを違わず直経に吸い込まれて行く。

「ぐあっ!!」

直経はいくつもの銃弾に身体を抉られ、たまらず馬から転げ落ちる。
だが驚くべき事に、それでも直経は止まらなかった。その身体に奔る激痛を押し殺し、その身体より溢れだす血もそのままに、すぐに立ち上がり徒歩(かち)のまま再度、走り出したのである。

「うおおおおおおおお!!」

「あれでまだ動けるのか! なんと見事な武士(もののふ)よ!!」

すでにかなりの深手を負っている筈の直経のその戦意溢れる行動に驚愕する一益。
直経の負った傷は間違いなく致命傷のはずである。現に直経の乗ってきた馬はその身体に何発もの弾丸を受けて既に事切れていた。
それなのにだ、立つのですら驚嘆に値するのに、それどころかまだ突撃してくるとは…。
その直経の勇壮な姿に一益は感動を覚えると共に、滅びゆく浅井家、誇り高い江北武士の最後の意地を見た心持ちであった。



とうとう滝川隊の陣のすぐ手前まで単身突撃してくる遠藤直経。
だが次に加えられた斉射には耐えられなかったのである。

「ぐっ……、長政様っ…! 長政様ぁぁぁあぁ…!!」

本日何度目になるのかも判らない鉄砲斉射の轟音と共に、さらに全身に十数発の弾丸を受けた遠藤直経は、その叫びを最後に力尽きた。
最後まで槍を手放さず、最後まで織田信長の本陣を向いたままの討ち死にであった。
その直経の突撃が、浅井軍がこの地で示した最後の意地だったのである。


















<信長本陣>


「勝ったな」

小高い丘に本陣を据えていた信長は、眼下に広がる完全に崩れ去った浅井軍の状況を眺めながら一人呟く。
そして次の瞬間、座っていた床机椅子から勢いよく立ち上がると同時に叫んだ。

「頃合いや良し! 総攻めの法螺貝を吹け! 全軍突撃じゃ! 各隊に伝令! 「殺せ!」 それだけを伝えよ!」

「はっ!」

信長の命令を受けた伝令達が即座に馬に飛び乗り、物凄い勢いで丘を下って行く。
そしてその後を追うように金ヶ崎の地に法螺貝の音が高らかに響き渡った。




その合図はこの地で戦っていた織田の各将の元に届く。

「むっ、総攻めの合図の法螺貝じゃ! いくぞ者共! これより追い首ぞ! 存分に手柄を立てよ! 突撃じゃ!」

法螺貝の音を聞いた織田軍将兵達はいきり立つ。これは軍令で定められている総攻めの合図だ。
その音を聞き、突撃を今か今かと待ちわびていた織田軍将兵達が一斉に突撃に移る。

元々、兵の数は織田軍の方が圧倒的なのだ。その上、浅井軍は奇襲され、その混乱から抜け出せないまま織田軍に叩かれ続けてもはや瀕死状態。
その明確な勝ち戦の予感・確信に織田軍将兵は逸り狂っていたのである。
誰もが名のある武将の首級を上げてやる、軍功を立ててやると、我先に今までいた斜面を下り混乱して瓦解寸前の浅井軍に向かって突っ込んで行く。

そしてすぐさま織田軍の蹂躙が始まった。
必死に逃げる者も後ろから槍で貫かれ、傷を負い動けなくなっている者も織田軍将兵が馬乗りになって容赦無くその首を掻き切る。
浅井軍の将兵は唯々無慈悲に、騎馬の馬蹄で踏み躙られ、鉄砲の弾丸に蜂の巣にされ、槍衾に絡め取られ討ち取られていく。









勝敗は完全に決した。
















この戦いは後に <金ヶ崎の浅井家大崩れ> と呼ばれる事になる織田信長の大勝利の一つとなったのである。
金ヶ崎の地で行われたこの戦いでの浅井家の被害は甚大という言葉を超え、もはや哀れな程であった。


浅井長政    討ち死
浅井政澄    討ち死
日根野弘就   討ち死
赤尾清綱    討ち死
磯野員昌    討ち死
遠藤直経    討ち死
海北綱親    討ち死
雨森清貞    討ち死

他将兵  千五百名死亡




なんと出陣した武将(総大将を含む)の全てが討ち死にしたのである。
織田家の損害は雑兵五十名が死亡、負傷が二百五十名のみであった。
織田軍の完勝である。










「皆の者、大儀であった。ようやった」

浅井軍の掃討を終えた将達が続々と織田軍本陣に戻って来る。各員が挙げた首級も次々と信長の元へと届けられる。
その集められる首級に皆が一様に驚いた。浅井軍の名の有る武将の殆どがここにその首級を晒しているのである。
皆、今回の戦では始めに奇襲が成功してから大勝を予感していた。だが、ここまでの戦果があがるとは考えていなかったのである。

信長は集まった各将に労いの言葉を掛けた。
するとその信長の言葉に、打てば響くが如く、すぐさま羽柴秀吉が調子良い合いの手を入れて来る。

「いや、しかし此度の戦、この秀吉感服仕りました! このような大勝利、古今類を見ない物にございまする!」

「褒め過ぎじゃ、秀吉。まあ情報がいかに大事かといった所じゃの」

「それはそうと信長様! これよりは如何いたしましょうや!? 北の朝倉家か、東の浅井家か、それともその両方か!? 浅井家はもはや虫の息にございまするぞ!」

「おう、それでござる! 今なら浅井家が所領、容易う落とせまする!」

その二人の会話の間をぬって、明智光秀や滝川一益等の将が口々に浅井領への侵攻を進言してくる。
この大勝利に皆がいきり立ち、意気軒昂、浅井領への進撃の指示を待っているのだ。皆がさらなる武功を立て、新たな所領を得んと張り切っているのである。
しかし信長はそれを一旦押し留めた。

「まあ待て。慌てるな。それについては算段がある」

信長は一度、全員を見渡し、おもむろに口を開く。

「これより我等はこの地の守備に羽柴隊・明智隊を残し、また北の柴田隊はそのままとしてそれ以外の者は一旦京に戻る」

「なっ!? 何故にござりまするか!?」

「浅井家は虫の息! 攻めれば落ちますぞ!」

その信長の言葉に次々に異論が起こった。
だがそれも当然と言えよう。もはや浅井家は虫の息なのである。攻めれば落とせる。
そのような中でのこの信長の発言に皆が訝(いぶか)しがむ。

「たわけ。その虫の息というのが曲者よ。今の浅井家はいわば窮鼠。下手に近づけば噛まれるわ。なに、そう長い事では無い。長くて一月よ。それで大将のいない浅井家は自壊しよる」

「それに京付近の情勢も少しキナ臭くなっております。我等が北に兵を出している隙をついて、比叡山と石山本願寺が妙な動きを見せております。一旦、京に戻り牽制するのが得策かと」

その皆の様子に一喝するか如くのその信長の言葉。
そしてその信長の言葉を補足するように百地丹波が言葉をつなげる。

「なるほど……。今の浅井家は言わば自暴自棄。絶望した者どもが死兵となって抵抗してくるかもしれませんな」

信長のその言葉を聞き、明晰な頭脳を持つ明智光秀がすぐさま賛同してきた。
このまま攻めても落とせるであろうが、あえて時間を置くのも一つの手である。そうすれば今はこの敗戦を受けて小谷城で悲壮な覚悟を決めている者達の熱も冷めだろう。
そして一旦その戦意が失われてしまえば、その者達は織田への戦意をそのまま保っていられるだろうか?
光秀は思う、それは無い、否である、と。

勿論、主家に忠節を尽し、最後までその義理を尽くして果てるのも武士の精神である。
しかしそれと同じか、若しくはそれ以上に武士達は自家の安泰、自家の存続を求める本能があるのだ。ここであえて彼らに考える時間を与える事で、冷静になった浅井家諸将の幾人が絶望的な戦いを選択するのか?
それは多くはあるまい。特に核となる当主、その能力を持った当主がいない浅井家ではなおの事だ。

光秀はその考えを皆に説明する。その発言にすぐさま信長が賛同した。

「その通りよ。それにその間に、何もしない訳ではない。秀吉、お主は阿閉貞征を調略せよ。光秀、お主は宮部継潤だ。それぞれ条件は本領安堵。一月の間に口説き落とせ」

「はっ! かしこまりました!」

「お任せ下さいませ! この秀吉、必ずや成し遂げてご覧に入れます!」

光秀・秀吉共、信長より与えられたその任務に、張り切って了承の意を示す。
それにそれ程難しい任務でも無い。この状態であらば、むしろ向こうの方から食いついてくるような好条件だ。
そしてその二将が内応すれば、主力がここ金ヶ崎で壊滅した浅井家にはもはや戦力は残っていない。どこからか援軍が来るあてがある訳でもない。完全に詰みである。

「よし! それ以外の者は一旦京に戻る! 急ぎ準備せよ!」

「はっ!」
















そして信長の本隊は方針通り、一旦金ヶ崎より反転し、京の町に入った。
これには信長が北に軍を進めている隙に一騒動おこそうとしていた比叡山と石山本願寺共に驚愕し、その動きを止めてしまう。
彼らはこんなにも織田軍が早く帰って来るとは考えていなかったのである。一様に今動くのは得策にあらず、と表面上は平静を保ち何も無かったかの如く振舞う。
石山本願寺に至っては、信長の元に戦勝の祝いの使者すら送ってきたのである。ここら辺りは、流石本願寺顕如の機転、その政治力恐るべし、と言った所だ。

そして京の周辺の状況を一応は鎮めた織田軍は金ヶ崎の合戦の一月後、ゆうゆうと浅井領北近江に侵攻を開始したのである。





「何故じゃ!? 何故誰も出仕して来ぬのじゃ!?」

浅井久政が小谷城で一人激昂し、吼える。
信長の読み通り、この後に及んでは織田家の侵攻に抵抗しようという者は浅井家において殆ど残っていなかった。
死んだ当主・浅井長政に嫡男がいなかった為、浅井家の当主には前当主の浅井久政が返り咲きで就任。

だが元々、彼は決断力が無く、無能な人物である。彼ではこの難局を乗り越えられる訳もなかった。浅井久政はこの一月の間、結局の所は何一つ有効な手を打てず、ただ不平不満を口にするだけで無為に時を過ごしてしまったのである。
そしてその状態で織田家の再侵攻を迎えてしまったのだ。

「阿閉貞征はどうした!? 宮部継潤は!? もう一度使者を送れぃ! さっさと兵を率いて来るように催促せよ!」

「無駄にございます。物見の報告によりますとその両名の旗印が織田の陣列にあったとの由。阿閉貞征・宮部継潤の両名、謀反にございます」

「なんじゃと!? おのれ、あの不忠者どもめがぁ!」

浅井久政のその叫びに側近の者が答える。その側近の者の答えにさらに激昂する久政。
この報告の通りに、この一月の間に金ケ崎の戦いの折、南部国境いの防備に残っていた事により難を逃れた浅井家生き残りの将である阿閉貞征・宮部継潤は両名共、織田家に調略され内応。
他の国人衆も陣触れに,まったく応じようとせず、結局の所、久政がいる居城・小谷城に参集してきたのは僅か二百名程にすぎなかったのである。
対する織田の数は二万五千。到底、太刀打ちできる数では無い。万が一の勝ち目すら見えない、絶望的な状況だ。

「久政様、この後に及んではもはや万事休すでございます。残る道は二つ。この城を枕に華々しく討ち死にするか、越前の朝倉殿を頼って再起を期すかのどちらかと心得まする」

この状況を受け、側近の一人が進言してくる。その言葉に深く考え込む久政。
ようは名誉を重んじ城を枕に死すか、一時の恥辱を堪えて未来の可能性に賭けるか、だ。
そして考えた末、久政は一つの答えを出す。

「ここは朝倉殿を頼ろうぞ。まだ終わってはおらぬ。越前に行けばまだまだ逆転は可能ぞ」

結局の所、浅井久政は越前に逃げる事を選択、早々に抗戦を断念したのだ。
そして方針が決まればこの危急の折、後は素早く動くだけである。織田軍が小谷城を囲んでからでは遅いのだ。
久政は居城・小谷城に火を放った上で放棄し、残兵を纏めて一族衆と共に越前・朝倉家を頼って落ちて行ったのである。

だが浅井家の悲劇はこれで終わらなかった。
道すがら兵達は一人欠け、二人欠けしていき、近江と越前の国境の山中に入る頃には五十名程になっていたのだ。
そしてその近江・越前の国境の山中において落ち武者狩りに遭い、全員討ち取られ全滅してしまったのである。
後に首級は信長の元に送られた。

北近江の雄・浅井家のあまりにも呆気無い幕切れである。













こうして永禄10年(1567年)の織田家の北への遠征は終わった。

織田家は浅井家の領地であった北近江を制圧し、そのさらに北についても若狭の国を制圧。
柴田隊には西越前・木ノ芽峠での築城のみを指示し、これもその後撤退させた。越前は雪国であり、また一向宗の力が強い為、今の所は手を出す気は無いのである。

そう、今回の遠征の本当の標的は朝倉家では無く、浅井家だったのだ。
以前に記した通り、浅井家の所領は畿内において極めて戦略的に重要な位置にあり、最初から見逃すつもりはなかったのである。
同盟を結んだのも、上洛する折に北の安全を手に入れるのと同時に、この罠に嵌めるのが目的であったのだ。

浅井家は朝倉家を攻めれば激発し、裏切るのは判っていたので罠にかけるのは簡単である。
ようはこのまま上洛を終えて、利用価値が無くなった、いつ裏切るか判らない浅井家をそのままにしておくか? 滅ぼすのか?
どちらが織田家にとってのメリットになるかだけであった。

そして信長は浅井家を滅ぼす方を選んだのである。
勿論、浅井家が同盟国・織田家と大恩ある朝倉家を天秤に掛け、織田家を選んだならそれはそれでも良い。その時は織田家としてもその友誼に感謝し、篤く報いてやろうとも思っていた。
だが結果は件(くだん)の如しである。
いくら精強といえども、戦略的要地にあり、さらにはたかだか15万石の家中を統制もできていない君主が治める同盟国など必要無いのだ(但し同じ同盟国である徳川家については、今の所、含む所は何も無い。これからも十分織田家の役にたってくれるだろう)

しかれども、このままでは織田家の外聞が悪くなる可能性もある。よってそれに対する報道にも力を入れる事にした。
織田家の負い目は唯一つ。浅井家への連絡無しに朝倉家は攻めないという条文を破った事である。
ただし、それについては朝倉家が信長より上洛を度々要請されておきながら、それに一度も応じなかったという事実。それと戦場となったのが朝倉領の越前・金ヶ崎の地であり、織田家は浅井領には一歩たりとも足を踏み入れていないという純然たる事実。

つまりはわざわざ浅井長政が金ヶ崎の地にまで織田家に奇襲を仕掛けに来ていたのだ。それも今まで同盟を結んでいたにも関わらず、一方的に連絡も無しにその同盟を破棄してである。
それは卑劣で卑怯な裏切り行為であり、あくまで先に裏切ったのは浅井家なのだ。その部分に力を入れて報道すれば大丈夫であろう。

それに浅井長政が死んでいるのも大きい。死人に口なしである。
この織田・浅井家の間でどのような事があり、どのような経緯でこのような状況に陥ったのかなど他の者達のは知りようも無い。知る術も無い。
だからこそ正義を主張できるのは勝って生き残った織田家だけなのだ。
十分対処可能である。







こうして江北の雄、浅井家は滅亡したのである











<後書き>

現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
若狭8万石 西越前6万石 

総石高:396万石
(但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)






<お知らせ>

6月はちょっと私事で忙しくなりますので、今週の土曜か日曜にもう一話投稿した後は、少しあいて6月末頃が7月初めの投稿になります。
ちょっと6月中頃は海外にいますので、その間はネットができません。
その間、お休みさせて頂きます。
その間に構想を練り、さらに良い作品が書けるように頑張ります。





<感想にあった指摘への追記 丁度良いので技術に対する作者の考え>

技術へのご助言ですが、作者が書き足りませんでした。申し訳ございません。
作者の考えもほぼ感想の通りです。ゲームの技術系統ツリーのように段階をおっての開発、そして試行錯誤の時間が必要であると思っています。
だからいきなりドンと凄い秘密兵器が…という物は出さない予定ではあります。

但し開発についてはかなりのアドバンテージがあるとは思っています。
例えばまず発明にはそこにいたる発想が必要です。ようはその原初・原点・原理を発見するのが一番大変ですから。
さらには新しい事をする時は必ず妨害が入ります。
それは欧州の場合、宗教勢力(カトリック等)であったり、または支配者国主・貴族階級であったり(彼らは総じて保守的であり、変化を嫌う)、または端から馬鹿だ・非常識だと否定してかかる

自称常識人達であったり様々な障害・妨害があると思います。

発明というのはコロンブスの卵的な要素を多分に含んでいると作者は思っています。
ようは一番最初のとっかかりを思いつくのが一番難しいのです。
思いつきさえすれば後はその場にある技術でそれを実現できるかどうかだけです。

その点を考えてみれば作者の考えとしては、技術の開発を例えるなら

他の織田家以外の勢力 → 真っ暗な障害物ばかりの暗闇の中を手探りで歩きまわるような物
織田家の場合 → 真っ暗な、しかし障害物があまりない(最高権力者である信長の命令で研究を進めている為)暗闇の中を提灯を持って(原理が判っている為)歩きまわるような物ぐらいであると思っています。

少しネタばれ?(まだ本格的に決めていませんが)でいえば、信長が死ぬまでにできるのは産業革命の入口か初期段階くらいまでかな…と思っていたりします。
あくまで思っているだけですが(変更する可能性はあります)






[8512] 第15話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/01/27 02:52




 <第15話>



 「信長様、此の度は誠にありがとうございます」

 永禄11年(1568年)春。新芽が次々と芽吹く麗か(うららか)なこの季節に、信長は居城・岐阜城において、自身の目の前に座す二人の男を謁見していた。
 一人は今年で76歳になる、しかし今だ凛とした雰囲気を持った矍鑠(かくしゃく)とした老人、名は本願寺実悟と言う。
 彼は本願寺第八世・蓮如の第十子にして第七子・蓮梧の元養子という経歴を持つ男である。俗に 「河内国錯乱」 と呼ばれる内紛により親兄弟を殺され、さらには自身も追放されたり、今は許されているが破門にされたりと、まさに波乱万丈の人生を送ってきた人物だ。
 本願寺宗家には色々と痛い目に遭わされてきた男である。
 その隣の生真面目そうな顔づくりの若い方の男は、実悟の一番の側近・懐刀と言える人物であり、年の方は33歳。名はこの度改名し、本願寺願如(がんにょ)と名乗る。

 これより織田家の協力を得て創設される京都本願寺の法主・指導者になる男達だ。




 そう、これこそ信長がひそかに温めてきた、政府広報に続く本願寺対策の秘策その二、京都本願寺の設立である。
 これは後に、徳川家康の手によって本願寺が東と西にわけられた事を元に考えられた策だ。
 目的は強大な本願寺の勢力を分裂させ、弱める事にある。この分裂というのは、戦略的に大いに有効な手段なのである。

 例えばだ、百という国力を持った勢力が、七十と三十という勢力に別れて分裂した場合、その二者を合わせた国力は元のままの百足りえるであろうか? 答えは否である。様々な要因、物流の断絶、今までにあった富の分断、単純に増えた敵に対応する為の戦力の分散等々により、国力は必ず相対的に下がるのだ。
 つまりは敵の敵を増やす。考え方としては信長包囲網と同じである。どのような強大な勢力を持つ大名でも、一度に大量の、しかも様々な方面の敵を背負えば苦戦は必至だ。
 今回の策はそれを目指す。

 勿論、すぐには成果など上がらないだろう。そんな権威や正統性も二人には無いし、その資格も無い。実績も無い。さらには伝統も無い。この世は、ぽっと出の者が簡単に信用される程、単純な世界では無い。
 最初は分裂と言うのもおこがましい程の状態であろう。

 しかしである、それを強大な勢力である織田家が後押ししてやればどうだろうか?
 権威が必要であればつけてやれば良い。さらに政府広報でその正統性を捏造し、広報しても良い。
 信長はこれについては、すぐに何か目に見えるような成果が上がらなくても良いと思っている。ただこの京都本願寺が織田家の躍進と同時にその影響力を伸ばすか、もしくは時間の流れと共にその存在を既成事実化させ、民百姓達にもう一つの本願寺として認識され、織田家領内の治安維持に少しでも力になれば良し。そう考えていたのだ。

 今、信長の目の前にいるこの二人、実悟と願如は信長によって京都本願寺の法主に据え付けられる人物である。
 当然ながら、周囲の者達からは信長の傀儡と見られるかもしれない。しかしながら本人達はそれを良しとしない豪胆な人物達だ。特に実悟の方は今年で76歳とまさしく老練という言葉その物のような人物でり、その経験から来る老練さ、気骨は信長の影響下にあるのを否とするかもしれない。

 だが信長もそれを良しとしていた。わざわざそういう人物を見定め選んだのである。
 信長も彼らに石山本願寺とこの京都本願寺の宗教代理戦争を望んでいる訳では無い。望んでいるのは、宗教を本来のあるべき姿に戻すこと、ただそれだけである。いや、それだけで良いのだ。すなわち、人の心を救済する存在、人に心の安寧をもたらす存在。それ以上でも、それ以下の存在であってもならない。
 その改革の最初の先鞭を付ける開拓者たる人物は、ただ唯唯諾諾と信長の言う事に従うような人物では無理なのである。













 信長と実悟・願如の二人との出会いは、上洛して暫らくしてからの、京都でのとある寺社での事であった。

 「信長様…、あなたはこれまでにあった、あらゆる秩序、権威といったものをまったく重視していないように見受けられます。あなたにとっての正義・大義といった物はどういった存在なのでしょうか?」

 「な、なにを無礼な!」 

 「信長様の御前であるぞ! 口を慎めい!」

 その日、信長は新たに設立する京都本願寺の法主に据える人物を探していた折に、その候補として名前の挙がった二人を呼び謁見していた。
 候補として名前の挙がった二人、つまり実悟と願如の二人が、はたして京都本願寺の法主に値する人物か? それを見極める為にこの二人を呼び出し、そしてその人となり等を観察していたのである。
 その時である、逆に願如の方から信長に問いかけてきたのだ。それに驚く信長。そしてその無礼とも言える願如の問いに激昂する重臣達。彼らは立ち上がり、刀の柄に手を掛けながら駆け寄ってこようとする。

 しかし信長はすぐにその者達を手の動きで制した。
 願如が示したこういう類いの豪胆さという物が、信長は嫌いでは無い。むしろ逆に喜ばしい事である。その内心で、二人に対する評価を上げた。
 信長が探している法主候補たる人物に求めたのは、まず欲が薄く、純粋な宗教人である事。これは以後政道に係わる事を禁止する為、世俗の権力に強く固執するような人物は初めから論外であるからだ。
 具体的に言うと本願寺の俗に 「三法令」 と呼ばれている今は有名無実化している法度の厳守、
 一つ 武装・合戦の禁止
 一つ 派閥・徒党の禁止
 一つ 年貢不払いの禁止
 これらの徹底ができる人物である。

 次に先程の条件とは矛盾しそうな事柄であるが、何事にも唯唯諾諾と従うような芯の細い人物では無く、様々な外圧を弾き返す事のできる精神的に豪胆な人物、強大な石山本願寺と渡り合っていけるような人物だ。
 それゆえ信長は激昂する重臣達の発言を押さえ、その疑問に答えてやる事にしたのである。







 「正義に大義か。それらは確かに尊い物だ。総じて国家という物は、正義・大義という衣をその表面に纏っていなければならぬ物であろうな」

 「表面に纏う、ですか?」

 信長のその答えに、不思議そうな顔を見せる願如。それを横目に信長はさらに言葉を続ける。

 「然り、表面だ。それすらも纏えなくなった国家は一時期には栄えようとも、必ずすぐに滅びる。けして無視できぬ、無視してなならない存在である。だがしかし、それと同時に人の上に立ち、それを統べるべき者はそれ自体を目的にしてはならぬ」

 「何故です。大義というのは絶対無二の物。世の中の流れという物では? 正義・大義を為す者、それこそが善なる者では無いのですか?」

 「違う。そもそも正義とはなんだ? そんな物、人によってそれぞれ意味が違う物ではないのか?
公家には公家の正義があるし、武士には武士の正義がある。浄土真宗には浄土真宗の正義があり、天台宗には天台宗の正義がある。町人には町人の正義がある。農民には農民の正義がある。それこそ人それぞれという物であろう。
その一つを持って、それと違う者達を攻撃する事は、果たして善行でありえるのであろうか?」

 「うむっ、それは難しい判断にございますが…、他者が間違っておるというのであらば、それも已む無しと言うべきなのでは?」

 「それこそ独善ではないのか? 己の信じる正義・大義はあって当然であろう。人は己の所属する立場・団体・人間に強い愛着・愛情があって当然だからな。それらの横の繋がり、仲間意識は素晴らしい物であるし、尊いものである。
だがそれと同時に、自分と同じく他者にもそれがあるのだと、各々が知るべきでは無いのか? 大事なのは寛容の心、慈悲心。
人と言う物は、自身の正義を疑わぬ時が一番怖い。正義なのだから当然自分は間違っていないと思うであろうし、だからこそ、その者はどこまでも残酷になれるし、そして反省もしない。
そして双方共にそうなってしまっては後に残る道はただ一つ、どちらかが死に絶えるまでの血みどろの殲滅戦よ」

 「人それぞれの正義については私も同感にございます。私もそれを他者に押しつけようとは思いませぬ。
されど先程の話しに戻します。何故、人の上に立つべきものは正義・大義をその行動の目的にしてはならないのですか? それらを為さぬ者、それらを顧みぬ者、それこそが悪と呼ばれる行いその物なのではないのですか?」

 「人の上に立ち、それを統べ導く者、すなわち君主がすべき仕事は正義・大義にあらず。その地の全ての民衆を平和に、そして幸福に住まわせてやる事だ。
その為には清濁あわせ飲む事も必要となる。例えば他国と戦争となる時もあろう。例えば何らかの形で民百姓に恨まれるような政策をせねばならないときもあろう。
この世の中、単純に何が善でなにが悪か、そんなに単純に割り切れる程簡単で、そして幸せな世界では無いぞ。
その為にこそ、お主等のような僧侶達がおるのではないのか? 元より幸せな世界であったなら宗教自体無かっただろうしな。

そしてそれを理解した上で、君主たる者は常に色々な事柄を良く考えなければならん。
けして手段と目的を入れ違えるでないぞ。民百姓の為に尽くす事こそが君主の本分。それこそが君主の大義だとでも言えるのでは無いのか?
だからこそ、正義・大義その物のみを目的として行動し、その結果、民百姓を犠牲にするような事をしてはならないのだ」





 願如はその信長の言葉を聞き、じっくりと考えながら、しばしの間、黙考する。そして信長に自らの考えを答えた。

 「つまり信長様にとっての正義・大義とは嘘も方便という事ですか?」

 「身も蓋も無い言い方じゃな……。しかしまあ、そういう意味もあろう。だが勘違いするな。ワシはそれがいけない事だとは言っていない。むしろワシもそれらはとても尊く、素晴らしい物だと思っている。正義・大義とは人が幸せに生きていく上で絶対に必要な物であろうし、古来よりこの言葉が延々と受け継がれて、しかもそれらが尊い物として伝えられてきたのは、それにそれだけの価値があるからだ。
しかしである、国家がこれ自体を行動の目的としてしまうと、歪みみたいな物ができてしまうとワシは考えるのじゃ。

君主はけして理想だけを追ってはならん。奇麗事だけでは食っていけないし、誰も幸せにしてやれぬからな。

その理想の為に民百姓を犠牲にしてもならん。それをした時点でそれはただの独善だ。

そして君主として犯した自分の罪を、そんな正義・大義という言い訳で誤魔化すな。

君主という仕事は冷厳で苛烈じゃ。そしてその自身の行う施政は、世の様々な人々の恨みや憎しみを買おう。天下万民、その全ての人々に等しく支持される施政などはありえん。
誰かの利は反じて誰かの不利益になりはてる。それがこの非情で呪わしい下天の世の理(ことわり)である。
ならば自分で考え、良かれと思って行った行動であるならば、その決断も、その過程も、そしてその結果も、裸一貫、全て堂々と己が身一つで受け止めよ。
耳に優しい正義・大義などという言葉に甘えるな、逃げるな。全てを自分で受け止めよ。それこそが君主の責任であり義務だ。

その上で行動すれば良い。
常にきちんとした情報分析の上で、何が一番、民百姓の為になるのか? 何が一番、家臣達の為になるのか? それをしっかりと考え行動せねばならない物であろうぞ。
時には非情の鬼となり行動せねばならん時もあろう。その為に人に恨まれようとも、憎まれようとも、それを許容せねばならん。
それは君主の義務だ。その覚悟の無い物には天下に益する仕事はできぬ。
その覚悟が無ければ、その者の行動全て、例えその志し・理想は大きくとも、実際やっている事は極めて視野狭窄な物となってしまうであろうな。
君主という物は民百姓に愛されるばかりではならぬ。それと同時に恐れられ、敬われるぐらいでちょうど良い」




 迸る(ほどばしる)ように吐き出されたそれらの信長の言葉に、得心を得たりと、深々と頷く願如。
 するとここにきて、今まではその信長と願如の話し合いを聞いているだけであった実悟が、信長に問いかけてきた。

 「信長様の御考え、理解できました。ならばその上でこの拙僧に、一体何をお求めになるのですか?」

 「実悟殿、お主は君主では無い。僧侶だ。僧としての本分とは君主とはまったくの逆、理想に尽くす事。すなわちそれは、今この腐れ切った寺社勢力のありようを正す事ではないのか?
実悟殿は今の、政道に武力でもって介入する寺社勢力のありようはどう思う?」

 「おっしゃる通り腐れ切っておりますね。今は亡き親鸞様、蓮如様が、今の本願寺を見られたら大いに嘆かれる事でしょう。
人の上に立つ上人達はもはや武士達となんらかわりません。自らの権力に固執し、あろうことか信徒を扇動し、要らぬ争いを自ら起こしております」

 「ならばそれを実悟殿が変えてみせよ。本願寺を元の理想である宗教本来の姿に戻してみせよ。その為の助力はしてやろうぞ」

 「信長様は何故私達にここまでして下さるのですか?」

 「お主達にでは無い。これは天下の仕置き也。宗教をその本道に戻す為、正しき本願寺の為に、である。それがワシの利益にもなり、民百姓の利益にもなるからな。但し、勘違いはするな。それは数多ある宗教の中でお主らだけを特別に扱う訳では無い。これよりは寺社が政道に係わる事は許さぬ。
その上で、なんとかしてみせろ。これより我が織田家は寺社勢力との戦に入る。我等はそれに対して容赦するつもりは無い。数多の犠牲が出るであろう。それを少しでもどうにかしたければ、お主達がなんとかせよ。なんとかしてみせよ」

 「そこまで言われては、私も引けませぬな。承知致しました。天下万民の為に私の力の及ぶかぎり、尽力します事を御約束致します」

 「良し。それでは期待させてもらおうぞ」






 こうして、この両者の盟約は成ったのである。
 そして永禄11年(1568年)春、この麗らかな春の一日に、京都の一等地である皇居のすぐ傍らに信長の手により建てられた寺においてこの日、実悟・願如が京都本願寺の設立を大々的に宣言したのだ。
 彼らは以後、本願寺の教義を外れ堕落した石山本願寺に代わり、自らがその教義を正当に継ぐ者として、主に織田家領内において布教を開始したのである。
 織田家も自らの領内の本願寺派の寺にこの京都本願寺に従うように指示を出した。

 逆に石山本願寺側にとっては、この宣言は寝耳に水の、まさしく激震を齎す驚天動地の出来事だったのである。
 彼らからすれば酷い裏切り行為であり、自らの名前を騙る詐欺師が突然目の前に現れたかの如くの心持ちだ。
 これに対して当然の事であるが石山本願寺は烈火の如く激怒。双方は一触即発の状態となり、石山本願寺派は以後、織田信長と実悟・願如の三人を仏敵と呼び、対立を深めていく事となったのである。







 先程も述べたように信長は京都本願寺に代理宗教戦争を求めている訳では無い。狙っているのはもっと精神的な何かであり、本願寺信徒達の心を攻めるのだ。
 例えばこの京都本願寺の存在を民衆はどう思うであろうか?
 例えば一向一揆が起きたとき、彼らはどう行動するだろうか?
 今までは一つの情報の元、狂信的な団結を保っていた一向一揆衆であるが、政府広報の報道や、さらにはこの京都本願寺という本願寺の名前を持つ存在。これらにその士気を保っていられるだろうか?

 人は誰だって進んで死にたいと思うものはいない。よしんばそういう者がいたとしても、その数は極少数であろう。だが彼らがそうするのは僧侶達から教えられるただ一つの情報の元、それしか道は無いと、それこそが絶対正義であると思い込んでいるからだ。
 だがそこに自分に都合の良い情報(戦わなくてよい・死ななくてもよい)が、まがりなりにも本願寺の名前で入ってくればどう思うであろうか?
 それを織田家の善政が後押ししてやればどうだろうか?

 いきなり全ての人々が一揆に参加しないというのは流石に無理だろう。だが少しでも迷いができてくれれば良い。
 その迷いは団結にヒビをいれ、毒の如く一向一揆衆を蝕んでゆく。それらは時間がたてばたつ程、一向一揆衆を追いこんでいく事となろう。














 <後書き>

 対本願寺対策の秘策その2です。
 ちなみに本願寺願如はオリキャラです。ちなみに願如の願は本願寺の願からとりました。

 そしてこの話しは作者がこの作品を書く上で書いてみたいと最初から思っていた場面の一つです。

 最初に断っておきますと作者は大学にもいっていない、最終学歴・高卒(工業高校)の無学の徒です。
 現実の実際の政治なんかも全然判りません(言い訳ではありませんよ)
 当然、実際の政治なんかを御判りになられる方から見たら穴だらけの、意味がわからない言葉の羅列になるのかもしれません。

 そんな作者ですが、その上で頭をひねりにひねり、こんな信長がいたらカッコいいだろうなと思い精一杯書いてみました。
 今までの生涯で読んだ様々な作品・物語、そして勉学の中で得た知識を一纏めにして作者の中で消化し、その上で自分にとって一番魅力的に感じる専制君主というものを、織田信長という作者にとって一番魅力的に感じる人物を借りて、精一杯カタチにしてみました。

 皆様はどうお感じになられましたでしょうか?
 感想が頂けましたら嬉しいです。






 <感想への追記 丁度良いので作者の認識の説明>

 (最初に注意 以下はあくまで作者の考えです)

 前回感想で頂いた織田家の外交?の件です。どうも作者には理解できなかったのですが、何がいけないのかが判らないのです。認識・解釈の違い?
 前回の件を、例えば政府広報で報道するとしたら簡単な内容の羅列ですが

 朝倉の野郎、帝の為にって言ってるのに上洛してこねえ
     ↓
 許せないから攻めるよ
     ↓
 そしたらいきなり浅井が裏切りやがった
     ↓
 なんか油断してたのでフルボッコ

 そこまで織田家は悪しざまに言われる様な事柄だったでしょうか? 作者はそうとは思えなかったので…。
 精々民衆の評価は 
 「浅井の殿さんも馬鹿だなー。織田家に逆らうなんて。お互いの力から見て、結果こうなるなんて童でもわかるだろうに。馬鹿な殿さんを上に持つと下の配下は大変だねー」 
 ぐらい? に思っていました。
 もちろん信長も内心はどうであれ、外に向かっては自分が悪者にならないように色々取り繕っておりますよ(←これを本文で説明できてなかったからかな?)

 ここで、これよりの作品を書く上でちょうど良いので作者の根本的な認識・考えをいくつか。

 まず、当時の同盟とは、お互いがお互いを利用しあう為の物で、利用価値が無くなれば破棄されるような物ではないでしょうか? 武田信玄等はその外交については信用がなかったとか?
 (注:前提として中世の話しであり、現代の話しではありません)

 そして基本的な事ですがこの時代の常識というのは <力の論理> <損得の論理> ではないでしょうか?
 基本はどちらが強いか? そして行動を起こす時も自分に得か損か? 
 従来あった統治機構が崩壊しており、そういう極めて利己的な行動がほとんどだと思っています(もちろん表面は取り繕うでしょうが)

 例えばこの時代に住む全ての人が、上杉謙信のように 「義の為だー、正義の為だー」 といって自分の命すらも賭けた行動を起こすでしょうか?
 作者は 「否」 だと思っています。
 そんな人物はほとんどいないからこそ素晴らしいと言われて物語になったりもするのであって、皆が皆、当たり前のようにそうであれば物語にもならないはずです。
 かと言って、作者は信義というのを軽視している物ではありません。作中にも書いたように素晴しい物だと思っています。

 但し、それが絶対無二の判断基準・行動基準だとは思ってはいません。

 あくまで判断基準の中の一つでしかないです。その行動の判断基準には利益や力関係などが必ず複合して入ってくると思っています。その割合は人それぞれでしょうが。 

 <但し、例外が一つだけ。帝に係わる事だけは別格だと思っています。これだけは絶対の権威として日本に古来より存在しており、また現代にいたるまでも同様だと思っています。日本人全員がいわゆる天皇教信者みたいな物?>

 正直な所、作者は感想を頂いてから初めて 「えっ、なんか拙かった? 嘘? そこまでの大事かな? 」 と思ってしまったぐらいの認識のズレが生じてました。
 何が原因でしょう?

 例えば徳川家ですが、帝に直接被害が無い限り、作者は現状の状況で徳川家康が裏切る事は無いと認識しております。
 徳川家康は極めて優秀な政治家であり、自身の家の為に様々な事柄に耐えられるだけの精神力と、そして目の前の現実の状況から冷静に最善を選びだす事のできるリアリストだと作者は思っています。
 そんな家康が信義や大義等の良く判らない、自分の利益にまったくならない物の為に戦うでしょうか?
 信長のように、何が自家のメリットになり、何がデメリットになるかが判断でき、そしてその為に名を捨て実を取る行動ができる政治家だと思っています。
 またそういう人物だからこそ天下を獲れたんだと作者は思っています。

 後、ネタバレになりますが、信長のこれからの行動についてなのですが、これまでは比較的大人しかった信長ですがこれよりは行動がより苛烈になります。
 比叡山の焼き打ちもしますし、伊勢長島の殲滅戦もあります。
 その過程で女子供であろうが敵対する者達は皆殺しにします。

 この作品の信長は、けして良くあるような、現代の人に受けの良い万民に受ける物語的王道君主像(寛容であり心優しく慈悲の心に溢れ、殺生を忌み嫌い、敵は殺さずその全てを許し、非道を許さず裏切りを許さず、義心に溢れ信義に厚い等々)にはなりません。
 あくまで現実的な思考と冷酷さを併せ持った徹底したリアリストの専制君主的な覇王です。
 但しこれは無分別という意味ではありません。人として超えてはいけない線は守ります。意味もなく人を殺したりもしません。
 但し必要だと思ったら躊躇はしませんが。


 作者も信義に厚い、義の化身のような武将が嫌いな訳ではありません。それは素晴らしい人物です。
 但しそれは個人で行動する分には良いのですが、作者はそれが君主等であった場合、 「ううーーーん? 」 と思ってしますのです(これはあくまで極めて個人的な感想です)

 また、徳川家の話しに戻しますが、徳川家が危機感を持つのは良い事だと思います。
 この同盟は力関係からしてもこれより以降、どんどんあきらかな主従の形に移行していきます。これは純粋な力関係によってです。
 史実と同じように信長が家康を同盟者と立てても、家康自身は信長の家臣のように行動しなければならなくなるでしょう。

 そしてこれより後、織田家は徳川家以外の他の同盟国は必要無いと思っています。
 これより後の者は臣従か敵かの二つだけになります。
 効率だけでいえばかなり悪くはなるとは思います。

 例えば史実でも信長は包囲網のように周囲を常に敵に囲まれていました。但し作者はそれは信長の覇気の結果だと思っています。
 もっと簡単というか、史実でも従来通りの方法だったらもっと戦いは簡単だったとは思います。
 つまり国人達の権力、寺社勢力の権益を全てそのまま認め、周辺勢力も全て共存というカタチです。もちろん室町幕府もそのままです。それならもっと簡単に話しは進んでいたと思います。

 但しそれでは信長の望んだ世界のカタチにはならないというのが判っていて、ああいう方法を取っていたのではないかと思っています。
 つまり自分には理想とする世界があり、その上で、
 「自分の覇道の為に邪魔な物は全て滅する。敵対するなら敵対しろ。裏切るなら裏切れ。自分ならその全てを殺しきってみせる」
 という絶対的な自信、覇気の現れではないかと思っています。




 『最終的な注意』
 作者は織田信長という人物を大きく美化して見ております。なのでそれに対して反対意見も当然のようにあると思います。
 その上であえてこのままこの作品を書いていこうと思います。





 <お知らせ>

 前話でお知らせさせて頂きました通り、少しの間お休みさせて頂きます。






 <追加追記>

 アイディアで頂きました実悟を物語に参入させました。
 どうもありがとうございました。
 後、実悟はすでに高齢ですのでその後継者という形でオリキャラ願如はそのままにします。







[8512] 第16話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/03/24 02:33





 <第16話>




 永禄12年(1569年)、この年は織田家にとって、風雲急を告げる激動の年となった。
 普段は静かな岐阜城城内に、酷く慌てた様子の男達が幾人も走り込んで来る。彼らは口々に、悲鳴のような叫び声でもって報告を為した。

 「い、一大事! 摂津の国において、斎藤龍興が各地の残党浪人衆共を率い挙兵致しました! 同地野田城・福島城に籠城! 同じく阿波の国より、三好三人衆が同地に上陸! これを支援する動きを見せております!」

 「急報! 石山本願寺衆、挙兵! 斎藤龍興・三好三人衆と盟を結び、野田城・福島城への後詰めの動きを見せております! また紀伊の国、雑賀の傭兵衆が続々と石山城に入城中!」

 「伊勢長島の地にて本願寺一向衆、挙兵! 周囲の城が攻撃を受けております!」

 「越前、柴田勝家様の陣より御報告! 朝倉めが動き出しました! 現在、木ノ芽峠城が攻撃を受けております!」

 「比叡山が挙兵! 京都本願寺が攻撃を受けましたが、京都所司代・村井貞勝様の指揮によりこれを撃退! 現在敵は比叡山に籠城中との由!」

 畿内各地から、越前の国から、伊勢の国から、山城の国から、織田家所領の各地より続々と急報が連続して信長の元に届けられる。

 「ついに来たか! ついに始まったか!」

 居城である岐阜城でその報告を受けた信長は、勢い良く立ち上がると同時に興奮にその身を震わせた。
 判っていた事ではあったが、とうとう始まったのである。
 帝を擁する京の都を抑え、他家には無い権威を得た織田家。畿内一円を抑え、他の勢力よりも頭一つ分飛び出て、巨大勢力となった織田家。その織田家の電光石火の如くの勢力伸張に大きな危機感を抱いた各地の大名家がその力を合わせて織田家を叩こうとする動き、すなわち、信長包囲網である。
 信長はすぐに以前よりこの事有る物として日々練りに練り上げていた戦術・対策を各地に伝える為の伝令を走らせる為に、急ぎ段取りを始めた。城内の豪奢な廊下を、足音も高く足早に歩き抜けながら声を張り上げる。

 「各地に伝令! まずは越前木ノ芽峠城におる柴田勝家にじゃ! 
『そのまま木ノ芽峠城に籠城し、けして朝倉軍をその先に通すな。但し当面の間は後詰めに行けぬ故、無理は不要。あくまで足止めに徹し、朝倉軍を食い止めよ』
以上じゃ! 急ぎ伝えよ!」

 「はっ!」

 その信長の命令を受け、一人の使者の任を受けた若い侍が、勢い良く部屋より駆け出す。
 まずこの指示を出した、北方越前の国方面、織田家随一の猛将柴田勝家が守るこの方面であるが、信長の下した命令は守勢であった。
 実は信長はこの時の為に、先の朝倉家攻めの折りに際して、態々木ノ芽峠にて進軍を止めていたのである。その事実が示す通り、元々この地では完全に守勢に回り、ここで朝倉軍の進撃を食い止める予定だったのだ。

 理由はいくつかある。
 まず一つ目は、この地が隘路になっており、天嶮の要害である事だ。極めて攻めるに難く、守るに易い地形である。
 二つ目は、この情勢にあって北方に兵力を張り付けたく無い為だ。つまりはこの地であらば比較的寡兵であっても、朝倉の大軍を抑える事ができるという事である。
 朝倉軍ははっきりいって弱い。勿論の事、その家中には手強い武士も大勢いる。いるのだが、しかしである、主君である朝倉義景にはっきりとした戦略眼という物が無く、優柔不断。さらには決断力という物も無く、果断さにも欠ける為に、思い切った動きが全然できないのだ。
 さらにいえばその家中全体において士気は低く、前回の浅井家を攻め滅ぼした後にその勢いのままに北上し、越前に攻め入っておれば、越前は容易く獲れたであろう。

 ただその場合は少し困った状況に陥ってしまうと信長は考えた。だからこそ信長は敢えて越前木ノ芽峠において進撃を止めたのである。
 何故なら、越前の国のその先はと言えば加賀の国であり、そこは一向衆の治める所領であるからだ。また同じく越前も一向衆の影響の強い国である。
 その状態で織田が越前を手に入れたとして、どのような状況に陥るであろうか?
 恐らくそうなった場合、織田家は加賀から一向衆の攻撃を受け、尚且つ足元の越前の国からも一向衆の攻撃を受けるという挟撃の状態となり、苦戦は必至。
 結果、越前の国は支え切れ無くなってしまうであろう。

 だが朝倉家を残してさえおけば如何であろうか? その両者の間に朝倉家という壁を挟む事によって、その弱い朝倉家の相手だけで済むのだ。
 例えば、加賀一向衆と朝倉家が連合して攻め込んで来るような状態にでもなれば、苦戦もするであろうが、それもまず無いだろう。何故なら朝倉家と加賀一向衆とは、お互いに長年に渡って争いあう仇敵同士であるからだ。
 その両者が、反織田同盟として同床異夢の形で手を組む事はあろうとも、朝倉家が仇敵である加賀一向衆を領内に入れるとは到底、思えない。潜在的な敵対勢力を自領に迎え入れるという事は自殺行為でしかない。危険どころの話しでは無いのである。万が一、加賀の一向衆達が越前の一向衆達と手を組み、牙を向いて来た場合、亡国すら有り得るのだ。
 そして小心者である朝倉義景が、それらの全ての危険を踏まえた上で、そのような大それた決断を出来るとは思えない。
 否、むしろそれが決断できるような果断さに富む将であらば、この越前の情勢は今とはまったく違う物となっていた事であろう。

 そして現に朝倉家は加賀一向衆の援助を断り、単独で攻めこんで来ていた。
 また加賀一向衆も同盟を結んだ以上、今まで越前で行ってきていた朝倉家への攻撃ができなくなっている。加賀の一向衆達は、自ら結んだ同盟によって動きを封じられ、遊兵と化してしまったのだ。
 まあ、彼らにはいざとなれば朝倉家を滅ぼし越前を奪った上で、その地の越前一向一揆衆達と力を合わせて織田領に攻めよせてくるという戦略も有る。
 しかしである、その場合は途轍もない悪評という結果も共に付いてくるのだ。その場合、織田家は一向衆を非道と悪しざまに罵ってやればよい。
 朝倉家と同様、その危険性を敢えて冒してまで加賀の一向衆達が動いてくるとは思えない。

 つまり織田家は、朝倉家がある限りは、北の一向衆と事を構えずに済むのだ。
 敵が敵の防波堤になるとは、なんとも皮肉な話しである。

 以上の理由から信長は北の守りを柴田勝家に完全に任せ、当面放置の方向で戦略を立てたのだ。
 攻め寄せる朝倉家の軍勢は一万五千。同盟によって東の加賀方面の防備を考えなくて済む朝倉家は、その全力で持って攻め寄せてきている。
 翻って(ひるがえって)、木ノ芽峠城周辺にて守勢に廻る柴田勢の方は総勢約一万一千。
 しかし猛将・柴田勝家にとって、それだけの手勢があれば十分であった。勝家はこの兵士達を率い、幾度もの朝倉軍の攻撃を全て弾き返し、木ノ芽峠城の占領・突破をけして許さなかったのである。







 信長は続いて他の方面についても矢継ぎ早に次々と指示を出して行く。

 「続いて伊勢長島の一向一揆衆達には、滝川一益・羽柴秀長を向かわせよ! 彼奴等の攻撃を防ぎ、弾き返した上で一向衆達を元の寺領に押し戻せ! 後はこの信長が後詰めに行く故、それまで待てと伝えぃ! 九鬼嘉隆にも伝令! 水軍を動かし、伊勢長島を海から包囲せよと伝えよ! 伊勢長島に石山本願寺からの援軍・物資が入っては、苦戦は必至である! 食い止めさせよ! 石山本願寺と三好・斉藤の連合軍には佐久間信盛・塙直政・河尻秀隆・森可成・蜂屋頼隆・稲葉良通・氏家直元らを向かわせ守らせぃ! 但し無理な攻撃は不要! 本隊が着くまで守っておれば良いと伝えよ! それ以外の者は、京に集まるように伝えぃ! ワシもすぐに出るぞ! 皆の者出陣じゃぁ!!」

 信長はそれだけを言い放つと、他の者達の準備が整うのも待たず、すぐさま単身、馬に跨り城を飛び出して行く。それを馬廻り衆達が慌てて追い掛けた。
 そしてその主君・信長自らの迅速な行動に突き動かされるが如く、織田家全体が一斉に、そして迅速に動き出す。
 織田家の軍の特徴はこの機動力である。これは他の勢力に比べ、比較的兵農分離が進んでいる事。また織田家内においては他の大名家の比ではないほど、信長の持つ権力が異常な程に強い為、その命令が迅速に実施されるからだ。
 織田家において機動力で遅れを取るものは死罪である。皆、その信長の命令に応える為に全力で準備を整える。















 それから暫しの時を経て、京の都に信長率いる本隊四万が終結した。
 他の方面で敵の攻撃に耐えている者達を除いた将達、羽柴秀吉や明智光秀、それに丹羽長秀、前田利家、等々の歴戦の将達がずらりと信長の前に並ぶ。

 「皆の者、周囲が一気に騒がしゅうなったわ。どうやら裏で越前の足利義昭めが糸を引いているようじゃ」

 この信長の言葉通りに、今回のこの包囲網も史実と同じく、今は越前に居る足利義昭の策謀による物であった。
 現在も引き続き義昭は、今はまだこの包囲網に参加していない周囲の諸勢力達に次々と参戦を促す書状を送り続けており、反織田同盟への参加を求めている所である。
 ただ、現時点では義昭が最も期待を寄せている甲斐の国の武田家はまだこの包囲網には参加していない。何故なら現在武田家は今川家・北条家・徳川家らの諸勢力と駿河の国を巡って争っている所であるからだ。その戦線が片付かない限り、他の場所に軍を動かす事は出来ない。
 その為、武田家の同盟参加までは後少しの余裕が有る。
 織田家にとって重要なのは、その時間を使い、どこまで当面の敵の数を減らせるか、だ。





 「百地丹波、まずは現在判っているだけの、各地の情勢を報告致せぃ」

 「はっ! まずは北の朝倉家についてで御座いますが、この攻撃は柴田様の奮戦により既に防衛に成功! 現在、朝倉軍は木ノ芽峠城を攻め切れずに膠着状態! 此れを包囲するに留まっております! 柴田様よりも援軍は不要也、との書状が来ております! 伊勢長島の一向衆も、滝川様・羽柴様・九鬼様の奮戦の御蔭にて同じく元の寺領に押し戻す事に成功! 但し単独で攻め入る兵力は御座いませんので、国境いで膠着状態を保ちつつ我等本隊の後詰めを待つとの由! 最後に摂津の石山本願寺・三好・斉藤の連合軍についてで御座いまするが、こちらは大分押し込められております! 現在摂津の国の約半分を奪われ、一旦足止めに成功致しましたが、またジリジリと押されて始めており、援軍を請う、との事に御座いまる!」

 信長の発したその命令に、全国の情報収集を担当している伊賀衆頭領・百地丹波がすぐさま答えた。
 その報告によると、事前の準備が多いに功を奏し、摂津方面を除いた方面が無事小康状態を保っている状態である。
 だが油断は出来ない。総合的に考えて周囲の情勢は極めて悪し、といった所である。

 但し悪い情報ばかりでもなかった。ここにきて、まったく別の方面より一つの吉報が届く。
 織田家は西方において一つの勢力を味方に引き入れる事に成功したのである。それは丹波の豪族、波多野秀治であった。
 この波多野秀治という人物は、武勇に優れ、朝廷を重んじる人物にて極めて尊王の心が厚い人物である。史実では一度織田家に臣従した物の、後に織田信長が室町幕府将軍・足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼしたり、さらには朝廷を軽んじるような行動をとった事に激怒し、天正4年(1576年)に信長包囲網に参加。織田家に対して反旗を翻したのである。
 これは織田家にとって大きな打撃となった。
 何故なら丹波の豪族には、この波多野秀治以外にも赤井直正や籾井教業(もみいのりなり)などの武勇に長けた優秀な豪族が綺羅星の如く揃っており、再度丹波を平定するのには長い時間が必要となったからである。

 今回のこの世界では織田家は公家の近衛前久を通じて波多野秀治の調略を行い、これを味方に引き入れる事に成功したのだ。
 『敵を知り、己を知らば、百戦危うからず』
 その為人(ひととなり)、考え方、その人が何を大事に思っているかを正確に知っていれば自ずから調略の切り口は見えてくるという物である。
 今回の事で言うと、秀治は信長の方針・考え方が極めて好ましい物に映ったのだ。政府広報により織田信長が極めて熱心な勤皇家である、との全国に向けた宣伝もあり、また高家たる近衛前久の仲介もあり、結果、秀治は比較的すんなりと織田家に従属する事に同意したのである。
 しかもそればかりでは無く、秀治は進んで他の赤井直正や籾井教業等、丹波の諸豪族達を説得し、これらを纏め上げて織田家に仕える事となった。
 これにより丹波の国は織田の領する所となったのである。

 彼は史実において織田家に反旗を翻した人物であり、また同じ様に裏切らないか怖くはあるが、今回の織田家は朝廷を重んじ、その権威を押し戴く方針である為、前の様に仲互いしてしまう可能性は極めて低いであろう、と信長は判断していた。
 また、地味に足利義昭が今だに征夷大将軍では無いというのが大きい。現在、足利将軍家は、十三代将軍・足利義輝、もしくは三好家の擁立した足利義栄を将軍と数えるならば、その十四代将軍・足利義栄を最後に、現在空位の状態なのだ。

 そして将軍では無い足利義昭の権威というのは今一つ(いまひとつ)である。
 さらに言えば今回の織田家は、室町幕府の権威では無く帝の権威という物を全面に打ち出し、それを大義名分にしているのだ。
 むしろ室町幕府とは敵対関係にある、と言っても良いであろう。
 今の信長の立ち位置はと言うと、自称、帝の御信任を得た武家の最高指揮官なのである。天下布武の名の元、勝手にそう宣言しているのだ。

 そしてこの状況において、どちらがより征夷大将軍に近いであろうか?
 織田信長と足利義昭の単純な力関係で言うと、圧倒的に織田信長の方に軍配が上がる。権威や仕来り(しきたり)、建前は別としてではあるが、そのような現在の状況下において、織田家の配下の者達は、当然の事ながらいまさら有名無実となった室町幕府を再興したいなどとは思わず、足利義昭を将軍に据えようとは思わない。
 室町幕府の無力は今のこの戦国乱世という状況そのものが示しているのだ。
 だからこそ、不敬に当たり、また建前的にも不味いので誰も声に出しては言わないが、むしろ自らの主である織田信長をこのまま帝の御心の元に征夷大将軍に、と思ってしまうのは武士としての立身出世の本能であり、より現実的な考えとも言えるであろう。

 兎にも角にも、波多野秀治は丹波衆の筆頭として他の丹波国人衆達と共に織田家重臣の列に加わり、織田家の西の要の一つとしての役割を担っていく事となったのだ。






 それらの情勢を踏まえた上で、信長は集まった各将の前にてこれよりの方針を高らかに宣言する。

 「まずは比叡山を攻略する! 本来の己の果たすべき勤めを忘れ、地に堕ちた畜生共の大掃除じゃ! 情けは無用也! 此れを殲滅すべし! 光秀、準備は万端か!?」

 「はっ、ぬかりありません!」

 信長はこの時に備えて明智光秀に命じて以前から準備をさせていた。
 何故、明智光秀かというと、おそらく今回の一件に関して一番動揺をきたすと考えられたのがこの人物だったからである。
 事前に光秀に全ての準備・交渉を任せる事により、その現状を正しく認識させ、心の準備をさせる為でもあった。

 「光秀、どうだ、見て参ったか! 今の比叡山の姿を! 日本仏教の根本道場、王城鎮護の聖域比叡山の、無様な現状を!」

 「はい。使者として比叡山に赴き、しかと見て参りました。境内で堂々と酒を飲み、肉を食らい、女と戯れ、仏法を説く事を忘れておりました。また拙者を応対した上僧も驕り昂ぶり、その言葉に真はありませんでした。装束は僧装でございましたが、中身はまるで夜盗・山賊の如し。私はあれを王城鎮護の聖域とは思いたくはありませぬ」

 光秀は信長に命ぜられ、以前から織田家と敵対しようとする比叡山との不戦交渉をずっと行ってきた。その過程でありとあらゆる状況を目にして来たのである。
 それは光秀が理想とし、またこうあるべし、と心の内にて思い浮かべていた王城鎮護の聖域比叡山の姿とはまったくの正反対であり、まさしく堕落を極めた悪徳蔓延る腐敗した特権階級達の魔の巣窟。それが光秀の見聞きしてきた、現在の比叡山の姿であった。
 彼らは既得権益を守る事を最優先し、仏法は二の次。否、仏法をその為に捻じ曲げすらしている。仏法の為に彼らがあるのでは無く、彼らの利益の為に都合の良い、改竄された仏法があるのみなのだ。
 自らの利益の為であらば徒等を組み、京の都を暴れ回り、御所にまで押しかけ強訴を行う。
 まさしくそこには宗教勢力では無く、特権階級としての姿しか無い。だからこそ信長は彼らを寺社勢力などとは思わない。彼らはただの敵なのだ。

 それでも万全を期し、信長は対比叡山戦への動揺を防ぐ為、事前にいくつもの手を打っていたのである。
 まずは織田家所領への領民への悪評対策として、政府広報の臨時版を発行し、比叡山の行ってきた様々な悪行の数々を判り易いように絵も付けて大々的に報道していたのだ。
 また史実と同じ様に、仏門の徒としてその本分を守るべし、という事を強調し、それを大義名分として比叡山に政道に関わらず中立を守るように、と幾度も使者を出していたのである。
 これは織田家の方から一方的に攻め込んだのでは無い、彼らが自らの権勢に驕り昂ぶり、自ら平地に乱を起こしたのだ、織田家は幾度もそれを止めようとしていた、とのポーズ作りの為でもあるのだ。

 続いて朝廷・帝への上奏。
 これより先に始まる比叡山・石山本願寺等々の寺社勢力との戦争を行うにあたり、信長はその大義名分として帝の権威を持ち出す事を目指したのである。
 『日ノ本六十余州、その全ての宗教寺社勢力は、一切の例外無く帝の御威光に従い帝の御許においてのみ、その活動する事を約束すべし。また仏門の徒としての本分を堅守し、今後一切の政道に係わるべからず』
 それに従わない、武力で持って政道に介入してくる不埒者は帝に成り代わり、織田家がこれを討つ、という大義名分である。
 寺社勢力に対しては徹頭徹尾、政教分離の精神を貫く。それが織田家の大戦略なのだ。

 ただ、当然の事ではあるが、今の朝廷にそれを宣言したり、その方針を世に広めようなどの主体性も、その実力も無い。これらは全て信長の口から出た政策であり、百%織田家の都合である。
 正親町天皇はその信長の政策について、はっきりとした方針や言質は与えず、織田家は朝廷への窓口としている近衛前久が陛下の御心を思い計って、という形で伝えられ行われるのだ。
 つまり、朝廷ははっきりした方針は示さず、何かあった時はその責任を取らなくても良いようにしながらも、成功した時は近衛前久が前々から口伝で伝えていたという事でその成功の恩恵に与れるように布石を打って置く、という方法である。
 傍目に見れば汚く卑怯なやり方のようにも聞こえるが、荒れ果て、権威や歴史といった力以外の全ての力を失い困窮している現在の朝廷にはそのような遣り方しかできないのだ。

 そしてこの朝廷の伝統的曖昧さは、今の織田家にとっては有利に働いている。
 朝廷の利益になる動きという前提であれば、京の都と帝を有する今の織田家であらば、ある程度簡単にその権威を動かせる、口に出せる状況にあるのだ。
 これについては政府広報の力も大きい。史実の世界では、例えこれと同じ事をしようと思ってしても、周囲に効率的な宣伝ができないので結局の所は頓挫していたであろう。
 また織田家が朝廷との窓口としている近衛前久という人物が織田家に対して好意的で、色々(先の波多野秀治調略と同じ様に)と骨を折ってくれる事も大きい。
 それと同時に織田家の政策が、そのまま朝廷の利益と同じである、という状態になっているのが大きな決め手であろう。
 朝廷が今までにさんざん悩まされてきた寺社勢力を如何にかしようと言うのと同時に、織田家が積極的に朝廷の面子を立ててくれる為に、織田家の勝利がそのまま朝廷の権威回復に繋がっているのである。

 織田家はこれまでにも朝廷の為に多大なる金銭面での援助を行い、また様々な事にも骨を折り、恩を売ってきた。その結果として今の朝廷と織田家の関係は極めて良好である。蜜月という表現を使っても良いぐらいだ。
 この朝廷との極めて良好な関係を利用し、実際に錦の御旗を押し戴いた訳では無いが 『帝に成り代わり、宗教の本道を忘れ、外道に堕ちた者達を帝の名代として討つ』 という大義名分(を大々的に報道した上で)の元、織田家は動きだしたのだ。
 ただこれは危険も同時に含んでいる。成功すれば良いが、万が一失敗したら帝の御名を勝手に語った者として悪名を負いかねない。全ては結果如何なのだ。

 またこれには将来を見据えたもう一つの意味もある。
 この大義名分は当然の事ながら、日本国内で布教されているキリシタンにも適用されるのだ。

 この時代に日本に来て布教している宣教師は例外無く、全てカトリックである。そのカトリックの長はローマ教皇であり、そのローマ教皇を頂点とした宗教組織なのだ。
 当然、日本のキリシタン信者も信者になれば自動的に、このローマ教皇を押し戴く事になる…、そうなるはずであったのだ…。

 だがしかしである、それを全否定するのがこの宣言だったのである。つまり日本のキリシタン信者は、従来のイエスキリスト・ローマ教皇のさらにその上に帝を押し戴くのだ。
 これは後々大きな意味を持ってくる。
 例えばイングランド国教会の首長がイギリス国王であるように、ロシア正教会の首長がロシア皇帝であるように、日本のキリスト教の首長も日本の帝が務めるのだ。
 まあ正確にいえば日本の帝はキリスト教徒では無いが、そこは 「帝は日本にある全ての宗教の首長である」 とでも言いきってしまい、押し切ってしまえば良い。
 つまりはキリスト教自体は別に自由に布教してもかまわないが、外国勢力、特にローマ教皇の影響力は完全に排除するという事である。

 それに慌てたのが、当のイエズス会宣教師達だ。
 彼らは別に完全な善意だけで、この遥か極東の地に来た訳では、けして無いのである。
 この時代のキリスト教宣教師というのは植民地獲得の為の尖兵なのだ。
 勿論、そこまで露骨な悪意を持って活動する者ばかりでない、尊敬に値するまさに聖人、と呼ぶに値(あたい)する人物も数多くいる。但し、究極的な彼らの最終目的は、布教を行う事によってその地をカトリックの統治機構へと組み込む事であるのだ。
 つまり簡単に言うと、カトリック的キリスト教秩序による日本の支配。それこそが彼らの信じる絶対の正義。
 それなのに、この信長の政策はそれを真っ向から否定する物なのである。

 彼らにとってそれはまるで、現在欧州において吹き荒れている、バチカンの秩序から脱しようとしているプロテスタント(抗議する者達の意)達を彷彿(ほうふつ)とさせるかの如くの、悪夢のような光景であったのだ。
 そして彼らはそれと同時に思うのである。これでは布教する意味が無い、と。
 当然、彼らにとってキリスト教とはカトリックの事であり、それ以外の存在、プロテスタントも、この日本での新しく産まれようとしているこの訳の分からない存在も総じて異端でしか無いのだ。

 けして許す事の出来ない存在である。

 そしてそれこそが信長の狙いでもあるのだ。
 日本の国主として、日本に住む民衆が自分達の日本の指導者よりもキリスト教の方を、より正確に言うとカトリック・ローマ教皇の方を大事だと思うような事態など悪夢でしかない。
 それを防ぐ為の措置なのだ。
 こうして日本国内(現状織田領内に限るが)においては、宣教師達はこの大前提を受諾しないかぎり布教は許されないという枷をはめられたのである。
 逆に言えばこの大前提が守られていさえすれば、史実のようなキリスト教信仰の禁止などの弾圧政策は無くなるであろう。禁止する理由も無い。




 だが、この事が後にとんでもない事態を引き起こしてしまう事になってしまうのである。












 話しを戻す。
 信長は集まった将兵達の前で高らかに宣言した。

 「いくぞ、皆の者! 臆するな! これより、長きに渡って朝廷を脅かし、政道にその武力を持って介入し、酒色に溺れる堕落の畜生共に真の正義の鉄鎚を喰らわせようぞ! 新たなる秩序の為、我等こそがその任を担える唯一無二の存在である事を各々理解せよ!」

 「応おおう!」

 将兵達が血気盛んに雄叫びで答える。その将兵達の声に満足そうに頷きながら、さらに言葉を繋げる信長。

 「摂津の国については、その周辺の者を総動員して、なんとしても食い止めさせよ! 守ってさえいればそれで良い! 時間を稼がせぃ! 我等が取るべき戦略は各個撃破也! 弱き勢力より順番に潰していく! それが現在取るべき戦略じゃ! 本隊はこれより一気に比叡山を滅する! ゆくぞ、出陣じゃ!」

 「応おぉおおう!」




 そして織田軍本隊四万は怒涛の如き勢いで進軍を開始した。的(まと)は日本仏教の根本道場・王城鎮護の聖域、比叡山。
 織田軍の迅速な動きに、比叡山はあれよあれよという内に、挙兵より僅か七日で織田軍四万に蟻の這い出る隙間もない程に完全に包囲される。

 そして明朝、まだ日も明けきらぬ内に織田軍の比叡山への総攻撃が始まった。











 <後書き>

 今回は第一次信長包囲網発動の巻です。




 連載再開です。お待たせ致しました。
 これからも遅い連載速度になるでしょうが頑張って行きますのでどうかこれからもよろしくお願い致します。

 また、いつも暖かい感想・御指摘ありがとうございます。
 頂きましたアイディアを参考にこれからもより良い作品を作れるように努力していきます。









 現在の織田家の所領

 尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
 若狭8万石 西越前6万石 丹波25万石

 総石高:421万石
 (但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)








 <追記 感想への御説明>


 どうも皆様、いつもいつもありがとうございます。
 皆様の暖かい感想・御指摘・アイディアにいつも支えられております。本当にありがとうございます。


 外交についてはこれから先の展開もありますのでもう少し考えてみます。

 警告文についてはそういう描写がある場合は必ず記載させて頂きます。

 ひらがなになっていて読みにくいという所は別にわざとでは無いです。というよりも作者はそれがどこの事を言っておられるのかがどうしても判りません。
 どうしても気になる所がありますならその場所を指定して頂ければ修正させて頂きます。
 また動員兵力については、石高について兵何人というような計算式も諸説あり、それに加えて経済力等々も入ってくるので正確な数は無理です。申し訳ございませんがご了承下さい。



 キリスト教の所は加筆修正。
 あとゼウスの所ですが、実はうろ覚えで書いておりました。
 昔の大河ドラマの <信長 キングオブジパング> だったかな? の中で宣教師がデウスデウスと連呼していたという記憶が何故かあって(実際に言ってたかは判りませんが)それでとりあえず付けておくかといった軽い気持ちでいれてました。この部分削除させて頂きます。









[8512] 第17話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/07/06 03:14





※注意 今回比叡山焼き打ちという虐殺表現があります。表現が人によってはグロイと感じるかもしれません。十分ご注意下さい。




<第17話>





<比叡山延暦寺>


「仏敵信長めが! この聖域比叡山を攻めるとは、何を血迷いよったか!?」
「我等が比叡山は王城鎮護の聖域ぞ! それを攻めれば日本中の全ての仏教徒を敵に廻そうぞ! それすら理解できぬ愚か者か!?」
「ありえぬ! こんな事はありえぬはずなのじゃ!」


比叡山の僧侶達は織田軍に包囲されて大混乱に陥った。
実際の所、比叡山の僧侶達は信長が本気で比叡山を攻めるとは思っていなかった。
彼らの中の常識では絶対にそんな事はありえないはずであったのだ。まさしく彼らにとっては天地が逆になったかのような心持ちである。

しかし織田軍40000がそんな彼らの言う常識を無視し、比叡山を包囲した。この絶望的な状況になってようやく彼らは信長の本気を理解した。

その段階になって 「これは不味い」 と思った比叡山側は信長に対して史実通りに黄金500枚を送る事で講和を申し込もうとしたが、信長はそれを拒否。
彼らが逃げ出さないように翌明朝には攻撃が始まった。








「今、比叡山にいる者は全て殺せぃ! 火をかけろ! 燃やし尽くせぃ! 女子供であろうが、けして容赦するでないぞ!」 

信長の命令の元、織田軍全軍が比叡山への突撃を始める。
それに対して比叡山側も徹底抗戦を決意する。

「この聖域比叡山を侵すとはなんたる非道ぞ! 神をも恐れぬ信長めに仏罰を加えるのじゃ!」

「然り! 正義は我等にあり! すぐに信長めには天罰が下ろうぞ! けして負けられぬ! 負けられぬぞ! なんとしても食い止めよ!」

「我等には御仏の御加護がある! 絶対に負けるはずが無い! 押し戻せい!」




ワーーワーーー!!
   ウオオオオオオ!!


織田軍が怒号を上げながら山を駆け登ってくる。それを許さじと僧兵側も隊列を組み、必死の反撃を試みる。
だがそれに対してすぐに織田軍から大量の鉄砲の激烈な反撃が返される。


  ババババババン!!
             ババババン!!
       バババババン!!
「ぎゃああぁぁああぁ!」  「ぐわっ!」


旧態然とした装備しか持たない比叡山の僧兵達は大量に配備された織田家の鉄砲隊の火力にすぐに撃ち竦められていまう。
いかな精強な僧兵達といえども薙刀の刃の届かない遠距離から撃たれてはどうしようもない。

バタバタと僧兵達の屍が積み重ねられていく。

元々、この比叡山に兵力はあまり無い。僧兵の数もせいぜい1000いるかいないか程度の数であった。
対する織田軍は45000。
最初から相手にならない戦力差であった。

比叡山側の防衛線は戦闘開始から僅か30分で崩壊し、それより後は織田軍による虐殺が始まる。







「ぎゃあぁぁぁっ! 熱い! 熱いぃ!」

「頼む! 助けてくれ! 殺さないでくれ!」

至る所で建物に火を放たれ、その火にまかれ、全身火達磨になりながら転がるように外に飛び出してくる者。
織田軍兵士に対して必至に命乞いをする者。
様々である。
中でもやはり哀れを誘ったのは女達であろう。抵抗する術も持たず、守ってくれるはずの僧兵達に見捨てられ、ただ無意味に逃げ惑うだけである。

だが織田軍将兵は信長の厳命通り、そんな彼女達にも容赦はしない。
元々この比叡山には存在してはいけないはずの存在である。

せめてもの情けとして苦しまないようにひと思いに首を刎ねてやるだけだ。
それらにより周囲はさらに悲惨な地獄絵図の様相を呈していく。

炎に巻かれ、その火を消そうと必死にのた打ち回る者。
首を刎ねられ命の源である血液をもの凄い勢いで噴き出しながら痙攣する死体。
腹を切られそこからハラワタを飛びださせ、それを地面に引きずりながらもなんとか逃げようと無駄な足掻きを行う者。
織田軍兵士にメッタ刺しにされながらも未だに死にきれず、ただ呻くだけの者。

各所に散乱する物言わぬ首なしの死体の山、もはや誰の者か判らない切り捨てられた手足、全山に蔓延する血と肉の焼ける独特な匂い。

まさしく地獄がこの場所に出現したのではと思わせるような凄惨な光景が比叡山の山中にて展開された。






また、この地より脱出を計った比叡山の上僧達もことごとくが捕らえられ信長の前に引き出されてきた。

「頼む! 信長殿、助けてくれ! そうだ! 我が比叡山が長年に渡って蓄えてきた財宝をすべてやる! それで損はなかろう!? だからワシの命だけは!」

「ひっ! わ、ワシを殺せば天罰が下ろうぞ! それでも良いのか!? この日の本中の全ての信者達を全て敵に廻すぞ! それでも良いのか!?」

彼らは総じて見苦しく命乞いを始めた。自分だけは助かろうと必死である。
それに対して信長は問いかける。

「お主らの命令に従った僧兵・配下門徒達はそのことごとくが死んだ。それらに対して今の自分達のその言動、なんたる醜態ぞ」

「そ、そんな事は当たり前じゃ! 我等は比叡山の上人ぞ! それを守るのは当然じゃ! 当然の事をしたまでじゃ!」

勿論、中には立派な人物も大勢いる。あくまでも信仰を第一にし、比叡山の理想を本分とする腐敗していない者達である。
しかしそういう者達は総じて逃げずに最後まで戦い、すでに討ち死にしていた。

「最後に何か言い残す事はあるか?」

「ひっ! 嫌じゃ! 死ぬのは嫌じゃ! 助けてくれ! 頼む!」

「最初の命令通り、情けは無用。全員の首を刎ねよ」

命乞いをする者達を容赦なく切り捨て、さらなる屍の山を築く。








こうして僅か一日で比叡山の各寺社・仏閣が、比叡山にいた全ての人たちと共に、全て炎に包まれる。

信長はその生涯で二度目になる地獄絵図のような光景を眺める。
当然の事であるがこれを命じた信長に後悔の念は無い。
例え何度この場面に出くわそうとも、幾度でも何度でも何回でも、同じ事をするだろう。

これは破壊による再生である。
根本から曲がってしまった樹は、一度根本から切らないと真っ直ぐには戻らない。

だが、その為に生じる犠牲をけして 「しょうがなかった」 などとは言うつもりは無い。
相手の方が悪かったなどの言い訳を言うつもりも無い。
これはあきらかな自分の犯した、背負うべき罪である。

他に方法が無かったのかと問われれば正直な所、他にもいくらかはあるだろう。
ただ、それらの方法により生じる、必要な労力、生じる犠牲、必要な金、費やされる時間等々、それらを総合的に考え、これが一番手っ取り早い方法、味方に一番犠牲が少なく、そして早い方法だと自分が選んだ結果だ。
言うなればこれらの人々は自分の決断で死んだ、自分が殺したのだ。

自分の決断したその結果である。

この地で死んだ全ての人々とその関係者は自分を恨む権利がある。ただし、それについて反省をする気もなければ後悔するつもりも無い。
遥か昔、前の世界において覇道を歩むと決めた時からそう決めたのだ。
これから先、幾千人、幾万人、幾百万人、幾千万人、それより遥かに多い人々の恨み・憎しみを受けようとも、いや、だからこそ自分はけして歩みを止めたりはしない。

それが自分勝手な考えなのだとしても、ただの独善なのだとしても、殺してきた全ての人々の犠牲を無駄にしない為にこの日本から戦を無くし民百姓が平和に暮らせる世界を作ってみせる。
それだけが自分の出来る贖罪である。
そしてもしあの世という物が本当にあるのならば、自分は喜んで地獄に落ちよう。それが自分の成してきた結果であり、また同時に誇りでもある。


この日本は今は戦乱・戦国の世である。人間の持つ限りない無限の悪意が世に蔓延り、それぞれの人間が剥き出しになった欲望を晒しながらひしめき合うのが今の日本の姿である。
その中で、奇麗事のみを口にするだけで世が平和になるのであればいくらでもそうしよう。

だがそうでは無い。それだけでは無意味なのだ。

人を本当に救えるのは同じ人によってのみだ。念仏は心は救ってくれる。だが実際の現世では救いにはならない。
人は産まれたからにはこの現世において幸せにならなければならない。
でなければ辛すぎる。産まれてきた意味が苦しむ為なのか? 不幸になる為なのか?
そんな事は悲しすぎる。

そして信長はそれを否定する、この世で全ての人々が幸せに暮らせるように、その為のあらゆる人に公正な秩序・平和を作ってみせる。
それが信長の目指す天下のカタチ、新しき天下布武のカタチである。















「信長様」

燃え上がる寺社を眺めていると後から近づいてきていた竹中重治が声を掛けてくる。
竹中重治は現在織田家の情報機関を統括する地位にいて伊賀衆・甲賀衆を指揮している。
実力主義の忍者達にその実績・実力でそれを認められその地位についた、まさしく現在の織田家の諜報部隊の長、織田家の支柱の一つとなっていた。

「敵の掃討が完了致しました。比叡山全域にある全施設への放火も完了し、生き残りもおりません。また貴重な仏典・宝物も運びだせるだけ運び出しました」

「で、あるか」

信長は話しかけてきた竹中重治に短く一言だけ返す。そして思い出したように他の気にかかる事について話しだす。

「この比叡山の焼き打ちはすぐに日本全土に知れ渡ろうぞ。その時の武田家の動きが気がかりじゃ。武田家がどう動くか絶対に見落とすな。さらに諜報体制を強化せよ。どんな小さな事でも見逃すなよ」

「御意」

信長が今一番気にしているのは東の武田家である。
虚空に向かってその人物に問いかけるように呟く。

「さて、武田信玄よ、どう動く? 駿河を手に入れる前に動くか? それとも準備を万全にしてからか?」










武田家の上洛は史実では元亀3年(1572年)10月からである。武田信玄は自領周辺の足場固めに時間がかかった為、織田包囲網には途中参加した口である。
信玄が上洛する為にはいくつかの条件が必要になってくる。

まず一つ目は東の北条家との関係が万全である事。
現在武田家は駿河の国をめぐり、今川家・北条家・徳川家らの諸勢力と争っている最中だ。ちなみに武田・北条・今川家で結ばれていた三国同盟はすでに破棄されている。

駿河ではお互いがお互いを牽制しあい、誰もが決定打を打てないというような状況に陥ってしまっている。
その為、駿河を占領しようとも、おそらく史実通りに北条家当主・北条氏康が病死し、それに不安を感じた北条家が再度武田家と同盟を結び直すまでは、西には軍を向かわせる事はできないであろう。

続いて北の上杉家の動きを気にしなくて良い状況を作りだす事が条件のその2である。
但しこれは石山本願寺の力を借りれればある程度は可能である。
史実通りに上杉家に西(加賀・越中方面)から一向衆が圧力をかければ上杉家は武田家への攻撃はできない状況に追い込まれる。

上記の理由がある為、現状においての武田家が西に動いてくるとは思えないと信長は判断している。
勿論当然の事ではあるが、油断はできない。
織田家は義昭の将軍就任を邪魔したり、さらには今回の史実より2年程早い比叡山の焼き打ちである。
武田家の上洛も早くなる可能性が無いとは言えない。

但しその場合は、織田家の思う壺である。

史実での武田家の上洛戦時の戦力は東美濃に秋山信友を大将とする3000。三河に山県昌景を大将とする5000。そして信玄率いる本隊が20000と北条家からの援軍が2000の合計30000である。

これが周辺諸国を気にせずに最低限だけの守備隊のみを残した状態で動かせる武田家の最大戦力である。
またこの時期は武田家の権勢のピークだと言っても良いであろう。これらの万全の準備があってこその、この戦力である。

今、準備不足の状態で動いてくれれば、逆に織田家にとってのまたと無い好機である。
だが、それゆえに信長は信玄がすぐに動く可能性は極めて低いとは思っている。

武田信玄は極めて優秀な戦略家である。そして信長や家康と同じようなリアリストだ。
彼にとっては、現実に目の前にある事実・情報が全てであり、その判断に一切の理想や幻想が入る事は無い。徹底した現実家である。
それらの根拠は彼の外交手法などに見る事が出来るだろう。

だからこそそんな彼の行動の判断基準も極めて現実的である。
大義名分である将軍擁護や比叡山の件もあくまで大義名分であり、それらは彼にとってはあくまでも建前である。
その建前の為に今すぐに無理をしてまで、危険を冒してまで動くとは思えない。
条件にあったように駿河を攻略した上で、周囲の勢力を外交によって抑え、後顧の憂いを完全に無くしてから動いてくるだろう。

ならば織田家としてはその条件を整えられないように邪魔をしてやれば良い。
この時期から織田家は数は多くないが徳川家に援軍を送り、武田家が簡単に駿河を獲れないように邪魔をしたりと、色々と策動している。

少しでも時間を稼ぎ、その間に西方の弱い勢力から一つずつ順番に潰していく。東方はその間は当面放置。
それが今の織田家の戦略である。















<後書き>

比叡山の焼き打ちです。
実はこの作品を書く上で最初に方向性を模索した時期がありました。
一つは今のような覇王な信長。
もう一つが虐殺などをしない物語的な王道君主・信長です。ただこれは早々に諦め、今の形に落ち着きました。
王道君主・信長の場合、自分の書きたかった物の一割も表現できないと思ったんです。
なのでこの物語は最後までこのような感じの話しが含まれますので、それが受け入れられないというような方は十分に御注意頂けますようお願い致します。

そしてこの話し、際どい?内容でしょうか?
どのような感想が頂けますかちょっと怖いのと同時に楽しみです。







[8512] 第18話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/07/19 21:44




※注意 今回、伊勢長島の一向一揆衆との戦いのシーンがあります。ご注意下さい。









<第18話>


永禄13年(1570年)、信長率いる本隊は伊勢長島の地に着陣する。


比叡山を滅ぼした織田軍は、一旦軍を西に転じ、三好三人衆・斉藤・石山本願寺・雑賀衆の連合軍に襲われている摂津の国の後詰めに入った。
こらの地で戦っている反織田連合軍の勢いは凄まじく、織田軍は幾度かの敗北を喫していた。
指揮官である氏家直元が戦死するなど摂津の守備に当たっている織田軍はだんだんと窮地に陥ってきていた。その情勢の梃入れの為、信長は本隊を率い、摂津の国に入る。

信長本隊は摂津各地を転戦し、それぞれの勢力を分断し押し戻した後、各地の石山本願寺・野田城・福島城等にそれらを追い込め、対峙する形に移った。

但しこれらの城はそれぞれ堅城であり、簡単に落とせる物では無い。
よって信長はこれらについては無理攻めはせず、押し戻した事のみで良しとする。
そして摂津の情勢に一段落付けた信長は、新たに動員を行い兵力を増強した後、信長本隊50000を伊勢にむけて転進させる。

その地で戦っていた滝川隊等の20000と合流し、総兵力を70000とした上で伊勢長島の一向一揆討伐を開始する。











まずはこの地の説明をさせて頂く。

この伊勢の長島という地の名の由来は <七島> と言い、木曽川・長良川・揖斐川・の河口近辺の輪中地帯の事で、元の名の由来通り、島の集合体のような地形である。
極めて攻めるに難く、守るに易い特殊な地形である。
この地では本願寺勢力が独立勢力として実権を握っており、その寺領は約10万石と言われている。

その地が各地の各勢力の挙兵に同調し、今回挙兵したのである。

強大なその戦力と、死をも恐れぬ門徒達の集団、そして織田家の所領のど真ん中にあるという勢力版図。
それらは織田家に対してとてつも無い大きな脅威となる……………………はずであった。















船団が滑るように海上を進んで行く。
石山本願寺と雑賀衆の一向宗連合船団である。数は中型船・小型船の混成で組織された約30隻。伊勢長島の地に援軍と兵糧・火薬等の物資を送る事を任務としている。

「前方に船影!」

見張りに立っていた者が大声を張り上げる。
水平線の彼方からかなりの数の船影がこちらに向かって突き進んでくる。

「敵か? 一応皆に戦闘準備をさせておけ」

一向宗の指揮官がその所属不明の艦隊を睨みながら命令を出す。
そして双方の詳細が目視可能な距離にまで来て再度見張りが大声を張り上げる。

「旗印は織田木瓜(おだもっこう)紋! 織田の水軍です!」

「くそっ、ここまで来て! しかもなんて数だ! 畜生! なんとか突破して伊勢長島に入るぞ! 全員戦闘準備だ!」





織田水軍は信長の命令を受け、伊勢長島の地に援軍・物資を輸送するのを阻止する事を目的に日本史で初めてになる国家海軍による海上封鎖作戦を実施。
今回動員されたのはほぼ織田水軍の全戦力といえる安宅・大安宅船を含む総数150隻。

それらが輸送の為にやって来る一向宗水軍の殲滅を目指し伊勢湾に展開したのだ。






織田木瓜紋の旗印を掲げた織田水軍の軍船が出せうる限りの全速力で持って、一向宗水軍に向かって突っ込んでくる。
それを振りきり、なんとか伊勢長島に入城しようとする一向宗水軍。そうはさせじと動く織田水軍。

お互いの距離がどんどん近づいていく。



「放てぃ!」


ドドドドドドドン!!
  ババババババッ!  ドドドドン!!
     ドドドドドン!!



なんとか逃げようとする一向宗水軍の動きを遮るように展開した織田水軍から、次々と大砲・鉄砲の大音声が響き渡る。
その想像を絶する程の火力に、少数の、しかも戦闘目的ですら無かった一向宗水軍に為す術は無かった。

次々とその船体に砲弾・銃弾を受け、バタバタと兵士達が死んでいく。
撃ち込まれた砲弾の直撃を受け、バラバラになる者。
例えその砲弾の直撃を受けずとも、飛び散る船体の破片も十分に殺傷能力を保ったまま周囲に飛散していく。そしてその破片を身体中に受けてしまいただ、のた打ち回るだけの者。
撃ち出される銃弾をその身に受け、死んでいく者。

機先を制され、ただ一方的に打ちのめされる一向宗の水軍。
身体を外に露出させていた者は銃弾に倒れ、漕ぎ手達も全員が死んだ訳ではないが、すぐ側に砲弾が飛んでくるような状態に大混乱に陥る。

統率が利かなくなり一向宗水軍の船は次々とその動きを停め、漂流し始める。
それらの船に、さらに接近した織田水軍の船から次々と焙烙球が投げ込まれ、順次炎上し、破壊されていく。


「くそ! ここまで来て!」 「痛い! 痛い! 畜生!」 
   「助けて! 死にたくない!」 「仏敵がぁ! 仏敵めがぁ!」


一向宗水軍の抵抗も空しく、僅か半刻で全ての船が海の藻屑となった。
海に落ちた者も自身の鎧の重さで沈むか、織田水軍の船上からの槍の攻撃で順次トドメをさされる。









このようにして伊勢長島の一向一揆衆に対する海路で続々と送られてくる石山本願寺衆・雑賀衆からの物資や援軍などは、逸早く展開した織田水軍の海上封鎖に捕捉されその全てが海の藻屑となって行った。
もちろん元から伊勢長島にいた一向一揆衆の水軍は一番最初に織田水軍に叩かれ全滅してしまっている。

現在も織田水軍のほぼ全力を上げた海上封鎖は続いており、海上からの物資運搬は出来ない状態が続いている。

残った唯一の方法は陸路からの輸送となるが、伊勢長島はその周囲の全てを織田領に囲まれている為それも無理である。
史実ではそれでも織田領内の一向衆からの物資の援助などが秘密裏に行われていたりした。しかしこの世界では政府広報などの影響もあり、それもあまり無い。

補給を完全に断たれ、独力で戦わなければならなくなった伊勢長島の一向一揆衆達は元より貧弱であった外征能力を完全に失ってしまう。
その為、今はその寺領地に引っ込み籠城して織田軍を待ち構えている状態だ。




そしてそのような情勢の伊勢長島に織田軍本隊が着陣する。















「一益、秀長、嘉隆、大儀であった。よう持ち堪えてくれたな」

「はっ! ありがたき幸せにございまする」

「嘉隆も特に良うやってくれた。お主の完璧な海上封鎖がなければここまで上手く封じ込めはできなかった。ようやった」

「いえっ、私の力ではなく信長様が整備されました水軍の御力で御座います。我が織田水軍の力、圧倒的にございました」



今回上手く伊勢長島一向一揆衆を封じ込めできたのは、この長年をかけて整備されてきた織田水軍の力による所が大である。

史実においてこの地にてあれだけの苦戦したのにはいくつかの原因がある。、
一つ目はいくつもの戦線を抱えて戦力を分散させられ、最初の内は少数での攻略を強いられたという事。それゆえ容易く撃退されてきた。
もう一つはこの戦線の戦いを、信長が陸戦だと勘違いしていたという事が挙げられる。

そう、この戦線において一番必要なのは水上戦力なのだ。

各島に砦を築き、それらが水軍を使ってお互いを助け合いながら連携して戦うという戦い方を伊勢長島一向一揆衆はしており、陸兵だけでの攻略はほぼ不可能である。
攻め寄せても他の砦よりすぐに援軍が出て叩かれる。またその動きは船を使用している為、どんな所にも上陸可能だ。
攻めたら、いつのまにか囲まれていた、移動したら待ち伏せされていた、などという状態にも簡単におちいってしまう。守備側はまさに変幻自在である。

但しこの戦い方には一つの大前提が必要だ。
それは制海権の確保である。
これらの伊勢長島の水上要塞群は制海権を確保できていなければ、途端に今までメリットであった事柄が一転してデメリットになってしまう危険を孕んだ戦術なのだ。
各砦が連携を失ってしまえばそれは戦力の分散でしかない。制海権を喪えば進むも退くもできなくなる。制海権あってこその水上要塞群なのである。

史実の天正2年(1574年)の織田家の伊勢長島攻略戦が成功したのもそれが理由の一つである。
動員した兵数云々というよりも、九鬼水軍を動員し一番最初に伊勢長島一向一揆衆側の水軍を全滅させる事に成功した事のほうが大きい。












「諜報衆、伊勢長島の各砦にはどれぐらいの兵糧があるか?」

「はっ! 各砦で差がありますが平均して約二月分。篠橋や大鳥居の砦はさらに少なくおよそ1~2週間分にございます。海路を封鎖してからの砦への補給はありません」

「で、あるか」

信長は竹中重治よりその報告を受け、続いてこれよりの作戦の指示を出す。

「これより我等は伊勢長島の各砦を兵糧攻めとする! これより先、彼奴らに絶対補給を許すな! 完全に包囲して人っ子一人、内には入れるでないぞ! もちろん外にも出すな!」

「はっ!」

こうして織田軍は伊勢長島の各砦を陸・海より完全に包囲。兵糧攻めに入る。
こうなると伊勢長島一向一揆衆には史実通りの、ある弱点が出てきてしまう。
伊勢長島の各砦内には戦闘員以外にその信徒の家族等の非戦闘員達が数多いるのだ。その者達が兵糧を余計に消費してしまう。

さらには補給が完全に途絶している。この世界ではかなり早い段階で織田水軍に海上封鎖を受け、想像以上に兵糧に不足をきたしていた。
情勢は伊勢長島一向一揆衆にとっては全てが最悪な方向に向かっていた。








そうして包囲より約4週間が経ったある日、使者が信長の本陣を訪れた。
兵糧攻めに最初に根を上げたのは、元から兵糧に不足をきたしていた篠橋と大鳥居の砦であった。
飢餓の極致に至り、戦闘能力を完全に失った見るも無残な骨と皮だけになった降伏の使者がよろよろとふら付きながら織田本陣にやってくる。

「わ、わ、我等、篠橋・大鳥居の砦の衆、の、信長様に降伏致したく…、ど、どうか信長様に慈悲の御心がありますれば、ど、どうか御助命の程、よろしくお願い致します…」

「よかろう。但し外に出る事は許さぬ。他の砦に移るのであればその移動のみを認める」

「あ、ありがとうございます!」

兵糧が無くなり、飢えが極限にまで達した篠橋と大鳥居の砦の門徒衆が息も絶え絶えに、信長に降伏を申し出る。
信長はそれを受諾。但し包囲の外に出すのでは無く、他の砦に行くように指示を出す。その時に鉄砲などの武器は没収。丸腰の状態で他の砦に移動させる。

助かったと兵糧の無くなった砦を出て他の砦に移動する門徒衆達。
しかしこれは信長が慈悲の心を出して助けてやったのでは無かった。
これは他の砦の兵糧の消費量を増やす為の作戦なのだ。そしてその読み通り、篠橋・大鳥居の砦の人数を内に入れた各砦はさらにその飢えを加速させた。





そしてさらに一ヶ月後、他の全ての砦でも飢えは極限に達し、凄まじい惨状が伊勢長島の地に拡がる。

いたる所に餓死者の死体が転がり、食べ物を求めて腹を餓鬼のように膨らませた者達があたりを彷徨い歩く。
飢えのあまり逃げ出そうとする者達は全て織田軍兵士に斬られ、砦の中に押し戻される。
そして限界を越え、動けなくなった物達が老若男女問わず、絶望感を漂わせながらただ砦とその周囲にて座り込む。







もはや限界を越えた。

それを悟った伊勢長島一向一揆衆の総司令官であった願証寺証忍は自分の首及び他の伊勢長島一向一揆の指導者達の首と引き換えに降伏を申し出る。
























「断る」

「なっ!? ど、どういう事にございまするか!?」

一向衆より使者として降伏を伝えに来た使者はその信長の言葉に驚愕する。

「断るといったのだ。降伏は認めぬ。早々に砦に戻れ」

「こ、これまでは降伏をお認め下されたではございませんか!? それに此度は証忍様や他の指導者様達もその首を差し出すと仰せです! これ以上何をお求めでございますか!?」

「聞こえなんだか? 降伏は認めぬといった。早々に砦に戻り戦の準備を致せ」

「お、お、おのれ! おのれ! 信長! 貴様は鬼じゃ! 悪魔じゃ! この仏敵めが! 仏罰がくだろうぞ!」

「情け無用。叩き出せ」

信長は使者をそのまま砦に叩き返す。



「よろしいのですか? 不都合がでてくるやもしれませんが?」

「かまわぬ。一罰百戒。良い見せしめにもなるし、この地の一向衆は一度根本から絶たぬとまた何度でも同じ事が起きようぞ。情けは無用。撫で斬りじゃ。皆に準備をさせよ」

「かしこまりました」

問いかけてきた竹中重治に答え、新たに防戦命令を織田軍全軍に発令する。





信長は二度目の天下布武を始めるに当たって、一つだけ前回の世界の反省点より、決めていた事があった。

それは嘘を付かない事である。

但しそれは馬鹿正直という訳では無い(例えば浅井家を攻め滅ぼした時のように)
君主としての立場にいる者として、発言した事にきっちりと責任を持つという意味である。
だからこそ、助けるつもりの無い者に助けるなどとは言わない。
前史のように一度降伏を受け入れてから騙し打ちをするなどという事も二度とする気は無い。粛々と全てを殺す。




物事には必ず裏と表がある。それは国家でも例外では無い。
またこれは第15話で信長の語った <国家はその表面に正義・大義の衣を纏っていなければならない> という事でもある。
その内心及び裏で、どのような動き・思いをしていようとも、民衆達に見える表の部分は常に正義・大義の衣を被せて糊塗していなければならない。

それが大義名分という物である。

この時代の常識は現代の常識とは違う。
当時の人の命の価値というのは極めて安い。それこそ消耗品扱いである。

またこの時代の民衆支配において恐怖というのは一つの重要な要素だ。
もちろん恐怖だけで支配してしまえば、民衆たちは反乱を起こすだろうが、逆にそれが無くてもすぐに統制が利かなくなる。
それと同じく度を越えた優しさもすぐに命取りになる。
ようは飴と鞭、そのバランスである。

優れた国家には、民衆達を幸せに住まわせる事のできる善政と、その民衆に自身の施政を実施させる事のできる強制力(絶対的権力)との両方が必要だ。
政治は奇麗事では無い(但しあくまで中世の話しであり現代の話しでは無い)
君主というのは常に自国の利益を追求している物だ。そしてそれは奇麗事だけでは語れない。










包囲している各将の陣に伝令が走る。
そして万全の状態で待ち構える織田軍と追い詰められた伊勢長島一向一揆衆の最後の戦いが始まる。











<後書き>

皆様、いつも感想・御指摘ありがとうございます。
いつも常に熟読させて頂いております。本当にありがとうござます。


それとお知らせ。

この物語の題名を変更しようと思います。
何故かと言いますと、一つの指摘があったからです。

「某ゲームメーカーのゲームタイトルと同じ題名だけども問題無いの?」

良く考えたらその通りでした(←最初に配慮するべきような事柄でしたが全然そのような意識がありませんでした)
問題無いのかもしれませんが、万が一なんらかのクレーム、もしくは荒れの原因になるのも嫌なので変更させて頂きます。
ただ、まだ新しい題名は考えてませんので次回更新時に変更させて頂きます。
その時、表示は
○○○○(旧題 信長の野望 第六天魔王再生記)
という感じになります。

どうかよろしくお願い致します。





<追記>

感想で指摘を頂きました分、変更できる分は変更させて頂きました。
年号とかはその根拠とか全然知らないままで書いてました。不勉強で申し訳ございません。

どうもありがとうございました。









[8512] 第19話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/07/19 21:39





※注意 前回に引き続き、伊勢長島の一向一揆衆との戦いのシーンがあります。ご注意下さい。








<第19話>



「うおぉぉぉおぉぉ! 仏敵信長を殺せい!」
「南無阿弥陀佛! 南無阿弥陀佛!」

降伏が認められず、行き場を失ってしまった一向一揆衆達が一斉に突撃に移る。なんとか織田軍の包囲網を突破し、脱出せんとの行動である。
だが衰弱しきっており、骨と皮のみになった餓死寸前の彼らにそれを成功させるだけの力はもはや残っていなかった。



「鉄砲隊、放て!」 「大筒隊、撃てぃ!」


ババババババババン!    ドドドドドドン!
       バババババババババババン!
   ババババババババン!
           ドドドドドン!



準備万端、その攻撃を待ち構えていた織田軍の水陸両方の野戦陣地防衛線より、想像を絶するほどの火力が一向一揆衆達に叩きつけられる。
この時の事を予想し、包囲当初よりじっくり練られてきたこの防衛線は、相互支援を万全にし、また兵達もよく訓練されていた事から考えうる最大効率で一向一揆衆達に死を叩きつけた。


「ぎゃっ!」「ひぃぃ!」「た、助け…!」


その火線に絡めとられた者達がバタバタと撃ち倒されていく。
数少ない、僅かに残った一向一揆衆達の船もすぐに大砲に大穴を開けられ、鉄砲に穴だらけにされ、焙烙玉を投げ込まれ、ズブズブと沈んでいく。
彼らの攻勢は長くは持たなかった。
中には織田軍防御陣地に運良く到達した者達もいたが、その先にあった槍衾に絡めとられ全てを討ち取られていく。




攻撃は半刻ほどで終了した。

それ以上の戦闘を継続するだけの体力を、もはや彼らは持っていなかったのだ。
皆、無秩序に散り散りに逃げ散ってしまう。
ある者は砦に向かって、ある者は僅かな奇跡を信じて包囲を抜けようと織田軍防衛線のある方向に向かって、バラバラに逃げ始める。







そしてそれを待ち構えていた織田軍が行動を開始する。

「彼奴ら全員、砦に押し込めよ! 全てを焼き払う!」

信長の号令一下、一向一揆衆の立て篭もる各砦に向けて織田軍の総攻撃が始まる。
そこに行くまでの各所にいた、ただ蹲り、飢えの為にすでに動けない命乞いをするだけの一向一揆衆達を、戦闘員・非戦闘員、兵士・女子供の区別なく、全て撫で斬りにしながら織田軍は各砦に殺到する
すぐに各砦は完全に柵によって封鎖され、その周りにありとあらゆる可燃物が渦高く積み上げられていく。



そして四方より一斉に火が放たれる。



その炎は天高く全てを焦がさんという程、高く、高く、立ち昇っていく業火となった。




「ぎゃーーー! 熱い! 熱い!」
「助け…、助けて! 死にたくない!」
「南無阿弥陀佛! 南無阿弥陀佛! 南無阿弥陀佛!」
「信長め! 信長めぇぇぇ! 恨んでくれる! 憎んでくれるわ! 」





破壊の炎は砦内にいた全ての人・物を飲み込んで燃え盛る。
今日この日に、この地でこの炎に飲み込まれて逝った人の数は、戦闘員、非戦闘員、老若男女を問わず、その数約2万にのぼった。

そしてこの所業はすぐに日本全国の津々浦々に伝わる事となる。
先の比叡山焼き打ちと合わさり、織田家の悪行と共に、織田家への大きな恐怖を全国の大名達に刻み込む事となった。

















伊勢長島の一向一揆衆達を地獄の業火の中に叩きこんだ織田軍将兵はすぐに信長の元に集める。
信長はすでに頭を切り替え、すでに次の戦術を思考していた。すでにその頭に伊勢長島の一向一揆衆達の事は無く、考えるのは次の敵の事であった。

「これで伊勢長島の一向一揆衆達はしまいじゃな。皆の者、良う働いてくれた。だが戦いはこれで終わりでは無い。摂津の情勢がまた悪化しておる。すぐさま摂津に戻るぞ。全軍支度をせよ」

織田軍全軍は休息も僅かに西に向かって反転。
摂津に向かって進軍する。

「急げい! 休むは完全に勝てし後ぞ!」

整備された道路を猛進し、短時間で織田家は摂津に戻ってくる。
この戦略機動、そしてそれを忠実に実行する統率された軍隊。それが織田軍の最大の特徴である。




















<摂津の国 石山本願寺>


石山本願寺法主・顕如は各地より届けられる、その一気に悪化してしまった周囲の情勢に驚愕する。

「なんやて!? 伊勢長島が全滅やて!?」

「はっ! 各砦共、織田軍の兵糧攻めにやられ、飢えにより動ける者はおらず、一斉に火をかけられ全滅との由にございます!」

「皆殺しか!? 信長め、分別の無い童や無いやろうに! これが一大名のする所業か!?」

石山本願寺法主 本願寺顕如のその言葉に下間頼廉(しもつま らいれん)が答える。
この情報は石山本願寺にとっては危機的な情報だ。
包囲網の一端、北の朝倉家が現状なんの役にもたっていない今、織田家所領のど真ん中にあった伊勢長島の一向一揆が消滅した事により、全ての織田軍がこの摂津に集まってくる事が可能となってしまったのだ。

「あかん……。あかんで……。このままやとまずいわ……。頼廉、東の武田はまだ動かへんのか?」

「はい。信玄殿は駿河で足止めを受けており、いまだ動く気配はありません」

この石山本願寺は堅城であり、例え織田軍が大軍で攻めてこようとも簡単には落ちはしないだろう。5年ぐらい持ち堪えてみせる自信はある。
だが石山本願寺単独で織田家に勝てるとも思えない。
顕如は戦略を練り直す必要性を実感する。

「(どないしたらええ……。どないにか織田軍を分散でけへんか?
北の朝倉は……、あかん。あいつら全然役にたてへん。もうちょっと気張るかと思うたんやけどな。
三好三人衆も役にたてへんし斎藤龍興はそれに輪をかけて役立たずや。
紀伊の国から雑賀衆達に攻めさせてもう一つの戦線を作るか…? あかん。どっちにしろ紀伊やとこの摂津から近すぎるわ。
それやとただの兵力の分散。逆にこっちが各個撃破されてまう。
やっぱり東の武田家が動かん事には……。
あかん。思いつかへん。手詰まりやわ)」




思案しても良い作戦が思い浮かばない。
そして顕如は一つの決断を下す。

「頼廉、京の帝の所に使者を送るんや。今回は残念やけどここで終いや。織田家と講和する。帝に講和を仲介してもらうんや。信長も帝の意思やったら無視せえへんやろ」

優秀な戦術家である顕如は、武田家が動かない今、これ以上の抗戦は損害を広げてしまうだけであると判断。
一旦停戦する事を決断する。

「くやしいけどな、今回は織田家を甘く見すぎてたわ。これ以上はあかん。無意味や。今は雌伏の時やで。頼廉、なんとか講和に持ち込むんや」

「はっ! 承知致しました!」








こうして戦況不利となった石山本願寺は内裏に働きかけ、正親町天皇からの仲介を得る形での講和を目指し動き始める。



だがその間にも信長本隊の合流した織田軍の猛攻が始まる。
顕如は戦力の保全の為、一向衆・雑賀衆兵士達を石山城にまで撤退させる。
実質、三好・斉藤連合軍を見捨てたのだ。

信長も強大な石山本願寺との戦いは避け、野田城・福島城に籠る三好・斉藤連合軍にその攻撃の矛を向けた。

その信長本隊の合流した織田軍の攻撃は猛烈な勢いで、敗戦濃厚となった三好・斉藤連合軍からは内通し、裏切る者達が出てくる。
たちまち斎藤龍興、それに三好三人衆の一人、岩成友通(いわなりともみち)が討ち死にするという敗北を喫する。

落城寸前にまで追い詰められ、野田城・福島城の防衛側が降伏を考えていた時にようやく待ちにまった報告が届く。


信長の元に正親町天皇からの使者が訪れたのだ。


使者は本願寺側からの講和に意思を伝える。
信長もすぐにはどうこうできない石山本願寺を相手に消耗戦を戦うのを 「いまは得策にあらず」 と判断し、また帝の仲介もありその講和に応じる。





こうしてこの講和をもって、第一次信長包囲網は崩壊する。

但し講和条件は織田家に有利な物となった。

石山本願寺は元の寺領のまま原状復帰。占領していた地は全て放棄。
雑賀衆等の傭兵集団は石山本願寺を出て紀伊に退出。
三好・斉藤連合軍は野田城・福島城を織田家に明け渡し阿波に撤退。
伊勢長島の寺領はそのまま織田家の所領となる。
朝倉家とも講和が結ばれ、木ノ芽峠以東に撤退・原状復帰。


以上の条件により、近畿は一旦、平和を取り戻す。





たが当然の事であるが、石山本願寺が本心から屈伏した訳では無い。
あくまで次の戦争のための講和である。これより後、本願寺は武田家の上洛の為の準備を整える事に尽力する。


しかし、この講和により得られる時間という物は織田家にとって途轍もない貴重な物である。
この時間を使い、信長はさらなる戦略を推し進めていく。















<参考までに>


史実での第一次信長包囲網参加勢力

『京都方面』
足利義昭
比叡山

『北部』
浅井長政
朝倉義景

『西部』
石山本願寺
雑賀衆
三好義継
三好三人衆
斎藤龍興

『内部』
松永久秀
六角義賢
伊勢長島一向一揆衆

『東部』
武田信玄







この物語での第一次信長包囲網参加勢力


『京都方面』
比叡山   ←滅亡

『北部』
足利義昭  ←講和 原状復帰
朝倉義景  ←講和 原状復帰

『西部』
石山本願寺  ←講和 原状復帰
雑賀衆    ←講和 原状復帰
三好三人衆  ←講和 大打撃を受け撤退
斎藤龍興    ←滅亡


『内部』
伊勢長島一向一揆  ←滅亡












<後書き>

第一次信長包囲網は武田が来る前に包囲網側がギブアップし、休戦という形になりました。
ちなみに本願寺顕如が関西弁なのはヤンマ○で連載中のセ○ゴクを呼んでる影響だったりします。




<それとお知らせ>

来週末にもう一話更新してからまた前のように少しお休みさせて頂きます。
次々回の更新は8月の中頃~末になると思います。







[8512] 第20話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/08/10 01:09



<第20話>



織田家の領地では日々、様々な人が道を行き交う。

その領内においては長年に渡って戦らしい戦も無く平和を保っており、この戦乱の世においては比較的平穏で平和な地域となっていた。
また信長の善政により、治安も良く、税も安い。そして所によっては楽市楽座もある。
それゆえ他国において戦乱に苦しむ民百姓・商人達が続々と織田領になだれ込んで来ており、日本で一番の経済圏を作り上げていた。







「なあ権平、今月の政府広報はもう読んだか」

「ああ、読んだで。なんでも織田の殿様はまた帝から官位を貰うたらしいのう。従三位・参議ってやつ。まあワシにはそう言われても凄いんか凄ぅないんか、よう判らんけどな」

「いやそっちじゃなくて比叡山と伊勢長島の一向一揆の件の方」

「なんや、そっちかい? もちろん読んだで。それがどないしてん?」

ここは織田家直轄領、堺の町。
その堺の町で商人をしている庄蔵に話しかけられた、同じく商人の権平が答える。

「いや、比叡山と言い伊勢の長島と言い、皆殺しだったという話しじゃないか? そんな事して大丈夫かいう話し」

「それも書いてあったやないか。自業自得やて。比叡山さんも京の町でごっつ悪さしてたからなー。しゃーないんちゃうか? それにワシ等とは何の関係も無い話しやろ。どーでもええわ」

「だけど石山本願寺の坊さん達は仏敵だ、仏罰が下るとかなんとか言ってるだろう。なんかヤバい事が起こったりしないのかな?」

「阿保か。そんな物ある訳無いやろ。本当に天罰があるんやったら、戦(いくさ)ばっかりしている侍達はとうの昔に全員くたばってるはずやで。
それに政府広報にも信長様の言葉が書いてあったやないか。
 『仏罰を下すというのなら今年中にこの信長の上に降らせてみせろ』 って。
そんで実際何も起こってへんしな。所詮そんな物やろ。
もしくは政府広報に同じく書かれとったように、正しい行いをしたんは織田様の方で、比叡山と伊勢長島の方が間違ってた言う事ちゃうんかな? せやからあいつら天罰が下ってもうたんや」

「……なるほど。そう言う考え方もあるんだな」

「そや、深く考えすぎやで。それに京都本願寺さんは 『門徒は戦したらアカン』 言うてるやろ。 『それに反したら極楽行かれへんぞ』 とも言うてるしな。やっぱ織田様が正しいんやろ」

権平の言葉に庄蔵はどことなく納得できなさげな様子ではあったがその話題を打ち切る。







織田領内においての、今回の比叡山と伊勢長島の一向一揆への焼き打ちに対する反応は、だいたいこの二人と同じような反応であった。
基本はほぼ無関心であり、あくまでも対岸の火事でしかなかった。

『織田家が自分達の生活を守ってくれて、さらに税金も安い、治安も良いのであれば特に気にしない。政府広報でも悪いのは向こうって言ってるのだからそれが正しいのだろう……』

大多数の意見はほぼ上記のような物である。
彼らにとって、自分達に直接被害が及ばない限り、人死に自体は特に問題にはならなかった。あくまで戦国の世であり、人が死ぬ事自体については日常茶飯事なのだ。
民意が低い事、人の命に対する価値観の低さから 『人が死んだのか? へぇー。それで? それがどうした?』 という話しでしか無かった。

あくまで問題になるのはそれが正しい行いなのか、否かだけであり、織田家から正しいという情報を繰り返し流されればそれを素直に信じた。
彼らは自分達の生活を守ってくれている織田家の実績を重視したのだ。




もちろんこの焼き打ちに関して少数ではあるが憤慨するような者達ももちろん居る。それに寺社勢力は総じて反感や危機感を持っている。
それに織田家の領外では、噂の方向次第・解釈次第という所もある。
但しこれらは今の所、実害の出るようなレベルには達していない。

総合的に評価すれば、大きな混乱も無く、無事に事態を収まるべき所に収める事に成功したと言えるだろう。



織田家の各領内・各都市においては、年を追うごとにその繁栄を増していき、それによりさらなる民百姓からの尊敬や信頼を勝ち取っていった。
それが事態を良い方向に導いたのである。

















<美濃・岐阜城>


「御屋形様、御帰還!」

先走りの武者が声を張り上げながら駆け抜ける。
第一次信長包囲網を粉砕した信長が居城・岐阜城に帰還したのだ。


信長は広間で家族の出迎えを受ける。

「父上、お帰りなさいませ」
「お前様、此度の御戦勝、おめでとう御座います。無事の御帰還、嬉しく思います」

奇妙丸(信忠)に正室の帰蝶。その脇には側室の市姫、虎姫(井伊直虎)、それに下の子供達、茶筅丸(信雄)・三七丸(信孝)等々も後に控えている。

「うむっ。皆々、出迎え御苦労」

どかりと座敷に座る信長。
武器・具足を外し、身体を締め付けていた圧迫感から解放されるのと同時に、ようやく心にも安らぎを感じる。やはり家族の幸せな顔を見るのは大いなる安らぎであり癒しであった。

「帰蝶、留守中大事は無かったか?」

「はい。特に何も問題はありませんでした」

「それは重畳」

すると、信長と帰蝶が会話している横から奇妙丸が話しに割り込んでくる。

「父上! 御帰りになってすぐで誠に申し訳ございませんが御願いが御座いまする!」

「突然如何したか? 奇妙」

「はっ! この奇妙も今年で15歳! 父上の手伝いの出来る年に御座います! ただこの城にノウノウと守られているだけでは納得いきませぬ! ぜひ元服し初陣を飾りたく思います!」

「き、奇妙! そ、そんなに突然なにを言うのです!? まだ早くはありませんか!?」

「いえ! 母上、遅いぐらいです! この奇妙、その為にずっと鍛練を欠かさず、精進して参りました! 働けます! 働いてみせます! 父上の御役に立ちたいのです!」

突然の奇妙の願いに母親である市姫が反射的に止めに入る。
だがそれを振りきり、奇妙丸は父親である信長にさらにずいとにじり寄って、強く願い出てくる。その二人の様子に信長は楽しそうに笑いだす。

「ふはははははは! 奇妙! その心根見事よ! それでこそ我が自慢の息子、織田の嫡男よ! あい判った! 許す! 早々に段取りしようぞ!」

「そ、そんな!? まだまだ早くは御座いませんか!? こ、こんなに小さいのに戦場なんて早すぎます!?」

「市よ。これはワシも前々からもうそろそろと、考えていた事でもある。お前が心配なのは判る。母親にとって子供とは、いつまでも小さく、愛おしい存在じゃ。だがこれは武家に生まれたからには避けては通れぬ道ぞ。
信じてやらぬか。我等の自慢の息子ぞ。
大丈夫。奇妙なら大丈夫じゃ。それにワシもついておる。臣下の者達も剛の者ぞろいじゃ。案ずるな。大丈夫じゃ」

「の、信長様……」

「母上。心配には及びませぬ。私も初陣で無茶をするつもりもありませぬ。どうか笑って許して下さいませ」

市姫も大名の側室である。理性ではそれが仕方のない、避けては通れぬ道だと理解している。だがあまりに突然の事態に、母としての感情がそれを止めようとし、葛藤してしまう。
思わず後から奇妙に縋りつき、守るように腕をまわし抱きしめる。

「そ、そうですね、奇妙ももういつのまにか15歳。いつまでも子供では無いのですね…」

奇妙を抱き締め、目に涙を浮かべながらも、なんとか話し始める。

「判りました…。これも奇妙が一人前の男の子に育ったという証拠なのでしょうね。そうであれば母としてこれは喜ぶべき事。
本当に、あんなに幼かった奇妙がいつのまにかこんなに大きくなって…」

「市よ。そんなに心配するな。初陣といっても今すぐという訳では無い。それに大事無きように準備も万全に整える。
我等が大事に大事に育ててきた奇妙の晴れやかな門出じゃないか。笑って祝ってやろうではないか」

「そうですね。その通りですね。これは慶事ですからね…」



信長の優しい言葉に市姫もなんとか落ち着いてくる。
もう大丈夫と判断した信長は話題を変える事にする。

「ちょうど良いので皆に言っておこう。これは今すぐにと言う訳では無いが将来、居城を移す予定じゃ。この岐阜より南近江の安土という地へ移るぞ」

「まあ、お忙しいこと。この岐阜では西に向かうに遠すぎますか?」

「流石帰蝶よの。その通りじゃ。この岐阜では東に寄りすぎておる。京の町からも遠い。そして織田のこれからの向かう先は東よりもまずは西に向かってじゃ。その為にはこの岐阜では少し難儀であるからの」

「屋敷は出来ておるのですか?」

「まだじゃ。城自体もできるのに数年はかかろう。ある程度経ってからの話しになるので今すぐにでは無い」

「ならばまだまだ当分は先ですね。ゆっくりと準備をさせておきます」

「頼むぞ。それともう一つ」

信長は皆に向きあいながら話し始める。

「茶筅(信雄)と三七(信孝)についてじゃが、元服してからになるが、茶筅は柴田勝家の所に、三七は羽柴秀吉の所に、それぞれ養子に出そうと思う」

「えっ!?」 「と、殿!? 一体何を!?」

それぞれの母親が驚きの声を出す。
ちなみにそれぞれの生母は、茶筅が奇妙と同じく市姫。三七が虎姫である。

「共に我が織田家の重臣であり、それぞれ10万石以上の所領を持つ大身の身である。じゃが同じく二人共嫡男がおらぬ。口には出さぬが家の将来に不安を抱いておろうな。
そこで主君であるワシが実子である茶筅と三七を養子にと言えば二人は大いに喜ぶであろう。
それにこれは織田家の為にも、奇妙の為にもなろう。二人がそれぞれ柴田・羽柴を率い、将来の織田家を支えてくれればこれ以上心強い物は無い。
毛利の両川のような存在になってくれたら良いと思うておるのだ……って、こりゃ、何をする。落ち着かんか!」

だが、二人の母親は最後まで信長の話しを聞いていなかった。
それぞれ信長の所に詰め寄って来る。



結局、二人の母親の説得には三日かかった。これについては例えば信長が二人に高圧的に命令すれば何の障害も無く、すぐに事は進むであろう。
だが信長は家族の間ではそれをしたくはなかったのだ。
じっくりゆっくりと二人と話し合い、その必要性を説明し、二人から了承を貰うまでにかかった時間が三日である。
少なくとも家族の父親としての信長は良き父親であり、家族に誠心誠意で向き合っているのだ。
だからこそ、妻達も子供達も本心でもって返してくる。でないと家族からの本心からの信頼が得られない。





その後、養子の件は柴田勝家・羽柴秀吉の二人に伝えられ、二人を大いに喜ばせた。
彼らも嫡男がいないという原状に不安を抱いていたのだ。
さらに言えば主君の子を養子にするという事は他のライバル達に自家は特別なのだと主張できる。養子に入ったとは言え、主君の実子というのはそれなりの重さを持つからだ。

こうして話しはトントン拍子に進んだ。
養子縁組は二人が元服してから。そして二人の正室はそれぞれの家で決めていい事が決定された。
これは二人の正室をそれぞれの家の関係者から出す事で、次に産まれてくる後継者は、その身の半分を織田家の血で、半分をそれぞれの家の血で、という具合にする事により家臣達の支持を受けやすくする為である。




こうして織田家は自家の内部の団結を固め、さらに未来に向かって突き進んで行く。















<後書き>


羽柴秀吉の子供に関しての御説明ですが、長子として、羽柴秀勝(石松丸)という子供がいたのか、いなかったのかの二説がありますが、この作品では存在しない説を採っております。
後、作者の勝手な解釈でありますが、私は秀吉という男には種が無かったと思っております。
あれだけ色々な女性と致しておきながら、存在する(と言われている)子供がこの石松丸と淀殿との間に産まれた二人というのは少なすぎます。
特に淀殿との間に産まれた二人は怪しすぎるのでは、と個人的には思っております。

よって上記のように勝手ながら設定させて頂きました。
どうか御了解の程、よろしくお願い致します。





<追記>

前話でちょっとお休み云々と書いてましたが、そんなに忙しくならないようなので更新できるかも?
できるだけ頑張ってみますのであまり期待せずにお待ち下さいませ。

それと物語りの最初の方をちょこちょこと修正させて頂いております。
今さらながら最初の方を読むと自分でも何でこんな書き方・描写したんだろうと思ってしまいます。
そう思えるのは作者がホンの少しでも成長できたと言う事なんでしょうか?
一度御目を通して頂けますと幸いです。

まだまだ物語りと呼べるレベルではないでしょうが、これからも全力で頑張って行きます。
これからもどうかよろしくお願い致します。






[8512] 第21話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/08/16 17:55




<第21話>


「行けい! 攻めよ! 攻めよ! 城は落城寸前! 武功は目の前ぞ!」

「おおおおう!!」


永禄14年(1571年) 織田家は西において新たに軍を動かした。
丹後の一色義道と但馬・因幡の二国を領有する山名祐豊(やまな すけとよ)攻めである。
前年、包囲軍と講和を結んだ事により現在織田領内で戦が行われている地域は無く、余力のある織田家はその力を西にむけたのだ。










「見事な采配じゃな。それに廻りの若い者達の働きも抜群じゃ。信長様も良い御子をお持ちじゃ。よほど教育が良いのかな? ふふっ、流石、子煩悩大将ぞ。皆も見習わなければのう」

攻城の全体の様子を見れる小高い丘の上に自隊を布陣させている明智光秀は自身の側近達に向けてそう呟く。

今回の遠征は、攻める敵の規模からすれば過大な程の戦力(65000)を準備して行われていた。
それもそのはず今回の目的は領土の獲得の他にもう一つあったのだ。

織田信長の嫡男、元服し奇妙から信忠と改名した織田信忠の初陣である。

それに合わせて信忠近習として育てられていた藤堂高虎も今回初陣を迎え、同じく井伊直政も若年ながら信忠の小姓として付いてきていた。
さらにそれに加え、織田家の若い力である諸将、娘婿である蒲生氏郷(賦秀 ますひで 以後氏郷で統一)、一門衆からは織田(津田)信澄、それに堀秀政・堀直政、田中吉政等々の者達も従軍している。
まるでこの場は織田軍の調練の場に化したかのような様相を呈して来る。









 うおおおぉぉおぉぉぉぉ!!
  行けぃ! 行けぃ! 守備兵は逃げ出しておるぞ! これぞ好機! 塀を乗り越えよ!
         一番槍はこの藤堂高虎が貰った!
  おおおおぉぉおぉぉおぅ! 見事! 我等も負けられぬ! 後に続けぃ!

 

織田軍の猛攻に籠城側の守備が綻び逃げ出し始める。それを見た織田軍の将兵が続々と塀を越える。
そのすぐ後に侵入した兵達の手によって内側から城門が開けられ、織田軍将兵が城内に雪崩れ込んだ。



その戦場の空気に感化され、前線に走り出しそうになる信忠をすぐ傍にいた島左近が押しとどめる。

「若殿、ここは一息の間を置き、心を落ち着け大将はむしろ後ろに下がるのです。そして冷静に全体の動きに眼を配りなさいませ。大将は前線の混乱に巻き込まれてはなりません。
前線で戦う事が大将の仕事では御座いませんゆえ」

「わかっております、左近殿。大将の仕事は采配を執る事。けして蛮勇にあらず、ですね」

「然り。大将には大将の仕事があります。それをどのような状況にあろうとも忘れぬ事が肝要かと」

織田信忠の傍らには信長より付けられた側近の島左近が常に守っている。
そしてその持てる軍略の全てを信忠や井伊直政らに教えていた。左近自身も、この教えがいのある素直で利発な若武者達を大いに気に入っており、なにくれと無く世話を焼いていた。


その後、織田軍の猛攻の前に守備側が降伏。城は陥落した。











「これで織田家は安泰でござるな。誠に見事なる若殿の御采配にございまする」

「然り。若き者達も見事な武働きにて、こりゃ我々も、うかうかとしておれませぬな」

信長本陣でも重臣である羽柴秀吉・滝川一益などが信長の前で信忠など諸将の武働きを褒めていた。
皆、圧倒的な勝ち戦である事もあり、その表情は一様に明るい。上機嫌である。

褒められている織田信忠であるが、信長自身がその教育を行った事によりある一定以上の能力を身に付けていた。
もちろん冷静に、公平に、その能力を判断すればまだまだ経験が圧倒的に足りていないのでこれからに期待という所であろう。
褒められているのも幾分か(というか大部分は)のお世辞が含まれている。

しかし土台としての戦略認識・情報の重要性・讒言を退け諫言を入れる度量の大きさ等々、君主に必要であろう事柄は信長に幼い頃から何度も繰り返しキッチリと叩き込まれている。
信忠自身も極めて生真面目な性格で、常に周囲に対して公平であろうとする人物に育っていた。
信長は自身と違うその息子・信忠の性格を実に好ましく思っている。



道を切り開く信長とその切り開かれた道を継ぐ後継者である信忠に求められる役割は全然違う物だ。

乱世は信長が終わらせ、その治世を信忠が治める。
その時、信長の苛烈な性格より、信忠の温和な性格の方が良い。皆、その温和さに安心感を覚えるであろう。

覇道の果ての全ての悪名、全ての憎しみは信長が脊負い、あの世まで持って行く。信忠は奇麗な所だけを歩んでいけば良い。
全てはこの日本を少しでも良き国にするために……、である。











そして話しは変わるが織田軍内では今回のこの一連の戦において、いくつかの軍事改革のテストも同時に行われていた。

まずは新たな補給態勢の整備。
織田家では今まで以上の鉄砲・大砲の大量配備、それに大軍の動員により、年々運ばなければいけない物資の絶対量が増え補給に関する負担が増してきている。
それに対処する為、今回の遠征より補給隊用に大量の、欧州で使用されているような4輪幌付き馬車の配備が始まったのだ。
これは岐阜工廠において職人達が開発した物である。

馬車は大型ゆえ、通れる道が限定されてくるが運べる量及び効率が全然違ってくる。
これにより今までの荷駄隊よりも早く、大量に補給物資を運べるよう目指して整備していく。



続いて斥候隊の整備。
織田家では織田信長の情報最優先の方針の元に、軍組織でもそれが採用される事になった。
織田軍では斥候隊を 小斥候・中斥候・大斥候 と三つに分け、それをシステム化し全体に義務付けしたのである。

具体的に書くと、まずは小斥候。
これはだいたい2~10人で構成され、二刻に一回、四方八方に向けて派遣される。

次に中斥候。
これは約15~40人で構成され、半日に一回、四方八方に向けて派遣される。

大斥候は所謂威力偵察の事であり、これは指揮官が必要だと思ったら随時派遣される。規模も指揮官の判断による。

ちなみにこれらは昼間・夜間を問わず行われる。
つまり織田家の全ての部隊は作戦行動中は必ず一定時間ごとに

小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→以下エンドレス

と行われる事が義務付けられたのである。
これを怠り敗北した場合は誰であろうと厳罰に処される。
これが完全に100%実施させる事ができれば、織田軍が奇襲を受けるなどという恐れはまず無くなるであろう。

例えば小斥候が敵の阻止網にひっかかり、全員討ち取られ戻ってこないという事が起こったとする。
ただそれはそれで異常を知る事はできる。
小斥候が戻らなかった場合は非常事態であり、その場合は中斥候以上を臨時に派遣する事が同じく義務付けされているからだ。



これらの改革のテストとしてこの戦いが選ばれたのである。

また織田家では現在、これらの補給隊・斥候隊の方に馬匹が優先的に配備されている。
それゆえ織田軍内では騎馬隊の割合が他の大名家よりも随分低くなっている。その戦力低下の分をさらなる火力の増強により補う方針だ。
世界に先駆けた大火力物量主義である。









こうしてこの戦いは比較的短期間で終結する。

丹後の戦国大名 一色義道はその領地に悪政を布いていた事で有名な人物であった。
それゆえ圧倒的な織田家の軍勢に攻められると、すぐにその配下の国人衆・民衆共、織田家に内応し自壊。行き場を失った一色義道は中山城にて自害した。

但馬・因幡を領有する山名祐豊も領国を二つ領有してはいるが、纏まりにかける上、二か国合わせて20万石ほどの大きさでしかない。
史実でも方面軍を率いる羽柴隊の一軍を相手に敗北した程度の力でしかなかったのである。
二月ほどの抵抗で全土を占領され、山名祐豊は西国に落ちて行った。
こうして織田家は西において丹後12万石・但馬10万石・因幡11万石の平定に成功したのである。






また織田家のこの年の西方での侵攻はこれだけでは無い。
織田家の調略は別の所でも成果を出していた。それは播磨の国においてである。

以前に丹波の波多野秀治が織田家に臣従した事は記したが、それに伴い波多野家と縁が深い、波多野秀治の妹婿という血縁関係を持つ東播磨の戦国大名・別所長治(べっしょ ながはる)が波多野家に続いて織田家に臣従したのである。
但し信長はこの別所氏については注意が必要であると思っている。史実でも裏切っている大名であるからだ。

まずこの別所氏について詳しく記す。
この東播磨一帯に勢力を持つ別所氏の当主の名は別所長治。
史実では元亀元年(1570年)に、年齢については諸説あり正確には判らないが13歳か16歳の若さで当主に就任したと言われている若い当主である。
それゆえ長治には後見人兼補佐役が二人付けられた。前当主の弟で長治にとっては叔父に当たる別所吉親と別所重宗の二人である。

この別所氏についてではあるが、一般に織田家を裏切った事により織田家とは仲が悪かったかと思われがちではあるが、実際の所そうでも無い。
1578年(天正6年)に裏切るまでは、むしろ織田家との関係は良好と言える物であったのである。
別所氏首脳部についても、当主の別所長治と後見人の一人である別所重宗は親織田派であり、反織田家の立場を取っていたのは別所吉親ぐらいだったのだ。
特に別所重宗という人物は筋金入りの親織田派であり、織田家に反逆すると決まるとこれに反対して自ら浪人となったぐらいの人物なのである。
家中全体を見ても、どちらかと言うと親織田家であった。

だがこの別所吉親という人物が曲者だったのである。

別所氏が織田家を裏切った理由には諸説いくつもあるが、その一つに加古川評定での確執という物がある。
この加古川評定という物を簡単に説明すると、播磨の国において対毛利家の為の軍議が織田家中国方面軍の指揮官・羽柴秀吉の元で開かれる事となった時の出来事の事を指す。

この評定に別所氏の名代として出席したのが件(くだん)の人物、別所吉親である。
この別所吉親という男であるがこの男は極めて名門意識が強く、低い身分から出世してきた羽柴秀吉を嫌悪していた。
そして別所吉親がこの評定で何をしたかと言うと、軍議に何の関係も無い <別所氏の家系の話しから、代々築き上げてきた軍功を語る長談義> を行ったのである。
つまり別所家はおまえのような成り上がり者では無いと主張したのだ。
この別所吉親の意味の無い話しは長々と一刻以上に及び、呆れ果てた秀吉が 「もうよい。軍議をするつもりが無いのであれば後は私が指示を出す」 と言い放つ。
するとその言葉に 「無礼千万!」 と激怒した別所吉親は軍議の席を立ち、領地に帰ってしまう。


話しはこれだけでは終わらない。


城に帰った別所吉親はなんと当主の別所長治に
「羽柴秀吉は我らを侮り自分は軍議の席上、終始無礼な行いをされた。秀吉は驕り昂ぶり、大将は自分であるから我が別所家には、自分の命令に従いただ槍働きのみをせよと命じた」
と悪意ある曲解した嘘の報告をしたのだ。
その話しを信じた別所家は皆が憤り、織田家との戦を決意した、と 「別所長治記」 には記されている。

つまりかの悲惨な戦いである 「三木城の干殺し」 の戦いの引き金を引いた人物なのである。
この行動の裏には、毛利家とすでに通じており、親織田派となっている別所家を毛利側に付ける為の工作である事。
さらにはもう一人の、自身と同等の立場である後継人の別所重宗への反感からであるとも言われている。
別所重宗という人物は吉親よりも文武両道共に優れ、家中の者達からの信任も厚かった。それに親織田派の筆頭であり、織田家に臣従している現状で言えば別所家の主導権は重宗が握っている状態だったのだ。
それを覆す為のこの行動であったとも言われている。


またこの別所吉親という男は死に際も無様であった。
三木城の干殺し戦末期、兵糧が尽き果て当主・別所長治が自身とその弟の友之、そして別所吉親の自害の代わりに城兵全ての助命を条件にした降伏を申し込んだ時である。
その降伏を織田家が受諾し、自らの死が決定した時に吉親は 「自分が死んで他の者を生かすなど料簡違いだ」 として城に火を放とうとしたのだ。
吉親のその愚行は激怒した家臣達の手によってすぐに阻止され、別所吉親はその家臣達の手によって首を刎ねられたのである。

これ以外にも縁戚関係であった波多野氏が反織田家として挙兵した事、領内に一向宗門徒が多かった事等々の理由も言われているが、だいたいこれらが別所氏の反逆の原因である。

そして原因が判っているならば対処は可能だ。
すでに別所吉親の行動は織田家に監視されており、そしてこの男はいつかボロを出すであろう。その時こそがこの男の最後の時である。



また織田家は同じく西播磨に勢力を持つ大名・小寺政職(こでら まさもと)への調略を始めており、織田家に好意的な黒田孝高(官兵衛)を通して働きかけを行っているところだ。
ただこちらについてはまだ結果はでていない。







こうして織田家の永禄14年(1571年)の西への侵攻は完了。
織田家は続いてくるであろう東の大敵に対して備える事になる。










<後書き>

信長が覇道君主であるなら信忠は王道君主かなと思って書いております。




現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
若狭8万石 西越前6万石 丹波25万石 丹後12万石 但馬10万石 因幡11万石 東播磨23万石

総石高:477万石
(但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)









[8512] 第22話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/08/23 19:18



<第22話>



永禄14年(1571年) 織田家が西に向かって勢力を伸ばしていた頃、他の勢力が何もしていなかったかと言うとそんな事は無い。
皆、活発に様々な動きをしていた。
そしてその中でも特に対織田家の動きとして活発に動いていたのが石山本願寺である。








「お初にお目にかかります。足利義昭様。某(それがし)毛利家家老の小早川隆景と申します」

「おお、そちがかの有名な毛利の両川が一人、小早川隆景殿か? ワシが足利義昭である。以後見知りおかれよ」

「ははっ!」



石山本願寺は東だけでなく、西にも有力な味方を作る為に一つの策を実行した。
今まで越前にいた足利義昭を中国地方の雄、毛利家の元に送り込んだのである。




顕如の命令を受けた頼廉は越前において、ちっとも進まない上洛に苛立つ足利義昭に接触。今のまま朝倉家にいても意味が無いとして説得したのだ。
そしてこう吹き込んだ。

「中国の覇者、毛利家の助力あらば義昭様の将軍御就任は間違いなし」 と。

そしてその顕如の言葉に乗せられ、義昭は進められるままに今回毛利家の領地まで来たのである。
送り出す側の朝倉家も足利義昭の事を少し持て余していた事と、西の毛利家が味方になるならとこれに同意して送り出していた。






但し当の毛利家がこれを全面的に歓迎したかというと、実はそうでも無い。


まずは一代で中国地方随一の大毛利家を築きあげた稀代の謀将、毛利元就。
この人物は史実通りに徹底して織田家との激突を拒否していた。
彼は今までに築きあげてきた領土の保全のみを目指していたのである。但しこの英雄もすでに今年で74歳。最近は体調も悪く、政務もまったくできない状態になっていた。
しかしその影響力は未だに絶大である。



続いてその後継者である孫の毛利輝元。
この人物は一言で表せば凡庸である。少し思慮が足りない所があるが、世が太平の世であるなら大過無く領地を治める事が出来たであろう。
彼については未だ年若い事もあり、自分のしっかりとした考えはまだ持っていない。
しかし周囲の言葉に乗せられてしまう事が多々あるので注意が必要だ。



そしてその毛利輝元を補佐するのが輝元の父親・毛利隆元の兄弟であり叔父に当たる、武をつかさどる吉川元春に知をつかさどる小早川隆景の二将である。
この二将は毛利の両川と呼ばれ称えられており、それぞれが毛利元就の長年の薫陶を受け各々の得意とする分野において際立った働きのできる名将の中の名将達だ。
その性格から兄・吉川元春は強硬論、弟・小早川隆景は慎重論をそれぞれ主張する事が多いが、その二人にしてもその心情の根底は元就と同じ領土の保全である。

つまりは毛利家の首脳部においては自ら積極的に 「京に上洛し、我が毛利家が天下に覇を唱えてやろう」 と考える者がいないのだ。

さらにいえば毛利家はその支配する領土は広くとも、織田家のような中央集権的な支配とは違い、これまであったような従来通りの統治機構とほぼ同じ、つまりは国主・国人衆の連合体でしか無い。
その権力はそれに比して緩く、配下の者達に対する絶対的な権力は持っていない。

つまりあくまでも毛利家は数多ある国人領主達の連合組織の長、その中で一番大きな勢力という存在でしかない。
それゆえ毛利家の戦略決定はほぼ評定で決められており、またその為に迅速な意思決定が難しい体制である。
だからこそここまで迅速に、また混乱も少なく勢力を拡大できたと言って良いだろう。















「迷惑な話しよ。いらぬ戦乱がこの毛利家におころうぞ」

足利義昭との謁見を済ませた小早川隆景は毛利家居城、吉田郡山城に急ぎ戻るとそれを父である毛利元就に報告する。
元就はその報告を寝所にて寝たまま聞く。すでに体調はかなり悪化してきており、最近は起き上がるのもままならない状態なのだ。

その枕元には報告に来た小早川隆景の他に毛利輝元、吉川元春も集まっている。
隆景の報告を聞いた元就はただ一言、迷惑だと切って捨てた。
元就のその言葉を聞いた元春はその父に再度問いかける。

「しかし、父上。無碍には扱えませぬ。なにせ前の征夷大将軍、足利義輝公の弟君です。我等も故義輝公には何度か助力を頂いておりますし、なんらかの動きが必要では?」

「我が毛利家にこれ以上の勢力拡大は無理じゃ。良いか。我が毛利家は他の領主達を滅ぼさず、傘下に収める事で版図を広げてきた。
だがそのやり方で統制が効くのはこの広さでほぼ限界じゃ。これ以上は統制が利かなくなる上に、逆に負担にしかならぬ。
よってこれ以上の版図の拡大は考えるな。
我が毛利家は天下の一辺で名誉ある地位を保つだけで良い。我等が版図の保全を第一に、それを我が遺言だと思い行動せよ」

「何を弱気な事を申せられまするか? まだまだこれからに御座いまするぞ」

「そうです。私はまだまだ若輩の身。御爺様に身罷られてはそれは家の大黒柱を失うと同義。私にはまだまだ毛利家を支え切れる自信がありませぬ」

元就の言葉にすぐさま隆景と輝元が答える。
そしてその輝元の言葉は一つの正鵠を突いている。
毛利家の躍進は元就あってこその物である。元就の存在があったからこそ、その実績という巨大なカリスマ性により集団指導体制を取っていようとも毛利家は素早く動く事が出来ていた。

だが元就が死ねば毛利家は絶対的な指導者を失ってしまう。
吉川元春・小早川隆景の歴戦の将が生きている内はまだマシではあろう。だがその両将が亡くなった後は本当の意味で完全な集団指導体制に移行してしまう。
その場合、版図が広い事による領主の多さが原因となり、毛利家の動き、戦略決定はさらに遅くなってしまう。船頭多くして船、山登るである。 

別にその体制が悪い訳では無い。無いのだが、自家よりも強い勢力と隣接している戦乱の世の中で、その体制を取る事による戦略決定の遅さは致命的な失敗を招く事になりかねない。
特に有効な情報伝達手段、それに高い民意を持ちえない中世の世では、その素晴らしい体制も有効には働かない事の方が多いのが現状である。

そしてその致命的な失敗というのを史実の毛利家は犯してしまった。
関ヶ原の戦いである。
その結果、毛利家は大減封を受け僅か2ヶ国にまで領国を減らしてしまう。







元就はすでに自分の死期の近い事を悟っていた。
そしてそんな元就が今際(いまわ)の際まで思うのは後に残す子供達・家臣達の事である。元就はその聡明な頭脳により上記の毛利家の危険性を全て悟っていた。
だからこそ余計心配であったのだ。

「こりゃ、儂はもう齢74じゃぞ。ここまで生きれた事こそ奇跡という物よ。それに自分の身体の事は自分が一番良う判る。儂はもう長くないぞ。
そしてその後はお主らが継ぐのじゃ。そんなお主等が今からそんな弱気でどうする。
ふふふっ、まったく最後の最後まで心配をさせる者達よ」

とても安らかな笑みを浮かべながら元就は三人に語りかける。







「で、あらば父上なら此度の義昭様のご訪問、如何様に致しますか?」

隆景が元就に問いかけてくる。

「そうじゃな……。儂なら織田家とは争わぬ。もちろん向こうから問答無用で攻めてくるなり無理難題を突き付けてくるなら断固として戦うが、それ以外の理由であるなら戦いたく無い相手じゃ。
特に織田信長。儂はあやつが恐ろしい。本当に同じ人間かと思う時すらある。天下を獲る人間とはあんな人間なのかもしれん。
彼奴は 人の善悪、今までの秩序、価値あるはずの権威、信じられていたこの世の常識、そのような形無き物に一切捉われる事無く行動している。
何故そんな事ができるのじゃ?
奴はそれで怖くないのか? 
何を信じてそこまで動くのじゃ?
判らぬ……。信じられぬ……。それ故に恐ろしい」



元就から発せられたその言葉にその場にいた3人共が押し黙る。

大なり小なり、それに似た恐怖は各大名・諸勢力、その誰もが感じていた思いでもあった。
もの凄い勢いで上洛したかと思えば、足利将軍家を無視し、比叡山を焼き打ちし、伊勢長島の一向一揆を虐殺した織田信長。それでありながら領民達には慕われているという矛盾。
その理解できない行動・評価に対する気味の悪さ、恐怖は誰もが持っている。






「……ただの狂人では無いのですか?」

輝元がポツリと自信なさげに呟く。

「本当にただの狂人であればどんなに良い事か。
じゃが、ただの狂人であれば直ぐに襤褸を出そう物よ。だが彼奴は違う。
片方では数多の民百姓を殺しながら、その片方では民草を見事に治めきり、自国の領民達には多いに慕われておる。
他国の権力者・領主を皆殺しにしながらも、国人達はその勢力化に治め混乱は最低限に抑えている。
その手腕恐るべしと肝に銘じよ。
そしてなにより彼奴と我等とでは何か根本的な所で違う……、上手く説明はできぬがそう感じるのじゃ。
何か見ている所自体が違うというような……、もしかしたら彼奴はすでにこの戦国の世が終わった後の世界の事でも考えているのかもしれんわ」

「父上はそこまで織田信長という男を評価しておられまするか?」

元就のその言葉に元春が驚きながらも問いかけてくる。

「ならば義昭公の件は、これを追い出す事は国内の者達の反感を買いかねない故できませぬが、織田との敵対もこれ得策にあらず。
つまり義昭公の御動座は受け入れるが織田とも今の友好関係を維持する。そのような無茶な外交が必要になってきます」

「そのような事が可能なのですか?」

続いて隆景が自らの考えを話す。しかしその言葉に不満気に輝元が苦言を呈する。
その言葉に隆景が反論する。

「可能か不可能かにあらず。やり遂げねばならんのです。それに逆に考えれば義昭公の動きを封じるという事は織田に恩を売る事になるやもしれません」

「よろしい。当面の事は隆景が差配せよ。よいか、けして我が毛利家は天下を目指すな。野心を持つでないぞ。御家を大事に。それを忘れるでない」

「「ははっ!」」  「……はい」

元就の決定に三人が返事を返す。
そして体調の悪さから眠りに入った元就の為に三人は部屋を出る。



ただその時に元就と元春・隆景の三人は見落としてしまった。




一番後ろを歩く輝元の不満気な表情を、そしてその瞳の奥に確かに光る野心の光を……。
















<後書き>

毛利家の話しです。
信長包囲網への参戦要請の巻であります。






[8512] 第23話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/08/23 19:16





<第23話>



永禄15年(1572年) 10月


『武田軍、甲府を進発! 西上開始!』


一番最初の標的とされた徳川家の所領各地に急報が伝えられる。
兵力は2万8千に北条家からの援軍2千を加えた合計3万。
史実とほぼ同じ兵力である。

また戦火の烽火が上がったのは東方だけでは無かった。
武田家の西進に合わせるように、織田家の所領でも各勢力がそれぞれ挙兵。

第二次信長包囲網の開始である。











<遠江の国 浜松城>


「すぐに信長殿の元に援軍の要請を出せぃ!」

武田家の一番最初の標的とされた徳川家康が居城の浜松城で対応に追われていた。
すでに武田家の先鋒として、秋山信友を大将とする3千及び山県昌景を大将とする5千が徳川家の三河・遠江の出城に対して攻撃を開始していた。



「各城の状況はどうじゃ?」

家康が傍らにいる重臣の酒井忠次に問いかける。

「よくありませぬ…。各城より救援要請が矢のように送られてきております。なんらかの対応が早急に必要かと」

「しかし徳川家単独では到底あの武田信玄には勝てぬ。なんとしても織田殿に援軍を送ってもらわねば」

「ならば籠城ですか?」

家康の言葉に酒井忠次と同じく重臣である石川数正が問いかける。

「単独では太刀打ちできぬ。どうしようも無いわ」




現在の徳川家は三河及び遠江の国を領有する大名である。その石高は三河が27万石。遠江が25万石の52万石でしかない。
その2ヶ国にしても武田に内応する者が出てきており、各地に守備隊を残せば家康が動かせる兵の数は最大で8千。
対する武田家の兵力は3万。しかも最強とすら言われるほど精強な兵士達である。
到底太刀打ちできない数だ。

さらに言えばこの世界での武田家は織田家の強大さに警戒し、東美濃への侵攻を行っておらず、全軍が三河及び遠江の国へと侵攻し来ている。
徳川家単独で考えれば状況は悪化している。

その窮地を救う為、援軍を乞う早馬が織田領に向かって駆け始める。















<山城の国 京の町>


武田家が徳川領に侵攻を開始し始めた頃、信長は京の町にいた。
先の信長包囲網からの一連の戦勝の祝いも含めた軍事パレード、俗に言う <京都御馬揃え> の為である。
内裏よりの本人のたっての御希望という事により、正親町天皇が御臨席した上での開催である。

これはいくつかの目的があって開催された物だ。

まず第一に織田家全軍の士気向上と団結力の向上の為。
第二に正親町天皇が御臨席される事で、その織田家と朝廷の蜜月ぶりを日本全国に報道する為。
第三にその織田家の強大な兵力・財力を日本全国に知らしめる為である。








「おおーーー、凄い!」 「奇麗!」 「流石織田様や!」
   「かっこええ!」
   

そのパレードは昼前から始まった。
煌びやかな様々な衣装を纏った者達が見目麗しい軍馬に跨り、続々と行進して行く。
それを見る近隣の地域から集まった大勢の民衆達が歓声を上げる。
開催前から政府報道で大々的に報道されていた事により、史実以上の民衆が集まっていた。

そしてパレードの中でも群を抜いて目立っていたのが二つあった。

まず一つが織田信長。このパレードの主催者、日本一の権力者等々の注目もあったが、人々はその服装にも驚いたのだ。
この日の信長の服装は今で言う軍服みたいな洋装であったのだ。
黒色を基調とし、要所要所を革ベルト(のような物)で締める事によりそのスマートさが他の和装より群を抜いていた。
どことなくWWⅡの時のドイツ軍のナチス親衛隊の将校の軍服に似ている。
それに加え、銀糸で所々に嫌味にならない程度で刺繍が施されており、それが日の光を反射し、時折、キラリと光るのがまた今までに無い魅力を放っていた。
足元には同じく黒色のブーツを履き、その姿は全ての見物人を魅了した。

二つ目は鉄砲隊の行進である。
この部隊は騎馬では無く徒歩であった。だが全員が同じ色の、同じ形の具足に身を固め奇麗な隊列を組み行進したのである。
それは現代であれば当然の行進の仕方であった。しかし行進と言う物を初めてみる人々にとっては衝撃的であり、その心を鷲掴みにされる程魅力的に映ったのだ。
一片の狂いなく奇麗な隊列を組み、全員が歩調を合わせ動作を合わせ、足を高く上げ、手の振りすら統一し、行進したのである。
その寸分の狂いの無い姿、そして響くその ザッザッザッ という行進の音は人々の心を魅了し離さなかった。

それらの姿はこの日、御臨席されていた正親町天皇すら例外では無く魅了し、後日 「是非もう一度実施してほしい」 との要望が入る程であった。








人々の熱狂を受けながら、長い行進を終えた隊列は終着点として指定された広場に続々と入って来る。

そこには正面に大きな台座が作られており、その壇上に先にこの広場へ入った信長が屹立している。
その前に各将兵達、周辺には民衆達が集まり壇上の信長を見つめた。
これから行われるのは日本で初めての試み、指導者からの一般民衆への演説である。

一定間隔で旗が立てられ、兵士達が等間隔で並び立つ。その整然とした風景は見る物に威圧感を与えると同時に何故かその奇麗な整然さに感動を覚える。










そのような中で信長の演説が始まる。
裂帛の気迫と共に、大きな手振りも交えて話しだす。












「諸君、私は諸君達と共にこの喜ばしくも素晴らしい日を迎えられた事を喜ばしく思う。
私は諸君らと共に、今はこの喜びに身を浸し、安らごうと思う。

だが諸君、残念ながらそれは今日だけの事なのだという事を私は諸君達に宣言しなければならない。

我等の戦いは確かな成果を収めている。
日々を一歩一歩、少しずつではあるが確実に、少しずつ確かな成果を手にしている。
だがしかし、その歩みはまだ終わってはいないからだ。

去る永禄12年、我等の平和を奪おうと、秩序も正義も大義も無い無法者共達の集団がその汚らしい矛先を我等に向けて来た。
一向一揆と比叡山の仏法を忘れた破戒僧共に足利幕府の残党共の事である。

だが当然の事であるが我等は勝利した。
当然の事である。繰り替えす。至極、当然の事である。
何故ならば彼奴ら無法者共よりも我等の方が全ての面で優れているからだ。

我等、織田家の者は私利私欲の為には戦わない。全ては我が領民達の幸福と、新たなる秩序と、そして新しい日本の為に戦っているからである。

反して彼らはどうであろうか?
彼らは言う、織田信長は仏敵であると。
彼らは言う、織田信長は足利幕府を蔑ろにする逆臣であると。
彼らは言う、織田信長は多くの人を殺す魔王であると。


ならば私は彼らにこう言って反論してやろう。
仏敵はお前達の方だ。仏法を忘れ、自らのやるべき仕事も忘れ、ただ権力のみに固執し、あろう事か罪の無い信徒達を扇動し要らない戦を起こすお前達は屑以下の存在である、と。

遥か遠い地でただ吠えているだけの足利幕府の残党共にもこう言って反論してやろう。
この戦乱は誰のせいだ? そう、お前達のせいであると。
指導者としての仕事を全う出来ない彼らに存在する価値などありはしないのだ。
そして何を勘違いしているのか、彼らはこの長年に渡る戦乱の世に成り果てたこの国の惨状を見ても恥じてすらいない。
それどころか指導者としての義務も果たしていない彼らは、我等を支配するという権利のみを恥知らずにも我等に要求して来ているのだ。

諸君、そんな馬鹿げた要求に応じてやる必要が我等にあるのであろうか?
答えよう、断じて否(いな)である、と。

最後の人を殺したという物には反論はできない。
それは事実である。
私はこれまでに多くの人間を我が命令によって死に追いやってきた。
数多の戦場において、数多の地において、そして比叡山の僧侶達を、一向衆門徒達を、敵対した敵兵達を、時にはなんの関係の無い巻き込まれただけの民衆達を。 
焼いた、奪った、滅ぼした。 
殺して、殺して、殺しつくして来た。

そういう意味で言えば、私のこの手はそれらの者達の血に塗れていると言って良いであろう。私は多くの罪に塗れて染まり尽くされておる。 
私のこれまで歩んで来た道と言う物はそれらの人々の血で彩られ、その屍を礎に築かれてきた物であると言えるであろう」





ここで信長は静かに一瞬演説を止める。
しかしその一瞬の後に今までよりさらに大きな声で、さらなる裂帛の気迫を持って、さらなる大きな身振りで自身を強調しながら、演説を再開する。






「諸君! だがしかしだ! 諸君!

それでも私は人という物が好きだ! この日の本にある全ての国々に住む、全ての人々が大好きだ!
我が領民達は我が全てだ! 我が子供達のようにお前達一人一人を愛している!

そして私は戦と言う物が大嫌いだ! 破壊しか生まないこの不生産極まる行為を憎悪すらしている!
戦場で! 物言わぬ屍と成り果てた我が愛する兵士達のその姿を見るたびに! 私は心が張り裂けんばかりの悲しみにさいなまれる!



諸君! 私は我が領民達であるお前達が愛おしくてたまらない!
百姓達が朝、田畑を耕し、昼には家族全員で笑いながら飯を食べ、夜には家路(いえじ)に着き、平和に笑いながら一日を終えるその姿をみる度に、私は至福の極みに至る!
町に住む人達が活気に満ちながら日々生活し、またそれにより少しずつ大きくなっていく城下町をみるのが好きだ! その様子を見る度に、我が身はまるで子供達が成長するのを見るかのような大きな大きな喜びに満たされる!
我が兵士達が凱歌の元に喜びの鬨の声を上げるのを聞くのが大好きだ! その為に生きているといっても過言では無い!

諸君! 私は! そして私に付き従う我が織田家の臣達は! 兵士達は! それらの風景がこの日の本の全ての地で見られるようになるように! その理想の為に、日々戦っているのだ!
けして私利私欲からではない!

 

だがしかし! だがしかしだ、諸君!
それでも戦は終わらない! 悲劇は止まらない! 平和は未だ遥か彼方だ!

この瞬間にもこの日の本のどこかで! 
平野で! 海で! 山中で! 
街で! 寺社で! どこかの城で!
人々が死に! 村々が焼かれ! 大事な、大事な者達が奴隷として売られている!
何故だ!? 如何してだ!? それが我等の運命だとでも言うのだろうか!?




諸君! 私は今日この地で宣言する! 私に付き従う兵士達よ! 我が愛する領民達よ! お前達は覚悟しなければならない!

この戦乱の世! 嘆くだけでは! 怒るだけでは! その悲劇を誰かのせいにしているだけでは! 何も変わりはしないのだ!
念仏を唱えようが! 不平不満を叫ぼうが! ただ全ての抵抗を諦め! 絶望のみを心に! 犬のように強い者に服従しようが! それでは無意味なのだ! 何一つ救われはしない!
今この時にも我等の富を、平和を、大事な者達を奪おうと! くそったれの無法者共がこの地を目指し進軍しているのだ!

だが、諸君! 私に付き従う兵士達! 我が愛する領民達諸君!
だからと言って諦める事は無いのだ! 何故なら諸君らには、この織田信長が付いている!

我等一人一人の力は極めて小さい物だ! 一人ではどのような力や能力を持った者でも! 例え行動したとしても何も成せないまま終わる事だろう!
だが諸君!
一人で成せないのならば百人で! 百人で成せないのであれば千人で! 千人で成せないならば万人で! それでも足りないのであればそれ以上の人々と力を合わせ! 成せば良い!
我等に出来ない事など無い! そう、不可能など、ありはしないのだ!


諸君! 我等はこのままこの地獄のようなこの戦乱の世界で、永遠に苦しみ続けなければならないのだろうか!? 
答えよう! 否(いな)! 断じて否であると!

我等はこのまま全てを諦め、日々を無意味に過ごして行かなければならないのだろうか!?
答えよう! 否(いな)! 断じて否であると!

非力な我等にはこの世界を変える力などありはしないのだろうか!?
答えよう! 否(いな)! 断じて否であると!



諸君! 私に付き従う兵士達! 我が愛する領民達諸君!
覚悟せよ! 覚悟せよ! 覚悟せよ! 
自覚せよ! 自覚せよ! 自覚せよ!

我等が前には道がある! 険しく! 峻厳で! 冷徹な道だ! 
その道を歩く為には数多の血が流されるだろう! そんな道など歩みたく無いという者も当然ながらいるであろう! 

だがしかしだ、私は諸君達に約束しよう!
その道の先にある物こそが! 我等が欲してやまぬ平和で! この日の本の全ての者達が幸福に住める理想の世界である事を!

逃げるな! 踏みとどまれ! 立ち上がるのだ、諸君! 
そうすればその先には未来がある!
誰の為でも無い! ただ自分の愛する者達の為! これから生まれてくる子供達の為! 今、ここにいる我々こそがそれを成さなければならないのだ!




諸君! 何度でも言おう! 我が愛する兵士達・領民達諸君!
我等こそが成さなければならない! 我等でしか成しえない! 我等でこそ成しえる事なのだ!

覚悟せよ! 覚悟せよ! 覚悟せよ! 
自覚せよ! 自覚せよ! 自覚せよ!

我等には大いなる使命がある!
我等織田家こそがその為にこの世界に存在する特別な存在なのである!
我等織田家こそが新たな歴史を創れるのだ! 創り得る存在なのだ!

そして私は諸君達がそれらを成しえると確信している!

兵士達は今以上に覚悟を持って戦え! それだけで良い!
百姓達は今以上に努力し作物を作れ! それだけで良い!
商人達は今以上に駆け廻り物資を集め、物を売れ! それだけで良い!

皆が少しづつで良い! 非力な力を合わせて行けば! この世に成せぬ事などありはしないのだ!
何度でも言おう! 不可能などありはしない! 不可能などありはしないのだ!


そして諸君! 勘違いをしてはならない!
未来とは待ち望む物では無い! 自ら切り開く物なのだ!
平和とは待っていれば手に入れられるようなでは無い! 自ら勝ち取る物なのだ!
希望という物は祈りによって創られる物では無い! 我等の捧げる戦場の鉄と! 戦場に捧げられる英霊達の血と! そして皆の献身によってのみ創り上げられる物なのだ!

その為の力を諸君達一人一人が持っているのだ!




さあ、諸君! 我が愛する兵士達・領民達諸君!
共に征こうではないか! もはや我等には進むか、座したまま死ぬかのどちらかの選択肢しか無い! 立ち止まるという選択肢などはありはしない! ありはしないのだ!

選べ! 選ぶのだ! 栄光を手にするのか、堕落するのかを!? 
選べ! 選ぶのだ! 戦い、自らの手で愛する者達を守るのか! 逆にその全てを、糞虫のような敵兵に奪われるのかを!?
選べ! 選ぶのだ! 勝ち取れ! 勝ち取るのだ! 富を! 名誉を! 栄光を! 輝かしい未来を!

そうすればもはや我等の歩みを止められる存在などありはしない!

さあ諸君! 私と共に宣言せよ!
我等はもう二度と恐怖に屈しない! 絶望に屈しない!



そして私は諸君達に約束する! 
お前達の為の、富を! 名誉を! 栄光を! 輝かしい未来を! 新しい秩序を!
それら全てが我等がこれより歩む道の先にあるのだと言う事を約束する!
戦え! 勝て! そして攫み取るのだ! 全てを! 

我等にはそれだけの力があるのだ!



さあ、共に征こうではないか! 我が愛する兵士達・領民達諸君!
団結し、力を合わせた我等は最強であり、誰にも負けはしない! 
献身を本分とし、崇高な意思を持った国民達で支えられる国家は最強であり、誰にも負けはしないのだ!

恐れるな! 恐れるな! 恐れるな! 
私が必ず諸君達をそこまで連れていこう!


織田家万歳! 


天皇陛下万歳!


全ての織田家領民達の元に栄光あれっ!」





























信長の演説が終わる……。
その後、一拍の間を置き……。


















おおおおおぉぉぉおおぉぉっぉぉおおぉぉぉおお!!!







大歓声が響き渡る。
その場に居た全ての人々が、興奮に顔を紅潮させ、感動の涙を流しながら、咽喉よ張り裂けよと言わんばかりの大歓声を上げる。


「信長様万歳!」 「うおおおおおおぉぉお!」 「織田家万歳!」
    「万歳! 万歳!」 「信長様万歳!」 「織田家万歳!」


今日この日に集まった民衆達は初めて感じる凄まじい熱狂、そして一体感に酔いしれる。
その熱狂がまた新たなる熱狂を呼び、一体感が祭りの最中のような熱い熱気を醸し出す。




これには他の理由もある。
信長はこの熱狂を演出する為に様々な演出を行っていたからだ。

例をあげれば、まずは一番良い瞬間に一番最初に歓声を上げ 「織田家万歳!」 等々と叫び始めたのは、実は信長が事前に忍ばせていたサクラである。
伊賀・甲賀の忍者達が潜み、一番良いタイミングで熱狂を誘導するよう任務を負っていたのだ。
それに釣られて他の民衆達も唱和し出したのである。

続いて周囲の環境。
この演説を行った広場には現在大量の旗が等間隔に奇麗に並び、兵士達が規則正しく、同じ姿勢で奇麗に並び立っている。
これらの光景が人間の本能に訴えかけ、奇麗だと感動を呼び起こすのだ。
それは身近な例で例えれば家の中にある本棚なども同じ事が言えるだろう。奇麗にキッチリと種類別に分けられ、規則正しく巻数順に並ぶ本が入っている本棚を見た時、人は奇麗だと思う。
それと同じ事である。

この演説も論理的に考えれば唯の詭弁である。
内容で言えば、威勢の良い事を言ってはいるが実際に何をどうこうする等々の具体策は何一つ示してはいない。

その場の雰囲気を操作し、そして酔わせ、人々を扇動し熱狂させたにすぎない。
実際にこの演説を聞いた人で、その演説の内容を100%覚えており尚且つそれを理解した人はいないであろう。
大体一割でも覚えていたら良い方で、それも断片的な印象深い単語を覚えているにすぎない。
例えば愛しているやら、くそったれ共、富、名誉、栄光等々のコマ切れの単語だけである。
民衆達は、ただ祭りのようにその雰囲気に酔ったにすぎない。

わざわざ京都御馬揃えの時を選んだのも、上記の理由と同じである。











但し、後世のとある歴史評論家の一人は、この時の演説をこうも解釈している。

『この時の演説は一つの時代の大きな節目であり、画期的な出来事であった。
 なぜなら日本史で初めて時の指導者が一般民衆にむけて語りかけたからである。それまでにそのような指導者はいなかった。
 それ以前までは権力とは天皇の物であり、貴族の物であり、寺社勢力の物であり、そして武士達の物であった。けして一般民衆には何の関係も無い物であったのだ。
 そのような中で信長は初めて民衆という、今までは無視されてきていた階層全体に向かって協力を呼びかけたのである。
 すなわち自らの織田家という国家組織の権力基盤を、従来の武士勢力や内裏の他に、一般民衆達にも同じく求めたのである。

 これは日本史的、いや、世界史的に見ても極めて画期的な出来事であったと言えるであろう。

 もちろんこれは当時の情勢から、又は常識から考えたら途轍もない危険性を孕んだ政策であると言えるであろう。
 当時の支配・秩序とは中世的な封建支配・秩序の事であり、徹底的な恐怖と強権、そして今で言う愚民政策で統制された状態の事を指すからだ。
 その時代に一般民衆達が力を持つという事は自らの権力基盤を自分の手で掘り崩す羽目に成りかねない愚行の筈である。

 だがしかし織田信長という人物はそれを恐れはしなかった。信長は民衆達を支配はしたが、その生活を弾圧・抑圧はしなかったのだ。
 そしてこれ以降、最下層の被支配者層であったはずの民衆達が長い年月をかけながら少しずつ、力を蓄え始める。

 織田家の方針もそれを後押しした。
 全ての国民が教育を受けられる学校の存在、政府広報という一方的であるが曲がりなりにもある一定の情報伝達手段、自由な商業活動、比較的自由な階級構造。
 織田の支配が続いた時代、支配階級はあくまで武士ではある。
 しかしそれに明確かつ厳格な階級統制という物は無く、必要最低限の支配階級・被支配者階級の間での人材の流動は確保されていた。
 そして自由と富を獲得した平民階級の中で所謂、中層階級・富裕階級の形成が始まって行ったのである。
 それと同時に民衆達の間で国家意識・愛国心が浸透していき、初めて本当の意味での日本という国家の枠組みが出来た時代でもあったのだ。
 
 すなわちこの日が日本史における中世から近世・近代へと繋がる第一歩、そして歴史的な大転換点である明治維新へと繋がる第一歩だと言っても過言では無いであろう。

 そう、我等が世界に冠たる日出ずる国・日本の興隆の始まりの日である』


















<後書き>

この作品の50%は作者の織田信長への溢れんばかりの歪(いびつ)な愛、残りの50%は作者の中途半端な知識で出来ています。

というかこの話しは受け入れて貰えるのかがちょっと心配です。暴走してしまった自覚はあります。
今回は作者が突然変な電波をどこからか受信して、勢いで書き上げた代物です。
プロット(と言える程しっかりとした物ではありませんが)には無かったのですが、思わず勢いで行ってしまいました。何だか書いてて楽しかった。
第15話もなんか似たような内容だし、こんなの書くのが好きなのかも。
そう言えばずっと前に短編で書いたのも似たような内容だった。

少しでも楽しんで頂ければ幸いです。




<追記>

次話の投稿は少し時間がかかりそうです。度々ですいませんがおそらく一月後くらいにはなりそうです。
御了承下さいませ。







[8512] 第24話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/09/21 17:09





<第24話>



<織田領内 とある農村>

「それでは皆、ワシの後に続いて読むんだぞ。
あ・い・う・え・お・か・き・く・け・こ………」

「あ・い・う・え・お・か・き・く・け・こ……」

一人の武士が集められた生徒達の前で、木板に貼られたひらがな表を指し示しながらそれを読み上げて行く。
生徒達もそれに合わせて読み上げる。
この光景は織田信長の定めた週に2回の <勉学の日> であり、最近になって織田領内では良く見られるようになった光景である。

この日に集められた生徒達は読み書き算盤九九暗唱を習う。ちなみに生徒達と書いたのは集まった人々の年齢がバラバラであるからだ。

当時の民衆達は大部分は文盲である。読み書きも出来ないし、簡単な計算すらできない。
そしてそれらを改善し、せめて最低限の教育を修めさせようとの考えがこの勉学の日なのだ。
もちろんすぐには何の効果も出ないし、目に見える成果が出るという類の物では無い。だが信長は将来の事を見据えて、あえて反対の声を抑えこれを断行する。

但し、本格的な教育、学校という物ではまだ無い。

まずこの勉学の日を実施するに至り、どの年齢層のどの人達にどのレベルまで何を教えるのか、という問題が出てきた。
そして定められたのが以下の基準である。

『24歳以下の者は強制参加。それ以上の年齢の者は希望者のみ。読み書き算盤九九暗唱を最低限修める事を目的とする』

基本は若者を対象にした教育なのだ。全ての男女を問わず24歳以下である。
全員では無いのは、 『高齢者に一からの勉学を強制するのは流石に酷なのでは』 との判断と、もう一つは 『平均死亡年齢が低いこの時代にこれ以上の年代の人がいまさら勉強しても…』と言うある程度の割り切りの判断からだ。

勉学の日が毎日では無いのも、百姓達に配慮しての事である。
この時代では子供と言えども立派な労働力なのだ。
それを勉学だといって強制的に長時間に渡って拘束してしまったら百姓達からいらぬ反感を買いかねない。
それと同じ理由で農繁期はこの勉学の日も完全に休みになる。今で言う長期休暇のような物だ。

さらに言えば勉学の日も実際に始まるのは午後からであり、生徒達は午前中に家の仕事をした後に集まってくる。
それ以外にも、織田家の統治下において農村の人々の生活に余裕が出てきたのが大きいであろう。
治安も良く、税も最大4公6民と安いおかげで、急速に農民達の生活水準の改善が成され始めているのだ。
その日を生き残るのに精一杯な人達に勉学などできる訳がない。






またこの勉学の義務化についてであるが、民衆達だけでは無くこちらは以前からであるが武士達にも行われていた。
この武士達への修学については民衆達よりもより力を入れて行われている。

武士達は定期的に一番近くの城などに集められその場で教育を受けるのだ。
これは全ての織田領内に言える事であり、さらに言えば武士達にとっては出世にもかかってくる大事であったりする。
信長は強制的に教育を普及させる為に10年後を目途に、その10年後より後は 『織田家内においては足軽大将以上になる者は最低限の読み書き算盤九九暗唱が出来る事が条件である』 との布告を出したのだ。

つまり10年経つまでは読み書き算盤九九暗唱が出来なくても勲功を上げれば出世させるが、それ以降は読み書き算盤九九暗唱が出来ないと出世させないぞ、という意味である。
また将来的にはさらに段階的に条件を厳しくして行き、最終的には織田家(=統一政府)で働く者は読み書き算盤九九暗唱が出来る事が条件である、とまで持って行く積もりであった。

織田家に仕える武士達は出世の為に必死に勉学を修めている途上である。









またその武士達・民衆達に対して現在実施されている教育内容にも様々な工夫が加えられていた。
まず教えている言葉であるが、現在で言う標準語を教える授業なのである。
表記がいろはにほへと云々では無く、あいうえおかきくけこ云々になっているのもそちらの方が覚えやすいからだ。

各領地に配布されている政府広報も同様であり、織田家内での公式書類等も全て標準語で統一する事を目指す。

これの目的は日本全国で言葉(方言)の壁を無くし、意思の疎通を簡単にする為である。
すでに人々は長年に渡り政府広報の文面で標準語に馴染んで来ている。
その上で改めてこの勉学の日でその政府広報の文面と同じ標準語を習う為、それほど違和感無く人々の間に標準語は浸透しているのだ。

但しこれについて勘違いしてはならないのは、けして方言への弾圧では無いという事である。
別に方言の使用が禁止されている訳では無い。民衆達については使う、使わないは自由である。

例えば農村などに住んでいて一生をその場所のみで過ごす人には標準語などまったく関係の無い話しだ。
しかし例えば商人など長距離を常に移動する人々の間では驚く程、そして物凄い勢いで浸透し始めている。

理由は唯一つ、標準語が便利であるからだ。
そして現在の織田領内ではあらゆる場面で方言と標準語の住み分け・使い分けが急速に進んできている。
つまり人々は身内の中では今までと同じく方言を喋り、違うコミュニティと接触する場合は標準語を、という具合に言葉の使い分け・住み分けが成され初めているのだ。

それに伴い様々な新しい造語、統一させた単語なども数多く出来てきている。
万歳などもそれの一つで、人々は政府広報とこの教育から様々な情報を物凄い勢いで吸収しているのだ。





実施させる勉学についても色々と説明してきたが、最後に書くとこれらは厳密に言うと学校では無い。
勉学を行う場所は特に決められていない。
それぞれ村単位などで集まりやすい場所にあつまり(大抵広場などの屋外)行われるのだ。

また極力費用を抑える為に工夫が成されている。
生徒達は自分で30cm四方の浅い木箱を造り、その中に砂を入れてノート代わりに使うのだ。筆代わりもペン形に削った木の棒である。
紙などは高級品であり、到底用意できないからだ。同じ理由で教科書等もまだ無い。
それ以外に使う物も基本各自の手作りである。

あくまで最低限の事を覚えてもらう事を目指し始めたばかりなのだ。
正式な学校という物が発足するのはこの何年も先の事である。














時はすぎ、夕方。

「よし、今日の授業はこれまでとする」

「先生、ありがとうございました」

「各自、本日学んだ事の復習を忘れずにな」

教師役の武士の言葉に生徒達が揃って終了の挨拶を口にする。
皆、荷物を纏めると、それぞれ帰途につく。


「ねえ兄ちゃん、兵隊になって戦に行くって聞いたけど本当?」

「うん? ああ、そうだぞ。オレは次男坊だからな。この村に居ても田圃は継げないし、俺自身も百姓は嫌だからな。織田様の元で一旗上げてやるんだ」

その帰途の途中、とある農村に住む若者・五郎は近所の子供・太助(たすけ)に話しかけられた。
五郎はそれに答えると共に逆に太助に問いかける。

「そう言うお前の方も一家揃って引っ越すんだっけ? 確か新田開発事業だったか、そんな小難しい名前の奴に参加するんだろう?」

「ええっと、良く判らないけど、そうみたい」

太助がそう答える。
太助の家族が応募し参加するといっているのは、織田家にて国家を挙げて行われている事業の事だ。
前々から書いていた通り、荒れ果てた土地の再開発に力を入れると共に、少しでも自らの土地を持てる自作農を増やす為の措置である。

「戦って凄いんでしょ? いいなー、いいなー。僕も大きくなったら織田様の兵士になって凄い手柄を立てて出世して、羽柴様みたいに大名になるんだ。けどそう言ったらとうちゃんが阿保って言って怒るんだ。母ちゃんも兵士なんか駄目だ、立派な百姓になれって言うんだ。酷いと思わない?」

「ははっ、お前にゃ十年早いよ。もう少し大きくなるまで待ちな」

「ええー、兄ちゃんまでそんな事言うの!」

太助が自分の将来の夢を語るが五郎はそれに苦笑しながら答える。
その五郎の様子に自分の夢が笑われたと感じた太助は頬を膨れさせた。五郎は太助を宥めながら家路に着く。


最近ではこの五郎のように、自ら志願して兵士になる若者が増えて来ていた。この志願兵達は従来の金で雇われただけの兵士達とはあきらかに一戦を画した存在である。
これには京都御馬揃えの時の織田信長の演説の影響が多いに出てきている形だ。

ちなみに信長の演説の事、それに演説文は政府広報にて全国に広く報道されている。
その信長の演説に影響を受けやすい若者達が感化され出したのだ。
将来への希望と野心を持ち、信長の呼び掛けに応じ天下の為に織田家に力を貸そうと言う若者達が増えてきたのである。
織田家の立場からしても士気の高い、今で言う志願兵の増加は嬉しいかぎりだ。








また農地の積極的な開拓も、着手から長い年月を経て大きな成果を出してきていた。

まずここで信長の目指す政策の説明をしたいと思う。
信長の目指す、究極的な目標は世界に先駆けた日本の脱中世、及び中央集権的統一国家の樹立。そしてその国家において民百姓を豊かに住まわせる事だ。
遠い将来的にはその力を蓄えた民百姓達が国を運営していけば良いとすら思っている。


もちろんそれらはしっかりとしたイメージを持った上での考えである。

例えばの話しであるが、信長はこう考えているのだ。
ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、判り易くイメージすると国家とは大きな貯金箱のような物ではないかと。
そしてその内に貯めている金額に当たるのが国家の国力である。
その金額とは王家や貴族といった支配者階級だけの物ではけして無く、全ての国民の分も合わせた総額の事だ。

例えば王家が豊かであり、強大な力を持つ国家であろうとも、国民が困窮している国家はたいした国力を持ちえないであろう。
何故なら様々な国家の仕事を王家が全て負担した上で、その上全てを単独で為さなければならないからだ。効率が悪すぎる。
さらに言えば国民がただ生存するという、ただそれだけの事だけにも大きな労力を割かねばならない。

逆に国民達が豊かになった場合はどうであろうか?

民衆達はその生存が保障され、衣食住が満たされれば必ず次のステップに進もうとする。
それは人それぞれであろうが、例えばさらなる富を求めて商売を始める者。
例えば贅沢をする者。
例えば今までできなかった趣味に没頭する者。

民衆達は今まで出来なかった、考えもできなかった事をできるようになるのだ。
それも自由に、である。
そしてそれは今までには無かった新たなる富、新たなる経済活動(生産活動・消費活動)へと繋がっていくのだ。
つまり誰かが豊かになり金を使い始めればそれにより誰かが儲ける。さらにその人が新たな消費者になり金を使えばそれによりまた違う誰かが豊かになる。
それの繰り返し、生産・消費のスパイラルが始まるのだ。
所謂金が廻る、市場が動くという状態である。

その国民達の経済活動が始まり一旦廻り始めれば、その行動はさらなる経済活動を呼び雪達磨式にその規模を増していく事となるのだ。

その効率は王家単独で行う国力増大という行動など話しにはならない程の高効率になるのではないだろうか。
桁が違うといっても良い程の違いであろう。
王家が10年をかけて貯金を10から20に増やす間に国民国家は100や1000といった単位でその貯金箱の中身を増やしていく。

それは一見したら至極判りにくい物であろう。
何故なら目にみえないからだ。
王家の場合は宝物庫に入っている金銀財宝や整備された軍隊・軍艦という具合に形ある物で量れるので至極判り易い。
逆に言えば国民達がどれだけ豊かになろうとも表面上は全く判らない。

しかし大戦略、国家規模・地球規模での視点を持ちえた場合にはどちらが優れているのかはスグに判る。
時間はかかるかもしれないが、国民の豊かさは必ず国家の強さに反映されて来る。
そうなってしまえば、国民が困窮した国家は国民が豊かな国家に二度と追いつく事はできなくなるのだ。後はどんどん差を付けられるだけである。
後、必要となるのは、その力を正しい方向に向ける事のできる高い教育水準であろう。

国力とは国家の体力のような物だ。
国民の困窮した国家は王家が持つ財宝を使いきってしまえば後には何も無い。
しかし国民国家は政府がお金を使いはたしても、まだ国民達の力が残っているのだ。

少数は多数に絶対に勝てない。金を持っている者が一番強い。貧乏人は金持ちには絶対勝てない。
乱暴な極論でいってしまえばそう言う事である。





信長のこれまでの政策は全て上記の通り、領民達を豊かにするという大原則の元に行われているのだ。

積極的に民衆達の所得を増やす政策を実施して行き、税金を下げてから早くも約5年の時が流れている。
その時の流れと共に織田家領内の民衆達は食うや食わずの状況から、衣食住の揃った文化的な生活とかろうじて言えるぐらいの生活水準にまで届きつつあるのだ。
もちろんそのレベルに到達させるまでは苦労の連続であった。

新しい事をやる時は必ず反発が起こる。
それはどのようなことであろうと同様だ。
信長はそれらを抑える為にとった行動は極めて単純な行動である。すなわち 『実績による信頼』 と 『利益』 である。

例えば以前に農業の効率を上げる為に千歯扱き等の農機具を導入した時の事だ。
この新兵器は極めて便利で農業の効率を上げる事の出来る機械である。

しかし全てが全て、理屈だけで動くほどこの世の中というのは簡単では無い。
どうような物でも様々な障害がある物である。



まず一つ目の障害は保守的な感情による理屈によらない反射的な反対だ。つまり理屈では無く 『今のままで良い』 と言う安定志向である。
これについては長い時間をかけての実績による証明、及び双方の信頼関係だ。
その為に信長はまず一番最初にこの新しい機械を自家で行う開拓事業の者達に使わせたのだ。
一度使ってしさいすればその便利さに魅了され、それなしでは逆に不便に感じるようになる。

後はその評判を宣伝してやれば良い。例えるなら現代の深夜の通販番組のノリである。
人と言うのは他人だけが得をしていて自分が損をしているという状態には耐えられない物だ。
これだけ便利だ、と判れば一瞬にしてそれまでの反対を忘れ身を翻す。民衆と言う物は極めて自分勝手な物なのだ。
この利益による扇動・誘導は信長の最も得意とする分野であり、その為の実績に政府広報である。



二つ目の障害はそれによって不利益を被る人達の存在だ。
効率を良くするというのは逆に言えば今までその仕事に従事していた人達から、ある一定の割合で仕事を奪ってしまうという事と同義語である。

例えばすでに導入済みである千歯扱きという機械を例に上げれば、その異名からも窺い知る事が出来るだろう。
千歯扱きの別名は 『後家倒し』
この機械の出現によって未亡人達の仕事が奪われた事に由来している。

千歯扱きが普及する前の米の脱穀作業とは扱箸(こきばし)と言う大型の箸状の器具で一つ一つ手でしごき落とすという極めて非効率なものだったのだ。
それには当然大勢の人手が必要になってくる。そしてこの作業が未亡人達の貴重な収入手段だったのである。
故にその仕事を奪ってしまったこの千歯扱きの別名が後家倒し(後家殺しとも言う)なのだ。

その不満をそらす為の一番有効な手段は別の仕事の提供であろう。
織田家では職を持たない者達に対して積極的な雇用をおこなっている。

職にあぶれる者達を木綿関連の機織り紡績の工場などで積極的に雇用していったのだ。
それと同時に1ヶ所に労働者を集め、積極的な施設・労働者の集積を行い家内制手工業から工場制手工業への転換を行ったのである。
ちなみにこれは何か新しい新技術を導入したとかそういう類の話しでは無い。
ただ単に生産・備蓄・流通等々の現場を極力一纏めにし、さらにその中で積極的な分業を導入していっただけだ。
たったそれだけである。

だがそれだけの事で得られた利点は莫大であった。
なんと生産効率がそれまでの数倍に達したのだ。
これはすでに織田家の肝煎りで発足した他の兵器工廠や造船所でも同様の事である。
このような手段を使い、織田領内では様々な作業の効率化を図っているのだ。

これらは混乱期である今だから簡単にできる事である。
一旦、世の中が平和になり、安定してしまえばある意味で不味い。何か一つの事柄を変えようとしても多大な労力を必要としてしまうであろうからだ。
だがここである程度の土台さえ作っておけば、後は石が坂道を転げ落ちるごとく勝手に経済規模を大きくして行く事だろう。

百姓達で言えば理想は後世で行われたような農地改革が必要無い状態だ。
小作農という存在が無く全ての百姓達が自分の農地を持ち、豊かに住める国。
そうなれば他の国に負けなどしない。


そしてこれら全ては全ての民衆達を巻き込んで怒涛の勢いで起きる変化、今までの常識を全て破壊し一から新たなる社会構造を創ろうとする大変化である。
信長は混乱を恐れはしない。それによって生じる流血・犠牲・被害も全て許容する。
それらはまったく新しい時代への変化の上で生じる必要な物であるからだ。








<後書き>

武田との戦いに入る前に内政ターンです。
改訂はぼとぼちと進めて行きます。







[8512] 第25話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/15 02:11




<第25話>



『武田家西進開始』

その報が徳川家から齎されるのと前後し、織田家の周囲でも様々な戦火が巻き起こった。
西の摂津の国では石山本願寺衆及び雑賀衆が再度挙兵。北では越前の朝倉家が同じく再度挙兵。
織田家への攻撃を始める。
但し今まで挙兵に同調していた三好家は今回の挙兵には参加しなかったようである。その為の力をすでに無くしていたのだ。

これらは明らかに計画的に組織された武力蜂起である。










「武田信玄、とうとう動きおったか」

京での御馬揃えを無事終えた信長は各方面に伝令を走らせた。
事前に準備しながら敵対勢力を一つ一つ潰す事に成功してきた為、今の織田家には兵力の余裕がある。

具体的に言えば史実では東、北、西部方面に加えてさらに京都・伊勢方面の合計5ヶ所に戦線を抱えている状態であった物が、その内二つ、京都・伊勢方面についてはすでに殲滅済みだ。
だが油断はできない。ここからである。これより先にこそ強大な宿敵達が犇めいているのだ。
そしてここからは天下布武の最終段階。

織田家天下統一の為の死闘の始まりであり、それと同時に今までの支配者達の終わりの始まりだ。




だがその時である。
一人の伝令が息を切らしながら慌てた様子で信長の前に走りこんで来て叫ぶ。

「う、上様! い、一大事に御座いまする! 毛利が、毛利家が挙兵致しました!」

「なんじゃと! どういう事じゃ!? 何故毛利が動く!?」

その報告に驚愕し、思わず立ち上がってしまい聞き返す信長。
自分が考えていた以上に挙兵が早すぎる上にその理由が判らない。少なくとも毛利家とは友好的とは言えずとも中立的な関係ではあったはずであるからだ。
諜報からもそのような情報は一切上がってきていない。
まさしく寝耳に水である。

「詳細は未だ判りませぬが毛利家は足利義昭公を旗印に挙兵! 陸兵は未だ動いておらぬ様子ですが、水軍が援軍と物資と共に石山本願寺に向かっておるとの報告で御座います!」

「くそっ! 足利義昭か! 忌々しい! じゃがまあ良い。毛利家とも、いつかは戦わなければならない相手じゃ。それが早まっただけの事。是非も無し。受けて立とうぞ」

信長は一旦浮き立った心を落ち付け、どかりと元の場所に座る。
こうなってしまった以上は事前に考えていた戦略通りには進まない。戦略の練り直しを迫られる。 



「半兵衛、東の武田の動きはどうじゃ?」

信長は武田家の正確な情報を聞く為に諜報活動を任せている竹中半兵衛に質問をする。

「はっ! 隊を二つに分け三河と遠江の二方面より徳川領に侵攻中です」

「信玄の率いる本隊は何処じゃ」

「信濃よりまっすぐ三河に向かう道程です。すでに進路に当たる奥三河の山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)が武田に調略され、武田軍はその者達を道案内とし進撃中に御座います。数は2万2千」

「ほう、遠江ではないのか?」

「はっ! 間違いなく三河方面に御座います。おそらく我等織田と徳川との間を分断するのと同時に我等と当たる前に徳川と戦って戦力を消耗するのを嫌ったのかと思われます」

「遠江方面の指揮官は?」

「武田勝頼に御座います。他にも一条信龍・保科正俊・小山田信茂等を組下に、同じくこちらも調略した天野景貫を道案内に南下中です。数は8千」




そこまで聞いて信長は少し考え込む。
主力が三河という事は標的は徳川家では無く織田家であると思われる。
すなわち短期決戦。織田家と一戦し、これに勝利した上で織田・徳川間の連絡を完全に断ってしまえば徳川家は戦わずして武田家に降らざるをえなくなる。
それゆえ第一の標的はおそらく徳川の居城・浜松城では無く三河の岡崎城。

そう考えれば武田家の戦略がなんとなく浮かび上がってくる。

まず第一に戦わずしての徳川家の無力化。
戦力が圧倒的な状態での戦である。下手な刺激をしなければ家康も積極的には動かないであろう。
おそらく徳川方は籠城。遠江方面の武田勝頼隊は家康が出てきた時の足止め役だ。
そしてその間に武田家本隊が三河を完全に抑えるか、援軍に出てきた織田家と一戦し勝利を得るかのどちらかが狙いであろう。

織田家との連絡が分断された状態で 「武田が勝利した、織田の援軍はもう来ないぞ」 という事にでもなれば徳川家の配下国人衆達は大いに動揺しよう。
同じく抵抗無く三河を占領されても同様である。
そうなってしまえば家康がどうにか家中の動揺を治めようとしても無理だ。三河時代からの譜代衆はついて来ようとも、国人衆達は生き残る為に皆、武田についてしまう。

そしてそうなってしまえば結果は唯一つ。徳川家の屈伏である。
信長はそのような状態になっても家康が織田家に義理を尽くして味方でいてくれるとは思わないし、信じない。

家康には徳川家の当主として家中の家臣達を守り、繁栄させる義務がある。
弱い方について家を滅ぼすのは愚か者でしか無い。
万が一、そのような状態になれば家康は迷うこと無く織田家を裏切り武田につくであろう。
君主としてそれは当然の判断である。弱い方が悪いのだ。







信長はそこまで考えた上で続いて織田家が今取りうる最善の戦略は、と考える。

報告を受ける前までは、徳川家には悪いが史実通り持久戦でもって武田家が撤退するまでの時間稼ぎに徹するつもりであった。
だが西から毛利が来るという事になれば悠長な事は言っていられないのではないのか?
むしろ武田家が積極的に来るのであればむしろこれこそ千載一遇の好機なのではないか?
信長はそうも考える。


「半兵衛、毛利家の動きについてじゃが動いているのは何故水軍だけなのじゃ? 何か事情でもあるのか?」

「はっきりとは判りませぬが、おそらく此度の挙兵、毛利家の総意では無いのかもしれませぬ。誰かが暴走し、廻りがそれに引き摺られているのでは?」

「なるほど。戦略以前での問題、準備不足か」

奇襲を行う場合、第一撃でどれだけ相手に打撃を与えられるかが求められる。その上で相手の予想もしなかった所で痛撃を与え、主導権を握る。
最初の一撃に関してだけで言えば攻撃側が圧倒的に有利なのだ。
攻撃側は時期に戦場を自由に選べ、そして主導権を握れるからである。

そして戦場ではこの主導権という物が想像以上に重要なのだ。

今回の毛利家も織田と戦うのであれば事前に入念な準備をし、開戦と同時に水陸同時に大軍勢で一大攻勢をかけるべき所なのだ。
逆に言えばその準備の予兆がまったく無かったので織田の諜報網にも引っかからなかったとも言える。
この時点で毛利家は大きな失策を犯したと言えよう。
自ら大きなチャンスをみすみす逃してしまったのだ。


そしてこの半兵衛の予想は正解だったのである。今回の石山本願寺への救援は毛利家の総意では無く、足利義昭に唆された当主・毛利輝元の独断で行われた事だったのだ。
その事で毛利家は少なくない混乱状態にあり、初動が大きく遅れているのである。
だがそれもしばしの間だ。本気を出した毛利家がすぐにでも強大な戦力でもって織田領に向かって突き進んでくるであろう。














<安芸の国 吉田郡山城>


「元春兄ぃ! これはどういう事でござるか!?」

小早川隆景が血相を変えて飛び込んで来る。
毛利家配下の水軍衆が摂津に向かって出撃したとの情報を得たからであった。
しかもその情報を水軍衆を統率する立場の自分が知らなかったのである。一体全体、今何が起こっているのか判らない。

「騒ぐな、隆景。ワシも今それを聞いておる所よ」

部屋に飛び込んできた隆景を吉川元春が嗜(たしな)める。
その部屋にはすでに幾人もの人が集まっていた。
主君・毛利輝元に兄・吉川元春、そして毛利家の重臣達、それに足利義昭、そして一人の僧。

隆景はその見た事の無い僧の事をうろんげに眺める。
その視線に気付いたのか僧が隆景に話しかけて来た。

「お初に御目にかかる。拙僧は本願寺顕如にございます。よろしゅうに」

「ほ、本願寺顕如殿!? 本願寺の法主殿が何故ここに!?」

隆景はその語られた名に驚愕する。
そして此度の事のあらましをある程度察した。
本願寺法主・本願寺顕如と言えば超が付くほどの重要人物である。それが自分に知られずにこの吉田郡山城まで来ていたのだ。

そんな事ができるのはこの毛利家家中でもたった一人だけである。
すなわち毛利家当主・毛利輝元その人だ。
そしてその事が示すのはただ一つの事実。すなわち輝元が誰にも相談せず、補佐役である二人の叔父にすら相談せずに今回の出兵を指揮したのだと。

隆景はこれからの毛利家の行く先を思い、ただ今は亡き父・毛利元就に心中で詫びる。




















<美濃 岐阜城>


信長は情報全てを鑑み(かんが)みた上で、一つの決断を下す。

「よし! まずは東の武田家を叩く! 西は今までに練り上げてきた防衛線で十分だ! 毛利家への対応も幸いまだ時間がある! 兵を岐阜に集めるぞ!」

織田家では史実において方面軍という優秀な武将に一地域を完全に任せてしまう制度を使用していた。
そしてそれはこの世界でも同様である。ある程度支配地域が広がった前年よりこの制度を実施していた。
具体的に書くと北の対朝倉越前方面軍に柴田勝家。
石山本願寺・雑賀方面軍に佐久間信盛。
山陰方面に明智光秀。
山陽方面に羽柴秀吉である。

これは織田信長の人材活用の妙とも言える制度だと言えるのではないであろうか。
何から何まで君主(信長)が事細かく指示して、それをやらせるのでは無く完全に信頼して任せてしまうのだ。
すなわち信長は○○しろという命令のみを出し、事前にできる権限を決めその範囲内での行動は指揮官に任せる。
そしてそれをやれる能力がある者であればどのような身分の者であろうと高くもちいるのだ。

ある意味、実に合理的だと言える。

責任者は責任を持って任務に当たり、成功すれば報償をもらい失敗すれば罰せられる。
自分の手に負えぬ状態が起これば上に相談し、その場合は組織全体でその事態の解決に当たる。
必要なのは家柄でも人脈でも無く、ただ能力・実績・結果のみである。

そして自分で判断・決断する指揮官はあらゆる意味で成長して行き、その成長は織田家にとって大きなプラスになる。






話しを戻す。

信長の決断により織田家の軍が順次動きだす。
守備を4方面の方面軍指揮官達に任せ、信長は主力でもって武田家との決戦に向かう事になった。徳川家を武田側に行かせる訳にはいかないからだ。

もちろんこれは大きな賭けである。
負ければすぐに徳川家は武田家に寝返るだろう。それに天下統一も10年は遅れる可能性がある。

だが逆に勝てば当分の間、東方においては織田家に対抗できる勢力は無くなるのだ。天下統一も10年は早まる事であろう。
前の世界では、信長包囲網に苦しめられ武田家と真正面からぶつかるだけの戦力の抽出ができなかった故、徹底的に時間稼ぎに徹したのだ。
どのような汚名を被ろうとも、臆病者と罵られようとも、勝てる準備が整うまではけして武田家とは戦わなかった。

だが今回は違う。準備は万端である。戦力にも余裕がある。
そして武田家に勝つという事は信長包囲網軍の精神の柱を圧し折る事と同義語なのだ。
その利点は測り知れない。十分に危険を冒すだけの価値のある戦である。







こうして信長率いる織田軍主力、4万5千は岐阜城より三河に向かって出陣。
武田信玄との決戦にむけて動きだす。




そして永禄15年(1572年) 11月。

織田・武田両軍は三河の地にて対陣する。
武田信玄は調略し、寝返らせた奥三河・山家三方衆の一人、菅沼満直の居城・長篠城を拠点に軍を西に進めて陣を張った。








そう、決戦の地は長篠設楽原である。
















<後書き>

織田・武田家の決戦です。次回は武田軍視点です。
もちろん史実のような展開で済ませるような真似はしません。これも色々と以前から考えており、作者が書きたかった場面の一つなので頑張ります。

後、作者はこういう武田家との決戦場を長篠にするというような、ちょっと皮肉を利かせたシャレが好きなのです。
ちなみに以前浅井家が滅んだ戦いを金ケ崎の戦いにしたのも同じ理由であります。
そうきたか、と少しでもニヤリとして頂けたら幸いであります。








[8512] 第26話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/10 02:44




<第26話>



普段はのどかな山野が喧噪に包まれる。
三河の国、長篠設楽原に織田、武田の両軍合わせて約6万の兵士達がひしめき合う。





「御屋形様、織田軍の数は想像以上でござるな」

「それに物凄い数の鉄砲でございます。西と北に兵を割いておいて、まだこれだけの兵を東に出せる織田家の国力恐るべし」

着陣した織田軍を眺めながら武田家本陣で馬場信春と山県昌景が武田信玄に話しかけた。
信玄は床机椅子に腰掛け、眼下に広がる織田の陣を睨む。
すでに両軍は連吾川という小川を挟んで東西に対峙している。

「如何致しましょうか? 早速、某(それがし)が一突きして参りましょうか?」

「やめよ。動いてはならぬ」

同じく本陣にいた原昌胤(はら まさたね)が攻撃を進言してくるが信玄はそれを退ける。
そんな事は無意味であるし、何より何故か嫌な予感がしていたからだ。

「(織田の兵の数が多すぎる。本願寺顕如め…、あれほど大言壮語しておきながら約束の一つも守れぬのか)」

信玄はおもわず内心にて愚痴を洩らす。
圧倒的な織田軍の数を前に、信長包囲網という存在がちゃんと機能しているのかさえ思わず疑ってしまう。
もしや自分だけが貧乏籤を引かされているのではないか? そんな考えが頭に思い浮かんでは消えた。

だが文句ばかりを考えている訳にもいかない。これからの戦術を考える。

そもそも信玄は一気に京まで上洛できるとは思っていない。
まず今回の出兵での目的は織田家の同盟国である徳川家の屈伏だ。
上洛の第一段階として徳川家を屈伏させ、三河・遠江を版図に収める事を戦略目標としている。
そしてそこを新たな拠点に名古屋、岐阜と言う具合に段階をおって進めて行くつもりであった。

またこの西上作戦には他にもいくつかの理由がある。

まずこのまま織田家を放置しておいたら武田家の手に負えぬぐらいの強大な勢力になってしまう可能性があるからというのが一つ。
ちなみにこれについては既に遅きに失した感があるが、だからと言って放って置く訳にはいかない。
後になればなるほど、相手にしなければならない戦力が増えてしまうからだ。
少なくとも早い段階で一撃を入れておかなければならない。

そして二つめが自身の健康問題である。
ここ最近に来て急速に病状が悪化して来ているのだ。おそらく自分はもはや長くは無いと自覚している。
それゆえ自身の生きている内に出来るだけの事をしておきたいという思いが信玄にはあった。










信玄は今の状況を考えて何が最善かをもう一度考えてみる。

撤退はありえない。先程の理由の通りに、後になればなるほど両家の戦力差は圧倒的なまでに広がってしまう。
少なくともなんらかの成果が必要である。でなければ武田家に待っているのはジリ貧だけだ。

ならば戦うか? だが戦力は織田家の方が圧倒的に上である。少なくとも真正面から何の策も無しにぶつかるなど御免蒙る。
そもそも必ずしも戦う必要があるだろうか?
我々は徳川家を屈伏させる事ができればそれで勝利である。戦場での勝利はその為の一つの手段でしかない。
まあ勝てるのならそれが最善ではあろうが、無理をしてまで決戦をしなければならない理由も無いのだ。

逆に織田家は徳川家の救援に来ており、向こうは徳川家を救う事ができなければ我等に勝ててもそれだけで戦略的な敗北である。

であれば武田家にとってのこの戦いにおける最善はどのような展開であろうか?
『この地において織田と戦う事無く織田家がなんらかの理由により撤退』
これが最善である。
織田家はこれ程の軍勢を整えてきたのだ。これが撤退などと言う事になれば世間は武田の勝利と捉えるであろう。

そして我々は徳川家を屈伏させ三河・遠江を版図に収めそこを拠点に新たな攻撃を仕掛ける。

ここでさらに信玄は思考を展開させてみる。
戦わずして織田家を撤退させる事が可能か否か?
絶対に可能性が無いとは言えない。織田の領内で同盟国である徳川家を見捨てるもやむなしという程の何かが起こればあるいは、といった塩梅であろう。
可能性はかなり低いであろうが。

「(一先ずは現状維持。敵陣の情報を集めながら敵将の調略。それと同時に織田の領内への離反工作にもさらに力を入れる。これぐらいであろうな。瓢箪から駒が出ないとも限らない)」

信玄はそこまで考えて一旦思考を停止させた。
そしてそれらの策を実行させる為、配下の将達に指示を出して行く。

一先ずの所、武田軍はこのまま対陣する事を決定する。














<三河茶臼山 織田軍本陣>



「戦わずして織田家を撤退させる事が最善…。武田信玄であればそう考えておるであろうな」

織田信長が本陣にて眼下に広がる両軍を睨みながら呟く。

「そうはさせぬぞ、信玄よ。絶対に逃がさぬわ。国力の差が戦力の絶対的な差である事を判らせてやる」


両軍が対陣し始めてからすでに10日もの時間がたっていた。
その間、両軍は表面上は静かな物であったがその実、裏側では熾烈な駆け引きが行われている。
だがしかし戦線は今の所、膠着状態だ。

どちらも相手に先に手を出して欲しがっていた。そして両軍共有効な手が打てぬまま時間だけが過ぎていく。
そしてそのまま何も無く過ぎていくかと思われていたその時である。

戦場では無い地においてまずは一つ目の動きが始まった。












<武田軍本陣>


息を荒げた、焦った様子の伝令が本陣に転がり込むように駆け込んで来て叫ぶ。

「一大事! 織田軍が美濃より信濃に乱入! 信濃の各城が救援を求めてきております!」

「なんじゃと!!」

武田本陣に信濃からの急報がもたらされ、本陣に詰めていた者達が騒ぎだす。
さらに報せはそれだけでは終わらない。悪い報せはさらに続く。

「駿河よりも救援を乞う使者が参りました! 織田の水軍が駿河に来襲! 海岸線の村々が襲われております!」

「落ち付けぃ! 詳しい報告を致せ」

信玄が浮つく者達を一喝する。その言葉に皆は一応の平静を取り戻す。
そして報告を持って来た者が状況を話しだす。

「まず信濃方面の織田軍で御座いますが、森可成を大将とする織田軍1万が侵入! 各村々・城下町にて焼き働きを行っております!」

「駿河方面ですが、こちらは九鬼嘉隆を大将とする織田水軍約300隻が来襲! こちらも駿河の海に面した各村々を荒らしまわっております!」

「我等の水軍は如何したのじゃ!?」

「残念ながら壊滅致しました!」

そのような中でも馬場信春が落ち着いた様子で進言してくる。

「御屋形様、敵の数が少なすぎます。おそらくはただの陽動かと」

「であろうな。じゃが拙いな。兵達にはそれが判らぬ。それにしても我等が正面にこれだけの戦力を集めながらさらに別動隊か」


ここに来て、史実と違い信濃から美濃への侵攻をしていない事を逆手にとられた形だ。
もちろん武田家は当然の事であるが、この西上作戦に先駆けて各地の防衛体制も整えている。
特に美濃・信濃国境は織田家との国境である事もあり、重点的に城の防備を整え、すぐには陥落しないよう援軍及び物資を入れてある。
だがそれも1万の軍を迎え撃てるような規模では無い。籠城して持ちこたえるのが精一杯だ。

しかし逆にいえば1万ぐらいの兵であれば持ち堪えられる事のできる防備にはなっている。

駿河の方は少し不味いかもしれないが、ただ村々が焼かれ荒らされているだけだ。
冷たい言い方かもしれないが、ただそれだけである。
はっきり言ってしまえば、今すぐにどうこうしなければならないような状況では無い。

無いのではあるが、ただその理論が民衆・国人衆達に理解できるかというとそれはまた別の話しだ。
特に現在進行形で蹂躙され続けている地域に所領を持つ者達からすれば冗談では無い話しである。

現にこの報せが来てからすでに一部の信濃・駿河国人衆達に動揺が拡がっていた。




「嫌な所を突かれましたな…」

「ああ、このままでは戦わずに負けてしまう恐れも出てこようぞ」

馬場信春の言葉に信玄がそう答える。
別に戦力を対徳川に集中させた方針が間違いだった訳ではない。戦力の分散は悪手中の悪手だ。戦力の集中は間違ってはいない。
史実の二方面攻撃はその時の織田家にそれに対応するだけの戦力が無い事を見抜いた上での戦術である。

それに報告はそれだけでは無いのだ。
実はそれ以外にも諜報からの報告にも頭を悩ませている最中なのである。

「信春、昌景、この内応の書状は本物だと思うか?」

信玄は10通以上の書状を馬場信房・山県昌景の前に並べながら問い掛ける。
それらは織田軍の各将、国人衆や領主達からの武田家へ内応したいという旨の書状であった。
実は武田軍がこの地に布陣した直後からこの内応の書状がいくつも届けられていたのである。当然その中には武田の方から内応の誘いをかけた者達もいる、いるのだが…。

「十中八九、偽りで御座いましょう。我が軍はまだそこまで優位に立っている訳では御座いません。それに我らが内応の誘いをかけた者達も、裏切るという決断が早すぎるように感じます」

「しかし、全てが本当に偽りで御座いましょうか? 本物であれば千載一遇の好機に御座いますぞ」

信春の否定的な言葉に、その隣で話しを聞いていた秋山信友(虎繁 以後名は信友に統一)が信玄に進言してくる。
その秋山信友の言葉にさらに頭を抱える信玄。

信友の気持ちも判る。これが本当の事であれば勝利は武田家の物である。
だがその 『○○であってほしい』 という希望的観測は戦場にあっては致命傷に為りかねない危険な行為だ。
かといってあまりに慎重すぎても勝機を逃す。

故に信玄は思う。その確信が欲しい、それを裏付ける確たる情報が欲しい、と。



「忍びも物見の者も、やはり誰も戻らぬか?」

「残念ながら…。織田の防諜、それに物見の数、どれも尋常ではありませぬ。異様でござる」

信玄の問い掛けに内藤昌豊(昌秀 以後名は昌豊に統一)が答えた。
歴戦の将である内藤昌豊にそう言わしめる程、今、目の前に陣を布いている織田家の防諜・索敵は鉄壁の構えを誇っていたのである。

織田家の索敵は以前に書いた斥候制度により数時間に一度行われている為、付け入る隙がまったく無い。その為、武田家は別動隊による攻撃、それに夜襲等の策を早々に諦めざるを得ない程であった。
防諜態勢についても大量の忍びを配し、竹中半兵衛の指揮する織田軍のそれはまさに鉄壁である。

それゆえ、信玄は動くに動けない状態なのだ。

「(やりにくい。なんだ、このやりにくさは…。今まで戦って来た敵の誰とも違う。この嫌な感覚はなんだ?)」

信玄は自身の生涯で初めて受ける異様なその織田軍の印象に言い用の無い違和感を覚える。
言葉に言い表せない不快感と言うか、嫌な予感を胸に覚えているのだ。

なにせ目の前に広がる織田軍の陣備えからして異様である。
織田軍は着陣から少しずつ柵などを作っていた。それは別に良い。当然の戦備えである。
だがその場所が問題なのだ。
織田軍のその柵は織田軍の横腹を守るように側面にのみ作られているのである。

最も大事な正面には作っていないのだ。今も織田軍正面はガラ空きである。
まるで攻めて来いと言わんばかりの様相であった。
ある物と言えば何の為に使うのか判らない、少し小高い丘のような傾斜を作ったぐらいである。

織田信長が何をしたいのかがまったく判らない。
その理解できないという事実が不気味さを煽り、信玄の心に迷いを生じさせる。

信玄は考える。
織田信長はそんなに自軍の鉄砲隊に自信を持っているのであろうか、と。
鉄砲は確かに強力な兵器である。それは自分も認めているし、武田家でも鉄砲隊の整備には力を入れている。
しかし武田軍の突撃を止められる程の威力を持っているのだろうか?

当然の事であるが、武田軍は鉄砲という強力な兵器に対する対策は既に採ってある。
信玄は織田家の鉄砲の数を確認するとすぐに大量の竹束を用意させたのだ。
それで完全にとは言えないが、ある程度の攻撃は防げるはずである。
竹束を全面に押し立て、至近距離にまで進んでしまえば、後は接近戦・乱戦に持ち込める。そうなれば鉄砲隊の優位は消し飛ぶ。

そしてその後は自軍が主導権を握れるはずだ。

しかしそんな簡単な事が理解できない織田信長ではない筈である。
信玄は織田信長という人物を極めて高く評価している。その極めて合理的な戦略はどこか自分に通じる物があると常々思っていた。
それゆえ今の状態がまったく理解できない。

「(何かある筈なのだ。今は判らない何かが…)」

この思いが信玄の心に深く巣食い、信玄の長年の戦場で磨いてきた直感の部分を酷く疼かせる。
身体の奥の何かが自分に訴えかけてくる 『何かおかしい、何かの策がある、危険だ』 と。

その何かが判るまでは動けない。動きたくない。動くのは危険すぎる。
信長はけして 『さあ、正々堂々と戦おう』 というような積もりで正面を開けている訳では無い筈だ。

信長はそんな愚将では無い。







だがそのような信玄の思いとは裏腹に、何も判らないまま時間だけが過ぎて行く。
それに酷い焦りを覚える。

この戦場のみで言えば、時は織田の味方だ。時間が経てば経つ程、追いつめられるのは武田家の方である。
織田は必要とあれば何年でもこのまま軍を維持しこの地に置いておけるほどの国力がある。
しかし武田には無理だ。
兵站ももちろんの事であるが、兵達を農地に返さなければならない。さらには武田の領内を荒らしている織田家別動隊の存在もある。

そして織田は戦に勝てずとも武田軍をこの地から撤退させる事ができれば勝利なのだ。
先に書いたように織田は徳川を救援できれば勝ち。武田は徳川を屈伏させる事ができれば勝ち。
この戦場での勝敗はその為の判り易い手段の一つでしか無いのである。そして徳川家の屈伏はこの戦場に織田軍が居る限りは不可能である。

故に武田は何としても勝たねばならない。でなければ未来は残されていない。
例えこの戦で衝突を回避し戦力の保全を目的に撤退したとしても、この機を逃せば後はジリ貧が待っているだけだ。年を追うごとに織田と武田の国力の差はどんどん拡がっていく事だろう。
それに武田軍の将兵達は大分焦れてきている。口には出さないが皆、攻撃を望んでいるのだ。

そしてそれは信玄も同様であった。ここ最近、日に日に体調が悪化し、とうとう血を吐いたのである。
『もはや自分は長くない…』 信玄はそれを実感していた。
其れゆえ信玄は焦る。
自分が居なくなったら武田は織田に勝てない。其れゆえ今なのだ。この機しかない、と。


















そしてそれは突然もたらされた。

ほぼ同じ時期に二つの情報が信玄の元に届けられたのである。






一つは前々から内応の書状を送っていた将からであった。
自分が織田の陣に火を放ち、それと同時に本陣を攻めるから武田にもそれに同調し攻めて欲しいという書状。

そしてもう一つが信長の直筆の書状であった。この書状は織田信長が徳川家康へと送った書状である。
この書状を持った織田の忍びがその途上に、武田家の阻止網に引っ掛かってしまったのだ。その忍び自体は取り逃がしてしまったが、その時に落としていった物がこの書状である。

信長の直筆に間違い無く、信長の花押も押されていた。
間違い無く本物である。

そしてその書状には簡単に纏めるとこう書かれていたのだ。

『現在織田軍は長篠設楽原で武田軍と対陣中である。
 だが武田軍の勢いは凄まじく、織田の手に負えそうも無い。
 我が織田家中の中にも、証拠は無いが武田に内応している者達が大勢おるようだ。
 そのような状態ゆえ、我が織田の方から武田軍に攻め込むような余裕は無い。
 今は空城の計を使い陣の全面を空けており、それに警戒した武田家が動かない状態である。
 だがそれもいつかは気付かれるだろう。
 
 今の織田が武田と戦っても勝算は無い。自慢の鉄砲隊への対策も採られてしまっているからだ。
 それゆえ、なんとか武田家とは戦わずにすませたい。
 そこで家康殿には武田の後背を脅かし、補給路を断ち切り圧力をかけて欲しい。
 そうすれば武田家は戦わずに撤退するであろう。
 この後に及んでは、家康殿だけが最後の頼みである。
 どうか宜しく頼む』









その奪った書状の内容を受け、武田軍ではすぐに軍議が開かれた。

「これぞ好機! 信長の心底、見えました! 断固攻めるべきにござる!」

「織田信長、恐るるに足らず!」

「空城の計とは!? 我等を馬鹿にするのも程がありまする! 策を見破った今、何も恐れる事はございませぬ! 織田信長、殲滅すべし!」

軍議に集まった諸将が口々に攻撃を進言してくる。
進言してくる者達は全員勝利を確信し、その先にある武功を求め猛り狂っていた。

「またれよ、皆の衆。この書状の内容が偽りであるとの可能性もある。もう一度思案すべきだ」

「然り。どうも違和感を感じる。我等を戦わせようとする罠かもしれぬぬぞ」

それに対して馬場信春と内藤昌豊が反論する。
彼らは逆にこの自軍に都合の良すぎる展開に警戒感を募らせていた。
それに彼らは思う。
仮にも畿内を統一している織田はそんなに弱いのか? 我が武田家はそこまで強いのか? 何故、今この絶妙な時期にこの書状が我等が手に来たのか?

それらは論理的な何かでは無かった。数多の戦場を潜り抜けて来た歴戦の将だけが持ちうる何かが訴えてくるのだ。
そしてそれは未だに一度も発言せずに考え続ける信玄も同様である。

だがそれらはあくまでも感のような物であり、しっかりと他者に対して説明できるような物では無かった。
それゆえ軍議は主戦派が主導権を握り優勢であり、気炎を上げている。

「馬場殿、内藤殿、それはあまりにも消極的ではなかろうか? 今この時に攻めずしていつ攻めるのでござるか?」

主戦派の一人である原昌胤が馬場信春と内藤昌豊に対して反論してくる。
信春達もそれに対して反論はできないでいた。
その原昌胤の言葉の後に山県昌景も発言してくる。

「ワシは原殿の言にも一理あると思う。確かに今攻めねばいつ攻めるのであろうか?
例えば今の機を見過ごし様子を見たとしてその後、我等に織田を攻める好機は訪れるのか?
ワシもこの状況はおかしいと思う。もしかしたら罠かもしれん。
だが罠があるのだとしても、それを食い破れば良いではないか?

虎穴に入らずんば虎児を得ず。
ただ、ワシも何やら嫌の予感がせんでも無い。だからこうすれば如何か?
まず一つ、内応している者が火を掛けると言って来ておるが、その者が実際に火を掛ける事に成功した場合のみ攻撃開始。
もう一つが先陣の者達に十分以上の竹束を持たせ、鉄砲への防御態勢を完璧にする事。
これで如何でござろうか?」

もちろん山県昌景も歴戦の将である。
現状について少しおかしいとは思っているが、ただ自分の率いる赤備えであえば例えどれだけの鉄砲があろうとも蹂躙して見せる。そう判断しているのだ。
そしてその発言の責任も取る。つまりはもっとも危険な先陣を自分が突っ走り、罠があればそれを自軍が踏み潰し後に続く者達の突破口を開いてみせると。




その山県昌景の言葉に皆が考え込む。
武田信玄や馬場信春、内藤昌豊も現在の状況を危険だとは思っていても、さりとて何か代案があるのかと言われれば、正直な所、何も無い。


普通に考えればここは攻めるべきである。

それに昌景の言葉通りに例え今の機を見過ごして様子を見たとして、好機がまた訪れてくれるであろうか?

もしかしたら織田がさらに防備を厚くしてしまうかもしれない。
もしかしたら徳川が我等の補給路を断ってしまうかもしれない。
もしかしたら今、織田の別動隊に襲われている信濃・駿河衆達の中から領地に帰ってしまう者が出てくるかもしれない。

そしてなにより今のこの好機を逃してしまえば、我等は後世の世の人に 『絶好の機を逃した臆病者達』 として語り継がれてしまうかもしれない。
それだけは御免蒙る。我等は戦国最強の武田軍団なのだ。

勝利とは危機の先にある。
今の我等であれば例え何か罠があろうともそれを食い破って、その先の信長の喉元を抉るだけの力がある。



そう、例えば織田が我等の想像も出来ないような新兵器や戦術を用意していないかぎりは………。








「昌景の言にも一理ある」

信玄が一言呟くように声を出す。続いて信玄は馬場信春、内藤昌豊の意見も聞く為に二人に質問をする

「信春、昌豊、お主らはどう思う」

「はっ、昌景の言、一理あります。確かにこの機を見過ごしたとて、その後どうするんだと言われれば反論はできませぬ」

「危険だけを語るのでは無く、むしろどう勝つのかを考えるべきなのかもしれませぬ」

ここに来て信春と昌豊も先程の昌景の条件付きでの攻撃であれば良いのでは無いかと考え直し、その意見に同調する。
そしてその思いは武田信玄も同様であった。


「よかろう。皆の者、我等は戦国最強の武田軍ぞ。織田家が例え2倍の兵力を持とうとも負けぬ。織田がどれほどの防備を誇ろうと攻めて攻めて攻め抜く」

「ははっ!」

信玄は内心の嫌な予感を押し殺し、焦りに負ける形で開戦と決した。
もし、信玄の病状が悪化していなければ、もしかしたら違う決定もあったかもしれない。
だが決断はなされたのである。





こうして織田と武田の長篠設楽原の地での決戦の幕が切って落とされた。












<後書き>

戦いの場面まで行きませんでした。
次回、激突です。





[8512] 第27話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/11 19:23





<第27話>


戦が始まる前には一種独特な雰囲気が流れる。
空気が凍りつくと言うべきか、あきらかに通常とは異なる緊張感に精神を苛まれるのだ。
そして両軍の兵士達の放つ殺気を感じ取ってか、山野に住まう獣や虫も逃げ出し唯々静寂のみが戦場を支配する。


そのような静寂の中、織田軍本陣にいる織田信長の元に訪れる者がいた。
旧浅井家の家臣、阿閉貞征(あつじさだゆき)である。

「信長様、阿閉貞征参上致しました」

「武田からの返書は来たか?」

信長は貞征の方を見ずに武田の陣を睨みつけたまま、言葉少なに用件だけを話す。
貞征は平伏した状態のまま答える。

「はっ、矢文が昨夜陣中に。拙者の行動と共に攻撃開始との事です」

「で、あるか。大義であった。後は半兵衛と相談の上、計画通りに対処せよ」

「はっ、承知致しました」

貞征は信長のその指示を受けて静かに下がっていく。
ちなみにこの二人が何の話しをしていたかと言うと、阿閉貞征が信長の命令で武田信玄の元に送った偽の内応の書状の事であった。







実は武田家の軍議の席上で話題に上がった、『内応した者が火を放つ云々』 と言っていたのはこの阿閉貞征の事だったのである。
貞征は武田信玄に宛てて、『自分は主家である浅井家を滅ぼされた恨みを晴らしたい。どうしても織田信長に復讐したいので武田家に内応したい』 と言う趣旨の書状を送ったのだ。
勿論これは信長に命令された偽物である。

また信長は念には念を入れて、この阿閉貞征以外にも同じ様に一度主家を織田家に滅ぼされ、織田家に降伏した者達にも同じ趣旨の書状を武田家に送るように密命を出していた。
すなわち、この内応がありえない事では無いような人物を選んだのである。
但し信長もこの程度の計略に武田信玄が簡単に引っ掛かるとは思っていない。
信玄がその程度の将であれば、武田家はとっくの昔に滅んでいる。

しかし計略の本質とはそういう物では無いのだ。
計略とはたった一つの策のみで出来ている物では無い。相手も考える能力を持っている人間である。そんなに簡単に騙されたりはしない。
だからこそある程度見破られるのを覚悟で連続して一の矢、二の矢、三の矢、四の矢…と、どんどん策を放って行くのだ。

信玄達武田の名将達もこの書状を完全に信じてはいないだろう。
しかし内応の書状が10通、20通と連続して入って来た事により武田陣中で迷いが産まれた。彼らは偽物だとは思いながらも、もしかしたら…と考えたのである。

さらにそれに合わせて織田軍の信濃・駿河への陽動攻撃。

そして決定的だったのが織田信長直筆の書状の存在だ。
これも勿論偽書状である。
内容自体は信じても良いし、信じなくても良い。信じたい者は例え嘘であろうと信じるだろうし、疑うものは真実でも疑う。
そう、ここが一番重要なのだ。人とは真実では無く、信じたい事を信じる物なのである。
人の本質とはそのような物なのだ。
だからこそ本当に大事なのは、その情報が嘘か真かを確認する情報収集能力に情報分析能力である。

だが此度の武田家は織田の防諜網にそれが出来ない。

出来ないからこそ、今あるだけの総合的な情報、情勢、そして武田軍各員の意思が信玄に攻撃を決意させたのだ。
今回の成果と言えばその程度である

だがそれで良い。その程度で良いのだ。
今回の件でいえば、武田が焦って攻撃を決意してくれたという結果だけで上々の成果である。


計略とはそういう存在なのだ。
良い計略とはたった一つの素晴らしい策の事では無い。数多の策の積み重ねの結果なのである。
その中では所謂良策・愚策等はあまり関係無い。とある限定状況下では愚策がとんでも無い良策になったりもする。
だからこそ様々な試行錯誤が必要であり、その上で弾幕の如き波状攻撃が有効なのだ。
放たれた、如何なる策も無駄になるという事は無い。
結果的に無駄になったように見える良策が多ければ多い程、たった一つの相手を倒す刃となる計略は、より眩い光を放ち、鋭い刃となり、相手に深く抉り込まれる。

『謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負ける』
これは戦国一の謀将・毛利元就の言葉であるが、この事を良く表しているのではないだろうか?







そしてそれからしばらくして、織田軍の前線の陣において火の手が上がった。
















<武田軍本陣>


「御屋形様! 織田の陣より火の手が上がりました! 織田軍はどうやら混乱している模様です!」

物見が大声を張り上げ報告してくる。
武田信玄は目前に広がる織田軍の陣を睨みながら待っていたが、その待ちに待った瞬間がようやく訪れたのだ。

「どうやら阿閉貞征は約束通り事を為してくれたようですな。まずは一安心でござる」

本陣に詰めていた者達から安堵の声が漏れてくる。
それと同時に皆、その士気を大いに高めた。

「皆の者、時は満ちたり! 始めるぞ! ムカデ衆、各隊に伝令! いくぞ、攻撃開始じゃ!」

「応ぉう!」

信玄は今まで座っていた床机椅子から勢い良く立ち上がると采配を振り下ろしながら大声で攻撃開始の命令を下す。
それに武田軍諸将の全員が興奮の雄叫びで答える。
そしてその命令に応えて皆が迅速に動きだす。







永禄15年(1572年) 12月22日 朝。
ここに長篠設楽原での決戦の幕が切って落とされたのだ。










「行くぞ者共! 一心不乱に駆け抜けよ! 罠があればそれを喰い破る! 織田信長の首を取るまでは止まってはならんぞ!」

「おおおおお応ぅ!!」

静寂を打ち破り、長篠の山野に一斉に陣太鼓や法螺貝の音が響き渡る。
その合図を受けて武田軍の各陣地から一斉に兵達が飛び出して行く。

武田軍右翼からは馬場信春隊が。
中央からは真田信綱・昌輝兄弟及び原昌胤の隊が。
左翼からは山県昌景隊が。

「恐れるでないぞ! 準備した竹束があれば織田の鉄砲など恐るるに足らず! 固まって進め! 焦らずともよい! じっくりと攻め寄せぃ!」

それぞれの先陣達が前面に大量の竹束を押し立てて前進を始める。
その様子はまさに怒涛の如き勢いであった。
誰もが前だけを見、織田軍の将兵を殺そうと突き進んで来る。

それはまさしく解き放たれた猟犬達の如く。
それはまさしく獲物を射程内に収めた肉食獣の如く。

誰もが興奮と恐怖に顔を大きく歪ませながらも歯を噛み締め、大きな雄叫びを上げながら一心不乱に突っ込んでくる。



逆に迎え撃つ側の織田軍は静かに陣を整えていた。

そしてどんどん両軍の距離が埋まって行く。
武田軍は見事な密集陣を作り、竹束を押し立てて織田軍の陣まで後25mほどの距離まで前進。














そして両軍の激突が始まる。



突然織田軍の陣より、今まで武田軍の誰もが聞いた事の無いような雷鳴の如き大音声が響き渡ったのだ。
鉄砲などの音とは比べ物にならないような大きな音である。
しかもそれが連続して、だ。

「な、何事じゃ!? 何が起こった!?」

武田軍中央の先陣を突っ走っていた真田信綱は確かにそれを見た。
本来なら人間の動体視力では追えぬはずのそれを。

響き渡った大音声と共に織田家の陣から丸い大きな何かが放たれ、自分の部隊に突き刺さったのである。
その何かは兵達が持つ竹束を容易く粉砕し、それどころか兵達の身体その物を貫きバラバラにしながら飛び続けた。
そして自分の前で大きくバウンドしたその何かは、そのまま自分に向かって突き進んでくる。
その一瞬後、信綱の視界はなぜかぐるぐると廻っていた。

空と地面が代わるがわる、何故かぐるぐると廻って見える。
そして地面に叩きつけられたかのような衝撃を最後に信綱の意識は途絶えた。
それが真田信綱の見た最後の景色だったのである。
















<織田軍中央 前田利家軍の陣>


「来たぞ! 皆の者、ぬかるで無いぞ!」

織田家の中央に陣を構えた前田利家は自軍の兵達を激励した。
物凄い勢いでどんどんと武田軍先鋒隊が近付いて来くる。

しかしその間に織田の陣の中では静かに迎撃の準備が始まっていたのだ。
各所で今までそれを隠す為に被されていた筵(むしろ)が一斉に剥がされ、前線にまで引っ張り出される。
それは左右に二つの車輪の付いた大きな大砲だ。
引っ張り出された大砲が銃兵達の隙間隙間に一門づつ配備されたのである。
そしてその距離が25m程の距離にまで近づいてきた時点で利家は命令を下す。

「砲兵隊、放てぃ!」

満を持して放たれる、大砲による超々近距離、水平射撃だ。
その命令と共に最前列の部隊と部隊の間に配置された大砲が砲弾を放つ。
それは他の陣も同様である。
響き渡る大音声と共に放たれた幾つもの砲弾が真っ直ぐに武田軍部隊に突き刺さった。

その内の一発は武田軍部隊の全面に押し立てられた竹束を容易く粉砕すると、その少し後ろにいた六文銭の旗印を掲げた武将に真正面から直撃。
砲弾を受けた武将は乗っていた馬ごとその砲弾に貫かれたのである。
腹部に砲弾の直撃を受けたその武将の身体は真っ二つにされ、弾き飛ばされた上半身はくるくると廻りながら空高く舞い上がった。
そしてその上半身は実に10mも吹き飛び、地面に叩きつけられたのである。






この時織田軍より一斉に放たれた砲弾は50発。
織田軍の陣列には鉄砲隊と鉄砲隊との間に等間隔に、実に50門もの大砲が配備されていたのだ。
それら全てが突撃してくる武田軍に至近距離で、しかも水平射撃で放たれたのである。




その威力はまさに凶悪の一言。
その威力の前にはどのような盾も鎧も無意味。

放たれた球状の砲弾は武田軍の竹束を粉砕し、兵士達を貫いて行く。
そしてそれは運動エネルギーを全て失うまで、どこまでもそのまま突き進むのだ。
一つの部隊を貫くだけではおさまらず、そのままバウンドした砲弾は後方の部隊に飛び込みその兵士達まで薙ぎ倒して行く。

ある者は身体をバラバラにされ、ある者は腕を吹き飛ばされ、ある者は足を吹き飛ばされ、それ以外の者はそれらの光景が信じられずに、ただ呆然と戦場に立ち尽くした。











「武田軍の動きが止まったぞ! 好機じゃ! 第二撃用意! 大砲隊は再装填を急げ!」

あまりの衝撃に思わず動きを止めてしまった武田軍の様子を見て、織田軍の士気は高まる。
前田利家はさらに次の手に取りかかった。
織田軍の切り札はこの大砲だけでは無い。

「擲弾兵(てきだんへい)、準備は良いか!? 攻撃開始じゃ!」

その利家の命令の声と共に陸用に改造された焙烙玉を持った兵達が前に進み、各々がそれを武田軍部隊に向かって投げ込む。
投げ込まれた焙烙玉は武田軍部隊の至近距離で爆発。それと共に中に仕込まれた鉄片や油を周囲に撒き散らす。
その撒き散らされた鉄と油は容赦なく武田兵の身体を切り裂き、火達磨にした。

武田軍は織田軍の鉄砲攻撃を凌ぐ為に極端に密集して進軍していた為、その損害は甚大である。



「ひっ、ひっ、ひっ、ああぁ、ああああ!!」

「ぎゃあぁぁぁああぁ! う、腕が! お、俺の腕がぁぁ!!」

「あひゃ!? ひゃひゃひゃひゃ! う、嘘だ! こんなの夢じゃ! うひゃひゃひゃひゃひゃっ、ひっ、ひっ、ひっ」

それは武田軍将兵にとって初めて受ける衝撃だった。
ある者はただ無意味にその場でしゃがみ込み狂ったように泣き叫び、またある者は吹き飛ばされた自身の腕や足を抱えてのたうちまわる。
ある者は全身を火に焼かれ、その火を消そうと転がり廻り、無傷な者も戦友達のその凄惨な光景にただうろたえるばかりであった。

彼らにとって戦とはこんなにも凄惨な物では無かったはずなのである。
こんなにも無残に、こんなに簡単に死ぬような物ではなかったはずなのだ。

彼らにはすでに突撃してきた時の戦意など欠片も残っていない。
もはや逃げる事しか頭には無かった。



そしてそこにさらなる織田軍の追撃が加えられたのである。

「銃兵隊、攻撃開始じゃ! 良いか!? 訓練通りにやれ! 目標の少し下を狙うのじゃ! 前列、放てぃ!」

満を持しての織田軍の鉄砲隊の斉射が始る。
竹束を維持する事さえできぬ程に混乱した武田軍先鋒隊の将兵達にとってそれはまさしくトドメとなった。

織田軍にとっては目の前で大混乱に陥っている武田軍将兵達は、まさしく絶好の鴨である。
武田軍将兵達はその織田軍の斉射が加えられるたびに文字通りバタバタと薙ぎ倒されていく。










「ぐあっ!」

武田軍左翼の将、山県昌景は少し前に出過ぎていた。
織田の銃兵の斉射に絡めとられ、左肩と脇腹に銃弾を受けてしまい、その衝撃で馬から転げ落ちる。

「ま、昌景様! 皆、昌景様を守れぃ!」

すぐに馬廻り衆達が集まり昌景を守るように廻りを囲う。
その間にも織田軍の攻撃は続き、昌景の身を守ろうと盾になった者達がバタバタと撃ち抜かれていく。
その尊い犠牲によって稼がれた時間を使い、生き残った馬廻り衆達は昌景を馬に乗せ後方に向かって走り出す。

「部隊はどうなった!? 戦況は!?」

撃たれた昌景はしばしの間、意識が混乱した状態であったが馬に乗せられた辺りでようやく回復した。
馬の背にうつ伏せの状態のまま開口一番、状況の把握の為に廻りの者に問い掛ける。
その問い掛けに側近達は力無く首を振りながら答えた。

「残念ながらかなりの数がやられました…。雑兵達にも逃げ出す者が出ております。すぐに後方で再編成をかけますが、どれだけ集まるか…」

「…我が赤備えが、我が兵士達が…、くそぅ! くそぅ!」

昌景は憤怒と絶望の両方の感情を綯い交ぜにした言葉を吐き出す。

昌景にとって、いやそれ以外の者にとってもこんな敗北は初めてである。
ここまで無残に、ここまで無慈悲に、ここまで呆気ない敗北は……。

「此度の戦、尋常にあらず…! ワシはすぐに本陣の御屋形様の元に行く! お前達は部隊の再編成を急いでくれ!」

「その前にどうか傷の手当てをして下さい!」

「阿保ぅ! そのような時間があるか! 致命傷ではない! 不要じゃ! 今は御家存亡の危機ぞ! ワシに10騎のみ従え! それ以外は命令通り部隊の再編じゃ!」

昌景は自分の事を気遣ってくれる部下の言葉を振り切り、命令のみを残し信玄の居る本陣に向かって僅かな供のみを従えて馬を走らせる。
その心中は大きな焦りと自身への大きな怒り、そして今までの誰とも違う戦い方をする織田軍に対しての恐怖を胸に抱き、ただ道を急ぐ。

あの軍議の時に自分があのような進言をしていなければ…! あの時、信春達の意見を聞きもっと様子を見ていれば!

そんな今更言っても仕様がない事が昌景の頭の中を埋め尽くす。
眼から零れ落ちる涙もそのままに、ただ本陣へと急ぐ。














<後書き>

軍事チート全開です。
批判は甘んじて御受け致します。
やりすぎたかな?








[8512] 第28話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2009/10/18 19:21





<第28話>




<武田軍本陣>


「こ、これは!?」

信玄は目の前で起こった光景に眼を疑う。
自慢の先鋒隊が、戦国最強の武田軍の先駆け隊が瞬く間に叩き潰されたのだ。

その織田軍の前面に広がる、戦場となった地のその光景はまさに凄惨の一言である。
信玄のその生涯の内で一度も見たことのないような惨劇が広がっていた。

「すぐに先鋒集を引かせよ! 少なくとも鉄砲の届かない距離にだ! 最初の地点の陣地は失ってもかまわん! 一気に大きく引かせよ! とにかく急げ!」

現在の状況・戦況は尋常にあらず。それはすでに屍となった将兵達がまさしくその身で証明していた。
信玄はすぐに前線にいる部隊に大きな距離の撤退の命令を下す。
その決断は流石と言える迅速な判断である。





だが状況はそれすらも許さなかったのだ。
なんと織田軍が前進を始めたのである。

「ば、馬鹿な!? 織田が攻めるだと!?」

その織田軍の行動に信玄は勿論、本陣に詰めていた者達全員が驚いた。
そして彼らは無意識の内の先入観で、一つの勘違いをしていた事に気付く。

彼らは織田の方から攻めてくる事はないだろうと勝手に考えていたのである。
この戦の決着は、武田が攻め抜くか、織田が守りぬくかのどちらかだと勝手に思っていたのだ。
誰も織田が攻めてくるとは想像だにしていなかった。

だがそのありえないと思っていた事態が今、目の前で起こっている。




「くそっ、しまった! 主導権を完全に織田に持っていかれたわ!」

信玄はここに来て気づく。
自軍がすでに織田信長の術中に完全に嵌った事を。

既に対応が全て後手後手に回ってしまっている。そしてこのまま攻められては混乱した武田軍は為す術も無く混戦に巻き込まれてしまう。
その後は戦略も戦術も関係の無い泥沼の消耗戦だ。
そうなれば数の少ない劣勢の武田軍は、数の多い織田軍に磨り潰されてしまう。

「信長め! 自軍の前面に柵を築かなんだは、この為かっ! 端っから攻める気でおったか!? 武田を攻め勝つ気でおったのか!? あの大鉄砲や爆発する玉で我等の機先を制し、無理やり主導権を奪うこの状態を狙っておったのか!? やられた! してやられたわっ!」

信玄はこの窮地の打開策を必死に考える。
だが何も浮かんでこない。それがさらに焦りを生む。



そんな信玄が悩み続けている、その時である。

「御屋形様! 御屋形様ー!」

突然、左翼先鋒集の大将・山県昌景が馬の背にもたれ掛かるようにして本陣に駆け込んで来た。

「おお、昌景、無事であったか? ん、なんじゃ!? 怪我をしておるではないか!? 誰か、早よう手当致せ!」

信玄はすぐに床机椅子から立ち上がり昌景を迎えるが、その昌景は馬の背から滑り落ちるようにして地面に蹲る。
皆はその状態を見て昌景が怪我をしている事に気付いた。
信玄の言葉を受けてすぐに医師達が昌景に駆け寄る。

「御屋形様…、申し訳ございません! 拙者が攻撃を進言したばかりにこのような事態に…!」

「阿呆ぅ! どのような進言であれ、それを採用したのはこのワシじゃ。たわけた事を申すな。それよりも先鋒集達の様子はどうじゃ」

「良くありません。我が部隊も大打撃を受けました。この期に及んでは最悪の事態に至る前に、撤退も視野に入れるべきかと…」

昌景はなんとこの緒戦の段階で、早くも撤退の判断を信玄に求めてきた。
だがしかし、その思いは実は信玄も共有する思いだったのである。

すでにこの時点で武田家の旗色は極めて悪い。
例えるなら、織田という獣を狩るはずだった狩人・武田軍のその両手に、逆に織田という猛獣が喰らい付いて来たのだ。
そしてその猛獣は喰らい付いたその両手を放さない。

もしこれで織田軍が大砲・鉄砲を撃つだけで攻撃に転じなければ幾つかは打つ手はあったのだ。
その場合は武田軍は、戦場では人命よりもよっぽど貴重な時間という存在と、そして戦術を展開できる空間(織田軍との距離)を手に入れる事が出来たのである。
しかし織田軍がすぐさま攻めに転じた事でその機は完全に失われた。

武田軍としては、何としても動揺した軍を立て直す為の時間と、織田の新兵器に対抗する為の戦術を展開する為の空間が欲しい。
このままでは先程の例え通り、喰らい付かれた両手を最後まで放してくれないまま振り回し続けられ、最後にはそのままその両手を喰い千切られ喉笛を喰い破られるか、無様な出血死に至るかのどちらかである。
何とかして、どのような事をしてでも、その両手を織田の顎(あぎと)から解放させ、一旦態勢を整える為の猶予(時間と距離)が欲しいのだ。









「悔しいが織田信長にしてやられた…! 見てみよ、我が軍の様子を! 織田のあの攻撃に兵達の動揺が治まらん! あの攻撃は唯の攻撃では無い! あれは真正面から攻め込んだ我等に対する奇襲攻撃よ! 真正面から攻め込んだはずの我が軍をあの新兵器で無理やり精神的な奇襲にされたのよ…!
完全にしてやられた…! 完全に主導権を持っていかれたわ…! このままでは後は無様に振り回されるだけよ…!」

信玄は昌景にそう弱音を洩らす。

それに齎される情報は凶報ばかりだ。
突撃した先鋒隊の内、右翼の馬場隊は大打撃を受けながらも、運良く指令部が無事であった為なんとか組織的な抵抗を続けている。
左翼の山県隊は同じく大打撃を受けながらも、中陣よりの秋山隊の後詰めを受けてなんとか素早く撤退し、今は後方で再編成中だ。

しかし問題は中央部隊である。
中央の部隊はなんと真田信綱・昌輝兄弟が既に討ち死に。同じく原昌胤も乱戦の中で行方知れずとなっていたのだ。
それ故、統率する将を失ったこの3隊は大混乱に陥りすでに壊滅状態である。

中陣の者達がその穴を埋めるように次々と戦列に加わってはいるが、織田の攻撃の前に為す術が無い。







その間にも織田の攻勢はさらにその苛烈さを増している。

織田軍は最初の陣形のままに前進を続けていた。
最前列に銃兵と大砲が順番に並び、盛大に撃ち続けながら前進してくる。
その様子はまさに鉄の壁、鉄の奔流であった。

その銃兵達は新式のフリントロック式銃を装備している為、その戦列の間隔は隣の者と肩がつくほどの近距離であり、それが密集しながら前進する。
またその前進方法も今までに見た事のない独特な物であった。
銃兵達は何列にも別れており、そして最前列が発砲するとその者達はその場で再装填を始め、その間に次列が5~10歩前に出て発砲。さらにその次列もその場で再装填する間に3列がさらに5~10歩、前にでて発砲。
それが4列、5列と延々続く。
そしてその繰り返しの間に最前列が再装填を済ませてさらに攻撃という塩梅で、その繰り返しにて弾幕を途切らせ無いように前進している。
その移動は大砲の移動に合わせている事から比較的遅い物ではあるが、それゆえ武田軍からしたらとんでもなく分厚くて危険な壁が向かってくるような圧迫感に気圧されるのだ。

また特筆されるべき点としては、その物量であろう。
織田がこの戦場に持ち込んだ鉄砲の数は実に五千丁。全軍のほぼ11%に達する程の割合である。
さらに大砲が前線に配備された五十門にプラスして、それ以外の所に配備されたのが二十五門の計七十五門。
そしてそれを支える多数の弾薬だ。
鉄砲の弾薬が総数五十万発。一丁あたり百発/丁である。
大砲の砲弾も七千五百発用意してきたのだ。こちらも一門あたり百発/門である。

今回の戦で特筆されるべきはその兵器は勿論の所であるが、さらにはこの物量なのだ。
織田軍は武田軍と対峙してからの時間を全て使って、兵器弾薬物資をせっせ、せっせとこの戦場に運び込んでいたのである。
けして無為に過ごしていた訳では無い。






そして世界で初めての、この鉄の雨に…、物量に…、武田軍は破れ去ろうとしていた…。

武田軍各隊は織田軍の撃ち出すその鉄砲の弾丸に、大砲の砲弾に、無慈悲に薙ぎ倒されて行く。

勇敢な武田軍将兵がいくら突撃しようとも、その圧倒的な弾幕に撃ち止められてしまう。
近づきすぎた者には大砲からの球弾だけではなく葡萄球が撃ち出される。その攻撃を受けた武田軍将兵はまさに悲惨の一言だ。
直径3cm程の無数の鉄球の雨が武田軍部隊に突き刺さり、次々に兵士達をミンチに変えていく。

そこにはいかなる武勇も、武士の誇りも、身分の貴賎も、何も関係など無い。
ただ統計確率的に運の悪い者達から弾丸を受けて死んでいく。

この時、文字通り戦争という物の意味が変わったのだ。














本陣にいる信玄達の元にさらなる凶報が舞い込んだ。
なんと左翼において秋山信友が、中央において内藤昌豊が、それぞれ討ち死にしたとの報である。


「やむを得ん…。撤退じゃ…」

その報告を受け、信玄は撤退を決断した。

「無念じゃ…! 大切な将兵を数多失ってしまった! これからの撤退戦で犠牲はさらに増えようぞ! 無念じゃ! 無念じゃっ…!」

「御屋形様! 後悔は戦の後でいくらでもできましょうぞ! 今は一兵でも多くの将兵を無事に国に帰す為に全力を尽くすべきに御座いますぞ!」

信玄はあまりの悔しさに、後悔の念に、手に持っていた采配を圧し折って地面に叩きつけた。
そのような状態の信玄を昌景が慰める。

「例え我等が討ち死にしようとも、御屋形様さえ無事ならば武田は何度でもやり直せます! 上田原での敗北の時も! 砥石城での敗北の時も! 我等はその後に復讐を果たし敵を撃ち滅ぼしてきたではございませんか! 例え我等がここで死のうとも、御屋形様さえ御無事であるならば大丈夫でござる! 今すぐに撤退を! 殿(しんがり)は拙者と馬場の隊にお任せ下され!」

殿の任に昌景は名乗りを上げる。
昌景はもはやこの戦の戦端を切った者としての責任を負って死ぬ気であった。一兵でも多くの武田軍将兵を生かして帰す為の楯となる覚悟である。

「…すまぬ。頼むぞ」

信玄は少し躊躇ったが、結局の所はその任務を昌景に託した。
この難局に、他の将ではその任を全うできないとの判断である。






そしてこの時より武田の地獄の撤退戦が始まった。












撤退時の戦術というのは、ほぼ何処の大名でも方法は同じである。
それは至極簡単。殿(しんがり)という部隊が敵を抑えている間に他の者が逃げるというものだ。当然その任務は途轍もなく危険な物である。
ある意味では殿(しんがり)とは捨石であると言ってもいい。

織田軍は武田軍が撤退を始めたのを悟り、さらに攻勢を強めてきていた。
すでに槍隊、騎馬隊も前線に突入し、崩れた武田軍の部隊を蹂躙している。すでに戦局は掃討戦の様相を呈していた。




「信春、すまんが我等が殿じゃ。勝手に決めてもうた。すまん」

「なに、かまわん。最後の奉公には丁度良いわ」

部隊の再編成を終えた昌景は馬場信春の陣にまで来ていた。これよりの殿の為の作戦を決める為である。
信春は昌景に作戦の思案はないか問い掛けた。

「あの織田軍には足止めすらも至難の業じゃ。如何する?」

「我が部隊が織田の部隊を少しの間だけじゃが、足止めする。その間に一旦全軍を後に下げて要害の地を見つけて布陣してくれ。それで少しづつ時を稼いでいくしかあるまい」

「突撃する気か、あれに」

「見ていて気づいたのじゃが、あの大鉄砲と爆発する球の攻撃は敵が密集している事が前提のようじゃ。特に大鉄砲。あれは威力は途轍もないが一発撃てば次に撃つまでに時間がかかる。
よって、ここは敢えて部隊はバラバラにして突撃されるつもりじゃ。そうすれば大鉄砲、爆発する球に狙われても被害は最低限。
鉄砲はなんとか竹束でふせげようぞ。
その後なんとか乱戦に持ち込む。後は死ぬまで暴れ続けるだけよ」

驚くべき事に、ここにきて昌景はその織田の戦い方の本質を、この短期間で本能的に察知していたのだ。
そしてその弱点を突く策をたてる。
但しまさにこの作戦は片道切符だ。
部隊がバラバラに突撃されるという事は突撃の指示を出してからの指令を放棄するという事である。

この時代の戦闘部隊がほぼ例外なく密集陣を作っているのには当然ながら理由がある。密集していないと指揮官の命令が届かなく統制が利かなくなるからだ。
そしてそれはかなり先の時代になって、無線器などの通信機器が発明されるまでは変わらない。

そのような中での、この作戦はまさに決死!

端から戦場での統率を放棄し、事前に出された作戦を完遂する事のみを目的にする。
つまり、なんとしても敵陣に突入し、一人でも多くの敵兵を殺し時間を稼げ。

ただそれのみである。

作戦としてはまさに外道。価値は無いに等しい、下の下の策だ。
突入した者は絶対に死ぬ。ただ個々人の武勇のみを頼る策はまさに下策。
しかしこの局面で、ただ時間稼ぎのみを目的とする場合には有効。

まさしく山県昌景、一世一代の苦肉の策である。





「そこまで覚悟いたしたか…。相判った。後は任せよ。その間に御屋形様が逃げる時間を稼げる体制を必ず整える」

信春はその昌景の言葉に深く頷いた。そしてその昌景の覚悟を悟る。
将として、そのような命令はまさしく屈辱の極み。
突入する兵士達に生き残る目は無い。
例え立て続けに物凄い奇跡が起こってこの戦況が引っ繰り返ったとしても、指揮系統から逸脱したその兵達はそれが判らず、知る事ができずに、ただ死ぬだけである。
一旦織田軍に突入してしまえば、その後の命令は聞こえなくなるからだ。

そのような状態に大切な兵達を送らねばならない昌景の心中は如何様な物か!?
信春にはその昌景の絶望が、慟哭が、自分に対する怒りが、まさに聞こえてくるようであった。

「必ずやり遂げる! 後は頼んだそ、信春!!」

昌景は信春に全てを託し、自軍の陣に向けて駆け出す。
信春もそれに声をかけない。ここまでの覚悟を決めた漢にウダウダと未練がましくするのは逆に非礼である。

昌景はその仕事を必ず遣り遂げるだろう。
そして昌景から後を任された自分はその心を継ぎ、自分のすべき、遣り遂げなければならない仕事を必ず遣り遂げる。
それこそが昌景の覚悟に報いる唯一の方法なのだ。

信春はその思いを胸に自軍の再編成を急ぐ。


















そして、武田軍随一の精鋭、赤備え隊の最後の突撃が始まった。
それに従う兵達は再編成された赤備えに加えて他の壊滅した部隊の残兵も吸収し、数は一千。

「よいか、者共! これは武田家に対する最後の御奉公なり! ここが我等の死に場所と心得よ! 命尽きるまでただ織田を攻めよ!」

昌景が兵達に与えた命令は極単純な物だった。
すなわち、5~10人単位で陣を作らずに各々突撃。本陣が撤退するまでの時間を稼げ。

ただそれだけである。
しかしその無茶な命令に精強な武田軍将兵は応じた。織田軍の攻撃に心を折られ、逃げ出す将兵達も多い中、ここに集まった彼らは全ての恐怖を心の底に沈め、自らを叱咤激励し、この決死の突撃に応じたのだ。まさしく彼らこそが勇者と呼ぶに相応しい強者達である。
そして最後の死力を振り絞った雄叫びと共に、他の者達を逃がす為の最後の突撃が始まった。



その突撃は無謀といえば無謀であった。
昌景の号令と共に、全員が一斉に突撃。それに対して織田軍より容赦の無い攻撃が加えられる。

大砲、焙烙玉、そして銃撃。それらは人の力で切り払えるとかそういう次元の威力では無い。
確かに兵達を分散させた事により、その被害を抑える事には成功している。しかし完全では無いのだ。
しかも最初の頃に比べて竹束も十分な数を揃える事は不可能だったのである。

バタバタと兵達は撃ち倒されていく。
しかしそれでも彼らは今回は動きを止めなかった。廻りで戦友が撃ち倒され、薙ぎ倒され様が、その全てを無視して突撃を続けた。

そしてその約半数が織田の陣列に突撃する事に成功したのである。
それは少数とはいえ、少なからぬ混乱を織田軍にもたらした。

だが結局は統率の執られていない少数部隊。しかも軍の数は元から織田の方が上なのである。
混乱を抑えた織田軍がその少数の部隊の側面・後方に部隊を送って反撃しだすともう持ち堪える事は出来なかった。
次々と包囲され、順番に揉み潰されていく。

「皆の者、すまぬ! だが良うやってくれた!」

昌景は無慈悲に蹂躙されて行く自軍の部隊を横眼に確認しながらも戦場を駆け抜ける。
すでに昌景の廻りの馬廻り衆達もほとんど討ち死にし、いまや数える程だ。
そしてその昌景の突撃を遮るように三つ柏の紋を掲げた一つの部隊がその進路に立ち塞がる。

「行けぃ! 全員突撃じゃ!」

昌景は前方を塞いだその部隊に、突っ走ってきた勢いそのままに突っ込んで行く。
物凄い勢いで両隊はぶつかり、鉄と鉄の擦れ合う音、肉の潰される音、そして断末魔の叫びと戦場の喧噪が周囲に響き渡った。

「山県昌景殿と御見受けいたす! 拙者、織田信忠様が与力・島左近! 悪いがその御首(みしるし)、頂戴仕る!」

昌景の率いる小部隊はその進路を塞いだ部隊と衝突し、乱戦となる。
そしてその乱戦の中、その織田軍部隊の指揮官・島左近が昌景の前に立ち塞がった。

「ありがたや! 我が最期の敵となるは高名な貴公でござるか! 敵に不足無し! いざ、参るぞ!」

昌景はその自分の前に立ち塞がった島左近の挑戦を受け、馬を進める。
そして双方の馬が駆け寄り、一騎打ちが始まった。
二人共、名の知れた猛将である。
どちらも一歩も引かずの槍の打ち合いとなった。

しかし終極はすぐに訪れた。元から前提条件が違いすぎたのである。

双方、無傷の状態であればどちらが勝ったかは判らない。
しかし片方の島左近は無傷の上、体力・気力ともに万全の態勢。
それにひきかえ、山県昌景は長時間の戦に疲れ切った上に銃撃で負った肩と脇腹の傷もあったのだ。

すぐに昌景は左近の繰り出す豪槍を受け切れなくなる。突き入れられるその豪槍の衝撃に、肩と脇腹の鉄砲傷が開きその激痛に耐えられなくなってきていたのだ。
そして打ち合い始めてから十合目、左近の振るった槍に昌景は手槍を弾き飛ばされてしまったのだ。
その隙をついて左近の槍が突き入れられる。その槍は昌景の胸板を貫いた。

「ぐふっ!」

昌景の口から血が、後から後から溢れだす。それは突き入れられた槍が重要な臓器を破壊した証拠である。
完全な致命傷だ。

昌景の身体はゆっくりと馬から滑り落ち、大の字になって地面に転がる。
その昌景に馬から降りた島左近が近付く。

「傷を負った身でありながら此度の御働き、誠に見事にござった。この左近、感服仕りました。せめてもの情け。最期は苦しまぬように、いざ、御介錯仕る」

左近は槍を傍らに置き、脇差しを抜いて昌景の首に添えた。
そしてその脇差しを横に引く時、昌景は静かに微笑んだのである。





武田軍随一の猛将、赤備えを率いた名将・山県昌景、ここに討ち死に。
享年四十四歳。

その首級は見事なほどの福顔であった。




















結局の所、この山県昌景隊の突撃で稼げた時間は僅か半刻(一時間)程であった。
しかしその半刻こそが、何物よりも得難い貴重な時間だったのである。

その突撃は到底、織田軍の致命傷に成りえるような物ではなかった。
だがその突撃は例えるなら棘。どうしようも無く織田軍を悩ませる、その身にささった数多の棘となったのである。
そしてその棘を織田軍が一つ一つ抜いていくのにかかった時間が半刻という訳だ。

その間に信玄の本陣及び一門衆達は全力で信濃に向けて撤退。殿の馬場信春隊もそれを援護する為に隘路の要害の地に移動して布陣。
一応の態勢を整える事に成功したのである。

「昌景は自分の仕事をきっちりとやり遂げたか。流石、流石よの。後はこの老骨の仕事じゃ」

しかしその馬場信春隊もすでに完全包囲されていた。
四方八方から織田軍の攻撃が始まる。後はどれだけ時間を稼げるか、だ。

そしてその絶望的な抵抗は実に二刻に及んだのである。
そのせいで織田軍はとうとう信玄を取り逃がしてしまった。すなわち馬場信春、殿の任務完遂である。

そして信玄を取り逃がしてしまった織田軍の怒りは、全てこの馬場信春隊に向けられた。
馬場隊も良くその攻撃に耐える。実に二度の攻撃を弾き返し、支え続けたのだ。
その奮闘振りは織田軍将兵達に『流石、馬場美濃守。古今無双の御働き、他に比類なし』と称される程であったのである。

しかし三度目の総攻撃には耐えられなかった。
馬場隊は圧倒的な数の織田兵に蹂躙され、踏み潰される。
信春自身も力尽きる限り、自ら刀槍を振るい奮戦したが、所詮は多勢に無勢。織田の兵士達に囲まれ、最後は四方八方から突き入れられた槍に貫かれた。








そしてこの馬場信春の討ち死にを持って中央の覇者・織田信長と戦国最強・武田信玄の長篠設楽原での決戦は幕を下ろしたのである。

武田の被害は甚大であった。主だった武将の討ち死には下記の通り。

山県昌景 討ち死に
馬場信春 討ち死に
内藤昌豊 討ち死に
秋山信友 討ち死に
原昌胤   討ち死に
真田信綱 討ち死に
真田昌輝 討ち死に
甘利信康 討ち死に

他将兵三千が死に、それに倍する者達が負傷・行方不明となったのだ。
対する織田の被害は主たる将に討ち死にした者は無く、被害は八百程の兵が死に、千五百程の者が負傷・行方不明となっただけである。
まさしく武田の大敗であった。

特に武田軍にとっては中核となるべき将達の大勢が討ち死にした事は痛恨の極みである。
これにより武田家は継戦能力を喪失。信長包囲網から脱落した。
以後、武田は戦力の回復の為に奔走する事になったのである。












<後書き>

作者は武田家、好きですよ。こんな展開になっちゃいましたけど。

後、少しの間、お休みさせて頂きます。
多分、1~2ヶ月くらい。
その間に今までに投稿した物の修正はさせて頂きます。
いいかげん、効果音の所も修正しないと。

これからも頑張っていきますので、少しだけお待ち下さいませ。







[8512] 第29話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/01/17 20:08





<第29話>



『長篠設楽原にて武田軍大敗、織田軍大勝利! 武田軍壊滅!』

織田軍の本貫、美濃の国・岐阜城下。長篠の地より凱旋して来た将兵達が胸を張り、どこか得意げな様子にて大通りを行進し続々と入城して来る。それを迎える民衆達も祝福の声を上げ、彼らを迎えた。

長篠決戦、織田軍大勝利の報せは合戦後すぐに政府広報によって広く報道され、特に織田領内では領民達の大きな歓喜の声で迎えられたのである。
逆にその報せは信長包囲網側にとっては、まさしく極めつけの凶報として、その心に途轍も無く大きな激震をもたらした。信長包囲網に参加する各地の大名達にとって、武田軍とはただの同盟国ではけして無いのである。それ以上の存在、彼らにとっては大きな精神の支柱であるからだ。




彼らは信じる…。武田信玄ならば織田信長に負けない。負ける筈が無い。何故なら武田家は戦国最強なのだから…。

だが、そのありえない筈の事が起こったのだ。




その報せを受けた時の彼らの驚愕、そしてその絶望感はまさしく筆舌に尽くし難し。包囲網に参加する勢力の一つである本願寺家法主・本願寺顕如に至っては、その報せを信じずに、何度も何度も確認の為の使者を送った程である。そしてその情報が真実だと知ると絶望に打ちひしがれ、一人部屋に籠り三日もの間、部屋から出てこなかったと言う。

とにもかくにも、これで織田家に対する東方の刃は折れたのである。しかも東方での織田に対する刃はこの武田家しかない状態で、だ。
長篠の決戦で大敗した武田の損害は甚大である。
指揮する立場の指揮官達の、しかも老練で卓越した名将達のことごとくが討ち死にした事はもちろん大打撃だ。しかし被害はそれだけに留まらない。軍を支える熟練した兵士達(現代風に言うと兵士・下士官・士官クラスの者達だ)をも今回、武田家は長篠の地で大量喪失したのである。
織田の圧倒的な火力という新戦略は、今までにない数の戦死者を無差別で武田軍に強いたのだ。特に勇敢で優秀な者程、最後の最後まであの地獄の戦場に踏み止まり、そして仲間を逃す為にあの長篠の地で戦死して行ったのである。皮肉な事だが、それが武田軍の傷をさらに残酷なまでに大きく、そして修復不可能なまでに広げた。

それは到底1年や2年では回復できない程の大打撃である。実際回復するまでにどれだけの時間が掛かるのかすら判らない。例え長い年月をかけて表面上は軍の数を長篠の決戦前までに戻せたとしても、それは本当に表面上だけであり、その中身、所謂、練度・質と言う物は絶望的なほどまで落ちこむであろう。それほど優秀で長年の戦を経験してきた経験豊富な指揮官や兵士達という者は貴重で得難い存在なのだ。
そしてそれだけの損害を受けた武田軍は短くとも数年は軍事行動を自粛せざるを得ない状態である。と言うよりも軍事行動を起こせるような状態に無いというのがより正確な言い方だ。





しかも追い討ちを掛けるように、さらなる悲劇が武田家にもたらされる。1573年5月、以前からの持病の病状がさらに悪化した武田家当主・武田信玄が危篤に陥ったのだ。

「無念…、無念じゃ…。ワシがここで死んでは長篠の地でワシの事を信じて死んでいった者達に、あの世で何と言って詫びればよいのじゃ…。ワシはまだ何もなしていないのに…。御仏よ…! 今しばしの命をワシにっ…!」

すでに意識が朦朧とし、傍らに集まった者達の言葉も聞こえなくなった信玄が今際の際に無意識に発する言葉は、唯々、自身がやり残した仕事を果たせずして逝く事への口惜しさであった。
現し世に残される者達もそれと同じ悔しさと悲しみ、そしてこれからの将来への不安を胸に、ただ信玄の傍らに依り沿う。

「なんとかならんのか!? 今、御屋形様に身罷られては武田は仕舞ぞ! なんとか致せぃ!」

「ざ、残念ながら御屋形様の病は膈の病(胃癌)に御座います。もはや手の施しようもなく如何とも…」

「くそう! 御屋形様! 御願いに御座る! 死なないでくだされ! まだまだ我等を導いて下され! 御屋形様!」

傍らに依り沿う高坂昌信は医師に詰め寄るが、もはや信玄の病状は末期であり、医師の手に負える状態では無かった。昌信は信玄に縋りつき唯々仏に祈るしか術が無かったのである。

そしてその数日後、献身的な看護も回復を祈る思いも甲斐無く、甲斐の虎・武田信玄はこの世を去った。
享年53歳。
これが武田家のさらなる衰退を決定付けたのである。










それから暫くして武田信玄死去の情報は織田家を始め、各地の大名家に齎された。
勿論武田家は信玄死去の報を秘匿しようとしたが、あまりにも事が大きすぎ、到底隠し通せるような物ではなかったのである。信玄死去の報は程なく織田家の諜報網に引っ掛かりその情報は信長の元へと届けられた。

これで武田家は確実に数年は動けない。武田が織田包囲網から脱落した事によって、織田家に対する東方からの圧力は完全に無くなったのだ。
そしてそれは織田家が軍を西方に集中できるようになったという事でもある。この時点で第二次信長包囲網の意義は八割方すでに失われていた。強大な織田家の戦力を分散させるという根底にあった戦略が完全に頓挫したからである。すでに織田軍の戦力は順次、東より反転し、続々と西に流れ込んで来ていた。包囲網側にとってはまさに絶体絶命の危機である。

逆に織田家にとっては武田軍を撃破した事により、まさに我が世の春、順風満帆な状態だ。誰もが希望に満ち、これからの容易い勝利を夢見ていたのである。











しかし暗雲は西より突然に訪れた。

それらとはまったく関係ない場所で、織田のその強大化に対するが如くのような揺り返しが想像もしなかったような所で静かに起きていたのである。
それはまさに目一杯に引っ張られたゴムが必死に元に戻ろうとするが如く…、光が強くさせば地面に投射される影がさらに濃くなるが如く…、静かに静かに、そして深くの水面下でひっそりと進行していたのだ。



















<中国 澳門(マカオ) イエズス会拠点>



「あの黄色い猿共めが! 調子に乗りおって!」

ここは中国・澳門にあるキリスト教の絢爛なるとある教会。ここはフィリピンのマニラと並んでイエズス会の東方の布教の為の拠点となっている所である。その教会にて現在とある会議が行われていた。日本での布教の方針を話し合う為の定例の会議である。
その冒頭、眼鼻立ちの整った白人種の男、日本布教区の責任者でポルトガル人のイエズス会宣教師フランシスコ=カブラルが会議室の上座で大声を張り上げた。
そのようなカブラルの言葉に日本での布教を行っている、温厚というような印象を受ける顔立ちをしたグネッキ=ソルディ=オルガンティノが驚きの言葉を返す。

「カブラル殿、いきなり何ですか?」

「オルガンティノ! お前も日本で布教を行っていれば判るであろうが! あの信長という蛮族めのことだ! 奴は事もあろうに汚らわしい黄色の猿の王と我等が教皇猊下を同列に置いたのだぞ! しかもそればかりか、最近では猿共の王の方が偉いとまで言っておるのだ! なんたる傲慢! なんたる侮辱! なんたる不遜! けして許せる事ではないわ!」

これは以前にも記した信長の対キリスト教政策の事である。
信長が全ての日本人キリスト教徒を海外勢力の影響下に置かない為に、布教は全て帝の御許・御意志の元で、という楔を打ち込んだ件の事だ。これに激怒したのが現在の日本布教区の責任者、フランシスコ=カブラルである。だからこそ彼はオルガンティノの問い掛けに激烈な様子で捲くし立てたのだ。

彼にとってまず自身が敬愛するイエス=キリストの地上代理者たるローマ教皇猊下よりも日本の帝を上位においた事が我慢ならない。その所業は彼にとってまさに神をも恐れぬ大罪である。
さらにそれによりイエズス会の日本での影響力が完全に削がれてしまうからだ。布教自体は禁止されてはいないが、布教だけでは意味が無いのである。
彼らは元々欧州で吹き荒れる宗教改革により大きく力を削がれてしまったカトリック教の新たな版図を求めてこの極東の地にまで遙々やってきたのだ。だからこそローマ教皇の統制外になるキリスト教など認められない。そんな物は異端でしかないし、同じ白人で無い分、プロテスタントよりも性質が悪い。

「それは確かにそうですが、しかし布教自体は許されております。貿易も順調でかなりの利益が出ておりますれば、今はこのまま現状を維持し、少しづつ働きかけ変えていけば良いのでは? とりあえず今は少しでも信者を増やすべきだと思います。むしろ逆に彼らに教皇猊下への使節団を派遣して貰い、さらなる友好を築くのは如何でしょうか? 日本人は素晴らしい民族です。
現にザビエル殿や今も京におられるフロイス殿も日本人達を絶賛しているではないですが。彼らは有色人種ではありますが、今までに我等があらゆる地にて出会ってきた者達とは違う民族だと思います。彼らは我等の良き友人となりえる人達です」

しかしそのようなカブラルの強硬論に反論するオルガンティノ。彼もこの信長の政策に思う所はある。しかし彼は日本人達の能力を高く評価していた。
そしてそれは日本に来た歴代の宣教師達も同様である。
フランシスコ=ザビエル。グネッキ=ソルディ=オルガンティノ。ルイス=フロイス。そして後に日本を訪れるアレッサンドロ=ヴァリニャーノ。彼らは驚くほど日本人を高く評価し称賛している。

この人種差別が至極当然の時代に、むしろ異様であると言っても良い程にだ。

だがそれこそがカブラルにとって我慢のならない事だったのである。カブラルは蹴倒すが如き勢いで椅子から立ち上がり、今までよりもさらに大きな怒号を上げた。

「黙れい! 何が友人だ! 何が素晴らしい民族だ! 汚らわしい肌の色の獣を神に祝福を受けた我等と同列に置くとは何事じゃ! 聖書の創世記9章27節を何度も読めぃ! 呪われよ、カナン! これこそが神の御意志であるぞ! 肌に色の付いた者達は人間ではない! ただの獣よ! その哀れな獣が我等が神の御意志に縋り、洗礼を受ける事ではじめて我等が人間の家畜となる事ができるのだ! それこそが本当の意味での救済である!
我々はこの東方世界を汚らわしい猿共の手から我等、神の祝福を受けし人間の手に奪還せねばならんのだ! それこそが我等が神聖なる使命である事を忘れてはならん! なぜなら我等はこの世で唯一絶対無二の神の地上代行者であるからだ! その絶対の御意志に背く異端者共には我等が神罰を下さねばならんのだ!」

「その通りです! 流石カブラル殿!」

「神を恐れぬ信長めに神罰を! AMEN!」

さらに返ってきたカブラルの返答は日本人、いや有色人種全体に対する偏見と悪意に満ちた物であった。その言葉に廻りに座っていた他の出席者達より賛同の発言が起こる。
彼は白人以外は人間では無いと言いきる。ただの獣であると。さらにその獣が例え洗礼を受けキリスト教徒になろうとも、有色人種は白人の家畜でしかないと。

だが誤解の無いように記すが、むしろこのカブラルの考える白人至上主義こそがほぼ全ての欧州に住む人々の間で共有されるスタンダードなのである。先に記した通り日本に来た宣教師達のその高評価ぶりの方が異常なのだ。
一般的な欧州に住む白人達にとって、彼らが言う人間とは白人の事である。その中にけして有色人種が入る事はない。
カブラルにとってその人間以下の汚らわしい獣達がこの東アジアの土地に住みつき、人間様の物であるはずの資源・富を貪っている事自体が我慢ならない。何故ならそれらは本来人間様の所有物であるべき物だからだ。だからこそそれを奪還せねばならない。それこそが人間の果たす神聖な使命であり義務であると信じているのだ。

「日本は我等の中国進出の為に必要な地である! 信長めにその日本の覇権を握らせる訳にはいかん! なんとしても喰い止める!」

カブラルは宣言する。それは織田家との敵対宣言であった。

「しかし織田は日本で一番勢力の大きな実力者であり、我等の貿易でも一番の顧客です。それを捨ててまでも戦われるのであらば確かな勝算はあるのでしょうか? 私にはあまりにも危険な賭けに思えてしまうのですが…?」

「それでも断じてやらねばならんのだ! このまま織田が日本を手中に収めてしまっては、我等の介入する隙間も無い異端者共が治める悪魔の国家となってしまうではないか! それだけはならん! それだけは、けして許してはならんのだ! それになに、案ずるな! 私に良い考えがある!」

カブラルは苦言を呈するオルガンティノの言葉に自信満々に答えながら、おもむろに机の上に地図を広げる。それは東アジア全体を写す地図で、カブラルはその内のとある一点を指さす。

「ここだ! ここの蛮族共を纏め上げ、織田に対する反攻の尖兵とする!」







その指さされた地の名前は日本を構成する4列島の内の一つ。一番西方に位置する島、<九州>







「一番勢力の大きな北九州の大友宗麟は我等に極めて好意的! それ以外にも我等が洗礼を施した大村純忠(おおむらすみただ)もおり、島津家とも先代の島津貴久の時代より続く友誼がある! 我等を無碍に扱いはしまい! なにより強大化した織田家への対抗の為にという大義名分を掲げれば成功する可能性はかなりの物となろう!」

鼻息荒く、得意げに自分の考えた策を語るカブラル。その策に他の列席者達から感嘆の声が漏れた。
この時点での九州の情勢はと言えば、まず一番強大な勢力は大友宗麟。豊後の国を中心に広大な版図を誇り、まさに九州最強の存在である。
後に名を轟かせる事となる肥前の国の龍造寺隆信も、この時点では以前に大友家との間で起こった今山の戦いで勝利したとは言えども、未だ大友家の半従属状態の大名でしかない。
同じく肥後の国北部を治める阿蘇惟将、筑前の国の秋月種実も大友家の従属大名だ。
肥前の国の大村純忠はキリシタン大名である為、この人物については心配はしなくて良いだろう。それ以外の小勢力は主たる九州の大名達がこぞってこの反織田同盟に参加すれば自然と参加してくるであろう。
他に独立した勢力を持つ大名達が肥後の国南部を治める相良義陽(さがらよしはる)、日向の国の伊東義祐。そして薩摩・大隅の国を領有する島津義久である。

故に説得すべきはこの四家。大友家さえ説得できれば九州の北半分の大名達はそれにならう。後は相良義陽、伊東義祐、島津義久をどう説得するかだが、この内の相良家・伊東家はお互いに仲が良く、さらに大友家とも縁が深い。大友家の助力、手回しさせあれば何とかなるであろう。
つまりこの策は大友宗麟と島津義久の説得さえできれば十二分に実現可能な策なのだ。後は日々お互いに争っているその矛をどうやって収めさせて、それを織田家に対して向けさせてるかである。

オルガンティノもその策に何も言えなくなる。さらに他の列席者達は乗り気で色々な案を出す。

「御見事です、カブラル殿! 流石軍人あがりの本物の実戦経験者は我等のような素人では考えもつかない見事な策を出されますな!」

「提案があります。島津家の説得ですが、火薬や鉄砲、それに必要であらば大砲を輸出する貿易との交換条件では如何でしょうか? 彼らはそれらを喉から手が出るほど欲しています。恐らくは乗ってくるとは思いますが?」

「おう、貿易は宜しいですな! 織田と敵対するとなれば代わりの貿易相手が必要となりますし、丁度よいかと! 支払いは銀か日本人奴隷で、とすれば我等の利益も大きくなります!」

今日この場にてこの会議に出席していた者達はオルガンティノ一人を除き、その全員が既にこのカブラルから提案された策を実施する物として話しをしていた。
元よりこの場での最高位の責任者はカブラルであるし、またカブラルはこの中で唯一の軍人上がりでさらに貴族出身という毛色の良さを誇っている、イエズス会全体を見ても異彩を放つ人物である。カブラルはこの場での文字通りの中心人物なのだ。
そしてそのような経歴ゆえ当然ながら荒事において一番頼りにされるのがこのカブラルである。そのような立場にいるカブラルの言葉はかなりの重さを持っているのだ。
オルガンティノは特にこれと言って反論する事もできず、かと言って代替えの策も思い付かず、とんとん拍子に進み行く会議を苦虫を噛みつぶしたような顔でただ眺める。

「何だ、何か反論でもあるのか、オルガンティノ? あるのなら言ってみよ? 私は貴公の手腕を高く買っておるのだ。何か意見があるのなら是非聞かせてくれ」

「…いえ、特にこれと言っては」

そのオルガンティノの様子に気が付いたカブラルがオルガンティノに話しかけてきた。オルガンティノはその言葉に何も言えずただ黙すのみである。
そして唯一、反対の姿勢を見せたオルガンティノが静かになった事でカブラルは大声を張り上げ宣言した。

「よしっ! これで方針は決まったな! これより我等は全力を上げて九州反信長キリスト大同盟の結成を目指す! 我等は日本を異教徒共の手から奪還するのだ! AMEN!」

「AMEN!」

皆の熱狂をオルガンティノはただ静かに眺める。自分の希望とは反して、言わば開戦と決したのだ。もしかしたら将来、この時の事を後悔するようになってしまうかもしれない。
だがそれでも彼もカトリック教徒、誇り高きイエズズ会員である。彼は欧州に属する欧州人であり、けして日本人ではないのだ。だからこそ究極的な所で欧州か日本かと選択を迫られたら、彼は迷わず欧州を選ぶ。
そして決したからには最善を尽くす。それはもちろんイエズス会の為、カトリック教の為、欧州の為にだ。

オルガンティノはそう考える、否、思いこもうとする。だがそれでも心の奥底に浮かんでは消える暗澹たる気持ちは何故か消えなかった。

















<後書き>

ひさしぶりの更新です。お待たせ致しました。
改訂も全然進んでいないし、本編も進まないと何故かスランプ状態です。
頭の中の内容が文にならない。改訂も14話までしかできていない。

それでもぼちぼちと頑張って行きますので皆様、どうかこれからも宜しくお願い致します。






[8512] 第30話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/01/12 02:27


 <第30話>



 長篠の決戦より年が変わり、1573年。
 元号が永禄から天正へと変わったこの年に、全国各地の織田軍の動きは、守勢から攻勢へと一斉に切り替わっていた。




 まずは北方の、対朝倉家への備えとして置かれていた柴田勝家隊である。
 信長より攻撃開始を命じられた柴田隊は関を切ったような勢いで朝倉領・越前の国に対して侵攻を開始。今までは守るだけしか許されず、その間に溜めに貯めた欝憤(うっぷん)を全て吐き出さんと、猛烈な勢いで朝倉軍に対して襲いかかったのである。
 対する朝倉軍はそれに対応出来なかった。現在の朝倉家の当主は朝倉義景。元々この義景という男は放蕩の限りを尽し、一切の政務を顧みない男である。当然、軍務をも放棄し、唯々居城である一乗谷城に籠り、城下の民草の事を一切顧みずに日々、酒色に溺れるのみであった。
 それ故、木ノ芽峠城に籠る織田軍を攻める朝倉軍の士気は奮わず、誰も彼もが積極的な攻勢を望まず、結果この地にてただ無意味な膠着状態が続いたのである。

 そこにきて、この寝耳に水の突然の織田軍の大攻勢だ。

 朝倉軍にとっては幾つもの悪い点が重なってしまったのである。
 まず朝倉軍の士気そのものが極めて低かった事。
 この木ノ芽峠城を一番最初に突破できなかった朝倉軍は、その後この城に対して積極的な攻勢は行わず、2回の信長包囲網時の出兵を通じてずっと単なる小競り合いに終始し、無意味な長対陣を行っていたのだ。故に目に見える成果は何も上がっていなかったのである。
 これは実際に動員される兵達からすれば相手に勝って領土を奪えない、恩賞が期待できない戦である事を意味した。
 この木ノ芽峠城は単なる防御拠点であり、近くに略奪をできるような村落も無い。それに元々は自国領である。あまり無茶な真似はできない。
 それ故、彼らにとってこの戦は、ただ金が掛かるだけの無意味な戦いであり、それらが原因で士気低下の悪循環が起こったのである。

 それに加えて長い間織田軍から反撃が無いとの事実。当主・朝倉義景の無責任ぶり。さらには敵対する相手が自勢力よりも数段規模の大きい強大な織田家という事もあり、織田軍の反撃が始まったころには誰も戦いたがらない、ただ城を攻める振りだけしていれば義理は果たしているとの意識が朝倉軍の兵士達全体に出来上がってしまったのである。
 彼らは悪い意味でこの状況になれてしまい、また今度もいつも通りにだらだらと攻めて、またいつものように何事もなく撤退する物だと、勝手に思い込んでしまったのだ。
 これは戦史の古今を問わず、膠着状態に陥った戦場で良くおこる士気の低下である。そのような状況下においては指揮官の力量、兵士達の質などが試された。
 だが今回の朝倉軍にはそのどちらもが欠如していたのである。

 それらの幾つもの悪い条件が重なった結果、木ノ芽峠城の前面に布陣していた朝倉軍は突然始まった織田・柴田隊の反撃にまったく対応が出来ず、敗北を喫したのだ。
 いくら朝倉軍の指揮官達が必死に防戦を指示しようが兵達はそれに応じず、それ所か我先にと逃げ出したのである。
 それは次々と朝倉軍各隊に連鎖し、この地にあった朝倉軍はたった一度の戦いで崩壊。各軍は散り散りとなってしまったのである。勿論、中には奮戦する者達もいたが、逆に織田に調略され裏切る諸将も出て、その奮戦に兵達がついてこず、結局は局地的な奮戦の後に次々と討ち死にしていった。

 そしてそこからはまさしく呆気無い幕切れとなってしまう。たった一度の敗北で元より無かった朝倉義景の求心力は完全に消滅し、後はまさしく総崩れとなったのである。
 急速に越前の名門・朝倉家の崩壊が始まる。義景は配下の国人衆達のことごとくから見限られ、敗北の後に軍の立てなおしを図ろうとする義景の元に参集してくる者はほぼ皆無であった。
 急な織田軍の進撃に義景は結局の所、居城・一乗谷城すらも放棄し、流浪のすえ、最期は一門衆筆頭の朝倉景鏡に裏切られ自刃。
 攻撃開始より僅か一月で名門朝倉家は滅びたのである。




 続いて四国方面、三好家への攻撃だ。
 こちらはこの年に新しく新設された方面軍で、指揮官には前田利家が抜擢され、堺の町を策源地に行動を開始。織田水軍の支援を受けて既に淡路島へと上陸を終え、その地にいた三好勢力を順次駆逐して廻ったのである。
 度重なる畿内での敗北により国力を消耗している三好家は、この攻撃を支え切れずに早々に淡路島を放棄。これを失陥。
 四国方面軍はこの後、そう時を置かずに阿波の国への上陸が予定されている。




 次に西方、中国地方の覇者・毛利家だ。
 中国地方で戦っているのは山陽方面に羽柴秀吉、山陰方面に明智光秀の二人の方面軍指揮官である。
 毛利家が参戦した折には各所にて激戦が繰り返され、毛利家の強大な戦力の前に両者ともかなりの劣勢に立たされた。
 山陽方面では織田の調略の甲斐無く、西播磨の大名・小寺政職(こでらまさもと)が毛利側に立って参戦。そこに毛利家からの援軍も入り、羽柴隊は播磨の国中央部で毛利・小寺連合軍と一進一退の激戦を繰り広げたのである。
 山陰方面の明智隊はさらなる苦境に立たされていた。何故なら毛利家の主力はこちらに集中されていたからである。明智隊は激戦の上、因幡の国の大部分を喪失。後退を繰り返し、危機的状況に陥っていたのだ。

 その状況が変わったのは、武田軍に勝利を収めた事によって東方に張り付けていた軍が反転し、続々と西方に参入してきてからの事である。
 援軍を受け、戦力を整えた山陰・山陽両方面の織田軍は反撃を開始。
 山陽地方の羽柴隊は小寺政職配下の小寺(黒田)孝高とその一族を調略し、一気に反撃を開始。これを撃破し小寺政職は毛利領に向かって落ちて行った。
 山陰地方の明智隊も旧尼子戦力の残党達をその支配下に収めて反撃を開始。因幡の国を奪還し、現在は伯耆の国との国境で毛利軍と睨み合っている状態である。




 最後に大阪の石山本願寺だ。
 ここは佐久間信盛が担当する戦線であるが、こちらは他の戦線と違い、いまだ目立った動きは無い。陸側には幾つもの砦を築き、本願寺勢の補給を断った上で包囲している状態がずっと続いている。しかしながら西に広がる海はガラ空きであり、そこから毛利水軍が幾度も入城し、戦力・物資の補給を行っていた。
 それに対する織田軍の行動が始まり、新たなる戦いが起こったのはここ、大阪湾である。











 <大阪湾沖 海上>


 普段は多数の船が行き交うこの海に、現在は多数の軍船のみが浮かぶ。普段の喧噪が無くなり、ただ静かに軍船が隊列を組む。
 これは石山本願寺を海上からも包囲し、完全な封鎖状態に置こうとの織田水軍の軍事行動なのだ。
 その数、大小合わせて四百五十隻。織田水軍のほぼ全艦である。

 それらが西側、つまり東にある陸面、石山本願寺側では無く、逆の瀬戸内海側を向き戦列を並べ浮かんでいた。
 彼らは待っていたのだ。瀬戸内海を制する最強毛利水軍を。
 この織田軍の陸海による石山本願寺完全包囲の報はすぐに毛利家の知る所となった。毛利家にこの情報を知らせに来た本願寺よりの使者は、悲鳴まじりに当主輝元に毛利水軍の出動を懇願。これに毛利家当主輝元が応じ、ここに大阪湾木津川口の海戦の幕が切って落とされたのである。




 「来たな…」

 旗艦・尾張丸の船上にて今回の戦の織田水軍総指揮官、九鬼嘉隆が一人呟いた。
 西の水面を陸の高台より監視していた監視所より狼煙が上がる。その直後に水平線の彼方より一つ、また一つと黒い点のような船影が浮かび上がって来た。織田軍の海上包囲網打破の為に出撃して来た毛利水軍、合計五百隻の大艦隊である。より正確に言うと、毛利家に臣従している瀬戸内の村上水軍他の連合体だ。

 その毛利水軍の編成は大型の安宅船を中心に、小型の関舟、小早船等、全て従来通りの和船で構成されている。昔ながらの、定石道理と言ってもよい艦隊編成だ。
 毛利(村上)水軍は伝統的に小回りの効く小早船を好み、その機動力を生かしての弓での攻撃や焙烙玉での攻撃を得意としている。今回も小早船を先頭に猛烈な勢いで水面を飛ぶように進み、織田軍に向かって一心不乱に突き進んで来ていた。
 対する織田軍はそれとは逆に大型船を先頭に、戦列を組む。さらに織田軍には今回の為に用意した秘密兵器があったのである。その新兵器が今まさに最前列に出ようとしていた。

 「聞けぃ、者共! 敵が来たぞ! よりにもよって我等に喧嘩を売って来た愚か物共じゃ! 笑うてやれ! 武力も持たぬ商人や民百姓から金品を略奪するしか能の無い瀬戸内の海賊風情が我等に喧嘩を売ってきたのじゃ! 笑止千万! 者共、許せるか!? 彼奴らの思い上がりが! その傲慢が!
判らせてやろうぞ! 我等は今まで彼奴らが食い物にしてきた無力な商人や民百姓共とは違うのだと言う事を! その事を彼奴らの身に刻み込んでやろうぞ! 誰がこの日本の海の支配者であるのか! 誰がこの日本の海の秩序を担って行くのか! 問おう、それはあの目の前にいる海賊風情か!? 否! 我等である! 我等こそがこの海を守り、その秩序を担って行く者達なのだ!」

 「おおう!」

 九鬼嘉隆が気炎を揚げ、それに兵達が応えて雄叫びを上げた。皆の士気は十分である。今日のこの日の為に日々訓練を積み、備えてきたのだ。皆、まんじりともせずにただ静かに敵船との会敵を待つ。

 「行くぞ、者共! 訓練通りにすれば必ず勝てる! 各員、段取り通りに動け!」

 頃会いや良し、と嘉隆は勢い良く采配を振り下す。それを契機に一斉に織田水軍の陣太鼓や法螺貝の音が辺りに響き渡った。
 その合図に呼応して、織田水軍の中から一際大きな軍船が前に出てくる。
 その軍船は他の物と違う異様な雰囲気を放っている船であった。他の船が総じて木製の船体であると一目で判る物であるのに対し、この一際大きな船は太陽の光を反射し、全体的に黒く鈍く光っている。それもそのはず、この船は織田水軍の新兵器、船体全体に薄く鉄板が張られた <鉄甲船> であった。その鉄甲船、全部で五隻が織田水軍の先頭に立ち毛利水軍に向かって出せる全力の速度で持って突き進む。

 そして織田水軍、毛利水軍、双方の距離がどんどんと詰まって行く。


















 「ああっ? なんじゃありゃ?」

 毛利水軍の総指揮官、肌を嘉隆と同じように赤銅色に日焼けさせた鬚面の男、村上武吉は織田水軍の先頭に立って突き進んでくる一際大きくて異様な船を見て一人呟く。
 今までに見た事の無い船だ。その異様な様子に武吉の心中に何かざわつくような嫌な予感がよぎったが、今は戦時とそれを心の奥底に沈める。下手な迷いや恐れは自軍の敗北や配下の者の死に繋がると、この百戦錬磨の将は熟知しているのだ。
 武吉はその臆してしまいそうになる気持ちを振り払い、采配を振り下ろす。

 「よーし! 殺るぞ、てめえら! 織田のにわか水軍に我等、村上水軍の恐ろしさを刻みこんでやれぃ!」

 「おおおおう!」

 こちらも軍太鼓や法螺貝の音を響き渡らせ、櫂を握る漕ぎ手達が力の限りに漕ぎはじめる。毛利水軍の軍船はさらに速力を上げ、織田水軍に向かって突き進む。
 織田・毛利水軍双方共、横に大きく広がり、そのままお互いに向かって突き進んでいく。そしてこの戦場に置いて先に先手を打ったのは毛利水軍の方であった。

 「はんっ! 素人共めっ! 織田のにわか水軍は船戦(ふないくさ)の操船の何たるかも知らんと見える! こうも容易く順潮に乗れるとは! てめえら! このいくさ、頂いたぞ!」

 村上武吉は喜色満面の様子で咆哮する。それもその筈、自身の率いる毛利水軍が完全に潮の流れに乗ったからだ。
 逆に織田水軍は潮の流れに逆らって進む逆潮の状態である。

 古来より海戦において潮の流れを制した方が勝者になるのは、言わずと知れた常識だ。古来よりこの日本の海戦の勝敗は、この潮の流れに左右されてきたと言っても過言では無い。
 順潮であれば漕ぎ手が櫂を漕ぐ力のその上に、さらに潮の流れその物の力を得て、さらなる速度・機動性が得られる。逆に常に潮の流れに逆らって進む逆潮状態であらば、前に進むだけでも一苦労だ。
 どちらが有利かは言うまでも無い。
 それをこうも易々と取れるとは。武吉は先程とはうって変わって、勝ち戦の予感に心躍らせる。現に織田水軍のスピードは毛利水軍と比べて半分以下しか出ていない。

 「よっしゃ! 攻撃準備じゃ! このままの勢いを殺さずに織田水軍の戦列をぶち抜くぞ! 焙烙玉にも火を点けろ!」

 毛利水軍の作戦は至極単純。中央突破である。織田水軍は戦列を組んでるとはいえ、船と船との間にはかなりの距離が空いているのだ。
 これはどの船でも言える事であるが、水上に浮かぶ船と船との間には距離が必要である。距離を開けずに航行した場合、その二艦の間と周辺に、お互いに引きあうような形の潮流が生じてしまい、その結果知らず知らずの内に両艦が接近してしまい、衝突してしまうからだ。それ以外にも高い波、複雑な潮流等と諸々の理由があるが、海上において船と船が至近距離で並ぶという行動は危険極まりないのである。
 毛利水軍の狙いはその隙間隙間に各隊を突っ込ませて機動力を生かして織田水軍を翻弄し各個撃破。そのまま織田の戦列を貫き、結果、大混乱に陥った織田軍に向かって再度反転。そして殲滅。
 特に目新しい戦術という訳では無いが、今までに何度も使われて手慣れた、一番確実で効率的な戦術である。この得意の機動力を最大限活かした十八番の戦術を持って毛利水軍は織田水軍の殲滅を目指す。




 そして両軍の激突が始まった。

 双方の攻撃は同時に始まる。毛利水軍は戦列の前に出た織田水軍の鉄甲船五隻に向かって弓矢・鉄砲・焙烙玉の攻撃が行われ、逆に織田水軍からは満を持しての大砲・鉄砲の攻撃が始まった。だがその両者の攻撃はまったく正反対の結果を両者にもたらしたのである。

 「な、なんじゃと!? 馬鹿な!? 何故、攻撃が跳ね返される! 何が起こったんじゃ!?」

 村上武吉は目の前の光景が信じられずに、我が目を疑う。
 毛利水軍の各船より放たれた弓矢・鉄砲・焙烙玉が、狙いを違わず突出した形の織田軍の鉄甲船五隻に浴びせられる。その命中率の高さ、練度は流石、戦国随一毛利水軍だ。だがその攻撃ついては誰も予想だにしていなかった結果が彼らをまっていたのである。
 なんと、確かに命中している筈のそれらが、カンカンキンキンと甲高い金属音を鳴り響かせ、全て跳ね返されているのだ。火矢も船体に突き刺さらずにそのまま海に落ちていく。
 織田水軍の新兵器、鉄甲船がその望まれた性能を違える事無く発揮した瞬間である。

 まずここでこの織田家が実戦投入した鉄甲船について御説明させて頂く。
 鉄甲船とはその名の通り、船体に薄い鉄板を纏わせた装甲艦の事だ。その装甲は鉄砲や弓矢の貫通を許さず、焙烙玉によって飛び散る破片も防ぎ、延焼もおこさせない。燃えぬ船を造れ、との信長の言葉通りに現状日本にある水軍の全ての攻撃を封殺できるだけの能力を持っている。

 しかしである、この船は言わば奇形児だ。
 守備力にのみ特化させた、この日本でのみ有効な軍船である。例えばの話しだ、この鉄甲船と大砲を装備した船とが戦えば、赤子の手を捻るかの如く、容易く鉄甲船は敗退するであろう。

 むしろその自身の重い自重分、鉄甲船は大砲の砲弾を受けたらそのままズブズブと沈んで行きかねない。
 何故なら大砲を受けてもなお無事にすむ厚い装甲を船体に施すなど物理的に不可能であるからだ。そのような船は技術上及び物理的な問題により、内燃機関か蒸気機関の発明後に可能となる類いの存在である。
 欧州において、この装甲艦という種類の船は出来なかったのでは無い。大砲を装備した船がある欧州では無駄だから造らなかっただけなのだ。
 完全にこの現在の日本の状況に合わせて、その為だけに造られた特化型の軍船。日本の現在の状況下においてのみ、その実力を出しうる奇形児。それがこの装甲艦・鉄甲船なのだ。
 織田家ではこの軍船を拠点防御及び強襲蹂躙用に使う予定である。そして日本統一後か敵艦に大砲が装備された時点で既に解体される事が決定されている徒花(あだばな)。まさしく対毛利家用と言っても過言では無い船なのだ。

 そしてそれはこの状態において十二分にその性能を発揮する。
 被害担当艦として前に大きく出たこの船に毛利水軍の攻撃は集中。そしてその攻撃に見事、耐え抜いた。逆に織田水軍から成された攻撃は毛利水軍の船をどんどん叩いて行く。
 放たれた大砲の砲弾は一撃で船体を打ち砕き、毛利水軍の船をただの漂流物へと変える。小型の小早船などは至近距離に砲弾を受けただけで転覆してしまう。続いて行われた織田水軍の鉄砲による斉射により、さらに被害は拡大した。防御力のある大型船ならまだしも、ほぼ身体を露出させている中・小型船ではバタバタと兵達が撃ち倒されていく。
 そして最後の止めに焙烙玉による攻撃だ。それを受け、次々と船が炎上して行く。

 毛利水軍の出鼻は完全に打ち砕かれた。そしてそれは同時に途轍も無い危機に瀕した事を表している。

 「くそったれぃ! 何じゃ、ありゃあ! 攻撃が効かんなんて反則じゃろうが!?」

 村上武吉は自軍先陣にいた船の惨状を見、悲鳴のような叫び声をあげた。そして武吉は決断を迫られる。このまま突撃を継続するか、それとも反転するかだ。
 但し、船という物は早々すぐには止まれない。順潮でさらにスピードに乗っている状態であらば尚更(なおさら)である。何もしなくても潮の流れの力によって前に前にへと進んで行くのだ。
 転進するのであれば潮の流れに逆らう必要がある。
 問題はそれだけでは無い。敵の目前で停止、その後反転し行先を変えろというのか? そんな事をすれば敵に格好の的を用意してやるような物だ。それこそ愚の骨頂である。

 「奴ら、この事まで考えてわざと逆潮にいたんじゃねえだろうな?」

 ふと、武吉の脳裏にそのような考えが浮かぶ。織田の水軍がそれらも全て踏まえた上でこの状況を狙って作ったというのであらば、この現在の状況は最悪である。
 海戦の常識である、有利になれる筈の順潮を取った側が逆に不利になってしまうなどと誰が思うであろうか? だが武吉のその思いと反して、状況は刻一刻と悪化していく。
 潮の流れに乗って猛烈な勢いで突き進んで来た毛利水軍が、織田水軍の鉄甲船とそして圧倒的な火力の壁に、まるで岩に当たる白波が如く、当たっては砕けていく。
 もはや一刻の猶予も無い、悠長な事はしていられない状況だ。武吉は決断を下す。

 「てめえら! 艦隊を二つに分けんぞ! 前半分はこのまま織田水軍に対する突撃を続けぃ! ここで尻むけて逃げたら沈められるだけじゃ! 生き残りたければ、死ぬ気で突っ込め! 後ろ半分は反転! 織田の戦列側面を掠めるように廻り込み、前列の突撃の援護を行う! 急ぎ合図せい!」

 「おう!」

 武吉の命令に答え、廻りの兵士達が新たな命令を伝えようと、一斉に陣太鼓や法螺貝の音が響き渡った。
 新たに出された武吉の命令は、進路変更の難しい範囲にいる者達はそのまま突撃続行という物である。この状態に至っては、この前の部分の部隊は進むも地獄、退くも地獄だ。しかれども生き残る目がまだあるのは後ろでは無く、むしろ前である。このまま進み、織田水軍の戦列を抜けてこの状況の打破を目指すのだ。
 逆にまだ織田水軍との距離があり、反転する余裕がある後ろ半分は現在の進路から外れ、動きの遅い織田水軍の側面に廻り攻撃、突入部隊の援護をするという物である。
 その命令を受け、毛利水軍はゆっくりと動き出す。無線などの連絡手段が無いこの時代だ。不確実な音や旗信号で伝えられるその動きは極めてゆっくりした物で、さらに少なくない混乱をもたらすが、全軍に伝わって行く。











 「流石は毛利水軍じゃ…。未だ崩れんどころか、反撃すらよこして来おる。驚くべき底力よ」

 「誠に仰る通りですな。一筋縄ではいきませぬ」

 尾張丸の艦上において、九鬼嘉隆は毛利水軍のその奮闘振りに感嘆の言葉を洩らす。その言葉に隣にいた副指揮官の織田信澄が同意の意を返した。
 この織田信澄という人物は信長にその能力を認められ、織田水軍の指揮官の一人として抜擢された人物であり、信長に殺された信長の実弟・織田信行の子供である。信行が自刃した時点で赤ん坊であった為、助命され信長の元で養育されていたのだ。
 しかしそのような経歴に関わらず、史実においても信長にその才を愛され、破格の待遇を受けていた人物である。この世界でも水軍の指揮官として大成する事が期待されている人物だ。

 「毛利水軍の後ろ半分が我等の左翼に迂回しておりまする。こちらも対応して部隊の一部を派遣し、迎撃致しますか?」

 「不要じゃ。こちらは逆潮。追ったとしても、追いつかぬは道理。無駄な事はするな。陣列を崩すでないぞ」

 「成る程。仰る通りです」

 「今、一番大事なのは目の前の敵を殲滅する事也。左翼の物にはただ耐えよ、と伝えぃ。まずはこの捉えた前半分を徹底的に叩く」

 「了解致しました。そのように伝えまする」

 信澄の問いかけに嘉隆が答える。
 この時点で、最初はお互いに横に長い長方形のような隊列で真正面からぶつかりあった両軍の軍船は、織田水軍はその形のままひたすら逆潮の中、前進中。毛利水軍は長方形の前半分はそのまま織田軍の陣列に向かって突撃。後ろ半分は織田軍から見て左翼側に向かって移動。お互いの正面と、そして織田軍左翼部分で戦闘が行われている状態だ。
 正面部分では織田側が圧倒的有利、側面ではやや毛利側が優勢、といった塩梅である。

 そして正面から織田水軍とぶつかった毛利水軍の部隊は途轍もない苦境に陥っていた。彼らの得意とする戦法が全て封殺され、損害ばかりが膨らんで行く。最前列では鉄甲船に全ての攻撃を無効にされ、そこを突破しても、待っているのは同じく地獄である。それは例えるなら火力の網だ。
 鉄甲船以外は従来通りの木造船なので、攻撃は勿論効く。効くのだが、こちらが一発撃つ間に敵は五発や十発撃ってくるような状態である。それも周囲、全方向全てから飛んでくるような状態だ。大砲の途轍もない破壊力が船を砕き、打ち沈め、鉄砲隊の斉射が兵達を薙ぎ倒す。
 そのような中、彼らに出来るのは少しでも早くこの死地を抜ける為に全速で船を漕ぐだけだ。

 「嘉隆殿、もう少しで毛利の陣列を抜けまする!」

 「よしっ、すぐに反転するぞ! 信澄、次は左翼に残った部隊を叩く! 他の船にも後れを取るなと伝えよ!」

 そして戦闘開始から約一刻(二時間)後、正面で戦っていた両軍の艦隊はようやくお互いの戦列をすり抜ける。
 その姿はまったくの対照的な姿であった。

 織田水軍は損傷艦はあれども今だ意気軒昂。高い戦意を保ち、再度毛利水軍に襲いかかろうとの動きを示している。
 対する毛利水軍は無傷な船は無いのでは、と思わせる程に痛めつけられていた。最初に突撃した時と比べて、半分ぐらいの数しか残っていない。そのいなくなった半分はと言えば、沈んだり、櫂を破壊され漂流していたり、火が付き燃え盛っていたりと各々無残な状態を晒している。

 だがそれでも今だ至る所で轟音や怒号、雄叫び等が響き渡っていた。未だ戦は終わっていないのである。織田水軍は再度反転し、攻撃の手を緩めない。







 この戦局に至って、毛利水軍指揮官・村上武吉は決断を迫られた。つまり撤退か、まだかろうじてある、しかしほとんど残されていないであろう逆転の目を信じて徹底抗戦するか、である。
 すでに迂回できなかった、真正面から織田水軍と戦った部隊は半壊状態。その部隊の船の中からは逃げ出す者達も出始めていた。残った部隊も戦闘能力が残っているとは思えない状態である。
 これ以上の損害は許容できない。被害が大きすぎる。毛利家に命じられてここまで来たが、これ以上は無理だ。本願寺の為にそこまでやってやる義理もないし、これ以上の犠牲を出すつもりも無い。そしてここに来て武吉は決断を下した。すなわち撤退である。

 「くそう! 無念だが、今回はここまでだ! 野郎共! 退くぞ! 撤退だ!」

 そして大阪湾に、毛利水軍僚艦に撤退を知らせる為の法螺貝の、悲しげな音が響き渡る。その合図を受けて毛利水軍の船は船首を一斉に西に向けた。自力で動けない船は全て置いて行く事となる。
 石山本願寺に入れる筈であった、重荷となる補給物資・武器弾薬などが次々と海中に投棄されていく。少しでも船体を軽くして船足を出す為だ。

 その動きはすぐに織田水軍にも伝わる。

 「嘉隆殿! 敵はどうやら抗戦を断念した模様! 追い討ちに移りましょうぞ!」

 「ようやく諦めたか…。ここまで罠に嵌めて戦い、なおこれだけの奮戦を見せるとは…。恐るべき毛利水軍、流石なる名将、村上武吉よ」

 九鬼嘉隆はようやく撤退に移った毛利水軍の様子を眺めて、深々と安堵の吐息を洩らした。そしてこれだけの奮戦振りを示した毛利水軍のその底力に称賛を送る。

 元々、今回の戦いは対等の条件では無い。織田家は今回のこの戦の為にあらゆる手段を考え、そして長年をかけて準備して来たのだ。
 それは先の長篠の決戦の時の如く、相手の想像していない、予想だにしていない手段・兵器を使い、相手より一段高い戦術・兵器で持って勝つ。はっきり言ってしまえば一度限りの奇策である。たった一度だけ許される後出しジャンケンだ。
 例えるなら何時も通りにポーカーで勝負しにきた毛利水軍に、これからは丁半博打で勝負するから、と勝手に、しかも勝負が始まってから変更してしまうような物である。
 彼らからすれば、なんて卑怯な、正々堂々と戦え、と言った心境であろう。

 今回の戦で言えば、まずは何をおいても鉄甲船である。これは今までの常識とされていた攻撃の全てに耐性を持つという、まさに反則そのもののような存在だ。
 毛利水軍は今回の戦で、とうとうこの船を一隻も撃破できなかったのである。まさしく文字通り、最強の鬼札。
 続いて、織田水軍の動き。今回の織田水軍は徹底して逆潮を選び、そしてその場に布陣した。これまでの海戦の常識からして見れば全くの愚行の筈の行動である。これまでの海戦とは潮の読み合いであり、そして順潮に乗り、敵よりも機動力を得た側が勝者となる。それが常識だ。
 だがここで信長が思考をずらしたのである。

 信長曰く、今までの戦いが順潮の取り合い、機動力の戦いであるならば、我等はそれに付き合わなければ良い。我等はそれ以外の方法で以て勝とうぞ。順潮に乗った方が勝つというのであらば、それはすなわち敵は必ず順潮に乗ってくるという事だ。なんと、敵の動きが判るではないか。そして敵の動きが判るのであらば容易く罠にもかけれようぞ。
例えば、これを海戦では無く、陸の戦と考えて見ぃ。敵を船と思うな、精強な騎馬隊と思ってみよ。我が軍を船と思うな、砦となせ。
敵が勝てると思い、猛烈な勢いで突っ込んでくる。我等はその先に馬防柵を築き、土塁・空堀を拵(こしら)え、そして鉄砲大砲の火力で持ってそれを薙ぎ倒す。それで勝てるではないか? 機動力では無く、火力によって勝つ。それが我等が尤も得意なる方法であろう?

 それを初めて聞いた時、嘉隆は内心でその考えを嘲笑った。何を馬鹿な事を、なんて素人考えな、海戦とはそんなに容易い物では無い、と。至極簡単に勝てると言い放つ信長に反感を覚えた物である。
 だがしかしである、信長は長年をかけてそれを本当にしてしまったのだ。それに嘉隆は驚愕すると共に途轍も無い感動を覚えたのである。
 そしてその瞬間、確かに嘉隆は見た。新しい海戦の形を。確かに嘉隆は聞いたのである。信長がこれまでの常識という物を打ち砕いた瞬間の音が。




 そして今回の海戦はその通りの展開となった。
 徹底して逆潮にて待ち構える織田軍に、毛利水軍は喜々として順潮に乗って襲いかかって来たのである。今までの常識通りに。
 そしてそこは織田軍がまさにここに攻めてきて欲しいと思う所であった。結果、彼らは織田の火力網に真正面から突っ込む事になり、壊滅したのである。
 それは例えるなら戦国最強の騎馬軍団が、格下の弱い筈の軍に猛烈に襲い掛かり、そしてその突撃が馬防柵に阻まれ、土塁・空堀に封じられ、そしてそこを鉄砲によって打ち倒されたが如し。
 そう、通説で言い伝えられる長篠の戦いそのもののような情景である。

 毛利水軍は織田の鉄甲船の防御力に出鼻を挫かれ、そして大砲・鉄砲の火力網に捕らえられバタバタと沈められた。これが陸の戦であらば、後ろの者は突撃を止め退く事もできようが、海戦であらばそうはいかない。船は簡単には止まれないのだ。速力が出でいればなおさらである。
 結果、止まれない毛利水軍の前半分は自ら織田の殺し間、死地に入り、そして打ちのめされた。毛利水軍があくまで機動力の勝負をしようとしたのに対して、織田軍は徹頭徹尾それに応じず、火力の勝負にのみ徹したのである。
 そして勝負の結果は件(くだん)の如し。
 織田軍は最初から最後まで毛利家の用意した勝負の机には付かず、あくまで織田が用意した机での勝負を彼らにさせたのだ。

 「これが本当の意味での戦略か。まさしく初めから勝てる戦、勝てる戦に当然の如くに勝つ。それを本当に成してしまった。これで日本の海戦の形は変わろう。今までの戦術は全て無と帰し、これよりは火力が全てを征する、新しい常識。それを今、創ったのだ」

 九鬼嘉隆は感動に身を打ち震わせながら、万感の思いを込めた言葉を洩らす。それは信長への称賛でもある。嘉隆にとってすでに信長はただの主君ではなかった。忠誠という言葉すらも足らない。嘉隆が信長に向ける気持ちを言葉にするなら崇拝、それが一番近い言葉であろう。
 その万感の思いと共に嘉隆は采配を振り下す。

 「毛利水軍は撤退を始めた! これよりは追い討ち也! 全軍進めぃ!」

 「おおう!!」

 「殲滅せよ! 踏み潰せ、全てを! 信長様の覇道の邪魔をする者は誰であろうと許さん! 焼き、嬲(なぶ)り、そして滅せよ!」

 「おおぉぉぉおおおうううぅぅ!!」

 嘉隆の激励に皆が雄叫びにて答える。
 その後、織田水軍の追撃は日没まで、約二十里に渡って続き、毛利水軍を叩き続けた。毛利水軍は這々の体(ほうほうのてい)でただ逃げる事しかできなかった。
 こうして僅か一日で、大阪湾木津川口の戦いは終了したのである。

 この海戦に参加した毛利水軍、五百隻の内、この大阪湾の藻屑となったのが約百二十隻。損傷が酷く、本拠地の瀬戸内に帰還するまでに放棄された船が約五十隻。帰還したが修理不能として結局の所、放棄されたのが三十隻。それ以外の船も損傷を受け、人的被害も甚大である。
 だがなによりもの打撃は、これで石山本願寺への補給路が完全に断たれた事だ。もはや陸海共に完全に包囲され、石山本願寺は陸の孤島と成り果てたのである。

 これより後、畿内の情勢は急速に動き出す。









 <後書き>

 対毛利水軍の巻です。
 ちなみに鉄甲船の部分は作者の勝手な独自の解釈です。事実と異なる部分があるかもしれません。




 現在の織田家の所領

 尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
 若狭8万石 越前63万石 丹波25万石 丹後12万石 但馬10万石 因幡11万石 播磨48万石 淡路3万石

 総石高:562万石
 (但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)










[8512] 第31話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/03/19 22:12






 <第31話>



 「久しぶりに来たけど、やっぱえらい活気やなぁ」

 ここは日本の中心・京の都。その町の凄まじいまでの活気を眺めながら、一人の壮年の男が呟く。
 彼の名前は権平。様々な商品を取り扱う堺の交易商人だ。今も織田領内で仕入れた商品、主に木綿や絹などを九州に運び、交易を行った上で帰ってきた所である。堺港に入港し、その後すぐにその足でこの京の町までやって来たのだ。
 理由は一つ。とある人物に呼び出されていたからである。
 向かう先は、織田家の兵器製造や鉄の製造を行っている京都工廠だ。
 織田家では情報収集の一環として、交易で日本全国を走り回る商人達を定期的に呼び出し、その情報を聞き出すという事をしているのである。実際に現地まで行き、見聞きしてきた情報という物は存外役に立つ物が多いからだ。
 それに加えて権平は一つの依頼を受け、その件と合わせてここまで来ていたのである。

 「失礼しますー。ワテ、堺の商人の権平と申します。今日は京都所司代・村井貞勝様に呼ばれて参りました。御取り次ぎ願えませんやろか?」

 「うむ? ああ、伺っております。しばしお待ち下され」

 目的地へと到着した権平は工廠入口に立つ門番に話しかける。すると話しは通っていたようで、すぐに取り次ぎがなされた。ほどなくして権平は奥に通される。
 ただ不思議な事に、連れていかれたのは製鉄の為の炉がある作業所の方であった。こちらで良いのか? と不思議に思う権平ではあったが、案内の者が迷いなくずんずんと進んで行くので静かにその後に付いて行く。しばらくして目的地に到着したのか、案内の者が一つの建物に入る。権平もすぐにその後を追い、その建物の中に入って行くと、入った瞬間に凄まじい程の熱気が権平の顔を叩いた。
 中は汗ばむほどの室温である。それもその筈、既に炉に火が入り、その中では炎が轟々と渦巻いていたのだ。その周りでは幾人もの工員達が忙しく走り回る。

 「おう権平、来たか? 待っておったぞ」

 そのような中で、忙しく働く工員達とは少し離れた所で立つ、皆の働きを眺めていた二人の男が権平の事を待ち構えていた。
 一人は権平を逸早く見つけて話し掛けてきた、この場に権平を呼び出した張本人である織田家・京都所司代の重職を務める初老の男・村井貞勝である。
 そしてもう一人、隣に立つ人物…。

 「権平、大儀」

 静かに、しかし威厳を多大に含んだ声で権平に話しかけてきたその人物とは、なんと織田信長であった。
 権平はその予想だにしていなかった織田信長の姿に驚愕し、慌てて一歩後ろに下がる。そしてすぐさま手を付き頭を地面に擦りつけ、平伏した。

 「こ、これは信長様! 私めのような木端商人がその麗しき御尊顔を拝し奉りまして、誠に恐悦至極に御座いまする!」

 「良い。面倒な礼節は不要。時間の無駄じゃ。面(おもて)を上げよ。近うに来て九州での事を話せぃ」

 「ははっ!」

 村井貞勝に呼ばれていたはずが、いきなりの中央の支配者・織田信長の登場である。それに驚き、面食らった権平であったが、すぐに気を取り直し顔を上げた。
 これは考えようによっては好機、日本でも有数の権勢を誇る権力者に自分の顔を売る絶好の機会である。
 勿論、京都所司代である村井貞勝とてこの京の都の差配をする身、かなりの権力者だ。だがこの信長はあきらかに別格なのである。
 この好機を見逃すようでは腕の良い商人とは言えない。
 気持ちを立て直し、自身に喝を入れる権平。気合いを入れ直し、報告を始める。

 「まずは御依頼を受けておりました品で御座いますが、ちゃんと届きましたでしょうか? 御急ぎとの事でしたので別路で御送り致しましたが?」

 「ああ、届いておる。大儀であった」

 「それはようございました。私も重き肩の荷がおりた心持ちです」

 権平はこの訪問に先駆け、船が堺の港に入ってすぐに、とある荷物をこの場所に送っていた。
 それは九州に交易に行く前に村井貞勝より直々に手に入れて来てくれと頼まれていた品である。九州の地に埋もれている、未だ特に何にも利用されていない隠れた資源。この何百年か先の未来には、黒の宝石・黒いダイヤとも評される事になる重要な資源。

 そう、石炭の事である。

 今回権平が手に入れてきたのは極々少量の石炭なのだ。
 九州では未だ確たる使用目的も無く、何にも利用されていない。その為その価値は認められておらず、当然ながら採掘も行われていない。現状において石炭という存在は、唯々そこに不思議な石があるといったような認識がなされているだけだ。
 それを権平が取引を行っている九州の国人領主や商人に頼み込んで掘ってもらい、持って帰って来たのである。

 こんな物を何に使うのかと訝(いぶかし)がむ九州の者達に、船の重石に使う・何かに使えるかもしれないので持って帰って調べてみる・織田信長が珍しい物好きなので喜ぶかもしれない等々の言い訳をしつつ、格安で手に入れてきたのだ。
 かく言う権平も、こんな小汚い石を何に使うのか? と不思議に思っていた所である。
 だがどのような物であれ、これを手に入れて来てくれ、と言われれば万難を排してでも手に入れてみせるのが良い商人の証し。この小汚い石を持って帰って来る事によって上客である織田家に喜んでもらえ、さらなる歓心を得られるのであらば安いものである。
 さらにそれを仕入れ値・経費以上の値段で買ってくれると言うのであれば権平に文句は無い。

 「それで頼みがあるのじゃが、これから九州に交易に行く際には毎回、この石炭を手に入れてきてほしいのじゃ。九州の国人達に怪しまれぬ程度で良い。無理の無い量でかまわん。船の片隅にでも積んで持って帰ってきてくれ」

 「は? まだ必要なのですか? いや、別に私は一向に構いませぬが、しかし一体全体、こんな物を何に使われますので?」

 「権平、それは聞くで無い。お主は知らんで良い事じゃ」

 「そ、そうで御座いますか…。申し訳御座いません、出過ぎました。御許し下さいませ」

 平伏し控える権平に貞勝が話しかけて来る。それはさらに継続的に、この石炭という石を手に入れてくるように、との言葉であった。
 当然ながらこんな汚い石を何に使うのか? と権平は疑問に思いそれを問い掛ける。しかし、それに返ってきた返答は切り捨てるかの如くの、一切の追及を禁ずる厳しい物であった。
 貞勝の想像以上にきつい口調に、これ以上この話題を話すのは危険と感じ、権平は早々にこの話題を切り上げる事にして謝罪する。

 ちなみにこの権平が九州より持って帰ってきた石炭が一体全体、何に使われているかというと、答えはこの製鉄炉であった。
 信長が目指していたのはコークス高炉だったのである。すでにこの場では蒸し焼きにされた石炭からコークスを作り、そのコークスと従来と同じ炉を用いての鉄の精錬実験が始まっていたのだ。
 だがその実験もすぐに中断される事となる。信長達の目線の先でずっと作業を行っていた職人達より、異変を告げる悲鳴のような報告の声が上がったからだ。

 「信長様、駄目です! まさかこんなに温度が上がるなんて! もう炉が持ちません! 壊れます! 皆、急ぎ炉から離れよ!」

 その叫び声に合わせて廻りの作業員が炉から一斉に離れた。その直後に炉に幾つもの亀裂が走り、中に入っていた中身が漏れだしてくる。高温に熱せられ、マグマのようにドロドロに溶けた鉄が後から後から炉から溢れだし、ジュウジュウという廻りの物を焦がす異臭と耳障りな音が辺りに響き渡った。

 「やはり持たなんだか…。だが工廠長よ、これは想像以上に温度が上がったのう。これを使えばさらに多くの鉄が出来そうではないか?」

 「ええ! これは凄いです! まさかこんなに温度が上がるなんて! 今までの炉とは比べ物になりません! この高温に耐えられる炉ができれば、今までよりさらに短い時間で、さらに何倍もの鉄を生産できましょうぞ! 素晴らしい! 凄い物ですよ、この 『こおくす』 と言う物は!」

 壊れてしまった炉を呆然と見つめていた工廠長に信長が声をかける。その信長の言葉に、興奮した様子の工廠長がすぐさま返答を返した。工廠長は我慢できないと言った塩梅で壊れた炉の周りを歩きまわる。
 温度が下がるまで危なくて近寄れた物ではないが、工廠長はそれでも一刻も早く自身の目の前にある、この新しい存在を調べたくて調べたくて仕方が無いのだ。
 そのような様子の工廠長に信長がさらに問い掛ける。

 「何か思案はあるか?」

 「…いえ、今の所は何も…。この炉は従来の物と比べ、おそらく倍は温度が上がっておりまする。それに耐えようと思えば、今までの物とはまったくの別物が必要です。炉本体は無論、新しき送風の仕組み、間仕切りの為の何か…。それ以外にも問題は山積み…。ほぼ一から造り直す覚悟が必要かと」

 「ふむ、であるか。相判った。急ぎはせぬ。時間は掛かっても良い。なんとしてでも作りだせ。その為に必要な金子(きんす)は全て出す。領内の陶工や刀鍛冶達も動員し、この炉作りに協力させようぞ。必ず成し遂げよ」

 「ははっ! 必ずや成し遂げて御覧に入れまする!」

 信長はこの京都の工廠長に、コークスを使用する製鉄炉の製造を命ずる。その信長の言葉にはっきりと工廠長が答えた。
 彼は技術者として職人として、この目の前の存在に心奪われていたのである。
 今まで自身が綿々と培ってきた様々な経験から、眼の前のこのまったく新しき存在が途轍も無い物であるという事が誰に教えられずとも理解できていたのだ。
 そして同時にその偉業を成すのが自分であるという事に途轍もない喜びを感じているのである。

 信長はそのような工廠長の様子を満足げに眺めた。この人物なら必ずやり遂げるげあろう、と。
 別に何年かかろうと構わない。いや、むしろこの革新的な技術が短時間で達成できるとは思っていない。おそらく最低でも数年は必要であろう。だがそれだけの価値はある。必ず達成しなければならない事柄なのだ。

 「では、工廠長、後は頼んだぞ。権平は付いて参れ」

 「はっ! お任せ下さいませ!」

 「はい、畏まりました」

 実験用の炉が壊れてしまった為、今の時点では特に何もする事の無くなった信長と貞勝は引き上げる事にする。工廠長に後始末を託し、二人は権平を伴い出口に向かう。
 そして作業所を出た三人は隣接した屋敷の応接間に入った。
 奥の一段高まった上座に信長が着座し、その下段脇に貞勝が、そして信長の正面の板間に権平が平伏して座る。

 「それでは権平、報告致せ」

 「はっ! まず私が交易に行って参りました北九州の各地ですが、結果から言いますと特に変った所はありませんでした。博多の町も変わりなく栄えてはおりますが、かと言って前よりと特に変わった所があるのか? と言われますと特には御座いません。むしろこの織田様の領内の方が変化と言う点で言えば凄い物です。他に耳にした情報で変わった所と言えば、私が取引きをしておる博多の商人が申すに、最近南蛮船の入港が急激に増えて来ているとの事です。特に現在の貿易港・博多だけでは無く、他にも薩摩や肥前の方にも入っているとの事です。数で言えば従来の数倍には増えているとの由」

 「南蛮船が? 積み荷は何か判るか?」

 「全部は判りませんが、私が聞いた博多商人が知っている限りでは、鉄砲と硝石との事です」

 「ふうむ…、鉄砲と硝石か…。従来通りだと言えばその通りであるし、その量がおかしいと言えばおかしい…」

 信長の問い掛けに権平が答える。
 まずは九州の各地の様子だ。これについて言えば、権平曰く、これと言って目立った変化は無いとの事である。それもその筈、九州も長く打ち続く戦乱の世において、現状維持で精一杯なのだ。これについてはどこかの勢力が九州を統一するなど、大きな環境の変化が起こらない限り、変化の仕様が無いだろう。
 むしろこの戦乱の世において年を追う毎に発展している織田領の方が特異なのである。

 この時代、普通は領内の安全どころか、通行も、治安ですら保障されていない。また移動だけを考えた場合においても、事あるごとに陸では関所で、海では海賊衆達に、通行料だ何だと一々お金を払わなければならない。
 さらにいつ何時(なんどき)、戦乱に巻き込まれるかもしれない。そのような時代においての今の織田領内は完全に別物なのである。
 織田領内では安全な治安を確保し、自由な移動、自由な商業の土台が出来てきているのだ。それはすなわち織田領内においては、すでに中世的封建制度が崩壊してきている事を意味している。
 従来では民衆達の移動は許可されていない。何故なら彼らの移動を許可してしまえば彼らは各々勝手に住みやすい所に移動してしまう可能性があるからだ。それがまだ同じ国内ならまだしも、他国に行かれたりした日には目も当てられない。そんな事を容認してしまえば国が崩壊してしまう。だからこそ彼らは民衆達を同じ所に括り付け、安定した税収が得られるように移動を許可しないのである。その上で教育も受けさせず、情報も封鎖するのだ。結果、極めて閉鎖的な社会が出来上がる。
 それが中世の民衆支配、所謂、封建制度という物なのだ。

 織田領内の信長により打ち出された現在の治世は、悉(ことごと)くそれの逆を行く。
 領民達に教育を与え、政府広報という極めて一方的ではあるが情報を伝える媒介もある。その上で行動の自由も完全では無いとは言え、あるのだ。さらには領民達から限界まで搾取するのでは無く、出来得る限り豊かになれるように取り計らっている。
 それらは施政者としては、あらゆる危険と隣り合わせの政策だと言ってもいいだろう。

 例えば織田家が悪政を行えば、自由に移動できる民衆達は国を捨て、出ていってしまうかもしれない。
 例えば農民達が町に出て働く方が儲かると思えば、都市部に人口が流出し、結果、農村が荒廃してしまう可能性もある。
 例えば民衆達の無秩序な移動は、今まで極めて閉鎖的であった社会に少なくない混乱をもたらし、治安が悪くなってしまうかもしれない。また豊かになった領民達は、織田家など必要無い、これよりは自分達で全てやっていく、と織田家の治世から離脱してしまうかもしれない。

 これらは実際に今の織田家にとって大きな枷となって存在しているのだ。そしてそれは同時に今までの強圧的な手法のみの支配との決別を意味している。
 織田家は民衆達が自国から出ていかないように良い政治をしなくてはならない。税金を安くし、関所を廃止し、徳政令を禁止し、高利貸しを禁止し、新田の開発を奨励し、自作農になれるように取り計らい、治安の維持に尽力する。その上で民衆達が日々の食事を得られ、立派な服を着て、人間的な住居に住めるように思案し行動する。
 その為に係る費用・手間たるや莫大な物だ。
 だがしかしである、それにより得られる利益はその不利益を大きく越え、途轍もない物となる。

 簡単に言えば、今までの中世的封建制度が民衆達を単なる家畜のような存在としてみなし、決まった場所に固定して囲い込み、民衆達はただ反抗せず静かに毎年決まった税金を払え、と過酷に取り扱ったのに対し、織田家のこの治世下においては民衆達は一人一人が人格を持った人間として自らの意思を持って生活し、自らの意思で持って国の為に尽くす。
 それは口の悪い言い方をしてしまえば、家畜と人間の違いである。もしくはただ惰性で生きる人間と、希望と未来を持った人間の違いだ。
 そしてその社会の空気の変化は、全ての民衆達が肌で感じとっている物である。
 特に商人達がそれらを強く感じていた。他の領内に行くと良く判る。織田の領内と比べると、何と言うか至極やりにくいのだ。他では移動するだけでも大仕事。さらにはなんやかんやと、その土地の領主より規制が入る。それにより生じる出費も馬鹿にならない。さらには言い掛りで財産を全て没収される事すら有り得るのだ。

 これらの現在の日本の状況を言えば、織田に統治してもらった方が商売しやすい、と商人達に思わせるには十分な実績だったのでる。彼らはやはり交易以外では織田領内からは出たくない、諸々の法度が整備されている織田領で商売したいと思っているのだ。
 それ故、国内、他国を問わず大部分の、それこそ他大名家抱え込みの大商人や特権商人を除いた殆どの商人達は織田家に対して多いに好意的である。
 だからこそ情報の提供にも積極的に答えてくれるという訳だ。

 続いての情報が九州の各地に南蛮船の入港が増えているとの情報である。
 この情報単体で言うとなんと言う程の物では無い。気に掛ける程の価値も無いといえる情報であろう。しかし信長は最近とある情報を竹中半兵衛から聞いていたのである。曰く、織田領に来る南蛮船の数がどうも減ってきている気がする、との彼の言葉だ。その半兵衛の言葉がこの権平の情報を聞き、信長の脳裏をよぎったのだ。
 半兵衛の報告を聞いた時は不確実なこの時代の交易船の事である、遅れているのか難破したのか、とりあえずそのような理由で一時的に減ったのであろう、とその報告自体を軽く聞き流していた。
 実際に信長にこの報告をした当の半兵衛自身にも、さして重要な情報であるとの認識は無かったのである。ただ気付いた統計的な事実を述べたに過ぎない。

 だがそれら二つの情報を繋げて一つの事象として見れば如何か? 
 この二つの情報が示す可能性、つまり南蛮の交易船自体の絶対数は減ってなどはいなく、織田領に来ていた分が九州に流れているのだとすれば…?
 すなわち南蛮人達の関心が何らかの切欠で、織田家重視から九州重視にシフトしたのだとすれば…?
 それが事実なのだとすれば途轍もない重大事だ。





 「どうもキナ臭いな…。少し力を入れて調べさせるか?」

 信長が考えながら一人ポツリと呟く。何故か悪い予感がする。それは言うなれば唯の感だ。だが唯の感と言えども、幾度もの危機・死線を乗り越えて来た者の第六感という物はけして馬鹿に出来ぬ物がある。
 その第六感がこの二つの情報に何かおかしな物を感じ取ったのだ。何らかの行動が必要である、と。
 その事を頭の片隅に収め、これに対する対応は後にし、信長はさらに権平に問いかける。

 「それはそうと、権平。我が領内での商売はどうだ? 何か変わった所、不便な所はあるか?」

 「いえいえ! 不便だなんて滅相も御座いません! どこよりも良くして頂きまして誠に商売がしやすく、本当に我等商人一同、いつも感謝の念に堪えませぬ! 最近も私の友人で堺で商売させてもろうてます庄蔵と申す男がおるんですけど、織田様の領内で新しい商売を始めさせてもらっており、えろう景気も良いらしく、本当に常日頃からありがたく思っておりまする!」

 「ほう、それは良き哉。何の商売を始めたのだ?」

 「木綿の取引きです。例の織田様の考案で始まりました木綿増産の為のアレでございます」

 「ああ、あれか。役に立ったのであれば重畳」

 ここで二人が話しているアレとは信長の発案によって始まったとある商売の事である。
 織田家領内において農村部での暮らしが大分上向きになって来た事は前にも書いたが、その事により農民達に少しづつではあるが、余力が出来てきているのだ。
 今回そこに目を付け、領内において新たな作物の生産を奨励しているのである。それは俗に言う商品作物と呼ばれる物だ。ちなみに商品作物とは、木綿や絹、菜種、茶、イグサといった、食べる為にでは無く市場に売りに出す事を前提に作られる作物の総称の事である。
 当然ながらそれらは農民達に余力が有り、且つ、市場経済がある程度の規模成長しており、さらに農業生産に人口以上の余剰生産が無いとできない。

 今までも木綿については交易の為に力を入れて生産させてきたが、ここに来てさらに幅広い生産を視野に入れ新たなる市場を作りだす為に動き始めたのだ。
 簡単に言うと、商人達が農村に行き、商品作物の苗や種、それに生産の為のノウハウをセットして農民達に売り、その生産された作物を一括して買い取る契約を結ぶ。
 今で言う、一種の生産委託のような状態である。
 これは双方に利点のある手法であり、静かに浸透していった。まず最大の利点が農民達のリスクが減る事である。
 当然ながら何か新しい事を始めようと思えばそこにはリスクが生じてしまう。それは無事に育つのか、育ってもどうやって売るのか、ちゃんと儲かるのか等々、色々な懸念の事だ。それを商人達がノウハウと共に、出来た作物を全て買い取る契約を結ぶ事によって、農民達はリスクを最低限にまで抑える事ができるのである。

 例を上げていくと、まず第一に農民達にとって初期投資は基本分割払い・後払いで良い為、小額で済む。これは信長の商人達への説得、曰く、短期的には損しても長期的に見てさらに大きな得を手に入れよ、との言葉からである。最初に商人達が初期投資の差額分、損をするが、その後は安定した商品調達・供給先を得る事ができるのだ。
 第二に農民達にとっても煩わしい様々な業務から解放される事も大きい。それは例えば種や苗を何処から手に入れるかや、出来た作物を売る為に買い手を探したり、その作物を町にまで運んだりといった作業からの解放である。それらは買取りにくる契約商人が全てやってくれるのだ。
 そのかわり全てを自分で手配してやるときよりも、商品の引き取り値は相場よりも安く設定されている。
 そこらへんは個人の好みだ。つまりは全部自分でやって不確実だが高い利益を取るか、商人と契約し協力しあって確実安定なそれなりの利益を取るか、の違いである。

 そして今回のこの試みは生活に余裕の出来た農民達の副業的な仕事、もしくはそれのみを生産する専業農家への転職と、様々な形で受け入れられ、順次その生産を増大させていた。
 ちなみにこれは織田家にもメリットがある。最初に口出しをした以外は特にこれと言って何もしておらず、費用も掛かっていないのだ。全て民衆達の独自の経済活動であり、織田家にとっては自らの懐を痛めずに税収のアップを目指す一石二鳥の政策なのである。







 「では権平、これよりも頼むぞ。特に九州で何か変事あらば、すぐに知らせよ」

 「ははっ! 勿論で御座います! 御任せ下さいませ!」

 それからしばらく色々な雑談をしていた三人であるが、最後にそう信長が権平に声を掛け会談は終わった。
 そして権平が退室したのを確認した後、信長はおもむろに貞勝に対して命令を下す。

 「貞勝、急ぎ岐阜におる半兵衛に使者を送れ。此度の情報と、それに九州に対する諜報を強化せよとだ。それと我が領内の南蛮人達の間に何か変わった所が無いかも同時に調べさせよ」

 「かしこまりました。急ぎそのように手配したしまする」

 命じられた貞勝も静かに下がって行く。そして一人室内に残った信長は静かに考え込む。考えるのは九州の情勢と、そして日本国内でカトリックの布教を行っているイエズス会の事だ。
 やはりキリスト教の布教を帝の影響下でよってのみ認めるというあの行動、外国勢力の影響力を封殺しようとしたあの政策が反感を買ったか?
 様々な事が信長の脳裏をよぎるが、それが信長の脳裏に一番に浮かんだ思いであった。
 もしかしたらここにきて要らぬ敵を造ってしまったか? もし彼奴らが敵に廻ればどれほどの不利益が生じるだろうか?
 後から後から様々な事が思い浮かぶ。

 彼らが敵に廻る事によって起こるであろう事は、敵対勢力、主に九州の大名達が今までよりさらに多くの鉄砲、硝石、鉄等を手に入れ、逆に織田家は鉄の殆どの輸入が途絶する事だ。
 もしかしたら大砲すら九州の大名達の手に渡るかもしれない。
 但し、大砲云々自体はそれほど問題にはならない。例え大砲を手に入れたとして、運用が出来ないからだ。兵器を単体で手に入れようが、補給(火薬・弾等)の態勢が無い。
 織田家はその運用の為の態勢作りに10年以上の時間を掛けて作ってきたのである。
 さらにはその多大な火力を必要とする戦いは多額の費用がかかるのだ。九州の大名達が現状においてそれを出来るとは思えない。自画自賛となってしまうが、それができるのは現状においてはこの織田家だけであろう。

 但し、一つだけ方法がある。全てを外国から輸入するという方法だ。ここに信長の一番懸念する問題がある。
 その購入の為の資金を彼らは如何するであろうか? 金には限りがある。ましてや織田程の経済力がある訳でも無い。早々に使いきってしまうであろう。そして金が尽きてしまえば、彼らに残された方法は唯一つ。すなわち奴隷貿易である。
 九州の大名達は今までも外国からの武器や硝石欲しさに自国の領民達を外国人達に奴隷として売っていたのだ。さらにそれが加速する可能性がある。それだけは許せない。

 そのような状況に陥らぬ為にも、いらぬ混乱を招かぬ為にも、出来れば外国勢力と敵対するような事にはなってほしくない。そう信長は願う。
 だがそれと同時に、おそらくそう何もかも自分の都合良く動いてはいかないだろう、という確信めいた思いも同時に抱いていた。
 なにせ織田家の政策は彼らの思惑、日本のキリスト教国化によるカトリックへの影響力化への組み込み。そしてそこからの植民地化という思惑を真っ向から打ち砕いてしまったからだ。
 これで日本がどこかの勢力の統一化にあって、つけ込む隙も無いと言う事であらば、彼らも諦めるであろうが、今だこの日本は戦乱の世である。

 「少し先走りすぎたか?」

 日本を統一してからにすべきであったか? 信長にほんの少しの後悔の念が浮かんで来た。だがそれを信長は即座に打ち消す。
 どの道、早いか遅いかの違いでしかない。いつかはこのイエズス会との関係は問題として挙がり、決着を付けなければいけなくなっていたであろう。ならば良し。向こうから旗色を鮮明にしてくれた分やり易くなったと考えよう。

 信長はその思いと共に、この日本の戦乱という大戦略のテーブルの上に突然上がってきた外国勢力に対しての戦略の練り直しを始める。彼らが介入して来た事によって今までの戦略は全て破綻したと考えるべきであろう。
 静かな部屋の中でこれからの事を、信長は一人考え続ける。












 <後書き>

 内政チートっぽい話しです。









[8512] 第32話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/03/28 22:36






 <第32話>



 天正2年(1574年)、この年は静かに明けていった。織田家の勢力の伸張は順調に進む。

 まずは北方、柴田勝家の担当する戦線である。越前を平らげた柴田勢は、その後の一向衆達の一揆に悩まされながらも続いて加賀に侵攻を開始。
 この一連の戦いで勝家の大きな力となったのは京都本願寺の者達の尽力であった。

 京都本願寺の法主・本願寺実悟は、元はこの北陸本願寺衆の出であり、昔の事ではあるが、その加賀の本願寺教団の要職に在った人物である。
 その実悟の手によって、越前・加賀の両国における本願寺勢力に対して調略が行われたのだ。
 加賀一向衆にとっては、結果的にその時期が最悪に近い、間の悪い物だったのである。

 この時期の加賀の一向衆指導者は七里頼周(しちりよりちか)という坊官であったのだが、しかしこの人物、粗暴な振る舞いが多く、性格は残忍。加賀一帯に暴政を敷き、加賀門徒達からの人望は無いに等しく、それどころか本山・石山本願寺に加賀門徒達の連名で弾劾状が送られる程、嫌われていた人物なのである。
 それ故、この時期の加賀門徒達は石山の門徒達と違い、まったくと言って良い程、統制がとれていなかったのだ。その結果、あらゆる不満が加賀の国において渦巻き、そしてそこを本願寺実悟に付かれたのである。
 実悟の調略を受け、加賀における一向衆は四分五裂。あるものは織田方・京都本願寺側に寝返り、ある者はそれを七里頼周に密告したり、またまたある者はこの機に政敵を抹殺せんと虚偽の密告を行ったり、と真偽定かならぬ情報が多数飛び交っかのだ。
 そのような混乱下において、それぞれが各々の為だけに好き勝手に動き出し、誰が裏切り者か、と皆が疑心暗鬼に陥ったのである。結果、彼らは大混乱に陥ったのだ。
 そこを織田家に突かれたのである。
 越前より侵入した織田・柴田隊は約三万。その織田軍が加賀へと雪崩を打って攻め込んで来たが、それに一致団結して対抗する事すら、不可能であった。
 烏合の衆と化していた彼らに、それに対抗せよと言うのは酷である。織田軍は各地で諸勢力を調略しながら、反抗する者達を各個撃破して回ったのだ。
 そして天正2年(1574年)中には加賀一国を完全に制圧。ここに 『百姓の持ちたる国』 と言われた北陸の一向衆王国は滅んだのである。
 但し、結果として、この加賀にまで進出した織田家の行動に、とある大名家が織田家に対する警戒を強める結果となってしまったのだ。その大名家とは、生きる軍神の治める北国の雄、関東管領を務める義の国・越後上杉家の上杉謙信の事である。



 続いて四国方面軍、前田利家の動きだ。前年に淡路の国を平定した四国方面軍は、この年、満を持して四国に上陸。阿波と讃岐の国を治めるの三好長治(みよしながはる)に襲い掛かったのである。
 この時期、阿波の国は当主である三好長治が行った数々の失政、悪政に揺れている所であった。この長治という男、極めて傲慢であり自分勝手な性格、前年の天正元年(1573年)には幼少の頃より自身の補佐をしてくれていた重臣の篠原長房を讒言によって自害に追い込み、又、領内全体で法華宗を信仰する事を強要したりしていたのである。
 それらの悪政に阿波・讃岐両国では不満が高まっていたのだ。
 事態を重く見た実弟の讃岐国十河城主・十河存保(そごうまさやす)が兄・長治のその悪政を諌めようと、このままでは香川・香西等の配下の国人衆達が離反してしまう、言動を改めて欲しいとの諫言を度々行う。しかし長治はその諫言を一切聞き入れず、あろう事か逆に香川・香西両氏を攻めるという暴挙に出たのである。

 そのような中で、前年に淡路の国に上陸した織田の軍を見て自ら織田家に内応してくる国人達は後を絶たず、そしてこの年、とうとう織田軍の四国上陸を迎えたのだ。
 その織田軍上陸の情報のみで、阿波の三好長治の軍は崩壊する。長治の陣触れに応じる国人衆は殆どおらず、長治はただ居城・勝瑞城に籠城するしか手が無かった。しかしそれに援軍を出す者もおらず、それどころか城内からの内応者が相次ぎ、堅城・勝瑞城は僅か二週間で攻め落とされたのだのである。
 その敗北を受け、讃岐国の十河存保他、各地の国人達は雪崩を打って織田の軍門に下り、織田家は阿波と讃岐両国を版図に治める事に成功したのだ。

 史実での、この阿波の国の混乱に付け込んだ長宗我部家の侵攻がこの次の年に始まる予定であったから、それに先んじた形である。
 ちなみにこの土佐の長宗我部家については、土佐一国本領安堵の条件で臣従する事を打診している所だ。



 次に中国方面軍、毛利家攻めである。
 この年は特に大きな動きが起こっていた。山陽方面において、大阪湾での戦いでの織田水軍大勝利の報を受けた備前の国の国主・宇喜多直家が織田に内応し、突如毛利を裏切ったのである。その結果、この地域の毛利家の戦線が崩壊した。
 さらにその宇喜多直家、内応の報は各地の毛利軍に衝撃を与え、それに乗じて動揺をきたした毛利軍の防衛線に山陰・山陽両方面の織田軍から猛攻がかけられたのである。毛利家はそれらの戦線でズルズルと防衛戦を下げざるを得ず、結果的に備前・美作・伯耆の三国を失陥するという異常事態に見舞われたのだ。
 さらに出雲の国では旧尼子系の国人衆達に不穏な空気が流れ始めている。

 この時点で毛利家は幾つも積み重なった誤算により、まさに危急存亡の危機に陥ったのだ。
 まず一つ目は大阪湾での水軍の敗北。
 誰もが戦国随一の最強毛利水軍が、まさか成り上がりのにわか水軍である織田水軍に、ここまで一方的に敗北するとは思ってもいなかったのである。
 二つ目は織田軍が使い始めた大砲の威力だ。
 野戦に使って良し、攻城戦に使って良し。その威力は想像を絶し、今までの戦術を全て覆さんばかりの勢いである。
 かと言って毛利家ではそれを使おうと思っても無理な相談だ。現状、この日本において大砲の製造に成功しているのは織田家のみ。勿論、織田家から手に入れる事は不可能。可能性があるのは海外勢力、南蛮人から買う事だが、かと言って手に入れたとしてそれを運用するのはまた別問題である。何より金がかかるのだ。鉄砲も金がかかるが、その比で無い。
 現状の織田との血みどろの戦争を繰り広げておる毛利家にとっては到底、無理な話しである。今の防衛線、今の軍備を支えるだけで精一杯であり、他の所に出費する余裕が無いのだ。
 織田家を除いた中で一番の経済力を誇る毛利家でさえその状態である事を考えれば、他の大名家の状況と言えば、同様かそれ以下である。

 このような状況下に置かれた毛利家の家中において、とある動きが起こり始めていた。



 最後は東国、武田方面だ。こちらは信長が西国を重視した為に、未だに大きな動きは無い。調略などの謀略に力を注ぎつつ、機を窺っている所である。
 唯一、織田軍が飛騨の国に兵を入れ、その地を制圧したぐらいだ。織田と武田との間に、今の所、大きな衝突は無い。策謀渦巻こうとも、平和は平和。
 その隙に武田家の当主・武田勝頼はなんとか態勢を整えようと四苦八苦している所であった。











 <甲斐の国 武田家居城・躑躅ヶ崎館>


 その日、躑躅ヶ崎館ではこれよりの武田家の方針を決める軍議が開かれていた。威風堂々とした眼光するどき若武者、武田勝頼は、城の奥まった所にある大広間の上座に座し、正面に左右に別れて並び座る重臣達の言葉を聞きながら、一人黙している。

 「ワシは絶対に反対でござる! 何故我等が一方的に損をせねばならんのか、得心がいきませぬ!」

 「然り! 御屋形様は我等がどれほどの血を流し、彼奴らと戦ってきたのかを、理解されておらぬとしか思えませぬ!」

 武田家一門衆の穴山信君や武田信豊がその軍議の席で声を荒げていた。今、話しあっている議題は織田の圧力を減らすために故信玄の時代からの怨敵である上杉家へと同盟を申込むか否か、との話し合いである。
 さらには申し込んだとして、それには当然条件が必要であり、その条件として多額の金銭の譲渡、西上野の割譲、勝頼の妹・菊姫を上杉家へと輿入れさせる、等々の条件を可とするか否とするかの激論が繰り広げられていたのだ。

 「(好き勝手に言いおって…)」

 勝頼はその声を荒げる二人を眺めながら、心の内で呟く。
 ただ、この軍議が荒れるのは最初から判っていた事ではある。なにせ議題が議題だ。反発は必至。むしろまだこれだけですんで行幸、と思うべきであろうか?

 「しかし、もはや我等武田家単独での抵抗は、おそらく無意味。織田には勝てませぬ。ここは思いきった手を打ちませぬと御家を滅ぼしまするぞ」

 「それとこの同盟の何が関係あるのじゃ!? そもそも何じゃ、この条件は!? まるで我等が上杉めに降伏するような物ではないか!?」

 武田家中の中で、この上杉との同盟を推進する勢力の中心人物は高坂昌信。政戦両略に長ける彼は断固とした意思を持って、今回の軍議に望んでいた。彼は勝頼の代になってからその側で共に政務に当たる上で、今の状況がどれだけ危険な物かを肌で感じとっていたのである。
 長篠の戦より、早二年。彼は身を粉にして武田家の建て直しをおこなってきた。だが、それも遅々として進まない。その膠着した状態を打破する為の方策がこの上杉との同盟なのだ。

 そしてその思いは彼と共に様々な施政を行ってきた武田家当主・武田勝頼も同じだったのである。彼はけして通説で言われてきた様な無能な人物では無い。自分の成すべき事、成さねばならぬ事をしっかりと理解もしており、またそれを実際に成してきた。
 だが、それは常に反発との戦いでもあったのである。
 これまで勝頼は考えうる限りの方策をとってきた。軍の建て直し、家中の統制、新しい防御拠点の建設。渾身の力で持って、邁進してきたのである。だが、それに理解を示さぬ者は文句ばかりたれるのだ。
 勝頼の行った政策はどれも多額の費用を必要とする物ばかりである。その為に苦渋の決断ではあったが民衆に対する税金を上げ、費用を捻出してきた。
 だが、人々はそれを暴政だ、先代信玄公の足元にも及ばぬ、やはり諏訪の御屋形、所詮君主の器にあらず、と悪し様に陰口を叩く。
 それらを知る度、勝頼は思う。ならばどうすれば良いのだ、と。

 税金を上げた事を人々は罵る。ならば軍の建て直し、拠点の建築など、やらなくても良いというのか? このまま織田に踏み潰されればよいとでも言うのか? 新しい商いや金策をしている時間すらないこの状況で、金がどこからともなく湧いてくるとでも言うのか?
 家中の統制の為に当主の権限の強化を目指せば、各地の国人領主から猛烈な反発がおこる。
 当然ながら彼らにとっては自身の権益を侵されるこの勝頼の方策には納得いかず、死に物狂いで反対してきたのだ。
 それらの家中の者達の、勝頼にとっては自分勝手なと思うその動きに、勝頼は憤る。ならば如何せよというのか? 国が滅んでもよいというのか? お前らは本当に今現在、武田家が置かれている状況を理解しているのか? と。

 かと言って、強行的な方法は取れない。高坂昌信などは、意に沿わぬ勝手な事ばかりする一門衆達を切腹させよ、などと言うが、それで内乱などになれば如何するのか? 今の武田家ではその小さな内乱すら致命傷になりかねない状況なのだ。
 少しでも隙を見せれば織田は怒涛の勢いで国境を突破してこよう。
 そのような状況に、勝頼は何もかも投げ出したくなる時がある。土台、無理な話しなのだ。例えるなら1970年代の世界において、メキシコが一国でアメリカ合衆国を相手に冷戦をするような物である。アメリカが空母を十隻造るのなら、メキシコも十隻空母を造る。アメリカが百万の兵士を整えるならメキシコもそれにならう。
 馬鹿げた夢物語であり、到底無理な話しだ。国力が違いすぎるのである。幼児が大人に喧嘩を売るようなものだ。
 だが、それをせねば亡国、しても真綿で首を絞められるかの如くの織田からの年を追う事に増す圧迫、すさまじい閉塞感だ。これこそまさしく雪隠詰め(せっちんづめ)である。

 それでも、それでも勝頼は武田家当主として精一杯の事をしてきたつもりだ。だが、その行動自体がさらに家中にそれまで以上の大きな亀裂を入れる結果となっている。
 進むも地獄、退くも地獄。なんたるジレンマ。なんたる無間地獄。まさに世は無常。
 それでも、それでもである、当主たる勝頼は諦める事は許されない。責任を放棄する事は許されない。自身が正しいと信じた道を突き進むすか無いのだ。
 だが、その姿勢すらも割を喰う者達からは傲慢な姿勢に映り、さらに反感を買ってしまう。あちらを立てれば、こちらが立たず、である。





 「信君、信豊、落ち着かぬか」

 「落ち着く!? 落ち着くですと!? 誰のせいだと御思いか!? 御屋形様も御屋形様でござる! 何故、我等が上杉めに頭を下げねばならんのですか! しかも我等が血を流して勝ち取った領地までくれてやるとは、正気の沙汰とは思えませんな!」

 「御言葉がすぎまするぞ、信君殿!」

 無意味に続く罵り合いに勝頼が仲裁に入ったが、しかしその勝頼にも穴山信君は食いついていく。それを高坂昌信が止めに入った。
 昌信は逆に穴山信君に問いかける。

 「なれば、信君殿は良き思案は御有りですか?」

 「無論、有り申す」

 その昌信の反論に、信君は自信有り気に胸を張って答えた。
 この軍議の座にいる皆の顔を順に一瞥した後、信君はおもむろに自分の考えを話し始める。

 「まず大前提として、御屋形様や高坂の考えは、織田家に抗する事を規定の事実として組み込み、それを条件にして方策を考えておる。何故で御座るか? 本当にそれしか道は、考え方は無いので御座いまするか? むしろ、この情勢に至っては、誼み(よしみ)を通じるべき相手は織田家では御座らぬか?」

 なんと驚くべき事に、穴山信君の口から語られた考えとは『織田に与せよ』との、今まで長年に渡って武田家が行ってきた戦略を根底から覆す物であったのだ。

 「な、何を申されまするか!? し、正気で御座いまするか!? 信君殿!!」

 当然の事であるが、その信君の言葉にすぐに反論が起こる。高坂昌信は声を張り上げ、信君に詰め寄った。
 だが信君はそれを静かに、そして相手を嘲笑うかの如くの笑みを浮かべながら昌信に反論する。

 「おやおや、正気か? とは先程と立場がまったく逆になったのう…。勿論、正気だとも。高坂にはワシが狂うておるようにでも見えるのか?」

 「ならば何故、そのような愚かな考えを申されまするか!?」

 「何を言うか。愚かでおかしいのはお主の方であろうが。ならば聞こう。現状において織田と上杉、より勢力が大きいのはどちらであるか?」

 昌信はその突然の信君の問いに面食らうが、しばしの思案の後、気を取り直しそれに答える。

 「この日ノ本で今一番勢力が大きいのは無論、織田信長で御座いましょう。京の都、畿内の悉く(ことごとく)をその版図に収め、さらに西国にまでその魔手を伸ばし、次々とその支配下に収めております。おそらく今のこの日ノ本において、単独で織田家に対抗できる勢力は有りませぬ。だがだからこそ、その為の思案を今、この場にてしている所では御座いませんか?」

 「そう、そこよ。そこまで判っておきながら、何故、戦う事しか考えぬ? 講和というのも、一つの手段では無いのか? 何故それを端っから否定しまうのか?」

 「ば、馬鹿な!? 織田との講和ですと!?」

 信君の考えとは、これまで如何して織田家に対抗するのかのみを話していた中において、まるで異質の物…。織田家との和平模索の道であった…。

 「それは…、いくらなんでも弱気にすぎるのでは御座らんか?」

 「然り。それでは我等が面子が立ち申さん。敵が強いからと言って簡単に屈しては、我等は天下の笑い者になりましょうぞ」

 今まで話しを聞いていただけであった小山田信茂といった諸将も、話しに入って来る。
 そして彼らは口々にその信君の考えに苦言を呈した。あまりにも弱腰すぎると感じた為である。
 だが信君はその苦言にもまったく動じず、さらにその考えを話し始めた。

 「皆の衆、落ち着かれよ。ワシは何も織田に降伏せよ、と言っておるのでは無い。ただ今まで無視されておる可能性の一つを示したにすぎぬ。今、我等武田家は、長篠での敗北、信玄様の死去と、悲劇が立て続けに起き苦難の刻を進んでおる。この苦境において一つでも舵取りを誤ると、それこそ御家を滅ぼす事になりなねん。だからこそワシは徒(いたずら)にその行動の幅を狭めるべきでは無い、と言いたいのじゃ。全ての可能性を皆でじっくりと吟味し、その上で我等がこの先進むべき道を決めるべきであると考えるのじゃ」

 「なるほど…。それは道理。信君殿の言う事、至極尤もで御座る」

 「端から一顧だにせぬでその策を採らぬのと、皆でじっくり吟味した上でその策を採らぬ、というのでは、同じ否決という事でも天と地程の違いが有りまするな…。至極尤も。賛成で御座る」

 そしてここに来てその信君の考えに同意する者が出てきた。
 信君の言う事は正論ではある。耳にも優しい意見だ。だが、それが国政の場においては、必ずしも正しいとは限らないのではあるが…。
 その場の状況に、信君の言う事を受け入れるようなこの場の雰囲気に、高坂昌信は焦りを覚える。そして昌信は気付く。信君が何を狙っているのかを。

 「(信君殿は御屋形様一人に権力を集中させようとしている、最近の動きが気に入らんのであろう。自らの権勢を保つ為に、皆を巻き込んで此の様な事を言うておるのだ…)」

 それは武田勝頼、高坂昌信などが協力し、織田家に対抗する為に少しでも武田家の戦力を引き上げる為の、武田家の中央集権化への動き、それへの反動であった。
 皮肉な事に、この世界では勝頼の権限は史実よりも大きい。それは勝頼の当主就任の前に長篠の決戦において重臣達が数多く討ち死にし、その力が弱まっていたからである。それにより相対的に勝頼の権勢は増していた。
 但し、これは勝頼の権力が大きくなったのでは無く、重臣達の力が小さくなった為に、結果的に勝頼の権勢が大きくなったというだけでしか無い。例えるなら、勝頼という山が大きくなったのでは無く、廻りの山が小さくなり、結果的に勝頼という山が一番大きくなったにすぎない。
 勝頼はその降って湧いたような幸運で手に入れた大きな権限を用いて、大打撃を受けた武田軍の戦力低下を補い、再度戦力を強化する為に大ナタを振るって来たのである。
 具体的に言うと、より効率的な軍の動員の為に、検地や兵農分離を目指したのだ。しかしその先に待っていたのは、家臣達の大反発だったのである。




 元々、武田勝頼は最初から大きなハンデを背負って、武田家の当主となっている。何故なら本来、この勝頼は武田家を継ぐ予定はまったく無かったからだ。その証拠に勝頼は武田家代々当主が受け継いできた通字である信の字を受けていない。
 ちなみに通字というのは、代々その家において受け継がれる、名前に入れられる一文字の事である。例を上げると、織田家、武田家が信。足利家が義。長尾(上杉)家が景。毛利家が元。島津家が忠及び久。このようにその一族で特定の一字を代々受け継いでいくのだ。
 二十代続く名門武田家代々の当主で、この信の字を持っていないのはこの勝頼と、八代当主の武田時綱だけである。
 ちなみに勝頼という名は、武田家では無く諏訪家の通字である頼の字を受け、そして名付けられた物なのだ。
 これが示す通りに、勝頼の武田家での立ち位置というのは、あくまで諏訪家の当主という物であり、武田家では無いのである。

 元の家名も武田では無く諏訪四郎勝頼と言い、それが勝頼の長い間の名前であったのだ。
 それが本来後を継ぐべきはずの嫡男、義信の急な失脚を受け、急遽、武田家の当主として立てられたのである。
 それはまさしく茨(いばら)の道。家中よりも多くの反論・反発を受けた上での当主就任であったのだ。
 そしてその勝頼に対する反発は未だにある。否、むしろ勝頼の振るう大ナタに、さらに大きくなりつつあるのだ。







 「お主ら、それはワシの方針には従えぬと言う事か…?」

 この場に集った武田家家中の重臣達のかなりの者達が、信君の出したその提案を前向きに吟味しようとしているその場の雰囲気に機先を制すが如く、今まで話しに殆んど入って来ないでいた勝頼が低い声を発した。
 その怒りを堪(こら)えているのでは? と思わせる勝頼の険しい様子の言葉に、信君の考えに好意的な発言をしていた者達が一様に怯(ひる)む。

 「いえ、けしてそのような事では御座らんが…、唯、そのまま捨て置くには惜しき考えでは、と」

 「然り。この危急存亡の刻、あらゆる可能性を吟味すべきでは?」

 おもわず言い訳じみた事を洩らす。
 その者達の言い分に、自らの織田へと抗するという、ここ数年の努力を否定されたように感じた勝頼は、声を荒げて怒声を発した。

 「この阿呆共が! 我等は何ぞ!? 我等、新羅三郎義光公、以来、五百余年・二十代もの歴史を誇る名門・武田家であるぞ! その我等が如何して、成り上がりの織田づれの軍門に降れようか!」

 「御屋形様、落ち付かれませ。先程も言うたように、何も降伏しようと言う話しではござりませぬ」

 その勝頼の怒りにも動じず、余裕綽綽といった様子で信君が勝頼を宥める。しかしその信君の余裕を持った対応が、未だ年若く血気盛んな勝頼の神経をさらに逆撫でする。

 「信君! 貴様はいつからそのような臆病者に成り下がった!? そんなに織田と戦うのが怖いのか!? うん!?」

 「それは聞き捨てなりませぬな! 何時、拙者が怯んだと!? 御屋形様の方こそ、猪突猛進が過ぎまするぞ! 御屋形様は未だ年若き故、仕方が無いのかもしれませぬが、少しは武田家当主として、もっと皆の事を考えた上で行動して頂きたい物ですな!」

 「貴様っ…! 自らの事を棚に上げ、言うに事欠いて、ワシにもっと考えて行動しろだと!? もしや貴様、織田に調略でもされたのではあるまいな!?」

 「馬鹿な!? それこそ浅知恵と申す物也! このワシを疑いまするか!? 一門衆筆頭であり、家中の誰よりも武田の血統を濃く継ぐ、このワシを!」

 二人の言い争いはどんどん熱を帯びていき、さらにそれが行き過ぎ剣呑な雰囲気まで生み出してしまう。もはや抜き差しならぬ所に及ぶ一歩手前、という塩梅であった。
 その両者の様子に、これは不味いと感じた高坂昌信や廻りの小姓達が仲裁に入る。

 「御二方、落ち着いて下さいませ。熱くなりすぎておりまするぞ」

 だが勝頼は未だ収まりがつかぬ様子で、信君を睨みつけた。
 しかし収まりが付かぬのは信君も同様である。信君はさらに勝頼に語りかけた。

 「御屋形様…。いや、今は敢えてこう御呼び致しましょう、四郎勝頼殿…。拙者は武田家一門衆筆頭として、人生の先達(せんだち)として、不興を被(こうむ)るのを覚悟で、一言諫言(かんげん)仕(つかまつ)る。勝頼殿は武田家の当主で御座る。我等家臣一同を従えて御家を繁栄させ、また御家を存続させる、重い重い責任を背負う武田家当主で御座る。その上で、万が一、万が一で御座いますが、武田家が絶体絶命の窮地に陥り、二進も三進も行かなくなるような状態になった場合、御家存続の為に、また家に仕える家臣達の為に、敢えて全ての汚名・屈辱を被ろうとも、御家存続の為に尽くす覚悟は御有りでしょうかな?」

 「何が言いたい!? それは結局の所は、勝てぬ相手には降伏せよという事ではないのか!? 武田家に屈伏はありえぬ! そのような事になるぐらいなら、死ぬる方がマシよ! お主はそれでも武士(もののふ)か!? この武田家の面汚しめが!」

 「御家の為に、いつでも死ぬる覚悟はできて御座る。それが本当に御家の為になるなら、で御座る。しかし、犬死には御免蒙(ごめんこうむ)ります。勿論、我等家臣一同、御屋形様の御命令あらば、織田家に勝つ為にあらゆる手段、あらゆる犠牲を払ってでも、戦い抜く所存。しかしで御座る、その上で刀折れ、万策尽きた折には勝頼殿には決断して頂かねばなりませぬ。なにより家臣達の為に、汚名を蒙ろうとも、辛酸を舐めようとも、その試練の道をっ…!」

 「いい加減にせよ! そんなに命が惜しいか! この臆病者めが!」

 「勝頼殿の申すは滅びの美学で御座る。確かに華々しく、美しい死に様ではありまするが、武田家二十代、五百余年の歴史、これは絶対に滅ぼしてはならぬ物であると肝に銘じて下さいませ。武田家は勝頼殿の為だけにある道具にはござらん。皆が拠り所とする、大切な家に御座る」

 「五月蠅いわ! 黙れ、黙れ、黙れぃ!! もはや我慢ならん! そこになおれぃ!」

 長々と続く信君の諫言。しかし勝頼にとっては臆病者・敗北主義者が自己を正当化する為の言い訳にしか聞こえなかったのである。その何時までも続く、そして勝頼にとっては女々しいとしか感じないその言葉に、とうとう勝頼は怒り心頭に達したのだ。
 堪忍袋の緒が切れた勝頼は刀を抜き放ち、足音も荒く信君の元へ走り寄ろうとする。
 それを見ていた高坂昌信や近従達がすぐに勝頼を止めにかかった。勝頼の身体を抑え、必死に宥める。

 「御屋形様、落ち付いて下さいませ!」

 「信君殿は武田家の為を思って、このような事を言うておるので御座いまする!」

 「誠、忠節の臣! どうか寛大な御心でもって、御許し下さいませ!」

 「ええい、放さぬか! この敗北主義者めは、たたっ斬らねば気が済まぬわ! ええい放せ、放せ!」

 数人掛かりで抑え込まれる勝頼。信君はそのような勝頼の前で、何も言葉を発さずに静かに平伏している。その信君の様子を見ながら、高坂昌信は思わず内心で舌打ちした。

 「(してやられた! 完全にしてやられた! ものの見事に、家中の根底に渦巻く不安、織田への恐怖心を捉え、抗戦論を、御屋形様の考えを封殺された! しかも耳に優しい正論で…、敢えて戦わない道を皆に示す事で…、御屋形様と正反対の道を示す事で…、家中の流れを自らに引き寄せておるわ! これで信君殿は今日、この瞬間にできたであろう、穏健派派閥の長。これではもはや信君殿は斬れぬ! 斬れば、此度の御屋形様のこの醜態と合わせて、武田家は崩れる! 真っ二つに割れおるわ!)」

 その昌信の内心での嘆きの声の通り、武田家の国論の割れは、どうしようも無い所までこようとしていた。
 あの最強と歌われた武田家が、昔は武田信玄の元に一致団結していた、あの戦国最強の軍が、今は見る影も無く傾き、崩れようとしていたのである。
 それは『貧すれば鈍する』とでも言おうか、何から何までが悪い方向に進もうとしていた。信玄がいた頃は一枚岩の如くに団結していた彼らが、いまや誰も彼もが自らの利の為に動き始めようとしているのだ。

 その切欠は勿論、この穴山信君の動きである。
 しかし一概にこの信君だけを責める事はできないだろう。彼はけして間違った事を言っている訳では無い。かと言って勝頼の強硬論が間違っている訳でも無い。それは性格の違いでしかないし、どちらが正しいか、間違っているかなどは、結局は結果云々による結果論でしか無いからだ。
 双方共、自らの考えの元、一番良いと思う方法で武田家という家の為に働こうとしているにすぎない。

 その中で、信君の考えとは御家第一。家の存続の為になら、最終的には降伏も已む無し。武士の矜持も誇りも、命あっての物種。一時の感情のままで御家を滅ぼしては、それこそ何も残らない。それどころか汚名のみを残し、それを回復する事もできない。しかし、生きてさえいれば何とでもなる。生きてこそ、汚名返上・名誉挽回もなるという物である。
 それが信君の考えであるのだ。
 逆に勝頼は武士としての体面・名誉を最重要視し、生き様をこそ最優先させる。長い歴史を誇る名門武田家が成り上がり者の織田家に降伏するなど、絶対に有り得ないし、どこか他家に屈伏する事も有り得ない。そのような状態になるぐらいであれば、家中揃って華々しく討ち死にした方がマシだと思っている。
 それが勝頼の考えであるのだ。

 先程も言ったようにどちらが正しい、間違っている等の問題では無い。その評価は、全ての事が終わった後の、さらに後世の歴史研究家などが下す勝手な判断である。
 信君とて、武田家を滅ぼしたくてこのような事をしている訳では無い。織田に調略などもされていよう筈も無い。むしろ逆、自分なりに武田家の為にできる事を精一杯やっているのだ。その上で、自身の権勢の事も少し上乗せして当主勝頼に反発しているのである。
 勝頼の滅びの美学の為だけに家を滅ぼされては堪らない! 命を無駄に使われるのは我慢ならない! 唯それだけである。
 そして、それらの情勢を全て踏まえた上で、信君は勝頼には武田家当主の器は無い、と思っていた。
 だからこそ、自分が何とかしなくては、自分が武田家を救うのだ、そう思って行動しているのである。
 それらの思い、思惑、願い、希望、様々な物が絡まり合い、武田家の未来はさらに混沌とした闇の中に飲み込まれようとしていた。






 だがそのような情勢の中にあっても、武田家はけして全ての牙を無くしてしまった訳ではない。

 「(昌幸、この上はお前の働きに全てがかかっておる…。頼むぞ、昌幸!)」

 高坂昌信は勝頼の腕を押さえながら、今はこの場にいない真田昌幸の姿を脳裏に思い浮かべ、そして語りかける。彼はとある謀略の為、この軍議には参加していなかった。
 このやる事為す事、全てが裏目裏目になってしまうような逆風の中にある武田家にとって、今一番必要なのは時間である。一年でも二年でも良い。織田に対抗する為に少しでも準備の時間が必要なのだ。
 その為に動いているのが、今は此の場にいない真田昌幸なのである。





 それから暫くして、その昌信の願いが天に通じたのか、待ちに待っていた報せ、小さな小さな反撃の狼煙がとある場所において起こった。


















 <尾張の国 小牧山>


 天正3年(1575年)春、そのとある晴れた長閑な陽気の一日。信長は三河の国境に程近い小牧山という山において、鷹狩りをおこなっていた。

 「それっ、行けぃ!」

 各地への織田家の侵攻が順調に進んでいる情勢を受け、偶には息抜きにと、信長は趣味である鷹狩りを楽しむ為にここへと来ていたのである。
 信長の声と共に、今まで信長の腕にとまっていた鷹が勢いよく獲物へと飛び掛かっていく。その弾丸の如き勢いの鷹は、勢子に追いたてられ飛び出してきた兎を、見事仕留める。

 「御見事でございます! いやはや、鷹狩りは暫くぶりにございまするが、腕の方は全く鈍(なま)ってはおりませぬな!」

 「たわけ、衰えてたまる物か」

 傍らにいた織田家重臣、森可成が早速その戦果を称える。それに信長も笑みを浮かべ楽しげに返した。
 信長にとっては暫くぶりの、しかも各地への侵攻が順調に進んでいる為に、何も心配事の無い、伸び伸びとした楽しい鷹狩りである。日頃の溜まった欝憤を全て解消してしまおうと、いつも以上に楽し気に馬を駆けさせ、次々と獲物を狩って行く。
 日頃の凄惨な戦乱の日々を暫し忘れ、まるで童に戻ったかの如く、精一杯に楽しむ。

 本当に楽しい一時である。








 そう、ある男がとある急報を携え、走り込んで来るまでは……。













 「い、一大事! 一大事で御座いまする!!」

 酷く慌てた様子で、伊賀衆頭領の百地丹波が信長の元へと駆け寄って来た。その尋常ならざる様子に、その場にいた者達全てが、何事か? と、百地丹波の言葉に耳を傾ける。

 「尾張・三河国境いにて軍の動きを確認! 旗印は三つ葉葵! 正確な数は不明! なれど、かなりの勢いで北上して来ております! 的はおそらくここ、小牧山!」



 その瞬間、皆はあまりの衝撃に、固まった…。
 もたらされたその報告とは、すなわち…、徳川家、挙兵……?









 <次話へ続く>






 現在の織田家の所領

尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石 淡路3万石
若狭8万石 越前63万石 丹波25万石 丹後12万石 但馬10万石 因幡11万石 播磨48万石 備前26万石 美作21万石 伯耆16万石 阿波17万石 讃岐15万石
飛騨6万石 加賀35万石

 総石高:698万石
 (但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)





[8512] 第33話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/05/23 15:07







 <第33話>



 百地丹波により突然もたらされたその極めつけの凶報は、その場にいる全ての者に途轍もない衝撃を与えた。

 「た、たわけぃ! 家康殿が我等を裏切るものかっ!? 何かの間違いであろうが!?」

 「詳細は判りませぬが、三つ葉葵の旗印の軍勢が動いておるのは事実にございまする! 急ぎお引きを!」

 森可成(もりよしなり)の、まるで嘘だと言ってくれとも言わんばかりのその怒号の如き叫び声に、息も絶え絶えな百地丹波が答える。
 その報せに信長のみならず、その場にいた者達全てが多いに戸惑った。
 徳川家が何故? 今のこの情勢で、それはありえぬ…。皆がその疑問を頭に思い浮かべ、そして狼狽する。
 しかし、逸早く浮つく心を抑え、皆に指示を飛ばしたのは、既に精神年齢は老境の域に達しようという信長であった。信長は皆を落ち着ける為に咆哮する。

 「落ち付けぃ! 事の詮議は後にせよ! すぐにこの場より退くぞ! 重き荷はこの場に全て打ち捨てよ! 我等これより岐阜まで一気に駆け戻る! 急ぎ支度すべし!」

 いきなりの徳川勢襲来の報に狼狽していた者達は、その自らの大将である信長のその姿、その毅然とした対応に落ち着きを取り戻す。
 すぐに指示された事を実行に移す為に駆けだして行く。一気に騒がしくなった陣中において、信長はさらなる指示を下す。

 「可成! 丹波!」

 「はっ!」
 「ははっ!」

 信長のその呼び声に、すぐ傍らに居た二人がすぐさま答える。

 「可成、主(ぬし)に殿(しんがり)を命ずる! お主の命、ワシが貰い受けた!」

 「…ッ!? ははぁっ! 武人としての、これ以上無き名誉也! しかと受け賜りました! 必ずや成し遂げて御覧に見せまする!」

 「嫡男である可隆(よしたか)は我等と同道させよ! 共に岐阜まで退かせようぞ!」

 「否! 御気遣いは無用に願いまする! 拙者にはまだ長可(ながよし)、蘭丸を始め、多くの男子がおりまする! 可隆は森家嫡男として、共にこの場にて戦い抜く所存!」

 「……で、あるか! 見事也! なれば後は頼んだぞ、可成!」

 「なんの、これしき。信長様はただ我等に死せよ、と御命じ下さいませ。それだけで死ぬるには十分で御座る。信長様。我等、武運拙く死した時は、長可を筆頭とした我が森家の事、よろしく御願い申し上げまする」

 「委細承知。後の事は全て任せよ」

 信長は森可成に時間稼ぎの為の殿(しんがり)の任を命ずる。その途轍も無い危険な任務に、なんら恐れる事無く可成は嬉嬉として応じた。
 信長の、嫡男可隆は共に逃がそうとの心遣いも謝辞し、すでに戦い死ぬ覚悟を固めている。
 しかし、危急の折、それに元は鷹狩りの為にこの場に来ているのだ。皆、それほど重武装という程では無い。
 狩衣姿がほとんどであり、具足を近従に持たせているのは位の高い者ぐらいである。勢子達も比較的軽装だ。完全に武装しているのは護衛役の者達ぐらいである。
 そのような状況下でありながらも、可成はすぐに防戦の為の準備をさせ始めた。森家の者達を中心に、勢子達の中から戦える者達を選び出し、退く者達の不要になる武器具足などを受け取り武装させた総数五百名。それが戦力の全てだ。
 それ以外の者は信長に同道させて撤退させる。

 「続いて丹波! お主は急ぎ別路で退き、情報収集を行え! 此度の顛末、状況! 一体何が起こったのか!? 家康が我等に歯向うとは如何しても思えん! 情報を掻き集めよ!」

 「畏まりました!」

 次に信長は百地丹波に、今回の事の詳細を調べるように命令を下す。現状で言えば、未だ織田信長は今回の件について、何一つ正確な情報を持っていない。
 誰が攻めて来ているのか?  その数は? 何故攻めたのか、その理由は? 徳川家康の真意は? 本当に徳川家が織田家との同盟を破棄し、攻めてきたのか? もしかしたら他に黒幕が存在するのであろうか?
 それらの情報を最優先で掻き集めねばならないのだ。
 そしてその必要な指示を全て出し終えた信長は、行動を開始する。

 「者共、続けい! 後ろは一切、気にするな! 必ず殿(しんがり)の森勢が敵勢を喰い止める故、唯々一心不乱に岐阜城まで駆け抜けよ! 余に続けぃ!」

 「応おう!」

 信長はその指示を下すやいなや、自ら先頭にたって物凄い勢いで馬を走らせ始めた。それに馬廻り衆や小姓達が必死で付いて行く。
 そして後に残る可成は殿(しんがり)の任を全うする為に、今出来る限りの精一杯の準備を整える為に、同じく行動を開始する。

 「よし、これより出来得る限りの準備を致すぞ! まずは物見を出せぃ! 向かってくる軍勢の情報を少しでも多く掻き集めるのじゃ! それ以外の者は道路の封鎖、陣地造りを行う! この道路を通しさえしなければ、彼奴らはけして信長様の後は追えぬ! さすれば我等の任務は達成である! すぐさまかかれぃ!」

 その指示に従い、皆がすぐさま行動を開始した。
 遺言めいた言葉を信長に残した可成ではあるが、むざむざと死ぬつもりは無い。危険極まりない今回の任務ではあるが、生存を完全に諦めた訳でも無い。死は覚悟しているが、あわよくば勝利して生きて帰るつもりでもあるのだ。その為に出来得る限りの手は打っておくのである。

 そして森勢は道路を封鎖する形で、尾張・小牧山に布陣し、向かって来る、恐らく徳川勢であろう正体不明の軍勢を待ち構える準備を整えた。
















 <尾張・三河国境 徳川軍>


 「お待ち下さいませ! 若、どうか、どうかお考え直しを!」

 立派な甲冑を着こみ、軍の先頭を走る若武者に対して、追い縋るように馬を走らせる壮年の男、平岩親吉(ひらいわちかよし)が懇願するかの如く、何度も何度も声を掛ける。
 しかしそれに対する若武者、徳川信康の対応は極めて素っ気無い物であった。信康はその平岩親吉の言葉を切って捨てる。

 「五月蠅いわっ! 付いて来たくなくば、すぐさま踵(きびす)を返し、取って返せぃ! 戦えぬ臆病者は不要じゃ!」

 「否! 若の傅役(もりやく)として、若が道を誤れば、それを正すのが拙者の勤め! 退けませぬ! 止めませぬ! 何卒、このような暴挙は思い留まって下さいませ!」

 「何が暴挙じゃ! これは非道を繰り返す信長への、言わば正義の鉄鎚! 即ち義戦也! その正義を理解出来ぬ者は不要である! 我に付いてこれる者だけが付いて来れば良し!」





 事の起こりは今日の朝の事であった。三河各地の徳川家の諸将は、岡崎城城主である徳川家嫡男・徳川信康の命令によって岡崎城に集められたのである。
 集められた者達は皆、不安そうに、あるいは訝(いぶか)しむ様子で、口々に小声で話し合いながら信康の事を待つ。
 その場はなんとも物騒な雰囲気に包まれていた。それもその筈、彼らは一様に具足甲冑に身を包んだ軍装だったのである。
 彼らは本日早朝、信康からの突然の命令を受け取った。曰く、危急の件にて、軍装にて急ぎ登城せよ、とである。命令を受けた彼らは取る物も取り敢えず、命令された通りに急ぎ登城。そして集まった、同様に完全武装した同僚達とこうして口々に話し合っていたのだ。
 『一体何事か?』
 それが彼らの共通した思いである。
 徳川家にとって、ここ三河の国は、言うなれば後方の地だ。甲斐・信濃・駿河と国境を面している最前線の地である遠江の国と違い、織田家と同盟を結んでいる現状においてここ三河の国はほぼ安全地帯。それ故、このような命令が出されたのは、あの武田信玄の西上作戦以来、初めての事である。
 もしかして誰ぞが攻めて来おったのか? いや、遠江で何か変事でも? もしかしたら浜松に居られる家康様の御身に何事かが? と、皆が想像できる範囲内でああでも無い、こうでも無いと、浮足立ち不安げにそれぞれが近くに居る者達と話しあう。
 彼らに今できる事と言えば、唯々呼び出した張本人である信康を待つ事のみである。

 そしてそれからしばらくして、ようやく信康が皆の前に姿を表した。
 その信康はというと、皆の前に立つと開口一番、とんでもない事を言い放ったのである。すなわち 「正義の為、大儀の為、不義を為す織田信長を討つ」 と。

 その言葉に集まった者達は唯々、唖然・呆然となる。
 一体全体、この若殿は何を言い出すのだ? と皆その意味を理解できない。

 当然ながら織田家は徳川家の同盟国である。それは当主である徳川家康が決めた事であるし、また現在の徳川家を取り巻く情勢を考えればそれは至極当然と言える。
 勿論、徳川家家中に織田家に対する不満が無い訳では無い。隣国の織田家が行う革新的な商業政策に、徳川家領内から少なくない数の商人・領民が流出し、打撃を受けているし、信康の言う織田の非道と言われるように比叡山や一向衆達に対する殲滅作戦にも反発はある。年々強大化する織田家に対する恐怖もあるのだ。
 だがしかしである、織田家には常日頃から様々な援助を受けているし、武田家に攻められた時はとんでもない数の援軍を送ってくれるだけに留まらず、長篠の決戦ではあの武田家を完膚なきまでに叩き潰したのだ。徳川家にとっては、唯一の、そして心強い同盟国である。多少の不満はあれど、逆にその強さを信頼もしている。
 その織田家に対して一体何故?
 皆は混乱した頭で必死に考えるが信康の言っている事がまったく欠片も理解できない。

 「若、何故そのような事を言われるのですか? あまりに突然の事すぎて、まったく得心がいきませぬ。織田様は我等の同盟国。何故その織田様と敵対せねばならぬのですか?」

 皆の疑問を代弁するかの如く、信康の傅役である平岩親吉が信康に問い掛けた。
 しかしその問い掛けに、信康では無くその側にいた信康側近衆であり、奥三河一帯の代官職を務める大賀弥四郎(おおがやしろう)という利発そうな、しかし何処か他人を軽んじるような雰囲気を持った男が答えを返す。

 「これは徳川家嫡男、徳川信康様が素晴らしき義心よりの御決断で御座る! これに異を唱えるは、武士の心根を持たぬ卑怯者だと言ってもよろしいでしょうぞ!」

 「黙れぃ! 貴様如きには聞いておらぬわ! 引っ込んでおれ! 若! 勿論今おっしゃっている事は家康様の認可を受けた上での事で御座いましょうな!?」

 親吉は戯けた事を話す弥四郎の言葉を一喝し切って捨てると、信康ににじり寄って事の次第を問い詰める。
 自身の発言を歯牙にも掛けられなかった、一種無視されたような形となった弥四郎と言えば、その屈辱に顔を歪めていた。
 だが親吉にはそんな事を気にしていられる余裕すら無かった。いくら信康が徳川家嫡男とは言え、こんな重大事を唯一人で決められる訳も無い。下手をすれば家を滅ぼす結果にもなりかねない重大事だ。それなのに大賀弥四郎の言葉から推察するに、如何も信康の独断という雰囲気である。
 徳川家の重臣としても、また信康の傅役としても、到底看過できぬ事態だ。
 しかし、何かの冗談だと言ってくれ、と願う親吉の内心の思いと反し、信康から返ってきた返答は親吉をさらに打ちのめす物であったのである。

 「親吉、此度のこの決断は私の独断である。父上などの指示などは必要ない。信長という逆心者に媚び諂う(こびへつらう)卑怯者になどついてはいけぬわ…。あきらかに間違った方向に進もうとする家の行く先を正すも嫡男としての勤め也。徳川家の正義を天下に示す為に私は立たざるを得ぬ、やらざるを得ぬのだ」

 「馬鹿な!? なんたる言い様ですかっ!?」
 
 その信康の言葉に親吉は愕然とした。元より親子間の仲は良くなかった家康と信康であったが、ここまでに悪化していたのか? と改めて驚愕させられた親吉。
 勿論、ここまで誰にも知られずに両者の仲が悪化したのには訳がある。裏でそうなるように糸を引いていた者達がいるのだ。それがこの大賀弥四郎、そして家康の正室・築山御前、そしてさらに大賀弥四郎に入れ知恵をし、裏から操った武田家の稀代の謀将、真田昌幸だったのである。

 全ては一年前に真田昌幸が大賀弥四郎に接触した事から始まった。
 この大賀弥四郎という人物、確かに優秀ではあったのだが、それ以上に我が強く、さらには自身の権勢・権力欲が極めて強く、自信が重く用いられない今の現状に大きな不満を持っていたのである。ちなみに客観的に見ればこの思いはただの逆恨みであり、むしろ奥三河一帯の代官職を任される程に厚く用いられたのであるが、それでも自身の身の丈を弁えずさらに多くを望む人物だったのだ。
 その鬱屈とした大賀弥四郎の気持ちに付け込み、昌幸が扇動したのである。あなたはこのような所で終わるような器では無い、と。
 弥四郎はその昌幸の扇動にすぐさま飛びついた。そして二人で今回の謀略を組み上げたのである。

 二人が目を付けたのは、この徳川家に元からあった、とある一つの亀裂であった。すなわち当主家康とその正室・築山御前、嫡男信康との不仲という名の亀裂である。
 まず家康と正室・築山御前との関係であるが、これは完全に冷え切っており、すでに完全に断絶していると言っても良い状態だ。
 元は家康が今川家の人質時代に押しつけられた嫁であり、また築山御前の方も所詮人質、と家康を軽く見ていたのである。当然の結果として両者の仲が上手く行く訳は無く、徳川家が今川家から独立した後には完全に別居状態となり、永禄13年(1570年)になるまでは岡崎城に入る事すら許されず、その郊外において事実上の幽閉状態にあったのだ。
 彼女は今川義元を討ち取った織田信長を憎悪しており、また今川家から離反した今の徳川家も憎々しく思っていたのである。さらに常日頃からその思いを誰に憚る事も無く公言するような女性だったのだ。

 徳川家にとってのさらなる悲劇、誤算はそのような人物達と嫡男信康が同じ所にいた事であったのである。
 信康は父親である家康とはほとんどの時間を別に過ごし、逆に常に廻りに居たのは母親である築山御前であり、三河の諸将だったのだ。
 これについては家康が後に嘆いている。曰く、健やかに育ってくれさえすればよいと思い自由に任せておったら、親を親とも思わぬ風に育ってしまった、と。

 常に傍らで母親が洩らす父・家康への不満・憎しみ、織田信長への憎悪。それらを聞きながら育った信康は反織田家、父親嫌いへと育ってしまったのである。
 ここらへんの事情は武田家の嫡男、武田義信と似ているかもしれない。夫婦間の不仲は子供へと伝達してしまう物なのだ。

 そしてこの部分を真田昌幸に付け込まれたのである。
 大賀弥四郎を抱き込み、築山御前に対しては減敬という唐人医師を送り込み、その者に築山御前を誑し込ませ、結果意のままに操る事に成功した昌幸は信康へと狙いを絞った。
 そして彼らは揃って信康に日々呟く。織田家の非道を。徳川家にとって今川家がどんなに大事な存在かを。さらには今の家康の方針に対する非難を。
 勿論これらの主張は極めて一方的で公正な視点を欠いた物ではあったのだが、繰り返し聞かされるそれらの情報を信康は信じたのである。否、洗脳されたと言い換えてもよいであろう。

 とにかくも、信康は若い内にありがちな潔癖的な正義感で持って、「自分が何とかしなければ」 と思いこんだ。その結果がこの騒動だったのである。
 徳川家にとっては、最悪にさらに最悪な事が重なった悲劇と言うべきか、はたまた真田昌幸の知略恐るべし、とでも言うべきであろうか……。少なくとも、信康を築山御前から引き離せていれば、若しくはどこかの段階で家康が信康の事を気にかけ、気付く事が出来ていたら、このような事にはならなかったであろうに……。

 だが、どちらにしろもう遅く、後の祭りである。悲劇の幕は上がってしまったのだ。







 信康は皆の前で声を張り上げる

 「織田信長の数々の所業、目に余る物、これ有り! 足利将軍家を蔑ろにし、あろう事かその領地を横領せし事、不届き千万也! また他国に侵略を繰り返し私利私欲の為に戦を繰り返し、幾多もの罪無き民を殺生し、尚且つ比叡山を焼き打ちにし、一向衆を殺戮しておる! これらの罪、断じて許せる物にあらず! 故に私は大義の為、正義の為、ここに立つ事を宣言する物也!」

 信康は自身の考える正義の主張を伝えようと大声で叫ぶ。しかし残念ながらそれに共感や賛同という反応は返ってこなかった。
 突然そんな事を聞かされた者達の反応と言えば一様にただ一つ、困惑のみである。

 この場に集まった三河の諸将達にとって、信康の主張はどうでも良い事の塊であった。
 まず足利将軍家の事であるが、それこそそんな事は徳川家にとってはなんの関係の無い話しである。彼らの中では室町幕府などとうの昔に滅んでいるのだ。
 次に他国への侵略云々であるが、それもこの戦国の世にあっては、いまさらな話しである。信康の主張は建前としては考える事はあっても、実際問題としては何の意味も無い考えなのだ。
 それを馬鹿正直に堂々と主張されても…。
 それが彼らの共通する思いであった。信康様は狂うたか? そうもすら思ってしまう。

 これまで織田家とは長年の同盟の契りあり、様々な交流や多大な援助も受けており、織田家に対する感情はけして悪くないのだ。特に史実であったような度重なる援軍要請が無い事や、逆に武田家侵攻の折、援軍を出してもらって助けられた事もあり、その好意という感情は一入(ひとしお)である。
 それ故、皆はただ沈黙するばかりであり、誰もその信康の言葉に応えようという者はいない。

 「どうした、皆の衆! 信康様のこの義挙に賛同できぬと言われるか!? 誰も彼もが武士としての魂すら持ち合わせておらぬのか!?」

 そのような場の雰囲気を見、大賀弥四郎が煽るように声を張り上げる。
 しかしそれは結果として逆に反感を受けるだけであった。

 「馬鹿を申すな! そのような事でみだりに兵を動かせるか!? 国政を何と心得るか!」

 「家康様の御命令であらばまだしも、これは明らかな越権行為で御座る! いくら嫡男の身分とは申せ、言うて良い事と、悪い事が御座いまするぞ!」

 関を切ったかの如く、皆が口々に反論を叫ぶ。
 だがそれらの状況にも信康は動じず、静かに話し始める。

 「ついて来たくない者は付いて来ずともよい。私の考えに賛同する者だけで良し。真に義心をその心の内に宿す者達のみで良いのだ。私の決意は何ら変わらぬ。此の後に及んでの問答は無用也。真の武士(もののふ)のみ我に続けぃ!」

 信康はそう言い放つ。そしてその言葉が終わると同時に、その言をそのまま行動に移し、部屋を出て行こうとする。
 それに慌てたのが平岩親吉を始めとした諸将だ。
 なんたる事を、この暴挙を止めねば御家が滅ぶ! その思いを胸に、信康を止める為に慌てて動き出す。

 「なんたる軽挙妄動か!? お待ち為されぃ! なりませぬ、なりませぬぞ! 徳川の御家を潰す御積もりか!?」

 「信康様を止めよ! この際、力尽くでも良い! 責任はこの石川数正が取る! 何としてでも止めよ! 取り押さえよ!」

 信康の後をまず平岩親吉が、そのすぐ後に石川数正が、必死に追いすがる。それに近従達や、呆然とどうすれば良いのか、と唯戸惑うばかりであった諸将達も続く。
 だが部屋を出てすぐの所で、それを邪魔する者達が現れた。信康とそれを追う者達の間に突然、十人程の具足姿の武士達が割って入ったのである。

 「無礼者共が! 何の真似じゃ! 下がれぃ!」

 「信康様の義挙に賛同する者だけが、この場より離れ信康様の後に続かれよ。それ以外の方はこの場に留まって頂く」

 親吉がその邪魔をする者達を厳しく一喝するが、彼らはそれにまったく動じずに序に刀を抜き放ち、信康が通り過ぎた後の通路を塞いでしまう。
 その相手の様子に、平岩親吉や石川数正の後に続いて来た者達も同じく刀を抜き放つ。

 「見た事の無い顔ばかりじゃ! 貴様ら、三河の者では無いな! さらに臭(くさ)い、独特の気配が匂うわっ! 武士では無し! もしや忍か!」

 抜いた刀を相手に向けつつ、親吉が鋭く誰何(すいか)する。しかし、それでも彼らは唯々無言のまま、微動だにしない。
 その様子を見た石川数正は同じく刀を相手に向けながら、親吉に話しかけた。

 「拙いな…。親吉、若の近従・側近として付けられた者達の中に忍びの者はおったか?」

 「おらぬ筈じゃ。もしおれば傅役のワシにも知らされておる筈。それに我が家の忍びは全て家康様の直卒也。さらに活動しているのは対武田・対北条家相手の筈。後背地の三河におる筈も無し…」

 「ならば他国より侵入した者共という可能性が高いな…。武田か、北条か、はたまた足利義昭か…。どちらにしても、あの愚か者めが! 敵国の謀略にまんまと引っ掛かったという訳か!」

 二人は僅かな情報源から、すぐさま事実を推測した。
 城中のこの奥深くの、軍議が行われる大広間まで入ってくる事が許されるのは、ほんの一握りの身分の者達だけである。それ故、護衛といった比較的身分の低い者と言えど、大抵の者とは顔見知りなのだ。なのに二人には、いや、それ以外の者達にとっても、今目の前で道を塞ぐ者達の顔を見た事が無い。
 さらには二人はこの者達より、何か不穏な雰囲気を感じた。それは理論的なものでは無い、唯の感である。
 しかしその推測は、驚くべき事に正鵠を得ていたのだ。実際、彼らは真田昌幸配下の武田家の忍びだったである。それを見抜いた二人は、流石は歴戦の将、とでも言うべき観察眼だ。
 この道を塞いだ忍び達の任務は、信康が織田軍に襲い掛かるまでの時間稼ぎの為の捨石。その任を彼らは愚直に果たす。

 「ここで時間を使ってはおられん! 親吉、この場はワシに任せよ! お主はその間に、この囲いを抜けだして若殿を追え! そして何としてでもその愚行を止めるのじゃ!」

 「おう、すまん! 承知した!」

 「徳川家の命運が掛かっておる! なんとしてでも諌めるのじゃ! 頼んだぞ!」

 数正はその言葉と共に、真っ先に忍び達の中に斬り込んで行く。数正配下の者達もすぐにそれに倣った。
 精強を誇る三河武士のつわもの達は何合も打ち合いながら、力尽くで彼らをぐいぐいと壁際まで押し込む。
 そして平岩親吉がそのできた隙間を走り抜けて行く。なんとかそれを邪魔しようと、忍び達が動こうとするが、目の前にいる者に抑え込まれてそれを果たせない。

 風のようにその場を走り抜け、突破した親吉はそのまま門を出るや、すぐさま自身の部隊を纏めて、信康の後を追い始める。
 しかし両者の間はこの一連のごたごたの間にも、かなり開いてしまっていた。
 足止めに加えて、元々準備していた信康の部隊と、不意の出撃となった平岩親吉の部隊、その差は歴然である。
 結局、親吉が信康に追い付いたのは、本当にぎりぎり、小牧山手前の所であった。

 「止まれー! 誰も動くで無いぞ! けして織田軍と戦火を交えてはならぬ!」

 追い付いた所で、信康の翻意を促そうとした親吉であったが、信康は何を言っても聞かない。
 そしてとうとう徳川軍は、小牧山に布陣する、森可成率いる織田殿(しんがり)部隊と対峙してしまったのだ。彼らもこの徳川軍に気付いて、すでに臨戦態勢である。
 その危機的状況に、なんとしてでもこの両軍を止めようと、親吉が一人声を張り上げていた。
 しかし信康はそんな親吉の努力も無視し、自身の考えのみを全てとし、愚行の引き金を引いてしまう。

 「親吉様! 若殿の部隊が動きだしました! 織田軍に真っ直ぐ向かっております!」

 「何と!? くそう! 軽挙妄動、ここに極まれり! 御家を滅ぼす気か!? 止めるぞ! 我が部隊を若の部隊と織田軍のと間に捩じ込んで両者の間の壁とし、その動きを止める! すぐに動けぃ!」

 「ははっ!」

 親吉の努力を嘲笑うかの如く、親吉が信康の元を少し離れたその隙に、信康が自身の部隊に突撃を命じたのだ。
 それを許さじ、とすぐに親吉の部隊が大きく前に出る。




 だがここでも親吉の努力を嘲笑うかの如く、両者の間に小さな齟齬が生まれ、それが悲劇へと繋がった。

 「鉄砲隊、放てー!」

 猛烈な勢いで信康軍と織田軍の間に割って入ろうとした親吉の部隊に、織田軍から鉄砲の斉射が加えられたのである。
 織田軍はその猛烈な勢いで突進してくる親吉の部隊を、自身への攻撃である、と誤認してしまったのだ。織田軍から見れば、目の前にいた徳川軍が二手に分かれて猛烈な勢いで突撃してきたように映ったのである。
 突如加えられたその織田軍の攻撃に、親吉の部隊は浮足立ってしまう。運悪く、その弾を受けてしまった者達がばたばたと薙ぎ倒された。
 その隙に、その傍らを信康の部隊がすり抜けて行く。

 そして次の瞬間には親吉の願い空しく、信康軍と織田軍の衝突、歴史に残る大事件、『小牧の戦い』の幕が、上がってしまったのである。







 <次話へ続く>












[8512] 第34話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/07/11 17:21






 <第34話>




 普段は静かな小牧の山中に、この日、様々な轟音が響き渡った。
 鉄と鉄とがぶつかり合う耳障りな甲高い音、鉄砲発射の大轟音、それぞれの将兵達の上げる怒号、そして悲鳴、断末魔の叫び……。
 信長の尾張統一より幾年月、戦乱とは無縁の状態であった平和な尾張の国において、それがほんの端であるとはいえ、久方ぶりに訪れた戦塵であった。

 「やってしもうた……。止められなかった……。家康様、申し訳御座いませぬ。織田と戦火を交える仕儀と成り申した……。無念……、無念で御座る!」

 自軍を率いて信康軍と織田軍の間に割り込み、その両者の激突を何とか回避させようとした平岩親吉であったが、それは無しえなかった。
 先頭を走っていた親吉は、その平岩隊の行動を自身への攻撃だと誤認した織田軍より加えられた鉄砲の一斉射を受けて被弾したのである。その結果、落馬してしまい、地に伏した親吉はただ呆然と脇を抜けて織田軍に突進して行く信康軍を、そしてそれを迎撃する織田軍の激突する様を眺めるしなかったのだ。
 幸い、親吉に当たった弾は急所を外れ大事には至っておらず、またすぐに廻りにいた近従達に助けられたので、命に支障は無い。だが、その間に最も恐れていた両軍の激突という事態を招いてしまったのだ。

 親吉は目の前に広がる、その逃れようのない残酷な事実を前にして、必死に考える。
 戦いの規模だけで言えば、極々小さい物だ。織田軍が森可成率いる殿(しんがり)軍、五百余名。対する徳川軍が、三河緒将の助力が得られなかった為、信康の率いる部隊が約千に、平岩親吉の率いる四百の、合わせて千四百名程度。織田・徳川両家の規模から言えば、ほんの些細な小競り合い程度の合戦である。
 しかしである、この場合はその規模など関係は無いのだ。
 問題なのは同盟国である織田家に対して徳川家の軍が無法にも突然襲いかかった、という事実である。そこに兵の大小などは関係は無い。
 これは徳川家としては致命的といっても良い程の国政的・外交的な大失点なのである。

 そのような状況下にあって、自分は如何すべきか!?
 親吉は混乱した自軍を纏め上げながら、ゆっくりとその混沌とした戦場より離れつつ後ろに下がり、必死に自分の取るべき行動を考える。

 親吉がこの場にて取り得る方策は、まずおおまかに考えて二つ。すなわち、信康に味方するか、織田に味方するか、だ。
 この場合、静観・日和見はありえない。
 信康に味方するという事は、つまるところ問題の先送りである。この場を何とかして切り抜け、その後、家康の指示を受けて徳川家の方針を決めるのだ。家康が織田と争うは已む無し、と言えばそれに従うし、織田との非戦を願うのであれば、自分や徳川家重臣達が揃って信長に土下座し、腹を切ってでも、その同盟の継続の為に力を尽くす。
 但し一時とはいえ、織田と干戈(かんか)を交えるは、織田家当主・織田信長の心象を著しく損ない、主君・家康が織田との同盟継続を望もうとも、それが通らなくなる危険性があるのだ。
 なれば、ここまでの事をすでにやってしまったのである。信康に同調し、この機に一気に織田信長の首を狙うのも一つの手だ。
 ただ、それは望み薄ではある。あまりにも今回の信康の起こした挙兵計画が杜撰(ずさん)すぎるからだ。
 もし本当に信長の首級を狙うのであらば、信長に逃げる暇すら与えてはならないのである。
 例えば親吉が今回の計画を立てるというのであらば、信長を如何にかして三河にまで招き寄せ、そして徳川軍全軍でもって襲い掛かるぐらいはしているであろう。否、それぐらい準備万端、整えてやらないとけして成し得ぬ事であろう。
 それなのに、此度の信康の行動と言えば、先程言ったようにあまりに衝動的、且つ杜撰・稚拙すぎる。
 さらに言えば、信長は名(な)うての逃げ上手。すでにこの地にて織田軍が守備態勢を整えている時点で、もはや計画は破綻したと見て良いであろう。

 ならば、信康を見捨てて織田に味方するか?
 しかし次に浮かんできたその考えを親吉はすぐさま否定する。確かにこの案は一番、安全・確実な策だ。今回のこの騒動の全ての責任を信康に着せ(実際その通りなのではあるが……)さらにその信康を徳川家自身の手で討つ事により、今回の失点を最小限に食い止める事ができる。
 一切の情を捨て、国の事だけを考えて行動するのであらば、そうすべきなのだ。

 だが、平岩親吉の心はすぐさまその考えを否定し、拒絶してしまう。
 親吉は信康の傅役である。長い間、それこそ信康がほんの小さい事から面倒を見てきた事による情もあるし、仲が良いとは言えないとはいえ信康が死ぬような事あれば、その時の主君・家康の嘆きは如何(いか)ばかりや。
 それにそのような行いは自身の誇りが許さない。自分は誇り高き精強なる三河武士。どのような状況であれ、仲間を見捨てるような真似が、どうして出来ようか……。
 そう親吉は考えるのだ。

 「……くっ、しょうがあるまい! 全軍、若の後詰めに入るぞ! 支度致せぃ!」

 ここに来て親吉は決断を下す。とりあえずは信康の味方をし、この場を切り抜ける、という決断である。
 もはや深く考えるだけ無駄なのだ。この後に及んでは、親吉一人の力でなせる事はほとんどないのである。できる事があるのだとすれば、それは何とかしてこの騒動の決着を、この状態をできるだけ波風立たせずに軟着陸させる為に努力する事、この場の織田軍を出来るだけ損害を出さずに(この場合は織田・徳川双方共の意味である)撃退し、さらにできるだけ早く信康を説得し兵を引かせる事なのだ。
 親吉は御多分に洩れず、屈強頑固な三河武士その物のような人物である。そして極めて勇敢な人物でもあるのだ。そんな彼が、攻めるか退くか五分五分の状況にて決断を迫られるのであらば、親吉は迷わず攻撃を選ぶ。それこそが三河武士の誇りであり、魂その物であるからだ。

 「織田軍を威圧せい! 但し、深追い不要! 無駄な人死には後の禍根を残すのみ也!」

 今まで最初に銃撃を受け、一旦下がってからは戦闘に加わっていなかった平岩親吉の部隊が、親吉の号令を受け、一斉に攻勢に転ずる。

 「織田軍は軽装! 恐るる事は無し! じっくり仕寄り、押し崩せい! 威圧し、追い散らせい!」

 平岩親吉隊の突入により、戦況は一気に徳川方有利に傾く。織田方の将・森可成は自軍の2倍の数を誇る信康の部隊の攻撃を見事に支えていたのだが、そこにさらに自部隊と同等の数を誇る親吉隊の突入を受けたのであるから、もう堪らない。
 さらに親吉隊は森可成隊の弱点も付いて来たのだ。親吉は森可成隊が急造・寄せ集め故の軽武装であると見てとると、弓矢を多用した攻撃を指示。
 普段であらば、完全武装した軍装であらば、なんなく耐えられたであろうその攻撃に、その降り注ぐ矢の雨に、森隊は少なくない出血を強いられる。本来なら当然、準備されているような竹束などの防御手段が十分に無い為だ。
 その降り注ぐ矢の雨が勇敢に戦う森隊の兵士達に次々と突き刺さる。数多くの激戦を戦い抜いてきた猛将・森可成率いる部隊はそれぐらいで崩れるようなやわな部隊では無いが、しかし彼らを怯(ひる)ませるには十分であった。
 平岩親吉隊はその隙に生じて森隊陣列に浸透して行く。また戦術も無く猛進していた信康隊もそれに乗じて、さらに攻勢を強める。

 「もう一息か……。じゃが粘りよるわ……。何故、崩れぬ……。不味いな、このままでは……」

 そして先端が開かれてよりすでに半刻と少し。戦況は徳川方が有利だ。しかしである、親吉はこの状況に焦りを覚え始める。
 元々、親吉はこの場で織田軍を全滅させてやろう、敵将・森可成をなんとしても討ち取ってやろう、などとは考えていない。元より望んだ戦いでは無いし、なし崩し的に参加した戦いである。劣勢な織田軍を威圧し、圧力を掛け続ければすぐにその陣列を崩せ、追い散らせる、と考えていたのだ。それが如何であろうか? 戦況は圧倒的に徳川方が優勢であるのに、いまだに崩れる気配すらない。

 さらにいえば森可成を討ち取ってしまうのも、後の事を考えれば不味いのだ。
 森可成といえば、信長が幼少のころより仕える重臣中の重臣。今のこの状態ですら不味いのに、さらにこの可成まで討ち取ってしまっては、織田との関係は修復不可能な所までいってしまう可能性すらあろう。
 だからこそ親吉は織田軍の潰走をこそ望み、徹底的に面で押し込んでいたのである。
 さらに言えば、織田方後方には兵を送っていない。包囲はせずに織田方の将兵達が逃げようと思えばいつでも逃げれる道を与えているのだ。
 織田方は逃げようと思えばいつでも逃げる事ができる。そしてそうなれば、親吉は追い討ちはしないつもりである。ただ追い散らせば良し、とだけ考えていたのだ。
 しかしこの状況に至っても、織田方にはその気配すら無い。全将兵が必死に前だけを見て、死に物狂いで抵抗を続けている。一人として逃げだす者はいない。
 状況は親吉の予想・希望に反し、もはや血みどろの消耗戦の様相を呈していた。信康の考え無しの猛攻も、さらにそれに拍車を掛けている。両軍の兵士達が死闘を繰り広げ、まさに阿鼻叫喚。ただ死屍累々とした状況が眼前に広がるのみだ。

 それもその筈、徳川方は気付いていなかったが、森隊各将兵達はいわば死兵。殿(しんがり)を任された彼らはすでに命を捨てていたのである。
 さらに信長の鷹狩りの護衛の為にこの場に来ていた彼らは、幸か不幸か少数精鋭という状態だったのだ。だからこそこの森隊将兵達は、たかが五百、されど五百…、だったのである。
 その死兵たる彼らが死に物狂いで抵抗するこの戦場・織田軍の陣列はまさに鉄壁。いくら攻めようとも死ぬまで戦い続ける彼らに損害のみが積み重なっていく。
 森隊の状況は、後少しで突き崩せそうな様相であるというのに、それが攻め切れない。決定的なところで持ち堪えられてしまう。その状況が早、四半刻ほど続いていたのだ。
 これでもしこの地にいるのが織田軍有数の猛将・森可成の率いる部隊でなければ、もしくは逆にもっと数が多く、戦闘の途中に逃げ出すような練度の低い兵が少しでも混ざっていれば、今の状況とは違った戦況になっていたかもしれない。
 しかし仮定の話しをしても仕方が無い。状況は斯(か)くの如しである。
 遅ればせながら、ようやく親吉もそれに気づいた。

 「甘う見すぎていたな…。彼奴ら、すでに死兵か…。見事な物よ。じゃが、呑気な事も言うてられんわ…」

 「親吉様、如何致しましょうや? このままでは埒(らち)が明きませぬ。味方の損害も増えるばかりにござる。なんらかの手を打ちませぬと…」

 織田軍のその様子に気付いた親吉がおもわず弱音を洩らす。それに合わせるように側近の一人が親吉に新たなる指示を求めてくる。
 だが親吉はその問いにすぐ答えることができなかった。
 先程も説明したように、後の事を考えれば、やりすぎても不味いのである。すでにこの織田軍を攻めているという状態ですら最悪だと言うのに、さらに名の有る将を討ち取ってしまえば、徳川家の未来はどうなる事か。
 だが状況は、といえば完全な手詰まりだ。織田方は最後の一兵まで戦い抜くかの如くの勢いである。
 死兵には当たるべからず。それが戦場での定石(じょうせき)だ。それなのに、今現在、真正面からがっぷり四つになって戦ってしまっている。

 本来であればここまで苦戦はしていない戦だ。数でいえば徳川方は織田の三倍。装備も比較的軽装な準備の完全に出来ていない織田方に対し、完全武装の徳川軍。
 それなのに未だに徳川軍が勝利を収めていない理由は先の織田軍の奮戦振りに加えてもう一つ。徳川方、さらに言うと平岩親吉が自ら戦術において大きな枷を嵌めて戦っているからだ。
 先程も行ったように、この戦はただ勝てばよいという戦では無い。親吉は後の事も考え、極力、波風の立たない状態で収めなければならないのだ。
 それらの思案が、様々な制約となって親吉の手足を雁字搦めに縛ってしまう。
 信康は端から考え無しに猛攻を加えているが、これも有効打とはなっていない。経験豊富な森可成の指揮に、上手く受け流されているような状態である。
 別に信康が無能であるという訳では無い。ただ未だ年若い信康には圧倒的に経験が足りていないのだ。普通であれば、例えば経験豊富な親吉のような百戦錬磨の将が補佐に付いて助けるのが常道である。がしかしだ、此度の戦は元は暴走した信康のその動きにずるずると引きずられ、泥縄式に参加してしまった事により、そこまでの算段をする余裕すら無かった。
 その為、信康を補佐し助ける者はおらず、信康は唯一人で部隊の士気を採る。別段、信康の指揮が不味い訳では無い。ただ可成の老練な采配には敵わない、ただそれだけである。
 今も突撃する信康隊の将兵達を織田軍は柔らかく受け止め、受け流し、信康隊が攻勢限界に達したところで押し返す、といったような動きが何度も繰り返されているのだ。

 戦況が手詰まりとなった事を悟った親吉は必死に打開策を考える。だが、何も浮かんでは来なかった。否、手はあるのだが、後の事を考えると躊躇ってしまうのである。













 <織田軍 森可成隊>


 「稚拙な……。あれが家康の倅か? まだ若いな。戦場(いくさば)の妙という物が判っておらぬわ。じゃがまあ、あの歳では仕方が無いかもしれんがのう……」

 可成は自身の目前で繰り広げられている激戦を眺めながらポツリと静かに呟く。
 彼の視線の先には、最前線に程近い地点で必死に自軍を奮い立たせながら采配を振るう信康の姿があった。

 「あの歳で、単身あれだけの采配が振るえれば、上出来と言えるのでは? これで経験を積み上げていけば、一廉(ひとかど)の武将になりましょうぞ」

 「まあ、それもそうじゃの。じゃがそれ故に芽は早い内に摘み取っておくべきか…」

 可成の呟きを聞きつけた側近の一人が答える。その側近の答えに可成は深く考え込む。
 それはこれから採り得るべき戦術の事であった。幸い、現状は拮抗した状態であり膠着(こうちゃく)している。だが逆に言えばそれがいつまでも続くという物でも無いのだ。
 確かに今は防げている。だが兵力差は三倍。その意味は大きい。戦場において数は絶対なのだ。
 今はまだいい。だが最前線で戦う兵士達の体力は早晩(そうばん)尽きてくる。織田軍・徳川軍双方が同じ状態で戦ったとして、同じ時点で体力が尽きたとしても、単純に考えて徳川軍には後二回、交代させるための兵がいるのだ。
 そうなれば支え切るのは不可能である。あくまでも時間制限付きの膠着状態。今の現状はそう判断すべき物であろう。
 なれば、まだ元気の残っている内に何か手を打つべきでは無いか?
 それが可成の脳裏に浮かび、そしてずっと考え続けている事だったのである。

 そもそも可成は今回の戦いが始まってから、何処か拍子抜けした部分を感じていた。
 可成は徳川軍が攻めて来ると聞き殿を任されてからは、万とは言わずとも、七、八千程度の軍勢と戦わなければいけない、と覚悟を決めていたのである。それがいざ蓋を開けてみれば、敵勢僅か千五百。逆に何か罠ではないのか? と咄嗟に考えた程に最初に考えていた数字からかけ離れた数なのだ。
 さらにその内の五百、旗印から見れば平岩親吉隊はやる気があるのか? と疑う程の消極的な戦い方である。
 それ故、敵勢実質約一千。だからこそなんとか支え切れている状態ではあるのだが……。

 ここに来て可成にはある欲が出て来ていた。
 想像だにしていなかったこの戦局の優勢さを受けて、一旦は確実な死を覚悟しておきながらも、生き残れるかもという可能性を前にして、さらに大きな功名(こうみょう)という欲が出てきたのである。そしてその功名はすぐ目前にあるのだ。そう、徳川信康という抜群の功名である。
 そして可成はここにきて覚悟を決め決断を下す。

 「中陣、本営の残った兵達を纏めよ。攻撃に転ずるぞ。敵将・信康を討ち取る」

 「よろしいのですか? 我等の任は殿(しんがり)で御座る。このまま支え続けておるだけでも、それだけで功名でございまするが?」

 「すでに戦が始まってより一刻以上。すでに殿としての任は完遂しておる。それに殿だとは言っても、守備だけしていなければならぬ道理はあるまい。討ち取れるようであらば、討ち取ってしまっても良かろうて。それにこのままではシリ貧じゃ」

 「それもそうで御座いますね……。委細承知。準備を始めます」

 可成は守備から攻撃に転ずる事を決断、すぐさま側近近従に対して攻撃準備の命令を下す。その命令を受けて、皆が一斉に動き出した。可成自身も兜をかぶり直し、手槍装備を手に馬に跨る。
 この決断は生き残るだけではなく、さらに勝利しようという為の決断だ。
 すでに可成は殿の任は達成している、と判断している。
 元々、この地は国境とはいえ尾張の国、織田の領地なのだ。これが敵地の奥深くと言うのであるならばまだしも、本貫である尾張であるならば、妨害無く全力で逃げる事ができれば一刻で安全圏にまで到達可能である。
 だからこそ信康としては、もし本当に信長を討つつもりであれば逃げる隙すら与えてはならなかったのだ。
 元より眼と鼻の先。一日あれば数千。二、三日もあれば万を超す軍勢が三河国境に展開できるだろう。

 「者共、見よ! いまだ乳飲み子の如き小童(こわっぱ)が、身の程も弁えずに我等に襲い掛かってきおったわ! まるで子犬が虎を犯すが如き哉! 笑止! 残らず踏み潰すべし!」

 「応おおうぅう!!」

 後顧に憂いの無くなった可成は、攻勢に転ずる為に怒号を発しながら采配を振るう。
 それは一種の賭けである。今は一種、膠着状態であるとはいえ、味方の数は敵の三分の一。だが猛将である可成は守勢によるジリ貧よりも攻勢による勝利を望んだのだ。
 可成のその怒号に、織田軍殿隊の将兵達が同じく怒号で答え、一気呵成に突撃を始める。

 だが可成は重大な事を一つ見落としていた。
 彼がやる気があるのかと疑うほど消極的、と評した平岩親吉隊の思惑を。
 経験の浅い信康隊では無く、経験豊富な、信康隊の半分しかいない彼らこそが、この地にいる徳川軍の本隊・主力のような物である、と。












 <徳川軍 平岩親吉隊>


 「て、敵軍、突如一斉に攻勢に転じました! 信康様の部隊が攻め立てられておりまする!」

 「何じゃと!? 馬鹿な!?」

 その報告を受けた平岩親吉は驚き、戸惑う。
 あの数、あの劣性の中で反撃に転じるとは、何たる豪胆。流石は猛将・森可成よ、と称賛の念が湧き起こってくる。
 だがあまり悠長な事も言ってられない。あの猛将・可成が反撃に転じたとなれば、経験の浅い信康では対応しきれない可能性がある。

 「若は無事か!? 状況は如何なっておるか!?」

 「信康様は前線に程近い地点で采配を取っておられました故、真っ先に狙われておるとの事! ですが側近衆達の奮戦により無事にはございまする! されど『未だ死地に有り! 至急援軍を乞う!』 との事!」

 「畜生、読み誤ったわ! 余裕ぶって攻めた結果がこれか! 何が威圧し押し崩せか! ワシはとんだ無能者よ!」

 親吉の心中に、称賛の後に湧き上がってきたのは後悔の念であった。
 よかれと思い取った行動の結果がこのざまである。ずるずると戦闘が長引き、とうとう信康の身にまで危険が及んだのだ。その結果に親吉は打ちのめされる。
 だが皮肉な事に、逆にこの出来事が親吉の中の迷いを打ち砕いたとも言えた。

 「五介! 百を率いて突出した織田軍に対して横槍を入れよ! 首は拾うな! ただ遮二無二、突き進め! 功名を考えるでないぞ! ここがお前の死に場所じゃ! 生きて帰るな!」

 「おう!!」

 「残る者共は我に続けい! 若を救出するぞ! 全軍突撃!!」

 「応おおぉぉう!!」

 今までの方針を全て放棄し、一斉に平岩親吉隊は攻勢に転ずる。それは今までの攻撃とはまったく違う、苛烈な物であった。皆が一丸となって、まるで火の出るような勢いで織田軍に襲い掛かったのである。
 親吉は部隊を二つに分け、百を分派しそれを五介という勇敢な配下に託すとそれに織田軍への突撃を命じた。その命令は冷徹な物、つまりは捨石・時間稼ぎの為の決死の突撃である。
 そして親吉率いる本隊四百は信康救出の為に動き出したのだ。

 ここに来てようやく徳川軍はその本領を発揮し出す。
 五介の部隊はすぐさま織田軍の横腹に突入し、その勇猛振りを存分に発揮し、織田軍の反撃を受けて危機に陥った信康の事を守る信康側近衆達も脅威的な粘り・献身をみせて文字通り我が身と引き換えに信康を後方に逃がし続けているのだ。
 これぞまさに三河武士の面目躍如。甲斐や越後の強兵達と比べても、勝るとも劣らぬと称される彼らの実力である。
 それに焦ったのが、いけると思い攻勢に転じた森可成であった。
 彼は急激に悪化する状況に焦る。

 「可成様! 敵・平岩親吉隊が突っ込んで参りまする。横槍を入れられました!」

 「馬鹿な!? 何故今になって突然動き出すのじゃ!?」

 可成達、織田軍将兵達にとって、それはまさに豹変、と言ってもよい程の突然の変わりようであった。
 いままで然したる動きの無かった彼らが、まるでやる気のなさげであった彼らが何故? それらの思いが可成の心中を埋め尽くす。
 だがしかし、一つだけしっかりと判っていた事もある。すなわち、自分は一世一代の賭けに負けたのだ、と。
 戦況は刻一刻と悪化して行く。

 「よ、可隆(よしたか)様、御討ち死に! 後備え、崩れます!」

 そして、しばらくして極めつけの凶報がもたらされた。嫡男可隆の討ち死にである。
 可隆は横槍を入れてきた徳川方の将・五介の突進を止めるために奮戦し、それを討ち取るのと引き換えに、壮烈な討ち死にを遂げたのだ。

 「そうか……。可隆……。親不孝者め…、ワシよりも先に逝きおったか……」

 自分の拙い、そして不用意であった采配によって我が子・可隆を死に追いやってしまった。そう可成は考えてしまう。
 可成にとってはタイミングが最悪な物であったのである。あの親吉の逡巡(しゅんじゅん)が、迷いが、結果的に可成を誘(おび)き寄せる為の最高のエサになってしまったのだ。
 現に可成もそう考えたのである。すなわち最初のあのやる気の無いような攻めは、自分を誘き寄せるための罠であったか……、と。
 そして自身が攻撃に転じた後の平岩親吉隊の働きはまさに見事の一言。その猛烈な攻めで、森隊の可隆を討ちとり、後備えが崩壊してしまっている。

 「もはやこれまでか! 我が命運はこれにて尽きたわ!!」

 可成は覚悟を決めた。賭けに出て、そして負けた以上、もはや打つ手は無い。残った選択肢はただ前に進むだけである。

 「全軍、遮二無二に進めい! もはや後背に我等が退き口は無し! 進めい! 我等が生きようと思わば、もはや前に進むしか無し! 信康を討ちとれい! それで我らが勝利ぞ!」

 危機に陥った森隊の将兵達を奮い立たせる為に声を張り上げる。
 しかし、自身で叫んだその内容であったが、可成自身はもはやそれすら叶わぬ、と悟ってもいた。ありもしない勝算を掲げ、なんとか士気を保とうという苦肉の策でしか無い。
 信康の首級を求め猛進する可成。その攻撃より必死に逃げる信康。可成の進撃をなんとか止めようと死に物狂いで抵抗する信康の側近旗本衆達。絶好の機に可成隊に横槍を入れ、森隊を刻一刻と喰い破って行く平岩親吉隊。
 例えるなら生死をかけた棒倒しである。信康が死ぬのが先か、可成が死ぬのが先か……。森隊は壊滅する前に信康を討ち取れるか、逆に徳川方は信康が討ち取られる前に森隊を殲滅できるか……。その競争なのだ。

 「敵勢の勢いは弱まったぞ! 好機也! 押し戻せぃ!」

 そして限界は、決着は訪れる。猛進する森隊の前に築かれる平岩隊の幾重もの防衛線。刻一刻と強くなる周囲よりの圧迫。
 森隊が限界に達し、遂にその動きを止めてしまう。所謂、攻勢終末点という物だ。ある地点において、まるで力尽きたかの如くその勢いを完全に喪失してしまうのである。それはまるで空に向かって投げたボールが力を無くして地面に落ちて来るが如く。
 そして一度力尽き、動きを止めてしまった部隊は二度と動けない。その為のエネルギーがもう無いのだ。

 「どうしたー! 行けぃ! 攻めよ! この場に留まるは唯々、無駄死にするだけぞ! 動けぃ!」

 可成が必死に鼓舞するが、その部隊はもはや動けない。否、正確に言えば、個々には動いているのだが、すでに軍としての集団の動きが出来ていないのである。
 これまで幾重にも築かれる信康隊の、平岩隊の防衛線を幾つも踏み潰し、突破してきた森隊であるが、もはや為す術無し。各部隊は散り散りとなり、まるで溶けていくかの如く、個々に殲滅されて行く。

 「これまでかッ! 信長様、申し訳御座いません! 可成はここまでで御座る!」

 その状況を、潰走へと至った部隊の状況を受け、可成は最期の覚悟を決めた。
 せめて最後の意地を見せんと、この場に来るまでにボロボロになった満身創痍の身体に鞭打ち、返り血に塗れる顔を鬼の如く顰め、最後の突撃に移る。

 「おおおおぉぉおぉお!! 遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 織田家家老・森可成、此れに在り! 同盟の信義も守れぬ卑怯千万な鼠賊(そぞく)共に、真の武士(もののふ)の死に様、存分に見せてくれようぞ! 参れぃ!!」

 可成のその裂帛の叫びに、その怒涛の如き迫力に、そして彼の振るう稲妻の如きその槍に、気圧(けお)された徳川軍将兵が怯む。
 その可成の誇り高き姿・威容に敵味方を問わずして見惚れる。だがしかしである、その行動は同時に無謀でもあった。

 「功名首じゃ! 兜首じゃ! 取り囲めぃ!」

 「槍衾で止めよ!」

 「あの首はワシの物じゃい! 邪魔するな!」

 功名に逸(はや)る雑兵達が可成に群がってくる。その者達を可成は蹴散らして行く。次々に馬蹄にかけ、手槍で貫き、吹き飛ばして行く。
 しかしそれも長くは持たない。四方八方から向かってくる兵達に次第に抗しきれなくなる。

 「えい! とう! えい! とう!」

 呼吸を合わせ、声を合わせ、一斉に付き入れられる穂先・槍衾に絡め取られ、まず乗っていた馬がやられた。槍をその身に幾本も突き入れられた馬は激痛に身悶え、そして後足で仁王立ちとなり、乗っていた可成を振り落とす。
 地面に身体を強く打ちつけた可成であったが、すぐさま立ち上がり、再度駆け出そうとする。
 そうしないとすぐにやられてしまうからだ。
 だが、その可成に終わりを告げる物は、思いもよらぬ所から齎される。
 少し離れた所から聞こえたバババンという、鉄砲発射の大音声。そしてその一瞬後に可成の眉間にボツリと一つの穴が穿(うが)たれた。頭を後に、大きく弾かれたように動かした可成は、そのまま2・3歩前に歩いたかと思うと、そのまま崩れ落ちるように倒れこむ。
 その瞳にはもはや何も映してはいなかった。完全な即死である。そしてその可成に、よってたかって雑兵達が群がり、その首級を掻き毟った。

 「敵将、森可成! 討ち取ったー!」

 信長が家督を相続する前からその傍らに侍り、補佐し続けてきた忠臣、織田家家老・森可成ここに討ち死にす。享年五十二歳。驚異的な程の奮戦の後の討ち死にであった。















 「勝つには勝ったが…、とうとうやってしもうたか…」

 戦勝に沸き立つ信康隊の将兵達の、その喜ぶ姿を、平岩親吉はどこか呆然としたように、ただ凄惨な戦場の跡を眺めつつ呟く。
 数多の両軍兵士達の骸(むくろ)が累々と、その無残な姿を晒す。
 この無意味な戦いでの両軍の損害は甚大であった。
 織田方・森可成隊は大将すら討ち取られ、文字通りに全滅。生きて無事に逃げかえった者など、本当に数える程である。
 対する徳川方も、織田軍の猛攻に押され、全体の三割という、勝った側からしても異様と言える程の損害を蒙った。信康隊の雑兵達はその欝憤を晴らすかの如く、まだ息のある織田軍の将兵達にトドメを刺したり、またその場に放棄されていた、信長が鷹狩りの為に持って来ていた高価な道具や調度品などの略奪に走っている。

 無論、家康が居ればこのような無秩序な状態には陥っていなかったであろう。
 信康にはまだこれだけの部隊を統率するだけの実績も実力も経験も不足しているのだ。そして理由がもう一つ……。

 「しっかりなさいませ! これからが正念場でございまするぞ!」

 「う、うむ。ああ……」

 力無く地面に蹲(うずくま)っていた信康に、親吉は発奮を促すように声を掛ける。
 しかし、声を掛けられた信康はと言えば、ただ力の籠らない生返事を返すばかりであった。

 信康にとっては、思いもしなかった森可成隊の猛攻に、その精神が限界に達していたのである。
 但し、これは信康が臆病であるとか、そういう意味では無い。
 元々無理があったのだ。
 信康はと言えば、元より年若く、初陣は済ませているとはいえ、実戦経験はまだ無いに等しい数である。さらにそれらの戦は、初陣で万が一があってはならぬと、勝てる戦、簡単な戦を家康が吟味した上で参加した、ある意味勝ちが約束された戦ばかりであった。
 当然の事ながら、命の危機に面した事などこれまでになかったのである。
 しかし、この戦場において、信康は初めてその命の危機に瀕した。思いもしなかった森可成の反撃を受け、馬廻り衆達に守られながらの、命からがらの逃走劇を強いられたのである。
 その身体の芯から凍りつく如くの途轍の無い恐怖と絶望感。自身の周りで、自分を守りながら、今まで親しく話していた者達が次々と死んでいくその無念さと怒り。
 それらは信康の初めて受ける戦地の手荒い洗礼であり、そしてもっとも人間としての根本に根差す物、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、正義も悪も大儀も不義も無い、もっと剥き出しのただの本能その物のぶつかり合いであった。

 今の信康には、そのまだ年若い未成熟な心に叩きつけられた暴風の如き殺意・害意に傷ついた心を癒すのには、ただただ時間が必要である。
 一ヶ月や一年とは言わない。元より根が勇猛果敢な信康であらば、一晩二晩もあれば、ある程度の踏ん切りを付けてまた今までと同様に戦えるだろう。
 だがしかし、この場ではもはや無理なのだ。これ以上無理をするのは不可能である。始めての命の危機を覚えての退き戦は、それほどの衝撃を信康の心に叩きつけていたのだ。

 しかしである、状況がまだ信康が休むのを許さない。

 「若! ここまでやってしまったのです! もはや退くという決断は無くなり申した! すぐさま追い討ちを掛け、信長公の御首(みしるし)を上げるべし!」

 親吉は開戦前の方針を百八十度、転換し、さらなる進軍を信康に求めた。
 織田家重臣、森可成を討ち取った事により、もはや状況は冗談では済まなっている。そしてこの状況において、徳川家の最善は、もはや可能性は零に近くとも信長を討ちとりその首級を挙げる事である、と判断していたのだ。こんな所で、たかだか重臣の一人を討ち取った所で止まる訳にはいかないのである。

 「……いや、もはやこれで十分じゃ。これで我等が義は、信長の不義に対する徳川の義の旗印はこの地に打ち立てられた。もはやこれ以上の犠牲は無意味であろう。引き上げじゃ……」

 「な、なんですと!? このような中途半端な所で退くつもりで御座いまするか!?」

 信康に、もはや織田軍と戦う闘志は残っていなかった。
 彼は現状これだけの成果で、十分にその目的を果たした、と判断したのである。元より彼に何としても信長を討ち取ってやろうぞ、とは思ってはいないのだ。ただ自らの信ずる正義の為のその行動を天下に示せればそれで良かったのである。だからこそ、すでに心を折られた彼は撤退を望んだ……、否、それしか考えられなくなっていた……。
 しかし逆にそれに納得がいかないのが親吉である。彼は信康に向かってさらに吼えた。

 「もはや情勢はそのような段階にあらず! 我等はただ前に突き進むのみ!」

 「やめよ…。もはやこれ以上の戦いは無意味。いらぬ犠牲を出すだけじゃ…。信長は重臣を捨石にして無様(ぶざま)に逃げ出した…。天下の笑い物になろう…。それで十分じゃ」

 「笑い物!? なにを愚かな事を! それにいらぬ犠牲!? ならばお聞きしますが、今この場で無残な屍をさらすこの両軍の将兵達の死には意味があったとでも言うのですか!? 意味を作るのはこれからに御座る! 信長公の首級を挙げて初めて彼らの犠牲に意味が生まれるのです! もはや我等の命はその為にのみ存在するのです! すぐさま進軍を再開すべし! 信長の首級をとるか、それが果たせぬであらば、我等打ち揃って討ち死にすべし!」

 親吉にとって、この後に及んで唯々考えるのは、何としても守ろうと考えていた信康の事でも、勿論自身の事でも無い。ただ徳川家の行く末だけであった。もはやここまでの大事を起こしてしまった自分達は信長の首級を上げられなければ生きて帰るべきでは無い。否、生き残ってはならないのだ。
 この後、当主・家康が和・戦、どちらの方針を取るか判らない。しかしどちらにしろ責任をとる者が必要であり、そしてそれを当主・家康に被せてはならないのである。

 「彼らは信長の不義を正す為に、正義の為に戦い、そしてその犠牲となったのだ。誠の義の烈士也。それを責める者がいようものか……」

 「まだそのような世迷言を申されるか! 何が不義か、何が正義か、何が義か! そんな物は戦場においては何の意味もござらん! ワシは若の教育を根本から誤り申した! ワシは武骨者ゆえ、侍の心意気や武芸を重きとして、御教授して参りましたが、国政のなんたるかを、人の上に立つ者、当主たる者にとって何が一番大切な事なのかを御教えする事が、御理解して頂く事が出来ていなかったようでござるな!」

 「人には命を掛けても何かを為さねばならぬ事がある。何故それが判らぬ? この織田に対する正義の鉄鎚は天下万民の望む大儀也。その為に死ぬるは彼らも本望であろうぞ……」

 信康がそう言った瞬間であった。親吉の身体が動き、渾身の力を込めた拳を信康の頬に叩き込んだのである。
 殴られた信康は、全く予期していなかった事もあり、大きく吹き飛ばされた。力無く地面に横たわり、何が起こったのか判らない様子でただただ、呆然としている。

 「親吉様! 一体な……に……、を……?」

 その親吉の、突然の暴挙とも言える行動に吃驚仰天した信康の側近旗本衆達が親吉を止めようと詰め寄ろうとするが、直ぐにその動きを止めた。
 それもその筈、親吉はその双眸から滂沱の如き涙を流しながら、声も発さず泣いていたのである。その親吉の予想だにしていなかった様子に、皆は動きを止めた。

 「彼らも本望? 若、それを苦しみながら、大切な者達をこの世に残して死んでいった、彼らの死に顔を見ながらでも同じ事を言えまするか? それを嘆き悲しむ彼らの遺族の前でも堂々と言えまするか? 無論、我等徳川家の臣、当然ながら御命令あらばいつでも死ぬる覚悟はできて御座る。しかしで御座る、それは徳川家の御為に、故郷を守る為に、我等の子々孫々の為になればこそで御座る……。けして、こんな、こんな若の言う正義を為す為ではござらん!」

 「ち……、親吉……」

 力一杯に殴られ、熱を持ち酷く痛む頬を抑えながら信康は力無く親吉を見上げる。
 彼にとってはこんな親吉の様子はまったく想定していなかった。自分は正義を成しているのだから、当然皆から褒め立てられる物だと思っていたのに、その全く逆の反応である。
 こんな筈では無かった……。それが信康の一番の思いであった。
 それと同時に現状に対する怒りが心中より湧きおこってくる。何故自分がこんなにも責められなければならない、何故自分の思いを判ってくれぬのだ…。
 そんな不平不満が後から後から湧いて出て来る。信康のその若い心が、今のその現状を認められない、認める事ができない。だからこそさらに意固地になってしまう。
 何故誰も自分や母上の事を理解してくれない、何故正しい自分が責められなければならない、あの信長に媚び諂う父などより自分の方が国の為に有意義な仕事ができるのだ。母上も大賀弥四郎達側近衆達もそう言ってくれているのだ。だから自分は間違ってなどいない。間違っているのは、正義を理解できない愚かな俗物は親吉の方なのだ……。

 今の信康は思考方向が一方向で凝り固まっている。若い時分にありがちな潔癖気味な正義感と、自らの母親の教育のその二つが合わさり、自らの考えを疑わない、疑う事ができないような状態になっていた。
 勿論、自分の考えに自信を持つのは良い事ではある。だがしかしだ、それが客観的に顧みれない状態にまでなるのは極めて危険なのだ。過剰な自信、すなわち盲信は道を誤らせる元となる。

 「もはや問答は無用で御座る。それがしはこれにて別行動を取り申す。これにて今生の別れで御座る。しからば御免!」

 親吉にはそのような信康の心中が、その不満げな表情やその仕草などから、ある程度の予想がついてはいた。しかし彼には時間が無かったのである。本当ならそのような信康に、教え諭してやりたい、傅役として、またその成長を見てきた年長者として、最後まで導いてやりたいとも思う。だが誰かがこの戦いの決着を付けなければならない。
 むしろこれで良かったのかもしれない……。
 そう親吉は考える。少なくともこのまだ年若い信康を死なせずにすむのであるから……。

 親吉は信康に一方的な別れの言葉を告げると、すぐさま自陣に帰り、とある用意を始める。
 それはこの戦いの責任をとる為の準備であった。

 「森殿の御首(みしるし)は?」

 「はっ、可成殿、可隆殿、共にこちらに」

 「この書状を家康様と石川数正殿にお渡しせよ。但し、これは此度の顛末等を記した重要な書状であるので、必ず御本人にお渡しするのだ。誰であろうと、それ以外の者に渡すでないぞ」

 「はっ、承知仕りました!」

 矢継ぎ早に、次々と指示を飛ばしていく親吉。それと同時に自隊の準備・再編成を同時に進めていく。
 それとは逆に撤退の準備を進めていたのは信康隊である。

 「親吉様、信康様よりの御連絡です。先に退かせて頂く、との由」

 「ああ、かまわん。御先に御退き候へ(おさきにおひきそうらえ)、と返しておけぃ」

 この局面にきて、平岩親吉隊は独自の判断により、共に撤退する物と思いこんでいる信康を欺き、信康隊と分かれて、単独行動に移った。
 その方針通りに信康隊の撤退を見届けた後、おもむろに穂先をその逆に向ける。

 「ああ、今日はこんなにも空が高く、清々しい日であったのか……。あまりにも忙しく、色々な事がありすぎて、そんな事にも気付けなんだか……。美しく、なんとも爽快な心持ちよ……。なあ、皆よ……、死ぬるには良い日ではないか……」

 再度、隊列を整え、親吉の命令を待っていた自軍の将兵達に、おもむろに空を見上げながら親吉は語りかけた。その親吉の言葉を受け、皆が様々に空を見上げる。

 「ええ、本当に気持ちの良い日和で御座いまするな……」

 「誠に……」

 皆が笑いながらその言葉に同意を返す。その彼らの表情は何かを覚悟したかの如く、なんとも穏やかで、そして涼やかな物であった。

 「皆の者、すまぬな……。ワシの力が至らぬばかりに、このような所業に至ってしもうた……。その責を負い、また後に残る御屋形様を始めとした徳川家の皆々の為に、我、此れより死出の旅路へと参らん……。だが、皆はそれに付き合う道理は無し。罪には問わぬし、不名誉にもならぬ。速やかに陣を離れ、故郷(くに)に帰るべし」

 「何を申されまするか? たったお一人でお行きになさる御積もりか? 一人占めは浅ましいですぞ。我等もその死出の旅路、意地でも御一緒させてもらいまする」

 「然り。我等、誇り高き平岩隊。どこまでも殿と御一緒に」

 親吉は脳裏に浮かべた、これよりの決死の道程を考え、逃がせる者は逃がそうと、部隊からの離脱を命令。しかしそれに応じる者は唯の一人もいなかった。
 全員が僅かな微笑を顔に浮かべ、そして真っ直ぐに親吉を見詰めながら同行の意を示す。

 「くっ……。皆の物、すまぬ。誠、有り難き哉……。ならば最期まで共に参らん!」

 その皆の様子に、その皆の誇り高き涼しげな顔に、親吉は感動を覚えつつ、自身最後となる命令を下す。乗馬に跨り、右手に抜き身の刀を持ち、それを前方に振り下ろしながら渾身の思いを込めた命令を発した。

 「此れより我等、岐阜城に向け進軍する! その間、繰り返し大声で歓呼すべし! 『我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!』 さあ、繰り返せい! これが我等が死出への念仏代わり也!」

 「応! 我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!」

 親吉の命令を受け、皆が口々に大声でその言葉を繰り返す。そしてその内容とは今回の乱についての責任の全てを、汚名の全てを一心に受けようとの、覚悟の宣言であったのだ。すなわち乱の首謀者は自分であり、また敬愛する当主家康をも罵倒する事により、今回の騒動は徳川家とは何の関係も無いとの事実を天下に示さん、との宣言だったのである。
 勿論、こんな大声を出しながらの行軍では速度も出ないし、すぐに織田軍にその居場所を補足もされよう。
 だが、それこそ親吉の望む所なのだ。すでに時間的に見て、疾うの昔に信長は岐阜城に入っているだろうし、城下町に常に兵を集め、何処の大名よりも常設の兵隊の比率が高い織田家である、すでにかなりの数の軍勢が待ち構えていよう。
 だがそれで良い。それこそが望む事なのだ。
 この混乱下において、逸早く自分が首謀者であると宣言し、そしてさっさと討ち取られる事によって、その責任を混乱が収まらぬ内に自身のみで負い、そして幕をおろさん、との算段なのである。
 その為に、自身の死を最大限に利用できるように、と、先の当主家康と石川数正に送った書状にもその為の算段を書き、徹底的に自分に責任・汚名を負わせる事によってこの苦境を乗り越えるべし、と書き連ねてあったのだ。

 これこそが親吉の、否、誰よりも誇り高き三河武士団の忠節である。
 おそらく汚名を負った平岩の一族は爪弾きにされ、辛酸の未来を歩む事になろう。残された妻子達も詰め腹を切らされるかもしれない。歴史にも汚名のみを刻み、先々の人々からは蔑みと軽蔑の念でもって見られるようになろう。
 だがそれだけで、平岩一族が犠牲になるだけで当主家康を始め、三河の者達の為になるのであらば、比べるまでも無し。

 「我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!」

 誰よりも誇り高く、そして堂々と進軍して行く。








 そして決着の、最期の時は訪れた。
 美濃の国境にさしかかろうという地にて、織田軍の防衛線に行く手を阻まれる。それは美濃各地から急遽終結した五千の織田軍兵士達であった。
 彼らはまんじりともせず静かに、だが自らの主君に対する悪口を連呼しながら進んでくる平岩隊への怒りに燃えながら、戦端が開かれるのを今か今かとまっていたのである。

 「全員、突っ込めぃ!!」

 その隊列に、自軍の十倍にもなるその織田軍に、平岩隊はただ突っ込んで行く。戦術も何も無い、死に行く為だけの彼らにそんな物は必要無し、本当に無為無策の突撃であった。

 「鉄砲隊、放てー!」

 当然ながらそんな彼らは織田軍にとっては絶好の鴨である。圧倒的な鉄砲の火力を平岩隊におみまいし、撃ち竦められ、隊列が崩されたその平岩隊に対して織田軍はすぐさま突撃を開始。赤子の手を捻るかの如く、平岩隊を蹂躙していった。
 そのような中、平岩親吉はただ静かに最期の時を待つ。乗馬を撃ち抜かれ、そして自身の腹部にも銃弾を受けた親吉は事切れた馬の横で、腹の鉄砲傷を両手で押さえながら、両膝を地に付けた状態で、静かに祈りを捧げるような状態で、ただただ空を見上げていたのである。

 「御屋形様……、親吉、此れにて御先に冥土へと参ります。どうか徳川の御家の事、よろしくお願い申し上げます……」

 親吉は戦う事が仕事の武士だ。それ故、死は常に身近にあり、またその事を常に意識もして来た。
 死とはなんであろう? そこに武士らしく意味を残せるであろうか? 名誉ある死を迎えたい。
 常日頃から親吉は様々な事を考え、また名誉を汚すような事を嫌い、誇り高く生きてきたつもりである。
 だがそれ反して、今、汚名を残す死に様を迎えようとしていた。だがそれなのに何故であろうか? とても清々しい気持ちで一杯である。

 「美しいなぁ……。こんなにも奇麗で気持ちいい空を見るのは初めてじゃ……。何故、今日の空はこんなにも美しいのかのぅ……。いつまでも見ていたいわ……」

 もはや彼は戦場にあって戦場にいなかった。とんでもない喧噪を放つ戦場の騒音も、両軍兵士達があげる断末魔や怒号といった叫び声も、その一切がもはや彼の耳には入っていなかったのである。
 ただただ、静かに、祈りを捧げるかの如く、最期の時を待つ。

 そしてその時はそう時を経ずして訪れる。
 抵抗も、逃げもしない親吉に、その周囲を取り囲んだ織田軍兵士達の、幾本もの槍が突き入れられ、その身を貫く。
 それでも親吉は一切の抵抗をする事も無く、ただただその事切れる瞬間まで、静かに空を見上げていた。







 <次話へ続く>












[8512] 第35話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d
Date: 2010/09/27 19:30





 <第35話>




 <美濃の国 岐阜城>


「では判った事を報告致せぃ」

「ははっ!」

 居城・岐阜城の大広間において、上座に座る信長の命令を受け、それに打てば響くか如く、淀みなく竹中半兵衛が答える。その周囲には、今回の小牧山の危急の報を受けて集まった諸将達、各軍団長格は流石に集められなかったが、それ以外の諸将達がずらりと座していた。

「今回の徳川方の乱の首謀者でございまするが、やはり平岩親吉にあらず。諜報により得られた情報によりますと首謀者は徳川家嫡男・徳川信康でございます。これはあの日に信康の命令によって岡崎城に集められた徳川家諸将の内より複数人より同じ証言が得られました事と、実際に小牧の地で戦った森隊の生き残りの者達よりの証言により、ほぼ間違いございませぬ」

「で、あるか」

「また現在徳川家は大混乱に陥っておりまするよしに。徳川家は遠江の国での一切の軍行動を停止し、当主・徳川家康殿は自ら軍勢を率いて反転、岡崎城に入られました。ただそれ以上の動きは一切ございませぬ。おそらくはどうしたら良いか判らず、当家がどう出るかを見守っているのでは? と推察致しまする」

「信康はどうなった?」

「はっ、家康殿の命により、内密にはでございまするが、全ての軍権等を召し上げられた上、蟄居・幽閉されたとの由。但し、その行動に一部の三河信康派の諸将達に不穏の空気有り」

 結局の所、あの平岩親吉の献身的な行動であるが、結果的に言うと無駄な事であった。人の口に戸は立てられぬ。あまりにも信康の行動が大きく派手であった為、また自らの判断で織田家に情報を流す者もおり、事実はすぐに織田家の知る所となったのである。
 その報告の内容に対して、すぐに織田家諸将達より怒りの声が上がった。

「これだけの事をしでかして、また森殿を殺しておきながら詫びにも来ぬとは! あまりにも非礼!」

「然り! 断固攻めるべし! 森殿の弔い合戦じゃ! 大義は我等に有り!」

 滝川一益、佐々成政等々の猛将達が口々に怒りと共に徳川家への報復を進言する。
 今回の不意打ち、そして森可成・可隆の親子を討ち取られた事による織田家中の怒りは相当な物があった。あのような卑怯撃ちを受ければ仕様が無い事とはいえるだろうが、感情にまかせたままの行動であれば、なんら今回の信康の行動と変わりが無い。
 それ故、今回の件に対する緊急の軍議が行われていたのである。

「憤りは至極当然。されど結論を急ぎ過ぎるも、また悪手ならずや?」

「拙者もただ怒りに身を任せての力攻めには反対で御座いまする。いや、無論徳川は許せませんが、此度の仕儀はある意味、好機で御座います。徳川家は強兵揃い。真正面から攻めれば、負けはせぬでしょうが、当家の損害もかなりの数にのぼりましょう。ここは徳川方の此度の大失態を最大限利用し、戦わずして屈伏させるがよろしいかと?」

 ただ、そのような大きな怒りに満ちるこの場においても、冷徹に状況を見ている者達もいた。堀秀政、蒲生氏郷の両将である。
 二人は皆を押し留めるように宥めに廻る。

「そんな弱腰で如何するか! 森隊の敵討ちをせずして、彼らがどうして報われようか!?」

「丁度良き好機なりや! この機会に一気呵成に攻め入り、三河・遠江の国を併呑すべし!」

 当然ながら、それを弱腰と見る者や、これを機会にさらに領土を広げるべきという考えの者からも反論が起こる。
 しかし勘違いしてはならないが、堀秀政、蒲生氏郷の二人とて、怒っていない訳では無かったし、徳川家を無条件で許してる訳でも、ましてや擁護している訳でも無い。このままの同盟継続もありえないと思っていた。
 覆水盆に返らずとも言うが、一度壊された物は二度と同じ形には戻せないのである。結局のところ、新しい形・関係を模索するしかない。
 この二人にしても、共に望むのは皆と変わりない徳川家を屈伏させる事。もしくはその領土の併合。
 但しその方法において違う考えがあったのである。
 今回の徳川家のやってしまった行動、例えそれが当主・家康の命令で行った物では無かったとしても、それは致命的な国政・外交上の大失点なのだ。特に首謀者が嫡男である、というのが不味い。そして織田家としては、徳川家が起こした今回の行動に重大な失点・負い目がある以上、そこに徹底的に付け込むべきである。そう、堀秀政や蒲生氏郷は考えるのだ。

「上様、如何にござりましょうや?」

 それから暫くして、一通りの意見が出揃った時点で、蒲生氏郷が上座で静かに話しを聞いているだけであった信長に問いかける。
 その声は僅かに緊張に強張っていた。それもその筈。彼が問い掛けた信長はといえば、この軍議が始まる前から途轍もない怒気を放っていたからである。と言っても、辺り構わず怒鳴り散らしているとか、そういった訳では無い。むしろ逆、何も言葉を発さず、ただ静かに、能面の如き表情で静かに座っているだけだ。
 しかし、誰もが知っていたのである。その状態こそが信長が怒り心頭に達している証拠であると。廻りの者としては、むしろ怒鳴り散らしてくれた方が気が楽である。
 皆、そのような状態の信長が、如何様な判断を下すのか、と恐る恐る反応を待つ。

「……竹千代めにはケジメを取らせる」

 家康の事をわざわざ幼名で呼び、静かに信長はそう呟く。

「して、そのケジメとは?」

「氏郷、お前はこれより岡崎城へ赴(おもむ)き、竹千代めに会って参れ。此度の責任の取り方は竹千代本人に決めさせよ」

「はっ!? 我等では無く、家康殿に決めさせる……、ですか?」

「そう申したはずぞ……。聞こえなんだか……?」

「いえ! しかと聞こえておりまする! 申し訳ござりません! しかと受け賜りました!」

 その場に居た全員が、その信長の発した言葉に呆然となった。それも当然である。家康本人に決めさせるなど、例えるなら犯罪を犯した犯人に、自らの罰則を決めさせるような物だ。
 そのようなやり様で、しっかりとしたけじめが取れようか?
 皆、一様にそう考えるのだ。おもわず聞き返してしまった氏郷は、返ってきた信長のドスの利いた声と、迫力ある眼光に睨まれ、すぐさま平身低頭して謝る。
 あまりのその信長の険しい様子に、今まで主戦論を唱えていた者達も黙り込んでしまう。

 しかし、そのままにもしておけないのが、命令を受けた当の本人である蒲生氏郷だ。
 けじめといっても、その条件は? 上様は何をお望みか? 徳川を潰したいのか、はたまたその逆に同盟の継続を望んでいるのか?
 ただ言われるままに徳川家に赴いて、要件を伝えるだけであらば、子供のお遣いと変わりない。信長の望む事を成し遂げてこその見事なる働きと言えよう物である。
 しかしである、今のままではそれも儘(まま)ならない。
 それ故、氏郷は勇気を振り絞り、少しでも情報を仕入れようと、さらに信長に問い掛けた。

「して上様、徳川家に求めるけじめ・条件とは如何様な物でございましょうや!? どの程度の処罰を御求めであるか、同盟か従属か、はたまた攻める準備の為の時間稼ぎでございましょうや!? 仰って頂けますれば、必ずやこの氏郷! 成し遂げて御覧にいれましょうぞ!」

 丹田に力を込め、威勢よく大声を張り上げる氏郷。しかしその実、内心では叱責を受けるかと冷や汗をかいていた。だがしかし、それは杞憂である。

「徳川に示させるは、我等に対する覚悟也。今後、我等とどう向き合って行くのか? どう天下に向き合っていくのか? どのような関係を望むか? 天下の内で自家をどのように認識しているのか? それらを問う」

 氏郷はその静かに言い放たれた信長の言葉を、一言一句違(たが)えないように、脳裏に刻み込んで行く。
 また、信長の言葉はまだ終わってない様子であったので、そのまま静かに待つ。

「今までと同様の同盟国たる徳川家はもはや不要。もし可能性があるとすれば、織田の天下の元にてその一員となる事のみ也。これまでの全てを捨て、またその為にその旗下に集いし者達を統率し、新しき徳川家として、生まれ変わる事ができようか? その覚悟と能力を問う」

 その信長の発した言葉の意味を、その明晰な頭脳で整理する。
 上様は今までのような同盟関係は不要と仰られた。すなわち同盟継続の線はこれで完全に消えた。ならば戦かと言えば、そうでも無し。
 ここまで考えて氏郷は気付く。信長が何を望んでいるのかを。

「試されるのでございますね……。我等に本当に必要な者であるか、その覚悟を、その能力を……。新たなる形となろうとしているこの日ノ本において、自家をどう考えているのかを、またそれに対応できるだけの統率力が、また柔軟性があるのかを……」

 そこまで考え、これよりの徳川家の行く末を思い、哀れにすら感じる氏郷。もしその考えている事が事実であらば、徳川家にとってはどちらの道を選ぶにしろ、苦渋の決断となろう。またそのどちらの道を選ぶにしろ、大小の問題だけで、さらなる流血は避けられない。

「もし、我等を納得させるだけのけじめを付けられるのであらば、表向きは此度の乱の首謀者は平岩親吉としても良い。だがそれらを決めるのは徳川家自身。氏郷、主(ぬし)に今回の件に対する全権を与える。決着を付けて参れ」

「畏まりました。すぐに向かいます。されど上様。最後に一つ、御聞き致しまするが、徳川家に覚悟無く、また決断もできぬようであらば、その時は如何様(いかよう)になりましょうや……」

 恐る恐ると氏郷は信長に問い掛ける。
 怒り心頭に達している上様がここまでその怒りを堪え、譲歩しているのだ。逆にそれが成らぬ場合はとんでも無い事になってしまう。
 そう考え、問い掛けた氏郷であったが、すぐにその心胆、寒からしめられる事となった。
 氏郷の言葉を聞いた信長は、今までの能面のような表情から一転、まるで悪魔か閻魔大王か、と言わんばかりにその表情を憤怒一色に染め、静かにこう呟いたのである。




――その時は……皆殺しじゃ……! 三河・遠江の国、全ての地において徳川家に類する全ての者達を撫で斬りにしてくれるわ……!





























 <甲斐の国 武田家居城・躑躅ヶ崎館> 


 その日、武田家当主・武田勝頼は、最近では類を見ない程の上機嫌な様子であった。

 「ぐわっはっはっはっ! 信長め、命からがら逃げ帰りおったか! 無様な物よ! 徳川家にも誠の大儀を理解する武士(もののふ)がおったか! 誠、痛快也!」

 愉快気に大笑いしながら、酒杯を重ねる勝頼。
 ここ最近は暗い話題しか無かった勝頼にとって、まさしく久方ぶりの痛快事。多いに溜飲を下げさせてくれるこの出来事を素直に、そして無邪気に喜んでいた。

 「……はははっ、誠に仰る通りでございまするな……」

 だが、それとは逆に、勝頼の上機嫌の言葉に相槌を打ちながらも、全く逆の事を思案していたのが、その傍らに侍っていた高坂昌信と真田昌幸の二人だ。
 彼らにとっても今回の自らの計略の成功は望外の喜びである。しかしだ、想像していた程の効果が上がっていないのもまた事実。

 「(謀反の首謀者が平岩親吉? 信康では無いのか? しかもその平岩親吉の討ち死に以降は戦はおこっておらず、事態が収束に向かいつつあるのかもしれんとの由。家康め、重臣一人を生贄にしてこの難局を乗り切ろうてか……? 思ったよりも強(したた)か、老練な手腕也。否、本当に家康の仕儀か? どちらにしろこのまま終っては、つまらぬわ……。せっかく掻き回した物を、こう簡単に収められては、のう。もっと足掻いてもらわねば割りに合わぬ)」

 今回の計略の発案者・実行犯である真田昌幸は、勝頼の言葉を聞きつつも内心ではまったく別の事を考えていた。
 彼はこの策の責任者として、実際に信康が挙兵するその直前まで三河の国に潜入していたのである。流石に騒動が起こってからでは国を出るのに危険が大きすぎる為に、その前に出国はしたが、首謀者は確かに徳川信康の筈。絶対に平岩親吉では無い筈だ。
 やはり危険を冒してでも、最後まで見届けるべきであったか?
 そのような事を考えてしまう。

 「のう、昌幸よ。誠、痛快也。これに乗じて我等も何か成すべきかもしれぬ。何か思案は無いか?」

 しかし、そのような考え事も勝頼に話しかけられる事によって中断させられる。気を取り直して昌幸は勝頼の方に身体を向け平伏し、自らの所見を述べる事にした。

 「此度の一件、織田徳川間の同盟関係にけして小さくない亀裂を生じさせました事は確実にございまする。なれば我等はこの亀裂をさらに広げるべし。我等武田家にとって最善は織田と徳川間の同盟が決裂し、徳川が我等が味方になる事。次善は両者が敵対に至らずとも同盟関係が解消される事に御座いまする。そうなれば徳川家を我等が側に引き込める可能性も出てきましょうぞ」

 「うむ、成程。その通りである。して、徳川を味方につけるその方策とは如何に?」

 「ありませぬな」

 「な、……何!?」

 勝頼はまったく予期していなかったその昌幸の、何処かとぼけたような返答に、思わず面食らってしまう。そんな勝頼の様子に構わず、昌幸はさらに続きを話し始める。

 「いやー、今の所はなんら打つ手はございません。せめて織田が報復に兵を動かしておれば打つ手はあったのですが、未だその気配は無しとの事。いやはや、織田信長という男、血の気が多いように見えて、これが中々我慢強い食わせ者。ここで動かぬは敵ながら天晴と言うほか御座いませぬなー」

 まいった、まいった、と自分の頭をポンポンと叩きながら、どこかおどけたような様子で話す昌幸。

 「あ、ありませぬ、ではなかろうが。知恵者であるならば、なんぞ考えぬか……」

 「いやしかし、当事者間で争いが起こっておらぬに、第三者の我等が出る幕はございませぬ。出来るのは両者の間を煽ってやる事ぐらいかと。この状況に至りましては、むしろその逆こそ我等が取るべき方策かもしれませぬ」

 「逆? 逆とはいかなる物か?」

 「此度の徳川家の行動を同盟の信義にもとる、非道の行動であると非難し、織田に協力し、共に徳川家を攻め滅ぼすべし」

 「な、なんじゃと!? 織田めと手を結び、徳川を攻め滅ぼせ、だと!!」

 「然り」

 その昌幸の言葉に、勝頼は驚愕する。それに構わず、昌幸はさらに言葉を続けた。

 「結果的に織田家の同盟国である徳川家が、この世からのうなれば、その過程がどうであれ我等の勝利です。敵と一時的に手を組むも武略・知略と申す物也」

 昌幸が献策するこの策は、勝頼にとっては想像すらしていなかった物であった。それに加えて、実はこの策にはそれ以外にも狙いがあったのである。
 それが織田との講和だ。
 今、武田家はざっくばらんに分けて二つの派閥がある。当主勝頼や高坂昌信を中心とした織田抗戦派と一門衆筆頭の穴山信君を中心とした講和穏健派の二つだ。
 これらが日々、方針を巡り争っているのであるが、双方共、けして一枚岩である、といった訳ではない。それは織田抗戦派の中においても例外では無かった。
 知恵者である高坂昌信と真田昌幸の二人は、織田交戦派ではあるが、同時にその落とし所をも同時に模索していたのである。
 実のところ、此度の織田徳川間の離間策であるが、勝頼には知らされず、この二人の間で極秘裏に行われた物だったのだ。その理由は一つ……。

「ふざけるな! なんで織田なんぞと手が結べる物か! 昌幸! もしや貴様まで臆病風に吹かされたのではあるまいな!?」

「(やはり融通が利かぬな……。外交という点においては致命的な程、頑固かつ、誇り高すぎる……)」

 この勝頼の性格にあった。けして無能な人物でな無い。否、むしろ優秀な人物であったのだが、いかんせん誇り高すぎ、頑固な面があったのである。その性格ゆえに、その大きすぎる自尊心ゆえに、徒(いたずら)にその行動の幅を狭める結果となっていたのだ。
 二人は別に降伏を望んでいる訳では無い。ただ誤解の無いように記すが、降伏・和を乞うという事は、それほど不名誉な事では無いのである。勿論、それは苦渋の決断であるし、負けを認める事は屈辱の極みでしかない。しかしである、それは国政・外交を司る者にとって、けして避けては通れぬ道なのである。

 例えば、彼の父親、武田信玄も好機とみれば攻め、不利とみれば頭を下げ和を乞うという事もしていた。それらは他の戦国大名、徳川家・北条家・毛利家・上杉家・島津家等々、どこでも変わりはない事である。
 百戦して百勝できる者など、いよう筈も無い。勝ちがあれば、必ず負けもあるのだ。
 史実の織田信長に至っては、第一次信長包囲網の折、浅井・朝倉連合軍に攻められ危急存亡の危機に陥った時には、その朝倉義景に向かって、「これより天下は朝倉殿が持ち給え。もはや我に望み無し」 と土下座し、おべっかまで言って和を乞うたのである。
 そして講和を結んだ結果は歴史が証明している。浅井・朝倉の両家は滅び、織田が生き残ったのだ。

 土下座までして和を乞うた信長はその評判を落としたか?
 答えは否である。逆にその評判を落としたのは朝倉義景の方だったのだ。

 そしてそれが出来るのが、織田信長という男の凄い所である。
 苛烈な所業ばかりが眼に付き、目立つ信長であるが、その実、彼の手腕という物は政戦両略において、実に堅実な方法を選び、基本をけして踏み外さない。
 戦略においては敵よりも大軍を用意し、寡兵で当たる事は無い。戦略をこそ重視し、例え戦術的な敗北を蒙っても、それを政治的・戦略的な勝利によって取り返す術を知っているのだ。
 翻って危急存亡の折と見れば、自ら軍の先頭に立ち、戦場に突っ込む果断さをも持ち合わせている。それは信長の生涯で三度。稲生の戦い、桶狭間の戦い、そして天王寺砦の戦いだ。その人生の節目節目の危機において必ずといって良い程、先頭に立って戦い、そして勝利しているのだ。

 外交でも状況を冷徹に見定め、武田家や上杉家といった強敵達に対しては、情けないとも言えるほどの弱腰で気をつかい、毎年貢物を送るなどして関係を良好に保てるように努力していたのである。名を捨て実をとる臨機応変の対応ができる人物というのは、実は案外少ないのだ。大概の場合は誇りや名誉といった物が邪魔をし、大局を見誤るのである。
 また、敵に対するある種の冷酷さは、この場合は利点であろう。

 内政においても、その辣腕を遺憾なく発揮した。織田家の躍進はこの内政での成功にあると言っても良いであろう。信長包囲網などの出来事から、嫌われ者的なイメージが湧くが、その逆に、領民達からは大いに慕われていたのだ。治安に対する意識が強く、その生涯において過酷な治世といった物とは一切無縁であり、信長が通った後は石高が増える、とまで言われる程である。その内政の手腕は大胆にして繊細且つ合理的。自ら親しく民衆達の間に入って行き、身分の区別無く交流したと言われている。
 少なくとも統治者としては超一流であった。

 当然、それらと逆の欠点もまた存在するが、人の上に立つ上で必要とされる条件をバランス良く持っていたのが、織田信長という男なのである。








「とは申せ、もはや我等と織田家の力関係はかなりの所までいっておりまする。城攻めと同じく、順を追わずんば、被害が増えるだけで御座いまする。まずは織田の外堀たる徳川家を攻め滅ぼす事に専念すべし」

「やめよ! それ以上は申すな! 徳川家の此度の所業はまさに悪に対する正義! 正に義挙也! それをどうして攻める事ができようや!」

 昌幸のその献策を、勝頼はけんもほろろに突っぱねた。それどころか怒りすら見せて昌幸に怒号を浴びせ掛ける。

「もう良い! それ以上は何も申すな! 織田なんぞとは死んでも、例え殺されようとも共闘などありえぬわ! 最初に言うたように、徳川を味方に引き入れるように何か算段致せ! それ以外の策など聞きたくもないわ! 下がれぃ! なんぞ思いつくまで出仕に及ばず!」

 先程までの上機嫌な様子から一転、一気に不機嫌な様子に成ってしまった勝頼を見て、これ以上は何を言うても詮無き事、と思い至り二人は一旦引き揚げる事にした。
 未だ酒杯を重ねながら、不機嫌そうにブツブツと呟く勝頼を一人残し、高坂昌信と真田昌幸は静かに部屋を出る。

「ままならぬ物でございまするな」

「ああ、御屋形様も、もう少し物事を柔軟に考えられるようになれねば、御家を滅ぼす事になりかねんぞ……」

 昌幸の言葉に、渋面を浮かべ呟く高坂昌信。
 今回の件において、一気に講和とは言わずとも、なし崩し的に織田との交渉のとっかかりぐらいは、と思ってはいたのであるが、まるで取りつく島も無い状態だ。

「やはり御屋形様に内密に策を進めて正解でしたな。あの様子では、正直に話していては、そのような卑怯な真似ができるか、とでも言われるのが関の山かと」

「長篠以外の負けを知らず、辛酸を舐めつくすかの如くの武田家興隆期の時期をも知らず、常勝・最強武田軍の幻想を未だに引きずられておるのか……。どちらにしろ、若い、考えが青すぎるわ……」

「別に卑怯者になれやら言うつもりは無いですし、またそうなられても困りまするが、もう少し清濁合わせ飲む器量が欲しい所で御座いまする」

「まあ、それが御屋形様の良い所ではあるが、のう……。それ故、補佐のしがいがあるんじゃが、正直、真っ直ぐさ、誇り高いという美点も、度を過ぎれば毒にしかならぬ。特に国政の場であらばそれも一入(ひとしお)という物……」

 昌信は話しながら溜め息をつく。
 元よりこれほどの重大事。本来なら当主たる勝頼の裁可を経て、実施されてしかるべき事柄である。しかし今回は高坂昌信が、ばれればその責任を一身に受ける覚悟をした上で、独断で真田昌幸に命じて行った物であった。
 それは何故か?
 まず第一に勝頼の裁可が得られないであろう事。先程も記したように、そのような卑怯な真似ができるか! という叱責を受けるだけであろう。それに例えそれを承認したとしても、次は勝頼の命じたように、徳川家への支援に固執してしまうであろうからだ。それでは駄目なのだ。
 そう、第二の理由として、これは徳川家を生贄の羊とした、武田家の生き残りの道の模索なのである。

 今回のこの離間策の戦略目標は、織田徳川間の同盟を決裂させた上で争わせる事。そしてその織田徳川連合軍の戦力を低下させ、結果的に武田家に対する織田の圧力を減らす事。最後に、決裂している武田織田間の外交のパイプを復活させる事。以上の三つなのだ。
 武田にとってはそのどれに転んでも良いのである。
 織田が徳川を攻めれば、それに乗じて一緒に徳川を攻めるも良し、はたまた、無理やりにでも援軍として出兵し、徳川家に恩を売り、こちら側に引き込むも良し、織田に先んじて併呑するも良し。強国の間に挟まれた小国の意思など誰が顧(かえり)みようか。
 昌信の考えていた最善・ベストな結果とは、織田徳川間の間にて争いが起こり、それに武田家が介入。それも織田側に立ってである。その上で織田との誼を復活させた上で、今徳川家のある立場に、そのまま武田家が入ろうとの考えだったのだ。
 つまりは徳川家を蹴落とし、武田家を最大版図を保たせたまま、織田の作る新秩序の中において存続させよう、との目論見だったのである。

 実の所、高坂昌信と真田昌幸の二人は、織田抗戦派の派閥に属しながらも、これまでに行ってきた国力増強の行いがほぼ手詰まりに陥ってしまった現状を踏まえ、織田に抗するは不可能、との結論を出していた。
 このままでは織田がその気になれば早くて2~3年、遅くとも5~8年以内には甲斐・信濃の地から武田家という家が消えさる、と考えていたのである。
 それを回避するには、それこそ奇跡のような大逆転が、例えば信長とその嫡男信忠が揃って死ぬような奇跡のような大逆転が無いと不可能だと考えていたのだ。それほどまでに両家の国力・戦力差は開いており、それは時間と共にさらに刻一刻と開いていく始末。

 戦争だけが方法では無いのだ。戦争というのは数ある手段の中の一つでしか無い。臥薪嘗胆、それもまた一つの手である。
 また武田家が常に天下第一党の頂点の家である必要も無い。
 本当に大事なのは家を守り、家臣達を守り、領民達を守り、末長くその者達を安寧に導く事にあり。
 高坂昌信と真田昌幸の二人は、とかく誇りや建前・面子といった物を重視するこの時代の武士達の中にあって、かなり論理的な思考の持ち主であり、そう考えるのだ。
 誇りや面子などどうでも良い、などとは言うつもりは無い。それらは大事な物であり、誇りを持たぬ人間など、奴隷のような人間になるか、平気で極悪非道なる行いをおこなう犯罪者になるかの、どちらかでしかないであろう。

 だが同時にこうも考えるのだ。
 その為だけに全ての家臣・領民達を犠牲にし、また武田家という家を滅ぼしても良い物であろうか?
 だからこそ彼らは考えた。名誉ある形で今の版図を保ったまま、それも武田家の誇りを傷付けない形で織田に組みせる形という起死回生の一手を。そしてそれをなし崩し的な方向で当主勝頼に承認してもらおうと。
 勝頼とて、いつまでも今のような甘い考えばかりはしていないであろう。責任ある立場にあらば、酸いも甘いも味わい、必然、物事の表も裏も理解し、奇麗事だけではこの世は渡ってはいけないという事を理解し、また成長もしてくれよう。元より、勝頼はけして無能な人物では無いのだ。一旦、なし崩し的にその形の収まれば、それを納得もしてくれよう、と。
 また逆に、彼らは従来の他の大名家、上杉家や本願寺家といった者達との連帯・同盟といった手段を放棄した訳でも無い。
 人の上に立つ者として、打てる手は全て打っておくべきである。それが人の上に立つ者の責任なのだ。

「まあ、この苦境をなんとかしてみせてこその忠義、見事なる働きといった物であろうぞ。御屋形様の方はワシがなんとか宥めておく故、昌幸、お主は引き続き、織田・徳川間の情勢を調べておいてくれ。特に織田がどう出るかを見逃さぬようにな」

「かしこまってござる」

「それと穴山殿の動きにも、じゃ。あの御仁が何か軽挙妄動するかもしれんからのう」

 昌信は一門衆筆頭の穴山信君の事にも思案を巡らせる。彼は一見、この二人と同じ所を目指しているようではあるが、その実、大きな違いが存在していた。
 その事を昌信は危惧していたのである。

「穴山殿も素晴らしい人物ではあるのじゃが、見通しが甘い上に、信長という男の怖さを本当の意味で理解しておらぬ……。今の状態で何の考えも無しに降伏してみろ。媚びた顔で信長の前に立った次の瞬間には首が地に落ちておるわ……」

「誠に。現状においては織田がそのまま武田を残してやる義理も、それによる利点も、何もあり申さぬ故……。その前に我等の力・能力をあの魔王に示した上で、我等を敵に廻すよりも味方とした方が利点が多いと判らせねば、容赦無く踏み潰されましょうぞ。逆に言えば、その利点を示せれば生き残りの目は出てきます」

 元より今まで敵対していた敵に我を乞う、降伏するという事は苦渋の決断。それこそ今から戦争を始めようと言う以上に、その先々の展開を読み切り、ただ戦う何倍以上もの労力、それに努力を必要とするであろう。
 戦いを始めるのは容易く、終わらせるのは至難の業なのだ。
 さらに言えば、戦いを始めるのはどちらか一方の意思だけで始まるが、終わらせる時はどちらか一方が完全勝利を収める以外では、その双方の同意が必要なのである。簡単に言えばここで武田家が 『戦争はいけません。平和が一番です。戦争なんかやめましょう』 と言ったところで戦争は終わりはしないという事である。
 ふざけるな、の一言で切って捨てられるだけであろう。そんな物、子供の戯言でしかない。
 それにそのような中途半端な終わらせ方は将来へ禍根を残す結果としかならない。

「まあ幸い、これにていくらかの時間は稼げようぞ。その間に、戦う事になるにせよ、和儀になるにせよ、その両方どちらにでも対応できるように対処せねばならん」

「畏まりました」

「ワシは上杉への抑えもせねばならぬゆえ、ずっとここには居れぬ。昌幸、頼んだぞ」

 良く言えば臨機応変、悪く言えば面従腹背。右手で握手を求めつつ、背中に隠した左手にはナイフを隠し持つ、そのような矛盾。それらを理解せずして、どうして一国を率いれようか?
 個人の善悪と、国家の善悪とは似て非なる物なのだ。それはけして同じように考えてはならない物である。
 武田家の人々すら騙し、反織田家の勢力の中にありつつ、それと共闘しながらも、織田に通じようとするその行動は汚い。また、その行動を隠し、織田との関係正常化が上手く行かなかった場合は、何食わぬ顔でそのまま反織田勢力の一角にあろうとする。露見すれば二股膏薬よ、卑怯者よ、と非難されても仕方が無いような行動だ。
 だが結果こそが、否、結果のみこそが求められるこの冷酷な国政の場にありて、馬鹿正直や良い人という評価はマイナスの意味を持っているといっても良いであろう。

 そんなに簡単な世界では無いのだ。権力という物にはそれだけの価値と、そしてそれ以上の責任が生じるのである。
 魑魅魍魎が跋扈する、策謀とドロドロとした欲望渦巻くこの世にある生き地獄。それこそが権力という物だ。
 当然、その世界に住む住人達、住まざるを得ぬ住人達も、好む、好まざるとて、それと無関係ではいられない。
 それが嫌であれば、自らが汚れるのを嫌う者は、常に聖人君主の如きあり誰からも好かれていたいと思っている者は、権力を、特権を放棄し、速やかに退場すべきである。

 だからこそ、二人は汚名をおそれずにやる。武田家の為、領民達の為に。
 今となっては唯の悪足掻きとなってしまうかもしれない。だが足掻き続けねばならない。足掻く責任があるのだ。
 それ故、二人はあらゆる方法、考えつくだけの全ての手を尽くして、孤軍奮闘、足掻き続けるのである。


















 <西国 長門の国 赤間ヶ関>


 東国において、織田・徳川・武田等々の大名達が小牧の戦いの余波を受け、右往左往しているその時に、異変は西国でも起ころうとしていた。
 それは九州と中国地方を分つ関門海峡の北岸、毛利家領、赤間ヶ関においてである。
 この赤間ヶ関とは現在の下関の事であり、本州の西端にある、まさに九州や外ツ国に対する玄関口というべき位置に存在する天然の良港であり、戦略的に極めて重要な拠点なのだ。
 その日、その赤間ヶ関において、誰もが想像だにしなかった大事件が起こったのである。

「な、なんじゃあれは!?」

「て、敵なのか!? は、早よう早馬にてお知らせせねば!」

 水平線の彼方より、ポツリポツリと、まるで浮き出て来るかの如く、多くの船が赤間ヶ関に対して向かってくるのを見て、毛利家に属する守兵達が泡を食って右往左往する。
 それらは時間と共にどんどん増えていき、最終的には二百隻にはなろうか? 大小さまざまな船が様々な旗印を押し立て突進してきたのだ。
 一番多い旗印は杏葉紋。九州最大勢力の大友家の家紋である。しかしそれだけでは無い。そこには竜造寺家の日足紋、島津の十字紋等々、九州各地の大名達の旗印も含まれていた。
 そしてその中でも一種異様な旗印が所々に含まれていたのである。
 それは九州の地図を描き、その真ん中に大きく十字架が描かれた旗印、今まで誰もが見た事も無い旗印。

 反信長九州キリスト大同盟の旗印であった。









 <次話へ続く>







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