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[4851] 彼の名はドラキュラ ~ルーマニア戦記~  完結
Name: 高見 梁川◆55a63c0e ID:d4771109
Date: 2009/03/03 01:11
大傑作腕白関白にいたく創作意欲を刺激され筆をとった次第でありますが
意外な人物に憑依することに傾注するあまり、私にも知識の少ない中世東ヨーロッパというレアすぎる地域を選択してしまいました。
読者諸兄にはなにとぞお知恵を拝借いたしたくお願いもうしあげます。

しかし腕白関白の感想欄を見ていて思ったのですが世の中には賢人がいるものですねえ……あの知識量には圧倒されました。私などは歴史群像を斜め読みした程度なもので。

また、勢いで執筆を開始した小品に対し、いち早く感想をお寄せいただいたEL氏や白月氏に感謝を捧げつつ、読者諸兄も作者とともにワラキアへの旅を楽しんでいただければ幸いです。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第一話 プロローグ
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:32


東ヨーロッパを卒業旅行先に選んだのは失敗だった。

それはもう完膚なきまでに。



ハプスブルグ家の栄華の香り漂うオーストリアからポーランドへ抜け、そこからさらに南下してハンガリーで念願の国立歌劇場で舞台を観劇。

先進国として文明の毒に侵された西ヨーロッパより遥かに歴史の空気を感じ取ることが出来たのは僥倖だった。

三日ほどの滞在を経てセルビアの大聖堂を見学し吸血鬼で有名なルーマニアに入る。

吸血鬼ドラキュラと言えば何故かトランシルヴァニア地方が発祥のように言われているが、モデルとなったヴラド・ツェペシュはワラキア公国の大公であり語られるべき地方が違う。

とりあえずヴラドの妻が投身自殺したというポエナリの城は見ておきたかった。

ブラム・ストーカーの創作とはいえ、彼女への愛が高じてキリスト教世界を裏切るきっかけとなった城だからだ。

歴史オタクらしい自己満足にひたりつつ、ご機嫌でポエナリに向かうタクシーのなかで事件は起きた。







「…………ここはどこだ?」



薄暗い部屋のなかは見るからにどこか逝ってしまったカルトな光景が広がっていた。

魔法陣らしき文様

生贄であろう山羊の首が置かれた祭壇

全力でスルーしたい鋼鉄の処女をはじめとした中世の拷問道具たち



いつからオレはホラームービーのセットに迷いこんだのだろうか。

ぼんやりと霞がかかった頭を目覚めさせようと、煙草に手を伸ばそうとしてオレはここが決して映画のセットなどではないことに気づいた。



「な、ななな………なんで手錠が………」



両手も両足も手錠で拘束され芋虫のように床に転がされた状態であることに気づいたオレは軽いパニックに陥った。

いったい何が起こったというのか?

薄れかけた記憶を辿ろうとオレは再び目を閉じた。







「ポエナリの城まで頼むよ。できれば一時間ほどで戻るから帰りもお願いしたいんだが………」



観光タクシーの運転手にそんなことを頼んでいた気がする。



「珍しいねお客さん、たいがいの客はシギショアラかトラゴヴィシテに向かうもんなんだが……ポエナリを指定されたのは久しぶりだよ」



シギショアラはトランシルヴァニアのドラキュラ生誕の地として知られている。

トラゴヴィシテはドラキュラが長年居城としていた場所で広場にドラキュラの銅像が建っていることで有名だった。

もちろんそれらに興味がないわけではないが、オタクとしてはこだわりかたに価値があるのである。



「ドラキュラがドラキュラたる由縁となった場所だからね……それに詩情に浸るには人は少ないほうがいい」



運転手が笑った。邪気のない笑みでありながら何故か背筋の寒くなる笑みだった。



「全くですな、お客さん。運がいいですよ………なんせ今日は満月です。満願成就の良き日にいらっしゃるとは本当にお客さんは運がいい……」



昼なのに満月もないもんだ、と思ったが………よく考えるとそこから先が記憶にない。

ポエナリの城についた記憶もないし戻った記憶もない。タクシーで移動中になんらかのトラブルに巻き込まれたと考えるのが妥当だろう。



「おや、お気づきなさったか、旅のお人」



聞き覚えのある声にかろうじて動く顔だけを部屋のひとつしかない扉に向ける。

はたして薄気味悪い笑みを浮かべた件の運転手がそこに佇んでいた。





「…………いったいなんの真似か聞いてもいいかい?」



一瞬頭に血が上りかけたがかろうじて自制を保ちつつオレは尋ねた。

頭の中では様々なケーススタディが浮かんでは消えている。

これみよがしの魔法陣から察するにイスラム教徒ではないだろう。であるならばアルカイダに代表されるイスラム過激派の人質になったとは考えにくい。

オウーム真理教のようなカルト団体にしては部屋のつくりが一般住宅とあまり変わりないし、運転手以外の人手が窺えないのは解せない。

一番可能性が高いのはこの親父単独の妄想であるケースだとオレは判断した。





「今宵、ドラクリヤ公が復活なされるのですよ、日本のお人。尊い貴方という犠牲によって」



親父の言葉にオレは内心頭を抱えた。

いかれているとは思っていたがまさかここまでいかれているとは思わなかった。

生贄を捧げてドラキュラを復活させるだと?いったいどこの三流ホラーだそれは。



「日出づる国から生贄が訪れるとは………やはりこれは神のお導き……さあ、お覚悟を……」



親父が懐からやたらと意匠の凝った短剣を引き抜くのが見えた。





ふざけんな!ドラキュラ呼び出すのに神が導くわけねえだろが!歴史オタクなめんな!これでも北辰一刀流印可もってんぞ、ごるあぁ!

………って両手両足縛られた状態じゃなんの役にもたたんわあああああ!!





一人ボケツッコミをやっているあたり割と余裕に見えるかもしれないが実はただ現実逃避していただけだった。

理不尽だ。こんな理不尽なことがあってよいものか。

故郷で待ってる両親に言い訳がたたない。

異郷の地で精神異常者に後継ぎ息子を殺されましたでは泣くにも泣けないだろう。



「ヴラド・ツェペシュよ!この世で最も美しく残酷な御方よ!どうかこの生贄を糧に現世にお姿を現したまえ!」



「このど阿呆が!そんな蔑称で呼んで誰が喜ぶか!お前も信者ならヴラドの正式名くらい覚えとけええええ!」



ツェペシュとは串刺しを意味するヴラドに対する蔑称で正式にはヴラド・ドラクリヤ、またはヴラディスラウス・ドラクリヤと呼ぶのが正しい。

もっともそんな解説をする暇もなくオレの意識は暗い闇の彼方へと堕ちて行った………………。










[4851] 彼の名はドラキュラ 第二話 覚醒編その1
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:32




「兄様!兄様!死なないでください!僕を一人にしないでください!」



耳元で泣き叫ぶ声が聞こえる。

まだ幼い少年らしい声変わりの終わらぬ甲高い声にオレの意識がゆっくりとだが覚醒に向いつつあった。



…………うるさいな…………



全身を包む疲労感と虚脱感は隠すべくもない。

まるで自分のものではないかのように身体の節々が重かった。



「どうか目を開けて……兄様!ヴラド兄様!」



ヴラドだと?

不快な言葉の響きにこめかみのあたりの血管が収縮する。

そういえばオレって………



寝ぼけた頭に徐々にだが新鮮な血液が行き渡っていくような感覚とともに、先ほどまでの記憶が少しずつ蘇っていく。

そうか、オレはヴラド・ドラクリヤ復活の生贄に…………



振り上げられた短剣

今まさに心臓へと突き立てられようとした最後の記憶を思い出してオレは絶叫とともに覚醒した。





「うわあああああああああああ!!」





「ああっ!気がついたんですね!兄様!ヴラド兄様!」



「………………はい?」



夢から覚めてみればそこはまた夢の世界……なのだろうか?

首っ玉に抱きついて離れない紅顔の美少年の嗚咽を聞きながら、オレはここが夢か現実かなかなか判断できずにいた。









どうやらこの自称弟である少年の名はラドゥと言うらしい。



「ヴラド兄様、やはり頭を打たれたのですか?」



などとオレを気遣い上目使いに見上げるさまは、少年の愛らしくも無垢な顔立ちと相まってその道の人にはたまらんものであるのかもしれないがオレはもはやそれどころではなくテンパっていた。



ラドゥにヴラドだと…………?



オレにはその名に聞き覚えがある。

むしろその名のために遠路はるばる日本からやってきたと言ってよい。





夢だ……これは悪い夢だ………というか夢じゃなきゃいやだ!!





ブラド・ドラクリヤ……のちの串刺し公には諸国にも名高い美貌の弟がいたという……後の美男公ラドゥである。

二人は幼くしてオスマントルコの人質となり、兄ヴラドがワラキアに帰還するとともにいつしか袂をわかったがかつては仲の良い兄弟であったと言われている。

甘い蜂蜜色の金髪

よく整った造形の顔に丸く大きな瞳がなんとも愛らしい

確かにいけないおじさんに道を誤らせそうな美貌ではある。





…………ていうかオレ串刺し公 ヴラド・ドラクリヤ決定!?





「ああっ?!しっかりして下さい兄様!」



ラドゥの悲鳴が遠くに聞こえる。

タスケテ死ぬ、死んでしまう、オレが死ぬ、もう死ぬすぐ死ぬ今死ぬ……と松本零士風のボケをかましている場合ではない。

サイコ野郎に殺されかけて目覚めると………オレはドラキュラになっていた!。









………再び目覚めるとラドゥの奴が心配そうな視線を向けていた。

もう一度不貞寝して現実逃避しようとしたら全力で泣かれた。

まったく泣く子には勝てねえよ…………。



「ひどいですよ兄様………僕本気で心配したのに………」



しかも僕っ子だ!ルーマニア語だからオレの妄想かもしれんけど!



現状を把握するとこういうことらしい。

今日になって父ヴラド・ドラクルがトランシルヴァニア公フニャディ・ヤノーシュと組んでトルコに叛旗を翻したという報が宮廷に届いたのだ。

となればトルコに人質として残された自分たちの命運は尽きたと考えるのが常識というものだろう。

なにせそのための人質である。

父に見捨てられた衝撃と、己の人生の不幸に絶望したオレは二階のバルコニーから身を投げたというわけだ。



…………普通二階から身を投げても人は死なないと思うのだが。



「スルタン様は寛大な御心で僕たちを許し、トルコのために生きるようおおせ下さいました。死ぬ必要はなくなったのです!」



目を輝かして不幸中の幸いを喜ぶ弟の姿が少し哀れだった。



………たしかドラクル公が叛旗を翻したのは1445年だったか?つってもあと2年後には暗殺されちまうんだよな~その後釜ってのがオレなんだけどさ。

オレの次はラドゥだ。結局トルコの傀儡に相応しい貴重な駒だってことだから許されただけなんでスルタンに感謝するいわれはないんだけどな。



それでも少年らしい純粋さでスルタンへの感謝に浸っているラドゥを見るとあるいはそのほうが幸せなのかもしれん、という気もする。



美男公ラドゥはスルタンの寵愛を受け、終始トルコよりの政策を貫くことでその生涯を全うした。

反トルコの旗を掲げて、結局は人生の大半を戦争と虜囚生活に費やしてしまったヴラドとは大違いだが、もしかするとラドゥがトルコ寄りの政策をとり続けたのは単に政治的な立ち位置ばかりではなく、今日スルタンに命を救われたという思いが原点であるのかもしれない。





それにしてもオレの死亡フラグをブレイクするのは至難のわざだ。

二年後には親父が暗殺されてオレがワラキア公に就任するわけだが、ワラキアに対するトルコの影響を嫌ったヤノーシュの軍勢に即位たった二ケ月で逃亡するはめとなる。

たった二ケ月でどないせえっちゅうねん!



この時代のワラキア公国は西をハンガリー王国東をオスマントルコ帝国に挟まれた小国で生き延びるためにはどちらかの大国の支援が必要だった。

まだ今は東ローマ帝国が健在だがあと十年もしないうちに滅亡しオスマントルコの脅威は最終的にウィーン攻囲戦で絶頂に達する。

トルコのほうが国力に勝るのは間違いないのだが……だからといってトルコ寄りでいれば安泰かと思うとそうではないのが問題なのだ。

なんといってもワラキアはキリスト教国なのである。

トルコに対する国民の不信はぬぐい難いし、異教徒に頭を下げる君主はどうしても国民の支持を失ってしまう。

わけても貴族連中などは君主への忠誠心など無きに等しいから、その時々の気分でトルコに舐められてはいかん、とか戦争に疲弊するよりはトルコと融和すべきだとか明らかに統一性のないことを言い出して、最悪の場合は暗殺されてしまうのだ。今はまだ存命の親父と兄貴のように。





とりとめのない夢想に浸っているとラドゥが呼んだらしい侍医がやってきて、なんの断りもなくメリメリッとオレの瞼を押し広げやがった。



「いたいいたいいたいいたい………!」



泣くぞ、ど畜生!



「ふむ……どうやら意識はハッキリしておるようですな」



瞳孔を見るまでもなくわかるだろう!普通!?



涙目のオレを一顧だにすることなく侍医はラドゥを振り返って優しく笑いかけた。



「もう心配はいらないでしょう。お心お健やかになさいませ、ラドゥ様」



………てめえ、オレとラドゥではえらく態度が違うじゃねえか!



「ありがとうございます!メムノン様!」



メムノンと呼ばれた侍医の男は優しくラドゥの頭をひと撫ですると、オレには一言もなくあっさり退出していった。なんでやねん!!



「おい、ラドゥ!誰だ?あの無礼な奴は!」



ラドゥのつぶらな瞳がいぶかしげに曇った。



「兄様……やはり頭を打たれたのがいけなかったのでしょうか?僕たちの教師であり宮廷医でもあるメムノン様ではありませんか!……もっとも兄様はあまりお好きではなかったようでしたけれども………」



なるほど家庭教師というわけか。

宮廷医も兼任しているとなるとスルタンにも伝手があるかもしれん。そんな奴と敵対しているとは……なんばしよっとか!以前のオレ!



………ってかそこで枕を抱きながらモジモジしている君は何者かね?ラドゥ君





「兄様………今日は久しぶりに一緒に寝てもいいですか……?」





オレがショタ属性のないことを今日ほどうれしく思ったことはないぞ、ラドゥ。

なるほどこりゃショタ好きスルタンなどひとたまりもあるまいて………。



ノーマルのオレですら赤面を免れることのできない会心の一撃だった。

それにしてもここまで無垢な信頼を寄せる弟といずれは敵対するとは……未来を知っているというのも善し悪しだな…………。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第三話 覚醒編その2
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:33


「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ………!ていうかむしろ逃げなきゃだめだ!?」



「兄様……いったい何をしているのですか?」



思わずシ○ジくんになりきっていたオレにラドゥの冷たいツッコミが入れられている。

おおむねいつもの光景なので周囲からのツッコミはなかった。

…………ていうかむしろガン無視?



無駄無駄無駄無駄無駄無駄あああああ!!

無理だって!

どう考えたって助からないって!

日を追うごとに明らかになる絶望的な環境に現代人的なノリでのたうちまわるオレはいつしかトルコ宮廷でも奇人として知られるようになっていた………。





さて説明しましょう!なぜなにワラキア!

ってお前はイネスさんかってーの!

某ナデ〇コの説明おばさんはともかく、要するにこの時期のオスマントルコ帝国は強すぎるのが一番の問題だった。

歴史的に見てルーマニアは第一次大戦終了時までトルコ領だったわけで、トルコに占領されるまでの過渡期が今であるだけなのだ。

それに対するキリスト教国の仲の悪りーことったら!お前ら本当に勝つ気あるんかい!ってなもんだ。

しかもワラキア公国の西を扼するハンガリー王国なんだが、どうも西ヨーロッパへの憧憬が抜き難いらしく領土的野心はもっぱら西を向いているんでやたらと西ヨーロッパの受けが悪い。当然ハンガリー王国の影響下にあるワラキア公国も以下同文な感じだ。

四面楚歌じゃねえか!

かろうじて友好を結べそうなのがお隣モルダヴィア公国。

ヴラドの親友であったシュテファン大公が有名だが、今は暗殺される予定の前大公の息子として平穏な生活を送っている。

よく考えたらヴラドがヤノーシュに追い散らされてモルダヴィアに逃げ込まないとシュテファンフラグは立たないんじゃないのか?

肝心な時に役に立たなかった親友だが、こいつがいるといないとでは地位の保全に雲泥の差が出来てしまうのだが。

もっともモルダヴィア公国とてワラキア同様小国にすぎないから味方としては心細いかぎりだ。

なにせ考えること考えることお手上げの状態だった。

所詮オレは現代人の大学生でしかも平凡な歴史オタクだし、竜でも殺せそうなチートな勇者の力は持ってないのだ。

悲しいけど、これ現実なのよね。

………うんうん、そうだねスレッ〇ー中尉。





「………ここまで人の話を聞かないとは……罰が必要ですな」





ドビシィィィィ!





「んのおおおおおおおおおおおお!!」





目が!目が!今鞭の先っぽがビシッ!って目に!いでえええええええ!しみしみしみりゅううううう!



「懲りるということを知らないのですか貴方は。少しはラドゥ様を見習ってください」



ショタ親父に言われる筋合いはないわ!メムノンめ!



「今のは兄様が悪いと思います………」



「おおラドゥよ、お前もか」



この真面目っ子め、お兄さんは悲しいぞ。

………ちょっぴりメムノンの親父が驚いたような目でオレを見ていたような気がするが……まあ、気のせいだろう。









ようやく地獄の勉強時間から解放され、宮廷内を散策していると何やら言い争うような声が聞こえてきた。



「よく見るがいい!これが我らに逆らう者の末路というものだ!」



「………好きにせよ。ワラキアの誇りは揺るぎはせぬ」



………どうやらバカ親父のせいで国境沿いのワラキア騎士が捕らえられてきたようだ。

騎士を嬲ろうとしているのはオプタとかいうイェニチェリ軍団の百人長だったような気がする。



「悔しいか!貴様の父が非力で情けない役立たずであることを認めれば命だけは助けてやらんこともないぞ?」



…………あ、騎士だけじゃなかったのか………



年のころはラドゥと同じ十一・二歳というところだろうか。

一人の少年が涙をこらえながら、必死に父が嬲られる様を見守っている。

よく声一つ出さずに我慢できるものだ。



この時代の命は軽い。

やってきてからまだ数日にしかならないが、そのことをオレは否応無く目の当たりにさせられていた。

処刑に立ち会うのも教育のひとつに組み込まれていたからだ。

おかげでまたラドゥの奴と同衾するはめになってしまった。

………いや、喜んでなんていないぞ?喜んだら負けだからな!





……きっかけはほんの些細なことだった。

メムノンがそろそろ二人に従騎士をつけなくてはならない、と言っていたのを思い出した、それだけのことだった。

だが、それだけのことがオレの胸のなかでなぜか急速に大きくなっていく。

失意が、憤怒が、渇望が……まるで乾いた土に地下水が染み出してくるような感覚だった。

おいおいどうしたんだよ?オレのモットーは平穏無事にだろうが!



「オプタ様、お取り込み中失礼いたします」



何事か?というような目でオプタの残忍な目がオレに向けられる。

温度が数度下がったような気がしたが汗だけは炎天下のように吹き出ていた。



「公子殿もお国の騎士の処刑に立ち会いたいと申されるのか?」



オプタの目には新たな獲物を品定めするような色が浮かんでいる。

ここで対応を誤ろうものならオレ自身をも獲物としていたぶろうという気が見え見えだった。



「先ほどメムノン師から従騎士のあてが出来たから見てくるようにおおせつかりましてね。おそらくはそこの少年ではないかと思う

のですが…………」



笑顔を浮かべながら………とはいっても本当に笑顔を出来ているかはなはだ不安だが………オレは用件を切り出した。

メムノンにはあとで口裏を合わせてもらえばいい。ラドゥの口ぞえがあればそれほどの難事ではないはずだ。



「メムノン殿が………」



オプタの表情が憮然としたものに変わる。

家庭教師なぞしているから実感が乏しいのだが、メムノンの宮廷での地位は存外に高いのだった。

といっても位階が高いというわけではない。

医者であり学者でもあるメムノンはそれだけでも十分尊敬を受けているが、スルタンの諮問を受けることもあるという豊富な知識と識見がメムノンに実際の地位以上の実権を与えているのだ。



「そういうことであればこの者を従騎士に取り立てるのはかまいませぬが……公子殿下に仕えるとはオスマンに仕えるということ。夢々忘れてはなりませぬぞ?」



「私の責任において教育いたしましょう」



言質をとって気が治まったのかオプタは再び騎士に向かって嫌らしげな笑みを見せた。



「貴様も主君のご子息に看取られるならば本望であろう!さあ!公子殿下もごろうじろ!帝国に楯突く愚かなる者の死に様を!」



どうあっても息子とオレの見ている前で騎士を処刑せずにはいられぬらしい。



大剣が振りかぶられた。

オレには壮年の騎士に息子のことは任せろ!と目で訴えることしかできない。

軍人の処刑をとめるような権限も理由もオレには存在しないのだから。

わずかに騎士の顔が微笑んだ気がしたがそれも一瞬の気の迷いであるのかもしれない。

騎士の首が、ゴトリ、と地に墜ちた。





…………ユラリ…………と



オレの胸の奥で眠っていた何かが鎌首をもたげて咆哮をあげた。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第四話 覚醒編その3
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:34


抑圧
圧政
弾圧
挫折
失望
餓え
涜神
矜持
誇り
自由…………


ぐるぐると怨念にも似た感情の羅列がオレの胸にとぐろを巻く。
なのに何故か少しも苦しいとも思わない。
それがなんなのか………意識ではなく無意識が、脳ではなく細胞が記憶していた。


これはヴラド・ドラクリヤの深層意識なのだと。



こいつたった14歳でこんなにも葛藤を抱えていやがったのか………。


齢14歳にして既に培われていたその誇りと矜持は現代人のオレには想像もつかないものだった。
しかしいかに重く苦しく苦いものであってもそれは指向性のないかつてヴラドであったものの残滓にすぎない。
だが、その残滓は今のオレを構成するものでもある。
そう、今のオレはヴラド・ドラクリヤその人に他ならないのだから。

「いかがされた?公子殿下………お顔の色が優れないようだが………」

顔中に脂汗を浮かべるオレにオプタがしてやったりという笑みで顔を覗き込んでくるがそんなものにかまっている余裕はなかった。


祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国
秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序
自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決自決……………。


噴き上がる感情の爆発に自我を保つのが精いっぱいだ。
おそらく……このまま感情に身を委ねてしまったら……オレはオレでなくなるだろう………そんな気がした。

「公子殿下はよい経験をなされた。これを糧に精進なされるがよろしい!」

オプタが耳障りな哄笑をあげると忍耐の限界に達したのか、少年が拳を震わせて半歩を踏み出す。

………オレはこの少年を任せろとあの騎士に誓ったのではなかったか?


何故の侮蔑
誰故の差別
我らが誇りを全うする地はどこにある?


少年の肩から血がにじみそうなほど指先を喰いこませて力づくで抑え込む。
まだだ、まだ死ぬべき時ではない。
己の死と引き換えにすべきものは、こんなささやかな物ではない。


愛する祖国
愛すべき民
祖先がその血で贖ってきた豊饒の大地
その歴史と伝統に誇りを抱きつつ、伝来の大地に安寧を願うことが何故これほどに遠いのか


「公子様………私は………!」

少年の目に今にも決壊しそうな大粒の涙が湧きあがっていた。

「泣くな……!少なくともこの場で泣いてはいけない」

オプタだけではない。
オスマン朝に仕える者たちにとって敵の処刑はいい見世物だった。
言葉にこそ出さないが、いずれのものも自分たちの反応に好奇の視線を送っている。
泣き叫ぶことを期待しているのか
あるいは激昂して反抗するのを期待しているのか
そんな下衆な期待に応えるつもりは毛頭なかった。

「私はヴラド・ドラクリヤ……ワラキア公国第二公位継承者である……君の名を聞こうか?」

「………私の名はベルド・アリギエーリでございます。公子様」

少年ベルドの瞳から激情の色が消え去ったわけではなかったが、言わずともオレの意を察してくれたらしい。

「ついてこい、今日からオレがお前に生きる理由を見つけてやる」

「………………はい」

わずかな逡巡の後、ベルドは力強く頷いた。
名誉を重んずる騎士や貴族にとって生きることは死ぬことよりずっと難しい。
この宮廷でオレとともに生きていくということは、父の仇にひれ伏し慈悲を乞うて生きることに他ならないからだ。
いっそオプタに斬りかかって斬殺されるほうがベルドにとってよほど楽な生き方であったろう。
しかしオレはこのままでおわらせるつもりはない。
いくら現代人のオレでも、この無法を許容して生きていく気は毛頭ない。

だからお前もオレに協力しろ………!


オレの気持ちを全て理解したとは思えないが、オレが唯唯諾諾とオスマンに仕え続ける気がないことと、オレがベルドを欲していることを察したかのように無言で
うなづいてみせるベルドは想像以上に聡明な少年のようだった。
私室へと足を向けながら、オレは胸の奥で明確な象を取り始めたもう一人のオレと向き合っていた………。




わかったよヴラド
そう大きな声をあげなくたってもう十分聞こえている
世界の理不尽が耐えられなかったんだろ?
自分が正しいと思えることが次々と否定されて悔しかったんだろ?
尊敬していた……各国の要人にも絶賛されていた父親の敗北と裏切りが認められなかったんだろ?
生真面目で頭が良すぎるから、頭の悪い貴族どもが邪魔で仕方がなかったんだろ?

オレだってわかってる
どれほど大切で愛しいものであったとしても、戦に負ければそれは灰燼とともに消え失せ歴史になんの爪痕も残さないということを
生きていくためには
愛する者を守り抜くためには
生まれ出た祖国の血と歴史と風土を引き継いでいくためには
何よりもまず力が必要なのだということを

わかってる
お前の名はヴラド・ドラクリヤ

わかってる
オレの名もヴラド・ドラクリヤ
〇大法学部卒業見込みの現代人の歴史オタク、柿沼正志にはもう戻れないってことを

でもなあ………
やっぱりオレは現代人だからさ
お前さんが考えてる屍山血河の人生を歩むのはきつすぎるんだ

甘いって………?
それは自分でもわかってる
いまさら手を汚さずにすむなんて考えてもいない
ただ余計な血なら流さないほうがいいと思うだけだ

それにな
現代人だって自分の命を救うためなら
割となりふり構わずに牙を剥くもんだぜ………?

カルネアデスの舟板って知ってるか?
木造の船が難破してな
舟の破片が海に浮いてるんだけど、その板は小さすぎて人が二人以上しがみついたら沈んじまうんだ
自分が助かるためにその板を奪い、他の人間を溺死させることは罪にはならない
黙って自分の死を許容できるほど人間は悟りきれるようにはできてないってことさ、今も昔も



まあ、お前に現代人のたくましさってのを見せてやるよ
だから……オレがお前として生きていくことを許してくれ、もう一人のヴラド・ドラクリヤよ



[4851] 彼の名はドラキュラ 第五話 帰還編その1
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:34


「さて、いよいよだな、ベルド………」

「はい、全ては大公様の思し召しのままに……………」


進軍の喇叭が吹き鳴らされる。
総勢一万に達しようという大軍が一斉に動き出す様子をオレは深い感慨を持って眺めていた。
結局父ヴラド・ドラクルは先頃長兄ミルチャとともに暗殺され、ヴラディスラフがハンガリー王国摂政にしてトランシルヴァニア公たるヤノーシュの手によって大公位に就任……時をおかずしてオレはスルタンの後押しのもとにワラキア公国大公として、故国に帰ろうとしている。
歴史通りの展開であった。

これから………これからだ。
オレは………史実のようにはいかない、いかせるものか!

「初代ワラキア公リドヴォイより受け継がれし栄光のために!余の理想と自由のために!ワラキアよ!私は帰ってきた!」

ベルドが感激の眼差しで目を潤ませている。
この2年の間に増えた側近たちも感無量といった様子であった。

…………やはりジ〇ンの栄光は伊達じゃないぜ、ガ〇ー!

格好いいセリフを言おうとするとネタになってしまうのは現代人の哀しい性なのかもしれない…………。





この2年間をオレは無為に過ごしていたつもりはない。
トルコの兵制や政治を学び、剣と馬術を磨いた。
特に剣は北辰一刀流を学んでいたせいかイェニチェリの兵士たちにも一目置かれるまでになっている。
これからの戦に剣術など役に立ちはしないだろうが、刺客に襲われた時のような護身の手段としては心強い存在だ。

既に初陣を経験して数度の小戦にも臨んでいる。
正直肝を冷やしたこともあるが、ベルドが身を呈してオレを守ってくれていた。

あれから目を惹く捕虜を見つけては人材の発掘にも勤しんでいた。
もっとも気位の高い大貴族などは眼中にない。
やはり中核は騎士階級か下級貴族である。平民も対象外ではない。
その結果従騎士として三人と文官二人を登用している。
ベルドを加えたこの六人が今のオレの側近の全てだった。

ベルドは騎士の息子ではあるが祖父の代までは貴族の一員だったので南部の貴族に親類や知人が多かったのは思わぬ僥倖である。
そしてこの二年の間に14歳の若さでありながらオレの副官が任せられるまでに成長していた。
同じく没落貴族であるネイとタンブルも十代後半の若者で、オレのものの考え方を一から叩きこんである。
既存観念に凝り固まった親父を鍛えるのはえらく骨が折れるが、流石に若いもんは吸収力が違う。
将来的にはオレの構想を汲み取って前線を指揮できる人材となるだろう。
もう一人はゲクラン、流れの傭兵で上司に嵌められて処刑されそうになっているところを助けてやったらえらい感謝されていつの間にかオレの部下になっていた。
傭兵出身なだけあって各国の傭兵に顔がきくのに加え、若いオレたちにどうしても足りない実戦経験を補ってくれる、今となってはかけがえのない人材だ。
文官のほうは商人出身のデュラムに資金の運用を任せ、下級貴族であるシエナには情報収集を任せている。
どちらもオスマンの強権によって理不尽に財産を奪われたり所領を奪われたりした者たちだった。
その他にも雑用に使う召使などの使用人がいるが、彼らに支払うべき給金も現在では全く問題はない。
軍役を負担することに加え、将来の駒としてのオレの有用性をスルタンが認めたことによりある程度の現金が支給されるようになっていたからだ。
もちろんオレのほうからスルタンにオスマン朝に有用な対外政策として吹き込んだ結果なんだけどね。
具体的にはラドゥの奴に斜め30度の上目使いで目には涙をたたえ頬を染め、適度にどもりながら言え!と命令したんだが。
その時の薬が効きすぎたのかラドゥはスルタンの小姓にされてしまい、最近では滅多に会うこともできない。

…………………お兄さんは寂しいよ……………。





南部国境はほとんどなんの抵抗もなくオレことヴラド三世の軍門に降った。
その中でベルドと血縁関係にある下級貴族は非常に協力的だった。オレにとっては貴重な友好勢力だ。
おそらくは史実のヴラドはオスマンの援兵以外に信頼度の高い兵力を確保できなかったろうからな。
それに今回の出兵にあたって、オレはスルタンに陳情してオスマンの軍兵の他に傭兵部隊を加えるべく資金援助を申し出ていた。
なにせイェニチェリの連中はオレが即位したらとっとと故国に帰っちまうからだ。
いきなり徒手空拳で放り出されて貴族たちの帰趨も定かならぬ状況ではハンガリーの侵攻に為す術もないのは当然だろう。
ヴラドがたった二ヶ月でワラキアを叩きだされるのもむべなるかな。
イェニチェリが当てにならない以上頼るべきは傭兵ということになる。彼らは金が支給されているかぎりオレの味方だ。
もっとも敗戦の間際まで戦ってくれる忠誠心は期待できないが。
思ったよりスルタンも気前よく資金をもたせてくれたし、ゲクランのおかげで傭兵に支払う料金のほうも良心価格ですんでいる。
おそらくハンガリーのヤノーシュ公が侵攻してくるまで傭兵を維持するのはそれほど難しくあるまい。


……………まずはこの二か月天下を覆す!


史実のヴラドはハンガリーに追われて隣国モルダヴィア公国に逃げ込むはめとなった。
オスマンに逃げ込まなかった理由は謎だが後年の行動を見ればオスマンの力を借りるのには抵抗があったのかもしれない。
いずれにしろヴラドはここで実に九年という貴重な時間を失う。
史上に名高いヴラド・ツェペシュの勇猛と悪名は1453年からの第二回治世の時のものだ。
それからではオレの構想では遅すぎる。
ここから得られる史実にはない猶予の時間が、オレの死亡フラグブレイクには必須なのであった。


「大公様!ヴラディスラフに味方する貴族たちの兵が参ります!お下がりください!」

将来のことを妄想している余裕はこれまでのようだ。
しかしこれも読みのうち。
本来十万でも動員できる兵力をわざわざ一万ほどにとどめたのは、この機会に潜在的な敵である貴族をできる限り多く叩いておくためだ。
そういう意味では敵に回る貴族は多ければ多いほど良い。

「さあこい!兵力差が戦力の絶対的な差でないことを教えてやる!」

ベルドもネイもタンブルも、主将たるオレの軒昂な勢いに勇気づけられたように一斉に雄たけびをあげる。
流石は赤い○星……使えるなあ…………。



イェニチェリ軍団がアラーを称えながら呆れるほどの衝力でワラキア貴族たちを引き裂いていく。
流石は士気と練度において現在世界最高峰に君臨している連中だった。
雑多な歩兵と騎兵の混成軍であるワラキア軍が
野戦で勝つ見込みなどないに等しい。

「よく見ておけ、ベルド。君主に直属する常備兵力の強さを」

「………………はい」

こいつらを率いているかぎり敵が倍いようとも負ける気がしない。
もしワラキア軍に勝機があるとすれば、それはゲリラ戦による奇襲以外にはないだろう。
戦意に乏しい貴族どもが率いる陪臣には過ぎた相手だ。

目を転じればネイとタンブル・ゲクランが新編の大隊………長槍兵と弩兵と砲兵で構成された派生形のテルシオを必死な形相で運用していた。
いまだ歩兵の主力装備が剣の時代である。
初めての運用は傍目にも危なっかしく心臓に悪い。
しかし敵主力をイェニチェリが引き受けてくれている現状では丁度よい練習相手であった。
敵に与える損害こそ物足らないが、長槍の防御力は遺憾なく発揮されていた。
ベルドの親類を中心に中隊長と小隊長を配置して指揮命令系統を整備しては見たものの、本番の戦場ではまだ十分なものではないようだ。


……………あと二か月でこいつらを使いものにしないといかんのか…………


残された課題の難しさに頭を抱えたくなってきた。
長槍による方陣と投射武器による支援を連動して戦力化するにはある水準の機動力が必要であり、機動力を獲得するためには十分な訓練の時間が必要ということか。


未来の軍制を知っていてもその戦力化には時間がかかるものらしい。
これは他の手も打っておかんといかんだろうな…………………。

既にワラキア軍は組織的抵抗力を失っている。
オレは馬車のなかに控えている文官のデュラムを呼んだ。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第六話 帰還編その2
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:d4771109
Date: 2008/11/24 18:34


「ていうかホンマに阿呆やな」

何故か大阪弁になってしまうほどあきれ果てているオレがいた。


オスマン朝の支援を受けたオレは連戦連勝でトゥラゴヴィシテに入城し、ヴラディスラフはトランシルヴァニアへと逃亡している。
それと相前後してつい先日まで槍を合わせていた貴族たちがなんの臆面もなく大挙して臣従の使者を送ってきていた。


そんなもん信じられるかあああああああ!!


「…………すまんがベルド、これは普通の対応なのか?それともオレが異常なのか?」

「大公様のお考えが正しいのは言うまでもありませんが………ワラキアの貴族たちにとってはごく当たり前なことであるのも確かです」


…………これは史実のヴラドが人間不信になるわけだわ。


己の君主を変えることになんのためらいもない。
ただ、その場の自分の利益のために仰ぐ旗を変えるのは彼らにとって自分の衣装を取り換える程度の軽いものなのだ。
しかし、オレはそれを許容する気はない。


広間には公国の主たる貴族たちが参集していた。
もちろん広間の警戒には万全を期している。
傭兵のなかでもゲクランの古馴染の兵を中心に、数は少ないがベルドが選抜した騎士の中で年若く貴族の影響を受けていない者で構成した親衛隊が守備を固めていた。

「皆のもの大儀である」

形だけは平伏していた貴族たちがオレの登場とともに一斉に顔をあげる。
なかでも先頭に座していた初老の男が代表するようにうやうやしくオレに向って一礼した。

「大公様にはご機嫌うるわしくなによりのことと思います。この度不幸にも前大公との行き違いから我々との間に剣が交わされたこと衷心よりお詫び申し上げ、我ら一同ただ一人の君主として大公様にこれまで以上の忠誠を捧げることを御誓い申し上げまする…………」

「いらぬ」

にべもなくオレは吐き捨てた。
シエナに聞いた情報ではザネリ伯と言ったろうか、件の男はオレの言った言葉が理解できずに目を白黒させていた。
よほど想定外の応えだったらしい。

「オレに対して剣を向けたもの、一人たりとも許さぬ。とっととこの国から出て行け!」

ようやく解凍された広間の貴族たちから怒号にも似た抗議の声があがる。

「かか、かような厳罰は過去に例がありませぬぞ!」
「我々無くしていったい誰がこのワルキアの国土を守ると御思いか!」
「我々は前大公に脅されて仕方なく……!」


「…………仕方なくで父と兄を殺したのか…………?」

本当にこいつらは人間なのか?
こいつらにとって君主とはいったいなんなのだ?
犯人の特定こそできないが、間違いなくこの中に先代ヴラド二世殺害の下手人がいるはずだった。
それだけのことをして、なんら罪悪感を覚えていない連中など、オレの国には必要ない。

喧噪はさらに激しさを増していく
不当な処分に対する抗議、責任のなすりあい、etc・etc…………

いい加減聞いているのも飽きたのでオレは最後通告を出すことにした。

「過去がどうあれ、オレはオレに対する裏切りを決して許さぬ。父と兄に対する仕打ちを忘れぬ。唯一の寛恕として命だけは助けてやる故好きな国へと流れるがよい。不満があらば再び剣をとりて向ってきても構わぬが、その時は万が一にも命はないものと思え…………」

何様のつもりだ?という怒号があがる。お前らの大公様だっつーの。
おそらく国外追放なんかで改心するような連中じゃない。まず間違いなく敵に回るだろうが、こんなやつら傍に置いておけるか!

「わが父は先々代ヴラド二世殿下とともにヴァルナの戦いに参陣し、公を守って討ち死にいたした!祖父も曾祖父も公家には数えきれぬ功績を捧げたはず!お答いただきたい!わが父、わが祖先は何故公家のために死んだのですか!?」

そんなもん臣下が君主のために死ぬのは当然だろうが!そもそもお前が死んでからそういう寝言は言えよ!
しかしそんな内心とは裏腹にオレの口を衝いて出たのは有名なあのセリフだった………。

「…………坊やだからさ……………」


いかん、癖になりそうだ。




執務室に戻るとシエナが報告に訪れた。
今回の追放措置は何を隠そうシエナの発案である。
オレはシエナに諜報組織の立ち上げを依頼していたが、ちょうどいい人材がいるとこともなげに言い放ちやがった。
要するにお家再興を餌に、追放された貴族のなかにはスパイが多数紛れ込んでいるというわけなのだよ、明智君。

「貴族の中に二十名、貴族の使用人のなかに二十八名の協力者を確保しております。ほとんどの者はヴラディスラフのもとへ参りますが、トランシルヴァニア公とモルダヴァイア公のもとにも数名は派遣できるかと」

「複数監視を怠るなよ?」

「抜かりなく…………」

素直に情報をよこしてくれるとはかぎらないので監視役の配置は必須である。
こちらの貴族とは別系統の協力者や、監視専門の貴族協力者が監視と情報の運び役を担う。
この時代、個人レベルで間者を飼っているものは少なくないが、国家が専門の組織を立ち上げるのはこれが初めてだろう。
シエナは情報組織を運営するには最適の人材だった。
怜悧で私情を交えることなく、淡々と仕事をこなす胸の奥には自らの才能を使い尽くしたい激情がある。
頭脳の切れ方ではオレの側近中間違いなくナンバーワンといっていい。
愛想がなくて抑揚のない話し方が某オーベ〇シュタインを連想させるが顔だちはむしろミッター〇イヤーなのでそのアンバランスさにたまに吹き出しそうになっているのはないしょだ。


シエナの次にやってきたのはゲクランだった。
ネイやタンブルとともに新兵の練兵にあたっている。
貴族のおよそ三割を追放した結果ワラキア公国軍の動員力はかなり減退することが当初から予想されていた。
中立を保って難を逃れた貴族たちの戦意も当てにするのは危険だろう。
下手をすれば戦力にならないばかりか敵に回りかねない連中なのだ。
そこでオレは自営農民や自治都市から給金と引き換えに兵士の供出を依頼していた。

「まあ、オレが心配するのもおこがましいんでやすがね。連中、本当に弩と穴掘りの訓練だけでいいんですかい?」

傭兵らしいごつごつとしたたくましい風貌に微妙な困惑を浮かべてゲクランが言った。
このあたりの率直さは美徳といっていい。
オレはただのイエスマンは必要としていないし、常識に照らしてゲクランの疑問は妥当なものだからだ。

「ああ、傭兵と直轄の兵以外はそれでいい。もちろん当面の間だけのことだがな。いずれは一線の兵になってもらわなければならんが、とりあえずは現状を維持しろ」

イェニチェリ軍団が去ってオレに残された兵力はベルドと縁ある南部を中心とする貴族軍三千と、ワラキアに残った傭兵部隊二千だけとなっていた。
忠誠心の甚だ疑わしい貴族連中をかき集めればどうにか一万を超すだろうがそんな兵と行動を共にする気にはなれない。
そこで平民の戦力化を図り暫定的に二千名の訓練を開始している。

史実通りならヤノーシュが数万の兵とともに侵攻してくれまで二か月………それをこの手持ちの兵力だけで防がなくてはならない。
しかしいっぱしの軍人を育てるのに二か月という期間はあまりに短かすぎるのだった。

…………しかし速成軍には速成軍なりの戦いかたがある。
平民軍の戦力化に関してはすでにデュラムを通して様々な工房にあるものの制作を依頼していた。
大砲を買うより遥かに安上がりなものだが効果のほどは歴史が証明している………。

「そりゃ大公様がそうおっしゃるなら構いませんがね。オレは奴らを見てるといつか味方に後ろ玉くらわせやしないかと心配で心配で………」

「それでも男ですか!軟弱者!」



癖になってしまったようだよセ〇ラさん……………。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第七話 帰還編その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/11/24 18:34

トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュは不機嫌であった。
今回の出兵もやむを得ないものとはいえ、無駄な手間だと思っている。

ヴラディスラフの馬鹿が………小僧ひとり御しえぬとは………

トランシルヴァニア公国の大公にしてハンガリー王国摂政たる自分はもはやハンガリー王位を指呼の間に捉えている。
簒奪を前に余計な損害や名誉に傷がつくようなことは極力避けるべきだと感じていた。
しかし、ワラキア公国がオスマン朝の影響下に置かれてしまえば自らの王国の存続すら危うい。
ワラキアやモルダヴィアといった小国には緩衝国家として延命してもらう必要があるのである。
もちろん、その結果ワラキアとモルダヴィアの国民がどうなろうとしったことではなかった。

「前方に敵騎兵を確認!」

斥候か………それにしてもわずかに三騎とは……まったくヴラドのせがれは愚か者よの

ヴラドのとった苛烈な政治的粛正によってワラキア内の貴族の三割は逃亡し四割近くが帰趨を決めかねている。
既にワラキア軍内部の貴族からの情報でヴラド三世のもつ兵力は八千に満たないことは知らされていた。
兵力が少ないならどんな手段を使ってでも貴族を懐柔して戦力化すべきであり、一時の激情から貴族の多くを敵にまわすその有様は政治的自殺としか
表現しようのないものであった。

我がトランシルヴァニア・ハンガリー連合軍、ワラキア貴族といっしょにせぬことだな…………

なんといってもヤーノシュは強国オスマンを相手に幾度も勝利の凱歌をあげた歴戦の武将であり、兵は実戦経験豊富な古強者である。
それがワラキア公国降将を加えた三万の大軍を率いる以上、いかにヴラド三世が良将であろうとも鎧袖一触に打ち破るであろうことを、ヤーノシュ自身も、兵たちも
確信していた。




「敵の軽騎兵を相手にするな。いったん警戒線まで退くぞ」

斥候の指揮をとっていたのはベルドであった。
その指揮ぶりは堂に入ったものであり、つき従う騎士も明らかにベルドに心服している風が窺える。
ヴラドの腹心として、現場の指示を任されていたことでベルドは既に上級指揮官として全軍に認知されていた。


それにしても大公様の目の確かさよ……………!


ヴラドが早ければ二か月で敵は来襲すると言ったときは耳を疑ったものだった。
トランシルヴァニアはいまだヴァルナの戦いの傷が癒えていないものと思っていたし、謀略ならまだしもそれほど短期間のうちに軍事力行使にヤーノシュ公が踏み切るとは思わなかったのだ。

トランシルヴァニアの軽騎兵がおよそ百騎ほどベルドの後方を追走していた。
このまま鼻面を引っかけてかけずりまわし、本陣へと誘引すれば勝負は決まる。
ベルドはニヤリと不敵に笑った。
もはや大公様の判断に従うことになんの迷いもない。あの方は私などが遠く及ばぬ視点で既にこの戦場を見渡しておられるのだーー!




「来たか」

オレはなんのためらいもなく突撃を開始した敵の騎兵集団を見て腰をあげた。
打つべき手は打ち尽くしたが、なんといっても我が軍は新兵の寄せ集め………それは厳然たる事実なのである。
初めての実戦で訓練通り戦ってくれるかは未知数であった。
古来より優秀な指揮官は演説によって味方の士気を鼓舞したというが………オレもいっちょやってみるか!

オレはゆっくりと指揮台に登り眼下に怖気づいて足を震わせる自軍を見据えて叫んだ。

「忠勇なる我が将兵よ!死ぬことを恐れてはならない!しかし決して死んで楽になろうと考えてもならない。何故なら、勝利は諸君たちの生とともにあるからである!」

兵士たちの間から戸惑いの声が漏れた。
どうもこの時代の兵士は死んでこい、などという暴虐な命令に慣れすぎている。

「ワラキア!ワラキア!ワラキア!余こそがワラキアであり、兵士諸君こそがワラキアそのものである。よろしい、ワラキアに無法いたらばこれを殲滅し、隣国が無法ならばそこに法を作ってみせよう!ワラキアよ立て!立てよ!ワラキア!」


戦場に訪れた一瞬の静寂………………

そしてその静寂は、割れんばかりの歓呼の声によって破られた。

「ワラキア!ワラキア!ワラキア!ワラキア!」

実のところワラキアのナショナリズムの素養は他国に比べてかなり高い。
それこそがワラキアやモルダヴィアがトルコ統治のもとで一定の自治権を獲得しえた基であろう。
それにしても…………あんた最高だよ、ギ〇ン…………




「あれはなんだ?」

ヤーノシュはワラキア軍が見るからにみすぼらしい柵の後ろに待機している様子に首をひねった。
あの程度の柵は瞬く間に馬蹄で踏みにじられるであろうし、戦場の最前線に大型の馬車を持ち込んでいるのがまた不審だった。
戦理からすればありえないことだ。
ヴラド三世が度を越して無能なだけであるのかもしれないが、数十年にわたって戦場を往来して培われた勘が警鐘を鳴らしている。
なんだ?あれはいったいなんなのだ?
その答えは最初に触接した軽騎兵部隊が絶叫をもって導き出した。

あえて飛び越えられるほどに低く、しかし必ずどこかでひっかかるように三重に張り巡らされたそれは、この世界で初めて実戦に投入された有刺鉄線であった。
もともと馬という生き物は臆病でわずかなケガにも制御を失う虚弱な生き物である。
有刺鉄線に傷つけられた馬たちは、たちまち棹立ち、あるいは転倒して行動不能に陥っていった。
しかも、機動力を失った騎兵は弩兵の格好の的にほかならない。
衝力を失った騎兵にむかって弩兵の矢が次々に浴びせられていく。
それはヤーノシュにとって悪夢の光景でしかなかった。

「そんな、そんな馬鹿なことがあるか!」

有刺鉄線は針金の加工品である以上、安価で大量に生産が可能だ。
この二ヶ月間数か所の工房に発注して今日に備えていた。
たかが針金と侮るなかれ。その有用性は現代においてなお失われていない。

味方の屍を乗り越えて有刺鉄線の柵を抜けるとそこには目だたないが、馬が足をつまづかせるには十分な堀が掘られている。
堀の前には長槍兵が隊列を揃えて陣を組んでおり、長槍の後ろには車軸と車輪のやけに大きな馬車が陣取っていた。

ひとりの頭の働く男が馬車に向って火矢を放つが矢はむなしく金属音だけを残して大地に墜ちた。
それを目撃していた兵たちから驚きの声があがる。
補給用のお荷物程度に思っていた馬車は鉄板によって装甲されていたのだ!

しかも、馬車の間に穿たれた銃眼から放たれる矢は、安全圏に身を置く安心感からか、正確無比に敵兵を貫いていく。
柵と堀の前に人馬の死体が山のように折り重なっていくが、一向に突破口が開ける気配はなかった。

おかしい。
この戦は自分たちの知る戦とは何かが違う。
オスマンの新戦術だとでもいうのか?

ヤーノシュは目を覆う惨状に有効な手を打てない歯がゆさでいっぱいだった。
誰がこの結果を予想しえただろう。
軽騎兵は突撃の衝力を失っていたずらに的になるばかりだ。
重騎兵も同様に柵を越えることができない。
剣を主力武器にする歩兵はワラキアの長槍兵部隊の前に近づくことすらできずにいる。
これではまるで攻城戦ではないか!

……………今、何かがヤーノシュの脳裏をかすめた。

攻城戦?攻城戦!そうか、これは攻城戦なのだ。
ならば軽騎兵が役立たずなのは当たり前だ。攻城戦に必要なものは騎兵ではなく圧倒的多数の歩兵と攻城武器なのだから。

あの小僧は今日あることを予測し、この地に簡易な城を築いて我らを待ち伏せていたのか……………

気づくのがあまりにも遅すぎた。
養成に手間のかかる軽騎兵はあらかた壊滅して、残された歩兵も味方の劣勢に逃散を始めていた。
全てはこれが野戦と思い込んでいた自分の失態だ。


「撤退する…………………」

力ない言葉とともにヤーノシュは敗北を受け入れた。
その姿に先刻までの覇気はなく、十ほども年をとってしまったような悄然とした空気が敗戦を雄弁に物語っている。
しかしトランシルヴァニア・ハンガリー連合軍の悪夢はまだ終わることを許されてはいなかった。
これまで温存されていたワラキア騎兵が反時計回りに後背を衝こうと出撃を開始し、長方陣を維持した長槍兵の部隊が大きな鋏らしきものを手に自らが設置した柵を取り払おうとしている。
古来より会戦というものは撤退時にもっとも巨大な損害を出すのが運命だ。

「ワラキアの貴族どもに殿を任せろ。逃げようとしたら斬り捨てて構わぬ」


ヴラドの宣告を思い出した貴族たちから一斉に抗議と悲鳴があがる。
しかしヤーノシュはもはや彼らに気遣う必要を認めてはいなかった。
ヴラド三世に対抗するのに彼らでは何ら役に立たないであろうことは誰の目にも明らかであったからだ。



「御見事です。大公様」

信じてはいたがやはりこのお方は凄い!
ベルドはネイやタンブルとともにヤーノシュ軍を追撃しながら忠誠を新たにしていた。
ゲクランなどはまだ半信半疑で首を捻っている。

「いや、理屈はわかるんだが、そもそも理屈ってなあ何もないところからは生まれんわけで………そこがあのお人の一番すごいところかもしれんねえ」

「一刻も早くその理屈を我がものとするのが我らの勤めだぞ!」


落日とともに追撃を打ち切るまで、ヤーノシュ軍は全軍の半数以上を失った。
首都トゥラゴヴィシテ前面の都市プキオーシャの戦いはワラキア軍の圧勝で幕を閉じたのだった。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第八話 帰還編その4
Name: 高見 梁川◆766340ed ID:e30467db
Date: 2008/11/24 18:35

「どうやら勝ったな」

ヤーノシュが撤退を決断したことを見てとって、オレは安堵の溜息をついていた。
これで少しは死亡フラグから遠ざかったろうか?
いや、残念ながらその道のりは遥かに遠い。

「シエナはいるか?」

「御前に」

気配を全く感じさせぬ佇まいに何ともいえぬ居心地の悪さを感じるが、まあオーベ〇シュタインだからしょうがないか。

「ハンガリー王国にヤーノシュの敗戦を報せよ。加えてヤーノシュの責任を追及する種を蒔け」

すでにハンガリー宮廷はヤーノシュの支配下だが反対勢力はどこにでもいるものだ。
しばらくはヤーノシュも自分の地歩を固めるのに専念するだろう。
もとより彼の領土的野心は西に向いており、目指すところはハンガリー国王位、あわよくば神聖ローマ帝国皇帝位なのだから。

「御意」

既にシエナは諜報網を隣国にまで広げている。
情報というものは必ずしも人を選ばねばならないものではない、ということをこの男はよくわかっていた。
その気になればどこにでもいるその辺の大工からでも有用な情報は取れるものなのだ。
そのあたりのことがわかっていないとやり手のスパイを送り込むというような手段しかとれなくなる。
情報を分析する人間については流石に誰でもいいということはないが。


再びオレは戦場に目を向けた。
ネイが軽騎兵の先頭をきって追撃の指揮を揮っている。
長身で目立つ格好をしているからすぐにわかる。前線指揮官にはやはり見栄えも必要だな。



思えば今回の戦は当初の予想を上回る善戦だったと言っていい。
後年、大スペインの名将ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバが運用するまで、ヨーロッパ世界で野戦築城はまったくといっていいほど注目されていなかった。
チョリニョーラの戦いでフランス軍を相手に初めて塹壕を使用し、一気にヨーロッパに広まったため塹壕の父とも呼ばれている人物である。
練度において圧倒的に劣る我が軍としては、彼の方法論にのっとり野戦築城で敵主力である軽騎兵の衝力を遮断することが絶対に必要であった。
ただでさえ練度の低い部隊が軽騎兵の機動につきあわされれば壊乱は必至だからだ。
そのための柵でありそのための壕である。
しかしそれだけでは足りない。
騎兵はその速力と突進力が目につき易いが、実のところ心理的効果が存外に大きい。
馬蹄けたたましく突進してくる騎馬の群れを前に歩兵が平静を保つのは難しいのである。
そのために二つめの防壁として堡塁車両を用意した。
フス戦争において不敗のままに死亡した隻眼の将軍(後盲目)ヤン・ジシュカが、主に信者で構成された軍隊ともいえぬ部隊を運用するために
使用した装甲車両である。
オーク材の両側を鉄板で挟み、銃眼を備えたこの車両は車両同士を鉄鎖で連結すると難攻不落の城塞として機能した。
練度の低い信者たちでも安心して狙撃できるので火力戦においては無類の強さを発揮している。
急遽編成した農民兵を機能させるにはもってこいの車両であった。

そこまでしても実戦の場に新兵を投入するリスクは消えるものではない。
戦とは常に流動するものであり、ヤーノシュがこちらの弱点を衝く可能性は決して低くはなかったのである。

なんといっても別動隊を派遣されていたら対応は難しかった。
ワラキア軍は正面から野戦でやりあったら勝機はないのである。
ならばこそ、是が非にも陣地正面に敵を誘引しなければならなかった。
薄く広く斥候部隊を配置し、各所に替え馬まで用意して敵をつかず離れず本陣に誘引するよう指示を出していたのはそのためだ。
この役目を完璧に果たしたベルドの功績は大きい。
もっともヤーノシュがワラキアを侮りきっていたことが一番の敗因であることは言を待たないだろう。


見れば殿につかされたワラキア貴族たちが一斉に剣を投げ出し降伏の意を示していた。
おかげで歩兵の追撃が停滞を余儀なくされている。
放っておくわけにもいかない以上、武装解除と監視に人手を割かねばならないからだ。

「連中………オレの言った言葉覚えてるんかな?」

捕虜になるのはいい。
しかし捕虜になった後の彼らの運命について情をかけるつもりはオレには微塵もなかった。

自分は変わってしまっただろうか?
気楽な大学生柿沼正志であった自分からは考えられぬ精神の有り方にふっとそんな疑問が頭をかすめる。
変わってしまったのは確かだ。しかしそれはこの世界で暮らした二年という月日がそうさせたのか、それともいまだ胸を疼かせるヴラドの意思なのか………
現代に生きた記憶はいまだ色あせることなく心にある。
しかし現代では感じることのできなかった原初的な衝動を抑えることができない。

ただ生きるだけでは足りない。
このワラキアにオレの望む新しい秩序を築き上げてみせる。
オレが生きやすいオレの王国をこの地上に打ち立ててみせる。
オレの生きた決して消せない爪あとを、この歴史に刻んでみせる。
そんな夢想があとからあとから溢れて止まらずにいた。


「デュラムはいるか?」

「これに」

「今回日和見を決め込んだ連中どもに布告を出せ。十日以内にトゥラゴヴィシテに参集せよ。もはや如何なる理由も認めぬ。参集に間に合わぬものは余を敵にするものと覚悟せよ」

普段は陽気な商人あがりのデュラムが顔色を蒼白にしつ、唸るように首肯した。

「御意」

もはやただ生きるだけでは足りない、足りないのだ。





命令はかつて無い迅速さで執行された。
もはやヴラド三世の治世を妨げる障害は見当たらない。
日和見の貴族たちも決断の時がやってきたことを感じていた。

しかし、命令にはひとつだけ不審な指示がある。
公都トゥラゴヴィシテを訪れるものバラゴの丘を通るべし、というのがそれであった。
トゥラゴヴィシテの西部に位置するこの丘にいったいなにがあるというのか。
疑念を抱きつつも遠回りになるのを承知で貴族たちは列をなしてバラゴへと向かう…………。


草しか生えていなかったはずの丘に林ができているのを一人の貴族が気づいた。
東洋の珍しい木々でも植林したのかも知れぬ。
そんな埒もないことを考えていたものの、空の上には不自然な数の鳥たちが舞っているのがなんとも不審であった。

近づくほどに吐き気を催す異臭が立ち込めていく。

認めたくない。
認めたくはないがあの木々はもしや樹木などでなく…………。

貴族たちの願いは叶えられることはなかった。

林に見紛うばかりに林立していたのは磔の柱。
数千に及ぶかつての僚友が無惨な屍を鳥の餌にしていた。

目がえぐれ腸が大地に垂れ下がり、身体の半ば以上が腐れ落ちたその光景は貴族たちに原初的な恐怖を呼び起こした。

………かつて古代ローマでは国家に対する反逆に対して磔が課されていたという。
貴族のひとりが誰に言うともなく呟いた。



「磔公…………………」




[4851] 彼の名はドラキュラ 第九話 内政編その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/11/24 18:31

「っていうかなんでこんなに貧乏なんだ?」

「殿下の常備軍は大喰らいですからな」

デュラムの目が冷たい。
おいおいなんだよ、そのおやつをつまみ食いされたセ〇バー見たいな目は!

仕方ないだろう!常備軍の力は絶対に必要なんだから!
オスマン朝に東欧の諸国が善戦しながらも最終的に負けてしまうのはそこなんだよ!
一年中戦える軍隊と一年に二回も戦えばたちまち息切れしてしまう軍隊とではそもそも勝負にならんだろう?

「なんと言われましても常備軍が金喰い虫なのは事実です」

「だからってこの食事はないだろう!?」

オレの目の前に置かれていたのは貧相なパンが三切れとスープ…………それだけ、以上終了
ちなみに朝食ではなく昼食である。
ざけんな!これで成人男子の腹が持つかあああああああああ!!

「自業自得です」

「のおおおおおおおおおおおおおお!畜生!見返してやる!いつか腹いっぱい銀シャリを喰ってやるううううううう!!」

「意味がわかりません」

…………おふくろ、お金は魔物ばい。ばってん、おいももう泣いてよかよね?

エセ博多弁で号泣しつつ、某英国ばりの粗食に耐えるオレがいた。
うんうん、雑な食事は最低だね、セ〇バー。



一方でこんなフランクな会話に涙が出そうなほど安堵をおぼえている自分がいる。
貴族たちの処刑はそれほどに重い決意と重責を必要とした。
これでベルドら側近の態度が変わっていたらオレの精神は耐えられなかったかもしれない。
串刺しではなく磔を選んだ理由は串刺しがトルコ由来の刑罰であるのに対し磔はローマ由来の刑罰であるからだ。
ルーマニアとはローマ人の国の意であり、その風土にはローマ以来の古い伝統が残っている。
少なくとも串刺しよりは正当性を印象づけられるはずであった。
中世世界であるからには処刑などは日常茶飯事に行われているが数千人以上にのぼる大量処刑になるとそうそうお目にかかれるものではない。
しかし、中央集権化を進めるうえで、こうした示威行動は避けてはとおれぬ道であった。
少なくともオレに対する反逆することのリスクを骨身に染みさせておかなくてはならない。ルールが変わったということを知ってもらわなくては。
この先の展望を考えれば、中立派の貴族の力もまた必要になるのだから。

バルゴの丘の光景は狙い通りに貴族たちの心胆を寒からしめた。
彼らは口ぐちに公国への忠誠を約定し、今回の戦勝に対する献上品を先を争って積み上げていった。
もちろん献上についてデュラムの示唆があったのはいうまでもない。
とりあえず恐怖によるものであっても彼らの統制がとれたことをよしとするべきであろう。
長期的には彼らに対し利益をもたらしてやらねば再び敵対するようになるだろうが。

そうしたオレの施策をベルドもネイもタンブルもゲクランもデュラムも理解したうえで更なる協力を誓ってくれている。
こんなうれしいことがあるだろうか。
…………シエナの奴はわからん。あまりに表情がないし………。


結局農民兵千名と傭兵二千名をもって常備軍とすることにした。
反逆貴族の資産や中立貴族たちからの献上品で公国財政は好転しているが、ワラキアのような小国にとって常備軍の維持費はあまりに大きい。
スルタンには国内騒乱につき二年間の貢納金免除を申請したところ貴族の大量処刑に加え、ハンガリー王国軍に打撃を与えたことがよほどスルタンの心証をよくしていたようで逆に褒美までもらってしまった。
これにより生じた余剰予算は士官学校の設立と街道の拡張などのインフラ整備にあてられている。
他にもやりたいことをあげればキリがなかったが残念なことに予算のほうが先に尽きた。
無い袖は振れないのである。
もっとも史実のヴラド公に比べれば遥かに恵まれた環境であることも確かだった。
なんといっても公の最初の親衛隊は五十名から始まっている。
げに恐ろしきはやはり金の力なのだった。


「殿下、ゲクラン殿がお目通りを願っております」

「うむ、とおせ」

相変わらず日焼けしてごつごつとした野性味あふれる風貌の親父がやってきた。
これでなかなか教え方がうまいので士官学校の校長を任せている。
士官学校での教育方針は完全にオラニエ公マウリッツの軍事理論を採用していた。

16世紀に軍事革命と呼ばれるマウリッツ公の理論はオレにとってはそれほど目新しいものではない。
むしろ常識の範疇に属するものだ。
まず第一には傭兵の給料をきちんと支払うこと。
軍事費の負担にあえぐ諸国はともすれば傭兵への支払いを踏み倒したり遅らせたりしがちであった。
戦いさえ終わってしまえば傭兵は邪魔にしかならない無法者であり、約束を遵守する必要が感じられなかったのだ。
これによって傭兵は上官に対する反抗意識を持ったり、モラルを低下させたりしていた。
給料の支払いに安心したのち、傭兵のモラルは大幅に向上したという。
第二に当時ヨーロッパを席巻していたテルシオに対抗して、部隊編制の中核を大隊とした。
具体的には横25列に縦10列の長槍隊を配し、両翼に縦10列横5列の火縄銃隊、そのさらに両翼に縦10列横10列の火縄銃隊を配置してこれをひとつの戦略単位としたのである。
行動単位が連隊から大隊に縮小した結果、機動力が比べ物にならないほど上昇した。
第三は指揮命令系統の確立である。
当時の戦場では指揮官もまた戦場にいたれば馬を降り、一兵卒として剣を揮うのが常であった。
これでは戦局を見た効率的な部隊運用など出来るはずもない。
指揮官は馬を降りず戦闘にも加入しない。ただ、部隊の把握と指揮に専念させることが必要なのであった。
また、指揮官を失った部隊が烏合の衆と化すことを防ぐため大隊には三人の中隊長がおかれ、席次によって指揮を引き継ぐことになっている。
士官が増えればその下にさらに九人の小隊長を置くことも決められていた。
第四は行動様式の細分化であった。
マウリッツが執筆した教本ではただ銃を撃つことにさえ、数十の段階にわけて詳細な説明がなされていた。
当時小国であったオランダが大国スペインと渡り合うためには寡を持って衆を制する戦いかたが絶対に必要であった。
その論理的帰結として、より集団としての精度を高めることが要求されたのである。
結果スペイン軍が千名を整列させるのに一時間を要したところ、オランダ軍は倍の二千名を二十分で整列させられるまでになったという。
また、それを可能とするための日々の軍事訓練は傭兵たちに共同体への帰属意識を植え付けるという二次的な効果もあげていた。
これに関してはすでに傭兵と農民兵の間で効果が出始めているとゲクランは報告していた。

「殿下、今日は殿下に紹介したい男がおりやして」

あごをしゃくった先に精悍な中にも気品を備えた美丈夫が膝を折って控えている。
有能な傭兵の中から直臣を推薦するのもゲクランの大切な任務なのであった。

「マルティン・ロペスと申します、殿下」

オレ個人の見解だが、知性は顔と言葉に表れる。
もちろん例外もあるだろうが、おそらくこの男は貴族かそれに近い階級に所属して、高等教育を受けてきたであろう気配が感じられた。

「いずこから参った?」

「ブルガリアでございます。先祖がスペインより十字軍としてエルサレムに向い、その帰路にブルガリアに土着したものと聞き及んでおります」

なるほど、ブルガリアか……………。
1394年だから今から53年前にオスマンに滅ぼされたワラキアと同じビザンツの文明圏にある国家であった。
後年のワラキアやモルダヴィアと違い自治を許されなかったから旧支配階級の数多くが路頭に迷ったという。
マルティンの父もそうして傭兵に身を落とした没落貴族であったのかもしれない。

…………これは思わぬ拾いものになるかもしれんな……。
いずれオスマンを敵に回したとき、ブルガリアを知悉したものがいるといないとでは大きな差が出るだろう。
しかも縁者がいまだブルガリアにいるならば工作の手間もはぶけるかもしれなかった。

「こいつぁ、三年前のヴァルナで一緒に戦いやしてね。腕が立つのは勿論なんだが……ひとつ珍しい特技がありやして」

「…………なんだ?それは?」

「銃の扱いに長けておりやす。100m先の的でもはずしやしません」

銃!銃か!
正直喉から手が出るほど欲しい武器なのだが如何せん金がないために数を揃えられずにいる。
発射速度、射程距離ともに弩を上回るそれは遠くない未来に世界を変えるはずなのにだ。

だからといって銃の価値が我が軍内で低いということはありえない。
可能なかぎり増産させ実戦部隊に組み込む方針は決まっている。その意味でも貴重で有用な人材ではあった。

「マルティン、この私に仕える気はあるか?」

「殿下のご情を賜るならばこの非才なる身の全力をあげて」

「よかろう!ゲクラン、貴官にこの者を預ける。士官学校に入れた後、卒業後は銃兵の教導に当たらせろ!」

「御意」


どうにか軍は形になってきている。
まず核を作り上げてしまえば増強は容易い。

残念ながら内政に専念していられるほどの余裕はワラキアにはないからな~並行して軍事も進めていかんと………。




「殿下………………」

「おわあああっ!」

シエナめ………相変わらず気配を感じさせぬ奴……!

「ジプシーの主だった者に渡りはつけました。約定が守られれば協力は惜しまぬと」

「そうか!それじゃあ早めに布告せんとな」

14世紀に入ってバルカン半島に数多く見られるようになったジプシーは移動民族であり、特定の君主をもたないことから、各国の君主に煙たがられる存在だった。
極端なところでは略奪や暴行の格好の対象となってさえいる。
自国民でないとなれば軍隊もあえてジプシーを守ろうとはしない。むしろジプシーを迫害する自国民を味方する場合が多かった。
彼らを保護するものは彼ら以外にはいない。ジプシーはそんな孤独な民なのだ。

国内生産や兵士としての戦力にはならないが、オレにとって各国を放浪する彼らの情報網は貴重なものだ。
情報収集や情報工作の協力と引き換えに、ワラキアが国家としてジプシーに保護を与えることを持ちかけていたのである。
どうやら目論見は図に当たったようであった。

「今日の会見で聞いたところではハンガリーでヤーノシュに敵対する貴族の粛清が行われたとか…………」

摂政位であるヤーノシュがそこまで露骨な手段に訴えるということはかなり追いつめられているな。

「そういえばワラキア公が独身なのは男色をお好みなのか?そうであれば一族選りすぐりの男娼を差し出すと申しておりましたが………」



大きなお世話だ!!オレはノーマルだっつーの!
彼女いない歴22年だけど何故か童貞でないのは永遠の秘密なんだよ!




[4851] 彼の名はドラキュラ 第十話 内政編その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/11/24 18:31

大公として政務を執るオレの日常は忙しくなるばかりである。
ちっとは君主らしい優雅なひとときにひたらせろってーの!

「構いませんが………二年後泣きを見ても知りませんよ?」

このまま経済が成長せずに二年後、オスマンへの貢納金を支払うようになれば経済破綻は必至だ。
軍隊ってなんでこんなに金がかかるんだよ!LOVE&PIECEじゃいかんのか?

「なぜ大公殿下が英語をご存知なのかは知りませんが………はっきりと妄想です」

そうなんだよな………この世の中じゃ平和主義なんて……銅貨一枚の価値もない………。



戸籍の再調査に加え農民たちに対しノーフォーク農法を定着させるために人民大臣として南部貴族の中からボッシュ伯爵を起用することにした。
何でもオレがやってたらいい加減死んでしまうからな。
ちょっとはオレの苦労をわかりやがれ!

「かかる栄誉を賜るとは、このボッシュ伯カンブール身命を賭して勤めさせていただきます」

うん、別に命までかける必要はないが頑張ってくれ。

戦乱の時代だけあって逃散する民もいれば他国から流入する民もいる。
人口はなんといっても国力の目安である。一刻も早く正確な数字を把握する必要がある。
それと未だに原始的な二圃制(畑を二分割して片方を地味回復のために休耕する農法)に甘んじているワラキア農民に対し、18世紀にイングランドのノーフォーク州で始まった大麦→クローバー→小麦→カブの順に四年周期で行う四輪農法を普及させるのも大切だ。
休耕地がなくなり、牧草栽培による家畜の飼育が可能となり穀物生産力が増大したことから農業革命とも呼ばれた農法である。
この普及がうまくいけばワラキアは四年後には現在に数倍する農業生産力を手に入れられるはずであった。
それに戸籍が確定した村から順に天然痘の種痘を開始しなくては。

「おそれながら種痘は新たな疫病の元にもなりかねませぬが…………」

ボッシュ伯がしぶい表情で言葉を濁す。
流石に正面から反対はしないが気の進まぬ様子は明らかである。

「天然痘そのものを種痘させるつもりはない。主に牛が感染する牛痘があるが、これを種痘させれば発熱くらいはするかもしれないが死ぬようなことはない。
発症して伝染させるようなこともな」

「なな、なんと………それは真にございますか!?」

ボッシュ伯はまるでムンクの叫びのような驚愕の表情で固まってしまった。
オレにとってはどうということのない知識だが、実はこの治療法が確立されたのは18世紀も後半である。
それまでは人痘のかさぶたを貼り付けて天然痘に感染させるという方法が伝えられていたが、この場合ほぼ数パーセントの割合で感染したものが死亡したり、
そこからさらに二次感染を引き起こしたりするなどリスクがあまりに大きすぎた。
もしオレが言っているのが事実だとするなら(事実なのだが)ペストと並んでヨーロッパの癌と呼ばれる難病を根絶することが可能だ。
かつては古代ローマにおいて三百五十万人という甚大な死者を出し、十字軍以来東西世界の全てに蔓延してもはや定着してしまった感のあるこの病がいったいどれだけの人命を奪い続けているか。
現にボッシュの父も妹も天然痘の犠牲者だった。
これによって長期的にどれほどの人間が救われるか、ボッシュ伯には想像もつかない。

「私は……私は殿下にお仕えできることを誇りに思います!!」

この人はワラキアの希望だ。
今はワラキアの希望だが……長じれば東欧世界の輝ける星にすらなれるかもしれない………
私は……もしかして歴史的瞬間に立ち会っているのやも………。

そう感激されると面映いな。
しかし悪どいと言われようが、この際オレの評判向上のために種痘は全面的に利用させてもらわなければ。
わが国での実績が目に見える形であがってくれば、これは諸外国に対する有力なカードになる…………。


農業の次は商業だ。
商業については財務大臣のデュラムが蒸留酒の製造や流通の拡大などの様々な施策を実施しているが、デュラム一人では解決できぬ大きな問題がある。
三民族同盟による商業行為の制限である。
ここにいう三民族同盟とはハンガリー王承認のもとに1437年トランシルヴァニアで成立した条約で、サス人(ドイツ系殖民)・マジャル人(ハンガリー人)・セーケイ人(ハンガリー内の少数民族)のみを民族として公認するというものであった。
人口の50%を超えるはずのルーマニア人は民族として認められず、こと商業に関してはサス人の奴隷のような有様であった。
なにせ驚いたことに価格決定権がない。いくらで売れ、いくらで買え、というのがもっぱらサス人に決められてしまっては正常な商行為などありえないだろう。
この同盟の効力は本来ならトランシルヴァニア領内にとどまるべきものだが、ワラキアはトランシルヴァニア内にアルマシュとファガラシュという領地を所有している
ことに加え、公国に対するハンガリー王国の影響が増大したあたりから、ワラキア公国内でもこの三民族同盟の効力が暗黙のうちに通用しだしていた。
要するにオスマン朝から守って欲しければ言うことを聞け、と親分が諸肌脱いで出張ってきたわけだ。
しかし今のワラキアの現状ではハンガリーに対するなんの負い目もない。

ワラキア公国領内におけるサス人に一切の特権を認めぬ。
またトランシルヴァニア領内においても三民族同盟による特権をワラキアは認めぬこととする。
今後もなお、特権を享受することあらば、ワラキアは領内における三民族に対し、人頭税を課すものとする。
以上が先日オレが出した布告であった。
面従腹背とはいえ、オスマンに朝貢している地理的状況を生かさぬてはない。
ワラキアを東西の中継貿易の拠点として機能させるためにも国内商業の育成は不可欠なのだ。

これまで当然のように享受してきた権益を奪われたサス人の反発は激甚だった。
ヴラド三世は恣意的に国内貴族やサス人を磔にして悦にいる入っている残虐非道な為政者だ、と宣伝工作を開始したのだ。
これは史実のヴラドも経験したことなので驚きはない。
実際のところ串刺し公の悪名はサス人とハンガリー国王マーチャーシュ一世によって広められた政治的風聞なのである。
今のところオレが主権者として成功しているうちはさしたる影響はないので放置しているが…………。

…………やりすぎると火傷するってことを判ってりゃいいんだがな…………

史実においてもトランシルヴァニア内のサス人たちは奪われた己の権益を取り戻すために、ヴラドに替わる大公候補の擁立に動いている。
ハンガリー王国の援助を当て込んでのことなのだろうが、ヤーノシュにもはや昔日の面影はない。
ダン三世が表立って擁立されるようなことがあれば、それはワラキア公国軍によるトランシルヴァニア侵攻の口火になるはずであった。
その時にはもう一度ヤーノシュのハンガリー軍と雌雄を決しなければならないだろうが…………。



「シエナはいるか?」

「御前に」

「トランシルヴァニアへの工作は進捗しているか?」

我がオーベ○シュタインの返事は心強いものだった。

「既にワラキアでの政策が浸透し、ルーマニア人たちの間で不満が高まっております。彼らの優遇を約束すれば必ずや力になるものと」

人口の多数を占める民族が少数の民族によって支配され、かつ不当な扱いを受けているなら取り込みは容易い。
ましてルーマニア人は正教会を信仰する同士でもある。
ハンガリー人やドイツ系サス人はカトリック教徒だから、我がワラキアのほうに親和性があるのは当然なのだ。

「例の件はどうなった?」

もしトランシルヴァニア侵攻が現実となれば、衰えたりとはいえ大国ハンガリーをワラキア一国で相手するのは厳しい。
そうした意味で頼もしい同盟相手に交渉を持ちかけているところなのである。

「ヴェネツィア共和国の方は今のところ進展はありません。しかし上部ハンガリーのヤン・イスクラは同盟に積極的です。あとは交渉次第であるかと」

「ヴェネツィア共和国についてはオレが対応する。シエナはヤン・イスクラとの同盟をまとめろ。現状でできるかぎりの支援は約束する」

「御意」

ヤン・イスクラまたの名をギシュクラ・ヤーノシュ。
ハプスブルグ家の支援によって今も上部ハンガリーを実効支配するフス戦争の生き残りである。
フス戦争で穏健派との勢力争いに敗れたとはいえ、不敗の将軍ヤン・ジシュカが手塩にかけたターボル派(フス強硬派)の結束と軍事力はまだまだ健在で
あった。
史実では1461年にいたるまでハンガリー王国軍を撃退し続け、内部分裂により降伏するまで上部ハンガリーに君臨した。
オーストリアハプスブルグ家に領土的野心を燃やすハンガリー王国にとって、ワラキアより遥かに目障りな武装勢力であったのだ。
お互いにハンガリーの圧力を撥ね退けるために協力し合うのは共通利益にかなうし、トランシルヴァニアをワラキアが保持したならば、ハンガリー王国の北と
東から両国軍の連携が可能だ。オーストリア・上部ハンガリー・ワラキアに包囲されれば窮地に陥るのはむしろハンガリー王国の方だろう。
そうした戦略的構想をヤン・イスクラは興味深げに聞き入っていた。

面白い男がワラキアにいるじゃないか………しかもこれで十六歳とは…………!


狂い始めた歴史の歯車にまたもうひとつの歯車が加わろうとしていた………………。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第十一話 内政編その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/11/24 22:07

種痘はトゥラゴヴィシテの城前でオレ自ら率先して受けたこともあって予想以上のスピードでワラキア国内に普及していった。
しかし問題がなかったわけではない。
迷信を信じる国民に種痘を受けさせやすいよう考えた結果、これはオレが守護聖人である聖アンデレのお告げを聞いたものであると言ってやったところカトリック教会側からどえらい反発を食らったのだ。
危うくフス同様異端の烙印を押されるかと思ったが、天然痘に対する画期的種痘へ各国がなみなみならぬ関心を見せたため、しばらくするとそれも下火になっていった。
そういえば魔女狩りの時代だったな。危うく墓穴を掘るところだったよ。
しかしワラキア国内での天然痘患者が激減すれば注目している各国は先を争って種痘の方法について教えを請うに違いない。
情報漏れのないようボッシュに言っておかなくてはならないな…………。



いつ始まるかしれない第二次ハンガリー戦争のためにモルダヴィアに使者を立てた。
現在1447年時点ではボグダン二世が存命で、親友シュテファンはまだ公子として気ままな生活を送っている。
1451年ボグダン二世が暗殺され、ポーランドの傀儡政権が誕生すると同時に亡命してくることになるだろう。
この際、クーデター前に情報を教えてやるべきかシュテファンを擁してモルダヴィアに侵攻すべきか迷うところだ。
いずれにしろモルダヴィアはポーランドとオスマン、ワラキアはハンガリーとオスマンという二大国家と対峙を強いられている。
これに対し両国が手を携えてあたろうという基本方針はすんなりとボグダン二世も了承してくれた。
モルダヴィアも戦力として当てにしたいところであったがポーランドがオスマン朝と融和路線をとりモルダヴィアに色気を出している状況ではそれも不可能だろう。
なんといってもこのときのポーランドは連合していたリトアニアを合併し、ドイツ騎士団領やウクライナまでをも支配に治めた絶頂期にあたる。
通商と支援を約定できただけで良しとするべきであった。
そういえばいたずら心でシュテファンに木製のルービックキューブをプレゼントしたら涙を流すほど感激された。
おもちゃの売り出しを考えてもいいかもな…………。




「殿下、ヴェネツィアより使者が参っておりますが…………」

ようやく来たか。

地中海の女王
ほとんど海上利権だけで世界大国となったわずか人口十万の都市国家
オスマン朝の海軍を正面から撃破できる現時点で世界最強の海上勢力

その名家のひとつでもあるモチェニーゴ家の青年が今日の賓客であった………。


「遠路はるばるおいで頂きありがとうございます。願わくば両国にとって今日が幸いとならんことを」

ジョバンニ・モチェニーゴは昨今なにかと話題のワラキア大公の若さと穏やかな物腰に驚いていた。
磔公の悪名は遠くヴェネツィアまで響いているが、政戦両略に通じ天然痘の撲滅すら可能にしたといういささか眉唾めいた噂も聞こえくる男がまさかこんな少年であったとは………。
このときジョバンニ三十八歳、元老院の議員として政治家としても経営者としても脂の乗りきった時期である。
そのジョバンニにしてワラキア大公ヴラド三世は評するに余る人物であった。

「殿下のお噂は旅の途中にも聞こえておりました。お噂どおりなら必ずや有意義なお話ができるものと期待しております」


………どうせ半分はろくでもない噂だろうな……


目の前のジョバンニは流石に後年ヴェネツィアの元首に就任するだけあって申し分のない貫禄を備えていた。
この男なら感情に流されず損得を勘定して己の身の振り方を決められるだろう。
ワラキア貿易がヴェネツィアに益をもたらすなら万難を排して交易に取り組むはずだ。
もちろん十分な見返りがあっての話だが。

「話というのは他でもない。わが国はこのところ様々な商品を開発しているが販路が不足しているのでね。オスマン商人と取引するより世界に名高いヴェネツィアと取引したいと願ったわけなのだよ」

「それはそれは見込まれたものですな」

ジョバンニは自分の勘が間違っていなかったことを悟った。
ただ、オスマンの朝貢するだけの君主が発言してよい内容ではない。
むしろこれはヴェネツィアに対する同盟の用意があることを暗に示しているのではないか?
そんな深読みすらする気にさせる言葉だった。

「お近づきの印と言ってはなんだが………これを進呈しよう」

ジョバンニはヴラドに手渡された円盤のようなものを訝しげに見ていたが、ある物に思い当たって愕然とした。

「殿下!これは!」

「そう、羅針盤だ。便利そうだろ?」

便利どころの騒ぎではない。
現在ヴェネツィアも諸外国も水を張った容器に方位磁石を浮かべる形の羅針盤を使用しているが、この羅針盤は荒天下で水が荒れると用を成さなくなるという欠点があった。もちろん新米が船を静粛に扱えなくても役には立たない。
羅針盤を扱えるということは一人前の船乗りの条件なのである。
ところがこの羅針盤ときたらどうだ?
左右から宙吊りにすることによって常に水平を保つことを可能にしている。
技術的にはいつでも作れる代物だが、この類稀な発想をいったい誰が成しえたというのか!

「これは素晴らしい贈り物です………この贈り物によってヴェネツィア商船隊にはさらなる栄光が約束されましょう」

「別にオレが考えつかんでもそのうち誰かが考えたさ。多少気づくのが早いか遅いか、それだけのことだ」

「これを考えたのは殿下ご自身であると!!」

ジョバンニは度重なる衝撃にグラリと身をその引き締まった体躯をよろめかせた。
いったい何者なのだ、このお人は………!

「話が逸れてしまったな。実のところまずヴェネツィアに求めたいものは我が国の蒸留酒と本の販売だ。」

今なんと言った?聞き違いでなければ蒸留酒と本と言ったような気がするが。

「本のほうはとりあえずラテン語聖書を千冊用意したからこれをヴェネツィアの教会に無償で配ってくれ。それで大量に印刷したい本の注文をいくらでも受けてきて欲しい。費用は市価の十分の一で構わない」

書籍が大量生産に向いていないだけで本当は需要があることをオレは知っている。
グーテンベルグには悪いがこうした商売は知名度のあるほうが勝ちだ。
三大発明の一角としてヨハネス・グーテンベルグは1447年、つまり今年グーテンベルグ印刷機を発明したとされているが、残念ながら有力なパトロンが見つからず
会社を立ち上げ、ようやくその名を知られ始めるのは1454年にもなってからだった。
まして流通販路にヴェネツィアの協力が得られればもはや商売仇にはなりえない。

ジョバンニは呆然としながら気取ることなく説明を続けるワラキア大公の言葉に聞き入っていた。
保存のきく蒸留酒はヨーロッパでは引く手あまたの状態だから売りさばくことは問題ない。もともとモルダヴィアのワインは西欧で人気の銘柄だから、それを原料にしたブランデーとなれば人気が出ることは想像にかたくなかった。
それよりも画期的な印刷機によって本が安価で大量に出回るということは……それは文明への革命にすらなりかねない。
知識人と呼ばれる階級の人間でも稀少な本には生涯お目にかかれないことなど日常茶飯事であった。
医術・学術・建築術………そうした稀少本が地方においても気軽に読めるようになれば世界はまた格段と進歩するであろう。
自らも優秀な政治家であるジョバンニとしてはワラキア大公の器と将来性を高く評価せざるをえなかった。

「我がモチェニーゴに万事お任せ下さい。必ずや大公殿下の御心に沿うものと」

ヴェネツィアではなくモチェニーゴ家の名で商売を保障するあたりは、やはりジョバンニも商人の端くれであった。
これほど有望な取引相手をライバルの豪商に渡す手はない。
まったく、自分をワラキアに派遣してくれた元老院どもに感謝のキスでも贈りたいくらいだ。





「さて、ここからは裏向きの話だ。我がワルキア公国は貴国と対オスマン朝を目的とした軍事同盟を結ぶ用意がある」

一瞬にして今までの温和な空気が失せ青白く凍りついたようなヴラドの声音にワラキア貿易がもたらすバラ色の未来に馳せていたジョバンニの夢想は打ち破られた。

「どうした?貴殿もそう言われる覚悟をして参ったのではないのかね?」

気押される………一回り以上は年長で大ヴェネツィアの元老たるこの私が………!

「………ヴェネツィアの優秀な情報網なら知っているかもしれないが………次期スルタンメフメト二世はコンスタンティノポリスを征服するつもりでいる……」

どうしてそれを……こういってはなんだが辺境の君主にすぎぬ貴方が知っているのだ!

「現ムラト二世が健在であるうちはいい………しかしムラト二世が亡くなりメフメト二世が再び即位するようなことがあらば彼は少年時代の野心を今度こそ果たそうとするだろう。もはや止められる者は宮廷にはおるまい」

1446年メフメト二世がコンスタンティノポリスに出兵し、ビザンツ帝国を滅ぼそうと決意したとき宮廷内の重臣たちは隠棲していたムラト二世を再び担ぎだしその計画を葬った。幼い君主の性急な野心に危うさを感じたからだ。
予期せぬクーデターによって逼塞を余儀なくされたメフメト二世がどれほどの怨念と執念を胸中に蓄えているか想像もできない。
ただわかるのはメフメト二世の即位は東欧に新たな戦乱を呼ぶということだけだ。
しかしその真相を知るものは非常に限られていた。
ヴェネツィアの優秀な情報網以外に知りうるとすれば同じく情報を重視しているジェノバくらいか。
当のビザンツ帝国ですらこの情報は知られてないはずであった。それを知るヴラドはいったい……………。

「それほどに野心旺盛なメフメト二世がコンスタンティノポリスを手にすれば………いずれ地中海貿易は衰弱死を余儀なくされるだろう。」

海上勢力としてオスマンに負けるとは思わない。
しかし十年二十年先に同じことが言えるかは全く確信が持てなかった。
なんといってもオスマン朝は一国で全ヨーロッパを相手にできるほどの国力を持っているからだ。
いかに強大な海軍力を誇るヴェネツィアといえども、その実体は小さな都市国家にすぎない。
国力の消耗戦となれば勝ち目はなかった。

「なぜそれをご存じなのか………今それは問いますまい。確かに我がヴェネツィアの懸念もまさに地中海制海権をオスマンに奪われるかどうかにあります。
なれどそれがワラキアと同盟すべきということになるかどうかは………私にはなんとも言えませんな」

「それは承知している。軍事同盟は将来への指針として提示したまでのことだ。さしあたっては火薬と火縄銃の調達をお願いしたい。もちろん十分な見返りは約束する」

「火薬も火縄銃も現在欧州での需要の高まりから常に在庫が不足している状態です。ただの得意先というだけでは調達は難しいでしょう」

フス戦争で使用された拳銃が、弩をしばしば火力で圧倒したこともあり、ヨーロッパ世界では順次弩から火縄銃への更新が行われてきている。
ワラキアがそこに割り込もうといってもない袖は振れない。
よほどの好条件を提示できないかぎりワラキアに回す余裕はないはずだった。


「見返りは用意すると言ったはずだ。現在我が国では様々な商品を開発中ではあるが………海戦においては無類の強さを発揮する兵器を供給する用意がある」

海戦で有効な兵器だと?
大砲だろうか?いや、残念ながら大砲はいまだ発射速度・命中率とも信頼すべき精度に達していない。
いまだ海戦の主流は接舷戦闘や衝角戦術であるのが現状だ。
そう言えば噂にだけで実際に目にしたことはないがビザンツ帝国には恐るべき武器が伝えられていると聞いたことが…………まさか!



「ご明察恐れ入るな。そう、我が国は貴国に対し、ギリシャの火を供給する用意がある」


ジョバンニの双眸が限界まで見開かれた。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第十二話 内政編その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e6f4b4c4
Date: 2008/11/27 21:42


「ご………冗談でしょう?」



ジョバンニの言葉がひび割れたものとなるのも無理からぬことであった。

ギリシャの火………ビザンツ帝国で門外不出の秘伝とされコンスタンティノポリス防衛に幾度となく威力を発揮した伝説の兵器。

空気に触れると着火する神秘の液体。

その火炎によって幾千の軍船や兵士を焼き払ってきた当時の技術では防御不能な決戦兵器。

それがワラキア公国に伝授されているなど考えるほうがおかしい。



「厳密にはギリシャの火に似たようなもの………ですかな?ギリシャの火の現物はまだ見たことがないのでね」



「それは……いったいどういう………」



まさかとは、まさかとは思うが……………。



「話に聞いたギリシャの火ってのはホースから火炎を噴出す、水をかけても消えない火だったかな?それがギリシャの火だというならワラキアで開発したものも間違いなくギリシャの火と言えましょう」



今度こそジョバンニは言葉を失った。









概ねジョバンニとの交渉は成功だったと考えていいだろう。

ギリシャの火は予想通り切り札として有効だった。

なにせ水をかけても消えない火炎放射器は陸上以上に海上でこそ厄介な兵器なのである。

言わずもがなこの時代の軍船は全て木造であるからだ。

ようやく大砲が普及しつつあるとはいえ、ただの鉄球でしかない砲弾は一撃で撃沈というほどの威力はないうえ発射速度・命中率・射程の全てにおいて信頼性に欠ける。砲撃戦が海戦の死命を制するには百数十年後のレパントの海戦を待たなくてはならないのだ。

海上勢力に国家の命運を託しているヴェネツィア共和国では喉から手が出るほど欲しいはずだった。





しかし錬金術士がこんなところで役に立つとはなあ………

国内で科学的素養のあるものを選抜したらほとんど錬金術士になってしまったのだから仕方がないんだけど。

彼らの思想は理解に苦しむが、未知のものに取り組む姿勢だけは素晴らしいものと言えた。

オレが油田の場所を教え、ギリシャの火の製作を依頼してからわずか三ヶ月で現物を作り上げてくれたからな。



実のところギリシャの火というのはビザンツ帝国の滅亡とともに歴史の彼方に消失した技術なのだが、現代においていくつかの推測はなされていた。

最も有力な説は硫黄・酸化カルシウム・石油を大釜で熱しサイフォンの原理で汲み上げたものであろうとする説とナフサに硫黄・松脂

を混合したものであろうという説である。

しかしオレが作らせたものはそのどちらとも違う。その意味で厳密にギリシャの火とは呼べないのかもしれない。

オレが作らせたものは中世版のナパームだ。

ナパーム………ベトナム戦争で米軍が大量に使用し、そのあまりの殺傷性に使用が自粛されたといういわくつきの兵器である。

威力の割りに製法は簡単で、原油を常圧蒸留したときにできるナフサにパーム油から抽出した増粘剤を混入してゼリー状にしたというだけだ。

極めて高温で燃焼し、親油性が高いため水をかけても消えない。また燃焼する際酸素を大量に消費するので近くにいただけでも酸欠で窒息死する可能性があるという恐ろしい代物である。

常圧蒸留は錬金術士の技術で十分できるものであったからあとはパーム油にかわる増粘剤の発見だけだったのだが………いともあっさり鯨油から抽出した脂肪酸で代用しやがった。

……………錬金術士恐るべし!











それから四か月ほどの時がたち年が替わった。

ヴェネツィア商人が領内を訪れるようになり国内商人も順調に力を付けてきている。

海のないワラキアはモルダヴィアの交易都市キリアを使うしかないが、それがモルダヴィアとの貿易を活発化させ両国によい影響をもたらしていた。

ヴェネツィア商人もモチェニーゴ家の独占を許すまいと続々とワラキアに取引を申し込んでおり、デュラムも大わらわの状態だ。

種痘も順調で既に国民の八割が種痘を受けている。

今年中に羅患者が目に見える形で激減すれば各国はこぞってワラキアに教えを乞うだろう。

実のところ既にモルダヴィアやヴェネツィア・ジェノバ・フィレンツェなどから複数の打診を受けているのだ。

残念ながら各国で期待されているペストのワクチンまではオレの知識ではつくれない。

衛生管理の浸透を指導してやることが精一杯だ。

これに関してはワラキアが先駆けて公衆トイレの設置や煮沸消毒などの衛生指導などを行っている。

トイレの糞尿は国家が買い上げて肥料や硝石の原料(土硝法)にすることになっていた。



国力の増進は今のところ順調だ。

来年からはオスマンへの貢納を始めなければならないが増収分でお釣りがくるようになるだろう。



増えてきた予算の投入先だがやはり軍事費の増強は避けられない。

軍事的にいってワラキアはまだまだ小国の域を出ていないのだから当然だ。

近代編成の二個大隊が練成中とはいえ、その数わずか三千。常備軍としては大きい数字ではあるが最終的な動員兵力ではやはり大国には及ばない。

兵力差を解消するため青銅砲の小型化と車輪付砲架の配備を進めているところだがこれがまた大喰らいだ。

一回の実弾演習で火縄銃隊一個大隊分の火薬を消費してしまう。

近代戦を戦うには産業革命を待たなくてはならないのかもしれなかった。







「こちらにおいでになりましたか、殿下!」



演習を視察中のオレが単独行動しているのに慌てふためいた様子でベルドがやってくる。

………後に考えれば計算された罠と言えるのかもしれない。

衛兵に紛れ込んだ刺客が、抜刀して斬りかかってきたのはまさにその瞬間であった。



「悪魔ヴラドに天罰を!!」

「先祖の恨み思い知れ!」



鎖帷子を着こんだ重装の騎士が二人雄たけびをあげながら吶喊してくるのが見て取れる。

おそらくは粛清した貴族の縁者であろう。

暗殺のタイミングとしてはこのうえないところだった。

護衛の騎士はおらず、オレは多少豪奢ではあってもただの洋服を着ている状態にすぎない。

しかし……………





-………夫れ剣は瞬息、心・気・力の一致なり-





考えるより先に身体が動いていた。

鎧ごと断ち切ることを課せられた騎士の剣は予備動作が大きい。
落ち着いて軌道を読めば避けることは困難ではなかった。

師範の太刀筋はこんなレベルじゃなかった……………。

この世界に訪れる前、
幼い日から身に覚えた剣の理は今でもオレの中に生きていた。
この見切りと切り落としがオレに残された在りし日の象徴であった。


-一心一刀に専心し二心二刀を持つべからず。之一刀の極意なり-



避けざまオレは男の顔面に剣を突き入れた。
道場剣法であるオレの剣では鎖帷子ごと断ち切るのは難しいからだ。

予想外のオレの反撃にほとんど避けるそぶりもなく男の顔に剣が突き立つ。
びくりと脊髄を硬直させ一人目の男が崩れ落ちた。あと一人…………!

もうひとりの刺客はオレの剣技に動揺してしまい、仲間の死が作った隙を生かすことができないでいた。

もしかすると、こいつもそれほど実戦の経験がないのかもしれない。
相討ち覚悟で身体ごとぶつかってこられたら危うかったのだが。

余裕を持って刺客に向き合ったはずのオレを激痛が襲った。

左足の脛を一本の矢が貫いていた。



………しまった………弩の射手がいたのか………!



体がなす術なく左へと傾いていく。

嫌らしい笑いを浮かべた刺客が歓喜とともに剣を振り上げて………………





頭を吹き飛ばされた。





振り向けばマルティン・ロペスの火縄銃から硝煙が上がっている。

100m先の的でもはずさない銃の達人というのは真実であった。



「貴様あああああああ!」



憤激に我を忘れて弩の射手に斬りかかるベルドをオレは制した。



「殺すな………捕らえたらすぐにシエナに引き渡せ………」





忘れていた。

この世界が悪しき戦乱の巷であるということを。

オレが殺し、オレが殺させた幾千の命のうえに今が成り立っているのだということを。

そうして殺し続けていかないかぎり、今は決して未来には続いていかないのだということを…………。



だが、今やオレはそれを思い出した。

そして二度と忘れはしない。

たとえ幾万の屍のうえに立とうとも、オレはオレの理想と幸せのためにそれを踏みにじって見せる!



オレが意識を保っていられたのはそこまでだった。











「ご報告にあがりました」



ベッドに身を預けたオレの元にシエナが訪れたのは襲撃から三日後の夜だった。

月明かりしかない部屋の中で蝋燭すら点けようとせずにシエナは続けた。



「刺客はヴラディスラフについた貴族の一党です。先年ヴラディスラフの死後息子のダンを擁してハンガリー王国に支援を要請しておりましたが舞い戻ってきていたようで。」



「常備軍はオレの子飼いだ。どうやって進入した?」



「出入りの商人に化けて潜入して幕営の中で入れ替わったようですな。馬小屋の陰から騎士に死体がふたつ発見されています」





もはやからくりは読めた。

次にシエナが言い出す事実をオレは正確に予想することができる。

それは……………



「出入りしていた業者はブラショフと取引のある新興の商人です。そして舞い戻ってきたのは刺客たちばかりではありません。御輿であるダンもまた、家臣団とともにブラショフに滞在しております。つまり…………」



既得権を失ったのがよほど腹に据えかねたと見える…………



「この件の首謀者はブラショフのサス人商人です。彼らはハンガリー王の腰が重いのに業を煮やし、先代の遺児ダンに政権を取らせるべく画策したのです」





オレは腹の底から哂った。

共存の道は与えた。それが嫌だというのなら仕方あるまい。

しかし共存できぬというからにはどちらかが死滅するまで戦う覚悟を決めたと考えて良いのだろう?



「確かヤーノシュは先月からまた上部ハンガリーに出兵していたな」



「御意」



残念だったな、ブラショフの市民よ。貴様らはワラキアを舐めすぎた。





「ヤン・イスクラに兵糧を送るともに戦いをできる限り長引かせるように伝えろ。トランシルヴァニアのルーマニア人には資金を与えて三民族からの解放を煽動せよ。兵が整い次第、ブラショフに出兵する」





1448年春、再びワラキアを戦の嵐が訪れようとしていた…………。






[4851] 彼の名はドラキュラ 第十三話 トランシルヴァニア侵攻その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/11/27 21:42



トランシルヴァニアの経済的支配階級はサス人(ザクセン人)である。

ハンガリー王位を神聖ローマ帝国皇帝が兼任した結果、植民したドイツ系移民は様々な特権を現地で享受することができたからだ。

彼らは商業を中心に成功を収め、トランシルヴァニア内にドイツ風の自治都市を建設するまでに繁栄した。

この都市群をジーベンビュルゲンといい、ブラショフとシギショアラはその中心的役割を果たす商業都市であった……………。









「失敗したというのか!」



激昂する男………パルドイはブラショフの有力商人でブラショフ商会の代表を務める男だった。

全くあの男………磔狂の悪魔がワラキアに来て以来やることなすことがうまくいかない。

価格決定権を失っただけでも致命的な損害であるのに、二ケ月前からの貨幣通用令によって、オスマンのアスパー銀貨とワラキアのダカット金貨の併用が定められハンガリーの一フロリン金貨も含めた強制交換比率が施行された。
これにより、ハンガリーのフロリン金貨の交換比率をことさら高く設定していたサス人商人は再び大打撃を蒙っていたのである。

しかも最近はヴェネツィア商人が大手を振ってワラキア国内を闊歩しており、ブラショフの景気は冷え込む一方なのであった。





「全くヤーノシュ公もことの重大性をわかっておられぬ!」





あの磔公の力が増すということは即ちオスマン朝の力が増すということではないのか。

その脅威を前になぜキリスト教徒同士が争わなくてはならないのか。

上部ハンガリーのフス教徒の残党など、所詮は根なし草であり、時間をかけて交渉すれば取り込むことはそれほど難しいことではないはずなのにやっきになって征伐に走るヤーノシュには不信感を拭いえない。

もっともこれはハンガリー王位を狙うヤーノシュにとって取り戻さなくてはならない自国領土であったからなのだが。



「パルドイ殿には誠にご苦労をおかけする。奴を打ち払い正当な公位を回復した暁には必ずやこの恩義に報いよう」



ダンとしては現在のところ唯一のパトロンに降りられてはかなわない。

激昂するパルドイをなだめるように甘い将来像に口を上らせる。



「いかにあの男でも所詮は人間。しかも後継者のいない虚弱な政権は奴ひとりが倒れるだけで瓦解する砂上の楼閣のようなもの。次こそはきっと息の根を止めて御覧に入れる」



パルドイはダンの言葉に頷いては見せたが心の靄は晴れなかった。

ダンの頭にはワラキアの発展も経営戦略もない。

ただ公位への妄執があるだけだ。

はたしてこの男にかの磔公を倒せるものだろうか…………?



いや、倒してもらわねばならぬ。隣国の名君などこちらにしてみれば迷惑以外の何物でもない。

愚鈍な君主に名誉を、そして我々の懐には金を。そんな利益を同じくする関係がもっとも望ましいものであるはずだった。



しかしそれぞれの未来に思いを馳せる二人が、全く見逃している事実がある。

それは利益を共有しているダンとパルドイは、彼ら自身の不利益もまた共有しているという事実であった。











「お加減はよろしいでしょうか?殿下」



ベルドがしきりとオレにまとわりついている。

お前はオレのお母さんか!



「大事ない」



先日の襲撃に対してこいつが責任を感じているのがわかるから強くは言わないが、流石にこう気を使われると居心地が悪い。

だいたい護衛として手練が選抜されているからベルドがどうこうする余地はないのだ。



「やはり考え直してはいただけませぬか?」



「…………すでに決まったことだ」



ベルドもネイもタンブルもオレが戦場に出ることについてはこぞって反対していた。

敵国の懐に飛び込む以上心配はもっともだが、この戦いは戦場だけで決着のつくものではない。

である以上オレの出馬は必然なのだ。

そのあたりのことがわかっているのかゲクランは黙して語らない。何気ない風を装ってマルティンが近くを徘徊しているのはご愛敬だろう。



「今は学べ。オレがお前に安心して采配を任せられるまで、な」



夜陰に紛れて兵が行く。

そのいでたちは紅く染められた軍装で彩られていた。

つい先頃完成したばかりの常備軍専用の羽織である。

本当は軍服にしたかったのだが、いまだ火器が十分に発達していないのでほとんどの人間が鎖帷子や鎧を着こんでいるのでやむを得なかったのだ。



…………南カルパチア山脈を越えればブラショフは目の前だ。



トランシルヴァニアの主要都市は南部に集中している。

北と西を二千メートル級の山脈に守られた天然の要害だが、南部の標高はそれほどではないうえ、距離的にも近いのでそれほど大きな侵攻の障害とはならない。

心配があるとすればトランシルヴァニアの地形は西に向ってはなだらかな平野が続いており、ハンガリーからの速やかな援軍が得られるという点であった。



シエナの諜報によればヤーノシュは相変わらずヤン・イスクラに拘束されており、トランシルヴァニア兵の半ば以上が従軍中とある。

留守を守るのは後にヤーノシュの遺志を継いでハンガリー王位に昇りつめたマーチャーシュ一世ではなく兄にあたるフニャディ・ラースローであるが、両名とも父親ほど

には戦場での勇を伝えられていない人物のはずだった。もちろん油断は禁物だが。



………いずれにしろ倒すのみだがな………



索敵の軽騎兵が本隊を追いぬいてカルパチアの山並みに消えていくのが見えた。

これもようやく間に合った望遠鏡と弩を装備している。

ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を取得するのは1609年だから大きなアドバンテージを得たと言えるだろう。

偵察任務にとってはかけがえのない品だ。



しかし斥候として散る軽騎兵の任務は敵の動向を探るばかりではない。

味方の行動を秘匿するため目撃者を消すということも重要な彼らの任務なのだった。













…………………おかしい



トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュのその歴戦の勘が警鐘を鳴らしている。

ヤン・イスクラ率いるターボル派の残党との戦は、彼らの防御壁を崩すことが出来ずにこう着状態に陥っていた。

堡類車両と短銃で武装した彼らの戦術は、先年野戦築城によってハンガリー軍を撃破したヴラドの戦術とよく似ている。

だからこそ、今回の出兵でヤーノシュは軽騎兵を下馬させ攻城兵器まで投入して射撃戦に徹していた。

ハンガリーが誇る野戦機動部隊はこの種の防御部隊に相性が悪すぎるのだ。





おかげで損害こそ極限されているが戦況は一向に動かない。

しかし不審なのはいつになくヤン・イスクラの守備が重いことであろうか………。



彼らは土地を守ることに固執しない。

戦況が悪くなればとっとと逃げ出し敵を引きずりこんで再び反撃に出る。

延々と続く射撃戦は決して彼らを利するものではないはずだ。

にもかかわらず消耗を承知で射撃戦を継続する彼らが、何とも言えず不気味に思えるのだった。



…………何がある?いったい何をたくらむというのだ、ヤン・イスクラ!



目に見えて敵の防御火力が落ち込んでいる。

堡塁車両と濠だけでも防御効果は十分だろうが、このジリ貧の状況ではそれも時間の問題だと思えるのに…………

疑念が晴れない。またもや罠に引きずり込まれているようなそんな予感が消えない………。



……………ならばその罠、噛み破るのみ!







「ちったあ、あの親父も頭使ってんじゃねえか!」



ヤン・イスクラは狩人が獲物を目の前にしたような歓喜と闘志が入り混じったような複雑な顔でそう評していた。

馬鹿の一つ覚えのように突撃を繰り返していた十字軍の連中とはさすがに一味違うということらしい。

二つだけとはいえ、この戦場に投石器を持ち込んだことは感嘆に値する。

おかげで貴重な堡塁車両を幾台も失うはめになってしまった。



「しっかしなあ………自分が有利なうちは退けんだろう?ヤーノシュさんよ」



戦が不利な時に退くことは容易い。

しかし現に味方が押している状態で退くことは至難の技だった。

もうひと押し、もうひと押しで敵を崩せるという勝利への誘惑は抗しがたく恐ろしいほどに魅力的なのである。

これまで苦渋を飲まされてきた相手ならなおのことだ。





残念ながらいくら頑張ったところで味方は崩れない。

ヤーノシュの目には我々が弱りつつあるように見えるだろうが、それはあえて兵を退かせ示弱してみせているにすぎない。

全ては今後に行う総反攻のために。



「坊主…………あんまりオレを待たせんじゃねえぞ!」



射撃戦のあい間に行われる歩兵突撃への対応の指揮を執りながら、ヤン・イスクラは遠い東の空へ笑みを向けた。











ブラショフの城壁の上で灯火が振られていた。

城壁から数百m離れた小さな林でも、同じように灯火が振られている。

まるでそれをリレーするように数百m離れた街道で再び灯火が振られる…………。



ブラショフの街が宵闇のまどろみを享受しているころ、カルパチア山脈を越えた真紅の兵団が街道に姿を現そうとしていた。





「トラ・トラ・トラというところかな………………」



シエナが組織したルーマニア人組織は城壁の見張りの無力化に成功した様子であった。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第十四話 トランシルヴァニア侵攻その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:07e5eb30
Date: 2008/11/28 21:02


如何に見張りの幾人かを無力化しえたにしろ、数千の軍勢が攻めよせる音を隠しきることはできない。

地鳴りにも似た低く這うような揺らぎが、城壁に立つ兵士に遅すぎる事態の到来を察知させた。



「ワラキアが……ワラキア軍が攻めてきたぞーー!」



鐘が打ち鳴らされ、仮眠していた傭兵たちがおっとり刀で飛び出してきた時、戦いはすでに始まっていた。



「放て」



城門前に運ばれた砲架式の青銅砲が火を噴くと同時にワラキア歩兵の突撃が始まった。

兵数に劣る守備軍はマルティンの指揮する火縄銃隊に射すくめられて効果的な対応がとれない。

至近距離からの大砲の斉射を受けた鉄の城門は実にあっさりとその役目を放棄していた。



「タンブルの中隊は街の出口を固めろ。ネイの中隊は傭兵たちの掃討にあたれ。ゲクランはルーマニア人協力者に従ってダンとパルドイを捕捉せよ」



「「「御意」」」



都市を守る城壁も、多額の費用を払った傭兵ももはや全てが無用の長物と化している。

圧倒的なワラキアの軍威の前に傭兵は逃亡を始めており、城門ばかりか裏門もまた、内通したルーマニア人によってワラキア軍が引き入れられていた。











「こんな………こんな馬鹿な………!」



パルドイは何かに裏切られたような思いで一杯だった。

ワラキアの小勢がトランシルヴァニアに侵攻してくるなどということがあって良いものか。



物の道理をわきまえぬ馬鹿ものめが…………!



トランシルヴァニアがワラキアに攻め込んでもワラキアがトランシルヴァニアに攻め入ることはありえない。

なんとなればトランシルヴァニアはハンガリー王国摂政フニャディ・ヤーノシュの領地であり、ワラキアの貧弱な軍勢に十倍する大軍を用意することが可能だからだ。

嫌がらせに山賊まがいな略奪を働くことはできても、れきとした軍事侵攻を行うことは自殺行為に他ならない。



…………それがわからぬほどの愚か者だということか………!



しかし世界のルールはパルドイの思うほど不変なものではない。

プレイヤーが変わればすぐに変えられてしまうのがこの世界のルールというものであった。



「家財を持っていく余裕はないか………全く忌々しいことだ…………」



喧噪が街の中心部にまで広がりつつあるのがもはや肌で感じられるほどだ。

一刻の猶予も許されない。全ては命あっての物種なのだから。



「…………マルトー!マルトーはいるか!?」



パルドイは長年に渡って仕えてきた執事の名を呼んだ。



「いいか、金を急いで地下室に隠すのだ。倉の商品はもはやどうしようもないが現金だけは守り抜け。援軍が来るまでさほどの時間はかからん。決して地下室の存在をワラキアの田舎者に気取られるなよ?」



そう言いつつもパルドイはこの老執事に全ての後事を託すつもりは毛頭ない。

金の運び込みが終わったら別口の奴隷に始末させてしまうつもりでいた。死人は口を割らないのだ。



「お言葉ながらそれは無理でございます、旦那さま」



肯定の言葉以外を口にしたことのない執事の思いもかけぬ反抗にパルドイは目を剥いた。



「貴様………何を言ってるかわかっているのか?」



部下とはいえ人権思想などないこの時代のこと、使用人の命など代えのきく消耗品にすぎない。

ワラキアの暴走に踊らされているのならこいつはもう用無しだ。



「誰かある!この者を……………!!!」



今度こそパルドイは絶句した。

屋敷内にいる使用人のほとんどが、憎々しげな眼差しを自分に送っていたからだった。



「お気づきになりませんか?旦那さま、当屋敷の使用人はほぼ九割以上がルーマニア人でございます」



ルーマニア人は低労働者に。それがこの国の伝統であった。



「しゅ、しゅ、主人を裏切るというのか、使用人にすぎぬ貴様らが!」



「今日この日より我々がトランシルヴァニアの主人となるのです」



使用人たちが包囲の輪を狭めてくるのをパルドイは悪夢を見る思いで震えながら呟いた。





「…………………………神よ」















パルドイの盟友ダンもまたワラキアの侵攻に恐慌をきたしていた。

ただの御輿にすぎぬ彼は同行していた貴族の半ば以上に見捨てられ、傭兵の逃亡とも相まってほとんど丸腰同然で置き捨てられていたのである。



噂に聞く磔公のもとに降伏することなど思いもよらない。

逃げなければならない。

しかし逃げるべき兵も手段もない。

狂乱の巷を右往左往しながら、ただワラキア兵から遠ざかるべくダンは足を動かしていた。



「公子様」



「な、何かいい知恵でも浮かんだか?」



一縷の望みを託すように父の代から仕えてきた貴族の男に問いかける。

いつも誰かの指示に従うことでしか己の運命を決めてこなかったダンはそのツケを払わされることになった。



「貴方という土産があれば、かの磔公も悪いようにはしますまい…………」



助けを求めて周りを見回すダンの目に映るのは、保身のためにぎらついた目を見開いて獲物を見つめるかつて仲間であったものたちの残骸であった。



もはや助けのないことを思い知らされたダンは奇しくもパルドイと同じ言葉を紡ぎだした。





「…………………神よ」













ブラショフ陥落の報はシギショアラのトランシルヴァニア宮廷に激震を走らせた。

都市の防御力というものが高いこの時代、わずか一夜で都市が陥落するということは珍しいことであったし、先代ヴラド二世の時代にはハンガリーの保護国化さえしていたワラキアがこのトランシルヴァニアに侵攻してくるなど驚天動地というほかはないものであったからだ。



「おのれヴラド!慮外者め!」



留守を預かるフニャディ・ラースローは若干15歳らしい激情とともに叫んだ。

父のいない国は自分が守らなくてはならない。

若さゆえの純真な使命感がラースローの戦意を滾らせていた。



「セスタス、兵はどれほど残っている?」



父が残していった歴戦の腹心に問いかける。

トランシルヴァニアはいまだ常備軍を用意していない。

軍役を負った貴族の半ばは父ヤーノシュとともに上部ハンガリーの地にあるからどれほどの動員が可能かはラースローには判断がつかなかったのだ。



「一万には届きますまい」



セスタスはざっとトランシルヴァニアに残された貴族の顔ぶれを思い出してラースローに告げた。

同時にラースローが血気にはやらぬよう忠告することも忘れない。



「ブラショフが落とされた以上東部の諸侯は当てにはなりますまい。大公殿下の援軍を待つが上策と心得ます」



ブラショフはトランシルヴァニアの臍のような都市だった。

ここの陥落はトランシルヴァニアを東西に分断されたに等しい。

十分な兵力を期待できない以上、万全を期すべきだとセスタスは考えていた。



しかしラースローはセスタスの消極策にはあからさまに不満であった。

聞けばヴラド三世16歳、自分とたった一年しか変わらぬ少年である。

16歳のワラキア君主にできることが15歳の次代トランシルヴァニアを担う自分にできないことがあるだろうか!



ラースローの檄文とともに伝令の兵があわただしく国内を往来し、数日後には北部と西部の残存貴族から七千の軍勢が参集した。





このとき、セスタスは既にワラキア軍がブラショフを離れワラキアへ帰還していることを疑っていなかった。

いかにワラキア公が戦上手といえどカルパチアを越えてブラショフを維持するのは荷が勝ちすぎるはずであったからだ。

しかもブラショフを出てこのシギショアラへ向かい雌雄を決しようとしているという報も聞かない。

である以上セスタスの想像は軍事的にいって全く妥当なものであった。



ところがここで事態は一変する。

一人の騎兵がブラショフにヴラド在り、との情報を携えてきたのである。

ヴラドに随行する兵、わずかに二千弱。

ヴラドはブラショフの根こそぎ供出させた財産を馬車に詰めるだけ詰め込み、またダン一党を磔にしていまだ悦に浸っているという。
このままではサス人商会の者たちの命も風前の灯である、と兵士は申し添えた。



「直ちに出陣する」



「………お待ちを。ヴラドがいまだにブラショフにいるのはおかしい……何があるかしれませぬ」



しかしその場に参集した貴族たちにとってワラキア兵がわずか二千でブラショフにいるというのは肥え太った獲物を目の前に晒されたに等しかった。



ワラキアのひよっこなぞなにほどやあらん!

ブラショフの民を見捨てるな!

公子殿下の武威を今こそ見せつけてくれん!



勇ましい掛け声を一身に浴びてラースローは高々と抜剣した。



「我れフニャディ・ラースローは神に誓う。暴虐なヴラドに神の裁きを!そしてトランシルヴァニアに勝利と平和をもたらさん!」



慎重論を唱えるセスタスが口を挟む余地もなく瞬く間に軍議は出戦に決した。

手柄を立てるのは今だと言わんばかりに我先に貴族たちが己の兵を東に向けていく。

勝ち戦を信じて疑わぬ味方にセスタスは危うさを隠せなかった。



かくなるうえはこの身を以ってラースロー殿下をお守りするよりほかあるまい…………。



それに何かあると決まってわけではない。

むしろ何もない可能性のほうが高い………………。



ヴラドの動向に不自然さを感じるセスタスではあるが、ではヴラドが何をしようとしていくのかと問われれば想像もつかぬのもまた事実であった。









………しかしラースローより直々に褒賞を受け取った兵士が、ルーマニア人であったことに注目したものは誰一人としていなかった。

そして褒賞を受けた後、いずこともなく姿を消したこともまた……………。






[4851] 彼の名はドラキュラ 第十五話 トランシルヴァニア侵攻その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:07e5eb30
Date: 2008/11/28 21:01

ブラショフの街に翩翻とワラキアの旗が翻っている。
略奪しただけではあきたらず、ブラショフを我がものとでも言うつもりか!
トランシルヴァニア軍の面々は許容できぬワラキアの無法に対して嚇怒していた。

「全ての出口を封鎖せよ!決してワラキア公を外に逃がすな!」

腹立ちは納まらないが、これはトランシルヴァニアにとってチャンスでもある。
わずか二千の兵を率いて侵入してきたワラキア公を捕えることが出来れば、ワラキア公を幽閉して代理統治することも傀儡を立てることも思いのままだ。
それはこれまでワラキア相手に蒙った損害を贖ってなお余りあるものであるはずだった。

「かかれ!」

急遽編成した軍に投石機や破城槌などの攻城兵器は携行できなかったが、三倍以上の兵力と地の利があれば攻略は難しくない。
誰もがそう考えていた。
ブラショフに立て籠もるワラキア軍は補給を断たれて孤立しているのであり、孤立した兵は加速度的に士気を失うものなのだ。

破壊された城門から突出する形で土嚢と木材で補強されたバリケードのようなものが築かれていたが、そのみすぼらしい外見に侮った歩兵が突撃を開始する。

「…………ようこそ、トランシルヴァニアの諸君、そしてさようなら」

出来うるかぎり引きつけて斉射された火縄銃隊の一撃が与えた損害は激甚であった。
あえて城門から前面に突出した形で構築された野戦陣地は巧妙に形成されたキリングフィールドでもあったのだ。

火砲の発達とともにその効率的運用法として十字砲火の概念が生まれる。
火縄銃は連射能力に乏しく、一方向からの射撃では歩兵の突撃を阻止しきれないことから生まれた運用法だった。
正面の射撃だけでは止められない。ならば左右からの射撃をも集中させた特火点を作り出せばどうか。

ブラショフ前面に配置された火縄銃隊が正面・左面・右面から最大火力を発揮できるクロスファイヤーポイントこそ、野戦陣地前に他ならなかった。

「な、なんだ………ワラキア軍はいったい何丁の火縄銃(アルケブス)をこの戦場に持ってきているのだ…………」

あまりの火力の集中にトランシルヴァニア軍はワラキア軍の火縄銃の総数を完全に誤解した。

三方向からの斉射を浴びて負傷者が続出した歩兵が壊乱する。
歩兵の撤収を援護するべく騎兵部隊が入れ替わろうとすると今度はワラキア軍の長槍隊が隊伍を組んでうって出た。
槍先を揃え、陣形を乱さぬ槍兵には騎兵は手も足も出ない。
騎兵の自由を奪った槍兵部隊が混乱を収拾できぬ歩兵を蹂躙していく。
突撃からわずか数十分の戦闘でトランシルヴァニア軍は数百に及ぶ損害を出して後退を余儀なくされたのだった。




「…………あの男は悪魔か!」

損害を聞いたラースローは驚きとともに叫んだ。
彼我の戦力差三倍以上、目標は勝手知ったるブラショフの街、勝利を確信し戦闘を開始してからわずかに半刻にしてトランシルヴァニア軍が蒙った損害は死者百二十名
負傷者三百名を数えていた。

この戦いはおかしい、何かが間違っている……………。

誰もがそう思い、理解の及ばぬ未知なるものを恐怖するようにワラキアに対する恐怖が広がっていく。

「こちらも柵を立て包囲を厳重にして持久戦に徹するべきと存じます」

そんな雰囲気の中でセスタスの献策はただちに受け入れられた。

時はワラキアの敵なのだ。
兵糧の火薬もワラキアの持つものには限りがあり、東部諸侯の到着も間近い。
さらに時がたてばヤーノシュ公のご出馬すら望めるのである。

……………あえて火中の栗を拾うまいぞ…………。

ブラショフに存在する三か所の出入り口に兵を分散し、柵と濠を築いてワラキア軍を封じ込める。
軍議は決し各将はその手配に走りだした。





オレの眼下でトランシルヴァニア軍の工兵が柵を打ちこむ槌音が響いている。
その両翼には歩兵と軽騎兵が臨戦状態で待機しており、迂闊なちょっかいは損害を増すばかりであろうことが見て取れた。

…………これがヤーノシュならこんなまだるっこしいことはしないだろうな……七千の兵を全滅させる覚悟でオレの首を獲りにくるだろう………

ヤーノシュはオレの首にそれだけの価値があることを知っている。ラースローは知らない。
だからこそこうしてゆっくり眺めていられるわけだが。

「殿下………あまり城壁に近付かないでください。いつ狙撃されないとも限らないのですから………」

出たな!小姑!
どうも過保護というか……先日の襲撃以来ベルドはオレの傍を離れようとしない。こいつにはオレの片腕としていろいろと現場を学ばせておきたかったのだが………

「殿下の用兵をお傍で拝見させていただくほどの勉強はございません!!」

と言われると悪い気もしないのでそのまま認めてしまっていた。

それにこいつが心配するのも故ないわけではないのだ。
ダンを手土産に降伏した貴族どもは命惜しさにワラキア国内でダンに内応を約束した貴族の名を洗いざらい吐いてくれた。
その中にはオレが信を置き始めた中立派の重鎮もいたのである。
やはり貴族たちに全幅の信頼を置くことは難しい……………。

「腕白でもいい、たくましく育ってくれよ、ベルド」

「………はあ………!?」


意味不明だろうが、お前ら側近がオレの命綱だよ。





ワラキア軍は嫌がらせのように銃を撃ちかけ、騎兵を繰り出すやたちまち槍兵に守られて市内に逃げ込むということを繰り返していた。
効果のほどはともかくトランシルヴァニア軍内にいらだちと疲れが蓄積されていくのは如何ともしがたい。
しかしブラショフを包囲する柵はそのほとんどを完成し、さらには完成したところから濠を掘り進めつつある。

ワラキア公ももはや進退窮まったであろう………………。

出戦するには兵力が足りなすぎ、逃げるには機動力がなさすぎるからだ。
最後に夜陰に紛れて逃がすことのないよう、赤々とたかれた篝火は夜を焦がしてブラショフの街を包んでいた。



最初に異変に気づいたのは名もなき一人の見張り兵であった。
ブラショフの城壁で数人のワラキア兵がたいまつを振っている。
まるで味方への何かの合図のように…………。

…………まさか

いや、援軍などありえない。
カルパチア山脈から続く南部街道は封鎖され、濃密な哨戒網が敷かれているはずだからだ。

いったい誰に…………

ワラキア兵が盛んにたいまつを振っているのは城壁の西側であった。

気の回しすぎか………西と言えば公都シギショアラへ通ずる味方の奥座敷のようなものではないか………

安堵の息を吐きながら兵士は西の大地に目を向けた。
わだかまる闇の向こうに幽かにきらめく輝きが見える。それが彼が戦場で見慣れた白刃の反射だと気づいたときには遅かった。

「突撃ィィィィィィ!!」

ゲクラン率いる別動隊千五百名がラースローが本陣を置くブラショフ西部に向けて突撃を開始したのだ。





「ワラキア軍の背中には羽でも生えているのか!それとも奴は本当の悪魔なのか!」

なんの備えもない後方からの一撃に一瞬で本陣は壊乱した。

「裏切りだ!」
「味方の裏切りが出たぞ!」

まるで計ったかのように流言が飛び、動揺した諸侯が有効な手立てを打てぬままに次々と兵士が倒れていく。

「公子殿下を守り参らせよ!」

セスタスが精鋭を指揮して血路を開こうとするものの、ワラキア軍の攻撃は激しく、とうてい逃げ切れるものとも思えない。
ブラショフから出撃したワラキア軍が南部に展開していた諸侯を蹴散らすと、東部の諸侯が戦わずして逃亡していくのが見て取れた。
最悪の想像ですら思いもつかぬ完敗であった。

「………なぜだ?………なぜワラキア軍が西から現れたのだ??」





「殿下、トランシルヴァニア公子ラースローを捕えたとの報告が参りました」

オレは上機嫌で頷いて見せた。ラースローが生きて捕まる確率は五分五分だと思っていたからだ。

「丁重に扱え。ただし、自害などさせぬよう厳重な監視をつけるのを忘れるな」

「御意」


相手が悪かったなラースロー。
ブラショフを包囲下に置こうとしたときお前の負けは決まっていた。
そもそもオレが全軍を以ってブラショフに籠らなければならない理由がどこにある?
ワラキアの兵数が少なすぎることを疑ってかかるべきだったな。


ブラショフの北西にハーチェスと呼ばれる森がある。
地元ルーマニア人の手引きでゲクラン率いる別動隊は密かにブラショフを離れ森の中で息を潜めていたのだ。
あとは斥候に戦況を監視させ、最も効果的なタイミングで総大将を撃破するだけだった。


最後までラースローを守って死戦していたあの老人……見事な最後だったな………あんな部下ばかりならオレも苦労はしないんだが…………。


1448年4月17日、ブラショフの戦いと呼ばれる一連の戦いはワラキアの完勝で幕を閉じた。





………………ちょうどそのころ、トランシルヴァニア宮廷にヤーノシュの早馬が到着していた。
ヤーノシュの書状には、シギショアラ前面の街道を封鎖して陣を築き、援軍あるまで決してこちらから戦端を開かぬようにとの指示が書かれていたという…………。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第十六話 トランシルヴァニア侵攻その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/11/30 19:21

ブラショフの戦いはトランシルヴァニアに深刻な政情不安を投げかけずにはおかなかった。
ヤーノシュ不在のなかで指揮をとる力量ある重臣がいなかったためである。
ワラキア軍が進撃を開始してもなお、中小の貴族は自らの領地の守りを固め、事態の推移を固唾を呑んで見守っていた。
身を挺して公都に馳せ参じるような忠臣はトランシルヴァニアにも数少なかったのだ………。



「くっ…………まさかヴラドの手がここまで伸びておったとは…………」

ヤーノシュは撤退にかかったところをヤン・イスクラの軍勢に噛みつかれ少なくない損害を蒙っていた。
今ならわかる。すべてはヴラドの策のうちだったのだと。
戦ばかりか外交にまで才を見せるとは奴は本当に16歳の餓鬼なのか?
いずれにせよ今は逃げの一手しかない。
たとえ犠牲が多くなろうとも………ヤン・イスクラに勝利の凱歌をあげさせることになろうとも。




「深追いするな。歩兵と馬を集中的に狙え……どうせヤーノシュの親父を討ち取れるってわけじゃねえんだ。削れるところから削っときゃそれでいい」

もとよりヤンの率いるフス派の軍は侵攻向きではない。
もちろん侵攻戦でも強さを発揮はするがフス派の本領は陣地戦である。
それにフス派の兵士は信仰を同じくする同志故の団結力を発揮する反面、思うように兵数を伸ばせないという欠点を持つ。
被害は常に最小限を心がけるべきであった。

「…………にしてもうまくやりやがったな、あの小僧…………」

ついたばかりの早馬が、ワラキア軍の勝利と進軍を告げている。
ヤーノシュにはこの戦場を離れて息つく暇は与えられそうになかった。




シギショアラの公国宮廷は沈黙に包まれていた。
まさかのトランシルヴァニア軍の敗北とラースローの捕縛……そしてセスタスの戦死。
二男マーチャーシュは政務を取るには幼すぎ、残されたものにできることは、ただ援軍を待つのみであった。
中には待つことに耐えられぬものもいる。
日を追うごとに逃亡者が増えていた。シギショアラの防備につくものと言えば、公家の直臣数百名と傭兵数百名。合わせて五百には届かない。
誰もが絶望的な未来を想像せずにはいられなかった。
従属させ見下してきたはずのワラキアが公都の喉元にまさに手をかけようとしていた。





トランシルヴァニア領内にあった飛び地アムラシュとファガラシュで兵糧と傭兵を補充したワラキア軍はシギショアラを攻囲していた。
既にシビウやトゥルヌロッシュと言った大都市がワラキアの軍門に降っている。
これらの都市の制圧でワラキアはトランシルヴァニアの商業圏の過半を制したに等しい。
流石に公都は守りを固め容易には降らぬ覚悟を見せつけているが、ヤーノシュの戻らぬ限り張り子の虎でしかないことは敵も味方もわかっていた。

「それで………降伏する気はないと?」

「はい……ヤーノシュ公の援軍に望みをつないでいるようで………」

トランシルヴァニア公ヤーノシュはそれだけ城内の人間にとって絶対であるということか。
確かにヤーノシュに戻られてはこちらとしても都合が悪い……………。

「シエナ」

「これに」

この信頼すべき謀臣にはいくつかの工作を並行して進めさせている。
策は多ければ多いほどいい。十の策のうち実を結ぶ策など一つ有るや無しやなのだから。

「ハンガリー宮廷にトランシルヴァニアの危機は伝えたか」

「もちろんでございます。目下ヤーノシュ公に対抗意識を燃やしているバルドル公が盛んに吹聴しておりますゆえ、もはやハンガリー宮廷で知らぬものはおらぬかと」

「うむ」

何といってもヤーノシュの権力の源泉はトランシルヴァニアの豊かな経済と戦力である。
領地を失った流亡の貴族ではハンガリー宮廷を支配することなど到底成し得るものではない。
なればその源泉を失いかけた今こそヤーノシュを追い落とす絶好の好機に他ならないのだ。
成り上がり者のヤーノシュに首根っこを押さえつけられていた大貴族が騒ぎ出すのは当然ですらあった。

「パラシュ伯などは敗戦の責任を追及するため王都に召喚すべきと言い立てておりますようで」

どうやら対ハンガリー宮廷工作は満足すべき成果を納めつつあるようだ。

「シギショアラのルーマニア人組織はどうなっている?」

「それがどうやらマジャル人やサス人が武装して監視にあたっているようで……既に幾人かが斬られております」

これまでこの手で街をいくつも陥としてきたからなあ…………。

「ならば場所は問わぬから火を点けさせろ。消火に人を取られれば監視も緩む」

「御意」



「ネイ」

「これに」

「騎兵五百を率いて哨戒にあたれ。もしヤーノシュの軍勢が現れたら一撃して退いてこい。いくらかは時間を稼げる」

「御意」

……………さて……今後のことを考えれば出来るだけ犠牲少なく勝ちたいところだが………




翌朝、シギショアラの各所から火の手があがった。
にわかに市中を巡回していた武装民兵たちの動きが慌ただしいものになる。
彼らもこのシギショアラに家と財産を有しているのだから当然であろう。
自らの家の近くで黒煙が上がれば平静でいられるはずもない。

「…………卑怯な………!」

この隙を利してルーマニア人たちが何らかの行動を起こすことは明白だった。
しかし火事は消さなくてはならない。放っておけば類焼から被害の拡大は免れないからだ。
諦念とともに消火活動にあたる彼らをあざ笑うかのように、また一筋の新たな煙が市内にあがった。

シギショアラの壮大な城門にワラキアの攻撃が開始された。
火縄銃隊の援護のもとに砲兵が前進する。もちろん逆撃に備えて両翼は長槍兵が固めていた。
15世紀末にシャルル八世が実証することだが、城壁の防御力は砲兵の前にはあまりに心もとないものでしかない。
砲撃が開始されるとトランシルヴァニア軍の弩兵や銃隊が城門前に集結して必死の防御射撃を展開する。
しかしマルティン指揮する火縄銃隊は地勢の劣勢にも関わらず、これを終始圧倒していた。

「目標、城門右3m弩兵……狙え!……構え!……撃て!」

ワラキア軍銃兵が敵を圧倒するわけの一端は、この射撃術に求められるだろう。
この当時、銃兵の射撃、という行為は完全に個人のものであった。
火縄銃というものは一人一人が狙い打つ言うなれば狙撃銃だからである。引き金を落とすタイミングを自分で決めないとどこに弾が飛んでいくかわからないのだから当然だ。
大河ドラマなどで長篠の戦いの織田の鉄砲隊が一斉射撃をするようなシーンがあるがあれは現実には存在しない。
幕末の近代化にいたるまで、火縄銃の射撃は狙撃であり続けたのである。
それをまがりなりにも統一せしめているのはワラキア軍の火縄銃に取り付けられた木製のストック……後付の銃床のおかげだった。
今後は火打石式の撃発機構の採用や銃剣の装備など与えられた課題は多いが、ワラキアの成し遂げた統一射撃という射撃法はそれを遥かに上回る………ある種革命のようなものであった。

後年のアヘン戦争においてイギリスと清国が戦ったとき、時の江戸幕府がイギリスの武器性能が清国に勝ったのだろうと考え調査に乗り出したことがある。
答えは否、清国は当時ドイツ製の小銃を大量に輸入しており、むしろ抱え大筒のような篭城武器を持っていた分清国のほうが勝っていたことが判明した。
ではいったい何が勝敗を分けたのか。
その答えは銃兵の統一性であった。密集体形をとった銃兵が指揮官の号令一下一斉射撃を行い、敵前列が算を乱したと見るや、これまた一斉に銃剣突撃を敢行する。敵前面に対する火力の集中と衝力の融合こそ、近代銃陣の真髄にほかならなかった。

ほとんど何の手も打てないままに城門は半ばが瓦礫と化し、城壁には死体が積み上げられていった。
そればかりではない。
城門前に兵力が集中した結果、市内の各所で兵力の空白が生じ、城壁の数箇所でルーマニア人がロープを下ろしてワラキア兵を招きいれ始めたのだ。

………攻撃開始三時間にしてシギショアラ攻防の勝敗は決した。




ブラショフに続くシギショアラの完敗の報を受けてヤーノシュのとった行動はヴラドの予想を超えるものであった。
上部ハンガリーのヤン・イスクラに対する押さえとして残してきた一万の兵を除く残り一万の兵力を率いてシギショアラの奪還ではなく、ハンガリー宮廷の制圧に向かったのである。
内通の嫌疑によりバルドル公爵やバラシュ伯爵などの門閥貴族の多くが処断され、彼らの領地の多くがヤーノシュとその一党に与えられた。
事実上ヤーノシュのハンガリー王位簒奪が成った瞬間であった。

あまりに強引な手段をとらざるを得なかったヤーノシュとしては次の敗北が命取りになるであろうことがよくわかっていた。
損害を回復し、万全を期さない限りヴラドと戦えるものではない、と。
しかしヴラドにフリーハンドを与えることもまた危険であった。
ヴラドがヤン・イスクラと結んでいることは明白なのだ。そしてヤン・イスクラは神聖ローマ帝国の援助を受けている。
積極的な意思さえあれば三国でハンガリーを分割占領することすら考えられないことではない。

…………貴人の身柄は金で購えるのが世の常識だ………

ラースローやマーチャーシュの人質交渉の間の休戦を申し入れるべきか?いや……借りを作るには危険な相手だがここはやはりあの方に出張ってもらうが賢明か………

一週間後、シギショアラの地に一団の聖職者が訪れた。
教皇特使ジュロー枢機卿の一団であった。




「キリスト教国同士が相争うことはただ異教徒を利するのみ。我ら法王庁が公正な裁定を行うゆえワラキア公には一旦国にお引取り願いたい」

寝言は寝て言え。

オレは思いつくかぎりの罵詈雑言をかろうじて飲み込んだ。
しまった。こんな搦め手があったかよ。

「聡明なワラキア公ならば必ずや我らにお任せいただけるであろう。決して悪いようには致しませぬ」

明らかに悪くする気満々じゃねえか!この野郎!………考えろ……考えるんだ。

「ワラキア公の返答やいかに?」

ここでバカ殿の真似したらカトリックまとめて敵にまわすんかなあ………あい~ん!怒っちゃやーよ!って。
無理無理、オレだってまだ死にたかねーや。

「………考える時間をいただきたい」

「これはしたり!教皇特使たる私の言葉が信じられぬのか!我が言葉は教皇の言葉にござる。キリスト教徒なら決して反抗など許されぬことにござるぞ!」

ほう…………キリスト教徒、ね。

オレは天啓のようにある人物を思い出していた。
どうやらヤーノシュの策に一泡吹かせられるかもしれん。
そろそろどうにかして接触しておきたいと思っていたところだ。

「何か思い違いをしているのではないかな?枢機卿殿」

「なんですと!?」

「我々の信仰する教主は教皇様にあらず。ローマ皇帝ヨハネス八世陛下と総主教ヨセフ二世げい下にあらせられる。お戻りいただきヤーノシュ公にお伝えいただこう。我ら正教会の仲裁になら応ずる用意があると」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第十七話 ドラキュラの花嫁その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:340a0095
Date: 2008/11/30 19:57


ビザンツ帝国………後の世にそういわれるローマ帝国は東西に分裂したローマの東方を所管し、千年の栄華を極めていた。

同時にキリスト教組織もローマの分裂とともに東西に分かたれており、西方のカトリック教会に対し東方を正教会という。

ルーマニアはいうに及ばず、セルビア・ブルガリア・ウクライナ・ロシア・ギリシャなど東欧の諸国のほとんどは正教会に所属していると言っていいだろう。



しかし第四回十字軍の奇襲によって王都コンスタンティノポリスを占領されて以来、ローマ帝国の斜陽は明らかなものとなっていた。

もはやローマ帝国の領土はコンスタンティノポリスとペロポネソス半島の一部だけとなっており、その国力は小国ワラキアにも及ばない。

かろうじて歴史上最も堅固なテオドシウス城壁に拠って独立を保つのに汲々としている……それがローマの現状であった。



マヌエル二世の巧妙な外交手腕によって小康状態を保っていたローマがここまで窮乏した責任は現皇帝ヨハネス八世にあると言わねばなるまい。

自信家の彼はムスタファとムラト二世を争わせることでオスマン帝国を二分しようとし、逆にムラト二世に王都コンスタンティノポリスを包囲されるはめになった

のみならず、東西のカトリック・正教会の同盟により十字軍を組織すると1444年ヴァルナの戦いで完膚なきまでに敗北していた。

これにより、東ローマ帝国はオスマン朝に莫大な貢納金を納めることを余儀なくされたのである。

また、皇帝の主導するカトリックとの合併問題は国内正教会組織や大貴族にまで不和と不信の種を蒔く結果となったのであった。





だが帝国の権威が全て失われたわけではない。

正教会の信仰の拠り所として東方世界に対する影響力は健在であったし、なんといってもボスポラス海峡の要衝コンスタンティノポリスを擁するかぎり、オスマンも
ヴェネツィアもジェノバも帝国を無視することはできないのだった。









「殿下、ヤーノシュ公が正教会からの仲裁案に同意いたしました」



「そうか………では急いでコンスタンティノポリスに使者をたてよ。使者には……イワン伯爵が良いだろう」



「御意」



イワン伯爵はワラキアきっての伊達男だ。

文化と芸術の擁護者を自称し、戦場ではまったく役に立たないがその鑑定眼と豊富な知識で国内の出版作業や工芸の振興に辣腕をふるっている。

デカメロンの出版を請け負った彼の表情が今でも忘れられない。

歓喜の笑みとともに「ボッカチオは良い仕事をしている」と言った彼にオレはこう問わずにはいられなかった。



「………いい~仕事してますね」と言ってみてくれないか、と…………。







それにしてもこの一ケ月は生きた心地がしなかった。

チキンレースなんてやるもんじゃないよ、まったく。

なにせカトリック教会からは正式に抗議文をもらったし、ワラキアを長期離れているのも不安ありありだし。

もっともトランシルヴァニア支配については順調だけどな。

北部からヤン・イスクラと直接連携がとれるようになったし、トランシルヴァニアの鉱物資源を直接調達できるようになったことは大きい。

サス人やマジャル人たちについては財産の半分を没収するにとどめ、ルーマニア人と同様の保護を与えることとした。

反発もあったが没収した財産を分け与え為政者の多くがルーマニア人で占められるとそんな反発も消えていった。

だいだい今から民族紛争なんて抱え込んでいられるかってんだ!



補給についてもそれほど深刻な問題はない。

ワラキア国内で生産させたザワークラウトやピクルスのような保存食品が補給の軽減に役立っているからだ。

というかむしろ引く手あまたで供給が追いつかないのでブラショフの近郊でも試験的に生産を開始している。

ヤン・イスクラに送ってやったところまるで青汁のように味に文句をつけながら見る間に食い尽くしていったらしい。

これで顔が八名信夫(まずい!…もういっぱい!の人)に似てたら笑い死ねるな、きっと。



もちろん問題がないわけではない。ていうかむしろ深刻だ。

それはトランシルヴァニアの国民は概ねワラキアの支配を歓迎しているのだが、地元貴族の反発が根強いのである。

そりゃ確かにワラキアの政策は彼らの既得権益に大きく影響しているのだからそれも当然なのだが。

とりあえず面従腹背でも従うふりをしてもらえればよしとしておかなくてはならないのが実情だ。

それすらもできない者については討伐するよりほかない。





だが、ヤーノシュの逼迫具合はオレのさらに上を行く。

クーデター同然にハンガリー宮廷を支配した以上旧勢力の反発は必至である。

軍権を支配しているのでかろうじて内乱には発展していないが、もし何かのきっかけでヤーノシュの統制が軍に及ばなくなればたちどころにヤーノシュ糾弾の兵があがるのは避けられない。

トランシルヴァニア討伐の兵をあげ王都を留守にした瞬間、宮廷クーデターを起こされそうなほどなので迂闊に出征もできない有様だった。

このままワラキアとの軍事的緊張が続けば、上部ハンガリーのヤン・イスクラが蠢動しても有効な手立てがうてないだろう。

それもまたヤーノシュにとっては失脚の原因になりかねない。

それになんといっても息子ラースローとマーチャーシュを取り戻したいと願っているのも事実だった。

ラースローならば宮廷でヤーノシュを支える力になってくれるであろうし、権力の座は子孫に伝えてこそ華と言えるものだ。

一代かぎりの成り上がりはむなしい。



ヤーノシュにとっては断腸の思いであったろうが、ここに正教会コンスタンティノポリス総主教ヨセフ二世の仲裁を受け容れることで休戦協定が結ばれたのだった。













ヴェネツィア共和国を仲介に東ローマ帝国にもたらされたワラキア・ハンガリー両国の仲裁の依頼に帝国宰相ノタラスは狂喜していた。

教皇の三重冠を見るくらいならコンスタンティノポリスがターバンで埋まるのを見るほうがましだ………

それが彼の口癖であった。

オスマン朝の侵略を前に、東ローマ帝国が風前の灯なのはもはや誰もが理解している。

だからといってカトリックに信仰の基盤を譲り渡すことは滅亡よりも質の悪いことだと彼は考えているのだっだ。

仮に東ローマ帝国滅びようとも信仰は生き続けねばならないからである。

しかし、ここにきてオスマン朝の圧力を前に屈伏と忍従を余儀なくされてきた東欧の正教会派の国家から協力を求められるということはノタラスにとって特別な意味を有していた。すなわち、カトリックに媚を売らずに済む可能性であった。









「遠路よくおいでなされた、イワン伯爵殿」



コンスタンティノポリスに降り立ったイワンはその歓迎ぶりに目を剥いた。

たかが公国の一伯爵に帝国の宰相がお出迎えとはいったいどういう風の吹きまわしなのだ?



「まさか宰相閣下にお出迎えいただくとはこのイワン伯爵グリモール恐縮の極み………」



「昨今世情を賑わしているワラキア公国のご使者を今か今かと待ちわびておりました。まずは拙宅にてごゆるりとお話をお聞かせ願いたい」



帝国の宰相ともなれば所蔵する美術品はローマの伝統と格式に相応しいものであるに違いない!

芸術の擁護者を自認するイワンは一も二もなく頷いた。



「宰相閣下の御厚情に心より感謝申し上げる」









その晩の会食は豪華なものであった。

なんといっても内陸国のワラキアにはない海産物と舶来品がイワンの目を惹く。

広間の正面に飾られた絵画はアンドレイ・ルプリョーフの大作に他ならず、テーブルを彩る器の数々は色絵も鮮やかな陶器ばかり。

後にビザンツ家具とまで呼ばれる家具の色調もなでやかな曲線もイワンの心を魅了してならぬものだった。



「伯爵にはお気に召しましたかな?」



「………ここはまるで私にとっての天国にほかなりません」



歓談はなごやかなものであった。

航海の様子を聞き、また宰相の外交で訪れた各国の文物を聞いてその批評を交わす。

イワンにとっては至高の時間であった。ワラキア国内で芸術の話をしてもイワンほどの深みある会話のできるものは一人としていない。

わずかに何故か主君たるヴラド三世がイワンの見識に評価を与えてくれるくらいだ。

これといって鑑定眼もない主君が自分を擁護してくれる理由がイワンには理解できなかったが。

いつしか酒を過ごしすぎたらしく呂律も危うくなってきていたが、イワンは宴を去ろうとは思わなかった。

それほどにイワンにとって文化の中心たるコンスタンティノポリスの文人たちとの会話はすばらしいものであった。

ノタラスは好々爺然とした笑みを浮かべた。

頃合は万全だった。



「イワン殿のような文人がワラキアに重きを為すとはご主君たるワラキア公もさぞや素晴らしい文人であられるのでしょうなあ」



「ところがそうでもないのです。あのお方はただ、知っているだけなのです。画家、陶芸家、作家いずれも一流のものばかりでその知識は西欧の各国にまで及びますがなぜかご自身の鑑定眼はまるで利かない。こんなお人は私も始めてですよ」



「西欧の各国と申されますのか?」



「というより全ヨーロッパになりましょうかな。なにせハンガリーポーランド・セルビアは言うに及ばずウィーンやパリやフィレンツェに到るまでまるで見てきたように話しますのでね。いったいどこでどうご見聞なされたのか見当もつきません」



ノタラスはイワンの言に驚きを禁じえなかった。



ワラキアは欧州の感覚では田舎もいいところだが少なくとも情報に取り残されているということだけはない。

むしろ積極的に情報収集に努めているのではないのか?ワラキア公の優れた芸術の知識はその副産物なのではないか?



「伝え聞くところによればワラキア公は近来稀にみる博識でおられるとか………」



「いや~まったくたった16歳で……もう17歳になられましたが聖アンデレのお告げでも受けているのかと思う博識ぶりですよ。天然痘の種痘の時は実際に聖アンデレの夢のお告げがあったというもっぱらの噂でしたしね」



「ははは………そういえばワラキアでは天然痘を撲滅する画期的な種痘法が発見されたという噂は私も聞き及んでおりますよ」



「その方法を発見されたのはワラキア公殿下だというのだから開いた口が塞がりません。実際今年に入って天然痘の患者は激減しておりまして公都トゥルゴヴィシテではいまだ一人の発症者もないのです。かと思うと今度は農耕の方法にまで指示を出される」



…………これは冗談ではない。



ノタラスは背中を冷たい汗が流れるのを感じていた。

イワンは嘘を言ってはいない。それは長年外交の一線で培ってきた己の経験からいっても明らかだ。

本当に天然痘を根絶できるのか?だとすれば是非ともその知識が欲しい!コンスタンティノポリスのような大都市において防疫対策は必須なのだから。



「なんでも一切休耕地を作らないという画期的な農法だそうで…………」



これにはもはや歴戦の外交官たるノタラスも限界であった。



ブフーーーーッ!!



武勲に縁のないイワンは意図せずして、帝国宰相にワインを噴出させるという前人未到の武勲を成し遂げたのだった。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第十八話 ドラキュラの花嫁その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/12/02 21:19


イワン伯爵から聞き出したワラキア公の実情はノタラスの想像を絶するものであった。

稀代の戦略家なことは疑いない。

ワラキア公に就任してからの各国との外交や軍事戦略を見てもそれは明らかだ。

それ以上に常軌を逸しているのは公が発明家にして学者で、はたまた法律家でかつ優秀な商人という、知れば知るほどわからなくなるワラキア公の多面性である。

知り合いのヴェネツィア商人に問い合わせたところ、ヴェネツィアの商船隊の間でワラキア公は聖アンセルムスに次ぐ尊敬を受けているという。

航海の安全を司る守護聖人に次いで船乗りの崇敬を獲得するとはいかなることなのか、言葉を濁されてしまったので詳細はわからずじまいだが………

よほどのものを提供したことは間違いあるまい。

つまりワラキア公はヴェネツィア共和国に対し相当な影響力を持っているということだ。

そして噂を聞いたときには馬鹿にしていた天然痘の治療……天然痘を根絶できればペストの脅威は残るにしろ大都市ならではの大量感染による大量死の危険性は著しく減ずることができる。

かつて帝国で三百五十万人という大量の死者をだし、帝国衰亡の引き金にもなったこの病を根絶することは帝国にとっても悲願といってよい。



それだけでも帝国にとって重要な人物なことは言うまでもないが、それにもまして問題にすべきは英雄の資質を備えた彼の大公殿下が正教徒であり、かつ独身であるということなのだった。



私の勘に間違いは無い。彼の御仁は帝国にとって必ずや救いの光となろう…………。



ノタラスはワラキア公を取り込むための外交戦略について寝食を忘れて思案に没頭していった。









会議は紛糾している。

皇帝ヨハネス八世が病臥していることから帝国の国政をノタラスが主導しているとはいえ、ことは帝国の将来に関わる重大事なのだ。



「ワラキアといえばオスマンに朝貢していたはず。はたして信頼してよいものか」



ノタラスの構想は西欧に依存した国防戦略の見直し……具体的にはワラキアを中心とした正教会国家の同盟である。

同じ正教の徒として賛意を示したい気持ちはあるが、その実力には疑問符を付けざるを得ないというのがコンスタンティノス11世の考えだった。

そもそも、ブルガリアやトラキア・マケドニアを占領された今となっては頼るべき正教徒の国など数えるほどしかないではないか。



「彼の大公がただオスマンに臣従するだけのお人であれば、我が国に調停を依頼するはずもありませぬ。ハンガリー王国との戦いにしろオスマンの尖兵として戦いを継続してしかるべきにございます。……これはワラキア公の差しのべた手なのです。我々はこれを振り払うべきではありません」



ノタラスのいうことはわかる。

しかし帝国は今存亡の危機にあるのだ。迂闊な決断は断じて出来ない。

人格者であり、なおかつ慎重な性格のコンスタンティノス11世はなお様子を見るべきであると考えていた。

デメトリウスや帝国の重臣の面々も次代の帝位を担う若き専制公に賛意を抱いている様子である。



………なんといっても彼らはオスマン朝に帝都を包囲された光景を忘れてはいなかった。

キリスト教徒同士が力を合わせて戦い、それでもなお惨敗に終わったヴァルナの戦いをも。

その恐怖を今も鮮明に描くことができるのに、頼りにするにはワラキアはいかにも荷が勝ちすぎるのであった。



「しかし嫁がせるにも相手というものがある……軽挙な真似はできまいぞ」



ワラキア公ヴラド三世17歳……帝国で適齢期にある女性といえばモレアス専制公デメトリウスの娘ヘレナぐらいである。

テオドロス二世の娘はキプロス王国に嫁いでおり、他の娘は嫁がせるにはいささか幼すぎるのが問題だった。

オスマンとの協調あるいは敵対の切り札としてワラキアにヘレナを嫁がせるという選択肢にはさすがに否定的にならざるをえない。

ノタラスに言わせるならば、だからこそここでワラキア公との縁談をまとめることに意義があるというところなのだが…………。





「妾が参るぞ!」



舌足らずさが抜けきらない幼女の声が響いたのはその時だった。









「…………ヘ……ヘレナ様………」



ヘレナと言っても前述のデメトリウスの娘ではない。アカイア侯ソマスの長女ヘレナであった。

鮮やかな金髪に象牙のような肌が王族ならではの気品に彩られてなんとも言えぬ美しさである……が御年わずかに十歳!



「これ!控えなさい!ヘレナ!………方々誠に申し訳ない。我が娘のご無礼なにとぞご容赦いただきたい………」



「分かっておらぬな、お父上よ。妾がワラキア公に嫁ぐと申しておるのじゃ。これで問題は解決であろ?」



ヘレナの云い様はあくまでも屈託ない。

自分が異国に嫁ぐといっているのにまるで物見遊山にでも出かけるような気やすさだった。



「人が悪いぞ、宰相殿。ワラキア公がどれほどの人物かみなに隠したままではいかな宰相の言といえど易々とは聞けまいに」



ヘレナは愛らしい表情でくつくつと笑っているがノタラスはほとんど蒼白になって震えた。

この令嬢は何を知っている?



「…………確認のとれぬ情報で会議を主導するのもいかがかと思われましたので………」



うそである。

最初から天然痘の種痘やヴェネツィアとのつながりは会議を制するうえでの切り札にするつもりでいた。

しかしヘレナの口から語られるというなら自らが危険を犯す必要もない。

むしろ自分が言うよりこの令嬢のほうがうまく会議を纏められるのではないだろうか?



「確認なら妾が自ら取っておる。子供相手だと船乗りの口は軽くなるのでな。なんでも東欧が世界に誇る大天才だそうだぞ?ワラキア公が自ら作られた羅針盤はどんな嵐のもとでも正確に方角を指し示し、遠眼鏡と申す道具などは遥か彼方の風景をまるで眼前にあるが如く見せられるそうな。船乗りにとってはこれはこたえられまい」



よく城内を抜け出していると思っていたが船着場に出入りしていたのか!

まったくよく誘拐されなかったものだ。



「ワラキア公が作られたというザワークラウトなるものも珍味であったぞ。一年を通して保存がきくので売れ行きは順調だそうだ。それに………ワラキアにおるものは天然痘にかからぬ術を知っておるそうな……それだけでも妾がワラキアに行く価値があると思わんか?」



ヘレナが言った内容はすぐには反応をもたらさなかった。

さすがの世なれた男たちもあまりに非現実的な話を聞かされた気がして理解が深くまで達しなかったのである。





「「「「ななななななにいいいいいいいいいい!!??」」」」





「…………父上たちはわかるが何故宰相殿まで叫ぶのじゃ?」



耳を押さえて目を潤ませる様は、とうてい先ほどまでの毅然とした少女のものとも思われない愛らしさである。



「羅針盤や遠眼鏡の話は私も聞いておりませんぞ!?」



「………では宰相はほかの話は知っていた、と」



「はい…………いまだ調査中ではあるものの、少なくとも天然痘の話は事実でありましょう」



帝国を支える重臣たちが一様に息を呑む。

天然痘で失われる犠牲者の数はそれほどに巨大なのだ。



ヘレナは父ソマスの手を取っておしいただくように額にあてると晴れ晴れとした笑顔で言い放った。





「父上、私は会いたいのだ。そして知りたい。ヴェネツィアの船乗りが言う万能の人(ウォーモ・ウニエルサーレ)の世界がどんなものなのかを」













「…………なんかとてつもなく嫌な予感がしたのは気のせいか?」



休戦に伴いワラキアに帰国したオレはダンに与した貴族の粛清にあたっていた。

どうも裏切ることのリスクに対する危機感が足りないようなのでとりあえずは布告で我慢するがいずれは本格的な国内法が必要になるだろう。

あと五年もすれば貴族の子弟を中心にトゥルゴヴィシテに開かれた大学が機能し始めると思うんだがな。



「どうかなさいましたか…………?」



相変わらずオレに張り付いて離れないベルドが心配気な顔を寄せてくる。

普段は優しげな男なんだがオレがからむと大魔神並みに人相が変わるから恐ろしい。

お前が忠誠心100なのは認めるから少し離れてくれ、これ以上衆道疑惑が広がってはかなわんからな!



「いや………なんでもない。しかし……思ったよりも便利なものだったな、これ」



ダンが捕らえられたときに破滅を悟った貴族の一部が反乱を起こしたものの、いともあっさり鎮圧できたのはこれのおかげと言ってもいいだろう。

オレの視線の先には平凡なレンガ造りの塔がある。ただ平凡でないのは頭頂部に巨大な三本の木が釣り下がっているということだ。

いまだ一部の地域にしか整備しきれていないこの塔と三本の木の名は腕木と言った。





腕木通信は18世紀末、フランス革命後のフランスで開発された技術である。

三本の巨大な棒をロープで操り、その組み合わせを別の基地局の人間が望遠鏡で解読することで情報を伝達した。

組み合わせの種類により手旗信号より遥かに多くの情報を伝達することが可能であったという。



ゲリラ戦においては情報の速度は絶対だ。

自分より強い敵が出れば退き、自分より弱い相手に食いつくのがゲリラである。

ゲリラを駆逐するには速やかに退路を断って殲滅する以外にない。



反乱貴族を追い詰めるのに腕木通信はしごく有効だった。

彼らにしてみれば逃げる方向をあらかじめこちらが知っているような錯覚さえ感じただろう。

兵数に勝るこちらとしては彼らの逃亡方向から想定される複数の脱出口に兵を差し向けるだけで包囲は容易なのだ。



「そういえばイワンからまだ連絡はないのか?」



オレは不意にコンスタンティノポリスに派遣した伊達男を思い出してベルドに尋ねた。

もうそろそろ使者を連れて戻ってきてもいいころなのだが………早く休戦から講和に持ち込まんと余計なちょっかいかけられんとも限らんからな!



「確か昨日のヴェネツィア商人に聞いた話ではあと一週間ほどでキリアに着くだろうと申しておりましたが…………」





ぞぞぞぞ…………!





先ほどと同じ不可思議な寒気が背筋を駆け昇っていく。



………どうやら風邪をひいたか………



「城に戻るぞベルド。明日はコンスタンティノポリスの使者を迎えついでにモルダヴィア公国を訪問することになろうからな」



「御意」





親友シュテファンをどう扱うべきか……対モルダヴィア戦略に没頭し始めたオレにはわからなかった。



そこでオレは運命に出会うことになるということを。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第十九話 ドラキュラの花嫁その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/12/03 23:48

モルダヴィア公国は1359年ボグダン一世が建国した新しい国である。
カリパチア山脈を越えた東側に位置し、黒海に面している沿岸国家で土地は肥沃でドナウ川やプトナ川などの豊富な水源に恵まれていた。
その豊富な農業生産量のなかでもモルダヴィアのワインはつとに有名であり、この国の主力商品にもなっている。
現大公ボグダン二世はワラキアのヴラド二世の弟にあたり公子シュテファンはヴラドにとって従弟にあたる存在であった。
頼もしき盟友である反面、対立する利害がないわけではない。
それはヴラドの援助を得てモルダヴィア大公になったシュテファンとヴラドが、後年刃を交えたことでも明らかだ。
モルダヴィアの北方にはハンガリー以上に強力なポーランド=リトアニア連合王国が君臨していたからである。



「従兄様!」

ルービックキューブを贈って以来懐かれてしまったシュテファンが犬のようにまとわりついてきて非常に困っているオレがいた。

「ああ……シュテファン、オレはお父上と話があるから……これを壊さぬように二つに分けてみろ」

「……はあ……このふたつの絡み合った棒を分ければ良いのですね!」

「壊さずに、だぞ。できたらまた新しいのをくれてやる」

「わかりました!」

知恵の輪を渡してシュテファンの追求をふりきるとオレはボグダン二世との会見に向かった。

「ふんぬううううううううう!!」

…………聞かなかったことにしよう。

しかしあいつの懐きよう………ラドゥを思い出すなあ………元気でいるかなあ、ラドゥ…………



ボグダン二世は兄のヴラド二世に似ず温和な内政家であった。
ヴァルナの戦い以降もモルダヴィアが豊かで安定した治安を維持していることからもその実力が伺える。
しかし戦乱の巷である現在、主権者として不安視する向きが貴族内に存在するのも事実であった………。

「叔父上、ご壮健そうでなによりでございます」

「貴殿の活躍は耳にしておるよ。なかなか派手にやっておるではないか」

「生きるのに必死なだけでございますがな」

オレは肩をすくめて笑った。
実際ほとんど生き延びるために様々な手をうっただけで何かを楽しむ暇などなかったような気がする。
落ち着いて戦争など考えなくてすむようになれば歴史オタクの名にかけて名所旧跡を生で見に行くのだが。

「…………コンスタンティノポリスよりご使者が参ることは聞いておるが……やはりトランシルヴァニアに満足するお前ではないか?」

流石は老練な政治家、オレの意図を見抜いている。これはオスマンに疑いを抱かれる日も近いかもしれん………。

「ご明察恐れ入ります。つきましてはキリアの一部の租借と駐留権をいただきたい」

予想もしなかったオレの要請にボグダン二世の瞳が驚愕に見開かれた。




ワラキアには海がない。
少し南に下がるだけでブルガリアの巨大港湾都市コンスタンツァがあるのだが、すでにオスマンに占領されてしまっている。
貿易取引量も増え、東ローマ帝国とも外交関係を結ぼうとする今、小なりといえど海軍を所有する必要をオレは感じていた。
しかし、もし今海軍を運用するとなればモルダヴィアのドナウデルタ以外の立地はありえない。
モルダヴィアを武力占領するという選択肢はオレのなかにはなかった。
ワラキアの主要物産をキリアから積み出すことで両国には密接な経済交流が出来始めている。
せっかくの友好をだいなしにしてまでモルダヴィアを占領して、ポーランドと国境を接するのは間尺にあわないというのがオレの考えなのだった。

「ずいぶんと欲張ったものだが……キリアはモルダヴィアにとっても生命線。そう易々とは渡せんぞ」

「キリアはもはやポーランドにとってもオスマンにとっても垂涎の的、いずれにしろ戦は避けられませぬ」

ボグダン二世の目が薄く眇められた。
オレの言っているのはほとんど脅しなのだから当然だ。近い将来の戦に協力して欲しくば言うことを聞けと言っているようなものなのだから。

「見返りはあるのだろうな?」

「モルダヴィアの安全と繁栄を」

キリア港が拡張され、ワラキア海軍とその兵力が常駐すれば港湾の物資の消費量と安全は格段に進化するだろう。
人が増えれば金が回るのはいつの世も変わらぬ真理なのである。
それにワラキアからの流通量がドナウの河川交通を利用して倍増すればキリア全体としての取引数量も絶対的に増加するはずであった。
その結果モルダヴィアの国庫に収まる税収も莫大なものになるに違いない。

租借金の納入・税収の増加・貿易量の増加・治安の向上・軍事的抑止力の駐留………
オレの提案でモルダヴィアの損になる要素はひとつしかない。
すなわちそれは駐留権を認める以上、軍事的にワラキアと命運をともにすることになる、という要素だった。
この提案の行き着く先は、軍事経済両面に渡るワラキア=モルダヴィアの連合なのだ。

今ボグダン二世に迫られているのは、近い将来にそれを受け入れる決断であった。



「……………まったく、出来の良い甥を持つと苦労するわい………」

大公の嘆息は事実上ワラキア=モルダヴィアの連合を決した。





「………それで我が国の力が借りたいと」

いかにも海の男らしい赤ら顔の商人が難色そうな風を装っているが答えは最初から決まっているようなものだった。。

「この話はフィレンツェも興味を示しておったのですが、私は海軍力における貴国の実績を評価させていただいたのですよ」

ヴェネツィアにこれ以上借りをつくりたくないこちらの足元を見ようと思ったのだろうが……残念ながら今は極端な売り手市場なのだ。

「そこまで我々を買っていただいておるのなら否やはありませんな」

男の名をアントニオ・ゼルガベリ……ジェノバ共和国の要人のひとりだった。



当初ワラキア貿易はヴェネツィアのモチェニーゴ家が独占していたが、需要の高まりにつれて様々な商人が取引を申し込んできている。
それでも取引の中心は依然としてヴェネツィア商人であり、各国の商人はなんとかワラキア貿易に割り込もうと必死の営業活動を展開していた。

なかでもとりわけ必死であったのがジェノバ共和国であった。
ヴェネツィア共和国のライバルにして黒海の制海権を支配する彼らにとって、黒海沿岸でヴェネツィアが巨富を貪るなどあってはならないことであったからだ。
それだけではない。海洋民族にとって無視しえない情報が彼らを畏怖させている。
すなわち、ヴェネツィアに供給した羅針盤と望遠鏡である。
ヴェネツィアの厳重な秘匿行動によって詳細はしれないが、それが船乗りにとってどれだけ貴重なものか彼らは身を以って知っていた。
ジェノバ共和国にとってワラキアとの関係改善は国策ですらあったのである。


「お互いによい取引が出来て幸いです」

ジェノバ共和国はコンスタンティノポリスに影響力が強いうえ、トレビゾント王国やキプチャクカン国へのパイプも強力だ。
パートナーとして不足はない。
オレがジェノバに要請したのは新設する海軍の教導である。
海軍は陸軍以上に養成に時間がかかるものであり、航海技術や建造技術は一朝一夕で身につけられるようなものではない。
後年レパントの海戦で大量の海兵を失ったヴェネツィアが急速に国力を減じたことでもそれは明らかだろう。
ゼロから海軍を築き上げることはオレにもできない。
歴史と経験のある海軍の指導が絶対に必要なのだった。

ジェノバ傭兵の相場は非常に高価だがキリアをモルダヴィアから租借できる見込みがたった以上あてはある。
これまで内陸に偏っていた加工産業を海産物にも広げるのだ。
とりあえずは鰯のオイルサーディンや鯨肉の瓶詰めあたりか。加熱殺菌は今のところワラキアだけの秘匿技術だから類似品の出回る心配はない。
トランシルヴァニア内の石灰石鉱山を使ってセメントの試作も開始しているが、残念ながら原料の粉砕に手間どっているところだった。


「そういえば今日あたりローマ帝国の使者がお着きになるのではありませんかな?」

コンスタンティノポリスに商売の拠点を置くだけにアントニオの情報は正確だった。

「おそらく夕刻前には参りましょう。よければアントニオ殿もご一緒されてはいかがか?」

「かかる場に臨席を賜るとは恐悦至極。ぜひともお願いしたい」


このときアントニオの大仰な喜びように不審を感じてしかるべきだった。
オレがその真実を知るのはイワンを乗せた船が到着する夕暮れ時になる…………。





………………船からカッターが降りてくる。
桟橋に出迎えたオレは何やら場違いな同乗者がいるのに気づいた。
イワンの派手な衣装は相変わらずなのはともかく、おそらく調停者であろう司教にローマの外交官らしき貴族然とした男、なぜか子供がひとり紛れ込んでいるように
見えるのは気のせいなのだろうか?

「おお!待ちかねたぞ!」

…………気のせいではなかった。

品のよさそうな幼女が夕闇にも鮮やかな群青色のドレスを纏い桟橋へと降り立った。
肩で切りそろえられた金髪が活発な印象を与えているが整った鼻梁といい白磁器のような肌といい、まごうことなき美少女であった。
こんな小さいのに船旅をしてくるなんていったい…………


出迎えの列に向けられていた少女の翡翠色の瞳がオレを捉えたとき、つい先日と同じ悪寒がオレを襲った。

「ふむ………」

なにやら勝手に納得して頷く少女から目が離せない。
オーラが違う。存在感が違う。まるで人外の妖魔に魅入られてしまったような錯覚とともにオレは不思議な既視感を感じていた。
こんなシーンをいつかどこかで見たような…………。


「………………問おう、……貴殿が我が夫となるものか?」



ってF〇TEかよ!





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十話 ドラキュラの花嫁その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/03 23:46

「…………問おう、貴殿が我が夫となるものか?」

いったいお前はどこのセイバーだってーの!だいたいオレはマスターになんざなった覚えは………?
あれ?今なんていったっけ?

「どうした?もしや妾の美しさに言葉もでぬか?」

マスター……じゃなくて……我が夫…夫?もしかして夫って言いやがりましたか?このお子様は!?


「イワン……誰だ?このおませなおチビちゃんは?」

イワンがぶるぶると顔を振る。しかも顔面は蒼白で脂汗が噴き出していた。なにかこの世ならざる化け物でも見えているのだろうか?

「黙っていてはわからんぞ?」

今度はおチビちゃんを指さして謝罪のゼスチャーを始めている。新手のブロックサインか?ていうかお前主君に対してその態度はどうなのよ?

同乗したローマの外交官らしき男が心底同情した目をオレに向けつつ信じられない言葉を口にした。

「そちらの御令嬢はアカイア侯ソマス様のご息女ヘレナ様にございます。大公殿下」

「ローマの……………姫君…………?」

ギギギ……と首からきしんだ音をさせながらオレが少女に目を戻すと、すっかりお冠で頬をぷっくりふくらませた幼女がオレを睨んでいた。

ジーザス!これはあんまりです!



「…………なあ、頼む。嘘だろう?頼む、頼むから嘘だと言ってくれイワン!」

「残念ながら真実はいつもひとつでございます。大公殿下」

コナンの決め台詞を聞きたいわけじゃないんだよ!だって侯女が単身海を渡ってくるなんて思わないだろ?普通!
そもそもなんでいきなり結婚前提なんだっつーの!

「………妾では不服だと申すつもりではあるまいな?」

「滅相もございません!」

こんなお子様の背中に獅子が見える!……理由はわからんが逆らえねえ!何故だ?どうして?WHY?


「いやあ!これはまたとない良縁でございますな!」

「我が甥が帝国の縁戚になるとは、なんとも名誉なことよ!」


お前らそろいも揃ってオレの退路を断つんじゃねえ!
ってかアントニオも叔父上もなにかオレに恨みでもアリマスカ!?

「…………お気持ちはお察しいたします。しかしヘレナ様がその身命を賭してこうして参った以上冗談では済まされぬとお覚悟なさいませ」

東ローマ帝国から同行した外交官の男が気の毒そうな顔でオレの肩を叩いた。

………当然だ。
正教会組織の頂点に立つ東ローマ帝国からその皇族たるアカイア侯ソマスの息女ヘレナがわざわざワラキア公のもとに単身海を渡ってきたのだ。
これをもし追い返しなどしたらワラキアはキリスト教世界から永久に背信の烙印を押されるであろう。


「…………………終わった…………」

こうしてオレはロリコンの烙印を押されていくんだ……きっと後世にドラキュラはロリコンの代名詞になってしまうんだ。
ヴラド・ツェペシュならぬヴラド・ロリータとか言われてしまうんだ………そんなのはいやあああああああああああああああああ!!


「そんなに感激されると照れてしまうではないか♪」

小悪魔はあくまでもにこやかに笑っていた。
しかしその瞳は少しも笑ってなどいない。
獲物を追い詰める冷徹な理性がその翡翠の瞳に微妙な濃淡を与えていた。





モルダヴィア公の熱烈な歓迎により開かれた晩餐会のさなか、オレはようやく平静を取り戻しつつあった。
正直面食らったのは確かだが、帝国の政治的姿勢は歓迎すべきものだ。
おそらくこの縁談によってワラキアの国家の格は比較にならぬほどはねあがるであろう。
帝国の縁戚ともなれば東欧の田舎小国の扱いは金輪際できぬはずだった。

しかし逆にオスマンの疑念を招きかねないとも言える。
名目上ワラキアも東ローマ帝国もオスマン朝に朝貢している関係上、宗主国をないがしろにしているように思われるのはまずい。
即刻使者をたて弁明させる必要があろう。

「ようやく戻ってまいったようじゃな。我が背の君は」

いつの間にか思考に没頭していたオレの隣には白いドレスに着替えたヘレナがいたずらっぽい笑みを浮かべていた。

「姫がどうして私などをお気に召したのか聞いてもよろしいか?」

「………当分は先になろうが……既に心は汝の妻じゃ。ヘレナと呼ぶが良い」

なぜ………当分先だとわかる?まさか………この姫君は………

「婚約者………ということでよろしいか?」

「それが妥当であろうな………まあ呼び名など些細なことよ。こうして汝の傍にいれることが何よりも大切なのだからな」

あからさまに過ぎる好意の言葉にオレは頬が紅潮するのを押さえられなかった。
隣にいる少女の言葉はすでに年頃の女のものにほかならない。

「私がオスマンに婚約のみを願い出ると読んでおられたのか………」

この聡明な少女はオレがスルタンを必要以上に刺激しないために、婚約の許可を求めるという形で事態を収束させようとするのを正確に洞察していた。
そうでなければあの言葉はでない。恐ろしいほどに鋭利な政治感覚であった。とても十歳の少女のものとも思われない。

「敬語など使うな……それにまだヘレナと呼んでもらっておらぬぞ、我が夫よ」

「お手柔らかに頼むよ、ヘレナ…………」

どうやら手強い女傑を女房にしてしまったようだ。それにしても流石に十歳を相手に妻と呼ぶのには抵抗を感じるよヘレナ…………。




…………冷や汗がひかない。
もしかしてこれはその…………初夜というやつなのでショウカ?

目の前のベッドにはこれ見よがしな枕がふたつ並べられており、ヘレナはレモン色の寝巻きに着替えて興味津々と言った風情でオレを見つめている。
ちょっと待て!これはないだろう!ヘレナはあくまでも婚約者であって、しかもそれはまだスルタンの許しのない暫定的なものなのであって………というか
そもそも十歳相手なんか人として失格だから!

「………急用を思い出したのでヘレナは先に寝ていてくれるかい?」

「女に恥をかかせるものではないぞ、我が夫よ」

貴女絶対その言葉間違ってますからーーー!!

「冗談だ。妾も皇族の一員としてそこまで軽はずみな真似はせん。もっとも我が夫が望むなら別じゃがな?」

よかった………最低限の分別があってよかったああああああ!!

キリスト教徒において処女性は信仰に近い尊重を受ける。
基本的に離婚の許されないカトリックであっても、白い結婚………すなわち花嫁との性行為がなく花嫁が処女である場合にかぎり離婚が認められるほどである。
婚約者とはいえ、未婚の女性でしかも帝国の皇族が処女を失うなどあってよいことではなかった。

「全く残念じゃ……この身がもう少し男を受け容れるにふさわしく成熟しておったなら……このような機会は逃さぬのだが………。」

前言撤回、なんの分別のありません。この姫様。

まるで当然のようにオレの隣にもぐりこみ、袖を握って身体を摺り寄せる様はそれでもやはり幼子のそれだった。
すくなくとも外見に関する限りオレの守備範囲ではない。
このときばかりは自分の真っ当な趣味を褒めたかった。

「…………その………お願いがあるのだが、我が夫よ」

上目使いになにやら照れたようにヘレナが続ける。
ベッドに入って緊張が解けたのか先ほどまでの大人びた様子と違い年相応な表情がなんとも可愛らしい。

「聞かせてくれぬか?万能の人よ。汝にとって世界はどんなものなのか?汝は世界をどのようにしていくのかを」

万能の人?レオナルド・ダ・ヴィンチの愛称だがそれはもしかしてオレのことか?

「妾にとって未来は定められたただ一本の道じゃった………」

ヘレナの言葉にたいそう真摯な響きを感じ取ってオレは表情を改めた。

「妾に求められるのは帝国のために嫁ぎ、子を産み、帝国の血筋を残すこと、それだけじゃった。妾の才、妾の夢、妾の理想、それらには等しく価値がない。なぜならそれは帝国の皇女に求められるものではないからだ」

…………人並みはずれた才ある彼女が、それを知ったときに感じた絶望はいかばかりだったろう。

「…………されど妾は可能性を見つけた。汝という可能性だ。万能の人よ。汝とともに人生を歩むかぎり妾は緩慢な死に向かうような毎日から解き放たれるような
そんな気がするのだ。勝手な願いなのはわかっている、しかしどうかあるがままの妾を受け容れてくれ我が夫よ」

才気走った彼女の聡明さの中に、どこか悲愴が漂っていたわけがやっとわかった。
しかし今はそれは問うまい。

「オレはとうてい万能などではないが、これでも大人の端くれだと思っている。子供は大人に甘えるものだぞ、ヘレナ。それが将来の夫であるなら尚更だ」

「………残念であるな。これで顔があさってを向いておらねば素直に感動できるのだが」

これ以上くさいセリフを語るのはオレには無理だよヘレナ。

「だが、それでこそ妾の愛しき夫じゃ」


ふわりと甘やかな香りに包まれたかと思うと、ヘレナの小さな唇がオレの唇に押し当てられていた。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十一話 陥穽その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/05 22:05




砂糖菓子をほおばりながらヘレナが条約内容を吟味している。



「確かに武力行使が下策ではあるが……トランシルヴァニア併合はやりすぎではないのか?」



「だからファガラシュとアルマシュに二都市を譲渡することにしている。どちらも豊かな都市だからある程度の収入は維持できるだろう」



「ふむ………それでヤーノシュは納得するものか?」



「納得するわけがない。しかし納得しないなりに落とし所を探るのが政治って奴だからな」



講和調印のためハンガリー・ルーマニア国境の街、オレディアへ向かう途上、なぜか当然の如くついてきているヘレナに説明しているオレがいた。

この時代の旅は現代人が考えるほど気楽なものではない。

馬車に揺られているとはいえその振動は激しく、腰の痛みは避けられない。

しかも言葉は悪いが飲食やトイレの事情も決して良いとはいえないのだ。とうてい帝国の姫君を連れていける環境ではなかった。

本当に子供の体力で大丈夫なのものか不安でならないが………。



「ちょうどよい抱き枕があるから大丈夫じゃ♪」



くっ………思わず可愛いと思ってしまった自分が憎い…………。









今回の講和条約の内容は多分にワラキアに有利な内容である。

正教会の仲裁でワラキアに有利な判定がなされるという効果は大きい。

セルビアやグルジアなど現存する正教徒国家に対して東ローマ帝国の存在感を示しすことができるからだ。

国家の延命をはかるために心ならずもカトリックに追従する国家にとって頼るべきあてになるということは、きっと将来の財産となる。

それにしてもヤーノシュにとってはふたりの息子の無事と引き換えとはいえ、苦渋の決断であったろう。

まずトランシルヴァニアのワラキアへの割譲、ただしもともとワラキア領であったファガラシュとアルマシュをヤーノシュ領とするという交換条件だということを差し引いてもヤーノシュのダメージは計り知れない。

そして互いの地位の確認、フニャディ・ヤーノシュはヴラド三世をワラキア唯一の主権者と認め、ヴラド三世はフニャディ・ヤーノシュをハンガリー王国摂政として認める。

この確認に伴いワラキアは上部ハンガリーへの軍事支援を停止するものとする。

これは取扱の難しい条項だ。下手をすればせっかく友好を築きつつあるヤン・イスクラとの関係が悪化しかねなかった。



「それでも素直に墨守する気はないのであろ?」



「直接的なものでなければ支援する方法はいくらでもあるからね………それに極端なことを言えば上部ハンガリーとは関係なしにハンガリーへワラキアが攻め込むのをこの条項では止められないしね…………」



「なんとも悪辣なことよな」



トランシルヴァニアと上部ハンガリーとの結節点にあたるニーレジハーザをヤン・イスクラが実効支配し続けるかぎり彼は貴重な顧客だ。

ヤーノシュには悪いが見捨てる気はさらさらない。

もっともその程度のことはとっくに見通しているのだろうが……………。



史実の流れから言ってもヤーノシュがヤン・イスクラを打ち破ることは不可能だろう。

なんといってもこの時期のフス派軍隊は天下無敵である。

史実と違い、権力の弱体化したヤーノシュも無理な遠征は行わないに違いない。



それより確か1448年といえば十字軍を率いてセルビアへ遠征するはずだったがこの分ではどうなることか…………。

主力のハンガリーがこの有様では実現は難しかろう。

それにジュラジ・ブランコビッチは有能な政治家だがセルビア貴族はワラキア貴族以上にたちが悪い。

1389年のコソヴォの戦いではオスマンのスルタン、ムラト一世を殺害し九分通り手中にした勝利を味方セルビア貴族の裏切りで失っている。

とてもともに手を取り合って戦いたい相手ではなかった。





…………頼りになる味方が欲しいな………スルタンにははっきりと疑われてるようだし。





ヘレナとの婚約を知らされたスルタンは、抗議こそしなかったが結婚はスルタンの同意なしに行わぬよう命令を発していた。

また、東ローマ帝国の縁戚になる以上貢納金の額も変わるであろうとも。



オスマン朝の首都アドリアノーポリにもっとも近い国家といえばセルビアとワラキアになる。

トランシルヴァニアを併合して旭日昇天の勢いのワラキアこそ、オスマンにとって最も危険な敵になりかねないということに、今更ながらにスルタンは気づいたのだ。

今後は対オスマンの外交は綱渡りを強いられることになるだろう。ムラト二世が好戦的な政治家でないことだけが救いだった。



とはいえ今回手打ちをするヤーノシュと違い、スルタンには寵愛する有力な手駒がいる。

十四歳に成長しているはずの実弟ラドゥがいるかぎり、オスマンはいつでもワラキアの公位に干渉することができるのだ。

できることなら敵対したくない人間だった。

無垢な愛情を寄せてくれたたった一人の弟であり、オレがこの世界に生まれて最初にオレを受け入れてくれた人間だからだ。





……………お前をおいて去った兄を恨んでいるか?ラドゥよ………











ハンガリー王国との講和を成し遂げたオレは種痘の情報の公開に踏み切った。

ヘレナの輿入れの祝い替わりにコンスタンティノポリスに既に情報を提供していたからだ。

情報の漏洩が避けられぬなら今が商売の売り時というやつだった。

取引の窓口にはヴェネツィアのジョバンニがあたっているので呆れるほどの巨利を上げてくれるだろう。

同じくジェノバのアントニオにはコレラの治療法を委託していた。

十九世紀末に日本を含め世界的に流行したコレラだが、意外にもその歴史は古く紀元前三世紀には既に歴史書にその名を連ねている。

コレラの治療法は単純である。コレラの死因は大量の下痢と嘔吐による水分と電解質の減少からくる脱水症状なのだから、それを補ってやればよいのだ。

具体的に言えば経口補水塩のように水にデンプン(ブドウ糖)と塩を溶かしただけのもので十分だった。

これを常時補給させてやるだけで、大半の患者は死を免れることが出来る。

早くも医聖などという声が上がり始めているらしいが、現代人のオレには過ぎた名前だ。





「それにしてもいったいどうやってそんなことを知りえたのだ?我が夫よ」



「………夢で見たのさ」



ヘレナの翡翠の瞳が湖水のような静謐な色を湛えてオレを見つめるが真実を話すつもりはない。

信じてもらえぬに決まっているからだが………どうやら未来から来ただけの平凡な歴史オタクだとヘレナに知られたくない気持ちもあるらしい。

我ながら度し難いものだ。



「こんなに美しい妻に隠し事とはけしからぬな?我が夫よ」



「………美しい妻は知らんが可愛い婚約者なら目の前にいるな」



「その可愛い婚約者はおかんむりだぞ」



「では……ご機嫌をとるとしようか」



このところヘレナは膝のうえに抱かれてキスを交わすのがお気に入りだ。

こうなるとくすぐったそうに微笑んで蕩けたようにご機嫌になってしまう。



オレは気に入ってないよ?柔らかくて暖かい体温とか、生得の甘い香りとか気になったりしてないですよ?本当ですYO?











……オレはうかれていたかもしれない。

いろいろな意味で刺激のあるパートナーを得て

万全とは言い難いが順調な国家運営に慢心していたのかも。







ワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの三国の経済発展は目覚ましい。

加工食品やワインの蒸留や製本を中心にした産業の発展は既に農業人口を圧迫しつつある。

人口密度の低いルーマニアならではといったところだろうか。

特に陶器を使った瓶詰は高温殺菌など想像もできない欧州各国で爆発的な売れ行きを示していた。

流石に缶詰をつくるには冶金技術が追い付かなかったのだが、とりあえず陶器でも代用として不足はない。

さらに巨費を投じて各国から技術者まで招いた精密加工業については、とうとう火打石式(フリントロック)銃の試作に成功していた。

火縄銃の欠点はまさに火縄を用いることにある。

生の火を使うことから、しめるとよく不発を起こし、雨中ではしばしば使用不可能になるなど、火縄から派生する問題は多かった。

そして以外に知られていないことだが火縄銃の発砲の際には風下にむかって約1mほどにわたって無数の火の粉がはじけ飛ぶ。

そのため射手と射手の間隔を広くとらざるを得ず、どうしても銃兵の密度は低いものにならざるをえないのだ。

しかし火打石式銃にはそうした問題点はない。

ほぼ長槍兵と同様の密度で火力網を形成することが可能だ。

火打石式銃には銃剣もまた標準装備されており、ワラキア大隊が世界に名を馳せる日は近いと思われた。



海軍はまだまだ航海術の慣熟がせいぜいで形をなしてはいないものの、オレのうろおぼえのクリッパー船のラフスケッチをもとにジェノバ共和国と共同で新型艦船の開発が進んでいる。

餅は餅屋といったところか、平凡なラフスケッチからジェノバの海軍設計者はオレの全く知りえない情報を丹念に読み取ってくれていた。

もともと発想のブレイクスルーさえあれば実現は難しくない技術なのだ。

おかげでまた万能の人の噂が海軍関係者の間に広まってしまったが。







1449年に入りオスマン帝国への貢納金の納入が始まったが、もはや二年前のワラキアとは経済基盤が違うので支出に不足はない。

既に種は蒔かれた。

士官学校の生徒や大学の生徒がワラキアの新たな官僚層を形成するまでそれほど長い時間はかからないだろう。

ネーデルランド式の常備大隊も五個大隊六千名に増員することも決定していた。

そう、全ては順調だったのだ。







「大公殿下に急報がございます」



「シエナか。ハンガリーに動きでもあったか?」



シエナはゆっくりと首を振った。

常には動揺など見せぬ男が、珍しく焦りの色を浮かべていた。

ヤーノシュの侵攻すら顔色ひとつ変えなかった男だ。絶対に尋常な事態ではない。



いやな予感が胸を衝く。

…………いったいオレは何を見過ごしたというのだ?







「ニコラウス五世教皇猊下がフェリクス五世猊下を廃位され、唯一の教皇として新たな十字軍の編成を命じられました。既にハンガリー・セルビア・ポーランド・オーストリアなど各国が水面下で動員を開始しています」



「ワラキアにも参戦しろとでも言ってきたか?」



それは困る。教皇を敵に回したくはないが今オスマンを完全に敵に回してしまうのは絶対に避けねばならない。









「違います。確かに十字軍の最終目標はオスマンではありますが……当面の目標はオスマンの属国、つまり…………ワラキアなのです」








[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十二話 陥穽その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/12/06 22:12


オレは………オレはいったい何を見ていたのだ?

こうなることはとうに予測できてしかるべきではなかったか。

カトリックがその教義に抵触する者に対してどれほど残虐非道になれるものか……

オレは既に知っていたはずなのだ。

現代人の……いや、日本人特有の宗教に対する寛容さが目を曇らせ最悪の事態を呼んでしまっていた。







カトリック教会の異端に対する弾圧の歴史は古い。

「皆殺せ!主が見分けたもう」という教皇特使の命を受け、都市住民の大虐殺を引き起こしたアルビジョア十字軍をきっかけに作られた異端審問所は12世紀末からすでに欧州各地で死神の鎌を振りおろしていた。

中世史上に悪名高い魔女狩りは1487年に刊行された「魔女に与える鉄槌」によって神学的な裏づけが与えられたことにより15世紀から17世紀にかけて猛威を
振るうが、しかしその起源はおよそ9世紀に遡る。

異端に対する近親憎悪的な、ある種変質的な恐怖と敵意はカトリックの宿唖としかいいようのないものであった。

カトリック教会が寛容と慈愛の精神をもって異端への蛮行を自戒するにはフランス革命以降の近代合理主義の発展を待たなくてはならないのだ。

後年になるが血液循環説を唱えたミシェル・セルヴェが生きたまま火刑に処せられたように、医学者が異端とされた例も多い。

ましてペストや天然痘の流行を魔女やユダヤ人の仕業として大虐殺を行ってからいまだ半世紀しかたっていないのにオレの教えた種痘法がカトリック教会に受け入れられるはずもなかったのだ。

全ては主の御心のままに………彼らにとって運命とは受け入れるものであって、切り開くものであってはならない。





しかも衰退しきった東ローマ帝国を吸収合併する形でとりこもうとしたフィレンツェ公会議から数年で、今更東ローマ帝国が息をふきかえすような事態はカトリック教会にとってとうてい歓迎しえない痛恨事である。

オレがやろうとした正教会の権威復興がカトリック教会側から見ればオスマン以上の異端支援に映ったのは想像に難くなかった。

教皇の受けのよいハンガリー王国と交戦し、さらにフス派残党のヤン・イスクラと結んでいることからも信仰上の敵と言われかねない要素は出揃っていた。

ただ、オレが勝手に宗教指導者の理性を過信していた、それだけのことだった。





そして現在のワラキアは各国にとっては宝の山である。

欧州全体に広まろうという医療法

製法の知れぬ様々な保存食品群

士官学校の創設と独創的で旧来にない新戦術

謎のベールに包まれた新技術による新世代の兵器たち

どれをとっても血で贖う価値があると各国の君主が判断するだけのものがある。



最後に、教会大分裂が収束したのもつかの間バーゼル公会議の支持者たちがフェリクス五世を推戴し、つい先頃ようやくこれを退位させて唯一の教皇となったニコラウス五世は大幅に権威を失ったカトリック教会の影響力を再構築する必要に迫られていた。

宗教的権威の復権には宗教的対立こそ望ましい。





ここに教皇と各国の間には利害の一致を見たのである。













物苦しい狂熱が一匹の蛇となって胸を千々にかき乱す。

何たる理不尽

何たる傲慢

何たる無知

目指すものはただワラキアの自存自立

与えたものは繁栄と安寧

それを否定するいかなる理もオレは許容するつもりはない。







自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立自立

祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国祖国

秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序秩序

自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由自由

矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持矜持





そうとも、わかっている、悪魔(ドラクル)よ

今こそオレとお前は同じ者だ。







我が前に立ちふさがる敵に絶望と後悔と悲嘆を与えよう。

彼らの流す涙で口を漱ぎ彼らが流す血でこの喉を潤そう。



彼らの無数の屍の上にオレはオレの王国を打ち立てて見せる。











ヘレナが驚きの色を隠さずに何かに魅入られたかのようにオレを見つめていた。



……………怖がらせてしまったか…………



理不尽な抑圧に対する狂おしいほどの激情………それはオレがヴラドである証であり、偽らざるオレの本性でもある。是非もない…………。

いかに聡明な知性と帝国皇女の矜持を持とうとも、ヘレナは年端もゆかぬ少女なのだ。

屍山血河の巷に耐えようはずもないではないか。



そう思ったオレの予想は、正直なところ全くの見当違いなものであった。







「……いつもの優しい汝も夫として申し分ないが、今の汝はなんともいえぬ漢が薫っておるぞ。この未熟な妾に女を感じさせるほどに」



……………どうやら似合いの夫婦ということらしい。



オレもまた、オレの魔性を許容するいまだ花咲かぬ蕾に女を感じていたのだから。











「シエナ」



「はっ」



「セルビアの貴族どもをかたっぱしから調略しろ。戦に参加できぬ程度に混乱してくれればそれでよい」



「御意」



セルビアはコソヴォの戦い以後戦力の低下が著しい。

ステファン・ラザレビッチ侯はともかくジュラジ・ブランコビッチは理性的な判断を下してくれるはずだった。

少なくとも今ある戦力が失われれば亡国は避けられない、という戦力保存主義の徒であったとオレは彼を理解している。

同じ正教徒であることからいっても彼らの戦力化は至難を極めるであろう。





「デュラムはいるか?」



「御前に」



「食糧の取引価格を引き上げろ。財政が許容するなら穀物を買い占めてもよい」



諸侯にそれほど潤沢な資金があるわけではない。

ワラキアのように常備軍編成が進んでいない諸侯軍の主力は傭兵だ。

手強い傭兵ほどその価格は高く、東ローマ帝国滅亡の折にはローマ教皇の資金と東ローマ帝国が有り金をはたいてもわずか五百人のジェノバ傭兵しか雇えなかったことでもその費用の莫大さはあきらかだった。



「十字軍に参加する国との取引の一切を停止する。ヴェネツィア・ジェノバ両国にもその旨を伝えておけ」



「御意」









「イワン!」



「御前に」



「コンスタンティノポリスの総主教猊下に勅命を要請しろ。正教徒の信仰を守護するために異端と戦う者たちに祝福あれ、と」



「御意」





東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス11世陛下はいまだカトリックとの合同をあきらめていないようだが、宰相を始めとして総主教も他の重臣も、正教会維持へと
既に舵を切っている。

これでカトリックがさらに失墜するようなことになればもはや歯車が逆に回ることはないだろう。

その意味でも十字軍の跳梁を許すわけにはいかない。

そして正教徒が真の意味で結集する日のためにも。



「ヤン・イスクラに使者を出せ。ドイツ騎士団にも、グルジアにも、トレビゾントにもだ。カトリック(普遍の意)どもに奴らの信じる普遍などこの悪しき世界にはないのだということを教育してやる。」







異端を狩る奴らに狩られる恐怖を与えよう。

異端から奪う奴らに奪われる痛みを与えよう。

異端を殺す奴らに殺される絶望を与えよう。





歴史の中心が西欧に移りつつあるならば、東欧こそ歴史の中心にして見せる。



もはやすでにして賽は投げられた。

しかし神は賽を振らない。

投げられたものは人の心の妄執・夢・欲望・理想…………そして贖うべきは命そのもの。

賽を神に預けた気になっている亡者どもに代償を支払わせるのは………













……………………悪魔(ドラクル)たるオレの役目。










[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十三話 クロスクルセイドその1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:0988a75b
Date: 2008/12/07 21:35

1449年4月ローマ教皇より十字軍の出征とワラキア公ヴラド三世に対する異端の指定が布告された。
しかし百年戦争を継続中のイギリスやフランスに応ずる力はなく、王位継承の争い覚めやらぬカスティリヤ=レオン王国やアラゴン王国もまた国内政治事情から
不参加を表明していた。
また、神聖ローマ帝国も出兵にはひどく消極的でありわずか八百の兵の供出にとどまっている。
数的主力は聖ヨハネ騎士団を始めとする各国の修道騎士団とハンガリー王国そしてポーランド・リトアニア連合王国となっていた。

ここで厄介なのはポーランド王国である。
リトアニアを従え黄金期に差し掛かったポーランドの国力はあなどれない。
しかもポーランドはワラキアの東に位置しており、長年にわたってモルダヴィアを狙ってきた歴史がある。
今回も彼らの矛先はワラキアではなく、モルダヴィアに向かうであろうことが当初から予想されていた。
下策であるとは知りながらも、ワラキアとしては二正面作戦を取らざるを得ない。
ようやく交流が円滑化してきているモルダヴィアを見捨てるという選択肢はとれないのだ。


まさかオスマン戦のまえに存亡の時を迎えるとは思わなかったな…………。
もっともこんな死亡フラグを成立させる気は微塵もないが。


悪いことにシエナの情報を基に可能な限りの手はうっていたが反応は思わしくはなかった。

ポーランドには恨み骨髄であるはずのドイツ騎士団は結局教皇の命に従い十字軍に参加していた。
やはり異端指定が効いているのだろう。
またヤン・イスクラもまたオーナーたる神聖ローマ帝国から釘を刺されたためかろうじて中立を保つのみに留まっている。
もっとも彼らが敵に回っていたらワラキアは風前の灯であったろうからありがたいとも言える。
さらには友邦ヴェネツィア共和国の一部有力商人が諸侯に協力する姿勢を見せていた。
モチュニーゴを始めとする元老院主流派に対する非主流派の巻き返しらしいが、おかげで経済封鎖が所定の効果を挙げられずにいる。
さらにはトランシルヴァニアの貴族内で不穏な動きが見られるなど難問は山積していた。


だからといって明るい兆しがないわけではない。
もっとも素晴らしい福音はヘレナの故郷、東ローマ帝国からもたらされた。
しかもその福音はヘレナの機転によってもたらされたものなのだ。

「………異端指定という言葉の前には正教徒守護の勅命だけでは弱い。それでは味方の動揺を抑えられるかわからんぞ、我が夫よ」

「かといってオレが敬虔な正教徒の守護者であることを総主教に認めていただく以外に方法があるか?」

「ヨセフのお爺は話がわかるゆえ、我が夫にワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアを統べる大主教の地位をいただこうと思うのじゃがどうじゃ?」


君主と大主教を兼務するのは稀なことではあるがかつて全く例がないことでもない。
東欧に冠たる大主教に就任することがもたらす宗教的権威は、一介の勅命ひとつとは比べ物にならぬほど巨大なものだ。
心の底から思う。よくぞこの少女を我が伴侶にしてくれた!

「我が妻の英慮には感謝の念を禁じ得ぬな」

「………感謝を表すなら丁度よい方法を知っておるぞ?我が夫よ」

「無論、吾も知っておるさ、我が妻よ」


そうすることが自然であるように顔を寄せた二人はお互いの口を吸いあい、やがて貪るように舌を絡め始めた。
ヘレナの小さな口を存分に嬲り、唾液と唾液を交換し、お互いの唇に銀糸の橋をかけ、再び口腔内の粘膜という粘膜をひたすらに舐めあう
未熟な官能の火を持て余すヘレナの表情がなんとも言えず妖艶だった。
先日の一件から二人の関係は明らかに変化している。
少女から女へ、保護者から男へと。

「いっそこの先も堪能したいものじゃが…………」

「………………それは異端だろう、我が妻よ」

ってかたぶん物理的に無理。



ヘレナもようやく十一歳を迎えたばかりだが、二人にとって記念すべき日はもしかするとそう遠くないのかもしれなかった。





正教徒にとって絶対ともいうべき権威を手中にしたことで、セルビアやアルバニア・キプロスと言った正教国家で深刻な動揺が広がっている。
さらにはトレビゾント帝国やグルジア王国などからは傭兵五百名と支援物資がキリアへむけて送り出されようとしていた。
ともに外交関係の厚い国家ではなかったが、正教徒の危機とオスマン朝の脅威に対する戦略的パートナーとしてワラキアは認められたということなのであった。

キプチャクカン国についてもジェノバ共和国を仲介とした支援要請の感触は悪くない。
これ以上のポーランド勢力の伸長はキプチャクカン国にとっても国家の存亡にかかわるからだ。
消極的ながらリトアニア国境に兵力を移動するくらいのことはやってくれそうであった。

最大の問題はオスマン朝の介入であったが…………なぜか奇妙なほどの沈黙を守っていた。
ワラキアからの支援要請がないのをいいことに双方の被害が最大に達したタイミングでしゃしゃり出てくる気なのかもしれない。
どちらにしろ長期戦になれば介入は避けられまい。




モルダヴィアの支援に二千名を振り分けると、残るのは常備軍三千名、貴族軍二千名・屯田兵二千名の計七千名となる。
昨年から実施している屯田兵制度は開始したばかりとあって兵士としての戦力化は難しい。
しかし土木工事用の工兵としては十分だった。
いずれにしろ国内の貴族にいまだ低いレベルの信頼しか与えることのできないワラキア軍は兵数の少なさを質と運用によって補っていかなければならないのだ。



「シエナ」

「御前に」

「ヤーノシュに殺されたバルドル公縁故の者との渡りはついたか?」

敵の敵は味方である。
兵力と国力に劣る以上、使えるものはなんでも使う以外にはない。
それにヤーノシュは国権の簒奪に犠牲を払い過ぎていた。
粛清された貴族の復権を条件に気脈を通ずる者が多いのはそのせいだ。
これはもちろんワラキアにも言えることであって、いまだ一部の貴族以外には重要な戦略情報を託せずにいるのだが…………。

「国内の情報工作に二人、十字軍従軍者に三人と言ったところでございます。近日中にはさらに数名を増やせるものと」

「前線で動ける手駒は多いほうがいいが、それと悟られるな。接触は控えておけ」

「御意」

十字軍は所詮同床異夢の寄り合い所帯にすぎない。
攻撃力は強力だが、その戦術機動力は最低だ。
特に石頭の修道騎士団においてそれは激しい。
裏を返して言えば、こちらの都合に合わせて誘導しやすい軍隊ともいえる。
流石にヤーノシュはそれほど御しやすい男ではないが、十字軍という連合体を思うさま指揮を執るのにはいささか手に余るであろう。



「ジプシーの情報工作はどうなっている?」

「主だったジプシーは殿下の種痘を受け入れワラキアでの保護に感謝の意を表明しています。まず期待通りの働きをしてくれるものと」

ジプシーたちにはキリスト教徒に向けて発せられた十字軍を神がお怒りになっている、という噂を広めさせている。
現教皇の正当性を疑う噂もだ。
教会大分裂以降三人の教皇を廃位させてきただけに、庶民にとっては耳触りのよい噂となるだろう。


ジプシーのこうした工作の影でシエナ配下の工作員には天然痘患者の瘡蓋を煎じた粉を各国の井戸に投じさせていた。
天然痘の感染力はそれほど高いものではないが、同時多発的に流行の兆しが見られれば社会問題になるのは避けられない。
ましてそれが十字軍参加国のみで見られる現象だということになれば有形無形の社会不安が造成されることは必至だった。


そしてジプシーにはワラキアでは天然痘が根絶され、もはや流感に怯えることもないという話をジプシー自身という証拠つきで証言してもらう予定だ。
頑迷な教会がその情報をあえて握りつぶしているとなれば教会の影響力は目に見えて低下するはずだった。



だがそれもこれも全てワラキアが軍事的成功を収めればの話だった。
衆寡敵せず十字軍に蹂躙されることあらば、いかなる策も効果をあげることはできない。
ワラキアに課せられた命題は重く厳しいものだった。
短期的に勝利を収めなければならない。
それも決定的な勝利を。


「殿下、出陣の準備整いましてございます」

「うむ」

ベルドに迎えられてオレは愛馬の背に跨った。
いつもながら戦場に立つとなれば胸にこみあげる高揚がある。
それは震えがくるほど恐ろしさを感じさせるものではあるが、同時に癖になりそうな快感を与えるものでもある。

「勝利の報を待っておるぞ。とっておきの褒美を用意して待っておるゆえな」


………もしかしてそれは自分自身にリボンをかけて………よそう、今それを想像するべきではない。たぶん。


「わが運命と汝の運命は同じ物だ。いまだ夫婦ではなくとも、それは変わらぬ。だから妾のために勝て!それが夫の甲斐性というものぞ!」


ヘレナの激励には真摯なヘレナの決意が込められていた。
東ローマ帝国の血をひくヘレナを欲するものは世界中に数多いだろう。
結婚していればともかくただの婚約者であればヘレナはいくらでも良縁を見つけられるはずだ。
その少女がこのオレと運命を共にすると言ってくれている。



ここで勝たずしてなんの漢であろうか!



「よかろう。ヘレナの伴侶たるの力をカトリックの狂人どもに教えてやるとしよう。この天と地の狭間には奴らの触れ得ぬ愛の形があるのだということを、決して忘れ得ぬ形で刻みつけてくれる」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十四話 クロスクルセイドその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/09 23:58

月が替わった5月、ヤーノシュが満を持して兵力を集中する中、ワラキア軍もトランシルヴァニアで兵力を再編する必要に迫られていた。
大主教就任の効果が予想以上に大きく、オスマン領であるブルガリアやマケドニアのほかセルビア王国などの正教会国家から一個人としての参戦希望者が相次いでいたからだ。
その数およそ二千名………カトリックの修道騎士団には及ばないがそれでも堂々たる戦力である。
既に全軍に十字架の旗と徽章を供与して、この戦いが正しい信仰として認められることは周知していた。
アルビジョア十字軍など比較にならない、歴史上初めてのキリスト教徒対キリスト教徒………カトリック教会対正教会の戦いが今始まろうとしている………。





ヤーノシュはことの成り行きに不安を隠せずにいた。
この十字軍は自分にとって最後の賭けである。
もし負けることあらば、ほぼ確実な破滅が自分を待っている。

ヴラド三世が教皇の心証を決定的に悪化させた正教会との接近はヤーノシュにとってまたとないチャンスに思われた。
医療技術の売買を始めたヴラドは教会にとってもはや見過ごせない危険人物と目されているのは疑いない。
あとひと押しするだけで奴が異端の烙印を押され、その拭いきれぬ汚名のもとに破滅していくのは確実なはずであった。

君主にとって破門ならともかく異端の指定はあまりにも致命的なものだからだ。
中世的な観念からいえば生きながら地獄に落とされたに等しいものであった。

にもかかわらず、正教会大主教という輝かしい地位を身に着け、以前にもまして国民の信頼を獲得したヴラドの政治手腕はヤーノシュにとっては魔術的とすら言えるほどだ。
計算違いも甚だしい。現に正教徒と戦うことに戸惑いを感じている修道騎士は少なくないのである。

…………奴はいったい何者なのだ………?

まるで正体の知れぬ怪物と相対したような腹の底が重くなるような恐怖が消えない。
しかしただ一つ確実なことがある。

この違和感の根源はあのヴラド三世にあり、ワラキアの戦略も政治も外交もあの男一人の命にかかっているということだ。
ヴラド失くしてワラキアはなく、正教会もない。
たとえ十字軍の九割までが死に絶えようとも、ヴラドの命させ奪えるなら最終的な勝利はヤーノシュの頭上に輝くはずであった。




ブダに集まる兵士の数は実に四万に達しようとしていた。
主力はハンガリー王国軍二万にポーランド王国軍一万、修道騎士団他が一万ほどである。
さらにポーランド王国軍はモルダヴィアへもおよそ二万弱の兵力を派遣しておりドニエストル川を挟んでモルダヴィア・ワラキア連合軍一万二千とにらみ合いに入っていた。
それに対するワラキア軍の規模はいかにも小さい。
総兵力で一万弱………しかもうち二千余名は戦力としては数えることのできない工兵であった。
おそらく根こそぎ動員をかける気になれば二万以上の数を揃えることは可能だろう。
しかし訓練に次ぐ訓練を重ねてきた常備軍の兵士や、士官学校で戦術を叩きこまれた士官たちは知っている。
時として戦意と忠誠心の薄い味方は敵以上に質が悪いものなのだと。

前線兵力ではないが、ワラキアには各国にない兵力以外の軍属が存在する。
輸送に特化した戦略輸送兵団とでも呼べばよいだろうか。
本来貴族が担ってきたワラキア軍主力たる軽騎兵が補助的なものとなり、常備軍による密集歩兵が主力となったことで余剰が生じた軍馬で構成されている。
兵員の武力は山賊に襲われない程度の警察力レベルだが完全に軍組織に組み込まれた輸送組織はいまだ世界に類を見ないものであった。
火力戦と野戦築城を得意とするワラキア軍にとって彼らが存在する意義は大きい。

「この戦いで我らが勝利することあらば、その功績は誓って君たちのものだ。各員の努力に期待する」

ワラキア大公から直接の御情を賜った彼らの士気は天を衝かんばかりに高まっていた。






「おい、てめーら!とっとと戦支度を始めやがれ!あんまり気い抜けた面してんじゃねえぞ!」

ヤン・イスクラは柄の悪いダミ声で兵士たちに出征の準備をさせることに余念がなかった。

「えっ………今回の十字軍は静観すると決まったんじゃ………」

「馬鹿野郎!ヤーノシュが勝ったらワラキアは終わりだ!トランシルヴァニアにでも出兵しなきゃ格好がつかねえだろが!ヴラドの小僧が勝ったらハンガリーが終わりだ。
この機会にミシュコルツ州を頂く!………これでもオレらあ主持ちだからよ。ちったあ役に立つとこ見せておかなきゃしゃあんめえよ」

ハプスブルグ家の継続した支援を受けている以上、雇い主の意向はある程度聞いておくのが気の利いた傭兵というものである。
もっとも額面通りに全ての内容を完璧に果たすなど考えてもいなかったし、戦うべき時と相手は全く自分が決めるつもりであった。

「あの小僧とは………なあんでかやる気にならんわなあ………」

ヤンにとってヴラドはほとんどびっくり箱のような人間だ。
遠くフスの理想から外れてしまった今の自分にとって、面白いということ以上に大切なものは何もない。
そんな自分と同志の間に隔意が生じつつあることも気づいてはいる。
しかし、ヤンにとって夢はもうすでに終わったのだ………。
新たにヤンに夢を与える者が現れるまで、気の向くままに流れる生き方を変えるつもりはヤンにはなかった。

「まだだ………まだこんなところでくたばるんじゃねえぞ小僧!」






「総主教殿!これはいったいどういうことか!」

コンスタンティノス11世は激昂していた。
あまりに明らかな背反だった。
東ローマ帝国の皇帝として、帝国の存続のためには手段を選ばず奮闘してきた自分を、この老獪な総主教は理解してくれているとそう信じていたのに
幼い日から知る聡明を持ってなるこの老人にかくも手ひどい裏切りを受けるとは!

「………陛下はご存じなかったのです。………ならばご存分の御処分を」

ヨセフ二世の言葉に皇帝は低く呻かざるを得なかった。
この老人は独断でしたワラキア公への大主教授与の責任を一身に背負うつもりでいるのだ。
だからこそ、皇帝には一言も漏らさずにいたのだと。


それにしてもことここにいたっては老人の首ひとつで収まる問題ではない。
教皇自ら異端の烙印を押した背教者をこともあろうに大主教の座に据えたのだ。
これでは皇帝の考えていた、可能な限り対等な形での東西教会の合併など夢のまた夢でしかない。

「猊下が信仰を守ろうとするお気持ちは理解している。………しかし私はこの国を守らねばならぬのです…………」

皇帝は孤独だった。
兄の死から帝国千年の歴史を背負う重責を必死になって果たしてきた。
なのに本当の意味で皇帝と志を同じくする者は誰もいない。
歴史と伝統が変わらずにあることは尊い。変わるくらいなら滅びを選ぶ潔さも個人としては尊いだろう。
しかし、国を保つためには時として恥を忍び泥を啜らねばならないこともある。
帝国の歴史と誇りを次代につなぐため、下げたくもない頭を下げ、かつて帝都を業火の海に叩き込んだヴェネツィアにさえ工作を依頼したのだ。

「………陛下はお父上に似て知略に長け王者の貫禄をお持ちのお方です………しかしこと知略に関する限りヘレナ姫にはかないませぬ」

皇帝コンスタンティノス11世は耳を疑った。
今この老人は何と言った……………?
この私の知略がまだ十一歳になったばかりの姪子に劣ると………?

「信じられぬのも無理はないが、あの娘は帝国千年の年月が作り上げた怪物じゃ………天才と言ってもいい。そのヘレナが選んだ男をどうか信じてやって
下されぬか?」

あまりの言葉にすっかり毒気を抜かれた様子で皇帝は笑った。

「信じるもなにも今となっては見守る以外に手がございませんしな………しかし万一彼が敗れることあらば責任は免れぬと思し召せ」

「御意」





トゥルゴヴィシテ城のバルコニーでヘレナはヴラドのいる西の彼方を見つめていた。
あの男を選んだことは正解だった。
生まれて初めて出会う己を超える才能
そして女の知恵を迷わず採用する識見
帝国の皇女であることを全く気にかける様子のないとても柔らかな優しさ
どれをとってもヘレナが望む以上の伴侶に違いなかった。

だから寂しい
だから切ない
だから会いたい

ヴラドがいなくなってしまってからのヘレナの生活は色を無くしたかのように空ろで虚しい。
いつの間にか彼のいる生活がヘレナにとっての当たり前になってしまっていた。
この城の一人たりともヘレナと対等の話などできない。
ヘレナを感嘆させる見識などもたない。
退屈だ。こんなことならヴラドに無理をいっても戦場にまでついていくのだった。

会いたい
会いたい
会いたい

どうしてこんな胸が締め付けられるように痛いのだ。
妾は夫の勝利を一片たりとも疑ってなどいない。
あの男は勝つ。
たとえ誰が見ても敗北しかありえぬ窮地にあろうとも、あの男はあの男にしか気づけぬ理をもって勝つべくして勝つ。
常人とあの男は見ている世界が違うのだ。
そして妾を迎えに来てくれる………勝利を携えて。
なのに胸が苦しい。
会いたくて我慢がならない。
こんなことは今までになかった。
早く帰ってきてくれ、我が夫よ。
妾は………妾はおかしい。……おかしくなってしまった………。




天才をほしいままにする少女にもわからぬことがある。
まして帝国の皇女たる少女に誰が教えようはずもなかった。



……………………恋すれば人がどうなるかなど。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十五話 クロスクルセイドその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/09 23:49

トランシルヴァニアとハンガリーの国境の街、オレディアを西に向かうとフォルデスという小さな町がある。
緩やかな丘と平野に囲まれたそこは平時であればのどかで豊穣な大地に他ならなかったろう。
しかし、今そこは東欧における戦乱の中心であり、東西のキリスト教徒が血で血を洗う闘争を繰り広げる運命の場でもあった。
後の世にフォルデスの戦いと呼ばれる一連の戦いは近代にいたるまでの数百年を別の名で呼ばれていた。
………………煉獄の戦い、と。





「さてずいぶんとまた気張ったものだな」

「およそ四万というところでございましょう」

ベルドが傍らで答える。
その目に怯えはない。ただ、主君ヴラドへの信頼と忠誠があるだけだ。
だが現実はベルドが無条件に信を寄せられるほど楽観できるものではなかった。

十字軍四万、軽騎兵を中心としたオーソドックスなスタイルの王国軍主力を傭兵中心の歩兵が補完している。
修道騎士団の一部は重装騎兵となっておりその突撃衝力はつとに有名だった。
対するワラキア軍は長槍兵・銃兵・砲兵・歩兵・軽騎兵を全て合わせても七千余人に過ぎない。
攻者三倍の法則という言葉を遥かに超えた戦力比である。


突如戦場に喇叭とドラムがなり響いた。
ワラキア軍が世界ではじめて導入した軍楽隊のものであった。
戦場に調べが流れるという異様な光景に十字軍兵士が目を瞠る。

-天地讃えよ-
-御恵み溢れる-
-主の愛語りて-
-真実心に宿れかし-
-AMEN-

「忠勇なる同士同胞諸君、主の寛容が彼らをお導きになりますように………AMEN」

「「「「AMEN!!」」」」


ああ、そうとも。
貴様らが死して天に昇れるよう祈ってやる。
正しき信仰に殉じたと信じてこの豊穣の大地に貴様らの腸をぶちまけろ。
そしてただ安らかなまどろみに沈むがいい。

………………………黙示録の日まで。


戦いの火蓋は切って落とされた。





砲兵のぶどう弾が十字軍陣地に紅蓮の華を咲かせると、悪い夢から覚めたかのように十字軍側も動き出した。

「おのれ!異端め、姑息な真似を!」

不覚にも見惚れた…………
戦場に響き渡る賛美歌のメロディー
戦士たちの決意と信仰を込めた荘厳な歌声
そんな自分は認められない、そんな自分を許すわけにはいかないのだ!



雄叫びをあげながら長槍の方陣目掛けて突進する騎兵を前に、進み出る一団の兵がいた。
一様に大きな体躯をし、漆黒の帽子に彩られた彼らは流れるような所作で手にした棒の導火線に着火する。

「放て」

棒の先端にくくりつけられたものは陶器で出来た爆弾。
それは一見すれば旧ドイツ軍で使用したポテトマッシャー型の手榴弾に他ならなかった。
轟音と閃光が騎兵たちの鼻先に炸裂する。
突撃に移った騎兵にそれを避けるすべは無い。
ある者は吹き飛びまたある者は落馬して戦闘力を失う。

そして突進を鈍らせた騎兵たちに銃兵からの射撃が容赦なく浴びせられた。



またか!
また貴様はオレの知らぬ戦をこの戦場に持ち込むというのか!

「ひるむな!迂回して側面から突き崩せ!」

しかしお前の軍はわずかにこちらの二割以下にすぎない。
はなからワラキアを下回る損害で勝てるなど考えてもいない。
悪魔(ドラクル)め!いかに貴様が目を眩まそうとも、障害物のない平野では数こそが力になる。
たとえ貴様が本物の悪魔であろうとも変わらぬ、それが絶対の真実なのだ!


ワラキアの騎兵も阻止行動に出るが千騎に満たぬ数では牽制にしか使えない。
側背を衝く騎兵のさらに側背に回り込んで弩による漸減をしかけるのが精一杯の様子であった。
ハンガリーの誇る軽騎兵部隊が両翼のワラキア陣に肉薄していく。
前線の両翼に展開していたワラキア銃兵がこれに対応すべく左右に射列を形成するが、そんなもので騎兵の突撃はとまらない。

「…………どうやら勝ったな」

ヤーノシュは余裕の笑みをもらした。
火縄銃は確かに有用な武器だが、まだ主戦武器足りえぬのには理由がある。
ひとつには射撃速度が遅いこと、そしてもうひとつは肉薄されてしまうと反撃手段がないこと。
弾幕を突破した騎兵が馬蹄に踏みにじらんとワラキア銃兵に肉薄する。
次の瞬間ヤーノシュは言葉を失った。

ワラキア銃兵の前列が膝をつき、銃を一斉に突き上げたのである。
銃の先端に鈍く輝く光があった。
…………馬鹿な!銃を槍に仕立て上げたというのか!
思わぬ逆襲に戸惑った騎兵に向けて二列目以降の銃兵が近距離から発砲する。
味方の危機に駆けつけようとした後続の騎兵に向け、再び擲弾兵が手榴弾を投擲すると両翼の騎兵部隊は壊乱状態に陥った。

どこまで戦を変えるつもりなのだ?お前はいったい何者だ?悪魔め!



しかし兵数に圧倒的に劣るワラキア軍には追撃に移るだけの余力はなかった。
かろうじて軽騎兵による漸減が行われただけである。
いや、少しずつではあるが後退しつつあるではないか!

………やはりお前のしていることは目くらましにすぎぬ。一定の戦果をあげることで勝利を喧伝するつもりなのだろうが逃がしはしない。
この戦いはつまるところオレかお前の命がなくなるまで終わりはしないのだから。

「攻撃の手を休めるな!背後に回って退路を絶て!決して逃がすな!」

戦いは激化する一方であった。
ワラキア本隊の背後へ機動しようとしたハンガリー騎兵は森に隠されていたワラキア別働隊の奇襲を受けその任を果たせずにいたが、正面と両翼からの波状攻撃は確実にワラキア軍に消耗を強いていた。
戦列の幾分かは既に失われており、本陣の予備は出し尽くしている。
対する十字軍側の損害も甚大と表現するほかはないが、戦力比が違う以上ワラキアにとっての危機的状況に変わりはないのだった。


「あと少し……あと少しでワラキアの戦列が崩れる!皆のもの!功名は目の前ぞ!」


もはや誰の目にもワラキアのジリ貧は確実であるかに思われた。
いや、むしろここまで優勢に戦いを進められただけでもワラキア兵の精強さは驚くべきものである。
野戦で五倍以上の敵と正面から戦って味方に数倍する損害を与えたという一事をもってしても戦史に残る勇戦といえるだろう。

功名稼ぎをけしかけるヤーノシュの言葉に勇躍して十字軍が攻勢に移らんとしたその時だった。

ワラキア公国軍の後方でむくりむくりと立ち上がる伏兵その数二千。
後方に控えていたワラキア公国軍工兵部隊の面々だった。
本格的な戦闘力を持たない彼らは、ゆっくりと後退を続ける味方の後方で弩を手に伏してその姿を隠匿し続けていたのである。
ほとんど狙いもつけずに斉射された弩の矢は豪雨となって十字軍兵士の頭上に降り注いだ。
怯んだ兵士に向けて擲弾兵が最後の手榴弾を投擲する。

…………おのれ、悪あがきをしおって………!

歴戦のヤーノシュには解っていた。
伏兵として出現した兵士が戦慣れした本職の兵士ではないということを。
ここでわずかばかり時間を稼いだところで破滅のときをほんの少し引き伸ばすにすぎないだろうということを。
そう思い爆煙の晴れた戦場を見渡したヤーノシュは再び絶句した。



ワラキア軍が逃げ出していた。
十字軍に背を向け、駆け足全力で遁走に移っている。
ここまであれほど頑強に抵抗し、いまだ組織だった戦力を失ってはいないワラキア軍が、戦列を乱し、壊走にも等しい様子で後方へと駆けて行く。

…………何を愚かな……歩兵が主力のワラキア軍が走って逃げたからといって何ほどのことやある………!

「逃がすな!追え!追えー!」

なだらかな坂の上に逃げ込んだワラキア軍を追って、混乱から立ち直った軽騎兵が駆け出していく。


そうして坂の上へワラキア軍を追った騎士たちの前に有刺鉄線と塹壕に囲まれた野戦陣地がその凶暴な顎を向けていた。




………………やられた!

陣地に拠ったワラキア軍は既にあらかじめ定められていたかのような配置を終え、有刺鉄線に戸惑う十字軍兵士へ向けて一斉射撃を開始した。
手持ちを失っていた擲弾兵もまた、手榴弾の補給を受け、再び前線へと投擲を開始する。
十字軍の突撃衝力はここに完全に停止した。

…………ここで終わるわけにはいかない。

四万を数えた兵のうち、なお実戦稼動に耐えうるものは二万に満たない。
戦意に薄い傭兵から逃亡が相次ぎ、もともと銃撃に弱い騎兵を中心に一万名以上が死傷して戦闘力を失っている。
ここで兵を退くようなことがあればヤーノシュの采配に対する責任問題になることは必至だ。
仮にそれを押さえ込むことが出来たにせよ、もう一度大兵を集めることなどできるかどうか…………。
莫大な戦費
そして予想だにせぬ大損害
それでもなお、諸侯が協力してワラキアへ立ち向かってくれることなどありえないではないか。

勝つしかない。
今ここでいかなる犠牲を払おうとも、ヴラドの首を上げる以外に自分が生き残る術はない。

「全軍を集結させよ」

もはや区々たる損害など考慮するに値せず。
味方の屍の山を踏み越えてただ怨敵にあたるのみ!




オレはヤーノシュが全軍を集めその集団密度を高めていくのを見つめていた。

…………ヤーノシュ、お前の考えは正しい。

日が西に傾きつつある今、戦いを放棄できないヤーノシュが今日中の決着を望むなら味方の損害を省みぬ一斉飽和攻撃以外にない。
陣地に拠ったとはいえ兵数で圧倒的にワラキアが劣るのは事実。
ならばワラキア兵が対応不能な数と密度で一気に陣地を突破してしまうのが最良の戦術だ。
有刺鉄線を軍馬の死体で乗り壊し、塹壕を味方の死体で埋めてワラキア兵の死命を制する。
肉を切らせて骨を絶つ……そんな意味の言葉があるいはこの東欧にもあるのかもしれなかった。

「………お前は正しい、だが正しいがゆえにお前の負けだ、ヤーノシュ」

悪いがヤーノシュ、お前がここに至るまでにオレを殺せなかった時点でお前の敗北は決まっていたんだ。

再編を終え最後の突撃に移らんとする十字軍の前に、オレの手が振り下ろされた。




ワラキア軍の陣地から突如吹き上がった火柱にヤーノシュは目を疑った。
見れば塹壕に流し込まれた油のようなものが燃え上がっている様子である。

…………これでは突撃できぬ………!

どこまでも姑息な手段を用いる男だ。
そう思ったときにはもう遅かった。
塹壕の両端から見る見るうちに炎の川が十字軍の両翼に伸び始めたのだ。

…………それはまさに炎の川だった。
幅一メートル、深さわずか二十センチ。
溝らしきものがあるのに気づいてはいても誰も気に留めるものもいなかった。
なんら戦闘の障害になりうるものでもないからだ。
そのわずかな溝の上で、輸送兵団が全力をあげて運んできた大量のナフサがおそるべき高温で燃え盛りながら、たちまちのうちに十字軍を炎の壁のなかに閉じ込めようとしていた。


今や十字軍の大半は一辺を六百メートルとした炎の壁に押し包まれていた。
炎を避け中央に固まり始めた兵士たちに向かって投石機から焼夷弾が投げ込まれる。
内も外も灼熱の地獄に炙られ、一人また一人と炎の川に身を投げる兵士が続出した。
しかし、高温で燃焼するナフサに炙られた人間が無事ですむはずもない。
全身火傷で死んでいく運命に変わりは無いのだ……………。


これが戦?
これでも戦?
こんなものが戦?
否!否!否!
断じてこれが戦でなどあるものか!
戦とは騎士たるの名誉であるべきものだ!
これは戦などではなく………邪神の生贄の儀式にほかならぬ。
戦をかくも貶めるとは………やはりお前は悪魔(ドラクル)であったのだな!
悪魔!
悪魔!
悪魔!
今は勝ち誇るがいい。
しかし今にきっと神罰が貴様の頭上に下されよう。
暗黒地下で主のお裁きを受けるのは誓って貴様なのだ。
そのときこそオレは永遠の煉獄に落ちる貴様を存分に嬲り嘲り嗤ってくれる。
その日を楽しみに待っているぞ!


…………………黙示録の日まで




「……………火あぶりはお前たちの十八番だったな…………」

十字軍は完全に壊滅した。
その死亡率は実に七割近くに達し、参戦した四万人のうち約三万人が命を落としたのである。
戦いの容赦の無い情景はたちまちのうちにローマを震撼させ、教皇はヴラド三世の異端指定を撤回することになった。
戦史に特筆されるこの殲滅戦を誰がいうともなく、煉獄の戦いと呼んだ。




「このままブダを占領するぞ。バルドル公の縁者を召しだして宮廷工作を図れ。」

「御意」

ハンガリー王国は完全に戦力を失った。
ここでワラキアが占領しなければ他国の草刈場と化すことは必定である。
それはワラキアの安全保障にとっても得策ではない。

ハンガリーの領国化についてその方策を検討しているオレに信じられない報が飛び込んできた。


「殿下!お急ぎお戻りください!先ほどの腕木通信によれば不平貴族の一部がトゥルゴヴィシテに侵攻いたしました!」


「なんだと!?」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十六話 少女の戦いその1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/10 23:33

…………トゥルゴヴィシテが………危ない………。
オレは使者の言葉を呆然と聞いていた。

………ヘレナが………

「必ず勝って帰ってこい。汝は我が誇りだ」

………ヘレナが………

「……だから……早く妾のもとに戻ってきてくれ、我が夫よ」

………ヘレナが危ない!?


そう考えたらもういてもたってもいられなかった。

「ベルド、あとを任せる!」

気がついたときにはもう駈け出していた。

君主として失格かもしれない。
大主教として背教ですらあるかもしれない。
しかしそれ以上に大切なことがある。

それは異邦人たるオレにとって………おそらくは家族という存在なのだった。





ベルドは君主の命に否やはなかった。

「ゲクラン殿、精鋭の中隊を率いて殿下を追って下さい。残りの者は私とともにブダへと向かいます」

「承知した、殿下の手法を誰よりも真近で見てきた貴殿だ。きっとやれる」

「私もそう信じています」

「マルティン!フーバー!グレッグ!オレの後に続け!」

ゲクラン率いる常備軍の精鋭が疾風のようにヴラドを追った。
不平貴族の戦力など知れている。
全ては時との勝負だった。
裸同然のトゥルゴヴィシテ城が陥落する前に間に合うかどうか。
ヘレナ姫が無事であるうちに到着できるかどうか。
近臣としていつもヴラドの傍に仕えていたベルドは知っていた。
半ば神がかった敬愛する万能の主君が、あの小さな少女に、いかに心のもっとも柔らかな部分を委ねていたかということを。







ヘレナはこのところ毎日西の空を眺めるのが日課になっていた。
ヴラドの先鋭的な政治センスを思い出しては何度も頷き、
ヴラドの優しい笑顔を思い出しては頬を朱に染め、
ヴラドのキスの甘さを思い出してはだらしなく笑みくずれているその様は誰が見ても典型的な恋煩いであった。

「…………ヴラドの馬鹿………」

言ってみてからヘレナは沸き立った釜のように赤面した。
慣用句の如く我が夫などと呼んでいたが、初めて名前で呼んでみればまるで心臓を鈍器で殴られるが如き衝撃がある。

…………こ、これでは言えぬ………っ!

あまりに心臓に悪すぎる。
ま、まさか名前で呼ぶのがこんなに気力を必要とするものだとは………!

人間離れした造形美を誇る美少女が赤面する顔を手で押さえてのたうちまわる情景は一種異様なものであった。
侍女はもはや現実逃避することに決めたようでヘレナを断固として視界にいれぬよう頑なにバルコニーへ立ち入るのをこばんでいるのもむべなるかな。
そんな微笑ましくも恐ろしいヘレナの発作はこの日ばかりはそう続かなかった。


「…………なんだ?あれは………?」


トゥルゴヴィシテへ一直線に駆けてくる軍馬の群れ。
馬蹄が砂塵をかきあげる様子がバルコニーのヘレナからはよく見えた。

ザワリ

と全身の毛肌が粟立つのがわかる。
妾の予想が正しければ奴らは……………

ヴラドに贈られた望遠鏡を手に取り迫りくるその者の紋章を確認する。
赤地に白い騎士の紋章
かつてヴラドに与するをよしとしなかった中立派最大の貴族ザワディロフ伯爵の軍勢だった。



「誰がある!」

ヘレナの怒声に慌てて侍女が駆けつけた。

「謀反人どもがやってくるぞ!城門を決して開けさせるな!使えるだけの兵を全て集めて城壁に並べろ!それと……街の顔役に連絡をつけろ、妾が直々に面会する」

ギリリ……と唇を噛みしめるとヘレナは何かを決意した表情でバルコニーを飛び出していった。






「開門!!」

大音声で呼ばわるザワディロフ伯爵に声を返したのは小鳥が唄うような少女の美声だった。

「先触れもない突然の来訪、何故をもってのことか?ザワディロフ」

その無礼な言い様にザワディロフは思わず激昂した。

「貴様ごとき下賤ものと聞く口などもたぬわ!とっとと城門を開ければよいのだ!」


「………下賤は貴様だ、愚か者」

「な、なにを…………?」

「ローマ帝国皇帝の姪にしてワラキア公国大公の婚約者たるこのヘレナ・パレオロゴスが下賤とあってはこの世に貴賤などおらぬようなってしまうわ!
分をわきまえよ!」

ザワディロフは愕然と絶句する以外に術がなかった。
まさか帝国の皇女が城門で待ち構えているなどいったい誰に想像できよう。
ザワディロフは自らの目論見が初手から躓いたのも認めぬわけにはいかなかった。

「こ、これは不逞の輩が公都へ向かっているとの報を受けたゆえご助力に参ったのでございます……」

「そうか、その不逞の輩とやらはいったい誰でいかほどの戦力をもっているのだ?」

これが一介の門番ならば権威と弁舌に任せて論破することも可能であったかもしれないが、ヘレナを納得させるのは至難の技だ。

…………ならばやるか?

もとより難解な思案には向かぬ男であった。
ザワディロフはその凶暴な本性をむき出しに、ヘレナに対して言い放った。

「異端づれに忠義立てするのも愚かなことよ。今降るならば命だけは助けてやるぞ、姫よ」

当人にとっては可能な限りの凄みを聞かせた台詞であったが、その台詞はヘレナになんの感銘ももたらさなかった。

「異端はうぬじゃ、この身の程知らずめが。大主教に歯向かって主が許す道理があろうか。地獄で主に詫びるがよい。私は裏切ってはならぬものを
全て裏切ってしまいました、とな」

近視眼で気位ばかりが高いザワディロフにとってそこまでが限界だった。

「この生意気な餓鬼め!思い知らせてくれる!」

「頭の悪い男らしいなんの捻りもない台詞じゃな。そんなことでは妾のような童すら口説けぬわ」

激発したザワディロフが怒りに逸るままに総攻撃を開始した。

もちろんそれこそがヘレナの思惑通りであった。



トゥルゴヴィシテに残存する兵力はわずか五十余人に過ぎなかった。
これではとうてい城壁の全てを防御しきれない。
ヘレナとしては自分を囮に敵を一ケ所に集中させる必要があったのだ。
ザワディロフとそれに同心する貴族軍およそ八百名。
戦力比十六対一はあまりに絶望的な数字である。
しかし救いはある。
ヘレナが愛する未来の夫たるヴラド三世は常識の通用する男ではないことが何よりの救いだった。


とはいえヘレナとて十一歳の少女であることには変わりはない。
舌戦の間はなんの怖気も見せなかったが戦闘が始まってみれば膝の震えが止まらなかった。

………あの男にもう一度会うまでは死ねぬ………

ヘレナの心を占める最も強い欲望はそれだった。
ワラキアの未来でもない。
帝国の血統の誇りでもない。
ヴラドの傍らにいる日常を手にすることだけが、ヘレナの戦う理由なのだった。

「妾は負けぬ………汝が迎えに来てくれるまではな」

ヴラドが十字軍に敗北すると考えている輩は他にもいるやもしれない。
しかしヘレナはヴラドの勝利を確信している。
問題はその確信を他の貴族が共有してくれるかということだ。

「腕木通信の報を見逃すな。味方の勝利を何よりも優先して伝達するのだ」

十字軍との戦いが勝利に終われば傍観していた貴族はたちまち味方へと変わるだろう。
功名稼ぎにザワディロフを討伐しようとすることも決してありえない話ではない。

しかし味方の勝利までの時間を稼ぐのにはここの兵士だけでは不可能だ。


「殿下………トゥルゴヴィシテの有力者たちが参っております………」

「うむ、通せ」


まずは人手がいる。
それも自らの意思で行動を共にする同士が。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十七話 少女の戦いその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/12 01:02

「お主らに問う」

開口一番ヘレナは居並ぶトゥルゴヴィシテを代表する有力者たちに言い放った。

「先代大公の時代に戻りたい者はいるか?」

有力者たちはお互いに顔を身合わせる。
返事などひとつしかないに決まっていた。

「………このトゥルゴヴィシテに住まうもので先代の治世へ戻ることを願うもの、ただの一人もおりはしませぬ。我らの主君はヴラド殿下以外にはおらぬものと」

現在トゥルゴヴィシテは空前の繁栄を誇っていた。
躍進を続けるワラキアの政治の中心として、
トランシルヴァニアとモルダヴィアの中心に位置する経済の扇の要として。
人口はどんどん増加し、サス人による支配から脱したルーマニア人商人たちがようやく自立した商業圏を構成しつつある。
この数年で推し進められた街道の整備によって流通量は増える一方であり、商品価値の高いワラキア商品は多大な利益をトゥルゴヴィシテにもたらしていた。

………かつてサス人・マジャル人に虐げられ、同じ国民扱いさせされなかった過去に戻りたいなど誰が考えるだろう。

「よろしい、しかしここに大公殿下の治世を覆そうとする愚か者がいる。お主たちはそれでよいのか?己が幸せを暴虐な貴族に覆され、それをやむを得ないと
がんじ得るのか?」

ヘレナが促している意図は明白だった。

「…………私たちにも戦え………と?」

「戦うのが必ずしも騎士である必要があろうか?人はみな己の大切なもののために戦う権利があるのだ。妾は夫のために戦うぞ?あの男にもういちど逢うまで
死ぬ気はさらさらないからな!」

たった十一歳の少女が主張するなんともおおらかな愛の告白に思わず男たちは微笑んだ。
愛する者のために戦うことを厭う男はいない。
しかしそれ以前に子供を守ってやる事こそ大人の責任というものではないか。

「手前の手代に傭兵あがりのものがおります。すぐに御前に参らせましょう」
「力自慢の若者には不自由しておりませぬぞ。なんなりとお申し付けくださいませ」
「女達にも介助と治療にあたらせましょう。こうした人手はいくらあっても困りませんからな」

ザワディロフたち貴族軍が乱入すれば略奪と暴行が繰り広げられ公都が荒廃するのは火を見るよりも明らかだ。
かつては抗う術も力もなく、嵐が過ぎるのを待つように身を潜めるしかなかったが…………。

「お主たちの協力、頼もしく思うぞ。なに、褒美は期待しておくがよい。我が夫は太っ腹であるゆえな」

この少女にかかっては貴族の力など塵芥にも等しく思えてしまう。
それがなんとも快くてならなかった。

「おうらやましい。姫君はヴラド殿下によほど惚れこんでいると見えまする」

ちょっとした揶揄であったが、それが少女に与えた影響は甚大だった。

「あ、や、ここ、これはだな、妻として当然の役割なのであって……いやいや妾が夫を愛していないわけではないのだが……はは恥ずかしいことを申すでないわ!」

大公殿下は幸せものだ。
かくも愛らしく、かくも聡明で、かくも勇気ある妻を得ようとしているのだから。





「ええい!これしきの手勢が何故抜けん!」

城門を前にした攻防は膠着状態に陥っていた。
もともと攻城兵器の持ち合わせのないザワディロフ軍はかろうじて破城槌だけを持ち込んでいたが、破城槌に固執するあまり城壁から弩で狙撃され、いたずらに損害を重ねていたのである。
ようやく遊兵をつくる愚に気づいたころには、既に太陽は西に大きく傾きかけていた。
もっとも夜になれば戦いはこちらのものだ、という余裕があったためそれほどの焦りはない。
闇に隠れて城の内部に潜入させできれば勝負は決まりなのだ。
そうしたザワディロフの思惑が見事にはずされたことに気づくまでそれほど時間はかからなかった。



遠目には城壁が炎上しているように見えるだろう。
それほど莫大な数の油が燃やされ、夜になってなお、トゥルゴヴィシテはまるで昼のような明るさを保っていた。
商人たちが備蓄の油を提供した結果であった。
城壁の見張りにも市民から志願した者たちが笛と弩を手に巡回して回ってくれている。
鉤縄で城壁をよじ登ろうとした貴族兵士たちは各所で発見され矢や油の洗礼を浴びることとなったのだった。

また城門前には廃材が積み上げられ、破城槌で城門が破壊されても容易には侵入できないように様々な工作がなされている。
ヘレナがヴラドに聞いた野戦築城の知識がそこには如何なく生かされていた。
落とし穴、塹壕、バリケード…………
このとき、まさしくヘレナこそはトゥルゴヴィシテの主であり、ワラキア大公ヴラド三世の妻であった。
建前が婚約者であろうと、誰もそれを気にすることなど思いもよらない。
ヘレナはその行動によって国母たる地位を市民に認知されたと言っても過言ではないだろう。
ザワディロフの胸中にようやく焦りと後悔が生まれようとしていた。





翌朝からザワディロフ軍は正攻法に復帰した。
戦力比はすでに絶対なものであり、絶え間ない消耗を強いていけばトゥルゴヴィシテの戦闘員が消滅するまでそれほどの時を要しないであろうことは
明白だったからだ。

「弩の射手!城壁の兵士を集中して狙え!弩のないものは盾をもって破城槌を守るのだ!」

身を隠す擁壁もなく弩同士が正面から打ち合えば損害は避けられない。
しかし極端なことを言えば五人倒される間に一人倒すことが出来ればこの戦いに関してはこと足りる。
まともな戦術指揮官なら恥ずかしさのあまり裸足で逃げ出しそうなザワディロフの命令は実のところこのうえなく有効な判断だった。

ところが確実に被害を与えているであろうにもかかわらず、トゥルゴヴィシテの反撃はなお熾烈であり衰える気配を見せない。

「何故だ?一向に城壁の兵が減らぬわけは………!?」

減らぬ理由は偽装である。
あえて目立つよう露出した兵士は人形に鎧を着せた囮であった。
矢を浴びた囮はいったん回収したあと矢を抜いて再び城壁に立てる。
従軍経験者の加入と相まって迎撃の兵力が衰えぬ理由はそこにあったのだ。

後方で治療と介護にあたる女性たちの存在も心理的な影響は大きい。
また弩は弓を引くのに力がいるが、狙いをつけ発射するのに力はいらない。
弩の弓を引くことを専門にした若者の加入で兵員に数倍する速度で射撃ができることも大きかった。


こんなことはありえない。
ザワディロフの肥大化した自尊心は目の前の事実を容認できなかった。
ヴラドの敗北と破滅を説き、加勢を頼んだ貴族たちからの反応が乏しいことも、ザワディロフの計算にはないことだった。
十字軍の兵力およそ四万、神か魔でもないかぎりわずか五千程度で抗戦できるはずがない。
なのに何故それがわからぬ?
我ら貴族の誇りを取り戻すための義戦に、何故手を貸そうとしないのだ?

元来軍事力こそが貴族の権力の源泉。
ヴラドが推し進める常備軍の整備は君主が軍事力の一切を貴族に頼らぬという意思表明に他ならないのではないか。
重すぎる軍役にいっときは歓迎したが、時を追うごとにその不安がザワディロフを苛んでいた。

その不安は半ばは的中していると言ってよいであろう。
ヴラドは貴族の軍権を取り上げ、その教育水準を利用した官僚集団としての役割を貴族に対して期待しつつあった。
逆に言えば、能の無い……ザワディロフのような前封建領主的な貴族は不要になろうとしていたのだ。
もしも貴族が不要で平民と同じ扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだとザワディロフは本気で考えていた。

……………何故わしの思うように行かんのだ?

懊悩するザワディロフの前でまた一人の兵士が弩の射手に射抜かれてもの言わぬ肉の塊と成り果てる。

攻め寄せてよりはや三日。
ヴラドが戻るようなことは万が一にもありえないだろうが、このままでは損害が許容を超えてしまう危険性が出てきた。
ザワディロフに同心した貴族が死ぬまで行動をともにしてくれるなどとは流石のザワディロフも考えてはいない。
現在のまま損害が推移すれば明日にも兵士の三割が行動不能となるだろう。
ザワディロフの経験からいっても、三割という数字は兵の士気の分岐点であるはずだった。


「見事じゃ!褒美を取らせるゆえ見知りおくぞ!デュマ!」


またあの癇に障る声が聞こえる。
ヘレナは律儀にも前線に出ては兵士の手柄を激賞し、後の褒美を約束して回っていた。
士気を維持する手段として指揮官の大度と褒賞ほど効果的なものはない。
ヘレナが意識してそれを行っているのなら、全く末恐ろしい子供だと言える。
もっとも無意識であったほうが恐ろしいものであるかもしれないが……………。


…………………そうか


ザワディラフは内心でひそかに手を打った。
ワラキアがひとりヴラドの肩にかかっているように
トゥルゴヴィシテの命運はただひとりの少女の双肩にかかっている。
ヘレナさえ害することが出来れば全てがうまくいくのだと。

もはやザワディロフの懊悩の責任はヘレナひとりに向かっていた。


…………あの異端の片割れさえいなければ正しい秩序が戻ってくるのだ---!!





[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十八話 少女の戦いその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/13 01:09

三日目の夜が明けた。
城門はようやく半ばを崩し去っているが、ところどころに見える割れ目から、もう一段防衛線が張られているのは見てとれる。

やはり打つべき手は打っておかねばならんか。

ザワディロフが選んだとった手段は彼らしい即物的なものであった。
すなわち、矢文を大量に市内へと打ち込んだのである。


ヴラドの敗北は疑いなし。
貴族に味方するものに恩賞を与える。
ヘレナ姫を殺した者には一万ダカットの恩賞を与え貴族に列する。


城の全周に満遍なく矢を撃ちこむと、兵にはヘレナに対する罵声を連呼させた。


魔女を殺せ!
魔女を殺せ!
魔女を殺せば都は助かる!
魔女を殺せば褒美は思いのまま!
殺せ!
殺せ!
魔女を殺せ!


流石のトゥラゴヴィシテ市民もこれには眉を顰めざるをえなかった。
生理的嫌悪感をもよおしそうな独善
自らの欲望のためには手段を選ばぬ無恥
所詮自分の都合でしかものを見ることのできない輩の約束を信じるほうがどうかしていた。
彼らに従った先に市民の幸福はありえない。


「ヴラド大公万歳!」
「ヘレナ妃殿下万歳!」
「ワラキア万歳!」
「大公夫妻万歳!」


市民たちの怒号はたちまちのうちにザワディロフ軍兵の音声をかきけした。
トゥルゴヴィシテを揺るがさんばかりのヴラドたちを讃える歓声は子供達までをも巻き込んで都全体に広がっていこうとしていた。
嘘偽りのない市民たちの明確な意思表示にザワディロフは戸惑いを隠せない。

平民どもが………身の程知らずにもつけあがりおって……これも奴の政が悪いからだ…………。


戦の度に虐げられることを、当然のように受け入れてきた従順な羊が不遜にも主人に牙を剥こうとしている。
そうザワディロフは感じていた。
羊に自己の意志を持たせてはならない。
主君の命令を唯唯諾諾と聞く民だけが良い民であるはずではないか。
そうでなくてどうして領地が安寧に治まるだろう。
ザワディロフは従順であったはずの市民たちの抵抗に義憤すら感じていたのである。


かくなるうえは総力戦だ!


ことここにいたってはザワディロフも総攻撃の下知を下さざるを得なかった。
ただひたすら攻め続け先に気力と体力が尽きたほうが負ける先の見えない戦い以外に事態を打開する術を見出せないからだ。
双方の全軍を上げての戦いは天井知らずの被害を双方にもたらしつつ、日が暮れてもなお衰える気配を見せなかった。





トゥルゴヴィシテ市民にもザワディロフにも忘れ去られたところでわだかまる深い闇がある。
かつてルーマニアにおいて商業利権を独占してきたサス人の一団がそれだった。
ヴラドが即位したつい二年ほど前までは絶対的といってよい価格決定権を持ち、我が世の春を謳歌してきた彼らも、ヴラドの改革によって利権の全てを
失いその力のほとんどを喪失してしまっていた。
彼らにもルーマニア人と同様の保護を与えられたため、資産の取り崩しながらなんとか商人としての看板を保った者も多いが、利権に頼りすぎて真っ当
な商売が出来ず、人夫にまで成り下がっている者も数多くいたのである。
彼らは一様にかつての栄光の日々を懐かしみ、ヴラドに対して怨念に近い感情を抱いていた。

その彼らにとってふって湧いたような福音が訪れたのだ。
一万ダカットといえば彼らが一生遊んで暮らせるだけの金額である。
困窮した彼らにとっては喉から手が出るほど欲しいものだった。
しかもヴラドの政権が崩壊することこそ彼らの悲願、復権への一歩、これに協力しないという選択肢はありえなかった。

「夜を待とう…………」

幸いにして戦いは夜を徹して行われている様子である。
そして、全ての兵力がザワディロフとの戦闘にかかりきりになっている現在、ヘレナが住まうワラキア宮殿にはただひとりの兵士すらいないはずであった。




深夜

七十に達しようかという老執事は寝ずの番を行っていた。
従軍経験のある彼は戦闘が継続中である以上、万が一に備えて寝るなどということができなかったのだ。
その彼の心がけは無駄ではなかった。
数十人に及ぶサス人の一団が鎌やナイフを手に宮廷の塀を乗り越える様子を見逃さずにすんだのだから。

「起きろ!敵襲だ!姫様を逃がせ!!」

「くそ!邪魔しやがって!」

大声をあげて警鐘を鳴らした執事にサス人たちの怒りが集中した。

「死ね!」

数え切れない刃物で膾のように切り刻まれて、執事はたちまち絶命した。
それでもなお、執事は刃物を体内深く埋没させ、わずかでも主人のための時間を稼いだ。


「姫様!どうか急いでお逃げください!」

息も絶え絶えの様子で侍女がヘレナの寝室に飛び込んできたとき、既に宮廷内は地獄と化していた。
雑用に使われる使用人の男以外に男手はなく、ただ侍女たちだけが住まう宮廷に暴徒と争う力のあるわけもなかったのだ。

「…………無理だな。回廊の中に入り込まれればこちらは袋の鼠だ」

ヘレナの寝室は宮殿の奥に位置している。
中央回廊を通らずして外部に出ることは不可能なのだ。

「……といって黙って死ぬつもりもない。手伝え、この部屋を封鎖するぞ」

口で言うほどにヘレナが動揺していなかったわけではない。
本当は大声で泣き喚きたかった。
ヴラドに会いたい。
そしてヴラドの花嫁になるまで死ぬわけにはいかないのだと。

駆けつけた二人の侍女とともに大理石のテーブルを動かし、扉に閂をかけて室内を閉鎖する。
あとは箪笥も椅子もシーツも、およそ考え付く限りのものを扉の前に積み上げた。
男たちの荒々しい怒声がすぐそこまで迫っている。
いつまで待てば助けが現れるのか…………。

「………ん?開かねえぞ!……ここだ!おーい!魔女がいたぞ!」

「斧だ!斧をもって来い!」

鈍い衝撃とともに扉に亀裂が走っていく。
そのあまりの暴虐的な事態に喉がカラカラに乾いてひりつくように痛い。

ヘレナの震える手には護身用の弩が握られていた。
最後の最後まで抵抗することを諦めない。
それがヘレナのヴラドの妻たるの誓いなのだった。


バリバリ


扉の上部が割り裂かれ悪鬼のごとき男たちの顔が垣間見えるとヘレナは迷わず引き金を引いた。

「がっ!」

「くそ!やりやがったな魔女め!」

どうやら一人の男に命中したらしい。
早く次ぎの矢を番えなければ……………!

しかし非力なヘレナが矢を番える前に、扉は破られた。



興奮した男たちが力任せに障害物を除けるまでそれほどの時間はかからなかった。
男たちの暴挙を止めようと力及ばぬながらも果敢に向かっていった侍女たちも既に倒れ伏している。

それでもなお、ヘレナは矢を番えるのをやめようとはしなかった。
あきらめられないのだ。
生きて再びヴラドに会うというそれだけのことが。

「嘗めたまねしてんじゃねえ!」

激昂した男がヘレナの弩を力任せに殴りつけた。
今度こそヘレナに抵抗する術はなかった。

「…………妾は認めぬ」

自分こそがヴラドの隣に立つに相応しい人間のはずだ。
立ち塞がる全てを跳ね除け超然と歩む者。
妻たるこの身もまたそうあらねばならぬ。

「ガキが………手間かけさせやがって……死ね!」


………すまぬ、我が夫よ。
留守を預かることも出来ぬ妻を許してくれ。


………いや、違う。
妾は夫に相応しい妻になろうとしたわけではない。
夫が、ヴラドが好きだから夫に近づこうとしたにすぎない。
……好きなのだ。
どうしようもなくヴラドが好きなのだ。
なのに妾はその欠片たりともヴラドに伝えていない。

「すまぬ、ヴラド………妾はやはり愚か者だ………」


…………いまごろになってそんなことに気づくなんて。


ゾブリ

という鈍い音が、刃が肉と骨の奥深くに達したことを知らせた。











「誰に断って人の女に剣を向けている?」

……妾は夢でも見ているのだろうか。
死ぬ間際になって愛しいあの男の幻聴を聞いているのやもしれぬ。

「怪我はないか?ヘレナ?」

もしかして幻聴ではないのか?
固く閉じられた瞳を開けたとき、ヘレナの翡翠の瞳に写ったのは心配気にヘレナの顔を覗き込む愛しい男の顔であった。


「うわああああああああああああああああああああ!!!!」


身も世もなくヘレナは哭いた。

会えた
会えた
会えた!!

それは帝国の皇女でもなく、公国の公妃でもなく、ヘレナという一人の少女がようやく辿りついた恋の始まりなのだった。





胸にしがみついて泣きじゃくるヘレナの頭を優しく撫でながら、オレは心底胸を撫で下ろしていた。

…………危なかった。
本当にコンマ一秒遅れたらこの再会はなかった。
連れて来た兵力が少なすぎたので汚水口から城内に潜入したのが結果的に大正解だった。
せっかくの感動の再会なのだからこんな異臭の漂う格好は遠慮したかったのだが、間に合ったのだから文句は言うまい。

不眠不休で駆けてきたオレの手勢は四十名ほどまで減っている。
しかし、オレの大事な妻を泣かせた仇をとるのには十分だ。
泣きつかれて眠り込んだヘレナをベッドに横たえるとオレは宮殿を出て城門へと向かった。


城壁に配された兵士たちの攻撃がハタと止んだことでザワディロフ軍は城門の破壊に遂に成功した。
どうやら城内でなにかあったようだ。やはり神は私をよみしたもうたか。
望外の幸運にザワディロフは勇み立ったが、それも城門をくぐるまでの話だった。


「………た、大公殿下………」

「どうした?ザワディロフ、そんな幽霊でも見るような目をして」


ヴラドの姿を見た瞬間に勝負は決していた。
銃兵や弩兵に包囲されていたこともあるが、大公本人に真っ向から立ち向かう勇気など彼らにあるわけもなかったのだ。

そんなことはありえない。
どうやってこの男は城の中に入ったのだ。
まさか本当に空を飛んできたとでも言うのか?

「貴様はオレにとっての禁忌に触れた」

信じられない事象に対する恐怖で思うように舌が回らない。
ようやくザワディロフも目の前の男の一面を思い出していたのだ。
啓蒙君主にして発明家であり稀代の戦略家でもある。
だがそれ以上に恐るべきはこの男が磔公の異名をとる大量殺人者であるということだった。

「太古の王が言った言葉に、目には目を歯には歯をという言葉がある。ここは余も王のひそみに倣うとしよう………」

磔公の宣告に誰もが固唾を呑んで見守っている。

オレは宣告を下した。

「ザワディロフとその血統を引く者を殺した者には恩賞を与える」

ザワディロフを取り囲む兵士たちの気配が変わった。
彼らにとっては逃れえぬ死地が転じて恩賞の機会となった瞬間だった。
たちまちザワディロフの弟が息子が魂切る悲鳴をあげて兵士たちに首を刈り取られていく。

「よせ!一族のものにまで手は出さないでくれ!こんな非道を天が許すと思うか?」

ザワディロフの絶叫にも地獄絵図が治まることはない。
悪魔こそが地獄の絶対者であり、彼はただの地獄に落ちた亡者にすぎないのだから。

「おのれ悪魔(ドラクル)!許さん!貴様の所業、決して許しはせぬぞ!」

絶望・悔恨・悲哀・憤怒………一族の破滅に負の全てを背負ったザワディロフの表情を存分に眺めたあとでオレは引き金を引いた。



「……………その顔が見たかった」




[4851] 彼の名はドラキュラ 第二十九話 新たなる潮流その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/15 22:21

オレは泥のように眠っていた。
なにせ四十八時間以上眠っていない。
予算の人員の都合から夜間は通信していないとはいえ、腕木通信より早く到着したのだから如何に無茶な速度だったかわかるだろう。
途中でほとんど山賊まがいに馬を奪い、七頭近い馬をつぶしているから、後で補償してやらないといかんな。

ところで、さも当然のようにオレのベッドに潜りこんでいるこのお子様をどうしたものか。
可愛いじゃねえか!こんちくしょー!




今回のザワディロフの謀反は貴族の衰退を決定づけたといってよい。
草木がなびくかのような気安さで裏切りと陰謀を繰り返してきた貴族たちだが、ザワディロフの煽動に応えた貴族はわずかにひとにぎりであった。
これは君主の力と貴族の力が隔絶し、容易には逆らえなくなったことの証左でもある。
副次的な効果ではあるが、反抗的な空気の拭えないトランシルヴァニア貴族たちが十字軍壊滅の報とも相まって非常に協力的になってきていた。
おかげでトランシルヴァニアから抽出した援軍二千をモルダヴィア救援に差し向けることができ、ポーランド軍は短期的に勝利できる見込みを失い本国へと撤退した。
フォルデスで失われた一万の損害が回復するまで、しばらくはおとなしくしていてくれるだろう。


ブダに進駐したベルドだが、オレが行くまでの間を大過なくまとめてくれていた。
こいつもそろそろ独り立ちできるまでに成長したようだ。
ハンガリー貴族の分断を図り大貴族と中小貴族の対立を煽ってお互いの自滅を誘う。
またヤン・イスクラとの良好な関係をことさらに喧伝して少ないワラキア軍を実数以上に権威づけた手腕は見事といってもいい。
案の定ハプスブルグ家がハンガリー王国に対する正統な権利を主張してきたが、戦にまで持ち込む気概はあの国にはない以上一蹴しても何も問題はないであろう。



1ケ月後、軌道に乗り始めたワラキア・トランシルヴァニアの経営をデュラムに任せてオレはブダでハンガリーの経営に没頭していた。
まずはワラキアを手始めに施行を開始した東ローマ帝国から輸入したローマ法大全のマイナーチェンジ版ルーマニア法典をハンガリーにも施行して法治の浸透を図っている。
これをやると経験則的に横暴な貴族には恨まれ民衆には歓迎されるのだがこの際はやむをえない。
幸いにして貴族の戦力は激減しているし、将来的に貴族軍の連合体としての軍制度は廃止するつもりでいるからだ。
少なくとも軍役の負担はともかく士官学校を出た士官の指揮系統に納まるようとりはからうつもりだった。

フォルデスの戦いで家名が断絶した貴族の領地は当然没収となりかなりの領地がオレの直轄地に編入されることとなったので恩賞のあてには不自由していない。
忠誠心を期待できそうな人間が数少ないのは難点だが、まずは人材を登用して組織造りから始めなくてはならなかった。



……………ところで誰か目の前の可愛い生き物をどうにかしてくれないだろうか?







「妾は金輪際汝から離れぬ!」

そう宣言したとおりにヘレナはブダに同行してきている。
常備軍の精鋭を進駐させてはいるが、国民も貴族も心から心服したとはとうてい云い難い国にいくのだからと、一応説得は試みたが全くの徒労に終わっていた。

「…………妾が傍におるのは嫌か………?」

とか涙目で訴えられてオレにどうしろっつーの!


それから片時も離れずオレにまとわりついている。
政務の相談ができるのはありがたいが、お風呂(これだけは風呂好き日本人の端くれとして死守している)にも就寝にもとなると精神的疲労が馬鹿にならなかった。
これが今までのように無垢な甘えだけにとどまっていればまだいい。

ヘレナにどんな変化があったのかはわからないが、照れを覚えた少女の萌え力はいっそ暴虐的であった。



トゥルゴヴィシテの解放時に市長から祝辞を受け取ったときのことである。

「それにしても殿下はまこと最良の伴侶を得られました。夫にもう一度会うまでは死ねぬと啖呵を切られた姫様のなんと凛々しく感じられたことか………」

「わわわわ……何を言っておる!いい、言っておらぬぞ?妾はそんな恥ずかしい台詞を言った覚えはない!……ううっ、どうしてそこで笑うのじゃ!もう知らぬううう!」

顔を首筋まで真っ赤に染めてまくしたてるヘレナの様子に萌えぬ男がいるだろうか!いや、いないね!




「………………………それでも会いたかったのは本当じゃぞ?」


もういっそ殺して下さい。




入浴時もタオルを体に巻きつけているとはいえ、濡れたタオルが浮き立たせる未成熟ではあるがようやくにして曲線を描きだした身体のラインのなんと美しいことか!

「…………ここ、こちらを見るでない!もう少し胸が育ったら好きなだけ見せてやるゆえ………」


もしかして毎日生殺しですか?





既に恒例となった感のある就寝。

「…………そう言えば我が夫に報告しなければならないことがある」

「…………どうしたんだい?」

ヘレナは基本的に歯にきぬを着せぬ性質である。こうして改まることは珍しい。



「…………初潮がきた」




ぐはああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!


「そそ、それでだな、我が夫が望むのであれば妾もそれに応えてやらんこともないというか………とと、とにかく妾も大人の女になったということじゃ!」

血の涙を流すということはこういうものか………
そんな期待に満ちた目で見られてもオレにも踏み越えられぬ一線というものがある。
頼むからオレをそこまで外道に落とさないでくれ!


というか同い年の娘に比べて小柄なヘレナではまず物理的に無理というものであった。
日本人であったときには丸〇ソーセージであったマイマグナムは今やジョー〇アコーヒーのロング缶である。
これで天使の如く愛らしいヘレナに手を出せる人間は本物の鬼畜と断言していい。


Q.オレはそんな鬼畜じゃないよね?

A.男はみんな狼です。


………狼ってなあなあ……狼ってなあ誇り高い生き物なんだよおぅ!!



「…………………優しくせねば許さぬぞ?」

ぬおおおおおおおっ!人として、人としてオレはああああああああああ!!クォ・ヴァディスー!





そんな毎日の苦悩を余所に難問は山積するばかりである。
ようやくヴェネツィアと国境を接したことで商業流通がさらに円滑にいくことはありがたいが、ポーランドと神聖ローマ帝国とも国境を接した以上、国境防備の手を抜くわけにはいかない。
ようやくにしてアドリア海に得た港の整備も急務であった。
ヴェネツィアでは十字軍に味方した有力商家がいくつも没落し、親ワラキア派が完全に元老院の実権を握っている。
おかげでナポリ王国やフィレンツェとの関係が悪化しかけているほどだ。
身体がいくつあっても足りない忙しさにワラキアの大学から成績の優秀なものを送るよう命じてはみたがどれほど役に立つものだろうか。
とりあえず今はヘレナを膝の上に抱いて一服の清涼を得ているオレがいた。



トゥルゴヴィシテの危機に際してオスマン朝の介入がされずに一息つけたと思っていたのもつかの間、1449年8月オスマン朝軍の大軍十万余は突如としてセルビア王国及びアルヴァニア王国へと侵攻を開始した。
ハンガリー王国というキリスト教圏の重しがはずれた以上いつかはあるものと考えてはいたが、こうも早いと対応は困難であった。
何しろハンガリー王国は占領維持に兵員を取られこそすれとうてい戦力化を図ることなどできないし、ワラキアとて少なからぬ損害を蒙って損害の回復に手一杯の有様である。援軍など思いもよらない。
港を持てた事でアルヴァニアには武器や食料と幾許かの資金を供与することができたが、セルビアはもはや救えなかった。
厳密に言えば、救おうと努力はしたが、スメデレヴォに立てこもるジュラジ・ブランコヴィッチの命運のほうが先に尽きてしまっていた。
外交手腕と内政への識見には富んでいたジュラジだが、戦に関しては凡庸の域を出ることはなく、篭城からわずか一月弱で味方貴族の裏切りによりあっさりとその命を絶たれてしまったのである。
これに対し、アルヴァニアの抵抗は見事だった。
スカンデルベグの名が伊達でないことを証明する戦ぶりであったといえるだろう。
主攻方面に位置し、スルタンムラト二世の親征を受けながら遂にアルヴァニアの北半を守りきったのである。
目新しい戦術や戦略の妙を駆使したわけではない。
ただ本人の武勇とカリスマ、そして戦場での臨機の運用術だけで十倍近いオスマンの軍を退けたその手腕は後世流石に民族の英雄とされるだけのものであった。
ヴェネツィア商人を仲介とした今回の援助でその彼とパイプを繋げたのは不幸中の幸いである。
もっともこんな利敵行為がオスマンにばれたら討伐は必至だから内心肝を冷やしていたりしたが。


ハンガリー王国の消滅は東欧世界に深刻なパワーバランスの激変をもたらさずにはおかなかった。
今後ますますオレの知る歴史とはかけ離れた出来事が起きるのだろう。
ハンガリー国内にまだ在住していたウルバンを召しだすことに成功したように。
セルビア王国を占領したオスマンはその余勢を駆って属国として扱っていたボスニアのスチェバン・トマシェビチを廃して直轄化を成し遂げてしまった。
史実以上にオスマンの国力が増してきている。
しかもその原因の幾分かはオレにあるのだ。
この劣勢をはねのけるのは容易なことではない…………。
メフメト二世の即位まであと二年、オレは為すべきことの大きさと困難に天を仰いで嘆息するほかなかった。




「…………殿下」

ワラキア本国からやってきた外交官のソロンはいかにも言いずらそうにしきりとヘレナを気にしていた。
正直に言って内心面白くない。
ヘレナの識見は並みの大人がたばになっても敵わないほどのものだ。
政治顧問としてこれほど頼りになる存在もいなかった。
確かに十一歳の幼女に頼る君主というのも見た目がどうかという問題があるにせよ。

「……かまわぬ。余はヘレナに隠すべきことは何もない」

ヘレナの顔が後光が差したかのようにほころぶのを見て決断の正しさをかみ締めていたオレだったが、それもソロンが口を開くまでだった。



「……では申し上げます。先日ポーランド王カジェミェシュ4世陛下よりご使者がございました。この度の不幸な戦いを糧に未来に向かって両国の平和を願う証として先々代ヴワディスワフ二世陛下の庶子でミェルドゥ侯爵家に養子となっておられたフリデリカ様との婚姻を要請しておられます」


…………すまん、ソロン。オレが悪かったから何もなかったことにしてくれまいか?




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十話 新たなる潮流その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/18 23:18

「………とは申しましてもフリデリカ姫は庶子、殿下にはヘレナ姫という帝国の血を引く婚約者がおられることでもあり、側妾ということでも構わないとのこと
いかがなされますか?」


…………ビビッた
…………心底ビビッた。ポーランドにケンカ売られたかと思ったよ。

何せ今回一敗地に塗れたとはいえ、最盛期ポーランドの力はあなどれない。
ポーランドに加えリトアニア・ウクライナの赤ルーシ・白ルーシなどを加えたその国土は欧州最強とさえ言っても過言ではないのだ。
ドイツ騎士団を打ち破り、プロイセン公国にも強い影響力をもつ。そして現王妃が神聖ローマ帝国皇帝の血を引くことを考え合わせればあるいは東ローマ帝国の血統よりありがたがる人間がいるのかもしれなかった。

「………無碍には出来ん相手だ。側妾でよいというのに断ってはあちらの顔が立つまい」

国としての格を考えれば、どう見積もってもポーランドが上である。
これほど下手に出ているのが不思議なほどだ。
それをあえて面子をつぶしては全面戦争に発展してもおかしくなかろう。


「……………確かにやむをえまいなあ、殿下………」




…………全身に黒オーラを纏った般若がおりました。



うひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!

「こここ、これはね、違うんだよ、違うの!名前だけ、名前だけなんだから!オレが本当に愛してるのはヘレナだけだよ?本当だよ?」

「………妾と違って豊満な女性だと良いがなあ、殿下………」

「殿下言うのやめてー!!」



言わないことではない、とソロンは思う。
ヴラドが完全に尻に敷かれていてメロメロにヘレナを愛しきっていることなど、ワラキア宮廷では常識なのだ。
幼さゆえのコンプレックスを隠しきれぬヘレナがこの縁談を聞いてどのような態度にでるかなど火を見るより明らかだった。

…………傍目には惚気以外には見えませぬがな。




数日後、何かをやり遂げた漢の顔で眠りこけているヴラドの姿があったという。
その日は終日ヘレナがご満悦であったというが、特に内股になったり腰をかばったりする様子もない。
いったい二人に何があったのかでワラキア宮廷はその噂でもちきりになったが、真実は永久に明らかにされることはなかったのだった………。





ポーランド宮廷内でもフリデリカをヴラドに差しだすことについては強い異論が存在した。
これが神聖ローマ帝国のような権威主義的な国家であったならば、そもそもこのような婚姻政策が話題に上ることさえなかったであろう。
かのコペルニクスを生んだ学問の都であり、コンスタンツ公会議で人類史上初めて基本的人権について言及したポーランドだからこそ、実現した政策であったのは
間違いない。
本来モルダヴィアを狙っていたポーランドがここにきて親ワラキアへと舵をきったのには理由がある。
まず第一に首都を中心に流行に兆しを見せ始めた天然痘の対応にワラキアの力を是が非にも借りたかったからであった。
天然痘は貴賤を問わぬ感染病である以上、国王たるカジミェシュ四世が感染するようなことがあれば、それはヤギェヴォ朝の断絶に直結しかねない。
連合王国であるポーランドにとって王朝の断絶は絶対に避けねばならない政治的命題なのだった。
そして第二に、ポーランド王国にはもともとリトアニア大公であったヴワディスワフ二世が対抗馬であるブランデンブルグ選帝侯ではなく息子ヴワディスワフ三世に
王位を継承させるため、貴族たちに権限を譲り過ぎており他国の王家に比して王権が弱いという宿唖があった。
ところが今回の戦いでハンガリーに出征していた大貴族の大半が死に絶えたことで、期せずして中央集権を図る絶好の機会が訪れていた。
カジミェシュ四世はこれを期に王室の権限強化を徹底的に推し進めるつもりであったのである。
そのためには日の出の勢いのワラキアとオスマン両国と同時に緊張状態を抱えるのは避けたいところであったのだ。

「……綺麗だぞ、フリデリカ。お前ならかのワラキア公の心を射止めることなぞ造作もなかろう」

「ありがとうございます、義兄上」


それに帝国の娘は幼きにすぎ、いまだワラキア公も手をつけていない状態だと聞く。
であるならば、ワラキア公の最初の子供は十中八九までフリデリカが産むはずであった。
現実問題として、後ろ盾としての国力でポーランド王国と斜陽の老帝国の力の差は歴然である。
庶子は貴族に養子に出されることがほとんどだが、カスティリヤ王国のエンリケ二世のように庶子の身から国王に成りあがった人物もいないわけではない。
先王が教皇に嫌われているような時は特にそうだ。
次代のワラキア大公をポーランドの血でおそうことも決して夢物語ではないとカジミェシュは考えていた。
それにフリデリカは十分すぎるほどに美しい女だ。
たかが十一歳の子供とではそもそも勝負にすらならないはずであった。

「…………余にとってはワラキア公すらも走狗にすぎぬ………」


もはや泥沼の東欧に関わるのは止めて領国経営に専念し、さらにウクライナ以東を支配下に治める。
それがカジミェシュ四世の大戦略であり、オスマンに対する番犬としてヴラド以上の男は見当たりそうになかったのである。



しかし二十歳の誕生日を迎えたフリデリカにとってカジミェシュ四世の思惑など知ったことではなかった。

………どうしてそっとしておいてくれなかったのか……

思いは血の繋がらぬ娘を大事に育ててくれた父母のもとに飛ぶ。
母親の身分が低かったことから侯爵家の養子に出されたが、子供のいない侯爵夫妻は実の子のように自分を可愛がってくれた。
どこかの貴族の息子を婿に迎え、侯爵家を継いで両親たちとずっと暮らすことだけが、フリデリカの望みであった。
一度は自分を捨てた王宮が何故今頃になって自分の存在を思い出したものか、それがフリデリカには悔しい。

しかも相手は残虐極まりない戦悪魔ヴラド三世。
その知らせを受けてから幾晩涙に枕を濡らしてきたろうか………。
生きながらにしてハンガリー王国摂政と三万の兵士を焼き殺したという虐殺者、それが自分の夫になるというのだ。
いつ自分も殺されるかわからない。
フリデリカには王族として生を受けた運命を呪うよりほかはなかった。



フリデリカの輿入れは両国の利害の一致とともに異例の速さで決定された。
ヴラドとしてはいつもでもモルダヴィアに軍事支援を続けるには戦力が少なすぎたし、ハンガリー領と国境を接するポーランドとの緊張緩和は急務であった。
またカジミェシュ四世も、直系の絶えた貴族領を王室に編入することとし、貴族の反抗に対する先手をうって軍を集結させていた。
両者とも今しばらくは国内問題で精一杯であったのだ。

フリデリカのブダへの来訪は秋も深まり始める十月と決まった。



ポーランド王国と同盟に近い関係が結べたことで、ようやく内政を充実させる余裕が生まれている。
ハンガリーのよいところはなんといっても欧州一の温泉大国であるところだ。
もと日本人のオレには応えられないうれしさである。
さらにルーマニアと並んで亜炭の産地でもあり、原油も産出していた。
ドナウ川周辺の農業生産力も高く戦火さえ及ばなければ東欧でも指折りの豊かさを享受していても不思議ではないところだ。

ハンガリーに来てからすぐに種痘を実施したことで流行は最小限で済んでいる。
瓶詰はワラキアの特産化しているから、ハンガリーの農民にはマヨネーズを始めとする新製品の加工を教えた。
これがまた評判で瞬く間に欧州一帯へと広がっていた。
とりあえず国民の評判は上々である。
ヤーノシュに粛清されていた貴族の係累を召しだしては見たものの、やはり全く使い物にならないのでヤーノシュ派の貴族を粛清させた後は領地だけ与えて
中央政府から遠ざけ、その子弟をブダに設立した大学に根こそぎぶち込んでいた。
これで使える官僚になってくれればいいが、体のいい人質でもあるので仮に使えなくても問題はない。
それよりセルビアやボスニアから流入する避難民の中から優秀なものを安価で召しだすことが出来たからだ。


先の戦でわかったことだが、やはり砲兵を野戦で運用するのは難しい。
一層の小型化と機動性の向上は必須であろう。
現にフォルデスの戦いで序盤には活躍した砲兵は銃兵たちの機動についていけず、放棄のやむなきにいたっている。
しかし兵数に劣るワラキア軍としては銃兵の防御力だけではなんとも心もとないものであった。。
何らかの手段で野戦で使える火力の向上を図らねばならなかったのだ。


「だからオレは小型化の話をしてるんだよ!でかくするより小さくするほうが難しいって何回も言ってんだろ?ウルバン!」

「大きいことは男の夢でございますぞ!ナニと大砲は大きければ大きいほど良いのです!」

「このおっさんオレの言うことなにも聞いてねええええええ!!」

いわずと知れたウルバンの大砲の製作者、ウルバンであった。
ハンガリー国内にいたところを早速ゲットして武器の製作にあたらせていたが作るもの作るもの偏執的に大きくしようとばかりするのでほとほと手を焼いている。
それでも武器製作者としての腕は一流であるところがまた始末が悪かった。
火縄銃を大型化した大鉄砲や原始的な迫撃砲も実用化の一歩手前までこぎつけているのだ。

「むむっ?閃きましたぞ!大砲ではなく棒火矢ならば、最初から作っておけば大砲よりは連射が効きましょう」

「それだあああああああああああ!」

地対地ロケットならばウルバンの大砲のように一日数発しか撃てず、しかもすぐ壊れるような欠陥品にはならないはず!

「かくなるうえはファロスの灯台より大きな棒火矢をば…………」

「頼むから大きいことから離れろおおおおおおおお!!」













「ところで、ようも妾を騙してくれたなあ………」

「な、なんのことでしょうか?」

エマージェンシー!エマージェンシー!緊急回避の要ありと認む!緊急回避の要ありと認む!

「昨晩のアレでは子は宿らぬと侍女が申しておった………ようも妾にあんな恥ずかしい真似をさせてくれた………」

とりあえずその侍女死刑!

「覚悟は出来ておろうな、我が夫よ………」

ギャフン!




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十一話 新たなる潮流その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/16 09:17

フリデリカは死刑台に昇る死刑囚のような暗澹たる気持ちを押さえきれずにいた。
ハンガリーに入国してからというもの、決して好意的とは言えない視線にさらされて身も心も疲れ果れきってしまったようだ。
故国から付き添ってくれた侍女たちにも申し訳ないと思う。
それにしても先ごろまで敵国であったとはいえ、敵意が妙に生温かく感じるのは気のせいなのだろうか?
いよいよヴラド三世との対面を目前に控えたフリデリカは頭の片隅から消えない疑念に頭を振った。

これ以上考えても仕方がない。
結局のところ、自分の生殺与奪の権利はこれから会う男、愛すべき主人にして恐るべき虐殺者たるヴラド三世が握っているのだから。



「遠路はるばるよう参られた、フリデリカ殿」

フリデリカは予想と違ったヴラドの闊達で明るい面差しに面食らっていた。
血色のよさそうな肌に大きな瞳は愛敬に富んでおり、美丈夫とまではいかないが、確実に水準以上の容姿である。
そしてとうてい十字軍を殲滅し、ハンガリー王国を亡国に追い込んだ男とも思われないなんとも優しい声音だった。

…………なんて優しそうな人……この方があの戦悪魔………


ヴラド三世弱冠十七歳。
つまるところフリデリカにとっては年下である。
史実と違いヴラドには猜疑心の塊といった暗い影はない。
体躯は人並み以上だが明るく均整のとれた肢体を持つヴラドはごく普通の好青年にも思えるのだった。

………そのころヴラドは深刻な葛藤に苦しんでいた。






ものごっつう好みかも…………
いや、だって顔立ちはハーマ○オニー似なのにどこのマ○リンだっていうくらいセクシーってもう犯罪だろ?
しかもそこはかとなくいじめてオーラを醸し出しているのもまたたまらん。
てか何?その巨乳?
くっ………ポーランドの巨乳は化け物かっ!

「いつまで胸を凝視しておるか!この破廉恥魔ァァァ!」

「あっちょんぶりけっ!?」

ヘレナの頭突きを鳩尾に食らって悶絶するオレを見たポーランド王国の面々がまるで樹氷のように凍りついた。
………夢よね。これは悪い夢。
非道で名高いヴラド三世が幼女に手も足も出ないなんてそんな馬鹿なことは………。

「そんなに!そんなに汝は胸が好きなのか?!妾だって汝が言うから三食欠かさずミルクを飲んでおるのじゃ!その妾の気も知らず!」

「誤解!誤解だってばヘレナ!オレはヘレナの平坦な胸だって大好きだよ?」

「地獄に落ちろおおおおお!!」

誰もオレを助けてくれる臣下がいないのはどういうわけなのだろうか。
もしかしてオレ嫌われてる…………?

「「「今のは殿下がお悪い」」」


……………ごもっとも。





「プッ!」

フリデリカは他国の王家では決して考えられないあからさまな痴話喧嘩に思わず噴出していた。
まるで愛しい義父と義母の喧嘩のような気安さであった。
もしかすると自分の運もそれほど捨てたものではないのかもしれない。
同時に、ワラキア宮廷に入ってからの微妙な敵意についても完全に納得がいった。
要するにあの愛らしい幼女の焼き餅であったらしい。
さぞや宮廷の人々にも愛されているのだろう。
それは相変わらずじゃれ続けている二人を見守る側近たちの瞳を見ても明らかだ。

…………私もあんな風に等身大な笑顔を向けられたら………

ヴワディスワフ二世の庶子、そんな色眼鏡でしか誰も自分を見てくれなかった。
この宮廷で誰がヘレナを東ローマ帝国の皇女として腫れものに触るような扱いをするだろうか。
きっとそんなことはなく、ヴラドに恋する愛らしい少女として、大事にされているのに違いない。
そしてそれはきっと、ヴラドの少女や臣下に対する日頃の等身大な接し方の賜物なのだろう。
いつしか恐怖と落胆で満たされていたフリデリカの胸には希望の光が膨らみ始めていた。



「うわっ!ヘレナ!そこは駄目だって!お婿にいけなくなっちゃう!?」

「こんな!こんな下品なものがあるから汝は妾に×××××して〇〇〇〇するのだ!」





………………………考え直してもいいだろうか?







「どうしても行きてえってんなら好きにするさ」

そのころ上部ハンガリーではヤン・イスクラの率いるフス派軍事集団がまさに分裂の時を迎えようとしていた。
ヤンにとってフスの教義はリパニの戦いで死んでしまったものである。
死者は生き返らない、いや、生き還ってはならない。
戦って戦って戦いぬいて、戦うほどに何故か信仰は遠くなっていったあの日の絶望をもはや二度と味わうつもりもない。
今は己の生というものをいかに燃やしつくすことができるか、それだけが全てであった。
しかし、部下の全てがヤンのように刹那的に生きられるわけではない。
わけても故地であるボヘミアがハンガリー王ラディスラウスの廃位により無政府状態になっていることは彼らの望郷の念を一層強くしていた。
今こそ故郷に立ち返り、理想の社会を築き上げるときではないのか?
口々にそういい募る部下を説得する術をヤンは持てずにいたのである。

「だが、出て行くってんならオレとは縁切りだ。この上部ハンガリーからは出て行ってもらうぜ?」

配下の隊長たちとヤンとの間で青白い火花が飛び散った。
ヤンの言い分は到底呑む事はできない。
なんとなればフス派の戦術の基本は火力戦であり、旧来の軍形態以上の後方兵站を必要としたからである。
現状で兵站として武器弾薬を製造する拠点は上部ハンガリー以外にはありえなかった。

……………神の教えを全うするためにはこの不心得者を倒すしかないかもしれぬ………

ヤンは部下たちの心に芽生えた叛心を正しく洞察していたが、だからといって彼らの要求を入れる気は毛頭ない。
彼らに同心するということは、またあの永久運動のような戦いに身を投じるということなのだ。
上部ハンガリーは神の国のための兄弟が治める国に成り果てる。
ふざけるな!この国を治めるのはこのオレ様だ!
こいつらはまた同じことを繰り返そうとしている。
あの理想のために現実を踏みにじり続ける糞ったれな狂信者どもと同じ過ちというものを。
あの日の後悔を忘れるつもりはない。
主人に考えることを預けてひたすらに主人の言葉を信じて戦った。
その結果が兄弟の決別、あまりにも凄惨な家族殺しの惨劇。
オレの主人はオレであり、オレはオレの判断と責任でオレの生を全うする。二度と主人を頂くつもりはない。
それがたとえかつての同胞、恩師、家族であったとしても。



………………そういえば一人面白い男がいやがったが、な…………

ヤンは遠い南の空を見上げて薄く嗤った。








「何分初めてのことでございますゆえ粗相があるかもしれませぬが………」

いかん、どこでこんな美味しい……もとい、妖しい流れとなってしまったものか。
最初は詫びのつもりだった。
会見では終始ヘレナに折檻されてろくに挨拶もできなかったからな。
控えめながらも明るい気性と、初心で恥ずかしがりやな様子に思わず会話がはずみ、食事とワインを共にしたまでは良かったのだが…………
フリデリカのポーランドでの扱われ方や義兄カジミェシュ四世の思惑などを親身になって聞いてるうちにいつの間にか侍女たちが誰もいなくなって
隣にはベッドの用意が………はっ!?これは罠?俗にいうハニートラップというやつか!

「殿下はそんなに胸がお好きですか………?」

そんなことを考えつつも目は欲望に忠実に巨乳に吸い寄せられていたようだ。
巨乳恐るべし!

「…………は、恥ずかしいですがどうか殿下の好きなようになされませ」


覚悟完了とでも言いた気にギュッと目をつぶり全身を朱に染めて身体を横たえるフリデリカにオレのなかの理性は軽々とリミットを振り切った。
もう辛抱たまらん!


「たわけえええええええええええええええ!!!」

「げほおおおおおおおおおおおおお!!!」


どこから潜り込んだものかヘレナの頭突きがオレの股間に炸裂していた。

「汝の初めての女になるのは妾であろう?それが何じゃ!こんな簡単に色香に惑いおって!妾だって……妾だって汝のためならあああ、あれ以上恥ずかしいこと
だって我慢できるぞ!いいいや、むしろうれしく………って何を言わせるのじゃ!」


グキリ


照れ隠しのヘレナの拳がマイマグナムを直撃する。

…………ごめんなさい。調子こいてました。もうしません。



「チッ!」





………今、誰か舌打ちしなかったか?





[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十二話 夕暮れの丘その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/18 00:33



1450年の年が明けた。

正直当初はワラキアが生き延びることしか考えていなかったが、今のオレにはヘレナの故郷東ローマ帝国を見捨てることはできそうにない。

ならば、1453年の4月までにはオスマンと正面きって争う戦力を保有するしかないだろう。

しかしそれはあまりにも難しい命題であった。



ほとんどルーマニア人で占められ生活習俗なども共通点の多いトランシルヴァニアはともかく、ハンガリーやクロアチアをどのようにして早期に戦力化するか、

そのためにブダに常駐しているような有様だがいまだその成果は見えてこない。

しかし上部ハンガリーやオスマンへの出兵がなくなり、経済が目に見えて好転したこともあって国民の間ではオレの評判は上々のようであった。

好事魔多しというが、オレをハンガリー王位につけ、ハンガリーにとりこんでしまおうという勢力も存在するので対応が難しい。

少なくともオレの治世を歓迎し協力の姿勢を見せている連中だからだ。

それに加えてハンガリーへ亡命してきたセルビアやボスニア貴族が同じ正教会の同胞として奪還のための軍を発しろと運動を開始していた。

現実問題としてそんなことができるわけがないのだが、できないなら背教だ!とかぬかしやがるので始末に終えない。

いずれろくでもないことを企むだろうから、そのときにまとめて粛清してしまおう。

今やワラキア大公の称号は実体に即したものではなくなっているが、仮に王号を名乗りとするなら、それにはオスマンのスルタンの許可が必要なことは間違い

ない。さしずめルーマニア国王とでも名づけることになるだろうが………



「………かといってスルタンの威光で戴冠なんかしたら……誰もついてこないな、きっと」



今のところは我慢しておくしか手はない。

いつか敵になるそのときまで。





「シエナ」



「御前に」



「…………カリル・パシャと繋ぎはついたか」



「御意。もっとも信を得たわけではありませぬが」



「パイプを繋げたなら今はそれでいい」



史実通りコンスタンティノポリスが陥落されれば族滅の憂き目を見る宰相だ。

ムラト二世が元気でいるうちはいいがメフメト二世が即位すれば今の立場はないことぐらいは承知しているだろう。

そもそもメフメト二世を一旦退位させた黒幕はこの爺さんなのだから。



「ムラト二世の健康状態を探れ。オレの教師をしていた学者兼医者でメムノンという男がいる。奴に近付けばある程度の情報はとれるだろう」



「御意」



「それと…………ラドゥは元気にしているか?」



キリリ…と胸を刺すような痛みを幻知する。

ほとんど無条件に慕ってくれたたったひとりの弟

オレをこの世界で必要としてくれた初めての人間

遠く距離を隔てても、家族の誓いは今もこの胸にある。





「ワラキアの磔公の弟としてスルタンにも目をかけられております。お健やかなるものと」



……変に期待をかけられすぎなければいいが。あいつはこの戦乱を生きるには優しすぎるからな……



















いつからだろう、夢が終わったと知ったのは。

それは偉大なる遠征の途上であったのかもしれず

またあるいは崇敬するヤン・ジシュカが死んだ瞬間であったかもしれない。

もしかしたらあの夕暮れの丘で兄弟たちの鉄と血で染め上げられた地獄を見るまでわからなかったのかも。



いずれにしろ夢は終わった。

いや、終わらせなければならないのだ。

夢と夢のはざまにたゆたっていたあの陶酔を認めるわけにはいかない。

何故ならオレは真実を知ってしまったのだから。











ヤン・フスが唱えたウィクリフ主義の思想は新しい時代を告げるものに思えた。

そう思えるほどに聖職者たちは堕落しきっていたし、悪名高い免罪符はそのよい証左にほかならなかった。

ミサで司教だけが飲むことができたワインをあらゆる人民が飲むことができる、いわゆる二重聖餐もつきつめていけば絶対的であった教会権力の否定であり、

人間は生まれながらに神の前には平等であることの表象であったのである。

人民の人民による人民のための統治、後の世リンカーンによって引用されるジョン・ウィクリフ訳聖書の冒頭に綴られたあまりにも有名な一節はまずプラハ大学

の知識階級に熱狂的に迎えられ、教会の搾取に苦しむ大衆へと広まり始めた。

神への信仰を聖職者の手から自らの手に取り戻すという使命感はいつしか燎原の火の如くボヘミア中に燃え広がっていった。

だが、そんな理想とは裏腹に現実の策謀は堕落した聖職者たちとさほど変わらぬ距離にいた。



ボヘミアは国土の三分の一が教会領となっている稀に見る宗教国家であった。

教会の威勢は政治経済司法のあらゆる方面に及び貴族や商人は長く忍従の時を強いられてきたのである。

その彼らにとってフスの教義はひどく都合のよいものに思えた。

貴族たちは教会の領土を、商人たちは自由な商売を求める方便として、フス教徒の支援に乗り出したのはあくまでも論理的帰結だったのである。



ボヘミアに神の国を造ろう。

ジェリフスキーの爺さんもジシュカの親父も、誰もがそう信じて疑わなかった。

しかしそれも結局は奴らにいいようにこきつかわれただけだった。

教会の威信が地に堕ちた後、用済みになったオレたちはリパニで生きながら業火の火に焼かれた。

そう、神の国なんざほんのひとにぎりの連中以外、誰も望んじゃいなかったんだ………。







オレも人のことは言えねえか。

なにせプロコプやフロマドカを見捨てて逃げ出した男だからな。



…………あの時オレはほとんど無我夢中で重囲した敵を突破するのに必死だった。

わずかに東の包囲が浅いのに気づいて損害を省みずにひたすら前に進んで、ようやく包囲を抜けたと思ったとき、オレは気づいた。

プロコプが、……オレの親友がオレの背後を支えていてくれたってことに。

前を向いて戦いながら、背後からの追撃が薄かったのはプロコプが身を挺してかばっていてくれたからだった。



………早く行け、そしてお前は生きろ



プロコプの目がそう言っていた。

もう引き返そうにもオレとプロコプの間にはチャペック率いる裏切り者が再び重囲を形成しようとしていた。

どうして決断したのか覚えてもいないし、言い訳をする気もない。

オレは友を見捨てて一人戦場を生き延びたのだ。





オレに命令していいのは、死んだプロコプやジシュカだけだ。

あの夢を語っていいのは、リパニで死んだオレの兄弟たちだけだ。

死んだ夢を語れるのは死者以外にいないのだから。







「イスクラ将軍!……押されています、このままでは………」



あの日の血のような夕暮れと同じ光景が目の前で繰り広げられていた。

上部ハンガリーを実効支配していたヤン・イスクラ軍団はヤン率いる傭兵軍とフス派残党軍に分かれて戦闘状態に陥っていたのだ。

フス派の戦いは堡塁車両で形成した戦線を挟んでの火力戦である。

リパニの戦い同様、お互いにこの戦術を使えば、延々と続く火力の消耗戦になる。

そうなると先に根気を無くした方が負ける、士気の低いほうが負けるのが自明の理であった。

ヤンの傭兵軍も士気が低いとはいえないが、相手は狂信をもってなるフス派教徒の群れである。ヤンの劣勢は誰の目にも明らかだった。



「背教者、ヤン・イスクラを討て!」



次第にヤンの軍から放たれる銃声がまばらになり始めていた。

押され始めた形勢を感じ取った傭兵たちの逃亡が広がっていたのだ。

勝利を確信したフス派教徒が堡塁車両から続々と姿を現し追撃の体勢に入ろうとしていた。





………どうやらオレもここまでか………



不思議と逃げる気にはならなかった。

プロコプたちを見捨ててまで助けた命なのに、なぜかどこかで安堵を覚えている自分がいた。





なんのことはない。

自分の好きなように生きるとは言いつつも、心のどこかで贖罪を求めていたのだ。

いや、叶うことならもう一度あのときに戻って友を助けに行きたかった。



プロコプを助けたかった。

もう一度親友とともに戦いたかったのだ。







……………まったく度し難い未練だな………



あのときオレには友を助けるだけの力がなかった。

もし、今の自分があのときの丘にいたら兄弟たちを助けられるのだろうか?

助けたかった

助けたかった

助けたかった

あの場で逃げてしまったことへの悔恨がオレを永久にあの丘の夕暮れに縛り付けてしまっていた。

もう一度友に会うことがあればオレは………。





「死ね!ヤン・イスクラ!この背教者め!」





突進するフス教徒たちの鼻面に突如爆発の華が咲いた。

全く予想もしない攻撃に狂信的な教徒といえども戸惑いを隠せない。

誰だ?いったい誰がこんな攻撃を…………





「擲弾兵が再度投擲後一斉射撃!銃兵は突撃せよ!」





いったい誰が………

友を見捨てたオレなんかを助けにくるっていうんだ?





「イスクラ将軍……あれは………ワラキア公国軍!ワラキア大公ヴラド殿下です!」








[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十三話 夕暮れの丘その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/18 00:35

話はつい先日まで遡る。
オレはシエナの諜報網から神聖ローマ帝国がボヘミアに食指を伸ばしていると聞いてイジー・ポシェヴラトやフス穏健派の支援の在り方を考えていた。
上部ハンガリーのフス派に分裂の兆しあり、という急報が舞い込んできたのはまさにそのときだった。

…………ヤンの手腕をもってしても御しきれぬか!

ハンガリー王国に対する利権を有する神聖ローマ帝国にボヘミア国王を名乗らせるのはワラキアにとっても都合が悪いが、フス強硬派が完全に主導権を
握ってしまうのは悪夢ですらある。
偉大なる遠征と呼ばれたフス派の遠征は長く東欧に悪夢として語られる類のものであった。
抵抗する諸侯の軍をなぎ倒し、都市を焼き、市民を虐殺し、資産を略奪する。
容赦のない彼らの行動はドイツやポーランドの諸侯たちにとってはさながら現世に降臨した悪魔のようであった。
もっともそれは、フス派に対し十字軍を編成し、異端の名のもとに粛清しようとしたカトリックの自業自得と言えるのかもしれない。
いずれにしろボヘミアをフス強硬派の手に渡してしまうのは危険に過ぎた。
彼らは毒薬なのであって、ポーランドや神聖ローマ帝国にとっての災厄なのは間違いないが、ワラキアにとってもそうならないとは誰も言えないのである。


それにオレはヤンに対して個人的に借りを感じていた。
ヤーノシュ率いる十字軍を迎撃したまさにそのとき、ヤンに後背を衝かれていたら……いや、あるいはヤーノシュの指揮下に収まっているだけでもワラキアは敗北を
免れなかっただろう。
そのときは不本意極まることだが、国内で焦土戦術をとりつつゲリラ戦を戦うことを決めていた。


実のところ焦土戦術によって敵の補給線を叩くことに徹すれば勝利することはそれほど難しくはない。
現にオスマンが敗れた戦いのほとんどはそれである。
この時代の有する補給能力では大軍を敵中深く侵攻させ、兵站を維持し続けるのは不可能に近いのだ。

しかし焦土戦術は諸刃の刃であり、焦土と化した土地は国土を荒廃させ、税収を減らし、民衆の支持を失うことは避けられない。
結果、焦土戦術を繰り返す為政者は国民の信を失って味方に裏切られて敗北のやむなきに至るのである。
東欧諸国の状況がまさにこれにあたる。
先頃占領されたセルビアや古くはブルガリアなどもこれにあたり、英雄スカンテルベグでさえ例外ではない。
彼のカリスマがかろうじて軍を維持してはいるものの、民衆の心は離れ厭戦気分は日に日に強さを増していく。
ましてジリ貧の国力減退は彼がいかに優秀な為政者であろうとも隠しようのないものなのだった。


故にもし仮にオレがそうした焦土戦術を使ってヤーノシュを撃退したとしても、失墜した威信を取り戻すためにオレは少なくない時間と労力を割かなくてはならなかっただろう。
そんな回り道をしていたら先の十字軍にも勝てていたかどうか…………

ヤンがどうしてそれをしなかったのかその胸中を知る術はないが、オレは確かに返さなくてはならない借りをヤンに作っていたのだった。


小型のキャラベル船の供給によってまた一段と発達した河川交通によって常備軍の精鋭は速やかな終結を終えた。
ブダやベオグラードといったドナウ川流域の都市の発展はめざましい。
首都トゥルゴヴィシテも政治の中心としてはともかく、商業の中心としてはこの先はドナウ商業圏に譲らざるをえないだろう。
ガラティのような河川港湾都市の整備も進んでいる。
往来する多国籍化した河川商業流通の重要度を考え、河川警備隊の発足も間近に迫っていた。
少なくともドナウ流域の大都市に関するかぎり、旧来の国境は取り払われつつあった。


「…………さて、いくか。借りを返しに」


常備軍銃兵二千、ピストル抜刀騎兵一千、擲弾兵二百、砲兵を除いた機動力重視の精鋭は一路北へ向かって進発した。




斥候の報告ではヤンの軍勢はおされ気味であり、一刻の猶予もないということであった。
ヤン率いる傭兵軍三千に対し、フス強硬派六千、およそ二倍の兵力を相手にいまだ本陣の守りをゆるがせないヤンは流石の用兵家だといえる。
側方へと機動するワラキア軍を双方が全く気づかなかったのはフス派特有の堡塁車両内での火力戦に負う所が大きかった。
視界が限定されたうえ、硝煙と発砲の轟音で周囲への警戒が著しく不足してしまうのである。

しかもタイミングがドンピシャだった。
防御に厚い堡塁車両から出てきてしまえば歴戦のフス教徒も正規の訓練を受けていないアマチュア歩兵にすぎない。
擲弾兵が突進するとともに手榴弾を叩きつけた瞬間勝負は決まっていた。


「ワラキア公国軍だ!」
「馬鹿な!奴らが何故?」
「くそっ!異端の輩め!神の罰を受けよ!」


それでもフス教徒の戦意の高さは尋常ではなかった。
陣地へ退却するまでにほぼ半数を喪失しながらも敢然と反撃を開始したのである。
もしも相手が騎兵の衝力に頼ったドイツ諸侯軍であったなら、彼らが勝利することは不可能ではなかったであろう。
しかし、彼らの前に立ち塞がるのはワラキア公国の精鋭軍であり、オレであった。

「銃兵!援護の弾幕を張れ!騎兵は迂回路を探れ!擲弾兵!奴らの手砲は射程が短い。不用意に近づかず落ち着いて狙え!」

この時代の火器は一様に命中率が低い。
十メートル以上離れてしまえば命中する確率は運任せだ。
だからこそ彼らの堡塁車両は当てられる距離まで敵を呼び込むために作られた。
重装騎兵の騎士相手ならそれもよかろう。
しかし、ワラキア銃兵と擲弾兵の相手としては最悪の相性だった。


一斉に投擲された手榴弾が車両ごとフス教徒を吹き飛ばしていく。
長年無敵を誇ってきた堡塁車両が全く通用しなかったことで、フス兵士たちの間に深刻な動揺が広がっていった。
再度の投擲で、車両で形成されていた戦線に繕いようのない大穴が空く。

「銃兵突撃!」

着剣した銃兵が一斉射撃とともに突撃に移る。
空いた戦線を埋める予備兵力も、機略縦横な用兵家もフス残党軍には残されていなかった。
天嶮たる堡塁車両も背後に回りこまれてはただの開け放たれた箱と変わりがない。
経験のない事態に混乱の極に達したフス残党軍は総崩れとなって壊乱した。


しかし彼らの背後にはワラキア騎兵が進出して退路を遮断している。
フス残党軍はここに完全に戦力を失った。
長年に渡って東欧に恐怖を撒き散らしてきたフス強硬派が歴史の表舞台から退場した瞬間であった。



「こりゃあ参ったわ………」

ヤンは目の前で繰り広げられる一大絵巻に感嘆の念を禁じえなかった。
既成の戦いを遠い過去のものとする新世代の戦術だった。
十字軍をまるごと焼き払ったと聞いたときには眉につばをつけて聞いたものだが、あながち誤りでもないかもしれぬ。
あの妙な投擲武器も面白いが、何よりも銃兵が素晴らしい。
歩兵であり、銃兵であり、槍兵でもある。これまでの兵科を根こそぎ覆してしまう恐るべき兵である。
しかもどういう機構かはわからぬが火縄銃と違って密集できるところがまた驚きだった。
どうやら自分が見込んだ以上のものがワラキア公にはあったらしかった。


…………その公が何故オレを助ける………?


それだけがずっとヤンの胸に抜けない棘のように疼痛を与えていた。






「ヤン将軍、無事でなにより」

「ありがとうよ。助けてもらっておいてなんだが、いったい何が望みだい?」

配下に下れとでも言うだろうか?
あるいは上部ハンガリーを明け渡せとでも?

ヤンの向けた言葉にワラキア公は困惑したような笑みを浮かべただけであった。

「オレは借りを返しに来ただけだからな。これで貸し借りなしだ」

…………この小僧今なんと言った?

「あんたに何か貸した覚えはないぜ?」

「ヤーノシュと連動してオレの敵に回らずにいてくれた。……それに借りのある相手に死なれちゃ気分が悪いんでね」

ヴラドのひょうげた台詞にヤンは胸を衝かれた。
なにか閊えていたものがすとんとあるべき場所に落ち着いたようなそんな爽快感が胸を満たしていった。

そうか。
自分の思うように生きるとか、面白いように生きるなんて言っては見たが、いつも何かが物足りなかったのはそのせいか。
オレも借りを返したかった。
あいつに……プロコプに借りを返す日がくるのを信じたかったんだ………。
気づいてみれば簡単なことだった。
返す相手のいない思いを抱いてみれば心が満たされるはずもなかった。

「………あんたはそれで気が済んでよかったかもしれないが……借りを返せなくなっちまった奴はどうしたらいいんだい?」

そう気がついたらヴラドがなんとも小憎らしかった。
自分だけ借りを返して清々しているのが許せなかったのだ。

「……こんなのは所詮自己満足だからなあ……月並みだが、そいつが喜びそうなことをしてやるかな………」


プロコプの奴ならオレに何を望むだろうか。
フスの教義のために戦い続けることを望むのだろうか。
あるいはリパニで殺しあったかつての兄弟への復讐を望むのだろうか。


…………そんなはずはない。


そうであるならリパニの紅い夕暮れで別れたときに、あんな優しい目でみるはずがなかった。

幸せになれ。
死んでいくオレたちの分まで幸せにお前は生きろ、そう言われたのではなかったか。

なんてことだ。
その理解に今頃たどりつくとは。

「オレも焼きがまわったかな………」

なるほど、借りを返さずにいることは精神衛生上良くない。
これから自分の幸せを見つけるためにも、借りはきっちりと返しておかなくてはならない。
目の前のこいつがどう思っていようとだ。

「お前が本当にオレを必要とするとき、オレは必ずお前の力となる。これはオレが勝手にするお前への誓約だ。オレが勝手にするんだから借りとかなんとか受け取ってもらっちゃ困る。……………だから、その時はオレを信じろ」


これほどの借りをどうして返さずにおくものか。
いつか十倍にして返して、感激の涙に溺れさせてくれる。



「…………勝手にそこまでされるのはもはや他人ではなく親友のすることだと、オレは思うぞ。親友よ」





「…………そうかな、親友よ」




「ああ、そうとも、親友よ」




銃と剣を使ってすっかり黒く染まったごつごつしたヤンの手と、大きいが白くのびやかなヴラドの手がゆっくりと重ねられた。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十四話 邂逅する英雄たち
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/20 01:12
スカンデルベグことジョルジ・カストリオティ当年とって四十五歳。
武将として為政者として脂の乗り切った年代である。
がっしりとした体躯に獲物を狙うような鋭い眼光、身体中から発散される威厳は英雄と呼ばれるに相応しいものだった。
アルバニアの一地方領主にすぎなかった彼がアルバニアの北半とはいえ統一し、今なおオスマン帝国に抵抗を続けられる理由は彼自身の圧倒的な統率力と
カリスマ性に負うところが大きい。
決してまとまりがよいとは言えないアルバニアの諸侯を指揮下に治められるのはひとえに彼の力量あればこそであった。

その彼にして現在のワラキア公には畏敬の念を禁じえなかった。
即位からわずかに三年たらずで小国ワラキアをトランシルヴァニア・ハンガリー・スロヴァキア・モルダヴィアといった連合国家に成長させてしまった手腕は空恐ろ
しいほどのものだ。
これがオスマンの傀儡ならば、身命を賭しても討ち果たすべきところだが、内実は来るべき日に備えて力を蓄えているにすぎない。
味方として頼もしいことこのうえない相手だった。
ワラキアの外交官ソロンが数隻のキャラベル船を率いて陸揚げしたワラキアからの支援物資の山に、ジョルジはますますその念を強くした。



なんのことはない。
上部ハンガリーで討ち果たしたフス強硬派の堡塁車両や榴弾砲・手砲をリサイクルでアルバニアに送りつけただけでワラキアの懐はひとつも傷んでいない。
しかしそれは防衛戦を戦わなくてはならないアルバニアにとって喉から手が出るほど欲しいものであった。
国土が荒れ、産業も突出したものがないアルバニアにとって銃や大砲の大量生産など望むべくもなかったからである。

「ワラキア公に感謝を伝えてくれ、ソロン殿。いつか轡を並べて戦うことを楽しみにしているとも」

「必ずやお伝えしましょう」



「………この車はいったいどうやって使うものなのだ?」

そう言って会話に割り込んできたのは年のころ十代後半といった風情の美しくも勇まし気な一人の少女だった。
特徴的な赤毛を肩で切りそろえ、女性用の胸当てに剣を佩いている。
見るものによっては女将のひとりに見紛っただろう。

「アンジェリーナ!控えよ!」

ソロンはいかにも不思議そうな目を堡塁車両に向けているお転婆な少女に苦笑しつつ彼女の要望に答えることにした。

「これはあのフス教徒が使っていたもので車と車の間を鎖で繋ぎ一種の城砦と化すためのものです。鉄板とオーク材で作られた正面装甲は槍や銃弾をはじきかえし、至近距離で放たれる手砲の銃弾は豪華な鎧を身に纏った重装騎士ですら易々と打ち抜きます。騎兵の突撃を完全に無効化することが出来たゆえに、フス教徒はドイツ諸侯軍に対し無敗を誇っていられたのです」

「なるほど、ではワラキア公はいったいどのようにしてその城砦を打ち砕いたのだ?興味が尽きぬ」

ソロンは返答に窮していた。
実のところ文官の彼にとってワラキア軍の何が決め手となったのかは想像の埒外にあったのだ。

「………さて、私は門外漢ゆえくわしい事情までは存じませぬが………今度訪れるまでに殿下に伺っておくといたしましょう」

「………父上ならどうする?この城砦をどう攻略する?」

興味津津といった風情で父親に戦略を問う娘にジョルジは苦虫を噛み潰したような顔で頭を振った。

「全く……どういうわけか息子のジョンより娘のほうが殺伐と育ってしまって………」

そうは言うものの、その表情には拭いようのない娘への愛情が見え隠れしている。
英雄スカンテルベグもまた、娘の前ではひとりの親ばかでしかないのであった。

「私はスカンデルベグの娘だぞ。戦に興味を持つのは当然だ。それで?父上ならどうする?」

「どうもこうもないわ。正面からぶつかっても被害を増やすばかりよ。背後に回るか包囲して消耗を待つよりほかあるまい」

もともと城攻めは強攻するものではない。
攻城兵器で突破口を開くか、敵の消耗を待つか………いずれにしろ素直に正面からあたるのは愚か者の選択に決まっていた。

「しかしワラキア公はわずか一日で一蹴したと聞く。………わからん。わからんが面白い、ひどく面白いぞ!」

………どこの戦狂いだ、この姫は。

思わずジョルジに同情を覚えたソロンはアンジェリーナの次の言葉に目を剥くハメになった。

「ちょうどよい、私をワラキア公のもとへ連れて行ってはくれまいか?これでも些少は役に立つぞ?」







オレは久しぶりに落ち着いた休暇を楽しんでいた。
戦に政務にと、休む間もなく働き続けてきたオレをベルドが見るに見かねたのか半ば強引にブダにある療養所に入れられていた。

…………甘いな、甘いよベルド君

残念なことに少しも心の休まる暇がなかった。
むしろリアルにピンチ!

「我が君、入るぞ?」
「……御前失礼いたします………」

湯煙の向こうからやってくる二人のシルエットが目に痛い。

周知のとおり、ハンガリーは温泉が普及しており、名だたる療養施設には必ずと言っていいほど立派な温泉がある。
そんな施設で羽を伸ばそうとするオレを、この二人が指を咥えて見ているはずがなかった。

「いい湯じゃの、我が君」
「…………生き返るようですわ………」

そういいつつも二人の顔は真っ赤に染まっている。
照れるくらいなら一緒に入らなきゃいいのに………。
もっともオレも、視線をそらして鼻血を噴かずにいるだけで精一杯なのだけど。




だって二人とも全裸なんですよ?


ヘレナのまだ○の生えてない股間とか、フリデリカの両腕をもってしても盛大にはみだしてしまう巨乳とか、ぶっちゃけありえないから!

「それでは背中を流そうか?我が君」
「どうか私にお任せくださいませ………ヘレナ様ではまだ肉つきが物足りませんでしょう?」




…………はじめやがった。
この数日オレの胃を痛めつけているのがこれだった。
げに恐ろしきは女の嫉妬………


「ほほう、面白いことを言うな……贅肉を無駄に垂らしてる分際で、この妾の引き締まった美がわからぬとは………」
「不躾ながらヘレナ様では殿下に骨が当たってしまいますもので………」

そういって巨乳をふにゅりとオレの背中に押し当てるフリデリカ。
チョーク!チョーク!1・2・3・4………!

「ぬぬぬ……よかろう!貴様に胸の差が女の魅力の決定的な差でないことを教えてやるわ!」
「胸こそ全ての母性の象徴だということがお解かりにならぬとは………往生際の悪いこと」


ぐにゅにゅにゅにゅにゅ………!!!



ごめんよ、ヘレナ。今とってもフリデリカの意見に頷きそう。



「くっ!見苦しいものをおったてるでないわ!この大ばか者~~~~~!!」

「マッドドーーーーーーーーーーーグ!!」




頼むからベルド、早くオレを政務に戻してくれ。
こんなのが毎日続いたら死んでしまうから、マジで。






「それでは商人殿がワラキアに帰られたら伝えて欲しい。陰ながら殿下の武運をお祈りしておる、と」

「きっと殿下もお喜びになるでしょう。それでは縁あればまた………」

知性の光が傍目にも見て取れる厳格な老人に、商人らしい風体の男が深々とお辞儀をして辞去していく。
男は商人として商いに携わってはいるが、その正体はシエナ配下の諜報員であった。
それと気づいていながらあえて接触を持ち、お互いの情報を交換しあっていたこの老人こそ、かつてヴラドの教師を務めていたこともあるメムノンであった。
オスマン帝国でも屈指の医者としても知られるこの老人はムラト二世の典医のうちの一人でもあった。

諜報員の知りたかったことはムラト二世の健康状態である。
ヴラドだけが知っていることだが、ムラト二世は来年早々に病死するはずだからだ。
病状から原因が推測できれば知識を総動員してでもムラト二世の延命を図らなければならない。
メフメト二世の即位を阻止することは十万の援軍に勝るからであった。

ところが意外にもムラト二世は健康そのもので一向に床につくような気配はないという。
それはメムノンの医者としての誇りにかけて間違いなかった。
ムラト二世は全く健常だ。





ただし、害しようとするものがいればその限りではないのだが。




「先生(ラーラ)も人が悪い。あの使者が知りたかったことの一番肝心なことを隠しておくとは」

メムノンの天幕の向こうから現れたのは白面をつけた少年だった。

「あの使者が我が前に現れたことだけでも恐るべきことです。あの男は陛下の命が縮むことを恐れている。つまりどこで知ったのかわからないが、それは貴方の
野心と力量を知っていることにほかなりません。どうやら計画は急いだほうがよさそうですな………」


面に覆われた少年の表情は伺うべくもないが、苛立たしげな空気だけは隠せなかった。

「あの男の手はどこまで長いのだ!もう待てぬ!あの男が十分に力をつけてしまう前に余の権利を回復しなくては!」

男と生まれたからには歴史にその名を残したかった。
千年の時を越えて大王と称されるあのアレキサンダー大王のように。
しかし今、巷間の噂に上るのは忌々しいワラキアのあの男でありその多角的な業績は史上類がないとまで言われている。
その事実が少年には悔しい。悔しくてならなかった。


「歴史に名を残すのは余ひとりでいいのだ…………」


その呼び名が少年が誰かを雄弁に物語っていた。
マニサへ蟄居しているはずの先代スルタン、メフメト二世その人にほかならなかった。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十五話 スカンデルベグの娘その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/20 23:17

休暇を終えたオレを仕事の山が待ち受けていた。
ひとつには神聖ローマ帝国への対応である。
ボヘミアへの領土的野心も露わにドイツ諸侯たちを煽って武力干渉に及ぼうとしていたのだ。
イジーへの援助は行っていたものの、フス派の戦闘集団が壊滅した今その戦力は激減している。

「同盟を結ぶ以外にないか」

神聖ローマ帝国の後押しがなければ傭兵部隊を派遣するだけで防衛を全うすることは可能だ。
今一度フス派十字軍を立ち上げられるほどもはや教皇庁に威信はないし、ウィーンが危険にさらされると知ればあからさまな介入は控えるだろう。

「イワン、ボヘミアのイジーに使者を立てておいてくれ。それとキャラベル船でウィーンにも使者を立てておけ。いらぬお節介はするなとな」

「御意」

ドナウ制河権を制覇すべく河川海軍を発足させたことで、ワラキアの戦略機動力は飛躍的に向上していた。
いまだ外洋型のガレオン船は完成をみないが、キャラベル船とスクーナー船は既に商船用も含め数十隻が就役している。
軽砲や重砲を装備したこれらの船に、ワラキア常備軍の誇る銃兵部隊が乗り組めばドナウの流域の都市にはいつでも攻撃が可能だ。
その脅威を見せ付けてなおフリードリヒ三世が挑戦してくるはずがなかった。


またハンガリー王国という東欧の重しがはずれた影響は大きく、北部への軍事圧力を解消したオスマン帝国は今年に入ってカラマン君侯国を攻撃していた。
滅亡寸前に追い込まれているカラマン君侯国だが、これに対応する術はない。
援護するにはカラマン君侯国は遠すぎる。
むしろトレビゾント帝国に矛先が向かなかったことをよしとするほかはなかった。
トレビゾント帝国とグルジア王国は対オスマンの東の要であり、失うわけにはいかないのだ。
白羊朝やマムルーク朝とも交易の手を伸ばすとともに外交ルートを構築中ではあるが、まだまだその信頼性は低く重要な交渉を持ち出せるような状態ではない。
さしあたりトレビゾント帝国に軍事援助を増強する必要があろう。



国内では好調を維持する経済のもと石炭鉱山の開発や公立病院の普及を急いでいた。
人的資源の不足しがちなワラキアにとって医療技術の進歩は死活問題である。
現にブルジーマムルーク朝は首都カイロで大規模なペストが流行し、一気にオスマン朝に対して劣勢に立たされていた。
煮沸消毒やアルコール消毒はいまだ国家機密だがいずれは民間普及も考えねばならないだろう。
ハンガリー領では温泉たまごやフォアグラやトリュフなど新開発の食材と貴腐ワインの販売が好調で、対立するウィーンの都ですらヴェネツィア商人の前に
行列ができる有様だった。

またイタリアの精密加工技術者を招いて少数だがライフル銃の製作に乗りだしてもいる。
狙撃兵の抑止効果は指揮官が後世の近代軍より遥かに少ない中世型の軍には絶大であるといえるからだ。
中隊以上に全て指揮官を配置しているワラキアは別として、ひどい例になると数千の軍の指揮官がたったひとりであったりするのだから当然である。
また胸甲抜刀騎兵用の拳銃の量産も急務であった。
打撃力の激減した騎兵を再び戦場の華とするために火力の向上は必須なのである。
砲兵火力もストークブランのデッドコピーである迫撃砲と焼夷多連装ロケットの量産で大幅に向上されていた。
焼夷油脂を装填したロケットの弾道安定にはウルバンの親父が見事な手腕を発揮した。
なにせジャイロ効果に独力で気づきやがったからこの親父ただ者じゃない。
相変わらず巨砲主義なのは困りものだが。

「これが対要塞用決戦武器、名づけて雷神の槌(トールハンマー)!これさえあればウィーンの城塞ごとき一撃ですぞ!」

とかいって全長六メートルはありそうな臼砲の化け物を作ってきたときには本気で首にしてやろうかと思った。
役に立つところもあるから首にはしないけど増長させたら何作り始めるかわかったもんじゃないな。

「ウルバンの技術は世界一~~~~~!!!!」




……………やっぱり首にしておくか。





それにしても欧州の識字率の低さは異常である。
仮に農民であれば99%は文字が読めない。
日本の農民は寺子屋で文字を習うばかりか俳句を詠むことすらしたのにえらい差であった。
これも統治技術のひとつとして教会がぐるになって愚民化政策を推進したせいである。
中世から欧州がアジアの新興国に押され始めるのはこの愚民政策と無縁ではないとオレは考えていた。
大主教の権限で、出来うるかぎり庶民に文字を教えるよう指示を出しては見たものの成果のほどは不明である。
あるいは義務教育制度でも制定しないかぎり識字率の向上は難しいのかもしれなかった。

しかも学校の教師となれる人材がいない。
数少ない学識者は主要都市で富裕層向けに開設した大学の需要を満たすだけで精一杯なのだ。





「殿下」

どこから手をつけてよいかもわからぬ激務の最中、ベルドがなんとも微妙な顔をして現れた。

…………嫌な予感がする。

ベルドがこうしたいかにも言いずらそうな仕草をした後には、たいがい難題がふりかかるものなのだ。

「………聞く気が進まないが……どうした?ベルド」

「スカンデルベグのもとに派遣したソロンが戻ってまいりました。殿下への目どおりを願っております」

「………なんだ、驚かせるな。今行く」

「…………こう申し上げるのは大変恐縮なのですが……スカンデルベグの娘が同行して参っております」


ギラリ


オレの隣で政務を手伝っていたヘレナが抜き身の刀のような視線を向けてくる。
誰か!弁護士を呼んでくれ!早く!

「………このところ随分ともてておるようだな、我が君………」

「もててなんていませんよ………私はヘレナ一筋ですヨ………」

「……嘘だ!!」




助けて!ヘレナがL5です!







「余はワラキア公ヴラドである。わざわざのお運び、痛み入る」

そういって姿を現したワラキア公に私は内心失望を隠せなかった。
父ジョルジのような威風を纏っている様子もなく、確かに長身で恵まれた体躯をしているが武で鍛え上げたものではないことは自分の目には一目瞭然だった。

戦悪魔の異名を持つからどれほどの武人かと期待してきてみたが…………

偉大な父を持つ者の宿命としてアンジェリーナもご他聞にもれずファザコンであった。
父以上の武人をいまだアンジェリーナは見たことがない。
あるいはワラキア公ならと期待していたのだが、ワラキア公の本質は武人のそれとは異なる様子であった。
それではアンジェリーナとしては食指は動かなかった。

どこから噂を聞きつけたものかフリデリカもまた謁見の間に姿を見せている。
いまや完全にヴラドに心を奪われてしまったフリデリカにとってヘレナ以外の強敵の出現は死活問題なのだった。

「ジョルジ・カストリオティより感謝の言葉を預かってきております。ワラキア公のご好意に感謝を。そしていつの日か轡を並べて戦いたい、と」

「スカンデルベグとともに戦うことは余も名誉とするところだ。必ずやいつの日にかと伝えて欲しい」

「お言葉かたじけなく」


………この国にきた目的のひとつは終わった。
あとはフス派との戦いの様子や軍団の状況を見せてもらって帰るとしよう。
アンジェリーナは興味を失ったヴラドから新たな目標へと思考を切り替え始めたとき、その使者は訪れた。




「殿下!モルダヴィアでボグダン二世殿下が暗殺されました!シュテファン公子も行方がしれず不平貴族たちはポーランドに援軍を求めています。どうかお急ぎを!」


ゾワリ…………と


空気が一変したのをアンジェリーナは感じ取っていた。


いったい何が………

ヴラドの表情はあくまでも涼やかで動揺の欠片も見られない。
なのに身に纏われた威風は父ジョルジすら軽々と凌ぐほどのものだった。
ワラキア公が人の身にはありえぬほど巨大に見える。
これほどの鬼気を隠し持っていたとは、私の目は節穴か!
青白く凍りついた空間でヴラドの声だけが白々と響き渡った。

「キリアの駐留軍を叛徒どもに差し向けろ。イワン、ポーランドのカジミェシュ四世に伝えろ。手出し無用、もし余計な手出しあらば全力を持ってこれを討つとな」

「御意」

ヴラドの静かな、しかし圧倒的な意思の前に誰一人しわぶきひとつすることができない。
わかっている。
わかっているのだ。
ヴラドのなかの死神を目覚めさせてしまったのだということを。

「常備軍二千を連れて今すぐドナウを下るぞ。ネイ、マルティン、余に続け!」

「御意」

ネイは先頃からヴラド直属の近衛兵団の指揮官に就任している。
マルティンはネイの副官であった。
その数五百、選抜を重ねた精鋭中の精鋭が集められていた。
たちまち慌ただしく出兵の準備が始まる中で思わずアンジェリーナは叫んでいた。

「私も!どうか私もお連れください!」


……私は見誤っていた。
ワラキア公の器量はおそらく父上を遥かに凌ぐ。
それを見極めずしては来た甲斐がないではないか。

アンジェリーナの嘆願にもヴラドはわずかに眉を顰めただけだった。

「………好きにされるがよい」

「では妾が預かろう。さすがにアルバニアの姫君を前線に出すわけには参らんからな」

「頼む」

そういい捨てるとヴラドは謁見の間を去った。






「まさか貴女も同行するというのか?」

見たところようやく十歳を過ぎたばかりのような幼女である。
そんな幼女を戦場に連れて行くなど聞いたことがない。

「妾はいついかなるときも我が君と共にある。それが妾の誓いゆえな」

ほとんどなんの気負いの感じさせず、淡々と幼女は言った。

おそらくはこの娘が東ローマ帝国の皇女ヘレナなのだろう。
ただのわがままで言っているのではない。
行動に見合っただけの覚悟をしていることがアンジェリーナの目にも見て取れる。

「………さすがだな………貴女もヴラド殿下も……この危急の時にかくも落ち着いておられるとは……」

ヴラドの鬼気を感じたときからずっと身体の震えが止まらない。
取り乱し立場もわきまえず同行を申し出たが、冷静に考えれば本来そんなことが許されるはずがなかった。
それを容れてもらえたのはひとえにヴラドの度量の大きさゆえであろう。

「…………落ち着いているだと………?」

幼女らしからぬ大人びた表情でヘレナが嗤った。





「そなたもこの先我が君と関わる覚悟があるのなら覚えておくがよい。我が君が怒りの色を露わにしているのならまだ救いはある。我が君は怒りの深いときほど怒りを外には表さぬゆえな。しかし青白く空気が凍りついた時は…………………もはや死以外の決着はないと思え」




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十六話 スカンデルベグの娘その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/20 23:17

油断していたつもりはない。
1451年にペトル・アロンによってボグダン二世が暗殺されることはわかっていた。
しかし影で糸をひいていたポーランドの影響を排除し、ペトル・アロンを辺境へ放逐したことで暗殺の脅威は去ったとも思っていた。
それほどボグダン二世は貴族にも国民にも好かれた篤実な政治家だったのだ………。


今回の暗殺の首謀者ランバルド・マシュディーは母方にポーランドの大貴族の血を引く有力貴族のひとりであった。
彼にとってボクダン二世が着手し始めた中央集権志向の政策は全てが我慢のならないものだった。
なかでもヴラドとの政治経済的結びつきを重視したボクダン二世が港の国有化とドナウ川流域の関税を撤廃したのがいけなかった。
ドナウ水系に面した領土を持つ貴族にとって関税収入は貴重な欠くべからざる収入源なのだ。
しかし今や港のなかったワラキアはアドリア海に窓口を有しており、ドナウにおける支配権も、河川海軍を組織したワラキアにもはやかなうものではなくなっていた。
好調な対ワラキア貿易を継続していくために国境沿いの関税を相互に撤廃していくのは最終的に両国の国益になるはずだったのである。
税収の増額で関税収入の減額は補うことができる。とボグダン二世はランバルドを説得したがランバルドにとって税収の増収と関税収入は全く別個のものであり、
先祖から代々譲り受けてきた権利を剥ぎ取られるのを認めるつもりは全くなかった。
そもそもモルダヴィア領であるキリアにワラキア軍が闊歩していることもランバルドには気に入らなかった。
彼の中で次第にボクダン二世は売国の徒となっていき、既得権益を奪われた同士がある一定の数に達したとき暴発は起こった。


ランバルドは当初楽観的であった。
これほどの好機にポーランドが動かぬはずがないと。
長年ポーランドが欲し続けたキリアなど、自らの主権を認めてもらえるならのしをつけてくれてやるつもりであった。
ところが、ポーランド国王カジミェシュ四世からはボグダン二世に対する謀反の不義を告発し弾劾する書簡が届いたのみであった。
ようやくランバルドは自らの置かれた立場の危うさに気づき始めていた。







慌ただしくブダを出発する艦隊を見送るフリデリカの胸中は複雑だった。
もしもポーランドが黒幕であった場合自分はどうなってしまうのか。
いや、仮に全く関係がなかったにせよポーランドが実際に脅威となっているのは事実なのだ。
ワラキア公の寵愛を受けることなど夢のまた夢なのではないか………。
このワラキアにも、私の居場所はないのではないか…………。


「辛気臭い顔をするでないわ、この垂れ乳め」

「………ヘレナ様……まだ行かれてなかったのですか?」


いつの間にかヘレナがからかうような顔を向けていた。
この方がうらやましい。
殿下に才を認められ、こうして戦場への同行すら許されるのだから。
自分にはとうてい無理な話だった。
フリデリカの精神構造は凡庸なものであり、ヘレナのような常識を突き破ったような横紙破りの行動がどうしても取れずにいた。

「妾は我が君の傍らにあってお助けするのが役目じゃ。しかしお主の役目は他にある」

「………私ごときが何の役に立ちましょう………」

本心でフリデリカはそう考えていた。
自分には容姿以外になんら秀でたものがない。ごくごく平凡な女なのだ。

「確かに本当に王族の生まれかと思うほど平凡な女ではあるがな。しかし妾のような非常の女ばかりでは我が君も心の休まる間があるまい」

「………生まれて初めて平凡であることを褒められた気がいたします………」

信じられないことにヘレナは自分を元気づけに来てくれたらしかった。
平凡なままで良いのだと。
そして自分がワラキア公を愛していて構わぬのだと。

「もっとも我が君にとっての一番は妾であるがな」

少女は絶対の自信とともに不敵に微笑むと、くるりと身を翻した。

「その台詞はもう少し胸が育ってからになさいませ」

「うぐぅ」








オレは気が狂いそうな憤怒と必死になって戦っていた。
貴族よ
貴族よ
何故かくも容易くお前たちは裏切るのだ?
いったい貴様らにとって王とは国とはなんなのだ?

オスマン帝国も一枚岩とはいえないが、欧州貴族の定見のなさはそれを遥かに上回る。
コソヴォの戦いしかり、ヴァルナの戦いしかり。
キリスト教国軍はいつも肝心なところで貴族の裏切りによって瓦解を余儀なくされていた。
裏切り者がオスマン朝で重きをなしたという話も聞かない。
つまりは一時の感情かわずかな目先の金で彼らは易々と裏切りを犯すということなのだ。
どうすれば彼らに忠誠心を植え付けることができる?
これ以上どうやったら彼らに軽はずみな裏切りをさせぬようにできるのだ?


古代ローマが安定していた時代や絶対王政華やかなりし頃、宮廷内で王族にまつわる抗争は繰り広げられていたが、武力で叛旗を翻す貴族など極わずかであった。
それはやはり王権と貴族との間に厳然とした力の差があったことでもあり、またあるいは貴族ひとりが動かすのには社会構造が複雑化してしまったせいかもしれない。
いずれにしろオレは個人的に信頼する者以外に貴族を重用するつもりはもはやなかった。


第三勢力としての力を貴族に頼れないとなれば新たな監視組織が必要となる。
軍とはとかく暴走しやすい機関であるから、同じく武力をもった第三勢力の存在は必須なのだ。
これはナチスドイツの武装親衛隊やアメリカ合衆国の州兵やCIAなどがこれにあたる。
肥大化した軍を抑止する伝統的勢力としての役割を貴族に求める構想は事実上頓挫した。

…………やはり近衛を軍組織の埒外におくか………


しかし近衛といえども軍とのつながりは切れるものではない。
現在も軍の精鋭の選抜という形を取っている以上将来的に骨抜きにされかねなかった。
さて、どうしたものか…………。
オレの空想は一人の少女によって破られた。

「………何をお考えになっておいでですか?」

アンジェリーナだった。
さすがスカンデルベグの娘だけあって従軍中にあっても不平ひとつ言わない。
父親としては心配でたまらんだろうがこれも血の為せるわざか。

「……そうですな。まずはこの戦が終わった後の形を」

「モルダヴィアの叛徒など相手にならぬ………と?」

既に戦の勝利を確定させたかのようなオレの物言いがアンジェリーナの気に触ったようだ。
武人らしいと言ってしまえばそれまでだがもしジョルジもそうだとするなら由々しき問題になる。

「戦の勝敗は始まる前に決まっている……ジョルジ殿にそう言われませんでしたか?」

アンジェリーナは明らかにハッとした顔で頷いた。
確かに父はそう言っていた。そしてアルバニアにはそうするだけの力がないのだ、とも。

「今こうしているうちにも私がどれだけの策を実行しているかご存じか?既にワラキアとの貿易でなんらかの利益をあげている貴族は叛徒を見限り、キリアの
駐留軍とともにモルダヴィア南部を勢力下に治めています。もはや戦の帰趨は決まったという流言を撒いているので北部貴族もじき叛徒どもを見限るでしょう。
ポーランドとクリルカン国には使者を送るだけでなくジェノバの大使にも一枚噛んでもらっております。まず余計な真似はできますまい」

アンジェリーナがついぞ知ることのない怪物がそこにいた。
調略・宣伝・外交を駆使してモルダヴィアの新たな支配者となったはずの叛徒は戦う前から一部貴族の私兵集団に成り下がっていたのだ。
ワラキア公の言うことが真実なら、確かに戦の勝敗はすでに決していた。





この男が恐ろしい。
しかしそれ以上にこの男を知りたい欲望が勝っていた。
まるで掴み所のない、アンジェリーナの評価に余る男ではあったが、器の大きさで父を上回る初めての男であることだけはわかっていた。
身体が熱い。
胸の動悸は戦場が近付いてきたことへの昂揚だろうか。
いつしかアンジェリーナは熱病に浮かれてたようにヴラドから視線をはずせなくなっていた。





「…………我が君には今少し自分というものを知っていただかなくてはならぬな」

すっかり苦虫を噛み潰したような顔でお冠のヘレナであった。






モルダヴィア公国の首都スチャバでランバルドたち貴族軍の面々が焦燥を募らせていた。
ドナウ周辺は瞬く間にワラキア河川艦隊によって占拠され、キリアに駐留していたワラキア軍の精鋭はモルダヴィア南部を完全に手中に収めていた。
ワラキアに占領された南部地域には今回の反乱に関わった貴族の領地が数多く存在していたため各州に動員令を発したもののことごとく黙殺され
身動きができなくなっている。
そうしている間にもワラキア公自ら異例の速さでキリアに二千の兵とともに上陸したという報が伝わっていた。
こんなはずではなかった。
自分たちは正統な権利を守っただけであり、ワラキア公に従えば貴族は衰弱死を免れないだろう。
モルダヴィア貴族はこぞって我がもとに馳せ参じるべきではないか。
何故唯々諾々と異邦の君主に頭を下げなければならない?
口をついて出るのは自己弁護と都合のよい楽観的な観測ばかりであった。
スチャバに篭城してワラキア軍が苦戦すれば、模様眺めをしている貴族たちが援軍に駆けつけるだろう。
いや、ポーランド王国軍の介入も期待できる。



彼ら貴族には想像力が欠如していた。
原因はわからないが、中世の欧州貴族たちには主観ではなく、客観で物事を見る力が著しく欠如していた。
それが風土的なものなのか、宗教的なものなのか、教育的なものなのかはいまだに判然としない。
ただ彼らの思考がひどく自己中心的であることは事実であった。
この期に及んで彼らは想像すらしていない。
彼らの前に現れるであろう男は、ワラキアの反乱貴族を磔に処し、フォルデスの野でカトリック教徒三万人を焼き殺した男なのだ。
わずか治世四年にしてワラキアを東欧最強の大国に成長させた立志伝中の人物を敵に回して勝てるほど己が有能だと思えるその自己肥大ぶりがいっそ滑稽であった。



静かだが激甚たる怒りとともに、ワラキア軍三千とワラキアに味方する南部諸侯二千がスチャバに姿を現したのは1450年6月も終わりに近づいた頃であった。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十七話 スカンデルベグの娘その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/22 01:10

アンジェリーナはそのあまりの早さに驚きを隠せなかった。
動員からキリアへの上陸までわずかに四日しか経っていない。
これが故地アルバニアであれば少なくとも1ケ月を要したであろう。
常備軍がいるから動員にかかる時間が少ない。
そして各駐屯地への情報伝達が異様に早かった。後でヘレナ姫に聞いたところでは腕木というものを使って通信しているせいだそうだ。
僻地へは伝書鳩まで活躍していると聞く。
いったいどんな発想からそんな奇略が生まれるものか………その発案者が全てワラキア公だというのだから開いた口が塞がらないとはこのことだった。
またドナウを走る艦隊の速度も陸上での進軍速度を考えれば呆れるほどの速さである。
陸においては人が歩く速度を基本として、食事、野営準備。睡眠と移動以外に存外時間をとられてしまうのだが、艦隊にはそれがない。
ワラキア公が言っていたことは全くの事実であった。
戦いは始まる前に既に決していたのだ。




結果の見えた戦に興味はない。
気がかりなのは行方のしれないシュテファンの安否とこの先のモルダヴィアの扱いかただけだ。
黒海の玄関口でもあるモルダヴィアの治安が悪化するのはワラキアにとっても好ましくない事態である。
この際併合してしまうべきだろうか。
………いまだハンガリー国内で貴族たちの反発を受けている現状ではそれも難しいだろう。
出来る限りモルダヴィア貴族の反発を買いにくい手法をもちいるべきだった。
そのためにはシュテファンが生きて助かることがもっとも望ましいのだが…………。



元日本人であるオレはようやくにして勘違いに気づき始めていた。
武士道と騎士道は似て非なるものであり、御恩と奉公も日本と欧州では意味合いが異なる。
武士道の根幹は家であるが騎士道の根幹は個人にある。
家を背負う責任が薄いから個人的な名誉のために、あっさり自らを投げ出すことができるのだ。長年続いた名家ですらそれは例外ではなかった。
君は一代家は末代という考え方は欧州にはない。労働集約的な米作が日本人に集団主義をもたらし、作付面積あたりの収穫率が低い欧州では個人主義が発展した
と大学の教授に聞いたような気がするがそのとおりなのかもしれない。
また、御恩と奉公についても日本では家臣に領土の保障を与えることに価値はあったが欧州では日本ほどの価値はない。
それは日本が朝廷と幕府の二重権力体制にあり、朝廷の枠組みのなかで武士の土地所有が禁じられていたからである。
故にこそ日本では将軍という新たな権威への服従というステージが確立したが、欧州では君主が領土の保障をするのは当然のことであって、保障できない君主には仕える必要がないのであった。
まして日本には天皇家という古い権威が滅びることなく継続していたが欧州では栄枯盛衰が激しすぎ、君主に対して確固たる権威が構築できずにいたのである。
である以上、忠誠というものは打算か義侠のうえにしか期待できないと考えたほうがよいのだろう。
当座はそれでしのぐとして、従来の価値観を教育によって塗り替えることが絶対に必要であった。
現在トゥルゴヴィシテ・ブダ・シギショアラに設置した大学をキリアやスチャバにも新設しなければなるまい。

この時代ならレオン・バッティスタ・アルベルティが存命なはずであった。ロレンツォ・ヴァッラもまだ死んでいなかったはず。
ルネサンスを代表するこれらの人文主義者を招くことも検討しなくては。
特にアルベルティは数学者でもあり、科学者でもあるから是非とも欲しい人材だ。
難点をいうならどちらも教皇庁の息のかかった人間ということなのだが…………。
錬金術師たちも相変わらず頑張ってくれているのだが、今は石炭鉱山の開発とコークスの製造で森林資源を木炭から建築資材へと転用している矢先であるし
どうにも連中が人に物を教えるということに向いているとは思えないのだった。




「難しい顔をしておるの、わが君」

気がつくとヘレナがオレの隣にちょこんと座っていた。

「全く、世の中ままならぬことだらけさ」

おどけて肩をすくめるオレをなぐさめるようにヘレナは優しくオレの頭を抱え込んだ。

「全てを思うままにできるのは神だけだ。我が君はそれをよく知っていたはずだぞ?」

ちょうど額のあたりに、最近自己主張を始めたヘレナの胸のふくらみがあたってかなり照れる。
照れるシチュエーションではあるがヘレナの気遣いがうれしかった。
神ならぬこの身には何かを犠牲にしなくては前に進むことはできない。
恐怖をもって統治にあてる政治的理由を誰よりもよく理解してくれるヘレナだからこその気遣いであった。
このモルダヴィアでも恐怖をもって語られるであろう断罪の時がもはや目前に迫っていたのである。





スチャバに立て籠もる貴族軍は二千余りであった。
対するワラキア軍は行軍中さらに兵を増やして七千名に達している。
うち四千名がモルダヴィア諸侯であることは不安要素のひとつでもあったが、不安が顕在化するほど戦闘を長期化させるつもりはオレにはなかった。

「罪を悔いて降伏せよ。今なら貴殿の命ひとつで済ませてやる」

「ふざけるな!ワラキアの田舎者ごときなにほどやあらん。立てよ同胞たち!敵は目の前にあるぞ!」

ワラキア軍と行動をともにしたモルダヴィア貴族に向けたランバルドの煽動は彼らになんの感銘ももたらさなかった。
もともとランバルドは数ある諸侯の一人に過ぎずモルダヴィアを統治する資格がないうえ、かくも軍事指揮官としての格の違いを見せつけられてはもはや呆れるほかない。
思わずもれた失笑にランバルドは激怒した。

「おのれ!売国奴め!必ずやその報いを受けさせてやるぞ!」

「売国奴はお前だ、愚か者」


……もう限界だ。
こんな男になんの慈悲が必要だろうか。

「………最後にひとつだけ聞く。シュテファンをどうした?」

「あの腰抜けは父親を殺されてから行方を眩ましておるわ!今頃どこかで野たれ死んでいるだろうよ!」

不幸中の幸いだな。シュテファンはこいつらに殺されてはいないらしい。


「………忠実なる神の使徒ボグダン二世殿下を正統な理由なく殺した汝の罪は重い。ここにランバルド・マシュディーを背教者に認定し破門とする。死後永遠の
煉獄のなかで己の為した罪の重さを噛みしめるがいい」

「な……!いったいなんの権限があってそんな………!あっ!!」

ここにいたって参集した全てのものがヴラドのもうひとつの顔を思い出していた。
ワラキア公ヴラド三世は同時に正教会大主教でもあるのであった。


「背教者に味方しようとする者はいるか?」

敵も味方もヴラドの声にただ呑まれるばかりであった。
逆らえない。
逆らえるわけがない。
地上の民と天上の神を同時に代弁するこの男には。

「よろしい、ならば背教者に死を」


ワラキア軍の牽引砲の射撃とともに攻城が始まった。


カトリック世界でも破門の及ぼす効果は大きい。
カノッサの屈辱で皇帝ハインリヒ四世がグレゴリウス七世に屈服したのもその一例である。
しかし教会の分裂や破門の乱発でその後破門の権威は薄れていたが、正教会世界ではそんなことはない。
カトリックほど世俗に交わらず、カトリックほど非寛容な組織ではなかったからだ。
それにオスマン帝国というれっきとした異教徒との対峙を強いられ同胞同士でいがみあう余裕もなかった。
ゆえに破門がもたらした精神的衝撃は計り知れぬほどに大きかったのである。


戦闘が始まってたちまちのうちに叛徒の末端の兵士から裏切るものが続出していった。
城門は砲兵の一斉射撃で瞬く間に瓦礫と化し、敗北を悟った反乱貴族同士が各所で熾烈な同士討ちを開始する有様だった。

「待て!待ってくれ!私はゆえなく背いたのではない!私は義によって起ったのだ!」

名誉の死ならば受け入れよう。
モルダヴィアの貴族の誇りにかけて自分は不当な圧力と戦ったのだ。
しかし背教の徒として、秘蹟も与えられず地獄へ落とされることは耐えられない。
なぜだ?どうしてこんなことになってしまったのだ?

「殺さないでくれ!」

ランバルドの悲鳴もむなしく、彼に剣を振り上げたのは、共に決起に加担した叔父のマルドであった。





こんなものは戦ではない。
アンジェリーナは己が見てきたいかなる戦とも異なる成り行きに戸惑いを隠せなかった。
言ってみればこれは獅子が己を虎と勘違いしている猫に全力で殴りかかったようなものだ。
そもそも戦の形にすらなっていなかった。
あるのはただただ一方的な掃討である。

恐ろしい
ただひたすらヴラドが恐ろしかった。
父ジョルジのような武人とは違う。
明らかに何かが決定的に異なった人間である。
アンジェリーナはその何かが恐ろしくて仕方がなかったのだ。

…………悪魔(ドラクル)………

背教の汚名を着た叛徒より、大主教のヴラドのほうがよほどその言葉に似合っているような気がした。
まるで世界を天上から見下ろしたかのようなヴラドのやり口に、ドナウの船上で感じたような畏敬を感じることはできなかった。






ランバルドの首を手に手柄顔で投降してきた馬鹿どもを捕らえた後、オレはシュテファンの捜索にあたっていた。
どうやらボグダン二世が暗殺された時点で、スチャバにいたことは確かであるらしい。
城門の門番にも気づかれずスチャバを出ることは難しいことうえに、近隣の貴族領でも一切目撃がないことを考えれば、いまだスチャバ内に隠れ潜んでいると
考えるのが妥当だった。
もしかすると義侠心ある市民に匿われているのかもしれないとスチャバの解放を触れて回ったが一向にシュテファンが見つかる気配はなかった。

…………従兄様!

まるでラドゥのように懐いてくれた従弟だった。
オレにとって数少ない無条件の信頼を寄せられる人間の一人でもある。

…………頼むから生きていてくれ………!

このモルダヴィアをお前を害することのない国に造り替えてみせる。
だからこの従兄を置いていくな………!

…………私は従兄様を信じていますから………




唐突にオレの脳裏に蘇る思い出があった。


二年前………まだシュテファンが十一歳だったときのことだ。
ボクダン二世を訪問していたオレはシュテファンに城内を案内されていた。
日ごろの教育が厳しいのかオレが贈ったルービックキューブに涙を流したり、五目ならべを教えたらえらく感激していたがよほど遊びに飢えていたと見える。
そんななか、シュテファンがスチャバの城内にある鐘塔を指差して言った。

「従兄様、あの鐘の部屋から見る景色は最高なのですよ!僕だけの秘密なのです!」

「……あんだけ高ければそりゃあ見晴らしもいいだろうけど……どうやって昇るんだよ」

「機械室から鐘のロープを昇っていけばすぐですよ?」

「ってどこの曲芸師だ!お前は!」

「内緒ですよ?従兄様だからお話したんですから………絶対ですよ?」



そう気がついたらいつの間にか駆け出していた。
ボクダン二世が暗殺されてから一週間………非常食でもないかぎり生きている可能性はそう高くない。
おそらく、鐘塔はシュテファンの隠れ家だ。
たまに城を抜け出してくつろぐために食べ物を隠しておいても不思議ではあるまい。
現にオレも子供の頃に同じことをした覚えがある。
太い鐘のロープをよじ登りだすとネイたちが口々に思いとどまらせようとする声が聞こえてきたが構っている余裕はない。
それにロープのぼりはオレのガキのころの得意技だった。


やはりいた。
鐘の周囲を囲む壁に寄りかかるようにしてやつれ果てた顔をしたシュテファンが待っていた。

「ああ………従兄様……やはり来てくれたのですね」

「もう少しましな場所を思いつけ!オレが気がつかなかったらどうするつもりだったんだ!」

「大丈夫ですよ………従兄様なら気づいてくれると思っていました………」

「………バカ野郎……」

羽のように軽くなったシュテファンを背負いながら不覚にもオレは涙が溢れるのを止められずにいた。
大丈夫、オレを信じてくれる家族がいるかぎりオレは人間でいられる。
たとえ立ち塞がる敵には悪魔の化身のように思われようとも。

「急いで典医を呼べ!水と重湯を用意しろ!シュテファンを寝かせるベッドの用意もだ!」

「殿下、私が替わりに背負いまする」

「よい、これはオレの仕事だ」

シュテファンがベッドに身を横たえ食事をすませて眠りにおちるまでオレはシュテファンの傍を離れるつもりはなかった。






アンジェリーナは混乱の極にいた。
人の心を掌に弄ぶ悪魔のようなヴラドと、シュテファンの無事に涙を流すヴラドが全く接続しないのだ。
それでいて、ひどくシュテファンをうらやましいと感じる自分がいた。
いったい自分はどうしてしまったというのか?
ワラキア公はいったい何者なのだ?



「………全て何もかも救えるのは神だけだ」

まるで迷子の幼子を諭すような口調でヘレナが言った。

「我が君は神ではないゆえ犠牲なしに何かを救うことはできない。しかし救うために汚名を着ることをためらわない。そういうお人だ、我が君は………」

「私は………あの方を見誤っておりました。恐ろしい方だと。人の心を弄ぶ輩だと」

まさか他人のために身を投げ出せる人だとは想像すらできなかった………。

「まあ、我が君にそこまで愛されているのはほんの一握りではあるがな」

アンジェリーナはヘレナの言葉に挑発の響きを感じ取った。
げに恐ろしきは女の情念なのだった。



………ならばよい。私もその一握りになって見せる!




[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十八話 スカンデルベグの娘その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:7e00c63b
Date: 2008/12/24 10:27




ボグダン二世殿下にの葬儀を執り行ったのち、モルダヴィア公国はオレが摂政として実質上併合という形になった。

これはシュテファンも承知のことである。

将来的にシュテファンをモルダヴィア公国大公にすることはあっても、それはオレの臣下としてになるであろう。

そのころまでには新領土を統括する王位を名乗らなくてはなるまい。

いずれにしろシュテファンには士官学校と大学に入学して学識を深めてもらうことになる。



モルダヴィアの行政庁がワラキアに統合されたことに対して心配された貴族の反発はなかった。

今回の反乱に加担した貴族は一人として許されず磔にされたし、その所領は没収され一族は追放された。

抵抗を試みる一部の貴族もいたが、火力と機動力で圧倒するワラキア常備軍のまえにはあまりにも儚い抵抗でしかなかった。

近代軍としてのワラキア軍の実力をまざまざと見せつけられた以上、表立った抵抗は難しかったのだ。

もっともオレの統治が彼らの利害に反するものとなったとき、いつ牙を剥かれるものかわかったものではないのだが………。







1450年8月カラマン君侯国が滅亡した。

カラマンを蹂躙したオスマン帝国軍はなんとその余勢を駆ってトレビゾント帝国へと侵攻した。

これにはさすがのオレも泡を食った。

史実ではトレビゾントのヨハネス四世の存命中は攻撃を控えたはずだったからだ。

すぐに支援物資を送ると共にジェノバやグルジア・白羊朝へ支援を要請したが雲霞のごとく押し寄せるオスマンの大軍を前にトレビゾントの国土を防衛することは不可能だった。

首都トレビゾントに拠ったヨハネス四世はかろうじてオスマンの猛攻を耐えきったが、残されたのは疲弊した国土と激減した兵力であり、オスマンに対し毎年の朝貢金を支払うこと

で属国の支配を受け入れざるをえなかったのである。



それも全てハンガリー王国を滅ぼし、教皇庁にまで打撃を与えたオレの自業自得であった。

史実で存在したフニャディ・ヤーノシュとオスマンとの戦とその戦の敗北に伴う損害がないのだ。

今や東欧最大の勢力は形式上は属国であるワラキア公国であり、いまだオスマンに対し反抗を続けている国といえば小国アルバニアがあるのみだった。

オレが本気でオスマンに臣従してしまったらウィーンはおろかローマやヴェネツィアですら屈伏は免れない。





これでオスマン包囲網の一角であるトレビゾントの戦力的価値は激減した。

新たな協力国として………オレはフィレンツェ共和国に接触を試みていた。

ローマ教皇に近すぎるきらいはあるが、フィレンツェの支配者コジモ・デ・メディチはそれほど単純な人物ではない。

オレがメディチ家に期待するのはその資金力だ。

このところの戦乱続きで製鉄に使う木炭と石炭量が激増していた。

特に木炭消費量の増大は問題だ。建築需要も増大しているため森林資源にはそれほどの余裕がない。

極端なことをいえばコストパフォーマンスが悪すぎる。ほんのひとにぎりの鉄を鍛えるのに俵一俵分の木炭が必要となるのだ。その交換比は軽く1対20を超える。

現在石炭鉱山の採掘量を伸ばし、コークスの精製を急いでいるがいかんせん労働力と資金が足りなすぎた。

困ったことにいまやワラキアとその統治諸国は一大食糧生産国でもある。

相変わらず好調な瓶詰めやザワークラウトのような保存食品・ワインやブランデーの高級酒類に加え、先頃から生産を開始した乾性パスタが大ヒットしていた。

経済が好調なのはいいが人手が足らない。

そこで人手を集めようとすれば経費が嵩むのが自然の理屈であった。

セルビア・ボスニアの避難民を労働力として吸収することで、ようやくワラキアが誇る新産業は回っていたのである。

ノーフォーク農法が農業人口に余剰を生むまでにはまだ時間が必要だ。

てっとり早いのは移民と資本投資であり、メディチの銀行がワラキアに出店するだけでも、その波及効果は計り知れないものがあるのである。

加えてイタリアの進んだ加工職人や、今喉から手が出るほど欲しい高名な人文主義者への影響力でメディチ家に勝るところはないかもしれないのだ。

幸い東ローマ帝国のプレトンが旧知なので紹介状を添えさせてもらっている。





深刻にオスマンがやばい。

手段を選んではいられないのだ。

史実どうりなら来年にはムラト二世は死ぬ。

セルビア・ボスニア・カラマン君侯国を滅ぼしトレビゾントを服属させたオスマンの動員兵力は二十万を大きく上回る勢いである。

対する我が国は常備軍がようやく八千名に達しただけで、残りは忠誠心の甚だ疑問の残る貴族軍に頼らざるを得ないのが現状だった。

貴族を最大に動員すればおそらく三万に近い兵力を揃えることもできようが、それは獅子身中の虫を抱え込むのと同義でもある。

貴族たちの中でも忠誠心の期待できる一部の人間を選抜して近衛軍を創設しては見たがまだまだその戦力は微弱なものであった。

このまま正面から戦うようなことがあれば勝利することは至難の技であろう。



些細なところではあるが左右とも同じものを使用していた靴を左右の足型に合わせたり、前装銃の早合を作って発砲速度を向上させたりと軍の熟成は進んでいる。

同数の兵を相手にするのであれば世界最強といっても過言ではないと自信をもって言えるほどだ。

しかし、兵数、火力密度、士気そのすべてで欧州世界を大きく上回るオスマン帝国を相手にするにはまだまだ戦力が不足していた。



海軍をとっては世界最強を自負するヴェネツィア海軍も陸軍戦力は微弱にすぎ、ジェノバの傭兵軍も精強とはいえ数に劣る。

アルバニアのスカンデルベグは心強い英雄だが、その戦力といえば祖国防衛に手いっぱい。

ポーランドは極力オスマンとの矢面には立ちたがらぬ有様。

今回のトレビゾント帝国の屈伏でわかったことだが、最盛期の白羊朝と黒羊朝を別とすればトレビゾント・グルジア・アルメニアの正教会諸国に軍事侵攻能力は期待できない。

むしろ自国を防衛することすら危ういほどだ。こと戦闘力に関しては東欧でしのぎを削ってきた実戦経験の蓄積がものを言うらしかった。

つまり友邦は少なくとも陸上に関する限りあてにならない。

それがオレの目の前に突きつけられた哀しい現実なのであった。







幸いにしてコジモ・デ・メディチとの交渉は至極順調に進み、銀行出店は快く受け容れられた。

人文学者レオン・バティスタ・アルベルティの一時訪問についても口を利いてくれるらしい。

コジモが好意的である理由はワラキアの市場の魅力が一番ではあろうが、痛風の治療法を教えたことも大きいらしかった。

使者の報告ではそれを聞いたときのコジモの喜びようは尋常なものではなかったらしい。

コジモの息子で次代当主となるピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチが、なんといっても痛風を病んでいたし、帝王病とも贅沢病とも称されるこの病は指導層にこそ蔓延するものであったから、情報としての価値は極大であったのだ。



資金と技術者と上部ハンガリーからの労働者の移入があって、ようやくトランシルヴァニアに建築されたコークス高炉が実働し始めようとしていた。

青銅製の大砲を鉄製にすればより軽量化と長砲身化が図れる。

兵数の少ないワラキア軍の組織上、火力はどれだけあっても足りるものではなかったのである。









ベルドとヘレナに補佐されつつも、山のような案件に忙殺されていたオレはいまひとつ現状が把握しきれずにいた。

今この少女はなんといったのだろうか?



「今一度言う。私を抱いてくれ、ヴラド殿」





って男女のお付き合いは手を繋ぐところからではああああ???



「ヴラド殿の器の大きさ、見識の広さ、不器用な優しさ………全て私が思い描いていた理想の漢の姿にほかならぬ。初めは疑いもしたし、恐れもした。
しかし………今はただ愛しい。父上以上の男がいることを生まれて初めて知った。この思いをもう私は止められない………どうか…私を奪ってくれ愛しい人よ」



どちらかというと奪われそうな気配が濃厚なのですが!



どうも最近オレの政務にくっついてくると思ったらそんなことを考えてたのか!



「………はしたない女だと思うだろうが……私はもうすぐ父上のもとに帰らなくてはならぬ。現状ではアルバニアの姫を輿入れさせることなど不可能なのはわかっている。

だから………思い出が欲しいのだ。決して消えぬ爪あとを……私の身体に刻んでくれヴラド殿………」



ハラリと薄絹が肩口を滑り落ちていくと、そこには目を瞠らんばかりの美乳が光り輝いていた。





………いかん、一瞬手を合わせそうになった!





ヘレナの貧乳はおろかフリデリカの巨乳をすら凌駕しそうな美乳であった。

ずっしりとした重量感を保ちながら重力に逆らってわずかに上を向いた乳頭がいっそ神々しいばかりである。

そうか、オレは美乳党であったのか!

となぜか自分の隠された性癖を暴かれた気分である。



「ヴラド殿…………」



「アンジェリーナ…………」



あれ?オレ何か忘れてない?



「汝もあっさり流されてるんじゃないわ~~~~!!!」



「うわらばっ!」





そうだよ。

毎晩ヘレナと同衾している以上、夜這いという行為は不可能なのだよ明智君。



「愛の語らいを邪魔するとは無粋ではないか、ヘレナ姫」



「むしろ邪魔したのはお主じゃ、たわけめ。これから妾が我が君とめくるめく愛欲の夜を過ごそうとしていたものを………」



「その割には処女のようだが」



「ぬぐっ……気にしていることを……だいたいお主こそ何が思い出じゃ!もし我が君に処女を捧げることができたなら、うまいことジョルジ殿に責任がどうこう言わせて押しかける気満々であったくせに!」



「うぐっ」



なぜかあからさまに顔色を変えるアンジェリーナ。



………って本当にそんなこと考えてたのか!アンジェリーナ………恐ろしい娘!





「お二人とももう少し慎ましくなさりませんとフリデリカ様に負けますよ………」



「あっ!」

「ぬっ!」



思わぬ伏兵の登場に二人の顔がみるみる朱に染まっていく。

ほとんど裸身を晒しているアンジェリーナは慌てて胸を隠すと



「いやああああああああああああああ!!!!」



ドップラー効果とともに寝室を去っていった。



「従兄様も簡単に流されすぎです。それも男の甲斐性なのかもしれませんが………」





………まさかひとりで寝れないお前に諭されるとは思ってもみなかったよ。



ここのところシュテファンも同衾してるの素で忘れてました。











「殿下、少しお時間をよろしいでしょうか?」



「どうしたシエナ?」



いつもなら前置きは言わずに用件を話す男なのだが………



「殿下のかつての教師であるメムノン殿………どのような人物でありましょう?」



なぜか折檻された情景ばかりが浮かぶのだが………。



「医学、測量学、物理学、天文学、軍事学の全てに通じていたオスマン版の万能の人みたいなおっさんだったな。冗談の通じない性格で真面目を絵に描いたような男だったよ」



「そのメムノン殿がメフメト二世としきりに連絡を取り合っている形跡があります」



「なんだと?」



「連絡を取り持っている者の名はメムノンの弟子…………つまり……ラドゥ公子なのです」







セピア色がかっていた思い出の景色がどす黒い現実に侵食されていくのをオレは呆然と見送るしかなかった。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第三十九話 点火
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/25 00:12

手足が芯から凍てついたかのような痺れを訴えていた。
ラドゥがメフメト二世との繋ぎ役だと…………?
それは恐るべき予想の発現でもあった。

どうしてラドゥが繋ぎ役に起用されているのか?
それはワラキアの離間工作が行われた時真っ先に犠牲になるのがラドゥになるということを表している。
実際にムラト二世の急死に備えてメフメト二世の毒殺を匂わせる準備は整っていた。
しかし、これではメフメト二世への嫌疑がラドゥにも向いてしまうことに………。

道理でラドゥの召還要請にスルタンが応じてくれなかったわけだ。
おそらくメムノンあたりがラドゥの召還に待ったをかけていたのだろう。
もしそれが事実ならオレはメムノンかメフメト二世のどちらか、あるいは両方に相当前から目をつけられていることになる。
この策はオレがメフメト二世に対して工作を仕掛けることを前提としているからだ。
彼らはオレがムラト二世の治世が長続きすることを望んでいるのを知っている!
どこだ?いったいどこで気付かれた?
自分が何か策を弄しているとき、相手もまた同じように策を弄している、ということを忘れていたわけではないが…………。


「………おそらくはメムノンという男がラドゥ様から情報を汲みあげたものかと」

オレの疑問にシエナが答えた。

なるほど、オレがラドゥに漏らしてしまった未来情報で警戒を呼んでしまったか。
人質時代は今の状況を予期してなかったからな………迂闊といえば迂闊だった。

「カリル・パシャと側近にラドゥの帰国を頼みこめ。いくら金がかかっても構わん」

「…………メフメト二世の謀反の噂はどうなさいますか……?

「………直接的な流言は控えろ。メフメト二世の器量に疑問を呈する程度に留めておけ」

「………御意」


ラドゥ、すまん。
オレにできることは………オレの力はこの程度だ。
悪魔公とか磔公とか大した名でよばれちゃいるが、弟一人も救い出せやしない名なんざ…………。






「………必ずやすぐに戻って参りますぞ。父上の許可が取れ次第すぐに………!」

「戻ってくるでないわ!スカンデルベグが泣くぞ!」

「………今少しお父上に甘えているのが娘の勤めかと存じますが………」

オレの左右から腕に抱きついているヘレナとフリデリカはアンジェリーナの決意表明に難色の様子であった。
再びアルバニアへと送る支援物資と合わせて、アンジェリーナの帰国が決まっていたのである。
そもそもスカンデルベグの息女が滞在していたこと自体異例のことではあったのだが………ばれてないだろうな?
ばれてたら下手をうつと全面戦争に突入しかねないのだが………。

「ではヴラド殿、しばしの別れじゃ!」

一瞬の隙をついて唇を奪われてしまいました。

「「ああああああああああああああ!!」」

ヘレナもフリデリカも耳元で叫ばないで!

「必ずやヴラド殿のお心を掴み取ってみせるぞ!私はスカンデルベグの娘、どんな戦にも勝って当然なのだから!」

………言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい自信だ!

「我が君は渡さぬ!」
「殿下は私のものです!」


スカンデルベグが冷静な対応をとってくれることを祈らずにはいられない。
今この調子でワラキア宮廷に乗り込んでこられたら絶対にどこかでばれるし、オレの胃も持たない。
確かにあの美乳は惜しいけれど。

「……今邪まなことを考えなかったか?我が君」

「滅相も無い…………」








「先生(ラーラ)の言ったとおりあの男も弟には甘いのですな」
相変わらず白面をかぶったメフメト二世は面白そうに嗤った。
冷酷非情、残酷無比をもってなるワラキアの磔公が、実は弟に目がないなどいった誰が考えるだろう。
これは僥倖であったといっていい。
現にスルタン、ムラト二世の暗殺計画はあの男の想定内であり、その対応策も練られていたであろうからだ。

「敵となるものには徹底的に非情になりますが、味方に対しては存外に甘い………それが良くも悪くもあの男の本質です。ハンガリー戦線を放り投げて
ヘレナ姫を助けに戻ったのがいい例でしょう。ラドゥ殿は私や陛下の命には逆らいますまいが、兄への思慕をなくしたわけではありません。あの男を躊躇
させるには十分でしょうな」

ニコリともせずにそう呟いたのはメムノンであった。

「…………その甘さがあの男の決定的な弱点となるよう手はずを整えなくてはなりません。信じた味方を見捨てられない……その甘さを衝くのです」

「具体的にどうするというのだ?先生(ラーラ)よ」

「…………コンスタンティノポリスへおびき出して殲滅します」

白面の奥で大いなる歓喜の笑みを浮かべているであろうことが気配でわかる。
それほどにメフメト二世の激情は激しいものなのだ。

「コンスタンティノポリス!千年の栄華の都をあの男の墓所にするとは!なんたる快事!なんたる壮挙!先生よ!余はその日が待ち遠しいぞ!」

後世の歴史家は語るだろう。
東欧に現れた一代の英傑も、コンスタンティノポリスの新たなる支配者たるメフメト二世には遠く力量及ばなかった、と。
偉大なるアレキサンダー大王の名声を超えんとする少年にとって、メムノンの描く未来図はあまりに魅力に溢れていた。


「…………前から先生に聞きたかったことが二つある」

「なんなりと」

「先生はなぜ落ちぶれた余に味方してくれるのか、そしてどうしてあの男を敵視しておるのか………?」

メムノンは苦い笑みを浮かべて首を振った。

「…………嫉妬です」

「いかなる意味じゃ?わけがわからんぞ先生」

「陛下は木の切り株に輪のような模様があるのをご存知か?」

突然の質問にいささか面食らいながらメフメト二世は答える。

「あの縞模様なら見たことがあるがそれがどうした?」

「……あの模様は年輪と申します。毎年ひとつの輪が刻まれるため、輪の数を数えればその木の年齢がわかります。また太陽の光が多くあたるため南側のほうが
発育がよくて年輪の目が広く、北側は狭いため、切り株を見れば方角がわかるともいうそうです」

「なるほど先生は物知りであられるが………それがどうした?」

「私がこの話を教えられたのはわずか十四歳のヴラド公子からでした………」

メムノンの目がつらそうに細められた。

「………月の光は厳密には月が光っているのではなく、太陽の光を反射しているにすぎないのだそうです。天空に輝く星々のなかには自ら輝くものと輝きを反射する
だけのものがあるそうな……………そんな知識は知らなかった!このオスマン世界でもっとも天文学に詳しいと自負しているこの私が!おそらくあの男のいうことが
正しいのは理解できる。私がもう少し若ければ地に頭をこすり付けてでも恥も外聞もなく教えを乞うたでしょう。しかし私にはできなかった………」

メムノンの年齢はじきに七十に届こうとしている。
とうにこの時代の平均寿命を超えていた。

「私は別に世に出ようなどと考えたことはない…………しかし私が全生涯を賭けて獲得した知識が十四歳の若造に劣ることなど認めるわけにはいかない………どれほど卑小に見えようと、大人気ないと言われようと、それが私の偽らざる本音です」


「では余に味方してくれる理由は?」

「ムラト二世陛下の進める融和政策ではあの男を私の生きているうちに仕留められるかわかりませんでしたゆえ………」

現に今の時点でもあの男に相当な力を蓄えさせてしまっていた。
あの男の危険さは本当の意味においては自分にしかわかることができないのだ。
オスマン帝国最初の万能の人たる自分にしか。

「フフフ………よい、実に良いぞ、先生。人にはそれぞれ果たさなくてはならぬ大望がある。余とともに歴史に名を刻み、そしてあの男を歴史の表舞台から消し去ろう。それが余と先生の共通する願いなのだから。それに………なぜか余もあの男が憎いゆえな」



若さとカリスマと何より強固な意志を所有する若き君主と老練でオスマン最高の頭脳の持ち主でもあるメムノンが、お互いの野心を確かめ合い真の意味でパートナー
となった瞬間であった。
サガノス・パシャ以外に確たるブレーンを持たなかったメフメト二世がメムノンの忠誠を得た意味は巨大なものである。
ヴラドに突きつけられた害意が明確な形をとるまで残された時間はそれほど多くはなかった。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十話 前夜その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/27 03:05

「どうであった?彼の御仁は?」

「まさに非常の人でございました、父上。彼の人はまるで我々の知らぬ第三の目をお持ちです」

「……………惚れたか?」

いたずらっぽい笑みを浮かべた遠慮のない父の視線に、さすがの女丈夫たるアンジェリーナも赤面を隠せなかった。

「………何故かは知らぬど、あの方を想うと胸が騒ぎます……これが恋というものでしょうか………」

娘の恥じらう姿にジョルジは思わず目を見張った。
乙女らしい恥じらいをとうとう覚えさせることができなかった我が娘をいったいどうしたらこれほど可憐にしてしまえるものか想像もできない。

「まさしく恋というべきかな」

実のところジョルジにとってアンジェリーナの安否だけが最後の懸案事項であった。
アルバニアの指揮官として最後の最後まで戦い抜く覚悟に変わりはないが、娘の幸せを願うことに関してはスカンデルベグといえども普通の父親となんら変わるところがないのである。
東欧全てを見渡しても、娘を預けるに相応しい男といえばまずワラキア公あるのみだった。
他の国ではオスマンに攻め滅ぼされるか、尻尾をふるのが関の山でアンジェリーナに不幸をもたらすのは確実である。
それより娘が惚れた相手を快く支援してやるのがよき父親というものであろう。
この際、是が非にも正室になどとは言わぬ。
アンジェリーナさえ幸せであるならば。

「………なんとしてもワラキア公の心を掴むのだ、我が娘よ。彼の者をわしもはやく息子と呼びたいでな」

「もしかしたらお祖父様と呼ばれるかもしれませぬが」

アンジェリーナの切り返しに思わず莞爾とした笑みが浮かぶ。
ワラキア公とアンジェリーナの娘………もちったした紅葉のような手、無垢な天使の笑み………おお!私の孫が………。

自らの妄想に恍惚としながらジョルジは多幸感に身震いした。

「わしは孫の顔を見るまで絶対に死なんからな!オスマンどのなにするものぞ!」

いい感じにジジ馬鹿になったアルバニアの英雄であった。

「必ずや吉報を」


ヴラドの預かり知らぬところで勝手な未来絵図が描かれようとしていた…………。



「どうも嫌な予感がするな………」
「ヘレナ様もですか?」
「お主もか?何やらあのお転婆の高笑いが聞こえたような気がしての」
「………これ以上側室が増えるのは得策とは思えませぬが」
「それに関してだけはお主に同感じゃ」


…………女たちの戦いも熾烈を極めようとしているようだ。





今やワラキアは東欧一の繁栄を誇っていた。
その影響からかトレビゾント帝国や旧ブルガリアからも亡命者が相次いでいる。
イタリアの各都市からワラキアの新産業に興味をひかれてやってくる職人の数も少なくない。
当然そうした職人や亡命者のなかでも有能な人間は国から補助金を出す制度も整えていたのだが。

それもこれも第一期の大学卒業者を中心として再編された新官僚団の辣腕によるところが大きい。
税収の効率的な配分と消化、流通管理体制の組織化などは個人の手に負うには大きすぎる。
ようやくにしてデュラムを頂点に省庁割りと権限委譲ができるまでになってきたのだ。
また、リスクは承知で二つの新制度も導入している。

一つ目は国家憲兵の導入である。
移民の増加により、労働供給が円滑化したことは喜ばしいが、それで治安が悪化しては本末転倒というものであった。
そのためルーマニア法典の守護者としての警察権力拡充が要請されたのである。
国家憲兵の指揮官にはシエナの片腕であったベルカが就任した。
構成員は大学で法律を学んだ者や没落貴族の子弟を中心に八百名であった。
彼らには法を遵守させるためなら貴族であっても拘束する権限が与えられていた。
濃紺の制服と専用の拳銃を貸与された彼らはいざというときには戦闘行動も行えるよう訓練が義務付けられていた。
平民でも強権が揮える権限と斬新な制服のデザインが相まってたちまち人気の職種として注目を集めている。
見る人が見ればAL○OKかよ!と某警備会社の名前を出して突っ込んだかもしれないが。




二つ目はカントン制度の導入である。
ドイツのフリードリヒ大王に倣ったこの制度は言うなれば地方割り徴兵制度とでもいうべきものであった。
各行政区画ごとに一定の基準に基づいて兵士を拠出させ、連帯責任を負わせるというものである。
初期の徴兵制度は徴兵した兵士が逃亡することが後を絶たず、また兵士の拠出を要請すれば共同体の厄介者を押し付けられるという悪循環に陥っていた。
そこで地域に逃亡者が出たときの穴埋めと逃亡者を処罰する責任を負わせたのである。
これにより、一定の兵員数と質を確保することができたのだ。
また、生まれを同じくする者同士で部隊編成を行うことにより、地方間の競争や同志的結合による士気の向上も期待できた。
徴兵された兵士は三年間の兵役が終わると除隊か継続かを選択することができ、活躍によっては恩給が支給されることになっている。
もちろん給料も支給されるが、高額な傭兵に支払う金額より遥かに安いことは確かであった。

しかしこの二つの政策には決定的なリスクが存在した。
すなわち、貴族の権益と真っ向から衝突する点であった。
フリードリヒ大王もそうであったが、徴兵によって貴重な成年男子を国家にとられるということは貴族の治める領地経営にとって看過しえない問題を含んでいるのである。
まして貴族領内での警察権の行使ともなるともはや貴族の自治の否定にすらなりかねなかった。
熾烈な反発が起こったがオレは強行することをすでに決めていた。
そのために貴族たちから馬を買い上げておいたのである。


すなわち軍役の負担を軽減しているかわりに、馬を安く提供させたのであった。
実際のところ馬の需要は高まるばかりであり、繁殖の奨励に乗り出してもいる。
経済の発展に伴って輸送用の馬車需要は高まる一方なのだ。
常備軍の輸送と通信用にも馬は欠かせぬ存在であり、またピストル騎兵の拡充も進められている。
馬の提供はこれらの問題を一気に解決した。



対する貴族たちは、あまりに開いた常備軍との格差を埋めるためには貴族間の連携が不可欠だが馬の不足により戦略的機動力を著しく欠く有様であった。
軽騎兵を主力としていた貴族軍にとってこれは致命的であるといえる。
オレの政策に内心怒り心頭であっても反乱には及ばぬことが彼らの窮状を証明していた。



警察力が貴族領にまで及ぶようになると、数々の無法が次第に明らかになり始めた。
住民を獣に見立てて猟を楽しむ者もいれば、拷問で責め殺すことを趣味にするものもいたのである。
これらの貴族はルーマニア法典に基づいて領地没収や磔の刑に処されていった。
副産物的にオスマンや神聖ローマ帝国と内通していたものまで見つかったのは僥倖と言えるだろう。
悪逆な領主が処分されたことにより庶民の受けも上々であり、世界初のワラキア警察は国民の間に早くも定着しようとしていたのである。







「…………メトスラフ伯爵のもとにオスマンから接触がきている。次の獲物は決まりだな」

諜報員からの報告をもとにさらなる工作を口にしているのはシエナだった。

「証拠品さえ見つかるようにしてもらえれば、あとはこちらでいかようにもしておきましょう」

シエナの謀略に協力を約しているのはベルカだった。
実はこのところの貴族の逮捕劇は半ばシエナとベルカが共同ででっちあげた謀略であったのだ。
反体制派の中心的な大貴族に狙いをしぼって悪事を暴き、なければ捏造して彼らの失脚を演出していたのである。

「………あとはバンジェール侯爵を排除すればまずは安泰だろう。残りの貴族で大領を持っているものは限られるし、なにより彼らは距離が離れすぎている。気概のあるものも残り少ない。あとは時間がたてば彼らの子弟が勝手に官僚化してくれるだろうからな………」

「………それにしても思い切ったことをなさいましたな………ここまでうまく運んだのが夢のようです」

ベルカは初めて計画をシエナに打ち明けられたときのことを昨日のように思い出す。
謀略によって貴族の力を失墜させる。
それ自体はさほど目新しい策略ともいえない。
しかし、それが君主たるヴラドの許可を得ず情報長官たるシエナの独断でなされているところが恐ろしかった。
シエナはヴラドにとってベルドと並んで側近中の側近である。
そのシエナの権力をもってしてもこれほどの独断専行は死をもって償うべきほどのものだ。
なぜ、位人臣を極めたシエナがこんな危険な真似をする必要があるというのか。
ベルカの当然ともいえる疑問にシエナは答えたものだった。


「殿下は優しすぎる」

シエナに言わせれば、世間でいう残虐無比なワラキア公はむしろおひとよしもいいところであった。
敵に対しては容赦なく振舞うことはできても、敵対しないものにまで残酷になることができない。
中立派の貴族がいまだ粛清を免れているのが良い例だった。
だが、自らの君主はそれでよい、とも思っている。
敵味方双方に容赦の無い君主は味方を萎縮させてしまう。
また優しさの見えない為政者に国民は懐こうとはしない。たとえそれが優秀な政治家であってもである。
敵に対しては一切の容赦なく、味方に対しては大慈悲心をもつヴラドは一種理想の君主であるのだった。
ならば、冷酷な影を担うのは自分の役目であろう。


「…………必ずや栄光をわが主君に………」


もとよりヴラドによって救われた命である。
そしてなにより才を揮うことに喜びを感じる自分にとって最高の働き場を与えてくれた。
報酬も名誉もシエナにとってなんら魅力を感じるものではない。
ただひたすらヴラドのために己の才を存分に揮うことだけが、シエナの無上の喜びなのだった。





…………もしも殿下にこれ以上害を為すなら……貴方と言えども容赦は出来ませんぞ、ラドゥ様………。



ヴラドが必死に心を砕くたった一人の弟といえども、兄に害なすというのなら闇から闇に葬るのがシエナの役目なのだった。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十一話 前夜その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2008/12/28 01:34

「全くこいつは骨だぜ………」

ゲクランはカントン制度で集まってきた新兵一万の教育に頭を悩ませていた。
これまでの常備軍八千と屯田工兵五千を合わせると二万三千の大兵となるが実情はお寒い限りである。
実戦経験を積んでいる常備軍の中核は五千がいいところであったし、工兵は前線で使えるほどの練度もないからだ。
逃亡兵の対策も練らなくてはならない。救いは精強をもってなるクロアチア歩兵が数多く見受けられることくらいか。

この時代の兵士の忠誠心のレベルは概ね低いといってよい。
フリードリヒ大王の時代でも軽騎兵によって味方の逃亡を監視させたり訓練中は柵の中で缶詰状態にするのは日常茶飯事であったという。
しかし、フリードリヒ大王に比べ、ワラキア公が圧倒的に勝っていることがある。
君主の権威と名声がそれであった。
即位わずか四年にしてワラキアを東欧の一等国に成長させた手腕、十字軍四万を寡兵で壊滅させた実績、しかも正教会大主教を兼任するという万能ぶりである。
国民の畏怖も当然であろう。
それにワラキア公の偉大さはそれだけにとどまらない。

「いったいどうしたらあんな訓練を思いつくんだか」

苦笑とともに射撃場を見つめるのはゲクランの副官のクラウスであった。
クラウスはゲクランが指揮していた傭兵団のかつての仲間のひとりである。
クラウスの他にもゲクランを慕って数人の傭兵仲間が集まり、今ではゲクランを補佐する幕僚団を構成していた。
対立する傭兵団の裏切りによりオスマン帝国に捕捉されるまで、ゲクラン率いる傭兵団「紅の鋼」はその精強をもって東欧中に名を知られた傭兵団であったのだ。
その配下が優秀であるのも当然であった。

熟練の傭兵達者たるゲクランたちにして、ヴラドの発想には驚きを禁じ得ない。
眼下で繰り返される射撃訓練などはまさにその典型であった。

造り自体はそれほど目新しいものではない。
人型をした板が合図とともに起き上がり、それを狙って銃を撃つだけだ。
現代ではごく当たり前に射撃場で見ることができる人を象った標的だが、この時代においてはまさに革命的な効果を発揮した。

この時代の小銃の命中率が低いのは、主に火薬や銃の性能の不足によるものだが、それだけというわけではない。
人に向って撃つという行為に抵抗を感じる兵士の意識的、無意識的なサボタージュもまた無視しえない要因の一つであるのだ。
人型に向って撃つという訓練は、この抵抗を軽減する効果を持つし、またパタリと起き上がる板を狙い撃つのは反射的に引き金を引くきっかけにもなるだろう。
そればかりか、人型には得点が明記されていて、兵士たちはその得点に応じて特別休暇や食糧の配布あるいは罰としての掃除当番などを受けるのである。
訓練に対する集中力が桁違いに増したのをゲクランたちは実感していた。

「人造硝石の量産で遠慮なくぶっぱなせるのはありがたいな。おかげで新兵でもどうにか形にはもっていける」

「新兵は基本的には貧農出身だからな。下士官は今の常備軍から選抜するしかないだろう。クラウス、新たな小隊長のリストを作っておいてくれ」

「………シェフ殿は相変わらず人使いが荒いことで………」

傭兵団の隊長時代の呼び名で呼ばれたゲクランはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。

「うちの殿下ほどじゃない。なにせ一介の傭兵あがりのオレに全軍の統帥を任せやがるんだからな!」

「…………ごもっともで」






ぐるるるるるる………
低いうなり声をあげて威嚇の体勢をとるクーバースの迫力は十分である。

「ジョリー構わん、あれはオレの妻だ」

寝室に入ってきたヘレナもまた一頭のクーバースを連れていた。
名前はもちろんカールである。
そして心を盗んでいった心優しき泥棒さんはオレ。


「貴族の守護者」

それが大型犬クーバースの名の由来である。
史実ではハンガリー王マーチャーシュが暗殺回避のために愛用したことで知られている。

軍用犬を手配してくれたのは意外にもスカンデルベグであった。
くれぐれも暗殺などされてくれるな、と言伝まで添えられていた。
アンジェリーナを非公式にワラキアへ送り出してからやたらと頻繁にこうした手紙がやってくるのだ。
どんだけ親馬鹿なのだろうか…………。

送られてきたクーバースは全部で四頭、オレとヘレナとフリデリカとアンジェリーナに一頭ずつつけられている。
警察犬や盲導犬の知識はあったオレだが、この時代の護衛犬の存在は想像の埒外にいた。
護衛犬の役割は実に多岐に渡っている。
部屋に断りなく侵入しようとする者に対し吠えかかるのは当然として、主人が入室を許可すればおとなしくなり、許可しなければ喉笛を狙って踊りかかるのだから恐ろしい。
また刃物を抜き身で持った人間が主人に近付けば、その手を狙って噛みつくように訓練されていた。
オレにつけられたジョリーはさらに毒の匂いを嗅ぎわける訓練を受けた名犬中の名犬だった。

王宮内に仕えるものから貴族の数は減ってはいるが、その分ワラキア以外の出身官僚が増加していることを考えれば、いくら警戒してもしすぎるということはないのである。
それでもかつてのワラキア宮廷に比べれば雲泥の安全さではあるのだが。

「………いったい何を心配しておるのじゃ?我が君」

ヘレナはオレの密かな憂いに気づいていたようだ。
軍制改革、国家憲兵、護衛犬……その真新しさに誰もが目を奪われているがその着手を急いでいることに気づいたのはヘレナだけであった。
理由を語れようはずもない。まもなくムラト二世が死ぬおそれがあることを知っているのはオレだけなのだから。

「…………今年はオスマンと戦いになるやもしれぬ………」

メフメト二世が即位すればワラキアに対してどんな揺さぶりをかけてくるか知れたものではない。
すでにラドゥを手駒においている以上、保守派貴族に対し調略の手を伸ばしてくるのは確実である。
それにルメリ・ヒサルの建築を強行されれば東ローマ帝国から援軍要請がくるのは間違いなかった。
史実では教皇庁やヴェネツィア・ハンガリーなどに兵を乞うたコンスタンティノス11世だが、十字軍すら退けた正教会大主教が身近にいるのだ。
これに頼らぬ理由がない。

これまでオレは大主教の地位と帝国の縁戚であることを十分以上に利用してきた。
ここで帝国を見捨てるという選択肢はありえない。
である以上、戦端は史実の1453年春よりさらに早まる公算が強かった。

いまや輸出大国となり、自前の商船隊すら運用を始めたワラキアにとってもルメリ・ヒサルの築城は大問題である。
史実のルメリ・ヒサルの砲戦力はたいしたことはないが、そんなものはいくらでも増強が可能だ。
対岸のアナドール・ヒサーリとともに本腰で増強された日にはボスフォラス海峡は完全に封鎖されかねなかった。
その危険性をこの二年間気長にジェノバやヴェネツィアに説いてきたことで、両国ともオスマンに対しての警戒度をあげてきている。
あるいは来年夏のルメリ・ヒサル築城が開戦のきっかけになるのかもしれなかった。

「………また我が君はそうして神の声を聞きにいってしまうのだな……」

寂しそうな声でヘレナが言う。
オレが史実との対比に思いを馳せているときをそういう表現で表しているようだが、こればかりは話すわけにはいかない。

「頼りにしているよ、我が妻」

国政と外交に関する限りヘレナは得がたい相談役である。
それに東ローマ帝国を暴走させずに手綱をにぎるためにはヘレナの協力が欠かせない。

「………そろそろ女としても頼りにされたいものじゃが………」

アンジェリーナの加入で激化した争奪戦により、このところヘレナの誘惑が激しさを増していた。
シュテファンが士官学校の寮に入ってしまったのが悔やまれる。

「妾もずいぶん育ってきたと思うのだがまだ食指は動かぬか?我が君」

そういって、この一年でBカップにまで成長した胸を摺り寄せられると流石に理性が危うかった。

「そういう悪い子にはお仕置きだ!」

「や……そんなまた……!ずるいぞ我が君………んあっ!」


そう、大人のごまかし方はずるいのだよ。
……………最低だ、僕は……………なんちて。






「殿下、アドリアノーポリに派遣している間者から連絡です」

とうとうきたか…………。

「二月八日、酒席で人事不省に陥ったムラト二世はその日のうちに典医メムノンに看取られながら逝去いたしました。後継はメフメト二世で兄弟は全て粛清された模様です。また宰相カリル・パシャも粛清されました」

カリル・パシャが粛清された?
おかしい、史実ではカリル・パシャが粛清されるのはコンスタンティノポリスの陥落後であったはずだ。
なにが変わった?宰相がいらないと判断された理由はなんなのだ?



「新たに宰相に就任したのはメムノン・パシャ…………殿下の恩師です」

………あの爺いか、余計な真似をしやがったのは。

メフメト二世に協力しているらしいことはわかっていたが、むしろ積極的なのはメムノンのほうであったらしい。
ラドゥを引き入れたのもメムノンの差し金だろう。
人畜無害な学者然とした面しやがって、とんだ誤算だ。




1451年2月、史実どおりメフメト二世が即位した。
宿命の舞台の幕が上がりかくて役者は揃ったのであった。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十二話 運命へのプロローグその1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:271000e2
Date: 2009/01/04 20:18

「………始まりましたな…………」

「ああ、余の歴史の始まりだ……もはや誰にも邪魔立てはさせぬ」

オスマン帝国新スルタン、メフメト二世の親政はまず粛清の嵐から始まった。



イェニチェリ軍団を創設した大宰相カリル・パシャとその一族が族滅され、さらにカリル・パシャとは盟友関係にあったイザク・パシャもまた族滅の憂き目を見たのである。
文武の両雄が粛清されたことで帝国は動揺したものの新宰相メムノン・パシャは黒羊朝の皇女とスルタンの結婚を発表することで一時的な鎮静に成功していた。
黒羊朝としてはティムール朝の混乱に乗じてジャハーン・シャーのもと着々と領土を広げている途上にあり、オスマン帝国との軍事的緊張の緩和は渡りに船であったのだ。
ワラキアも黒羊朝の支援にあたってはいたが、さすがに最新武器を供給するわけにもいかず、相互の利益差分が明暗を分けた形となった。
さらにブルジーマムルーク朝のザーヒル・ジャクマクとも修好し、彼の野望であるロードス島遠征を後押しすることで同盟を締結することに成功する。
この一連の外交成果はメムノンが長い年月の間に研究のため各国を渡り歩いて築いた人脈が大いに貢献していた。
ペストの流行以来国威が疲弊しているとはいえ、マムルーク朝は南地中海の雄であり、わけても肝心なことはアレクサンドリアに貿易拠点を置くヴェネツィアに対して牽制ができるということである。
ヴェネツィア共和国は実のところコンスタンティノポリスからオリエント貿易の拠点をアレクサンドリアに移しており、これを失うことは地中海貿易でしのぎを削るライバルたちに対して著しく劣勢にたつことにほかならなかった。

「ヴェネツィアに不可侵条約を申し入れよ」

さすがにこれにはワラキアも静観することはできなかった。
すぐさま元老院に使者をおくり、地中海の未来のためにオスマンと手を結ぶべきではないことを説く。
マムルーク朝とオスマン朝が手を結んだ後の東地中海の勢力図についての危険性も。
しかしオスマンと戦中というわけではない以上ヴェネツィアにとってアレクサンドリアの確保の優先は当然でもある。
ましてオスマンは危険な相手とはいえ、ワラキアと並ぶ貿易相手国でもあった。
その結果オスマンとの間に限定的ながら不可侵条約を結ぶことにしぶしぶ同意することとなった。
ワラキアの面子を立てるため、オスマンが今後ヴェネツィアの国益を損なう行動を取ったときには条約は破棄
される旨の但し書きがつけられているが、戦闘予備行動が掣肘されるのは避けられない。
ワラキアの外交は黒羊朝に続いてオスマン帝国に敗れたのだった。





「やってくれる」

カリル・パシャを粛清したと聞いたときにはメフメト二世はその激情に物を言わせて、すぐにも攻めかかってくるのではないかと心配していたが、こうも搦め手を固めてくるとは思わなかった。
これでオスマン帝国は心置きなく全軍を集中させることができる。
おそらくはコンスタンティノポリスにであろうが………あるいは一気にブカレストという選択肢もないではない。


メフメト二世の即位式典に参加するよう要請がきたがこれは断る以外に方法がなかった。
現に父ヴラド二世はオスマンに訪問中捕らえられて虜囚の身になっているのだ。
祝い品を持たせて使者を派遣はしたが、内心は見透かされているだろう。
ワラキアは心底からオスマンに従ってはいないということを。


それにしてもこれほどのオスマンの外交攻勢は予想外だった。
長年の根回しが力技でひっくり返された気分である。
いまだオスマンの外交攻勢は留まることを知らず、ポーランド王国にも不可侵条約締結を打診しているという。
こちらもカリル・パシャの親派だった貴族に調略を仕掛けているが、疑わしきは殺すという恐怖政治がまかりとおるだけに成果をあげるのは難しかった。
もっともカリル・パシャとイザク・パシャを粛清したことでイェニチェリ軍団の士気に低下が見られるという有難い情報もある。
長年オスマン朝を支えてきた両雄を殺されては流石に意趣を覚えずにはいられないらしい。
この期に離間を進めるつもりではあるがどうなるものか。
しかしオスマンの誇る官僚組織がほとんど機能を失わなかったのが最大の誤算だった。
思い返せばメムノンは有望な異教徒の子弟に対する教師を長年勤めていた。
そのなかにはイスラム教に改宗し、今では優秀な官僚として現場で活躍しているものも少なくなかったのだ。





「こうなると、頼みはアルバニアとジェノバのみになるやも知れませぬ」

ベルドの声もいつもの張りを失っていた。
ヴェネツィアの政治工作に失敗してからどうも気に病むことが多くなっているようだ。

「………教皇庁も動きそうにないか?」

「またぞろ東西合同に未練がありますようで………」

フィレンツェと関係を結んだことにより、教皇庁との和解に向けた話し合いが水面下で進んでいたのだがワラキア健在なかぎり東西教会が合同することはできないというのが多数派を占めているらしい。
ハンガリー王国滅ぼして棺桶に片足をつっこんだ正教会を復興させ教皇の面目丸つぶれにしたからしょうがないのかもしれないが、せめてイスラムに対抗するときくらい
目をつぶってくれよ……………。




もっとも明るい材料もないわけではない。
まずボヘミアのイジー・ポシュブラトゥとの間で正式な相互同盟条約を結ぶことに成功している。
条件は互いの信仰の尊重と、神聖ローマ帝国やドイツ諸侯およびオスマン朝に対抗するための軍事支援の遵守。
これによりボヘミアの優秀な職工たちが使用可能になった。
長年フス戦争の武器供給を担ってきた彼らの製作技術はワラキアにとってもおおいに有益なものとなるだろう。

それについ先日ハンガリーにおいて小規模な貴族の反乱が発生したがこれが見事な失敗に終わっていた。
反乱した貴族は、それなりに大領をもった有力貴族であったのだがまず軍勢の動員からして失敗している。
カントン制度の導入により、国民は貴族の無法な徴兵から解放されていたので、一族郎党以外思うように兵が集まらなかったのだ。
仕方なく近在の貴族に支援を求めたのだが、支援の貴族が集まるより早く住民からの通報を受けた常備軍に殲滅されてしまっていた。
この事件は国内における貴族の戦力の衰退を確たるものとした。
カントン制度の浸透は貴族から動員兵力を奪うことに成功している。
国民の間で大公>貴族>国民という不等式が成立し、領主たる貴族に盲目的に従うばかりでないことも明らかになった。
そして情報伝達力において貴族が伝令しか手段をもたないのに対し、ワラキア公は諜報員、腕木通信、狼煙などの手段によって常備軍を速やかに派遣することができた。
もはや武力においてワラキア公に抗すべくもないことが衆目の前で明らかとなったのだ。


この事実が示すところは大きい。
ようやくにして貴族の影響力を廃した絶対王政の片鱗が姿を現した証左であるからだ。
今後は貴族も官僚組織内での出世によってその名誉を購うようになっていくだろう。

少なくとも国内で武力反抗に及ぶ貴族はほぼあらわれまい。
王権が強化されていくなかで、数々の大貴族が処分されていることもその理由のひとつである。
彼らは国家憲兵の摘発を受け、あるいは展望もなく叛旗を翻してこの一年の間にその多くが自滅していった。
隠忍自重して機会を待たれたら厄介な勢力になっていただけに今回のような早期の激発はありがたい。
これによってハンガリー内の治安が格段に向上したので久しぶりにトゥルゴヴィシテに帰還することができた。

さらにドナウ河貿易の中継基地の名目で、数か月前からブカレストに城塞都市を築き始めている。
ワラキア公国は北部と東部には天嶮があって攻めるに難く守るに易いが南部にはドナウ河があるのみだ。
だからこそ史実のヴラドは焦土戦術によって敵の疲労を待たなければならなかった。
だが、オレはワラキアの国土を戦火に晒す気は毛頭ない。
要塞と河川艦隊によってドナウ防御線を死守するつもりであった。

とはいえカントン制度で新たに加入した国民兵が実戦に投入できる練度になるのはまだしばらく先のことであり、相変わらずワラキア軍の主力は常備軍の精鋭五千名のみであることに変わりはない。
いまだ動かぬオスマンの動向に注視する以外に手がないのもまた冷厳な事実であった。








今アドリアノーポリでスルタンの次に恐れられている男がいる。

「スルタンの処刑人」

それが彼に与えられた綽名であった。
スルタンの命により、反対派貴族、官僚を粛清するのが彼の役割であったからだ。
メムノンの目指す効率的な官僚組織と人材登用は、旧来の階級社会を根底から覆しかねないものであり、これに反発する貴族たちは数多かったのである。
しかし、彼らの反発がスルタンの心を揺らすことはついぞなく失意にくれる彼らの前には処刑人の来訪が待っていた。

「………ベイレルベイ、ノウラトの断罪滞りなく済みましてございます」

今日もまた、イザク・パシャの傍系を匿っていたとして州知事の一人が彼の手にかかっていた。
拳銃と長剣で武装した男は氷のような美貌を微塵にも揺るがさず優雅にスルタンに平伏する。



「ごくろうであった、ラドゥ・ドラクリヤよ」



メフメト二世は満足気に嗤った。
純真で美しかった少年が、人として壊れていく様が面白くてならなかった。
初めて人を殺した少年の絶望に歪んだ顔がなんとも言えず美しかったのを今も鮮明に覚えている。
あまりにも多くの人間を殺しすぎ、月のように冴え冴えとした無表情になった今の美貌もまたそれに劣らず美しかった。
心を殺してしまわなくてはならぬほどに、この少年は優しすぎたのだ。
その健気な様子がまたメフメト二世の加虐心をそそらせるのである。
そのうえヴラド三世の弟であるというのがまた良かった。
躍進を続け、いまや東ローマ帝国の精神的支柱となった感すらあるあの男を汚しつくし、あの男の大事なものを全て踏みにじったうえであの男を殺す。
その日を思い描けば甘い疼きが背筋を駆け昇るほどだ。

「褒美をとらせるとしよう。湯浴みを済ませて余の寝室に参るがよい」

「御意」


性技のかけらも心得ぬ男ではあるが、心を殺して何の感情も見せなくなった男に官能の嗚咽を漏らさせるのもひどく征服感をそそられる快事であった。
いつもであればお気に入りの気の利く小姓に務めさせているが、心の猛った夜の閨を務めるのはこのところラドゥに決まっている。


…………あの男はラドゥほどに容易く思い通りにはできない。


いまだオスマン朝のスルタンになりながらワラキアに対して宣戦できないのがよい証拠であった。
欧州諸国、アジア諸国の間諜が工作と情報収集を終了して戻るまで、おそらく一年近くの時がかかるだろう。
その間は政治と外交によってワラキアの勢力を削ぐことに努めるしかない。
歴史に名を残す夢は変わらずメフメト二世の胸にある。
しかし、ヴラドに勝つということもまた、メフメト二世の中で重要な夢になろうとしていた。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十三話 運命へのプロローグその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/01/11 00:51

ところでイタリア各都市の仲の悪さはどうにかならないものだろうか?
フランチェスコ・スフォルツァのミラノ継承にからんだヴェネツィア共和国とミラノ公国の戦争開始から早一年が経過している。
ワラキアとしてはそんな泥沼の抗争よりヴェネツィアには対オスマンの一翼を担って欲しいところなのだが、和平の斡旋はあっさりと一蹴されていた。
史実ではこの抗争に四年を費やしたため東ローマ帝国の滅亡に際し、兵力を割くことができなかっただけにフィレンツェのコジモにも協力してもらったのだが同族嫌悪とでも言おうかミラノ相手に退くことがどうにも容認できかねるらしい。

ようやく第二次世界大戦で醜態を晒すイタリアの本質が見えてきたような気がする。

こんなことだから日本人とドイツ人の間で、こんどやるときはイタリア抜きでなどと言われてしまうのだ。
こんな話がある。
大戦中の北アフリカ戦線でナポリ出身の大隊が壊滅の危機に瀕していた。
ところがそれを援護すべきフィレンツェの大隊はどうしてフィレンツェ人のオレたちがナポリ野郎のために命を賭けなきゃならねえんだ?と見殺しにしたという。
ほとんど伝説的なイタリア軍の士気の低さもそれならば頷ける。
イタリアが参戦し、リビアに上陸を果たしたときエジプトを守るイギリス軍は七万名にすぎなかった。対するイタリア軍は実に三十万を数えた。
本国を遠くはなれ、フランス戦ダメージから回復中とあっては早急な援軍は望めない。
当然のことながら無人の野を行くようにイタリア軍は前進し、国境から九十キロ付近の都市、ジディ・バラーニを早くも占領することに成功する。
伝説はそこから始まった。
イギリス軍の立て篭もるカイロは目の前にあり、イギリス中東軍は弾薬も不足気味で、かつ七万名を残すのみ。
自軍は三十万名で補給も今のところ不足はなかった。
ここでもし損害を省みずカイロ・アレクサンドリアを陥落させたならイギリスは軍需物資の供給源を失い、講和に傾く可能性は少なくなかった。
第二次世界大戦において枢軸国側が勝利するという可能性すらあったと言えるだろう。
ところが、ジディ・バラーニの占領の酔ったイタリア軍はここで三ヶ月もの長期にわたってバカンスを楽しむという暴挙に出るのである。
まさに酒とバクチと女に溺れまくって、宝石より貴重な三ヶ月間を浪費し、ようやく補給を得たイギリス軍によって逆にリビアへと攻め込まれてしまう。
敵より恐ろしい味方とはまさに彼らのことに他ならなかった。
彼らはアフリカの植民地などのために命がけで戦う気などさらさらない。
イタリアの男にとって命を賭けて戦うのは惚れた女を守るときと、故郷の都市を守るときだけなのだ。
イタリア人がサッカーで地元チームを応援する熱狂ぶりも、この都市国家時代の名残を抜きにしては語れないのである。


「それにしても腹が立つな…………」


身近なライバルの脅威はわかる。
しかし今は地中海貿易存亡の危機なのである。
スレイマン大帝がオリエントとロードス島を手中にしてからでは遅すぎるのだ。
しかし、史実としてそれを知っているのは自分以外にはいない。

しかもミラノ戦争の背後にはアラゴン王国と神聖ローマ帝国が控えているから質が悪いったらない。
後にスペインを統一するアラゴン王国と神聖ローマ帝国がミラノに釘付けとなれば、百年戦争のクライマックスを迎えているフランスとイギリスとともに欧州の強国はおのずと自由を封じられてしまう。


オスマンとの同盟をまとめたことによりマムルーク朝が再びロードス島に食指を伸ばし始めているので、これをテコに教皇庁との融和を図れないかとも思ったが、剣もほろろに断られた。
…………石頭どもめ!この借りはいつか返すからな!




オスマンの君主が変わっただけなのにワラキアを取り巻く政治環境は悪化の一途を辿っていた。
アルバニアの内通者から情報が漏れたものか、メフメト二世からアルバニアへと武器を売ることを禁ずる勅使が送られてきたため軍事支援が行いづらくなってしまった。
マムルーク朝は嬉々としてロードス遠征の準備を進めており、これを察知した聖ヨハネ騎士団長は教皇庁と神聖ローマ帝国・フランス王国に対し援軍を要請する使者を送っている。
各国の注目はコンスタンティノポリスからロードスへと見事に移しかえられてしまっていた。
黒羊朝はティムール朝の混乱に乗じて連戦連勝を重ねており友好関係を築きつつある白羊朝も迂闊なまねをできない状態に追い込まれている。
このまま勢力が伸張したオスマン・マムルーク・黒羊朝に連合でも組まれた日には手も足もでなくなるかもしれない。
もっとも、自己顕示欲の強すぎるメフメト二世が両国を手を携えるとも思えなかったが。






ようやくコンスタンティノプリスを覆う憂愁は晴れつつあるように感じられた。
ワラキアからの資金と物資の援助を得たコンスタンティノポリスは徐々にではあるが、かつての活気を取り戻そうとしていた。
またジェノバ人の居留区の城壁はテオドシウス城壁ほどではないが、深い堀と二重の城壁で囲まれて防備を格段に進化させている。
明文化されてこそいないが、ジェノバとワラキアはまさに軍事的同盟国であった。
特に黒海からボスフォラス海峡にいたるまでの領域にあってはそうだった。
ワラキア商船やジェノバ商船から東ローマ帝国に入る港湾使用料も莫大な額に上っており帝国もようやくにして兵備や貿易への投資を行うだけの経済的余裕が
生まれつつあったのである。
しかし、利権が生まれれば争いも生まれるのが帝国の哀しい宿唖でもあった。

モレアス専制公領の共同統治者にして皇帝の弟たるソマスとデメトリオスはいささか不快な念を禁じえない。
ソマスはワラキアの台頭以前、東西教会の合同を皇帝とともに主宰した経験からラテン諸国との連携を重要視していたし、デメトリオスはオスマン帝国の拡大を
目の前にして、帝国の前途はオスマンの属国として重要な地位を占めることにあると考えていた。
それが今や宰相のノタラスをはじめとして帝国の重鎮は親ワラキア一色となった感がある。
ワラキアのごとき小国に帝国が一喜一憂するさまはひどく滑稽なものに二人には思えた。
二人の胸にあるのは実のところ嫉妬である。
繁栄を極めるワラキアのおこぼれに帝国が誇りを売り渡すことがあってはならない。
ヘレナを娶ったヴラドは子供のいないコンスタンティノス亡き後の帝位継承者になりかねないのだから。

かといって表立ってヴラドを攻撃する材料は乏しい。
なんといっても帝国にとっては頼りになる同盟国であり、資金の提供ばかりか伝染病の根絶や病院の設立など、実に極め細やかな施策を提供してくれている。
国民の間においてもヴラドの人気は高まる一方であった。
また正教会総大主教もヴラドと親しくしているとあっては二人の懸念も杞憂と笑うことはできないであろう。

…………このままでは次代の皇帝はヴラドになりかねない。

それでもソマスはヴラドの義父として権勢を揮うことも可能であるかもしれない。
しかしデメトリオスはそうはいかなかった。
ましてデメトリオスは正面きってコンスタンティノスと帝位を争った男である。
ルーマニアの田舎ものに遅れをとったとあっては死ぬに死にきれない。
デメトリオスは必死で思考を巡らしていた。
戦力からいえばモレアス専制公領の兵はコンスタンティノポリスの兵力をしのぐが、あの無類の防御力の前にはむなしい数でしかない。
共同統治者のソマスも謀反となれば敵に回るはずであった。
いったいどうすれば皇帝になれる?
デメトリオスの脳裏を先日会った使者の言葉が繰り返し木霊していた。



「…………スルタンはデメトリオス様が帝位につくことを望んでおられます」






メフメト二世はラドゥを呼びつけていた。
スルタンの宮廷内ではない
囚人の閉じ込められた地下の一室である。

「お呼びにより参上仕りました」

「よくきた、ラドゥ………しかし今日は汝につらい事実を告げねばならぬ。心して聞くがよい」

そういうとメフメト二世は獄吏から鞭を受け取ると音高く囚人の男を打ち据えた。
皮膚が裂け多量の鮮血が飛び散る。
囚人の口から言語に尽くしがたい叫びがあがった。

「……頼む、何でも話す。話すから鞭だけは………」

鞭が拷問に用いられるのは伊達ではない。
痛みを味あわせるのに鞭に勝る武器は少ないのだ。本気で打たれた鞭は数十回もあればゆうに人をショック死させてしまうに足りる。

「………ワラキアの間諜よ、何をしにこの国へ参ったのか今一度話すがよい」


「……ラドゥ様の動向の調査………そして彼の者がワラキアに仇なすなら………これを暗殺すること……」

ビクリ

無表情さは変わらずともラドゥの背筋が震えるのをメフメト二世は実に楽しそうに確認した。

「可哀想なラドゥよ。実の兄にまで命を狙われるとは…………」

そういう自分も兄弟は皆殺しにしていたが、それは言わぬが花というものだ。

「だが、案ずるな。汝の居場所は余が作ってやる。余のもとだけが汝の居場所なのを忘れるな」

「御意」

ラドゥがどのようにヴラドを慕っていたにせよ、これでワラキアとの絆は切れたと見てよいだろう。
無表情ななかにもわずかに瞳にたたえられていた感情の色が見る影もなく消え去っていた。
あるのはどこまでも暗い虚無を写した無機質な瞳だけである。
それにワラキアの間諜が言った言葉は真実だ。
もはやワラキアにラドゥの居場所はありえない。


「……イェニチェリから忠誠心の厚い者を選抜して督戦隊を新設する。汝はその指揮を執れ」

子飼いの小姓から武勇に優れたものを送り込んで取り込みに努めているが、まだまだ予断を許すような状況ではない。
心を鎧ったものによる督戦があれば安心して自分も指揮と執れるというものであった。
もっとも督戦隊の指揮官が長生きできるはずもなかったが、そんなことはメフメト二世の知ったことではない。

「………余の役に立て、ラドゥ」

「非才なる身の全力をあげて」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十四話 運命へのプロローグその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/01/11 00:48

シエナはじっと瞑目して報告に聞き入っていた。
このところのオスマンとの諜報戦は熾烈を極めている。
ラドゥの調査に赴いた間諜が消息を絶ったのをはじめとして、送り込んでいた間諜が次々と摘発されていた。
もちろんワラキアも黙って見過ごしていたわけではない。
防諜にも少なからぬ労力を割き、特に技術系の流出には相当な効果を発揮している。
むしろ失う間諜の数を比較すればオスマンの方が圧倒的に多数なのだ。
しかしオスマンには服属した多くの東欧人がおり、犠牲にこだわる必要がないのもまた事実であった。

「デメトリオスに調略が及んでいるのはわかった。引き続きソマスに情報が渡るよう工作しろ」

シエナの司るワラキア情報省はオスマン帝国のそれとは違い、正式な行政機関として機能している。
もちろん後ろ暗い工作が表面に出ることはないが特筆すべきはその組織力であった。
ロマやユダヤ人との間に協定を結ぶことにより他国に追随を許さないその情報収集力はワラキアの国策決定にすら重大な影響を及ぼす。
それを一身に任されたシエナの才腕と信頼は並大抵のものではない。
彼が率いる間諜の中にはスルタンが軍を発した時にかぎり起動するスリーパーすら存在するのである。
暗殺や破壊工作を抜きにすればワラキア情報省の力はスルタンの私兵機関にすぎないオスマンの諜報組織を大きく上回っているのだ。

シエナが現在重要視しているのはラドゥとメムノンに関する情報だった。
ラドゥはヴラドにとってのアキレス腱になりかねない存在であったが、どうやらもはや抜き差しならぬ泥沼にはまってしまったようであった。
スルタンの処刑人にして督戦隊の指揮官とあっては敵味方の両方から恨みをかうだけのようなものだ。
遠からず恨みを抱く何者かによってその身を滅ぼされることとなるであろう。あるいは自分の差し向けた刺客によって。
残るひとりのメムノンに関しての情報はいささか深刻であった。
メムノンが押しすすめる政治改革はドラスティックな人材登用を柱にすでに効果をあげつつある。
イスラム教徒にかぎってのことではあるが、人種にとらわれぬ能力主義の採用によって、官僚組織ばかりか軍事指揮官の質的向上まで果たしつつあった。
メフメト二世の後押しなくばとっくに貴族たちの反発によって墓穴に埋まっていてもおかしくないのだが、カリル・パシャ・イザク・パシャ両雄の死が貴族たちに
無形の楔を打ち込んでいるようだった。
学者らしい彼の割り切りによって改革されつつある軍の在り方はそれ以上に危険である。
銃の装備率の向上と機動には向かないとはいえ、大砲の量産は明らかにワラキアの戦訓を取り入れた気配がうかがえるのだ。
いまだフリントロック式の銃は製造にいたってはいないが、それを模倣する意志があるのは明白だった。
今後ワラキアの機密情報はさらに徹底して漏洩を防ぐ必要があろう。

これは時間との競争だ。

ワラキア公国は国内のさらなる支配と国民兵の質的向上にどうしても時間がほしい。
オスマン帝国もまたワラキアの新戦術の消化と新スルタンの国内掌握にはいましばしの時間が必要であった。
自らが政治的命題を解決し、他国がいまだ解決にいたらぬそのときこそ勝機となる。
そしてワラキアがオスマンに先んじるためには自分の力が絶対に必要だ。

「ブルガリアとトラキアでの宣伝員を増員しろ。解放者の訪れは近いと」

情報収集、暗殺、破壊工作、流言…………どれもオスマンとの間で攻防を繰り広げている間諜の任務だが、ワラキアだけが政略に込みこんでいる工作がこれだった。
正教会の守護者にして東ローマ帝国の精神を継ぐもの。
あるものは詩に託し、またあるものはようやく流通をはじめた書籍によってヴラドの英雄譚を紡いでいく。
ヴラドに対する噂は噂を呼び、東欧全体に緩やかな、しかし確実に大きな波紋を広げようとしていた。
シエナにとって主の価値は欧州に並ぶものがないものだ。
たとえそれが東ローマ帝国皇帝であったとしても。






コンスタンティノスは間諜からもたらされた弟の叛意に胸を痛めていた。
考えてみれば自分は弟たちの危機感にあまりに鈍感であったように思う。
いまだ再婚相手すら決まらぬ自分の後継者を心配するのは理の当然であるはずであった。
だが、問題なのはワラキア公の声望の高まりである。
宰相のノタラスなどは明らかにワラキア公の皇位継承を望んでいた。
弟たちが健在であるにもかかわらずそうした声があることに、コンスタンティノスは不快の念を禁じえない。
しかし、ワラキア公なくしてこうしてコンスタンティノポリスが活気を取り戻すこともありえなかったのだ。

「…………余ははやまったやもしれぬな………」

ワラキア公の器量はコンスタンティノスの想像を遥かに超えていた。
わずか19歳にすぎぬ若者が帝国にこれほどの影響をもたらすなど誰が想像したろうか。
将来的に帝国に益する君主に育つやもしれぬと思いはしたが、まさか四年弱で東欧に巨大な王国を築きあげてしまうとは。
だが、その空前の躍進も帝国の援助があったればこそである。
それで逆に帝国がワラキアに飲み込まれるようなことがあっては本末転倒というものであろう。

「………やはり余は弟を裏切る気にはなれぬ」

皇位継承者としてデメトリオスを指名しよう。
そうすれば弟も馬鹿な真似には及ばぬはずだ。
ワラキア公にはルーマニア王位を名乗ることを許そう。
実質的にワラキア公はハンガリー・トランシルヴァニア・ワラキア・モルダヴィアの王だ。
王号を名乗るには十分であろう。
もちろん王号を称するということはヘレナの夫として帝国の藩屏たることを受け入れることにほかならない。
一度は捨てた選択肢だが、ワラキア公の出方次第では再び東西合同に動くことも………。

コンスタンティノスは決して暗愚な君主ではない。
むしろ英邁な君主の部類に入るであろう。国民に寄せられる絶大な人気がそれを証明している。
しかし頭のいい人間にありがちな見通しの甘さがあり、帝国の長い歴史を背負わされたことによる重みが時として決断を誤らせる傾向にあるのかもしれない。
ワラキア公にルーマニア王位を与えることがメフメト二世にどのように受け取られるかについて、皇帝はなんら危機感を抱いてはいなかったのである。








「伯父上はいったい何を考えているのか!」

ルーマニア王即位の打診を受けたことにヘレナは激昂を隠せずにいた。
この情勢下でオスマンを刺激すれば偶発的に双方が望まぬかたちで戦争が始まりかねない。
戦のきっかけは何もそれを望んだときとは限らないのだ。
確かに伯父は善人なのだろう。
皇位をデメトリオスに譲る代わりにヴラドに対して好意を示したつもりに違いなかった。
しかしそれは裏をかえせばワラキアを警戒しているということでもあり、さらには親オスマンのデメトリオスを次期皇位継承者にするという皇帝の決意表明
でもある。
デメトリオスの国民の間での人気は低いうえ、ヘレナの父ソマスとも不仲を極めていた。とうてい破局寸前の帝国を支えられる器ではない。
そのうえ、今回の皇位継承にからみ反ワラキア色を鮮明にしていた。
もし万が一のことがコンスタンティノスにあればワラキアは累卵の危機に立たされることになるであろう。

ただそれだけならばヘレナもここまで激昂はしない。
ヘレナは帝国千年の歴史が生んだ政治的怪物なのだ。
対応すべき方策のひとつやふたつを考え付くのは赤子の手をひねるようなものであった。
しかし今回の皇帝の策動の焦点は実のところヘレナ自身にある。
皇帝がワラキアを警戒する原因のほとんどはヘレナに流れる皇帝の血筋にあるのだ。

血筋

ヘレナがワラキア公のものになると心に決めたときに捨て去ったはずのものが、今こうしてワラキア公を窮地に陥れていることがヘレナには辛い。
理性ではむしろ当然のこととして理解している。
物心ついたときから自分はそうしたものとして育てられてきたのだから。
ただ帝国の血筋を未来に繋げるための道具として、生きていくことを強いられてきたのだから。

しかしそれはヴラドに会って解放されたと思っていた。
ワラキアという小国の主………世が世なら到底帝国の血筋を娶るような地位にはない。
ましてオスマンに服属し、貴族たちは勝手に後継者を乱立させて混乱する大国にはさまれた小国など誰が評価するものか。

ところがヴラドはその才覚と度量ひとつでワラキアを東欧一の大国にまで育て上げてしまった。
人は血筋に頼ることなくその才によって世界を変える力がある。
ヘレナがヴラドに感じたもっとも大きな喜びはそれだった。

そして自らもその才によってヴラドに必要とされ、帝国の皇女ではなくただひとりのヘレナとして自立できたとも感じていた。
残念ながら女として必要とされるにはいま少しの努力と時間が必要なようではあったが………。

それが幻想であったと知らされて平静でいられるほどヘレナは大人ではなかったのだ。


「ご機嫌斜めだな、我が妻は」

「………黙ってみているとは人が悪いぞ、我が君」

いつの間にか自分の私室にヴラドがやってきたのにも気づかずにいた恥かしさにヘレナは顔を赤らめた。
自分が幼子に戻ってしまったようななんともいえぬ罰の悪い感覚であった。

「………ヘレナの髪は綺麗だな」

やさしく髪を梳かれてヘレナは戸惑ったように身体を身じろがせた。
頬が熱い。

「………それにとてもいい匂いだ」

さらに耳元に顔を寄せられ匂いを嗅がれてはヘレナの羞恥心も限界であった。

「どどどど……どうしたというのだ?我が君。これではまるで………」

男女の睦みあいのよう……といいかけてヘレナは思わず俯く。
もしかして自分の自意識過剰であったら恥ずかしすぎるからだ。

「もしヘレナが帝国の皇女でなくてもヘレナの綺麗さは変わらない………」

「我が君…………」

ようやくヘレナは理解した。
ヴラドがやってきてくれた本当のわけはヘレナを元気付けるためだったのだと。

「帝国の血筋などヘレナが身につけた宝石とさほどの変わりはない。それはそれで美しいかもしれないが所詮はヘレナを飾る添え物のひとつにすぎない。私の
愛する妻は飾りに負けるような器量ではあるまいよ」

現実にはそうとばかりはいえない、とヘレナの冷徹な理性は判断するが今は何よりヴラドの気持ちがうれしかった。
哀しいほどに優しい………いったいどうしたらそれほどに強く優しくあれるものか。
この優しさを失いたくない、そう思ったときにヘレナは唐突に真実に気づいた。

ああ………妾はつくづく我が君を愛してしまっているのだな…………。

なんのことはない。
ヴラドに嫌われるのが怖かった。
ヴラドの不利益になることが許せなかった、ただそれだけのこと。

「愛しているぞ、我が君………もしも我が君が少しでも妾を愛してくれているのなら……どうか今夜だけは妾を女にしてくれ」

そう気づいたら是が非にもヴラドの女にならずには気がすまない。
愛する男の証を身体に刻みこみたい。
それは本能に近いものであった。

「もとより今夜はそのつもりだ」

愛し合うもの同士の証を得たい気持ちはヴラドとて変わりはなかった。
実のところヴラドにもそれほど精神的な余裕はない。
不安なのはむしろヴラドのほうといってもよいくらいだ。
しかし男としての矜持がかろうじてヴラドに精一杯の見栄を張らせていた。




「………こ、今度こそは本当に本当じゃな?」



首まで真っ赤に染めながらヘレナは疑りを隠さない。
これまで何かと方便に騙されてきた経験からすればごく当然のことであった。



「…………股に擦るだけというのはもうなしじゃぞ?」




「………………あうっ」




「子を生すためには子種を口から飲まねばならぬという嘘もなしじゃ」





「ごめんなさい!私が悪うございましたー!」





ヘレナに言われてみれば、まさに鬼畜の所業をいうほかはない。
というか性犯罪者そのものである。
反射的に土下座を敢行するヴラドがそこにいた。






その夜、二人の間に何があったのか語るものはいない。
だが、翌朝ヘレナはベッドから起き上がることすらかなわなかったという…………。







「我が君の言っていたことは本当に正しかったのだな………………アイタタタタタタ!」




[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十五話 運命へのプロローグその4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:7169ba82
Date: 2009/01/13 19:52

「………やはりお前も来たか………」

「ええ、この千載一遇の機会を逃す手はございませんから」

薄化粧に絹の肌着を纏ったアンジェリーナとフリデリカはヴラドの寝室の前で妖艶に笑いあっていた。
二人とも薄絹の下からは白磁のような素肌が透け、桃色に染まった頂がお互いの官能を強調しているかのようである。

「不本意ではあるがここは一時休戦とするとしようか?」

「了承」

既成事実をつくるのは今をおいてほかにはない。明日以降になれば心身ともにヴラドの妻となったヘレナの妨害が入るのは確実である。
争うのはヴラドの寵愛を受けた後でいいのだ。もっとも初体験が3Pというのはどうかとも思うのだが………。
ベッドに寝たきりのヘレナを尻目にヴラドという雄を狙う二匹の女豹がそこにいた。




「あわわわわわわ………フリデリカ!息が!胸に埋もれて息が~~~~!」
「ぬわっ!アンジェリーナ!挟んじゃダメだって挟んじゃ!うぐぅ……挟みながら揉むとはなんて高度なテクを………!」
「吸わないで~!今吸われたらオレは……オレは………………おふぅ……!!!」





「…………………遅かったか………」

ようやく起き上がることができるようになったヘレナが翌朝に見たものは、干からびたまま失神しているヴラドと明らかに肌つやの増した二人の女豹の姿であった。

「初夜の翌日にはもう浮気されるとは…………この慮外者め!!!!」

ゴキリ

早朝の寝室に実に嫌な衝撃音が木霊した。
男なら泡を吹いて悶絶すること間違いなしな見事な鉄槌であった。
オスマンとの戦い以前に死亡フラグが立っていると思うのはヴラドの気のせいではないだろう。







「………あの皇帝には思い知らせてやらねばならぬ。余をないがしろにするということがどういうことになるのかを」

メフメト二世は赫怒していた。
いまだ交渉の打診の段階とはいえヴラドにルーマニア王位を送るということは、形式上オスマンに服属しているワラキアに対する深刻な内政干渉である。
おそらく、皇帝にそうした意識はないのだろう。
ただ、東ローマ帝国皇帝としての矜持が、無自覚にワラキア公を目下にみた対応をとらせているのに違いなかった。
その無自覚な尊大さが、メフメト二世には悔しい。
それは帝国千年の歴史が育んだ皇帝の血脈だけが享受できる特権であろうからだった。


「貴様が王の王を気取るのであれば、それを討ち滅ぼすのが余の役目だ」



紀元前331年、王の王を自称したペルシャの王ダレイオス三世はガウガメラの地で当時はまだ弱小なヘラスの王にすぎなかったアレクサンドロス三世に敗れた。
揺ぎなく不動のものと思われた王の権威は、英雄の登場によって永久に過去のものとされたのだ。
自らを英雄アレクサンドロスになぞらえるメフメト二世にとって、ローマ世界の精神的支柱に引導を渡すのは自分以外にはありえなかった。
千年の歴史を凌駕し、後世に称えられることこそ自らの生まれた宿命であると固く信じていた少年はいまだそのときの胸の熱さを忘れてはいなかった。






砂塵のなかを数千の騎兵が見事な機動を行っている。
その機動力と練度の高さはおそらくオスマンを含むアジア世界のどの騎兵部隊をもしのぐであろう。
まだ年若い聡明そうな黒い瞳が印象的な指揮官の名をウズン・ハサンと言った。

黒羊朝に奪われていたかつての首都ディヤルバキルを取り戻した兄ジャハーン・ギールは現在宴の真っ最中にいる。
しかし首都奪還の実質的指揮官はウズン・ハサンであり、軍事的才能によって退勢著しい白羊朝を立て直しているのもまたウズン・ハサンに他ならない。
にもかかわらず弟の才能を憎む兄は宴から弟をはずし、首都近郊の警戒に当たらせていたのであった。


昔は仲のよい兄弟だった。
ともに馬に乗りともに剣を競った。
体力のない弟の面倒をよく見てくれた優しい兄だった。

いつしか時が過ぎ、父カラ・ユルク・オスマンが戦死して国を担う責任を一身に背負ってから兄は変わった。
それも悪いほうへと…………。
自分は安全な場所から部下の者たちに危険で無茶な任務を平気で与えるようになっていった。
しかも、成功すれば自分の手柄にして失敗すれば過酷な罰を下した。
誰の目にも王の器でないことは明らかだった。
勇猛で懐の広かった父が無惨な戦死を遂げたときに、兄の心にはいつか自分もまた敵の剣に倒れるという妄念が巣食っていたのかもしれない。
気の毒なことではあるが、誇り高い遊牧の民は臆病な王には決して心からは従わないのだ。

「大丈夫、これからは心穏やかに余生を過ごせばよい…………今の世を生き抜くには兄上……貴方は弱すぎる」

その日ディヤルバキルは再び主を変えた。






「ワラキア公の援助には感謝している。このウズン・ハサン恩と怨は終生忘れぬ性質だ。いずれ公にこの恩は返そう」

白羊朝が史実よりわずかに早くディヤルバキルを陥とせたのにはわけがある。
ワラキアからの拳銃と大砲の供給がなくば、都市攻撃に不慣れな騎兵部隊はさらなる消耗を強いられたであろう。
しかもワラキア公はウズン・ハサンの公的な後ろ盾であり、彼の威光は兄ジャハーン・ギールから部下たちを寝返らせるのにこのうえなく有効なものであった。

「我が主は陛下が偉大なる君主として黒羊朝を膝下に置くことをお望みです。いまや黒羊朝とオスマン朝が手を組み飛ぶ鳥すら落としかねぬ勢い、われらは
協力してこれに当たらねばなりませぬ」

ワラキアにとって最低でも黒羊朝が東欧まで援軍を派遣してくるような事態だけは避けたいのが本音である。
オスマンの後援を受けた黒羊朝はティムール朝の支配領域を確実に侵食しており、早晩ティムールを版図に組み込んでしまう可能性すらあったのだ。
そんなことになればグルジアやトレビゾントのような正教系の小国は完全に命運が尽きてしまう。

「ワラキアはオスマンを、我々は黒羊朝を、というわけなのだな。承知した、むしろそれはオレも望むところだ」

父カラ・ユルク・オスマンの仇を討つのは長年の悲願である。
ウズン・ハサンもまた在りし日の父に対する憧憬を胸の奥に留めていた。
運悪く落命したが、決してジャハーン・シャーに劣るような人ではなかったのだ。
それを証明するのは息子たる自分の責務なのであった。
そうでなくともウズン・ハサンは自分で言ったとおり怨を忘れるような男ではなかった。


「………トレビゾント帝国のご息女との婚姻の儀はつつがなく執り行えるものと存じます。婚姻が成ればよりいっそうの援助が可能となりましょう」

ウズン・ハサンはワラキアの使者の言葉にひどくきな臭い匂いを感じ取っていた。
自分にとっては嗅ぎなれた匂い………それは戦の匂いであった。

「トレビゾントはいまやオスマンの属国のひとつ………それをここまで急いで婚姻させるとは………ワラキア公もいよいよ覚悟を決められたと見るべきかな?」

「………たとえ覚悟があろうとなかろうと、戦というものはきっかけさえあれば始まってしまうものでございますよ」

ウズン・ハサンは皇帝コンスタンティノス11世がワラキア公をルーマニア王につけようとしていることを知らない。
そして皇帝の弟たちがいかにワラキア公を敵視しているのかも。

とはいえウズン・ハサンも当代の英雄の一人である。
使者の言葉の中に彼なりに戦を志向する勢力の存在を感じ取った。
それに小人がどれほど独善的で身勝手な行為に及ぶかということを、ウズン・ハサンもまた権力者の一人として身にしみて知っている。

「…………なかなかに度し難いものだな、この世界というものは………」

視線を地に落としていたウズン・ハサンは何かに気づいて顔を使者に戻した。

「そういえば、ワラキア公の弟御がオスマンにいたな………」

さすがに顔色こそ変えなかったが、使者は苦虫を噛み潰したような苦い思いを禁じえなかった。
まさにそれはワラキア公のアキレス腱であり、ワラキア公の優しさを知る一部の臣下にとっては一番の心配の種であったのである。

「………スルタンのお傍近くに仕えているものと聞いております。それがどうかなさいましたでしょうか?」

「いや…………」

ウズン・ハサンは哂った。
寂しそうな、何かをあきらめた老人のような、誰かに置き去られた少年のような、いかにも虚ろな哂いだった。




「………………ワラキア公が弟をどう思っているのか気になっただけだ…………」








そのころのヴラドは……………


「「どちらが殿下を満足させることができるか勝負ですわ!」」

どうやら逃れることのできない修羅場のなかにいた。
勝負と言われて退くヘレナではない。こういったところは存外お子様な感性のままなのである。

「いつでもかかってこい!妾は誰の挑戦でも受ける!」

「いや、受けちゃだめだろうその場合!」

「「「口出し無用!!」」」

負けず嫌いなヘレナの性格をついたアンジェリーナたちの完全な作戦勝ちであったようだ。




「のわああああああ!舐めないで!吸わないで!揉まないで~~~~~!!!」
「無理!絶対に無理!4Pは体力的に無理~~~~~~!!!!」
「お尻はいや~~~~~~~!!?」




…………………ワラキア公に幸あれ





[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十六話 死戦の始まり
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/01/17 08:19


帝都コンスタンティノポリスに訪れた使者は、帝国に忘れかけていた亡国の恐怖を思い出させていた。







「我がスルタンに朝貢する身でありながら、同じく属国たる身のワラキア公に王位を送ろうと企むとは許しがたい思い上がりである。この驕慢に満ちた愚行に対し、
スルタンは寛大にも二つの選択肢を与える。ひとつ、ワラキア公との一切の外交関係を断絶しヘレナ姫をスルタンの側室に差し出すこと。また皇帝は直ちに退位して弟デメトリウスに譲位すること。ふたつ、コンスタンティノポリスを明け渡しモレアス専制公領に遷都すること。いずれでも好きなほうを選ぶがよい」





迂闊にもここにきて初めてコンスタンティノスは自分がやりすぎたことを知った。

どちらの条件もとうてい呑めるものではない。

ヘレナを差し出すなどワラキア公が認めるわけがなかったし、全面的にワラキア公を敵に回すことなどできようはずもない。

帝都の復興の立役者でもあるワラキア公を裏切るような真似でもすれば、コンスタンティノポリスに暮らす市民たちの反感を買うことは確実である。

またワラキアの先進性に影響された官僚団も、宰相ノタラスを筆頭に抵抗するのも間違いなかった。

そしてデメトリオスに帝位を譲位することも論外である。

デメトリオスはオスマンに心情が近すぎる。いずれメフメト二世に帝位を譲位しかねないという疑いを禁じえない。

今後時間をかけて帝国の重圧を身に染み込ませるつもりでいたが、現在のデメトリオスはコンスタンティノスから見て政治家として未成熟でありすぎた。



だからといって帝都を放棄することもできない。

コンスタンティノポリスこそは東ローマ帝国の魂である。

この地なくしてローマの精神はない。モレアスだろうとどこだろうとそれは同じであった。

帝都をなくしてまで生きながらえる気はコンスタンティノスにはなかった。





「…………使者殿には悪いがどちらを選択する気もない。スルタン殿には貢納金を増額するゆえご容赦願いたいとお伝えいただきたい」



使者は蔑みに顔を歪めながら皇帝の懇願を嘲笑った。



「汝らの収めることのできる貢納金など、我がオスマンの富に比べれば何ほどのことがあろうか。選べぬならばこう申せとスルタン様は仰せになられた。
もはや夢の覚める時が来たと知れ。本来のものでないとうに失われた権威を、真の持ち主へと返すがよい。ローマの歴史と遺産は余が継いでやる、と」









1451年12月………風に冬の冷気が混じり始めたころ、ギャラルホルンの角笛は高らかに吹き鳴らされた。

数々の破滅を約束しながらも訪れた戦を避ける術はない。

結局のところ望むと望まないとに関わらず災厄は人の上に降りかかるものなのだ。











覚悟していたとはいえ、東ローマ帝国へのオスマン朝の宣戦布告はワラキアに深刻な影響を投げかけずにはいられなかった。

すでに正教会大主教としても、帝国の縁戚としてもコンスタンティノポリスを見捨てるという選択肢はない。

そんなことをすればワラキアが被占領地域に対して有していた権威など紙くず同然に成り下がるであろうし、貴族に代わって力をつけ始めた市民層に見限られるのは確実である。



「…………来るなら来い!ワラキアはあと十年は戦える…………とは言えんわな…………」



開戦がオレの予想よりあまりに早すぎる。

ってかコンスタンティノープルの陥落って1453年の5月だろう?それよかルメリ・ヒサルはどうなったのよ??



「全く伯父上も下手な手をうったものだ…………」



ヘレナもまた呆れた顔で首を振っていた。

聡明な瞳からはいつもの精彩が感じられないようにも見える。

だが、それを見守る近臣の表情は危惧よりむしろほっとした安堵の念を隠せなかった。

実のところ昨日見せたワラキア公の激怒は公を知る近臣すら怯えさせるほどに深かったのだ。











「………ヘレナを側妾に差し出せと言ったのか」



「御意」



「…………そうか………ヘレナを、我が妻を、オレの家族を、家具か置物のように差し出せと……貴様はそういうのか!ラドゥだけでは飽き足らずヘレナまで奪おうと…………」



「………で、殿下…………?」



低く呻くように俯くヴラドに近臣たちが心配して声をかけようとするが、彼らは一様に驚愕とともに凍りつくことになる。







………………嗤っていた。

極大の愉悦に浸りきったような幸せそうな顔で、ヴラドはくつくつと嗤っていた。

夢見るような陶然とした目で肩を震わせ、喉を鳴らしながらさも可笑しそうに嗤っていた。







「わははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」




狂笑

哄笑

邪笑

嘲笑



耐え切れぬ、といった風情で腹を抱えてヴラドは嗤い続けた。

うれしそうに

楽しそうに

瞳に涙させ滲ませて







「…………オレは生まれて初めて喜んで人を殺そう。なんの罪もないオスマンの民の兵もどうなろうと知ったことではない。……かまうものか!
この目に入る女が居れば犯し、この目に入る物があれば壊し、この目に入る子供が居れば嬲り、この目に入る宝があれば奪おう。この目に入る兵が居れば殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して凱歌を歌おう。乾杯を叫ぼう。誰一人生あるもののいない死者の荒野で雄叫びをあげよう。貴様の前に首を積み上げて貴様の慟哭を聴こう。
貴様がいかに矮小で未熟な野心家であったか、筆を競わせ歴史に残そう。序文は貴様に書かせてやる。史上最も愚かで卑しい君主、メフメト二世とな。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」









近臣たちにとってワラキア公は極めて温厚な人物であった。

喜怒哀楽がはっきりして、表情が読みやすいおよそ政治家とは縁遠い人物であるかに見える。

しかし、ひとたび事が起これば公はたちまち能面のような無表情になり、その身に青白く凍てついた空気を纏った冷酷な君主と化す。

その傑出した決断力と行動力によって、完膚なきまでに敵を殲滅せずにはおかない。

公が青白く凍りついた先にはその敵たるものには悲劇しか残されていないのだ。

だが、こんな公は知らない。

狂ったように嗤い続ける公がいったいどれほどの災厄をこの悪しき世界にもたらすものか、味方たる臣下ですら恐怖を覚えずにはいられなかった。

ヘレナが公の口を吸い、強制的に黙らせるまで、公は嗤い続けた。











そして失神するまでヘレナを責め抜いた結果今に至っているというわけだ。

我ながら己の鬼畜ぶりに呆れてしまう。

もはや幼児性愛者の名は甘んじて受けよう。うむ、この決断に一片の悔いなし!



「……………やりすぎではございませんか?殿下………」



ヘレナの惨状にどん引きしているフリデリカの視線が痛い……………ごめんなさい、やっぱり悔いあり。









それにしてもメフメト二世も思い切った手段に出たものだ。

間諜の報告を聞く限りオスマンの軍制改革と政治改革はいまだ道半ばであることは間違いない。

イェニチェリの拡充と督戦隊の選抜、銃兵の登場でその魔力を失いつつある軽騎兵の再編、大砲の量産………どれをとっても一朝一夕に片付く類のものではない。

本来は戦機が熟すのを待ちたいのが本音であったろう。



しかし動員に時間を要するオスマンとしては、戦をするなら先制して主導権をとるのは正しい。

既にアナトリアを中心に大規模な動員が開始されているが、戦時体制を構築したオスマンを相手にこれを各個撃破することは不可能であった。

それでなくともワラキアの実働戦力は少ないのである。



兵士の質的向上と火力優先の思想が兵力の動員を阻害するという弊害がこのところ浮き彫りになりつつあった。

銃兵に射撃と戦場で必要な各種の運動を教え込むには最低でも三ヶ月以上を要する。

しかもフリントロック式の銃や新式の機動砲は高価で弾薬とともに国庫に大きな負担を強いていた。

末端まで銃を行き渡らせ、十分な教導を施すには莫大な資金が必要であり、自ずから養成できる兵の数には限りがあるのだ。

旧来の方法なら五、六万人は動員できる国土と人口を擁するワラキアだが現在の編成を適用すればどう頑張ってみても三万人が限界であった。



残念なことにライフルの試作もまた量産という壁の前に足踏みを余儀なくされている。

精度が一定しないうえ、最高レベルの職人芸をもってしてもものになる銃は全体の1%に満たないからだ。

百丁作ってようやく一丁が実用に足る程度ではとうてい主戦武器にはなり得なかった。

それでもワラキアの火力の充実ぶりは欧州でも随一を誇る。

しかしその火力がどこまで兵数差を補えるものかは未知数であり、とうてい楽観するどころではない。



「くそっ!史実どおり後一年猶予があればな…………」



史実を改変しまくって言えた義理ではないが、オレはそう思わずにはいられなかった。

そうすれば兵員数も増やせたろうし、何より河川海軍を外洋型の海軍として生まれ変わらせることができただろう。

一部の艦隊が外洋航行の訓練中であり、ガレオン船も完成が間近に迫っている。

就航の暁にはボスフォラス海峡での海上勢力圏を完全にオスマンから奪ってしまうことが期待されていた。



しかしそれはこの戦には間に合わない。

である以上、手持ちの戦力でオスマンを撃退しなくてはならない。





「殿下、お呼びにより参上仕りました」





手持ちのなかでもギリギリでこの戦に間に合った新戦力の長がこの男であった。

ロドリーゴ・フロイド………フィレンツェ出身の元医者である。

間に合った戦力とは、彼が率いる医療兵部隊なのだ。








[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十七話 死戦の始まりその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/01/19 23:34


戦場医療の歴史は遠くローマ時代に遡る。

ローマが誇るレギオンの中に負傷兵の救出・治療・看護の係りをおいたのが戦場医療の始まりであった。

しかも戦線後方に内科医と外科医を配置するという念の入れようで、軍人の平均寿命は一般人のそれよりも五年は長かったと言われている。

このころすでに創傷治療において、乾かすのではなくワインを染み込ませた包帯を使って湿潤環境を作り出すことや、傷口をワインで洗浄するなどの治療法が確立し医学者ガレノスによって医学辞典が編纂されたりもしていた。

ところがこれらの知識はローマの衰退とともに急速に失われむしろ後退させることになる。

なかでもアラビア人医師アビケンナによってもたらされた医学典範は外傷の治療法として焼灼法を普及させたため、治療の過程で身体を損なうものが続出したのだ。(その他の点では有用な記述も多かったのだが)

15世紀の外科医たちは銃創や刀創に対し、熱したニワトコ油の膏薬を塗るというのが一般的であった。

現代の治療法から見れば完全に誤ったこの治療法は身体の組織そのものが広範囲にわたって破壊されてしまうというおそるべき結果をもたらしていた。

史実でこれが改善されるのは1540年も近くになったからの話である。

フランス王に仕えたアンブロワーズ・パレはニワトコ油を切らしてしまい、その応急処置としてテレピン油とバラ油を混ぜた膏薬を傷口に塗ってみたところ、患者がなんの炎症も腫れも起こさなかったという事実に遭遇した。

現代では常識の血管を結束する止血法も彼が発見している。

ここにおいて外傷の一次治療は革命的な前進を見たのであった。







ロドリーゴ・フロイドが運用する医療兵部隊は、さらにナポレオンの大陸軍のように荷馬車を改造した救急車や負傷兵用の二輪荷車などを装備し、積極的に負傷者を後送することを目的としていた。

そして19世紀半ばにパスツールやコッホが細菌と感染の関連を証明するまで普及しなかった消毒の概念が、すでにワラキアではヴラドによって導入されていることも大きい。

(もっともその具体的理由まで開示されているわけではなかったが。)

当時患者を変えるごとに手を洗い、あるいは手術道具を殺菌する医者など皆無であったからである。

真新しい包帯、手術道具の煮沸消毒、医師の手の殺菌などの徹底は負傷兵の帰還率を決定的に上昇させるはずであった。



これはあくまでも私見だが、決して命中率の高くない銃の存在がすでに戦の決定的な役割を果たしていることの理由のひとつは、銃創の治療の難しさにあるとオレは考えていた。

刀や槍の鮮やかな切れ口と違い、醜い破口をさらした銃創は弾丸の摘出や破口を縫い合わせることが難しかったことから容易く四肢の切断にいたるということがままあったのである。

ただでさえ士気の低い傭兵にとって、不具になるという恐怖はおそらく死の恐怖に勝っただろう。

怪我をしても味方が見捨てることはないという保障と、精度の高い治療の保障は、カントン制度によって召集された兵が大半を占めるワラキア軍の士気を維持するためにはなくてはならないもののはずであった。



「殿下、馬匹の手配をいただきありがとうございます。いまだ荷馬車の納入は半ばなれど職人ともども配備を急いでおりますゆえ近日中の完了は間違いないものと」



「………配備は優先させる、わかっているだろうが急いでくれ」



戦時になれば馬匹や資材は真っ先に実戦部隊が攫っていってしまう。

馬の繁殖に励んできたワラキアでもそれは例外ではない。

結局のところ馬と糧食はいくらあっても困るものではないから多めに確保しようとしてしまうからだ。



しかし熱狂的な士気を誇るイェニチェリ軍団を相手にするうえで医療兵部隊の編成に手を抜くわけにはいかない。

ワラキア軍に一体感を生み出し、将来の幹部候補の生命を確保するという決して損にはならない投資である以上それは必然であった。



「…………まことにおそれながら殿下にお願いの儀がございます………」



ロドリーゴが改まって頭を垂れる様子にオレは違和感を覚えた。

…………これまで可能なかぎり融通は利かせたつもりだが………いったいなにが………?



「この度の戦の規模を考えると阿片の量が足りませぬ………なんとかお力添えをいただきたく…………」



ロドリーゴの要求は完全にオレの思考の死角を衝いていた。







阿片はこの時代それほどものめずらしい麻薬ではない。

麻薬というよりはこの時代の感覚では高価な薬品である。

特に麻酔薬が存在しないこの時代に外科手術を行おうとすれば阿片の存在は貴重であった。

もっともハシシを用いたアサッシンの洗脳や富裕者が陥る重度の阿片中毒がなかったわけではないため麻薬としての顔も広く大衆に知られてはいた。

オレとしては麻薬や中国の阿片禍を知る人間としてどうしても阿片の量産の断を下せずにいたのだが、こんなところでしっぺ返しを食らうとは。



「……………足りぬ分はジェノバから買い上げるほかあるまいな…………貴重な兵士を中毒にはするなよ?ロドリーゴ」



「御意」











コンスタンティノープルの北側、史実ではルメリ・ヒサルの建築地点にあたるその場所では急ピッチで砲台の建設が急がれていた。

ボスフォラス海峡の最狭部であるこの地を大砲をもって封鎖すれば黒海側からの艦隊戦力を無効化することが可能であるからである。

要塞としての防御力は低いが、設置された大砲の数は史実の実に十倍に達しようとしていた。



「ジェノバ艦隊もこれでは身動きがとれまい」



「油断は禁物でございます陛下。船乗りの経験は時として我々の想像を超えるものですゆえ」



「もちろん承知しているとも。だが、身動きがとれぬのは事実であろう?先生(ラーラ)よ」



人の悪い笑みを浮かべてメフメト二世は肩をゆすった。

金角湾に張られた鉄鎖のように封鎖は完全ではないが、両岸に並べられた百を数えようかという砲台は、それだけで脅威以上の何かである。

メフメト二世は目の前の有能な宰相がさらにそれを誇大に言い立てて外交の具にしていることを知っていたのだ。



「ジェノバはヴェネツィアと違って国家としてのまとまりに欠けますので…………おそらく二割も戦力が揃えば上等でありましょう。とは申しましても二割でも海軍の歴史の浅い我々には十分脅威であることに変わりはありませぬ………ガラタの司令官も取り込みに失敗したことでもありますし」



メムノンにとってはガラタ地区の中立を引き出せなかったことは痛恨事であった。

コンスタンティノポリスの商業利権をちらつかせ、あからさまに海峡を封鎖して見せれば尻尾を振るだろうと思っていたのだが、どうして敵にも先の見える人間がいたらしい。

しかしながら目先の利権にあっさり尻尾を振る者も中にはいるわけで、ジェノバの国論はほぼ二分されるにいたっている。

指導層は相変わらずワラキアよりだが、黒海よりオリエントに貿易の比重を置く有力商人たちは親オスマンを叫び共和国の指導を受けつけずにいた。



権益は各国間のパワーバランスを抜きにしては語れないのだが……………。



スルタンの意向が全てに優先される絶対君主制を採るオスマン朝が恒久的な権益を保障できるはずもないにもかかわらず、利権を約束されれば飛びつく輩にはメムノンも失笑を禁じえない。

とはいえ知恵の回る連中がオスマンと敵対するというのであれば笑ってばかりもいられまい。

カッファに常駐するジェノバの黒海艦隊はワラキアに同調するものが多いがボスフォラス海峡を無傷で突破することが難しい以上、危険な行動は慎むはずである。本国艦隊はそれほどの脅威ではなかった。

変転を極める欧州の政治情勢を考えれば、迂闊に本国を空にすることなどありえないからだ。

残るもうひとつの雄敵ヴェネツィアだが……………。



「今頃は教皇に使者が届いたかも知れぬな………」



マムルーク朝の率いる船団がロードス島近海に姿を現したのはつい先週のことであった。









ロードス島は聖ヨハネ騎士団が1310年に全島を掌握して以来対イスラム戦の最前線であり続けた。

1444年にはマムルーク朝の遠征を退け、改めて修道騎士団の精強さを内外に示している。

また、小アジアにごく近い島の位置環境からロードスは地中海貿易においてクレタ島に次いで重要な中継拠点でもあった。

そればかりではない。

病院騎士団という俗称で親しまれた聖ヨハネ騎士団はロードスに地中海最大の病院施設を完備していたのである。

ロードスの病院は遠隔地で病に倒れたものにとって唯一の希望の地であり、聖地巡礼者などにとってはなくてはならない施設となっていた。



その施設が瓦礫の一部に成り果てようとしている。

大角度で落下する砲弾は、いかな精強をもってなる騎士団にとっても受け止めることはかなわないのだ。





「いったいなんだ?あの大砲の数は?」





かつて聖地で最も堅固な城であったクラック・デ・シュバリエを築いたヨハネ騎士団の築城能力は当代随一を誇る。

しかしそれも大砲が集中して運用される前の設計思想に基づいたものだ。

オスマン朝から供給された大砲による艦砲射撃の激しさは、騎士団の戦前の予想を遥かに超えるものであった。

こんな戦は知らない。

弩の矢も投石器も届かぬ彼方から一方的にひたすら嬲られるだけの戦いなど聞いたことがない。

ごくわずかな大砲がかろうじて沖合いのマムルークの戦船に損害を与えるが、たちまち十数倍の砲撃の前に沈黙を強いられてしまう。

このままでは攻城戦の前に味方の兵はあらかた消耗しつくしてしまうやも知れぬ。

悲鳴のような使者が複数にわたって欧州大陸に送られた。



ロードス島は今存亡の危機にさらされている。

小アジアに残された最後のキリスト教徒の拠点を失うことがあってはならない。

ロードス島を失えば、次はクレタ島が危険にさらされ遂には東地中海すべてが異教徒の手に落ちるであろう。

今こそキリスト教国は一致して救援の兵を起こすべきときである。





聖ヨハネ騎士団でもっとも多数を占めるフランスとそれに次ぐスペインにも使者は送られており、教皇ニコラウス五世は両国の王とともにヴェネツィア共和国にも出兵と援助を要請した。

黒海の覇者ジェノバと違い、多角交易を旨とするヴェネツィアにとってはクレタ島はコンスタンティノポリス以上に重要な交易拠点である。

対立する利害を持つ聖ヨハネ騎士団だが、ここで見捨てることはヴェネツィアの国益を損なうことになるのは自明の理であった。



議論は短くも沸騰した。

モチェニーゴをはじめとする親ワラキア商人は数の大小はあれども艦隊を派兵すべきであることを主張した。

コンスタンティノポリスは確かにヴェネツィアにとって欠くべからざるものではない。

しかしローマを継ぐ精神的支柱がオスマンの手に落ちるようなことがあれば、東欧は芯棒を失ったように瓦解する可能性がある。

コンスタンティノポリスを失うということは、歴史ある大都市を失う以上の何かなのだ。

しかしミラノ攻囲戦を戦うヴェネツィア共和国にとって、さらにロードスとコンスタンティノポリスという三正面を戦うことはヴェネツィアの国力を大きく上回っていた。

現実主義者の彼らは断腸の思いで決断を下した。

ヴェネツィア元老院はワラキアに対し、資金と糧食を援助するとともにコンスタンティノポリスへの派兵の中止を決定したのだ。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十八話 死戦の始まりその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/01/24 10:43


オスマン朝が兵力をコンスタンティノポリスに集中させたということは今まで外縁部で抵抗していた勢力にとって、待望の反撃の機会でもある。

かつての東ローマ帝国がティムールにアンカラで敗れたオスマンを追撃できなかったように、反撃をするにはそれだけの体力と戦闘力、何より君主の決断力が必要であった。

現にトレビゾント帝国は積極策を打ち出せずにいる。それも無理からぬことであるかもしれない。

オスマン朝は兵を集めただけで決して敗れたわけではないのだから。

もちろん、アルバニアの英雄スカンデルベグにとって勇気と決断力が不足したことなど過去にも将来においてもありうることではなかったのだが。



「今こそ我らが故郷を異教徒より解放するのだ!」



北部アルバニアの総力を結集した戦力一万余は怒涛の勢いでアルバニアを南へ向けて進軍を開始していた。

フィエルやサランダ・コルチャといった南部の大都市で正教徒を中心に反オスマンの擾乱が起きつつあるという情報ももたらされている。

その大半は正教会大主教であるワラキア公ヴラド三世の呼びかけに負うところが大きい。

全くどこまでも自分の予想を超えてくれる男であった。



中部の都市エルバサンの前面においてオスマン兵数千の襲撃を受けたが鎧袖一触になぎ払う。

かつてオスマン兵十万に蹂躙された中南部に民衆の歓呼が木霊する。



スカンデルベグ!!スカンデルベグ!!!

我らが英雄!我らが希望!



いまだかつてキリスト教国が攻勢にたってオスマン領を侵食することなど一度たりともなかった。

それがほとんど無人の野を行くがごとくの進軍が続いている。

この勢いならアルバニア全土を解放することもそう遠い先の話ではないだろう。

もっともそれはワラキア公がオスマンに勝利してくれなければ砂上の楼閣でしかないのだが…………。





「…………速く孫の顔を見せてくれぬものかな………?」



アンジェリーナからワラキア公の寵を受けたという知らせを受けて数ヶ月が経とうとしている。

どこまでも親馬鹿なスカンデルベグであった。

もっとも孤独な戦いのなかではこれほどの余裕を持つことは叶わなかったであろう。

たのもしい盟友の活躍を信じることができればこそ、彼も明るい未来に思いをはせることができるのである。











「………全く愚かな………」



ソマスは兄デメトリオスの行動に舌打ちを禁じえなかった。

皇帝の後継に指名されながらオスマンに忠義立てして自分が援軍を送ろうとするのを掣肘するとは………。

これでデメトリオスはオスマンに勝利してもらう以外に皇帝に登る道はなくなってしまった。

人格者であり、温厚な兄とはいえ、コンスタンティノス11世が謀反人に譲位するという選択肢はありえない。

スルタンにすがって皇帝になることになんの意味があるだろう。

確かにワラキア公の風下に立つのは業腹だが、オスマンに屈服するより余程いい。何より彼は同じ正教徒ではないか。



「デメトリオス公の軍勢、城下におよそ三千と見ました!」


ソマスの慨嘆が兄に届くことはなかった。







いまやモレアス専制公領はデメトリオスとソマスの両派閥に真っ二つに分断されていた。

その戦力はほぼ互角であり、それがデメトリオスの苛立ちを募らせている。



……………むしろ自分のほうが戦力では下かもしれない。

オスマンの威光を背景に調略攻勢をかけたにもかかわらず ソマス配下の将をほとんど切り崩すことができなかった。

そればかりか中立派の貴族たちがほとんど軍を動かす気配がない。

そして前もって知っていたかのような万全の備え………それが表す事実はひとつだ。



ソマスはオレがオスマンに通じていることを知っていた!

では何故オレを討とうとしなかったのか?決まっている。兄弟相討つことが忍び難かったのだろう。



…………オレは弟に情けをかけられたのか!



立場上オスマン寄りの旗幟を鮮明にしなければならなかったデメトリオスだが、この瞬間その立場を超えてソマスを討つことを決意していた。

前々から弟の聡明さを鼻にかけたような態度が気に入らなかった。

皇位継承のおり、コンスタンティノスを支援してオレを追い落とした際に見せた政治的手腕には怒りすら覚えた。

あくまで自分で皇位を継ごうとはしない覇気のない弟に生殺与奪を握られていたなど、とうてい認められたことではない。



「……………息の根を止めるまでオレは止まらん」



ソマスは今となってはモレアスを投げ出してでもコンスタンティノポリスを救援に行きたいだろう。

もしもコンスタンティノポリスが落ち、オスマン軍がモレアスにやって来たら挟撃されて敗北は必至だからだ。

逆にモレアスをオレに奪われてもコンスタンティノポリスさえ無事なら奪回の機会はある。

オスマン軍が敗れるようなことがあればなおさらそれは容易だ。

つまるところ今やモレアスの死守に拘る必要はないとソマスは考えているだろう。



だが逃がさん!



モレアスを脱出することさえ許すつもりはない。

お前はここでオレの手によって討ち滅ぼされるべきなのだから。











黒羊朝の戦いは順調である。

もはや斜陽のティムール朝を支える名臣も存在しない。

あるのはかつての大国としてのプライドだけであり、それが組織化され統率されたものでないかぎり、恐れるべきなにものもないのは自明であった。

現代ではアフガニスタンの北辺に位置するマザルシャリフにおいてアブーサイードと対峙するジャハーン・シャーはこの機会にサマルカンドまでをも征服するつもりでいた。

守勢に回っているとはいえ、ティムール朝の兵力は自軍の半数に満たない。

スルタンに乞われて兵一万を送っていたが、もう一万増やしていても良かったかも知れぬ。

もしもサマルカンドを征服し、中央アジアに覇を唱えればオスマンはいずれ決着をつけねばならぬ雄敵へと変わる。

恩を売っておくのにこしたことはないはずだった。



…………今ごろはアナトリアの国境を超えたか?



オスマンが火力戦を指向しているという情報は受けている。

それが今度の戦でどのような働きを為すのかによって、黒羊朝もまた戦略を変更する必要に迫られるだろう。

派遣軍の主将ジェリド・ギィムシェは学者でもあり、よく戦の真実を見抜くに違いない。

暗愚とは程遠い位置にいるジャハーン・シャーは近い将来におけるさらに大きな大戦へと思いをはせていた。

もっともその思いのなかに年若い小国の君主が入り込む余地は今のところないようであった。









「ずいぶんと暢気なものだな」



ウズン・ハサンは薄く嗤った。

獲物として一万は少ないように感じるが、労せずして黒羊朝から奪える戦力としては決して低くものではない。

もうじきオスマンの領域に入るとあって、まったく警戒の色を見せない敵を眼下に見やってウズン・ハサンは手を振って指示を下す。

両岸の砂丘から、ウズン・ハサンの合図に呼応するようにして騎兵が黒羊朝兵を半包囲するように近づいていった。

行き足のついた騎馬の進軍は敵襲を想定していない黒羊朝軍に見る間に肉薄した。





果たして砂丘の上からの伏撃に黒羊朝兵は全く備えを欠いていた。

気がついたときには白羊朝の騎兵部隊が歩兵の背後をとっており、騎兵もまた側背に喰らいつかれていた。



「馬鹿な………裏切りか………?」



ジェリドはかすれた声で呟くことしかできなかった。

白羊朝がなぜ黒羊朝に歯向かうのか全く理解できなかったからだ。

強大なオスマン朝と黒羊朝を敵に回すのがどれほどの愚挙かわかっているのかと絶叫したい気分である。

ここで一万の兵が残らず骸と化そうとも、黒羊朝の兵力はまだまだ白羊朝の数倍は優に超えるのだ。

ましてオスマンは今回の戦でコンスタンティノポリスを落として東欧に覇を為すのは確実であった。

弱小である白羊朝が生き残る確率を見込むのは不可能なようにジェリドには思えた。



それはあくまでも黒羊朝臣下ジェリド・ギィムシェの思考にすぎない。

当然ウズン・ハサンには別の思惑が存在する。

黒羊朝への臣従をよしとしない自尊自立の民の長として、このまま黒羊朝がティムール朝を併呑することを容認することは断じてできない。

戦うなら、勝機を見出すならティムールと狭隘なマザルシャリフで対峙に陥っている今しかなかった。



「ここでオレに食われて糧となれ」



弓騎兵とピストル騎兵で構成された白羊朝の軽騎兵部隊は数の力と乱戦で遺憾なく発揮されるピストルの威力を生かし、見る間に黒羊朝の兵を減らしていった。

乱戦の中では白羊朝と同じく軽騎兵を主力とする黒羊朝の槍騎兵部隊は全く役に立たない。

逆にピストル騎兵はピストルの射程は短いが馬上槍よりは確実に長く、とりまわしが容易な分乱戦では予想以上の力を発揮していた。

最初は剣と槍をピストルに持ち替えさせるのに苦労したのが嘘のような光景だった。



「全くあの男を敵にするものの気が知れぬわ…………」



ピストル騎兵は確かに騎兵対騎兵の戦いには有効だろう。

しかし歩兵対騎兵になればどうなるかはわからない。

ワラキア公ならきっとピストル騎兵など無力化してしまう戦術を既に編み出しているような気がする。

こうしてピストルを惜しげもなく供給してくれることがいい証拠なのではないか?

いずれにしろウズン・ハサンにとって目下のところワラキア公はオスマンや黒羊朝以上に敵に回したくない男であった。



「まあよい、黒羊朝もティムール朝もオレの足元にひれ伏させてくれる!すべてはそれからだ!」



そう叫ぶと、ウズン・ハサンもまた掃討戦に移り始めた戦場へと身を投げ出していった。











一方、百年戦争も終盤にさしかかりノルマンディーを奪回して勢いに乗るフランスはパリにひとりの男が招かれていた。



「………そうかしこまらずとも良い。ちと面白い噂を耳にしたので少し確認をしておきたかっただけなのだ」



招かれた男の名はベルナルド、ブルターニュにほど近いヴァリュゼのしがない領主である。

とうてい国王シャルル七世に召しだされるような位階の持ち主ではない。

ベルナルドは痩せ型の長身ではあるが、両手が異様に長いのが印象的な男であった。

もっとも手の長さはあるいは家系の特徴であるのかもしれない。

小心さを隠そうともせずぎくしゃくとあたりを見渡せば衛兵の屈強な姿がなぜかどこにも見当たらなかった。

しかもどういうわけか国軍の最高司令官であるアルチュール・ド・リッシュモン大元帥も国王の傍らにあるのが不審である。

いったい如何なるわけがあって自分のような凡夫が召しだされるのかベルナルドには想像もできない。



「……そなたには兄がいたはずだな、もちろん嫡出ではない。庶子のほうじゃ」



無頼をもって近在に恐れられていた兄がベルナルドには確かにいた。

もしかしたらあの兄が王国に対してなにか無礼を働いたとでもいうのだろうか?



シャルル七世はベルナルドの考えを正確に洞察して笑った。



「……今そなたが考えたようなことではない。もし噂が本当ならそなたの兄は王国に利益すらもたらしてくれるやもしれぬ。その兄の外見とその後を客観的に語ってくれればそれでよいのだ」



ベルナルドは恐縮しきっていたが、どうやら罪が及ぶようなことはないとわかって話し出した。



「兄、アレクサンドルは大力で近在では有名でした………猛犬アレクサンドルといえば貴族ですら避けてとおるほどの名うてのワルで………もちろんそんな男を我が家に置いておくようなわけには参りません。兄が十六歳のときに兄は父によって放逐され、領内の不貞の輩を集めて傭兵団を組織いたしました。確か紅がどうとかこうとか………その後の消息は知りません。最後の消息ではドイツから東欧に流れたということでしたが………もはや我が家の恥にしかならない男、気にも留めたことはありませんでしたので…………」





リッシュモンがシャルル七世にうなづいてみせると、シャルル七世の笑みが深くなった。



「………最後に外見はどうだ?何か目立った特徴はないのか?」



ベルナルドは内心で疑問を隠せなかったが国王の諮問に答えるために必死で記憶を掘り起こした。



「黒髪で碧眼、胴回りは太く一見肥満のように見えますが以外に敏捷でよく動きます。腕力は大の大人が三人がかりでも及ばぬほどで丸太のように太くたくましいものでした。顔立ちは鼻が大きく頬のエラが張り出たごつごつとした凹凸が印象的といいますか………お世辞にも見栄えがいいとは言えぬ顔でございます。それとおそらく二の腕に父上に折檻されたときの火傷があるものと…………」



「どうやら間違いないようでございますな………」



あきれたような声でリッシュモンがベルナルドの言葉を引き取るとシャルル七世は腹を抱えて爆笑した。

爽快感すら感じさせる気持ちよさ気な笑いだった。



「なんと……なんと冥加な家系もあったものだな。一族から二人も庶子の傭兵から元帥にまで成り上がらせるとは………!信じられるか?ベルナルド=デュ=ゲクランよ!そなたの兄は、今や東欧の雄になりおおせたあのワラキア公国軍の元帥を務めておるのだぞ!」






[4851] 彼の名はドラキュラ 第四十九話 死戦の始まりその4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:754ac231
Date: 2009/01/26 00:20

「ハックシュン!」

「おや、シェフどのも鬼の霍乱ですかな?」

「馬鹿言え、女が噂してるに決まってるだろ!」


アレクサンドル=デュ=ゲクランは哄笑した。
その豪快な笑いをたのもしげに見つめる兵たちの姿がある。
彼らにとってこれから迎えるオスマンとの戦いは決して恵まれた状況にはない。
ましてカントン制度で集められた青年の大半は初陣なのだ。
その青年たちが自分を見てほっとため息をついていることに、もちろんゲクランは気づいていた。
指揮官の陽気は兵に伝わるものだ。もちろん陰気はさらに伝わるのが早いので注意が必要だが。
思えば自分が十六歳で旗揚げした傭兵団の初陣も似たような緊張を抱いていたことを思い出しながらゲクランは久しぶりの前線指揮に血を滾らせていた。





ここで時系列はオスマン朝の軍がコンスタンティノポリスへとアドリアノーポリから南下を始めたころに遡る。
すでにコンスタンティノポリスからは悲鳴と焦燥の入り混じった悲壮な便りがヴラドのもとに送られてきていた。
一刻も早い援軍を!
そのあられもない懇願の様子がなによりコンスタンティノポリスの窮状を物語っていた。


皇帝の浅慮に端を発したこの戦いはあまりに猶予期間が短すぎたのだ。
慌てて兵を募り援軍を要請するも、西欧の軍はロードス島に釘つけであり傭兵の価格も高騰の一途を辿っている。
ようやく持ち直し始めた経済力を総動員しても雇えた傭兵はわずかに二千。
コンスタンティノポリスに集結させた騎士団と従兵を合わせて総数七千が帝都防衛の全兵力であった。
これとは別にガラタ地区には傭兵隊長ジュスティニアーニを筆頭に二千名のジェノバ兵が立てこもっている。
かつて繁栄を極めた帝国の総力が一万の兵にも満たないのが悲しくも厳しい現実なのだった。


対するオスマン軍は第一波としてスルタン直卒のトラキア方面軍六万がコンスタンティノポリスを包囲していた。
その後アナトリアから第二波、第三派が送られる手はずになっており最終的には軍属を含めて二十万の大兵になることが予想されていた。
ウルバンの巨砲こそないものの、確実に増した大砲の数と、オスマンが世界に誇る坑道戦術の進歩はコンスタンティノポリスにとってあまりに大きな重圧となってのしかかっていたのである。


今にワラキア公国軍が援軍に来てくれる!


コンスタンティノポリスの貴族も市民もそれだけを支えに徹底抗戦の構えを崩していない。
だがそれはワラキア軍が援軍を遣さなかったりワラキア軍がオスマン軍に敗れるようなことがあればたちまち壊乱する危険と隣り合わせのものであったのだった。




「………ワラキア公が駆けつけるまで我らは耐え抜かねばなりません」

宰相ノタラスは防衛会議の冒頭でそう告げた。
帝都防衛の根幹をどう捉えているか、その最大公約数的なものをよく表現していると言えよう。
さすがに二十万に達しようとするオスマン軍を相手に単独で撃退が可能であるなどという夢想を共有しているものはいなかったのである。


「問題はそのワラキア軍がいつごろ到着するかということですな………」


続いて発言したのは傭兵隊長ヴァニエールであった。
いまだ三十代後半の精力的な若さを保ったこのフィレンツェ出身の傭兵はちょうど一段落した百年戦争からの流れ者であり、豊富な実戦経験を持っていたのである。


「オスマンがトラキアにどれほど兵を残しているかによるだろう…………」


難しげな顔で思案に首をかしげたのは騎士団を取りまとめるサーマルド伯爵である。

おそるべきはオスマン朝の底力であった。
二十万(五万は軍属であるにせよ)の大兵を催したからといって首都アドリアノーポリやその周辺が無防備になったとは考えられない。
おそらくは数万の守備兵とさらに数万の遊撃兵が残されているはずだった。
これらの軍を南下するワラキア軍の拘置に当てたならワラキア軍の到着は相当遅れることになるだろう。
だが、オスマンの予備兵力を正確に知るものが会議の席上にいない以上明確な答えが出るはずもない。


「………一ヶ月は私も責任を持ちますがね、二ヶ月となると責任は持てませんよ………」


篭城戦とは消耗戦であることをヴァニエールはよく承知していた。
生命だけではなく、体力的にも精神力的にも、寡兵での篭城は加速度的な消耗を強いるものなのである。
それでなくともコンスタンティノポリスの城壁は長大にすぎるのだ。
ある程度の兵員が損耗した時点でどこかが破綻をきたすのは目に見えていた。


「ワラキア公には一月を超えぬよう余が改めて書状を認めるとしよう………」


コンスタンティノス11世は己の無力さをかみしめていた。
全ては自分の政治的な識見の甘さが引き起こしたというのに誰も責めようとはしないことが逆に皇帝の肺腑を痛めつけている。
そして後継に指名したデメトリオスには背かれ、体よく利用しようとしたワラキアの援軍が唯一の頼みの綱とはなんとも皮肉なことであった。
デメトリオスに足止めされたソマスもオスマンの包囲網が完成した今となってはたとえ脱出したとしても間に合わない。

…………自分は皇帝の座には相応しくないのかもしれない…………

よくよく考えれば即位以降コンスタンティノスが挙げた明確な成果といえば、ワラキア公を皇族に取り込んだことぐらいである。
兄から引き継いだ東西教会の合同は破綻し、十字軍を呼び込むことも出来ず奪われた国土も一寸たりと奪回してはいない。
帝都の復興もワラキア公の力添えがあったればこそのものであった。
しかし、そのコンスタンティノスの懊悩こそ彼の誠実さの証であり、政教が一致したコンスタンティノポリスにおいて誠実と公正において比類ない皇帝が忠誠に値する人物であることも間違いのない事実であったのである。




そのころワラキア軍はオスマン朝に対して正式に宣戦を布告し、ブカレストに集結させた国軍二万八千を一気に南下させていた。
その後たちまちのうちにラズグラドやシュメンの北部都市を制圧したワラキア軍だが、ここで一旦南下を停止し軍を東に向けてブルガリア最大の港湾都市ヴァルナを占拠するにいたっている。

このワラキア軍の侵攻は多くのブルガリア国民にとって福音として受け入れられていた。
もちろん正教徒の多い国柄もあるだろうが、シエナが手配したワラキア公の宣伝工作やジプシーの民が奏でる音曲で表されたワラキア公の英雄譚の影響も無視できるものではない。
戦に起てば必ず勝ち、政ではワラキアを未曾有の繁栄に導いた生ける伝説を繰り返し聞かされれば、オスマンに搾取されるよりワラキア公に国を治めてもらいたいと願うのは民にとって本能のようなものであるのであった。
アドリアノ-ポリの北部に位置するスリプエンとスタラザゴラでも旧ブルガリア王国貴族が反乱の狼煙をあげており、半世紀に及ぶ支配に自信を抱いていたオスマンにとっては全く予想外の抵抗が広がっている。
緩やかに搾取され続けてきた東欧の正教徒国家、ブルガリア・セルビア・トラキア・ボスニアなどの諸国でも武装した市民による抵抗が明確な形をとり始めていた。




首都近郊まで迫りつつある抵抗運動の広がりに流石のスルタン、メフメト二世も動揺を隠せなかった。


「…………ありもせぬ救済に目が眩みおって………ただではおかぬ」


己の権威を絶対視するメフメト二世にとって、東欧の民衆がヴラドに将来を託して反抗することは、すなわちヴラドが自分に勝利すると民衆が信じているということであり、それは自らのプライドをズタズタに引き裂くものであった。
メムノンがいなければ実際に兵を率いて虐殺にむかっていたかもしれない。


「一万だけでもまわすわけにはいかぬのか?先生(ラーラ)よ」

「元を断たねば同じことが繰り返されるだけ、兵を無駄にするのみにございます」

「しかしあの男はいつになったらやってくるのだ?」


そう、問題はいつヴラドが訪れるのかということにあったのだった。
ヴァルナを占領して以来、小規模な派兵はあったが本隊が南下したという知らせもない。
中部都市の懐柔に当たっているとも言われヴラドの狙いはコンスタンティノポリスではなくアドリアノ-ポリの占領にあるという風聞も囁かれていた。
しかしメムノンは絶対の自信をもって言い放った。


「ワラキア公が救援にこの地を訪れること、大地を打つ槌がはずれぬのと同様決してはずれることはありませぬ。コンスタンティノポリスが落ちればワラキア公の命運も尽き、ワラキア公の命運尽きればコンスタンティノポリスの命運も尽きる。このふたつは離れられぬ運命上の双子のようなもの。それに気づかぬあの男ではありますまい」


アドリアノーポリの危機を囁く風聞はおそらくワラキアの手になるものであろうとメムノンは見当をつけている。




それにしても全く予想外に背筋の凍るチキンレースになったものだった。
実のところここまでの危機的状況をメムノンは最初から想定していたわけではない。
偶発的に始まってしまったとはいえ、ワラキア以外の援軍はことごとく政治的に封殺したつもりであったしコンスタンティノポリスのように敵中深い場所ではたびたびワラキア軍の勝利に貢献してきた工兵が運用できないはずである。
そうした戦場ではやはり数がものをいう。
いかに精鋭の評判高いワラキア常備軍とはいえ、こちらの常備軍も練度では決してひけをとるものではない。
兵力差を考えれば負けるはずがなかった。

もちろんコンスタンティノポリスを見捨てればワラキア公の政治的威信は根底から失われる。
アルバニアやジェノバといった同盟国もワラキアを見放すのは疑うべくもない。

そうである以上ワラキア公としては出戦せざるをえないのだが、その困難さは尋常なものではなかった。
まずワラキアはブルガリア・トラキアという敵国の間を突破しなくてはならないのだ。
戦力の大半をコンスタンティノポリスに集中したとはいえ、首都アドリアノ-ポリ周辺に展開する兵力は数万を超える。
仮に交戦しなくともこれらの軍は放っておけばワラキア軍の退路を遮断し、あるいはワラキア本土を伺うことのできる戦力だ。
それが与える重圧はワラキア公が戦略家であればこそ余計に大きいものだった。
おそらく時間の猶予のないワラキア公はアドリアノーポリを素通りしてくるであろうが、そのときは挟撃することも可能だ。
退くも地獄、進むも地獄とはこのことか。
メムノンは己の構築した戦略的環境の優位に疑いを抱いてはいなかった。




誤算は予想以上にワラキア公の声望が東欧の諸国に浸透していたことである。
度重なる正教徒の反乱は戦後の統治に打撃を与えることは必定だ。
一国の宰相として忸怩たるものがあるが、それも全てはワラキア公を討ち取れば解決する話でもあった。
しかしもうひとつの誤算はさらに切実なものであった。
ワラキア流の火力戦を指向した火縄銃と大砲の大量供給は国家財政にあまりに大きな負担をかけすぎていた。
マムルーク朝に供給した大砲と焔硝の量も莫大なものであり、兵員数に見合った銃砲を揃えていては国家財政が破綻することは明らかであったのである。
ワラキアが国家規模の割には兵員数が少ないのも道理と言えよう。


これではもし万が一長期戦になれば補給は国庫が耐えられない。
また同じような大動員を行うには今後数年以上にわたって経費を節減して蓄財に励む必要がありそうであった。
つまりたとえ引き分けであってもオスマン朝は致命的な打撃を受ける可能性があるのだ。

なればこそ、ワラキア公を生かしては返さん!

大砲の大量配備にワラキアの戦訓を取り入れた野戦築城まで加えた迎撃の準備は万全である。
遠征の疲労と消耗を拭えないワラキア軍がどうあがこうがオスマンの勝ちは揺るがない。
このままコンスタンティノポリスを落としてもヴラドの破滅は確実だが、やはりこの手でヴラドを叩きのめし、コンスタンティノポリスに篭城する東ローマ帝国の末裔たちに凱歌を叫びたかった。


早く姿を現せヴラド公子よ。そして兄弟もろとも煉獄に焼かれて我がイスラムの歴史の一部となれ!


メムノンの心象風景はいつしか過去のヴラドがいまだ公子であった時代に戻っていた。
あの時に感じた嫉妬と羨望と憎悪をどうやってヴラドへ伝えればよいものか………。
その答えをメムノンは知っている。
今や守るべき数多くのものを背負ったヴラドの前で、彼の後生大事にしてきたものすべてを奪いつくして見せることこそが、心の飢えを満たす術なのだということを。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十話 死戦の始まりその5
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/02 01:07

攻囲戦から十日が経過しようとしている。
さすがにテオドシウス城壁の壁は厚く、空前の大軍を前にも小揺るぎもしないかに見える。
どうもメムノンの見るところ、将軍たちの戦ぶりは城壁の突破にこだわりすぎているように思われた。
確かに城塞都市の攻防は、市内へと乱入してしまえば勝敗は決するのが常であり、突破口を開こうとすることは戦理上間違ってはいない。
しかし歴史上最も堅固な城壁と言われるテオドシウスの城壁を超えるためには通常とはまた違ったアプローチが必要であるはずだった。


「畜生!まったく勤勉な奴らだぜ!」


ヴァニエールは予想以上の消耗の激しさに舌打ちを禁じえない。
オスマン軍はその大量の兵数をいかして軍団を四つに分け、半日ごとに交代することでほとんど二十四時間連続の戦闘行動を継続させていた。
これには歴戦の傭兵指揮官であるヴァニエールが悲鳴をあげるのも無理からぬことであった。

この時代夜戦による攻城は例外的な奇襲を除けばほとんど行われていない。
それは夜戦という戦闘行動が、この時代の兵が許容する戦術行動能力の限界を超えてしまうからだ。
損害のわりには得られる成果が薄すぎる。
夜戦が戦術行動の重要な一部を占めるのは分隊以下のレベルまで指揮統制が行き届いた二十世紀の国家軍隊の出現を待たなければならなかったのである。
しかしここまで兵数差が隔絶した場合、そうした戦術的な不利は黙認されてしかるべきでもあった。
安全な後方を確保して交替による休養をとらせることが可能であれば、損害比にかかわらず敵に与える消耗は加速度的に大きくなっていくであろう
事実帝国の守備兵はわずかな休憩をとる以外仮眠すらもままならなくなりつつある。
現状のままで損耗が推移すれば、休憩すら危うくなるのはもうじきだ。
もちろんそれをただ待っているほどメムノンはおひとよしではない。


「ちっ!伏せろ!狙われてるぞ!」

弩の練達を集めた狙撃兵部隊が属国からかき集められた雑兵に紛れて守備兵の漸減にあたっていた。
雑兵を盾にしたこの攻撃は、立て篭もる傭兵部隊の士気に深刻な打撃を与えつつある。
目に見えぬ場所から狙われていると知って旺盛な士気を維持できるほどの忠義が傭兵にあるはずもないからだ。
雑兵がいくら倒れたところでオスマン軍は痛くもかゆくもないということがそれに拍車をかけていた。

ヴァニエールは英仏間で争われたあの戦争こそ戦術の精髄であり、戦の進化した形態であると信じていた。
リッシュモン元帥の統率を目の当たりにしたこともある自分がオスマンごときに遅れをとるはずなどあるまいと。
しかしここは自分の知るいかなる戦場とも違う………。

「一ヶ月は責任を持つって言っちまったからな…………」

それでも一流の傭兵には一流なりの矜持がある。
不利だからといって絶望する気も自棄になる気もない。
やりとげるべきことはわかっていた。
あとはそれに環境を合わせてやるだけだ。

「ギリシャの火をくれてやれ!燃え尽きないように回数を分けて兵どもに休息をとらせろ!」

ヴァニエールは戦線を縮小し、兵にローテンションをとらせることでなんとかオスマンに対抗しようとしていた。




攻囲戦は順調だ。
しかし順調でないものがある。
肝心なワラキア公の消息が不明であることがそれだった。
可能なかぎり斥候を飛ばし情報を集めてはいるが、ヴァルナに入ってからのワラキア公国軍の動きが不明瞭であった。
最後の使者の報告は再びブルガリアを南下し始めたらしいという未確定のものであったが、それにしてもその歩みは遅すぎる。
最低でもそろそろトラキアを臨む地に達していなければコンスタンティノポリス陥落に間に合わないのではないか?
もしやヴラドは帝国を見捨てる気なのだろうか?

…………それはない、ないはずだ。

メムノンは疑念を振り切るように頭を振った。
コンスタンティノポリスをヴラドが見捨てるはずはない。
それがどれほど勝算の立たぬものだとしても。

まさか救援のふりだけをして間に合わなかったことを演出するつもりなのだろうか?

いや、確かにヴラドは一代の英雄だとはいえ帝国の後ろ盾なしにオスマンと正面から争えるほどの力はないのが現実だ。
そんなその場しのぎで今後を乗り切れるわけがない。
座して死を待つつもりなのか?ヴラドよ…………!

いささか利己的な恨みをヴラドに対して抱くメムノンの前に慌しく急使が駆け込んできた。

「宰相閣下!一大事でございます!帝都アドリアノーポリの北西にワラキア公国軍およそ二万五千が集結しております!」

「………ワラキアの動きはどうだ?」

「今のところ模様見の段階かと」

使者の言葉にメムノンは失意とともに怒りを覚えずにはいられなかった。
それはつまりヴラドにとって自分は首都に敵が迫ってきたからといって二十万攻囲軍を撤収させる愚か者と認識されているといわれているに等しい。
信じがたい侮辱であった。

アドリアノーポリの首都としての歴史などコンスタンティノポリスが陥落した瞬間に終わるということがわからんのか!?

ワラキアの動員兵力からいって国内の維持に残す戦力を考えれば二万五千という数字は妥当なものだ。
アドリアノーポリを伺うワラキア軍が派兵戦力の全てと思って間違いあるまい。


……………ヴラドよ、貴様には失望した。


「帝都の守備隊には手はずどおり守備に専念して迂闊な手出しは控えるよう伝えろ。もしワラキア軍が南下した後には速やかにその退路を断て、とな」

「はっ!」

興が削がれたがやむを得まい。
ヴラドの破滅を見るのは後回しにまずは地中海の宝石をこの手にいただくとしようか。
再びメムノンはいまだ激戦の続くテオドシウス城壁の戦いに目を見やった。
戦意の低いトラキアやセルビアのキリスト教徒からかき集められた雑兵がふりそそぐギリシャの火にどっと逃げ崩れる様子が見て取れる。


「退くな!退くものは斬る!退くことを見逃すものも斬る!退くものと同郷のものも斬る!死にたくなくば敵を倒せ!」


ラドゥの督戦隊が見せしめに何人かを切り殺し戦線と立て直すのを見てメムノンはニヤリと嗤った。
今はラドゥの決して報われることのない奮戦ぶりを見て溜飲を下げておくべきであった。





「全くヒヤヒヤもんだぜ…………」

斥候がもたらした情報はアドリアノープルのオスマン兵は固守するにとどまるというものであった。
それでも威力偵察がないとも限らないので迎撃の準備を怠るわけにはいかない。
それにしてもワラキア公の読みは大正解だった。

…………アドリアノープルの部隊は出戦してこない。

さすがに帝都を陥落されては兵はともかく行政を司る役人と組織に致命的なダメージを負う可能性がある以上野戦で守備兵力を失う冒険は犯せないのだ。
攻撃側と同等以上の戦力に立て篭もらせれば、まず短期に帝都を抜かれることはないはずであった。


…………まあ、落とす気もないがね。


落とすどころの話ではない。
二万五千のワラキア公国軍の実情はその大半がブルガリア内の旧貴族や不平市民、正教徒といったおよそ軍事教練とは縁のない烏合の衆で構成されていた。
攻勢に転じるどころか攻めかかられたら応戦することすら怪しいものである。
ワラキア公国軍別働隊指揮官ミルチャコフ・ツポレフ子爵は鼻を鳴らして薄く笑った。


よくもまあ、こんな策を思いつくものだ。まったくあの人を敵に回さずに済んだのは僥倖だな。


ミルチャコフはワラキア南部のブルガリア国境付近に領地を持った弱小貴族の一人に過ぎなかったが、ヴラドの帰還以来ベルドの父と旧知であったこともあって、
当初からヴラドに仕えている数少ない貴族のうちの一人だった。
その後のワラキアでは貴族の地位と権力は見るも無残に衰退していったが、こうして軍で重きをなす現在の自分もそう捨てたものではない。
今後は貴族も何らかの官僚として政府に取り込まれたものになっていくのだろうが、才と努力次第で己の手腕を振るわせてもらえるのならミルチャコフにはなんの
異存もなかった。


「隊を乱すなよ。ブルガリアの騎士連中にもそれだけは徹底させろ!とりあえず見栄えだけがオレたちの生命線なんだからな!」


ワラキア公から分派されたミルチャコフの配下は実際のところわずかに四千にすぎない。
ヴァルナからシュメン・ドブリチ・スタラザゴラ・プレペン・スリプエンといった北部諸市の警備兵力を一掃し住民を煽動して一軍を形成後アドリアノーポリの残存兵力に圧力をかけること。
それがミルチャコフの任務の全てだった。
オスマンに恨みをもつ者や、出世の機会と見る者にはこと欠かないため兵を揃えるのはさほどの難事ではなかったが、なんといっても実戦能力ときたら皆無に等しいのだ。
没落貴族の騎士たちを中心に、なんとか戦闘行動がとれそうなもの三千人とワラキア公国軍四千で前面集団を形成し、堅固な方陣を敷いているかに見せかけるのがミルチャコフの腕の見せ所であった。
さらにシエナ配下の間諜たちによりワラキア公国軍がアドリアノーポリに手をかけたことはブルガリア全土に知らしめられている。
今後はさらなる兵の増大や物資の支援が期待することも可能だ。

…………さらにトラキアからも叛旗があがるようなら雑兵ばかりのオレたちにもャンスがないわけじゃない。

もっともここでアドリアノーポリ軍を牽制しているだけでも、ミルチャコフの軍功が絶大なものになることは確かであったのだが。






「まったく………結局ここまでついて来ちまって………」

オレは胸を押し付けるように腕の中で丸くなっている伴侶に深々とため息をつくほかなかった。

「妾はたとえどこなりと我が君の傍にいると言ったぞ」

それがヴラドにとって迷惑であろうとも変えるつもりはない。それはヘレナにとって絶対の誓いなのであった。

「…………今回ばかりは危ないんだがなあ………」


目を転じれば狭いボスフォラス海峡を埋め尽くさんばかりの大艦隊が粛々と南下を続けていた。
ワラキア公国軍二万四千名にジェノバ軍傭兵二千はヴァルナ港から夜陰にまぎれて人知れず海路コンスタンティノポリスを目指していたのである。
ジェノバの誇る黒海艦隊の約七割と商船ガレーが多数・そして外洋に於ける艦隊戦にはまだ難があるものの、沿岸を兵員輸送する程度ならなんの問題もないワラキア河川海軍が総力をあげてこの輸送作戦に従事していた。


史実においてルメリ・ヒサルが建造された場所から十数キロ北部にカイルバシーと呼ばれる小さな入り江がある。
当面の目的地はそこだった。
ミルチャコフがオスマンの目をアドリアノーポリにひきつけている間に揚陸を済ませ、どれだけ速く内陸へ進軍に出来るかに作戦の成否はかかっている。
しかしそれが最速も極めた場合でも勝率は五割には届かないかもしれない、というのがオレの正直な分析であった。
出来うることならヘレナを連れて来たくはなかったのだが…………。


「妾が我が君の傍にいずしてどこにいるというのだ?」


そうして莞爾と笑うヘレナをオレはどうしても突き放せずにいた。


おそらく後世には戦場に幼女嫁を連れて行った軟弱者として書かれるんだろうな…………。


さすがにヘレナを連れるのは人目を憚る。
しかしそれも仕方のないことだろう。
古来から恋愛は多く惚れたほうが負けなのだ。
つまりそれはオレがヘレナに心の底からいかれているということなのであった。
ならば男としてするべきことは決まっている。

「我らの将来に仇なすものたちに等しく死を与えよう。奴らの屍の山がオレがヘレナに与える愛の証だ」

抱き寄せ、貪るように口づけたヘレナの唇からは、生得の甘い花の香りとともに、わずかに鉄さびた血の味がした。





[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十一話 決戦その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/02 01:20

カイルバシーに上陸したワラキア公国軍は一斉に南下して史実ならばルメリ・ヒサルのあった砲台群に背後から襲い掛かった。

「装填!速射!二連!撃て!」

極限まで省かれた単語の羅列によってワラキアの歩兵たちは腰に巻きつけられた早合の紙を歯で噛み切りすばやく火薬を流し込むと手早く杖で突き固める。
その所作は流れるように流麗で澱みない。
訓練のほとんどを射撃に費やしてきた練度の高さが如実に表れた瞬間だった。
十数秒という短い時間で装填を完了した数千に及ぶ銃口がその凶悪な顎をオスマン砲兵へと向けられた。

轟音

密度によって命中率の低さをカバーした銃兵の射撃音が響くと同時にオスマン兵がばたばたと倒れ、あるいは隣で倒れた戦友を見て恐怖に心を捕らわれたオスマン兵が
算を乱したように逃げ惑うのが見て取れる。
再びの轟音が響くと、もはやオスマン兵の動揺は決定的なものとなった。

「突撃!」

銃兵たちが一個の槍兵に姿を変じて雄たけびとともに吶喊していく。
槍先を揃え統制された歩兵の突撃を阻止できるものは、同じく統制された歩兵か圧倒的な火力のみだが、そのどちらも不幸にしてオスマン兵に残されてはいない。
海岸線の防御陣地はワラキア歩兵によってなすすべなく蹂躙される運命にあった。
本来、海上を侵攻するワラキア・ジェノバ両艦隊を撃滅するために整備された多数の砲列はその威力を発揮することなく破壊され、あるいはワラキア軍に鹵獲されて
いったのである。
コンスタンティノポリス攻城が本格化したことで海峡側の防備が大陸側に対して薄かったことが災いした。

「なんで後ろからワラキア兵が来るんだよ? 」

オスマン兵の当惑は正当なものであろう。
遠くブルガリアの北辺に至るまで全てはオスマンの大地である。
その中央部にあたるこの場所にいったいどこからワラキア兵がやってきたものか彼らには想像もできない。
これほど大規模な海上揚陸機動など英仏独の三王が揃った第三回十字軍ですら行っていないのだ。

大陸側から海岸線に向けられた攻撃に退路はない。
膝をつき、許しを乞うオスマン兵たちの上にも無慈悲な槍の一撃が突きたてられていった。

「悪いが捕虜をとる余裕はない」

これからオスマン本隊との戦闘を控えている以上捕虜を連れ歩く余裕などあるはずもなかった。
逃げるに任せる余裕もない。それでなくとも戦力は遙かに劣勢なのである。
悲鳴と怒号が飛び交うなか、オスマン兵の屍だけが積み重ねられていく。
もちろん捕虜をとらぬ以上は自らも捕虜になる選択肢がないということを、その場の誰もが承知していた。





「今だ!アナドル・ヒサルに全砲門を向けろ!」

キャラベル船を主軸としたジェノバ艦隊が機敏な機動で小アジア側の砲台群に砲列を向ける。
もともと陸上砲台と艦砲では陸上砲台が有利という原則があり、それが変わるのには二十世紀の超弩級戦艦の登場を待たなければならない。
しかし数と腕で海上戦力側が大きく上回っている場合はその限りではないはずだった。
黒海の覇者ジェノバの名が伊達でないことを、黒海艦隊司令官ボロディーノは実力をもって証明した。

「撃て!」

一斉に放たれた砲弾がアナドル・ヒサルの各所に着弾すると盛大に爆発が発生する。
榴弾の爆発が起きたのであった。
残念ながら精度の高い着発信管が実用化できない以上、昔ながらの導火線式を使うほかはないがその調整さえうまくいけば効果のほどは計り知れない。
機敏なジェノバ艦に追随するようにワラキアの各艦もまた砲撃の火ぶたを切った。
先頭を行くジェノバ船より一回り大きなキャラベル型の大型艦は、ワラキアが艦隊旗艦用に建造したルーマニア級であり片舷に積載した十門の砲門を開いて
ひときわ激しい弾幕を見せつけていた。

対するアナドル・ヒサルからの反撃は散発的なものとなった。
電撃的に対岸の砲陣地が無力化されたことにより、もしかすると小アジア側からも奇襲攻撃があるのではないか?という疑心を晴らすことができなかったためである。
指揮統制を回復しようにも手数も威力も艦隊側が有利で、城塞の各所に雨あられと砲弾が降り注ぐ現状では不可能に等しかった。

「うろたえるな!アナドル・ヒサルは落ちはせぬ!」

守将ケマルは声のかぎりに叫んだが、その効果は付近の手勢を激励するにとどまっていた。
もとより要塞としてのアナドル・ヒサルの防御力は本格的な西洋城塞に比べて著しく劣るのである。
それは兵力において圧倒するオスマン領内に大軍勢による侵攻が不可能であると考えられていたことが大きかった。
アナドル・ヒサルはただボスフォラス海峡に睨みを利かせているだけで良い存在だったのだ。

もしもケマルにいつもの冷静さがあれば、艦隊の攻撃が砲台に集中していることに気付いただろう。
敵の目的が占領ではなく、アナドル・ヒサルの一時的な無力化にあることがわかれば戦力温存の手段はあったのだが。
だが、対岸の占領で危機感を煽られたケマルにその状況を見抜く余裕はない。
なんとなれば、ほとんどの戦力をコンスタンティノポリスに集中したオスマンにとって小アジアに残された戦力は頭数にしかならない輜重部隊ばかりなのである。
一部将にすぎぬケマルがアナドル・ヒサルの死守に思考のすべてを傾注させたとしても無理からぬことというほかはないのだった。

「撃ち返せ!相手は一発当たれば沈むほかない船なのだぞ!」

これまで軽快に航行してきたジェノバの戦艦が直撃を受け、頭から波間に突っ込むようにして急速に沈んでいくのを見てケマルと幕僚たちは思わず歓声をあげた。
しかし全体として火力の差は覆しがたく次々と味方の砲声が沈黙していくのをケマルは暗澹とした思いで認めるほかはなかった。

「……………スルタンからの援軍はまだか………?」

反撃の力が失われた今、救いはほんの五・六キロ先にいるはずのコンスタンティノポリス包囲軍を頼る以外に道はない。
それまでたとえ身体は死してもアナドル・ヒサルを守り抜く悲愴な覚悟をケマルは心に固めていた





そのころコンスタンティノポリスの攻防はひとつの頂点を迎えてようとしていた。
間断のない射撃、後から後から湧いて出るがごとき歩兵の波状攻撃の前にさすがのヴァニエールも集中力を欠き始めていたのである。
弩兵の位置を割りだし砲撃によってそれをまとめて粉砕しようとヴァニエールが指揮棒を振り上げたそのとき事件は起きた。

的確で隙のない指揮を執るヴァニエールはここ数日にわたってオスマン狙撃兵部隊の最重点目標であった。
移動を繰り返し、遮蔽物をうまく利用することによって難を逃れてきたヴァニエールに、とうとう凶刃の矢が突き立ったのである。

「……………オレとしたことが」

ヴァニエールは嗤った。
狙撃兵がいる場所は掴んでいた。
戦場を見渡すヴァニエールの眼力はまだいささかも衰えてはいない。
しかし注意を払うのを忘れ結果的に狙撃を受けてしまっては何の意味もないではないか。

矢の一本はヴァニエールの左足の膝下からふくらはぎを貫いている。
もう一本は脇腹に深々と突き立っていた。
鮮血が噴き出る様子から見るに足のほうはどうやら動脈を傷つけているらしい。
どちらも早急な手当を必要としていることは明白であった。

「シェフ殿、ここは任せて下がってください」
「一時やそこらオレらがもたして見せまさあ!」
「あっしらはあの黒太子とやりあった 黒珊瑚団 ですぜ!」

歴戦の傭兵仲間が口々にヴァニエールの戦線離脱を促していた。
それほどにヴァニエールの傷は深いのだ。
そんなことはヴァニエール自身が一番よくわかっていた。そして、指揮官の負傷を知ったオスマン軍がより一層の苛烈な攻撃を仕掛けてくるであろうことも。
仲間のことは信頼しているが、ヴァニエールに任せられた戦力が傭兵仲間のみでないことを考えれば今戦線離脱などするわけにはいかなかった。


「この程度の傷が怖くて漢が張れるかよっ!」


手早く止血を済ませつつヴァニエールは砲撃の指示を下した。
そして一斉に放たれた複数の砲弾はこれまで狙撃兵部隊のいた大地に赤黒い染みを吸わせることに成功したのだった。
無論死ぬ気など微塵もない。
何よりも生き残るために、今はオスマンの攻撃をはねのけねばならないのだ。


「…………あまり待たせすぎると客が逃げるぜ、ヴラドさんよお………」


自分が指揮を執れるのはこの攻撃をしのぐまでのわずかな間にすぎない。
だが代りを探そうにも矢玉に身を晒しながら指揮を執れる人間はごくわずかである。
皇帝にしろ宰相にしろ最前線にはとてもつけられないからだ。
現実主義的なヴァニエールの観測からしてあと一日が、このコンスタンティノポリスを巡る攻防の山場になりそうであった。






存外に頑強な抵抗にメフメト二世は苛立ちを隠せない。
ワラキアの援軍が望めそうにないことを繰り返し喧伝しているが、コンスタンティノポリスの士気はいまだ軒昂を保っていた。
なかでも傭兵あがりの指揮官が目に見えて手ごわい。
彼の統率する兵の粘り強さはその他の守備兵とは明らかに違う異彩を放っている。
このまま戦いが推移すればあの指揮官は後世にその功名を残すだろう。
それがメフメト二世には許せなかったのだ。

「弩の射手が討ち取ることでしょう。永遠に集中できるものなどいません。いずれにせよ時間の問題かと」

落ちついた声で諌めたメムノンも声ほどに落ち着いていたわけではない。
もし万が一コンスタンティノポリスが陥落しないようなことがあれば自分の政治的立場の失墜は確実だからである。
ヴラドの来寇を予想しながらそれをはずしたことですでにメフメト二世には少なからず不興を買ってしまっていた。
このうえ二十万の大軍で帝都が落とせないとなればオスマンは全世界に恥をさらすようなものだ。
誇り高いメフメト二世が作戦の主立案者である自分を放っておくはずがなかった。

とはいえ理性の部分はコンスタンティノポリスの陥落は間近であると告げている。
すでに敵の消耗は限界に近づきつつあることは反撃の砲声がまばらになっていることからも伺えた。
あと少し、あと少しなのだ。
これで上級指揮官が戦死するようなことがあれば表面張力で保っていた水がコップからこぼれるように崩壊が始まるであろう。

「……弩兵が敵の傭兵指揮官の狙撃に成功しました!」

待望の報告にメムノンは戦機が熟したことを悟った。
損害を省みず総攻撃をかければ今度こそ勝利は目前であろう。
やはり自分の計算に狂いはなかった。
損害も許容の範囲内であり、コンスタンティノポリス占領後ヴラドを叩き潰すべき戦力は十分である。
全てはただ順番が変わっただけのことに過ぎない。

だが報告は吉報ばかりではなかった。

「ワラキア公国軍およそ三万が海岸砲陣地を襲撃しています!一刻も早く来援を願います!」

「馬鹿な!」

メフメト二世とメムノンは期せずしてともに後方の彼方に目を凝らした。



………確かに砲煙らしきものが上がっていた。
いったいどんな魔術を使ったらブルガリアにいたワラキア軍がコンスタンティノポリスに出現できるのだ?
ヴラドよ、お前はいったい何者なのだ?
まさか本物の悪魔だとでもいうのか?


耳を澄ませば砲声の轟きが微かに聞こえてくる。
どうやら味方の砲撃の轟音に今までかき消されていたようだ。
まさか戦線の後方から万余の軍が出現するなど誰も考えていない以上発見するのが遅れたのも当然だった。

あまりにも想定の範囲外のできごとにしばし呆然とするメムノンとは対照的にメフメト二世が下した判断は明快なものであった。


「どうやって来たかはしれぬが余の方針は変わらぬ。ワラキア公を戦場で撃滅する時が来たのだ」


もとよりコンスタンティノポリスを餌にワラキア公を討ち取るために練られたのが今回の作戦である。
この期に及んで作戦を変更する理由は何もない。
メムノンは自分の醜態を深く恥じながら主君の命令を復唱した。



「…………全軍をワラキア公国軍へ向けよ。決戦の秋は来た!」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十二話 決戦その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/04 00:50

オスマンとしては四つの兵団に攻城の指揮を分けていたことが幸いした。
機敏な反撃を取るにはオスマンの兵はあまりに巨大にすぎたが、少なくとも初動において最も東に展開していた兵団を急行させることはかないそうであった。
不幸にもワラキア軍に近い位置にいたのはオスマンのガレエル・パシャ率いる兵四万である。
もとよりオスマンの実働戦力全てを投入できるほど戦場は広くない。
まずはワラキアの鋭鋒を図り、その消耗を引きだすのがガレエルの役目であった。

「全くとんだ貧乏くじだぜ………」

ガレエルとしては舌打ちを禁じえない事態であった。
ようやく攻城から退避して休息をとれるかと思ったら今度は野戦のよりにもよって先鋒である。
しかも軍議のなかで先鋒に与えられていた熾烈な任務をガレエルは知っている。
すなわちイェニチェリの突撃までにワラキアの火力を消耗させることが求められていたのであった。
もちろん火力を失わせるものは兵員と弾薬の損耗であり、ワラキア軍兵の漸減が図れない場合、その命を盾に弾薬を消耗させなければならない、
いわば人身御供のお鉢が回ってきたとあればガレエルでなくとも愚痴のひとつも零れるものであろう。
だが、万難を排して軍を動かさなくてはならない、それも出来るかぎり速く。
ガレエルの瞳にはいち早くコンスタンティノポリスから後陣に展開しつつある督戦隊の黒衣が写っていた。
それは敵よりも無慈悲に振り下ろされる死神の刃なのであった。



あまりに想定外の出来事に鈍っていたメムノンの頭脳もようやく回復しつつある。
どうやらしてやられたようだが、ワラキア軍の総数三万弱という数字は変えられない、それがわかってさえいればいくらでもやりようはあるのだ。
信じがたいことだがワラキア軍は海からやってきたに違いないだろう。
アドリアノーポリを伺うワラキア軍はおそらく擬兵だ。そうでなければ偽の情報操作であるはずだった。
ブラショフ攻略戦においてヴラドは一度この偽報の計を使っている。


「待っていたぞ………ヴラド……!」


もちろんしてやられた悔しさがないわけではない。
しかしメムノンの胸にはただ歓喜があった。
あれほど憎悪し、その破滅を願った相手を目の前にして震えがくるほどの歓喜の高ぶりをメムノンは押さえきれずにいた。
ヴラドの小賢しい知恵を自らの力で圧倒する瞬間を、まるで恋人の逢瀬であるかのようにメムノンは待ち続けた。


オスマン軍の戦術構想は単純なものである。
もとより雑兵が大半を占めるオスマン軍に高度な機動性は望むべくもない。
ワラキア軍の頼みは火力の高さにあり、火力が失われれば兵数の差は絶対的な意味を持つ。
ならばワラキア軍の火力を消耗させることが出来れば問題の解決は容易いのではないか。
雑兵を弾除けと割り切って突撃させ、向上したオスマン軍の火力をもってワラキア軍の漸減を図る。
その非情な戦術を運用するための切り札が督戦隊の存在であった。
ヴラドは弟ラドゥの脅威によって滅びを迎えるべきなのである。




ワラキア公国軍は全軍をほぼ四つに分けて編成されていた。
本隊としてゲクランの統率する常備軍主力が一万五千、タンブル率いる砲兵部隊が三千、ネイが率いる公国近衛部隊が三千、総予備として五千の兵力を
ベルドが預かっている。
残念なことに騎兵はいない。海上揚陸をするためには馬の輸送は負担があまりに巨大すぎたのだった。

ほぼ欠けることなく布陣を終えた二万六千にも及ぶ兵力は掛け値なしワラキア公国軍の全力であった。
この戦のためにヴラドは国庫の貯蓄を完全に干上がらせることを決意していた。
それほどにワラキア公国軍の火力戦は経費を浪費するものであり、また公国以外の国に対する支援にも手を抜くことは許されなかったのだ。
母なるワラキアとハンガリーに残してきた兵力は老兵や若年兵が五千に満たぬものでしかない。

「公国の興廃はこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよってとこだな」

オスマンはともかくワラキアにとって敗北は滅亡と同義に等しい。
もちろんオレは自分の愛する者たちのために必ず勝つつもりであったし、戦の敗北が戦争の敗北に繋がらないだけの手配りを整えたつもりでもあった。
それでも破滅への危機感はいささかも拭えるものではない。
二十万という数の暴力はヴラドをして背筋を震わせるほどに圧倒的なものなのだ。
傍らでオレの手を握りしめてくれているヘレナのおかげでかろうじて醜態をさらさずにすんでいる。
この暖かな手を守るためにも敗北するわけにはいかないのだった。


……………悪いがルールが変わったってことを教えてやるよメムノン、それにメフメト二世よ


喉はひりつくように渇き、顔はまるで蝋人形のように血色を失っているのがわかる。
まるで高地に登ったような甲高い耳鳴りが脳髄への酸素が足りぬとわめきたてているかのようだった。
気がつけば息をするのも忘れていたらしい。
そんな極限の緊張のなかでただ口元だけが妙な角度でつりあがっていた。

嗤っているのか?オレは?

喉の奥でくぐもったような笑い声が断続的に空気を震わせている。
おかしい、これほどに怖くて逃げ出したいほど恐ろしいのに何故こんなに楽しくてたまらないのだ?
意識の奥底で狂喜に踊る未熟な魂が叫んでいた。


復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!


わかっているとも、ヴラド。今こそオレたちが目指した復讐劇の晴れ舞台なのだということは。






風雲急を告げていたのは何も陸上ばかりではない。
海峡両岸の砲兵戦力を無力化されたためボスフォラスからマルマラ海へジェノバ・ワラキア両艦隊を遮るものはなくなっていた。
外洋でジェノバ艦隊を自由を許すことはオスマン艦隊にとってはほとんど悪夢と言える。
ひとたび彼らを自由にしてしまえば捕捉することが極めて困難であることを現実主義者の船乗りであるマルケルス提督は熟知していた。
そうである以上現状最善の方策は海峡の出口に艦隊を急派し、敵艦隊をボスフォラス内に封じ込めることであるはずだった。

「狭い海峡内なら我らの有利だ!急げ!」

帆走軍艦ならではの高速機動を行うにはボスフォラス海峡は狭すぎる。
いかにジェノバ海軍が歴戦の船乗りといえど沿岸での戦闘はガレー船主体のオスマン海軍が有利に戦いを進められるはずだ。
にわか海軍のワラキアごときはとるに足りない。
この時代の海軍指揮官としてマルケルス提督の予想は全く正当なものであった。
問題は海戦のやり方そのものが根底から塗り替えられる瞬間を、己の目で確認しなくてはならないことにあるのだった。

「敵さん、罠にかかったようだな」

ジェノバ艦隊の司令ボロディーノ提督は潮に焼かれた赤銅色の頬を緩ませた。
海峡を突破するなど思いもよらなかった。
何故ならオスマン艦隊を効果的に撃滅するためには狭い海域に密集してくれることが望ましかったからだ。

「我に続け!」

ボロディーノの旗艦から発せられた旗流信号に全艦隊が呼応した。
流れるような動きで単縦陣に艦隊を再編したジェノバ艦隊は悠々と風上に遷移するとオスマン艦隊へ向けて突撃を開始する。
まずはキャラベル船で編成されたジェノバ黒海艦隊の第一陣が横帆に受けた風による高速を利して一気にオスマン艦隊への鼻面へと肉薄した。

「………全艦切り込みに備えよ!」

マルケルス提督はジェノバ艦隊の動き違和感を感じつつも冷静に艦隊に指示を下す。
違和感の正体は帆走軍艦であるジェノバ海軍の機動にあった。
この時代の海戦はほぼ衝角戦術と接舷戦闘によって行われ、その場合艦隊は風上から単横陣で突撃するのが普通である。
これは衝角にしろ接舷にしろ船首を敵艦のどてっぱらに突き立てる必要がある以上当然のことだ。
艦隊機動としては見事というほかないが、これではみすみす敵中に包囲されるだけではないのか?
マルケルスの疑念はすぐに晴らされることとなった。

「取り舵いっぱーい!」

ヨーロッパ側の沿岸部を高速で突き進んでいたジェノバ艦隊がオスマン艦隊の鼻面で大きく左に転舵した。
思わぬ暴挙にマルケルスは目を剥いた。
ほとんど倒してくださいと言わんばかりの無謀な機動だった。
敵に腹をさらすということは、戦船にとって最もしてはならない行為のひとつなのである。

「突撃せよ!敵は自ら墓穴を掘ったぞ!」

マルケルス以外の各艦長も思いは同じであった。
せっかくの好餌を逃す手はない。
瞬発力に富んだガレー船の突撃が始まろうとしたそのとき、耳をつんざく甲高い轟音が響き渡った。

「なんだ?あれは?」

長い棒のようなものが後部から火を噴きながら次々とジェノバ船の甲板から吐き出されていた。
ジェノバ艦隊が一斉に発射したものはいわゆる原始的な対艦ロケットにあたるものである。
安定尾翼をつけ後方から火を撒き散らしながら滝のように大量に落ちかかるそれはオスマン艦隊を一挙にパニックに陥れた。

「慌てるな!こけおどしだ!」

マルケルスは声の限りに叫ぶと突撃の続行を下令する。
小アジアでこそ初見の者が多いだろうが、マルケルスは幸いにしてフランス軍が装備した対地型のロケット兵器を見たことがあった。
確かに物珍しいものではあったが、その破壊力は大砲の射撃に遠く及ばない。
火災の処置にさえ気を配っていればなんら問題にはならぬはずであった。

ところが弾着とともに爆発的に燃え上がった強烈な火勢は、マルケルスの予想を完全に裏切るものだった。


「まさか………ギリシャの火か!!」


それはまずい。
その事実がもたらす事態の深刻さにマルケルスは息を呑むほかなかった。

東ローマ帝国の秘匿兵器といわれるギリシャの火はその性質をよく世界に知られていた。
すなわち水をかけても消えない火であり、恐ろしいほどの高温で燃焼する火なのである。
ただの火矢ならば海水で消すことは容易いがギリシャの火は事実上消火することは不可能なのであった。
そもそも火勢があまりに高温すぎるので近づくことすらままならない。

「た、退避しろ!」

惜しくもオスマン船をはずしたロケットはそのまま海上で燃え続けており、さらなる被害を避けるためオスマンの軍船はさらに陣形を乱した。
もはや突撃を続行するどころではないのは明らかだった。

続いてワラキアのキャラベル船隊が対艦ロケットの第二射を発射する。
甲板狭しと並べられたロケットは瞬間的な火力において比類ないものであった。
オスマンの前衛艦隊は完全に戦力を喪失しており、後続の無傷の艦隊は前衛艦隊が統制を取り戻すまで戦線に加入することができない。
いや、仮に参戦できたとしても後続の艦隊は二の舞を恐れて戦闘を控えるだろう。


「………海でジェノバに挑もうなんざ百年早いわ」


海峡を西から東へ横断して北上を開始したボロディーノ提督は会心の笑みを浮かべていた。
後続のガレー船部隊がありったけのロケットをオスマンの鼻っ面に叩き込んだことにより、ボスフォラス海峡にまるで炎のカーテンが出現したかのようである。
敵も味方もこの炎のカーテンを踏み越えていくことは出来ない。
しかし、オスマンのガレー船と違いボロディーノの艦隊は炎のカーテンを超えることなく攻撃ができるのだ。

「反転!砲撃用意!」

遠距離射撃でオスマン艦隊を撃滅できるとは思わないが、一方的に為すすべなく叩かれることほど士気を下げるものはない。
オスマンの軍船にも大砲を積んだものはあるが、そのほとんどは艦首に一門か二門装備されているのみで片舷に六門以上を備えたジェノバ・ワラキア艦隊のそれとは比較にならないのであった。


…………撃ちまくっているだけで敵は崩れる。


ボロディーノの読みは正しかった。
わずか一航過の砲撃の後それは明らかになった。

結局、ジェノバとワラキア艦隊の砲撃に乱打されたオスマン艦隊は海戦を続行する士気を維持することができなかったのである。
もとよりオスマン海軍は士気の高さで知られた軍ではない。むしろ陸軍に比べれば低いものと言わざるを得ない。
失った艦の数は二割に満たないとはいえ、砲撃の射程外へと逃走するオスマン艦隊が再びジェノバ・ワラキアの連合艦隊へ突撃することなどとうていできない
ことは艦隊司令のマルケルスが一番よく知っていた。




「…………もはやわしのような老兵の出る幕ではなかったか…………」

オスマン海軍に奉職して以来積み上げてきた経験が全く通用しなかったことをマルケルスは諦念とともに受け入れた。
ルールが変わったのだ。いや、ワラキア公によって変えられたというべきか。
もはや自分が死を賜ることは避けられないだろうが、今は次代にこの海戦の経験をつなぐことが自分に課せられた使命なのだとマルケルスは確信していた。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十三話 決戦その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/11 22:13
「こりゃあまたごつい景色だわなあ!」

ゲクランのなんとも鷹揚な感想に古参の傭兵たちから失笑が漏れた。
オスマンの先遣部隊四万が迫りつつある光景は確かに驚くべきものだが、それをごついと表現する人間はゲクラン以外にいないのではなかろうか?

「シェフ殿のお顔ほどではありませんがね」

古参兵の間で爆笑がわきあがる。
広い額に張り出た頬骨、傷だらけでとうてい滑らかとは言えぬ肌、強面のその人相はまさにごついと呼ぶ表現に相応しい。

「馬鹿野郎!オレのは厳めしいっていうんだ!風情ってもんがあるだろ?」

「………どのつら下げて風情なんて言いますか」

呆れたように副官が肩をすくめると再び爆笑の輪が広がった。
もちろんその会話は意図的なものであり、ゲクランも幕僚もお互いが一芝居うっているという自覚はある。
だが意図的に引き出された陽気な笑い声は名もない兵士たちの間に、水が大地に染みわたるように浸透していく。
戦争という極限状態の中で笑う、という行為は意識するとしないとに関わらず少なからぬ勇気と力になる。
ゲクランとその幕僚たちは経験的にそれを知っているのだった。



ガリエル・パシャ率いる四万の兵団はゲクランの統率する方陣に対し、正面から突撃を開始した。
雑兵ばかりで構成された第一陣の後方には正規兵の銃兵と砲兵さらにその後ろには督戦隊が満を持して控えている。
人柱の役目を押し付けられた形の雑兵には悪夢というしかない陣形であった。
戦意の有無にかかわらず、彼らには前進する以外に道はなかったのである。

「死戦せよ!我らが忠勇なる兵士たちよ!ここでワラキアに勝利を収めれば恩賞は思いのままぞ!」

往くも地獄退くも地獄………そんな状況に甘美な一滴がこぼされたことで、兵士たちは熱い奔流となってワラキア軍に襲いかかった。


「擲弾兵!」

一線に進み出たワラキアの誇る擲弾兵部隊が一斉に手りゅう弾を投擲する。
棒の先にくくりつけられた陶器の形状から、ワラキアの鉄槌と呼ばれて敵軍から忌み嫌われている攻撃であった。
炸裂音が響き雑兵たちの突進に一瞬の硬直が生まれた。

「放てぇぇ!!」

その一瞬の硬直を見逃すゲクランではない。
一斉射撃によってさらにバタバタと倒れる兵士が続出する。
前線の停滞により後続と前線の間で密度が飽和状態に達しようとしたその時、ワラキア砲兵による火力支援が開始された。

巨大な運動エネルギーがオスマン歩兵たちに無慈悲な死を振りまいていく。
さらに中には爆発とともに破片を振り撒く榴弾……焙烙玉といったほうがイメージは近いかもしれないが……があり兵士たちが身体の一部を欠損していく有様は
とうてい高いものとはいえない雑兵の士気を阻喪させるに十分であった。

両翼から迫る軽騎兵部隊もまた停滞を余儀なくされている。
側面に回りこもうとした騎兵の鼻面に火炎瓶を投擲されたためであった。
馬という生き物は臆病なものであり、よほど訓練を積んでいないかぎり炎に向けて突撃を続行できるものではない。
損害こそ少ないものの、大量の火炎瓶による火勢は戦闘正面を極限することに成功していた。

「………まったく噂には聞いていたが………」

ガリエル・パシャはワラキア軍の異常なまでの火力の集中に戦慄を禁じえなかった。
彼の知る戦場とは人と人の生身のぶつけ合いであり、士気と数が勝負を決めるものであったからだ。
しかしワラキア軍の戦いはおよそ士気と鉄と火薬の量で勝負するものであるようあった。

………だが結局戦いを左右するものが数であるという真実は変わらぬ。

そう、オスマンが誇るものは何も戦闘員の数ばかりではない。
火力の華たる大砲の数においても、決してワラキアに劣るものではないのだ。

雑兵の犠牲を尻目に今度はオスマン軍による火力支援が始まった。
ワラキア公国軍が誇る銃兵部隊は火縄のくびきから解き放たれたことにより、他国を遥かに凌駕する歩兵密度を保っているが、
砲兵の弾幕を相手にするには逆にその密度が仇となる。
一発の砲弾が時として三人四人のワラキア銃兵を撃ちぬき、各所で肉片を宙に巻上げていった。
さらに百年戦争でフランス軍が使用したものと同じ構造の対地ロケットが幾百の火揃となってワラキア銃兵に殺到し少なくない数の銃兵を
打ち倒すことに成功する。


「ぬるいんだよ!その程度でワラキア公国軍が崩れるか!」

オスマンの銃火に身をさらしながら、ゲクランとその幕僚たちはなお意気軒昂だった。
フス派が使用したことでその語源ともなった榴弾(フス派の大砲)はいまだオスマンの砲兵部隊には普及していなかったために、オスマンの砲撃は
砲弾そのものの直撃をさせないかぎり被害を与えられずにいたのである。
また対地ロケットも火薬のほとんどを推力にとられてしまっているので実は見た目ほどの威力はない。
瞬く間に混乱を収束したワラキア軍は肉薄する雑兵を一気に押し戻した。

オスマンの雑兵が装備する武器はそのほとんどを湾曲刀が占める。
対するワラキア銃兵は七十センチにならんとする長大な銃剣を装備しておりそのリーチの差は致命的であった。
槍先を揃えた銃兵の突撃に雑兵たちはほとんど為す術なく串刺しにされ、第二列のワラキア銃兵に至近距離から斉射を受けると彼らのなけなしの
勇気は完全に潰えた。
悲鳴と怒号のなかにオスマン兵が本能のままに逃走を開始したそのとき。

「………逃げるものは撃つ!」

壊乱し後方を覗き込んだ彼らの見たものは、まさに自分たちに照準を合わせた味方の銃口であった。
味方の銃口を逃れてもさらにその後には督戦隊がおり、またさらに後方からは新たな兵団四万が迫っている。
退く先に待っているのは確実な死…………ならば、

「アラーに栄光あれ!!」

あえて狂気に身をゆだねて雑兵たちはまるで泣き声のような甲高い叫びとともに再びワラキア軍へと猛進した。

「槍先を揃えろ!どうせ長くは続かぬ!」

ゲクランの読みどおり、無秩序な突進はワラキア兵を一時的に押し戻すことに成功したものの、目だった被害を与えるわけでもなく
体力の限界とともに停止し二度と立ち上がることはなかった。
狂気は一時的に身体の力を引き出しはするが、その制御の及ばぬ働きは結果的に兵士から立ち直る余力すら奪ってしまうことを、
歴戦のゲクランが知らぬはずもなかったのだ。



第二波の兵団もガリエルと同様の経過を辿っていた。
ワラキア公国軍の方陣の備えは堅く数にものを言わせた雑兵の突撃はいまだ大きな効果を挙げられずにいたのである。
しかし目に見えないところで彼らは着実な戦果を成し遂げていた。

「全く叩いても叩いても湧いてきやがる………!」

ゲクランの巧みな指揮により最小限に抑えられていたものの、ワラキア公国軍の消費した弾薬量は莫大なものであり莫大な消費を
維持し続けられるほどにワラキア公国軍の備蓄は多いものではなかったのである。

「あとどれほどだ?」

「銃兵は予備の在庫があと百斉射ほど、手榴弾は手持ちが最後です」

「思ったより早いな………早すぎる」

まさに予想を超える消費量というべきであった。
もとより前方二列を射撃させ、後方に下がることでところてん式に射撃を継続するスウェーデンマスケット式の射撃法が、弾薬消費量を飛躍的に
増大させることは予想されていた。
しかし督戦による無秩序な突撃の継続はワラキア軍に予想を上回る補給上の負担を強いていたのだ。
既にワラキア銃兵は二つの兵団との戦闘で二百を超える斉射を行っており、このまま戦況が推移するならスルタンとともにある
イェニチェリ軍団との戦闘の前に弾薬が尽きる計算になる。
手榴弾がほぼ底を尽きかけた今、銃兵の負担は増えこそすれ決して減るはずがないにもかかわらずだ。
戦端が開かれてから四時間以上が経過し、銃兵部隊にも疲労の色が見えはじめていた。

「こりゃあ、やっぱり奥の手が必要になるかな………?」

ゲクランはわずかに首をひねって後方の本陣にいるはずの主を見やった。
敵にも味方にも想定に大きな齟齬が生じている。
特に督戦の効果を甘く見ていたツケは大きい。
だが問題はその齟齬をどこまで許容できる戦略を立てていたかということと、どこまで速やかに修正ができるかということなのだ。
その決断は尊敬すべき主君の胸ひとつにかかっていた。

「オスマンの銃兵が接近します」

雑兵の排除が終わったと思っていたらその間隙に銃兵が距離を詰めてきていたらしい。
射撃戦ではワラキアが優位にあるとはいえ、憂鬱な相手であった。

「第一列、第二列斉射後突撃する。オレがいいと言うまで止まるな!一気に蹴散らしてくれる!」

オスマン軍も銃兵を増やし、銃剣も装備しつつあるようだがそれだけでは足りない。
各個射撃ではなく統一された斉射、ファランクス並みに統一された突撃、その運用があって初めて銃兵は軍の主力足りうるのだ。
そこまでの理解が及ばなかったのかあるいは時間が足りなかったのか、ゲクランの見るところオスマンの銃兵には未熟さが目立つ。

ヴラドがどのような決断を下すにしろ、ゲクランは戦術指揮官として最善を尽くす以外にない。
今は余計なことは考えず目の前の敵に集中することにしてゲクランは部下とともに突撃に加わった。





海岸陣地の救援と再構築のために予定していた野戦陣地での迎撃という戦略が崩壊し、兵団を分散配置していたことで兵力の逐次投入という
戦術的な瑕疵がある以上ワラキア優位の戦局は折込済みであるはずだった。
いささかスルタンの気負い過ぎのきらいはあるものの、メムノンとしても出戦に否やはなかった。
噂に聞くワラキアの工兵部隊の能力をもってすれば、時間を与えてしまうと恐るべき防御陣地を構築してしまう可能性があったからだ。
だがしかし……………

「何なのだ?この損害は?」

このわずか半日足らずの戦闘で失われた人命はメムノンの予想を大きく上回っていた。
いかに激しい戦場とはいえここまで容易く人は死ぬものであったろうか?
失われた二つの兵団の死傷率はほぼ三割に達しようとしている。
これは組織運営上全滅に等しいものだ。
兵団が再び軍事組織としての能力を取り戻すためには指揮系統の再編作業が絶対に必要であった。
それのない残存兵はただの烏合の衆にすぎない。
稀にこういった烏合の衆を一瞬にしてまとめてしまう英雄が現れることがあるが、現在のところそうしたカリスマ的英雄はオスマンの軍中には
存在しないのである。

「………厄介なことになる、な…………」

あまりにも大きすぎる損害はオスマンの覇権を数年先延ばしにしてしまうかもしれない。
しかしヴラドの首はそれを補って余りあるものだ。
先ほどから手榴弾の炸裂音がないことにメムノンは気づいていた。
計画は大筋で順調に推移している。
それにオスマンにはワラキア軍にない切り札が存在するのだ。
メムノンの見るところ切り札の投入時期はそれほど遠くないはずであった。




メフメト二世はメムノンほどに淡白ではいられなかった。
彼の内心には抑えがたい偉業への渇望がある。
この戦いでワラキアとコンスタンティノポリスの双方に勝利を収め、やがては欧州とアジアの支配者たることこそメフメト二世の尽きせぬ野望であった。
戦の得手とはいえぬメフメト二世の目にもワラキア軍が着実に敗北へと近づいているのは確実だった。
第三の兵団の投入時からワラキア軍は戦線を一キロ以上に渡って押し戻されている。
それでもどうにか戦線を維持していられるのは、あのゲクランとかいう前線指揮官の手腕と、ワラキア公の右腕といわれるベルドの予備兵力の支援が
あればこそであった。
このまま戦闘を継続しても勝利は疑いないだろうが、メフメト二世には一抹の不安がある。
太陽が西に傾き始めていたのだ。
この時代に夜間追撃を正確に行える能力はまだない。
北方の山岳までそれほどの距離もなく、そんな場所でワラキア軍を追撃するようなことになればなまじ大軍であることが仇となってしまうだろう。
とはいえ、せっかくここまで消耗させたワラキア軍に休息を与えてしまうのは、軍事的にもメフメト二世の心理的にも許容できることではなかった。

「そろそろ決着の時だとは思わないかね?先生(ラーラ)よ」

メムノンは莞爾として頷いた。

「スルタンの御心のままに」

さあ、ヴラドよ、堪能してくれ。
私が手塩にかけ、生涯の知識の全てをつぎ込んだ恍惚の兵士たちを!

元来より学者であったメムノンの調合した麻薬によって恐怖と痛覚を限りなく麻痺させられた漆黒の兵士たちは、猛りもなく、喜びもなく、ただ沈黙とともに
ワラキア公国軍へと進軍を開始した。




ゲクランは目の前のオスマン軍が退却にかかっていくのを軽い驚きとともに見つめていた。
押されていたとはいえ、第三の兵団はいまだ余力を残していたはずであり、組織的な退却が許されるとも思えなかったのだ。

…………なにかあるわな、こりゃあ…………

はたして入れ替わるように前進を開始した兵団をゲクランの瞳が捉えた。
一瞬意外な光景にゲクランほどのものが虚を衝かれた。
進み出た兵団とは、漆黒の鎧に漆黒の旗を携えた、悪名高い督戦隊であったのである。




「例の物は準備できているか?」

オレの目にも督戦隊が進んでくるのが映っていた。
心に錐を穿たれたような痛みを覚えずにはいられないのが、オレの甘さなのだろうか?
この期に及んでまだラドゥと戦いたくないとは…………。

「ゲクラン殿があの丘の下まで退いてくればいつなりと」

「……残る火炎瓶をありったけ投擲しろ!あの死神どもを押し戻して一気にゲクランを退かせるのだ」

オレが作戦の指示を出すのとラドゥ率いる督戦隊の突撃は奇しくも同時であった。
その数五千に満たないとはいえ、漆黒の兵士がしわぶきひとつ立てぬままに突撃する様は、見るものに不吉な予感を与えずにはおかなかった。



火炎瓶の投擲により前方には少なからぬ炎の結界が張られた。
行動の自由を失った彼らの停滞を狙い打つというゲクランの目論見は軍事的にいって全く妥当なものだ。
だが、督戦隊の者たちはゲクランの想像を遥かに超えたところにいた。

「アラーに栄光あれ!」

炎に向っていささかも歩調を緩めることなく突撃した彼らにさすがのゲクランも目を疑った。
炎に対する恐怖心は生理的なものであり、いかに士気の高い軍隊であっても炎に生身で飛び込むような真似はできない。
もしできるものがあるとすればそれは真っ当な人間ではありえなかった。

「撃て!」

有効射程ぎりぎりだが構っている余裕はない。
敵の中には生きながら蝋燭のように炎を纏ったままで突撃してくるものもいる。
近接されるまでに出来うる限り漸減しなければ………いや、あのような者たちを銃撃などで本当に漸減できるものなのか?

そもそも銃撃の命中率は低い。
ライフリングが実用化されていない現在は特にそうだ。
にもかかわらず銃撃が戦場で決定的な抑止力たる理由は、その轟音と確率可能性にあるのだった。
仮に銃撃の命中率を三%と仮定しても十回の斉射を受ければその中に自分が含まれる可能性は激増する。
次は自分に命中するのではないか?
次の次こそは命中するかもしれない。
そんな可能性を待つ時間にこそ人は恐怖する。
訓練とはその恐怖に耐えうる限界の底上げに他ならないのだ。
そんな練度の高い部隊にしても限界を超える恐怖にさらされれば壊乱は免れない。
もしも恐怖を完全に拭いさることが出来たならそれは銃兵にとって最悪の相性であるはずだった。

「畜生!なんなんだよお前ら!」

炎に包まれ、銃弾に貫かれながらも前進をやめない兵士たちの異常性が逆にワラキア軍兵士を恐慌に陥れた。

「頭だ!頭を狙え!」

ゲクランの必死の指揮も一度起きた混乱を収集するにはいたらない。
遂にワラキア公国軍は常備軍設立以来初めて中央突破を許したのだった。





………………やられた

この時点でオレは敗北を覚悟した。
オレの用意した奥の手は敵と一時的に距離をおくことを前提としている。
ここまで接近されてはその手はつかえない。
督戦隊の投入がもう少し遅ければ間に合ったのかもしれないが戦場では先手を取ったものが優位に立つのは当たり前のことだった。
遅れた自分が悪いのだ。

「すまんがヘレナを………」

ヘレナだけでも脱出させようとしたそのときだった。

「ネイ!ゲクラン殿を左右の両翼から至急退くように合図しろ!本陣の榴弾をありったけ叩き込んだら私が近衛二千で突撃をかけるから後は手筈どおりに頼む」

ベルドが会話に割り込んできた。いや、それどころかオレの意思を無視して全軍の指揮を執ろうとしていた。

「近衛の指揮官は私だ。役どころが違うぞ、ベルド」

「近衛が守らずして誰が殿下を守るのだ?それに私には古い知人との約束があるのだ、それは貴官には譲れぬ類のものだ」

ネイはベルドを翻意させることができないことを卒然として悟らざるを得なかった。
こうしている間にも敵は接近し続けており、一刻の猶予もない。

「………武勲を祈る、友よ」

「殿下を頼む、友よ」

「お前たちオレを無視して何を勝手なことを言ってやがる!?」

すでにして二人の考えていることはわかっていた。
ベルドは死ぬ気だ。
近衛兵二千とともに敵を足止めして死ぬ気なのだ。

………そんなことは認められない。
たとえ身びいきが過ぎようとも年来の友をこんな形で失うことなど…………。

「そなたの忠誠に感謝を、ベルド」

「さらばです、公妃殿下」

ヘレナ?!

愛すべき伴侶の言葉に思わずオレは言葉を失った。
どうしてベルドの死をそんな簡単に許容してしまえるのだ?
ヘレナもベルドとは仲良く信をおいていたのではなかったのか?

「我が君………臣下には臣下の、主君には主君の務めがある。汝は主君なのだ、それを忘れてはならぬ」

奥歯が軋み、手のひらに爪がくいこんで鮮血が指先を伝って大地に吸い込まれた。
畜生!こんな思いをするためにオレは君主になったわけじゃないのに!

「ゲクランの収容を急げ、点火したら一気に退くぞ」

ベルドに背を向けてオレは歩き出した。
泣くわけにはいかない、この決断を下した責任として泣いて楽になることなど決して許されるはずがないのだから。





ベルドが率いる近衛兵二千名の機動は選び抜かれた精鋭の名に恥じぬものだった。
一糸乱れぬ統率を保ちながら督戦隊に向けて銃口を向ける。
ただの銃ではない。口径が短く大きなそれは後代の大鉄砲に分類されるものだ。
いかに痛覚が麻痺していようとも、即死ダメージを受ければ死を免れることはできない。
さすがの督戦隊の兵士たちも、榴弾砲や大鉄砲の射撃に耐えることはできないのだった。

…………ラドゥ殿下はどこにおわす?

洗脳されたものと忠誠をちかったもの、互いに心を鎧ったもの同士が血で血を洗う激戦を繰り広げる中、ベルドはただラドゥの姿を捜し求めていた。
誰にも話していないことだったが、かつてアドリアノーポリでの虜囚から解放されたときにベルドはラドゥから頼まれたことがひとつあるのだった。

「…………私が兄様の障害になるときは殺してください」

一人アドリアノーポリに残るラドゥには、漠然と今日の事態を予感していたのかもしれない。
年が近かったこともあって、ラドゥとベルドは少年時代のもっとも大切な時期を共有した記憶があった。
だからこそラドゥも別れ際にベルドにそんな依頼をしたのかもしれなかった。

互いに心を鎧ったもの同士なら訓練と才能に勝る近衛兵が勝つのは当然である。
無敵を信じていた督戦隊が押される様子にメムノンは激昂した。

「死に損ないを叩き潰せ!一人たりとも生かして帰すな!」

わずか二千名の近衛兵に数万の軍勢が殺到した。
だが、督戦隊の異形たちと全力で交戦する彼らに対応する余力はない。

「一人でも多く倒せ!一歩でも前に進め!銃がなくなれば剣を抜き、剣がなくなれば牙を剥け!死の瞬間まで戦いを諦めるな!」

くしの歯が欠けるように一人また一人と精鋭が失われていく。
いつの間にかベルドに付き従う兵は百人を割っていた。
だが、すでに目的は達せられている。
オスマンの兵を釘付けにし、ゲクランの撤退を完遂させた以上、残るは幼い日の約束を果たすのみ!
最後の突撃に力を振り絞った近衛兵は遂に約束の地への扉をこじ開けることに成功した。

「………約束を果たしにきてくれたのかい?ベルド」

美しく成長しながら幼い日の面影を残すその姿を見紛うはずもない。
ベルドの探し求めたラドゥの姿がそこにいた。
期待と不安の色を浮かべたラドゥの瞳は、それでも幼い日の約束の履行を求めているかのようにベルドには感じられた。

……………だがそこまでだ。

もうベルドには立ち上がる力も残されてはいない。
腹部には剣が突きたち、胸には数発の銃弾を浴びている。
瞳に写るラドゥの顔すらおぼろげな有様だった。
一筋の涙がベルドの瞳から流れて落ちた。

………………ごめんよ、ラドゥ。また君を残していく私を許してくれ…………


「………………ベルド…………眠ったの?」



ワラキア公の腹心として草創期から辣腕を振るってきたベルドの命はベシクタスの原野で永久に停止した。







ワラキア公国軍の前面から恐ろしいほどの勢いで黒煙が噴きあがったのはそのときだった。
幅数キロになんなんとする長大な距離にわたって、まるで原油火災のような密度の濃い黒煙が発生していた。
実際にこの火災には原油の成分もふんだんに使われている。
見たことのない黒煙にしばしオスマン軍は驚愕とともに停止を余儀なくされたのだった。

後世の歴史家は指弾する。
まさにこのときオスマン軍は黒煙に向かって突入するべきであったと。
しかし現実問題として油脂が充満し目を開けてなどいられない環境で万余の軍が突撃すればどうなるか、それは素人でもわかることだった。
まして火災の炎と地雷すら設置されたなかに迂闊に飛び込めばやはり追撃どころの騒ぎではなかったであろう。
オスマン軍の視界を遮る密度の濃い黒煙の正体はワラキア軍が戦史上初めて実戦に投入した煙幕であった。
約二時間後、ようやく煙が晴れたとき、ワラキア軍の姿は影も形も見当たらず、西の空にはすでに夕闇が迫ろうとしていた。





「…………逃げおった………」

メムノンもメフメト二世もヴラドの逃亡には失望を隠せなかった。
ワラキア軍が撃退されたと知れればコンスタンティノポリスは手もなく落ちる。
コンスタンティノポリスが落ちればヴラドの命運も尽きるはずであった。
ならば最後の最後まで死力を尽くして戦い、潔く雌雄を決するのが英雄たるの勤めではないのか?
ただ滅亡する時間を先延ばしにしていったい誰の感銘が呼べるだろう。

艦隊がボスフォラス海峡の出口でかなりこっぴどく叩かれたという報告はメムノンたちの耳にも届いていた。
おそらくはどこかの入江で海路脱出を図るに違いない。
追撃しようにもワラキア軍の逃走経路がわからないなかで夜間行軍させるのは危険が大き過ぎた。

「所詮それまでの男か………」

メフメト二世は嘆息とともにヴラドの追撃を諦めた。
もはやヴラドの不敗の神話は破られた。
あとは出来うるかぎり惨めな最後を遂げさせてやることで溜飲を下げるほかあるまい。

「鬨を挙げよ!」

余こそはワラキア公を最初に破った男である。
そして明日にはコンスタンティノポリスの支配者となるべき男なのだ。
ワラキアの到着前に落城寸前であったコンスタンティノポリスがワラキア軍の敗北を目にして抵抗できるはずがない。
仮に抵抗したとしても守りきる戦力がないのは明白だった。
スルタンにしてローマ皇帝でもあるという史上空前の偉業を前にメフメト二世は笑みのこぼれるのを抑えることが出来なかった。





翌朝早々に軍使がコンスタンティノポリスを訪れていた。
皇帝の譲位とコンスタンティノポリスの明け渡しという降伏条件は皇帝に一顧だにされず一蹴された。
不思議なことにいまだコンスタンティノポロスの士気は軒昂だった。
使者の言葉を聞いたメフメト二世は深くうなづくとともに攻城戦の開始を下令した。

…………せめて滅びを美しく飾ってやることも王者の勤めというものか

皇帝コンスタンティノスもことここにいたって生きながらえるつもりはないのだろう。
仮に自分がその立場だとしたら、やはり勇壮に戦って果てることを選ぶはずだった。
そんなメフメト二世の夢想はオスマン軍の鼻面に打ち込まれた砲撃によって破られることになる。

榴弾の爆発が立て続けに発生していた。
人海戦術を多用するオスマン軍にとってその効果は予想以上に大きい

おかしい、先日までの攻城戦でこんな武器はなかったはずだが…………。

さらに手榴弾が城壁から投擲されるに及んでさすがのメムノンもメフメト二世もコンスタンティノポリスに何が起こったのかを悟らずにはいられなかった。






「オレが来たからには十年経っても落とさせやしないぜ、スルタンさんよお」


ひび割れたガラガラ声で不敵に嘯く男がテオドシウスの城壁からオスマン軍を見下ろしていた。


マルマラ海の西から補給物資とともにやってきたヤン・イスクラ率いる傭兵部隊四千名がすでに満を持して待ち構えていたのである。




[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十四話 夢の終わりその1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/14 20:36

たちの悪い詐欺にひっかかったような気分であった。
否、これほどたちの悪い詐術にひっかかったことはない。
当代を代表する君主と君主がその総力をあげて戦ったあげく、それが詐術の手妻であったなどということがあってよいものか。
メフメト二世は怒りに震えていた。
あの小人には英雄たるの資格がない。
余の好敵手たる資格すら認められない。
そうである以上、こうしてしてやられたままの自分を許容することはできなかった。

…………この報い……必ずやその身で購わせてくれる!





メムノンの受けた衝撃は、ある意味でメフメト二世を遥かに上回るものであった。


…………全てにおいて上をいかれた………


メムノンにとってヴラドとの戦いは己の人生を賭けた智が、決してヴラドに劣るものではないということを証明するためのものだ。
ヴラドの小細工を粉砕し、勝利したと信じた瞬間には歓喜すら覚えた。
それが全てはヴラドの手のひらの上であったと知ったときの絶望はおそらくメムノン以外には理解できぬほどに深く険しいものだった。
だが、メムノンもまた期せずしてメフメト二世と同じことを誓っていた。
それはヴラドに対する報復を達成するまで、敗北を認めるつもりはないということだった。





オスマン軍の選択肢はおおまかにいって三つある。
ひとつはこのままコンスタンティノポリスの攻城を続けることだ。
しかしヤン・イスクラ率いる傭兵部隊の戦闘力を勘案した場合早急な落城が望めないのは明らかだった。
先日ワラキア軍が多用していた手榴弾や火炎瓶を大量に装備している以上、疲弊の激しいオスマン軍にはその損害に耐え切れぬ可能性すらある。
海峡を封鎖していた砲台群が壊滅して、ボスフォラス海峡の制海権が完全とはいえないのも大きい。
オスマン艦隊はいまだ八割以上が健在だが、海峡の封鎖を継続するためにそのほぼ全力が拘束されており、物資輸送に深刻な船舶の不足をもたらしていた。
ふたつめはワラキア軍の後をたどり追撃することだ。
しかしこれにはいまだワラキア軍がどこへ逃げたか定かでないという致命的な欠点がある。
もう少し情報を集めれば判明するのかもしれないが、仮にブカレスト要塞あたりに篭られてしまってはもはや追撃どころではない。
現状では実現可能性の低い選択肢であった。
みっつめはワラキアと講和を結ぶことである。
これは今のところメフメト二世とメムノンが継戦の意志を明らかにしている以上考慮する余地のないものだ。
スルタンの直系がメフメト二世以外に存在しないため本国貴族がいきなり離反することはないであろうが、服属させた属国や辺境はオスマンの力が弱体化すればいつ叛旗を翻してもおかしくない。
一応ワラキア公を戦場で破ったという名分が立たないではないのだが、このままなんの成果もあげられずに講和するようなことがあればアルバニアやブルガリアの失陥は確実である。というよりワラキア公が支援を受けたアルバニアとブルガリアの解放を条件にしてくるのは間違いないのだ。
仮にそうなれば首都であるトラキアのアドリアノーポリが直接危機に晒される。
とうてい呑める条件ではなかった。
もっとも、オスマン帝国の存続という観点からは、たとえ国土が縮小しようともここで和平するべきなのかもしれなかったが。






「息災か、我が義妹よ」


「殿下の御情を持ちまして」


フリデリカはわずかな近臣とともに母国ポーランドを訪れていた。
義兄たる国王カジェミェシュ四世に謁見するためであった。

正直なところカジェミェシュ四世は目を疑っていた。
最初はワラキア亡国の危機に逃げ帰ってきたのではないかとさえ疑っていたのだ。
それほどにこの義妹は気の弱い平凡な娘にすぎなかった。
ところがこうして相まみえればその堂々たる威風はまるで一国の王妃であるかのようである。
たった二年足らずで何があれば人をここまで変えてしまえるものか、カジェミェシュ四世には想像もつかなかった。


「単刀直入に申します、陛下にはワラキアへ早急な援軍をお出し頂きたいのです。それもできるかぎり目に見えるような規模で」


意気込みは立派だがそれだけで一国を動かしうるものではない。
義妹の成長に嬉しさとわずかばかりの失望も感じつつカジェミェシュ四世は苦笑した。
とうにその問題は答えが出たはずのものであったからだ。


「フリデリカ、無茶を言うものではない。ワラキア公が祖国を守ろうとしているように、余にもポーランドを守るという責務がある。一国の命運を博打に賭けるような真似はできんのだよ」


ましてカジェミェシュ四世にとってワラキアは必ずしも友好国というわけではない。
むしろ仮想敵国に位置するといっても過言ではなかった。
義妹には決して言えないことだがカジェミェシュ四世はもし戦いがオスマンの圧勝に終わった場合、モルダヴィアを手中にせんと決意していたのだから。


「ヴラド殿下は勝ちます。勝ってこの東欧の覇者となるでしょう。そのときポーランド王国が手をつかねて傍観していた場合、それはポーランドにいかなる将来をもたらすでしょうか?」


フリデリカの発言は無視できぬ要素を含んでいるようにカジェミェシュ四世には感じられた。
その迷いのない確信が惚れた弱みであるものか、もしそうでないとしたら由々しい事態を招きかねない。


「…………なぜワラキア公が勝つと言える?戦とはお前が考えるほどに甘いものではないぞ?」

「少し言葉に語弊がありましたわ。勝つのではありません。すでに勝ちつつあるのです。カッファの港では今頃はその話題で持ちきりでしょう」


カジェミェシュ四世は自らの顔が驚愕に支配されていくのを抑えることができなかった。


………カッファに情報が入るということは……ジェノバの艦隊がオスマンの艦隊を打ち破ったということか!


その可能性は考慮していた。
なんといっても黒海に港を持つポーランドとしてもジェノバ艦隊の精強ぶりは熟知するところであるからだ。
ボスフォラス海峡を砲台で封鎖したと聞き及んだときにはジェノバ艦隊もこれまでかと思ったものだが………現実は予想を裏切ったということだろうか。


「ジェノバ艦隊が勝利したからといってワラキア公が勝利するとかぎったものではないのだぞ?」


この場合、ワラキア公の勝利だけが問題なのだった。
ジェノバは結局のところ一枚岩ではないし、オスマンにとって海軍力は戦の最重要要素ではないからだ。
いくらジェノバが快哉を叫んでも、ワラキア公が陸戦で敗北し、あるいはコンスタンティノポリスが陥落してしまえば最終的な勝利はオスマンで動かない。


「オスマンがまんまと殿下の陽動にかかり、コンスタンティノポリスへヤン・イスクラの入城を許したこと、カッファでは幼子ですら知っておりましょうに………」


薄く笑いながらフリデリカのこぼした言葉が与えた影響は甚大だった。
上部ハンガリーの雄、ヤン・イスクラの名はカジェミェシュ四世も承知している。
もし彼が配下とともにコンスタンティノポリスへ入城したというのなら、もはや生半なことでは落ちまい。
だが、いったいどんな魔術を使えば重囲にあるコンスタンティノポリスへ増援を送り込めるものか。


「……………その話、確かめさせてもらうがよいか?」


「お急ぎなされませ、陛下。ワラキアを支援しようとする国は何もポーランドばかりではありませぬ。遅れをとればポーランドの将来に禍根を残しかねませぬぞ」


援軍を乞うていながら、むしろそれがポーランドのためであるがごとき言いようにカジェミェシュ四世は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
さらにフリデリカから語られる恐るべき世界の変転ぶりに、カジェミェシュ四世は完全に絶句した。






「アハー!上出来ですよ。姫様!」

慣れない演技にぐったりと長いすにもたれかかったフリデリカにまるで向日葵のような爛漫の笑顔を向けているメイドがいた。
いや、東欧に向日葵はないのだが。
フリデリカが疲労困憊するのも無理はない。
カッファがワラキア勝利の報に沸いているなどというのはハッタリもいいところだったからだ。
もちろんヴラドの成し遂げた戦略的勝利は確実なものであり、問題はそれがいつカッファにもたらされるかということであった。
ジェノバの快速船ならばすでに入港しているであろうという憶測をまるで見てきたかのように語って見せたフリデリカの演技力は見事というほかはない。


「私は殿下のお役に立てましたか?アンバー」


「たてましたとも!これは殿下がお帰りの暁にはたっぷり閨でご褒美をいただかなくてはいけませんね~」


「っっっ!!!」


真っ赤になって俯くフリデリカに優しい視線を投げながらフリデリカに長く仕える古参メイドアンバーは 計算どおり! とでも言いた気な会心の笑みを浮かべていた。
側妃フリデリカの腹心にして傀儡の魔女と後に呼ばれる彼女だが、フリデリカを見つめるその瞳はどこまでも優しく曇りのないものであった。





ミストラスに構えた自身の居城の中でソマスはただ瞑目していた。
当初ソマス優位にあった戦況は、数々の小競り合いがソマス側の勝利に終わったにも関わらずデメトリオスが圧倒的に優位なものに変わっていた。
デメトリオスが不屈の意志をもってソマスの打倒に邁進したのに対し、ソマスはデメトリオスとの戦いがどうしても無駄な争いに見え戦意を欠いたことが今日の事態を決定づけたのである。
しかもソマスはあくまでもコンスタンティノポリスの命運を主眼においていたのに対し、デメトリオスはまがりなりにもモレアス公領の将来についてオスマンの属国ではあるが、皇帝デメトリオスのもとでの平穏という明確な未来図を描いて見せたことが決定打であった。
公領の貴族たちは日を追うにつれて続々とデメトリオスの軍門に下っていったのである。
ソマスは冷徹な知者ではあったが、軍人には向かない男だった。


…………陛下……どうか御武運を………


もはや居城の陥落まで間がないことはわかっていた。
味方の傭兵たちは逃亡し、主だった家臣郎党が二百ほど残るばかりであるのに対し、デメトリオスの包囲軍は三千以上を数えるのである。
これほど無為に死を迎えなければならないことに忸怩たる思いはあるが今となってはそれも詮無いことであった。

滅びる

おそらくはコンスタンティノポリスもモレアスも全てはオスマンの蛮人たちに蹂躙されローマの栄光は永久に失われてしまうのだろう。
ならばこそせめて美しく滅びなくてはならなかった。
髪を整え、正装を身にまとい、化粧を施した艶姿のまま、ソマスは来るべき瞬間を待ち続けた。


階下の喧噪が聞こえてくる。
どうやら城内にデメトリオスの軍勢が侵入したものと思われた。
家臣たちには無理せずに降るよう指示を出していた。
もっとも容易く降る気がないのは明らかであったのだが。

………命を無駄にするなよ、私の最後を伝えられるのはお前たちだけなのだから………

ソマスの居室の扉が大きく開かれたのはその時だった。


「ソマス公とお見受けするがよろしいか?」


ソマスにとって意外なことに現れたのは見目美しい女将であった。
肩で切りそろえられた赤毛がなんとも燃えるような光沢を帯び、わずかに釣り上がった切れ長の瞳と相まって人目を惹くことおびただしい。
デメトリオス旗下にかように美しい女将がいるなど聞いたこともないが………。


「確かにこの身はソマスである。我が首討って末代までの手柄とせよ」


女将は闊達な笑い声をあげて首を振った。


「何か勘違いをしておられるようだ。我が名はアンジェリーナ。スカンデルベグの娘にしてワラキア公の側妃たるものだ。恋敵の父君を助けるべくまかりこした」

「スカンデルベグの娘だと?」

ソマスは女将の言葉に耳を疑わずにはいられなかった。
スカンデルベグがアルバニア全土を奪回に動いているのは聞き及んでいたが、まさかモレアスに援軍を出せるほどに勝ち進んでいようとは!

「………感謝の言葉もない。それで………?父君はいずこにおられるのか………?」

「………父上はここにはおらぬ。一足先に我が夫を助けにいってもらったゆえな」

そういうアンジェリーナの顔は悔しそうな苦渋に満ちていた。

「本当は私が赴きたいところであったのだがいまだ私の腕は父上に遠く及ばぬゆえ仕方あるまい。それよりソマス殿に異存がなければ共にコンスタンティノポリスへ
ご同行願いたいのだが………?」

どうやら目の前の少女は夫のもとへ駆けつけたくていてもたってもいられぬらしい。
おそらくは自分を助けにくることも、本意ではなかったに違いなかった。
そういえば最初にヘレナを恋敵呼ばわりしていたようだがなんともワラキア公は甲斐性もちな御仁であるようだ。

ソマスは笑った。
先ほどまでの絶望が嘘のようだった。
いったい自分は何を一人でローマ千年の歴史を背負ったような気になっていたものか。
その歴史を背負うに相応しい人物はほかにいるというのに。


「娘の恋敵をその夫に引き合わせるのは親としては気がひけるが命の恩人の頼みとあらば否やはない。それに私も一度息子になる男に会っておきたいでな」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十五話 夢の終わりその2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:8b961cf4
Date: 2009/02/14 20:34

「防げ!ち、近づけるな!」

悲鳴と怒号が交錯するなか、ブルジーマムルーク朝が動員した軍船がまた一隻巨大なたいまつとなって海面の華となる。
マムルーク朝の艦隊司令であるアルシャーフは信じられないものを見るように絶叫した。
すでに海上を縦横無尽に走り回るのはもっぱらヴェネツィアが誇る帆走軍艦であり、ロードス島を陥落の一歩手前まで追い込んだマムルークの軍船は
せっかくの砲弾を使い果たしてもはや逃げ回るだけの哀れな獲物と化してしたのだった。


「なんだ?これはいったい何事なのだ?」


ガレー船に大砲を装備してロードスの要塞を砲撃しておきながら、アルシャーフは海戦の在り方が変わったことを想像すら出来ずにいた。
大砲は海上を疾駆する軍艦には当たらぬものだと信じられてきたからだ。
接舷切り込みの達者としての経験も、ギリシャの火を投射するヴェネツィア船の前には露ほどの役にも立たないでいる。
自分が知る海の男がその勇気と力を発揮すべき戦いが、火力によって蹂躙された瞬間であった。

「一隻たりとも逃がすな!パブロの戦隊は右翼から回れ!挟み込むぞ!」

ヴェネツィアの船団を率いるのはモチェニーゴ家の当主ジョバンニ・モチェニードその人である。
当主ともあろうものがこうして艦隊指揮官を兼ねることは珍しい。
ヴェネツィア元老院のなかでも親ワラキア派で知られる彼が志願してロードス派遣軍を率いてきたのには訳があった。
もとより、ワラキアへの援軍の見送りは、ロードス救援の指揮をジョバンニが執ることが条件であったのである。


結局日が翳り始める前にマムルークの艦隊は四分五裂したあげく、その半数以上を撃沈され残りは本国へと避退した。
たった一日の海戦だったが、マムルーク朝の艦隊はそのほとんどが海のもくずと化した以上その再建には多大な資金と年月が必要となるであろう。
それもワラキアの技術援助をもとに進化したヴェネツィアの帆走軍艦戦隊とギリシャの火を利用した火器の運用があればこそであった。
ロードス島に上陸したマムルーク朝の陸兵二万も、味方の艦隊に見捨てられ島内に孤立した状態では士気を保つことは難しい。
砲撃であちこちの城壁にほころびが見られるものの、聖ヨハネ騎士団の築城技術と士気はそれを補って余りあるものだ。
早期の陥落が果たせなければ、遠からず聖ヨハネ騎士団の逆撃に駆逐されることは明白である。
何も逆上陸戦や支援砲撃まで行う必要はないはずだった。


「さて、ジョバンニ殿、寄り道の準備はよろしいか?」


その声はあくまでも涼やかで、まるで本当に散歩に出かけるかのように軽い言葉であった。


…………まったくどうして、真面目一辺倒かと思いきやお茶目な方だ………


傍らに控えていた長身の武人に対し、ジョバンニは爽やかな笑顔とともに答えた。


「もちろんでございますぞ、大元帥殿。いささか長い寄り道にはなりましょうがな!」


追い風を受けて疾風のように艦隊が進路を北に向けたのはその後まもなくのことであった。
ガレー船隊を切り離した帆走軍艦の群れは速度を上げつつエーゲ海を切り裂いて驀進していったのである。






ジャハーン・シャーは己の野望が果たされぬどころか、黒羊朝そのものが累卵の危機に立たされていることを知った。
マザルシャリフで対峙していたティムール軍を攻めあぐねているうちに白羊朝のウズン・ハサンが背後から迫っていたのである。
おそらく白羊朝とティムール朝の双方を合わせても黒羊朝の総軍には及ばないであろうが、挟撃は十分その兵力差を埋める要素になるはずであった。

「小僧め………やってくれる………!」

ジャハーン・シャーは何度かウズン・ハサンに会ったことがある。
切れ味の鋭い刃物のような印象を抱いたものであったが、兄ジャハーン・ギールを裏切れる器とも思えなかった。
戦術家としてはともかく、権力に対する執着が為政者として決定的に不足しているように感じられたのである。
それが見事な手腕で兄を隠居に追い込むや、一国をまとめて揺るぎなく、今自分に挑戦しようと迫っているとはなんとも世界は遼遠なものであった。

「だが若い」

確かにその器量は認めよう。
オスマンへと差し向けた援兵を蹴散らし、後方を蚕食する手腕は常人にかなうものではない。
しかしウズン・ハサンの器量はあくまでも武人としてのものにとどまる。
少なくとも現時点では君主としての経験が絶対的に不足していた。

「………アブーサイードに使者をたてよ。余はティムール朝の宗主権を認め降伏する用意があると」

度重なる君主の暗殺からようやくティムールを一統したアブーサイードだが、その権力基盤は土豪の連合体に過ぎない。
つまりは専制君主としての権威をいまだ持ちえていないのだった。
あるいはアブーサイードなら目先の餌を罠であると看破するやもしれないが、アブーサイードを支持する土豪たちは彼ほどに遠くが見えるとは限らないのだ。

議論は割れるだろう。
その結果黒羊朝に敵対を続けてくれてもいい。
ただ、混乱してくれる時間さえあればそれでジャハーン・シャーには十分なのだから。





マザルシャリフ西方のバルフ近郊に迫ったウズン・ハサンは黒羊朝の兵団が完全にこちらを待ち受けていることを知った。

「アブーサイードの馬鹿が………所詮はオレに飲み込まれるだけの器か」

アブーサイードの兵力はおよそ二万、対するジャハーン・シャーの兵力五万……ウズン・ハサンが掌握している二万弱の兵力ではいささか手に余る相手であった。
しかしここで引き返しても益はない。
こちらが後先を考えぬ全力であるのに対して、黒羊朝にはまだ余力があるからである。
全面的な総力戦になれば白羊朝の分が悪いに決まっていた。
どうやらティムール朝をあてにはできないらしいが、さすがに全く警戒を解くわけにはいかないだろうから黒羊朝の兵力はいくらか割り引いて考えることが出来るはずだ。
たとえ二倍の兵力差があろうとも、己が負けることなどウズン・ハサンは想像すらしていない。

時として偉大な為政者は歴史の中での自分の役割を無意識に感じ取ることがある。
冷静な算術からいえばオスマンと黒羊朝とマムルーク朝の同盟に歯向かうことは自殺行為以外の何物でもない。
にもかかわらずウズン・ハサンは己の勝利と、ヴラドの勝利を疑ってはいなかった。
この戦に勝って歴史に名を刻むという衝動のままに、ウズン・ハサンは決戦の場へと兵を進めた。


双方とも遊牧民の軽騎兵を主力としているのは変わりない。
歩兵は補完戦力として剣と投射武器を装備しているが、彼らの中で軍の主力を任せられるほどにいたってはいなかった。
中央アジアの砂漠や荒野を行動範囲とする彼らにとって、馬のない生活は考えられない以上それは今後も劇的な変化を望めぬ類のものなのだった。
欧州とは自然環境が決定的に違いすぎるのである。

「………どこまで通用するものかな」

ウズン・ハサンの目が向いた先には巨大な棒火矢……地対地ロケットが組み上げられつつある。
いくつものパーツに分解して持ち運びを容易にさせたそれは、いったん組みあがるとおよそ六メートルになんなんとする巨大なものであった。
これを製作した技術者は本当はこの倍以上の棒火矢を作りたかったらしいが…………




「むむむっ!来た!来たぞ!我が灰色の脳細胞に天啓が来たぞ!」
「先生……またろくでもないこと考えついたのかい?」
「たった一回発射薬で飛ばそうとするから強度が不足するのじゃ!ならばムカデのように装薬を分散して加速してやることが出来たならば……!」
「もういい加減で大砲の均一化と弾道の安定に取り組みましょうよ………温厚なワラキア公もしまいには怒りますよ?」
「くくっ……このアイデアの素晴らしさが理解できんとは………天才は孤独なものよ」




大丈夫だろうか?
今、棒火矢に対して深刻な疑念が浮かんだのだが。


まあ、いい。
棒火矢などなくとも戦に勝つ算段は十分だ。
ジャハーン・シャーの命させ奪えば勝利は決まる。
白羊朝二万名の戦士たちはそのひとりひとりがジャハーン・シャーへ向けられた刺客なのだった。




「あの空飛ぶ筒はなんだ?」

炎とともに飛来する六メートル以上の物体は、それだけで畏怖と恐怖を呼び起こすに足りるものだ。
ウルバンの鉄塔と後に呼ばれる棒火矢は、その巨大な姿に見あった破壊を黒羊朝の陣内に撒き散らした。
全体として与えられた人的被害はごくわずかなものでしかないが、その焼夷効果と心理的衝撃に陣形が乱れるのは避けられない。

「突撃!」

白羊朝の騎兵部隊が一斉に一筋の奔流となって黒羊朝の陣営へと襲いかかったのはそのときであった。



「押し包め!」

ジャハーン・シャーはロケットの奇襲に浮き足だつ配下の兵に苦りきった顔をしながらも冷静さを失ってはいなかった。
騎兵という兵種はなんといっても機動力が命であり、それを失った騎兵など歩兵にも劣るものでしかない。
そうであるならば圧倒的な兵力差を利用して全方位的に白羊騎兵を拘束し、機動の余地をなくしてしまうべきであった。
実のところ騎兵はそれほど集団戦にむいた兵種ではない。
機動力と衝力にものをいわせて歩兵を蹂躙する場合はともかく、騎兵対騎兵の戦いがほぼ乱戦になってしまうのは騎兵が馬という他生物を操り近接武器を主武装としている以上どうしようもないものなのだった。
乱戦になればあとは数が物を言う。

そうだ、何も変わりはしない。ここでお前が敗れることも、全ては当たり前のことが当たり前におきるだけのこと。


騎兵と騎兵同士がぶつかり合い、乱戦の巷に押しつぶされるかに見えた白羊朝の軍だが、驚くべきことに正面の騎兵をあっという間に突破して前進を継続していた。

「何故だ?何故止まらぬ?」

ウズン・ハサンが鍛え上げた騎兵部隊の練度は中央アジアでも最高に近い。
しかし、黒羊朝とてそれは同様である。
練度に際立った差がなければ兵数差は絶対的な意味を持つはずであった。
だが両騎兵の死命を制したのは練度の差ではなく、火器の差であったのである。


馬は元来臆病な性質の生き物であり、それは戦に鍛え上げられた軍馬であろうとも例外ではない。
鋭敏なその耳に轟音を聞かされて驚かぬ馬はいないのだ。
戦場でこれほどの銃声を聞いた馬はこの戦場にはいない。
銃声に慣れさせるための訓練を積んだ白羊朝の軍馬を除いては。


火力戦が浸透した東欧の諸国とは違い、中央アジアでは騎兵による奇襲と乱戦がまだまだ戦の主流を占めていた。
火力といえばせいぜい攻城に用いるもののなかに大砲がある、と言う程度の認識にすぎない。
攻城戦になればともかく、野戦で火器を運用することなどいまだ伝聞の域を出ないのが現状だった。
野戦のなかで使用された経験がない以上、黒羊朝の騎兵部隊に為すすべのあろうはずがなかった。

「留まるな!ジャハーン・シャーの首を獲るまで止まってはならぬ!」

剽悍な白羊朝騎兵のなかにあって青と白の戦衣を身にまとった一団が、奔馬をなだめるのに忙しい黒羊朝軍の隙間を風のように駆け抜けていく。
ウズン・ハサンの直衛軍である。
その俊敏な機動と、一切銃にも手をかけぬ統率ぶりは他の追随を許さない。
慌てて追いすがろうとする黒羊軍の前に、ピストルを構えた白羊軍が立ちふさがっていた。
乱戦のなかにあってはピストル騎兵は無類の力を発揮する。
装填時間を稼ぐために訓練した相互支援も万全だ。
なまじ白羊朝を包囲しようとしたことが裏目に出ていた。
もはや本陣までの距離は少ない。


………これでは勝てぬ


ジャハーン・シャーは戦況を見て取ると恥じも外聞もなく逃走を選択した。

甘く見ていた。
火器の威力も、ウズン・ハサンの器量も。
しかし生きているかぎり再戦を挑むことは出来る。
部下も精鋭も誇りも、何もかも投げ捨てて瞬時に逃走を選択できることもまた、ウズン・ハサンとジャハーン・シャーの間にある経験の差であるのかもしれなかった。


逃走するジャハーン・シャーに気づいたウズン・ハサンであったが追撃は不可能だった。
すでにジャハーン・シャーとその親衛隊との距離は開いており追撃中に日没を迎えることは確実であった、何より兵たちが疲弊しきっていた。
己に倍する敵と戦ったのだ。
体力以上に精神力が消耗してしまっていた。
ここにいたるまでの行軍の疲れ影響も隠せない。


「…………まあ、いい。次に会うときこそ貴様の首を父の墓前に供えてくれる」


タブリーズに逃げ帰ったジャハーン・シャーはティムールとの同盟構築を急ぐとともに、火器の援助をオスマンに要請した。
もはや火器なしにウズン・ハサンに対抗することは難しい。
幸いアブーサイードもこれ以上の白羊朝の伸長を好ましく思ってはいないようである。
まだまだ政治的術策においてジャハーン・シャーの手腕はウズン・ハサンを大きく上回っていた。
もっともそれをウズン・ハサンが聞いたところで嘲笑うだけであったろう。
彼にとって同盟者とは彼が敵にまわしたくないと見定めたものだけであるからだ。
たとえばワラキア公ヴラドがそうであるように…………。







「…………共に謀るに足らず、か」

ブルジーマムルーク朝と黒羊朝の相次ぐ敗報はメムノンにとって憂鬱な問題である。
オスマン軍は結局のところコンスタンティノポリスへの攻撃を継続しているが、ヤン・イスクラが中心となった防備は予想以上に堅い。
あてにしていたわけではないが黒羊朝の援軍があれば、戦況は今よりずっと楽になったことだろう。
しかもマムルーク朝を破った艦隊はダーダネルス海峡のゲリポルで上陸し北上してマルカラの地でスカンデルベグと合流を果たしていた。
フランス王国軍大元帥リッシュモンが率いる兵数は少ないが、スカンデルベグともども数字どおりの戦力として受け取ることは絶対に危険であった。
マルカラと言えば首都アドリアノーポリとコンスタンティノポリスのほぼ中間にあたる。
オスマンとしてはその双方に戦力を割かざるを得ないのが現状だった。
コンスタンティノポリスさえ落とせれば全ては解決するのだが、あの忌まわしい傭兵上がりの手腕は残念ながら当代一級であると言わざるをえない。


「火炎瓶を投擲しろ!今城壁内に来ている連中を生かして帰すな!」


火力による分断と各個撃破はヤン・イスクラの得意とするところだ。
それがワラキアから供給された火器によってさらに凄味が増している。



「………いったいオレがどれだけの兵力差のなかでどれほどの間戦い続けてきたと思ってるんだ……ええ?メムノンさんよお」




ジェノバばかりかヴェネツィア船までもがマルマラ海の海上輸送を圧迫しつつある。
アルバニア・フランス連合軍一万数千の動向も確実にオスマン軍の体力を削り取っていた。
古来より巨獣は持久力には定評がない。


なんとかしなければならない、しかし今は早急な打開手段がない。


「伝令!伝令!」

斥候に送り出していた騎馬がほとんど気死せんばかりになって本陣に駆けこんできたのはそのときだった。

「いかがした?」

「ワラキア公の本隊と思われる部隊がヤンボルで遊撃部隊と合流しアドリアノーポリに迫っております!どうか急ぎ御戻りを!」


………ここでアドリアノーポリに現れたか!


まったくあの男らしい迂遠で狡猾なやり方だった。
おそらくはヴァルナで補給して南下してきたものだろう。
直接コンスタンティノポリスへ挑みかからないところが呪わしい。


しかしヴラドよ。
姿を現したのは貴様の油断だ。


オスマンの戦略目標は以前からいささかも変わってはいない。
コンスタンティノポリスか、あるいはヴラドの首さえあげられればその後のことなどいかようにもして見せる。
戦場にヴラドが戻ったのはオスマンにとって危機であると同時に願ってもない好機でもあったのだった。



[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十六話 夢の終わりその3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/18 23:17

メフメト二世の決断は早かった。
即日、ヤン・イスクラの逆撃に備えて一万の兵を陣城に残してコンスタンティノポリスからの転進を下令したのである。
西方でアルバニア・フランス連合軍を牽制するためにケルグ・アブドル率いる兵団三万が分派したため、北上する総兵力は八万にも満たぬものであった。
半減した兵力をもってワラキア公にあたる将兵の戸惑いは隠せないが、アドリアノーポリに駐留する三万余と合流できることを考えればやはりそれは尋常な兵力では
ありえない。
オスマンが誇る国力はこの情勢にあってなお巨大なものであったのである。



それにしても、とメムノンは思う。
ワラキア軍が姿を見せるのが早すぎはしないだろうか?
ヤン・イスクラとスカンデルベグたちをアテにしているのならば、今しばらくはオスマンの消耗を待つのが妥当なように思われる。
コンスタンティノポリスの守備力に不安があるというのならわからなくはないが、ヤン・イスクラの用兵術は口惜しいが見事の一語に尽きた。
時の流れを速められてしまったかのような違和感がメムノンの脳裏に棘のように突き刺さって抜けない。



何を急ぐ?それともこれも罠のうちか?ヴラドよ!





実のところヴラドの作戦がそれほど完璧に進んでいたわけではない。
むしろ錯誤の連続であったと言ってもよいほどだ。
その典型がベルドの戦死であり、近衛兵団の壊滅であった。
しかし、それ以上に時を追うにしたがって如実に明らかになるものがあった。
戦費の際限ない増大である。
他国の追随を許さない優秀な補給システムを整備しているワラキアだが、だからこそその維持には莫大な費用を必要とする。
火薬や焼夷油脂などの消費量の増大はもはや深刻なレベルに達しようとしていた。
いまや東欧随一の経済大国であるワラキアではあったが、その経済の破綻は間近に迫っていたのだ。
対オスマン戦を主導する国家として、主に経済面でアルバニアや白羊朝やコンスタンティノポリスという複数の国家を支えてきたことがことのほか大きな負担になろうとしている。
ジェノバ海軍とともに実施した海上機動やブルガリア・トラキアなどの旧正教徒国家に対する工作資金も莫大なものにのぼっていた。
貯め込んだ国庫を空にし、メヴィチ銀行からの借財に手を付けている今、これ以上の戦争の長期化は絶対に避けなければならなかった。
これがオスマン朝であれば、被占領地域から餓死者を出すほどに搾り取るという非常手段が可能であるかもしれない。
しかし己の支持基盤を貴族から国民へシフトさせつつあるヴラドにその手段はとれなかった。
また、ハンガリーを始めとする被占領地域も統治からの年月が浅く、ちょっとした不満が大きな動乱を呼び込みかねないという不安もある。
今は牙を抜かれたかに見える貴族たちも、己の領民の支持すらえられぬということで泣く泣くしたがっているものも多いのだ。
仮に自領に閉じこもるとしても、それはスカンデルベグやリッシュモン大元帥を見捨てることにもなりかねない。
むしろここで一戦して決着をつけたいのはヴラドのほうであるのかもしれなかった。




ブルガリア民衆の歓呼に迎えられるヴラドの表情は冴えない。
それはこの歓呼の声が、ヴラドが圧政者としてふるまった瞬間に怨嗟の声に早変わりするのを知っているからでもあるが、ベルドの不在 がいまだ大きな影を落しているのだった。


「我が君…………」


ここにきてヘレナもヴラドをなぐさめる言葉を見つけられないでいる。
ベルドの死を政治的見地からあっさり許容してみせたことへの後ろめたさがそうさせるのだ。
あの判断に間違いがあったとは思わない。
そもそもヴラド自身も、ベルドを犠牲にすることを選択したことは正しいと思っている。
ただ、己の無力さが、己の矮小さがどうしても許容することができないでいるのをヘレナは知っていた。

だが、それをなぐさめることができるのは政治で感情を割り切ることができる自分ではない。
あるいはフリデリカのような凡庸な女性がただ抱きしめてやることこそ、ヴラドにとっての救いなのかもしれなかった。
ヴラドの心を理解することと、救うことは全く別のものなのだ。
そんな自分が呪わしい、呪わしくてたまらない。


「………そんなつらそうな顔をするな」


ヘレナにそんな顔をさせてしまっていることが情けなかった。
だが、オレはベルドの死をよしとした己の政治的決断をいまだに感情の面では許すことが出来ないでいた。


…………これでは君主失格だな。


ラドゥが督戦隊を率いて攻めてきたときもそうだった。
君主として、指揮官としてやるべきこととは別にそれを認めようとはしない自分がいた。
他人であればこうはならない。
どうやら己にとって近しい者、それもごく限られた者は自分が考えている以上に特別な何かであるらしい。
そんな弱さがまたどうしようもなく情けなかった。
氷のような、史実のヴラドのような冷徹な決断力があれば、また違う結果があっただろうか。



「従兄様!よくぞご無事で!」


オレのそんな黙考を破ったのはワラキアで留守居をしていたシュテファンの声だった。





今のシュテファンの立場は存外貴重なものだ。
何よりオレにもしものことがあった場合ラドゥを除けば第一公位継承者となるのは間違いない。
だからこそ本国に残置したはずなのだが…………。


「ベルドが死んだと聞きました」


シュテファンの言葉にオレは思わず瞠目した。
思えばシュテファンもベルドとは親しかったはずだ。
オレの補佐役を任じる者同士、互いに学び合っていく様は見ていて微笑ましいかぎりのものがあった。
もっともそのほとんどはベルドによるシュテファンの教育という形ではあったが。


「…………すまん」


それ以外に言葉が見つからなかった。
どう言い訳しようとも、オレのためにベルドが犠牲になったことは確かなのだから。


「たぶん、そんな風に自分を責めておられるのではないかと思っておりました………」


シュテファンはほんの少し会わない間にひどく大人っぽい苦い笑みを浮かべて言った。


「悲しむなとは言いませぬ、が、あまりご自分を責めてはベルドが報われませぬ」


………それは逆だ。簡単に受容してはそれこそベルドが報われない。


「ベルドが命をかけて守ったのは何も従兄上が君主であるからだけではありません。従兄上が好きだからこそ、その幸せを守りたかったのです。
従兄上が不幸になることがもっともベルドを冒涜しております」


シュテファンの声は震えていた。


「だから従兄上、悲しむなとは言いません。その代わり幸せになってください、それだけがベルドの望むすべてなのですから………」


そう言われた時、オレの中の何かがストンと胸の中に納まったような気がした。


…………ああ、そうか……オレは悲しかった、ベルドを失ったことが悲しくてならなかった………だから己を責めて責任に逃げていたのだな………


シュテファンはいつしか溢れる涙を抑えることが出来ずにいた。


「ベルドの決意を否定する気はありません。私がそこにいれば同じことをしようとしたかもしれない………ベルドが満足して死んでいったことも間違いない
でしょう………でも今は泣いてもいいですよね?従兄上……ベルドのしたことを受け入れらるとしても、哀しいのは変わるわけではないのですから………」


ベルドが本懐を遂げたのだとしても、それを嘆くのは別の問題なのは当然だ。
嗚咽を漏らして慟哭するシュテファンがオレにはひどくうらやましいものに感じられてならなかった。


「我が君………妾の胸ではものたりないかもしれないが……泣いても誰も責めはしないぞ」


ヘレナの言葉にオレは頭を振った。


「オレの分までシュテファンが泣いてくれている。………だからオレは大丈夫だ」


ベルドを失ったこの悲しみを永久に忘れることはない。
そしてヘレナやシュテファンという愛すべき家族の無償の愛情もまた。
今はそれらの思いをまるごと受け入れて前を向くことがベルドの信頼にこたえることなのだろう。
そしてオスマンを打ち破りこの地に新たな平和と秩序を築き上げて見せるのだ。
オレの家族たちの幸せを守るために。






アドリアノーポリへの途上にあるオスマンの本営には続々と凶報が舞い込んでいた。
まずポーランド王国が遂にオスマン戦に本格介入することを決断し、精鋭五千をブルガリアへ向けて進発させていた。
不干渉条約を結んでいたはずのこの隣国の裏切りにメムノンも怒りを禁じえない。
なによりオスマンが敗北するかのように見定められていることが承服できなかった。
戦場でワラキアを打ち破ったのはオスマン側であり、ワラキアはコンスタンティノポリスの延命に成功したにすぎないのである。
それもさし当たってはのことに過ぎぬ。


………そして最後に勝つのは我々だ。我々でなくてはならない。


特に強兵であるわけでもないポーランド兵が五千ばかり増えたところで戦況に変化はない。
しかしブルガリアやセルビアなどの国民や、神聖ローマ帝国をはじめとする中立諸外国がそれをどう見るかは別問題であった。
そうした外交的な意味でポーランド参戦の傷口は大きいと言わざるを得ない。

また、ブルガリアに集結していた旧貴族たちの反乱兵が遊軍として各地に支配領域を拡大させていた。
ブルガリアはほぼその全土がオスマンの支配を脱し、セルビアやボスニアでも反乱勢力が次第に優位に立ちつつある。
ここでもし、再びワラキア軍に撤退されるようなことがあれば戦況の悪化は避けられないところであった。
特にスカンデルベグとリッシュモン連合軍が大人しく傍観に徹しているわけがないことを考えれば尚更である。


最低限オスマンの勝利という体裁だけでも整えなければならぬ。


コンスタンティノポリスでの戦いは、ヤン・イスクラのあまりに劇的な救援ぶりもあって、ワラキア軍の撤退は敗北ではなく既定の転進であるように受け止められている。
オスマンとしては諸外国に勝利を喧伝できるだけのはっきりとした勝利の形が喉から手が出るほどに欲しいところであった。
今は甘い夢を見ているブルガリアやセルビアの叛徒どもも、ワラキアが敗北すれば根を失った木のように朽ち果てるだろう。

何が何でもヴラドを戦場に引きとめなくてはならない。
戦う前に引き上げられるようなことだけはあってはならない………。


「先生(ラーラ)よ」


メフメト二世は青白く血の気を失った肌に目だけを血走らせながら呟くように言った。


「………二度目はない」

「御意」


メフメト二世の瞳にもはや寵臣を見る甘さは欠片も感じられない。
あるのは憤怒と焦燥と勝利への渇望だけだ。

もちろん次の機会などありえぬことをメムノンも承知していた。
唯一の君主たるスルタンに責任を取らせることが出来ない以上、敗戦の責めを負うべきは宰相たる自分以外にはいない。
もっとも、この戦いに万が一にも敗れるようなことがあればオスマン朝は国家そのものが存亡の危機に立たされるであろうが。


「まずは講和のための使者を発てましょう」

「なんだと?」


講和という言葉を聞いた瞬間、メフメト二世の表情に狂的な怒りの色が浮かぶのを見て慌ててメムノンは先を続けた。


「もちろんこれは形だけのこと、講和する気などもとよりございませぬ」


「…………足止めというわけか」


一度冷静になってしまえばメフメト二世の理解は早かった。
講和の交渉というテーブルに着かせてしまえばワラキア軍に逃げられることもないはずだからだ。


「………しかしあの男が簡単に交渉にのるものか?」


メムノンは満面に邪笑を浮かべてくつくつと嗤った。
この男どれほどのものか、と思わせるほどに幸せそうな笑みだった。



「………講和交渉の全権大使がラドゥだといえば、あの甘い男が断ることはありえませぬ」




[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十七話 夢の終わりその4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/02/23 23:38

「それは一言で言い表せるものではございません。例えるならば天からの愛かもしれず地上の現れた星のようなものやもしれず………」

ゴクリと喉を鳴らす音がやけに大きく感じられる。
男はひりつく喉を押さえながらかろうじて言葉を紡ぎだした。

「そ、それほどのものにございますか………?」

老人らしからぬ鋭い眼光をきらめかせてもう一人の男が頷く。

「あれはこの世で最も尊い無垢そのものなのです。そしてただ愛のみを求めるこの世で最も無力な存在でもある。その無力さが問うのですよ、
愛とはなんなのか?絆とはなんなのか?とね」

「いまだ出会わぬ私ですら確信を持って言えます。彼の者のためなら私はこの命を投げ出すことすら厭わぬでしょう」

二人の男は互いが共有する陶酔に酔いながら固く手を握り合わずにはいられなかった。


「我らは孫のためによりよい世界を与えてやらなくてはなりませぬ」

「孫のために!」
「孫のために!」


アルバニアとフランスの爺馬鹿二人が熱いタッグを組んだ瞬間であった。





「………………ごめんなさい………やっぱり、生理きちゃった…………」

アンジェリーナから遅れに遅れていた生理の到来を知らされ、スカンデルベグが砂の柱と化すのはまた後の話である。






アンジェリーナとソマスの手兵を加えたアルバニア・フランス連合軍は総勢一万四千にのぼる。
対するケルグ・アブドル率いるオスマン軍は三万、戦力比は一対二を超えるがケルグはかつてない緊張を強いられていた。
なにしろ相手が相手であった。
スカンデルベグはワラキア公を除けばオスマン帝国が最もその武勇を恐れる男である。
ムラト二世の親征を受け、七倍の敵を相手にアルバニアの国土を守りきったその手腕は伝説的であるとさえ言えた。
その男が初めて攻勢に転じたことに脅威を感じぬ武人がいるだろうか。
史実においても遂にスカンデルベグが存命のうちはアルバニアがオスマンに屈服することはなかったのである。
兄弟と腹心に裏切られ、十倍の敵を相手に国土を守りきったスカンデルベグの戦術的才能はおそらくはワラキア公を遥かにしのぐだろう。


だが、ケルグはもうひとりの男の存在に注意を払ってはいなかった。
遠い小アジアのオスマン朝の一指揮官にとって英仏の百年戦争など御伽噺の世界でしかない。
しかし目の前で陣を敷くこの男は実質的に百年戦争を終結させた男なのだった。


リッチモンド伯アルチュール・ド・リッシュモン、フランス王国軍大元帥……百年戦争前半の英雄がベルトラン・デュ・ゲクランであるとするなら百年戦争後半の英雄は間違いなく彼である。
ジャンヌ・ダルクは確かに一時的なカンフル剤ではあったが、士気以外の面で全く貢献できず尻すぼみとなっていったのは歴史が示すとおりであった。
フランス軍はリッシュモンの大戦略と卓越した戦術手腕によって勝利したのだ。
なかでも砲兵火力の集中と機動を戦史上初めて機能的に運用したという事実は、後年のゴンサーロ大元帥やオラニエ公ウィレムの功績に匹敵するものだった。
頑固で味方の無能を許容できず、敵が多いことと、後にブルターニュ公として王権と衝突せざるをえなかったことがなければフランス史上でも屈指の英雄に数えられて当然の人物なのである。




ゆっくりと戦場の最右翼に位置したフランス軍が前進を開始した。
その数わずかに二千五百名、フランス軍にわずかに遅れてアンジェリーナ率いるワラキア式の銃兵千五百名が続く。
さらに遅れて副将であるマイヤー率いる五千名の兵団が続いていた。
最左翼であるスカンデルベグ直率の五千名は最後尾でいまだ沈黙を守っている。
右翼による敵主力の拘束と、左翼精鋭による側面突破、それはテーバイの誇るエパミノンダスが考案した斜線陣の応用に他ならなかった。



「父上、右翼がフランス軍で大丈夫なのか?マイヤーではなく?」

娘の懸念にスカンデルベグは軽く首を振って微笑むことで答えた。

「………あのご老体はオレが本気で戦っても勝てるかどうかわからんお人だ。マイヤーごときでは相手にもなるまいよ」

「………それほどのものか」

「まあ、お前の愛するワラキア公には勝てまいがな」

スカンデルベグほどの戦術手腕をもってしても、ワラキア公には勝てる気がしない。
焦土戦術を取ろうとも、ゲリラ戦術を取ろうとも、いかに戦術の妙を尽くそうともである。
ワラキア公の本質はそうした戦術的な部分を超えたところにあるように思われるのだ。
それこそがスカンデルベグをして自らやリッシュモンよりワラキア公が上と言わしめるのであった。



スカンデルベグが勝てるかどうかわからないと評したリッシュモンは三万のオスマン軍に突出しながらも悠然と微笑んでいた。
オスマン軍の主力は軽騎兵であり、歩兵の防御力が著しく向上した今、時代遅れになりつつある兵科である。
軍事的な洗練度では遠くイギリス軍に及ばない。
恐れる理由はなにひとつも感じられなかった。
まして盟友たるスカンデルベグの戦術能力は、長年戦場に立ち続けたリッシュモンでも比肩する記憶がないほどのものだ。


「時代が変わったということを教えてやるとしようか、せめてもの餞に華々しく」


リッシュモンのフランス歩兵の前にオスマン騎兵の群れが雄たけびをあげて迫ろうとしていた。




ケルグにとって敵の動きは奇異にしか見えないものであった。
わざわざフランス軍を生贄の犠牲に捧げているようにも感じられる。
わずか二千五百程度の小勢を突出させてなんの利があるというのであろうか?

あるいはフランス軍とアルバニア軍との間で意見の相違があったのかもしれない。
古来より多国籍軍というものは統率のとり難いものなのだ。
そうであるとすればこれは好機であるはずだった。
しかも目の前の相手はあのスカンデルベグではなく、遠い地の果てからやってきたフランスの蛮族にすぎない。


「突撃せよ!勇敢なるオスマンの戦士たちよ!神の名の元に敵を蹴散らせ!」


砂塵を蹴立てて軽騎兵たちが突進していく。
その数はフランス軍の五倍を上回る。
いかな精強な軍であってもとうていこらえることなどできないかに思われる情景であった。
それはまるで無数の蛇がからみついていく様にも似ている。
だが、決して統制がとれたとは言えない騎兵の突撃はリッシュモンにとってなんら感銘をもたらすものではありえなかった。


「釘玉を喰らわせろ!」


最前列に列を敷いていた大砲のなかに装填されていたのは数万を超えようかという釘や鉄片である。
一斉に放たれたそれは無数の散弾となってオスマン兵たちに襲いかかった。

元来大砲とは近接されては役に立たないと信じられてきた。
砲弾の莫大な運動エネルギーは個々の兵を狙うのには向かないからだ。
それは榴弾が初めて実戦に投入されたフス戦争以降でも変わりは見られない。
至近で爆発してしまえば味方への損害の避けられない以上、榴弾もまた敵との間にある程度の距離を必要としたのである。
だが、実際には大砲に釘をつめて水平射撃をすればその散弾効果は計り知れないものがあるのであった。

殺傷能力こそ低いがたとえ釘による負傷でも馬にとっては致命的である。
人間とて身体に釘をいくつも撃ちこまれて無事ではいられない。
フランス軍の前面に人馬の悲鳴が交錯する地獄絵図が現出した。


「砲兵後退!銃兵前へ!」


負傷者がひしめきあい、突撃の衝力を完全に失ったオスマン軍へ向けて情け容赦のない銃撃が浴びせられる。
正面の突破を諦めたオスマン軍は左右の両翼からフランス軍を挟撃しようと試みたが、リッシュモンがこれに備えていないわけがなかった。
右翼は槍兵の横隊が銃兵とともに完璧な防御姿勢をとっていたし、左翼のフランス軍の横腹は………


「敵は腹を見せたぞ!躍進射撃開始!」


アンジェリーナは正しくスカンデルベグの血をひいていることを証明した。
ワラキア流の交互射撃でオスマン軍左翼の騎兵部隊の側面を痛撃すると、たちまち騎兵部隊は統制を失って壊乱する。
側面から射撃を継続しながら迫ってくる銃兵部隊は、オスマン騎兵の心に深刻な心理的衝撃を叩き込んだのだった。

オスマン軍としては、この完璧な相互支援を前にしてはさらに包囲の輪を広げる以外に方法がない。
アンジェリーナの銃兵部隊の側面迂回を試みたオスマン騎兵部隊は、すぐにマイヤー率いるアルバニア槍歩兵部隊の阻止行動を受けることになる。
いまやオスマンの全軍がアルバニア・フランス軍の敷いた斜線陣に完全に拘束を余儀なくされていた。


もしも大空を舞う鳥の目があったならば、オスマンの戦列が斜めに伸びきってケルグの統制が行き届かなくなりつつあるのがわかっただろう。
左翼は突出しており、そこを突破されればその後ろには剥き出しの無防備な後方が晒されていた。
スカンデルベグことジョルジ・カストリオティの軍配が振るわれたのはまさにその瞬間であった。


「吶喊!!」


おそらくはスカンデルベグだけがなし得る苛烈さで、アルバニア軍五千が行動を開始した。
およそ三千を最左翼で拘束にあて、スカンデルベグはアルバニア王国最精鋭部隊二千とともにオスマン軍の外縁部を神速の勢いで蹂躙する。
まさに鎧袖一触とはこのことであろうか。
完璧な集団戦を展開するアルバニア軍のまえに、オスマンの誇る軽騎兵も軽歩兵もその機動を阻止するどころか遅滞させることすらかなわない。
無人の野を行くスカンデルベグの行く手には、三千ほどの手兵に守られたケルグ・アブドルの本陣が大海の小島よろしく孤立した姿をさらしていた。


「こんな……こんな馬鹿な話があるか!?」


スカンデルベグの手腕は承知している。
だからこそ、スカンデルベグが後陣で関与しないうちに勝負を決めてしまうつもりであった。
戦いは勝利への流れにのってしまったほうが圧倒的に優位に立つものなのである。
先陣を突き崩され敗兵に飲み込まれてはいかにスカンデルベグといえども建て直しは至難の技のはずであった。
にもかかわらず現実は完全にヘルグの希望を裏切っていた。
わけてもフランス軍の精強さは想像を遥かに上回っている。
わずかフランス軍二千五百名のためにほぼ同数の死傷者が量産され、なお七千余の軍勢が釘付けにされていた。
いったいあのフランス人は何者なのだ?
まさかスカンデルベグ以外にもこれほどの強者がいようとは…………。

目に見えて兵たちが萎縮していくさまがケルグにはよくわかっていた。
敵に倍する兵力を揃えながらまんまと敵の思惑にはまってしまっている事実が、必要以上に兵たちを恐怖させてしまっているのだった。
古来より、そうした時に指揮官が統制を回復する手段はひとつしかない。


「誇り高きイスラムの戦士たちよ!恐れるな!汝の勇気をアラーの神はよみしたもう!!」


剣を高々と掲げて先頭に踊り出たケルグは、そのまま単騎でアルバニア軍へと突撃を開始した。
怖気づいた兵を瞬時に立て直すことためには、怯えた兵に主将の勇気を見せつけること以外にないのである。
主将を一人で敵のえさにするわけにはいかない。
ケルグの見せた無謀ともいえる勇気の発露は確かに味方の士気を回復し、アルバニア軍への逆撃を可能とした。


「………よい判断だが、所詮犬は獅子にはかなわぬ」


するすると自らも先頭に立ったスカンデルベグは動物的ともいえる勘によってケルグの姿を捉えていた。
若き日から長年の戦塵に磨かれたその武の輝きはとうてい凡人のよくするところではない。
ただスカンデルベグが手首を返して騎槍をしごいたと見えたその瞬間には、ケルグの首はスカンデルベグの槍の穂先に突き立てられていた。
獅子が吠え掛かる犬にその牙を剥いたかのような、圧倒的な武量の差だった。


「主将と同じ運命をたどりたいものは我が前に出よ」


その口調は淡々として、決して戦場に轟くような激しいものではなかった。
しかし、言葉ではなく覇気が、理性ではなく本能がオスマン兵に危険を告げていた。
この男に挑んで命永らえることは不可能であるということを。






「兄上は気の毒だった」

「………閣下にそう言っていただければ亡き兄も名誉とするでしょう」


ワラキア情報省が所有する隠れ家の一室でシエナは一人の男と向かい合っていた。
男の名はドール・カレルモと言う。
シエナ配下の情報員の一人だが、ワラキアでも中堅貴族のカレルモ家の三男坊でもあった。

ドールの兄ジョゼフは優秀な近衛士官だった。
士官学校を優秀な成績で卒業し、傾きかかったカレルモ家に栄光をもたらしてくれると家族の誰もが信じて疑わなかった。
もちろん、優秀な兄の背中を追い続けてきたドールもまた。



だが兄はオスマンとの戦いのなかで全軍の後退を守りきり、伝説の一部となってベクシタスの露と消えた。


「………ジョゼフを失ったのは近衛にとって掛け替えのない損失だ。貴君には明日より近衛士官としてジョゼフ亡き近衛隊を支えてもらいたい」


シエナの言葉に思わずドールは耳を疑った。
それが出来そうにないからこそ、自分はこうして情報省に勤めているのではなかったか。


「………というのはあくまでも表向きの理由だ。貴君には託すべき使命が別にある」


シエナの抑揚のない声にドールの背筋が凍る。
この目の前の上官が、どれほどの陰謀と策動によって屍の山を積み重ねてきたかをドールはよく知っていた。


「…………兄上の仇が討ちたくはないかね?」


…………兄の……仇?


それがひどく魅惑的な言葉に聞こえたのはシエナの誘導によりものなのか、それとも己の内なる声が叫ぶのか、それはもはや判然としない。
しかしドールの胸はいつしかえもいわれぬ高揚に満たされつつあった。


「貴君の兄上を討ったオスマンの指揮官が明日、殿下のもとを交渉に訪れる」


苦いものを飲み込むように顔を歪ませるシエナをドールは驚きとともに見つめていた。
後にも先にもこれほどシエナが感情を剥きだしにするのを見るのは初めてであったからだ。




「カレルモ家の将来は私が一命にかえて保障しよう。……君がオスマンの主将を討つのだ」





[4851] 彼の名はドラキュラ 第五十八話 夢の終わりその5
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:f6c9bc4c
Date: 2009/02/28 09:15

荒野を一人の騎士が歩いていく。
ただ一人で。

それは異様な光景だった。
オスマン帝国を代表する使者にしては余りにもその身なりは粗末なものであり、その身体はとうてい使者の任に耐えうるものとも思われなかった。
血と埃にまみれたその姿はまるで追放された罪人のような気配すら感じられる。
事実、オスマンにとってその騎士は罪の忌み子にほかならなかったのだ。
その忌み子の名をラドゥと言った。




ここでオスマンと講和する選択肢はない。
その見識で閣僚たちとの意見は一致している。
現在のワラキアを取り巻く状況は、もはや一国の平和をもってよしとする状況にはないからだ。
極端なことを言えばオスマン帝国がボスフォラス海峡を渡って故地であるアナトリアに逼塞するくらいの条件でなければ講和などありえないといってよい。
すでにアルバニア・フランスの連合軍がトラキア地方を南部から侵食し始めており、コンスタンティノポリスから出戦したヤン・イスクラと合流するのは時間の問題であった。
そうなればもはやアドリアノーポリのオスマン総軍は東欧に完全な孤立を強いられることになるだろう。

…………それでも交渉に応じてしまったのはオレの弱さか。

ほんの一欠けらの可能性であっても、ラドゥがワラキアに亡命してくれる可能性を捨て切れなかった。
明確な敵対行為を働いた者だとしても、心のなかでは故郷を家族を慕っていると信じたかった。
メムノンがなんの策もなくラドゥを送り出すはずがないとわかっていても。


アドリアノーポリ北西の原野に敷いた天幕でラドゥの訪れを待っていたオレは、変わり果てたラドゥの姿に絶句した。





「ジョゼフには気の毒だったな………」

ネイはジョゼフの後釜として情報省からまわされてきたドールにジョゼフの面影を見出していた。
くすんだ金髪に細面の顔の造詣がよく似ていたのだ。
ネイにとっては片腕と呼んでも差し支えない存在だった。
あのベクシタスの原野で失うには惜しすぎると考えてしまうほどに………。


「貴官には期待している。兄の分まで殿下のお役に立て」



ドールに託されたシエナの計画は意外なところで変更を余儀なくされようとしていた。
シエナからの推薦によって近衛騎士に任じられたとはいえ、新米騎士のすることといえば雑用は歩哨と相場が決まっている。
ドールとしてはそこからなんとか身体の自由を得なくてはならなかったのだが、近衛の長を務めるネイはジョゼフの弟ということでドールを非常に高く買っていたのが何よりの誤算だった。
兄に負けぬ騎士に成長してほしいと期待をかけたネイは、ワラキア公の傍に控える従騎士のなかにドールを加えたのである。
ドールとしては誤算も甚だしい。
しかし、復讐の機会を得るという意味においてワラキア公の傍に控えるのも決して悪いわけではなかった。
標的と接触することができるということにおいてこれ以上の場所はないからだ。
問題の歴戦の近衛隊精鋭を出し抜いて標的を殺害できるか、という点においてドールは忙しく思考をめぐらせていた。




遠目に見ても、明らかに男の姿は異常だった。
左腕の肘から先がなくなっているため歩くたびにバランスが崩れるらしく、ひどく危うげな雰囲気を漂わせている。
肩まで届こうかという豪奢な金髪も荒れるに任されており、鳥の巣のように無造作にからみあっていた。
それはもはや美男公と呼ばれた男の残骸にしかすぎなかった。

ヘレナやゲクランといった首脳たちも、このラドゥへの仕打ちには義憤を隠せなかった。
確かにラドゥは憎き敵であり、ヴラドの甘さを指弾したい気持ちはある。
しかし仮にも講和の使者を、ワラキア公のたったひとりの弟を、かくも惨めに放り出してよいものか!
同時にそれは、この会見が所詮は茶番であり、オスマンに講和の意志など微塵もないのだということを明確に示していた。


「………兵に気を緩めるなと伝えろ………」


ゲクランの言葉を受けて副官のクラウスは兵の掌握へと席をはずす。
すでに両軍のかけひきは始まっていたのである。




「兄様」



ポツリと呟かれたラドゥの言葉がオレに与えた影響は激甚だった。
遠くなってしまった日に、飽きるほど聞いたはずのその言葉。
寂しさを漂わせた甘えるような声音。
声変わりしてはいてもいまだ変わらぬその口調に記憶はあの人質時代へと遡る。
思わず飛び出して抱きしめてしまいたい欲求を抑えるのにオレは必死になっていた。

見れば凄惨な姿である。
左腕に巻かれた包帯は血に汚れており、ろくな手当てを受けていないことは明白だった。
薄く胸にも血のにじんだ後があり、よく見れば顔にも小さな擦過の後が刻まれている。
ワラキアとの戦で得た傷なのか、その後の虐待によってつけられた傷なのかはわからない。
しかしもしも罰というものが必要なのだとすれば、この愛すべき弟はすでに十分すぎるほど罰を受けたのではないか?
ほとんど生気の感じられぬ茫洋とした瞳がそれを裏付けているように感じられた。


「久しいな、ラドゥ」


震える声でどうにかそれだけを搾り出すように言うのが精一杯だった。



「兄様………どうかスルタン様にお降りください」



一瞬にしてオレの両脇に控えたヘレナやゲクランと近衛騎士たちの間に殺気が走る。
ただでさえベクシタスの敗戦の直接的な原因であったラドゥに対するワラキア宮廷の心象は悪いのにこの発言は致命的だった。


「兄様がスルタン様に降ってくだされば、またあの日のようにいっしょに暮らすことができる………スルタン様も私を愛してくださるのです、どうか兄様………」


ラドゥは瞳に狂的な色をたたえながら、一歩また一歩と歩を進めていく。
口元はだらしなく開き、一歩踏み出すごとに大きく身体を揺らしながら。


もうすでに………ラドゥは壊されていた。
人としての決定的ななにかを永久に失ってしまっていた。
そして間接的とはいえラドゥを壊したのは…………。


グラリ、と大きくバランスを崩して片ひざをつくラドゥに、一人の近衛騎士が歩み寄っていくのがオレの目に写った。


嫌な予感がする。
何故かはわからないがとてつもなく嫌な予感が…………。


新米の騎士がするすると進み出るのを誰もとがめようとはしなかった。
膝をつき倒れかけたラドゥに手を貸すそぶりを見せていたからだ。
しかし、ラドゥの右手をひいて立たせた瞬間、ドールは空いていた右手で己の剣をラドゥの腹に深々と突きたてていた。


「兄上の恨み思い知ったか!」


「この慮外者め!」

一瞬遅れて同僚の騎士がドールを取り押さえたものの、ラドゥの傷がもはや致命傷であることは誰の目にも明らかだった。



「また、私を捨てるのですか?兄様!」


また、と言った言葉がオレの胸に透明な刃を突き立てた。
万能の人などと呼ばれていながら、オレにできたのは幼子のように首をふることだけだった。

違う、違うんだ。
見捨てるつもりなどなかった。
オレが望んでいたのはこんな結末ではなかったんだ…………。


「ラドゥ…………」


よろよろと歩み寄ろうとしたそのとき、腹から剣をはやしたラドゥが瀕死の人間とは思えぬすばやさで踊りかかった。
あまりに意表をつかれた反応に、ネイもゲクランも対応できない。
近衛騎士たちもドールを取り押さえたことでその陣容を薄くしてしまっていた。
ほとんど吸い込まれるようにして、ラドゥはオレの胸に飛び込んだのだった。



まるでやけ火箸でも押し当てられたかのように灼熱感をわき腹に感じて見下ろせば、ラドゥの失われた左手からなにか尖ったものがオレの腹に突き刺さっていた。
その正体に気づいてオレは胸がつぶれるような悲しみに身を震わせた。
鋭く尖ったその凶器は、ラドゥ自身の骨に他ならなかったのだ。



気づいてしかるべきだった。
督戦隊に麻薬が使用されてラドゥに使われていないはずがないではないか。
おそらくは左手を壊死させて暗器にしたてあげたものだろう。
もちろん生きてかえってくることなど最初から望んでもいないのだからいくらでも好きにできようというものだ。


「兄様、許して下さい。兄様許して下さい。僕は………僕はもう一人でいることに耐えられないのです。父上に見捨てられ……兄様に見捨てられ……スルタン様に見捨てられて……この世界にただひとりで在ることはもういやなのです。ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様………もう、もう僕を一人にしないでください…………」


自らの骨をさらに押し込みながら謝り続けるラドゥの姿に、脳が破裂しそうなほどの怒りがこみあげる。
ラドゥにではない。
メムノンとメフメト二世に対してだ。
いったいどれほどの絶望を与えたら人をここまで壊すことができるというのか。
これまでどれほど酷薄な孤独のなかでラドゥは生きてきたというのだろうか。
怒りが許容を超えて腹の奥底にわだかまる怨念が、永い眠りから再び鎌首をもたげていくのを感じる。


憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒
悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨
自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲
狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気


感情をもはや制御できない。
ブレーカーが落ちるような衝撃音とともに、オレの意識は圧倒的なまでの闇に飲まれた。




死灰と化した空気のなかで、ようやく事態を脳が把握したネイが猛然と抜剣し、ヘレナが耳をつんざく悲鳴をあげた。
硬直したまま対応のとれなかった騎士たちも次々と抜剣してラドゥへと踊りかかる。



「動くな」


そう言って右手で彼らを制したのは、彼らにとっての主君ヴラド三世その人にほかならなかった。






「………………永く甘き夢を見た」

そういってヴラドは嘆息した。
傍らではラドゥが相変わらず謝罪の言葉を続けていた。

「………とうてい我には望めぬはずの、なんとも甘美な夢だった。我は逃げ出すことしかできなかったというのに………」

ヴラドの言葉の意味が理解できず、近衛騎士たちが困惑の表情を浮かべる。
襲撃者をこのままにしておくわけにはいかないのだが、ヴラドの身体から発散される圧倒的な鬼気が彼らから行動の自由を奪ってしまっていた。


「そうして我が甘い夢に酔っている間にお前は孤独に苛まれていたのだな、ラドゥ」

ヴラドの瞳から一筋の涙がこぼれて落ちる。
悔恨と苦悩と愛情がないまぜになった表情でヴラドはラドゥを抱きしめた。

「その責任はとらずばなるまい…………」


ヴラドに抱きしめられながらも、ラドゥは壊れた機械のように謝罪を繰り返していた。


「ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様…………」

「許しているともラドゥ、余人は許さずとも家族なら許せる、許せるのが家族だ………だからラドゥ、お前を見捨てた我をどうか許してくれ………」

「兄様?」


ラドゥの生気を失った瞳にわずかに正気の色が戻ろうとしていた。

「もう二度とこの手を離しはしない。もう二度とお前が孤独に苛まれる事はない。これからはどこまでもいっしょだ」

「よせ!汝は妾とともにあるのではなかったのか?我が君!」

顔面を蒼白にしたヘレナが叫ぶように言うと、ヴラドはヘレナにむかって薄く微笑んだ。

「案ずるな、ローマの姫よ。ご夫君は無事にお返し申し上げるゆえ」

「…………お主………いったい誰じゃ?」


姿形はヴラド以外のない者でもない。
しかし中身は決してヴラドではありえなかった。
ヴラドがヘレナをローマの姫などと呼ぶはずはないのだ。

「………かつてヴラドであったものの残滓………ヴラド・ドラクリヤのありえたもうひとつの可能性とでも言っておこうか………」



いつしかラドゥもしっかりとヴラドを抱き返していた。


「ああ………兄様……なんて………あたた………かい…………」


「ともにいこうラドゥ、今度こそ家族が愛し合って暮らせる場所へ………………」


ヴラドの言葉にラドゥは莞爾と笑った。
それは生気を失った残骸の笑いではなく、なつかしい少年の日に浮かべていた無垢で愛らしい微笑みだった。
その短い生の最後に、彼はもっとも欲しがっていたものを手に入れたのだ。


…………そしてふたりの魂は手を携えて天へと還った。






にわかに天幕の外が激しい喧騒に包まれた。
悲鳴と怒号が交錯し、銃声が轟き人馬のざわめきが空気を揺らす。


「オスマン軍が来襲いたしました!」


伝令の言葉にいち早く反応したのは誰あろうヴラドであった。


「ゲクラン、小一時間持たせろ。ネイ、侍医を呼べ、止血が終わったら余も出るぞ」

有無を言わさぬその威に打たれて二人は膝をついて頭を垂れる。

「「御意」」




この耐え難い喪失感をなんと表現すればよいのだろう。
まるで半身を失ったような気持ちだった。
事実、魂の半分が失われたようなものなのだから。

この世界の住人としてヘレナをはじめとして様々な人々と交わりながら、心のどこかで夢のなかにいるような気持ちを捨て切れなかった。
罪も罰も責任も、もうひとりのヴラドがいつもその半分を背負ってくれていたのだ。
そのことに今更ながら気づいているオレがいた。

今やオレはこの世にただひとりのヴラド・ドラクリヤであった。
夢と現実の狭間は、完全に現実にとってかわり、オレの罪と罰はオレだけのものとなった。
酷薄な現実がオレを待っている。
夢の時は終わったのだ。



手のひらにぬくもりを感じて振り向くと、ヘレナがオレの手を握っていた。

「このたわけが……!妾を置いて逝ってしまうかと思ったぞ………!」

潤んだ瞳で見上げてくる健気なヘレナの仕草に愛しさがこみあげてきてオレは思わずヘレナの唇を奪った。
そうだ、もうひとりではない。
現実は決して酷薄なばかりではない。




「その手を離さないでくれヘレナ。そして家族が愛し合って暮らせる場所を守るために、戦うオレを見守ってくれ」


たとえひとりになろうとも、この罪の重さから逃げることはしない。
そしてその罪を背負って一生を生きていく。
オレが愛する家族のいるかぎり。





「夢を終わらせ現実を始めるとしようか…………なあ、メムノンよ、メフメト二世よ」





[4851] 彼の名はドラキュラ 最終話 ルーマニアの夜明け
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/03/03 01:19

メムノンはほとんど勝利を確信していたと言ってよい。
ヴラドがラドゥに対して甘い期待を抱いているのはわかっていた。
心の髄まで洗脳をほどこしたラドゥであればヴラドを殺害することも決して夢ではない。
少なくとも傷を負わせ、ヴラドが戦場に立てないだけでも戦いは終わるのだ。
万が一ヴラドが無傷であったにせよ、もはや冷静な指揮を執ることはできないはずだった。

「ワラキア公はアサッシンの手にかかったぞ!ワラキア軍恐るるに足らず!!」

オスマンの兵は大きな歓呼とともにメムノンに応えた。
それほどにワラキア公の存在はオスマンにとって重い心理的圧迫となっていたのだった。
アドリアノーポリの城門が勢いよく開かれた。
決壊寸前までたまった鬱憤を晴らすかのように、オスマン軍は怒涛の勢いでワラキア軍へと襲い掛かろうとしていた。




ゲクランの命を受けて席をはずしたクラウスの目に、オスマンのおびただしい兵影が映っている。
その数はおよそ十万弱といったところであった。
おそらくはアドリアノーポリの駐留兵力の全軍を後先考えずに繰り出してきたと見ていいだろう。
総力戦になるのは確実であった。

「ちっ………シェフ殿の読みが大当たりだ!」

慌ててクラウスは迎撃の準備に駆け出した。
彼の上司が戻るまでにやっておかなくてはならないことが山のように残っていたからだった。





「ワラキア公戦死!」
「アサッシンに誉れあれ!」

ほとんど狂騒状態に近いオスマンの強攻はワラキアの精強な常備歩兵にかつてないストレスを強いていた。
オスマン軍の異常な士気の高さが、ワラキア公の死によるものだということがワラキア軍の動揺を誘っていたのである。
指揮官たちが口々に否定の言葉を繰り返しても、これまで常に戦場にあったワラキア公の姿がないという事実は動かない以上不安の完全な払拭は不可能だった。
甚大な損害にも怯まずに猛攻の最前線に立っていたのはオスマンの誇る常備歩兵イェニチェリ軍団であった。
彼らはオスマン最精鋭の名に相応しく最新の装備で武装していた。
急造ながら彼らだけに供給されたもののなかには、ワラキア軍がこれまで独占してきた手榴弾が含まれていた。

「………敵に使われて見るとなんて厄介な武器だ!」

ワラキアの誇る野戦陣地はこうした投擲武器との相性が悪い。
数において劣る現状では特にそうだった。


「ここから先に通すんじゃねえぞてめえら!銃先を揃えろ!散弾の一斉射撃が終わったら押し戻すぞ!!」

第二線陣地にはようやくゲクランが間に合っていた。
後年ぶどう弾と呼ばれることになる散弾が、前線に並べられた五十門近い大砲へと装填され、その凶悪な破壊を一斉に吐き出す。

「突撃ィ!」

散弾で穴だらけになったイェニチェリの戦列を槍先を揃えてワラキア銃兵が押し返す。
しかしコンスタンティノポリスで苛烈な火力戦を経験したオスマン軍は凶悪な散弾の破壊力を目の当たりにしつつもなお士気を失いはしなかった。

「悪魔に正義の鉄槌を!」
「アラーの御名において復讐を!」

温存されてきたスルタン直属の常備軍はさすがに士気も練度も最高な水準にあると言わざるをえない。
突撃の衝力を失ったワラキア銃兵が、再び押し込まれ始める。
戦いの勢いはいまだオスマンにあり、ゲクランの手腕をもってしてもその勢いを押しとどめるのは容易なことではなかったのだ。

「漢を見せろ!一歩たりとも本陣に近づけるな!」

さすがのゲクランが焦りの色を隠せなかった。
ゲクランはこれまでの歴戦の経験からヴラドの負傷が決して軽くないことを知っている。
内臓の傷つき方によっては死んでいてもおかしくない重傷なのは間違いなかった。
できることならヴラドなしで決着をつけたいというのがゲクランの本音である。
そもそも鎧を着ることも馬に乗ることも負傷者にとってはあまりに負担の大きな行動なのだった。

「今こそ勇を奮え!忠勇なる神の戦士たちよ!ヴラドなきワラキア軍など相手にもならぬわ!」

しかし現実問題としてヴラドの不在は確実にオスマン軍に力を与えていた。
味方に数倍する損害をオスマン軍に強要しつつも、ワラキア軍はオスマン軍の勢いに後退を余儀なくされていたのであった。

「シェフ殿、そろそろここもやばいですぜ」
「押し込まれる前に第三線に下がらないと………」

ゲクランにも退勢が覆しがたいことはわかっている。
しかし第三線陣地とはすなわち本陣にほかならない。
迂闊に退いてしまっては後がないのだ。

「………仕方ねえ、クラウス、お前は一隊を率いてイェニチェリどもを例の罠に誘い込め、モーニ、お前は一足先に戻って迎撃の準備をしておくんだ。
砲をありったけかき集めておけ。殿はオレがやる」




そのころメフメト二世は会心の笑みを浮かべていた。

………これまで幾度も煮え湯を飲まされてきたが、最後に勝つのは余のほうであったな。

ワラキアの野戦陣地はあと本陣を残すのみとなった。
それでもなおヴラドが出ないのは彼が死んだか深刻な重傷を負ったことの証であろう。
全く愚かというほかはない。
弟など最も最初に排除すべき政敵であろうにそんなものに固執するヴラドの気が知れなかった。
傍らのメムノンもまたメフメト二世ほどではないにしろ勝利を確信している。
イェニチェリの士気は高くいまだその余力は尽きてはいない。
ワラキア軍二万五千に対しオスマン軍十万、コンスタンティノポリスでの戦いより戦力比は縮まっているがスルタン直属の親衛隊が戦線に加入した今
投入された兵の士気と練度という意味ではむしろ戦力比は開いているといってよいのだ。
両翼の軽騎兵は苦戦しているようだが、中央部の歩兵戦闘での優位が続く以上ワラキア軍の命運は風前の灯であった。

歴史を創るのはやはりお前ではなかったようだな、ヴラド!



クラウスに引きずられたイェニチェリが地雷原に誘い込まれる一幕があったものの、ワラキア軍は完全に本陣まで押し込まれていた。
殿で奮戦するゲクランも焦りの色を禁じえない。
このままではやばい。
本陣の守りは強固だが、それでもこの勢いは止められるものではない!




「………待たせたな」
ワラキアの本陣がその凶悪な火力をむき出しにしたのは、まさに最前線にヴラドが現れたときと同時であった。


二十連装の多連装ロケットがほぼ一千に及ぶ盛大な火揃を打ち上げていく。
一回だけの使いきりだが、その瞬間制圧火力は言語を絶する。
たとえどの時代の兵士であろうとも一千に及ぶ地対地ロケットの斉射を受ければ壊乱は必死であろう。
焼夷油脂を撒き散らしたロケットのあとには散弾の一斉射撃が待っていた。
あるものは生きながら燃える松明と化し、またあるものは人のものとも思えぬ肉塊の一部と化した。
ほんの一瞬にして発生したさながら煉獄のような情景は、当初から勢いづいていたオスマン軍の衝力を完全に停止させたのである。

もとよりこれらの武器は本陣防御の切り札として用意されていたものだ。
しかしオスマンの兵士にとってはとうていそうは受け取れぬものであった。
彼らはワラキア公の出現にこそ、この惨状の理由があるとごく自然に受け取ったのである。
ヴラドの出現にワラキア軍は沸き、オスマン軍は萎縮した。
戦況は目に見えてワラキア軍に傾こうとしていた。

まるで砂漠の魔神に出会ったように矛を鈍らせたオスマン軍の隙を、ゲクランたちが見逃すはずもない。
逆に戦線を押し上げたワラキア常備歩兵軍は第二線陣地を瞬く間に奪回した。



「……………おのれヴラド…………!!」

なまじヴラドが当初不在であった分だけ、ヴラドに対する強迫観念にも似た畏怖が助長されてしまっている。
先ほどまで押しに押していたイェニチェリ軍団が見る影もなく逃げ惑う様はメムノンの腹奥に重い圧迫を覚えさせずにはおかなかった。
無事だったというのか?いや、それでは今まで隠していた理由が思い当たらない。
もう少し遅ければワラキア軍の全面崩壊すらありえた。
ということは出たくても出られなかったというのが正しいのに違いなかった。

…………間違いなくヴラドは戦場に立つのも危険な重傷を負っている。

重傷であるならば逃げるのも困難なのは自明の理だ。
今度こそヴラドの息の根を止められる喜びにメムノンは鼻をならした。

「督戦隊を投入しろ」




幽鬼のような兵団が接近しているのにゲクランはいち早く気づいていた。
ベクシタスの原野でワラキア軍を壊滅の一歩手前まで追い込み、近衛を犠牲にさせた部隊である。
しかしその損耗ぶりは激しく、その数は二千にも届かない。

「…………それで勝ったつもりかい?メムノンさんよ」

ワラキア銃兵の後列から、ひときわ巨大な銃をふたりがかりで抱えた兵が進み出る。
大鉄砲の装備部隊であった。
ベクシタスの敗戦からヴラドが急いで取り寄せたもののひとつがこの大鉄砲だった。

「ぶっぱなせっ!!」

大鉄砲から放たれた巨大な鉛球がもたらした破壊はおそるべきものであった。
胴体を直撃した弾はその巨体にふさわしい運動エネルギーによりおよそ三十センチ近い破口を開け、内臓を後方へと撒き散らす。
足に当たれば足が飛び、胸に当たれば上半身が宙に舞った。
いかに不死身をもってなる督戦隊であろうともこのおそるべき破壊には対抗する術がなかったのである。

「………そんな馬鹿な………!」

メムノンの顔から一気に血の気がひいた。
自らが手塩にかけた不死身の軍団がごく普通の兵士に敗れるなど考えもしないことであったからだ。
もしもゲクランがメムノンの動揺を目にしたならば、嘲笑とともに鼻を鳴らしたであろう。
確かに痛みも恐怖も感じない兵士の存在は脅威である。
しかし彼らの耐久力も所詮は普通の人間と変わらぬことがわかっていれば対策を用意することはやさしい。
彼らに高度な戦術行動をとらせることは不可能だから、彼らは真っ正直に突っ込んでくるだけだ。
ならば行動が不能になるだけのダメージを与えてしまえば容易に殲滅してしまえるはずであった。
取り残しも落ち着いて顔を狙って討ち取ればいい。
それでもこれが定員一杯の五千名であったならば大鉄砲の数から考えて対応は厳しかったであろう。
ベルドが半ば以上をベクシタスで討ち果たしてくれたからこそ完璧な迎撃戦が行えたのだ。

「ベルド………この戦の殊勲はお前さんのものだ……!」





オスマン軍にとっては最悪なことに東西の両翼からワラキアの援軍が姿を現し始めていた。
その数は実に六万を超える。
いったいどこからこれほどの大軍が湧いて出たものかメムノンには想像もつかない。

「悪魔(ドラクル)め!またわけのわからぬ魔術を………!」


いくらなんでも両翼から迫る六万もの軍勢を放置しておくわけにはいかない。
ワラキアの両翼で激闘を繰り広げていた軽騎兵部隊が急遽転進して正体不明の軍勢へと向かう。
見れば軍列も整えきれぬ雑軍であるようであった。
組織力のない歩兵など軽騎兵の敵ではないのは明らかである。
雄たけびをあげて吶喊するオスマン軽騎兵の前に、巨大な炎の河が出現した。

避けきれずに数百の騎兵が炎の柱となる。
突如出現した炎の河の正体は火炎瓶の一斉投擲であった。
ツポレフ子爵の組織したブルガリア・トラキアの対オスマン反抗組織が正体不明の援軍の正体である。
もとより烏合の衆である彼らに一線の戦闘は託せない。
そこでツポレフは素人でも簡単に量産できる火炎瓶を供給して、彼らにそれを投擲することだけを要求したのであった。
六万の兵士が次々に投げ入れることでますます大きくなる炎はオスマン騎兵に恐慌をもたらした。
今や絶対的物量をほしいままにしてきたオスマンの優位は失われ総兵力が拮抗したという事実は、オスマン兵士にとってショック以上の何かであったのである。

事実上六万の援軍が戦力としては計算できないことをオスマン軍は知らない。
ここで決して戦意が高いとはいえない軽騎兵部隊が壊乱した。
炎から逃れるように戦場からの逃亡を開始したのである。
実のところオスマン朝にあって戦意が高いのは常備軍のイェニチェリとスルタン親衛隊ぐらいなもので、辺境や属国から徴兵された兵士たちの多くは督戦するものが
いなければ戦力化が難しいほどに戦意が低い。
ここにきて通常彼らの督戦にあたっていたイェニチェリや督戦隊がワラキア軍と激戦の最中であることが災いしていた。


逃亡を始める兵士を見たメムノンは決断した。

「陛下、今こそご出陣を!」

味方の士気がこれ以上落ちないうちに全兵力をもって攻勢に出るしかない。
そして士気を一時的にせよ回復するためには指揮官が陣頭で指揮をとる必要があるのであった。
しかしここでメフメト二世は逡巡した。
個人的な武勇に自信のないことが、メフメト二世を躊躇させてしまっていた。
そこで致命的な時間が出血してしまったことをメムノンは悟った。

「おさらばです。スルタン様」

スルタンに背を向け騎上の人となったメムノンは、わずかな側近とともにワラキア軍へ突撃を開始したのである。
もはや彼がスルタンを振り返ることはその死にいたるまでなかったのだった。

「悪魔め!悪魔め!この地上に貴様の住む場所などないということを教えてやる!」

かろうじてゲクランの猛攻に耐えていたイェニチェリ軍団は宰相自らの出戦に奮起したが、ワラキアに傾きかけた流れを変えることはできなかった。
驚くべきは馬に牽引された大砲が、歩兵の前進に追随しているという事実である。
砲身の軽量化に成功したワラキア軍はこれにより速やかに近距離火力支援を受けることができるのだ。

「弾種榴弾、縦射、斉射、撃て!」

イェニチェリの縦深に容赦なく榴弾が降り注ぐ。
さすがのイェニチェリも傭兵まで逃亡を始めたなかで士気を保つのは難しかった。

「退くな!悪魔に凱歌をあげさせて神が見過ごしたまうと思うか?」


「………貴様が神を語るな」

一発の銃弾がメムノンの額を撃ち抜いた。
狙撃手の姿すら見えないその恐るべき手腕にたちまち動揺が広がる。
魔弾の射手に狙われて心穏やかにいられるものはそう多くはないのだ。

「この射距離は新記録だな」

マルティン・ロペスの神技は銃が変わろうともいささかも衰えぬばかりかさらに磨きがかかっているようであった。
こうしてオスマン帝国宰相メムノン・パシャは自らがそれと気づくことなく戦場の露と消えたのである。
どうにか統制を保っていたオスマン軍にとって宰相の死は決定打だった。
完全に戦意を喪失した軍はわれ先に逃亡を開始する。
期せずしてスルタンへの進撃路が無防備な姿をワラキア軍の前にさらしていた。



メフメト二世は腹心の死に恐慌をきたしていた。
これでは話が違うではないか!
ワラキアを打倒する我らの策に間違いはなかったはずだ。
それがいったいどうしたらこんな惨めな有様になってしまうのか!

今やスルタンを守るのはわずか百名余の供回りだけになってしまっていた。
親衛隊まで投入した総力戦の結果であった。

こんな敗北は認められない。
正義が敗北することなどあってはならない。
自分こそは歴史に偉業を残すものだ。
この地上に神の栄光をもたらし、イスラムの希望となるべき存在なのだ。
間違っている。
こんな現実は断じて間違っている!



「…………存分に夢は見たか?」

いつしかスルタンを重囲においたヴラドはあわれむように言った。

「こんなことは認めぬ!余はこの地上の覇者となるべく生まれてきた男なのだ!」

ヴラドの表情に怒りの色はない。
むしろ悲しみを耐えるかのようにヴラドは首を振った。



「夢を見たければ一人で見ているがいい。………オレという現実がお前の夢を蹂躙するそのときまで」



………………この日オスマン帝国最後のスルタンがトラキアの大地へと還った。







その後はほとんど地獄のように忙しい日々が続いた。
傷が癒えるのを待つまもなくセルビアで独立闘争が始まり、時を同じくしてアナトリアの地でスルタンの甥を名乗るハサウェイという男がオスマン帝国の復興を企てたのである。
しかし政治軍事の双方に横たわる巨大な戦力差は如何ともしがたいものであった。
セルビアはゲクラン率いる常備軍によって一蹴され、ハサウェイはヴラドとウズン・ハサンに両雄に挟撃され木っ端微塵に打ち砕かれた。

ヴラドはオスマン戦役後正式にルーマニア王に即位している。
同時にヘレナとの結婚式も盛大に取りおこなわれた。
もっとも側后が新婚早々ふたりもついてきていたのだが。
盟友ヤン・イスクラもまた昨年スロヴァキア王に即位していた。
最も彼にとってはいささか不本意な窮屈な生活を強いられているようで不平の便りが先ごろも届いている。

そして昨年には側后フリデリカとヴラドの間に待望の第一子が誕生していた。
母親の血を色濃く宿した姫で名をマリーカという。
そのころからヴラドを衰弱死させるのではないか、というヘレナの奮起が始まるのだが、その甲斐あってヘレナの受胎が告げられたのが半年前。

そして今、ルーマニア王正后の出産が佳境を迎えようとしている。
すでにオスマン戦役から二年半が経過しようとしていた。




身体の震えがとまらない。
ヘレナはいまだ十六歳になったばかりである。
それでなくともこの時代の出産は命がけなのだ。
万が一にもヘレナを失うような事態には耐えられない。
オレは無事に出産が終わることを信じて神に祈ることしか出来ずにいた。
なにが万能の人だ。
どこが明賢王なのだろう。
人の身にできることなどたかがしれているというのに。
現にヘレナの産みの苦しみにオレが出来ることなどなにひとつもないのである。
夜半に始まった出産はすでに半日を経過して夜明けを迎えようとしていた。
最愛の女よ、まだ見ぬわが子よ。どうか無事に…………!


そのとき隣室から赤子の泣き声が響き渡った。

「陛下!陛下!おめでとうございます!双子の男子でございます!」

「そうか…………!」

オレは無意識のうちにヘレナへと駆け寄っていた。

「そんな泣きそうな顔をするな、我が君………」

さすがに疲労の色は隠せないがいつもの強気の口調は健在だった。
この女性には生涯かなわないであろうと心のどこかが告げていた。


「ありがとうヘレナ……もう……ゆっくり休んでくれ」

それ以上は言葉にならない。
本当はもっといろいろな言葉をかけてやるつもりであったのだが。

「見てくれ、生まれたときからなんとも仲のよいふたりだ」

誇らしげに微笑んだヘレナに双子の息子を見せられた瞬間、オレは言葉を失って絶句した。

人は誰しもが両の手を握り締めて生まれてくる。
幼い力を振り絞って泣きながらその小さな手のひらを必死に握り締めて。
それがこの子たちは違っていた。
お互いの手を握り合っていたのだった。


………いったいこれはなんの奇蹟だろうか?


喜びでもなく、悲しみでもなく、ただ透明な涙が溢れた。
胸を衝かれた想いの衝動はオレの記憶を過去へと運ぶ。
もしこれが神の起こした奇蹟なら、オレは自分を許せるだろうか?
そしてこの二人に偽りの夢でない本当の幸せを与えられるのだろうか?
かつて見失った家族の絆を今度こそ固く結ぶことができるだろうか?
この黒髪と金髪の愛すべき息子たちに…………



「…………ヘレナ………もし許されることならこう名づけさせて欲しい…………」











「…………ヴラドとラドゥと………………」
 


                                                                                                           THE END



[4851] 彼の名はドラキュラ エピローグ
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:e30467db
Date: 2009/03/03 01:09
~STAFF ROLL~







ヴラド三世  CV 子安 武人



ルーマニア王国初代国王としてその知名度は高いが、近年の研究ではそのあまりの万能さゆえにブレーンの存在が取り沙汰されている。

いったんは滅びかけた東ローマ帝国を復興し、息子ラドゥを帝位につけて各国を取りまとめる権威としての皇帝と、実質的権威者としての国王という

二重権力体制を敷いたことは、現代にいたるも強固な東欧正教圏が存続していることから見ても卓見であったといえるだろう。

数々の発明であまりにも有名な彼だが、その中には日本に縁あるものも多い。

たとえばルーマニアで最上級のごちそうのことをギンシャーリというが、これは日本における銀シャリの使用より遥かに古いものである。

ルーマニアが欧州有数の米消費地になったのも元はといえばヴラド三世の指導によると言われている。

後年彼が中国から日本刀を輸入し愛用したことを考えても、彼の側近のなかに日本人がいたことは間違いないであろうと思われる。

また、彼のヘレナ后に対する溺愛ぶりから幼女嗜好者をドラコンと呼ぶようになったのは有名な話である。





ヘレナ  CV 川澄綾子



わずか10歳でヴラドのもとに嫁いだ早熟の天才。

ドラクリヤ朝の草創期において彼女が東ローマ帝国とワラキア公国の提携に果たした功績は巨大なものである。

その後もヴラドの政治的アドバイザーとしてルーマニア王国の隆盛を支えた。

また、女性の地位向上を政治課題として取り組んだことから、彼女を女性解放の母として祭り上げる者たちの存在するのは周知のとおりである。

彼女はその生涯において二男一女に恵まれたが、長男ヴラド四世はルーマニア二代国王となり、二男ラドゥは東ローマ帝国皇帝となった。

初産が早かったせいか彼女は生涯発育が足りなかったため、一部の倒錯した性癖を持つものたちからその美を称える声が後を絶たない。

本人は終生発育についてコンプレックスを抱いていた事実を鑑みれば皮肉なことと言わざるをえないだろう。





フリデリカ  CV 井上喜久子



ヴラドの三人の妻の中で最も最初に出産するも、生まれた三人の子供はいずれも女性であった。

そのうち一人はポーランド王に嫁いでいる。

争いを好まぬ性格でむしろ男が生まれなかったことを喜んでいたふしがあると言う。

しかし彼女がひとたび本気で怒ると、怒りの対象になった人間は必ず原因不明の不幸に見舞われることから、ルーマニアで最も怒らせてはいけない人

として恐れられた。





アンジェリーナ  CV 折笠愛



オスマン戦役終了後、正式にヴラドの側室となり一男一女を設けた。

男子ロキはその後スロヴァキア王となったヤン・イスクラの養子となりスロヴァキア王を継いでいる。

後年、スカンデルベグとヴラドを反目させ、カトリック十字軍を組織しようとヴァチカンが謀った際には自ら軍を率いて、当時ヴァチカンと同盟関係にあったナポリ

王国の東部都市バーリに上陸して教皇自らが和平の使者として赴くという事態を引き起こしている。

西欧史に名高いバーリの屈服である。

フランスのジャンヌ・ダルクと並んで戦う乙女としての名声は現在も決して消えることはない。





ヤン・イスクラ  CV 玄田哲章



上部ハンガリーの雄として終生ヴラドの盟友であった彼だが、もともと傭兵あがりで治世能力は乏しく、そうそうにヴラドから養子にもらったロキにその座を譲り渡している。

むしろ彼の活躍はその後から始まるといってよい。

史上初の世界一周を成し遂げ、日本の種子島にまで足跡を残したという事実はどれほど賞賛しても賞賛しすぎるということはないだろう。

彼を大航海時代の父として慕うものは現在でも数多く、スロヴァキアに現存するヴラディスラヴァ国立美術館は今も彼のファンでにぎわっている。





ジョルジ・カストリオティ(スカンデルベグ)  CV 若本規夫



アルバニアを統一し初代アルバニア王ジョルジ一世となった彼は当代随一の戦術指揮官として名高い。

戦後はカトリックと正教会の対立に巻き込まれ、国民を二分する争いに発展しかねなかったが、彼が政治的軸足をヴラドとの協調においていることが周知されてくると争いは瞬く間に

鎮火したという。

それほどに彼は国民に愛された稀有の政治家だった。

平和の到来とともに彼の武勇を奮う場所はなくなったが、彼はそれを競馬の奨励というかたちで発散した。

彼が偽名のチャッキーの名で出走し、見事三連覇を達成した記念碑は今もティラナの大競技場前に残されている。

欧州以外では競馬の父の名のほうが有名であるかもしれない。





ウルバン  CV 千葉繁



長らく歴史の中に埋もれていた人物だが、近年の研究で彼が三段式のロケットや飛行船の設計を行っていたことが判明し、早すぎた天才として注目を集めている。

これほどの才能がなぜ埋もれてしまったのかは不明だが、一説では彼が巨大なものを偏愛していたため、その開発費用に為政者がさじを投げたためと言われている。

それでもオスマン戦役で使用された多弾頭ロケットなどは彼の製作によることは明らかで、今後さらに評価が高まる可能性があると言えよう。





ラドゥ  CV 山口勝平



メムノン  CV 大塚周夫



メフメト二世  CV 塩沢兼人







総監督  高見 梁川



「彼の名はドラキュラ 製作実行委員会」





製作協力



そる

時間犯罪者

オイゲン

FIN

最上

sana

大猿

yuya



キャロル  (敬称略)







ーこの作品をすべての歴史愛好家と愛すべき家族たちに捧ぐー













そんなわけであとがきです。

皆様ここまでご愛読いただきまことにありがとうございました。





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