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[28634] フリップ・フロップ・フラループ
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:b920e7f1
Date: 2011/08/13 20:29
 薄い重力が肺をつついて、取れない息苦しさが焦りを加速させる。
 3ケルビンの漆黒に浮かぶ無数の瞬きは、それぞれが巨大な核融合炉の副産物だ。
 幼い頃から親しんだ筈の宇宙空間は、だけど十年経ってもたった一人でたゆたうにはあまりに心細い。
 眼前に広がる満天の星空――を映すモニタをぼんやり睨み付けながら、小さな宇宙船の船長であり操縦者でもある少年、カウノ・カトウは、やや苦み走った表情で溜息を吐いた。
 宇宙服のメットは外してある。二酸化炭素が内側に籠ることはないのが幸いだった。

「とりあえず、もうできることはないかな」

 船の内部の照明は最低限のものしか灯されておらず、ほの暗さがより際立っている。
 またモニタの端には緑に光るウインドウが開いており、救難信号を発するビーコンが正常に動作していることを示していた。

「1046ペタヘルツ、正常です――ありがたやありがたや、ってかい」

 カウノは毒突いた。センスのないビーコンウインドウに、ではない。自身の間抜けさに、であった。
 端的に言えば、彼は絶賛遭難中であった。
 長い夏期休暇を利用し、彼は地元の星に帰省していた。直線で、およそ十光年。
 反物質エンジンの推進力による亜光速移動のみではいつまでたっても辿り着けないが、ワープドライブ航法が確立された現代ではまるで問題ない距離だ。
 現にジュニアハイスクールに入学して以来、カウノはたった一人でこの間を何度も往復してきた。元々オートレース――と言っても旧式の二輪車や四輪車ではなく、宇宙船のものだ――が好きなカウノだ。その辺の大人顔負けの操縦技術を身につけていた。
 かような背景が奢りを産んだのだろうか。およそ一ヶ月間、散々地元の旧友達と遊び、さあ帰るかと一気にワープドライブを試みた直後に、まさか超新星爆発の余波をそのまま受けてしまうとは。
 教習所で一番最初に習う事故事例と言っても過言ではない。過去の遺物である自動車で喩えるなら、バック車庫入れで後部ドアを擦ってしまうようなポカミスである。
 幸い機体を覆う斥力場は十二分に動作し、ダメージは皆無。しかし肝心の方位を見失ってしまい、カウノは広い広い宇宙で誰かに見つけてもらうまで、こうしてひとりぼっちで過ごさねばならない羽目に陥った。エンジンは切っているからエネルギー不足の心配こそなさそうだが、非常用食料は一ヶ月分しか積んでいない。場合によってはカーボン冷凍措置もとらなくちゃならない、と考えると、カウノの顔は憂鬱に歪んだ。

「サイアクだよ、ホント」

 これでしばらくはヘンノ・サンド――ヘンノ鳥の胸肉を炙ったものにロン・ペッパーをきかせたソースを絡め、レタス、トマト、メルコロリロ山羊の塩辛いチーズを挟んだ、思い出すだけで唾液が止まらなくなるサンド――を食べることもできなくなるもしれない。せっかく旨い店を見つけたというのに、だ。腕を組んで深々と溜息を吐き、カウノは席に深々と腰掛けた。緩やかな曲線は彼の体型に合わせて、包み込むように形を変える。銀色のフレームは見た目に反して柔らかく、一ヶ月の航行でもストレスを感じないように作られている。
 椅子が軋む音すらせず、無音が作り出すのは耳鳴りだけ。静寂がカウノの脳を揺らす。しんとした機内に不安を覚え、彼はまずラジオを開いた。しかしチャンネルを回せど雑音すら拾うことも出来ない。広い宇宙ではそんなものだ。大体やってくるのも数年前の番組なのだから、聞いたところでどうにも寂しくなってしまう。二回り前のシーズンのベースボールに、解散したアイドルユニットによるガールズトーク、おもいっきりガセ情報だったスクープ特番。空間だけでなく、時間にも取り残されてしまった気分になる。
 早々に切り上げ、カウノはライブラリを開いて、お気に入りのプレイリストを再生する。こういう気分が滅入ったときは、いつもは絶対に聞かないようなやかましい下品な音楽がいい。一緒に口ずさめば、まあ少しは気も晴れるというものだ。
 せっかくだから、とついでにカウノはモニタを叩いて、フォルダ奥底にため込んだテキストを開いた。夏休みの宿題のためだ。時代も星も違えど、ジュニアハイスクールの生徒がやることは変わりはしない。
 彼はここ一ヶ月、ずうっと放っておいた物理の教科書を開いた。相変わらず、発音すらためらわれるような文字が並んでいる。なに? 高温プラズマ中での原子の振る舞いがなんだって? なんでここにこんな式が出てくるの? 意味不明すぎる。
 意味不明と言えば、そう、まさに今耳から入ってくるこの歌だ、とカウノは心中で八つ当たりした。なんだこれ。いつこんなの拾ってきたっけ、と首を捻る。音楽プレーヤーには勿論ロボット検索機能がついており、所有者の趣味を解析しては古今東西の音楽を勝手に集めてくる。これもその一つだろう。でもでもそれにしては随分と、だ、とカウノは再度首を捻った。趣味に合わない。いくら相手がプログラムだと言っても、プレーヤーは大手アンドレ&ボーイ社製の定番、『Speakerboxxx』。ここ100年はライブラリ更新以外、特にエンジン部に関しては全く変更が加えられていないほど安定したソフトだ。今更こんなバグがあるとは信じがたい。
 しかし現にスピーカーからはこうしてなぞのうたが延々と流れている。歌詞も不穏なら歌い方もなんだか自棄で投げっ放すような感じでとっても不穏。加えて立体音響まで入ってるのか臨場感が凄い。歌手サエコ・チバの息づかいまで聞こえてくる。おっかしいなあ、俺後部座席にスピーカーつけたっけ。つけてないよな。あれだけ値切ったんだから、買ったときディーラーのお兄さんが吐き捨てるように言ったもんな。「オプションなんてありません!」って。
 怪訝に思いながらも振り向いた瞬間、カウノの視界に映ったのは、満面の笑みで拳を突き上げ朗々と歌い上げる、見覚え皆無の少女であった。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「ええ……?」

 カウノは引いていた。どん引きだった。
 カウノは宇宙船を二つ持っていた。一つはオートレース用の『TG-II』。ターボもついて、規定ギリギリにチューンナップされた恐ろしく速い船だ。そしてもう一つがこの船『ビッグフット』。小型で馬力は今ひとつだが、燃費が恐ろしく良く、宇宙環境に優しい隠れたヒット商品だった。彼にとってこの『ビッグフット』は最早もう一つの部屋のようなもので、

「ぼぉーくぅーさぁーつぅー」

 そんな心安らぐ最後のオアシスに突然異物が飛び込んできたら、固まって全く身動き取れなくなるのも当然の反応である。誰がカウノを責められようか。彼はまだ年端もいかぬ14歳なのだ。

「誰、誰で……ど、どちらさまで……」

 カウノは身を縮めて、首を竦めては後を振り返り、ぼそぼそと口を開いた。
 『ビッグフット』は小型船のため、座席は前後に一つずつ。誰もいるはずのない後部座席に、一人の少女が座りながら、足をバタバタさせては歌っていた。ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー。
 カウノの問いに答える素振りを見せず、少女はおよそ四分にわたる元祖電波ソングを歌いきり、満足げに微笑んだ。

「えー、それではランキングに戻りましょう。今週の第三位です、初登場! 『巫女み○ナース・愛のテーマ』」
「ちょっと! ちょ、ちょっと、お嬢さん!」

 今しかない。カウノは勇気を振り絞った。小惑星群の隙間を縫う時の、刹那の閃き。コンマ台の秒数でコースを定める決断力が、彼の背中を後押しし、何とか二曲目を阻止することに成功した。

「はい?」

 少女は首を傾げた。その仕草にカウノは僅かに躊躇した。長い髪に白い肌、白いワンピース。麦わら帽子でも被れば眩しい日差しがよく似合う夏のお嬢さんの完成だ。間違ってもダークマターを添えるべき被写体じゃなくって、兎にも角にも全く宇宙らしからぬ格好をした少女には、いささかも邪気や悪びれた様子はない。当然と言えば当然だろうか。あんなに図々しく人の船で歌を歌うくらいなのだから、きっとここにいることにちっとも疑問を抱いていないのだろう。何かの手違いであってほしいと、カウノは思った。
 しかしここで、カウノはあることに気付いた。言語が共通している。少なくとも同じ人間――ホモ・サピエンスに違いないだろう。それだけでも収穫だ。この星系では、人類の方がややマイノリティーに属するくらい――犬も歩けば宇宙人にコンニチハ、な世の中である。不法侵入者が意思疎通可能な相手であることはまっこと僥倖であると、カウノは小さく頷いた。そして次に、何か質問しなくてはとも思ったが、一体何から聞くべきかと考えてしまい、口が半開きになったままぴくりとも動かなくなった。この少女は一体何者なのか。いつからこの船内に忍び込んでいたのか。今までどこにいたのか。ここにいる目的は何なのか。

「あんた、なんで、ここに、いるの?」

 我ながらいい選択をした、とカウノは心中で自分に快哉を叫んだ。そうだ、こいつが誰だとか、いつからいたのかとか、そういうのは二の次だ。勿論知りたい、知る必要がある、知らなければならない――でも最後に集約するのはここだ。なんであんたがここにいる。ちがうでしょ! ここ俺の船でしょ! きみんちじゃないでしょ!

「えー?」
「えー? って、えー?」
「ちょっとねー。そーゆーの、よくわかんないんすよ。はい」
「はい、じゃねえよ!」

 さっきまで痛いくらいの静寂に包まれていた船内が、一転して慌ただしさでいっぱいになる。
 頭をがしがしと掻くと、カウノは眉を吊り上げた。

「正直に言うんだ。正直に、だぞ。じゃないと、港に着いたら連邦につき出す」

 宇宙船には事前に登録され許可の下りた生物以外、持ち込めないようになっている。
 別の星に行く際には必ず検疫を受け、消毒に消毒を重ね、超のつくクリーンルームでホコリを落とし、きれいな身体で漸く乗船の許可が下りる。船がパブリックであれプライベートであれ、そこに例外はない。荷物も然り。星間国際法にみっちりと記されている、学生にも馴染み深い取り決めである。
 今回カウノの『ビッグフット』では、勿論のこと、願いを出したのはカウノのみである。目の前の少女は知ったこっちゃない。向こうの空港に着いたとき、一体何と言って書類を出せばいいのか? 場合によってはカウノがキップ切られてしまう。それだけならまだいい。昔なら警察の厄介になればちょっとはハクがついたらしいが、オートレースが大好きなカウノとしては、免許剥奪だけは避けたいところだ。であれば、書類と共に連邦職員へ伝える言葉は決まったも同然。「弁護士を呼んで下さい」これっきゃない。
 そこまで考えてカウノの思考に疑問が差し込まれた。こいつは一体いつこの船内に入ってきたのか……? 前述の通り小さな空港でも厳しいチェックが入る中、羽虫一匹忍び込むのも難しいのに、だ。

(職員の人が手続きを間違って、この娘が俺の船に誘導されたのか?)

 まあ、あり得る話かもしれない。『ビッグフット』は非常にポピュラーな船で、今季販売台数では小型・軽量船カテゴリで三位。カウノの船は十年以上古いものであるが、それだけ長く愛されている船種だ。実際あの空港でも何艘かは見かけたし、この少女が間違って入ってしまってもなんの問題もないだろう。少なくとも、幽霊説よりは全然現実味もあるし、説得力もある。
 ――そう、幽霊。人類が縦横無尽に宇宙を飛び回る時代になっても、この手のオカルト話は尽きない。カウノの友人にも霊感が強いと自称する者は何人かいる。当初は鼻で笑っていたが、少女の姿を目の当たりにすると、一瞬だけでも彼はその存在を疑った。冷静になればなんて事はない、ないのだが、暗い船内、宇宙という本能的に心を圧迫する恐怖の対象に包まれては、心を静謐に保っておくことも困難極まるというものだ。

「おい、まさか、あんた、自分が幽霊とか言い出さないよな?」
「は? なんで?」
「違う?」
「そりゃ違うでしょ。ほら足生えてますよ。なまあし。おみあし」

 セーフ。カウノは心中で一塁塁審として精一杯両手いっぱい左右に空を切った。

「そんで」
「はい」
「本題に入るけど」
「よかろう」
「あんた、なんで俺の船に乗ってるの?」

 ん-、と少女は唇を尖らせて、

「やっぱほら、夏ですから。ね」
「ああ」
「わたしも年頃だし、こうして出会いを探して。一夏のアバンストラッシュと」
「アバンチュールな」
「AにBときたらCじゃなくってXですってよ。なんだか余計に表現があからさまと言うか、正直卑猥ですわよね奥さん」
「なんの話だよ……」

 このボケ……ホンマ……
 カウノは心中で少女を罵倒した。

「えっとね、まあ。言うのは恥ずかしいんだけど、寂しいんですよ。一人旅って」

 気持ちは分かる、とカウノは小さく頷いた。今でこそ彼はこうして数日間の旅もなんのそのであるが、昔はこっそり一人でよく枕を涙で濡らしたものだった。宇宙の一人旅というものは、それだけキツい。

「それで、ツレが欲しい、と」
「あと、わたし、お金とかないんで」
「ああ」
「できるだけ財布に優しい旅にしたいなあ、なんて。
どうすか」
「でてけ」

 カウノはにっこり笑って座席の後を指さした。

「宇宙服もある。緊急用脱出ポッドもある。
十分だろう」
「FF8ごっこっすか。まさにめぐりあい宇宙」
「なにがまさにだ。死ねっつってるんだ俺は。あんたに」

 直接的な表現に、少女はえー、と眉を顰めた。

「あの、もうちょっと、こう、優しさを。未来のジェントルメンよ」
「うるせえ。大体そっちの方がいいかもしれないぞ、これじゃ」
「え?」

 首を傾げる少女に向かって、カウノはシニカルに言葉を放った。

「実はだ」
「はいはい」
「俺とこの『ビッグフット』――『ビッグフット』って言うんだけどな、この船」
「お兄さんがつけたんですか? 名前」
「ちゃうわい。そういう商品名なの。メーカーがつけたの。名前」
「あ、そうすか。すんません、こういうの、疎くて」
「……で、この『ビッグフット』は目下現在遭難中。
漂流つってもいい。わかる?」
「え、ええ、まあ」
「一体、いつ、どこの、誰が、拾ってくれるかは全くの未定だ。
俺たちはあと何回寝つけば、ようやく家の温かいベッドにくるまれるか、まさに神のみぞ知る、っつうこと。
いや全く、あんたって運がないね」
「……ホント?」
「ホント」

 言いつつも、カウノは怪訝な表情をしていた。少女はあくまで陽気なままに見えたからだ。
 彼は戸惑いがちに、

「ずいぶん、いや……その、平気なのか?」
「え?」
「だから、心配じゃないのか?」
「心配? まさか!」

 少女は満面の笑みでカウノの座席をばんばんと叩き、

「そんな寂しいひとり十五少年漂流記やってるあなたのために、わたしがいるんじゃないですか!
宇宙で遭難した寂しいあなたと、一人旅の寂しいわたし!
教科書通りのジョブマッチング! 完璧なウインウインの関係! どうよ!」

 カウノは頭を抱えた。アホだこの女。全然事態を理解してない。
 それとも俺の説明の仕方が拙かったのか? カウノは首を捻りながら、苦み走った顔で腕を組んだ。

「えっとな、もっかい言うぞ」
「え、あ、はい」
「あんたの乗ったこの船、現在漂流中。方角を見失って、どっちいったらわかんない状態なわけ。
下手に身動きとるのは自殺行為なんで、エンジン切って救難信号出して、それしかできないわけ。
おわかり?」
「はあ」
「いつおうちに帰れるかぜんっぜんわかんないわけ」
「へ、へえ」
「あんたも例外じゃないわけ」

 噛んで含めるように言葉を重ねるも、少女の反応はいまいちだ。ぽかんと口を開いて、ゆったり相槌をうつばかり。
 カウノは改めて頭を抱えた。

「あー、その……どうしました?」
「いいよもう。あんたなんも分かってないっぽいし」
「いや、わかってますって」
「わかってねえって。
死ぬかもしれないんだぞ。運が悪ければ。このまま」
「うわあ。でも、大丈夫なんでしょ?」
「……やっぱわかってねえな、あんた」

 カウノはそう言ったが、内心ではさすがに死ぬとまでは思っていない。
 彼のとった航路は船の通りが少なくはなく、せいぜい一週間もすれば誰か救難信号を聞きつけてくれると確信していた。つまるところ、苛立ちに任せて彼女を脅したのである。

「まままま、いいじゃないすか」

 しかし少女にとっては馬耳東風、分かってて言っているのか全く理解していないのかも判別がつかないくらいの天真爛漫さで、座席にゆったり座っては手を振っていた。

「せっかくこうして二人が知り合いになれたんですから、なにはともあれまずは乾杯しましょうよ。乾杯。しってます? 乾杯」
「知ってるよそりゃあ……」
「じゃ話は早いですね! とりあえず生中でいいっすか?」
「は?」
「生中っすよ。生中。ドラフト・ビアー」
「……ああ、ビールのことね。ってんなもんあるわけねえだろ!」
「えええええ」
「えええじゃねえよきさま。アルコールがそんなに簡単に手に入るわきゃねえだろ、しかもドラフト――非加熱飲料なんて」

 連邦の法制下において、現在アルコール――エタノールは飲料用であれ工業用と同じく、購入・管理には届け出が必要となる。というのも、連邦に属しているとある種族にとって、エタノールは猛毒となるのだ。一部の有機溶媒を体内に取り込むと内臓を構成する脂肪分が分解され、そのまま体組織の崩壊に繋がってしまう――とのことで、彼らの星では持ち込むことも製造することも禁じられている、一級の毒物・劇物指定を受けている。
 非加熱飲料も同様に規制されている。一つの星でも様々な新種の細菌が生まれては進化を遂げているというのに、数十もの惑星で生まれる量ときたら想像もつかない。それらに対処するため、飲料は様々な滅菌過程――加熱に始まり、逆に吸熱、加減圧、消毒液、放射線――を経ることで、ようやくお役人からのハンコをもらえるようになる。星の中でのみ製造・販売するならこのハードルは低くなるが、一端宇宙に出すとなると恐ろしく厳しい基準をクリアしなければならない。例外とされているスタンダードな『宇宙食』を除けば、これらの基準をクリアする飲料・食品を作れるのは連邦広しと言えどたった三社のみ。嗜好品は、宇宙では、大抵が高級品となるのだ。

「え? そうなの?」
「あんた、ホントになんも知らねえんだな」
「でへへ」
「ちょっとは反省したらどうだ」

 きっと睨み付けるも、少女はぽりぽり頬をかいて、僅かに照れた仕草を見せるばかり。
 しばらく怒りを瞳に込めていたが、甲斐なしと悟ったのか、カウノは前方に向き直って、どっかりと椅子に座り直した。無視を決め込んだのだ。

「あ、ち、ちょっと、いや、怒っちゃいました? すんません、ほんとにわたし、何にも知らなくて」
「…………」
「ままま、そこでですね、お近づきの印と言っては何ですが、こちらどぞ」

 腕を組み目を瞑ったまま黙り込んでいたカウノであったが、耳元で鳴った「ぷしゅ」という音に反応し、首を回した。目の前には汗をかくほどキンキンに冷えた黒色のアルミ缶。デザインはアンティークの域を軽々と飛び越え、最早文化財クラスというレトロっぷり。スペルは果たしてローマ字だろうか、じっと目を凝らしてそれを読む。

「ギネス……ドラフト……1756……?」

 缶の口からはしゅわわわという柔らかい泡立ちの音が立ち上り、つられてフルーティーな香りがカウノの鼻を突いた。

「……なに、これ?」
「黒で恐縮ですが、生ビールっす」
「もってんじゃんあんた! つうかなんでそんなもん持ってるんだよ!
未成年だろ!」
「いやあ。だって、ねえ」

 まあまあまあと言いながら少女はカウノの手に缶を持たせ、自身もどこから取り出したのか同じ缶を片手に持ち、にやりと笑みを浮かべるとプルタブに手をかけた。ぷしゅ、という音と共に、亜麻色の泡が少しだけ吹き出してくる。迎えるように口を付け泡を啜ると、少女は満足げに頷いた。

「まあ何はともあれ! 二人の出会いに! 乾杯!」

 ごちん、と二人のギネスが音を立てる。
 あっけにとられるカウノを余所に、少女はごきゅごきゅと350 ml缶を一気に飲み干して、

「うめえ」

 大きくゲップを一発放った。

「……………」

 まじまじとカウノは缶の裏側、原材料その他が書かれている部分に目をやった。彼は古文――クラシカルな英文学は得意ではない。とは言えここ二年で最低限のことは習ってきたから、そこに書いてあることは少しは読むことができた。
 結果。

「お、おまえ、これ、本当に本物のビールじゃねえか! しかも非加熱!」
「だから言ったじゃないですか。生中だって。
そりゃ生中って言ったら普通ギネスは出てこないでしょうけど、ちょうど手持ちがそれしかなかったんです。
がんばりましたよわたし」

 だってやっぱり乾杯はビールでしょ-、なんてほんのり頬を上気させて言う少女を、カウノは横目で睨め付けた。
 同時に、彼は内心で、この傍若無人な少女に対するある人物評を固めつつあった。

(こりゃあ……箱入りどころの騒ぎじゃないかもしれないぞ……)

 最初は余程の世間知らずかただのバカか、最悪精神病(強力な高周波電磁波で神経をやられてしまうケースが、百年ほど前に大流行した。以来、連邦内の人口において二人に一人は潜在的な精神病患者と、大変メジャーな病気になっている)にかかってしまったのか、或いはそれらのまぜものかと、カウノは少女のことを疑っていた。しかしこうして高級品である生ビールをいともたやすく取り出した時点で、カウノの若い脳細胞では少しばかり推理が固まりつつあった。つまり、彼女は実は超のつく生粋のお嬢様で、なーんにも世間の常識とやらを知らずに、悩みも苦労も持たぬまま育ってきた、というものだ。偏見を核にステロタイプで包んだラベリングではあったが、それが彼に安心感を与えていた。逆にここから外れているというのは、カウノの狭い世界を大きく逸脱する話になり、もう手に負えない状況になってしまう。ありきたりでええねん。最後はみな定番に帰っていくのだ。食も、ファッションも、女の子の好みですら。カウノは若い身空で淡泊な世界観を抱いていた。

「そう、それで」

 女の子が二三頷くと、後部座席から腕を伸ばし、カウノのそでをちょいちょいと引っ張った。

「乾杯の後は自己紹介。おにいさん、お名前は?」
「…………」

 カウノは渋った。こいつの正体がなんであれ――一番突飛な想像としては、どこかの星のお姫様だったとしても――軽々しく友好関係を結ぶ理由はない。危険だ。
 その逡巡の隙を突かれたのか、気がつくと少女は目の前のモニターを操作していた。画面に映し出されるのは、

「やさしいぶつり、なまえ、カウノ・カトウ」

 朗々と読み上げる少女であった。
 カウノは全身からみるみる力が抜けていくのを感じていた。この少女にどうやって相対すれば良いか、まるで見当もつかなかったからだ。突破口すら見当たらない。これまでカウノは様々な種族の宇宙人達と付き合ってきたつもりであったが、彼女はどのタイプにも属さない手合いに思えた。そんな一番厄介な人種と、この小さな『ビッグフット』で、たった二人きり、漂流する羽目になるだなんて――

「カトーさん」
「……カウノでいい」

 カウノは自分のファミリー・ネームがあまり好きではなかった。そういった理由から、彼は自然とファースト・ネームを口にしていた。もうこれ以上不用な労力を使いたくない。意識は早くも逃げ道を探していた。

「カウノさん。よろしく! で、わたしは」

 少女はすくっと立上がり、腰に手を当て、ギネスの空き缶をずいと突き出し、

「モーリェといいます! ちょっとのあいだ、ずうずうしくも、お世話になりやす!」

 わかってるならもうちょっと遠慮してはどうか。この状況を見れば、原理主義的なリベラルだって俺に賛同してくれる筈だ。
 カウノの皮肉混じりな視線は、モーリェと名乗った少女の笑顔に曇り一つ入れることもかなわなかった。



[28634] だいにわ!
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2011/08/13 20:30
 前回までのあらすじ。

 気がつけば背後にキ○ガイが!





     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「まったくもって」

 うんうんと頷きながら、少女――モーリェは新たに取り出したライム色の瓶を取り出し、

「こうしてですね、カウノさんと義兄弟の杯を酌み交わせるというのはまったくもって歓喜の極みでありですね」

 ぷし、と金ふたを捻り、口をつけて再び一気に飲み干す。
 ラベルは瓶と同じ青色を基調に、縁を彩る金、赤色のロゴ。
 ギネスの次は、青島ビールであった。

「うめえ」

 遠慮無く汚らしいヒュージなゲップをぶちかました後、

「わたしの運勢も捨てたもんじゃないな、と。いや、ですね、実は今年大殺界なんですよ」

 相変わらず口を閉じる様子を見せないモーリェに、カウノは押し黙ったまま棘の如き視線を浴びせかけることしかできずにいた。

「こまっちゃいましたよねー。正直この旅もやろうかやるまいか三日くらいなやんだんですけど」

 チータラを囓りながら青島ビールを力強く握りしめ、モーリェは訴えた。

「もう、行こうと。行くっきゃないと。大殺界なにするものぞと。いやその、実はですね、わたしって金星人プラスなんですが」
「……金星人?」
「いや個人的にはぜんっぜん当たってるって思えなくて、ほら、もっと奥ゆかしくて引っ込み思案なタイプじゃないですか。わたしって」

 そらで聞き流し適当に相槌を打っていたカウノであったが、突然飛び込んできた単語に耳が反応した。数少ないモーリェの情報だ。今のところ、カウノが彼女について知っていることはごくごく少ない。変人であり、恐らく財力があり、偽名でなければその名をモーリェ。そこに、本人曰く、金星の出自であるということが加わった。
 しかし。

(……金星?)

 聞き覚えのない星の名だ。残念だが、有益な情報にはなりそうもなかった。

「そんな気の弱い自分を変えたい……! もっともっと、明るく、元気に、言いたいことをはっきりきっぱりちゃんと言える、そんな女の子になりたかったんです!」

 モーリェはばんばんとカウノの背もたれを叩いて、己が思いの丈をぶちまけた。

「そこに現れたのが! カウノさんなんですよ! いよっこの男前! 男前豆腐!」

 彼女は再度青島ビールをあおり、くっちゃくっちゃとチータラを口にした。

「怖かったです。新しい一歩を踏み出すのは、いつだって怖い。
でも頑張ったら報われるんだ、って――かみさまはちゃんと見てくれてるんだ、って――心からそう思えました」

 ほう、とモーリェの唇から溜息が漏れた。小ぶりの、薄紅に濡れた唇。そこからアルコールの臭気が、『ビッグフット』の船内に立ちこめた。
 
「変われそうです。わたし。ちょっとだけ、自分のことが、好きになれるかもしれません。
……ってあれ? カウノさん、さっきから全然進んでませんけど、ひょっとしてビールだめな人ですか? カシスオレンジの方がいい? それともカルーアミルクの方がお好み? マジ女子っすねえ。草食系っすねえ」
「いや、つうか、俺、未成年だから」
「またまた」
「なにがまたまたなんだよ……」

 盛り上がるモーリェに反して、カウノの心は挫ける寸前だった。
 確かに、寂しいという感情は沸き起こらない。宇宙で漂流しているというのに、そんなことを忘れそうと言うか、大事には全く思えない。代わりに別の巨大な試練が、絶えることなき波濤の様に彼を待ち受けているのだから。

(こいつマジでどうすんだよ)

 モニターの外には、相変わらず漆黒の宇宙空間が広がるばかりであった。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 一日が経った。
 食事を共にし、映画を見て、下らない世間話を(一方的にではあるが)した。
 ここまで来ると、カウノの精神にも変調が現れた。あきらめである。
 無理に抗うから辛いのだ。本気で付き合うからキツいのだ。
 適当に話を合わせば、多少は、本当に多少であるが、楽になる。カウノはそう悟った。
 繰り返すが、彼はまだ14歳である。

「いやあ、やっぱり旅っていいですねえ」

 クアーズ・ライトを片手に、モーリェは満足げに微笑んだ。

「自分の世界が広がるって言うか。ねえ」
「そうだな」
「あ、そういえばその人って誰っすか?」

 モニターの端に張られた写真を突然指さして、モーリェは尋ねた。
 うすぼんやり照らされたそれらは一枚二枚ではない。左端から右端まで、モニターの四辺のうち二つを埋め尽くしていた。
 今日日、現像された写真である。カウノは父の影響もあって、この歳で写真マニアでもあった。

「ああ、これは……大会の時の写真」
「たいかい?」
「そう」
「大会って、大会って、何の大会ですか?」
「レースの。オートレース。宇宙船のな」
「へー。いっぱい出てるんですね!」
「まあ、趣味だし」
「どれくらい速いんですか?」
「惑星『ユリマキ』で二番。U-15だけど」
「へえええ」

 モーリェはモニターの微かな灯りに照らされた写真に顔を近づけ、一つ一つをじっと見詰める。

「んん、なんだかずっと同じ人が写ってますね……女の人ですか」
「そいつはシスコ。『ユリマキ』のチャンプだ」
「へー」

 どの写真でも、カウノの横でクールにピースサインを決める女がいる。
 名前を、シスコ。青白い――比喩ではなく、実際に青色をした――肌を持つ、ヴァルマ星人。白銀の髪に黄金の瞳が、写真越しにも輝いていた。

「そいつにはちっとも勝てなくてな。俺も頑張ってはいるんだけど、簡単にコースを空けてくれない。一回だけ小惑星の影からの隕石を軸に抜き返して、そのままフィニッシュできたことはある。でもそれきりだ。俺は二番で、こいつが一番」

 カウノは凪いだ表情でそう言った。
 よくよく見れば彼の頬は強張り、目線は固定されたままで、感情を押し殺しているのが分かる。カウノは、実は、シスコに対して強烈なライバル心を抱いていた。腕をどれだけ磨いても、彼女の影しか踏めやしない。今日は何とか手が届いたかと思ったその時、するりと勝利は指の間からこぼれ落ちる。シスコはそんな具合で、常にカウノの一歩先を行っていた。その上彼女は女性であり、年頃の彼にとってみればレースの度に忸怩たる思いを抱え、そんな情けない自分に辟易しては夜の銀河系首都高でスロットル全開、というやや不完全燃焼気味な青春を、カウノは送っていた。そんな彼がシスコを冷静に語るのは、そこそこに心の安定を要する行為であったのだ。がんばったカウノ。
 しかしその横顔はモニターのか弱い光で照らされ、陰は深い。写真に夢中なモーリェは当然気付くはずもなかった。

「でもでも! 二番なんですよね!
それだけでも凄いですよ!」
「まあ、二番って言っても、『ユリマキ』は田舎だし、U-15だし。
競技人口、少ないんだよな」
「それでも凄いっすよ! ぱねえっす!」

 クアーズをあおってはぱねえと呟くモーリェに、

(ほんとコイツ自由だな)

 どうにも気の抜けるカウノであった。

「どういう感じなんですか?」

 写真を一通り見終わったのか、モーリェが振り返り、全く具体性に欠けた疑問を口にした。

「なにが」
「オートレースですよ。わたし、見たことないんで、よくわかんないんです」
「ああ。っつっても、どういう感じって、言われてもなあ」

 髪をがしがしとかいて、カウノは『ビッグフット』の天井を見遣った。

「すっごくおおざっぱに言うと、星の周りをかけっこするだけ」
「へー」
「決められたコースを外れないように、あとチェックポイントを通過するように、
何周もする。それだけって言ったらそれだけなんだけど」
「ふんふん」
「事前の機体の整備がモノを言うし、レース当日の天気とかにも左右される」
「天気? 宇宙なのに?」
「惑星の地場とか、近くの恒星のフレア周期とか。あとデブリに、隕石に」
「……はー。すっごく難しそうっすけど」
「難しいよ。勿論操縦も難しいけれど、準備が大変だ。正直、当日までの準備で半分は決まると思っていいし」
「バリヤードなんですね」
「デリケートな。せめてバリケードって言おうな」

 カウノの言ったとおり、オートレースに限らず、旧式の四輪、二輪、果ては陸上競技に至るまで――純粋に最速を競うレース一般というものはシンプルな故、細かいコンディションに大きく左右されてしまう、デリケートなものである。足し算ではなく、引き算の世界。最先端の煌びやかな外見とは裏腹に、その実減点方式のストイックな中身を抱えているのだ。
 それだけに、参加するプロのチームのコンストラクターは、必然膨れあがる。メカニック、エレキ、デザイナー、ストラテジスト、ピットクルー、ナビゲーター、エトセトラ、エトセトラ……これだけでも何十人を必要とするというのに、その上ドライバーも一人二人ではない。テストドライバーを含めれば、金満チームでは十人近くまで指折り数えることになる。その大所帯のスタッフが、しかし最後には、一つのマシンに力を集約し、支える。
 以上はプロのオートレースの事例を取り上げたが、アマチュアでは数も予算もどどんと減り、一人で幾つも役を兼任する羽目になる。特にU-15にまで下れば一人で全てこなすレーサーも少なくなく、と言うかほとんどそうなって、まさにカウノがそのうちの一人であった。彼はマネジメントも、シミュレーションも、アライメントも、アセンブルも、全て独力で淡々とこなす。腕はお世辞にも良いとは言えないが、この歳で、たった独りで、十二分に頑張っていると言えよう。彼の主戦場である惑星ユリマキは確かに辺境に位置しており競技人口も少ないが、しかしU-15では間違いなく二位にランクされているのだ。

「見たいなあ。今度連れてって下さいね」
「あんまり見ても面白くないぞ。あれは身内で盛り上がるもんだから」
「あ、だったら今みたいに乗せて下さいよ。そしたらわたしも身内の仲間入りで」
「なんでわざわざ重しを載せなきゃならないんだ。ナビゲーターでもないのに。余計に勝てなくなるわ」
「重しだなんて! ひどいっす。ミューオンのように軽いこのわたしをつかまえて、重しだなんて!」

 不満を隠そうともせず口をとがらせ、モーリェはぶーたれた。

「さっきデリケートって言ったばっかりだろ。スタートダッシュなんてその最たる部類に入るぞ。重量過大で加速が延びなくって、ライン取りに失敗したらそのままずっと挽回できずにずぶずぶ沈んでいく――なんてよくある話だし」
「ぶーぶー。わたし一人分の体重くらいならそんなの誤差の範疇ですよーだ」

 つーんとそっぽを向いたかと思うと、クアーズを最後までごきゅごきゅ飲み干し、けぷ、と小さくゲップをしてみせた。

「そんなビールジャンキーなんかに言われても説得力がないね」

 片方の眉を吊り上げシニカルな表情を浮かべて、カウノは言った。
 その言にびくりと肩を竦ませたモーリェは、ワンピース越しに下っ腹を指で摘んで、

「軽くヤバい」

 なーっつかしいっしょーぐへへとはしゃぐモーリェを尻目に、カウノは溜息を吐いた。なんなのこいつマジで。露骨に眉を顰めてみせるが、モーリェは二本目のクアーズを開けた作業に夢中でいる。

「いてて爪割れる爪割れる……あ、そうそう、それで、カウノさん」
「……なに」
「おりゃ開いた! ……で、将来は、プロ目指すんですか?」
「プロ?」
「はい。あ、勿論プロデューサーじゃなくって、プロフェッショナルのことですよ」
「いや、そりゃ分かるけど……でもプロって」
「オートレースのプロですよ」
「プロねえ」

 カウノはまんざらでもない、という顔をしながらも、腕を組んで唸り始めた。

「まあ、そりゃなりたいよ。プロ」
「じゃもうなるしかないですよね、プロ!」
「簡単に言うなって。層が厚くなるのはこっからだってのに」
「え、そうなんですか?」
「U-20過ぎるともう個人でどうにかできるレベル超えるからな。大学のチームやら、社会人チームやら、同好会的なチームやら入り乱れて、アマチュアですら血で血を争う領域になる。そもそもプロだってリーグ分けされているくらいだし、一番上の『規定A』でのレースになると、ただマシン作って出場するってだけで莫大な金がかかっちまうんだぞ」

 そこまで言って、カウノははたと口を噤んだ。莫大な金。その言葉は彼にモーリェの正体について想起させるに十分なものであった。

「へー。でも莫大って、どんくらいのお金なんすかね」

 これだ。カウノはじっとモーリェの目を見た。

「去年優勝したチーム――『ウォーキンショー』の予算は、ざっと1000億は下らないと言われている」

 カウノは一つ、彼女をテストすることにした。
 目の前で浴びるようにビールを飲み干す少女(矛盾に包まれた表現であるが)の正体は、一日が経過した時点でも変わらず不明である。が、そのあまりに常識外れで浮世離れした言動から、カウノは彼女のことをどこぞの金持ちの一人娘あたりと考えていた。由緒正しき財閥の令嬢ではなく、豪放な成金の奔放な種が残した妾の娘とかなんとか。
 そんな彼女がこの天文学的な数字を聞いて、一体どの様な反応を見せるか。

(俺と同じ庶民なら、さすがに驚きを隠せないだろう)

 しかし本物のお姫様なんかだったらどうか。「わたくしの国の予算の1/100ですことね」なんて、白鳥の羽根がついた扇子でも揺らして微笑みながら余裕のあるコメントを返してくるに違いない。どうする、カウノ。どうなる、モーリェ……!

「ふーん。よくわかんないっすね」
「……あ、そ、そうっすか」

 一番されたくない反応をされてしまった。カウノは落胆を内心に留め、気まずさを隠そうと手にしたクアーズに口をつけた。

「…………」

 苦い。味薄い。アルコール独特の妙な臭い。どうしてこれがもてはやされているのか分からん、と小さく首を傾げ、彼は手に持った缶(残量338 ml)をモニター前の小棚に置いた。
 もう、聞こうか。聞いちゃおうか。面倒臭さのあまり、カウノの思考は自棄を起こし始めた。この件に関しては、ここ一日で一応は彼の中で一つのルールが定まっていた。モーリェの正体は、俺たちが助かったその時に聞こう。それまでに聞いたって、どうせそこに意味はない。いつ救援が来るかも分からない中で、万一彼女の正体を聞くことで新たに苦悩を抱えるのはあまりにリスキーだ。だけど推理は意識して止められるものではないし、長時間の旅、せっかくだから何某かの退屈しのぎは欲しいところ。手慰みには丁度良い。どの道この密閉された空間で、あいつが何星人であろうが、その情報は何の利益も生みはしない。
 そんなカウノの小さな決心は既に揺らいでいた。だとしたら尚更だろ。今聞こうが、後で聞こうが、違いはないじゃないか。

「……いや、つうか、なんだよその『おたのしみうちゅうぼっくす』って」

 いい感じに酔いが回ったのか、再度突然なぞのうたを歌い出したモーリェ。しかしその奇行はカウノの闘争本能に火を付けた。こいつに負けるか。こいつなぞに負けてたまるか。
 ぐっと歯を食いしばり、カウノは鈍くなりかけた思考を叩き起こして考えを巡らせる。
 そもそも。こいつが何者であるか、という疑問は一度横に置いて、果たしていつこの船内に入ってきたのだろうか?

(一個ずつ思い返すぞ。俺がまず、この『ビッグフット』で実家のガレージから空港に入っただろ)

 大気圏を突破可能となる第一宇宙速度はしかるべき場所・手続きを踏まなければ出してはならないと法律で決まっている。その許可を出し、なおかつ場所を提供するのが空港なのだ。宇宙航行する者は、例によってまずここを訪れる。

(で、その間は勿論船内には誰もいなかった。俺一人。あとは貨物室に、荷物を少々)

 洗い出すのはここからだと、カウノは眉間に指を遣った。人の手が多く加わるのは、空港に着いてから、である。

(空港に着いたら、船着き場に一端船を泊める。それからカウンターに行って、チケットとパスポート提出。手続きが終わるまでの一時間、空港内のカフェ『ヴィスコンティ』で砂糖たっぷりのエスプレッソ一杯とシャルロット・アフリケーヌだけで粘る。手続きが終わると、船着き場から船をドックに持って行って、俺と荷物と船を検査、洗浄作業。それで――)

 カウノは指折り数えながら、煩雑な行程一つずつを思い返していた。そして、思い返せば思い返すほど、記憶を辿れば辿るほど、心に疑問が降り積もっていくのを感じていた。

(どうやっても不可能だ。この女が人目――職員の監視をかいくぐって船内に入れるなんて)

 麻薬の密輸や人身売買は今になってもちらほらと話が出てくるもので、無論その大抵が大事になる前に露見してしまうのだが、幾つかは空港の外で検挙されて初めて明るみに出てくる。それはつまり、彼らの中には、どうにかして監視の網をすり抜けることに成功した者がいる、ということだ。
 一体、どのような、手段で――
 Aメロに入ったモーリェのなぞのうたによって、その思索をあまりにたやすく分断されたカウノは、彼には珍しく汚い言葉を使って怒声を浴びせかける。しかしモーリェに堪えた様子はなく、陽気なままBメロに突入してしまった。
 ひとまずカウノは怒りを静めようと自身に言い聞かせ、そしてどこまで推理を働かせたか、と再度記憶のログを一つずつ追う作業に戻った。

(そうそう、どうやってこのバカが俺の船に入ってきたか、だ)

 如何にして少女一人がカウノの『ビッグフット』に、無断で入ってこれるか。候補はたったの三つである。

(一、職員のミス。二、職員もグル。三、実はこいつは、潜入のプロだとか)

 我ながら思考が変な方向に逸れている、とカウノは自覚していたが、しかし様々な可能性を取り去れば、手元に残るのはこういったトンデモチックな理論だけだ。
 一番もっともらしいのは最初に挙げた『職員のミス』であるが、もっともらしいだけに可能性、と言うか、成功率が低くなる。どうも話を聞けば、この少女は自分の判断で船に入り込んだらしいのだ。彼女が作戦を実行したその瞬間、まさに職員が取り違えを起こす。果たしてそんな偶然はあるだろうか?
 となれば。

「……だからさ、なんなんだよさっきから歌ってるその『おたのしみうちゅうぼっくす』ってのは!」
「オマエラ、宇宙なめてるっ!」
「いた、あんた、なに投げて、いたっ!」
「オマエ、宇宙なめすぎっ!」

 となれば。
 この金持ちの娘が、袖の下から職員に大金を渡し、潜入を成功させた、というところだろうか。まさかジェームス・ボンド顔負けのスパイであろう筈もない。うん、考えればこれが一番腑に落ちる。腑に落ちるだけに、

「さあみなさん、ミスターロボットのロボットダンスでございまああああす!」

 ヘイ! ヘイ! と自分で囃し立てながらロボットダンスを始めた少女が、配慮や労りといった温かい言葉とはおよそ無縁の生き物である、ということをいやが上にも認識しなければならない。カウノは改めて憂鬱な気分に包まれた。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 現実逃避にも何某かの力が必要である。
 逃避、というくらいなのだから、如何により安楽を求めた結果であったとしても、現状からの離脱にはパワーと必要とするのだ。抜け殻のように黙りこくって停滞を始めている方が危険なくらいで、身の回りにそんな人がいたら要注意。
 ――話は『ビッグフット』に戻り。時計の針は淡々と時間を刻み、更に一日。

(限界である)

 カウノの精神では、現実逃避の余力すら尽きようとしていた。
 宇宙空間という超低気圧に対して、中性子星のような超高気圧のモーリェ。
 このままでは発狂する。心がばらばらに空中分解してしまう。カウノはぶつぶつと虚空を見詰めながら呟いた。

「んん? なんすか、カウノさん」
「うるさいはなしかけんな」
「元気ないっすねー。そんな時は一献やりましょうよー。
はい、それじゃですね、今日の一杯をね、ご紹介いたしますよ。
みなさんこんにちは、土○善晴です。今日はね、この『ジーマ』をご紹介致しますよ。
これはですね、大変爽やかで、もう、ビールと言うよりチューハイに近いですね、味は。
でもね、ちゃんとモルトを使っていますからね、ビールなんですね、これも。
ですのでね、こうビールが苦手だと、そういう方にね、是非飲んでほしいんです。
いかがですかカウノさん」
「出て行ってくれないか!」

 挫けそうな心を奮い立たせようと、カウノは声を荒げた。

「ああもう! こうなりゃ自棄だ、守りに入るからあかんねん!」
「ってことは、攻めるんですか? 攻めちゃうんですか?
そりゃタチっすね! カウノさんタチっすね! いややだ興奮してきた!
いよっタチヒ○シっ! タチ○ロシっ! せんせいバナナはお○つに入りますか!」
「うるせえ馬鹿野郎! あんたはもう、俺が聞いた質問のみに答えろ!
それ以外は口を開くな!」
「えええええ」
「船賃だと思え、人の船で好き勝手やりやがって……!」

 カウノはいつの間にか手に握らされていたジーマを一口ゴクリとあおった。

(あ、うめえ、これいける)

 じゃなくて。

「あんた、どうやって、この船に入ってきた!?」

 カウノは遂に、その疑問を口にした。

「え……どうやって、って」
「困るような質問か? いや、だったら俺から言おう。
あんた、空港で職員に賄賂を使って、チェックをパスしたな?」

 それは会心の指摘であった筈だった。モーリェの驚愕に包まれた表情を見ることで、ようやくカウノも溜飲が下ることになる筈だった。
 だのに。

「へ? くうこう?」

 その、反応は、なんなのだ。

「なんすか、その、空港とか、賄賂って」
「……惚けるなよ」

 そう言いつつも、カウノは推理をおもいっきり外していたであろうことに気付きつつあった。モーリェの顔には大きく『?』が刻まれている。嘘や駆け引きといった煩雑な心理戦とこの少女が対極に位置しているということは、たった二日を共有したカウノにも分かりきった話であった。

「じゃあ、どうやって入ってきたんだ、あんた。
この『ビッグフット』に」

 ならばと仕切り直し、カウノはずいと後部座席に向かって身を乗り出した。
 しかし少女の表情は芳しくない。首を捻って唸り、いかにも言い淀んでいます、といった顔色で、

「んー、いや、その」
「言いにくいことなのか。やましいことがあるのか」
「いや、折角こうして乗せてもらってるし、カウノさんには正直にありたいんです。ですが」

 どうにも歯切れが悪い。

「なんて言ったらいいのやら、と。言葉を選んでるんです。
言葉って難しいっすね。コミュニケーションって難しいっすね。
やったことないんすけどコミュニケーションブレイクダンスはもっと難しそうですね。誰が考えたんですかねあれ」

 カウノは茶々を入れなかった。モーリェは真剣に悩んでおり、話が横に逸れるのはあくまで考える時間を埋めるためなのだろうと察していたからだった。

「難しいです。わたしの言葉じゃ伝えきれる自身がありません。
質問して下さい。んで、わたし、イエスか、ノーだけで答えますんで」
「……オーケー、そうしよう。
じゃあ」

 カウノはジーマを口に含んで、喉に流すと、一拍置き、

「まずは」
「はい」
「あんたは、空港で、俺の船に乗ったか」
「いいえ」

 いきなり出鼻を挫かれ、言葉に詰まった。

「……ええ、マジで?」
「はい」
「おいおい……じゃあ、まさか、俺の家で船に乗ったとか言わないよな?」
「いいえ」
「……ちょっと、待て」

 声を低くして、カウノは言った。

「俺が船を泊めた場所はその二カ所だけだ。あとは信号の一時停泊で、ドアを開けていない」
「はい」
「じゃあ、あんた、どこで、俺の船に、乗った」
「…………」

 モーリェは口を噤んだままだ。
 どうしてそこで黙るのだ。
 どうして。

「あんたは、惑星『ピエティカイネン』の大気圏内で、俺の船に乗ったか」
「いいえ」

 待て。
 ちょっと、待て。

「……あんたは、恒星『ケスキナルカウス』系内で、俺の船に、乗ったか」
「いいえ」

 あり得ない。
 そんなことは、あり得ない――

「あんたは、そもそも」

 モーリェは眉間に皺を寄せ、唇を尖らせて、

「俺の船に、乗っているのか」






「いいえ」



[28634] さんわめ!
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2011/08/01 15:15
 ただいま さんげん の でんごんを おあずかり しています

 あたらしい でんごん いっけんめ

 さんびゃく にじゅう にねんまえの ごがつ むいか

 ごご じゅうじ さんじゅっぷん です

 ぴー




     □  ■  □  ■  □




「いいえ」

 シスコは俯いたまま呟いて、上目遣いにカウノを見ると、小さく微笑んだ。
 彼女の輝く美貌が、窓の外に街灯の光が走る度に、暗がりの中で周期的に浮かび上がる。
 その表情は、カウノの心を温めた。シスコとカウノが恋人同士になってから、およそ三年。しかし三年経っても、シスコの美しさが陰ることはなく、むしろ増す一方だった。

「そうさ」
「いいえ、違うわ」

 否定の言葉ではあったが、シスコの顔は綻んでおり、カウノの瞳に絡まる視線は少しの恥じらいと媚を含んでいた。言葉とは裏腹に、彼女はカウノの肯定を欲しがっているということが、傍目にも、そして当人達にも瞭然であった。カウノは勿論、シスコ自身にも。

「才能がないのよ。私には。
正確には、才能が中途半端にしかなかったのね」
「そんなことはない」
「ここまで来ることが出来たのは、貴方のお陰よ。カウノ」

 彼女はそう言ってみせるが、その表情からは隠しきれない幸せが溢れていた。

「引退するなんて」

 冗談だろう、といった風に、カウノは苦笑いして言った。

「せっかくプロまであと一息だってのに」
「だからこそ、よ。青春は鮮やかに、美しいまま記憶の海に浮かべておきたいと思わない?」
「怖いかい? プロの世界で通用しなくなるのは」
「怖いわ。勿論、それも。でも、時間を失うことも、私は怖い」

 時間。カウノは疑問符を眉間に浮かべ、首を傾げ、単語を復唱した。

「何の時間?」
「貴方との時間。貴方との、未来。それを紡ぐための、時間よ」
「――きみは何でもはっきり言うな。俺には、少し、恥ずかしいよ」
「はっきり言わないと、伝わらないでしょう?」

 ヴァルマ人であるシスコの感情は、一見乏しい。星系で最も論理的な種族、と呼ばれる彼らは、その隙間を埋めるように、言葉を重ねる。

「でもプロになるのと、俺との時間を共有できなくなるのは、別問題だろ?」
「プロになれば、私はレースに心も時間も割かざるを得なくなる。
そうなれば、私の中の貴方が少なくなるわ」
「君の中の、俺?」
「そして、貴方の中の、私」

 シスコはじっと、カウノの瞳を見つめた。

「今の私は、カウノ、半分以上が貴方で出来ているのよ」
「大げさだな、シスコは」
「大げさ? いいえ、まさか」

 シスコの口元から笑みが絶えることはない。彼女は長い睫を瞬かせ、首を振り、

「私は一日の半分以上を貴方と過ごしているし、貴方のことを思っている。
貴方のために料理を作るし、貴方のために化粧をする。
自分自身のこと以上に、貴方のことを考えているのよ。
だからこそ」

 シスコの顔が照らされる、その間隔が長くなり、同時に黒く塗りつぶされている時間も長くなる。

「時間を無駄にしたくないの。今も、未来も」

 緩やかな減速感が、カウノの内蔵を包む。
 彼らの身体を全く揺らすことなく、列車は静かに駅へと滑り込んだ。




     □  ■  □  ■  □




「私のような無神論者には、貴方のそれは、歯に衣着せずに言うと、少し滑稽に映るの」

 シスコは白ワインで唇を濡らし、伸びた髪をかき上げ、やや気怠げにカウノを見詰めた。

「食事の前の祈り。貴方が敬虔なクリスチャンだってことは分かっているし、尊重もしている。けれど愛する人――私の家族となるかもしれない人が、私の分からないことをしている、し続けているのは、どうにも不安になるのよ」

 シスコの仕草が、オークのテーブルに乗った蝋燭の炎を微かに揺らせる。
 同時に、その横に立てかけられた写真立ての影も揺れる。中にはカウノとシスコが二人で仲睦まじく写っている白黒写真が飾られていた。
 カウノはそれを横目に、クラッカー――アボガドディップ、ゴルゴンゾーラ、生ハムをトッピングしたもの――を一息で口中に放り込み、二三咀嚼して、一息に飲み干すと、漸く口を開いた。

「あまり気にしないでもらいたいな。君の気持ちも分からなくはない。
俺だって、他の宗教の祈りを見ると、むず痒くなる」
「それでも、止めないのね」
「勿論。これはただの習慣で、習性だ」

 カウノは人差し指を立て、宙で小さく円を描いた。

「そもそも宗教とはなんだろう、シスコ?」
「哲学的ね」
「この問題に万人が納得する明快な解を示せた者はきっと一人もいない。
なぜなら、宗教は人の意識に直接関わる。人の数だけ答えがある」
「それでも共通するものがあるでしょう。教義が異なれ、悪魔崇拝であれ、それも宗教。
やっぱり」

 シスコは微笑んで、

「超自然的なものを扱う?」
「そういうこと」

 カウノは微笑み返した。

「当然例外はある。そういうものを排除して教義だけ残したがっている連中もいる」
「私の様に?」
「君は教義だけがあればいいと、そう思うタイプ?」
「倫理を広義の教義と捉えれば、そうね。そういう意味では、私はキリスト教が好きよ。
『愛』の宗教だから」

 シスコは安っぽいアイドルの様に、指でハートマークを作った。

「『愛』は好き。人類が生み出した最高の発明品の一つね」
「俺だって好きさ。クリスチャンで良かったと思うよ」
「そうね。でも」

 肩までかかる長い髪を指先で弄りながら、シスコは再び拗ねた表情を作った。

「割れる海、処女懐胎、肉体の復活。
最後のものはともかく、貴方たちの語る超自然は、最早超自然ではないわ」

 ――人類が宇宙に飛び出して幾星霜。
 光より速く星々を渡る術を身につけ、なおそれでも「天にまします」と呟くのは、シスコにとって矛盾を孕んだ行為に見えて仕方ないのだった。

「それで?」
「きっとこれから、私たちはそれ以上の思いもつかない生物や現象と相対するのよ。
クラシックなSF小説で散々行われた思考実験みたいに、人間の意識そのものに踏み込んでいくことになるわ」
「思考実験――ねえ。『バットの中の脳』に、『哲学ゾンビ』、『スワンプマン』?」
「聞いた時は、よくもまあ屁理屈を上手い具合に飾り立てたものだと思ったけれど。
どう? もう一つの地球が現れて、そこに全く私と同一の生き物がいたら、貴方は変わらず私だけを愛してくれるかしら?」

 カウノはワイングラスに口をつけ、意地悪だな、と苦笑いし、視線をシスコのそれにぶつけた。

「当然。君を愛しているから」




     □  ■  □  ■  □




 絹が擦れ合う音がやかましい。
 塵が舞う。埃が舞う。慌ただしく、シスコが衣類をボストンバッグに詰め込んでいるのだ。
 古いのも新しいのもごちゃまぜに、一心不乱に詰め込む。
 一頻り詰め込んだのか、一度手を止めると、シスコはファスナーを一気に上げ、そのまま外へ走り出そうとしかねない勢いで部屋を飛び出した。

「――待て!」

 その後ろ姿に、遅れてではあるが、何とかカウノは声をかけることに成功した。

「待て、待ってくれ、シスコ!」

 シスコは気にせずそのまま出て行こうとしたが、足の力が抜けてしまったらしく、二三歩だけ前に進んで、それきり立ち止まってしまった。

「出て行くなんて、何も言わずに! どうして!」

 怒気すら孕ませてシスコに近寄ったカウノであったが、ゆっくりと振り向いた彼女の顔を見て、口を閉ざした。

「わからない?」

 シスコの顔から表情は消えていた。いや、彼女はあくまで必死に表情を消そうとしているだけで、実際には拭いきれない怒りが、表情筋を緊張させていた。
 カウノはそれに気付いた。しかし原因までには思い当たらない。怪訝な表情だけを浮かべ、眉を顰めた。

「わからない。僕が理解できるのは、君が怒っているということだけだ」
「――そう」

 シスコは小さく首を傾いで、目線を下へ向け、そのまま踵を返そうとした。

「待って!」

 カウノは彼女の手首をとり、無理矢理その顔を自分の方へを向けさせた。

「どうして!」
「どうして? どうして、どうしてって!?」

 シスコは初めこそ冷静に見えたが、次第に目を剥き、息を荒げ、

「カウノ! あなた、オートレースのナビゲーター、プロテストを受けたでしょう!
そして合格した! おめでとう、わたしもとても嬉しいわ!
わたしに黙って、あなただけ勝手にプロの世界に飛び込んでくれて!」
「そんな、僕は!」
「わたしは諦めた! あなたとの時間を失いたくないから!
あなたの子供を産める身体でいたいから!
男は良いわね、そんなこといちいち考えずに済むんだもの!」

 カウノはシスコの剣幕に気圧され、色を失い、ただただ黙り込んでいた。

「そんなこと気にしないで、気にもしてくれないで、さぞ楽しかったことでしょうね!」
「そんなつもりじゃない! 僕は、ずっと、それが、」
「耐えられないわ。他の誰かなら気にしない。でもあなたが! 他の誰でもない、あなたが、わたしの愛する、オートレースの世界に居座っているなんて!
わたしは、諦めたのに! あなたのために! あなたの次に大切なものを、あきらめたのに!
あなたは、あなたは!」




     □  ■  □  ■  □




 気付けば、カウノはテーブルの前に座っていた。
 テーブルには安っぽいクロスがかかっており、その上にはコップ一杯の水に、幾つかの錠剤が置いてある。

「それで」

 部屋の中には誰もいない。生活の臭いは絶えて久しい。
 奥の部屋は寝室の様であった。ベッドがあり、そしてその上に寝ている誰かの足だけが見えた。肌の色からは血の気がとうに失せている。やせ細り骨張ったそれは、男のものか女のものかも区別がつかない。

「いい加減、俺も付き合いきれなくなったんだけど」

 淡々と、彼は言葉を紡いだ。誰もいない空間に向かって、ごく淡々と。

「説明しろよ」

 テーブルの上には、もう一つ別のものが乗っていた。
 写真立ての中には、男女のカップルが仲睦まじい様子で写っている。カウノにとって、全く見覚えがない二人が。

「モーリェ」

 カウノは席を立ち、キッチンの傍へと歩み寄り、受話器を取り上げ、

「モーリェ!!」




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 ぱちん、と控えめで乾いた音が、まずカウノの耳に飛び込んだ。
 それが両手を緩やかな速度で合わせた音であることに、一拍遅れて彼は気付いた。

(ここは――)
(――操縦席――『ビッグフット』の――)

 思考ははっきりしている。ただ唐突に切り替わった視覚や聴覚に慣れていないだけだ。
 彼は自身にそう言い聞かせて、努めて冷静に振り返った。そこには相変わらず小さな身体で大きな座席を支配し、ぷらぷらと所在なく両足を揺らしている少女がいた。

「おはようございます」

 モーリェはにこりと笑った。
 カウノは彼女をきっと睨んで、何か言おうと口を開きかけたが、結局止めて、ゆっくりと立ち上がった。

「調子はどうですか」
「……いいとは、言えないね」
「そうですか。すんません」

 微笑んだままのモーリェに向かって、しかしカウノは何と言えばよいか考えあぐねていた。
 先程の体験をどうやって表現すればよいだろうか。ただの夢? しかし夢にしてはリアリティがある。胸に広がる喪失感は、14年で体験したことのない大きさだ。だったら薬物の類による幻覚? それも推測に過ぎない。

 ただ、

(ただ)

 カウノは確信を抱いていた。何にせよ、この女の仕業である、と。

「今のは、何だ」

 白いモーリェの顔が、青に染まる。その次は、黄色。赤。緑。灯りが彼女のかんばせを照らしているのだ。
 カウノは光源を探し、振り向き、気付いた。この二日、漆黒に包まれていたモニターに、大きく陣取る巨大な円がある。
 円は輝き、揺れ、膨れて、縮み、その様はまるで呼吸をしているようであった。

「その前に。一つ前の、カウノさんの質問に、答えます。
『そもそも、わたしは、この船に乗っているか?』 答えは、ノー、です。
わたしは、この船に、乗っていません。乗れません。小さすぎて。
わたしは、それ・・なのですから」

 モーリェの指さすのは、モニターの中心の、まさに円であった。
 恒星のようであるが、表面をうねるプラズマの蠢動はあくまで穏やかで、暖かみを感じさせるものだった。

「あれ、か」
「はい」
「星、で、いいのか?」
「わかりません。
なんせわたしたちは最近まで自分達を定義してきませんでしたから、そう言っていいものやら」
「――なんだって?」
「あなたたちに接触するまで、わたしたちはただ宇宙を漂って、分裂して、膨らんで、消えて、それがずっと続く感じでした。それまでは個という概念すらなかったんですよ」
「じゃあ、本当に、あれが、あんたの、本体なのか」
「そうです。
最初にわたしたちを見つけた人は、その個のことをソリャリス、ソリャリスのモーリェと呼んでいました」

 星は緩やかに色を変えては、プラズマのうねりを振りまく。
 それは実にゆったりした周期で、カウノの故郷の春を感じさせるような暖かさを含んでいた。

「ここにいるあんたは、何だ」
「カウノさんの意識上に投影した像です。以前お会いした方が、この娘に会いたがっていて、わたしたちはそれを再現しました。その時を思い出して、コピーして、わたしの代役にさせて頂いています」
「――コピー」
「わたしたちは、自分で何かを作り出すことはできませんから。
ついで、つないで、ひっぱって。コピペを繰り返すだけです」

 モーリェはあくまで微笑んだまま、カウノをじっと見据えていた。
 カウノはその様を不気味に感じて、嫌悪感を剥き出しにするように唇を歪め、吐き捨てる様に言った。

「あんたたちは、人の脳みその中を覗けるのか」
「いえいえ、そんな失礼な真似しません。皆さんが教えてくれるんですよ」
「教える?」
「わたしたちは、まず声をかけました。声は波です。波は空間を伝わって、皆さんのところに届きます。すると皆さんはそれを返してくれます。波が跳ね返ってくるんです。それをまた、わたしたちが返します。それも返されて、そのうちわたしたちの送った波と帰ってくる波が同期して、それで像が完成します。わたしたちと皆さんで一つの記憶を共有できるんです。
――そんな顔しないで下さい、わたしたちはノックしているだけなんです。あとは皆さんが教えてくれるんです、本当ですよ」

 カウノの眉間には疑念による皺が深く刻まれていたが、目を丸くしてぱたぱたと掌を振るモーリェの仕草に毒気を抜かれる形で、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。

「俺の脳みそも覗いているのか?」
「だから違いますってー。カウノさんが教えてくれるんですよ?
それに、もうそういうことするのは止めました。
この方法、ちょっと欠点があって」

 言い淀むモーリェだが、カウノが意に介する様子はない。
 彼の興味は既に別の問題へと移っていたからである。

「俺たちに、あんたたちが、接触した理由は、なんだ」
「えっと、正確には、そちらから、です。わたしたちはただ宇宙をぶらりんぐしてただけで、そこに皆さんがやってきて、いろいろと」
「――色々と?」
「わたしにはよくわかりませんが、調べられていたみたいですよ、いろいろと。
で、わたしたちもなにか返事をしたかったのですが、あいにくやり方を知らないので。
五十年くらい経った頃でしょうか、ふと思いついたんです。そうだ、とにかく真似をしてみよう」
「真似」
「はい。おおよそ全ての創造は模倣から始まります。
――というのは極論な結果論ですが、まあとにかく、わたしたちは皆さんを真似ることにしたんです。できるだけ接触しやすいように、皆さんの一番近い存在を投影しました。これなら言葉や文化の問題もありませんし、何より方法として簡単でした。ので、しばらくその『コピー』に馴染んでもらって、それからわたしたちの言葉を伝えよう、と。
……でもそれは失敗でした。どうして失敗したかはわかりません」
「……失敗ってのは、どういうこった」
「失敗は失敗です。だってみなさん、死んじゃうか、逃げちゃうか、どちらかでしたから」

 カウノの喉がゴクリと鳴った。

「死んだ?」
「はい」
「……どうして」
「わかりません。殺し合ったり、自分で毒を飲んで死んじゃったり。像の方も自殺を選んだりして、結局はステーションから誰もいなくなっちゃいました。こんなの成功とは呼べませんよね。だから失敗なんです。
――上手い方法だとは思うんですよ。その人に一番近しい人をわたしたちの代役に、っていう発想は。致命的な間違いがあるとは思えません。
だから、どうしてあんなことになったのか、今でもわかりません。あんなことにするつもりじゃなかった」

 モーリェは深い溜息をついて、寂しげに首を振った。

「そういういきさつが何度もあって、わたしたちは決めました。
新しいキャラクターを作ることのできないわたしたちは、せめて出会った人の知らない誰かを映そう、って。知っている人、特に一番近い人を作るのは、どうしてか破滅しか呼ばないから。
上手くいくかは半信半疑でしたが、結果はご存じのとおり。カウノさんは今までで会った人の中で、一番まともに見えます」
「じゃあ、あんたのこの姿も、」
「はい。いつかは忘れましたが、わたしの会った人の一番近しい人の、一人です。わたしの知っている中で、一番可愛い人を選びました」
「――一体、元は誰なんだ」
「えっと、名前までは忘れちゃいました。わたしの会った人の娘さんだったらしいです」
「その、父親は」
「わたしの作った娘さんと一緒に、心中しちゃいました」

 カウノはそうか、と呟くと、操縦席に腰掛け、こめかみに爪を立て掻き毟った。
 それきり、しばらく『ビッグフット』の船内を、沈黙が包んで満たした。

「あんたは、なんで俺に接触した?」

 ぽつりと、カウノの口を疑問が突いて出た。それはあまりに唐突で、そのくせ自然だったので、言った本人のカウノも驚きに目を見開いた。

「そうですね。ええ、理由がないわけではなく、ですね」

 モーリェはそう言ってしばらく黙ると、しかし口を開いた。

「わたしは、ある女の人を、探しています。
さっき、シスコさんに代役をしてもらった、女の人です」
「――代役」
「そうです。どうですか、わかりやすいと思いまして急遽シスコさんに熱演して頂きましたよ。情景がひしひしと伝わったと思ったんですが」

 カウノは先程見た幻覚を思い返し、どきりとした。そこでは、彼とシスコが将来を約束した恋人同士、という設定だったのだ。愛を語り、身体で確かめる行為を幾度も繰り返した。カウノはまだ14だから、そういったことに興味があるが、経験はない。突然浮かんできた情欲を努めて表情に出さないようにと目を閉じ、隠すためにわざとらしく鼻を鳴らした。

「どうだか。第一、途中から似せる気なかっただろ。
俺も、シスコ――相手の女も」
「はい。ずっとカウノさんが変な顔してましたから、失敗したなあ、とは思ってたんです」
「そりゃあな。シスコはあんな女じゃないし、肌の色も白じゃない、髪も長くはない」
「そうなんです。わたし、応用力、なくって、下手っぴだから」

 てへへ、と後頭部をぽりぽりと掻いて、モーリェははにかんだ。

「それで、女の人はわたしが投影したのですが、わたしが実際に会ったのは、男の人の方だけだったんですけど。
だからわたし、女の人にはまだ会ってなくって、それで、この女の人に、会いたいんです。
そう思ってたら、ちょうどそこに、カウノさんがぶらりと」

 その少し支離滅裂な言は、カウノにとっては意外なものだった。モーリェが少なからず戸惑いを覚えていることがわかったからだ。
 彼はゆっくりと振り返って、

「会いたいのか、その女の人に?」
「はい」
「会って、どうするんだ」
「謝りたいんです。この男の人は、死んでしまいました。わたしのせいで。
ごめんなさい、って」
「――モーリェ」

 カウノはモニターの先――幾何学的な稜線の集合である発光体――を見ながら、少女の方を向かずに、僅かに逡巡して、挙句口を開いた。

「あんたがその人に会ったのは、随分昔のことだろう。俺が見た景色からして、大体三百年くらい前の話だ。
そしたら、多分、もう、その人はいない」
「あ――そうなんですか」

 モーリェは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。

「そうだ。俺たちの肉体は百年も保つように出来てないからな」
「そうなんですか。じゃあ、もうあの人は、いないんですね。
それは、知りませんでした」

 それきり黙り込んだモーリェを、カウノはじっと見詰めた。
 しかしかける言葉は見つからない。彼は再び前に向き直り、モニターに映る星へと目を向けた。

(どうして、こいつは、俺たちに興味を持ちだしたんだろう)

 後にいる少女は、あくまで、いつかどこかにいた誰かの模倣でしかないらしい。
 そして、彼女の本体とも言うべき相手は、目の前の星。
 変わってはいるが、ただの星にしか見えないこれが、意識を持って、人間やその他に接触を図ろうとしている。
 何故か?

(……なんでもいい。もう、疲れた)

 カウノは溜息をつき、モニター横ですっかり汗をかいたジーマに手を伸ばし、一口だけ含んだ。
 二酸化炭素ガスは随分と抜けてしまっていたようで、ぬるく刺激もない液体が、カウノの喉に流れ込んだ。

「なあ」
「――はい?」
「あんた、これから、どうするんだ」

 答えはしばらくの間返ってこなかった。
 あの快活すぎる少女が黙りこくっている。カウノはそれに違和感を覚え、横目でちらりとモーリェを視界に入れた。

「……わかりません」

 しかしモーリェは小さな身体を更に縮こませるようにして、じっと俯いているだけであった。

「わかりません」

 モーリェはもう一度言った。

「そうか」

 カウノは何か声をかけてやりたいと思ったが、適当な言葉は見つからず、それしか言えずにいた。
 再びモニターを見る。惑星は相変わらず美しい。曲線は絶えず作り出され、色を変え、しばらく宇宙をたゆとうと消えることなく星に戻り、新たな曲線を作る。

(今日は――疲れた――)

 星の鼓動はあくまで緩やかで、引きずられるように、カウノは眠りに落ちた。



[28634] 一章エピローグ
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2011/10/17 23:29
 次の目覚めは穏やかだった。
 カウノは瞼を擦り欠伸をすると、いつの間にかリクライニング・モードに移行していた操縦席をクルージング・モードへと移行させた。長距離の操縦に際し、パイロットの身体に重力を再現する適度な負担をかけるモードである。椅子が形を変える最中、彼は全身をある違和感が包み込んでいることを認識した。
 この違和感――身体と意識が乖離したような、連続性のない記憶を埋め込まれた感覚――は、カウノにとっては初めてではなかった。例えば長い夢を見た後や、バーチャル・リアリティでどっぷりゲームにはまってシャットダウンした後など、その不安は徐々に心の中で膨らんでくる。特に後者による精神乖離障害は一時期社会問題となり、政治家や精神科医たちが必死で軽度の患者への簡易心理テストや復帰プログラムを整備することで、二百年ほど前に一応の解決をみている。カウノは自身がそういった障害にかかってしまったのではと僅かに疑い、心理テストアプリケーションを立ち上げようとしたが、この程度なら大丈夫か、と一つ大きく伸びをした。
 二三目を瞬かせると、ふとカウノは手元に目線を落とし、そして振り返った。そこにはもう誰もいない。アルコールの臭気すらきれいさっぱり消えている。再び前へと向き直ると、汗をたっぷりかいたジーマの瓶も、下に溜まった水滴ごと、例外なく消えていた。無論、モニターの向こうに鎮座していた、巨大なプラズマの惑星も。全ては夢だと言わんばかりに、一切が消滅していた。そうしてあれだけ騒がしかった船内は、宇宙独特の静寂に、再び包まれている。

「そりゃ、そうか」

 カウノはぽつりと呟いた。
 彼女――モーリェ、或いはソリャリス――が探していた女性は、きっともうこの世にいない。

(であれば、俺につきまとう理由もなくなるってもんだ)

 ドリンクボトルを取り出すと、ストローに口をつけて水を飲む。そうやってボトルの半分を一気に飲み干すと、溜息を一つ吐いて、カウノは思案した。

(結局、あいつは何だったんだろう)

 白いワンピースというおよそ宇宙らしからぬ格好に、どこからか取り出しては積み上げるビールの空き缶の山。突然始まる、カウノの知らない歌の数々。まともではないとは知っていたが、そもそも人間すらなかった。少女であり、幻覚であり、惑星。カウノの網膜には、モーリェの瞳の奥で蠢くソリャリスの輝きが未だに焼き付いて離れずにいた。
 彼女を(ひょっとすると彼を)知的生命体と呼ぶには、幾分躊躇を覚える。とは言え生理的な直感や先入観を排除すれば、間違いなくあれは知的生命体と呼ぶに相応しい代物だ。

(何某かではあるけど、明確にメッセージを持ってたんだからな)

 彼らが伝えたかったことは何だろう。
 カウノはモニターに映る漆黒と、点在する星の光を見詰めながら考えた。
 答えは出ない。しかし彼は考えた。

(お前はどうして、俺たちに興味を持ったんだ)

 思い返すのは、モーリェのぽかんと呆けたような、力の抜けてしまった相貌。
 探していた女がもうきっとこの世にはいないと知って、希望を失った時の表情。
 笑顔ばかり浮かべていた彼女にそんな顔をさせてしまったことが、カウノの心に小さな焦げ痕を残していた。

(お前は、ただの、プラズマの塊じゃないのか)

 そこまで考えて、カウノは自分の考えが間違った方向に向かっていることに気付いた。これでは有機生命体至上主義者と同じではないか。珪素生命体であるヘッララ人が聞いたら血祭りに上げられてしまう。身体を構成する元素で差別する時代はとっくに終わっているのだ。
 ふと、カウノはそこで、あることに思い当たった。

(そうだ。あいつらは、わざわざ、)

 コミュニケーションをとりやすいよう、こちらの姿を真似てきた。そしてそれはきっと、彼らなりの善意からきたものなのだ。惑星である自分たちの流儀ではなく、こちらの言葉で伝えようと。
 そう、あのプラズマの惑星には、善悪の分別があったのだ!

「――どっか行くんなら、さよならの挨拶くらい、やっとけっての」

 カウノの口を、むき身の後悔が突いて出た。
 船内は相変わらず静寂に包まれている。昨日までの騒がしさを、彼は初めて惜しいと思った。
 しかし沈黙は長くは続かなかった。突然鳴り響いた電子音が、それを裂いたのだ。
 慌ててモニターを見遣る。音声通信の電波が届いていた。

(救援だ)

 やった、とカウノは小さくガッツポーズすると、宙に浮いたパネルをタッチし、交信の許可を出した。

『……こちら、連邦識別番号2435-6188-7187、ハーパニエミ星所属、パウラ・アランコ。応答願います、どうぞ』

 ノイズが除去されたクリアな音声が流れてくる。女性のものだ。形式張った言葉は、翻訳プログラムを介しているからだろうか。
 カウノはモニターに向かって、やや緊張気味に口を開いた。

「こちら連邦識別番号4241-7366-2199、ピエティカイネン星所属、カウノ・カトウ。ご連絡感謝します、アランコさん。どうぞ」
『ミスタカトウ、まずはあなたの声が聞けて嬉しい。あなたとあなたの船はご無事ですか?』
「無事です。しかし超新星バーストに飲まれて、方位を失ってしまった」
『なるほど』
「厚かましいお願いですが、方位のデータを頂きたいのです」
『喜んでお送りさせて頂きましょう、ミスタカトウ。ところで』

 アランコの声は一瞬だけ途切れ、

『ミスタカトウはお一人で?』
「え、ええ、それが?」
『いやなに、救援要請を頂いたのは少女の声でしたので。それもちょっと、何と言ったらいいか、少し風変わりな要請だったもので』

 カウノは苦笑した。あまりにも心当たりがありすぎる。
 彼は少し考えると、まだ笑みの残る唇を開いて、

「こちらの船は一人です。なにか幽霊の声でも拾われたのでは?」
『幽霊……幽霊、ですか?』
「ええ。たまに『出る』らしいですよ。勿論噂話ですけど」
『いや、でも、あれは……』

 カウノは声をだして笑いたい気分になった。
 幽霊という表現は、あながち間違いではないだろう。なんせ、あのモーリェの姿はもういない人間を象ったものだ。その上、そもそもが脳に映された幻覚なのだから、これが幽霊でなくて何になるのだろうか。

「わたしも見たことがあります。そういうのを信じるタイプではないのですが」

 あまりに嬉しくなって、カウノは冗談を口にした。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 データを受け取ったカウノは迷うことなく針路を惑星『ユリマキ』へと向けた。カウノが学籍を置く星である。
 旅はおよそ三日かかり、空港に着くとカウノはすぐさま職員に首根っこ捕まれて部屋に連れ込まれた挙句こってりと絞られ、三時間の後に漸く解放を許される顛末となった。
 
(超おこられた……)

 憔悴しきった表情で荷物を抱え、書類を手に頼りない足取りで出てきた彼は、閑散としたロビーに見知った顔がいるのにふと気付いた。
 銀の髪に、青の肌。目立つ容姿のヴァルマ人は、

「シスコ?」

 ソファに腰掛けてじっとカウノを見詰めている女性は、声をかけられたのを切っ掛けについと立上がり、彼の元へとつかつかと歩み寄った。
 カウノの視線は彼女の美しい顔、そして胸、腰、臀部へと移る。モーリェに見せられた映像を思い返してしまったのだ。あの中でのシスコは始終媚びた女の顔をしており、14のカウノにとってその匂い立つ色気は毒でしかない。浮かび上がる他者による悦楽の記憶を押し殺そうと、カウノは目線を彼女の顔から僅かに逸らして、驚いた、といった表情を作った。

「なんでいるんだ?」
「遭難したって聞いたから」
「……そりゃ、どうも」
「あと、たまたま近くに来たから」

 カウノはシスコのそっけない言に、ぽりぽりと後頭部を掻いた。

「なんだ、ヒマなのか」
「そこそこに。やることもないし」
「練習でもしてろよ」
「してるわ。あなたこそ練習しなさい。しばらく私に勝ててないわよ」
「……ご忠告どーも」
「あと、あまり他の人に遭難したなんて言い触らさないでね。
ただでさえ『ユリマキ』リーグのレベルが低いのに、余計に舐められるから」

 シスコの直接的な言い方に、カウノは彼女の瞳を睨み付けたが、それも一瞬、すぐに逸らしてエントランスの方へと目を向けた。

「じゃあ俺帰るわ。疲れたし」
「私も。貴方の間抜けな顔も見られたし、今日はよく眠れるわ」
「……ホントいい趣味してるよ、あんたは。マインドチェックとカウンセリングを薦めるね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉として受け取って欲しいね」

 そう言ってカウノがシスコの方へ冷たい視線を向けた瞬間である。

「……」

 当の本人はまだ何も知らないようであるが、シスコのスカートが背中側で不自然にめくれ上がっているのに、カウノが気付いた。
 でもって、見れば、めくれ上がっているスカートの中に、尻に顔を突きつける形で、一人の少女が頭を突っ込んでいた。
 あ、と思ったカウノが、声を上げようとした瞬間、

「あーっすうっわ凄い臭いだよこれ! なにこれ! これ正ヒロインの臭いだねこれあーす! すっごいよシスコちゃんこれすっごいあーすっごい! ビンッビンきてるねこれ! あーっすこれすっごいあーっす!」

 ズドン、と音がして、少女の顔が床にめり込んだ。シスコが足で踏み抜いたのだ。フットスタンプである。カウノも引くくらいの、体重の乗った強烈な一撃だ。
 一方彼女の頬は真っ青になっていた。比喩ではない。ヴァルマ人の血は青色をしている。つまり羞恥のあまり、人間と同じように顔に血が上ってしまっていたのだった。論理的な種族であるヴァルマ人がここまで感情を露わにするのは珍しい。カウノは感嘆した。

「き、金的に匹敵する下段の踵蹴り……」

 目がくらむのか震える手足のまま、少女は顔を上げてなんとかふらりと立ち上がった。瞳孔の広がり具合がかなり怪しい。ぐるぐるしている。

「……あんた、なんでいるんだよ」

 あっけにとられたカウノは、目を丸くして呟いた。

「ち、ちょっと、なに、この娘!? 知り合い?」
「……まあ、知っていると言えば、知っているけど。
え、なに? つうか事態が飲み込めないんだけど」
「飲み込めないのはこっちよ! だれなのお嬢ちゃんは!?」

 鼻血をたらりと一筋出しながら、「あ、ども」、と少女――モーリェは腰を折ってお辞儀をしてみせ、

「カウノさんの生き別れの妹っす」
「はあ!?」
「はあ!? ……って、なんで貴方が驚くのよ!?」
「ちょっと待てお前こっち来い」

 カウノはモーリェの首根っこをふん捕まえると、トイレの傍まで彼女を引きずり回し、ちらりとシスコの方を向き距離が十分であることを念入りに確認した上で、「おい」と凄みをきかせた。

「どないなっとんねん」
「やだなあもう、そこ怒るとこじゃないっすよ。どうですか、今更生き別れの妹ですよ。
ねえ。レトロですよねえ。需要あるんすかねこういうの」
「ない。ぜんぜんない。この星には少なくとも皆無だ」
「じゃあり○るまいん式で。わたしが幼妻やりますんで。
今更ですが設定上ではわたしのCV釘○理恵なんで」
「式とか関係ねえ。妹も押しかけ女房も全部却下だ。
もう宇宙帰れよあんた、あのままきれいに別れてりゃよかったじゃねえか!
あ、ああ、ひょっとして救難信号送ったのもそういう理由か! 別に善意とかじゃなくって、てめえの寝床を確保するためだけだったのか!?」
「あらあらまあまあ、言い方が悪いですよカウノさん。ホントはわたしがいなくなっちゃったからって寂しがってたクセに。このこの」

 ニヤリと笑みを浮かべたモーリェはそう言って、

「いいんすか。大体、わたしみたいな超美少女遊星ほっといて」
「……は?」
「みなさんに悪影響を与える電波を流し続けますよ。
わたしが本気出せばあら不思議、みんな二次元コンプレックスこじらせて、まともな生殖活動できなくなって子孫繁栄に重大な影響が出ちゃうんですからね!」
「――てめえ、脅す気か!」
「もちろん、か弱い女の子なので、使える手はなんでも使いますよう。
なあに、悪いようには致しません。カウノさんのおうちの隅っこをちょーっと貸して頂いて、あと週に一度ハーゲンダッツの配給を頂ければそれでいいんですって」

 おほほほほ、と高笑いを隠さないモーリェの肩をわし掴んで、カウノは怒りのあまり爪を食い込ませた。

「い、いたいっす、お兄ちゃん! 兄貴! ……えっと、あにい! え、これもダメ? ……あ、兄チャマ! ああもう正解はどれっすかいたいいたい!」
「正解、なんて、ねえ、よ!」
「い、いやホント、ほら、わたしって食事なくても大丈夫ですから! そういう維持費とか全然かかりませんから! トイレにも行きません! エンゲル係数ゼロの大変家計に優しい造りとなっております、だからギブ! ギブ!」

 いつの間にかカウノによって卍固めを極められていたモーリェは、タップしながらギバーップと叫んでみせるも、カウノは全身により一層力を込める一方だ。
 しかしその刹那、ふとモーリェの姿は消失し、行き場を失った力に押される形でカウノはつんのめって転んでしまった。

「あたた……カウノさんマジ容赦ないっすね」

 関節を痛そうにさする再び姿を現したモーリェを、カウノは信じられない、といった面持ちで見詰めた。はたと顔を上げて辺りを見回す。どうやら誰にも見られていないようで、カウノはひとまず安堵の溜息を吐いた。卍固めに入った時点で死角に場所を移したことが功を奏したらしい。

「そうだったな、思い出した。お前は俺の脳の中で作られた幻想でしかないんだった」
「リアルシャドーと思って頂ければ」
「その例えもよく分からん。
……そういや、確認しときたいんだけど、お前の姿って、他の人にも見えているんだよな?」

 ちらりとシスコの方を見遣る。
 彼女は心配そうにカウノの方をじっと見ているままで、カウノは「もうちょっと待ってくれ」と身振りで伝えた。

「ええ、若干のラグはありますが、周囲の人に同じ像を共有してもらってるつもりです。
そうですね、まあUstr○amとかニ○生みたいなもんすよ」
「……よくわからんが、まあ、いい。俺だけ一人芝居してるのは辛いからな、気が狂ったと思われる。あんたの姿が、他人に見えてるってのは、最悪から一つ上のまともな知らせに入る。
それで、だ」

 カウノは壁に手を突きもたれかかりながら、深く皺が寄った眉間に指をやった。

「なにが目的だ」
「へ?」
「こうしてまた姿を現して。お前はなにがしたいんだ」
「いや、まあ。目的ですか。
あると言えばあるし、ないと言えばないっすけど……」

 モーリェは腕を組み、首を捻るような仕草をみせた。

「まあその、留学みたいなもんで。海外留学。世界を知りたいなあ、と」
「……留学。星が、留学」
「こういうことしておくと就活の時ネタになりそうじゃないですか。面接の。
『幅広い視野と主体性を身につけました』みたいな」
「…………」

 あたま痛くなってきた、とカウノは掌で目を覆った。

「どうしましたカウノさん、具合悪そうに見えますけど」
「ちょっと黙ってろ。いま考えてるから。超考えてるから」
「あ、はい、すんません」

 大きく溜息を一つ吐いて、カウノはしばらくモーリェを見詰めた。

(宇宙で妙な生き物に出会ってしまった。本体は星で、端末としては少女。しかも少女はあくまで俺たちの脳に浮かべた虚像でしかなく、存在しないものを共有幻想として必死に相手している。
 そして何の因果かは知らないけれど、彼女は俺を通じて人間達を知ろうとしている――)

 カウノは悩んだ。14年間の人生で一番悩んだ。
 悩んだが、しかしそれはあくまで決意を固めるための助走にしかならず、そうして三十秒程度黙りこくった後、カウノはぼそりと口を開いた。

「妹はない。妻も論外だ。
……従姉妹。お前は実家に帰った時に、なぜか勝手についてきた従姉妹だ。
こっそり俺の船に乗って家出紛いのマネをしているおマセなガキだ」

 いいな、と念を押すカウノに、モーリェは両の親指を立てた。

「りょうかい、りょうかい、りょうかいです。なんの捻りもない設定ですけど、そこはカウノさんに従います」
「とりあえずシスコを煙に巻くぞ。あくまであんたは勝手に着いてきた。
あんたは親と和解するまで、俺の下宿先に居候させる。いいな、話を合わせろよ?」
「勘定奉行におまかせあれ!」

 モーリェは満面の笑みを浮かべてみせるが、カウノの表情は晴れない。
 しばらく首を振っていたが、腹を決めたか顔を上げ、モーリェとシスコを交互に見遣ると、カウノは漸く歩き始めた。

「――まったく。どうなっても知らないぞ、ホント」

 そう呟いてみせた時には、しかし彼の目にも僅かに笑みの色が浮かんでいた。





フリップ・フロップ・フラループ
第一章 そらりす! 了




[28634] 2-1面
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2011/10/17 23:29
 原子の輝きが宙を満たし、散っては咲いてを繰り返す。
 漆黒のドーム内部は色とりどりの光に包まれ、その中央には青い球が浮かび、周囲を輝きが幾度も巡っていた。青い球とは惑星ユリマキであり、輝きはレース用の宇宙船である。
 無論、どれも本物ではない。全ては合成された立体映像だ。軌道上に浮かぶ数々の人工衛星から集められた情報は、限りなくリアルタイムに近い状態でユリマキへと送られ、解析され、このドームで像を成すようにシステムが構成されている。

「刺せ、刺せ、さあああせえええェェぇぇーーー!!」

 中空には各地点におけるライブ映像であったり、チームごとの順位であったり、取得ポイントが列記されているウインドウが所狭しと浮かび上がり、目まぐるしく様子を変えている。
 ――ここは宇宙船によるオートレースを中継する、オフィシャルのスタジアムである。
 今行われているレースはU-15の月ごとに行われる定例レースであるため客は多くもないが、こういったマイナーなレースにも協会は人員を惜しまない。それは映像や音声スタッフのみではなく、駆け出しではあるものの、実況・解説をつけ、臨場感をあおって観戦者を楽しませる。しかもこれらアマチュア戦は全て無料で解放している。出場するチームから徴収した登録金と比すれば完全に赤字であるが、それらは次代のレーサー、そしてレース文化への教育費としてみられており、見る側もやる側も安価で参加することを許されている。

「『ヘルムホルツ』、脇から『レフトラ』を躱します! 『レフトラ』、ずるずると六位に後退!
どうしたんでしょうカトウ選手、今日はいささかキレがありません」
「なにやってんすかカウノさあああああん!!」

 しかしそんなせっかくの実況の声を塗りつぶすかの如く、ドーム内部に少女の声が再度響いた。
 言わずもがな、遊星少女、ソリャリスさんちのモーリェ嬢によるものである。

「カウノさん、わたし、このレースにすっごい金額ぶっこんでるんですよ!
100kですよ。100k。わかりますよね? わたしの歳の娘がこれだけの金額を持ち出すという意味が。カウノさんってばわたしにご飯食べさせないつもりですか?
第二次性徴もまともに迎えてないような少女にパンの一切れも与えないと?」

 レースに参加しているチームの数は九。
 照らしだされている九つの点は一見して惑星の周りをゆっくり、実にゆっくり回っている様にも見える。
 しかしその実ユリマキの直径は旧来の単位で7000 kmはあり、更に大気圏から1000 kmは離れた軌道上を、彼らは二分程度で駆け抜けるのだ。電子制御を受けているとは言え、例えば10 mに満たない程度の隕石の間に、ブレーキなしで突っ込んですり抜ける。俯瞰映像からは決して伝えきれない程のプレッシャーに、彼らは晒されているのである。
 
「ねえ、カウノさん。一位はあいつですよ。いけ好かない青肌のエセア○ター。イグアナみたいな目しているあのアマ――イグアナです、イグアナの娘ですよ。これはもう菅野○穂ですよ。
負けて良いんですか、菅野○穂に。ダメでしょう。わたし、まだ少女なんでそんなに長生きしているわけじゃないんですが、しかしですね、寡聞にして菅○美穂に負けるジュブナイルの主人公なんて聞いたことがないんですよ!
そんなのは稲○吾□だけでいいんですよ!」

 券を握りしめ、モニターに向かって檄と唾を浴びせかけるモーリェの周りからは、既に自然と人気がなくなっている。しかし彼女はそんなことを気にする風も見せず、なお拳を固め、届かないと知りつつも声を上げた。

「しかし○野美穂ってまだ34歳だったんですね(2011年10月現在)ってなに負けてんすかああああ!!!!」

 絶叫虚しく、無情にも順位は淡々と決定していく。
 一位はシスコの所属するチーム、『ハリカリ』。カウノのチームである『レフトラ』は結局順位を上げることなく、六位のままフィニッシュしていた。
 膝から崩れ落ちたモーリェは鬱憤をぶつけるが如く、振りかぶっては立体映像のユリマキに向かって、券を投げつける。しかし手の中でくしゃりと曲げられた券は大きく空気抵抗を受けて、彼女の元にふわりと返ってきた。
 まるで紙切れにも馬鹿にされた気分になり、モーリェは声なき声で慟哭を上げる。

「う”う”う”う”う”、ちくしょうめええええ」

 そのあまりに哀れな様子に、離れて眺めていた中年の男が歩み寄り、彼女に声をかけた。

「大丈夫かい、お嬢ちゃん。なに、勝負の世界は厳しいが、時に微笑む女神もいる。今回はついてなかった、それだけさ」

 男は実に人の良さそうな相好を浮かべていたが、振り向いたモーリェの眉には深い怨嗟が刻まれている。暗い感情にあてられ、男の口角は上がったまま凍り付いた。

「……おっちゃんはどこに突っ込んだんですか」
「え? あ、ああ、おっちゃんは、①-③に」
「超アンパイじゃないですか! この腰抜けやろう! バルシット!」
「え、ええ……?」
「あんたみたいな冒険心のない、博打打ちの風上にも置けない男になに言われたって他山の石もなりゃしませんよ!
駅前のパチ屋でGAR○でも打ってろ!」

 罵詈雑言をぶつけるだけぶつけると、モーリェはぷんすか怒りを隠そうともせずドームの外へと出て行った。
 なお。
 レースを賭博対象にするのは、もちろん違法行為であって、銀河の端っこに位置するユリマキだからこのように見逃されている節があるのである。
 田舎は娯楽がとにかく少ないのだ。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 かようにモーリェが辺境の禁じられた遊びを満喫している頃、カウノは失意に暮れながら、ゆっくりステーション内のピット・ドックへと帰還していた。
 減速、僅かな衝撃、そして停止。船のエンジンをシャットダウンさせると、弱々しくメットを脱いで、彼は緩慢な動作で席を立った。

「ダメだな、全然」

 九チームが参加している現在、入賞は三位以上とされるこのレースであるが、予選で四位、本選で六位というのが彼の今回の成績であった。
 ここ二年、カウノが入賞台を逃したことはなかった。彼はコンスタントに二位、或いは調子が悪くても三位には滑り込んでおり、伊達にユリマキで二位にランクされているわけではないのだ。なにより彼の腕はその安定性が評価されていたのだが、それが、シーズン半ばにして、六位である。
 どれが悪かったのだろう。そう考える自分がいる一方で、敗北を受け入れきれず、後悔ばかり呟く自分がいる。カウノはそう自覚こそしていたが、二つの思考を併走させることもできず、頭はますます鈍くなる一方であった。
 僅かでも息苦しさを紛らわせようと、彼はスーツの首もと、ファスナーを少しだけ開けた。ポーズでしかなかったが、リラックスしようと自分に言い聞かせることは悪くない。
 そのまま出口へと足を向け、ドア横のパネルを叩く。ぷし、と気圧を調整する音が聞こえ、重厚な『TG-II』のドアがスライドする。代わりに冷えた空気が船内へと入り込み、彼の前髪を揺らした。重力は弱い。浮遊感と共に、彼は一足飛びに桟へと飛び移った。

(……まさかモーリェの見ている前で、こんな格好悪い走りを見せちまうなんて)

 彼女が漂流中に放った言葉は決してお世辞の類ではなく、カウノが参加するとなると喜んで観戦についてきた。得体の知れない宇宙生命体に連邦の文化を見せるのだ。モーリェは確かに突飛な少女であるが、彼女に良いところを見せよう、連邦の輝かしい一面を紹介してやろうと、いつもよりすこし気張っていたのは確かであり、落胆もその分大きい。視線は自然と下を向く。すると炭素とシリコンの重合物で精製された灰色の床に、薄いながらも影が落ちていることに、彼は気付いた。

「……なんだ、シスコ」

 廊下にもたれ掛かるように、シスコが立っている。彼女のレーススーツは身体のラインを強調するかの様なシルエットをしており、特に腰のくびれと臀部が作り出す曲線は実に艶めかしく(15歳とは思えない発達っぷりである)、カウノはそれを意識した途端、一度彼女を視界から外すことに決めた。

「六位」

 シスコが口を開く。人気のない空間に、彼女の声はよく通った。カウノはたまらず、彼女の顔を見る。
 相変わらずの無表情である。青い肌に、金の瞳。走る光彩が不気味に思えたが、同時に不思議な魅力も感じていた。

「随分、下手な走りだったわね」

 カウノは苦笑した。シスコの歯に衣着せぬ言い方に思わず笑ってしまったという意味もあるが、指摘されたくない部分をはっきりとその言により射貫かれてしまったために、沸き上がる怒りと羞恥を振り払おうとした故の仕草でもあった。

「そりゃ悪かったな。わざわざこんなところまで出向いてお説教か」

 なんか前も似たようなセリフを口にしたと思いながら、カウノは眉を顰めて言った。

「ええ、ちょっと見るに堪えなくて。
あんまり腹が立ったものだから、貴方を罵倒しなくちゃ気が済まなくなったの」

 少年の表情が凍り付いた。
 シスコは確かに厭味の多い口をきくが、ここまで直接的に悪意をぶつけてくることはなかった。今の今までは。ヴァルマ人は銀河一理性的な種族である。このような言葉を使うということは、余程腹に据えかねている精神事情があるということだ。クリンゴンの様に怯えながら相手をする必要もなく、一線さえ越えなければ恐れることはないとたかを括って相手をしていた部分があったから、彼はとにかく驚いた。なんでそんなにキレてるんだよ。そう言いたげに、彼の目は丸く見開かれてる。

「勝負にも出ず、かと言って堅実さからもかけ離れた、雑で、適当で、粗野で、身勝手で、放埒。まるで飛び込み参加した素人の走り。
そんなのが私のラインでうろちょろされるのは、正直迷惑なのよ。こっちまで調子が狂う。
だから、貴方には気の毒だけど、はっきり言わせて貰うわね」

 シスコがつかつかと、カウノへ歩み寄る。
 カウノは彼女の静かな怒りに気圧されたまま、辛うじて平静を装いその場に立ち尽くすだけしか出来ずにいた。後ずさりせずにいられたのは、小指の先ほどしかないなけなしの、しかし心中に確かに点る勇気の賜である。
 そんな彼の胸裡を知ってか知らずか、シスコはカウノの隣で足を止めると、彼の頭をかき抱き、耳元に口を寄せた。間違ってもそれは睦言を囁くような甘い光景ではなく、

「もう次は参加しないで頂戴。
その代わり、ドームから私に声援を送ってくれると嬉しいわ」

 息を飲むカウノにシスコはほんの少しだけ微笑みかける。初対面の者には決して分からない程度であったが、カウノは彼女の口元が歪むのをはっきり見て取った。なにか言い返してやろうと考えるも、しかし言葉は思いつかない。彼は敗者で、勝者は彼女なのだ。そうして黙りこくっていると、シスコの表情は再び凪いだものに戻り、カウノを優しく解放するとそのままつかつかと歩き去ってしまった。
 少年はシスコの後ろ姿が見えなくなるまで、じっとそれを見詰めていた。その表情はもちろん晴れない。彼は自身の感情をもてあましていた。戸惑い、苛立ち、怒り、悔恨、虚無感、敗北感――去来するそれらに名前を付けられず、本質ではない焦燥とだけ戦っていた。

「……んだよ、アイツ」

 悪態も虚しく、谺することもなくステーション内へと消えていく。
 カウノも踵を返し、ユリマキに帰ろうとしたが、

「カぁぁぁウうウゥゥノぉぉぉぉさあああぁぁぁんんん」

 うらみつらみねたみそねみ。脳幹から精神を犯される幻覚に慄いたのもつかの間、めきめきめきめき、と音を立ててカウノの視界が変化していく。
 慌てて振り向いた先には、何故かユリマキにいる筈のモーリェが、亡霊もかくやと言わんばかりの形相で、廊下の角からカウノを見詰めていた。
 カウノはぎょっとして、口元を引きつらせた。レース前、彼は確実に眼下の惑星に彼女を置いてきたからだ。ドア越しに手を振って別れた。間違いない筈なのに、しかし少女は現にそこにいる。

「ちょっと待て、あんたがなんでここにいんだよ!」

 言ってすぐに、彼は思い出した。そうだ、この娘はこういうものだったのだ、と。彼はすぐに掌を突き出して、モーリェの言葉を遮り、

「……いやそれはもういい、いいんだけど、なんか俺にやっただろ!? なんか色がいっこも見えねえんだけどっ! 黒と白の世界なんだけどっ! グレースケールでもかけたんかよ!?」
「わたしの悲しみをぉぉぉ、ちょぉぉぉっっとでもぉぉぉ、知って欲しくてぇぇぇぇ、ちょっくら視界ジャックを」

 このやろう、とカウノはモーリェに飛びついて、肩を掴んでぶんぶんと揺さぶった。
 その迷いのなさには、もはや手慣れたところがある。同居を初めて一ヶ月弱、教育を目的としてカウノは連日モーリェをしばき続けていたのであった。

「ほんとあんたは油断ならねえ生き物だなぁオイ! そういう意識とか精神とか生命のアイデンティティに簡単に踏み込むようなマネすんじゃねえよ! 俺たちゃ繊細なの! こういうソフト上のバグで二度と動かなくなっちゃうこともあるの!」
「あーすんませんねー。ついこう。でもこういう方が楽なんですよ、やっぱり。コミュニケーションは顔をつき合わせてじゃ足りなくて、もう一歩踏み込んで、まさに意識を共有してこそですわ。
今月の標語はコレです。『腹を割って話そう!』」
「迷惑。迷惑だから、とっとと直せよこれ! 話なら聞いてやるから、いちいち記憶改竄したり意識作り替えるの、ホント止めて!」

 モーリェは一瞬不満そうな表情を見せたが、カウノが彼女のこめかみに中指の第二関節を突き刺そうとした途端さっと顔が青くなり、すぐさま白旗を振ってカウノの視覚を元に戻した。

「お、お慈悲を……うめぼしだけは……うめぼしだけはなにとぞ……」
「……よし。まあ、まあいい。
それで、あんたは一体なにを伝えたかったんだ。俺の視界にまでちょっかい出して」
「そう! それです!」

 少女は我が意を得た、と言わんばかりに平手でばんばんとカウノの二の腕を何度も打った。

「カウノさん、わたし、見損ないました! なんですか、あの順位は!」

 モーリェによる突然の反撃に、カウノは口を噤まざるを得なかった。

「ずるずるずるずる……だーれも抜くことができなくって、気づいたら六位ですよ、六位。予選はもっとカッコよく飛ばしてたじゃないですか!」
「……予選は予選だ。今回は戦術を誤ったってこった」
「戦術ですか。カッコいいですねカウノさん!」
「皮肉か、そりゃあ」
「え、いえいえ、マジでかっこいいと思います。思ってます。いやでも、くるくる回るだけなのに戦術があったなんて、知らなかったんですよ」
「……ま、普通はそう思うよな」

 一見シンプルに見えるオートレースであるが、実際はルールで雁字搦めにされており、そのルール内で窮屈さと戦いながら精一杯のパフォーマンスを示すのが、レーサーとチームの役目である。
 しかしレースに関係のない一般人は、そんなことまでは知らない。カウノもそういった人々に何度も説明したが、そのたびに首を捻られるばかりであった。だからモーリェの反応にも慣れたもので、彼は幾度目かの理解を示した。

「いろいろあるけど、まず、燃料が決まっている。使える燃料とその量は、協会から支給される。でそれは予選と本選での合計分しかもらえないから、俺たちは予選でどれだけ使って、本選のためにどれだけ温存できるかを考えなきゃならない」
「え、そんなまた、めんどくさい」
「だからずっとアクセル全開ってワケにはいかないんだよ」
「じゃ、カウノさん、燃料前半に振りすぎたんですか。ぷぷぷ」
「うるせえ。本選じゃもっと燃料なくてもスピード乗るはずだったんだよ」
「あ、それがさっき言ってた戦術ってことですか」
「そうそう」
「でも燃料なくてもスピードがうんぬん、ってどういうことですか?」

 モーリェの疑問に対し、カウノは目線を斜め左上に向けて、頭を僅かに傾げ、眉を顰めた。

「コースからシミュレーションするんだけど、俺の計算では、一周で消費する燃料はもっと少ないハズだった。それが」
「それが?」
「本選直前になって隕石群が漂着してきやがった。俺たちはその中を突っ切るか、大きく迂回するか、どっちかを選ばなくちゃならなかった」
「カウノさんはどうしたんですか?」
「迂回した」
「チキンですね!」
「うるさいしね」

 刹那、カウノは淀みのない動作でモーリェを地面に引き倒すとその細い両足をとって交差させ、自身は立ったまま右モモの上でがっちりと固めた。
 シャープシューター、またの名をサソリ固めである。間違っても白いワンピースを着た少女にかける技ではなく、

「ひいい痛い痛い! またそんな新しい技を! つうかカウノさん、わたし、パ、パンツ出ちゃってます! 丸出しです! せめてコレ隠させて下さい!」
「んなモンに、なんの、価値が、あるんだ、よ!」
「ち、ちょっと! 年頃の女子のおパンツに反応しないとか、カウノさんって本当に14歳なんですか!?」
「おめえも、パンツも、タダの、電磁波、だろうが!」
「そんな、さ、差別っすよ! 差別! カウノさんだって炭素と酸素と水素とその他もろもろの集まりじゃないですか!」
「そういう、ことじゃ、ねえんだよっ」

 吐き捨てる様に言うと、カウノはモーリェの両足を振りほどき、彼女を解放した。

「おおおお関節が……軟骨がまたすり減りましたよ……」
「あんたが本当にここにいるなら話は別だけどよ。そうじゃねえだろ。俺はあくまで幻影をどついてるんだろ。そう考えると、おかしな気分になるんだよ」
「ムラムラされますか」
「逆だ、逆。一気に萎える」
「そんなん! そんなん、あんさんが普段見てはるお気にのAVと同じやないですかい!」
「だからさ。五・六世紀前のゲームみたいに、プレイしながら画面の向こうに話しかけてるみたいな、無駄な行為に思えるんだよ。AIでもないプログラムと会話しようとしてる気になる、っつーか」
「失敬な」

 地べたに女の子座りしたままモーリェはふんとそっぽを向くと、どこからともなく緑色の瓶と安っぽそうな栓抜きを取り出すと、すぽんと軽やかに王冠型の栓を抜いて、半ば自棄気味に呷った。

「うめえ」

 ピルスナー・ウルケル。アルコール度数はやや低いがコクと苦みが強く、どちらにしろ(二重の意味で)少女が飲むものではない。
 恥も外聞もなくゲップをかますモーリェを横目にカウノは少し鼻白むも、

「とにかく、あんたたちのコミュニケーションの方法ってのは一方通行だから。俺たちには敷居が高すぎるんだ」
「不便ですねぇ」
「仕方ないさ。こればっかりはな」

 カウノは肩をすぼめると、モーリェも倣って肩をすぼめる。
 マネすんな、と視線で少年が訴えかけるも、彼女は気にした風はなく、

「あ、そうそう、話は戻りますけど、コースを変えたからってあんなに順位が落ちるもんですか?」
「……いや、確かに戦術ミスもあるんだけど」

 恥ずかしげにカウノは頬をかき、一度鼻に手をやった。

「結局、俺がアクセルの踏むタイミングを間違ったんだな。突っ込むべきところで突っ込まなかった」
「ふんふん」
「迂回してても、上手く立ち回れれば三位には食い込めた……と、思う」
「なるほど」

 何故か満面の笑みで頷くモーリェに、カウノは苦い顔を向けた。

「……バカに嬉しそうじゃないか、おい」
「ええ、そりゃもう」

 皮肉をぶつけたつもりが、どうやら的を外れたらしい。そういえばこいつはこうだった、とカウノは溜息を吐いた。駆け引きや心理戦とは対極の存在。猪突猛進、天真爛漫。この一ヶ月で、彼はモーリェの良いところを、一つだけではあるが認識していた。

(基本的に、こいつの行動は全て善性に基づいているんだよな)

 『良かれと思って』――モーリェの存在を一言で表すなら、これ以外にはない。結果はともかく、彼女は彼女なりの善性を行動原理として動いているのだ。今回もその類かと、カウノは胡散臭げに彼女を睨んだ。

「ついに、ついにこのわたしが、カウノさんのお役に立てる時が来るのですね! もう穀潰しとは呼ばせませんよ!」
「お役?」
「そのとおり!」

 ふふん、と得意げに微笑んだモーリェは、いつの間にか細いフレームのメガネをかけていた。気づけば服装も上下共に黒いスーツを着込んでおり、当の本人が少女であることを除けば、その姿はいわゆるやり手の秘書そのものである。かように彼女は姿を自在に変えることができ、気分によって様々な衣装を纏う。彼らソリャリスの全てがこのように形から入るタイプであるかどうかは分からないが、少なくとも彼女はそうに違いないと、カウノは見当をつけていた。

「……なんだ、そのメガネは」
「新人女教師モーリェ、火曜夜26:15よりご覧のチャンネルで好評放送中!」
「なんか妙に生々しいな。その安っぽいところとか」
「似合ってますか」
「毛ほどにも」
「メガテンのドラマくらいは頑張ってるつもりです」
「意味が分からん。とにかくバカにすんなら帰れ、なにが教師だ」

 しっしっと手を振るカウノにも、モーリェは笑みを崩さず、相変わらず上機嫌なままでメガネを上下させる。

「教師というのはうそです」
「知っとるわ」
「わたしってば、実は、コンサルタントなんですよ」
「――あ?」

 その単語はあまりにカウノにとって馴染みがなく、また彼女が口にするには大層不釣り合いで、カウノは素っ頓狂な声を上げた。

「……あんた、また変な遊びを覚えやがったのか」
「とんでもない、わたしは本気です。
まあ正確には、コンサルタントだったこともある、なんですけど」
「――つまり、なんだ。前の・ ・、あんたか」
「そうです。三つ前の・ ・ ・ ・、わたしです」

 モーリェはにこにことしたまま、そう言った。
 カウノは思わず何か返そうと口を開いたが、すぐに閉じて、諦めたように顔を背けた。彼の喉元に言葉が殺到し、そのくせ何一つ出て行くことが出来ず、代わりに腹の中に降り積もっていく。身体を二つに裂いてガラスの板を貼り付けたらきっとその様な光景が見えるに違いない。そんな感想を抱かせるくらいには、彼はわかりやすく苛立ち、感情をもてあましていた。

「それで、そのコンサルタントさんが、一体何の用だ」

 カウノのぶっきらぼうな言葉にも、モーリェは腰に手を当て、ぐいと胸を張ってみせた。

「ソリューションの提供ですよ」
「……ソリューション」
「はい」

 さすがにカウノも困惑した。

「……よく、わからねえんだけど」
「まあかく言うわたしもですね、こう大見得を切っておいてなんですが、ホントにさわりだけしか知らなかったりします」
「おい、じゃあ結局役立たずじゃねえか」
「まあまあ。一人より二人です。きっとお役に立てますよ、なんせ」

 モーリェはにいと歯を見せて、

「わたしってば、かの『マッケンジー』の一員だったんですからね!」



[28634] 2-2面
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2012/04/27 22:21
 ユリマキは辺境の小さな惑星だ。
 大きさでは連邦に登録されている『居住可能星系』の中でも下から三番目に位置づけられており、比べて経済規模はもう少しマシで、下から五番目といったところである。土地は安く、下宿先を求める貧乏学生にとってのある種のヘイヴンというのが、ユリマキを取り巻く評価の一つとなっている。例えばカウノの実家であるカトウ家は決して裕福な家柄ではないが、中流家庭のか細い仕送りでも彼の下宿では旧単位ゆうに17平方メートルの広さを確保できており、『テルヒ・フィッシュ・バーガーと2パイントのエリヤス・サイダーを我慢するだけ』で一日分の家賃を捻出できるという噂が、決して嘘や誇張の類でないことがよく分かる。
 そのいわゆる十畳分の部屋に鎮座するどでかいモニターの前で、あぐらをかいてじっと画面を見詰めたまま、少女モーリェが座り込んでいた。画面には延々と過去のデータ――オートレースの様子――が映し出されている。プロ中のプロ、『規定A』のレースのものもあれば、去年カウノが参加したレースもある。そういった雑多な映像を、時折思い出したようにビールの瓶を口に運ぶことを除けば、モーリェはピクリとも動かずに一点を見詰めていた。
 カウノはベッドに転がりホログラム上で雑誌を読みながら、ちらちらと横目で彼女の様子をうかがうが、その光景はここ五時間で一向に変わる気配がない。彼が食事中であろうがうたた寝中であろうが、彼女は身じろぎもせずにいたのだ。こいつのこういったところが苦手なのだと、カウノは小さく溜息をつき、ページをめくった。人間より溌剌な仕草を見せることもあれば、このように一昔前のアンドロイドと変わらぬぎこちなさも見せる。要は加減がきかないのだ。それともこれも、あの星――ソリャリスの本性であるのだろうか。バランスの欠けた喜怒哀楽も、彼らにとってみればごくごく普通の性格として受け入れられているのだろうか。
 そんな彼の思索は、突然モーリェが振り向いたことで中断された。

「んな、なんだ」

 カウノの声がやや上擦った。

「終わりました」

 終わった。一体、

「なにが?」
「データ収集です」

 言いながらモーリェはあぐらをとき、立ち上がった。

「そんなわけでわたくし、準備万端ですよ」
「何のだ」
「そりゃあ、戦略会議のです」

 戦略。そして会議。モーリェの口からあまりに似つかわしくない単語が飛び出てきたため、カウノの口元は疑念に歪んだ。

「……オマエね」
「カウノさんがわたしに不信感を抱いているのは当然です。
しかしここは一つ、ちょっくらわたしの話を聞いてもらえませんかね。
ほら、法事の間親戚の女の子と遊んであげる感覚で」

 口調は軽かったがモーリェの表情いつもの様には底抜けに明るいというわけでもなく、カウノの目からはむしろやや強ばっても見えた。

「前にも言ったんですけど」
「……ああ」
「カウノさんのお役に立ちたいんですよ、わたし。
こうしてご迷惑をおかけしている身分ですから、お返しがしたいんです」
「だったら出て行くっていう選択肢もあるんだと思うんだけどな」
「そう言われちゃうと弱いんですけど、ごめんなさい、でもわたし、こういう風にヒトに寄生しないといられないんです。
なんて言いましょうかね、脅迫観念のようななにかがわたしを責め立てるんです」

 ぶっそうなことを言いやがる。
 深く追及する気にもならず、代わりにカウノは心中でそうぼやくと、話を元に戻そうと口調を改めた。

「まあいいよ。いても良い、って一回言っちまったし。
それよりなんだ、戦略会議だって?」
「そーですそーです、戦略を立てましょう。
……って言うか、まず、カウノさんって、そういうの考えてレースに臨んでました?」
「……趣味なんだから、そんなもん考えてねえよ。悪いかよ」
「いえいえ。ふつうはそりゃ考えないと思います。大変ですし。
でもこのままじゃカウノさん、勝つのがしばらく難しい状況が続くと思いますよ」

 モーリェの歯に衣着せぬ言にカウノは少なからず苛立ちを覚えたが、溜息を一つ吐くと、顔を歪めて食いかかった。

「じゃどーすりゃ勝てるんだって言うんだ」
「それを一緒に考えましょう! さあさお立ち会い、まずは分析です!」

 しかし彼女にカウノの押し殺した怒りは伝わらず、逆にやる気十分と勘違いしたモーリェは彼の手を引っ張りベッドから引きずり起こすと、ダイニングのテーブルに座らせた。

「ちょちょーっとお待ち下さい、お茶と茶菓子を用意してまいりますよん!」

 いつの間にかエプロンをつけた彼女は、すぐ横の小さなキッチンに身体を滑り込ませたと思うと鼻歌交じりに湯を沸かせ、冷蔵庫を開けてはどこから仕入れてきたのか分からない菓子を取り出し、皿に盛りつけ始める。
 そんなちょこまかと慌ただしい後ろ姿をじっと見遣りながら、カウノは彼女のことについて考えていた。

(……マッケンジー)

 それは彼女が数日前に口にした単語だった。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 マッケンジー。
 正確には、マッケンジー・アンド・カンパニー(マッケンジーと愉快な仲間達)
 過去にとある惑星で暗躍した、秘密結社の名前である。
 この名が歴史の表舞台に出てきたのはおよそ100年前で、それは同時にマッケンジーという組織が死んだ時でもあった。恐るべきことにそれまで、このマッケンジーは誰にも知られることなく数々の星や国の要職に構成員を送り込み続けていたのだ。数百年の間、絶え間なく。
 彼らはとにかく秘密主義者であった。自身をプラウメン(田舎者ども)、更に自身の組織をザ・シバン(例のあばら屋)と呼称し、決して本来の名を外に持ち出そうとしなかった。それはプラウメン同士においても然りであった。彼らは本名を互いに名乗らず、チームのメンバーがどこの誰だかも知らずにいた。かように彼らは私情では繋がらず、また繋がれず、しかしただマッケンジーのクリーズ(教義)でのみ繋がっていた。
 クリーズ(教義)の名の通りマッケンジーにはある種の宗教がかったものが漂っていたが、それは決して超自然的なものではなく、より理知的で、しかも道具にすぎなかった。これを使いこなせた者達が、タウンズメン(都会野郎)として、マッケンジーを出て仕事に就く。それは官僚であったり、銀行員であったり、証券会社であったり、シンクタンクであったり――クリーズ(教義)を体得した者はありとあらゆる業種に抜擢されるのだ。極端な例であれば、清掃員から生産管理部の部長にまで上り詰めた者もいる。
 ――そんな不可思議な連中は、一体部屋に籠ってずっと何をしているのか?
 カウノもマッケンジーの名だけは知っていたから、その正体に興味は抱いていた。ましてモーリェがかつてそうであった(・・・・・・)と言うならなおのことだ。
 しかし当の少女ときたら、

「こちらが本日のお茶とお茶菓子でございます。
お茶はですねえ、こちら上品な木賊色のパッケージ、井六園さんの煎茶『慶光』でございます(100g 税込1050)。
そしてこちらがそのお茶請けでございますね、俵屋吉富さんの『雲龍』でございます(1棹 税込1,365)。しっとりとした上品な甘さがですね、『慶光』の爽やかな渋みと大変合う、大変合うのでございます。
時刻は午後三時。この時期、やっと太陽も高くなって参りました。うららかな春の日差しを豊かにしてくれる、そんなお茶を楽しみませんか。
いかがでしょうカウノさん」
「憤」
「あいだっ」

 手にしていたディスプレイ(大変軽く、薄い)が瞬く間に折りたたまれ即席のハリセンとなり、したたかにモーリェの前頭部を引っぱたいた。先日導入した、フリーのアプリケーションである。罪悪感なくモーリェをはたけるため、カウノはこれをとても気に入っていた。

「い、いたいっす」
「テーブルひっくり返されなかっただけ有り難く思え」
「ううう、雰囲気出ると思ったんすけど……」
「お前がミーティングしたいって言うから俺はここに座ってるんだ。
お茶がしたいって言うなら初めからそうしろよ」
「あーい」

 言いつつも、カウノはその『雲龍』とやらから目を離せずにいた。
 その菓子は一見ロールケーキのようであった。しかし色は濃い紫であり、さらに見れば中のペーストには大きな豆がごろりと入っている。そう言えば同じ人間の中にも甘い豆を好んで食していた連中がいた。サルサソースと一緒に食べる以外の調理法は豆に対する冒涜であると信じ込んでいたカウノは、しばらくそれをじろじろと眺めると、竹ようじで親指ほどの大きさに切り取って、口の中に放り込んだ。

(…………)

 旨い。
 モーリェが増長するから決して言葉にはしないが、『雲龍』は確かに旨かった。
 上品な甘さと食感。シンプルゆえに引き立つ素材の風味。どれもこれもガス惑星から採取され精製された人工の糖類でないことは確かだった。
 そのまま茶を一口すする。これも良い。『雲龍』の舌触りはするりと消えて『慶光』の香りが渦巻き、しかしそれも立ち上るようになくなっていく。後に残るのは爽やかさのみ、あまりの落差に驚いた舌がもう一切れ、もう一杯と欲しがり出すのをカウノは感じていた。

(って、いかんいかん)

 見ればモーリェは机に肘を突き、顎を掌にのせてにまにまカウノを見詰めている。
 術中にはまりかけた、とカウノは煎茶で口を潤すと、姿勢を正してモーリェを睨み返した。

「で、まず何をするんだ」
「はい。まずは意思統一、目的の確認です」

 意思統一、実に真摯な言葉だ。この少女が語るに自然なものではない。カウノは当惑を努めて押し殺した。

「……マジメじゃないか」
「そりゃ、カウノさんのためですからね。いくら押しつけがましくも、最終的には還元されないと意味がないですから。お節介というのは」
「おーけー。それで、目的って?」
「はい、今回のミッション、目標はただ一つ、『次のレースで勝利する』。よろしいですか?」
「……まあ、」

 言われてみれば、とカウノは恥じた。自分は毎回、確固たる目標を持たずにレースに臨んでいた。なんたる怠慢であることか。いくら趣味だからって、目指すものもなしに参加するというのはレースに後ろ足で砂をかけるような行為だ。なぜならそれは賭けるもののないただの享楽――オールドスクールのロックに鼻歌を乗せて海岸沿いをドライブするのと相違ないのだから。
 いや、昨今はただ一つ目標があった。シスコだ。あの性根の悪い女の鼻を明かしたいと気張っていたが、ずっと空回りし続けていた。だがそれをここでわざわざつまびらかにする必要はない。だってまるで、

(俺があいつのことを気にかけているみたいじゃないか)

 ないないそれはない、とカウノは溜息を一つ吐いて、

「いいぜ。異論はない」
「よすよすです。ではその目標における障害となりうる、問題――カウノさんが勝てない原因・要因を一つずつ出しましょう」
「……待て」

 モーリェが語る言葉はどれもシンプルであったが、カウノはいまいちその真意――目的を理解しきれず、とっさに手を振った。

「なんかのんびりしすぎてねえか。回りくどいって言うか」
「まあまあ。そこをぐっとこらえて下さい。
一足飛びに結論に辿り着けるのは経験豊富なヒトだけです。わたしたちは蒙古斑も消えぬ初心者なんで、ひとつずつ丁寧に参りましょう。
ドモホ○ンリンクルの精神で参りましょう」
「……わかった」
「ぐふふ。カウノさんのそういうトコ好きですよ」

 ぱたぱたと足を揺らして『雲龍』を頬張るモーリェを尻目に、カウノは首を傾げながら、再び煎茶を口にした。

「問題っていうと、例えば、俺の腕、か」
「最初はもうちょっとおおざっぱに参りましょう」
「つまり――」
「カウノさん、カウノさん以外のレーサー、外部環境の三つくらいですかね。分類として」
「俺が勝てないことの原因は、少なくともその中のどれかにあるわけだ」

 なるほど、とカウノは頷いた。同時にモーリェが随分とかみ砕いて説明をしてくれていることに、彼は気づけた。

「じゃあそこから更に細分化するのか。そんでもって一つずつ検証するわけだな」
「お察しの通りです。……むむ、ひょっとしてカウノさんって飲み込みのいい方なのかしらん?」
「前はそうじゃないと思っていたけどな。あんたをここに住まわせている時点で、俺はそこそこ飲み込みがいい方の人間じゃないかと、今は思っているぜ」

 カウノの返事に満足げに頷いたモーリェは、再びどこからともなく取り出したスーツに身を包み、縁なしメガネを取り出すと、

「ではそんな飲み込みのいいカウノさんに伝授しましょう。
マッケンジーの膨大なクリーズ(教義)の中から、代表的な一節を」

 彼女の輝く瞳の中には、なんだか幾何学的なぐるぐる模様が渦巻いていた。

「あ、あんた」

 たじろぐカウノであったが、しかし一度捕らえられた視線を外すことが出来ずにいた。
 彼は自分の意識がなにか得体の知れない重りで挟まれた様な気分を覚えていた。
 それは重りとは名ばかりで、質量こそ持たないが、巨大な容積を持つ、例えば割れない風船のようなものであった。風船がカウノの意識を、心の部屋の隅に追い込んでいたのだ。
 モーリェが身を乗り出した。二つの渦巻きは巨大化し、カウノへずいと迫る。
 苦しい、押しつぶされる、肺が空気を吸ってくれない。途端に圧迫感が幾何級数的な大きさを伴って、カウノの精神に雪崩れ込んだ。気がつけば四肢は言うことをきかずがっちりと硬直し、彼は立ち上がることも出来ずにいた。「モーリェ」声すら出ない。力は入る、いや力が入りすぎている。指先は震えているし、眼球はぷるぷると揺れている。筋肉の全てが縮みきって動かせないだけだ。
 それは恐怖故だった。カウノは今の状態を壊すことを恐れていたのだ。それだけで自我が四散してしまうと無意識のうちに思い込んでいる、そのためであった。
 彼の懼れを余所に、渦巻きと化した光彩はただぐるぐる回って、
 回って、

「ぐるぐる、」

 回って、
 ぐるぐる、

(回って、)

 ぐるぐる、
 ぐるぐる、
 ぐるぐる、




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 夏休みが終わり、新学期が始まった。
 つまりカウノやシスコは秋からサード・グレードに進級することを意味する。
 そして彼らの通うジュニア・ハイスクールでは例に漏れず、この時期一度クラスを解散し、新たに再編成する。要するに、クラス替えである。
 始業式の午後、シスコはその結果がプリントされた掲示板の前に立ち、それを穴があくほどじっと見詰めた。

(悪くない)

 そこにはシスコと仲の良い女生徒の名前が何人か載っていた。加えて大嫌いなリュリュ人のペレルヴォも見当たらない。幸先の良さを彼女は実感していた。その上、

(……彼の名前があるわね)

 上から14番目のあたりに、カウノの名が控えめに書かれていた。
 包み隠さず言えば、シスコの友人知人というのは決して多くはない。連邦は様々な星の様々な人種で構成されているが、中でもヴァルマ人というのはとびきり理知的でとびきり冷徹な民族として知られていた。実際には言われるほどでもないのだが、偏見に拍車をかけているのは彼らの一様な仏頂面である。常にむっすりと押し黙り、口を開いたかと思えば暖かみなど感じられない言葉を溢す。しかしそれは耳に痛くも必ず真実の一面を突いており、人々は時間をかけてそれを理解する。彼らを評した「ヴァルマ人は歳を取るほど友人が増える」はまさにそのことを指し示しているのだ。
 そんなわけで中学生にとってヴァルマ人はまだまだ理解の及び難い存在であり、先に述べた女生徒も昼食を共にこそするが、下校途中に教師の目を盗みクレープの買い食いに興じる程の関係でもない。その上趣味――オートレースというマイナースポーツ――を共有し、加えて互いに頂点を競い合うランカーだとなれば、シスコが彼に多少なりとも親近感を抱くのは当然だろう。残念なのはその表現方法が少々鬱屈しているということだ。ほら、好きな子ほど苛めたくなるというやつ。
 シスコは表情を(同族の者にしか分からない程度に)緩めて踵を返し、教室へと軽やかに歩みを向けた。セーラー服のすそがふんわりと秋風に揺れる。間違いなく彼女は浮かれていた。
 そして十も歩かない頃、彼女の視界に、今し方名を見つけたばかりの、当の男の姿が入ってきた。

「あら」

 小首を傾げ、シスコは声をかけた。

「久しぶり――でもないわね。先週のレース以来かしら」

 調子に抑揚はなく、皮肉は極まっている。いつも通りと言えばいつも通りのシスコであった。
 しかしカウノの返事はない。どころかシスコの顔を見ようともせず、ふらふらと横を通り過ぎようとする始末であった。まるで初めから彼女のことなど知らなかったかのように。
 シスコの心は凍った。戸惑いと悲しみが、一瞬にして液体ヘリウムの海にこんだバラの如く、それを霜塗れにした。カウノはこれまで強い言葉を投げられ不機嫌になることはしばしばであったが、このような無視を決め込むことは一度もなかった。だけに、シスコは狼狽えた。自分は今まで甘えすぎていたのだろうか? 狼狽えて一瞬息を詰まらせたが、真っ白に氷結した心は一瞬にして沸騰した。怒り故であった。

「ちょっと、」

 かようにヴァルマ人とは言え、思春期の彼女はまだまだ精神が不安定である。
 シスコは腕を伸ばしてカウノの詰襟の肩口を掴み、力任せに振り向かせた。途端である。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、彼女はその手を離すことになってしまった。
 カウノの目は虚ろであった。いわゆる死んだスペースメガマウスの目をしており、しかし瞳から赤青黄色と妙な輝きが漏れていた。その上口元は微かに動いて、もごもごとなにかを呟き続けている。

「な、なによ」

 いつもとは明らかに異なるカウノの様子に、シスコはただならぬなにかを感じていた。カウノはクラスの中でも底抜けに明るいというわけではなかったが、底抜けに暗いと言うわけでもない。だからたった一週間程度会わないだけで、これほど人が変わってしまうことを、本人を目の前にしても受け入れられずにいた。シスコは彼を恐れたが、しかし同時にこの事態をなんとかせねばという気概も持っていた。彼は敵でもあるが、ライバルでもあり、同好の士でもあり、クラスメイトである。見捨てる理由を持ち合わせてはいなかった。

ストラクチャ(構造)
ストラクチャ(構造)
ストラクチャ(構造)
「は?」

 だから彼の呟いている言葉を判別出来た瞬間、シスコはぽかんとだらしなく口をあけた。

MECE(みーしー)
MECE(みーしー)
MECE(みーしー)
「…………へ?」

 聞けば彼が呟いている単語はたったの二つであった。その二つをきっかり三回だけ、何度も何度も繰り返し繰り返し口にしていたのであった。
 シスコは背筋にそら寒いものを感じた。これはいかん。まちがいない、カウノは狐にとりつかれておる! 彼女は小さい頃テレビで霊媒師が除霊を行っているさまを思い返した。狐に取り憑かれた男は株取引に失敗し、妻と別れ、最後の望みと賭けたFXで大損こいて発狂するまで身をやつしていた。運気を狂わせるほどの、それはそれは強力な狐の霊であったらしい。霊媒師はスタジオでどんどこどんどこ火を焚いて、謎めいた呪文を叫び、あとなんだっけ、

「パワーアップ型百歩神拳!」

 一言で言えば、シスコは相当にテンパっていた。
 叫ぶだけ叫んで、ばちこーん、とカウノの頬に平手を打ち込んだ。それはそれは強力な一撃であり、例えるなら全盛期(まさに今)の山本昌のフォームとそっくりな打ち込み方で、たまらずカウノは半回転する形で頭から床に突っ込んだ。

「し、シスコちゃん!?」
「梁師範!?」

 突然の乱心に周りの女子も引きつった声を上げる。驚いたのは周囲ばかりではなく、シスコ本人も然りであった。え、えらい形で中学デビューをきめてもうた……!
 どよめきが衆目を集め始める。シスコを囲む雑音が膨れあがり、彼女は顔を覆って泣き出したくなってしまった。が、しかし、間を置かずに倒れ込んでいた筈のカウノがすくっと立上がり、

「ごめんごめん、変なこといっちゃったな!」

 あはははは、とわざとらしい笑顔を振りまき、次の瞬間シスコの手を取ったと思うと、そのまま階段を駆け上り屋上へと消えていった。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 屋上のドアを開けた瞬間、強い風が中へと滑り込んできた。
 カウノは前髪を押さえつつシスコを促し、自分も外へ出ると、体重をかけ後ろ手にドアを閉めた。

「悪かったな。助かったよ」

 太陽の光に目を細めつつ、カウノは素直に謝罪を口にした。実際彼女が気付けの一撃を見舞ってくれなかったら、自分は定まらぬ意識の中で新学期を迎えていたに違いないのだ。どん引きのクラスメイトを置き去りにして。その想像はあまりに恐ろしく、カウノは背中を震わせた。

「……説明してくれるんでしょうね?」

 そんな彼を見据えるシスコの瞳は冷ややかだ。だがその奥には戸惑いの灯がちらついている。それもそうだ、と気取ったカウノは苦み走った顔で、

「なんて言うか……説明って言われたら、その。
……いや。単純に言うとさ。俺、失敗したんだよ」
「失敗?」
「メンタルチェックに」
「ああ」

 それはカウノが咄嗟に取り繕った嘘であったが、シスコがすぐさま見破るにはいささか上手すぎた。
 実際メンタルチェックテストと称したアプリケーションは非常にポピュラーで、占いレベルのものから前世の心裡を叩き起こすものまで様々なものがある。しかしそれにつけ込んでウイルスを紛れ込ませる事件が多発しており、例えば今回のカウノのように、テストが終わっても精神状態が乱れたままになっている事例が実際に存在した。
 だからシスコはそれを疑問に思わず、むしろ合点がいったとばかりに腕を組んで首肯してみせた。

「どうせ渋って安物のアプリを買ったのでしょう。洗脳でもされたのかしら?」
「かも、な。いや、今回のは失敗だった」
「そう。お陰で」

 本当に焦った。彼女は心中で冷や汗を拭った。

「そう言えば、貴方、ずっとなにかを呟いていたわよ」
「へ? なにか、って?」
「えっと……構造、構造、あと、みーしー?」
「あ」

 それを聞いた瞬間、カウノの目が丸く見開かれた。

「あれ、なんなの?」
「いや、その」

 少年は頭をぽりぽりとかいて、一度目を遠くへやった。
 眼下にはユリマキ随一の都市が広がっている。およそ1000万の人が住む大都市だ。しかしこれでも連邦の中では小さい方で、10倍を優に超える規模の都市はまだいくらでも銀河に転がっている。その周囲には背の低い森が広がっており、初秋の陽光を受け、緑にきらめいていた。
 カウノはふうと弱々しく溜息を吐いて、

「悪いね。言えないな」
「……ああ、そう」
「気を悪くしないでくれ。そうだな、ま」

 すると彼はいつもは彼女に見せないような不敵な笑みを浮かべると、

「次のレースをご覧じろ、って感じかな」

 これまた不敵に、挑戦状を叩きつけた。



[28634] 2-3面
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2012/05/20 22:32
 単一の恒星から成り立つ惑星系において、そこに棲む種族はおおよそ季節を四と定義する、という研究がおよそ200年前に発表された。実に奇妙な一致であるが、肌の色や目の数が違えど、四が季節を表現するのに最も適当な数であると大多数の種族は口を揃えるのだ。その論文には種族の違いといった生物学的な視点からではなく、恒星の大きさ、惑星の距離、そして地軸の傾斜といった天文学的な視点からのアプローチを試み、これらと彼らが認識する季節の数の関連性を期待してアンケートをとったのだが、ものの見事に裏切られることとなった。例えば地軸の傾きが殆ど見られない惑星では緯度が季節に直結するため、季節の概念は成り立たない。そのため南から北を眺めると常に夏から冬への切れ目のない美しいグラデーションが地平線上に描かれているのが分かる。また逆に地軸が傾きすぎている惑星では季節と昼夜が直結するため、春夏秋冬の意味合いが全く異なることになる。しかしこれらの数字上のデータが多種多様にばらついていたにも関わらず、季節の数は平均して4.0035といった返事が返ってきたのである。
 無論例外はあり、例えば季節は五であると答えた種族があった。これは彼らの惑星の近隣に超高温のガス惑星が公転しており、その惑星が近づいただけで温度が上昇したため季節が一つ増えた結果によるものだった。しかしそういった例外を排除していくまでもなく、連邦に所属する種族は皆、季節と言えば春夏秋冬の四であると共通の認識を抱いているのであった――あくまで単一の恒星から成り立つ惑星系に居住する、という前提であるが。
 そしてユリマキはその例外で、季節は六。理由はシンプルで、太陽たる恒星『ケスキナルカウス』がいわゆる変光星であったためであった。この変光の脈動周期がユリマキの公転周期と神がかった一致をしており、千年以上も昔からユリマキは六つの季節を慌ただしく謳歌してきたのであった。なお六の季節とは、我々の言葉で表現するのであれば、春朔夏秋晦冬となる。つまりは朔にケスキナルカウスが輝きだし、晦には瞼を下ろし始める。無論気温も変化するが、それとは別にこの時明確に変化する事象があった。空の色である。朔が始まると空は紫に近い青色となるが、晦を過ぎることで緑色に変わっていくのだ。
 ――そして今、季節は秋。晦を前にした雲一つ無い青空の下で、モーリェは住宅街の中の通りを、カウノのアパートに向かって歩いていた。いつものワンピースに流行のオータムコートを羽織り、鼻歌を交え軽やかに踊りながらである。スキップ、スキップ、最後にターン。赤く色づいた葉が風と共に巻き上がって、彼女の長い黒髪をすり抜け、地に落ちる。乾いた音。通りにリズミカルに響くそれらは、葉が互いに擦れる音と、その葉が彼女に踏みしめられた時の音と、そして、

「ぷしゅ!」

 口でそう言いながら、モーリェがプルタブを開ける音である。

「あーだめだ、ほんとはちゃんとサンマ食べながら飲みたかったのに……
もう我慢できない、一本だけ飲んじゃお!」

 誰に弁解するわけでもなく虚空に向けて呟くと、にやにや口元を歪めながら少女は迎えるように口唇を窄め缶に口をつけ、一度泡を啜るマネをしてみせたと思いきや、そのままあっという間に350 mlを飲み干してしまった。

「うめぇ」

 ――なお本日彼女が手にしているのはキ○ンの限定生産ビール、秋○である。

「おほほほとっとと帰って七輪出っすぞー。
そんでもって練炭中にぶっこむぞー。
アパート前の公園に折りたたみ椅子を二つ持ってくるぞー。
七輪の窓全開にしてばんばん火焚くぞー。
するとするとあら不思議、カウノさんが帰ってくる頃には立派なサンパ(サンマパーティ)会場が出来上がってるわけですねええええ!」

 いえふー、と快哉を上げながら、モーリェは手にしたビニール袋をぶん回した。一つは秋○の缶が1ケース分(マイナス1)、そしてもう一つは大量の塩サンマの群れである。鱗も内臓も下処理が行われ、火で炙ればそれだけで秋の味覚を堪能できるようになっていた。

「しっかしカウノさんったら大丈夫かしら。我ながら手っ取り早いとすり込みかけたのは良いんだけれど、その後言動がちょーっとおかしかったのよねー。
新学期早々イジメにあってなきゃいいけどにゃあ」

 そして軽妙な口ぶりで犯行を告白する始末である。

「まあよいですわよいですわ。そうなったらわたしが裏から手を回せば良いわけですし。
カウノさんイジめるヤツとかもうコントローラーの十字キーが一生左右逆になる呪いかけときゃいいでしょ。……む、そうなるとあのいけ好かない女にはもうやっておくべきなのかしら? いやいや、ヤルならもっと陰湿でドギツいやつを……例えばそうですね、ある日突然股ぐらにチ○コが生えてきて、混乱の極みの中涙目になりながらも迫り来る尿意に耐えきれずとりあえずトイレに行ったはいいけど、全然扱いに慣れてないからションベンを便器の周りにまき散らしてですね、絶望の中覚束ない手つきでチャックを上げたらつい皮を挟んで絶叫したところで目覚めるみたいな夢を毎日見てだんだん狂ってきて授業中に「包茎死ね」と呟き出すまで追い詰めるような、そんな恐怖を孕んだやり方がいいっすよね。あとそうですね、明日からクラスメイトにあだ名で『保体の鬼』と呼ばれ続けるとか。結婚してからも。五回目の同窓会までずっと。
……んー、アイデアが膨れあがって逆に不健康なカンジ。そんなことよりまずはサンパの準備ですね、おっと、むむ、」

 そうこうしているうちに彼女はカウノのアパートの前に辿り着き、しばらくコートのポケットに手を突っ込んで四苦八苦していたが、漸くカギを見つけたのか、晴れた表情でドアノブを回し、中に入り、

「ただいげふううっっ!!!」

 待ち構えていたカウノにクローズライン(ラリアット)を一閃され、玄関で仰向けに倒れ伏すことになったのである。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「だから、オマエは、人の意識を、無計画に乗っ取るなと、あれほど、」
「いいいいいたたたたた!!! ぎ、ギブです! ギブギブギブ!!」
「なにが、ギブだこの、何度も痛めつけられたのに、学ばないこの、駄星この、ボケこの、」
「ひぎいいいい(靱帯が)裂けちゃううううう」

 例によって怒り狂ったカウノはモーリェからダウンを奪うとそのまま背中に覆い被さり、彼女の足と首を引っ張るようにがっちり固めた。STF――ステップオーバートーホールドウィズフェイスロックと呼称されるそれは、相手の動きを封じつつ首と足首両方を攻撃する、高い技術を要求するえげつない技である。

「わ、わたしは、カウノさんのためを思って!」
「ぬわーにがカウノさんのためだこの。また横着しやがったんだろ、どうせ!
口で説明し辛いからって!」
「す、すいません、謝ります、でも今回のはちょっと違うんです!!」
「なにが違うんだこの」
「で、ですから」

 モーリェは息も絶え絶え目を潤ませ、

「今回は説明って言うか、カウノさんに覚えて頂きたかったんですよ、とにかく!」
「……覚えるって、あれとあれをか」
「そーです、あれとあれです!」

 あれとあれ。つまり、

ストラクチャ(構造)と、MECE(みーしー)

 カウノの海馬に強制的にたたき込まれたこの二つの単語は、プラウメン(田舎者ども)が一番最初に口にするクリーズ(信条)であり、同時にタウンズメン(都会野郎)が最後まで忘れないクリーズ(信条)であり、つまりマッケンジーの中でも最も基本的で重要なキーワードなのだ。
 基本的なだけあって、これらが示す事実は重要さに反して存外シンプルである。ストラクチャ(構造)とはつまり物事を体系化し、構造化して見ることの重要さを説いている。物事全体を俯瞰し、そこから構成要素に切り分け、更に構成要素ごとそれぞれの関係性を可能な限り分かりやすくつなぎ合わせる、といったものだ。樹形図を想像して貰いたい。子供でも作れるそれこそが、全ての構造化の雛形に違いないのだ。
 そしてMECE(みーしー)――Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの頭文字を取って作られたこの造語は、「漏れなく、ダブりなく」を意味する。上述した構造化において重要な概念であり、構成要素に切り分ける作業においてこのMECEが達成されていれば、構造化はほぼ成功と言える。まるで素粒子の様に構成要素を最小単位に切り分けることで、それだけ物事の関連性は完結に説明でき、つまり全体も然りである、ということだ。
 問題解決においては様々なプロセスがあるが、少なくとも分析の段階では、この二つの作業を優先的に行うべき――マッケンジーはプラウメン(田舎者ども)にそう説いていた。これをまだ中学生であるカウノに短期間で一から教え込むのは確かに困難であり、それ故モーリェは電磁波を通じて直接海馬と意識下に情報を書き込むことを選択したのだ。
 カウノも不本意ながらそれが合理的な手段であることは理解していた。そしてこの二つのクリーズ(信条)が自身の分析においてキーワードとなり得ることにも気付いていた。この一日で彼が得たのは客観性だ。感情や先見によって胸裡にかかる煙のようなものを晴らし、骨子を明確にする力である。まだレースで勝利するための条件全てをMECEにしていたわけではなかったが、しかしおおよその大綱は見えていた。自身が次に何を成すべきか。それにより自身は一体何と成るべきか。たかが趣味のオートレースであるが、漸く勝利への道筋――まさにその切欠を掴みかけているのである。
 だから彼は関節を締め上げ続けるでもなく手を緩め、

「……次からは一言、声をかけろよ。いきなりされちゃあこっちだって驚いちまう」

 緩慢にではあったが、モーリェの背から離れ始めた。
 モーリェはうつぶせになったままぴくりとも動かない。うわ、さすがにやりすぎたか。怪訝に思ったカウノが声をかけようとした瞬間、

「デレた! カウノさんがデレた!!」

 モーリェは面を上げて足をバタバタさせながら、突然大声で叫びだした。

「ば、バッカやろう、なに言ってんだ!」
「デレたデレた! いま確実にデレました!!!
うわあああああ!!!!!」
「で、デレてねえし! 勝手なことを言いやがって!」
「うわあああああ!!!! カウノさんがデレましたあああああああ!!!」
「だからデレてねえっつってんだろ!!!」
「ああああああああああ!!!! うわああああああああああ!!!!」
「クソっ、この」

 カウノは一瞬躊躇するも、意を決してモーリェの背にエルボードロップをたたき込む。

「げふぅ」

 脊髄を直撃したのかモーリェは小さく断末魔を上げると、ぱたりと顔を伏せ、それきり再び動かなくなった。

「……よし、」

 カウノは安堵の溜息を吐いたが、

「いやよしじゃねえよ! まだ何にも始まってねえよ!
おい起きろモーリェ! 分析するんだろ俺の弱点を!!」




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 そうして瞬く間に一ヶ月が経過し、レース予選当日を迎えた。
 おおよそ雰囲気はいつも通り和やかなものであったが、たった一人いつもとは異なる緊張感を漂わせていた者がいた。
 シスコである。
 この一ヶ月間、彼女はカウノの奇行とその後の言動を忘れられずにいた。

「次のレースをご覧じろ、って感じかな」

 それはカウノにしてはらしからぬ行為であった。シスコは彼のことを良く言えばクール、悪く言えば熱意に欠ける男だと思っていたから、ああいう風に見栄を切ってくるというのは意表を突くような仕草であり、それだけ腹案があるに違いないと警戒していたのだ。
 ――が、警戒こそしていたものの、カウノからそのような動きは見られない。
 一人で疑心の螺旋に陥っているのが、シスコの今を表現するに端的な言葉であった。
 手持ち無沙汰になったのか、彼女は椅子から立上がり、所在なさげにステーション内をうろつくと、ちらりと横目でカウノのチーム『レフトラ』を見遣った。タイミングが合えば少しだけ彼をからかって時間を潰そうと考えたが、その足は途中でぴたりと止まった。いつもはドックに彼一人しかいないが、今日はもう一人加わっていたのだ。あのカウノの従姉妹を名乗る少女である。思えばあの少女が現れてから異変が生じ始めたのではなかったか。確かに奇妙な少女であった。言動も、服装もなんだか見慣れないものである。かのように奇妙であったが――カウノをあそこまで変質させるだけの何かを持っているのだろうか?
 それとも以前自分がかけた言葉に触発されたのであろうか。そうであれば嬉しいと、シスコは思った。カウノを焚きつけるためにわざと厳しい言葉を選んだ(幾つかは勝利の高揚がもたらしたものであったが)だけに、それだけの素直な反応を返してくるとなると、

(ちょろいわね)

 気取られぬよう、シスコは口角を上げた。
 しかしそんな彼女をじっと見詰める視線があった。件の従姉妹だ。いつの間にか少女は黙りこくったままシスコの両目を凝視しており、ぎょっとした彼女はそそくさとその場を立ち去った。

「……なんだか、怖いわね」

 先程まできゃっきゃウフフとカウノとじゃれあっていた筈なのだが、気がつけばそんなことを置き去りにして彫像の如く突っ立っている。静と動に連続性がないということは精神に連続性がないということだ。それは理性的なヴァルマ人であるシスコにとって恐怖の対象でしかなかった。
 頭を過ぎる考えを振り払うように早足で歩き、シスコは自身のドックに戻ってきた。鎮座するのは彼女の愛機、『ヨーツェンAX』である。トゥオネラ・インク社製を代表する、プラズマエンジンを搭載したスポーツモデルのスペースシップだ。白鳥の名を冠するこの機体は強力な加速と多方向に向けられた可変型噴射ノズルが特徴的で、乗りこなすには少々クセがあるとも言われている。しかし手中にすればこれほど強力な機体もなく、実際彼女はしばらくの間土が付いていない。それ故シスコはある時期から試合の度に得体の知れぬの寂寞を感じていた。強者の寂寞である。敗北を知らぬ彼女はライバルと鍔迫り合う喜びも知らず、だからそれだけカウノに期待していた。大人げなくもシスコはカウノを煽るようなマネをしてみせ、つまり自身のレースを少しでも楽しめるものにしようとしていたのだ。
 そして確かにカウノはシスコの挑発に応じようとしているようだ。喜ばしい事実を前に、しかしこの胸騒ぎは何処から去来するものであろうか? シスコは高揚と一抹の不安を抱えながらドックに入り直し、近くの椅子に腰を落ち着けるとボトルに唇を寄せ、口内を潤した。

「戦略を見直すべきかしら」

 彼女の言う戦略とは、ずばり決勝におけるピットストップの回数であり、燃料を補充する回数である。最初から燃料をフルに搭載すればそれだけピットに入る回数は減りタイムロスも少なくなるが、しかし燃料の重量とやらこそがバカに出来ない。燃料が少ない、つまり重量が少ないだけ加速に有利となるのだ。直線ではまだしも、小惑星群の中では同じ機体でも動きに俄然差が出てしまう。
 通常このピットストップの回数はシミュレーションから算出したものを用いる。が、選択できる範囲は多くはない。一回ないし二回、もしくは三回といったところだ。ルール上回数に上限は規定されていないが、通常チームはこの一から三のうちどれかを選択する。つまりいくらシミュレーションから導いた値とはいえ、選択の振れ幅が非常に大きくなるのだ。たった一回ピットストップの回数が増えるだけでも、レースはまるで別の様相を呈するのである。

(――もう一度、コースを確認してみましょう)

 腰から端末を抜き広げると、純度の高い樹脂の様な輝く画面がシスコの眼前に現れる。
 そこにはレースに関連する各種データが映っていた。全て協会が提供するものであり、レーサーはもちろんのこと観客も自由に取得し楽しむことが可能である。そして画面上部には『モンジュイック』の文字が刻まれていた。これこそが今季のコース名である。
 改めてその形状を眺めると、シスコは小さく鼻を鳴らした。

「悪趣味なコース。ストレスが溜まりそうね」

 直線かと思いきや下降、下降かと思いきや反転。右へ左へ三次元的に揺さぶられるトリッキーなコースであり、フルスロットルなど望めそうにない。全体の形を完全に記憶しなければ次から次へと襲いかかるアールに翻弄され、判断が連鎖的に鈍ってゆき、最後には自壊する――愚か者の末期がありありと瞼に浮かぶようであった。

(となると、決勝ではピットストップの回数は増やした方が良い――というのが、教科書的な作戦になるのかしら)

 シスコの考えたとおり、目まぐるしく変遷するカーブが多用されているにコースに対応するには、できるだけ搭載する燃料を少なくすることでアンダーステアを回避することこそが肝要であり好手――と、普通のレーサーならば考えるだろう。しかし彼女は今シーズンにおいて伊達にユリマキでトップランカーとして君臨しているわけではない。

(下手に作戦を変えるとコンディションが狂うわ。いつだって私にはたった二回で十分)

 この歳で、早くも彼女は王者としてのスタイルを身につけ始めていた。

「どうせ予選は一回でも最速を叩き出せば、それで終わりなんですものね」

 オートレースの予選は、コース一周における最速タイムで競う。
 規定時間内であればチームはコースを何周しても構わない。そしてその中で最良のラップタイムを申告し、上位から順に決勝のグリッドを与えられることとなる。
 無論支給されている燃料の総量は決まっているため、ここで粘りすぎて肝心の決勝で不足になっては意味がない。つまりできるだけ早くコースの特性を掴み、コンディションをトップへ持ってくることこそが、予選においてポールポジションを手中に収める秘訣なのだ。

(だからカウノ、貴方はそんな小細工を弄すなんて見苦しい真似、しないで頂戴ね)




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 そして――或いはしかし――予選の結果。

 一位、シスコ。1分50秒286。
 五位、カウノ。2分00秒355。

 王者シスコの前に、カウノはラップタイムで10秒もの差を開けられ、埋め難き差を抱えたまま決勝へと進むことになったのである。



[28634] 2-4面
Name: どめすと◆baf7dd72 ID:bc230272
Date: 2012/09/17 22:34
 レースを円滑に運営するために、協会は各惑星ごとにステーションを最低でも一つは所有している。
 無論開催されるレースの規模にも寄るが、原則的に中程度のものを擁しており、それはここユリマキでも例外ではない。
 このステーションには選手用の小さめのピット・ドックが16、扇形に広がるように割り当てられている。各ドックはそれぞれ通路であり支柱となる巨大なパイプで接続されており、それらは最終的に付け根となるホールに繋がっている。またここから反対側が協会の使用するエリアで、それはステーションの3分の4を占めていた。
 つまりホールが選手と協会を繋ぐ窓口の役目を果たす。登録やクレーム処理、その他の手続きもここで行う。順位発表も、表彰式も。
 だからレースが終わると全員まずこのホールに集まる。中心には巨大なホログラムスクリーンが据え付けられており、時間になると順位と共にラップタイムが掲示されるからだ。
 ――今回のレースの予選終了後も同じであった。シスコもカウノも、皆顔を出している。
 そして時間通りに画面が切り替わり、上位から次々に成績が刻まれていく。今回もシスコが一位だ。誰も驚きの声を上げない。いつものことであるからだ。しかし二位が発表された時、だれかが小さく勝鬨を上げた。これもいつものことだ。三位、四位と発表される度に、誰かが唸り、誰かが顔を綻ばせる。
 そして五位に、漸くカウノの名が刻まれる。
 シスコは失望と共に、人混みからカウノを探した。周囲に目を向けるも、しかし少年の顔はついぞ見つからなかった。彼女の背は低く、カウノの背も決して高くない。それが原因かと思っていたが、彼女は遂に悟った。カウノは成績を見た途端、いたたまれずにその場を後にしたのだと。

(――まさか、)

 このまま消えるようにレースを辞めてしまうのではないだろうか。シスコの胸中にそのような懸念が過ぎった。
 それはあり得る話だった。ここ最近レース後のカウノの表情は決して明るいものでなく、いかにも感情を内に押し込めているといった顔をしていた。こんな筈じゃない、だけどなにが悪いのかも分からない、といった風な表情。
 しかし、とシスコは目を閉じ、溜息をついた。もしそうなっても仕方はないだろう。自分だって突然調子を崩した挙句こんな惨めな走りばかりするようになってしまえば、どうなるかは分からない。残念ではあるが、これもレース、これも人生だ。何処かでコクピットを降りるときが来る。私にもその時がきっと来るのだろうと、シスコは自身の名が最上段に刻まれたモニターを見上げ、感傷に浸った。



 一方その頃。カウノはホールから離れ、自身のチーム『レフトラ』に割り当てられたピットへと足を向けていた。
 シスコの懸念とは裏腹に、彼の表情は決して暗くはない。足取りも重くもなく、ごくごく普通、といった具合であった。

「――おい、なにやってんだ」

 歩みを止めることなく、カウノが口を開く。
 眼前では、誰もいない廊下に、モーリェが実にそれっぽい面立ちで、腕を組み、片方の眉を器用に上げながら、壁にもたれ掛かっていたのであった。
 見れば服装も異なっている。いつもの白いワンピースではなく、エナメルでできた黒色のライダースーツの様なものに身を包んでいる。つるりと光る合成のラバーが身体のラインにぴっちり張り付いているが、悲しいことに、モーリェは所詮少女であった。つまりそのスタイルは、寸胴そのものであったのだ。

「その調子じゃ、首尾良く行ったみたいね」

 小首を傾げながらの台詞に、カウノは眉宇を顰めた。

「……今度は何のマネだ」
「いやいやカウノさん……ちょっとはノってくれても良いんじゃないですか」
「目的がわかんねえっつうの」
「今回のコンセプトはですね、ド直球でスペオペです。古き良きSFですよ。
セクシーアンドクール、グラマラスなハーフのサムス・ア○ン嬢を目指しております。
鳥人間コンテストでぶっちぎりの優勝ですよ!」
「おまえ、俺より年下なのにグラマラスも何もねえだろう」

 鼻で笑いながら通り過ぎるカウノの前に、慌ててモーリェは飛び出した。

「まあまあ。それはさておいて、どうですか、結果は」
「――」

 カウノは目を閉じて少し仰ぐような真似をしてみせたかと思うと、

「――五位。2分と、コンマ355」
「なるほど」

 ニマニマと笑いながらモーリェは右手を出して、

「まずは、計画通り、ということですね」
「そうだな。まあ、ここまでは、」

 カウノも同じように右手を差し出すと、

「計画通りだ」

 互いに手を握り返しあった。



 ――ここで、話は一度、一ヶ月ほど過去へと遡ることになる。




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「で」

 折りたたみ椅子に座ったカウノの目の前を、濛々と煙が立ち上る。
 視線を落とせば七輪があり、その上には二匹のサンマが油を際限なく沸き立たせながらほどよく炙られていた。
 ――ここはカウノのアパートから目と鼻の先にある公園である。
 気絶したモーリェはほどなく意識を取り戻したが、『サンマパーティに付き合ってくれるまで機嫌直しませんからね』とへそを曲げたため、苦々しい思いでカウノはそれに同行することに決めた。
 結果、近所の子供が怪訝な表情で見詰める中、二人顔をつき合わせ延々とサンマを焼き続けるという形になっていたのであった。

「肝心の、レースの話なんだけど」
「おおうそうでしたそうでした! いやあすいません、サンマがおいしくってついつい忘れておりました。
しましょうレースの話を!」

 両手に持った割り箸でビールの缶をドコドコと叩き、モーリェは言った。

「さってなにから始めましょうかねー。まあ細かい部分は除きましょう、カウノさんもいちいち確認するのもイヤでしょうし。
大目標はレースでの優勝ですけど、もうちょっと具体性を持たせるためにですね、説得力のある仮説を一つ立てていきます。
今回は、そうですね、カウノさんがいつも通りの力を発揮しつつ、かつあのシスコちゃんの力を封じることで勝利する、みたいな。
……シスコちゃんクソ強いから、どのみち対決は絶対避けて通れませんよ」

 少女の言葉に、カウノは首肯した。

「そうだ。あいつはここ半年以上、ずっとポールポジションに張り付いているからな」
「ちょっと強引ですが、どちらにしろあの女を引きずり下ろせばほぼ優勝確定なわけですよ」
「それが難しいんだよ。あいつの強さはとにかく安定していることだ。
100%でないにしろ、常に八割以上の力を発揮できる。どんな状況でも、だ」
「そこをなんとか――と言うわけで、ここでデータを振り返りましょう」

 モーリェはそう言うと懐から端末を取り出し、七輪から少し離れた場所に置いた。
 すると端末は宙に画像を投影し始めた。薄く光る青の窓には幾つかの数字が並んでいる。
 それらは全てオートレースのデータであった。どうやら全てモーリェの自作らしい。カウノは心中で密やかに舌を巻いた。

「わたしビックリしました。シスコさんってレースの全時間中の85%を一位で過ごしているんです。
とにかく順位を落とさないんですね。予選のスタートから」
「そんなにか。強いとは思っていたけど……」
「というわけで、まずは予選で彼女の順位をできる限り上げないことが勝利の秘訣ですが、こりゃ無理ですね」
「まあ、な」

 予選は各チーム、単独でコースを周回する。
 他の機体が干渉しない分相手のミスを祈るしかなく、過去カウノの祈りは一度もシスコに届いた試しはなかった。

「ので、本選に賭けましょう。本選で、シスコさんの順位を引きずり下ろすんです」
「だからさ、どうやって」
「そこはホラ、実際のレーサーであるカウノさんに、ご意見を」
「あんたね……」

 最後の最後で放り投げるような態度を取ったモーリェに、カウノは苦笑した。

「まあ、なきゃ、ないよ」
「ほら! ほらきた! さっすがカウノさん!!」
「相手の順位を落としたいならやることは一つだ。
前でも後でも、とにかくずっとへばりついている」
「なるほど」
「やり過ぎるとペナルティ貰うから加減が難しいんだけどな。
それに」

 カウノはサンマを突っつきながら、

「あいつにずっとついていくのは、何にせよ大変だぜ。
神経がすり減る」
「そうなると、なにが足りませんか?」
「足りない? そりゃ、俺の操縦技術だけど」
「それ以外ですよ。MECEを思い出して下さい。
レースを構成する要素を一つずつ思い出して下さい」

 モーリェの言葉を聞いた瞬間、カウノの脳は条件反射的に考えを巡らせた。
 刷り込みの結果である。丸一日呟いていたせいで、否応なしに構造的な思考が出来るようになっていたのだ。

「機体の性能」
「はい」
「天候」
「はい」
「ピットストップの回数」
「はい」
「それと燃料の配分」
「はい」
「他のチームとの位置関係」
「はい」
「当日のコース状況」
「はい――それくらいでいいでしょうかね」

 彼女はそう言うと、顎に手を当てて思案を始め、

「あとはちょいと、もう一声が必要ですね」




     ◇  ◆  ◇  ◆  ◇




 そんなモーリェとの会話を心中で反芻しながら、カウノは眼前の操縦桿をいかにも手持ち無沙汰だと言わんばかりにつま弾いた。

「一声、一声ね――その一声が難しいんだけどな」

 言いながらも、彼の意識はやや胡乱だ。と言うのも思い出されるのはサンマの香ばしい臭いに、ホクホクとした青身、舌上全ての味蕾を締めるような粗塩――またもモーリェの持ち出すなぞの食事のインパクトに興味を持って行かれてしまっていたのであった。いかんいかんと気付く度に首を振り、雑念を振り払おうとする。雑念は敵だ。紛う事なき敵だ。なんせ今は思考と精神を整理するべき大切な時間、決勝レース直前その時なのだから――

「くっそ、はら減ったなあ」

 気を紛らわせようと、カウノはコンソールに手を伸ばした。彼が幾つかの操作を行うと、コクピット内のそこかしこに埋め込まれた薄膜スピーカーから、僅かな雑音と共に音楽が流れてきた。ラジオの音楽だ。
 通常レース用の船にはこういった娯楽要素を積み込まないのがセオリーだが、このクラスのアマチュア・レーサーは往々にして船の改造を好み、レースに影響を及ぼさない程度の改造が横行していた。これはアマチュア・レーサー間に伝わる文化と言っても過言ではなく、先輩レーサーから後輩レーサーへと脈々と伝えられていた。歴史は古く、ルーツを遡ればそれこそ千年単位になるであろう。そしてカウノも例に漏れず、先達に仕込まれたやり方でこっそり協会の目をくぐり抜ける改造を行い――もっとも協会側も見て見ぬふりをしている節があるのだが――こうして試合前に精神を落ち着かせようとラジオをよく聞いていた。
 今の時間では一体何の番組が流れるんだっけか。カウノの思案を余所に、スピーカーから広告音楽らしきものが流れる。ス○ャータ、スジ○ータ、るーるーる。直後にきっかり三つ柔らかい電子音が鳴り、間を置かず、長めの電子音がもう一度鳴った。具体的には、ポン、ポン、ポン、ポーン、みたいな。それはこの時代にはまったくそぐわないものであり、カウノはドリンクホルダーから伸びたストローに口を付けながら首を捻ると、

「最近の悩みなんですが。
同居人の思春期の男の子のおにんにん、剥ける気配が一向にありません!(エフェクト:エコー)
宇宙少女モーリェの、神聖ソリャリス帝国!」

 なんか始まった。

「う、うえっほ、ごほ、ごっほ、ぐほ、」

 こちらは気管支まで豪快に液体を吸い込んでしまった当の同居人である。

「さあ今週も始まりました宇宙少女モーリェの神聖ソリャリス帝国略して聖ソリャ、リスナーの皆さんお元気ですか-。元気ですかー。カウノさーん! 元気ですかー! 聞いてますか-!」
「ごほ、うおっほ、ぐ、げっほ、げっほ」
「改めましてこんばんは、神聖ソラリス帝国のゲプラー総司令官ことモーリェです。
さっそくお便り一通紹介しましょう、らじおネームしそ○ぱお姉ちゃんから頂きましたありがとー!
えー、『モーリェ御大将ユニバース!』ユニバース!
『先日、わたしは初めてロックフェスなるものに行ってきました!
日頃はスフ○アとかミ○キィとかアイ○スのライブにしか行かないのですが、友人に誘われて意を決して行ってきました。
殆ど知らない海外のバンドが多かったのですが、その分曲が新鮮で楽しかったです!
モーリェ閣下はロックフェスに行ったことがありますか?』
……あー。フェスねー。ロックフェス。
あります! わたしも行ったこと。まあ、実はわたしも、色々行ったことがあります。去年か一昨年くらいだったっけな? 一口にロックフェスって言っても色々あるんですけど、その時はどうしてかラッパーの人とかもいっぱい出てて(笑)」
「ごほ、ご、うおっほ、は――っごっほ」
「あのですね、そのわたしが行ったときなんですけど、スタジアムを丸ごと貸し切ってやってたんですね。その日朝お仕事だったんで、終わってから昼過ぎくらいにスタジアムに着いて。
で、友達と合流した後、ビールとかケバブとかグッズ買って、メインのスタジアムの外野席に陣取ったんですよ。最初にとりあえず酒と食料を確保する習性があるのがわたしたちらしいと言うか(笑)で、そしたら最初に、えっと確か、KRE○Aさんがその時歌ってたんですよ。きゃーKRE○Aだきゃーとか言ってたら、行ったのが遅かったせいで二曲くらいで終わっちゃったんですけど(笑)」
「は、ひゅう、っぁおっほ、ごぉ、ごっほ、」
「でしばらくしたら今度はですね、なんと矢○の永ちゃんが出てきたんですよ! 超かっこよくて、その時真夏だったんですけど、いつもの白い背広を裸の上に羽織って、でですね、永ちゃんのファンの方達がですね、既にスタジアムの最前列に、KRE○Aさんのステージが終わった瞬間から陣取っててですね(笑)この方々、ホンっとプロですよね。アイドルの追っかけの人たちも凄いですけど、この方々も相当凄かったです。みんな永ちゃんスタイルって言うか、上下真っ白の背広に、あのYA○AWAって書かれたタオルを首にかけて、わーいなぜっにいぃ、みたいに全員で一糸乱れぬ統率を見せるんですよ。わたしがこの時見た中では一番凄いファンの人たちでした、はい。
……で、このあと、面白かったのが、みなさんはけるのも早くって、なんでかって言うと(笑)次N○Sっていうアメリカのラッパーの人だったんですよね。もう本物のヒップホップって感じの。そしたらさっきの永ちゃん達、誰一人残らず退場しちゃってました。俺たちもう関係ねえぜ、みたいな(笑)」
「ご、はー、ご、ぐご、っ、は、ひゅー、」
「でも、楽しかったです。凄かったですよ。わたし、ああいう風に、外国のヒップホップ、生で、ライブで聞くの初めてだったんで。ああこういう感じなんだって。ちょっとしたカルチャーショックでした。ね。
はい、では続いてのお便り参りましょう、らじおネーム『セクハラスメイト』さんから頂きました。ひどい名前ですね(笑)
えー。『モーリェさんカウノさんこんばんは』こんばんわー。あ、カウノさんの名前呼ばれてますよーカウノさーん!
えー、『生理がきません。どうすればいいですか』
しらんわ! ちょっと、なんですか、コレ! スタッフさん! もー!(声やや遠ざかる)
……えー、あのですね。そういう質問はわたしよくわかりませんので、なんでも知ってるシスコのお姉ちゃんに聞いて下さい」
「っ、ごほ、おっほ、おうごほっ、ご」
「え、って言うか、これでジングル行くんですね(笑)
はい、では宇宙少女モーリェの神聖ソリャリス帝国略して聖ソリャ、最後までじっくりおつきあい下さ『――まもなくレースが開始します。各人スタート位置について下さい』」
「お、ご、ちょ、ちょっと、ごほ、待っ――」
『5、4、3――』
「ま、待っ、ごほ、待って、まっ」

 スタートのブザーが高らかに、コクピット内に響く。
 実に幸運なことに、カウノが大きく咳き込んだ途端、彼は操縦桿をめいっぱい倒す羽目になり、見事なスタートダッシュを成功させた。
 どん、と爆発的な加速がカウノの全身を打ち付ける。
 同時にコクピットの座席がしなやかに身体を包み、更にパイロットスーツが蠢動して筋肉を圧迫する。急激な加速による一過性脳虚血、いわゆるG-LOCを防止するための機能だ。スーツは見た目に反してセンサーとアクチュエーターの塊であり、どの部分に血液が集まり、どの部分に乏しいかを判断すると同時に微細な音波や電気パルス等で内外部から血流を操作する。
 ――果たしてそれらの衝撃が功を奏したのか、カウノを悩ませていた気道の違和感はぴたりと消えた。
 前を向けば、

(――おいおい、)

 四位でスタートしたチーム『フオヴィ』のマシンのテールがすぐ目の前まで迫っている。
 驚いたのか、『フオヴィ』の機体はあからさまにノズルを広げ、ブーストを吹かして更に前へと詰めた。
 間を置かず、カーブに差し掛かる。先頭の機体――シスコのものだ――から始まって、続く四機は滑るように左へと流れて行く。出口を抜けたところで、カウノは脇に浮かぶバックビューに目をやる。距離は縮まっていない、むしろ開いただろう。翻って、前方。シスコのラインを上手くなぞっているのか、今のところ差は開きすぎず、詰めすぎずといったところだ。自分を含めたこの五機が、まさに先頭集団を形成していた。

「できすぎ、だろっ」

 呟くや否や、再度カーブに突入する。ここは確かS字――いや、最後に縦方向へひねりを加えた三次元的な連続カーブだった筈。カウノの脳が言語による思考を開始するその前に、既に操縦桿は倒されている。身体にかかる加速度が神経に焼き付いた記憶を引きずり出していたのだ。
 ヘアピンを抜け、直線に入る。前の四つの機体が、それぞれに色とりどりのプラズマを一際瞬かせる。カウノの『TG-II』も負けじと炎をまき散らし、前へと迫った。肺を押され、血が引いていく。視界にちらつくものが混じったが、それらは宇宙に浮かぶ星々の中に溶け、糸を引き、消えていった。
 傍から見れば順調そのもの、先頭集団はハイペースを規律正しく保っていた。
 ――しかし。

(今のとこは、ついていくのが、やっとだ)

 当の集団を率いるのはユリマキのチャンプ、シスコその人である。
 機体がなぞるラインは教科書通りで、カウノが思い描いた理想と狂いなく一致する。『ヨーツェンAX』のテールも大きく振られない。俺たちはこんなバケモノによく離されずに着いていっているものだと、カウノは内心自身も含めた四人を褒めそやした。
 彼らがシスコに離されずに済んでいる理由は二つ。シスコが通るラインをなぞることで判断ミスを大幅に少なくできることと、カウノが最後尾から集団のペースをコントロールしていることにある。
 離されつつある、と感じればカウノは前の『フオヴィ』の機体に接近する。『フオヴィ』は距離を取ろうと前へ出て、更にその前の『ヘルムホルツ』の機体が距離を取ろうと前へ出て――といった具合に、彼は陰からレースを作ろうとしていた。
 そのため、カウノはあえて、予選で五位という結果に甘んじたのであった。

(集団をコントロールするには、ラインを読まなくちゃならない。できるだけ余裕を持って。
だからラインのなぞり手であるシスコから距離をとらなきゃならないけど、取りすぎると今度は俺が置いて行かれる。
だったら間に他のマシンを入れればいい。だけど入れすぎると、今度はそれがリスクになっちまって当初の目的から外れる。
――俺とシスコ、この間に三機。本当は二機が理想的だったけど、十分妥協できるラインの範疇だ。
それにこれだけの数が後に控えているとなると、)

 彼には覚えがあった。後にぴたりと張り付かれていると、それだけでかけられるプレッシャーは桁違いに跳ね上がる。例え一機でもだ。
 そしてその数が、二機、三機と増えていくと――

(ミスを誘発する。例えシスコ、ヴァルマのおまえでもだ)

 追う者と追われる者。シスコがいくら絶対的な王者として君臨しているとは言え、心理的には前者が圧倒的に有利だ。カウノはそれを利用し、シスコを引きずり下ろそうと画策していたのであった。
 再度、カーブに差し掛かる。シスコの描くラインに、二位の『カンナスコルピ』が乗りかかる。『ヘルムホルツ』がそれに追従し、『フオヴィ』が後に続く。

「詰めるぞ」

 呟くと、カウノは小刻みに操縦桿を倒す。同時に『TG-II』はシスコのラインの更に内側へスライドした。しかし機体は徐々にアウトへと膨れあがる。立上がりが終わると、『TG-II』は『フオヴィ』の機体に再度接近していた。カーブの中でも減速を最小限に抑え、スピードを最大限まで高めたがためであった。
 突如、先頭のシスコを初めとして前の機体が急減速を開始した。カウノも慌てずそれにならう。コース『モンジュイック』特有の連続カーブ、その入り口が巨大な桃色の光のリングで縁取られていた。間違いなく、このレースにおいて一つのポイントとなるカーブである。カウノは息を少しばかり多めに吸い込むと、エンジンを吹かし、『フオヴィ』の横へあっという間に並んでみせた。
 しかしそれだけでは終わらない。カウノは全速全開のままライン取りを変えずに、『ヘルムホルツ』の背後へと徐々に忍び寄った。再度カーブに差し掛かる。動揺したのか、前方の機体はラインに乗せるタイミングがやや緩慢だった。カウノはそれを見逃さない。鼻先を強引にねじ込もうと試みたが、しかし『ヘルムホルツ』もすぐさま体勢を立て直すと機体を詰め寄せ、気勢を削いだ。

(簡単にはいかない)
「そりゃそうだろ」

 心中で思ったことに対して、少年は独り言を呟いて返事した。これは彼特有の癖であった。恒河の砂粒が如き星々、千や万のセルシウス度に達す炎を振りまき散らすとは言えど、彼らパイロットを包む宇宙という洞はあまりに深く、あまりに黒い。強く保っていなければ人の自我など霧散してしまうだろう。わずかななことでいい。人の意識なんて幻想と現実の区別もろくにできない欠陥品だ。音楽や会話、特定の波長の可視光。心中の灯台はその程度で十分なのだ。カウノの場合は、それが独り言であっただけのことだった。
 しかしそういった茫洋とした恐怖と鉄板一枚隔てて常に隣り合わせであったにも関わらず、カウノはオートレースを辞めようとしなかった。それには理由がある。趣味は人それぞれだが、カウノにとってのオートレースとは、九割の犠牲を一割の快楽が支えるといった類のものであった。練習に刺激がなくとも、勝利の味を希求せずとも、メンテナンスの面倒さに嫌気が差そうとも、一つだけのもののために全てを我慢できる、そんなもの。その一割の快楽のため、カウノはなんとかオートレースを続けることが出来たのであった。
 カーブを抜けた。同時に前の機体が次々とバックファイアを吹かせ、矢のように飛んでいく。カウノも操縦桿を一気に倒した。全身にくまなくかかる加速度。恐怖に彼は口を開いて歯を見せた。

「あー、はは」

 彼は笑っていた。恐怖に、内蔵を襲う違和感に、笑わざるを得なかった。なにより彼はこの瞬間が好きだった。思考を切り捨ててただアクセルを全開にするだけのストレートは、長さはまちまちであれどんなコースにも用意されている。彼が得意とするのはカーブだが、悦びを憶えるのはこういったストレートだった。身体は締め付けられているが、精神は逆に指一本分前に浮かんでいる気分。視界ではちかちかきらきらと十八色の光が整列してポップに弾ける動作を繰り返している。平常では得られないその感覚を味わいたいがためにだけ、少年は一人でもオートレースを続けていたのであった。
 しかし長くは続かない。船はあっという間に長い距離を駆け抜けて、セカンドラップへと突入した。つまり、

(あと、二周)

 苦しい。早く終わってくれ。焦燥感に背中を炙られるような気分を堪え、カウノは操縦桿を控えめに倒した。


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