ユリマキは辺境の小さな惑星だ。
大きさでは連邦に登録されている『居住可能星系』の中でも下から三番目に位置づけられており、比べて経済規模はもう少しマシで、下から五番目といったところである。土地は安く、下宿先を求める貧乏学生にとってのある種のヘイヴンというのが、ユリマキを取り巻く評価の一つとなっている。例えばカウノの実家であるカトウ家は決して裕福な家柄ではないが、中流家庭のか細い仕送りでも彼の下宿では旧単位ゆうに17平方メートルの広さを確保できており、『テルヒ・フィッシュ・バーガーと2パイントのエリヤス・サイダーを我慢するだけ』で一日分の家賃を捻出できるという噂が、決して嘘や誇張の類でないことがよく分かる。
そのいわゆる十畳分の部屋に鎮座するどでかいモニターの前で、あぐらをかいてじっと画面を見詰めたまま、少女モーリェが座り込んでいた。画面には延々と過去のデータ――オートレースの様子――が映し出されている。プロ中のプロ、『規定A』のレースのものもあれば、去年カウノが参加したレースもある。そういった雑多な映像を、時折思い出したようにビールの瓶を口に運ぶことを除けば、モーリェはピクリとも動かずに一点を見詰めていた。
カウノはベッドに転がりホログラム上で雑誌を読みながら、ちらちらと横目で彼女の様子をうかがうが、その光景はここ五時間で一向に変わる気配がない。彼が食事中であろうがうたた寝中であろうが、彼女は身じろぎもせずにいたのだ。こいつのこういったところが苦手なのだと、カウノは小さく溜息をつき、ページをめくった。人間より溌剌な仕草を見せることもあれば、このように一昔前のアンドロイドと変わらぬぎこちなさも見せる。要は加減がきかないのだ。それともこれも、あの星――ソリャリスの本性であるのだろうか。バランスの欠けた喜怒哀楽も、彼らにとってみればごくごく普通の性格として受け入れられているのだろうか。
そんな彼の思索は、突然モーリェが振り向いたことで中断された。
「んな、なんだ」
カウノの声がやや上擦った。
「終わりました」
終わった。一体、
「なにが?」
「データ収集です」
言いながらモーリェはあぐらをとき、立ち上がった。
「そんなわけでわたくし、準備万端ですよ」
「何のだ」
「そりゃあ、戦略会議のです」
戦略。そして会議。モーリェの口からあまりに似つかわしくない単語が飛び出てきたため、カウノの口元は疑念に歪んだ。
「……オマエね」
「カウノさんがわたしに不信感を抱いているのは当然です。
しかしここは一つ、ちょっくらわたしの話を聞いてもらえませんかね。
ほら、法事の間親戚の女の子と遊んであげる感覚で」
口調は軽かったがモーリェの表情いつもの様には底抜けに明るいというわけでもなく、カウノの目からはむしろやや強ばっても見えた。
「前にも言ったんですけど」
「……ああ」
「カウノさんのお役に立ちたいんですよ、わたし。
こうしてご迷惑をおかけしている身分ですから、お返しがしたいんです」
「だったら出て行くっていう選択肢もあるんだと思うんだけどな」
「そう言われちゃうと弱いんですけど、ごめんなさい、でもわたし、こういう風にヒトに寄生しないといられないんです。
なんて言いましょうかね、脅迫観念のようななにかがわたしを責め立てるんです」
ぶっそうなことを言いやがる。
深く追及する気にもならず、代わりにカウノは心中でそうぼやくと、話を元に戻そうと口調を改めた。
「まあいいよ。いても良い、って一回言っちまったし。
それよりなんだ、戦略会議だって?」
「そーですそーです、戦略を立てましょう。
……って言うか、まず、カウノさんって、そういうの考えてレースに臨んでました?」
「……趣味なんだから、そんなもん考えてねえよ。悪いかよ」
「いえいえ。ふつうはそりゃ考えないと思います。大変ですし。
でもこのままじゃカウノさん、勝つのがしばらく難しい状況が続くと思いますよ」
モーリェの歯に衣着せぬ言にカウノは少なからず苛立ちを覚えたが、溜息を一つ吐くと、顔を歪めて食いかかった。
「じゃどーすりゃ勝てるんだって言うんだ」
「それを一緒に考えましょう! さあさお立ち会い、まずは分析です!」
しかし彼女にカウノの押し殺した怒りは伝わらず、逆にやる気十分と勘違いしたモーリェは彼の手を引っ張りベッドから引きずり起こすと、ダイニングのテーブルに座らせた。
「ちょちょーっとお待ち下さい、お茶と茶菓子を用意してまいりますよん!」
いつの間にかエプロンをつけた彼女は、すぐ横の小さなキッチンに身体を滑り込ませたと思うと鼻歌交じりに湯を沸かせ、冷蔵庫を開けてはどこから仕入れてきたのか分からない菓子を取り出し、皿に盛りつけ始める。
そんなちょこまかと慌ただしい後ろ姿をじっと見遣りながら、カウノは彼女のことについて考えていた。
(……マッケンジー)
それは彼女が数日前に口にした単語だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
マッケンジー。
正確には、マッケンジー・アンド・カンパニー。
過去にとある惑星で暗躍した、秘密結社の名前である。
この名が歴史の表舞台に出てきたのはおよそ100年前で、それは同時にマッケンジーという組織が死んだ時でもあった。恐るべきことにそれまで、このマッケンジーは誰にも知られることなく数々の星や国の要職に構成員を送り込み続けていたのだ。数百年の間、絶え間なく。
彼らはとにかく秘密主義者であった。自身をプラウメン、更に自身の組織をザ・シバンと呼称し、決して本来の名を外に持ち出そうとしなかった。それはプラウメン同士においても然りであった。彼らは本名を互いに名乗らず、チームのメンバーがどこの誰だかも知らずにいた。かように彼らは私情では繋がらず、また繋がれず、しかしただマッケンジーのクリーズでのみ繋がっていた。
クリーズの名の通りマッケンジーにはある種の宗教がかったものが漂っていたが、それは決して超自然的なものではなく、より理知的で、しかも道具にすぎなかった。これを使いこなせた者達が、タウンズメンとして、マッケンジーを出て仕事に就く。それは官僚であったり、銀行員であったり、証券会社であったり、シンクタンクであったり――クリーズを体得した者はありとあらゆる業種に抜擢されるのだ。極端な例であれば、清掃員から生産管理部の部長にまで上り詰めた者もいる。
――そんな不可思議な連中は、一体部屋に籠ってずっと何をしているのか?
カウノもマッケンジーの名だけは知っていたから、その正体に興味は抱いていた。ましてモーリェがかつてそうであったと言うならなおのことだ。
しかし当の少女ときたら、
「こちらが本日のお茶とお茶菓子でございます。
お茶はですねえ、こちら上品な木賊色のパッケージ、井六園さんの煎茶『慶光』でございます(100g 税込1050)。
そしてこちらがそのお茶請けでございますね、俵屋吉富さんの『雲龍』でございます(1棹 税込1,365)。しっとりとした上品な甘さがですね、『慶光』の爽やかな渋みと大変合う、大変合うのでございます。
時刻は午後三時。この時期、やっと太陽も高くなって参りました。うららかな春の日差しを豊かにしてくれる、そんなお茶を楽しみませんか。
いかがでしょうカウノさん」
「憤」
「あいだっ」
手にしていたディスプレイ(大変軽く、薄い)が瞬く間に折りたたまれ即席のハリセンとなり、したたかにモーリェの前頭部を引っぱたいた。先日導入した、フリーのアプリケーションである。罪悪感なくモーリェをはたけるため、カウノはこれをとても気に入っていた。
「い、いたいっす」
「テーブルひっくり返されなかっただけ有り難く思え」
「ううう、雰囲気出ると思ったんすけど……」
「お前がミーティングしたいって言うから俺はここに座ってるんだ。
お茶がしたいって言うなら初めからそうしろよ」
「あーい」
言いつつも、カウノはその『雲龍』とやらから目を離せずにいた。
その菓子は一見ロールケーキのようであった。しかし色は濃い紫であり、さらに見れば中のペーストには大きな豆がごろりと入っている。そう言えば同じ人間の中にも甘い豆を好んで食していた連中がいた。サルサソースと一緒に食べる以外の調理法は豆に対する冒涜であると信じ込んでいたカウノは、しばらくそれをじろじろと眺めると、竹ようじで親指ほどの大きさに切り取って、口の中に放り込んだ。
(…………)
旨い。
モーリェが増長するから決して言葉にはしないが、『雲龍』は確かに旨かった。
上品な甘さと食感。シンプルゆえに引き立つ素材の風味。どれもこれもガス惑星から採取され精製された人工の糖類でないことは確かだった。
そのまま茶を一口すする。これも良い。『雲龍』の舌触りはするりと消えて『慶光』の香りが渦巻き、しかしそれも立ち上るようになくなっていく。後に残るのは爽やかさのみ、あまりの落差に驚いた舌がもう一切れ、もう一杯と欲しがり出すのをカウノは感じていた。
(って、いかんいかん)
見ればモーリェは机に肘を突き、顎を掌にのせてにまにまカウノを見詰めている。
術中にはまりかけた、とカウノは煎茶で口を潤すと、姿勢を正してモーリェを睨み返した。
「で、まず何をするんだ」
「はい。まずは意思統一、目的の確認です」
意思統一、実に真摯な言葉だ。この少女が語るに自然なものではない。カウノは当惑を努めて押し殺した。
「……マジメじゃないか」
「そりゃ、カウノさんのためですからね。いくら押しつけがましくも、最終的には還元されないと意味がないですから。お節介というのは」
「おーけー。それで、目的って?」
「はい、今回のミッション、目標はただ一つ、『次のレースで勝利する』。よろしいですか?」
「……まあ、」
言われてみれば、とカウノは恥じた。自分は毎回、確固たる目標を持たずにレースに臨んでいた。なんたる怠慢であることか。いくら趣味だからって、目指すものもなしに参加するというのはレースに後ろ足で砂をかけるような行為だ。なぜならそれは賭けるもののないただの享楽――オールドスクールのロックに鼻歌を乗せて海岸沿いをドライブするのと相違ないのだから。
いや、昨今はただ一つ目標があった。シスコだ。あの性根の悪い女の鼻を明かしたいと気張っていたが、ずっと空回りし続けていた。だがそれをここでわざわざつまびらかにする必要はない。だってまるで、
(俺があいつのことを気にかけているみたいじゃないか)
ないないそれはない、とカウノは溜息を一つ吐いて、
「いいぜ。異論はない」
「よすよすです。ではその目標における障害となりうる、問題――カウノさんが勝てない原因・要因を一つずつ出しましょう」
「……待て」
モーリェが語る言葉はどれもシンプルであったが、カウノはいまいちその真意――目的を理解しきれず、とっさに手を振った。
「なんかのんびりしすぎてねえか。回りくどいって言うか」
「まあまあ。そこをぐっとこらえて下さい。
一足飛びに結論に辿り着けるのは経験豊富なヒトだけです。わたしたちは蒙古斑も消えぬ初心者なんで、ひとつずつ丁寧に参りましょう。
ドモホ○ンリンクルの精神で参りましょう」
「……わかった」
「ぐふふ。カウノさんのそういうトコ好きですよ」
ぱたぱたと足を揺らして『雲龍』を頬張るモーリェを尻目に、カウノは首を傾げながら、再び煎茶を口にした。
「問題っていうと、例えば、俺の腕、か」
「最初はもうちょっとおおざっぱに参りましょう」
「つまり――」
「カウノさん、カウノさん以外のレーサー、外部環境の三つくらいですかね。分類として」
「俺が勝てないことの原因は、少なくともその中のどれかにあるわけだ」
なるほど、とカウノは頷いた。同時にモーリェが随分とかみ砕いて説明をしてくれていることに、彼は気づけた。
「じゃあそこから更に細分化するのか。そんでもって一つずつ検証するわけだな」
「お察しの通りです。……むむ、ひょっとしてカウノさんって飲み込みのいい方なのかしらん?」
「前はそうじゃないと思っていたけどな。あんたをここに住まわせている時点で、俺はそこそこ飲み込みがいい方の人間じゃないかと、今は思っているぜ」
カウノの返事に満足げに頷いたモーリェは、再びどこからともなく取り出したスーツに身を包み、縁なしメガネを取り出すと、
「ではそんな飲み込みのいいカウノさんに伝授しましょう。
マッケンジーの膨大なクリーズの中から、代表的な一節を」
彼女の輝く瞳の中には、なんだか幾何学的なぐるぐる模様が渦巻いていた。
「あ、あんた」
たじろぐカウノであったが、しかし一度捕らえられた視線を外すことが出来ずにいた。
彼は自分の意識がなにか得体の知れない重りで挟まれた様な気分を覚えていた。
それは重りとは名ばかりで、質量こそ持たないが、巨大な容積を持つ、例えば割れない風船のようなものであった。風船がカウノの意識を、心の部屋の隅に追い込んでいたのだ。
モーリェが身を乗り出した。二つの渦巻きは巨大化し、カウノへずいと迫る。
苦しい、押しつぶされる、肺が空気を吸ってくれない。途端に圧迫感が幾何級数的な大きさを伴って、カウノの精神に雪崩れ込んだ。気がつけば四肢は言うことをきかずがっちりと硬直し、彼は立ち上がることも出来ずにいた。「モーリェ」声すら出ない。力は入る、いや力が入りすぎている。指先は震えているし、眼球はぷるぷると揺れている。筋肉の全てが縮みきって動かせないだけだ。
それは恐怖故だった。カウノは今の状態を壊すことを恐れていたのだ。それだけで自我が四散してしまうと無意識のうちに思い込んでいる、そのためであった。
彼の懼れを余所に、渦巻きと化した光彩はただぐるぐる回って、
回って、
「ぐるぐる、」
回って、
ぐるぐる、
(回って、)
ぐるぐる、
ぐるぐる、
ぐるぐる、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夏休みが終わり、新学期が始まった。
つまりカウノやシスコは秋からサード・グレードに進級することを意味する。
そして彼らの通うジュニア・ハイスクールでは例に漏れず、この時期一度クラスを解散し、新たに再編成する。要するに、クラス替えである。
始業式の午後、シスコはその結果がプリントされた掲示板の前に立ち、それを穴があくほどじっと見詰めた。
(悪くない)
そこにはシスコと仲の良い女生徒の名前が何人か載っていた。加えて大嫌いなリュリュ人のペレルヴォも見当たらない。幸先の良さを彼女は実感していた。その上、
(……彼の名前があるわね)
上から14番目のあたりに、カウノの名が控えめに書かれていた。
包み隠さず言えば、シスコの友人知人というのは決して多くはない。連邦は様々な星の様々な人種で構成されているが、中でもヴァルマ人というのはとびきり理知的でとびきり冷徹な民族として知られていた。実際には言われるほどでもないのだが、偏見に拍車をかけているのは彼らの一様な仏頂面である。常にむっすりと押し黙り、口を開いたかと思えば暖かみなど感じられない言葉を溢す。しかしそれは耳に痛くも必ず真実の一面を突いており、人々は時間をかけてそれを理解する。彼らを評した「ヴァルマ人は歳を取るほど友人が増える」はまさにそのことを指し示しているのだ。
そんなわけで中学生にとってヴァルマ人はまだまだ理解の及び難い存在であり、先に述べた女生徒も昼食を共にこそするが、下校途中に教師の目を盗みクレープの買い食いに興じる程の関係でもない。その上趣味――オートレースというマイナースポーツ――を共有し、加えて互いに頂点を競い合うランカーだとなれば、シスコが彼に多少なりとも親近感を抱くのは当然だろう。残念なのはその表現方法が少々鬱屈しているということだ。ほら、好きな子ほど苛めたくなるというやつ。
シスコは表情を(同族の者にしか分からない程度に)緩めて踵を返し、教室へと軽やかに歩みを向けた。セーラー服のすそがふんわりと秋風に揺れる。間違いなく彼女は浮かれていた。
そして十も歩かない頃、彼女の視界に、今し方名を見つけたばかりの、当の男の姿が入ってきた。
「あら」
小首を傾げ、シスコは声をかけた。
「久しぶり――でもないわね。先週のレース以来かしら」
調子に抑揚はなく、皮肉は極まっている。いつも通りと言えばいつも通りのシスコであった。
しかしカウノの返事はない。どころかシスコの顔を見ようともせず、ふらふらと横を通り過ぎようとする始末であった。まるで初めから彼女のことなど知らなかったかのように。
シスコの心は凍った。戸惑いと悲しみが、一瞬にして液体ヘリウムの海にこんだバラの如く、それを霜塗れにした。カウノはこれまで強い言葉を投げられ不機嫌になることはしばしばであったが、このような無視を決め込むことは一度もなかった。だけに、シスコは狼狽えた。自分は今まで甘えすぎていたのだろうか? 狼狽えて一瞬息を詰まらせたが、真っ白に氷結した心は一瞬にして沸騰した。怒り故であった。
「ちょっと、」
かようにヴァルマ人とは言え、思春期の彼女はまだまだ精神が不安定である。
シスコは腕を伸ばしてカウノの詰襟の肩口を掴み、力任せに振り向かせた。途端である。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、彼女はその手を離すことになってしまった。
カウノの目は虚ろであった。いわゆる死んだスペースメガマウスの目をしており、しかし瞳から赤青黄色と妙な輝きが漏れていた。その上口元は微かに動いて、もごもごとなにかを呟き続けている。
「な、なによ」
いつもとは明らかに異なるカウノの様子に、シスコはただならぬなにかを感じていた。カウノはクラスの中でも底抜けに明るいというわけではなかったが、底抜けに暗いと言うわけでもない。だからたった一週間程度会わないだけで、これほど人が変わってしまうことを、本人を目の前にしても受け入れられずにいた。シスコは彼を恐れたが、しかし同時にこの事態をなんとかせねばという気概も持っていた。彼は敵でもあるが、ライバルでもあり、同好の士でもあり、クラスメイトである。見捨てる理由を持ち合わせてはいなかった。
「ストラクチャ、
ストラクチャ、
ストラクチャ」
「は?」
だから彼の呟いている言葉を判別出来た瞬間、シスコはぽかんとだらしなく口をあけた。
「MECE、
MECE、
MECE」
「…………へ?」
聞けば彼が呟いている単語はたったの二つであった。その二つをきっかり三回だけ、何度も何度も繰り返し繰り返し口にしていたのであった。
シスコは背筋にそら寒いものを感じた。これはいかん。まちがいない、カウノは狐にとりつかれておる! 彼女は小さい頃テレビで霊媒師が除霊を行っているさまを思い返した。狐に取り憑かれた男は株取引に失敗し、妻と別れ、最後の望みと賭けたFXで大損こいて発狂するまで身をやつしていた。運気を狂わせるほどの、それはそれは強力な狐の霊であったらしい。霊媒師はスタジオでどんどこどんどこ火を焚いて、謎めいた呪文を叫び、あとなんだっけ、
「パワーアップ型百歩神拳!」
一言で言えば、シスコは相当にテンパっていた。
叫ぶだけ叫んで、ばちこーん、とカウノの頬に平手を打ち込んだ。それはそれは強力な一撃であり、例えるなら全盛期(まさに今)の山本昌のフォームとそっくりな打ち込み方で、たまらずカウノは半回転する形で頭から床に突っ込んだ。
「し、シスコちゃん!?」
「梁師範!?」
突然の乱心に周りの女子も引きつった声を上げる。驚いたのは周囲ばかりではなく、シスコ本人も然りであった。え、えらい形で中学デビューをきめてもうた……!
どよめきが衆目を集め始める。シスコを囲む雑音が膨れあがり、彼女は顔を覆って泣き出したくなってしまった。が、しかし、間を置かずに倒れ込んでいた筈のカウノがすくっと立上がり、
「ごめんごめん、変なこといっちゃったな!」
あはははは、とわざとらしい笑顔を振りまき、次の瞬間シスコの手を取ったと思うと、そのまま階段を駆け上り屋上へと消えていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
屋上のドアを開けた瞬間、強い風が中へと滑り込んできた。
カウノは前髪を押さえつつシスコを促し、自分も外へ出ると、体重をかけ後ろ手にドアを閉めた。
「悪かったな。助かったよ」
太陽の光に目を細めつつ、カウノは素直に謝罪を口にした。実際彼女が気付けの一撃を見舞ってくれなかったら、自分は定まらぬ意識の中で新学期を迎えていたに違いないのだ。どん引きのクラスメイトを置き去りにして。その想像はあまりに恐ろしく、カウノは背中を震わせた。
「……説明してくれるんでしょうね?」
そんな彼を見据えるシスコの瞳は冷ややかだ。だがその奥には戸惑いの灯がちらついている。それもそうだ、と気取ったカウノは苦み走った顔で、
「なんて言うか……説明って言われたら、その。
……いや。単純に言うとさ。俺、失敗したんだよ」
「失敗?」
「メンタルチェックに」
「ああ」
それはカウノが咄嗟に取り繕った嘘であったが、シスコがすぐさま見破るにはいささか上手すぎた。
実際メンタルチェックテストと称したアプリケーションは非常にポピュラーで、占いレベルのものから前世の心裡を叩き起こすものまで様々なものがある。しかしそれにつけ込んでウイルスを紛れ込ませる事件が多発しており、例えば今回のカウノのように、テストが終わっても精神状態が乱れたままになっている事例が実際に存在した。
だからシスコはそれを疑問に思わず、むしろ合点がいったとばかりに腕を組んで首肯してみせた。
「どうせ渋って安物のアプリを買ったのでしょう。洗脳でもされたのかしら?」
「かも、な。いや、今回のは失敗だった」
「そう。お陰で」
本当に焦った。彼女は心中で冷や汗を拭った。
「そう言えば、貴方、ずっとなにかを呟いていたわよ」
「へ? なにか、って?」
「えっと……構造、構造、あと、みーしー?」
「あ」
それを聞いた瞬間、カウノの目が丸く見開かれた。
「あれ、なんなの?」
「いや、その」
少年は頭をぽりぽりとかいて、一度目を遠くへやった。
眼下にはユリマキ随一の都市が広がっている。およそ1000万の人が住む大都市だ。しかしこれでも連邦の中では小さい方で、10倍を優に超える規模の都市はまだいくらでも銀河に転がっている。その周囲には背の低い森が広がっており、初秋の陽光を受け、緑にきらめいていた。
カウノはふうと弱々しく溜息を吐いて、
「悪いね。言えないな」
「……ああ、そう」
「気を悪くしないでくれ。そうだな、ま」
すると彼はいつもは彼女に見せないような不敵な笑みを浮かべると、
「次のレースをご覧じろ、って感じかな」
これまた不敵に、挑戦状を叩きつけた。