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[19828] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2022/01/30 08:17
これは、和風異世界妖怪ファンタジーです。狼と少女の交流を主軸に据えた物語になります。拙い文章では在りますが楽しんでいただければ幸いです。
また小説家になろう、カクヨムにも投稿させていただいております。

誠に勝手ながら12/11をもって本作の更新を停止いたします。つきましてはきりのよい第三部で完結とし、第四部に関しては削除させていただきました。

taisaさま、狸親子が助かったのは①で、もふもふ大好きだったからでした。

7/9   命名編完結
7/31  怨嗟反魂編開始
10/17 怨嗟反魂編完結
10/23 設定追加、タイトル変更
10/30 屍山血河編開始
11/1  タイトルを戻しました。
11/7  屍山血河編その一の感想返信をその二に追記しました。
2011
2/28  感想でご指摘いただき、前書き追加



[19828] 命名編 その一 山に住む狼
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/01 12:11
『少女の愛した狼』


その一 山に住む狼

 大陸と海で隔てられた島国のちっぽけな村が、死に瀕していた。あるいは滅びに、と言い換えてもいい。
 領主に理不尽な税を課せられたわけではない。跋扈する妖魔や魑魅魍魎に襲われて、何の抵抗もできぬまま死人で溢れたわけではない。戦禍に見舞われ田畑が荒れ、働き手を奪われたわけでもない。兵隊崩れの悪党どもに子供や年寄、男達が残らず殺され、女達が蹂躙されたわけでもない。
ただ、渇いていた。
 天空の高みから俯瞰した時、灰色と茶褐色ばかりが広がる大地に、目に見えぬ巨人がなにがしかの意図を持って、あるいは気まぐれに任せて指でなぞったように見える溝は、一切の水気を失ってどんなにおぞましい皮膚病に見舞われた者の肌よりも、ひどく荒れ果てた川の跡だ。
 時折見受けられる乾いた地面以外のものと言えば、皮も肉も内臓も、骨の中の髄さえも啜られて無残に砕けた獣の骨や、砂と埃に塗れた岩石ばかり。
 木と藁と土壁で出来た家屋が何棟か、そんな無惨な大地にぽつんと、黄色い砂をたっぷりと含んだ風に打たれ、いまにも傾いで倒壊してしまいそうな様子で建っていた。
 集落の中央に設けられた井戸や近くの小川に沼は干上がり、米は勿論、穀物もほとんど取る事が出来ず、村人の全員が飢えに襲われていた。
 月に愛された国と謳われた神夜の国、苗場村である。
 田を耕す牛馬さえも村人の口に乗り、飢餓は人間ばかりでなく空を飛ぶ鳥の類にも及んで、時折青空にぽつんと浮かぶ黒い点の様な彼らも、獲物を見つける事が叶わずやせ細って体全体から肉が落ち、かろうじて力強さを保って羽ばたいている羽の艶も、すっかり色褪せている。
 なけなしの金をはたいて、近隣の神社や流れの修験者、祈祷師の類に雨乞いを乞うても、天から降りそそぐ筈の慈愛は、いっかな乾いた大地を潤す事はなく、からりと晴れ渡った空が、残酷なまでに美しく続いていた。
 今日も村のあらゆる場所を、乾ききった砂を孕んだ風が吹き抜けては口の中や、目、髪に塗す様に茶色の化粧を無理やりに施してくる。
 じりじりと村人たちを焼き殺さんとばかりに照りつける太陽へ、悪罵を浴びせる体力や気力は人々から失われて久しく、今では家の中に引き篭もるか蜘蛛の糸の様に頼りない希望を込めて井戸の底を掘っている。
 砂交じりの風と遮るもののない陽光に焼かれ、焦がされているような村の百姓家の中でひときわ大きな村長の家で、いずれも痩せこけた大人達が顔を突き合わせ、何事か囁き合っていた。麻や藤の小袖は粗末で、裾や襟はほつれ、振り乱した鬼女の髪を思わせる有様である。
 ぜいぜいと、肺の中の空気を全て吐き出してしまうような容赦ない日差しが、大地を舐めるほどに貧しい暮らしを長い事を強要すれば、鉛の様な疲れが体の内側や外側のみならず、心にまでこびり付くのも仕方のない事だろう。
 ここ数年の日照りは激しさを増す一方で、口に入れられる物は木の根や皮まで食べ尽くし、村中からかき集めた金銭で、他所から食べ物を買って、餓死するのをかろうじて免れるのも、限界が見えはじめている。
 車座に座った村人たちの中で、鶴の様にやせ細り皮と骨ばかりと見える老人が、ぼそぼそと隙間だらけの歯の間から、そよ風よりも弱々しい声を出した。耳を凝らしても到底聞きとれぬような声だが、聞き逃す者は一人もいない。

「お山の大狼様のお怒り、じゃろうのぅ」

 地図からも人々の記憶からも消え去ってしまう寸前の、この苗場村から北に三里ほど行った所に、緑豊かな山脈が広がっている。苗場村をはじめ近隣の村々を襲う干ばつの中にあって、神の気まぐれのように例外の存在として青々と木々が生い茂っている場所だ。
 お山とは、土地の者達から妖哭山と呼ばれている山の事だ。地上から青い天空まで一直線に貫く針のような山の周りを、険しい斜面をもつ岸壁の様な山が囲む奇妙な形をしている。熊、狼、虎、大蛇をはじめとした獣のみならず無数の妖魔がひしめいており、人間が滅多に足を踏み込む事はない。
 生息する生き物の凶悪さもさることながら、土地自体が一種の悪意を持った生命体であるかのように、足を踏み入れた者の方向感覚を狂わせて終わらぬ堂々巡りに陥る事も多い。
 妖哭山にのみ自生する特殊な植物や鉱物も多く、それらは高値で取引されるのだが、妖哭山のあまりの危険性ゆえに、歯噛みし、指を咥える者がほとんどだ。
 大狼とは、その妖哭山の主とされる狼の事だ。
 大狼が何時からその山に巣食っていたのかはよく分かっていない。近隣の村々の年寄り連中が、よちよち歩きの頃には既に居たと言われ、少なくとも齢百歳を越し、その凄惨無比の所業からもおよそ尋常な生物ではなく妖魔であると言われていた。
 これまでの百年近い間に、近隣の村や町で大狼の噂を聞きつけた何人もの旅の武芸者や祈祷師が妖哭山に挑み、その数だけ山の緑の連なりの中に消えてゆき、夜の静寂を打ち破る大狼の遠吠えを聞いては、村人たちは大狼への恐怖を増してきた。
 武芸者達や祈祷師、呪術師達が山へと挑む度に聞こえてくる遠吠えは災いの前触れを告げる大狼の嘲笑でもあった。
耳を塞いでも頭の中まで響く遠吠えが聞こえた夜からほんの数日の間に天候は荒れはじめ、ひどい冷害や干ばつ、地震が周辺の村々を襲って人々に災いをもたらし、人々はこれを大狼の祟りと囁き、震え上がってきたのだ。
それが、妖哭山の近隣に存在する村々の歴史であった。

「ここ十年は、お山に向かう者はいなかったのになあ。樵や修行者だって、あの山には近づかなくなっているじゃねえか。なにが大狼様を怒らせたんだろうか」

 元は逞しい体つきをしていた事が分かる大柄な男が、苦々しげに呟く。
村一番の力の持ち主で、近くの山から下りて来た猪を素手で捕えて、絞め殺したこともある。腕力だけでなく胆力も村一番と評判だが、そんな男でも大狼は恐怖以外の何物でもなかった。
 父母や祖父母、村の年寄り連中から物心の着く頃から聞かされてきた大狼の恐怖は骨の髄まで刻みこまれているのだろう。しょぼくれる姿は、その巨躯を一回りも二回りも小さく見えた。
 胸元まで垂れた白い髭をしごいていた村長の手が止まる。がたがたと音を立てる、建てつけの悪い戸を開いて、呼びつけておいた者が来た事に気づいたからだ。
糸の様に細められていた村長の目がかすかに見開き、開いた戸の前で立ち尽くす小さな影に声をかける。

「おはいり」

 小さな影は黙ったまま戸を潜り、家の中へと入り足を止める。ほとんど直角に腰の曲がった村長と変わらぬ背丈の少女であった。
この場に居る村人の誰もが粗末で貧相な身なりであったが、この少女はそれに輪をかけてひどい。
 襤褸とさして変わらぬ衣服を申し訳程度に身に纏い、臍のあたりで荒縄を使って結んでいるだけだ。
 襤褸から覗く手足はやせ細りきって土や埃に塗れている。素足もすっかり埃に塗れ、日に焼けて褐色の筈の肌は白く汚れていた。
 風が強く吹けばそのまま飛ばされてしまいそうな、枯れ木の様に脆く頼りない印象を見る者に与える。
 やや頬がこけた顔立ちは、土埃に汚れても元の愛らしさを残しており、それなりの器量を生まれ持っている事が分かる。

「あの、ご用は何でしょうか?」

 村長ほどではないにしろ小さく、そして怯えているのかかすかに震えた声だ。五年ほど前に両親を流行病で失い、村長に養われている少女である。
普段は村長の家の雑事を一手に引き受けているのだが、今日はいつもの雑用ではないと雰囲気から察し、なにか叱責を受ける様な事をしてしまったのかと、怯えているらしい。
 今朝、水を汲むのが遅いと、村長の細腕が振り上げた棒きれで打たれ、赤く腫れた背中や肩はまだひりひりと痛み、焼けるような熱を持っている。

「ひなや、お前も大狼様の話は知っておるな?」

 唐突な村長の言葉に、ひなは同い年の子供の手でも簡単に折れそうな首を縦に動かした。

「……はい。あの、妖哭山の主だっていう、とても大きくて凶暴な狼の妖魔だと」

「そうじゃ。ここ数年の不作は、その大狼様の祟りによるものじゃ。ではな、ひな。大狼様のお怒りを鎮める為に、このあたりの村の衆が今までどうして来たかも知っておるな?」

 ひな、と呼ばれた少女は、村長が言わんとしている事に思い至り、両手を握りしめて、震え始めた体を必死にとめようとした。だが、それは虚しい努力だった。
ひなの肩が小さく震えるのを見て、大人達の数人がごくささやかな同情の色を浮かべている。
 村長は、感情の色が見えぬ硝子玉の様な瞳で、ひなを真正面から睨んでいる。この小さな女の子に、運命からは逃げられないと無言で告げるような冷酷さと厳しさばかりが見て取れた。

「ひなや」

 びくっとひなの肩が一際大きく震える。これから村長がひなに告げる事が、死刑宣告以外の何物ではない事を、ひな自身が理解していたからだ。村長は、言葉も碌に話せぬ幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を噛み締める様に告げる。

「大狼様のお怒りを鎮める時、村では子を一人生贄に捧げてきた。今度もそうじゃ。ひなよ、お前が大狼様への供物となり、村を救っておくれ」

 にいぃっと吊り上がる村長の口元が、好々爺然としたものであるにもかかわらず、ひなは背筋が凍り付くような悪寒に襲われ、必死にそれを隠した。
 こんなに優しい村長の声は聞いた事が無かった。
 こんなに冷たい村長の声は聞いた事が無かった。
 こんなに恐ろしい村長の声は聞いた事が無かった。
 だから、ただでさえ小さなひなの体は、より一層小さく縮こまるかの様に見え、震えを抑える事が出来ずにいた。
 死ぬと分かっていて、我が子を喜んで差し出す者など村に居る筈もない。村の為、腹を空かした皆の為、そう言い繕って村の誰が我が子を差し出しても遺恨は少なからず残るだろう。 
だから、身寄りがなく、居なくなった所でさして困る事もないひなが選ばれたのだ。

「……はい」

 やがて消え入りそうな声で、ひなは承諾の返事をした。それ以外に答えがある筈もなかった。



 煌々と黄金の盆の様に夜天に輝く月が、刃のように鋭い峰の連なりを影絵のように照らす夜。星達が、一生をかけても数え切れぬ膨大な量の輝きを大地に降り注いでいる。
 ひょう、と風にさらわれてきたように軽やかに、山の頂の一つに躍り出た影があった。月光の下に居る者が月の滴で濡れ光る様な中で、艶やかな毛並みはさざ波にも似て輝き、あるか無きかの風にそよそよと揺れている。
 人ではない。山に住む獣か妖か。夜の闇に燃える火の球の如く横に並んで浮かぶ二つの光点が、ゆるりと動き、とある一点で縫い止められたように停止する。
 ぐる、と低い唸り声が『それ』の喉元から零れた。この山に住む生命であるなら、耳にするや脱兎のごとく逃げ出す声だが、今、彼の瞳に映る者達の耳には届いていないようだった。実際大抵の生き物では聞きとれぬ位に『それ』と、見つめる先の者達とは距離が離れている。
 『それ』の目に映る者達は塵芥に等しい大きさとしか見えない。
外に広がる乾いた大地とは全く別世界の、木々が黒ずんで見えるほど折り重なった森の中を、幼子を連れた人間の大人達が怯えながら歩いている。『それ』の目を引いたものの正体であった。
 夜の山の恐ろしさを知らぬわけではあるまいが、そうせねばならぬ事情があると見える。彼は、山の外の人間達が足を踏み入れる事にかすかな不愉快さを覚えたが、しばらくその人間達がどこを目指すのか目で追った。
 松明を持った村人を先頭に、鍬や鋤を震える両手で握りしめた者達に挟まれている幼子が特に目を引く。普通なら、幼子を守る為に大人達が前後を固めていると考えるべきだが、受ける印象は全く逆だ。
まるで幼子が逃げることを警戒しているように前後を固めているとしか見えない。手や首、体を縄で縛られていないのが不思議に感じられるほどだ。
 だがその衣服は、粗末以外の表現の言葉が無い村人達の衣服と比べて、染みもほつれもない純白の小袖に緋袴と目立つものだった。
月明かりにも鮮やかな紅の帯といい、白々と輝かんばかりの生地の美しさといい、自然と目を引く。なにより、今にも月光の中に透き通って消えてしまいそうな少女の横顔の儚さが、一際目立って『それ』の視線を吸い寄せた。
 じぃっと、その人間達の集団を目で追っていたが、足もとから聞こえてきた、りぃん、りぃんと鳴く鈴虫の声に、『それ』ははっと我を取り戻し、人間達の行く先に自分の塒がある事に思い当たる。
 何の意図があってあのような、ひ弱な人間達が自分の塒を目指すのか、『それ』には皆目見当もつかなかったが、見逃すわけにも行かぬかと、塒へ戻るべく山を下りて駆けだした。
 頂に躍り出た時と同様に、風に愛されているかの様な身のこなしで、影はほとんど直角の斜面へと飛び出した。
 間違えて足を踏み外せば研いだ刃の様に鋭く点在する山の岩肌に、体を切り刻まれて、血の跡を幾つも残す事になるだろう。
 影はそんな恐怖など風に千切られて飛んでいる花びらほども抱いていないようで、軽々と岩肌や木々を蹴ってゆく。あっという間に小さくなるその姿を、変わらず輝く月と星ばかりが見守っていた。

<続>



[19828] その二 出会う
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/08 12:17
その二 出会う

 村から妖哭山までの道のりは、疲れと飢えに塗れ、山の主への恐怖を臓腑にたっぷりと満たした村人達には途方もない苦行であったが、それは今宵生贄として捧げられるひなに比べればどうと言う事はなかっただろう。
 かつて大狼が生贄を欲し、その旨を村人達に告げて来た折に、妖哭山をいくらか分け入った所に建てられた小屋があり、そこへ生贄である少女を夜の内に運び込むという事が決められている。
 その慣例にならい、村人達は大事な生贄であり、村の救い主となるひなを連れて来たのだ。足を踏み込めば滅多に生きては帰れぬと噂される妖哭山であったが、大狼の加護なのか、夜に騒ぐ妖魔達が牙を剥いてくる事はなかった。
 大狼が住むとして恐怖の象徴となっているこの山には他にも、大小無数、種々様々な妖魔達が住み着いていて、退魔の法力や技を持たぬ人間にとっては、死地にも等しい。この世に生じた、白い世界に暗黒と穿たれた地獄と繋がった穴とでも言うべき場所なのだ。
 とぼとぼと歩くひなの前後を固める村人達も、かちかちとひっきりなしに打ち合う歯の音を止める事は出来ず、またそれを咎める者もおらず、一刻も早くこの場から逃げ去りたいと考えている事が、強張った表情から伺える。
 山へとひなを連れてゆく役目を負わされた者達は己の非運を嘆くばかりで、今日を生の最後とする少女を気遣うものは一人もいない。元より村に居場所が無く、誰も心を砕くことをせずにいた子だ。
 もし、ここ数年豊作が続き、村人達の生活と心に余裕があったなら、ずいぶんと違う生活を送れていただろうが、実際には村人達は一人の例外もなく腹をすかし、喉をからからに乾かせ、今日を生きるのが精一杯と言う日々が続いてきた。
 そんな日々で、たいして役に立つわけでもなく、身寄りもない子供に眼を掛ける余裕のあるものなど村に居る訳もなかったのだ。
 だから、ようやくこのひなというどうでもよい少女が村の役に立つと分かって、喜ぶ者は居ても悲しむ者は居なかった。
 ひなを数年育てた村長やその連れ添いでさえ、ひなの死を悲しむ気持ちはわずかもないだろう。
 そして、不幸な事にひなは村人達が自分に対して何を期待しているのか理解するだけの聡明さと、運命を諾々と受け入れる自暴自棄に近い心の動きがあった。
村長や村人達の、常に冷たく何の価値もないものを見る視線に晒されてきた環境や、父母を失い世界の中でただ一人となった事から始まった孤独が、ひなの精神に常人ならば歓迎せざる影響を与えていた事は明白であろう。
 命乞いや恐怖、悲しみの言葉を口にせず、村を出てから一言も喋らずにいたひなが、誰の耳にも止まらずに消えてしまう小さな、あっ、という言葉を零したのは、松明を手にした先頭の村人が、見えたぞ、と囁くのが聞こえたからだ。
 しっとりと肌に吸い尽く様な湿り気に満ちた山の夜気の中、鬱蒼(うっそう)と茂っている木々の中に埋もれる様にして、小さな小屋が建っているのがひなの目にも見えた。山の妖魔達に荒らされてはいないようで、月明かりに照らされる小屋に、目立った損壊はない。

「おい」

 ひなのすぐ前で、鍬を抱えていた村人の男が背後のひなを振り返って横柄な声で呼ぶ。ひなを名前で呼ぶ者は村にほとんどいない。それはひなが逃げ出さないように連れて来た村人達も同じだった。
 ひなを大狼へ生贄に出すと集めた村人達の前で告げた時に、もっと早く生贄を出していればと、血を吐くような声を絞り出し、見つめられた者の背筋に冷たいものを流させる、冷え冷えとした眼でひなを睨んだ男だ。
 一か月前に、まだ三歳になる次男坊が骨と皮になって死んだばかりだった。

「はい」

「あの小屋が大狼様のお住まいだ。お前はあそこで大狼様がいらっしゃるまで待て」

「……」

「言っておくが命乞いをしても無駄だぞ。まだ子供で碌に仕事も出来ねえお前を、ここまで育ててやったのは村長だ。いわば、お前の命は村長、ひいては村のものだ。村長が生贄になれと言ったのだ。お前に拒む事はできねえし、しても意味がねえ」

「分かって……います」

「ならいい。おれらはこのまま村へ帰る。間違っても逃げ出そうなどと思うな。昔、生贄が逃げ出した時、大狼様は大層お怒りになられて、近くの村の者達が三十人も殺されたそうだ。しかも一人も食わず、ただ見せしめの為に殺されたのよ。お前より小せえ子供もおったそうだ。まあ、せめて腹一杯食って、綺麗なべべを着せてもらえただけありがたく思え」

「はい」

 心をどこかに置き忘れてしまった声で、ひなは答える。まだ十になるかどうかという子供が出してよい声ではなかった。また、その声の奥深くに込められた思いを、村人達が聞き取る筈もなかった。
 大狼の牙と爪に引き裂かれる少女の運命を思うよりも、役目を終えてようやく帰れる事へとの喜びの方が、遥かに勝っているからだろう。
 恐る恐る開いた戸の中へひなを押し入れて、安堵の息を吐きながら去ってゆく村人達の気配を感じながら、ひなは月明かりが射しこむ小屋の中を見回した。水甕も囲炉裏も竈も何もない。
 住むのが狼の妖魔なのだから、人間の生活に必要なものが無いのも当然ではあるが、閉ざされた空間に自分一人だけが取り残された事が強調されて、ひなは胸の苦しくなるような錯覚に襲われていた。

「ここが、大狼様の……」

 呟いた自分の声が、いやに大きく聞こえた。夜風に揺れる木々や草花が触れ合うかすかな音、わずかな虫達の鳴き声が聞こえるだけで、しんと静まり返った小屋の中は、息苦しく肌を刺す様な雰囲気に満ちていた。
 ただ立っているだけというのもいたたまれず、ひなは草鞋を脱いで板敷きの床に上がり、背を壁に預けて腰を下ろした。冷たい板張りの床が心地よい。
 抱えた膝に額を押し付けて、ひなは一人静寂に耐えた。
 村長に生贄となる事を了承した日の夜、ひなは村長の家で最後の晩餐と、今着ている衣服を与えられた。かねてから大狼に生贄を捧げる前夜、生贄役への最後の慈悲と、大狼の気に召す様にと代々行われてきたことだと、村長は告げた。
 ひなの最後の晩餐にはどこに蓄えていたのか、木椀に山盛りの麦飯や、沢庵、焼いた川魚の干物にわずかな山菜と、ひなが初めて口にする馳走が並べられ、袖を通しているこの小袖や緋色の袴も、初めて目にしたほど上等な代物だ。
 餓えた村の最後かもしれぬ食料も、見た事もない上等な着物も、ひなの心を弾ませる事はない。どちらとも、大狼が生贄を気に入るようにと、過去、生贄を捧げて来た村の人達が考え出した事であり、決して生贄役への慈悲故ではないと分かっていたからだ。
 昼ならばどこまでも広がる緑の連なりが視界を覆う山だというのに、いやに虫の鳴き声や梟の声が乏しいのは、やはり大狼様のお住まいの近くだからなのかな、とひなは独り言を零す。
 聞いた話では、大狼は牛馬よりもさらに大きな体で、猪や熊の首も一噛みで噛み千切る牙や、武芸者の身に付けた鎖帷子を濡れた薄紙のように切り裂く鋭い爪を持つという。
 その毛並みは食い殺した獣や妖魔、人間の血で常に赤く濡れ光りもとは何色だったのか知る者はないと言う。青い双眸は決して満たされる事のない飢えや殺戮の願望に輝いているという。
 山の獣や人間のみならず妖魔さえもその牙と爪にかける凶暴性は、時に誇張され、時に過去の事実と共に長い事語り継がれ、色褪せる事はなかった。
 ひなの両親がまだ健在だった折に、寝物語に大狼の話を聞かされ、盛大に寝小便をしたのも、今思えばよい思い出だ。恥をかいたのは確かだが、それでもまだ優しい父母が居た頃の記憶には違いない。
 常に笑顔を絶やさなかった母と、元は旅の武芸者だったという寡黙な父。二人と過ごした五年間の半生こそがひなにとって本当の人生であり、父母が死に、村長に引き取られてからの五年間は死んでいるのと同じような日々だった。
 もしも大狼の生贄に選ばれなかったとしても、村は飢餓によって餓死者を出し、やがて荒廃してゆくだろう。なんらかの奇跡の様な事が起きて今の飢饉を免れても、ひなの暮らしは辺鄙な村の最低辺のまま、灰色の生活が続くだけなのは間違いない。
 ならいっそ、大狼に食べられ、村を救う方が、まだ生まれてきた意味と言うものが感じられるような気がする。
 その考えは、これから自分が恐ろしい大狼に食われて死ぬ事への恐怖を、わずかでも紛らわせる為に、ひなの心が自然と諦観や絶望といった感情に流されていることの表れかもしれなかった。
 狼の妖魔に食べられて、その体の血肉になって消えてしまう。それで、いいのだ。そうすれば村は救われる。
 少しくらいは、村人達もひなに感謝の念や憐憫の情を抱いてくれるだろう。ひなが生きている間は決して望めぬそれらを、死んで初めて向けてもらえる。
 その事に、一抹の悲しみを覚えないでもなかったが、夜が明けるのを待たずに死ぬ自分の運命を思えば、何を考えても無駄なのではないかと、ひなは頭の中でぐるぐると何度も同じような事を考え続ける。
 考える事くらいしかする事が無いのだ。逃げ出そうという気持ちにはならなかった。
 何度も村長や村人達に逃げてはならぬと念を押され、また逃げても大狼の牙から逃れられた者が、今まで一人もいなかったという事実、そして自分自身の未来への諦めが、ひなの小さな胸の中で絡まり合い、生への執着とはならなかったのである。
 はあ、と聞く者がいない溜息を何十度目か零した時、不意に、虫の鳴き声がぱったりと絶えた。
耳が痛いほどの静寂が突如舞い降りた様に、あるいは音と言うものが無くなってしまったかの様に静まり返った周囲に、ひなの心臓が大きく跳ねる。
 なにかが、近づいて来ているのだ。虫達が鳴く事を忘れてしまう、何かが。
何か? それは正体の分からぬモノ、未知のモノに向ける言葉だ。ここがどこか、何の為に自分がここにいるのかを考えれば、『何か』がなんであるかはおのずと分かる。
 山の妖魔さえも食い殺すという大狼の塒に近づくものなど、主である大狼以外に在る筈もない。万が一にも、ひなを憐れんだ村人が助けに来たという可能性を、ひな自身まるで考えていない。
 がたり。
 戸が揺れる音。
 どくんどくんどくん。
 ひなの心臓が激しく脈動し、熱い血潮を体中に巡らせる音。
 揺れる戸と自分の体の中から聞こえてくる音とに、ひなの鼓膜は揺さぶられ、は、は、と恐怖に震える小さな唇は短く息を吐く。指の先まで鉄か何かに変わってしまったように体が強張っている。
 がたり、がた、がた、と忙しなく戸が揺れ、それまでの騒音が嘘のように、静かに開かれて、それがぬっと顔を覗かせた。

「あ、ああ……」

 開かれた戸から差し込む月光を、真珠の粒の様に煌めかせて纏う白銀の毛並みは、ひながこれまで目にしてきたあらゆるものの中で、最も美しかった。
 山の稜線を黄金に照らして行く朝陽よりも。
 夜の暗闇を白々と照らす月光よりも。
 降り積もった白雪の中から顔を覗かせる小さな花の花弁よりも。
 美しかった。恐怖を忘れ、絶望を忘れ、食い殺されても良い。食い殺されたいと思わず願ってしまうほどに。
 牛馬よりも大きいという話は嘘ではないようだった。立ち上がればひなの三倍か四倍はあるだろう巨躯。今は固く閉ざされている口は、簡単にひなを丸のみにできる大きさだ。
 ゆっくりとした動作で小屋の中へと入り込む。ひなに対して警戒心を抱いていないのか、興味深げに顔を向けたまま、一歩一歩と歩み寄る。警戒心を抱いていないのは当たり前だろう。自分の為に捧げられた美味な生贄なのだから。
 足音一つなくひなへと近づいてきた大狼が、ちょうどひなを真正面から覗きこむ位置で腰を下ろし、まっすぐにひなの黒瞳を見つめて来た。
ひなは大狼の瞳にまっすぐ見つめられ、その青い瞳には自分がどう見えているのかと、気になった。
 美味しそうに見えているといいけれど。
 深い知性が感じられる大狼の瞳に、ひなはふと、村々に伝わる大狼の話は本当なのだろうかと疑問に思う。それほど、目の前の銀色の狼の瞳は、穏やかで、村の人々よりもよほど優しい眼差しに感じられる。
 だが、それでも、ひなはこの狼に食べられなければならない。はたして大狼が何に対して怒りを抱いているのかは分からぬが、自分が食べられる事でその怒りは解ける事だろう。
 言わなければ。自分が、貴方に食べて頂く為の生贄だと。私を食べて、お怒りをお鎮め下さいと。
 村長が、村の皆がそれを望んでいる。自分が食べられて村の生活が元通りになる事を。戻ってきた生活の中に、ひなが居なくても何も困りはしない。悲しむ事もないだろう。
いたいけな子供を差し出した事を嘆く者も、ひなの死に涙を流す者も、誰ひとりとしていないに違いない。
 だから

「あ、あの、大狼様。わた、私は苗場村の、ひなと申します。……私を、お食べになって、どう、どうか、お怒りをお鎮め下さい。以前からの、お約束通りに、生贄として、私が、え、選ばれました。この、体を余さず、血の一滴、肉の一片、骨のかけら、髪の一本まで、捧げます」

 言った。言ってしまった。あの大きな口で頭から食べられてしまうのだろうか。それとも足からか、手からか、腹からか。大狼の名前に相応しい大きな体なら、残さず食べ尽くしてくれるに違いない。
 喉を鳴らす事もなく黙ってひなを見つめる大狼の姿は、それは恐ろしくひなの目には映っていた。また、耳に痛いほどの静寂の帳が落ちる。大狼が動いた時が、ひなの命が尽きる時だろう。せめて、あまり痛くないと良い。
 それだけが、ひねのささやかな願いであった。だが、その願いは叶わなかった。
おもむろに、大狼が口を開き、槍穂のように鋭い牙と炎のように赤い舌が覗く。

「話は分かった」

「え、あ、大狼様、言葉を?」

 落ち着いて考えれば、過去に村人達に生贄を要求してきたのは大狼の方と言う話だ。ならば、目の前の大狼が言葉を操って何の不思議があろう。
 年若い青年の声と聞こえるが、月下の波一つない湖面を思わせる様な、清澄とした響きがある。大狼が人間であったなら、さぞや見目麗しく、世界の真理に挑む学徒の様に知的な青年の姿をしていたに違いない。
 ひなは慌てて平伏し、大狼の次の言葉を待つ。話が分かったというのなら、ひなを食べるという事だ。

「ところで、ひなとやら」

「は、はい」

 怯えに震えるひなの返事に続いた大狼の言葉は、大きくひなの心を揺るがすもの
だった。

「そう畏まらなくてもよいのだが、生憎と私は君の言う大狼とやらではない」

 眼の前の巨大な狼の言っている事が、ひなには分からなかった。いや、確かに耳には届いたのだが、聞こえてきた言葉を理解したくなかったというべきか。
 思わず体を起こし、食い入る様にして銀色の毛並みを持った狼へ問うた。質問の声は、悲痛な叫びに似ていた。

「え? で、ですが、ここが大狼様のお住まいだと聞かされました。貴方様が大狼様でないのなら、大狼様は、どちらへ? 私、困ります! 大狼様に、私を食べていただかないと、村が、村の皆が」

「なにやら事情があるようだが、その願いはもはや叶うまい」

「ど、どうしてですか?」

 その答えを聞いてはいけないような気がしたが、ひなは聞かずにはいられなかった。銀色の狼は、変わらぬ静かな瞳のままひなに答える。

「いつの事だったかな、大狼は私が滅ぼしたからだ。奴はもうこの世にはおらぬ。怨念や妖気の類がこの世に漂っているわけでもないから、魂もとうに冥府へ運ばれている筈だ」

「え、え、え? あの、滅ぼしたって、大狼様が、もう、この世にはいないって……」

「事実だ。話を聞いた限りでは奴への生贄だそうだが、その大狼が滅びた以上、生贄は必要あるまい。夜は危険だから、朝を待って村へ帰ると良い。良ければ麓まで送ろう」

「そん、な」

 呆然とするひなに痛ましげな視線を送る銀色の狼は、ひなの顔色が徐々に暗くなるのに気づき、訝しい思いを抱く。生贄に選ばれて相応の覚悟を決めて来たのは分かるが、自分が助かると分かった以上、少しくらいは喜んでもよいだろう。
 なのに、ひなと名乗った少女は、明るい顔色になる所か、陽に焼けた顔をどんどん青ざめたものに変えているではないか。
 狼の妖魔である以上、自分には人間の心の機微はいま一つ分からぬものだが、ひなの様子がおかしいという事くらいは分かる。

「どうした? 命が助かるのだ。喜べとまでは言わぬが、そう悲しそうにする必要もあるまい。大狼の奴に食われねばなにか困るのか? 好きこのんで自分の命を差し出す習慣が、人間にあるとは耳にした事が無いぞ」

「わ、私だって」

「うん?」

「私だって、本当は、食べられたくなんか、ありません!」
 
 それまで心の奥深くへと押し込み、固く蓋をしていた筈のひなの生きたいという本音が爆発し、言葉となって外に飛び出た。銀色の狼は、はたりと一度左の耳を動かしてひなの叫びを聞いている。
 目の前の少女の小さな胸の中に溜まっていたものが全て吐き出されるまで、聞くつもりであるらしい。

「ほ、本当は、食べられるのは、す、すごくこわ怖くて。だけど、私が食べられないと、日照りが、治まらないから、大狼様の祟りで、村の、みん、皆が飢えて死んじゃうから、だから、私、生贄になるって決めたんです。と、とっても怖いけど、お父さんもお母さんも死んじゃった私に、居場所、なんてないし、村の人達もそれを望んでいる、から。食べられて来いって、皆の目が言うんです。お前が死んでも困らないんだぞ、て。う、ぅうう、ううえぇえぇぇ…………」

 がっくりと項垂れて、銀色の狼の目を憚ることなく泣き叫び始めたひなを、黙って銀色の狼が見つめていた。青い双眸には純粋な労わりと憐憫の情の光が浮かんでいる。この銀色の狼、人間に近い精神構造を持っているのかもしれない。
 ひなが泣き止むまで、銀色の狼はその場に伏して待ち続けた。

「村長様、源三さん、たけさん、ときさん、三平さん、村の皆が、自分の所の子供じゃなくて良かったって、私が、大狼、様に食べられるんなら良かったって思っているのが分かるから、私、大狼様に食べられる為、に生まれてきたみたいで、そんなの、そんなのは」

「そうか。それは悲しいだろう。苦しいだろう。辛いだろう」

「ひっく、うく、ううぅ……」

 疑う余地のない労わりに満ちた声に、心の堤防が壊れたのか、ひなの涙はとめどなく流れ続けた。

「うぁああああ~~~~んん」
 
小屋の中に、誰に憚ることのないひなの泣き声が長く尾を引いた。

 <続>



[19828] その三 暮らす
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:58
その三 暮らす

「……うぅ、ん……」
 
泣き始めてから、半刻ほど経った時、泣き疲れて眠ってしまったのか、すぅ、すぅ、とかすかなひなの寝息が聞こえ始めた。張り詰めていた緊張の糸が、予想もしなかった切られ方をしてしまったせいもあるだろう。
 頬をしとどに濡らし、冷たい床に横倒れの姿勢で倒れ込み、かすかな寝息を零すひなのあどけない顔を、銀狼はずっと見続けていた。

「眠ったか、哀れな子だ。村に戻っても居場所はなく、身寄りもない故にこうして生贄に出されるとは」

 山に吹く風は、穏やかな日差しの降り注ぐ春から夏の熱気を帯び始めているが、夜の山は冷える。ひなの体が冷えぬようにと、銀狼はひなの小さな体を包む様にその傍らへと歩いてから伏せた。

「ん……」

 ふわりと触れて来た銀色の狼の毛並みがくすぐったかったのか、ひなはむず痒そうな声を出した。紅葉の様に小さな手が毛並みを弱々しく握る。こんなにも弱々しくちっぽけな人間の子を憐れむ気持ちが、銀狼の胸の中で大きくなっていった。
 頬を照らす朝陽に促されて、ひなは水の底からゆっくりと浮き上がるように、意識を目覚めさせつつあった。まだ心が夢の国の中に半ば残っていたが、とても柔らかくふんわりとした何かに、自分が包まれている事をなんとなく理解する。
一昨日の夜、村長に与えられた村で一番上等な夜具が、固い岩か何かのように感じられるほど、心地の良い感触だ。
 もっとこの暖かで柔らかい何かに包まれていたくて、ひなはむずがる赤子の様に、ぐりぐりと顔を押し付ける。すると、そよそよと鼻をくすぐる細い何かがあって、くしゅん、とひなは堪え切れずに可愛らしいくしゃみをし、それでぱっちりと目を覚ました。
 村長の家で世話になっていた頃から、鶏よりも早く起きて家事をする暮らしをしていたから朝は早いのだが、昨晩はあまりの心労と寝心地が極めて良い寝床で眠ってしまったので、目覚めるのが遅くなっていたらしい。
 時刻は差し込む朝陽の傾き具合でそれとなく分かる。
 ひなの開いた瞳に、すぐ目の前で自分の肢に顎を乗せて瞼を閉じている昨夜の狼の顔が見えた。
 思わず喉から漏れかかった悲鳴をぐっと飲み込んで、ひなは今、自分がどのような状態にあるのかを悟る。
 昨夜、胸の内でとぐろを巻いていた黒々とした感情を吐露してから、泣き疲れた自分はそのまま眠ってしまい、どういうわけか、大狼を滅ぼしたと言う狼を枕と布団代わりにしていたらしい。
 規則正しく動く銀狼の腹に上半身を預けて、ふわふわと豊かな毛並みの長い尻尾が、自分のお腹の上に乗っていた。かけ布団の代わりだろうか。
 信じられぬくらいの寝心地の良さの正体は、この不思議な狼の体だったらしい。
 そのまま体の中で爆発してしまいそうな、それこそ早鐘の様に脈打つ心臓が、口から飛び出てきそうな気がして、思わずひなは両手で口を押さえた。
 何が何だか分からない。自分は、昨日大狼様への生贄としてここに運ばれてきて置き去りにされ、この美しい銀色の毛並みを持った狼が出てきて、言葉を喋って、そして、そして、ひなが食べられなければならない大狼が既に居ないと告げて来たのだ。
 どっと堰を切った様に頭の中で無数の疑問符が乱れ舞うが、それも銀狼がうっすらと瞼を開けた時に終わった。
 満月が青い光の衣を纏っていたらきっとこんな風なのだろうと、詩人なら思う様な瞳が、昨夜と同じ穏やかな眼差しでひなを見つめている。
 そのまま体の奥の奥まで、心の底まで見通されているような気がして、ひなはその瞳に魂が吸い込まれてしまうと思った。だが恐怖はない。この綺麗な瞳の中に囚われてしまっても、これまでの人生と比べれば、ずっと幸福な事の様に思える。
 青い瞳の中から見る世界は、世界が青い光で照らされているように見えるのだろうか。

「良く、眠れたか?」

 銀狼の台詞だ。年の離れた妹の面倒をよく見る兄の様な声の優しさに、ひなは思わず恐縮してしまう。

「は、はい。申し訳ありません、なんというかお布団代わりにしてしまって」

「構わぬよ。私の方からした事だ。さて、ひなと言ったな」

「は、はい」

 頭を起こした狼の体から飛び退くようにしてひなは離れ、正座して銀色の狼と向かいあう。
 道化じみたひなの動きに、知らず狼の口は狼なりに笑みとわかる形に吊り上がり、く、と喉の奥で短く小さな笑いが零れた。狼の笑みというものを、ひなは初めて目にした。

「山の外で長い事日照りが続き、田畑に作物が実らず、飢饉に見舞われていると山の民や妖が噂しているのを私も耳にした事がある。それを大狼めの祟りかなにかだと思ったようだが、それは誤りだ。昨今の日照りは純粋に天候の問題だ。何者かの意思が働いたが為ではない」

「昨日のお話通り、私が生贄として捧げられた事は、意味が無いのですね……」

「覚悟を決めて来た君には酷だったな。どうする? 昨日も言ったが、村に戻るのなら私が麓まで送ろう。ここら一帯は私の縄張りの様なものだから、君にとって危険な妖魔や獣はまずいないが、万が一と言う事もある」

「それはできません。大狼様が居なくても、村の人達にとって私が大狼様への生贄である事には変わりがありません。その、私がいくら大狼様はもう滅んでいると言っても聞いてはくれないでしょうし、私が……食べられる事で村が救われるのだと信じています。だから、雨が降らない限り、私が村に戻っても居場所なんかありません」

 この少女の過ごしてきた環境が劣悪、とまでいかぬかもしれぬが恵まれぬものである事は、人間の暮らしに疎い狼にも察する事は出来た。
 年に似合わぬ聡明さを言葉の端々に匂わせるこの少女にとって、自分の置かれた環境が理解できるだけにさぞや辛い日々を送っていたのは間違いない。
 ひなの言うとおり、このまま村に帰しても、危惧している通り温かい歓迎などある筈もないだろう。
 かといって村以外にこの少女に居場所もあるまいし、なまじ妖魔ながらに人が良い――もとい狼が良いだけに銀色の狼は頭を悩ませていた。
 ひなの事情など考えず山から追い出すか、食ってしまうか出来れば苦労はないのだが、この銀色の狼はそうすることが出来ないらしく、繊細な銀色の毛に包まれた眉間に皺を刻んでいた。
 床の一点を見つめる様に顔を伏せて、暗い雰囲気を小さな体から滲ませ始めたひなを、どうしたものかと、喉の奥をぐるぐると鳴らして考えていたが、不意に、顔の向きを変えて、小屋の壁を透かして何かを睨むように眼を細める。
 様子の変わった銀狼に気づき、ひなが不思議そうに顔を上げる。

「あの、どうかなさいました?」

「この小屋に人間達が近づいて来ている。昨夜、君を送ってきた村の者達だな。臭いと足音が同じだ。君が食べられたかどうか確かめに来たのだな。どうしたものかな、生きている事が分かれば、どうなるか、君自身理解しているのだろう」

「……大狼様に代わって、私を食べてはもらえないでしょうか?」

 わずかに間を置いて出されたひなの提案に、左右の耳をぴんと立てて銀色の狼はひなの顔をまじまじと見つめた。驚きの表現らしい。

「私に大狼の振りをしろと?」

「勝手で失礼な事を言っているとは分かっています。それでも、私にはそれしかないのです。村に戻る事が出来ない以上、もうこの世に私の居場所はないから」

 自分に居場所はないと悟っているひなの言葉を聞き、銀色の狼は逡巡してから問うた。

「ならば、君の命は今より私のものということになるな。本当にそれで良いのか? 後で悔やむ事になるかもしれんぞ。自ら命を捨てるのは罪深い行いだと、耳にした事もある」

「はい。構い、ません」
 
 ひなは眼を瞑り、巨大な狼の牙が自分の命を奪う瞬間を待とうとした。だが、銀狼が立ち上がった気配がしたと思ったら、ひなの方ではなく戸の方へ気配が遠ざかってゆく。
 どうしたのかと思って、瞼を開くと、ちょうど銀色の塊が荒々しく戸へと衝突する所だった。鼓膜を打つ破砕音と共に戸が木っ端微塵になって吹き飛ぶ。
 一夜限りであったが話をして、銀色の狼はとても落ち着きがあり、穏やかな気性と感じていただけに、突然の銀狼の行動にひなの理解が追い付かない。
 そのまま小屋の外へと飛び出た狼は、朝陽を浴びて燃えているかの様に、銀の毛並みを輝かせた姿で威風堂々と立ち、小屋の内側から現われた巨大な狼の姿に硬直する村人達を睨みつけていた。
 これが伝説の大狼なのかと、その場で恐怖のあまり立ち尽くす村人達へ、狼は周囲の木々を震わせる、低く抑えられた威圧的な声で語りはじめる。
 木々の間を巡る間に反響したのか、目の前に立つ銀色の狼が喋っているのに、右から左から、前から後ろから、上から下からも聞こえてくるようで、村人達は今起こっている事が現実のものなのかさえ分からなくなっている。
 さて、と銀の狼は心中で呟く。なるべく無慈悲で凶暴な伝説の妖魔らしく、恐ろしげに話さなければなるまい。やったことのない事をするのは、ひどく面倒に感じられた。
 す、と小さく浅く、そして短く息を吸う。

「村人よ、我は大狼。貴様らよりの捧げもの、しかと食らった。娘の芳しき肌、甘い香りのする髪、湯気を立てる臓物、若い命に溢れた血潮、すべて我の胃の腑の中よ。約定どおり、我がかけし呪いを解く。今日より七日の後、雨は降り、貴様らの乾き果てた喉や肌、そして田畑を潤すであろう」

 大狼と思いこんだ相手からの、望み通りの言葉を聞き、大狼への恐怖を押しのけた喜びが、村人達の顔に浮かんだ。
 誰の顔にも、ひなの死を悲しむ様子は見られない。これが、村にとってのひなの価値なのかと思うと、銀狼はいたたまれぬ思いを禁じえない。
 銀狼は、おお、と声を上げて顔を見つめあって喜びを共有する村人達へはっきりとした殺意さえ感じていた。
 ぐおう、と体のすべての細胞が恐怖で縮こまる様な叫びが、銀狼の喉から迸り、喜びに浸っていた村人達を一瞬で、恐怖ばかりが詰まった奈落の底へと叩き落とした。

「用が済んだのならば、一刻も早くこの場より去れ。貴様らの顔なぞ見たくもない。去らねば貴様らすべて、我の腹の中で昨夜の娘と再会させてくれるぞっ!」

 村人達へとの慈悲の一片も、容赦もない言葉に、蜘蛛の子を散らす様にして村人達は背を向けて駆け出す。一瞬でもこの場に留まっていたら、恐ろしい狼の牙によって食い殺されると心底から恐怖したのだ。
 あまりの恐怖に小便を漏らし、泣きながら走り去る村人達の背中を忌々しげに見つめ、銀狼は背後へと首を巡らした。
 ひなが村人達への恫喝の為に粉砕した戸から小さな顔を覗かせて、銀狼の青い眼と黒い瞳とが見つめ合う。
 少なくない恐怖と疑惑、不安がひなの瞳の中で、嵐の夜の水面の様に激しく揺れている。それを見て取り銀狼はつとめて優しく声を出した。

「と、いうわけだ。悪いが、これでもう君は村には帰れん。その命、私の好きにさせてもらうぞ。その代り、君の面倒は可能な限り私が見る。とりあえずは食べないから安心しなさい」

「でも、私は貴方様に食べられる位しかできる事はありません! お洗濯もお掃除も、貴方様には必要ではないでしょう?」

「まあそうなのだがね。こうも長く誰かと話をしたのは君が初めてでな。当面は、私の話し相手にでもなってもらおう。正直な所、私は君に情が移ってしまっている。見殺しにするのはどうにも無理だよ。それから先の話は、その時になってからすればよい」

「でも、でも……」

「自分の命を私に捧げると言ったのは偽りか?」

「それは、嘘を言ったつもりはありません。でも私は私を食べて頂こうと」

「でも、はもう止めなさい。それに言ったではないか、本当は食べられたくはない、本当はすごく怖いと。なら、自分を食べて欲しいなどと二度と口にするな。少なくとも、私は君を食べるつもりはないし、これからもそのつもりだ。だから、君は生きて良いのだ。まあ、私の様な人語を解す珍妙な畜生と一緒というのは、不幸な事かもしれんがね」

「そんな事ありません。貴方様は、村の人達よりもずっと優しくしてくださって、とても、嬉しかったです」
 小さな手を握り、首と一緒に横に振って、銀狼の言葉を精一杯否定するひなの様子に、銀狼はその狼面に穏やかな微笑を浮かべる。土を踏む音もなく銀狼がひなの傍まで歩み寄った。

「早速だが、場所を移すぞ。ここより君が住みやすい場所がある」

「でも、ここが貴方様のお住まいなのではないのですか? 私の為にわざわざ移られなくても」

「なになに、その程度気にするな。雨露を凌ぐ時に使っていた程度だ。さして愛着があるわけでもないからね。では行こう、少し遠いから私の背に乗りなさい。振り落とされないようしっかり掴まっているように」

「え、あ、ははい」
 
 ひなは、ぺた、と目の前で腹這いになり、背中に乗るよう顎を動かして促す銀狼に驚いたが、拒否する訳にも行かず、おっかなびっくり銀狼のさらさらと手の中で滑る毛を掴み、うんしょ、と一声零して背中に跨る。
 がっしりと両足で銀狼の背中を挟みこみ、やや前屈みになって毛を握り込んだ。ひなが背に移った事を確認してから、銀狼が、よし、と小さく呟いてゆっくりと立ち上がる。
 ぐん、と高くなる目線と、ふらふらと左右に揺れる体を必死に立て直そうと、ひなも懸命に銀狼の背中を挟みこむ両足と手に力を込める。

「大丈夫か?」

「はい、平気です。あの……」

「なんだね?」

「そういえば、まだお名前を伺っていなかったのですが」

「ああ、そうだな。今までは、銀色の、とかお前、と呼ばれてきたな。名前か、考えた事もなかったが、大狼にちなんで当面は銀狼とでもしておこうか。なんなら、君が名付け親になってくれても構わぬよ」

「そんな、私なんかがお名前を決めるなんて、恐れ多い事です」

「そうかね? よほど変なものでなければ喜んで使わせてもらいたいと思っていた
のだが」

「じゃ、じゃあ考えておきます」

「良き名を頼むぞ、ひな」

「あ、はい!」

 初めて銀狼に、ひな、と名前で呼ばれた事に気づき、ひなは喜びに笑顔を浮かべていた。こうまで優しく名前で呼ばれた事はここ何年も無かった事だった。
 ゆっくりと銀狼が一歩を踏み出し、背のひなが戸惑いながらも、きちんと背にしがみついているのを確認し、また一歩一歩と歩みを重ねる。
 背中にしがみついたひなには、ほとんど衝撃は伝わってこない。よほど柔軟な筋肉と間接を持っているのだろう。

「少し速くするぞ」

「はい」

 ぎゅっとひなの体が自分の背に押し付けられるのを確認して、銀狼は歩行から走行へと移って小屋の裏手に広がる道の無い森林の中へと飛び込む。
 一歩踏み込んだだけでも、ひなの手よりも太い木の根がうねくり絡み合い、くるぶしまで伸びた雑草や花々が絨毯の様に地面を埋め尽くしている。
 走るだけでなく時には岩を蹴って大きく飛んだり跳ねたりする銀狼の背で、次々と後方へと流れて行く緑の世界を、ひなは信じられない思いで見ていた。
 振り落とされるのでは、という恐怖はない。銀狼が時折ひなを気遣っている様子が背中にしがみついていても分かったし、なによりここ数年黄土色の乾ききった大地しか見ていない目には、鮮やかな緑の世界は極めて新鮮なものとして映り、ひなの関心はもっぱらそちらにあった。
 髪をなびかせ頬を撫でて行く風の心地よさに、目を細めながら、ひなが銀狼に声をかけた。

「あの、銀狼様!」

 風切り音のする中で聞こえるか少し心配で大声を出したが、銀狼は左耳をピクリと動かして

「なんだ」

 と聞き返してくる。

「雨のことなんですけど、七日後に本当に、降るのですか? あの、そうじゃないと」

「ああ、あれは本当だ。昨晩、ひなが寝ている内に天候を読んでおいた。西の方から湿った風の臭いがしたからな。ずれても半日程度だろう」

「後、七日ですか」

「嫌な話を聞かせてしまったか?」

 後七日待てば、ひなが生贄として差し出される事はなかったと告げたのだ。銀狼の声が心配そうな響きを持っていたのも仕方ないだろう。これ以上、背の少女が傷つくのは避けたいと思っていた。
 ひなは、遠慮がちに言った。

「少しだけ」

 ひながその言葉を選んだのは村に居場所が無い事を悟りきった諦観と絶望からだろうか。
 銀狼の言葉に少し拗ねたような調子だったから、銀狼は安堵してわずかに微笑した。もっとも狼面である事と、位置の関係からひなには分からなかったけれど。
 とん、と銀狼の足が苔むして黒く変わった岩を蹴り、小川を飛び越える。はじめて感じる浮遊感と、足元を流れる銀色の流れ、髪を靡かせる心地よい風に、ひなは自分がしがみついているのが、狼の姿をした恐ろしい妖魔である事も忘れて、村のしがらみから解き放たれた解放感で胸をいっぱいにしていた。着地の瞬間も、わずかもひなに衝撃が伝わる事はなく、銀狼も着地と同時に再び疾走へと移る。
 銀狼は牛馬よりも大きな巨体ながら、猿の様な身軽さで巨木の間をすり抜けて駆ける。山に生まれて育った猪や鹿でも、舌を出して荒い息を吐きだすような険しい道を軽々と越えると、一層濃い緑の臭いがする森の中に広場が見えてくる。
 黒ずんで見えるほど、幾重にも折り重なった木々の枝が円形にぽっかりと開き、大狼の生贄用の小屋よりもいくぶん大きい小屋がそこに建っていた。
 疾走から緩やかな歩みへと変え、銀狼が背のひなに語りかけた。飛んだり跳ねたりと忙しい道行だったが、ひなは眼を回している様子はない。

「ここだ。昔、樵の老人が使っていた小屋だったらしい。あっちの小屋よりもここの方がまだ暮らしやすいだろう。近くに川や泉もあるし、人間の食べられる茸や山菜もあるはずだからな」

 足を止めて腹這いになった銀狼の背から降りたひなが、広場のちょうど真ん中に立っている小屋へと足を向けた。樵が残していった小屋は無人となってからまださほど時間が経っていないようで、傍から見た分にはしっかりとした造りに見える。
 鹿の皮を垂らしているだけの戸をくぐり、中を見回すと、多少埃っぽい空気がしたが、大きな水甕、竈、囲炉裏、鍋などが残っていて、確かに生贄用の小屋よりもこちらの方がひなには暮らしやすいに違いない。
 ひなに続いて銀狼も小屋の中に足を踏み入れた。銀狼が小屋の中に入るのは初めての事だったので興味深げに周囲を見回して、これからひなが暮らすのに何が必要かと思案を巡らす。

「さて、当面の問題はひなの食べ物になるかな」

「銀狼様に食べ物の心配は……いらないのでしょうか?」

「まあね。夜は冷えるから寝具が無いとひなには辛いな。いつまでも私の体が布団代わりでは不憫だ」

 銀狼様の御身体で眠るのは、とっても気持ちいいんだけどな、とひなは思ったが、流石に失礼かと思って口にはしなかった。

「よし、ここは一つ。山の民に頼むとするか」

 山の民、というのは読んで字の如く山に住まう人々の事だ。猟師や樵でも足を踏み入れないような山の奥深くに居を構え、独自の文化や風習を持つ。
 狼や猪、熊といった動物はもちろん、多様な妖魔が蠢く山で暮らす彼らは、厳しい掟と強固な団結力で結ばれている。その為、必然的に排他的になり、ほとんど山の外で暮らす者との接点はなく、ひなもその姿を見た事はない。

「山の民にお知り合いがいるのですか?」

「ん、まあ、一応知り合いだな。ここからまた少し移動せねばならんが、歩きながら話すとしよう。それとも休むか?」

「あ、私なら大丈夫です。そういえば、ここら辺は危険ではないのですか?」

 ひなは持っていた鍋を置いて銀狼の傍に寄った。周囲を警戒するようにして視線を巡らすひなを安心させるために、銀狼は穏やかな調子で話しはじめる。

「山の獣や妖魔ならさほど気にせずともよいさ。樵が休むために建てた小屋だからね、安全には気を配ってある。それに私の気配が残っているから、避ける事はあっても近づいては来ない。それでも、私の眼の届くところにいた方がいいとは思うがね。そういう意味では、まあ、妖魔よりもこれから行く先の方が危ないと言えば危ないな。帰りに川で水を汲んで行こう。桶を一つ持って行きなさい」

「は、はい。あの、山の民の事は話でしか聞いた事が無いのですけれど、どんな人たちなのですか。妖魔よりも危ないって、どういう……」
「私も詳しく知っているわけではないが、妖哭山をはじめ、この国の山ごとに住む人間の集まりというのは知っているな?」

 こくん、とひなは小さな首を縦に振る。小屋を出て、森の中へと通じる道なき道を、銀狼が先導して分け入ってゆく。

「山で採れる鉄や金銀、銅に鉛、錫などの扱いに長けていて、時折山を下りては百姓と毛皮や農具を、米や味噌と交換している。この国の始まりから山に生きるよう、神に定められたとも言われる、山の事を最も知っている人間達だな。鍛冶の技術に優れているだけでなく山の民にのみ伝わる不思議な技術で様々な道具を拵えて、戦がある度に雇われていたりもする連中だよ。集落毎に特色があるものらしいが、ここの山に住むのは煉鉄衆という集まりで、特に鉄武具の製造に長けている。滅多に山の外に出ないからひなが知らないのも当たり前だ」
 
話しながらの道行は、銀狼が足を止めたことで一時、中止となった。ひなが見上げても視界に収まりきらないくらい大きい巨木が門柱の様に聳えている。
ここが、銀狼と山の民にとって何か意味のある場所なのだろう。巨木の門柱の先に人影はない。

「以前に、私を大狼と間違えた山の民と諍いがあった。その時の誤解はもう解いたし、私も手を出さなかったから、あちらに禍根もないはずだったのだが……」

「ここが、なにか関係があるのですか?」

「一人だけ、私と争った時の事を納得していないものがいてな、しつこく私を狙っているのだよ。とはいえ、私には特に戦う理由はなかったし、かといって毎日追いかけられてはたまったものではないから、いくつか条件をつけて勝負する事を承諾した。戦ってもいいが、それは最短でも月に一度、場所もこの林付近に限る、とな。
 山の民の者が勝てば、私の毛皮や牙、爪、骨、血肉を好きにしていい。その代り、私が勝てば、私の言う事を一つ聞く、というのが条件だ。それで今日がその月に一度の日だ。そいつにひなの為の食料などを用意させよう。危ないから、ここで待っていなさい。すぐに終わらせてくる」

「あ、あの」

 心細げな、それこそ風に紛れて消えてしまいそうなひなの声に、銀狼は首を捻って振り返り穏やかな光を青い瞳に浮かべて、枯れ枝を思わせる痩せこけた少女に声をかける。

「相手を殺したりはしないから、安心しなさい」

「いえ、その、お怪我をしないように気をつけてください」 

 心配そうに声をかけてくるひなに対して瞼をぱちぱち開いたり閉じたりしたかと思えば、銀狼の両耳がはたはたと交互に音を立てて動いた。

「ふむ、ふむ。そうか、相手を心配しているのではなくて、私を心配してくれていたのか。誰かに心配されたのは、これが初めてだが、いやはや、悪くないものだな。ひな、君は私が知らなかった事を教えてくれたぞ」

 照れていたらしい。この世に生じてから、ひな以上に他者との交流を持ったことがないせいで、自分が他者になにがしかの感情を向けられるという経験が極めて乏しいためだろう。
 そんな銀狼の姿に、ひなは可愛らしい所のある方、と当初の恐怖はどこへやら、そんなことを考えていた。

<続>



[19828] その四 おやすみ
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/28 21:27
その四 おやすみ 

 ひなに背を向け銀狼は気楽に散歩をする調子で、歩を進めて行く。
 ぷらん、と垂れていた尻尾が機嫌良さ気に左右に揺れていた。
 山の民がふっかけて来た喧嘩を買うのは、何度目になるだろうか。全て自分が勝利してきたが、回数を重ねる度に相手の手が込んで来ていて、ここ最近は気の抜けない勝負が続いている。

「確か、前はここで鉈が降って来たのだったか」

 銀狼の独白と同時に木漏れ日の中に細長い影が紛れ、それらはまっすぐ銀狼目掛けて降り注いできた。
 木漏れ日を反射せぬように黒い塗料で塗りつぶした矢だ。数十本に及ぶそれらを、銀狼は見もせずに右に軽く飛んで躱す。
 勝負は、銀狼があの門柱の様な巨木の先に進んだ時から始まっている。

「風を切る音が前よりも小さくなっている。新しい工夫が凝らしてあると見える」

 相手の成長を感じ取り、喜ぶ余裕があるようだ。羽毛のように柔らかな動きで土を踏んだ銀狼が新たな脅威に気づき、最初に地に触れた左後肢一本の筋肉のバネを使って着地点の真上へと忙しなく飛び上がった。
 銀狼の左後肢が触れた地面の下から竹の槍衾が現れ、一瞬前まで銀狼が居た空間を貫いた。斜めに断たれた竹の断面は、鋭く尖っている。
 断面に塗布した秘薬の効果で鋼鉄の槍と等しい殺傷力を帯びている。これに貫かれていたら、通常の狼と比べ数倍に相当する巨躯と頑健さを合わせ持った銀狼の肉体といえども、無傷では済まなかっただろう。
 空中に飛びあがった状態で、銀狼は次に何が来るかを考えた。数度にわたるこれまでの勝負で相手が用意してきた仕掛けの数々を思い出し、次に何を持って自分を狩りに来るのかを予測する。
 二つの罠はどこに自分が避けても飛び上がるように仕向けたものだろう。となれば全方向からの飛び道具辺りが妥当な所か。
 かすかに風を切る音を、銀狼の耳は聞き逃さなかった。首筋の辺りと、左脇腹、それに右前脚の付け根の辺りに、氷を当てられた様な感覚がする。
そこに迫る危険を妖魔としての直感が感知しているのだろう。
 青い双眸が三方向から迫る矢を捉えた。いずれも人が直接射ったものではあるまい。矢から感じられる殺意の薄さに、銀狼はこの矢もまた回避されることを前提としたものであろうと、判断を下した。
 勝負の回数を重ねる度に周到になってゆく仕掛けを、今はまださほど脅威とは感じていないが、笑っていられなくなるのもそう遠くない日の事のように思える。
 空中で足場にするものが無い状態で、銀狼はその巨躯を大きく捩じった。尋常な生物にはありえない筋肉の柔軟さが、一頭の狼を小さな竜巻の様に回転させる。
 刀剣の刃を弾く銀色の毛皮に回転力が加わった時、突き刺さる筈の矢は触れる端から枯れ枝の様に呆気なく折られて地に落ちた。
 回転を止め、鈍く陽光を刎ねかえしている竹槍の内の一本の断面を、誤って刺さらぬように注意して踏み、その反動を利用してひょう、と宙空を飛ぶ。
 疾風の勢いで飛びながら、流れて行く周囲の視界の中に不自然なものが無いか、銀狼は注意深く視線を凝らす。
 山で生まれ、山に育てられ、山の中で死ぬのが山の民だ。自分を狙うものは、山の民の中でも特に技量に優れ、山を愛し、また同じように山に愛されている者。
 山のあらゆる気が混ざり合って生じた妖魔の目や耳、直感さえ騙す事が出来てもおかしくはない。
 すん、と音を鳴らした鼻は、周囲の臭いの中に違和感を嗅ぎとる事は出来なかった。ひなの日に焼けた肌と髪の臭いがかすかにする。
 湿った土の臭い。草の臭い。咲き乱れている花の臭い。木陰に潜んでいる虫達の鳴き声と臭い。降り注ぐ陽光のぬくもり。
 勝負の場となっているこの森は銀狼の行動範囲故、獣や他の妖魔の臭いはないから、嗅覚を頼りにするのには悪い条件ではない。
 それでもなお、山の民の臭いを感じ取れぬ事に、わずかに銀狼は目を細めた。
土を踏む音一つ立てずに地面に着地した銀狼は四肢を広げて頭を下げ、どんな僅かな音や臭いも逃さぬよう集中する。
 三角形の耳はピンと直立し、同じ狼型の妖魔と比較しても非凡な走力、跳躍力を秘めた四肢は前後左右あらゆる方向に瞬時に移動できるよう、適度な緊張を帯びている。
 歩いている時よりもいくらか四肢を広げていても、銀狼の肩高はひなよりも高い。体重も、妖魔である彼に存在するとしたならだが、ひなの十倍どころではないだろう。
 それほどの巨躯を誇る狼が、明らかに戦闘の意思を目に見えぬ陽炎の如く纏って目の前に現れたなら、どんなに豪胆な者でも、途端に腰を抜かして呆けてしまう。
 銀狼が全方向に向けて照射した敵意にも、山の民は反応しなかった。代わりに銀狼の敵意に触れた昆虫たちがことごとく気絶し、木々や花の気配も薄れる。意識とはいえぬ植物の意識さえ混迷させる妖気を伴う銀狼の敵意であった。

(前は私の敵意に反応して居所が知れた。それを一か月そこらで克服したのか。大したものだな)

 特に目的のある生ではないが、むざむざ殺されるつもりなど毛頭ないし、ましてや今の自分には、面倒を見ると決めた少女もいる。相手もますます手強さを増しているが、今回は、こちらもいつもとは違うのだ。
 銀狼は、ゆっくりと息を吐き、同じ時間で吐いた息を吸った。
 浅く長く吸っていた息に、少しずつ自然ならざる臭いが混じり始めた。土をまぶした縄、幹の中に隠した鉄の刃、しならせた枝に繋いだ短槍、わずかに人の臭いが付着した木々、巧妙に隠された足跡に残っている草履などの臭い。
 直立していた三角形の耳が、かすかに震えた。風を抉るような音と共に銀狼の背後から黒い蛇を思わせる影が迫っていた。
 太さは普通の品と変わらぬが、その長さたるや木々に紛れて判別できぬほどに長い黒縄であった。ここの山の民が使う特異な武器の一つ、剛破縄(ごうはじょう)だ。
 髪の様に細く長く加工した鉄を、小さな鉄片と共に編み込み、扱いに長けたものが振るえば巨岩も容易く砕き、巨木の幹も霞の様に抉り取る殺傷力を帯びる。
 生きた蛇のようにくねくねと幻惑する動きで銀狼を背後から襲う剛破縄の動きは、人の手に操られているとは到底思えぬものであった。
 水中を泳ぐ海蛇を思わせるその動きに虚をつかれ、打たれれば血肉は弾けて簡単に骨が露出する。
 一端を握る操り主の掌や指の動き、圧力で変幻自在に機動を変えるこの武器は、決して紙一重で避けてはならぬ危険な武器だ。
 銀狼は右前肢を支点に体を旋回して躱すが、剛破縄は蛇が鎌首をもたげるが如く、速度を維持したまま向きを変えて銀狼の脇腹を目掛けて飛んだ。
 剛破縄の表面に不規則に突き出ている鉄片一つでさえ、触れるわけには行かない。鞭そのものに打たれれば、肉は爆ぜて骨は砕ける。
鞭から飛び出ている小さな鉄片が触れれば、鋼鉄に等しい硬度を持つ銀狼の毛皮といえども容易く切り裂かれるだろう。
 避け損ねて動きを鈍らせれば、その隙に剛破縄が銀狼の周囲でとぐろを巻き、三つ数える前に狼の挽肉が出来上がるのは間違いない。
 勝負を始めた当初は、銀狼の毛皮や骨を目当てにしていたのか、ある程度形が残る程度に殺傷力を抑えた罠や武具を使ってきたが、ここ最近はそんな事に頓着せず殺傷のみを目的とした罠ばかりになっている。
 幾度も敗北を重ねてきたために、相手も引くに引けぬ所まで追い詰められているのかもしれない。
 自分の左脇腹を目掛けて迫りくる剛破縄を、銀狼は無造作に左前肢を振るって打ち落した。
 鉄砲玉も弾く鉄板を腐った木の板の様に貫いて砕く剛破縄は、鏡の様に研ぎ澄まされた断面を晒して先端が斬り飛ばされていた。
 白銀一色の毛に包まれた銀狼の足から延びるやや湾曲した爪の所業である。
 斬り飛ばされた先端があらぬ方向に飛び、大の大人でも一抱えもある木の幹にぶち当たって、その木を半ばからへし折った。
 先端を失って動きの乱れた剛破縄に触れぬよう気を配りながら、銀狼はぐっと姿勢を低くして駆けた。肢が地面にめり込み、凝縮された力の凄まじさを証明する。
 周囲の木々を揺らす爆音が生じ、銀狼の肢が蹴った地面が悪い冗談のように弾け飛ぶ。風さえ引き裂く速度を得た銀狼は、瞬時に後方に流れて行く周囲の光景には目もくれず、剛破縄を辿って操り主の下へと駆ける。
 途中、方向を転換する為に蹴った木の幹や地面が次々と弾け飛び、遅れて仕掛けられていた罠が発動するが、仕掛けた主が想定していた速度をはるかに上回る銀狼の動きを捉える事は出来ず、無駄に終わった。
 何もない空間を貫き、無駄に終わる罠の数々を、銀狼に悉く敗れてきた少女は臍を噛んで見守っていた。
 銀狼に勝負を挑み続けているのは、先月、十六になったばかりの山の民の少女であった。熊皮の袖無し上衣を着こみ、腰に大小の革袋に山刀や矢筒を提げている。
山の厳しい暮らしが、瑞々しく若さのもたらす活力に満ちた体から余分な肉をそぎ落としている。
 頼りなくさえ見える華奢な体ではあったが、必然的に鍛え抜かれた肉体と適度な脂肪で構成された肉体は、外見の細さを裏切る強靭さとしなやかさを秘めている。
 猫科の動物を思わせるやや吊り上がった大粒の瞳は茶の色を帯び、首筋に掛かる程度に切り揃えられた髪は夜の闇を写し取った様に深い黒で、ろくに櫛を通していないのかややぼさぼさである。それを茶色の布を巻いてまとめていた。
 山の豊潤な生命力が小さな体一杯に詰まっている事が、一目で分かる少女だ。
 名を、凛、と言う。
 集落の薬師の婆に特別に調合してもらった臭い消しの粉薬を全身にまぶして銀狼の嗅覚を欺き、銀狼の聴覚が捉えられぬくらい小さな吐息を、梢がざわめく音や遠く聞こえてくる鳥の鳴き声に紛れさせて隠していた。
 凛が銀狼にたびたび勝負を挑むのは、ひとえに自らの山の民としての誇りに由来する。凛は集落でも最も鍛冶に長けた家の娘であった。
 たびたび村を襲う山の妖魔を、一族に伝わる特殊な武器を駆使して撃退し、集落の始まりから今に至るまで守り抜いてきたという自負がある。
 銀狼がひなに語った様に、かつて山の民の間で、度々集落の外に出た者達が大狼の餌食となったことを重く見た長老衆の決定により、選りすぐった精鋭達が大狼退治に赴いた時、出くわした銀狼によってその誇りに一筋の深い傷を刻まれる事になってしまった。
 なぜ自分が狙われるのか皆目見当もつかず反撃せずに回避に徹していた銀狼に向けて、幾度となく振るわれた必殺の武器達は、なんら成果を上げられずその必殺の威力は一度も発揮される事はなかった。
 同道していた祈祷師の爺が、自分達が狙っている妖魔が大狼ではない事に気づき、またその性根が邪悪ならざるものであると説得した為に、それ以上無益な戦いは続けられなかったが、自分達が誇りに思っていた武具とそれを操る技が通じなかったという事実は、大なり小なり、退治に赴いた者達の胸に衝撃を残していた。
 特にこの時、山の妖魔の中でもその凶暴性、妖気の強さから特に危険視されていた大狼退治とあって、精鋭達に貸し与えられた武具は特別に吟味されたものだった。
 それが通じなかったという事実は、凛をはじめ、集落の鍛冶衆達に屈辱と敗北感を与える結果につながってしまった。
 退治から集落へと戻ってきた精鋭達の報告から、すでに大狼が滅び、新たに姿を見せた狼の妖魔も、危険視する様な存在ではないと判断した長老衆は、これ以上の銀狼への手出しを禁じたが、これに異を唱えたのが凛、その父母をはじめとした鍛冶衆達であった。
 自分達の存在意義ともいえる武具が通じぬままとあっては、先祖や集落の者達にも面目が立たぬ、なんとしても今一度機会を与えて欲しいと願い出たのである。
厳しいという言葉だけでは到底語りきれぬ暮らしを強要される山では、余分な事に割く人手や物はなく、必死の懇願は最初すげなく長老衆に却下された。
 だが、何度断られようとも地に額を擦りつけて連日連夜願い出る凛の姿に、心動かされた集落の者達の陳情もあって、最終的に長老衆は凛の銀狼への挑戦を許した。
 とはいえ無条件で許したわけではない。
 先に銀狼が凛との勝負に提示した条件をひなに述べたように、いきなり凛に問答無用で銀狼へ戦いを挑ませる事は、凛を支持した者達にも躊躇われた。
 というのも、凛が再戦の許しを得るまでの間に、山の恵みの採取に出歩いていた女子供や、妖魔との戦いで負傷し集落に戻る余力を失った若者たちを銀狼が救った事が何度となくあったためだ。
 大狼の代わりに現れた銀色の狼がひどく人間に友好的で、見返りを求める事もない態度に対し、集落の者達は少なからず好意や感謝の念を抱いてもいた。
 また山の民は巨岩や巨木に対する信仰を持つ傾向がある。雄大で豊かな恵みをもたらす存在であると同時に、命を奪う厳しさを見せる自然を恐れ敬い、感謝の念を忘れぬ彼らにとって、邪気が無く友好的な態度を見せる銀狼は、天地の様々な気が混じって生ずる妖魔とはいえ、いやだからこそ山の豊さや優しさ、美しさが集まって生まれた存在なのではないかと思わせ、畏怖こそすれ排除すべき存在とは思い難かったのである。
 ただ鍛冶衆達の思いも同じ山に生きる者として十分に分かるが故に、銀狼との再戦を是とする事は、判断を下す長老衆にしても難しいものであった。
 長老衆の屋敷に呼び出された凛が、銀狼との戦いの許可を得て血気に逸るのを宥め、まず銀狼に対して敬意をもって接し、自らの挑戦を宣言し、銀狼が承諾するまで挑んではならぬと、厳しく言い聞かせた。
 銀狼が凛との勝負を承諾するまでの間、凛の傍には長老衆からの通達を破らぬよう見張る監視の者達が付けられ、数日にわたる追跡行の果てに、ようやく銀狼と話をする事が出来た。
 そこに至るまでに払った多大な苦労と、勝負が始まってから今日に至るまで敗北を重ねてきた恥辱の思いと未熟な己への怒りが、凛の目に暗い炎を灯している。
 何十世代にもわたって連綿と伝えられ、改良を重ねてきた自分達の武具が無力なものではないと証明し、鍛冶衆としての誇りと面子を保つためにも、なんとしても凛は勝たねばならなかった。
 これまで命を失う事も厭わずに挑み続け、同じ数だけ敗北した凛に対し、銀狼は何も要求してこなかった。そのこともまた凛の胸にどろどろと粘っこく燃えている怒りの炎に、薪をくべてきた。
 生きる為に命を奪い、生死のやり取りを交わすが故に山の獣や妖魔達と、自分達人間が同じ世界で生きる生命であると考える山の民の凛にとって、命を賭す自分の思いを――当人にそのような意図はあるまいが――まるで気に留めぬ銀狼の態度は許し難い。
 敗北し、命を奪われずに済んだ弱者の立場である自分が、その事に不平を言う資格がない事は凛自身理解していた。だから、小さな胸の中に渦巻く鬱屈とした感情は消して口にはせず、憑かれた様に連日鍛冶場に籠って鉄を打ち続けた。

(銀色の、お前はあたしに情けをかけた。あたしはそれを仇で返す。恩知らずと好きなだけ罵ればいい。けれど、そうさせたのはお前だ。命を賭けたあたしに対するお前の態度は、お前自身気付いていないかもしれないが、見下し対等とみていないものだった。
 あたしに向けられた目には何の興味も関心もなかった。それがどれほどあたしにとって屈辱であった事か。逆恨みかもしれないが、お前の首を取るまであたしの怒りは収まらない)

 気取られぬように、感情を極力抑制する凛の瞳には、白銀に輝く美しい狼の姿が映っていた。
 凛は手に握っていた剛破縄を、音を立てぬようにそっと落とし、左の小指に巻いてある糸をいつでも引けるように意識する。
 目にも止まらぬ速さで駆けていた銀狼は、凛が手放した事でだらりと剛破縄が地面に垂れ落ちたのをすぐさま察知し、一本の大木の幹に対して昆虫の用に張り付く姿勢で肢をふんばって次の手を警戒した。
 この時、すでに銀狼は凛が息を潜めている場所まで目と鼻の先という位置に接近していたが、耳も鼻も凛の存在を察知できずにいた。
 これほど自分の耳と鼻が役に立たないと思ったのは、銀狼にとって初めての経験であった。
 希代の刀鍛冶が世に送り出す最後の一振りとして、持てる技術の粋を凝らした名刀に匹敵する切れ味を持つ足の爪は、しっかりと幹に刺さり銀狼の体を支えている。
 全方向に神経を巡らす銀狼の耳が、ざあ、と枝葉が大きく揺れる音を捉える。銀狼が巻き起こした風のせいではない。となれば凛の起こしたものだろう。なにか仕掛けて来るかもしれないし、あるいは何も仕掛けて来ないのかもしれない。
 山の狩りは数日をかけて行われることもしばしばある。これまでの勝負で最も時間がかかった時で、丸三日時を要した事があった。
 凛が今回の勝負を短期決戦と見るか長期戦とみているかで、打ってくる手も変わってくるだろう。長期戦ならば罠があると見せかけて何もせずに、心理的な圧力をかける事も多い筈だ。

「とはいえ、ひなを待たせるのも可哀そうだし、時をかけるつもりはないぞ。煉鉄衆の凛よ」

 踏ん張っていた姿勢から体重など無いような柔らかな動きで地面に降り立った銀狼は、焦っている様子もなく、はらはらと絨毯の様に舞い散る木の葉に目を光らせていた。さて、これは罠か否か。
 木の葉に意識を集中していると見えた銀狼は、しかし、その姿を凝視していた凛が予測しなかった動きを示した。
 目線を前方に縫い止められたように留めたままの姿勢で後方へと跳躍し、先程まで踏ん張っていた巨木へ向けて空中で向きを変えて思い切り体当たりをかましたのである。
 銀狼の体当たりを受けた巨木は見るも無残に砕け散り、破片が四方に散逸する中から人影を一つ排出した。小柄なその影は凛に他ならない。どうして分かったと、顔に書いている凛と目を合わせ、銀狼が答えを開示した。

「私が着地した時、呼吸が乱れたぞ。返ってきた振動も、木のそれではなかった。それまでは見事に心臓の音や呼吸を隠していたが、失敗を犯したな」

「っ」

 唇を噛む間も惜しんで凛は腰の革袋に手を突っ込み、掌に収まる程度の小さな円盤を取り出し、流れる動作で銀狼へと投じる。
 幻刃盤と名付けられた円盤の縁は触れるだけで人間の腕の一本は簡単に落とす切れ味を持ち、また平らに見える円盤の表面にはわずかな凹凸があり、操る者の技量次第では方向を問わず、速度もまた変幻自在に動き獲物を切り裂いて見せる。
 凛の技量は、銀狼との戦いを許されるだけの事はあった。右の幻刃盤は大きく弧を描いて銀狼へと襲いかかり、左の幻刃盤は下に沈んだかと思えば上に浮きあがって定まらぬ変則的な軌道で襲いかかる。
 瞳に映した幻刃盤の姿が、瞬いても消えぬ事に気づき、銀狼がわずかに緊張の度合いを強くする。降り注ぐ陽光が微細な凹凸によって反射され、目に映した者の網膜に瞬いても消えぬ幻を焼きつけるのだ。
 不規則に変化する動きのみならず、狙った相手の視覚も幻惑する為に、幻刃盤と名付けられたのだろう。
 優雅に飛んでいる燕さえ落とす速さの幻刃盤に対し、銀狼は上下運動をしながら迫る幻刃盤の上面を右前肢で思い切り叩いて砕いた。
 幻刃盤が脆いのではなく、鉄と銅を一族にのみ伝わる比率で混ぜ、特殊な製法で鍛え上げた幻刃盤を砕く銀狼の膂力が異常なのだ。
 銀狼の瞳の中には幻刃盤の偽りの映像が焼き付いて消えず、幻刃盤が風を切る音とわずかに付着している凛の臭いを頼りに肢をふるったが、それが功を奏した、と内心では安堵した。
 銀狼は安堵の息を吐く暇もなく、刹那の差で襲い来る幻刃盤に嗅覚と聴覚を集中する。風を切る音が近い――ここだ、と銀狼は大口を開く。
 空中に弧を描いていた幻刃盤はがき、と硬質の音と共に銀狼の牙の間に噛み止められていた。のみならず、銀狼は首を勢い良く捩じった勢いを利用して、凛目掛けて噛み止めた幻刃盤を投げ返す。
 扱った経験のない銀狼が投じた幻刃盤は何の工夫もなくただまっすぐに、凛へと襲いかかり、とっさに凛が抜いた山刀がかろうじて幻刃盤をはたき落した。
 幻刃盤を弾いた山刀を通して伝わった衝撃が、凛の腕を痺れさせていた。姿勢を崩したまま着地した凛に、銀狼が銀色の雪崩の様に襲いかかる。凛が崩した体勢を立て直して迎え撃つのは、不可能な速さであった。
 巨大な白銀の獣が自分の視界を覆い尽くすのを、凛は防ぐ事ができなかった。山刀を握る右手は銀狼の右前肢に押さえつけられ、胸元に左前肢が乗せられている。
 凛がどのような動きを見せるよりも早く、その左前肢から延びた爪が凛の喉を裂くか、そのまま胸を骨ごと押し潰す方が早い。ましてや腕の痺れはまだ残っている。
 敗北した凛に対して侮蔑も勝利の余韻も優越感もなく、ただなんの感情も込めず静かに見下ろす銀狼の姿に、凛は一瞬忘我する。初めてその姿を見た時も、同じように銀狼の姿に心奪われ呼吸をする事さえ忘れた。
 銀狼の、狼としてはあまりに規格外の巨体の迫力もさることながら、何よりも見る者の目を引きつけるのはその美しさである。
彼方の稜線を燃え上がらせる曙光、中天に燃え盛る太陽、世界に黄昏時を告げる夕陽、静かに夜の世界を見守りながら照らし出す月光を浴びる時、銀狼の持つ白銀の毛並みは、あたかも燃え盛っているかの如く輝きを放ち、美しさという言葉の真の意味を見る者に教える。
 その姿に脆弱さなど欠片もある筈がなく、誰も踏みしめていない処女雪の白色を写し取った毛並と、夜の闇の中でも眩いまでに輝く青い瞳はどこか高貴さすら漂わせている。
 銀狼の姿を見た長老が、この世で最も美しい獣と、糸のように細い眼から滝の涙を流しながら呟いた時、その場に居た誰もが心から同意した。その中に凛もいたのだ。
 集落の中には他の妖魔とは一線を画す威厳と美を誇る銀狼に対し、崇拝の念を抱いている者さえいる。凛もその気持ちは分からなくもない。自身の心の中に、銀狼に対する憧憬めいたものがある事は、苦々しくはあるが自覚している。
 最初に銀狼に対し戦いを行う事を求めた理由に、鍛冶衆としての誇りと意地が根底に流れていた事は確かだ。だが、それ以外にも自分の心を奪った獣と存在の全てを賭けた戦いを挑む事で、対等でありたいと言う欲求があった事もまた事実であった。
 であるのに、万感の思いを秘めて持てる知識と技術の限りを尽くして挑み敗れた時、銀狼の牙にかかり、その血肉へと変わるのだと諦感と倒錯的な喜びに胸震わせていた凛に与えられたのは、無関心の瞳であった。
 恐怖と敗北感と喜びと期待とに震える声で、食え、と短く告げると銀狼は凛を抑えていた肢をどけ、無言のままくるりと背を向けて、何もされなかった事に驚きと失望と悲しみを覚える凛を振り返る事もなく、山の何処かへと消え去っていった。
 それが繰り返される度に、凛の誇りは恥辱に塗れ、敗北に膝を屈する。打ちひしがれた心はその度に憤怒を糧にして立ち上がってきた。今日も、またそうなるのかと凛は、心のどこかで囁く諦めた自分の声を聞いた。

「事を重ねる度に恐ろしく腕を上げるな、お前は。だが、今日も私の勝ちだ」

「っ、あたしを殺せ……。またお前の命を狙うのだぞ、なのになぜ、貴様はあたしになにもしない?」

 思わず口汚く罵りそうになるのをぐっとこらえ、凛は低く押し殺した声で、いつも銀狼に問いかけている事を口にした。今まで通りならばこのまま銀狼は何も言わずに肢をどけて凛に背を向け、森の彼方へと姿を消す。
 しかし、凛は今回に限って銀狼がいつもとは違う事情で勝負に挑んでいた事を知らなかった。だから、銀狼が肢をどけても去らずにその場に留まっているのに、端正だが野性味を伴う眉を顰める。
 銀狼は、まだ幻刃盤の影が消えぬのか、瞼を開いては閉じ手を数度繰り返してから言った。

「今日はこれまでの貸しを払ってもらいたい事情がある」

「なに?」

 勝負の条件通りに銀狼が要求を告げてきたことに対し、凛は喜びの様な物を感じていた。ようやく生命と誇りを賭けて挑んだ自分が、この妖魔と対等かそれに近い立場に立てるのかと、心のどこかで考えた為だろう。
 とはいえ、銀狼の要求次第では自身の生命がこの場で果てるかもしれぬと言う事に思い至り、凛は心中に芽生えかけた恐怖を何度も重ねた覚悟で潰さねばならなかった。

「あたしを食うのか? それとも村の誰かを望むのか? 食べるのならあたしにしてくれ」

「そんな事はせんさ。私はまだ牙を人の血で汚した事はないし、これから汚すつもりもないのでね。ただ、急に色々とものが入用になったのだ。説明するから、着いて来い」

 言うが早いかくるりと背を向けてさっさと歩きだす銀狼の後ろを、凛は慌てて追わなければならなかった。

「あ、罠があったら言ってくれ。いちいち確認しながら進むのは面倒だから」

「……分かった」

 前から思っていたが、妙に慣れ慣れなしい奴だな、と凛は愚痴を零しつつ黙って銀狼の後に続く。
 銀狼の意図が分からず警戒を怠る事の無い凛ではあったが、今回の様に勝負の後で銀狼に用があると言われたのは初めての事なので、何を言われるのか、何をさせられるのか、抑えきれぬ興味はあった。もともと好奇心が旺盛な性格と言うのもある。
 いくつか残っていた罠を、凛の指示で避けながら進んだ銀狼は、例の対になっている巨木の所で待っていたひなが見えると、やや小走りになって近づいた。どことなく、はぐれてしまった大好きな飼い主を見つけた飼い犬の様にも見える。
 同じように銀狼の姿を見つけたひなが、心細げに曇らせていた表情を、たちまち明るいものに変える。

「銀狼様」

「お待たせ。少し時間がかかってしまったかな。ひな、あれが山の民の凛だ」

「あ、あの、初めまして、ひなと申します」

 ちょこんと小さな頭を下げて挨拶してきたひなを、凛は訝しげな眼で見ていた。銀狼と、山の者ではないと一目で分かる少女との組み合わせを、どう判断すればよいか見当がつかなかったからだ。

「なぜ、外の者がお前と共に居るのだ。銀色の?」

「山の民と同じ勘違いをされたのが事の始まりでな」

 銀狼はどこか愉快そうな口ぶりで、ぶすっとした表情を浮かべている凛に対し、ひなが大狼に捧げられた生贄であり、大狼と間違えられた自分が、事情あって面倒を見る事にしたのだと告げた。

「ふうん。大狼が滅びた事を外の者達は知らんのか。で、あたしに何をしろと言うのだ。言っておくが、山の民は外の者は滅多な事が無い限りは受け入れないから、集落で引き取って養う事は出来ないぞ。それに、生まれた時から山で育っていないとここで生きる事は難しい。まあ多少は同情しないでもないが」

 口調は厳しくあったが、幾分ひなに対する同情と、受け入れる事を拒絶する申し訳なさが含まれている事を、凛の言葉の中から銀狼は聞きとった。
 人の心の機微に疎い銀狼からしてこうなのだから、人の顔色を伺う事や向けられた好悪の感情を敏感に感じ取るひなには、よりはっきりと分かる。ひながはじめて目にした山の民の少女は、結構情け深く、嘘がつけない性分らしい。

「そこまで求めてはおらんさ。ただこれまでの貸しの分をまとめて払ってもらうためにも、米とか布団とか、人間がここで暮らすのに必要そうなものを調達してもらいたい。私だと大狼の真似をして近隣の村から脅し取るか、盗むくらいしかできん。それ位なら長老衆も許すだろう」

「……」

 変わらず気楽な調子の銀狼を睨みつけていた視線を外して、凛はひなの方へと目を向けた。銀狼がいつもと違う対応をしてきた根本的な理由である少女からは、困惑や申し訳なさ、遠慮があからさまに見て取れる。
 まだ短い人生の多くの場面で、自分の意思を数多く抑えてきたのだろう。自分の為に誰かが何かをしてくれると言う事が、久しくなかったに違いない。

「分かった。話は通しておく。次の勝負の時までの間に都合をつけておこう。で、どこに運び込めばいい。ここか?」

「いや、この先に樵が使っていた小屋があるだろう。あそこで生活してゆくつもりだから、そこに運び込んでくれ。頼りにしているぞ」

 銀狼の言葉に、凛はなんとも言い難い、本人も良く分からん、といった顔をした。誇りと生命を賭けて挑み、ついに食われるのかと心のどこかでひどく緊張していたというのに、銀狼のいつもと変わらぬ態度を見ているとそんな自分が馬鹿らしくもあり、ひどく情けなく思えてくる。
 だというのに、この憎たらしい狼に初めて頼む、と言われてみると、断る事はどうにも躊躇われて、勝負の事を抜きにしても引き受けてもいいのではないかと言う気になってしまい、凛は首を捻った。
 女たらしならぬ人たらしとでも言うべき魅力の様なものが、銀狼には備わっているのかもしれない。

「これから戻って用意してくる。夕刻には届けられるだろうから、小屋に戻って待っていろ」

「よろしく」

「えと、よろしくお願いします」

 銀狼の傍らで可愛らしく頭を下げるひなの姿に微笑ましいものを感じつつ、凛は先程の銀狼との勝負で使った道具の始末をする為に、一度来た道へと戻ってゆく。 その姿が、幾重にも折り重なっている木々の合間に消えてから、銀狼が傍らのひなに話しかけた。

「待っている間、退屈ではなかったか」

「大丈夫です。私、山の民の人、初めて見ました」

「もっと人間離れした姿をしているとでも思っていたのかい?」

「んと、少しだけ。私達と変わらないのですね」

「見た目はそうかもしれんが、山の民とそうでない者とでは生き方や考え方がだいぶ違うだろうがね。さて、近くの川に寄って水を汲んでから小屋に戻ろう。ついておいで」

「は、はい」

 銀狼に誘われた先には、確かに言う通りに清らかな水が豊かに流れる川があった。苗場村では見られなくなって久しい水の流れに、ひなの目が丸く見開かれる。山の外と中でこれほど環境が異なっている事が、不思議でならない。

「川魚もたくさんいるし、そのうち罠でもつくって仕掛けておくといいかもしれんな」

「ほんとにたくさん居ますね。でもどうしてこんなに山の中は豊かなのでしょう?村からそんなに遠くないし、天気だって変わらないですよね?」

 川岸にしゃがみ込んで、透き通った流れの中で泳いでいる魚の姿に、ひなが明るい笑みを浮かべる。

「そればかりは私にも謎だな。知っていそうな奴に心当たりはあるがね。そうだ、ここにも一匹、気の良いのがいるんだ。話を通しておこう。沢爺、いるだろう。出て来てくれないか」

 銀狼の声に応じて、川の水面がぶくぶくと泡立つと、そこからひなの両手くらいの大きさの沢蟹が顔をのぞかせてきた。

「ひゃっ」

 ひなが驚きの声を上げたのは、その大きさもさることながら、口のあたりから真白いひげが生えている事だった。人間の老爺のものと変わらぬ髭であった。水面にひょっこりと顔を出した年経た沢蟹は、驚いているひなの足元まで近づいてきた。

「おお~う、狼の、今日は、なんぞ用でもあるのかね……。おや、人間の子供など連れておるとは、どうしたね?」

 しわがれた老人の声が、忙しなく動く沢蟹の口元から聞こえてきて、ひなはまた驚く。妖魔の中には高い知性を持ち人語を解する者もいると、今は亡き父に聞かされていたが、こう、立て続けに遭遇するとそれでも驚く。

「うむ。実は、この娘、ひなというのだが、しばらく私が面倒を見る事になってね。森の中にある小屋を住まいとするのだが、この川が一番近い水場だから、これからも水汲みに来るだろう。なるべく私もひなと一緒に来るつもりだが、もしひなが一人で来た時に川に落ちるような危ない目に遭ったら、助けてやってくれないか」

「ああ、それ位なら構わんよ~う。お前さんには前に、乱暴な奴を追い払ってもらったからなぁ。しかしよう、人間の子の面倒を見るのなら山の民を頼るべきなのではないかい。人の事は人に任せるのが一番と、賢いお前さんなら分かろうものによ。あの、なんといったか、凛か。あの娘に頼めば何とかなるのではないかい」

「いや、彼女は山の民の掟に縛られている。あそこは同じ山の民以外の者を滅多な事では受け入れはしない。凛に頼んでも無理な事だ」

「そうかい。まあ、お前さんは随分と変わりものだからねえ。人間の子の一人や二人面倒を見ると言いだしてもおかしくはないさね。ひなちゃんや、ここらは狼の縄張りだからね。人を襲う様なやつぁ、そうそう姿を見せはしないが、気をつけな。あ、後ここで魚を獲るのは構わんが、わしの仲間は勘弁してくれなあ」

「はい、分かりました。沢爺様」

「ええ返事じゃて。用はそれだけか? ならわしは戻るでな。ではの、ひなちゃん、狼の」

 そう言って、川底を歩いて戻ってゆく沢爺を見送ってから、ひなは持ってきた桶に水を汲んだ。

「銀狼様はお知り合いがたくさんいるのですね」

「いや、そうでもないよ。知り合いと呼べるものは、数える位だな。あまり遠出はしないし、山から下りた事もない。私にとっての世界はこの山ですべてだ」

「だったら私もです。村で生まれてから外に出た事がなかったから、村しか知りません。でも銀狼様に会えて、知っている世界が少し広がりました」

「ん、私もだな」

「お揃いですね」

「そうだな」

 どことなくひなが嬉しそうだったから、銀狼もつられるように嬉しくなった。共に過ごした時間はまだ短いが、この一人と一匹の間ではそれなりに精神的な交流が行われているのだろう。
 銀狼はともかくとして、ひなは目を覚ましてからなにも口にしていなかったので、川の水を少し飲んで喉の渇きを癒した。水をいっぱいに汲んだ桶は、ひなにはやや荷が重い様だったので、銀狼が咥えて運ぶ事にした。
 凛が一度集落に戻ってから銀狼の要求を達成して小屋に姿を見せるのは、どんなに早くても陽がとっぷりと暮れてからだろうから、小屋に戻ったら山菜や茸でも取ってこようかと銀狼は考えていた。太陽は中天にかかっている。
 人間の子供がどの程度一日の間動き回れるものなのかさっぱり分からなかった銀狼は、頻繁にひなの様子を見て、今日はどこまで動き回って大丈夫なものか注意しなければならなかったし、そもそもひなは飢饉に見舞われた村の子だ。満足に食べる事も出来ていなかったろうから体だって弱っているはずで、何か食べさせないといけないと頭では分かっている。

「はあ、ようやく着きましたね」

 ふう、と息を吐くひなの額や首筋には珠の汗が浮かび、小さな体の中に多くの疲労が詰め込まれている事が見て取れた。
 ひなは右手に持っていた荷物を、近くでとってきた葉の上に置いた。川で水を汲むついでに銀狼が獲った川魚二匹だ。草で編んだ紐で尾の辺りを縛ってある。

「包丁はないから、私の爪で捌くか」

 にゅ、と銀色の毛の塊の中から真珠色の爪を出した銀狼が、川魚の腹の辺りに爪の先を宛がった所で動きを止めた。

「ひな」

「はい、なんでしょう?」

 動きを止めた銀狼に対して、どうしたのかしら? と思っていたひなは、こちらを振り向いた銀狼に、小首を傾げて聞き返した。

「魚の捌き方は分かるか? 私はやった事がないから分からない」

 それはそうだろうな、とひなも思う。狼がわざわざ魚の内臓やら骨やらを分けて食べる様な事はすまい。
 というか、銀狼に魚を捌いて食べると言う発想があった事が、ひなには意外だった。そのまま生で食べるつもりなのだろうな、とばかりひなは思っていたのだ。

「ああ、はい。どうしましょうか、私が指示を出せば良いでしょうか。でも、魚を焼くなら火を起こせるようにもしておかないとですから、木の枝や薪を用意しなきゃ。それに水もまだほんの少ししかないですし、また汲みにいかないと」

「そうか。とはいえ、すぐにまた出歩くのは辛そうだ。少し休もう。疲れていようし、腹も空いているだろう。木の実か茸でも採ってくる。近くにいるから、この小屋で待っていなさい。なにかあったら大声で呼ぶんだぞ。三つ数える前に戻ってくる」

「はい」

「なんなら少し眠っておくといい。今日は朝から動き回ってばかりいたしな」

 そう言って、銀狼は小屋を後にした。本物の銀を加工して一本一本植えたのではと思わせる眩い輝きを放つ毛並みが、鹿皮の戸をくぐっていくのを見送ってから、ひなはこてんと仰向けに寝転んだ。冷たい床が体の熱を吸ってゆくのが心地よい。
 恐ろしい伝説と共に語られる妖魔の生贄になる筈が、どんな運命の気まぐれか、こうして狼の妖魔に面倒を見てもらう事になり、これまで一度も足を踏み入れたことのない山の奥深くで共に生活してゆくことになった銀狼は、もう記憶の彼方にしかいない両親と同じくらいにひなの事を優しく扱ってくれていて、村での惨めな生活を思い返すと、このまま銀狼と暮らして行ければいいと、早くもひなは思い始めている。
 村に比べてはるかに命を失いかねない危険が多い筈の山も、これまでは銀狼が傍に居てくれたことで危険な目に遭う様な事はなかったから、銀狼と共に暮らす事への恐怖と言うものはまだ薄く、そも、命を捨てる覚悟を、食われて来いと優しく冷たく言われた時から固めている。
一度は死を受け入れたひなにとって、自分を取り巻く環境が一晩で激しく変化し、死地へ赴いた筈なのに、待遇が百八十度変わって優しく扱われている事が、まだ心のどこかで現実感に乏しい。
 むしろ、戻ってきた銀狼が心変わりをして、自分を食べる方が当然の事の様な気もしている。

「銀狼様が変わっているのかなあ、それとも狼は皆、ああなのかなぁ……」

 朝から歩き通しで疲労をたっぷりと貯め込んでいた体は、瞬く間にひなの意識をまどろみの中へと招きいれた。すぅすぅ、と小さな寝息が聞こえだしたのは、ひなが寝ころんでからすぐの事であった。
 思ったよりも早くひなでも食べられそうな茸や果実を集めて小屋に戻った銀狼は、心地よさそうに眠っているひなを見つけて眦を下げた。枇杷や茸を置き、ひなの傍らにしゃがみ込んで、昨夜そうしたようにひなの小さな体を包み込むようにする。

「おやすみ、ひな」

 優しく囁き、銀狼は鼻先をひなのこけた頬に寄せた。

<続く>



[19828] その五 雨のある日
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/29 21:20
その五 雨のある日

 小屋の外に新たに生じた気配に気づき、自分の肢の上に頭を乗せていた銀狼が、ぱちりと瞼を開いて青い瞳を戸の方へと向ける。
 小さく三角形の耳が動いて、近づいてくる物音に反応する。峻嶮なこの山には珍しい馬の蹄の音である。数は一頭。連れている人間も一人だから、凛だろう。差し込む陽射しの傾き具合から、まだ夕刻というには早い。
 凛の交渉能力ないしは物資調達能力を、銀狼が侮っていたようである。銀狼の予想よりも早い到来は、煉鉄衆の集落でも貴重な馬の使用が許されたためだろう。ひなを起こさぬよう慎重に体を起して、銀狼は小屋の外に出た。

「思ったよりも早かったな」

「銀色の」

 こちらを振り向いた凛の方へ、銀狼はなんら警戒している様子もなく歩いてゆく。その無防備とも取れる様子に、かえって凛の方が、少しは緊張感を持たんかと言いたくなった。
 銀狼からすれば、嗅覚や聴覚などの五感や第六感が危機を感知していないからこそ、これほど無防備なのだと言うだろう。
 仮に、今、凛が殺意を露わにして腰の山刀を抜いて斬り掛かってきても、逆にその首を噛み千切る事は簡単に出来る。過信ではなく、自身の能力と凛の身体能力を正確に把握しているからこその判断なのだ。
 互いの身体能力を別にしても、山の民の民族的な傾向と凛個人の性格からして、一度交わした約束を反故にする様な事はしないと、銀狼が信じていたためでもある。
 凛が手綱を握っている馬を見て、銀狼がほお、と呟いた。

「米俵に、この臭いは豆味噌と塩かな。鉄の臭いもするし、木の臭いもする。ずいぶん大荷物だな」

 凛が連れてきた馬は栗色の毛をもった年若い雌馬であった。最初は銀狼の姿と臭いに驚いた様子を見せたが、凛に首筋を撫でられて宥められた事と銀狼が敵意を向けず、威嚇する様な真似もしなかったおかげで、暴れる様な事はなかった。
 雌馬の背には籐籠や米俵をはじめとした荷物が荒縄で可能な限り括られていた。よくもまあ、これほど集められたものだと、銀狼はしきりに感心して頷いている。

「ここで暮らしていけるようになるまで、これ位はいるだろうと思っただけだ。それにずいぶん腹を空かせている様子だったからな。銀色の、お前、何時からひなを?」

「昨夜だ。送り出される時にたらふく食べさせてもらえたようだが、水を飲んだきりなにも食っておらん。今は歩き疲れて眠っている」

「下手なものを食ったら腹を壊すしな。火打ち石も持ってきてやったから、ちゃんと火を通して食わせろよ。というかお前、人が食べても大丈夫なものとそうでないものの区別はつくのか?」

「君らが採っているものと同じものだけを選んだから大丈夫だとは思うのだが」

「なんだか不安だな。荷物を運びがてらあたしが見てやるよ」

「助かる」

 馬から下ろした荷を小屋に運び込み始めてからしばらくするとその物音か凛の気配で、ひなが目を覚ました。
 桶に入れて塩漬けにした川魚や山菜、米俵ばかりでなく、包丁や柄杓、小袖や布団と次々と運び込まれてくる品に、目を覚ましたばかりのひなは夢の中にいるのだろうかと、まだ重い瞼をこすってみる。

「お、起きたか」

 眼を覚ましたひなの黒瞳を、銀狼の青い瞳が覗きこんだ。青い霧の世界に紛れこんだ様に映る自分の姿を、ひなは不思議そうに見つめた。

「あ、あの、私」

「もう荷物は運び終わったから、気にしなくていいぞ」

「銀色の、床に上がるなら肢の裏くらいは拭け。お前はあたしらと違っていわば裸足だろうが」

「それもそうか」

 ひなはいつの間にか凛が姿を見せ、がらんとしていた小屋の中に物が随分と増えている事に気づく。自分がついうたた寝をしている間に全て運び終えていたようだ。

「おい、ひな」

 凛がひなの隣に腰かけた。両手に盆を持っている。銀狼はひなを挟んで凛の反対側に腹這いになって、頭を組んだ肢の上に乗せ、ひなと凛の様子を伺った。ピンと立った耳の先端がちろちろと動き、二人の会話を聞きもらすまいとしている。

「は、はい。なんですか、凛さん」

「怖がらなくていいって。取って食ったりしないよ。とりあえず飯を食べたら、ひなが食べても大丈夫なものを教えてやる。銀色のはそういうのを知らないからな。何度も教えるのは手間だから一度で覚えろよ」

「え、あ、はい。ありがとうございます」

「よし、じゃ、食事だな。といっても簡単なものだけだけど。ほら」

 どん、とやや乱暴にひなの前に置かれたのは盆の上の木椀や木皿に盛られた焼き魚と皮を剥いた枇杷、くるみ、玄米飯、味噌玉などだ。凛は同じように自分の目の前に置いた食事に手を伸ばして、次々口の中に入れて咀嚼している。
 乱暴な手つきで豪快に木皿と木椀の中身を平らげていた凛は、箸を持ったまま動かさずにいるひなに気づく。なにやら困ったような顔をしている。
 ひなが初めて山の民に接触したのが凛であるように、凛からしても、山の外の者と直に会ったのは、ひなが初めてで、なにか用意した食事に問題があったのかと心中で首を捻る。
 山の民と外の連中とで生活様式が大きく異なる事くらいは分かるが、だからといって口に運ぶものまでそう大きな違いはないと思ったのだが。

「何か変なものがあった?」

「いえ、その銀狼様の分は……」

「あいつはなにか食べたりはしないよ。妖魔の中には、たまに天地の気を血肉に変
える事で飲み食いをしない奴がいる。銀色のもその類だ」

「そうなのですか?」

 知らなかった、と顔に書いて意思表示をするひなに銀狼が顔を向けた。

「朝方、ひなが聞いてきた時に答えただろう。食事の心配はいらないよ」

「……多分、私と銀狼様で食事がいるかいらないかの意味が違ったみたいですね」

 ひなからすれば、銀狼に食事の心配が必要ないと聞いたのは、銀狼が山生まれの山育ちであり、ここまで大きく育っているのだから、狩りをして獲物を獲る事には何の問題もないだろうと思ったからだ。
 一方で銀狼は、本当に食べる必要が無いという意味で、食事の心配はいらないと答えを返したのだ。これでは互いの言葉の本当の意味が伝わる筈もない。

「お互いの事が分からないと、色々とすれ違いが起きそうですね」

「はは、ひなの言う通りだな。ま、おいおい話をしていけばいいさ。今は食べなさい」

「はい。いただきます」

 ようやく食事に手を伸ばしたひなの姿を見て、銀狼と凛は安堵した。

「おお、そういえば凛よ。これからは私の事を銀狼と呼んでくれないか」

「……見たままの名前だな。芸がない。今までどう呼ばれても気にしなかったお前が、なんでまた急にそんな事を言うんだ? ひなに付けてもらった名前なのか?」

「仮のものだ。ひなには、これから付けてもらう。そしたら、ちゃんと教えるから、本当の名前で呼んでくれな」

「人間の子供に名前を貰う妖魔か。世の中には人間と妖魔の婚姻なんて例もあるから、そういう事があってもおかしくはないけどな。まあ、せいぜいいい名前を付けてもらえ」

「ひななら、きっといい名前を付けてくれるさ」

 確信した調子の銀狼と凛の視線を浴びせられて、ひなは箸を咥えた姿勢で固まった。ちょっと緊張したらしい。

「見られていては食べられないか、すまんな」

 銀狼は苦笑してひなから視線を外し、組んだ肢の上に顎を乗せて目を閉じた。
ひなが一通り食べ終えた頃には、すでに陽は大きく傾いており、夜の山道はさしもの凛といえども危険とあって、すぐに馬を連れて小屋を発つ事になった。
 木々を照らし出す陽光があっという間に紅色に近くなり、緑に輝いていた森が赤黒く変わって見え始める。すると山が持つ生命力の豊かさの証明のように見えた木々は、山で死んだあらゆる生物達の血を吸って成長したかの如く瞳に映り、途端に恐怖をかきたてる存在へと変わった。
 小屋の外で身軽になった馬の手綱を握る凛を見送ろうと、外に出たひなが、森の変貌に怯えて、傍らに立つ銀狼の腹の辺りの特に柔らかい毛を強く握りしめた。
 敏感にひなの感情の変化を察した銀狼は、ひなが怯えている事は分かるが、どうすればそれを慰める事が出来るかまでは良く分からず、以前目撃した狼の親子がじゃれ合っていた姿を思い出して真似てみる。鼻先をひなの右手に寄せて、少しだけその手の甲を舐めた。

「私が傍にいる。心細い時、寂しい時に。だがひなよ、憶えておきなさい。山とは与えるばかりではない。どれだけ豊かに見え、糧を求めて争い奪い合う必要が無いと思えても、それは別の命を糧にした豊さだ。無償で与えられてなどいない。故に、山を恐れる心を忘れるな。常に敬い、感謝し、恐怖する心を持つ事だ。そうすれば、山で生きる事が許される」

「……はい」

 銀狼の言わんとしている所を、漠然とではあるが察し、ひなは夜の闇に覆われた時の姿を見せ始めた山を、大粒の瞳で見つめていた。凛が、そんなひなと銀狼に少し呆れた様子で、こう言った。

「銀色……じゃなくて銀狼。お前の話だがな、途中からあたしら山の民が小さい頃から耳にたこができる位言われている事に変わっていたぞ。誰から聞いた?」

「ばれたか。前に助けた山の民の子供に教えてもらったのだ」

 銀狼は少し決まりが悪そうに種を明かした。
 その銀狼の様子が可笑しかったのか、ひなが口元を隠しながら、鈴を転がしたように耳に心地よい声で控え目に笑った。それを見て、銀狼も穏やかな笑みを浮かべる。
 初めて目にするひなの笑みが銀狼にはとても眩しく映り、この笑顔が見られるなら、先程の決まりの悪さなど何でもなかった。銀狼にはそのひなの笑顔がこの世の何物よりも大切なものに思えた。



 砕いた鏡の破片が流れているかのように、川は太陽の光を反射している。天から降り注ぐ黄金の光の中で、小柄な少女の影は揺らめく蝋燭の炎に映し出される影絵の如く、動きまわっていた。
 沢爺のいる川で洗濯に勤しむひなである。
 じゃぶじゃぶ、と水面が泡を吹きながら揺れる。太陽がようやくまんまるい全貌を露わにしたばかりの早朝。川の水は多少冷たいという程度だ。
 ひなの隣では、銀狼が少し前屈みになって、じっと川の流れを見つめている、正確には、ゆるやかな流れに身を任せている川魚を、だ。一瞬、銀狼の目が細まって、普段は制御していない妖気を、針の様に形作り川の中の魚めがけて放射する。
元々は力量差を弁えず襲い掛かってくる鬱陶しい小物の妖魔や、獣を追っ払う為に覚えたものである。こうして狩猟の為に使うのは初めてだ。狙いは正確だったようで、妖気の針を受けた川魚が九尾ほど腹を上に向けて浮き上がってくる。
 よし、と一声漏らして、銀狼は浮き上がってきた川魚を口で挟み、足元に置いておいた魚籠に放り込んで行く。丁寧とは言い難い動作だったが、川魚が目を覚ます様な事はなかった。
 釣果はヒスイヤマメにウンモマス、シウンアユがそれぞれ三尾ずつ。どれも焼いてよし、煮てよし、刺身でよし、の美味な魚だ。
 普通に釣ろうとしたら、どれも半日かけて一尾釣れるかどうか、という珍しさと警戒心の強い魚だ。ただ、今回の場合釣り人は銀狼で、川に生きる妖魔の沢爺という協力者がいた。沢爺が岩陰に隠れていた川魚達を上手くおびき出してくれたおかげで、簡単に済んだ。
 ちゃぷ、と小さな水音を立てて沢爺の小さな顔が水面に浮かぶ。

「ありがとう、沢爺。お陰で簡単に済んだ」

「なあに、お前さんに頼まれ事をされるのは珍しいからね~え。最近続けて頼まれちゃいるけど。でも本当に、お嬢ちゃんの面倒を見ているんだねえ」

「私はこれまで嘘を吐いた事はないよ。これからもね」

「ふぇふぇふぇ、お前さんくらいだねえ。そう言う妖魔は。礼儀ってもんを知っているのも、お前さんくらいさ。わしがあんたを好きな理由だよ」

「ふむ。好かれて嫌な気持ちはせんね。沢爺も性格がいいからな」

「ふぇっふぇっふぇ、さ、お嬢ちゃんが待っとるよ、お行き」

「む、待たせては行かん。ではな、沢爺」

「あいよぅ」

 魚籠を口に咥えて小走りでひなの方へと向かう銀狼を、沢爺は孫娘とその恋人を見守る様な、優しい祖父の眼差しで見送った。
 ひなの草履を履いた小さな足が、ぱたぱたと忙しなく足音を立てて動いた。朝から気持良くからりと晴れ上がった青空だったのに、昼を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなり、雨が降るかな、とひなが思った時にはもう真っ黒い雲が空を覆い尽くして、堰を切ったような勢いで雨が降り出した。川から戻ってすぐの事だ。
 はるか天空の高みから、途方もなく背の高い巨人が絹糸を何千万本も垂らしているみたいに、雨雲と地上が糸でつながっている様な豪雨に見舞われて、ひなは慌てて干していた洗濯物を回収しなければならなかった。
 野ざらしだったら、そのまま全身を叩き伏せられて気を失ってしまいそうな豪雨である。雨粒を受ける地面はたちまちの内に抉れて凹凸を刻み、茶色い煙が噴き出しているかのようだ。

「銀狼様、そちらは終わりましたか?」

「しまい終えたぞ」

 小屋の裏手で薪を割っていた銀狼である。もちろん狼であるからしてその四肢の先の形状の問題から、鉈や斧などを振るう事は出来ないので、自前の爪を使って薪を切り裂いている。
 薪を割ると言っても、近くに生えている木に銀狼が適当に体当たりをしたり、ずらりと口の中に並ぶ牙で折って、それをこれまた乱暴に前肢を使って叩き割ったものを、ひなが使いやすいように大きさと形を整えた程度のものだ。
 通常の狼の数倍にもなろうかという銀狼の巨躯は、雨雲に陽光が遮られてなおおのずから輝きを放つかの如く美しい白銀の毛並みを誇っている。
 巨大さを別とすれば、イヌ族としては理想形と呼んで差し支えのない均整のとれた四肢、長くふさふさとした毛に包まれた尾と全身、獲物の皮と肉を切り裂き、骨を砕く牙はいずれも刀剣さながらに研ぎ澄まされている。
 圧倒的な暴力と大自然が育んだ生命の美の結晶とでも言うべきその威容の中で、穏やかな陽射しの下、波一つない湖を思わせる深く静かな青の双眸だけが趣を異にしていた。
 存在それ自体が大自然の生み出した一個の芸術と呼ぶべき美しさ、凛々しさ、猛々しさを兼ね備えている。
 両手で洗濯物を抱えたひなが小屋の中に入ったのを確認してから、先に小屋に入っていた銀狼がめくっていた鹿皮を垂らした。小屋の中に流れ込む泥水を見るに、早めに戸を用意してはめ込んだ方がいいかもしれない。
 洗濯物と言っても自前の毛皮一張羅の銀狼に洗濯物などあるわけもなく、ひな一人の分だけだ。当然量も少ない。
 屋根を叩く雨音の激しさに、ひなが驚いた様に天井を見上げる。囲炉裏から立ち上る煙を長年浴びて、煤ですっかり黒ずんだ天井は幸い雨漏りする様子はない。銀狼が口に咥えて差し出してくれた手拭いを使って、ひなは少し濡れた髪や浅黄色の小袖を拭く。
 食生活が改善された事と精神的に余裕のある環境に変わったことからか、骨の形が分かる位にやつれていた頬は幾分ふくらみを取り戻し、見る者に枯れ木を思わせていた全身の雰囲気も、萌芽したばかりの新芽の様に溌剌とした、本来ひなが持っていた陽性の活力が輝き始めている。
 銀狼と出会う前のひなしか知らぬ者であったなら、別人と間違えてしまうほどの変わり様であった。
 生贄として小屋を訪れた時のひなの姿を知る銀狼は、時折その時の姿を思い出しては、元気になった今の姿と比べて小さな喜びを覚える。
 小屋の中に渡した紐に改めて洗濯物を干し直しているひなの姿が、面倒を見てみようと決めた過去の自分の判断が、間違っていなかったと告げてくれているようだからだ。
 うむうむと頷いている銀狼の様子を、ひなは不思議そうに見ていたが、銀狼がなんとなく嬉しそうなので、ま、いいかと深く考えない事にした。数日を共に過ごすうちに、銀狼が基本的に深く物事を考えない楽天的な気質の主である事は十分に理解している。
 火打ち石を使って囲炉裏の枯草に火を点けていたひなが、ふと顔を上げて外の雨を瞳に映して、なにげなく呟いた。銀狼の耳でも拾い損ねてしまいそうな小さな呟きであった。

「雨、降りましたね」

 銀狼が村人に告げた雨の降る日が、今日だった事を雨が降るまで忘れていた口調だ。銀狼の方も、ひなの呟きで思い出したようで、ああ、そういえば、といった調子で答えた。

「今日が七日目だからな」

「たくさん降っていますね」

 ひなの声音がわずかに沈んでいるように聞こえて、銀狼が訝しげに眉根を寄せながら言葉の接ぎ穂を探したが、上手い言葉は見つからなかった。

「……正直、私の予測が当たって安堵している」

「村の皆、この雨で助かりますよね」

「天の恵みだ。今日一杯は降るし、これからは天候も安定するだろう」

「そうだといいな」

 ざあざあと絶えず耳を打つ無数の雨音が、ひなの声をかき消さぬ事が、銀狼には不思議であった。ひなにとってこの雨が複雑な意味を持つとまで考えが至らず、暢気に元気になったひなの姿を喜んでいた自分に、銀狼は多少の苛立ちを覚えていた。
 この雨がもっと早く降っていたなら、ひなは恐ろしい山の妖魔に捧げられる事もなく同じ人間達の中で暮らす事が出来たのだ。近隣の村々にとって待望の雨が降ると言う事が、ひなの心を乱さぬ筈がない。
 銀狼は初見のものでもはっきりと分かる位に、不機嫌そうな雰囲気を醸し出し始めた。自己への嫌悪の為である。
 銀狼の機嫌を直す為ではあるまいが、ひなは明るい笑みを浮かべて話しかけた。
 笑顔を向けられた銀狼が不思議そうな顔をするほど、その笑みは明るく、そして幸せそうであった。見た者の心まで暖かな気持ちで満たされる、そんな笑みである。

「良かったです。この雨で村の皆が助かったら、私も生贄に選ばれた甲斐がありました」

「私が降らせた雨ではないから、なんとも言えんよ」

 ひなの言い様が面白くないようで、銀狼の口ぶりからは不機嫌そうな響きが強い。根が素直というよりは、感情の表現を抑えると言う事や勿体をつけるのを知らぬのである。
 他者に対して多少の嘘を吐く事や本音を隠す事は、集団生活において人間関係を円滑なものにする為に、時に必要なものであるが、集団生活どころか他者と暮らす経験など、ひなと暮らすまでまるで無かった銀狼である。思った事を口にしないという行動が、その思考回路の中から基本的に欠落しているのだ。
 人間だったら眉根を寄せて頬を膨らましている様な、子供っぽい不機嫌さを表す銀狼の様子が可笑しくて、ひなは悪いかな、と思いつつころころと笑った。
 ひなが笑えばそれだけで喜びを覚える単純な所のある銀狼であったが、てっきりひなは自分の境遇を悲嘆し、自嘲して笑ったのだと思っていたのに、浮かべているのは心からのものと分かる笑みであったから、きょとんとした瞳でひなの顔を見つめた。

「どうしてそんな風に笑えるのだ?」

「だって、この雨がもっと早く降っていたら銀狼様に会えませんでした。私が生贄に選ばれる事もなかったでしょう」

「そうだな」

 ここまでは銀狼にも分かった。というよりも単なる事実なので、それ位の事を理解する知性は銀狼にはある。

「そうしたら、私はこうして銀狼様と暮らす事も出来ませんでした。雨が降ったのが今日で良かったです」

「言葉は悪いが、村から追放されたのにか?」

「はい、私、銀狼様に会えて良かったと思っています。銀狼様は私を大事にしてくださいますし、まだ七日だけですけど、私、こんなに穏やかな気持ちで暮らす事が出来たのは父と母が死んでしまって以来の事でした。だから、生贄に選ばれたのが私で良かったと、今では思っています」

 銀狼と一緒に暮らす中、朝起きるのが遅いと、細い腕が振り上げた杖で何度も何度も叩かれる事はない。
 水桶を運んでいる時に足を引っかけられ、無様に転がされてにやにやと汚いものを見る目を向けられる事もない。
 掃除をしている時に、雑巾の絞り汁を頭からかけられ、汚水で濡れ鼠になった体を蹴り飛ばされ、唾を吐かれ謂れのない罵詈雑言に塗れる事もない。
一日の食事が釜の底にこびり付いた焦げ飯だけで、爪を立てて口に運び、あまりの苦みに吐きだしそうになるのを必死に堪え、飲み込んだ事など一度もない。
 ちょっとした事で、指や膝に擦り傷、切り傷を作った時には、心配する優しい声が掛けられる。
 慣れぬ山の暮らしの中で不安に心細くなった時には、必ず傍らに大きく優しいぬくもりが居てくれる。
 夜、床に就く時、冷えぬか、という声と共に柔らかく暖かな毛並みが自分を包み、悪夢に魘される事もなく安心して眠る事が出来る。
 朝、目覚めた時、暖かな光を湛えた青い双眸がこちらをまっすぐに見つめて、おはよう、と言ってくれる。
 この暮らしが幸せではないなどと、ひなは露ほども考えてはいなかった。

「うむ、いや、あー、そう、か。うん、ひなが良いと言うのなら私から言う事はないが」

 もごもごと口を動かして、何を言えばよいのか分からぬらしい銀狼であったが、長く床に伸びていた尾が、ぱたぱたと音を立てて板張りの床の上を左右に揺れている。隠そうとしても隠しきれぬ銀狼の喜びの表現だ。
 照れ臭そうにしている銀狼の姿に、ひなは、またころころと笑う。図体の大きさはともかく、精神的な年齢という面では、さほど銀狼とひなの間に差が無いようである。むしろ過酷な環境で育ち、他者と接する機会の多かったひなの方が大人びてさえいる。
 これ以上、この話題を続けるのがなんとなく躊躇われて、銀狼は外の雨に目を向けた。
 雨はいつ止むとも知れず降り続けている。

<続>



[19828] その六 そうだ山に行こう
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/30 21:43
その六 そうだ山に行こう

「なあ、銀色の」

 雨の降った翌日の事、風呂敷に包んだ乾飯を土産に持ってきた凛が、銀狼に唐突に話しかけた。昨日の雨でたっぷりと水気を含んだ地面を踏みながら、洗濯物を干しているひなを木陰で見ていた銀狼が、何だ、と隣に立っている凛に顔を向ける。

「お前がいればまずひなの身に危険が降りかかる事はないよな。大抵の妖魔よりお前の方が強いし」

「そうだな。数で来られても大丈夫だろう」

「とはいえ、だ。お前がいつも一緒にいられるとは限らないのも事実だろ?」

「なるべくそうしないようにはするつもりだが、そう言う事もあるだろうな」

 凛の言わんとしている事がいまいち分からず、銀狼は左耳だけぺたんと前に倒している。癖だろう。

「一応、自分で身を守れるようになにか教えてやったらどうだ。掟があるから山の民の武器は渡せないけど、刀や弓の扱い位ならあたしが教えてあげる事も出来るし」

「一理あるか」

 凛の言葉の正しさを考え、銀狼なりに神妙な顔で頷く。

「ところで凛よ」

「なんだよ」

 ぽりぽりと音を立てて、自分で持ってきた乾飯を食べている凛が、眉根を寄せて銀狼に聞き返す。

「なんでお前、こうしょっちゅうここに来るんだ? 鍛冶衆のお前に暇はなかろう
に。後、その乾飯、土産で持ってきたのなら自分で食べるな」

「……お前が心変わりしてひなを食ってしまわないか気になるんだよ。そんな事になってみろ。寝覚めが悪いったらありゃしない」

「そう言うものなのか? ひなはお前の血縁でも群れの仲間でもあるまいに」

「人間の中にはそういう奴もいるんだと覚えておけ」

「ああ、そういえば昔聞いた事があるぞ。お前のようなのをお人好しというのだな」

「勝手に言っていろ。あたしは戻るぞ」

 ふん、と荒い鼻息を一つ吐いて立ち上がり、ずかずかと歩き去ってゆく凛の背を、銀狼は不思議そうな目で見ていた。凛がどうしてあのような反応を示したのか、さっぱり理解できずにいた。
 だが、凛がひなの事を気に掛けていると言う事はなんとなく分かったから、その背中に声をかけた。

「凛、ひなの事を心配してくれてありがとう」

 凛は返事をしなかったが、代わりに右手を上げてひらひらと振った。以前であったなら、こんなぶっきらぼうな返事の一つさえ寄越さぬまま去っただろう。銀狼との間にひなの存在が介在する事で、凛の銀狼に対する態度も変化が見られ始めていた。
 凛の姿が濃い緑の彼方に消えてから、銀狼は空を見上げる。どこまでも続く青い空は、魂がそのまま吸い込まれていきそうな錯覚を覚える位に雄大で心を震わせるものがあった。   
 銀狼はそのまましばらく空を見上げていたが、なにか決意を決めたらしく、よしとひとつ頷くや、軽い足取りで近づいてひなに声をかけた。

「ひな」

「はい?」

 御用は何でしょう、という意味を含めた返事と共に小首を傾げるひなの仕草が愛らしく、銀狼は無意識に口の端を吊り上げた。ひなと暮らし始めてから微笑む回数がずっと増えた事を、銀狼は自覚していただろうか。

「ちょっと遠出しようか」

「はい」

 銀狼の言う事には疑問を持たぬひなは、唐突な銀狼の提案にも、満面の笑みを浮かべて頷いた。

「ひなの足だと歩いて数日はかかる場所だ。私の背に乗りなさい」

「はい」

 と答えるひなの声は楽しげだ。朝と夜にひなが梳るのと、時折銀狼自身が舌を使って毛繕いをする以外には、特に手入れをしていない白銀の毛並みは、不思議と埃や泥で汚れる事もなく、ひなの差し入れた指からさらさらと零れる滑らかな手触りを維持している、
 今も時折布団代わりにさせてもらっている銀狼の毛並みに触れる事が、ひなの楽しみの一つであった。特に銀狼の背に跨って山を走り回る時は、まるで疾風の如く駆ける銀狼の速さに、自分もまた風になった様な心持ちになり、爽快な気分になる。
 銀狼がどこへ行こうと考えているのかは知らぬが、その背に跨って出かけられるという事だけで、ひなは心を弾ませていた。
 自分の背にひなの重みが加わったのを確認してから、銀狼はゆっくりと歩きだし、直に疾走へと変わる。凛との勝負を終えてからの小屋の生活ではほとんど遠くに出歩く事はなかったが、今回向かう場所は遠方になる。
 太陽が東から昇ってまださほど時間は経っていないが、場合によっては帰りの時刻は夕暮れか夜の事になるかもしれない。
 夜遅くになる様であったら、活動が活発になる妖魔もいる事を考慮に入れて行動しなければなるまい。背のひなの事は気になるが、ちと急いだ方がよさそうだと、銀狼は地を駆ける四つの肢にさらに力を込めた。
 全力で地を駆け、岩を蹴る銀狼の速さは一歩ごとに増して行き、彼の通った後には物体の高速移動で弾かれた大気が渦を巻いている。
 空を飛ぶ鳥達でも到底追いつけそうにない速さで走る銀狼であったが、その目には傍らを駆け抜けた幹の木目や草に紛れて鳴き声を上げている虫の姿、自らが起こした旋風によって散っている葉の一枚一枚が詳細に判別できた。
 手加減せずに銀狼が走れば到底ひなの腕の力と握力だけで背中にしがみつく事は叶わなかったろうが、この時、銀狼の体から発せられる不可視の妖気が膜のような形状を取り、ひなの体を打つ筈の風から守っていた。
 ひなの事を守ろうという銀狼の意識が自然と生じさせた保護手段であった。
 以前凛と一戦交えた森の場所とは別方向に向けて走る銀狼が、背中にしがみついているひなに声をかけた。妖気の保護膜の効用で、互いの言葉ははっきりと聞き取れる。

「この山は大体四角形に近い並びで聳えていて、その内側に広大な森林と平原が続いている」

「はい」

 唐突に山の地形について語り始めた銀狼に、とりあえずひなは大きく声を張り上げて返事をした。

「私達が住んでいる小屋が山の外縁部に建っていて、私達がこれから向かうのは山の内側に広がっている森林の部分だ。そこのほぼ中央部に山が一つと麓に広大な湖がある」

「湖?」

「ああ。見渡す限り水、水、水だ。初めて目にした時は驚いたよ。ひなもきっと驚くぞ。その湖に、色々と物知りな男が住んでいる。その男に会ってひなにいろいろと教えてもらうのが目的だ」

「また、山の民の人ですか?」

「いや、確か仙道とかいうらしい。骨の形がはっきりと見える癖に、やけに肌艶の良いじじいだよ」

 じじい、と口にした時の銀狼の調子が、初めて耳にする位に、嫌そうな響きを含んでいたから、ひなは不思議そうに聞き返した。

「仙道、仙人様ですか」

「自称だ。仙道というものがどういう人間なのか、一応聞いた事はあるが、まったく当てはまらん。酒を飲み、猪やら猫やら、わけのわからん肉を食っていたからな」

「えっと、じゃあその人に私は何を教わればよいのですか?」

「うむ。凛と話をしていて思ったのだが、ひなも一応身を守る術を持っていた方が良いだろう。仙道と言うからには術の一つ二つは使えるだろうから、それを習えば役に立つと思う。ま、それ以外にも文字の読み書きやこの世の事なども習うと良い。色々と見聞が広がりもしよう」

「でも教えてくれるのでしょうか?」

「けったいで面倒な性格をしているが、悪い人間ではないよ。多分。なにか条件が付けられるかもしれんが、暇を持て余しているようだし、大丈夫だろう」

 仙道、と言われてもいまひとつ、ひなにはピンと来るものが無かった。指を組んで印を切り、意識を集中する事によって空を飛ぶ、自在に天候を操る、霞を食べるだけで永劫の寿命を持つ、などの噂話を聞いた事がある程度だ。
 随分前の事になるが、まだ村が飢えに襲われる事もなかった頃に、国々を巡回している旅の一座や商人が見せてくれた仙人の絵は、鶴みたいに痩せ細った老人が、地に着く位に長い白髭を生やして杖を突いている姿だったが、これから銀狼が会わせようとする人物も、そういう人なのかと少し期待した。
 見渡す限り緑の海とでも形容すべき樹海を越えると、山は灰色の岩肌を剥き出しにし、ところどころにわずかな草花や低木がささやかに彩りを加える程度になる。傾斜もぐっときつくなり、獣道さえ見えなくなってくる。
 獣道はまさしく獣が何度も通る事によってできた道だ。それが無いと言う事は、獣さえ足を踏み入れぬ場所と言う事である。
 岩か土と言うよりも鉄なのではないかと錯覚するほど硬い地面の感触を、銀狼は肉球を通して感じていた。
 来た道を振り返ればうねる波の様な緑が斜面を覆い尽くし山裾にまで広がっている。あの中にはその性、邪悪凶暴なりし妖魔も含め数え切れぬほど生命の息吹が満ちているが、銀狼が辿り着いた場所まで来ると、途端に感じ取られる生命の数が激減する。
 森林に比べれば生きにくい環境である事は確かだが、息を潜めている生命の数が少ないのは、この荒涼とした風景ばかりが理由ではない。四角形に広がる山を内側へ向かって下った先に広がる内部の森林や平原には、外部の森林に住む妖魔よりも凶暴な種が多く棲息する。
 外の森で生きている妖魔は、自分達を凌駕する闇の生命を恐れ、山の内部へ足を向ける事はなく、内の森で生きる妖魔達は熾烈な勢力争いに追われ、外に目を向ける余裕を持たない。内と外とでの棲み分けの境界が、この荒んだ光景の広がる山頂部付近であった。
 銀狼にとっても山を越えて内部へと進む事にあまり気乗りはしなかったが、それでも肢を動かす事は止めなかった。止めたのは刃を思わせる切り立った山頂部に立った時である。

「うわぁ」

 背中にしがみついているひなの、惜しみない感嘆の声が聞こえた。確かにそこからの眺めは驚嘆に値するものであった。
 背後には目に痛いほど鮮やかな緑の光景が広がり、前方に目を向ければ同じように緑の世界が広がるが、彼方まで広がる緑の世界の中央に針のように鋭く伸びる山があり、その麓には空の青を映す鏡の様に美しく、そして広大な湖が広がっている。
 湖のあまりの広さにひなは目を大きく開いて、湖の端から端までを見回した。ひなは海と言うものを見た事が無かったが、もし知っていたら、海と間違えてしまったかもしれない。それほどまでに圧倒的な光景であった。
 外縁部にあたる山の頂上から見下ろしてかろうじて視界に収まるほどの巨大な湖といい、自然のものとは思えぬ極端に縦に細長い針のような山といい、目の前の光景が形を成す時、途方もなく巨大な力を持った意思の介入があったに違いないと思わずにはいられぬ光景であった。

「銀狼様、あの山ってどれくらい高いのでしょう。お空に届いていそうですよ。山の外からも見えましたけど、不思議な形ですよね」

 ひなが指さす先を見れば、頂上の見えぬ針山の上方に空を漂う白雲にぶつかる。

「そうだな。流石に私もあの山の頂上までは登った事はないかな。ひな、この先の森はかなり危険だ。決して私の体を離さぬようにしていなさい。極力争いにならぬようにはするが……」

「そんなに危ないのですか?」

「この先の連中は血の気が多い。比較的安全な道筋を選ぶが、以前来た時は一日で七、八度は襲われた。ひなの臭いに惹かれてもっと来るかもしれん」

「……」

 銀狼は自分の話の所為でひなが怯えると言う事に考えが及ばなかったのか、自分の体を抱きしめるひなの手が震えている事に気づいたのは、言い終えた後であった。
 ひなの状態に気づき、しまったと思いきり顔を顰めた時には遅かった。三角形の耳が少しばかり前倒しになる。申し訳なさを覚えた時の表現らしい。

「すまん。要らぬ話をして怖がらせてしまった」

「あ、いえ。銀狼様が一緒なら、大丈夫ですよね」

「ああ。それは安心してもらっていいよ。それにあのじいさんの住居の近くは妖魔除けの結界が張り巡らされているからそこまでの辛抱だ」

「でも妖魔除けだと銀狼様も近づけないんじゃあ」

「前に会った時に私だけ通しくれるよう都合をつけてくれたから、問題ない」

 そう言って銀狼は再び歩を進め始めた。山を下り始めた頃は妖気の保護膜が程良く心地よい風を通していたが、ある程度下ると途端にそれが変わる。
 妖魔の住む地といえどもそれ以外の多くの生命が住む故に陰と陽、正と負、生と死の循環が淀みを浄化し、清澄さを保つ。しかし、牢獄のような山の内側の森に吹く風には、その清澄さが無い。一言で言えば濁っている。他の生命を毒し、腐らせ、犯す悪意を持った瘴気が目に見えぬ毒素となって大気に充満しているのだ。
 妖魔が呼吸するように排出する妖気とも異なる、己以外の存在に対する根源的な本能ともいえる悪意。殺意、敵意、憎悪、破壊衝動、それらすべてが混ざり合い互いの毒性を相乗的に増加している。悪と呼ぶべきものが何かと問われれば、答えはこの森に渦巻く禍々しいモノに他ならぬ。
 並の人間が半日も留まっていたならば無色の瘴気に蝕まれて意識は朦朧と霞み、体は氷雪の吹き荒ぶ厳冬の荒野を彷徨っているかの様に凍え、同時に体が松明と変わったかのような高熱も襲い掛かってくるだろう。そうして見る間に衰弱し、森に潜む妖魔達に毛の一本、血の一滴残らず貪られる。
 風がその瘴気を外に運ばぬのは、山の外の世界にこの瘴気が流れた時、失われる命を憐れんだ大いなるものの慈悲に違いない。
 ひなが瘴気の引き起こす様々な症状に見舞われるのを免れているのは、やはりというべきか、銀狼自身が展開しているひなを守る為の妖気によるものだ。
 ひなに対する敵意を一片たりとも抱かぬ銀狼の妖気は、冷たく澄みきった朝の大気にも似た清々しさで、ひなの体を蝕もうとする森の瘴気を防いでいた。
 山の外側の斜面を駆けあがっていた時と変わらぬ速さで山肌を駆けおり、一見するとなんら異常の見当たらぬ森の中へと足を踏み入れる。
 大地に大きく根を張り、大振りの枝を広げている樹齢数十年、数百年を経ている無数の樹木。微風に揺られて清楚な美しさを振りまく花達。
 山の外側の森も、むせかえる様な濃い緑の臭いがしたが、こちら側は吸い込んだ肺の中が木々の葉の色に変わりそうな密度の臭いであった。空中に差し出して指を広げた掌を握れば、そのまま緑の色に変わりそうだ。
 木漏れ日一つ通さぬほど大振りの枝が折り重なる木々の下を、銀狼はやや速度を緩めつつ駆けた。緑の臭いの中に、濃密な血の臭いを嗅ぎ取ったのは森に入る直前であった。
 ひながその臭いに気付いた様子はないが、臭いの他にも注意深く周囲の様子を観察すると木々の幹には獣の爪痕があちこちに刻まれているが、その大きさはたとえば熊のものであったなら、通常の個体の三、四倍に相当する。
 ひなの腕ほどもある木の根が絡まり合って出来た瘤や緑の絨毯には、時折生乾きの血や乾いた血がべっとりと付着していた。
 足を踏み入れる数時間前まで、生死を賭した戦いが繰り広げられていたのだろう。ひなの肌や銀狼の毛並みの上に珠を結びそうなまでに濃密な血の臭いのみならず、断末魔の悲鳴の残滓までが、銀狼の耳には聞こえてくる。
目を凝らせば、こちらに向けて血涙を流しながら牙を剥く夥しい数の妖魔達の怨霊が、銀狼の青い瞳に映る。
 怨霊のいずれもが、殺された恨み、殺せなかった無念、尽き止まぬ殺戮衝動、満たせぬ飢えにも似た怨念で構成された凶相であった。
 人間ばかりか虫も鳥も獣も魚も、こんな目をした者には殺されたくないと心の底から思うだろう。
 ただ死ぬのではない、自ら死を懇願するような凄惨無惨な責め苦を与えられるに違いないと、一目で分かるからだ。
 ひなを連れて来た事は間違ったかもしれないな、と銀狼は、一度は下した判断にはやくも自信を失いつつあった。ひなをかくも危険な場所に連れ込んだ事を、浅慮と罵られても、銀狼は否定しなかっただろう。
 付近に危険な気配を持った存在が感じられない内に、距離を稼ぐべきだ。銀狼はやや緩めた速度を維持しつつ駆ける。移動速度を優先すれば若干だが気配を察知するのが鈍るから、最大速度では走らない。
 雰囲気の変化を感じ取ったひなも、銀狼の背と言う事で安心しきっていた顔に、わずかに不安の影を帯びて口数をめっきり減らしている。
 争いの名残か、透き通った流れの中に赤いものが一筋二筋と混じっている渓流を飛び越えた時、銀狼は鼻が潰れる様な強い臭気に、顔を顰めた。
 あっという間に後方に流れて行く風景の中に、時折原形を留めていない肉塊や挽肉が転がっている。目を離せばたちまちの内にそこらの木陰から小さな妖魔が現れて、肉片ひとつ残さず平らげるだろう。
 木々の放つ臭いやむせかえる様な血の臭いを押し退けて、色が付いていないのが不思議なくらいに濃い臭いが漂い出している。銀狼が近づいているのか、その臭いの主が近づいて来ているのか……。
 銀狼の様な毛皮を持った獣の臭いではない。ましてや人間の匂ではあるはずがない。どこかでそいつの吐き出す、しゅうしゅう、という吐息の音も聞こえてきた。
生臭いその吐息と、そいつ自身の体から放つ体臭が混ざり合って、一層強烈な臭気を醸し出しているのだろう。
 嗅いだ途端に嘔吐しなかった自分を、銀狼は褒めてやりたい気になった。銀狼の妖気による保護が無かったら、ひななどとっくに気を失っていたに違いない。
本来、銀狼がこの道を選んだのは、ここら一帯を縄張りにしている妖魔とは顔見知りと言えなくもない仲で、先を進むために強行突破しなくても、なんとか話し合いで事を収められると踏んだからだ。
 しかし、この臭いを放つ種の妖魔がいた事は予想外であった。一通り、この内側に存在する妖魔達とも顔を突き合わせた事はあるが、どうにも好きになれぬ相手ばかりなのである。おまけに強い。
 おそらく配下の中の一匹であろうが、それでも銀狼の妖気に触れてくる相手の気配から察するに、多少の苦戦は免れない。周囲の気配察知の精度を上げる為に足を止めて視線を巡らす銀狼に、巨大な影が重なった。影だけでも途方もない重量が圧し掛かってくるように大きな影であった。
 その影の巨大さを認めるよりも早く、影は移動している銀狼目掛けて正確な狙いで押し潰そうと圧し掛かってきた。明確な殺意を持った行為である事は明らかであった。
 十分な余裕を持って右に飛び退いた銀狼の視界を、鈍く艶光る無数の鱗が横切ってゆく。その異常な大きさを別にすれば、間違いなく蛇の胴だ。蛇の胴は地面に触れず、太い弧を描いて水の流れのように止まる事なくそのまま流れて行く。数百枚、数千枚の鱗は水流の水面の様に輝いている。
 ただし銀狼が目にしているものを見て、それを蛇だとすぐに信じられるかどうか。胴の形を見る限りはおかしな所のない蛇のものであったが、あまりにも大きすぎたのである。
 胴の幅は大人が両手を広げた位はあり、頭から尾の先までの長さは森の木々の影に隠れ、見通す事が出来ない。
 ぶわ、と生暖かい息が銀狼の顔を叩いて、背の辺りの毛をかすかに逆立たせた。胴の流れていった先から幾本かの枝をへし折りながら、巨大な蛇の頭が姿を現し、歩みを止めた銀狼をはるかな高みから見下ろした。
 角の丸い四角形の蛇の頭部は、胴の馬鹿げた大きさに相応しく巨大であった。牛や馬どころか銀狼さえも簡単に丸飲みに出来るだろう。
 木々の枝を伝い上から狙った完全な筈の奇襲を避けられた事に苛立ったのか、あるいは銀狼の身のこなしの軽やかさをわずかに警戒してか、大蛇は襲い来る様子は見えなかった。
 滾る様な陽光が降りしきる時刻であったが、夜闇の中で燃えている松明の様に赤々と輝きながら浮かんでいる二つの球は、大蛇の目だ。
 目玉一つとっても、ひなの頭ぐらいはある大きさだ。
 目のみならず、蛇体から滲みだす粘度の高い液体に塗れたその体から、目に見えぬ妖気が炎のように噴き出している。しかし、噴き出す炎は熱を全く帯びておらず触れたものが氷柱に変わる様な冷気を孕んでいた。
 人間と共通する感情の色が全く窺えぬ大蛇の目が、銀狼とその背のひなを縫い止める様に見つめてくる。肌を刺す様な視線は、心臓を見えない針で刺し貫かれる様な錯覚を強制的に与えてきた。

「ひな、目を瞑れ。あの視線は目を合わせた相手の体を縛る」

「はい」

 いつになく緊張を孕んで硬い銀狼の言葉に、ひなは否応もなく頷いて応える。目を瞑って歯を食い縛り、銀狼の体により強くしがみついた。
自分の中の常識外の存在を前に、ひなの精神は度を超えた恐怖に麻痺していたが、同時に自分には誰よりも頼りになる存在が傍にいる事を思い出し、ただ銀狼を信じ、言葉の通りに従った。
 そうすることで、巨大な蛇の口に銀狼ごと飲み込まれ、長い体の中でゆっくりと溶かされながら食われる自分の姿を、長く想像しないで済んだのは幸いと言えるだろう。
 大蛇は、自分の目に見つめられてもなんら動じぬ目の前の狼に、小さな驚きを覚えていた。
 大蛇は卵の殻を破って生まれてから既に七百年を閲し、同族の中でも比較的老齢と言ってよく、またその生命の歴史に相応しく戦いの経験も豊富だった。
 これまで多くの敵対関係にある妖魔や退魔の力を持った人間達を食い殺してきたが、自分の目に見つめられて何の反応も見せなかった者は、数えるほどしかいなかった。
 そして、数えるほどしかいなかった者達は、ひとつの例外もなく強敵であった。その中には運よくこちらが生き残れた、と言う他ない死闘も記憶の中に含まれている。その時の記憶が思い起こされ、大蛇に慎重な行動をとらせた。
 茶色を主に、所々赤い斑点模様のある鱗を持った大蛇は、凄まじい異臭を放つ吐息と共に、先端が二股に分かれた舌をちろちろと出しては引っ込め、引っ込めては出す事を繰り返しながら、ゆっくりと銀狼の周囲を回り始めた。
 それに合わせ、常に視線を交差させるように銀狼もその場で回りはじめる。このまま十重二十重に銀狼を囲い込み、長大な体を使って一気に締め上げて骨ごと押し潰すか、あるいは隙を見て一飲みにする機会を狙っているのか。
 ぐるりと、大蛇が一周し終えて最初に銀狼と対峙した位置に戻った。銀狼は牙を剥くでもなく、ただまっすぐに大蛇へと顔を向けている。大蛇に対し一片の恐れを抱く事もなく、威風堂々と佇むその姿に、大蛇の驚きと困惑は少しずつ大きくなっていた。
 躊躇する大蛇の理性の壁に、食いたいという欲望が大きく穴を穿ちはじめる。それは大蛇にとって初めてといっていい強烈な欲望であった。以前、共食いをするまで飢えた事もあったが、その時の、親兄弟の肉でさえかまわぬという欲望をさえ凌ぐ。
 本能的な危機感と数多の戦いの記憶の後押しを受けて、理性は自分からは戦いを仕掛けるなと強く訴えていたが、幾度かの葛藤の果てに大蛇が選んだのは欲望であった。
 理性を蔑にする選択を選んだのは、大蛇の美的感覚をしてなお美しいと感嘆せずにはおれぬ銀狼の姿の所為であったかもしれない。銀狼と等しい巨躯を持つ狼の妖魔とまみえた事もある。あるいは同じような銀色の毛並みを持った狼を食らった事もある。
 それらは時に手強い敵であり、時に美味な獲物であったが、そのどれにも美しいと感じた事はなかった。絶えず襲い来る飢餓を紛らわし、殺戮の歓喜を一時得る事は出来たが、そこまでだった。
 それ以外の何かを感じた事も求めた事もない。しかし、今、凛烈と立つ狼はどうだ。大蛇はその狼の姿に感じたものを表す言葉や感性を持たず、また美しいという概念も縁遠いものであったが、それでも大蛇が感じたものを表すなら、美しいという言葉が最も相応しい。
 背に負った人間の幼子が、目の前の狼の美しさを唯一損なってはいたが、食らう分には申し分ない。人間の子の肉は格別柔らかく暖かく、その体の中に流れる血潮は殊の外身になる。
 人間の子の味と美しい狼が腹の中でゆっくりと溶け、自分の血肉に変わる妄想に、大蛇は大きな愉悦を覚え、閉じた口から白濁した唾液をだらだらと零しはじめる。
 一方で銀狼は、大蛇の葛藤と緊張など知った事ではなく、どうこの場を切り抜けるかを思案していた。
 ひなが生贄と捧げられる前まで、気ままに山を歩き回る暮らしをしていた銀狼である。何も考えずその日その時の気分のままに生きてきた為に、何かを考えると言う経験がとにかく無い。
 他の妖魔に襲われる様な事があっても、煩わしければ逃げればいいし、いざとなれば多少痛めつけて追い払えばそれですむ。食事に関しても何も口にせずとも問題の無い身の上とあって、銀狼は日々を生きるのに悩んだ事がなかった。
 ろくすっぽ回転させる事の無かった頭を回転させて、銀狼は考える。
 背を向けてこの場から逃げ出しても、目の前の大蛇の同族がそこらにいくらでもいるだろう。
 逆に逃げ出さずに戦いを挑んで、目の前の大蛇を屠ったとしても、闘争の気配と新たな血の臭いに気づいた別の蛇が、仇討ちとばかりに姿を見せるに違いない。
 背中にしがみつかせたひなが居なければ、他に蛇が姿を見せても逃げ切る事は十分にできるのだが、ひなを置き去りにする事は真っ先に考えの中から捨てている。
 可能な限り早く大蛇を葬り、その仲間達が姿を見せる前に森を駆け抜けるのが得策だろうか。それとも今日は諦めて引き返すべきだろうか。
 万が一にもひなの身に危険が及んだ時の事を考えて、自称仙人のじいさんに会わせようと思ったが、四六時中自分がひなの傍らに張り付いていれば問題はないし……。
 うだうだと思考の迷路に銀狼が入り込んだ隙を狙って、大蛇が動いた。風に悲鳴を上げさせながら、岩戸のように閉じていた大口が開かれて、真っ赤な口内が晒し出された。口の中の赤色に、炎よりも血の色を銀狼は連想した。
 先端が分かれた舌と鋭く尖った牙をぬらぬらと輝かせているのは、満足した事のない欲望が流させる唾液と、時に同族さえ含めてすべての生命に対し向けられる殺意を源とする毒液である。
 瞬く間もなく視界を埋め尽くす大蛇の口腔を左に躱した銀狼は、擦れ違い様に大蛇の胴に爪を振るった。大蛇の身を覆う鱗と柔軟性に富んだ大蛇の肉質が、多くの妖魔の牙や爪を無力化してきたが、銀狼の爪は数少ない例外となった。
 駆け抜ける銀狼にわずかに遅れて、切り裂かれた大蛇の体から真っ赤な血潮が噴水のように噴き出して、大蛇の右側の木々を赤に染める。大蛇の血を浴びた木々は、もう二度と新たな緑の葉を芽吹かせる事はあるまい。
 激しい痛みと急速に流出する血液の喪失感に身悶えた大蛇が、体をくねらせて暴れ、その体に触れた木々が幾本も砕かれてゆく。樹齢百年は下らぬ見事な木の数々が、四方へと暴れ狂う大蛇の尾の前では、か細い小枝に過ぎなかった。
 耳を塞ぎたくなる破砕音が幾重にも重なる中を、銀狼は地を蹴り、時には身を伏せて忙しなく動き回った。美しい銀毛をまとめて何十本も引き千切ってゆくような強風が、乱れ狂う大蛇の体に秘められた破壊力を表している。
 見る間に森の木々を根こそぎ破壊し尽す大蛇と、嵐に揉まれる木の葉のように小さな銀狼とでは、軍配は時をおかずして大蛇に上がるかと思われた。
 しかし、銀狼は焦る事もなく冷たい瞳で大蛇を見つめ、躱すばかりでなく隙を見つけてはさらに爪を振るい、大蛇の体に新たな爪痕を何度も何度も刻んでゆく。幾重にも重ねて切り裂かれた蛇の肉は、見るも無残に崩れだしている。
 大蛇の身を守る鱗は銀狼の爪に対し、薄紙程度の抵抗を残すのみで、茶色の表面を大蛇自身の血で赤く染めている。
 鞭のように振り下ろされた大蛇の尾を躱して一気に懐に飛び込んだ銀狼は、比較的柔らかな大蛇の腹へと右前肢の爪を突き立てて、瞬時の停滞もなく爪を振り抜く。
 新たな痛みに大蛇が咆哮を上げ、周囲の木々を震わせた。咄嗟に銀狼は展開している保護膜の強度を上げる。自分はともかく悪意をたっぷりと込められた大蛇の咆哮は、まともに聞いたらひなが発狂してしまう。
 大蛇の咆哮が雷鳴の如く轟き、遠い場所でいくつかの気配が乱れた。大蛇と敵する妖魔や動物が、咆哮を受けて気を失ったか、悪ければそのまま死んだのだろう。さらに大蛇の同族が咆哮に気づいてこちらに向かって来ているのを、銀狼ははっきりと感じ取った。
 一つ舌打ちをして、銀狼は大蛇の息の根を一刻も早く止めねばならぬと腹を括った。その決意が乗り移ったのか、銀狼の真珠色の爪がぎらりと鈍く輝いた。
 幾度も大蛇を切り裂いたと言うのに、爪はわずかも欠けておらずまた大蛇の血の一滴さえも付着していない。銀狼の振るう爪があまりに速い為に、大蛇の肉に潜り込んだ爪に、大量の血液が付着するよりも早く、肉を切り裂いて抜けるからだ。
 背中のひなが言いつけを守って強く自分の体にしがみついている事を確認し、銀狼は撓めた四肢の筋肉に妖気を流しこんで細胞を活性化させ、大蛇との戦闘開始から最も速い動きで大蛇の鼻面に踊り掛かった。
 大蛇の目に銀色の風としか映らなかった銀狼は、両前肢を交差させて振るう。風さえも切り裂いた十の爪に、鼻の頭を削り取られた大蛇は溢れ出る自分自身の血に塗れ、狂ったように暴れはじめた。銀狼は一切の躊躇なく、不規則に暴れる大蛇の体にまとわりつく白銀の靄の如く襲い続ける。
 銀狼に取って今日ほど何かの命を奪う事に躊躇しなかったのは、大狼と牙を交わした時以来であった。銀狼が爪を振るった数が増すごとに、血の雨に降られたようにその体を朱に染める大蛇の動きが、徐々に鈍くなりはじめる。
 大量の血液の喪失と傷口から入り込む銀狼の殺意をたっぷりと含んだ妖気により、根源的な生命力が失われているのだ。妖魔と妖魔の戦いにおいて、相手に対する殺意・憎悪の強さは勝敗を決する大きな要因となる。
 相手に与えた傷から流れ込む負の思念が、どちらの心身をより早く蝕むか。この戦いの場合、銀狼に対してわずかな傷一つ与えられず、一方的に傷を負わされる大蛇は明らかに戦意を鈍らせていた。
 大蛇の凶悪な姿に萎縮する事無く、大蛇の暴力に屈するどころか逆にその爪牙の猛威を振るう銀狼が、大蛇には理解できない存在となりつつあった。
 大蛇はかろうじて大地に倒れ伏すのを堪え、流れこんだ血で赤く濡らした双眸で銀狼を見つめる。睨み殺す様な激しさはなかった。本能的に銀狼を相手に勝ちの目が万に一つもないと悟っていたからかもしれない。
 だが野の獣は、その体から生命の滴が最後の一滴を失うまで死に抗う。手負いの獣が見せる力は侮れぬものと、暢気に生きてきた銀狼も知っていたから、気息奄々の大蛇を前にしても四肢に巡らせた力を緩ませる事はなかった。
 大蛇が吐く血混じりの息は激しさを増すばかり。脳天に爪を振るい、一気に頭蓋を割って止めを刺す――銀狼の必殺の意が乗り、両前肢の爪から陽炎の様な妖気が立ち昇る。この世に断てぬものが無いまでに、銀狼の爪は鋭さと切れ味を増してゆく。
 かすかに銀狼が身を沈みこませた。
 その時、ざあ、と枝葉を揺らして風が吹き、重心を落とした銀狼の体が一瞬ではあるが凍りついた。
 第一歩を踏もうとした銀狼がかすかに体の姿勢を乱す。血に塗れた目の前の大蛇が放つ妖気をはるかに上回る新たな妖気に、全身を強く打たれたからだ。
目の前の大蛇の妖気と比べて最低でも倍する強さであった。一部だけが逆立っていた銀狼の背の毛が、一気に逆立つ。
 銀狼の背中に顔を埋めていたひなが、顔に当たる毛並みの感触が変わった事に気づき、事態が悪化した事を悟って、しがみつく腕により一層力を込めた。それでも銀狼に対する信頼が揺らぐ事はなかった。
 新たな敵の出現に対し、もっとも大きな反応を見せたのは銀狼ではなく、生と死の境界線へと追い込まれた大蛇の方であった。開いていた口を閉じて銀狼の背後を見つめていた。
 蛇の妖魔が放つ強烈な臭気はなかった。ずるずると重たい体で地面を這う独特の音もなかった。人間の子供位なら簡単に転がす猛烈な勢いの吐息の、しゅう、という音もなかった。
 音と臭いを完全に消す事の出来る相手が、わざと妖気を放ったのは、銀狼に対する恫喝に違いない。死に瀕した大蛇を救う為だろうか。間違っても銀狼から大蛇を横取りして食べる為ではなかろう。
 しかし恐怖に動きを止める大蛇の姿からは、あながち食べる為と言うのも間違った考えではないかもしれない。大蛇の流した大量の血液が、飢えた森の妖魔達を引きつけている事は間違いないのだ。
 銀狼は意を固めて背後を振り返り、大きく溜息を吐いた。青い瞳が映したのは大蛇に倍する巨躯を誇る蛇の妖魔であった。銀狼の記憶に間違いがなければ、山の内側の森に棲息する蛇妖の長だ。同時に内外の山を見ても五指に入る極めて強力な妖魔である。
 銀狼が想定した事態の中でも最悪に近い。大蛇には通じた爪が、はたしてこの蛇妖の長には通じるかどうか。
 降りかかった陽光をそのまま飲み込んでしまう様な、深い闇色の鱗を持った蛇である。木々をはるかに越えて弧を描き、こちらを見下ろす蛇の体に陽光は確かに当たっているが、蛇妖の長の周囲にだけ夜の帳が下りているかの様に見える。身を装う鱗の黒が、あまりに深く、暗く、冷たい為であった。


<続>



[19828] その七 天外という老人
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/07/01 20:25
その七 天外という老人
 
 蛇妖の長の頭部の両端で妖しく輝く満月の様な金色の瞳の中に、銀狼の姿が映っていた。向けられた視線に込められた力は、物理的な圧力さえ伴って銀狼の体を絡め取っている。
 苦いものを隠さず、銀狼はかつて一度だけ対峙した事のある蛇妖の長の名を口にした。

「紅牙……」

 名を呼ばれた事に応じてか、ぴったりと閉ざされていた蛇妖の口がゆるゆると開かれた。蛇の形をした闇に亀裂が走り、遮られていた赤い光が零れ出しかのようであった。
 蛇妖の勇ましい名の由来は開かれた口の中にあった。名は体を表すかの如く、弧を描いて長く伸びた牙は、白ではなく紅色に染まっていたのだ。また牙は四本のみならずびっしりと二列になって生え揃っている。
 四本の長い牙の他は、小さな牙が数え切れぬほど生え揃い、二列に並んでいる。一噛みでどんな生き物も屑肉に変えてしまう無数の牙もまた、肌から零れたばかりの血の色に輝いていた。
 一千年ばかりの間、食い殺してきた獲物の血によって濡れていた為に紅色に染まったのだという話だ。

「久しいな、銀色の。前に貴様と会ったのは何時の事であったか」

 耳元に雷が落ちたかと錯覚するほどの声量であった。しかも、女の声だ。人間で言えば、年の頃四十前後。血を吸って咲いた大輪の牡丹を連想する妖艶な響きに、すでに万年以上を生き、並みならぬ知性と同族ならざるものでも平伏する事を強いる威厳を伴っている。
 確かな理性を感じさせる金色の瞳であったが、この雌の蛇妖が内に秘める凶暴性、他の生命に対する悪意の深さは大蛇をはるかに上回っている事を、銀狼は知っていた。
 銀狼が身を強張らせている事を見抜いた紅牙が小さく笑う。銀狼への悪意がまるで感じられぬ笑い声であったが、だからこそ銀狼は警戒の意識を高めた。悪意の念を完璧に隠し通せる狡猾さの表れでしかない。

「そう固くなるな、銀色の。貴様の同類を食ったばかりでな。腹は空いておらぬのよ」

「嘘も大概にしろ。貴様らの腹が満ちる事が無いのは、私とて知っている」

「狼共が食われた事に怒りはしないのか?」

「ここの連中とは姿が似ていると言うだけの事。同胞と思った事はない」

「つれない事を言うのう。狼共の群れを率いる雌、貴様に執心している様子ぞ。確かに貴様と番になれば、生まれてくる子は、このわしでも想像がつかぬ大妖となるであろうよ。成長すればこの森を制する初めての者となるやもしれぬ。貴様と子を成す事に拘るのも、それが理由であろうな」

「身に纏うものが毛と鱗の違いはあれども雌と雌。心は分かるとでも言うつもりか」

「くはは、言う様になったな、銀色の。貴様がそのような口を利くとは、変われば変わるもの。その背に負うた人の子の所為かな」

「人の子の肉が貴様らにとって美味な事は承知している。しかし、我が背の子に怪我の一つでも負わせれば、いや、悪意の一つでも向けてみろ。私は貴様らが全て息絶えるまでこの牙と爪を振るう事を止めぬ。蛇の一族がこの森から絶える時であると肝に命じるがいい」

 冬の厳しい冷たさに凍りついた湖面の様に静かな銀狼の声に、紅牙の出現に凍りついた空気が、今一度凍り付く。
 銀狼との会話を楽しむ余裕を持っていた紅牙もまた、見下ろしていた筈の銀狼の姿が一回りも二回りも大きく見えていた。
 際限なく膨れ上がる銀狼の妖気と、蓋を開けた溶鉱炉の様な熱気を孕む気迫が、銀狼の姿を大きく見せているのだ。
 銀狼を敵にする覚悟を固めるまで、決して触れてはならぬ存在が、ちっぽけな人間の子である事を紅牙は察する。それは銀狼にとって唯一の弱点であると同時に、こちらの首を落とされかねぬ諸刃の剣でもあるのだ。
 人質という手段は、この森の倫理では何ら意味を成さぬ行為であったが、銀狼に対する限りにおいては、悪手とも好手ともなりうるようだ、と紅牙は心中で呟く。
紅牙が初めて音を立てた。しゅう、とかすかに息を吐いたのである。薄氷の上を歩くような緊張に満ちていた場が、かすかに緩んだ。紅牙の放っていた恫喝の妖気が徐々に薄らいでゆく。訝しんだ銀狼が口を開いた。背後で固まっている大蛇の事など既に意識から外れている。

「何を考えている」

「さて、な。貴様がどうしてこの森へ来たのか、理由は何かと考えただけよ。た
だ、安心するがいい。貴様と雌雄を決するのは、今ではない」

「……」

 蛇妖以外の多数の妖気が驚くべき速さで接近して来ている。銀狼だけでなく紅牙も気付いているだろう。だが、それだけでこの蛇妖が背を向けるとは考えられず、銀狼の背の毛はいまだ逆立ったままだ。

「次に会う時には、貴様の肉を食いたいものだ」

 無防備に背を向け紅牙が地を這って遠ざかってゆく。銀狼の爪によって血塗れになった大蛇を、一度も振り返らなかった。おそらく紅牙にとって子か孫であろうが、同族に対してもこのような冷淡な対応をするのが、この森では当たり前なのである。
 呆気なく感じられる去り方をいまひとつ信じられず、銀狼は紅牙の姿が見えなくなっても、しばらく臨戦態勢を解かずにいた。
 銀狼の警戒の度合いを表す逆立った毛がようやく元に戻り始めたのは、背後で固まっていた大蛇が、大きな地響きを立てて横倒れになってからであった。
 一族の中では高位に位置する大蛇でさえ、緊張に身を凍らせねばならぬ存在である紅牙が姿を見せなかったら、とっくに倒れていた所だろう。銀狼によって生命を死へと追い込まれかけた事よりも、長の出現による異様な緊張がそれを大蛇に許さずにいたのだ。
 途方もない重量が音を立てて崩れる振動と衝撃に、銀狼の背のひながびくりと肩を震わせた。そろりと紙縒りのように細く息を吐いた銀狼は、すぐさま移動を再開した。
 蛇の一族が遠ざかるのとは逆に、接近してくる気配はもうすぐそこまで迫っている、移動速度からすれば、鳥か狼の一族であろう。紅牙との対峙で多大な緊張を強いられた銀狼としては、どちらとも出会いたくはなかった。である以上、銀狼の判断は早かった。
 銀狼と紅牙が対峙した場を去って、そう時を置かずして接近していた多数の妖気の主たちが姿を見せた。銀狼が予測した妖魔達の内の一方、狼の一族である。銀狼と比べれば尋常な体躯の狼共だ。
 ただ、それは一族の中でも年若いもので、絶えず流血と破壊と死が溢れているこの森で長い時を生きたものは、狼の範疇に収まらぬ巨躯へと成長している。
 多くの狼は灰色の毛を持ち、毛の先端に行くにつれて白みを帯びて行く。所々に斑点のように黒い毛や赤い毛、白い毛が生えているものもいたが、同じ血を分けあった同族である事は一目で分かる程度に似通った顔立ちをしている。
 その中でもひときわ大きな体の雌狼が姿を見せた。すでに息絶えた大蛇の周囲を固めていた他の狼達が、自分達の長の為に左右に退いて道を開ける。
 四肢の付け根に茶色の毛が生えた灰色の装いの狼であった。銀狼に勝るとも劣らぬ威容で、三角形の耳は細長く、先端に行くにつれて夜の空のように黒くなる。毛皮と同じ灰色の瞳は、体中の血を垂れ流して息絶えた大蛇の姿を、愉快そうに見つめている。
 雌ながらに長を務める狗遠(くおん)だ。
 頑健な筈の大蛇の鱗が幾百枚も切り裂かれているのをじっくりと眺め、また切り裂かれた箇所に鼻を近づけて、そこに残る狼の臭いに口の端を吊り上げた。彼女の良く知る臭いだ。
 大蛇の無惨な姿に反し、周囲に銀狼の残り香はあれども血の臭いはない。つまりは、銀狼が一方的に大蛇を屠ったと言う事。自分の見る目の確かさが証明され、狗遠は喉の奥で機嫌よく唸り声を上げた。
 しかし気になるのは、どういうわけなのか、大蛇と銀狼の匂いの中に人間の――しかも、幼い女子の――匂いが混じっている事だ。
 ごく稀に森に迷い込む人間の血肉は、他の妖魔や獣達のそれよりも美味で、一族の者達のみならず、妖魔であるならこぞって食べようとする。
 もっとも、山の内側に足を踏み入れる事が死を意味すると悟り、人間が滅多に姿を見せなくなってから随分と経っている。
 時折、山の者達が秘薬の材料となる植物や鉱物を採りに姿を見せる程度だ。銀狼が食う為に攫ってきたのだろうか?
 いや、そもそも銀狼がこの森に姿を見せることそれ自体が珍しい。自分がしつこく子種が欲しいと追い回した事と、他の妖魔達の存在を嫌って山の向こう側で暮らしているはず。
 まさか、自分の願いを叶える為に出向いてきたわけでもあるまい。であるなら、この場から去る必要が無い。
 銀色のは一体何を考えているのか、と狗遠が思案していると、異母弟の飢刃丸が声をかけてきた。
 陰鬱な光を瞳に宿した赤毛の狼だ。
 左の耳が半ばから消失しているのは、初めて銀狼と出会った時に挑みかかり、返り討ちにあった名残である。傷口を侵した銀狼の妖気の影響で、一向に治る気配がない。
 それでも、狗音とほぼ同じ巨大な体を持ち、速力、跳躍力、持久力をはじめ身体能力と戦闘能力は一族の中でも狗遠に次ぐ。
 この異母弟が時折胡乱な目で自分を見ている事を、狗遠は知っていたが、あえて放っておいた。銀狼の血を一族に入れる事に真っ先に反対したのも、飢刃丸だ。

「姉者、皆が待っているぞ」

 こちらの気が滅入る様な暗い声である。暗闇の中に生まれ落ちて光を一切知らずに育っても、もう少しましな声が出せるだろうに。

「ん、そうか。好きにするよう伝えろ」

「おう」

 長の許しが出るのをまだかまだか、と待っていた狼達が一斉に動いた。長く大地に伸びている大蛇の死骸に一斉に牙を突き立てて、その肉を毟ってゆく。動きに支障が出ぬ程度に腹に収め、残りは口に咥えて巣で待つ一族の者達の下へと運ぶためだ。
 腹に子を宿した雌や半人前にもならぬ子供らを守っている者達の分だ。大蛇ほどの巨大な蛇妖なら当面食いつなぐ事が出来よう。
 銀狼は一切の食物を必要としない妖魔だから、大蛇の死肉に口をつけた様子はない。そこも狗遠が気に入っている所だ。一族に迎え入れたとしても、働き手は増えても食いぶちが増えるわけではないのである。
 銀狼なら十頭分位の働きはしてくれるだろうし、産まれてくる子供もおそらくは、途方もなく強力な妖魔となるに違いない。狗遠にとって、銀狼以外の雄と子を成す事など到底考えられない事だった。
 次々と肉を毟られて小さくなってゆく大蛇の死骸を見つめていた狗遠は、上空に小さな黒い点が姿を見せ始めた事に気づき、緩く弧を描く尾をピンと伸ばした。狗遠に続いて何頭かの狼達が低い唸り声を上げ、仲間達に警戒を促す。
 蛇妖の襲撃を受けて、七頭の仲間を失った彼女らがここへ戻ってきたのは、こちらを散々にてこずらせた大蛇の苦痛の悲鳴が聞こえてきた事が大きい。復讐の念に燃える同胞達を宥めすかして、一時撤退し体勢を立て直し、反撃を試みる為に戻ってきたのだ。
 いざ舞い戻ってみれば蛇妖族の姿は息絶えた大蛇を除いて既になく、思わぬ収穫に仲間達は喜びの声を上げたが、大蛇の死肉にありつこうとする者は彼らばかりではなかった。

「姉者」

「分かっている。鳥共か。蛇がこの場を去っていてよかった」

「どうする?」

「どうせ私達の食べ残しを漁るだけだ。気にするな。空を飛ばれていては相手をするのも面倒。さっさとこの場を去るぞ」

「しかし」

「今日はやけに食い下がるな、飢刃丸」

「……すまぬ」

「なに、お前も群れの事を考えての事だろう。怒ってはいない」

 揶揄する様に笑う異母姉を飢刃丸はじっと見つめていた。血を分けた姉弟でありながら、そこに肉親の情はわずかも存在していないようであった。



 きつく瞼を閉じていたひなに、やや疲れた調子の銀狼の声が掛けられたのは、銀狼が疾走を再開してしばらく後の事だった。恐る恐る目を開いたひなは、銀狼に勧められるままに、背から降りた。
 森の中の広場だ。細い灌木の上に腰を下ろし、ひなは大きく息を吐いてからまた吸った。銀狼の妖気による保護があったとはいえ、紅牙級の妖魔の妖気を浴びて、鉛の様な疲労が全身に溜まっている。
 やや青白く変わったひなの顔色を見て、銀狼は森に来る判断をした事は過ちだったかと後悔した。
 銀狼は、紅牙の妖気によって氷の様に冷たくなっているひなの頬に鼻先を寄せた。思いやりの込められた仕草とくすぐったい感触に、ひなが小さく笑う。

「すぐに妖魔除けの結界の範囲に入る。そこまでいけば安心だ。もう少し、頑張れるな?」

「はい。あの、銀狼様は大丈夫ですか? すごく疲れているように見えます」

「確かに疲れた。最初の蛇はともかくな、二匹目の蛇はこの森でも特に厄介な相手だったんだよ。もう二度と会いたくない。アイツと対峙するのはもう嫌だ」

「銀狼様でも苦手な相手っているのですね」

 なんとなく感心しているらしいひなに、銀狼は苦笑した。どうもひなの中で、自分は苦手な事や弱点の無い完璧な存在の様に思われているらしい。
 ひなにとって、銀狼は辛く苦しく惨めな生活を一変させた極めて大きな存在である。銀狼の方は自分が、ひなにとってそれほどまで大きな存在だと言う自覚がないようだ。
 くいと顔を上げて、銀狼が先を促した。ひなは背から降りたまま歩きだす。それでも右手はずっと銀狼の脇腹の毛を握っている。闇に閉ざされた道の中を、迷子にならないように親の手を強く握る子供のようだ。
 ふと、ひなが顔を上げた。ざっという枝葉の揺れる音と、自分にかかった影に気づいたのだ。

「なんでしょう、お猿さんかしら?」

 不思議そうに木々を見上げていたひなは、銀狼の鼻先に押されて木陰に押し込まれた。

「ぎ、銀狼様?」

「喋るな。息も小さく」

 ひなはこくこくと頷く。銀狼の声に混じる危険な響きに気づいたからだ。腹這いになった銀狼の傍らにしゃがみ込み、枝から枝へと飛び移る影達が通り過ぎるのを待つ。
 さらに幾枚かの新緑の葉が舞散り、動く猿の影はなくなった。
 ひなはおそるおそる銀狼の横顔を見る。白銀の獣の横顔から警戒の色は抜けていたが、新たに訝しげな表情を浮かべていた。

「血の臭いがする。怪我をしているようだが、年がら年中殺し合っているから不思議ではないが、随分数が多いな。大敗したという事か……」

「いつも傷つけ合っているのですか?」

「いつもだ。だから私の性には合わなかった。しかし、猿共、相当な数の仲間を殺されたようだな。これは森の勢力図が変わるかな」

「……銀狼様」

「ああ、済まない。さ、行こうか」

 とてとてと、六つの足音がしばらく草を踏む音が続いた。小鳥の囀りや木々の揺れる音は耳に心地よい音色を奏でている。鼻の粘膜を狂わせる猛烈な臭気も、周囲には立ち込めてはおらず、澄んだ空気だけが存在している。
 ひなは、暮らし始めた山の中とどこに違いがあるか、確かめるようにきょろきょろと周囲を観察している。銀狼はさほど興味がないようで、進む方向にだけ視線を向けている。

「背の高い木ばっかりですね。生き物も全部大きいのですか?」

「全部とは言わないが、大抵大きいな。山菜や果実の類もやたら巨大だし、外にはない独特のものも多い。獣も外側の森のより二回りは大きいのばかりだ。私もこちらから外へと移り住んだしね」

「銀狼様の故郷みたいなものですか」

「あんまり故郷とは思いたくないな。良い思い出が全くない。周りは腹を空かした
凶暴な妖魔ばかりだったし、変な雌の狼には追いかけ回されたし」

「必ずしも良い思い出がある場所が、故郷というわけではないと思いますよ」

「ひなは時々大人びるなあ」

 不幸な境遇であったひなの言葉だけに、相応の説得力があったから、銀狼はう~むと唸りつつ、感心した口調だ。
 別に褒められたわけではないだろうが、銀狼の言葉にひなははにかんだ笑いを見せる。一匹と一人はどちらとも抜けた所というか変わった所があり、うまい具合にそれらが噛み合って、お互いの仲を良好なものしているようだ。
 妖魔の存在を排除する結界内に足を踏み入れるとの同時に、かすかに銀狼の体に、上から押さえつけられるような重圧を感じた。銀狼には効果を及ぼさぬように調整された筈だが、それでも若干の影響は残っているようだ。
 手を抜いたな、と銀狼は苛立ちを噛み殺した。
 あるいは嫌がらせの可能性も捨てきれない。自称仙人の老人は、なんとも人を食った性格をしていて、会話すると言う事自体の経験に乏しい銀狼は、会う度に言いくるめられて損をしてきた。その為に、銀狼は苦手な相手として認識している。
 その相手にひなの事を任せるというのは、躊躇いを覚えないでもなかったが、正直なところ、ここまで苦労と危険を重ねてきた以上、何の収穫も無しに帰るのは癪だ。
 狭縊な道を一人と一匹は仲良く歩いて行き、ほどなくしてあの海と見間違えそうなくらいに巨大な湖が目の前に広がる。水底まで見通せる透き通った湖の美しさは、言葉に表し難いものであった。
 燃え盛る太陽や自然ならざる形の針山、湖を囲む木々の緑を湖面が鏡の様に映して輝かせ、この世のものと思えぬ絶景の相を成している。
 感動のあまりに言葉の出ないひなの様子に、銀狼は連れてきて良かったな、と先程までの後悔の念はどこかへと放り捨てていた。頭の造りが単純な狼である。

「おぉ~~~」

「大きいだろう?」

「おっきいです。凄いです! こんなに大きいのに、海じゃないんですよね」

「そうだよ。といっても、私は海を見た事が無いから分からないけれどね」

「うわぁ、こんなに大きい湖があるなら山が潤っているのも当たり前かもしれないですね」

「かもしれないな。さ、ついておいで」

「あ、はい」

 銀狼の全身から緊張の気配が去っているのを感じたから、ひなの方も落ち着いていて、気軽に散歩に来たような雰囲気である。流石に結界外部の妖魔の咆哮や唸り声は聞こえてくるが、そればかりはどうしようもない。
 大人しく銀狼の後に付いてくるかと思われたひなであったが、引いては押し寄せる波に心惹かれたようで、ちょっと足を止めて手早く素足になるや、ちゃぷちゃぷと波を掻きわける音を立てて、湖に足を入れて遊び始めた。
 銀狼は草履を脱いで水と戯れはじめたひなの様子に、注意するとか先を急かす声をかける前に、目元を柔和なものにした。愛娘を見守る慈父の眼差しそのものである。危うく銀狼は今回湖を目指した理由を忘れかけたほどだ。
 ひなは水遊びが楽しくなってきたようで、きゃっきゃっ、と笑い声が弾みだしている銀狼はこの上ないくらい和やかな気持ちにどっぷり沈みこんだが、首を振ってかろうじて意思を取り戻した。
 ひなにとって銀狼が大きく世界を変えた存在であるのと同じかそれ以上に、銀狼にとってひなの存在は、極めて重要なものとなり、行動の優先順位の第一に置かれつつあるようだ。
 銀狼は自分自身の面倒を見る必要がほとんどない為か、手の掛かる――言ってしまえば、守らなければ生きていけないような弱者である――ひなの事を、自分よりも上の優先順位に置ける余裕があるのも、大きな理由だろう

「ひな、遊ぶのはまた今度にしなさい」

 ようやく、銀狼はひなに声をかけた。もっとひなが楽しそうにしている姿を見たいという思いに打ち勝つのには、大変な労力が必要だった。

「すみません、つい」

「もっと時間のあるときにしような」

「また遊びに来られるでしょうか?」

「ああ、今の暮らしに慣れれば、もっと余裕も出るだろうしね。それに、ひなは畑仕事ばかりで可哀そうだなと思っていた。たまには遊ばせてあげたいと常々思っていたのだ」

「可哀そうだなんてそんな、銀狼様も手伝ってくさっているじゃないですか。畑仕事だって村にいた時よりもずっと楽なんですから」

「それならいいが、私に遠慮する必要はないのだから、なにか困っている事があったらどんどん言うんだよ。私には君の面倒を見ると決めた責任もあるし、ひなに何か頼られたりする事やお願いされるのが私にとっては、どういうわけでか嬉しいのだ」

「ふふ、ありがとうございます」

 腰帯に挟んでいた手拭いで手早く濡れた足を拭いて、ひなは草履を履き直した。再び歩き出してすぐ、銀狼が目的のものを見つけて顔を上げる。
 水辺に接する木々に隠れる様にして、小さな小屋が姿を覗かせている。遠目に見ても壁に隙間が多く、天井も同じような調子なら雨漏りはさぞ盛大だろう。

「ぼろぼろだろう?」

「ぼろぼろです。こんな所に人が?」

「妖魔だらけの森で生きる様な変人だ。あまりひなの常識で考えない方がいいぞ」

 足音一つ立てず小屋の前まで銀狼が歩き、右の前肢をもち上げてどんどんと、戸を荒っぽく叩いた。返事があるに決まっていると確信している様子だ。しばらく戸を叩く音が続いた。
 しつこいくらいに戸を叩いていると、銀狼の背の辺りがちりちりとした。直感の告げる危険信号だ。これが、これまでそれなりに危険な目に遭遇してきた銀狼が、いまも五体満足で過ごせてきた大きな理由であった。
 咄嗟に身を屈めた銀狼の額を、無色の衝撃が軽くかすめて、数本の毛が千切れる。珍しく銀狼の喉から威嚇の唸り声が出た。戸の向こうから相手が姿を見せなくても、そのまま小屋の中に突入しそうな勢いだ。
 突然の事態に呆気に囚われていたひなは、ぽんと肩に手を置かれて、小さく悲鳴を上げた。ひなの悲鳴に雷光の速度で振り返る銀狼の目に、しなびた野菜か枯れ果てた木を連想させる老人の姿が映る。
 皺で出来ている様なしわくちゃの顔に、糸の様に細い両目と、こんもりと盛り上がった鷲鼻、口元は胸元まで伸ばされた真白い髭に覆われている。百歳どころか二百歳、三百歳にさえ見える。その癖、皺ばかりの皮膚には、老人斑や染みは一つもなく、蝋を縫ったみたいにつやつやと光輝いている。
 紫紺地の着物を赤色の帯で結んでおり、背筋は鋼でも通しているようにぴしりと伸びている。銀狼が会おうとしていた自称仙道の老人その人である。
 銀狼の知覚網に感知されず、ひなの背後まで接近していた事に、銀狼の眉間と鼻先に皺が寄った。つい先程まで――いや、今も老人の気配は小屋の中に感じられる。ということは小屋の中に気配を残しつつ、自分自身の気配は消して接近したのだろう。
 気配察知に関しては、内外の妖魔を合わせても屈指の精度を誇る銀狼の感覚を騙し切った事を意識しているのか、老人はにたにたと笑っている。ひなは困惑した表情で、噛み合わせた牙を剥く銀狼と、背後に何の前触れもなく姿を見せた老人の顔を交互に見つめている。

「そんなにしつこく戸を叩かんでも聞こえておるわいな。にしても、お前よう、どうして童なんぞ連れておる。しかもこんなに愛らしい娘っ子をよ」

 見た目を裏切る精気に満ちた声だった。一語一語に力が込められている。声だけで判断したら働き盛りの巨漢を思い描くだろう。ただ、仙人と言う割には声の中にそれらしい威厳や、品位、知性の響きは含まれていない。

「お前に紹介しようと思ったからだ」

 銀狼は憮然としていた。老人に出し抜かれた形である事に、不満らしい。負けず嫌いな性格というよりは、思考形態に子供っぽい所が残っているのだろう。

「食べる為では無い、か。お前さん、人間と違って獣らしく嘘はつかんからな。そこは信用してしんぜる。感謝せい」

「……とりあえず、ひなから離れろ。話はそれからだ」

「ひなというのか。名前も見た目も可愛いもんじゃて。わしは天外。この森に住む仙人崩れの爺じゃ」

「えっと、は、初めまして」

 如何にも好々爺然とした天外の笑みに、ひなは悪い人ではなさそうだと、本能的に感じた。それから、ちょこんと頭を下げる。
 その様子を、天外は長い髭をしごきながら笑みを浮かべて見守っていた。あるのかないのか分からないくらいに細い糸目に、どんな感情が宿っているのか、銀狼にも分からなかった。初孫を見る祖父の慈しみであるならば、なんの問題もないのだが……。

「で、なんでわしに紹介する必要がある? お前、外ん所に塒を決めたんだろうが。わざわざこの森に入る危険を冒してまで、なんでこのお嬢ちゃんをわしに会わせようなんぞと考えた」

「ひなの身は私が全力を尽くして守るつもりだが、万が一、という事もある。だから、ひなにも自分で自分の身を守れるように、手ほどきをして欲しいのだ」

「はあん、そこまでは頭が回ったわけか。わしに教えられる事と言ったら仙道の術と世の中の事ぞ。どれもこれも時間が必要だ。一朝一夕では身につかんぞ」

「無理に急がせるつもりはない。が、可能な限り早く教えろ」

「かかか、よくも上からそんな事を言えたもの。お前、性格が悪くなったな。まあ、暇つぶしにはなる。二人とも、お上がり、白湯くらいは出してやろうほどに」

 そう言うや、戸を開いて小屋の中に姿を消す天外の後を、ひなと銀狼が追って、闇に塗り潰されて中の様子が一切窺えない内部に入る。ふっと、意識が遠のくような酩酊感に、ひなが目を瞬くと、広がっていたのは小屋の外見からは想像もつかない光景だった。

「え、あ、あれ? ここ、さっきの小屋ですよね……」

「天外は無常館とか言っていたな」
「はあ」

 気の抜けたひなの返事は、無常館の高い天井の彼方へと吸い込まれた。一人と一匹が立っていたのは、果てしなく続く板張りの廊下の上であった。
 どこから差し込むとも分からぬ光に照らし出される床と壁には、小さな傷一つ、染み一つなく、まるで鏡のように磨き抜かれている。
 ひなの右手側にはどこまでも障子が続いており、張り替えたばかりの紙と糊の匂いがぷんと香ってくるようだ。背後を振り返ると銀狼と一緒に跨いだ小屋の戸があり、確かに自分達が足を踏み入れたのが、あのみすぼらしい小屋であると証明している。
 一歩足を踏み込んだ先に広がった別世界に、ひなは戸惑いを隠せない様子だ。傍らの銀狼は、すでに何度か経験しているようで、落ち着いている。
 とはいえ、先程天外の接近を察知できなかった不手際を気にしていて、全方向に対して警戒の意識を発している。たんぽぽの綿毛ひとつが風に乗って近づいて来ても、即座に探知するだろう。
 銀狼が歩きだしたので、ひなも草履を急いで脱いでその後に続くが、興味はすっかりこの不可思議な小屋の内部に移っていた。
 ひなが首をほとんど直角に曲げても見通せないほどに天井は高く、そのまま天まで通じているのではあるまいか。
 いつのまにか天外の姿は消え、前方の銀狼が確かな足取りで進んで行く廊下も、濃密な霧に閉ざされているように白く霞んで、果てが見えない。
 不安に駆られて背後を振り返ると、先程までは確かに存在していた小屋の入口が消失し、前方同様に白い光の中に紛れて何も見えなくなっている。
 ここでまた振り返ったら、銀狼の姿さえ消えている様な気がして、ひなは振り返る事が出来ず、その場にしゃがみ込みたい衝動を、必死に堪えた。
 ひなの不安を敏感に察知した銀狼が、動かしていた足を止めて振り返り、足が石に変わった様に動けずにいるひなの傍らへと歩み寄る。

「ひな、しっかり私の体を掴んでいなさい」

 こくん、とひなは可愛らしく小さく頷いて、これまでそうしてきたように、銀狼の柔らかな体毛を掴んだ。体毛を握るひなの手に込められた力の強さは、ひなの不安よりも銀狼への信頼を表していた。
 黒く光る板張りの廊下をひたすらに歩いた。全く同じ光景が延々と続き、時間の感覚は早々に麻痺したが、相当な距離を歩いた事は分かる。だのに、不思議と疲れはなく、ひなはこのままいくらでも、それこそ死ぬまで歩き続ける事が出来る様な気がしていた。
 廊下は必ずしも平坦ではなかった。わずかにそれと察する程度の傾斜のついた下り坂や登り坂を歩き、曲がり角を何度も何度も曲がりもした。その全てを同じ歩調で進み、あの小さな小屋の中とは思えぬ距離を進んでいると、ようやく銀狼が足を止めた。
 苛立っている様子はないから、この終わりの見えぬ彷徨が、天外の嫌がらせや悪戯ではないと分かっているのだろう。

「ここだな」

 と銀狼が左を向いて言うので、ひなもそちらに目をやれば、先程までは何もなかった壁に、いつの間にか戸があるではないか。瞬きをした間にか、それとも視線を外している間に、唐突に戸が形作られたとでもいうのだろうか。
 これも仙術と言うものなのかしら、とひなは特に気にしない事にした。

「入ってよいぞ。客を招いても恥ずかしくない程度に片付け終えた所よ」

 戸の奥から聞こえてきた天外の声に従って、銀狼が前肢を使って戸を開いた。器用なものだ。廊下同様にどこにも光源の見当たらぬ部屋だが、それでも光に満ち溢れ、視界は十分に確保されている。
 広い部屋だった。二十人が大の字になって寝転んでも互いの手足がぶつかる様な事はないだろう。広さはともかく、部屋の内装の珍妙さにひなの首が大きく捻られた。用途の分からない器具ばかりである。
 天外が座っている肘掛け付きの座椅子はともかくとして、天外の目の前に置かれている硝子張りの机や、棚の上に置かれている横長の長方形の箱、丸い円盤の様なものが嵌め込まれた箱、見た事もない材質の箪笥らしいものからなにから、見るもの全てが珍しい。
 板張りの床の上には何かの毛皮らしい絨毯が敷かれていて、ひなと銀狼の為の座布団が置かれている。銀狼はさっさとその座布団の上に座った。ひなは少しだけ躊躇を見せてから銀狼の右隣に座る。
 白湯くらいは出す、という言葉通りに一人と一匹の前には湯気を昇らせる湯のみが置かれている。天外の横には底の方が太い円筒形の物体が置かれていて、それから湯を注いだらしい。

「で、ひな嬢ちゃんにいきなり仙道の術を教えればいいのか? めんどくせえぞ。世界の理を悟って世俗の辛苦から解放されるなんてえ名目の為に、いろんな事を我慢させられるからな。あれが食べてえ、飲みてえ、あの人と恋仲になりてえ、綺麗なべべが着てえだの、いろんなものを我慢させられる。学んだ知識や技術、真理も他の人間に漏らしてはならんし、破れば厳罰に処される。半ば不老不死にはなるが、その永遠の生命を楽しむ手段が極めて乏しい。灰色の人生になりかねんぞ」

「仙道の教えや理念など要らないから術だけ教えろ」

 要点だけを述べる銀狼に、天外は面白げに顔を顰めた。

「くく、んなことしたら仙界の掟を破る事になるな。まあ、とっくに破門されておるわしだ。たいして気にはならんがなあ」

「対価を求めると言うのなら、出来得る限りのものを支払うぞ」

「ふーん。じゃあ、お前さんの肝を食わせろ。天地陰陽の気が集まって生まれたお前の肝を食えば、わしの神通力は天井知らずに高まるわな」

「ふむ。ひなの為になるのなら、別に構わん」

 なにげなく言われた言葉を理解したひなの顔が、凝然と固まるのに時間は要らなかった。

<続>



[19828] その八 帰る
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/07/03 21:38
その八 帰る

 おどけた調子の声だ。本気ではないとすぐに分かる声であったが、銀狼の隣のひなにとっては、そうと聞こえず思わず腰を浮かし、火を吹くような眼差しで天外を睨みつけている。

「肝の一つくらいは構わん。半日も寝ていれば元に戻るからな。ただし、ひなに教える術に手抜かりは許さんぞ」

 ひなの激昂も、天外のからかいも無視して、銀狼は極めて真剣に答えた。自分の冗談に食ってかかるかと思っていた天外は、こちらの肌を泡立たせる迫力を滲ます銀狼の様子に、くくっと髭の奥に隠された口の端を吊り上げた。邪悪と見えなくもない光が、細い目に輝いていた。

「お前さんがそこまでいれこむか。こりゃ面白い。ついでにこの世の事も教えてやろう。術を教える前にある程度の教養があった方が、理解が早くなる。銀色、お前もついでに聞いていけ。養う少女よりもものを知らんと言うのは恥だろう?」

「別に構わんが……」

 ちらっとひなの方を見ると、ひなはこくこくと忙しなく首を縦に振っている。銀狼に対する態度で、天外に対して好ましくない印象を受けている為だろう。天外と二人きりにされる事よりも、自分の眼の届かない所で銀狼が何をされるのか分からない事が不安なのだ。
 ひなと銀狼の態度を面白げに見つめながら、天外は両手を叩いた。その拍子に砕けないのが不思議なくらいにか細い手である。
 滲むようにして天外の背後に、左右の端を棒に支えられた黒緑色の板が出現し、ひなの目の前には紙束と筆、硯、墨壺が現れた。同じものが銀狼の足元にも置かれている。無からモノを取り出す術を行使したのだろうが、初めて目にする現象に、ひなの目はまんまるに見開かれている。対して銀狼は、この爺さんならこれ位やるだろう、と気にしていない様子だ。

「弟子を取ったのははて、何時の事だったかよく憶えておらぬが、まあ簡単な所から始めるとしよう。嬢ちゃん、読み書きは出来るかね?」

「簡単なのなら、父から教わりました」

 武芸者であった父の教育によって、ひなは村の娘としては珍しく、一通り、文字の読み書きができた。大抵は村長や村の重役の一部に限られる。不幸な事に読み書きができると言う事が、ひなの両親の死後、村の同年代の子供達からの冷遇に繋がってしまった。
 それから天外は銀狼に視線を移して、

「お前は読めんよなぁ。なあ、銀色の?」

 にたぁ、と相手を馬鹿にしている事が明らかな笑い方だ。銀狼もそれ位は分かったから、機嫌を一気に悪いものにしている。

「必要のない生活だったのでな。それと、銀色の、ではなく銀狼と呼べ。仮だが、それが今の私の名前だ」

「銀狼……見た目そのままだな。自分で名付けたのか、それともお嬢ちゃんが名付
けたのかね?」

「銀狼と決めたのは私だ。本命はひなに付けてもらう予定なのだ」

 どことなく照れ臭そうな銀狼の様子に、天外は興味を隠せない様子だ。以前、銀狼と顔を突き合わせた時に比べ、はるかに感情が豊かになっている。元々善の性質を持った妖魔であったが、人間の少女を引き取ったことで劇的に精神が変化している節が見られる。

「なら銀狼と呼んでやる。お嬢ちゃんが文字を書けるなら、お前はお嬢ちゃんから教われ。わしは別の事をお前達に教えてやろう。運が良いぞ、世の万人が知らずにあの世に行くようなこの世の様々な事を教えてやるのだからなまず、この世界の事から教えてやろう。この国をはじめ、よその大陸も含めた大地を、壺中星と呼ぶ。そのうち、誰かが違う名前を付けるかもしれんがな」

 天外は腰の裏を叩きながら仰々しげに立ち上がり、背後の板になにか白い棒のようなもので、壺宙星、と書いた。

「夜空に輝く数々の星も、大半は同じような壺宙星だ。中には太陽や月もあるがね」

「あの」

「質問は挙手と共にするように」

「は、はい」

 ぴしゃりと言われ、おずおず手をあげ直してから、ひなが質問をした。

「えっと、天外様の言う通りだと、夜に見える星のほとんどに私たちみたいに人が生きていると言う事ですか? なんだか、とても信じ難いというかなんというか」

「だが事実だ。ま、九割九分九厘の人間は知らん事よ。下手に口外しない方がいいぞ、頭がおかしいと思われるからな、で、だ。その無数の星を含むこの世の全部をひっくるめて壺宙界という。これはその名の通り壺の形をしておる」

「壺?」

 天外の言う事が信じられず、銀狼が首を捻った。

「壺だ。この世が創られる時に、神さんの一柱が持っていた壺に、他の神さんがたがこの世の素となるものをぶちこんで、かき混ぜながら煮込んで出来たのがこの世なのよ。壺の中がわしらの生きておる世界。壺の外が、神々の領域たる天界となっとる。この壺の底が、あらゆる生命が死後世話になる冥界、あの世とか常世と言われておる場所じゃ。お前さんらは当分冥府には世話にならんだろうがな」

 黒板に、大きな壺の絵が描かれて、内側に壺宙星を露わす点、底の方に冥界、壺の外側に天界と文字が書かれた。天外の言う事を信じるなら、壺の中の小さな点の
一つが、ひなと銀狼らが生きている大地となる。

「で、この大地には世界を創造した十三の主神を頂点とする宗教が広まっておる。この国は特に月の女神シラツキノオオミカミを奉じておるな。十三の神々の内、壺の持ち主である道化の神が唯一不可侵の中立で、他の神は敵対関係にあったり、友好関係にあったりする。神々の総数は八十八万余、主神以外の神を崇める民族や種族もおるでな。誰かの前で、下手に神さんを馬鹿にするような発言はしない方がいいぞ」

「はあ」

「といわれても私は神々の名前など一つも知らんぞ。ひなはどれくらい知っている
んだ?」

「え~と、二、三、知っているだけです。近くの神社の神様と月の女神様のお名前だけです」

 山暮らしの銀狼は正直に自分の無知を晒し、ひなの方も必死に思い出そうとしても、それ位だった。天外はその二人の様子を馬鹿にするでもなく、ま、そんなものだろう、と髭を扱いている。癖なのだろう。

「八十八万全部とはいかんが、十三柱の主神の名前と知っておいた方がいい習慣位は教えてやる。しかし、内容を可能な限り省略してもやはり時間はかかるのう。よし、お嬢ちゃん、これを持ってお帰り」

 天外は腰帯に吊るしていた革袋に手を突っ込み、掴みだした品をひなの目の前に置いた。小さな手鏡である。青銅製の品らしいが、鏡の部分は驚くほど磨き抜かれていて、ひなの顔を完璧に映している。
 自分の顔を映す手鏡を、ひなはしげしげと見つめている。虎の様な猫の様な、狼の様な犬の様な、様々な獣が精緻に彫り込まれており、その巧みさから人生の多くの時間を技術の向上に捧げた職人の手になるものであろう。

「仙道の作った特別な道具でな、遠くの人間とやりとりの出来る遠見の鏡よ。お主らがいちいちわしの所に足を運ぶのは面倒であろうし、わしがそっちに行くのも面倒だ。次からはこれでお前らに教えてやる」

「便利なものがあるのですね」

 ふへえ、と妙な感心の溜息をついて、ひなは手鏡をぺたぺたと触りまくっている。

「もっと褒めても良いぞ。さて、話の続きだが、神さんがたの話はまた次の機会にしよう。お前さんらには滅多に関わりの無い事だろうし、もっか急いで知る必要のあるものでもなし。身近な所でこの山の話でもしようか。ここに来る途中、蛇の奴らめと一戦交えていたな」

「千里眼か、見ていたなら手を貸すくらいしてもよかろうに」

「お前さんなら自力で切り抜けられると信じていたからよ。でだ、この山には大別して七種族の妖魔が覇を競い合っておる。蛇、狼、猿、鷹、鹿、猪、虎だの。わしがここに住まいを定めた時にはもう血で血を洗いあっておったな。こいつらは山の内側での争いに忙しいから、滅多に外側には行かんが、凶暴さや単純な強さでは外側の妖魔よりも一段も二段も上じゃ。気をつけいよ。銀狼が傍におらぬ時に会ってしもうたら、まず命は助からん」

 七種族のほとんど対峙した事のある銀狼がここで実体験を語った。

「単純に一匹一匹が強いのは蛇と虎。群れを相手にすると厄介なのは空を飛ぶ鷹、連携が巧みな猿と狼だな。どれも戦わずに済んだらいいんだけどな」

「あの、大狼様……大狼も元は内側の妖魔だったのですか? 昔から何人ものお武家様やお坊様が退治しようとして、誰も帰ってこなかったのですけれど」

 妖哭山の事情を知らぬ村の住人であったひなにとっては、銀狼と出会うきっかけとなった大狼が、はたしてどれほどの存在であったか気になるのも当然の事だろう。

「大狼か。強さで言えば十指に入る剛の者じゃよ。奴はちと特別でな。銀狼と同じで母親の腹から産まれたのではない妖魔よ。妖魔にゃあ、そこらの獣や人間同様に、雄と雌が番になって産まれてくるのと、天地陰陽の気やら、なんやらがごちゃごちゃに混ざりあって産まれる場合の二種がおる。後者は珍しい例じゃ。おまけに十に七は並みの妖魔をはるかに上回る個体になる。大狼と銀狼がちょうど、この例に当てはまるの」

「産まれ方が同じ……」

「だからといって兄弟扱いはしないでくれよ。大狼の奴は、顔を合わせたらいきなり襲いかかって来たのだ」

 ひなに大狼と同類扱いされそうな事に、やや焦った調子で銀狼が弁明する。この様子からして、ひなに嫌われる事は徹底的に避けたいらしい。情けないと言おうか何と言おうか。銀狼を弁護するわけではあるまいが、天外が口を挟んだ。

「人間と同じでよ、産まれ方が同じでも性格まで同じようになるとは限らんさ。特に気が混ざり合って産まれる奴らは、何が混ざるかで性質がだいぶ異なる。大狼の奴は山で死んだ生命の憎悪や無念を核にして生まれた為に、己以外の生命を憎むことこそが本能だった」

「お詳しいんですね」

「まあ、長生きしているのでな。大狼の奴、ここ十数年は外の村へ手出しをしなくなった代わりに、山に生きている連中を執拗に殺し回りおってな。流石に目に余るとわしが手を下そうとした矢先に……」

 ここで言葉を溜めて、天外は銀狼を見た。つられてひなも隣の異常にでかい狼を見上げる。当の銀狼は、ここで自分に注目が集まる理由がよく分かっていないのか、赤子のようにきょとんとした顔をしていた。
 この表情だけを見れば、狼ではあるが人畜無害な獣と勘違いしそうなぼけっとした雰囲気だ。

「このど派手な狼めが、大狼をその爪と牙で散々に痛めつけて山に還したのよ。準備万端整えていざ決戦、と息巻いておったわしとしては拍子抜けも良い所で、がっくりきたのを今も覚えておるわい」

「お前の手間を省いたのではないか」

「それは否定せんがな。大狼は悪鬼羅刹の権化のような妖魔じゃったが、お前は穏やかな性質を持って生まれてきた善妖だったからの。大狼とは真逆の性質故、出会えば反発するのが道理だったんだの。お嬢ちゃん達を困らせておった大狼を、この銀色の派手な奴が滅ぼしたのは確かな事実じゃよ」

「……」

 ひな自身が直接大狼に害を及ぼされた事はないが、それでも銀狼を見上げる視線には尊敬と感謝の念が、強い輝きを放っている。照れ臭いらしくて、銀狼は長い尻尾を左右に振っていた。
 左右に一定のリズムで揺れる銀狼の尻尾を見た天外が、しみじみと呟いた。

「銀狼、お前、分かりやすい奴だったんだの」

「自分に嘘を吐いた事が無くてな」

「冥府で舌を引っこ抜かれる心配はなさそうだの。さて、と、妖魔の産まれ方には二種あると言うたが、実は、もう一つ例がある。といっても、これは妖魔に限らず世の万物に言える事であるがの」

「なんにでも例外があるということですか?」

「さよう。先ほど、この世はある神の持っていた壺の中に造られた、というたじゃろ。壺の持ち主であった神が、太古の昔から今に至るまで気まぐれに外の世界のものをこの世に放り込む事がある。それらを総じて、越界者と呼ぶ。これは生命以外のものも含んでおってな。この世では造られておらぬ器具や武具、技術、時には病魔であったり、植物や獣であったりする。稀にじゃが、人間や妖魔も含むの」

「外の世界とは、他の星から、と言う意味か?」

 興味深げな銀狼に、天外は白く輝く歯を見せた。握りこんだ右拳から、人差し指一本を立てて、左右に振る。洒落た仕草であったが、銀狼とひなは揃って首を捻った。

「ノン」

 銀狼の眉根が寄った。天外の口にした短い言葉の意味が理解できなかったからである。

「どこの言葉だ?」

「こっからずっと西の方にある国で、否定を意味する言葉よ。お前の答えは半分だけ正解かね。別の壺宙星から連れてこられた連中もいるが、そいつらはわしらと同じ壺宙界の住人だ。それを世界の壁を越えて来た者とは呼ばんのだ。越界者と呼ばれる者達はすべて、壺の外、すなわち神々の住まう天界の外側の連中なんじゃよ」

「天界以外にも世界が存在していると? 神の世界の外にも別の世界があるのか?」

「越界者の証言を信じるならな。そいつらが持ってきた技術や知識が、それまでこの世にあったものではなかったということから、信じるものもいる。多くの者は信じぬが、この世にはところどころ綻びとでも言うべき脆い所がある。何かの拍子にそのほころびがぱっくりと口を開いて、異なる世界の者達を連れ込む事もある」

「必ずしも神の手によってこちら側に攫われてくるばかりではないと言う事か。神という割には全知全能ならざる所があるな」

 罰当たりと言えなくもない銀狼の言葉に、天外はにやにやと笑うばかりだ。

「神々の遊び場たるこの世はな、神にも完全には御せぬ部分を持っておる。神の意図せぬ越界者の存在が良い例だ。ちなみにここもその綻びのある場所の一つよ」

「山の内側がか?」

「おうよ。時折この世のものとは思えぬ品が転がっていてな、わしはそれを集めるのを趣味にしておる。この部屋の品物の多くもそうだ」

 用途がさっぱり分からない部屋の品々を、改めてひなと銀狼は見回した。天外の言葉を信じるのなら、それらはすべてこの世の住人ではない者達の手からなるモノだという。これらの品の本来の用途は一体何なのだろうかと、ひなは思わずにはいられない。
 ふと、越界者の話を聞くうちに抱いた疑問を口にした。

「でも、どうして神様はそんな事をするのですか? 他所の世界の人達を勝手に連れてくるなんて。それでこの世界を良くする為?」

 連れて来られた側からすれば迷惑以外の何者でもないだろう。理解できないと顔に書いているひなに、天外が両肩を竦めて答えた。

「いいや、世界を賑わすためよ。停滞し変化の乏しくなった世界に、そうして刺激を与えてどんな変化が起こるかを見ておる。そもそもこの世が創られたのはな、神々の暇つぶしの為じゃ。複数の神々が持っておった技術や道具を使って、神々自身にも予測のつかぬ世界を創り、その世界を各々が思う通りに、時に協力し、あるいは邪魔をして面白おかしく楽しんでおるのよ。いわば、神々の遊戯場。わしらは盤の上で動く駒よ」

「それって、じゃあ、私達が生きている意味って一体何なのですか」

「神々からすれば楽しませてくれればそれでよし。観察され見物されておるわしらからすれば、生きている意味なんぞ、ありゃせんのかもな。意味を考えなくても生きては行けるからの。とはいえ、幸か不幸かわしらは喜び、悲しみ、怒り、楽しみ、愛し、憎む心を与えられておる。その心のままに生きれば良いのではないかな?」

「……」

 ひなが納得のいっていない事は、むすっと膨れた両頬で分かった。一方で天外の言うとおり、心の赴くままに生きてきた銀狼は、うむうむと頷いて、天外の言い分を認めている。
 姿を見る事も声を聞く事も出来ない神の思惑など気にせず、自分の好きなように生きればいいのだと、心から思っているのだ。

「お嬢ちゃんからしてそんな顔をする位だ。越界者の連中ならなおさら納得がいかんと思わんか?」

「……確かに。やっぱり問題が起きたんじゃないでしょうか」

 なにか一つ他者と違えば、それが簡単に迫害や差別に繋がる事を身をもって知っているひなだから、越界者達が受けた仕打ちは、容易に想像できた。理不尽に故郷を奪われた怒りや、親しい者達と引き離された悲しみが、世界すべてに対する憎悪へと変わる事も。

「そりゃもうたくさん起きたわい。中には自分達を攫って来た神とこの世界を憎み、壊してしまえと考えている危ない奴らもいる位だからな。ただ、中にはこの世に来た事を天啓と考えて――まあ、天と言えば天だ。なにしろ、正真正銘の神だからな――元の世界では出来なかった事をしようとした連中もおった」

「後ろ盾も何もあるまいに、身一つで何ができる?」

「持って生まれた運と才能がある。元の世界での経験もな。神の使徒と丁重に扱う宗教もあるがね。有名な所だと二百年前にこの国を統一した織田なんちゃらいう武将が越界者だ。もっともお前さん達が関わる事はないだろう。なにしろ滅多に居るものではないからの。さて、次は何の話をしてやろうかの」

 天外は再び髭を扱きつつ、思案する様に目を瞑った。

「今日はこんな所でよかろう」

 と、天外が授業の切り上げを告げたのは、授業開始から三時間ほど経過した後だった。時折休憩を挟んでいたから、銀狼やひなに疲れは見えなかったが、天外の方に飽きがきたらしい。
 その証拠に盛大な欠伸をし、天外は自分の湯呑を口元に運んで一口飲んだ。ひなも、二杯目の白湯で喉を潤した。銀狼の方はひなが書き写した紙の文字を見て、何と読むのか、授業内容と照らし合わせて、うんうん唸りながら考えている。

「お嬢ちゃんは物覚えがいいの。銀狼は、まあ、文字を覚えるところから始めんと
アカンな。記憶力はいいんだがなぁ」

「……これは、『雨のち晴れ』か?」

 と、銀狼は天外を無視して、隣のひなに大きな首を傾げて問うた。銀狼が鼻先を押し付けて示した一文を見て、どれどれとひなが覗きこむ。これまでは銀狼が、慣れぬ山の暮らしに戸惑うひなに懇切丁寧に教えていたのだが、今回ばかりは正反対の様子であった。
 腰を下ろしても成人男性と同じかそれ以上に高い肩高の銀狼が、真剣な眼差しで机の上の紙を見ているのは、どこか愉快で、天外は邪気のない笑みを浮かべる。この一匹と一人の組み合わせは、実に面白い。

「さて、今からお前さん達の塒に戻れば、日が暮れる前に着くだろう。どれ、新しくできた弟子にいいものをくれてやろうかね」

「『思い立ったが吉日』?」

「当たっています。銀狼様、良く分かりますね」

「ふむ」

 と満更でもない様子の銀狼。自分を無視する一匹と一人に、天外は釈然としない様子で背後の棚を漁り始めた。変に声をかけても疲れるだけだと思ったらしい。
 目的のものを見つけて、改めてひなと銀狼へと振り返った天外の手には、黒と赤の小箱が乗せられていた。どちらも掌よりやや大きい。
 蓋に金粉を使って鶴や亀、獅子といった獣が描かれている。獅子が雄々しく吠える声が耳を打つ錯覚を覚える精緻さ、優雅に羽ばたく姿を幻視するような鶴の生き生きとした躍動感、まるで小さな山の様な圧倒的な迫力を伝える亀、と見る者の心を衝撃で揺さぶる見事な品である。

「おい、お主ら、いい加減一匹と一人の世界から帰って来い」

「む」

「え、ああ、すみません」

「別に謝らんでもいいが、ほれ、これ持って行け」

 ぐいと押しつけられた小箱の蓋を取って、その中身をひなと銀狼がしげしげと見つめようとして、ふぎゃ、と変わった声を出して顔を顰めた。
 ツンと眼の裏まで刺激する強い臭いの、なにやらどろりとした薄緑色の物体が一杯に詰められている。

「な、なんですか、これ?」

 鼻を押さえながらのひなである。銀狼の方は、両方の前肢で黒いぽっちみたいな鼻をしきりにこすっている。大蛇の猛烈な臭気やむせかえる様な血の匂いは平気でも、小箱の中身が発している臭いは、耐えがたいようであった。

「わしが特別に調合した薬よ。打ち身、擦り傷、切り傷、骨折、捻挫、発熱、下痢、なんにでも効能がある。山の中には強い毒を持った食い物も多いし、虫や蛇も多いからな。困った時にはそいつを使え。水に小匙一杯の分量で飲むもよし、指ですくって塗ってもよしじゃ」

「この臭いは何とかならんのか。私には毒としか思えん」

 あまりの臭いのきつさに、今にも泣きだしそうな位に顔を歪めている銀狼の文句を、天外はさらっと聞きながらした。

「たわけ。仮にも仙人たるこのわしが調合した特別製じゃぞい。骨まで届く傷でも一塗りでさっと治る。良薬口に苦しと言うてな。苦い薬の世話になりたくなければ、健康であるよう気をつけて暮らす事よ。お前さんはやたらと頑丈だから、お嬢ちゃんにしか用の無い代物だが」

「一番欲しいのはひな用の品だから、問題はないな」

「蓋を閉めますね」

 これ以上の臭気に耐えられなかったひなが、珍しく誰かの許可を得る前に行動に移った。まさしく臭いものには蓋をしろ、というわけだ。あまりに銀狼とひなが臭そうにするものだから、気の毒になったのか、天外が懐から乾いた葉を二枚取り出して、それを指先ですり潰した。
 ぱらぱらと小さな破片になった枯れ葉が指から零れると、たちまち立ち込めていた臭いが嘘のように消える。消臭の効能がある葉っぱだったらしい。
 あまりの効能に、おお、とひなと銀狼が驚きの声を上げると、天外は得意げににやにやと笑う。皺だらけの顔が、さらに深い皺に埋もれて人間の顔なのか、かなり怪しくなった。
 枯れ枝に皮を張り付けたような指を服に擦りつけて拭った天外が、懐から巾着袋を取り出した。全く膨らんでおらず平坦だった懐のどこに入っていたのか。巾着袋の中には何かが一杯に入れられているようで、パンパンに膨れている。
 重い音を立てて巾着袋はひなの手前に置かれた。

「これもやろう。飴じゃ」

 天外が顎をしゃくって促し、ひなは巾着袋を手に取って中を覗きこんだ。銀狼も同じように覗きこんでいるが、若干距離が離れている。
 またぞろとんでもない臭いでもするんじゃなかろうかと警戒しているのだろう。
自分の十数倍以上の巨躯を誇る妖魔に平気で挑みかかる割に、妙に臆病というか小心者の態度をとる事もあるようだ。
 ひなにとって危険なものではないと判断しているから、このような態度をとるのかもしれない。
 きれい、と短いが偽りのない言葉がひなの薄い花びらの様な唇から零れ落ちた。
 巾着袋の中には、天外の言ったとおり色とりどりの飴玉でいっぱいだった。青、赤、緑、黄、白、黒、桃、金と煌びやかな色彩が一杯に詰まっていて、それはさながら夢のような美しさだった。
 まんまるい飴の甘美な味よりも、その見た目の美しさにひなは惹かれているようで、まるで飽きる様子もなく巾着袋の中身を見つめている。
その背後ですんすんと鼻を鳴らしていた銀狼は、害はなさそうと判断したのか小さな溜息を吐いている。

「甘くて美味いぞ。ただ一日一個だけにしておけ。あんまり食べ過ぎても体に毒だからな。それと、銀狼、お前はこの飴玉を舐めるなよ。これはお嬢ちゃんの為の飴玉だからの」

「分かった」

「お嬢ちゃんが二個以上食べないように注意しておけよ。銀狼様、食べたいです、と猫撫で声で言われてもダメと言えよ」

「………………努力する」

「過保護はお嬢ちゃんの為にならんぞ」

 たっぷりと間を置いて返事をした銀狼を、天外は呆れた目で見た。こいつダメだ、となにがダメかは分からぬが、とにかく心底思ったらしい。
 天外にとっては、たった一人のちっぽけな少女と出会った事で、この狼が良くも悪くも大きく変貌している事を、改めて実感させられた気分であった。
 天外はわざとらしい咳払いを一つして自分の気持ちに区切りをつける。

「とりあえず明日、夜になったら遠見の鏡で呼びかけるから、出られるようにしておけ。後、今日教えた事は忘れんように復習しておくように。特に銀狼、お前は文字が読めるようによおっく、お嬢ちゃんに教わる様に」

 よおっく、という所に力を込めて言う天外に、白銀の獣は生真面目な調子で頷き返した。どこか正確に抜けた所があるせいか、相手の皮肉や嫌みに気づかない性質らしい。
 大げさに言えば、自分に向けられた悪意に気づかずに生きていけるのだから、幸せな性格と言えるだろう。

「うむ。あまりひなに面倒を掛けては悪いからな、すぐに覚える」

 こいつ、本当にこのお嬢ちゃんに懐いておるな、と呆れた様な感心した様な気持ちになり、天外はしみじみと銀狼の狼面とひなの小さな顔を見比べる。
 このまま銀狼がひなに手懐けられていったら、一生、ひな、ひな、と言っていそうな気がした。
 ひなが銀狼の扶養家族と言うよりは、銀狼がひなの従順な番犬、いや、狼だから番狼に見えてきた。
 ま、当の銀狼は何の不満もない様だから、何も言うまい、と天外は心中で零す。

「似合いだな、お主ら」

 我知らずぽつんと呟いた言葉に、銀狼は嬉しそうに目を細め、ひなは頬をぽっと火が灯ったみたいに赤くして、両手で熟した林檎の様な色合いの頬を挟んだ。

「えへへ、そう見えますか?」

「ふむ」

 どちらも満更でもないどころか心底嬉しいらしい。これは第三者が何を言っても無駄だろう。

「人間と妖魔の婚姻――妖婚の実例が近いうちに増えるかもしれんな」

 その天外の呟きには、あまりふざけた調子はなく、未来を確実に予知する予言者めいた響きがあった。

「そう言えば、ここに来る途中猿の群れが何やら逃げている様子だったのだが、何か知らぬか?」

「んん~? ああ、確か猿の部族同士の間でかなり大規模な戦いがあったからそれの負けた方ではないかな。どうも手を組んだ灼猿公と角猿伯が、他の部族を叩き潰したらしいぞ。猿共の間で大きく勢力が変わるから七種族の力関係にも影響があるだろの。多分、お前さんにも飛び火するぞ」

「なんでだ? 私はこちらに関わる気はないぞ」

「その気が無くともお前さんは強い。それにこちら側の連中とも顔見知りだし、狼族の長がご執心なのも山では有名な話だ。何も起きんとは限らんぞ~う?」

「面白そうな顔をするな」

 ぐふふふ、と底意地の悪い天外の笑いに、銀狼は眉間に深い皺を刻んで文句を言ったが、ひなと銀狼が部屋を出るまで、ぐふふという笑い声は聞こえ続けた。
 また、あの距離というものが分からなくなる無限の長さを誇る廊下を歩いて帰った。行きと同様彼方にある筈の出口は、白い霧の様な薄い光に閉ざされ果ては見えなかい。
 銀狼とおしゃべりしながら歩いていると、天外の居た部屋に繋がっていた戸が生じたのと同じように、唐突に奈落が口を開いた様な黒い出口が視界の先にあらわれた。
 一点の光も見えぬ真の闇が外の世界を覆い尽くしているかのようで、ひなは少なくない躊躇を覚えたが、すたすたと銀狼が臆する様子もなく歩いて行くので、安全なのだろうと考え直し、従容と銀狼の後に続いた。
 無常館とたいそうな名前の小屋に入った時と同様の眩暈の様なものに襲われ、とっさに閉ざした瞼を開けば、広がっていたのは一枚の絵画の様な湖畔の光景であった。
 驚いたのはいつの間にか外に出た時、太陽は天外の小屋へ足を踏み入れた時とそう変わらぬ位置にあった事だった。木々の緑を照らし出す陽光のかかり具合や、大気のぬくもりにほとんど変化が見られない。
 まさか、丸一日経ったのだろうか、と首を捻るひなの隣で銀狼が言った。

「無常館の中の時間がねじ曲げられていたのだろう。あの館の中と外とでは時の流れに差が生じたのだ」

「???」

「簡単に言えば、あそこで一日過ごしても、外ではほとんど時間が経っていないと言う事だ」

「ええっ! それって、とても凄い事なのでは……」

「どうだろう。仙人ならば誰でも時を操る位は出来るのか、それとも天外が特別なのか。他の仙人を知らんから何とも判じ難いな。とにかく用事は済んだ。帰ろうか」

「はい、帰りましょう」

 帰る。一人と一匹にとってあの樵小屋こそが、帰る場所になっていた。もともと帰る場所を持たなかった銀狼と、帰りたいと願う場所を両親と共に失ったひな。
その一人と一匹が共に同じ言葉を口にした事が、両者の絆が着実に構築されている事を証明していると言えよう。
 元気よく返事をしたひなの手には、天外から渡された風呂敷に包んだ小箱二つと、飴玉入りの巾着袋に、筆や墨壺、紙束を含む筆記用具一式があった。
一つも落としたりしないように、ひなの手にはあらん限りの力が込められているようで、小さな握り拳は白く変わっている。
 ぺたり、と腹這いになった銀狼の背に、来た時同様にひなが跨る。荷物が増えたので、手が片方塞がってしまうのだが、そこは銀狼の背中とひなの体の間に風呂敷包みを挟むことでよしとした。
 さて、と銀狼は浅く息を吸う。二度吸ってから一度吐いた。ひなの姿勢を考えれば来た時よりもいくらか速度を落として行かないと辛いだろう。
 来た時と同じ道を辿れば、今度はおそらく狼の一族との遭遇は避けられまい。狼の妖魔達の大半は、ひなという荷を背負っていても撒く自信はあるが、長の狗遠やその異母弟である飢刃丸あたりだと逃げきるのはまず不可能だろう。
 特に狗遠と出くわすと、毎度しつこく追い回されてばかりなので、銀狼は狗遠との接触はできるだけというより絶対に避けたかった。
 特にひなを連れた状態での接触を極めて危険なものになると、予感がかつて経験した事が無い位の確実さで訴えかけてくる。
 別に牙を剥かれたり爪で脅されたりはしないのだが、甘える様にしてすり寄ってくる狗遠の事がどうにも苦手なのだ。
 銀狼が色事に関する欲求や知識をそんなには持ち合わせていないのと、どこか抜けた所のある性格の為だろう。
 不安要素ばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻くが、帰り道に関しては天外が手を打ってくれたのは幸いだった。
 帰り際、天外が帰り道の間だけ効力を発する魔除けの術をひなに施してくれたのだ。といっても、虹色に輝く塩の様な結晶の粉を、ひなの頭から爪先に至るまで振りかけただけである。
 結晶の粉の輝きと匂いが、妖魔の多くが毛嫌いするもの、とは天外の言だ。その効能に関しては、全身には虹色の輝きを羽衣の様に纏うひなを前にして、思わず数歩あとずさった事で証明された。
 ちなみに無意識にとは言え、ひなから遠ざかった事に銀狼は少なからず驚き、多少傷心してしまって、無常館を出る道中、ひなに話しかけられるまで無言で通しひなに気を遣わせてしまった。
 ひなの方はそれで銀狼への評価を変えはしなかったが、天外の方は微妙に下方修正した節が見られた。
 この狼、他者との積極的な交流が乏しかったせいで、些細な事で機嫌が大きく変動し、落ち込んだり発奮したりと忙しい。
 第三者からすれば、よほどひなの方が落ち着いていて、外見を考慮しなければ、保護者と非保護者が逆の様に映るだろう。
 とりあえずひなに頭を撫でられて、落ち込んだ状態から復活した銀狼は、天外の魔除けがどれほど効果を発揮するか、身を持って体験した為にそれなりに信頼して走り出した。
 銀狼の各知覚器官でもっとも確実にかつ素早く敵意ある存在を発見するのは、嗅覚である。天外の調合した薬の劇臭を嗅いだせいでやや感覚が麻痺しているようで、若干の不安は残ったが、深く息を吸い風に乗っている他の妖魔の臭いを分析する。
 天外の張っている妖魔除けの結界を越えた途端に、津波のように押し寄せてくる濃密な血臭は相変わらずであったが、蛇の臭いはいくらか薄らいでいる。紅牙が一族を率いて巣へと引き返したのは間違いないだろう。
 となると大蛇の死骸を漁ったに違いない狼と鳥の連中の所在が気になるが、上空に羽ばたく影は見受けられず、狼の臭いも残留している分を除けば近くからは嗅ぎ取れない。
 しばらく襲撃はあるまいが、かといって気も抜けない。結局、警戒を密にしつつ森の中を走るのは変わらないのだ。
 とん、と軽やかに岩を蹴って川を飛び越えて、銀狼は舞落ちる木の葉や、目の前に広がる地面、前後左右に広がる樹木、絶えず対流する気流に疑わしい変化が無いか逐一確認しつつ走る。
 ひなの方は銀狼の毛並み具合で周囲に危険が無いと判断しているようで、両手両足を使って銀狼にしがみついた姿勢のまま、常に流動する周囲の光景を見ている。
 速度を抑え気味にしているとはいえ、銀狼の移動速度はかなりのものだ。ひなの目では水で溶いた絵の具の様にしか映らず、木の一本一本や慎ましく咲いている白い花を見分ける事は不可能である。
 はっきりとは認識できぬ光景だが、ひなはさほど気にしていない様子で、銀狼の背中で揺れていられることそれ自体を楽しんでいる。
 銀狼が感じている心労を知らぬと見えるが、銀狼にとっては、ひながこんな風に苦労も何も知らず、笑ってくれていればいいと心底願っているから、一匹と一人の関係はこれで良いのだろう。
 また、銀狼の心配は幸運な事に杞憂に終わった。天外が施した魔除けの術の効力は確かなものであり、銀狼が呆気ないと思うほど簡単に小屋へ到着したのである。
たった数時間離れただけだが、奇妙な事に小屋を前にした銀狼の胸に湧きおこったのは懐かしさと帰ってきたという感慨であった。
 背から降りたひなが、ふわあ、と伸びをしながら弛緩しきった声を出す。どこで覚えたのか、自分で肩を叩いて、肩が凝りましたなあ、などとのんびり呟いている。本当にどこで覚えたのやら。
 一方で、これはどういう事だろうかと首を傾げて、奇妙だが胸の中が暖かくなる感覚に戸惑っている銀狼にひなが声をかけた。
 冬の厳しい寒さに閉じこもっている蕾が、思わず綻んで花を咲かせたくなる――そんな暖かな笑み。狼面に皺を寄せていた銀狼が、そのひなの笑みに見惚れてどこか間抜けだが、愛嬌のある表情を浮かべた。
 体が大きすぎてどうにも近寄りがたい雰囲気を無意識の内に放っているが、この狼、愛玩動物としてもなんとか生きていけるのではあるまいか。

「早く入りましょう、銀狼様」

「……うむ」

 銀狼の返事が遅れたのは、ひなの笑みに見惚れた自我を取り戻すのに時間を要したからだ。一人と一匹は仲良く横に並んで――残念ながら両者の身体的相違によって手を繋ぐ事は出来なかったが――彼らの家へと帰った。

<続>



[19828] その九 拾う
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/07/12 21:50
その九 拾う

 夜であった。しっとりとした水気を含んだ夜気が、今宵はどこかさらりと乾いていた。草花を揺れしならせる風が頬を撫でて行けば、絹の布が柔らかく触れた様な感触を覚える事だろう。
 滑らかな風の感触は、しかしどこかがおかしかった。
どこが、どう違うのか、何がおかしいのか具体的に言葉で表す事は、百年に一人の才能を与えられた詩人にも、生涯を宇宙の真理と生命の意味を解き明かそうと挑んでいる哲学の徒にも、神の、精霊の、世界の声に耳を傾ける宗教家にも不可能だったろう。
 だが、はっきりと分かる。風の孕む異常が。夜の闇の中で、何か常ならぬ何事かが起きている事が。
 だから、樵小屋の中でひなの枕代わりになっていた銀狼は、肢の上に置いていた顔を上げて、闇の何処かへと青く濡れた瞳を向けた。
 銀狼の毛並みの中でも特に柔らかい腹の毛に沈みこむようにして頭を乗せたひなは、銀狼の視線に混じる胡乱な光に気づくともなく、安らかな眠りの国の住人となっている。
 その安寧を守る事こそ、自分の生きる意味なのではないかと考えつつある銀狼にとって、この夜、風のささやきが伝えてきた異常は歓迎せざるものであった。
 風は心臓から送り出されたばかりの鮮血の臭いと、苦痛に染められた断末魔の叫びを伝えていたのである。
 蒼穹の色彩を帯びた視線の先に、果てしなく広がる闇の中、小さな白い三日月がいくつも地上に輝いては消えていた。
 三日月は、一振りの刃であった。わずかに弧を描き、鍔元から切っ先に至るまで氷の冷たさを持った鋭利な刃が一か所に留まると言う事を知らず、麗しいほどに美しい舞を踊っている。
 雲に隠されぬ限りにおいて、惜しみなく地上に白い光を注ぐ月が、闇夜の中で幾度も翻る白刃を冷たく美しく照らし出し、刃の操り手の姿もまた闇の衣を引き剥がして、その美貌を露わにする。
 くるぶしまで届く臙脂色の長丈の羽織を身に纏った細い人影であった。腰まで届く長い髪は月明かりの下で明るい栗色に輝き、襟足で青い組紐を使って一括りに束ねられている。今は険しい光を宿しながら細められた瞳は、周囲の闇と同じ色だ。
 刀を手放して薄く化粧を刷いて着飾れば、何処かの国の姫君として通じる気品を備えた美貌である。年も若い。十七、八かそこらだろう。
 女だてらに刀を手にした姿から武芸者とは分かるが、土地の者達がおしなべて口を噤んで恐怖に震える妖哭山に、足を踏み入れるとは無謀としかいえない。
 紅を塗らずとも赤く濡れ光る形の良い唇は、荒い息を吐きだしている。火に炙られたような熱を持った吐息は、夜気に白く染まっては消えてゆく。
 女剣士の周囲をぐるりと囲む林の中を、いくつもの影が飛び回っている。俊敏な動作で女剣士が逃げられぬように囲む影は、人の姿に酷似したものであった。
 眼を凝らして見れば、月光が露わにしているのは女剣士ばかりではなかった。赤茶けた大地に転がっている死骸もまた、月光は等しく照らしていた。
 天空の玉座に座す月にとって、地を這う者の生死は無縁の様であった。
 生者も死者も等しく照らし出す月は、今宵格別に冷たく輝き、それ故に美しかった。
 こんな美しい月の晩なら、死ぬのも悪くないのではないかと、妖しい誘惑が胸の内に生じるほどに。
 女剣士の白磁の肌の上を透明な滴が一筋流れた。長丁場に陥った戦いによって、体の隅々にまで溜まった疲労が流させた汗である。
 ぎり、と女剣士の口の中で歯軋りの音が一つ。その背後の茂みから躍りでた影もまた一つ。
 月を背に飛びあがったのは、人型に酷似した巨大な獣の影であった。白く輝く月を背に跳躍した獣は黒く塗り潰されていたが、筋肉の瘤を集めて形作った胸板は分厚く逞しい。
 四肢は巨木の幹のように太く、手首や足首から先も人間のそれとはいささか造詣が異なっている。尻からは長い尾が一本ゆらゆらと揺れていた。
 猿だ。それも女剣士より一回りも二回りも大きい大猿ときている。異様な体躯と瞳が赤光と共に噴出している凶悪な殺意からして、山の妖魔であろう。その逞しい腕の軽い一振りで、女剣士の首など呆気なく折れてしまうに違いない。
 きょあ、と猿が奇怪な叫び声を上げる。甲高い叫び声は尾を引いてあらぬ方向へと流れていった。
 背を向けていた女剣士が旋風の如く体を翻し、振るった刃が夜の闇の中でありながら、正確にその首を斬り飛ばしたのである。
 辺り一帯に満ちる猿の臭いの変化か、それとも跳躍した時に何か音を立てたのか、はたまた猿の発する殺気を、女剣士が察知したのだろうか。
 女剣士の傍らに重い音を立てて落ちた猿の首から、数瞬の間を置いて黒血がどっと溢れだして大地を濡らしはじめる。
 既に女剣士の一刀によって命を絶たれた猿達の死骸は、この一匹に留まらず周囲に幾つもあった。それらの死骸から立ち上る血の臭いが風に乗り、銀狼にこの夜に起きている異常を知らせたのだ。
 中には首のみならず四肢を斬り飛ばされた死骸や腰から両断された大猿もいる。細腕と見える女剣士に、どれほどの膂力があったものか。
 いや、大猿どもの命を一刀で絶った所業は、力のみに頼ったのではなく、そこに凄絶な技が加わったものだったろう。
 刃によって断たれた猿達の骨や肉を見ればわかる。
 彼らの死を静かに見守っていた月が骨の断面に克明に映り、肉はようやく血を滲ませつつあった。
 自分が斬られた事に、今、気づいたとでもいう風である。
 花咲く青春の年頃であろうに、この女剣士は果たしてどんな生き方をしてきたのか。
 背後から襲い来た猿の首を斬り飛ばした女剣士は、そのまま動きを止める事無く動き出した。一息、深く肺の中に空気を吸い込み、地を蹴った。血を吸った地面はじゅく、と音を立てて抉れた。
 闇の中に溶けていた黒い毛皮の猿達もまた一挙に動きだした。息を潜めていた猿達の数は十匹を下るまい。いずれも先に首を落とされた猿同様に、両腕が疲れにくたびれて動かなくなるまでの間に、一匹で人間の百人くらいは殴り殺せそうな大猿であった。
 四方から迫る殺気が肌を刺し、女剣士に生命の危険が迫っている事を盛大に告げる。四肢を躍動させて地を掛ける者、飛び跳ね回り女剣士の頭上から襲いかからんとする者。
 天地から襲い来る猿達をいかにして迎え撃つや、美貌の剣士よ。
 女剣士が迎撃の第一刀目を送ったのは正面より迫る大猿であった。腰を沈めながら懐に飛び込む女剣士へ大猿は振り上げた両腕を振り下ろす。
 技巧の欠片も持たぬ力任せの、まさしく野獣の一撃であったが、込められた破壊力は大岩を砂山の如く容易く砕く。ましてや人間の女など、ただの血と肉の塊に変えるのはあまりに簡単な事であろう。
 その両腕の肘を白光が薙いだ。一瞬の事である。地を這うほどに低く身を屈めた女剣士が、踊り掛かってきた大猿の股下を転がる様にして潜ると同時に跳ねあげた刀で斬ったのである。
 肘から先を喪失した事による苦痛の叫びが大猿の口から上がるよりも早く、女剣士は片膝を着いた姿勢で、自分の顔の横を流れて行く大猿の尾を掴んだ。
 ぎち、と肉と骨が軋む音に続いて、肉と肉とがぶつかりあう重々しい音が連続する。
 あろうことか、女剣士は尻尾を掴んだ大猿を振り回し、前と左右から飛びかかってきた三匹の大猿へと叩きつけたのである。
 横殴りに同族を叩きつけられた三匹の大猿は、思い切り蹴り飛ばされた毬の様に、木々へと叩きつけられて脊髄の砕ける音と共に血反吐を吐きながら絶命する。
 ひじから先を失い、挙句に尾を掴まれて振り回された大猿はと言えば、耳や鼻から血をだらだらと流し、頭蓋骨が割れて灰色の脳漿が零れている。
 後方から追いすがる新たな大猿へと死体に変わった大猿を叩きつけ、女剣士は止めていた足を再び動かし始めた。
 足を止めて周囲から襲い来る大猿達をいちいち斬り伏せていては、数の差に飲み込まれて、あっという間に体力を消耗して嬲り殺しにされてしまうだろう。
 きいきい、と多くの仲間を殺された怒りに燃える大猿達の声が木々に木霊して、どこから追いかけて来ているのか、正確な位置の把握が出来ない。
 大猿達の殺気は辺り一帯を濃密な霧のように覆い尽くし、はっきりと相手の姿を見える距離まで近づかねば、個別に殺気を判別する事は難しい。
 はっはっ、と女剣士の唇からは熱を孕んだ荒い息が矢継ぎ早に零れている。ここに至るまで十匹以上の大猿達を刃の赤い露と変え、数時間に及ぶ大立ち回りを演じている事を考えれば、驚くべき体力であった。
 月光を黒影が遮り、女剣士の影を飲み込む。左右上方の枝から二匹の大猿が飛びかかって来たのだ。黒い剛毛に覆われた手足のどれか一つが、女剣士の体に触れるだけで月下の死闘に決着が着く。
 その事を他ならぬ女剣士自身が理解していただろう。
 女剣士から見て左の大猿の顔が、鼻の辺りで一気に陥没し、ぼっとくぐもった音をたてながら頭の後部から血や脳をまき散らして体勢を崩す。女剣士の左手が投じた投げ刃の仕業である。
 黒い鉄の刃は冷美な月光に一瞬の輝きを放ち、大猿の皮と肉と骨をまとめて貫いたのだ。大猿は苦痛を感じる間もなく死んだに違いない。
 左の大猿の絶命を認め、女剣士の思考は右側の大猿に集中した。その眼前には大猿の右腕があった。五指は開き、薄汚れた鋭い爪が女剣士の美貌をズタズタに切り裂くべく振り下ろされる。
 薄い貝殻の様な唇から、裂帛の――空を舞う小鳥たちが気絶して落ちるような気合いが迸った。
 風と共に走っていた足を無理やりに止め、大きく地面を抉りながら速度を殺した女剣士の鼻先を、大猿の爪が虚しくかすめる。必殺の一撃を躱された大猿は、構わず続く第二撃を放っていた。
 大きく空振った腕の勢いを利用し、縦に旋回した大猿の両足が、雪崩のように女剣士の頭上へと襲いかかる。風を巻いて落ち来る大猿の両足は股間から左右に分かれ、断面から黒い血を拭きながら女剣士の彼方へと流れていった。
 大猿が体を回転させた隙に、腰を落とした女剣士が振るった縦一文字の一刀が、大猿の股間から入り、頭部までを両断していたのだ。
 黒い毛皮や分厚い脂肪、柔軟さと剛性を併せ持った大猿の肉体をものともせぬ太刀筋は、なにか神秘的な秘密を持った技法によるものとしか思えない。
 どちゃ、と音を立てて落ちた大猿の体の内から、湯気を立てて臓物が零れ落ちる。吐き気を催す臓物には目もくれず、女剣士は歯を食い縛って、無理をさせた足からの苦痛を堪える。
 死地を幾度も潜った戦人でも絶望の甘い毒の囁きに屈してもおかしくはない状況でありながら、わずかな怯えも恐怖もない瞳は、この美貌の女剣士の精神の強靭さをよくあらわしている。
 諦めを拒絶する強い意志が絶望の暗闇に一筋の光明を差し込む事は確かにあるが、この女剣士にとっては、そのたった一筋の光明は縁なきものであったのかもしれない。
 星の一つでもあれば昼の如く夜の闇を見通す女剣士の闇色の瞳に、ひときわ巨大な猿の影が映る。長く白い毛に覆われた老いた猿である。周囲には一回り小さい猿の影がいくつもある。
 先程までの大猿達の襲撃が、自分をここに追い込むものであった事を悟り、女剣士が岩の様に結んだ唇から一筋の血が流れた。迂闊な己を呪うあまりに唇を歯が噛み破ったのである。
 紅を塗った様な唇が、己の血でより妖しく美しく星と月の明かりの下で濡れ光る。
 他の大猿よりも額と下顎が突き出た白い大猿が、鼻をひくひくと鳴らしている。女剣士の唇を濡らす血の臭いを嗅いでいるのだろう。白猿の歪んだ口元を見て、女剣士の顔に嫌悪の色がありありと浮かぶ。
 白猿が浮かべたものが笑みであると見抜き、それがひどく不愉快な、弱者をいたぶる喜びに満ちた人間的な笑みに見えたからだった。



 朝陽の差し込む樵小屋の中で、銀狼は普段は腹ばいになって眠る所を珍しく仰向けになって眠っていた。その仰向けになっている銀狼のお腹の上に上半身を預けるような姿勢で、ひなが健やかな寝息を立てながら寝入っていた。
 銀狼の名の下となった銀色の毛並みは、初夏の時節にもかかわらず一本一本が長く伸びて傾国の美女の艶髪にも勝る輝きを放っているが、体の内側、つまりお腹や肢の内側の毛は短い。
 銀狼のお腹の毛は特に柔らかで、短い毛が白銀の平原のように広がっているその極上の感触は一言では表し難い心地よさがある。
 預けた体をどこまでも沈むように柔らかな感触が受け止めるが、ある程度の所まで来ると銀狼の体がほどよい反発力で受け止めて、ごく自然に最も快適な柔らかさと姿勢に導いてくれる。
 最近、銀狼に対して遠慮がちにではあるが、銀狼の体を触らせてもらえるようひながお願いをし始めており、ひなに何か頼まれるのが嬉しい事のこの上ない銀狼は、狼面ながらにも満面の笑みを浮かべてひなの望むようにさせている。
 そのうちのひとつが、このようにひなの布団や枕代わりになる事だった。

「ふぅ………ぅうん」

 かすかな声を挙げながらひなは目を覚ました。虐げられていたに等しい村長の家での暮らしと違い、こうも早い時刻に目を覚ます必要は無いのだが、数年をかけて体に染み付いた習慣はそう簡単には変らず、銀狼と暮らし始めてもひなの朝ははやい。
 まだ眠たい寝ぼけ眼を小さな手でこしこしと数度擦ってから、ひなは掛け布団代わりの銀狼のふさふさと触れる指が心地良い尾を、宝物のように丁寧な扱い方で除けて、顔を洗うべく土間に下りて水瓶の所まで歩いてゆく。
 蓋の上に置いてある柄杓で水を掬い、手に取ってからなるべく音を立てぬようにして顔を洗う。ややぬるい水に触れた神経はゆっくりと目を覚まし始め、ひなは頭の中に残っている眠りの国の魔の手をすべ取り払うことに成功する。

「ふう」
 
 蓋と柄杓を戻して手ぬぐいを取って顔と前髪を濡らした水を拭う。一日の始まりである

「あ、銀狼様」

 振り返れば仰向けの体勢から腹ばいの体制になり、どこまでも青い月光が凝縮された様に美しい瞳が、ひなの無垢な黒瞳と見つめあう。

「おはよう、ひな」

 どこまでも穏やかで優しさに満ちた銀狼の声。

「おはようございます、銀狼様」

 挨拶を交わす相手への信頼と親愛に満たされたひなの声。
 互いを見つめあいながら挨拶を交わすこの一時が、一人と一匹にとっての一日の始まりを告げる合図だった。



 すっかり歩き慣れた川へと続く道を、ひなはいつものように銀狼と肩を並べて歩いていた。途中、木々の根の間に顔を覗かせている食用・薬用に使える植物を採取しながらの道行なので、まっすぐ川に向かうよりは時間がかかる。
 洗濯物を入れた竹籠はひなが背負い、摘み取った瑞々しい新芽や傘を広げている茸、土まみれの植物の根を乗せた笊と空の桶を銀狼が咥えている。
 ひなは、時折ちらっと銀狼の横顔を盗み見ている。目を覚ました時からなんとはなしに感じていたのだが、銀狼の様子がいつもと少しだけではあるが違うのである。
 感情を隠すと言う事が下手な銀狼と、他者の感情の変化に敏感なひなである。隠し事に関しては、隠すにしても見破るにしてもひなの方が銀狼よりも上手なのだ。 銀狼の方は珍しくひなの視線には気付かぬ様子で、考えごとに耽っているようだ。
 川に着くか小屋に戻ってから話を聞こう、とひなは結論し、銀狼の方から話さない限りは、なにかあったのかとは聞かぬ事にした。
 木々が織りなす壁を抜けると、歩き慣れたのと同じように見慣れた水の流れとせせらぎがひなと銀狼を迎えた。
 銀狼の庇護下に在る為、妖魔や獣に襲われる事のないひなにとって、豊かな水源と自然に支えられた山での生活は、村での暮らしよりもはるかに快適で過ごしやすいものだった。
 よーいしょ、と言って、ひなは川辺の手頃な石に腰かけて、背中の竹籠から洗濯物を取り出す。沢爺に挨拶しなきゃ、と思い立って水面から顔をあげようとしたひなの目に、ゆらゆらとほぐれた糸の様に水の流れの中をたゆたう赤いものが映る。
 血だ。
 驚きながらひなが顔を上げて銀狼に血です、と言おうとした時にはすでに銀狼が動いていた。
 とん、と小さな音を立てて川の流れの中に顔を覗かせている岩を蹴り、小川の真ん中の岩の上に器用に立って、血の流れの源を見つけ出している。
 上流から流木にかろうじてしがみつき、流れてくる女の姿を銀狼の瞳は映していた。腹の辺りから水に垂らした墨汁の様に赤いものが広がっている。
 どれだけの間、血を流していたのかは分からないが、かなりの量の血を失っているに違いない。というよりも普通の人間なら、とっくに死んでいると、川面を染める血の量から銀狼は判断していた。
 しかし、同時に銀狼の聴覚はかすかな女の吐息を聞きとってぴくぴくと小刻みに動く。

「生きている」

「ええっ! た、助け……」

「ふむ」

 と、まったく焦っても急いでもいない返事をひとつして、銀狼はひなが助けないと、と言い終わるよりも早く、ざぶん、と音を立てて赤いものが混じる水の流れに身を躍らせた。
 川面に潜った銀狼の顔が浮かびあがり、四肢をゆったりと動かして水を掻き始める。いわゆる犬掻きだ。
 水を掻く脚力が尋常ではないせいか、水妖かと見間違える速さで泳ぎ、銀狼は見る見る内に女へと近づく。
 上流からの流れに浮かぶ女が捕まっている流木の端を咥え、力強く水を掻いてひなが待っている川岸へと方向を転じる。
 銀狼は、女の右手に一振りの刀が固く握られているのに気付いていた。この女は無論、昨夜、猿の妖魔達と死闘を演じていた女剣士である。

(昨日の胸騒ぎの理由は彼女か?)

 女剣士の、血の気を失って大きな白蝋の塊から削り出したように白く透き通った顔色を見つめつつ、銀狼は面倒な事にならなければよいが、と心中で憂いた。十中八九、いや百に九十九くらいは面倒になりそうだとなかば諦めていたが。
 ざばっ、と水音を立てながら川岸へと上がって咥えていた流木を離し、川岸の石に頭を打ち付けぬよう、注意して女剣士の体を横たえた。華奢な体つきが印象的だった。武芸者でありながらろくに鍛錬をしていないのか、鍛えても体型の変わらぬ体質なのか。
 仰向けに転がった女剣士の左肩から左乳房の上の辺りに掛けて、太く深い爪痕が斜めに横断している。流血の原因はこの一条の爪痕であった。
 最悪、心臓まで達しているかもしれない。
 一般的な人間の生命力がどの程度なのか銀狼はよくは知らなかったが、それでも女剣士がまだ息をしている事は何かの間違いとしか思えない。ぶるぶる体を震わせて、銀狼は全身から滴る水の滴を払った。
 女剣士の傍らまで駆け寄ってきたひなに、手早く銀狼が指示を出した。ひなは目の前で死に瀕している女剣士の姿に、動揺を隠せず慌てている。こういう場面では、やはり銀狼の方が肝は座る様だ。

「ひな、傷口を拭ってから、天外に貰った薬を塗れ。それから私の背に乗せて小屋まで運ぶぞ。処置を急げば、なんとか助かるかもしれん」

「ははは、はい」

 腰帯に括りつけている革袋から、天外に貰った薬箱を取り出し、ツンと鼻を刺激する臭いを放つ例の軟膏薬の蓋を取る。
 いまだに臭いに慣れておらず、銀狼は思わず顔を顰めるが、ひなは構わず指にたっぷりと緑色の薬をすくい取り、大急ぎで女剣士の傷跡に塗り込んで行く。
 欠損した血肉を薬で埋め終えた女剣士の体を、銀狼の背に乗せて落ちないように縛りつける。途中、何とか刀を放させようとするが、女剣士は固く握って離さない。まるで最初からそう彫琢された石像の様であった。
 とはいえ刀を握ったままでは、銀狼が疾走する間あまりに危険なので、ひなはなんとか凝り固まった女剣士の指を開こうと努力したが、時間を惜しんだ銀狼が止めた。

「ひな、君も私の背に乗って彼女の右手を抑えていなさい。彼女の体に覆い被さる様にしてしがみついていろ」

「はい」

 飛びかかる様にして銀狼の背の女剣士に覆いかぶさり、刀を握ったままの手を抑えてひなががっしりと掴まる。

「行くぞ」

 ひなの返事を待たずに銀狼は駆けだした。小屋から歩いて来てもさほど時間のかからない川だ。ひなと女剣士を振り落とさぬように速度を落としても、銀狼の足ならばすぐに到着できる。ましてや銀狼の庭と言っていい場所だ。天外の小屋を訪ねた時と違って、邪魔が入る要素もない。
 銀狼の四足が忙しなく躍動し、あっという間に生活の場である小屋へと戻って、慌ただしく中に入る。縛っていた女剣士を急いで下ろす。

「火を焚いて湯を沸かせ。体がすっかり冷え切っている。湯の半分に薬を溶かして薬湯にしよう。すぐに用意しなさい」

「はい!」

 長い事水に浸かっていたのか、すっかり冷え切っている女剣士の体を温めるべく、銀狼は布団の上に仰向けに寝かせた女剣士の服を、口と爪を使って器用に脱がせ始めた。
 囲炉裏に火を熾していたひなが、一瞬咎めるような目線を銀狼に向けたが、その行為が純粋に女剣士を救うものであると納得し、火を熾す作業に戻る。
 次いで土間に戻って竈の火の具合を見て、湯を沸かす用意を始めだした。水甕にはたっぷりと水を蓄えてあるから、ほどなくして用意は整うだろう。
 羽織を脱がせ、腰帯を解き、袴を口に咥えて脱がす。たっぷりと水を吸った生地は女剣士の白い肌に張り付き、脱がそうとする銀狼に抗ってくる。
 加減を間違えて牙で服に穴を開ける様な事や、女剣士の肌に傷をつけぬように注意し、銀狼はあくまで丁寧に少しずつ脱がす作業を進めて行く。
 作業の途中、ひなが置いていった手拭いで、時折水の滴を纏う女体の首筋や頬を拭う。太陽が顔を覗かせ始める早朝から、とっぷりと日が暮れるまで農作業に駆り出されていたひなの肌は、苛烈な太陽の日差しを浴びて焼けていたが、この女剣士の肌は驚くほど白い。
 ほとんど致死量の血液を失い、皮膚の内側を流れる血管の色が薄くなっている事もあろうが、それを抜きにしても武に生きる者とは思えぬ艶めかしい肌つやだ。
 絹の様な手触りの肌理細やかさもさることながら、肌から薫る甘い香りといい、銀狼に今少し獣としての本能があり、腹を空かしていたなら、すぐさまむしゃぶりついていたに違いない。
 最後の一枚を脱がせ終え、濡れた衣服を傍らに放った銀狼は女剣士の体を見つめた。紐を解いて女剣士の背にざあっと栗色の風の様に広がっている長い髪は、一本一本が光の粒を纏っているように美しい。
 閉じた瞼を縁取る睫毛は細く長く、力無く閉ざされた唇は血を失ってもなお、牡丹の花びらのように赤く扇情的であった。
 浅い呼吸で緩やかに起伏する胸は大きな山の線を描いており、ひなも大きくなったらこうなるのだろうかと、銀狼はなんとなく考えたが、この女剣士の様に成長したひなの姿は、いまひとつ想像がつかなかった。
 どのような鍛錬を積んだのかは想像もつかぬが、白い裸身を晒す女剣士の体は淫らと言ってもいい豊さだった。胸や尻、太ももなどにはしっとりと脂が乗っているのに、腰の辺りは驚くほどくびれていて、手首や足首も細い。
 なまじ白磁の人形に血を通わせた様に美しい体つきだけに、左肩から乳房の上までを切り裂いている爪痕が、ひどく無惨なものに見える。
 刀に残る妖気と獣の臭気から、この女剣士がかなりの数の妖魔を斬り捨てた事に、銀狼は気付いていた。しかし女剣士の武芸者と言うには艶のあり過ぎる体つきと、どこかあどけなさを残している美貌から、多数の妖魔を屠った剣技の持ち主とは信じ難い。
 とりあえず口に咥えた手拭いを使ってほっそりとした腕や足、魅惑的なくびれを描く腰、張りのある乳房を、構わずごしごしと拭う。いくら意識を失い生死の境を彷徨っているとはいえ、裸に剥いた女人に対してあまりに遠慮のない行為だ。
 さらしを巻こうとしたひなが、銀狼の無遠慮な様子を見て呆れた顔をして、たしなめた。

「銀狼様、そんな乱暴にしてしまっては、お侍様が目を覚ました時に怒られてしまいますよ」

「なぜだ? そんなに乱暴にしてはいないぞ。それに体がこれ以上冷えてしまってはよくないだろう」

「う~ん」

 どう言えば銀狼様が理解してくれるのかしら? とひなは首を捻ったが、今は一刻を争う状況なので後回しにした。銀狼の行いが純粋な好意に基づくものである事は、紛れもない事実だけにややこしい。

「とにかく、さらしを巻きますからおどきください」

「まあいいが」

 ひょい、とどいた銀狼の代わりに、ひなが寝かせた女剣士の体を起す。村ではこんな大怪我をした者はいなかったから、本格的な怪我の手当てをした経験はない。それにしては手際良くさらしを巻いてゆく。
 亡くなった父から怪我をした時や山で遭難した時の対処法を習っていた成果である。
 ぐったりと脱力しきっている女剣士の体を銀狼に支えてもらいつつ、ひなはさらしを巻き終えた。

「怪我だが爪で裂かれている以外には、骨が折れている様子もないし、打ち身もないな。どこから川に落ちたかは知らぬが、運が良い。あるいは」

「あるいは?」

「川を流れている間に治ったのかもしれん」

「銀狼様、いいですか。人間はそんな頑丈にできていないのですよ。銀狼様は大変頑丈で、傷の治りも早いそうですが、勘違いしてはいけません」

「わかっているさ」

 幼い子供に言い聞かせる調子のひなに、銀狼は小さく苦笑する。とはいえ、女剣士の怪我以外にも気になる事はある。少なくとも銀狼が大狼を滅ぼして以来、武芸者や退魔士の類が妖哭山を訪れた事はなかった。
 なのに、この女剣士が今になって、どうして山を訪れたのか。その目的が銀狼には気がかりだった。

「巻き終えました。後は体を温めてなんとか意識を取り戻してもらわないと」

 囲炉裏で燃える火に照らされる女剣士の体は微妙な陰影を描き、赤色に染まる裸身は時折血に染まったように見え、生死の境を彷徨っているせいか背徳的な妖美さを、目には見えぬ羽衣として纏っている。

「こう言う時は人肌で温めるといいって、お父さんも凛さんも言っていました」

 銀狼に語りかけると言うよりは自分に確認する様に言って、自分の帯を解こうとしているひなを、つんつんと銀狼の鼻先がつついた。

「私の方が温かいぞ。毛皮があるからな」

 言われてみれば確かに、とひなは頷いて銀狼のふんわりとした毛並みを見つめる。時折枕代わりにし、時には布団代わりに銀狼に抱きついて眠るひなは、銀狼の言い分の確かさが良く分かる。

「でも」

「潰さないようにちゃんと肢を突っ張るぞ」

「えっと、そういう問題では」

 ひなにとっての問題は、裸の女性に銀狼が覆い被さると言う事だ。銀狼に淫らな意図はまるでないし、ひなも銀狼の提案に感じている抵抗がなんなのか正確には分かっていなかった。
 もっとも、生物に基本的に備わっている種を残すという本能が、銀狼に備わっているのか甚だ怪しい。
 天外や凛が口にしたが、銀狼は母の腹から産まれたわけではない。そんな素性の持ち主である彼に、はたして子孫を残す能力や本能があるのか、当の銀狼とて知らないだろう。
 銀狼の子種を欲する狗遠の事を考えれば、一応備わってはいるのかもしれないが、狗遠とて実際に試したわけではない。
 口をもごもごさせていたひなは、銀狼のまっすぐな視線を受けて、自分の考えを改めたようで、

「潰しちゃだめですよ」

 と、念を押した。どこか哀願するような、はたまた縋る様な声であった。どうしてそんな声を出すのか、銀狼はさっぱり分からなかったが、とりあえず頷く。
 銀狼に女剣士を助けようと言う気持ちはあっても、自分の体で押し潰そうなどと言う考えは欠片もなかったのは事実であったが、ひなの声音に含まれている感情に気づくには、彼にはまだ経験した事のない感情が多すぎた。

「気をつけよう」

 再び寝かされた女剣士の体の上を跨って、銀狼はそのやたらと大きな体を慎重に下ろしはじめる。女剣士が窒息させてしまっては元も子もないから、首から先に圧し掛からぬよう注意しなければならない。
 ひなは火の具合を見つつ、女剣士の長い髪が吸った水を丁寧に拭う事を繰り返していた。

「それにしても、この方はいったいどうしてこんな目に遭われたのでしょうか」

「爪痕からして猿だな。ただの猿ではない。妖気の残滓からして相当齢を重ねた強力な奴だ」

「天外様が言っていた、山の内側の妖魔ですか?」

「そうなるな、おそらくやったのは白猿王。猿達は同じ猿同士の部族の中でも、いくつかの部族に分かれているが、その中でも最大の武闘派の長老だ。まあ、温厚な性格の連中などいないも同然だけどね。紅牙ほど強くはないが悪知恵が回るから敵にすると厄介だな。しかしなんでまたこう立て続けに大物と遭遇するのかな」

 嘆息する銀狼を心配そうに見上げ、ひなが質問を重ねた。

「あの、このお侍様は山の内側に行かれたのでしょうか?」

「どうかな。血の臭いを辿ればどこで戦ったかも分かるだろうが。ただ、この女人は相当に腕が立つのは間違いない。それに獲物もいい。刀の刀身にびっしりと細かい文字が彫り込んであるだろう? 意味はよく分からんし、読めんが、魔を退け霊験を帯びる類の経文か呪言だな。それで斬られたら、私でもかなりの深手を負う。大抵の妖魔などその刀の霊気だけで近寄る事さえ嫌がるだろうね」

 女剣士の枕元に置いた刀を見てからひなは、へえ、と感嘆の吐息を吐いた。闇色の鉄鞘といい、通常より一尺長い三尺二寸三分の太刀と合わせて考えれば、女の細腕には到底似合わぬ獲物である。

「名刀は打った方の魂が込められているから、ただそれだけで霊気を帯びるって父に教わりましたけど、刀そのものにそういう特別な事がされているのなら、とても貴重なものなのでしょうね。きっと名のある名家の方なのでしょう」

「それならそれで、どうして供の者も連れずに一人で山に足を踏み入れたのか気になるな」

「ん~~、武者修行中なのではないでしょうか? 腕試しに山の妖魔退治に赴いたとか」

「だとしたらまさしく命知らずだな。実際、こんな目に遭っているわけだしな。とにかく、怪我の事は天外に連絡が取れないのが痛いな。手当ての適切な仕方や山の状況もあいつに聞けば確実なのだが」

 遠見の鏡によってわざわざ山を行き来せずとも話ができるのは良かったが、天外から渡された鏡は、天外の側からしか連絡を取る事が出来ない代物であるらしく、おおよそ三日に一度の頻度で、夜になると唐突に鏡面が光り出すと天外の皺面が浮かびあがり、ひなと銀狼に宿題の確認をしてゆくきりだ。
 こちらからはどう鏡をいじくっても天外と連絡が取れず、なんとも中途半端な品を渡されたものである。悪い事に天外から連絡が来たのが昨晩であったから、連絡が取れるのは二日後の夜となる。
 しかし、天外からの連絡は向こうの気分次第で数日のずれがでるから、必ずしも二日後に連絡が取れるとは限らない。
 銀狼と言葉を交わす間も女剣士の髪を拭っていたひなが、手を止めた。できる限り水気は取ったから、あとは囲炉裏の火で自然に乾くのを待つしかない。
 天井から垂れている自在鉤に鍋を吊るし、竈の方で沸かしておいた湯を移してから、例の途方もない臭いを放つ薬を溶かして薬湯にする。あっという間に緑色に濁っていく湯からは、不思議とあの強烈な臭いが消えていた。
臭いに備えていた銀狼が、空気の成分に何の変化もない事に、訝しげに眉を寄せたほどだ。湯に溶けた事か、あるいは熱を加えられた事で成分に変化が生じたのかもしれない。

「この人、助かりますか?」

「私達に拾われたくらいだ。運もあるだろうから、何とかなるとは思う。その薬湯が毒でなければね」

 意味ありげに鍋の中の薬湯を見た銀狼の言葉に、ひなは無言で鍋の中の緑色の液体を見て、

「薬、ですよね?」

 と、信じている様な、信じていない様な微妙に力の無い声を出した。

「たぶん」

 答える銀狼の声も、確信の無い曖昧なものだった。しばらくひなは匙を持ったまま躊躇していたが、このまま何もせずにいても女剣士の容態が良くなるわけでもないと結論した。
 銀狼の毛皮と体温、囲炉裏の火で女剣士の体が温まり出すのに、そう時間はかからなかった。女剣士の呼吸は少しずつ力強さを取り戻し、白蝋の頬に血の気がさしてうっすらと桜の花びらの様に色づきはじめている。

「そろそろ薬も飲めるだろう」

 女剣士の体から銀狼が巨体を除けて、床の布団と体の間に前肢を滑り込ませて小
石でも拾うみたいに少しだけ起こした。氷雪の精が美女の形を成したのかと見紛う美貌は、厳寒の冬が終わりを告げて、春のうららかな陽気がゆっくりと訪れ始めた様に熱を取り戻し始め、懸命に生きようとしている事を告げていた。

「生きられるのなら、生きたいものな」

 銀狼の声には慈しみの心が込められていた。

「飲んで下さい。お薬ですから」

 ひなはうっすらと開かれた女剣士の唇へ、少しずつ薬湯を流し込んで行く。飲み下す力はまだ通り戻せてはいないのか、緑色の薬湯は女剣士の小さな口の端から零れてしまう。
 何度か同じ事を繰り返してから、ようやく、こく、と本当に小さな飲み下す音が女剣士の口の奥からした。

「飲みました! やっと飲んでくれましたよ」

「やれやれ、もう少し飲ませたら、服を着せて様子を見よう。後は彼女の体力と運
次第だ」

「はい」

 女剣士の服は乾かしている最中だから、ひなの着物を着せる事になった。だいぶ丈が短くなってしまうが、気にしている場合ではなかった。

「頑張ってください。生きて、生きてくださいね」
 
 口から流れ込んできたものが、自分にとって役に立つものだと本能的に分かるのか、女剣士は、ひなが口元へ運ぶ薬湯を懸命に飲みだした。
 その後も銀狼とひなが、どたばたと女剣士の容体の変化に右往左往していると、あっという間に小屋の外は漆黒の闇が舞い降りていた。
 時折訪ねてくる凛が来れば、有無を言わさず手伝いをさせる所だが、運悪く今日は凛の訪問は無かった為、銀狼とひなは丸一日女剣士に付っきりとなり、炊事や洗濯は後回しとなった。
 幸い、傷跡から入った悪意ある妖気は天外の薬のお陰か無害なものとなっており、また化膿する事もなく、高熱を発する様子もなかった。もしそうなっていたら、銀狼とひなはさらに大騒ぎしながら一日を過ごす羽目になっていただろう。
 ゆっくりと起伏する女剣士の胸元を見て、ほっと安堵の息を吐くひなに、銀狼が声をかけた。少女の横顔には濃厚な疲労の影が差している。

「今日は疲れただろう。もう眠りなさい。私が彼女の様子を見ておくから」

「私も……いえ、そう、ですね。じゃあ、今日はお言葉に甘えます」

 銀狼の気遣いに、一度は断りを入れようとしたひなだったが、自分まで体調を崩しては銀狼に申し訳がないし、女剣士の面倒を見る人手が減ってしまうと考え直し、申し出を受け入れた。
 ふわぁ、と小さな口を押さえながら可愛らしい欠伸を堪えて、ひなは女剣士の傍らから立ち上がり、寝床の用意を始めた。その姿を横目に見て、銀狼は穏やかに笑っていた。



 ひなと女剣士二人分の寝息とちゅんちゅん、という雀の鳴き声だけが銀狼の耳にする朝の音であった。夜の間、女剣士の容体に変化が無いか気を入れて見守っていた銀狼は、東の空が白み始めるにつれ、ぬくみを帯びて行く朝の空気に目を細める。
 山のどこかに大猿の死骸と血塗れの大地が広がっているとは信じられぬ清澄な朝であった。囲炉裏を挟んで女剣士の反対側に眠っているひなの、安らかな寝顔を見る、という日課を行おうとした銀狼の耳が女剣士の魘される様な声を捉えて、はたりと動く。
 長い睫毛がかすかに震えはじめ、瞼がゆっくりと開こうとしている。
 左肩から胸に掛けて深く抉られたというのに、仙人の調合した薬を使ったとはいえ、一夜で意識を取り戻そうとしている事実は大した生命力の一言で済ます事は出来ないだろう。
 今もいくつかの疑問は胸に渦を巻いてはいたが、それは後で聞けばわかる事だ。銀狼は鼻先を寄せて赤い舌で女剣士の頬をぺろりと舐めた。別に美味しそうだ、とかそういう意図はない。
 以前、山の中で母犬が産まれたばかりの子犬を愛おしげに舐めていた光景を思い出し、元気づけるつもりで頬を舐めたのである。ひなに対しても似た様な事をした事があった。
 生暖かい感触に、ぱちりと女剣士が目を開いた。吸い込まれそうな錯覚を覚えるくらい深い闇色の瞳は、最初焦点をぼやかせていたが、すぐに自分の顔を覗き込んでいる冗談の様に大きな狼に気付くや凍った。
 意識を取り戻した女剣士の顔を良く覗きこもうと、銀狼が動いたのが良くなかったのかもしれない。銀狼の挙動に女剣士は反応して、掛けられていた掛け布団をはね上げて、銀狼の視線を遮る。

「ん?」

 銀狼の方はなんとも気の抜けた声を出したきりで、その間に女剣士は自分の枕元に置かれていた愛刀を手にしていた。
 周囲を探った様子はなく、まるで目に映さずとも刀の位置を把握していたように迷いなく掴み取ったのは、どういうわけか。
 間抜け面をしていた銀狼の顔に緊張のさざ波が起きたのは、はね上げられた布団を銀光が貫き、狙い過たず銀狼自身へと迫ってきた時である。
 氷の様に冷たい殺気を受けて顔を傾けた銀狼のすぐ横を、光る刃がかすめた。間一髪という文字そのままに、斬られた銀毛が一本、はらりと刀と銀狼の間隙の空間に落ちる。
 刀が布団を貫いた時と同じ速さで引き戻された、と銀狼の目が認めた時、布団を回り込んだ女剣士の足が床板を踏み抜きかねぬ強さで踏み込み、だん、と大きく音を立てていた。布団はまだ落ちてもいない。
 刀を振るう女剣士にとって、屋内での立ち回りは望むべからざる所ではあったろうが、銀狼の巨躯と小屋の中と言う状況を考えれば、持ち前の素早さを活用できぬ銀狼の方が不利だろう。
 びょう、と風を裂く鋭い音を立てて走る一刀を、銀狼は水に沈む様に身を伏せて後方に低く飛んで躱した。女剣士の達の速さもさることながら、銀狼の身のこなしも野の獣の範疇を越える速さであった。
 とはいえ、銀狼の巨躯からすれば狭い小屋の中である。身を伏せた姿勢はかなり苦しいものであり、続く二太刀目を躱すのは至難の業であろう。
 ひなの物である為、膝までしかない短い丈の着物からは、女剣士の瑞々しい太ももが露わになっていた。いつでも四方に動けるよう適度な緊張と、力みのある両足は水が滲むようにして小屋の中を照らす朝陽に、白々と輝いている。
 刀を振り回すよりも、刺突を主体とする戦法に切り替える為、ゆるゆると刀身を動かす女剣士と身を伏せた銀狼が、互いに次の動作へ移るきっかけを探り始める。
 そんな時である。よりにもよってと言うべきか、ひなが唐突に小屋の中を満たした緊迫の雰囲気に目を覚まして、すぐに銀狼と女剣士が対峙している事に気づいて体を起こした。
 はね上げられた布団がようやく落ちた。
 あっと驚いた声がひなの口から零れるより早く、ひなに気づいた女剣士が凛とした声で言う。声そのものは金鈴の音とはこれか、と驚くほど美しい響きなのに、血飛沫の舞う戦場の最前線で、萎縮する味方を鼓舞する勇猛な将軍に相応しい凛々しさである。

「おのれ、貴様が大狼か、この人食いの化生め!」

 なんと説得したものかと頭を悩ませていた銀狼は、女剣士の台詞に、んん? と首を捻った。最近どこかで誰かに同じような勘違いをされたばかりである。
 状況把握に努めていたひなも、女剣士の台詞に銀狼同様、あれ? と小首を捻っている。最近どこかの誰かに同じような台詞を言ったばかりのような気がする。

「近隣の村々を呪い無辜の村人達を苦しめ、大地を乾かし野の獣達さえも苦しめるに飽き足らず、いたいけな幼子を食らわんと生贄に求める所業、断じて許し難い。今ここで、我が刀の錆にしてくれる!」

 火炎の息を吐かんばかりに熱く語る女剣士に対して、銀狼はふむ、とひとつ頷き、ぱた、と長い尾が床を軽く叩く音がした。
 これは、アレだ。
 山の民にも近隣の村々の者達にも、そしてひなにもされたアレ。
 すなわち勘違い。

<続>



[19828] その十 鬼無子という女
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/02 12:13
その十 鬼無子という女

 視線が不可視の矢と変って見つめられたものの心臓が射抜かれるような、女剣士の瞳を、好もしげに見つめ返しながら、銀狼は尻尾の動きを止めて一言呟いた。

「悪い人間ではないようだな」

「戯けた事を! そこな少女、この悪しき狼を今すぐ成敗する故、安心しなさい」

 銀狼への一喝こそ力強いものであったが、布団から体を起こして戸惑っているひなに向けた言葉は労りに満ちており、なるほど、銀狼の呟き通り性根の優しい人間である事が伺える。ただ、思い込みは激しそうだ。
 先ほどまでの緊張感はどこかへやってしまい、気の抜けた顔をしている銀狼であったが、誤解を解くまでは女剣士の太刀を浴びるわけにはいかなかった。
 昨夜ひなに語ったとおり、女剣士の握る刀に肉を裂かれれば、かなり強力な妖魔である銀狼でも簡単には癒えぬ深い傷を負わされる。
 致命の一撃を避けて誤解を解くにせよ、銀狼が大なり小なり傷を負えば女剣士の心に悔恨が残るだろうし、ひなの前で情けない所を見せたくないという思いもあった。
 ひなに対する見栄はともかくとして、女剣士の心情にさえ配慮するのは銀狼の甘さ以外の何物でもない。下手な人間よりも思いやりと言うものを知っている狼だ。
 刀を噛み止めるか爪で受けてなんとか叩き伏せればよいだろうか、と考えたのは銀狼。
 虎や獅子よりも大きな銀狼の巨躯に驚きつつも、首を一太刀で落とすか脳天を貫く、と決めたのは女剣士。
 しかして場を動かしたのはこの場で最も無力なひなであった。女剣士の誤解を解く為に、身を伏せている銀狼の首筋に、とっさに抱きついたのである。
 横から伝わってきた衝撃とぬくもり、安らぎを覚える匂いに銀狼は驚いた様に目を開く。ひなの行動は、銀狼にとって予想外のものだった。

「違います、この方は大狼ではありません!」

「な、危険だ。すぐ離れなさい!」

「お侍様が刀を収めてくだされば離れます」

「く、惑わしたか、大狼め」

 ひなが銀狼を庇う姿を、銀狼になにか術を掛けられたかされた所為だと、女剣士は判断したようだ。
 確かに、既に大狼は滅んでいて、生贄に捧げられた少女が別の狼の妖魔の庇護下で養われているなどと――ましてや両者の関係がすこぶる良好なものであると――想像が着く筈もない。
 女剣士の言い分ももっともであった。
 ひなは首を大きく振っていやいやをし、銀狼の首に回した腕の力を一層強くするばかり。ひなの行動に、銀狼は目元を穏やかなものに変える。自分を思いやって危険な行動に出たひなの優しさが嬉しいのだろう。

「ひな、彼女の言う通りだ。離れていなさい」

 銀狼も戦う気なのかと思い、驚いた表情を小さな顔に張り付けて見上げるひなに、銀狼はあくまで優しく言い聞かせる。

「大丈夫、争う様な事はしない。話せば分かってくれるさ。私の言う事を聞いておくれ」

「……」

 これまで銀狼はひなの信頼を裏切った事は無かった。嘘を吐いた事もない。その事実がひなの腕から力を抜かせた。
 忙しなく銀狼と女剣士の顔を交互に見ながら、ひなはゆっくりと銀狼から離れて行く。
 その様子に女剣士が安堵の息を隠さずに吐いた。
 ひなの身を案じているのは本当の様だ。
 改めて銀狼に向ける敵意を研ぎ澄ます女剣士に対して、銀狼は低くしていた姿勢を正し、まっすぐに女剣士の瞳を見つめた。
 銀狼の青い瞳は、女剣士の漆黒の瞳に強い意志の光を認めた。清々しいほどのまっすぐな光で、少女と言っていい年齢の女剣士の好ましい性格をよく表している。
 先ほどまで警戒の気配を露わにしていた銀狼の態度の変化を、女剣士は訝しげな視線で見つめた。だからといって銀狼に対する敵意が揺らいでいるわけではない。
 女剣士に対して話をしようとした銀狼は、はたして何と呼べばいいのか、一瞬躊躇した。
 これまで銀狼が接触した事のある人間は、俗世と隔絶された存在である仙人の天外に、山の外の世界とは異なる掟に生きる凛達山の民と平凡な村の娘であったひなである。これらの人物の中に、侍や武家の者はいなかったから、それらの人種との接触は今が初めてだ。
 ゆえに名前が分からない時、侍をどう呼ぶ事が適切なのか、とっさに判断が着かなかったのである。とりあえずひなに倣う事にした。

「お侍、刀を収めろとまでは言わぬ。だから、落ちついて私とひなの話を聞いては貰えぬだろうか」

 声を聞くに限れば、穏やかな笑みを浮かべた青年を思わせるが、外見は常識はずれの巨躯を誇る狼とあって、女剣士は深く刻んだ眉間の皺を解きはしなかった。

「妖魔の言う事など信じられるものか。下らぬ話の陰で何を企んでいる」

「私を疑う気持ちは分かる。しかし、私にはお侍もこのひなも傷つけるつもりは毛頭ない。天地神明に誓ってよい。信じられぬのなら、刀はそのままでいいから話を聞いてくれ」

 女剣士は、微動だにせず穏やかに語りかけてくる銀狼と、心底心配そうに銀狼と自分の対峙を見守っているひなの様子に、若干の違和感を覚えたようだ。
 山に登る前に聞いた大狼とはかけ離れた銀狼の態度と、生贄の筈のひなが、銀狼に対して全く怯えを見せずその身を案じる様子が、術に掛けられた者とは思えぬほど真摯なものに見えたからだ。

「私を大狼と思っているようだが、私は大狼ではない。奴とは別の、銀狼と言う狼の妖魔だ。大狼はすでに私が滅ぼし、この世にはない」

「本当です。この方は大狼などではありません!」

 一匹と一人の言葉に、女剣士の顔にかすかな動揺の色が見えた。いささか素直すぎる性格の様だ。

「仮に、お前が大狼ではないとして、なぜ村の娘を返さないのだ。それにそのひなという娘が生贄として差し出された時、銀色の狼が大狼を名乗り、村に掛けた呪いを解くと告げたと村人は言っていたぞ。たばかるつもりか!」

 ひなと出会った翌朝、生贄用の小屋を訪れた村人達に、銀狼が大狼のふりをして脅しつけた時の事であろう。後になってこのような形で厄介事を招くとは、銀狼にもひなにも予想外の事であったろう。

「それは、ひなの為にした事だ。村でこの娘はひどい扱いを受けていたようだから、帰すのは忍びなかった。それに一度は差し出した生贄が村に戻る事は許されない事だったろう」

 女剣士の黒瞳はひなを見つめた。銀狼の言い分に対して、この少女がどのような反応を見せるか確認するためだろう。差し出した生贄が村に戻る事で、大狼の怒りを買う事を村人達が恐れていたのは、女剣士も知っていた。
 ひなの瞳は潤み始めていた。小さく握った手を胸元に寄せて、懸命に女剣士に訴える。

「私が銀狼様にお願いしたのです。私は父も母もいなくて、村に居場所はありませんでした。誰も優しくはしてくれなかったし、名前で呼ばれる事さえもほとんどなかったです。生贄に選ばれた時は正直、怖かった。でも、もうあの村に居なくてもいいって、安堵したのも本当です」

「村長が引き取って育ててくれていた筈では? それでも辛い生活だったと?」

「私を率先して生贄に推したのは、村長様です。恨んではいません。父母が死んだ後の私を引き取ってくれた事に感謝はしています。でも、村に戻ろうとは思いません。銀狼様は、とても優しいお方です。父母以外に私にここまでして下すった方を、私は銀狼様しか知りません。それに川を流れていたお侍様を、助けてと私が言うよりも早く、銀狼様は貴女様を助ける為に動いていらしました」

 必死な様子のひなの言葉に、女剣士の瞳に動揺が大きく揺らぎ始めていた。村を訪れて、娘を生贄に差し出したという話を聞いて回った時、村人達の誰にも後悔や自責の念にかられた様子はなかった。ひなを生贄に差し出し、幼い命の犠牲で自分達が助かった事に対して、なんの負い目も感じていなかった事が、一目で分かる態度だった。
 その事と、凶悪な妖魔とは信じられぬ銀狼の態度とひなの一心に銀狼を庇い慕う様子とが、女剣士の心の中で疑惑の渦を巻いている。
 迷う様子を見せていた女剣士が、不意に膝を折った。目を覚ましてから銀狼と対峙している最中も、肩の傷が発する痛みに耐えていたが、限界が来たのであろう。
それでも刀の切っ先は銀狼へと向けられている。肉体の上げる悲鳴を精神が完全に、とはいかぬまでも大部分を抑え込んでいなければ、こうはいくまい。
 白蝋の肌には脂汗が滲み始め、牡丹の艶やかさを持った唇からは、乱れた吐息が吐き出されはじめる。

「傷が塞がっていないのに、無理をするからだ。ひな」

「はい」

 慌ててひなが女剣士に肩を貸して、崩れ落ちる体を支える。

「……かたじけない」

 ひなに礼を一つ言い、女剣士は険しい視線を銀狼に向けた。針の筵に立たされている気分にされる視線を浴びた銀狼は、女剣士に警戒されぬようにとその場を動かなかった。

「はやく横になってください」

「しかし……」

「私が気になるのなら、外に出ていよう。ひな、さらしを変えてやりなさい。私はしばらく外にいる」

「はい。さ、銀狼様が見ていなければいいですよね?」

「……」

 言うや否や、そそくさと小屋を出る銀狼の姿を目で追い、女剣士は迷いをますます大きなものへと変えた。銀狼が確かに小屋の外へと出たのを確認してから、ひなの肩を借りつつ寝かされていた布団の上に腰を下ろす。
 刀を鞘に戻して左手側――抜き打ち座に置いてから、女剣士が大きく息を吐いた。想像もつかぬ痛みを堪えていたのだろうと、ひなは痛ましげに女剣士の頬や額に滲む汗を拭う。

「失礼いたします」

「ん」

 女剣士の左腕はまだ動かぬ様子で、ひなの手を借りながら着物を脱いだ。さらしの白には幸い、赤い染みが領土を広げている様な事は無かった。出血が無かった事に、ひなが小さく安堵の息を吐いた。

「そう言えば、お名前はなんと言われるのですか? 私はひなと申します。もうご存知ですよね」

「ああ、村でも聞いたから。某は四方木鬼無子。廻国武者修行中の素浪人だ」

 ヨモギキナコ、美味しそうな名前だなあ、と思ったが、口にはしないでおいた。おそらく同じような聞き間違いをされて、機嫌を損ねた経験があるに違いないと察せられたからだ。

「四方木様ですね」

「鬼無子と。それに様と呼ばなくていい。気軽に鬼無子さんと呼んでほしい」

 鬼無子の左肩からの傷は、うっすらと肉が盛り上がりはじめており、驚くべき回復力を見せていた。天外の薬の効能が、銀狼とひなの予想をはるかに超えたものだったのだろう。肩以外には特に怪我を負った様子はないと銀狼が言ったとおり、他に骨折などした様子はなかった。

「ところで、ひな、先程の話だが」

「本当です。私は村でお荷物でしたし、真っ先に切り捨てられる立場にありました。銀狼様が私を拾ってくださらなかったら、私は村にも戻れず山で野垂れ死にしていたでしょう」

「あの妖魔に救われたと言いたげだな」

「はい、救われました、命も心も。銀狼様はとても優しいお方です」

 誇らしげに言うひなの眩しい笑顔に、鬼無子は考え込む様子で顔を俯かせた。ひなが銀狼に対して全幅の信頼と慕情を寄せている事は、その笑顔だけで分かる。刃を向けた自分の方が過ちだったのだろうか。

「では日照りの件は? あれは大狼の祟りではなかったのか?」

「銀狼様が言うには単なる天候の問題だそうです。私が生贄に差し出されなくても雨は降ったそうです。それを教えられた時にはちょっとがっくりきましたけれど」

「笑って済む問題ではないだろう」

「だって、私が拗ねてもどうしようもないじゃありませんか。それにちゃんと雨が降ったから、村の人達への責任は果たせたわけですし、気が楽になったと思えるようになりました」

 そのひなの笑顔で、鬼無子にはこの少女が村への未練や執着を捨てた事が理解できた。捨てたからあの銀色の狼との暮らしを受け入れたのか、銀色の狼との暮らしを受け入れたから、村への未練を捨てたのかは分からない。
 だが順序は別としてひなが山での暮らしに幸福を見出している事は間違いなかった。
 ひなから聞いた話と村人達の態度を考えるに、たぶん、それは良い事なのだろう。

「村に戻る場所は無い、か。では生涯この山で暮らすつもりか? あの狼と」

「できたら、そうしたいです。銀狼様とずっと一緒に居られたらいいなって、そう思っています」

 その言葉は何よりもひなの心を表していると鬼無子には良く理解できた。にっこりと笑うひなの顔は、これが幸福でないのなら、世界の誰もが不幸な人間だという位に輝いている。

「そうか」

 その笑顔を前にして、鬼無子に言えるのはその一言だけだった。それは自分の間違いを認める言葉でもあった。

「はい、巻き終わりましたよ」

「ありがとう」

「お腹は空いていませんか? すぐに朝餉の支度をいたしますので」

「何から何まで、かたじけない」

 小さく頭を下げる鬼無子に、ひなはくすりと笑いかける。

「頭を上げてください。鬼無子様に頭を下げていただくようなことはしていません。お薬は、お腹をいっぱいにしてからにしましょう」

 ほどなくして小屋の中に味噌の香りが漂い始めた。



 鬼無子とひなに気を使って外に出た銀狼は、ひくひくと鼻を鳴らした。味噌汁か煮物でも作っているのか、なんともいい匂いがしている。
 空腹や満腹という感覚を知らない銀狼には、美味いも不味いもあまり分からないのだが、食事の度に美味しそうに笑いながら食べているひなの様子を見ているので、なんとなく食事に対する憧憬めいたものが銀狼にはあった。
 銀狼は所在なさげに小屋の外で腰を下ろしたまま青い空を見上げていた。ひなと出会う前はよくこうして空を見上げてぼんやり過ごしていたものだ。流れる雲をなんとなく目で追い続けていると、あっという間に時間が過ぎる。
 そうしていればその内にひなからお呼びの声が掛かるだろうなあ、とこれまたぼんやり考えているらしい。
 一枚の画の様に佇んでいる銀狼の姿は、当の銀狼の心情を別にすれば、多少絵心のある者なら思わず筆を取らずにはおれぬ美しさであった。
 まるで帰らぬ主人を待つかのように小屋の前に立ち、遠い誰かを見る様に空を見上げる白銀の儚げな獣の姿にはそれだけの魅力がある。ま、本人にはそのような自覚は欠片もなく、ただぼうっと空を眺めているだけなのだが。
 ぼけっとしていた銀狼は嗅ぎ慣れた匂いと、聞き慣れた足音に視線を巡らせる。ほとんど足音を立てぬ見事な消音の歩みは凛のものに違いない。
 銀狼の耳と鼻の確かさを証明するように、土産物を包んだ風呂敷を片手に提げた凛の姿が、木々の合間から見えた。変わらぬ熊皮の衣装に、腰帯に差した山刀とこれもいつも通りだ。

「よう、銀狼。外で何をしているんだ? 洗濯物も干していないようだが、どうか
したのか」

「うむ。ちょっと拾いものをしてな。今、ひなはその世話をしている所だ」

「お前が外に出されたって事は、獣の子供か何かか? 犬か猫辺りか?」

「人間」

「……ん?」

 聞き間違えたかな、と眉を寄せる凛に、銀狼はもう一度言い直した。

「人間。侍と言う奴だ。初めて見たが、お前やひなより大きかったな。同じ生き物とは思えなかったよ」

 胸が。
 と口にしなかったのは賢明といえただろう。
 この狼、人間の身体的特徴の相違に興味を抱いたらしい。その内情欲や性欲と言った欲求に繋がるかもしれない。

「お前、人間を普通拾いものとかいうようには言わないぞ。しかし、侍か。ひなと二人っきりにして大丈夫なのか?」

「かなりの怪我人で、まだ体は自由に動かないみたいだ。それにあれは善人だよ。多分、大狼の生贄に差し出されたひなの話を聞いて、救いに来たのだと思う」

 こいつ、他人の事簡単に信じすぎだろう、と凛は銀狼の事を心配そうに見た。思う所はあるが、凛は別に銀狼に対して憎しみを抱いているわけではないし、銀狼を慕っているひなの事は気に入っている。
 銀狼の無防備はそのひなの身の危険に繋がってしまいそうで、つい心配してしまうのだと、凛は自分に言い聞かせた。
 銀狼が凛の事をお人よしと評したことがあったが、実に正鵠を射た意見だったようだ。

「余所者だな。大狼を退治しようと言う連中はこのあたりではもういないだろうからな」

「で、今日はどんな用だ。懐にいくつか武器を隠しているだろう。いつもより物騒だな」

「そこまで気付くのか、まったく……。まあ、その侍をお前達が拾ったのは運が良かった。ちょっとその事で話がある。かなり厄介な話になるかな」

「侍を拾った時からなんとなく想像は着いたがね」

 そう言って、銀狼は首を捻って小屋の方を振り返り、声をかけた。

「ひな、来客だ。そろそろ入ってもいいか?」

「あ、はーい。大丈夫ですよ」

 行くか、と頷いて凛を促し銀狼は戸をくぐった。馬鹿みたいにでかい銀狼と横並びに戸を通る事は出来ないので、凛は銀狼の後に続く。
 小屋に入った途端、煮炊きの気配と味噌や醤油の臭いが立ち込めて、凛の鼻をくすぐった。布団の上で体を起こし、野菜の煮物の椀と箸を手にした鬼無子と鍋をかき混ぜているひながこちらを見ている。
 ひなが凛の姿を見つけて道の端で風に揺れている小さな花の様に笑いかける。銀狼との関係は気になるが、自分の事をそれとなく気遣い優しくしてくれる凛の事を、ひなは好いている。

「凛さん、おはようございます」

「おはよう。お侍さん、あたしはこの山で暮らしている者で凛っていうんだ。よろしく」

「四方木鬼無子だ」

 山の民が珍しいのか、鬼無子は興味深げに凛の顔を見ている。ひなは山の民が自分達と変わらぬ人間である事に拍子抜けしたようだが、この女剣士はどんな感想を抱いた事やら。
 ひなが何か言う前に凛は草鞋を脱いで床に上がっており、どっかと腰を下ろしていた。小屋に入ってきたのとは逆に、銀狼は凛の後に続いた。

「ヨモギキナコか。変わった名前だな」

 不思議そうに呟く銀狼に、鬼無子が一語一語区切る様に言う。

「四方木が名字で鬼無子が名前になりもうす。名字がなにか、ご存じない?」

「いや、名字のある人間と会うのが、初めてなので判断できなかった。ふむ、侍は名字があるのか。ひとつ勉強になったな」

「なるほど」

 小さく笑う鬼無子から先程までの研ぎ澄まされた刃のような緊張感が去っているのに気づき、銀狼はおや、と思った。鬼無子は椀を傍らに置くと、抜き打ち座に置いていた刀を右手側に置き直し、居住まいを正して銀狼に向き直る。
 刀を利き手側に置く事は相手に対し敵意が無い事を示す作法なのだが、銀狼はそのような作法は知らないので、鬼無子の行いの意味は分かりかねた。
 ただ、先程の立ち回りからして鬼無子の利き腕は右腕と知れていたから、これでは咄嗟に刀を振るう時動作に遅れが生じるな、とは思った。わざと自分からそうする事で、敵意が無い事を示しているのだろうとも。

「銀狼殿、先程の無礼、心よりお詫び申し上げる。ひなと話して、貴方が悪い妖魔ではない事は分かった。まだ、信じられぬ思いがあるのは事実だが、某が目を覚ましてからの貴方の態度に、某を害しようと言う意図が感じられなかったのも事実」

「いや、分かってくれればそれでいいよ」

 あくまで寛容な銀狼の態度に鬼無子は苦笑するばかりだ。自分から詫びを入れることを決めた時、銀狼の爪に裂かれても仕方がないと腹をくくったと言うのに、当の銀狼の態度がこれとは。
 いや、そもそもまだ心を許しておらず警戒心を剥き出しにする自分とひなを二人きりにする位だ。ひなの言葉を信じるのならわざわざ勘違いで生贄に差し出された少女の願いを聞き、さらには面倒まで見ているという。相当なお人好しに違いない。
 そんな銀狼からすれば命を狙ってきた相手に対しても、この程度の態度で済む問題なのかもしれない。

「聞けば、川を流れていた某を救ってくださり、このように手当てまでしていただいたとか。恩人とも知らず刃を向けた事、重ね重ねお詫び申し上げる。これ、この通り」

 そう言って、鬼無子は手を床に着いて深く頭を下げる。妖魔相手に侍が頭を下げるのか、とひなと凛は驚いているが、銀狼の方は素直に鬼無子の謝意を受け取っていた。

「頭を上げてくれ。その事はもう水に流してくれて構わないから。ところで聞きたい事があるのだが、君はどうしてこの山に足を踏み入れたのだね? 大狼退治
か?」

 顔を上げた鬼無子は、銀狼の問いに頷く。

「さようで。某、諸国を旅し剣術の修業に明け暮れていたのですが、近くの村を訪れた時、この山に住むそれは恐ろしい妖魔の事を聞きました。そして、昨今の日照りの原因が山の妖魔の仕業であり、怒りを鎮めるために生贄を差し出した事も」

「それで生贄にされたひなを救うために単身で山に乗り込んだのか。無謀な、と言
いたい所だが、よほど自信があったのだろう? 例えばその刀とか」

 銀狼が顎をしゃくって鬼無子の手元の刀を示した。鍛冶衆としての興味をそそられて、凛も面白そうに刀へ視線を送っていた。
 鬼無子は刀を手に取り、鉄鞘から刀身を半ばまで抜く。三尺二寸三分の刀身は囲炉裏の火を映して火焔の色に彩られていた。
 また銀狼に斬りかかるのかとひなは軽く腰を浮かせたが、鬼無子と銀狼が穏やかな表情でいる事に気づいて、一度は浮かせた腰を元に戻した。

「我が四方木家に代々伝わる霊刀”崩塵(ほうおう)”です。三尺二寸三分の刀身には総数三千四百六十七字の退魔真言を刻んであります。四十日間、食と水を断ち、身の穢れを取り除いた刀鍛冶が妖魔の骨と玉鋼から打ち上げて、さる宗門の開祖が七日掛けて刀身に真言を刻んだと伝わっております。四方木家は父の代で没落してしまいましたが、この刀と私だけは残りました」

 鬼無子の口調は柔らかい。没落した生家の事を語る時は幾分自嘲しているようではあったが、残された家宝の刀に対する誇らしさが聞き取れた。穏やかな鬼無子の様子に、もう銀狼に斬りかかる様な事はなさそうだとひなは安心して平たい胸を撫で下ろした。
 ちん、と音を立てて純銀の刀身は闇色の鞘の中に隠れた。
 霊刀に興味を隠さぬ視線を向けていた凛が、もっとよく刀を見たいと言う欲求を堪えて口を開いた。

「ちょっといいか。鬼無子さんよ、あんた、昨日の夜に猿の妖魔共を斬り殺したろう? 今朝、うちの若い連中が森の中で十二匹分の猿の死体を見つけて大騒ぎだ。どいつもこいつもどえらい斬られ方で死んでいるものだから、どんな化け物がどんな切れ味の獲物でやったんだって話題でもちきりなのさ」

「化け物か、これは手厳しい。まだ人間をやめたつもりはいのだけれどな。ただ猿達と立ち回りをしたのは確かだ。その、村人達に聞いた大狼の巣だと言う小屋には誰も居なくて、そのまま山に踏み込んだのだが、道が分からず遭難している間に夜になり、これは野宿かと途方に暮れた時に、猿達に襲われたのだ」

「なるほどね。しかしあいつら全部山の内側の妖魔共だ。それがこっちに来るのはおかしな話だな」

「それはどういう意味だ?」

 山の事情など知らぬ鬼無子は、山の内側と言う凛の言葉の意味を知りたい様子であった。これについては銀狼がひなに説明した時と同じ事を口にした。もともと内側で発生した妖魔である銀狼の方が、内側の事情に関しては凛よりも詳しい。

「なるほど。では某は出会う筈のない妖魔と遭遇し、戦ったというわけですな」

「嫌な予感が的中したな」

 鉛を飲んだ様に不機嫌そうな銀狼である。ひなとの安住の地である山の外側の小屋に帰ってきたと思ったら、また内側の妖魔の話が出てきたのである。うんざりした調子になるのも無理はないだろう。
 それに、ひなはまだ身を守る術を学んでいない。万が一目を付けられた時、ひなに加えて怪我を負った鬼無子を抱えていては、両者を守り抜く事は如何に銀狼といえども荷が重いだろう。

「鬼無子、一つ聞くが、猿の中に白い毛の老いた奴がいなかったかな? 君の傷口に残る妖気が、奴の妖気に似ている」

 いきなり呼び捨てにされた事に鬼無子は少し驚いたようだが、すぐに頷いて銀狼の言葉を肯定した。

「白猿王で決まりだな。猿達の中でもかなり手強い連中だぞ。こちらに来た数はそう多くはあるまいが、凛、集落に戻ったら子供らが外に出歩かぬよう注意しておいた方がいい。お前くらいの腕が無いと、出くわした時に逃げる事もできんぞ」

「そんなに強いのか?」

 銀狼の言葉が本当なら、かなりまずいと顔に書いている凛が、問うた。

「厄介なのは個々の力よりも必ず複数で協力し合いながら襲ってくる事だ。殺し合いが日常茶飯事の山で磨き抜かれた連携だ。手強いという言葉だけでは足りぬ」

「お前は嘘を吐かないからな。言う通りなのだろうが」

 凛は渋い顔をした。小生意気だが熟しきらぬ若い魅力が形になったような美少女だから、そんな顔をしていてもなかなか愛らしい。
 鬼無子は白猿王に刻まれた傷を着物の上からなぞり、敗北の屈辱を噛み締めている。白猿王の方も、多くの同胞を斬られて今頃は怒りに燃えている事だろう。

「とりあえず皆に注意するよう伝えておくよ。銀狼、邪魔したな。鬼無子さん、ゆっくり養生しな。この犬もどき、根っこは優しいから信じてもいいと思うよ。ひな、また後でな」

「はい。凛さんも帰り道にはお気をつけて」

「うん。あ、これ胡瓜と茄子だ。食ってくれ。じゃ」

 風呂敷包みを軽く叩いてから、凛は小屋の外へ出て行った。
 山に姿を見せた脅威を一刻も早く集落の仲間達に伝えるべく、凛は急ぎ足で走り去る。

「ふう」

 傷が治りきらぬ状態で長話をした所為か、鬼無子は疲れた様子であった。

「大丈夫ですか、鬼無子様」

 阿りも偽りもないひなの労わりの声に、鬼無子はタンポポの綿毛がかろうじて飛ぶ程度に、小さく笑う。

「鬼無子様ではなく鬼無子、と」

「え、えっと、鬼無子……さん」

「うん、それでよろしい。せっかくの料理が冷めてしまったな。温かいのを頂けるかな」

「はい」

 ひなはにっこりと笑って、鬼無子が差し出した煮物の椀を受け取る。二人の打ちとけた様子を見て我が事のように喜んだ銀狼も、にっこりと笑った。

<続>



[19828] その十一 三人の暮らし
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/07/07 22:35
その十一 三人の暮らし

朝餉を終えて薬湯を飲み、一休みした後、木の枝で作った即席の杖に助けられながら、小屋の外に出た鬼無子は畑仕事をしているひなの姿を見守っていた。借り物だったひなの小袖から、着用していた自分の筒袖に着替えている。
 傷はまだ完全に塞がってはおらず時折鈍い痛みと熱を発して疼くが、歩きまわるのには支障ない。
 銀狼も鍬代わりに自分の肢を使って地面を耕すのを手伝っている。一回肢を動かすごとに驚くほどの量の土が掘り出されるが、これでも手加減はしている方だ。最初の時など、思い切り全力で地面を掘ったものだから、畑を耕すのではなく、穴を掘るという有様だった。
 肢先や鼻面を土で汚しながら、一生懸命になって土いじりをしている銀狼の姿は、見た目はともかくとして生まれて間もない子犬が、無邪気に遊んでいるようにも見えてなかなかに微笑ましいものがある。
 きこり小屋の建っている広場の大部分を耕した畑は、移り住んでからそう日は経っていないので収穫はまだ先の事だが、疲れ知らずの銀狼が手伝っている事もあり、開墾の速度は異常の一言に尽きる。
 ひなにあわせて銀狼は開墾作業を止めているが、銀狼だけに任せれば二日か三日程度で二千坪くらいは耕してのけるだろう。
 凛の助けも借りているし、きっと実りは豊かなものになるだろう。鍬を振るう手を止めて、頬を流れる汗を拭ったひなが、鬼無子の視線に気づく。

「鬼無子さん、怪我の具合はどうですか」

「ああ、大事ない。薪割位ならやっても大丈夫だと思うのだが」

「だめですよ。怪我が治るまで安静になさってください」

 腰に手を当てて怒ったように言うひなに、鬼無子は穏やかに笑い返す。小さい体ながら物怖じせずに言ってくるひなの事をかなり気に入っているようで、ひなを見つめる深い色合いの黒瞳には、優しげな光が揺らいでいる。

「しかし、鬼無子は傷の治りが早いな。私もかなり治りは早い方だが、同じ人間でも侍は体が頑丈なようにできているのか?」

「そのような事はありませんよ。仙人から頂いたと言う薬のお陰でしょう。この具合なら左手で茶碗を持つ位なら、二日後には出来るでしょう」

「それは良かった」

 と銀狼。鬼無子の傷の治りが早い事を本心から喜んでいるようで、ぶらんと垂れていた尻尾がゆらゆらと左右に揺れている。銀狼の機嫌が良い時の表現だと、ひなから聞いている。
 無邪気に喜ぶ銀狼の姿は、確かに近隣の村々を恐怖で震わせた妖魔というには、無垢な子供みたいな可愛らしさの様なものがある。それ以上に巨躯と狼面が迫力を醸し出し、見る者を威圧してしまうが。

「所でひな、せめて右腕を使う位は許してもらえないかな。このままでは刀の振り方を忘れてしまいそうだ」

「……分かりました。でもあんまり激しく動いちゃだめですよ」

「ありがたい」

「鬼無子もひなに頭が上がらないか。面白いな」

 からかうというよりは、言葉通りに面白がっている銀狼に、鬼無子は笑い返した。

「まったくで」

 杖を地面に横たえて、腰に差しっぱなしにしていた崩鏖に手を掛けて腰帯からゆっくりと抜く。ただし鉄製の鞘ごとだ。
 通常の刀に比べおよそ一尺長い分、抜刀の仕方に工夫があるのだろうが片手しか使えない状況では、その工夫を凝らした抜刀が行えないのだろう。
 銀狼とひなの目線の先で、鬼無子は鉄鞘と崩鏖の鍔を紐で結びつけた。刀が鉄鞘から抜けない為の用心だ。鉄鞘に収めたまま崩鏖を肩の高さまで持ち上げてゆっくりと左右に振りはじめる。
 てっきり素振りでもするのかと思っていた一人と一匹は、ちょっと拍子抜けした調子で刀を優雅な舞の様に動かす鬼無子から視線を外して、互いに顔を見合わせ、

「やっとおの訓練とはああいうものなのかい?」

「さあ?」

 と互いに首を捻るばかりだ。
 一匹と一人がはてな、と視線を合わせながら疑問を呈している傍ら、鬼無子は両者の評価など知らぬ様子で、あくまで真面目な顔で足幅を広げ、腕を曲げ、腰を回しながら舞の様な動きを演じていた。
 ゆったりとした動作ではあるが高い所から低い所へと水が流れる様に決して止まる事は無く、直線ではなくいくつもの曲線を組み合わせた動きだった。
 軸足を右に左にと変え、右手の鉄鞘は闇色の軌跡を虚空に幾重にも重ねて行く。
 鬼無子が幼い頃から学んだ剣術の型であろう。一つ一つの動作の意味までは分からぬが、指の先、足の爪先、瞳の動き、呼吸に至るまで鬼無子の意識が大樹の根の様に張り巡らされ、自分自身の体を完全に掌握している動きだ。
 動きを目で追ううちに、ひなは時折鬼無子の振るった鉄鞘の先に誰かがの姿が見えた様な気がして、何度か目を手の甲で擦った。
 例えば、いま、鬼無子は大上段から振り下ろされた敵の刀を半身になって躱し、敵の喉に刃を当てて引き斬り、その勢いを利用して、体を旋回させながら腰を屈め、背後から襲いかかってきた敵の胴に横薙ぎの一刀を見舞う型を演じている。
 その一つ一つの動作に、斬りかかる仮想敵や舞散る血飛沫、刃と刃の交差による甲高い音や小さな星の様な火花までが見え、聞こえてくるかのよう。
 斬り結ぶ敵の姿が虚空に映るほど巧みな動きであった。

「きれいな動きですね」

「山の民の剣とは全く違うな。あっちは獣や妖魔を相手にしたものだが、鬼無子のは同じ人間を相手に歴史を積み重ねてきたものだからかな」

 そういう銀狼であったが、鬼無子の動きの中にときおり明らかに人間ではないものとの戦いを想定した動きがある事を、なんとはなしに察していた。銀狼がその身でしっているのは、山の民の振るう野の獣や妖魔を相手取る事を想定した、力づくで生き残る剣法。
 いわば対人間を想定した正道の剣法と比較した場合、邪道と忌み嫌われる類のソレである。
 その邪道剣法を良く知る銀狼からすれば、鬼無子の振るう剣法は清濁合混ざったというよりは、むしろ邪道を主とする類の邪剣と見えた。
 夜の山に踏み入り、内側の強力な妖魔である大猿たちの多くに死を与えたのが真実であるのなら、むしろ鬼無子の振るう剣は、邪法の殺戮剣であるほうが納得は出来る。
 それにもうひとつ、銀狼が気にしていることがあった。流木に掴まった姿勢の鬼無子を助けるときに、赤色に染まっていた川から嗅ぎ取れた鬼無子の血の匂いの中に紛れていたモノ。
 大猿たちを斬殺せしめたその実力を考えればどこかの家に使えていてもおかしくない実力だというのに、開国武者修行と称して素浪人の身に甘んじている理由が、そこに隠されているのかもしれない。
 ひなは、銀狼が内心で色々と考えている事はさすがに察せず、無粋と言えば無粋な銀狼の感想を聞かなかった事にしたようで、鬼無子が痛たた、と声を漏らして鉄鞘を下ろすまで、流麗な舞に見入っていた。

「大丈夫ですか?」

 慌てて駆け寄ったひなに、鬼無子は少し恥ずかしげに笑った。情けない所を見せたと思っているのだろう。

「いや、つい左腕を動かしてしまって、面目ない」

「もう、治るものも治りませんよ」

「はは」

 乾いた鬼無子の笑い声には、申し訳なさと恥ずかしさが少しばかり混じっていた。
 穏やかな光景であった。銀狼はひなが笑顔でいてくれればいいと願うとの同じくらいに、鬼無子とひなが穏やかに話をしているこの光景が続けばいいと願っていた。願わくば、自分もその光景の輪の中にいられるといい、と。


 
 銀狼の願いはそれから数日の間叶えられた。
 数日の間の生活で、ひとつ分かった事がある。
 鬼無子は、良く食べる。
 健啖家という言葉はまさしく彼女の為にあると言ってよかった。
 玄米飯と焙った魚の干物に、豆味噌を塗って焼いた茄子、煎り酒と味噌、塩で味を調えた里芋の煮っ転がし、塩揉みにした胡瓜と、普段よりも豪勢な食卓は傷を負った鬼無子に精をつけてもらおうというひなの心遣いだ。
 鬼無子は箸を休める暇もなく食べ続け、玄米飯を三杯おかわりして味噌汁もがぶがぶ飲み、干し魚は頭からばりばり音を立てて骨ごと食べた。
 気持ちの良いくらいの食べっぷりに、差し出される椀におかわりをよそっているひなと見物していた銀狼は、感心と呆れが半分ずつの顔だ。
 最後に出された薬湯を啜ってほうっとと満足な溜息を吐いてから、ようやく鬼無子は一人と一匹の視線に気づいて、恥ずかしげに横を向いて顔を逸らした。

「何か?」

「とってもお食べになるなあ、と」

「腹がいっぱいではいざという時に動きが鈍るのではないのか?」

「いえ、腹が満ちたからといって満足に剣が振るえぬようでは未熟というもの。まあ、某も未熟者故、動きが鈍るのは確かですが、そこはそれ傷を負った身です。動きは元から鈍っておりますので、腹がいっぱいか腹八分かはあまり関係ありませぬ。それよりもたくさん食べて失った血肉を補わねばなりません」

 そういうや鬼無子は、あっはっはっは、と繊細な美貌の主には似つかわしくない豪快な調子で笑い始めた。肩肘を張った家の生まれではないらしい。

「怪我人に食欲が無いよりはいいか」

 食が細いよりはモリモリ食べる方が確かに傷の治りは早そうだと、銀狼はのほほんと呟く。香りか味が気に入ったのか、二杯目の薬湯を啜っていた鬼無子が、銀狼の方をまじまじと見つめてきたので

「何だね?」

 と銀狼は聞き返した。鬼無子の瞳に妖魔への嫌悪の情や危険視する光は無く、むしろ逆の光が灯っている。鬼無子は、銀狼をまっすぐに見つめ、ひとつ頷くと口を開いた。

「それにしても銀狼殿はつくづく見事なお姿でいらっしゃる」

「私が? 普通の狼よりは大きいし毛の色は珍しいが、見事と褒められる様な見た目でもないだろう。やたら図体が大きいし」

 自分がやたらめったら体が大きい事を気にしているらしい。
 鬼無子は大きく頭を振った。

「とんでもない。色々な土地で銀狼殿同様の狼の妖魔や犬など多くの獣を目にしましたが、銀狼殿ほど体が大きく、それでいてこうも美しい獣は初めてですよ。体が大きい事を気にしていらっしゃるが、実に堂々とした迫力で良い事ではありませんか」

「褒めてもらって嬉しいが、そこまで言われるとこう、耳の裏の辺りがむず痒くなる」

 かしかしと銀狼は左耳の裏を後肢で掻きだした。分かりやすい銀狼の仕草に、ひなは口元を手で隠してくすくすと忍び笑いを漏らす。

「太陽の光や炎に照らされている時の銀狼様の姿は、なんともいえぬ輝きを放って美しいですぞ。銀の毛色といい、まるで凪いでいる時の海の様なその毛並みの見事さといい、脆弱さなど欠片もないその威風堂々たる体躯。どれをとっても、いやまったく素晴らしい」

 かしかしと耳の裏を掻く音はなお続いている。
 寝床から目覚めたばかりの時に、銀狼に崩落の切っ先を突きつけた時の迫力はどこへやら、鬼無子は心底惚れ抜いたという表情で、銀狼を誉め称える。
 武人が名馬を一目で気に入るのと似たような心理かもしれない。

「特に朝方、小屋の外で陽の光を受けている時や満天の星と月の光を浴びている時の銀狼殿の姿は格別です。そう、まるで、地を埋め尽くすほど降り積もった雪が、光の雨を浴びて大地の彼方までも眩く輝き、それが狼の姿に凝縮された様な。そうは思わないか、ひな」

「雪ですか。雪……。ああ、本当に、本当にそう思います」

 鬼無子の言葉に、ひなは心から納得したようで、しきりに頷いて銀狼の姿を見ている。
 かしかしかしかしかしかしかしかしかし、と血が噴き出るんじゃないのかと言う位、銀狼は耳の裏を掻いている。
 流石に痛くなったのか、掻くのを止めたと思えば、今度は反対側の右耳の裏を掻き始めた。かしかし、ではなく、がしがしがしがしと力強さを増している。

「銀狼様、そんなにしては血が出てしまいますよ」

 あまりに力強く掻き続けるものだから、心配になったひなが声をかけて、ようやく耳の裏を掻くのを止める。
 銀狼が一言、ぽつりと呟いた。

「……痛い」

「もう!」

「ふふ、二人の仲の良い事。二人の様子を見ていると、誤って斬りかかった過去の自分を止めたくなります」

「こちらに遺恨はないさ」

「某自身の心の問題ですから」

 銀狼には、頑として譲らぬ鬼無子の性格は好ましく思える。それにこの調子なら鬼無子の怪我はすぐに治りそうだ。
 怪我の事は安心してもよさそうだが、銀狼の心の中では、山の外側に姿を見せた猿達の事が黒い渦となって残っている。
 白猿王率いる猿の一族がまるまる外側に移り住むと言うのなら、これは血と死と滅びの嵐が吹き荒れるのは火を見るよりも明らかだ。
 血の色をした火の粉は確実に銀狼とひなに降りかかってくるだろう。
 静かに、そして穏やかにひなと暮らしていきたいだけなのに、そうはさせじと運命のように途方もなく大きな流れの様なものが、妨げてくる予感がしていた。

<続>



[19828] その十二 魔猿襲来
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/07/08 21:38
その十二 魔猿襲来

 
 銀狼が胸に抱いた予感を肯定するかのように、運命のうねりは数日の休息しか許さなかった。
 天外から連絡が来る事もなくさらに数日が過ぎ、鬼無子の腕も幾分動くようになってきたある日の事であった。
 夕餉を済ませて空になった鍋や椀を片付けようと、洗い場へ向かうひなを鋭く小さな鬼無子の声が止める。

「ひな、某の近くへ」

 それまで朗らかに微笑していた鬼無子の顔は、今や生と死の境が極めて曖昧な、戦場に身を置く者のそれへと変わっていた。柔和な光に輝いていた黒瞳は、獲物を狙い定めた猛禽類のそれへと変わっている。
 かろうじて動く左手で鉄鞘を掴み、崩鏖を抜いている。燃える炎の揺らめきを受けて、微細な文字を彫り込まれた退魔の太刀は妖しく輝いていた。
 鬼無子が気付いたものはすでに銀狼も気付いていて、軽く身を起こし、ざわざわと背筋の辺りの毛が波打っている。
 耳は潜められた獣の吐息を聞きとり、鼻は隠せぬ臭気を嗅ぎとっていた。
 狼と剣士が臨戦態勢に入っている事に気づいたひなは、質問一つせずに鬼無子の傍へ。
 途中、銀狼の方へ視線をやって、鬼無子の傍で良いかと言葉にせずに尋ねる。銀狼は頷き、鬼無子へ目配せをした。

「猿だ」

「数は?」

「十七。大した数だが、これだけとは限らん。ひなは任せる」

「某が狙いなら……」

 自分が囮になる、と鬼無子が告げるのを、銀狼が遮った。鬼無子に向けた狼面は笑んでいる。もし銀狼が人間だったなら、男も女も、どんな辛い状況にあったとしても救われる様な笑みだったろう。

「怪我人が余計な事を考えるな。ひな、鬼無子の言う事をしっかり聞きなさい。では」

「銀狼様、その、行ってらっしゃい」

「行ってきます、でいいのかな、この場合」

 この土壇場での穏やかなやり取りに、つられて鬼無子も微笑んだ。

「ええ。それであっておりますよ」

「そうか。では、猿共の言い分でも聞いてくるかな」

 おそらくはこちらを殺すつもりであろう猿達の待つ場へ向かうというのに、銀狼は少し散歩にでも行くような気楽な調子であった。
 樵小屋から一歩外に足を踏み出すと、あらゆる方向から雪崩の様な悪意と妖気と殺意を混ぜ合わせた不可視の圧力が襲いかかってきた。
 いまは銀狼とひなの住まいとなっている小屋は、銀狼が居座る事で銀狼の妖気が沁み込み、外部より向けられる悪意から居住者を守る機能を得ていた。目に見えぬ朝霧のごとく小屋を守る自身の妖気を確認して、銀狼はまっすぐ前の闇を見つめる。
 月明かりにぼんやりと浮かぶ木々の幹の間に、あるいは枝の上に無数の光点が瞬いている。ぐるりと小屋を囲む光点からは、炎に変わらぬのが不思議なほど熱を帯びた殺意が向けられている。
 大猿、いや、猿の妖魔である以上、魔猿とでも形容すべきか。
 魔猿達は姿を見せた銀狼に対して轟々と威嚇の唸り声を上げ、牙を剥く。爪同様に黄色く薄汚れた牙だ。いずれも鋭く研ぎ澄まされており、肉を引き裂き、骨を噛み砕く為の牙である。

「白猿王はいるか。居ないのであれば代わりの者がいよう。いかなる用件で私の塒を取り囲む?」

 猿達さえいなければ静かな夜に相応しい冷たい声に、一匹の魔猿が応じた。月光がその姿を露わにすると、周囲のどよもす唸り声がぴたりと絶える。唐突な轟音の消失は、聴力を失ったのかと錯覚しそうだ。
 長い影を地面に這わすのは、他の魔猿に比べ一回り大きな体に、長年月の内に培った経験と知識の光に輝く瞳、雪の様に真白く変わった毛、そして銀狼の体を打つ静謐な気迫を持った老齢の猿であった。
 その容貌からして、鬼無子に痛打を浴びせ退けた白猿王に相違ない。
 足よりも長い腕を地面に着きながら、数歩前に出て銀狼と対峙する。
 純白の魔猿から立ち上る妖気は銀狼の感覚を持ってしてもほとんど感じられぬほど小さい。火炎の如く生じる妖気を抑えられぬ周囲の若輩共とは、闘争に関わった年月の桁が違う。
 妖魔の本能として在る強い闘争本能、殺戮衝動さえ表面に表出せぬよう制御しているのだ。
 内に秘めた敵意を隠し通し、白猿王はいま好々爺然とした顔をしている。猿族で無くとも、この老いた猿は悪いものではないと、強張った体を弛緩させるだろう。大した役者と言えた。

「どうしてそんなに怖い顔をしているのだね、狼さん。わしはお前さんに酷い事をしに来たのではないんだよ。だから、おっかない顔は止めておくれな」

 縁側で孫を膝の上に乗せてあやす祖父の様な優しい声だ。大泣きしている赤子も、こんな声で宥められたら、すぐに笑顔に変わるだろう。

「阿呆、その顔に騙されてのこのこ近づいた私に襲い掛かってきた時の事は忘れておらんぞ」

 まだ銀狼が山の内側の森や平原で暮らしていた頃、初めて遭遇した白猿王のこの笑顔に騙
されて、危うく骨まで残さず食われそうになった事があった。
 いかんせん根が素直で正直、他者を疑い、騙すという事を知らぬ狼であるから、白猿王くらい真意を隠せる手合いには簡単に騙される。
 流石に一度騙された相手である事と、周囲の魔猿共の殺気から、銀狼も最初から敵意を滲ませている。

「ほほ、阿呆とはひどい。昔はもっと優しい顔をしていたのにねえ」

「お前だけ嘘が上手くても、周囲の猿共がこれでは芝居の意味があるまい」

 銀狼の指摘に、白猿王は困った様に顎を掻いた。猿らしい愛嬌のある仕草ではあったが、銀狼の警戒はわずかも緩まない。かつて白猿王は笑顔を浮かべたまま、銀狼へその丸太のように太い腕を振るったのだ。

「猿芝居とはまさにこれの事か。内側の妖魔であるお前らがどうして外にまで足を伸ばしているのかは知らん。だが、私の眼の届く範囲で無用な殺生は許さんぞ。何もせぬのなら、私も悪戯に牙を剥く事はせぬが」

「ふほほほ、ひひ、お前さん、口が上手くなったねえ。言葉もずいぶん知ったようだ。きき、けどねえ、わしらはお前さんに用があるのだよ。ちょっと困った事になってしまってねえ。
その困った事をどうにかする為にはお前さんが頼りなのさ」

「私が?」

「そうだよ。だから、用があるのはお前さんさ」

「なら、話は簡単だな。そら、周りの猿共が待ちかねているぞ。私の肉が食いたいとな。お前の目も言っている。用があるのは私ではなく私の首だとな」

「や~れやれ、こいつらもお前さんと同じ位に知恵があれば、わしの苦労も減るんだけどねえ。お前さんがわしの一族として産まれてくれていればなあ」

 心の底から同胞の無能を嘆き、銀狼が狼として誕生した事を残念がる白猿王の指が、すっと銀狼を指す。月の美しい夜に相応しい静かな死刑宣告であった。
 銀狼にとっては、これはこれで好都合だ。自分が目的なら、小屋の中のひなや鬼無子に危険が及ぶ可能性が低くなる。
 周囲の魔猿達の咆哮が一斉に木々を震わせ、銀狼の体を打ち、その無数に重なり合った咆哮を、銀狼の長く尾を引く遠吠えが打ち消した。
 しゃなりと美しい体を仰け反る様にした銀狼の口先が細まり、

 うおぉぉ――ん

 うぉおお―――――んん、うぉうおお―――――ん

 と水晶と水晶を擦り合せた様に透き通り、世界の果てまで届くかの如く遠く遠く、その声は乱された山の静寂を慰めるように響き渡る。
 ただ鈴を鳴らす為だけに生まれた天上世界の楽士が、慎ましく鳴らしたこの世ならぬ鈴の音を思わせる美しい声に、殺気を黒い血に変えて全身に満たしていた魔猿達は、一瞬、目の前の狼へ襲い掛かる事を忘れた。
 白猿王さえ戦う事を忘我した空間で、顔を下ろした銀狼の瞳孔が針の先のように細くなる。
 銀狼の巨躯から目に見えぬ妖気が津波のように噴き出て、その場にいた全ての魔猿達を飲み込む。ゆら、と夏の陽炎の如く白銀の獣の体が揺らいだ――と見えた瞬間、白猿王の目の前に銀狼の姿があり、狼の青い目には初めて目にする凶悪な光が瞬いていた。

「ひょほっ」

 がちん、と銀狼の牙は大きな音を立てる。間一髪、後ろに飛んだ白猿王の喉元で噛み合った真珠色の牙は火花を散らし、銀色の風に遅まきながら気づいた他の魔猿達がようやくに動く。
 闇の中で蠢く影達が、銀狼へと殺到する。それは己より美しいものへの憎悪に駆られ、その存在をこの世から隠蔽しようとしているかの様な勢いであった。
 天地からわずかに時間をずらしつつ襲い来る魔猿達の間を、銀狼の体は一陣の風となって走った。どんな生き物にも捕まえられぬと見える、まさしく疾風そのものの動き。
 月を遮るもののない夜空に黒い血潮が盛大に噴き、丸みを帯びた四角い物体が、喜劇のようにくるくる回りながら宙を舞う。物体が旋回する度に黒い雨が降りそそいた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 魔猿の首である。
 首を失った逞しい体が連続して音を立てて地面に崩れ落ちる。仲間の首が宙を舞った事に意識を奪われた魔猿達は、自分達が敵にした者の恐ろしさにようやく気づき、隠し切れぬ動揺と恐怖が体を凍らせた。
 魔猿の死骸の真ん中で、銀狼は白猿王に問うた。殺すと決めた相手に対して、あまりに優しい声であった。祖父を思いやる孫にこそ相応しい声だろう。
 善の性質を持って生じたとはいえ、やはり銀狼もまた妖魔なのだ。ひとたび牙を剥けば、そこには他の生命を奪う事に僅かな躊躇もない殺戮者の姿がある。

「年経た知恵ある猿よ。その生命には敬意を表しよう。そして生命の終わりには哀悼の意を」

「きゃきゃ、ようやく本気になったな。そうでなくては殺し甲斐がない。森はわしらの場所じゃ。狼よ、それを教えてやろうぞ」

 きききき、と耳障りな声を上げて白猿王の白い姿が背後の闇に溶けて行く。長の声に従って、他の魔猿達もまた毛皮と同じ色の世界へと向かって動き始める。
 折り重なる木々が落とす闇と影は、優しく冷たい月の光をもってしても完全に払拭する事は叶わず、猿達は漆黒の世界へと帰ってゆく。
 森の中から感じられる気配は最初の時より多い。伏せていた猿達が合流したのだろう。銀狼は迷わず地を蹴って追い始めた。
 小屋から離れ、敵の狙いが自分だけに絞られるのは好ましい展開だ。
 ざざざざ、と魔猿が飛び移り多くの葉が散っている。銀狼の目は、正確に森の中を飛び回る魔猿の姿を追っていたが、白猿王の姿だけはすでに映ってはいなかった。
 引き連れていた魔猿共が巧みに白猿王の姿を隠し続け、気づけば折り重なる木々の中に消えていたのだ。
 一番厄介な敵を見逃した事に、銀狼は牙をぎりぎりと噛み合わせて軋らせる。人の腕ほどもある木の根とぼうぼうと生い茂る草だらけの大地を駆け、銀狼は軽く跳躍して近くの木の枝に飛び移る。
 風と遊んでいるように軽やかな跳躍は、着地点で大きく乱れた。銀狼が踏みしめた枝が着地と同時に落ちたからだ。ささいな重量が加わるだけで落ちるように切れ目が入っていたのだ。足場を失った銀狼目掛けて細長い影が殺到する。
 生木を割いてつくったひどく原始的な木の槍だ。この手の罠は凛との戦いで慣れてはいたが、猿達が使うとは意外であった。
 銀狼は落ちた木の枝を蹴ってその場を跳躍し、自分を貫くはずだった木の槍のことごとくを躱した。銀狼の視界の端に映った木の槍の鋭い切り口が、薄紫色に濡れている。
 妖哭山特有の毒草や死の花から取った猛毒に違いない。全身麻痺に陥るかすぐさま死ぬかの二つだろう、と銀狼は見当をつけた。
 地に降りた銀狼へ唸りを上げていくつかの飛翔物が襲いかかった。同じように毒を塗った石つぶてや木の枝である。
 重い音を立てて地面に突き刺さるも、それらはすべて銀狼の残していった虚影を貫いていた。地を走りながら一本枝を折り、それを振るって前方から飛翔してくる毒槍を打ち落とす。毒に触れた木の葉がたちまちの内に萎れて腐れ落ちる。銀狼の予想を上回る毒の強さだ。
 口に加えていた枝を捨てて、銀狼は魔猿の一匹が飛び移った木の幹を一気に駆け上がった。森に無数の罠が仕掛けられていても、それを知る魔猿達が飛び移る木にまでは仕掛けられていない事を看破したのだ。
 一息つくよりも早く巨木を駆けのぼった銀狼は、もっとも近い魔猿へと飛びかかった。その背には見えぬが確かに力強く羽ばたく翼があるに違いない飛翔であった。
 森の闇にぎゅお、と醜い声と濡れたものがぶちまけられる音が連続する。
 脳天を割られた魔猿が二匹、醜い苦悶の表情で落下し、臓物と黒血で構成された花を大地に咲かせる。魔性の猿達が全て命の花を散らすのが先か、銀狼がその銀の毛並みを自らの血の色に染めるのが先か。夜の森の死闘は、始まったばかりであった。



 遠ざかってゆく魔猿達の気配に、鬼無子は小さく息を吐く。左腕が満足に使えぬ状況では、自分一人でも魔猿達の襲撃を凌ぐのは難しい。ましてや無力なひなを守りながらとあっては、これはもう死は確定事項という他ない。
 魔猿達を一手に引き受けた銀狼の安否が気になる。
 銀狼殿は無事だろうか、そう思わずにはいられなかった。
 背に庇ったひなのぬくもりと右手に握る崩鏖の確かな存在感が、鬼無子の身を強張らせる緊張を和らげる。

「鬼無子さん、銀狼様、無事に帰ってきますよね」

「大丈夫、銀狼殿なら何でもない顔をして戻られますよ。……静かに」

 消えた筈の魔猿達の気配が一つ二つとまた小屋の周囲を囲み始めている。
 銀狼がやられた、と考えるには、魔猿達が戻ってくるのが早過ぎる。風貌に似合わず温厚な性格の銀狼であるが、聞かされた素性や目を覚ました時に目にした身のこなし、普段は抑制されている妖気の強さを考えれば、如何に猿共の数が多くても、そうやすやすとはやられまい。
 だからこそ、囮になると言う自分を庇って、外に出る銀狼を止めなかったのだ。
 囮になったのは、銀狼だけではなく魔猿達の方も同じと言う事か。
 鬼無子はふっと息を吐いて火を消した。樵小屋の中に暗闇が落ちる。正面から戸を開けては来ないだろうと思うが、鬼無子の視線は正面の戸に、意識は四方に伸ばされていた。
 幼い頃から視線を正面に向けつつほとんど後方までを同時に視界に収める特殊な目視法を学んだ成果で、鬼無子には背後のひなの顔色も見えていた。
 がたっと音を立てて戸が開き、黒い影の様な魔猿の顔が覗く。

「……正面から来たか」

 こけかけるのを堪えて、鬼無子は丹田に意識を集中する。丹田より生じ、増幅された気が、熱と共に徐々に五体へと広がってゆく。
 背にひなを庇う以上、派手には動けない鬼無子は、正面の魔猿の一挙一動、呼吸さえも逃すまいと神経を尖らせる。
 暗闇の中で魔猿の大きな影が動いた。
 鬼無子の背後から、ぶち破った樵小屋の壁の破片と共に。
 正面から堂々と戸を開いて入ってきた魔猿は囮という事だろう。
 自らの背後に迫る魔猿に、鬼無子は気付いているのかいないのか。
 闇夜の中でも輝く一刀は、横一文字に走り、魔猿の腰から上を斬り飛ばした。
かっと小気味よい音を立てて刃が骨を断つ音がひとつ。肉を裂く水っぽい音ではない。肉の奥にある骨を断つ音だ。
 腰を横断した白線はたちまち朱の色に変わり、たちまちのうちにどっと血が噴き出す。
 背のひなを支点にぐるりと回転した鬼無子が、浴びせた鋭い一刀の成果である。襲い掛かった時の勢いを乗せて、斬り飛ばされた魔猿の上半身が、どんと音を立てて天井にぶち当たり、ばしゃばしゃと血が床を叩く。
 鬼無子はぷん、と香る血の臭いにかすかに眼を細め、輪切りにした下半身を蹴った。半分だけとは言え魔猿の重量は細身の鬼無子とそう変わるまい。
 それを無造作な一蹴りで破った壁の向こう側へと大きく蹴り飛ばす脚力、大根でも斬るかの様に魔猿の巨躯を斬る腕力、見た目からは想像もつかぬ剛力の主であった。

「きゅおあああ!」

 仲間を殺された怒りを露わに飛び掛かってくる魔猿を、鬼無子は振り返らなかった。見る見るうちに、瞳の中で大きくなる魔猿の姿にひなは小さな体の内側を恐怖で塗り潰し、思わず目を瞑る。
 大きく広げられた魔猿の両腕が弧を描きなら無防備な鬼無子の背へ。魔猿の腕が歪な満月を描くその真ん中を、一筋の銀光が貫いた。
 左脇を通して背後の魔猿めがけて突いた崩鏖の刀身である。鬼無子の右腕の筋肉が一瞬ぐおっと膨らみ、たっぷりと空気を貯めた肺腑から裂帛の気合いが迸る。

「ぬああああっ!」

 鬼無子は魔猿の眉間を崩鏖の刀身で貫いたまま大きく振りかぶり、壁の破れた所から侵入しようとしていた三匹目の頭を目掛けて叩きつける。
 頭蓋骨ごと脳を串刺しにされ、さらにその脳を崩鏖の霊気によってぐずぐずに破壊された魔猿は即死し、その魔猿を叩きつけられた三匹目も、同胞の頭蓋に頭を割られ、どれほどの衝撃が伝わったものか、丸い目玉が二つ、神経線維を千切りながらぽん、と間抜けな音を立てて飛び出る。
 鼻や耳、口から黒々とした血が流れている姿は、痛みを感じる間もなく死んだことを証明している。
 耳を打つ凄まじい悲鳴と奇声に、ひなは固く瞼を閉じる。空気には血の香りが漂い、小屋の中はひどく荒れた有様だ。つい先程まで、二人と一匹が談笑していた安楽の場所ではなくなっていた。
 あっという間に三匹の仲間が殺された事に怒ったか、あるいは焦りを募らせたのか、魔猿達の妖気が帯びる熱が一気に熱量を増す。
 敏感にそれを察知した鬼無子の肌には、大粒の汗の滴が浮き上がりはじめる。小屋が壊された事で沁み込んだ銀狼の妖気が霧散し、魔猿達の妖気と殺気が容赦なく鬼無子とひなの心身を打つ。
 いや、そればかりかぐらぐらと樵小屋が揺れ始め、ぱらぱらと天井から木屑が落ちてくる。

「ここを壊す気かっ」

 魔猿達の怪力は身に染みて理解している。老いた樵が残していった小屋は、しっかりとした造りではあるが、この世の闇から生じた魔性の猿達に数で来られては、あっという間に壊されてしまう。
 このまま小屋ごと潰されるのを待つか、外に出て魔猿達と斬り結ぶか。
 自分だけなら小屋が潰れても身を庇う事は出来るし、外に出る選択肢を選ぶのも悪くはない。しかし、左腕は満足に動かず、守らねばならぬ少女もいる。鬼無子は大きく選択肢と動きを拘束されていた。
 わずかな迷いを抱く時間は無く、鬼無子は選んだ。間違っているのか正しいのか、考える暇さえなかった。
 崩鏖を口に咥え、右腕にひなの腰を抱いて外に弾丸の勢いで飛び出る。空が目に見えぬ魔猿達の妖気で埋まり、大地は月明かりに落ちる影によって埋まり、夜気は無数の魔猿達の体から発せられる獣臭で満ちている。
 きょああ、くほう、と幾つもの殺気と食欲に満ちた奇声が広場を震わせた。
 口に咥えた刀身を右手に持ちかえ、切っ先は地面へと向ける。ひなは、鬼無子の腰に縋りつくようにしている。
 再び襲い掛かってくるかと息を呑む鬼無子に向けて、銀狼に放たれたのと同じ毒塗りの木の槍、石つぶてが一気に投げられた。ひなを守る以上は自由に動けぬ鬼無子に対し、実に有効な戦術であった。
 鬼無子は崩鏖を地面に突き立てて、自分の羽織を脱いでそれを思い切り振りまわした。羽織はすぐさま生臭い大気をかき乱す臙脂色の旋風となる。
 四方木家に代々伝えられていた霊刀とは異なり、長旅に耐えてはいるがただの布切れの筈の羽織は、鬼無子の手に内にある時、鋼の硬度を持った布となって、飛来する石つぶてや木の凶器のことごとくを叩き落す。
 のみならず、布のうねりに巻き込んだ石つぶてと木の槍や矢を、鬼無子は周囲の闇へと投げ返した。魔猿達が殺気を隠さず、お前の肉を食うぞ、おれは骨をもらう、ではおれは右の目玉だと騒ぎ立てている闇へ。
 いくつかのくぐもった音と、ぐちゃりと水気をたっぷり含んだものが潰れる音が聞こえた。咄嗟の反撃は多少なりとも成果を挙げたようである。
 飛得物の連続攻撃が止んだ一瞬の隙を、鬼無子は逃さなかった。こうなれば森の彼方へ消えた銀狼と合流し血路を開くしか、生き残る道は見出せない。

「ひな、某に思い切り抱きつけ、この場は」

「鬼無子さん、上!」

「っ!」

 自身の影を、はるかに巨大な影が塗り潰している事を、鬼無子はひなの叫びで悟った。猿らしい、しかし猿にはあり得ぬ跳躍力で宙を舞った魔猿が、鬼無子の頭上から月を背に舞い降りて来た。
 鬼無子がその猿の歪んだ口元を見るのは二度目だった。人間ではない癖に、人間によく似た邪悪な笑み。その笑みを見せられると、人間もまたこいつと同じような邪悪さを持っていると感じるから、鬼無子は不愉快な思いに駆られるのかもしれない。
 白い魔猿の名前を、鬼無子は銀狼から聞かされていた。

「白猿王!」

「きょきゃきゃきゃきゃきゃ、あの時の侍かっ!」

 ああ、銀狼が静かなる怒りと殺意と共に追った筈の白猿王が、彼の目を晦まして姿を消したのが、こうして鬼無子とひなを襲う為だったとは!
 この老いた賢しい猿は、鬼無子とひなが銀狼にとって弱点足り得ると知っていたのだ。
 鬼無子の手は大地に突き刺した崩鏖の柄を握る。
 全てを押し流す波濤の迫力でもって襲い来る白い災いへと、崩鏖は地面から美しい死の弧月を描きながら挑んだ。
 ぐしゅ、と濡れた音が一つ。木枯らしに吹き散らされた最後の一葉の様に、鬼無子の体が宙を飛んで幹に激突してようやく止まった。
 脊椎損傷、内臓破裂、加えて肋骨の全てが折れた、と言った所か。いや、そもそも白猿王の拳の一撃を受けた頭が、熟れすぎた柿のように潰れなかったのは奇跡といえた。
 うつ伏せに倒れかける体を、鬼無子は崩鏖を杖代わりにする事でかろうじて支える。紅色の唇からは夥しい量の血が吐き出され、地面と鬼無子の間を赤い流れが繋ぐ。地面を濡らす赤いものは際限を知らぬように溢れ続けた。
 立つ事もままならぬ瀕死の鬼無子ではあったが、およそ人間にはあり得ぬ耐久力だ。白猿王の拳を受けて死なぬ人間は、決して人間ではあり得ない。
 白猿王は自分の顎と胸元を探った。じっとりと白い毛を黒みがかった赤い液体がどろりと濡らし始めている。拳の一撃を当てる寸前、月光を燦然と跳ね返しつつ白猿王の皮と肉に触れた崩鏖の一刀が残した縦一文字の傷であった。
 さほど深い傷ではなかったが、一宗派の開祖が刻んだという退魔の文字と霊力は、じくじくと傷痕から沁み込み始め、白猿王の肉を苛烈に焼いている。血は止まるだろうが、傷痕は生涯残るかもしれない。
 指先に付着した生暖かい自分の血を一嘗めし、白猿王は鬼無子へ興味深げな視線を送った。

「ほうほほう。侍、お前、ただの人間じゃないなあ? かといって妖魔でもないなぁ、混じりものか。混じりものだな? 人間の赤い血の中に妖魔の黒い血が流れる半端者。きゃきゃきゃ、きゃきゃきゃ、これは愉快。天外孤独の妖魔が、人間にも妖魔にも馴染めぬ嫌われ者を拾ったのか。うききき、お似合いだなぁ、半端者と孤独な奴どうし、仲良く今宵死ぬがよいさあ」

 白猿王が指摘した妖魔の黒い血と人間の赤い血を持つ妖婚の血脈。
それが鬼無子の秘密か。
 魔猿の巨躯を木の枝のよう軽々と振り回し華奢な腕の一振りで、分厚い筋肉の鎧を纏う肉体を容易く両断する膂力、夜の闇の中でも月と星の灯りさえあれば真昼の様に見通す視力、白猿王の一撃を受けて死なぬ肉体の耐久力、それらはすべてその身に宿る妖魔の血によるものか。
 自らの血に白皙の美貌を朱に染めて凄艶なものにした鬼無子は、いつ死の国へ旅立ってもおかしくない様子であったが、その瞳に宿っていたのは衰える事を知らず燃え盛る闘争の炎であった。
 鬼無子の耳にはひなを任せると告げた銀狼の、信頼に満ちた声が何度も反響していた。
 黒く濡れた瞳が吠え猛っている。それに応えねばならぬ、この命に換えても、と。

「きひ、貴様には随分殺されたが、これで留飲が下がるというものよ。さて、童、お前さんには来てもらおうかい。銀色めは、どうもお前さんに執心らしいじゃないかぇ」

 ひなの首など簡単にもげる大きな白猿王の手が伸び、笑う膝を叱咤して立ち上がろうとする鬼無子には、魔猿達の影が無数に踊り掛かった。鬼無子の姿が、どこか好色な響きを交えた咆哮を挙げる魔猿達の影の中に消えるのに、さしたる時間は要らなかった。



 おかしい。
 その考えが先程から銀狼の思考の中に明滅していた。
 何が、と言えば森の中に仕掛けられた罠や襲い来る魔猿達にはおかしな様子はない。強いて言えば、白猿王が姿を消して、何もせぬままであると言う事がおかしいと感じる源だろうか。
 あの邪悪で賢しい猿族の長が、この程度の策で自分へ襲い掛かるだろうか。
 十匹目の魔猿の頸動脈を切り裂き、血飛沫が舞うよりも早くその懐から飛び去った銀狼は、一旦走るのをやめ、周囲の闇を見回す。
 銀狼が走るのを止めたのに合わせて、魔猿達も息を潜めて身を隠し、銀狼の様子を伺っている。魔猿達の無数の視線を浴びつつも銀狼に臆した様子は欠片もないが、自分が取った行動が正しいものではなかったのではないかという疑念が、大きく鎌首をもたげている。
 だがいくら考えても己の胸に湧いた疑念を払う答えは見つからなかった。血の巡りが悪い自分の頭を、銀狼は強く呪った。
 結局、周囲にいる魔猿の数を零にする事しか思いつかない。手下どもが皆死ねば、白猿王も姿を見せるだろうと考えたのだ。
 鞭のようにしなる枝の特性を利用した即席の投石機から、斜めに断たれた木の枝が突き出した泥玉や、細かく割いた木の枝というよりは針が次々と飛来する。
 その全ては銀狼が残した残像を貫いたが、回避した銀狼の姿を捉えた魔猿達が、薄汚れた鉤状の爪、丸太の様な腕を各々振り上げて踊り掛かった。中には石斧や棍棒といった極めて原始的な武器を手にしている者もいる。
 その程度の知恵は、白猿王に比べれば年若い者達にも備わっているようだが、銀狼にとってはさしたる問題とはいえなかった。
 不用意に姿を見せる魔猿共の間を縫って銀狼の爪が閃く度、黒血が噴水のように噴き出て森の木々と草花を朱に染めて行く。妖気と怨念がたっぷりと込められた血を浴びたそれらは、その場で腐れ果てて行く。
 妖魔の血ほど正常な生命にとって毒となるものは他にあるまい。
 次々と死骸になって大地に転がる魔猿共へ、無駄に命を散らす、と銀狼は淡々とした感想を抱くきりであった。
 妖哭山の内側で生じた妖魔としては異例な事に、己以外の生命への無制限の憎悪を持たぬ銀狼であったが、ひとたび敵とみなした時、冷酷と言ってもよいほど非情となる性質を持っていた。
 敵とみなすまでは極めて寛容な態度を取るし、普通に――というのもおかしいが――一度や二度命を狙われた位なら、特に気にしないほどだ。
 白猿王や先に対峙した紅牙にしても過去に一度は命を狙われたにもかかわらず、あちらから牙を剥いてこない限りは、銀狼の方から戦いを挑む事はないだろう。
 しかし、ひなと暮らし始めた事で明確な変化が、銀狼の心に一つの厳然たる掟となって生まれていた。
 すなわち、ひなを傷つけようとするものには報いを。
 その命を狙うのなら、狙った者の命を。
 死の対価は唯一死のみ。
 ひなと出会うまで、ほとんど空っぽな心と幾ばくかの知識しか持っていなかった銀狼にとって、ひなと出会ってからの日々はそれまでの日常が色褪せて見えるほどに輝いていた。
 むしろひなと出会ってからの日々からこそが本当に生きていると言えるものだった。例えて言うなら鉛と黄金、石と玉、いや、もはや比較するものがない位に、圧倒的に後者が輝きを放っている。
 だから、その日々を脅かし、奪わんとする目の前の猿共への情けや容赦は、銀狼の心から影も形もなく消え去っている。
 だから、背を見せて逃げようとする魔猿へと襲いかかり、広いが恐怖に怯えるその背中に爪を立てても、銀狼には何の感慨もなかった。
 魔猿達は最後にはくぐもった叫びをあげつつ、その全てが絶命していた。樵小屋を取り囲んでいた十七匹に加えて、途中で新たに姿を見せた六匹を含めた二十三匹の魔猿達がもの言わぬ躯となって、月光に白く照らされている。
 喉笛をぱっくりと切り裂かれた者、頭蓋ごと脳を割られて脳漿と血をまき散らしている者、心の臓に届くまで深く胸部を切り裂かれている者、腹部を割られ、内圧によって血塗られた腸が飛び出ている者。
 酸鼻なる光景は、白い月の紗幕を被せてもなお赤々と世界を濡らし、呪っているかの様。それでも月は光を注ぎ続ける。
 親が子に向ける無償の愛情の様に。
 むごたらしい死の世界の中心に、銀色の獣がいたから。
 人間の兵士では五倍の数を持ってしてようやく互角の魔猿達を全て屠ってなお、銀狼には傷一つ付いていない。牙も、爪も、毛にも血の汚れは見受けられなかった。銀の装いには赤の斑は無く、その美しさは変わらぬままである。自ら流した血は一滴もなく、魔猿達の返り血もまた一滴たりとも浴びてはいないのだ。
 鬼無子が誉め称えた様に、誰も踏みしめていない処女雪が巨大な狼の形に集まって、月夜をおのずから照らし出すように輝いているかのよう。
 この銀色の狼は、太陽や月が天空が存在しない真性の暗闇の底へと落とされても、変わらぬ清澄な輝きを放つに違いない。
 周囲はこの場所にだけ雨雲が血の雨を降らしたように赤く染まり、時折絶命した魔猿達の死肉がぴくりぴくりと蠢き醜悪極まりない惨状であった。その醜さの中でなお銀狼の超自然の結晶のような美しさは際立っている。
 一つの例外もなく惨殺された魔猿達は、血濡れの酸鼻地獄の中に立つ銀狼を照らす為に、月が仕組んだ舞台劇の犠牲者達だったのかもしれない。
 銀狼の鼻先が、ついと背後を振り向いた。
 鼻や口の中まで血に染まりそうな空気の中に、安らぎを思える匂いが混じっている。銀狼の顔には紛れもない驚愕の色が浮かんでいる。その匂いが白猿王と共にある事が、銀狼の愚かさを何よりも雄弁に物語っている。
 殺すと決めた相手と守ると決めた相手、そして銀狼にとっての宝を託した相手の匂いが混ざっている。

「ひな、鬼無子……」

 口蓋を吊り上げ苛立ちと共に真珠色の牙が剥き出しになる。銀狼の口から目から体から、′憤怒に煽られた妖気がおどろおどろしく噴き出す。触れれば小動物どころか人間でも簡単に気死し、意識を保てても確実に日常生活に支障をきたす後遺症を患うのは間違いない凶悪さであった。
 いまほど濃密に敵意に満ちた妖気を発するのは、銀狼にとって初めての事であったろう。抑制するどころか次から次へと、汲めど尽きぬ泉のように溢れだしている。
 胸中の自己への怒りや嫌悪、後悔を秒瞬毎に強めながら、銀狼は地を蹴った。ひなと鬼無子、二人の身を案じつつ。
 その背中は、自らの手で殺したばかりの魔猿共の事など、もう忘れたと告げている。

<続>



[19828] その十三 名前
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/09/11 21:04
その十三 名前

白猿王はひなと鬼無子の匂いを纏いながらあっという間に近づいて来て、銀狼が走り出してからすぐに出くわした。
 白猿王が樵小屋に向かったと気付く事無く、銀狼が魔猿達を一方的に殺していた森林の一角である。
 あたりの樹木や地面には戦いの名残がむざむざと刻まれている。
 まるで巨人の手の様に夜空へ広がっている太い枝には、真っ赤な腸の管がぶら下がり、胴と泣き別れになり苦痛をむざむざと刻んでいる魔猿の頭部、根元から骨ごめに断たれた四肢、頭頂から股間までを真っ二つに裂かれた死体がその下で、影に隠れるように転がっている。
 普段、温厚な銀狼の姿を知るひなや鬼無子からは想像もつかぬ無慈悲な所業である。
 それは、白猿王にとっても同じようで、足を止めて銀狼を待つ白猿王は、辺りに転がり、無様にぶら下がっている手下共の死骸をしげしげと見回している。
 妖哭山に産まれたのが間違いの様な性質の銀狼が、よもやここまで残忍な行いをして見せるとは。意外に思いながら、ますます銀狼が狼である事が惜しまれた。
 相手に恐怖を刻みこむ圧倒的な暴力と敵対する者に一切の容赦をせぬ非情な精神。なんと素晴らしいものを持っている事か。

「だというのに死にかけの侍を拾って助け、こんな人間の子供を養うとはなぁ。極端な奴よ。どうしてそんなに怒るのか、まったく理解できんな、銀色の」

 そう呟く白猿王の瞳の先には、闇の中からゆらりと姿を見せた銀狼がいた。隠さぬ妖気と怒気、憎悪を、向こう側が透けて見える薄衣のように纏っている。
 暢気な所のあるこの狼には似つかわしくない黒々とした感情が、大気をかき乱し氷雪を孕む吹雪の様に、白猿王へと吹きつけている。
 白猿王は物理的な感触を伴って全身を打つ暗黒の思念に、思わず左手で顔面を庇いながら、周囲の気温の低下を感じていた。
 妖魔としての本性を剥きだしにし、悪意を増した妖気を纏う銀狼は、幽冥の境で燃える人魂のような妖美さで輝いている。
 その妖しくも美しい獣の妖気が、周囲の大気を狂わせ、物理法則に些細な異常を生じさせて寒冷化現象を招いているのだ。白猿王の吐く息は霜が降りた様に白く濁っている。
 銀狼の負の感情の嵐もさることながら、辺り一帯を濃霧の如く飲み込んでいる妖気に、さしもの白猿王もかすかに気圧されている。
 ふうむ、と顎の辺りを左手で掻いていた。血はいまも滴って下顎から胸元までを赤く濡らしている。
 特に鬼無子の強い思念を受けた崩鏖の霊気は、焼き鏝を当てられた様な苦痛をいまも白猿王に与えている。その程度の痛みなど、行動に何の支障もないが、煩わしさはある。
 多少、いや、大幅に銀狼の力と、死に損ないの筈の侍の執念を、読み誤ったと認めざるを得なかった。
 白猿王と対峙する銀狼は、白猿王の右手に視線を吸い寄せられた。ひなの腕くらい太い指には、ぐったりと脱力したひなの小さな体が握られている。白猿王の妖気に打たれて、ひなは気を失っている様だった。
 白猿王の手の中のひなはひどく簡単に壊れそうで、その価値を知らぬ暴漢が硝子細工をぞんざいに扱っている様に見える。

「白猿王」

 銀狼の声は穏やかであった。衰えぬ怒りの炎に反比例し、声は老いた父を労わる温厚な息子のようだった。溜め込んだ怒りを吐き出す瞬間を、じっと堪えているからこその穏やかな声なのだろう。

「森は自分達の居場所などとよくも大言を吐けたものだな。貴様の同族は、そら、残らず私に殺されたぞ」

 優しい声でなんと無惨な事を口にするのだろうか。しかし、それを聞いた白猿王は笑った。愉快な事を耳にした時の笑みである。

「くきき、そうだな、森はお前の世界でもあったようだなぁ。しかし、お前の目を晦まして侍に止めを刺して、童を攫う位は出来たぞ? いやいや、お前もようやく妖魔らしい所を見せたからなあ、この童がどうなっても構わぬと思っておるかもしれん。さて、どうだろうかなあ?」

 どうなっても構わぬかもしれぬ少女を、白猿王は高々と掲げる。それがどれほどの効果を生むか、十分に理解しているからこその行為である。白猿王の凶手にあるひなの姿を見て、銀狼は大きく動揺に揺れる。
 先ほどまで噴出していた妖気が、瞬く間もなくあっという間に霧散した。ひなを人質にした白猿王が何かの罠かと、思わず疑ったほどである。三角形の耳がぺたんと寝て、銀狼は狼面でもはっきりと分かるほど迷いを浮かべている。
 躊躇や迷いを白猿王に見せる事は悪手以外のなにものでもなかったが、そうと分かってなお銀狼は千々に乱れる心を抑える事が出来なかった。ましてや侍に止めを刺した――鬼無子を殺した、と白猿王は口にしている。
 ひなを託した、あの思い込みの激しい所があるが、気さくな侍が死んだ。
 囮になると死を覚悟した声で言おうとしたあの美貌の剣士を助ける為にも、自分は小屋の外に出て白猿王達と戦う事を決意したはずなのに。
 それなのに鬼無子は殺されてしまったのか、死んでしまったというのか。
 ならそれは、判断を誤った自分のせいではないか。自分が鬼無子を殺してしまったようなものではないか。
 もう二度と鬼無子のきっぷの良い笑い声を耳にする事はないということか。
少し遠慮がちに頬を赤に染めつつ、それでもしっかりとお代りを頼む姿を見る事はないと言う事か。
 自分と、ひなと、鬼無子と、笑いの絶えぬあの暖かで居心地の良い世界は、二度と元には戻らないと言う事か、
 そう思うと、銀狼は急に大地が崩れ去ってしまった様な、言葉では表し切れない喪失感に襲われる。彼にとって、それは初めて経験する途方もない恐怖を伴う感覚で、ひどく精神の水面を嵐の夜の様に荒らして、正常な判断ができない状態に追い込まれていた。
 そして、いままた白猿王の手の中で、ひなが命の危機に晒されている。
 鬼無子に続き、ひなまで自分が判断を誤って殺してしまったら?
 その考えは、白猿王が意図した以上の衝撃で銀狼の精神を揺さぶり、脅迫した方の白猿王が逆に戸惑うほどの狼狽となって表出したのである。
 苦悩する銀狼が歯の軋らせる音は、白猿王の耳にも届いた。
 白猿王はあまりの出来事に、大きく肩を震わせている。
 彼にはまったく理解できない銀狼の行動に、込み上げてくる嘲笑を抑えられぬのだ。もしや、とは思い取った念の為の策であったが、これほど効果を上げるとは。

「……く、ぐふ、ぐははは、ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ、き、貴様、本気で、くくくくっ。こんなちっぽけな人間の子供の為に、かかかかか、動けぬのか。何と言う事だ。何と言う馬鹿だ。何と言う阿呆だ。うははははははは、こ、このよう、な、奴だったとは。き、きききききき」

 白猿王の憚るもののない嘲りの笑いを、銀狼は何もできずに聞く他なかった。銀狼にとって幸いだったのは、白猿王の大哄笑を間近で浴びせられても、ひなが目を覚まさなかった事だ。
 眼を覚ましてしまったら、一途に銀狼を慕うこのちっぽけな少女は、自分が銀狼の枷になっている事を理解し、深く心を傷つけてしまうに違いない。だから、銀狼はひなが目を覚まさないでくれと願っていた。自分が殺される場面など見せたくはなかったから。

「まあ、そんな風に生まれついた己を呪うがよいさぁ、銀色の。さあ、お前達、殺されたからには殺し返すがよいぞぉおおお」

 お前達、とはまだ他の魔猿達が潜んでいたのかと考えた銀狼の周囲で、白っぽい薄靄のようなものが次々と立ち上りはじめる。
 ぐるぐると渦を巻いて一定の形に留まらぬかと思えば、それらは徐々に蠢きながら形を持ちはじめ、偽りの無い驚きに目を見張る銀狼の瞳の中で、息絶えた筈の魔猿共となった。
 その目からは尽き果てぬ怨念が流させる血の涙が滝となって流れ、口からは己らを殺した銀狼への呪いが無限に溢れている。かつて銀狼がひなを背に乗せて山の内側の森へ赴いた時、目にしたおぞましい光景の再現であった。
 しかし、銀狼達がいるのは山の外側だ。同じ現象が発生するには地理的・霊的な条件から起こり得ぬ筈であった。だからこその銀狼の驚きであった。ましてやあくまで怨念にすぎぬ筈の魔猿の死霊達が、確かな質感を持って銀狼の周囲を囲むとあっては。
 死の淵から再び姿を見せた魔猿の一匹の足元で、踏みしめられた枝がぱきっと音を立てて折れる。

「肉の体なのか?」

「くかかか、こやつらは死してなおわしの手足よ。こやつらの怨念とわしの妖気が混ざり合
ってこのように蘇るのじゃ。わしが生きておる限りわしの兵が絶える事はない」

「ならば、なぜ他の猿族に敗れた? 兵が尽きぬのであれば貴様が破れる道理はない」

 二十三匹に及ぶ魔猿達の死霊とも生霊とも呼べる怨念達は、いまにも銀狼へと襲いかからんばかりに牙を剥き、青白い吐息を吐きながら牙を剥いている。自分達を惨たらしく殺した儀狼への恐怖はまるでなく、代わりに無限の恨みと憎悪で満身を満たし、白猿王の許しをひたすらに待っている。

「どこで知ったのやら……。そう、この術も完璧ではない。ゆえにこうして貴様の首を取りに来る羽目になったのよ。わしの妖気の届く範囲に留まるし、こやつらを冥府から呼び戻していられる時間にも限りがある。それにわし自身に術を施す事は出来ぬ」

 つまり、白猿王が死ねば、この術は解けると言う事だ。

「……」

「おっと、動くなよ? 時間に限りがあると言っても、夜が明けるまでは持つ」

 白猿王の言葉に、一か八か全力の疾走による一撃必殺を試みようと、かすかに四肢に力を込めた銀狼の動きを見逃さず、白猿王が銀狼にも分かる様にひなを握る右手に力を込める。白猿王にとってはほんのわずかな力であっても、ひなを握りつぶすには十分な圧力となる。
 たったそれだけの動作で、銀狼はもう動く事も出来ない。
 銀狼は苦し紛れに無意味と知りつつも、時間を稼ぐために話を続けた。

「いまさらになってなぜ私の命を狙う? 群れの雌どもを守り、子をなして死んだ分を補うべきであろう」

「それもそうだ。だが、お前さんを殺す事にはそれ以上の価値がある。強い妖魔の血肉はそれを食らったものの力を大幅に高める。特にお前さんや大狼の様に、純度の高い天地万物の気によって血肉を構成する妖魔は格別だ。徳を積んだ高僧や天孫の血肉と比べても遜色はない」

「私一匹を食った所でどうにかなるものではあるまい」

「そうかね? それにお前さんを食えば二匹分の血肉を食った事になる」

「?」

 二匹分とは、一体何を言っているのか見当のつかない銀狼の様子を、白猿公はとぼけていると判断したようだ。

「おとぼけでないよ。大狼を殺したのはお前さんだ。無論、大狼を食ったのだろう? 先程のわしの骨さえも凍らせる凄まじい妖気は、そうでもなければありえぬよ。大狼の奴は暴虐の限りを尽くしたので、蛇や狼、虎共もいつか首を落とし心臓を抉り出す機会を狙っておった。ついでにその血肉を食って力を高めるのをな。このわしのように、報復よりもそちらの方が本命だったかもしれん。みすみすお前さんに機会を掻っ攫われてしまったと知った時はぐずぐずとしていた己を嘆いたが、災い転じて福となす、大狼よりも手強いかと思ったお前さんがこの体たらくとは」

 銀狼が大狼を殺して食べたというのは白猿王の思い違いなのだが、銀狼はそれを言っても白猿王は信じないだろうと口を噤んだ。実際には銀狼に敗れた大狼は、銀狼の目の前で虹色の微細な光の粒子となって山に還った。


「さああ、お喋りはここまでだよう。お前さん、そろそろ死に時さね」
 
 白猿王が二度目の死刑宣告を行った。大きく振りかぶった左腕を、断頭台の刃の様に振り下ろし、控えていた魔猿達が一挙に踊り掛かる。咄嗟に襲い来る魔猿共の腕や牙を躱そうと、体を沈めた銀狼を白猿王の声と右手が止めた。
 正確には白猿王の手の中に囚われたひなの姿が。
 息を飲んで動く事の出来なくなった銀狼の体へ、喜々として怨念と妖気で形作られた青白い牙と爪を打ちこんだ。反射的に体に妖気を通して硬度を跳ね上げようとした銀狼へ、白猿王が実に楽しげに言った。いや、命令したと言うべきか。

「ああ、妖気も力も込めるな。自分の巣に戻った時の様に、この童と共に居る時の様に穏やかな気持ちになって、お前が殺した連中の好きにさせろよぅ」

 それはなんと無惨で非情な命令であったろうか。
 たっぷりと貯め込んだ怨念の放出先を見つけ、銀狼の生命を奪う事に喝采を挙げている怨霊達に身を委ねろとは。抵抗するどころか、自分の肉を貫き切り裂く牙と爪を黙って受け入れ、肉を咀嚼され、血を啜られ、骨を噛み砕かれても何もするなとは。
 ぎしりと噛み合わせた銀狼の牙の奥から、押し殺した苦鳴が零れた。
 振り下ろされた魔猿の腕が銀狼の背を打ち、鈍器が巨大な生の肉を打つくぐもった音が絶えず、ずぶりずぶりと広げられた五指が容赦なく銀狼の毛皮を貫いて体内の筋肉や臓腑を触れまわっている。
 それでいながら膝を曲げる事もなくしっかと肢を伸ばし、何匹もの魔猿を体に纏わりつかせながら立っているのは、銀狼ならではの精神力と耐久力といえた。

「ぐぅ……」

 さすかに銀狼といえども耐え難いと見え、砕けんばかりの力強さで噛み合わせた牙からは赤い血流が次々と溢れだし、純銀の毛に覆われた口元を真っ赤に染める。 口の端には次々と血泡が生じては弾けて、元から血の臭いに満たされていた森の夜気に銀狼の血の匂いが加わった。
 きゃあきゃあ、と残忍極まりない喜びに満ちた叫び声を上げて銀狼の肉体を削っている怨霊達には目もくれず、この上ない芳香を放つ銀狼の血の匂いに、ひくひくと鼻を動かして思い切り深く肺を満たすまで吸い込んだ。
 何と心躍る匂いである事か。
 舌の上で踊らせれば、想像もつかぬコクと深みのある味わいが楽しめるに違いない。
 喉を通り胃の腑に染み渡って行く時は、紛れもない至福の瞬間となるだろう。
 牙と牙の間で引き裂き、潰れてゆく肉の歯応えはこれまで経験した事のないものに違いない。
 あの銀色の獣の毛一本、血一滴、肉一片残さず食い尽くせば、この体にどれだけの力が溢れる事だろう!

「く、くひひ、くひひひひひひひひっ、食うぞ、食うぞ、啜るぞ、しゃぶるぞ、食い尽くしてやるぞ!」

 性欲にも似た食欲に突き動かされて、白猿王は高らかに笑う。夜に活発的に行動する山の獣や、外側に存在する妖魔達、静寂を破られて怯えていた木々のみならず、猿の妖魔の長の悪魔的な狂笑に、妖哭山そのものが震えているかのよう。
 その狂ったような笑い声に、白猿王の手に握られていたひながようやく目を覚ました。かすかに瞼が震えはじめ、やがて稜線が白み始めるのに似て、瞼の奥の瞳が覗き始める、
 銀狼のものとは全く異なる邪悪な妖気に打たれたひなの意識が目を覚ましたのは、偶然を通り越して奇跡と言ってよかった。
 常人では到底耐えられぬほとんど瘴気といってよい邪悪な気配だ。白猿王の気配の欠片にでも触れれば瞬く間に細胞が衰弱し、その場で昏倒して二度と醒めぬ眠りの世界の住人となってしまう。
 銀狼と四六時中行動を共にしていた事で、妖気そのものに対する耐性ができていたのかもしれない。
 熟睡の状態から目を覚ます気だるさとは違い、ひどい頭痛と耳の中で鐘を打ち鳴らされている様な耳鳴りと共に、ひなは開いた目に銀狼の姿を映した。ひながこの世で最も美しいと心から感心驚嘆した銀の獣に、青白く仄光る魔猿共が食らいついている。
 銀と青白いものとの間で滴っている赤いもの何か、理解したひなは喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
 血、血だ。血を、銀狼様が流している。
 すぐにでも駆け寄って、銀狼様の体に拳を叩きつけ、牙を突き立て、爪で引き裂いている猿の妖魔達を引き剥がして助けなければ。
 実際には、ひなの百倍も何百倍もの腕力を持つ魔猿達相手では、何もできなかっただろう。それを聡明なひなも理解はしているだろう。だが、出来る出来ないの問題ではなく、ひなはそうしなければならないという衝動に突き動かされていた。
 銀狼様を助けたい。銀狼様に救ってもらった命と心、銀狼様を助けられるのならいくらでも捧げて構わない。
 だが痛切な願いに反し、ひなは何もできなかった。駆け寄ろうと動かした体は鋼の拘束をされて、わずかなりとも銀狼に近づく事は出来なかった。

「おや、目を覚ましたか」

 どろりと耳の奥に粘っこく残る様な悪意に満ち満ちた声に、ひなが振りかえる。そう遠くない所に、初めて目にする白く巨大な猿が、確かに笑みと分かる表情でひなをしげしげと見つめている。
 鬼無子が決死の思いで斬り伏せていた黒い大猿達より一回りも二回りも大きく、はるかに豊かな知性を持っている事が分かる。その知性が、決して理知的であるとか、道徳を解しているとか、善性へ結びついているわけではない事も。

「見てみい。銀色のが血に塗れておる。月光が毛皮に変わった様に眩いあやつの体が、自分の体の中を滔々と流れる血で濡らしておるぞい。くちゃくちゃと音が聞こえるな? ごぶごぶと飲む音が聞こえるな? ぶちぶちと千切れる音が聞こえるな? 奴の肉を咀嚼する音、奴の血潮を飲む音、奴の皮を毛を引き千切る音よ。おうおう、泣いておるの、悲しんでおるの、怒っておるの。ぐげげげげげげ」

 ひなの目には白猿王が言う様に悲しみと怒りが強く輝きを放ち、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちている。小さな口を囲む肉造りの薄い唇はきつく結ばれて、この少女のどこにあるのかと驚く力強さで、白猿王の瞳を射抜くように見つめていた。

「ぐぶ、ぐぶふふふふ、良い目をした童じゃのう。そういう目をした子供は美味いと相場が決まっておるでのい。わしの腹の中で、銀色のと会うがよかろうて。わしの慈悲という奴だぁ」

「白猿王……」

「銀狼様!」

「おや?」

 全身の肉を毟られ食われつつも、震え一つない銀狼の声に、ひなは胸の張り裂けそうな悲しい声を、白猿王はまだ死なんのかと意外そうな声を出す。

「私を食いたいと言うのなら好きにしろ。しかし、ひなには手を出すな。でなくば、私が死した後、我が魂が如何なる呪いを貴様に与えるかこの私にも分からぬ。死霊を冥府より招く貴様なら、それがどれほど恐ろしい事か分かるであろうな?」

 銀狼の言葉に、それまで余裕をたっぷりと全身に満たしていた白猿王の顔が、たちまちの内に固まる。銀狼ほどの妖魔の魂が肉の殻という制約から解き放たれ、自由になって牙を剥いた時、白猿王の一族は今度こそ根絶やしになるだろう。
 妖哭山の持つ妖気を食らい、呪い殺した妖魔達の魂を食らい、際限なく憎悪と怨嗟と断末魔の叫びを飲み込んで、銀狼の魂は大狼以上の暴虐をこの山にもたらすだろう。
 白猿王は、一瞬前まで圧倒的な優位に立っていた筈の自分の立場が、崖の上にかかった蜘蛛の糸の上に立っている様な危ういものに変わった事に気付き、牙を軋らせる。
 人質は、札の切り方次第で己の首を絞める鬼札だ。
 銀狼の言葉は人質と言う手段の欠点を痛く突いていた。

「いいよいいよ、お前さんが黙って食われて、山に還るなら、この童は生かしておいてやろう。もっとも、その後どうなるかまでは知った事ではないぞ」

「ひなが無事なら、それでよい」

 白猿王は、銀狼の顔に浮かんだものを心底理解できぬと首を捻った。
 銀狼は笑っていた。死への恐怖からくる自暴自棄の為ではない。体も口も血に濡れた狼は、なによりも大切に思う少女に、最後は笑った顔を見ていて欲しかったのかもしれない。

「っ」

 自分に微笑みかける銀狼の姿に、ぼろぼろと涙を流して、ひなは自分の体を握りしめる白猿王の指へ歯を立てた。白猿王にとっては蚊に刺されたほどの痛痒も感じぬささやかな、それこそ痛みにもならぬ刺激であったが、かすかな苛立ちを持ってひなへ注意を向けた。
 この時、白猿王の注意は銀狼から離れた。まさに千慮の一失。
 故に銀狼が白猿王の背後に何かを見つけ、白猿王の注意が逸れた一瞬に四肢の筋肉を爆発させてひと蹴りで最高速度へと達し、体中に魔猿の怨霊を食らい付かせたまま、襲い掛かってくるのに反応するのが遅れた。

「ぐるぅああああっ!!!!!」

 魔猿の音量の群れに食らい付かれて青白い小山と化した様な銀狼は、それでも疾風の速度を維持し、白猿王の頸動脈を狙って牙を唸らせる。
 完全に不意を突かれたとはいえ、流石に妖魔の一族の長とあって白猿王は反応し、銀狼の牙を咄嗟に振り上げた左腕で受けた。
 丸太の様な白猿王の左腕を、銀狼の顎は霞が形を成した者の様に、あっさりと噛み切る。
 銀狼は噛み切った白猿王の左腕を吐き捨てる。どぼっという、くぐもった重い音と共に黒い噴水が、白猿王の左腕の断面から溢れる。大量の血を流しつつも、怒りに顔を赤黒く染めた白猿王は、怒りに任せてひなを握りしめている右腕に力を込めた。

「この童がどうなってもよいのかあっ!?」

 白猿王の指に歯を立てていたひなは、全身の骨をぎしりと軋らせる圧力に、肺に溜めた息を全て吐き出して、声なき悲鳴を上げた。
 銀狼はたじろぐかと思われたが、頭を下方に傾げ、跳躍の姿勢を取った。ひなを見捨てるのか、銀狼よ!

「きい、貴様ぁ!」

 あまりに脆く儚い生命に過ぎないひなが、白猿王の手の中でもの言わぬ小さな肉の塊に変わるその刹那、白猿王の背後から飛来した流星が、その右肘を貫き白い光の球が生じたと見るや、ひなを掴んだ右腕が宙を舞って地面に落ちる。
 白猿王の右腕と共に地面に落ちたのは、一振りの刀であった。
 三尺二寸三寸の刀身にびしりと文字が刻みこまれたその刀は、間違いなく崩鏖。刀身に宿る霊力によって青い炎に燃えているように崩鏖は輝いている。この霊力によって、貫いた白猿王の右肘を吹き飛ばしたのだ。
 驚きに身を強張らせる白猿王のはるか遠い背後には、一人の女剣士の姿があった。
 鬼無子だ。銀狼が白猿王の背後に見つけたのは、闇の中を疾駆する鬼無子の姿だったのだ。
 しかし、これが鬼無子か。
 死肉を漁る禿鷹の様に群がってきた魔猿達との戦いで負ったのか、左頬の肉は大きく抉られ、肩にも腹にも太ももにも、無数の傷跡があり、衣服はぼろぼろで全身が赤く濡れている。
 鬼無子自身が流した血と魔猿達の返り血であろう。まるで血の海から産まれたといわんばかりに髪の毛から肢の爪先から、崩鏖を投じた右手の指先に至るまで、全身から血の滴が滴り落ちている。
 なにより、その瞳だ。眠りをもたらす安らぎの夜の色ではなく、全身を濡らしている血と同じ色の光を放っている。瞳孔は針の先のように細まり、剥き出しにされた並びの良い歯列は一本残らず、杭の様に凶悪に尖った牙へと変わっている。
 噛み合わせた牙からは、うううう、と獣の唸りよりも低く凶悪な声が漏れだしている。
 数多の妖魔が蠢く妖哭山に足を踏み入れ、白猿王の一撃によって死に瀕した事が、鬼無子の中に眠っていた妖魔の血を目覚めさせたと言う事か。
 目覚めた妖魔の力を使い、群がる魔猿共を皆殺しにし、白猿王と銀狼の闘争の気配を察知してここまで来たのだろう。
 銀狼とひなの姿を認めた鬼無子の瞳から、地獄の底で罪人を燃やす炎の様な凶光が、ふっと退いて、本来の闇色の光が戻った。

「銀狼殿っ!」

 凛烈な鬼無子の声にはっと銀狼を振り返った白猿王は、自分の首を貫く冷たい感触に気づいた。白猿王の右肘が消失するのと同時に、その首を目掛けて銀狼は跳躍していた。

「お、おごぁああ、ぐが、ごぉぼあっ」

 ぞぶ。
 首の骨ごとまとめて、銀狼が白猿王の首を噛み切った音である。血流の噴出に圧されて、白猿王の首は宙を飛んで、彼方の茂みに落ちた。白猿王の首なしの胴体が仰向けに倒れるのと同時に、銀狼もまた大地にどっと落下した。
 白猿王の絶命を牙応えから確信し、もはや四肢を動かす体力も気力も失ったのか、横倒れにぐったりとした姿勢から、ぴくりとも動かない。白猿王の死によって術が解け、現界に舞い戻った魔猿の怨霊達は消滅している。
 鬼無子は崩鏖を投じ、銀狼に声をかけた事で精根尽き果てて倒れていた。
 流星と化した崩鏖によって落ちた白猿王の手から、ひなはなんとか逃れて、銀狼に駆け寄ろうとしたが、死してなおも白猿王の指はしっかりとひなの体を捕まえて放す様子が無い。
鬼無子が崩鏖を投じたのは本当に際どい間合いで、ひなは気付いていないが、体には白猿王の指の跡が青黒い痣になっている。

「銀狼様、銀狼様」

 ひなの声は銀狼の耳に届かないのか、目を閉じた銀狼はぴくりとも動かない。自身と白猿王の首から溢れた血に濡れた顔は、どこか安らかであった。ひなを守れたという誇りが、そうさせたのだろう。
 銀狼の名を呼ぶひなの声が、静寂を取り戻した山の夜に、いつまでも、いつまでも木霊した。
 月は変わらぬ冷たく美しい光で、少女と狼を照らしている。

*

 かんかんかん、と木槌が釘を打つ音が朝方から続いている。
 分厚い筋肉の鎧をまとい、獣の毛皮を着た浅黒い顔の男達が、休むことなく動き回り、魔猿に破壊された樵小屋の修復に勤しんでいる。
 男達は山の民であった。そして男達をここへ案内したのは、凛であった。
 いつもと同じ布で髪を纏め、珍しく小豆色の小袖姿の凛は、切り株の上に腰を落ち着けている鬼無子を振り返った。
 自前の着物がずたぼろになってしまったので、またひなの着物を借りて着用している。必然的に短くなる裾からこぼれる手足には、薬液を染み込ませた薬布が何重にも巻かれている。
鉄鞘に収めた崩鏖を左肩に預け、てきぱきと動く山の民達をぼんやりと眺めている。最初は手伝おうとしたのだが、傷が完治には程遠い状態であったため、見物に徹しているのだ。

「凛殿、傷の手当てといい小屋の修繕といい、いや、かたじけない。頭が下がります」

 言葉通りに頭を下げようとした鬼無子だが、全身に走った電流の様な痛みに、びしっと体が固まった。目尻に涙さえ浮かべている鬼無子に、凛は苦笑した。このお侍、どうにも憎めない所があるな、とその笑みが語っている。

「いいさ。あの猿共が闊歩してからあたしらも迷惑してたんだ。それを片づけてくれたってんだから、これ位はね。しかし驚いたよ、祈祷師の爺様の言う通りにしたら、あんたらと猿共の死体が森の中に転がっているんだもの」

 白猿王一派との戦いで危うく死にかけた鬼無子を見つけ、傷の手当てをし、命を救ってくれたのは、凛をはじめとした煉鉄衆の者達だった。

「某が未熟なせいで、銀狼殿とひなには迷惑を掛けてしまった」

「迷惑ねえ、銀狼はそうは考えてなさそうだけどねえ」

 呆れる様な声で凛は呟き、木陰で寝転がっている白い塊を見た。
 鬼無子同様、薬布で木乃伊の様にぐるぐる巻きにされた銀狼である。
 力無く横倒れになり、時折、

「あ、骨が繋がったかなぁ」

 などと微妙に甘ったるい声で、自分の怪我の治り具合を実況中継していた。銀狼なりに構って欲しくて、甘えているつもりらしい。
 銀狼は頭をひなの膝の上に預け、撫でてもらい、喉の辺りをさすってもらうと機嫌よくぐるぐると唸った。大好きな飼い主に大きくなっても甘えたがる飼い犬の様な姿である。自身の命を捨ててまでひなを救おうとした凛々しさは、欠片もない。
 銀狼にとっては至福の瞬間であろう。
 銀狼の頬を愛しげに撫でていたひなが、ふと口を開いた。銀狼の耳がぴくぴく、ゆっくり動く。耳まで幸せに蕩けて動きが鈍っている。

「銀狼様」

「何だね」

 声まで蕩けていた。その声を聞いた凛は、おええ、と舌を出し、鬼無子は笑いを
堪え切れずにぷっと笑い声が漏れた。

「私、銀狼様のお名前を考えたんです」

「そうか」

 むくりと銀狼は頭を起こした。青い目は期待でらんらんと輝いている。根が単純だから、喜びの表現に遠慮がない。こんな目で見られたら、どんな面倒くさがりでも期待に応えたくなるだろう。

「鬼無子様が言われたように、銀狼様のお姿は、時折、おひさまの光に輝く雪原の様に眩くお美しいです。だから、そこから名前を取りました」

「うん、うん」

 しきりに頷く銀狼の尻尾は、千切れんばかりに左右に振られている。そうされると、まるで自分がもったいぶって焦らしているようで、ひなはちょっと困った様に笑った。銀狼を見つめる眼差しは、無垢な赤子を見る様に優しい。

「雪の様な輝きで、雪輝。語呂はちょっと珍しいですけど、どうでしょうか」

「雪の様な輝きか。ふふ、いいな。綺麗な名前だ。うん、気に入った」

 銀狼――雪輝は名前をもらったお礼に、ひなの頬をぺろりと舐めて、頬を寄せた。今のところ、雪輝が示す最大の愛情表現だ。
 ひなも、自分から雪輝の頬を抱きしめて、口づける様に頬を寄せ合った。

<終>



[19828] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/01 12:11
『少女の愛した狼 怨嗟反魂編』

その一 黄泉帰り

 大地を覆い尽くす緑の葉のすべてに目に見えぬ程度の小さな水の微粒子がまとわりつき、地を這うものを焼き尽くす陽光の過剰なまでの祝福が絶えた、夜の時刻に相応しい夜風も太陽の支配していた時刻のそれと比べれば、心持ちではあるが涼しく感じられる。
 遮る雲の影が一つもない夜空には、自らの輝きを誇るかのごとく無数の星が黄金とも白銀とも見える光を放って地を這う者たちを照らし出している。
 その星々をまるで我が子を見守るようにして夜空の君主となっている月が、白々ともっとも美しく輝いていた。
 どこか紫がかった黒に染まる夜の世界を白く照らし出す月の光を見たとき、人の心は波風一つない湖面のように静まり落ち着きを取り戻すか、あるいは熱病に浮かされたかのとごく陽気の相を顔に浮かべる。
 しかし、今宵、地上に蟠る闇の中に蠢く者たちは、月光に照らされる事を由とはしなかっただろう。
 見上げるほど大きく天に向かって伸びる幹、空に向かって育つがままに伸ばされた枝、数える事も出来ぬ無数の木々の落とすひと際濃い影の中に、それらはあった。
 美しいという事は価値があるという事だ。だが美しいという事は優しいという事ではない。暖かいという事ではない。
 美と醜との明瞭な境は醜の側に追いやられた者にとってこの上なく残酷な境となる。美しいという事に価値があるのなら、美しくないという事、すなわち醜いという事は等しく価値がないという事なのだから。
 月の光は美しくとも暖かくはなく、その美しさゆえに照らし出される側の存在の美醜を克明に暴き立てる。
 自らの醜悪さを知り恥じ入る者にとっては無作法なまでの無慈悲さで、そして自らを醜いと知らぬものにはその厚顔無恥なる事を他者に知らしめてしまう。
 なにか作為的なものが働いたのかと思うほど、巨木の広げる枝葉が折り重なる場所が、森の一角にあった。そこに満ちる闇が他の夜闇に閉じ込められ場所よりもはるかに暗く深く見えるほどに。
 それは月の光に醜さを暴き立てられて傷つく者がいる事を憐れんだ森の木々が生んだ、慈悲故の暗黒の場所であったかもしれない。
 他者の目に移る事を憚る慣性と事情を持つ者たちが、真正の闇の中に身を置いてささくれ立った心と体に休息を許す世界と時間。それが、この森の一角に広がる闇の意味なのだろうか。
 しかし心と体を安寧の寝床に沈めた者たちがいつまでもそのままで在るとは限らない。
 いずれ闇の寝床を離れて、再び月光と陽光の差し恵む世界へと帰還するものたちもいるだろう。
 それら闇の中から立ち上がり歩む者が必ずしもこの世のものばかりとは限らぬが。
 月の光さえ入る隙間を見つけられぬほどに闇が肩を寄せ合い溶け合う中で、ほんのりと星も月も太陽も無縁のままに、自ずから輝く何かが、あちらに、こちらに、ほら、そこに、浮かび上がり始めたのは何時の頃からか。
 月光の伸ばす慈悲の手を拒絶する闇の中の住人にしかわからぬ事ではあったが、その住人達の目を借りて、それらの事を物語るならば、こうであった。
 蛍の光よりも淡く、月光よりも冷たい光は白く輝いて何かに訴えかけているかのよう。それらは仔細に見れば一つ一つが刀であり、槍であり、杖であり、斧であり、矢であり、あるいは鎧兜を光の源としていた。
 刃が毀れ落ちて薄紙一つまともに切れなくなった刀や、柄が半ばほどからへし折られ無惨に打ち捨てられた槍、なにか巨大な獣の爪に切り裂かれた鎧、幾重にも並んだ鋭い牙に噛み砕かれた兜。
 人の用いる武具のなれの果ての周囲には苔むした巨木や巨岩が無造作に転がっており、さらによく見れば、幾層にも巨木の上に重なった苔や草花の下に人とそれ以外の存在との闘争の痕を見つける事が出来ただろう。
 腕自慢の武芸者達が振るい岩をも断った刃の痕、壮絶な槍の一突きによって穿たれた穴、世の理を解き明かし己の手で改変する術師や陰陽師の駆使する奇怪な術によって落とされた雷や炎が造った大穴。
 いつか、と呼ばれるような昔にここで誰かと何かが争ったその戦場跡。そこに残されているのは、何かに敗れた誰か達の手足となって戦った武具たちなのだ。
 雨風を耐え忍ぶことができず赤茶けた錆に覆われたもの。泥に塗れ蔦に絡まれて墓標の代わりのようになっているもの。いずれも殺された主の無念が籠り、夜陰に乗じて怨嗟の声をあげているのかもしれない。
 白く白く、夜の闇の中で淡く輝くそれらにそっと手を伸ばす何かの影が、ある美しい月夜に生まれた事を知る者はいなかった。
 刃が毀れ草一つ満足に切る事さえできなくなった、まさに死骸というべき刀に手を伸ばす細くしなやかな、まるで黄金の事を爪弾く奏者にこそふさわしい繊手。
一振りで人間の頭蓋など兜ごと叩きつぶし胴丸ごと貫いた豪槍のなれの果てへと伸びる、岩石の塊を連想させる太くたくましい腕。
 半ば土に還りかけていた鎧を、兜を、脚絆を、手甲を持ちあげてよどみない動作で身につけてゆく武芸者の手。
 この世の果てる時まで静かに、しかし深く怨嗟の炎に燃え続けるはずだった武具の骸達を手にするこの世に属さぬ影の数は、大地に打ち捨てられた武具と等しかった。
 やがて、戦場跡の骸から鎧を剥いで生活の糧とする者たちでも見向きもしない屑同然であった武具を、なにかの影達が拾い終えたとき、彼らは互い互いに顔――と呼べるものはなかったが、人間でいえば顔がある部位を向けあうと頷き合い、闇の蟠りを抜け出して月光の祝福を浴びながらどこかへと姿を消していった。
 いまこそ闇の寝床より離れ、彼らの宿願を果たす時。
 朽ちた武具を手に生と死の溢れる妖の山へと消えた影達の行く先を知る者は、いまはただ、無情にはるか天空に座す月のみ。



「役立たずめ」

 藪から棒に罵る言葉が一つ、夜気を震わせた。
 まだ年若い青年の声である。
 体に流れる熱く若い血潮を世界の心理の解明に費やす学究の徒を思わせるような、知性に溢れながらも若さゆえの情熱を胸の奥で燃やしている青年。その姿を見ずに声を聞いた者がいたなら、そんな人物像を想像するだろう。
 だが、その声の主を見たとき、ある者はあっと一声洩らして舌の根を震わせ、ある者は情けないほど呆気なく腰を抜かして尻もちをつき、またある者は恐怖に心蝕まれてもうお終いだと生の終わりを悲嘆するだろう。
 青年の声を放ったのは、それはもう見事なまでの体格を有した巨大な狼であった。
 腹ばいになり腰を下ろした姿勢であってもその肩高は子供の背丈よりも高い。狼としてはあまりに異様な巨躯は、純銀が色あせて見え誰も踏みしめていない処女雪が黒ずんで見えるほどに眩く輝く白銀の毛並みに覆われていた。
 白銀の毛並みは、頂の見えぬ天に角突くような霊峰から地上へと降り注ぐ滝のように長く、異常な巨躯であるにもかかわらず犬族や狼族をはじめとした四足の獣を生みだす際に造物主が見本としたに間違いないほど調和のとれた巨大な狼の肢体の上で輝いている。
 立ち上がれば六尺近くになるのではないかという規格外の巨躯、絶世の美姫の艶髪も屑糸になり下がってしまう光沢と滑らかさを併せ持った白銀の毛並み、水底まで見通せる湖の青とも、雲ひとつてなくそのまま魂が吸い上げられてしまいそうなほど晴れ渡った空の青を映し取ったとも見える瞳。
 その存在を構築する全ての部位が、この狼が尋常な存在ではないと証明している。
 妖哭山(ようこくざん)と近隣の村々の住人達から忌々しさと恐怖を込めて呼ばれる山の、外縁部に位置する森に住まう狼の妖魔“銀狼”改め“雪輝(ゆき)”である。
 通常の狼の数倍はあろうかという巨躯を誇るこの狼の妖魔は、その姿形が自然と醸す圧倒的な迫力によって、初対面の者には抗いようのない威圧感を放つが、当の狼自身の性情はというと、温厚かつ大人しいもの。
 天地万物の気が寄り集り狼という殻を形作って生じたこの妖魔は、生まれながらに善の性質を持っており、よほど明確に敵意を向けられない限りまず人間に危害を加えるような凶暴邪悪な妖魔ではなかった。
 それどころか例え命を狙われるにしても、それが誤解の為であったり、雪輝自身が納得のゆく理由がもとである場合においてはまるで気にせず、何ら遺恨を残さぬという良くも悪くも寛大な、あるいは自身の生命に頓着しない性格である。
 であるからこそ、温和な性格である雪輝が相手を面罵する言葉に心底からの想いを込めて吐くというのは、これは滅多にある事ではなかった。
 雪輝が相手を罵る以外に用いられる事のない悪い言葉を、躊躇なく口にしたのは森の広場に建てられた樵小屋の中である。
 とある縁から周囲の村の一つから差し出された生贄の少女を養う事に決めた雪輝が、当面の生活の場として選んだ場所だ。
 かつて使っていた樵は既にここを引き払って長く、幸いにして生贄の少女が暮らしてゆくのに必要そうな生活用具を取りそろえる伝手が雪輝にあったため、小屋の中には水甕、布団、箪笥、鍬、鎌、蓑をはじめとした生活用具や農具が揃っている。
 すでに小屋の周囲はことさらに深い夜の闇に閉ざされた時刻であるから、小屋の中の光源は囲炉裏の中で爆ぜている炎だけだ。
 揺れ燃える炎の照り返しを受けて、誰もが見惚れるほど美しい白銀の毛並みを紅蓮に染めた雪輝が、もう一度、悪言をふたたび、全く同じ調子で流暢に人間の言葉を狼の口から発する。

「役立たず」

 言葉と等しく冷たい雪輝の眼差しを浴びれば、一角の武人でさえも顔色の一つどころか、米神や頬、首筋、掌にと場所を問わずに氷のように冷たい汗を流して肝を萎縮させる。
 雪輝自身の気性がいかに温厚篤実なもので、本質的な性質の一つが善であっても、彼は妖魔同士の闘争が果てなく続く妖哭山に生を受けた妖魔という事実は変わらない。
 他者に向ける感情に黒いものが混じれば、たちまちのうちに雪輝が自然と発する妖気はその悪意の矛先となった対象へ、それが命ある者であれ、命なき者であれ害をなし災いとなるべく押し寄せてしまう。
 ゆえに、雪輝に面と向かわれて役立たずの誹りと、雪輝自身は無自覚の敵意を孕んだ妖気を浴びせられた者は、体温が急速に低下し健康に異常をきたす程度の事態に見舞われてもおかしくはない。
 であるにも関わらず雪輝の誹りを受けた相手は、というと萎びた実野菜に似た鷲鼻に指を突っ込み、白い鼻毛を数本まとめて引き抜いたきりだった。

「いて」

 皺に覆い尽くされていたのは鼻ばかりでなく鼻毛を引き抜いた指も、襤褸同然の濃紺の服から覗く胸元に首まで数える事を即座に蜂起したくなるほどの無数の皺が深く刻まれている。
 木乃伊かなにかというよりはむしろ皺まみれの人間の皮を剥いで、骨に張り付けただけという方が、雪輝の視線を向けられた老人の姿を現すのには正しい表現であったかもしれない。
 妖哭山の内部に居を構える自称仙人の天外(てんがい)である。洒脱というよりは奇妙奇天烈な性格をしたこの老人を、雪輝は毛嫌いと苦手を足して割らない相手と考えている。
 そのために普段から天外に対しての言動は、彼にしては珍しく辛辣なものを含む事が多かったが、今回の役立たずという発言はことのほか厳しい。
 無論、山の外側と内側にそれぞれ居を構える雪輝と天外はおいそれと顔を突き合わして話をするのはそう気軽にできる事ではない。
 以前、天外の元を訪れたときに預けられた遠距離間での連絡を取る事が可能となる不可思議な鏡を介して両者は会話していた。
 樵小屋の壁に立てかけた材質もわからない鏡の向こうで、天外は引きぬいた鼻毛にふっと息を吹きかけ、目の端に浮かんだ涙を拭いながら大口を開き、ふあ、と欠伸をひとつ。
 会話をする相手の神経を逆なでするどころかまとめて引き抜きかねないふざけた事極まりない態度である。流石に雪輝の堪忍袋の緒が人と比べてもかなり頑丈かつ太めに出来ているとはいえ、不愉快気な表情を露わにする。
 白銀色の眉間には深い皺が一筋二筋と刻まれ、口蓋がかすかに開かれる。敵対者以外に見せるのは珍しい雪輝の軽度の怒りの相である。
 わざと雪輝の機嫌を損ねているとしか思えない天外は、片膝を立てながら胡坐をかいた姿勢で、おざなりに謝罪の言葉を吐いた。

「分かっておるわい。猿どもの襲撃やらなんやらわしは役に立たなかったものな。しかしの、お前さん達の傷を治した薬はわしのやったものじゃろうが。まったく役に立っておらぬわけではないわい」

 雪輝の役立たず発言は、先日雪輝とその庇護下に在る少女ひな、女剣士鬼無子を襲った猿の妖魔達の襲撃に際し、天外がまったく関与せぬままに終わった為であろう。
 ただし天外の発言通り、魔猿達との戦いで瀕死の重傷を負った雪輝と鬼無子の命を救う一助を果たしたのは天外から譲り受けた薬だから、全く何の役にも立たなかった、というのはいささか言いすぎだ。
 天外の言う事は分かってはいるが、それでも雪輝はこのいまにもぽっくりと逝ってしまってもなんらおかしくない老人の実力が、底知れぬ不気味なものである事を何となく察しており、助力があったならひなが白猿王なぞに人質に取られる事がなかったと考えると、処理しきれぬ感情の靄が胸の内に生じてしまい、雪輝自身情けなくはあるが、つい八つ当たりをしてしまった。
 その自覚があるために、雪輝はそれ以上天外に文句を言うでもなくそっぽを向いて苛立たしげに長い尾で床を叩いている。
 それを見やる天外はと言えば、顎髭を扱きながら興味深げに雪輝の様子を観察する。以前は、そう、あのひなという少女を拾うまでは、この銀色の阿呆みたいに大きい狼はこうも感情を豊かに表現することはなかった。
 ひなという少女を保護し手元に置くまでの間は、たった一頭きりの存在という事で同胞もなく、かといって他の妖魔達と善性を帯びて生まれた雪輝とでは到底水も合わず、群れの一員に加わる事もなかった。
 そのために他者と平和的に接する経験が極端に乏しく、生まれ持った感情を育む機会に恵まれてはこなかった雪輝は、生来持ち合わせた知識によって成熟した青年に相当する人格を形成していたが、ひなと過ごすうちに未発達であった感情が急速に豊かになり、最近では幼い子供じみた言動を取る事が増えている。
 天外がひなを連れた雪輝と会った時、以前に比べれば随分と幼い印象を受ける言動をするようになったと思っていたが、今こうして改めて会話をしただけでもたった数日でさらに感情を隠さぬ子供めいた言動をするように変わってしまっている。
 基本的に温厚で落ち着いた面は変わってはいないのだが、それ以上に稚気を抑えきれない子供じみた所が前面に出ている。こんな様を見ようものなら一部の者が崇敬している山の民など、あんぐりと大口を開けて驚きかねない。
 雪輝に執心している狼の妖魔の雌長がこの事を知ったなら、ひな共々ろくな目に合わないだろう。
 いや、むしろ子供っぽくなったという点に関すれば、口八丁で誤魔化しやすくなったと考える事もできるから、より積極的に雪輝に対して言いよる可能性も馬鹿にはできない。
 まあ、色恋沙汰は当人同士が好きと勝手にすればよい話だ。
 そっぽを向いたままの雪輝であったが、天外から見て横から伸びてきた小さな手に鼻筋を撫でられると、これは二重人格かと勘違いしそうな身代わりの速さで眉間の皺を解放し、床を叩いていた尻尾はゆっくりと左右に揺れ始める。
 感情を抑えるという事を知らぬ以上に、イヌ科の生き物としての生物的特性を色濃く持っている雪輝は、喜びを感じている時は知らぬうちに尻尾が揺れてしまうのだ。もっともこの雪輝の場合は喜びの感情を隠すなどという発想が、そもそも頭の中に無い。
 雪輝の鼻筋を優しい手つきで撫でる紅葉の葉の様に小さな手の主は、雪輝の庇護下に在る人間の少女、ひなだ。雪輝の精神に変貌を促した最大の理由である。
 強力な妖魔である雪輝が、ちっぽけというほかない女童との出会いでこうも心を変えた事実は、天外からするとなかなか興味深い実例であった。
 ひなは旱魃に見舞われて飢餓に襲われた村の身寄りのない少女であったが、雪輝の元に引き取られてからは食糧事情の劇的な改善と、精神的に余裕のある生活を送れていることから、いまは溌剌とした生命力に満ちた健康的な姿を取り戻している。
 日ごろの野良仕事で肌は褐色の色に焼け、細い指は水仕事や土いじりで荒れて小さな傷が多いが、ほんの一月前は骨にわずかな肉と皮を張り付けた程度の有様であった事を考えれば、まるで別人の指である。
 肉をげっそりと殺げ落したようだった頬も、幼さに相応しいふっくらとした弾力を取り戻していて、笑顔を浮かべれば見た者がつられて笑い返す太陽の様な陽性に満ちた笑みを浮かべることができるだろう。
 すっかり夜も更けた時刻であるため簡素な寝間着姿で、普段は布で纏めている流れるような黒髪はそのまま背中に流している。
 見上げるような巨躯と声を聞けば大人と分かる雪輝に対して、弟を宥めすかす姉の様な、あるいは癇癪を起した愛し子を慈しむ母のように語りかける。

「雪輝様、天外様をそのようにお責めになってはいけませんよ。頂いたお薬が無かったら、まだお怪我が治ってなかったかもしれないのですから」

「あの匂いのひどい薬などなくとも私ならもう治っていたさ」

「雪輝様が大変頑丈で傷の治りもお早いとは以前にも伺いましたけれど、あまり私を心配させないでください。お怪我が治るまで、胸が張り裂けそうだったのですよ?」

 心持ち眉根を寄せて悲しげに言うひなに、雪輝はなにも返す言葉が見つからないらしく、二等辺三角形の耳をぺたりと倒し、纏う雰囲気に申し訳なさをふんだんにまぶす。
 出会った当初、ひなが言う事なすことすべて雪輝に従っていた頃と比べて、本人達は気付いているのかいないのかは別だが、まるっきり力関係が逆転している。
 いまならひながお手といえば喜々として雪輝は前肢を差し出し、お座りと言われれば電光石火の速さで座ることだろう。
 とにかくひなに構ってもらうのが嬉しく、ひなにじゃれついていたいのである。母犬に甘える子犬というのが、現在のひなと雪輝の関係を例えるのに一番近いものであるかもしれない。

「すまない」

 くぅん、と甘えるような声を一つ出しながら、雪輝は安らぐ匂いの薫るひなの首筋に鼻先を埋め、数度首を振りながらやや湿った黒いぽっちみたいな鼻先をひなの肌に押しつけて匂いを嗅ぐ。
 ひななど簡単に丸呑みにできる雪輝がそのようにしている光景を、一人と一匹の関係を知らぬものが見たら、巨大な狼がいたいけな少女を無慈悲にも餓えた腹を満たすために食べようとしているようにしか見えない。
 もっとも、もし食べるものが無く、ひなが餓えるような事になれば、我が身を食らえと差し出すのが雪輝であるから、そのような事態には万に一つもなりえない。
 自分に甘えてくる雪輝に対する愛おしさから、ひなはよしよしと自分の数倍以上もある雪輝の首筋に小さな手を回し、極上の手触りを伝えてくる雪輝の白銀の毛並みをあやすように撫でる。
 もとからふわふわもふもふとした毛並みを持つ雪輝であるが、とくに首周りから胸にかけては、まるで獅子のたてがみのように一回り大きく盛り上がっており、その周囲の毛並みの手触りは一層柔らかく心地がよい。
 ひなのほっそりとした手が自分の毛皮を撫でるたびに、雪輝は自身の胸中の暗い感情がつぎつぎと洗い流されてゆくのを感じて、心地よさに身を感じて目を細めながらひなにゆっくりと体重を預ける。
 赤子が自分を傷つける事がないと分かっている母の胸で穏やかに眠るように、雪輝はひなの手のぬくもりと匂いに包まれてぐるぐると喉の奥を鳴らし、気持ちいいとひなに伝える。

「ふふ」

 雪輝の耳が満足そうにぴくぴく震えているのを見て、ひなもまた雪輝の気持ちを宥め、気持ち良くなってもらえた事が嬉しくて、小さな笑みを漏らした。
 小屋の中に居るのがこの一人と一匹だけであったなら、ひなに睡魔の手が伸びるまでこうして時の流れるままに過ごしていただろうが、あいにくとつい先ほどまで雪輝と会話をしていた天外がこの場には残っていた。
 また、こいつらは一人と一匹の世界に入り込みよったわ、と胸中で吐き捨てる。天外の住まいを訪れて簡単に文字を教えた時もそうだったが、この一人と一匹はどうも過ごす時間が長くなればなるほど、他者の目というものを忘れてお互いの事だけしか見えなくなってしまうらしい。

「獣の分際でまー小生意気なやっちゃなあ。おい、主ら、いい加減わしとそこな剣士殿の事を思い出さんかい」

「まあまあ、天外殿。ひなと雪輝殿の気が済むまで好きにしてさしあげましょう」

「夜が明けるまでこうしていかねんが、それでよいならの」

 仙人というにはあまりにも俗な反応で不貞腐れる天外を取りなしたのは、囲炉裏を挟んで雪輝とひな達の反対に座している四方木鬼無子(よもぎきなこ)である。
 ひなが狼の妖魔の生贄に捧げられたと近隣の村で耳にし、孤剣一振りを手に救出に向かった熱い血の流れる廻国武者修行中の素浪人の女剣士は、魔猿達との死闘を終えたのちもしばらくはひな達と行動を共にするつもりなのか、いまだに小屋に逗留していた。
 自前の筒袖を脱ぎ、ひなから借りた丈の合っていない寝間着姿である。着飾り黙して目を伏していれば、蝶よ花よと掌中の珠のごとく育てられた姫君にも見える気品あふれる美貌の主で、質素な衣服をまとい栗色の髪を飾る事もなく流していても不思議と絵画に描かれた貴人のように見える。
 ただこの貴人は刀を持てば人を鉄の鎧と骨込めに切断する刀剣の技を振るい、素手でも大熊とがっぷり四つ組み合っても容易く組みふせて首をねじ切る膂力の主である。
 完全に調子が戻ったわけではないようで、白魚の様な指は薬湯を注いだ湯呑を持ち、苦笑を作る紅を刷いたように赤い艶やかな唇に湯呑を運んだ。
 品よく薬湯を啜る鬼無子の咽喉がこくりこくりと動くと、ようやくひなと雪輝は天外と鬼無子達からの視線に気づいたようで、申し訳なさそうな表情をそれぞれが形作る。

「すまんな、鬼無子」

「ごめんなさい」

 とはいうものの、雪輝の鼻先こそひなから離れたが、雪輝の首回りを撫でるひなの手は動く事を止めていないし、雪輝もそれ以上はひなから離れようとはしていない。
 短い付き合いではあるが共に過ごした時間が濃厚であったため、鬼無子の方もひなと雪輝の絆を理解しており、特に何か言うようなことはなかったが、多少やれやれと思わないでもない。他人の惚気ほど、見ていて鬱陶しいものはそうはないのだから。

「しかしまあよ。お前さんの名前も決まったようでなによりだの。雪輝、か。まあお前さんの毛の色を考えりゃわりと良い名前かの。お前さんの真名(まな)を隠す意味でもその名前を使うのは良いか」

「真名?」

 問うたのは左の耳を倒して小首というか大首をひねった雪輝である。自分に関わりのある事らしいが、聞いた覚えのない単語であったらしく、聞き返す狼面には純粋な疑問の色だけが浮かび上がっている。

「ご存じないのですか?」

 鬼無子がやや驚いた風に雪輝に聞く。名人の筆が繊細かつ大胆に引いたように美しい眉が、片方ぴくんと上がっている。
 天外のみならず彼女もまた妖魔の真名について知識があるらしいが、その身に妖魔の血を宿す特異な血族の末裔である事を考えれば、むしろその知識は雪輝よりも多く深いものであるだろう。
 天外は――おそらくは面倒だったからだろうが――説明の機会を鬼無子に譲る気らしく、鏡の向こうで腕を組んで黙ったままだ。

「ええ。その者の真実の名前です。これを他者に知られる事は極めて大きな意味を持つのですよ。一概には言えませんが、互いの存在の格が格段に離れていればともかく、真名を使って命じられるとまず逆らう事が出来なくなります。
 有象無象の名もない妖魔であればそもそも真名を持つ知性やそこに至るまでの力を持ち得ませんが、雪輝殿ほどであれば十中八九お持ちのはずなのですが……」

「そうは言われても私は親もなく生まれた妖魔だ。名を与えられもしなかったし、自分で考えたこともなかったがね」

「ふうむ。妖魔の種族によっては修業場所などがあり一定の階位にいたり名を送られる事でそれを真名とする場合もありますが、雪輝殿はいわば始祖に当たる原初の妖魔でありますから、その様な事はありますまいし、自分の真名を知らぬというのはなんともおかしな話ですね」

 鬼無子にとっても初めて耳にする話の様で、こちらも美貌を傾げるばかり。鬼無子の知識と記憶に在るこの国の妖魔達と比較しても、先日交戦した猿の妖魔達や目の前の巨狼の妖魔としての格は上位に名を連ねるものだ。
 流石に単独で一国を滅ぼすような伝説級の妖魔には及ばぬが、並みの退魔士では徒党を組んでも雪輝を害することはできまい。
 それほどの強力な妖魔が真名を持たずに在るというのは、鬼無子がいまは無くなってしまった実家で見聞した書物や話の中にもない。高位の妖魔が自分の真名を知られぬように偽りの名を名乗る話ならいくらでもあったが。
 首をひねり合う獣と美女の姿が面白かったのか、天外はくく、と人の悪いことこの上ない笑声を咽喉の奥で上げてから、口を開いた。枯れ果てた老人としか見えない外見を裏切る精気に満ちた声であった。

「まあ、真名の有無はここで論じても始まるまいよ。本人も知らぬのなら真名を忘れたか、例外として生来持ち合わせておらぬのかもしれぬ。雪輝という名前が真名となるかどうかは知らぬが、多少なりともその名前の影響を受けているのも事実だしの。どうなるかはこれから様子を見た方がよかろうよ」

 天外の言葉の中に聞き逃せぬものを聞き取り、右の耳の先端をぴくぴく動かしながら雪輝が口を開いた。

「私の“雪輝”という名が、何か問題でもあるのか?」

 ちら、と名前を与えてくれた小さな少女を横目に見ながら、雪輝が問う。自分が名前を与えたせいで何か悪い影響があるのかと、ひなは気が気でない様子である。
 この狼と少女、自分が相手に迷惑をかける事を極端に嫌う傾向にある。
 雪輝の場合は友好的に接して話し相手になってくれたひなは、新しい自分をいくつも発見させてくれた特別な存在であるし、ひなからすれば惨めというほかない村の暮らしから自分を解放し、今は亡き父母と同じよう慈しんでくれる雪輝への慕情がある。
 とくにひなの場合は人生の半分近くを過ごした村長の家での生活の中で、少しでも役に立たぬようなら容赦なく罵詈雑言と暴力を振るわれる環境で過ごした所為で、誰かの迷惑になるという事に恐怖さえ抱いている節がある。
 そこまで正確にひなの心中を読み取ったわけではないが、雪輝は天外に下手な事を抜かすようなら首を噛み切るぞ、と視線で警告を発していた。
 恫喝の意識を秘めた雪輝の青い視線を受けても、天外は軽く肩をすくめるきりである。
 本当に仙人かどうかは極めて不明瞭であるが、深い知識と不可思議な力を持っているのは事実であるし、妖気のこもる雪輝の視線を受けて平然とした態度を取る胆力といい、妖魔の住まう山の中心部に近い場所に居を構えている事といい、やはり尋常な人間ではない。

「お前さんの白銀の毛並みもそうだが、雪の一文字が入った名前の影響でお前さんの水気が増しておる。水気は金気によって活力を得、土気に弱く、木気に活力を与え、火気に強い。
 今のお前さんは銀狼と名乗っておった時よりもいくらか水気よりの妖魔になったという事じゃよ。大雑把にいえば火気と金気の妖魔に強くなり土気と木気の妖魔がちと苦手という事だの」

「ふうん。水に関連する一字を戴いたから水気が増したという事か? あまり自覚はないが、あと私の毛の色も何か意味があるのか?」

「水、金、土、木、火の五属にそれぞれ対応する色があっての。それが一致すればするほどその気の強い妖魔という事になる。水気の妖魔であるなら、青、白、銀あたりで、お前さんは見事にまあ的中しておるじゃろ? 
 瞳は青く毛は銀だしの。とはいえお前さんは天地万物の気がほぼ同じ割合で混じり合って生まれた妖魔であるから、極端に水気が強くなったというわけでもないの。気持ち水気が増した程度よ」

 天外の説明を補足するように、鬼無子もまた口を開いた。

「有名な所で水気の強い妖魔といえば、やはり水辺に住まう生き物が年を経て妖魔になったものなどですね。あとは河童や龍神、魚人、人魚、玄武、雪女などもそうです。
 雪女などは総じて白か銀の髪を持ちますが、これで瞳の色が先ほど天外殿の挙げられた三色であれば、ほぼ間違いなく最高位に近い力を持つ雪女でしょう。雪輝殿の場合はそのお名前といえども水妖というほど水気が強いわけではありませんよ。
 真名というわけではありませんが、雪輝殿を妖魔としてなにか名付けて呼ぶとしたならそうですね、銀毛青眼一尾狼(ぎんもうせいがんいちびのおおかみ)といった所ですか」

「銀毛なんとかいうのは、妖魔の容貌をあらわす言葉かね?」

「ええ。人間が妖魔の容姿をあらわすのに便宜的に用いる事もあれば、修業先や血縁のある妖魔から尊号として贈られる場合もあります。これで在る程度相手の力量を測る目安になる事もありますよ。伝説的な妖魔に近い尊号を送られていれば、それだけ血統か力量が近いという事になりますからね」

「血統は私には無縁だし、そのように長い名前を名乗る気にはなれんな。しかし、名前一つでずいぶんと色々あるものなのだね」

 雪輝は新たに仕入れた知識にしきりと感心している風だ。己の知らなかった事を受け入れるのに何の抵抗もないようで、自分の無知を少しでも埋める事にはむしろ積極的なようだった。

「左様で。いまさら隠しても仕方がありませんが、たとえば某の“鬼無子”という名は鬼の無い子と書きますが、これは四方木家に流れる妖魔の血肉を少しでも抑え、人間として生きられるようにする意味も込められています。
 他にも我が四方木家の宝刀“崩塵”にしても、これは尋常な方法では死に難い妖魔を“塵と崩れるまで殺し尽くす”という言葉が語源となっているのですよ」

「言葉には力があるという事か。私は雪輝という名前を気に入っているし、ひなのくれた名前だからこれを生涯名乗るつもりだけれどね」

「ふふ、それがよろしいかと存じます。雪輝殿の事を一番に考えるひなが考えた名ですから、雪輝殿にとってもこれ以上良い名前はないでしょうから」

「うむ、鬼無子の言うとおりだな」

「私も雪輝様が気に入ってくださったのならとても嬉しいです。えへへ」

 すっかり見慣れた狼面でもはっきりと分かる満面の笑顔に感謝の気持ちを込めて、雪輝はひなを振り返る。雪輝にも負けない可愛らしい笑みを浮かべて、ひなも雪輝をまっすぐに見つめ返し、再びその首回りや咽喉をゆっくりと愛しさを込めて撫でる。
 くぅん、とまた一つ甘えるような、いや、甘えきった鳴き声が、ぱちりと火の粉が爆ぜるのに紛れながら、雪輝の喉奥から零れた。
 同じ夜空の下、黄泉路より舞い戻った何者か達の足音はまだはるか彼方に在った。

<続>

命名編完結でのたくさんのご感想ありがとうございます。今回は書き溜めているわけではないので更新は遅くなってしまいますが、どうかお付き合いをお願い致します。ご指摘ご感想ご忠告をお待ちしております。よろしくお願い致します。



[19828] その二 戸惑い
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2011/03/07 12:38
その二 戸惑い

 はらり、はらり、と大ぶりの枝から清澄な風に吹かれた緑葉が一枚、また一枚と散っている。燦々と降り注ぐ陽光が地に落とす影と木漏れ日とが織りなす明暗の幕の中に、裾の解れた野袴と藍色の筒袖姿を纏う人影が一つ。
 さらり、さらり、と人影が動くたびに靡いては朝陽を浴びて栗色の髪は眩く煌めき、髪の一本一本に砕いた金剛石でも塗されているのかと思うほどに美しい。
 真新しい草鞋は足元を覆い尽くす緑の絨毯の上を時に氷の上を滑るように、時に舞台の上で舞い踊るように飛び跳ね、体のすべてが羽毛で出来るかのような軽やかさ。
 朝の稽古に励む人影は、芳香薫る美貌の女剣士四方木鬼無子。
 半眼に細められた星の明かりのない夜の色をした瞳は、目の前に在るモノを見るとも見ず、この世ならぬ何かを見、意識は幽冥境の彷徨っているかのように虚ろを孕んでいる。
 筒袖から覗く細腕は象牙細工のように白く、また月の光だけを浴びせて育てられた貴種の姫君の様に細い。
 ゆえに、その右手に握られた品はひどく不似合いなものであった。
 握られているは通常の刀剣よりも一尺ほど長い刀身に、数千を数える霊験あらかたな宗教文字が刻み込まれ、妖魔の骨を材料の一つとし鍛え上げられた霊刀・崩塵。
 通常の刀よりも長い刀身もさることながら、その柄尻から切っ先に至るまで、崩塵が自ら発する不可視の霊気は一瞬の荘厳ささえ帯びており、触れる事さえも憚られる雰囲気を持っている。
 残る左手を緩やかに開いて、いまにも目の前の誰かに掴みかかるように指が曲げられていた。相対する敵に対する確実な殺傷を大前提に置く鬼無子の戦い方を考慮すれば、右の刃を躱した敵の喉笛を握り潰す為の形であろうか。
 紛れもない歴戦の風格を漂わせる美駆に淫心を催した風が鬼無子を拐す為に強く吹けば、簡単に浚われてしまいそうな軽やかな鬼無子の動きではあったが、不思議と早さはなく、むしろ緩やかな流れを持った舞踏を思わせた。
 枝葉の落とす影と零れ落ちる陽光を切り裂く崩塵の刃には、奇妙といえば奇妙な、かといっておかしな、とも言い難いものがいくつも貼りついている。
 先ほどから鬼無子の周囲に舞い落ちている緑葉である。肉厚の木の葉が十枚、二十枚と幾重にも重なりながら、刃に対してほぼ直角に近い角度で張り付き斬られる事もなく、落ちる事もなく崩塵を緑の衣が包み込んでいる。
 鬼無子は、はらり、はらり、と風に任せて舞落ちる無数の木の葉を斬るわけでもなく、刃に吸いつけるようにして木の葉を落とさず、崩塵を包み込む木の葉の数を重ねてゆく。
 昇陽が人の手では到底作りえない雄大な線を描く山々の稜線と、大きく育った無数の木々を黄金に照らしはじめた時刻から行われていたこの奇妙な舞は、遂には崩塵の刃圏内で、地面に落ちる木の葉がなくなるまで続けられた。
 規則性もなく、風の吹くままに舞い落ちる木の葉を視覚に依らずわずかな風の動き、さらには木々の放つ人間とは異質かつ淡い気配の変化を察して、落葉のすべてを捉える一連の動きは、およそ尋常な人間の成せる行いではない。
 川が上流から下流に絶えず流れるように淀みなく動いていた鬼無子が、不意に流麗な足捌きを止め、それに続くようにして崩塵の動きもまた止まる。
 崩塵の刃に張り付いていた木の葉が刃の角度に沿って落ちるかと見えた瞬間に、鬼無子の右手首がわずかに捻られるや四十枚を数えていた木の葉、そのすべてが水気をたっぷりと含んだ鮮やかな断面を晒して真っ二つになる。
 二つに斬られた木の葉を拾い集め、断面を合わせれば斬られた事を忘れたとでも言うようにして、一枚の木の葉へと戻ることだろう。
 ふう、とかすかな吐息が鬼無子の唇から零れた。野を彷徨う素浪人としか見えない格好をしていても、深い懊悩に胸を痛める貴人のごとく映るのだから、この剣士の美貌もその腕前同様に非凡なものだ。
 熟練の剣士を十人集めても到底及ばぬであろう剣技に加えて、妖魔の血を引くがゆえの人間の枠を超えた圧倒的な身体能力に支えられた鬼無子の武力は、どの国の君主でも眼を魅かれるものがあるのは間違いないが、あるいはその武力よりも飾らずとも月夜に輝く月のように清楚な美貌をこそ望む者も少なくないだろう。
 その鬼無子の背に、若い青年の声が掛けられた。鬼無子が起床後、すぐさま樵小屋の外に出て舞踏ならぬ“舞刀”の型をはじめてから、ずっとその姿を見つめていた青年である。

「お見事。つい見惚れてしまったな」

 飾る言葉の無い身近な賛辞であったが、幼少の頃から賞賛の言葉だけを聞かされて育った者でも、はにかんだ笑みを浮かべてしまいそうなほど心が込められている。
 どんなに美しく語彙豊かに飾り立てられ、風情に富んだ美辞麗句を並べ立てられるよりも、この声の主に賞賛の一言を囁かれるほうが百倍も二百倍も価値がある。
 鬼無子にも声の主の言葉に偽りは無縁と分かったのであろう。
 疲労の影一つない白磁の頬にかすかな朱の色を浮かべて、自らの拙さを恥じ入るように微笑む。

「未熟な技です。お恥ずかしい所をお見せいたしました。お忘れください、雪輝殿」

「いや、謙遜することはなかろう。剣を振るう事を生業とする者を私は鬼無子しか知らぬが、君の腕前が非凡なものであるとは分かる」

 これもまた先ほどの言葉と同様に賛辞の気持ちを満と湛えた言葉である。背後を振り返る鬼無子の瞳に、太古から降り続けた雪のもっとも純粋な部分と、白く冴え冴えと輝く月光を集めたように美しい狼の形をした輝きが映る。
 鬼無子の記憶の中に比肩するものの無い美しいと喩える他ない狼の妖魔の雪輝であるが、鬼無子を見つめる今は主人の帰りを待つ忠犬のように腰を下ろし、目元を緩めた顔をしている。
 もっともその体勢でも鬼無子とそうさほど背丈の変わらぬ巨躯をしていては、初見のものでは柔和な雰囲気よりもその巨躯に意識を奪われて二の足を踏むだろう。

「わざと葉を斬らなかったようだが、斬れるものを斬らないようにする訓練かね?」

「斬り易きを斬らず、斬り難きを斬る。斬るべき実体を持たぬ妖魔の類を斬るための基礎的な修練法でして、斬ろうとしなくても斬れてしまうものをいかにして斬らぬようにするか、という事をとっかかりにして“斬る”という行為を理解するのです。
 極めれば望むもののみを斬り、望まぬものを斬らぬ太刀を振るえるようになり、確たる血肉を持たぬ者も斬る事が出来るようになるのですよ。基礎中の基礎ですが、それゆえに疎かにはできません。妖気孕む風や砂、霧を肉体とする妖魔や霊魂のみの相手を斬れねば、一人前の退魔士を名乗ることはできませぬから」

「ふうむ。妖魔の血を引いていたのは血の匂いから察していたし、鬼無子の口からも聞いてはいたが、退魔士を生業としていたというのは初耳だな」

「そうでしたか? もう大抵のことは話していた気になっておりましたが」

 と小首を傾げる様子からは、鬼無子が自分の簡単な生い立ちをもう話したつもりになっていた、という位に雪輝に心を許している事が伺える。
 崩塵の刀身を腰帯にはさんだ鉄鞘へ鞘鳴りの音一つ立てずに納める。
 普段の歩き方も枯れ枝や草の束を踏んでもほとんど足音一つ立てず、無意識のうちにあらゆる行動において発生する音を極力排するように心がけているのは、音に敏感な妖魔を相手にする為の訓練を長い間積み、習慣となっているからだろう。
 汗の珠ひとつ浮かんでいない涼やかな美貌にわずかな疑問の色を刷きながら、雪輝のすぐ前へと鬼無子は歩み寄った。
 緊張を体のどこにも帯びていない姿から、雪輝に対してわずかほども警戒心を抱いていない事がわかる。
 ほとんど高低差の無い青い瞳と目線を合わせながら、ふと、鬼無子はまだ一度も雪輝の毛並みに自ら触れた事が無かった事を思い出し、なんとはなしに腕を伸ばして雪の首筋の辺りの格別ふっくらと膨らんでいる毛並みを撫でた。
 雪輝の気性ならば事前に了承を得なくとも許してくれるだろう、という考えは正解だったようで、鬼無子が自分の首筋を撫で始めた事に雪輝は最初こそどこか驚いた風ではあったが、かすかに口端を吊り上げて狼面なりに微笑を浮かべる。
 最初は戸惑いがちな鬼無子の腕であったが、じきにひなが夢中で撫でる雪輝の毛並みの心地よさに気づいたらしく、何度も何度もさらりと滑る白銀の毛を拙くはあるが優しい手つきで撫でてゆく。
 手櫛の隙間を水のように流れてゆく白銀の毛は、極上の絹織物も到底及ばぬ滑らかな手触りで、撫でる指になんら抵抗することなく手の動きに合わせて流れてゆく。
 このような感触だったのか、と感心した表情を浮かべていた鬼無子であるが毛皮を撫でる回数が増えるにつれて、陶磁器のように滑らかな眉間や大地に白銀の化粧を施す雪原を思わせる頬から力が抜けてゆく。
 陽の当たる縁側で膝の上に乗せた飼い猫を撫でてまどろんでいるか、じゃれ付いてくる飼い犬を構っているように緊張を忘れて弛緩しきった顔に変わりはじめていた。
 ひなと雪輝と同居し始めてから、鬼無子が武士らしからぬ緩んだ表情を浮かべている事は多々見受けられるのだが、今ほど緊張の糸が弛んでいる心理状態になっているのは珍しい。

「これは、なるほど、ひなが雪輝殿の毛並みを飽きずに撫で続けるわけです。なんと申し上げればよいか、某、風流を嗜みませぬ不作法者ですので相応しい言葉が見つかりませぬが、一日中触れていても飽きはしないでしょう。ふうむ、うん、これはいい」

 目元を緩めて撫でる手から伝わる心地よさに心委ねる鬼無子に、雪輝も陽だまりにまどろんでいるような柔らかな声で答えた。ひなに撫でられる事はもはや別格としても、鬼無子に撫でられるのもそう悪くはないようだ。

「褒めて貰えて嬉しい。このように私に触れてくれたのはひなが初めてで、鬼無子で二人目になる。これまで私に触れようとした者たちはまず私の命を狙ってのことだったから、このように触れられる事がここまで心地よく感じられるとは、つい最近まで知らなかった事だ」

 確かに雪輝の言う通りで、この白銀の狼が誕生してから出会った者たちの中に、友好的な意味合いを持って雪輝に触れようとした者は、ひなが初めてであったろうから、鬼無子にされているように撫でられる経験はほとんどないのだろう。
 雪輝の言葉を聞いているのかいないのか、次第に熱意を持って雪輝の毛皮を両手を使って撫で回し始める鬼無子の様子に、雪輝はこの狼にしては珍しく苦笑に近いものを口元に浮かべた。
 普段の落ち着き払い武人然とした態度を心がけている鬼無子と、年相応にあどけなさを滲ませながら喜色を浮かべて、自分の毛皮を存分に撫でている鬼無子の様子が、まるで正反対なものであったから、雪輝は出会ってから初めて目の前の女剣士を可愛らしく感じていた。
 朝食の支度をしているひなから声がかかるまでこのままかな、と雪輝は思ったが、不意に初めて鬼無子の剣舞を見た時の事を思い出し、今朝の修練と合わせて気になった事を問うてみた。
 ひなを挟まずに鬼無子と雪輝が二人だけになるというのは、樵小屋での三人生活の中ではなかなかある事ではなかったから、話をするにはちょうど良いか、と思ったからだ。

「妖魔との戦いを想定した剣法を鬼無子は使うようだが、人間相手の正道の剣も使うのかね?」

 以前に鬼無子の剣舞を見て人外との戦闘を前提にした邪剣、と感じた事である。流石にとうの使い手本人相手に、君の流派は邪道の剣、などと直接言わない程度の配慮を雪輝も学習していた。
 人間相手の正道の剣、と言われた鬼無子はというと、雪輝の毛皮の感触のあまりの素晴らしさに半ば恍惚としていた顔に、思ってもいなかった事を言われたとでも言うようにわずかな困惑の色を浮かべていた。

「正道の剣、ですか。確かにここ二百年ばかりは人間の国と国との争いが続いておりますから、人間相手の剣法が主流という風潮ではありますが、某のように対妖魔を想定した剣こそ歴史の古さゆえに正道とされておりますよ。この国の歴史においては人間と人間が争うよりも妖魔と争う歴史の方がはるかに長(なご)うございましたから。
 だからといって人間相手の剣が邪道という扱いでもありません。人間を斬る剣も妖魔を斬る剣も、どちらも相手の命を奪う剣である事には変わりなく、共に正道でありまた共に邪道というわけではありませぬよ」

 多少感性のずれた所はあるが、聡明であることは間違いない白銀の狼も、時に間違った意見を口にするのだな、と鬼無子は考えたようで幼子の問いに答えるように柔らかな声で雪輝の言葉の誤りを訂正する。
 鬼無子の答えを聞いた雪輝はというと、両方の耳を先端に至るまでピンと伸ばし、おや、と言わんばかりに眼を丸くしている。彼にとってはなんら疑問を挟む余地もなく対妖魔の剣は邪道に位置する剣であるという認識だったようだ。

「そう、なのか? ふうむ、これは私の思い違いか。君の流派を侮辱するような事を口にしてしまったな。まことに申し訳ない」

 ぺたりと二等辺三角形の耳を前に倒し、鼻と鼻がくっつきそうなほど近い距離にいる鬼無子に、心底申し訳なさそうに雪輝は謝罪の言葉を口にする。
 きゅぅん、と叱られた子犬の様な声がかすかに聞こえ、鬼無子は悪いかな、とは思うものの外見の迫力に反比例して可愛らしいその声に、つい小さな笑い声を咽喉の奥でこぼす。

「いえ。雪輝殿の仰る所も術が過ちというわけではありません。対妖魔の剣それ自体は邪道と謗られるものではないのですが、某の様に妖魔の血肉を持つ外れ者が振るう剣ばかりは邪道魔道の剣と罵りを受けても甘受するほか在りませぬ」

 自らの体に流れる妖異の血に対する自嘲をわずかに匂わせる鬼無子の言葉と、口の端をかすめた笑みを見咎めて、雪輝はこれは拙い事を口にしてしまったとますます鬼無子に対して申し訳なさを募らせる。

「重ねて謝る。すまない。だからこれ以上自分を傷つけるような言葉を口にするのは止しなさい。自らを嘲っても何も良い事はない。それに私は鬼無子の剣をとても美しく真っ直ぐなものと思う。その様な剣を邪道だなんだと罵るような心ないものはおるまいよ。居るとしてもその者の心がひん曲がっているか目が曇っているに違いない」

「そう言って頂ける事は某にとって何よりの誉れです。ふふ、雪輝殿は本当に面白い方です。諸国を旅しさまざまな人と会ってまいりましたが、雪輝殿は下手な人間よりもよほど人間らしい」

 くすり、と新たに零れた鬼無子の笑みが暖かな気持ちによって生まれたものであると分かり、目に見えて雪輝は安堵して肩の力を抜いた。それに合わせてピンと立っていた耳がピラピラと左右に動く。
 雪輝は自分の発言が他者に対して不快感を抱かせてしまう事や、落ち込ませてしまう事に慣れておらず、どう対処すればよいかという経験が全くないので、頭の中が真っ白になってしまうのである。
 そういった対人関係での経験はこればかりは地道に積み上げてゆくしかなく、雪輝は鬼無子やひな、凛の反応に対してこれからも一喜一憂してゆくことだろう。
 これ以上この話をしたらまた鬼無子の気持ちを沈鬱なものにさせてしまいそうだ、と雪輝は懸命にも判断して、これ以上口を開く事は極力避けて、毛皮を撫でるのを再開させた鬼無子の気が済む様にさせる事にした。
 その一方で鬼無子との会話である疑問が雪輝の胸中に大きな疑惑の穴を一つ穿っていた。
 鬼無子の剣を邪道の剣と、なぜ自分が判断したのか、である。
 そも自分が鬼無子と出会うまでの間、目にした人間の武技は山の民が振るう不可思議な武器がほとんどであり、純粋に刀剣の剣法に正邪の判断を付ける知識など欠片も持っていないはずだ。
 なのに、自分は一目で鬼無子の振るう剣技を邪道の剣である、と迷うことなく判断したのである。そう判断する材料を何一つ持ち合わせてはいないはずなのに、だ。
 鬼無子自身の口からその判断は過ちであったと分かりはしたが、どうしてそのように判断したのか、という疑問に対する答えは何一つ提示されていないまま。
 天地万物の気が集まって一個の生命となったのが己である、とは実は天外との会話から判明した事であって、雪輝自身に自覚があるわけではない。ただ否定する材料が何一つ無いことから、天外の言う通りなのであろうと考えているだけだ。
 雪輝の記憶に在る原初の記憶は黄金の盆の様に天空に輝く満月を背にした天外と対峙している光景から始まる。
 そこは山の内側のはずであるが、周囲の木々は巨人の手で乱雑に払われたように根こそぎ吹き飛び、呆れるほど巨大な穴があちらこちらに穿たれ、天地が逆転し攪拌されたような惨状を呈していた。
 ひと際巨大な穴の底で唐突に目覚めた意識は、無知な赤子としてではなく在る程度の教養を兼ね備えた人格を伴っていたが、生まれつき持ち合わせていた知識はいったい何処から来たものなのか。
 己を構成する気の中に山の妖魔の牙の贄となり死した人間達の魂が含まれ、彼らの知識の一部を引き継いでいるのか。
 雪輝は知識こそ幾分欠乏しているが、回転そのものは極めて早い頭脳で考えうる可能性を無数に列挙し、吟味していたが可能性を判断する基礎的な情報そのものが少なく、妥当と判ずる程度の可能性を見つける事もできそうにない。
 この時、雪輝は、この世に発生してから初めて己という存在の在りようについて疑問を芽生えさせ、深い懊悩を抱く事となったのであるが、この狼、基本的に深く物事を考えるのに向いていない性格をしている。
 そのために、次第に撫でる事に慣れてきた鬼無子の手の心地よさに徐々に意識が奪われてゆき、

――まあ、いま考えても答えが出るわけもなし。害になるような事もないだろうから、別に深く考える事もあるまい。

 と、考える事を放棄してしまった。かつて雪輝と数日過ごした時点でひなが気づいたように、この狼の人格(狼格というべきか?)を構成する大きな要素のうち二つは、『呑気』と『楽天的』なのである。
 鬼無子はまだ十数回ほど毛並みを撫でた程度だが、どうやらコツを掴んだようで、撫でられる方の雪輝もだんだんと気持ち良くなってゆき、力の抜けた耳はペタンと左右に倒れ伏して青い瞳は細められている。

「ふむん、鬼無子はなかなか上手だな。犬か猫でも飼っていたのか?」

 暗に自分を犬猫と同じように捉えていると解釈できなくもない雪輝の言葉であるが、愛玩動物扱いされる事には特に抵抗が無いらしい。
 雪輝自身自分の言葉に気づいていないが、愛玩用の犬や猫というものを彼自身は一度も目にした事がないにも関わらず、その存在を知っているようだった。いまもまた、どこで学び知ったのか出所の知れぬ知識を、雪輝は我知らず口にしていた。
 本人が気づいていないものをまだ知りあって日の浅い鬼無子が気づける筈もなく、徐々に頬を紅潮させ始め鬼無子は、撫でる事に熱意を傾け過ぎたせいか、雪輝の言葉を半ば聞き流しており、返ってきた言葉はほとんど夢現を彷徨っているように浮かれた調子だった。

「い、いえ。人間よりも獣の方が、妖魔の気配に敏感ですから、我が家では犬猫や鳥を飼育することはできませなんだ。妖魔討伐用の鳥獣を飼育する秘儀を持つ一族もなかにはおりましたが」

 そのうちに鬼無子はただ撫でるだけでは飽き足りなくなってきたようで、両手で雪輝の首回りを揉み解し、抱きつくようにして首の後ろに手を回して後頭部から背中に至るまで手を大きく動かして毛並みを梳きはじめる。
 鬼無子の好きにさせる、と腹を括った雪輝は思ったよりも大胆に自分の体を弄り始めた鬼無子に、少しばかり困惑しないではなかったが、鬼無子の手が体を触れて行く度にひなに撫でて貰うのとはまた違う心地よさに身を委ねて、心と体を安堵の泥濘に沈めてゆく。
 それが証拠にペタンと倒れた耳や地面に投げ出されていた尻尾は緩やかにではあったが左右に大きく動き、今の雪輝の機嫌が極めて良い事を最大限に表現している。
 むふー、と誰が聞いても安堵しきっていると分かる鼻息を雪輝が零した時である。朝餉の支度を終えたひなが樵小屋の鹿皮の戸を開いて、ひょっこりと小さな顔を覗かせたのは。
 朝餉を済ませたらすぐに畑仕事に出るつもりだったようで、ひなの陽に焼けた肌と小さく細い体を覆っているのは柿色の野良着で、背の半ばほどまで届くほどに長くなった黒髪は、邪魔にならぬように手拭いで纏めている。
 調理の邪魔にならぬようたくしあげた裾を元に戻しながら、雪輝様と鬼無子さんはどちらかしら、とひなは幼いながらに器量よしの片鱗が浮かんでいる小顔を巡らす。

「雪輝様、鬼無子さん、朝ご飯ですよ」

 と朗らかに小鳥の囀りの様に耳に心地よい声を出して周囲を見回し、無垢な黒い瞳が木陰で抱きしめるようにして雪輝の毛並みを撫でている鬼無子の姿を見つけるや、ひなは全身をびくん、と一度大きく震わせる。
 枝葉の大きく伸びた木陰の下で木漏れ日を浴びながら、その場に腰をおろして動く事なく佇んでいる白銀の巨狼に対し、まるで臆することもなく微笑みさえ浮かべて首筋の毛並みに顔を埋め、雪輝の背中や頭を撫でている鬼無子。
 普段なら、鬼無子がしている事を自分がしているはずなのに。いや、鬼無子は普段のひなよりもさらに大胆に雪輝の体に密着し、思うさま巨狼の体に触れている。
 雪輝も雪輝でまるで嫌がる様子はなく、むしろ心地よく感じているようで、鬼無子の好きなようにさせている事が、ひなだからこそその様子から察する事が出来た。
 
――どうして、雪輝様は何も言わないの? どうして、雪輝様に触れているのが私ではなくて鬼無子さんなの?
 
 胸を内側から切り裂かれるような痛みを伴いながら、そう囁く自分の声をひなは聞いた。

「あ……」

 と、ひなは短い一言を零し、何を口にすればよいのか分からずかすかに開いた口を凍らせる。
 普段ならひなの気配を敏感に察知して、声をかければ間髪いれずに答えが返ってくるというのに、それがまるでない。
 それだけ鬼無子と雪輝は互いの事に夢中だという事で、ひなは小さな胸の内に自分でも理解できないほどに大きく暗い黒々とした感情が渦を巻きはじめた事を感じ、傍目にも明らかに戸惑い、どうすればよいのか、何をすればよいのか分からず、胸の前で小さな手をぎゅっと握りしめて、ただ一人と一匹の姿を見つめるしかなかった。
 以前にも、拾ったばかりの鬼無子の体を温めるためにまだ銀狼と名乗っていた雪輝が、裸も同然だった鬼無子の体に覆いかぶさった時にも、この得体のしれない感情を抱いた事を思い出した。
 あの時も、苦しくて辛くて抱え込んでいる黒々とした感情を持て余したのだ。ひなは自分が今感じている二度目のナニかは良くないものだと、雪輝と鬼無子に向けてはいけないものなのではないかと、漠然とではあるがそう理解していた。
 もし雪輝が首を巡らして、言葉をかける事も出来ず小屋の戸口から一歩出たまま立ち尽くすのひなの様子を見ても、ひながどのような感情を抱いているか判断が着かなかっただろうが、鬼無子が気づいていたなら十中八九こう評したことだろう。
 良人(おっと)が逢い引きしている現場を図らずも目撃した新妻のようだ、と。
 しかし、その鬼無子は

「こ、この手触りは、いいいけませぬ。こ、これは、実にけけしからん。本当に、何というも、も、“もふ”か。おぉふ、そ、某、今日までこれほど柔らかで心地よい撫で心地と抱き心地に触れた事は初めての事です。雪輝殿は、け、けしからんもふでありまする。…………あふぅ」

 と、これまでの人生で初めてといって良いほどに気持ち良く感じられる手触りに心を奪われ、その白皙の美貌をとろりと蜂蜜の様にゆるく恍惚と蕩かせていた。
普段は凛々しく一本背筋に鋼の芯を通しているような厳粛な雰囲気を持ち、またその武力も並みならぬ超人的な域に在って実に頼りになり、さらには親しみやすく気さくな性格と文句のつけどころの無い御仁なのだが、雪輝の毛皮の感触に夢中になって頬を緩ませ、息を呑んでいるひなに気付かない様子を見るに、妙な所で残念なお侍であった。


<続>

雪輝は自分の存在に疑問を持ちました。でも忘れました。
ひなは二度目の嫉妬に戸惑っています。
鬼無子は”残念侍”の称号を手に入れました。軽度のもふ中毒です。

皆様にひとつできればお答えいただきたいことがあります。
自分でも気にかけてはいるのですが、文章の描写に関してくどすぎてはいませんでしょうか? 丁寧な描写を心がけているつもりですが、度を過ぎていないかお読みいただいている皆様にお答えいただければ幸いです。



[19828] その三 口は災いのもと
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/08 22:29
その三 口は災いのもと

――なんなんだろう、この居心地の悪い空気は……。
 
 それが、用事があって雪輝とひなと鬼無子の住居である樵小屋を訪れた、山の民の少女凛の心境だった。
 袖なしの熊皮の上衣や癖っ毛の黒髪を纏める頭の布、腰に手挟んだ山刀といつもと変わらぬ格好の凛は、囲炉裏の前で胡坐をかき、樵小屋の住人達の間に満ちている険悪とはいかぬまでも、それなりに張りつめた空気に太めの眉を顰めていた。
 凛にとって雪輝に対してはいまだに複雑な心境を抱いてはいたが、他の二者に対してはっきり好意を抱いている、と自分でも自覚している。
 ひなは素直で聞き分けの良い性格をしていて、まるで嫌味の無い娘であるから妹分の様に可愛がっているし、鬼無子の方も村の大人連中から耳にしていた侍という人種にしては屈託のなく、からりと晴れた青空みたいに気持ちの良い好人物で、諸国を旅して廻っていたということから色々な話をしてくれて話をするのが密かな楽しみになっている。
 雪輝自身の性情もあわせて考慮すればひなや鬼無子との同居生活に、そうそう暗雲が立ち込めるとは思い難かった。
 幼いひなが、善妖と聞いてはいるものの、妖魔との共同生活を送ることへの懸念は、本人は認めないが――お人好しである凛にとっては拭いざるものであったが、最近では順調に精神的交流を交わしていた様子だから安心していた矢先にこれである。
 ただ、小屋の中の空気は、雪輝がひなに対して酷い仕打ちをするのでは、という凛の懸念を大きく裏切っていた。
 むしろその逆である。ひなの雪輝に対する態度が冬の季節の氷雨のように冷たいのである。
 それが尚更、凛の困惑を強くする。
 ひなは別に頬を不満げに膨らませているわけでも無く、どこかに怪我を負っている様子もないが、先ほどからひたすら雪輝と目線を合わせる事を避けているのだ。
囲炉裏を挟み凛の真正面に位置するひなからみて右手側に鬼無子がおり、左側に雪輝が陣取っている。
 雪輝は先ほどからひなのつれない様子に、それなりの広さがある小屋が狭く感じられる巨体を縮こまらせ、せわしなく耳を不安げにはたりはたりと動かし、視線を動かして鬼無子や凛に助けを求めている。
 これまでひなに恐縮される事こそあれ、かように拒絶されるのは初めてのことであり、雪輝はおよそこの場に限って子犬ほども役に立たない木偶の坊に等しかった。
 どうしてこうなったのだ、と雪輝は深い懊悩と疑問の渦をひたすら頭の中で渦巻かせながら考え続けていたが、とりあえず原因を探るべく、ひなの様子がおかしかった今朝の事から思い返しはじめる。
 昨夜、就寝の床に就くまでの間にひなが機嫌を損ねた様子はなかった。
 となれば今朝のうちになにか自分のした事が、ひなの機嫌を損ねる事につながってしまったのであろう。
 しかし今日、目を覚ましてから自分のしたことといえば、鬼無子の修練の見学をして毛皮を撫でて貰ったくらいである。
 鬼無子に毛皮を思う存分撫でられていた折に、どうやら自分たちを呼びに来ていたらしいひなに気付いて、すぐさまひなの元へ大好きなご主人様に甘える飼い犬よろしく歩み寄ったのだが、普段なら鼻筋一つくらいは撫でてくれるひなが、触れる事に恐怖を覚えたように、顔をそむけて無言で小屋の中に戻ってしまったのである。
 鬼無子に毛皮を撫でて貰ったのがよくなかったのか、それとも自分達を呼んでいたひなの事にすぐ気付かなかったのがよくなかったのだろうか。
 理由なき憎悪や殺意、食欲をぶつけられる事はいくらでも経験しているが、自分の行いによって好意を寄せる誰かの機嫌を損ねてしまったのは、今回が初めての事とあり雪輝には現状に有効な対処方法というものがこれっぽっちも思い浮かばない。
 となれば頼るのは自分と違い人間の集団の中で暮らし、対人関係の構築などの経験を積んでいる鬼無子と凛をおいてほかにない。
 無言で朝餉の雑炊を煮ている鉄鍋をかき回しているひなを他所に、雪輝はしつこいくらいに青く濡れそぼった瞳を鬼無子と凛それぞれに、幾度となく向けた。
 どうすればよいのだ? という無言の、しかし切実かつ危急な雪輝の問いに、鬼無子と凛も明瞭な答えを出せずにいた。
 この中ではひなとの付き合いが最も浅い凛は、ひなの性格から機嫌を損ねた理由を類推することはできないし、そもそもまだこの現場に到着したばかりで事態の推移を把握していないから、雪輝の視線にもお前はなにをやらかしたのだ、と怒りを交えた視線を返している。
 鬼無子は、というと雪輝同様にひなが珍しくも怒っている様子におや? と首を傾げてはいるようではあったが、その原因となると思いつかない様子であった。
 ましてや、自分がひなの機嫌を損ねた原因であるなどとは露とも思っていないそぶりである。
 鬼無子はさてさて、と美貌の表には出さずに思案しながら端の欠けた湯呑を口元に運ぶ。
 薄い茶色の水面にゆらりと小さな波紋が起きて、鬼無子の紅色の唇へと吸い込まれてゆく。
 白磁の頬が窄み、艶やかと言ってよい唇の動きは思わず股間の疼きを覚えかねない淫靡さがあった。その身に流れる妖魔の血の影響であろうか。
 本人が意識することなく纏う淫らさは別として、啜り方や湯呑の持ち方一つとっても上品な所作であり、没落したという生家は元はそれなりに格のある名家であったのかもしれない。
 湯呑の中身はひなが、白湯と水ばかりで味気ないかな、と暇を見つけては干したり蒸して作っている自家製のお茶の一つである。
 以前の凛と雪輝の賭け試合の戦利品の一つである麦を、鉄鍋で炒って軽く焦がしてから、薄い麻の袋に包み、お湯を注いで作った麦茶だ。
 大量に作ったそれを壺に分け入れて冷したもので、凛の前にも同じものが出されている。
 ふむ、と内心で息を吐いて鬼無子も雪輝と同じように今朝から今に至るまでの行動を思い返す。
 やはり自分が雪輝の毛皮を撫でている現場を目撃したことくらいしか思いつく当てがない。もし、それが原因であると言うならば、存外ひなは独占欲の強い娘であったということだろう。

(いや、ひなの生い立ちを考えれば両親と死別して以来、自分を案じてくれたのは雪輝殿が初めてとのこと。なれば否応にも雪輝殿への依存や執心を抱くのも無理からんことであろう)

 その推測が間違っていないのなら、いまのひなは怒っているというほどではなく、せいぜい気になる男の子が、他の女の子と遊んでいるのを見て拗ねている、という子供らしい癇癪程度だろう。
 それならそう時を置かずしてひなの気分も落ち着くだろうが、それにしても雪輝の動揺ぶりが、傍から見ていて滑稽なほどに激しい。
 溺れる者は藁にも縋ると言うが、いまの雪輝はまさにその言葉の通りの慌てようだ。心がかき乱されている事を表に出さないようにしているようだが、耳と尻尾が見事に裏切って、先ほどからぱたぱたと床の上で乱れる尻尾の音が絶える間がない。
 なんともはや、自分の目の前に居るのが妖魔である事をつい忘れてしまう微笑ましさに、鬼無子は湯呑を啜る奥の口元を笑みの形に吊りあげてしまう。
 長い事諸国を一人で旅してきた所為で人肌の恋しさを覚えてはいたが、よもや妖魔との同居暮らしで安寧を覚えることになるとは。

「人生、先が分からぬものだ」

 しみじみと呟く鬼無子に、雪輝と凛は何を言っているんだこの侍は、と揃って疑問を宿した瞳を向ける。
 なにやら思案している様子だったから、雪輝達の疑問に対する答えを明示するか妙案を思いついてくれるのかと淡い期待を抱いていたのに、蓋を開ければこれだ。
 たしかにひなを怒らせてしまうとは夢にも思わなかったが、と雪輝の言外に非難するような視線に気づいて、これは失言、と鬼無子があくまでも落ち着き払った仕草で湯呑を置いた。
 内心で漏らした言葉とは裏腹に、自分の失言に慌てる様子は欠片もない。

「そういえば凛殿、今日はいかな用事があって参られたのですかな。なんでしたら朝餉を共にしてはいかが?」

 と、雪輝の期待を裏切るような方向の提案をしてのけた。下手にひなに声をかけて機嫌をこじらせるよりは普段通りに過ごした方がよい、と鬼無子なりに判断したのである。
 しかし読心の術を会得しているわけもなく、人の感情や思考を読む術にまるで長けていない雪輝は、両耳をピンと立たせて裏切られた、という顔をする。
 知性ばかりは大人だが、感性や人格の熟成ぶりではひなよりも幼い所を見せる雪輝にすれば、十全の信頼を寄せる鬼無子のその反応には、それなりに傷心したかもしれない。
 鬼無子に話を振られた凛も、ええと、といささか反応に困った様子ではあったが、さりとて繕う言葉をとっさに出せるほど弁舌には長けておらず、正直に答える以外に方策を思いつかなかった。

「ああ、いや、村の連中がこれを見っけてさ、鬼無子さんのじゃないかと思って持ってきたんだ」

 そう言って凛が腰に提げている包みの中から取り出したのは、これまた油紙に包まれた柳の葉に似た形状の投げ刃である。よく油が塗ってあるようで小屋の中に沁み入る陽光に、黒い刃面が鈍く輝いている。
 三枚重ねられたそれらは、長さ三寸(約九センチ)、幅一寸(約一センチ)。一枚の厚みはやや肉厚の木の葉程度だ。刃は鋭く研ぎ澄まされ、不要に触れた指が鮮やかな血を迸らせながらぼとりと芋虫のように切断されてしまうだろう。
 凛の小さな掌の上に載せられた品を見て、鬼無子は首肯した。間違いなく自分が愛用している飛び道具である。

「おお、これはありがたい。それがしのものに間違いありません。雪輝殿達に拾われる前、猿どもに追いかけ回された時に、いくつか投げたっきりになってしまっていたものです。受け取ってもよろしいか?」

 おお、と頷く凛の手に伸ばし、鬼無子は久方ぶりに手にした愛用の獲物を弄ぶように隅々まで吟味する。

「うん、良く研いであるし、わざわざ手入れをしていただいたようだ。そういえば以前に山の民の方々が猿どもの死体を見つけたと御忠告してくださいましたな。その時に見つかったものですか」

「そうだよ。猿どもの死体に埋没しているのやら、何匹かの体を貫通して木の幹にぶっ刺さってたのを見っけたんだ。正直、人間技じゃないよ。熊が投げたってこうはいかない」

「百人力が父祖の代からの我が家の取り柄ゆえ、あれくらいは朝飯前。父など投げ刃で巨木三本を貫いてその先に居る妖魔の頭を吹き飛ばしたもの」

 少し照れたように視線を俯かせつつ、鬼無子は投げ刃を懐紙や油紙で包むでもなく、そのまま袖の中に仕舞いこんだ。
 鞘に納めるでもなく抜き身のままだから、少し動くだけで腕が血塗れになってしまいそうだが、それを忘れたというのではなくごく自然とした動作である。
 袖の中に留め具あるのか、あるいは刃をむき出しにしたままでも腕や指に傷一つ負うことなく操る技量があるということだろう。
 投げ刃を受け取った鬼無子は、そうだとばかりに一つ大きく頷いて、つんと澄ました顔のままのひなと、どうすればいいのかわからない、と顔面に大きく書いている雪輝にこう提案した。

「私ごとで恐縮ですが、それがしの散逸した荷を拾い集めてこようかと思うのですが、よろしければ道案内を頼めませんでしょうか? それがし一人では山の道に迷ってしまうでしょうからな。なに、荷と言っても女一人の旅荷ですからさしたる量ではありませぬ。出来ればこれまでの道中日記と投げ刃の残りを。叶うならば財布や薬を入れておいた印籠を見つけたいところですな」

 鬼無子の身体能力と剣技を合わせれば山の外側の妖魔など徒党を組んでも歯が立たないが、山の道行きばかりは如何ともしがたい。
 鬼無子一人では山そのものに化かされたように当所もなく彷徨い歩いた果てに、飢えと疲れに塗れて動けなくなるだけだろう。
 となれば鬼無子を一人で行かせる選択肢が、雪輝とひなにあるはずもない。ひなは無言のまま、雪輝も首を縦に動かしてから、おそるおそるひなに行動の許可を問うた。
 まるで頭の上がらない亭主が、肝っ玉の太い妻に許しを乞うような様子であったから、鬼無子は思わず噴き出しそうになるのを必死で堪える他なかった。



 どうしようかな、とひなは心中で一つ、溜息と共に零した。
 麦藁で編んだ帽子の下で良く陽に焼けた肌の上を、夜の闇から紡いだように深い黒の髪が、一筋二筋さらりと流れて落ちた。
 雑炊と塩漬け胡瓜、茸と野草の味噌汁の朝食を済ませ、鬼無子の提案に従って山中に散逸した鬼無子の荷を拾い集めに出向いている最中の事である。
 水をいっぱいに入れた竹の水筒と握った麦飯を入れた袋を腰帯に吊るし、道中で茸や木の実を入れるための籐籠を背負い、前後を雪輝と鬼無子、凛に挟まれながらとぼとぼと歩いている。
 すっかり歩きなれた濃厚な緑の匂いに包まれながら、先頭を行く雪輝がかき分け踏みしめて作った山道を歩き、ひなもまた滴るように濃い朝陽を浴びながら、雪輝同様に途方に暮れていた。
 鬼無子が雪輝を撫でくり回す光景を目撃してからずっと、口にはし難い感情が宿り木の様にひなの胸中に芽生えて、それを呑み込む事も無視する事も出来ずに今に至っている。
 ひなとても雪輝を困らせたくて困らせているわけではなく、むしろ普段通りに振るまって安心させてあげたいとは思っているのである。
 いつもどおりに声をかけて、いつもどおりにその毛並みを撫でて、いつもどおりに甘えて、いつもどおりにあのぬくもりに包まれたいと、切に心から願っている。これは紛れもなくひなの本音だ。
 しかしいつもどおりに接しようとするたびに朝の光景が鮮明に思い出されてしまい、伸ばした手は凍ったように動く事をやめ、開いた唇は言葉を紡ぎ出すのよりも早く閉ざされてしまう。
 許そうと――いや、そもそも自分は何を許そうと言うのだろう。雪輝様はただ好意で鬼無子さんに撫でさせていただけの事で、そこに自分がこんな態度を取るような理由は何一つないはず。
 どうして自分はこうも機嫌が悪いのか。
 それを解消するためにはどうすればよいのか。
 ひなもまた自分自身、かつてない経験にどう対処する事が正解であるのか、分からないのであった。
 表はつんと澄ましながらも途方に暮れていたひなにとって、鬼無子の外出の提案はいまの気まずい状況を変える切っ掛けになるかもしれないと期待を寄せるに値するものだった。
 だから、雪輝が機嫌を伺うようにひなに対して、行ってもよいと思うのだが、と恐る恐る聞いてきた時もそうですね、と答えたのだ。
 自分でも驚くほど冷たい言い方になってはしまったが。
 ひなの冷えた声音を聞いた時の雪輝の萎れた花の様な元気のない様子を思い出し、ひなは胸を痛める。
 本当に、どうしてあんな言い方をしてしまったのだろう。
 私は、いったい自分を、雪輝様を、鬼無子さんをどうしたいのだろう?
 それはこの世の何よりも答えを出すことの難しい問いの様に、ひなには思われてならなかった。
 自分の後ろを歩くひなの、どこか元気のない足音やかすかに零れて聞こえるため息を耳にするたびに、雪輝ははらはらとする自分の胸の鼓動を聞かざるを得なかった。
 現在、雪輝一行が歩いているのは雪輝の縄張りといっても過言ではない領域であるから、まずひなに危険が及ぶようなことはないが、それ以上に雪輝が心を砕いているのはひなの機嫌を良くすることである。
 だから、時折食卓に並ぶ茸や山菜を鼻と目で見つけては欠かさずその存在を告げ、夏の光を満身に浴びて咲いている花や、木の枝の上で団栗を齧る栗鼠の姿などを教えて何とか機嫌を取りつくろうべく、この図体ばかりが大きい狼なりに努力していた。
 そんな雪輝の様子を、最後尾を歩く鬼無子は童の様に手探りで何とかしようと努力する雪輝を、実に微笑ましく思いながら見守り、凛は口をへの字に曲げてみている。
 自分がさんざか執着し、鍛冶衆として受け継いだ技術と持てる技量や知恵の粋を凝らして戦った狼がこれか、と過去の自分がどうにも滑稽というか哀れというか、憤懣やるかたない気分にさせられるからだ。

「うちのさ、連中の何人かはあのでかい狼の事をちょっと崇拝しているんだけどさ」

「ふむ」

 鬼無子は一つ頷いて続きを促した。愚痴の一つも零したくなるのだろう、と同情しているらしかった。山の民と雪輝との関係については既に耳にしている。

「いまのあの馬鹿は見せられないよ。いやむしろ現実を見せて眼を覚まさせた方が後々為になるのかもしれないけれど、なんだか、ね」

「なに、いざとなればとても頼りになる方であるのは間違いない。それがしも色々な剣士や呪術士は言うに及ばず、妖魔、怨霊と目にしてきたが雪輝殿は上から数えた方が早い。そのような方が人間に好意的であるというのは、僥倖であろうよ」

「まあねえ。前に居た狼の妖魔が性悪ったらありゃしなかったからねえ、その分、村の皆もお人好――お狼好しっていうのか、あいつの事を好意的に見てんだけどさぁ」

「雪輝殿からすればただ在るように在るだけゆえ、どう評価されてもご本人の性情は変わらないだろう。いまさらそれらしく振る舞えと言った所で変わる方でもあるまい」

「気にするだけ損か……」

 はあ、と大きく息を吐く凛の左肩を軽く叩いて、鬼無子はあっはっはっは、と笑う。聞かされる方の気分も晴れるような元気のよい笑い声であった。
 つくづく陽性な気質に生まれついているらしい。得な性分というほかない。
 山など険しい環境の中を歩くときは、もっとも歩みの遅い人物に合わせるという鉄則を知っているのかいないのか、雪輝の歩行速度はひなに合わせている。
 しきりにひなに声をかけ、体調の変化や見つけた山菜の報告に余念のない雪輝は、これ以上ないというくらいに甲斐甲斐しく、世話女房という言葉を世話狼に変えねばならないというほど、細やかな配慮を見せた。
 小屋に籠ったままでは腫れものに触れるような扱いでしかひなに接しないままであったろうから、鬼無子の提案もまるで間違いだったというわけではないようだ。
 そんな雪輝の様子を見るに、ひなも心中で蟠りよりもそこまでさせてしまっている申し訳なさの方が勝ってきたようで、少しずつ態度を軟化させる前兆の様なものも見受けられ始める。
 もともとひなとて雪輝の事を大切に思っているのだから、その相手にこうまで丁重に扱われれば、固くなっていた心の一部を軟化させるのに大して時間はかからない。
 そうして歩いているうちに、鬼無子が魔猿との闘争行を行っていた一帯に到着し、仔細に周囲を見渡せば魔猿達の血痕や激闘の名残が、ちらほらと見受けられるようになる。
 両手を広げた大人が三人がかりでようやく囲めるくらいの巨木や、苔むして緑色に変わった岩石の一部に、黒く変色した血や千切れた魔猿達の黒い毛、鋭い爪跡や叩き込んだ巨拳の痕がむざむざと残されている。
 流石に死体はすべて片づけられ、その妖気籠る毛皮や骨、牙を山の民が加工して自分達の武具や防具に変えているのだろう。
 雪輝が鼻をすんすんと鳴らし、森のどこかに残る鬼無子の残り香を嗅ぎはじめる。既に日が経ち、草花や石木、兎や猪に鹿といった獣の匂いが立ち込める中、どこまで雪輝の嗅覚が役に立つかどうか。
 鬼無子としては本来、雪輝とひなの間に走っている緊張をほぐす事を目的として今回の探索行を提案したので、別に荷物が見つからなくても構わないと思っている。
 まあ、道中日記くらいは見つけたいのが本音ではある。
 鼻を四方に動かしていた雪輝が、不意に左前方の巨木の根が絡まり合って瘤状になっている場所まで歩き出す。
 鬼無子の匂いがそこからするということに違いない。

「これは、確か印籠というものだったか?」

 根のあたりに顔を突っ込んでいた雪輝が口に咥えて持ってきたのは黒い漆塗りに赤い下げ緒の可愛らしい印籠である。
 多少土に汚れてはいたが蓋が外れるような事もなく、下げ緒が半ばから千切れているだけで済んでいる。
 雪輝の口から印籠を受け取り、鬼無子は早速見つかった事に対して、意外そうな顔を拵えた。

「ええ、確かに。いやいや、よもやこれほどあっさりと見つかるとは。雪輝殿の鼻をいささか侮っていたようですね。ありがとうございます」

 嬉しそうに印籠を眺めていた鬼無子は、懐に印籠を入れるや小さく頭を下げて雪輝に謝意を述べた。
 人の役に立つ、というのが嬉しいらしく、これまでしょぼくれていた雪輝の尻尾が、ぱたぱたと左右に揺れた。相も変わらず感情を隠さぬ素直な狼である。

「匂いが薄れてはいるが、なんとかなる。まだいくつか匂いがするから拾い集めに行こう」

 すん、と一つ鼻を鳴らし、雪輝が周囲をぐるりと首を巡らして見回して、黒松露をはじめとした茸類、山菜でいっぱいになった籠を背負っているひなで視線を止める。
 ひなの返事を待っているという事なのだろうが、その内心は、初めての恋を告げる少年のような不安に襲われているのだろう。
 じぃっと真摯な青い瞳で自分を見つめる雪輝を見つめ返し、ひなはふっと肩の力を抜いた。
 小屋を出てからずっと自分に構い通しだった雪輝の懸命な姿を見ていると、改めて自分がどれだけ大切に思われているかという事が、身に沁みてよく理解でき、それに対して自分が雪輝に対して取っていた態度が、なんとも愚かしく思える。
 こんなに私を大切にしてくださる方に、私はなんてことをしていたのだろう。
 出会った時など、食べられる覚悟さえしていたというのに、自分が構ってもらえず鬼無子とじゃれ合っていたからと言って、なにを不満に思う事があるのか。
 ようやくそう思う事が出来たひなは、雪輝へ謝罪の意識も込めて彼の好きな笑みを浮かべながら、返事をした。

「はい、雪輝様」

「!」

 春の訪れを待っていた蕾も、思わずつられて花を咲かせるような暖かなひなの笑みと声に、雪輝は瞬時に反応を示した。
 ようやくいつもどおりに返ってきた返事をたっぷり数秒かけて耳の中で反芻させてから、尻尾が根元から千切れてしまいそうな勢いで左右に振り振り、浮足立つような歩き方でひなのすぐ傍まで寄る。
 この世の幸せという幸せに身を浸しているような浮かれ具合である。それだけ、ひなの事が大切なのだ。

「うむ、足元には気を付けるのだよ」

「はい」

 鼻先を寄せてきた雪輝の頬や首筋を赤子をあやす様に撫でながら、ひなは本当に申し訳ないと、目元を伏せた。

「申し訳ありません、雪輝様。私、自分でもどうしてあんな風に雪輝様に冷たく接してしまったのか、分からなくて」

「いや、ひなに落ち度はあるまい。私も何が理由であったか今一つ分かっておらぬのだが、これからはひなの機嫌を損ねるようなことはせぬように心掛けよう。だから、もう謝りなどしないでおくれ」

 はい、と返事をしながら、ひなは雪輝の白銀の毛に包まれた首筋に顔を埋めた。
何もしなくても汗が滲み、珠を結ぶ季節であったが、言ってしまえば毛むくじゃらである雪輝に抱きついても不思議と熱さを感じるようなことはなく、むしろ夏の熱気が退いて程よく過ごしやすい具合になる。
 そうして昨夜以来の雪輝のぬくもりと存在をじっくり全身で確かめてから、ひなはゆっくりと身体を放した。その顔からこれまでの強張りや冷たさの影が綺麗に消えている。
 ひなの三倍、四倍はあろうかという巨大な狼が、自分の腹にも届かないような少女の心次第でこうも機嫌を上下させる様子に、口を噤んで見守っていた鬼無子と凛は顔を見合わせて肩を竦めるきりだった。
 ひなの機嫌が元に戻り、こちらも機嫌をよくした雪輝はそれはもう張り切った。
とても張り切って鬼無子の荷物捜しに精を出し、鬼無子が到底見つかるまいな、と諦めていた品々を次々と探り当てて見せたのである。
 薄汚れて読めない所のある道中日記や、幸い無事であった財布、魔猿どもを牽制し殺傷するのに使用した投げ刃などなど。
 これには鬼無子も目を丸くして、ひなに構ってもらえた時の雪輝殿は侮れん、と妙な方向に感心しきっている。
 あらかた鬼無子の荷物が見つかり、周囲の茸なども取り尽くしてひなの籠が一杯になった事もあり、雪輝は鼻をひくつかせる作業を止めた。

「鬼無子の匂いはもう無さそうだが、もう少し捜すかね?」

 持ってきた風呂敷に荷物を包み、片手に提げた鬼無子は風呂敷を掲げてうっすら笑みを浮かべながら首肯する。
 探索行は提案者である鬼無子の予想を大きく上回る成果を上げていた。これ以上欲張る必要はないと思うには十分だ。

「いえ、もう十分でございますよ。わざわざご足労を戴き、鼻まで貸していただいた甲斐があったというもの。まこと、感謝に堪えませぬ」

「大仰な物言いだな。そこまで言われると照れてしまう」

 と喜びの感情を隠さず目元を細める雪輝の様子に、鬼無子はひなとの仲直りの方も思った以上にうまくいったものだと、ほっと安堵の息を一つ。
 その後ろで、ひなと一緒に家族への土産代りに山菜取りに精を出していた凛が、暑いな、と熊皮の胸元を開いては閉じて風を入れているのと、汗の珠を浮かべてふう、と息を吐くひなの様子に気づいた雪輝が口を開いた。

「この先に滝壺があるから、そこでひとまず汗を流し涼んではどうだ? ここらの地脈の溜まり場の一つでね、ただいるだけでも英気を養う事が出来る。昔は私もよく足を運んだものだ」

 妖魔の血を宿す体質ゆえか、鬼無子は汗を流す様子も疲れも見せてはいなかったが、そこは武に生きるものとは言え女性なのか、雪輝の提案に賛同する。

「それはいい。それがしは諸手を挙げるとしましょう」

「ふーん、ここらは昔っから大狼がいたせいであたしらもよく知らんからな、ちょうどよい機会かな。案内されてやるぞ」

 と胸を張りつつどこか偉そうに凛が言えば

「雪輝様のお気に入りの場所ですか? 私、行ってみたいです」

 ひなが汗を流すよりも雪輝のお気に入りの場所を知っておきたい、といういじらしい様子で賛同する。

「では満場一致ということで、行くか」

 提案が了承されて、よかったよかったと内心で何度も首を振りつつ、雪輝が肢の向きを変えて歩き出した。



 雪輝が案内した滝壺は幅三間(約五・五メートル)、高さ五間(約九・一メートル)ほどで流れ落ちる最中、突き出た岩にぶつかってあちらこちらで大きな白い牙を剥き、雪の様に白い水飛沫が霧となって辺りに漂い、幽玄の趣をかもし出している。
 辺りに轟く音は落雷を思わせるほど強く、大きく、そして重い。
 轟々と流れ落ちる水流のど真ん中には岩が突き出ている事もなく、流れが緩和されていない。その遮る物の無い叩きつけるかのような水流を浴びる人影が一つ。
 鬼無子である。
 頭上から勢いをわずかも損ねることなく流れ落ちてくる水流を、目をつむり臍の前で指を組みながら全身で浴びている。水の打撃はゆうに六十斤(約百キロ)を超しているだろう。
 水垢離の修行の様相ではあるが、その全身に叩きつけられている水の質量を考えればこれがいかに凄まじい荒行かが分かるというもの。
 その身には愛刀崩塵はもちろん寸鉄も帯びておらず、筒袖や野袴はおろか下履きも身につけていない全裸姿であった。
 白い裸身には妖魔を討つ職にあったという前歴にも関わらず戦傷ひとつなく、また女の一人旅という危険な旅路を長く歩んできたにもかかわらず、淫らなまでに豊かな身体を覆っている凝肌は、自ら輝くかのように眩い光沢を持った絹を肌と変えたかのようだ。
 大口を開けて頬張ってもまだ足りぬほど育った乳房の張りは、ただ若さに支えられているというだけではないだろう。
 大滝の洗礼を一身に浴びながらも形が潰れる事も垂れる事もなくツンと上を向いて、その豊かさを誇っているかのようだ。
 余す事なく濡れそぼった栗色の髪は淫魔の伸ばす腕のごとく、ぬらりと白い雌脂を滲ませる白桃の様にまろびやかな曲線を描く尻にも、乳房と尻を支えるには頼りないほど華奢な腰にも絡みつき、苛烈な修行に挑む鬼無子は、人ならぬ妖が気まぐれに姿を見せているかのような幻想的な妖美さであった。
 紅唇を一文字に結び、言葉を紡ぐでもなく滝行に身を置く鬼無子の前方では、鬼無子同様に生まれたままの姿を惜しげもなく晒しているひなと凛の姿がある。
 二十歳にもならぬ若さにもかかわらず、男の欲望を幾人も受け止めてきた熟れた女の様な肢体を誇る鬼無子に比べると、こちらの二人はいかにも年相応の起伏に乏しい線を描く細身である。
 山の獣や妖魔との命がけの戦いや鍛冶衆として火を扱い、鎚を振るう力仕事に幼いころから従事しているせいか、凛の身体にはそここそに白い線と変わった切り傷や治りきる直前の小さな火傷の痕などが見受けられる。
 掌にすっぽりと収まる程度に膨らんだ控えめな乳房から、慎ましいへそを経由してカモシカの様に引き締まり伸びるしなやかな太ももからきゅっとすぼまった足首に至るまで、見惚れるような流麗な線が描かれている。
 気を抜く事を許されぬ厳しい山の生活の日々は、凛の二の腕や腹筋にうっすらと筋肉の筋を浮かび上がらせ、この少女の体が野生の獣のように鍛え抜かれたものであることを言葉なしに物語っていた。
 凛が伸ばした両手を掴んで、ひなはぱしゃぱしゃと両足で水を蹴っていた。凛の手を借りて泳ぐ練習をしているようだった。
 凛が臍まで透き通る水の中に沈めて、慎重に滝底のぬめりを帯びた石に足を取られぬように気を使いながら、ゆっくりと後ずさってひなを引っ張っている。
 普通の村娘でも近くの沼や川で水遊びの一つもしていれば、泳ぎくらいは覚えていたかもしれないが、ひなの場合、その様に遊ぶ余裕などない生活を送っていたし、近年襲い来た旱魃の影響でそもそも遊び場となる沼や川が残らず干上がってしまったために、泳ぐ機会に恵まれなかったのだ。
 恥ずかしげに泳げません、と告白するひなに、あははは、と笑いながら凛は快く泳ぎ方を教えてやると告げて、こうして手を引いているのである。
 ひなの背の半ばまで届く漆のように深い黒髪は、滝の流れに揺られて一筋二筋と束になりながら、ゆらゆらと川面に揺れている。
 普段野良着や小袖の布地に隠れて陽を浴びていないお腹や太ももと、露出している顔や腕とが綺麗に色分けされていて、実に健康的である。
 もっとも、当のひなは白黒はっきりと分かれて日焼けしている自分の体を恥ずかしがったようではあったが。
 片手で簡単に掴めるようないかにも青い果実を思わせる小さな尻と膝から先を、時折川面に浮かばせながら、ひなは必死に顔を出して息を吸いながら足を動かす。

「そんなに急いで足を動かさなくていいぞ。あたしが引っ張ってるから沈んだりはしないんだから、まずはゆっくりと足を動かして浮く事を考えな」

 言葉にして返事をする余裕がないようで、ひなは小さく顎を上下させるので精いっぱいの様だった。村の年下の子と遊ぶのと同じ要領で、よくひなの面倒を見ている凛の様子を、残る雪輝が眼を細めながら見守っていた。
 青い月光を凝縮したかと見紛う美しい瞳は、愛娘や可愛くて仕方のない妹を見守る父か兄のようであった。
 滝壺の周囲はおよそ五十坪ほどの平坦な空間が広がっており、そこから先は牢獄の格子の様に整然と織りなすブナや楢といった巨木が広がっている。
 白銀の巨狼は滝壺の淵にある大岩の上に蹲って、三人が思い思いに水遊びを楽しんでいる様子を見守っていた。
 直径三間、高さ二間(約三・六メートル)ほどの花崗岩らしい巨岩である。
 近隣の地脈の溜まり場の一つ、と雪輝が口にしたように妖哭山に点在する地脈の力が噴き出す場所の一つであり、天地の気を血肉とする雪にとっては食事場所と言い換える事もできる。
 巨岩の上で蹲っているだけでも細胞の一つ一つに天地万物の気が充溢されてゆき、雪輝の全身に力が漲ってゆく。
 ひな達が気分良く水遊びに興じている様を見守り、心身ともに満足のゆく状況に、雪輝の緊張の糸は緩みに緩んでだらけ始めていた。

「おーし、曲がるぞー」

 こくこく、と頷くひな。端までたどり着いた凛がゆっくりと弧を描いて反転し始める。と、そこに横合いから良く冷えた水がばしゃりとかけられて、凛とひなを全身濡れ鼠にした。

「うわっ!?」

「わわ!」

 慌てた凛が手を放し、ひなが頭の中を混乱させながら必死に溺れまいと手足をばたつかせる向こうで、いつのまにやら滝行を切りあげていた鬼無子が、両手を大きく広げた体勢でにやりと笑う。
 横合いから凛たちを襲った水は、鬼無子が掛けたものだったらしい。
 普段の凛然とした様子は影を潜めて、今年十七になるという少女らしい遊び心を前面に出した顔をしていた。
 手足をばたつかせたものの落ち着けばちゃんと足が立つと気付いたひなと、このぉ、と生来の負けん気を出した凛が果敢に反撃に出た。
 二人がかりで計四本の腕を精いっぱい動かして、鬼無子に水飛沫の反撃を開始しはじめる。
 三人の少女の弾むような声が滝壺に木霊し始めるのに、さほど時間はいらなかった。
 柳の木のようにしなやかな鬼無子の腕が動くたびに、鞠のように大きく揺れ弾む乳房を、ささやかに震える掌大の凛の胸を、そして全く揺れる余地のない気持ちの良い平原の様なひなの胸元を見比べつつ、雪輝はふうむ、といかにも感心しています、という調子で頷く。
 千人万人の賢者が挑んで解き明かせなかった謎を解き明かしたような、感心の仕方である。この狼、わりとどうでもよい事をまるで世界に誇れる偉業の様に受け取る傾向にあるから、まあ大した事に感心したのではないのだろう。
 ひとしきり水を掛け合って十分に楽しんだ三人が、ふと、なにやらうむうむ頷いている雪輝の姿に気づいて、三人そろって視線を雪輝に集中させた。
 代表してひなが口を開く。素朴な疑問といった口調である。

「雪輝様、どうかなさいましたか?」

「うむ、見ていて思ったのだが、まず、大」

 と口にしながら鬼無子を見る。ぴしり、と鬼無子の美貌に罅が走った。

「そして、中、小」

 続いて凛、ひな、と順番に見つめながら口にする。大中小と鬼無子・凛・ひなの順になるらしい。
 背丈の事か、とひなと凛が自分たち三人を見比べて納得する中、ぱしゃ、という水音が二人の背後でして、波紋が二人の身体に触れた。
 背後を振り返れば鬼無子が両腕で乳房を隠しながら首まで水の中に沈ませていた。両腕を使ってはいるが、乳房が大きすぎて隠しきれず白い乳肉がはみ出している。
 夏場でも冷たく感じられる水に体を沈めているにも関わらず、鬼無子は首から耳まで朱に染めてどこか扇情的な艶姿に変わっている。
 鬼無子のその反応に、凛がんん? と眉を顰めた。背丈の話というにはどうにも鬼無子の反応はおかしい。
 同性である凛から見ても感嘆するほかない大きさと張りと形のよさを誇る胸を、隠しきれていないがそれでも隠そうとしているのはなぜだ?
 とそこまで考えてから、稲妻の様な衝撃が凛の脳裏を走る。大中小と口にした時に雪輝が見ていたのは、はたして自分達の全身を見てのことだったろうか。
 いや、あの阿呆狼が見ていたのは――

「っ!!」

 瞬時に怒りを頭に上らせた凛は、自分も鬼無子にならって鬼無子と比較すると悲しくて仕方がない胸を隠しながら、水の中に体を沈める。
 ひなは何が何だか分かっていない様子で突っ立っていたので、右腕を掴んで引きずりこむように水の中に引っ張り込む。
 ひなが顔に疑問符をいくらも浮かべていたが、それには構わずに凛は大声で雪輝を怒鳴りつけた。一瞬、滝壺の轟音もかき消されたかと錯覚するほど迫力に満ちた一声であった。

「おい!!!」

 雪輝は、明らかに怒りを――それも特上の――込めて自分を怒鳴りつけた凛に、丸く見開いた目を向ける。雪輝は凛の背後に紅蓮に燃ゆる炎を幻視した。
 私はまたなにかやらかしたのか? と雪輝は凛と鬼無子が妙な反応をしている事に気付き、尻尾を丸めた。
 今朝がたひなの機嫌を損ねたばかりだというのに、同じような過ちを起こした自分が情けないやら悔しいやらで、雪輝は申し訳なさを全身から漂わせる。
 雪輝にとってせめてもの救いはひなが凛の様に怒っているわけではないことだろう。

「なんだ?」

 言葉短く凛に問う雪輝の言葉は弱々しい。自分の立場が極めて危ういものであると理屈では分からなくても、本能的に理解していたからだろう。

「おおお前、ちょ、ちょっとこっち来い」

 果てしなく嫌な予感が雪輝の胸中で擡げていたが、あまりの怒りに震える凛の声の迫力には逆らえず、雪輝は素直に寝そべっていた巨岩からひらりと舞い降り、毛皮が濡れるのも構わず水の中に足を進めて行く。
 ざぶざぶと水をかき分ける音は、一歩一歩の歩幅が大きいせいかそう長くは続かなかった。凛の手前で足をとめた雪輝を見上げながら、凛はこめかみと頬を引くつかせながら口を開く。

「目ぇ……瞑れ」

 これはただでは済まんな、と雪輝は覚悟を決めた。ひなは凛の漂わせる怒りの気に飲まれて、おろおろとするばかりだし、鬼無子は凛と同意見なのか首まで水に沈めたまま事の推移を見守っている。
 凛の言葉に従って瞼を下ろして目を瞑った次の瞬間、雪輝の脳天を強い衝撃が襲った。凛が振り上げた右の拳を、全力で雪輝の脳天に叩きこんだのである。
 雪輝は、ぎゃん、とイヌ科の生き物らしい声を一つ上げて痛みに耐えた。

<続>
PV20000突破ありがとうございます。暑い季節が続いていますが、皆さんお体にはお気をつけ下さいね。それではまた次回。感想をいただけるとありがたいです。



[19828] その四 武影妖異
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/12/22 08:49
その四 武影妖異

「ぬう、なぜだ?」

 と、雪輝は器用に右の前肢の肉球で、凛に拳骨をもらった額のやや上の辺りを撫でていた。
 衝撃を劇的に吸収する毛並みが拳骨の威力を大幅に減殺していたので、痛みは残っていないし、瘤ができた様子もないが、多少じんじんとする感覚が残っている為、ついつい撫でてしまっている。

「知るか、自分で考えろ。この馬鹿、阿呆、間抜け、図体しか取り柄のない木偶の坊めが」

 耳を前方に倒しながら悩む雪輝の呟きに、凛は呵責ない言葉の羅列で答えた。そんな一人と一匹を、きっちりと衣服を着込み終えて、長い髪に絡みつく水の名残を拭き取りながら、ひなと鬼無子は苦笑と共に見守っていた。
 結局ひなは雪輝が何を指して大中小と語り、凛がその言葉のどこに怒りを覚えたのか分からなかった様子で、拳骨をもらった雪輝の心配ばかりしている。
 せっかく自分の心の中の葛藤に折り合いをつけて、雪輝と仲直りをしたばかりだというのに、今度は凛の逆鱗に触れてしまって、ひなの心は落ち着く暇がない。

「さ、もういいだろう」

「はい、ありがとうございました」

 持ってきていた手拭いで自分とひなの髪を拭い終えた鬼無子が、雪輝に助け船を出した。
 三人の乳房を比較して大中小などとのたまった雪輝であるが、そこに肉体的特徴を揶揄する意図や、情欲が無い事は分かりきっている。
 時に妖魔の中には人間と情交を交わす事に異様な快楽を得て執着するものや、性行為そのものを存在意義とする淫魔と呼ばれる種がおり、国のあちらこちらで妖魔と人間との合意非合意を含む婚姻の話が伝わっている。
 そういった実例が存在する以上、狼の形状をしているとはいえ雪輝が人間相手に肉の欲望を抱かないとは限らない。
 が、寝食を共にして過ごした数日間の様子を見る限りにおいて、雪輝にその様な性質が無い事を、鬼無子は既に理解していた。

「凛殿ももうその辺で勘弁して差し上げてはどうか? 雪輝殿がいささか軽率であった事はそれがしも否定せぬが、悪意あっての事ではないよ」

「ふん、所詮犬畜生の姿をしている妖魔だから、と気にしないでおいたらふざけた事言いやがって。次に同じようなふざけた事をその長い口から吐こうもんなら、今度は拳骨一発じゃ済まさないからな!」

 有言実行、まさに凛の気迫がそれを伝えている。口にしたとおり、雪輝が今回と同じように凛の逆鱗を毟る言動をしたら確実に血が流れる事態になるだろう。
 凛と雪輝のどちらが血を流すにせよ、ひなを悲しませるのは間違いないから、雪輝は首を縦に振るほかない。
 良くも悪くもこの狼の最優先事項にはひなの存在が煌々と輝きを放っており、自分の命を疎かにするのはもちろん、それが他者にも及ぶ傾向がある。

「どうして私はこう、怒らせるつもりはないのに怒らせてしまうのだろうか?」

 捩じ切らんばかりに首をひねり、人生最難関の難題に挑む口調で雪輝は深い深い悩みを伴うが、ひどく底の浅い疑問を口にする。
 確かに雪輝にいわゆる悪気というものは砂粒一つほども存在していないのだが、口にして良い事と悪い事、それを告げる相手、場所、時間というものを判断する力がいかんせん欠乏している。
 ひなとの暮らしの日々も二週間を超えているが、雪輝と同様にまともな人間としての扱いを受けた時間の短いひなとの生活であるから、その間に経験した事は必ずしも豊かとは言い難い。
 無論、これまで孤独に生きた雪輝の灰色の生活と比べれば、ひなとの暮らしは世界がどれほど鮮やかな色を持っているかと感嘆するほど彩りに満ちたものである事は、紛れもない事実である。
 手製の麦藁帽子を頭に乗せたひなが、すっかり肩を落として消沈している様子の雪輝の前のまでちょこちょこと歩み寄って、俯く雪輝の頬を小さな手で挟み、まっすぐに瞳を交わして慰めの言葉を口にする。

「元気を出してください、雪輝様。怒らせてしまったのなら素直に謝って仲直りをしましょう。私と雪輝様だってもう何時も通りに仲直りできましたでしょう? 凛さんもちゃんと謝れば許してくださいますよ」

「そうかな?」

「はい」

 にこやかに笑って保障するひなに勇気づけられたようで、雪輝は怒り心頭といった様子を隠さずに振りまいている凛へ目を向ける。
 傍からその様子を見ていた鬼無子は、やはり雪輝殿はひなに励まされるのが何よりの薬と見える、と一匹と一人の間に繋がっている絆の太さと強さを見て、うむうむと我が事の様に喜びながら頷いていた。

「凛、私が要らぬ事を口にしたばかりに君の機嫌を損ねてしまい、まこと済まぬ。この通り謝罪する」

 そっぽを向いて耳だけ雪輝の言葉に傾けていた凛は、ちら、と振り返った先で頭を下げている雪輝の姿を認め、数瞬の間を置いてから長く重い溜息を吐きだした。
 こうも素直に頭を下げられては怒りの矛を収めずにいる自分の方が理不尽な頑固者の様だ。
 素直な雪輝の謝罪に加えて、雪輝の首筋を優しく撫でているひなもまた凛に向かって真っ直ぐな瞳を向けており、これ以上怒りの虫を腹の中に貯めておく気力は、到底振り絞れそうにない。

「ここで折れなかったらあたしの方が悪者じゃないか。ああくそ、もう怒鳴りゃしないからさっさとその毛むくじゃらの頭を上げろ。お前一匹ならともかく、ひながくっついているとどうにも調子が狂っちまう」

 なかば自棄なのか、凛はまだかすかな湿り気を帯びている髪に手を突っ込んで荒っぽくがしがしと掻く。
 元から雪輝のどこか感性のずれたゆるい性格と凛とでは相性が良いとはお世辞にも言えず、調子を狂わされるものがあったのだが、こちらの心の奥深い所を見抜いているようなひなの瞳も一緒となると、これはもう完全にお手上げになる。

「気にするだけ損と思ったら今度は怒り損か。あたしが損するばかりだ」

 とはいえ納得がいっているわけではなく、凛は髪の毛を布で纏めつつ、辺りを憚らぬ声で愚痴を零す。
 これは確かに凛の言う通りの事なので、鬼無子は苦笑し、ひなと雪輝はなんのことやらと顔を見合わせている。まこと、凛は自身が口にした通り損するばかりの性分と運命に在る様だった。

「ほら、凛さんも許してくれましたよ」

「ううむ、あの様子はまだ怒りの矛が収まりきってはおらぬように見えるが」

「そのうちに収めてくださいます。ですから雪輝様はこれ以上凛さんを怒らせないように気を使いましょうね。私も出来うるかぎりお手伝いいたしますから、ね? それとも、私の様なものでは何のお役にも立ちませんか?」

 ちょっとずるいかな、と自分でも思うひなの言葉に、雪輝は雷に打たれたように反応して見せた。
 ずずい、とひなに向けて顔を突き出して慌てたように首を左右に振るやいなや、ぶん、と千切られた風がひなの頬を優しく撫でた。

「とんでもない! ひなが役に立たぬなどと私は口が裂けても言わぬし、心臓を抉られても言わぬ」

「それはよろしゅうございました。私、雪輝様に大切にしていただけて大変嬉しく思います」

「ああ。とにかく凛の機嫌を損ねぬように善処いたそう」

 またひなの自分自身を嘲り軽んじる悪い癖が出たのかと慌てた雪輝は、実際には半ばからかう気持ちでいたひなの言葉に、ころっと騙されて安堵の息を吐きながら、応じた。
 どうも雪輝の扱い方をひなが理解し始めた事によって、両者の力関係をあらわす天秤は大きくひなの方に傾き始めているようだ。
 とりあえずは怒りを腹の中に飲み込んだ凛と、一人と一匹で頷き合っているひなと雪輝の様子からひと段落ついたと判断した鬼無子は、腰帯に鉄鞘におさめた崩塵を押し込み、風に靡く栗色の髪を結える。
 青く染めた絹の組紐をたおやかな十本の指が器用に操り、一本一本が最高級の絹糸のように細く美しい髪を束ね終える。

「さて、ちょうどお天道様も真上にくる時刻の様ですな。それがしの目的は果たしましたが、後は小屋に戻るばかりですかな?」

「そうだな。このまま川の流れに沿って下れば、いつもひなと水汲みや洗濯に使っている場所まで行けるから、今から向かえば四半刻(約三十分)ほどだから昼の支度をするよい時刻になるかな」

 首を上向けて目を細めながら青く晴れた空に浮かぶ太陽を見詰めた雪輝が、そう呟く。鬼無子の荷物拾いは存外に予想より早く終える事が出来たものの、その後の滝壺での水浴びで少々時間を食ってしまった。
 顔を戻した雪輝は、鬼無子、凛の順で視線を交わし、口を動かさずに無言の意を通じ合わせた。ひなのみが気づいていない何かがあるらしい。
 無言の会話を終えて言葉を発する先鋒を担ったのは鬼無子であった。腰に差した崩塵の具合を確かめるように数度動かしながら

「ふむ、しかし、ここは雪輝殿の仰るように天地の気が澄んでおりまするな。それがし、もうしばしここで素振りなどしていきもうす。皆様方は先にお戻りくだされ。戻りの道は先ほど雪輝殿が仰りましたように、迷い様がございませぬしご案じめさるな」

 と口にする。どこにもおかしな様子はなく、気持ちの良い場所で素振りをしよう、と本当にそう思いついたようにしか見えない。
 雪輝は鬼無子の言葉に承服しかねるものを感じたのか、かすかに白銀色の眉間に浅い皺を刻むが、それぞれの役割を冷静に判断した凛が鬼無子の意見を後押しした。

「帰り道は心配ないってんだし、あたしらはひなを連れてさっさと小屋に戻ろうよ。鬼無子さんが迷子になりゃしないかって気にすんなら、小屋にひなを置いてから鬼無子さんの所に向かえばいいしよ」

 凛の後押しに雪輝は、ん、と短く一言。白猿王の一派の襲撃を受けた際に鬼無子が冥府に半歩足を踏み込み、瀕死の重傷を負った姿が脳裏にちらついて離れないのだ。
 そのような事態になりかねないなにかが、滝壺の近くで息を潜めて雪輝達の動向を見守っているということなのだろうか。
 これまで重要な時に判断を誤ってきた雪輝は、心細げな瞳を幼い弟を宥める優しい姉の様な微笑を浮かべている鬼無子に向ける。
 自らの判断を誤り鬼無子を失うかもしれない事への不安と、鬼無子の身の無事を案じる心配の色がいまにも瞳から溢れだしてきそうな雪輝の両眼を、鬼無子は見つめ返した。

「なに、傷はもう癒えてございますし、それがしの身一つなれば猪や熊の群れと出くわしても、一刀を浴びせて追い払って見せましょうぞ。重ねて申し上げまするが、ご案じめさらぬよう」

 あまり時間が無いという事なのか、鬼無子は有無を言わぬ力を込めて雪輝に行動を促す。それからまたしばし見つめ合い、ひょう、と風が一つ強く吹いた時、先に折れたのは雪輝であった。
 やるせなさそうに大きな首を左右に振ってから、その場で腹ばいになる。

「鬼無子を一人で置いてゆくのは心細いが、それが望みであるなら尊重するほかあるまい。凛、ひな、私の背に乗りなさい。万に一つ、迷子になるかも知れぬから、小屋に二人を届けたらすぐに鬼無子の所へ行く事とする。よいな?」

 こればかりは譲らぬぞ、と今度は雪輝が揺るがぬ意志を秘めた瞳で鬼無子を、次いで凛を見つめる。
 三人の間で言外になにかが論議されている事に気づかぬひなは、やけに雪輝様がごねていらっしゃるなぁ、と普段の物分かりの良い雪輝とは程遠いやりとりにか細い小首を傾げていた。

「では一刻も早くそれがしを迎えに来てくださるのを、首を長くして待つとしましょう。ひな、済まぬが風呂敷を持って行ってはくれぬかな?」

「はい。構いませんよ。大事にお預かりいたします」

 差しだされた風呂敷を受け取ってから、ひなは雪輝の長く広い背に跨り、さらにその後ろに凛が乗り込む。
 対峙して命のやり取りをした経験こそあるものの、雪輝と穏やかな直接的な接触をした事のなかった凛は、触れるどころかまさかその背中に跨る事になるとは思っていなかったようで、おっかなびっくり雪輝の背に足を伸ばした。

「お、おお。結構良い毛並みしているなお前」

 鬼無子を魅了した極上の“もふ”っとした感触に、思わず凛が頬を緩めながら感想を零す。
 普段ならありがとうの一つも返す雪輝であったが、事情が事情だけに今回ばかりは素っ気ない返事になった。

「それはどうも。さて、ちゃんと落ちないように掴まっているか? 思い切り掴んで構わん。まとめて十本二十本を根元から引っこ抜かれても半日もすれば生えてくるからな」

「お前、けったいというか便利な身体しているんだなぁ――――」

 呆れているような感心しているような凛の声は、尾を引いて後方へと急速に流れた。
 ぐん、と急加速によって加えられた力によって、凛の上半身がのけぞり、慌てて雪輝の背中の毛を纏めてひっつかみ、両足に力を込めて雪輝の胴体を挟み込んで落下を防ぐ。
 二人の着席を確認した雪輝が、改めて確認する間も惜しいとばかりに即座に足を動かし始めたためである。
 最初の一歩から風の邪神に攫われてしまったかのように速く、ひなと凛の視界は見る間に水で溶いた絵の具の様にゆるく後方へと流れて行く。
 雪輝の速さに慣れていたひなは驚くよりもむしろ楽しんでいる様子だったが、初体験の凛は同時に走りだした駿馬もはるか彼方においてゆく雪輝の健脚に驚いたようで、開いた口を閉じる間もない。
 白銀の風と変わった雪輝は一瞬とも言えぬ短い時間、毛並みを風になびかせながら背後を振り返ると、こちらに軽く頭を下げる鬼無子の姿が見えた。
一匹と一人の瞳が交差し、鬼無子の瞳に変わらぬ意志の強さを見つめて、雪輝はさらに肢の動きを速めた。
 鬼無子と凛と雪輝が気づいた悪意ある気配は、妖魔というには妖気に薄く、野の獣というには悪意に満ち溢れ、その正体を断ずることは雪輝にはできなかった。

(傷の癒えた鬼無子が遅れを取る様な相手はこの山にもそうはおらぬが、しかし、内側の妖魔どものどの気配とも異なるものだった事が唯一不安だな)

 あの気持ちの良い剣士を失ったのかという思いは、白猿王との戦い、一度きりで十分にすぎる。
 雪輝は鬼無子の意思の固きを察して折れたが、その事を後悔するような事にならぬのを切に祈るばかりであった。



「思いのほか雪輝殿は折れてはくださらなかったな。まあ、それがしには前科もある故、仕方のなきこと」

 前科とは無論白猿王によって死の淵に追い込まれた事だ。自身を囮にした白猿王の目論見にまんまと嵌まってしまった雪輝にも落ち度があったが、それゆえにいまも雪輝は気にかけているのだろう。
 あの戦いは鬼無子にしても怪我を負っていたとはいえ、体内の妖魔の血を活性化させるまでに追い込まれた苦い記憶の戦いだった。

「本当に人の、いや、狼の良い方だ。前世は高徳の僧であらせられたのかもしれぬ。もっともそれなら妖魔に転生するなど考えられぬ事ではあるが」

 冗談のつもりで口にした事が、わりと的を射ているような気がして、鬼無子はふむん、と小さく零す。
 生まれた時から対妖魔戦闘を骨身と魂に叩きこまれた鬼無子は、三桁に届く妖魔や怨霊、呪術士の類と刃を交えてきたが、中には人と共に生きる妖魔や善行をなすものもいたが、雪輝ほど外見にそぐわず童の様に無垢な心を持った者も珍しい。
 命を救われた恩義もあるが、ここ数年来久しく忘れていた穏やかな気持ちを思い出させてくれたことには、いくら感謝してもしたりないと、鬼無子は心から思っている。
 故に鬼無子が口を開いた時、紡がれた言葉は氷の如き冷たく鋭く研ぎ澄まされた刃に等しかった。

「妖魔といえども雪輝殿はそれがしにとって大恩ある御方。害を為そうと企みよるならば、それがしとて黙って見過ごすわけには参らぬ。既に命運尽き果てた身であるようだが、人の心がわずかなりとも残っておるならば潔く姿を見せられよ」

 言葉と等しく刃のように鋭く細められた鬼無子の瞳が、織りなす巨木をその視線で断つかのように睨みつける。
 たとえ山に生まれて育った獣といえども到底入り込めないような、まさしく牢獄の格子を模す木々の壁の中から、一つの影が水が薄紙に沁み込むようにして姿を現した。
 青白い光を蛍火の様に全身から零しながら姿をあらわにしたのは、六尺(約百八十センチ)近い長身の男であった。
 しかし泥から作り上げたように目鼻のはっきりとした区別はつかずのっぺりとしており、精密な顔立ちを判ずることはできない。分かるのは碁盤のように四角い身体と顔、そしてぼうぼうと伸び果てた蓬髪くらいだ。
 夜の闇に明滅する蛍のように淡く発光する全身、彫る事を途中で放棄した能面の様に凹凸の乏しい顔、木の葉を踏みしめても足音一つ立てず、また呼吸をしている様子もないその姿に、鬼無子は予想が的中していた事を認める。

――死霊。それも、相当に腕の立つ武芸者の、か。

 恨み辛みが晴れきらず死後も現世に留まる死霊は、鬼無子にとって幼少のころから幾度も斬り、そして斬られた事もある相手であり、その気配から正体を察することは難しい事ではなかった。
 雪輝が人間の死霊の気配に気づかなかったのは、単純にこれまで彼が戦ってきたのが強烈な妖気と物質化する寸前の悪意を放つ妖魔と、過酷な環境に生き独自の技を持ってはいるがあくまで生きた人間である山の民(というか凛)だけであったためで、人間の死霊と対峙した経験が無い為である。
 のっぺらぼうの死霊は襟や裾が擦り切れた小袖と野袴という、剣を奉げるべき主君を持たぬ浪人としてはありふれたもので、立場はそう変わらぬ鬼無子と似たような格好である。

「肉も服も霊子で形作ったもの。しかし得物ばかりはこの世のもの。月形十文字槍……いや、両鎌槍(もろかまやり)か。これは何百年前の死霊であることか。それほどの時を怨恨と共に過ごすとは、哀れな」

 霊子とは肉体を失った霊魂の類が物理的な影響力を得るために生み出す、一種の霊媒物質であり、海を越えた先に在る大陸のさらに西方の地域に住まう魔術師たちが、エクトプラズムと呼ぶものを指す。
 幾百年の時を経て実体を得た死霊が右手に持っている得物は槍であった。
 鈍く陽光を三日月の形に跳ね返す副刃が真中の槍穂の付け根から伸びている。
 稲妻の如き突きをかわしても左右に伸びる副刃が、かわした敵の肉を裂く武器で、突くと斬るを両立した厄介な品だ。
 鬼無子が口にした両鎌槍とは、いまから二百年近く昔に用いられていた槍の事で、主となる刃の左右から鎌状の刃が伸びている代物で、現在一部の流派で使われている十文字槍の原型となったものである。
 形状のわずかな違いから、鬼無子は死霊の構える槍が前時代のものであると看破したが、その推測に間違いがなければ、この死霊は百年単位の昔にこの山で命を落とした武芸者という事になる。
 両鎌槍の罅割れの目立つ柄を右の脇に挟むようにし、三つに分かれた刃を地面に向けた死霊は一歩また一歩と、泰然とした様子でゆらりゆらりと鬼無子に近づいてくる。
 まずもっとも知覚器官の鋭敏な雪輝が、次いで対妖魔戦の経験に長け探知能力を鍛え上げた鬼無子が、そして最後に山の気の乱れから凛が気づいた死霊の狙いは、いま立ちはだかっている目の前の鬼無子ではなく、既にこの場を後にした雪輝である。
 雪輝が真っ先に死霊の存在と接近に気付いたのは、死霊の放つ悪意の矛先が雪輝を中心としていた為だ。それゆえに他の二名が気付くのは雪輝にいくらか遅れたのだ。
 雪輝の気質であれば自ら迎え討たんとする所であろうが、恩義ある身として鬼無子が先に立ちはだかり、こうして対峙することとなったのである。
 この場から消え去った雪輝の姿を追うように目と言えぬ目を向けていた死霊であるが、立ちはだかる鬼無子を排除しない事には目的を果たさぬと理解するだけの知性は残っていたようで、足を前後に開きながら鬼無子の前で歩みを止める。
 ゆっくりと地を摩りながら死霊の足が開かれ、腰だめに両鎌槍が構えられる。左右に湾曲して伸びる両鎌の刃は所々が欠け落ち、満足に人の肉を裂く事も出来そうにない。
 しかしすべての刃の切っ先に至るまで死霊の妖気と怨恨、そして生前鍛え抜いた武の技が沁み込んでいる事は疑いの余地がない。
 鬼無子の心臓を狙いぴたりと不動に構えられた槍の切っ先からは、目に見えぬ殺気が細い針となって放たれ、ぶすりと幾本も射抜いている。
 常人ならばそのまま心臓が鼓動を刻む事を忘れて死に至る。それほどの殺意を受けながらも、鬼無子の顔色に変化は見られない。
 すでに死霊を前にした時から退魔の一族に生まれついた精神と、人の肉体に混じる妖魔の血肉が戦いの予兆を感知して、鬼無子という一個の存在を戦闘に特化した異形の存在へと変容させていた。

「何とも堂に入る槍構え。名乗る心さえ失う前に一手ご指南に預かりとうございましたぞ。それがしは元討魔省四方木流妖滅士、四方木鬼無子」

 鯉口が切られ、数千超の退魔調伏妖滅の文字が刻まれた刃が陽光を浴びて白々と輝く。
 いつ恐るべき槍の一突きが来るとも知れぬというのに、崩塵は同じ響きの霊鳥がはばたく様に緩やかに鉄鞘から抜き放たれた。
 抜刀の最中を狙われても躱してみせる自信があるからか、あるいは鞘で受ける心算であったものか。
 鬼無子の白いかんばぜには過剰な緊張も恐怖も不安もない。
 一個の剣士として目の前の手錬のもののふを斬る、その一事にのみ集中している。

「拙き技なれど、身命を賭してお相手を務めさせていただきまする」

 慇懃な物言いを吐き終えると同時、鬼無子の体は蜃気楼の中に飲み込まれたように左右にぶれた。
 神速としか表現のしようが無い槍の一突きを左右に伸びる鎌刃もろとも躱す為に、大きく右に飛びのきざま、鬼無子は崩塵の刀身で自分の首を落としにかかる鎌刃を弾く。
 きぃん、と山の果てにまで届くように甲高い金属の衝突音が鳴り響いた。
 両鎌槍を弾いた崩塵を握る右腕に、じん、と痺れが広がる。身体の中に小さな虫が入り込んで、直接骨を齧られているような苦痛を伴う痺れであった。
 やはり、という思いが鬼無子の脳裏をよぎる。
 肉の体という枷を離れ、実体を得た霊魂はその素性が人間であれ獣であれ、生前の身体能力をはるかに上回る力を発揮する事例が数多く存在する。
 人間を例に挙げれば、生きている人間の肉体は本来その持てる力を十全に発揮することはできない。潜在的に有する力を完全に振るえば、肉体の方が保たずに壊れてしまうからだ。
 その肉体の枷から解き放たれて実体化した霊魂は、往々にしてこの目の前の死霊の様に生前をはるかに上回る身体能力を有するに至る。
 破裂する心肺も折れる骨も爆ぜる肉と皮も溢れる血潮も失ったがために。
 生命と肉体と心を対価とする事で、死霊は生きていた時には望むべくもなかった超人の力を得るのだ。
 さらには肉体の喪失に対する恐怖や痛覚といったものを持たぬ事も多く、相対した時、人間の死霊は通常の妖魔をはるかに上回る強敵となる。
 鋭い呼気を一つ吐き、鬼無子は呼吸を止めて繰り出される槍の穂先を崩塵で弾き、身のこなしでかわす作業に没頭した。
 青白い尾を引く流星と化した両鎌槍が幾筋もの輝線を描いて、鬼無子の肉を貫くべく飽きることなく繰り出される。
 常人の心肺能力では到底実現不可能な止まる事を知らぬ連続突きであった。
 鬼無子が一つ突きと鎌刃をかわすたびに、代わりに風が貫かれ陽光が切り裂かれ、声なき断末魔をあげて絶命してゆく。
 そう錯覚するほどに凄まじい豪槍の唸り、鎌刃の鋭き一裂き。
 強敵を前にして鬼無子の武人としての血潮が次第に熱を帯びて行く。己の武技が及ばぬかもしれぬ強敵との邂逅を、歓喜と共に迎える度し難き剣士としての本能である。
 我知らず鬼無子の唇の両端がかすかに吊りあがり、朱色の三日月が美貌の妖剣士の口元にうっすらと輝きを放つ。
 鬼無子の命を狙う豪槍は突く速度も凄まじいが、伸ばした槍を引き戻す速さもまた凄まじいと形容するほかない。
 引き戻すのに機を合わせて槍を掻い潜り懐に飛び込まんと狙う鬼無子が、幾度も機会に恵まれながらも足を踏み出せぬ最大の理由が、槍を引き戻すその速さにあった。
 踏み込む速さと同等かそれ以上の速さで槍が引き戻されては、踏み込む決断などできはしない。
 また槍を掻い潜ったとても、死霊の腰には脇差しが一振りある。
 懐に飛び込んでくる鬼無子に合わせ、槍から片手を離して脇差しを抜いて迎えうつも由、あるいは引き戻す速さに全力を傾注して、踏み込む鬼無子より両鎌槍が早ければ鬼無子の首を背後から鎌刃が襲うだろう。
 戦闘に身を置き高速化した思考の中で、鬼無子はこれまでの生のほぼすべてを妖魔との戦いに奉じた経験から、死霊化によって得たであろう槍武者の戦闘能力を分析していた。
 肉の殻を喪失し魂と精神を剥き出しにした事によって、異能を得る者が稀に存在するが、目の前の死霊はその例からは漏れるようだが、その分生前研ぎ澄ました武技が数段殺傷力を増している。
 もし、この両者の戦いを覗く第三者がいたならば、網膜に鬼無子の姿が残っているうちに、さらに新たに生じる鬼無子の姿に当惑したことだろう。
 瞳に残像がはっきりと映るほどに速い鬼無子の身のこなしがその理由だ。一方的に攻めると見える死霊が、死によって人の域を超えた武技を誇るように、鬼無子もまたその身に生きながらにして妖魔の血肉を取りこんだがゆえに、人の域を超えていた。

「疾っ!」

 紙縒りの様に細く、針のように鋭く鬼無子の唇から気合と吐息が吐かれるや、鬼無子の全身から崩塵の切っ先に至るまで、研ぎ澄まされた闘気が行き渡る。
 幾十度目になるのか、並みの武芸者が相手であったならば突いた数だけ死体を築いたであろう死霊の槍が一直線に伸び、集中の度合いを一段階深めた鬼無子の腕は黒雲切裂く雷光のごとく閃いた。
 三日月を貫いたような槍の影と、孤月を描く崩塵の影とがある一点で交差し、耳元で巨大な玻璃の鐘を打ち鳴らしたような高音が鳴り響き、周囲の木々を大きく揺らした。
 鬼無子が瞬時に両手で握り直した崩塵の一刀を、鉄槌を振るうかのごとく両鎌槍に叩きつけた事によって生じた衝突音。
 しかし生命を奪う武具と武具との衝突というには、あまりに儚く美しい音であった。
 透き通る高音が残響でもって、織りなす木々の緑の牢獄と白い水しぶきによって煙る滝を揺らす中、三つに分かれる両鎌槍の刃が数百もの破片となって砕け散った。
 相当の業物であったろう両鎌槍に死霊の怨念が込められたことによって、尋常ならざる強度を得ていた両鎌槍を砕いた鬼無子の一刀の、凄まじき破壊力よ。
 鍛造の始まりからして妖魔の肉体の一部を材料とし、魂を磨き抜いた高徳の僧によって霊的に練磨された崩塵と、死者の怨恨の力を得たとはいえもとは朽ち果てた槍にすぎなかった両者の武具の差。
 そして死霊化し人体の潜在能力を完全以上に解放させた死霊をも上回った鬼無子の肉体と、その技量が可能とした結果である。
 敵の戦闘能力を大きく支える武具を砕いた事に対し、鬼無子はなんら感情の動きを見せなかった。
 相手の力を大きく削いだことへの安心感も達成感もない。
 この世に生じたこの世ならざる存在たる妖魔を相手にする限りにおいて、その息の根を確実に絶やし、存在を消滅させるまで気を抜く事など論外であると骨身に刻み込まれているがゆえに、今の鬼無子に油断や安堵といった感情は無縁の代物であった。
 両鎌槍の破砕を刃応えから認識したと同時に鬼無子の肉体は神速の踏み込みを見せ、壊された両鎌槍の柄を離した死霊へと、その存在を完全に根絶させるために刃を閃かせる。
 死霊の手が腰の脇差しに伸び、輪郭のあやふやなその柄を握った瞬間、崩塵の刃は死霊の左腰から右肩の付け根を一直線に横断して、霊子で再構築された死霊の肉体を二つに断っていた。
 一足飛びで踏み込んだ速さよりもそれ以上に、夜空を切り裂く流星の如き鬼無子の刃の速さこそ見事という他ない、閃光と化した鬼無子の一刀に、死霊は反応することさえできなかった。
 臓物までも精密に再現された断面から赤い血潮は流れない。生命溢れる血潮は生者のものであるからだ。
 代わりに死者の怨恨をたっぷりと含んだ黒い霊子が断面からざあ、と噴水のごとく噴き上がり、鬼無子の視界を覆い尽くす。
 たとえ斬られようともその存在が消滅するまで生ある者への魔の手を伸ばす事を忘れぬ、怨霊の恐ろしさがここにあった。
 身を引く間もなく生命を蝕む憎悪の黒血が鬼無子の全身を犯す寸前、下方から斜め上方へと降り抜かれて天に切っ先を向けていた崩塵の刀身が青く輝き、主を汚さんとする汚穢な液体をすべて浄化する。
 刀身に宿る退魔の霊力は、払拭すべき邪悪の存在に対して一切の容赦なく、その力を発揮していた。
 迫りくる二度目の死の足音を目前にし、五指を鉤爪のごとく曲げながら開き、死霊は全身を瘧にかかったように震わせながら、徐々にその存在の密度を薄くしてゆく。
 蛍火の様に明滅を繰り返していた全身から、勢いよく光が弾けだすと死霊の体の向こう側の風景が見え始める。
 死霊の肉体を構成していた霊子が急速に結合を崩壊させ、大気中に満ちる天地の気と霊力へと溶けてゆく。
 崩塵に宿る退魔の清廉な霊力と、鬼無子の振るう苛烈な修行が可能とした斬撃、さらにその身に宿る妖魔の妖力、この三種の力が死霊の存在を斬撃面から浸食し、この世に在る事を許さないのだ。
 地獄に落とされた罪人が一条の蜘蛛の糸を求めるかのように、天空に向けて手を伸ばした姿勢のまま、死霊の姿は欠片も残さずに鬼無子の目の前から消失する。
 人間離れした五感と第六感、さらに妖気に呼応する崩塵が何の反応も見せなくなったことから、鬼無子はようやく死霊の完全な抹消に成功したと判断し、そろそろと艶やかな唇からひどく凍えた吐息を吐いた。
 極度の集中は鬼無子の身体に異常をきたして、いま、彼女の肉体はその体温を著しく低下させていた。
 冬山で雪妖に惑わされた哀れな旅人の様に鬼無子の身体は冷え切り、触れればこれは死人の体かと驚きに襲われることだろう。
 すぐさま鬼無子は丹田に意識を集中し、身体の深底から気力の熱を生じさせて肉体の代謝機能を正常なものへと戻す作業を続ける。
 これまでも凶悪な妖気を総身から迸らせる高位の妖魔や、霊的な力に特化した悪霊の類と刃を交えた時に、このような身体機能の異常に襲われた経験がある。
 まる七日七晩衰弱しきり、発熱と急速な体温の低下や痙攣、吐き気、身体が内側から腐ってゆくような苦痛に襲われた事もある。
 それらの経験を踏まえるに、今回の戦闘後の後遺症はまだごく軽いもので、すぐに治ると分かった。
 きっかり十秒後、指先に至るまで本来の感覚が戻った事を確認し、鬼無子は地面に砕け散った両鎌槍の破片を拾い集める作業を始める。
 怨恨に塗れ果て汚れた存在へと堕したとはいえ、その技量には一服の敬意を抱くに値する武芸者の魂への、せめてもの礼儀であった。
 微細な欠片一つ残さずに拾い集めた両鎌槍の破片を、地面に掘った穴に埋めて、死者の鎮魂を祈る文言を彫り込んだ木の板を土の山に差してから、鬼無子は数言、冥福を祈る言葉を口にしてその場を後にした。



 雪輝が口にした通りに、滝壺から伸びる川の流れに従って下る道すがら、鬼無子は己の手の掌をなにかを確かめるようにしてじぃっと見詰めていた。
 かすかな困惑と不安の色が、深い闇色の瞳にかすかに揺らめいている。雪輝やひなの前ではけっして見せぬ、この姫武者には似合わぬ弱々しい影を背負った姿である。
 負の感情の薄衣を纏うその姿は普段の鬼無子の凛とした姿からは想像しがたい、薄幸の運命を背負った佳人のよう。
 いまの鬼無子なら、可憐な白百合の花を手折るようにして容易く殺める事さえできるのではないだろうか。

「山の妖気に呼応したのか、雪輝殿の近くに居るせいか……」

 続く言葉を口にする事を、数瞬、鬼無子は躊躇った。
 刀を握るには余りに細くしなやかな指は、神に身を捧ぐ巫女の手の様に清らかに見える。その指の付け根が白く盛り上がるほど力を込められて握られた。そこに己を苛む理由の全てがあるとでも言うように、憎悪さえ込めて。

「それがしの中の妖魔の力が増している、な。なぜ、というのは愚かなことではあろうが、本当に、どうして今になって……」

 鬼無子の柳眉が顰められた細面に苦々しい感情のさざ波が広がる。
 あるいは白猿王との戦いで妖魔の力を濃く発露させた事が切っ掛けとなったのか、鬼無子は妖哭山を訪れる以前に比べ、妖魔の力を引き出すのがはるかに容易になっている事を、死霊との戦いの中で改めて思い知らされていた。
 生物としてみれば霊的にも物理的にもはるかに見劣りする人間の肉体に、世代を超えて妖魔の血肉を宿らせ、己が力とする四方木家の宿命が鬼無子の心の水面に黒い滴を落としていた。
 心の水面に波紋を立てた一滴の黒い感情は、またたくまにその領土を広げて行き、鬼無子の心の中の大部分を薄く、しかし確かに染め始めている。
 四方木家の人間は、力を行使するたびにその割合を増してゆく妖魔の血肉の制御を誤った時、肉体の中の人間と妖魔の比率が逆転し、妖魔としての本能に理性と精神と肉体を支配されてしまう宿命にあった。
 苛烈な修行と精神修養によって代々の四方木家の人間は、人間として生を終えられるように努めてきたが、たまさか妖魔の黒血に魂まで犯され、人から妖魔へと転ずるものがその歴史上存在していた。
 人間社会における一族の立場を守るため、妖魔へと堕ちた同胞を速やかに処分してきたのはそれまで寝食をともにし、肩を並べて世に仇なす妖魔を討ってきた友であり、恋人であり、親であり、子であった。
 いまや鬼無子を残し四方木家の者はことごとく断絶し、妖魔が鬼無子に墜ちた時にその首を刎ね、心臓を貫いて人間のまま死なせる事の出来る縁者はすでにこの世にない。
 このままかろうじて人間として生を終える事が出来ればこれは望外の幸運であるが、いざという時は、鬼無子は自分自身の手で首を斬り落としてでも己の生命に始末をつけるしかないだろう。
 唯一、自刃する事のみが鬼無子に人間としての尊厳を損なわぬまま死ぬ道なのであった。
 それを己の宿命と諦めて受け入れ、家が絶えた後にせめて武士として己がどこまで高みに登れるのかと、諸国を放浪し剣の研鑽に努めてきたが、ここ数日の雪輝とひなとのこれまでほとんど経験した事のない穏やかな暮らしが、鬼無子の中のある種の防波堤でもあった『諦め』を崩してしまっていた。
 希望を抱かなければ暗雲に閉ざされて暗い未来しか待っていない己の運命に、必要以上の悲嘆を抱く事もなかったが、望むべくもなかった心穏やかな日々が鬼無子に生きたい、という至極当たり前の願いを抱かせていた。
 生きたい、しかし、その身に宿る業がそれを許さない。生きたいと願えば願うほど、自分の体に流れる人ならざるものの血肉への憤りは強まり、それは容易く憎悪へとつながる。
 こんな汚れた血さえ流れていなければ。こんな家に生まれてさえいなければ。
 人の身では変えようもない事実を否定したい気持ちが、在りえない仮定の人生を求める気持ちが、いくども泡玉の様に生じては鬼無子の胸の中で消えて行く。
 考えても仕方のない事よ、いくら否定しようとも目をそらした所で事実は変わらない、これまで同様に諦めるのだ、そう自分自身に言い聞かせて言い聞かせて、鬼無子は自分の心を押し殺す事に懸命になっていた。
 だからであろう、歩む先に白銀の狼の姿が見えて、それが恐ろしい速さでぐんぐんと近づいている事に気づくのが遅れたのは。
 はたして鬼無子の身をどれほど案じていたものか、雪輝はひなと凛を小屋へと送り届けていた時よりもさらに数段速さを増した勢いであった。
 背に乗せた二人を気遣う必要がない分、その身体能力を思う存分発揮する事が出来たからであろうが、それにしても速い、と感嘆するほかない。
 どれほどの速さであったものか雪輝の走り去った後は、巨大な質量の通過によって大気が弾かれて真空状態が発生していたほどである。
 そのくせ、鬼無子に近づくにつれてほとんど急停止に近い勢いで減速しても、雪輝にはなんら堪えた様子が無い。
 慣性の働きによってその四肢にはそれ相応の負荷が加わっているはずなのだが、それをものともしない柔軟で丈夫な筋組織を有しているのか、あるいは妖気を操ることで身体にかかる負荷を緩和しているのものか。
 己の世界に埋没するほど自分自身に流れる血への嫌悪に囚われていた鬼無子であるが、雪輝の発する妖気と耳を打つ疾走音があっという間に接近してきた影響で、はっと顔をあげて、既に目の前一間(約一・八メートル)の所で疾走から歩行に切り替えた雪輝の姿を認める。
 ひくひくと鼻先を小さく動かし、鬼無子の体から血の匂いがしない事を確認し、雪輝は安堵に口元を緩めた。つい数日前の魔猿達との戦いの二の舞は避けられたのだから、雪輝の安堵も深く大きい。

「良かった。怪我はしていないな。ずいぶん心配してしまったが要らぬことであったかな」

「……いえ、心配させてしまったのはそれがしの未熟ゆえ。お気になさらず」

 真っ直ぐに自分を見つめてくる雪輝の青い眼差しを見つめ返す事がなぜかできず、鬼無子はそっと目を反らし、いくらかの間を置いて返事をすることしかできなかった。
 今は身体の細胞の内側から発する妖魔の血肉の疼きは抑えられている。
 そんな鬼無子の様子に違和感を覚えて、雪輝は小さく首を傾げながら鬼無子のすぐ傍まで肢を運び、鬼無子を慰めるように鼻先をその頬に寄せた。
 飼い主を必死に慰めようとする犬の様な所作に、鬼無子のささくれ立った心は少しばかり癒されたようで、所作のあどけなさの割には図体の大きさが釣り合っていないのがおかしく、かすかに鬼無子は笑みを浮かべる。

「どこか痛むのか? お腹でも痛いのか?」

「いえ、どこも痛んではおりません。ただ思いのほか強敵でありましたので、いささか疲れてしまっただけです。怪我などしておりませんよ」

 心配されているのはそれがしのはずなのだがな、と思いつつ鬼無子は自分の上半身を軽く飲みこめる馬鹿でかい狼の鼻先を優しく撫でる。
 反らされていた鬼無子の視線が、自分の瞳を見つめ返してきたことで雪輝はようやく安堵したようだった。

「そうか、疲れただけか。なら、私の背に乗ってゆくと良い。ああそれと、凛とひなは無事に送り届けたので気にしなくて構わぬよ」

 そういうやぺたりと腹ばいになり、鬼無子が自分の背に乗りやすいようにする。人に触れられる事、跨られる事にはとんと抵抗が無いらしい。
 鬼無子は自分の目の前に広がる白銀の獣の背に、しばしきょとんとした瞳を向けていたが、雪輝の提案を断ったら、この気の好い狼は傍目にも哀れなほどに消沈してしまうだろう。

「では、遠慮は無しということで失礼いたしまする」

 大きな白銀の背に跨りどこまでも沈みこんでゆくような柔らかな感触を太ももと尻、手で感じつつ、相変わらず素晴らしい手触りについ、胸の内に巣食う暗澹たる思いをかすかに薄くする。
 鬼無子の重量を確かに確認して、雪輝はふむん、と一つ零して立ち上がる。四足を着いた姿勢でもひなの頭を軽く超える肩高を誇る雪輝の上に跨ると、鬼無子の視線もぐんと高いものになる。

「疲れているという事だし、ゆるりと参ろう」

 鬼無子の返事を待たずにほたほたと歩きはじめた雪輝の速度は、確かに言葉通りにゆるりとしたもので、雪輝の背の鬼無子に伝わる振動は驚くほど少ない。
 雪輝の四肢の関節と筋肉の柔軟さが、振動と衝撃をほぼ吸収しきっているのだろう。前方に目を据えつつ、雪輝が口を開いた。

「ところであの殺気の主は一体何だったのだね? 鉄の匂いが少ししたが、獣でも妖魔でもないようで、私には正体が分からなかったのだ」

「ああ、それは人間の死霊でありましたよ。かなり昔にこの山で命尽き果てた武芸者の怨霊です。おそらくは朽ちた武具に宿っていた怨念が年月を経て大きな力を得たのかと思われます」

 雪輝の背の上で周囲の景色を見るのではなく、記憶の彼方を見つめているような鬼無子が、どこかぼうとした声音で返事をした。
 声の調子がいつもとはだいぶ違うな、と流石に雪輝は気づき、どこか儚く悲哀を帯び、鬼無子の身体ではなく心に何かあったのだと察せられた。

「人間の死霊? なるほど私は会った事が無いから分からなかったわけだ」

「いままで人間の怨霊と出くわした事はないのですか?」

 やや意外そうな鬼無子の言葉であるが、これまで多くの武芸者や祈祷師、山伏の類が妖魔退治に挑んでは死んでいった山と聞いていたから、死霊怨霊の類が溢れていると思っていたのだろう。

「うむ、ないな。出会った人間といえばすべて生きている者たちだけだった。しかし死霊などと戦って、本当に大丈夫か? 気分が優れぬように思える。少し休むかね」

「大丈夫でございますよ。……いえ、少しだけ疲れました。本当に」

「鬼無子?」

 雪輝がいままで耳にした事のない鉛を呑んだように重く疲れた鬼無子の声に、思わず雪輝は鬼無子の名前を口にしていた。
 鬼無子がそのまま自分の背中の上から消えてしまうのではないか。そんな突飛もない考えが脳裏に浮かんで消えなかったからだ。

「雪輝殿、少しお背中をお借りいたします」

 雪輝の背にある鬼無子がもぞりと少し動いた。跨って腰をおろしていた体勢から、寝そべるようにして身体を倒し、鬼無子がうつ伏せに近い体勢に変わったのだ。
 瞼を閉じた顔を雪輝の毛並みの中に埋めて、鬼無子は長い溜息を吐く。胸中の暗雲を少しでも減らせれば、という思いが働いたのかもしれない。それでも鬼無子の気分はわずかも楽にはならなかった。

「私の背中などでよければいくらでも貸そう。それにしても鬼無子に怪我がなくてよかった。君が傷つけば私もひなも、それに凛の奴もお人よしだから悲しむからね。君に厄介な事を任せてしまって、申し訳なかったのだ」

 何を言えば鬼無子の気持ちを慰める事が出来るのかと、雪輝は考えたがこの狼に妙案など思いつくはずもなく、我ながら情けないと思いながら謝罪の言葉を口にしていた。

「そう言って頂けると我が身を呈した甲斐もありました。しかしお気を付けください。武芸者の死霊がただ一人だけ蘇ったとは限りますまい。場合によってはしばし戦いが続くかもしれませぬ」

「ふうむ、なぜ蘇ったのかはわからぬが、狙いが私というのが解せぬ。私ひとりに及ぶ災厄であるならば甘んじて受けもするが、君やひなにまで害が及ぶのでは堪らぬな」

 鬼無子は数度口を開こうとして躊躇った。この事を告げるのは自分の過去の失態も言及する事になりかねない。鬼無子は雪輝の毛並みに顔をうずめたまま、いささか躊躇するように口を開いた。

「あー、その、おそらくではありますが雪輝殿を狙うのは、彼らが大狼に命を奪われた者達だからではないでしょうか?」

「……ふむ、つまり、なんだな。山の民に、近隣の村人に、ひなに、そして鬼無子に勘違いされたように、私が大狼であると死霊にも間違えられたと?」

「お気の毒ではありますが、その線が濃いかと思われます」

「………………狼の姿をしているのがよくないのだろうか?」

 雪輝の背中の毛並みに顔を埋めている鬼無子には、雪輝の表情を伺えぬが、まず間違いなく渋面の見本というべきものを浮かべていることだろう。
 たっぷりと間を置いて口にした雪輝の意見は彼なりに深い苦悩の果てに思いついたものであったろう。それこそどうにかできるものではないが。
 能天気の見本のように生きているこの狼も悩む事はあるのかと、鬼無子は和やかな気持ちになり、雪輝の背に頬擦りをした。どこまでも柔らかで優しく暖かい感触が鬼無子の心を慰撫する。

「不思議ですね。雪輝殿のお身体は程よいぬくもりをいつも持っていらっしゃる」

 心さびしい時に、胸が張り裂けそうなほど苦しい時に、涙をこらえなければならない時に、感じる事が出来たらこれ以上なく心救われるぬくもり。
 抱きしめているだけでも心慰められる雪輝のぬくもりと感触に、鬼無子は我知らず強張っていた頬を緩めていた。
 もっとも、愚かなほど素直な狼は、ぬくもりという言葉を額面通りに受け取って、やや的を外した答えを返す。

「そういえば夏も冬も私は同じように過ごしているな。暑いとか寒いとか感じるとすぐに、ちょうど良い具合になるのだが、ひょっとしたら私が意識する前に妖気か何かで気温を調節しているのかもしれん。我ながら便利に生まれついたものだな、うむ」

 イヌ族の生き物につき物のいわゆる換毛期というものがないらしい。夏を問わず冬を問わず、常にこの毛皮姿のままの様だ。
 自分の意図している所とはまるで見当外れの答えを返す雪輝の言動に、鬼無子は堪え切れずに小さな笑い声を立てた。
 この狼が自分の事を慰めようと必死で頭を働かせている事は、考えるまでもなくわかるが、本人の意図しない所で自分の気持ちを和ませてくるから油断ができない。

「まったく、人と交わる暮らしの中ではかように笑みを浮かべる心の余裕などなかったというのに、貴方という方は」

「私が、またなにかやらかしてしまったか?」

 流石に一日のうちに三度もの失態を繰り返すのは堪えると見え、視線こそ前に見据えてはいたが、雪輝の耳がぺたりと前倒しになって気落ちしていることを如実に示す。
 心も体も嘘がつけないようにできている狼であった。
 家人は言うに及ばず縁者親類の類も尽く死に絶えて、天涯孤独の寂寥と異形の身の上である己のへの自嘲と嫌悪を心に満と湛えながらの旅路で擦り切れていた心は、この山に来てからの数日で幸福であった過去の日々と同じくらいに癒されていた。
 だからこそ、鬼無子は願わずにはいられない。
 生きたい。
 死にたくない。
 もっと、この優しく気の良い狼や愛らしいひならとともに笑いあいながら生きていたいと、痛切に願わずにはいられなかった。
 それが叶わぬ夢であると分かっていたからこそ、なおさらに。
 不意に、鬼無子が口を開いた。

「雪輝殿」

「なんだね」

「もし、それがしが…………」

「うん?」

「――いえ、少し、魔が差し申した。大したことではありませぬ。お忘れください」

「そうか」

 雪輝の答えは短い。鬼無子が何を言おうとし、そして飲み込んだのか。それがなにかは分からない。
 だが、その飲み込まれた言葉がけっして鬼無子が軽々しく口にしようとしたのではない事だけはわかった。
 それほど重大な事を自分に打ち明けてくれようとした事へとの喜びと、魔が差した、と表現した口にする事も辛いのであろう鬼無子の心情への心配が、雪輝の胸の内に湧きおこる。

「私はあまり物を知らぬし、自分の事もよくわかっておらぬものだからひなや凛だけでなく、鬼無子にも迷惑をかけてしまっている。それでも、その、私は君たちの事をとても大切に思っている。君達の為になるのならば私の命などどうなってもよいと心から思っている。だから、私を頼る事には色々と不安もあるかも知れぬが、頼って欲しい。出来る事などたかが知れているかもしれぬが、微力を尽くして鬼無子の役に立ちたい」

「――」

 かすかに、鬼無子が息を飲む音が背中からした。それから、とても優しい声で鬼無子は言った。

「ありがとうございます、雪輝殿。その様に思ってくださっていたとは、この四方木鬼無子、救われた思いです。本当に、ありがとうございます」

「うん」

 少し照れくさいのか、雪輝は鬼無子を振り返ろうとはしなかった。
 雪輝殿がこちらを振り返らなくてよかったと、鬼無子は安堵した。
 雪輝の背に自分の顔を強く押し付け、心のうちで強く誓う。
 もう二度と

『それがしを殺してください』

 などと口にはすまいと。そうすればこの優しすぎる狼の心には癒えない傷が深く刻まれてしまい、雪輝の心を長きに渡って苛んでしまうだろう。
 歯を食い縛りながら、鬼無子は口中で幾度も謝罪の言葉を口にし続けた。申し訳ない、と。自分を殺してくれなどと頼もうとした自分の浅慮を悔いながら。
 己の身を省みぬほどに自分の事を思ってくれている狼に、言葉にはできぬ感謝を込めて。
 雪輝の背で言葉にならぬ謝罪を繰り返す鬼無子の頬を、いつしか熱い滴が濡らしていた。

<続>
怨嗟反魂編は鬼無子の出番が大目です。ちなみに雪輝のモデルは最大のオオカミといわれるツンドラオオカミです。ツンドラオオカミを二、三倍くらい大きくして白銀色にすればできあがり。



[19828] その五 友
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:59
その五 友


 中天にかかる太陽の雄大さと美しさは、夏に相応しい力強さと熱を孕んでいた。黄金の陽光を浴びて、一頭の巨大な狼の全身は燃え盛る松明の様に輝いている。
 凶悪な妖魔同士の抗争が果てどなく続き、妖の哭く声が絶えぬとして近隣の村々から妖哭山と恐れられる山に住まう狼の妖魔、雪輝である。
 川縁をびっしりと埋める石砂利を踏みしめながらも、石同士がこすれ合い軋む音一つ立てぬのは、足裏の肉球と全身を構成する筋繊維が驚くほど柔軟なのであろう。
 山の主とも称される威容を誇る雪輝の背には、この魔の住まう山には相応しくない人間の姿が一つ。
 のらりくらりと物見遊山でもしているかのようにゆるりと歩む雪輝の背に跨り、やや赤く腫れた目元を晒す、美貌という他ない白い顔立ちの剣士四方木鬼無子だ。
 雪輝の背でひとしきり涙を流し、自身の心情に一区切りを付けたようでその表には晴れやかな笑みが浮かんでいる。
 鬼無子の心に何かがあったと、精神的な成熟がいまだしの雪輝にも察する事は出来たが、鬼無子の心に要らぬ傷を作らずにそれを聞きだす事は到底できないという自覚があった為、これまで一言も鬼無子に言葉をかけずに、好きなようにさせていた。
 普段通りの鬼無子の様子に戻った事を考えれば、その選択は正しかったと言えるだろう。
 およそ他者の感情を察する事に関しては甚だ力不足の雪輝にとっては、命を拾ったのに等しい安堵感が胸中に湧きおこっていた。
 この狼が自分自身の命を極端に軽んじているのもそうだが、命を狙われる以外の経験の積み重ねがいまだに精々一、二歳の子供くらいなものだから、感情の動きが理性を容易く圧してその思考を左右するほどに大きいせいだ。
 後一年、あるいは半年ほどひなや鬼無子と暮らしていけば、人格の基礎骨格自体は出来上がっているのだから、声の響きや時折見せる老成した雰囲気に相応しい精神を形作る事も出来るだろうが、現状、雪輝はほとんど幼子と変わらない部分が精神のほとんどを占めている。
 不意に雪輝は、そういえば、鬼無子がつい先ほどまでうつ伏せのような姿勢で自分の背に倒れていた時に感じられたひどく柔らかな感触が、今は無くなっている事に気付いた。
 はて、あの二つの感触は何だったのだろうか、と頭の片隅で疑問に思う雪輝であったが、その正体にすぐにたどり着く。
 鬼無子がからりと晴れた空の様な笑みを浮かべながら体を起こしたことで、自分が“大”と評した鬼無子の豊かな乳房が離れたのだ。
 雪輝の背に倒れ込むようにして鬼無子が身を預けていた時は、ちょうど雪輝の背中と鬼無子の体の間に、豊かさも肌の張りもその形のまろびやかさにも文句のつけどころの無い乳房が挟まれて、逃げ場のない乳肉がぷにぷにと雪輝の背に押しつけられていたのである。
 鬼無子が身を起こしたことで柔らかな白い肉の双丘が離れたせいで、雪輝の背中に押しつけられていた確かな質量と柔らかさを備えた感触が失われたという事だ。
 改めて考えてみるに程よい人肌のぬくもりの乳房が押しつけられる感触はなかなかに心地よく、雪輝は気持ち良かったのにな、と心の中で残念に思わずにはいられなかったが、それを口にするとまた怒られそうな気がしたので口を噤む事を選ぶ。
 もっとも押し付けられている間は、鬼無子の様子が妙であったことから乳房の弾力を楽しむ余裕など欠片もなく、鬼無子が落ち着き払ったように見える今だからこそその様にのほほんと考える余裕もあるのだが。
 雪輝はさてなんと声をかけるかと思案する。鬼無子の胸が離れてやや物寂しいなどと素直に口にしなかっただけ、この狼も学習はしているようだ。
 乳房の大きさについて言及して凛の怒りを買ったことから、女性に対して胸の大小を口にするのは、禁句であると凛の鉄拳と怒りを引き換えにその記憶に刻みつけたのであろう。
 さて、鬼無子自身も意図したわけではなかったろうが、雪輝に対して自身の胸元で揺れる性的な魅力に溢れた乳房を押し付けるのをやめて、普段とそう変わらぬ様子に戻った鬼無子に対して、そろそろ声をかけても平気か、と恐る恐る雪輝は迷いながらも決断した。
 その視線と歩む方向は変わらず前を向いたままではあるが、病床から離れられぬ色白の貴公子を思わせる青年の声が、鬼無子の耳朶を震わせる。
 常よりも雪輝の声に力が無いのは、鬼無子の精神状態を正確に推し量る事が出来ず、要らぬ不興を買うのではないかという不安の為である。
この時、雪輝の思考の大部分を、自分のせいで機嫌を損ねた飼い主に恐る恐る近づ く飼い犬のような慎重さが占めていた。

「落ち着いたか?」

 自分の毛並みがわずかに濡れていることから、どういうわけでか鬼無子が涙を流していた、とは雪輝にも分かってはいたが、鬼無子に要らぬ気づかいをさせずに涙の理由を問うことなど到底できないこの狼は、砂で出来た橋を渡る様に少しずつ言葉を重ねる以外に、自分にできる事が思い付かなかった。

「お恥ずかしい限りです。雪輝殿、いまのこと、ひなには内緒にしておいてくだされ」

 目元ばかりでなく白磁の頬もうっすらと羞恥の桜色に染めた鬼無子の言葉に、雪輝は安堵を感じた事がぬか喜びで無かったと、大きめの溜息をそろそろと吐く。
 わずかに恥ずかしがり、口元を袖で隠しながら告げる鬼無子の様子はいささか年齢よりもあどけない仕草であったが、生まれ持った美貌と相まって艶やかな雰囲気を纏っている。
 ただしそれを向ける相手が狼の妖魔一頭きりとあっては、宝の持ち腐れというものであろう。

「恥ずかしがるような事とも思えぬが、鬼無子がそのように望むのであれば私の胸にしまい、重く蓋を重ねておくこととしようか」

「それがしにも恥を感じる心は残っております故、そうしていただけると助かりもうす」

 川のせせらぎを時折時交えながらかわされる一人と一頭の会話は、終始和やかな調子で進められた。
 生と存在を証明するようにせわしなく鳴き続ける虫の声を満身で感じながら、鬼無子が言葉を続ける。

「雪輝殿、もう疲れも取れましたので、そろそろお背中から降りようかと思いまする。足を止めていただいても構いませぬか?」

 自ら提案したものの、雪輝の毛並みに対しては大いに後ろ髪を引かれているようで、鬼無子の指は名残惜しさしかないとばかりに、白銀の毛をいじり回している。
 夜闇を映しているかのように深い黒の瞳は、涙の滴がまだ残っているのかわずかに潤み、想い人を遠くから見つめる乙女のように熱を帯び視線を雪輝の背中に向けている。
 この侍、よほど白銀の狼の毛並みに魅入られているようだ。
 そんな鬼無子の事情など露知らず。
 他者が負う苦労を気にかける事はあっても、他者の為の自分の苦労を弄う事のない雪輝は、一旦肢を止めて鬼無子への気遣いのみで満たされた青い満月を思わせる瞳を、背後を振り返って鬼無子へと向ける。

「小屋まで乗せて行っても私は一向に構わぬが」

「いえ、それではまたひなが機嫌を損ねかねませぬ。雪輝殿にとってそれは非常にまずいのではありませんかな?」

 どこか悪戯を仕掛けている最中の子供の様な笑みを浮かべる鬼無子に、雪輝は何を言われているのか今一つ理解しかねているようで、巨木の幹ほどもありそうな首を捻りながら素直に疑問を口にする。

「それはそうだが、なぜ鬼無子を背に乗せているとひなの機嫌を損ねるというのかね?」

 ひなに機嫌を損ねられる、というのは雪輝にとって白猿王の一派すべてを一頭のみで相手にすることよりも、はるかに恐るべき危難に等しい。
 ましてやそこから損ねた機嫌を取り直さねばならぬとなれば、これはもう雪輝に死ねと言っているのと同じくらいの難事である。
 その事をなによりも自分自身が理解している雪輝は、このままではどういうわけでかは皆目見当もつかぬが、一日のうちに二度もひなの機嫌を損ねる事態だけは何が何でも避けねばと、実に熱意を込めて鬼無子の瞳を覗きこむ。
 あまりに真剣な瞳を向けられて、鬼無子は珍しく狼狽したように視線をあたふたと虚空に彷徨わせた。
 かような態度は、鬼無子の自分の秘しておきたい弱い所を露呈した事や、共に過ごした穏やかな日々が、妖魔の血を引く女剣士の雪輝に対する感情に、さらなる好意的な変化を齎している証明の一端であろう。
 あるいは、鬼無子の中の妖魔の血肉が強力な妖気を放つ同胞である雪輝に対して魅かれるものがあったのだろうか。

「まあ、ひなの気性であればそれがしが負傷したか、あるいは疲労していたというならば納得はしましょうから、万が一という程度の可能性ですよ。ひながなぜ機嫌を損ねるかもしれない、という問いの答え、こればかりは雪輝殿がご自身で答えを見出さねば意味がありませぬ」

「私には千人の賢者を集めても答えを得られぬような難問に思える」

「ふふ、そうですな、今の生活を続ければそのうちに意識せずとも理解できるようになりますよ」

 鬼無子がそう保証してはくれたものの、雪輝にとっては言葉通りの難問と感じているようで、声音には幾分かの諦めと途方もない難行を前にした憂鬱とが混じっている。
 これ以上鬼無子とひなの機嫌に関しての話題を続けても自分には、自身が望む答えを見出すことは不可能だろう、と雪輝は不毛と判断した。
 ため息にも似たものを一つ小さく吐いて、雪輝が鬼無子に声をかける。

「とりあえず鬼無子を降ろすとする。降りる時に足など捻らぬようにな」

「それがしの身を慮っていただけるのはありがたいのですが、さすがにそれがしもそこまで迂闊にはできておりませぬよ」

 雪輝は背の鬼無子に極力揺れを伝えぬように、細心の注意を払いながら肢を折ってその巨躯を腹ばいの姿勢に変える。
 一方的な母の愛にも似た暴力的な陽光を浴びて熱せられた石の上に腹を着けても、雪輝には特に熱を感じた様子は見られない。
 鬼無子に伝えたように寒暖を感じる前に、美麗な色彩の総身から発している妖気を用いて、自然と周囲の気温を吸収・排除して調節している可能性も馬鹿にはできない。
 御免、とひとつ断り雪輝の背から降り立つ鬼無子の動作は、仮に川面に揺れる船の上に降り立ったとしても、羽ばたく事に疲労を覚えた蝶が船縁で羽を休めた程度にしか、船を揺らすことはないだろうと思えるほどに軽やかだ。
 雪輝の傍らに降り立って、鬼無子は体の調子を確かめるように手足を数度動かしてから、雪輝に声をかけた。

「雪輝殿もそうですが、ひなもまだまだ自身の感情と折り合いをつける事に不慣れな様子。すれ違いや勘違いのせいで幾度か失敗をする事もありますでしょう。けれどもお互いがお互いを想い合っている事を忘れなければ、お二人が仲を違える事はありますまい」

「そこまで鬼無子に言ってもらえるのならば心強い事だ。もうひなの方は昼の支度を終えているようであるし、小屋に戻ったら動いた分を腹に入れておくと良いだろう」

 やや顔を上向かせた雪輝の鼻先が一、二度ひくりと動いて風を友として流れてきた匂いを捉えた。
 雪輝も良く慣れ親しんだ土と緑と石と虫……と山の中に満ちている生命達が醸す幾重にも折り重なりあった複雑な匂いの中に、樵小屋の中で煮炊きされている粟や稗、朝に採っておいた黒松露を刻んで入れた雑炊などの匂いが混じっている。
 雪輝が樵小屋を後にしてから、鬼無子の様に武芸者の死霊に襲われた、というような最悪の展開は避けられたようである。
 ひなと比べて身体が成熟している事もあるだろうが、ずいぶんと食べる傾向のある鬼無子の事を考えて、ひなは相当量を用意していることだろう。
 雪輝の背筋の辺りを右手で撫でていた鬼無子も、自分の腹具合に今気付いたようで、また恥じらいを一つ白皙の美貌に上塗りして、微笑する。
 腹の虫が鳴かなくて良かったと、鬼無子が心中で零した事を雪輝は知らぬ。

「そうですな。しかし、野良仕事を手伝うだけで三食寝床が保証されている生活では、それがしの腹に余分な肉がつきそうで恐ろしいものです」

 と、鬼無子は本気なのか冗談なのか分からぬ口ぶりで自分のほっそりとした腰のあたりに手を添えた。
 くっきりとくびれを描く女性の腰を蜂腰というが、まさに鬼無子の腰が描く線がそれだ。衣服ごしにも滑らかな曲線を描く鬼無子の艶めかしい身体つきを見れば、世の多くの女性が羨望と嫉妬の視線を向ける事はまず間違いない。
 その本当に内臓が詰まっているのかどうかさえ怪しい細腰に、よくもまあ、あれだけの食物が入るものだと、雪輝は半ば呆れながら食事のたびに感心している。
 この時代、この国においては平民や武士階級でも下位の者では、基本的に朝と夕方の一日二食である。昼に何か口にするにしても、精々朝食の残りか漬物の品を変えるか一品足す程度が精々といったところである。
 そういった一般的な食糧事情に対し、ひなと鬼無子の食生活はというと、人身御供に差しだされた少女と才覚を捧ぐ主を持たぬ素浪人という身の上を考えれば、ずいぶんと恵まれたものとなっている。
 もし食事をするとしたならもっとも多量に食物摂取を必要とするであろう雪輝が、一切食料を必要としない事もあるが、凛と雪輝との賭け試合で得られた粟や稗などの雑穀、米、塩、味噌といった食料が多量にあり、また一ヶ月後の再試合に雪輝が勝利すれば再び手に入れられるとあって、ひなが食材をケチらないのだ。
 近くの川では雪輝と沢爺の協力でいくらでも新鮮な川魚が手に入るし、山はどこを歩いても採取しきれないほど山菜や茸が足元を埋め尽くし、季節の果実が重く枝をしならせている。
 樵小屋のある広場を耕して作ったひなと雪輝合作の畑の方も、手入れが程よく行き届く広さに留めてあるが、小麦、大麦、米、粟、稗、茗荷、胡瓜、茄子、赤茄子、玉蜀黍がゆくゆくは実りを迎えることとあって、食糧事情の先行きは明るいものといってよい。
 ひなが内心で思い描いている食料確保の計画は、雪輝が凛との賭け試合に勝ち続ける事が前提である為、念のためにひなはそう遠くないうちに畑の規模を広げて、雑穀なり米なりを拡充して完全に自給できるようにしなければと考えていた。
 負傷の快癒した鬼無子も下手な農民の五人や十人にも匹敵する体力と膂力の主とあって、本人の謙遜とは別に畑仕事や野良仕事などに大いに役立っている。
 諸国を回る中、雨宿りをする為に農家の軒先を借りた時や、食べ物を恵んでもらう時にたびたび農作業を手伝った経験があるそうで、鍬を振るい、種を蒔く鬼無子の手際はなかなかのものだった。

「痩せ細っているよりもいくぶんかふくよかな方が健康的であると私は思うが、人間はそうでもないのかね?」

「一度付いた余分な肉はなかなか落ちませぬから、気にする者は気にするのですよ。雪輝殿、よいですか。ひなに対して痩せたか、と問うのは構いませぬが太ったか、と聞いてはなりませぬ。凛殿に対しても無論ですし、できればそれがしもその様な事を口にされるのは心外ですので、ご遠慮願いたい。少なくとも今日、これ以上ひなの機嫌を損ねたくないのであればしっかと肝にご命じあれ」

 痩せたか? と聞くのは良く、太ったか? と聞いてはならない理由は、雪輝にとってこの後も長く頭を悩ます新たな疑問となるのだが、鬼無子の口調が至って真剣に雪輝に忠告する様子だったので、この時は反論も質問もする事なく首を縦に振った。
 こういった場面ではまっこと素直な狼である。

「人間とは難しいものよな」

 理解できぬよ、とばかりに首を横に振るう雪輝を慰めるように鬼無子は軽く雪輝の首筋の毛並みを叩いた。
 たっぷりと空気を含んでふんわりとした感触の雪輝の毛並みは、慰めの為に叩いた方の鬼無子が逆に慰められるかのようでさえある。
 鬼無子の頬が毛並みの感触に緩む。

「とりわけおなごは、同じ人間の男であってもその心の動きを推し量るのは難しきこと。ひなの事を理解したいという雪輝殿のお気持ちはお察しいたしますが、焦っても良き結果にはなかなか繋がりませぬ。今後も雪輝殿はひなと共に長い時間を過ごす事でしょうから、木々が育つようにゆるりと互いを理解し合うのがよろしいかと、それがしは愚考する次第です」

 鬼無子の言うとおりに事を急いで頭を働かせた所で、所詮妖魔に過ぎないこの身に人の心を理解するという難事に対して、一筋の光明を見出すことでさえ容易でないのは事実だろう。
 であればやはり時間をかけてひなと自分とがお互いを少しずつ理解し合い、お互いの心を酌み、想えるようになってゆくしかないのかもしれない。
 雪輝にとってひなとの暮らしを始めてから、お互いがお互いの事を想い、歩み寄って理解しあってゆくことへの喜びは何物にも代えがたいものであるから、考え方を変えれば望む所でもあった。

「鬼無子の言葉は何時も傾聴に値する。私の心に重く留め置くとしよう」

 雪輝の言葉には心の底から鬼無子の言葉を頼みにしている事への感謝と、心強さが感じられて、鬼無子は、いやはやと妙な答えを返しながら、照れくささに鼻の頭を一つ掻いた。
 時折見せる所作には武家の生まれというには民草とそう変わらぬ伝法なものが混じっているが、この美女が行うとどことなく気品の様なものが感じられ、それが正式な作法であるかのように感じられるのだから不思議だ。
 一頭と一人は歩くのを再開するが、新たに話題となったのは鬼無子が相対した死霊についてであった。出来れば凛もこの場に居り、まとめて説明していた方が手っ取り早くはあったろうが、これは仕方がない。
 人間の死霊とは牙を交えたがことが無いという雪輝の為に、鬼無子は自身の経験と一族が収集した人間の死霊の実例などを上げて、対処法などを伝授する。
 両鎌槍を携えた死霊の直接の狙いが雪輝に在ったことは確かであったが、それを邪魔するものがあれば容赦なく兇刃を振るう見境のなさを備えているのもまた事実。
 ひなが巻き込まれる可能性は、白猿王との戦いの時よりは低いとはいえ、在る程度の知恵を残した個体がいて、ひなの存在に気づいて人質にしないとも限らないのが悩みの種だ。
 自身だけに被害が及ぶのならともかく、ひなや鬼無子にまで害が及ぶかもしれぬとあって、鬼無子の言葉に耳を傾ける雪輝の様子は常よりも真剣なもの。

「かつてこの山で大狼に返り討ちにあった武芸者のすべてが死霊と化したとは思えませぬ。人間の霊魂が憎悪や怨恨に塗れた死霊へと堕落するには、それこそ何百人分もの恨みが一つに凝縮されるか幾十、幾百年もの歳月を経るのが一般的なのです。この山が妖魔の気と豊潤な天地の気に満ち溢れており、魑魅魍魎の類を生みだしやすいとはいえ人間をそうやすやすと怨霊に変える事はできますまい」

「しかし、私が大狼を滅ぼすまでの間にどれだけの人間が大狼の牙に命を奪われたのか分からぬ。ひながここ十年は山に登った人間はいなかったと言っていたが、それでも過去に相当数の命知らず達がこの山に挑んだはずだ」

 ひなや鬼無子は雪輝の庇護下に在る為、さほど実感してはいないが、妖哭山外縁部に位置するこの周囲でさえ、通常の野犬や熊などを数割上回る巨躯を誇る野獣どもが闊歩し、また人間の二の腕くらいある吸血蛭の大群や一丈(約三メートル)ほどの大百足に、脚の長さが三間に達する有毒の大蜘蛛などの魔虫がひしめいている。
 昆虫や動物ばかりでなく、可憐に咲き誇って見える花々の中には夜になれば黄金の花粉を風に流し、吸い込んだ獣の体内で蕾を根を巡らせて、獲物の体液を吸い取り花を開かせる吸精花などの人間をも餌食とする食人の草花や木も存在する。
 ある種の花は月光を浴びている時にだけ、その花弁から花の化身たる邪妖精を生みだして、自らの糧となる獲物を襲わせる。
 この身長一尺ほどの邪妖精たちは手に手に槍や刀を携えて、紫色の肌と鋭い牙に色鮮やかな蝶の羽を持つ。
 風に揺れる花弁の子宮より生まれ出た彼らは、夜行性の動物たちや眠っている獲物に襲いかかってまずはその息の根を止めてから血を啜り、肉を骨から剥いで咀嚼し、残る骨や毛皮も余すことなく胃の腑に収め、生まれ出た花に戻る時にその花の栄養とするのだ。
 山の外の世界であれば、家の中で一抹の寂寥を慰める華やかな色彩となり、あるいは黒髪に挿された可憐な髪飾りともなる花ひとつをとっても、この山では生命を脅かす侮れぬ脅威なのである。
 魔を退け滅する職に在った鬼無子や、母の腹の中に居た頃からこの山に住む凛はともかくとして、おそらくこの山の中でも最底辺に近い非力なひなが、五体満足に暮らしてゆく事が出来るのは、その身に雪輝の妖気が染みついているのと、雪輝の行動範囲の中に危険な妖魔や獣が入ろうとしない為だ。
 善性を帯びて生まれ、また食事を必要とせず、発生してから一度も兎や鹿、猪の類に牙を突き立てた事のない雪輝であったが、強力な妖気と狼の容姿が相まって、野の獣のみならず外側の妖魔達からは極力目にする事すら避けられている。
 その雪輝の妖気を全身に纏っているのだから、いかに見た目が無力で美味そうな人間の童女とはいえ、内側の凶悪極まる妖魔連中ならともかく、外側の妖魔程度では雪輝と敵対する危険を冒してまで、ひなに悪意を向ける種はまずいない。
 故に、ひなにとってこの山は腹を満たす事や咽喉を潤す事には困らぬ恵みの山なのだが、そうではなかった過去の武芸者達にとってみれば、討つべき大狼以外にも昼夜を問わず襲い来る妖魔や、他の土地の個体に比べ巨大化凶暴化している野獣との戦いは熾烈を極め、落命した者もさぞや多かったことだろう。
 おそらくは本命である大狼と対峙することなく命運尽き果てた猛者も少なくはないはずだ。
 そういった事情を鬼無子は在る程度理解しているようで、雪輝に対してこう答えた。

「大狼に殺された者たちだけが怨霊と化しているのならば、まだ数は少のうございましょうが、山そのものに殺された者達まで含めるとなると、ずいぶんと多くなる事でしょう」

 おそらくは、鬼無子のこれまでの人生の中でこの山のように人間の住む世界から外れた暗黒と恐怖に彩られた妖魔の領土となった深山幽谷や、得体の知れぬ怪異の満ちる土地などに足を踏み入れた事があるのだろう。
 山そのものに殺された、と語る鬼無子の口調には確かな実感が伴っている。

「また、それがしが刃を交えた御仁は相当な腕前でしたが、近しい技量の武芸者が多人数、この山の中を闊歩しているとあればこれは由々しき事態となりましょう」

 あの槍を携えた怨霊を、“御仁”と評したのは鬼無子なりに敬意を払っての事であろう。たとえ汚れた怨霊に堕ち果てた相手であっても、生前は自分と同じ武の道に生きた先達に対する礼儀に相違ない。

「数日は様子を見るのが最善――とまではいかぬがそれなりの好手であるかもしれんな。私を探し求め兇刃を振るう事を厭わぬ凶悪な性と変わっているのならば、山の妖魔どもと一戦交えずに済ますことはできまい。早ければ一日と立たぬうちに断末魔が私の耳に、血風が私の鼻に届く事であろうよ」

「それがしとしましても雪輝殿の聴覚と嗅覚には全幅の信頼を抱いておりますが、そういえば天外殿はこの事態を把握していらっしゃるのでしょうか? 仙道の中には千里眼という千里の果てまで見通す術を会得している方もおられるとか。そうでなくとも今後の吉凶を占って頂くのもよいのではありませぬか」

 数日ぶりに耳にした天外という単語に、雪輝は狼面にも明らかな嫌そうな顔をした。これほど雪輝が他者に対して苦手意識を出すのは天外だけだから、その感情を隠さぬ童子の様な所作に、鬼無子はくすくすと小さな鈴を転がしたような笑みを零す。
 雪輝自身も、自分の態度がそのような物笑いの種になってしまう事への自覚はあるのだが、いかんせん、明確に意識を持って初めて接触した相手である天外に、在らぬ事を吹きこまれ、騙くらかされた記憶が拭えず苦いものが顔に出てしまうの抑えられない。

「アレがそれほど高尚な存在とは思えぬな。それにあ奴の関心は専ら山の内側に在る。仮に外側の山と森が全て炎の海に飲まれようとアレが関わろうとするとは思えぬ」

「しかし、天外殿は雪輝殿には良くも悪くも、ではありまするが、関わりをお持ちでいらっしゃいます。その雪輝殿の生死に関わる一事であるならばなにがしかの動きを取られるのではないですか?」

「どうだろうな。これ幸いとばかりに私の毛皮を敷きものにして内蔵や肉を鍋にでもするのではないかと私は踏んでいる」

「牡丹鍋や桜鍋ならそれがしも知ってはいますが、狼鍋ですか……」

 鬼無子の頭の中では巨大な鍋の中に四肢をぶつ切りにされた雪輝の生首が、野菜や茸、豆腐と白滝やらと一緒に煮込まれている想像図が描かれていた。
ひながそんなものを目撃しようものなら、その場で卒倒して、目を覚ましたら即座に雪輝の後を追って自殺しかねない。
 雪輝は割と冗談ではなく本気でそう思っている節が見られるが、いくらなんでも、と鬼無子は思う……のだが、あの皺まみれの皮膚だけで全身を形作っているような自称仙人の老人には本当に実行しかねないと思わせる、負の方向での人徳めいたものがある。
 もしそうなったら、恩人――というべきか恩狼というべきか――である雪輝の為にも、また実の妹の様に可愛がっているひなの為にも、鬼無子は一命を賭して天外と剣を交えるしかない。
 鬼無子がその様な不吉な未来予想図を描き、非壮といえば非壮なのだが若干ずれた覚悟を抱いているとは知らず、雪輝は常々天外に対して抱いていた疑問を口にしていた。
 
「あ奴は生臭も躊躇いなく口にするからな。仙道とは霞みだけを食べるのではないのか?」

「はて。時に酒や茶を好む方もいると耳にはしましたが……。仙道を自称する妖怪変化の場合には人肉などを好む事もあるようですが、人間の仙人や道士が獣肉を口にするとはとんと耳にした記憶はありませぬ」

 いわゆる仙人・道士は大別して人間が修業を経て至るものと、石木や獣などが歳月を経て至る二種が存在する。
 人間から至った者は往々にして世俗の欲望を拭いきれぬものや、酒、色、賭けごとに溺れて堕落する者がおり、妖怪変化から仙道に至った者には至る以前の本能や衝動を抑えきれず、血肉を好む者や性情が冷酷である者が多いという傾向が存在している。
 世俗とは隔絶された存在である仙道の詳しい事情までは、流石に博識と言えるだけの知識を持つ鬼無子でも知らぬ所ではあったが、天外の性格や行動が一般的な仙道の言動や在り方から著しく外れているのだけは確かであった。

「まあ、天外の事は極力宛てにせぬよう心掛けておいた方がよいだろう」

「そうですな」

 結局、そういう結論に落ち着いた。
 天外ははなはだ信頼されていなかった。



「上手に炊けました!」

 というのが、樵小屋に戻った雪輝と鬼無子に告げられたひなの元気良い第一声であった。
 鬼無子の荷物捜しをしていた時に籠が一杯になるくらいに取って黒松露をふんだんに使った茸雑炊と、茸汁、炙った山女、それに塩漬け胡瓜と赤茄子が食卓に並べられ、湯気を立ち上らせている。
 無言のうちにひなの護衛を引き受けていた凛は、腹の虫が先ほどから盛大になっているらしく、黒松露の濃厚な匂いに鼻孔をくすぐられて食欲を大いに刺激されており、はやく食べたいと顔いっぱいに書いてある。
 ひなの浮かべる満面の笑みからして食材の火の通り具合は満身の出来なのであろう。雪輝はなにも口にせず見守るだけなのだが、ひなの嬉しそうな様子を見ただけで喜びでお腹を一杯にする。
 鬼無子も天賦の才を磨いた画人が入魂の筆で描いたような美貌を裏切る大食いであるため、舌と腹と胃の腑を楽しませてくれる味を想像して、今にも大輪の牡丹を思わせる艶やかな唇を舌なめずりしそうな様子。
 鬼無子は腰に手挟んだ崩塵を黒鉄の鞘ごと抜き、草鞋と足袋を脱いで予めひなが用意しておいた水の張られた桶に足を着けて拭う間も、茸雑炊の事を考えているらしく、一連の動作は急かされるような忙しさだった。

「なんとも魅力的な香りですな。黒松露と言えばやや時期は過ぎておりますが、一寸ほどの大きさでも高値で取引される食材。いやあ、よもや山暮らしでこれほど大量に口にできるとはそれがし、思いもよりませなんだ」

「ほう。この黒いのがか。このくらいの大きさではさして腹も膨れまいに」

 掌の上で簡単に転がせる程度の大きさの黒松露が、価値あるものとして高値で取引される事が、雪輝には不思議なようだ。

「そうそう手には入りませぬし、量ではなく香りを楽しむ食材なのですよ。それにこれを欲するような方は餓える事とは無縁の身分の方々ばかりですし」

 鬼無子の説明に山の外の世界に対する知識が欠乏している凛は、へえ、と口を丸くする。
 この山では簡単に見つけられる食材の一つに過ぎず、春から初夏にかけて頻繁に口にする機会に恵まれているので、価値があると言われてもピンとこないのである。

「需要に対して供給が追い付いておらぬという事か。麦や米の様な主食ではなく嗜好品の類であるのかな。そのうち、暇を見つけて麓の村にでも売りに行くのも良いかもしれぬ」

 山生まれの山暮らしである雪輝や凛にはいまひとつ実感しがたいのであるが、彼らがしょっちゅう目にしては手に取る薬草や果実の中には、外の世界で極めて希少なために価値のある品が多く、雪輝の半ば冗談の提案も実際にはそれなりに有用な提案であった。

「あんまり派手にはやるなよ。あたしらだって外の連中と取引していろいろ生活の役に立つモン手に入れてんだからな」

 と、凛が一応山の民としての自覚から、雪輝に釘を刺す。山の環境では得難い塩や海産物、絹や麻、木綿といった衣料のほか、山の民が外の世界から得ている物品はそれなりにある。
 雪輝達だけではさしたる取引量にもならぬであろうが、念には念を入れて注意くらいはしておいた方がよいだろう、という凛の判断だ。

「雪輝様、凛さん、鬼無子さん、お話はそれくらいにして早く召し上がってくださいな」

 せっかく会心の出来の料理が冷めてしまいそうで、ひなが慌てて話し込み始めた二人と一頭を取りなした。
 ひなとしてはいまの暮らしに対してなんら不満が無いため、外の世界との取引で何かを欲するという発想が出てこず、雪輝の提案にもさして意見はない様子であった。
 この時の雪輝の提案を真剣に考えるようになるのは、ひなの体が成長期を迎え、今の着物などが合わなくなり始めてからのことになるだろう。
 腹を空かせているのは雪輝以外全員の共通項であるので、自分達の空腹を思い出して、即座に雑炊の鍋が掛けられている囲炉裏の周囲に腰を下ろした。

「腹が減っては戦はできぬと古人も言っておりまする」

「早く食おうぜ」

 いっそ気持ちの良いくらいの鬼無子と凛の切り替えの速さであった。
黄泉より帰参した死霊たちへの危惧など欠片もない様子に、雪輝はまあなんとかなるだろう、と気楽に構えている。
 雪輝の能天気さは死んでも直らぬかもしれぬが、それにしても当面の危機よりも食欲を優先する鬼無子と凛もまたお気楽というべきか、豪胆というべきなのか、なんとも判じ難い所である。



 鍋の中が綺麗に空になるまでたっぷりと平らげた凛は、当初の投げ刃を鬼無子に返却するという用事も済んだとあって、昼飯の礼を告げて樵小屋を後にする旨を告げた。

「ではそれがしが途中までお送りいたそう。これからも時々研ぎを頼むやもしれませぬし」

 そう口にして鬼無子は、傍らに置いていた崩塵を鉄鞘ごと再び腰に差して立ち上がる。
 筒袖の腹のあたりが膨れてもおかしくないくらいに雑炊を胃の腑に収めたはずなのだが、外から見る分には何の変化もない。
 おそらくいくら食べても太らず、またどれだけ鍛え上げても体の線が変わらない体質なのであろう。
 物語の中の姫武者の如き凛とした美貌もさることながら、その体質でも世の女人の恨みを買いそうな鬼無子であった。

「大したおもてなしもできずに済みません」

 と頭を下げるひなに、凛はひらひらと手を振る。

「なあに、腹いっぱい食べさせてもらって文句なんかあるはずないだろ。それにひなの作る飯は不思議とうまいからなあ。戻ったら鍛冶仕事に精が出るってもんさ。またなにか用が出来たら足を運ぶから、その時はよろしくな」

「はい。明日でも明後日でも、いつでも歓迎いたします」

「ひなは本当にできた子だよ」

 よしよしと凛はひなの頭を優しく撫でる。特別な手入れをしているわけではないだろうが、凛の指に触れるひなの黒髪は驚くほど滑らかな感触だ。
 板張りの床に腹と肢を降ろしていた雪輝も顔を向けて、凛に別れのあいさつを口にする。とはいってもなにかと用を見つけては、凛がここに顔を見せるので、さほど別れという気にはならない。

「お前なら万が一ということもあるまいが、気をつけて戻るように」

 鬼無子が刃を交えた怨霊の狙いが雪輝である以上は、凛に害が及ぶ可能性は少ないはずではあったが、怨恨に塗れた怨霊の思考など正確に推し量れるわけもなく、凛と怨霊が激突しないとは言い切れない。
 純粋に凛の身を安堵しての雪輝の言葉ではあったが、滝壺の一件がどうにも凛の中で尾を引いていたようで、雪輝に返されたのは歯を剥く凛の形相であった。
 腹が膨れて凛の機嫌も治まっただろう、と油断していたから雪輝はううむ、と唸る。そこまで怒らなくても、と思うのだが悪いのは自分であると鬼無子にも言われているので反論のしようもない。
 しょぼくれる雪輝の事は放っておいて、小屋の外に出る凛の後に続き鬼無子も苦笑を浮かべながら

「では、すぐ戻って参りまする」

 と一つ言い置いて踵を返した。
 鬼無子を待たずに足を進めていた凛の小さな背に、ほどなく鬼無子は追い付いて肩を並べる。
 それにしても年齢が一つしか変わらないにしては、背丈や乳房、尻の生育具合にあまりに差のある二人であった。
 出る所は出て凹む所は凹む鬼無子に対して、凛の体つきはといえばほとんど起伏の見られない平坦なものである。鬼無子はこれでも晒布を巻いて、刀を振るう時邪魔になる豊乳を押さえつけているというのにも関わらずだ。
 これでは互いの体つきを比べるなという方に無理があるだろう。
 少なくとも鬼無子の方はお互いの身体つきの哀れなほどの違いを意識した様子はないが、自分の傍らを歩く鬼無子の横姿をちらりと盗み見る凛の顔は、渋柿を思い切り頬張ったよう。
 誰かの目が無かったら、自分の胸に手を置いて山を描き、その落差に嘆きをたっぷりと貯め込んだ溜息を吐いていたかもしれない。

「食い物の違いか? それとも侍と山の民は違うのか? いやしかし、胸の大きい女は村にもいるし……」

 新しい武具の発想が思い付かない時と同じくらいに深刻な様子で悩み、ぶつぶつと漏らす凛の姿に、さすがに鬼無子も訝しんだようで、凛の顔を覗き込むように首を傾げる。

「いかがされた、凛殿?」

「へ、いや、なんでもないよ。ああ、それよりも滝壺で感じた殺気、ありゃなんだったんだい?」

「うむ。あれは人間の死霊であった。おそらくは大狼に殺された過去の武芸者であろうが、恐るべき腕前。問題なのははたして何人が怨霊と化しているのか分からぬ事。ただ狙いは雪輝殿であり、他の者は邪魔立てせぬ限りはなんとかなるだろう。集落に戻られたら凛殿の口から皆にそうお伝え願えるか?」

「ふう、ん。人間の怨霊ね。あの狼が狙いか。つくづくあいつは大狼に祟られているんだな」

「それがしも過ちを犯してしまったしな。雪輝殿にはまこと災難と申し上げる他あるまい」

 雪輝の災難の一つになってしまった自分を恥じ入る鬼無子に、同類の凛も眉間にしわを寄せて気まずげな様子を見せる。

「過去の武芸者の死霊か。たぶん村の皆に聞けば大雑把に数は把握できると思うから、後で伝えに行くよ。そうすりゃ最悪でも倒す数の上限は判断できるからね」

「そうしてもらえると助かる。それがしの経験から言うと両手の指ほどは居ないと思うのだが、この山はいささか妖気が強い。どれほど怨霊と化すか、正確な予想が出来ぬのだ」

「お安いご用さ。もうここまででいいよ。鬼無子さんも雪輝の面倒に巻き込まれて大変だろうけど、肩に力を入れ過ぎない程度にね」

「面倒などではないよ。命を救ってくださった方には命を持って御恩をお返しするのが礼儀というもの」

 思いのほか、凛の言葉に返ってきた鬼無子の言葉は真摯なものだった。凛は、そんな鬼無子に問う。

「お武家さんの生き方ってやつかい?」

「それもあるが、それ以上にそれがしがそう望んでいるからだ。雪輝殿と凛の為にならこの命、惜しむものではない」

 何の迷いもなく、また偽りの影もなく告げる鬼無子に、凛は小さく笑って肩をすくめた。心の底からと分かる鬼無子の言葉を、なぜだか凛は喜んでいるらしい自分に、驚いていた。

「鬼無子さんを助けたのは、あの狼にとっちゃ大きな幸運だったかもね。じゃあ、また」

「うむ、また」

 そう言って別れの言葉を口にする二人の少女の口元には、薄くではあるが確かな笑みが浮かんでいた。親しい友との一時の別れの時に浮かべるのが似合う、そんな笑みであった。

<続>

松露
 ショウロ科の食用キノコ。
 本作における黒松露とはクロアミメセイヨウショウロの事で、夏トリュフの事。
 ひな達のお昼の献立は焼き魚と漬物、夏トリュフの雑炊、夏トリュフ汁。
 豪華なのか貧相なのか良く分からない献立。

 誤字脱字がございましたらご指摘ください。出来るかぎり早く修正します。



[19828] その六 凛とお婆
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:59
その六 凛とお婆

 太陽を覆う鉛色の雲など、この世のどこを探した所で見つけられず、天候を司る神に奪い去られたような晴れ渡った空が広がっている。
 蒼穹、と空の青を例える言葉があるが、この昼の空を見上げれば青ではなく照りつける太陽の黄金の色を思い浮かべることだろう。
 数年来山の外の世界を襲う旱魃を作りだした陽光が、忘れていたとばかりに妖魔の住まう山にも降り注いでいるのかもしれない。
 十歩と歩かぬうちにたちまち額から足の爪先に至るまで汗の珠で濡らして、恥も外聞もなく舌を出して暑さに喘ぎそうなものなのに、その女人はまるで春の風を満身に浴びているように、夏の陽光を気にも留めず颯爽と歩いていた。
 栗色の髪が在るか無きかの風にかすかにゆら、と揺れる。
 質素なつくりではあるが品の良い青色の組紐をつかい、首の付け根のあたりで大雑把に結えられているだけだが、吹き抜けた風は髪から薫る甘い香りに陶然とした心持であったろう。
 風雪を遮るもののない長旅に耐えて襟や裾の擦り切れた野袴姿であるが、それに身を包む肢体は、色街の太夫が息を呑んで羨むほどに艶めかしい豊かさだ。
 衣服の粗末さに比べて、それを纏う人間は煌びやかに着飾った都の貴人達とはまた趣を異にする気品が、目に見えぬ霧のように美貌の周囲に漂っている。
 鍛えた個所などどこにも見受けられない手弱女然とした姿であるが、腰に帯びた鉄鞘に納められた三尺二寸三分の刀と、体の中心線に鋼鉄の杭が打たれているように揺らがぬ体の重心と足運びを見れば、一角の武芸者であると同じ人種にはわかるだろう。
 御伽草子の中の姫君の如き美貌に、一騎当千の武力を秘めた妖剣士・四方木鬼無子である。
 人間を襲う事に何の躊躇いも抱かぬ野獣達や、人間の体に流れる暖かい血潮や湯気の立ち上る臓腑を好む妖魔の住まう妖哭山の山中に、ぽつねんと建つ樵小屋の前に鬼無子はおり、手を伸ばせば小屋の戸板代わりになっている鹿皮に触れられる距離で足をとめた。
 何時の頃から戸板の代わりに使われていたのかは分からないが、幾年月もの雨風を容赦なく浴びせられてきた鹿皮は、よほど巧みになめされたのか、目の前に立つ自分の顔が映りそうなほどの光沢をいまだに誇示している。
 滾る湯の中に落とされたのかと思いたくなるほどの熱に満ちた季節には、風通しの良いこの皮戸の方が都合がよいのか、鬼無子を含めた樵小屋の住人達に取り変えようという意思は見られない。、
 傷一つなく見事になめしあげられた鹿皮を改めて眺め、仕留めた猟師の腕前は相当なものだっただろう、と鬼無子はふむ、とひとつ良く意味のわからない呟きを零す。
 凛を山の民の集落への帰り路の途中まで送り届け、ここ数年来でもっとも心に安らぎを覚える場所になった樵小屋へと戻ってきた鬼無子は、鹿皮をくぐってからおや? と黒瑪瑙を象眼しても、こうまで美しくは造れまいと世の万人が感嘆する瞳を丸くした。
 常ならば、昼を済ませた後にはすぐに行動に移る活動的なひなが、細い腕を思い切り広げて白銀色に輝く毛並みの塊に頬擦りをしていたのである。
 ひなの体は、栄養失調による生育不足を数年来経験した為に、同年代の童達と比べても一回り小さい。
 その小さな体は柔らかな白銀の毛並みにほとんどすべてを埋もれさせていた。
 都の貴人たちの間で珍重される絹を夜色に染めたような髪に、幼さを十分に残す丸みを帯びた顔の輪郭、小さな体の中に一杯に詰まった活力が一目でわかる溌剌とした雰囲気と、将来の成長を見越して唾を着けようとする男には困らぬ器量を持った少女だが、夢心地と言わんばかりに頬を赤らめながら緩め、白銀の毛並みに顔を埋もれている様子からは、年相応の童女としか見えない。
 一方でひなに抱きしめられている相手は、というとこれは言わずもがな通常の狼の数倍の巨躯と、目にも眩い白銀の毛並みを持って生まれた狼の妖魔・雪輝である。
 ひなが雪輝の事を父の様に兄の様に慕うように、雪輝もまたひなのことを娘の様に妹の様に、そしてまた時には姉の様に慕っているから、ひなの細腕に思い切り抱きしめられても嫌な顔一つするわけもない。
 ひなをぱくりと丸呑みにできる大きな狼面にも明らかに雪輝は目尻をだらしなく弛緩させ、二等辺三角形の両耳や長く伸びた尾はぷらぷらと動かしながら、この狼の心情を嘘偽りなく証明している。
 一人と一頭がこの上なく幸せそうにしており、見ているこちらも微笑ましい気分になる構図であったので、気遣いのできる女剣士は声をかける事をごく自然と控える。
 雪輝は朝から彼にとって最も大切な存在であるひなの機嫌を損ねて口を利いてもらえず、ひなの機嫌が直ったと思えば今度は自業自得の感があるとはいえ、凛に容赦ない拳骨をもらうなど、良い事が無かった。
 なら、ひなの存在を全身で感じ取れるいまの状況は、雪輝にとって今日一日の内にあった嫌なことすべてを忘れる事のできる幸福が、現実になったも同然だろう。
 さて、これはもうしばらく外で待つべきか否か、しかし、あの様子では明け方までああしていてもおかしくはないか、と鬼無子が白蠟のように滑らかな眉間に思案の皺を刻んだ時、たまたまこちらを向いたひなの瞳が悩む女剣士の姿をとらえた。
 見知った姿にひなの笑んでいた顔がさらに明るく弾けた。雪輝の事はもちろん、鬼無子の事もひなは大好きなのである。

「鬼無子さん、お帰りなさい!」

 この樵小屋に戻ってくるたびに自分を迎えてくれる暖かい言葉に、意識する事もなく鬼無子の口元は弧を描き、笑みを形作る。
 無償のぬくもりと優しさで自分を迎えてくれるひなの存在が、心から愛おしい。
 ひなと雪輝に拾われて、この樵小屋で世話になる以前、お帰りなさいと言われたのは果たして何時ぶりの事になるだろう。
 鬼無子は今も鮮明に思い出す事が出来る。己の命と名と受け継いだ崩塵以外のすべてを失ったあの日の事を。
絶望と悔恨と恐怖と憤激と後悔と、あらゆる感情の渦に放り込まれて血の涙さえ流した忘れ得ぬあの夜を。
 この島国の南方を支配する朝廷の都が、夜の闇さえ焦がさんばかりに滾る炎に包まれて、炎の海の中を逃げ惑う無力でちっぽけな人々を、老若男女の区別なく平等に殺戮すべく襲いかかる異形の群れ。
 かつてこの国を統一し、月の大女神の血を引くとされる神門にして帝の首級を奪うべく、神聖不可侵の皇宮へと攻め入る反逆者達と、彼らの挙げる大気を震わせる咆哮の嵐。
 帝を、そしてこの国に生きる人々を、あらゆる人間の欲望と妖魔の脅威、異国の神々から守り抜いた矜持を捨てた憎むべき同胞。
 以前は誰よりも頼もしく愛おしかった同胞たちを迎え撃つのは、神血守護を担う最精鋭の欺衛士と、鬼無子と四方木家の所属していた討魔省の妖滅士達。
 各々が手にした刀槍を閃かせ、百年千年の研鑽によって磨き抜かれた呪術が数多の命を奪い、奪われた、あの修羅道と都が繋がったかのような闘争地獄。
 血の繋がりの全てを失い、家を失い、妖滅士としての誇りも未来も失った。残されたわずかな武人としての誇りだけに縋りつき、諸国を渡り歩いて生きたが、それは『生きている』とは言い難い日々の連続。
 なまじ妖魔の血を引き、人ならぬ異形との戦いを生き抜いた技量から、並みの達人では真剣を持って刃を交えてさえ物足りなく、持てる技量の全てを尽くす高揚さえめったに味わうことはできなかった。
 稀に出会う真のもののふとの戦いでわずかに心を慰めたとて、それも刹那に等しいごく短い一時の事。高揚が心と体から離れれば、襲い来るのは目を逸らそうとも消えてはくれぬ虚無。

――自分は何のために生きているのか、何のために生まれ、そして何を成して死ぬのか、自分が生きた証拠を、なにかの形にしてこの世に残すことはできないのか。

 月明かりだけが頼りの夜の闇の中をひとり彷徨い、眠りに落ちる寸前に襲い来る存在理由への疑問。緩やかに、しかし防ぎようのない毒の様に心を犯す寂寥に、やがて鬼無子の心は荒み、生に倦んで疲れていた。
 苗場村を訪れ、山の妖魔に村の少女が――ひなのことだが――人身御供に捧げられたと聞いた時も、幼い少女が犠牲となる事への義憤を感じはしたが、それ以上に自分の死に場所を見つける事が出来たという奇妙な安堵が心を満たしていた。
 倦んだ心を抱えたままでこれ以上生きる事には耐えられなかった。父母やかつての仲間達が先に逝った冥天へ行けば、この寂寥と虚無に別れを告げる事も出来るだろう。
 そんな考えばかりが山中を行く鬼無子の心を満たしていた事を、鬼無子は雪輝にもひなにも語るつもりはない。
 ひなを救うため大狼を討つべく妖哭山を登った時、鬼無子が真に望んでいたのは、幼い少女の救出でも残虐非道の妖魔を討つ事でもなく、自らの生の終焉だったのだから。
 しかし蓋を開けてみれば、というべきなのか、十七年の生の終わりが妖魔との戦いによるものならば、退魔を生業とした家に産まれた自分には相応しいと、揺らがぬはずの覚悟と共に山を登ったというのに、現実を振り返れば自分を迎えてくれる小さな少女がいる。
 自分の存在を無条件に受け入れてくれ、暖かな笑みを向けてくれる小さな、けれども何よりも愛おしく感じられるひな。
 人が生まれ背負った運命の何たる不可思議な事であろう。鬼無子は我が身を待ち受けていた運命の不可思議が用意していた出会いを、いまは喜びと共に受け入れていた。

「ああ、ただいま」

 お帰りなさい、と言ってくれる相手がいる事の幸福を噛み締めつつ、鬼無子は薄く笑みを浮かべて答える。
 ひなが鬼無子の事を慕っているように、鬼無子もまたひなの事を実の家族同然に愛していた。
 鬼無子の言葉に込められた愛情をひしひしと感じ、受け入れているのであろう。ただいまと言われたひなの顔にも、鬼無子同様に喜色が広がる。
 ひなの笑みが太陽の様に明るく光輝く魅力を持っているのならば、鬼無子の笑みは透き通る月光のような魅力を持ち、陽光の中にひっそりと輝いていた。
 雪輝はひなが鬼無子に声をかけるまで鬼無子の帰還に気付いていなかったのか、驚いたような調子で草鞋を脱ぐ作業に入った鬼無子に顔を向ける。
 ひなとの出会いも奇縁といえば奇縁であるが、それ以上にこの狼の妖魔との出会いは奇妙を通り越して珍妙とさえいえるだろう、と鬼無子は思う。
 この善良な狼に対する感情を、鬼無子はかなり好意的なものであると自覚してはいたが、明確にどんなものであるか、と問われるとこれは返答に窮するものになる。
 最初の邂逅で大狼と勘違いして刃を振るった事を笑って許す寛容さ、時折見せる知性に富み老成した雰囲気、かと思えばひなよりも幼いように思われる無垢な言動の数々。
 共に過ごした短い時間の間に、鬼無子は雪輝に対して十全以上の信頼を抱いているが、弱音を吐いた事もあってかどうにも彼に対して好意的である自分に気づいていた。
 これほど誰かに対して急速に好意的になるというのは、鬼無子にとって極めて珍しい経験であり、彼女自身も自分の心の変化に若干戸惑っている部分があった。
 流石に人間の異性に向ける恋愛の慕情ではあるまいとは思うのだが。
 とはいえその心の変化でなにか鬼無子に不都合な事が起きたというわけではない。鬼無子は戸惑いを表には出さずに、ひなに向けたのと同じ笑みで雪輝に向かい合う。白銀の狼はどこか消沈した面持ちであった。

「戻っていたのか、お帰り。しかし気付けなかったとは、これは私の失態だな」

 ひなに構ってもらっている最中だというのに、骨の抜けたような腑抜けた声で無い事が鬼無子には意外だった。
 雪輝はひなにじゃれつかれていたり、抱きつかれていると大好きな飼い主に甘える子犬の様になり、これのどこが山の妖魔だとつい疑ってしまうほど人畜無害な生き物と化す。
 しかし、雪輝は腑抜けたどころか、ひどく強張った声を出していた。
 鬼無子にはその理由が容易に察せられた。
 普段ならば雪輝が居るだけで、凶悪な山の妖魔もこの樵小屋を中心とした一帯に近寄る事さえ避けるが、いまは雪輝を狙う武芸者の怨霊が山の中を跳梁跋扈している。
 であるのに、心を許した同居人である鬼無子相手とはいえ、小屋に近づく者の気配に気付けなかった事は雪輝にとって、無かった事にする事の出来ない大きな失態であり、雪輝自身が口にした通りに自分自身で受け取っている。
 隠しようもない落胆の様子を見せる雪輝を、鬼無子は生真面目な所のある方だな、と好意的に解釈し、また同時にこうも素直な性分をしていると感情の起伏が忙しくて、気の休まる事が無いだろうと雪輝に同情する。
 なにしろその場その時に雪輝が抱いている感情がどんなものであるか、狼相手であるにもかかわらず、表情と耳と尻尾を見ればおおむね把握できるほど、この狼は良くも悪くも感情の表現を惜しまない。

「ただいま戻りました。それがしに気付けなかった事はあまりお気に悔みますな。敵意を発する相手にならば、雪輝殿が気を鈍らすこともありますまい。にしても、ひな、どうかしたのか? 雪輝殿に抱きついているのは珍しくはないが、昼の最中からとは珍しい」

「実は、さっき雪輝様に触れたらとってもひんやりしていて気持ち良かったんです。だからついこうしてしまって」

 ぎゅう、とまた雪輝を抱きしめる腕に力を込めて、ひなが全身を使って雪輝の存在を感じ取るように抱きつく。幼子が精いっぱいに甘えるその仕草に、鬼無子と雪輝の口元に同時に微笑が浮かび上がる。
 一人と一頭が、この少女の事を心から愛していると、一目で誰にでも理解できる笑みであった。
 思わず浮かべてしまった笑みをそのままに、鬼無子は話の矛先を雪輝に向け直して単刀直入に問う。疑問に対する答えを持っていれば誤魔化す事なく答える狼であるから、状況の把握には、雪輝に聞くのが手っ取り早い。

「ひんやり? 雪輝殿、ひなになにかなさったのですか」

「特別に何かをしたという意識はないが、川を歩いていた時に君と私が暑いも寒いもさほど感じないと話をしたのを憶えているかね?」

「ええ、お話いたしましたな。ということはひょっとしていまは涼しいようにと念じているとか?」

「左様だ。あまりひなが暑そうにしていたので涼しくしてあげられると良いのに、と考えていたのだが、功を奏したようであるな。私自身はあまり変化を感じぬのだが、いまの私はひなが言う所の“ひんやり”としているらしい」

 夏の季節にもかかわらず長い白銀の毛並みをふんわりと広げる雪輝の姿から、ひんやりと涼しげな言葉を連想するのはいささか難しい。
 この国に住まう狼と比べると雪輝の毛の一本一本はずいぶんと長く伸びており、それがまた空気をたっぷりと孕んでことさらにもふもふとした感触を生んでいるのだろうが、何もしなくても汗の珠が肌の上に結ばれるこの季節では、見ているだけでも暑苦しさを覚えてしまう。
 つい今朝がた、雪輝の毛並みの素晴らしさに魅了されたばかりの鬼無子は、これは良い口実を得たとばかりに、篝火に引き寄せられる蛾のようにふらふらと歩きだし、雪輝に抱きつくひなの反対側に回り込み、そろそろと手を伸ばす。
 雪輝の体表のみならず周囲にも気温低下の影響が及んでいるようで、雪輝に近づくにつれて気温が下がり徐々に過ごしやすいものに変わる。
 まだ誰も足跡を残していない雪原の様な白銀の毛並みを梳くように指を差し入れると、なるほど確かにひんやりとした感触だ。氷や雪というほど冷たいわけではなく、体を壊さずに夏場を過ごすのにはちょうど良い。

「ふむん、いやいや雪輝殿の毛並みの素晴らしさは相変わらずですが、このひんやり具合はまたたまりませぬな。ひなの言うとおりひんやりとしていて、夏が過ごしやすくなります」

「私自身はまり実感が無いのだが、鬼無子もそういうのならそうなのだろう。もう少し冷してみるかね」

「おっ?」

 ひなばかりでなく鬼無子にもひんやりとしていると保障された事と、毛並みを撫でて貰える事が嬉しいようで、気を良くした雪輝はさらに自身の周囲の気温を下げてみようかと試みる。
 具体的に何かをするわけではなく、単純に涼しくなれ、冷たくなれ、と重ねて念じるだけである。
 雪輝に抱きついていたひなと鬼無子はあっという間に冷えて行く雪輝の体に、口を丸くして驚いている。

「わわ、雪輝様、どんどん冷たくなってゆきますね。お身体は大丈夫ですか?」

 あまり急速に冷えるものだから、雪輝の身体に無理が生じてはいないかと案じるひなの言葉に、雪輝はなんでもないとのほほんと返す。

「私は何ともないよ。さてもう少し冷すかね」

 ぐん、とまた一段も二段も雪輝の身体が冷えて、周囲の熱を奪い去る。雪輝という名に相応しい北国の雪妖を思わせる勢いで、雪輝の身体は氷の彫像と変わったように冷たくなる。

「ゆ、雪輝殿、冷やし過ぎです。これではまるで氷です」

「ん? 加減を間違えたか。どれ」

 あまり勢いがありすぎて、肌が張り付いてしまいそうなほどに冷たくなりだした雪輝を、慌てて鬼無子が制止する。
 雪輝自身があまり暑さや寒さを体感した経験がないせいで、人間にとってどの程度の温度が心地よいものか、正確に把握できていないせいだろう。
 再び抱きつきだした頃と同じ程度に戻った温度に、やれやれとばかりに鬼無子とひながそろって安堵の息を吐いた。もう少し雪輝の体が冷え続けたままだったら、ひなの指など霜焼けを起こしていたかもしれない。

「これくらいがちょうどよいですな。しかし、ただでさえ雪輝殿の毛触りはなんとも言い難い心地よさだというのに、その上このように夏の暑さを忘れられるとあっては、離れられなくなってしまいまする」

「本当に、鬼無子さんの言うとおりですね」

 ぎゅうっと自分を抱きしめてくる二人に、雪輝はますます機嫌を良くして目を心地よさそうに細める。雪輝もひなも鬼無子も、三人にとってこの上なく幸福な一時であったろう。
 どこまでも自分達を包み込む柔らかな感触と夏の熱気を忘れられるひやりとした冷気を堪能しているうちに眠気が走ったのか、ひながうとうとと瞼を重たそうにし始めた、と鬼無子と雪輝が思った時にはすぐにすやすやと小さな寝息が零れ始める。
 一人と一頭はひなの立てる健やかな寝息を耳にしながら、互いの顔を見合わせてくすりと小さく笑い、そのまま動くでもなく言葉を交わすでもなく静かに時を過ごした。
 雪輝の生命を狙う怨嗟に突き動かされた怨霊が付近を跋扈しているなど、悪い夢の中の出来事のように、穏やかな時が二人と一頭の間で流れていた。
 雪輝と二度と離れないようにと強く白銀の毛並みを握りしめながら、睡魔の誘惑に溺れたひなが目を覚ましたのは、斜陽が世界を朱色をうっすらと混ぜた黄金の色で染め始めた時刻であった。
 ゆっくりと水の底から浮上してゆくような浮遊感と、心地よさを伴いながら目を覚ますと、ひなは樵小屋の中の陽の入り具合から自分がどれだけ眠っていたのかに気付き、はわ、と珍妙な声を一つ零して身体を起こした。
 ただでさえ寝心地の良さが度を過ぎて、抱きしめていると瞬く間に眠気を誘う雪輝の身体が、夏の熱風などどこ吹く風と忘れられる冷気を備えるとあって、ひな自身が気づく間もなく眠ってしまっていたようだ。

「あ、私、眠ってしまいましたか?」

「寝つき良く、な」

「あぅ」

 恥ずかしげに頬を自分の手で挟むひなに、雪輝は愛娘を見守る父の様に慈愛に満ちたまなざしを向けている。
 目に入れても痛くない、という喩える言葉があるが、雪輝の場合は眼球を抉られても痛くないと豪語しかねぬほど、ひなを溺愛していると、その眼差し一つで良く分かる。
 くっくっ、と咽喉の奥で小さく笑う雪輝を、ひなは珍しくも恨みがましそうに見つめる。おもしろげに笑われているこの状況は、雪輝に対してどこまでも従順な所のあるひなでも、歓迎せざるものであったよう。
 ぷくっと可愛らしく桜色の頬を膨らませるひなを見て、雪輝はますます笑みを深くし、同じようにひなもまたむぅ、と不機嫌な吐息を零す。
 このまま終わりを迎える事はなく、延々とこのやり取りを繰り返しそうになった時、雪輝の身体を挟んでひなの反対側から、うみゅ、とひだまりでまどろんでいた猫が不意に踏みつけられたような、気の抜けた妙な声が一つ零れる。
 ひなが一定の間隔で零す寝息に誘われて、すぐ後を追って同じく夢の国の住人となっていた鬼無子が一人と一頭のやりとりを耳にして目を覚ましたようだ。
 雪輝が咽喉の奥で忍び笑いを洩らす度に、鬼無子がもたれかかっていた白銀の毛におおわれた大きなお腹も揺れるから、それも鬼無子の目を覚まさせる一助を果たしていただろう。
 目を覚ました鬼無子はやや思考を寝惚けさせたままではあったが、笑みを浮かべる雪輝と頬を膨らませて拗ねるひなの様子に気付くと、即座に状況を理解したのかぱちりと瞬き一つをして、雪輝と同じように小さな笑いを零した。

「鬼無子さんまで!」

「いやはや、仲がよろしいようでなによりと思ったまでのこと。んん、しかし雪輝殿はまことに心地よいお身体ですな。これはもう雪輝殿の身体以外では眠れなくなってしまいそうで恐ろしい」

 そう口にしながらも鬼無子の腕は変わらず雪輝の身体を抱きしめており、白魚も黒ずんで見える指先は、別の生き物に変わったように白銀の毛並みをいじり続けている。
 雪輝ばかりか鬼無子にまで笑われてしまって、ますますひなは頬を膨らませて拗ねる。まったくもってこの状況はひなにとって不本意極まりないものであった。
 その一方で雪輝は、鬼無子に抱きしめられるとふよんとした柔らかい感触がするのに、ひなに抱きつかれているとひどく平べったいものが押しつけられるな、などと考えていた。
 ほんの六、七年ほど長く生きているだけでよくもこれだけ身体に変化が起きるものだと、雪輝は生命の神秘について思いをはせる。
 ただ、今考えるべきはひなと鬼無子の身体的特徴の相違などではない事を、雪輝はかろうじて理解していた。

「あまりむくれてくれるな、ひな。少しからかってしまっただけなのだからね」

 流石にこれ以上からかって機嫌を損ねては面白くない事になると、雪輝にも分かったのかひなの機嫌を取りに動いて、膨らんだひなの頬を雪輝の長い舌が舐め、次いで鼻先を寄せて慰めるために頬擦りを重ねる。
 そうまでされては、ひなも機嫌を損ね続けるのは難しく、すぐさま相好を崩して苦笑を浮かべ、頬擦りしてくる雪輝の顔を愛おしげに撫でる。

「……はい。もう、あまりからかわないでくださいね」

「うむ」

 雪輝殿とひなはこの調子で仲違いと仲直りを繰り返すのだろうな、とこの光景を眺めていた鬼無子はなんとはなしに確信していた。なんとも微笑ましい組み合わせである。



 ひなと鬼無子と雪輝とがまったりと心地よい時間を過ごしていた頃、凛は生まれ育った集落への帰路に在った。
 毒花魔草の生い茂る巨木の立ち並ぶ森の中を進み、あくまで自然の配置と見える岩や倒木が形作る迷宮を越えると、山の民が知恵を凝らして巧妙に罠を隠し里への入口を隠ぺいした一帯に入る。
 足元を埋め尽くす緑の敷布は唐突に絶えて、首を直角にして見上げなければならないほど直角に切り立った岩壁が待ち受けている。
 細く長い蔦が岩壁の表面を二重三重に覆い尽くし、絢爛な花の滝を描きだす光景は、初めて目にするのものならば思わず足を止めて、詩のひとつもしたためたい衝動にかられることだろう。
 岩壁の両端はびっしりと幹に苔を生やして緑の柱と変わった巨木の群れの中に飲み込まれ、回り込むのも飛び越えるのも到底不可能ではあるまいかと思われる。
 しかるに、凛は周囲に見る者の気配がない事を確かめてから、慣れた調子で岩壁の根元に咲いている一輪の紫陽花を目指して歩き、茹だる熱を持った風に揺れる紫陽花の根元に埋もれるようにして頭を覗かせている石をそっと押した。
 凛の人差し指が石を押し、土の下のどこかでかちり、と小さな音がするのと同時に、岩と岩とが擦れる音が低く重く響くと、凛の右手側一間の所に、縦横一丈ほどの切れ目が走りって左右に割れた。
 山の民だけが伝える奇怪な技術によって、岩壁の中に隠匿された里への入り口となる岩戸である。
 山の妖魔の豪力を持っても砕けず、また岩壁を覆う花の香りによって人間の匂いを隠匿している。一度閉じればいかように目を凝らした所で継ぎ目を見つける事は出来なくなり、山の民でもなければまず見つける事は出来ない幻の出入り口となるのだ。
 山の外の民が見れば驚嘆に目を見張る仕組みも、凛にとってはごく慣れ親しんだものにすぎず、気負う調子もなく開かれた岩戸の中に足を進めてからしばらくして、岩戸は開いた時と同様にかすかな音だけを立てて閉ざされた。
 外の岩戸が閉ざされるのと同時に岩壁の中に穿たれた通路の左右に用意された明かりに火が着いて、薄暗闇をぽうっと照らしあげる。
 皿の中に油と短く切った縄を放りいれてあるだけの簡素極まりない明かりであったが、人が足を踏み入れると勝手に火が着き、またどこからともなく油が補充され、火が着いた縄は凛の知る限り一度も交換された事が無いにもかかわらず、何の問題もなく火を灯している。
 このどこにでもあるような明かり一つをとっても、山の民の育み守り続けた技術が外の世界の物とは隔絶されたものであることは確かであった。
 どれほどの巨大さなのかまるで想像もできぬ巨大な岩を掘り抜いて造られた通路は、時に登り階段となり時に下り階段となり、螺旋を描く階段は足を進めるうちに、果たして自分が上に向かっているのか地下へと下っているのかさえ分からなくさせる。
 足を止めて注視しても分からない程度のわずかな傾斜やそこそこに蟠る薄闇などが方向感覚をゆっくりと狂わせて、道の順序を知らぬものを永劫にも彷徨わせて餓死させる迷宮を形成しているのだ。
 外からの人間の侵略者はもちろん、山に住まう数多の妖魔や猛獣の侵入をも考慮に入れて、蝙蝠のように自ら発した超音波の反響によって位置を察する妖魔に対する対抗策も備えた難攻不落の岩城でもあった。
 山の民に近しい技を持つ忍びのものや、探索に長けた呪術士を用意すればともかく、ただの雑兵や騎馬で揃えられた人間の軍勢では、一万人が十年をかけても攻略することはできまい。
 はたして幅一町、高さは三間にも届く広大な通路は、一体何を通すためにこれほど大きく採寸を取られたのか、山の民の中にも知る者は少なく、原初の祖先に問わねばその真の目的を知ることはできない。
 凛とてどうしてここまで幅も高さも、大きく余裕を持たせているのか、その理由を知らなかった。
 通路の左右に灯る頼りない明かりだけを光源にした道行きは唐突に終わりを迎えた。
 ふと気づけば静謐ばかりが満たしていた通路は突如一辺三町ほどの正方形の空間に繋がり、真正面には地上へと繋がる石造りの階段が伸びている。
 その先には外側の岩戸と同じように、仕掛けによってのみ開閉する入口兼出口となる岩戸が待ち構えている。最近諸国で流通している大砲を撃ち込んでも罅一つ入りそうにない重厚な分厚さだ。
 階段を上りきった先の岩戸の横側に置かれているいくつかの丸石を所定の手順で置き換えると、かすかに地鳴りの様な音を立てて再び岩戸が開かれて、真っ白い光が洪水のように入り込み薄暗い通路の中を暴き立てる。
 暗闇から光へと転じる変化に、一瞬目を細めて視覚が慣れるのを待ってから、凛は意気揚々と一歩を踏み出す。
 岩戸の外は里の端にある長方形の岩の内部へと繋がっていた。凛の鼻孔を濃厚な緑の匂いが満たし、風にそよぐ枝葉のしなる音、小鳥たちの交わす囀りが耳朶を震わせる。
 閉鎖空間であるにも関わらず、澄み切った空気の流れる岩壁内の通路の中には匂いというものが無かったが、生まれた時から親しんだ山の匂いを嗅ぐたびに凛は安堵をおぼえて、薄い胸中を満たす。
 思い切り腕を伸ばし、肺の中を新鮮な山気で満たすと、まるで生き返ったように新鮮な気分になる。
 見果てぬ深さの漆黒の闇と、無機質な岩壁の肩に圧し掛かってくるような重さに囲まれる通路は、山の生命力の塊の様な凛にとってはどうしても沈鬱な気持ちにならざるを得ない空間であり、そこから解放された喜びがたしかに心の中にあった。

「さてと、まずはお婆の所に顔を出すかな」

 ぴしゃりと頬を叩いて、凛は再び足を動かし始める。鬼無子と約束した、黄泉帰った怨霊たちの数や所在を、里の祈祷師であるお爺やお婆連中に問うためである。
この山の民の少女も実に律儀な性格をしている。
 妖哭山に住まう山の民“錬鉄衆”の里は、直径半里ほどの面積を巨大な岩壁に囲まれている。
 いわば菱形の山脈で内側と外側の隔離を成している妖哭山の形状を、そのまま縮小して当てはめた形になる。
 水源はこんこんと豊富な湧水を供給する泉や沼、また地下を流れる水脈によって賄われており、狭隘な面積を活かすために設けられた棚田には米はもちろんあらゆる種類の作物が実っている。
 ちょうど隔壁となって四方を囲む岩壁から里の中央に向かって窪む地形をしており、凛の居る出口からは里の全容を望む事が出来た。
 数十戸ほどの家々が建ち並び、凛の仕事場である鍛冶衆の家屋や鍛冶場が纏めて並ぶ一角では、黒煙が絶えず噴き上がっており凛が居ぬ間も鉄を叩く鎚は休むことを知らず、炉を燃やす鞴(ふいご)を踏む足も、働く事を忘れていないようだ。
 一人前とみなすだけの能力があれば十歳の頃から成人とみなされる錬鉄衆の中では、幼い頃から鉄の扱いに才覚を見せた凛は、既に十分以上の能力を兼ね備えた貴重な人材である。
 ひなを伴った雪輝との決闘以降なにかにつけて用件を見つけては、樵小屋を訪れているが、実父であり上司でもある鍛冶衆筆頭の鋼造(こうぞう)からは渋い顔をされている。
 何の変哲もない生垣や椿、桔梗、楡、ブナ、松と檜とあらゆる種類の木々や花が家の合間合間や道に生えて枝を伸ばしているが、それらもまた緻密な計算の上に配置されている。
 なんの考えもなしに足を踏み入れても、木々がそれぞれを遮り隠し合い、家の藁ぶき屋根が見えているのに、数十歩を重ねればたどり着ける筈の家にたどり着けず堂々巡りを繰り返す事になる。
 岩壁の通路も、通路を抜けた先に広がる里の道も、家々を囲む梢や生け垣もまた等しく不用意に足を踏み入れたもの全てを迷わす幻惑の迷路であった。
 しかしそれも初めて足を踏み入れる不作法者に限ればの話。凛からすれば目を瞑っていても迷うことなく里の全ての家を訪ねる事が出来る。

「おー、凛姉ちゃん。お帰りなさい」

「また狼様の所に出かけていたのー?」

「んー、ただいまぁ。おお、あの銀色ンとこだよ。相変わらず無駄にでかかったぞー」

 ぼろ布を丸めた手製の蹴鞠を蹴り飛ばして遊んでいた子供達が、凛の姿に気づいて元気よく声を張り上げる。
 性格的なものもあるだろうが、凛は里の子供たちにとって良き姉貴分と兄貴分を兼ねているようだ。
 適当に手を振り、言葉を返しながら、凛はまっすぐに道を間違えることなく祈祷師のお婆達の籠る御堂へと向かう。御堂とはいえ造りはそこらの農家とも異なっており、大人の手で二抱えもある瑠璃色の円柱に支えられた奇妙な家屋であった。
 屋根は瓦でも藁でもなく、かといって切り出した石材というわけでもない。ひどく艶やかな表面の、山の民の誰も知らぬ素材が四角錐の形で円柱の上に配置されている。
 他の山の民の家屋や鍛冶場が山の外側の民達のものとそう変わらないものであるのに対し、この祈祷場だけが特別であった。里長の伝える所によればこの祈祷場こそが里の最古の建物であり中心地であるともいう。
 唯一の入口として開かれている朱色の戸口に吊るされた板と木鎚をカンカンカン、と小気味よく凛は叩く。
 小さな頃から好奇心と行動力の塊で、里のあちこちはもちろん山の隅々にまで足を伸ばした凛にとっては、里の畏怖を集めるこの祈祷場も伺いを立てずにずかずかと足を踏み入れても問題はないのだが、それなりに年を取った今では一応、礼儀というものを考えるようになっていた。

「お婆ー、凛だよ~。入るぞ、お伺いは立てたからなあ。入るぞ、入ったぞお」

 なんともはや無作法の極まりの様な凛の言い草である。来訪を告げるや否や戸口を開いてさっさと祈祷場の中へと足を踏み入れて行く。
 祈祷場の中は記憶の物と変わらぬ青い光に包まれていた。壁どころか仕切り板や戸ひとつもない、がらんとした空間である。
 雪洞や灯篭、蝋燭があるわけでもないのに十分な光量が得られているのは、円柱や壁、床、天井を構成する構造材そのものに発光物質が含まれているからなのだろう。
 昼も夜も、また嵐が来ても雪が降っても常にこの祈祷場を包む青い光を浴びるたび、凛は身体の中の不純物や淀んだ気が浄化されたような気持ちになり、体が軽くなる。
 直径二丈ほどもある大鏡を背に、金糸銀糸のみに留まらず極彩色の糸で刺繍の施された座布団の上に、小さな小さな影が座っている。
 座布団同様に絢爛豪奢な刺繍が施された紫染めの絹衣を幾重にも纏い、鼻から下を同じ絹衣で覆った老婆である。
 糸の様に細められた瞳に、かすかに頭巾の内側に零れる白い髪の毛、膝の上で重ねられる皺に覆われた小さな手。
 背は曲がり正座していることもあって、幼子の背丈にも届かず、ともすれば置物のようにも見える。
 しかし、この今にも永劫の眠りについて昇天してしまいそうな老婆こそが、里の祈祷師衆の総帥であり、里長以上の影響力を持った大人物であった。
 凛の祖母が乳飲み子だった頃からもうこの姿で、ただ“お婆”と呼ばれていた老婆へ、凛は何を気負う事もなく呑気な調子で近づいてゆく。
 多くの里の者が無限の畏怖を向ける老婆も、凛にとっては面白い話をたくさん聞かせてくれる大好きなお婆であった。

「お婆~」

「おう、よう来たね、凛。おいで」

 どこまでも穏やかな、どんな悪たれ小僧も笑顔を浮かべて膝に顔を埋める慈愛に満ちたお婆の声であった。この声に宥められるとどんなに頭に血が上っていても、穏やかな気持ちになって心が凪ぐことを、凛は良く知っていた。
 かすかに首を上げたお婆の招きに応じて、凛はいつのまにかお婆の目の前に置かれていた座布団にどっかと腰を下ろす。
 お婆から目を離さずにいたというのに、いつ、どこから出現したのかまるで分からぬ座布団の不可思議な出現も、すでに嫌というほど体験した為に、凛は驚きの声一つ上げなかった。
 ふと鼻をくすぐる匂いに気付き、凛は眼下を見下ろせばそこには湯気を立ち上らせる湯呑が一つ。
 座布団と同様にいつどこから出現されたのか、まるでわからぬ唐突な出現の仕方である。ましてやこの祈祷場には炊事場もなく、水瓶や竈はおろか鉄釜も鍋も火種すらない。
 お婆の祈祷場を訪れるたびに供される御茶や茶菓子は、いつも目を離した隙にとつぜん自分達の手元に現れる。
一体どうやってこの御茶を用意したものか、凛はずいぶん昔に答えを考える事をやめていた。
 いくら考えても答えが得られそうにないし、出された御茶や菓子が毎度毎度ほっぺが落ちてしまいそうなほど美味しいので、まあいいかと考えるようにしたのである。
 山道と岩壁迷宮を歩きとおした凛の事を考えてか、御茶は一息に飲み干せる程度の温さで、凛はお婆の心遣いに頭の下がる思いだった。湯呑に口を着けてぐびぐびと喉を鳴らす。

「また雪輝んところに顔を出してきたよ、お婆。猿どもの騒動が終わったと思ったら、あいつ、また面倒事に巻き来れてさ」

「そうかい。狼さんは奇運を背負ってこの世に“来た”からねえ。どうしたって平穏静謐に暮らすことはできないんだよ。きっと狼さんは静かに暮らしたいんだろうけど、可哀そうに」

 そういうやお婆は、凛の気づかぬうちに用意していた自分の湯呑を口元に運び、顔の下半分を隠す口布の下に湯呑を運び、品よく一口すする。
 ふと凛は、口布に隠されたお婆の素顔を見た事が無い事に気付いた。それは凛だけでなく里の皆が同じであろう。

「ふうん。それでさ、お婆、一つ頼みがあるんだよ。聞いてくれないかな?」

「なんだい、凛の事だから狼さんと女の子と剣士さんの為のお願いかしら」

 ぱん、と両手を合わせて頭を下げる凛に、すべてお見通しよ、とばかりにお婆は布の奥の口元に三日月の笑みを浮かべて答える。

「お婆にはなんでも見抜かれているな。雪輝の奴、昔、大狼に殺された外の連中の死霊に命を狙われちまったみたいでさ。その死霊をあたしらが倒す義理はないけど、どれくらいその死霊が居るかくらいは教えてやってもいいと思うんだよね」

「ほっほっほ、凛は優しい子に育ったねえ。お婆は嬉しいよ。なら、そのお願いを聞いてあげないとねえ」

「本当? やった、お婆大好き!」

 お婆の言葉に、凛は諸手を上げて喜びを身体全体で表現する。雪輝やひなの目の前では決して見せない子供のような凛の言動である。よほどこの祈祷師のお婆に対して心を許しているのだろう。

「また星に聞くのかい?」

「さあてねえ、風に聞こうか大地に聞こうか、水に聞こうか火に聞こうか、月に聞こうか太陽に聞こうかねえ。狼さんの運命は、読むのが難しいからね。今日一晩かかるから、凛は鍛冶場にお戻り。いまごろ鋼造が顔を顰めて待っているよ」

「うへえ、親父め、相変わらず融通のきかない頑固頭だなあ。じゃあ、お婆、面倒事を頼んでごめんな。よろしくお願いします」

 座布団からぱっと立ちあがるや、凛は深く腰を折って頭を下げて念入りにお婆に頼み込んだと思ったら、さっと踵を返して祈祷場を後にする。
 すでに一人前とみなされているとはいえ、いやだからこそ鍛冶場衆筆頭である父のお叱りは容赦がないことを、凛は体験から良く知っているのだ。
 自由気ままに吹く風の様にぱっと来てはさっと居なくなる凛を、お婆は心底愛おしげに瞳を細めて見送った。あの元気の塊のような少女は、この里の者たち皆から山を愛するように慕われている。

「さて、と」

 一つ呟いてお婆はくるりと背後の大鏡へと、座布団の上で何一つ動いた様子は見られないのに、まるで氷の上を滑るようにして背後を振り返った。
 お婆の視線を受けて大鏡の鏡面に突如波紋が広がる。いや、大鏡と見えたそれは鏡ではなかった。
 波紋はうねりと共に鏡面全体に伝播し、波のように寄せては返す事を繰り返し、風の強い海の様に、大鏡の鏡面はざわざわと潮騒の様な音をたてて乱れ始める。
 まるで銀の光沢を持った水の様に流動する液体金属が、祈祷場に設置された大鏡の正体であった。
 お婆は手を伸ばすでもなく口を動かすでもなく大鏡を見つめているだけだが、それでも大鏡はなにがしかの指令を受けているのか、徐々に鏡面の乱れを鎮めて元の銀一色の平坦なものへと戻り始める。

「天外ちゃんが狼さんに変な事をしたせいで、狼さんも色々と忘れてしまっているみたいだし、これからも苦労してしまいそうね」

 この老婆、どうやら山の内側に居を構えるあの怪しい事極まりない仙人と、それなりに深い付き合いがあるらしい。ましてやその口ぶりは雪輝自身も知らぬ彼の秘密を天外と共に共有しているようでさえある。

「でも頑張ってね、狼さん。貴方の事を大好きな女の子と剣士さんの為にも、貴方はまだまだ長生きしないと駄目なんだから」

 お婆の呟きが祈祷場を満たす青い光に飲まれて消えた時、静寂の水面と変わった大鏡の中心にゆるやかに、何か人型の様な影が結像してゆき、凛の求める答えを映しだし始める。
 さあ、あとはそれをお婆が正確に読み取るだけだ。お婆は、老骨に鞭を入れなきゃね、と外見とはまるで違うおしゃまな女の子の様に自分を励ました。

<続>

感想や誤字脱字の指摘、ご助言などお待ちしております。よろしくお願い致します。



[19828] その七 すれ違う
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:59

その七 すれ違う

 ほう、ほう、と鮮血滴る食いちぎったばかりの野熊の首を黄色い嘴に咥えた梟の鳴き声が、何千、何万本以上もの木立の中に反響して暗闇に沈む山林に吸い込まれて消えて行く。
 首の無い野熊は成人男性の背丈の倍ほどもある巨熊であったが、一羽の梟の首を食い千切られてから、ものの十秒とかからずに四方の闇から姿を見せた大小無数の獣や昆虫に集られて骨も残さず消え果てる。
 地面に零れた血も地中に住まう幾千万匹もの小虫や植物の根が貪欲に啜り、一つの生命が死に、その他の生命の糧となった証拠は何一つ残らずに消え去る。
 梟はおもむろに咥えていた野熊の首をぶん、と自分の止まっている枝の付け根に放る。いまだ血の滴る野熊の生首は、数度旋回して血の雨を数瞬降らしながら、枝の付け根に造られていた梟の巣へと放物線を描く。
 幾本もの小枝などで作り上げられた冠上の枝から、小さな影がいくつか首を伸ばし、自分達めがけて母梟から与えられた餌へと、勢いよく嘴を伸ばす。
 まだ野熊の生首が巣に落ちるよりも早く次々と、苦悶の表情をむざむざと刻む野熊の首に小梟の嘴が突き立てられて、細く裂かれた肉が赤い滴を纏いながら小梟の咽喉の奥に吸い込まれてゆく。
 白い神経線維を引く目玉も、割られた頭蓋からどろりと零れた脳髄も、数え切れない獲物の骨肉を裂き噛み砕いてきた薄汚れた牙も、その全てが数羽の小梟に食いつくされて、遂には首なしの胴体と同じに、存在の形跡も残さず小さな飢餓鳥達の胃の腑に消える。
 夜の山のどこかで、一羽の梟に首を食い千切られた野熊同様に、幾十幾百の獣が獣に食われ、妖魔が妖魔を食らい、命が別の命の糧へとなって死と生の連環が繋がってゆく。
 そんないくつもの死が生まれて別の命の糧となる場面が休むことなく起きる妖哭山であったが、ある一帯の周辺ばかりは争う獣の喧騒もはるか遠く、静謐こそが世界の主と言わんばかりの静寂が満ちていた。
 その一帯とはもはや語るまでもないかもしれないが、狼の妖魔・雪輝、人身御供に捧げられた少女・ひな、妖魔の血を引く魔剣士・四方木鬼無子が住まいとする樵小屋を中心とする一帯の事である。
 ぱちり、と樵小屋の中心部近くに設けられた囲炉裏の中で、くべられた薪の表面で火の粉が爆ぜる。
 ぱちり、ぱちり、と火の粉の爆ぜる音が続いて、囲炉裏を囲む住人達それぞれの顔を、淡く朱色に照らした。
 雪輝の白銀の毛並みを湛えた狼の顔を、陽に焼けて褐色に染まったひなの小顔を、夜にのみ生きる幻の姫君の如き鬼無子の白い面を。
 異色といえば異色極まりない三者の顔を揺らぐ炎の陰影が投影されて、瞬間ごとに異なる美貌の衣が被せられているかのよう。
 鬼無子が肌から零れたばかりの血を塗ったように赤い唇を動かす。

「太郎は二十文を持って買い物に出かけると飴売りが飴を一つ三文で売っていた。さて、太郎はいくつ飴を買う事が出来るか?」

 鬼無子の問いに、ひなは持っていた筆を置き、両手の指を折り曲げながら思案に耽る。指を開いては閉じるひなの様子を、鬼無子は慈しみに満ちた視線で見守っている。

「えっと……太郎は、飴を六個買う事が出来ます。それと二文が手元に残ります」

「よろしい。正解だ」

 自分の出した答えが正解であった為、ひなは急いで筆を取り直し手元の紙に質問と答えを書き込み始める。
 以前、天外の庵を訪ねた折に極彩色の飴玉などと一緒に与えられた筆や硯、墨壺、紙束などの道具の一つだ。
 流石に自称とはいえ仙人の所持していた道具という事か、幾ら紙に書き込み、墨を減らし、筆を使っても一向に紙や墨汁が減る様子もなく、またどれだけ紙を千切っても紙が無くなる事もない。
 ともすれば永遠に無くなる事も摩耗する事もない不可思議な文房具一式なのかもしれない。ひなの知らぬ所で天外から与えられた道具は、外の世界に出て好事家の目に留まれば値のつけられない道具であった。
 ひなが筆を動かすのを止めたのを確認し、鬼無子が次の問題を口にする。

「では次は少し難しいぞ。お菊は十人分の饅頭を買いに饅頭屋に来た。饅頭は二文、味噌饅頭は三文。お菊が買い物を終えると饅頭屋に二十六文と言われた。さて、お菊は普通の饅頭をいくつ、味噌饅頭をいくつ買ったかな。二種類とも買ったが、合計は十個だ。さ、考えなさい」

「うん、と」

 先ほどの単純な割算よりは幾段か難度を増した計算に、ひなはううん、と首をひねりながら頭を悩ませる。
 いささか前の問題よりも飛躍しすぎたかな? と鬼無子自身思わないでもないが、制限時間はひなが眠たくなるまでなのでゆるりと待つか、と自分を納得させ る。
 それにこれくらいの問題は鬼無子がまだひなよりも年少の頃に、教育係から解くよう命じられた問題の一つにすぎない。
 素浪人になってから諸国を漫遊したが、平均的な農民の学問の程度というものを理解しているわけではない鬼無子は、自分の幼少期を基準にして、記憶の棚の片隅から問題を引っ張り出しながらひなに教えているのである。
 一般教養の類も、ひなの教育係として雪輝の要請に応じた天外が担うべきかもしれないが、天外がひなに教えるのは身を守るための簡単な呪法などが主で、こう言った読み書きや計算はどちらかといえばついでかおまけになる。
 猿一派との戦闘があってからは、可及的速やかにひなに護身の術を身につけさせるべきと雪輝が判断していたから、天外と連絡が取れた時は基本的にひなは護身関係の事一辺倒を学んでいる。
 そんなひなの様子を見ていた鬼無子が、ではそれ以外の一般教養などは自分が面倒を見よう、と思いついたのである。
 妖滅士と呼ばれる南方の朝廷に仕えていた特殊な職に在った、という前歴を考えれば――といっても雪輝とひなは、鬼無子が退魔士であったということしか知らないが――鬼無子の教養や知識は、一般的な武士階級よりも上で、この国の基準からすればかなりの高等教育を受けたと言える。
 何時連絡が取れるか判然としていない天外よりも、一般常識や教養を身につけるという観点からすれば、はるかに効率的な師が既に雪輝とひなの隣に居たわけだ。
 かくして毎夜就寝の床に就く前のおよそ半刻(約一時間)ほどが、ひなと鬼無子の勉学の時間として割り振られていた。
 昨夜は古典文学の読み物を読み聞かせ、やや難しい漢字などの書き取りを行ったので、今回は数字を学ぶ番であった。
 うう、と悩んでいた様子のひなは、ひどく地道で効率がよいとは言えない解決策に乗り出していた。
 紙に饅頭と味噌饅頭をそれぞれひとつずつ買った場合の値段を順々に書きはじめたのである。
 それぞれが九個と一個を買うまでの組み合わせすべてを書きだして、両方の和算が二十六文になる個数を割り出そうというわけだ。
 一所懸命なひなの様子に、鬼無子の口元に浮かんでいた微笑に苦笑がわずかに交じる。同じようにして答えを導き出そうとした事があるのか、あるいはまだ刀も満足に触れない年頃の時、共に机を並べた学友が同じ事をしていたと、懐かしい思い出に浸ったのかもしれない。
 胸の中に湧きおこった暖かな気持ちに心を和ませていた鬼無子は、ふと、何も言ってこない雪輝の事が気になって視線を向けた。
 実のところ、今夜は天外仙人の方から連絡が来ていたのだが、雪輝の命を狙う武芸者の怨霊たちが復活したという事態を、ひなを巻き込むかもしれないからと危険視した雪輝が、先ほどから鏡に鼻先が着くような近距離で天外と話し込んでいた。
 いつも鬼無子とひなが勉学を始めると興味深げな視線を寄越し、二等辺三角形の耳をピンと立てる雪輝が、こちらの様子をまるで眼中にないとばかりに無視しているのは珍しいと言ってよいだろう。
 壁に立てかけられた鏡に、腰を降ろした姿勢で面と向かっている白銀の獣は、なにやらひどくまじめな様子でふむふむと頷いたり、天外の言葉を真剣な様子で聞き入っているようであった。
 天外の事を苦手と公言している雪輝にしては珍しい。ひなと鬼無子に注意を向けていない事も相まって、ますます鬼無子の注目は天外と雪輝に引きつけられる。
 どうも剣呑な様子の無い一人と一頭の様子から、どうやら怨霊の話はもう終わったか別の話をしているらしい、と判断した鬼無子は、率直に問う事にした。
 幼いころから命のやり取りが常態化するような修練を重ねてきた事と生来の性格もあり、言葉遊びや遠回しな言葉の表現というものが、鬼無子は大の苦手であった。

「雪輝殿は、天外殿といかようなお話をされているのですか?」

 ぴく、と雪輝の耳が鬼無子の声に反応する。天外との話に全神経を集中しているわけではないようだ。それでも鬼無子の方は振り返らず、雪輝が答えた。

「二次元空間で存在するある種の性質が、曲がった三次元空間あるいは三次元多様体でもいいが、とにかく、それにも備わっている事を証明しろと言われてな」

「…………は?」

 なにを言っているのやらさっぱりわからない雪輝の言葉に、鬼無子はこの美貌の女剣士には珍しい間の抜けた、ぽかん、とした顔を拵えた。
道を歩けば傍らを通りすぎた男も女も、お、と呟いて足を止めるような美貌が、なかなかに愛嬌のある表情に変わった。
 そんな鬼無子の様子に気づいているのか気づいていないのか、雪輝はいくらか問題を噛み砕いて、言い直す。

「二次元空間というのは方向が縦と横だけの空間。そうだな、地面に映る影が視覚的には近しいか。三次元空間というのは縦、横、奥行きの三方向を備えた私達のいま居るこの空間の事だ」

「…………」

 生きた影とでも言うべき妖魔と死闘を演じた経験はあったが、雪輝の出された問題に対しては何のことやらさっぱり分からん、と鬼無子は思う。
 正面から見る分には確かに視認できるのに、横から見るとまるでその姿が見えなくなる厄介な敵だった、と鬼無子の記憶野の一部が現実逃避に陥る。
 全く理解できませぬと素直に言って良いものやら悩んで、鬼無子は口を噤んだが、しかし雪輝の様子から察するに、この狼は問題の意味を正確に理解しているらしい。
 鬼無子にはさっぱり理解のできない単語の羅列を発したであろう天外の方に顔を向けると、なにやら悔しげに萎びた野菜の様に皺まみれの顔を更に顰めているではないか。
 ということは、この時折ひどく無知で無垢な所を見せる狼の妖魔殿は、鬼無子には頭を百八十度捩じっても答えが出せそうにない問題に、見事正解したらしい。
 天外の渋面は、解答が分からずに困る雪輝を思い切り馬鹿にして皮肉の利いた言葉で弄り回そうという、底意地の悪いことこの上ない思惑が的を外したからに違いない。

「ええっと、証明は出来たのですか」

「ああ。であろう、天外?」

「けっ、小賢しい狼めが」

「というわけだ」

 と、雪輝はどこか誇らしげである。普段は一方的に言いくるめられて、からかわれるばかりであるから、期せずして逆に天外をやりこめることができて嬉しいようだ。
 こういった所は実に素直な狼だ。

「は、はあ。いや、その、お見事です?」

 褒める所なのか自信の無い鬼無子は内心では首を捻る思いであったが、雪輝の方は素直に褒め言葉として受け取ったようで、板張りの床に長々と伸びていた尻尾がぱたぱたと動いていた。

「うむ、ありがとう。私の方はまだ天外と話があるから、鬼無子はひなの面倒を見てやってはくれまいか」

「あ、はい。お邪魔いたしました」

「いや」

 雪輝の方が意識せずに出した助け舟に乗り、鬼無子はいまだに一生懸命計算を続けているひなの方を振り返る。その最中、鬼無子は呟かずにはいられなかった。

「雪輝殿は侮れん」

 雪輝と同居を始めてから何度か同じ考えを抱いてきたが、今回は心の底からしみじみと思う。
 お人好しの極みの様な性格も器の大きさをあらわしているようで大したものだな、とは思っていたが、意外にその知力も馬鹿に出来ないものであったとは、いやはや、想定外と言う他ない。

「鬼無子さん、解けましたよ!」

 だからだろう、朗らかに笑みを浮かべて自分を呼ぶひなの笑顔が、格別に暖かく感じられたのは。

「どれどれ」

 とひなの示す答えを覗き込む鬼無子の口元は、それはもう、慈愛の女神かと見紛うほどの笑みが浮かんでいた。
 それから更に三、四問ほどひなに提出し、頭を悩ませながらもひながなんとか問題を解いていった頃、不意に鏡の向こうの天外と話し込んでいた雪輝が鬼無子に声を掛けた。

「鬼無子、天外に聞いても君に聞けと口を噤みよるので、一つ教えて欲しい事がある。いま、大丈夫かね?」

「ええ、構いませぬよ」

 ちら、とひなの方を見やればひなは鬼無子の出した新たな問題を解くのに集中している様子で、鬼無子が雪輝と話し込んでもその集中が乱されるようなことはないだろう。
 こちらを振り向く雪輝の目線をまっすぐに受け止めて、鬼無子はおほん、とわざとらしい咳払いを一つし、居住まいを正して雪輝に続きを促した。
 
(先ほどの“にじげんくうかんがうんたらかんたら”とかいう類の話であったら、なにも言えぬが、天外殿がそれがしに聞けと言っている以上、それがしの答えられる範囲の事ではあるのだろう。しかし天外殿の性格を考えるにろくな事ではない気もするな)

 などと鬼無子は腹の底で考えているわけだが、雪輝の方は全幅の信頼を置く鬼無子に純真な信頼の眼差しを送っている。
 良くも悪くも他者への好悪の感情を隠さないのは、この狼の一つの特徴であった。

「それで、いかような事でありましょうや? 自慢できるほどの知識を持ち合わせてはおりませぬが、それがしの知恵と知識を尽くしてお役に立てられるよう努力いたします」

「そう言ってもらえると心強い。どうも言葉の言い回しの様なのだが、私はとんと耳にした事がなくてな。やはり人間社会特有の言い回しや隠語というものに私は疎い。それで鬼無子に教えて欲しいのは、“枕を交わす”という言い回しなのだが、どのような意味合いがあるのかね?」

「…………」

 きりりと顔を引き締めた鬼無子が、無言のまま口を一文字に引いて微動だにしない事に、雪輝は怪訝そうに眉根を寄せて、鬼無子の顔を覗き込む。

「どうしたね、鬼無子」

「雪輝殿、もう一度言って頂けますかな? どうも、それがし、時折耳が遠くなるようでして」

「ふむ。枕を交わす、だ」

 ごほっと鬼無子は雪輝の目の前にもかかわらず咳き込んだ。そんなに変な事を聞いてしまったのかと雪輝が訝しむ間にも、鬼無子の顔は首から見る見るうちに耳に至るまで真っ赤に変わった。
 鬼無子がなにか誤魔化す様に視線を虚空に彷徨わせ、両手の人差し指を突き合わせたり、もじもじと動かし始める。
 純真無垢な眼差しを向けてくる雪輝に対して、自分ばかりが言葉の意味を理解し、羞恥に鼓動を早まらせているこの場の空気が、どうにもいたたまれないのだ。
 鬼無子が口をもごもごさせて答えるのを渋っている理由が、雪輝にはわからず――そもそも分かっていたら質問などしない――自分の推測を口にした。

「枕を交わすという言葉面を素直に捉えるのなら、自分の枕を好意を抱く相手と交換するなどの行為に基づいた、両者の親愛の度合いをあらわす言葉かと思うのだが。私の場合、私自身がひなの枕代わりも務めているから、私とひなも枕を交わす仲と言えるだろうか?」

「え!? ええ、まあ、その雪輝殿の解釈も大体においては間違ってはいないと言いましょうか概要としてはおおむね正しいと言いましょうか」

 至極まじめに推測を述べる雪輝に対して、鬼無子はますます顔を赤くして目のやり場にすら困りだして、挙句、あうあう、と意味不明の言葉まで口にする始末。
 鬼無子を閉口させている枕を交わすという言葉だが、これは同衾した男女が致す性的行為を意味している。
 雪輝の口にした自分とひなが枕を交わす仲か、という問いはひどく人倫にもとる破倫行為をも意味する事になる。
 ごく一般的な倫理観を備えた大多数の人間からすれば、おぞけの走る忌まわしいものだろう。
 随分と曖昧に、まるで逃げ道を探すような鬼無子に、雪輝はますます疑問の度合いを深めたようで、なにやら自分が返答に困る様な事を聞いたようだ、と流石に気づく。
 人の感情が変化する理由を推察し、正解する事は経験の無さから大の苦手としている雪輝であるが、人の感情の変化自体は敏感に察知することができる。

「鬼無子」

「は、な、なんでありましょうか」

「ひょっとして私は人に聞くにはあまり良くない事を聞いたのかね?」

「ええ、まあ、そのですな。……あまり他者に聞きまわるのには良くない言い回しと言いますか、枕を交わす、とは男女間でのとある行為を暗喩する言葉でして、そのある行為というものが往来で口にするのは大変憚られる事なのです。それがし、そういった方面の事にはまるで経験がございませぬので、なんとお答えするのが雪輝殿にとって一番良いか分からず、つい」

 生まれた時から苛烈な修行に身を費やし、淫魔と対峙した際の注意点や対策を修めてはいるものの、自分で自分を慰めた経験すらまったくない鬼無子には、この類の話は鬼門以外の何物でもない。
 もしこれ以上深く雪輝に追及された場合に、なんとか具体的な表現を避けて話をする自信は鬼無子にはまるでなく、焦りと困惑と羞恥に加熱する思考は、もしも行為を直に見たいと雪輝が言い出したらどうしよう、と在り得ぬ方向に迷いこんで鬼無子の精神から冷静な部分を丸ごと奪い去っている。
 幸いにして鬼無子の危惧は外れる事になった。鬼無子の様子の変化を悟った雪輝が、ぺこりと頭を下げたて謝罪の言葉を口にした為である。

「いや、天外に促されるままに質問した私の浅慮であった。鬼無子には気まずい思いをさせてしまったようで、まこと申し訳ない。このような事はこれで何度目になるのか、重ねて謝る。すまない」

 しゅん、と本当にそのまま縮こまってしまいそうな勢いで耳を垂らし、頭を下げる雪輝に、謝られる方の鬼無子が慌てて声をかけた。こんな事で頭を下げられても対応に困るというか、気にしないで欲しい。

「いいえ、雪輝殿、頭を上げて下され。このような事で落ち込まれてはそれこそ天外殿の思う壺ですぞ。それがしなら気にしておりませぬから、雪輝殿は今後その、ま、枕をかか交わすなどとですな、破廉恥な言葉を人前で口にせぬようお気を付け下され」

「肝に銘じる。しかし、既に私の肝は、新たに何かを銘じるだけの余裕はないかもしれぬな」

 心の底から自分に呆れ果てた様子で溜息を吐く雪輝が気の毒で、鬼無子は元気をお出し下されと、項垂れる雪輝の頭を撫でてやり、ついでに鏡の向こうで腹の立つにやにや笑いを浮かべている天外に非難の視線をぶつけておく。
 それなりの気迫を込めた鬼無子の視線は、小動物くらいならその場で気を失うだけの威圧感を備えているのだが、鏡越しという事もあってか天外に堪えた様子はまるでなく。いまにも鼻歌でも口ずさみかねない調子だ。
 先ほどの二次元の云々という話題で雪輝の事を馬鹿に出来なかった鬱憤を晴らす事が出来て、にんまりと口端を吊り上げて、悪夢に出てきそうな笑みを浮かべている。
 まっこと困った御仁である。
 鬼無子は、このような根性のねじくれ曲がった老人と付き合いがあったというのに、よくも雪輝殿はここまで素直な性分で通す事が出来たと、その苦労を想って涙さえ滲んできそうであった。
 優しい手つきで鬼無子に頭を撫でて貰って気を取り直した雪輝は、再び鏡の向こうの天外を見つめ、青い満月を思わせる瞳から小さくない怒りを孕んだ視線が天外に浴びせられる。
 鬼無子の漆黒の視線に続き、雪輝の青い眼差しを受けても天外のふざけた調子はまるで変わらない。
 百戦を超す死地を力づくで生き抜き、妖魔の黒血を引く妖剣士と妖魔の中でも上位に名を連ねるだろう潜在能力を秘めた魔狼の視線を合わせて浴びせられても、皺の塊の様な顔の色一つ変えないのは、それはそれで尋常ならざる胆力の主であるという証明になるだろう。 

「天外、いつかぎゃふんと言わせてくれるぞ」

「ほっほっほ、こぉの犬畜生めが、女人に囲まれて調子に乗り腐りおってからに。なんなら今言ってやろうか、ほれ、ぎゃふん」

「……………………」

 まるで小さな子供の屁理屈の様な天外の返答に、雪輝と鬼無子はもはや怒りなどという感情を超過して、呆れ果ててなにか口にする気にもなれなかった。
 一人と一頭から向けられる見下げ果てたと言わんばかりの視線を無視して、天外は一人別世界の住人のように、一生懸命に筆を動かしているひなへと矛先を変える。

「ひな嬢ちゃん、ちょいとわしの話を聞いちゃあくれんかね?」

ひなは天外の事を、雪輝に対して穏やかならぬ発言を繰り返す所ばかりは苦手としていたが、基本的に薬の件や筆具一式、飴玉などを譲ってもらった経緯から好意的である。
 動かしていた筆を止めて、ひなは鏡の中の小さな天外の顔を見る。ほとんど瞳の見えないほど細められた瞼の向こうで、天外の目が小さな悪戯を楽しむような光を宿していた事に気づいていたかどうか。
 少なくとも雪輝と鬼無子が不機嫌を宿した瞳で天外を見つめている事には、気づいていなかった。

「わしの工夫を凝らした禹歩(うほ)をひな嬢ちゃんに教えてそこそこ経ったじゃろ? わしが連絡のつけられんかった時は鬼無子嬢ちゃんがそちらの面倒も見てくれたようであるしの。そろそろ成果をわしの目で確かめとこうかと思っての」
 
 禹歩というのは、海の向こうに在る大陸から、この神夜の国に陰陽術と共に流入してきた歩行呪術の一種で、地面に星座に見立てた歩を踏んで邪気を払うものだ。
 基本的には呪文の詠唱と共に歩を刻むのだが、自称仙人の工夫が凝らされた天外流禹歩は、単に足捌きのみでも効果を発するより実戦向きの代物に変わっている。
 剣術のほか補助として陰陽術を齧っていた鬼無子の目にも、天外独自の呪術仙術は新鮮かつ独創性に溢れており、学ぶ所が多いものであった。
 ちなみにひなが現在習っているのは禹歩の他、炎除けや冷気除け、毒除け、雷除けなど妖魔が主に備える異能に耐性を備える呪符の作成方法である。

「成果をお確かめになる、と仰られますが禹歩をして見せればよろしいのですか、天外様」

「いや、ひな嬢ちゃんの足捌きが正確なのは前に見た時から分かっておるからの。今回はきちんと効力を発しておるかどうかの確認だの。なに、やることは単純じゃよ。雪輝と真正面から対峙して、奴めに禹歩の邪気払いの効果が及ぶかどうかを見るのじゃ」

 雪輝を生きた的にするのだ、という主旨の天外の言葉を理解するや否や、ひなは顔に怒りの朱をたちどころに昇らせて、その場で立ち上がり幼いながらに鬼女を思わせる憤怒の視線を鏡の向こうの、枯木に生側を張り付けたような老人にぶつけた。

「天外様、口にしてよい事と悪い事がございます!! 諧謔(かいぎゃく)に富んだ天外様のご気性は私も多少なりとも理解しているつもりですが、雪輝様を狙えだなんて、あんまりなお言葉です!!!」

 心の底から噴き出す怒りがひなの心中で渦を巻いているのか、ひなの舌鋒は常になく鋭く、また火を噴かんばかりの熱量が込められている。
 ひなはこの場でもっとも非力でちっぽけな少女に過ぎなかったが、その小さな矮躯からは相対する者に有無を言わさぬ迫力が溢れだし、ひなを小さな巨人のように感じさせる威圧感を放っている。
 ひとえにひなの雪輝に対する愛情の成せる技であった。
 初めて耳にするひなの声量と聞き間違えようのない怒りの響きに、雪輝と鬼無子も揃って驚きの表情を顔に張り付けて、指の付け根が白く盛り上がるほど力を入れて握っているひなの様子を心配気に見やる。
 雪輝など傍から見ていて哀れなほど明らかなほど、はらはらと慌て果てている。ことひなが関わると沈着冷静という言葉を、はるか遠方に放り捨てる悪癖がこの狼には強く根強いている。
 鬼無子と雪輝が心配そうにしているのとは正反対に、天外はひなの怒りも想定の内であったか、ふふん、と耳にした人間の神経を逆撫でする声を出す。
 この老人、全身を構成する細胞から性根の芯に至るまでが、皮肉と嘲笑で出来ていてもおかしくはなさそうだ。

「くく、よほどひな嬢ちゃんは狼めが愛おしいと見えるの。安心しろ、といえばよいのかお前さんの禹歩程度の邪気払いでは雪輝に傷一つ負わせられんわい。承諾も得ておるから気にせずドカンと食らわしてやるべきじゃの」

「雪輝様?」

 冷たくもなく厳しくもないひなの声を耳にして、雪輝は全身をびくりと大きく震わせた。そうさせるだけのものが込められたひなの声と、視線であった。
 なぜかひなの怒りの矛先が自分に向けられたような気がして、雪輝はきゅ、と心臓が音を立てて萎んだと錯覚する。
 ここ最近の雪輝とひなとの力関係を考えれば、長い尻尾をお股の間に挟まなかっただけまだ面目を保ったとここは褒めるべきであろう。
 かつてひなが初めて雪輝を目にした時の、息をする事さえ忘れてしまう圧倒的な威厳が、雪輝から失われてすでに久しい。
 命がけの戦いの場に臨めばともかく、日常生活においてはもはや完全にひなに軍配が上がっていた。
 ここは堪えるべきところですぞ、と鬼無子は無言で雪輝に精一杯の激励を送る。はっきり言って今のひなに対して、雪輝を擁護する言葉を吐く勇気は鬼無子にもない。
 そうするくらいならば、百の妖魔が蠢き犇めく魔窟に単身で挑む方を鬼無子は選ぶ気持ちであった。
 とりあえず激励だけはする鬼無子の心の声が届いたのかどうかは定かではないが、雪輝は真摯な態度で話をしようと、腹の底に力を込めて気合と居住まいを正して、ひなの瞳をまっすぐに見つめる。
 雪輝の青く濡れた瞳に見つめられると、ひなはいつも心の奥底まで見透かされたような気持ちになり、怒りで乱れた心の水面がすっと静まるのを実感する。
 ひなの言動に雪輝が大きく翻弄されるようになったのは事実だが、ひなもまた雪輝の行動の一つ一つに心を大きく動かされている。
 特にひなは、雪輝の瞳に見つめられると強く意思を保つ事が出来ず、感情という名の炉の中で轟々と燃え盛っていたはずの怒りの炎は、見る間に勢いを弱めてしまう。
 雪輝の瞳とひなの瞳が交差して数秒、鬼無子と天外でもはっきりと感じ取れるほど、ひなの発していた憤怒の雰囲気が霧散して、代わりにひどく悲しげで儚い雰囲気が新たにひなの全身に目に見えない衣の様に纏われた。

「ひな、君に黙って承諾した事はすまないとは思う。ただ、私は私なりに良かれと思っての事だ。ひなが天外に教わった護身術を確かめるために、わざわざ外に出て妖魔達を捕まえて試すのでは時もかかるし、また実験台にされた妖魔達も気の毒な事。天外とはいつでも連絡が取れるというわけでもないし、天外の目に見える形で試すのはいささか手間もかかろう。ならば、いつもひなのそばに居る私で試すのが手っ取り早い」

 雪輝の語る言葉に、ひなは黙って耳を傾けてはいるが、到底納得はしていない様子であった。

「それに天外も言ったように学んで日の浅いひなの道術や呪術では、いくらなんでも私に傷を着ける事は叶わぬよ。それに」

 とそこで一つ区切ると、雪輝はひどく人間的な柔らかな笑みを浮かべて言う。

「人の子が自分の親にじゃれつく時、何を遠慮することがあろう。ひなも父君に構ってもらったことはあるだろう。その時に、父君を傷つけないようにと気を遣ったりしたのか?」

 記憶の彼方で宝石のような輝きを放つ、まだ生きていた両親との思い出の中には、雪輝の問うてきたとおり、父の体を気遣うことなく体力の続く限りじゃれつく自分の姿がある。
 自分の様な子供が何をした所で父は困る事も傷つく事もないという、肉親である父親に対する絶対的な信頼感。
 それがあるからこそ、子は親に対して何の遠慮もなくじゃれつき、遊びたがろうとする。雪輝が言っているのは、その父と触れ合っていた時と同じつもりで来なさいという事だ。
 雪輝もまた慈しむべき我が子を全力で構ってあげようとする親の様な気持ちであったのかもしれない。しかれども親の心子知らず、また子の心親知らず、両者の想いはすれ違っていた。

「そんなことはありませんでしたけれど……。それでも私は雪輝様にわずかなお怪我をさせるような事がないとしても、手向かうような真似はしたくありません。どれだけ問題の無い事だと言葉を重ねられても、雪輝様を的にするなどと口にするのはおやめ下さい。雪輝様も、私に雪輝様を傷つけさせるような事を承諾しないでください。私は、私の手で雪輝様を傷つけるかもしれないなどと、考えたくもないのです」

 雪輝の想像をはるかに超えてひなの心が抱いた怒りと悲しみと恐怖は深く、重いものであったのであろう。
 ひなの円らな瞳からは大粒の透明な真珠の様な涙の粒が後を絶やさずに流れだし、ひなの艶やかな頬と卵を逆さにした様な顎を伝い落ちて、床にいくつもの染みを作りだす。
 雪輝が文字通りの狼狽を示すかと、鬼無子が固唾を呑んで雪輝を注視すれば、聡明さと愚かさを併せ持った狼は、困ったように微苦笑するとしゃくりあげるひなの頬に鼻先を寄せる。

「すまぬ。二度と口にしないと約束する」

 それだけ口にすると、雪輝は真っ赤な舌を伸ばしてひなの頬を濡らす涙をそっと舐め取った。
 優しさばかりが込められた雪輝の行為に、ひなの心は慰められて更に雪輝の存在を感じたい衝動にかられて、白銀の毛並みに覆われた雪輝の首筋に縋りついた。
 くすんくすん、と小さく鼻を鳴らして涙を流すひなを、暖かな眼差しで見守る雪輝の様子に、鬼無子はそろそろと息を吐いて鉛を呑んだ様に重たくなっていた気持ちが楽になった事に安堵する。
 雪輝がひなに謝罪しながら慰めている様子を確認し、鬼無子は大元凶である天外を、今度は視線で睨み殺すつもりで睨みつけ、何も映っておらず暗黒に染まる鏡に気付いた。

「に、逃げた……」

 逃げるが勝ちとばかりに、天外は鏡を用いた遠距離通信を一方的に切っていたのである。あまりに身勝手な天外の所業に、鬼無子はしばしの間開いた口を塞ぐ事を忘れた。

<続>
>ヨシヲさま

豚のほかにも犬にトリュフ探しをさせるような話を耳にした覚えがあったので、トリュフ探しには雪輝も一役買っております。彼の場合食欲がないので見つけても食べない所は安心ですね。交渉ごとは仰られるようにひなと雪輝は人を疑わない性格ですから、まず無理でしょう。

>taisaさま
本人たちからすれば、私たちで言う所の椎茸くらいの感覚で食べています。そこら辺で簡単に採れる環境なものですから。外の世界を知らないという設定上致し方のないことなのです。あと狼はすでに末期症状です(笑)


では、また次回、よろしくお願い致します。話の展開が遅々としており、猛省の至りではありますが、ご助言やご指摘、ご感想いただければ幸いです。



[19828] その八 蜘蛛
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:59

その八 蜘蛛

 朝の澄んだ大気はごく微小の粒子に変わった夜露を孕み、わずかに肌に湿り気を感じさせてかすかな清涼感を抱かせる。
 四方を城壁のごとく聳える灰色の岩壁に覆われて、四角形に切り取られたような青空が天の蓋となる山の民の一派“錬鉄衆”の里も、早朝の大気の心地よさは岩壁の外や山の外の世界とも変わらなかったが、鍛冶衆の集う鍛冶場では陽の登る時刻から炉の中の火が勢い激しく燃え始めていた。
 四角い赤茶色の煉瓦に酷似した岩塊は耐火性に富みまた非常に頑健で、その赤茶の煉瓦をいくつも積み重ねて建築された鍛冶場は普通の家屋の五倍は高く造られ、屋根は有事の延焼などを考慮して、燃やした呪符の灰を混ぜた塗料を塗った瓦を敷いてある。
 灰にした呪符を塗料として使用することで、業火にあぶられても焦げるだけで済み、また大の男が鉄槌を叩きつけても割る事が出来ないほどの強度を、瓦に付与する事が出来る。
 また周囲への危険も考慮してか、ぐるりと水で満たした深く幅の長い掘で鍛冶場を囲い込み、隣家までもたっぷりと距離が取られていた。
 鶏が起きだして甲高い声で鳴き、それぞれの家屋で朝餉の為に煮炊きをする気配やもの音がしはじめた時には、すでに鍛冶場では忙しく鉄槌が振るわれ、炉では鋼鉄、銅、錫、鉛のほか、妖哭山特有の金属が高温に熱せられていた。
 十人単位で踏み込み炉に空気を送り込む鞴(ふいご)と、見上げるほど巨大な炉が敷地内のほとんどを占める炉場を中心に、錬鉄衆独自の武具防具から農具に至るまでの工程ごとに区分けられた家屋が円周上に配置されている。
 凛はその複数の家屋の中でも、猛獣や妖魔の牙、爪、骨、毛皮、臓腑、胆石などを加工する作業場に居た。
 死後も妖気を放つ妖魔の肉体を扱うためにとりわけ念入りに清められ、家屋自体も祈祷衆渾身の妖気封じの文言が刻まれた木材で組み上げられており、中の妖気の流出を防ぐ事は言うに及ばず外からの邪気の混入も阻む空間となっている。
 三階建ての家屋の真ん中の二階には、板張りの床の上にそれぞれの作業に応じて、毛皮やら茣蓙やら白砂やら砂利やらが敷き詰められていて、仕切り板で大雑把に個室に区切られた中の一つで、凛は夜明け前からある作業に没頭していた。
 四畳ほどの空間の四隅に置かれていた蝋燭はとうに溶け果ててかすかに煙をたなびかせるきり。切り出した石台の上に置いた革らしい物体を、凛は千回万回もなめし、裁断し、裁縫する作業をひたすらに繰り返していた。
 びっしりと邪気払いの文字を刻んだ板の上には、幾種類もの薬を入れた乳鉢や瓢箪、小壺が置かれていて、それぞれに小さな刷毛や筆が突っ込まれている。
 中には厳重に蓋をしたうえで布を何重にも巻いているものもある。内容物が気化して周囲に伝播すれば、好ましくない結果を引き起こすのを防ぐための処置であろうが、それにしては凛の扱いはいささか雑であった。
 一心不乱に、それこそなにかの霊に憑かれたかのように、凛は瞳を手元の革に合わせて揺らがせる事はなかった。
 火や鉄といった物騒なものを扱う割には小さい凛の手には、黒曜石の様な光沢を放つ大人の男の握り拳ほどの丸石が握られている。
 その丸石でもって革をなめしているようだが、時折革と丸石との間に手元の乳鉢からなにやら虹色に輝く砕いた硝子の様な鉱物らしい粉を塗して、磨り潰している。
 時には鉱物粉以外にもとろりと水飴の様なゆるさの透明な液体や、青やら赤やら黒やら得体の知れない粉末を革全体に塗している。
 ごりごりと硬いものを砕く音を立てながら、凛は額から滴る汗を拭いながら皮をなめす作業を繰り返す。幾種類もの粉末は丸石で潰されて混ざり合ううちに色を失って透明になり、革に艶やかな光沢の層を幾百も積み重ねて行く。
 朝から既に数刻に渡って続けた作業もようやくに終わりが見えたらしく、最後に手の甲に血管が浮き上がるほど念入りに力を込めて、革をひとなめして仕上げとし、凛は丸石を傍らの台座に置いて首にかけていた手拭いで首や額の汗の珠を拭う。
 その口元には困難な作業をやり遂げた達成感が笑みを浮かばせていた。晴れ晴れとした笑顔で、凛は自分が万回もなめした革を持ちあげて立ち上がる。
 床の上に広げられていた革が凛が立ちあがるのに合わせてするすると引き上げられると、それは人の輪郭をなぞるものであることが分かる。
 凛が昨日里に戻ってからすぐに没頭し始めた制作物の正体は、先端が手や足のそれぞれの五指に及び、首元までを覆う白い革の衣服であった。
 一つつなぎのそれは背中の真ん中から左右に開く作りになっており、足から入れて全身に纏う着方をするようだ。
 寸法の確かさを確かめために、凛は汗を吸ってぐっしょりと重くなっていた着物をするすると脱ぎ始める。
 二階の外気を取り込む窓は髪を入れる隙間もないほどぴっしりと密閉されており、二階全体の明かりは天上に灯された橙色の蝋燭だけだが、その橙色の灯りを浴びる凛の全身は汗の珠粒が浮いている事もあって、橙色の真珠を幾万粒も裸身に散りばめたように輝いている。
 腰回りこそきゅっとしまって括れを描いているが、胸や尻は起伏と呼べるだけの起伏すら描いておらず本人の密かな劣等感となっているが、引き締められた肉体には野生の躍動を秘めた溌剌とした確かな美しさがある。
 凛自身の身体にぴたりとあうように寸法を取ってあるから、その寸法が正確であるのなら、この革服はなんの問題もないはずだ。
 両足と両手の指から差しいれて、太もも、腰、胸、肩と通し最後に背中に手を回して開いた部分をぴたりと重ね合わせる。
 するとなにか突起を引っ掛けるようなものは見受けられないが、まるで膠(にかわ)で貼り合わせたように衣服の背中がぴたりと張り付いた。ここにも山の民の世の外には無い技術が使われているのだろう。
 拳を握っては開き、爪先立ちになって軽く飛び跳ね、膝を曲げては伸ばし、腰に手を当てて大きく左右にねじり、身体の動作に革服が邪魔にならないかを検査する。
 革服のどこかがねじれたり、皺が寄ったりといった個所は見受けられず、凛の裸身にぴたりと張り付いたまま離れるような事もない。
 また熱気の籠る室内であるというのに、熱が伝わるのも露出しているの凛の顔のみであった。伸縮性、断熱性、ともになんら問題はない。

「よしよし、これでようやく出来上がりだな。あとは……」

 と満足げな呟きを零した凛が部屋の一隅に目をやれば、そこには足を折り曲げた金属製の蜘蛛の様な物体が鎮座していた。
 形状と大きさは山の中でもよく見かける女郎蜘蛛などまるで問題にならない、大人の男でも一抱えもある、巨大な黒光りする鉄の蜘蛛といったところであろうか。
 八つの瞳を持った頭や獲物をからめ捕り、巣となる糸を吐く尻こそないが、それは初見のものであればまず間違いなく蜘蛛を連想したことだろう。
 凛がいま纏っている白い革服と、薄闇の中に眠るように鎮座している鉄蜘蛛こそが、凛が先だっての雪輝との決闘に敗れて以来、雪辱を期して作り上げていた特別な品であった。
 次の雪輝との決闘まであと十日以上、時間に余裕はあるが色々と複雑な仕掛けを内包する鉄蜘蛛の扱いに凛が慣れるためにも、それくらいの時間的余裕は見こんでおかなければならなかった。
 鉄蜘蛛にそろそろと手を伸ばした時、締め切った作業場の入口の外から、銅鑼を思い切り叩いた様な野蛮の見本といった声が凛を呼んだ。
 声を聞いただけでも全身を濃い体毛でびっしり埋め尽くし、大岩を大雑把に人型に削ったような大男を誰もが想像するだろう。
 声の主を、凛は声を聞く前から悟っていた。この世で最も凛が付き合いの長い男――父親である。

「凛、お婆が呼んでおるぞ。待たせてはならん、さっさと行けい」

 腹を空かせた獰猛な熊も、度肝を抜かれてその場から退散するような声である。すぐ傍で話をされたら、鼓膜が音を立てながら裂けて耳から血が溢れだしそうだ。
 凛はこの野卑野蛮の見本のような父にも慣れたもので、こちらも負けぬ大声量で怒鳴り返す。活力に溢れてはいるが美少女と評するのに抵抗の無い外見を裏切る怒声である。

「分かってらあ! 親父に言われなくたってお婆の所には顔を出す予定なんだよ!! 誰がすっぽかすもんかい!!!」

「だったらわしに急かされんようにさっさと行かぬか!!」

 比喩でも何でもなく家屋全体が振動に襲われたほどの、落雷を思わせる途方もない凛の父・鋼造の怒声が凛の怒声を押しつぶした。
 別の個室で作業をしていた何人かが、鋼造の叫びに驚いて手元を誤らせて、ぎゃあ、だのうげえ、だの潰れた悲鳴を上げる。
 凛は幼少の頃、外を出歩いていた時に襲いかかってきた猪の妖魔が、あらん限りに声を振り絞って鋼造が放った叫びを正面から受けて、嵐の最中の落葉の様に吹き飛んで岩に激突して死んだ事を思い出した。
 殺す気か、糞親父めと悪態をつきながら、凛は手早く自分が工作していた品々を手近の木箱に詰め込んでから、全身を覆い隠す白い革服の上に小袖を着こみ、さっさと個室を後にした。
 今日は、まずお婆に昨日の占いの内容を確認した後、報告がてらにひな達の樵小屋に顔を出し、それから来る雪輝との決闘に備えて新しい道具の動作確認をする予定である。

「朝から親父の声なんか聞かされて、鼓膜が破れたらどうするつもりだってんだ。まあいいや、今日は色々と予定が立て込んでるし、さっさとお婆の所に行くかね」

 建物を出た凛は父にうるさく言われたという事もあるが、やや小走りに足を動かし始める。
 まずは昨日も訪れた山の民の里の中でも極めて特異な場所である祈祷場に顔を出し、凛は昨日頼んだ通りの答えを出してくれたお婆に礼を一つ告げて、そそくさと退出する。
 雪輝はともかくとして鬼無子とひなに危難が及ぶ事を考えれば、なるべく早くお婆に教えて貰った事を伝えてやりたいという想いが、凛の足を速めていた。
 ところがお婆の祈祷場を離れて数歩と行かぬうちに、ぐう、と凛の腹の虫が鳴る。革服作りの作業前に、握り飯を二つ、茶で胃に流しこんだきり、何も口にはしていなかった。
 ぐうぐうと鳴り止まぬ腹をさすり、凛は予定の変更を余儀なくされた事を悟る。

「まずは腹ごなしだな」

 凛の足はそそくさと実家の方へと向きを変える。なに、さっさと飯を腹に流し込めばさしたる時間はかからないさ、と凛は自分に言い聞かせた。
 行く先を実家の方へと変えてまもなく、狭い里の中であるからさして時間もかからずに凛は実家へとたどり着いていた。軒先に野獣の生首やら斬りおとされた四肢、頭蓋骨を抜いた妖魔の干し首などがぶら下がっている事に目を瞑れば、一見、普通の家屋である。
 開きっぱなしの戸をくぐり、凛は実家に足を踏み入れて開口一番

「ただいま! 母ちゃん、朝飯!」

 とのたまった。男勝りという言葉では足りぬ伝法な凛に慣れた家族は、このような礼儀もへったくれもない凛の挨拶にも、おう、お帰り、と気楽な調子で返したきりである。
 履いていた草履を乱雑に脱ぐと、凛はただいまの一言で済ませて兄弟をかき分けて無理矢理隙間を作ってどっかと音を立てて腰かけて、母の差しだした椀を受け取って朝飯の雑炊を啜りだした。
 親を前にしての凛の態度には父親の方ならば黙って握り拳を振り上げて、凛に拳骨を食らわすところであるが、この母はといえばにこりと笑んで元気な様子で胃の腑を満たそうとする我が子を見守っている。
 月光の下でしか蕾を開かぬ花を思わせる美しい笑みであった。
 凛の母はあの父によくもまあ、と里の誰もが、それこそ子である自分たちでさえ思う眩むような色香の匂い立つ美女である。
 四十を間近に控えてさすがに目尻や口元に小さな皺が刻まれているが、牡丹の花を思わせる紅色の口元にぽつんと一つ浮かぶ黒子や、涼しげに流れる目元、小袖を押し上げる豊満な事極まりない身体つきといい、山の民でなく外の者達に生を受けていればいくらでも『女』で在る事を利用して栄達を極められただろう。
 紫紺地に笹の葉を散らした小袖姿は、流れる様な黒い髪に輝く簪などなくとも、花街の花魁もはっと色褪せる様な華やかなまでの艶美姿である。
 よる年並みも寄せ付けぬ美貌もさることながら、山菜や茸の採取、兎や鹿、猪狩りから炊事・洗濯・子供の躾に至るまで万事をこなし、刀や槍を持たせれば同じ里の男連中がたちまちのうちに打ちのめされて重なり小山を作る力量を誇る。
 細腕には下手な妖魔など素手でくびり殺す膂力と技量を併せ持ちながら、所作は楚々とした慎ましさで男を立てる事を忘れず、良妻賢母という言葉が人間になった様なおよそ欠点の見当たらぬ女性だ。
 凛は微笑を浮かべながら鍋をかき混ぜる母をじっと見つめた。より具体的には着物の線を崩す盛り上がった乳房を、である。
 なぜこの母から生まれた自分はこうなのか、鬼無子と出会ってからすっかり胸の内に大きく巣食うようになった想いに臍を噛んでいた。
 母・たつ――たつとは龍の事に違いない、という口にする者が多い――とは、血の繋がっているとは到底見えない娘が、自分の胸を凝視しているなど露知らず、次々と差し出される椀にかわりをよそっている。
 さて凛とは似ても似つかぬ母であったが、その息子達はというと三男を除いた二人の兄は、母娘とは異なりまっこと良く似た父と息子達である。
 三人の兄全員が六尺を超す岩山の様な威圧感を持った体躯の主で、一番上の二十二になる剛造など、父親の若い頃瓜二つと言われているくらいだ。
 唯一の例外は末弟の、凛の二つ年上の兄である三男・風太で、背丈こそ六尺越えの巨漢であるが、肉の山を思わせる兄達に比べて鞭の様に引き絞られた肉体を持ち、服を着込めば柳の様にしなやかなに映る。おまけに細面の色白い女顔ときた。
 長じるにつれて女とも見紛う美貌を開花させる風太に、この子だけ父が違うのではないか、と口さがないものが本人に面と向って云った時、この風太はまだ十であったのに自分の倍もでかい大人を素手でぶちのめした気性の主である。
 風太にぶちのめされた相手はその後、子らが初めて目にしたほどの怒りを見せた母たつに直談判を受けて、二度と風太を悪く言う事はなくなった。
 なお鋼造も怒り心頭したのだが、自分よりもはるかに怒りを見せた妻の姿を見て、心ない言葉に落ち込む風太を慰めていた。
 繊細な所があるものの、腕力を振るう事を厭わぬ烈火の如き激情を秘めた風太は、妹相手にも本気で喧嘩をし、殴る蹴る引っ掻く噛みつく頭突きと遠慮する事なく喧嘩してきた兄で、凛も一番懐いていた。
 黙々と山菜の塩漬けと椎茸に干した猪肉が具になっている雑炊を啜る凛に、たつがあくまで優しい声で語りかけた。凛が急いでいる様子であるのは一目で気づいていただろうが、あくまで穏やかな母の声を聞くと、凛ももう少し話をしていたい気分になる。

「凛、今日も狼様の所へ行くの?」

 夏の涼風に鳴った風鈴を思わせる澄んだ母の声に、なぜ、この母が父と一緒になる事を選んだのかと、凛は永年の疑問に首を傾げながら応じた。
 父が無理に手籠めにしたんではなかろうかと、時折悩んでいるのは誰にも打ち明けた事のない凛の秘密である。

「うん。あいつに一つ忠告してやらにゃならんことがあってさ。それと母ちゃん、あいつを様付けすることなんてないって。雪輝とか狼とか銀色で十分だってば」

 父に対する態度とは真逆の凛の態度であるが山の民であっても、父に対して反抗期の娘とは母を慕うものなのかもしれない。
 凛は、実際には間の抜けた所があり、胸の大小を比べるなどという真似をしくさった雪輝の事を、尊敬し慕う母が様付けし敬意を表にする事が気に食わない様子。
 とはいえ雪輝の本性というか、以前と比べて変化した性格を知っているのは凛だけで、他の山の民は以前の威厳溢れる雪輝のことしか知らないために、いまだにたつと同じように畏敬の念を示している。

「ふふ、そう。それにしても凛のその格好、狼様との力比べはまだ先でしょう?」

 乱暴に着込んだ小袖から覗くあの白い革服を見た上でのたつの台詞に、凛はしれっと返答する。雪輝と決闘するに際して交わした約条は、里長達にも認められたものでこれを破る事は里の中で重罪とみなされる。
 義理がたい娘の性格を知悉する母は、その約条を娘が違えるとは砂粒一つほども思ってはいなかったが、一応釘を刺さずにはいられなかったようである。

「その力比べに向けての準備」

 ぺろりと雑炊を平らげて、凛は空になった椀と箸を返すと例の鋼鉄製の蜘蛛を収納した木箱をひっつかみ、来た時と同様に取り付く島もなしに家を後にする。
 嵐の様にやってきては去ってゆく凛を、母と兄達は忙しい奴だな、と笑いながら見送った。母は娘を、兄達は妹の事を深く愛しているのだと分かる笑みであった。



 岩壁迷宮を出て歩き慣れた山の中に足を踏み出してしばらく、凛は山の民か妖魔でもなければ気付けぬ様な、かすかな変化に気づき眼を細めて足運びを慎重なものにした。
 たっぷりと水を吸い、陽光を浴びて育った木々は雄々しく枝を伸ばし、茂る緑は深いが、流れる風の中に湯気を立てるような新鮮な血潮と、既に乾いて固まった古い血の匂いが混じっている。
 大ぶりの枝と枝とが重なり合って晴天を塞ぐ天蓋となっており、昼であっても山中は意外と暗い。その暗がりの中に赤く煙った風が吹いたのかと勘違いしそうなほど、濃厚な血の臭いであった。
 凛とて妖魔蔓延るこの妖哭山に生まれて育った山の民の一人だ。目の前で妖魔同士の凄惨な殺し合いがはじまっても、いまさら縮こまる様な肝の持ち主ではなく、まだ足を竦ませるような臆病ものではなかったが、ふとした気の緩みが容易に死に繋がる世界で生きた経験が、凛に臆病なほど慎重になる事を強いていた。
 まだ新しい足跡が柔らかな土草に点々と残り、ちょうど人間の背丈の位置で幾本かの枝が折れている。山に慣れた者が足を踏み入れたのではあるまい。

「山に慣れちゃあいないが腕は立つな」

 折れた枝に隠れるように斬り伏せられていた死骸を見て凛は判断した。死骸は山のあちこちに咲き誇っている魔花が、月の明るい晩に産み落とす邪妖精の一種だ。
 背丈は二尺ほどで、金色に輝く単眼、赤銅色の肌、背には蝶の羽を生やし、腰布を纏い手には刀や鉈を持つ。
 邪妖精を生みおとして周囲に殺戮を振りまく魔花は、幾種類も存在しているが、この種の邪妖精は青銅の硬度を持った皮膚と、大の大人にも匹敵する膂力に背の羽によって思いもかけぬ動きを見せる難敵だ。
 それが十数匹で襲いかかってくるから、並大抵の妖魔や猛獣ではまるで歯が立たない。しかし、背骨や緑色の臓腑を纏めて斬り下ろされて、紫色の血液をまき散らした姿はどうだ。
 周囲に目をやれば同じように首をはねられ、胴を断たれ、零れだした長い小腸を木の枝にぶら下げている醜い死に様を晒している者がいくらもいる。
 夜半に集団で襲いかかり、朝方近くまで死闘を繰り広げて力及ばずに敢え無く皆殺しの憂き目にあったということだろう。
 まだ新しい血の匂いがしているという事は、ひょっとしたらまだどこかで斬り合いをしている可能性もある。
 断面から滔々と血を流している生首を蹴り飛ばし、凛は耳と目と鼻と皮膚の四感覚を研ぎ澄まし、彼方の異変であろうともすぐさま感知できるよう気を張りめぐらす。

「鬼無子さんなら同じ芸当もできるだろうけど、あの人はもちっと綺麗に斬るからな。こーいう憎たらしくて仕方がないっていう心根の暗い斬り方は、心の荒んだやつの仕業だ」

 そう呟いた時には、邪妖精を斬り殺した相手の正体は、凛の中でほとんど特定されていた。邪妖精の群れをことごとく斬殺せしめた力量に加えて生ある者すべてに対するかのような、切り口に残る凄まじい怨嗟の念。
 大狼への恨みを募らせて現世へと帰還した怨霊たちに違いあるまい。素人目には判断のつかない斬痕の特徴からして、下手人である怨霊は同一人物と凛はあたりをつけた。
 雪輝達の暮らしている樵小屋まではまだ距離のある位置だが、当所もなく彷徨うにしても数日のうちにひなや雪輝と遭遇してもおかしくない。

「これは放っておけないわな」

 我ながらお人好しな、と凛が頬を歪ませて苦笑を浮かび上がらせるのと、その背後から草木の揺れる音と激しく入り乱れる剣戟の喧騒が耳朶を震わせたのは同時であった。
 生き残りの邪妖精と怨霊との最後の死闘であろう。
 凛はすぐに生い茂る草木の中に身を紛れ込ませる。怨霊に嗅覚があるのかは不明であったが、里を出るときに幾種類もの草花から抽出した臭い消しの薬液を全身に塗布してあるから、匂いでは見つかるまい。
 獲物を狙う猫科の生き物に似た仕草で細められた凛の瞳に、死骸となって転がっているのと同じ種類の邪妖精の姿が三つと、それらに囲まれている鎧武者の姿が映る。
 邪妖精は同胞を目の前で斬殺されたろうにもかかわらず怯えた様子は欠片もなく、ただただ金色の単眼には殺戮の欲望と無尽蔵の憎悪ばかりが渦を巻いている。
 三匹ともが長さ三尺ほどの短槍を構えて、鈍い銀色に輝く穂先を鎧武者に油断なく向けて、隙あらば心の臓を抉るべく好機を伺っている。 
 三匹の憎悪の視線を浴びる鎧武者は、昨日鬼無子が対峙した槍使いの怨霊同様に全身から青白い光を発しながら、明滅を繰り返している。
 その中で、纏った札状に重ね合わせた古めかしい鎧だけが黒光りし、確かな質感を持っている。顔には塗装の剥げ落ちた面頬を着けて素顔の造作を伺う事は出来ない。
 右手に握る刃長四尺に及ぶ長刀身の野太刀からは、邪妖精たちの紫色の血液が滴り、血液の層が幾重にも折り重なっている事がわかる。鍔元から切っ先に至るまで紫に濡れて、一夜で数え切れぬ命を啜った事を誇っているかのようだ。
 鎧の大狼の牙によって穿たれた穴や、爪で裂かれた裂け目から青白い光を零しながら、鎧武者がだらりと地に向けて下げていた野太刀の切っ先に弧を描かせて、半月を描いた切っ先が天を指した所でぴたりと止まる。
 大地に根を張ったかの如き重厚な構えであった。
 凡百の剣士であっても彼我の力量差から、無暗に攻め立てても難攻不落の防塁のごとき鉄壁の守りの前に敢え無く弾かれ、振り下ろされた刃で呆気なく真っ二つにされる己を想起することができただろう。
 鎧武者の全身から発する不可視の憎悪が猛々しさを増し、霊子で構成される霊体の放つ青白い光は戦闘への意識を集中するかのように発光の勢いを弱めて、解放の時を待つかのよう。
 風がひときわ強く吹き、周囲の木々を揺らして折り重なるように広がっていた枝葉がざわ、と耳障りな音を立てた。
 地に投げかけられた邪妖精の影が動いた。
 一匹は背の羽をはばたかせて空を翔け、残る二匹は地を踏み鎧武者の左右より別個に襲いかかる。
 短槍というもおこがましい小振りな槍であったが、構えた邪妖精たちの醸す雰囲気は百戦錬磨の猛者のそれだ。三匹三様に襲いかかり、突き出した穂先は風を抉る速さで鎧武者を貫きにかかった。
 凛が思わず、おっと一つ零したほど流れるような動きから放たれた一突きであった。分厚い毛皮と脂肪で守られた巨熊の胴も、楽々と貫く事が出来るに違いない。邪妖精の中でも相当の年月を生き抜いた古強者たちなのだろう。
 邪妖精達と鎧武者の動きを一瞬たりとも見逃さぬようにと、凝と見つめる凛の瞳の中で銀の星が無数に瞬いた。
 右八双の構えからの鎧武者の一刀が、空を翔けた邪妖精の突き出した槍ごと左頸部から右腰までを斜めに断ち、二つにされた邪妖精の胴体から血潮が零れ落ちるよりも早く、大地すれすれで切っ先が翻る。
 飛燕の軌跡を描いて斜め下方から切り上げられた野太刀の刃が、鎧武者から見て右方より突きかかってきた邪妖精の顔面を、顎先から額に至るまで単眼を横断して斬痕を刻む。
 邪妖精の頭蓋に大した抵抗を感じる事もなく野太刀は額から抜けて、虚空に紫の血飛沫を無数に飛散させる。
 一つ数え終える前に斬り殺された同胞二匹に動じる事もなく、三匹目の邪妖精は容赦なく槍を突きこんで鎧武者の左脇腹を抉りにかかった。
 びょう、と風を貫く音を立てた槍の穂先は一直線に狙いを過つことなく、鎧武者の左脇腹を貫いた。いや、と凛は口中で自分の考えを否定した。
 貫いたと見えたのは、疾風の穂先を鎧武者がその左脇腹に抱え込んだためだ。そのまま牛の首も簡単に捻れる剛力が鎧武者の左腕に満ち、抱え込んだ短槍をぎしりと締めつけて解放を許さない。
 獲物を奪われた事に邪妖精が動揺したのは一瞬の事であった。なまじ武器の扱いに長けたがために、武器に拘泥して手放す判断を下すのが遅れたのだ。
 たとえ習熟した扱いを見せる短槍を失ったとしても、邪妖精の手には凶悪なまでに鋭い鉤爪が伸び、一撫でで人間の首など半ばまで切裂ける。
 しかしこの場合の一瞬とは生死を明確に分けるには十分にすぎる時間であった。
 刀剣の部位の中でも特に切れ味の鈍る刃の根元の部分が、ようやく短槍を手放す決断をした邪妖精の額を膂力のみを頼りに二つに割り、青色の脳味噌へと深く食い込んで豆腐を踏み潰すかのように呆気なく崩壊させる。
 一撃で絶命した邪妖精の頭蓋から野太刀を引き抜き、脇に抱えた短槍を手放した鎧武者はそれでもまだ足りぬとばかりに、地に転がる邪妖精の死体に野太刀の切っ先を何度も何度も突き立て始めた。
 紫の血液に塗れた桃色の臓物を飽きることなく野太刀は貫き、掻き回し、捻り、ぶつぶつと切断の音が絶え間なく周囲の虚空を埋める。
 酸鼻な解体作業が開始される中、凛は舌を巻く思いであった。昨今勢力を増している対人間を想定した剣法の場合、邪妖精の様な人の腹にも届かない小さな対象を相手取るには向かない。
 人間を相手に想定した場合、精々が胸の下部か腹程度までが精々だ。それゆえに頭頂が太ももに届くのがようやくといった小さな妖魔などは想定の外にあり、対人間剣法を学んだ剣士は往々にして小物の妖魔に遅れを取る事が多い。
 まるでそのような様子を見せない鎧武者の戦いぶりに、凛は対妖魔戦闘を主眼とした古武者の強さをまざまざと見せつけられた思いであった。
 凛が口中で苦いものを噛み潰している間、鎧武者は邪妖精の臓物を一しきり刻み、四肢を付け根から斬りおとし、それらを更に寸断する作業に移り始めた。
 周囲の敵意が完全に消えた事で、鎧武者が長年にわたって蓄えた怨恨を、存分に心行くまま晴らし始めたのであろう。
 おぞましい水音と生肉を千切るかのような切断音、硬い骨を丁寧に砕く音との三重奏が延々と続き、獣の解体など見慣れた凛にしても、喉奥から込み上げてくる酸味づいたものを堪えねばならなかった。
 刻んだ邪妖精の死骸を念入りに踏み潰して脚甲を紫色に濡らしていた鎧武者が、錆びついた鉄の様な動きで首を巡らして、草木に紛れた凛を視線で射抜いた。
 くそったれと吐きそうになった唾を呑みこんだ音か、あるいはわずかに乱れた凛の気配を敏感に察知したのだろう。
 朱色の面頬の奥で光る青白い火の玉状の眼玉に、ゆらりと凶悪なものがよぎる。
 肌を焦がすような灼熱を帯びた憎悪の念に、内心でうへえ、と舌を出しながら、凛はあくまでも平静の仮面を被り、鎧武者がどう動くのか息を殺しながら手足の動きの微細な変化に至るまでを観察し続ける。
 仮に鎧武者の怨恨の向かう先が妖魔にのみ限られるのであれば、正真正銘の人間である凛を前にしても害を加えてくる事はないかもしれないが、それは極めて都合のよい希望的観測である。
 ましてや凛の存在に気付いた鎧武者が視線と共に放射してくる怨恨に打たれて、凛は骨の髄から理解させられた。妖魔どころか数多の野の獣から大地を彩る花々、緑を茂らせる草木に至るまでこの世のすべてに対して、この怨霊の憎悪が向けられている事を。
 いまはまだ自身の落命の原因となった大狼とその同類である妖魔を優先しているだけで、次に待っているのはありとあらゆる生命に対して振るわれる殺戮と暴虐だ。
 こいつらを野放しにすれば雪輝やひな、鬼無子の身に留まらず山の民にたいしても大いなる災いとなる事を理解し、凛は闘争心という名の炉に次々と薪をくべて目の前の鎧武者への滅殺の意思を業と燃やす。
 鎧武者が野太刀を一振りし、刃を濡らす紫の血潮を払う。びしゃりと多量の血液が大地に叩きつけられて、緑と茶の広がる大地に吐き気を催す紫の斑模様を描かせた。
 右下段に野太刀の切っ先を下げながら、鎧武者は甲冑同士が触れ合う耳障りな音を立てて凛の潜む場所へと歩み出す。
 向こうも殺る気だ、と分かり凛の心から躊躇や迷いといった、戦いにおいて邪魔となる感情が一切排除される。迅速な意識の入れ換えはこの山で生きるのに必須な技能の一つであった。
 小さな貝殻の様な凛の唇を割って伸びた舌がちろりと唇を舐めて濡らした。
 既に鎧武者と凛との距離は二間(約三・七メートル)を割っている。両者ともに一足飛びで互いの首を刈り取りに行ける距離。
 先手を取ったのは凛であった。
 顎先が地面に触れるほど低く腰を落とし曲げた姿勢から、凛は小袖の裾から掌に落とした小柄を、手首の動きだけで投じた。
 凛の技量ならば二間の距離が開いていても、軽く杉の板の二、三枚なら貫き、百発百中の精度を誇る。
 投じられた小柄は刀身を緑に塗り潰されていた。
 緑色に塗装されているのは、木々に隠れた状態や舞落ちる落葉に紛れ込ませて投じることで、山を埋め尽くす緑の中に隠蔽して狙った相手に小柄の存在を気づかれにくくするための処置であった。
 他にも星や月の陰った夜に用いる為に刃を黒く塗り潰した物や、予め土中に紛れ込ませて誘いこんだ相手の不意を突くために土色に塗装した物など使用する状況に応じて彩色したものを、山の民は使用している。
 投じられた視認困難な処置の施された小柄を、鎧武者は虚を衝かれた様子もなく左手の手甲を左右に振っただけで呆気なく弾いた。
 ききん、と連続した金属音に遅れて小柄が地面に落ちるよりも早く、凛は撓めた両足に溜め込んだ力を解放し、木の葉を散らして鎧武者の頭上へと飛びあがった。
 両手を左右に開き鎧武者へと襲いかかる凛の姿は、さながらはるか頭上の高みより襲い掛かる魔性の猛禽類を思わせた。
 頭上を取ったとはいえ手に何も持たぬ凛と、長刀身の野太刀を携えた鎧武者とでは鎧武者の方が有利。それに気づかぬ凛ではないはずだ。その証拠に鎧武者に飛びかかる凛の口元には必殺の意識が変じた様な好戦的な笑みがくっきりと浮かび上がっている。
 白い革服に包まれているはずの凛の指先に、いつの間にか眼に見えぬほど細い糸と繋げっている指輪がはめられていた。両手の十の指先すべてに填められている指輪から伸びる糸は、小袖の内側を通じて凛の背中へと続いている。
 切っ先で地を擦り、歪な三日月を描いて鎧武者の野太刀が舞い降り来る凛の下腹部を縦に割るべく天へと伸びる。
 手に携える武器の無い凛にこれを防ぐ手段はない。真に凛が無手のままに無防備な姿を晒したのであったのなら。
 凛の意外に細く長い指が柔らかな動きを見せるや、凛の小袖の背中が内側から弾け飛ぶように開き、そこからわずかな木漏れ日を弾く六本の足が飛び出る。
 一本あたりの長さが優に八尺(約二・四メートル)にも届く、いくつもの関節を持った金属製の蜘蛛の足を思わせる物体である。その先端は人間の首をも大根の様に簡単に輪切りにできる鋭い鎌の刃を備えていた。
 凛が幾日もかけて制作した新たな試作武具“刃蜘蛛(はぐも)”である。
 傀儡人形を操る操り糸のように刃蜘蛛に繋がる指先の糸を、繊細極まる両方の指十本の動きの組み合わせ手によって、さながら生物のごとき動きを見せて相手を斬殺する危険極まりない仕込み武具だ。
 舞い降りた猛禽が突如、切れ味凄まじい爪を備えた蜘蛛に変わる瞬間を前にしても、鎧武者は動じた様子はなく、太刀筋を揺るがすことなく野太刀を振う事に傾注していた。

「もう一回死んどきなっ!!」

 自分の下半身を縦に斬断すべく迫る野太刀の脅威をしかと目に刻みつつも、凛は鎧武者の斬殺に闘志を燃やし、背から伸びる刃蜘蛛の六本足を一気呵成とばかりに鎧武者へと振り下ろした。
 一つと六つと、合わせて七つの銀光と殺意とが交差する――した。

<続>

ヨシヲ様

お互い相思相愛な狼と少女なので、そう感じ取っていただけるように描写できているのなら幸いです。今後もご愛顧をよろしくお願いします。

taisa様

冷暖房兼番狼兼愛玩動物といったところでしょうか。雪輝はひなや鬼無子の役に立てて心から喜んでいるので、まったく問題は無いのです。体温が変化できるのだから、確かに体の形を変えられてもおかしくはありませんね。その内お言葉通りの段階にまで至るかもしれません(笑)

ご感想ありがとうございました。誤字脱字やこうsればより面白くなるのではなどご助言ご指摘をお待ちしております。よろしくお願い致します。

追記
いかれ帽子屋様にご指摘いただいた誤字を修正いたしました。ありがとうございます。
たつみ様にご指摘いただいた誤字を修正しました。ありがとうございます。

頂いた感想へのお返事は次話にてさせていただきたくぞんじます。



[19828] その九 嘆息
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/10/23 20:59

その九 嘆息

 迷いこんだ者の心を陰鬱な暗がりの中に落とし込む原生林の暗がりの中で、銀の光が一点に凝縮し、次の瞬間には四方八方へと炸裂する。
 緩やかな弧を描く銀月を片手に携えるは、死の臭いを放つ鎧武者の姿をした怨霊。
 背中から蜘蛛を思わせる細長い金属製の足を生やす小柄な影は、山に住まう民の少女凛。
 空中に飛びあがり、両手十指から繋がる金属糸を巧みに操って、刃蜘蛛の足先に備える刃を振るった凛は、狙いを一点に絞ったせいもあるが見事に野太刀一振りで刃蜘蛛を防がれた事実に、小振りな唇を歪める。
 空中からの奇襲を防がれた凛は刃の衝突点から二間半(約四・四メートル)も後退させられ、足場のない空中を狙って追いの一手を狙って地を踏む鎧武者の姿を睨みつけていた。
 尋常な刀剣では確かな足場の無い状態で太刀を振るっても、刃に重さを乗せる事はできないが、凛の背中に固定する形で装着しする刃蜘蛛は跳躍中であろうと、疾走中であろうともその斬断力が減じない特殊な構造をしている。
 凛は両手の指すべてがそれぞれ別の生き物のように素早く動かし、伸ばした爪先が雑草を踏む寸前に、自分の心臓めがけて突きこまれた野太刀の切っ先を刃蜘蛛の左三本の足で弾き変えす。
 ぎぎん、と硬質の金属が連続して三度衝突する音が響き、三本の足と野太刀とがそれぞれ後方へと弾かれる。陽光にも赤々と輝く火花が無数に散り、虚空に消えゆくよりも早く凛の指と鎧武者とが動いた。
 足捌きと膝、腰、肩、肘、手首を連動させて生み出される力を込めて、鎧武者は弾かれた野太刀を無理矢理引き戻すや、電光と化した四尺の銀刃が凛の左胴に横一文字を描く。
 弾かれた刃蜘蛛の左足三本はいまだ後方に切っ先を向けたままであった。
 鎧武者の怨念と憎悪の放射を敏感に察知し、鎧武者の動作から狙いが自分の胴と予測していた凛は、野太刀が動き出すよりも早く残る右三本の刃蜘蛛の足を動かしていた。
 凛が右手首を捻りながら親指から順に小指までを折り曲げると、右三本の足は斬撃ではなく刺突となって、鎧武者へと襲い掛かる。
 刃蜘蛛の右上足と右中足の二本は凛へと一歩を踏みこんで野太刀を振るう鎧武者の頭部と首を狙い、残る右下足の刃が凛の細い蜂腰を真っ二つにせんと迫る野太刀に斜めに突き刺さり、かろうじて野太刀の切っ先を下方へと逸らす事に成功する。
 野太刀の切っ先が切れ味凄まじく大地に深く突き刺さり、二本の蜘蛛足は鎧武者の左肩と脇をかすめて、怨念に補強されていた甲冑に小さな斬痕を刻む。

(刃は通る! お前らみたいのを斬るための処置も済ましてんだ、ここで叩っ斬ってやる!!)

 刃蜘蛛の足先に備えた刃は、遥かな太古に大地に落ちたという隕鉄を材料に、山の地層奥底から湧き出す清水と調合した霊薬を用い、月夜の晩を舞台にする一族秘伝の特殊な製鉄法を用いて鍛えあげている。
 かりそめの肉体を伴う怨霊たちとは異なる完全な霊魂や気配のみの妖魔を相手にしても、十分な効果を発揮する対霊効果を持っているはずだ。
 もともとは雪輝を倒す事を目的とした武器であるから、凛がこれまで制作し、手元に残している武具の中でもずば抜けて霊的存在に対する攻撃性能は高くなるようにしてある。
 山の内外を問わず上位に君臨する強力な妖魔である雪輝は、存在するだけで発する妖気による不可視の防御膜を展開している。
 妖魔の格に応じて障壁とも結界とも呼称されるその防御膜の防御性能は変わるが、雪輝級の妖魔となればそれはほとんど分厚い鋼鉄の鎧と変わらない防御性能を持つ。
 同格の妖魔や霊的な力を帯びた武具、あるいは攻撃そのものに霊的存在に対する有効性を保有する技能を有するものでなければ、妖気の防御膜を減衰させる事さえできない。
 また天地万物の気を凝縮して構築されている珍種の妖魔である雪輝の肉体は、そもそもが猛獣の類をはるかに凌駕する柔軟性と剛性、耐久性、持久力を兼ね備えており、分厚い脂肪と毛皮を持った大熊でさえ可愛く思える頑健さを誇る。
 雪輝を敵として想定した場合、風の精かと錯覚させられる流麗軽妙な身のこなしに加えて、高度な呪術的強化を受けた防具で身を固めた重装戦士の防御力も突破しなければならず、凛はこれまで散々苦汁を舐めさせられながら対処方法を練り上げてきたのだ。
 これまでは多数の罠で雪輝の隙を伺い、あるいは作り、そこに対霊処置を施した秘伝の武具で一気呵成に攻め立ててきたのだが、今回凛が制作した刃蜘蛛はこれまでと異なり、罠を用いずとも単独で雪輝を殺傷可能なように作り上げている。
 多関節によって多方面からさらに多角的に、一斉にも時差を置いても攻撃可能な構造によって、雪輝の回避能力に対抗し、里の鉱物管理の担当者と長老衆に頼み込んで手に入れた隕鉄を使った鉄塊をも裂く刃によって、雪輝の頑健な肉体を斬り裂くのだ。
 芥子粒ほどの大きさの部品から鍛え上げた凛であるから刃蜘蛛の威力は誰よりもよく知っていたが、よもや並みの妖魔を容易く殺戮する怨霊を相手に試す事になるとは、凛自身驚きであったろう。
 本当はもっと小物の妖魔を相手に、制作前に想定した威力を発揮するかどうか試すつもりだったのだから。
 だがすでに予定外の事態に対する動揺は凛の心の中から消え果てている。己の作り上げた武具の性能を十分に試せる相手との遭遇に対する歓喜、そして知己へと及ぶかもしれぬ災いを排除するという使命感が、凛の戦意を轟々と燃やしている。

「疾ィイイっ!!!」

 凛の指が天に愛された楽師が鍵盤を叩くように美しく舞い踊る。
 煌々と闇夜を照らす月光夜に琴を爪弾くこの世ならぬ楽師のように美しく軽やかに、夢幻のごとく凛の十指は止まる事を知らず千変万化の動きを見せる。
 鎧武者の前方百八十度を刃蜘蛛の六本足が陽光を弾いて描く銀閃が、堰を切ったように迸り囲い込む。
眩い十の銀閃を百の奔流が埋め、さながら銀の壁が鎧武者の前方に生じ迫り来るかの様な圧倒的な連撃であった。
 すべてが閃光の速さで放たれたそれらは、人間が行なおうとすれば鋼のごとき上半身の骨格と爆発的な俊発性と耐久力を兼ね備えた人外の膂力、尋常ならざる酸素消費をものともしない心肺機能の全てを兼ね備えていなければ不可能な絶技である。
 それを可能としているのは、そもそもの発生から鋼鉄の扱いに携わってきた錬鉄衆の技術と、一族有数の才能を生まれ持った凛が打倒雪輝の執念と、才覚の全てを費やした成果である刃蜘蛛の機構に在った。
 恐るべきことに百の刺突撃すべてが、人体の異なる急所を的確に狙い放たれる必殺の一撃である。山の外で諸国にいくらも溢れている自称武芸者どもなら、ことごとく穴だらけの肉片になって土に還ることだろう。
 しかし凛が百もの刺突撃を繰りださなければならなかったのは、放った一撃が弾かれるたびにならばと連撃を放ち続けた結果である。すなわち、刃蜘蛛の六本足の刺突撃全てが鎧武者の振るう野太刀の前に阻まれたからに他ならない。
 銀閃が鎧武者へと伸びる都度、損傷した甲冑に触れるよりも早く野太刀が鉄壁の壁となって刃蜘蛛の爪先と撃ち合い、硝子細工を砕いた様な甲高い音を鳴らす。
 絶え間ない連撃によって残響に残響が重なり合う事で一繋ぎの音と変わり、まるでこの世ならぬ魔物の咆哮のごとく響き渡る。
 膨張と収縮の果てしない繰り返しによって悲鳴を上げる心肺、過剰な圧力をくわえられて断裂する筋繊維、一瞬の弛緩も許されずに灼熱し疲労する神経といった肉体の枷から解き放たれ、霊子で再構築したこの世ならぬ肉体が可能とする超人の刀捌きである。
 指を躍らせ刃蜘蛛を操る作業に全神経を注ぐ凛の瞳には、鬼無子の話から推定していた以上の戦闘能力を見せる怨霊への驚きの色が揺らめいている。
 刃蜘蛛の調子は不調どころか好調といっていい。試作に次ぐ試作を重ね、とりあえず及第点とした現在使用中の品は、設計の段階で想定した性能を発揮している、と凛は判断した。
 その刃蜘蛛を用い、自身の操演にも致命的な過ちはない。
 まだ使い始めという事もあり慣れ切っていない所もあるだろうが、それを含めたうえでも凛にとって怨霊の腕が十本はあるのではないかと見紛う高速かつ多様な刀捌きには、焦燥や苛立ちを越えて賞賛の思いさえ覚える。
 連続する野太刀と刃蜘蛛の出会いと別離が繰り返される中、嵐の中の静寂のような空白が一瞬にも満たない時間生まれ、鎧武者がそれまでとは異なる動きを見せる。

『―――――――!!!』

 唐突に、声帯を失い声を出す術を失ったはずの鎧武者が咆哮を上げた。
 野太刀を振るう動作とまるで異なる事前の動きから、警戒の度合いを引き上げて注視していた凛は、音の波という回避方法の思いつかない現象を前に、咄嗟に耳を塞ぐ事さえ出来ずにその身を晒すしかなかった。
 物理的な衝撃さえ伴うかのような音の波の直撃を受け、凛は即座にこれがただの咆哮ではない事を骨身に理解させられる。
 周囲の木の葉や足もとの草花が見る見るうちに緑から茶に、茶から黒に変色して萎れ、枯れ果てて行く。同時に凛の膝から力が抜けて、全身から血液と体力を、そして精神から気力を奪い取られるような感覚に襲われる。
 まるで心と体を切り離された様な違和感。生命の根源的な活力が奪われて、虚空に散じているかのような。

(しくじった。まともに食らっちまった!?)

 鬼無子が槍使いの怨霊との戦闘後に襲われた身体機能の異常と同じ現象が、鎧武者の呪いのみが込められた呪音の咆哮を浴びた事で、凛の身体のみならず精神にまで生じているのだ。
 指先から髪の毛の先に至るまで危ういほど繊細に張り巡らしていた神経が唐突に緩んだように、凛の身体と意識とが遠くなっている。
 動け――と命じる己の声に答える肉体のなんと遅い事よ。
 かろうじて凛の操作が間に合い、大上段から真っ向に凛の頭蓋を二つに割らんと振り下ろされる野太刀を、重ねた刃蜘蛛の足六本が受け止める。
 意識こそ丹田に溜め込んだ気迫を消費して正常を保たせたが、意識と隔離した肉体は野太刀から加えられる鎧武者の膂力が生む圧倒的な重量に耐えかねて、凛の両膝は呆気なく地面を突く。

「ぐぐぅ、くそっ!!」

 凛は砕かんばかりに奥歯に力を込めて、野太刀の刃が自身の身体に届かないように、まるで別人のもののように変わった肉体からなんとか抗う力を振り絞る。
 つつ、と凛の額や頬に珠を結んだ透明な汗の粒がいくつも浮かび上がり、流麗な線を描く凛の身体にどれだけの負荷がかかっているのかを代弁する。
 ぎちぎちと軋む音が刃蜘蛛の関節から漏れ聞こえ、凛の眼前にある野太刀の刃零れの目立つ刃が徐々に迫りくる。
 刃蜘蛛の足を何とか動かして力の流れを変える――無理だ! 一瞬でも操作を誤ればその瞬間に野太刀に押し切られるのは明白。肉体の枷を外した怨霊相手に人間である凛が膂力で勝負を挑むなど、自殺的行為でしかない。
 どうする!?
 凛の思考をこの一言が埋め尽くした瞬間、限界を超えて力を込められていた左五指の内、小指と薬指が、怨霊の咆哮を受けたことも重なって、凛の意図とは異なる動きをしてしまう。

「っがは!?」

 己に対する罵倒の言葉が怒涛のごとく脳裏をよぎり、折り重なる刃蜘蛛の脚を弾いた鎧武者の野太刀が、落雷の如き速度と崩落の重厚さを持って凛の左頸部に叩きこまれた。
 人の首どころか石灯籠をまとめて三つも四つも斬り飛ばせるだろう一太刀である。仮に受けたのが雪輝であったとしても、狼の首は怨念籠る長尺の刃によって斬り落とされるだろう。
 しかし、凛の首は無事に繋がっていたままであった。それどころか処女雪の白を映し取った革服さえ、野太刀は斬り裂く事が出来ずに革服の表面に留まっていた。
 さしもの怨霊も事態の理解に一瞬の停滞が生まれ、それは次の行動への移行をわずかに遅延させた。
 左頸部にぴたりと貼りつけたように据えられた刃の感触を感じながら、首の骨を盛大に揺らした衝撃に耐え切った凛の唇が、凶悪な形に吊りあがる。

「阿呆が! 秘薬を使って硬化した妖虎の革だ。鉛玉を同じ所に十発食らっても穴一つ空かねえよ!!」

 命がけの勝負の真っただ中で動きを止める怨霊に対する心底からの侮蔑の言葉であった。
 凛の指が動く。
 いまだに神経は怨霊の呪い込められた咆哮によって衰弱し、凛の思い描く動きに対して数段遅れていたが、それでも鎧武者が体勢を立て直して凛のむき出しの頭部を狙うよりも早く動く事には成功する。
 弾かれた刃蜘蛛の六本足が切っ先を鎧武者へと向け直し、わずかずつ初動をずらした六本足が人体の急所すべてを狙って迸る。
 鎧武者を包み込むように迫る刃蜘蛛の六本足に対し、鎧武者は人でなくなってまで黄泉より帰参しただけはあり、人の域を超えた俊敏極まりない動作で後方へと跳躍して刃蜘蛛の切っ先に風だけを貫かせる。
 刃蜘蛛の切っ先が互い互いに衝突して火花を散らし、きぃん、と甲高い音を立てた時、着地した鎧武者が姿勢を前倒しにし、脚部に爆発的な跳躍の為の力を貯め込んでいた。
 こんどこそ凛の必殺を狙って首を斬り飛ばすか、額を割るか、串刺しにする腹積もりであろう。
 崩れそうになる膝を必死に支え、凛は脂汗を形の良い顎先から滴らせながら、戦意の衰えぬ笑みを更に深いものにする。
 阿呆が、と罵ったまでは良かったものの、人外の膂力と技が込められた一太刀は、妖魔の革を加工し飛躍的に硬度と柔軟性、対霊強度を高めた革服をもってしても完全には防ぎきれず、革服の下は何も纏っていない凛の肉体に小さくない衝撃を伝え、左頸部から左肩にかけてがほとんど麻痺している。
 麻痺が抜けるまでざっと十秒、と凛は判断した。十秒あれば鎧武者はその五倍の回数だけ自分を殺せるだろう、とも。

(ああもう、なんでこんな苦労させられる相手とやり合う羽目になってんだあたし。なんもかんも雪輝の所為か? いや、悪いのはさんざか悪さしくさった大狼の方だよな。……いやいや、とにかく今は目の前の奴をぶちのめす事だけ考えろよ)

 思考が目の前の戦闘から愚痴めいたものへと外れかけてしまうのを立て直し、凛は紙縒りの様に細く息を吐き、瞳も細めていまにも斬りかからんと構える鎧武者へ意識を集中させる。
 刃蜘蛛を操作する指に慎重にさらに慎重の輪をかけて神経を張りめぐらせて、今度こそわずかな操作の誤りも起きぬよう、繊細という言葉では足りないほど意識を研ぎ澄ます。
 もし凛の意識の集中の度合いを眼にする事が出来たなら、それは眼に見えないほど薄く削がれた硝子細工のような様相を為したであろう。
 指先にほんの少しの力を込めて突くだけで、簡単に壊す事が出来ると一目でわかるほど脆弱な、繊細すぎるほどの意識の集中。
 研ぎ澄まされた凛の五感は頬を撫でる風の流れも、そこに含まれる幾千幾万に及ぶ匂いの粒子や、大地に接する足の裏を通じて伝わる彼方の獣の足音さえも明確に感知していた。
 鋭敏化された五感が収集する膨大な情報量を迅速かつ厳正に選りわけて、生死を賭けたこの戦いに必要な要素を持つ情報だけを蓄積してゆく。
 来るか、来ないのか? まだか? もう来るか? 動かないってんなら……。
 あたしから動く、と紡ごうとした凛の思考は、その瞬間を狙い澄ましていたかのように地を蹴り、地上の獲物を目指して舞い降りる猛禽類も追い抜く高速で迫る鎧武者の姿によって中断させられる。

 来――

 野太刀は鎧武者の右半顔に据えられて刀身は大地と水平に並び、繰り出されるのが稲妻のごとき突きである事を示している。
 三間開いていた距離が一間に縮まった時、ようやく凛の指が動いた。野太刀の刃長と鎧武者の腕の長さを考えれば、既に切っ先が凛の額に届く距離であった。

――た!!

 『来た』の一言が凛の思考を過ぎる刹那の瞬間に、両者はお互いを必殺の間合いに置いていた。
 鎧武者は野太刀を突きだせば凛の命を奪う事が出来るが、凛は指の動作を介して背に装着した刃蜘蛛を動かさなければならず、攻撃に移行するまでの動作が多い。
手数こそ実に六倍と凛が圧倒していたが、その優位が意味を為さぬ距離と速度であった。
 刃蜘蛛の切っ先は濃密に折り重なる枝葉から零れるわずかな陽光を燦然と跳ね返し、白銀の矢と化した鎧武者の野太刀と交差する。ことここに居たり、両者の殺意を乗せた武器は触れ合う事もなく、お互いが貫いた風ですれ違う互いを震わせるのみ。
 受け太刀は両者ともになし。もはや待ち受ける結末は相討ちしかありえぬ交差であった。
 陽炎のごとき怨念を立ち昇らせる野太刀の切っ先が、凛の染み一つない額に食い込み、ぷつりと肌を破って血を溢れさせ、怨嗟の念は傷口から流入して付近の細胞を汚染し腐食させんと悪意を猛らせる。
 わずかな傷をきっかけに猛毒と化した怨嗟が内から外から血肉を腐らせ、精神を衰弱させ、確実に命を蝕むのだ。まさしく生命に対する呪いとも冒涜とも言い換える事の出来る生ける死者なればこその一撃である。
 しかし、怨念、怨恨、憎悪、殺意といった感情による傷の浸食は、わずかに凛の額の皮膚を黒く変色させただけに留まった。
 呪いの念に汚染された血液が流れ、鼻筋に沿って二つの流れに分かれて、凛の顎先から滴る。思わずその血を舐め取りそうになり、凛はかろうじて舌を出す所で抑える。
 怨念に汚染された血液は一瞬前まで自身の身体の中を流れていたものであろうとも、強力な毒液に等しい。嚥下せずとも口中に含んだだけで、舌を付け根から腐らせるだろう。
 しかし、滴る血を舐めとろうなどと、そのような余計な事をする余裕があるということは、つまり決着がついたということであった。
 ほんのわずか突きだされるだけで自分の頭蓋が簡単に貫かれる所に切っ先を突きつけられながら、凛は堪え用の無い達成感と勝利の高揚に浮かされて大きな笑みを浮かび上がらせていた。
 野太刀を片手一本平突きで突きだした姿勢のまま、虚空に縫いつけられたように動きを止めた鎧武者は、怨念がかりそめの肉体を得る媒介となっている甲冑を、刃蜘蛛の六本足に貫かれ、急速に甲冑の中に渦巻いていた怨念が減衰してゆく。
 刃蜘蛛の六本足の切っ先はその付け根に仕込まれていたバネによって高速で射出され、自ら突進してきた鎧武者の全身を貫いていた。
 凛の指先がある特定の動きをした時、刃蜘蛛の刃は虚空を飛翔して足の届かぬ距離に在る敵を貫く矢と変わるのであった。
 対雪輝を想定した凛が持てる技術と知識と経験の粋を凝らした刃蜘蛛の刃に秘められた滅魔の霊力が、その威力を存分に発揮して少なく見積もっても数十年から百年前後を閲した怨念を強制的に浄化している。
 面頬の奥の表情を伺う事は出来ぬが、神仏の神通力や怨念が晴れた事による怨霊の合意を得る形での浄化とは異なり、一方的かつ暴力的に浄化させられる鎧武者は苦悶の表情を浮かべているに違いない。
 鬼無子や雪輝ならば多少なりとも鎧武者に対して憐憫の情を露わにするかもしれないが、また厳しい魔性の山で育った影響から敵対者に対しては極めて苛烈な凛は、鎧武者が消え去る最後の瞬間まで、油断なく身構えていた。
 鎧武者が最後の怨念を振り絞り、凛に某かの物理的な攻撃や祟りを残さないとも限らない。
 故にさっさと消えやがれ、という凛の意思に呼応して刃蜘蛛の刃はうっすらと漆黒に輝いて霊力を増し、鎧武者の強制浄化を加速する。
 凛が腰帯にぶら下げていた巾着袋から二十種類の薬草を練り合わせた軟膏を取り出して、額の傷に塗り込みながら射出した刃蜘蛛の刃を回収したのは、鎧武者が刃蜘蛛の刃による強制浄化に身悶えし、晴らす事の出来なかった積年の恨みを叫びながら消失してからの事であった。



「だーちくしょ、ばっきゃろうめ。頭が痛い指が痛い首が痛い肩が痛い。これ絶対痣んなってるぞ。骨が折れなかっただけましだけど。あーあー、なんでこんな目に在ってまであたしゃ、図体ばかり大きいあの狼に親切にも忠告してやりに行くのかねえ?」

 不平不満を辺り一帯にまき散らしながら、凛は左頸部をさすりさすり、いま機嫌が悪いんだよ、と顔にでかでかと書いて雪輝とひなと鬼無子の住まいである樵小屋の鹿皮の戸を乱雑に押し開いた。

「入るぞ、入ったぞ」

 と、入室する前にするべき挨拶とした後の口上を同時に口にしてずかずかと樵小屋の中へ踏み入れた凛ではあったが、入った直後に目にした物体に腹腔を一杯に満たしている苛立ちも忘れて、目を丸く見開いた。

「は?」

 板張りの床に狭苦し気に巨躯を横たえているのは、凛がこれまでの人生の中でも最も強い執着心を抱く雪輝である。
 人も獣も足跡を残していない処女雪が朝陽を浴びているかのような白銀の毛並みの眩さや、風一つない湖面の青を映し取った瞳も何時も通りであったが、しかしその毛並みの長さがこれまで凛の目にした事のない短さになっていた。
 凛の記憶の限りにおいて春夏秋冬と四季の訪れに関わりなく、常に長く伸びたままであった雪輝の毛並みがいまは普通の犬や狼とそう変わらぬ長さにまで短くなっている。
 ああ、さっぱりした見た目に変わったな、と凛は頭のどこかでぼんやりとそんな感想を抱いた。

「凛か、おはよう」

 もともと穏やかな気質ではあったが、人身御供として差し出された少女と暮らし始めてから、雪輝の声音はより一層柔らかで他者に対する穏やかさと優しさが増している。
 凛にしても耳に慣れたその声を聞き間違える事はないのだが、目の前に鎮座している雪輝の外見的変貌に、反応が一拍子遅れた。

「お、おう」

 いつもとは反応の異なる凛に雪輝は小さく首を傾げたが、雪輝の巨躯の向こう側に隠れて凛の視界に映っていなかった鬼無子とひながひょっこりと顔をのぞかせた事で、それ以上深く追求することはなかった。

「凛殿か、気持ちの良い朝ですな」

「おはようございます、凛さん」

 闊達に朝の挨拶をする二人に生返事をしながら、凛は二人の様子からどうやら雪輝の身に良くない事が起きたわけではないようだ、と推測する。
 雪輝の毛が短くなったのが例えば冥府から舞い戻ってきた怨霊たちの祟りによるものだったとしたなら、この二人がこのように落ち着き払っているはずがない。
 外の世界を歩き回り様々な経験を積み、精神的にも成熟している鬼無子はまだ冷静さを維持しただろうが、雪輝に対して身も心も奉げてたとして何の後悔も躊躇いを抱かぬひなは、この世の終わりのごとく顔色を青白く変えて、目も当てられぬほどの恐慌に陥るはずだ。
 凛は、だったらいったい何があったんだと首を捻りながら、草履を脱いで上がり、囲炉裏の前に敷かれている座布団の一つに腰を降ろした。

「雪輝の奴、どうしたんだ? いきなり毛が短くなっているけど」

「ああ、それは、それがしが斬ったので短くなっているのだよ」

「斬った? 雪輝の毛を? こいつの毛はあたしら錬鉄衆の打った刃も通さないくらい硬いんだよ?」

 以前の雪輝との決闘で溢れる殺意を乗せて振り下ろした山刀の刃が弾かれて、こちらの腕が嫌というほど痺れたのを思い出し、凛は少なくない驚きを声に乗せるが、鬼無子は何でもない事の様に右手に握る愛刀を示す。

「確かに。それゆえ、これ、この崩塵で」

「……」

 家宝の、しかも親の形見だっていう刀で毛を斬るなよ! と喉まで出かかったがかろうじて凛はその言葉を呑みこんだ。
 正当な所有者である鬼無子本人が納得尽くの上で、凛の眼からしても驚嘆するほかない対霊処置が施され、見事という他ないまでに鍛え抜かれたもはや芸術品の域に在る刀でわざわざ雪輝の毛を斬ったのだ。文句を言っても始まらない。
 しかし、そこまでしてなぜ雪輝の毛を斬ったのか、凛は新たな疲れを覚えながら問う。

「なんでこいつの毛を斬る必要があるのさ。夏になっても毛が生え変わらなかったとか? いや、こいつ、なんでか知らんけど一年中毛は長いままのはずだよね。なんか変わった事でもあった?」

「いや、秋の足音もそろそろ聞こえ始める時節ゆえ、本格的な冬に対する備えも兼ねて、新しい布団でも用意しようかという話が朝餉の時に出てな」

「布団? それが何で雪輝の毛と……」

 そこまで口にして、凛は鬼無子やひなたちの思惑に思い至り、空いた口を閉じる事が出来なかった。この少女と女性は。妖哭山の数多の妖魔達から一目置かれ、山の民からは畏敬の念を向けられる、この白銀の狼の毛を使って!

「雪輝の毛で布団作るのかよ!!」

「うむ、羽毛布団を作るにはちと鳥の羽を集めるのが手間なので、どうするかと思案していた折に、雪輝殿ご自身からご提案頂いたのだ。確かに雪輝殿の毛並みは手を離す事が苦痛なほどに素晴らしい感触と柔らかさに富み、また人肌に程よいぬくもりを持っている。雪輝殿のご提案は実に魅力的かつ有効なものと、恐れ多くもそれがしが雪輝殿の毛を斬らせて頂いた。長い時の雪輝殿の毛並みの感触は言葉に言い表しがたい心地よさであったが、短くなった雪輝殿の毛並みもこれはこれで実に良い。うむ、やはり良い」

 雪輝の毛並みに対する並々ならぬ愛着と情熱を持って語る鬼無子に、この人大丈夫かな、と凛は鬼無子に対する人物評価を若干下方に修正しつつ、斬られた雪輝の毛をせっせと集める手を止めたひなを見る。
 笊を片手に床に散らばる雪輝の白銀の毛を一本残さず拾い集める作業を中断したひなは、どうぞ、と一つ言って凛の目の前に湯呑を置いた。

「あんがと」

 それだけ返して、凛は湯呑を口元に運びながら思案する。
 確かにこの前、雪輝にひなと共に跨った時に感じた雪輝の毛並みの感触は思わずうっとりとしてしまうほど素晴らしいものではあったが、だからといって仮にも狼の妖魔の毛で布団を作ろうとするとは。
 山の民とて妖魔の毛皮やら爪、牙、骨、臓腑を生活の役に立つ道具や武具防具に加工するから、鬼無子達の事は言えないのだが、敬愛する自分の母が敬意を払う雪輝がこういう扱いを受けているのを見ると、何とも言えない気分にならざるを得ない。
 しかも雪輝に至っては鬼無子とひなの役に立てるかもしれないとあって、不機嫌どころか上機嫌な様子である。ますますもって凛の心は救われない。

(なんだかぁ……)

 約束していた怨霊たちの数を伝えるのも忘れて、凛は湯呑の中身をごくりと音を立てて飲み込んだ。
 雪輝達がのほほんとしている間に被った自分の苦労を考えると、理不尽な、という思いがむくむくと春を迎えて萌芽する草花の様に頭をもたげるが、今回の事は凛の善意と不運なめぐり合わせの結果だから、雪輝達に八つ当たりするのはそれこそ凛の方こそ理不尽であろう。

(これがあたしの運命かねえ)

 しみじみと凛は心の中で呟いた。

<続>

>>イエロー様
過分なお言葉を賜りありがとうございます。感涙ものでございます。一話あたりのPV1000行くか行かないかで一喜一憂している私としては、その様に仰っていただけて光栄の極みです。


>>ヨシヲ様
確かに、白色の服では山林には適しませんね。その上に羽織っているのが小袖という事もありますし。もう少し考えて描写するべきでした。言い訳しますとこの時の凛は、獣や妖魔を身を隠した状態から奇襲する予定ではなかったから、カムフラを気にしていなかったのです。本文中で説明すべき所でした。不覚。
スレンダーというように褒め言葉として伝える語彙が雪輝にあれば、凛も怒らずに済むかも知れませんね。

>>たつみ様。
面白いといっていただいて心底励みになります。また誤字のご指摘の件もありがとうございました。もっと注意深くチェックするべきところでした。今回の怨嗟反魂編は雪輝とひなから、鬼無子の出番を多めにしておりますので、ご期待に沿わないかもしれませんが、狼と少女がほのぼのする所はちょこちょこ入れてゆきますので、どうか見捨てないで下さいませ。

>>いかれ帽子屋様
誤字の件ありがとうございました。イメージされている通りであっているかと思います。操作方法がからくりサーカス風に糸を通していることになっている事でしょうか。雪輝を倒すための武器で雪輝を狙う怨霊と戦う凛は見事なツンデレというかジャンプ的ライバルキャラ? になってしまいました。

>>taisa様
狼も一応学習はする子なので、そうそう怒りは買わないようになる……はずですw
大きい方がいいか小さいほうがいいか、それを雪輝がどう感じるかでひなの成長の方向性が変るので、結構凛と鬼無子の胸のサイズは重要だったりします。


ではでは、ご感想ありがとうございました。皆様に構っていただけるお陰で私もまだまだ頑張れます。これからもなにとぞよろしくお願い致します。



[19828] その十 待つ
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2011/03/25 12:38
その十 待つ

 咽喉を潤す温いお茶の味に、凛はほう、と息を吐いた。
 夏の盛りを幾日か過ぎようかとしていたが、蒼穹の空の支配者のごとく燃える太陽は季節の流れなど知らぬ様子で大地に陽光を降り注いでいる。
 その最中を鎧武者の怨霊と精魂尽き果てる寸前まで追い込まれた死闘を繰り広げた所為で、薄い液状の鉛が血液の中に混入しているように重い体が、ようやく一息つくことを許されて、凛の身体から緊張が解け消えた。
 長時間の着用も考慮して縫製した妖虎の革服ではあったが、全力での運動を長時間続けた事もあって、凛の身体は熱く火照っていた。
 雪解け水のように咽喉に痛いほど冷えているのも悪くないが、ちょうどひなの出した位に温い方が飲み干すのにはちょうどよく感じられた。
 ひなが趣味がてら妖哭山特有の草花を乾燥させたり、粉末状にして日々調合を繰り返している草花茶は、時に外れもあるが今回は当たりを引いたようで、爽やかな香りが凛の喉と鼻孔を心地よくくすぐっていた。

「もう一杯もらえる?」

「はい。ちょっと待っていてくださいね」

 一度に大量に淹れられた草花茶は、樵小屋の土間の片隅に置いてある、子供が抱えられる位の大きさのいくつかの水甕に保存されている。
 凛の湯呑を受け取ったひなは、凛の求めに答えるべくぱたぱたと水甕の方に歩いてゆく。
 要領の良いひななら、予め鉄瓶か鍋にでも小分けにしておいて、すぐにおかわりが飲めるようにするくらいの配慮はしそうだけどな、と凛ははて? と小さく首を捻った。
 そんな凛の横に、崩塵を鉄鞘に納めて右手に提げた鬼無子が自分用の『鬼』の一文字を彫り込んだ湯呑を片手に腰かけた。
 四方木家伝来の霊刀によって長かった白銀の毛を切られて、ずいぶんとこざっぱりとした外見に戻った雪輝も、一通り毛刈りないしは毛斬りが終わった事もあって、鬼無子の傍らまで歩いてから改めて腹ばいの姿勢になる。
 持たれるとちょうどよい具合の高さと大きさで、鬼無子はひなが席を外している事もあって、こっそりと雪輝の短くなってもふんわりとした柔らかな弾力のある体に少しだけ体を預けた。
 居間の片隅に集められた眩く輝く狼毛は、ちょっとした小山を築いており、布団にするよりもそのままその毛山に頭から飛び込んで、思う存分その感触を楽しみたいと思わせる魅力を発している。
 雪輝にもたれかかりつつ凛と向かい合った鬼無子は、ちら、と名残惜しそうに毛山と隣の雪輝に視線を送りつつ、んん、と自分自身の緊張の紐を貼り直して、かろうじて真摯な表情を形作る事に成功する。
 とはいえ、すでに凛は、雪輝の毛並みに心奪われてその美貌を恍惚と蕩かせていた鬼無子の姿を目撃した時に、鬼無子に対する評価を下方に修正していた為、既に手遅れではあったし、そもそもほんのわずかとはいえ雪輝を抱きしめるようにもたれかかった姿勢ではあまり格好のよろしいことではない。
 いや、もたれかかるというよりは初めて客席に呼ばれた遊女が、なんとかして上客の気を引くようにしなだれかかっているようにも見える。
鬼無子が雪輝の毛並みに感じている魅力は、これは相当根が深いようであった。
 これ以上なく気を緩めた体勢と厳しく引き締められた表情との違いに、凛は思わず噴き出しそうになるのを、咽喉を痙攣させるだけに留めるのに、それなりの労力を必要とされた。

「それで凛殿、昨日の話だが、如何か?」

「うん。里の祈祷衆のお婆に鏡占いをしてもらったよ。今朝、お婆に教えて貰った怨霊の数は四人。そのうち、一人はあたしがついさっき片付けといた」

「ほう、凛殿が? それがしが鎬を削った死者と同格の者であったなら、いや、凛殿の実力をそれがしはいささか見誤っていたようでござるな」

 凛が戦った怨霊を直接目撃したわけではないから、槍使いと鎧武者とでどちらの力量が上と判じる事は出来ないが、それでも怨霊を倒したという凛の実力を、鬼無子は低く見積もっていたようだと、心の内でなおす。

「ま、色々と使ってようやく勝ちを拾ったよ。得るもんはあったし、苦労も怪我もしたけど、戦った価値はあったかね」

 と、凛は鎧武者の突き出した野太刀の切っ先に裂かれた額の傷を人差し指でつつきながら、どこか茶目っ気を含んだおどけた笑みを浮かべる。
 額の傷は、下ろされた凛の黒髪に隠れて、仔細に観察しなければ見つける事は出来ないだろう。
 鎧武者の放った呪いの咆哮による身体異常も既に回復しているし、数十種類の薬草を練り合わせた特製の軟膏の効果で、額の傷も出血は止まり痛みも無くなっている。
 些細な失態で口汚く罵られ、十にもならぬ幼子であろうと容赦なく打ちすえる村長のもとで数年を過ごしたために、他人の感情や態度の変化を察するのに長けてしまったひなが、凛の傷に気付かずに普段通りの対応をしたのも、既に凛が戦闘による後遺症や負傷からほぼ立ち直っていた為だ。

「では残り三人か。しかし、凛と鬼無子に面倒をかける形になってしまったな。せめて残りの三人くらいは私が引導を渡すべきであろう」

 黙って話を聞いていた雪輝である。
 経過した年月かあるいは別の外的要因に依ってかは不明であるが、蘇った怨霊たちの狙いが、大狼と間違えられているらしい雪輝である以上は、この狼の性格からして他者に迷惑をかけぬようにと、すべての怨霊を自分の手で片づけようとするのはしごく当然の流れであった。
 雪輝の首筋を優しい手つきで撫でていた鬼無子が、やれやれ、とばかりに苦笑する。

「そう水臭い事を申されますな。雪輝殿はそれがしにとって命の恩人。凛殿にとっては目下超えなければならない壁。憎悪に塗れた怨霊などに害させてよい相手などではございませぬよ。まあ、凛殿の場合は雪輝殿を倒すのは自分だ、という所でしょうかな」

「そーいうこった。それに、お前が下手に怪我でもしたらひなが悲しむからな。あたしはお前の事は好かんが、ひなの事は気に入ってんだ。見かけたらちょっかいくらいは出しとくさ。放っておいてなんか気まずいし」

 かといって凛が雪輝を倒してもひなは悲しむが、その時はどうするのだろうか? と鬼無子は常々疑問に思っているのだが、ひょっとしたら凛は何も考えていないのかもしれない。
 それはそれで凛殿らしいか、と鬼無子はくすりと微笑んだ。いざとなれば恨まれてでも凛殿を止めるまで、と腹を括ってもいた。

「そうか。私は人との出会いには恵まれたな。贅沢を言えばもう少し気の合う妖魔達と知り合うか、大狼の後始末をしないで済みたかったが」

 天外を除けば、当初敵視されていた凛に対しても雪輝は好意を抱いている。
 歯に衣を着せぬ物言いは素直な性分をあらわしていて好もしいし、時に過剰な罵詈雑言も雪輝からすれば思い当たる節のある事ばかりで、自分の至らなさを思い返すのに役立つと捉えている。
 他者に対する好悪の感情を隠さぬ凛の性格は、良くも悪くも好かれも嫌われもするが、雪輝の性格が極めて温厚寛大である事も相まって、命をやり取りをしているとは思えない奇妙に友好的な関係が構築されている。
 ひなと鬼無子に関しては、改めて語るまでもないだろう。
 ひなとの出会いから凛との関係は改善され、命を救った鬼無子は恩義を忘れぬ義理堅さと生来の気持ちの良い性格に特殊な出自から、妖魔である雪輝に対しても気軽に接している
 人間相手には実に心地よい関係を築けているが、特に山の内側に生息する妖魔達とは尽く敵対関係に在るのが、雪輝には残念であるようだった。
 外側に移り住むまではさんざか命を狙われて危険な目にも遭ってきたのだが、それでも友好関係を結べるのならそれに越したことはないと、このお人好しの狼は心底思っていた。
 だったら番になる事を求めてくる狗遠に素直に応じれば、少なくとも狼の妖魔の一派の一員になるどころか、付き従える事も出来るのだが、こればかりは雪輝はどうしても抵抗を覚えているようだった。

「そればかりは言っても始まんないだろ。それとさ、あたしが戦った怨霊だけど結構ここの近くに来ていたな。死人になったことで妙な勘でも働くのか、そのうちここを探り当てるのも時間の問題じゃないのか?」

 凛が懸念していた事を伝えると、雪輝と鬼無子は揃ってふむ、と眉間に小さな皺を刻み、思案するように唸る。
 生まれた時からこの山で育った凛の様な山の民や、雪輝の庇護下に在るひなと鬼無子のような場合を除いて、まず外の人間が迷いこめば正常な方向感覚を失い堂々巡りに陥るのがこの山だ。
 かつてはその様に行く先を見失い、疲れ果てた所を妖魔や獣に命を奪われたであろう怨霊たちが、一度冥府の門をくぐったことで超常的な感覚や直感力を身につけていてもおかしくはない。
 ただ座して普段通りに日々を過ごしていても、それを崩壊させる足音は思っていたよりもはるかに近くを歩いていたようだ。

「待っていては、最悪三人の怨霊を同時に相手にせねばならん事になるか。ならばこちらから赴いて一人ずつ倒していった方が確実に排除できような」

 怨霊たちが互いに仲間意識を抱いているかどうかは不明であるが、万が一にも手を組まれる可能性を考慮すれば、各個が独自に行動している間に撃破するのが賢明、と判断した雪輝の言である。
 山の内側では、頻繁に複数の敵を相手にする機会に恵まれてしまったために、雪輝は数で勝る相手との戦いの苦労を身に沁みて理解していた。
 もっとも、今回の場合は雪輝の隣に鬼無子が居り、孤軍奮闘せずとも済み、また相手方の数も一人多いだけであるから、過去の経験と比較すれば質はともかく量だけを語るなら組み易いと言える。

「攻めに出るんなら山の地形とかいろいろ知悉しているお前が出て、鬼無子さんはここでひなを守っているべきだろうな」

「そうだな。いまさら凛を無関係とは言わぬし、向こうがそう取るかは分からぬが、しばらく凛はここに出入りするのを控えたほうがよかろう。
 最悪の場合、私が討たれたなら済まぬが、鬼無子にはひなを連れてどこぞの町にでも連れて行って、面倒を見てもらえると助かる」

「雪輝殿」

 険しい視線で自分を見つめる鬼無子に、雪輝は分かっていると頷き返す。

「無論、むざむざと討たれるつもりなど毛頭ない。あくまで仮定の話ゆえ、そう怖い目で私を見つめないでくれぬか」

「分かっていらっしゃるのならこれ以上は申しますまい、と言いたいところですが言わせていただきますぞ。仮に雪輝殿が亡くなられたとしたら、まずひなは生きる事を放棄するでしょうからな。
 それがしがひなを養う事は吝かではありませぬが、それでも未来永劫、あの娘に幸福が訪れる事はなくなるでしょう。その事を雪輝殿はゆめゆめお忘れなさいますな」

 雪輝が滅ぼされたとした場合のひなの処遇に関しては、口出しすることはできないと凛は黙って雪輝と鬼無子のやり取りを聞いていた。
 凛個人としては妹分として里に引き取ってもいいのだが、無鉄砲な凛をしても黙って従うしかない厳正な里の掟が、ひなを引き取る事を許さず、精々凛に出来るのは金や食べ物を持たせて、麓の村々にひなを送り届けることくらいだからだ。
 幸いというべきか鬼無子はひなを引き取る事に関して、全く躊躇や迷いというものがないようで、ごく自然と自分が面倒をみるつもりでいるようだ。
 もっとも、こんな話をしているとひなに知られようものならその場で堤が破れた様に泣き出すか、火山の噴火を思わせるほどの怒りを示して雪輝と鬼無子に食ってかかるだろう、と凛は思う。
 あるいは、そんな凛の予想をはるかに超えた行動をひなは起こすかもしれない。
凛でもそこまでは考え付くのだから当然、雪輝と鬼無子もひなの耳には届かぬようにと先ほどから声は潜めている。

「割ってはいる様で悪いんだが……」

「なんだ?」

「あたしが戦った怨霊との印象なんだけどさ、あいつらは多分、いや十中八九間違いなく、雪輝を殺したって止まらないよ。あいつらは生きている者すべてが憎いんだ。
 あたしは霊感は人並みだけど、一合刃を交わしただけでも骨の髄まで理解できた。いや理解させられたよ。死んだ後どんな目に遭わされたのかは知らないけど、ありゃこの世の終わりまで命を憎んで死を振りまくバケモンだ」

 茶化すふうの無い真摯な凛の表情と言葉から、思っていたよりも性質の悪い相手と知って雪輝は狼面を顰め、鬼無子はやはりかと言わんばかりに首肯する。
 鬼無子自身も槍使いの怨霊との戦いの中で、蘇った怨霊たちが生ある者すべてに対する絶対的な敵であると確信していたのだろう。

「確かに。それがしも凛殿と同じものを感じていた。雪輝殿が命を落とす事になったとしても、事はそれで終わりはしますまい。それがしの私見ですが、一対一であれば雪輝殿ならば油断さえしなければ勝てるはずの相手でありましょう」

「見方を変えれば油断、失策の一つで負ける相手という事か。なに、私が死ぬことでひなに迷惑をかけるとなれば、その二つの言葉は私には無縁だ」

 いまだに自分自身の生命に対して無頓着な所を残す雪輝ではあるが、最近では自分が死ぬことでひなが悲しむという事をよく理解し始めたようで、死が恐ろしいから、ではなくひなが悲しむからという理由で死を忌避するようになっている。
 他者との関わりの中で自己の存在価値や存在意義というものを実感し始めたことで、この狼の在り方や価値観というものが変わりつつあった。

「凛さん、お待たせしました」

「お、ありがとう」

 二杯めの草花茶を淹れてきたひなに、それまで巌のように厳しい表情を突き合わせていや三人は、それぞれ顔から緊張の色をなくす。
 鬼無子は名残惜しさを胸中にたっぷりと残しつつも雪輝の身体から離れて座した姿勢を正し、雪輝と凛は特に居住まいを正す事もない。
 凛はひなと雪輝との今後を占う話をしていた名残などどこにもない顔で湯呑を受け取り、それを口に運ぶ。
 一杯目と同じ鬱屈とした気持ちも簡単に消える爽快な香りに、我知らず凛の口元が綻んだ。
 冬の寒さに身を震わせている時に、不意に春の訪れを予感させる風が吹いた時の様な、そんな爽やかさであった。

「ん、美味い。今度は随分と冷たいな?」

 とそこまで呟いてから、凛は湯呑の中身が氷水のように冷たい事に小さく驚きを示した。口から離した湯呑の薄緑色の水面を見つめれば、小さな氷の塊がいくつか浮いているではないか。
 喉元を流れる間、夏の暑さを忘れられる冷たさの正体は、この氷であったようだ。

「氷? どうしたんだこれ」

 素直な性分そのままに驚きを浮かべる凛の姿に、ひなは悪戯が成功したとばかりに小さく笑い声を零した。ようやく開き始めた花の蕾を思わせる可憐な笑みであった。

「ふふ、雪輝様に作っていただいたんです。ほら、あそこにまだまだたくさんありますよ」

 ひながそう言って指さす方を見れば、樵小屋の片隅に藁の上に積まれてこもを被せられた物体がある。
 こもの合わせ目から盥(たらい)が見え、どうやらその中身がすべて氷であるらしい。ひなが二杯目を持ってくるのが遅れたのは、その氷を小さく削って湯呑に入れていたためであったようだ。
 ちなみに野菜や魚も氷に掘った穴の中に入れてあり、鮮度を保たせている。
雪輝は冷暖房のみならず冷蔵庫と冷凍庫も兼ねるなんとも便利な妖魔であった。

「へえ! 雪輝の奴、氷なんか作れんの!? うちの里にも氷穴があって、そっから時々氷を切り出して食べたり売ったりいろいろ使ってるけど、氷を作れるってんなら雪輝の方が便利かもな」

「私も今朝がた知ったばかりの事だがね」

 と雪輝は生来の呑気さが伺えるのほほんとした声で返したが、その様子は、えへんと自慢げに胸を張る少年のようでもあった。
 ひなを喜ばせる事がこの上なく嬉しく、誇らしいのであろう。自分が好いた相手の役に立ち、笑顔を浮かべてもらえるというのは、なんとも心躍る事には違いない。
 雪輝が氷を作れるかどうか試すきっかけになったのは、昨日、雪輝が体温のみならず周辺の気温まで操作する事が出来ると判明した事だ。
 今朝がた鬼無子が体温を下げる事が出来るのなら、氷も作れるのでは? と思いつきを口にし、では試すかと軽く雪輝が受け取って試した所、見事雪輝は盥に張った水を凍らせて見せたのである。
 特に妖気を迸らせるでもなく足先をちょこんと水面につけるや、たちまちのうちに水は凍て突き始め、樵小屋の片隅に置かれた盥の中身はその成果だ。
 通常の氷とは違い雪輝の妖気が混じっているのか、雪輝が凍らせた氷は不思議と時間がたっても解ける様子を見せず、白く冷気を発している。
 雪解け水の様に冷たい草花茶の飲み心地を堪能しつつ、凛は雪輝に向けて口を開いた。既に伝えるべき事を伝え終えた為か、か細い肩からは力が抜けてすっかり気を抜いた様子である。

「何だ、雪輝、お前は雪妖か氷妖だったのか? 北の方には吹雪と共に現れる狼の妖魔が居るらしいが、ここら辺では見た事のない奴だな」

「さてな。名前に雪の字が入ったから出来るようになったのかも知れんが、冷ますだけでなく暖める事も出来るから、凛の言う雪妖というのとはちと違うだろう。暑くても寒くてもひなと鬼無子の役には立てそうで、それ以外の事はどうでもよいがね」

「ますます便利な奴だな。まあそれならひなと鬼無子さんがこれから先、快適に過ごせそうでいい事だけれど」

「二人の役に立つのなら私にとってはまさしく幸いな事だよ」

 心から喜んでいる口調である。二人の幸福の為なら身を粉にする事を厭わぬ雪輝であるから、このような返答となるのは当然なのだが、凛はしみじみと思わずにはいられなかった。

(こいつ、本当にひなによく懐いたもんだなぁ。狼は群れの家族を大事にするけど、そこんところはこいつも持ってるってことかね?)

 この白銀の獣は外見通りに狼らしい所とらしくない所をちぐはぐに持ち合わせているが、ひなと鬼無子を自身の命よりもはるかに重きを置いているのは、二人を家族と認め、群れの意識が強い狼の特性を備えているからだろうか。
 口には出さず胸中でのみ呟き、凛は湯呑の中身の最後の一口を咽喉の奥へと流しこんだ。



 鬼無子という超人的な体力と熱心な労働意欲を併せ持った働き手が増えたことで、ひなの畑仕事に費やす労働時間は激減している。
 朝早くから洗濯物を干して朝の食事を済ませ、鍬や鎌を片手に樵小屋周囲の広場に作った畑で働き始め、昼の食事を済ませる頃にはもうすでに作業の終わりが見えており、昼過ぎはほとんど時間が空く事が多い。
 ひなはこの時間を有効利用すべく積極的に森の中に雪輝と鬼無子を伴って足を踏み入れて、山菜や茸をはじめ草花茶の原料となる野草や花の採取に勤しむのが最近の日課になっていた。
 氷塊の浮かぶ草花茶を飲み干した凛が辞してから、昼食を済ませて、ひなは何時も通りに新たな草花茶の配合を行うための原材料採取に出かける支度をはじめていた。
 傷や汚れが出来ても問題の無い麻の野良着を着こみ、頭に日差し除けの麦藁で編んだ帽子を被り、薬草から煮出した虫除けの薬汁を塗り込んで笊(ざる)を片手に持てば支度も終わりである。
 訪ねてくる相手といえば凛くらいなものなので、鬼無子と雪輝も毎回欠かさずひなに同行している。
 特に雪輝の場合、周囲の地形をほとんど把握している事もあってひなの求める野草や花の群生している場所を記憶しているし、また目に見えない所やはるか遠方にある山菜でも匂いを嗅ぎつけるため非常に役に立つ。
 草履を履くひなの小さな背を見つめながら、こちらも出かける支度を終えた鬼無子とただ待っているだけの雪輝とが、互いの耳にしか聞こえない様な囁き声を言葉を交わしていた。

「雪輝殿、いつまでもひなに隠し通せる事ではないと思うのですが」

「……しかし、以前の猿どもの一件以来、ひなは私が危険な目にあう事をひどく嫌っている。どう伝えようともひなを納得させる事は出来まい」

 自分達に差し迫っている脅威について、ひなに伝えるかどうかの是非を話し合っているようだった。
 確かに先だっての魔猿達との戦闘は、鬼無子の負傷の様子から外に出張ってきているという事を雪輝だけが把握し、ひなはその存在をまったく知らぬままに戦端を開いたわけだが、今回は鬼無子も雪輝も敵が身近に迫っている事を事前に知る事が出来ている。
 最近では雪輝の案内と護衛がある事もあり、ひなは少しずつ遠方の方にも足を運んで山の地形や採取できる山菜の把握に努めているから、山中を徘徊している怨霊と不意に遭遇しないとも限らない。
 そうなった場合、ひなを鬼無子に任せて雪輝が迎え撃つと語るまでもなく雪輝と鬼無子の間では取り決めがなされていたが、先にひなに事情を話して外出を禁じ、その間に雪輝と鬼無子が怨霊を駆逐する方がより安全ではないか、と鬼無子が提案したのだ。
 ひなの身の安全をなによりも第一に置く雪輝としては、鬼無子の弁を理屈では正しいと認めていたが、それを告げた時のひなの反応を思うと理屈ではない感情の方が、躊躇を覚えてしまう。
 またひなが悲しむのでは、心配させてしまうのでは、という危惧が一度脳裏に渦を巻けば雪輝の理性はたちまちに脆弱なモノへと変わり、鬼無子の案の方が正しいと訴える理性の声はたちまち小さくなってしまう。
 理性と感情の発達があまりにちぐはぐで調整の取れていない精神であるために、雪輝はひなの身の安全に関わる事柄で一度迷うと、判断を下すまでに紆余曲折を経て時間を要する好ましくない傾向にあった。

「それがしと雪輝殿が留守にしている間、帰りを待つひなのもとに怨霊たちが来ぬとも限りませぬし、やはり事情を伝えておくのはひなの事も考えれば必要な事と思いますぞ。それがしが残り、雪輝殿が外に出るか、あるいはその逆でもそれがしは構いませぬ」

「だがそれは猿どもが襲ってきた時と同じ選択肢ではないか? あの時は私が猿を追い、鬼無子達から離れた隙を狙われて、鬼無子に要らぬ怪我を負わせひなを人質に取られてしまった。私はもう二度とあのような事を繰り返したくはない」

 よほどあの夜の事が堪えているのだろう。雪輝は全身に見えざる後悔の霧を纏っているかのように、落ち込んで不安な様子を見せる。

「あの時は猿達から襲撃を受ける側でありましたし、なによりこの小屋の場所を知られていたからこその話です。
 今回は死人達にこちらの位置を悟られているわけでもありませぬし、なによりあれらは愚直に雪輝殿の事を、まあ勘違いしてではありますが狙っております。
 ひなが雪輝殿にとって要であるなどと知りますまい。また、それがしも恢復し本調子を取り戻しておりますから、過日のような無様な真似は繰り返しませぬ。選択肢は同じように見えてもそれがし達を取り巻く状況は異なるものである以上、同じ結果になるとは限りませぬ」

 ひなに事情を説明する事を推す鬼無子に、雪輝も徐々に折れ始める様子を見せ、二等辺三角形の耳が迷いを示す様に閉じたり開いたりを繰り返している。
 その様子に、鬼無子は思わず抱きついて思う存分触りまくりたい衝動にかられたが、雪輝に見えない所で太ももを思い切り抓ってかろうじてこらえた。
 体を触れ合わせて親愛の情をあらわすと雪輝は大変嬉しがるのだが、今は時と場合を考慮し、鬼無子は鉄の精神でその衝動を抑え込む。

(おのれ、雪輝殿。どこまでそれがしの心をかき乱されるのですか!)

 真剣に悩む雪輝を前にしてどうにも気の抜けた事を考える鬼無子であった。深い懊悩に塗れて沈黙する事しばし、雪輝は重々しく口を開いたが、その様は岩と岩とが擦れて軋む音を立てる様を思わせた。

「致し方ない。ひなの不興を買うともあの娘の無事が得られるならば安いものか」

「一時は不満を抱きもしましょうが、それでも雪輝殿が心配するほどの事もないでしょう。ひなが雪輝殿を嫌う事などまずあり得ませぬよ」

「……そうだろうか」

「ええ。ひなは雪輝殿の事を心の底から慕っておりますから」

「そうか。なら私の事ばかりを考えて、ひなを危険な目に遭わすわけには行かぬな」

 はたり、と一つ大きく尻尾が動いて左右に振られる。そんな雪輝の様子に、鬼無子はもう少しひなに好かれているという自覚と自信を抱かれてもよいのに、と思わずにはいられない。

「雪輝殿はいささかご自身を卑下しすぎているようですな」

「なにか言ったか?」

「いえ。それよりも、ひなに説明を」

「そうだな。ひな、おいで」

 と、雪輝が呼べば、ひなは何を置いても雪輝に返答することを優先する。呼びかけ一つとっても、両者の関係を伺う事が出来た。

「はい、雪輝様」

 こちらを振り向くひなの動きに合わせて、艶やかなひなの黒髪が踊るように揺れる。ふわりと、心安らぐ匂いを嗅いだような気がして、雪輝の体から緊張が抜け心から不安の感情が薄れた。
 この娘を守るためになら、自分がどうなってもよい、とその思いがまた一つ強くなるのを雪輝は実感する。
 土間に腰を降ろしていた雪輝の目の前までひなが歩み寄り、こちらを覗き込むように見下ろしている雪輝の瞳と真正面から向かい合う。
 昨日、泣かせたばかりだな、と雪輝はいささか沈鬱な気持ちになったが、迷えば迷うだけひなを危険な目に合わせるだけだと思い直し、意を決する。

「ひな、君に大事な話をしなければならない。支度をしている所をすまないが、しばらくは外に出てはいけない」

 雪輝の言葉に危難の響きを聞き取ったのか、ひなは愛らしい顔に不安と悲哀の色をうっすらと滲ませた。
 無力な自分が外に出る事で危険な目に遭う事を雪輝が危惧し、外出を禁じているのだとすぐさま理解したのだろう。
 そしてその危険を排除するために雪輝が自らを危険な目に晒してでも、と覚悟を決めている事も。
 雪輝とひなは、一つの事から二つも三つも相手の事を理解できる深い関係にあったが、だからこそ、ひなの心には悲しみの波紋が揺れざるを得なかった。

「またあのお猿さんの様な、危険な妖魔が雪輝様を狙っていらっしゃるのですか?」

「ああ。私を狙っているようでね。まだここが見つかってはいないようだが、それもいつまでの事かは分からぬが、鬼無子をここに残して私が外で決着をつけてくる。それまでの間は、ここで大人しくしていなさい」

 ひなは何か言おうと口を開こうとしたが、うまく言葉に出来ず開いては閉じてを数度繰り返した。白猿王に捕らえられて人質となり、雪輝の命を危険に晒した時の事を、思い出していた。
 突如現れて平穏を打ち壊し、鬼無子を傷つけ、自分が人質となったことで大恩ある雪輝に危険を招いてしまったあの夜の出来事は、ひなにとって一生忘れ得ぬ心理的外傷と拭えぬ恐怖を植え付けている。
 顔を俯かせて忌まわしき過去の一面を思い出して顔色を青くするひなの頬に、雪輝が鼻先を寄せてぺろりと舐めて慰めた。

「すまんな。私も本当はずっとひなの傍に居たいのだが」

「はい、それは私も分かっているつもりです。ただ、言いにくい事なのですが、前にあのお猿さん達に襲われた時と同じ事になりはしませんか? 鬼無子さんの事は信じていますけれど、私がどうしても足手纏いになってしまいます」

 ひなが足手纏いになる事はどう言い繕うとも変わらぬ事実である。護身の術法はいまだ形ならず、強烈な憎悪の念を纏う怨霊たちを相手にするには本物の高徳の僧か、退魔の太刀を振るう高名な剣豪でもなければ不足というもの。
 白猿王一派の襲撃の際に、ひなを守りながら出なければ鬼無子は負傷していたとしてもおそらくは六、七割の割合で雪輝が引き返してくるまでは保たせられただろう。
 雪輝と鬼無子の間でもあった危惧に思い至った辺り、ひなもなかなか鋭い所がある。黙って雪輝の言うとおりに従わないあたり、吹けば飛ぶような小さな少女も雪輝に対する思い遣りでは、雪輝がひなに向ける思いに負けていない。
 ひなの疑問には鬼無子が雪輝に対してしたのと同じ事を述べて説得にかかった。鬼無子なりに小屋の周囲を散策していた時に、小屋からの脱出路を選定しており、逃げに徹すれば再び白猿王達の襲撃を受けても撒いて逃げる事は出来ると踏んでいた。
 熱意を込めて語る鬼無子の弁に、流石にひなも反論の言葉を持たず、渋々といった様子があからさまな態度で首を縦に振る。

「分かりました。私は鬼無子様の御手にすがりながら、雪輝様の御帰りをお待ちします。でも、これだけは言わせてください」

 ひなが思ったほどごねないな、と安堵していた雪輝であったが、黒瑪瑙のように美しい瞳に強い意志を込めるひなを前に、真摯な態度で続く言葉を待つ。

「私はいつまでも雪輝様の御帰りをお待ちします。ですから、必ず御無事な姿でお帰り下さい。私は雪輝様がお怪我の無い姿でお戻りになられるのを心かお祈りします」

「ああ。ありがとう」

 胸の内に広がる暖かな気持ちと共に、首を縦に振る以外に、雪輝のするべき事はなかった。

<続>

ようやくPV30000突破。ご愛顧ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。 

いただいたご感想の返事です。

いかれ帽子屋さま

誤字の方、修正致しました。ご連絡ありがとうございます。
鬼無子は善人で美人で腕も立ちますが、まあ、いろいろと残念な所もある性格です。親しみやすさを考慮して欠点のある人物にしてみました。あと、それだけ狼の毛皮が気持ちよいのです。

ヨシヲ様

凛の苦労が報われたのか報われなかったというべきか、後半ののんびりした空気の中で凛がどう思ったでしょうね。あんまり良いところのなかった凛の見せ場として気合いを入れました。やればできる子なのです。


bnis様
きちんと終わりまで書いたときに、また良作であったと言って頂けるように努力致します。今後ともよろしくお願い致します。

マリンド・アニム様
どこまで落差を作れるかの試験的な話でもありました。どちらかというと戦闘描写を書くのが私としては好みなのですが、雪輝とひながもふもふと戯れている姿を描写するのも好きなので、今後とも半々かすこしのんびりが多い位でやらせて頂きたく思います。

通りすがり様
ありがとうございます。これからも精進してよりいっそうよい話を作れるよう努力致します。

taisa様
冬になっても雪輝が居れば布団いらないかなあ、とは思いましたがひなとの交流の一環として描写致しました。これでいつでも雪輝に包まれているような感じで、ひなも寂しくありませんからね。
そしておっしゃられていたソフトですがググって見てあらびっくり。生活ならぬ性活を送るというのも……。
がんばりますので、これからもよろしくお願い致します。



[19828] その十一 白の悪意再び
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/12/01 21:21
その十一 白の悪意再び

 雪輝が鬼無子とひなに一時の別れを告げて樵小屋を退出した後、ひなは言いつけどおりに外出することを控えて、樵小屋の中で出来る作業に没頭して、胸中の不安や心配を紛らわせていた。
 替えの草鞋や笊を編み、土間の隅に保管していた氷の中身を繰り抜いて、野菜の保存室代わりにするなどである。
 言葉を忘れたように小さな口を噤み、黙々と手を動かすひなの姿から、その心の中を簡単に推し量る事が出来た為に、鬼無子はこれは機嫌を直すのは苦労しそうだ、と微苦笑した。
 周囲の地形に対する知識や狼の妖魔である事の特性を考慮すれば、雪輝が山中に彷徨う怨霊たちを見つけ出すことはそう難しい事ではないだろう。
 一両日中には決着をつけてひなの元へと帰ってきて、曲がったひなの臍を直そうと必死になる雪輝の姿を簡単に思い浮かべる事が出来て、鬼無子はひなには申し訳なく思うものの、さほど雪輝に対する心配というものはほとんど抱いていなかった。
 また万に一つも怨霊たちがこの樵小屋を見つけた場合の備えも、既に済ませていた。
 水で薄めた鬼無子の血に浸した髪の毛を特殊な呪文を書き記した呪符に巻きつけ、樵小屋の周囲四方に埋めてある。
 鬼無子が以前の職にあった頃に学んだ、敵性存在を感知し、術者にのみ警鐘を鳴らす種の結界術である。
 基本的には敵意を持った相手であれば無差別に発動する術式を、人間の怨霊に反応するように呪符の文言を書き換えている。
 現在、山の外側に当たるこのあたり一帯で、鬼無子にとって脅威と呼べるだけの力を持った妖物の類は、黄泉から帰参した怨霊たちだけであるから、その他の妖魔は基本的に眼中にはない。
 仮に雪輝が怨霊たちと邂逅するよりも早く、三人の怨霊すべてがこの樵小屋を包囲するように現れた場合は、鬼無子はひなを連れて交戦を徹底的に避けたうえで山を脱出し、麓へと逃げることを決めていた。
 たとえ山を降りようと雪輝の鼻があればいくらでも後を追ってくることはできるだろうし、ひなと鬼無子が逃げている間に雪輝が怨霊たちを仕留める事も不可能ではあるまい。
 それを言うのならば、もともと雪輝と鬼無子とひなで山を下りて、麓の村かどこかにひなの身を隠したうえで、雪輝が山に戻って怨霊たちを狩り回るという選択肢もないではなかった。
 ただ、この場合下山の最中に怨霊たちと遭遇する可能性や、普段なら雪輝を恐れて決して近寄らずにいる妖魔達が、怨霊たちが振りまく暴虐によって血に酔い、襲い掛かってくることも考えられた。
 そうなれば最悪、怨霊達と妖魔達と雪輝達とが入り混じり合う乱戦模様となり、ひなの身を守りながら戦う雪輝達の不利は否めない。
 それに以前の白猿王一派との戦いでは守勢に回って痛恨の失態を演じたことから、雪輝が積極的に攻勢に回り、ひなの目に触れることなく怨霊達を殲滅すると腹の奥で決めていた事もあり、樵小屋でひなと鬼無子が待機することとなっていた。
 鬼無子に危惧する所があるとすれば残る三人の怨霊が知性を有し、手を組んで雪輝と対する事であった。
 いかに上位の妖魔にも肩を並べる力を誇る雪輝であろうとも、一対三の状況に置かれては勝利は危ういものとなろう。
 また雪輝の基本的な戦闘方法は、狼の妖魔である事の俊敏性を活かし、鋼鉄の鎧も薄紙の様に貫き切り裂く牙と爪を用いた一撃離脱戦法だ。
 以前、魚採りの際に妖気を細い針状にして射出したことから不可視の妖気を操作する事によって、多少の遠距離攻撃手段も持ってはいるようだが、獣の姿をした妖魔としてはごく基本的な戦い方が主体であると言える。
 三人の怨霊達すべてが武具を操る武芸者の類の怨霊であるのなら、それでも問題はないが、この中に陰陽師や祈祷師、精霊使いといった者達が居ると、自前の身体能力と妖気で戦う型の雪輝とはいささか相性が悪い。
 特に土、水、火、風、金の五行を操る陰陽師や精霊使いといった人種は、属性に強く依存する種の妖魔や尋常な生物にはあり得ない身体能力を有するだけの妖魔にとっては、分の悪い天敵と言える存在だ。
 雪輝の場合は満遍なく全ての属性を兼ね備えた万能型であるから、五行の属性を用いた攻撃に関してはそこまで厄介というわけではないが、逆を言えばこれといって雪輝から見て有利になる属性もないことになる。
 陰陽術や風水術などを攻撃手段とする以外にも味方の支援や敵への妨害を行える陰陽師と、死人となったことで超人的な身体能力を獲得した武芸者の怨霊が組んで戦う事になると、これは雪輝にとって大いなる強敵となるだろう。
 雪輝の傍らに鬼無子のいる二対三の状況ならそれでも勝利の確立を五分以上に持ち込めると、鬼無子は現在持ちうる情報から判断していたが、ひなの安全を考慮した案を雪輝が最優先することはすでに身に沁みて理解している。
 一番良かったのはひなを凛達山の民の里に預かってもらう事であったが、山の民が最低限必要な交易以外では、極めて排他的な風習の強い事は鬼無子も知っていたから無理強いはできない。
 せっかく敵ばかりのこの妖魔住まう山の中で、数少ない雪輝と友好的な集団なのだから、その関係に暗雲を齎す様な真似はそうそうできない。

「ひな、雪輝殿が戻られた時、あまり怒らないで上げて欲しい。雪輝殿がどれだけひなを大切に思っているかは、それがし以上にひな自身がきちんと分かっておろう。雪輝殿はひなにどれだけ冷たくされても生涯ひなの事を慕うであろうから、あまり冷たくされる様子を見るのは忍びないのだよ」

 なんとか雪輝殿の助けになれればと一点の曇りない鬼無子の想いが、そう口を動かさせていた。
 あの狼のひなに対する好意はほとんど際限がなく、共に過ごす時間の長さに比例して増している。有り得ぬ事ではあるがひなが雪輝と共にある事を拒むような事が起きたら、雪輝は笑ってそれを承諾し、然る後に世界の全てへの絶望から命を絶つくらいの事はしかねない。
 ひなの方もそれは同様であるから無用な心配とは思う物の、ひなに少し冷たくされただけでも失意のどん底に瞬く間に突き落とされるので、見ているこちらの胸がひどく傷んで仕方がない。
 それはある意味でひなが雪輝に対して遠慮をしなくなった表れでもあり、二人の関係がこれまでよりも一層深い段階に至ったという事なのだが、その弊害もまた確かにあった。
 鬼無子の言葉に耳を傾けながら五足目の草履を編む作業に没頭していたひなは、不意にそれまでせわしなく動かしていた指を止めて、少し顔を俯かせた。

「分かってます、分かってますけど……。それでもやっぱり、寂しくて悲しくて申し訳なくて、なのに私は雪輝様に当たってしまうのです。雪輝様が受け止めてくれると分かっていて、つい甘えてしまうから」

 鬼無子は柔和に笑み、腰帯に崩塵を差し込みながらひなの傍らに腰を降ろして小さなひなを頭を抱き寄せた。
 小さな体のぬくもりが感じられ、慰めるつもりだった自分の方がどこか安らぎを覚えて、鬼無子はこれでは雪輝殿がひなの傍を離れたがらないのも無理はないと、胸中で零した。

「なになに、ひなに甘えて貰うのは雪輝殿にはなによりの楽しみで喜びであるよ。ただ雪輝殿は素直にすぎる御方ゆえ、ひなに当たられてしまうとどうしてもひなが甘えていると理解するよりもまず、落ち込んでしまう。あの方らしいと言えばらしいのだが困った方でもある」

「私、いまも鬼無子さんに甘えてしまっています」

「ひなのような愛らしい子に甘えられるのなら、幾らでも胸を貸そう。それがしでも雪輝殿の代わりの十分の一くらいは果たせるだろうから」

 鬼無子は黙り込むひなを強く抱きよせて、豊かな乳房に埋めさせた。
 自らの胸の中に抱き寄せたひなの小さな体から伝わるぬくもりが伝わり、鬼無子は自分の心の水面が凪いでいる海の様な静まってゆくのを感じていた。
 どうしてかは分からぬが、この小さな少女と触れ合っていると驚くほど心が安らかな気持ちになる。
 雪輝がひなの傍を離れるのを厭うのは、ひなの身を案じる他にもこの安らぎから離れるのを嫌がっているせいもあるだろう。
 ゆっくりと赤子をあやす様にひなの黒髪に指を差し込み、鬼無子はひなに自分の感じている安らぎを分け与える事が出来るようにと、優しく優しく手櫛でひなの髪を梳く。

「雪輝殿が居られぬと不思議とこの小屋も広く感じられるものだ」

 無論、一般的な狼の妖魔などと比べて巨大な雪輝が空間的に占める割合の事ではなく、その存在感がひなと鬼無子の心にとって大きくあるために、あの白銀の獣が身近にいないという状況は、心に決して小さくはない穴が開いた様な寂寥感を抱かせる。
 まるで息を吸うように当たり前に傍らに存在していた雪輝の不在は、思いのほかひなと鬼無子にとって寂しさを芽生えさせていた様だった。
 鬼無子の何気ないが、その分実感の籠った呟きに心から同意しつつ、ひなは自分の頭を撫でる鬼無子の手と頬を埋もれさせている豊かな双丘に身を委ねた。
無条件に自分を守ってくれる相手が傍に居る事。ましてや自分もその人に好意を寄せているのだ。ひなは雪輝のいない不安を忘れようと、鬼無子の胸に縋りついて目を閉じる。
 雪輝の無事の帰還を、一刻も早くあの方が戻って来られますようにと、深く、強く、切なく想う。想い続ければそれがきっと本当の事になるのだと、そう信じて。



 雪輝は格子の様に重なり合い壁となっているかのような樹木の間をするりするりと、さながら風の様な身のこなしですり抜けて、山の中を駆け巡っていた。
 濃厚な緑の臭いを孕み、緑の色に染まっている様な風の中に、ゆっくりとしかし確実に近付きつつある秋の足音が混じり始め、世界は陽光燃え滾る夏から実り豊かな秋へと移ろう下準備を始めている。
 耳を澄ませばそよ風に揺られる緑葉や色とりどりの花弁のささやきのかすかな響きの違いや、唱和する虫達の鳴き声の変化を聞き取ることは難しくはない。
 山という世界とそれを構成する無数の命達が、世界の変容を敏感に感じ取り、変わりゆく世界に適した姿と心に変わりつつあるのだ。
 大地を濡らす血、風を汚す断末魔、空を汚す呪いの渦、山という世界を構成するのが数多の邪悪なる妖魔であろうとも、この妖の哭く声の絶えぬ山にも四季の移ろいは分け隔てなく訪れる。
 萎れる花が最後に風に託す花粉の粒子や生命の終わりを飾るべく一層激しく強く啼く蝉の声。
 幾度も過ごした山の夏の終わりと秋の始まりの気配を満身に感じながら、雪輝の関心は四季の移ろいには露ほども向けられてはいなかった。
 波濤が岩礁にぶつかって飛沫を散らすが如く、雪輝の通った後には夏の終わりを嘆くかのように緑葉がひらひらと舞い散る。
 雪輝が大狼を滅ぼしてより主な生活の範囲としてきた周囲の山林の中で、山腹から鬼の角の様に突き出している丘がある。
 風の運ぶ万物の臭いと耳に届く万象の響きの中から、求める怨霊達の情報の欠片も逃さぬように意識を裂きながら、雪輝はまず角の形をした丘を目指した。
 酔いどれた三日月が誤って大地に突き刺さったように縦に弧を描き、天空を貫かんとばかりに鋭い先端を上向きにしている岩のある、奇妙な丘である。
 鬼の角とも三日月とも見える巨大な岩石を中心に、背の低い草が丘一面を覆い尽くし、ぽつりぽつりと無造作に岩石が転がっているきり。
 四角形を描く山の外と内側の境界線代わりの山頂を除けば、外側一帯の奥を眼下に展望できる場所であった。
 雪輝が足を運ぶ機会のほとんどない場所であったが、耳と鼻以外にも五感の全てが同種の狼の妖魔と比較しても図抜けて鋭敏な雪輝の視覚を活かすために、選んだ場所である。
 大の大人でも昇りきった時には大粒の汗を顔中に浮かべて息を荒くする急勾配の丘の頂点に、角とも三日月とも見える岩が突き刺さっている。
 雪輝は青の瞳にその岩を映すと、五十尺(約十五メートル)近い岩の鋭い頂点へと、ほんの一跳びで飛び乗る。
 研ぎ済まされた刀の切っ先を連想させる岩の頂点部分は事実、刃に等しい鋭さを兼ね備え、不用意に羽を休めに止まる鳥類の足を無惨に斬り落としてきた。
 その名残の赤黒い染みがべっとりと広がる岩の頂点部分の上で、雪輝は落下の恐怖もわずかに重心を狂わせばこちらの身体を切り裂く鋭すぎる岩の造形も感じておらぬようで、空の青も褪せて見せる瞳を、はるか彼方にまで広がる樹木の海に向けている。
 凛と鬼無子の語る所によれば蘇った怨霊達は大狼をはじめとした山の妖魔達への怨恨によって突き動かされ、果てにはすべての生命へ憎悪と怨讐の刃を向ける悪鬼羅刹と化しているという。
 であれば蘇ってからどれだけの日数が経過しているかまでは雪輝の知らぬ所であったが、山中を徘徊する中で獣や妖魔達と否応なしに遭遇するはずだ。
 そして出会えば最後、怨霊達は目の前の生命を摘み取るべく、死したことによって増した己らの武威を振るい、妖哭山に新鮮な血の臭いと死の断末魔を振りまくはず。
 くん、と鼻を鳴らし、ぴくり、と耳をはためかせ、雪輝は双眸に移るいかなるものも見逃さぬべく、首を巡らして世界の変化を緻密に観察し続ける。
 雪輝に懸念があるとすれば、第一にひな、第二に鬼無子の身の安全であるが、それを置いておくとするならば、怨霊達が生前同様に知恵を巡らし、知性を持って行動することであった。
 ただ闇雲に山中を徘徊してすでにこの世にない大狼を討つべく無差別の虐殺を振りまくだけであるなら、発見も容易で不意を突いて一息に討ち取ることもできただろう。
 しかし怨霊達が個々に生前の知性や知識を取り戻し、逆に雪輝を確実に滅ぼすべく罠を張り巡らせていたとしたならば、これは雪輝にとって慎重にならざるを得ず、場合によっては数日間に及ぶ長期戦も視野の内に入れておかなければならない。
 自身の不在がひなの精神的均衡に悪影響を及ぼすことはなんとなしに雪輝は察しており、そのために日を跨ぐような長期の戦いを行うつもりはなかった。
 日の沈むよりも早く黄泉帰りの怨霊達の首を全て噛み千切り、すぐさまひなの元へと駆るつもりであった。
 ひなが雪輝の不在に心を千々に乱して悲しみを寂しさに暮れるように、自覚のないままに雪輝は傍らにひなが居ない事に苛立ちをうっすらと心の片隅に澱の様に積み重ねている。
 この狼はこの世に生じた時からひなと出会う以前までは親も兄弟もない暮らしを当然のことと受け入れて、孤独に心を傷つけることもなかったが、傍らに誰かのいる事のぬくもりと安らぎを覚えた為に、それを失う事への恐怖を我知らず覚えていた。
 恐怖は憎悪と憤怒を伴いかつて白猿王にひなを人質に取られた時には、白銀の毛並みを憎悪の黒と憤怒の赤に染めかねぬほどの激情を炎のごとく表出させたが、今回の場合はそれが焦燥へと繋がっている。
 あまりにか弱く弱小の妖魔や獣にすら簡単に命を奪われてしまう様な少女の存在が、この狼の妖魔の心に大きな楔を打ち込み、否応にも変化を強要していた。
 雪輝は求める獲物の姿を探す狩人と同じようにただただ静かに、怨霊達の行方を知る手掛かりとなる情報を求めて、耳を、目を、鼻を、皮膚を、直感を研ぎ澄まして待つ。
 獲物を見つけたその時に爆発する激情は、おぞましいまでの妖気を伴って雪輝を一個の悪意の塊と変えるだろう。
 やがて陽は中天に座し、秋の気配を感じさせつつもまだ夏の世界だと宣言するようにして、山の稜線の彼方に至るまで白々と照らしている。
 何重にも枝葉が折り重なり、天然の天蓋を為す原生林はそれでも薄暗がりをそこそこに作っているだろうが、剥き出しの丘の上に屹立する岩の上に立つ雪輝には、まるで容赦のない陽光の雨が降り注ぐ。
 本物の銀を加工したような輝きを放つ銀毛を纏う雪輝の姿は、地上に小さいがもう一つの太陽が生まれたかの如く陽光を跳ね返しながら輝きを放つ。
 遮る物の無い場所に立つ雪輝の姿はこの時山の中で最も目立つ物の一つであり、大狼と間違えた雪輝を付け狙う怨霊達にとっては、まさしく死という厳然たる事実を乗り越えてまで求めた目的を果たす格好の好機であろう。
 雪輝にとって生命の危機であると同時に、それは雪輝にとっても好機であった。
 怨霊が雪輝の生命を狙うように雪輝もまた怨霊達の存在の抹消を図って、生涯共に過ごしたいと願う少女の傍を離れてまで、この場に在るのだから。
 ひときわ強い風が、雪輝の全身を飾る白銀の毛並みを揺らめかせる。
 秋穂の黄金の畑が、波のように揺らぐのとをよく似て、白銀の海を思わせた。
 心地よい風である。
 まだまだ暑さを忘れ得ぬ夏の日に、これほど心地よい風は二つとないだろう。
 しかし、雪輝はその風の中に心地よいものを感じはしなかった。
 ただ夜天を彩る青い満月を思わせる瞳を細め、真珠の光沢と色合いを持った鋭い歯列をむき出しにする。
 ぐぅるるるるる、とひなには決して聞かせた事のない、そしてこれからも聞かせる事のない敵意だけが満ちた唸り声が雪輝の喉の奥から零れ出て、全身から物質と変わってもおかしくないほど濃密な妖気が堰を切って溢れだす。
 風には狼の妖魔に対する絶対の憎悪が混じっていた。
 秋と夏と、二つの季節が混ざった風に吹き散らされた緑葉と花弁が数枚、粛然と岩の上に立つ雪輝の傍らを吹き流れてゆく。
 その瞬間、雪輝は足場としていた岩を蹴った。視線の先に討つべき怨霊の姿を認めた――からではなかった。
 自分を取り囲むようにして風に乗った花弁や木々の葉に、かすかな怨念と殺意を感じ取ったからだ。
 加えて天地万物の気をもって肉体を構成する雪輝には、色鮮やかな花弁や緑の深い葉に宿る気の総量が異常である事が、手に取るように感じ取る事が出来、直感的にこれが自分を狙った攻撃であると判断する。
 雪輝の直感と感覚の正しさは、跳躍後間もなく証明された。
 雪輝の身体が空中に舞い踊るのにわずかに遅れて、数十枚の花弁と緑葉は紫電をまき散らしながら、丘を埋め尽くして刹那の間、太陽の光を世界から奪い去る。
 おそらくは花弁の一枚一枚に稲妻を発生させる呪言が緻密に書き込まれていたのだろう。
 幸いにして追尾性までは付加されていなかった紫電は、雪輝を追う事もなくほんの数秒ほど角型の岩や丘の地形を変えて消失する。
 紫電の高熱によって焦げた大気の臭いが雪輝の肺腑に届く寸前で、雪輝はようやく大地に着地し、露わになった殺意へと視線を向けていた。
 乱立する木々が織りなす木立の中に、水干を纏う乱れ髪の人の姿が映る。
 距離はざっと百間(約百八十メートル)。雪輝ならば呼吸する間に無に変えられる距離である。
 鬼無子や凛が遭遇した怨霊達よりもくっきりと目鼻の造作がしており、荒れ果てた平原に住まう人食いの鬼女を思わせる乱れた髪の下の顔は、あどけなささえ残す若い女の顔であった。
 妖魔の蠢く山で死ぬにはあまりに惜しい、と万人が嘆く白百合の様な青白い美貌の瞳には、轟々と燃え盛る憎悪の黒炎が揺らめいていた。
 この少女もまた山に惑わされて妖魔の牙にかかり命を散らした哀れな犠牲者か。
 そしていま、悪鬼羅刹にも等しい復讐者となって蘇ったのか。
 抉り取った心臓から溢れる鮮血を刷いたように赤い唇は深い奈落をのぞかせる亀裂のごとく吊りあがり、ばりばりと、音をたてんばかりに噛み合わされた米粒の様に白い歯が覗いている。
 もとは陰陽師と知れる風体の怨霊は、左手で右手首を掴み、右人差し指と中指をそろえて伸ばし残りの指を握り込む。
 艶やかだがそれ以上に狂気の気配を纏う唇が短い言葉を紡ぐ。
 雪輝の足が踏み込んだ地面を爆発させて跳躍力に変えるのと、ほぼ同時であった。
 そしてまた、雪輝の左前肢が二歩目を緑の芝生に刻むのと、その地面を中心に土で構成された十匹あまりの蛇が鎌首をもたげて襲い掛かるのもまた同時であった。
 女陰陽師が一瞬の時間で造り出した生ける土蛇は、限界まで顎を開いて精巧に再現された牙を覗かせて雪輝の身体に襲い掛かる。
 敏感に周囲の気の変化を感知した雪輝は、土蛇の半身がまだただの土だった時から敵の第二波を悟り、一旦突進を止めて土蛇の迎撃に思考を切り替えていた。
 鬼無子に聞いた式神か、と雪輝は土蛇の正体を推察する。
 この国において式神とは陰陽師がその呪術を持って作りだす偽りの生命を指す言葉だ。
 日常生活の雑用から吉凶の占いや、天候の読みなど専門的な呪法の補助まで行うものから、罪人や敵国の人間をはじめ妖魔や魑魅魍魎を退治するのに用いられることもある。
 雪輝に対して放たれた土蛇たちは、おそらくは即興であるにしても十分な殺傷能力を有した戦闘用の式神である事は簡単に察せられる。
 死の門戸をくぐり、いままた生への道を逆上り現界に舞い戻ってきた女陰陽師の呪力は、生前とは段違いに強大なものになっているはずであるから、生み出す式神もまた強力なものであるだろう。
 緑の斑を散らした茶褐色の土蛇十匹がその牙を雪輝の白銀の巨躯に届かせる直前、雪輝は前方への跳躍の力を柔軟かつ頑強な筋肉で吸収し、旋回へと変えた。
 白銀色の旋風と化す中、雪輝は右前肢を振り上げるやそこに莫大な妖気を注ぎ殺傷能力を劇的に強化する。
 鎧兜で固めた武者の上半身を泡玉のように爆散させる破壊力の込められた雪輝の一撃は、直接触れずとも攻撃的な妖気の混じる豪風が、雪輝の描く旋回半径の外側に居た土蛇たちもまとめて元の土塊へと変える。
 妖気混じりの旋風が周囲の木々を根こそぎ吹き飛ばして空中高く舞いあげる中、雪輝は再び正面に捉えた女陰陽師に青い視線を据える。
 女陰陽師は足を止めており、距離を詰めんとする雪輝を持てる呪術で迎え撃つ腹積もりであるのだろう。
 はたして怨霊達がどれだけ生前の知性を備えているのかは不明であったが、膨大な知識を必要とする陰陽術をこうして駆使している以上、ある程度の知性は取り戻していると考えて然るべきだ。
 あるいは目の前の陰陽師は囮で他の怨霊達が周囲に伏せっているのかもしれない。
 雪輝は目の前の陰陽師以外からの奇襲にも備えながら、全身の細胞を活性化させてより一層身体能力を強化する。
 今の雪輝ならば、堅牢な城砦を守る鋼鉄の城門も障子の紙程度の障害に過ぎず、また風よりも早く俊敏に地を駆ける事が出来る。
 土蛇がただの土塊へと変えるのにわずかに遅れて、女陰陽師が次の動きを見せていた。
 剣指を維持したまま空中に五つの角を持った図形を描き、空いた左手の五指はそれぞれが独立した思考を持った生き物のように異なる動きを見せている。
 現実世界の自然現象と密接に繋がった精霊と意思を交わす精霊使いなどと異なり、陰陽師は世界の構成そのものを術者自身が読み解き、世界の在りようにわずかに干渉することによって望む現象を起こす。
 女陰陽師が独特の調子で足を動かし、右の剣指を雪輝へと向ける。
 わずかに雪輝の毛並みが逆立つ。
 極近未来に襲い来る脅威に対する本能的な警戒の表れだ。
 脳裏に響く警鐘の音に従った雪輝がその場から左方に跳躍するのに遅れて、女陰陽師から雪輝が直前までいた空間を、不可視の巨大な斬撃が駆け抜ける。
 見上げるほど巨大な巨人が全力を込めて大刀を振り下ろしたように、大地には深い斬痕が刻まれ、その衝撃の余波によってさらに周囲の木々を根こそぎへし折って辺りの光景を一変させる。
 斬空と呼ばれる陰陽師が扱う呪法である。
 ごく短時間の間だけ存在する不可視の巨人型式神による見えざる一撃を加える者で、術者の力量如何によって式神が制限なく巨大化するために、高位の陰陽師ともなれば斬空の術式一つで砦程度なら陥落させることも可能とされる。
 先ほど丘の上で炸裂した紫電の呪術に数倍する轟音と衝撃波によって、空中を跳躍中の雪輝は体勢を崩されて、大きく吹き飛ばされていた。
 天地が攪拌されているかのように上下左右が絶え間なく変化する中、雪輝は四肢の先に自身の妖気で足場を形成し、それを踏んで大地へと舞い降りる。
 下手に跳躍して身動きのとり辛い空中で攻撃を受けては、万に一つも手傷を負わされかねない。
 四足を備えた獣の形状をしている以上、やはり大地を駆ける方が雪輝にとっては本領を発揮できる。
 しかし、足場を整えて大地に足を付けるまでの時間は、女陰陽師に次の手を打たせるには十分すぎる時間だった。
 女陰陽師の左手が五指を揃えた貫手の形で雪輝めがけて突き出されると、傷一つない象牙細工を思わせる繊指の先から、紫色の煙が勢いよく噴出する。
 あらゆる元素を腐敗させる“瘴気”である。
 一部の妖魔や邪教の徒が好んで使用する極めて毒性の高い煙状の気で、物理的な存在のみならず霊的な存在にまでも害を及ぼす。
 あらゆる存在に対して有効な攻撃手段ではあったが高い残留性を持っており、一度瘴気を浴びた空間には強い毒が残って、尋常な生物や霊魂が近寄る事も出来ない死の世界へと変えてしまう。
 一部の霊薬や高位の神職に在る物でもなければ浄化する事が出来ず、世界そのものを根幹から脅かす危険性が高く、たとえ命がけの実戦であっても実際に用いられることは滅多にない。
 女陰陽師が呼びだした瘴気はまるで意思を持った生物であるかのように、拡散せずにひと塊りとなって雪輝めがけて襲い掛かる。
 瘴気に触れる端から風は淀み大地は腐り、降り注いでいた陽光は陰りを帯びて空間は穢れた。
 清浄な天地の気で肉体を為す雪輝からすればまさに致命毒となる危険極まりない攻撃であった。

「ちいっ!」

 鬼無子に教えてもらった知識と、自身の天敵にも等しい現象であると本能で理解した雪輝は、厄介なと言わんばかりに舌打ちを一つ打って、迫りくる紫の魔煙を躱す。
 妖魔の放つ妖気さえ腐敗させる瘴気が相手では、雪輝ではいかんとも相手がし難い。
 これが鬼無子であったならば豊富な知識と戦闘経験から、瘴気に対するある程度の耐性を肉体に付加させるか、崩塵の浄化能力を増幅させて瘴気に抗する事も出来ただろう。
 回避した雪輝を極上の餌と認識した餓鬼のごとく瘴気は行く先を変えて、銀風となって疾駆する雪輝の後を追う。
 幸いにして女陰陽師の意識は瘴気の操作に集中しており、同時に別の術を行使することはできないようだった。
 瘴気の生成と操作にはそれだけの集中力と繊細な神経が必要とされるという事だろう。
 視界の端に映した女陰陽師の様子から、まずは追い迫る瘴気の対処を優先、と雪輝は判断していかなる手段を用いれば、防ぐなり封じるなりできるかと思考を巡らす。
 しかして雪輝の取りうる選択肢という物は、今回もまた少ないものであった。
残念ながら雪輝に出来る事といえば妖気によって全身の細胞を強化することと、前述したが無尽蔵に近い妖気になんらかの形状を付加して、不可視の飛獲物として放つ事だ。

――参ったな、私は随分と不器用にできているらしい。

 それが素直な雪輝の気持であったが、それでもひなの元へと帰るためには諦めるという選択肢を選び得るわけもなく、雪輝は始原の記憶にまで遡り自分自身の事で見落としている事がないか、記憶の棚を一つ残らず検閲する。
 雪輝にとっての幸運は、女陰陽師が瘴気を操りながら別の術を行使する事が出来なかった事に加えてもう一つ存在した。
 発生した瘴気の操作はあくまでも女陰陽師の意識に基づくものであり、高速で周囲を駆けまわる雪輝の動きを完全には追いきれていないのだ。
 しかし瘴気の通った道筋は尽く汚染されて、腐敗した風は吸い込むだけで鼻孔から肺腑までを酸で焼かれた様な痛みを強い、瘴気に侵されていない安全地帯は見る見るうちに消えて行く。
 この場を退いて場所を変えて改めて女陰陽師と交戦に踏み切るべきか。
 既に雪輝は女陰陽師の匂いを覚えている。梅の香りに似た良い匂いだ。
女陰陽師を撒いた後に、この匂いを頼りに隙を伺って何かをする暇も与えずに一撃で葬ることもできよう。
 雪崩のように上方から襲い掛かってきた瘴気を躱した雪輝が、焦燥の焔に精神を炙られつつも、あくまで冷静に思案を巡らしていた時、まだ清浄な地を踏んだ肢の外側に強烈な電撃が走った。
 瞬時に全身をめぐる強烈な痛みに驚愕しながらも、雪輝は瘴気の位置を忘れずに別方向へと十間ほど跳躍する。
 右前肢の外側の白銀の毛のいくらかが無惨に黒焦げて、その下の肉も焼いて香ばしい匂いを漂わせている。
 自分の身体が焼ける匂いを嗅いで、雪輝は眉間と目元を険しく細める。

「結界か。天外の遮断式とは異なる雷属の攻性結界とは厄介な」

 結界とは外と内とを隔てる単なる地理上の境界や宗教観に基づく形式的なものから、霊的な力によって構成される遮断壁まで幅広く指す。
 雪輝が口にした通りに、天外が庵の周囲に張り巡らせている結界は、単純に妖魔の侵入をある一定の範囲内から拒むだけの機能しか持ち合わせていないが、女陰陽師が事前に張り巡らせたのだろうこの結界はずいぶんと趣を異なるものだ。
 外からの侵入を拒むのではなく、内側に閉じ込めた存在の脱出を封じ込める内部閉鎖結界。
 しかも離脱を試みた者が結界の境界に触れれば高電圧の雷撃で持って内部へと弾き返す攻撃性も備えている。
 鬼無子と自分が事前に想定した以上に厄介な能力を兼ね備えた敵を相手にしている事を、雪輝はいまさらながらに痛感させられる思いであった。
 単独であっても勝利の困難な恐るべき強敵。
 凛や鬼無子の戦った武芸者達と比較しても明らかに一段、二段上の強敵と言えるだろう。
 雪輝は焦がされた右前肢の機能が特に支障を来していないことを確認する。
既に炭化した皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、再生した薄桃色の肉は白銀の産毛に覆われつつある。
 身体細胞の強化によって可能となる強力な再生能力の発動であった。
 山の妖魔を相手にして傷を負えば相手の悪意が込められた妖気が傷に残り、再生を阻害するが、幸いにして結界には妖魔の再生能力を阻害させる術式は組み込まれていなかったようだ。
 単純な術式ほど構成が容易なためにその効果を高めやすく、多機能を持たせた結界は多くの事態に対応しやすいが、一つ一つの機能は単独機能型の結界には劣る傾向にある。
 内部の妖魔を封じ脱出を雷撃でもって防ぐこの閉鎖結界には、そこまでの機能を持たせることはできなかったのだろう。
 しかしこの場を離脱して女陰陽師の隙を伺うという選択肢も失われたのは間違いない。
 もっとも離脱の選択肢は時間がかかり過ぎる可能性があり、捨てるしかないものではあった。
 この現状ではまだ二人の怨霊が残っているが、ここは相討ちも覚悟で腹を括るしかないのかもしれない。
 悲壮な決意と共にそこまで考えた雪輝の脳裏にふと閃くものがあった。
 妖魔の中でも強靭な自分の身体能力と妖気操作のほかにも、まだ自分にできる事があったとつい最近知ったばかりではなかったか。
 問題はその“できる事”がどこまで現状の打破に役立つかどうか、未知数である事だがこのまま逃げ惑い続けてもじりじりと焦がされるようにして追いつめられて、瘴気に飲み込まれて魂魄と肉体を蝕まれるのは明白。
 ある種の決意を秘めた雪輝は、再び襲い掛かってくる瘴気を何度か避けた後に、着地したある場所で足を止めて四肢を伸ばし、頭を下げて前傾姿勢を取る。
 それを玉砕覚悟の吶喊であると女陰陽師は判断したのか、瘴気の動きを一時止めると新たに呪力を注ぎ込み、瘴気の量を倍に膨れ上がらせる。
 小山と呼んでもおかしくない大きさにまで膨れ上がった瘴気は、女陰陽師の怨念を食らってより禍々しさを増して、空間それ自体に対する汚染の度合いを増してゆく。
 もはや戦場となったこの辺り一帯はたとえ妖魔であっても百年は済む事の出来ない汚染地帯となるだろう。
 雪輝の四肢が大地を蹴るのと瘴気が大地を飲み込む大津波のごとく襲い掛かるのとは、図ったようにまったくの同時であった。
 見た瞬間に網膜を腐敗させるようなおどろおどろしい瘴気は触れる地面のみならず風さえも黒く変色させて腐敗させながら、神速の跳躍を見せた雪輝を呆気ないほど簡単に飲み込む。
 女陰陽師は、こう判断したことだろう。
 あの狼は可能な限り妖気を身に纏って瘴気の侵食を抑え込んで瘴気を突破するつもりなのだ、と。浅はかな獣の浅知恵、と嘲りを隠さずに。
 女陰陽師が細く尖らせた唇から左手の指先に息を吹きかけると、瘴気はその濃度を増すべく雪輝を中心に球形状に渦を巻いて、雪輝の身体を完全に飲み込み覆い尽くす。
 妖気による防御を施した所で、ものの数分とかからず毛皮と言わず肉と言わず骨と言わず腐敗させ、生命を奪うに十分すぎる凶悪なまでの瘴気であった。
 死の底から舞い戻ってまで果たさんとした復讐の結実に、女陰陽師の口元にははっきりと分かる笑みが浮かびあがっていた。
 だが、もしこの場に第三者の目があったなら、その女陰陽師の浮かべた笑みが凍る様はさぞや見物であったろう。
 女陰陽師の笑みを凍らせたのは、内側から凍りついてゆく瘴気の姿。
 瘴気塊の中心部に飲まれた雪輝から伝播した冷気が、瞬きをするよりも早く瘴気塊の表面に至るまでを凍結させて、透き通った氷の中に閉じ込めたのだ。
 目の前の理解の及ばぬ現実を前に、愚かにも動きを止める女陰陽師の目の前で、瘴気塊を覆い尽くした氷に一斉に大小様々な罅が走り、黒みがかった紫の気体を中に閉じ込めた数千の氷片へと砕け散るその中心部から、口蓋をめくり上げて真珠色の牙を開いた雪輝が女陰陽師へと襲い掛かる。
 内側から凍らせた瘴気塊から飛び出た直後に、妖気で構成した新たな足場を作り、雪輝は一気に加速する。
 音の速さにも届かんばかりの雪輝の強襲に、女陰陽師は明確な反撃の一手を打つ事を放棄し、回避のみに専念していた。
 がちんと雪輝の牙が噛み合った時、青白い霊子の飛沫を撒き散らしながら空中を待ったのは、女陰陽師の左腕であった。
 空中を舞う女陰陽師の左腕に、つい最近同じ光景を見た様な既視感に襲われて、雪輝は一瞬訝しい思いに見舞われたが、その隙は相手に好機を与えるばかりと即座に第二撃でもって華奢な細首を噛み千切らんとし――

「おのれええ、再びわしの腕を奪うか、銀色よおおおおおおおお!!!!!!」

 女陰陽師の背に浮かびあがる白毛の年老いた猿の醜悪な面と、憎しみだけが込められた声に、目を見張って愚かしくも動きを止めた。

「馬鹿な……。また貴様か、白猿王!?」

 冷たく美しい月の下、確かに雪輝がその首を噛み切ったはずの魔猿の長が、今一度、雪輝の目の前に現れていた。
 そしてそれは、黄泉帰りを果たした怨霊達が、ひなという雪輝が自身よりも優先する存在を知らないという大前提が、崩壊した瞬間でもあった。


<続>
瘴気が凍った理由などは次回で。次かその次で終ります。
ご感想ご指摘ご忠告そのほかもろもろお待ちしております。よろしくお願い致します。

10/15 誤字を修正しました。まだ有るようでしたらぜひお教えくださいませ。

遅れてしまいましたが前回の文のご感想のお返事を。

>>いかれ帽子屋様

 ちょこちょこ残念なところを見せるのが鬼無子という女性の個性です。本人は至ってまじめですが、精神のネジのの一部の閉め方が常人とはちょっと違うのですね。そして誤字のご指摘ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。




[19828] その十二 ある一つの結末
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/08 12:29
その十二 ある一つの結末


 森羅万象を腐敗させて根幹から瓦解させる忌まわしき瘴気によって、草花の緑も大地の茶も毒々しい黒と紫とに塗れ、風に浸食した腐臭は風そのものを汚し尽くしながら触れるものすべてを糜爛させている。
 自然にはありえざる、物理的にも霊的にも極めて致死性の高い瘴気は、その召喚者の意識が術式から離れてもなお、残留している分だけで加速度的に世界を腐らせていた。
 小川の流れを凍結させた雪輝の体温調節の能力によって氷塊の中に閉じ込められた瘴気塊が、さながら紫水晶を思わせる美しさで周囲に散らばる中、威容を誇る巨躯の狼と左腕を噛み切られた女陰陽師の背に浮かぶ魔猿とが、互いを睨みあい動きを止めていた。
 凝り固まった憎しみを憤怒の鑿で彫刻し、余分な感情を交えない純粋な殺意で磨きあげれば、白銀の狼の前に立つ魔猿の醜く歪んだ容貌と等しい醜悪さとおぞましさを醸す事が出来るだろうか。
 長く伸びた眉や髭、体毛まで余すことなく初雪を思わせる白に染まっていたが、怨嗟の言葉を吐いた口元は黄色く薄汚れた牙の並ぶ歯茎をむき出しにし、深く長く刻まれた皺に覆われている顔は、青白い霊子で構成されてなお負の感情に赤々と染まっている。
 それは、確かに雪輝がその牙で持って腕と首を噛み切り、同胞数十匹を滅殺した猿の妖魔の一派の長である白猿王の容貌に相違ない。
 白猿王の感情に呼応してか、白百合の精が気まぐれに人に化けたのかと思う美貌の女陰陽師の顔にも、白猿王と同等同質の深い憎悪の色が浮かび上がり、鬼女もかくやといわんばかりの凶相に変わっている。
 いまにも全身から憎悪の感情が炎となって激しく噴き出しそうな白猿王と女陰陽師を前に、雪輝は戦闘中でありながら一時困惑に思考を支配されていた。
 ひなを人質に囚われ、鬼無子が殺されたと聞かされてこの世のものと思えぬ喪失感と絶望と後悔に塗れた夜、確かに雪輝は瀕死の体に追い込まれながらも一瞬の隙を縫って白猿王の首を確かな牙応えと共に噛み切ったはずであった。

――怨念に実体を与える妖術を、自分自身に施したのか。いや、ならばなぜ陰陽師に取り憑いている。自身に術を施したわけではない、か?

 過日の夜、冷たく美しい月の下、白猿王は自分自身に仮初の肉体を与える術を施すこと出来ないと明言している。
その言葉が嘘偽りのないものと保証できる者は白猿王当人以外は誰も居はしないが、肉体を得てではなく怨霊となった女陰陽師に憑依している様子から、白猿王の妖術による現象ではないのだろう。
 疑問と推測の応酬が一瞬にも満たぬ時間、雪輝の脳裏で繰り広げられ、もう一度止めを刺すまで、と雪輝が判断を下す寸前に、女陰陽師が残った右腕を大きく振い、雪輝との間の地面から紅蓮に燃え盛る炎を噴出させる。
 腕の一振いと囁き程度の呪文だけで発生させた簡易呪術であろうから、派手さはあっても雪輝の妖気の防御膜の防御能力を考えれば、大仰に躱すほどの威力ではなかったろう。
 しかし精神に虚の一点を穿たれていた雪輝は、咄嗟にその場を跳躍して必要以上の回避行動を見せて、時を無為に浪費してしまう。
 その間にも女陰陽師=白猿王は足の裏に張り付けた跳躍力を高める呪符によって、大地を蹴った反発力を驚異的に高め、雪輝との距離を数間ほど開く。
 跳躍の最中、それまであくまで人間らしく振る舞っていた女陰陽師の動作が、途端に猿じみたものへと変わり、憎悪の仮面の下から嘲笑を浮かべた女陰陽師がひどく耳障りな笑い声を立てて、牙を軋らせている雪輝を睨む。
 一度は殺した者と殺された者とが、四季の移ろいの狭間に在る世界で今一度対峙する。
 虚を衝かれて好機を逸した己への憎悪に胸の中を焦がしながら、雪輝は全身から奔出する妖気の質を一段と凶悪なものに変えた。
 ざあ、と音を立てて雪輝の踏みしめる地面が塵と変わる。
 敵意と破壊衝動に任せて放出される雪輝の妖気が、地面の分子の結合を破壊したのだ。
 いまの雪輝は、ただ触れるだけで相手の身体を分子の状態にまで分解する破壊という現象そのものと言って良い。

「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、銀色よぉお、わしに留めを刺し損ねた己を呪っておるようだのぅ! この陰陽師の霊魂が千の針に貫かれたような苦しみに見舞われておるわ」

「生き汚いばかりか死に際もまた無用に足掻いて逸するか。忌まわしき老いた猿よ、死に時を誤れば、より凄惨なる滅びを迎えるものと知れい」

 開かれた雪輝の牙からは無色の怒気が零れだし、瘴気に穢された大気を圧する。
 妖魔の妖気をも侵食するはずの瘴気を一時とはいえ弾く雪輝の妖気は、天地が逆さになろうとも許してはならぬ天敵を前にした怒り、殺意、憎悪と言葉では万言を尽くしても語り尽くせぬ感情が満と籠められ、その凶悪性を際限なく高めていた。

「かっかっかっかっか、わしがこうして貴様の言う所の“死に際を誤って”貴様の目の前に立つは、正しく貴様の不手際よ。わしの首を噛み切っただけで気を失った貴様のなぁああ」

 霊魂のみとなった白猿王は、長い舌を唇から零して自分の顔をべろりと舐めあげる。
 怨霊化して強化された女陰陽師の陰陽術と、白猿王自身の妖気の相乗効果でその戦闘能力が飛躍的に増しているのは間違いない。
 女陰陽師だけでも先ほどまで雪輝を瘴気で追いこんでいた事を考えれば、白猿王の憎悪に焦がされながらも余裕を湛えた態度も、無理からん事ではある。

「貴様の首を落とした時、滅ぼせたのは貴様の肉体までだったというわけか」

 わずかな失望とそれに数百倍する己への嫌悪が込められた雪輝の呟きは、不思議と淡々としたものだった。感情の高ぶりが限度を超した時、返って表面には現れにくいものなのかもしれない。

「左様。あの妖魔混じりの女に腕を落とされ、貴様に首を落とされても、わしの魂までは完全に滅することはなかったのよ。貴様が万全であれば跡形もなく消え去っていただろうが、あの時の貴様は死の淵に半身を落としたも同然であったからな。わしの存在を滅ぼすまでにはひとつ足りなんだわ」

「怨霊達が蘇ったのは貴様の仕業か?」

 注意深く、それこそ筋肉の反射程度の動きでも見逃さぬようにと雪輝は瞬きを忘れて白猿王の動きを注視する。
 雪輝は腹の奥底で煮えくりかえる殺意を、心の臓の脈動と共に全身に行き渡らせ、必殺の時を伺う。

「貴様やあの女剣士がわしに止めを刺し損ねたのが僥倖の一つ。二つ目は、この陰陽師をはじめとした連中の募らせた怨念が、堰を破る寸前にまで高められていた事よ。わしの術でこやつらの顕在化を推し進め、思考を操るのはそう難しい事ではなかったぞ、銀色の。放っておいてもそのうち黄泉の坂を遡ってきおったろうがなあ」

 死せる魔猿達の怨念を増幅させて顕在化させる術を操る白猿王にとって、異種である人間の霊魂であっても、甘言を持って耳と目を塞いで惑わし煽動し、操る事はそう難しい事ではなかったということだろう。
 霊魂のみとなっても妖力が衰えるばかりか、むしろ肉体という殻を失い、妖魔にとって存在の中心核となる霊魂が剥き出しにされた事によって、妖力は増しているように雪輝には感じられた。

「槍と鎧を纏った怨霊は囮だな? 大昔に山に、そして大狼に命奪われた人間達が恨みを募らせて黄泉帰っただけだと私達に思い込ませるための。まんまとその通りに私達は思い込んだわけか」

「そぉいうことだなあぁあ? ふほほほ、ならば、ほれ、どうしてこうしてわしと立ち話などしている暇がある? わしは貴様にとって心臓にも等しい者を知っておる。同じ手であっても打ち方を変えれば二度目でも通じるわな」

 雪輝と鬼無子が怨霊達との戦いに際して前提とした、ひなという雪輝にとって生命線そのものと言って良い少女の存在が知られていない、ということが白猿王の存在によって覆されてしまった。
 白猿王自らが雪輝の足止めを行い、その間に残る二人の怨霊達が樵小屋で待っている鬼無子達を強襲し、ひなの身柄を確保するつもりなのだろう。
 女陰陽師を支配した白猿王単体で雪輝を倒す勝機が十二分にあったとしても、勝利を確実にするためにこの老獪な魔猿はひなを人質に使う手段を採択したに違いない。
 ひなを人質にするという手段は、まさしく以前の戦いで雪輝を窮地に追い込んだ手段であったから、雪輝もその様な事態を危惧して今回は攻勢に回って怨霊を狩りたてる選択肢を選んだ。
 だが白猿王は雪輝の性分から今回の様な手段を取ることも予想して、自分を囮にして雪輝を誘いこんだわけだ。
 もっとも自身の身の安全を考えれば、囮にするのには別の怨霊を使えばよかったし、ほかの怨霊達が完全に白猿王の支配下に在るというのなら、三対一の状況に持ち込んで雪輝と戦う方が効率的であったろう。
 そこをあえて自身を囮にしたのは、やはり一度肉体的に殺されたことで精神の箍がずれたことにより、白猿王が自身の手で雪輝を直接殺害したいという欲求に逆らえなかったのだろう。
 より妖魔としての破壊・殺傷本能に心を突き動かされ、雪輝に返り討ちにされる危険性を犯してまで直接対峙し、雪輝の最大の弱点であるひなの身に危険が及ぶ事を告げて、雪輝の動揺する様をこの目で見たいと目論んだのだ。

「言われるまでもない」

 耳にした端から鼓膜が凍りつかせてゆくような冷たい雪輝の言葉は、白猿王のすぐ傍らで囁かれた。
 離れていた両者の距離を埋める過程を、ごっそりと切り取ったかのような速さで白猿王と憑かれた女陰陽師の首を狙い、雪輝は真珠色の牙が並ぶ口を開いて最短距離を最速の動きで最大の力を込めて踊りかかっていた。

「ひょははははは! 相変わらずあの小娘の事になると頭に血が上る様だのう。だからこそ、あの小娘が狙われる羽目になるのだ、馬鹿が!!」

 残る女陰陽師の右腕が虚空を舞台にして華麗に舞い踊り、白い光の軌跡を残しながら無数の精緻な文字を描きだす。
 それを青い瞳に映しながら、雪輝は自分の方が速いとあくまで冷静に思考し、女陰陽師の右腕とは別の方角から襲い来た白猿王の巨拳に気づき、咄嗟に身体をねじって無理矢理旋回させて、人間大の岩程度なら豆腐も同然に砕く白猿王の拳を躱す。
 白猿王の拳が抉り抜いた風が雪輝の右頬を叩き、鬼無子が短く切った白銀の毛を数本根元から引き千切る。
 めぐるましく変化する視界の中、更に振り上げられる白猿王の右腕と、攻撃型の陰陽術の指印を組み終えた女陰陽師の右腕を見逃さず視認。
 真上から雪輝の頭を打ち砕きにかかる白猿王の右腕を左に首を捩じってかわしながら、左前肢を振るってその右腕を肘から斬り飛ばしにかかる。
 瞬き一つ許されぬ極短時間の攻防の最中、雪輝の左前肢の爪がわずかに白猿王の右腕の肉に食い込んだ時、雪輝の左脇腹を女陰陽師の右腕から放たれた不可視の衝撃が破城鎚の威力で激突する。
 雪輝の肉体表面を高速で流動する分厚い妖気の防御膜と、鋼鉄と同等かそれ以上の硬度を誇る毛皮が織りなす防御を貫通した衝撃が、雪輝の肋骨を軋ませて臓腑を盛大に揺らす。
 左脇腹を叩く破城鎚の威力に抗う事はせずに、雪輝はその衝撃に押されるまま白猿王の懐まで飛び込んだ位置から、大きく弾き飛ばされる。
 白猿王に関しては怨霊達を支配し操る妖術の行使のみだろうという判断は外れ、白猿王自身も短時間ではあるがどうやら霊魂を物質化することが出来る様だ。
 女陰陽師の術の行使までの間に存在するわずかな時間感覚を狙うのが、雪輝が堅実に勝機を伺う手段だったが、白猿王が近接防御を担う以上はますます雪輝の勝機が小さいものになってしまったようだ。
 雪輝が一蹴した土蛇の様な式神を用いて術の行使の隙を補う高位の女陰陽師が相手という事もあり、懐に飛び込むのには罠が待ち構えてはいないかと、繊細な注意を払わなければならなかったが、ますます神経を鋭敏化させて警戒しなければなるまい。
 ある程度想定した事態の中では、最悪を通り越した現状と言えるかもしれない。
 だが怨霊達の出現の理由が白猿王にあると分かった以上は、この場から離脱してひな達の所へ戻るよりも、白猿王を憑依している女陰陽師ごと今度こそ完全に跡形もなく霊魂を消滅させれば、ひなと鬼無子のもとに向かった怨霊も無力化できるだろう。
 殺す、否、滅ぼす。今度こそ完全に、痕跡を何一つ残さず完璧にこの世から抹消してくれる。
 ひなたちの元へ向かったという怨霊達が彼女らに危害を加えるよりも早く、可及的速やかに。
 新たに五指を躍らせて呪印を切り、呪言を囁く女陰陽師と白猿王を前に、予想外の強敵の出現に対する戸惑いは消えて、代わりと言わんばかりに獰猛なまでの殺意を迸らせる雪輝が一歩を踏み出した。



 不貞腐れてというわけではないけれども、あらかた出来る事をし尽くしたひなは、持て余した時間をどう過ごすかを考えて、囲炉裏の前に正座した姿勢で頭を捻っていた。
 村長の所で養われていた頃は休む暇がまるでないほどありとあらゆる雑務を押し付けられていたし、雪輝のもとに身を寄せてからは時間に余裕ができれば雪輝と触れあうなり、外に出て山中を散策すればいくらでも時間を潰す事が出来た。
 鬼無子に毎夜見て貰っている勉強の続きでもしようかと、居間の傍らに大切に保管している文具一式を取りにとことことひなが歩き出した所で、ひなの向かいに座って瞑目していた鬼無子が立ちあがる。

「少し外の空気を吸ってまいる」

「はい、お気をつけて」

 柔和に微笑む鬼無子の姿に、なにかひなは違和感の様なものを覚えた様だったが、それを口にはせずに同じように微笑み返して、樵小屋を出る鬼無子を見送った。

――やれやれ、ひなの勘も随分と鋭くなっているようだ。

 自分としては上手く演技ができたと鬼無子は思っていたのだが、どうにもひなにはある程度見抜かれていた節がある。
 雪輝にしても鬼無子にしても嘘をつくのが大の苦手の上に下手糞という素直な性分の二人であるから、そもそも人を騙す事には徹頭徹尾向いていないので仕方のない一面もある。
 鹿皮の戸をくぐり、鬼無子は周囲に敷設しておいた探知型の結界の反応した方向に視線を巡らした。
 ぴくりぴくり、と首筋の辺りで青い組紐で括った長髪が二本ほど引かれる感触がすると同時に、風に揺れた風鈴の透き通った音色が鬼無子の脳裏に響き渡っていた。
反応は二つ。どうやら怨霊たち三人の内、最低でも二人が同時に手を組んでこちらに向かっているらしい、と判断し、鬼無子は雪輝の選択が裏目に出た事を悟った。

「手を組む知性があったという事か。真っ直ぐこちらに向かっている事を考えると、ひなを連れてこの場を引いた方がよさそうだな」

 刃を交える事もなく背を向けるような行為には少なからず武人としての矜持が拒否を示すが、自身の命や誇りを置いても守ると決めた少女の安否の方こそが優先されると鬼無子は自身を納得させる。
 あの槍使いの怨霊の様な武芸者であったなら、ぜひとも刃をかわしてみたいという本能的な欲求を抑えるのはそれなりに難事であった。
 白猿王の妖術によって支配下に置かれた残る二体の怨霊は、まだ少年と思しい細面の弓使いと、髭も髪も伸び放題で裾の擦り切れた羽織姿の二本差しの武士の組み合わせだ。
 自分達が猿の妖魔に支配されているという自覚もないまま、耳元で聞こえる白猿王の幻聴に促されて、ひなと鬼無子が雪輝の帰還を待つ樵小屋への山道を疾駆していた。
 途中、襲い来る妖魔どもを血祭りに上げる道行きであったために余計な時間を取られはしたが、一度樵小屋を訪れている白猿王の声なき声による案内があったために、彼らが道に迷うような事はなかった。
 幾重にも折り重なることで青空を遮る枝葉を揺らし、襲い掛かってきた猛禽類に酷似した三つ目の鳥の妖魔を、目もくれずに抜刀した武士が真っ二つに切り裂き、二つに分かれた鳥妖の身体から臓物と血液が零れ落ちて大地に醜い赤い花を咲かせる。
 猛獣の頭蓋を一撃で割る鋼鉄の嘴や爪も、振るうよりも早く斬殺されてはその威力の発揮しようもない。
 まさしく電光のごとき高速の抜き打ちである。
 刀身に付着した鳥妖の血を払う動作がないのは、血の粘着力に対して剣速が上回ったからに他ならない。
 振るう刃の速度は音の速さにも勝るものであったろう。
 怨霊達の怨讐の念と纏う死の気配に触発された山の妖魔達が、半ば気を狂わせて襲い掛かってきたのはこれで十度を数えた。
 生前の精神までは取り戻していない怨霊達は度重なる襲撃を受けても愚痴を零すような事も、体力的な疲労に襲われる事もなく、苛立つ様子は見られない。
 予想だにしなかった白猿王の出現と、最善の策という自身の判断の誤りに気付いた雪輝が焦燥に焦がされているのとは正反対の様子だ。
 足を止めることなく無造作に聳える木々の合間を駆け抜けていた怨霊達が、まず弓使いから武士と順に足を止める。
 成人男性の胸まで届く背の高い茂みの中に腰を落として潜み、弓使いの瞳の無い目が前方に広がる広場の中に立つ樵小屋の姿をとらえていた。
 怨霊達が足を止めた場所から樵小屋まではざっと四半里(約一キロメートル)。襲撃を駆けるのに様子を伺うにしても、遠いという他ない距離である。
 肉体の耐久性という枷を失った怨霊達の身体能力が生前に比べて上昇しているのは確かで、その中に視力の向上も含まれているのもまた事実だ。
 だが、それにしても距離を置き過ぎている、この場に白猿王が居ても訝しく思ったことだろう。
 弓使いの怨霊は足を止めたのみに関わらず次の動きを見せた。肩に掛けていた長弓を構え、背の矢筒から一本の青白い矢を引き抜くやおもむろに弓弦に掛ける。
 弓使いの目が糸の様に細まって、結界の反応に気付いて小屋の外に出た鬼無子の姿をとらえる。
 武芸者の中には猛禽類にも匹敵する異常な視力を誇る者も少なくはないが、それにしても視界を遮るものが数え切れぬほど存在するこの状況下で正確に対象をとらえているのは大したものと言えた。
 ただこれは鬼無子にも言えることで、妖魔の血を引く剣士の視力ならば逆にこの怨霊達の姿を見つけてもおかしくはないし、また雪輝ほどではないにしろ嗅覚も鋭敏に出来ているから、怨霊達の身体に付着している返り討ちにした妖魔達の血の匂いをかぎ取り、大まかな方向と位置を把握することも不可能ではないだろう。
 本来の肉体を失い、霊的な存在への感知能力が高められた怨霊側も樵小屋の前に一部の隙もなく佇む柳腰の美女の血に潜むモノを感じ取り、迂闊に近づく事を恐れていた。
 鬼無子が敷設した結界は敵性存在の接近を探知はするものの、正確な位置を把握するほど精密なものではなく、鬼無子は周囲への警戒の針を全方向に向けてはいたが、いまだに迫る怨霊達の位置を知らずにいた。
 魔を屠る職にあった頃、基本的に最前線で刃を振るう役割に徹していた鬼無子は、陰陽術や占星術をあくまでも補助程度に習得していたに過ぎず、高度な結界の敷設や攻撃性の術を行使することはできない。
 それでも雪輝と過ごすうちに雪輝の妖気に刺激されたのか、体内の妖魔の血が活性化している影響もあって、五感と第六感の働きは自分でも怖くなるほど鋭敏なものになっている。
 百人に矢で射かけられても一本も当たる事もなく躱す事もすべてを切り落とす事も、造作もなく出来そうだ。
 しばらく周囲の気配の変化に過剰なほどの警戒心を抱いて観察を続けていた鬼無子であったが、怨霊達が、逃走が困難になるほど接近してくるよりも早く、ひなを連れてここから離れるべきだ、と判断して体の向きを樵小屋に戻したことで知らぬうちに怨霊達に背を向けた。
 無論、それを見逃す怨霊ではなかった。引き絞られる弓弦の立てる音にも繊細な注意を払っていた弓使いの細めていた目が、鬼無子が背を向けるのを認識した瞬間大きく開かれて、口元は手にする獲物と同じ形に変わる。
 しかし、四半里ほども距離が離れ、両者の間には無数の遮蔽物が存在するこの状況で当てる自信があるという事なのか。
 少なくとも弓矢もまた怨霊達同様に霊子によって構成されており、その殺傷能力は鬼無子の人間としての肉体にも、宿っている妖魔の血肉にも効果的な痛撃を浴びせる事が出来る。
 弓使いの狙いは一点。背後を向いた鬼無子の心臓であった。
 もし弓使いの放つ矢が狙い通りに鬼無子の心臓を貫けば、妖魔の血によって尋常ならざる耐久力と再生能力を持つ鬼無子といえども、即死であろう。
 弓使いの傍らに膝を突いていた武士が、静かに腰の刀に手を伸ばして鯉口を切る。
 万に一つ、矢を回避した鬼無子からの反撃と山の妖魔達の不意の襲撃に備え弓使いを守るためであろう。
 武士の気遣いを要らぬものと嘲笑うように、弓使いの笑みは深まり、その次の瞬間にきりきりと悲鳴のような音を立てながら引き絞られた弓弦が解放の時を迎え、拘束から解き放たれた矢に貫かれた風は甲高く短い悲鳴を上げた。



 雪輝と女陰陽師、白猿王とが交戦する一帯は、わずかな時間に大きくその光景を変えていた。
 女陰陽師が天を指す腕を振り下ろせば、どこまでも高く晴れ渡った青空から漆黒の雷が、龍の長駆のごとく降り注いで天地を揺らし、雷の雨の間を縫った雪輝が放つ妖気の弾丸は、瘴気を凍らせた冷気を孕んで飛翔しながら大気を氷結させる。
 もとはひなや鬼無子が過ごしやすくなるようにと考え付いた雪輝の異能であったが、本人の意図せぬ所でこれは強力な攻撃手段であったことを、敵対者である白猿王が雪輝よりも深く理解していた。
 本来物理的現象では侵食と腐敗を阻む術の無い瘴気を凍らせたことからして、雪輝の冷却能力が単純な物理的現象ではなく、概念的にも凍結現象を引き起こす機能も併せ持っていると推察される。
 氷の破片を撒き散らしながら飛翔する極低温の妖気の塊を、女陰陽師が水干の襟から取り出した呪符を撒き散らすや、それぞれの呪符から伸びた蜘蛛の巣の様な光の糸が雪輝の妖弾を全てからめ捕り塵に変える。
 既に凍結された氷と妖気であったから防御する事も出来たが、これが凍結現象そのものを放たれていたら、こうも簡単には行かなかっただろう。
 雪輝自身が凍結能力を戦闘に用いるのが初めてのこととあって、今一つ制御がうまくいっていない様子から、思う様に扱えておらず、攻撃方法は以前どおり爪と牙を主軸に置いているようだ。
 あくまで牽制のつもりで放った妖気が消失するのに目もくれず、女陰陽師の背後を取る雪輝を迎え撃つのは、白猿王である。
 術の行使後の硬直に見舞われている女陰陽師が生む隙を完璧に把握し、そこを狙う雪輝に対しても俊敏に迎撃行動を取っている。
 白猿王の上半身から上だけが、まるで女陰陽師の背中に寄生しているかのような奇妙な状態で物体化し、雪輝へ巨拳を振り下ろす。
 放つ速度も引き戻す速度も恐ろしく早く、心肺機能が悲鳴を上げる事もない白猿王の拳は、休むことを忘れて雪輝をめがけて振るわれる。
 軽妙な四肢の連動が生む体捌きでそれらを躱す雪輝ではあったが、回避行動に神経を集中させられて、効率的な反撃行動に移れず、明らかに歯咬みしている様子がうかがえる。
 同時に振り下ろされた白猿王の巨拳の合間を縫い、雪輝が女陰陽師の背中と白猿王の顔面に肉薄する。
 ようやく見出した攻勢への転機であった。
 慎重であることよりも大胆に挑む事を選んだ雪輝は、思考する暇も惜しいとばかりに踏み込む。
 白猿王ごと女陰陽師の首を噛み切らんと大顎を開く雪輝を、術後の硬直から解き放たれた女陰陽師が行使した術が捉えた。
 風に働きかけ、先端の尖った螺旋運動を高速かつ連続で行わせて対象を穿つ風属の術だ。
 風を媒介とする為に、無色かつ実体が存在せず、肉眼では捉える事が出来ず、単独の相手に使用するのには有効な攻撃手段といえる。
 この一撃を受けるか否か、雪輝が下した判断は回避行動と同時に攻撃行動を置こうものであった。
 雪輝の左前肢の付け根を真横から貫く位置に生じた風の螺旋槍を、雪輝はその場で縦方向に回転する跳躍で回避する。
 仰け反る様にして頭を後方に思い切り引き上げて回転し、一瞬前まで雪輝の肉体が存在していた空間を風の螺旋槍が虚しく貫き、せめてもの成果に雪輝の体毛を数本微塵に切裂く。
 後方に向けての回転跳躍の最中、雪輝の両前肢から伸びた十の爪が、妖気による切断力の強化を受けて白猿王の胸部を切り裂いた。
 白猿王の分厚い左右の胸板から肩にかけてまで真っ直ぐに十本の直線が深く刻まれて、白猿王に凄まじい激痛を齎す。
 濃密な雪輝の殺意が込められた爪の十撃は、相手が霊魂であろうとも構うことなく傷跡に残留して更に傷跡を広げる。
 やや後方に着地した雪輝が、さらに追撃をと狙った時、こちらを振り向いた女陰陽師の右手が動いていた。
 それを見つめた途端、ぐん、と見えない巨人の真上から押さえつけられたように雪輝の身体に途方もない重量が圧し掛かり、全身の筋肉や骨格、内臓に至るまで満遍なく押し潰さんと大地に押し付けてくる。
 体の外側だけでなく内側も重い。
 雪輝が周囲に視線を巡らせば、白銀の狼のみならずその周囲の地面もすり鉢状に陥没している。
 崩折れそうになる四肢を必死に支え、雪輝は思い切り噛み合わせた牙の間から苦しげな声を零す。

「重さまで操れるとはっ」

 この時点で雪輝には重力や引力といった知識はなかったが、初めて体験するこの自重が増す現象が、単純に炎や稲妻、風を操る能力よりもはるかに厄介なものと体を持って思い知らされる。

「くぁああああ、潰れるがいい、銀色ぉおおお!!!」

 痛みを訴えるよりも雪輝への敵意に変えて白猿王は吼え、掌を下に向けて五指を広げられていた女陰陽師の右手が、勢いよく振り下ろされると同時に、雪輝の全身の外から内から襲う重圧が加速度的に増す。
 破砕音を轟かせて雪輝を中心とした陥没が周囲に広がり、必死に堪える雪輝の四肢が震えに襲われていよいよ崩折れそうになる。
 このままほとんど厚みがないくらい薄く雪輝が押し潰されるのも時間の問題であろう。
 あの小娘を人質に使うまでもなかったかと、白猿王が眼前で押し潰されそうになっている雪輝の醜態を前に笑む。

「ぬうっ!?」

 その足元に起きた異変に白猿王が気づいたのは、自身の感覚というよりも天地の理に敏感であらなければならない陰陽師である怨霊が異変に気付いたからこそであった。
 白猿王の憑依する女陰陽師を中心に半径一間ほどの地面が見る間に赤く灼熱し始め、一つ息を吸い込む間を置いて白猿王と女陰陽師を大地から噴き上げた紅蓮の炎が襲う。
 猿の妖魔らしい俊敏さで女陰陽師の身体が宙を舞い、炎は巨大な柱となって天高く伸び、無数の火の粉を満天の星空のごとく散らす。

「貴様、炎も操るか!!」

 以前、雪輝に殺された時には備えていなかったはずの、二つめの異能を前にして、白猿王は驚愕を隠す事が出来なかった。
 白猿王達を奇襲した炎は確かに雪輝の意思が発生させたものである。
 物体や大気を冷やす事が出来るのなら、逆に加熱する事も出来るのではないかという雪輝の咄嗟の思い付きが功を奏した形であろう。
 厳密にいえば炎を発生させたのではなく地面を通して白猿王らの足元まで雪輝自身の妖気を浸透させ、足元でそれを一気に過熱させたのである。
 雪輝をしても果たして可能かどうか分からなかった行為であるが、その威力のほどは赤熱した地面が液体状になるほどの高熱を帯び、さながら極めて局所的な噴火でも起きた様に変わっていることから推察できる。
 火の粉のみならず融点を越えて加熱させられてから噴き上げられた地面までが降り注ぎ、白猿王は女陰陽師を右に左とせわしなく動かさなければならなかった。
 思わぬ反撃によって女陰陽師の集中が切れて、雪輝を拘束していた重圧殺の術が解けた事もそうだが、白猿王が形成の逆転とまで行かぬが不利を感じる要因が別にあった。
 先ほど雪輝によって与えられた胸から肩にかけての攻撃によって、白猿王の霊魂が著しく消耗された事によって、怨霊達を支配している術の支配力が徐々に弱まりつつあるのだ。
 憎悪の念に指向性を持たせて増幅させたことで白猿王は怨霊達を操っているが、このままさらに衰弱すれば、術の支配も及ばなくなるだろう。
 そうなればいま白猿王が手足のごとく扱っている怨霊達は、その憎悪の矛先を白猿王にも向けるのは明白である。
 これ以上の白猿王自身の消耗は、たとえ雪輝を滅殺することが出来たとしても、その後に災いの種を残しかねない。
 白猿王が悪態を吐いた所で、すり鉢状に陥没した底から雪輝が跳躍してようやく脱出に成功し、穴の縁よりやや外側に跳躍すると、雪輝はそのまま着地した大地を爆発させるほどの勢いで大地を疾駆した。
 距離の離れた白猿王を目指して虚を織り交ぜない実のみの直線的な軌道で迫る。
 疾風も追い越す雪輝の姿を白猿王が認識したのは、雪輝の牙から逃れるにはわずかに遅れ、その遅れは取り返しのつかぬものとなる。
 白猿王が気づいた時には既に雪輝の牙が女陰陽師の頸動脈に深々と突き刺さっていた。
 雪輝の動きこそ直線そのものであったが、舞い散る溶岩や火の粉が白猿王の視界と警戒を遮る遮蔽物となり、反応が遅れたのである。
 ぞぶり、と一息に牙を噛み合わせ、雪輝は女陰陽師の首を噛み千切る。
 胴から離れて放物線を描きながら落下してゆく女陰陽師の顔は、二度目の死に対する恐怖と自分を殺した雪輝に対する憎悪に満ち満ちて、永劫に負の感情に囚われて救われぬだろうことを如実に表していた。
 かすかに雪輝の眉が寄せられる。女陰陽師に対する憐憫がそこに込められていた。
 朝霧が朝陽によって消えて行く様に急速に消失してゆく女陰陽師から、青白く発光する巨大な猿の影が離れてゆく。
 白猿王の魂だ。
 かすかな油断を突かれて女陰陽師を倒されたことと、以前に比べて強大になっている雪輝に対する驚きを顔面に浮かべながら、逃走を図るべく雑木林を目指して逃げ出す。
 雪輝はその姿に侮蔑の気持ちを抱くのと同時に、おそらくは放った怨霊達がいまだにひな達を人質に取れていないだろうことが予測できた。
 白猿王の性分を考えれば遠く離れていようとも術の支配下に在る怨霊達と相互に連絡が取れるようにしてあるのは、容易に想像がつく。
 その賢しい白猿王がこの窮地に至ってもひなの名を使わぬ以上、まだひなと鬼無子は無事に違いない。
 ならば一刻といわず少しでも早く白猿王を完全に滅ぼすと雪輝が決意を新たにするのは当然の流れであった。
 雪輝と白猿王達の戦闘によって周囲の大地はあちこちが陥没や隆起を起こし、木々は根こそぎ吹き飛び、あちらこちらに上下を逆に突き刺さっている。
 その中を青白く輝く魂だけとなった白猿王は一心不乱に逃げ続ける。
 肉体を失い、今度雪輝の牙にかかって魂が滅ぼされれば、白猿王はその存在を完璧にこの世から消滅させられることになる。
 雪輝への復讐の念と共に、完全にこの世から消え去ることへの恐怖が、白猿王の心を支配していた。
 空中を飛翔して逃走に徹する白猿王であったが、林に逃げ込むのとほとんど時を同じくして、その前に立ちふさがる人影があった。
 野放図に伸びた髭と髪、擦り切れた羽織や袴の裾に腰に差した大小の刀。
 彫りの深い顔立ちは生まれおちてから死ぬまで苦行に身を投じたかのように、険しく引き締められている。
 白猿王が支配下に置いたはずの武士の怨霊に相違ない。
 三十代後半から四十代初めごろの、武芸者として全盛期をいくぶんか過ぎた頃の顔には、怨嗟に焦がれる醜さは見受けられない。
 本来であれば下僕のごとく操れるはずの武士を前にして、しかし、白猿王がその猿面に浮かべたのは、雪輝に対するのとそう変りの無い感情である。
 武士の姿を認めてすわ新たな敵の出現に、どういうことだと訝しんでいた雪輝も、武士を前にして足を止めた白猿王の行動に、疑問符を浮かべる。
 武士は、霊魂を晒す白猿王を前にしてゆったりとした動作で腰の鞘から白刃を抜いた。銀色の三日月が天に昇るのを連想させる、静かな動作の中に目に見えぬ迫力を満と湛えた動作であった。
 刀など見たことも触ったこともない素人でも、相対するだけではっきりと分かるほどの達人だ。
 雪輝の感想としては、鬼無子とほぼ同等。
 木刀や竹刀を振るって技を磨いた類のではない。戦場に出続け、肉と骨を切り裂いて刃を磨き、こびり付いた血脂肪を新たな血で洗い流して戦い抜いた、戦場で過ごした時間の方が長い類の兵法者であろう。
 右手一本で抜き放った刀の柄尻に左手を添え、切っ先は右下段に流れ大地を指す。
 武士の殺気が自分ではなく白猿王に向けられている事に気付いた雪輝は、状況の把握に戸惑い、白猿王の後方で足を止める。
 これが自分から逃げるための白猿王の芝居であろうか、という疑問は雪輝の胸の内にはあったが、それにしては武士の放つ殺意はあまりに純粋なものであった。
 雪輝の脳裏に、ひとつの単語が閃く。

――仲間割れ、か?

 正確にいえば白猿王と怨霊達は利用する者とされる者の関係であり、断じて仲間などではなかったが、いずれにせよこの状況は雪輝にとっては好転したとも悪化したとも言い難い。
 事態の推移を静観する事に決めた雪輝の目の前で、白猿王は背後の脅威への警戒を怠らぬまま、武士へ
憎悪の視線を注ぎ続ける。
 雪輝にはわからぬことであったが、目の前の武士はまさに白猿王の危惧した事態が現実となったものであった。
 白猿王の負傷と妖力の消耗によって怨霊達を支配していた術の効果が無効になったのだ。

「おのれ、貴様らは大狼に殺されたのであろうが!? ならばわしではなく後ろの狼をまず何よりも滅ぼせ、奴は大狼の同族ぞ!!」

 余計な事を口にする、と雪輝が大狼と同族扱いされた事に瞬間的に怒りを燃え上がらせるが、白猿王の言葉を受けた武士の反応は雪輝と白猿王の予想を裏切るものであった。

「おれを……殺し……たのは……狼ではない。貴……様だ」

 武士が流暢に言葉を操った事もそうだが、なによりも冷徹な殺意を白猿王に向ける理由が白猿王を硬直させ、雪輝はなるほどと得心する。
 まさに進退極まったというしかない白猿王に選びうる選択肢はなかった。
 前門を塞ぐ武士か。後門を塞ぐ雪輝か。
 どちらに挑み、そして―――滅ぼされるか。
 ただそれだけしか。
 白猿王が虚空を駆け、鋭く尖らせた杭を思わせる牙が並ぶ口を開き、鉤爪のごとく折り曲げた五指を開いて飛びかかる。
 銀月のごとき刃を握る武士へと。
 雪輝の瞳に映ったのは武士の刀が虚空に描いた下弦の月。
 何時の間に振り抜いたのか武士の刀の切っ先が天を指し、いまだ空中にある白猿王の巨体の左腰から右肩にかけて黒い線が走るや、それは青白い霊子を血流代わりに奔出させながら二つに分かれる。
 この山に住まう妖魔の中でも俊敏性や危機回避能力では屈指であろう白猿王に、なんの反応も許さなかった武士の一刀の凄まじさに、流石の雪輝も感嘆の唸り声を零す。

「おれの仇……取らせて……もらったぞ」

 言葉の無い様の割には響きの中には相応しい感情がまるで込められていない。
 ただ事実を淡々と述べているだけだと、人の感情の機微に疎い雪輝にさえわかる。
 肉体を失って霊魂となってまで雪輝を苦しめた魔猿の長は、自らの支配下に置いたはずの怨霊の手によって、呆気なくその存在を完全に消滅させられた。
 以前の様に意識混濁した状態ではないために、雪輝には白猿王が完全に消滅した事が分かる。これで白猿王は魂が冥府に行き、罪を裁かれた後輪廻の輪に加わることもない。
 振り抜いた刀をだらりと下げる武士に、雪輝が話しかけた。
 白猿王に向けていた殺気はぴたりと止まり、まるで石像のごとき静謐な気配を纏っている。いまならその肩に小鳥が止まって疲れた羽を休めてもおかしくはなさそうだ。

「もう一人、死人が居たはずだが貴方が手を下したのか?」

 武士は細めた眼を雪輝に向けてこう答えた。

「斬った。おれは……何人も殺した……が、童と女を手に掛け……た事はない」

「ありがたい」

 鬼無子とひなの無事を、奇妙な形ではあるが知る事が出来て、雪輝の全身から緊張と不安の塊がごっそりと溶け消える。
 雪輝が生命を賭してまで戦う理由の無事が確認できたのだ。雪輝が緊張の糸をほぐしたとしてもそれは当然の反応であったろう。
 安堵の度合いを示す様に、雪輝は大きく安堵の吐息を洩らし、そして背筋を貫いた殺気の針に体が反応した。
 水に沈むようにして身を伏せた雪輝のわずか一寸上を、白銀の軌跡が過ぎ去り、攻撃を受けた事を雪輝が自覚するのと同時に、思い切り頭突きをする要領で目の前に踏み込んでいた武士の胴に頭を叩きこんだ。
 低い声を洩らしながら雪輝の頭突きを受けた武士が後方に飛び、両者の距離を開いた。
 数本の毛が舞う中、雪輝は自分に対して刃を振るった武士に警戒の色を深くする。
 既に白猿王を自身の手で打ち果たし、さらには白猿王の術自体も完全に効力を失ったはずなのに、武士がいまだにはっきりと存在していることに気付く。
 いや、白猿王は言ったではないか。自分が手を下さずともそのうち黄泉帰っただろう、と。
 ならばいま、雪輝の目の前に立っている武士は、完全に己の怨念だけで死の底から復活を果たした真の怨霊に他ならないのではないか。

「どういうつもりだ?」

 念には念を入れて問いかける雪輝に武士は答えた。

「斬りたいのだ。おれは、まだ……剣の道を、極め……ていない。もっと、多くの者を、斬らねば、剣の道の頂きには……たどり着けぬ」

 武士の言葉に、雪輝は諦めの息を吐いて首を左右に振る。同じ侍という人種でも、鬼無子とはまるで大違いだ。

「私の知る剣士はその様な事を口にした事はなかったがな。なんと厄介な男が生ける死人となったことか」

「狼の妖魔、面白い。斬らせて……もらうぞ。おれは……伏刃影流・蒼城典膳(ふせばかげりゅう・そうぎてんぜん)」

「命を求める外道であっても名を名乗る矜持はあるか。心根正しくあればこのような山で朽ちる様な事もなかったろうに。私は雪輝、御覧の通り狼の妖魔だ」

 律儀に応える辺り、この狼の妖魔のお人好しも救い難い。
 雪輝が戦う意思を固めたとさとり、典膳の口元にありがたいと言わんばかりの笑みが浮かびあがる。
 白猿王と女陰陽師との戦いでの消耗が、雪輝の全身に鉛を含んだ様な疲労を残していたが、加減してくれる相手ではなさそうだった。
 はやくひなの顔が見たい。
 雪輝は切実に願った。
 ひなと離れてから半日と経ってはいなかったが、それだけですでに雪輝の心は狂おしいまでにひなの存在を求めていた。
 典膳が動いた。地を踏む音が雪輝の耳に届いた時、既に雪輝は典膳の間合いの内に居た。
 速さと巧さ、この二つが高い水準で両立されていなければ到底不可能な動き。
 それを雪輝は狼の妖魔たれば可能であったろう信じられぬほど敏捷な動きで空を切らせるや、真横一文字を描いた典膳の右腕を根元から落とすべく左前肢を振るう。
 真珠色の雪輝の爪が陽光を燦然と弾き返して、空中に眩い光芒を放つ。
 地面に液体が散る。それは二種存在した。
 浅く切り裂かれた典膳の右肩から零れ落ちた液体状の霊子。
 そして雪輝の抉られた右肩から零れた真紅の血液。
 確かに雪輝は典膳の第一刀を躱す事には成功した。しかし反撃の一手を加えようとしたその瞬間に、いつの間にか刀から離れていた典膳の左手が抜いていた脇差しの一突きが、深く雪輝の肉を貫いていた。
 片手に握る刀の影に伏せたもう一刀で敵を斬る。
 伏刃影流とは、いやはやなんとも恐ろしく正直な名を付けたものだと、雪輝は場違いな感想を抱いていた。
 数打ちの刀では斬りつける端から刃零れを起こす雪輝の毛皮と肉体を、意図も簡単に貫いたのは、まさしく典膳の技量が成せる武技の凄絶さゆえ。
 骨まで達したかもしれぬ一撃に、雪輝はちらと傷口を一瞥したきりだ。
 まったく、死んだかと思った白猿王が出てきただけでも十分なほど驚かされたというのに、さらにこのような半狂人の剣客と一戦交えねばならぬとは。
 自身の毛皮を染める赤の領土が広がるにつれ、雪輝の身体からあっという間に活力が奪われてゆく。
 典膳の一刀の凄まじさが故か、それとも怨念のみをもって構成する存在からの一撃だったためか、雪輝の肉体は再生能力を発揮せずにいた。
 互いの一撃が共に痛打を浴びせてから一拍を置き、一人と一頭は同時に後方に跳躍し、両者の間に三間の距離が開く。

「人を待たせている。次で終わりにさせて貰おう」

「おれも……この傷では全力で刀を振るえるのは、一度きり……だろう。刃に伏せた影の刃に斬られるか。影と見せて実の刃に斬られるか。楽しませろ……妖魔よ」

「人にも色々いるというわけか」

 今まで出会った凛やひな、鬼無子といった人間達と元は同じ生き物だったとは信じられぬ典膳の性情と言葉に、雪輝はそれだけ呟くや身を沈めて全力の跳躍の構えを取る。
 典膳は右に刀を、左に脇差しを構えて、翼を広げる魔鳥のごとく構えた。
 わずか二振りの刃を夢幻自在に操り敵を葬る恐るべき剣客であった。
 両者の間に満ちる緊張に、時が流れる事を忘れた様な沈黙と張りつめた雰囲気が生まれ、雪輝と典膳は予め約条を交わしていた様に不動。
 居合わせた者が呼吸を忘れるどころか心臓の鼓動も止める静止した世界は、太陽が流れてきた白雲によって隠された瞬間、再び時を刻みだした。
 わずかに世界が暗くなった時、雪輝と典膳は共に動いた。
 互いの脇を駆け抜ける動きを見せた一頭と一人が交差した瞬間を、太陽は雲に遮られて目撃する事が叶わなかった。
 お互いを背の方向に置いて、必殺の一撃を叩き込みあった両者は、数瞬の間再び動きを止める。
 雲が風に流されて太陽が再びその顔を覗かせた時、重いモノが大地に倒れ伏す音が響いた。
 それは典膳か、雪輝か。今度こそ太陽はその結末を見届けんとしたに違いない。



 妙だな、と鬼無子は樵小屋の外に出たまま心中で首を捻る思いだった。
 一度は警鐘結界の内側にまで接近していた怨霊達が、突如結界の外側に向かって動き出し、遂には結界から抜け出したのである。
 しかも途中で二つあった反応が一つに減っている。
 結界の存在に気付き、気配を完全に隠蔽したのだろうか。
 もしそうであるのならば、次の瞬間にも突然の奇襲があってもおかしくはない。

「さて、この場を離れるべきか雪輝殿を待つべきか」

 どちらにせよ、雪輝が必ず勝利して帰ってくると信じることには変わらぬか、と鬼無子は小さく笑んだ。
 早く戻ってこないとひながますます臍を曲げてしまい、怨霊達と戦う以上の苦労を雪輝がする事になると考えると、申し訳なくあるがつい微笑ましいものが込み上げてくる。
 鬼無子が外に出たままなかなか戻ってこないのを、ひなは多少訝しくは思ったが、自分になにか言って来ない以上、まだ危険ではないと判断しているのは間違いがないだろう。
 鬼無子に対してあらゆる面で全幅の信頼を置いているひなは、動きを止めた筆を再度動かし始め、昨夜の復習を再開する。
 そこには、これまで教わった文字で、何度も同じ単語が幾枚も幾枚も記されていた。

「雪輝様、喜んでくださるかしら」

 書きとり用の紙に何十回も何百回も繰り返し書かれていたのは、『雪輝』の二文字であった。
ひなはいつか雪輝に見せて驚かそうと密かに考えて、この二文字を鬼無子から教わっていたのだった。
 雪輝の名前を書いて見せて、少しでも雪輝が喜んでくれるのなら、これはひなにとって至上の喜びに等しい。
 ひなは再び雪輝の名前を紙に記しながらぽつりとつぶやいた。

「雪輝様、早く帰ってきて下さらないかな」

 雪輝は、まだ、帰ってこない。

<終>

以上で今回はおしまいです。少しでも皆様に楽しんでいただけたようでしたら幸いです。誤字脱字がありましたらぜひお教えくださいませ。では、長のおつきあいありがとうございました。

ヨシヲさま

そうですよねぇ、またかと言ってしまうのも当然の事。事実私も思いついたときにまたかよ、と自分に突っ込んだものです。














「ただいま」

<真終>



[19828] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/04 12:15
少女の愛した狼 屍山血河編

その一 風は朱に染まっているか

 鋼を思わせる灰色の岩が一面を覆い尽くす大地が朱に染まっていた。
 深い青色の夜空からは滝の様に濃密な星と月の光とが降り注ぎ、真の闇の訪れを阻み、暗闇に沈む世界を白々と照らしていたが、その一帯ばかりは照らし出す事を忌まわしく想っているに違いない。
 血の海という言葉を現実のものにしたならば、まさしくこの光景に違いないと誰もが、咽喉の奥から込み上げてくるものをこらえながら納得することだろう。
 分厚く異様に巨大な岩盤によって地面が覆い尽くされている影響で、周囲には灌木はおろか生命力の強い雑草さえもただの一本も生い茂ってはいなかった。
 広大な大地に沁み込む事もなくその領土を広げる血の海の中に、転々と転がっている物体がいくつも見受けられた。
 それは例えば、割られた腹筋から零れ落ちて長々と伸びる臓物、肘か先を斬り飛ばされた腕をはじめとした四肢の一部、腰から上と下とで分断された人型に近い胴体、頭蓋を割れて脳漿と眼玉をぶちまけている頭部。
 一見すれば人のそれと見間違うほど酷似したそれらは、仔細に観察する事が出来れば絶命の苦悶をむざむざと刻む顔や、千切れ飛んでいる手足を覆いつくすようにびっしりと生えている剛毛に気づき、大地に転がる醜悪極まる死骸が元は無数の猿達であると分かる。
 死骸の数を数える作業が途方もない拷問となるに違いない凄惨酸鼻なそれらの中で、月光の祝福を満身に浴びて全身に光の珠粒を纏う獣の姿が一つある。
 血の海と等しい色合いの毛皮を全身に纏い、片耳の先端が欠けた巨躯の狼である。
 肩までの高さがゆうに六尺に届く、尋常な狼に比べて数倍にも届く巨大さだ。
血の海の上に立つその全身からは、周囲の光景に対する恐れも哀惜の念もなにも感じられない。
 妖魔の哭く声が風に乗り、付近の村落に呪いの歌のごとく届く事から、妖哭山と呼ばれる魔性の者どもの巣窟に住まう妖狼族の雄、飢刃丸である。

 うるぅおおおお――――――んんんん――――――――――

 彼方より届いた同胞の遠吠えに、飢刃丸の耳がぴくりと震えた。
 今宵繰り広げた殺戮劇に伴ってきた同胞たちが、逃げ出した他の魔猿達を尽く殺し尽くした事を伝える遠吠えであった。
 くっ、と赤く濡れそぼった飢刃丸の口が吊りあがる。
 小賢しい猿どもが同族内での勢力争いによって弱体化した隙をついての奇襲は、まず成功と言えるだけの成果を上げたと言えよう。
 飢刃丸はほとんど一方的な虐殺に終わった結果に暗い愉悦を覚えながら、足元に踏みにじる二匹の魔猿の遺骸に目を向けた。
 どちらも通常の魔猿を一回りも二回りも上回る巨躯を持ち、それぞれが赤と青の毛皮を纏う明らかに格の高い魔猿であった。
 他の妖狼達では相手にならず飢刃丸自らが喉笛を噛み切り、脊髄を噛み砕いた魔猿どもである。
 白猿王との抗争に勝利し、魔猿達を率いる地位に就いた二匹の魔猿達であったが、その天下も一月と保たずに飢刃丸の手によって、たった今終焉を迎えた。
 あらん限りに口を開き、舌を伸ばして苦痛を露わにする醜い顔に飢刃丸の牙がずぶりずぶりと突き刺さり、時を置かずして生皮をその下の肉ごと引き剥がす音と、ぶつりぶつりと弾力のある肉を噛み切り咀嚼する音とが続く。
 強い妖気を持つ妖魔を屠った時、その死骸を食らって己の力とするのはこの妖哭山では至極当たり前のことであった。
 白猿王にはわずかに及ばぬとは言え、魔猿達の中でも屈指の力を誇る二匹の血肉と怨恨を色濃く残す妖気を血の一滴、毛の一本、骨の一欠けらも残さぬよう、飢刃丸は口を動かす速度を徐々に速めてゆく。
 鮮血滴る肉が咽喉を通り胃の腑に届く都度、飢刃丸の全身に新たな力と憎悪と怨恨を色濃く孕む妖気が漲る。
 ぐちゃぐちゃと汚らしい水音を口内に響かせながら、飢刃丸は目の前の馳走ではなくこの場にはいない誰かを見ているかのような、ただただ冷たい瞳をしていた。
 その眼に移るはかつて己を敗北の泥濘に叩き落とした白銀の狼であったろうか。



「きゃん」

 と、青年が無理に高い声を出している様な声が一つ、妖哭山の山中に建立された樵小屋の大気を震わせた。
 闇と共に訪れた静寂がその奇妙な声によって破られて、それまで静謐に沈んでいた樵小屋の住人が動く。
 ぬばたまの闇と同じ色の髪を揺らしながら、あら、という声を小さな桜色の貝殻の様な唇から少女が零す。
 肌を斬る様な寒風の吹きすさぶ厳冬の最中、ふと春の訪れを感じた時の様な気持ちにさせる暖かな声であった。
 小さな唇、卵型の綺麗な輪郭を描く顎、黒瑪瑙を思わせる円らで大粒の瞳の配置の妙は、少女が揺籃の時を終えて羽を広げた時の美貌を期待させるものがある。
 老齢の樵が残した樵小屋の新たな住人の一人、ひなである。
 小さく火の粉を爆ぜる焚き火を前に、まだ未成熟な蕾を思わせる可愛らしい顔を、赤々と照らされながら先ほどから竹籠を編む作業に集中していたが、すぐ耳元で聞こえてきた珍奇な声に、つい背後を振りかえったようであった。
 ひなが背後を振りかえるのに合わせてふわりと広がった髪が、窓から差し込む月光と焚き火の赤光を浴びて、無数の煌めきを纏いながら柔らかくひなの背にかかる。
 その髪の幾本かが悪戯心を覚えた様に、ひなの背後に居る存在の鼻先をくすぐっていったために、もう一度、あの奇妙な声がした。

「きゅん」

 その声に一拍子遅れて、ひなが編み作業をする間、左前脚の付け根のあたりに背を預けていた背後の巨大な物体がもぞりと身じろぎをする。
 尋常な狼の数倍にも達する異常な巨躯を長々と横たえて、ひなが小さな指をちょこちょこと動かすさまを、穏やかなまなざしで見守っていた白銀の魔狼――雪輝だ。
 長い時間を共に過ごした連れ添いのように、言葉を交わさずともただ心地よい時が流れる事に穏やかな満足感を覚え、何を言うでもなくひなの邪魔にならぬようにと、身じろぎひとつせずにいたのだが、なにに刺激を受けたのか……

「雪輝様、ひょっとしてくしゃみをされたのですか?」

 はじめて耳にした狼のくしゃみというものに、驚きました、と顔に書いて問うひなに対して、返事というわけではないのだろうが、雪輝はくしゅ、と小さな音を立てて鼻を鳴らす。
 雪輝にしてもくしゃみをした経験は珍しいのか、青い満月をはめ込んだような瞳をぱちぱちとさせながら、不思議そうに両耳をピンと直立させて、鼻先を右の前肢で擦る仕草を繰り返す。
 猫が顔を洗うのに似た仕草だが、こちらは肩高が六尺にも達する巨躯と人語を解する知恵を併せ持った狼の妖魔である。
 まず可愛らしさよりもその巨大さからくる威圧感に、見た者は肝を潰されることだろう。
 しかし、長いとは言えないが非常に濃密な時間を共有し、狼の表情というものも判別できるようになったひなにとっては、きょとんと無垢な顔をして不思議そうに鼻先を擦る雪輝の姿は、まったく別のものに見えているようだった。
 ころころと慎ましく鳴らされた金鈴の様なひなの声に、鼻先を擦るのをやめた雪輝が、大首を傾げながらひなの顔を真正面に見つめて口を開く。
 そっと触れた指先がたちまち血の珠を結ぶほど鋭い牙が生え揃った口は、威容の醸しだす迫力に満ちた狼の容貌に相応しいものであったか、そこから紡ぎだされた言葉には少女に対する深い優しさがあらんかぎり含まれていた。

「なにか可笑しかっただろうか?」

「いいえ、雪輝様があまり可愛らしかったものですから、つい」

 この上なく柔和に笑むひなの眼差しにも、雪輝がひなに向けるのと同じ優しさが込められている。
 一方で可愛いと言われた雪輝はといえば、自分に対して可愛いという形容詞が用いられることが、不思議でならないようでふむん、とひとつ漏らしてひなの手では抱えきれるかどうかという太い首を捻る。

「ふむ。私の様な恐ろしげな姿をした者には似合わぬ褒め言葉ではあるな。褒められて悪い気はしないが、ね」

 ゆらりと雪輝の長い尾がゆっくりと左右に振られて音を立てる。
 ゆらり、ゆらり、ゆらり。
 嘘をつくのが大の苦手なこの狼の、嬉しい時に体が示す反応であった。
 雪輝の心が嘘をつくのが苦手なら、この狼の身体は隠しごとをするのが大の苦手なのだ。

「可愛いというのならひなの方が可愛いという言葉が似合うだろうに」

 雪輝自身が意識したわけではなかったが、この愚鈍な所のある狼にしては珍しい褒め言葉である。

「まあ、雪輝様ったら」

 褒めようとして褒めたというよりは本当にそう思っているから口にした、といった調子の雪輝の言葉であったが、御世辞やおだての言葉ではないと初対面の者にもわかる正直さであったから、言われた方もこれは素直に嬉しい。
 ひなは、血色の良くなった頬にうっすらと朱の色を登らせ、はにかんだ笑みを浮かべながら自分をまっすぐに見つめている狼の青い瞳を見つめ返す。
 青い満月の中に映る自分の姿に、このまま雪輝様の瞳の中に閉じ込められるのもいいかもしれない、とひなは心の片隅で考えた。
 もしそんなことになったら、慌てて雪輝は目玉をほじくり出してでもひなを外に出そうとするだろうから、その様な事にならぬ方がよいのだけれど。

「ありがとうございます。雪輝様にそうおっしゃっていただけると、私はとても嬉しいですよ」

 赤みを帯びた頬に手を添えて嘘偽りなく喜びを告げるひなに、雪輝のゆっくりと揺れていた尾の左右に振られる速度が一段増した。
 ひなも雪輝も両方ともが相手に嘘をつくという事など、一欠けらほども思考の中にない正直者同士であるから、一度相手を褒めだすとなかなかこれは収まりを見せない。

「そうか。ではもっと言った方がよいのかな」

 ひなにはいつも笑っていて欲しいと常に願っている雪輝であるから、このような言葉が出てくるのは当然というべきだろう。

「それはご勘弁下さいませ。私が嬉しくて息もできなくなってしまいそうですから」

「ふうむ、それはいかんな。せっかくひなを喜ばせる良い方法が見つかったかと思うたのだがなぁ」

 心底残念そうにつぶやく雪輝の様子に、そこまで自分を思ってくれる事への感謝の念を抱きながら、ひなは手で口元を隠しながら品よく笑った。
 僻村の村娘という生まれと育ちにしては、決して目立ち過ぎて鼻につくような事のない、小さな花の可憐さを思わせる品の良さが滲む笑みである。
 加えて笑みを向けられたものがどんなに暗い沈鬱な心に陥っていても、一筋の光明が射したように救われた気持ちになる笑みだ。
 その品良い笑みも心安らぐ笑い声もまた雪輝の耳にはこの上なく心地よく、尻尾と同様に耳が嬉しそうにぴくぴくと震えている。
 なんにつけひなが笑顔を浮かべていればこの狼は満足であるし、ひなの方も雪輝が嬉しそうにしていれば胸中で喜びを噛み締める性格をしているから、互いの幸せが循環しやすく共有しやすい幸福な関係にある一人と一頭といえよう。
 さて、樵小屋の中の一人と一頭が何物も入る余地のない空間を構築している中、その空気を察して中へと一歩足を踏み入れる事を躊躇する影が一つ、鹿皮の戸のすぐ傍に居た。
 繊細なまでの神経で一本一本丁寧過ぎるほどに植え付けられたように整った眉を、むむぅと寄せて悩む色を秀麗な美貌に浮かべているのは、もう一人の同居人である四方木鬼無子に相違ない。
 日課にしている素振りを終えて、さて汗を流して寝の床に就こうと思い立ったわけだが、常人よりもはるかに鋭敏な鬼無子の耳は、樵小屋の中で交わされるひなと雪輝の会話を一語一句洩らさず聞き届けていた。

「まったく、こちらが困ってしまうほど二人の仲睦まじきこと。雪輝殿が人間であったら、評判のおしどり夫婦という言葉でも足りぬな。やれやれ」

 苦笑するほかない、と言わんばかりに鬼無子はそれでも我が事の様に嬉しそうに苦笑を浮かべる。
 その苦笑の中には雪輝とひなに対する嫌味や苛立ちといったものが、ほんのわずかほども含まれてはいない。
 この女剣士も樵小屋の中の一人と一頭に負けず劣らずお人好しな性格をしているようだ。
 星の明かり一つあれば夜行性の獣も道に迷う様な夜闇であっても、昼間とそう変わらない視界を保てる鬼無子は、いまいつもの筒袖と袴姿ではなく凛とのやり取りで譲ってもらった簡素な柿色の野袴姿であった。
 口紅を刷かずとも大輪の椿の様に艶やかな紅色の唇に、染みも傷もなく白磁器の方が黒ずんで見える雪色の肌、絵師が忠実に紙の上に再現できたなら男どもがこぞって買い求めるだろう美貌は、着衣が粗野なものでも色褪る事はない。
 ほつれたおくれ毛が汗に濡れて張り付きかすかに桜の色に上気したうなじが、匂い立つような色香を醸している。
 手の届く距離まで近づけば鬼無子の身体から匂い立つ濃密な無色の色香に酔いしれて、その場に昏倒してしまいそうなほど。
 鬼無子の姿を迷いこんだ猟師が見かけていたら、妖艶極まりない美しさを前にして、これは人間であるはずがないと、半ば夢現を彷徨う恍惚とした心で矢を射かけたであろう。
 人間の精を吸って生きる淫魔もかくやの妖美な雰囲気を纏う鬼無子であったが、全く似合わぬものがその小脇に抱えられていた。
 赤樫から削り出したとびきり頑丈な木刀である。
 よく見ればその柄尻に丸で囲んだ凛の一文字が彫ってある。これはもうまず間違いなく、鬼無子らと親交の深い山の民の少女凛の用意した木刀だ。
 鬼無子が凛に特別に用意してもらったこの鉄芯入りの赤樫の木刀の重量は、一本あたり十貫(約三十七・五キログラム)ある。
 鬼無子はこの真剣よりもはるかに重いこの木刀を振りまわす事を、朝夕の日課のひとつとしていた。
 この木刀を両手に一本ずつ握って二千本ずつ振り回せば、一般的な武芸者の数倍以上の肉体的耐久力や持久力を備える鬼無子も、流石に疲労を覚えて汗くらいは流すようであった。
 それでも刀を振るう時に邪魔にしかならない豊かすぎるほど豊かな乳房の起伏は穏やかなもので、汗を浮かべる事はあっても息を乱すほどの運動ではないということだろう。
 この様子ならこれから更に一万本くらいは振り回す体力的な余裕はありそうだ。
 左の小脇に木刀二本(合わせて約七十キログラム)を抱えながら、鬼無子は成人男性一人分の重量を抱えているとは思えない身軽な調子で、首に掛けている手拭いで赤林檎色の頬を伝う汗を拭う。
 夏の残暑は夜の暗闇の中にも気配を残しているが、四季の移ろいは緩やかにそして確実に秋へと変わりつつあり、頬を撫でる風にふと秋の冷たさを感じることもしばしばである。
 いまはまだ素振り運動によって生じた熱が体内に残っているが、直に首筋や脇、太ももの付け根に乳房の谷間と、場所を選らばずに浮いている汗や秋の冷気を含んだ夜風が熱を奪い体が冷えてしまうだろう。
 鬼無子の肉体は一般的な人間の肉体の常識とはまるで別物の頑健さを誇ってはいたが、鬼無子自身は人並みに身だしなみという概念を知っているまともな所のある女性である。
 であるからして、全身を濡らす汗をそのままにして体を冷やしたり、汗のにおいに塗れているのは御免こうむりたい、というのが正直な本音だ。

「あの雰囲気の中に足を踏み込むのは正直無粋であるとは思うが、致し方あるまい」

 一瞬気まずそうな顔を拵えてから、鬼無子は姿勢を正してんん、と如何にもわざとらしい咳払いをする。
 無論、中に居る一人と一頭に聞こえるようにという配慮が込められている。
 少し念入りにし過ぎかな、とは自分でも思うものの更に鬼無子は入室の声かけを行う。

「雪輝殿、ひな、入りますぞ。よろしいか?」

 応答はすぐにあった。

「はい、お湯の用意も出来ていますから、どうぞお入りください」

 鬼無子が素振りを終える時間はいつも同じ時間帯であるから、すぐに素振りの後の汗を流せるように、ひなはいつもこの頃になると竈で湯を沸かしておいてある。
 ひなの声の調子からして一人と一頭の世界に割り込んだ事に対する怒りや不愉快さといった感情は、爪の垢ほども込められていないのは確実だった。
 これはいささか鬼無子が気を遣いすぎたというべきだろう。
 ひなと雪輝が互いの事をこの上なく大切に思い合っているのは確かだが、この一人と一頭は鬼無子の事もとても大切な存在として想っているのだから。

「では」

 と一声返してから鹿皮の戸を捲り、鬼無子は樵小屋の中に入る。
 つい先ほどまで囲炉裏を前に座るひなの背中を温める位置にいた雪輝が、ちょうど土間の方に降りて鬼無子と入れ替わりに樵小屋の外に出ようとしていたところだった。
 これまでひなと鬼無子が湯浴みで汗を流す時や寝間着から着替えるために、自ずから輝くように眩しい裸身を晒していた時、雪輝は樵小屋の中に留まってその様を好きと勝手に観察していた。
 雪輝に見られる側であるひなと鬼無子はというと、雪輝の外見が狼であることから生まれたままの姿を見られてもさして気には留めていなかったのだが、ここ数日でその意識に若干の変化がみられていた。
 具体的にいえば凛を含めた三人で滝壺で水浴びをした際に、雪輝が悪気はなかったにせよ迂闊にも三人の乳房を見比べて、『大中小』などと比較した発言をして以来、女人の裸身を無遠慮に見る事は礼を失する行為なのではあるまいか、と雪輝が思い当たったためである。
 この狼にも高いとは言い難くはあるものの、一応は学習能力というものがあり、ひなはまったく気にしていないのだが、ひなと鬼無子が着替える時などは必ず席を外す様にしている。
 鬼無子は自分よりも八寸近く上にある雪輝の顔を見上げた。

「少々風が冷とうございます。すぐに済ませますので、申し訳ありませぬが堪えてくださいませ」

「冬の雪も夏の日差しも私にはさして変わらぬものだ。好きなだけ湯浴みをしておればよい。ひなも鬼無子と一緒に湯浴みするのを楽しみにしている」

「それでは雪輝様の御言葉に甘えさせていただきますかな」

 鬼無子としては正直なところ、過日の大中小発言以来、妙に雪輝の視線というものが羞恥の念を呼び起こすものとして感じられており、雪輝が席を外してくれるのはありがたくあった。
 雪輝殿とは言え狼を相手に何を、とは自分でも思うのだがこればかりは如何ともしがたいのである。
 鬼無子の頬に差している赤みは、素振りの余熱ばかりでなくわずかな恥じらいの赤も混じっているのだろう。

「ではな。体の芯まで暖めると良い」

と一つ呟いてから、雪輝は長々と伸びる尾をゆらゆらと揺らしながら樵小屋の外へ出た。
 雪輝の退出を確認してから、鬼無子は脇に抱えていた超重量の木刀を土間の床に突き刺す。
 木刀の切っ先はまるで水に沈むように土に突き刺さって潜り込む。砂山ならともかく踏み固められた土間の地面に、こうも簡単に突き刺さるのは少々異常な光景であった。
 鉄芯の重量もあるだろうが、ぐい、と押し込んだ鬼無子の怪力以外の何物でもない膂力のせいもあるだろう。
 それから鬼無子は視線を巡らせて、竈の近くで白い湯気をもくもくと立てている大きめの二つの盥(たらい)で視線を止めた。
 生活に支障のない道具が残っていた上に頑丈で広い作りの樵小屋ではあったが、流石に湯船までは備えておらず、樵小屋の中で水浴びや湯浴みをする時は、このように盥に水なりお湯なりを張る形になる。
 そもそも湯船に湯を張るのには手間も薪代もかかる物で、一般庶民の家屋には無いのが普通であるし、それなりの町や都市であれば公衆浴場が営まれてもいるが、これも蒸し風呂がほとんどだ。
 波々と湯の張られた湯船というものは、それなりに品格のある家に産まれたと思しい鬼無子の生家ならともかく、ひなにとっては未経験の品である。
 とはいえその事で贅沢を言うほど鬼無子は世間を知らぬ女性ではなかったし、盥でも十分に疲れは取れて気持ちもいい。
 ひなの用意した二つの盥の横には、追加のお湯や冷ますための水の入った桶がいくつか柄杓と共に置かれていた。
 既にひなが鬼無子と自分の着替えや体を拭うための布を用意し終えていて、鬼無子と一緒に湯浴みするのを楽しそうにして待っていた。

「お待たせしたかな?」

「ちっとも」

 首を横に振るひなに微笑みかけて、鬼無子は腰帯に手を掛けてゆっくりと解き始めた。



 ひなと鬼無子の二人揃って着物を脱ぎ、竹籠にしまってからそろりと足の指先から盥の中の湯に沈める。
 体格は人並みの鬼無子と小柄なひなの二人が肌を寄せ合って身を沈めればまだ少し余裕がある程度に盥は大きく、盥一つに一人が入れば足は伸ばせぬまでも寛ぎを感じるには十分な広さがある。
 湯は少し熱く感じる位が好みの鬼無子にはほどよい温度であった。
 足を折って前に出し腰を降ろした鬼無子の隣の盥に、足を揃えて横に倒した姿勢でひなも鬼無子にならって湯に腰を降ろす。
 いつも髪を束ねている青い組紐が解かれて広がった鬼無子の栗色の髪の毛先が、湯に触れてゆらと湯面に揺らめく。
 雪輝と共に暮らし始めてから、薬草から抽出した薬液で髪の潤いを保ち、切るのは毛先を整える程度に留めていたひなの黒髪は、小桃のようなお尻に毛先が届くまで伸びており、鬼無子同様に湯に濡れて揺らめいていた。
 ひなの方を向いて、ほぅ、と心地よく鬼無子の唇から零れた吐息が耳の裏をくすぐり、ひなは、きゃ、と小さく声を出した。

「おや、これはすまない」

「いいえ、すこし驚いただけですから」

「そうか」

 お互いにくすりと笑い合い、二人は思い思いに湯に浸した手拭いで体を拭き清め始める。
 湯に入る前に足や手の汚れなどは洗い落としていたが、改めて熱い湯で全身を濡らしてゆくと、同時に体の中の疲労も溶け消えてゆき、鬼無子は心地よさに眼を細める。
 湯にはほんのりと緑の色が着いているが、これはひなが趣味で作っている薬草などを煎じたり、乾燥させてから粉末にするなどして作った粉末状の入浴剤だ。
 貴人の使う香油や入浴剤ほどの効用は流石に見込めないが、疲労がよく取れて血行も良くなり、体がぽかぽかと温まると鬼無子にも好評の品である。
 基本的にひな達が日常使う薬液などは、ひなの独学と凛が好意で教えてくれた山の草花などから作ったものが多いが、鬼無子の方も同様にこの国の草花に詳しく、打ち身や切り傷によく利く軟膏や匂い消しの薬を作る知識があった。
 元々の職業を考えれば、対峙する対象である妖魔の毒を解毒するためや、気配を悟られぬための匂い消しとして学んだものであろう。
 空の桶に入れられていた一組の貝殻を取り、鬼無子はその中にあるねっとりとした桜色の膏薬を手に取った。
 武者修行中も女人としての身だしなみとして、鬼無子が使っては足し、減っては作った髪の色艶や柔らかさを保つための膏薬である。

「ひな」

「はい」

 呼びかける鬼無子の声に素直に従って、ひなは盥の中で体を動かして鬼無子の方に背を向ける。
 鬼無子はすぐ目の前にあるひなの黒髪を一掬いずつ手にとって、丁寧に膏薬を塗り込む作業を繰り返す。
 村での荒んだ暮らしの影響で雪輝と共に暮らし始めた時は、随分と痛んでいたひなの髪であったが、いまでは手櫛で長い髪を梳いても指が引っ掛かる事は減り、枝毛なども激減している。
 膏薬は髪の保湿などが保たれて髪から薫る香りもよくなる品で、せっかく綺麗になった髪なのだから、と鬼無子は黒髪の一本一本に注意しながら膏薬を塗り込んでいった。
 当初二人で湯に入る様になった頃、ひなは武家の生まれである鬼無子だから、風呂をはじめ身の世話の一切合財を下女がしており、一人で諸国を旅していたとはいえ鬼無子はそういった事に疎いと思っていた。
 そのため湯浴みをする時は自分が鬼無子の世話をしなくては、と考えていたのだが実際はというとその逆になっていた。
 鬼無子は武家の出ではあるものの、その家が妖魔の血を引くという決して表には出れない日蔭者の一族であった事や、幼少の頃から死線を廻る人生を送ってきた影響で、身の回りの雑事や家事全般をすべてこなせるだけの生活力は備えていたのである。
 むろん、古くから家に仕える下男下女の類は四方木家に居たのであるが、鬼無子がまだ宮仕えをしていた頃は、妖魔や朝廷の転覆を狙う人間勢力の暗躍が頻発しており、世話を担う家僕達も戦闘に投入され、身の世話など全て自分でするのが当たり前になっていたのだ。
 そのために、鬼無子は裁縫や掃除、洗濯もそれなりにこなす生活力を身につけるに至っている。ただし、料理に関しては栄養最優先であるために味は今一つという結果に陥っていたが。
 また鬼無子は生来世話を焼くのが好きな性格をしているようで、普段は世話をする側であるひなが珍しく鬼無子にされるがままにしていると、顔を見えなくてもはっきりと分かるくらいに上機嫌な様子だ。
 そのうち鼻歌でも歌い始めるのじゃないかしら? とひなが思うくらいである。

「ふふ、ひなの髪はご母堂譲りなのか、手触りがよいし癖もない。風雅の分からぬそれがしでは、あまり思いつかぬがそうさな珊瑚や鼈甲細工の簪などよく似合いそうだ。それがしが持っていたら喜んで譲りたい所なのだが、生憎と持ち合わせがなくてな」

 申し訳なさそうに鬼無子は言う。
 みだしなみの概念は有しているのだが、基本的に自分を武人・侍であると定義している鬼無子は自分自身を着飾るという発想には乏しく、簪や細工物の櫛、根付けといったものは武者修行には邪魔と判断し、持ち歩いてはいなかった。

「褒めて頂けるだけで私は胸がいっぱいです。私は鬼無子さんの御髪(おぐし)の方がとてもきれいだと思いますけれど」

「そうかな。誰かに容姿を褒められるのはずいぶんと久しぶりのことゆえ、ちとくすぐったい」

 鬼無子の手が髪を優しく扱っているため、ひなは後ろを振り返る事は出来なかったが、鬼無子がはにかむ様に笑んでいるのが手に取るように分かった。
 照れ臭くなったようで、鬼無子は下手糞な咳払いを一つして話題を変えにかかった。
 人を褒めるのには抵抗はないが、自分が褒められることに対しては慣れていないせいもあって抵抗があるらしい。

「おほん、し、しかし綺麗といえば雪輝殿の毛は、それがしの髪などよりもよほど美しく思えるな。本物の銀がくすんで見えるほどに輝いておるよ、あの毛並みは。見た目の美しさのみならず手触りの素晴らしさ。この山に来てよかったと思ったものの一つだ、あれは」

「鬼無子さんは本当に雪輝様のお身体がお好きなのですね」

「うむ、実に素晴らしい感触であるよ、あのもふもふとした毛並みは」

 心の底から賞賛していると分かる鬼無子の言葉に、ひなは自分が褒められたかのように喜んでコロコロと可愛らしく小さな笑みを零す。
 初めて鬼無子が眼を覚まし、勘違いして雪輝と斬り合い寸前まで陥った時に、鬼無子の説得を行ったひなは、当初鬼無子の事を生真面目だけれど妖魔相手でも非が自分に在り、理が向こうにあれば頭を下げられる人、と考えていた。
 ところが更に日数を重ねて過ごすうちに、生真面目は生真面目なのだが柔軟過ぎる位に融通が利き、またどこか間の抜けて可愛らしい所のある人であると分かり、親しみがずっと増していた。
 そのまま暫く他愛のない話を続け、冷めてきた湯に新しい湯を足し、ひなの頭から湯を掛けて洗い流すなどしていると、ふとひなが何か考え込む様子である事に鬼無子は気づいた。

「どうかしたかな?」

「え、あ、そのぅ」

 鬼無子の問いにひなはしどろもどろになって答えた。最近では必要以上の遠慮をするのは良くない、と分かっているひなにしては珍しい反応に、はて、と鬼無子の顔に薄い疑問の色が浮かぶ。
 遠慮しているのは確かであるが、それ以外にもかすかに恥じらいめいた感情の響きが含まれていたのを、鬼無子の人類の規格外の聴力を誇る耳は聞き取っていた。
 だからといって鬼無子は無理にひなから聞き出そうとはしなかった。
 既に自分達は遠慮する必要のない間柄であると鬼無子は考えていたが、親しい中にもある程度の配慮といったものは関係性の維持には必要となる。
 それにひな一人で解決できない様な問題であったら、聡明なこの少女の事であるから、自分か雪輝に相談してくれるだろうという信頼の念もある。
 ひなは顔を俯かせたり上げたりを数度繰り返してから、意を決した様子で小さく頷いてから、鬼無子の方を振り返る。

「あの、雪輝様は大きい方がお好きだと思いますか」

「?」

 なにが大きい方が、と鬼無子は疑問符を頭の上に浮かべたが

――よもや食べ物としてか?

 という結論に行き着き、鬼無子は意外にひなが剣呑な事を考えていたのかと、一瞬顔を険しく引き締めた。
 初めてひなと雪輝が出会った時、雪輝が大狼の滅びを伝えた際にひなが自分を雪輝に食べてもらいたいと告げた事があると聞き及んでいた鬼無子は、何をきっかけにしてかひながまたそんな事を考えていたのかと、悲しみを覚えながら諌めようと口を開く。

「そのような……」

「あの、おっぱいが」

「………………こと、を…………おっぱい?」

「はい」

 真摯なひなの瞳が見つめているのが、自分の胸元で確かな質感を伴って揺れている乳房である事に気付き、しばし鬼無子は途中まで開いた口を閉じる事を忘れた。
 刀を振るう時に邪魔にしかならず、胸部への攻撃を受けた時に脂肪の壁となるくらいにしか役に立たない、と鬼無子は自分の乳房を過小評価している。

「胸か」

 ようやく鬼無子の口から出てきたのはそんな一言であった。

「はい。凛さんや私はほとんど平らですけれど、鬼無子さんのおっぱいは大きくて柔らかいし、とても丸々としていて形もお綺麗だと思います。雪輝様は特に仰られてはいませんけれど、やっぱり体つきは豊かな方が好ましく思われるかもしれないな、と」

 一般的にこの時代のこの国では女性は細くしなやかな体つきよりも、少しふくよかな方が好ましいという美的感覚であるから、ひなの言葉も相手が狼の妖魔でありそもそも人間ではない雪輝が相手という事を除けば、そう間違いではない。
 雪輝がひなの事を可愛いと評したことと世辞や虚言と無縁の雪輝の性格を考慮すれば、おおむね彼の美醜感覚がある程度人間と共通するものがあると推測できる。
 ひなが鬼無子にかような質問をしたのは、雪輝に外見を褒められた事が切っ掛けの一因を担っていたのかもしれない。
 ただひなが自分との比較対象とした鬼無子の場合、乳房や尻が目を見張るほど豊かに発達していながら、同時に手足はほっそりとしなやかに伸び、胸と尻をつなぐ腰も、本当に内臓がいくつも入っているのか疑わしいほど細く引き締まっている。
 それぞれの時代や国境、人種による美醜感覚の違いなどものともしない、正に傾国の美姫に相応しい艶めかしさと美しさを兼ね備えた肢体の主である。
 胸の大きさ一つとっても素晴らしいものを備える鬼無子であるが、それ以外の身体を構成する個々の部分を見ても同性の女人達が、深く強い嫉妬と等量の憧憬を覚える見事さだ。
 傍に居る大人の身体つきをした女性が鬼無子だけという環境もあってか、ひなの中での美人や胸の大きさの基準というものは、世間一般に比べて数段高くなっていた。
 その自身の美貌にまるで自覚の無い鬼無子はと言うと、自分の予想とはまるで別方向だったひなの質問に対して、ようやく思考の回転を取り戻して、形の良いおへそから下を湯に沈めながら腕を組んで黙りこんだ。
 その組んだ腕の間から、突き立てのお餅の様な弾力と柔らかさを併せ持った白い乳房が零れ出る。
 ひなが髪を洗ってもらっている間も、時折ひなの後頭部に触れていた柔らかさと張りを兼ね備え、芸術品といってもよい乳房にひなの視線は釘づけにされていた。
 どう見比べた所でようやく膨らみかけといった程度のひなの胸と、円やかな曲線を描いている鬼無子の胸とでは、本当に同じ生物なのかというくらいに圧倒的な差がある。
 椛の葉を思わせるひなの小さな手だと、片手では持ち上げる事も出来ず両手を揃えて持ち上げても、まだ掌から零れる位に大きいのにわずかも垂れておらず形が崩れてもいない鬼無子の乳房を、ひなは羨ましそうに見るばかり。
 鬼無子はさてなんと答えればよいのか分からず、ううむ、と小さく唸っている。

「まあ、なんだ。雪輝殿はひなの髪の毛の一本から指先一つ一つに至るまで余すことなくまるっと全てを大切に思い、尚且つ好いておられる。胸の大小など雪輝殿からすれば些事に過ぎぬ事であろうから、ひなは気にしなくてもよいとそれがしは思う。
 そもそも雪輝殿は狼であるし、あまり人間である我らの外見の事は気にされぬと思うよ。無論、ひなはとても可愛らしいし、その外見と心のどちらも雪輝殿同様にそれがしにとっても好ましい。今のひなの心と体になんら恥じる所などありはせぬさ。むしろ誇ってよいくらいであろう」

「そこまで言って頂けるとなんだかとても恥ずかしいです」

 どうやら的を外した事を言わずに済んだ様だ、と鬼無子は表には出さずに内心で安堵の息を吐いた。
 鬼無子が普段から思っている事に過ぎなかったが、褒め言葉の連続を受けてひなは温まってうっすらと桜色を帯びていた頬に、更に赤みを指して恥じらいの笑みを浮かべる。
 そういった所作の一つ一つを取ってもまず可愛らしいし、もしひなが市井で普通に暮らし成長していたなら、将来この娘を妻にと求める男どもが後を絶たなかった事だろうと鬼無子は心から思う。
 その鬼無子自身も刀を置いて着飾れば同様であるが。
 さて二人が仲の良い様子でそんな会話をしている頃、主の帰りを待つ忠犬よろしく小屋の外で腰を降ろしていた雪輝はというと、まだかな、と一つ呟いて夜空の女王として君臨する月を見上げていた。
 格段に冷たさを増す秋の夜風は、まだ朱に染まってはいなかった。

<続>

ご感想を下さった皆様、ありがとうございました。何よりの励みとなり、今後一層精進いたします。
ところですこしでも皆様の目を引くようにとタイトルを変えてみましたが、正直いかがでしょうか。あまりしっくりこないような気もしているのですが、ご意見賜りたく、感想や誤字脱字のご指摘などと合わせてご意見お寄せいただけると幸いです。

追記:変更したタイトルですが元に戻しました。



[19828] その二 触
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/09 08:50
その二 触


 彼方の稜線を夜明けの太陽が黄金色に染め始めた時刻から、風を切り裂く鋭い音が絶え間なく続いている。
 始まりの一音から千を越えた今に至るまでわずかな狂いもなく、一定の間隔で続いていたが、その中には時折細い吐息も混じっていた。
 肌の下で脈動する血管が青く透けて見えるほど透き通って美しい白い肌を、うっすらと桜の色に上気させて、美貌の妖剣士、四方木鬼無子は鉄芯仕込みの重さ十貫(約三十七・五キログラム)にもなる木刀を、只管に振り続けていた。
 朝夕の日課となっている素振りである。
最初から鬼無子を観察している者がいたら、最初の一本から今に至るまでわずかな狂いもなく全く同じ軌跡を描いて振り続けられる木刀の軌跡に、驚きの声の一つも挙げただろう。
 大上段に振り上げた十貫もの木刀を全力で振り下ろせば、鬼無子を支える軸となる足の親指にかかる重量は、ゆうに百貫(約三百七十五キログラム)に達する。
 二千本目を振り終えた鬼無子の親指の触れる地面はその親指の形に抉れ、摩擦によってわずかに焦げくさい匂いを立ち昇らせていた。
 いまは裸足で素振りを続けているが、履き物をしていたら摩擦によって生じる熱によって火を起こしていたかもしれない。
 あるいは実際にそういった経験をしたがために裸足であったのか。
 頬や首筋に透明に輝く汗の珠粒を滴らせながら、鬼無子は半刻(一時間)で二千本を振り終えた事を確認し、昨夜そうしたように首に掛けた手拭いで顔や首を中心に汗を拭う。

「うむ。今日も気持ちの良い朝だ」

 まるで包み込むようにして世界を照らしあげる朝陽を満身に浴びて、朗らかに笑む鬼無子の顔には、重い疲労の影はまるでない。
 朝の一番から尋常ならざる体力を誰も見ていない所で発揮しながら、鬼無子は日課をこなした達成感を噛み締めて、背後にそびえる樵小屋の外に置かれている水甕へと足を向けた。
 冷え込み始めた夜の素振り後は中で湯浴びを、爽快な空気の心地よい朝は身と心を引き締めるために、外で水浴びをする、というのがここ最近の鬼無子のお決まりであった。
 周囲に人の気配がない事を念のため確認してから、鬼無子は上衣を諸肌脱ぎにし、苦行を耐え抜いた僧の理性を熱した飴のように蕩かす柔肌と胸をさらけ出す。
 ひなのみならず密かに凛も多大な羨望と嫉妬の眼差しを向けている豊満で妖艶な体は、一刀を手に数多の妖魔や外道に落ちた人間達を相手に戦い抜いた百戦錬磨の剣士の体つきではない。
 だからといって鬼無子が決して鍛錬を欠かしているというわけでもなかった。
 鬼無子はその身に妖魔の血肉を宿す出自であるためか、どれだけ鍛えてもそれが肉体に反映されず、蝶よ花よと育てられた姫君の様にたおやかな細腕のままなのである。
 岩石のごとく堅く六つに割れるはずの腹筋は慎ましく臍の窪んだ柳腰のままであり、筋肉の瘤を集めて人型にした様な筋骨隆々となるほどの鍛錬を重ねても、鬼無子の肉体は変わらず細くしなやかで美しさと艶めかしさを失う事がない。
 その武芸者らしからぬ体つきから、鬼無子は武者修行中訪ねた剣豪や兵法者の一部に、ろくに剣も振るった事のない武家の娘が親への反発かなにかで家を飛び出た、というような解釈をされてまともに相手にされなかった事も何度かあった。
 もっともそういう手合いは、鬼無子の身のこなしから一流以上の武技の持ち主と見抜けなかった二流か半一流という程度ではあったが。
 鬼無子は片膝をついた姿勢で、水瓶から水を移した桶に手拭いを浸し、背筋がひやりとするほど冷たい水を吸った手拭いで上半身を清める。
 柔らかで甘く薫る女脂肪がたっぷりと乗り、艶やかに輝く肌は汗も水も尽く弾いて、十代の若さのみが持ちうる張りと弾力、更には年不相応の妖しいまでの色香を持ち合わせている事を存分に知らしめている。
 うなじから耳の裏まで丁寧に拭い、適度な運動で火照った体の熱を冷えた水気が吸い取って、鬼無子の全身を心地よさとぶるりと震える位の冷気とが包む。
 南方出身という事もあって鬼無子は雪の降り積もる様な寒さに対しては慣れてはいなかったが、生家に居た頃は春夏秋冬の移ろいを問わず、毎日清めの水垢離を行っていたからこのくらいの冷たさは鬼無子にはむしろ馴染みのあるものだった。
 全身から程よく熱が消えて運動をした後のかすかな疲労感と、清めた後の清涼感に鬼無子はうむ、と小さく頷いた。
 後は日に三度の楽しみである朝の食卓に赴いて、空腹を訴え始めている胃の腑を満たすことに専念するのみである。
 既に樵小屋の中ではてきぱきとひなが朝餉の用意を始めている音が、鬼無子の耳に届いていた。
 山中に無数の食材があり、周辺の主である雪輝(自覚はない)の庇護下に在るお陰でいくらでも採り放題という環境であるから、人との交わりが少ない山の中にしては食事は割と豪勢なものだ、と鬼無子はしみじみと感心していた。
 一塩に、三食の度になにかしらの工夫を凝らそうとするひなの絶え間ない努力の賜物だ。

「ひなの分まで食べてしまわぬように自粛せねばな。年長者としての面目が立たぬ」

 人の三倍も五倍も食欲が旺盛な鬼無子は、供される料理が美味である事も相まって、時折危うくひなの分まで食べつくしてしまいそうになった事が、これまでに数度あった。
 幸いにして寸での所で箸を止める事にかろうじて成功していたが、流石に何度も繰り返してはひなに対して申し訳がなく、鬼無子はたかが食事一つを前に妙に気合いを入れていた。
 また、食べ過ぎそうになるたびに、ひなが愛らしい笑みを浮かべて鬼無子さんのお好きなように食べてくださって結構ですよ、というものだから尚更鬼無子は自分が情けなくなって、穴があったら入りたくなるほどの羞恥の念を覚えていた。

――旱魃に見舞われて満足に食べる事の出来ない辛苦を骨身に味わったはずであるのに、その様な事を口にできるとは、なんと出来た娘である事か。それに引き換えそれがしは、欲望の赴くままに食を進めるなど情けないにも程がある――

 とまあ、この様な具合である。正直に言って鬼無子はその様な行いをしてしまった過去の自分を、その都度頬を引っ叩いてやりたいほど悔いていた。
 そして同じ事を繰り返し、同じような事を考え、結局また繰り返す自分に心底からの怒りと罪悪感を覚えてもいた。
 融通が利き柔軟な所もあるが、基本的に芯は真面目にできている分、鬼無子は思いつめるとたいてい好ましくない方向に悩んで、視野が狭くなる傾向にある。
 ひなはまるで気にしていないし、むしろ気持ちのいい食べっぷりを披露する鬼無子の事を好ましく笑って見ているのだから、さほど気にしなくてもよいだろうが、妙な所で融通の利かない鬼無子であった。
 それだけ食事という行為に対して真摯なのだ、といえば聞こえもいいかもしれないが、要するに食いしん坊が食べる量を自制しようとしているだけであり、第三者が感心するような事でないのは事実である。
 鍛えても鍛えてもそれがまるで反映されない肉体を、鬼無子は時に厭わしく思った事も一度や二度ではなかったが、どれだけ食べても下腹一つ出ずまるで太らないという体質だけは天からの授かりものと気に入っていた。
 そのため自分の世話だけしていればよかった武者修行中は、財布の中身と相談する必要こそあったものの、自分の気の向くままに食べて食べて食べまくっていた食生活であったために、いまだに鬼無子は食事量の配分に関して他者への配慮が存在しない武者修行時代の癖が抜けていなかった。

「……今日こそは!」

 鬼無子は、ひなと雪輝が知ったら呆れて苦笑する様な事に対して、覚悟を決めるべく一つ気合を入れた。
 そして

「…………それがしは」

 隣に座っている人間がかろうじて聞き取れるかどうかという小さな呟きを零し、鬼無子は打ちひしがれた様子で空になった茶碗を、どんよりと曇った瞳で見つめていた。
 今日も今日とて決して豪華とは言えない材料を、工夫を凝らして美味しく作り上げたひなの料理を前に、鬼無子は己の中の欲望に対して勝利をおさめる事が出来ず、四杯、五杯、六杯とおかわりを重ねてしまった自分に、鬼無子はしくしくと涙を流している。
 食事前に自分自身に誓った鬼無子の誓いのことなど露とも知らぬひなと雪輝は、にこにこと笑みを浮かべながら食を進めていた鬼無子が、唐突に影を背負ってなにやらぶつくさと言い始めた事に、揃って顔を見合わせて首を捻っていた。
 いつもこの世の幸せを噛み締めるようにして箸を進め、空になった茶碗を差し出す鬼無子が、いきなり瞳から輝きを失わせて聞き取れるかどうかというくらい小さな声で呟き始めたのである。
 これはいくらなんでもおかしいと思うのが当たり前であるだろう。

「鬼無子さん、どうかなさいましたか? なにかお口に合いませんでした?」

 不安げに問うひなの声音に、すぐさま鬼無子は反応して見せた。完全に自分の世界に入りきっていたわけでもないようだ。

「いや! それは断じてない。今日も実に美味であった。火の通し具合、塩加減も繊細なまでに整えられ、文句のつけどころもない。しかし、しかし、それ故に、それ故にそれがしは己を裏切ってしまったのだ! 済まぬ、ひな。許してくれ、それがしはっ」

 ぬおおおお、と唸り声を挙げながら今にも手の中の箸と茶碗を壊しそうな勢いで、拳を悔恨で震わせる鬼無子を前に、雪輝は心底心配そうな調子で隣のひなに問いかけた。

「……ひな、妙な茸か変な草でも材料に使ったのかね?」

 先端がやや丸みを帯びた二等辺三角形の両耳を、少しばかり前方に傾斜させて心配そうな表情を拵える雪輝に対して、ひなは小さな首を左右に振り、目一杯否定してみせた。

「とんでもありません。畑で採れた豆とお芋、赤茄子(トマト)に、干しておいた川魚と山菜を使っただけです。いつもと変わらない材料のはずですよ」

 本日の朝食は豆と芋の赤茄子煮込みと、焼いた川魚と山菜の塩漬け、それに茄子と葱の味噌汁、雑穀混じりの玄米飯である。
 健啖家である鬼無子の事を考慮して、ひなは自分一人分だけを用意していた頃の六倍の量を用意してある。
 鬼無子はそのひなの予想を全く裏切らず、用意した分すべてをぺろりと毎回平らげ、時にはそれでもなお物足りなそうにさえしていたのだが、今回の様に何の前触れもなく突然気落ちするのは初めての事である。

「確かに、私もいつもと変わらぬ材料を使い、同じように調理していたのは見ている。妙な匂いもしていなかったから料理に問題はないとは思うのだが、しかし、この鬼無子の反応は、な」

「そうですねえ、鬼無子さんがお稽古を終えて戻られてから、雪輝様が何か変なことをおっしゃったという事はありませんよね?」

 前例があるとはいえ真っ正直なひなの言葉に、雪輝はしょぼんと肩を落とした。自覚がある分、好いている相手に何気なく言われると相当に応えるらしい。
 最近では何気ない日常の会話の中でひなの雪輝に対する遠慮というものが、随分と薄れはじめていた。
 雪輝が口を滑らせて他者の機嫌を損ねる事が多いというのは正しい認識ではあるが、雪輝の耳には痛い発言で有る以上は、以前の関係性のままであったらひなは決して口にはしなかった台詞である。
 それをこうも簡単に口から出る辺り、そういった歯に衣着せぬやり取りができるほどに雪輝とひなの仲が深まった証左であるといえるだろう。

「……うむ。言ってはいないはずだ。いつもと変わらぬ。精がでるな、おはよう、ぐらいのものだ」

「私の耳にも届いておりましたし、雪輝様が失言なされたという事はなかったと思います。では、だとしたら鬼無子さんは一体どうされたのでしょうか」

「さてな。なにやら随分と悔いている様子だが、鬼無子の中でよほど許し難い失態を演じたのではないか?」

 失態を演じて後悔することに関しては、ここ最近で連続して経験している雪輝であるから、そういった負の感情に対しては洞察が行き届くらしく、今にも床に額を打ちつけはじめそうな鬼無子の心情を、この愚鈍な狼にしては珍しい事に半ば言い当てていた。
 もっともそこから先をまるで推察できない辺りが、人間の心情に対していまだに疎いこの狼の限界であった。
 それに対してひなは、というと朝食後の現状で空になった茶碗を親の仇を睨む様な眼で見ている鬼無子の様子から、なんとなく鬼無子の暗雲となって発生しそうなほど濃密な後悔の理由を大まかにだが察する。

「鬼無子さん、ひょっとして食べ過ぎたと思っていらっしゃるのですか?」

「……」

 無言を通す鬼無子ではあったが暗い地の底から轟く様な唸り声はぴたりと止み、代わりに一度だけ大きく肩を揺らす。やはりこの御人、根っから嘘のつけないようにできている。
 鬼無子の様子からひなの疑問が正解らしいことまでは分かったが、どうして食べ過ぎると鬼無子が気に病むのかまではさっぱり分からない雪輝は、しばらく様子を静観する事にした。

「あのお気に障ったらすみません。鬼無子さんのお体は、その、全然太くなられてはいないと思います。気になされるような事はないと思うのですけれど」

 確かに鬼無子が気にしたのは食べ過ぎた事であったが、その理由が体に余分な肉が着いて太くなったから、というひなの考えは生憎と正鵠を射る事が出来なかった。
 女性は少しふくよかな方が健康的好まれる風潮にあったが、鬼無子の場合は社会の美醜観の変化などものともしない美貌の主であるから、単に太るのが嫌なのだろうとひなは考えたわけだ。
 流石に、食べ過ぎてひなの分まで食べてしまいそうになった事が申し訳ないから、とまで推察できなくても、仕方のない事であるだろう。

「いや、それも違うのだ。それがしは幸いというべきか、猪一頭を骨ごと食べても少しの間腹がわずかに膨れる程度でしかないし、米を一俵食べようが二俵食べようがまあ腹八分目といったところで別段体が肥えて余分な肉が着く事もない」

 いくら愚鈍かつ無知な雪輝も、それだけ食べたらいくらなんでも鬼無子の腹の中に入りきらないだろうと疑問には思うが、鬼無子は至って真面目な顔で口にしている。
 とりあえず食べ過ぎて体の線が太くなり肥える事は、人間の女性にとって好ましくないのだな、と雪輝はしっかりと記憶に刻み込み、これで余計な事を言ってひなや凛の不興を買わずに済むだろうか、と心の片隅で安堵していたりする。
 ひなはというと、鬼無子さんは以前はそんなにお食べになっていたなんて、とこれまで鬼無子が食欲を相当抑え込んでいた事実を知り、密かに戦慄していた。
 ひなは鬼無子の胃袋が許容する食事量を自分の五、六倍程度を見込んでいたが実際には、十倍を軽く超えているだろうことは今の話から推し量れば確実である。
 幸い、鬼無子の胃袋が納められる量と食欲が欲求する量では開きがある様で、常に満腹にしなくても支障はないらしいのが、救いであった。
 しかしそこまで食べられるとなると、太らない体質が羨ましいという段階を越えて、つくづく人間離れしていらっしゃる、とひなは半ば呆れながら感嘆するほかない。
 ひなと雪輝にそれぞれ呆れられているとは気づいていない鬼無子は、正直に自分が打ちひしがれていた理由を、きつく問い詰められたわけでもないのにつらつらと喋りはじめる。
 それだけ後ろめたさを抱えていたと考えるべきか、観念して何もかも白状し始めたと取るべきか。
 いずれにしろ鬼無子にとっては重大ごとであっても、客観的に見ればどうでもよい些事であるだろう。

「とはいえ別に普通の食事量でも十分に満足できるし、ひなの料理の量に不満があると言わけではない。ただ食事をしているのはそれがしだけではない。ひなも一緒に採っている。
 だというのに、どうだ。これまでそれがしはついつい箸を進め過ぎてひなの分まで食べてしまった事が何度もあった。何度もだ。これは果たして年長者として正しいふるまいであったと言えるだろうか? いや言えない。むしろ恥じるべき行いであるだろう。
 それがしは強く心に決めたのだ。今後はこのような事がない様、卑しい己の食欲など制し、きちんと食事量を節制するのだと、つい先ほど。だというのに!」

 ここで鬼無子は箸と茶碗を握ったままの手で、正座している自分の両膝を思い切り叩きつけた。
 傍から見れば癇癪を起した女性の細腕であるから大したことはなさそうに見えるが、実際には猛牛の頭部を頭蓋骨ごと粉砕する化け物染みた腕力を誇る細腕だ。
 拳が叩きつけられたのが鬼無子の膝でなく普通の人間の膝であったら、破城槌でも叩きつけられたように血肉と骨が叩き潰されて、赤黒い挽肉に変わっている。
 これまで冷静に観察していた雪輝が、鬼無子の言葉の接ぎ穂を取った。

「自制しようと心掛けたにも関わらず結局は六杯もお代りを要求してしまい、自分自身の誓いを破ってしまった事を悔いていた、というわけか」

「左様、雪輝殿の申される通りにございます。この四方木鬼無子、今日ほど己の意志薄弱なることを痛感し、未熟なる己を恥じた事はありませぬ!!」

 くぅう、と米粒の様に輝く白い歯を噛み砕かんばかりに噛み締めた歯の奥から、悔しくて情けなくて仕方がない、と主張している。
 ひなと雪輝はまた顔を見合わせて、お互い困ったように首を傾げて目線を交わし合う。

――これはなんと慰めればよいと思う?

――ううん、確かに鬼無子さんがつい食べ過ぎてしまって申し訳なさそうにされた事は、これまで何度かありましたけれど、お好きなだけ食べてくださいといつも言っていたのですが、ずいぶん気にされていたみたいですね。

――あの様子はどうも自分で自分を許していないように見える。これは私やひながなんと言っても無駄かもしれぬ。鬼無子の生真面目な所がよくない形で出たな。

――ほんとうにどういたしましょう。

 いつの間にか雪輝とひなは、言葉を使わずに目線だけで会話を交わせるようになっていたらしく、鬼無子に気付かれぬように瞬きや目線の動かし方で鬼無子をどう慰めるかについて論議を交わしていた。
 とはいえ妙案がであるわけでもなく、ひなは頬に手を当てて少し眉根を寄せて困った表情を作り、雪輝はというと白銀の毛に包まれた両耳を直立させながら、時折左右に動かしている。悩んでいる時の癖らしい。
 ぴらぴらと少し耳を動かしてから、ふたたび雪輝はひなと目線での会話を行う。

――こうなったら雪輝様のお身体で鬼無子さんをお慰めするしかないのではないでしょうか。

――私なぞで役に立つというのなら好きなだけ触ってもらって構わぬが、それで大丈夫だろうか?

――大丈夫です。雪輝様のお身体はただ触っているだけでもとても気持ち良いですし、鬼無子さんも雪輝様のお身体が大好きですから、絶対に喜んでくださいます。

 にっこりと笑むひなに後押しされて、まあ、それならと雪輝はむくりと横たえていた体を起こして、いまだに打ちひしがれて自責の念に駆られている鬼無子の方へ足を向ける。
 しかし、当人達に自覚はないにしろ、ひなと雪輝の目線による会話は解釈の仕様によっては何ともけしからん内容である。
 鬼無子か凛がその内容を知ったら変な方向に勘違いして、赤面くらいはしたかもしれない。
 鬼無子の横に腰を降ろした雪輝は、覗きこむように鼻先を鬼無子の頬に寄せて、幅広く長い桃色の舌を伸ばしてぺろり、と柔らかで絹の様な肌触りの鬼無子の頬を舐めた。
 鬼無子はよほど自責する自分に意識を埋没させていたらしく、雪輝に不意を突かれる形で頬を舐められてから、ようやく雪輝が自分の隣に居る事に気付いたようで、思わず舐められた頬に手を当てながら、目を丸く見開いて隣の雪輝に視線を合わす。

「雪輝殿?」

「鬼無子や、私はあまり言葉を操る事は得意でないから上手く言えぬが、君の言う失態など私がこれまで犯した過ちに比べればどうという事はない。第一、ひなとて気にした様子はまるでないのだぞ。
 あまり鬼無子が自分を責めてはかえってひなや私がいたたまれぬ。無暗に己を叱責するのは止めなさい。いつもの君らしくない」

「し、しかし、雪輝殿。たかが食事一つと思われるかもしれませぬが、自分で誓いながらそれを破ってしまった事は武士であるとか、そういう以前に人としての問題なのでございます。そう容易く己を許すわけには……」

「本当に鬼無子は妙な所で生真面目であるのだな。も少し肩の力を抜いて生きてよいと思うがね」

 雪輝は、鬼無子が舐められることに関しては特に嫌悪を示さなかったのをいいことに、このまま誤魔化し通してしまえとぺろぺろと鬼無子の頬や首筋を舐めたり、鼻先を押し付けてくすぐり始める。

「ゆゆ、雪輝殿、く、くすぐっとうございます」

「あまり気に病むでない。ほら、私の体などでよかったらいくらでも好きなだけ、好きなように触ってよいから、元気を出しなさい」

 慰めようと体を寄せてくる雪輝に対して、愛犬にじゃれつかれて困ったように笑顔を浮かべていた鬼無子であるが、雪輝のその言葉を耳にするやいなやまるで雷に打たれたように体を強張らせて、雪輝の顔を真正面から凝視する。
 視線の先に穴が開くんじゃないかというくらいに力の込められた鬼無子の視線のあまりの迫力に、見つめられている側である雪輝は、思わず息を呑んで鬼無子の反応を待った。
 以前に鬼無子に一閃を浴びせられた時の、剣気だけでこちらを斬り裂くような威圧感とは異なる、別種の異様な鬼無子の迫力である。

「雪輝殿」

 いやに低く抑えられた鬼無子の声音に、雪輝は心の中のどこかで悪寒とはまた異なる嫌な予感が鎌首をもたげるのを感じていた。一応、命の危機は感じないのでさほど気には留めない。
 多少、言葉が過ぎたのかもしれないと、雪輝が後悔した時はすでに手遅れであった。
 箸と茶碗を握りしめていた鬼無子の両手はいつの間にか雪輝の両頬に添えられて、ふんわりと柔らかで繊細な雪輝の毛並みに指を沈みこませている。
 白魚のような、と例えるのも虚しいほどに細く美しい鬼無子の指は、しかし、唐突に万力と変わって雪輝の顔を固定する。
 指を揃えて手刀の形にして突きこめば、人体など水を詰めた革袋の様に貫くであろう、途方もない力の入り様であった。
 鬼無子から何の害意も感じられず、その人となりを信頼している事もあって、雪輝は特に抗うような素振りを見せなかったが、仮に鬼無子が全力で持って雪輝の頭を左右から挟み込めば、卵を握りつぶす様にして雪輝の頭蓋は潰れるかもしれない。

「ほ、本当に、好きなように触ってもよろしいのですか?」

 鬼無子にとって一体どれだけ魅力のある提案であったのか、鬼無子の声はかすかに震えている。
 割と普段から好きなように私の体を触っているだろうに、と雪輝は思ったがそれを口にすれば鬼無子が更に落ち込む事は、なんとか理解できていたので心の中にそっと仕舞い込んだ。
 鬼無子にとっては雪輝の許可を得たうえで自分の好きなように雪輝の体を触りまくれるという事が、非常に重要であるらしい。
 ともかく他者に対して口にすべき事とすべきではない事を判断出来るようになり、思った端から素直に口にしなくなった事を鑑みるに、この狼もきちんと学習は重ねているようだ。

「構わぬ。ただしこれ以上無暗に己を責めるのは止めるように。ひなも私も鬼無子の食べている様子は見ていて気持ちのいいものだと思っている。ひなも鬼無子には思う存分食べて貰いたいと思っているのだ。よいな?」

「わか、わか、分かりもうした。こここれ以上自分を責めてひなや雪輝殿に迷惑を掛けるのは止めまする。ですので、よ、よ、よろしいでしょうか?」

「ふむ。好きにしなさい」

 ごくり、と鬼無子の唾を呑む音がひと際大きく小屋の中に響いた。
 そんなに良いものかね、と自分の毛並みに対して無頓着な雪輝。
 鬼無子さん、ますます雪輝様のお身体が好きになっていらっしゃるのね、と先ほどから固唾をのんで見守っているひな。
 一方で鬼無子は軽く唇を開いて頬を上気させ、傍から見ると少し怖いくらいに気合の入った顔つきに変わっていた。
 元々が美女でなかったら世界中のほとんどの美女が美女でなくなるというほどの美貌の主であるから、傍から見ていて少し引くほどの情熱を込めて睨んでくると、妙な迫力と凄味が生まれる。
 鬼無子は雪輝の頬から両手を一度離してから恐る恐るといった様子で、力の入れ方を間違えれば簡単に壊れてしまう繊細な細工ものを扱うように、微動だにしない雪輝の首筋から、まずはゆっくりと撫で始めた。
 雪輝が言葉通りに大人しくじっとして、鬼無子の指が好きなように動くのに身を任せていると、全身の神経を指に集中させた鬼無子は、手櫛で雪輝の毛並みを何度も何度も往復して梳き始める。

「はうぅ、こ、この、けしからんもふめ」

 と鬼無子はこの世の極楽と言わんばかりに蕩けた表情を浮かべ、口元をだらしないの一歩手前程度に崩れた笑みに形作る。
 なんともはや幸せそうな鬼無子の笑顔に、ちらりとひなの方に視線を向けた雪輝は、ひなと瞳を見つめ合わせた。

――これでなんとかなるか?

――ええ。鬼無子さん、もう先ほどまで落ち込んでいたのが嘘みたいですよ。

――やれやれ、まあ、これくらいなら安い代償か。

 思いもよらぬ所で妙な心労を覚えた雪輝はそっと息を吐いた。
 配慮が足りず知識や常識に乏しい事に自覚のある雪輝は、日々の生活の中で頻繁に鬼無子を頼る事が多く、前からこの様な素振りや傾向はあったものの、いまの鬼無子の変貌ぶりには少なからず驚かされるものがあった。
 雪輝がそう思う間も鬼無子の指は休むことを知らずに雪輝の身体の上を縦横無尽に動き回っており、時折鬼無子のうわあ、とか、うふふ、という童女のようにあどけない笑い声も混じっている。
 まあ、鬼無子が嬉しそうで何よりだ、と雪輝は自分を納得させることにした。なんだかなあ、と失望の様な残念な様な呆れた様な感情を覚えないでもなかったが、それが最近の飼い犬の様な雪輝の姿を見るたびに、凛がまっ平らな胸の内に覚えている感情と同じものとまでは分からない。

「雪輝殿雪輝殿」

 そのままそこらじゅうを飛び跳ねだしそうな鬼無子の弾んだ声に、雪輝はわずかばかり面食らった様子で、まっすぐ自分の目を見つめてくる鬼無子に返事をする。
 ふたたび雪輝の両頬を鬼無子の手が挟み込み、一人と一頭の鼻先がくっついてしまいそうな至近距離にあった。
 またたびの実をたっぷりと与えられた猫のように、目尻をとろりとしたものに変えた鬼無子の姿は、まるで恋に恋い焦がれた乙女の様に初々しい。

「なんだね」

 内心の動揺はおくびも出さず、雪輝は努めて穏やかな声で返事をする。
 愛娘のお願いに応える優しい父親を思わせる声音は、ひなに対しては頻繁に雪輝の口から出る事はあったが、鬼無子相手に出すのはこれが初めての事であった。
 少しは恥じらいを覚えているのか、鬼無子は頬をうっすらと赤林檎の色に染めながら、雪輝の瞳を見つめてくる。
 綺麗な瞳をしているな、と雪輝は場違いな事を考えていた。

「こ、今度は、だだだ、抱きついてもよろしゅうございますか」

 それもいつも鬼無子が私にしている事なのに、と雪輝は思うが、これも口には出さずに首を縦に振った――と思った時には、既に鬼無子が真正面からひしと抱きついてきていた。
 雪輝の眼をもってしてもいつ鬼無子が動いたのかまるで分からない速さである。
 人間、欲望に突き動かされている時は実力以上の者を発揮するという事であろうか。
 鬼無子は両手を雪輝の首筋に絡みつかせて、ひと際毛並みのふんわり具合と厚みが格別な、獅子のたてがみを思わせる雪輝の首筋に思う存分顔を埋めて、その感触を楽しんでいる。
 少し苦しいくらいに力の籠っている鬼無子に、雪輝は何度目かになる溜息をぐっと呑み込み、ある重大な事実を思い出しておそるおそるひなの方を再度見る。
 以前、鬼無子にいまほどではないが好きなように触らせた日、どういうわけでかひなの機嫌がすこぶる悪くなった事がある。
 いまもそうなるのではないかという事実に、雪輝はまたやってしまったかと臍を噛む思いであったが、幸いにしてひなが怒っている様子は見られなかった。
 雪輝を好きなよう触れる事にはしゃぐ鬼無子の姿が珍しく、少し驚いたようではあったが、いまはひょっとしたら自分よりも小さな子供の様な鬼無子が微笑ましいのか、ころころと笑って見守っている。
 ひなは小さな花弁を集めた様な唇を動かした。

――先にお片付けしておきますね。

――ああ。

 ひなは鬼無子が綺麗に平らげた鍋や空になった皿をてきぱきと片づけ始めるが、鬼無子はまるで気付いた様子もない。

「雪輝殿雪輝殿」

 まだまだ弾んでいる鬼無子の声からは、鬼無子が童心に帰っている事がわかる。

「今度はどうした?」

「肉球を触らせていただいてもよろしゅうございますか」

 満天の星空が中に入っている様な鬼無子の輝く瞳に、雪輝は拒絶の選択肢を全力で心の中の地平線の彼方に放り捨てた。元から拒否するつもりはなかったにせよ、この瞳が相手ではお人好しなこの狼が否と言えるはずもない。

「君の好きなようにしなさい」

「ありがたき幸せにございます!!!」

 雪輝が許可を出すや否や、右前肢をもちあげて雪輝の巨躯に見合った大きさの肉球を、鬼無子はぷにぷにと押して、その感触を十分に楽しみ始めている。
 十七歳という年齢から、十を引かねばならぬほど天真爛漫な様子である。鬼無子の違った一面が見れた事は、良かったかな、と肉球をぷにぷにと突かれながら雪輝は思う。

「おお、ぷにぷにしておりまするなぁ、うふふ」

 ひなは、雪輝が少しばかりげんなりし始めているように見えて、鬼無子の事を羨むのと同時に雪輝の事が気の毒に思えてきた。

「雪輝様もそうだけれど、鬼無子さんも可愛らしい御方」

 暖かく見守るひなの笑みは、まるで我が子の健やかなる事を見て微笑む母のようだった。
 少なくともこの時、鬼無子とひなの関係は普段とは逆転したものであったろう。
 鬼無子はまるで飽きる様子はなく、今度は雪輝を仰向けにして思う存分そのお腹の毛にうつ伏せに倒れこみ、全身でその感触を堪能していた。
 まだまだ雪輝は鬼無子に身を預けなければいけないようであった。

<続>

ご愛顧ありがとうございます。前回分と今回分までに頂いたご感想への返事を遅まきながらさせて頂きます。

通りすがりさま

リア獣……まさにドンピシャな言い方だと思います。巨乳美人と将来も今もかわいい幼女に好かれていますしね。

zako-humanさま

題名の禍々しさに反して序盤暫らくはのんびり和やかに進むのが定番となっております。その文、終盤への持って行き方が少々強引なのが悩みどころです。
設定集の内容ですが、多少毒を含み、本編読後の方によりいっそう楽しんでいただけるよう頑張らせていただいております。
かねてからのご贔屓という事でありがとうございます。
なにそれこわいという事ですが、まあ、ナニですね。ナニ。太さは腕の二倍くらいというか太腿くらい?

ヨシヲさま

いつもありがとうございます。禍々しいというタイトルですが、結局元に戻しました。もっと読んでもらえるようになるといいなあと期待したのですが、どうにもしっくり来なかったものでして。
ひなと雪輝ですが今後もこんな感じで甘い生活を送ります。性活にまで本編中で至るかどうかはわかりませんがw
食事量を気に病んでいる残念な侍ですが、一応ニート侍ではないので自主的に勤労意欲に燃える事と存じます。
しかしヨシヲさまは冬のこととか気の集合体であることなど着眼点が素晴らしいですね。そのように指摘していただけると私も嬉しく存じます。

いかれ帽子屋様

鬼無子は相当な体つきをしておりますんで、確かにまだ十歳のひなが同等のスペックを持っていたらむしろ異常でしょうし、仰られるとおりでしょう。
これからもひなと狼にはいちゃいちゃさせてゆきたいと思います。設定集に関して今後もあのような方向性で突っ込みどころ満載にしてゆこうと思います。
登場人物は基本的に雪輝は苦労に苦労を重ねた人生を送っていますので、実年齢と比べると精神年齢が高くなっております。ひょっとしたら雪輝が一番子供かもしれません。

天船さま

赤茄子は、実は前に一度出していたのですが括弧書きしてトマトと書くと流石に突っ込まれてしまいましたね。夏野菜を考えた時にトマトが浮かんできたので、辞書で和名を出してそのまんま出してしまいました。地球とは違う世界という事でひとつ、ご勘弁をば。

popopoさま

読んで頂き誠にありがとうございます。過分なお言葉の数々、少々照れくさいくらいです。今後もそう思って頂けるよう、話の質を落とさずにより向上するように努力致します。

ではでは私のお話を読んでくださる皆様、そして感想まで下さった皆様に改めて感謝を。ありがとうございます。今後ともどうかよろしくお付き合いの程、お願い申し上げます。



[19828] その三 疑惑
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/13 14:33
その三 疑惑

 うふふ、あはは、きゃっきゃっ、とほんの五、六歳ほどの子供が挙げる様な、耳にする者がつられて暖かな笑顔をつい浮かべてしまう闊達な笑い声が、朝陽がようやく馴染み始めた樵小屋の中で飛び跳ねていた。
 声に惹かれてその主を見ようと思った者は笑い声の主の正体を見たとき、おっと驚きの声を一つ零すかもしれない。
 まだ舌足らずな子供に似合う笑い声を挙げているのは、声の調子とはまるで正反対の凛とした雰囲気の中に匂い立つ色香を纏う年若い美女なのである。
 街の中を歩けばすれ違う男ばかりか女もうっすら頬を染めて、その場に足を縫いとめられたように止めてもおかしくないほどの美貌であったが、あどけなく純真無垢という言葉がそのまま変わった様な、見た目の年齢とは釣り合わぬ愛らしい笑顔を浮かべていた。
 これは無論、四方木鬼無子その人である。
 朝も早々に六杯も玄米ご飯をお代わりしてしまい、食事量を自制するという自身の誓いを、一刻もせぬうちに破った己の意思の弱さに、精神をどん底にまで自分で叩き落としていたが、同居している狼の妖魔雪輝の、好きなだけ体を触っていいという励ましの効果により、今や幸せの真っただ中に居ると言わんばかりの輝く笑顔だ。
 雪輝の他に同居しているひなが食事の後片付けを進めている中も、雪輝の誇る眩いまでの輝きを放つ白銀の毛並みをいじる鬼無子の十指は動く事を止めない。
 今は普通の狼の数倍にも達する雪輝が仰向けにごろんと寝転がっており、鬼無子はその腹の上に寝そべる様にして横になり、指先のみならず雪輝の胸のあたりに頬を擦り寄せて、ほぼ全身で雪輝の毛並みの素晴らしい感触を堪能している。
 狼を含めイヌ科の生き物が腹を晒す姿勢はおおむね降伏や服従を示すものなのだが、雪輝は大きさはともかくとして狼の姿をしているわりには、狼としての習性をちぐはぐに持ち合わせており、この姿勢に関しては特に抵抗を覚えないようであった。
 ん~~、と鬼無子が子犬のように甘える様な声を咽喉の奥から出しながら、薄桃色の頬を緩めてすりすりと雪輝の身体に頬を擦り寄せるのを、雪輝は黙って好きなようにさせていた。
 元々これ以上なく落ち込んだ鬼無子の心を慰めるために提案したのであるから、自分の体一つを差し出して、鬼無子が元気になるのならそこに雪輝は不満など覚えるはずもない。
 好きなだけ触っていいというのは、少し言い過ぎたかな、とほんの少しばかり心の片隅で思ってはいたけれど。
 雪輝の腹の内側の毛並みをあらかた堪能し尽くした鬼無子は、次の目標を狙い定めて笑顔を浮かべたまま、んふふ、となんともまあ楽しげに鼻歌を零してもぞもぞと、雪輝の腹の上に跨ったまま体勢を変えた。
 平均的な成人女性をやや下回る程度の鬼無子の体重なら、腹の上に乗られてどう動かれても大して苦ではないらしく、雪輝はこれまた黙ったままである。
 鬼無子の新たな目標は、逞しいがしゃなりと伸びて流麗な線を描き、柳の木のようにしなやかな筋肉を纏う雪輝の四肢や首の付け根だった。
 鬼無子は丹念に丹念に雪輝の毛並みを手櫛で梳き、愛しげに雪輝の身体を指や掌全体を使って揉み解していく。
 生まれた時から一緒に居る愛犬に対する愛撫の様に優しく情の深い所作であった。
 これは雪輝も相応に気持ち良いらしく、長々と板張りの床に伸びた尾が左右にゆらゆらと揺れ、二等辺三角形の耳も不規則にぴくぴくと揺れているし、そろそろと息を吐くのと同時に体から余分な力も抜けて行っている。
 そんな一頭と一人の様子を、茶碗や箸を洗いながらひなは、仲の良い兄妹を見守る優しい母親の顔をして見つめていた。
 本来、この二人と一頭の中で最も年少であるはずの少女がかような表情を浮かべる辺り、この樵小屋に住む者達の親愛に満ち溢れながらも、一種奇妙な関係が伺える。

「こちらの手触りも素晴らしゅうございますなぁ、雪輝殿」

「ん……それは、良かった」

「ふふふ」

 答える雪輝の声も、絶え間なく続く鬼無子の愛撫が効果をあらわしてきたのか焦点がぼやけて、夢見心地のようにどこかうつらうつらとしている。
 雪輝が喜んでいる、と分かった鬼無子は心のどこかに火が点いたのか、より一層熱心に手を動かし始め出す。
 落ち込んだ鬼無子の心を慰めるという雪輝の行為は、いつの間にか鬼無子が雪輝を喜ばせるというものに見事逆転していた。
 にこにこと、ひょっとしたら同居暮らしを始めてから一番の明るい笑みを浮かべる鬼無子は、雪輝の毛並みを好き放題に弄繰り回せる喜びから、今は雪輝を喜ばせる事の出来る喜びに夢中になっていた。
 このまま行けば雪輝の身体で鬼無子の指が触れていない場所がなくなるのに、さして時間はかからないという勢いであったが、雪輝の左の脇腹のある箇所に触れた時、不意に鬼無子の指が止まる。
 水晶の弦が張られた天上世界の琴を爪弾くのが相応しい繊指は、膿を噴く寸前の腫れものに触れるようにして雪輝の左脇腹のある一帯を、ゆるゆると撫でる。
 指先の動きの変化に気付いた雪輝が、仰向けに寝転がったまま首だけを起こしたやや苦しげな姿勢で、鬼無子の顔を覗き込んだ。

「どうかしたかね?」

 少しばかりまだぼやけている雪輝の声に対する鬼無子の返事は、常の凛々しさを取り戻したものだった。

「いえ、雪輝殿のお怪我がすっかり治ったようで、安堵した次第です」

 すでに何度も確認した事ではあるが、それでも言葉通りに安堵した調子の鬼無子の声に、雪輝が納得がいったようで、ああ、と小さく零した。

「ひなにも鬼無子にも心配を掛けたからな。なに、この通り鬼無子に乗られても何ら支障はない。心配は無用な事だよ」

 鬼無子の指が触れていたのは、過日の因縁深き白猿王の邪術によって黄泉帰った怨霊達との最後の戦いに置いて、雪輝が真の怨霊と化した蒼城典膳の一刀を浴びた個所であった。
 雪輝は典膳とのごく短時間の、しかし濃密な死闘に置いて右肩に深く脇差しの刃を突きこまれ、更に最後の一撃を放つ際には左の脇腹を横一文字に斬られたのだ。
 大小二振りの刃を持って虚実入り乱れ、千変万化の太刀筋を繰りだす伏刃影流の達人が全身全霊を込めた一撃は、鉄砲の鉛玉も通さぬ雪輝の毛並みと、鋼鉄の重装甲に等しい妖気の防御膜を薄紙のごとく斬り裂いて、雪輝を瀕死に追い込んだのである。
 刹那の差を持って典膳の首を噛み切り、勝利を収めた雪輝ではあったがほとんど相討ちに近いものだったことは否めない。
 ましてや白猿王の術によって半強制的に黄泉より帰参した他の怨霊達と違い、真実、己の怨嗟と万物斬断を持って剣の道を極めんとする狂気の一念によって、怨霊と化した典膳の振るう刃が、ただの物理的な効果のみに留まるはずもない。
 典膳が雪輝に与えた二つの傷のどちらにも、物質化する寸前といっても過言ではないほどの濃密な殺意が蟠り、雪輝自身の驚異的な再生能力の発露を阻んで、激烈な痛みと出血を強制した。
 右肩と左脇腹からの出血によって、白銀の身体の左右を真っ赤に染めた姿で雪輝はひなと鬼無子の待っていた樵小屋に帰ってきたのだが、見るに堪えない凄惨たる姿の雪輝に、ひなはしばし呆然とした後泣き叫んで雪輝に縋りつき、鬼無子は湧きあがる無数の感情を殺し、何を優先すべきかを第一に考えて雪輝の手当てに奔走した。
 右肩の一刺しも骨にまで達するほどの相当に深い傷であったが、それ以上に左脇腹の傷が雪輝の生命の灯火を危ういものにしていた。
 本来なら斬られた個所からはらわたの大半をぶちまけている深手であったが、雪輝はこれをひなの所へ帰るまでは、という想いを根源とする精神力と自身の妖気で抑え込んでいただけだったのである。
 わずかに気を抜けばすぐさま土砂降りの雨と同じ勢いで残りわずかな血が溢れだし、臓物が尽く流出する様な重傷だった。
 ひなの姿を認めたことで雪輝の気が緩み、抑え込んでいた左脇腹の傷から血と臓物が零れ落ちていたら、今こうして鬼無子を腹の上に乗せる様な事は叶わなかっただろう。
 幸いにしてひなと鬼無子の元へ帰ってくる事が出来、夢にまで見る思いで求めた少女と剣士の姿を認めた雪輝が、尚更こんな事で死ぬわけにはゆかぬと奮起したことで、最悪の事態は避ける事が出来たのである。
 勝者と呼ぶには余りにも痛ましい雪輝の姿からすれば、白猿王一派との戦いの時と同様に、まさに死の淵に半身を突っ込んだ状態での辛勝という他ない。
 以前、死の淵をさまよっていた鬼無子に使った天外の薬の残りをありったけ使いこみ、雪輝は体力の温存と回復を最優先にしてぐったりと横になったまま微動だにせず、その傍に常にひなが控えたままで二日が過ぎた頃、ようやく雪輝の脇腹の傷は癒着をはじめたのである。
 傷口に残留していた典膳の殺意がわずかに薄まり始めた事と、天外の調合した薬の薬効作用によって雪輝の体力が幾分か回復し、また常に傍らに雪輝の精神を鼓舞する存在であるひなが居た事で、ようやく雪輝の再生能力が機能し始めた事の証明であった。
 それから更に三日が経過した現在、雪輝の左脇腹の毛を深く掻き分けても、そこに恐るべき手練を誇った達人の一刀が与えた傷跡は、わずかほどにも残ってはいない。
 また傷が完全に癒えただけに留まらず、一度は布団の材料にする為に短く刈られた雪輝の毛並みも、元通りの長さに戻っており、たっぷりと空気を孕んで更に触り心地の良さを増している。
 怨霊達の復活の黒幕がかの老獪な魔猿であったために、怨霊達がひなの存在を知らないという前提が誤りであったことや、結局は怨霊達との決着を全て雪輝に委ねてしまった事実を改めて思い出し、鬼無子は臍を噛む思いであった。
 肝心な所で役に立てなかった事への申し訳なさが、堤を破った洪水と等しい勢いで鬼無子の胸中に溢れ、黒く苦い感情の領土を広げる。
 指先が触れるか否かという程度に、雪輝の左脇腹の傷があった辺りを撫でる鬼無子の表情が、再び苦行の最中にあるかのようにかすかに歪んだのを見て、雪輝はやれやれと言わんばかりに小さな息を吐いた。

「鬼無子は過ぎた事で悩みすぎる。私はここにこうして無事に居るのだから、悔んだ所で変えられぬ事実にいつまでも囚われるのは感心せぬな」

「いや、これは申し訳ございませぬ。大恩ある雪輝殿のお役に立てなかった事が、どうしてもそれがしの心の中でしこりとなっておりまして、こればかりは有耶無耶にしてよい事ではありませぬ」

「そこがまじめ過ぎると言うに」

 雪輝の言葉に耳を傾けながらも、あくまで自分の考えを曲げずやんわりと受け流す鬼無子に、雪輝は苦笑せずにはおれなかったが、そんな鬼無子の性分はかえって好ましく感じられた。
 とはいえこの話を続ければ再び鬼無子が要らぬ心労を抱え込み、沈鬱とした雰囲気を纏いかねない。
 そうなっては体を張ってまで鬼無子を慰撫しようとした甲斐がないだろう。雪輝は途中でむしろ自分の方が鬼無子に気持ち良くしてもらっていた事実は、この際目を瞑ることにした。
 雪輝は多少強硬手段に訴えるのも已む無しと、この温厚かつ呑気な狼にしては珍しく果断な決断を下す。
 意識のそれていた鬼無子の隙を突く形で、雪輝は仰向けに寝転がっていた巨体をねじり、自分の腹の上に跨っていた鬼無子の身体を、囲炉裏とは反対側へと落とす。
 突然の雪輝の悪意の無い行動に対し、悔恨の味を嫌というほど味わっていた鬼無子の反応は遅れて、この剣士には珍しい、きゃっ、という可愛らしい悲鳴を一つ零して雪輝の身体の上から転げ落ちた。
 意図の読めぬ雪輝の行動に、居間の床に落とされた鬼無子は事態の変移に理解が追い付かず、不世出の職人の手で磨き抜かれた黒瑪瑙のように美しい瞳を茫然と見開く。
 そこへ雪輝の巨体が圧し掛かってきた。もちろん、鬼無子の身体を押しつぶしてしまわないように配慮して、鬼無子の身体に体重を預けるような真似は避けている。
 ごろんと床に寝転がる鬼無子に覆い被さる様にしている雪輝、という構図はほんの一瞬前までの両者の位置関係を反対にしたものだ。
 餓えた狼がうら若い乙女の柔肌に牙を突き立てんとしている、としか見えぬ構図ではあったが、当の鬼無子には困惑こそあれども雪輝に対して食べられるといった恐怖は抱いてはいなかった。
 この剣士の雪輝に対する信頼は、すでに絶対的なものとなっているのだろう。

「雪輝ど……きゃ!?」

 雪輝の行動の真意を問おうとした鬼無子の言葉は、顔を近づけてきた雪輝に首筋から頬までをぺろりと一舐めされた驚きと、くすぐったさによって阻まれた。

「まったく、まだこれでもそんな事を言うか」

 と、雪輝はまるで鬼無子の言い分を聞く気はないらしく、鬼無子の顔と言わず首と言わず耳と言わず、鬼無子の抗議をまるっきり無視して、幅広で長い舌を使ってぺろぺろと舐め回し始める。
 雪輝は野を駆けまわって生きていた獣系統の妖魔にしては珍しい事に、ほとんど匂いというものを持っておらず、また動物は言うに及ばず植物の類も一切口にした事がないために、口臭もまるでない。
 強いて言えば水に近い匂いがするといった所で、同じ狼型の妖魔である狗遠や餓刃丸の嗅覚をもってしても、よほど執念深く捜さぬ限りは雪輝の匂いをかぎ取ることは難しい。
 そんなわけで不快な匂いが一切しない雪輝の舌に鼻先やら輪郭線やらを舐め回されても、鬼無子の心中には狼の姿をした者に全身を汚辱されている、といった様な嫌悪感や不快感は絶無であった。
 肌理細やかな肌に覆われた頬や色香の匂い立つうなじだけに留まらず、着物の合わせ目から鬼無子の豊かすぎるほどに豊かな乳房の合間にまで、遠慮なく侵入してくる雪輝の舌に、鬼無子はくすぐったいやら恥ずかしいやらで、思うように体に力が入らず、ほとんどされるがまま、なすがままの体たらく。

「ゆ、ゆき、雪輝殿、ここここれ以上はお止めくだされ。ひゃん、く、くすぐっとうございま……あぅん!」

 鬼無子自身も知らなかった特に敏感な耳の裏をぺろりとされて、鬼無子は自分でも驚くほど甲高い声を一つ挙げる。
 雪輝自身には性的な意図はまるでないのだが、その分返って鬼無子を舐め回したり鼻先でくすぐったりするのに遠慮がなく、鬼無子が笑い声の中に時折甘く響く嬌声を交え始めるのにそう時間はかからなかった。

「あ、ひゃぁ、うぅ、ふんんん。ゆき、殿、か、堪忍、堪忍してくだされ、そ、それがし、は……これ以上されたらぁ」

 鬼無子の戸惑いにまるで気付けぬ雪輝は、鬼無子の縋る様な懇願が続く間も鬼無子の上半身を中心にくすぐるのを止めようとはせず、器用に柔らかな鬼無子の耳たぶを甘噛みしながら言う。

「もうこれ以上ぐじぐじと悔んだり、落ち込んだりせぬというのなら今すぐにも止めよう」

 鬼無子は雪輝にこってりと咽喉を舐めあげられるのに未知の快感を覚えて、これ以上深いものを知ってしまう事への不安と隠しきれぬ期待、ゆっくりとゆっくりと熱を帯びて体の奥底から疼き始める自分の身体に戸惑っていたが、かろうじて理性が勝利を収めることに成功し、

「わわわ、分かりました。もう落ち込みませぬし、うじうじと悩んだりも致しませぬゆえ、おゆ、おゆる、お許しくだされえ!!」

 声を大にして叫んだのだが、鬼無子の声はもう恥ずかしいやら情けないやら、いくつもの感情が出鱈目に混ざり合って自分でも判別ができず、半泣きになっていた。

「よろしい」

 鬼無子の降伏宣言を受託した雪輝は、最後に少しだけ舌先を出した口で鬼無子の艶やかな朱色の唇を舐め、くちゅっという小さな音と共に鬼無子の身体の上からようやく離れた。

「ひゃん! え、あ、あぅ……ぅうう……」

 苛烈な鍛錬にも乱れる事の無かった息を荒げ、世界を白銀に染める雪色の肌を薄い桜の色に上気させた鬼無子は、神経が剥き出しになったように敏感になっていた唇に触れた暖かで弾力のある感触に、ひと際大きな声を挙げると同時に隠しようのない驚きに目を見張る。

(いいい、いま、せ、せ、せっぷ、接吻された!!! そ、それがしの初めてを、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆき、ゆき、雪輝殿に!?)

 いまにも湯気を噴き出しそうな勢いで体を桜の色に染め、体温を灼熱に変える鬼無子には気づかず、雪輝は洗い物を終えたひなと話し込んでいた。
ひなの方も雪輝と話しだしたから、鬼無子の異常事態には気づいていない。

「もう、雪輝様、鬼無子さんは確かにお元気になりましたけれど、少しやり過ぎですよ。途中でお困りになっていたではないですか」

「そうか? しかしあれくらいしなければまたすぐに落ち込みかねぬぞ。流石にあれだけしておけば鬼無子も懲りて、そう簡単には挫けたりはしなくなるだろう」

「それはまあそうですけれども、もう少し他に何か方法はなかったのでございますか。傍で見ていてはらはらとしてしまいました」

「ふうむ。そうだな、また鬼無子が何か悩みだした時にはも少しやり方を考えることとしよう」

「そんな事がない事に越したことはないのですれけどね」

「であるな」

 うむうむと頷く雪輝とひなの声が聞こえてはいたのだろうが、鬼無子はわなわなと震える指で、自分の唇を触れているばかり。
 初めての接吻を好意的な感情こそ抱いているものの、狼の妖魔に奪われた事がよほど精神的衝撃であったのだろう。
 いまなら三歳の子供とて包丁一つ持たせれば、呆気ないくらい簡単に鬼無子を討ち取る事が出来るに違いない。
 この時だけは雪輝とひなと、鬼無子とではそれぞれが別の世界の住人となっていた。



 一足ごとに地面を抉り風を撒いて、山が崩れたかのような迫力で、自分に迫りくる茶褐色の毛皮の塊を、鬼無子は冷徹な瞳でじっくりと観察していた。
 肩高が七尺(約二百十センチ)にも達する巨大な猪である。咬みあわせた口からは幾本もの牙がぞろりと伸び、黄色に薄汚れたこの牙ならば鉄の鎧もあって無きに等しいだろう。
 華奢な女性としか見えない鬼無子など十人、二十人もまとめて木の葉のように簡単に吹き飛ばす事が出来る様な破壊力を秘めた猪の突撃を前にして、鬼無子の瞳に恐れの色はない。
 自分とそう変わらぬ大きさなの猛獣が明らかな殺意を持って迫りくる迫力と恐怖は筆舌にし難いが、鬼無子の人生においては三桁以上経験した脅威であり、至極慣れたものに過ぎない。
 血走り殺意に塗れる猪の瞳を正面からに睨み据え、鬼無子は猪の鼻先と牙がその柔らかな体に触れる寸前、風に遊ぶ蝶の様に軽やかに横に動きいて刹那の交差の間に猪の首を、自らの左脇に抱え込んだ。
 激突すれば分厚い城塞の門も一撃で粉砕する猪の突撃の威力を、左脇に抱え込むだけで鬼無子の膂力は完全に抑え込み、と同時に大蛇のごとく猪の首を締めあげて、鬼無子は自分の腕の中で猪の首の骨が砕ける音を聞いた。
 頸椎をはじめとしたいくつもの骨の破砕音の残響が鈍く鼓膜の中に残っている中、鬼無子は脇に猪を抱え込んだまま、更にその巨体を持ちあげて烈風の勢いでそのまま背後の地面に叩きつける。

「ふん!!」

 ぐお、と猪の四足が浮いたと見えた次の瞬間には、海老反りの体勢になった鬼無子に抱えられた猪は、地面に激突するのと同時に蜘蛛の巣状の罅を四方に走らせて、大地をめくり上げる。
 首の骨を折られただけでなく、背中を大地に叩きつけられた事によって脊髄を粉砕され、内臓を守る肋骨に至るまでが激突の衝撃によって尽くへし折られて、本来守るはずの内臓に突き刺さり、猪の命を一瞬で残酷に絶つ。
 ぶらりとあらぬ方向に曲がった猪の首を解放した鬼無子は、海老反りの体勢から背筋を伸ばした体勢に戻り、仕留めたばかりの獲物を見下ろした。
 一般的な猪に比べて一回り二回りどころではない体を持った猪であるが、幸いにして妖魔というわけではなくその肉や毛皮に妖気が染みついているわけではないから、すぐに食用にする事が出来るだろう。
 あの雪輝に全身を舐め回されて唇を奪われて(雪輝に自覚はない)、もう嫁にいけない、と鬼無子が心の片隅で思った事態から数刻ほどが経過し、太陽が中天に位置する時刻に変わっている。
 なんとか心を切り替えることに成功した鬼無子は、ただ食べるばかりではいくらなんでも申し訳が立たぬと奮起し、いつもの農作業や食材の採取以外にこうして積極的に鳥獣狩りに精を出していた。
 そこらの熊などまとめて二頭も三頭も相手にして返り討ちにする、妖哭山産まれの大猪ではあったが、妖魔の血を引く百戦錬磨の妖剣士が相手では不運にすぎたという他あるまい。
 血抜きや解体は樵小屋に戻ってから行うので、鬼無子はまだ暖かい猪の身体を肩に担ぎ、近くの大樹の根元に置いておいた鳥を左手に持った。
 虹色の羽をもったナナイロヤマドリが四羽、すでに息絶えて首を縄で括られている。猪と退治する前に鬼無子が投げ刃や、素手で仕留めた成果である。
 雪輝が主な行動範囲としている樵小屋の近辺には、この猪の様な獣は生息どころか足を踏み入れる事すら弄うため、狩りはやや遠出することになった。
 もう少し鹿か兎でも獲ろうかと鬼無子は逡巡したが、あまり欲張るのも、と考え直し、肩をいくらか動かして猪の位置を整える。
 四羽の山鳥はもちろん、特にその肩に担いだ異常なほど巨大な猪などは、成果を挙げるのに要した時間やその巨体を考慮すれば、普通の猟師など羨望や嫉妬を通り越して茫然と呆れるしかない成果であった。
 ふと鬼無子は、咄嗟の襲撃に対応するために空けている右手が、無意識のうちに自分の唇をそっと撫でている事に気付く。
 それと同時に朝方の衝撃的な体験が稲妻のごとく脳裏に閃いて、鮮明にその時の様子と感触に音が蘇り、たちまちのうちに首から上に留まらず耳や指先に至るまでを真っ赤に染めた。
 なんとか頭を切り替えたようでいて、まだまだ人生初接吻の衝撃は鬼無子の精神に大きな楔を打ち込んでいるようだった。
 かつてない羞恥の念が心中で湧き起こり、対処の仕方を知らぬ感情の発露に鬼無子はどうすればよいか分からず、心中のもやもやをすべて吐き出すように叫んでいた。

「ううう…………なあああああーーーーーーー!!」

 辺りに鳴り響く鬼無子の叫び声に周囲の木々や草むらに潜んでいた小虫や鳥、小さな獣たちが驚きに目を見張って、その場から脱兎の勢いで逃げ出す。

「鬼無子さん、どうしました!?」

 鬼無子が猪と対峙している間、近くの木の裏に隠れるよう伝えておいたひなが、慌てた様子で顔を見せる。
 突然、何の前触れもなしに鬼無子が叫んだのであるから、慌てて当然だろう。
 鬼無子の身を案じて心配そうな表情を浮かべるひなの姿を見た鬼無子は、すぐさま我に返って自分の痴態を目撃された事に対する恥じらいを覚えながら、なんとか場を取り繕うとする。

「い、いや何でもない。別に怪我をしたという様な事もないから心配せずともよいさ。それよりも、ほら、大きな猪が獲れた。冬に備えて干し肉にでもしよう。毛皮は敷物かな」

 と鬼無子が肩に担いだ猪の巨体を示すと、ひなはあまりに大きな猪の姿に眼を見張ってから、予想以上に大きな獲物の姿に喜びの声を挙げる。

「うわあ、大きな猪。こんな大きな猪を仕留めるなんて、やっぱり鬼無子さんはすごくお強いんですね」

「はは、まあ、これ位しか取り柄もないし、自分の食い扶持くらいは稼がねばいくらなんでも面目が立たぬから」

 正直者の見本というくらい素直な性根の鬼無子であったが、なんとか鼻氏の矛先をそらす事が出来て、ほっと安堵の息を飲み込む。
 まさか雪輝に“初めて”を奪われた事を思い出して、恥ずかしさのあまりに自分でもわけのわからぬうちに、つい叫んでしまったなどと正直に白状することなど、口が裂けても鬼無子にはできそうになった。
 この女性にもきちんと恥じらいというものは備わっているのである。しかしなによりひなが機嫌を損ねなかった事が、雪輝にとっては幸いであったろう。
 どうやら鬼無子と雪輝との接吻の場面を目撃していないらしいのだが、そもそも雪輝が鬼無子の身体を舐め繰りまわしていた事だけでも、少し前のひななら怒り心頭になっていてもおかしくはない。
 この数日で、ひなの雪輝に対する情愛の深さや信頼に更なる変化があったということだろうか。
 そんな風にもの想いに鬼無子がふけていると、ひなは手に持った笊の中の松茸を見ながら

「雪輝様が冬は風雪がものすごく荒れ狂うとおっしゃっていましたから、秋の内にたくさん蓄えておかないといけませんね」

 と至極真面目に口にする。ひなと鬼無子にとって初めて迎える事になる妖哭山の冬は、長年住んでいる雪輝の言を借りれば、それはもう大変に寒さが厳しく、雪の降らぬ日の方が珍しいという有り様らしい。
 それでも冬を越そうとする野の獣の類は居り、魚も幾種類かが川から獲れるので事前の蓄えをきちんとしていれば、暖房代わりの雪輝もいる事だし冬を迎えても問題はないだろう。

「む、そうだな。それがしの住んでいた所は雪など滅多に振る事はなかったし、あまり慣れておらぬから冬の恐ろしさは今一つ分からぬ故、油断はできん。まあ雪女とか氷の妖魔とは何度か剣を交えた事はあるのだが、その時の経験はさほど役には立つまいなぁ」

 戦闘でのごく短時間での経験と、数か月を過ごさねばならぬ生活とを同列に扱うわけにもゆくまい。
 雪輝の周囲の温度を操作する異能を抜きにしても、あのふんわりぬくぬくとした毛皮にくるまってさえいれば、少なくとも寒さをしのげるのは間違いない。
 朝の出来事を忘れようにも忘れられぬ鬼無子は、暫くは雪輝に触る事さえ羞恥の想いに駆られて出来そうになかったが、本格的に冬を迎える頃にはなんとかなるだろうと楽観的な希望を抱いていた。

「雪輝様が頼りですね」

「そうだな」

 あの狼の事だ。ひなと鬼無子に頼られれば千切れんばかりに尻尾を左右に振って、やる気を出すのはまず間違いあるまい。
 その様子があまりにも容易に想像できたものだから、鬼無子とひなは互いの顔を見つめ合ってから、くすりと小さな笑い声を立てた。
 その時である。
 二人の背後の茂みががさりと音をたてて揺れ、緑の色彩の中から白銀の巨大な塊がひょっこりと顔を覗かせる。
 ひなと鬼無子とは一旦別行動を取っていた雪輝である。
 物音に気付いてこちらを見つめる二人の姿に気づいて、雪輝は頬を緩めた。人間がはたして狼の表情の変化を理解できるのか、と問われればこれは極めて難しい事かもしれなかったが、ひなと暮らし初めから感情表現を豊かなものにしている雪輝に限れば、これは実に分かりやすい。
 鬼無子が仕留めた猪を見て、ほお、と感嘆の声を一つ零して雪輝が足音一つ立てずにひなと鬼無子達に歩み寄る。
 ひなは、雪輝と出会ってからこれまで一度も雪輝が足音を立てた事がなかったな、とふと思った。

「雪輝さ……ま?」

 雪輝のもとへ駆け寄ろうとしたひなの足は、不意に石と変わったかのように止まる。ひなばかりではない、鬼無子の目線も雪輝の足元にまとわりつく物体に向けて注がれており、食い入る様にして見つめている。
 雪輝の足元にはなんとまあ可愛らしい毛皮の塊がまとわりついている。短い四本の足をのたくたと一生懸命に動かし、愛らしいつぶらな瞳で雪輝を見上げて、しきりにその小さな体を雪輝に押し付けている。
 さらにはまるで親に甘えるようにして、くぅん、と鳴いて見せる。
 小さな小さな毛皮の塊は、なんとも愛らしい獣の仔であった。
 鬼無子は言葉を忘れて眼を見開いて雪輝に甘える仔獣を見つめ、ひなはというと何度かぱくぱくと口を開いては閉じてを繰り返してから、なんとかこれだけ言葉にする事に成功する。

「お、お子様がいらしたのですか?」

 愛する夫が自分の知らぬ所で子供を作っていたという事実を突きつけられた妻の様な、ひなの悲痛な言葉であった。

「くぅん」

 と、仔獣がひなに、そうだよ、と言わんばかりにひとつ鳴いて答えた。

<続>

巨乳美少女剣士が狼をもふもふしていたと思ったら全身嘗め回された挙句に唇を奪われたでござるの巻でした。頂いた感想へのお返事は又後ほど。ご指摘ご忠告ご助言ご感想、お待ちしております。



[19828] その四 この子何処の子誰の子うちの子
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/20 00:32
その四 この子何処の子誰の子うちの子

 白銀の狼の足元でちょこちょこと跳ねまわる小さな毛玉の塊と見える生き物の動向に、七尺近い大猪を肩に担いだままの鬼無子とひなの視線は嫌が応にも集中している。
 無理もあるまい。
二人のどちらにとっても命の恩人であり、生活を共にしている大切な家族も同然の存在である雪輝と、目の前の小さな小動物とがはたしてどんな関係があるのかと、疑問を抱かずにはいられないのだ。
 怨霊との戦いに前後して、雪輝の言動を大らかに受け止める事が出来るようになってきたひなにしても、流石に目の前のこればかりは鷹揚に受け止めるのが難しい様で、狼狽の二文字が心を支配しているのが容易に見て取れる。
 流石に締まらないと思ったのか、担いでいた大猪と山鳥を地面に下ろした鬼無子が、衝撃的事実を前にして動けずにいるひなの肩に、年長者の余裕で持ってとても優しい所作で手を置く。
 大輪の椿の花を思わせる艶やかさと、月光に濡れる白百合の清楚な美しさを併せ持った類稀なる鬼無子の美貌には、驚きに襲われているひなの心を気遣う優しさに満ちた笑みと、根拠の伺えない余裕が浮かんでいる。

「ひな、まずは落ち着くのだ。ほら、深呼吸深呼吸」

 見本を見せるようにして、鬼無子が心地よい森林の空気を深く吸っては、ゆっくりと吐いて見せる。

「で、でも鬼無子さん。ゆ、雪輝様、雪輝様が」

 しかしあまり効果はなかったようで、鬼無子を振り返るひなの瞳は困惑と動揺の荒波に乱れ、雪輝の身体の匂いを嗅いだり、逆に体をこすりつけている仔獣を指さす人差し指も大いに震えている。
 別にひなの心配を誘う様な怪我を雪輝が負ったわけではないのだが、その様な危機的事態に匹敵する動揺を、ひなに抱かせるに値する状況であるのは間違いない。
 それは鬼無子にも十分に理解できた。
 雪輝は鬼無子にとってもひな同様に命の恩人である上に、その性格や在り方には好意的な感情を抱いている相手だし、つい数刻前などは鬼無子にとって初めての接吻まで奪われている。
 ひなほどではないにせよ、鬼無子にしてみても雪輝が非常に気を掛ける相手であるのは確かなのだ。

「ふふ、流石に雪輝殿の事ではひなが落ち着いてはいられないのも無理はないか。しかしそれは落ち込み損の慌て損というものだぞ、ひな」

「え?」

 あまりに自信満々に告げる鬼無子に、この女剣士に対する信頼の厚さから、ひなは鬼無子の言葉の続きをじっと待った。
 ふふん、とこの謙虚な所のある女性にしては珍しく、自慢げに小玉の西瓜を思わせる大きさの胸乳(むなぢ)を揺らして、艶やかな赤い唇を開いてこう告げる。

「あの可愛らしい毛玉の生き物は狼ではない。まだ小さいから判り辛いかもしれぬが、落ち着いて見れば判る。あれは…………」

 これまた珍しい事に、真正直と素直の両親から産まれたような性格の鬼無子が言葉の続きを勿体ぶり、ひなはごく、と生唾を呑む音と共に一瞬が千の秋にも感じられる思いで待つ。
 そして、神の啓示を受けた預言者の様に威風堂々と鬼無子は言う。

「あれは、狐だ!!」

 くわっと眼を見開いてこれ以上ないほど力強く告げる鬼無子の言葉に、はっとひなは改めて雪輝にまとわりついている、何とも可愛らしい小さな生き物を仔細に観察する。
 犬ならば何度か見た事はあるが、狼は雪輝以外に見た事のないひなには、あまり自信が持てなかったが、鬼無子への信頼という色眼鏡もあって、仔獣が狼の子供ではない別の生き物に見えてくる。
 あの子は狼の子供なのかな、でも鬼無子さんは狐だと言うし、狐、なのかな? うん、鬼無子さんがあんなはっきり言っているのだから狐に違いない、とまあこのような具合にである。どちらにせよ仔獣が可愛いのは変わらないけれど。

「た、確かに鬼無子さんが仰られる通りに、あの子は狼じゃないですね」

「ふ、であろう?」

 なるほど言われてみれば、雪輝の子供というには毛並みの色が茶褐色で四本の肢先は黒みがかっているし、まだはっきりとは容貌には出ていないが、狼とは異なる別のイヌ科の生き物の片鱗を顔立ちや体つきの端々に伺わせている。
 美少女と美幼女の話題の的となっているとは知らず、ほたほたと短い肢を動かしてあっちへこっちへと歩きまわりながら謎の仔獣は、はるか頭上の雪輝となんだか自分を見ている人間の雌達との間で、視線を忙しなく動かしている。
 特に怯えた様子はなく、この仔獣の思考を言葉にするなら、なんのお話をしているの? といった所だろうか。
 その正体に関して大いに興味を魅かれるが、そのあどけない動きがなんとも可愛らしく、鬼無子とひなは二人揃って目尻を緩めて微笑を浮かべる。
 そうしていると、それまでじっと黙って静観に徹していた雪輝が口を開いた。

「鬼無子こそ落ち着け。この子は狼ではないし狐でもない。狸だ。そうだな?」

雪輝は、自分と比べればあまりに小さなその生き物を見下ろして、今日の天気を告げるようなのんびりとした調子で確認し、それに

「くう!」

 うん、と答える代わりに謎の仔獣こと子狸は元気よく一声あげる。
 あらまあ、なんて可愛い、と鬼無子とひなは同時に思ったが、その前に聞こえてきた雪輝の言葉を脳が理解するのにつれて、徐々に表情筋を硬直させ始める。
 特に顕著だったのは仔獣こと子狸を狐であると断言した鬼無子であった。

「は?」

 鬼無子は、雪輝と子狸とが交わした言葉に、自慢げだった表情を凍らせてひどく間抜けな声を出し、鬼無子の傍らのひなも同じように鳩が豆鉄砲を食らった様な表情を、大輪の花を咲かせる前の蕾を思わせる幼い顔の上に浮かびあげる。
 狼ではないという鬼無子の意見は間違ってはいなかったのだが、狐であるという意見は外れていたらしい。
 しばしひなと鬼無子は時の流れから取り残された様に固まったままだったが、いつまでもそうしているわけにもゆかず、先に正気に帰ったひながひどく気まずそうに口を開く。
 深い黒の色をしたひなの円らな瞳は、思い切り恥をかいた形になった鬼無子に対する憐みやら呆れやらが混ざっており、鬼無子にとってはこの世のあらゆる刃よりも鋭い視線となっている。

「鬼無子さん、あの、なんというか……」

「……うむ、まあ、その、それがしの間違いだ。すまない……本当にすまない」

 一応狼ではないという事で半分は当たっていたのだが、残り半分を外した鬼無子は無垢な瞳で見つめてくるひなの視線に悼たまれなくなり、なんとも恥ずかしそうに赤面して視線を逸らす。
 というよりもこちらを気遣う心の動きがひなの瞳から伺えて、その事がより一層鬼無子の心を深く抉り、視線を合わせるのすら辛いのだ。
 自分の子供ではないと告げるまですっかり困惑していた様子のひなと鬼無子に対して、雪輝は心の底から不思議そうに首を捻り、足元の子狸に優しく声を掛けた。

「こんなに違うのに私の子供と見間違うとは、おかしな話だな」

「くうくう」

 そうだそうだ、と子狸が雪輝に同意する。
 冷静になって改めて観察すれば確かに似ても似つかない個所は見受けられるが、人間の眼には違いと映らない程度の違いの方が多いだろうから、雪輝の言葉はいささか無茶を要求するものであろう。
 呆れているというわけではなく、思った通りの事を口にしただけの雪輝の言葉であるが、間違いを責めているわけではないその言葉に、ぎくりと鬼無子は肩を震わせた。
 いくら動揺していたとはいえ、子狸を雪輝の子供と勘違いしたのはひなも同じなのだが、それを自信満々に狐と断じた自分自身に対して、鬼無子は猛烈な恥ずかしさと情けなさ、そして後悔の念を抱き、熟した林檎を思わせる色に頬を染めて俯き黙る。
 これ以上鬼無子に間違いを言及するのは良くない、と悟ったひなが話題を別のものに変えるべく、慌てた様子で小さな桜貝を思わせる小振りな唇を開いて雪輝に問うた。

「あ、あの雪輝様。その子がお子様ではないという事は分かりましたが、ではどうして狸の子供をお連れになっているのですか?」

 雪輝の気性と生態を考えれば流石に食べるためという答えは返ってこないだろうが、どうにも雪輝の意図が読めないのは確かだった。

「ん? ああ、それはな、この子の親に話があると話しかけられてな」

 何か不思議な事があるのか、と言った調子の雪輝の言葉が切っ掛けとなったのか雪輝と子狸が顔を覗かせた茂みの奥からがさがさと葉の擦れ合う音を立て、新たに二匹の獣が姿を覗かせる。
 ずんぐりとした体つきに四本の肢は短く、尻尾はふっくらとしている。全体的には子狸と違って灰褐色で、目の付近や四肢の先は黒色に染まっている。
 体長は四尺(約百二十センチ)ほどと標準的な狸の倍はあるが、その隣に標準的な狼の倍どころか四倍から五倍はくだらない雪輝が立っているため、むしろそれでも小さく見えてしまう。
 私もそうなのかな、とひなは一つ感想を抱きながら、改めて二匹の狸の姿を観察する。
 片方は額の中心部に白い斑点があり、もう片方は尻尾がそれこそ団栗(どんぐり)のように丸くふっくらとしていて、触り心地の良さはひょっとしたら雪輝の毛並みにも匹敵するかもしれない。
 流石にひなにはどちらが母親でどちらが父親なのかまでは分からない。
 この二匹の大狸が雪輝にやたらと懐いている子狸の両親なのであろう。
 雪輝に上半身を中心に舐め回された時とは異なる羞恥の色に頬を染めていた鬼無子は、微量ではあるが親狸達から立ち上る妖気を感知し、即座に担いでいた猪を放り投げて腰の崩塵の鯉口を切った。
 鉄鞘から覗いた霊験あらたかな白刃が陽光を跳ね返し、その輝きだけで万物を斬断出来るかのような鋭い光を煌めかせる。
 刀身が発する霊気のみでも、凡百の怨霊妖魔の類なら、たちまちのうちにその存在を消滅させられてしまう崩塵である。
 その霊力を所有者が制御し指向性を持たせればその破邪の力は劇的に高められ、また逆に全く影響が及ばないようにもできる。
 崩塵の霊力と自身の妖気を放射する寸前の戦闘態勢を光の速さで整えた鬼無子の姿に、親狸二匹が慌てた様子を見せて、雪輝の方を見上げた。
 とりなしを求めているのだろう。親狸の力では鬼無子に敵意を向けられただけで昏倒位は簡単にしてしまうだろうから、すぐさま雪輝は鬼無子を宥めに掛った。

「これ、鬼無子。この者らは危険な妖魔の類ではないよ。私の……ふむ、なんであるかな。知己かな? うむ、知己だ」

 どういう関係であるかという事は、これまで考えた事がなかったようで、雪輝は親狸を自分の何と言えば良いかわからず、しばし舌の上でいくつかの言葉を転がしてから、とりあえず知己ということにした。
 雪輝が少しばかり言葉に迷っていた間に、鬼無子も普段の肝の太さと冷静さを取り戻したようで、崩塵を鞘に納め直し、全身に走らせていた緊張を解きほぐす。

「ああ、いや失礼いたしました。妖魔とは戦う事の方が多かったものですから、どうにも不意を突かれると構えてしまうもので。いや、言い訳ですな。驚かせてしまって申し訳ない」

 普段の落ち着き払った精神状態の鬼無子であれば、妖気こそ纏うものの悪意の欠片もない親狸達を前にしても、崩塵の鯉口を切るなどという警戒を露わにした真似をすることはなかっただろう。
 しかし親狸が姿を見せた瞬間の鬼無子は、これまでの人生を振り返っても一、二を争う羞恥の念を抱くほどの大失態をやらかした最中であり、その精神状態は乱れに乱れたものになっていた。
 そのため、妖魔の存在を探知するのと同時に戦闘態勢を取る、という半ば本能と化した習性を抑える事が出来なかったのである。
 羞恥の大嵐の中に精神が放り込まれたのと、近くに全幅の信頼を寄せる雪輝が居る事も、鬼無子の気を若干緩めてしまっていたのだろう。
 そもそも雪輝がひな達の前に連れて来たという時点で、安全な相手であったろうし、実際目の前にしてみても悪意や害意といった感情が欠片も感じられず、慌てた様子などどこか道化じみていて笑みを誘うものがある。
 鬼無子はふぅむ、と一つ、十七歳という年齢の割にはいささか年寄りじみた声を零して、不躾にならない程度に抑えた視線を、親狸達に向ける。

「白斑点の方が妖魔で……もう片方は経立(ふったつ)でありますかな」

「鬼無子さん、経立ってなんですか?」

 どうやら鬼無子が平時の精神状態に復帰できたらしい、と判断したひなは、ほっと安堵の息を吐きながら、鬼無子が口にした未知の単語について問う。

「雪輝殿の様に生まれついての妖魔なのではなく、歳月を経る事で霊力や妖気を纏って、妖魔と化した獣のことだ。年月を経るほどに強さと知恵を増す特性があってね。個体によっては途方もなく強くなるのだよ。神夜国三大妖魔の中にも経立が居たはずだな」

 三大妖魔というまた新しい単語が出てきたが、これは自分には関わり合いがなさそうだな、とひなは判断して鬼無子の知識の豊かさにたいして素直に感嘆の言葉を漏らした。

「へえ~、鬼無子さんは博識でいらっしゃいますね。でも、見た目では大きいけど普通の狸さんですけれど、どうして区別できたんですか?」

「発生の仕方が根本的に異なるから、わずかながら妖気の質が違うのだよ。それがしは嫌というほど妖魔とは戦ってきたから何となくという程度ではあるが、生まれついての妖魔と年経てから妖魔となった経立の違いが、勘と肌でわかる」

 感心しているのはひなばかりでなく、雪輝も同じだったようで、妖魔の違いが分かるという鬼無子の染み一つない木目細かな肌を見つめてから、ほお、と一声零す。

「その経立という言葉は私も知らなんだな。まあ、いずれにせよこの者らは鬼無子やひなに害を与える様な物騒な相手ではないよ」

 自分に、とは言わず鬼無子やひなに、という辺りがこの白銀の狼にとって目の前の少女達の方が自分より優先される存在である事を、暗に告げている。
 雪輝の言葉に、白斑点の狸と団栗尻尾の狸が揃ってこくこくと首を縦に振る。胴長短足の体型にふんわりとしている尻尾と、笑みを誘う姿の狸がそんな動きをしていると、なんとも微笑ましい。
 ひなと鬼無子が揃って頬が蕩けた様な笑みを浮かべると、団栗尻尾の狸がやにわに口を開いた。
 常に妖魔と関わっているような人生を送っていた鬼無子は、狸が口を利いたからと言って表情に驚きのさざ波一つ立てず、ひなもまた人語を解し流暢に口にする狼、つまりは雪輝という存在が身近にいるために特に驚きはしなかった。

「どうも、おれは主水(もんど)と言います。で、こっちが連れ合いの」

 思わず抱きしめたくなる外見に反した冴えない三十男を連想させる声の主水は、自分の横に立つ雌の狸に顔を向け、自己紹介を促した。
 団栗尻尾の狸の名前が主水という厳ついものであった事や低い声質に、ひなと鬼無子が内心でがっかりしたのは二人だけの秘密である。

「こんにちは、お伺いも立てずこのような形になって申し訳ございません。主水の妻、朔(さく)と申します。どうか御無礼をお許しくださいませ」

 ちょこんと頭を下げる母狸の声は、気弱の所の伺える夫には勿体無いとしか思えない、夏の涼風に揺れる風鈴の音の様に慎ましく可憐だった。
 この二匹が人間に化けたら、どこか気弱そうでうだつの上がらない印象の三十男と、花の精が気まぐれに人の姿になったかのように楚々とした美貌の少女という、どう見ても釣り合いのとれない夫婦の姿になるだろう。
 掌中の珠のごとく育てられた貴人の姫君が、運悪く狡っからい小悪党に騙くらかされた果ての運命といった所だろうか。おそらく夫婦の姿を見た百人が百人とも朔に同情を寄せ、主水に殺意を覚えるのはまず間違いない。
 とはいえ現実には両者の関係はとても良好なようで、寄り添い合う二匹からは穏やかな親愛の情が見受けられ、本当に仲の良い夫婦なのだろうと鬼無子とひなは、初見ながらも根拠はないが信じる事が出来た。
 鬼無子の印象としては夫である主水は、妖魔としてはお世辞にも強いとは言えない、というかむしろかなり弱く、妻である朔の方が数段上といった所だ。
 主水の方が尻に敷かれていてもおかしくないというよりかは、その方が当たり前のようにも感じられるが、お互いを思い合う仲の良い夫婦であるらしい。
 いいなあ、とひなが自分でも気付かぬうちにそう思う。無論自分を妻とする夫が誰であるかは、改めて語るまでもあるまい。
 ひなの視線が自分に吸い寄せられている事に気付いた雪輝が蒼い瞳で見つめ返すと、ひなはどぎまぎとしはじめて視線を虚空に彷徨わせる。
 見つめ返された事で、自分でも恥ずかしさに似た感情を覚えてしまい、ひなは自分でもどうしてかわからなかったが、雪輝と瞳を合わせる事が出来なくなってしまった。
 このようなひなの反応が極めて珍しく、雪輝は瞼をぱちくりと開いては閉じ、両耳を左右にぴくりと動かして、視線を逸らすひなの小さな顔を凝視する。
 雪輝とひなとが不可思議なやり取りをしている間も、主水の家族の紹介は続いていた。

「それからこいつがおれと朔の子で、嶽(たけ)ってんです。おれら夫婦の一粒種で」

「くう」

 初めまして、と子狸こと嶽。にしても随分と見た目と名前が似合わぬ子であるが、まあそれは両親譲りということだろうか。
 子狸の名前がわかった所で、雪輝の視線から逃れていたひなが、渡りに船と言わんばかりに口を開いて、嶽の方へと視線を移す。
 雪輝はまだ不思議そうな顔をしていたが、特に言及する様な事ではないと考えたらしく、こちらもまた嶽の方へと視線を移していた。

「嶽ちゃんですか」

「ふぅむ、この子は生まれつきの霊狸(れいり)かな? まだ幼いが大器の片鱗を伺わせるものがある」

 これまで数千単位の妖魔を見てきた鬼無子であるから、きちんと落ち着いた精神状態で相対した相手の力量を測れば、正確な所を推測する程度の事は出来る。
 尻尾を振りながらこちらを見上げている嶽を見つめて、鬼無子はお世辞ではなく心の底からと分かる様子で、しきりに頷いて感心している。
 しかし緩みっぱなしの頬や、時折零れる笑い声を考えると、鬼無子の場合、小さな小さな子狸の秘めたる可能性に感心しているというよりは、その可愛らしさに打ちのめされているのかもしれない。

「へへ、ありがとうございます。嶽、褒められてんだぞ」

 我が子が褒められるのが嬉しくて仕方がないとばかりに、主水の方も狸なりに笑顔を浮かべて、雪輝の方から自分達の方へと歩いてきた嶽に言う。夫婦にとって初めての子であるから、可愛くて可愛くて仕方がないのであろう。

「く?」

 父親の言っている事が分かっているのかいないのか、雪輝から離れて母に甘え始めていた嶽は、なあに、と父親の方を振り返っていた。

「ところで主水殿と朔殿は、雪輝殿にどのような用向きがあったのですか。もう済まされたので?」

 微笑ましさばかりが漂う狸親子の姿に癒されて、すっかり羞恥の念から立ち直った鬼無子に話の矛先を向けられた雪輝は、首を横に振った。

「いや、話を聞くついでにひなと鬼無子にも紹介しておこうと思ったのでな。ここまで案内したのだよ」

「狼の旦那には随分前におれと朔共々命を助けて貰った縁があるんですよ。嶽が産まれた時も、やばい妖魔が近くに来ないように気を遣ってもらったりしたもんで」

「あの時は本当にありがとうございました」

 夫婦そろって雪輝に向けて頭を下げて礼を述べる姿からは、この二匹の狸がこの妖哭山で生きるにはまるで向いていない穏便な性格である事が伺える。
 なるほどこれなら、争いごとを嫌い呑気な性格であり尚且つ一切食物を摂取する必要のない雪輝とは――狸と狼ではあるが――馬も合うだろう。
 一方でひなと鬼無子は、雪輝ならそれくらいの事はするだろうな、と極自然に雪輝と狸親子達との関わり合いについて納得していた。この自t年で雪輝の最大の理解者がこの二人であることはまず間違いない。
 雪輝は特にその時の事を恩に着せたとは考えていないようで、気にした風もなく小さく笑う。
 この狸夫婦は、雪輝にとってひなと鬼無子に出会うまではこの妖哭山で気兼ねなしに付き合える数少ない相手で、それは今も変わらずであり、沢爺同様に得難い希少な存在であった。

「別に構わんよ。私がそうしたいからそうしただけの事であるし、それに君らは私の命を狙ってくるような相手ではなかったからな」

 雪輝はその誕生当初、妖哭山内部の殺して殺されてが当たり前の妖魔連中とばかり出くわした所為で、自分に殺意を向けてこないというたったそれだけの事で、相手を好意的に捉えるのが癖になっていた。

「それで今日はどうした。大きくなった嶽を私に見せに来ただけではあるまい」

 ひなと鬼無子の隣といういつもの定位置に移動してから腰を降ろした雪輝が、今度こそ主水達の話を聞くべく促すと、主水と朔は居住まいを正す。
 といっても、雪輝同様に腰を降ろしただけであるが、獣同士で相手に正座を求めるわけにもゆくまい。

「はい。いやあ、最近やけに物騒な事が重なっているもんですから、どうなっているのかと思ったんですよ。この間は猿連中が大挙して来たかと思ったら、今度は人間の亡霊みたいのが徘徊していたでしょう? こんな事、おれがこの山に産まれてから初めてのことばっかりで」

「それで、内側からこちらにお住まいを移された狼様ならなにか御存じではないかと、夫ともども考えた次第でございます。なにぶん、嶽もまだ小さく、危険な事はなるべく避けたいのです」

「自分勝手なことと呆れられても仕方ないんですが、旦那が何か知っている事があったら教えていただけませんかね?」

「ふむ。確かに小さな子供を抱えた君らにとっては、あやつらは危険極まりない相手だったからな。その心配もやむなしといえよう。私も同じ立場だったらひなの事が心配でたまらず、夜も眠れぬ」

 根っから正直者の雪輝がしみじみと呟けばこれはもう疑う余地のない信憑性がある。雪輝の言葉を耳にしたひなが恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべていた。
 狸夫妻はこの巨大な狼が人間の子供を養っている事情について、道すがらかいつまんだ内容を聞かされてはいたが、それほどまでに大切に思っていた事に、少し驚いた様子でお互いの顔を見つめ合わせていた。
 妖哭山の内側で生まれたのが何かの間違いとしか思えないほど、白銀の狼が大らかな性格をしているのは初対面の時から知っていたが、よもや生贄に差しだされた人間の童を世話するほどだったとは。
 恐る恐る朔が口を開いた。

「その口ぶりからすると、狼様は最近の出来事に何か心当たりが御有りなのですか?」

 連綿と血を継承し、歴史と品格を兼ね備えた貴種の令嬢を思わせる、耳に心地よい涼やかな朔の声に鬼無子は、狸の妖魔の中にはこのような者もいるのか、と妙な関心の仕方をしていた。
 人間よりも妖魔と顔を突き合わせた時間と回数の方がいくらか多いという、普通の人間からすれば異常としか思えない人生を送ってきた鬼無子であるが、朔の様な礼儀正しいのみならず気品さえ漂わせている様な狸の妖魔は、初めて出くわしたらしい。
 朔に問われた雪輝は、と言えば朔の問いに小さく首肯する。それはそうだ。心当たりがあるどころか実際にはその渦中の中心に居たのが雪輝に他ならない。
隠す事でもなし、と雪輝は正直に白猿王一派との戦いとその後の怨霊達との死闘について要点を纏めて説明した。
 雪輝の話を一語一句逃すまいと至極真面目な顔で話に聞き入っていた狸夫妻は、話が進むにつれて徐々に口が開き始め、狸なりの呆然とした表情を作り始める。
 普通の人間からすれば危険な妖魔が跋扈する雪輝の縄張りの外側で暮らしている彼らにしてみても、妖哭山内側に住まう妖魔連中は言葉通り住む世界の違う化け物どもなのである。
 その格の違う化け物の一派と交戦して生き延びたのみに留まらず、あまつさえ返り討ちにしてこの世から葬り去ったというのである。
 気の弱い所のある主水など白猿王一派に襲われた、と雪輝が口にした時点で軽く半失神状態に陥ったほどで、更に続けて語られる雪輝の話はにわかには信じ難い驚天動地のおとぎ話の様な印象さえ受けた。

「はあ~~~、旦那がおれからすりゃ雲の上に居るみたいな方だとは知ってましたけど。猿連中を纏めて返り討ちですかい。こりゃおったまげた」

 主水は団栗尻尾と目をまん丸いお月さまの様にして、大げさなほど驚いた様子を隠そうともしない。温厚な所もそうだが、正直者である事とどこか呑気そうな性格という点でも、雪輝とこの父狸は似通っているのかもしれない。

「そう言ってくれるな。この山で私とまともに話をしてくれる者は少ない。君らとの付き合いが疎遠になってしまうのは、私にはとても残念な事だ。なにはともあれ白猿王との因縁は完全に断った故、こちら側は元通りの静寂を取り戻すであろうよ。これからは元通りの暮らしが戻ってくる」

「それはようございました。これで私も夫も、それに嶽も安心して暮らしてゆく事が叶います」

「私のせいで色々と騒がしくてしまった事、改めて詫びる。済まぬな。関係の無い君らに余計な心労を抱かせてしまった」

 真摯に謝罪し頭を下げる雪輝にかえって朔と主水は慌てて、首を横に振る。

「いやいやいや、頭を上げてくだせえ、旦那。旦那の所為じゃありませんて。それに猿連中や亡霊も全部旦那が片づけたんでしょう。ならもう安心でさあ」

「良人の申す通りでございます。狼様が気に止まれる事はありませぬ。狼様はただ御自分の命を守ろうとなさっただけの事。私も夫も嶽も、幸いにして傷一つ負わずに済みましたし、私どもから狼様に文句の一つもあろうはずがありません」

「そう言ってくれると助かる。白猿王はまこと、私にとって災い以外の何ものでもなかったよ。君らにまで害が及ばなかった事はせめて不幸中の幸いと言うべきであろうな」

 人の良い狸夫婦の言葉に、それに輪を掛けてお人好しの雪輝はあからさまな安堵の顔を浮かべてほっと息を吐く。好意的な関係を築けている相手が少ないがために、その相手との関係が悪化してしまう事が、この狼には恐ろしくあるのだろう。

「とにかく、これからは元通り暮らせるだろう。時折ここら辺りまで私達も足を延ばす事があるだろうから、その時はよろしく頼む」

「いえいえこちらこそ。嶽の顔を見に来ていただけるんなら喜んでお迎えにあがりまさあ」

「ひなさんと鬼無子さん、夫と子供共々、今後ともよろしくお願いいたしますね」

「はい。嶽ちゃんはとっても可愛いですからまたお顔を見に来ますね」

「なにか困った事があったら、山中の樵小屋を訪ねて来られよ。雪輝殿とそれがし達はそこを住まいとしている。微力を尽くして御助力いたす」

 狸親子と雪輝ら一行との対面は、周囲が敵ばかりのこの山の環境を考えれば、両者にとって実に幸福な出会いと言えただろう。
 お近づきの印という事で、ひなが採取していた松茸をはじめとした多くの茸と木の実を譲り、狸親子達はしきりに頭を下げながら出てきた茂みの向こうへと消えて行った。
 よっぽど嶽のふわふわとした毛並みと主水の団栗尻尾が気に入ったのか、鬼無子に至っては雪輝の毛並みを前にした時と同じくらいに瞳を輝かせながら、手を振って狸親子達を見送ったほどである。

「いやあ眼福眼福。しかし雪輝殿と気の合いそうな狸達でしたな。雪輝殿ももっと早くに紹介して下されば良かったのに」

 そうしたら嶽を思い切りまさぐってあのふわっふわの毛を楽しめたのに、と鬼無子さんは思っているに間違いないな、とひなは口にせずに思う。
 一緒に暮らしてみてすぐに分かったが、この美貌の剣士も雪輝同様に分かりやすい性格をしているのだ。

「言われてみればそうだな。とはいえ恥ずかしい事に私の交友関係は狭いのだよ。内側から来た妖魔というだけで私を避ける者がほとんどであるし、主水達も最初私と出くわした時は自分達が食べられるか、嬲り者にされてから殺されると心底恐怖したそうだからな」

 初遭遇した時の主水達の反応は雪輝にとっては相当に悲しいものだったようで、それなりの月日が経過した今でも、思い出せば眉根を寄せる程度には引きずっているらしい。
 もともと感情の発露を抑えるという発想が雪輝の思考形態に組み込まれていないことと、ひな達との同居暮らしとの中でも感情を隠す必要や嘘を吐く事がなかったので、嘘偽りを口にするだとか感情を表に出さないという発想の育つ余地がないのだ。
 悲しげな雪輝の顔を見て、そして声色を聞くと、自分も同じように悲しくなり、ひなは雪輝を慰めるためにつとめて優しい声を出し、しょげる雪輝の頬を椛の様な小さな手で撫でる。

「そうなのですか、雪輝様はこんなにお優しいのに悲しいですね。でもそういえば私も雪輝様と初めてお会いした時はそれはもう緊張した物ですから、あまり言えませんね。あ、でも落ち込まないでくださいましね。驚いたのは確かですけど、それ以上に雪輝様のお姿がとってもお美しくて、これから食べられてしまうんだなっていう事を忘れる位見惚れたのですよ」

 ひなに褒められて素直に嬉しいと思う反面、自分はそんなに落ち込み易いと思われているのか、と雪輝は内心で首を傾げた。
 雪輝本人に自覚はないが、もしひなが後半の言葉を口にしなかったら、まず間違いなくこの大きいだけが取り柄の狼は、耳と尻尾を絞首刑に処された様に垂らして失意の泥沼にはまり込んだだろう。
 雪輝の性格は、雪輝自身よりも共に暮らしているひなや鬼無子の方がよほど理解している。

「そういえばあの狸夫妻ですが、主水殿はまあともかくとして朔殿はかなり霊格が高いようですね。嶽の潜在能力の高さは母親の血が濃いからでしょうな」

「主水はこの山で産まれて、色々と苦労しながらも幸い長生きして妖魔となったそうだ。朔はなんでも他所から来た妖魔で、たまたま主水と出会い意気投合して話をしたり、一緒に食べ物を探したりしているうちに懇ろな仲になったと言っていたな」

「ふぅむ、朔殿の妖気には長らく血を継いだ古い妖魔特有の雰囲気も感じられましたから、おそらくは名の知れた狸妖怪の血縁なのかもしれませぬ。まさに主水殿は逆玉の輿といった所でしょう」

 聞き様によっては主水の事を軽んじているようにも聞こえる鬼無子の言葉ではあったが、本人としては至って真面目に、主水が幸運にも良妻を得たものだと感心しているのだ。
 ひなも雪輝も若干人とずれた感性を有している所為で本人には自覚がないが、鬼無子もまた一般的な感性からは、いささか外れた感性で生きている女性であった。

「でも玉の輿とかそういう事は関係なくって、主水さんと朔さんはとっても仲の良い御夫婦ですよ。嶽ちゃんの事も大切に思っていて、嶽ちゃんも主水さんと朔さんの事が大好きみたいでしたから」

 羨望の色を隠さずに言うひなの横顔を見て、鬼無子は小さく笑う。あの親子の姿にひなが自分と雪輝の姿を重ねて見ているのが、手に取る様に分かったからだ。
 これまではただずっと一緒に暮らしてゆきたいと思っていたひなにとって、あの狸親子達の姿は、もう一歩踏み込んだ想いを抱かせるきっかけになったのだろう。
 主水親子と別れてから、大猪を雪輝の背に括りつけて樵小屋に帰る道すがら、先を行く雪輝の後ろを数歩分下がって歩いていた鬼無子の横を歩いていたひなが、不意にこう口を開いた。

「鬼無子さん、教えていただきたい事があるのです」

 これ以上ないほど真摯な、見ようによっては思い詰めているようにも見えるひなの表情を見て、鬼無子もこれはよほど深刻な質問が来ると腹を括り、ひなの瞳をまっすぐに見つめ返して先を促す。

「あの、その……」

 もごもごと唇を動かして噤むひなの視線が、先を行く雪輝の背に向けられている。あまり雪輝には聞かれたくない話ということだろうが、ひなにしては極めて珍しい事と言える。雪輝に対して何か隠し事をする様な少女では決してないはずだ。
 鬼無子はこの場はひなの意を汲み、ぷらぷらと尾を揺らしながら歩いている雪輝の背に声を掛ける。

「雪輝殿、それがし、ちとひなと話す事があります故、先に戻っていただけますまいか。そう長い話にはならぬかと存じますので、あまりご心配はめさるな」

「珍しいな。まあ女性二人だけで話したい事もあるだろう。あまり遅くならないようにしておくれ。どうしても心配になってしまうからな」

 こういう時は気遣いを見せて言われたとおりにするものだ、と雪輝は以前沢爺に教えて貰っていたので、素直に鬼無子の言葉に従う。雪輝自身の本音としては自分も話に加わりたいという欲求と、寂しいなあ、という二つがあった。
 幸い素直に聞き入れて少し歩調を速めて去ってゆく雪輝の後ろ姿が見えなくなってから、鬼無子は改めて傍らのひなと顔を見合す。

「それでそれがしに聞きたい事とは何かな?」

 滅多に頼ってこない妹に頼られて嬉しいと感じている姉の顔と声で、鬼無子はひなの言葉を待つ。ひなが躊躇う素振りを見せたのはほんのわずかな間の事だった。

「……鬼無子さん、人間と妖魔がその、夫婦になる事ってやっぱり珍しいんでしょうか」

 ひなの言葉を耳にし、わずかに鬼無子が体を硬直させる。来たか、とそしてやはり、という二つの想いが鬼無子の胸に去来する。
 いつかのこの少女に聞かれることになるだろうと、覚悟はしていたつもりだったが実際にこうして聞かれると思った以上に動揺が心を襲った。
 それを戦闘に臨む直前と同じ気構えにすることで平静さを持ち直し、鬼無子は表面上は変わらぬ笑みを浮かべて答えた。
 頭の中でこう言う時の為に考えていた解答例を必死に記憶の棚から引っ張り出して選別していたが、幸いひなには鬼無子の内心の動揺は分からなかったようで、じっと鬼無子の瞳を見つめて返答を待っている。

「ふむ、そうだな。怪我をしている所や命の危機を助けられた恩返しに、人間に姿を変えた妖魔や動物と家族になったり、あるいは恋人になった話などは探してみれば国のあちこちにあるものだよ。それがしは職業柄そう言った話を集めた怪奇本などもよく目を通したが、人である夫と子供を為した雪女や猟師に助けられた蛤が美女に化けて嫁に来た話もあったよ」

「妖魔と結婚した人たちは、幸せになれたんですか」

 鬼無子は口ごもった。それがひなの問いに対する答えでもあった。悲しげに目を伏せるひなの姿を見ていられず、鬼無子は気休めにもならないと分かっていたが、何か言わずにはいられなかった。

「嘘偽りはひなの望むものではないから、正直に言うが悲しい結末を迎えた話の方が多いのは事実だ。ただ、子を為し幸福な家庭を築いた者もいるし、末永く暮らした夫婦の話もある。必ずしも不幸になると決まっているわけではないよ」

「はい」

 そのまま消えてしまう様な儚い笑みを浮かべるひなの姿が、あまりに痛々しくて鬼無子は反射的に小さなひなの身体を抱き寄せて、赤児をあやす様に艶やかな黒髪を撫でる。
 ひなはいつもなら恥ずかしがる所なのに、自分を抱きしめる鬼無子の背に腕を回して、縋りつく様に体を押し付ける。柔らかくどこか甘い良い匂いのする鬼無子の身体のぬくもりが、ひなには泣きたくなるほど優しかった。
 自分の頭を撫でてくれる鬼無子の手の優しい手つきに、もう二度と会えなくなってしまった母の事を思い出し、ひなは瞳の奥から熱いものが込み上がってくるのを抑えられなかった。
 鬼無子は、ひなにとって母でもありまた同時に姉としてこの上なく暖かな存在になっていた。
 ひなの黒髪を撫で続けながら、鬼無子は聞くべきか否か少し迷ったが敢えて口を開き、ひなの真意を尋ねる。答えは分かっていたが、はっきりと言葉にする事に意味があった。

「雪輝殿をお慕いしているのだね」

 ひなの肩が揺れる。ひなの気持ちが落ち着くのを待つ間、鬼無子はただただ優しくひなの身体を抱きしめ続けた。

「……はい。雪輝様の事が、大好き、です」

「うん。そうか、雪輝殿の事が好きか」

「はい。ずっと、お傍に居たいです」

「居られるよ。雪輝殿もひなの傍にずうっと居たいと願っているに決まっているからね」

 大輪の花を咲かせた向日葵を思わせる笑みを浮かべる鬼無子の顔が、目尻に涙を浮かべたひなの瞳が映る。それはひながこの世で二番目に大好きな笑顔だった。
 ひなの心はこの上ない安堵感に包まれて応える様に暖かな笑みを浮かべる。

「まったく、こんなに可愛いひなに慕われるとは、雪輝殿も本当に罪な方だ」

 やれやれと苦笑を浮かべる鬼無子に、ひなが少し恥ずかしげに口を開く。

「鬼無子さん」

「うん? 今度は何かな?」

 ひなは頬を赤らめてこう言った。

「私、雪輝様の子供が欲しいです」

「…………うん、そうか。子供が欲しいか。うん」

 鬼無子は自分の浮かべている笑顔が凍りついた様に固まったのを自覚しながら、心の中でこれまでの人生を振り返っても数えるほどの、特大の溜息を吐いた。

「本当に雪輝殿は罪な方だ。本当に……」

 そんな風に鬼無子に言われているとは知らぬ雪輝はと言えば、

「きゃん! んん、誰かが噂をするとくしゃみが出るというが、さて誰が私の噂などしたのか」

 と妙に甲高いくしゃみをひとつして、ひなに教えてもらったくしゃみの出る理由を口にしていた。
 共に暮らす少女の痛切な願いを知らず、ひな達に先行して樵小屋に戻った雪輝は、大好きなご主人様の帰りを待つ犬のように、早く帰って来ぬものかな、などと呑気な事を考えていた。

<続>

>みどりん様

お褒めの言葉を賜りありがとうございます。命名編は書き溜めた分だったのですが、怨嗟反魂編以後は書きあがってから投稿する形だったので、質が落ちてはいないかと心配しておりますが、いかがでございましたでしょうか。楽しんでいただければ幸いです。


ご指摘ご感想ご助言いただければありがたいです。前回で狼とは一言も書いてませんよ。雪輝の子供だとも本人に明言はさせてませんよ。と言い訳しておきますです。しかし私は獣姦はダメな人のはずだったのですが……。
では次回もよろしくお願い致します。そういえば狸はどう鳴くのでしょう? たぬーじゃあるまいし。



[19828] その五 虚失
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/22 22:07
注意
今回は妊婦、母乳の二つの単語に抵抗を覚える方は4000字あたりの*から次の*に至るまでの文章をかるく読み流される事を推奨いたします。それっぽい内容なのでお気をつけ下さいませ。

その五 虚失


――『雪輝様の子供が欲しい』

 血の繋がった実の妹同然に慈しむ少女の真摯な思いの込められたこの言葉に、四方木鬼無子は、当代随一の人物画の巨匠でもなければ紙上に再現出来得ない美貌に、うっすらと懊悩の化粧を刷いていた。
 柔らかく優しく抱きしめたひなの衝撃的な発言を耳にしてから、先に戻ってもらった雪輝と合流し、鬼無子自ら仕留めた大猪と山鳥の解体を終えて一息を吐いた後である。
 鬼無子は囲炉裏の前に正座の姿勢で座り込み、左肩に三尺二寸三分の愛刀崩塵を持たせかけながら、腕を組んで既に四半刻(約三十分)ばかりうんうんと唸っていた。
 一月にも満たない短い月日ながら、すでに鬼無子は共に暮らしているひなの事を家族として想い、慈しみ、愛している。
 そしてまた、ひながあの心優しいがどこかすっとぼけた所のある白銀の狼を、心から慕っている事も理解している。
 だからひなが雪輝の事が大好き、と言った時には別段動じることもなく、ひなが正直に自身の想いを口にした事とその内容を受けれいる事も出来た。
 鬼無子自身、この国で至尊の存在たる帝のおわす都の霊的守護を担っていた頃には、ごく稀にだが妖魔と人間とが恋仲に陥った事例を、同僚や先達たちから聞かされた事があったし、直にこの目で目撃した事もある。
 また鬼無子の所属していた神夜南方を支配する朝廷は、妖魔に対しても比較的歩み寄りを見せる風潮があり、妖魔と人間が一緒に暮らしている村落なども数えるほどではあるが存在している。
 人外の存在である妖魔と人間との婚姻は、根本的に人倫にもとる話と言えば話なのだが、現在神夜国を三分している国々の中で最も歴史の古い南方の朝廷では、神代の時代にまで遡れば鳥獣や魚貝の神々が人間に化けて、美しい人間の男女と契りを結ぶ話も多々存在しており、幼少の頃からその様な話を子供の寝物語にされている。
 加えて退魔省の中には四方木の一族以外にも妖魔の血を引く者がおり、純粋な人間である他の同僚達と変わらぬ待遇を受けていて、別段冷遇されるような事もなかった。
 その様な環境にあった鬼無子は妖魔と人間の婚姻――いわゆる妖婚(ようこん)に対しては両者の間に確かな愛情があるのなら別に結ばれても良いのではないか、とさほど抵抗と禁忌の念を抱いていない。
 なのでひなが雪輝を慕う気持ちを口にする事自体は、鬼無子にとって別段問題ではなかったのである。
 実際には鬼無子以外の人間が耳にしたら、ひなに翻意するよう説得するような話であるのも事実だが、常人とは違う感性で生きている鬼無子なのでこれは仕方がない。
 簡潔にいえば、鬼無子はひなと雪輝が恋仲になる事自体は全く問題がない、むしろ歓迎する気持ちでさえある。まあ、今の関係とそう大差がない様に感じている所為もあるだろう。
 しかし

(子供か。子供は……うぅむ)

 田舎で暮らしていれば犬猫や牛馬の交尾くらいは目にした事はあるだろうし、農作業の手を休めた男女が人目を忍んでそこらの草むらや山中で睦言を交わしている場面に、不意に遭遇する事があってもおかしくはない。
 後者はともかくひなも前者の場面くらいは知っている、と鬼無子は仮定してひなが子作りに必要な行為を漠然と理解しているものと考える。

(とりあえずひなにはまだ体が小さいからもう少し待つように、というべきか。そういえばひなは初潮を迎えていたであろうか? いや、たとえひなが大人になっていようといまいと、そもそも雪輝殿の身体が大きすぎる)

 閉じていた瞼を開き、鬼無子は星々を全て取り払った夜空の色をした瞳で、ひなと戯れている雪輝を見た。
 鬼無子がこれまで目撃して来た狼や犬、狐に狸と言った獣の妖魔達の中には雪輝どころか小山のごとき巨躯や千の軍勢を容易く屠る力を誇る大妖魔もいたが、外見の美しさで言えば雪輝に及ぶものはただの一体も居なかった。
 だがこの場合で問題なのは外見上の美しさや妖力の多寡ではなく、その身体の大きさである。雪輝の体躯は四本肢を地に着いた姿勢でさえ、六尺(約百八十センチ)にも達するものだ。
 それが巨体ゆえの歪さなど欠片もなく、一つ一つの部位が狼として理想的な合理性と美しさを兼ね備えた形状をし、それらすべてが見事な調和で持って構成されているのだが、やはりどれもが大きい。
 目も口も牙も耳も尻尾も、前肢も後肢もそして……

(うん、ま、まあ、その…………男…………根…………も、おおお、大きくていいい、いらっしゃる。あううう)

 ちら、と視界の端に映った雪輝の股間部から慌てて目を逸らし、鬼無子はなんとはしたない事を考えているのか、とあまりに情けないやら恥ずかしいやらで頬に血が昇るのを感じた。ここ最近羞恥の念にごく短い期間で襲われてばかりいる。

(た、た、たとえ雪輝殿と、こ、こ、こ、事をいいいい致すのがそれがしであっても、あれ、あれ、あれは無理、無理だ。ただでさえ小柄なひなでは言うまでもないというか考えるまでもないというかそもそも挿入らないというか裂けてしまうというか……。ああもう! なんでそれがしはこんな事を考えているのだ!?)

 鬼無子が男性経験のない清らかな乙女であることや自慰経験もほとんどない事は前述したが、対淫魔対策として艶事や閨房術に関する知識と実践方法は叩き込まれているのである。
 いわば実戦経験は欠片ほども持っていないが、知識ばかりは蓄えに蓄えてしまった素人なのだ。
 人に害なす妖魔や悪人が相手であれば、艶事を前にしても鬼無子がここまで動揺することはなく、鉄壁の精神を維持できただろうが、この場合は身内同然に大切にしている少女と狼の話である。
 鬼無子にしてみれば可愛がっている愛妹が子供を産みたいと言い出したようなもので、増してや相手がその人格に対しては、鬼無子自身も全幅の信頼を置くとはいえ狼の妖魔と来たものだ。
 自分の人生でこんな事が起こるとは夢にも思っていなかった鬼無子には、動揺するなという方が無理があるだろう。
 鬼無子はうんうんという唸り声から、どれだけ知恵を振り絞ってもまるで答えの浮かばぬ途方もない難題を前にして、今度はぬおおおという地獄の底から吹いてくる亡者の怨嗟を思わせる唸り声へと変える。
 雪輝にとってもひなにとっても良い結末を迎える事の出来る答えを知っている者が目の前に現れたら、鬼無子は恥も外聞も捨てて地面に額をめり込ませるほど土下座して、答えを乞うただろう。
 鬼無子のそれはそれは深くて浅い苦悩を知らず、鬼無子に雪輝への慕情を吐露した事で改めて自分の気持ちを自覚したのか、ひなは樵小屋に戻ってから頻繁に雪輝にくっついてまわり、その毛並みに顔を埋めたりしきりに雪輝の身体を撫でまわし抱きつくのを繰り返している。
 雪輝はひながやけに自分に触れてくる事を不思議そうにしてはいたが、雪輝からすれば諸手を挙げて大歓迎する事であったから、ひなの好きなようにさせているし、また自分の方からひなの頬や首筋を舐めたり、しきりにひなの身体の匂いを嗅いでいる。
 ひなが終始満面の笑みを浮かべ、雪輝も嬉しげな表情と雰囲気を隠さずに浮かべているから、鬼無子は何も口にする事はなかった。
 普段ならば一人と一頭の戯れる姿に、鬼無子はただただ仲睦まじさに微笑を浮かべるだけなのだが、ひなが真剣に雪輝の子供を宿す事を願っていると知ってしまった以上は、素直にその戯れる姿を微笑ましく見る事が出来なくなっていた。
 鬼無子がうんうん唸って思い悩んでいるのにも気づかぬ位に、触れ合うのを楽しみ夢中になっている様子の一人と一頭を見ながら、鬼無子は脳裏に過去知り得た妖婚関連の知識を陳列する。
 多少の美談こそあれ妖魔と人間との婚姻というものは悲哀の泥濘に塗れた話がほとんどで、かつて見聞きしたそれらの話を思い起こす度に鬼無子の顔は暗いものに変わる。
 酷いものになれば愛情を交わすどころ人間の女を浚って凌辱の限りを尽くし、我が子を孕ませることを習性としている妖魔も存在し、あるいは一時の快楽の為だけに男女を問わず心と体を汚し尽くし、飽きればそのまま食い殺すものもいる。
 雪輝に限ればその様な事には絶対にあり得ないと断言できるが、気懸かりなのは仮にだが雪輝の精をひなが受けた時どうなるのか、という事であった。
 妖魔の精というものは、血液と同様にそれだけでも人間の身体が精神に強い影響を与える場合が多い。
 子供だけが親である妖魔の影響を受けて半妖にこそなれ、母胎となった女性や交わった男にはなんら変化が起きない場合。
 妖魔と交わる事で人間の方にも心身に変化が生じ、徐々に妖魔へと変わる場合。あるいは外見上には変わりがないものの、身体能力の増幅や長寿化などの影響が見られる事もある。
 雪輝の場合、そもそもが善性を帯びて発生した妖魔である事と肉体が天地万物の気で構成されているために、その妖気を何の耐性も持っていない人間が浴びても、身体的精神的障害を発症することはなく、人間に対してまったく害とはならない。
 鬼無子の場合は代々宿している妖魔の血が強力な雪輝の妖気に反応してしまい、発熱や微痛を伴う妖魔化を促しているが、これは極めて異例であるから例外と言える。
 雪輝はどうも精神状態と感情に妖気が呼応して性質を変える様であるから、もしひなに精を与える様な事になったら、それはもう溺れるほどの愛情を込めるであろう事は想像に難くない。
 ひなに対して雪輝の精は毒薬どころか、どんな怪我も万病も癒す百薬に勝る霊薬になってもおかしくはない。
 こればっかりは実践してみない事には分からないものだが、鬼無子の歴戦の退魔士としての勘は、ひなにとっては好ましい影響を及ぼすと囁いている。
 結局、ひなに何をどう言えばよいやら、分かるわけもなくて鬼無子は深々と溜息を吐いた。
 艶やかに咲き誇る大輪の椿を思わせる鬼無子の朱唇から零れた溜息は、そのまま鉛の塊となってごろりと音を立てて落ちそうなどほどに重々しい。

「鬼無子、どうしたのだね。なにか悩みごとがあれば相談に乗ろう。私でもなにか力になれるかもしれぬ」

 小さなひなに大樹の幹に等しい太い首回りを抱きしめられて、そのぬくもりを満喫しながらの雪輝であった。
 鬼無子の心を慮っての善意から発せられた言葉である事は確かであったが、ひなのぬくもりと香りに包まれて至福としか例え様のない表情を浮かべているのを見ると、流石に鬼無子の心にも苛立ちのさざ波が起きる。
 こちらの悩みも知らず、この御方は何を幸せそうに少女に抱きつかれて喜んでいるのか、とこの時鬼無子は、初めて白銀の狼を小憎らしいとさえ思った。
 だから少しばかりこの狼を落ち込ませてやろうか、と思ったのも無理のないことだったろう。
 鬼無子はこちらを見つめる雪輝を見つめ返してから、やれやれと言わんばかりに大仰に首を横に振りこう言った。

「雪輝殿、せめて三回り、いえ二回り小さく産まれては来れなかったのですか」

 はあ、と止めに盛大な溜息を一つ追加する。言うまでもないが効果は劇的であった。

「!?」

 雪輝自身気にしている体の大きさを信頼する鬼無子にああも露骨に指摘され、なおかつ残念がられている口ぶりと来たものだから、満身で感じているひなのぬくもりを押しのけて、驚愕の表情を雪輝は浮かべる。
 その反応に、鬼無子の心はしてやったりという達成感と予想以上の雪輝の驚愕に、少々やり過ぎてしまったか、という後悔の二つを抱いていた。純真な雪輝の傷つきやすさというものをいささか見誤っていたようだった。



「……などという事を言ってしまった事もあったな」

 懐かしい記憶を思い出し、鬼無子は穏やかな笑みを美貌に浮かべる。あれから幾度も季節は巡り暖かな空気の流れる、何度目かの春を迎えていた。
 妖哭山の春は常に大地を濡らす妖魔や獣たちの血を吸い、鮮やかな色をした桜の葉が舞い散る残酷なまでに美しい季節である。
 雪輝の縄張りと化している樵小屋一帯にこそ血の匂いはなく、吹き行く風の中には濃厚な草花の匂いが混ざり、大自然が醸す豊潤で濃厚な香が焚かれているかのようだ。
 二人と一頭で暮らし始めていた頃と比べて、幾度か増築を改築を重ねた樵小屋の中で、背もたれつきの座椅子に腰かけた鬼無子は、雪輝の作った妖気混じりの氷を玻璃(はり)代わりにはめ込んだ窓から吹いてくる風に靡いた髪を抑える。
 闇夜に妖しく咲き誇り月光に濡れる妖花のごとく艶やかだった美貌は色褪せることなく、むしろ妖しさの中に陽だまりを思わせる暖かな雰囲気を新たに纏う今の鬼無子は、より一層その美しさに磨きを掛けていた。
 体の線を覆うゆったりとした薄紫色の着物に身を包み、足を崩した姿勢であった鬼無子は、その両腕に抱えた小さな命に愛しさをたっぷりと込めた視線を注ぐ。

「雪輝殿の子を欲しいと言ったのはひなであったのに、まさか先に子を孕んだのがそれがしであったとは、いかなる運命の皮肉かな」

 いや、結局はひな同様に自分もあの狼の妖魔に心奪われ、身体と心を奉げる決意をしただけの事。
 雪輝の子を孕んだ順序の違いは、単に成長の過程にあったひなに対して、既に身体の成熟していた鬼無子の方が妊娠する準備が先に整っていたにすぎない。
 幸いにして雪輝の精はひなにも鬼無子にも、寿命を削る、肉体を変化させると言った様な悪影響を与えてはいない。
 それどころか鬼無子に至っては体内に雪輝の精を取り込んだ事で、鬼無子の人間の部分を蝕んでいた幾体もの妖魔の血を抑え込む働きをし、人間としての自我を維持する助けになってくれている。
 心底からの愛情と慕情を抱く相手として、またこの世ならぬ性の快楽を細胞の一つ一つにまで覚えこまされた事と、人間としての自我を維持するためにも鬼無子は雪輝なしには生きていけない肉体になっていた。
 紛れもないその事実に鬼無子は悲嘆の想いを覚えた事はない。
 むしろ幸福であった。
 心から愛する事の出来る男と出会い、子を為し新たな家族を得て女としての幸福を存分に満喫し、孤独とは無縁の穏やかな時間を過ごす事が出来ているのだから。

「ん」

 と、鬼無子は不意に鼻に掛った甘い声を零す。腕の中の小さな命――雪輝との間に設けた愛の結晶である我が子たち。
 一月前に産んだばかりの新たな命は、胸元をはだけた鬼無子の乳房に吸いつき、ちゅうちゅうとかすかな音を立てて、母から与えられる無償の愛と母乳を精いっぱい享受していた。
 元から豊かな鬼無子の乳房であったが子供達を妊娠した頃から更にその大きさを増し、溢れんばかりの母性と女性としての魅力を更に際立たせている。
 異性に触れられたことなどなく、美しい朱鷺色をしていた乳首は妊娠の影響も相まってやや黒ずんでいる。
 愛しい我が子らは勃起したその乳首に小さい命ながらに一生懸命にむしゃぶりつき、白く甘い匂いを零す母乳をこくこくと飲み下している。

「んん、雪輝殿が飲んでいらっしゃるから、お前達の分もあるといいが」

 少女と幼女と暮らし始めてからその好奇心を開花させた狼は、何につけても興味を示しており、鬼無子が出産前後に乳房の先に滲ませる母乳に対しても興味の色を隠さなかった。
 鬼無子にとっても雪輝にとっても初めてとなる子供らに母乳を与えている鬼無子に、どんな味がするのだね? と雪輝が疑問を口にしたのは至極当然の流れであったろう。
 はじめて口にする人間の母乳の味が気に入ったのか、雪輝は機会があれば鬼無子の母乳を口にしており、無論子供達の分を残すために加減はしているのだろうが毎回結構な量を飲んでいる。
 ちゃんと子供達の分を残してくれるのなら、雪輝が母乳を飲む事に鬼無子は特に気にしていない。
 問題なのは雪輝が乳首を口に含む時に夜の情事の時と同じような刺激を与えてくるので、鬼無子としてはどうしても身体の奥の快楽の火を点けられてしまい、何とかこらえようとしても下半身が疼きだしてしまうのだ。
 妊娠中の安定期に入るまでの間も散々雪輝に開発されてしまった身体が随分と夜泣きしたものだが、その時はその時なりの方法で雪輝とひなが慰めてくれたのでなんとかなったが、産んだ後は後で子供達の夜泣きなどにたびたび起こされて、なかなか雪輝との性合を楽しむ時間がつくれないのが、鬼無子のぜいたくな悩みであった。
 妖魔と人の間で子が生まれる場合、妖魔側の親の原型が人とまるで変わらない容姿をしていれば、十中八九産まれてくる子は人と変わらぬ容姿を得るが、そうでない場合はおおむね人と妖魔としての姿を半々に受け継いでくる事が多い。
 鬼無子と雪輝の子供たちの場合、そのどちらとも言えた。鬼無子が産んだのは双子の姉弟である。
 姉の方は黒い右の瞳と人間の容姿を母鬼無子から受け継ぎ、頭頂部にぴょこぴょこと生えている耳と尾てい骨の辺りから伸びるふさふさとした尻尾、それに青く濡れた満月を思わせる左瞳を父雪輝から受け継いでいる。
 左右で色の違う瞳なのだ。
 親としての贔屓目もあるだろうが可愛らしいことこの上ない人間の赤子に、狼の耳と尻尾を生やした半人半獣の外見である。
 一方弟の方はというと、これはまるっきり狼であった。
 姉同様に青い瞳を持ち、体毛の方も父と全く同じ白銀の色に染まっているが、その白銀の海の所々に母から受け継いだ栗色の毛並みが混じっている。
 あの親にしてこの子あり、といった所で産まれた時既に姉と同じくらいの大きさで、日々すくすくと成長しており将来的には父と同じくらいの体躯に至る事は容易に察せられる。
 母乳の次なる分泌を促すために乳首を甘噛みし、舌で舐めこすり、力強く吸引してくるその動きに、鬼無子は背筋で妖しく蠢く快楽の電流を感じて、うっすらと頬を赤らめて苦笑を浮かべる。
 我が子に乳を吸われながら性の快楽を覚える事への背徳感が、鬼無子の身体を甘く犯す微弱な快楽を強める。

「それがしの胸の弄び方は父君と同じだな。これでは性格の方も似ているかもしれないな、まったく。ふぅ、んん」

 抗議なのかそれとも同意なのか、弟狼がちゅう、と音を立てて強く鬼無子の乳首から母乳を啜り、鬼無子は思いがけず大きな嬌声を零した。
 雪輝と交わる度に咽喉が枯れるほど上げさせられる嬌声に、最初は鬼無子自身、自分がこんな声を上げるのかと驚いたものだが、今ではすっかりと耳に馴染んでいる。
 食欲旺盛な我が子らに母乳を与えていると、板戸を開いてひながひょっこりと顔を覗かせた。樵小屋の広場に作った畑から今夜の分の食材を採りに行っていた所だ。
 数年を経てすっかりとまだ十代ながらもその美貌の蕾を開花させたひなは、同性である鬼無子の眼からしても感嘆の想いを禁じ得ぬ美しさである。
 真っ直ぐに伸ばされた黒髪は夜の闇をそのまま映したかのように深みがあり、陽を浴びて風に靡くさまは、まるで幾万粒の宝石を纏っているかのように美しく、筆舌に尽くしがたい。
 幼いころか覗かせていた美貌の片鱗は見事大輪の花を咲かせ、眉と瞳と鼻と口とはまさに黄金比という他ない絶妙の配置がなされ、芸術を志すものなら己の手で再現したいという願いを覚えるに違いない完璧さである。
 このような妖魔の住まう山の中で埋もれている事を知ったならば、世界の男も女も悲嘆の涙に暮れておかしくないほどの、絶世の美貌をひなは見事に体現していた。
 樵小屋の今に腰かけていくつかの野菜を乗せた笊を傍らに置き、ひなは鬼無子と同じ慈愛の瞳を鬼無子の腕の中の赤子らに向ける。
 自分のお腹を痛めて産んだ子ではないが、そんなことは何の関係もなく、ひなは愛する家族が産んだ新たな家族を愛していた。

「ふふ、今日も元気ですね。これなら大きくなるのもあっという間かしら」

「ああ。あんまり貪欲に乳を吸うものだから雪輝殿には自粛して頂かないといけないかもしれないな」

「きっと残念がりますね。雪輝様は鬼無子さんのお乳の味を気に入ってらっしゃいますから。でも子供達の為ならきちんと我慢してくださいますよ」

 年月を経るたびに親愛の度合いを深めてきた鬼無子とひなのやり取りは、打てば響くように息が合っている。

「なに、直にひなのも飲めるようになるのだから、雪輝殿が残念がっている時間もそう長くはないさ」

「そうですね」

 そう答えるひなは、浅黄色の着物を内側からふっくらと押し上げている自分のお腹を、優しく優しく湧き溢れて尽きぬ愛しさを込めて撫でる。
その所作を見守る鬼無子の視線も、ひな同様に限りない愛と優しさで満ちている。
 鬼無子に遅れる事三ヵ月、ひなもまた雪輝の精を受けて新たな命をそのまだまだ幼い胎内に宿していた。
ようやく蕾から花を咲かせたばかりのひなは、既に一人の女として、そして母としての暖かさと美しさを手に入れていた。
 時折お腹の子供が動き、ひなは自分が無限の慕情と愛を寄せる男の子を孕んだ事を再認して、言葉にはし難い幸福の想いに包まれる。
 自分が雪輝によって『女』にされた事、愛する方と情交を交わせた事、そしてまさに愛の結晶である新たな命をいま自分が育んでいる事。
 ひなはこの世に自分を生んでくれた父母達に限りない感謝の念を抱いていた。色々と悲しい事や辛い事もあったけれど、この世に産まれていなければ今の幸福を知ることはなかったのだから。
 鬼無子と共に雪輝に愛されながらも、先に孕んだ鬼無子の妊娠期間は十カ月と、人間が人間を産む時と変わりはなかったから、ひながお腹の命を産み落とすのはざっと三ヵ月後の事。
 凛の手配で経験豊かな産婆が手伝ってくれるから、出産に関してひなはなにも不安を抱いていない。
 いまはただ一刻も早く自分と雪輝の愛の結晶を産み落とし、自分達がどれだけ子供らを愛しているのか、そして世界はこんなにも素晴らしいものだという事を教えてあげたかった。
 母としての美しさを輝かせるひなの横顔を見つめてから、腕の中の我が子に視線を落として、鬼無子は優しく言う。

「お前達の弟か妹も、もうすぐ産まれるのだよ。父君と二人の母と姉弟に囲まれて寂しく思う暇などないぞ?」

 母の言葉が分かったのかむしゃぶりついていた乳首から口を話して、狼耳と尻尾付きの姉と小狼の弟が揃ってきらきらと青く輝く瞳を実母に向ける。
 まだはっきりと言葉を口にする事はないが、半人半妖の姉弟達はこれ以上ないほど愛らしい顔に笑みを浮かべて、きゃっきゃっと金鈴の音も霞む透き通った声で笑う。
 子らの浮かべる笑顔と声に、二人の母も揃って笑みを浮かべる。
 扶養家族が一気に増えて一家の大黒柱としての自覚から、積極的に狩りに出ている父親の雪輝が居たら、絶対に妻や子供達と同じ笑みを浮かべただろう。



「………なこ。…………きなこ。……………………鬼無子」

「ふぁっ!?」

「どうした? 君がうたたねとは珍しい」

 自分を呼ぶ声に惹かれて目を開いて見れば、そこには囲炉裏を挟んでこちらを見つめる巨大な狼の顔がある。ひなはといえばそのお腹の極上の毛並みに身体を投げ出して、存分に感触を楽しみながら甘えるのに疲れてしまったようで、健やかな寝息を立てている。

「うたたね? それがし? えっと…………子供は?」

 思考がぼやけて焦点のあっていない鬼無子は、つい先ほどまで見ていた樵小屋の中の風景と自分や、出会った頃の姿に戻っているひなの姿に困惑の色を隠せず、先ほどまで自分の腕の中に抱いていた愛し子の姿を探す。

「うたたねしていたよ。子供は……嶽の事か? 主水らはここを訪れてはおらぬが」

 片耳をぱたぱたと動かして、雪輝は珍しいというよりは初めて見る、寝惚けているらしい鬼無子の姿に、面白がるのと不思議がるという二つの感情を浮かべていた。
 確かについ先ほどまで感じていた子供達の重さとぬくもり、乳首を吸われる事への小さな快楽の唐突な消失に、鬼無子はしばし現実との整合がとれずに瞳を瞬かせる。
 そうしてしばらく、ようやく鬼無子は胸を満たしていた溢れんばかりの幸福感と子らの姿が、夢の中のものであった事を悟る。
 いつからかははっきりとしないが、夢の世界に浸っていた時に感じていた幸福が夢の中の虚構であった事を悟るのと同時に、鬼無子の胸を満たしたのは言葉にし難い巨大な寂寥と虚無感であった。
 それはただただ幸福を願うわが子を唐突に自分の手から奪われた母の悲しみ。痛いほど胸の中で大きくなるその感情を必死に押し殺しながら、鬼無子はあれが夢だったのだと自分に言い聞かせる。
 左手で胸元の生地を握りしめてなにか辛いものに耐えているような鬼無子に、雪輝が眉根を寄せて心配を塗りたくった声を掛けた。

「どうした、鬼無子。なにか嫌な夢を見たのか? なにやら幸せそうに笑んでいたので起こすのは忍びないかと、思っていたのだが、そうではなかったのか」

「幸せそうに笑っていましたか、それがしは?」

 泣き笑いに近い表情を浮かべる鬼無子に、雪輝は首肯して言葉を重ねる。悲しみだけではない感情に、鬼無子が翻弄されているのは分かったが、それを慰める術を雪輝は知らなかった。

「ああ、傍から見る分にはこの上なく幸せそうだった。ずっとそうやって笑っていられれば、きっとこの世は極楽に違いないというくらいに」

「そうですか。……ええ、そうですね。雪輝殿の仰る通りにとてもとても幸せな夢でありました。それが終わってしまった事が無性に悲しいのでございます」

「そうであったか。これは起こすのではなかったかもしれんな。そうすればまだ夢を見ていられたであろうに」

 夢、という言葉がこの上なく鬼無子には残酷に響き、幼い子供の様に癇癪を起して泣き叫びたい衝動に駆られた。
 それでも、そうしてしまっては気の良い狼は文字通りの狼狽を浮かべて、必死に自分を慰めようとするだろう。
 その雪輝の気配りと触れてくるだろう雪輝の身体のぬくもりを感じれば、きっと胸の中の虚無はその領土を増して、より鬼無子の心を苛むことだろう。それが分かるから、鬼無子は胸中の悲しみや寂しさを、ほんのわずかでも曝け出すわけには行かなかった。

「確かにとても素晴らしい夢でございました。それはもう、それがしの人生にこれほど幸福な事があってよいのかと思うほどに、とても、とても美しく素晴らしく幸福な」

「鬼無子?」

 いままで見た事のない儚いほどに美しい笑みを浮かべる鬼無子に、雪輝は掛けるべき言葉を見つけられない。

「ですが、やはり夢は夢。虚構、幻。現実ではないのです。ですからいつまでも夢の世界に浸ってはなりませぬ。雪輝殿に起こしていただいて良かったのですよ。きっと」

 口にしていることを本気で思っているとは到底思えない鬼無子の声色に、その胸の中の苦しみが推し量れるようなものでない事を悟り、雪輝は悲しげにくぅん、と一つ鳴く。
 この上なく幸福なものであったと語りながら、それを嘘偽りであると断じる鬼無子の心が、はたしてどのような感情と思考を経てその答えを導き出したのか、それが分かれば鬼無子の心を幾許かなりと慰める事も出来たろうに。
 それの出来ぬ自分の事が、雪輝には悲しく、悲しみを通り越して怒りさえ覚えた。これほど苦しんでいる鬼無子の心ひとつ、わずかにも安らかにしてあげる事さえもできない己の無力。
 白猿王の陽動に引っ掛かり、鬼無子とひなの生命を危険に晒した時にも匹敵する己への嫌悪と憎悪は、それを抱くほど目の前の少女が悲しんでいる事を、雪輝が感じている為であった。
 そしてまた鬼無子は、己の一族が取り込んできた数多の妖魔の中の、ある個体の事を思い出していた。
 はるか昔、都の人々が眠りに落ちた先でまさしく夢に描いた理想の未来を連日夢に見て、目を覚ましてその時の事が忘れられず、仕事や家事を放棄して夢を見た者達、皆が呆けてばかりいるという事件が発生した。
 事件はそれに留まらず夢の世界と現実との落差のあまり絶望して自ら命を断つ者、現実の世界を認められず、これを壊して夢の世界に帰ろうと凶行に走る者が続出し、これらがすべて人々に夢を見せるある妖魔の仕業であると発覚する。
 当時の四方木家の祖先は、この妖魔以外にも夢を操る妖魔や呪術使いとの戦いを考慮し、多大な犠牲を払いながらこの妖魔を生け捕りにし、更に多くの犠牲を出しながら人体実験の果てに一族の中に夢を操る妖魔の血肉を散り込むことに成功する。
 妖魔を研究し、適合できずに発狂する者や命を落とすものが次々と出る中、この妖魔の見せる夢のとある性質が発覚した。
 それは……

(その者には決して適える事の出来ない夢)

 そう、夢を見た者がどう足掻いた所で、努力したとしても決して現実とする事の出来ない不可能な運命を、夢として見せて現実との落差に耐え切れずに壊れた魂を食らう妖魔だったのである。
 先ほど垣間見た夢は、鬼無子の身体の中にも流れているその夢妖魔の血が、如何なる偶然か見せたものだったのだろう。
 鬼無子には決して手に入れる事の出来ない幸福な夢を。
 鬼無子は、夢の世界の中で確かに自分の腕で抱いた我が子らの姿とぬくもりを思い出し、子らと出会えぬ己の運命を悟り、心の中で子らを思って一滴の涙を流した。
 自分には決して手に入れる事の出来ない、あまりにも残酷なほど甘美で美しい未来。見せられたそれのなんと素晴らしく暖かく、幸福であった事か。
 それを得られぬと悟った今の、なんと悲しく苦しく、終わりの見えぬ虚無が胸の中に生じた事か。
 哀しいとか、辛いとか、苦しいとか、そんな簡単に言葉に出来る感情などではない。言葉には出来ないほどの何かが、鬼無子の心にぽっかりと穴を開けている。
 雪輝の鬼無子の心を案じる瞳を見つめながら、鬼無子はいつ果てるともなく心の中で涙を流し続けた。

<続>

 私はハラボテジャンルもダメだったはずなのにと思う今日この頃。自分が何を書きたいのか、なんでこういう路線になっているのか正直わかりません。とりあえず鬼無子はエロ要員で確定ですけれども。
 以下、頂いたご感想への返事です。

>ヨシヲさま
子連れ狼の名前をもらった父狐と概ね同じ性格の狸さんです。家族から慕われているのも同じですね。家族を大切にしている所も同じだったり。たしかにこのタイミングだとそう思われても仕方ありませんね。とりあえず先のお楽しみという事で!


>taisaさま
狸の子でした。鳴き声に関してはやはり同じイヌ科の生き物という事で大差ないのでしょうね。教えていただきありがとうございます。精を受けた事でどうなるかという着眼点は素晴らしいです。私の好きな作家さんも妖魔の精を受けた女性の悲劇を書いてらっしゃいますので、意識無意識に関わらずその影響を今後物語に反映させるかもしれません。夢の中で早速語られましたがw

>天船様
江戸時代っぽい名前と考えた時に、必殺仕事人と藤田まことさんの名前が浮かんだもので、使わせていただきました。イメージとしては家に帰って妻と姑を前にしている時の主水です。
ロリ妊婦がマニアックということなので、とりあえず夢オチということで出しました。成長したと描写がありますが、夢の中のひなもロリといわれる範疇の年齢ですので。

>マリンド・アニムさま
まさしく獣姦フラグでございますだ。人化以外にも手段は考えていましたが、処女懐胎の発想は無かったです。つい最近狐女子高生が全裸かつ公衆の面前で出産をかます漫画を読んだばかりだというのに、不覚であります。

>通りすがり様
確かに倫理的に非常にまずいのです。SSだからいいじゃないかと思う自分がいる反面、限度というものがあるだろうと判断している自分もいます。いずれにせよ決断を下さなければならないのですが、もうしばし先のこととなります。


お読みくださった皆様、感想を下さった皆様、まことにありがとうございます。単純な私にとって正にキーボードを叩く指の原動力であります。今後ともよろしくお願い致します。またPV40000突破、遅ればせながらありがとうございます。次の大台50000を目指して日々精進いたします。

追記11/22 taisaさまからご指摘いただいた誤字やほかの脱字など修正いたしました。ご指摘ありがとうございます。



[19828] その六 恋心の在り処
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/11/29 22:15
その六 恋心の在処


 鬼無子と雪輝との間に満ちる無音の雰囲気を打ち破ったのは、腹ばいになっている雪輝の身体に全身を預けていたひなの口から零れた、妖精の吐息の様に小さな寝起きの声であった。

「ふぁ……。あ、いけない。私、眠ってしまったのですね」

「おはよう、ひな。よく眠れたかな。なに、まだ日は高いから気にする必要はない。そうでありますな、雪輝殿」

「ああ。それはそうだが……」

 雪輝の毛並みのふわふわもこもことした感触の心地よさと、思う存分雪輝に甘えたことに満足したひなは、自分でも知らない内に深い深い眠りの世界に入ってしまっていた事を悟り、瞼を瞬いて霞がかかった様に頭に残っている眠りの霧を払おうとする。
 どうにも歯切りの悪い雪輝に奇妙な印象を受けて、どうかしたのかしら? とひなは不思議に思いながら雪輝から自分の上半身を起こし、鬼無子の姿を黒瑪瑙の瞳に映した所で、驚きの表情を表す仮面を被った。
 まだ眠たさの名残が残る瞼を小さな握り拳でこすりこすりしながら目を覚ますと、身体を預けていた雪輝の体勢などには変わりがなかったのだが、どういうわけでか向かいに座っている鬼無子の様子が、ひどく悲しげなのである。
 いや、悲しいという言葉では千回万回繰り返しても全く及ばないくらいの辛い感情が、鬼無子の心の中に去来しているのは間違いない。それ位の事が分かる程度には、ひなは鬼無子の事を理解している。
 鬼無子は目を覚ましたひなにおはよう、と告げたきり穏やかなまなざしでこちらを見ている。纏う雰囲気と浮かべる表情がまるでそぐわぬ事が訝しく、ひなは雪輝に問いを発した。
 聴覚もまた人間離れている鬼無子にはこの距離で声を潜めた所でまるで意味がないが、鬼無子の耳に届くような声で話す事は自然と憚られ、ひなは声を閨で交わす甘い睦言の様に小さく潜めた。

「雪輝様、鬼無子さんになにかあったのですか? 笑っていらっしゃいますけれど、とてもお辛そうです」

 ひなの声音が雪輝の耳を震わせ、くすぐったかったのか、雪輝の耳はぴくぴくと先端を動かした。あるいは心地よさを感じたのではなく、返答せねばならぬ事への気まずさの表れであったものか。

「う、む。私にもよくは分からぬ。ひなが眠ってしばらくしてから鬼無子も昼寝を始めて、ほどなくとても幸せそうな寝顔を浮かべたのだが……」

「だが?」

 小さな人形の様に小首を傾げるひなの所作は、思わず雪輝が見惚れるほどに愛らしかったが、問われた事に答えなければならない事実は、その和んだ心をどんよりと灰色の曇り空の様に重く押し潰した。
 気まずい事や後ろ暗い事であっても、他者に対して隠しだてするような事はしない素直な狼ではあったが、口籠る位の事はするようで、話を切り出すのに多少ごまついた。

「うう、む。まあ、私が起こしたのがまずかったのか、幸せそうと勝手に思っていた夢がひどかったのか、起きてからずっとあの調子なのだ。ああやって笑ってこそいるのだが、内心がまるで正反対である事は、いくらなんでも私だって分かる。あれは」

「心の中で泣いていらっしゃいます。すごく、すごく悲しそう」

 ぎゅっとひなの椛の葉の様な小さな手が、雪輝の首回りの毛を掴んでいた。鬼無子の心中を慮り、ひなの黒瑪瑙を思わせる円らで透き通った瞳にもうっすらと透明な滴が滲み始めている。
 雪輝とひなとがそろって鬼無子への同情から心を切り裂かれる悲しみを募らせているのを察したか、鬼無子は崩塵を片手にゆったりとした動作で立ち上がる。
 十分に目で追える悠々とした動きであったが、一度修羅の空気を纏えばそこから雷光の速さで崩塵の刀身が走るのは間違いない。たとえ使い手たる鬼無子の心が千切に乱れていても、骨身に刻み込んだ闘争の記憶が油断や慢心を許さない。
 鬼無子は一層笑みを深めて、目を覚ましたひなとずっとこちらを心配という感情で満たした瞳を向けてくる雪輝に、いつもと変わらぬ響きの声で告げる。

「少し風に当たって参りまする。夕刻までには戻ります故、ご案じめさるな」

「今の君を、一人にしたくはないが」

 雪輝の言葉に、鬼無子はゆるゆると首を横に振る。口元の笑みにはほんのわずかだけ苦みが混じり、苦笑へと形を変えていた。
 前から分かっていた事ではあるが、雪輝は狼の妖魔であるというのが信じられないくらいに優しい気性をしている。自分が心配されてみて改めてその事を実感したのである。

「いえ、女といえどもいい歳をした大人でありますぞ。自分の面倒くらいは見れまする。大丈夫、少々お時間さえいただければ、いつも通りのそれがしに戻ります」

「鬼無子さん……」

 それでもなお言い募るひなの悲哀という言葉が変わった様な顔を見て、鬼無子は笑んだ。それまでの透き通る様な儚さで形作られたものとは違う、慈しみの感情が変わった笑みだった。

「ひなも雪輝殿も優しすぎるほどに優しい。それがしには勿体無いほどです。それがしを信じてくだされ。いつまでも二人を心配させている様な鬼無子ではありませんよ」

 ひょい、と悪戯な風の妖精に浚われた様に軽やかな動きで鬼無子は居間から土間に下りて草履を履き、蒼と黒の二色の視線を背中に浴びながら鹿皮から戸板に変えた戸口から外へと出て行った。

「鬼無子さんになんて言えばよかったのでしょうか。私、こんなに鬼無子さんの御心を軽くして差し上げたいと思っているのに何も言えず、少しもお慰めできませんでした」

「私も同じだ。あの様な鬼無子は初めて見たが、一体何を夢見たのか。鬼無子が戻ってきた時に、なにか私達に出来る事があればよいのだが」

「はい」

 囁き合う一人と一頭は、戸の外に消えた鬼無子の背中がまだそこにあるかのように、それぞれの視線を暫くの間、消えた鬼無子の背中を追うように見つめていた。
 雪輝に比べれば格段に人生経験があり、人間の情緒に対する理解のあるひなであっても、鬼無子の心中が悲哀の嵐の最中に在る事は分かったが、その理由や悲しみを慰める為に何をすればよいかとなると、流石に良い手段が考え付くはずもない。
 せめて鬼無子さんがお腹一杯に食べられるように腕を振るう、ということしかひなには思いつかなかったし、雪輝にしても以前のように自分の身体を好きなように触らせる程度の事しか思いつかない。
 図らずもお互いに自分の無力さを噛み締めて、ひなと雪輝は一心同体であるかのように、そろって長々と溜息を吐いた。
 生来の心優しさゆえに鬼無子を思いやる気持ちで胸を満たしていた一人と一頭であるが、ひなの知らない所で雪輝は雪輝で、鬼無子の言葉によって大きな体には不釣り合いな、感受性が強く繊細な構造をしている心を、それなりに傷つけていた。
 鬼無子が珍しくも雪輝に少々悪戯心を起こして言い放った、『三回り、せめて二回り小さく生まれては来られなかったのですか』という発言によってである。
 その言葉を脳が理解してからの雪輝は、全幅の信頼と好意を寄せる鬼無子に自分が気にしている事を露骨に指摘された事、さらには大きく失望されたかのように溜息を吐かれるという二重の衝撃に、何も考える事が出来ずにいた。
 なにしろひなを丸呑みに出来る様な大きな口を、がこんと顎の関節が外れたように広げて、突如痴呆に蝕まれた様にして硬直し続けたのである。
 硬直の最中、雪輝はひなの健やかな寝息も、かすかに感じられる規則正しい心臓の鼓動も、心安らぐ匂いも、母を知らぬ雪輝が母を連想するぬくもりさえも心の片隅に押しやって、鬼無子にそう言われてしまった事の理由を、必死に探し続けていた。
 自分はただひなに構ってもらえるのが嬉しくて嬉しくて、精々笑みを浮かべている位のはず。それがどうして、鬼無子にあんな事を言われてしまう結果に繋がったのか。
 やはり狼の姿で生まれついてしまったのが良くなかったのか。それとも最近は少しくらいは人間の心も分かるようになってきた、というのはとんだ思い違いで実際にはまるっきり人間の心の機微など分かっておらず、知らぬ所で鬼無子を失望させていたのか。
 であるとしたならば、近頃は人の心というものが分かってきたつもりになって少しばかり自分の事を褒めてもいいかな、などと調子に乗っていた自分のなんと滑稽で、愚かな道化であった事か。
 いや、滑稽だった事、道化であった事などは問題ではない。問題なのは鬼無子を失望させてしまった事だ。
 といった具合に、責任の重きを自分に置いてこれ以上鬼無子に失意を抱かせないためにはどうすればよいのか、などと考えていたのである。
 あくまで責任が自分にあると考える辺り、いささかこの狼はお人好しが過ぎると言えよう。
 しかしそれも夢の国から鬼無子が現実の世界へと帰ってくるまでの事。
 夢現に子供は、と問うた鬼無子のそれ以降の気の落ちようから、雪輝は持ち前のお人好しぶりを発揮して自分の傷心など瑣末事と放り捨てて、鬼無子の心を案じる事だけを考えている。
 もちろん、鬼無子の事を案じて思い悩む今も、雪輝の心の傷心は別に癒えてはいない。それ以上の大事を前にして一時的に忘れているだけである。
 だが、もし鬼無子が夢の国から帰って来た時にまるで悲しむ素振りを見せなかったとしても、雪輝は鬼無子の言葉に思い悩む様子を見せまいと、必死に隠しただろう。
 今日に至るまでのひなと鬼無子との暮らしの中で、雪輝なりにあることを学習してそれを実地しようと心掛けていたのである。
 その学習した事とは、自分が男である以上は、悪戯に鬼無子とひなに心配を掛けてはいけないという事である。
 元々雪輝が他者に迷惑を及ぼすことを嫌う性格という下地があった事に加えて、凛や天外というかねてから縁のあった者達との交流の親密化、ひなに四方木鬼無子という山の外からやってきた来訪者との生活による刺激と経験。
 これらの要素が加わりそれまでの暮らしが激変した事によって、日々雪輝が学習してきた事の中で、男は女を率先して守ろうとする、あるいは守らなければならない生き物である、という事を雪輝なりに学習していた。
 一夕一朝で結論付けた考えではなく、日々を過ごすうちに自分以外の他者の言動などを仔細に観察し、雪輝なりに分析し、数日の時を費やして導き出した答えだ。
自分で考え、自分で結論付けた答え、あるいは決まりとでも言うべきモノに従い、雪輝は例え自分が肉体にせよ、心にせよ、どれほど傷ついていたとしてもそれを表に出して鬼無子やひなを心配させることは、断じてあってはならないことと認識するに至った。
 その為に、雪輝は自身の傷心などまるで顧みず只管に鬼無子の事ばかりを案じている。もし雪輝の心情を知る者がいたら、あるいはこんな風にまとめたかもしれない。要するにそれは、男の意地だ、とでも。
 そう、雪輝は時折酷く間の抜けた所を見せ、手痛い失態を犯す事もあるが、それでも男の子であった。
 である以上は多少なりとも見栄を張り、自分は大丈夫だ、心配されるような事は何もないと嘯いた態度をとるのも、ある意味では当然のことであったろう。
 そうして雪輝が自分の事を心の棚の片隅に放置している間、樵小屋を出た鬼無子はあてどもなく歩き回り、木漏れ日がそここそに滴る雑木林の中で足を止め、適当に選んだ気の幹に背を預けた。
 金色に輝く太陽は中天を過ぎ去っている。陽の登りきらぬ早朝や見る間に暗くなってゆく夕暮れ時はことさら冷えるようになっているが、まだ寒さを覚える様な時刻ではない。
 心細さを誤魔化す様に、鬼無子は知らぬうちに愛刀の柄に指を添えて、飼い犬を撫でる様な動きをしていた。
 近頃はひなと雪輝のどちらかが必ず傍にいるのが当たり前になっていたが、自分から進んで雪輝とひなから離れた事は数えるほどしかなく、鬼無子は思いのほか寂しがっている自分の心にわずかな戸惑いを覚えていた。

「ふう。たかが夢一つでこうも落ち込んでしまうとはな。父上や母上に見られたなんとお叱りを受ける事やら。夢魔への対抗術など嫌というほど教えられていたのに、あのような夢を見てしまうとは、気を緩めすぎたかな」

 確かに雪輝とひなと暮らし始めてから、鬼無子は両親や同僚達が健在だった頃と同じかそれ以上に穏やかな気持ちで日々を過ごしている。
 一度、家族も仲間も家も名誉も全てを失った後に手に入れたぬくもりであったから、鬼無子の心は自分で思う以上に弛緩していたのかもしれない。
 その心の隙を、体内に宿る妖魔の血に付け込まれて、鬼無子の心を大いに惑わす幸福な夢を見る事に繋がってしまったのだろう。
 あるいは、傍らに居る事の多い雪輝の存在に影響を受けて、鬼無子の抑制を越えて体内の妖魔の血が強力になってきているのか。
 どちらの推測が原因であるにせよ、雪輝とは暫く距離を置かなければ、事態の改善は見込めないだろう。
 しかし、今の鬼無子にとって雪輝とひなは、例え自分の身に危難が及ぶとあっても傍に居続けたいと願わずにはおれぬ存在である。
 自らの意思であの一人と一頭の傍から離れるのは、鬼無子にとって既に自らの身体を二つに裂かれる以上の苦痛を伴う事となっていた。
 いつかは雪輝達との別離を真剣に考えなければならない事であったが、鬼無子はせめて今だけは考えたくないと首を振り、頭の中から一時的に忘れる事にし、先ほどの自分の様子を見た雪輝とひながどう反応するかについてを考えることにした。
雪輝とひなとが顔を見つめ合わせて頭を深く悩ませている事を、鬼無子はあまりにも簡単に想像する事が出来て、小さな嘆息の息を苦笑の形をした朱唇から零した。

「今頃、雪輝殿もひなも気落ちしたそれがしを励ますにはどうすればよいかと頭を捻っておるのだろうなあ」

 あんなに気持ちの良い相手とは、鬼無子のこれまでの人生を振り返ってみても片手の指ほど位にしか、出会った記憶がない。
 鬼無子はその出自の関係からどうしても人間関係に血生臭いものが否応にもまとわりついていたが、妖魔である雪輝はともかくとしてひなに限ればまったく血や死の匂いと言った物を纏っていない例外的な存在である。
 鬼無子も、自分が数多の血と死と負の感情に塗れて生き抜いてきた自覚がある分、ひなの存在は闇夜に輝く月のごとく眩く、魅力的な対象となっている。
 ひなの存在が、鬼無子の精神に置いて『人間』の部分を大きく支えているのは間違いのないものであった。

「ふふ、居心地が良すぎるのも考えものだな。まったく、それがしも雪輝殿と子を作る夢を見るなどと、どうかしている。確かに雪輝殿はあのもふ具合といい美しい外見といい、温厚篤実なお人柄といい、それがしにとってはまさに好ましさのど真ん中を射抜く方ではあるけれど」

 一族が尽く死滅し、ゆくゆくは夫となる相手が決まる事もなくなり、自分の身体の特異性の事もあって新たな命を育む事も諦めていたから、たとえ夢の中とはいえ、母となって自ら産んだ子を腕に抱いた記憶と感触は、忘れようもない強い印象を鬼無子に刻み込んでいる。
 確かに鬼無子自身、心の奥底で子供が欲しいと願っている事は正直否めないが、だからといって好ましく思っているとはいえ狼の妖魔を夫にする事を、諸手を挙げて歓迎した上に子供をもうける夢を見るとは。

「まあ、確かに雪輝殿は少々抜けた所もあるし、時折真面目な顔をしてすっとぼけた事を口にする事もあるが、それはそれで愛嬌というもので可愛らしいし、穏やかで争いを嫌うご気性は好ましく、傍に居ると心地よく何もせずとも一緒に居るだけで心が安らぐ。だからといって………………ん?」

 亡き父母や自分自身に言い訳する様に雪輝に対する考察を口にしていた鬼無子であるが、ある程度口にしてから、ふとある事に気づいて口を止めた。
 雪輝の良い所はもちろん、欠点と言うべき所さえも極めて好ましく思っている自分に、今更ながらに気付いたのである。
 それだけではない。雪輝の長所も短所も含めて全てを肯定している自分。時にひなよりも幼く感じられる言動をし、また時には限りない包容力を見せる雪輝の事を、好ましく思っている自分。
 改めて鑑みれば、自分が雪輝に対して抱いている感情は、すべてが好意に基づくものばかりだと分かり、鬼無子は呆然とした様子で口を開いた。

「…………いや、まさか。ひなだけでなく、雪輝殿の事を好いているのは、それがしも……なのか?」

 以前から鬼無子は雪輝に対して、狼の姿こそしているがその人格に対してとても好ましい感情を覚えていて、異性に対して抱いた感情としては鬼無子の人生至上において最大の好意と言って良かった。
 しかしそれはあくまで友誼的な意味合いにおいての好意であり、決して、決して恋慕の愛情ではありえないはずであった。
 そもそも多少悪く言ってしまえば、雪輝の気性がどれほど好ましくあれ、その姿は所詮巨大な犬畜生に過ぎないのである。
 どこの世界に獣のままの姿をした相手に対して、人間が恋慕の情を抱いて想いを寄せるなどという話があろうか。
 命と心を救われたひなが依存に近い形で雪輝に恋し、愛情を抱くのはまだ理解できなくもなかったが、それが自分もとなるとこれは鬼無子にとって文字通りの驚天動地、天が降ってきたとばかりに驚愕の事実となる。
 むしろ自分は幼い心であらん限りの愛情を雪輝に向けるひなの事を、愛する妹の初恋を見守る様な微笑ましい気持ちで見守っていたはずではないか。
 ひなが雪輝の事を大好きだと言った時も、子供が欲しいと言った時も素直に雪輝への好意を口にするひなに対して、嫉妬などの感情は欠片ほども抱かなかったし、いまも心の中に芥子粒ほども存在していない。
 そもそも男女の色恋というものは鬼無子にとっては、まったく別次元の世界の話だ。
 これまでに蓄積した経験と言えば、男女間での恋愛のもつれから恨み辛みを重ねて怨霊と化した相手と対峙した、とか色事好きの同僚の話を耳にしたくらいのものである。
 鬼無子もこれまで誰かと恋仲になった事はなかったし、結婚について同年代の女性によくある甘い希望や夢というものを抱いたりはしていなかった。
 神夜国南方を統治する朝廷にしろ、織田にしろ、源氏にしろ、一般的にこの時代で武士や公家と言った支配階級の婚姻というものは、経済的権力的な観点で家門をより一層発展させるための方法の一つに過ぎない。
 この婚姻観は鬼無子にとってもごく当たり前の事であり、もし朝廷に対する反乱がおきていなかったら、今頃は親が将来の夫となる相手を決めていてもおかしくはなかっただろう。
 一般的な婚姻と違う点があったとすれば、対妖魔戦闘に置いて長い年月を掛けて作り上げた切り札の一つである四方木家の血を確実に残し、さらに強大なものにする為に、朝廷のお偉方も含めて相手を吟味に吟味を重ねて選び出す点くらいだろう。
 つまり鬼無子はその肉体が清らかな乙女であるのと同様に、精神の方も恋愛経験値が皆無の初心者なのである。
 ひなが雪輝に対して抱いた恋心が初恋であるのと同様に、もしも万が一にも鬼無子が雪輝に対して抱いている感情が、異性に対する恋愛の情であるとしたならば、これは鬼無子にとっても初恋という事になる。
 その事実に気付いた鬼無子は、呆然と瞳を見開いて身体を硬直させる。
 言葉にはし難い喪失感に大きな虚無を穿たれた心を、どうにか繕っていつもの自分に戻ろうと、風に当たりに外に出たにもかかわらず、それまで思っていた事とは全く別方向の予想だにしていなかった事に気付き、鬼無子の心はそれまでの悲愴さなど忘れてしまう。
 ひなと雪輝が鬼無子の傷ついた心を思って心を痛めている一方で、当の鬼無子本人はと言えば、自分の心が雪輝に対して抱く感情について途方もない困惑に襲われることとなったのである。

「そ、それがしも雪輝殿の事が好き、なのか? ひなと同じ様にお慕いしている? あああ、あのゆ、夢を見たのもそれがしが雪輝殿に、ほ、惚れているから、なのか? い、いや、雪輝殿は狼の、よよ妖魔であって人ではないのだからそ、そん、そんな事はあるはずが。……い、いや、しかし確かにそれがしは雪輝殿の事は好ましく思ってはいるが、ええと、えと、雪輝殿の事が好き? す、すすす好き?」

 口にするうちにその事実が鬼無子の脳に浸透して行くにつれて、鬼無子は頬を熟した林檎の色に変え、首筋から耳に至るまでも瞬く間に同色に染めてゆく。
 あ、あ、あ、としばらく言葉にならぬ声が鬼無子の唇から零れ出て、思考回路が崩壊した鬼無子は遂に

「――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!」

 というような声にならぬ絶叫を挙げる。誰かが隣にいたら二人だろうが三人だろうが、鼓膜を破られて耳から血を噴いたに違いない途方もない声量だ。
 巨大な獣の咆哮にも似た絶叫は、辺りの木々を盛大に揺らして緑の葉を雨のごとく降らす。
 雪輝に初めての唇を奪われた時もそうだが、鬼無子はどうも感情が対処しきれない事態に遭遇すると、叫びを挙げる癖があるらしかった。
 咽喉がひりひりと焼けるような痛みを発するほど叫んでから、ようやく鬼無子は落ち着きを取り戻して、ぜえはあと荒くなっていた息を整えるべく、背を預けていた木にさらに体重を預けてもたれかかる。
 一万回だろうが二万回だろうが、重さ十貫の木刀を振りまわして息一つ乱さない鬼無子でも、精神的な動揺はまた別の話になる様だ。
 普段の凛々しさなど欠片も残さずなくした様子の鬼無子は、かろうじて息を整えることに成功し、頬を何度か叩いて意識の焦点を戻す努力を繰り返す。
 うっすらと頬が赤みを帯びるほど叩いてから、ようやく鬼無子は背筋に針金を通しているかのようにぴんと伸ばした姿勢を取り戻す。
 ひどく疲れ果てた表情を浮かべた鬼無子は、絞り出す様にして擦れた声でこう言った。

「……とりあえず落ち着きは取り戻したのだから、帰るか。しかし、なんというか帰り辛いな」

 より正確には雪輝と顔を合わせるのが辛い、というべきであったかもしれない。
とぼとぼと歩く鬼無子の様子からは、普段の落ち着き払った様子や鞘に納められた刀を思わせる完全に制御された揺ぎ無さは見る影もなく、その精魂尽き果てたとばかりに肩を落とす姿は無惨とさえ言えた。



「遅くなり申した」

 がらりと板戸を開いて告げる鬼無子の声は、その雨に打たれて震える子犬の様にしょぼくれた様子に相応しいものだった。つい先日、食べ過ぎてしまった件で落ち込んだ時以上の落ち込み様である。
 ひなと雪輝に元気になった姿を見せねばと考えていたはずの鬼無子であったが、自分の雪輝に対する認識を改めて実感した所為で、それまで考えていた事がまるっと抜け落ちてしまった様である。
 最近は鬼無子さんが落ち込んでいる事が多いなぁ、と思いつつひながお帰りの挨拶をした。

「お帰りなさい、鬼無子さん。外は寒くはありませんでした?」

「はは、ただいま。いやあ、すっかり風が冷たくなってきたものだ。日が傾くにつれてめっきりと寒くなってきている。それがしはともかく、ひなは半纏か被衣でも羽織る様にしないと風邪をひきかねぬな」

 そう言った最後にはあ、と小さな溜息を吐いて鬼無子は腰に佩いていた崩塵を引き抜いて、囲炉裏前に敷かれている自分専用の座布団に正座で座る。
 出て行った時の悲愴な雰囲気は払拭されていたが、代わりになにやら疲れに疲れ果てたといった様子になっている。精神的な重圧や辛苦、悲哀のような感情は薄れたようだが、それらがそっくり疲労に変わっているようだ。
 台所に居たひなが、鬼無子が戻ってきた時の為に用意していた粟団子と暖めた麦茶を盆に載せて、鬼無子の前に置き、鬼無子の真正面の位置で腹ばいになっていた雪輝の隣に腰を降ろす。
 ひなは、自分を振り返る雪輝の瞳をまっすぐ見返した。

――外に出た時にまた何かあったのでしょうか?

――ふうむ、鬼無子も休む暇のない事だな。だが前よりもましではないのか。この調子なら一晩寝ればけろっとした顔をしそうだ。

――そうでございますねえ。なんだかもうへとへとに疲れたというご様子ですものね。

――その方が私達にとっては対応もしやすいが、しかし、鬼無子も災難な事だな。悪い夢を見て気を落としていたと思えば、今度はなにやら疲れる様な眼に遭うとは。

――本当に。

 鬼無子の精神的肉体的疲労の根源は雪輝にあるのだが、心を読む力のある筈もない雪輝とひなに、鬼無子の心を正確に読み取る事は流石に無理があった。
 ひなと雪輝は目線で無言の会話を交わしながら、変調した鬼無子への対処について相談するものの、外出した後の状態の方が二人にとっては対処しやすいという結論を下すのに、そう時間はかからなかった。
 単に体が疲れているだとかお腹を減らしているというのなら、鬼無子の胃袋を満たす位にたっぷりと食事を用意し、鬼無子が好きな熱い風呂を用意して、雪輝の毛で作った布団にくるまってぐっすりと眠れば、それでもう翌朝は元気が体の隅々にまで満ちているのはまず間違いないからだ。
 一人と一頭は少しは事態が良い方向に動いたことに、揃って胸中で安堵の息を吐いたのだが、とはいえ鬼無子が肉体的にはともかく精神的には本調子からほど遠い事実は変わりがない。
 ひなが用意してくれた熱い麦茶と粟団子を口の中に放り込んで、舌の上に広がる味を楽しみながら、鬼無子が若干無理のある笑みを浮かべた。
 表情一つ浮かべるのも億劫なほど疲れているのに、という調子であり心の痛みを無理矢理押し殺して浮かべたわけではない分、心配の度合いも小さなもので済む笑みだった。
 それでも心配はするのが、雪輝とひなが鬼無子に愛されている由縁であろう。

「いやあ、なんというかひなと雪輝殿にはいつもいつも心配ばかりを掛けてまこと申し訳なく」

 雪輝は鬼無子がひなの方は真っ直ぐに見つめるのに、どういうわけでか自分を見る時はちらちらと視線を逸らす事に気付き、不思議そうな表情を狼面の上に浮かべてから口を開いた。

「気に病まんでくれ。君に元気でいて欲しいというのは私の我儘であるしな。なんなら、また私を好きに触って構わぬよ。ほら」

「え? あ、いや、それはその」

 ずいと突き出された雪輝の顔を前に、鬼無子は不意に頬を紅潮させて上半身をのけぞらせた。
 胸元で揺れる剣士というには豊かすぎる乳房が、雪輝に向かってどうぞ味わって下さいと突き出される姿勢だ。
 雪輝がもう少し身を乗り出せば、鼻先を鬼無子のそれはそれは深い谷間を描く乳房に埋めて、その匂いと暖かさに弾力を堪能する事が出来る。
 もっとも、そういう邪な考えをしない雪輝であるから、ここまで鬼無子の信頼を得られたのであろう。
 食べ過ぎた事で気落ちした鬼無子を慰めた時と同じように慰めようという意図によるものだが、同時に雪輝が頻繁にする善意のみの、しかし相手を少しばかり困らせてしまう行為でもあった。
 自分の心が雪輝に向けられているのではないか、というにわかには信じ難い衝撃的事実に気付いたばかりの鬼無子には、こうも雪輝に肉薄されるのは歓迎せざる事であった様で、上半身を仰け反った姿勢はそのままにずりずりと後ろに数歩分下がる。
 以前なら喜び勇んで首根っこにかじりつく位の事はしたであろう鬼無子が、なぜか恥じらいを感じて遠ざかる様子に、雪輝は少しばかり不思議そうにしたが、構わずに一歩二歩と、鬼無子の手が届く位置にまで身を乗り出す。
 鬼無子が自分を撫でやすいようにという雪輝の心づかいである。ただしこの場合は使い方を大いに間違えているのが玉に疵という他ない。
 するとそれに比例して鬼無子もまたずりずりと後ろに下がり、雪輝から遠ざかるのを止めようとはしない。
 鬼無子の初めて見せる反応に、人生経験の浅い雪輝は不思議そうな顔を一向に変えることなく、良く分かっていないままであった。その為に、雪輝は遠慮しているのかな、と判断してこう口にする。

「遠慮など要らぬよ。また君の好きなように私をいじり回してくれて構わん」

 普段なら鬼無子が瞳を輝かせて即座に抱きついたであろう雪輝の許可の言葉を耳にしても、鬼無子はすぐに食いつく反応を見せず、雪輝とひなにすこしおかしいぞ、と思わせた。
 鬼無子は仰け反っていた上半身を今度は丸めて、その月光夜に花弁を開く花の様に美しく気品のある顔を俯き加減にし、両手から伸ばした人差し指の指先をちょんちょんと突き合わせる。
 自分でも定かではない恋心に戸惑い、恋しているかもしれない相手に対し、恥じらいを覚えてその豊満かつ魅惑的な美駆をくねくねと小さく揺らしながら、鬼無子は雪輝の顔色を伺うようにして告げる。
 見る者が見れば初心なことこの上ない少女が精いっぱいに恋心を隠そうとしている様子に、暖かな笑みを浮かべていたことだろう。

「え、遠慮というわけではございませぬ。そのう、いまは少しそれがしの心の準備ができていないというか。べ、べつに雪輝殿の事を嫌いになったとかそういうわけではございませぬからね!」

 何も言わずに雪輝に触れるのを拒み続ければ、この気の良い狼は嫌われたのかと思い込んで傷つくだろうことが容易に察せられ、鬼無子は咄嗟に自分の心情について言い繕った。
 慌てて口走ったせいかどうにも鬼無子らしからぬ言い方になったが、その事に気づかぬほど鬼無子は慌てていたという事だ。

「私に触るのに心の準備が必要なのか? 今朝までの君なら構わず私に触れていただろうに」

 素朴で朴訥な雪輝の疑問は、単純であるからこそ答えにくいものとなって鬼無子にぐうの音を挙げさせた。

「ぐう。あー、いや、まあそのですな。それがしも少々自分では信じ難い心の動きがあったと申しましょうか。一言では言い表せない事実に直面してしまいまして、少々普段通りとはいかぬ事態になってしまったのです」

「?」

「雪輝様雪輝様」

 太い首を捻って困惑する様子を見せる雪輝の尻尾を、不意にひなが握りしめて引っ張り、制止の声を掛ける。
 今度もまた理由は不明だが、鬼無子がなぜか雪輝に対して距離を置きたがっている事を、敏感に察したひなの配慮である。

「鬼無子さんを困らせてはいけませんよ。とにかくいまは鬼無子さんの仰る通りにしてください」

 ひなに対しては自覚があるのか無いのか盲目的な信従を示す雪輝が、自分の尻尾を握るひなと相変わらず仰け反った姿勢の鬼無子の二度三度と振り返る。鬼無子は、と言えばひなの言葉を肯定する様に何度も首を縦に振っている。
 我儘を言う子供を穏やかに諭す母の瞳をしたひなと、縋るようにひなを見つめている鬼無子の様子から、このまま自分が鬼無子に迫るのは良くない事だと、ようやく納得した雪輝は、申し訳なさように耳と尻尾をしょんぼりと垂らして乗り出していた体を元に戻す。

「すまぬな。気の利く様に心掛けてはいるのに、結局君を困らせてしまうとは」

「いえ、いつものそれがしに戻っていたならば、喜んで雪輝殿の提案を受け入れたのですが、まあ、あの、そのぅ、ちと口にし難い事情がありまして、雪輝殿が気を落とされる事はありませんよ」

 ほっと息を吐く鬼無子の様子に、雪輝はひなの言葉が正しかった事を悟り、ううむ、と自分の思慮が及んでいなかった事を認識してやや消沈する。
 その雪輝の大きな頭を、よしよしとひなの小さな手が撫でて慰めはじめた。
 ひなの手が何度も雪輝の頭の上で往復してゆくにつれて、気落ちしていた雪輝も元気を取り戻して、しょぼくれていた尻尾がゆらゆらと左右に嬉しそうに揺れている。
 その様子を姿勢を正して見ていた鬼無子は、胸の内に嫉妬に類する様な感情が全く発生しない事を確認し、やはり雪輝殿に対して恋心を抱いているというのは単なる勘違いだったかと首を捻っていた。
 そのままじっと雪輝とひなとを見つめていると、鬼無子の視線に気づいた雪輝が鬼無子を振り返り、蒼い満月の瞳で見つめ返す。雪輝の頭を撫でていたひなの手は、雪輝の首筋の辺りに移っていた。

「やはり触るかね?」

「え、あ、いいえ。け、結構でございます」

「おかしな鬼無子だな」

 何でもない、と思った矢先に雪輝と視線が絡み合うと、途端に火が点いた様に頬が熱くなり、急速に心臓の鼓動が勢いを増して心音が煩いほどに忙しくなる。
 雪輝の瞳に自分だけが映っている事実が、甘く鬼無子の胸をときめかせていた。
 かろうじて表には出さずに済んだが、自分の気持ちを認めざるを得ない現象に見舞われて、鬼無子は内心で愕然とした驚愕に固まる。
 ひなと雪輝が触れ合っても別に嫉妬を覚える様な事はないというのに、そのくせ雪輝に見つめられると体の奥の方に火がつけられたように熱くなって、瞳を見つめ返す事が出来なくなってしまう。
 これだけの事実が積み重なれば、いかに恋愛経験皆無の鬼無子といえども否応にも認めざるを得なくなってくる。

(やや、やはり、それがしは、雪輝殿の事を一人というか一頭というかともかく、殿方としてお慕いしている、のか!?)

 ひなは雪輝の事が好き。雪輝もひなの事が好き。それだけなら何の問題もなかった。しかし、そこに鬼無子も雪輝が好き、という一文が加わると、これは問題が大いにややこしくなる。
 もっとも当人である鬼無子は自分の気持ちに気づいてしまった事に対する困惑に襲われていて、そこまで考えの及ぶ余裕は全くなかったが。

<続>

頂いた感想へのお返事です。

通りすがり様

いきなりな展開で申し訳ありません。おそらくは皆さんが気付いていたであろう夢オチではありました。IFの鬼無子ルート孕みというかひなも孕んでいるので、鬼無子主体のハーレムエンドというべきかもしれません。

taisaさま

誤字脱字の指摘などありがとうございます。
>もしひなに精を与える様な事になったら、それはもう溺れるほどの愛情を込めるである事は想像に難くない。
注ぎすぎて破裂させたりしないよーに(汗)。

犬は30分は出すらしいですから、本当に物理的に破裂しかねませんからね。場合によってはひなの全身を濡らすことになるかもです。

>「雪輝殿の子を欲しいと言ったのはひなであったのに、まさか先に子を孕んだのがそれがしであったとは、いかなる運命の皮肉かな」
寝取られ!? と思ったら夢オチ(安堵)

寝取られというかまとめていただかれてしまいました。

>妊娠中の安定期に入るまでの間も散々雪輝に開発されてしまったからだが随分と夜泣きしたものだが、その時はその時なりの方法で雪輝とひなが慰めてくれたのでなんとかなったが
どういう方法でひなが慰めたんだろう? まさか百合百合な方法……(汗)。ま、まあ、夢だし。

百合百合もありではないかと思うこの頃です。ほんのつい最近までダメだったのですが、いつのまにかありだなと思える様になっていました。

マリンド・アニム様

鬼無子本人はべつに淫乱とかそういうわけでは無いのですが、体つきと感度が良いのでどうしてもそういうエロス担当になってしまうのです。次に目指すべきは、なんでしょう? 触手ですかね? 
そしてわかっておられる。○乳はステータスなのです。なのでひなは数年経過しても貧○なのです。小学生高学年~中学生くらいの年齢ですけども。
羽衣狐様は女子高生姿も素晴らしいですが狐耳装備の初代も素敵だと思います。尻尾をにぎにぎしたいです。

ヨシヲさま

正直、この展開なら終わりに出来るなあ、と脳裏によぎったものがありました。一応週間PVが1000切るか感想がひとつもいただけなくなったら、一度見直さないとな、とは思っております。
カルラ的なキャラクターは私も必要性をひしひしと感じているのですが、話の都合上出てくるのはもう暫らく先なのです。天然な所のある鬼無子ですからからかわれる事でさらに生きてくるとは思っているのですが、少々組み立てを間違えたかもです。

天船さま

鬼無子なら本当に体を張って教えかねません。そういうどこかずれた所のある人物ですので。雪輝も同席したいといいかねないのが問題点ですね。仰られているとおり、その通りでない夢なら適える事が出来るかもしれないので、そこが要点ですね。副題の血生臭さはきちんと表現してゆくつもりですのでご期待いただければ幸いです。


雪輝はモテ獣の称号を手に入れた!

ロリ獣姦ものからロリ百合巨乳武士娘3P獣姦になるかもしれないでござるの巻でした。どうしてこうなった。設定集もちょこちょこ加筆しておりますので合わせてお楽しみくださいませ。
ほのぼのが続いた分、私の好きな菊地秀行先生の魔界行や魔王伝ばりの血塗れの切ったはったエロバイオレンスが書きたい衝動がむらむらとしております。雪輝と鬼無子には気の毒ですが、今回も苦労をかけることになるかと思います。
それではお読みくださった皆様とご感想をくださった方々に格別の感謝を。ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。



[19828] その七 前夜
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/12/13 08:54
その七 前夜

 冷たく心地よい秋の風が頬を撫でた。
 つい先日までの熱湯の中に放り込まれているのかと錯覚するほどの、暴力的なまでの熱は遠い旅路の果てに出て、いまは外気に晒した肌がぶるりと震えてしまう冷気が親しい隣人となっている。
 遊んでおくれよとようやく順番の回ってきた秋の精霊が、人恋しさに頬や耳に悪戯っぽく触れて誘っているのかもしれない。
 黄ばんで枝から舞い散った木の葉を巻き込み、くるりくるりと秋風が渦を巻いているのは、その風に毛筋ほども注意を払おうとしない佳人のあまりにつれない態度に対して拗ねているのだろう。
 濡れ滴るような月光が人の形に凝縮し、仄暗い闇夜にうっすらと輝きを放つ美女と化したかの如き美貌――四方木鬼無子である。
 悪夢とも幸福な夢ともつかぬ幻夢に悩まされた果てに、自分自身でも気付かずにいた恋慕の情を自覚して止まぬ胸の動悸に襲われてから、数刻が経過している。
 自分の心に不意を突かれて、雪輝達と暮らし始める前の自分からは信じられない動揺に襲われたのを、雪輝がひなと戯れるのに夢中になって深く追求してこなかったのはせめてもの救いだった。
 様子がおかしいがどうかしたのか、と聞かれて、雪輝殿の事が好きだと気付いたからです、などといかに嘘と隠し事の出来ない性分の鬼無子であっても素直に言えるわけもない。
 なにしろ自分の初恋の矛先が狼の妖魔に向けられている事に気づいてから、一刻も経過していなかったし、いかに妖魔と人との恋愛や婚姻に理解のある鬼無子といえども、自分が狼の外見をしている相手を異性として捉えるというのは、精神の均衡を保つには難しいものがあった。
 赤くなり熱を孕んでゆく頬、豊かに過ぎる胸乳の奥で激しさを増す心臓の鼓動、雪輝を見つめる瞳は縫いつけられたように視線を固定し、一方で雪輝の瞳にこちらを見つめられれば、胸を切るような切なさと羞恥の念で胸が一杯になってしまい、見つめ返すことさえできない。
 かつてない荒波に揉まれる自分の心の海を、なんとか凪いだものに変える事に成功してから、いまはいつもひなが洗濯や魚を取りに来ている川に皆で出かけている。
 時刻は陽光が傾き始めるほんの少し前。
 日差しを満身に浴びて、鉄灰色の羽織を纏うしなやかな鬼無子の影が、川辺に長々とその影を伸ばしている。
 蒼い組紐で首筋の後ろで纏めた栗色の長髪が、あるかなきかの風に揺れていた。
 大の大人が六、七人ほど目一杯に手を伸ばせば抱え込めるような巨岩が、鬼無子の前に鎮座している。
 鬼無子は半眼に瞳を開き、腰帯に佩いた三尺二寸三分の愛刀崩塵の柄に、花を手折るのが精いっぱいなのではと訝しむ位に細く美しい繊指を添えていた。
 目の前の動かす事も馬鹿馬鹿しく思える巨岩を斬るつもりなのであろう。
 常人が目にすれば一笑に伏すか、呆れたまなざしを向ける所業であるが、これを行うのが鬼無子となるとこれはさしたる難事とはなりえない。
 元より色街の太夫と大差のない細腕でありながら、暴れ狂う猛牛や巨熊をやすやすと片手で縊り殺せる膂力の持ち主である。
 雪輝と同居暮らしを始めてからはその妖気の影響を受けて、鬼無子の体内の妖魔の血も活性化し、さらにその身体能力は日に日に向上している。
 剛力の主を百人力と例える言葉があるが、鬼無子の場合はこれが比喩でも何でもない状態にあると言っても過言ではない。
 純粋な身体能力に加えてほぼ年齢と等しい年数を人外の妖魔や亡者を相手に命と魂のやり取りをした経験から、心と技の方も超の一文字が着く一流の域にある。
 岩の一つ二つ、斬って見せる事など鬼無子にしてみれば豆腐を斬るのとそう大差のない事であったろう。
 鬼無子は血で染めた赤い桜の花びらを幾枚も重ねて形作ったとしか思えない美しい朱唇から、紙縒りの様に細くした息を吐いた。
 撓めた細腕に込めた力と技術の解放を前にしての必要最低限の脱力が、鬼無子の全身の筋肉の瞬発力を最大限に引き出す。
 崩塵の柄に添えられていた鬼無子の繊指が動いた。
 この世ならぬ邪悪な妖魔の因子を孕む細胞と、ひたすらに闘争に明け暮れ続けた一族の歴史が培った戦闘技術が可能とする剣速は、呆気なく音の壁を切り裂いて銀刃は灰色の巨岩へと迸る。
 抜刀から振り抜いた姿勢に移るまでの過程が一切合財省かれた様な、筆舌に尽くしがたい超音速の一振りだ。
 小さく、かっ、という硬質の物体が断たれる音が短く鳴り響き、巨岩のみならず斬撃の延長線上に生えていた欅やブナを、真空の刃が纏めて両断した。。
 音の数倍の速さで振るった崩塵の刃応えに小さく満足し、鬼無子は振り抜いた崩塵が大気との摩擦によって加熱し、赤熱しているのを見て、冷却のために数度軽く振るう。
 鬼無子からすれば何という事はない、それこそ手を挙げて挨拶する程度の行為に過ぎないが、それでも纏った鎧兜ごと人体を頭頂から股間まで骨と内臓を纏めて両断する一振りである。
 十分に刀身が冷めた事を確認してから、鬼無子は右手に崩塵を握ったまま左腕を伸ばして、緩やかに自分が斬った箇所の上部分を押し出す。
 擦過音と共に崩塵の斬閃が通り過ぎた後に沿って、岩が鬼無子の指に押し出されてゆく。
 徐々に露わになる巨岩の断面は何千回も何万回も磨き抜かれた鏡の様に研ぎ澄まされ、陽光を反射して眩いまでの無数の煌めきを放っている。
 在る程度押し出してから蓋の様に斬った岩の上部分を片手で持ちあげて、鬼無子はなるべく音を立てずに巨岩の傍らに置いた。
 軽く見積もっても二十貫以上はあるだろうに、鬼無子にとっては鍋のふたを持ち上げるのと大して変わらないようである。
 それからしげしげと残った巨岩の方に視線を巡らせて、ふうむ、となにやら呟きながら寸法を測る様にして観察し続ける。
 なにか家具を作る前の大工染みた鬼無子のふるまいは、実際その後の行為と照らし合わせれば、そう間違いというほどのものではなかった。
 とん、と軽く足元の砂利を蹴って巨岩の断面に飛び乗った鬼無子は、歪な楕円形を描く巨岩の内側に、崩塵の切っ先を突き込んで直径五尺ほどの楕円を刻む。
 対妖魔を想定して鍛え上げられた崩塵の切れ味は、精々包丁くらいしか手にした事のない女性に握らせても、簡単に石灯籠を二つにするほど凄まじいが、そう言った事情を知らぬ者が見たら呆気にとらわれる行いであったろう。
 豆腐か水を斬るように何の抵抗を受けた様子もなく巨岩の内側に楕円を刻み終えた鬼無子は、左腰の鉄鞘に崩塵を納刀しておもむろに五指を揃えた指を巨岩へと突き立てる。
 突き立てた指がぽっきりと音を立てて折れそうなものなのに、鬼無子の指は泥や砂を相手にしているように簡単に巨岩へと突きささる。

「ん!」

 そのまま鬼無子は自分の手を使って巨岩の掘削を始める。
 爪が剥がれ落ち、皮は破けて肉が覗き、骨が折れて痛みに襲われるのが当たり前であるはずなのだが、鬼無子は幼子が夢中で泥遊びでもするように巨岩に穴を掘り続けてゆく。
 腕の一掻きごとに驚くほど大量の砕けた巨岩が外に放り出されて、巨岩の周囲に掘削された石屑が山を築いている。
 そのまま作業を続けて瞬く間に目的に適した深さと広さになるまで指で掘削し続けてから、鬼無子は中腰の姿勢を正して一作業終えた達成感に口元を綻ばせる。
 清廉な人柄と武骨一筋に生きてきた愚直とも言える雰囲気が相まって、鬼無子の浮かべる笑みはそれを向けられた者の胸に、一服の清涼感を与える爽やかな春の風に似たものを持っている。
 後はこれを持って帰るだけだな、と一息吐いた鬼無子は川下の方からこちらへと近づいてくる物体に気付いて、そちらに黒い視線を向けた。
 それは、少々奇妙な光景であった。
 鬼無子が形を整え、内部を掘削した巨岩に匹敵する大きさの岩が、一定の調子でこちらへ向かって近づいてきている。
 たとえば其れが山肌の崩落によるものであったり、鬼無子いる側が坂の下に位置し、岩が転がり落ちてくるというのなら、まだ在りうる光景ではあったろう。
 しかし、鬼無子に向かって迫ってくる岩は速度が一定でまるで変化がなく、また傾斜で言えば鬼無子のいる側の方が上側になる。
 となれば岩が鬼無子のいる側に向かって迫ってくるというのはいささかならず奇妙な事だ。
 鬼無子のいるこの場所が妖魔の住まう魔性の山である事を考えれば、岩それ自体が年月を経て妖魔と化した存在であってもおかしくはない。
 ただ鬼無子に特別警戒しているような様子は見られない。この川辺が雪輝の縄張りの中である事を除いても、肩から随分と力を抜いている。
 それでも殺気の成分をわずかなりとも感じれば、即座に精神と肉体が戦闘体勢を取るのだから、この女武者がその身に宿す業も相当に根深い。
 鬼無子は警戒態勢を取る代わりに若干視線を彷徨わせて、所在なさげにしはじめる。
 その理由はすぐさま知れた。近づいてくる岩を仔細に観察すれば、岩が地面から浮きあがっており、岩と地面との間に白銀の毛皮に包まれた狼の四本の肢とその後ろでぷらりぷらりと揺れる尻尾が覗いている。
 更にはやや下がった位置に艶やかな黒髪を長く伸ばし、見事なまでの大輪の花を咲かせるだろう美貌の片鱗を覗かせる少女が一緒であった。
 数千とも数万とも言われる膨大な数の妖魔と、山の民と呼ばれる多種多様な特殊な技術を持つ民族が住まう妖哭山といえども、白銀の色彩に飾られた狼と、その狼に寄り添う人間の童女の組み合わせはたったひとつしかない。
 鬼無子の同居相手にして、心中では家族として慈しんでいるひなと、つい数刻前に恋する相手と気づいてしまった雪輝であ
る。
 はにかんでいる様にも困っているようにも見える複雑な表情を浮かべていた鬼無子だが、とりあえず巨岩から降り立ち、こちらに向かってくる雪輝とひなを迎える事にした。
 鬼無子に気付いたひなが手を振るのに、鬼無子もまた手を振って応える。
 やがて鬼無子のすぐ目の前まで来た雪輝は、自分の傍らに運んできた岩を置いた。
 置かれた岩を観察すればそこにいくつかの穴が並んでいる事に気付くだろう。雪輝が牙を立てて持ち上げて、ここまで運んできたのである。
 鬼無子も異常な腕力の主であったが、川下で見つけてきた百貫(約三百七十五キログラム)以上はあるだろう岩を、口に咥えて運んできた雪輝もおよそ尋常な生物とは言えない。
 よっこらせ、といささか爺むさい言葉一つを漏らして、雪輝は鬼無子の顔を真っすぐに見つめてくる。
 声質が二十代前後の青年である事を考えれば、いささか声の印象とは釣り合わない台詞であったが、この狼は時折ひどく年寄りめいたことをする癖があった。
 果てなく突きぬける青空の色にも、はるか彼方にまで広がる雄大な海の色にも見える瞳に見つめられて、鬼無子は頬だけでなく首筋や耳の先に至るまでゆっくりと熱くなるのを自覚した。

(昨日、いや、今朝方までだったら雪輝殿に見つめられても何ともなかったというのに。自覚した途端にこれとは。それがしも分かりやすいというかなんというか。やはり……それがしは雪輝殿の事が好きなのだな)

 ここまでくると相手が狼の妖魔であり、自分の抱いた感情の行き着く先が場合によっては異種間での婚姻である事への道徳的な抵抗感も、瑣末な事の様に思えてくる。
 いくら鬼無子でも頭を冷やせば、少しも瑣末なことではないと考え付くだろうが、ひなの雪輝への慕情と子を為したいと言う願望の告白、自分もまた雪輝への愛情を自覚、と立て続けに起きた衝撃的事実に、鬼無子の神経も相当に参っていて、多少判断能力が落ち込んでも仕方のないことだろう。
 はあ、と恋煩いを理由とする思い溜息を鬼無子は一つ吐いた。
 どれほど悩んで理屈づけようとしても心というものは、思うようには行かない不自由なものなのだということを、実感している程度には鬼無子も人生経験を積んでいた。
 苦笑する鬼無子に雪輝が声を掛けた。のほほんとした声の響きからは、鬼無子の心中の葛藤と決着には気づいた様子は聞き取れない。
 鬼無子やひな、凛との関わり合いの中でそれなりに学習はしていても、雪輝はいまだ人の感情の変化に気付く事は出来ても、その理由を察せない段階のままなのである。

「愉快な事でもあったかね」

 自分が雪輝に惚れている、と改めて認めた事で少しは肝が据わった様で、鬼無子はそれまで見つめ返す事の出来なかった雪輝の瞳を見つめ返し、雪輝の青い瞳の中に映る自分を見た。
 こんな風に笑えたのだな、と自分でも思うほど、どこまでも柔和な笑みだった。惚れた相手に見せる笑みとしては、上出来と言っていいだろう。

「いいえ。せっかく持ってきていただいた岩ですが、丁度いましがたそれがしの方で良い具合のを作り終えたものでございますから、少々申し訳なく」

「ああ、そうだったのか。なになに、気にする必要などなかろうよ。ならばせめてそちらの岩を持って帰ることくらいは私がしよう」

「かたじけない。よろしくお願いいたします」

 よし、普段通り応対できたな、と鬼無子は自分を褒めてあげたい気分だった。
自分の素直な気持ちを認めた事である程度腹を括る事は出来たのだが、今までの様に極自然に接するのは、まだ鬼無子には難しいらしかった。
 鬼無子の背後の巨岩に歩み寄った雪輝は、ここまで岩を運んで来た時と同じ要領でその大きな口を開き、噛み易い位置を探してからぐっと噛みつく。
 崩塵がいとも容易く斬ったように雪輝の牙もまた、何の抵抗を受けた様子もなく巨岩を貫き、心持ち下げられていた雪輝の首が持ち上がるのに合わせて巨岩も浮き上がる。
 鬼無子とひなを振り返ろうとし、そうしたら二人に持ち上げた巨岩がぶつかりかねないと途中で気づいた雪輝の首が止まる。
 中途半端な姿勢のままで雪輝が何か言おうとしている気配に気づいたひなが、鬼無子の左手の袖を掴みながら代弁する。
 ひなは視線を交わして会話するのみならず、雰囲気や仕草で雪輝の言いたい事や意図する所を正確に把握できるようになっていたようだ。

「今日はもう戻りましょう。お魚もたくさん採れたんですよ、ほら」

 そう言ってひなは魚籠を握っていた左手を持ちあげて見せる。中に活の良い魚が居る証拠に、時折魚籠が内側から揺らされている。
 そのまま抱きしめて撫で回したくなる、庇護欲を大いに刺激する笑みを浮かべてこちらに向けるひなに、鬼無子は満面の笑みを送り返して、自分の着物の左袖を握るひなの小さな手を改めて握り直す。
 飢餓に見舞われていた頃とはまるで別人の柔らかで暖かな肉を纏ったひなの手を、剣士ではなく琴の弦を爪弾くために生まれてきた様な鬼無子の染みも傷も一つとしてない手が包み込む。
 掌中に飛び込んできた羽の傷ついた小鳥を抱く様に優しく暖かく。それはどこまでも慈愛に満ちた挙措であった。
 無償の親愛を自分に注いでくれる鬼無子の事を、ひなは姉の様に母の様にも慕っていた。
 どこまでも優しい鬼無子の手をきゅっと握り返して、ひなははにかんだ笑みを浮かべる。

「鬼無子さんの手はとっても暖かくて優しくって、お母さんみたいで、私、大好きです」

「はは、嬉しい事を言ってくれるな。ひなの御母堂に似ているというのは、これ以上ない褒め言葉だよ。ひなの手も小さくて愛らしくて、それがしは大好きだよ」

「まあ、ありがとうございます」

「わふぁひも、ふひゃりがらいふひだよ」

 と、仲の良い姉妹然とした雰囲気の二人を見守っていた雪輝が、なにやらあやふやな発音で何事かを口にする。
 ひなには一歩譲るものの雪輝の言動に対する理解を深めている鬼無子にも、これは何と言っているか分かった。
 その意味が分かり、鬼無子は再び頬を赤くした。恋愛的な意味合いでの言葉ではないと分かってはいるのだが、どうしても言葉面を正直に受け止めてしまって反応してしまう。
 雪輝は鬼無子とひなに対して

「私も、二人が大好きだよ」

 と口にしたのである。
 雪輝の言っている事が分かったひなも、鬼無子同様に頬を赤らめて喜びと幸せという言葉の似合う笑みを浮かべた。

「雪輝様、私も雪輝様の事が大好きでございますよ。鬼無子さんも、ね?」

「え!?」

 ひなの悪気のない言葉が見えない矢となって、ぐさり自分の心臓を射抜く音を、鬼無子は確かに聞いた。
 ひょっとして人の心に敏感なこの愛らしい少女は、自分が雪輝殿を慕っている事に気付いたのだろうか、と鬼無子は不安と焦りに駆られる。
 同じ男を好いた者同士という事で、鬼無子の様子の変化に勘づいていたとしてもおかしくはないだろう。
 ひなの性格を考えれば例え鬼無子がひな同様に雪輝の事を好いていると分かっても、少し困った顔をするくらいで、特に何か文句を口にする様な事はないだろう。
 しかし鬼無子が恐れているのは、ひなに嫌われてしまうかもしれないという事もあるが、それ以上にひなの心を傷つけてしまう事だ。
 苗場村にいた頃の暮らしでこれ以上ないほどに小さな体と心を痛めていた少女が、ようやく手にする事が出来た安寧と恋心を脅かすような事をしたくないという思いが鬼無子の胸の中に大きくある。
 老い先短い――いや、老いるほどの時間さえも残っておらず遠からず命の尽きる鬼無子と違い、ひなはこれから何十年もの時間を雪輝と共に過ごす事ができる。
 そのひなにこれからの未来を幸福に生きて貰うためにも、鬼無子は自分の所為で要らぬ傷をつけるわけにはゆかない、と硬く考えていた。
 たとえ心が泣いていてもそれを必死に堪えて表には出さないのがひなという少女だ。
 なにが切っ掛けでその心を傷つけているか分かったものではない。
 自分の恋心を見透かしたうえでの発言かどうか戸惑う鬼無子にとって、不意を突くにもほどのあるひなの言葉に一瞬全身を強張らせたが、それを雪輝とひなが不信に思うよりも早く、精神と表情を繕う事に成功する。
 血飛沫の舞う修羅場をくぐり抜いた精神力が、電光石火での立て直しにかろうじて間に合わせたのである。

「んん、そうだな。雪輝殿のご気性はそれがしにとって……うん、非常に好もしいし、もふの極みと言って良い毛皮の感触も、大変素晴らしいからね。うん、まあ、うん」

「鬼無子さん?」

 表面上はいつもと変わらぬ落ち着きはらった微笑を浮かべている鬼無子であったが、心の整理が着いていないようで、艶やかな朱色の唇から出てくるのは支離滅裂な言葉の連続であった。
 はっきりと言う事がよほど躊躇われる様子で、口籠り続ける鬼無子ではあったが、いつまでもこうして誤魔化し続けても埒が明かないと悟ったか、自棄になってしまったのか、鬼無子ははっきりと雪輝の瞳を見つめて、声を大にして宣言した。
 ええい、と吐き捨ててから

「ああ、そうだとも。ひな、それがしは雪輝殿の事が大好きだ!」

 大好きだ、の『だ』の残響が辺りの木々に広がる中、言い放ってから鬼無子は盛大な羞恥の念とやってしまったという思いに心臓を握り潰されて、頭を内側から爆ぜられるかのような気持ちに陥った。
 宣言するまでの流れを考えれば鬼無子が雪輝に対して恋慕の情という意味で、大好きだと言ったわけではないと受け取れるが、そこまで考える余裕がようやく恋心を自覚したばかりの鬼無子に在る筈もなく。

(い、言って……しまった。ふ、不覚。穴があった入りたい気分だ……ああ言ってしまった言ってしまった。いや雪輝殿の事が大好きというのは嘘ではないのだがだからといってこんな状況で宣言してどうするのだそれがしううううううううう今更聞かなかった事にしてくだされなどと言えるはずもないではないかぁ!)

 前職にあった時に死闘で精魂尽き果てて瀕死の体に陥った時に勝るとも劣らぬ勢いで精神を追いこまれて、鬼無子はがっくりと項垂れていた。
 よりにもよってひなも居るこの状況で自棄に近い感情に流されるままに、暴露めいた形で自分の初恋を告白してしまった事に、鬼無子は塩の柱にでも変わってしまった様に微動だにしない。
 そんな鬼無子の様子は、幸いにして岩に牙を突き立てて持ち上げていた雪輝には見えなかった。

「でふぁゆおう」

 では行こう、と言ったのだがいささか締まらない。とはいえそれも雪輝らしいといえば雪輝らしい。どこか間の抜けているのがこの狼の持ち味と言えば持ち味なのだから。

「鬼無子さん、行きましょう」

 雪輝が巨岩を咥えたままいそいそと歩き出すのにつれて、ひなも愕然としている鬼無子の手をひっぱり声を掛ける。
 鬼無子はうん、と迷子になった所を保護された小さな子供の様に頷き返して、ひなに引っ張られるがままについていった。
 ひなは鬼無子がまた妙な様子になっていた事に気づいてはいたが、今日はずっとこんな調子だから気にしないでおこう、と思っていた。
 鬼無子の危惧と違い、ひなは鬼無子の恋心についてはまだ気づいてはいないようだった。



 わざわざ巨岩を斬り裂き指で掘削して形を整えて樵小屋に運び込んだわけは、夕闇が訪れてから知れた。
 普段であれば竈の並ぶ土間の一角に盥が置かれる所にでんと巨岩が置かれて、抉られた内部には白い湯気をもうもうと噴き上げる大量のお湯が波々と満たされている。
 いままでは大きめの盥を二つ並べて鬼無子とひながそれぞれ湯を張った盥に身を沈める形で湯浴をしていたのだが、どうせ湯浴をするのならもっと広々とした浴槽を用意しよう、と鬼無子が数日前に発案したのが事の発端である。
 その鬼無子もまさか自分の恋心を自覚した矢先に浴槽の用意をする羽目になるとは思わなかったが。
 例によって雪輝が樵小屋の外でひなと鬼無子の風呂が済むのを待っている間、ひなと鬼無子は生まれたままの姿となって岩風呂の中にいた。
 雪輝の加熱能力を応用して一切薪を使わず、瞬時に水をお湯へと沸かす事が出来るようになったのは、思った以上に便利だった。
 料理にしろお湯を沸かすにしろ部屋を暖めるにしろ雪輝の異能は日常のあらゆる場面に置いて、非常に役立っている。
 樵小屋の一同の大黒柱であると同時に、愛玩動物めいた位置に落ち着いていた雪輝であるが、ここ最近では湯沸かし器のような役割も追加されていた。
 相当の分量の水が必要になるのだが、これには雪輝が水を凍らせて持ち込み、それを岩風呂の中に淹れてから溶かせば、あっという間に必要量のお湯が確保できるわけだ。
 鬼無子好みの熱い位のお湯の温度は、陽に焼けたひなと真白い鬼無子の裸身をうっすらと桜色に染め上げている。
 お互いに足を延ばして向かい合うように岩風呂の中に腰かけて、ひなと鬼無子は冷えていた体を温める湯の心地よさに、気の抜けた様子で頬を緩めている。

「盥も悪くなかったが、やはり足が伸ばせると随分と楽になるな」

 風呂好きなこともあって嬉しそうに呟く鬼無子に、ひなが同意した。

「はい。お湯も雪輝様のお陰ですぐに用意できますし、これからの季節には重宝しますね」

 手拭いで耳の裏や頬を拭いながら、ひなは健康的な桜色に染めあがった顔で言う。

「雪輝様は暑さや寒さを感じないそうですが、こんなに気持ち良いのだから、一緒に入ってくださるようにお願いしようかな?」

 雪輝がこの場にいない事が心底残念な様子でひなの呟いた言葉に、鬼無子は思わず噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。
 精々手拭いと湯けむり位しか身を隠すものの無いこの状況に雪輝が来たら、自分の裸身を思うさま見られてしまうではないか!
 以前、凛も一緒に川で水浴びをした際に裸身を晒した時に、大中小と評価されて以来、鬼無子にとって雪輝の視線は、心の奥底の方に埋もれかけていた女を意識させられるものになっている。
 ひなは自分の裸を見られる事に対してはまるで気にした様子はないのだが、それをされると鬼無子は堪ったものではない。
 恋心を自覚する前でも大中小の一件以来は、雪輝相手に生まれたままの姿を晒すのは可能な限り避けていたのだが、慕情を認めたいまの鬼無子にとっては尚更受け入れられないひなの提案である。
 惚れた相手に裸身を晒す事への恥じらいを中核とした抵抗感は、理由が単純であるからこそ堅固なモノとなって鬼無子の心の中にあった。

「雪輝様のお背中を流してあげたら喜んでくださいますでしょうか?」

 ひなにとっては父親の背中を流すのと恋い焦がれる相手の背中を流すのを合わせたような感覚なのだろう。
 恋愛としての意味合いでの愛情を雪輝に向けているのも確かだが、同時に父親や年の離れた兄に向ける家族愛も、雪輝に向けているのは確かだ。

「え、ああ、うむ。雪輝殿ならなんにつけひなに何かしてもらえれば喜ぶだろう。心底ひなの事を大切にしていらっしゃる方だし、構ってもらいたくて仕方のない甘えたがりの所もある様に見受けられるしね」

 雪輝ならひなの誘いにホイホイと応じて、にこにこと笑みを浮かべながら岩風呂の中に入るなり背中を流してもらうなりするのは明白である。
 なにしろ自分の存在理由がひなの幸せを守るためにある、と心底考えるようになっている位だ。

「雪輝殿と一緒に入るのならその時はそれがしは席を外しておく事としよう」

「鬼無子さんは一緒にお入りにならないのですか?」

 寂しそうに言うひなの声と顔に鬼無子は罪悪感を大きく揺さぶられたが、意見を曲げる事はしなかった。
 怪我の治療の時などはともかくとして、いかんせん私生活で殿方に裸身を晒した経験は鬼無子には無い。
 湯船の中に長々とたゆたう栗色の髪に湯の滴を纏わせて、鬼無子は穏やかな笑みを浮かべたまま細首を横に振るう。

「二人の邪魔をしては悪いからね。それに、正直に言うと雪輝殿に裸を見せるのはそれがしにはちと恥ずかしく思えるのだよ。だから雪輝殿と風呂に入ると言うのなら、ひなだけでお入り」

「鬼無子さんも一緒が良かったのですけれど」

「はは、まあ、流石にそれがしとひなと雪輝殿が一緒に入るのはちょっと無理があるだろうから、そのうちに、ね」

「残念ですけれど鬼無子様がそう仰るのなら、仕方ないですね」

 残念そうに笑うひなをそっと抱き寄せて、鬼無子は悲しむ幼子を慰める母の顔をする。
 まだ子を産んだ事もなければ男性と契った事もない鬼無子であったが、ひなという小さな少女は、鬼無子の中の眠れる母性を大いにくすぐる存在であった。
 湯面にぷかりと浮かび上がっている円やかな曲線を描く鬼無子の乳房に、ひなは抱き寄せられるがままに顔を埋めた。
 ようやく膨らみ始める前兆を見せているひなのまだまだ未成熟な蕾の身体と違い、鬼無子の身体はまだ二十歳を迎える前にして、成熟の極みに達したように豊かに実りを迎えている。
 片手では持ち切れないほど大きく張っている大きさの乳房、まるで絹の様な滑らかな肌触り、安堵を誘う人肌のぬくもり、そしてどこか乳のように甘い香りが白い乳肉からほのかに昇り立ち、その頂点に色づく淡い朱鷺色の乳首もひなには美しく見え、鬼無子の乳房はただそれだけでも一個の芸術品の様であった。
 未成熟な少女の青さと成熟した女の妖しさとが混同した鬼無子の身体は、見た目の美しさと実際に触れた時の素晴らしい感触だけでなく、ただ触れているだけでもうっとりとした心地になるほどの快楽を誘う妖しさがあった。
 もとよりこれ以上ないほどに完成された美躯の持ち主である鬼無子だが、雪輝の傍らにいる事で妖気を受けて、体内に流れる数多の妖魔の血の中の一つ出る淫魔の血が活性化している。
 その影響を受けて鬼無子の身体はより妖しい美しさを増し、男のみならず同性であろうとも関係なく色香の煙に巻いて褥の中に誘い込み、淫らな性の快楽に狂わせるものへと成長し続け、淫らな魔と称される妖魔に相応しいものに変貌しつつある。
 さながら抗いがたい芳香を放って虫を誘いこむ食中花にも似て、いまの鬼無子は本人の意識していない所で、人間を誘いこまれれば二度と抜け出す事の出来ない淫楽地獄に落とし込む人型をした魔性の花にも等しい。
 普段は鬼無子の理性と精神力に加えて崩塵の霊力によって抑え込まれてはいるものの、いまの様に湯船に身を浸して心身ともに緊張の糸を緩めていると、体の中の妖魔の特性が漏れ出してしまうのだろう。
 幸いにしてひなは常に雪輝の傍らに居続けた影響もあって在る程度妖気への耐性を有していたから、鬼無子の身体から溢れる淫魔の気配を間近で浴びても、すこし頭がぼうっとして体の奥底がぽかぽかとしてきて、肉付きの薄い太ももを擦り合わせてもじもじとしてまうくらいである。
 まだまだ幼いひなの身体に性的な快楽を与えてしまうのだから、鬼無子の身体の中に流れる淫魔の力が、相当に強いものとなっている証拠だろう。
 鬼無子にそのような意図がなくともこれだけの影響力があるのだから、淫魔の力を意識して行使すれば、見つめられただけで男はたちまちのうちに股ぐらをいきり立たせて息を荒げ、女は小水を漏らしたように股間を熱く濡らして悶えるに違いない。
 いずれは視線ひとつ、指先ひとつで男も女も老いも若いも問わずによがり狂わせて、性の快楽のことしか考えられない肉人形に変えられるようになるだろう。
 だがそれは、同時に鬼無子が人間でなくなっていく事の証明でもある。
 鬼無子にとっては自分の身体がより豊かに淫らに、そして美しく変わっている事実は、喜びの念をわずかも喚起させない忌まわしい現実に過ぎない。
 自分がただ触れているだけでひなにまだ知るには早すぎる性の快楽を与えているとは知らず、鬼無子は溺愛する妹を抱きしめている微笑ましい気分であった。
 一方で未知の感覚に溺れそうになっていたひなは本能的な危機感に突き動かされ、朦朧としていた意識のままに、そっと鬼無子の身体から離れる。
 おや、と鬼無子は名残惜しげに自分から離れるひなに視線を送ったが、ひなは二、三度首を横に振るって、朦朧としていた意識をはっきりとさせる。

「ごめんなさい、湯あたりしたのか、少しぼうっとしてしまいました」

「そうか、少し湯が熱かったのかもしれないな。そろそろ上がろうか」

 そう言うや鬼無子はざばりと音を立てて立ち上がる。
 透明な湯の衣を纏った淫らな体は、姦淫の罪に溺れて地上に落とされた天女のごとく妖艶で、まだわずかに鬼無子の放つ淫気の影響が残っていたひなは思わず頬を林檎色に染めて、喉を鳴らして生唾を飲み込んだほどだった。
 鬼無子を見つめるひなの股ぐらが、湯以外の何かで濡れていたかどうかは、ひな自身にも分からぬ事であった。



 風呂を出て身体に纏う湯の名残を拭き取ってから二人揃って寝間着に着換えてから、外で待っている雪輝を中に呼び込む。
 いつもまだかな、と二人が湯浴を追えるのを待っている雪輝は、お呼びの声がかかるとすぐに小屋の中へと入ってくる。
 火照った体が冷える前に囲炉裏で燃えている火に当たり、雪輝のふっくらとした毛皮に包まれて、もふりもふりとその感触とぬくもりを楽しめば、秋の冷風はまるで気にならない。
 とはいえ食事を済ませ、就寝前の勉学を終えた後にいつもお風呂に入っているから、お風呂から出れば後はもう明日に備えて眠るだけである。
 雪輝の身体の感触を楽しみ、雪輝が暖房代わりになって樵小屋の中の気温に干渉して加熱させ、ほどよい温度まで温めるのを待ってから布団を敷く。
 以前に雪輝の毛皮を斬りとって造った布団は一式分だ。二人分を用意するにはいささか雪輝の体毛が足りなかったのである。
 もう一度雪輝の毛皮を斬れば二人分を用意するのは簡単な事であったが、二人と一頭はあえてそれをしなかった。
 というのも

「んん、今日も暖かいです」

 にこやかに告げるひなは布団の中にすでに潜り込んで横になった姿勢だ。そしてその右側に雪輝が横たわり、反対側にはひなと密着する形で鬼無子が布団の中に入っている。
 一つの布団をひなと鬼無子が、体温を分け与える様にして抱きしめあったままの体勢で使っているのだ。
 雪輝と鬼無子に挟まれた川の字で眠るのが、ひなは大のお気に入りだった。右手側には大好きな雪輝がすぐ傍にいて、反対側ではやはり大好きな鬼無子と体を寄せ合ってぬくもりを共有して眠る事が出来る。
 枕元の近くに置いた蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がるひなの笑みを浮かべた横顔に、鬼無子は同じように笑みを浮かべる。
 こうして一緒の布団で眠った記憶は、鬼無子の過去の中には本当に幼い時に父母と一緒に寝た時や、自分を姉と慕っていた従妹が我儘を言って布団に忍んで来た時くらいのもので、そのどちらとも優しい記憶だった。
 そしてひなを抱きしめて眠る今も。

(相変わらずひなの身体は優しいぬくもりに満ちている。しかし雪輝殿を挟んでの川の字でなくて良かった。正直ひなを挟んでいる今でも少々心臓に悪いというのに、すぐ横に雪輝殿が居る状態で同衾などしたら、それがしは一睡もできぬ)

 良かったと息を吐く鬼無子の反対側で、組んだ前肢の上に顎を乗せた雪輝が何気なしに口を開いた。

「そろそろ冬の備えを本格的にしないとならんだろう。なにか足りていないものはないのか?」

 生まれつき周囲の気温を適温に保つ事を無意識に行っていた雪輝にとっては、夏の灼熱も冬の氷雪もさして変わらぬもので、たいして苦労した覚えはないのだが、これがひなや鬼無子であったらそうもいかないことくらいは理解している。

「そうですねえ、そろそろ穀物にお塩とかが心許無いです。凛さんのご厚意で色々と融通していただいていますけれど、私達の方でも服や食べ物を別に用意した方がいいと思います。お肉や魚にお野菜を干したり、燻製にしたり、塩漬けにして長く保存できるようにはしていますけれど、初めての冬だから備えをして損と言う事はないでしょうから」

 首まで持ち上げた布団にくるまり、中では右を向いた鬼無子に抱きしめられたまま、ひなが言う。
 ひなが雪輝の方を向き、その後ろから鬼無子が抱きすくめる様な体勢である。
 鬼無子の右腕を枕代わりにし、鬼無子の瑞々しい肌の太ももがひなの足と絡み合い、鬼無子の股間をひなの小振りなお尻に後ろから押しつけて、鬼無子の左手がひなの腰にまわされている。
 横向きになって強調するかのように突き出される鬼無子のそれはそれは大きな乳房が、丁度ひなの背中に当たって、心地よい弾力と質感がひなの背中に伝わっている。
 鬼無子の身体から薫るかすかに甘い香りは、ひなの心を穏やかなものにする。
 入浴している時と違って、すぐ傍に雪輝が居る影響でわずかに緊張しているために、鬼無子の身体から淫気が発せられておらず、ただただひなは大好きな人たちとの触れ合いに喜んでいた。
 ひなの背中に乳房を、尻には腰を押し付けて抱きすくめる体勢になっている鬼無子が、ひなの頭越しに自分の意見を口にする。

「それなら一度山を下りて近場の町にでも買い物に出かけるのはいかが? 近場とはいえ旱魃の影響がありますから物価が高騰していますし、いくらか距離を置かねば満足にものも置いていないのが難でありますね」

 鬼無子が口を開く度にかすかに零れた吐息が耳の裏にかかるので、ひなはくすぐったいのを堪えなければならなかった。

「私には山の外の事はまるきり分からぬから、鬼無子だけが頼りだな。しかし金銭は大丈夫なのかね」

「そうですな。旱魃の影響があっても十分に物品が流通する地形で、なおかつ金子を用意できそうな町が、ここから北西にざっと二十里(約八十キロメートル)ばかりいった所にございます」

「二十里か。私の肢なら往復してもそう時はかからぬな」

 雪輝が妖気の制御に長けている事でひな達が受けられる恩恵は、冷却と加熱の異能ばかりではない。
 雪輝が自身の妖気を制御することで背中に跨った人間を保護する不可視の膜を構築し、雪輝がどれだけ早く駆けまわり、出鱈目な三次元てきな動きを行っても、ほとんど負荷のかからない様にする事が出来る。
 武人として人間の限界を忘れ去るほど鍛え上げた鬼無子はともかく、そうでもなければひななど雪輝がほんの少し本気を出しただけで、簡単に雪輝の背から放り出されてしまう。

「その町の近くに森がございますから、そこで雪輝殿にお待ちいただいて、それがしとひなとで買い物を済ませるのがよろしいかと」

「私、苗場村以外の所に出かけるのってほとんど初めてです。どんな所なんですか?」

 鬼無子の後ろから抱き締められた姿勢のまま、ひながかすかに後ろを振り向いて、わくわくとした顔で聞いた。
 これはしばらく質問攻めになるかな、と思いながら鬼無子はひなが満足するまで丁寧に答えてあげた。

<続>

>マリンド・アニムさま

どうしてこんなに素敵要素が増えたのか自分でもよくわかりません。不思議なものです。周囲にきちんとした大人の居る凛の方が、知識ばかりが先行している鬼無子よりも教師役としては適切でしょうね。説明する本人も赤面してしまいそうですが。
スライムといえば私にとってはバスタードでヨーコがガラにスライム責めにされるのが初めてのことでした。あんな感じで半溶けといったところですかね。スライムとかゼリー系の触手は大丈夫なのですが、カラフルなのは苦手な私なりに検討させていただきます。ご意見ありがとうございます。

>ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!
素敵なご挨拶をありがとうございます。鬼無子は好き、という感情は認めたのですが、それを表に出してよいのか、という点で悩んでいる所ですね。
あとは目隠しや言葉責めがほどよいソフトなのか、鞭やら蝋燭やら三角刑の木馬が大好物のハードなほうに目覚めるのかが、鬼無子の大問題です。

>taisaさま

夢の4P……非常に心惹かれる単語ですね。実際に後一歩という所ですし。
しかし

>それとも、さらにこの山にツンデレお嬢様とかが迷い込んで一騒動を起こすのか(笑)。

これにはドキリとさせられていたりしなかったり……。

>Galeさま

ご購読ありがとうございます。貴重なお時間を割いてた抱き、光栄の極みです。とりあえず一話あたり最低でも一万字以上を目安にしておりますので、楽しんでいただけたのなら幸いでございます。
もうお休みになられるとのことでしたので、遅ればせながらあまり夜更かししてお体を悪くされませぬよう、お祈り申し上げます。




鬼無子の美人・巨乳描写は多く行ってきましたが、これは実際に鬼無子の体が淫魔の影響を受けてより豊満で淫らなものになっているからです。
このまま行けばうまれたばかりの赤子だろうと枯れ果てた老人であろうとも、触れるだけで強制的に絶頂させ続ける大淫婦になってしまうのが、いまの鬼無子の状態です。
少々路線を間違えているような気もしますが、元の伝奇ものらしくできるよう修正していこうかと思います。
ではでは誤字脱字の指摘やご感想ご忠言お待ちしております。読んでくださった皆様とご感想を下さった皆々様に感謝を込めて、ありがとうございます。


12/12 14:01投稿
12/13 08:50taisaさまにご指摘いただいた誤字や脱字など修正。



[19828] その八 外
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/12/22 08:50
その八 外

 妖哭山は織田家支配下にある神夜国中部地域の、さらにその中央部にて異様な外観を誇る山脈の裾野を広げ、国中に悪名を轟かせている。
 人体に例えると神夜国という肉体の臍とでもいうべき位置に存在している。
 神夜国の地下や地表、上空を網の目の様に張り巡らされて、絶えず循環している惑星の血管に相当する気脈が、圧倒的な濃度と純度を持って結集する特殊な地の一つであり、それゆえに他の地域とは比較にならぬほど数多の妖魔が集っているとする説もある。
 本来であれば気脈の交差する集合地点は、世界そのものの生命力に満ち溢れて大地が大変滋養に富み、大小無数の生命を育む場所となるのが通例である。
 ごく稀に漏れ出た豊潤な生命力の恩恵を受けて、特異な能力や身体能力を得た人間や、異常に巨大化した生物の発生、雪輝の様に天地万物の気の集合体たる生命が生じやすい環境でもある。
 しかしながら妖哭山から三里ほどと、そう遠いというわけではない苗場村が、気脈の恩恵を受ける事もなく、近年は人間のみならずあらゆる野の獣や、大地そのものがからからに干からびていたように、妖哭山はその説に異を唱える異端の地としての面を備えていた。
 周囲に恩恵を齎すはずの気脈の流れを、まるで底の無い壺に水を注ぐようにして貪欲に飽きることなく飲み干して、周辺地域に一切その余剰分である気脈の生命力を分け与える事をしていないのである。
 まるで妖哭山それ自体が巨大な生物であり、邪悪な意図を持って自分以外の大地全てを拒絶し、嫌悪しているかのようでさえある。
 雪輝やひな達は知らぬ事であるが、多少なりとも陰陽道や風水の知識を持っていた鬼無子が初めて訪れた際に、妖哭山の極近隣地域と近くの村落とのあまりの違いから、学んだ知識にまるで当て嵌まらない異常な環境に驚いた事実がある。
 その異常な環境の一例として、菱形の山頂を有する妖哭山を中心に半径一里あまりの一帯は、連日連夜の豪雨や数年以上も続く旱魃であろうとまるで外の世界の異変を知らぬ様子で、如何なる生命も存在しない黄塵吹きすさぶ不毛の大地が広がっている。
 おおよそ半径一里の辺りを厳格な境界線として、緑の絨毯と赤茶けた剥き出しの大地がくっきりと色彩を別にしている風景は、超自然的な存在の意思が働いているかのような、神秘さと怖れを抱かせるものだ。
 荒涼漠然としたその一帯は、妖哭山の内側に蠢く生命に対する反存在とでも言うべき凶悪無比な妖魔達を隔離するために設けられた空白地帯と思える一方で、善神か悪神の人知の及ばぬ壮大な意図を持って行われている実験場に、外部から余計な異物が入らぬようにその環境を保護されているようでもある。
 だが皮肉にもと言うべきか妖哭山の異常なるを、魑魅魍魎跋扈するこの山に生まれ育った妖魔達自身は知らず、外の世界との接点を有する山の民や、外部から訪れた鬼無子の様な来訪者ばかりがこの世のものと思えぬ異常を知るばかり。
 なぜ妖哭山の内側に住まう妖魔共は互いを食らい合い殺し合う事にのみ執心し、その欲望と殺意を外へと目を向ける事をしないのか。
 なぜ妖哭山は気脈の集合地点としての通説を嘲笑うかのように、大地そのものの命を貪る餓鬼のごとき特性を有しているのか。
 妖哭山という命の価値があまりにも安いに過ぎる舞台の上で、生と死と破壊と鮮血に塗れた演目に興じる役者である妖魔達は、その事に何の疑問も抱いた事はなかっただろう。
 自分たち自身の命を賭して演じる終わりのない凄惨な殺戮喜劇が、何を目的として繰り広げられているのかを。



 それは、白銀の毛皮を纏う巨大な狼も同じであった。
 二人と一頭で川の字になって、雪輝だけが知る生命への悪意と共に風雪の吹き荒れる妖哭山の白魔と化す冬に備えるべく、二十里ほど離れた町への遠出を決めた日の清々しき朝である。
 普段着こんでいる粗末だが頑丈な野良着から向日葵を思わせる黄色い小袖姿に着替えたひなと、渋く染めた曇天に近い灰色の筒袖の上に薄空色の羽織を一枚着込み、下は濃紺の野袴姿の鬼無子の姿が樵小屋の板戸のすぐ傍にあった。
 互いにこやかな笑みを浮かべながら、初めての買い物について話の花を幾輪も咲かせている。
 ひなと何を買うか、向かう先がどんな町であるかなど穏やかに言葉を交わしあう一方で、鬼無子は久しぶりに手にした財布の中身を確かめる事に入念がない。
 うっすらと化粧を施して着飾れば、そこに大輪の花が咲いたのかと錯覚するほど華やぐ美貌の主ではあるものの、清貧を地で行く性格をしている鬼無子にしては珍しく、鮮やかな朱染めの織り糸や錦糸をふんだんに使った豪奢な財布であった。
 白猿王率いる魔猿達との交戦の際に落とした事も一役買っているだろうが、あちこちにほつれや擦り切れの痕が見られる辺り、相当に長い時間使いこんできた愛着のある品なのであろう。
 親か知人に贈られた思い出の詰まった品であるのかもしれない。
 ちらり、ちらり、と鬼無子が覗きこむ財布の中には金や銀の煌めきは少なく、代わりに中央に四角い穴の開いた丸い銭が多数を占めている。金銀の煌めきはざっと三割ほどだろうか。
 神夜国を三分する各国では独自の貨幣が流通し為替も日々変動しているが、一度織田家が天下布武を果たした折に貨幣統一を実行しており、その名残で三国共通で使用できる貨幣が現在も流通している。
 鬼無子は故国を離れる際に他の二国も廻る事に決めていたから、路銀は統一貨幣である吉法銭(きっぽうせん)に換金している。
 吉法とは織田家の祖となった人物の幼名から取られたものである、と鬼無子は耳にした事があった。
 三国独自の貨幣として知られているものは、南方の大和朝廷では中央に満月の様な穴があき信奉するシラツキノオオミカミの名が彫り込まれた円月銭(えんげつせん)、織田家では初代が愛した異世界の舞踊の一節を彫り込んだ敦盛銭(あつもりせん)、北方の源氏では笹竜胆銭(ささりんどうせん)が一般的な貨幣である。
 まあ、単純に大和銭、織田銭、源氏銭、と呼び現す事の方が多い。
 鬼無子が神夜国南方の朝廷を出奔してから、今日に至るまでの旅路の路銀は残っていた家財を処分したもので賄ってきた。
 妖魔や外道に墜ちた人間の悪党どもから朝廷に属する人々を守護する栄誉ある職に在りながら、決して脚光と喝采の光を浴びる事の出来なかった四方木家をはじめとした討魔省の者達は貴族としての収入のほかに、朝廷から中流貴族の資産にも匹敵するほどの財物を賜っていた。
 贅を尽くして一年を過ごしてもまるで身代が傾かぬほどの富であるが、それが数十代にもわたって続けば、自分達が賜る財物の価値よりも人々から向けられる感謝と尊敬のまなざしを――つまりは名誉欲が芽吹き、それを公然と口にする者がちらほらと出始めた事も、先の反乱に繋がったといえる、と鬼無子はいまさらながらに思う。
 さても思い返した所で何ら意味の無い事は他所に置き、もし蓄えた四方木家の資産全てを持ち出す事が出来ていたなら、鬼無子は全国をぜいたくに物見遊山しながら見て回る事が出来ただろう。
 しかし討魔省の一部の者達と数名の有力貴族が結託した反乱の際に、朝廷の都の大部分が焼失し、鬼無子の生家もその被害を被った為に、故国を後にした鬼無子が持ち出せた金子の量は四方木家の統資産全体からみれば雀の涙の様なもの。
 それでも庶民が慎ましく暮らせば子が親になる程度は過ごせる額の金子は手に入ったが、国を跨いだ年単位での旅路の最中、鬼無子がある種の現実逃避と単なる食欲の為に旅すがら食道楽に走った事もあって大きく減らしている。
 単に買い物に出かけて少し飲み食いをする程度ならば、鬼無子とひなの二人分は十分にあるが、今回の買い物の目的は冬を乗り切るための味噌や塩や米と言った食料の大量確保である。
 となると懐に納めている財布の中身だけではたして足りるかどうか、という一抹の不安が鬼無子の胸中にあった。
 自分自身の食物摂取量が成人女性一人としてはあまりに過剰であることもそうだが、近年の妖哭山一帯を襲った旱魃によって、民草と彼らを養う大地そのものの枯渇もあいまり、物価の高騰がどれほどのものになっているか、正確な検討がついていないこともある。
 とはいえ一応鬼無子にも考えはあり、足りない時の為の非常策は用意してある。
 二人の会話に耳を傾けながら朝の心地よい風に目を細め、今日一日の天気が晴れであると読み取った雪輝が、鬼無子にこう切り出した。

「今日は終日お天道様の顔が良く見えると、風と空が教えてくれた。出かけるには良い日であるな」

「それは良うございました。でも、雪輝様、町の外でお待ちいただく事になってしまって、申し訳ありません。なるべく早く戻って参りますから、お許しくださいましね」

 初めてのお出かけに胸をときめかせて楽しみにしているのが、初対面の物でもはっきりと分かるひなであったが、心ならずも雪輝を除け者にしてしまう形になった事が申し訳ない様子だ。
 ひなと鬼無子の行く所、そこが地獄であろうが尻尾を振りながら喜んでついてゆく雪輝であるが、流石に狼の妖魔である自分が町中に入れない事に関しては十分に理解しており、多少の寂しさを覚えてはいるが、二人と別れて行動する事には納得している。
 雪輝はゆるゆると首を振り、ひなの言葉をやんわりと否定する。

「私の事など気に病んではならぬ。久方ぶりに人の町に行くのだから目一杯楽しんできなさい。共に行けぬ事は寂しくはあるが鬼無子が居るのだから、心配はしておらぬ。山では見れぬもの、聞けぬもの、味わえぬもの、嗅げぬもの、触れられぬものが数多あろう。心行くまで楽しんでおいで。君らの帰りを待つのもそれはそれで楽しくあろう」

「そこまで仰っていただけるなら、楽しまないと申し訳ありませんね」

 自分に対する気遣いの念が込められた雪輝の言葉に、ひなは新しい喜色を道端で風に揺れる可憐な花を思わせる愛らしい小顔に浮かべて、雪輝の首筋に抱きついて腕を伸ばし顔を埋める。
 ふんわりとした毛皮の感触にひなの頬が緩んだ。
 触れ合う事で伝わるひなのぬくもりだけで、雪輝がひなとしばし離れる事の辛さを忘却し、喜びに浸るには十分であった。
 むずがる赤子のようにひなが自分の毛並みに顔を埋めるに任せていた雪輝であったが、こちらをいつものように微笑ましく見守っている鬼無子に、不意に問いかける。
 二人が町に行く間待っていることについては不満こそないが、心配ごとそのものはあるらしかった。

「しかし、町に入るのは問題なかろうが、私の毛などで金子を賄えるのかね?」

 鬼無子の用意した金子が不足した際の非常策とは、新たに雪輝から斬り取った体毛を換金する事であった。
 財布とは別に紐で縛り懐紙に包んだ雪輝の白銀の体毛が鬼無子の懐に入っている。
 蒼城典膳との死闘後、怪我の快癒と同時に以前の長さを取り戻していた雪輝の毛並みは、鬼無子と崩塵によって再び短く切り揃えられていた。
 着物の布地の上から、懐に入れた雪輝の体毛を左手で抑え、鬼無子が気安い調子で頷き返す。

「ええ。織田家は初代から怪力乱神を嫌う気風の強い家でして、特に悪行を成す妖魔に対する敵愾の意識は神夜三国の中でも格段に高いのです。
 それゆえ領土内の対妖魔戦闘能力を有する精鋭を結集させた対妖魔討滅機関“妖魔改(ようまあらため)”を組織し、多くの特権を与えて領内の霊的治安の維持に奔走させております。
 ただ、妖魔の討伐と調伏を専門とする組織はそれがしの所属していた討魔省のように、三国のどこにも存在しますが、織田家の妖魔嫌いの度合いを示すのに、妖魔改とは別に妖魔退治に対して高い報酬を供する妖魔狩りの制度があげられますね」

「ふうむ、妖魔狩り、かなんとも物騒な言葉面であるが」

 おそらくは自分も問答無用で狩られる対象になるのだろう、と鬼無子の硬い口調と話の内容から容易に推測する事が出来て、雪輝はさほど愉快な気分にはなれなかった。
 雪輝でなくとも、自分の命が狩りたてられて金品に化ける可能性のある場所に赴くのを、由とはする者はそうはおるまい。

「実際、物騒といえば物騒ですな。どこにも所属していない流れの陰陽師や祈祷師、浪人であっても妖魔を退治した証明となる物を持ってくれば、相応の金品や仕官の道などを報酬とする制度です。
 妖魔退治や情報の提供と引き換えに金品を出す程度の事ならどこもしておりますが、織田家ではその額がざっと三倍から五倍以上になっておりまして、それを生活の糧とすべく神夜国中から腕に覚えのある者が集まっているほどなのですよ」

「そこを利用して私の毛で金儲けか」

 得心の言った様子の雪輝に対して、多少利用した形になり気まずさを覚えていた鬼無子は、申し訳なさを満面に塗りたくった表情を拵えた。
 罪悪感に苛まれる憂いた顔の美女の姿を精密に絵画とする事が出来たなら、飛ぶように売れた事だろう。

「はい。雪輝殿の折角お綺麗な毛並みを斬り取るのは四方木鬼無子、大変、大変に心苦しゅうあるのですが、これもまた今後の生活のためでありますし、平にご容赦くださいませ」

 鬼無子が小さくとはいえ頭まで下げるモノだから、その律儀さに雪輝は困ったように笑い返す。
 最近ではとみに愉快な一面を見せ始めている鬼無子であるが、根の生真面目さは変わらぬ様で、その点が雪輝はまことに好もしく思えてならない。

「布団の時同様に幾ら斬っても構わんさ。二人の役に立つのなら我が身を削るくらいはどうということはないのだから。
 だがその様な事情があっては妖魔を狩る競争が起きて、人間同士の不要な争いも招きかねぬのではないか?」

「そういった一面も確かにございます。互いに獲物と定めた妖魔を求めて諍いを起こし、斬った張ったの事態にまで発展して、要らぬ血の流し合いも頻発してしまい治安の悪化に繋がる事例も少なくありませぬ。国仕えの妖魔改は流れの者達を主を持たず、日々を食いつなぐのに必死な野良犬風情と侮り、逆に流れの者達は妖魔改を織田家に尻尾を振って秘伝の術を売ったと謗る事も多いのですよ」

 自分が言った事ではあるが、本当にそうだと保証する鬼無子の台詞に対して、雪輝は首を捻る。
 妖魔と抗するための制度と技能を人間同士の争いに使用する事に対して、得心が行かないようである。

「どちらも互いの事を言えた義理はないように思えるな。しかし妖魔と抗するための組織と人材がいがみ合って血を流す様な真似をするのであれば、それは本末転倒に近いものがあるのではないかね?」

「耳に痛い言葉ではありまするが、残念ながらそれが事実でありまして人間の業の深さと申しますか、何と申し上げればよいのか」

 言い訳じみている鬼無子の言葉にも、雪輝は納得が行かないようではあったがこのまま話を続けても、鬼無子に迷惑を掛けるだけだろうと切りあげる判断をした。
 元よりひなや鬼無子を困らせる事は雪輝の望む所ではない。ふむ、と一つ零して言葉の矛を収めた雪輝の代わりに、雪輝の首筋から腕を離したひなが、鬼無子の右袖をくいくいと引っ張る。
 それまで雪輝との触れ合いに喜色満面の笑みを浮かべていたひなであったが、いまは小首を傾げて眉根を寄せ、不安げな色を浮かべている。

「そんな所の近くに雪輝様をお連れしても危なくはないのですか?」

 ひながその様な顔をする時は十中八九雪輝の身を案じている時だ。あらかじめ予測できた鬼無子は、さして動じる風もなく答える。
 そもそも町への遠出を提案した鬼無子であるから、提案した時点で雪輝の身の安全も考慮したうえでの発言であったろう。

「それは大丈夫だ。確かに織田家領内には退魔士やもどきが多いが、雪輝殿ほどの力を持った妖魔を討つ力を持った者はそれこそ妖異改の中にもほぼおるまい。それがし達の向かう町はそこそこ大きな町ではあるが、妖魔の出没の頻度は低い場所であったから、配備されている妖異改の者も少ないだろう」

「そうだとよいのですけれど」

「なにいざとなれば雪輝殿の肢で十分に逃げ切れるさ。人の住む村落の近くで妖魔を発見した時には、その場で処断するよりは妖魔の出現を知らせて襲撃に備えつつ討伐のための戦力を募るのが普通であるし、雪輝殿に人の目につかぬよう気を付けていただければ、町を騒がす様な事にもなるまい。ただまあそこら辺の行動は雪輝殿にお任せする次第になりますが」

 寄せられる期待と不安の入り混じる視線に、雪輝は今日の天気を告げる様な軽い口調で答える。

「任されよう」

 基本的に雪輝に対しては全幅の信頼を寄せるひなと鬼無子ではあったが、いまのような時には、本当に雪輝が分かっているのかどうかという疑惑と不安の念に駆られる。
 聡明なのか底ぬけの阿呆なのか、この狼は非常に判断に困る所をしばしば見せるからである。
 ひなと鬼無子は同色同心の視線を交わし合い、雪輝の返答を信頼してよいかどうか、お互いに眉根を寄せて疑問を共有した。
 家族として愛する二人の女性達に不信と疑惑を抱かれているとは露とも知らずに、雪輝はそういえばと言わんばかりに尻尾をピンと風を孕んだ帆のように立てて口を開く。

「ふむ、どうせなら凛も誘って行かぬかね? あの娘には何かと世話になっておるし、日頃の礼も兼ねて出かけるのも悪くなかろう。凛もひなや鬼無子の事は気に入っているようであるし、都合がつけば無碍にはすまい」

 これは名案と言わんばかりの雪輝の発言に、おお、とひなと鬼無子の口から同意の言葉が出た。
 確かに山の民の凛には、何かにつけて食べ物にしろ着物にしろ都合を付けて貰っており、特に白猿王一派との戦いで破壊された樵小屋を修復するのに山の民が助力してくれたのも、凛の口利きがあればこそである。
 樵小屋に住む二人と一頭は、凛にどれだけ感謝しても足りぬだろう。
 そして雪輝も含め、この場にいる全員が受けた恩は死ぬまで忘れない律儀な面を備えていたから、雪輝の提案に対して反対の意見など出る気配すら存在しえない。

「確かに雪輝殿の仰る通り、凛殿をお誘いするのは妙案ですな。しかし雪輝殿、凛殿がこちらを訪ねて来られる事はあっても、それがし達の方から訪問した事はいままでありませんでしたが、こちらから会う方法を御存じで?」

「以前に出会った者の匂いは覚えておるし、いままでに何度か出会った場所も覚えているから、匂いを頼りに探せばそう時を置かずとも見つけられよう。その者に仲介を頼めばよかろう。少々時間はかかってしまうかもしれぬが、その分は私が急ぐことで補おう。良いかな?」

「凛さんと一緒ならもっと楽しくなる思いますし、常々きちんとお礼はしないといけないと思っていましたから、私は大賛成です」

 小さな体で精一杯主張するように、ひなが諸手を挙げて賛同すれば、鬼無子も笑みを浮かべて首肯する。
 内心で雪輝殿にしては珍しく良案を提示されたものだ、などとわりとひどい事を考えているが、過去の雪輝の言動とそれらの招いた結果の数々を考慮すれば、鬼無子のこの反応も無理のない所ではある。

「一人より二人、二人より三人の方が楽しめましょう」

 二人の賛同を得られた事に気をよくした雪輝が、両耳と尻尾をゆらゆらと心持ち勢いを増して左右に振りながら、下ろしていた腰を持ち上げて、風の中から既に嗅ぎ分けていた山の民の匂いの元へと視線を巡らせる。

「では、まずは凛を誘いに行こうか」



 堅牢かつ複雑怪奇な構造を有する岩石迷宮の先に存在する錬鉄衆の里の中でも、とりわけ祈祷衆と鍛冶衆の詰めている家屋は、陽が昇りそして落ちてもなお人の気配が絶える時がない。
 祈祷衆は里の中でも数少ない霊的な感応能力に恵まれた少数の者達が、交代で不意に里に及ぶ危機を察知するための索敵及び危機予測の占術に余念がなく、また鍛冶衆は錬鉄衆の本質と存在意義そのものと言える集団であるために、時に寝食さえ忘れて自分達の技術の向上に明け暮れている。
 鍛冶衆のなかば狂気じみた鍛冶狂いに関してはそもそも錬鉄衆生まれの人間が、男であれ女であれ少なからず鉄や鋼を弄るのが根本的に好きである事も大きい。
 妖魔や特異な妖哭山の環境に悪戦苦闘しながら、命がけで採掘してきた鉱物や解体を終えた妖魔と動物達の毛皮や骨、爪牙が常に鎚を振るう音と鞴から送り込まれる風によって、轟々と燃える炉心の炎が絶えぬ音に満ちている鍛冶場に運び込まれている。
 運び込まれる多くの素材を熱し、冷し、叩き、伸ばし、捩じり、水に浸し、殺ぎ、削り、切っている屈強な鍛冶衆の者達の中に、ひと際小柄な少女の姿があった。
 雪輝達の話題の的となっているとは知らぬ凛その人である。
 辛子色の生地に赤い椛の葉を散らした小袖を諸肌脱ぎにして、晒しを巻いただけの上半身を露わにしたまま、しとどに体を濡らす汗の粒を散らしつつ右手に握る鉄鎚を休むことなく振るい続けている。
 厳しい山の暮らしと鍛冶衆としての仕事の中で、極自然と鍛え抜かれた肉体は鞭の様に細く引き締められ、余分な脂肪やぜい肉はわずかにも存在していない。
 小柄な体の中にはちきれんばかりに詰め込まれた山の活力と野生とが、鍛冶場の中の乱雑に入り混じる様々な音と調和して、より一層活発になって凛の全身に新たな力を尽きぬ泉の様に与えている。
 灼熱の色に熱せられた鉄片が鉄鎚に叩かれる音が、死した後に剥がされてなおも妖気を孕む妖魔の肉体が加工され、小型の炉の中で流体状に溶かされた鉄が煮えたぎる音が、調子も音の大小も、高低も何もかも出鱈目にしかし確かな調和を持って鍛冶場の中を満たしている。
 ある種の音楽奏のごとく鍛冶場の中に響き渡り、鎚が鉄を叩く音を子守唄にして育った鍛冶衆達は母の子守唄を耳にしているかのような安堵をおぼえる。
 生まれた時に最初に与えられたのが鉄鎚であった凛にとってもそれは同じ事で、鼓膜のみならず全身を揺さぶる鍛鉄の作業音は、集中力を殺ぐことはなく、むしろ心を熱する一方で、一部分を冷静に落ち着かせてより作業に集中させてくれる作用がある。
 夢遊病に浮かされて夜道を彷徨い歩いているかのように我を忘れ、我武者羅に鎚を振るう。鉄鎚と自分の腕が一つに溶けて混ざり合い、打たれる鉄片も打つ鉄鎚も鉄鎚を振るう自分との境界が溶け合い、凛と鉄が一つの命に代わる。
 錬鉄衆の鍛冶衆達が時折経験する限度の無い高揚感が起こす、一種の錯乱状態だ。
 ここに至る事が出来れば年齢を問わず一人前と認められ、またこの幸福と高揚に満たされた感覚を味わうべく、鍛冶衆達は重度の麻薬中毒患者の様にして鍛冶場に足を運ぶのだ。
 一振りごとに高揚してゆく精神に吊られて、我知らず唇を笑みの形に吊りあげていた凛は、不意に自分の肩を叩かれて、鉄鎚を中空に振り上げた姿勢で動きを止めた。
 これ以外に在り得ぬと断言できる天職に全霊を注ぎ楽しんでいた凛は、ひどく不機嫌な顔で自分の肩を叩いた背後の誰かを振り返る。
 元より目尻がやや吊りあがり気味で目付きの悪い凛が、不機嫌に睨みあげれば慣れ親しんだ相手でもぎょっと目を向いて一歩か、二歩後ずさってしまうほどの迫力があった。
 凛の背後にいたのは、梅の花を散らした薄紫地の小袖に身を包んだ凛とは正反対の身体つきをした女であった。凛よりは年上だがまだ二十歳にはなっていないだろう。
 肩にかかる程度にまで黒髪を伸ばして毛先を綺麗に切り揃え、よく陽に焼けた褐色の肌をしていて健康的な魅力に溢れている。
 名をみつと言い、錬鉄衆の屋台骨を支える強く逞しく、そして美しい女性陣を構成する内の一人である。
 みつは凛より三つ年上の女で、すでに所帯を持ち二人の子を産んでいる。元からどっしりと構えた肝の据わった娘であったが、子を産んでからは更にその肝っ玉の重量感が増して、すぐ傍に雷が落ちても慌てる様子一つ見せないようになっている、と専ら評判である。
 幼馴染でもあるみつがここ数年来見た事のないほど困惑した様子であることに、凛は作業の邪魔をされた怒りよりもまず訝しさを覚えて、首からかけていた手拭いで頬を伝う汗を拭って、みつの用件に耳を傾ける事にした。
 研いだ刃の様に鋭い瞳をわずかに緩めて、凛はみつに続きを促す。

「おう、みつ。どうした? お前がそんなに慌てるなんて、何かあったのか?」

 ふっくらとした肉感的な体つきをしたみつは、母と言うにはまだまだ少女らしさが残っている可愛らしい顔を紅潮させて、幾筋かの汗を流していた。息は荒くよほど急いで凛の所へ来た事が伺える。
 たっぷりと生地を押し上げる胸に手を置き、大きく息を吸っては吐き、吐いては吸ってを繰り返してようやく息を整える事に成功したみつは、まるで背中を槍の穂先か何かでせっつかれてでもいるかのように矢継ぎ早に言う。
 みつがこんなに慌ててんのを見るのは久しぶりだなー、と凛はみつの普段の調子とはかけ離れている姿を見て思う。
 特に子を産んでからのみつの胆力は、凛をしても大したものだと感嘆するほどで、子を背負って外に出かけた折に巨熊と対峙した際には、一歩も引かず怯まずに睨み返して、視線だけで巨熊を追い払ったほどである。

「り、凛、あんたに会いたいって人……ひと? とにかく人達が来ているんだよ! いまは泉の所で待ってもらっているから、はは、早くお行きな!」

 単に泉と言っているが、凛やみつ達幼馴染の間では岩石迷宮の出入り口の一つの近くに在る泉を指す。水底に翡翠色をした大人の握り拳くらいの丸い石が無数に転がっていて、よく晴れた日には泉の水全体が翡翠色に染まり、非常に美しい景観になる。
 凛達はよく緑の泉、などと子供らしい安直な名前を付けて呼んで、夏になると里の中に在る水浴び場や小川の他に、その泉でよく沐浴をして納涼を得たものである。

「ん~? あたしに会いたい奴だぁ? そんなの誰が居るってんだい」

 すでに一人前の鍛冶衆として扱われ、山の民の成人年齢に達している凛は、幾度か外の人々との交渉にも同席した経験があり、山の外の人間にも見知った顔はあるのだが、わざわざ命の危険を犯してまで凛個人を訪ねてくるような相手はいないはずだ。

「お、お、狼様となんか知らないけど可愛い女の子と女のお侍さんよ!」

「……あの狼ね」

 驚きを欠片も浮かべる事はなく凛は、はいはいとむしろどうでもよいかのような投げやりな調子で答えた。
 あの狼に悪意がないのは分かっているが、あれが自発的に動くと具体的な苦労と言うわけではないのだが、精神的な意味合いに置いて実に多くの苦労が凛に襲い掛かるのが通例となったも同然である。
 故に、凛はそれまで体中の細胞の内でくすぶっていた高揚の熾き火が瞬く間に鎮静化してゆくのを感じた。
 一目で分かるほどに気を抜く凛の様子に、みつはひどくやきもきした様子で、しきりに集落の外を気にして振り返る事を繰り返す。
 鎚を手放し如何にも億劫そうに腰を挙げた凛が、もたくさと仕切られた鍛冶場の小部屋から出て、壁際の一角に設けられた一室に入る間もみつは凛のまわりをうろちょろしては、早くしろ早くしろと無言の重圧を投げかける。

「そういやみつは前に雪輝に命を助けられた事があったんだっけ。それでいやに気が立ってる上にあたしを急かしてんのかい」

「そそ、そうだよ。あんたこそなんでそんな落ち着いているんだい! あの狼様だよ!?」

 実際に雪輝と接している凛以外の山の民にとっての雪輝とは、みつのような反応をするのが普通の、崇敬と畏怖の念を等量ずつ抱く相手であり、凛の方が例外的な存在なのである。
 以前の山の主と呼んでも差し支えのない威厳に溢れなおかつこの世のものと思えぬ美しさを纏う獣であった頃の雪輝ならともかく、ひなと暮らし始めてからいやに人間臭くなった今の雪輝に、凛はどう転んでも畏敬の念を抱く事はできそうになかった。
 壁際に設けられた一室の入口は男と女用に二つに仕切られており、その先には鍛冶場で使われている炉の余熱を使って沸かされた湯の張られた鉄釜や冷や水を湛えた水瓶に、空いた小腹を満たす程度の食糧などが置かれている。
 休憩室に入った凛は空の桶に鉄釜の中で白い湯気を噴いている湯と水を適当に柄杓で掬い取って温度を調節し、そこに手拭いを浸して自分の身体の汗を拭う作業に没頭する。

「まあそう慌てなさんな。ひなと鬼無子さんを待たせるのは悪いけど汗をかいたまんまってわけにも行かないだろ。あたしにも身嗜みっつーもんはあるんだからさあ」

 きつく縛っていた晒しを解いて腰帯で止めていただけの小袖も脱いで、凛は全身にまとわりついている汗の珠粒を拭う。
 一睡もせず徹夜で鍛冶作業に従事し続けたために、全身に鉛の様に溜まっている疲労感が、湯で濡らした手拭いで拭うためにわずかずつ熱に溶けて消えてゆくようで、凛は心地よさに小さく息を吐く。
 本来であればこのまま熱く沸かした湯を張った湯船にでも身を沈めて体を清めた後に、床に大の字になって眠ってしまいたい所なのだが、雪輝はともかくとしてひなと鬼無子を必要以上に待たせるのは凛の望む所ではない。
 一通り体の汗を拭う作業を終えた凛は、改めて小袖に腕を通し直し襟を整えて、いつも頭に巻いている布の具合を確かめて癖の強い髪の毛を纏める。
 あとは火鼠の皮をなめした腰帯に愛用の山刀と数種類の煙幕や薬を入れた革製小袋を下げ、何本かの小刀を服の裏側に仕込む。
 里から泉までさして時間のかからぬ距離でしかないが、その間に血に飢えた妖魔や食肉性の樹木や獲物を求めて自足歩行する草花の襲撃を受けないとも限らない。
 雪輝の縄張りとして他の妖魔達に認識されている樵小屋周辺と違い、里や泉の周囲には数百数千単位のあやかし達が息を潜めている。
 猫科の生物のようにんん、と唸りながら背伸びを一つして凛は呟いた。

「しっかしあの狼、あたしに何の用があるってのかねえ?」

 まあ、行けば分かる事と、凛はさして気に止めた風ではなかった。

「町に出かける?」

「うむ」

 みつの言うとおり泉のほとりで待っていた雪輝達の元へと赴いた凛は、雪輝より告げられた今回の訪問の目的を耳にし、これは予想外と少しばかり目を丸くした。
 同年代の同胞達と声を掛け合って遊びに出たことくらいは凛とてもちろんあるが、山の外にまで足を延ばす、というのはこれは今までない経験である。
 錬鉄衆に限らず山の民のほとんどは山の中で生まれて山の中で死ぬものだし、里を物理的にも霊的にも外部と遮断している岩石迷宮の外には、数多の死を齎す危険がひしめいている事もあって、例え山中であっても子供たちだけではそう里から離れた所は出かけないものだ。
 凛自身は迷惑と感じるよりも唐突な提案に当惑した風であったが、思いのほか渋い様子の凛に、雪輝はこれは当てが外れたか、と片耳をパタリと動かした。

「私はともかくとしてひなと鬼無子にとっては初めての冬となる。ゆえに物の備蓄を増やしておこうという話になった次第でな。近隣の村々が飢餓に見舞われていた以上、多少遠出することにはなるが買い出しに行くのだ。
 それでお前には常日頃、なにくれとなく世話をしてもらっているから、礼も兼ねて共に出かけるのはどうかと話が落ち着いたのだよ。なのでこうして訪ねさせてもらった」

「あたしがお前に礼を言われる筋合いは別にないんだがな」

 凛からすればひなの着替えや布団、包丁、鍋などの生活用具一式を用意したのは、雪輝との決闘に負けて溜め込んでいた分の貸しを返す絶好の機会と捉えたからだ。
 樵小屋の修復に関しても頭を悩ませていた内側から来た妖魔を片づけてくれたことへのせめてもの礼である、と長老集からの言質も得ての事だ。
 それらの事に雪輝らが感謝の念を抱いている、という事は以後の付き合いからもうすうすと凛は感じていたが、よもやこうしてわざわざ自分の元を訪ねてきて買い出しに誘われるとまでは、考えが及んでいなかったという他ない。
 雪輝とのやりとりを固唾を呑んで見守っていたひなが、小さく握った拳を胸の前に置き、この少女にしては珍しく熱の籠った視線を凛へと注ぐ。

「凛さんの御都合はいかがですか? 二十里位離れた所ですけれど雪輝様ならそんなに時間はかかりませんし、鬼無子さんや凛さんと一緒に出かけられればな、と私は思っているのですが」

 熱の籠り用だけでなく自分の願いを面と向かって相手に口にするのは、やはりひなにしては珍しい事である。
 ほとんど生まれて初めて苗場村以外の人の住む集落に出かける事への期待が、少しばかりひなに普段よりも自分の意思を主張する強さを与えているのだろう。
 ひなが凛を口説く様にして懇願する一方で、鬼無子は凛に何を言うでもなく黙って雪輝とひなと凛とのやり取りを見守っている。あくまで凛自身の意思を尊重するつもりで、傍聴に徹しているのだろう。

「無理でしょうか」

 とひどく悲しげに肩を落として問いかけるひなに、凛は慌てて首を横に振る。ひなのこういう儚い白百合の様な悲しみの顔は、凛や雪輝にとってはほとんど反則的な効力を有しているのだが、ひな自身には自覚がない。

「いや、呼び出しを受けた理由が意外だったんで驚いただけだ。まあ、急ぎの仕事もないし誘われてやらん事もない。一度待たせていた上で悪いが、もう一度里に戻って財布を取ってくるから待っててくれるかい」

「金子ならそれがし達の方で、凛殿の分も持つから、気にされずともよいよ」

 これまで黙っていた鬼無子である。なにも口出しせずにはいたが、凛が共に行く方向に考えを移した事は、歓迎しているようでわずかながら安堵の様な色合いが白皙の美貌に浮かびあがっている。

「なんでもかんでも他人に頼るってのはあたしの性じゃあないのさ。ま、茶の一つも奢ってもらえればあたしは十分だよ。すぐに支度をしてくるから待っていてくれよ」

 そう言って踵を返した凛は、雪輝たちその背中に声を掛ける暇もないほど急いだ様子で駆けだしていた。

「慌ただしい娘だな」

 どこかのほほんとした雪輝の呟きに、ひなと鬼無子は苦笑して同意を示した。

「まあ、事前に連絡を取り次いでおればよかったのですが、急な話でありましたからな。凛殿にも都合と事情と言うものがありましょう。とりあえずは同意をいただいた事だけでも良しとすべきではありませんかな」

「鬼無子の言う通りか。思ったよりも出発が遅れはしたが、昼前には向こうにつけるだろう。ゆるりと買い物をするくらいの時間はあるかな?」

「そうですな、以前それがしが訪れた時に大体の町の構造は把握しておりますから、簡単な案内くらいは出来ますし、そう慌てる事もないでしょう」

 着衣はそのままにどこが変わったのか分からぬ姿の凛が、踵を返した時同様に駆け足で雪輝達の前に姿を見せるのに、それから四半刻と掛らなかった。

「おまたせ」

「待ったというほどの事はない。では皆、私の背に乗りなさい。なるべく振り落とす事のない様に気を遣うが、しっかりと掴まっているのだよ」

 我が子に掛ける様に優しい声を出す雪輝の首の上の辺りにひなが座り、次いで凛、鬼無子と座って改めて出発の音頭を雪輝が取った。

「では参るとしようか。ふふ、山の外に出るのは私も初めてのことゆえ、いささか楽しみだ」

 ふわり、と軽く地を蹴った雪輝の身体は瞬く間に風と共に山中を駆け抜ける。
 通り抜ける隙間などまるでないように見える木々の連なりも雪輝にとっては大きく開かれた門戸に等しく、躊躇する素振りもなくするりするりと巨体をかすらせる事もなく走り抜ける。
 はるか後方へと瞬く間に流れてゆく景色は、生い茂る木々の葉の緑や幹がまるで水に溶かした絵の具の様に輪郭を失って見えて、ひなは雪輝の背中の上でなければ見られない光景に、自分でも知らぬうちに笑みを浮かべる。
 山菜の採取や洗濯場などになっている川への道行きに、雪輝の背に跨る機会は幾度もあったが、そういった時はゆるやかな歩調であることがほとんどで、今の様に疾走する事は少ない。
 ひなは雪輝の喉元の辺りに手を回して毛並みに顔を埋め、その後ろの凛は久しぶりに触る雪輝の毛並みに思わず頬を緩めつつも自分の腰の後ろ辺りに感じられる鬼無子の乳房の感触に自分が雪輝の背中に押し付ける形になっている乳房とを比較して、不機嫌そうに眉根を寄せると言う器用な真似をしていた。
 ひなと凛とがほとんどうつ伏せに近い姿勢になっているのに対し、鬼無子は前傾こそしているが、それほどには身体を倒しておらず軽く胸が凛の腰に当たっている程度で、雪輝の背中からの光景を楽しんでいる。
 疾駆というよりも跳躍に近い走法の雪輝は、地を舐めるようにして走るだけでなく時には、木々を飛び越す勢いで地を蹴り、一足で一気に距離を稼ぐ。
 足元の大地が消失して全身を襲う浮遊感への恐怖、頬を撫でる風の感触、今まで見た事のない視点で目の前に広がる大地、彼方まで見通せそうな視界、ぐんと近くなって迫る空の青と浮かぶ雲の白。
 そのすべてが、雪輝の背に在る三人の少女達を祝福した。
 大きな放物線を描いて、幅二十間ほどの崖を飛び越した雪輝の身体が、見えざる重力の鎖に巻きつかれて緩やかに大地へと抱擁を交わすように柔らかく着地する。
 とん、というかすかな着地の音のほかに、雪輝の背中に座る少女達に伝わる衝撃はわずかもない。
 四肢に加わる着地の負荷をまるでなにもないもののように、雪輝は眉を顰めるでもなく堪えた吐息を吐くでもなくすぐに疾走へと転じる。
 妖哭山の表層を飾る緑の海を抜けるのに、大して時間はかからなかった。
 思い思いに天に向けて枝を伸ばす木々と苔むした大小無数の岩、大地を這う大蛇のごとく蛇行する川、天から落とされた涙がそのまま残った沼や泉を越えて、雪輝は生まれて初めて山の外へと出る。
 妖哭山と外との違いを、まず雪輝は触覚、ついで視覚で認識した。妖哭山内部に渦巻いている妖気の類はどうやら山の外部へは一切漏れ出していないようで、雪輝が産まれた時から馴染んでいた山の妖気が、唐突に消失したのである。
 明確な線引きがされているわけでもなかろうに、雪輝は色が変わっていないのが不思議なほど、克明に変質した空気や世界の雰囲気に、狼面にもはっきりと分かる不思議そうな色を浮かべる。
 存在の発生当初から常に共に在った妖気が消えた事で、体が羽に変わったかのように軽くなり、息の詰まる圧迫感も消えている。
 ひしめく妖魔達の発する妖気のみならず妖哭山の土壌それ自体が発する無臭無色の妖気は、山中に足を踏み入れた者に絶えず襲い掛かり、吸い込んだ肺腑を徐々に錆びつかせ、歩む足にわずかずつ疲労の重しを付け、他所者を振るいに掛ける様にして衰弱させる。
 健全な肉体をもった大の大人でも、妖哭山の環境に慣れていない者では足を踏み入れて一刻としないうちに、天気雨に遭遇したように全身をひどく冷たい脂汗で濡らし、疲弊と山中の重く暗い雰囲気に麻痺した思考は正常な判断を下せなくなる。
 生贄として奉げられた当初、体の弱り切っていたひなが妖哭山の妖気を浴びてもなお支障なく生活できたのは、ひとえに雪輝の妖気が山の害毒となる妖気からひなの全身を守っていたからに他ならない。
 ただ足を踏み入れているだけでも相応の負荷を肉体と精神に強いる妖哭山を一歩抜けただけでも、その負荷が消え去ることに雪輝は驚きを隠せない。
 世界とはかくも軽やかで穏やかなものであったのか、と。
 山の外と内での明確な違いの一つを実体験し、雪輝は面白げにふむ、と息を一つ飲む。
 道の確認をする為に一度足を止めた雪輝は、目の前に広がる世界の光景を凝と観察する。背中のひなと鬼無子もほぼ一月ぶりに目にする外の世界の光景を見ようと体を起こして、首を巡らせる。
 周囲の命を吸う事で山中の木々や滋味溢れる大地を維持している妖哭山の外を出て見れば、まず目に映るのはひなが生贄として差し出される以前と変わらぬ赤茶けた大地である。
 一粒の雨も降らぬ時期が長く続いたことで、どれほど生命力の強い草木の類でも育つ事が出来ず、またそれらを餌とする小動物や昆虫達といった食物連鎖の底辺を支える命が倒れた事で、大型の鳥獣達も骨と皮ばかりになって餓死するか別天地を求めて離れている。
 空高く大地を睥睨しながら飛ぶ黒い点のような鳥達の姿もなく、視界の片隅で小さく動く犬猫といった動物の姿もない。
 妖哭山に贄として奉げられた時とさして変わらぬ様に見える風景に、雪輝の背に跨ったひなは、かすかに眉根を寄せた。
 雪輝の元へ奉げられてより一週間ほどして雨が降った折に、これで村も救われるだろうと、自分を不要と捨てたとはいえ父母と過ごした地と言う事もあって、それなりの感慨と共に安堵したのだがこれでは。
 凛を挟んでひなの後ろ側に跨った鬼無子が、ひなの不安を敏感に感じ取り、慰めるべく口を開いた。

「それがしがかつて目を通した文献によれば、妖哭山の周囲は天侯の如何を問わずに荒廃しているとあった。ひなの村が干上がったままとは限らぬ」

「はい」

「あたしも外の連中との交渉に同席したけどさ、今まで降らなかった分、雨が降るようになってっから、ましになっているって言ってたよ」

 鬼無子やひなと違って外部との接点を有していた凛も、鬼無子の言葉に続いてひなに気休めの言葉を囁く。
 旱魃の被害が最もひどかったのは苗場村以南の地域で、妖哭山から見た東・西・北の方角に点在する村落や町に関しては、比較的被害は少ないものになっている。

「気になるのも無理のない事ではあるが、今日は町に行くのが目的なのだから、そう思いつめた顔をするものではないぞ、ひな」

「そう、ですね。申し訳ありません、雪輝様」

「謝ることなど何もないよ。いたずらに自分を責める癖は、あまり感心せぬがね。さて鬼無子、それで私はどちらへどう向かって走ればよいのだ?」

「は、そうですな。このまま北西の方角に向かえば街道に出ます。雪輝殿が街道を走っては大問題になりますから、いくらかの距離を置きながら街道沿いに向かって頂ければそれがしの方でその都度、指示させていただきます」

「人目を避けてか。私が隠行の術でも覚えておれば何も問題はなかったな」

 人目を気にして街道から着かず離れずの距離を置きながらの道行きは少々時間を食うものとなるだろう。
 姿を風景に溶け込ませて隠蔽する隠行の術は、たいていの系統の術に組み込まれている汎用性の高い術で、妖魔の中には術としてではなく体表の皮なり甲羅なりに周囲の風景を反映させて身を隠すものもいる。
 雪輝の呟きに、ふと思いついたという調子で凛が言う。

「それも覚えてりゃ便利だったろうが、お前は人に化ける事は出来ないのか?」

 決闘の時に隠行の術を使われては堪ったものではないな、と内心で顔を顰める思いの凛の言葉に、雪輝は否、と答えた。

「年を重ねれば自然と覚える者もいるらしいが、生憎とまだ私は覚えるに至ってはおらぬし、教えてくれる様な相手もおらんからな。ふうむ、しかし、人への変化か。一考の余地はあるやもしれぬな。さておしゃべりはここまでにしよう」

 雪輝の四肢はゆっくりと大地を蹴り始めた。
 大地に生きるあらゆる命を干上がらせていた旱魃の終焉を告げる雨が降ってから、おおよそ一月ばかりの時が過ぎ、延々と赤茶けた色の続いていた大地には、わずかずつ緑の色が斑模様の様に、視界の端々に映る様になっていた。
 雪輝の肢が動き、町に近づくにつれて大地を覆う緑の比率は増して行き、世界に鮮やかな緑の色彩が主張をしはじめる。
 北から吹きつけてくる風の冷たさは分からなかったが、ひな達には堪えるかもしれぬと、雪輝は意識して自身の身体から放出している妖気を操作して膜状に形成し、ひな達に届く頃には初秋の冷風は春の風の様なぬくもりを帯びたモノに変わった。
 その事に気付いたひなが、あ、と小さな声を零して目元を柔らかく解し、雪輝の耳元に淡い桜色の唇を寄せる。
 恋人が親愛を込めて口付けるような、見ようによっては大胆なひなの行動であった。

「雪輝様、お気遣いありがとうございます。とても暖かいですよ」

「そうか。加減できたかいささか自信がなかったが、具合がよさそうで何よりだ」

 視線は目の前に固定してはいるが耳に心地よいひなの言葉に、雪輝の機嫌が右肩上がりで良くなっているのは、一人と一頭の関係を知る者からすれば見るまでもなく会話のやり取りだけで分かっただろう。
 ほどなくして旅装の庶民や行商人らしい人影がちらほらと歩く街道が三人と一頭の視界の端に映りはじめる。
 鬼無子の指示に加えて多くの人間の醸す雑多な匂いを嗅ぎ取って、雪輝がこまめに進行方向を修正していた効果もあったろう。
 雪輝は初めて目にする旅装姿の人間達に興味を隠さぬ視線を向けつつも、街道側の人間に見つからぬ位置を探りながら走り続ける。
 街道から流れてきた匂いよりもはるかに濃密で雪輝にとって未知の匂いの成分を数え切れぬほど孕んだ匂いが、ぐんぐんと近づいてくる。
 鬼無子の言う町が近づいているのだ。二十里に及ぶ距離は、雪輝が背の三人を慮りながらの走行であってもほんの十分と掛らずに走破された。
 高速で地上を掛ける事によって生じる衝撃や反動、風圧と言った物を全て劇的に緩和する雪輝の妖気による防護膜あればこそであろう。
 背に負うた三人の事を気に掛けずただ速く走る事にのみ意識を集中すれば、音の壁を容易く超えた速度を長時間に渡って維持しながら走る事も出来る。
 雪輝の鼻をくすぐる人間達の数多の匂いのほかに、妖哭山の様な血生臭さと妖魔の体液が発する異臭や、魔花の発する豊潤な香りには乏しいがまだ雪輝にはなじみのある樹木の香りが強まる。
 鬼無子の言っていた近くに在る森のことだろう。雪輝は初めて走る外の世界に大きく興味を惹かれてはいたが、幸いにしてその事を忘却してはいなかった為、進路を変えて緑の連なりの方へと肢向きを変える。
 太陽と月の終わらぬ追いかけっこを飽きるほど見て過ごした大樹達の並ぶ森の中で足を止めた雪輝から、まず鬼無子と凛が居りてひなが降りるのを手伝ってあげる。
 ひなは自分の両脇の下に手を通した鬼無子に持ち上げられて、砂の城を扱う様な丁寧さで地面に下ろされた。ずっと幼いころに父母にそうしてもらった事を思い出したのか、ひなは恥ずかしげに頬を薄紅色に染めている。
 鬼無子と凛が思わずそのまま抱きしめたくなる愛らしさであった。
 こんなに愛らしいひなを虐げていた苗場村の村人達に、鬼無子と凛が抱く怒りや敵愾心たるや並々ならぬものがある。
 ありがとうございます、と鬼無子に一言告げてからひなは背後の雪輝を振り返る。
 白銀の狼は自分の肢の付け根に届くかどうかという程度の位置に在るひなを見下ろして、鼻先をひなの頬に寄せる。

「では雪輝様、行って参りますから、良い子にして待っていて下さいましね」

「ふふ、私をそこまで子供扱いするのはひなくらいのものだな」

「だって雪輝様ったら時々ひどく子供っぽくなって可愛らしいんですもの」

 口元に手を当ててくすくすと品よく笑うひなにつられて、雪輝もどこまでも柔和な笑みを浮かべる。傍らで見守っていた鬼無子と凛が何も言わずに黙って見守る他ない、余人のはいる余地のない一人と一頭の世界がそこにあった。

「では子供らしくひなの言いつけを守って大人しくここで待つ事としよう」

 ひなの言い分に拗ねた様子を見せる事もなく、雪輝は鼻と鼻がくっついてしまいそうな距離までひなに顔を寄せる。
 小さく開かれている口からは鋼の塊も簡単に貫く真珠色の牙の連なりと桃色の舌が覗く。
 雪輝の頬に小さなひなの両手が添えられて、鬼無子と凛が見ている中でひなが雪輝の口に自分の唇を寄せた。ひなの唇が近づくのにあわせて、雪輝は口を閉じた。
 雪輝とひなの唇が重なり、しばしの時が流れる。

「ん……」

 と重なる雪輝とひなの唇の間からひなの吐息が零れた。
 一方で、ひなと雪輝の接吻を目撃することになった二人は、というと凛はまあとっくにそれ位は済ませていたんだろう、と少々驚きはしたがさして動じた様子は見せていない。
 隠しようもない動揺に襲われていたのは、こと精神力と言う点ではもっとも強靭なものを持っているはずの鬼無子であった。
 ぽかんと阿呆の様に口を開き、黒瑪瑙を思わせる美しい輝きを湛えた黒瞳はまんまるに見開かれている。
 ついこの間、上半身を舐め回される次いでの様な形で雪輝に人生初めての接吻を奪われた鬼無子にとって、愛情をたっぷりと籠めて唇を重ねる雪輝達の姿は言葉にはし難い衝撃であった。
 名残惜しげにひなの方から唇を離すのを待ってから、鬼無子が壊れたように口を開く。

「なななななななななな、ゆ、ゆ、雪輝殿、ひひひひな!?」

 唇を離してから雪輝の鼻先を撫でていたひなは、初めて耳にするほど慌てた様子の鬼無子の声に、はい? と小首を傾げて振り返る。その動作もいちいち可愛らしい。

「どうかしたかね、鬼無子?」

 鬼無子に問い返したのは雪輝である。舌を伸ばしてひなの唇が触れたあたりをぺろりと一舐め。

「いまの様な事を、いつからなさっておられたので!?」

 どもりは収まったが驚愕の声音はさらに激しさを増す鬼無子の問いに、雪輝は今日の天気を告げる様な調子で返事をした。

「随分前からかな。そうであったな、ひな」

「はい。その……私の方から雪輝様に、おねだりしました」

 頬を染めて鬼無子の視線から逃れるように顔をそむけたひなが、もじもじと指を突き合わせて告白する。雪輝はいまいち理解している様子は見られないが、ひなの方は親愛の情を示す行為としての認識がある様だ。

「な、ま、まったく気付けなかった、だと!?」

 一日の始まりから終わりまで共に過ごしていながら、まるで気付かずに今日にいたるまで知らずにいたという事実に、鬼無子はがっくりと膝を負って項垂れた。

(鬼無子さん、こんな愉快で残念な人だったか?)

 と凛は以前、雪輝の毛皮に夢中になっていた鬼無子の姿を見て以来下げていた株を、更に下方修正した。

<続>

>taisaさま
寝技でメロメロというか、いまは頬をなでられたり髪を梳かれるだけでも異常なほど相手に快感を与えしまうのが、鬼無子の気の抜けたときですね。
腕枕胸枕膝枕尻枕、好きなものをどれでもひなと雪輝は選べる立場にあります。雪輝相手だと鬼無子は恥ずかしがりますが、ひな相手なら快諾しますね。鬼無子の貞操に関しては、今後のお楽しみという事でご勘弁を。
また誤字脱字、文法の誤りのご指摘を賜り、まことにありがとうございました。


>マリンド・アニムさま
現状、ひなは気持ちいいのかどうかという判別もつかない、不思議な感じ、といった認識でしょうか。しかしあれですね、読んだり観る分にはにやにやできるものも自分が書く側になると非常に抵抗があるというか、ふとした時に人間としてどうなのか、という気分になってしまうのが最大の難点だと個人的には思います。
抵抗を感じなくなったら、一線を越えてしまったときかなあ、なんて。


>ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)
一度は言う状況に遭遇したい、けしからん、実にけしからんを頂きありがとうございます。鬼無子本人は潔癖な所があるので別に淫乱では無いのですけれど、これもまた彼女の宿命なので今後も色々と苦労することになるかと思います。
ただ少々アダルトすぎたかなと反省はしているので、今後の匙加減には配慮すべきと考えておりますです。
しかしどうトラブればいいのか、考えるのも難しいものですねぇ。

>通りすがりさま

気を抜いたままで人里に近づこうものなら洒落にならない大被害になるのは間違いなしでございます。雪輝がいれば彼の気配で中和されるのですが、別々に行動している時、お風呂の時などではひなへの影響も強いのでけしからんことになりました。

では今回はこれまで。感想を下さった皆様、お読みくださった皆様、いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

12/18 投稿
12/19,20 編集



[19828] その九 幽鬼
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/12/27 12:12
その九 幽鬼

 幽城国(ゆうきのくに)。
 妖哭山を領土の中に囲う地方の名である。
 鬼無子が遠出の行き先に提案したのは幽城の領内を貫くいくつかの小町道が交差して、それなりの活気を帯びる七風(しちかぜ)という町だった。
 幽城国の統治を織田家当主から任された重臣の構える城下のすそ野には、からぶきや板張りの屋根を持った民家が押し合いへしあいひしめき合って並び立っている。
 はるか天空の視点を持つ巨人が精密に線を引きでもしたのか、町の中心部に存在する城を中核とした武士階級の者達が住まう一角は、碁盤のように綺麗に整理区画されている。
 その外部をぐるりと囲むようにして猥雑に草臥れた風の民家や、商家が延々と連なって、この町に住まう人々の営みと共に広がりを見せている。
 神夜国内の三国間が冷戦状態に落ち着いた事で、男手を刈り取ってゆく戦の気運が静まり、物品とそれに伴う金と人との交流が惹起された事により、この七風の町も訪れた者達の落とす金品の恩恵を受けてわずかずつ拡大と繁栄の道を歩む最中に在る。
 町を構成する外部に行くほど計画性の薄れた雑多な家並みが続くのも、他所から流れ込んできた人間を積極的に取り入れるこの町の気風に腰を据えた者達が、その都度家を拵えてきた名残である。
 付近に植生していた森で雪輝と別れたひな、鬼無子、凛の三人は町の郊外で重々しく首を垂れる稲穂の群れの出迎えを受けながら、町道の一つへと合流して足を動かした。
 数年ぶりに見える青々とした田圃の作物の様子に目を丸くして驚いていたひなは、七風の外れの辺りにまで来た所で、ようやく疑問の口を開いた。
 周囲には足を休めず町の中へと進む人の影がちらほらとある。

「どうしてこの辺りはあんなに作物が実っているのでしょうか?」

 生まれ育った村の窮乏ぶりをじかに体験していたひなにとっては、夢物語に等しい光景であったのだろう。
 心底不思議でしょうがないという色を隠すことなく表に浮かべているひなに、ようやくひなと雪輝の衝撃的場面の目撃から立ち直った鬼無子が、穏やかな笑みを浮かべて答える。
 普段と変わらぬ穏やかな対応が出来たのは、頭蓋を割られて直接脳味噌を掻き回されたのかと錯覚するほどの凄まじい精神的衝撃こそあったものの、愛情を交わし合うひなと雪輝の姿に嫉妬や怒りと言った感情を欠片も抱かなかった事が、鬼無子の心に不可思議な安堵を抱かせていたからかもしれない。
 鬼無子にとってひなも雪輝も愛し、慈しみ、想う大切な存在である事は間違いのない事であり、そのひなと雪輝に対して良からぬ感情を抱きたくはなかったであろう。

「そう離れておらぬ所に長螺川(ながらがわ)という川があってな。かなり大きな川であったし、ここら一帯はそう日照りも酷いものではなかったから影響が少なかったのであろう。
 他にも確か緑風泉(りょうふうせん)という水の精の住まう泉があったはずだ。そこに住まう水の精と何代か前のここの領主が取引を交わして、水害の起こらぬ様に処置を施しているのだと文献で見た覚えがある。ここならさほど物が欠乏してもおらぬだろうとは思っていたが、外れではなかったようだな」

 妖魔怪奇の類を他国の人間以上に嫌うのが織田家の家風ではあったが、一方で実利主義的な一面も備えており、例えあやかしの類であるにせよ、自らの権力基盤に益ありとみればそれらを利用するために知恵を凝らすのを厭わぬ所もあった。
 緑風泉に住まう水の精との取引などは、織田家の実利主義者としての一面を表す代表的な話と言えるだろう。
 社を建立し祀りたて、その年最初に採れた作物を奉納することによって緑風泉の水は常にこんこんと大地から湧き続けて、如何なる天災に見舞われても変わらぬ透き通った水をこの町の人間達に供給しているのだ。
 七風の町はその緑風泉と長螺川という大きな二つの水源に加えて、移動時間の短さからあまりひなに実感はなかったかもしれないが、ここから苗場村まではゆうに二十里(八十キロメートル)以上の距離が離れている場所に在る。
 地理的にも気候的にも圧倒的に条件に違いがある以上、旱魃に襲われたと言ってもその結果に違いが生じるのは当然のことだろう。
 鬼無子の答えに納得がいったひなはそれ以上問う事はせずに、視界の端から端までを埋める家屋の群れを見回した。

「こんなに家がたくさん並んでいるのを見るのも、人がいっぱい歩いているのを見るのも初めてです! 凛さんや鬼無子さんはもっと大きな町を見て回った事もあるのですか?」

 ひなは小さく握った拳を胸の前に揃えて、うきうきと弾んだ声で凛と鬼無子に問う。この小さな少女の近くにいるだけで不思議とこちらの気分も弾む位に、ひなは驚きと興奮に包まれている。
 凛はひなの元気良い姿に胸中を暖かなものにしながら、傷と火傷の痕がそここそにある指で頬を掻きながら答える。

「あたしはそんなにないなあ。山の外の連中とはどうも気が合わないし山から離れると、ここはあたしの居場所じゃないって感じがするんだよ」

 生まれも育ちも妖気満ち溢れる妖哭山の凛にとっては、人の気と営みとで満たされた妖哭山外部の町はどうにも水が合わないようであるらしい。
 行き交う人の流れを見る目にはさほど愉快そうな光は浮かんでいない。とはいえそうそう山の外に出る機会もない事とあって、凛は口で言うほどに居心地の悪さを感じているわけでもなさそうだった。
 同行しているのが気心の知れたひなと鬼無子であったという事も大きな理由だろう。
 鬼無子はというとこの面々の中では唯一の都会生まれの都会育ちという事もあってか、ひなの言葉に細首を縦に振って肯定の意を露わにする。青い組紐で纏めた栗色の髪がかすかに上下した。

「大和の都や織田の終張(おわり)などは比較にならぬな。どちらも百万以上の人が住まう一大都市であったし、ここは隆盛の熱気に包まれているとはいえども、地方の小都市と言った所であるからね。それでもこの位の町としてはなかなか栄えているよ」

「ひゃくまんにん……」

 言葉でしか知らなかった数の単位に、ひなは驚きを隠さずに呆然と呟いた。苗場村の総人口が精々百人そこらで在ったのに対し、実に一万倍以上の開きがある。
 想像することさえ出来ない圧倒的な数に対して、ひなは目の回る気持ちであった。
 目を瞬いているひなの様子に鬼無子は新たな笑みを零して、止めていた足を再び動かすことを提案した。

「さてここで口を開いていも仕方がない。早く町へはいるとしようではないか。ただ見物に来たのではなく買い物を済ませる用が合ってこの町に来たのだからね」

「そうでしたね。最初はどこへ行かれるのですか、鬼無子さん?」

「何事を成すにもまずは軍資金調達。雪輝殿から頂いたものを換金してからだな」

 鬼無子はそっと懐に納めた雪輝の体毛を、着物の布地を豊かに押し上げる胸の上から左手で抑えた。
 妖魔や鬼、魔性と化した人間などを討伐して報酬を得るのは、それなりの町なら必ず置かれている妖魔改の番所で、非所属である流れの退魔士用の依頼を受けるか、依頼を受けずに野に散っている妖魔達を自主的に討伐し、討伐の証明としてその遺骸の一部なりを持ち寄るのが一般的だ。
 事情を表に出せない訳ありの武家や商人が自分の伝手を頼って私的に依頼を出す事もあるが、いまのひな達にはまるで縁のない話だろう。
 以前一泊したおりに七風の町並みを把握したという鬼無子を先頭に、ひな達は意気揚々と町の中へと足を踏み出す。
 埃を被って真っ白になった草鞋や裾の擦り切れてくたびれた旅装姿の人々は、体の中に重く溜め込んだ疲労にも負けず顔を挙げて歩き、通りに並ぶ店先で足を止めて品々を見繕う町民達の顔に、容赦ない日差しに喘ぎ苦しんだ者の影はない。
 ひなにとってはここ数年見慣れたふさぎ込み消沈する事にさえ疲れ果てた苗場村の村人達とは、まるで別世界に生きる人間達ばかりであった。
 きょろきょろと通りに並んで賑わう茶屋や呉服問屋、古着屋、米屋、乾物屋、青物屋、金物屋、両替商と挙げればきりのない商家に目を奪われるひなの様子に、その前後を守る様に挟んでいる鬼無子と凛は忍び笑いを堪えなければならなかった。
 初めて町に出てきた田舎者そのものの反応も、ひながすればなんとも庇護欲をそそる愛らしい所作に化けて見えるのだから、このあどけない少女の生まれ持った器量も大したものだ。
 しなびた僻村に生まれていなければ、苗場村での生活のような惨めという言葉のさらに底辺を舐める暮らしをせずに済んだだろう。
 ひなの様子に目を奪われていた鬼無子達であったが、むしろ周囲を歩く人々の耳目はひなではなく――ひなにも、ひなと同じ年ごろの娘が居てもおかしくない年齢の男や女達の暖かなまなざしが向けられていたが――鬼無子達自身に注がれていた。
 町民や旅人とも異なる雰囲気を滲ませる凛もそれなりに目を留める対象となり得てはいたが、やはりこの三人の中で注目を引くのが鬼無子である事は改めて語るまでもないかもしれない。
 武士姿の女人が珍しいという事もあったが、なによりもその美貌が人々の網膜に焼きつき心を奪っていた。
 それは男と女を選ばず、老いと若いとを選ばずに見る者の心を奪う類稀なる美貌であった。
 淡く口元に浮かびあがる微笑みを構成する唇の、まるで裂いたばかりの処女の肌から溢れる血潮を思わせる鮮烈な朱の色、穏やかに緩められている瞳は漆の様に艶やかで、月と星を取り払った夜闇と同じ深い黒、夜空を流れる星の尾のごとく典雅な線を描く鼻梁。
 目と鼻と口と眉と、いずれもが造作の神が吟味を尽くして選びぬいた素材を、繊細極まる神経と人ならぬ感性で配したとしか思えない黄金律の配置。
 潔癖ともいえる清廉さを全身から醸しながらも、見つめる者の背筋に妖しい電流を流す、一抹の妖艶さを纏う雰囲気。
 行き交う人々の足並みが遅れを見せて、傍らを通りすぎた者達が背後を振り返り、店先に並ぶ品々に熱い視線を送っていた者達は、不意に視界の端に映った武士姿の佳人の白いかんばせにおのずと視線を吸い寄せられる。
 鬼無子の意識しない所で、鬼無子を花弁の中心に置いた魅了の大輪花が周囲に咲き誇っているかのごとく、町民や旅人達の瞳は鬼無子へと吸い寄せられていた。
 ほう、と感嘆の吐息が誰しもの口から零れ、足を止めた誰かがまるで御伽草子から出てきた様な、と心底からの賞賛の言葉を呟き、ある大店の店主は身代を売り払ってでも手にする価値があると思った。
 心惑わす魅了の霧を頭を左右に振って払い、人々が正気を取り戻す中を、鬼無子は不可思議な現象の原因が自分自身である事の自覚なく、目的の場所へ向けて背後に凛とひなを連れだって歩き続けた。
 かくも鬼無子が周囲の人々を魅了して惹きつけたのは、雪輝との同居暮らしで彼の妖気に触発されて、体内の淫魔の血が活性化した事とその影響を受けてその美躯がより淫らに、より美しく、より豊かに変貌していた事が大きい。
 もとより腰の刃を捨てて艶やかに着飾れば傾国の美女足り得る鬼無子の美貌と肉体に、淫魔の因子が加わればこれはむしろ当然の帰結と言えただろう。
 ただ、今回の場合、佇んでいるだけでも周囲の同性・異性を性的に虜にする淫魔の血は、鬼無子の中で全く機能しては居なかった。
 もともと鬼無子には既に怨霊騒ぎの一件以来、自分の妖魔化が進んでいる事への自覚があり、人の町に出向く事で比率が増している妖魔の気配を、他の退魔士に感づかれて襲われる可能性を憂慮していた。
 その為に邪気退散、妖魔封滅の呪言を記した札を懐中や袖口に何十枚と忍ばせている。
 鬼無子自身が体内の妖魔の血の抑制を強く意識し、腰の崩塵それ自体が有する霊力による抑えに加えての、念の為の抑制措置である。
 もともと極端に緊張の糸を緩ませて気を抜かなければ、淫魔の血が発露する様な事はないのだから、これだけ意識して妖魔の血を抑える処置を施しておけば、周囲に影響を与えようはずもない。
 ではなぜこうも道歩く人々を魅了して心奪う事になっているのかと言えば、これは単純に鬼無子の素の美しさの為であった。
 淫魔の淫気を発しなくとも血の影響を受けて変貌した鬼無子の肉体が、元に戻るわけではない。
 為に、鬼無子はすでに強烈な媚薬効果のある芳香で虫を誘いこむ食中花にも似た雰囲気と肉体的魅力を、その身体で体得するに至っていたのである。
 周囲の寄せてくる視線を引き剥がしながら、といってもそんな事を知らない鬼無子達は久方ぶりの人いきれの中に、少々息の詰まる気持ちになりつつも一様に笑みを浮かべて、目当ての番所の前へとたどり着く。
 妖魔改の番所はさすがに代々の織田家当主の肝いりの直属組織とあって、見事な門構えの屋敷であった。
 妖魔の襲撃を想定しているのか黒く陽光を跳ね返す頑丈そうな門には、魔を退ける霊験あらたかな文言がびっしりと書き込まれた霊札が幾千枚も張り重ねられて、その上から厚みが三寸(約九センチ)の鉄板が打ちつけられている。
 門を守る四人の門番は揃って六尺近い背丈に、鍛え抜いた筋肉の瘤の鎧で固めた褐色の肉体を誇示している。
 手にしているのはよくある木の棒や鉄棍などではなく、鈍く銀光を辺りに散らす刃を備えた短槍を抜き身で構えている。
 不審な行動をとる者がいたら容赦なく突き殺す事を徹底された門番達である。辺りを睥睨する視線はそれだけ子供などひきつけを起こしそうなほど、峻烈に輝いている。
 中で控えている十数名はいるだろう猛者どもの戦闘能力と併せて考えれば、たかが一地方都市に設けられた番所の一つにしては十分に過ぎると言えた。
 鬼無子はそんな門番達が守る正門ではなく裏口に回った。
 正門はあくまで織田家の系譜に連なる家臣や正規の妖魔改の者達が訪れる為の場所であって、織田家の禄を食んでいない浮草同然の退魔士などは裏口の方に設けられた受付に顔を出すのが常識だ。
 凛とひなと鬼無子が正門から離れると、それまで口を横一文字に食いしばっていた門番達は、揃ってわずかではあるが頬を緩めて赤らめる。無論、視界に映った鬼無子の美貌のなせる業である。
 血を吐いてのたうちまわる修練を重ねて肉体と精神を鍛え上げた門番達を、こうも容易く弛緩させてしてしまう辺り、ここまでくるともはや存在だけで一種の生きた妖術と言っていい鬼無子の妖美さであった。
 正門に比べればいかにも後ろ暗い者達を迎えるのが似合いと見える造りの裏門に回る最中、鬼無子が足を止めて後ろの凛とひなを振り返る。

「換金しに中まで入るが二人はどうする。正直に言うがこういう場所に来る連中はろくなものではないぞ。稀に志ある者もいないではないが、それこそ夏の日に雪が降る様なものであるし、二人に要らぬちょっかいを出すものもおるやもしれぬ。というよりも十中八九いる。近くの茶屋で待っていてもらってもそれがしは一向に構わぬよ」

 鬼無子にしろ、ひなにしろ、凛にしろ、同年代の女子と見比べて頭一つも二つも突きぬけた美貌の持ち主である。
 日々を過ごす銭に困り、世に対する不平不満をたっぷりと溜め込んだ浪人連中や、人の道など屁とも思わぬ破戒僧、法術師の類がたむろしているのはまずまちがいなく、鬼無子の心配は当然の事と言えた。
 凛の気性も併せて考えれば下手なちょっかいを受けたら、火に油を注ぐような反応を見せて血の流れる沙汰に発展しかねず、ひなへの悪影響以外にその点も鬼無子は危惧していた。

「わ、私は鬼無子さんに付いて行きます。そんな所に鬼無子さんお一人で行かせるのは、申し訳ないですし」

 少しばかり怖がる様子を覗かせつつも、ひなは鬼無子を案じる心のままに同行を申し出て、凛はと言うと好戦的な、ともすれば獲物にとびかかる寸前の獣めいて見える笑みを浮かべて答える。

「あたしもこういう所に来るのは初めてだかんね。貴重な経験が出来そうだから嫌と言われてもついてくよ」

「まあ、そう言うだろうとは思っていたけれどね」

 思った通りの答えが返ってきた事に鬼無子は、つい唇からこぼれそうになる嘆息を堪えなければならなかった。
 雪輝からひなの身の安全を任された鬼無子にしては、危険の可能性がある場所にひなを連れてゆくのは、浅慮ともとれるがこれには鬼無子が自分と凛が居れば、番所であぶれている様な二流どころには遅れを取らぬと判断していたからである。
 有能と見ればすぐさま仕官の道を用意するほど異能と力の収集に貪欲な織田家が、放置して小間使い扱いしている様な連中など、下級妖魔を狩りたてて生活の糧としているような小物だらけである。
 たまさか子飼いにされるのを嫌う気概と力とを兼ね備えた傑物が顔を並べている事もあるが、玉石混交などそう滅多にあるものではない。

「では二人ともそれがしから決して離れぬ様に気をつけるのだよ。要らぬ諍いを起こしては今後ここを利用できなくなるからね」

 それでも一応は釘をさして、鬼無子は正門の門番と同じ格好の裏口の門番達の方へと足を動かす。
 正門を訪れるのが素性の確かな織田家ゆかりの者達であるのに対して、どこの馬の骨とも分からぬ在野の異能者達が足しげく訪れる裏口を守る門番達は、しっかと立つその全身から殺気さえ滲ませている。
 その殺気にひなが当てられるような事のない様、鬼無子は正面から門番達の浴びせてくる殺気を受け止めて、下腹に溜め込んだ気を放出して尽く相殺する。
 一滴の墨汁では桶を満たす水のすべてをを黒く染める事が出来ないように、常人をはるかに凌駕する質と量を兼ね備える鬼無子の気に、門番達の殺気はまるで最初から存在しなかったもののように霧散する。
 わずかに二人の門番の顔に驚きのさざ波が起きた。彼らが日頃目にする二流三流の屑どもとは、根本的な格の違う本物が目の前に立つ女武者であると悟ったのである。

「こちらが妖魔改の番所で間違いござらぬか? 妖魔を一体討ったので、吟味をしていただきたい」

 ひなや雪輝には決して聞かせぬ硬質の響きを含んだ鬼無子の言葉に、門番達は黙したまま首を縦に振り、開かれた門の奥へと続く道へと槍の穂先を向けて、先に進むよう促した。

「では失礼致す。ひな、ここからは手をつないで行こうか」

「は、はい」

 年の離れた屈強な男を前にすると同じような体格の村人に手酷い扱いを受けた時の事を思い出してしまうのか、門番達に対して怯えた様子を隠さぬひなを案じて、鬼無子が思いやりを込めた言葉を口にした。
 流石に利き腕を塞ぐような真似はせず、鬼無子が差し出したのは左手である。生まれつきの利き腕は右だが、左手でも寸分違わぬ武技を震えるように鍛錬を重ねているので、どちらの手が塞がっていても実のところ大差はない。
 鬼無子と凛に対する信頼に揺らぎはなかったが、初めて足を踏み込む場所への不安と恐怖がたしかに胸の内に巣食っていたひなは、差し出された鬼無子の手に救われた気持ち、というのはいささか大げさだが、安堵を覚えながら小さな手を伸ばす。
 触れ合う事で心に感じる精神的負荷と言うものは大きく減るようで、ひなは繋いだ手から伝わる鬼無子の暖かな体温と優しさに、全身を強張らせていた緊張をほぐした。
 鬼無子が手を差し伸べたのはひなの不安を取り除くためでもあったが、とっさの事態が勃発した際にひなの身体を抱き寄せて自分の体を盾にする為でもある。
 玉砂利がびっしりと敷き詰められて、石楠花、竜胆、芍薬、百合、躑躅、桔梗、椿と鮮やかな色彩の群れが広い庭を飾り立てている。
 塀際にブナや杉が小さな林を構築し、あちらこちらに遮蔽物が点在して屋敷の全容を望めぬ様に配置されている。
 だがそれらの中に鬼無子と凛は感嘆の吐息を零すわけにはゆかぬ物騒な品々を認めている。
 目を凝らしても見えるかどうかというほど細い糸が張り巡らされ、不用意にその糸に触れた者には、毒をたっぷりと塗った鏃や槍衾、投石の類が襲い掛かるのだろうが、これはまず序の口であろう。
 木々の葉や美しい花弁に偽装した呪符が裏口から続く道から外れたものに、紅蓮の炎や無から生じた土石流、身をくねる龍のごとき紫電を迸らせて滅ぼしにかかってくる可能性もある。
 不審者を容赦なく突き殺す心構えの門番達同様に、この屋敷それ自体が余計な行動をとる者や招かざる客人への殺意に満ちているのだ。
 ひなが庭先で咲き誇る花々に目を奪われて手を伸ばし、不用意に罠を作動させるのを防ぐのも、鬼無子が手を伸ばした理由の一つであった。
 四季を問わず花々が咲き誇っているのも、なにがしかの秘薬を投与されるか特殊な交配を繰り返すことで、妖魔さえも殺す毒性を付与されているのは容易に察しがついた。
 花々の美しさの奥底に秘められた殺意に気付かぬひなは、裏口から玄関に至るまでの間、目を楽しませて休む暇を与えぬ花々の共演を、心から楽しんでいる様子であった。
 裏口から続いていた番所の内部はざっと三十坪ほどで、十人ほどの浪人や僧形、陰陽師崩れの姿がある。いずれも荒んだ雰囲気を発して隠そうともせず、顔には凶相が浮かび上がっている。
 これまでどのような人生を送ってきたのか、そしてこれからどんな人生を送ってゆくのかが一目で分かる連中ばかりであった。
 誰かに求められるような事はなく、目を背けられて、耳に届かぬ所で悪口を並べ立てられ、死んだところで誰が悲しむでもなく清々したと笑われる、そんな人生がいままで続きそしてこれからも待っていることだろう。
 使える連中はいないな、と中にいる面々の顔を見回したうえでの感想を、鬼無子は口の中で転がすにとどめた。
 故国の討魔省への入省希望にこの連中が訪れようものなら、ことごとく叩きのめして追い出す低品質極まりない役立たずばかりである。
 実際、鬼無子は前職に在った頃にそうして何十人となく己が力を過剰に吹聴して、入省を迫る愚か者を半殺しにした上で放り出した事があった。
 討魔省が要求する妖魔との戦いの中で、肉の盾程度にしか役立たず、あっと言う間に命を落としてしまうのを防ぐためではあったが、圧倒的弱者を痛めつける不愉快な感触を思い出して、鬼無子はこちらを睨む雑魚どもを意識して視界から外した。
 ひなは鬼無子と手をつないで安心した様子で、無遠慮な視線の数々を受けても特に怯えた様子を見せずにいた。
 凛はと言えば生来の短気さや血の気の多さがにじむ笑みを浮かべ、くくく、と忍び笑いを零している。ひなの耳に届いたら小さな悲鳴を漏らしそうな忍び声であった。
 山の民の少女は天性の鍛冶士であるのと同様に戦闘者としての血潮も持ち合わせているようだ。
 要らぬ事はしてくれるなよ、と鬼無子は背後の凛を一瞥して釘を刺す。深々と刺された釘に、ちぇ、と凛は小さく舌を出して答える。悪戯を見つかった子供の様な仕草だ。
 これはさっさと目的を果たさないと要らぬ諍いが置きかねんな、と判断して鬼無子はすぐに換金を行う事にする。
 番所の入って正面は依頼の受付や報酬を受け渡す場所となっており、漆喰の壁で隔てられた受付の者達との間には、さらに厳重に鉄格子が嵌められていて、仕事を求めてきたあぶれ者達がいらぬ暴力を振るえぬように処置されている。
 右側には持ち込まれたさまざまな依頼の詳細を書き連ねた紙が、それぞれの依頼の難易度に応じて整理された形で貼られている。
 反対の左側は依頼外での妖魔討伐における報酬の受け渡し場と、妖魔討伐の証拠となる遺骸の引き取り場となっている。
 鬼無子は自分の全身に無遠慮に注がれる好色の色を隠さぬ眼差しを、まるで意に介さずに左手側の受付へ足を向けた。
 自分に注がれる分の欲情の眼差しまでは我慢する事が出来たが、屑同然の退魔士もどきどもの汚れた視線が、凛のみならずひなに至るまで浴びせかけられている事に、鬼無子は危うく堪忍袋の緒が切れそうになるのを堪えねばならなかった。
 凛も鬼無子と同じものに気づいてはいたが、鬼無子がひなに不安を与えぬようにと内心で怒りの業火を抑え込んでいるのを察して、自分自身の感情の荒波を押さえこむ。
 どうにも近くにいた異性が――狼の妖魔ではあるが――雪輝だけだった影響もあってか、鬼無子の中で男に対する判断基準と言うものが恐ろしく厳しいものになっていたようだ。
 受付の年かさの女は周囲の荒くれどもの視線などどこ吹く風と言う鬼無子や凛には、品定めをするような視線を送っていたが、まるで荒事と無縁の様子のひなにだけはぬくみを帯びた視線を送っている。
 同じくらいの娘か息子でもいるのかもしれない。その事が、少しばかり血の昇っていた鬼無子の頭を冷やす助けになった。
 懐から懐紙に包んだ雪輝の白銀に輝く毛の束を取り出し、それを鉄格子の下部に設けられた明け渡し口に通す。

「裂鞘分道(れつざやぶんどう)の近くに在る森で討った狼の妖魔の毛だ。それなりに手強くてな。旅の路銀に少々色を付けて貰いたいが」

 国巡りの最中、立ち寄った先々で民草を苦しめる悪鬼妖魔の類を討っていた事もあって、鬼無子の態度は慣れ切った風である。
 鬼無子から受け取った雪輝の毛を手に取り、受付の女は手元に置かれていた天秤の様な道具に片側に毛を置く。
 片側の盆に載せた妖魔の遺骸に残る妖気の残量と質から、もう片方の盆が上下する事によって、討伐された妖魔の格を図るもので、織田家では大量生産されている妖気判定の品である。

「さあてね。手強い手強いという妖魔に限って二束三文の雑魚、ていうのがここを訪れる連中のお決まりさね。もっともあんたは物腰と言い雰囲気と言い、ここらでくすぶっている阿呆どもとは違うみたいだけど」

 図りの動きに目をやりながら、受付の女は白いものが混じる髪を鬱陶し気に掻きあげた。愚痴めいた口ぶりからは、普段対応している退魔士もどき達の質の低さに対する苛立ちが感じられた。
 凶光を輝かせて抑える事を知らぬ荒くれどもと年がら年中、顔を突き合わせている所為か随分と横柄な態度ではあったが、鬼無子に気にした様子はない。

「世辞はありがたく受け取っておくが、査定には色を付けてくれないのだろう」

「そりゃ、ねえ? あんたらに渡す金は織田のご当主様から賜った金なんだ。無駄遣いするわけにはいかないだろ」

「もっともだ」

 受付の女に渡した雪輝の毛であったが、これは雪輝から斬り取ってそのまま渡した、というわけではなかった。
 雪輝は上級妖魔の端に名を連ねる程度には強力な力を持った個体である。
 そんな妖魔の体毛の一部を持ち込みでもしようものなら、どこにそんな妖魔が出没したのか、他に同じような者はいなかったか、と微に入り細に入り問われるのは目に見えているし、勧誘の手も伸びてくるだろう。
 その為に雪輝から譲り受けた体毛には、何度も何度も妖気を弱まらせるための処置を施してあり、いま雪輝の体毛に残留している妖気は精々が中級妖魔の中の中といった程度であろう。
 ほかにも雪輝から斬り取った毛は幾束かあり、中にはひなの禹歩や護身仙術の練習の的として使っているものもある。
 天秤の秤の動きを見つめていた受付女は、久しぶりに下級妖魔以外の遺骸を目にしたようで、へえ、と感心した様子。

「手強かったと言った通りだろう?」

「そうだねえ、ここ最近持ち込まれてきた屑とは一味違うさね。どうだい、あんた。いくつかこっちで仕事を回すから、それの結果次第ではいい話ができると思うよ?」

 背後で鬼無子に注目の視線を寄せるもどき共に軽蔑しきった視線を送る受付女に、鬼無子は苦笑した。
 精々が中級妖魔を討伐した、という程度で誘いの話が遠回しとはいえ出てくるとは、どうも織田の妖魔改は人手が不足しているらしい。
 すぐに採用と言うわけではなく、使えるかどうかを図るための仕事を回したうえでとは言っているが、使えると判断しようものならすぐさま妖魔の跋扈する最前線に投入するのだろう。
 神夜国内には人間の国家に匹敵する規模と勢力を兼ね備えた妖魔の一族や集団も存在しているが、それらが活動を活発化させたとは耳にしていなかった鬼無子は、織田家中でなにかあったのかと訝しむ。

「いや、まだ武者修行中の身でね。織田家の禄を食む栄誉は別の者にこそ相応しい。それに今は将来の安定よりもすきっ腹を満たす今日の米が欲しい卑しい身分だ」

 そういう鬼無子はいかにも落ちぶれた自分を自嘲する風を装い、清楚な美しさの漂う唇を自らに対する嘲りの笑みに形作る。
 雪輝やひなに対しては隠し事の欠片もせず、素直な言葉しか口にしない鬼無子であるが、必要に応じればこの程度の猿芝居は打てるようだ。
 受付の四十過ぎと見える女は、鬼無子が表に浮かべた偽りの表情を信じたようで、同情の眼差しを鬼無子に向けて、どこも不景気だと言わんばかりにやれやれと呟きを零す。

「そういう謙遜もできない奴らが多くて困ってんだよねえ。ほら、後ろの子らと団子でも食ってお帰りな」

 後ろの鍵付きの棚を開き、取りだした貨幣を木綿の袋に入れて、受付の女が鬼無子に差しだしてきた。
 鬼無子はそれを手に取り中を改めて真っ赤に咲いた椿の花びらをくり抜いた様な唇を、ほお、と動かす。鬼無子の予想よりも幾分多めの額がその中にあったためである。

「よいのか。幾分多いように思えるが」

「最近物が高いのさ。それくらい出さなければ食っていけない奴らが多くってね」

「そうか。日照りは収まったと言うが、そうそう回復はせぬのも道理であるかな。とはいえ久方ぶりに人間らしいものが口にできよう。機会があればまた寄らせていただく」

「はいよ。ところで登録はしていかないのかい? 依頼を受けるなら登録が必要だよ」

「考えておこう。とりあえずいまはな」

 布袋を懐に納めて、鬼無子は背後で待っていたひなと凛を振り返り用は済んだと退出を促す。

「さあ、第一の目的は終わりだ。ほかの用を済まそう」

 鬼無子が懐に納めた袋の中身を羨んでか、あるいは単に鬼無子の身体へ向けていた好色まるだしの視線に秘めた欲望に突き動かされてか、幾人かの素浪人や退魔士もどきがにやにやといやらしい笑みを浮かべて、動きを見せる。
 女と侮り手元に転がり込んできた三羽の見目麗しい小鳥達を思う存分可愛がってやろうと言う暗い愉悦に突き動かされての事だと、その顔を見るだけでも分かる。
 先ほどからの視線に加えて更に不躾に押し付けられてくる欲情の思念が、自分はともかく凛とひなに至るまで注がれている事に、いい加減鬼無子の忍耐も我慢の限界を迎えつつあった。
 例えひなが自分に寄せられる視線に気づいていないにしても、ごろつきと大差のない連中に、実の妹も同然に愛する少女がその視線で汚された気分になり、自分に悪意を向けられるよりもはるかに強い怒りが鬼無子の胸の中で渦巻いている。
 牛の首も落とせるような分厚い刃と五尺近い刃長を兼ね備えた人斬り包丁を背負った男が、伸ばしっぱなしの髭を生やした馬面をにやつかせながら、こちらに向けて歩いてくる機先を怒り心頭に至った鬼無子が制した。
 腰の崩塵を抜きうち様に切先を突きつけたわけでも、袖口に忍ばせた投げ刃を投じたわけでもない。
何の事はない。一瞥一つくれる事もなく、指向性を持たせた気迫を叩きつけただけである。
 殺気を一欠けらも込めていない鬼無子の気迫は、まともに浴びせかけた所で心身に障害を負う様なものではない。
 直接精神に攻撃を加える類の呪術に対する反撃のすべの一つとして学んだ技術であるが、これに殺気を込めれば荒事に免疫のない一般人なら、鬼無子ほどの力量の主になるとその場で気死しかねぬものになる。
 精神的な手加減を加えた鬼無子の無言の気迫を受けた馬面の退魔士もどきは、いやらしくにやついた顔はそのままに、顔色を青ざめてその場に腰を落とした。
 下級妖魔相手とはいえそれなりに死線をくぐったであろう馬面は、自分に何が起きたか分かった様子もなく、口を開いては閉じてを繰り返している。
 その頬をいやに粘っこい脂汗が滴り落ちる。
 いい加減苛立ちを貯め込んでいた鬼無子の放った気迫を受けて、腰を抜かして心身を萎えさせたのは、その馬面だけではなくその背後にいた仲間と思しい者達数名も同様の現象に襲われていた。
 朝廷に千年単位で仕え、その年月の間を常に対妖魔戦闘の最前線に立って死闘をくぐり抜けてきた四方木家最後の血統を受け継ぐ鬼無子とでは、血筋に宿る根本的な霊力も連綿と受け継いだ戦闘技術も骨を砕き肉を裂かれて身につけた経験も、なにもかもが違いすぎる。
 凛は鬼無子の放った気迫の密度と質に、愉快で残念なんて評価したのは間違いだったな、と下げていた鬼無子の株を上方に修正する。
 仮に自分が鬼無子の放った気迫を受けたとしたら、意識は保てるだろうが心臓を刃で貫かれた様な負荷くらいは覚えただろう。それはおそらく鎧武者の怨霊との戦いで与えられた心身への負荷にも匹敵しよう。
 雪輝とひなを前にしている時は温厚で誠実な人柄を表に見せる鬼無子だが、修羅場や長く関わったという妖魔関連の事態を前にすると、頼もしいことこの上ない所を見せてくれるようだった。
 ひなは突然腰を抜かして座り込む退魔士もどきの連中を心配そうに見ていたが、再び手を鬼無子に引かれた事で意識を鬼無子に向ける。

「立ち眩みにでも襲われたのかもしれないな。さ、行こう。あまり雪輝殿を待たせるのはひなも嫌だろう?」

「あ、そうでした。雪輝様が寂しがっていらっしゃるかもしれませんね」

 手のかかる子供が目の届く所に居ないのを心配する母親か姉の様な口ぶりで言うものだから、鬼無子と凛はおもわずくすりと零す。
 ひなといる時は基本的に雪輝は父親か兄めいた言動をとるのだが、周囲の方はまるで逆の判断を下しており、ひなの方が雪輝の保護者として見ている。
 鬼無子は自身の放った気迫で腰砕けになった者達には目もくれず、用はないと妖魔改の番所を出た。
 鬼無子が姿を消してしばらくしても、腰を抜かした馬面をはじめとした退魔士もどきの屑連中は、立ちあがることさえままならなかった。



 雪輝を待たせては、と妖魔改の番所を退出する口実に使った鬼無子ではあったが、その後もなにくれとなく細工物を見て回ってはひなの黒髪に似合う簪や櫛を見繕ったり、反物屋を訪れるなどして、普段ひなが接する事のない品々を見て回って時間を潰した。
 辺境の僻村では一生縁のない品々を見て触れるのは本当に楽しくて、ひなは心を弾ませていたが、雪輝を待たせる時間が長引く事が心に引っかかっているようで、困ったように眉根を寄せて、自分の手を引く鬼無子を見上げた。
 いまは本来の目的であった塩や米、味噌を取り扱う各店を見て回って値段を確認している。最低限必要な金額を確かめるためである。

「あの、鬼無子さん。早くお買い物を済ませるのではなかったのですか?」

「ん? はは、それもそうだが雪輝殿が楽しんでおいでと仰っていただろう。もう少し見て回っても雪輝殿は文句など言いはしないよ」

 ひなの為に値段は控えめだが黒髪に良く映える造りの丁寧な簪や竹櫛、笄(こうがい)に古着などを入れた竹で編んだ葛籠(つづら)を背負ったまま、鬼無子はかんらかんらと笑ってひなの心配を気にも留めない。

「本当の所はひなの為に新しい着物の一つ二つも買ってあげたかったのだが、次の楽しみにしておこう」

 基本的に庶民の着衣は古着の使い回しである。子供が成長して丈の合わなくなった服を古着屋に売り、それをまた丁度着ごろの別の人間が買ってまた着回す、といった塩梅であとは継ぎを何度も当てて使い古すのが一般的だ。
 流石に新しく着衣を仕立てるとなると今後の生活に必要な金子も考慮すれば、ひなに買ってやりたいという気持ちが山ほどあっても堪えねばならない。
 今度来る時はどうやって金の用意をするか、と頭の中で考えつつ、鬼無子は値札の掛けられた味噌樽から目を離した。

「番所でもらった報酬が思ったよりもあった事もあって、服を仕立てるほどではないにせよ財布の中身が残っているな。時間もまだあるし、ちと寄りたい所があるのだがよいかね? 二人はその間、団子でも食べていてもらえるかな」

 細工物や饅頭屋の店先を見ていた時よりもうきうきと弾んだ声で言う鬼無子に、ひなと凛は互いの顔を見合わせて、これを拒絶するのは悪い、という結論に至る。
 味噌樽や米の重量を考えて、購入するのは最後にして先に鬼無子の行きたい所へ向かう事になった。道中鬼無子がこれから向かう先についての説明をしはじめる。

「以前ここに寄った時、大狼の噂を聞いてすぐに出立したから寄らなかったのだが、この七風の町には撃神裂斬天武流という流派の道場があるのだ」

「げ、げきしんれつざんてんむりゅー?」

 舌を噛みそうな名前だったが、かろうじてひなは言い終える事に成功した。

「うむ。なんでも金剛斬断一刀流(こんごうざんだんいっとうりゅう)の目録を得てから諸国を回り、四方天夢業流剣法(しほうてんむぎょうりゅうけんぽう)を極めた方が開いた新興流派だとか。一角の流派と耳にして一手指南に預かろうと楽しみにしていたのを思い出してね。さてどれだけ腕に覚えのある者がいる事か」

 名ばかりが先行する流派の多さに以前はすっかり失望して諦めていたが、雪輝とひなにであった事で気力を取り戻した鬼無子は、淡い希望を抱きながら角の向こうに門を構えているはずの道場へと思いを馳せた。
 しかし、その鬼無子の思いは呆気なく裏切られる事となる。
 撃神烈斬天武流の道場を尋ねる間、ひなと凛には近くの茶屋で茶と団子を楽しんで待ってもらっている。
 入り口で道場の門下生らしい若いのに一手ご指南を戴きたく、と口上を述べた時に、すでに鬼無子にはこれは外れかもしれないという予感があった。
 まず、頼もう、と伺いを立てる鬼無子の姿を見た二十そこそこの道場生が浮かべたのが、鬼無子に対する欲情の色であったためだ。
 それはある程度仕方のない事と鬼無子も認めていたが、指南を求める口上を鬼無子が続ける間も欲情の色は収まるどころかより色濃く浮かび上がり、頭の中で鬼無子を裸に剥いて淫行に耽る妄想に浸っているのが傍から見ても分かる有り様だ。
 噂に聞くほど厳格な気風の道場であったなら、例え訪ねて来た相手が女人であったとしても、このような無様なことこの上ない応対をする道場生には仕上がるまい。
 稽古の最中に在った道場の中に通されてもその予感を拭う事は出来なかった。むしろ確信の思いへと悪化してしまう。
 稽古を止めて道場の両端に別れた二十名ほどの門下生たちが鬼無子に向ける視線は、さりげない足の運びから姿勢、毛の一本一本、爪先指先に至るまで充溢している意識に気付いた様子はなく、あわよくば打ち据えた後に犯してしまえ、という黒々とした欲望が渦巻いていた。
 この時点で鬼無子は自分の期待が完全に外れた事を否が負うにも理解していた。羽織と腰の崩塵を預けて、稽古用の木刀を手に取る鬼無子の最初の相手は、鬼無子を案内した若者である。
 どいつもこいつも嘲りと侮りと好色の三つを浮かべている道場の門下生と、それを見守る師範や師範代達に、先ほどの妖魔改の番所での苛立ちの名残があった鬼無子は、これは一つ目に物見せてくれると決めたのであった。
 最初に師範や師範代が出ずに下から数えた方が速いだろう門下生を出してきたのは、単純に鬼無子を侮った事と、もっとも敗れてはならない師範に出番が回ってくるまでの間に、服数名の門下生と立ち合わせて、相手を疲れさせなおかつ太刀筋を見極めようと言う姑息な目論見がある。
 その程度の事は二年の旅路の間に嫌というほど体験してきた鬼無子は、精神的に動揺した様子はなく、また仮にこの場にいる門下生すべてを一度に相手にしても息一つ乱さずに勝つ自信があった。
 そしてそれが鬼無子の驕りでも己に対する過信でも何でもない事を証明するのに、さしたる時間はかからなかった。
 肉を打つ響きが道場生と師範、師範代の数と同じだけ鳴った後、磨き抜かれて艶々と輝く板張りの床の上に立っていたのは鬼無子ただ一人だけであった。
 一人の例外もなく頭頂部に鬼無子の木刀の一撃を受けた門下生や師範達は、白目をむいて床に長々と伸びて気を失っている。
 頭部への強烈な一打を容赦なく見舞った鬼無子ではあったが、後に目を覚ました全員には何の後遺症もなく、また打たれた一瞬で気絶した為に痛みを感じさせる事もなかった。
 対妖魔の武技を戦闘能力の中核に置いている鬼無子ではあったが、対人戦闘の方も十二分以上に技術を積んでいることの表れといえよう。
 師範でさえ一合として受ける事も出来なかった事実に、鬼無子は重い溜息を吐いて渡された木刀を壁に掛け直してから、預けていた羽織と崩塵を見つけ出し、それから一言も発することなく道場を後にする。
 ひなと凛、さらには雪輝を待たせてまで訪れる価値は、まるでなかったと言わざるを得ない。その事が鬼無子の胸に重くのしかかって、申し訳なさの嵐が吹き荒れていた。

「はあ」

 鬼無子の溜息に答える者はなかった。
 肩こそ落とさなかったものの意気消沈した様子で道場を出てきた鬼無子に、茶屋の店先で団子をもぐもぐと食べていたひなと凛が気づき、片手を挙げて自分達の据わる長椅子に招き寄せる。
 鬼無子の食欲を考慮して二十本ほど団子が積み重ねられている皿を左手に持ち、鬼無子は手招きされるままに着席する。
 乾いた笑みを浮かべてがっかりした様子の鬼無子に、凛がからかう様に声を掛けた。

「その顔じゃあ当てが大外れしたってところかい?」

 まとめて三本ほど団子の串を握り、一辺に頬張った鬼無子は頬を栗鼠よろしく膨らませて、もぐもぐと咀嚼しながら首を縦に振る。
 よほど咬筋力が強いのか、ろくに噛んでも居ない内に鬼無子は口の中の団子を纏めてごっくんと飲み込む。

「うむ、凛殿の言うとおりに当てが外れてしまったよ。二人と雪輝殿をお待たせしてまで通う価値はまるでなかった。まったく、撃神烈斬天武流に限らず昨今は名ばかりの口先剣術が我が物顔で跋扈していて嘆かわしい」

 そう言って憤慨を飲み込むように、鬼無子はまた新たな団子の串を握って口の中に運ぶ。いささか下品な所作ではあったが、口の中に物が残っていない内は言葉を発しないあたりは一応気を付けているらしい。

「はは、まあ鬼無子さんの目に叶う様なのがそうそう辺りに転がっちゃいないだろうさ。でっかい戦もそう起きちゃいない御時世だからね。道場剣法が実戦よりも形式ばったのに傾倒しだしてるってよく聞くし、なおさら無理な話だよ」

 湯気を立ち昇らせる茶で団子を流し込んだ鬼無子は、ううむ、と一つ唸る。そうしてもなお鬼無子の美貌の調和が崩れる事はなかった。

「鬼無子さん、そう気を落とさないでください。ほらお団子はまだまだありますし、お好きなだけ食べて、元気を出してください」

「そうだな。団子でも食べて気分を切り替えるか」

「はい。鬼無子さんはお元気な姿が一番素敵です」

「嬉しい事を言ってくれるものだ」

 ひなの笑顔にささくれた心を癒されて、鬼無子はとても穏やかな気持ちで笑みを浮かべる事が出来た。
 鬼無子の気分が乗った事も相まって団子を口に運ぶ速度が速まり、鬼無子は瞬く間に団子を全て腹の中におさめて、日差しのぬくもりを感じながら茶を啜る。
 湯呑の底に溜まっている一番渋い所を呑み終えた鬼無子は、湯呑を置くのと同時になにかに気付いた様な顔をして、袖や懐の中に手を入れてもぞもぞと動かし始める。
 同じように茶店で寛いでいた男客が、懐の中をごそごそと探る鬼無子の姿に羨ましそうな視線を向けているのだが、それが女の客にまでも及ぶのだからすごい。

「いかん、忘れ物をしてしまったようだ。道場に戻らねばならんな」

 道場の期待外れっぷりに始まり今日はどうにもツキに見放されてしまったようだ、と鬼無子は今日何度目かになる溜息を吐く。

「今日は鬼無子さんの運がお悪い日なのでしょうか?」

「かもしれぬな。はあ、すまぬが二人は先に買い物を済ませて入ってきた時のあの場所で待っていてはくれまいか。すぐに済ませてくるから」

 長椅子に立てかけていた崩塵を腰帯に押し込み、立ちあがった鬼無子が茶目っ気のある仕草で左目を瞑り、凛にだけこっそりと目配りをする。
 それで何に気づいたか、凛は肩を竦めて了承の意を伝え返す。

「まあ、忘れ物取ってくるだけならたいして時間はかかんないか。ひな、先に味噌とか欲しいもの買っておこうよ。米俵の一つ二つならあたしでも担げるし」

 厳しい暮らしの中で細く引き締められた体の凛ではあるが、自分で言うとおりに米俵くらいなら肩に二つずつ担いだ状態でも、平気な顔をして走り回る位の膂力と体力はある。
 米俵や味噌樽、塩と重量のかさばる物を一人で運ぶくらいはどうという事はない。

「わかりました。鬼無子さん、待ってますから」

「うむ。それがしの我儘で色々と済まぬな」

 土産の団子を包んでもらい、さきほど値段を確認していた味噌や塩を買いに行くひなと凛と別れた鬼無子の足は、撃神烈斬天武流の道場ではなく町はずれへと向けられている。
 凛への目配せと言い、実際に鬼無子の言った忘れ物はないのだろう。
 人通りが少なくなり、行き交う人々の足音も遠のいてきた頃、鬼無子は角を曲がった先に在った廃寺の門をくぐった。
 仏教の発祥は海の向こうの大陸であるが、十三大神の中でも慈悲深いことで知られる仏の教えは、八百年ほど前から神夜国にも伝播して、それなりに信者を獲得している。
 シラツキノオオミカミの神血を引く帝を頂点にいただく大和朝廷は割と仏教とは友好的な関係を築いていて、鬼無子も仏教に対して特に敵がいの意識などは抱いていない。
 茫々に草が思う様に伸び、屋根は傾いで門の蝶番は外れ落ちて表面は腐り始めている。人の気配は絶えて、信心深い人々が足しげく通っていたのは数十年以上昔のことだと、荒れ果てた境内と寂寥の気配が鬼無子に伝える。

「先ほどからの気配と視線、それがしに何の用だ?」

 鬼無子の問いは自分の背後にではなく、左手側に生えている雑木林の中へと吸い込まれた。
 方々に伸びる枝葉が折り重なって陽光を遮り、影の世界と化している雑木林の中から、水が滲むようにして一人の男が姿を見せた。
 その姿を透かして背後の光景が見える様な、不思議とそこにいるのかどうかあいまいな奇妙な雰囲気を纏っている。
 青い着流しに一刀を佩いた若者だが、一目見た瞬間から鬼無子は、全身の血が饐えた匂いを放つ腐水に変わった様な悪寒に囚われた。
 さきほど叩きのめした道場のボンクラどもや番所で屯(たむろ)していた二流どころとは別格の、本物だと鬼無子の退魔士としての本能が声を大にして警告を発している。
 警告――鬼無子は、目の前の剣士を敵性存在として認識していたのである。
 若者は、覗きこんだ者の魂を吸い込む虚ろな黒瞳、赤い血潮など一滴も流れていないかのような白蝋の肌、すらりと伸びた鼻梁の線、吸いつく事を夢に見る者が後を絶たぬ唇と、淫魔の血を引く鬼無子をも凌駕しかねぬこの世ならぬ美貌を湛えた凛々しい若武者姿であった。
 年は鬼無子より五つか六つは上だろう。氷の冷たさと夜空の虚しさばかりが宿る若者の瞳は、鬼無子の顔をたしかに映している。
 道場を後にして茶屋の店先で団子を食べつくしたあたりから、鬼無子に向けて送られていた氷雪の視線の主は、まず間違いなくこの若者であろう。
 全身から余計な力を抜いて自然体に整え、崩塵を抜き打つにせよ、左手の一振りで投げ刃を投じるにせよ、一息で移れるよう構える鬼無子に若者は笑みを向けた。
 刃の軌跡の様に鋭い三日月の笑みであった。男の扱いに手慣れた女郎達も、この笑みを向けられれば未通女のように頬を染めることだろう。

「番所でお主の放った気迫を感じ、これは面白いと後を追った非礼は詫びよう」

 見目に相応しく美しいが、確かに男と分かる低い声であった。声からその主の美貌が鮮やかに連想できるほど美しいのに、しかし、なぜか鬼無子の全身が総毛だった。
 これが雪輝殿のお声であったらな、と鬼無子は思う。惚れた贔屓目もあるだろうが、あの狼の声には狼の妖魔だが、人柄の良さが滲んでおり、親とはぐれて泣いている子供も安堵を覚えて笑顔を浮かばせるものがある。
 声の異質さはともかくとして、思っていたよりもまともな返事が返ってきた事に意外性を感じつつ、鬼無子は自分の短慮が招いた事か、と悔いた。
 しかし、それ以上に鬼無子を戦慄させたのは若者の言葉を信じるならば、番所から尾けてきたという若者の気配にまるで気付けなかった事だ。
 茶屋での視線は尾行に飽きを覚えた若者が、わざと鬼無子に気付かせるために送ったものだったのだろう。
 影そのものの妖魔の気配や、風や炎といった現象に近い身体を持つ妖魔の存在も看破する鬼無子の知覚をくぐり抜けたというだけでも、目の前の妖異な若者が尋常な存在でない事は明白。
 硬質の沈黙を維持する鬼無子に、笑みを維持したまま若者は口を開く。

「私は黄昏夕座(たそがれゆうざ)。お主の振るう太刀に興味がある。よって、一手ご教授を願いたい」

 夕座の手が腰の太刀に伸びていた。鬼無子の是非と問わずに斬りかかってくる腹積もりである事は明白である。
 かすかな鞘鳴りの音を立てながら陽光を跳ね返して銀の軌跡を描く刀身が、ぴたりと右下段に切先を伸ばす。
 その刀身から立ち上る妖気と剣気の凄まじさに、鬼無子は我知らず目を見張った。
 目の前の妖剣士の技量が計りきれぬほど高い次元で完成されている事と、そして自分と同種の気配を感知したためである。
 かつて風の噂に耳にした、幽城国の秘事を、鬼無子は思いだしていた。鉄鞘より崩塵を抜き放ちながら、鬼無子は口を開いた。
 口の中が渇いていた。刃を交えずとも分かる強敵の出現に対する緊張と、そして興奮とに。鬼無子は我ながらどし難いと呆れるものを覚える。

「幽城国は織田の軍勢とは別に古来より、その名の通りに幽鬼によって守護されていると聞く。幽鬼とはすなわち貴殿を指しての事か?」

 はたして本名か偽名なのか怪しいものがあるが、黄昏とは逢魔ヶ時、人と妖(あやかし)の交わる時刻の意であり、昼でも夜でもない混沌の時を指す。
 ならば夕座とは、幽座、すなわち幽鬼の座する時に生きる者と言う意味であろうか。人でも妖でもなく、人であり妖でもあるもの。
 夕座のそこに確かに存在しているのに、まるで姿形だけが幻の様に立っていて、本人は存在していないかのような奇妙な存在感と相まって、鬼無子は目の前の妖美なる剣士の身体に、人以外の血が流れている事をほぼ確信していた。
 もしこの夕座なる者が織田家妖魔改の剣士であるとしたならば、妖魔の血の混じる鬼無子を危険分子とみなして処断に踏み切ったとしても不思議ではない。
 夕座は鬼無子の問いにあるかなきかの笑みを浮かべて答える。

「さて。口上はもうよかろう。お主の氏素性は問わぬ。ただ、刃を交えてもらえればそれで私は満足よ」

 騒動を招くのは雪輝殿ばかりではなかったな、と鬼無子が我が身の軽挙を呪った時、夕座の身体が夏の日の陽炎のごとく揺ぐ。
 常人の眼には映らぬ恐るべき踏み込みは、二人の間に存在した三間(約五・四メートル)の距離を、瞬く間に無へと変える。
 鬼無子の右手に握られた崩塵と、夕座の手にする銘も知れぬ刀とが風をも切り裂く神速で交差した。

<続>

>マリンド・アニムさま
>あれですよ、成人男性×ひな(少女)はちょっとまずいかもしれないですが、雪輝、人じゃないですし。むしろ動物でいえばひなの年齢ならとうに成人ですよ!無問題じゃないですか!

ああ、問題ないなあっていやいや。そりゃ動物として考えればひなの年齢は立派な成人成獣ですけれども、そもそも人間と動物というキワモノは倫理的にアレですよ。書いている私がいえた義理ではありませんけれども。
それにしても雪輝の人化には賛否両論なのですね、どうしようかしら。


>ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)

というわけでひなのターンでした。戦闘はいるとどうしても出番がなくなってしまうひなの、見せ場ですね。鬼無子のファーストキスは雪輝でしたが、雪輝の初体験はひなと済ませていたという罠。鬼無子も本人はそういう色事に免疫のない初心な人なのですが、体が言う事を聞かないので仕方がないのです。


>taisaさま

ひなも最終目的である子作りを目指して子供なりに頑張っている証拠ですね。鬼無子も同居暮らしで人生初の体験が続いており、思い悩む事が増えてそれが妄想に繋がってしまっている感じですかね。ただ鬼無子も愉快で残念でエロイだけではないので、今後頑張ってもらいます。

>白いクロさま

面白いと言っていただけるその一言が力になります。ありがとうございます。

>天船さま

鬼無子の出番が多いのですがひなと雪輝のイチャイチャが少なくなってしまうのが欠点でございますだ。なんだかんだでひなも積極的になっており、雪輝とのコミュニケーションは活発化していたりするのです。

今回の鬼無子は、清楚な見た目と雰囲気なのに、なんとなくエロイな、そこはかとなくエロイな、どことなくエロイな、と見ている人に思われています。単純に美人というのもありますけれども。


誤字脱字ありましたご指摘くださいませ。ご感想ご助言いただければ幸いと存じます。では、又次回でよろしくお願い致します。

12/26投稿
12/27編集



[19828] その十 招かざる出会い
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/01/03 20:29
その十 招かざる出会い


 刃と刃とが交差し、虚空を触れ合った金属音が揺らしてその残響が木霊する中、刃と刃の交差点は星の瞬きにも似た銀の火花を散らす。
 銀の煌めきが大気に消えるよりも早く二つの刃は離れた。
 愛刀崩塵の刀身から伝播して右腕を骨から震わせる衝撃に、鬼無子は巌のごとく引き締めた表情のままに柳眉を寄せた。
 猛虎を輪切りにする一刀は同等の一刀に迎え撃たれたのである。
 手弱女の細腕としか見えぬ鬼無子の繰り出した一刀の、苛烈なまでの破壊力と疾風の速さが共存した一撃を受け、黄昏夕座は浮かべていた微笑を深く刻み直す。
 それは彼の予想を越えた技量を鬼無子が備えていた事を喜ぶ笑みであった。
 ただそこに佇んでいるだけでも世界が夕暮れに――黄昏に染まるかのような幽冥の雰囲気を纏う夕座が笑めば、そこにあるのは見る者の心を負の魅力で絡め取るこの世ならぬ笑み。
 その笑みを前に鬼無子が感じたのは、背筋を貫く特大の悪寒であった。
 鬼無子と夕座の間にあの世とこの世とを分つ境界線が引かれていて、夕座はその境界線の向こう――あの世からこちらへ来いと呼んでいる、そんな恐怖が鬼無子の精神に小さな牙を突き立てていた。
 そしてまた同時に、己の磨き抜いた武が及ばぬかもしれぬ強敵を前にして歓喜する武人の狂気が、自分と同じように目の前の男にも在る事に対して鬼無子が感じた嫌悪の表れでもある。
 人外の美貌としか形容のしようがないこの妖剣士にも、鬼無子と同様に強敵との死合に生を体感する精神が備わっているのだ。
 弾きあった刃を引き戻し、右八双に構えた夕座の腕が煙に包まれた様に消えた。
 三間の距離を瞬きよりも早く詰めた踏み込みを、更に上回る神速の太刀は鬼無子の左頸部へと陽光を斬り散らしながら銀閃を伸ばす。
 例え鬼無子の肉体が常人をはるかに超える剛性と柔軟性を兼ね備えた頑強なものであれ、首筋が鮮血を噴くに留まらず、そのまま右肺下部まで突き抜けるであろう一太刀である。
 びょう、と鳴る風切り音は、斬られた風の挙げた断末魔に違いあるまい。
 見る者の網膜をも切り裂くかと見えた一刀を、今度は宿す霊力で刀身を青い光で覆う崩塵が受けた。
 ふたたび鳴り響く高く澄んだ美しい一音。
 刀と刀、刃と刃。命を奪う利器が奏でるには余りにも美しい音であった。生と死の境界線を分かつがゆえに、美しいのか。
 だが問いに答える者はこの場に居ない。鬼無子も夕座も互いに振るう刃に乗せているのは、目の前の存在の命運を断つ一念のみ。
 二度目の刃の交錯越しに、鬼無子と夕座の視線が絡み合った。相手の心臓を射抜くかのごとく鋭い鬼無子の視線を、黄昏の陰鬱さを湛える夕座の視線が吸い込む。
 そのまま魂まで吸い込まれてゆくかのような錯覚に襲われて、精神に虚脱が襲い掛かる予感に、鬼無子が両腕の膂力を爆発させて夕座の刀を突っぱずした。
 瞳を合わせるだけで相手の意思を奪い、自らの傀儡とする催眠眼を警戒したのである。
 比喩でも何でもなく百人力に等しい鬼無子の超人の膂力は、夕座の刀が突如虚無に変じたかのごとく吸い込まれて消えた。
 並みの使い手ならば突っ張ずされた自身の刀身に額を割られ、十間は吹き飛ばされて赤い花を大地に咲かせるはずが、夕座は変わらぬ笑みを湛えたままわずかに刀身を引いただけであった。
 鬼無子の処女の鮮血を塗りたくった様な妖しくも美しい唇から、極めて短い吐息がひとつ、紙縒りの様に細く吐き出された。吐息が風に溶けるよりも早く、崩塵は白銀の鳳仙花のごとく爆ぜ割れる。
 夕座の腰で、腹で、肩で、首で、額で、太ももで、無数の銀花が咲き誇った。
 斬撃の残像が網膜に残っている間に次の斬撃が迸る鬼無子の連続斬撃を、未来が読めているかの如くことごとく受け止める夕座の刀との間で生じる一瞬の光芒、その連続である。
 疾風の連続突きが四度空を貫いた時、鬼無子は戻した崩塵を烈風の荒々しさを纏う横薙ぎの一刀へと変えるも、大地に根を張ったかの如く悠然と立つ夕座の刀はやすやすとそれを受け止める。
 二刀が刃を噛みあわせていた時は、一秒ほどの時間もなかったろう。
 再び離れた崩塵は、鬼無子の体捌きと足捌きの絶妙な連携によってたっぷりと体重と膂力の乗った縦一文字の斬閃となる。
 永く別れた恋人との再会に焦がれたかのように熱烈と叩きつけられた一刀は、予め打ち合わせていたかのごとく、横一文字に刀を構えて峰に左手を添えて支える夕座によって阻まれる。
 両刃の衝突点で繚乱と銀の火花が散り、血の流れなど知らぬ青い夕座の顔と白蝋の様に滑らかな鬼無子の顔を照らす。
 重さ十貫の鉄芯仕込みの木刀を小枝のように振り回し、百貫の巨岩でお手玉が出来る鬼無子の打ちこみである。
 受けた刀は砕け散り、相手の肉体は縦に二つに割れる、どころかあまりの衝撃に肉体が爆散するのが当然の結末だ。
 しかるに、夕座は三日月の微笑をそのままに鬼無子の一撃を見事受け止めて見せ、大地に踏ん張る足を陥没させるのみに留めて見せた。
 鋼を断つ崩塵と十二分以上にその切れ味を発揮させる鬼無子の太刀をこれほどまで捌いてみせ、かつ刀身に刃零れ一つないのは受ける刀がよほどの業物なのか、あるいは夕座の技量が並みはずれて高いからか。
 鬼無子は両方、と判断していた。
 金属の衝突音が夏の日の風鈴を思わせる透き通った音を立てるのと時を同じくして、崩塵は夕座の左腰から輪切りにせんと襲い掛かっていた。
 鬼無子に三本目の腕があり、そこに二振り目の崩塵を手にしているのかと錯覚するかの如き連撃は、しかし、今度もまた夕座の刀が防いでいた。
 人間など例え鎧兜で身を固めていようとも、水を斬るかのごとく頭頂から股間までを両断するまさしく必殺の一刀も、相手の肉に触れられねば意味を成さない。
 刃を合わせたまま夕座が口を開いた。愉悦の滲む楽しげな声であった。

「私とここまで刃を結べるとは見事。だがこれまではすべて私が受けた。次は私の番」

 崩塵の刀身を絡め取る動きを夕座が見せた時、鬼無子は崩塵を引き戻す作業に傾注した。しかし崩塵はまるで夕座の刀に吸いついているかのように離れることなく、夕座の腕の動きに巻き込まれる。
 妖術や刀の特異な能力ではない、と事前に何の予兆も感じなかった鬼無子は瞬時に判断を下す。
 鬼無子が崩塵に加える力を刀越しに尽く霧散させる夕座の高度な技術によるものだろう。
 鬼無子が抗う術を見つける前に、気付けば崩塵の刀身はその切先を境内の地面に突き刺していた。崩塵の峰を刃で押し込んでいた夕座の刀が、鬼無子の首を下から掬うように動く。
 首をはねられて、血の雨を降らしながら喜劇の様に空中でくるくると回る自分の生首を連想し、鬼無子は後方への跳躍に踏み切る。刃で受けるのは間に合わないと悟っていた。
 空気が鳴った。
 夕座の刀が首を刎ねる寸前、鬼無子の後方への跳躍が間に合い、空を切った為に鳴った音である。
 地上から空へと向けて描かれた銀の三日月は、栗色の髪を数本斬るに留まった。 一寸ほどの長さで斬られた鬼無子の前髪が、風に煽られてはらりと舞い落ちる。
 後方へ飛びのいた鬼無子は、大地を蹴って後方への跳躍の最中、まったく同じ速度で鬼無子を追って跳躍した夕座の姿に、目を見張る。
 影の様につかず離れず、夕座は肩の切っ先を右下段に流した姿勢で鬼無子を追っていたのだ。
 舌打つ気持ちを丹田に練っておいた気の爆発と共に吐き出し、鬼無子は右手一本で握っていた崩塵を夕座の左頸部に迸らせた。
 刃圏に入れば夜空を斬り裂く流星も落とすのではと見える一閃であった。生涯を剣に捧げた者でも、はたしてその生命を終えるまでに体得できるかどうかという一閃だが、鬼無子の放つ太刀はすべてそれだ。
 そして夕座もまた。
 空中で二振りの刃によって斜めに傾いだ十字が描かれて、互いの身体を弾く形で鬼無子と夕座はほぼ同時に大地に着地した。
 着地しざまに夕座は大地を蹴った。地を踏む足が足首まで沈むほどの踏み込みであった。
 大気をぶち抜きながら迫る夕座に対し、鬼無子は完全に後手に回る。
 瀑布の迫力と勢いで上段に叩きつけられてくる打ちこみ、銃火を思わせる速度で中段に放たれる突き、月下に水面を跳ねる魚のごとく下段を切りあげてくる一刀。
 息つく暇など欠片もない夕座の怒涛の攻めを前に、鬼無子は反撃の瞬間を見いだせずに防禦に回る他なかった。
 刃と刃の衝突音は一繋ぎの楽曲のごとく絶えず続き、鬼無子は超人の反射神経と反応速度、人外の血が齎す未来予知じみた直感、歴戦の経験が培う予測の全てを動員して、夕座の太刀を時に受け、時にかわし続ける。
 刃が噛み合い続けて遂に三十合目を数えた時、夕座は攻めの手を緩めてゆらりと二歩、三歩、四歩と後退した。
 鬼無子は同じ距離を詰めて追撃の手を放つことなく、その場に足を留めて夕座の全身を凝と睨みつける。
 筋繊維一本の動きから次に映る行動を見抜くべく、鬼無子の瞳は人ならぬ視力を発揮している。
 きせず、構えは両者ともに平青眼。
 待ちか、攻めか。
 そのどちらでもなかった。微笑を取り払い、夕座が口を開いた。心底からの感嘆を隠さぬ声で言う。

「ふむ、私の攻めをここまで受けて傷一つ負わなんだのは、お主で三人目。見事ぞ、名も知れぬ姫武者」

「…………」

 答えぬ鬼無子に構うことなく夕座は言葉を続けた。他人の反応を待つような神経の持ち主ではないだろう。

「それにしても番所で感じた気迫ばかりが気になっておったが、よく見ればお主、美しいな。まだ二十歳にもなっておるまい。その年でよくもこれだけの技を得たものぞ。私はもっと掛った。強いだけの女なら腐るほどいる。美しいだけの女もな。だが、美しく強い女となればこれは稀よ。ふむ、しかし、ゆえに惜しい」

 惜しい、とはこの場で鬼無子を殺す事が、という意味か。
 少なくとも鬼無子はそう捉えた。
 今の鬼無子の背後には崩壊間近の門が聳えている。すっかり屋根が傾いでいる寺を背後に、夕座が鬼無子と相対している。
 参拝する者も絶えて孤塁を守るはずの住職や寺男もなく、御仏の威光が忘れられた廃寺に、夕座は不浄の気配を全身から漂わせて刃を鬼無子へ向けている。
 純粋な技量は互角か、わずかに向こうが上、と鬼無子は判断を下しながら口を開いた。

「満足していただけたのなら、剣を引いてもらいたいものだが」

「ふむ。そうさな、お主が私の配下、いや、それはちと勿体無いか。こうしよう、お主が我が妻となるのならば刃を納めようぞ」

 辻斬り同然に手合わせを申し込んだかと思えば、妻になれば見逃すという。黄昏夕座と言う人間の精神構造は、一般人とは異なる怪奇なものとしか言えない。
 鬼無子は、といえば人生で初めて異性から掛けられた求婚の言葉が夕座から出た事に対して、心の中では苦虫を百万匹も噛み潰したような気持ちであったが、表には感情のさざ波も起こす事はなく冷たく答える。

「断る」

「つれないな。私の見た目が気に食わぬか?」

 余裕の表れなのか、夕座は左手を刀の柄から離してそっと自分の頬を指でなぞる。頬をなぞる指に、指になぞられる頬に、男も女も羨望の炎に身を焦がして悶えるであろう妖しさであった。
 細く長い指には皺があり爪があり、それは決して人間の指と相違ない形状をしているはずだ。なのに夕座の指はそれ自体が芸術の概念を覆しかねぬ途方もない美の結晶であった。
 わずかに尖った爪の淡い桜色の艶めかしい輝き、関節ごとに刻まれている皺ははるか夜空の果てに浮かぶ星状雲のごとく妖しく、骨と筋と肉と血管を包み込む肌は赤子のそれと変わらぬ張りと眩さだ。
 この男の体の中に、鬼無子同様に淫魔の血が流れているとしても、誰も疑わないのではないか。あるいは流れているのは淫魔ではなく美醜を司る邪神の血であったかもしれない。いずれにせよ神聖な存在の血肉を受け継いではいないだろうことだけは確かだ。

「それとも惚れた男でもいるのか?」

 夕座の惚れた男と言う言葉に、脳裏にのほほんと笑む雪輝の横顔が浮かび、鬼無子は思わず頬を朱に染めた。
 半ば冗談で口にした言葉が意外にも正鵠を射た事に、夕座はおや、と呟いた。この男にしては意外と言うべきか、平凡な反応である。この男にも人並みの所はあるらしい。

「こ、断る理由はともかく! 貴殿の提案は飲めぬ。これ以上、貴殿の気まぐれには付き合えぬゆえそれがしはこれで失礼させていただく」

「退く気か? させぬ。足の一つ二つなくともお主は愛でるに十分よ」

 戦慄的な夕座の言葉が鬼無子の鼓膜を震わせた時、夕座は初めて眉間にしわを寄せて、苛立ちに近いものを露わにする。
 意思の固さがよくあらわれている鬼無子の拒絶を受けた夕座は、いつの間にか左手に握っていた鬼無子の前髪を口元に運び、妖しく口付けた。
 鬼無子以外の者が見れば官能の吐息を洩らしながら絶頂さえ覚えかねぬ、途方もなく淫靡な口付けであった。
 老いと若いとを選ばず女であれば嫉妬に胸が焼け焦げる夕座の行為だが、髪のごく一部とはいえ、自分の肉体に夕座の唇が触れる光景を目の当たりにさせられた鬼無子にとっては吐き気を催すほど気障で厭味ったらしい行為としか映らない。
 鬼無子は非常時を想定して草鞋の中に仕込んでいた逃亡用の呪符を発動させた。発動は念じるだけで支障なく行える。
 夕座が唇を離した鬼無子の髪を袖に仕舞いこみ、右後方に切先を流しながら鬼無子めがけて踏み込むその先で、鬼無子の左足裏から真っ白い煙が噴水のごとく噴き出して夕座の視界を覆い尽くし、妖剣士の美身を飲み込む。
 並みの濃霧など薄暗がり程度にすぎない夕座の視力をもってしても、伸ばした手の指さえ見えなくなる途方もない濃度の白霧である。
 目眩ましの光や煙を発生させる逃亡用の呪符や術は三国のどこでもありふれているものだが、鬼無子の使用したそれは討魔省謹製の四方木家用の特製品であった。
 朝廷の保有する対妖魔戦力の中でも、四方木家は中核の一つに数えられる重要戦力であるから、仮に出撃した際に予想外の強敵と遭遇した折には、滅多な事がない限りは仲間を見捨てでも帰還するよう申し伝えられている。
 鬼無子が使ったのは、その逃亡に使用する強力な、という言い方はおかしいが極めて効力の高い品なのである。
 塞ぐのは視覚だけではなく嗅覚にも及ぶようで、夕座の鼻はさきほどから如何なる匂いの微粒子も感じる事が出来なくなっていた。
 それでもなお直感に従って鬼無子の後を追わんとした夕座の足を止めたのは、四方から飛来した鋼鉄製の投げ刃であった。
 おそらくは鬼無子が霧を発生させる直前の夕座の位置や動きから位置を予測し、投じたのだろうが、四本の投げ刃は夕座の腹腔、咽喉、後頭部、心臓といずれも必殺を期した狙いである。
 夕座は動揺を感じる事もなく、刀を無造作に動かして方角も狙いもばらばらに飛来した投げ刃の全てを防いでみせる。
 人間の頭蓋を豆腐のように砕く投げ刃の威力も、夕座にとってはさしたる脅威ではないのか、刀を握る右腕が衝撃に痺れた様子はない。
 鬱陶し気に左手で白霧を払いながら、夕座はくるりと踵を返して歩を進めて白霧の覆う範囲から出る。
 抜きっぱなしにしていた右手の刀を腰の朱塗りの鞘に戻し、夕座は面白い、と顔に大きく書きながら、荒れ果てた境内の中で無事に残っていた石灯籠の一つに背を預けた。

「番所で小役人の詰まらぬ話を聞くのに飽いて後を追ってみれば、これは清らかと淫らの混じる妖花よと思ったが、思いのほか鋭い棘をもっていたものよなあ。そうは思わぬか、影座(えいざ)よ」

「仰られる通りかと」

 夕座に応じる声は天から地上から、夕座が身を隠していた雑木林の陰から、崩れかけの壁の向こうから、夕座が背を預ける石灯籠の向こうから聞こえた。
 複数の声ではない。ただ一人の声である。それが四方八方から聞こえてくるのである。
 夕座にとっては日常の範疇なのか、驚いた風はなく打てば響く返事に満足しているようだった。
 錆びた鉄扉が挙げる軋みの様な声の主は、各国が抱える忍び、草、軒猿、素破などと呼ばれる諜報・暗殺・工作を行う陰者のひとりであろう。

「あの者、如何なさりますか」

「放っておけ。今の七風に私以外であの姫武者と渡り合えるものはおらぬ。骸の山を所望するのならば、止めぬがな。それと、お前の足元を見よ」

 影座と呼ばれた忍びは、声にこそ出さなかったが、自分の足元を見て驚愕の気配を境内に広げた。
 夕座以外の人影がまるで見当たらぬ境内のどこかに潜む影座の位置をどのようにして把握したものか、影座の足元には一本の団子串が突き刺さっていたのである。
 影座の履く足袋の爪先を地面に縫いつける串は、霧に紛れて鬼無子が逃亡する際に、夕座に投げ刃を投じたのと同時に、姿を潜めていた影座に牽制として放っていたのだろう。
 自分に向けて串が投じられていた事に気付けなかった事に対し、影座が覚えた動揺は決して小さなものではなかった。

「申し訳ございませぬ」

 血を吐く様な影座の声であった。まさにこの瞬間、忍びとしての影座の矜持は泥濘に塗れ、屈辱に胸を焦がしているのだ。

「謝まらずともよい。お前は紛れもなく一流の忍びであることは、私がよく承知している。こたびはただ相手が悪かっただけの話。あの姫武者の振るっていた刀、私の見立に間違いがなければあれは四方木家の宝刀・崩塵」

 驚愕の余韻が消えるよりも早く、影座の新たな驚きの気配がさざ波を起こした。ひなと雪輝の同居人とその腰のものは、他国にまでその勇名が知れ渡った名家と名品であったらしい。

「神夜十三霊剣の一つ、崩塵にございますか。ではあの者が四方木家最後の姫君、鬼無子姫ということに?」

「であろうよ。宗家たる百方木(ももぎ)家の反乱の折に、朝廷の側に着き一族尽く死に絶えたと聞き及んでいたが、当主の一人娘だけは生き残っておったようだ。国を追われたか自ら出たのかは知らぬが、この幽城国に流れ着いて居るとは流石の私も想像だにせんだわ」

「さればあれほどの武の冴えも得心が行きまする。加減していたとはいえ貴方様とあれほど斬り結べるものが、ただの人間であるはずがございませぬ」

「本気を出しておらぬのは向こうも同じことよ。四方木家に流れる四百四十四種の妖魔の血、どういうわけかは知らぬが私との立ち合いの中では一種たりとも覚醒させなんだ。ともすれば覚醒してしまえば二度と戻れぬほど人間としての限界が近いのやもしれぬ」

「妖魔の血に飲まれれば間違いなく大禍となりましょう。放置されてもよろしいので?」

「お前は見ておらぬか。あの瞳、あれは人である事を矜持にしておったわ。眩いほどに澄んだ輝きを放っておる。人外に身を落とすくらいならば自分で自分の首を落とすであろう。
 ふむ、しかし、名も聞かなんだは失策であったかな。四方木の姫君の名が鬼無子とは知っていたが、本人から聞きたかったものだ。ふふ、冗談ではなく本当に我がものとしたくなってきたぞ。ああいう女は褥の中で激しく乱れるもの。それにあの惚れた男がいるかと問うた時の反応、あれは乙女ぞ」

 そう言って夕座の浮かべる笑みは、途方もなく美しい事を除けば人並みに好色であったが、それでもこの男に声をかけられれば、一万人の女が一万人とも自ら股を開いて求めるだろう。それほどまでに美しいのが、黄昏夕座と言う妖剣士であった。

「お戯れも大概になされませ。お役目がございますぞ」

 窘める口調の影座に夕座は苦笑いを浮かべた。苦笑は妖しいまでに美しくはあったが、人間的なものであった。この青年がかような反応を示す辺り、影座はそれなりに心を許した相手ということなのだろう。

「分かっておるわ。国境を騒がす妖魔共の件であったな。だがその前にまず刀を変えねばならぬ。見よ」

 鞘鳴りの音を立てながら再び抜き放たれた銀刃に、どこに潜むとも知れぬ影座の視線が吸い寄せられた。
 一般的な刀の範疇に収まる二尺三寸(約七十センチ)の刀身にわずかな刃毀れも傷も見えぬそのどこに異変を見つけたのか、影座が低く唸った。

「我が愛刀・朱羅(しゅら)。童が振るってさえ金剛石をも断つ今代屈指の名刀をかくも無残な姿に変えるとは、恐るべきは四方木の血か霊刀崩塵か」

 恋人の肌を愛撫するように愛おし気に夕座の指が朱羅の刀身を這うやいなや、朱羅の刀身が半ばから唐突に、きぃん、と透き通った音を挙げて二つに折れる。
 半ばから切っ先までが境内に落ちて、地面に突き立つ。切先の先に在った石は真っ二つになり、研磨された鏡の様な断面を覗かせている。

「あのまま続けていたとしたなら、はたして地に伏したのは私であったか、四方木の姫君であったか。ふふふ、まこと面白いおなごよ。朱羅の代わりは用意できるか、影座よ」

「お望みの物をご用意いたします」

「よしなに頼むぞ。さて、四方木の姫君よ、お主とはまたいずれまみえようぞ。その時、お主がまだ人であれば力づくで我が妻とし、妖魔であれば討ちし後にその屍を犯してくれよう」

 なんとおぞましく恐ろしい破倫の宣言であった事か。もし鬼無子が夕座のこの言葉を耳にしていたら、あまりの暴言に顔面を青く変えたか、瞬時に頭に血を昇らせて斬りかかっていたかもしれない。



 逃亡用の呪符を使い、夕座の眼を晦まして逃亡を図った鬼無子は、夕座に凌辱の宣誓をされたとは知らず、早急にひなと凛に合流すべく人の目を憚らずに地を蹴って七風の町中を疾駆していた。
 体の全細胞にはまだ夕座の振るう太刀の恐ろしさが克明に残っていた。瞼の裏に焼きついている太刀の凄まじさは、うなじに鳥肌を立たせている。
 昼間の退魔士もどき共や三流のぼんくら剣士たちの事など鬼無子の脳裏からきれいさっぱり消え去っていた。おそらくもう生涯思い出す事はないだろう。
 それほどに先ほどまで刃を交えていた黄昏夕座と言う剣士は、人間の規格を超えた鬼無子をしても恐るべき強敵であった。
 正確に向こうの素性が知れたわけではないが、鬼無子が肌と魂で感じ取った感覚を信じるのなら、あの男は十中八九間違いなく鬼無子同様に妖魔の血を引く半人半妖、かあるいは服従の呪いを架せられた純粋な妖魔、と見ている。
 はたして妖魔嫌いの織田家中でどのような扱いを受けているかまでは鬼無子にも想像の及ぶ所ではないが、あれほどの腕ならばそれなりの地位を与えられているか発言力位はもっていよう。
 あの妻になれ、という言葉には正直吐き気を堪えねばならぬほどのおぞましさに襲われたが、まったく不運な事に目を着けられてしまった以上、もうこの七風の町に足を踏み入れる事は控えねばなるまい。

「雪輝殿や凛殿にあのような釘を刺しておいてそれがし自身が騒動の火種になってしまうとは、まるで申し訳が立たんな」

 ひな達と約束していた合流場所に近づくにつれて速度を抑え、疾駆から徐々に通常の歩行速度へと落とす。
 あの夕座とかいう男の手が伸びるよりも早くこの町から出なければならないのが問題だが、さてどうやってひなと凛殿に言い訳をすればよいのか、と鬼無子が頭を悩ませながら歩いていると、不意に視界の先で人だかりができているのが、鬼無子の目に映る。
 十重二十重に誰かを囲い込んでいる様だが、袋叩きにしているというような危険な雰囲気ではなく、なにやら心配する声がいくつも囁かれている。
 これはなにがあったのか、と鬼無子の胸中に疑問符が浮かび上がった時、両肩に味噌樽や米俵を担いだ凛とひなが、鬼無子を見つけて声を掛けてきた。
 少なくとも別れた二人と無事に合流する事は出来たため、鬼無子はかすかに肩に圧し掛かっていた重圧を軽くする。

「遅れて済まぬ。ところでこれは何の騒ぎで? 剣呑といえば剣呑な様子……」

「いや、あたしらもさっきここに着いたばかりだから詳しい事は分んなくてさ。町の女の子がなんか酷い目に遭ったとかあわなかったとか」

 言葉を濁す凛と鬼無子達に気づいて、なにやら訳知り顔の女が声を掛けてきた。 三十そこそこの、どこにでもいる様な平凡な町女である。

「あんた達、外に出る時はお気をつけ。なんでも近くの森に嘘みたいに大きな狼が出たんだってさ」

 大きな狼、という言葉に鬼無子、凛、ひなの三人が揃って顔を引き攣らせた。やっぱり分かっていなかったのか、と三人とも雪輝に愚痴の一つも吐きたい気分になる。
 三人の期待を裏切ったとも、逆に期待を裏切らなかったとも言えるだろう。
 顔面を揉み解して表情を取り繕った鬼無子が、女にもっと詳しい事を聞きだすために訪ねる。

「ほ、ほう、狼ですか。昔からここら辺には出没していたのですかな?」

 女の武士姿は珍しいが、一応武家の人間相手と言う事で女は鬼無子相手に口調を丁寧なものに変えた。

「とんでもない。狼なんてここらじゃ滅多に出やしませんよ。なんでも綺麗な銀色の狼らしくってね。その狼に襲われた女の子が命からがら逃げてきたって話で、いま、急いで番所に知らせに走っているんですよ。お武家さんも外に出られる時は気を付けてくださいな」

「かたじけない」

 話し終えた女がああいやだいやだ、怖い怖い、と呪文のように呟いて離れてから、鬼無子と凛とひなは互いに視線を交わし合い、無言のまま頷き合った。
 今この瞬間、彼女らには言葉は必要なかった。
 凛が担いでいた味噌樽や塩壺、米俵を鬼無子が受け取り、凛はひなを背負う。小柄なひなよりも荷の方がはるかに重い為、凛の数十倍以上の怪力を誇る鬼無子に預ける方が移動速度は速くなる。
 鬼無子が先頭に立って通りを半分ほど埋めている人だかりを、失礼、失礼、と言いながらかき分けて進み、街道まで出るやすぐに鬼無子と凛の足は疾走を始めた。
 七風の町を目指す旅人達がぎょっと目を向くほどの速さで走る凛の背に負われたひなが、声を張り上げて疑問を口にした。

「森に出た狼って、やっぱり、雪輝様でしょうか」

「あいつ以外いないだろ」

 あの阿呆が、と今にも吐き捨てんばかりに不機嫌に顔を歪めた凛が間髪いれずに言う。

「で、でも雪輝様は人を襲ったりなんてしませんよ」

 雪輝の気性が温厚篤実なものであることはこの場に居る三人全員が認める所ではある。雪輝の場合、不意に人間と遭遇しても牙をむくどころか穏やかな声音で挨拶くらいはするだろう。
 もともと人間に対する敵対意識や食料である、という認識を持ち合わせていない事と生来の温厚な気質が、ひな達との同居暮らしで更に顕著になっているから、雪輝が自分から人を襲うなどと言う事は天地がひっくり返ってもありえないとひなは固く信じている。

「それはそれがし達もそう思う。第一雪輝殿に襲われて逃げられる人間などそうはおらぬし、なにより雪輝殿本人に問いただすのが一番手っ取り早い。あの方は、心底嘘をつけぬ性格であるから自分が不利になる事でも隠す様な事はすまい」

「あいつ、まだあの森に居るかね?」

「それがし達に何も告げずにあそこから離れる様な判断の出来る方ではあるまい」

 雪輝に対する信頼は全幅のものであるはずなのに、時折鬼無子は雪輝に対して辛辣な評価を下す事がある。とはいえ辛辣ではあるもの間違った評価ではないから、面と向かって言われても雪輝に反論の言葉はあるまい。
 人間一人分よりもはるかに思い荷物を担いでいながら、普通の人間の全力疾走どころか駿馬の脚でさえ比べるべくもない鬼無子と、険しい山の生活が自然と鍛え上げた凛の脚力は、瞬く間に三人の姿を雪輝と別れた森へと運んだ。
 七風の町娘が――推定ではあるが――雪輝と遭遇した正確な場所までは、人々の口に乗っていなかったら分かってはいないが、あの雪輝の事であるからひな達を背中からおろした場所の近くをうろついているのは間違いない。
 妖魔改の番所に連絡が入り調査の為の人員の選出の作業には半刻(約一時間)も掛るまい。
 あの番所で燻っていたもどき連中ならどうとでもあしらえる程度に過ぎぬが、仮に黄昏夕座が雪輝と遭遇したら、という危惧が鬼無子の心に黒々とした不安を抱かせていた。
 鬼無子はあの死合の中で感じた夕座の不気味な底の知れなさが、雪輝の生命さえ脅かしかねぬものに思えてならないのだ。
 凛もひなも、そして鬼無子自身が気づいていなかったが、この時鬼無子は惚れた男の身を案ずる恋の炎に胸焦がす乙女の顔をしていたのであった。
 ちょうど雪輝の背中から降りた辺りで周囲の木々に視線を巡らしていると、がさりと音を立てて背の低い茂みを揺らしながら、見慣れた白銀の狼がその巨体を露わにした。
 ひな達と別れるのは寂しいと公言していたのは嘘ではなかったようで、ひな達三人の姿を認めた雪輝の瞳は喜びに輝き、耳と尻尾は感じている嬉しさを隠さずにぱたぱたと動き、ゆらゆらと左右に揺れている。

「お帰り、買い物は楽しめたか?」

 第一声から喜びに弾んでいる。しかしこの言葉はいまの三人にとっては間の悪いものであった。まず一番不機嫌の表情を拵えていた凛が舌鋒鋭く問うた。

「雪輝よ、お前、この森であたしら以外の誰かと出くわしたか?」

 すでにひなを背中から降ろしていた凛は、いかにも不機嫌そうに腕を組んでいる。雪輝はすぐさま凛を筆頭に三人ともが剣呑な雰囲気を滲ませている事に気付き、おや、と疑問符を頭の上に浮かべた。
 そうすると例え造作が完璧に調和のとれたイヌ科の生物であっても、無邪気な子供のように見えて、相対している者の心を和やかなものにする。
 その証拠に凛の眉間に刻まれていた不信の皺が、わずかに緩む。
 雪輝は正直に答えた。ひな達三人の予想通りの正直さであった。

「うむ。凛位の年頃の女の子と男が四人。女の子は町に戻ったな」

 これで町で噂になっていた狼というのが雪輝当人であることは確定である。後は娘を襲ったという事情を正確に把握しなければならない。
 その事情如何によっては、凛は小袖の中に仕込んだ小柄や短刀を閃かす腹積もりであったし、鬼無子も鬼無子で少しばかり斬りつけてやろうか、といつでも崩塵を抜けるように鯉口を切っていた。
 唯一どんな事情があるにせよ雪輝を一途に信じるひなが、悲し気に眉根を寄せて雪輝の頬を両手で挟み込んだ。
 見えざる悲しみの霧を纏うひなの姿に、雪輝はひどく戸惑った様子を見せる。文字通りの狼狽である。

「ひな、どうしたのだ?」

「雪輝様。私たち、町で良くない話を耳にしたのです」

「どのような話だ」

「町の娘さんがこの森で狼に襲われたという話です。その狼はとても大きな体で綺麗な銀色の毛並みをしているそうです。雪輝様は銀というよりは白銀ですけれど、さきほど雪輝様も娘さんや男の人と会ったと仰られましたし、これは雪輝様の事だと思うのですが」

 ひなの言葉を耳にした雪輝はしばらく自分の頭の中で吟味したうえでこう答えた。

「私だな。しかし私は女性を襲ったりはしておらぬよ」

 弁明と言うよりも襲ったという風に事実が歪曲されている事に戸惑っている様子であったから、場合によってはと考えていた凛と鬼無子も刀の柄に伸ばしていた手を戻す。
 元々雪輝が人を襲うなどと本気では信じていなかったのだから、こうも呆気なく態度を変えて雪輝の言い分を信じるのも、そう無理のあるものではないだろう。
 夕座の脅威はとりあえず思考の片隅に追いやり、雪輝の事情を聞く事にした鬼無子が、崩塵の柄尻に左手を置きながら朱色の花唇を開く。
 そこから濃密な花と新鮮な血の匂いがしないのが不思議なほど艶やかな朱の唇であった。

「では女性や男の方々とはどのようにしてお会いになられたのですか?」

「ふむ、それはひな達と別れてからしばらくしての事だな」

 雪輝は青空を仰ぎながらつい数刻前の出来事を思い出しながら口を開き、ひな達三人は一語一句聞き逃さぬ様に耳を澄ます。
 ひな達と別れた後、雪輝は初めて出た妖哭山の外の世界に対して好奇心の手を伸ばして、他にする事も思いつかなかったので森の中だけではあるが散歩をした。
 雪輝の嗅覚、聴覚、触覚、霊的知覚には雪輝以外の妖魔の気配はまるで感じられず、精々が人間には無害な樹木や草花の精の、朧月の様に淡い気配のくらいのものだ。
 これが妖哭山の妖精の類となると、他の存在の血を啜り、断末魔に花弁を震わせる事を望む様な邪悪極まりないものになる。
 しかるにこの森の中に住まう妖精達の気配は陽性の生命力に満ちたもので、いわば新参者である雪輝に対して向けられている気配も、少々警戒の気配を含むが剣呑なものではない。
 雪輝の対応次第では友好的にも敵対的にもなるだろうが、雪輝の方から手を出す様な事はまずあり得ないし、森そのものを敵に回す様な事にはなるまい。
 雪輝は森の中のあらゆるものに興味を抱き、頻繁に鼻を引くつかせては大気に混じる匂いの成分の分析や、その青い満月の瞳に映る緑の世界を仔細に観察している。
 無防備に匂いを嗅いでも花粉に紛れた毒素が鼻の粘膜を糜爛させようとする事もなければ、踏みしめた草葉の陰に潜んでいた食肉蜘蛛や親指ほどもある巨大な蟻の大群が襲い掛かってくるような事もない。
 鱗に当たる陽光を屈折・反射・吸収して周囲の風景に溶け込ませて、巨木や風景の一部と化けて近づいたものを丸呑みにする大蛇や蜥蜴もいないし、地面に潜んで頭上を歩いたものの足元から食らいつく土竜や蚯蚓の化け物の気配も感じられない。
 あまりにも生命に対する脅威の少なさに、かえって雪輝は戸惑ってしまうほどである。
 周囲が生まれて初めて体験するほどに穏やかな世界ではあったが、すでに習性として周囲を警戒する癖がついている雪輝は、ちちち、と鳴き声を零しながら青空に羽ばたく小鳥や、雪輝の姿に気づいて驚きに硬直する鹿や野兎にも、つい警戒の意味を込めた視線を送ってしまう。
 妖哭山ではどんな小さな生き物であってもこちらの命を脅かす力を秘めていないとは、決して言いきれないからだ。
 そうしてしばらくこの森の先住者達を不本意ながら驚かせつつ散歩を続けていた雪輝は、不意に初秋の冷風が運んできた複数の人間の匂いと慌ただしく走る音に気付き、ひなの腕が回りきらないくらいに太い首を匂いと音の源へと巡らす。
 ここで自分がその人間達と顔を合わせれば騒ぎとなり、ひいてはひな達に迷惑を掛ける事になるのは間違いない。
 しかし同時にひなや山の民とは違う外の世界の人間に対する興味が、雪輝の中にないとは言えないのもまた事実。
 ほんの十秒ほど黙考に耽った雪輝は、相手から見つからないようにして人間達の様子を観察する事に決め、草を踏む足音一つ立てずにその場を離れた。
 雪輝が息を潜めて向かった先に居たのは、たしかに雪輝が知覚した通りに一人の少女とそれを追いかける四人の男どもであった。
 しきりに後ろを気にしながら、少女は熟した林檎の色に頬を染め、吐く息は荒く、あどけなさの残る瞳には恐怖を色濃く浮かべて、森の中へ中へと逃げている。
 茶色の小袖の裾をからげ、愛らしい大粒の瞳には涙の粒が尽きず溢れている。年若い少女が涙を浮かべながら走るその理由は、少女が頻繁に背後に向ける視線の先を見れば誰の目にも明らかなものであった。
 瞳に怒りと欲情がぎらぎらと粘着質の光を輝かせながら、野獣が人間の真似をしているかのような男どもが、時折、待てと叫びながら少女をその腕に抱くべく追いかけ回しているのだ。
 どこの町にでもいる気性荒く酒が入れば簡単に暴力を振るうゴロツキの類であろう。昼間から酒精を貪っていたようで、頬には朱が射している。
 揃いも揃って方々に伸びたふけまみれの髪に、顎の輪郭線を隠す無精ひげ、毛むくじゃらの腕や脛はむき出しで、腹に巻いた晒しには匕首が呑んであった。
 捕まれば喉元に匕首を突きつけられて脅されながら、着物を乱暴に脱がされて、こんな森の中で男どもに輪姦される運命だと言う事が、嫌というほど理解出来ているからこそ、少女は恐怖の相をあどけない顔に浮かべているのだ。
 欲望をたっぷりと貯め込んだ男どもは一度や二度では決して満足すまい。一人当たり四回、あるいは五回は犯されるかもしれない。
 既に男どもの頭の中では白濁に塗れた少女が森に捨てられているか、土に埋められるかでもしているのだろう。
 どうしてこんなことに、と少女が何度も何度も繰り返した疑問と共に後ろを振り返った時、不意に視界が反転した。
 躓いた、立ち上がらないと――この二つが少女の思考を埋めた時、すでに体は前のめりに倒れ込んでいる。
 うつ伏せの姿勢で倒れ込みなんとか体を起こそうとして、左足首に走った痛みに太めの眉を寄せた。
 思わず左足を見れば地面から覗いていた太い木の根っこに左の足首が絡まっていた。幸いにして捻挫はしていないようだが、これで大きく男どもとの距離は詰められてしまった。
 絶望的、そう評するのが適切な失敗である。
 それでもなお体を起こそうとする少女を追いついた男の一人が押さえつけた。
 あっ、とぷりぷりと肉厚の唇から一言零した時に、少女は身体をくるりと仰向けにされた。黄ばんだ歯と黒く濁った歯茎をむき出しにして、男が笑っている。
 罅割れて醜い唇には涎が滴っていた。見れば既に褌を解こうと腕を動かす男もいた。数は四人。二十歳そこそこの者もいれば少女の父と同じ年かさの者もいる。
 どいつもこいつも青い果実を貪り踏みにじる暗い欲望に突き動かされて、嬲られる側である少女の心と体など微塵も気に留めていないのが一目で分かる。
 最下級の夜鷹を買う金もない時、あるいはこの時のように欲情をそそる獲物を見つけた時、きっとこのようにしてこいつらは欲望を充足させてきたのであろう。
 この時期の森のこんな奥にまで人が来る事など滅多にないと分かってはいたが、それでも出せる限りの悲鳴を上げようとした少女の口を、毛むくじゃらの腕が抑え込んでささやかな抵抗さえも封じられた。
 男達はようやく捕まえた小鳥を手放すつもりなど欠片もなく、欲望を押さえるつもりも同じようになかった。
 少女に馬乗りになった男の手が無遠慮に小袖の合わせ目に掛けられるや一息に引いた。粗末な小袖は男の乱暴な手つきにわずかに抵抗を示したきり、あっさりと破かれて意外に豊かな少女の乳房を晒した。
 男達の欲情の炎がひと際激しく燃える。
 まだ恋もした事がない少女が、恥辱と恐怖に新たな涙を浮かべて、せめて自分を汚す醜いものを目にしないで済むようにと固く目を閉じた時、馬乗りになった男は顔を伸ばして乳房の先に色づく肉粒にむしゃぶりつこうとしていた。
 そして、そこで雪輝が行動に映ったのである。
 鬼無子に釘を刺されていた事もあって、雪輝は極力この少女と男達に関わらぬようにしようと決めていたが、流石に今目の前で繰り広げられていた凌辱劇は後に鬼無子や凛に叱責されようとも見逃せぬものであった。
 いま襲われている少女は雪輝にとって縁も所縁もなく、その貞操が危機にさらされているからと言って助ける義理も義務もありはしなかったが、しかし、雪輝が介入すれば避けられる悲劇を見逃したとあっては、今日の日の事を雪輝は生涯後悔し続けるという確信があった。
 それに少女は似ても似つかなかったが凛とそう変わらぬ年頃であったし、どことなくひなに似ている様に雪輝には見えていた。

「待て」

 姿を伏せたまま掛けられた雪輝の声に、男達は動揺を、少女は暗中に差した救いの光を見た。
 こんな陰惨凌辱の悲劇場には相応しくない涼やかな声であった。陽光滾る夏の最中に、ふと涼風を頬に受けた様な気持ちになる、そんな声。あるいはだからこそこの場には相応しいのかもしれない。
 野獣のごとき男どもの手に囚われた哀れな少女を救う者には。
 少女の腹の上に馬乗りになった男を除いた三人が、それぞれさらしに呑んでいた匕首を抜き、姿の見えぬ声の主を求めて辺り一帯を凶光の宿る瞳で見まわす。
 極上の料理を舌に乗せる寸前で待ったを掛けられた様なものだ。男達の声の主に――雪輝に対する感情は既に憎悪に達している。

「か弱い少女一人に大の男が四人もよってたかってみっともなかろう。花を手折るも愛でるも個人の好き好きかもしれぬが、踏み躙るのは感心できぬ。いますぐにその少女を放してこの場より去れ」

 雪輝の声は男と少女達に森の彼方から、天から、あらゆる方角から木々に反響して聞こえてきて、声の響きこそ澄んだ小川のせせらぎの様に清澄であったが、それ故にかえって不気味さを纏っていた。
 少女に馬乗りになっていた男も立ち上がり、興奮しているのか唇をしきりに舐めている。この現場を目撃した声の主の殺害を、四人の男たち全員が決意していた。その様子からはすでに数人の命を奪っている手慣れさが見受けられる。

「うるせえ、ごたくをぐだぐだとぬかしやがって。おれらがどの女を犯そうがてめえの知ったこっちゃねえだろう。そういうてめえこそおれらの相伴に預かりてえんじゃねえのか? この雌餓鬼、年の割に良い体をしてやがる」

 雪輝が初めて耳にする汚らしい言葉と、あの白猿王とは異なる意味で醜い男達の笑みに、男や少女達には見えなかったが、秀麗な狼の顔には戸惑いにも似た怒りが浮かび上がっていた。
 いままで雪輝が出会ってきた人間は、目の前の男どもの様な欲望のままに他者を傷つける事に、なんの罪悪感も感じない様な卑劣漢は皆無だったのである。
 幸いにもこれまで雪輝が出会ってきたのは人間の備える善性を多く持った者達ばかりであったがゆえに、雪輝にとってここまでその心の在り様が醜い人間が存在している事は青天の霹靂とでも言うべき事態なのであった。
 自分でも意識しない内に、雪輝は重い溜息を吐いていた。人間と言う存在への失望の表れであると、本人も気づいていたかどうか。

「ならば力づくも止むをえまい。今日この日、お前達の様な人間がいると知った事を、私は生涯忘れまい。悪い意味でな」

 さっさと出てきやがれ、と言葉を続けようとした男達の顔面は動く事を放棄した。彼らの目の前に現れたのは、これまで一度も目にした事がないほど美しく巨大な白銀の狼、すなわち雪輝であった。
 初めてひなと出会った時と同様の、妖魔の哭く声の絶えぬ山の主とされた威厳を纏っていた。
 これ以上あり得ぬと断言できるほど逞しさと美しさを兼ね備えた四肢で大地の上にしっかと立ち、木漏れ日を浴びる全身は白銀の炎に包まれているかのごとく神々しく輝き、矮小な人間達を見つめる瞳は、この世のものと思えぬほど澄んだ青。
 狼とは大神――神の使いたる獣の意でもある。
 組み伏せられた少女に、そして汚れた欲望を発露していた男達にとっても、突如姿を現した眩く輝く狼の妖魔は、妖魔と言う世界の暗部に属する存在などではなく、あらゆる存在の崇敬を向けられるにふさわしい神の側に属する存在と映った。
 ひなと鬼無子がいれば今一度雪輝に惚れ直し、凛であれば普段からずっとそういう風にしていろと憤慨しかねぬ、大自然の生み出した生きた芸術とでも言うべき美と威厳とを兼ね備えた威風堂々たる姿である。
 近頃では生命を狙う妖魔や怨霊達と対峙した時くらいにしか見せなくなって久しい姿と雰囲気であるが、突然の雪輝の出現を前にした男達は、春の訪れとともに冬の氷雪が解ける様にして、ゆっくりと恐怖の感情を精神の海に広げてゆく。
 雪輝は言葉を重ねるでもなく威嚇の牙を剥くでもなく、風の無い日の湖と同じ静かな瞳で男達を睥睨する。
 魔猿一派や怨霊達を前にした時とは異なり、白銀の全身から明確な殺意を炎の様に噴き出していないのは、やはり相手が下劣な屑であっても人間であるからだろう。
 ひな達と出会った時点で雪輝は既に妖魔を幾体も牙に掛けてはいたが、実のところ生きた人間に牙を突き立てた事も、爪で斬り裂いたこともなかったし、人間を傷つけたと知ればひな達に嫌われるのではないかという危惧が雪輝の胸の中に在った。
 だが雪輝が何をしなくともこの場に居合わせた男どもにとっては、その異様な姿だけで心胆を寒からしめるには十分に過ぎた。
 男達の背丈を超える巨躯の雪輝の出現は、瞬く間に男達の欲情の炎を鎮火させ、何人もの血を吸わせた匕首はその存在を忘れてしまいそうなほど頼りないものに変わっている。
 雪輝が一歩を踏み出そうとした時、雪輝の告げた力づくも止むをえまいという言葉が男達の脳裏に沁み込み、それは血液に運ばれて男達の全身に伝播していた。
 四人の男ども全員がわけのわからない叫びを挙げながら、雪輝に背中を見せてその場から脱兎のごとく逃げ出したのである。
 雪輝はといえば自分が何をするでもなく逃げてゆく男達に、要らぬ苦労をせずに済んだか、と思ったきりである。
 元々人間を相手に力を振るう事を躊躇していた事もあって、後を追いかけて痛めつけるという発想はないらしい。
 残るは凌辱の憂き目にあっていた少女一人だけである。
 雪輝が惨状に耐え切れずに声を掛けて以来、何の反応もない少女へと雪輝が目を向けると、少女は破られた着物の胸元を掻き抱いて立ち上がり、雪輝に向けて真っ白に変わった顔を向けている。
 その顔に浮かぶのが紛れもない恐怖である事に、気付かぬ雪輝でなかった。
 雪輝の視線を受けて体を硬直させた少女は、咽喉の奥から言葉になっていない言葉をいくつか零す。心を縛る恐怖が口を動かす事も許さずにいるのであろう。

「あ……や、いや…………あ、たし……」

 やはり自分の姿は多くの人間にとって恐怖の対象でしかないのかと、雪輝は分かってはいたが悲しい事実を改めて突き付けられて、大きな胸の内をかすかに痛めながら、少女にくるりと背を向けて森の木々の中へと姿を消した。
 雪輝の姿が木立の群れの中に消えて見えなくなってから、ようやく硬直の呪縛から逃れた少女が、へなへなと腰砕けになって尻餅を着く音が、かすかに雪輝の耳に届いた。
 雪輝は、大きく溜息を吐きだした。重く、暗く、長い溜息であった。

「といった具合であるよ」

 過去の回想を終えた雪輝は、そう言って話を締めくくった。
 おおむね事前にひな達が想像した通りの話と言えた。
 雪輝が人前に姿を現した事は確かにまずい事ではあったが、だからといって一人の少女に振りかかる災難を防げたというのに見逃したとあっては、ひな達はそちらの方をこそ非難したであろう。
 雪輝の話を聞く限りにおいてはまったく非の無い事情であった事に、ひなは小さな顔に安堵の色を浮かべて、雪輝の下顎となだらかな鼻梁に椛の様に小さな手を添えて、良い子良い子と撫でている。

「その事情では仕方がありませんね。雪輝様が見過ごす事が出来るはずありませんもの」

 人物画の巨匠が生涯を掛けて引いたように美しい輪郭線に白魚も黒ずんで見える繊指を添えて、鬼無子はふうむ、まあ思った通りか、と息を一つ零した。

「『雪輝殿が少女を襲った』、ではなく『雪輝殿が卑劣漢に襲われていた少女を助けた』という話でありましたか」

「もっと正確に言うなら『雪輝が卑劣漢に襲われていた娘を助けたけど、見た目が狼だったんで娘に怖がられて話が逆転して伝わった』、かな?」

 と凛。山の民も最初は雪輝を大狼と血の繋がりのある狼の妖魔かと警戒していたこともあるし、そも雪輝のしたことは人助けである。非難するつもりになどならないようであった。

「君らが急いでここに来た以上、町ではそれなりの騒ぎになっていよう。下手をすればここにはしばらく来られぬやもしれぬな。その点については謝罪するほかあるまい。特にひなには済まぬな。久方ぶりの人里であったろうに、私の行いで要らぬ騒動を起こしてしまった」

 しょんぼりと耳を垂らして頭を下げる雪輝に、いいえとひなは首を横に振る。

「いいえ、雪輝様のなさった事は間違ってはおりません。その女の人を襲った男の人たちを非難こそすれ、雪輝様を責めようなどと私は思いません。雪輝様が私達以外の方にもお優しくて、私は嬉しく思います」

「ひなの言うとおりです。雪輝殿がもしその女子を見捨てたとあってはそれこそそれがし達にとっては噴飯ものでした。気に病まれますな」

「ふうむ、そう言ってもらえると助かるが、どうにも甘やかされているようでむず痒くなるな」

 確かに雪輝に対してひなと鬼無子は好意を寄せている事もあって甘やかす事が多い。

「それに、それがしの方もお伝えせねばならぬ事がございます」

「なんだね」

 鬼無子は町で遭遇した黄昏夕座なる妖剣士の事を伝えた。夕座に自分が目をつけられた事、夕座の実力があるいは自分をも凌ぎ、雪輝にとって危険極まりないものであろう事、鬼無子が肌と魂で感じた事と起きた事実の全てを包み隠さずに伝える。

「鬼無子をしてそこまで言わせるのか。外の人間にも凄まじいのが居るものなのだな」

「どこにでもいると言うわけではございませぬが、今回はそれがしの事と言い、雪輝殿の一件と言い、ちと間が悪うございましたね。この七風の町はしばらく訪れぬようにしなければなりますまい。まあ他にも町はございますし、出かける先を変えればよいだけの話ではあります」

「ふむ、まあ色々と厄介事もあったが、無事買い物は出来たようだし、収穫の方が大きかったのではないかな。ところで、それだけの荷を背負って三人を背に乗せるのは、いささか難しいかもしれんなあ」

 雪輝は鬼無子の足元に降ろされた食糧と衣類に目を向けて、しみじみと呟く。三人を乗せた後にどうやって自分の身体に括りつけたものか、と頭を悩ませているらしい。

「これらはまず雪輝殿に縄で括りつけて先に小屋の方に運んでいただき、そこで降ろしたと後にそれがし達を迎えに来ていただけれよろしかろうと存じます」

「私が荷物だけ先に運んで君らを迎えに来ればよいわけか」

 またすぐひな達を別れる事に対し寂しさを感じているようで、雪輝の言葉の中には一抹の心細さがあった。
 まるで親と別れる幼い子供の様だ、と思いながら鬼無子は苦笑を浮かべる。雪輝ばかりでなくひなも雪輝と同じような顔をしていたからである。この一人と一頭は本当に心の深い所で繋がっているのだろう。

「雪輝殿にばかり労を強いてしまい申し訳ございませぬが、いささか荷が多くなりましたし、我々と共に荷を運ぶのは若干無理がございますから」

 理尽くめの鬼無子の言葉であるから、これには雪輝も従う他ない。仕方がないとばかりに首を左右に振り、渋々鬼無子の言葉に首肯する。だらりとぶら下がる尻尾が、雪輝の意気消沈ぶりを明確に露わにしている。
 荷物があるとはいえ、雪輝の足ならば往復に四半刻も掛らぬであろうに、鬼無子はこの方ももう少し大人になっていただかぬとなあ、と雪輝の見せる稚気を愛おしく思いながら、肩を竦めた。
 雪輝の身体に食料品などを買い求めた際に分けて貰った荒縄で荷を括りつけ、しきりにこちらを振り返って一時の別れを惜しむ雪輝を見送ってから、ひな達は街道を三人肩を並べてのんびりと歩き始めた。
 荷は全て雪輝に託してあるから全員手ぶらで、身軽な帰り道である。夕日が沈み始めるまであと少し、といった具合であろうか。七風の町へ急ぐ者も、七風の町から出る者も歩みが速まっている。
 武士姿の鬼無子と村娘らしい姿の凛とひなの奇妙な組み合わせは、それぞれの美貌も相まって街道をゆく人々の目を引いたが、視線を引きよせている三人はと言うとさして気に止めた様子もなく、樵小屋に着いた雪輝が自分達の所に来るのを待ちつつ歩き続ける。
 雪輝の気性を考えれば荷を降ろしからはほぼ全力疾走でひな達の所を目指すであろうから、ほどなくして合流となるだろう。
 そう考えると雪輝を除いた女子三人だけという状況も珍しいもので――町中を歩いている時もそうだったが――雪輝のいない所でしかできない、女子だけの会話の花も弾み、取りとめのない話はのんべんだらりと続く。
 その会話の花が唐突に萎れたのは、左右を鬼無子と凛に挟まれて、右手を鬼無子と、左手を凛とつないで歩いていたひなが、前を向いたまま足を止めてしまったからだった。
 不意に全身を強張らせて視線を目の前に固定するひなを訝しく思い、鬼無子と凛とがひなの視線の行く末を辿れば、そこにいるのは粗末という他ない野良着に包み、荷車を引いている数人の男達である。
 いかにも農夫といった風体で疲労が全身に沁みついているのが分かる。餓えた村に行けばいくらでも見つかる様な連中である。
 荷車には菰が被されていて荷物がなんなのかまでは分からない。
 鬼無子と凛の目を引いたのはひなばかりか、荷車に纏わりついている農夫たち全員も、ひな同様に顔面を強張らせ、そこに不理解となぜか恐怖の色があった為だ。
 お互いに向き合ったまま、凝然と固まる農夫たちの顔を見た鬼無子の脳裏に、不意に閃くものがあった。見覚えがある、と思うのと同時に思いだす。
 彼らは――

「ひな、か?」

「権兵衛……さん」

 荷車の前を歩いていた四十そこそこの逞しい男が、張り付いたように動きの鈍い喉を動かし、ひなの名を呟けば、ひなもまた同じようにして男の名を呼んだ。
 そう、男達は、ひなを生贄にと選んだ苗場村の村人たちであった。

<続>
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[19828] その十一 二人の想い
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/01/07 23:39
その十一 二人の想い

 初秋の風の冷たさを、怜悧な刃の様に降り注ぐ陽光を、自分を守るために左右に居る二人の姉と慕う女性達の存在を、この時だけはひなは忘れた。
 自分でも気付かない内に鬼無子と凛と繋いでいる手に力が籠る。
 きゅっと小さなひなの手が、全幅の信頼を寄せる二人の少女らの手を握り込む。
固く強張って青褪めるひなの顔から、その心情を推し量った凛と鬼無子は、風が吹けば簡単に散ってしまう花弁の様に儚い少女を励ます為に、ひなの手を意識して握り返す。
 ひなの頭越しに、凛が鬼無子に視線と唇の動きで問いかけた。

(こいつら、ひなの?)

 質問というよりは確認と言う方が正確であったろう。自分達の目の前に居る農夫はひなの名前を口にし、ひなはその農夫の名を口にした以上は顔見知りである事は間違いない。
 そして妖哭山に来るまでは生まれた村を唯一の世界としてきた少女の知る人間など、答えは限られている。
 凛の視線に頷き返し、鬼無子も同じように唇だけを動かして、その形の変化で凛に答える。

(うむ。苗場村の者達だ)

 鬼無子がどこかで見覚えがある、と感じたのは間違いではなく、今は亡き大狼の噂を聞きつけて苗場村を訪れた際に、村の少女を生贄として奉げたという話を聞かされた時に、その場に居合わせた顔がいくつかある。
 話を聞くやすぐさま鬼無子は義憤に駆られて村を出たので、村人達一人ひとりの心情や人柄までを正確に推し量れたわけではないし、ひなとどのような関係を築いていたか、と言う様な事は知らない。
しかしひなを前にした彼らと彼らを前にしたひなの反応を見ればその関係が良いものでない事は、一目瞭然である。
 ましてや鬼無子は村を訪れた際にひなを犠牲にした事をまるで気に病んでいない苗場村の住人達の態度を見ているし、凛にしてもひなから村での暮らしが、掻い摘んだ内容で、ではあるが地を舐める様な惨め極まりないものであった事は聞いている。
 苗場村の住人全員が窮乏状態に在ったのは確かだが、その中でも親を失い村長の家で奴隷同然の扱いを受けて数年を過ごしたひなが、貧困にあえぐ村の中でも最底辺の生活を送っていた事は紛れもない事実。
 いまでこそ生まれ持った溌剌とした陽性の活力と、その場が華やぐ輝く笑みを取り戻したひなであるが、雪輝に拾われた当初は生まれ持った器量など影も見えぬほどやつれてみすぼらしい姿をしていたのだ。
 ひなを慮る一方で、鬼無子と凛は苗場村の村人達が起こす次の行動に対して、それがどんなものであれ対処できるように、着こんだ衣服の下で重心をずらし全身の筋肉の必要な箇所に力を込め、警戒していた。
 村の窮状を救うべく山に住まう恐ろしい妖魔に捧げたはずの生贄が、どうようにしてかこうして目の前で無事に生きており、更にはその姿も生贄に捧ぐ前の時とは比較にならぬほど健康なものになっている。
 うっすらと桜の色に染まる頬は人並みのふくらみを取り戻しているし、傷つき放題であった黒髪は、毎日鬼無子が湯浴の時に丁寧に洗い、櫛を通している甲斐もあって陽光を浴びて無数の真珠をちりばめた様に輝いている。
 狼の妖魔に貪られる運命を迎えたはずの少女には、決してありえぬ姿である。
 いるはずの無い娘が目の前に存在する事への不理解と疑念は、村人たちの胸に黒々とした猜疑心と恐怖心を芽生えさせるのには十分な出来事だった。
 ひな同様に強張っていた村人たちの顔に恐怖と疑惑の色がうっすらと滲み始めるのを認めて、鬼無子と凛は揃って不味いな、と心中で同じ言葉を紡いだ。
 困惑と恐怖から正常な判断力を失った村人たちが、短慮的にひなに対して暴力を振るう、というのは単に防ぐだけならどうということはない。
鬼無子と軽装とはいえ凛の二人ならば、目の前の村人達が十倍の数になろうが、二十倍になろうがひなに傷一つ負わすことなく叩きのめせる。
 だが自分に暴力を振るおうとする村人たちの姿は、消し去りたい過去の惨めで悲惨な日々を思い起こさせ、ひなの肉体よりもその心の方をこそ苛むだろう。
 鬼無子や凛、この場に居ない雪輝にとってはひなの心が傷つけられる事の方が恐ろしいのだ。無論、毛筋ほどの傷でもひなが肉体的に傷つけられる事とて、許容できない事であるのはもちろんだ。
 ひなの手を握ったまま、それぞれ崩塵と袖口に仕込んだ小柄を瞬時に抜き放てるように、肉体と意識を警戒体制に移行する鬼無子と凛の目の前で、権兵衛とひなに呼ばれた男が恐る恐る口を開いた。
 膠で張り付けた様に固まっていた権兵衛の唇はわなわなと震え、自分の腹ほどまでしかないひなと、その背後に存在するであろう大狼という今は存在していない妖魔の影に怯えている事が見てとれる。

「ひな、お、お前、なぜこんな所に居る? お前は大狼めに喰われた。そのはずだ、そうでなくてはおかしい。お前は、お前は、もうこの世にはおらぬはずなのだ……」

 いまはまだ恐怖に打ち震える権兵衛や村人たちがその恐怖に突き動かされ、どんな暴言を吐くか分かったものではない。
 これ以上権兵衛達と顔を突き合わせている事さえひなには害となる、そう判断した鬼無子がひなを背に庇おうとした時、ひなが下がるどころか一歩前に出た。
 鬼無子と凛が制止の言葉か、あるいは手を引いてひなを止めようとするよりも早く、ひなはその桜を同じ色合いの薄い唇を動かした。
 見るがいい。
 蘇る過去の記憶によって青白く変わった顔は、心の強さを表す様にいま一度陽光の祝福を受けた色に戻り、穏やかにしかし確かな芯の強さを秘めて輝く幼くも美しい瞳の、その神々しさよ。
 先ほどまでの怯えて震えた哀れでちっぽけな少女がひなであるのなら、雪輝や凛、鬼無子達との出会いを経て、成長し強く逞しくなって、自らの内面の輝きによって心を立ち直らせたのもまた、誰あろう他ならぬひな自身であった。
 
「私は、たしかに権兵衛さんや皆さんの知るひなです。あの夜、妖哭山の主、大狼に捧げられたちっぽけなひな」

 これが先ほどまで驚愕に顔を強張らせ、脳裏によみがえる忌まわしい記憶に震えていた少女か。
 明瞭に言葉を紡ぐひなの凛烈とした雰囲気に、鬼無子と凛は驚きに見舞われながら小さなひなの背と肩を見つめた。
 自分達が声を掛けるまでもなく自らの成長と心の強さを示して、村人達を前に一歩も下がる様子を見せず、自分の言葉を紡ぐひなを鬼無子と凛は黙って見守ることにした。
 自分達の目の届かぬ所でこの少女が確かに心の強さを育んでいたひなに、鬼無子と凛は母か姉の様な暖かな気持ちになる。
 いまはまだ、ひなの思うままにさせてあげよう。この娘は自分達が思う以上に強くなっていたのであるから。
 恐怖に震える事はなく、過去の記憶に萎縮する事もなく、自分を虐げていた村人達へ、ひなは今の自分を誇る様に胸を張り言葉を続ける。

「詳しい事情は申し上げられませんが、あの夜、私は権兵衛さんの仰る通りに大狼の牙に掛るはずでしたが、奇縁の巡り合わせの甲斐あって、こうして生きております。ひょっとしたら亡き父母が守ってくれたのかもしれません」

 ひなの言葉を受ける村人たちの唾を呑む音が大きく響いた。いまや世界はひなを中心とし、空気は凍えて動く事を忘れた様に硬直している。
 動かざる世界を動かせるのは、ただひなのみであった。
 この場に居合わせた者達の中で最も非力で、ちっぽけで、小さな少女だけが。

「だ、だがお前を喰らったと、大狼が言うのを聞いているぞ。ならば、なんでお前が無事でいられる。おかしいではないか?」

「詳しい事情は申し上げられませんと言いました。ですが御安心ください。大狼の祟りが村の皆に再び降りかかる事はもう二度とないでしょう。山を降りた大狼が人々に災いを成す事も今後一切ございません。私の身命と父母に誓ってお約束いたします」

「おまえ、お前は大狼になにかされのか? 大狼の下僕にでもなったのか? ほ、ほん、本当にお前があのひなだというのか、し、信じられん」

 それはひながこうして生きている事が、かあるいはまるで別人の様な、いや別人と化したひなの雰囲気と在り方が、か。
 権兵衛の瞳を真っすぐ見つめてくるひなの澄んだ瞳には、怯えた様子はない。後ろ暗さを感じて腰の引けている様子もない。
 しかるに権兵衛をはじめとした村人たちは大狼と言う存在への恐怖も大きくあるだろうが、まるで超常的な存在をその身に降ろしたかのような荘厳さを纏うひなに、心底圧倒されている。
 あくまでも落ち着き払い、冷厳な言葉遣いを続けるひなであったが、本音を言えばひなの心の中では人間が有する負の感情が一つも余すことなく渦を巻き、その暗黒性を増している。
 いまにも苗場村の人間たち全員に対する罵倒の言葉が口を突いて出そうになっているのが、正直な所であった。
 両親を失った幼子を、その境遇を憐れんだ村長が引き取り養った。
 この言葉だけを聞けば詳しい事情を知らぬ者には美談の様に聞こえるだろう。
 なるほどたしかに親戚の類のいない箸にも棒にもならぬ幼子を、これ幸いとばかりに人界に売り払うでもなく、引き取り育てるのであればそれは善行と言える。
 だがその実、引き取ったその日の内から身ぐるみを剥ぎ、残された家財の全てを奪い去り、粗末な襤褸一つ与えて十にもならぬ子にありとあらゆる雑事を押し付けていたのが、村長夫婦の実態である。
 家畜の餌やりや掃除、洗濯、野良作業と、大人でも根を挙げる様な重労働を十にもならぬ子に強要して、どれか一つでもささやかな失態を犯せばすぐさま村長夫婦の枯れ木を思わせる手に握られた棒が振り下ろされる。
 湯を零した事を責められて、ひながある雪の降る冬の夜に家の外に放り出されて、寒さに手足や唇を紫色に変えながらもかろうじて凍死を免れたのは、家畜達の所にもぐりこみ糞尿と獣臭に塗れながら藁にくるまって寒さをしのいだ事と、生まれつき頑丈な身体とわずかな幸運のお陰である。
 ひなに加えられる酷い仕打ちは冬の日だけではなかった。
春も、夏も、秋も、巡る四季の移ろいに関わりなく村長達はひなを棒で叩く事を休める事はなく、与えられる食事は常に貧しさの底を行くものであった。
 村長と言うものは村と言う狭隘な閉鎖社会に置いて、なによりも村とそこに住まう人々にとって指標となりうる中心的存在である。
 その村長がひなに加える仕打ちの数々は村人全員の目に留まっており、最初は憐みの目を向けていた者達も、村長の非道が毎日続くのを見れば憐みの心は麻痺し、日常の一部として受け入れてしまう。
 そればかりか村長の行動を真似てまずひなと同年代の者達が、ひなに石を投げたり親のいない事を揶揄する悪口を投げかけ、それを親達は窘める事はなく、ひなを汚物か何かの様に扱って子供達に関わらぬよう注意するばかり。
 薪を運んで前が見えにくくなっていた所を足を引っ掛けられて転ばされ、地面に倒れ込んだ所を踏まれ、蹴り飛ばされ、髪を掴まれて唾を吐きかけられた事も何度もあった。
 中に子供ばかりでなく大人の姿もあった。
 ひなの全身に出来た大小無数の傷の手当てなど村長がするわけもなく、怪我だらけのひなを見ても詰まらぬものを見たとばかりに、一瞥するきりだ。
 そんな事が何日も何日も続き、ただただひなは全身を苛む痛みに歯を食い縛り、目を瞑って絶え続けるしかなかった。
 どうして自分がこんな目に遭うのか、どうして村長は自分を引き取っていながら助けてはくれないのか、どうして村の人たちは自分をこうも毎日虐めるのか、どうして父と母は自分を置いて死んでしまったのか。
 どうして自分は、人間扱いされない辛い日々を過ごしているのに、いまも生きているのか。
 いっそ死んでしまえばいいのに。そうすればこの生きる事の苦しみから解放されるのに。そうすれば死んでしまった父と母と同じ所にいけるかもしれない。
 例え同じ所にいけなくてもこんな場所よりはずっと近いはずだ。
 ああ、けれど、自分で命を断つのはあまりにも恐ろしくて。
 ひなはいままで何度も包丁や剃刀、釘を手首や咽喉に当てながら一度もそれを使う決断を下す事が出来なかった。
 そうして五年近い月日を、ひなは苗場村の村長の下で過ごしたのである。いつ死んでもおかしくない、生きていることの方が不思議な五年間を。
 そのような人間としての尊厳も何もかもを踏みにじられる日々を過ごして、例え十歳にもならぬ子供といえども恨みの一つも抱かずにおれようか。
 父母を除けば村人全員を足しでもはるかに及ばぬほど自分を大切にし、慈しんでくれるひなとの出会いをきっかけに、ひなの心の中の負の感情はなりを潜めて行ったが、怨嗟の念のすべてが消えたわけではない。
 ひなの影に滅びた大狼の姿を見て恐怖に竦む権兵衛達に呪いの言葉を吐けば、積もり積もった恨みの丈を叩きつければ、権兵衛達はひなの憎悪に大狼の脅威を勝手に感じ取り、際限のない恐慌に見舞われるだろう。
 そうすればきっと無様にひなの足元に首を垂れて、泣き喚きながら命乞いの言葉をがむしゃらに並べ立てるかもしれない。
 醜態を晒す村人達を見下ろす事は、さぞや胸のすく思いがすることだろう。積年の怨恨が暗く冷たい愉悦に慰められることだろう。
 しかし、ひながいまそれを口にしないのは両手のから伝わる鬼無子と凛のぬくもりが、ひなの心にここひと月の間の優しい記憶を思い起こさせ、心中で荒れ狂おうとする黒い感情の嵐が慰撫されているからだ。
 苗場村の人間達にいまさら罵倒の言葉をぶつけた所で、自分の過去が変わるわけではない、とひなの心の冷めた部分が囁いていたし、なによりもひなにとって自分の居場所はすでに苗場村ではなく、あの優しい白銀の狼の隣であった。
 父母の墓と共に過ごした幼少期の記憶がある事を除けば、ひなにとって苗場村は既に価値の無い色褪せた過去の世界なのである。
 ああ、そうだ、とひなは、既に自分にとって過去となっていた人々を前にして、改めて気づく。いまの、そしてこれから自分が生きて行く世界は雪輝の傍ら以外にない。
 自分がどれだけ雪輝を慕っているのか――愛しているのかを悟り、ひなはどこまでも柔和に微笑んだ。
 それは憎しみや恨みなど欠片もない透き通った笑み。
 人間がだれしもこのような笑みを浮かべる事が出来るのなら、世界から争いは消えてなくなるだろう。
 その笑みを向けられる誰もが心に安らぎを覚えて、思わず同じような笑みを返す無償の慈しみと無限大の愛に満ちた微笑。
 怨嗟に塗れ絶望に膝を着き生きる事に疲れ果てた少女は、いま、恋を知り、愛を悟り、蛹がいつかは美しい羽を広げて空を優雅に飛ぶ蝶になるように、その心を美しく優しく羽化させていた。
 ひなの心はもう過去の記憶の鎖に縛られる事はない。ひなは真に心の自由を得たのだ。愛する者の傍らに居る自由、愛する者と共に生きる自由、そして愛する者の傍で生涯を終える自由を。

「権兵衛さん、私は今とても幸せです。村長の下で暮らしていた時とは比べ物にならない位に。本来生贄として奉げられて終わるはずだった私の運命は、まるで考えもつかなかったものになりましたけれど、この運命に感謝しています。
そしてそれは私が大狼への生贄として選ばれた事で始まった運命。ですから私は私を生贄に選んでくださった事にさえ、感謝しているほどなのです。そうでなければ私はあの方と出会う事はなく、村長の下でいつ死ぬとも知れない生活を送っていた事でしょう。
私は、私を捨てた村の人たちを恨んではおりません。憎しみの言葉を吐くつもりもありません。ただ、もう二度と村を訪れるつもりもありません。私は残りの生をすべてあの方の傍で過ごします」

「あ、あの方とは大狼、の、事か……?」

 過去の記憶の中のひなとは全く異なる今のひなの姿と、ひなの言葉を半分ほども理解できぬままに、権兵衛は臨終の床に在る病人の様な声で問うた。
 何を聞けば良いのか、何を知るべきなのか、まるで判断できずにいるのだろう。死んだはずの少女が現れ、その少女はまるで別人と化し、村への決別の言葉を口にしている。
 唐突な事態の連続の最中に在って、平凡な村人に過ぎぬ権兵衛達にまっとうな判断などできようはずもなかった。
 ただ、ひなの一語一句、一挙手一挙動に怯える様に耳を傾け、目を向けるばかり。

「いいえ。既に大狼はこの世におりませぬ。私が共に在りたいと願う方は大狼とは別の存在」

 ひなは、かつて自分に拳を振り下ろした時に感じた権兵衛の大きさと恐怖を、まるで感じない事をただ静かに受け入れていた。
 あんなに巨大で恐ろしく見えた権兵衛が、いまはなんと小さく弱々しく見える事か。ひなの心には、ようやく灼熱と渇きの地獄から解放されたはずの苗場村の人々への憐みの情ばかりがあった。

「権兵衛さん、どうか村の皆にお伝えください。ひなはもう二度と皆の前に姿を見せません。生贄に選んだ事へ恨み言を言うつもりもありません。ただ、生を授かった村の皆が日々を穏やかに過ごせる事をお祈り申し上げると」

 ひなは一度、鬼無子と凛から手を離し、太ももの上の辺りで手を重ね、腰を曲げて深く頭を下げる。
 鬼無子と凛は静かに見守り言葉を口にする事もしない。
 それはひなが苗場村との静かな、しかし、これ以上ないほど厳しい決別を告げる為の儀式でもあると悟り、自分達がすべき事はないと分かっていたから。
 頭を上げて半生との別れを終えたひなの顔には晴れ晴れとした色が浮かんでいる。再び鬼無子と凛と手を繋ぎ直すと、ひなはもう権兵衛をはじめとする村人達は眼中にない様子で、その傍らを過ぎ去っていく。
 ひなは自分が口にした通り、もう二度と苗場村を訪れる事はないと、権兵衛達を振り返る事はなかった。
 小さな少女の瞳は過去ではなく、現在とそこから繋がる未来をまっすぐに見つめていた。
 ひな達三人の姿が芥子粒ほどの小さなものになってからようやく、ひなとの在り得ぬ再会によって心身を硬直させていた村人たちの緊縛が解ける。
 冥府から現世に蘇ってきた死者を目の当たりにした恐怖に震えていた村人たちの第一声は、権兵衛のこんな言葉であった。

「二度と村には姿を見せない? 恨み事を言うつもりはない? あんな仕打ちを受けた娘がそんな事を本心から言える筈がねえ。きっとあいつは大狼か山の妖魔にかどわかされるかして、人間じゃなくなったに決まってらあ。あの傍に居た女どもも妖魔が化けたものに違いない。
 化け物が人間様の世界に降りてくるなんざ、あっちゃなんねえ事だ。ひなよ、お前は大狼に喰われて死んだのだ。だったらなにをとち狂ってこの世に戻ってきおった? わしらを呪うため以外にあり得ん。待っていろ、わしらに山の妖魔を討つ力は無くともちゃあんとそれが出来る人間はいるんだ。大狼ごと皆殺しにされるがいいわ」

 人間とは、人と獣の間、という意である。
 いままさに権兵衛の浮かべる凶相は、人間を作り出した造物主が、人間が永劫に“人”にはなれぬと嘆き絶望するには十分すぎるほど醜悪なものであった。
 在りもしない悪意を他者に見出し、狭隘な見解と思い込みによって、自らの中に疑惑と恐怖の山を築く。
 そうして築かれた恐怖を打ち消すために、往々にして人間は過程は違えども同じ結論に至る。
 憎しみが故に滅ぼす。恐ろしいが故に滅ぼす。死にたくないが故に滅ぼす。おぞましいが故に滅ぼす。滅ぼされたくないが故に滅ぼす。
 ああ、人間の世界から放逐され妖異満ちる世界に足を踏み入れた少女が人らしさを得て、人間の世界の輪に囚われた人間はその業とでも言うべき悪意によって、醜悪さを浮き彫りにする皮肉よ。人間の世界から離れた少女の方がより人らしくあるとは。
 そしてこの時の出会いが切っ掛けの一つとなり、雪輝と、ひなと、鬼無子と、凛それぞれに過酷な運命が血臭を漂わせながら訪れる事になろうとは、まだ誰も知る術はなかった。


 万に一つの可能性としては確かにあり得たとはいえ、想定していなかった苗場村の住人達の邂逅を終えてから、鬼無子と凛はひなに話しかける事はあっても苗場村の者達との会話について何か問う様な事や慰めの言葉を口にする事はなかった。
 それを真っ先にすべき者は彼女達以外におり、ひなもまた村人たちとの会話で抱いた恐怖や改めて悟った自分の心を一番最初に告げたい相手は鬼無子と凛ではなかった。
 三人の少女達が仲良く手をつないで歩く姿に、街道をゆく旅人や行商人達が暖かな微笑を浮かべて見つめる中、ひなが不意に顔を挙げて街道を外れた木立の群れの方に視線を向ける。
 それに遅れること二拍子ほどで鬼無子と凛がひなの視線に追従する。三人にだけ感じられるように蜘蛛の糸の様に細められた気配が放たれているのだ。
 その源を辿ればひなの視線が注がれている街道外れの木立に辿り着く。
 ひながいまもっとも正直な心を伝えるべき相手が、そこにいるということだ。
 鬼無子と凛がひなの頭の上で視線を交わし合い、共に首を縦に動かす。言葉にせずとも互いにすべき事を理解し合っているが故の行為である。
 鬼無子と凛はそっと、ひなとつないでいた手を離した。きょとんとした顔で二人の顔を交互に見上げるひなに、鬼無子が優しい声で言う。
 鬼無子がひなに注ぐ情の深さが良く分かる声であった。周囲に人の目がない事は確認済みだ。

「お行き。雪輝殿とたくさん話したい事があるだろう。それがしと凛殿はゆるりと参ろう」

「あ、はい! ありがとうございます」

 鬼無子の言う言葉の意味を理解したひなは、その場に小さな太陽が生じたかのように輝く笑みを浮かべて、小走りに街道を外れて木立の方へと向かう。
 その背を見つめながら、頭の後ろで両手を組んだ凛が、嘆息しながら口を開いた。

「あ~あ、雪輝の馬鹿にはひなは勿体無いと思うんだけどなあ」

 嘘偽りの全くない凛の言葉に、鬼無子が苦笑しながらも窘める為に口を開いた。苦笑を浮かべていることから、多少なりとも凛に同意する所はあるらしい。

「そう申すでない。互いが好き合っている以上は余計な横槍は無粋というもの。ただ雪輝殿が御自身とひなの感情を正確に把握していない様子であるのは、傍で見ていて歯痒いものがあるとは思う。そういう意味では確かに雪輝殿は馬鹿であるかな。いや、狼だから馬鹿(うましか)ではなく阿呆とでも言っておくか」

 微笑こそ浮かべているものの常になく雪輝に対して厳しい鬼無子の言葉に、凛は不思議そうな表情を浮かべて首を捻る。
 どうにも以前出会った時と比べて今日の鬼無子の雪輝に対する態度や言動の一部に、大きな変化が感じられるのだ。
 また雪輝が何かやらかしたのだろうが、鬼無子が雪輝に対して抱いているのが単純な怒りではないように凛には思えた。
 なにか、ひなと雪輝との関係に対して鬼無子なりに複雑なものを覚えているのだろうか? 
 凛はてっきり鬼無子はひなと雪輝との関係を好意的にのみ考えているとばかり思っていたのだが。
 疑問にばかり囚われていたがために、木立の中に隠れている雪輝のもとへと走り急ぐひなへと向ける鬼無子の視線の中に羨望の色が混じっている事に、凛は気づけずにいた。
 だから次の言葉は凛にとってはほんの冗談のつもりで、他には何の他意もないものであった。

「なんだか随分と棘があるね。なに、鬼無子さん、ひょっとして雪輝の奴に惚れたの? だからひなの事が羨ましかったりして。なんてね、ははは、まあただの冗談だから許してよ」

「……………………」

 笑い飛ばすなりすこしは怒るなりするかと思っていたにも関わらず、鬼無子が口を噤んで何も言わない事に、凛は、はん? とひとつ漏らして横を歩く鬼無子の顔を覗き込んだ。
 するとどうであろうか。
 鬼無子は同性から見ても羨望と憎悪の眼差しを向けるしかない造作と、清冽な精神性が纏わせる清廉さと気品が眩いまでの美貌を、鮮やかな赤に染めてそっぽを向いているではないか。
 着物の襟から覗く元は白磁の色をしていた首元から耳の先に至るまで真っ赤に染めて、鬼無子はそれでも赤く変わった自分の顔を見られないようにと、横を向き続けている。
 横を向いているという事は、自分が顔を赤らめている事を自覚しているという事だ。つまりは凛に言われるまでもなく自身の雪輝に対する感情を知っていたという事になる。
 そこまで考えが及んだ凛は、絶句するほかなかった。

「え、え、なに、冗談だよ、鬼無子さん。ねえ、冗談だってば、なにか言い返してよ」

「…………」

 鬼無子は凛に答える事もなく黙々と足を動かし続ける。沈黙はすなわち肯定を意味していた。

「き、鬼無子さん!? え、嘘でしょ、ほほ、本当に惚れちまったの、あの雪輝に!!」

「り、凛殿、そう何度もほ、惚れただの惚れてないだの年頃の女子がみだりにくちにするべきではない。は、はしたない!」

 全身の血が顔に昇っているんじゃなかろうかという位に顔を赤に染める鬼無子の返事に、凛は、ああ、この人は本気であの狼に惚れたんだなと否応もなく理解させられた。

「きき鬼無子さん、なにか雪輝にされたの? どうしちゃったのさ。じゃ、じゃあ、森で雪輝と別れる時に変な態度を取ったのって、ひなと雪輝が口付けしたのがうう、羨ましかったりしたわけ!?」

「う、うらや、羨ましいなどと、そそそそのようなことは、なな、ないぞ!」

 鬼無子は口を開けば開くほど自分が泥沼に入り込んでいる事に気づいていない様であった。凛は、ますます自分の中で確信に変わっていく鬼無子の恋慕の情を理解し、思わず声を大にして叫んだ。

「羨ましいんだ!?」

 断定である。太陽が西から上り東へ沈むもの、そう言うのに等しいほどの断定だ。鬼無子は反論の言葉を口に出来ずに、咽喉の奥で珍奇な声を一つ挙げることしかできない。

「あぅ」

 窮地に追い詰められた小動物か何かの様な可愛らしい事は可愛らしい鬼無子の声に、凛は目をまんまるに見張って硬直する事しばらく、肺の中の空気を全て絞り出すような大きな溜息を吐きだす。

「はああああ~~~~~~~~」

「し、仕方なかろう、きき、気付いたら、雪輝殿の事が、その、す、すき、す……きになっていたのだ! 元々雪輝殿の穏やかで度量が大きく無邪気な御気性はそれがしの好みの真ん中を射抜いていたし一緒に居るとあのもふっとした毛を好きなだけ触れて気持ち良いし心地よいし暖かいし昼寝には最適だし枕代わりにしてよし布団代わりにしてよし敷布にしてよしと非常に多様性に富んでいて……」

 恋心の自覚は済ませたものの他者にそれを指摘される事は予測していなかったようである。
鬼無子は雪輝殿の事が好きか、という自問に、好きだ、と自答する分に関してはもう自分の中で決着がついていて、素直に認める事が出来るのだが、それを他者に指摘されるとこれはもうどうしようもないほど気恥かしく感じる様であった。
 鬼無子はまともな思考を心の中の地平線のはるか彼方に放り投げて、勝手に自分が雪輝に惚れたと思しき理由を並べ立て始める。
 つらつらと続けられる鬼無子の惚気に、凛は頭痛を覚えながら鬼無子の眼前に掌を突きつけて遮った。
 聞くに堪えないというか聞いていて体がむず痒くなってきそうな惚気の連続である。人の惚気話ほど聞いていて鬱屈とする話も他にそうはない。
 鬼無子本人が惚気を口走っていると気付いていないのが、なおさら性質を悪くしていた。

「はい、もういいから。鬼無子さんが雪輝に惚れちまったのは動かし難い事実なんだろ?」

「………………う、うむ」

 たっぷりと間を空けてからの鬼無子の返答に、凛は今度は短いが重たさでは先ほどの長い溜息にも匹敵する溜息を吐く。
 雪輝にひなはもったいないというのは紛れもない凛の本音であるが、鬼無子だって雪輝にはもったいないにも程がある女性である。
 ひなはあと数年もすれば女としての幸せを望めば幾らでも手に入れられるであろう美貌の蕾の持ち主だし、鬼無子に至っては今現在の時点で絶世と例えて何ら差し支えのない美女である。
 しかも揃って容貌のみならずその精神もまた美点に富んだものを有している稀な例だ。
 それが

「なんであの狼に。あいつそういう力でも持ってたのかねえ。本当にいいの? あいつ狼で妖魔だよ。犬畜生だよ。そんで馬鹿で阿呆で間抜けで鈍感だよ。そりゃまあ確かに結構格の高い妖魔だから強いのは認めるけどさ」

「そこまで言わなくても……いや、確かに雪輝殿は確かに四足の獣である事は否定できぬが。正直それがしも自分の心の動きに関しては、いまだに驚きを禁じ得ぬものがある。だが、まあ、気付いた時には手遅れと言うか、な」

 そう言って恥ずかし気に微笑む鬼無子は、胸の中で燃え盛る恋の炎によってより一層美しく輝いていた。こんな笑顔を見せられては他人がどういった所で無粋な真似にしかならないだろう。
 鬼無子が言うとおりに今更翻意を促した所でもう手遅れなほど、鬼無子は雪輝に対して惚れ抜いているという事だ。
 凛はこれ以上ないと言うほど顔に皺を刻みこんで渋面を拵える。凛の中での雪輝に対する評価が、一目で窺い知れる顔であった。
 確かにあの狼がこの世のものと思えぬほどに完璧に調和のとれた美しい獣である事は認めるし、その腕っ節に関してもそこらの人間など千人集まろうが簡単に蹴散らせる実力がある点も評価できる。
 性格も他人を思いやる優しさや力の弱いものに対する慈しみを持った、好感を抱くに値するものではあるだろう。
 しかし、なんといっても雪輝は狼であり妖魔であった。
 凛はひなの雪輝に対する好意を咎めようとは思わないし、鬼無子が雪輝に惚れてしまった事実を今更どうこう言った所でどうしようもないのも認める他ないが、どうしても、どうしてもこう思わずにはいられない。

「もったいない、もったいないよ、鬼無子さん」

「ほ、惚れたものは惚れてしまったのだから、仕方なかろう」

 拗ねた子供の様に言う鬼無子の頬は、先ほどから赤く染まって元の白色に戻る事を忘れている。凛はこの世の不条理にただただ嘆くことしかできなかった。
 だが、ここで凛は肝心な事に気付き、恐る恐る口を開かねばならなかった。あるいは聞かなければよかったと、思う事になるかも知れぬ質問である事が、凛に若干の躊躇を抱かせた。

「あの鬼無子さん」

「ん、な、なんだ?」

 これ以上羞恥心を掻きたてられる事を質問するのは勘弁してほしい、と赤く染めた美貌に大きく書いて、鬼無子がわずかに警戒した表情で凛を見つめた。

「いや、まあ、鬼無子さんが雪輝を好きなのは、まあ、これは仕方ないからこれ以上言わないけどさ」

「だから、そういう、その、それがしが雪輝殿の事が好きだの惚れただの、言われるだけでも、それがしには、は、恥ずかしいというか、できれば止めてもらいたいのだが……」

「ああ、うん。分かったよ。あー、それで、だ。鬼無子さんがそういう気持ちだってんならさ、ひなに対してはどう思っているのさ。こういっちゃなんだ、っていうか、悪いっていうか、ああもう、面倒くさい! 
 つまりは、雪輝の一番はひなだよ。これは間違いないと思う。その事で鬼無子さんはひなの事をどう思うのさ。やっぱり、羨ましいってだけじゃなくて、その、嫉妬とか、さ?」

「いや別に。確かに羨ましくはあるが、それがしはひなも大事だからな。自分でも心配はしたのだが、ひなと雪輝殿が目の前で仲良くしていても別段、嫉妬の念は覚えぬな」

 即座にひなへの嫉妬を否定する鬼無子に、凛は少々拍子抜けする思いだった。これで実は嫉妬している、などと言われようものならそれこそ凛も何も言えなくなっていた所だが、当の鬼無子は凛の危惧などまるで的外れと言わんばかりの態度である。

「そうなの? 普通はさ、自分の惚れた相手が別の女と仲良くしていたら少しくらいはむっとするもんだっていうよ?」

「まあ、それがしも人づてに聞いた話ではあるが、男女の仲と言うものはすべからくそう言うものらしいのだが、雪輝殿とひなに限ってはそれがしはそう言うようには感じられぬな。ひなに邪な感情を抱かずにいられるのは、正直なところ、とても安堵しているよ。
 それがしにとってひなは実の妹も同然であるし、初めて在った頃からひなと雪輝殿の睦まじさは目のあたりにしていたから、今更、嫉妬などする余地もないと分かっているのかもしれんなあ」

 自分がひなと雪輝の間に入る余地など、もうどこにもないかもしれないと考えると、それはそれで寂しいものを覚えるのは確かであったが、鬼無子は今の自分達の関係を壊さぬ為にはそれが一番なのだろうと、かすかに覚える胸の痛みを無視してそう考えている。
 悲しげではあるが鬼無子が、自身の恋慕の情にある種の見切りをつけている事を、漠然とではあるが察した凛は、冗談を口にする事で話題を変えようと試みた。
 だが、却ってそれが事態をややこしくすることになろうとは、この時、凛は露ほども思ってはいなかった。

「そっか。変な事を聞いてごめんよ。でもまあ、鬼無子さんがひなにそういう考えを抱かないってのは、ひょっとしたら鬼無子さん、雪輝の事だけじゃなくてひなの事も好きなのかもね、なんちゃって。はははは」

「はははは、凛殿、滅多なことを口に出すものではないよ。狼の外見をしておられる雪輝殿の事を、まあ、そのお慕いしているという事に気付いただけでも、それがしにとっては驚天動地の出来事であったというのに、この上それがしがひなに懸想しているなどと、それがしは一体どれだけ奇怪な嗜好の主だと言うのだ」

「そうだよねえ、あははははは」

 冗談が通じて笑みを浮かべる鬼無子の様子に、凛は安堵で胸を撫で下ろす思いで秋の空に高く響き渡る笑い声を挙げる。

「いやいや、まったく。確かにひなは気立てが良く、何事にもよく目が届いて気が利く上にとても聡明な子だ。それがしにもあのような妹がいたらと常日頃思うて止まぬのは事実だけれど」

「うんうん。ひなは本当によく出来た子だよ。村の連中を前にしてあんな風に返事出来るんだからね。あの時は黙っといたけど良く言ったって拍手したかったね」

「うむ。全くだ。あの時のひなは立派だった。いつも立派だが、格別にな。今頃雪輝殿と話をしているだろうが、時折二人の仲の良い所を見ていると、それがしが雪輝殿に変わりたい時があるよ」

「へえ。ああ、でも分かるなあ。なんていうかひなはいつも一所懸命だからさ、見ているとこう、褒めてあげたくなるんだよね」

「その通り。ひなはなにをつけてもする事一つ一つが可愛らしくてな。こう、ぎゅうっと抱きしめたくなる時が、一日の内に何度もあるのだよ。その様な時はまず雪輝殿がひなの事を可愛がるが、たまにはそれがしが雪輝殿に代わってひなを可愛がりたくなるのだ。
 まったく、雪輝殿と言いひなと言い、こうもそれがしにとって好もしい人間と出会えるとはまこと僥倖。ただ思い残す事が増えてしまったかもしれないけれど」

 そう呟く鬼無子の横顔が、ひどく寂しげなことに気づいて、凛はどういう意味かと問いただそうとしたが、それを遮る様にして鬼無子が口を開いた。

「さて、雪輝殿とひなの所へはゆるりと参ろう、ゆるりとな」

「え、あ、うん」

 そういう鬼無子の顔がいつもどおりに見えて、凛は結局問いかける事は出来なかった。


 まばらな人の流れからはずれ、緑の色彩が広がる大地を掛けて、ひなは林というにはいささか狭い木立の中へと勢い良く駆けこんでいった。
 風に靡く髪や振り乱される袖に木の葉を纏わせながら、雪輝の目の前で足を止めたひなは、はあ、はあ、と息を荒く乱して紅潮した頬を笑みの形に変えて、雪輝の名を呼ぶ。

「雪輝様」

「うむ。しかしそんなに急がなくとも良かったろうに」

 巨体を伏せて緑の茂みの奥に隠れていた雪輝であったが、口を吐いて出た言葉とは反対に、目尻は緩み尾は緩く左右に動いて、纏う雰囲気は和やかなものになっている。
 ほんの一時の別れでもその間の寂しさが、お互いが傍に居る時の充実さを証明していると言えるだろう。
 ひなは雪輝の首に細い腕を回して抱きついて、特にふわふわとした感触の首回りの毛並みに顔を埋める。至福の瞬間であった。
 抱きついてくるひなの感触に狼なりの微笑を浮かべて、雪輝はわずかに巨体をよじってひなに自分の体をこすりつけてひなの抱擁を受け入れる。
 そよそよと顔や首筋をくすぐる雪輝の毛並みのくすぐったさや心地よさに、慎ましく鈴を鳴らしたような笑い声がひなから零れて、雪輝の耳を楽しませる。

「だって少しでも早く雪輝様にお会いしたかったのです」

 少し拗ねる様な、あるいは甘えるように言うひなの言葉に、雪輝は嬉しさについ尻尾を左右に振って答える。

「嬉しい事を言ってくれるものだ。だが、それは私もおなじこと。荷を置きに行く時もひな達を迎えに行く時も随分と急いだ」

「普段、雪輝様とずっと一緒に居るから離れるまで、こんなに寂しくなるなんて分かりませんでした」

「全くだ」

 ひなは雪輝に対してどこまでも従順であるが、雪輝もまたひなに対して従順だ。お互いの関係を客観的に見られないのは、当人同士ばかりと言ったところであろうか。
 半日も離れていないと言うのによほどひなと離れた事が寂しかったことを表す様に、雪輝は、自分の頬を撫でるひなの手や頬、首筋をしきりに舐めたり、ひなの身体に鼻先を突きつけて匂いを嗅いでいる。
 雪輝の鼻先や舌が触れてくる事にひなは何の抵抗も見せず、くすぐったさに新たな笑い声を零す。
 単に体の大きさで言えば雪輝の方がはるかにひなを上回るとのに、この光景を見る者がいたら、ひなという母に雪輝という子供が甘えているかのように映ったことだろう。
 それほど雪輝はひなに対して無邪気無垢に心を許し、ひなもまた雪輝に対して無償の愛情を示している。
 そうして暫くの間、離れていた時間の寂しさを埋めるためにじゃれあってから、ひなが雪輝の瞳をまっすぐに見つめ、真剣な表情を作る。
 ひなの表情と心情の変化を悟って、雪輝もじゃれつくのを止めてひなの紡ごうとする言葉を待った。

「雪輝様、私、さきほど村の人達と会いました。皆さん、元気そうでした。私が生贄に選ばれた甲斐は……ありましたね」

 咄嗟に、雪輝は何と言うべきなのか、まるで分からなかった。どこか笑みを含むひなの言葉ではあったが、そこに自嘲の響きはないし、悲嘆の様子もない様に聞こえる。
 確かに苗場村の住人達の生命を救うために、ひなは大狼への生贄として選ばれたのだから、村人達の生活が好転しなければ、ひなが生贄の運命を受諾した意味は無くなってしまうだろう。
 どんな言葉をひなに返す事が相応しいのか、雪輝には結局分からず、口を吐いて出たのはこんな言葉であった。

「そうか」

 雪輝が短い言葉と同時に表情のみならず全身に悲しみとひなの身を案ずる気配を纏うのに、ひなは自分を思う雪輝の心が嬉しくて、つい口元を綻ばせる。
 さあ、はやくこの優しくて大きくて愛おしい方の心を安心させてあげなければ。

「雪輝様、心配なさらないでください。ひどい事を言われたり手荒い事をされてはおりませんから」

「それはなによりだ。鬼無子と凛がいるから大丈夫とは思っていたが」

 雪輝が何より心を砕くのはひなの心の安寧と幸福である。
 出会った当初のひなの惨めな姿を知る雪輝にとって、その原因となった苗場村の住人たちとの再会は、ひなの肉体以上に精神に刻まれた傷を疼かせるのではないか、と危惧を抱いていたのである。
 幸い、落ち着き払ったひなの雰囲気と言葉から、雪輝の危惧は無為に終わったようではあるが、それでもやはり雪輝は心配する気持ちを静める事は難しい。
 ひなとの出会いは突きつめれば苗場村の村人達が、ひなを生贄に選んだからこそではあるが、それでもひなの体に残っていた無数の傷を作ったのも村人たちである事を考えれば、雪輝にとって苗場村の住人達は悪感情しか抱けない。

「本当に大丈夫か? 私を心配させぬようにと無理をしてはいないか?」

「はい、大丈夫です。無理などしておりませんよ。鬼無子さんと凛さんがずっと手を繋いでいて下さりましたから、私はとても心強くいられました。お二人にはいくら感謝しても足らないほどです。それに、村の人たちと出会って、私はとても大切な事に改めて気づけました。その事に気づけた事の方が、私には村の人たちに出会った驚きよりもとても大事で、とても嬉しかったのです」

「そこまでひなが言うと、なにやら興味を惹かれるな。良い事だったのかね?」

 そう問う雪輝に、ひなは大好きな人にだけ見せるとっておきの笑顔を浮かべて答えた。

「はい、とっても」

 ひなが笑顔ならそれだけ嬉しい単純極まりない雪輝である。ひなの笑顔を見てころっとそれまでの心配を放り捨てて、ひなと同じように大好きな相手にだけ見せる笑顔を、狼面なりに浮かべる。
 実に幸せな思考の持ち主である。

「ひなの笑顔は良いものだな。見ていると私まで嬉しくなる。ひながずっと笑顔を浮かべていられるようにと、私もなにかやる気が出るものだ」

「まあ、ありがとうございます。私も雪輝様が喜んでくださる事はなんでもしてあげたいと思っているのですよ。私に出来ることなんてほとんどないでしょうけれど」

「そう言うな。前にも言ったが、ひなは私の傍に居てくれるだけでも、色々な事を私に教えてくれるのだ。そうでなくともひながいるだけで私は安らぎを覚える。ひなが共に居てくれる、ただそれだけで私は幸福を感じられる」

 嘘偽りなど雨粒一粒ほども存在しない雪輝の素直な心情の吐露に、ひなはこの方は自分で分かっていないのだろうなあ、と思う。
 こうも自分を喜ばせる言葉を無意識に告げてくるのだから、ますます好きになってしまう。
 ひなは、自分がもう雪輝の元から離れられない事を、改めて理解した。自分が雪輝の傍を離れる時が来るとしたら、それは最期を迎える時だけだろう。

「雪輝様」

「なんだね?」

 雪輝を呼ぶひなの声も、ひなに答える雪輝の声も、優しさに満ちている。

「私、雪輝様に出会えて本当に幸せです。雪輝様に出会えて、私はたくさんの嬉しい事、幸せな事に恵まれたのですから。雪輝様、私は雪輝様の事が大好きです。お慕いしております。ですから、どうか、ずぅっとお傍に居させてください」

 雪輝は、ひなの言葉の意味をどこまで理解できたのか、目をぱちぱちと瞬かせてから答えた。少なくとも偽りではない事、そして真摯な愛情が込められていることだけは紛れもない返事であった。

「私もひなと同じように思う。ひなには永く私の傍らに在って欲しい。私も、ひなのすぐ傍に在り続けたい」

 ひなは、雪輝の首筋にもう一度抱きついた。豊かな白銀の毛並みを通して雪輝の体温が伝わってくる。確かな心臓の鼓動が聞こえてくる。雪輝の存在を、ひなは全身で感じ取る。

「はい。ずっとお傍に居ます。雪輝様とずっと、ずっと一緒です」

「ああ」

 雪輝の返事は短かったが、しかし万の言葉でも足りぬ想いが込められていた。

<続>

遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。昨年はご愛顧を賜りまことにありがとうございました。今年一年、皆様のご健康とますますのご栄達をお祈り申し上げます。

ではでは前回、前々回頂いたご感想へのお返事です。

>ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)

ううむ、ことごとく読み当てあられてしまうのは私の発想が貧困なのか、ヨシヲさまの観察力というか読解力が素晴らしいからなのか。
夕座には今後も頑張ってもらうポジションに位置しております。作中でも書きましたが、まだ本気ではありませんし鬼無子や雪輝との因縁もできたばかりですから。

>Lさま
投稿当初の頃からお付き合いいただけているとは、まこと嬉しい限りです。長のお付き合い、ありがとうございます。
感想は、私の実力不足でなかなかいただけていないのが現実ですね。精進するばかりです。一度で10、20の感想をもらっている方とかすごい人は本当にすごいですから羨ましい限りです。
色々と方向性に迷っておりますが、今後もお付き合いいただければ幸いでございます。

>天船さま
というわけでして、ひな対村人はこのような形に落ち着きました。
ひなの精神的成長と過去との決別が行われた重要な場面ですが、書ききれていたかどうかという不安はあります。
ゴロツキどもはともかく夕座はこれからも出番があるので、ひょっとしたら切り刻まれるような目にあうかもです。

>通りすがりさま
菊地秀行先生は私の大好きな作家さんなので、そう仰っていただけると大変嬉しく思います。菊地先生の単純な劣化版にならないよう心がけておりますです。


>taisaさま
現実に存在する武術の流派でも、どんな厨二病だよ、というような名称も実愛しますので、舌を咬みそうでなおかつかっこよさげな単語を並べてみました。


気付くのが遅れましたがいつのまにやらPV50000突破、ありがとうございます。次の目標は週間PV2000突破じゃあ! ということで頑張ってゆこうと思います。
タイトル変えるなり内容変えるなりしたほうがいいのかもしれませんね。
今後もお付き合いいただければと思います。ご感想ご指摘ご忠告、お待ちしております。いつもいつもありがとうございます。



[19828] その十二 味と唇
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/01/16 21:24
その十二 味と唇


 幾万人もの巨人が夜空に腕を伸ばしたように大振りの枝葉は奔放に伸び、億年の歳月の間変わらず地上に降り注ぐ冷たく美しい月光を遮って、山中を覆う夜の闇をより暗いものに変えている。
 いまも湯気を立てる新鮮な血を舐める音、肉を骨から引き剥がす生々しい音、骨をかみ砕いてその中の髄を啜る音、断末魔の悲鳴が絶えることなく山のどこかしらで生まれては静寂の帳が完全に下りる事を拒絶している。
 この山には一夜たりとも完全な静寂の夜が訪れた事はないだろう。
 周辺に住まう無力な人々には近づくだけでも生命の終わりを意味する死と恐怖の代名詞、妖哭山のいずれ来る氷雪の季節の足音が、徐々に聞こえ始める秋の夜。
 冴え冴えと輝く月を夜天に戴く山中の、織りなす森の木々が開けたとある一角に建てられた樵小屋の窓には、木板の代わりに炎で炙っても解ける事のない不可思議な氷が嵌められて、四角に区切られた光を外に零している。
 その樵小屋の中に、ぱしゃん、と小さな水音が一つ木霊した。囲炉裏で燃える火に照らされる内部は、絶えずもうもうと噴き上げる湯気によって白い紗幕が下りた様に煙っている。
 水を打つ音にわずかに遅れて、もうもうと白い湯気を立ち上げる湯面に、小さな波紋が広がった。
 波紋の源は白銀の魔狼雪輝を大黒柱にして、一頭の妖魔と二人の少女達が暮らす樵小屋の中に設えられた、岩石製の湯船である。
 一見すれば刀を振りまわす事など出来そうにもない細腕の女人が、巨岩を一刀を片手に斬って形を整えて、湯を張る内部を鑿も何も使わずに十本指だけで砂を掬う様にしてくり抜いて作ったとは、世の諸人が信じまい。
 雪輝達一行が予想をはるかに超えて様々な体験を強いられた七風の町から帰ってきて、一刻(約二時間)ほどが経過している。
 凛とこの樵小屋で別れた後、買いこんだ荷物を樵小屋に仕舞い終えて一段落が着き、掻いた汗を流すことになったのである。
 行き帰りの往路を雪輝の背に乗って済ませた為、ひなの小さな体に疲労は全くなかった。
 また雪輝の近くに居る限りにおいては、雪輝自身が周囲の気温をひな達の適温に保っているから、実際の所は風呂に入るほどの汗は掻いていない。
 とはいえ人の流れが激しい七風の町中を長時間歩きまわった為に、埃が着物や髪に着いて汚れてしまったのは事実であるから、汗を流す以上に身体に着いた汚れを落とす事が主な目的である。
 桜色がかった乳白色の風呂用薬液のかすかに甘い香りを胸一杯に吸い込み、ひなは湯の心地よさに長く息を吐く。
 大量の湯に暖められて血色の良いひなの頬を見る限りにおいては、帰り道での苗場村の村人たちとの遭遇は、ひなにとってなんの心労にもなっていないように見える。
 ひなは後ろを振り返りながら言った。

「気持ち良いですね、雪輝様。初めてのお風呂はいかがですか?」

「ふぅむ。暖めた水に身を浸すのは、心地よいように感じられるな。もっともひなと一緒だからかもしれないな」

 全身を美麗に飾る白銀の毛並みを湯と湯けむりで濡らした雪輝が、自分に背中を預けているひなに答え返す。
 人間なら成人男性でも四、五人は余裕を持って入れる岩石の湯船であったが、肩高約六尺、全長十数尺か二十尺にもなる雪輝が入るとなると、流石に全身をまっすぐに伸ばすわけにもゆかず、雪輝は体を三日月の様に柔軟に曲げて入浴している。
 傍から見ると窮屈そうに見えるが、骨格と筋肉がよほど柔軟にできている様で、雪輝に苦しげな様子は見られない。

「ふふ、そうですね。私も一人で入るよりも鬼無子さんと一緒に入る方が楽しくて心地よいですし、雪輝様の仰られる通りかもしれません」

 くすくすとひなは慎ましく笑う。
 辺境の寒村に生まれ育った村娘と言う生い立ちの主であるのに、ひなの所作の一つ一つは野卑さの無い品の良いものである。
 ひなが大口を開けて、悪く言えば下品に、良く言えば元気良く笑う所を見た事がないな、と雪輝は思った。
 とはいえ心底から自分よりもひなを優先順位のはるか上に置いている雪輝であるから、悪く見える笑みであれ、良く見える笑みであれ、それがひなが浮かべるとなれば喜ばしく感じて満足するに違いない。
 うっすら桜色に染まる湯に浸かっているひなは、幼い体に手拭いを巻いて隠すという事はしておらず、雪輝の目に生まれたままの姿を晒しているが一切抵抗や羞恥の念を感じている様子はない。
 ひなには心と生命を捧げる対象である雪輝に対して、自分の心と体を隠すという発想が一切ない。
 ひなだけでなく鬼無子と凛も、以前の滝での水浴びで雪輝が不用意な発言さえしていなかったら、いまでも雪輝に裸身を晒す事には特に問題を感じていなかったかもしれない。
 もっとも鬼無子に関しては自分が雪輝に向ける感情を理解した今となっては、羞恥心に頬を染めながら、雪輝との混浴を断固として拒絶するだろうし、実際に雪輝との混浴を辞退し、ひなと雪輝より先に入浴を済ませている。
 鬼無子は今は火の粉が爆ぜる囲炉裏の前で寝間着に着換えて、自在鉤に吊り下げた鉄鍋の中身をかき回している。
 鉄鍋の中では入浴前にひなが下ごしらえを済ませた味噌仕立ての牡丹鍋が煮られていて、山菜や茸の類もいっしょくたに煮えて、良く味が沁み込んでいるのが見てとれ、食欲をそそる匂いがぷんと鉄鍋から漂っている。
 今回の雪輝との混浴はひなからの提案によるものだ。
 今までは二人と一頭で一緒に入るには流石に狭いという事もあって実現しなかったが、最近雪輝に対して積極的な行動に出ているひなが、より雪輝や鬼無子と親密になろうと考えて口にしたのである。
 恋心の自覚により雪輝とひなに対する遠慮と新たな配慮が生まれた鬼無子は、たいていの事は受け入れるものの流石にこれを断ったが、雪輝がひなの喜々とした提案を断るはずもなく、小さな少女と巨体を誇る狼が共に風呂に入っているという奇妙な図が出来上ることとなった。
 水浴びなら何度かした事はあったが湯に入るという経験は初の雪輝は、ひなと共に入っている事もあってか非常に寛いでいる。
 岩風呂の中で身を曲げるという窮屈な姿勢ではあるが、雪輝はそれを苦に感じている様子はなく、うっすらと目を細めて湯の温かさとひなの感触を満喫している。
 ひなは雪輝の斜めに傾いで投げ出されている右後ろ脚に小振りな桃を思わせるお尻を乗せ、その肢の付け根から腹部のあたりに背中を預けている体勢だ。
 雪輝に対してひなは遠慮なく体重を預けて、無防備に裸身を晒して雪輝の目を楽しませていたが、その一方で雪輝はきちんと食べているにも関わらず、ほんのかすかにしか感じられないひなの重さに少しばかり不安の念を抱いていた。
 食べる量と体重増加の比例を考えれば、ひな以上に鬼無子など五倍も十倍も重くなければおかしいのだが、ひなの場合は出会った頃の無残な姿を雪輝が今も鮮明に覚えている事もあって、不安と心配の両方の念を些細な事にも抱いてしまうようだった。
 以前、鬼無子に女性に重いと言ってはならない、と教えて貰った事を思い出した雪輝は、軽いと言う分には問題なかろうと、ひなを丸呑みに出来る口を開いて不安の念を素直に告げる。

「ひなはまるで羽毛の様に軽いな。あれだけ食べているのに、あまり血肉になっておらぬのか。それとも本当はあの程度では足りておらぬのかね? なれば今少し狩りの頻度を増やそう」

 そう言って雪輝はひなの左の頬をぺろりと舐める。この両者の関係を知らぬ者が見たら雪輝がひなの事を味見している、と千人が千人とも勘違いしたことだろう。
 しかして鬼無子やひなにとっては巨大な狼のこの行為は食欲の表れなどではなくて、純粋に親愛の情によるものであると十分に理解しているから笑顔を浮かべて受け入れる。
 自分の左頬や首筋に擦り寄る雪輝の鼻先に左手を添えて、ひなは湯水を弾く雪輝の毛並みを優しく撫でた。
 いつものさらさらと毛並みを梳く指から零れる雪輝の毛並みも、湯に浸るとまた違った触感になり、ひなの指に新鮮な楽しみを与えている。
 諭す様に雪輝に告げるひなの声はどこまでも穏やかであった。

「食べる量が足りていないという事はありませんよ。いつもお腹いっぱい食べておりますから。雪輝様にお会いした頃よりはちゃんとお肉もついておりますし、背もすこし高くなっておりますでしょう」

 ひなにすらりと伸びる鼻筋を撫でられながら、雪輝の青い視線はひなの頭頂部の当たりに焦点を合わせる。
 最初に出会った時から今日にいたるまでのひなの姿を日毎に克明に記憶している雪輝であるから、およそ一月前と今のひなの変化をほぼ精密に把握しており、確かにひなの言うとおり小さな少女の背が伸びている事は理解している。

「高くなったと言っても一寸(約三センチ)にもならぬであろう。元が痩せ細っておったから多少ふくよかになりはしたが、それでもひなはまだずいぶん細身に見える」

 しかし雪輝の口調からは、その程度のひなの成長具合ではいまひとつ納得がいっていない事が伺える。
 ここまで雪輝と話をして、ふと、ひなは在る事に思い至る。ひょっとしたら、雪輝様は人間の子供の成長を、野の獣と同じように考えているのかもしれないのではないか、と。
 たいていの獣は一年かそこらで成獣に至るが、人間はそうはいかない。大体この時代なら、武士階級なら十五、六歳、早ければ十二、三歳で元服を行い大人と認められるし、農民などもおおむねその年で一人前扱いをされる。
 そもそも労働力としてならば十歳になる前から農作業に駆りだされるのが当たり前である。
 野の獣と人間とではかくも成長に必要とされる年月には違いがあるのだが、それを雪輝が理解しているとは限らない。
 なにしろ長時間人間とまともに接するのはひなが初めてであるから、人間と言う生き物に対する知識があらゆる点で不足しているのだ。

「雪輝様、人の子というものは一月や二月でそうそう大きくは成り難いものでございますよ。ひょっとしたら中にはその様な方もいらっしゃるかもしれませんけれど。私は雪輝様が思うほどには大きくなっていないかもしれませんが、食べた分はちゃんと私の身体になっているはずですよ」

「そういうものか。確かに私は同じ人間と一月近く共に過ごした事はないから、生育の判断をつける基準と言うものを知らぬ。私の心配は杞憂か。むろんそうである方が良い事だ」

 これは雪輝の言葉の通りで、雪輝はこれまで人間の老若男女とは山の民限定ではあるが、接した経験はあったもののそれはほんの一時のものばかりで、ひなのように何日にも渡って行動を共にするのは現状が初めてになる。
 ひなの言葉を耳にして頭を捻っていると、雪輝は毎日を共に過ごしたわけではないが、一月ごとに決闘を繰り返していた凛が、初めて会った頃と今を比べても体つきにそう変化がない事に気づいた。

「そう言えば凛めも見るたびに大きくなっているか、といえばそうでもないな。あの娘もまだ子供であるからすぐ大きくなるものかと思ったが、そうでもないようであるし、私の気にし過ぎというわけか」

 実際には凛の場合は既に成長期が終わりを迎えているから、本来ならぐんと体つきが大人びるはずの年齢にあっても変化が見られないのであって、凛の成長過程をひなに当てはめるのは正確ではない。
 ただ、この雪輝の言葉から察するにこの狼の判断基準では、凛は人間の中でも子供に分類される様だ。
 明言しているわけではないが雪輝の鬼無子に対する態度を見るに、鬼無子の事は大人扱い――少なくとも一人前扱い――はしている様であるから、凛と鬼無子の間に雪輝にとって人間の大人と子供の区別をつける境目が存在しているのだろう。
 ひなは、それがやっぱりおっぱいの大きさの違いなのではないだろうか、と考えていたりする。
 年齢で言えば鬼無子と凛は二つしか違わないのだが、両者の肉体の生育具合の差は埋めがたく、途方もなく深い溝が存在している。
 その溝はひなにとっても途方もなく広大で深い溝の様に感じられていて、密かに憧れている鬼無子のような体つきに、自分はなれないのではないかと時折悩んでいる。
 鬼無子と同じ年になるまで七年余りの猶予があるとはいえ、自分が鬼無子の様な体つきになれるとはどうしても信じ難いひなは、大きくなっても自分が雪輝に大人扱いされないと考えると、胸の奥が切なくなってしくしくと心が痛みを訴える。
 ひなは大きくなったら、雪輝と番に、夫婦になって、そして子宝にも恵まれたいと、心底から願っていた。
 しかしながら、ひなの記憶の中に鮮明に刻印されている母は、お世辞にも胸が大きいとは言い難かった。

「凛さんは鬼無子さんみたいなお身体になりたいそうですよ。私も鬼無子さんの身体つきを見ていると、あんな風にとても女性らしいお身体が羨ましく思えますから、凛さんのお気持ちもわかります」

 少し恥ずかし気に自分の身体に手を回すひなの顔を、雪輝は首を伸ばして覗きこむ。鬼無子とひなの体を比べて、なにか負い目に感じる様な事があるだろうかと、雪輝は不思議そうな色を瞳に浮かべている。

「そう言うものか? 鬼無子の事はたしかに美しいとは思うがひなとてそう引けを覚える様なものではなかろう。ひなも美しいと思うぞ。可憐と言っても良いのではないかね」

 人間が人間に対して抱くのと同じ美醜感覚を雪輝が有している事は、既にひなも知っていた事であったが、たとえば身体つきの豊かさなどに関する認識については、また異なるらしい。
 まあ単に性的な趣味嗜好の違いと言う物は人間にも千差万別であるから、狼の妖魔であるが故なのか、単に雪輝が女性の身体つきの差異について気に留めない性格の主なのかは謎であるし、ひなにはその点を追求する気はなかった。
 ありのままの自分を美しい、可憐とまで褒めてくれる雪輝の言葉。それだけでひなには幸せを噛み締めるには十分すぎたからだ。

「とんでもありません。鬼無子さんと私とではまるで違う生き物みたいでしょう? あと何年かしてからでないと結果は分かりませんが、私も鬼無子さんみたいになりたいと思っている、と言う事は覚えておいてください」

 ひなは自分の胸元に手を当ててから、鬼無子のそれを描く様に手で円を描いて見せる。自分と鬼無子の乳房の大きさを示すための表現である。
 ひなの握り拳一つ以上に、両者の胸元を飾る胸乳の大きさには厳然たる差が存在している。
 雪輝はとりあえずそんなものか、とあまり深くは考えずにひなの言う事に黙って耳を傾けていた。
 元々呑気な性格をしており万事に無頓着な所があるから、人に言われた事を馬鹿正直なほど素直に受け取るのは、この狼の長所でありまた短所でもあったが、そこがひなと鬼無子に愛される理由の一つである。

「あと、凛さんを鬼無子さんと比べる様な事も言ってはいけませんよ。なにより凛さんがお気になさっている事ですから、雪輝様にその事を言われたらとてもお怒りになられますからね。また水浴びをした時の様に、凛さんに殴られたいと仰るのならばお止めいたしませんけれど」

 迂闊な事を口にする事の多い幼い我が子に、優しく聡い母が言い聞かせるひなの口調である。

「私も誰かに殴られるのは好きではないからな。覚えておこう。ところでまだ入っていて大丈夫か? 湯あたりしない様に気をつけなさい。熱くはないか、それともぬるくはないか?」

「ちょうど良いように思われます。もう少し入っておりましょう。せっかく雪輝様とご一緒しているのですから」

 にこりと笑むひなに、雪輝はそうかと短く答えて押し黙り、伸ばしていた首を引っ込めて首の付け根のあたりまでお湯の中に浸かる。
 確かにひなの言うとおり折角ひなと一緒に入浴しているのだから、この時間を満喫しないのは損であると、この狼も考えた様である。
 ひなは揃えていた両足を崩し、雪輝に自分の体をしなだれかかる。そうしてから恋の熱が冷えぬ恋人同士が互いの腕を絡ませる様にして、ひなは自分の左腕を雪輝の右前肢に絡ませて、ちょこと頭を雪輝の右肩に預ける。

「本当に気持ち良いですね、雪輝様」

「うむ」

 実に満足げなひなと雪輝のやりとりだ。雪輝の姿形とひなの外見の幼さを別とすれば、死ぬまで寄り添って過ごすに違いない恋人同士としか思えぬ一頭と一人であった。
 一人と一頭がのんびりと心身ともに安らぎを覚えていた一方、鉄鍋の中身を延々と木製のおたまでかき回している鬼無子は、ぶつぶつとなにやら口にしながら思案に耽っていた。
 普段は青い組紐で纏めている栗色の髪をそのままに背に流し、かすかな湿り気を残す髪からは甘い香りがしている。
 白雪も黒ずんで見えるのではと目を疑うほど眩い白皙の美貌はうっすらと桜色に染まり、雪輝との同居暮らしで妖魔化が進んだことも相まって、生来の美貌は鬼無子の肉体が純潔であるにもかかわらず、国を腐敗させる淫美女のごとく艶めかしい。
 手に持っているのがおたまといささか不似合いではあったが、白蝋の細面に物憂げな影を浮かべている様は、もしこの場を不意の訪れた者がいたならば、戸を開けて鬼無子を見た瞬間に心奪われて朝までその場に立ち尽くすであろう妖美さである。
 しかしながら、今、鬼無子の精神を捉えて離さぬのは、その類稀なる美貌には決して相応しいとは言い難い事柄であった。
 いや、ある意味では相応しいのかもしれない。
 ぐるぐると飽きることなく鉄鍋をかき回す鬼無子を仔細に観察すれば、凝固させた巨大な血の塊から削り出したかのように赤い唇が、忙しなく開かれては閉じ、閉じては開かれてを繰り返している事に気付くだろう。
 呟かれているのはこんな言葉であった。

「やはり恥ずかしがらずに素直に雪輝殿と一緒に入るべきであったか。いやしかし、いくらなんでも雪輝殿に裸身を晒すのはそれがしにはまだ早いというか心の準備がいる。いやいや、ひなはまるで恥ずかしがらずに雪輝殿と共に湯に浸かっておるし、それがしもまるでやましい事ではないと言う様な態度で入浴すれば、ううむ。だが次の機会もあるだろうし、でもやっぱり恥ずかしく思えるし、いやそもそもそれがしとひなと雪輝殿で入るには、流石に狭いから入るとしたならば相当に密着することになる。そうなってはそれがしがいつも通りに振る舞えるわけもない……。むう、それがしはどうすることが正しき道であると言うのか。難しい、難しすぎる。冥府の父上、母上、愚かな不肖の娘になにとぞ良き知恵をお授け下され。それがし、色恋沙汰に関してはなにも教わっておりませぬゆえ、どうすればよいのか分からぬのです」

 凄艶と言える雰囲気と美貌にも関わらず、心は純真無垢な乙女である鬼無子は、雪輝と一緒に入浴するというひなの提案を断った事に、相当に未練を抱いてぐちぐちとこだわっている様であった。
 今は亡き鬼無子の父母も、よもや退魔士として一族の技術と知識の全てを伝えて育て上げた娘が、狼の妖魔相手に恋の悩みに陥るなどと、万に一つどころか億に一つも考えた事はなかっただろう。
 凛がこの草葉の陰で両親がさめざめと涙する様な鬼無子の呟きを耳にし、この姿を目にしていたならば、もはや鬼無子と言う人間に対する評価は地の底へと急落下したに違いない。
 過日の幸福な悪夢を見た事をきっかけに自身の心を知って以来、鬼無子は人生に置いて初めて足を踏み入れることになった“恋愛”という、ある意味この世界で最も過酷な戦場に戸惑ってばかりで、百戦錬磨の退魔士として培った経験も胆力もなんら活かせずにいた。

「鬼無子さん、お待たせしました。お鍋も良く煮えてますね」

 思考の海の底を歩いていた鬼無子は、不意に背中に掛けられたひなの声に、ようやく思考の海から引きずりあげられた。
 思わず心臓を口から吐き出しそうになるほど鬼無子は驚きに見舞われたが、ひなが風呂を終えた事に気付けなかったのは自分の失態であると、自分自身に叱責をしてこの驚きを無理矢理に飲み込む。

「うむ。寒さが増してきたからな。風呂も良いが鍋ものも良い。何より空腹を満たせる」

 食欲をそそられていたのも事実であったから、一度鍋の中身の方へ意識を向けると、途端に腹の空き具合が気になる自分に、鬼無子は浅ましいと今更ながらに恥ずかしさを覚えた。
 腹の虫が鳴らなかっただけまだましだと自分を慰めるのも、なんだか情けなく感じられて、鬼無子は湯の熱以外にも恥じらいで頬を更に赤くする。
 普段の家事に関して鬼無子はひなを良く手伝っているが、こと料理に関しては基本的にひなまかせであった。これは鬼無子が家事を一通り教わりながらも職業柄、味よりも栄養を最優先にした栄養一辺倒の料理しか知らなかった為である。
 しかしながら三食毎度、美味なのものを提供してくれるひなに対して、料理をまかせっきりにしている事が、流石に鬼無子は申し訳なく感じてひなに教えを請いながらではあるが最近では一緒に台所に立つようになっていた。
 本日の鍋料理にしても味付けから鍋に適した具材の切り方など細かい点に至るまで、鬼無子はひなに指導を頂きながら用意の手伝いをしたのである。
 質素な寝間着の上に綿入れを着こんだひなが、鬼無子から見て左手側に座り、右手側には雪輝が腰を落ち着ける。
 雪輝ほどの体躯と長い体毛の持ち主ともなれば、一度濡れ鼠になったあとに体を乾かすのには長時間を要するだろうが、雪輝自身の妖気を媒介にして周囲の熱量を操作する異能を獲得している。
 その異能を駆使して雪輝は体温と表皮周辺の温度を挙げて、風呂から上がった時に全身にまとわりついていた湯の滴をすべて蒸発させており、いまは全身の毛がふわふわと空気を孕んでいつも以上に柔らかな感触となっているのが見てとれた。
 我知らず、鬼無子の手が雪輝の毛並みを撫でようとわきわきと開いては閉じてを繰り返していたが、

「ではいただきましょうか」

 というひなの言葉によって励起された食欲が、指の動きを抑え込んで、一も二もなく鬼無子はひなの言葉にうなずいていた。
 雪輝とひなと鬼無子とでいただきますと唱和してから、箸と口とが休むことなく動いては笑い声が零れて、ここが妖魔の跋扈する死地とは信じられぬほど和やかな時間が続いた。
 頻繁に鬼無子が箸を動かして鍋と雑穀飯を片づけている中、不意にひなが雪輝の視線がじいっと先ほどから自分と鬼無子の茶碗や、鍋に向けられている事に気づいて、小首を愛らしく傾げながら口を開いた。

「雪輝様、私達の顔に何か付いておりますか? それともお気に障る様な事がありましたでしょうか」

「うむ? ああ、いやそうではないよ。ふむ、そうだな、言うか言うまいかと前から考えておったが、せっかくの機会だから言っておくか」

 この単純な思考で生きている狼が言うか言うまいか前から考えていた、などというものだからひなと鬼無子は、これは真面目な話か、と箸を止めて雪輝の言葉の続きを待つ。

「私は生まれてこの方、口にしたものはせいぜいが水くらいのものだったが、ひなと一緒に暮らすようになってから、人間の食事と言うものに興味を覚えたのだよ。腹が減るという感覚は理解しがたいものであるが、君達が嬉しそうに食事しているのを見ると、やはり興味を注がれるものがある」

「では雪輝様は以前から私達と同じように食事をしてみたかったのですか?」

「迷惑になるかと思って口を噤んでおったのだが、興味の方が勝ってしまって、ついな。あまり気にはかけんでおくれ。いずれにせよ私は餓える事のない体であるからな」

 言われてみれば、以前から雪輝はひな達の食事風景を興味津々と言った様子で観察していたが、そこまで興味を抱いていたとは少しばかり意外で、ひなと鬼無子はお互いの顔を見つめて、くすりとひとつ零した。
 こちらが思っていた様な深刻な事ではなかった事に対する安心が一つと、いかにも呑気に生まれついている雪輝らしい考えであったから、和やかな笑みが自然と浮かび上がってきたのである。

「では正直に告白なさった事ですし、お食べになられますか?」

「うむ。量は小鳥の餌ほどで構わぬ。私は腹の空かぬ体ゆえな」

 好奇心を隠さず耳と尻尾を動かしながら頷く雪輝の隣にひなは腰掛けて、木椀の中で良く味のしみ込んでいる椎茸を一つ、箸でつまむ。

「はい、雪輝様。お口を開いてくださいませ、あ~ん」

「あ~ん? なにかのまじないか?」

 雪輝のこれまでの生涯を考えれば、ひなの言葉の意味を理解できなくとも仕方はない。あら? とひとつ零してから、ひなは差し出した箸を椀の中に戻して赤ん坊に言い聞かせるように優しく雪輝にこの行為の意味を教える。

「御存じありませんでしたか。こんな風に口を開くと、あ~ん、となりますでしょう。ですからこう口を開いてください、という意味であ~ん、と言い表すのですよ」

 見本を見せるのが手っ取り早いと、ひなは椀と箸を手に持ったまま自分の小さな口を開いて、あ~ん、という言葉の意味と行為について雪輝に説明する。
 小鳥が親に餌をねだっている様で、可愛らしいものだと雪輝は思うが、自分がそうするのはどうにも似合わぬように思えて、少々くすぐったく感じられた。
 確かに牛馬をも上回る巨躯を誇る雪輝が、あ~んと口を開いてもそれは獲物を待ち構えているようにしか見えないだろう。
 雪輝が行為の意味を理解した、と判断したひなは持っていた箸を再び動かして雪輝を促す。

「では雪輝様、あ~んしてください。あ~ん」

「こうか? あ~ん」

 真珠色の牙がずらりと並ぶ雪輝の口が、ひなの目の前でゆるく開かれた。狼の妖魔が口を開いているのだから、近づく事さえ遠慮したい所であるが、ひなは自分の言うとおりに出来た雪輝の事を褒めてあげたい気分だった。
 例えるなら、それは初めて他人の手を借りずに着替えの出来た子供を褒める親の心情に極めて近しいものといえるだろう。

「はい、よくできました。どうぞ、御味見くださいませ」

 ひなが自分の口の中に置いていった椎茸を、雪輝は慎重に牙を噛みあわせて咀嚼を始めた。本人の言が確かならば、雪輝がこれまで口中に含んだ事のあるものは水と、敵対した妖魔の噛みちぎった血肉くらいのものであろう。
 口中に含んでさらに嚥下したとなれば、本当に水くらいのものであるから、雪輝は初めて固形物を噛み、味わう経験をしていた。
 幼子の一人くらいなら一呑みにできる雪輝の巨大な口に、たった一つっきりの椎茸ではどう考えた所で量が足りていない事は確かで、ひなは雪輝が催促したらすぐに次を出せるように、ちょこんと正座した膝の上に木椀を乗せて待っている。
 もぞもぞと牙と牙とが噛み合わされた雪輝の口がしばらく動き、ごくりと飲み込む音が続く。
 雪輝の食事初体験の感想を聞き逃さぬようにと、ひなと鬼無子は雪輝の取る言動に熱い視線を寄せる。
 すでに牡丹鍋を九割方胃袋に納めていた鬼無子が、箸を動かす手を止め興味を抑えきれぬ様子で問うた。

「いかがですか、雪輝殿。どのように感じられますか?」

 狼の妖魔と戦った経験はあったが、味覚がどうなっているかと問いかけた事などあるはずもなく、鬼無子は夜空の色をした瞳に好奇心の輝きを瞬かせている。

「なんといえば良いのか。味は好ましく感じられるな。もっと食べたいと感じる事が美味と言うのならば、私にとってこの味は美味なのだろう」

 自分でも正確に表現する言葉が見つからないのか、雪輝は何度か首を捻って、いま自分の味覚が感じている味を伝えようと口の中で言葉を転がす。

「鬼無子さん、どういうことでしょう? ひょっとして美味しいとか不味いとか、そういった事も雪輝様には分からないのでしょうか?」

「そうだな。雪輝殿が食事をとるのが初めてという事なら、そもそもしょっぱい、甘い、辛い、苦い、といった感覚も良くお分かりになっていないのではないだろうか。自分が感じている味を、甘いと言うべきなのか辛いと言うべきなのか、そういった所から分からぬのかもしれん。まあ、そもそもそれがし達と雪輝殿の味覚が同じかどうかはこれから調べねば分からん事なのだが」

「では雪輝様の舌は赤ちゃんみたいに何も知らないと考えた方が良いかもしれませんね」

「多分、そんな所だろう。となればまず味の判別が着く様に食べるものを考慮した方が良いのではないか?」

「なるほど、そう言えば雪輝様は狼ですけれど、なにか食べてはいけないものがあるのでしょうか?」

「む、そうだな。一口に狼の妖魔といっても色々いるが、雪輝殿の様な天地万物の気で血肉を構成している類のものは、天然自然の毒物に対してほぼ完璧な体勢を有している場合がほとんどだが、たしか狼や犬は葱の類に貝、烏賊や蛸、葡萄を与えてはいけないと聞いた事がある。海のものは生でなければ大丈夫だったかな?」

「結構あるものなのですね」

「茸や山菜の類はどうだったかな。それがしの知っている範囲で飼われていた犬や猫は、一匹残らず戦闘用に改良された魔犬、魔猫で、ある程度毒をもった妖魔の血肉でも平気で食べていたから、あまり参考にはならぬしな」

「雪輝様もその猫や犬みたいに毒に対してお強ければよいのですけれど」

 ひなと鬼無子は意見を交わし合いながら揃って思案顔となり、雪輝はと言えばここは自分は黙っておくべきか、と口を噤んで二人が妙案を出すのを待っている。自分がこの場ではあまり役に立たないと言う自覚があっての事であろう。

「う~ん、雪輝様、申し訳ありませんがお食べいただくのはまたの機会にして、まずは根本的なしょっぱさや酸っぱいという味がどんなものかお勉強いたしましょう」

「二人がそう考えるのならその様にしてくれて構わぬよ。食事は私にとって未知の領域であるから、経験のある二人に任せるのが最良の道であろう」

 二人を信頼しているが故の雪輝の発言と取るべきか、それとも二人に全てを丸ごと投げ出した無責任な発言と取るべきか、微妙な所であったが鬼無子とひなはさほど気にしなかった。
 この手の雪輝の発言にはすっかり慣れていたからであるし、恋慕と言う名の極めて度の強い色眼鏡を掛けている二人には、雪輝の言動は大抵が好意的に解釈される傾向にある。
 鍋の残りを片づける間雪輝に待ってもらい、ひなは盆に塩や味噌などを乗せて、囲炉裏の傍でじっと待っていた雪輝のもとへと急いだ。

「お待たせしました、雪輝様」

「いや、私の我儘から口にした事だ。要らぬ苦労を掛けているのは私の方だ。頭を下げる必要などないよ」

 ひな達と出会うまで一日を浮雲を眺めて過ごす事の多かった雪輝である。ひなが存在を感じられる範囲に居る限りにおいては、であるが気は長く出来ている。

「では早速ですが、まずはお塩から試してみましょうか」

 ふむ、とひとつ頷いて雪輝が口を開く。ひなと一緒に片付けを手伝っていた鬼無子も雪輝の反応に興味を隠さぬ様子で、注視している。

「雪輝様、あ~ん」

「あ~ん」

 在る程度加齢すれば人前では気恥かしくてとてもではないが出来ない行為であるが、人間的な羞恥の感性に乏しい雪輝は、鬼無子に見られていてもまるで気にした風はなく、ひなも愛しい方の見せる幼い言動が可愛らしくて仕方がない様子。
 塩を溶かした水を雪輝の口の中に落とすと、雪輝は再び口を閉ざしてもごもごと舌を動かして塩の味を感じる事に集中している。
 ほどなくして雪輝の眉間に皺が寄る。

「ふむ、これは、あまり多量に口にするのは体に良くないのではないかね。汗をかいた時などには必要かも知れんが」

「雪輝様、それがしょっぱいという事でございますよ。仰られる通りに採り過ぎては体に良くありませんけれど、人間だけでなく他の生き物にも必要なものです」

 言われてみると、確かに野の獣や妖魔の類が塩分を求めて岩を舐めている光景を、以前目撃した事があったと雪輝は記憶の一部を思い起こす。
 雪輝のちぐはぐな知識の中には無かったが、それは妖哭山に点在する岩塩から塩分を摂取しようとしていた光景である。
 雪輝に岩塩の知識があり、もっと早く思い出していたならば、ひな達は少なくとも塩に関してはわざわざ町に買いに行く必要も、凛に調達してもらう手間もかからなくなっていたのだが、その時の雪輝はなぜ岩を舐めているのだろう、としか思わなかったのである。

「これがしょっぱいか」

「はい。しょっぱいという味です」

「しょっぱい、ふむ、しょっぱいか」

 と繰り返す雪輝はその巨体と声から判別できる青年らしき印象とはかけ離れて、幼い子供の様だ。雪輝の様子を見守るひなと鬼無子の目元と口元は緩み、なんとも穏やかな笑みを浮かべる。
 雪輝は舌を伸ばして口を一舐め。

「あとはどんな味があるのだね」

「では次は」

 ここで続いたのはひなではなく、鬼無子であった。やや緊張した面持ちで手には椀と匙を持っている。

「そ、それがしが」

 普段と違って肩肘張った様子が見てとれる鬼無子に、雪輝は不思議そうな瞳を向けたが、最近の鬼無子には良くある事とさほど気には留めなかった。

「ふむ、ではよろしくお願いする」

「はっ! 微力を尽くしてお相手させていただきまする!! で、では、あ~んしてくださりませ」

「あ~ん」

 素直に口を開く雪輝に匙を差し出す鬼無子の顔は、これ以上ない至福の顔に蕩けていた。
 こうして鬼無子とひなに代わる代わる匙を差し出されて、雪輝は二人の気が済むまでの間、ひたすら口を動かして味を楽しむ作業に没頭させられた。
 まるで自分が二人のおもちゃにでもなった様だ、と雪輝は思ったが懸命にも口にする事はなかった。


 明けて翌朝。
 最低限の朝の日課を済ませたひな達は雪輝を先頭に山中のとある場所を目指して歩を進めていた。
 幾許か風の運ぶ血の匂いが濃い事に、雪輝はかすかに鼻先に皺を寄せる。
 自分がひなと肩を並べて、という言い方が正しいかは分からぬが、風呂に浸かっていた昨夜の間に妖哭山山中では常よりも激しく生命を賭した闘争が行われていたらしい。
 その日によって繰り広げられる凄惨な闘争は流血の量を変えるが、ここ数日に掛けて風に紛れる血の匂いと、朝霧のごとく漂う怨嗟の念が常よりも多い日が続いている。
 雪輝が妖哭山に誕生してからそう長い年月が経過しているわけではなかったが、雪輝の生物的な本能と霊的な知覚が、血臭と怨念の増加をなにがしかの凶兆として捉えて、雪輝の精神の水面に警戒の波紋を立てているのかもしれない。
 雪輝ほどに五感が鋭敏ではないが、潜った修羅場の数と滅殺した妖魔の数では同等かそれ以上であってもおかしくない鬼無子は鬼無子で、わずかな山の雰囲気の変化を感じているのか、周囲を巡らせる視線が常よりも忙しない。
 妖哭山で十指に入る大狼を滅ぼした力を持つ雪輝の周囲には、並大抵の妖魔は近寄ることがなく、いるとしても妖哭山でも底辺に位置する力の弱い妖魔や食物連鎖の下位に位置する動物がほとんどである。
 妖哭山では弱者に位置する彼らは、自身の生命を守る時と弱者を助ける場合においてのみ牙を剥く雪輝の性情を理解し、雪輝の行動範囲の中に住むことでその他の妖魔達から身を守っている。
 その為に、樵小屋の付近はともかくいま、雪輝達が歩いている辺りまでくればそれなりの数の小動物や小物の妖魔の気配が感じられるものだが、どうにもその数がいつもより多い様に、鬼無子と雪輝に感じられた。
 最近ではひなと鬼無子の食い扶持を稼ぐために雪輝が牙を剥くようになっている為、彼らの安寧は大いに脅かされ、狩られる側である彼らにしては由々しき事態が発生しているというのに、数が減るどころか増えているように感じられるのはいささか奇妙だ。
 雪輝達が人里に出かけている間に何か異変があったということだろうか。
 明確な異変の予兆というにはいささか大げさに過ぎるかもしれないが、ここ数日の間に白猿王一派の襲撃と怨霊達の復活、妖魔改と思しき奇怪な剣士との遭遇という奇禍に続けて見舞われている事もあって、雪輝と鬼無子は警戒の念を抱かずにはいられなかった。
 いますぐに妖魔なり猛獣の類なりに襲われる様子は見られないが、多少警戒の意識を通常よりも高めにし、雪輝達は目的地を目指して歩き続けた。
 ほどなくして雪輝達の目の前に現れたのは、巨大な神殿か城塞の正門の門柱かと見紛う巨大な二本の大木であった。
 ひなは二度目の、鬼無子は初めて目にする、凛との決闘場を区切る境となる巨木である。
 前回の凛との決闘より、約一ヶ月。昨日の別れ際に、凛より出された決闘の申し出を雪輝が受諾し、決闘に赴く為に雪輝達は朝も早くに樵小屋を出てこの場を目指していたのだ。
 周囲へ巡らせる警戒の念はそのままに、雪輝は一度足を止めて、ひなと鬼無子にここで待つよう目配せをする。

「ここから先は私と凛だけだ。二人はここで待っていなさい」

 見知った凛と雪輝とが相当に危険な戦いをする、と言う事にひなは浮かぬ顔をしてはいたが、それでも雪輝を制止する言葉は口にしない。
 雪輝の行いが自分の為である事は痛いほど理解していたし、雪輝なら凛に傷を負わせるような真似は慎むと言う事も分かっていた。
 少なくともひなにとっては雪輝が凛に敗れると言う事はないと考えているのは間違いない。

「雪輝様、無事の御帰りをお待ちしております」

「凛ともどもな、では」

 簡素に告げて踵を返そうとする雪輝の両頬に、ひなは手を添えた。

「おまじないです」

 七風の町で別れた時の様に、雪輝の口にひなは桜の花びらを思わせる薄い唇を寄せて、狼と少女の唇が触れ合う音がした。
 唇を離したひなはかすかに頬に紅の色を浮かべていた。
 尻尾を大きく一振りして、雪輝はひなの頬を一舐めする。根拠は何もないが雪輝はひなのおまじないにはとびっきりの効果があるだろうと、なんとはなしに思えた。
 雪輝とひなとが二人だけの世界を作る中、別世界の住人にさせられた鬼無子は、ひなの行動に思い切り不意をつかれて、呼吸をする事さえも忘れて心身を硬直させる。
 既に鬼無子の頬は紅薔薇の色だ。
 鬼無子にとって幸か不幸か、この時、雪輝がある行動に出た。

「ひなの事をよろしく頼むぞ。では、鬼無子にもおまじないだ」

「え……んん!?」

 呆けていた鬼無子の濃艶な紅の唇に、雪輝の狼のそれが押し付けられて、ほんの数秒の間、触れ合ってからようやく離れる。
 いかなる事態が生じたのかを脳が理解した時、鬼無子はとっさに叫び出しそうになるのを超人的な精神力でむりやりに抑え込んだ。
 雪輝がおまじないと口にした通りに、雪輝が凛と戦うまでの間、ひなを任せる鬼無子の無事を祈っての行為であろう。
 これは接吻に数えない、これはおまじない、これは接吻ではなくておまじない、と心の中で必死に自分に言い聞かせてから、鬼無子はなんとか笑みを浮かべた。
 鉄の板を無理矢理折り曲げて作った様な、ひどく強張った笑みが出来上がる。

「けけ、結構なおまじないでご、ございますな。ひなの事は、それがしに万事お任せください。ゆゆ雪輝殿のご健闘と無事を、おい、お祈りいたしますので」

「よろしく」

 気楽な調子で呟き、雪輝は大木の門柱の向こうへと足を進めた。この大木を通りすぎれば、そこはすでに戦場だ。
 そしてそこに凛がいる。おおよそ一月ぶりの凛との死闘を目前に、雪輝には欠片ほども気負った様子はなかった。

<続>

taisaさま

いつもありがとうございます。村人たちが襲い掛かってくるかどうかはともかく、疑心暗鬼にかられて、どうにかしないといけないと勝手に思い込んでいるのは確かですね。
雪輝を一番手っ取り早くかつ大きく怒らせる方法がひなを傷つける事ですから、場合によっては血の雨が降るものかと。

ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(返礼)
ひなが恨みつらみを爆発させるのもありかとおもいましたが、とりあえずはあのような形で成長しているんですよ、的な表現をとらせていただきました。大狼と勘違いされている雪輝討伐のリスクは仰られるとおりにけして安いものではありませんが、さてどうなることでしょう。鬼無子に妄執を抱く夕座の存在などいろいろと不確定要素もあることですから。


では今回もお読みくださった皆様と感想を下さったお二方に感謝を。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。ご感想ご指摘ご助言ご忠告、もろもろお待ちしております。

1/16 12:30 投稿
1/16 21:17 天船さまからご指摘のあった誤字ほか、数箇所訂正



[19828] その十三 雪辱
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/02/16 12:54
その十三 雪辱


 吸い込んだ大気が肺腑を満たし、黄ばみ始めた木の葉の匂いが連日濃度を増している事を、雪輝は実感した。
 吸い込んだ端から噎せ返る匂いの強さは変わらぬが、陽光煮えたぎる夏ならば、鼻の粘膜や肺腑は草いきれに塗れて緑に覆われただろう。今の季節ならば、緑が二、黄色が六、赤が二、と言ったところか。
 舞落ちる葉を見ればまれに紅葉が混じっている。緑と、黄と、茶と、赤と、それぞれに濃淡の事なる四色が、風に揺られゆらゆらと舞っている様は人の足を止めるには十分なほど美しい。
 見るだけならば美しい。
 匂いを嗅ぐだけならば楽しい。
 舞落ちる葉の中に紛れ込んだ食肉虫をものともしない力を持っているのなら。
 かすかにすえた匂いの中に混じる、無臭の毒素を耐え抜く強靭な命なら。
 故にその両方を兼ね備えていた白銀の巨狼は、落葉の三分の一近い食肉虫の牙も、毒素に満ち満ちた秋風も、まるで意に介する事もなく悠々と歩を進めていた。
 雪輝が無意識に纏う濃密で強力な妖気の防御圏が、飽くなき食欲と殺気に満ちた食肉虫も、吸い込んだ体の内側から汚染し腐敗させる毒素も弾いて無効化している。
 地上に落ちた小さな青い満月かのような雪輝の二つの瞳は、同じものを一秒以上見る事はなく、忙しなく焦点を別のものへと動かし続けている。
 既に凛との決闘場として通い慣れた森の一帯に足を踏み入れて、五十歩以上を数えているが、いまだに凛の仕掛けていた罠や凛自身からの襲撃を受けていない。
これは今までの決闘の戦歴を思い返せば稀な例であった。
 これまでは一歩を踏み込んだ端から雨あられと鋼鉄の武具が降り注ぐなり、穂先をびしりと揃えた巨岩やら先端を尖らせた丸太が襲ってくるなど、なんでもござれであった。
 普段の凛しか知らぬひなや鬼無子であったなら短気で性急な所のある凛ならそうだろう、と納得するだろうが、いざ戦闘に際した時の凛を知る雪輝は、それらはあくまで凛の一面でしかないと熟知していた――というよりはさせられたというべきだが。
 必要とあれば丸一日でも二日でも三日でも、身を潜め続けて獲物の息の根を止める好機を待つ忍耐力を、凛はその烈火の気性の中に備えているのだ。
 とはいえ、よもや森のただなかで凛が仁王立ちの体勢で待っているとは、さすがに雪輝の予想外ではあった。
 以前、鎧武者の怨霊と戦う際に着用していた妖虎の皮を加工した革服で、爪先から指先、首元まで覆い隠し、背には刃を備えた多関節の足を折り畳んだ刃蜘蛛がある。
 雪輝が来るまでの間ずっとそうしていたのか、固く腕を組んだ凛は、木漏れ日を浴びて数万粒の陽光の宝石を纏い、白銀の毛並みを眩く輝かせている雪輝を瞳の中に映し、眩しげにあるいは憎々しげに瞳を細める。
 凛の瞳の奥で戦意の焔の影が、ゆら、と揺れた。
 その瞳に、鬼無子やひな達と共に七風の町を歩いていた時の様な和やかさは欠片もない。
 凛が鬼無子やひなと親交を深めた事で、二人の少女達が想いを寄せる魔狼との戦いに手心を加えるという可能性は、その凛の鋭い眼光だけで在りえないと断ずる事が出来る。
 いつもと変わらぬ柔和さで雪輝が凛に声を掛ける。

「堂々と待ち構えていたか。お前にとって今日の風はどのように吹いている?」

 その言葉の裏で全方向に瞬時に跳躍を行えるよう、四肢に意識が行き渡ってい た。
 もっとも、神夜国中に悪名を知られる妖哭山で生きた雪輝にとっては、常に警戒の念を心中に抱いておくのは当たり前の事であったし、それは山の民である凛にとっても同じ事であるだろう。
 凛と雪輝との事情を知る山の民はともかく、雪輝を恐れぬ妖魔や野の獣の類が、戦闘中の一人と一頭の間に割って入る可能性もあるし、事実、二度ばかり過去に決闘の最中に乱入者が姿を見せた事があった。
 組んでいた腕をぶらりと垂らし、凛は一層瞳を細めた。凛の刃さながらの鋭い視線は、雪輝の青い瞳を真っ向から睨み据え、そのまま心臓を貫かんとしているかのようであった。

「獣の癖にお前は相変わらずもって回った言い方をするな。……悔しいがお前には今までの手は尽く通じなかった」

 これ以上ないと言うほど不機嫌に表情を歪める凛の言葉に、ふむ、と雪輝は納得の声を一つ零す。
 罠を仕掛け、身を隠し、獲物を誘いこみ、必殺の機会を作り出し、仕留める。
山の民が妖哭山での長い戦いの歴史で培った闘争と鍛鉄の技術の粋を凝らした戦い方では、雪輝に傷一つ付ける事も適わず、凛は挑んだ数だけ苦杯を煽る羽目に陥ってきた。
 一度や二度の負けであるなら――本来、妖哭山において敗北とはすなわち死を意味するが――凛はより狡猾な罠を仕掛け、巧妙に身を隠し、武器を強力なものに変えはしても山の民としての戦い方は貫き通してきた。
 しかし流石に敗北の黒星の数が増え続けた結果、思いきった方針の変更に踏み切ったのであろう、と雪輝は自分を納得させた。
 凛が少なからず苦悩を経て降したであろう判断が吉とでるか、凶とでるか。

「それも私次第か」

 雪輝は淡々と呟き、凛の続く言葉かあるいは敵意を待った。殺意こそ込めぬものの雪輝は凛との戦いに全力を尽くすつもりであったが、先手は凛に取らせると決めていた。
 いかに凛が若輩ながら鍛え抜かれた戦士といえども、どんな形で襲いかかろうとも雪輝は、その身体能力だけで後の先を取る事が出来る。
 これまで一度たりとも凛に敗れなかったが故の傲慢さでも、圧倒的強者としての怠惰でもなく、ごく単純に彼我の生物としての性能差を雪輝はよく理解していた。
 それに、凛が今度はどのような手を繰り出してくるのか、という興味が雪輝の心の中にないとは言い切れないのもまた事実。
 凛の垂らした両腕のそれぞれの人差し指が、かすかに動き、その小さな背に巨大な蜘蛛の足が、陽光を斬り散らしながら雪輝の視界の先で広がる。
 金属の擦れ合う音も、関節の軋む音もなに一つなく、静寂と共に刃を構える鋼鉄の蜘蛛は、白銀の魔狼の瞳にその威容を映す。
 垂直に立っていた雪輝の二等辺三角形の耳が、両方とも前傾していた。
はるかな古代、天空の彼方よりこの妖哭山に降ってきたという隕鉄を鍛え上げ、一族に伝わる秘伝の製造法で鍛え上げられた刃蜘蛛の刃は、ただそこに存在するだけで妖哭山の妖気を霧散させる高純度の霊気を発している。
 鬼無子の愛刀崩塵には及ばぬとも、この武器は自分を殺傷せしめる危険な代物だ、と言う事を、雪輝の本能が察知してより一層の警戒を促した表れであった。
 凛が鎧武者と死闘を繰り広げた時よりもさらに磨きを掛けて、物理的霊的殺傷能力を向上させた刃蜘蛛の、八尺(約二・四メートル)の六本の足の切先がそれぞれ雪輝を狙う。
 そろそろか、と雪輝は舌の上で言葉を転がした。
 凛の背中から現れたからくり仕掛けを動かす為に凛の両腕は塞がれ、代わりに六本の蜘蛛足が自分への攻撃を担うのであろう。となれば凛の指の動きを覚えれば次の蜘蛛足のどれが動くか先を読む事も容易い。
 言葉にすればなんとも簡単な事だが、凛がそこまで生易しい相手でない事を、雪輝は良く理解している。鋼鉄の蜘蛛だけが凛の用意した手札ではあるまい。
 可能であれば自身が無傷で、そして凛もまた無傷の状態で勝利をおさめる事が雪輝の今回の決闘における最大の目的である。
 かような達成困難な目的を雪輝が掲げているのは、雪輝であれ凛であれ、その身に傷を負えばひなが悲しみ、心を傷つける為だ。
 ひなの心を傷つける要素は叶う限り排する心積もりである雪輝であれば、双方無傷での決着という目的を掲げるのは当然の流れと言えただろう。
 さらに言えばこれまでの戦いの全てにおいて、雪輝は凛の如何なる罠にも攻撃にも傷を負った事はなく、また凛に傷と呼べるような傷を与えた事もない。
 つまるところ、いつもどおりに戦うまでの事、と雪輝は必要以上に緊張するでも気負うでもなく、しかし油断するでもなく凛の一挙一投足、視線の動きから呼吸の強弱に至るまで仔細に観察する。
 風は変わらず吹いている。
 木の葉は変わらず舞落ちている。
 落葉の雨の中、白銀の魔狼と背に鋼の蜘蛛を負った少女の対峙は、時が流れる事を忘れたかのように変わることなく続き、ともすればこのまま永劫に両者の対峙は続くのではあるまいか。
 一人と一頭の対峙を見守る何ものかがいたならば、そんな疑惑に捉われたかもしれない。
 刃蜘蛛を展開しながらも、それだけに留めて雪輝との対峙を続けていた凛の瞳孔が、不意に猫科の生き物のように細まるのを、雪輝は見逃さなかった。
 来る――脳裏にその一語が閃いた瞬間、凛の足は地を蹴り、雪輝は巨体を沈めた。左右から雪輝に迫る四つの銀閃が、急激な上下運動に靡いた雪輝の体毛の端を斬った。
 残る二本の刃蜘蛛の足が、上弦の月を描きながら身を沈めた雪輝の首を斬り裂きにかかる。
 速く、鋭く、そして精確な斬撃であった。
 斜めに傾いだ十字の軌跡を描いた二本の蜘蛛足は、虚しく空を斬り、振り抜き終える寸前に関節を折り曲げて、凛の左右の脇に移動して鈍く輝く切先を、後方へ跳躍した雪輝へと向ける。
 おおよそ一月前の決闘の時に比べて更に動きが速くなっている雪輝に、凛は眉間に小さな皺を刻んで、厄介なと言う言葉を飲み込む。
 白猿王一派や怨霊との戦いを経て雪輝が確実に戦闘能力を向上させている可能性を、考えていないではなかったが、こうして実際にその変化を体感させられると面白いものではない。
 夏の日の陽炎のごとく雪輝の巨躯がゆらと揺れる。右から来るか、左から来るか、正面から来るか、それとも上から来るのか。
 雪輝の四肢の歩みは歩幅も調子も不規則に行われて、いつどの肢が地を蹴り、どこから襲い掛かってくるのか、正面から見据えていても判別しがたい。
 必要とあれば数日に渡って泥の中であろうとじっと息を潜めて身を隠す事も厭わぬ凛であるが、生来の気質から受けと攻めを選択できる場合においては、やはり攻めの手を取る。
 雪輝の不規則な歩行が攻撃の為の跳躍に踏み切るよりも早く、凛の足が再び地を蹴る。
 乾いた唇を、小さな舌を伸ばして舐め取り、身を強張らせる緊張をほぐしながら、凛は刃蜘蛛に繋がる金属糸の操作に意識を傾注した。


 雪輝の後ろ姿が折り重なる木立の彼方に消えてからしばし、薫風に靡く黒髪を左手で抑えながら、ひなは姉と慕う鬼無子の顔を見上げて問うた。
 雪輝の無事を問う言葉だろう、と鬼無子は極自然に考えていたが、ひなの口から出てきたのはそんな鬼無子の考えとはまるで違う言葉であった。

「ひな、雪輝殿の事なら心配しなくとも……」

「鬼無子さん、ひょっとして雪輝様の事、好きになられました?」

「…………」

 小さなひなを安心させるために笑みを浮かべながら口を開いた鬼無子は、小首を傾げながらひなの言った言葉に、全身を一度強く震わせるや否や、舌の根と唇、そして美貌と言う他ない顔容を硬直させる。
 石を素材にこの世に二人といない彫刻家が彫りあげた美女の面、と言われたら思わず納得しかねないほど、鬼無子の表情からは動きや変化と言うものが取り払われていた。
 徐々に鼓膜の震えが収まり、ひなの発した言葉を鬼無子の脳と精神が受け止めて理解し始めれば、鬼無子の心にはここ数日頻繁に吹き荒れている動揺の嵐が巻き起こる。
 ひなの言葉は鬼無子の純情な乙女の部分とひなの慕情を傷つける可能性を危惧する家族としての部分を、容赦なく貫く言葉に他ならなかった。
 じいっと鬼無子の黒い瞳を見つめるひなに、非難や呵責の様子は見られず、純粋な疑問として口にしたように見える。

「な、なぜ、そのような事を思ったのだね、ひな?」

 結局ひなの質問には答えずに、はぐらかしただけだと、動揺の荒波に揉まれていまだ正常な思考を完璧に取り戻せぬまま、鬼無子は思考の片隅で誤魔化しの言葉を口にする自分を責めた。
 鬼無子に及ぼした影響と答えを得られなかった事は気にせずに、ひなは素直に鬼無子が雪輝を好いているのでは、と思った理由を口にする。

「先ほど、雪輝様がおまじないと言って鬼無子さんに接吻された時に、鬼無子さんは耳から首まで赤くなられましたし、いまもまだ赤いですから。ひょっとしてお恥ずかしいだけなのではなくて、その、雪輝様を殿方として考えていらっしゃるからなのかな、と思ったんです」

 ひなが恥ずかし気に告げた言葉を受けて、鬼無子は反射的に自分の頬と耳に触れる。
 赤くなっているかどうかまでは分からないが、指の触れた耳と頬は熱く感じられるほどに熱を帯びていて、鬼無子は自分の心の変化を隠せずにいた事を悟る。
 ひなの指摘を受けて、鬼無子はますます自分の顔だけでなく全身に至るまで体の奥側から新たな熱が生じているのを、実感していた。鬼無子は言葉よりも雄弁に、その態度でひなの言葉が正鵠を射ぬいた事を告白していた。
 ここまで至れば誤魔化す言葉には何の意味もない。徐々に平静を、といっても普段と比べれば混乱の極致と言ってもいい精神状態ながら、鬼無子は熟れた林檎にも劣らぬ顔色のまま、唇を動かす。

「ああ、いや、なんといえば良いのか。その、あう…………」

 ひなに何と言えば良いのか分からぬまま、鬼無子の唇から零れ落ちたのは、意味を成さぬ言葉の羅列ばかり。
 このまま口を濁した所でひなが納得のいく説明をする事は出来ないと、鬼無子は大きく長い溜息を吐きながら、諦観と共に認めざるを得なかった。

「そ、そうなのだ。それがしは、いつの間にか、本当に自分でもいつからかは分からぬのだが、そのぅ……ゆ、ゆき、雪輝殿の事を、お、おし、お慕い…………」

 両の人差し指の先を突っつき合せながら、顔を俯かせて口籠る鬼無子の様子に、ひなはくすりと小さな笑い声を零す。
 いつも自分の面倒をなにくれとなく見てくれて、母か姉の様に慕う鬼無子の見せる初心な様子に、ひなはついつい可愛らしい、と思ってしまう。
 普段、鬼無子の見せる態度は清々しく凛冽としたものであり、このように慌てふためいて頬を紅潮させる様な事は滅多にない。
 だからだろうか、ひなはもっとこの可愛らしい様子を見せる鬼無子の姿を見たくなって、ひょっとして、と思った事を口にする。それは、ひなの思い通りに鬼無子のとても柔らかで幼い女としての部分を突く言葉であった。

「ひょっとして、鬼無子さんが殿方をお慕いするのは雪輝様が初めての方なのですか?」

「え!? え、えっと、それは、その。うぅ、そ、そう、だ。それがしは、生まれてこの方、恋というものをした事がなくて、雪輝殿が、は、はじめての方だ」

 語尾に行くにつれてどんどんと声を小さく落としてゆく鬼無子の姿が、そのまま小さくなって消えてしまいそうに見えたのは、ひなの錯覚ではあるまい。
 鬼無子は顔をこれ以上ないほど鮮やかに赤く染めたまま、ちらりとひなの顔を盗み見る。ひなの機嫌を損ねる、ないしは余計な不安や心配を抱かせることは、鬼無子にとって今後の生活においても、また心情的にも何としても避けたいことだった。

「と、ところでひなは、それがしが、雪輝殿の事を、うー、あー、とにかくその様に思っていても構わぬのか? にこにこと笑っておるが、怒っていたりはしないのか?」

 ひなは鬼無子に言われた事がよほど意外だったのか、丸い瞳をぱちくりとさせてから、ころころと笑いながら首を横に振る。

「いいえ。私にとって雪輝様も鬼無子さんもとても大切で大好きな方々ですから、鬼無子さんが雪輝様の事をお好きというのなら、私にはとても嬉しく思います。私の好きな方が私の好きなもう御一方(おひとかた)を同じように好いてくださるのは、素敵な事ではないでしょうか」

「そ、そういうものか?」

「はい、そういうものです」

 嘘偽りなく嬉しそうに語るひなの様子に、鬼無子は内心で首を傾げる思いであったが、鬼無子が雪輝に対して慕情を寄せる事に対しては本当に喜んでいる様子であったので、まず何より安堵の思いが胸の中で領土を広げる。
 凛にひなと雪輝の関係を見ていて嫉妬しないのか、と聞かれた時にこれを強く否定した鬼無子であったが、いざ他人が似たような事を口にするとなるほど、なかなか信じ難いものだと、奇妙に感心していた。
 鬼無子が思っていた以上に、ひなにとって鬼無子は大切な存在であったという事か、あるいはそもそもひなが独占欲といった欲望に関して、淡白な性格をしているからなのか。

「そうであるなら、それがしにはありがたい話ではあるのだが」

「鬼無子さんが雪輝様をお好きだと、なにか良くない事があるのですか?」

 ひなからすれば、鬼無子が雪輝に対する感情をひた隠しにしようとしていた事や、自分に対してやけに気を使う素振りが見られる事が不思議でならない様子であった。
 これは、鬼無子が雪輝の事をどう思っていようと、自分と雪輝の間に割って入る余地はない、というような余裕などではなく言葉通りの純粋な疑問による。
 どうやら本当にひなにとっては、鬼無子が雪輝の事を好きであってもなにも問題はないらしい。
 むしろ大好きな鬼無子が、自分の大好きな雪輝を、同じように好きである事が嬉しくて仕方ない様子である。
 おそらくは子供が父母の仲が良い事を喜ぶ心境に近いのであろう。

「いや。……そう、だな。ひながそう気にした風でないようなら、別段改めて口にする様な事ではない、かな。はは、ひなは器が大きいというかなんというか、それがしの想像を超えている。心配が杞憂に終わった事は喜ばしい事だと考えよう」

「はあ」

 鬼無子が一体何を危惧していたのか全く見当のつかないひなは、今一つ納得の行かぬ様子で首を捻ったが、これ以上追及しても鬼無子を困らせるだけだと言う事は理解できた。

「こう言っては何ですけれど、きっと雪輝様は私や鬼無子さんの想いに気づいてはいらっしゃらないのでしょうね」

 心が切られる様な思いを切ないというが、半ば冗談めいて軽い調子で告げられたひなの言葉には、その切なさが少なからず含まれていた。
 鬼無子も自身の心を悟って以来、ひなの胸中が十二分以上に理解できるようになっていたから、雪輝の鈍感さを嘆きながら同意する。

「そもそも狼の妖魔を相手に慕情を募らせる我々の方が常識から外れているし、雪輝殿はどうも精神的に幼い部分があるから、恋だの愛だの言われてもいまひとつ理解の及ばぬ所があるのだろうさ」

「時々、私よりも小さな子供の様に振る舞われる時がありますものね」

 日常の中で見せる雪輝の幼い言動を思い出して、ひなはくすりと小さな笑みを零す。
 ひなが雪輝に引き取られた当初は、まだ雪輝も落ち着き払った態度のともすれば老人めいた所を見せていたが、昨今ではひなより下か、精々が十代半ば程度の精神年齢ではと思わせる言動がしばしば見られる。

「ひなには時間がある。焦らずゆるりと歩み寄ってゆけば良いさ。一年か二年もすれば雪輝殿もいくらなんでも気づくであろうからね。以前も同じような事を言ったが、時間を掛けて理解を深めて行く事だ」

 自分には残された時間がない、その事を意識してかひなに語る鬼無子はどこか寂しげな様子であったが、幸か不幸かひながそれに気付く事はなかった。

「それは重々承知しておりますけれど、もっと早く気付いていただければと私が思うのは欲張りな事でしょうか」

 ひなには珍しい重い溜息を耳にしながら、鬼無子はそっとひなの肩を抱き寄せて、軽く肩を叩いて慰める。小さな肩であった。
 ひなが以前、雪輝の子供が欲しいと告白した時も思ったものだが、まったくもって

「雪輝殿は罪な御方だ。とはいえ、ここで思い悩んでも進展が見込めるものではないし、雪輝殿が無事に戻られると信じよう」

「はい。雪輝様と凛さん、どちらも怪我をしていないと良いのですけれど」

 ふうむ、と鬼無子は一つ漏らす。
 実のところ、鬼無子は雪輝が戦う所も、凛が戦う所も、両方とも直に目にした事がない。一応、白猿王一派との交戦で死にかけていた所を拾われて、目を覚ました時に雪輝とごく短時間ながら立ち回りを演じたが、雪輝の全力など欠片も見れてはいない。
 それでもこれまでの鬼無子の戦歴と体内の妖魔の血の反応具合から、雪輝のある程度の実力は察しがついている。
 しかし凛は、というとこちらが問題であった。ともに水浴びをした際に凛の裸身を見て、全身の筋肉の着き具合や骨格からおおまかな身体能力は察しがついているが、凛の本領は手製の武具を振るう時と耳にしているから、こちらもまた真の実力が分かっているわけではない。
 はっきりと両者の戦いの勝敗を口にするには、鬼無子の有する情報には穴が多く、鬼無子は勝敗を断じる事は避けた。

「口では何のかんのと言いながら凛殿もお優しい所があるからね、多少は手心を加えてくれるだろう。ま、どちらも無事に帰ってくるさ」

 凛の気性を考えれば、まったく手加減をしないだろうな、と思いながらそれでも鬼無子は気休めを口にした。鬼無子自身、凛が手心を加えるなど信じてはいない言葉であった。


「ぬぁああああ!!!」

 凛の咽喉から迸る絶叫に先んじて、六本の蜘蛛足がそれぞれ個別の速度で雪輝の全身を貫くべく迸る。
 鋼に等しい雪輝の体毛と無意識に体表上に展開している妖気の防御圏、更に意識して展開している高速で対流する攻撃的な第二の防御圏内の両方を、突破し雪輝自身に届く刃である。
 並みの人間どころか対妖魔戦闘の心得のある呪術士や剣士の類でも、防御圏の突破は愚か、突きこんだ刀槍は妖気の渦に巻き込まれて微塵に砕け、放った呪術や妖術は一つ残らずかき消されてしまう。
 その防御圏を突破しうる刃を鍛え上げた凛の鍛冶士としての力量はまさに賞賛に値する。刃蜘蛛に切り裂かれた風が、凛の殺意を乗せて雪輝の知覚に脅威を伝えてきた。

「だが、斬られてはやれぬ」

 自らに迫る刃蜘蛛の左右上足四本を、雪輝は前肢を振るってはじき返し、どこまでも透き通った、きぃんと硬質の音が鳴り響く中、残る左右下足二本をまとめて噛み止める。
 雪輝の妖気と刃蜘蛛の霊気が衝突し互いを喰らい合って、白銀の火花が噛み止めた刃蜘蛛の刃と雪輝の真珠色の牙との間で舞い散る。
 牙と牙の間に自分を殺傷しうる凶器を噛み止める行為は、決して愉快とは言えなかった。
 噛み止めた刃蜘蛛の足を思い切り引きこんでから、雪輝はその野太い首を勢い凄まじく左右に振り、刃蜘蛛を制御する凛を周囲に聳えている巨木の峰に放り投げる。
 銃弾もかくやの速さで空を飛んだ凛であったが、全身に掛る負荷を堪え切り、左の刃蜘蛛三本を地面に突き刺して無理矢理に勢いを殺す。地面に一尺も刃を突き刺し、五間近く吹き飛ばされた所で、ようやく凛の体は停止した。
 尋常な狼にはあり得ない妖魔ならではの雪輝の怪力に、凛は悪態こそ吐くが動揺することもなく、ただ目を細めて雪輝の挙動に神経を裂く。つまるところ、予想の内に過ぎなかったのである。
 すでに雪輝の姿は凛の懐近くにまで潜り込んでいた。
 まるで風か煙のようだ。
 掴もうとすれば手の中からするりと抜けだし、止めようと思ってもこちらの意を介さずに懐にまで容易く潜り込んでくる。
 かすかに開かれた雪輝の口から覗く牙に、雪輝の妖気が圧縮されているのを、凛は本能と視覚の二つで察知した。凛の纏う妖虎の革服の守りを突破するのに、それが必要だと判断したのであろう。
 はん、と凛は一つ漏らした。雪輝がそこまでこの妖虎の革服を評価した事への喜びと、そうするだけで防御を破られる事への焦燥が混ざり合った“はん”であった。
 凛の唇から吐かれた吐息に嘲る成分が混じっていた事に、凛の喉笛まであと一息という所で、雪輝が気付いた。刃蜘蛛の足の一つの節足が、左右に分かれて中に収納していた胡桃大の球体を雪輝の眼前に落とした。
 球体から火の着いた導火線が飛び出ている事に気付き、雪輝は目の前の品に対する知識を有してはいなかったが、危険なものであると直感で判断し、前方の跳躍の為に溜め込んだ力を無理矢理に抑えこんで、その場でたたらを踏んで急制動を掛ける。
 凛がこれまで使用した道具の中で、眼前の球体に酷似したものがあったかどうか、即座に記憶を照合する雪輝の眼前で、導火線が遂に燃え尽きて目の前で内側から炸裂する。
 雪輝は球体の炸裂による衝撃で頬を打たれ、同時に聴覚に間近で落雷が落ちたかと錯覚するほど途方もない大音量が、そして視覚に網膜を焼き尽くす真っ白い光が襲い掛かる。
 山の民が狩猟の際に使用する閃光玉と音響玉である。雪輝の様な五感の優れた妖魔や野獣の探知能力を、大幅に制限する厄介な道具だ。
 炸裂する寸前に、球体の正体の推測を終えていた雪輝は固く目を閉じていたが、閉じた瞼から水の様に入り込んできた光によって、目玉を針で貫かれた様な痛みが雪輝に襲い掛かった。

「っ!」

 咽喉の奥から零れそうになった苦鳴を噛み殺し、雪輝は瞬時に自分の耳と目がどこまで役に立つか、判断を下す。
目は、駄目だ。
 瞼を開こうとしただけでも途方もない苦痛が襲い掛かり、無理にこじ開けた所で瞳には何も映らない。
 耳も目と同様に役には立たない。鼓膜の奥、それこそ脳味噌を直接揺さぶられているか、耳元で大鐘を忙しなく打ち鳴らされているかのような状態だ。
 五感の内二つを潰されはしたが、雪輝はさほど動揺はしなかった。残る三つの感覚の内、味覚は別としても、嗅覚と触覚が残りなおかつ直感が残っていれば戦いを継続するには十分だ。
 さすがに戦闘能力と探査能力の大幅な低下は否めないが、雪輝は戦意を衰えさせることなく閃光と音響の洪水に襲われる寸前に目にしていた凛の位置めがけて、跳躍へと転ずる。

「ぐぅるああ!!」

 雪輝には珍しいまさに狼のものに相違ない咆哮を挙げて、凛がいたはずの空間に爪を仕舞ったままの右前肢を振り下ろす。しかし返ってきた感触は空を切るもの。
閃光玉と音響玉を放ったままその場に留まるという選択肢を、凛が取るわけもない。雪輝もまたそれを理解しながらも、右前脚を振るったのはより正確に凛の残り香を嗅ぎ取る為だ。
 数瞬前まで凛が存在していた空間には、当然凛の匂いが他の空間よりも色濃く残留している。雪輝はいつもより少しだけ深く息を吸いこむ。
 しかし目と耳を潰しておきながら、凛が鼻を無事に残す迂闊な真似をするとは、単純な雪輝といえども思いはしなかった。
 山の民の使う道具の中に妖魔の嗅覚を潰すためのものもごまんと存在している。これまで凛は、自身の匂いを消す秘薬を頻繁に使用してきたが姿を現して挑んできたが、今回はその逆の選択肢を取る可能性が高い。
 故に雪輝は嗅覚を知覚網の主軸に据えながら、嗅覚の嗅ぎ取った匂いを信じ切って判断を誤まらぬように慎重にならざるを得ない。

――どう来る、凛?

 凛が自信とともに持ち出してきたあの鋼鉄の蜘蛛が、自分を殺害しうる武器である事は雪輝も認める所である。
 だが回避に神経を傾けておけば、薄皮一枚を裂かれた所で反撃に出て、凛に一撃を加える事は十分に可能だ。
 ここは待ちの手か、と雪輝がひとりごちた時、凛はある大樹の大振りの枝の上に座り、雪輝の姿を冷たく燃える炎を宿した瞳で見下ろしていた。
 ひなにはとても悪いと思う。鬼無子に対しても、やはり悪いと思う。雪輝に対しては、まあ、悪いとは思うが、それ以上にざまあみさらせ、という気持ちの方が大きい。
 雪輝が傷つけばまず間違いなくひなは悲しみの涙で頬を濡らし、鬼無子もまた苦渋の杯を呷ることになるだろう。
 ひなの悲しむ姿がありありと脳裏に浮かびあがり、凛はそうさせるのが自分であると思えば、言葉にはし難い罪悪感が巨大な黒い塊となって胸の中に生じる。
 それは胆力に富んだ凛をしても抱え込むのが苦しいと弱音を吐きたくなるほど、重く苦しいものであった。想像の上でさえそうなのだから実際に雪輝を傷つけてひなを悲しませたなら、いま思い描く罪悪感をはるかに上回るものが、凛の胸の中の戸を叩く事だろう。
 しかし、ああ、しかし。

――あたしはこいつを倒さずにはいられない。

 これまでの敗北の数々。それによって屈辱の泥濘に塗れていた凛の錬鉄衆としての誇り、生まれついての闘争者としての闘志、それらが凛の中で決してさえぬ炎となって、凛の心と体を突き動かす。
 これまでも、いまも、そしてこれからも凛はこの決闘の場に置いて、雪輝に対して抱く最大の想いは殺意の二文字。
 小柄な全身から無色の殺意を業火の勢いで放出する凛に、雪輝が気づかぬわけもない。敢えて気づかれる様に殺意を放出したのは、これで決着を着けると、凛が不退転の決意をしたからにほかならぬ。
 凛が飛び降りた枝に見えぬ瞳を向けた雪輝の視線の先で、鋼の蜘蛛が六本の足を広げて雪輝の全身を囲い込み、恋人同士の抱擁を思わせる力強さで雪輝に迫る。
 刃蜘蛛の足が閉じ切れば雪輝の五臓六腑を切先が貫き、雪輝の白銀の全身を血の赤で濡らすだろう。
 嗅覚と体毛を揺らす風の流れの変化から凛の所在と行動を把握した雪輝は、頭上から自分目がけて襲い来る凛の姿を精密に脳裏に描き上げる。
 折角凛の指の動きを覚えて、一度繰り出された攻撃であるなら、事前に予測ができるようになったと言うのに、視覚を潰されてはそれを活かせぬな、と雪輝は余裕があるのか、そんな事を考えながら、身を沈めて跳躍の事前動作を行う。
 雪輝の狙いは凛の首。
 凛の着こんでいる革の全身服ならば全力さえ込めなければ凛の首の骨を折るなり、頸動脈を貫く様な事にはならずに済むだろう。
 妖気の操作で爆発的に雪輝の身体能力は高められ、撓めた四肢に溜め込んだ力を、雪輝は直感と大気の流れを感じる触感を頼りに頃合いを計って爆発させた。
 大地を踏みしめていた雪輝の四肢が一息に沈み込む。足場に沈み込むほど凝縮された雪輝の跳躍は、白銀の狼を同色の目にもとまらぬ速さの砲弾へと変える。
 目と耳が潰されたままに、雪輝は脳裏に描き上げた凛の首筋へと大顎を開いて牙を唸らせる。
 刃蜘蛛の六本足が閉じ切るよりもなお早く、雪輝の牙は妖虎の革服越しに凛の首筋に突き刺さり、意図も呆気なく牙と牙とが噛み合う音を立てた。
 革服を突き破ったというわけではない。革服の中身がないのだ。雪輝の牙に抵抗を示すはずの凛の小柄な体が。
 凛が雪輝の嗅覚を無事のまま残したのはこの為であった。匂いを残しておくことで凛がそこに居ると雪輝に錯覚させるための布石であったのだろう。
 動揺のさざ波が雪輝の心の水面を乱し、それを認めて周囲の警戒に雪輝が意識を改めた時、既に凛は必殺の状態にあった。
 枝から飛び降りた直後に革服を背の刃蜘蛛ごと脱ぎ捨てて、秋風に裸身を嬲られながら、凛は両手に刃蜘蛛の足先を持ち既に着地していた。
 凛の手に持つ刃蜘蛛の足先と取り外された節足の間には幾本かの鋼糸が伸びており、凛はこれで雪輝を十重二十重に囲っていた。
 後は左右の腕を思い切り引き、雪輝を輪切りにしていくつかの肉塊に裁断すれば、ようやく、凛は念願の勝利の美酒を味わう事が出来る。
 きらりと木漏れ日を時折反射させる以外には、目に映す事も出来ないほど細い鋼糸は、実に髪の毛の百分の一ほどの細さでありながら、四百貫(約一・五トン)の重量に耐える強度を誇る。
 同時に切れ味もまた風に吹かれた鋼糸が触れただけで、厚さ一寸の鉄板が薄紙に刀で切りつけたかの如く、呆気なく断てるほど。
 刃蜘蛛の刃と同じ素材を、三日間寝ずに鍛え上げる事で造り出した鋼糸ならば、雪輝の多重妖気防御圏と体毛に対しても十二分な殺傷力を発揮しよう。
 筆舌に尽くしがたい万感の思いと、滂沱の涙を流すひなの姿が脳裏を同時に抱きながら、それでも凛は容赦なく腕を交差させた。
 引き絞られた鋼糸が雪輝の体を絡め取り、白銀の体毛にいくつものくびれを作る。鋼糸に触れた体毛が次々と切断され、妖気の防御圏と体毛の守りを突破した鋼糸がついに雪輝の地の肌に触れた時、凛は掌を焼く灼熱を感じた。

「なっ!?」

 隠せぬ驚愕が声となって凛の口から零れた時、凛の目の前で目に見えぬほど細い鋼糸は瞬時に高熱を帯びて気化し、鋼糸が繋いでいた刃蜘蛛の本体と、凛の手が握る刃先が高熱によって赤く変色している。
 雪輝が日々の暮らしと怨霊との戦いの中で手に入れた、妖気を媒介とした温度操作の異能、その攻撃的な発露を凛は初めて目にし、身をもって味あわされたのである。
 自分を縛り斬殺せしめんとした鋼糸を瞬時に蒸発させた雪輝は、跳躍の勢いをそのままに頭上にあった枝を足場にして、今度は天から地へと跳躍の矛先を変える。
 掌に火傷を拵えて、刃蜘蛛の足先を地に落とした凛の位置を、雪輝は肉の焼ける匂いと凛の挙げた驚愕の声から正確に認識していた。
 凛が咄嗟に落とした刃蜘蛛の足先を拾い上げようと指を伸ばした時には、既に再度跳躍を行った雪輝の影が、凛の身体に覆い被さっていた。
 瞬く間に凛の視界が転じ、一か月前とほぼ同じ構図が出来上がっていた。
 地面に大の字になって転がる凛と、その胸元に肢を置いて押さえつける雪輝、という構図である。
 ようやく霧霞に覆われている様ではあるが視覚が機能し始め、聴覚の方も徐々に耳鳴りが収まりだした雪輝が、確かに肢の下に凛の体温と質感を感じ、鼻に凛の体の匂いが濃厚に薫ることから、凛を捕まえたと認識する。

「今回は、随分と肝を冷やされたな」

 と瞼をしぱしぱと開いては閉じるのを繰り返し、耳の調子を確かめるようにぴらぴらと動かしながら、雪輝は足元の凛に勝利宣言を告げる。雪輝の中で勝負はもはや決したと分かる言葉である。
 雪輝が直に接触した状態であるなら、一瞬にも満たぬ力で凛の胸部を押し潰すも、収納している爪を伸ばして心臓を貫くも、あるいは今見せた様に凛の身体を業火に包んで消し炭に変える事も可能だ。
 前回と全く同じ体勢で敗北を告げられて、凛は下唇を噛んだ。そのまま上顎の歯が下顎の歯と噛み合いかねぬ強さである。
 凛の胸の中でどれだけの感情の嵐が吹き荒れたのか、目を閉じて心中の整理に集中する事十秒、凛は憤怒と悔しさに強張らせていた体を、唐突に弛緩させて長い溜息を吐きだす。
 再び敗北の泥沼に叩き落とされた事に対する負の感情に加えて、ひなを悲しませずに済んだという小さな安堵の混じる溜息であった。

「おい、早く肢をどけな。負けは認めてやるから、服を着させろ」

「なんだ、あの服の下には何も身につけておらなんだか。人間の世界ではそういうのを、はしたないとか慎みがないと言うらしいぞ」

「それを言ったらおまえなんて生まれた時から素っ裸だろうが」

「狼に人間の羞恥の概念を当て嵌められても困る」

 阿呆の癖に小生意気な、と凛は苛立たしげにそっぽを向いた。そんな凛の様子を見ながら、雪輝は微笑を浮かべて肢をどける。
 余裕のある様に見える雪輝ではあったが、今回ばかりは温度操作の異能を得ていなかったら、危うく凛に体をいくつかの肉塊に分解されかねなかった。
 次か、その次辺りで怪我を負わされるか、あるいは負けるかもしれんな、というのが雪輝の素直な感想であった。
 もっとも今回も敗北した凛はと言えば、特別に使用を許可された隕鉄から鍛え上げた刃蜘蛛を、糸状に加工したものとは言え瞬時に高熱によって気化された事に、いますぐにも頭を抱えたい所だった。
 硬度のみならず耐熱性にも富んだ刃蜘蛛でさえあの様であったのだから、通常の鉄製の武具では雪輝に触れた端から融解させられるか、蒸発させられてしまうだろう。
 ただでさえ純粋な身体能力だけでも手に負えかねぬ強敵であったと言うのに、雪輝が新たに得た異能は単純ながら、あまりにも強力という他なかった。
 衣ずれの音を耳にしながら、雪輝はようやく瞳が焦点を結んだ事と、正常に聴覚が機能し始めたことに、やれやれ、と嘆息の息を吐く。

「凛、もうよいか。準備が出来たのならひな達の所へ戻りたいのだが」

 革服を着終えて、刃蜘蛛の足を収納した凛は変わらず不機嫌な顔のまま、おう、と短く答えた。

「雪輝、お前、まだなんか力を隠していたりしないだろうな?」

 目を細めて低い声音で問う凛に、雪輝は真正直に返事をした。自分にとって不利になる要素であるにも関わらず、雪輝は隠す素振りも見せない。

「ああ、先ほどのあれのことかね。以前にも話した通りだ。まあ、この力に気付いたのもひなに抱きつかれていた時だから、ふとした拍子でまたなにか私が出来る事に気付くやもしれぬな」

「そうかい」

 下手をすればまた一つ二つと新たな力に目覚めかねぬという事実を突きつけられて、凛はますます不機嫌そうに下唇を突き出して、不服の意を表す。
 小さな子供が拗ねているような調子の凛に、雪輝は咽喉の奥で小さな笑い声を立てた。傍らに立った凛の耳にはぐるぐると唸っている様にしか聞こえない。
 なんだ、こいつ、腹でも空かしているのか? と凛は眉を八の字にして雪輝を見つめるが、当然雪輝は空腹を訴えているわけではないので、凛の視線を意に留めずひな達の待つ方へと肢を向ける。

「では行くか。二人を長く待たせるのは心苦しい」

「はいよ」

 まだ悔しさの火種が胸中で燻っている凛は、畜生め、と二重の意味で悪態を一つ吐き、雪輝の後に続いた。
 ほどなくして無事に怪我の無い姿を見せた一人と一頭に、ひなと鬼無子が安堵の笑みを浮かべたのは、改めて語るまでもないだろう。

<続>

ご感想への返事はまた後日致します。
今回において、本妻 ひな 本妻公認愛人 鬼無子 
と相成りました。凛は、ご近所さんですかね。次回からほのぼの激減、副題らしい血なまぐさい話ばかりになります。ご寛恕くださいますようお願い申し上げます。ではまた次回。お読みくださり、ありがとうございました。

1/23 21:30 投稿
2/16 12:54 編集



[19828] その十四 魔性剣士
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/02/01 22:12
その十四 魔性剣士


 鬼無子とひなの危惧を無駄なものにして、五体無傷な姿を凛と雪輝が見せてから、そのまま樵小屋に戻る流れになった。
 二人の姿を見て明らかにほっとした顔をしたひなを見て、流石に凛も今更ながらに雪輝と戦う事と傷つける可能性に対する罪悪感を再認識し、お茶に誘うひなに断りの言葉を告げられなかったのである。
 お二人が無事でなにより、とかんらかんらと妙に晴れやかな顔で笑う鬼無子に、凛はいささか訝しげな視線を寄せたが、気にするほどの事ではないと割り切って、そのままひなに手を引かれるままに足を動かした。
 直前まで確かに命のやり取りをしたはずであるのに、雪輝にまるで気にした様子がない事もあって――いつもの事ではあるが――凛はすっかり毒気を抜かれてしまった。

「お前も疲れたであろうから、茶でも一杯飲んでゆくと良い」

「そういうお前は平気の平左って所だな」

 凛を気遣う余裕さえ見せる雪輝に返した凛の言葉が、多少棘のあるものであっても止むを得ないものであろう。
凛がどれだけ技術と知恵を尽くしてもなお傷一つ与えられぬ相手に気遣われるなど、恥辱そのものといってよかろう。

「私の場合はただ在るだけで天地の気を取り込み、血肉に変えているからな。戦いながらでも常に力を補充しているも同然だ。戦い方を考えれば天地が滅びでもしない限りにおいては永劫に戦い続ける事も出来る。多分だがな」

 多分、と口にする時に雪輝は両前肢の肩を奇妙に動かした。人間でいえば肩を竦めたと映っただろうか。人間に酷似した動作をする事の多い雪輝であったが、ひょっとしたら体構造そのものが純粋な狼とは異なるからこその芸当であるかもしれない。

「どだい、お前に持久戦を挑むのは最初から間違いで、消耗を狙うのも狙いどころを大いに外しているってことかい」

「少なくとも人間のお前には得策ではあるまい。私とお前が生物としてあまりにも差が大きい事はお前とて否定はすまい? 私が気を取り込む以上の速さで消耗を強いるか、私と天と地との繋がりを断てるのならばともかくな」

「あたしが狙うなら前者の方法だけど、なんというかなぁ」

 そうは口にはしたもののそれが途方もない難事であると悟り、凛はますます雪輝に傷を付ける事さえ難しいのだと言う事を思い知らされて長い溜息を吐いた。
 樵小屋に着くと、凛は背中から外して脇に抱えていた刃蜘蛛を土間に降ろしてから、ひなの勧めるままに囲炉裏の前に座布団を敷いて、どっかとその上に座り込む。
 それに続いて鬼無子が座り込み、やや遅れてひなが雪輝を伴って茶請けを持ってくる。木盆の上に蒸し饅頭と焼き栗が乗せられていた。ひなが雪輝を伴っているのはこれらの品に熱を通すのに力を借りたからだ。
 早速と言わんばかりに、凛はほくほくとした焼き栗の皮を剥き始める。

「今回も結局あたしが負けちまったけどさあ、今度はなに持ってくればいい?」

 決闘に負けたのは事実と認め、凛は多少敗北の悔しさを滲ませてはいたが、約束を遵守するつもりで口にした。

「義理固い事ですな、凛殿は。そこら辺の具合はひなの方に聞いていもらえるかね」

 鬼無子に水を向けられたひなは左の人差し指を顎に添えて、必要になりそうなものを思い描いたが、いますぐに必要となりそうなものは思いつかない様子であった。

「この前のお買いもので大体済みましたから、いますぐにというものはないかと思います。でもこれからの季節は初めての事ですから、その時になってから要るものが出てくるかもしれませんね」

「まあ、その為に買い物行ったんだからそうなるわな。とりあえずは保留かねえ」

 焼き栗を三つほど口の中に放り込み、凛は予め予想していた通りの答えが返ってきたな、と心中でうんうんと首を縦に振る。
 鉄瓶に直に触れて中身の香草茶を温めていた雪輝が、顔を上げて口を開いた。穏やかな声音で話す事の多いこの狼にしては珍しく、固い声音で在った事がこの場に居た三人の少女達の注意を引いた。
 雪輝は一度だけひなの顔を見て、口にすべきか逡巡した様子を見せたがいまのひなならば、下手に気を病むまいと思い直して開いた口を閉ざしはしなかった。

「愉快な話ではなくて済まぬが、これからの事で話しておかねばならぬ事がある。町で出会ったという黄昏某という剣士と、帰り道で出会った村人らの事だ」

 蒸し饅頭を口に運ぶ手を止めた鬼無子と、両手で湯呑を包むように持っていたひなが、雪輝の次の言葉を待って真剣なまなざしを向ける。
 この場に居た誰もに少なからぬ因縁のある話題であり、そして正しくこれからの未来を左右する一大事に他ならない。

「ただ出会った、だけで終わりはすまい。それ位の事は私の頭でも分かる。だがそれ以降の事を正確に予想するには、私は余りに知識が不足している。私にできるのは迫る脅威を力づくで払うことくらいだろう。そこで鬼無子、君の知恵を拝借したい。このような場合、どの様な事態になる目算が高いだろうか。出来る事は多くはないかもしれぬが、起こりうる事態を想定しておく事は無駄ではあるまい」

 真摯に自分を見つめる雪輝に鬼無子は、これまでの経験と持ちうる知識を全て動員して雪輝の期待に答えるべく、しばし思考の海に沈んでから答えを出した。

「そうですな。それがしの意見もたぶんに推測を含むものとなりますが……。まず黄昏夕座にはそれがしに流れる血の事はほぼばれていると見て良いでしょう。そして夕座めが妖魔改であり、ひなの件が村人たちから妖魔改に伝えられていたとして、雪輝殿を大狼と勘違いしてですが、彼らが討伐に動く可能性はまず半々といった所」

「その根拠は?」

「まずこの妖哭山自体の環境が極めて劣悪である事が大きいのです。そもこの山は文字通り桁違いに凶悪な妖魔の数が多く、妖魔でない獣の類も恐ろしく攻撃的な性情のものがほとんどです。まさに死地と呼ぶべきかような場所に、更にはその山の主とされる大妖を討つために戦力を送るとなれば、それこそ小城や砦を落とす以上の数と質とを揃えなければなりますまい」

「百姓の願い程度でそれだけの戦力を動かす事はあり得ぬと? それでは可能性が半々どころかほぼ零であろう」

「金も人も物も要り様になりますゆえ、まずはないでしょう。ましてや昨今の日照りでろくに米の収穫が見込めぬ昨今となれば、到底許容できぬ願いである事は明白。しかし」

 鬼無子の脳裏に浮かび上がるのは、あの黄昏夕座という若者の青白い美貌。だが鬼無子の記憶に鮮明に刻み込まれた美貌の剣士の顔が齎すのは、言い知れぬ不安であった。
 これまで対峙した事のない類の異様な雰囲気と戦慄を禁じ得ない剣技の凄まじさもさることながら、あの若者には鬼無子の本能に最大の警鐘を鳴らさせる何かがある。

「あの黄昏夕座。あやつめばかりは何をしでかすか、それがしにも想像が着きませぬ。夕座が妖魔改の、といってもまだ妖魔改と決まったわけではありませんが、もしそれなりの立場にあるとしたならば、大狼を討つのに必要な戦力を集める事は可能かと」

「分かった。近日中にこの山に私を討ちに来るかもしれぬ可能性は馬鹿に出来ぬという事だな。では山の民は外の者達から助力を請われたならばどのように対応する、凛?」

 鬼無子の言葉に耳を傾けていた凛は唐突に話を振られて、少々驚いた表情を浮かべたが確かにこれまでになんどか山に入ろうとする外の者達に、案内を頼まれた事がある、と集落の大人たちが口にしていた事を思い出す。
 国家選抜規模の討伐隊が妖哭山に赴くと言うなら、山の民を利用しない手はないだろう。凛は、すぐに顔を引き締めてあまり考えるのには向いていないと自覚しているなりに、精一杯考えを巡らせる。

「あたしは交渉役じゃないからはっきりと言えないけど、そうだなあ、基本的にあたしら見たいな山の民は、外の連中と接点はそんなにもたないし、それが国の政(まつりごと)に関わる様な連中ときたら尚更さ。
 ただ大昔に恩義があったり山の民の血が流れていたりとかした場合は多少の便宜を図る事はある。あとはたまにだけど忍びとか草とか呼ばれてる連中に道具をくれてやったり、技術の一端を明かしたりして交流を持っている連中もいるってよ。
 あたしら錬鉄衆はこの山でしか取れない鉱物とか環境に魅入られて居着いた部族でさ、山の民の中でもけっこう異端な方なんだ。んなわけで物々交換以外では本当に、外の連中とは没交渉だから、要請があってもそうは受けないと思う」

「権力を笠に着てこられても話を断ると考えて良いのか?」

 ここで凛は、むぅ、と声に出して腕を組み眉根を八の字に寄せて言いづらそうな雰囲気を纏う。

「うん、そうだな。織田家の総領とかが出てくると分からないな。村長とかに聞かないとはっきりしない所があるんだけどさ。織田家の始祖がどれかの神さんにこの国に連れてこられた時に、別の山の民が助力した事もあって織田家は山の民の諸部族とつながりが深いんだよ。そこの縁で山の道案内とか頼まれると怪しくなるかな」

「妖哭山に住まう人間の集団となれば、頼ろうとは誰しもが思いつくだろうからな。多少の無茶をしてでも山の民に水先案内人をさせる位の事はするか。なれば外の連中から要請が来たなら、私への義理立てなどは考えずとも良い。相手の望みを叶えてやれ」

 雪輝の言葉に、凛はぎょっとした顔を浮かべた。ひなの安全と幸福を最優先にする雪輝であるから、ひなの身に危険が及ぶ可能性がある以上は山の民に断固として妖魔改への協力を拒絶するよう願うかと思っていたが、当の狼から出てきたのはその逆の言葉ではないか。
 凛ほどではないにせよそれなりに驚き、同じように考えた鬼無子が雪輝にどういうつもりか、と問いかける視線を向ける。

「私にとって最も大切なのはひなだ。これは天地が覆ろうとも変わらぬ。だが、だからといってひなの為になにもかもを犠牲にしてはひなを悲しませ、傷つけるだけであろう。場合によっては山に入った時に私が姿を見せて即座に返り討ちにすれば済む話でもある」

「そんなに簡単な相手ではありませぬぞ、雪輝殿」

「その様な相手ほど、無残な結果に終われば二度目が躊躇われよう。こちらにも危険は大きいが、あまり容易い相手ばかりで二度三度と繰り返されるよりは良い」

 この時、雪輝が密かに初めて人間を牙に掛ける覚悟を決めていた事を、鬼無子だけが敏感に察していた。おそらく山の民は傷つけずに済ますであろうが、外から来た者達には慈悲なき殺意を剥き出しにするだろう。
 この心優しく穏やかな気性の狼が、殺意を露わにする様な事態になることを考えると、それだけで鬼無子は胸が痛みを覚え、心が悲しみを訴えるが、場合によってはなにより必要になるものだと同時に理解してもいた。
 少なくとも黄昏夕座は、殺さずに済むほど容易い相手ではない。例え鬼無子が眠れる妖魔の血を解放しても、雪輝が全身全霊で戦いを挑んだとしても、殺さぬ様に手心を加えては勝ちの目を拾う事は出来ないだろう。
 雪輝は、これまで無言を通しているひなの顔を真正面から見た。これまでどおりの生活いつまでも続くわけではないとこの少女に伝える事は、必要であると分かってはいてもひどく胸の痛む行為であった。

「ひなよ、何時の事になるかは分からぬがおそらく近日中にこの山に私を討たんとする人の手が入るだろう。その時は私は自ら討って出てでも人間達を迎え討つ。ここまで通すつもりはないが、いざという時にすぐに逃げられる様に用意をしておきなさい。そして覚悟も」

 なんの、とは雪輝が言わなかったが、ひなには通じた。だからひなは答えた。ただ一言だけ。

「はい」

 目の前の狼が自らの為ではなく、自分の――ひなの為に戦う事を理解している事を、ひなの円らな瞳がなにより雄弁に物語っていた。


 織田と朝廷の領内を股にかけて悪逆非道を働く“赤死党(せきしとう)”呼ばれる野盗の集団が存在している。
 その不吉な名前は、実のところ彼ら自身が名乗ったわけではない。彼らが通り過ぎ去った後に残されるその惨状から、赤い死という例える言葉が生まれ、それが転じて赤死党という名が誰言うでもなく広まったのである。
 死の風と共に広まる噂話を耳にした活動初期のある赤死党の党員が、これはいいと気に入った為に自分達の名として認めて、自称した事で現在に至るまで定着した。
 盗賊の類の中には商家に押し入っても誰ひとり怪我を負わす事もなく、鮮やかな手並みで盗みを働く者もいるが、生命に対する扱いに置いてこの赤死党と呼ばれる集団は、その逆の道のみを行く集団であった。
 男手をや老人達を残らず始末して子供や女を人買いに売りさばくわけでもなく、凌辱の果てに腕を斬り、足を斬り、首を落とし、死の淵に落とすことしかしなかった。
 老若男女の区別なく彼らは盗みを働く時もそうでない時も目に映る人間という人間を、殺戮の嵐の中に巻きこみ、血の雨を降らしては無残に斬り刻まれた屍が転がる大地に吸わせていったのである。
 無論、その様な人間の道に背く非道を働く集団の存在を国家が許すはずもない。
数十、数百名からなる犠牲者がたびたび生まれては、赤死党の名前が世間に恐怖の風を吹かしていた時、遂に三百名からなる討伐隊が赤死党を完全に包囲し、赤死党に所属していた凶徒六十名余を血祭りに上げ、彼らが多くの民草に与えてきたのと同じ運命を齎した。
 しかし、己を除くすべての党員を犠牲にして生き延びた頭目は再び同規模かそれ以上の集団をたちまちのうちに作り上げ、数年の休息を経た後に再びその悪名と凶行を轟かせる事となる。
 国と赤死党との戦いは休戦期を挟みながら実に百年あまりにおよび、織田家と朝廷がそれぞれ独自に編成した討伐隊との死闘を繰り広げながら、赤死党は壊滅と再興を繰り返して今日に至るまで存在し続けていた。
 赤死党はその凶暴極まりない所業の数々ゆえに、多くの民草を恐怖に陥れる一方で、多額の賞金が掛けられた最高峰の賞金首集団でもあり、所属しているだけでも国家以外の賞金目当ての者どもから恒常的に狙われ、生命の危機が伴侶のごとく傍に在る事を享受せねばならない。
 その危険性は過去十回に及ぶ壊滅のうち、三回が私兵集団や徒党を組んだ素浪人、呪術士集団の手による事実が何よりも雄弁に物語っている。
 であるにも関わらず壊滅してからさほど時を置かずして再興が成されるのは、頭目が凶行の果てに得られる財貨に一切の興味を示さず、全て手下どもの好きにさせている事が大きな理由の一つだ。
 通常、盗人の集団となれば序列の順に得られる報酬の額は大きくなる。しかし赤死党に限っては、最大の取り分を有するはずの頭目が、金にも女にも酒にも一切の興味を示さず、ただ人々の殺戮にのみ終始している。
 そしてもう一つの理由は、その頭目自身にある。
 百年もの時を超えて赤死党が活動し続ける理由、頭目が財貨を必要としない理由は、頭目の素性が人間に在らざる事にあった。
 頭目は米も、酒も、魚も、肉も、水も必要なかった。
 疲れた体を癒す為に体を横たえる褥も、雨風をしのぐ為の屋根も必要なかった。
 七尺に届く長身は骨にかろうじて皮を張り付けた様に異常に細くまるで針金を思わせ、風に靡く髪は血で懲り固めた様な赤に染まり、罅割れの走る分厚い唇からは黄色く薄汚れた牙が覗き、瞳は黒一色に濁って如何なる光も灯る事はない。
 その身体からは風の無い日でも無色の死の気配が漂い、傍に在るだけで命を吸われているかのような錯覚に襲われる。あるいはこの男は冥府の穴の入口に立ち、生と死との境を分かつ番人なのかもしれぬ。
 人殺しなどなんとも思わぬ――それこそ喜々として親さえ手に掛けた凶漢でさえ、この頭目の傍に在る事どころか、視界に映す事さえ忌避するほど、この頭目は人間と同じ造作をした存在ながら、人間にはあり得ぬ気配を纏う存在である。
 人の皮を被った妖魔。それが頭目の正体であった。
 舌鼓を打たせる美味な料理や酒でもなく、切り口から零れたばかりの湯気を立てる鮮血の色を目で楽しみ、匂いを胸一杯に吸い込むのが好きだった。
 百、二百と斬り刻んだ死体の二つに割られた頭部から零れる脳漿や原型を留めぬまでに刻まれた目玉、寸刻みにされた臓物が何日も野ざらしにされて野鼠や野鳥に貪られる様を見るのが好きだった。
 妻子を守らんと立ち向かってくる父親の首を刎ね飛ばし、この子だけはと幼い我が子を腕の中に抱く母親を、その子供ごと刺し殺すのが好きだった。
 腹を割られて腸をぶちまけて鞴の様に大きな音を立てて呼吸する子供の目の前に立ち、必死に縋りつこうとする手から一歩遠ざかり、それでもなお助かろうと腸を零しながら這いずって近づいてくる子供が息絶えるのを見守るのが好きだった。
 だから頭目には金も、酒も、食べ物も、女も必要なかった。
 自分の目の前で誰かが死ねばいい。それが自分の手によってなら尚更良い。食の快楽も性の快楽も必要ない。殺戮の快楽、あるいは、死の快楽があれが良かった。
 そんな頭目であったから、赤死党の党員達から人望を集める様な事はなかったが、およそ尋常な欲望を欠片も持ち合わせぬ性情故に、彼らに零れてくる財貨や女は幾らでも貪れたし、何より頭目は強かった。
 国家が選りすぐった精鋭による討伐隊の襲撃をたびたび受けながらも、ついぞ頭目が討たれなかった事実が、彼の実力の証明と言えるだろう。
 血の雨を降らし、屍で丘を築くほど殺戮を重ねてきた頭目は、凡百の兵士などそれこそ百人を集めても首の無い死体が百人分出来上がるだけの実力を備えている。
 また頭目が妖魔であるが故に、頭目よりも弱い妖魔などは党員に襲い掛かる様な事はなく、その為に赤死党は大胆に野を駆けずり回り、追手の目を眩まして闇に紛れるのも容易であった。
 そして頭目も徒党を組む事の利便性を理解するだけの知恵を持ち合わせており、押し入った家々や村落でどれだけ残虐無惨な行いをしても、決して赤死党の党員には手を下さなかった事で、党員達から奇妙な信頼を得ていたのである。
 今代の赤死党はのべ五十名。そのうち八体が頭目の力に魅かれるか、あるいは力でもって屈服された妖魔達であった。
 構成人数こそかつての規模と比べれは多いとは言い難かったが、それだけの数の妖魔が所属したのは初の事であり、歴代でも一、二を争う凶悪性を有していた。
 人間の血脂肪をたっぷりと浴び、白骨で研いでいるも同然の殺人を重ね続けた刀槍や、火縄銃、大筒、火矢で武装し、呪術を扱うはぐれ陰陽師や破戒僧といった霊的戦闘能力者を有し、妖魔抜きの人間のみの戦力でも、正規の訓練を受けた軍を相手に互角以上の戦いを行える、野盗としては異常な質を備えた殺戮戦闘集団といえよう。
 そして今、赤死党はある運命の下り道を歩んでいた。
 世界は昼さがりだと言うのに、空は灰色の分厚い雲に覆われて、陰鬱な暗色に染まっていた。
 あるいは太陽が眼下に広がる光景を目撃するのを拒絶した為であったかもしれない。
 刀や槍を持ったまま肘から切断された腕、揃って同じ位置で斬り飛ばされた足、腹筋を断たれて胃の中身をぶちまけている胴体、恐怖の相をむざむざと刻んだまま刎ねられた首、額から股間までを縦一文字に斬られて断面を晒している者。
 大は四肢を切断された者から小は文字通り寸刻みにされた者まで、数えれば千近い肉片に寸断された人体を余すことなく集めれば四十一人分の死体が出来上がる。
 膝丈まで届く草花が延々と広がる草原の一帯を、夥しい量の血ともとは人間であったと判別できないほど斬り刻まれた肉片や臓腑が撒き散らされて、おぞましい赤色に染めている。
 吹き行く秋風が爽快さを感じさせるはずの草原は、いまやこの世のものと思えぬおぞましい殺戮劇の舞台へと変貌していたのである。
 そして草原の一角をおぞましく汚らわしく占領しているのは人間の死体ばかりではなかった。
 下半身が黒と黄色の縞模様の巨大な蜘蛛で上半身は大胆に乳房を晒す美女の姿をした半人半虫、損傷の激しい鎧兜で身を固めた骸骨、人面を備えた五つ首の蛇、頭と胴が虎で四枚の烏の翼を持ち蟹の足を持った妖魔、と赤死党に属していた八体の妖魔そのすべてが、一体の例外もなく醜悪な死に様を晒している。
 それを成したのは赤死党を追い込み包囲した百名からなる忍装束の者たちではなかった。血の海と屍の山の中で一刀を片手に、陰鬱な光を満身に浴びる若者ただ一人によって、神夜国有数の残虐無惨な殺戮集団は、今度こそ完全な壊滅の憂き目を見ているのだった。
 若者は青い着流しの背に闇色の鞘を背負い、腰まで届く黒髪は纏めるでもなく風の吹くままにそよいでいる。
 水も滴る――どころではなく水が触れる事も恥じ入るような恐るべき美貌の若者であった。
 着流しの合わせ目から覗く肉体を覆う肌は、あらゆる死病に冒された病人の色をしていたが、その肌を盛り上げる筋肉は一部の隙もなく鍛え上げられて鞭のごとく絞りこまれ、余計な肉片や脂肪など一辺たりとてもなく、この若者が武の道を歩む者だと示している。
 眉目秀麗という言葉を人間にする事が出来たならば、この若者が出来上がるだろう。ただし、その性、邪悪なりと付け加えなければなるまい。
 世界を照らしあげる陽光が輝いていようとも世界を青い黄昏に変える、不可思議な雰囲気を纏う美の化身のごとき妖剣士黄昏夕座。
 七風の町で四方木鬼無子と芸術的なまでの剣劇を演じたこの謎の若者こそが、世に凶行と悪名を轟かす赤死党を、頭目を残して皆殺しにした張本人に他ならなかった。
 鬼無子とその愛刀崩塵によって、腰に佩いていた名刀朱羅を失った夕座の手には、優美な曲線を描きながら鈍く銀に輝く、実に全長四尺(約百二十センチ)に及ぶ長刀が握られている。
 一般的な刀剣がおおよそ二尺三寸、鬼無子の崩塵も長刀の類だがそれでも三尺二寸三分だが、夕座の手にあるのはそれらよりもなお長い刀であった。
 夕座の従者である忍の影座に用意させた一振りであろう。
 緑の色彩に包まれていた草原は、いまや降り注いだ鮮血の雨によって朱に染まっていると言うのに、夕座の血の流れる事を知らぬ白く透き通った肌や青一色に染め抜かれた着流しには、一滴の返り血も浴びてはおらず、右手に提げる長刀の刃にもまた血の粒は付いていない。
 妖魔を含めた四十九名を孤剣一振りを手に、残らず斬殺しながら返り血の洗礼を浴びることなく、夕座はむくつけき幼子に向けるのが似合う穏やかな笑みを浮かべていた。
 草原に吹く風は妖魔と人間の血が混ざり合って異様な匂いを醸し出している。吸い込んだ端から鼻の粘膜を刺激し、二度と呼吸したくないと心底思わせる様な異臭である。
 それを肺腑を満たすまで一杯に吸い込みながら、夕座は笑みの形をそのままに目の前に立って、自分を睨む赤死党頭目に語りかけた。

「妖魔が八体に人間が四十一。五十引く四十九で、残りはお主一人。しかし、お主だけで四十九よりは楽しめよう」

夕座の口元に浮かんでいるのは、鬼無子と刃を交える前に浮かべていたのと同種の笑みであった。
 老若男女を問わず殺戮の限りを尽くした悪鬼羅刹と、その様な外道どもから人々を守る職に在った鬼無子も、夕座にとっては自分が楽しめる相手であればまるで気にならぬらしい。
 針金を束ねて生皮を張り付けて無理矢理人型にしたような頭目は、右手に柄尻から切っ先に至るまでが夜闇の様な漆黒に染まった剣を手にしていた。幅四寸、刃長三尺の柄、刃、鍔の全てが一つの鉄から打ち出された古風な品である。
 直剣から立ち上る妖気は陽炎となって正常な大気を歪め、物質化する寸前の途方もない密度だ。ともすれば頭目の放つ妖気を飲み込みこまれかねぬほどに強力かつ邪悪さである。
 木乃伊の一歩寸前のような罅割れまみれの顔は能面のごとく如何なる感情も浮かべてはおらず、赤死党党員皆殺しの渦中にあってもなんら感慨を覚えてはいない様だった。
 七尺超の長身を二足歩行の猫を思わせる前傾姿勢をとり、直剣の切っ先がかすかに赤く濡れそぼる地面に突き刺さっている。
 はだけた襤褸そのものの上衣から覗く体は、病床の床に在る臨終間近の病人でさえこうはなるまい、と思わせるほど残酷なまでにはっきりと肋骨の形が浮かび上がり、内臓など一つもないかのように痩せ細っている。
 刀剣を振るうどころかまともに立って歩く事さえできない憔悴しきった姿である。常人ならば。そして夕座が自ら刃を手に対峙する相手が常人であるはずもない。
 いや、常人か否かなど問うまでもなかっただろう。
 頭目は動いた。災厄を運ぶ黒き死風とでも言うべきか、頭目の動いた後には累々と屍ばかりが続くのだと、対峙するものに確信させる動きであった。
 漆黒の斬閃が夕座の首に走り、それは夕座の浮かべた笑みをなんら揺るがす事が出来ずに、夕座の手に在る長刀に呆気なく弾き飛ばされた。
 かつて赤死党を討伐すべく挑みかかってきた兵士の首を、十人まとめて斬り飛ばした一刀であったが、夕座は涼しげな顔を変えようともしない。そよ風を感じ心地よさに笑みを浮かべている、そんな風情である。
 頭目の顔には如何なる感情の色も浮かび上がってはいない。必殺の一刀を弾かれた事に対する驚きも、恐るべき敵の力量に対する恐怖も、強敵を前にした歓喜も、なにも。
 夕座は青い風となって走った。銀に輝く三日月を手に青い妖風は黒い死風に襲い掛かる。
 血に染まる草原で二色の風は交差したその瞬間、無数の火花が眩く散り、風は留まることなく互いの脇を走り抜け、二間の距離を置いて背後を振り返り、再び対峙する。
 世にも美しい若者の手によって命運を断たれた凶賊達の怨嗟の声が風に乗る中、夕座は笑みを深く刻み直し、再び頭目へと駆け寄った。
 二色の風は絡みあいながら大地を這いずる大蛇のごとく激突と離別を繰り返し、たっぷりと血を吸ってぬかるむ地面という悪条件下にも関わらず、瞬時に無数の剣閃が両者の間で煌めいては消えてゆく。
 二つの刃が交差する時、漆黒と白銀の刀身は無数の光の粒を産み落としては、朱に染まる世界を煌々と照らしあげ、二人の剣士が死臭漂う世界の住人である事を知らしめる。
 超高濃度に圧縮された剣戟の応酬は、夕座の放った縦一文字の斬撃によって決着を見る事となった。
 ぎぃん、と強く重い音が一つ響き渡るや、頭目が頭上に横一文字に掲げた直剣は握る手ごと万歳の体勢に弾かれ、守るモノの無くなった頭目の額に夕座の長刀は呆気ないほど簡単に食い込み、頭蓋骨や脳髄、背骨、五臓六腑を尽く二つに斬り裂いて、股間から抜けた。
 人体を縦に二分割にする。およそ人間の膂力では不可能な現象であるが、黄昏夕座の手に掛れば、呼吸をするように容易に起こせる事象へと格下げされる。
 まるで元から血が流れていなかったように断面から一滴も血を零さぬ頭目の死体に、夕座は興味の尽きぬ視線を向けていた。

「対峙していた時から分かってはいたが、それは死体か。そして赤死党の真の頭目は、そちらであろう」

 自らの作りだした縦一文字に斬られた死体から、夕座は視線を死体の握る直剣へと動かす。
 するとどうであろうか。
 夕座の視線と言葉を待っていたかの如く直剣の刀身の真ん中に人間のものと変わらぬ瞳が開き、ぎょろりと動いて夕座を見つめるや、二つに割られた頭目の死体の内、直剣を握る右半身がひょいと立ちあがった。
 たった今斬り殺したばかりの相手が、右半分になって立ちあがる。知らぬ間に悪夢の世界に放り込まれたのかと錯覚する様な現象を前に、しかし夕座は楽しみだと言わんばかりに笑みを浮かべるきり。
 孤影悄然と佇む夕座の周囲を取り囲む影が一つ、また一つ、と赤濡れの大地から立ち上がり始めているではないか。
 それらは咽喉をぱっくりと裂かれ、あるいは心の臓を一突きにされ、あるいは腰から上を斬り飛ばされ、あるいは、あるいは、あるいは……四十一通りの死に方をした赤死党の党員達の死体!
 寸断された肉体が自ら意思ある生き物のごとく癒着し合い、ふたたび人体の形を再構築したのである。
 死の国の新たな住人となったはずの彼らが立ちあがり、自らを包囲されてなお、夕座は愉快な見世物を目の当たりにしているようにしか見えない。
 つっと死体の内三人の手が持ち上げられ、それぞれ手に握る品を夕座へと向ける。夕座の両側頭部と、背中に狙いを付ける。
 火縄銃である。火薬の匂いがかすかに朱色の大気に混じり始めた時、三つの銃口から同じだけの数の鉛玉が射出されて、狙い澄ました通りに夕座へと襲い掛かる。
 肉を穿つくぐもった音――ではなく鳴り響いたのは一連なりの、硝子を打ち合わせた様に高く澄んだ三つの音であった。
 音が鳴り響いた瞬間、夕座を中心に半円の軌跡が描かれて、その半円の三か所で眩い火花が瞬いた事に気付いたものが、果たしてこの場にどれだけいただろうか。
 見ればそれまで長刀を手にしたままだらりと下げられていた夕座の右腕が、地面と平行に真横一文字に伸ばされている。
 ああ、そしてその夕座の周囲で火縄銃を持っていた三人の死人の額に、新しく丸い穴があいてそこから夥しい量の血液と脳漿がどろりと流れ落ちている。
 もし、その瞬間を克明に目撃していた者が居たとして、一体どれだけの人間が夕座の起こした現象を理解できただろうか。
 左右と背後から襲い来る銃弾を、目もくれずに長刀をたった一度振るっただけで全て弾き、あまつやそれらの弾丸を射手の額へと狙って送り返すなどという、神業いや凄まじき魔技を。
 額に鉛玉を喰らってなお倒れぬ死人らの様子に、夕座はふむと一つ零す。納得の響きの強い“ふむ”であった。

「一度死ねばもう二度とは死なぬのが道理か。しかし四十一人の生者が死者に変わった所で私は滅ぼせぬよ」

 それを証明する為であったか、それまで一歩を踏まずにいた夕座が右半分だけになった頭目に大胆にも背を向けて、再び立ち上がった死人達の群れへと笑みをそのままに突っ込んだ。
 自らの血で濡れた獲物を構え直して夕座を迎え撃たんとする死人達に、夕座の長刀が唸りを挙げて襲い掛かる。
 死臭深き風を巻いて、四尺の銀刃は自らこそが死を司る神とばかりに死人達の肉を斬り裂いてゆく。
 突き出される槍穂を掻い潜り、振るわれる刀を紙一重にかわし、するりするりと夕座の体は冥府の坂を上って再び立ち上がった死体達の間を縫うように駆け抜けてゆく。
 縦に、横に、斜めに、孤月を、半円を、円を、直線を、あらゆる斬撃の軌跡が周囲の空間を粗方埋め尽くした時、四肢の欠損や首なしになってなお立ちあがった死人達は、一体残らず四肢を付け根から斬り飛ばされ、胴を二つにされ、八つ裂きという他ない惨憺たる姿に変わっていた。
 夕座が死人の群れに飛び込んでから十と数える間に、四十一人の死人は数百を超える死せる肉片という姿形にされたのである。
 深手を与えられてなお立ちあがる生命なき死人共であっても、身じろぎさえ出来ぬほど刻まれては、完全に無力化されたも同然だ。
 蘇らせた死人達が瞬く間に再びもの言わぬ骸と変わってもなお、半分だけの頭目とその手に握られた直剣に変化の色は見られない。
 再び屍の山の中に立つ夕座の長刀は、変わらぬ銀に輝いている。夕座の振るう太刀の剣速が死人らに流れる血液の粘着力に勝り、数十数百と刃が振るってなお、その刀身に血の珠粒が纏わりつく事を拒絶し、尚且つ刃毀れの一つもない。
 夕座はゆるゆると長刀の切っ先を持ち上げて、頭目の手に握られた直剣へと向ける。それこそが真に夕座が討つべき赤死党そのものなのだ。

「操れるのは人間の死体だけの様だな。しかし、私も今更死体を斬り刻んで楽しみを覚えるほど青臭くはない。まあ、あの四方木の姫君の死体なら刻み甲斐もあろうがな。いい加減、本性を現すがよい。呪わしき死を与える古剣、“骸女(むくろめ)”よ」

 死人軍団の壊滅か、あるいは夕座の言葉が引き金となったのか、骸女という銘を与えられた直剣に開かれた瞳が血の色に染まり、その刀身から膨大な妖気が堤を破った洪水のごとく溢れだし、夕座の全身を打つ。

「男を待たせるは女の甲斐性か。待たされるのは好かぬが、たまには良かろう」

 長刀の峰で右肩をとんとん、と軽く叩きながら夕座は洒脱に立ち姿を崩して、赤死党の頭目と思われていた死体を操っていた骸女の次の手を待つ。
 強者ゆえの余裕や傲慢というよりは生来の天の邪鬼な気性がそうさせているのだろうか。まるで自分の生命の危機には頓着する様子は見られない。
 骸女の放出する妖気を浴びて、夕座に寸断された四十一人分の死体とさらに残り左半分の頭目の死体が、見えざる手に持ち上げられたように浮きあがり、右半分の頭目の死体へと殺到する。
 さながら死体に群がる蟻の大群か烏の群れを思わせる光景であったが、その実、貪られているのは骸女を握る右半分ではなく、引き寄せられた死体達の方である。
 殺到した死体は他の死体を押し潰し、肉と骨と髪と神経と内臓とが磨り潰し合って、水飴の様に溶け合って行く。
 半分になっていた頭目の死体と党員達の死体とで四十二人分の死体が、ぐじゅぐじゅと水音を立てて新たに大量の血を零しながら融け合って行くさまは、到底この世のものとは思えぬ、魂まで狂い尽くした狂気画家のものした一連の絵画の様であった。
 一万人の常人が目撃すれば、その全員が狂気の渦の底に落とされて、残りの生涯を発狂したままで終えてしまうだろう。
 その光景を前に夕座はと言えば、軽く口を開いてそこに左手を添えていた。
 くあ、と夕座の青白い唇から小さな呟きが口から零れる。
 なんということだろう。この若者は死体と死体が一つに融け合って行く異常事態を前にして、呑気な事にいや状況を考えれば呑気などというものではなく、気でも狂ったのか疑がわれかねぬ事に、欠伸を漏らしたのである。
 本当に人間なのかと思わず疑ってしまうほどの美貌に相応しく、この若者の精神は尋常な人間には理解の及ばぬはるか深淵の彼方に在るのだろう。
 目尻に浮かんだ涙の滴を左手の人差し指で拭う夕座の視線の先で、ようやく死人達の融合は終わりを迎えんとしていた。
 歪かつ醜悪極まりない影を血に落としていた異形は、一応は人間と呼べるだけの形を整える。
 夕座の唇から、再びの“ふむ”。
 ずちゃり、とそれが一歩を踏み出した時、血管が破裂するのに似た音と共に赤い血飛沫が飛散する。
 それは肌を引き剥がし、血の滲む筋肉で八尺に及ぶ巨体を構成した見るもおぞましい異形の巨人であった。
 全身をしとどに濡らす血の色の奥で、全身のあらゆる場所で一斉に瞼と唇が開き、その奥から瞳と歯と舌とが覗いた。八十四の瞳と四十二の口を持った肌のない鮮血の巨人の右手には、刀身に一つの瞳を開いた骸女が。

「元々の頭目が、そうさな、ざっと三百人ほどの死体から選りすぐった部品で作ったもの。それに四十一を足して三百四十一人分の死体で作った操り人形か。邪なる神の一柱が生み出したという魔器の一つ骸女。この目で見られるとは、これはまさしく光栄」

 骸女とは自らの意思と邪悪な魂とを持った生きた剣であった。さほど高位の神が生み出したわけではないが、それでも神の手から成る古代の魔剣が本性を剥き出しにして放つ気配は、世界をそのまま死へと導くかのごとく圧倒的なもの。
 骸女の死者を操る力は、不死者とされる魔物の最高位種にも匹敵しよう。それは西の海を越えた先に存在する大陸の更に西方の地域でリッチと呼ばれる生前の自我と知性を維持する不死者や、月夜の覇王種たる吸血鬼の更にその種の中の上位存在に肩を並べるほど。
 骸女の作りだした屍の巨人が一歩を踏み、三百四十一人分の脚力が凝縮され、骸女の妖力によって強化された踏み込みへと変わる。正しく地面は爆発し、血によって赤く染まった土の花となる。
 音の壁をも超える踏み込みの先に居た夕座の手は、その踏み込みと等速で動く。肩を叩いていた長刀が目のも止まらぬ速さで動くや、耳を劈く高音が辺り一帯に鳴り響く。
 夕座の長刀と巨人の振るう骸女は互いに大気との摩擦によって灼熱を帯び、刀身を赤く燃やしている。
 夕座の体が宙を舞う。
 人間は生まれ落ちてから自らの肉体を壊さないように、脳が肉体に枷を掛けて本来の肉体の能力を発揮できない様に自制している。
 しかし微に細にと斬り刻まれた死体から再構築された屍の巨人に、その様な枷は存在せず、更に骸女の妖力が加わるとなれば巨人の膂力は、肉体の自壊を考慮せずに本来の身体能力を発揮した人間三百四十一人だけでは済まない。
 その巨人が繰り出す全力の一刀を受けてなお、弾き飛ばされただけで済んだ事実が、夕座もまた人間の規格を超えた存在である事の証明といえよう。
 だがここでいま一度、しかし、と言わねばならない。
 宙を舞う、という言葉をそのままに体現して、骸女の一撃を受けた夕座の姿は歌舞伎の一場面が唐突に再現されたかのように、雅でなおかつ美しい飛翔姿であった。
 あるいは千人力にも届くであろう骸女の一撃を受けてなお、夕座の肉体には如何なる損傷もなく、握る長刀に刃毀れ一つとて見られない。
 音よりも早い剣速と常人には及びもつかぬ剛力の合わさった一撃を、この妖美な若者は暴れる馬の手綱を捌く様に完全に御していたのである。
 音もなく大地に降り立つ姿は、広げた翼を折り畳む鶴を思わせるどこまでも優雅で気品に満ち溢れたものだった。
 右八双の構えに長刀を動かしながら、夕座は背中に開いた無数の瞳でこちらを見つめる骸女を静かな狂気を湛える瞳で見つめる。

「ようやくこの言葉を口にできる。“面白い”とな」

 骸女の巨躯が血の煙に囲まれた。高速の移動によっていまなお全身から溢れる血潮が弾かれて、飛沫と変わったのである。
 夕座に背を向けたままであったはずの骸女は、跳躍の最中に取り込んだ筋肉と骨格の位置を体内で組み替えて、夕座に正面を向ける。
 想像できるだろうか。確かに背中を見せたままこちらへ跳躍したはずの敵が、その最中に血をしぶかせながら肘も膝も腰も、こちらへ向けて内側から組み替える様子を。
 中空で夕座の長刀と骸女の刀身が激突した。どちらの刃も折れぬのが不思議なほどの激突であった。ましてや弾き飛ばされたのが骸女の方であるとは。
 右の踵が血でぬかるむ地面にわずかに沈み込むのに合わせ、夕座は正面から踏み込んだ。骸女が同じく夕座めがけて突進した事で、両者は図らずも鏡合わせの様な動きを示した。
 骸女の刀身は夕座の胴へと叩きこまれ、夕座はそれを横に動いてかわしざま、小手を斬る。分厚い肉を裂く感触が夕座の手に伝わる。
 痛覚を有さぬ骸女は斬られた事になんの動揺も見せずに、刀身を上段へと移行したところで、自身の頭上にかざす様にした夕座が突いた。夕座の手から白銀の雷が放たれたかと見えるほどの速さであった。
 骸女の咽喉仏に開いていた目玉のど真ん中を貫き、長刀の切っ先がぼんのくぼから飛び出る。
 夕座は楽しげに笑みを浮かべたまま口を動かした。

「水桜(すいおう)流武術“<風鐸>影之伝”。私に技を使わせるとは見事」

 突いた刀身を引き抜くと同時に、夕座は自身の首を斬り飛ばさんと横一文字に振るわれる魔性の刀剣を、足元が水に変わったかの様に身を沈めて躱す
 逆さに靡いた夕座の黒髪の先端が、骸女の刃に鮮やかに断たれる。同時に夕座の手から再び迸る雷と見紛う一太刀。
 同じく水桜流“漂葉”。本来は横に並んで歩いていた相手が唐突に斬りかかってきた際に、咄嗟にかがみこんで相手の脛を断つ。
 三百人超の筋肉と骨とが圧縮され更に骸女の魔力で保護された屍の巨人の脛を、かっと硬質の物体を断つ音を立てながら、夕座の長刀が右から左へと切断し、すぐにその斬線が上下から押し潰されて消失する。
 元が千以上の肉片に断たれた死体の融合体であるから、尋常な方法ではまともに傷を与える事も出来ないということだろう。
 夕座は自身の斬撃が無効化された事にも動揺は見せず、かがんだ姿勢から飛蝗の類を思わせる跳躍を見せて、今度は右から左へと骸女の首を長刀が横断する。
 林咲夢想流居合術“天車引留”(はやしざきむそうりゅういあいじゅつ・てんしゃひきとめ)。
 居合術ながら既に抜刀した状態からの一撃であったが、林咲流の老達人・常井某なる人物が、六人の山賊の首を刎ねたという一太刀は、邪悪汚穢なる巨人の首を鮮やかに刎ね飛ばし、噴水のごとく新たな血を噴きながら、巨人の首が飛ぶ。
 本来ならば鼻と口が在る場所に第三、第四の瞳が開いている巨人の首を、首無しになった巨人の左手が掴み止めて、乱暴に斬り口に押し当てるや切断された脛が復元したのと同じ現象が起き、巨人の首が癒着する。
 いまだ宙を舞う夕座に首を戻した巨人の左手が伸びる。首を掴もうが頭を掴もうが胴を掴もうが、掴んだ瞬間に中身ごと握り潰せる。
 その危険性は夕座も看過できぬと見え、夕座はその左肘から先を斬り、それが癒着する一瞬の隙を突いて巨人の胸を蹴り飛ばし、その反動を利用して距離を取った。

「歯応えのある相手なのは良いが、苦痛に苛まれて零れる声がないのは物足りぬな」

 早くも興が冷めたのか、熱の抜け切った夕座の言葉を侮辱と捉える知性が骸女に存在していたのか、四間の距離を取った夕座めがけて巨人が大山の崩落を連想させる突進を仕掛けた。
 夕座は如何なる意図の下によってか、長刀の刃を口に加えて両方の手を空にした。自殺願望? あるいは素手で十分という根拠の不明瞭な自信の表れか。
 巨人が振るうは横薙ぎの一太刀。夕座はそれを紙一重にかわし、かわした刃が上段に振りかぶられた瞬間に、大胆不敵にも頭から巨人の懐へと飛び込んだ。
 握りしめた両方の拳を肋骨に食い込ませ、骸目を握る巨人の右手を肩を担ぐようにして逆を取り、夕座の空いている左手は真っ直ぐに伸びて巨人の咽喉を握りしめている。
 居賀流派勝新柔術(いがりゅうはかつしんりゅうじゅうじゅつ)の秘技“鐺返(こじりがえし)”である。
 本来は刀を抜き放った瞬間に合わせて仕掛ける一技であるが、夕座なりの工夫を加えたものであろう。
 夕座と巨人との身長差はおおよそ二尺近く、鐺返を仕掛ける夕座の足は巨人の脇腹や太ももを足場にしており、対人を想定した柔術の技そのままというわけにはゆかない。

「どれ、これでも鳴かぬか?」

 夕座の両腕により一層の力が加えられ、筋肉の瘤が盛り上がりを見せるのにわずかに遅れて、夕座の左手が握りしめていた巨人の咽喉が一瞬で握り潰される。
 夕座の暴力はそれだけに終わらず血に塗れた左手で、逆を取っていた巨人の右肩を掴み、思い切り体を捻るや、肩の付け根から巨人の右腕そのものを捻じ切ったのである。
 巨人の全身から吹いている血と、捻じ切られた断面から噴き出した血で全身を赤く濡らす夕座の目の前で、捻じ切った右腕と握り潰した筈の咽喉が、血液に変化するや否や損傷部分に吸い込まれる様に戻り、瞬きする間もなく損傷を埋め尽くして元の形を再構築する。

「ふむ。飽きたな」

 なお痛みを訴えぬ巨人に心底からの思いを夕座は口にした。巨人が大上段に骸女を振り上げた時、夕座は後ろに手を伸ばして地面に突き刺していた長刀の柄を握っていた。
 そして、これまでの剣速が鈍間に見えるほどの神速の縦一文字の斬撃が巨人の頭から股間までを両断する。
 もし、骸女の意識が人間に近く言語化する事が出来たならば、馬鹿め、無駄な事を、と夕座の行動を嘲笑ったかもしれない。
 だが、瞬時に癒着する筈の屍で出来た肉体はいっかな癒着する事はなく、それどころかゆっくりと右半身と左半身とが離れ始め、大地に倒れ伏す過程で見る間に元の千近い肉片へと戻ってゆくではないか。
 ついには骸女を握っていた右手もいくつもの肉片と砕けた骨へと変わり、骸女が大地に深々と突き刺さる。
 血の水溜りと肉片の小山の中に突き立つ骸女へと夕座が歩を進めた。たった一撃で骸女の作りだした巨人を滅ぼした長刀を片手に、悠々と。

「不思議であろうな。なに、私が遊ぶのを止めただけの話よ。これなるは妖刀・紅蓮地獄。神の手による品ではないが、それでもお主と同等かそれ以上の妖力を秘めた神夜国が誇る妖刀魔剣の一つ。もっともなまくらでも斬り方を工夫すれば、お主の呪術を斬る程度の事は出来るがな」

 自らに終焉の運命を告げる審判者を前に、骸女の刀身からは一層激しく憎悪に満ち溢れた狂気の気配が溢れだす。
 血に濡れた全身を打つその気配を浴びて夕座は呟く。

「心地よし」

 骸女の刀身の中央に開かれていた瞳に、無造作に長刀――紅蓮地獄の切っ先が突きこまれる。
 莫大な魔力と神代の製造法と素材によって鍛造された刀身は、いとも容易く貫かれて、邪神が生み出したという邪悪な剣はひどくあっけない結末を迎えた。
 見る間に罅が柄尻にまで走り砂となって砕け散る骸女にそれ以上の興味は示さず、夕座は唇を濡らすどす黒い血を舐め取る。甘露と言わんばかりに笑む夕座は、凄艶とも淫靡ともとれる妖しい雰囲気を纏っていた。

「影座よ」

「ここに」

 それまで百名の忍装束の包囲網の中には、夕座と骸女以外の気配はなかったというのに、夕座の呼ぶ声にこたえて、いつのまにか片膝を突く影座の姿が夕座の背後に在った。

「良き刀じゃ。朱羅が霞むほどにな。良くやってくれた」

「身に余る光栄にございます。夕座様」

 影座の声は偽りなき感激に震えていた。少なくともこの影座にとって夕座は崇拝といっても過言ではない敬意を抱く主であるらしい。

「これで国境を騒がす屑どもの掃除は終いじゃ。私は七風に戻る。戻り次第、例の大狼とやらの件を片づけるぞ」

「はっ」

 打てば響く、とはこのことであろう。しかしながら夕座は影座の返事に面白そうな笑みを浮かべて背後を振り返った。

「これまで百年以上放っておいてなぜ、とは聞かぬのか? お前なら真に私が望んでする事に口を挟まぬのは承知の上ではあるが。まあよい。お前は先に戻って適当に数を集めておけ。三流のもどき共でも妖魔をおびき寄せる餌代わりにはなる」

「委細お任せを」

「それで良い。いままでもこれからもな。では影馬(えいま)、影兎(えいと)よ、私の前に」

 影座がその場を離れるのにやや遅れて、小柄な忍びが二人、どこからともなく夕座の眼前に現れる。
 露わになっている素顔は共に良く似た顔立ちの、十代半ばほどの美少女達であった。夕座の配下たる忍で在る事を考えれば、可憐な美貌の主であってもそれぞれが一人で十人、二十人の兵にも匹敵する強者に違いない。
 影兎が姉、影馬が妹に当たる双子の姉妹である。共に幼い顔立ちの中にぞっとするほどの美の片鱗を覗かせ、白い肌に赤い唇とあどけなさの中にどこか不釣り合いな艶やかさを秘めた瞳と、漁色家でなくとも思わず欲情の念を抱きかねぬ二人であった。
 簡単な見分け方としては影馬が長くのばし先端を斬り揃えた髪を後頭部で纏めて、馬の尾の様に垂らしているのに対して、影兎は髪を二つに分けて組みひもで纏めて逆さに、それこそ兎の耳のように立てていることだ。

「少々昂っておる。戻って褥を清めておくが良い。いいや、止めじゃ。この場で鎮める事とする。服を脱ぎ、尻をこちらに向けよ」

 それがどんなに突拍子もなく辱めを与える物であっても、夕座の命令は二人にとって絶対であった。
 二人はまだ大人になりきらない子供の顔に、恥じらいの色を浮かべるでもなく淡々と腰帯を解いて、夕座の命令を忠実に実行する。
 恥じらいの色がない? いいや、違う。遂に生まれたままの姿を晒して夕座に尻を高々と掲げて二穴を晒し、まるで畜生の様な体勢をとった二人の顔はこれから与えられる快楽と恥辱に対する期待と不安に、紅潮しているではないか。
 夕座がまともな人間の精神と肉体の持ち主ではない様に、その彼から与えられる快楽もまた、到底人間の領域に収まるものではない事を、この姉と妹は骨の髄まで教え込まれていた。
 全身を汚らわしい野盗の血で濡らしたまま、夕座は翌朝に至るまで双子の姉妹を犯し続けたが、その心に浮かんでいたいのは七風で刃を交えた鬼無子の美貌であった。
 あの時、夕座は鬼無子の身体にかすかに残っていた狼の匂いを嗅ぎ取っていたのである。狼、すなわち鬼無子が懐に入れていた雪輝の体毛の残り香を。
 そしてその後、妖魔改に訴え出てきた苗場村の者達の訴えの中に出てきた生贄の少女と共にいたという女の剣士の特徴は、まさしく鬼無子そのもの。
 夕座は大狼を討つと言いながら、その実、妖哭山に鬼無子が居ると直感的に悟り、先日の宣言通り、力づくで鬼無子を手に入れるつもりであり、大狼――実際には雪輝なのだが――を討つのはついでに過ぎない。
 影馬と影兎が何十回目かになる絶頂の嬌声を挙げた時も、夕座の脳裏に在ったのは鬼無子の姿であった。

<続>

遅れていた感想へのお返事を。

>ドクターKさま

お褒めの言葉をありがとうございます。自分には過分な言葉ですが、流石にどこぞの賞に応募するほどの自信はちょっとないので、こちらでお世話になってゆこうかと思っております。

>天船さま

森の異変に、外から来る脅威と、今までに増して鬼無子と雪輝が苦労することになってしまいますです。我ながら気の毒というか申し訳ないと申しましょうか。
雪輝の能力のふり幅はかなり大きいので使いこなすと強力です。使いこなせていないのでムラがあるのが現状ですね。
受胎告知に関してはその内鬼無子も大人になるかもしれませんしならないかもしれません、とだけ。

>ヨシヲさま

( ゜∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)

前回で鬼無子もある程度ふっきれたのでそろそろお風呂なり何なりひなと雪輝と三人一緒に楽しみ出す事でしょう。味覚にしろ雪輝は純粋な狼ではないのでそこら辺に差異がある事を後々描写してゆく予定です。鬼無子とのキスは、描写されてなくとも朝起きた時と寝る前とか出かける時にはひなと一緒にしていると思っていただいてよいかと思います。
凛との関係もそうですが血生臭い冒頭に関しても今回の編のうちに決着が着きますです。

>マリンドアニムさま

いままでなら既に終っているはずの話数を超えてもほのぼのしておりましたが、そろそろそれもおしまいとなり、シリアス一直線になる予定です。鬼無子の壊れ具合もひなにばれて腹を括ったので、雪輝がよほどの事をしなければ多少は改善されるかもしれませんね。

>taisaさま

これからも雪輝はおまじないと称したり挨拶といって、ひなと鬼無子と場所を考えずにああいう事をしてゆくでしょう。凛あたりに躾けられそうですけれど。鬼無子の夢も、違った形で適うかもしれませんし、諦めるにはまだ早いですよね。


なお本編中に出てきた水桜流武術 → 水鴎流武術、林咲夢想流居合術 → 林崎夢想流居合術、居賀流派勝新柔術 → 為我流派勝新柔術、という実在の武術の名称をもじったものです。菊地秀行さんの作品好きな方なら一度は目にする機会があったかと思います。とくに林崎夢想流は魔界学園やらなんやらで出ていましたし。

ではではここまでお読みくださった皆様とご感想を下さった方々に格別の感謝を込めて、ありがとうございました。次回もよろしくお願い申し上げます。

1/29 22:54 投稿
1/30 22:08 天船さまからご指摘のあった箇所他修正。



[19828] その十五 血風薫来
Name: スペ◆52188bce ID:e5d1f495
Date: 2011/05/25 12:59
その十五 血風薫来


 その日、ひな達の住まいである樵小屋には先日知己を得た狸親子の姿があった。ひなの膝の上には額に白い斑点のある母狸の朔が乗り、鬼無子の方には子狸である嶽がじゃれ付いている。
 朔の許可を得たひなは自分の膝の上で丸まっている朔の背中を優しく撫で、鬼無子の方はというと頬が落ちてしまいそうなほど顔面の筋肉を緩めて、小さな嶽の身体を撫でくり回している。
 体中あちこちを触られている嶽が嫌がる様子を見せていないことから、鬼無子の撫で方は相当に気を遣ったもののようだ。
 秋の風が冷たさを深める季節の、中天にお天道様がかかる時刻の事である。
 この場からは父狸の主水と樵小屋の大黒柱たる雪輝が席を外していたが、これは珍しく雪輝の男だけで話がある、という提案によるもので、男と女とで分かれている。
 嶽の咽喉下を撫でてその毛並みの感触と暖かく柔らかな体の触感に、ほんわかとした気持ちになって目尻を下げている鬼無子を、ひなと朔は微笑ましく見守っていた。
 朔と主水は一応狸の妖魔という事もあって、その体長は四尺に迫り、狸としては規格外の巨体と言っていい。
 であるのに膝の上に朔を乗せていても、ほとんど重さが感じられない事がひなには不思議だった。雪輝とはまた異なる狸の毛並みの感触を楽しみながら、ひなは朔に声を掛けた。

「それにしても雪輝様は主水さんに一体どのような御用向きがあるのでしょうね、朔さん」

 ひょい、と顔を上げた朔は自分を見下ろすひなの瞳を見つめ返して口を開く。狸と狼といえども同じイヌ科の生き物と接する時間の長かったひなには、朔が微笑を浮かべているのが手に取るように分かった。

「殿方同士の御話という事ですから、私どもが無用な詮索をする事もないでしょう」

 どこまでも慎ましく、夫の一歩後ろに立った目線で物事を考える朔らしい発言であった。
 少しばかり残念そうなそぶりを見せるひなに、朔はこの聡明な母狸にしては珍しい子供っぽい悪戯っ気を見せて、言葉を続けた。

「とはいえ、夫と雪輝様の耳のない所でなら多少はお話をしても構いませんでしょう」

 是非、とばかりにひなは首を縦に振る。その様子からよっぽど雪輝の内緒話の事が気になっている事が見てとれる。
 主水親子が樵小屋を訪ねてきたのは今日が初めての事ではなく、また逆に雪輝の方から主水達の所へ赴いた事も日常の中で何度かあった。
 その中で幾度か今日の様に雪輝と主水だけで話をする為に席を外した事があり、 雪輝は珍しい事に主水との密談の内容についてだけは、ひなにも鬼無子にも一切口を噤んで、教えようとはしなかったのである。
 とはいえ嘘をつくのも物事を誤魔化すのもほぼ初めてに等しい雪輝であるから、口籠って目を逸らすなどしかできず、雪輝に気を遣ったひなと鬼無子が追及の矛を収めなかったら、とっくに密談の内容を吐露していただろう。
 雪輝がなんとか秘密を守り通しているのに対し、主水はというと既に妻に対して雪輝から何を相談されたのか、妻によりよい助言を求める意味もあって教えていたのだ。
 朔は既に雪輝が何を思って主水ど密談を交わしているのか把握していたが、それを口にしては折角の雪輝の思惑が無駄になってしまう事から、敢えてひなには内緒にする事に決めていた。
 雪輝様の為ですから、お許しくださいね、と朔は心の中でひなに頭を下げた。
 
「この山で夫に出来て雪輝様に出来ない事というものは、おはずかしながらほとんど御座いません。なのに雪輝様は私の夫に助力を求められました。その事自体が、雪輝様と夫が何を話しているのか、という問いへの答えに近いのではありませんか、ひなちゃん」

「主水さんに出来て、雪輝様に出来ない事ですか?」

 といってもひなには主水の出来る事をまるで知らないので、まったく答えが思いつかず、眉根を寄せてううん、と可愛らしく唇を尖らして悩む様子を見せる。
 言動のほとんどが年齢に似合わぬ大人びたもので、ほとんど我儘というものを口にしないひなであるが、今の様な挙措を見せると途端に年相応の愛らしさが顔を覗かせる。
 狸と人間という種族の違いはあったが、同じ女である事から想う相手の事を知りたいと願うひなの心中を正確に理解した朔は、もう一つ答えに近づくための助言を加えた。

「あとは、そうですね、私達狸はよく狐と一緒に喩え話や諺に使われますが、その事も考慮すると答えに近づけるかもしれませんね」

「狐と狸、ですか? あれ、朔さんは雪輝様が主水さんと何をお話しているのか、御存じなのですか?」

「あら、少々口が滑ってしまいました。ふふ、夫は雪輝様ほど口が固くございませんから。ああ、ただ勘違いなさらないでくださいましね。私に雪輝様に対してどう御助言するのが良いか、と相談してきたから私も知る事が出来たのですよ」

「そうですか。では、朔さんから雪輝様のお話の事を聞くのは良くないですね」

「ええ。私の口から申し上げては雪輝様にも夫にも申し訳が立ちませんし、それに雪輝様の事ですから、貴女や鬼無子さんにとって悪い事ではありませんよ。ただそれはひなちゃんが一番分かっている事でしょうけれどね」

 実のところ、雪輝の相談ごとの内容はひな達の為、というよりは雪輝自身の為という部分が非常に大きいものなのだが、ひな達にとって悪い事でないのも事実であるから、その辺りの経緯については朔も口には出さなかった。

「それは、はい。先日も雪輝様に大事だと仰っていただきましたから」

 先日も、とは先雪輝と凛が約一ヶ月ぶりの決闘を終えた後、樵小屋で話した時の中で雪輝が口にした台詞の事である。

「あら、ごちそうさま」

 とは言うものの、その言葉の中に嬉しさに混じってかすかな悲しみが混じっている事に、朔は気づいたが言及する事はしなかった。
 その悲しみを払うのは自分よりも雪輝の方が相応しいという事を理解していたからである。
 もっとも、その悲しみの理由が雪輝がひなをなによりも優先するが故に、己の命の安全を蔑ろにする事への罪悪感の故である以上、雪輝こそが原因に他ならないのだが。
 ひなはそれ以上口を開く事はなく、朔の毛並みを撫で続け、朔もひなの好きなようにさせていた。
 一方で鬼無子はと言えばひなと朔の真剣な様子に気づく事はなく、無我夢中で嶽を撫でまわし可愛がり続けていた。
 もとより可愛い生き物に目のない鬼無子ではあったが、この様な態度を取るのは雪輝と主水の秘密の会合について、ひなほどには気にしてはいなかったからである。
 世間一般的な生活と価値観は、鬼無子にとって縁遠いものではあったが、ひなよりは世間というものを知っていたから、男だけでしか出来ない話もあるだろうと、さほど気に留めていないのだ。
 ただ今回ひなと朔の会話に一貫して無反応を通したのは、単に手の中の嶽の触り心地の良さに心を奪われた事が非常に大きいだろう。
 女達がその様にして時間を過ごしていた時、話題に挙がっていた雪輝と主水は樵小屋の外に広がる畑の片隅で、互いに腰を降ろして言葉を重ねていた。
 既に用件は済んでいるのか、二頭の雰囲気は弛緩したものである。
 器用に両の前肢を左右に広げて二本肢で立ち、団栗の様にまんまるい尻尾で体を支えながら、主水が三十がらみの男の声で雪輝に問いかけた。
 外見の可愛らしさに比べると余りにも落差があり過ぎて、大概のものなら噴き出すか唖然としそうなものだが、人間的な感性とはいささか縁遠い雪輝は、特に気にする様子もなく主水の声に耳を傾けている。

「旦那は物覚えが早いですねえ。にしてもやっぱりこんな相談を持ちかけてきたのは、ひなお嬢ちゃんと一緒に暮らし始めたのが原因ですかい?」

 満身に秋の憂鬱な光を浴びながら、この世のものと思えぬほど美しい狼の姿をした雪輝は、ふむ、と一つ呟いて首肯する。ふむ、と一つ置くのはこの狼の癖の一つだった。

「そうだな。切欠は確かにお前の言うとおりにひなと鬼無子と暮らし始めた事だが、この頼みごとばかりは私の我儘というものよ」

「別に悪い事じゃありませんやね。旦那の我儘とは言っても、上手くいけばお嬢ちゃん達も喜ぶと思いますよ」

「そう思うか?」

 雪輝はどことなく嬉しそうに、そして照れたように言う。その様子に、主水は胸中で旦那も随分と変わられたもんだ、と密かに驚きの念を抱いていた。
 主水夫妻と雪輝との初めての出会いは、夫妻がある妖魔に襲われていた所を、疾風のごとく駆けつけた雪輝に助けられたものである。
 しかしながらそれまで妖哭山の妖魔と言えば、同族でさえ襲って食らいかねぬ凶暴無比な者ばかりと思っていた夫妻には、新たに姿を見せた雪輝も先に襲ってきた妖魔同様に恐るべき死神としか映らなかったのである。
 もはやこれまでか、せめて妻だけでも、と覚悟を決めた主水であったが、口を開いた雪輝の第一声が、大丈夫か、とこちらの安否を問うものであった事に驚いたのは今でも鮮明に覚えている。
 それ以来雪輝との縁が出来て、時折話し相手になったり、嶽が産まれる前後には身重の妻ともども守ってくれたりと良くしてくれていたが、その頃の雪輝と今の雪輝とを比べるとこれはもう別の狼なのではないか、という位に感情表現が豊かになっている。
 精神の根底に流れる優しさは変わらぬが、以前は喜怒哀楽の表現が乏しく、それがどこか超然とした雰囲気を雪輝に付加していて、妖魔である主水の目から見ても超常的な畏怖すべき存在と見えたものである。
 翻っていまの雪輝はどうだろう。まるで子供の様に悲しみや喜びを素直に表現し、分からぬ事があれば素直に疑問を口にして、好奇心を露わにして様々な事に興味を示している。
 かつての様な威厳はすっかりとなりを潜めてしまったが、はるかに親しみを持てるようになっているし、いまを楽しんで活き活きとしている。
 いまの雪輝の姿こそがこの狼の生来の性格であるのかもしれない。そう考えると主水は、雪輝がこのように変わる切欠となったひな達に出会えた事が、天の配剤によるものではないかと思えてくる。
 それはとても幸福な事であるだろう。

「旦那、お嬢ちゃん達に出会えて本当に良かったですねえ」

 しみじみと呟く主水に、雪輝は種の壁を超えて相手を見惚れさせる笑みを浮かべて答えた。

「全くだ。あの娘達と出会えた事は、私にとって何よりの幸運だよ」



 程なくして今日の内緒の話を終えた雪輝と主水が樵小屋に顔を出すのに合わせて、主水親子は塒に帰る事となった。
鬼無子はまだ嶽を触りたいのか非常に名残惜しそうな顔を作り、主水らが見えなくなるまで手を振り続けた。
 雪輝の縄張りの中ならば安全、というのはつい数日前の話で、どういうわけでか昨今は雪輝の縄張りの中にはいなかった妖魔達が姿を見せるようになっており、妖哭山の力の序列と食物連鎖の中では下位に位置する主水達ではいささか危険というもの。
 その為、主水達が地理を把握している塒の近くまでは、雪輝が護衛として着いてゆくのが、誰言うでもなく決まりとなっていた。
 いまも雪輝の聴覚と嗅覚、更に第六感の知覚範囲内には常と比べて倍近い数の妖魔の気配がひしめき合い、殺気だっている。
 ただ奇妙なのは顔を合わせればまず互いを食い殺そうとするか、実力差を把握して逃げ出す筈であるのに、睨みあって牽制し合うばかりで殺し合いをしているものがほとんどいないことであった。
 このような事態は雪輝のこれまでの経験の中でも初めての事であり、雪輝は無意識の領域で全身に緊張と警戒の意識を巡らしていた。
 特にそれはひなや鬼無子らと一緒に樵小屋の中で寛いでいる時に度合いを強いものにしている。
 ひなからするとすっかり楽にしているようにしか見えず、床にだらんと横たわっている時にこそ、雪輝は周囲への警戒を最大限にしている。
 周囲の状況が異変と呼ぶに値するものである為、この時の雪輝の警戒の度合いはひな達と共にいる時と同じであった。
 雪輝が先頭を歩き、その次に嶽、その左右を主水と朔が固めて歩く中、雪輝が前方を向いたまま背後の主水と朔夫婦に話しかけたのは、主水達の塒まであとわずかという所での事。

「近頃妙にここら一帯で妖魔共の気配が増えているが、君達は何か知っているか?」

 雪輝以上に主水らの方にこそ重大事であろうから、自分達よりはなにか知っているかもしれないと、考えたうえでの発言だったのだが、返ってきた答えはいささかキナ臭いものであった。

「ええ、そいつがどうも元いた場所から逃げてきた連中が多いみたいで」

「逃げてきた?」

 主水に続き、今度は朔が答えた。

「はい、話を聞けるような相手が居りませんから、私共も詳しい話を聞く事が出来ておりません。ですが、かろうじて耳にした情報の断片を繋ぎ合せてみますと、どうやら……」

「待て」

「え?」

 不意に雪輝が朔の言葉を遮り、足を止める。
 主水と朔は、折り重なる枝葉から差しこむ木洩れ日が、一瞬陰ったように見えた。雪輝の固く冷たい声音が、世界の暗く残酷な本性を暴き立てたのかと思われた。
に わかに雪輝の全身から闘争の気配が滲みだす事に気付き、それが何を意味するのかまず朔が、続いて主水が理解して緊張に全身を浸す。
 狸にしては規格外に巨大な全身に緊張をこそ漲らせながらも、主水と朔は闘争の気配を纏う事はなかった。
 目の前の白銀の狼に対する絶対の信頼に加え、雪輝の敵わぬ相手であるのならば、自分達夫婦が百組いた所で、結果は変わらないと知悉しているからだ。
 二等辺三角形の耳を後方に倒した雪輝の咽喉から低い唸り声が零れだす。
 雪輝の全身から戦闘を意識した途端に抑制されていた妖気が溢れ、主水達は目の前に立つ白銀の巨狼が自分達など及びもつかない強大な存在である事を、改めて思い知らされた。
 そしてそれほど強大な存在が、自分たちの味方である事の幸運もまた。
 雪輝の青い双眸が一度だけ左右に振られる。なんら異変の見られない山中の光景の中に、如何なる異変を認めたのか、雪輝は一歩前へ。

「主水、朔、嶽、隠れておれ。そう時間はかけぬが、念のためな」

 闘争を前に全細胞に妖気を通し、身体能力を劇的に強化させる一方で、主水達に向けられた雪輝の声音はどこまでも優しかった。
 友愛の情を向ける相手に対して、雪輝は優しさと慈しみを向ける事を惜しまない。
 その雪輝の声に、主水と朔は全身の緊張を解きほぐし、それぞれに笑みを浮かべる。雪輝に対する信頼と同じだけの親愛の情が浮かばせる笑みであった。

「はい」

「すみません、雪輝様にだけお任せしてしまって」

 逆らう意見など口に出来る筈もなく、雪輝が前に進むのに合わせて、狸親子らは徐々に後ろへ下がってゆく。
 雪輝に比べてあまりにも非力な狸親子らが遠ざかるのに合わせ、雪輝は知覚の中に捉えた敵に牽制の気配を放ち続けている。
 敵がどう動こうとも、その瞬間に雪輝の体は地から地へと迸る白い雷となって襲い掛かるだろう。
 同時に雪輝の脳裏の片隅には、いくつかの疑問符が浮かび上がっていた。身を伏せて隠している者たちから感じられる妖気の質は、明らかに山の外の者達とは異なる。
 敵の正体は妖哭山内部の妖魔か?
 なぜ内部の妖魔が外部にいる?
 偶然、それともなにがしかの意図があってか?
 山の妖魔達が騒がしいのはコレが理由か?
 表には出さぬ疑問を胸の内に抱く雪輝と、いまだ姿を隠す敵とどちらが先に動くか、我慢比べになるかと思われたその瞬間に、がさりと茂みの一つが音を立てて、灰色の塊を産み落とした。
 雪輝にとっての幸いは、すでに主水達がこの場から遠ざかっていたことだろう。
 雪輝めがけて疾風の速さで飛来するその塊を、雪輝は四本の肢が大地に根を張ったかの如く、泰然と不動のまま受け止める。
 風に押されているかのような勢いをそのままに灰色の塊は雪輝の首筋に、一切の停滞なく迫り食らいつく。雪輝の首筋に食らいつくその寸前に、陽光を真珠色の何かが弾いて散らした。
 所々に白や赤の斑点を散らした灰色の毛皮を纏い、雪輝の首筋に食らいついたそれは、雪輝よりも小さな狼であった。
 とはいっても通常の狼に比べればはるかに大きな体を持っているのだが、いかんせん食らいついている雪輝が、途方もない巨体であるために成獣と子狼ほどの違いがあるように映る。
 雪輝は体表に展開していた流動する妖気の防御圏を敢えて薄くし、食いつかせた狼を王者の威嚇と共に睥睨し、自身の首を上下に動かしてそのまま地面に叩きつけた。
 確かに狼は雪輝の首筋に食らいつき、雪輝の防御圏を“突破させてもらって”はいたが、その先に待ち受けていた雪輝の体毛の防御を貫く事は叶わなかったのである。
 絹糸の柔軟さと鋼鉄と同等以上の硬度を併せ持つ体毛に絡み取られて、狼の牙は貫く力を瞬く間に喪失し、まったくの無力な存在へと堕していた。
 雪輝が自分の牙がまるで通じぬ事に驚愕している首の狼を地面に叩きつけた行為は、その気になれば狼を挽肉に出来たものを、かなり力を抜いて気を失う程度に留めている。
 例え生命を狙われてもそう簡単には相手を敵と見做さぬ雪輝であるが、今回の襲撃者に対してはいささか奇妙な対応をとっていた。
 敵と見做さば、見做す以前の態度からは信じられぬほど冷徹に、一切の容赦を排して滅殺に動くのが雪輝の常であるが、今回は既に敵と見做しているのに、さほど傷をつけぬようにと手加減を加えているのだ。
 ぎゃん、と肺の中の空気と共に短い苦鳴を零して離れる狼には目もくれず、雪輝は左右から自分の腹をめがけて飛びかかる二頭の狼に、青い視線を向けている。
 見た目こそ巨大なだけで後は尋常な狼であるが、実際には妖魔たるこれらの妖狼(ようろう)達の身体能力は、大自然の生み出した健全なる生命である狼とは比較にならない。
 狙い澄ませば空中に弧を描く飛燕をも容易く牙の中に捉える事が出来るだろう。
しかし、同じ狼の妖魔でありながら、雪輝と彼らとの間には越える事の出来ない厳然たる壁が存在していた。それは『格』という、短いが揺るがしがたい名前を持っていた。
 跳躍の一瞬前、撓めた四肢に蓄えた力を解放せんとする妖狼達の視界に、眩い白銀の輝きが光った瞬間、全身をばらばらに砕かれんばかりの圧倒的な力が妖狼達を叩きのめしていた。
 数歩後退し、振り上げた両前肢でもって跳躍寸前の妖狼達の頭を真上から踏みつけて、大地との間に挟み込んだのである。
 妖狼達の灰色の頭部を中心に、大地は陥没して蜘蛛の巣状の罅を四方に広げて、雪輝の踏みつけにどれほどの力が込められていたのかを語っている。
 巨木の幹を貫き大岩を噛み砕く鋭い牙が並ぶ顎をあらん限りに開き、鮮血と同じ色の舌を長々と伸ばして、頭蓋が軋む音を立てるほどの圧力に喘ぐ妖狼達に、雪輝は冷徹の二文字以外では表現しようのない声で問いかけた。
 ひなが耳にすれば信じられないとばかりに瞳を見開くだろう。普段の優しくて暖かい雪輝しか知らぬ少女には、別の狼の声としか聞こえまい。

「狗遠の一族の者達だな。山の内部で殺戮に狂う貴様らが、なぜこちら側に足を伸ばしている? 狗遠の命令か? 彼女が私の命を狙えと言ったのか?」

 氷の刃かと錯覚する冷たさで心に斬り込んできた雪輝の声音に、妖狼達は痛みを忘れて苦しみの呻き声を止めた。
 縫いつけられた昆虫の標本の様に、雪輝の肢ひとつで身じろぐことしかできない妖狼達は、視線を動かして雪輝を見上げた。
 怯えを主にしているが、その他に余裕? いや、嘲りの混じる視線である。
 雪輝はこれまで出会った妖狼達が自分に向けて来た視線とは違う事に、疑問という名の鑿で、白銀の眉間に浅い皺を彫り込む。
 親も兄弟も持たぬ突然変異体である雪輝に対して、妖狼達の中で表だって敵意を見せなかったのは、雪輝と番となることを望む若き長狗遠だけだった。
 狗遠の異母弟である飢刃丸は雪輝に対して一度敗北したことから、炎の様に燃える殺意を隠さぬ敵意の視線を注ぎ、その他の妖狼達は彼我の実力差から怯えの視線を向けてくるのが常の事であった。
 しかるに、今雪輝の肢によって頭を押さえつけられ、雪輝がわずかに力を込めれば頭蓋を割られて、妖気に汚染された脳味噌をぶちまける事になる窮地に追いやられた妖狼達の態度はどうだ。
 この状況では雪輝の優位は絶対的に揺るがぬ筈であるのに、まるでそれを信じてはおらぬかのように、ふてぶてしい態度をではないか。
 くくっ、とこればかりは人間とそう変わらぬ嘲りの笑い声が、妖狼達の牙の奥から零れる。

「狗遠様、いや、狗遠の命令だと? くくく、これまでは狗遠めの命令によって貴様への手出しを禁じられていたが、これからは違うのだ。もはや貴様に狗遠の加護はない」

「長である狗遠を呼び捨てにするか。どうやら、狗遠は長の地位を追われたらしいな。貴様達が長に求めるのは純粋な力だ。危機を予測し、推測し、察知し、予防し、回避する能力に長けたものではなく、敵対者を殺戮する事にもっとも優れたものを選ぶ。狗遠は、誰かに敗れたのか……」

 妖狼達は、奇妙なものを耳にした、という顔を狼の面貌に浮かべる。狗遠が長の座から零落した事を口にした雪輝の声音に、悲しみが混じっている事が理解できないのである。 
 いや、そもそも彼らには悲しみの感情そのものが理解できていないだろう。そんな感情は妖哭山の内側で生きる彼らにとって、生涯縁のない代物に過ぎない。
 彼らにとって未知の響きが、雪輝の声の中に込められていたから訝しんだだけなのであろう。
 遠い目をしていた雪輝は、すぐに気を取り直して肢下の妖狼達を睥睨する。
 それは正しく妖狼達の記憶の中に在る、妖哭山に住まう狼の妖魔の中で最強と謳われる白銀の狼に相応しい、孤高の高みから地上の塵芥を睥睨する王者の眼差しそのものであった。

「その口ぶりでは理解しておるまいが、私が貴様らに我が牙と爪を振るわなんだのは、狗遠の身内と思えばこその事。貴様らがすでに狗遠の下ではなく何ものかの走狗となり下がったというのならば、貴様らの命を奪う事に遠慮する理由はない」

 青い水面の映る満月を思わせる雪輝の瞳に、小さな、しかしこの上なく冷たい殺意の光が宿る。それは見つめられた者の心臓の鼓動を止め、背筋を凍らせる魔性のモノの瞳であった。
 妖魔とは、少なくとも妖哭山の妖魔は、例え肢を引きちぎられようと、腹を割られ臓物を引きずり出されようと、首を刎ねられようとも、命の躍動が止まる最後の瞬間に至るまで敵対者に死を齎すべく足掻く。
 生存への欲求よりも破壊と殺戮への衝動と欲求の方がはるかに上回る歪な、いわば不自然な生命であるからだ。
 しかして雪輝の瞳は、例え命尽き果てんとしている瞬間でさえ、最後まで相手の息の根を止める事に執念を燃やす異形の生命たる妖魔である妖狼達をして、愕然と瞳を見開いて抗弁の口を凍らされる恐怖そのものであった。

「狗遠を長の座から追い落としたのは、飢刃丸だな」

 それは質問でも尋問でもなく、単なる確認であった。
 飢刃丸は妖狼達の中で狗遠を打ち倒す事のできる可能性がある者の最右翼だ。妖哭山で、特に内部に住まう妖魔達に置いて、血族であるからといってそこに情が存在する事はまずあり得ない。
 血を分けた子も、兄弟も、同胞もすべては互いに争いを生き残るために必要な戦力――戦いの為の道具としか見做していない。
 なんらかの理由によって戦えなくなったのなら、その場に見捨てて行くというのはまだましな方で、同族でさえ食い殺して腹の足しにする事がほとんどなのである。
 ましてや飢刃丸が、雪輝に対する敵対行動を禁ずる姉の事を大いに疎んじていた事は、雪輝でさえ気づいていた。
 飢刃丸の名にわずかに肢の下の妖狼達が反応したことから、雪輝は自身の推測が正しかった事を認める。

「飢刃丸がどのようにして狗遠を長の地位から追いやったのかまでは知らぬ。だが、私への怨讐に目を曇らせたままでは、あ奴が私に一矢報いる事な出来はせぬ。私が貴様らに対し牙を剥かなかったのは、なにより狗遠が長であったからこそ。断じて貴様らの力を恐れての事ではない」

「…………」

 雪輝に頭部を踏みつけられたままの二頭の妖狼達も、そして雪輝に地面に叩きつけられた衝撃から目を覚まし、隙を伺っていた妖狼も、雪輝の言葉と瞳に込められた氷雪の殺意と迸る殺傷を辞さぬ気配を交える攻撃的な妖気を浴びて、心胆をこの上なく寒からしめている。
 それは雪輝の言葉に、嘘偽りの響きがわずかにも存在していない事を理解したからである。
 目の前の白銀の狼は、告げた言葉通りに狗遠が長でなければ妖狼達と争わぬ理由はない、必要とあれば貴様らを全滅させる事も出来るのだ、と単なる事実として告げているのだという事を。
 この時、妖狼達は初めて新たな長となった飢刃丸の命令に、疑問と後悔の念を抱いた。
 白銀の狼に牙を剥く、その事の本当の意味を我らと飢刃丸様は本当に理解していただろうか、と。
 改めて体感した雪輝との格の違いに、冷や汗をかく事も出来ない妖狼達は、不意に自分達の頭を押さえつけていた雪輝の肢がどかされている事に気付く。
 雪輝の首筋に食らいつき、大地に叩きつけられてその場で雪輝の放つ重圧に身動きが出来ずにいた妖狼も、全身を押し潰さんとする圧力の突然の消失に気付いた。

「帰るがいい」

 恐怖に魂と体を凍らせていた妖狼達にとって、短く告げられた雪輝の言葉は理解しがたいものであった。
 それまでの殺意の炎を小さなものに抑え、雪輝は無防備なほど呆気なく妖狼達に背を向けるのみならず、主水達の向かった先に向けて歩を進めているではないか。
 なにを、と妖狼達は問いただしたかったことだろう。
 自分達を殺さぬ理由を、まるで警戒している様子もなく背を向ける理由を。
 気配でそれを悟ったか、雪輝は歩みを止めることなく告げた。

「お前達に何が出来る。背を晒す私に、三頭がかりで、何が?」

 それは圧倒的強者の傲慢でも余裕でもなく、生ある者にはいつしか死が訪れるのと同じ様に、揺るがしがたい事実であると雪輝の声音は冷たく、それ以上に厳しく告げていた。
 あるいはそれが雪輝の最後の警告と慈悲であったのかもしれない。再び我が身に襲い掛かってくるのならば、もはや容赦はしない、そして手を出さぬのならこのまま見逃すと。
 そして、その雪輝の言葉の正しさを証明するように、雪輝の姿が遂に木々の彼方に消えるまで、妖狼達はただただその場に立ち竦むことしかできなかったのである。
 雪輝の姿が消えた後、妖狼達の胸に去来したのは屈辱の炎ではなく、死を告げに訪れた筈の死神が、何もせぬままに立ちさった事に対する安堵の一念であった。
 背後で彫像のごとく立ち尽くすだけの妖狼達を意識の外に捨て、雪輝はすぐさま主水達の後を追うべく、歩みを速める。
 主水達はまだ幼い嶽がいることもあってか、妖気や匂いを隠しきれずにいるから、追跡は容易であった。
 追跡を始めてからほどなくして、灌木の根本にある洞の中に隠れた主水達の匂いと気配を感知した雪輝は、洞のすぐ近くで足を止めてから、ひょいと顔を伸ばしてその中に居ある主水達に声を掛けた。

「私だ。あれらはもう追い払った。出てきてくれ」

「旦那、ご無事ですかい?」

 雪輝の声にこたえて最初に顔を覗かせたのは主水であった。
 いくら雪輝とは言え複数らしい敵を相手に、怪我をしないで済むかどうか、とどうしても心配せずにはおられなかった為に、真っ先に雪輝の安否を問う声を出したのである。
 まず首を出し、次いで両前肢をじたばたと動かして洞から這いずり出てきた主水に、その愛嬌のある様子と思わず笑みを誘う滑稽さから雪輝は自分を案じてくれたのだと分かり、相好を崩した。
 その雪輝の様子は嬉しさを隠さぬものであった。他者から向けられる好意にいまだに慣れていないのである。

「あの程度の相手ならどうとでもできる。それよりも主水、朔、嶽、事態は私が思う以上に危険なものだった」

 主水達と話す時には穏やかであるはずの雪輝の声音が、固く強張っている事に、主水達は自分達の手に負えない事が起きているのだと、否応なく理解させられた。
 妖哭山外側に置いて雪輝はほぼ最強の座に座る妖魔であり、内側でも十分に通じる力を持っているはずだ、と主水達は勝手ながらに推測している。
 その雪輝が危険と口にした以上は、これは主水達に成す術などあろうはずもない事態であることは明白。
 良くも悪くも嘘のつけぬ雪輝は、それが吉事であれ凶事であれ正直に口の端に乗せてしまう。自分の言葉が相手に与える不安や恐怖というものを、いまひとつ察しきれぬ未熟さのせいである。

「妖哭山の内側の妖魔共がこちら側に出てきている。外側の者達が騒がしかったのはその所為だ。私は事態の収拾を図るつもりだが、それでも山には血の雨と死の風が吹くであろう。お前達は山を出よ。朔がおれば外でもやっていけよう」

「内側の、って旦那が前いた所の連中ですかい!?」

 飛び上がらんばかりに驚く主水に、雪輝は淡々と事実を告げる。

「ああ。外の妖魔達と違って獣そのものの姿を持った者達が多いが、外側の者達よりも強く、残忍だ。一刻でも早くした方が良い。私が出くわしたのは狼であったが、それ以外の者が来ておらぬとは限らぬ」

 険しさを増す雪輝の声と雰囲気に、主水と朔は互いに顔を見合わせた。
 あまりにも急な雪輝の忠告であったが、この狼が嘘を吐くわけもなく、心底から自分たち親子を心配しているからこその言葉である事は、良く分かる。

「急に言われてなにをと思うだろうが、ここは私を信じて山の外に避難してはくれぬか? 君達が出来うる限り早くこの山に戻ってこられるよう、最善を尽くす」

 紛れもない誠(まこと)の込められた雪輝の言葉であった。他者に対して誠意を示す事を惜しまないのは、この狼の美点の一つと言える。単に嘘を吐けない性格だから、というのがいささか珠に疵ではあったが。
 主水夫妻は雪輝の誠実さに答える様に、真摯な顔つきで雪輝の瞳を見つめる。左右の青の瞳に、主水と朔の姿を映して、雪輝は黙して二頭の言葉を待つ。

「分かりました。旦那のお気持ち、ありがたく頂戴いたします。なあにおれらはもともと身一つで山野を駆け回って生きて来たんでさ。場所が変わったってなんとかなりますし、なんとかします。おれには朔と嶽もいますから」

「はい、夫もこれで如才ない所がございますし、私ももとは妖哭山の外から参った他所者でございますから、夫婦と子供で暮らして行くくらいは大丈夫です。いざとならば私の父や同胞に頼る手もございますから」

「そう言えば朔のお父君は名のある大霊狸かもしれぬ、と鬼無子が申しておったな。これは訪ねることになったら、嶽は可愛がってもらえるかも知れんが、主水は口の利き方に気をつけなければならぬやもな。顔を見せた事はないのだろう?」

 珍しく他者をからかう雪輝の言葉の効果は、まさしく覿面であった。
 主水は団栗の形をした尻尾を、雷に打たれた様に逆立たせて、目と口を限界一杯にまで開いて固定する。
 主水自身には自覚のないことだろうが、生まれつき道化めいた才覚のある狸なのだろう。

「ええぇえ!?」

「まあ、それは大変。私が父との仲立ちを務めませんと、夫の命が危のうございますね」

 ころころと笑いながら、朔が雪輝のからかいに乗じてそんな事を言うものだから、主水は開いた目と口とをそのままにして、ぐりんと首を動かして愛妻の顔をまじまじと凝視した。

「さ、朔、お前、いつだったかお前のお父さんは大らかな方だと言っていたじゃないか!」

「ええ。身内には優しい方ですよ。ですからお婿さんやお嫁さんで来られた方にはいささか厳しくなってしまうのです」

 笑みを押さえながら、ではあったが朔の言った事に偽りはなかった。言葉も出ない様子の主水に、そろそろからかうのはよしましょう、と主水を安心させるべく口を開く。
 夫への愛情は確かなものであったが、そこには年下の恋人をからかう姉女房の悪戯っぽさが混在しているらしかった。

「安心して下さいな、あなた。あなたは私が自分の意思で選んだ殿方です。必ず父の目にも適うことでしょう。ね、嶽?」

「くう!」

 何時の間にやら朔と主水の間に鎮座していた嶽が、大好きな父親の顔を見上げて、同じく大好きな母親の言葉を肯定する。
 妻と息子に励まされた主水は、なんとも分かりやすくそれまでの動揺をあっという間に消し去って、照れ臭そうに自分の頭の後ろを右の前肢で掻いてみせた。妙に器用な狸である。

「そ、そうかな?」

「ええ、自信を持ってくださいましな」

「うん」

 主水の百面相とでも言うべき変貌ぶりに、雪輝は思わず忍び笑いを漏らしたが、鬼無子やひながいたら、普段の雪輝とそう変わらないと思うに違いない。
 夫婦と親子のやり取りを微笑を浮かべ、暖かな気持ちで見守っていた雪輝であるが、これ以上目の前の三頭を山に留める事は危険だ、という意識を忘れていたわけではなかった。

「私は暫くこの辺りを探って外側の妖魔達を牽制してくる。例え屍の山を築こうとも奴らの好きと勝手にはさせぬ。しばしの別れだが、なに、すぐに元通りにして見せよう」

 告げるや否や、雪輝は颯爽と踵を返して主水達に背を向ける。
 主水達には遠ざかる雪輝の背が纏う厳しさと冷酷さの影が、決して似合っているものとは見えなかった。
 目の前の狼にはあのひなと鬼無子と共に笑みを浮かべている姿こそが最も似合う。
 だからであろうか、主水は千の言葉を尽くして伝えたいと思いながらも、胸が詰まりただひとつの言葉だけを雪輝の背に送った。

「旦那、どうかご無事で」

「お前達も、達者でな」

 背後を振り返り、狼の面貌にも明らかな優しい笑みを浮かべて、雪輝は一時の別れを主水達に告げた。
 再び無事に出会う事を願う言葉の残響が消え、雪輝の姿が見えなくなるまで、主水達は木漏れ日の中に遠ざかる雪輝の姿を見送り続けた。


 青く透き通る空に悠々と翼を広げた影に、一条の白銀の光が差し込んだ。大地から天へとさかしまに落ちる雷を思わせる、電光石火の速さであった。
 空に浮かぶ影は翼長二丈(約六メートル)にもならんとする、途方もなく巨大な鷹である。
 風を捕まえて力強く羽ばたく翼や一掴みで人間の二人も三人も浚って行けるような足も、そこに鋭く伸びる禍々しい爪も、なにもかもが巨大だ。
 しかし、その首は付け根から赤い血飛沫を撒き散らしながら空中を舞い、首と生き別れにされた胴体は、羽ばたく事を忘れて大地へと落下し始める。
 妖哭山内側に生息する魔鳥の中でも凶悪無残な殺戮鷹を一撃の下に殺傷せしめた白銀の光の正体は、言うまでもなく雪輝である。
 はるか上空を舞い、地上の獲物を狙っていた妖鷹(ようおう)を見つける度に、このように爆発的な跳躍力を持って、妖鷹へと襲い掛かりそのすべてを一撃の下に滅ぼしているのだ。
 目標の首を噛みちぎり、空中で体を支えるものもなく重力の見えざる鎖に巻かれて落ち行く雪輝の知覚に、純然たる殺意で構成された殺気の針が突き刺さる。
 雪輝は妖鷹の異臭を放つ血で赤に濡らした牙を剥き出しにしたまま、殺気の針の放出元へと視線を向けた。
 視覚と嗅覚、触覚、直感に加えて、水に落とした墨の一滴の様に薄めて四方に放出している妖気による探知網に、いくつかの殺意で血肉を形作っているかのような気配が触れている。
 いまだ空中にある雪輝を中心に旋回している妖鷹達である。既に外側に生息する空の妖魔達を駆逐し終えたのか、目に着くのは外側の飛行妖魔達ばかりであった。
 雪輝の全身から漂う尋常ならざる妖気に気付いてはいるだろうが、常に満たされる事のない飢餓と、殺戮への欲求に突き動かされている妖鷹達は、ひと際強い羽ばたきと共に雪輝を目指して急下降ないしは急加速を行い、生ける弾丸となって白銀の狼へと襲い掛かる。
 空中で凄惨なる鳥葬が催されるその寸前、雪輝が虚空を蹴り、狙い澄ました妖鷹達の視界から消失する。
 いや、雪輝が蹴ったのは虚空ではなかった。わずかに一瞬だけ大気中の水分を凝縮させて、作り出した氷の足場を蹴ったのである。
 雪輝の跳躍と同時に氷の足場は砕け散って遮る物のない陽光の中に溶け消える。
雪輝が存在していた空間を、妖鷹達の嘴と爪が通り過ぎ、なんら成果を得られなかったその次の瞬間、彼らの首は噛み千切られ、頭部は割られ、全身を燃やし尽くされ、一羽の例外もなく絶命した。
 再び氷の足場を作りだしてそれを蹴って、再度白銀の雷と化した雪輝の、一切の容赦なき非情なる殺戮の連続である。
 知覚内の外側の妖魔を一通り掃討し終えた事を確認し、雪輝は今度こそ優しくも拒絶を許さぬ重力の手に体を預けて、ゆるゆると大地に落下した。
 踏みしめた草こそ雪輝の四肢に押し潰されたが、それ以上大地が窪む事もなく巨大な狼の着地音もなにもない。
 この世のいかなる狼にも勝さる美しい姿には、あらゆる音が伴う事を遠慮しているのかもしれなかった。
 最初に遭遇した妖狼から数えて先ほどの妖鷹に至るまでの間に、既に主だった内側の妖魔達とあらかた遭遇し終えている。
 長の変わった妖狼達が外部に向けて殺戮の牙を振るうのは、まだ分からなくもないがそれが他の妖魔種にまで及ぶとなると、これは雪輝がいくら頭を捻ってみても答えを見つけられそうにない。
 妖狼達の動きを真似て? あるいはその動きを牽制するために? あるいは白猿王を滅ぼした我が身を狙って?
 ここは一度ひな達の元へと戻り、事態の異変を告げて鬼無子の知恵を拝借するほうが事態の改善には建設的であろう、と雪輝が首を巡らして視線を樵小屋の方角へ向けようとし、不意にその動きが針で大地に縫いつけられたように止まる。
 雪輝の知覚の琴線に何かが触れたのである。
 四方は変わらぬ木々と草花が造り出す山中の光景が続いている。
雪輝が屠った妖鷹達の死骸に、他の妖魔や野獣達が群がって骨の髄に至るまで啜ってはいるが、それはこの妖が哭き叫ぶ山では日常の範囲だ。
 雪輝はついと顔を上げて、鼻を幾度かひくつかせて秋風の中に混じる異分子の匂いを嗅ぎ取る事に集中する。
 憶えのある匂いであった。そして現在妖哭山に吹き荒れている濃厚な血臭を孕む風を止ませるのに、おそらくは一助となるであろう存在の匂い。

「命は助かっていたようだな」

 雪輝は匂いの元へと可能な限り早く辿りつくべく、四肢の運びを滑らかなものにする。
 内側の妖魔達はともかくとして、外側の妖魔達で雪輝に挑む命知らずはよほど知能の低い、本能のみで動いている類の妖魔くらいのものだ。
 周囲の内側の妖魔達はあらかた掃討し終えている為、雪輝の肢を止めんとするものが姿を見せる事はなかった。
 既に雪輝が訪れる前に内外の妖魔同士での抗争があったようで、大地が抉られ木は薙ぎ倒され、膨大な量の流血が既に凝固して黒い領土を広げている。
 ただし死骸はない。わずかな肉片や骨の欠片もない。全て生き残った方の胃袋に収まっているのだろう。
 雪輝は鬼無子やひなの食事風景に対する憧れと興味を吐露し、最近では時折食事を共にするようになっていたが、妖魔の死骸ばかりは到底口にする気にはなれなかった。
 倒木が砦の防壁の様に折り重なっている一角の内側に、雪輝は風に舞う蝶を思わせる軽やかな跳躍で飛び込んだ。
 妖鷹を抹殺した時と同じように、静謐と伴う着地と同時に、雪輝は目の前でこちらに警戒の眼差しを向けている妖魔に声を掛けた。

「無事で何よりだな、狗遠よ」

「皮肉か、銀色の」

 久しぶりに銀色と呼ばれた事に、雪輝はどこか懐かしい気持ちになって小さな笑みを浮かべた。雪輝の視線を受けて倒木に背を預ける様にして、かつて妖狼の長として君臨していた若き雌狼、狗遠は自嘲と共に答えた。
 口の利き方を間違えれば躊躇なく相手の手足の一本どころか、首ごと噛み千切りに行く苛烈さが、狗遠の常であったが、相手が雪輝であるからなのかそれとも凋落の衝撃によってか、牙を剥く事さえしない。
 雪輝にも匹敵する巨躯を長々と横たえる狗遠の体からは、乾いた血の匂いが昇り立っている。
 出血そのものは既に収まっているようだが、失った血と体力はまだ取り戻せていないのだろう。狗遠から感じ取れる妖気は、雪輝の知るものと比べて大幅に減衰している。
 四肢の欠損などはなく五体満足ではあったが、腹のあたりに赤い染みが広がっているし、心身ともに衰弱しているのは間違いない。
 弟に図られて長の地位を追われ、他者に対して強い警戒を示す所であろうに、狗遠は自分に近づいてくる雪輝を、邪険にする事もなかった。

「外側の妖魔達がずいぶんとこちら側に移ってきている。最初に出会ったのはお前の同胞であった。その時にお前の事を聞いたぞ」

 一間の距離を置いて肢を止めた雪輝の言葉に、狗遠は屈辱の記憶を思い起こされて、不愉快気に顔を背ける。

「飢刃丸ごときに後れを取った我が身の愚かさが憎らしいわ」

「そこが解せぬが、怪我をしている女子(おなご)に無理に口を開かせるのも良くはないか。動けるか? とりあえずこの場を離れようと思うが」

 狗遠の身を案じる雪輝の言葉に、狗遠は理解が及ばぬのか白銀の狼面を正面から見つめて、訝しさを隠そうともせずに瞳を細めた。
 妖狼達が雪輝の悲しみを理解できなかったように、狗遠もまた雪輝の心の動きが理解できないのである。ましてや血の繋がりも何もない自分を案じるなど。

「お前は私を食おうとは思わぬのか?」

 この狗遠の言葉に、今度は雪輝が理解できないと言う顔を拵える。いや、確かに内側の妖魔たちなら共食いも日常茶飯事であるのだが、それを自分にも当て嵌められるとは思わなかったのである。

「なぜその様な事を聞く。そも私が食物を必要とせぬ身の上である事はお前とて知っていように」

「……だが、他の妖魔を喰らえば力を高める事が出来るのはお前とて同じであるはず」

「他の妖魔を滅ぼした事はあるが、食らった事はなくてな、どうなるか分からぬよ。まあ、白猿王やら怨霊やらと戦う度に、少しばかり強くはなっている様だがな。それで、動けるのか、動けぬのか、どちらだ?」

「動く事は出来る。ここに来るまでの間に、傷は塞がっているからな。だが、全力で走る事は難しい」

 自分の弱みをこうも正直に口にしている事に、狗遠は疑問を抱いていない様子であった。例え同族であろうと決して弱音を口にした事のないのが、狗遠であったが雪輝ばかりは狗遠自身も気づいていない例外であるらしい。
 ひどくゆったりとした動作で、体に負担がかからぬように立ちあがる狗遠の様子に、本調子からは余りにもかけ離れている事を悟り、雪輝は立ちあがった狗遠の腹の下に自分の体を潜り込ませた。

「な、銀色、何をする!? 降ろせ、ええい、降ろさぬか」

 喚き立てる狗遠を無視して、狗遠を背中に乗せたまま雪輝はゆるりと歩を進め始める。

「全力で走れぬと言ったのはお前であろう。とりあえずお前を匿える所に連れて行く。食べ物は私が適当に用意するから、お前は体力の回復に努めると良い」

 狗遠の身を案じての雪輝の言葉であったが、それが狗遠にはなによりの疑問となった事に、雪輝は気づいていなかった。

「銀色、お前はなぜ私に肩入れをする? 血の繋がりも何も無かろうに」

「そんな事が気になるのか? いや、お前たちならばそうか。なに、私が内側に居た時、お前だけは私に敵意を向けなかったからな。敵意ばかりを向けてくる者達の中で、お前だけが例外だった。お前は気づいて居らんかったのかも知れんが、私にとってそれはとても喜ばしい事だったのだ」

「ふん、お前の血を我らの一族に入れれば、山での闘争に終止符を打てると思ったまでの事だ。もっとも、お前は私の求めに応じる事はなかったがな」

 雪輝の背中で揺れながら、狗遠は抗議する事は諦めたのか、愚痴を零しはじめている。雪輝は狗遠の好きなように喋らせることにした。それ位は男の甲斐性だ、と考えていたのかもしれない。

「あの頃の私にはお前の求めている事が良く分からなかったからな。とはいえ、お前が他の者達と違う事は認識していた。今、こうしてお前を助けようとしているのも、その為だ。それでもなお納得が行かぬのなら、お前に手を貸して妖狼の一族だけでも味方にしようとしている、と思っておけ」

「恩を感じるほど、我らは殊勝には出来ておらぬ」

「それでも良いさ。頼まれてもいない事を、私が勝手にしている事なのだから」

 つまるところ見返りを求めてはいない雪輝の行為に、狗遠は終始理解が及ばぬようで、自分を担ぐ雪輝の事を、異次元の生物を前にした眼差しで見つめていたが、結局それ以上文句を言う事はなかった。


 七風の町の中心部に広がる武士らの住まう一角の片隅に、その屋敷はあった。
 櫓の着いた黒渋漆塗り、白海鼠壁の長戸門を備えた豪奢な屋敷である。織田家の中でも特に石高の高い家臣にのみ許される門構えの屋敷だが、これはいささか奇妙なものであった。
 七風の町を統治する領主は中心部に聳える城に住んでいるし、その領主以外にこの造りの屋敷を構える事を許された者はいないはずであった。
 屋敷が領主の邸宅や妾を囲うためのものでない事は、門に掛けられた表札に記された名前からも分かる。
 だから、この屋敷は存在する事自体がおかしいのだ。ただし、公的には、とつく。
 その屋敷の奥に設けられた四十畳はあろうかという大広間は、一切の灯りが灯されておらず、また四方の障子や襖は閉じられて外界からの光の侵入を拒絶している。
 その大広間に、あの美貌の妖剣士黄昏夕座が居た。朝廷と織田の国境で死と破壊を振りまいていた赤死党を壊滅させたその足で、七風の町に設けられた夕座の為の屋敷に帰っていたのである。
 妖魔改の番所と分けられているのは、あの場に夕座が常駐しては要らぬ一方的かつ凄惨な死が生まれる事を、これまでの惨劇から妖魔改と織田家の上層部が理解した為であったし、夕座を市井の人々から隔離する為でもあった。
 襖の向こうから、夕座に声が掛けられた。影座である。
 声ではなく視線だけ襖に向けた夕座の気配が答えであったのか、音もなく襖が開かれて、黒い衣装で全身を覆った影座が首を垂れていた。
 襖が開かれた事で、大広間に立ちこめていた凄まじい匂いが影座の全身を包み込む。
 男と女が体中から溢れさせた体液が気化する事によって発生する、濃密な淫臭であった。大気がいやらしい薄桃色に染まっていないのが不思議なほどに濃密で、一嗅ぎでどんなに厳格な戒律を守っている尼僧や神職に在る者でも欲情の嵐に襲われるだろう。
 影座が頭を上げて大広間の中央でしどけなく裸身を晒す主の姿を見つめる。暗がりの中に白々と浮かび上がる夕座の逞しい体に、白いものがいくつも絡みついていた。
 稀に存在する白い鱗の大蛇かと見えるそれは、女の腕や足であった。
 かすかな光に照らし出された大広間の中を見渡せば、先日夕座の欲望を受け止めた影兎や影馬の姿を見つける事が出来る。
 だが大広間に人形の様に転がっているのは影馬と影兎の双子の姉妹ばかりではなかった。彼女ら以外にも五人、いや七人はいる。若きは十代後半、年長のものでもおよそ二十代後半と言ったところか。
 一人の例外もなく一糸を纏わぬ裸身を晒して、穴という穴から雄の欲望の名残をどろりと垂れ流しにしている。裸身の色も、白や黄ばかりでなく褐色、黒、血の気のない青白いものなど多種多様に富んでいる。
 特異なのはこの多種多様という言葉が文字通りである事だ。
 影馬と影兎は純粋な人間であったが、大広間に転がる女性達の中に、耳が笹の葉の様に伸びている者や頭頂に獣の耳を生やし、尾てい骨の辺りから尾を生やしている者、あるいは肩甲骨の辺りから鳥の羽を生やしている者など、人間種以外の女性達が含まれているのだ。
 神夜国の主要な種族は人間種であるが、十三大神の創造した人間以外の亜人種も生息しており、それぞれの生活を送っている。
 連日連夜繰り広げられた荒淫の果てに気をやって転がっているのは、人間種以外で妖魔改に所属し、夕座の配下となっている者達なのである。
 様々な獣の特徴を持った獣人種(ワービースト)、古来より存在する深き森林に住まう緑樹人(エルフ)、地下に広がる大空洞や洞窟に住まう黒樹人(ダークエルフ)、峻嶮な山岳地帯に住まう羽在人(ハルピュイア)、高位緑樹人(ハイ・エルフ)と対を成す亜神人(シリアン)、と種族も年齢も外見も異なる美女たちとの道徳と倫理の乱れ切った行為を終えて、夕座は気怠るく忠実な下僕に瞳を向ける。
 影座は大広間の光景にはさしたる興味はなく、というよりはすっかり見慣れているので拘泥する様子はなく、淡々と口を開く。

「退魔士百名、兵五百、揃いましてございます」

「私とお前と、妖魔改の者が総勢三十。六百と三十か。退魔士は十分の一も残るまいが、兵とこの者らはなるべく残さねばならぬな」

 夕座は自分の膝の上ですやすやと安らかな寝息を立てている影兎と影馬の頭を撫ではじめた。意外にも優しい手つきである。自分の所有物に対しては、それなりに愛着を覚えて大切に扱うらしい。

「大狼を討つだけならば、夕座様お一人で事足りるかと」

「私はものぐさでな。楽をしたいのだ、楽を」

 全くこの方は、と影座は深い溜息を吐いた。何度吐いたか分からぬ溜息であった。

「では女人一人を手に入れる為に、妖魔の跋扈する山に向かうなどと仰られますな。金も人も時も使いまする」

「お前も言う様になった。初めて私の下に来た時は子犬の様に震えておったものを」

「貴方様にお仕えして長うございますゆえ」

 影座の声の響きからして、少なくとも夕座よりは年上であろうに、これではまるで夕座の方が影座よりも年上であるかのような、二人のやり取りだ。

「まあよい。この者達の体を休めてから、妖哭山に向かうぞ。退魔士どもを餌に山中の妖魔を尽く殺せ。まあ、返り討ちにあうものがほとんどであろうがな。その後、私が先陣を切って山に踏み入る。兵達には第二種対妖魔戦の用意をさせておけ。我らの後を着いてこさせれば死人はそうは出まいよ」

「はっ。仰せのままに」

 雪輝は知らなかった。妖哭山の内部でのみ活動する筈の凶悪な妖魔達の突然の凶行のみならず、鬼無子に妄執を抱く妖剣士夕座までもが、妖哭山に向かい狂気と敵意を向けて迫りつつある事を。
 この後、まもなくして自分自身に襲い掛かる苦難の連続を。

<続>

>天船さま

ご指摘をありがとうございます。早速修正いたしました。夕座はあれです、鬼畜ゲーの主人公的なキャラクター造形を心がけておりますです。雪輝も極端な所があるので、サブタイトルどおりの真似をしかねない危うい所のある狼です。ご期待に添える努力いたします。

>ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶お返事)
なんだかんだでひなを危険に晒してきたのが雪輝ですからね。二度目が三度あるのか三度目の正直、ということでひなが無事に住むのか、難しい所でございます。夕座は、わりと気に入っている人物ですので、これからも活躍してもらうつもりです。

>taisaさま

 クロビネガさんというサイトは初めて耳にしたので、調べてみましたらなんともはや魅力的なところでした。ジョロウグモに関してはまさにあのサイトさんのイラストどおりですが、スケルトンの方はまんま武者鎧を着た骸骨です。ただ、鬼無子が死んだらあのイラスト系統のスケルトンにはなるでしょうね。胸を大増量しないとですけれども。
 ネタ読みの事をお気になさっていますが、私としましては、イエスだね、とブレンパワードの台詞にて返答させていただきたいと思います。シリアス真っ最中なので、いささか言い回しは変るかと思いますが、その時はご容赦ください。

ではではここまでお読みくださった皆様と感想を下さった皆様に感謝を。ありがとうございます。大変励みになります。では、また次回で。

2/7 修正



[19828] その十六 死戦開幕
Name: スペ◆52188bce ID:87e9f2f7
Date: 2011/02/24 12:21
その十六 死戦開幕

 妖哭山の山内で緑織りなす木々の海と荒涼漠々たる赤茶けた荒地の境目から、数里ほど離れた所を、小さな三つの影が小走りに駆けている。
 通常ならば妖哭山を抜け出るまでに千、万の数で群れを成す恐るべき死虫達や常に飢餓に見舞われている小妖魔共に十回も百回も襲われて、その道中で息を絶やす所であるが彼らが山の外に出るまでに走破したのは、人里から生贄を届ける小屋まで続く山道であった。
 かつて妖哭山で殺戮の風を荒々しく吹かせた大狼が住まいとし、その大狼を屠った新たな狼の妖魔が住まいとしていた名残から、生贄を捧ぐ小屋の付近には滅多な事がない限りは妖魔の類が近づく事はない。
 それゆえに選んだ道であった。
 空気を煮え立たせるような熱気溢れる夏から、肌を凍らせて血を噴かせる冷厳な冬へと変わる最中の、熱気に苛まれる事も寒気に震える事もないが故の憂鬱さを大気に孕む秋の、昼下がりである。
 四季の移ろいはそこに住まう者達の心に変化を促し、世界の彩りを鮮やかに変えて行くものだが、この山の中でだけは住まう妖魔共の心に奈落の様に埋まる事を知らぬ飢えと殺戮への欲求ばかりが巣食っている。
 しかるに山の外へ逃げる様にして休むことなく駆けている小さな影は、そのわずかな例外と言えただろう。
 茶色の体毛に覆われた四尺余りの体に、大地を休むことなく蹴る短い四肢、丸みを帯びて上下左右に激しく揺れる尻尾。
 どこか見る者の肩の力を抜く愛嬌のある顔立ちは、誰が見ても間違いなく狸のものだ。
 白銀の魔狼雪輝の忠告に従って、一刻も早く妖哭山を離れんとする主水、朔、嶽ら狸の親子である。
 親狸である主水と朔は、まだ幼い嶽を代わり代わりに背に乗せながら走り続けている。
 雪輝の忠告を受け入れて、雪輝から教えられた最も安全な道のりを選んでの脱出行であったが、妖哭山内側の妖魔の進出に伴う妖哭山外側の妖魔達の生息図の変化によって、思いもよらぬ所に思いもよらぬ妖魔や猛獣が息を潜めていた事もあり、狸親子らの道行きは遅々としか進まなかった。
 妖哭山を抜けてからは脱出行を邪魔する妖魔の影はなりを潜めたが、精神的にも肉体的にも消耗を強いられた事もあって、主水と朔ともども狸としては大きな体に鉛の様な疲労をたっぷりと溜め込んでいた。
 岩石から削り出したのではないかと勘違いしそうなくらいに乾ききった木々や、触れた者の皮膚を貫く棘をびっしりと生やした草や茂みが所々に点在しているばかりで、後は地をぶちまけた様に赤い大地と岩ばかりが広がる中で、三頭が足を止める。
 大の大人が十人ほども手を伸ばせば囲めるような巨岩の影に身を置いてから、ぐでんと主水が大の字になって、だらしなく開いた口から舌を零して荒く息を吐く。
 妖哭山では持久力よりも瞬発力の方が逃げるにしろ戦うにしろものを言う場合がほとんどであるから、妖哭山産まれ妖哭山育ちの主水にとって何刻もの間走り続けるのは、相当に辛いものがあるようだ。
 一方で朔はというと妖哭山とは別の大地で生まれ育った事もあってか、あるいはなにがしかの妖術でも使っているようで、主水に比べればかすかに肩を上下させているだけで、さして疲れているようには見えない。
 朔の背から降りた嶽は、休まないともうこれ以上走れないと態度で表している父親の元へ歩み寄って、くうん、と心配そうに鳴いている。

「ふへえ、ぜえ、ぜえ、さ、流石に疲れた」

「雪輝様の仰られたとおりすぐに動いて良かったですね、貴方。私達が思っていた以上にお山の妖魔達が住む場所を変えておりました」

「そ、そうだなあ。普段なら、もっと、山の奥で、はあ、ひい、出くわす様な奴らが、あんな外側にまで、来てやがったもんなあ。……旦那に、教えてもらってなかったら……はひい、逃げるのも出来ないくらい、追いつめられちまったろうなあ」

 少しは息が整ってきた事もあって、主水がむくりと上半身を起こす。妻と自分との差をむざむざ見せつけられている様なものだが、このおおらかな狸には気に止めた様子はない。
 器が大きいと言うべきか、間抜けだからなのか。雪輝とどこか似た所のある主水であった。
 夫の情けないという他ない姿にも、朔は特に失望した様子はない。こちらもこちらで夫に対して心底惚れ抜いているから、短所であってもそれを好ましく解釈してしまう恋の病に、今も罹患中なのである。
 ちなみにこれはひなと鬼無子も現在発症中の、つける薬の存在しない極めて厄介な病だ。

「それにしても少しおかしくはありませんか、貴方。あれだけ山の中では妖魔達がひしめいていたと言うのに、山の外に出ようとする者はまるでおりません。いいえ、それだけではありません。私達も雪輝様に山を去る様に言われるまでは、山を出ると言う事をまるで考えませんでした」

 妻の言う事を徐々に理解して、主水は元々丸い瞳を更に丸く見開いて、ふむふむとしきりに頷いてみせる。
 確かに朔の言うとおりに、妖哭山では下から数えた方がはるかに早い程度の力しか持たない主水は、これまで散々な目にあってきたものだが、思い返してみるに自分が山を出ようと思った事は一度もなかったのを認めたのである。
 いや、自分だけでなく口ぶりからして山の外から来た朔でさえも妖哭山に足を踏み入れた時から、妖哭山を出ようと言う考えを忘れてしまったようだ。

「確かにお前の言うとおりだなあ。まるで山がおれ達を外に出さない様に聞こえない声で囁きかけているみたいだ。そりゃ出くわせば殺し合いを始めるのが妖魔ってもんだが、あんだけ山には住んでいるんだから、外に出ようと考える奴がけっこう居たっておかしかあない。だのに、外に出た妖魔なんておれが知っている限りじゃ大狼くらいなもんだ。やっぱり妖哭山はおかしな山なんだな」

「そう、ですね。外に出て暴れ狂ったのは大狼だけ。そして外に出るという考えに及んだのも雪輝様だけ。狼の妖魔である事がなにか特別だということ? それとも大狼と雪輝様だけが特別なのかしら」

 妖哭山の外に出た影響からか、朔はこれまでは抱かなかった疑問が次々と湧いてくるらしく、自分でも気付かぬうちに疑問が口を突いて出ていた。
 じっと考え込んでぶつぶつと呟く妻の様子を、主水は物珍しげに見ていたが、一息ついて余裕が出来た事もあって、適当な所で声をかけた。
 妖魔の影こそ見当たらなくなったが、ここから先の外界は情けない限りではあるが、外の世界で生まれ育ったこの愛しい妻だけが頼りなのである。

「なあなあ、朔よ。お前がおれなんか及びもつかないくらいに頭がいいのは前から知っているけれど、いまは早く山から離れて嶽を安全な所まで連れて行くのが一番だって忘れちゃいけないよ。おれ達は親なんだ。だったら自分達よりも子供の事をなにより大切にしなくちゃあ、親を名乗る資格はねえってもんだ」

 妻があらゆる点で自分より優れている事を理解し、その事に対して尊敬の念をこそ抱きはしても嫉みや妬みを抱いた事のない主水は、あくまでも優しく朔に言い聞かせる。
 主水の言葉に朔ははっと顔を上げて、申し訳なさ気に顔を俯かせる。あくまでも親である事を忘れない主水に対して、母親としての自分の至らなさを気づかされて、恥じ入っているのだ。
 考えごとに夢中になってしまって、周りが見えなくなってしまう自分を、いつも優しく窘めて諭してくれる主水の事を、朔は心から好いていた。

「ごめんなさい、貴方、嶽。私は母親ですものね。嶽の事を一番に考えないといけない時に、私ったら」

「くうくう」

 先ほどまで疲れ果てていた父親から、今度は意気消沈している母親を慰めようと、嶽はちょこちょことした動きで朔の近くまで来ると、母の頬をぺろりぺろりと小さな舌で舐める。

「いいさいいさ。こっから先はお前の知識と経験が頼りだからな。おれはあんまり役に立てなくて悪いけれど、おれも出来るだけの事をするから、あんまり気を張らずに行こうや。最初っから力を入れてちゃ疲れっちまうわ」

 朔があまり気落ちしないようにと気を遣って、けらけらと主水は笑う。狸の妖魔らしからず生真面目に過ぎる所のある朔と、狸の妖魔らしく呑気であっけらかんとした所のある主水の夫妻は、ちょうどお互いの性格の凹凸が嵌まって、夫婦仲を良好なものに保っている様だ。
 夫と子に慰められて気を取り直し、朔は主水が心底惚れ抜いた笑みを浮かべる。

「ふふ、ありがとう。私はもう大丈夫ですよ。さあ、早く行きましょう。ここはまだ危ないですから」

 そう朔が告げ、一時の休憩を終えた狸の親子らが再び足を動かし始めようとした時、巨岩の向こう側から一人の若者が姿を現した。
 黄塵混じる風に靡くどこまでも深い闇色の黒髪、血を抜く事が美しさに繋がるのかと錯覚しそうな白い肌、夜空を切り裂く流星の尾を思わせる鼻筋、虚空の果てを見ているかのような幽妙の雰囲気を漂わせる瞳。
 顔を構成するあらゆる部位が人ならぬ者の手によって吟味されたとしか思えぬ途方もない美貌の若者であった。
 人間の美醜を完全には理解し得ぬ獣たる主水らを、一目で忘我の域に追いやった美貌の主は、外から来る災い――黄昏夕座に他ならない。
 そして人と獣の境を越えるほどの超絶の美貌以上に主水らを魂から雁字搦めにしたのは、夕座の全身から漂う妖魔のものとは異なる、しかし氷雪のごとく冷たい妖気であった。
 人に他ならぬ姿をしながら、人とは思えぬ美貌と異様な気配を放つ夕座を前に、主水も朔も嶽も、息をする事さえ忘れて呆然と夕座を見上げることしかできない。
 一方の夕座はと言えばいつもと変わらぬ青い着流しの背に、刃長四尺にもなる妖刀紅蓮地獄を背負い、右の眉を跳ねあげて足元の狸達を見下ろしていた。
 およそ道徳や人の道とはかけ離れた価値観の中に生きている若者であったが、狸らを見下ろす顔は、不思議と人間臭い感情が浮かんでいる。
 どうやら思いもかけぬ所で出くわした、夕座からすれば無力なことこの上ない狸達の処遇を決めかねているらしい。

「ほう。妖哭山の妖魔が外に出た事例は大狼ただひとつであったが、私の目の前に二例目がおるわ。さて、これはどうしたものか」

 雪輝が大狼と同一視されている為に二例目に数えられていないだけで、正確に言えば主水らは三例目になるのだが、その様な事は夕座にも主水らも知らぬ事であるし、どうでもよいことだろう。
 如何なる人物画の巨匠でさえも再現し得ぬ優美な線を描く顎に左手を添えて、夕座は思案するように半眼に瞼を閉じつつ、しげしげと主水らを見つめ、やがてこう口を開いた。

「ふむ。決めた。お主らは――――」


 異母弟飢刃丸に妖狼の長の座を追われて、負傷した狗遠を雪輝が匿ったのは、ひなや鬼無子と暮らしている樵小屋ではなく、ひなと初めて出会った生贄を運び込む為の小屋の方である。
 ひなと出会うまでは雪輝も塒にしていた小屋であり、以前に雪輝がひな喰われたかどうかを確認しに来た村人達を脅す際に壊した戸の方も修繕されており、小屋の中に隙間風が吹き込むような事や、雨露が沁み入ってくる事ももない。
 妖哭山の外部に移り住んでからの数年来をこの小屋で過ごした事もあって雪輝の妖気が小屋全体に沁みついており、雪輝の縄張りの範囲内に位置している為、内側の妖魔達が外側に進出し始めた今でも、さほど周囲に妖魔の気配が増えた様子はない。
 目の前に置かれた牡鹿を一瞥した後、狗遠はその牡鹿を運んできた雪輝へと視線を映した。
 牡鹿と言っても角は大きくねじくれてあちらこちらに鋭い突起を伸ばし、息絶えてだらりと舌を伸ばす口から覗く歯は、杭のように鋭く伸びていて、肉食獣の牙に他ならない。
 これでも妖魔ではなく、妖哭山の環境に適応する形で進化した鹿の派生種である。
 妖哭山以外の山に親しんだ熟練の猟師であったら、まず間違いなく妖魔であると勘違いする異様な外見だ。
 性質も外見に似つかわしく自分よりも体躯の大きな熊であろうが虎であろうが、怯むことなく挑みかかって、肥大凶暴化した角で突き殺し、びっしりと口内に生え揃った牙で肉を喰らいにゆく獰猛さだ。
 それでも雪輝からすれば片手間に狩る事の出来る他愛のない獲物に過ぎない事は、雪輝の巨躯に傷一つなく、返り血もまた一滴も付着していない事から分かる。
 肩高およそ六尺前後と、その体躯が異常に巨大なことを除けば双方共に灰と白銀と、色の違いこそあれ山の化身と見えても何ら不思議のない威厳と美しさを誇る魔性の狼達であったが、狗遠の方は雪輝に対して理解しがたいものを見る目を向けている。
 そんな狗遠の視線に気付き、雪輝は分かりやすく疑問を示した。首を傾げながら口を動かそうとしない狗遠に問いかけたのである。
 雪輝が口を開いた時に覗いた真珠色の牙にさえ、牡鹿の血が着いていないのが、狗遠には不思議だった。

「どうした、喰わぬのか? 横取るような真似はせぬから安心せよ」

 お前の為に獲ってきた、と恩着せがましい調子は一切ない雪輝の言葉であったが、狗遠は不機嫌そうに答えた。

「お前がそんな真似をしないことくらいは分かっている」

 どこか憮然とした様子に変わった狗遠に、雪輝はますます訳が分からんとばかりに、両耳をはたりと一度動かす。とかく耳と尻尾が嘘を吐けないのが、この狼の特徴の一つである。

「ならば毒でも入っているのかと気にしているのか。左様な事をしても私には一片の得もないことは、お前にも理解できよう。お前の首を持って飢刃丸に阿(おもね)るような事はせん」

「それも分かっている」

「ではなぜそのような目で私を見る?」

 狗遠は心底不思議そうな顔をする雪輝の事が、小憎らしくて仕方がなかったが、傷を負い万全には程遠い今の自分に、このすっ呆けた白銀の狼の庇護が遺憾ながらも必要である事は理解しており、一応は言葉を選んで返事をした。

「お前のする事に私の理解が及ばぬからだ。以前からおかしな奴だとは思っていたが、私を匿い、更にはこのように獣を獲って私に与えに来るなど、私の一族の者であったら、いや、この山に生きる妖魔であったら誰もすまい。お前以外はな」

「なるほど、確かに私がこの山ではいささか変わり種である事は自覚のある所。内側の妖魔共であったなら、傷ついたお前を前にすれば好機とばかりに喰おうとするだろうからな。
 しかし、先も言った様に私は私の心が望んでいる事をしているに過ぎぬ。お前には珍妙奇怪、私に何の得もない事のように思えても、私にとっては気の済むようにしている事なのだ。無理に理解しようとせずとも良い。今は腹を満たして英気を養うが良い」

 狗遠とて雪輝の言う事は頭では理解できるのだが、これまで妖哭山の内側で生きた経験からどうしても雪輝の行為に対して納得が行かず、一歩構えてしまうのだ。
 とはいえ腹が減っている事も、栄養を取ってふざけた真似をしてくれた弟に報いを受けさせる為にも、今は目の前の新鮮な血の匂いが薫る牡鹿を残すことなく食らわねばならないのもまた、揺るぎない事実である。
 狗遠は、牡鹿を挟んで自分と顔を突き合わす位置で腹ばいになっている雪輝の顔を見た。
 はたりはたりと耳を動かしながら、青い満月の瞳で狗遠の顔を見ている雪輝は、相も変わらぬ穏やかな雰囲気のままである。
 狗遠は自分でも分からぬ衝動にかられて、そっぽを向く。誰かに食事の風景を見られるのを嫌がったのは、今回が生まれて初めての事だった。

「あまりじろじろと見るな。食べ辛い」

「そういうものか? 他者の目など気にする性質(たち)とは思えぬが、まあ女性ならそう思う所もあろう」

 鬼無子は私が見ていても気にせずにばくばくと食べて、何度もお代わりするのだがな、と雪輝は心の中でこっそりと考えた。
 鬼無子が耳にしたら顔と耳を赤くして、雪輝に抗議しただろう。
 あまりに簡単に想像できたものだから、雪輝は狗遠から視線を逸らす途中、つい口元が緩みそうになるのを堪えなければならなかった。
 狗遠と牡鹿から雪輝が視線を外すと、ほどなくして狗遠が牡鹿にかぶりついて牙を立て、毛皮を切り裂き、傷つけられた血管から心臓から送り出されたばかりの血液が溢れだし、血の滴る肉が骨から引き剥がされて、牙と牙によって咀嚼される音がしはじめる。
 ぷん、と小屋の中に濃厚な血の香りが満ち始める。
 この山の妖魔なら血の香りを嗅いだ端から涎を滴らせて食欲と破壊衝動に昂る所だが、空腹や殺戮から縁遠い体質と性格の雪輝にとっては、好ましい匂いとは到底思えず、鼻先に小さく皺を寄せて不愉快そうに狼面を顰めている。

「狗遠、食べながらで構わぬから、私の質問にいくつか答えてくれぬか」

 ばり、と骨を噛み砕く音が雪輝の耳を揺らした。狗遠が噛み千切った牡鹿の首から上を噛み砕いて、頭蓋骨や特徴である大角、目玉、脳味噌などを喰らっているのだろう。
 しばらく咀嚼の音が続いてから、狗遠が承諾の返事をした。狗遠が口を動かす度にぬちゃり、という水音が零れる。

「よかろう。私に答えられる事であればな」

 また、ぐちゃり、と生肉を咀嚼する音がひとつ、ふたつと続く。雪輝が仕留めてきた牡鹿は、狗遠の舌を十分に唸らせる味らしい。
 ふむ、味は悪くなかったようでなにより、と雪輝は心中で頷いてからこう切り出した。

「お前には不愉快な事であろうが、どうやって飢刃丸がお前に勝ったのだ? 真っ当に戦えばお前の方が地力は上であるはず。不意を突かれたか? それとも一対一ではなかったのか?」

 ばきり、とひと際大きく骨の噛み砕かれる音が狗遠の噛み合った牙の間から、細かい骨片から零れ落ち、次いで牙と牙とが怨念の籠る歯軋りの音を立てる。

「言葉を隠さぬのはお前の長所であり、短所だな、銀色の。まあいい、こうしてお前の庇護を受けねばならぬ身であれば、屈辱の記憶を思い起こすことも甘んじて受け入れるしかあるまい」

「そこまで言わぬでもよいと思うのだが……。いや、お前の気に障る事を不躾に口にした私の落ち度か。すまん」

「謝るな。余計に腹が立つわ。ふん、私の生殺与奪の権利を握っていると、分かっているのか、お前は。いや、分かってはおらぬか。まあ、いい。深く考えても考えるだけ損であろう」

 狗遠はおそらく産まれて初めて溜息を吐いた。
 両親が蛇妖族の紅牙に喰われた時も、飢刃丸以外の弟妹が他種の妖魔達との闘争の中で命を散らした時も、吐いた事のない溜息であった。
 それをさせた当の雪輝はと言えば自分が何をしたのか、まるで分かっていない様子で、狗遠の機嫌を損ねてしまった事に対して、申し訳なさを感じたようで両方の耳を前に倒している。
 本当にこいつは分かっていない、と狗遠はもうひとつ溜息を吐いてから、気を取り直して雪輝の質問に対する答えを口にしはじめた。
 これ以上雪輝と付き合っているとどうにも調子が狂って仕方がない。

「私が飢刃丸に後れを取ったのは、ひとえに私があやつを見誤っていたからよ。銀色、通常我らが妖魔を喰らっても、相手がよほど己より格上でもない限りは、大幅に力が上がることはない。
 そうさな、百の力を持った妖魔の血肉を、同じように百の力を持った妖魔が喰っても、精々が一か二ほど上がれば良い方よ。
 だが飢刃丸はその例外だったのだ。妖魔の血肉を喰らった時の力の上昇率が、尋常ではなかったのだ。一つ二つ上がればよい所を、あやつは五つも六つも力を増す。あやつはそうして高めた力を抑えることで、その特異性を隠し続けて、私を長の座から追い落とす機を狙っておったのよ」

「妖魔を喰らう事で得られる力の増大か。あれで飢刃丸は慎重な所もある。お前を長の座から追い落としたと言う事は、お前の力を抜きにして他の妖魔達を相手に互角以上に戦い得ると判断したからだろう。となれば、これは手強いな」

 数年前に飢刃丸と初対面を果たした際に、返り討ちにした時の記憶は参考にはなりそうにない、と雪輝は肝に銘じた。
 雪輝の知る飢刃丸と狗遠を屈辱の泥濘に突き落とした飢刃丸は、その強大さにおいてもはや別の妖魔と言える域に達しているだろうことは、想像に難くない。

「銀色、私の見立てではお前の力は蛇妖の紅牙や妖虎の闘魔(とうま)に次ぐものがある。だが飢刃丸が動いたと言う事は、兼ねてから憎んでいたお前を倒せるだけの力を得たと確信したという事だ。ひいては紅牙や闘魔と戦える力を手にしたのだろう」

 紅牙は以前、雪輝がひなを背負って天外の庵を訪ねた際に遭遇した蛇妖の雌長の事だ。
 雪輝をして自分では勝てないと断言するほどの強者であり、おそらくは妖哭山最強の妖魔である。
 そして闘魔とは妖虎族最強の戦士にして若き長を務める雄の妖虎である。
 人間でいえばまだ凛とそう年の変わらぬ若者であるのだが、その潜在能力と生まれ持った莫大な妖気と強靭な肉体、戦闘に特化した妖哭山の妖魔達の中でもさらに突出した才覚の主で、長じれば紅牙をも凌駕する大妖となるのは間違いない。
 闘魔と雪輝の実力はやや闘魔に軍配が上がるが、実際に対決する際のわずかな体調の良し悪しや前後の状況次第で、いかようにも勝敗の天秤は傾く側を変える程度の実力差である。
 ただ闘魔の年齢を考えれば、雪輝が外に出てからの月日の間も恐るべき速度でその戦闘能力を増し、雪輝の戦闘能力を凌駕している可能性は決して小さくはない。
 その紅牙らや闘魔と戦えるほどの力を本当に飢刃丸が手にしたのならば、雪輝を滅ぼす自信を飢刃丸が抱いていもおかしくはない。
 少なくとも狗遠はそう判断していた。だからこその、雪輝に対する忠告である。狗遠は果たして雪輝に対する忠告が、雪輝の身を案ずるが故に出たからなのか、それとも雪輝の助力が欠かせぬからこそした事なのか、分かってはいなかっただろう。
 そんな狗遠の心情は知らず、雪輝は自身と紅牙と闘魔との実力差を比較して、正直な所を述べた

「闘魔はともかく紅牙が相手では、どんなに良くても相討ちに持ち込むのが精一杯というのが、私の正直な所だ。だが、私も以前にお前と出会った時に比べて、それなりに力を増しておる。飢刃丸にそうそう遅れはとらぬ。
 すまぬがもう一つ質問をさせてもらって構わぬか、狗遠よ。飢刃丸が妖狼の長の座に就いたのが、やはり内側の妖魔達がこちら側に姿を見せ始めた原因か?」

「ああ。お前も白猿王が猿どもから追われた事は知っていよう。飢刃丸はそれを好機と見て残る猿どもを襲い、皆殺しにしたのよ。そして力のある猿どもの血肉を尽く食らって、一挙に力を高めおった。
 そして私を襲い、その勢いをかって他の妖魔共へ襲い掛かり始め、一族の者達に妖魔共の肉を持ってくるように命じたのだ。飢刃丸の隠していた力は、他の妖魔共にとって脅威と言えるだけのものだったらしくてな。それで他の妖魔共も力を高める為に外側の妖魔共に目を向けたのだ」

「こちら側の妖魔達は内側の者達よりも弱いものがほとんどだ。こちら側でどれだけ貪ったとて、望むほどの力の増大は見込めまいに」

「なりふり構わぬと言う事よ。私も飢刃丸の目を晦まして以来、内側の情勢は知らぬが飢刃丸は私やお前の考える以上に、暴れ狂っておるのだろう。でなければああも内側の妖魔達が、こちら側に姿を現す筈がない。まあ、蛇妖と妖虎どもはまだ内側に主眼を置いている様だがな」

「ふぅむ、確かにその二種はこちらでほとんど姿を見ぬな。いずれにせよ、お前に再び妖狼の長の座に就いてもらう事が肝か。すまぬな、怪我人に長話をさせてしまった。今は体を癒すことだけ考えよ」

「ふん、言われるまでもない。しかし、銀色よ、お前とていずれはこの争乱の渦中に巻き込まれるのは明白よ。既に我が一族の者と出くわしているが、それ以上に飢刃丸はお前を目の敵にしている事が問題だ。
 そして天地万物の気を肉体の元としているお前は、純粋な天地の力の塊と言っていい。そんなお前の血肉を食えば、食っただけ力は増大化する。そう遠くない内にお前を標的に動き始める。あまりのんびりと構えてはおれぬぞ」

「聞けば聞くほど放ってはおけぬ状況になっていたか。私の至らなさゆえか、いつも事態が手遅れになってから私は気付く。しかし、狗遠よ」

 この場にはそぐわぬどこか楽しげな雪輝の声に、狗遠は訝しげに眉根を寄せ、口元を血で濡らしたまま雪輝の方を向いた。
 雪輝は相変わらず狗遠と獲ってきた牡鹿から目を背けたまま、笑いを含んだ声で告げる。

「怪我をして気が弱っているのか、お前にしてはずいぶんとしおらしい事を言うな。私の安全を気遣う事まで言うとは。随分と意外に思える」

 くく、と雪輝は忍び笑いさえ漏らしていた。狗遠は頭に血が昇るのを感じて、咄嗟に言い繕った。

「お前が飢刃丸に負けようものなら、私にとっても不都合だから忠告してやったまでの事だ! 下らぬ勘ぐりをするでない!!」

「はは、その様に声を荒げるのも珍しい事よな。そう声を荒げては傷に響くぞ。自愛を忘れるでないぞ」

「荒げさせたのはお前ではないか」

「そうだな。さて、私はもう行く。また来る時には何かを獲ってこよう」

 顔を背けたまま立ち上がり、戸口へと向かう雪輝の背中に狗遠は視線を追従させる。

「なんだ、銀色、ここに残らぬのか。ふん、人間の童の所へ戻るのか」

 以前、雪輝が大蛇と交戦した場所に、雪輝以外にも人間の子供の匂いが残っていた事を思い出し、なんとなく呟いた狗遠の言葉であったが、雪輝は足を止めた。
 雪輝は良く分かったな、と言おうとして狗遠の言う人間の童、つまりひなの存在を認めてしまえば、これまた厄介なことになるのではないか、と幸いにも気づいた。

「さて、お前の好きなように考えるが良い。そう寂しがるでない。出来る限りここに顔を出す。お前に倒れられては私も困るのでな。それと狗遠よ、これからは私を雪輝と呼べ。今はそう名乗っている」

「雪輝? お前の名前と言うには響きが綺麗過ぎるな」

「そう言ってくれるな。私としては気に入っているので、生涯名乗るつもりでいるのだがな」

「お前の名前がどう変わろうが知った事ではないが、まあよかろう。さっさと何処へなりともゆけ、雪輝」

「ふ、も少し素直にすればもっと可愛げが出るぞ、狗遠よ。では、またな」

 可愛げが出る、などとこれまで狗遠の知る銀色の、と呼んでいた頃の雪輝であったならば決して口にしなかったであろう言葉が出てきた事に、狗遠は雪輝が小屋を出て行くまでの間、何も言えぬままその姿を見送るほかなかった。
 ようやく雪輝がとんでもない事を口にして去っていった事に気付いた狗遠は、猛烈な反論を加えようとして、既に雪輝の姿ない事に気付き、苛立ちをぶつける相手が居ない事に口を噤むしかなかった。

「ええい、銀色、いや雪輝か。雪輝の奴め、いつからあの様におかしなことを口走るようになったのだ!? くそ、妙な事を耳にしたせいで気分の悪い!」

 狗遠は仕方なしに貪っていた牡鹿の腹に鼻先を突っ込み、まだ暖かい内蔵に牙を立てて、ぶつりぶつりと弾力のある物を噛み千切る音と共に、瞬く間に牡鹿の腹の中身を喰らって行く。
 そうする事でしか、今、狗遠の胸の中にある奇妙な感覚を紛らわせる方法を知らなかった。


 さて、狗遠を匿った小屋を後にした雪輝が向かう場所と言えば、現在の生活の場となっている樵小屋しかない。
 とりあえず狗遠の傷の方は快方に向かっているようで、さほど心配する様はない様子に、雪輝の肢は軽やかに動いて、帰る場所に向かって機嫌よく歩を進めた。
 狗遠を匿う事と現在の妖哭山の状況は、すでにひなと鬼無子達に伝えてある。
 狗遠を匿う事に関しては、鬼無子が難色を示したが雪輝がどうにも狗遠を見捨てる事が出来ぬようである事と、狗遠が再び妖狼の長の座に返り咲けば敵対する様な事はない、という雪輝の言い分を受け入れて、文句を重ねるような事はしていない。
 樵小屋の周囲は雪輝が定期的に見回りをし、所々に妖気を残している事もあって、居を移した外側の妖魔達の数もそう多くはない。
 しかし、内側の妖魔達の狂奔が激しさを増せばその狂気にあてられて、外側の妖魔達も同族同士でさえ殺し合いを始めるだろう。
 あまりのんびりと構えていられるほどの時間的余裕は、残っていない。
 器用に左前肢を使って樵小屋の戸を開いて、雪輝はただいまと一声をかける。
 斜陽の差しこむ小屋の中で、繕いものをしていたひなと鬼無子が揃って雪輝の方を向き、共に好意を寄せる相手にだけ見せる笑顔を浮かべた。

「お帰りなさい、雪輝様」

「うむ。変わりがない様で何よりだ。しかし、また妖魔の数が増えたな」

 自分の羽織の解れを繕う手を止めて、鬼無子がまさに美貌と言う他ない顔に苦い色を浮かべる。
 こうしてひなと肩を並べて穏やかな時間を過ごしている間も、樵小屋を遠巻きにしている妖魔達の数が増えているのを、察していたからである。
 事前に周囲に敷設しておいた探知型の結界からの反応と、肌で感じ取れる妖気から、鬼無子は雪輝に言われるまでもなく周囲の状況を把握していたようだ。
 それでいて鬼無子が臨戦態勢を整えず、雪輝もまたひなと鬼無子を放って狗遠の所に顔を出したのは、樵小屋周囲の妖魔達が雪輝を恐れて決して敵意を向けてはいない事を理解していたからだ。
 だがそうであるにも関わらず、雪輝が敢えて妖魔の数の増大を口にしたのは、状況が静観を許さぬほど逼迫し始めているのを、否応にも認めねばならない為である。
 雪輝は土間で足を止めた。

「そろそろ凛から色よい返事を貰わねばならぬかもしれんな」

 そう告げる雪輝の言葉に、ひなは悲しげに眼を伏せて顔を俯かせる。おそらく以前の決闘の後に、なにか雪輝が凛に対して頼み事をしたのであろうが、その頼み事はひなにとって一抹の悲しさを抱く内容であるらしい。
 ひなを万物を退けて最上位に置く雪輝の価値観からすれば、これは極めて異例の事態と言えるだろう。
 その証拠をあらわす様にひなの俯いた横顔を見る雪輝は、狼であるにも関わらずあまりにも人間的に眉根を寄せている。雪輝にしても気の進まぬ事を凛に頼んでいるのだと、この一人と一頭の様子から容易に推し量る事が出来る。
 雪輝の視線から顔を背けて、ひなは何を言うでもなく腕を動かして繕いものに専念しなおし、雪輝は何か声をかけようとかと口を少しばかり動かしたが、結局何かを言う事はなかった。
 仕方なしに肢裏を拭って板間に上がろうとした雪輝であったが、耳に馴染んだ足音に気付いて背後を振り返る。雪輝にわずか遅れて鬼無子も同じ方向に目を向ける。
 傍らに置いた崩塵に手を伸ばしていない事から、雪輝や鬼無子らにとって危険な存在ではないのだろう。
 鬼無子と雪輝の様子から来客のある事を悟った様子のひなに、雪輝が告げる。

「凛だな。それと、もう一人」

 雪輝の言が正しかった事はすぐに証明された。樵小屋の前の広けた空間から雪輝達を呼ぶ凛の声が響いたのである。

「すまないが、話がある。ちょっといいかい?」

 いつもなら断りなしに戸を開いて樵小屋の中に足を踏み入れてくる凛が、どういう風の吹き回しでか断りを入れてきた。これは、少し妙な、と雪輝達は顔を見合わせる。
 雪輝の頼みごとの結果があまり良くない方向に出た事に、引け目を感じているのかもしれない。
 顔を見合せたまま一つ頷き、雪輝を先頭に鬼無子、ひなと続いて樵小屋の外へと出る。秋の光の中に凛はいた。見慣れた熊皮の上衣の上に更に黄ばんだ木の葉の色をした羽織に袖を通している。
 ちら、と雪輝と鬼無子とひなの三対の瞳は凛の傍らに立つ小さな人影に向けられる。わずかに目元の覗く、緻密な金糸の刺繍が施された紫色の布で全身を隠したおそらくは老婆と思しい女性だ。
 腰を深く折り曲げておりひなと同じくらいの背丈しかない。その割には助けとなる杖を携えてはいなかった。
 錬鉄衆の霊的面を支える祈祷衆の総帥であるお婆だ。普段滅多なことでは里の外には出ないお婆の外出は、凛をして非常事態であるという現実を認識させるもので、しかも行き先がこの樵小屋とあっては何かあるとしか思えない。
 雪輝は興味深げに紫色の布の塊と見えるお婆へと口を開く。

「お初にお目に掛るな。雪輝と言う。凛には良くしてもらっている」

「それがしは四方木鬼無子と申します。お見知りおきを」

 軽く頭を下げる鬼無子に続いて、ひなも慌ててお婆に向けて頭を下げる。

「あ、私はひなです。初めまして」

 挨拶をしたそれぞれへかわいい孫達を見つめる祖母の眼差しを向けてから、お婆は顔を隠す布の奥で、ほほ、と穏やかに笑う。

「これはご丁寧に。私はお婆とでも呼んでおくれな。雪輝さん、鬼無子さん、ひなちゃん。貴方達の事は凛から良く聞かされていますよ。凛と仲良くしてくださってありがとうね」

「お婆、その話はあとでいいだろ」

 身内に思わぬ話を暴露された気分になって、凛はやや慌てた様子で傍らのお婆をせっついた。

「せっかちだねえ、凛は。でも仕方のない事かしらね。皆さん、突然押し掛けてしまったことを、まずはお詫びします。けれど急がないといけないお話があるのです」

 雪輝らにはお婆が錬鉄衆の中でどれだけ重要な地位にあるかは分からなかったが、穏やかな老婆然とする姿から、かすかに感じ取れる穏やかな雰囲気の中に隠れている何かを感じ取り、目の前の老婆を軽んじるつもりにはなれなかった。
 凛もひどく緊張した様子である。少女ながらに豪傑めいた所のある凛が、いくら目上の者相手とはいえそうそう態度を畏まるとは考え難い。
 付け加えれば昨今の妖哭山の状況の血生臭い状況の変化だ。お婆と凛の訪問が現状に新たな変化を齎すものである事は、言われずとも雪輝と鬼無子は直感的に理解していた。

「先日、織田家のご家来衆から里へ依頼がきました。妖魔改と兵を妖哭山へ差し向けるので、道案内をするようにと」

 妖魔改という言葉が出てきた以上、妖哭山へ足を踏み入れるのは間違いなくあの黄昏夕座と名乗った妖剣士であるだろう。
 夕座以外の精鋭たちも共に来るに違いない。雪輝は新たな危険を感じ取って、狼の面貌に険しい色を浮かべ、鬼無子に至っては夕座の姿と言動を脳裏に思い返し、不愉快極まりない顔を拵えている。
 それぞれ夕座に抱く感情に若干の差異はあったが、決して油断ならない脅威であるという認識は一致していた。
 これからの事を考えて思いやられた様子の鬼無子が、眉間を揉み解してからお婆に向けて口を開いた。

「よろしいのですか。その様な話を我々に話してしまわれても」

「内緒にしておけば大丈夫」

 ほほ、と笑いながらお婆は言う。山の民の間で限りない畏怖の念を注がれるこの老婆は、悪戯好きな子供の様な面を持っているらしい。

「でもお気をつけ。内側の妖魔達も時が来た事を悟って暴れ始めている。それに加えて妖魔改まで来ているわ。貴方達の知っている黄昏夕座は、言うまでもない事ですけれど普通ではないの。人の姿をした途方もなく強力な妖魔を相手にすると思わないと危ないわ。彼らは三日後、この山に入ると告げました」

 三日か、と鬼無子は呟き、ひなはまたしても平穏な日常が失われる事を知り、不安げに鬼無子と雪輝の顔を交互に見る。すると、ひなは雪輝が老婆でも自分でもなく森の木々の彼方を見ている事に気付いた。
 雪輝の白銀の全身から発せられている雰囲気が、にわかに剣呑なものに変わり始め、ひなは息を呑んだ。

「三日と言うのは嘘だったらしいな。既に来ている」

 雪輝の言葉につられて、お婆が糸の様に細い目を雪輝と同じ方向へと向けた。雪輝は嗅覚と聴覚から招かざる客の来訪を感知したが、はたしてお婆は何を持って雪輝と同じモノを知覚したのか。

「あら、雪輝さんの仰る通りの様ねえ。たくさん兵士を連れているわ。可哀そうに、ほとんど生きては帰れないでしょう」

「おそらく苗場村の者達がひな達と遭遇した時に居た凛の姿から、山の民と私の関係を疑ったのだろう。カマをかける意味もあって三日と偽ったのやもしれぬ」

 既に刃を突きつけられたも同然の心構えで、雪輝は全細胞に流入している妖気の量を増大させ、瞬時に最大の戦闘能力を発揮できるように整えている。
 最大の問題は妖哭山へと足を踏み入れた者達がまっすぐに、狗遠を匿った生贄小屋へと向かっている事だった。
 白猿王一派との戦闘の時、怨霊達との戦いの時、そして今度もまた、雪輝は判断を誤ったのである。
 妖哭山内部で生まれ育った狗遠の気性の危険性を考慮して、鬼無子やひならと同居させない選択肢を選んだのだが、こうなってはすぐ駆けつけられる距離に匿わなかった事が仇となってしまった。

「お婆よ。お主ら山の民の掟の厳しさを知った上でなお願う。このひなを、お主らの里で匿ってやってはくれまいか」

 ひなと凛が、はっと雪輝の顔を見つめる。それはかねてより雪輝が凛に対して依頼した内容と同じものであった。
 雪輝と鬼無子のみが戦う力を有する現状では、ひなの身の安全を守るのは数で来られた場合に大きく難易度を上げる。
 事実、白猿王の時はひなを人質に取られて雪輝は死の淵に追いやられかけたし、その後の怨霊との戦いでも鬼無子は動きを大幅に制限されてしまった。
 怨霊との戦いではひなに危険が及ぶのは事前に防げたが、外の人間達と山の妖魔達を相手にしなければならない現状では、より安全な方法を考慮すべきと雪輝と鬼無子が判断し、凛に今度何か危険な事態が起きた際に、預かってはもらえぬかと頼みんでいたのである。
 凛がどこか懇願するようにお婆の方を向く。里長にも強い影響力を持つお婆の許しがあれば、ひなを預かる事も不可能ではない。
 凛としては、実の妹も同然に可愛がっているひなの安全に役立てるなら、出来る限りの事をしたいと心底思っていた。
 お婆は小さく肩を揺すりながら答えた。言葉も覚束ない老齢であろうに、かくしゃくとした物言いである。

「私にお任せあれ。ひなちゃんの事はお預かりいたします。ただ、掟もある関係上、自由にはしてあげられませんよ」

「この事態を収めるのに相当時間がかかるのは間違いない。その期間の間、ひなの身の安全を守り抜くのは、情けない話だが難しいものになるだろう。私達が自由に動く為にもひなには安全な場所に居て貰いたい」

「なら私の方から里の者達に伝えておきましょう。ひなちゃんはそれでよいのですか?」

 ひなは泣き出しそうにあるのを堪えている表情を浮かべている。いつもいつもこういう時に自分が無力である事が、ひなには悔しくて情けなくて仕方がなくなる。
 だがここで雪輝達の提案を拒む事が余計に雪輝達を苦しめることになるのを、理解するだけの聡明さをひなは持っていた。
 言いたい事はある。雪輝と鬼無子が命の危険のある場所へと赴いて、再び血を流し痛みに苛まれる事態になるのだ。
 ひなは小袖の裾をぎゅっと握りしめて、くしゃくしゃに歪みそうになる顔を必死に笑顔を浮かべて、自分をまっすぐに見つめる雪輝と瞳を交わした。

「また、行かれるのですね」

「ああ。そうせねばならぬ事だ。分かってくれとは言わぬ。だがひなの居る所が私の帰る場所だと、前にも言ったろう。必ず帰ってくるから待っていておくれ。ひなが居てくれるから私は頑張れる」

「はい。雪輝様のお帰りをいつまでも待っていますから、絶対に帰ってきてください」

 首を伸ばしてひなに頬を寄せる雪輝の首筋に、ひなは抱きついて雪輝の存在を感じる為に強く強く抱きつく。
 柔らかで繊細な雪輝の毛並みを通じて逞しい雪輝の肉体の存在を感じる。雪輝もまたひなに甘えるようにして首を動かし、ひなのぬくもりを堪能していた。
 またしばらく離れ離れになる間、ひなの事を忘れぬ為に、短い時間ではあったが雪輝は全身を使ってひなの匂いやぬくもりを感じ続けた。

「鬼無子共々必ずや帰ってくる」

 雪輝の首に回していた腕を放し、ひなは眼尻に涙の粒を浮かべながら、雪輝の顔を見上げた。ひなを安心させる為に、雪輝はことさら優しげな光を瞳に浮かべている。
 次にひなは鬼無子とも抱き合った。我が子を抱きしめる優しい母を思わせる仕草でひなを腕の中に抱きしめて、鬼無子は死闘を目前に控えて昂りつつあった神経が安らぎを覚えるのを実感した。
 ひなの存在は鬼無子にとって一種の甘美な麻薬の様なものとなっていた。いずれ妖魔へと心身を堕する鬼無子は、いますぐにでもひなから離れるべきであるのに、このぬくもりを手放すことは恐怖さえ伴い、今日に至るまで鬼無子はひなの傍に在り続けている。
 名残惜しさを豊かな胸の中に満たしつつ、鬼無子はひなの背に回した腕を解いた。

「雪輝殿の事はそれがしが必ず守る。ひなはきちんと食べてぐっすりと眠って、それがし達が帰って来た時に元気な姿を見せるのだ。約束だぞ」

「はい」

 よろしい、とひとつひなの頭を撫でてから、鬼無子はお婆と凛の方へと視線を動かす。お婆と凛の二人は、揃って首を縦に振る。

「このままひなをお預けいたします。それがし達はすぐに動かねばならぬ様ですから」

「老い先短いですけれど、私の命を賭けて」

「うちの里は一度も妖魔共の侵入を許した事がないのが自慢さ。だからひなの事は安心して」

 お婆と凛の言葉を聞き届けてから、雪輝は鬼無子に声を掛ける。

「行くぞ、鬼無子。私の背に乗れ」

「はっ。失礼仕ります」

 軽やかに地を蹴った鬼無子が自分の背に跨るのを待ち、雪輝はひなの方を振り返る。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

 ひなは深く腰を折り頭を下げながら答えた。そしてひなの言葉を聞き届けた雪輝が地を蹴って風と変わり、その姿が見えなくなるまでひなは頭を下げ続けた。
 風が吹く。
 血の匂いと断末魔の呻きを乗せた風が、ひなの長い黒髪を撫でて行った。

<続>

頂いたご感想への返事は又後日に。

2/24 12:16 修正



[19828] その十七 邂逅
Name: スペ◆52188bce ID:87e9f2f7
Date: 2011/03/20 20:29
その十七 邂逅


 疾風も鈍間と蔑む事の出来る速さで雪輝はその背中に鬼無子を乗せて、山中を駆ける。
 四本の肢が大地に触れる際、接地面に妖気を回して小規模の爆発を起こさせて加速し、一歩ごとに走行速度を加速させる。
 あまりの移動速度の為に風はごうごうと全身を打つかのように流れて行く。その中で、雪輝は確かに、久しぶりに人間達が来たと、暖かな血肉や臓物の味を思い出して騒ぐ妖魔達の歓喜の声を聞き、既に妖哭山の大地や木々を朱に濡らしている人間の血の匂いを嗅ぎ取っていた。
 複雑に混ざり合った匂いから、妖哭山に足を踏み入れた愚かな人間達の数を、雪輝は数百単位と判断していた。
 地面の下から、はるか頭上から、木々や草花に擬態していた大小無数の妖魔達の襲撃を受けて、既に交戦状態に入っている事も時折人間の呻き声の中に、妖魔の苦しみの声も混じっている事から分かる。
 対妖魔戦闘を考慮した訓練を受けた組織規模での侵攻、とは妖魔改が動いている事を考えれば当然の事ではあるが、狗遠を匿った生贄小屋への移動速度が苗場村の村人達がひなを生贄小屋に置いて言った時と比べると、格段に早い。
 雪輝の縄張り以外の場所での妖魔との遭遇戦が広がり続けてはいるが、生贄小屋までの道筋に関しては戦闘がほとんど発生しておらず、人間達の歩みを阻む者が居ない。
 まだ異母弟に負わされた怪我の癒えきらぬ狗遠ではいささか荷が勝つ相手であろう。
 これは雪輝にとって妖哭山外部の人間の力がどれほどであるのか、全くの未知数であるがための不確定要素の強い判断であったが、鬼無子から話を聞いた黄昏夕座なる男が居たならば、狗遠の命の灯はまさしく風前に揺らいでいる状態だ。
 雪輝は背中に乗せているのが非力なひなではなく、人間の規格を超越した鬼無子である事から、疾走に加減を加える事はなく全力で大地を駆ける。
 妖気の防御膜を展開して空気抵抗を軽減し、尋常な生物にはあり得ない身体能力を有する雪輝が、高速移動で周囲に及ぶ影響を考えずに全力で走れば、狗遠の居る生贄小屋に辿り着くのにさしたる時間はかからない。
 ただ、それはなにも邪魔が入らなかった場合の話だ。
 速度を維持していればまもなく着く、といった所で雪輝の巨躯を四方から茶色の何かが絡め取らんと迫る。
 先端に行くにつれて細まり、丸い吸盤がいくつもあるそれらは烏賊か蛸の足であった。合計八本。
 直径は二尺五寸(約七十五センチ)にも及び、一巻きで人間の体など全身の骨と内臓を潰すに足るものだろう。
 久々の獲物の出現と内部の妖魔の出現に気を荒くしていた妖哭山外部側の妖魔の一種、大王陸蛸である。
 海の中に棲む蛸をはるかに巨大化凶暴化させ、尚且つ陸上生活に適応させたものと考えればよいが、足にずらりと並ぶ吸盤それら全てが、刃の様に鋭い歯を幾重にも生やした口である事が大きな特徴だ。
 面倒な時に、と雪輝が舌打ちしながら背中の鬼無子の名を叫んだ。

「鬼無子!」

 雪輝の叫びに応じた鬼無子は、雪輝の背中を両足で強く挟み込んだまま上半身を起こし、腰帯に佩いた愛刀崩塵を虚空に一閃させ、降り注ぐ陽光を繚乱と散らして白銀の満月を描く。
 愛する狼の意図を声の調子から即座に組み取った鬼無子の振るった一閃は、四方より高速で迫り、さながら破城鎚のごとく映る大王陸蛸の足を四本鮮やかに断つ。
 崩塵の一閃で切断された四本の蛸足の先端は、白い断面を晒しながら木々の彼方へと慣性の法則に従って飛んで行った。
 残る四本の蛸足を雪輝は細かな動作で尽く回避し、普段は締まっている爪を伸ばして更に真珠色の爪に妖気を乗せて不可視の刃を延長してから、前肢を四度振るう。
 鬼無子の技量と崩塵の斬断力にも匹敵する雪輝の爪が、雪輝達を追って迫ってきた残りの蛸足を纏めて斬り飛ばした。
 さらに雪輝の苛立ちの混じる妖気は斬り飛ばした蛸足の先端を侵食し、空中で蛸足を腐敗させて目に見えないほど小さな塵へと分解する。
 木々をへし折りながら雪輝を追おうとしていた大王陸蛸に止めを刺すべきか、と雪輝が一瞬首を巡らして背後を振り返ったが、足を半ばから失った大王陸蛸は更に別の大王陸蛸数匹に襲い掛かられて、二階建ての家屋ほどもある体を貪られていた。
 大王陸蛸最大の武器である足を尽く失った為に、同族からすればただの食料と判断されたがためであろう。妖哭山では種を問わずによく見られる同族食いの光景に過ぎない。
 雪輝はさしたる関心を示すこともなく、視線を狗遠の居る生贄小屋の方向へと向け直すが、その道中に次々と新たな血の匂いと殺し合いの気配が生じている事に気付いて、白銀の眉間に皺を刻む。
 雪輝と鬼無子であれば妖哭山外部の妖魔で叶う者はいないが、いちいち相手にしていては無視できないほど時間を取られることになる。

「鬼無子、急ぐぞ」

「それがしの事はお気になさいますな」

 すまぬ、と短く告げて雪輝は更に肢を速めた。


 雪輝の取ってきた鹿を食べつくし、血の一滴、毛の一本、骨の一辺に至るまでを食べ尽くして、前肢の毛づくろいをしていた狗遠は雪輝にわずかに遅れて近づいてくる人間達の存在に気付いていた。
 腹の当たりの毛皮をにかわを塗った様に固めていた自分の血を舐め取って毛づくろいを済ませてある。
 狗遠は身嗜みという概念は持ち合わせてはいなかったが、また雪輝が来た時にみすぼらしい姿を見せるのはいかんな、となんとはなしに思ったのである。
 体毛に隠れる傷跡はうっすらと皮が覆いはじめており、ある程度の戦闘行為にも耐える事は出来る。
 自分の状態が完全とは言えぬ事を誰よりも狗遠は認識していたが、それ以上にこの雌狼の心を占めていたのは極めて凶悪な衝動であった。
 殺戮と破壊を本能の中核に備える妖哭山内部の生粋の妖魔である狗遠にとって、例え我が身が傷を負っていようとも、血の雨と死の風を降らす事こそがなによりも優先される。
 久方ぶりに人間の血肉の味が楽しめるのかと、狗遠は舌舐めずりをして立ちあがる。狗遠は死ぬ寸前の人間の臓物を引きずり出し、わざと目の前で喰らう事を好んでいた。
 大狼の出現や外部への移住に前後して、めっきり妖哭山内部に人間が足を踏み入れる事は無くなっていたから、本当に久しぶりの事である。
 さて目玉をほじくり出して舌の上で転がしてやろうか、それとも指を一本ずつ齧り取って咀嚼してやろうか、いや四肢を一本ずつ端から食ってやるのも面白い。
 残虐無比な事を考えていた狗遠であったが、生贄小屋の戸口からのそりと雪輝にも肩を並べられる巨躯を覗かせた時、不意に雪輝の顔が思い浮かぶ。

「雪輝の奴めは人間殺しを嫌がるかもしれんか」

 口にしてみれば困った様なそれでいて怒るわけにもいかぬ表情を浮かべる雪輝の姿を、簡単に思い浮かべることが出来て、狗遠はこの雌狼にとって初めてといっていい苦笑を浮かべる。
 自分自身でも気付かぬその苦笑は、しかしすぐに消え去った。ほとんどの人間達は山の妖魔達との戦いに足を止められているようだが、一部の者達は変わらずにここを目指している。

「ここをまっすぐに目指しているか。となれば、これは雪輝めに売られたか?」

 妖哭山内部だけが世界の全てであった狗遠にとって、妖哭山の外に広がる人間達の世界は知識の外にある別世界であったが、外の世界を騒がせた大狼が自分や雪輝と同じ狼の妖魔であった事や、妖哭山に足を踏み入れた人間達が妖魔との戦いに慣れている者達である事は既知だ。
 大狼は既に過去に雪輝が滅ぼしているが、外の世界の者達はその事を知らないだろう。ならば大狼を滅ぼすべく動いた人間達に、狗遠を大狼と誤認させるためにこの小屋に匿ったのかもしれない。
 雪輝が自分を狙われない為に、狗遠に身代わりをさせる為に生贄小屋へと匿ったのだと考えれば、まるで雪輝にとって得のない話ではなくなってくる。
 しばし狗遠は黙考していたが、今度ははっきりと笑みを浮かべて首を左右に振る。

「そんな賢しい事が出来る位なら、あ奴は外に移り住んだりはせぬか」

 雪輝がそういった誰かを犠牲にしてまで自分の利益を求める思考を有しているのなら、とうの昔に狗遠の求めに応じて番になり、不穏分子である飢刃丸を排除して魔狼一族の長にでもなっているだろう。
 ここ数日の間、毎日仕留めたばかりの獲物を狗遠の元へと欠かさず運び、実に献身的に狗遠の世話をしていた雪輝の姿とこれまでの言動から、狗遠は自分の思いついた可能性をすぐさま思考の海の奥底に捨てることにした。
 あるいはその行為の中に、そうであって欲しい、雪輝が自分を売ってなどいない、と信じたい思いがどれほど含まれていた事か。それは恋慕した相手に裏切られたと思いたくないと切に願う乙女の心に他ならない。
 そもそもそんな自分の心に気付いていない狗遠には、まるで思いつく事の出来ないことだろう。
 先ほど食べ終えたばかりの鹿の血の薫りが口の中に乗っていた。その余韻に気を高ぶらせ、全身から雪輝に勝るとも劣らぬ妖気を迸らせる。
 だがその妖気に含まれる悪意は雪輝とは比較にならぬほど濃密で、敵対していない者への死さえも望む残虐性に満ちている。
 それこそがなによりも雪輝と狗遠との在り方の違いを示すものであるだろう。
 狗遠が殺戮――戦闘ではない――の意識を高めていれば、人の手が入った道の向こうからこの小屋を目指して歩いて迫る人間どもの姿が瞳に映る。
 いずれも男ばかりで体格の優れた真ん中の男は、背に身の丈ほどもある肉厚の巨大な刀を背負っている。
 他には僧侶くずれと思しい数珠を首から何重にもかけて、所々に損傷の痕跡が見られる錫杖を手にした禿頭、異常に痩せこけて墨染の着流しから骨の浮き上がった体を覗かせ、腰の左右に刀を履いた浪人。
 どれも体から血と屍の匂いを立ち昇らせる凶人共。まっとうに生きようとしても周囲からの迫害と、殺し合いに首まで浸かりきった感性から陽の当たらぬ道でしか生きられないのは明白な連中である。
 人の世界の事など考えた事もない狗遠からすればそんな事はどうでも良い瑣末な事であったが、雪輝からの施しを受けて毎日腹を満たして鈍りを感じ始めていた体を解すには丁度よい相手なのは確かだ。
 雪輝がこちらに来るまでの間にこいつらやその他の人間どもで、死体の山を築いたらどんな顔をするだろうかと、狗遠は冷酷な笑みを浮かべる。
 もしこの場に鬼無子か凛がいたならば、三人の退魔士の内、人斬り包丁を背負った男が七風の町で出くわした退魔士もどきである事に気付いただろう。
 鬼無子はさしたる力を持たぬと判断した大男だが徒党を組んだことでその力をどこまで高める事が出来るのか。
 不意を突いて襲い掛かる事も出来たが、敢えて待ちかまえていた狗遠の姿に気付いた三人の退魔士は、それぞれの顔に緊張のさざ波を起こしてからすぐさまそれぞれの獲物を手にする。
 大男は背の人斬り包丁を抜き放って両手で構え持って剣先を狗遠へと向ける。僧崩れは錫杖を右手に持ち、左手は連続して印を組み始めて、口からは経文の一節が零れ落ちる。二刀流の男は腰の獲物の柄に掌を置いている。
 狗遠自身の人間との戦闘はじつに数十年ぶりの事となる。久方ぶりの人間相手の戦闘ではあったが、狗遠は慎重である事よりもこれまで抑え込んでいた闘争本能や苛立ちを発散する相手を見つけられた喜びを優先した。

「おい、人間ども」

 大男の切っ先がかすかに揺れる。大狼が口を利いた事に対する驚き、強力な妖魔が稀に持つ言葉で相手を支配する言霊への警戒、機先を制する為の機を見計らう為の神経の集中。

「大狼の首が目当てのなのだろう? ならば、ほら、ここに貴様らの目当てのものがあるぞ。ほら、ほらさっさと取りに来ぬか。来ぬのなら私から行くぞ。人間を食うのは久しぶりなのでな、遠慮も加減も出来んしするつもりもない」

 大狼云々というのは狗遠の当てずっぽうではあったが、三人の男どもはその言葉に反応を見せて、狗遠の言葉が正鵠を射た事を示した。
 狗遠の口元が大きく歪む。狼の面貌にも明らかな凶笑であった。ようやく与えられたおもちゃで遊ぶ事を許された子供の笑みをとびきり邪悪にすればなる――そんな笑みだ。
 分かりやすい狗遠の挑発の言葉に、三人の退魔士達はそれぞれ目の前の狼の妖魔が知恵ある存在であることを認識し、強敵だと認めた。
 拙く言葉を操る程度ならば最下級の妖魔にも居るが、明らかに挑発の意図を持った言葉を操るとならば、単なる獣の経立と侮るわけにもゆくまい。
 退魔士としては上位に位置する鬼無子からすればもどきとしか思えない大男たちだが、彼らは彼らなりに、生死の境を彷徨う危険を犯しながら妖魔との戦いを経験してきた戦士ではあった。
 その経験に基づいて彼らは狗遠を大狼と勘違いしたまま囲い込む動きを見せている。対して狗遠はというと大男と二刀流の動きよりも僧崩れが朗々と謳いあげる経文をこそ、警戒していた。
 こちらの動きを縛る法術かあるいは大男と二刀流の身体能力を向上させる補助系か。直接狗遠を殺傷する攻撃系統かもしれない。狗遠は首筋の毛が逆立つのを感じてその場から僧崩れ目がけて跳躍する。
 雪輝も同じような形で自分に対する脅威を予感した事があるが、この時狗遠が感じたのは正しく脅威であった。
 狗遠が足を留めていた位置に天まで焦がすかと見える真紅の炎の柱が生じたのである。呪術や魔術に対する耐性の低い者であったならば、その場で火達磨になる相手の殺傷を前提とした火系統の法術である。
 仏への信仰心から奇跡を起こす仏僧の扱う法術の中で、穢れを払う神聖なる浄化の炎を扱う術だ。
 灰色の体毛を真紅の炎の照り返しを受けて同じ色に染めながら、狗遠はそのまま僧崩れへと目がけて視線を固定し、肢を撓めて跳躍の力を貯め込む。
 浄化の炎を外し、術後の精神集中が齎す硬直状態に陥った僧崩れを守るために、二刀流が軽妙な足捌きで素早く狗遠の進路を遮る。
 左右の刀の柄を逆手に握る二刀流の目は糸の様に細められて、狗遠のあらゆる動きを見逃さぬようにと神経を研ぎ澄ましている。
 狗遠が跳躍を行って二刀流の刃圏に入った瞬間に、両腕は疾風の速さで動いて二振りの刃を狗遠へと叩きつけられるだろう。
 二刀流が腰に佩いた刀は銘のある品ではなかったが、各地の寺社に足しげく通って住職や神官らに幾重にも加護を受けて、標準的な対妖魔装備を超える霊的攻撃能力を備えている。
 これまでに五十近い妖魔を斬り捨てて来た二刀流が頼みとする愛刀だ。
 幼い頃から剣術に明け暮れて、遂には人斬りの快楽に溺れて家と国を追われ、殺人や妖魔退治の依頼を受けて生計を立てるにまで墜ちたが、その分振るう剣技は数多の命で磨かれている。
 狗遠の踏みしめていた大地が爆発する。大地が耐えきれないほどの狗遠の脚力の発露である。
 灰色の弾丸が僧崩れに迫り、瞬きする暇もないほどの時間の中で、二刀流の腕が意識を超えた速度で動き、虚空に×の字を描く。腰から抜き放たれた二振りの刃の交差点に、狗遠はまっすぐに飛び込んだ。

――馬鹿が。

 狗遠は激突の衝撃に耐え切れずに砕け散った二振りの刃に、驚愕の視線を向ける二刀流に嘲りの視線を向けながら、右の前肢を軽く一振りした。
 人生のほとんどを人斬りと妖魔狩りに捧げた痩せの二刀流の鼻から上が、狗遠からすれば何気ない肢の一振りでごっそりとはじけ飛び、空中に赤い花を咲かせる。
 技量も経験も武器も水準以上ではあったが、この三人が戦ってきた妖魔共とは格の違う狗遠を相手にするには、どれもがあまりに程度が低すぎた。
 雪輝には及ばずとも飢刃丸に長の座を追われるまでは、妖哭山第二位の力を持った狼である狗遠の力は、夕座に捨て駒として集められた彼らが立ち向かうには無謀以外の何ものでもない。
 血と骨と脳漿混じりの花が満開に花開くよりも早く、狗遠は僧崩れの首筋に牙の先端をぷつりと音を当て、皮一枚に穴を開ける。
 皮一枚に開けられた穴から僧崩れの血の玉が浮かび上がった時、二刀流がわずかに稼いだ時間を使って僧崩れの唱えていた攻撃法術が完成した。

「烈!!」

 短くも力強い一語が僧崩れの荒れている唇から零れるのと同時に、僧崩れの体内で練られていた気と法力が術式に従って、強力な衝撃と熱量を伴う光と変わり、二刀流の死体ごと狗遠の巨体を飲み込む。
 頭の上半分を失っていた二刀流の体は頭から腹部にかけてまでが消し炭と変わって、ばらばらに砕け散る。残った肘から先の両腕と下半身がどっと音を立てて地面に落ちるまでの間に、狗遠は大きく後方へと弾き飛ばされる。
 灰色の狗遠の体がどっと倒れ込むのを見て、首から血を流しながら僧崩れは勝利を確信して笑みを浮かべ、そのままがちんと音を立てて打ち合った狗遠の牙によって、首を胴体と泣き別れにされた。
 再び、狗遠は馬鹿が、と嘲りの念を思い浮かべる。あの程度の法術で自分の体に傷をつけようなどと、なんとも甘い考えだ。脳味噌が砂糖で出来ているのではないだろうか。
 完調とは行かぬまでも数日の休息と満腹に至るまで獲物を腹に納め続けたお陰か、八割程度の力ならば発揮できる。
 それだけ力が戻っていれば、体毛に浸透させた妖気と周囲に展開する何重もの防御圏があればあの程度の攻撃法術など造作もなく防げる。
 位階で言えば中の上と言った所の術を、あれだけの短時間で発動にまで持ち込んだ技量は評価に値するが、既に死んでしまった以上はなんの意味もあるまい。
 二刀流の死体とたったいま噛み切ったばかりの僧崩れの首が、重い音を立てて地面に落ちてから、狗遠はゆっくりと背後で凍った様に動きを止めている大男を振り返った。
 人斬り包丁を青眼に構えたまま大男は動く事も出来ずに、一歩また一歩とこちらに近づいてくる狗遠に、その命が尽きるまでの短い間怯えた視線を向けることしかできなかった。


 五本の指を広げた腕が何万本も天に向けて伸ばしている様に空を覆っている木の枝を揺らして、雪輝は飛翔から着地へと移行する。大王陸蛸との遭遇から実に十回近くも狂奔する妖魔達との戦闘を終えて、ようやくの到着であった。
 雪輝の肢が着地の衝撃を吸収しきり、青い満月の瞳を巡らして狗遠を見つけ出す。同時に狗遠の背から軽やかに飛び降りた鬼無子も、雪輝と同じく話だけは聞いていた狗遠の姿を見つけてを睨み据えた。
 ちらりと狗遠の周囲に視線を巡らせれば、まさに複数の生き物が食い散らかされたとしか形容のしようがない惨状が広がっている。
 元々はいったい何人いたのか分からないほどばらばらに解体された人体の部分が、血に塗れて地面を真っ赤に染めてそこらじゅうに散らばっているのだ。
 惨劇の現場を血の雨が降る、と表現する事があるが正しくその喩えを再現した光景である。見れば灰色の毛皮を纏っていたはずの狗遠の姿もまた朱に染まっている。
 特に口元は鮮血の泉に突っ込んだ様に血の滴を滴らせている。闇夜に浮かぶ月の様に煌々と輝く狗遠の瞳が、雪輝の姿に気付いて凶光を霧散させた。
 遠慮も加減も出来ん、その言葉通りに退魔士もどき三人を血祭りに上げて、その死肉を貪る寸前に、雪輝達は狗遠の目の前に姿を見せたのである。
 一歩間に合わず既に人間達と邂逅して戦闘を行っていた狗遠に対し、殺人を責めるつもりは雪輝にはなかった。
 今回の場合では狗遠が生命を狙われた側であるから、自分の命を守るために相手を返り討ちにする事を悪い、と感じる感性を雪輝は持っていない。
 人間と妖魔とで考えるのなら、人間よりの思考と感性を持っている雪輝であるが、自衛行動や食事の為の殺傷行為であるのならばそれを責めようとは思わない。
 善性を備えているのは確かな事実であるが、通常の妖魔とは異なり、また人間とも異なる精神構造と感性を有する狼なのである。
 流石に命乞いをしている人間を狗遠が嬲っている様な場面に直面していたなら、顔を顰めて制止の声をかけたであろうが、既に決着のついた現状では口の挟む余地はない。
 惨状に対して眉根を顰めたまま雪輝は狗遠に声をかけた。

「まずは無事でよかったと言うべきなのだろうな」

 大きく肩から力を抜く雪輝の様子と心底から狗遠の無事に安堵した声音に、狗遠は、ほら、やっぱりな、こいつが私を売るなどという真似をするものかと囁く自分の声を聞いた気がした。
 理由は分からぬがなんとなく上機嫌になったが、それを表に出すのは面白くない様に感じられて、狗遠は顔を背けた。

「はっ! 大急ぎで来て開口一番にそれか。お前は人間殺しを忌むかと思ったがな」

「お前が何の罪もない人間を傷つけようと言うのならば、力づくでも止める。だが今日はそうではないからな。とはいえ気分の良いものではないな」

「ふん、相変わらず貴様は妙な妖魔だ。ところでそこの女は何だ? ソレが貴様が庇護している人間か? もっと小さいのを拾ったのかと思っていたがな」

 狗遠の鬼無子を見る視線には、敵意が色が着いていないのが不思議なほどの密度で込められている。対する鬼無子が狗遠に向ける視線も同じである。
 人間の命どころか同族の命さえも取るに足らないものとしか考えていないとりわけ凶悪な妖魔の狗遠と、その妖魔と戦う事を使命として千年以上戦い続けた一族に産まれた生粋の退魔士である鬼無子とでは互いに相容れない部分が多すぎる。
 それにもう一つ、鬼無子と狗遠はお互いを一目見た瞬間から妖魔と退魔士という関係よりもはやく別の点に置いて、相手を不倶戴天の大敵であると直感して理解していたのである。

(この女、純粋な人間ではないな。腰に差した刀の放つ霊気も驚くほど高い。先ほどの屑どもとは別格だろうな。……だがそれ以外になにか理由は分からぬがいけ好かん)

 狗遠が咽喉の奥で敵対者を前にした時にだけ挙げる威嚇の唸り声を挙げれば、鬼無子は腰の崩塵の鯉口を切って答える。雪輝がいなければ即座に殺し合いに発展しかねぬ剣呑な空気が両者の間に流れ始めていた。

(この雌狼、こやつめが狗遠か。ふむ、雪輝殿には見劣りするがこれは確かに強力な妖魔である事よ。しかし、理由は分からぬがとにかく気に入らぬ)

 奇しくも全く同じことを考えているとは気付くわけもなく、狗遠と鬼無子とはお互いの視線をぶつけ合い、それぞれの体から闘争の気配を陽炎のごとく噴き上げている。
 そんな一人と一頭の不穏な空気に気付いた雪輝が、それぞれの顔の間で視線を彷徨わせる。
 雪輝のちぐはぐな知識と発展途上の思考形態からすれば、そもそも初対面の両者がいきなりこのような不穏な気配を醸す理由がほとんど見当たらないのである。
 精々が妖魔退治を職としていた鬼無子と、凶悪無残な妖哭山内部の妖魔である狗遠とでは相性が悪かろう、位なものだ。
 当の狗遠と鬼無子も雪輝と同じ程度の認識ではあるのだが、よもや恋敵であると気付いたから、敵対の意識を高めているなどと雪輝に理解しろというのはまだまだ難しい話なのである。
 内心では首を捻じ切れるくらいに捻りつつ、雪輝は二人の間を取り持つべく口を動かすことを決める。ただ問題があるとすれば、雪輝の会話の語彙と経験が乏しい事と交渉能力がいまだに未発達である事だ。

「狗遠、鬼無子、なにやらいがみ合っておるようだがいまはそのような場合ではあるまい。狗遠よ外の者どもが私を大狼と勘違いして、命を獲りに来ている。既に遅かったがお前も勘違いされて余計な諍いに巻き込まれてしまう。飢刃丸の事もあって動きにくくはあるが、とりあえずこの場を離れるぞ」

「…………」

「…………」

 鬼無子と狗遠にとてつもなく冷たい瞳で睨まれて、雪輝はなぜだ? と自問するがそもそもその答えが分かるのなら、両者から睨まれるような事にはならなかっただろう。
 女心に対する理解は欠片ほどしかない雪輝ではあったが、言っている事はまあ間違いでもなかったので、狗遠と鬼無子は矛を収めるがお互いに向ける視線はとにかく冷たい。
 雪輝にとってはとかく居心地の悪い空間が出来上がっているのだが、それを解消する術を知らぬ雪輝には只管に耐えるしかない。状況を改善する為の言葉を見つけられないのが、現状の雪輝の限界であった。

(どうしてこのような剣呑な空気になったのか、よもや当の鬼無子と狗遠に問うわけにもゆかぬし……。ううむ、ひなが居れば良い知恵を出してくれたかも知れんがそのひなも居らぬし、いやいやそれよりもまずは夕座なる者から狗遠を遠ざけなければなるまい)

 とはいえ外部と内部の妖魔との間での闘争が激しさを増す一方の現状の妖哭山では、狗遠を匿うのに適した場所などほとんどない。
 ひなを山の民に預けてあるから、狗遠を樵小屋のほうに匿うのも手段の一つではあるが、元は樵が使っていた小屋である事を考えれば、なにがしかの記録が残されていると考えておいた方が良いだろう。
 となれば妖魔改を相手に稼げる時間は精々が一日か二日になるだろう。一方で山中の妖魔達相手には時間稼ぎにもなるまい。
 雪輝を相手にする事の危険性から二の足を踏んでいた妖魔達も、人間達の侵入なども相まって痺れを切らして遮二無二襲い掛かってくるようになっている。
 妖哭山はもはやどこに居ようとも戦いからは逃れられぬ修羅地獄と変わりつつあるのだ。
 数百の人間達が争う気配も時が経つにつれてさらに激しさと惨さを増しており、このままぐずぐずとこの場に留まっては人間の本隊との接触も時間の問題だ。
 雪輝の危惧を感じてか狗遠が不機嫌そうに鼻を鳴らす。いや、不機嫌そう、なのではなく真実不機嫌なのであろう。

「ふん、人間どもめ、ほどなくして我らの前に顔を見せるだろうよ。やつらの事だ、どうせ大狼の首目当てであろう。ならば私かお前を大狼と勘違いして首を取るまでは退かぬのではないか? ま、私の同胞の首でも代わりにはなるかも知れぬがな。それとも我らで人間どもを皆殺しにするか? 私とお前なら容易い事だ。そこの人間の女がどうするかは私の知った事ではないが」

 狗遠には言っていなかったが十中八九妖魔改の狙いは、大狼と誤認した雪輝の命のほかに鬼無子が目当てでもあるのだ。雪輝と鬼無子の両方を手にしない限りは、妖魔改の者達がこの山を去る事は無いだろう。
 そういう意味では狗遠の提案は全てを肯定するわけにはゆかぬが、一理ないわけではなかった。流石に夕座級の力を持った退魔士が妖魔改にそう何人も居ないだろうから、夕座と妖魔改の中核戦力を戦闘不能に追い込めば、人間達が山を去る可能性は少なくない。

「逃げてばかりでは事態の解決には繋がらんか。皆殺しというのは認められぬがある程度戦力を削るのは悪くない。ただ私が良しと思った判断はこれまで尽く外れているから、今度も同じような事になりそうなのが気になるな」

「飢刃丸を血祭りにあげる前の前哨戦と行くにはちょうど良い相手であろう。いまなら奴らに気付かれる前に狙えるぞ。お前の判断の目が良しとでようが悪しとでようが、力づくでどうとでもできる」

 よほど鬱積が溜まっていたのか、狗遠は雪輝の同意が得られたらすぐさま人間達に襲い掛かりに行きかねない調子だ。直接雪輝が対峙したわけではないが、十全の信頼を置く鬼無子が夕座を強敵と断じた事が雪輝に慎重を強いる。
 妖魔改の撃退と妖狼一族の長となった飢刃丸の撃退と狗遠の長の座への復帰、及び内部の妖魔の争乱の鎮静化とどれ一つをとっても命を賭けて断行せねばならぬ難事ばかりが、ずらりと雪輝の目の前にある。
 とりあえず一番近い所から片づけるのが妥当だろうか。ここで雪輝はちらりと鬼無子の方を見る。
 美貌という他ない白い顔に不機嫌の色を隠しもせず浮かべている鬼無子は、雪輝のどう思う、という視線を受けて一つ溜息を吐いてから自分の意見を口にする。
 狗遠とかいう雌狼の事は気に入らない事この上ないが、雪輝を無視すると言うのは鬼無子の選択肢の中には存在していない。

「夕座めはそれがしが抑え込んで見せましょう。その間に雪輝殿らが他の妖魔改を無力化すればあるいは夕座も退くかもしれませぬし、また退かぬともそれがしと雪輝殿でかかれば倒せましょう」

 敢えて狗遠の事は考えから外した鬼無子の意見に、雪輝はふうむと分かっているのかいないのか曖昧な返事をする。妖魔改は妖哭山最外部に居て、内部の妖魔達の行動範囲からはまだ遠く、強力な妖魔達の介入の可能性も少ない。
 対処するならば今の内だろう。
鬼無子と雪輝が二手に分かれて二面戦を展開する事態は何としても避けたい。雪輝と鬼無子は共に単体での戦闘能力において、妖哭山有数の強者であるがそれでも数で挑まれればやがては倒されるのが落ちだ。

「では決まりだな。鬼無子を手古摺らせた夕座とやらを見物しに行くとしよう」

 そう言った雪輝が屈みこんで、鬼無子が背に跨りやすいように姿勢を変える。再び雪輝の背に鬼無子が跨ろうとした所を目撃した狗遠が、自分でも気付かぬうちに強い口調で雪輝と鬼無子を制止する。

「おい、なぜ雪輝の背に跨ろうとなどとしてる。女」

 自分でも理由の分からない苛立ちに襲われている狗遠の口調は、再び敵意に満ち溢れている。それどころか全身からも戦闘の際の妖気が立ち上り始めている有り様だ。
 雪輝の方を向き白銀の体毛を掴んでいた鬼無子はゆっくりと狗遠の方を振り返って、無表情のままに答えるが、どこか優越感の様なものが見受けられた。

「その方が早いからだ、狗遠とやら。雪輝殿はそれがしがお背中に跨る事を許して下さっているからな」

「ふん、生意気な口を利く雌猿だな。雪輝が気の緩い奴とは言え、妖魔を相手に気の安い真似をする」

 鬼無子は見せつける様に、というよりも見せつける為に雪輝の左前肢に腕をからめてたわわな乳房を押しつけた。雪輝はなぜ二人がまたいがみ合い始めたのか分からん、という表情を拵える。

「雪輝殿の肢の方が早いのは明白な事だ。それがしは雪輝殿と“何日も共に過ごしているから”良く知っているが、それ位は出会う度に“雪輝殿に避けられていた”というお前でも知っているだろう?」

「?」

 鬼無子はなぜそのような事をわざわざ狗遠に告げるのだろう、と雪輝。自分の左前肢に回されている鬼無子の腕に力が入って、ぐにゃりと鬼無子の乳房が潰れる。

「ほう? なるほどなるほど何日も寝食を共にしながら、肢の速さ位しか知らぬとはな。いやいや当たり前か。雪輝が“毛のない猿などに欲情する筈もない”か。“女として扱われぬ”のも当たり前だな」

「??」

 妖魔改に対する対処の話をしていたはずなのに、どうして女がどうとか欲情がどうとかいう話になるのか、と雪輝はおろおろと鬼無子と狗遠の顔を交互に見やる。

「はっ、同じ狼でありながら相手にもされない貴様の方が惨めなものよな」

「…………」

「…………」

「???」

 睨みあう鬼無子と狗遠の雰囲気に気圧されて、雪輝はなにも口に挟めぬままおどおどするしかない。
 下手に何か口にしようものなら余計に事態を悪化させないと判断して、何も口にしなかったのは雪輝としては比較的賢い判断ではあったが、如何せん初めて経験する精神的な修羅場への初遭遇に、雪輝はそう長くは耐えられなかった。
 それにどうにも狗遠と鬼無子がいがみ合っているのは自分が理由であると言う事は、両者の会話を聞いていれば分かる事だ。場の空気を変える為にも、ここはなにか自分が行動を起こさねばと雪輝は奮起する。

「二人とも私が理由で不機嫌になっておるようだが、とりあえずは私の顔に免じて矛を収めてはくれまいか。鬼無子は私にとって大切な家族であるし、狗遠、お前とて私は……」

「ふむ、狼が二匹に人間一人。さてどちらが大狼か」

 狗遠と鬼無子が一語一句逃さず聞きとげようとした雪輝の言葉を遮ったのは、あの三人の退魔士が歩いてきた道に、いつの間にか雪輝と鬼無子の知覚をすり抜けて立っていた夕座であった。
 七風の町で鬼無子と遭遇した時と同じ青の着流し姿に、背には長い鉄製の黒鞘を斜めに背負っている。
 さらには夕座の背後には覆面を被り全身を黒一色の意匠で覆い隠した忍びらしい者達の影も複数あった。
 いや、木々の向こう、茂みの下にも蠢く気配が感じられる。
 それまでのいがみ合いをすぐさま忘れて、雪輝に跨ろうとしていた鬼無子は抜刀し、雪輝と狗遠も周囲の気配の探知と目の前の夕座への警戒に意識を割く。
 妖刀紅蓮地獄を既に右手に握る夕座は、人とは思えぬ途方もない美貌に無邪気な笑みを浮かべた。無垢な子供の様にあどけない笑みを浮かべたまま、夕座はこういった。

「四方木鬼無子、やはりそなたは大狼と所縁のあるものか。よしよし、まだ人間であるな。どれ、そこの狼めらの首をはねてからたっぷりと可愛がってやろうほどに」

<続>

Lさま

こんな具合で雪輝はおろおろすることになりました。ある意味ではナイスタイミングでの夕座の登場といえるかも。狗遠も鬼無子の登場で自分の感情に気付きはじめているので、三角関係は面倒なことになるでしょう。

ヨシヲさま

あらゆるものに対して厳しい環境の山ですので萌え人外の方々も非常に危険です。夕座がどの程度彼女たちに思い入れがあるかで、生死が変るでしょう。夕座は基本的に酒池肉林の毎日を過ごしている暇人です。ガンダムキャラでの例えはああ、なるほどという感じがしますね。ハマーンとララァとナナイがいっぺんに姿を見せたときのシャアの反応も興味がありますけれども。レコアがいないのはせめてもの掬いですかねえ・・・・・・。

taisaさま

そうですね外見的にはエルフ系統は一般的なファンタジー系統で、他の人外連中は人の血が混じっていると耳や尻尾がある程度。純粋な人外ですとクロビネガ系の外見と考えていただいてよろしいかと。
雪輝との子供の場合は父親の血がどの程度濃いかで全く変るものとお考えいただければと思います。
夢に出てきた双子は片方はまんま狼で、もう片方が耳と尻尾程度でしたが、場合によってはワーウルフやアヌビスくらいに狼と人間が混ざった子が産まれることもあるという設定です。
また鬼無子には無数の妖魔の血が流れているので、猫、鳥、羊、牛、狐、馬、象などほとんどの獣系や蛇なんかの特徴を持った子供が生まれる可能性もありますし、それぞれがごちゃまぜになったキメラの子供になることもあります。いわば鬼無子はサキュバスと魔物の母であるエキドナの特性を持った母親ですね。
余談ですが私はデュラハン、ダークマター、エキドナやラミアなどの蛇系、稲荷や妖狐、ホルスタウロスやアヌビス、ドラゴンが大好物です。

マリンドアニムさま

忘れた頃に出てくるキャラが意外と重要だったりするのですよ~。凛はなんだかんだで一歩引いた場所にいますからね、ツンデレ枠確定ではなかったのです。鬼無子とひながデレキャラに当てはまりますから、狗遠のツンデレ具合もわかりやすく描写しやすいです。夕座は所業に相応しい応報を受けることになるでしょう。

武山さま

遅まきながらご指摘いただいた箇所の修正を致しました。ご忠告ありがとうございました。


ではでは少しでも皆様に楽しんでいただけたなら幸い。また次回にて。

3/6 14:16 投稿
3/20 20:24  修正



[19828] その十八 妖戦
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/03/23 12:38
その十八 妖戦


 黄昏とはよく言ったものだ――と白銀の魔狼雪輝は、心底から感嘆と畏怖を覚えざるを得なかった。
 理由の一つは夜と昼とが混ざり合う黄昏時のような、幽冥境に足を踏み入れてしまったのかと錯覚する霊妙な雰囲気を発する夕座の美貌から。
 そしてもう一つは、ただ目の前に立っているだけでこちらの肌を泡立たせてくる、黄昏夕座という存在の放つ気配の異質さから。
 雪輝が妖魔蔓延る魔境の地たる妖哭山に生を受けて以来、ここまで素直に相対した者の力量に感嘆した事は、片手の指で足りるほどしかない。
 自身が強力な妖魔である為に、並大抵の強者、猛者と呼ばれるものではさして驚きもしない雪輝であるが、禍々しき地獄の名を冠する妖刀を手に自分達の前に立つ美丈夫の総身から吹きつけてくる異様な闘気は、雪輝の過去の戦歴を振り返ってみても例を見ないモノだった。
 人間の、あるいは人間の姿をした剣士との戦いは、実のところ雪輝には経験が乏しい。鬼無子と初対面を果たした際のいざこざを含めたとしても、他には怨霊として蘇った蒼城典膳との死合くらいなもの。
 故に雪輝は剣士という生き物との戦いの経験が乏しいことから、構える姿などから剣の冴えを推し量るのには、あまり自信がない。しかしその無い筈の自信を確信に変えてしまうほどに、黄昏夕座という名の妖剣士は圧倒的な存在であった。
 傷の癒え切らぬ狗遠では十中八九敵わぬ相手、いや例え傷が癒えていたとしても狗遠が価値の目を拾う事は極めて難しい。
そう見立てた雪輝は自分と鬼無子が間にあった事に安堵を覚え、鬼無子から話を聞いていた妖剣士が話半分どころか、話の倍は凄まじい化け物であることに警戒の意識を高めていた。
 夕座を中心に渦巻く体の奥の方から凍えさせて行く気配に覆い隠されてはいるが、背後の忍装束達以外にも周囲の木々の陰に隠れて複数の気配が息を潜めている。
 雪輝をして感心させる陰行の法は大したものだが、夕座の配下である以上は夕座との連携戦闘に長けた者たちばかりが揃っているのはまず間違いない。
 雪輝が知覚した数百名の人間の兵士達は、夕座と周囲の者達を大狼――と誤認している雪輝の元へ限りなく消耗を抑えて送り届ける為の捨て駒か撒き餌といったところか。
 狗遠との不毛極まりない、しかし当人同士にとっては決して軽視できない一大事に不穏となっていた空気も変わり、鬼無子は夕座のいかなる動きも見逃すまいと視線を注ぎ、腰の崩塵を抜き放ち、白刃は陽光を浴びて銀の三日月に輝いている。
 かたや狗遠は自分達を取り囲む動きを見せている周囲の気配に注意を向けて、戦端が開かれると同時にどの首を食い千切るべきか、また雪輝との共闘がどの程度行えるかどうかを心中で何度も試案していた。なお鬼無子がその試案の中から除外されていたのは極自然な成り行きと言える。
 霊気ほとばしる紅蓮地獄の切っ先を下げたまま夕座の視線が、鬼無子から狗遠、雪輝へと巡り動き、三者三様の視線を受けた夕座はぴたりと雪輝の青い視線を受けて、ごく短かった視線の旅を終えた。
 夕座の瞳に一瞬、紛れもない感嘆の色が浮かび、浮かんだ時と同じ時間で再び沈む。鬼無子ばかりに向けていた意識を周囲に巡らせれば、鬼無子の傍らに寄り添っていたこの世のものとは思えぬ美しさの狼の存在を、夕座はようやく認めたのである。
 感嘆の色は掛け値なしに美しいと口にする言葉が他に存在しない雪輝のその姿に対するものであり、それを沈めたのは夕座もまたはたして本当に人間なのかと、目にする者が疑うほどの美貌を誇っている為であった。
 妖剣士はその人外の美貌ゆえに雪輝の狼外の美貌を理解し、そしてまた理解したが為にその存在を受け入れられなかったのである。
 鬼無子へと向けていた歪んだ欲望と執着を一時忘れて、浮かべていた冷笑を取り払い射殺さんばかりの視線を雪輝へと注ぎ始める。

「そちらの灰色の狼もなかなかの妖魔ではあるが、お主が大狼か? なるほどこれは確かに強力な妖魔よな。そして人間の女を惑わすに足る美しさよ」

 大狼でないと言った所で無駄であろう、と考えた雪輝は夕座の瞳を見つめ返したまま、かすかに四肢を広げて重心を落とす。
 全身に行き渡らせる妖気の濃度を高め、循環の速度を速めて雪輝の肉体は戦闘態勢を整えて、目の前の人間とは思い難い妖美にして冷酷な雰囲気を纏う夕座の脅威を正確に推し量ろうとしていた。

「人間の女とは鬼無子の事か。話は聞いているぞ、黄昏夕座とやら。聞いた話以上の使い手であるようだがな」

 雪輝の存在を意識に入れてから初めて夕座の口元に笑みが浮かんだ。ただし友好的とは、万人が見ても思わぬだろう笑みである。

「ふむ。鬼無子姫とそのついでにお主の首を所望よ。大人しく斬られはすまい? 好きなだけ足掻けばよい。それを斬り捨てるのもまた一興故な」

 しかし夕座の口調それ自体がなによりも雄弁に語っていたのは、お前を滅ぼさずにはおかぬという必殺必滅の敵意だ。人にはあり得ぬ美貌を持つ夕座に去来しているのは、狼にはあり得ぬ美貌を持つ雪輝への嫉妬であったろうか。
 雪輝もまたそれを理解しているからこそ、精神も肉体も戦闘を前に張りつめたものへと変えて、夕座の一挙手一投足から呼吸にいたるまでを注視している。

「なんとも恐ろしい事を平気で口にする男よ。しかし、改めて決めた。鬼無子を貴様の好きにはさせぬし、わたしの首もくれてやるわけにはゆかぬ」

 七風の町に出向いた時にも感じた事ではあったが、人間という生き物に対する認識を改めざるを得ない人間を前に、雪輝は家族として認識している鬼無子をこのような下種の好きにさせてやるわけにはゆかぬと、腹腔に怒りと決意とを溜め込んだ。
 あとはそれを一切の容赦なく爆発させる時を待つばかり。それにはさしたる時間もかかるまい。そしてそれは雪輝を前にした夕座もまた同じであった。
 雪輝が怒りを爆発させる時を待っているのと同じように、夕座もまたその黒い欲望を満たす障害となる雪輝の排除を、一刻も早く行うべく機を見計らっているのだ。
 すでに鬼無子と狗遠もそして夕座の周囲を囲む妖魔改の者達もささいな切っ掛けによって、すぐさま凄惨な死闘の幕が開く事になる。

「なれば話は早い。しかしな鬼無子姫よ、お主も人であろう? 狼を相手に夜の無聊を慰める趣味でもあったのか? ふふ、“妖魔食い”とも呼ばれたお主ら百方木家を宗家とする一族の者にとっては、外見の異形さなどは気にならぬのかな。とはいえ、狼風情にくれてやるにはお主はあまりに惜しい。どうせ乙女の花を散らすのなら、犬畜生などではなく私が手ずから散らしてやろう」

 告げる夕座の口調は心底から楽しんでいる風であった。
 鬼無子の生家である四方木家や百方木家や、数多の妖魔の血肉を外科的手術や霊的儀式、あるいは日常的に飲食し、時には交配することでその身に妖魔の血を宿してきたのは事実であり、その忌まわしい所業の数々から、本来人間を脅かす存在である妖魔を食らう者達として、畏れと侮蔑の意味を込めて妖魔食いと周囲の者達が呼んだのもまた事実。
 それは鬼無子も自嘲の念と共に認めている事ではあったが、それをわざわざ指摘した夕座の言葉は大いに癇にさわり、さらに乙女の花云々とは紛れもなく鬼無子の純潔を指してのことだ。
 これには元から夕座を前に既に怒りを沸騰させていた鬼無子に、更に油を注ぐ結果になった。

「戯けたことを抜かすなよ、黄昏夕座。墓所の匂いのする貴様など、触れられる事さえ御免こうむる。第一私は貴様と雪輝殿など、比べる気にもならぬ。それ以前の問題よ」

「それは残念。いよいよ力づくで手に入れる他ないか。もっとも抗う女を屈服させるのも私の好み」

「下種め、とことん性根が腐っていると見える。こちらに腐臭が届いてくるかのようだ。はっ、私を欲するのならせめて雪輝殿と同じくらいにふわふわとした毛を生やせ。そしてそのふざけた物言いを改めよ」

 雪輝の毛皮に対しては並々ならぬこだわりと愛着のある鬼無子だからこその言葉であったが、それを知らぬ夕座は珍妙な発言に少々面食らった顔を拵えて、しげしげと鬼無子の美貌を見つめる。

「毛か。妙な物を好んでいると見えるが、生家で犬猫でも飼っていたのかな。あるいは犬畜生か狐狸の類と淫行に耽る趣味でもあったか。しかし毛以下と言われたのは初めてであるな」

 鬼無子に褒めてもらっていると考えて良いのだろうかと、う~むと唸る雪輝の横顔と、夕座へ向ける敵意に比例して雪輝に対する好意の強さが分かる鬼無子の言葉を耳にしていた狗遠は、こいつらひょっとして姦通しているのか、などと考えていた。
 たしかにそう誤解してもおかしくない様な鬼無子の言動ではあったが、これに我慢がならなかったのはいまだ自覚なき鬼無子の恋敵である狗遠ではなく、茂みに伏せっていた二人の妖魔改の少女たちだった。
 忍装束の黒頭巾から零れる長い黒髪を後頭部の高い位置で結わえた影馬と、兎の耳の様に髪を二か所で纏めた影兎の二人である。
 周囲の者達が慌てて止めようとするのを振り切って、身体に木の葉を纏いながら二人の視線は怒りを満々と秘めて鬼無子の白い美貌へと一直線に向けられている。
 おや、と夕座は忠実で愛らしい二人の配下達が見せた予定にない行動に不思議そうな顔を浮かべて、二人の行動の続きを黙認する。
 夕座が面白げに影馬と影兎に視線をよこす一方で、鬼無子はというと退魔士として軽率の誹りを免れぬ影馬と影兎の行動に、柳眉を寄せて何をする気なのかと視線を動かした。

「おい、四方木家の生き残り! 先ほどから黙って聞いていれば貴様ぁ、夕座様に向かってなんという暴言の数々。しかも言うに事欠いて夕座様が大狼などという犬畜生の妖魔以下だと!?」

 てっきり某かの攻撃行動に移るものかと思っていた鬼無子は、夕座に向けての言動に腹を立て文句を言いだした影馬の行動が予想外であったものだから、目をパチクリさせた。
 夕座はこれはこれは、と呟いて含み笑いを零し、鬼無子がきょとんとあどけない顔をする一方で、影馬が言うのに続いて影兎が激しさでは劣るが淡々としてる分迫力の増した語調でまくし立てる。

「夕座様の事などろくに知らぬ貴様が分かった様な口を聞くな……。夕座様がせっかく落ちぶれた妖魔混じりの貴様に目を掛けてくださっていると言うのに、身の程を弁えぬ振る舞いを好き放題。夕座様がどれだけ逞しく素晴らしい方であるか、身をもって知った後で私達も思い知らせてやる。声が枯れるまで許しを請うほど鳴かせてやる……」

 影馬は感情の発露を一切抑える事は無く、対照的に影兎は淡々と無表情のままに呟いて一種の凄みを増している。一卵性双生児であるため外見はほぼ同じであるが、性格に置いては大きく違う双子の姉妹だった。
 それにしても身をもって知った後は、というのは鬼無子が夕座に手籠めにされることをさしての言葉であろうが、私達も思い知らせてやるとはなんとも穏やかとは言い難い発言だ。
 意味合いとしては肉体的な拷問などもあるのかもしれないが、おそらくは鬼無子に思い知らせるつもりなのは夜の褥の中で及ぶ行為の事であろう。
 見た目は二十代と思しい夕座であるがこれまでの言葉の端々から、外見以上の年月を生きたと思しい事や、妖魔の血を持つ鬼無子と同等かそれ以上の身体能力といい、普通の人間でない事はほぼ事実であろう。
 それゆえに夕座が抱く女に与える快楽もまた人間の限界を超えたもので、それは男性体の淫魔と比較しても遜色のないものだ。
 そんな夕座の伽を務めて朝夕時を選ばず、また場所も選ばすに快楽の海に落とされてきた二人にとって、夕座への侮辱はこの世で最も耐えがたい事の一つなのである。
 鬼無子自身も高位の淫魔の血を引き、最近ではその淫魔の血が強く活性化した事もあって、触れた相手に与える快楽の凄まじさではおそらく夕座にも引けを取らぬであろうから――経験では天と地ほどの差があるにせよ――いざ褥の中で事に及べば、嬌声の声を挙げさせられるのは影馬と影兎の二人の方だろう。
 とはいえそもそも夕座の物になる位なら自決するつもりであり、また同性愛のケの無い鬼無子にとっては、影馬と影兎の発言はほとんど未知の世界の謎の言語にも等しい理解の及ばぬものであった。
 話があらぬ方向に向きだしている事に気付いた鬼無子は、幾多の妖魔を屠った退魔士の迫力を乗せた瞳で影馬と影兎を見据えた。
 ある種の魔眼にも等しい精神的圧力を備えた鬼無子の視線である。まともに受けて平気の平左で居られる者は人間妖魔を問わずそう多くは居ない。

「夕座を慕うお主らの心情は理解できぬが、闘争の場で余計な口を利くものでは……」

 居ない筈であったのだが、影馬は敬愛する方へ侮辱の言葉を吐いた鬼無子への怒りと、そして夕座からかくも強く求められる鬼無子に対する嫉妬に濁った瞳と言葉で、影馬達は鬼無子の言葉を一刀両断に斬って捨てる。

「うるさい。余計な口を利くな、この乳でか女!!」

「!? な、ち、ちちで……なんとはしたないことを!」

 咄嗟に鬼無子は空いている左手で自分の乳房を影馬の視線から庇う。影馬と影兎は数年来に渡って夕座の伽を務めていた事から、元から類稀な美貌の片鱗の主であったのに加えて、十代半ばほどの少女とは思えぬ妖艶さを備えている。
 しかしながらまだその体つきは年相応といったところで、鬼無子の円熟した女の色香と少女の幼さが混在する美躯とは比べるだけ無駄というものである。
 幼い身体つきの女性を好む者もこの時代、既に存在しているが大多数の男は性的な魅力に溢れるほどに満ち満ちた鬼無子の方を選ぶだろう。

「影馬の言うとおり。おっぱいばかり大きなおっぱいおばけは黙って夕座様のものになればいい。そして夕座様の物になったら自分の発言を泣いて詫びればいい。このおっぱいが」

 影馬ばかりか影兎まで鬼無子の着物の生地を押し上げている豊かな乳房の盛り上がりに、恨みがましげな視線を指す様に向けて、かたや火を吐く様に、かたやあくまで淡々と言う。
 鬼無子自身、刀を振るう時に邪魔にしかならず、また小さな頃から育ちの早かった鬼無子は、無礼な宮廷の連中に早熟の身体に性的な視線を注がれた経験があった事から、非常に発育の良すぎる自分の体に劣等感のようなものを抱いていた。
 影馬と影兎の発言は意図せずしても見事に鬼無子の精神的弱点を突いた結果となり、戦前の緊迫した精神状態を揺さぶられてしまう。

「お、織田家の退魔士はどうやら頭の中が愉快にできているよ、ようだな? このような口を利く者が退魔士では妖魔改の質も、たか、たかが知れている」

 怒りのあまりに鬼無子の言葉は時折震えていて、赤みの刺した頬は時折痙攣までしている始末である。とても戦闘を前にした精神状態とは言えない。

「無計画に乳房ばかり大きく育てた乳でか女が高名な退魔士とは、朝廷の退魔士は淫乱ばかりか」

「無駄な脂肪ばかり溜め込んだおっぱいおばけめ。その胸で犬畜生を誑かしたに決まっている。雌牛の妖魔の血でも引いているんだろ。おっぱいおばけ」

「お、お前達はそんなにそれがしの胸が憎いか!? 本当になんなのだ、貴様らは!!」

「黙れ、乳でか牛胸女」

「うるさいぞ、無駄脂肪贅肉おっぱいおばけ」

 黙ってこのやり取りを耳にしていた狗遠は、何を言い合っているのだこの毛の無い猿どもはと、人間の思考形態が自分の理解の外にある事を実感して、訳の分からなさを噛み締めていた。
雪輝もどちらかというと狗遠の心情に近く、先ほどまでの緊迫した状況はどうしたのかと、内心では首を傾げている。
 よもや雪輝の目の前でこうも恥辱を浴びせられるとは想像だにしていなかった鬼無子は、崩塵を握る手を小刻みに震わせながら、羞恥と怒りの念に襟元から覗く首筋から耳先に至るまで赤く染めている。
 妙な雰囲気になってしまった状況を変えたのは意外にも雪輝や鬼無子ではなく、いよいよ笑いを堪え切れなくなった夕座であった。
 影馬と影兎の意外な行動や鬼無子とのやり取りはなかなかに痛快であったが、これ以上好きにさせていては本懐を遂げる事を忘れてしまいそうだったからだ。
 右手の紅蓮地獄の峰で肩を軽く叩きながら、夕座は口元を押さえていた左手を振って、影馬と影兎に下がるように指示を出す。

「影馬、影兎、そこまでにせよ。面白い見せものではあったが、お前達の口にした事を実践する為にしばし口を噤んでおれ。私は本当に欲しい物は自分の手で手に入れる主義ゆえな」

 そのくせ紅蓮地獄は影座に任せている辺り、物欲よりも色欲が夕座の中では優先される様である。

「はっ、過ぎた事を申し上げました」

「申し訳ありません」

 影馬と影兎にとって夕座の命令は鉄のようであった。それまで鬼無子に対する鋭い舌鋒はどこかへと捨て去り、影馬と影兎は夕座の言うとおりに口を噤んで元いた茂みの方へと足を動かす。
 二人がいそいそと身を隠していた茂みに隠れ直すのは、なかなか微笑ましい光景ではあった。

「では仕切り直すとするか鬼無子姫、そして大狼よ」

 肩を叩いていた紅蓮地獄を右下段に降ろし、夕座の纏っていた雰囲気が再び冷たく恐ろしい物になるや、途端に弛緩し始めていた空気は一変して、闘争の緊張が周囲を満たした。
 実際に戦場に立つ者にしか分からないわずか世界の揺らぎ。たとえば風の流れのわずかな変化、戦域に張りつめている空気の変化、視線や重心のわずかな動きの違い……挙げればきりのないほどのささやかな要因が戦闘の始まりを告げる鐘となる。
 夕座の背後の忍らは霊的処置を施した短刀や手裏剣、あるいは鎖鎌など様々な武器を手に取り戦う用意を万端整えている。
 誰もかれもがいつ戦いが勃発したとしても、対応できるように用意を終えていた。
 鬼無子と雪輝と狗遠と夕座らとの間に、戦端を開かせたのは、はたして両者の間に舞い散る木の葉かあるいは風が巻き起こした砂埃だったか、あるいはさらに取るに足らないなにかであったかもしれない。
 だが事実は一つ。戦いが始まったと言う事だ。
 紅蓮地獄の刃で風を切り裂きながら雪輝めがけて走る夕座の正面に立ったのは、事前に雪輝に告知していた通りに鬼無子であった。
 雪輝の前に鬼無子が立った事に動揺も驚きも欠片ほども見せず、夕座は四尺近い刃長を誇る紅蓮地獄に銀の蛇と見える軌跡を描かせて、鬼無子の左頸部に烈々と叩きつけた。
 速い、あるいは重い、強いと言った言葉では言い表すにはまるで足りない一撃である。並みの使い手と刀では、いや銘刀を携えた一角の剣士でも受ける事さえおぼつかぬだろう一撃を、流石に鬼無子は見事崩塵で受け止める。
 崩塵と紅蓮地獄。
 いずれ劣らぬ霊気纏う二つの刃の衝突と同時に、夕座と鬼無子の白い美貌を、繚乱と散る霊気の火花が煌々と照らしだし、愉快気に笑む夕座と敵意を隠さぬ険しい表情を浮かべる鬼無子という対照的な二人の顔を暴き立てる。

「はは、てっきり大狼めが来るかと思ったがお主の方から来てくれるとはな。先ほどまでの言動は偽りであったかな? 鬼無子姫よ」

 鬼無子が過去見知った男達の中でもとびきり美しく、さらには薫る様な高貴な雰囲気さえも感じられると言うのに、夕座はひどく厭味ったらしく笑って、鬼無子を弄ぶように刃越しに告げる。
 応える鬼無子の瞳はこれ以上ないほど冷たく、この視線に比べれば氷が暖かい物とさえ感じられるだろう。

「姫などと、貴様の口から聞きたくもない」

 元は鬼無子は神夜南方の朝廷につかえる貴族階級であったから、姫と呼ばれてもおかしくは無いのだが、性根どころか存在の根底から気の合わぬ夕座に言われても、鬼無子にはただただ嫌悪感しか感じられない。

「しかしお主が四方木家最後の姫である事は事実。故に姫と呼ぶ事の何がおかしいかな?」

「ふざけた事を抜かすのはその口かっ!」

 鬼無子と夕座の姿が陽光下に霞んで消える。同時に二人が踏みしめていた大地もまた小さな爆発を起こして、途端に刃と刃が衝突する事によって生じる剣交の花が無数に咲き誇った。
 常人の目には影すら映せぬ短距離間での信じ難い鬼無子と夕座の高速移動と体捌き、剣技の衝突の証明だ。
 七風での遭遇戦とは異なる余力を残さぬ全力での戦闘であった。体内に宿す四百四十四種の妖魔の血と妖力を、もったいぶることなく発露する鬼無子の美躯からは人間の魂が発する青白い霊気と、赤黒い妖気とが混ざり合い互いに侵食しながら周囲の空間を圧している。
 妖哭山に足を踏み入れて生死の境をさまよった事で体内の妖魔の血がより強く発現し、また強力な妖魔である雪輝と長く行動を共にしている為に影響を受けて、鬼無子の身体能力や直感をはじめとした超感覚は日を追うごとに強化されている。
 夕座への敵意を業火のごとく燃やす鬼無子の一刀が、夕座の右腰から真横に断つべく音の壁を切り裂きながら迸れば、ほぼ同速で振るわれた紅蓮地獄の刃が受け止めて、剣交の花が一輪、また一輪と虚空に咲いては消えてゆく。
 得物の間合いは約一尺分夕座の方が遠いが、多種多様な、それこそ実体を持たぬ類の妖魔との戦いの経験を豊富に持つ鬼無子にとっては、さしたる問題とまで行かない。
 といってもこれはあくまでも心構えの問題である。長さ十間の触手の群れや身の丈が小山ほどもある妖魔を相手にしてきたことを考えればいまさら一尺間合いが長い程度で動揺するわけではないということだ。
 精神が動揺することはなくても、しかし技量が同等近い相手との死合で一尺も間合いが短いことによる物理的な不利それ自体はある。それはそれ、これはこれというべきか。
 鬼無子は、殺意もすさまじく夕座自身を狙う太刀の中に紅蓮地獄の刀身をへし折る為の、武器破壊の太刀筋を交えて斬り結んで行く。
 夕座は紅蓮地獄の刀身をへし折りに来た崩塵の刀身を煙に巻く様に刃を添えて軌道を逸らし、崩塵が夕座から見て右肩の上に流してから、紅蓮地獄の柄尻で鬼無子の額を割りにかかった。
 一歩夕座の足が踏み込み、着流しの裾をからげて太ももの付け根を露わにしながら、夕座が打ちつけてくる紅蓮地獄の柄尻を、鬼無子はおもいきり左方向に飛んで躱す。
 体を動かせる距離の短い一撃ではあったが、夕座の身体能力を考えれば紅蓮地獄の柄尻は筋骨隆々たる鬼の振るう鉄棍棒の一撃にも等しいだろう。
 いかに耐久力が常人の比ではない鬼無子といえども、額の骨に小さな罅くらいは入るだろうし、出血と脳しんとうは免れまい。
 二間(約三・六メートル)ほど跳躍してから着地の一歩と同時に鬼無子は脚に溜め込んだ脚力を爆発させて、大気をぶち抜きながら夕座の右半身側へと襲い掛かる。
 崩塵の刀身を地面と水平に倒したまま顔の右横まで持ち上げて、白銀の霊気溢れる刀身を夜空に光の尾を伸ばす流星のごとく突き出した。
 ぎん、と鼓膜を劈く金属の衝突音が大きく響き渡り、流星と変わった崩塵とそれを弾いた紅蓮地獄の双方が大きく後方に刀身を跳ねあげる。

「やはりやはり、流石は織田にも聞こえた名高き退魔士の最後の裔よな。私が全力を出さねばならぬ相手は久方ぶり。さあさあ、行くぞ、四方木鬼無子よ」

「言われぬでもっ!」


 鬼無子と夕座とが剣士としてはおそらく神夜国最高峰の戦いを繰り広げる一方で、雪輝と狗遠は周囲を囲む妖魔改の者達との戦いに身を投じていた。
 しかしながらそれは勝手の良い戦いとは言い難いものであった。
 なぜならば雪輝は自身以外に血縁のない天外孤独、唯一無二の個体であり、多対一の戦いに関しては多くの経験を積んでいたが、それらはすべて複数の妖魔を相手にしたものであって、徒党を組んだ人間や亜人との戦いは今回が初めてだった為である。
 妖哭山で複数の妖魔を相手にする場合は同種で構成される群れが基本となる。個体間で多少の能力差はあるにしても、おおむね基本的な戦闘方法などに違いはなく、どれも同じ攻撃手段を持った者達で構成されている。
 それに対して組織だった人間達や亜人の場合は、それぞれが役割を持って全く別の能力で戦闘に当たり、異なる技能を効果的に組み合わせて相乗的に戦闘能力を高めている。
 後方から味方の能力を底上げする術で援護し、場合によっては敵を直接殺傷する術を持った術師。
 術師達を守りまた確実に敵に手傷を負わせる為に重装の鎧兜や具足で身を固めて、文字通り盾となり剣となる戦士。
 大まかに分けてこの二種が存在し、さらにそこから派生して細かな役割分担をして一つの巨大な戦闘部隊を構築してくる。個々の連携こそあれほぼ同一の能力で群れを成して襲い掛かってくる妖魔らとは、勝手の違いすぎる相手なのは間違いない。
 とはいえ基本的な能力に圧倒的な格差の存在する妖魔改達と雪輝である。相当に時間がかかるにしても、単独で二十名前後の妖魔改らを全滅させる事も十分に可能ではあった。
 ましてやこの戦場には雪輝の傍に一つの種族を長く率いて戦って戦って戦い抜いた狗遠がいた。
 数百頭から成る妖狼族の戦闘部隊を指揮して、数十年間妖哭山の熾烈な内部抗争を戦ってきた狗遠は、戦端勃発からほどなくして妖魔改達の連携の要を見抜いて、雪輝にそれを伝えて連携を持って早々に叩き潰すことを決める。
 懸念があるとするならば、これまで一度たりとも共闘した事もなければ本格的に敵として戦った事もなく、雪輝も狗遠もお互いの生死を賭した場面での全力が一体どれほどであるのか、正確な所を把握していない事である。
 妖魔改達は事前に夕座から言い含められていたのか、鬼無子と斬り結び始めた夕座を助ける動きは一切見せずに、大狼と誤解している雪輝と口元や毛皮を赤い血で濡らしたままの狗遠を囲い込んで、じぃっと凝視している。
 夕座と鬼無子の戦闘に雪輝らが介入しない様にする事が目的なのだ、と雪輝は直感的に理解して、こちらから積極的に攻めに掛らねばそもそも数を減らす事も難しいとやや勇み足を踏みはじめる。
 これまで自分の命だけを賭けた戦いばかりを経験してきたためか、雪輝は他の誰かの身の安全の掛った戦いの経験に乏しく、常の様に平静とした精神状態で居続ける事は難しい様であった。
 夕座の背後に居た十名と周囲に伏せていた十名とで二十名。場合によっては他の妖魔に対する壁か餌として連れ込まれた野良退魔士や兵士達も、合流してくるかもしれない。
 妖魔改達の中には長さ六尺ほどの短槍や短弓、手斧を手に持った者の姿も見られる。
 いずれも鬼無子の崩塵ほどではないにせよ、霊験あらたかな真言や祝詞が刻み込まれ、丹念に法儀式を重ねて霊的処理を施してある事が分かる。
 対妖魔戦闘を存在意義とした戦闘集団。雪輝は妖魔改が、鬼無子から聞かされていた織田家が保有する対妖魔における絶対戦力であると、再認識した。
 指先から肘までを覆う魔銀(ミスリル)の籠手を嵌めた大男の忍装束を先頭に、七名ほどが雪輝と狗遠を囲い込む第一の輪を成し、更に薙刀や短槍、槍、鉄槌などの長柄物を持った者達が第二の輪を、そして法力や霊力を増幅させる錫杖や独鈷杵を携え、数珠や呪符を腕に巻いた術師が第三の輪を構築している。
 敵陣の構成など知った事かと、気を逸らせた雪輝が一層体を低く沈めて籠手の男に飛びかかろうとするのを、雪輝の傍らに身を寄せた狗遠の囁きが諌める。
 珍しく雪輝が苛立っている様子を見るのはそれなりに楽しいのだが、この場においてはあまり雪輝に勝手をされては、狗遠にとっても色々と都合が悪い。

「銀い……いや雪輝、お前が頭に血を昇らせてどうする。お前にしては珍しい事だが、場合を考えろ、愚か者めが」

「ぬ……」

 不服の相を浮かべはしたがそれでも自分の方に非があるのを理解するだけの分別は残していたから、狗遠の方に向ける視線に怒りは込められていない。

「気に食わぬがお前はあの鬼無子とかいう毛無し猿を助けたくて仕方がないようだな。ならば私の言う事を聞いてこやつらを皆殺しにするのが手っ取り早い」

「相も変わらぬ物騒な物言いだが、お前の意見に従うのが私の意を通すに最良の道か。しかし狗遠よ、お前は本当に鬼無子の事を嫌っておるな」 

 雪輝とて鬼無子と狗遠とでは気が合わぬだろうなと、このあらゆることに対する経験の乏しい知識の凸凹な狼なりに考えてはいたのだが、よもやこれほどまでに一人と一頭の相性が悪いとは思わなかったのである。  

「あやつは気に入らぬ。ああ、実に気に入らぬ。正直、あの人間に犯されてしまえと思っているほどにな。なぜここまであ奴を嫌っているかは私にも分からぬから、なぜとは聞くな」

 ここまで来ると呆れるのを通り越して感心してしまいそうになる、と雪輝は逸っていた気持ちが落ち着いたのを確認しながら、眉間に皺を深く刻む狗遠の横顔を見た。

「ふん、まあいい。雪輝よ、目の前の連中の中で籠手を嵌めた奴が第一の輪の中の要だ。それは分かるな」

「あれから片づけるつもりなのか? 要という事はそれだけ腕も立つであろうよ。当然周りの連中もむざむざとやらせはすまい」

 誰もが思いつくような至極当たり前の雪輝の意見に、狗遠はふん、と鼻を鳴らして答える。

「だからこそいの一番に片づける価値がある。失敗したとしてもそのまま一気に一番外側の輪まで突っ込んで、連中の陣形をかき乱す。面倒なのは後方で構えている連中の術が完成した時だ。乱戦では味方を巻きこむような術の使用は控えるだろう。
 こういう奴らは型に嵌まれば強いが、それが崩れれば後は容易いものよ。数で劣ろうが共闘の経験が無かろうが、お前と私ならやれるはずだ」

 雪輝は狗遠が怪我を負っていた腹のあたりに視線を向ける。数日の休養と雪輝が献身的に手ずから運び込んだ大量の食物を摂取したことで、狗遠の傷が見る見るうちに癒えていた事は雪輝も知悉している。
 また久しぶりに血肉湧き立つ戦闘の渦中に身を置いている事で、狗遠が心身ともに高揚しており、体細胞と妖気が活性化して急速に傷を埋めはじめていることも、妖気の揺らぎなどから雪輝は察していた。
 狗遠の体から薫る血の匂いからは、いまでは狗遠自身のものはほとんど嗅ぎ取れず、ほとんどが狗遠によって殺害された三人の退魔士達の血の匂いが占めている。
 全力とまでは行かぬとも狗遠の体調が、いまも急速に戻りつつあるのは間違いない。狗遠がこの調子ならば戦えるだろうかと、雪輝は判断を下した。
 今も鬼無子と夕座が交わす剣閃の煌めきと刃と刃の交差音は絶え間なく続いている。やすやすと鬼無子が敗れるとは思っていないが、白猿王との戦いの時の様に鬼無子が傷ついた姿を見る事は雪輝には耐え難い事だった

「雪輝、即興だが、私に合わせて動け。私の指示を聞き逃すなよ。お前の耳なら動いている間も聞き洩らす事はあるまい」

「ああ。しかし、すまんな、狗遠。私の厄介事にお前を巻きこんでしまった」

 妙な事を気にする奴、と狗遠はこんな時でも変わらぬ雪輝の律儀と言おうか責任感が強いと言おうか、内側の妖魔達にはまずいない性格につい首を傾げた。
 だからだろう。狗遠自身も意外な言葉を発したのは。

「……私も飢刃丸の事でお前に厄介になっている。お互い様だ」

 雪輝は、おや、と驚きを表す様に耳をピンと立てて軽く目を見開いた。狗遠からは生涯聞く事が出来ないだろうと思っていた殊勝な言葉が出てきた事は、それほどの驚きを雪輝に与えたのである。
 その雪輝の様子が面白くないのと、自分でも妙な事を口にしたという意識があって、狗遠は苛立ち混じりに雪輝に告げた。
 とことん雪輝とは相性が悪いというかどうにも調子が狂わされる事を、狗遠は苦々しく感じながら牙を軋らせて紛らわせる。

「行くぞ、初撃で首を噛み千切る!」

 いよいよ全身から殺意を迸らせて灰色の妖気の塊と化す狗遠の気勢を、雪輝が意図せず殺いだ。

「ふむ。女であるお前に先手を取らせては申し訳がない。先行きは私が参ろう。それとなるべく殺さぬ様にな」

 こいつは、と咽喉の奥まで出てきた怒声を狗遠は無理矢理に飲み込んだ。
 馬鹿は死ぬまで治らないという言葉があるが、こいつはまさにそれだ、と狗遠は心底から嘆いて怒り、本当にこいつの子を望む事が正しいのかと頭の片隅で疑問が頭をもたげたが、とりあえずこの場では考えるべき事ではないと、蓋をして忘れることにする。

「…………知るか!!」

 夕座の戦いへの介入を防ぐ事だけを目的としている為に、妖魔改の者達は雪輝達が動く気配を見せるまでは、手を出そうとはしていなかったがいよいよ雪輝達が攻勢に打って出ると見て、瞬時に迎撃態勢を取る。
 籠手使いが両拳を握りしめて顎先に添えて、雪輝達の動きを待つ姿勢を見せる一方で、左右を固める六名の女らしい忍装束達はそれぞれの獲物の切っ先を、二頭の魔狼へと向ける。
 六名の女達が構える武器にはそれぞれ火、風、土、水、雷、氷と異なる力が宿っており、量産を前提とした武器としてはかなり上等な品であることが発している霊気から分かる。
 しかし、かつて山に足を踏み入れた人間達を何度か返り討ちにして食い殺した経験のある狗遠からすれば、自分や雪輝にとってはさして脅威足りえないものだと判断し、雪輝と共に四本の肢で一挙に大地を蹴った。
 鬼無子や夕座の踏み込みに勝るとも劣らぬ疾風の動きは、第一の輪を形作っていた妖魔改達の反応速度をはるかに凌駕していた。かろうじて反応を見せたのはやはり狗遠が要であると見抜いた籠手の男だけであった。
 狗遠の先を駆けた雪輝は、五間(約九メートル)の距離が開いていた籠手使いの目前に踏み込み、黒頭巾で目のあたりだけを覗かせている籠手使いの首筋を目がけて真珠色の牙を唸らせる。
 籠手使いの身長はざっと五尺八寸(約百七十四センチ)。肩高が六尺になる雪輝がやや斜め上方から獲物に襲い掛かる猛禽類のごとく迫りくるのに、咄嗟に後方に跳躍し、さらにそれが間にあわぬと思考よりも肉体が早く理解して、魔銀製の籠手に包まれた腕が即座に左頸部を庇う。
 籠手使いの跳躍にわずか遅れて噛み合わされた雪輝の牙は、魔銀の籠手をかすめて美しい銀色の籠手にむざむざと牙の痕を残す。
 神性のみが創造しうる神造鉄(オリハルコン)に次ぐ硬度や抗魔力を有すると言われる魔銀を、こうも容易く損傷させる雪輝の牙の威力に、籠手使いの瞳が驚きに揺れる。
 対妖魔を想定して肉体のみならず、精神的な修行も血を吐くほどの過酷さで積んでいる事を考えれば、例え一瞬とはいえ驚きの感情が表に出た事は珍しい事と言えた。
 口の中の魔銀の欠片を雪輝が飲み下すのと同時に、後方に跳躍していた最中にあった籠手使いへと雪輝の後ろに隠れて走っていた狗遠が襲い掛かる。
 ようやく周囲の六人の妖魔改の女隊士が反応を見せて、籠手使いを助けるべく動きを始めるがそれよりも狗遠の牙の方が早い。
 いまだ首筋を庇ったままの籠手を避けて、狗遠は籠手使いの腹を食い破りに掛った。そのまま臓物に牙を立てて思い切り捻りあげた上で食い千切ってくれると、狗遠は残酷にそして冷酷に考えていたのである。
 妖魔改達が着用している忍装束は、法儀式による霊的防御力の強化はもちろん、素材からしても繊維状に加工した鉄や塩をまぶした女の髪を織り込んであり、更にその下に鎖帷子を着込んでいて例え全力で斬りつけたとしても、あるいは銃弾を受けたとしてもわずかに衝撃を通すだけだという品だ。
 しかしながら上級妖魔の末席に名を連ねる事が出来るだけの力を持つ雪輝と、雪輝にやや劣る程度の力を持つ狗遠ならば、例え国家規模の補助を受けて用意された防具といえど量産品の守りらなば十分に貫ける。
 であるのにも関わらず狗遠の牙が籠手使いの腹はおろか忍び装束さえも貫けなかったのは、一瞬にも満たない時間差を持って間にあった第三の輪の術師達が展開した、重ね掛けの防御術式の成果であった。
 籠手使いの忍び装束の表面に七層にも渡って重複展開された淡い白い光の膜の六層までを貫いた所で、狗遠の牙は止まっていたのである。
 籠手使いのさらに奥に隠れている術師達に殺意の視線を向けてから、狗遠は自分の頭を叩き潰す為に打ちおろされた籠手使いの右拳を躱す為に牙を放す。
 初撃での籠手使い撃破が叶わなかった事態に雪輝と狗遠はすぐさま取るべき行動を選択し、わずかな停滞もなく妖魔改らへと襲い掛かる動きを見せる。
 術師の厄介さは既に白猿王が蘇らせた高位の女陰陽師との戦闘で嫌というほど味あわされた雪輝は、狗遠と同様に後方の術師から無力化する事を選んでいた。
 だが同時に狗遠の囁きを雪輝の耳は確かに捉えて、その選択肢の撤回をせざるを得なくなる。

――術師どもは私が片づける。お前はその他のを始末しろ。壁の居ない術師など吹けば飛ぶように脆い。

――分かった。一人で大丈夫か?

――答えが必要か?

 なるべく殺さぬようにとはこの状況では言えぬなと、雪輝はある種の諦めと罪悪感を胸中で噛み締めながら、籠手使いの脇をすり抜けて行く狗遠を見送り、後方から斬り掛って来た六人の女達の武器を上方に跳躍してかわした。
 水と氷の霊力が付与された短刀と短槍に限れば雪輝との相性の関係から、まともに受けたとしてもほとんど傷を負う事は無かっただろう。
 足場のない上空に跳躍した雪輝の選択肢を愚かと感じ、六人の女達は一糸乱れぬ動きで雪輝を目がけて刃の軌道を変更して直角的に振りあげる。
 雪輝は下方から迫りくる刃をまるで気に留めず、妖気を冷気に変換して四本の肢それぞれの裏に氷の足場を構築する。
 その途中で狗遠の方に目をやれば、第二の輪を構築していた七名の妖魔改達が狗遠の足を止めんとしている。
 彼らとて妖魔との戦いを幾度もくぐり抜けてきた歴戦の強者だ。敏捷さに富んだ雪輝や狗遠のような妖魔との戦い方も心得ているだろう。
 狗遠単独で第二の輪を突破して術師らを殲滅するのはいささか酷、と瞬時に判断した雪輝は足場を蹴って急速に下方に向けて降下するのと合わせて、再び妖気を媒介とした熱操作を行って、狗遠の周囲を取り囲まんと動いていた妖魔改らを阻むように、大地から紅蓮の炎を噴き上げる。
 自然現象における炎とは性質を大きく異にする妖気の炎は、実際に炎に接触した部分にのみ熱量を与える物で、例え一寸という間近の距離にあっても一切熱量が加わる事は無いし、燃やす対象を選択する事も出来る。
 この時雪輝が地面と妖気を媒介にして噴出させた炎柱の熱量は、摂氏二千度超。ゆうに鉄を融解させる数字だ。
 狗遠は自分を守る位置に噴き上がった炎柱から感じられる妖気が雪輝のものであった事から、即座にこれが雪輝の仕業である事を理解して、後ろを振り返る事もなく目の前の術師達へと踊り掛った。
 籠手使いに施した防御術使用後の精神力消耗と硬直状況にある三名を除いた残りこれまた三名の術師達が、詠唱や祈りを必要としない分即効性は高いが、その分威力が見劣りする術を狗遠へと叩きつける。
 爆光と衝撃とが狗遠を目がけて殺到するのを視界の端に映しながら、雪輝は炎柱の発生を止めて、後方から迫りくる女達と、第二の輪の構成していた数名が雪輝をめがけて動きを見せるのを確認し、こちらを片づけることを優先した。
 先ほど視認した術ならば八割か九割方回復した狗遠にはさして痛打を浴びせられまいし、周囲の妖魔改達は大狼と勘違いしている雪輝の方に意識を集中させている事から、雪輝は自分の戦いに集中する。
 凛とのいざこざを経験こそしていたが、雪輝にとって本格的に人間と争うのはこれが初めての事であった。
 相手がこちらの命を狙ってくるとなればそれが妖魔であれ、野の獣であれ、人間であれいずれも平等に命を対価にして迎え撃つのが、人間よりの思考を持つとはいえ、そこはやはり妖魔である雪輝の基本的な考えである。
 しかしながらひなを引き取り鬼無子と暮らし凛と友誼を結んだ事もあって、例えこうして生命を狙われている状況にあっても、いまひとつ雪輝は妖魔改の者達の命を奪う事に踏ん切りをつけられずにいた。

(さて、この者達の力がどれほどの物であるかいまひとつ把握できぬが、できれば殺したくは無いな。どうにも人間を殺すのは後味が悪そうだ)

 雪輝は身を捻って後方から突きだされた短槍を噛み止めてその勢いのままに噛み砕き、更にこちらの前肢を切断しに掛って来たそれぞれ炎と風の力を宿した二振りの刀を、回避する事もなくそのまま受ける。
 巨躯の表面を高速で流動している妖気の防御圏に接触した刀が凄まじい勢いで風と炎を発生させて、雪輝の堅固な防御圏を突破せんと宿す霊力を全開にして荒ぶる。
 それぞれ雪輝の左右の肢に刃を叩きつけた妖魔改の隊士二人は、一向に己が手の中の刃が雪輝の防御圏を減衰させる事も出来ぬ事実に、目を細めてすぐさま後方に飛びのこうとしたが、それよりもはやく雪輝が両前肢を叩きつける方が早かった。
 二人の側頭部を時間差を置いて雪輝の前肢が横殴りにし、二人の隊士はその勢いのまま高速で地面にたたきつけられて、意識を根こそぎ刈り取られる。
 雪輝の知覚網が八つの殺意を捉えた瞬間、肩高六尺の巨躯からは想像もつかない柔軟かつ敏捷な動きを見せて、横腹を突いてきた雷を纏う槍穂や肩をめがけて振り下ろされた土の魔力を秘めた鉄鎚をひらりと躱す。
 それぞれの武器が発する霊力は雪輝の体表上の妖気と交錯する度に無数の火花が散り、雪輝は全身に砕いた宝石の粒を纏っているかのように輝いていた。
 妖魔改の隊士たちの中には夕座の伽役も兼ねた多種族に及ぶ美女達もおり、先ほど鬼無子と妙な舌戦を繰り広げた影馬と影兎も雪輝との戦いに加わっていた。
 頭巾を被り直してはいたが、その頭巾から特徴的な髪形が零れている為、判別は容易い。影馬は五指の間に投げ刃を挟み、影兎は三節を備えた槍を手にしている。

「鬼無子と言い争っていた者達か」

 意識せずに口を出た雪輝の言葉が耳に届き、影馬と影兎は鏡映しにしたそれぞれの美貌に、新たな敵意の色を塗り重ねる。

「大狼、夕座様の御為、御首頂戴!!」

「お覚悟を」

「そう上手くはやらせぬよ」

 夕座に対して抱いている怒りに比べればごく微量ではあったが、雪輝は鬼無子を言葉で傷つけた影馬と影兎に対しても、それなりに怒りを抱いていた。

<続>

以前ご感想の中で頂いた会話を参考にさせていただきました。ありがとうございます。
ちなみに雪輝は天地の気を食べて体力を半永久的に補充できるので、精力もほぼ無限という裏設定があったりなかったり。子供は百人単位で出来る予定。

天船さま

狸一家の顛末は夕座の口から遠からず語られる事となりますので、その時までお待ちを。女の戦いは狼VS人間から、一時人間VS人間となりました。鬼無子はあんまり口が上手くないので、同じ様に会話経験の乏しい狗遠ならともかく、大抵は言い負かされる人です。

ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°修っ羅っ場!修っ羅っ場!(挨拶返し)
とりあえず恋愛的な修羅場から戦闘的な修羅場に移行です。萌え人外はそういう種族だったりハーフだったりクォーターだったりと色々です。詳細は後々文中にて説明するつもりですが、神々がいろいろと好き勝手に種族を作っているので、色んな種族が居て、頻繁に異種族間における婚姻なんかも行われている世界です。チラ裏のは次はアーミアとおまけの刹那を投稿させていただく予定です。来週中までには、なんとか……。

taisaさま

ちなみに鬼無子は外見は純人間風で産まれています。他の同族たちには妖魔や亜人の特徴をもったものも居たのですが、年を経るに連れてそれを抑える術などを学んで外見は人間そのものにしていたという設定です。
仮に雪輝との間に人外の外見を持った子供が生まれたとしても、異種族を受け入れる素地のある人間社会か、異種族や妖魔の国にいかないと迫害にあってしまうかもしれませんね。山にずっと住んでいればその心配もありませんけれども。手足や耳、尻尾は狼、胸はホルスタウロス、とかさらにハーピー系統の羽が背中から生えているだとか、複数の特徴を持った子供も生まれるかもしれません。

ご感想を賜り誠にありがとうございました。大変励みになります。
誤字脱字のご指摘、ご感想、ご助言お待ちしております。これからもよろしくお願い致します。

3/20 20:16 投稿



[19828] その十九 魔弓
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/03/31 09:00
その十九 魔弓


 五指の間に投げ刃を挟む影馬、三節槍の穂先を地に向けて斜めに構える影兎。
 両名の堂に入った構えと小柄な体から放たれる闘気に、ほう、と雪輝は細長い口の中で感嘆の息を飲み込んだ。
 幼いと見える二人だが。数十にのぼる妖魔や外道魔道の人間の命を奪ってきた歴戦の猛者でなければ、こうは行かない。
 凛と同じかともすれば年少と見える双子の姉妹の顔立ちに、雪輝は多少の戦いにくさ――より正確に言うならば殺しにくさを感じていたが、どうやらその様な感傷を忘れて戦わねばならぬ“敵”と認めねばならない様だ。
 腰を落として眼を細める雪輝よりもなお小柄な影兎と影馬は、一心同体の妖魔狩人となって雪輝へと迫る。
 無論雪輝の敵は影兎と影馬ばかりではない。第一の輪を構築していた妖魔改の残りの者ども、特に雪輝と狗遠が揃って使い手であると判断した籠手使いも残っており、彼らは雪輝の方から潰しに掛る動きを見せている。
 雪輝の青い瞳は影馬と影兎を鋭く射抜いていたが、警戒の意識は全方向へと知覚の枝を伸ばしている。
 すぅっと細く息を吐いた雪輝は右から左へと首を振る。白銀の体毛が陽光を燦然と弾き、空中に眩い軌跡を描くのと同時に、きぃん、と硬質の物体同士が衝突する甲高い音が雪輝の口の中で連続して発生した。
 陽炎に包まれた様に掻き消えた影馬の手から放たれた十本の投げ刃をすべて、並び揃う真珠色の牙で咬み止めたことで起きた音である。
 毛先ほどの小ささの退魔文字がびっしりと刻み込まれた投げ刃は雪輝の口内をずたずたに切り裂こうと青白い霊気を発しているが、雪輝が牙に妖気を通して軽く力を込めると同時に、熟練の極みに達した職人が打ちあげた鋼鉄の投げ刃は、砂で出来ていたかのように砕け散る。
 雪輝が口内のそれを吐き出すよりも早く、雪輝の眉間に影兎の三節槍の穂先が射し恵む秋の陽光を貫きながら迫っていた。
 雪輝と影兎の距離はまだ二間半(約三・六メートル)があったが、三節槍が届く距離ではない。
 それがなぜ雪輝の体に届いたかと言えば、影兎の三節槍がそれぞれの節を伸ばして間合いを伸ばしていたのだ。
 三つの節と節の間はそれぞれ髪の毛ほどの太さの鋼線によって繋がれている。その鋼線の距離だけ影兎の三節槍は、その間合いを自在に延長させるのだ。
 だがこの手の仕込み武具は凛を相手にさんざか経験した雪輝である。敵の携える武具の間合いが倍になろうが、今更驚きに目を見張る事は無い。無論、間合いが自在に変化する武具というのは、いささか戦い辛くはある。
 穂先の刃が雪輝の眉間に直角に突き立つ寸前に、雪輝は軽く首を捻って角度をずらし、軽く穂先を弾く。
 槍は軽く影兎が手首をこねるのに合わせて引き戻された事で元の長さへと戻り、軽やかに地を掛ける影兎の手元に。
 一気に間合いに飛び込むかと雪輝が考えた時には既に二波目の投げ刃が、雪輝の眉間、喉元、胸、肢先を狙って放たれている。
 神速と呼ぶにふさわしい一連の投げ刃は地を這う蛇のごとく軌跡を描き、異なる五か所へ目がけて迫る。
 雪輝は既に三方を囲む他の妖魔改の動きと合わせて、防御と回避の選択肢の内、前者を選択して影兎をめがけて跳躍する。
 重装の鋼鉄の鎧に匹敵する硬度を持つ体毛と、体表を高速で対流する妖気の防御圏を合わせた雪輝の防御力の前では、正確な狙いで投げつけられる影馬の投げ刃といえども脅威にもならない。
 元々瞬発力や運動能力に長けるイヌ科系統の妖魔の中でも、雪輝の身体能力はずば抜けて高いが、それ以上に鋼鉄以上の硬度を誇る体毛や防御圏からなる防御能力もまた、雪輝の戦闘能力の一端を大きく担う要素である。
 特に白猿王や怨霊との戦いで致命的な負傷を負わされた雪輝は、最近では脚力の強化以上に防御面に重点を置いていた。
 影馬の投げ刃は雪輝の防御圏に触れると同時に呆気なく、黒い粉末状になるほど微細に砕け散り、雪輝の高速移動が巻き起こす大気流に流されずにそのまま雪輝の巨躯に纏わりつく。
 雪輝の瞳の先で影馬が五指を絡みつかせ複数の印を瞬き一つの間に組み、呟きを一つ漏らすや砕かれた筈の投げ刃の粉末は、そのまま呪術の触媒として機能して目に見えぬ力場を生み出して雪輝の巨躯をその場に固定する。
 この時、雪輝の体重は実に五十倍にまで増幅させられて、天突く巨人に押さえつけられているかのような負荷を強いられていた。

「っ味な真似を」

 確かに雪輝は凛との戦いで仕込み武具を相手にする経験を積んではいたが、このように呪術を併用した戦いというものはほぼ初めての事であり、呪術混じりの戦い方をする敵の行動の予測を正確に行う事が出来ないという欠点が、白日の元に晒されたといっていいだろう。
 白猿王が蘇らせた女陰陽師の使った重力制御の術式と同じ現象だが、あくまで雪輝だけを対象にしている為に、周囲の地面それ自体が陥没する様子はない。
 雪輝がその場に固定されている間に影兎は節を伸ばさずとも槍の届く間合いにまで詰め寄り、渾身の一突きを見舞う姿勢を整えている。
 いや影兎のみならず風と雷の魔力を迸らせる武具を手にした者や、籠手使いもまたそれぞれが雪輝に渾身の一撃を見舞う距離にまで詰めている。
 しかしながら窮地を前にして雪輝の口から出たのは、追いつめられた事に対する悪罵の言葉ではなかった。

「好きなだけ私を怨むがいい!」

 これから自分が生命の花を手折る者達への叫びであった。
 先ほどまでの人間を殺すのは後味が悪そうだ、などという感傷は単なる思い上がりに過ぎなかったと、雪輝は己の浅慮を罵りながら、自身の妖気を周囲へ波濤のごとく放出し、それに氷結の属性を帯びさせる。
 法術や呪術などとは異なって雪輝の意思一つで瞬時に発動できる熱量操作の異能を、雪輝は自身の周囲から迫りくる妖魔改への攻撃に使う。
 突如として雪輝を中心として大地に咲き乱れる巨大な氷の花に、妖魔改達は咄嗟に踏み込んだ体を捻って急停止、あるいは跳躍の方向を転じて美しくも死そのものである氷の花の花弁から逃れようと動く。
 雪輝が氷結させた妖気は周囲の大気を巻きこみながら次々と氷結の範囲を広げて、雪輝を中心として氷の花畑を広げてゆく。
氷の花弁は一枚一枚が恐ろしく鋭く研ぎ澄まされて、触れた者の肌を裂き、切り口から敵意の込められた冷気が侵入して体の内側から凍らせる魔性の氷花だ。
 咄嗟に回避しようと動いた妖魔改達の武具や衣服の一部に触れた冷気は、見る見るうちに氷結の範囲を広げて、武具や衣服からそれぞれの妖魔改の隊士たちの肉体を覆い尽くして、氷の棺の中へと次々と閉じ込めて行く。
 隊士たちが常に携行している対火、対冷、対毒、対雷など各種の呪符が、雪輝の妖気に抗おうと書き記された文字が淡く明滅するもそれもわずかな間の事で、呪符の加護と生来の対魔防御力を突破されて、隊士たちは悲鳴を上げる間もなく氷の中に飲み込まれた。
 穂先が雪輝の妖気圏に入り凍りつかされた三節槍を捨てて、影兎は咄嗟に腰裏の帯に差しこんでいた短刀二振りを抜き放ち、後方に跳躍して雪輝から距離を置く。

「影馬!!」

 鏡合わせの様に自分と同じ顔の同胞の名前を叫び、雪輝を抑制している呪術の強化を命じようとした影兎であったが、悲痛といってもいい影馬の声が、それを遮った。

「駄目、術が破られる。力づくで!?」

「があああああああ!!!」

 雪輝を抑え込む見えざる重力の枷を、雪輝は四肢に妖気を巡らせて筋力を爆発的に上昇させ、影馬の言葉通り力づくで引きちぎる。
雪輝が氷結の妖気を放出した事によって緩んでいた呪力の枷は、呆気なくはじけ飛び、雪輝を縛るものは一瞬で失われる。
 予想以上の力――とそこまで考えた影兎は、唐突に視界が急変した事に気付く間もなく、その小さな体を高速で背後にあった巨木の幹に叩きつけられて、食道の奥からこみ上げてきた熱い何かを、思いきり吐瀉した。
 かはっと小さく息を漏らし、影兎は自分の口から溢れたモノを目に映して、それの名前を口にする。

「あ、れ? これ赤い……血? わ、たし……の」

 呪術による枷を力づくで破壊するのと同時に、雪輝は跳躍して防御圏を纏ったまま影兎に体当たりを敢行したのだ。
 特殊な素材と製法から成る妖魔改の衣服と身体強化をはじめ様々な効果を持つ呪符を全身に忍ばせた影兎であったが、雪輝の目にも映せぬ速さと巨躯からなる体当たりを受けては無事でいられる筈もなく、脊髄をもろに粉砕されて、砕けた骨が臓器を著しく損傷させている。
 むしろ即死しなかっただけ、影兎の鍛錬を重ねた肉体と装備の頑丈さを褒め称えるべきだろう。

「えい――――!!」

 産まれる前から母の腹の中に共に居た半身の名前を言いきる前に、影馬は自分の傍らを恐ろしく早い何かが通り過ぎて、その衝撃に吹き飛ばされて大きく地面の上を跳ねまわらされた。
 咄嗟に頭を庇い二転三転する視界の中で、影馬はいくら半身と思う影兎を傷つけられたからと言って、意識を乱した己を恥じる。妖魔との戦いの中で意識を乱す事は、まさに致命の隙を生み出す最大の要因だ。
 何度も派手に転がることで衝撃を逃がした事を確認し、影馬はようやく膝立ちの体勢に体を立て直す。
 先ほどまで自分が印を組んでいた場所に立ち、こちらを睨み据えている雪輝の姿に気付いた影馬は、肉親と仲間を傷つけられた怒りと憎悪の炎を小さな胸の内で燃やしながら、あくまでも意識は冷徹に攻撃性の呪術を発動せんと両腕を胸の前に持ってくる。
 そうして、左腕だけが自分の視界に映らない事に気付き、ぐらりと視界が揺れて横倒しに倒れた。急速に自分の体から熱と霊力と、そして命が失われつつある事を、影馬は理解する。
 体の左側を地面に押し付ける形で倒れ込んだ影馬は、雪輝の足元に根元から骨込めに噛み切られた自分の左腕が転がっている事を。
 左腕の根元からも自分の左肩からも赤い血が次から次へと溢れ出て、赤い水溜りを作っている。

「私の、腕……」

 影馬は衝撃のみに吹き飛ばされわけではなかった。雪輝は影兎を体当たりで吹き飛ばした直後、前衛を務める者達ばかりで構成されていると思っていた第一の輪の中に紛れていた術使いである影馬の排除に動き、その左腕を付け根から噛み切ったのだ。
 ぎしり、と軋む音を立てて雪輝の牙に噛み切られた左腕と左肩の両方が氷に包みこまれて、影馬の体から熱と生命を無慈悲に奪い去り、影馬を死への旅路に追い落とす。
 雪輝は影兎に続いて影馬もまた意識を失うのを確認して、次の獲物を狙い定めるべく視線と意識を巡らせる。
 口の中に残る双子の淫姉妹の血の味に眉を顰め、雪輝は首を右に倒した。完全に雪輝の死角から、魔銀(ミスリル)製の籠手をはめた籠手使いが振り抜いた右の鉤打ちを、気配と匂い、風切り音から感知して回避し、雪輝は背後に居る籠手使いへ旋風の勢いで振りかえりざまに、右の前肢を叩きつける。
 不意打ちが空振りに終わった瞬間には、すでに両腕を交差させて胸部と顔面を庇っていた籠手使いであったが、容赦を捨てて敵対者であると妖魔改達への認識を改めていた雪輝は、攻撃用の凶悪な妖気をたっぷりと乗せた爪で魔銀の籠手を薄紙のごとく切り裂いて、交差していた丸太の様に太い両腕を切り落とし、更に鍛え抜かれた胸板をも切り裂く。
 籠手使いの瞳が驚愕と痛みに見開かれ、仰向けに地面に倒れ込んで程なくして動かなくなったことで無力化したことを認めた雪輝は、第一の輪を構成していた妖魔改の精鋭たちは壊滅、と判断する。
 残る第二の輪と狗遠が突っ込んだ第三の輪を構成している術師達の迅速な殲滅を行い、更に鬼無子が斬り結んでいる夕座を葬らねばならない。
 瞬く間に妖魔改の隊士たちを殲滅した雪輝を、第二の輪の隊士たちが新たに包囲する為に動いていた。

「命を無駄にする」

 圧倒的強者の傲慢と憐憫を交えて、雪輝はやるせなく呟く。だが、だからといって見逃すつもりはないのだと、その呟きは語っていた。



 頬を掠めた刃風に雪色の肌に一文字の切り傷を刻み込まれ、更に数本の髪を断たれた事を感じ、鬼無子は間合いの見切りを誤まったかと、叱責の念を脳裏に浮かべる。
 雪輝と狗遠らが妖魔改の隊士達を相手に優勢の戦いを進める中、鬼無子と夕座の戦いは一進一退の攻防を繰り広げていた。
 殺意を隠さぬ殺人の太刀を数十合以上交わし合いながら、互いに傷と言えるだけの傷はまだなく、着物の端や肌に小さな斬痕を新たに刻むに留まっている。
 夕座の右頸部に振り下ろされた崩塵の刃は、かねてから打ち合わせていた様に紅蓮地獄の刃に受け止められて、霊気と霊気の火花を散らすのと同時に弾かれる。
 刃が弾かれた勢いを利用して迅速に崩塵を引きもどした鬼無子は、地面と水平に刃を倒して稲妻の迫力と威力を秘めた突きを放つ。
 銃口から放たれた弾丸に数倍する超音速の刃を、夕座は左脇に抱えるかのような紙一重の動きで躱して、一歩下がるのに合わせて鬼無子の首をめがけて紅蓮地獄を振るう。
 四尺という長刀身を誇る紅蓮地獄は、当然ながら鬼無子と崩塵の間合いから外れた距離から襲い来て、鬼無子に有効となる斬撃を放つために必要な踏み込みを阻む。
 人外との戦闘経験が大半を占める鬼無子にとっては、一尺や二尺の間合いの差などは気にもならぬが、力量が同等かそれ以上の夕座相手では城門を締め切った城塞のごとき攻め難さがある。
 嘲笑としか映らない微笑を浮かべたまま、夕座は右手に左手にと紅蓮地獄を持ち変えて、猫が鼠をいたぶる様にして鬼無子へと斬撃を重ねて行く。
 人の領域を超えた鬼無子の身体能力でなければ、到底受ける事も躱すことも、そもそも瞳に映す事さえできない夕座の斬撃の連続であったが、鬼無子はこれが夕座の全力ではない事を、夕座のにやついた顔から看破していた。
 街中を歩けば男と女の区別なく、老いと若いの区別なく見惚れて頬を赤らめる途方もない夕座の美貌ではあったが、すでに心と操を奉げるのは雪輝殿のみ、と決めている鬼無子には夕座の見え透いた下衆な欲望が鼻につき、嫌悪の念ばかりが募る。

「その、にやついた顔を止めんか!」

 裂帛の気合いと怒号を伴って放たれた崩塵の刃は、蛇の様に横合いから絡みついてきた紅蓮地獄に斬撃の方向を転換させられて夕座の体を大きく外れ、鬼無子から見て右上の虚空を斬る。

「ここまで私の顔を嫌われたのは初めての事よ。それ、その様な事を言い重ねてはまた影馬と影兎に罵られよう。なあ、乳おばけ」

 くっ、と夕座の唇がつり上がる。おかしくておかしくて仕方がないと物語る、その唇の動きに鬼無子は自分でも驚くほど簡単に頭に血が昇るのを意識した。

「貴様はっ!」

 あらぬ方向に刀身を泳がされた崩塵はそのままに、鬼無子は空の左手の五指を揃えた貫手を夕座の懐に飛び込み様、夕座の右脇腹へと突きだす。
 紅蓮地獄は崩塵の刀身にぴたりと吸いついて遠い位置にある。
 四尺もの刀身はその長さゆえに懐にまで潜り込めば獲り回し難いものになる。それを夕座が理解していない筈もないが、戦況の変化を望んだ鬼無子は無謀の色合いが強い事を理解したうえで、強敵の懐へと飛び込むことを決めた。
 ここまでの戦いで剣技はほぼ互角、身体能力もほぼ互角、おそらくは潜った修羅場の経験も互角か夕座の方が上、では組み打ち技術は?
 常人だったら傷跡が傷跡を埋める様な鍛錬を積んだ鬼無子の細指は、染みも傷も一つもなく白い肌に覆われた美しい繊指であったが、貫手の形を取ればその殺傷能力は銘刀の切れ味と戦鎚の破壊力を兼ね備える。
 人間の体など水に腕を突き立てる程度の抵抗を示すのが精いっぱいだろう。
 夕座は紅蓮地獄を握っていた右手を柄から手放して、自身の右脇腹に迫る鬼無子の左手首を掴み止めた。死角から放たれた火縄銃の鉛玉三発を、見る事もなく弾き返した夕座であればこそ、鬼無子の貫手をかくも容易く止め得たと言える。
 万力の圧力というよりも最初から繋がった状態で産まれて来たように、夕座の手は鬼無子がどれほど力を込め、技によって力の流れを転じて夕座を投げ飛ばそうとしても、掴んだ鬼無子の手首を離そうとはしない。
 手首が駄目なら崩塵をと考えた鬼無子であったが、そちらもまた紅蓮地獄が刃を溶け合せた様にして崩塵を固定している。
 どちらも縁ぎりぎりまで注いだ水の様な危うい拮抗によって保たれているが、それを実行している夕座は変わらぬ余裕の笑みのままだ。
 鼻と鼻がもう少しでくっつくかという近い距離で自分を見下ろす夕座の顔へ、鬼無子は視線で殺せるのなら百万回も殺せているだろう殺意の目を向け続ける。

「良い目をする。だがこれまでの戦いでお主が私に勝てぬ事は分かっておろう? いまのままのお主では勝てぬ。いまのままのお主では、な」

 ぎしり、と鬼無子の米の様に白い歯が砕けんばかりに噛み合わされて、軋む音を立てる。いまのまま、という言葉の意味を夕座以上に理解しているのは誰よりも鬼無子だ。
 そうせねば夕座には勝てまい。だが払わねばならない代償は決して安くはない。
 かつて夕座は腹心の忍びである影座に、今度会う時鬼無子が人間であれば力づくで我がものとし、妖魔に堕ちていれば撃ち滅ぼした後にその骸を犯し嬲ると告げたが、いまもまた同じ心であったのか。
 このまま鬼無子が人間であり続ける事を選んで敗れるのなら、弱った心と体を存分に蹂躙し、妖魔に堕ちる事を選ぶのなら容赦なく息の根を止めてその骸を穢し尽くすつもりなのだろう。
 鬼無子が生きようとも死のうともその存在を穢す事で暗い悦びを得る事は、夕座にとって確定事項となっていたのだ。
 そして鬼無子は、あろうことかこの至近距離で瞼を降ろして瞳を閉じる。米神には一筋の汗が滴って、肌理細やかな肌を伝って形の良い顎先に沿い、やがて一滴の粒となって滴り落ちる。
 鬼無子が瞼を閉じたと言ってもお互いに両腕が塞がった状態である。主導権を夕座が握っているとはいえ、そう簡単に戦闘の趨勢を変える行動に移れるものではない。

「さあ、選ぶが良い。鬼無子姫よ。人として生きて私に股ぐらを開くか、妖魔として死して屍を私に弄ばれるか」

 乙女の心を惑わす美しい魔物の様に優しく囁く夕座に、鬼無子は低く凍えた声で答えた。耳にした途端、心臓が脈動する事を忘れてしまう様な、決して人間が出して良い声ではなかった。
 こんな声を出せるのは、人間では断じてありえない。例え人の姿をしていようと、その中身は人ではない。人の形をした名状しがたい邪悪なものに違いない。
 そんな声を、鬼無子は血を吸って育った大輪の椿を思わせる唇から零していた。

「貴様のものになってまで人として生きようとは思わぬ。例え妖魔に身と心を堕落させようと貴様には触れられたくもない。故に、私はどちらの道も歩まぬ。お前はここで滅びよ、黄昏夕座」

 鬼無子が閉ざしていた瞼を開いた時、夕座は鬼無子の左手首を握る自分の腕に伝わった感触に、咄嗟に握りしめていた手首を離して後方に二間も跳躍していた。
 背中に見えない翼があるかのように軽やかに跳躍し、音もなく降り立った夕座はしげしげと自分の右の掌を見つめはじめる。
 国一つを傾かせる絶世の美女も思わず嫉妬に駆られるだろう肌に覆われた夕座の右の掌は、鬼無子の肉体が発した凶悪な妖気をまともに受けて、見るも無残に糜爛して肉と肌と血管が融け合って、桃色の肉汁と化している。

「私の体をこうまで簡単に崩すか。流石はおぞましき妖魔食いの生き残りよ」

 夕座は右手を一振りし、右掌のぐずぐずに溶けていた血肉を振り払う。鬼無子と斬り結び始めてから愉悦の光だけを浮かべていた夕座の瞳に、人型の妖気と化しつつある鬼無子の姿が映る。

「肉体の変容は引き起こさず妖魔の力だけを引きだすとは、なるほど百代に渡る四方木家、妖力抑制の術には長けておるようだな」

 かつて白猿王の一派に追い詰められた時は、生命の危機に瀕した状態から無意識に妖力封印の意識の枷が解けたが、いまは違う。鬼無子自らの意思で魂と血肉に混ざる妖魔の力の抑制を解いている。
 鬼無子の人間としての魂と血肉の部分が産み出す錬磨された霊力と、枷を解かれて荒れ狂う妖魔の血肉が発する荒ぶる妖力が、互いを蝕みあい貪りながら鬼無子の艶めかしい体から黒白の陽炎となって立ち昇っている。
 相反する二種の力が反発しあう事で生じる力は、単純に二倍化する以上の莫大な力を産み出すが、それ以上に鬼無子の魂と肉体に与える負荷の方が大きい。
 それを妖魔の血の活性化による治癒能力の増大で誤魔化して、鬼無子は星明かりの無い闇夜の色をしていた瞳を、内側から切り裂かれた様に鮮血の色に変え夕座を睨み据える。
 妖気の混じる吐息を紙縒りの様に細く零す唇から覗く歯を見れば、雪輝の口に生え並ぶ牙と同様に鋭く尖り、咽喉の奥からは血に狂った獣の唸り声が零れている。
 骨と筋繊維と神経と血管とが膨張と縮小と変貌を繰り返して、肉体の内側で小規模の爆発が毎秒数千単位で起きているかのような苦痛が鬼無子を蝕み、言語にし難い痛みと共に自分の肉体が妖魔へと変わる快楽が全身を満たしている。
 人間の肉体に妖魔の血肉を取り込むことで妖魔へとその存在を近づける事は、圧倒的な身体能力や妖魔の特異な能力を得る大小に、精神と肉体を妖魔へと堕落させる事を代償とするが、同時に生命としてより強靭な妖魔へと変わる瞬間には、途方もない苦痛とそれに等しい快楽が襲ってくる。
 その快楽に負けて自ら進んで妖魔へとその存在を堕落させた者も、四方木家やその宗家たる百方木家の者達の中には少なからず存在していた。
 鬼無子は全身を細胞単位で腑分けされるような痛みと共に、脳髄を蕩かせる快楽にも耐えなばならなかった。
 これまでに四方木家が時に交配し、時に飲食し、時に血肉を移植することで取り込んできた四百四十四種の妖魔の異能と頑健な肉体が、我先に鬼無子の肉体を乗っ取らんと狂奔している。
 妖魔化の影響は鬼無子の肉体と魂のみならず、右手に携える崩塵にも表れていた。刀身に刻み込まれた三千字超の退魔真言が青白く発行し、柄尻から切っ先に至るまでが赤黒い妖気と青白い清浄な霊気に包まれて、炎を噴き出しているかのよう。
 鬼無子自身が反発しあう霊気と妖気を利用して身体能力を爆発的に向上させているのと同様に、崩塵もまた主の発する妖気を浴びて宿す霊気が反発して対消滅を起こすことで、刀身に纏う破滅的な霊的攻撃力を高めている。
 刀と剣士とが諸共に妖魔化に伴って戦闘能力を爆発的に向上させているのが、今の鬼無子だ。
 四方木家のような妖魔混じりの退魔士が、その生命の炎の最後の燃焼の際に見せる最後の切り札。
 それが本来の妖魔化の意味する所だが、百代にもなる歴史の長さと深さ、そして潜在的に霊力の高い血脈である事が、四方木家に人間の意思を保ったままでの妖魔化を可能としている。
 鬼無子の踏み出す一歩によって地面が黒煙を噴き上げながら妖気に汚染されて腐敗し、次の瞬間には高純度の霊気によって穢れを払われて、元の土色を取り戻す。
 聖と邪、光と闇、正と負、陰と陽、人と魔。相反し、反発し、否定し、混じらぬままに完結する筈の属性が、鬼無子の体内では相争いながら共存している。
 夕座の口元から初めて笑みが消えた。左手一本で握っていた紅蓮地獄の柄に皮と肉を溶かされた右手を添えて、夕座は左八双に紅蓮地獄を構え直す。
 鬼無子と斬り結び始めてからほとんど初めて夕座が見せた構えらしい構えである。
 鬼無子の変化を前に夕座もまた心構えを変えたのか、妖刀紅蓮地獄の長刀身からは氷結地獄を思わせる凍えた霊気が立ち昇り始める。
 神夜国に古来より伝わる武具の中でも崩塵と並び称される魔剣妖刀の一振りたる紅蓮地獄は、主の戦意と目の前に存在する半人半妖の気に充てられてか、刀身から発する霊気はもはや物質化寸前にまで凝縮されている。

「夕座よ、お前はいまのままの私ではお前に勝てぬと言った。ではこの私ならばどうか、その身でとくと試すがよい」

 言い終わるが早いか、鬼無子は崩塵の切っ先を地面に向けたまま二間の距離を詰める一歩を踏み込む。迎え打つ夕座の体は意識ではなく無意識――無想の剣で応じていた。
 崩塵の刃圏に夕座の体が入ると同時に鬼無子が崩塵の切っ先で地を擦りながら夕座の左腰から右肺上葉を斜めに断つべく振り上げた一刀は、左八双から地面に対して直角に振り下ろされた紅蓮地獄の刃が受け止めて見せたのである。
 しかし、両刃の交錯が生む拮抗はわずか一瞬にも満たず、夕座の体は紅蓮地獄を構えたまま後方へと、思いきり蹴り飛ばされた毬の勢いで吹き飛ばされる。
 風切る音も凄まじく吹き飛ばされる中、夕座はくるりとまるで猫の様に器用に身を捻るや、完全に勢いの方向を転換して垂直に地面に降り立つ。
 骨を何千匹もの蟻に一斉に牙を立てられたなら、こうだろうという痺れが夕座の両腕に蔓延している。
 ほお、と夕座の唇が短く動き心の底からの感心を露わにし、眉間めがけて突き出された崩塵の切っ先を首を傾けて躱す。
 風のみならず空間をも貫くかと見える凄絶な突きの刃風が、夕座の左頬に一文字の切り傷を刻み込んだ。
 突き出された崩塵の刃が引き戻されるのに合わせて、夕座は紅蓮地獄で左横一文字を描く。人間の胴体をまとめて十人も二つに出来る一振りは、鬼無子の体をすり抜けて刃応えをなんら夕座に与えはしなかった。
 鬼無子が崩塵を引きもどす動作に合わせて紅蓮地獄の刃圏をぎりぎり外れる位置まで下がり、紅蓮地獄の刀身に空を切らせたのである。
 魔獣の牙と変わった歯の並ぶ口を開き、鬼無子の咽喉から悪鬼羅刹の怒号が迸る。

「殺っ!!」

 怒号が大気を震わせ風に宿る精霊達を尽く狂乱させる中、鬼無子の腕が唐突に無数に増えた。いや、そう見えてしまうほどの神速で鬼無子の腕が動いたのだ。空間の一角を銀の光が埋め尽くす。
 降り注ぐ陽光を反射して振るわれる崩塵の軌跡。映した網膜さえも切り裂くかと見える斬撃の軌跡を新たな斬撃の軌跡が塗りつぶす様にして重ねられて、夕座の体のあらゆる場所に銀の軌跡が殺到する。
 剣術の型に当て嵌める事の出来ないまさしく人外の剣。しかしそれは鬼無子のみならず夕座もまた同じであった。
 夕座へ殺意の具現と化して迫る崩塵の刃を尽く迎えうち、拒絶し続けたのは紛れもなく紅蓮地獄の刃とそれを操る夕座の魔性の業。
 筋力、反応速度、瞬発力と妖魔の血を活性化させた鬼無子の方が上回っているはずであるのに、それでもなおいまだ黄昏夕座の肉を斬るには及ばずにいる。
 鬼無子はあくまで人間として戦っていた時とは、まるで比較にならない体の中に満ちる力の凄まじさと、拡大した知覚が強制的に収集する情報量に精神を飲み込まれまいと意識を保つ作業と戦闘を並行して行っていた。
 その最中かすかに意識を裂いて夕座の戦闘能力の高さを、否が応にも上方に修正せざるを得ない事を認めた。
 鬼無子自身が可能な限り使うまいと決めていた妖魔化の手札を切っても、いまだかすかな傷一つ負わせるのが精一杯とは。
 どくん、と鬼無子の体が内側から胎動する。妖魔の血がまた一つ、鬼無子の中の“人間”を食らい、代わりに力を与えたことを示す胎動。
 肉が、骨が、血が、神経が、細胞が人間でなくなってゆく感覚。全く異なる生物へと、より強靭で残虐で邪悪な生物へと変貌してゆく背徳感、苦痛、そして快楽。
 精神の立ち位置を間違えれば瞬く間に自分が二度と人間に戻れなくなる。精神と肉体と魂の均衡は、鬼無子の中で極めて繊細な危うさで保たれている。
 自分の精神の中を混沌とさせるモノすべてを吐き出す様に、鬼無子は自分でもわからぬまま血を吐くかの如き叫びを上げて、夕座の頭頂めがけて大上段から崩塵を振り下ろした。
 人間など比較にならない肉体の頑健さを誇る鬼族の猛者だろうと容赦なく両断する一撃であるが、放つ鬼無子も受ける夕座も共に鬼族を鼻で笑える人の姿をした化け物といっていい。
 崩塵と紅蓮地獄の激突は、もはや刀と刀の激突の領域を超えた現象であった。
 刀の主の膂力はすでに超人の域。二刀の纏う霊的な力の激突は青と白と赤の三色の光を周囲に撒き散らし、触れるモノを圧倒的な密度の霊力と妖力で破壊している。
 例え霊感を持たぬ者であっても鬼無子と夕座が三色の光の嵐の中に居るかのように見えたことだろう。
 夕座と鬼無子が互いの獲物を振るう度に周囲の樹木が真っ二つに切り裂かれ、大地には深き一文字の斬痕が刻み込まれ、千に砕けた妖気が触れたモノすべてを腐敗させれば、万に散った霊気は妖気に淀んだ大気を半ば強制的に浄化する。
 ぎぃん、と天まで届くかのごとく鳴り響く刃と刃の交錯音は絶え間なく続いて、一連なりの音楽と化して鬼無子と夕座の周囲を取り纏い、両者が虚空に描く剣戟の軌跡は幾重にも折り重なって二人の姿を銀光の中に包み込んでいる。
 鬼無子の体がまた一つ、速さと強さと撒き散らす妖気を増す。
 袈裟斬り、と見せてその途中で強引に軌道を捻じ曲げて逆袈裟に変えた鬼無子の一刀を、夕座は太刀筋の変動に惑わされることなくこちらも受け太刀を合わせて、百人力、いやに百人力はあろうかという剛力は紅蓮地獄の刃に触れるや虚空へ吸い込まれる様にして消えてしまう。
 崩塵の刃越しに感じられる力の消失と同時に、鬼無子は手首の動きで刃を突っぱずし、左手一本に握り直した崩塵を流星の刺突と変えて夕座の咽喉へ。
 これは受けられないと悟った夕座は後方へ数歩分飛んで距離を取り、合わせて崩塵を突きだしたまま突撃を敢行する鬼無子の足を止めるべく、その右肩を狙って左手一本で紅蓮地獄を突きだす。
 風の悲鳴が聞こえる様な両者の刺突。
 左右に身を傾けるか下に沈めるか、あるいはその場に踏みとどまるかと夕座が踏んだ鬼無子は、紅蓮地獄の切っ先を回避する動きを一切見せずに、構わずそのまま踏み込む足を更に前へと進め、その右肩に容赦なく紅蓮地獄の切っ先が潜り込む。

――肉を斬らせて骨を断つか!

 思考が意識を掠めた時、夕座は鬼無子の右肩の筋肉が紅蓮地獄の切っ先を締め上げて刀身を固定している事に気付く。
 すでに筋繊維や細胞の段階で人間の物ではなくなっている鬼無子の肉体は、とてつもない圧力で紅蓮地獄の切っ先を挟みこんで引く事も押す事も許さない。
 夕座は咄嗟に空いている右手で崩塵の刀身を掴み止めるが、掌の肉を崩されていた右手では完全に崩塵の勢いを止める事は出来ずに、崩塵の切っ先が一寸ほど夕座の白い咽喉に潜り込み、どす黒い血が貫かれた咽喉から溢れて崩塵の刀身を伝う。

「丁度良い気つけ薬だな?」

 右肩を貫き、更に肉の内側で鬼無子の中の妖魔を滅ぼすべく霊力を注ぎ込み紅蓮地獄に途方もない苦痛を与えられながら、鬼無子は凄艶に笑んでみせる。
 紅蓮地獄が齎す苦痛は全身の細胞が発する快楽の嵐を吹き飛ばして、皮肉にも鬼無子の人間としての意識を保つのに一役買い、それゆえに気つけ薬と評したのである。
 大輪の椿を思わせる赤色の唇の端から、同じ色合いの赤い血が一筋零れて、血の紅を鬼無子の唇に刷いた。
 夕座もまた崩塵の刀身が纏う妖気と霊気の混沌とした力を全身に流しこまれ、途方もない美貌に初めて苦痛の色を浮かべている。
 じりじりと崩塵の切っ先がわずかずつ夕座の咽喉の奥へ奥へと入り込み、まずは夕座の食道へと崩塵の切っ先が届きつつあった。
 鬼無子は肩を貫かれたままの右手で紅蓮地獄の刀身を掴み、紅蓮地獄の霊気に充てられて右手から白煙を噴き上げつつも、これを捉えて離さない。
 このままわずかずつ鬼無子が崩塵の刀身を押し込んで夕座の咽喉を貫くか、夕座が紅蓮地獄を振るって鬼無子の肉体を縦に断つか。
 均衡が破れた途端にどちらの命が失われてもおかしくはない危うい状態である。 体の中から聞こえる肉体変貌の音を聞きながら、鬼無子は刻一刻と増してゆく膂力に任せて崩塵を突きこまんとし、そして唐突に理屈を超越した直感が最大限の危機を告げた。
 この場に居てはいけない。そうしてしまったなら確実に命を失うことになると、直感が盛大な警鐘の音を鳴らす。
 このまま行けば夕座を討てるかという好機を逃す事を選ばせるほど、警鐘の音は大きい。
 鬼無子の肉体は意識や思考を超越した速度で反応する。紅蓮地獄の刀身を挟みこんでいる右肩の筋肉の弛緩と後方への跳躍、夕座の咽喉を貫いている崩塵を引きもどす動作、それら全てを一連の動作として遅滞なく行う。
 音の壁を超える踏み込みと同じ速度で後方へと跳躍する鬼無子の上方に、一つの影があった。鬼無子をめがけて弧を描く矢であった。
 赤い光だけで矢羽根も鏃を構成した不可思議な矢だったが、それが鬼無子の瞳の中でわずか一瞬で、一本から実に千本もの数に増える。
 五感のみならず六感に至るまでが強化された鬼無子には、その千本の矢の全てが殺傷能力を備えている事を理解した。幻術か気や霊力を具現化する術によるものか、千本の矢は独特の甲高い風切り音と共に鬼無子へと降り注ぐ。
 柄尻に血の伝う右手を添えた鬼無子は視界を埋め尽くす赤い光の矢をめがけて振り抜く。青白き霊気と黒みがかった赤い妖気が、剣風と共に放たれたことで二色の嵐となって千本の矢の大半を飲み込んで消滅させた。
 しかし既に第二波目となる二千本目の赤い光の矢が、放たれて鬼無子の頭上を天蓋となって塞いでいる。
 今一度青赤の斬撃を放とうと構える鬼無子の耳に、白銀の魔狼の叫びが震わせる。

「鬼無子!!」

 鬼無子の鼓膜が揺れるのとほぼ同時に、鬼無子の視界の先で千の矢が巨大な氷壁の中に飲み込まれる。鬼無子を中心に半円を描く様に氷壁が囲い込み、夕座と矢から遮る絶対の防御となる。
 雪輝が洪水のごとく放った妖気を媒介にした熱量操作で造り出した氷壁であるが、並みの家屋なら五つも六つもまるごと飲み込めるほど巨大な氷壁を、一瞬で造り出した事から雪輝も熱量操作の異能を習熟し始めたようだ。
 雪輝の声を耳にした途端、体内の妖魔の血が沈静化し、全身から迸らせていた妖気を潜めて瞬く間に純人間化した鬼無子は、自分の傍らに駆け付けた雪輝に驚きを覚えながら声をかけた。
 妖魔改の隊士たちと死闘を繰り広げたはずであるが、雪輝の白銀の体や口元には返り血一つ付着していない。戦いの始まる前と変わらぬ美しい大自然の芸術のごとき威容のままであった。

「雪輝殿!?」

「こちらはあらかた片づけた。一度退くぞ」

「しかし」

 ここで禍根を断ちたい鬼無子は雪輝の言に抗うが、雪輝はこの狼にしては珍しく反論を許さぬ強い語調で鬼無子の言葉を遮る。

「先ほどの矢の使い手、夕座に近い力の主であろう。いささかこちらの想定を悪い方向で裏切られた。こちらの土俵に引きずり込んで奴らの消耗を狙いながら迎え打つ。それに」

「なんでございますか」

「これ以上鬼無子に無理はさせられん。次から夕座の相手は私がする。鬼無子は下がっておれ」

「雪輝殿、それは」

 いまだ全身に妖気の名残と妖魔化が齎した苦痛と快楽の疼きに、雪輝が気付いた事を鬼無子は理解した。
 だが、それでも、自身を代償としてでも夕座は自身が討たねばならない。例え雪輝といえども夕座が相手では必勝とは行かない。
 愛する男が生命の危機に瀕するかもしれぬと言うのなら、自分がその代わりに危機に立ち向かう事を選ぶ。鬼無子はそういう女であった。
 そして雪輝は愛する家族の危機を黙って見過ごす様な男ではなかった。

「だめだ。私は鬼無子を失う事には耐えられん。私に任せよ」

 真っ直ぐに鬼無子の瞳を見つめ、そして力強く断じる雪輝に鬼無子は返す言葉を失った。あるいは惚れ直したと言っても良かったかもしれない。

「相当な苦痛であろうに、本当に無理をする」

 二等辺三角形の耳を垂らし、悲しげにつぶやく雪輝の雰囲気に、鬼無子はひどく罪悪感に襲われた。まるで動物虐待をしているかのような気分であった。

「そうせねばならぬ相手でございましたゆえ」

 答える鬼無子の言葉は後ろめたさがあってか弱々しいものであった。だが感傷に浸る暇は鬼無子と雪輝には与えられない。
 雪輝と鬼無子が話している間にも氷壁には新たな矢が次々と放たれて、徐々に白い罅が透明な氷壁に領土を広げて砕かんとしている。

「話は走りながらするとしよう。鬼無子は私の背に乗れ。狗遠!!」

 第二の輪を構成していた妖魔改の隊士たちを退けた後、雪輝が援護した甲斐もあって狗遠は既に第三の輪を構成していた術師達をほぼ殺し尽くしており、こちらは雪輝と違って口元も牙も全身も返り血に濡れそぼって、殺戮の興奮に喜んでいた。
 雪輝の声に振りかえった狗遠は、あからさまに不機嫌な顔を拵えるが、それでも雪輝のすぐそばまで寄る。
 雪輝の背に跨った鬼無子に意味ありげに視線を向け、狗遠はふん、と苛立ち混じりに鼻を鳴らす。
 鬼無子が雪輝の背にいる事への理由のわからない苛立ちと、鬼無子の全身から発せられている妖気と霊気の凄まじさに、少なからず気圧されたのである。

「なんだ、雪輝」

「山の奥へと下がる。やつらをこちらへ引きずり込んで山の妖魔共と戦わせる」

「気に食わん戦い方だ。お前と私で倒せぬ相手ではないだろう」

「手強いのが増えたようだ。それに鬼無子に無理をさせられん」

「ふん。どこまで退く気だ?」

 くるりと踵を返し、打倒した妖魔改の隊士たちの挙げる呻き声を引きちぎりながら、雪輝と狗遠達は山の内側へと向けて走り出している。
 雪輝の背中に跨った鬼無子は、妖魔化の苦痛に必死に耐えながら雪輝の背中にうつ伏せに倒れこんで、雪輝の身体にまわした腕に力を込めていた。
 噛み締めた鬼無子の歯の奥から零れる苦しみの声に、雪輝は改めて鬼無子にこれ以上夕座と戦わせてはならないと誓った。

「どうせだ。内側近くまで退く。その方が強力な妖魔共がやつらとぶつかるだろう。上手くいけば飢刃丸もな」

「逆に私達が飢刃丸とぶつかるかもしれんぞ?」

「ならばどちらも私が手を下す。お前は私を見捨てても構わんぞ」

 当然、その時は鬼無子の身もどこかに隠して、単身で妖魔改も妖哭山の妖魔もすべて相手にして、皆殺しにする覚悟を決めていた。
 雪輝の気性からすればここまで強く殺戮の意思を固める事は希有な事であったが、雪輝にそうさせるだけの脅威が夕座にはあると、雪輝自身が認めた証拠に他ならない。
 胸中に揺るがぬ殺戮の意思を固めた雪輝の横顔を、狗遠は初めて雪輝の妖魔らしい面をみた事に驚きを覚えながら答えた。

「お前を見捨てるかどうかは、私が決める事だ」

 どういうわけでだか、狗遠はそうなった時、自分が雪輝を見捨てはしないだろうと思えてならず、その事がまたあまりに自分らしからぬから、ますます不愉快な気持ちになるばかりであった。



 氷壁が降り注ぐ矢の前に砕け散った時、既に雪輝と狗遠の姿は消えて、妖気の名残から妖哭山の奥へと退いた事を示すきりだ。
 当然、それが罠である事は分かりやすいほどわかりやすい。
 既に傷跡の消え去った咽喉を撫でつつ、夕座は苦笑を零した。

「ふぅむ。また逃げられたか。よくよく縁のない事よな」

 咽喉のみならず鬼無子の妖気を浴びて崩れた右手の肉も元通りになり、激戦の痕跡がまったくなくなった夕座に、背後から若い男の声が掛けられた。
 腰に矢筒を下げて右手には巨大な水晶から削り出したような弓を携えている。瀟洒な銀糸の刺繍が施された紫地の着物を洒脱に着崩して、腰まで届く黒髪を後頭部で結わえて鷹の羽飾りを刺した色男だ。
 目元には紫の黛、唇は青の紅を刷き、あまりにちぐはぐな色彩に包まれた姿は、希代の女形を思わせるほど色香があるのに、妙な芸人めいた奇抜さばかりが目立つ。

「黄昏夕座に目を掛けられるなんて、不幸な妖魔達だねぇ」

 心底から同情している声である。妖魔に対する嫌悪の念がひと際突き抜けている織田家の配下にしては、いささか奇妙な性格の主といえよう。
 同じ妖魔改に属する胞輩を振り返り、夕座はにやりと深い笑みを浮かべる。

「であろう? 私は欲しいものは是が非でも手に入れる主義でな。しかし見事であったぞ。お主の千幻矢」

「そいつぁ、どうもぉ。ところで、貴方の下僕、虫の息だけど。どうするの?」

「影座」

「ここに」

 弓使いのからかうような声に表情を引き締めて、夕座は木陰の一角へ向けて腹心の名を呼び、どこまで夕座に忠実な影者の声が答える。
 夕座の視線は弓使いを離れて血の池に倒れ伏す影馬と、糸の切れた人形の様に崩れ落ちている影兎を見つめていた。

「死なせるな。私が言うのはそれだけだ」

「必ずや」

「おや、意外にお優しいんだねえ。夕座殿は」

「私の物ゆえな。伊鷹(いたか)、私は大狼を追う。お主は好きにせよ」

 伊鷹と呼ばれた弓使いは、口癖なのかまた、おや、と呟いて颯爽と歩きだす夕座の背中を見つめた。伊鷹の知る夕座は飽きっぽく気まぐれで、こうもなにか一つの事に執着を見せる事は珍しい。

「これはぁ、本当に不幸な妖魔達だねぇ。地獄に落ちた方がましかもね」

 伊鷹は夕座が本気になっている事を悟り、心から追われる立場である妖魔への同情を口にした。

<続>
三月中に終ると思ったらそんな事なかったぜ、という気分です。

通りすがりさま

私の言葉不足で、一尺の間合い云々というのはあくまでも心構えという点においてで、実際にはおっしゃられるとおり不利です。その十八の該当箇所を修正させていただきました。ご指摘ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

taisaさま

うん、あれですね。邪な欲望しか感じられませぬ。仮に出来た子供のことも心配しなければならない予感が……。とりあえずは鬼無子が子供を生んでからのお話ということで。

ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)。
雪輝の状況認識の甘さですね。これまで妖魔を手にかけたことはあるけれども人間を手にかけるのは初めてである事や、ひなと同じ人間を殺めてはひなに嫌われるのではないかという無意識での心配があるせいです。ツケを払うのは本人なので、これからしだいですね。

マリンドアニムさま

絶倫というか、条件付で精力無限? みたいなものでしょうか。加減を間違えたら相手が壊れてしまうこと間違い無しといったところです。羞恥プレイは書いていて楽しかったですが、シリアスな場面でしたのであの程度にとどめました。

ではではご感想ありがとうございました。誤字脱字の指摘、感想そのほかお待ちしております。ありがとうございました。

3/30 投稿



[19828] その二十 死生前途
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/05/17 08:55
その二十 死生前途


 ぷかり、と青の口紅がひかれた唇から丸い煙の輪が零れる。ぷかり、ぷかりと続けて煙の輪が青く澄み渡った空に昇っては消えている。
 濃厚な血の匂いの薫る中、岩の上に腰かけた紫色の着物を洒脱に着崩した、少々奇抜な格好の色男が、懐から取り出した煙管を咥えては離して、煙を吐いている。
 織田家の保有する妖魔殲滅機関“妖魔改”の一人、伊鷹である。腰まで届く艶やかな鴉の濡れ羽色の髪を後頭部で結わえ、眼もとには紫の黛、唇は青の口紅、咥える煙管は瀟洒な細工が施された金細工。
 肩に掛けた弓はまるで巨大な水晶から彫刻した様に、降り注ぐ陽光を照り返している。
 同じ妖魔改の一員である黄昏夕座に助力する為に妖哭山を訪れた伊鷹であるが、その目的を忘れてしまったように煙管を吹かす事に熱中している。
 周囲で呻き声を上げる夕座配下の妖魔改の隊員達を助ける素振りも見せず、大狼と思しき妖魔の後を追って、木立の群れの中に消えた夕座を追う様子もない。
 夕座に肩を並べるであろう強者であり、また大軍を相手にする場合においては夕座以上の戦力となる技を持つ食わせ者だが、まさかこのまま夕座ただ一人を、千とも万ともいわれる妖魔の住まう山の奥へと向かわせるつもりではあるまい。

「伊鷹殿」

 ぷかり、とまた煙の輪を吐く伊鷹の左横に、頭からつま先まで忍び装束に身を固めた小柄な人影が膝を突く。夕座の忠実なる従僕の筆頭である影座だ。
 夕座の命によって雪輝と狗遠に壊滅させられた妖魔改の同胞達を診断していたはずだが、すでに治療を終えたのだろうか。

「はやいねぇ、影座。まぁ、夕座殿のお気に入りの伽女(とぎめ)だけ治せばいいんだから、あなたの腕なら驚くほど速いというわけでもないかな。それでもま、お見事だけど」

 雪輝と狗遠が相手にした数十名の妖魔改の者達は、その全てが夕座の閨の相手を務める多種族の女性ばかりではなく、ほとんどは夕座の要請によって派遣された実動部隊の者達だ。
 雪輝らの後を追う際に夕座が影座に死なせるな、と告げた対象はあくまで夕座の伽女を対象にしたものである。
 夕座に仕えて長い影座は夕座の短い言葉の中から正確に夕座の真意を察し、片腕を失った影馬や臓器、脊髄、肋骨を破壊された影兎のほか、二頭の狼の妖魔の牙に掛って命の灯を消す寸前に追い込まれた伽女だけを治療している。
 影座の適切な処置と暗闇の歴史の中で培われた妖魔改に伝わる秘薬や治療法の成果もあり、双子の姉妹のほか伽女達は弱々しくではあるが安定した呼吸を維持している。
 その代償としてその他の隊員達は影座以外の者達からの治療を受けているが、伽女達に施された治療に比べれば数等劣り、少なくない数が命の灯を消している。
 公平に傷の深い者からあるいは治療を施せば助かる者から順に治療していれば、より多くの者達が冥府に落ちる事もなかっただろうが、同胞の命よりも夕座の命令の方こそが影座にとっては鉄なのだろう。

「お褒めの言葉、光栄に存じます。卒璽ながらよろしゅうございますか」

 質問の是非であるが慇懃に問う影座の様子からして、妖魔改の組織内部において影座と伊鷹ではそうとうに位階に差があるようだ。

「なんだぃ? それにしてもあなたの方が私よりも長く妖魔改を務めているのだから、先達としてもっと口調を崩してくれていいのにねぇ」

「はっ、善処いたしまする。伊鷹様は夕座様の後を追われないので?」

 影座の問いに伊鷹は一瞬ではあるが、きょとんとした顔を拵えてから、不意にぷっと噴き出すや口元を手で隠してからからと笑い声を弾けさせた。

「あは、あははははは。いやいや、それはない質問だねえ。私が夕座殿に助力する必要なんてないこと、貴方が一番良く理解しているのにぃ。いつも気まぐれでやる気のない夕座殿が、あんなに楽しそうにしていたんだよ? 
助力するしないの話以前に私が横から手を出そうもんならこっちの首が落とされてしまうよ。ああなった夕座殿は人の話なんて聞きゃしないし、とびっきり強くなるからねぇ」

 あまりに笑いすぎて目尻に浮かんだ涙の粒を細く美しい指で拭い、それでもまだ笑い足りないのか伊鷹はくっく、と咽喉の奥から小さな笑い声を零す。

「いやぁ、それにしても不幸なのはあの四方木の姫君と大狼だねぇ。夕座殿がああなっちゃ冥府の底の底まで追いかけてくるよぉ。飽きっぽい分手に入れるまではとんでもない執念を燃やす御仁だから」

「お言葉の通りかと」

「ほら、やっぱり。私に問うまでもなく分かっているじゃないか。さて、私らはここで夕座殿のお帰りをじっくり待つとしようじゃないか。寄ってくる三下の妖魔共は私が全て射るから安心おしな」

 そしてまた、ぷかり、と煙の輪が天に昇る。


 妖魔化による心身両方の消耗を強いられた鬼無子を背に乗せて、夕座らから遠く離れた位置を走っていた雪輝と狗遠は、巨大な木々が伽藍のように蓋をしている場所で足を止めて、鬼無子を降ろした。
 雪輝の背にうつ伏せになっていた鬼無子は、雪輝の背から降りるや体をよろめかせ、咄嗟に顔を伸ばした雪輝に支えられながら巨木の幹に背を預けて腰を降ろす。
 頬の血色を青に変えた鬼無子の呼吸は荒く、全身の血肉が妖魔のものへと変わる激痛は消えていたが、その痛みの名残はいまだ全身を苛んでおり、鬼無子は変容した肉体が元の人間の物へと戻る激痛にもまた耐えなければならなかった。
 神経系や血管にも異常が生じたのか、血の混じる赤い汗を滴らせる鬼無子の頬を、雪輝は案じる気持ちを乗せた大きな舌でなめた。
舌だけでなくふんわりとした毛に包まれた頬もすり寄せられて、その暖かさに苦痛が和らぎ、鬼無子は微笑を浮かべる。

「ご心配なく。雪輝殿、それがしはまだ大丈夫です」

「まだ、か。含みのある言い方だな」

 硬い雪輝の声音に、自らの失言を悟った鬼無子は微笑を取り払い、口元を固く一文字に結んで俯く。
 鬼無子の失言に加えて舐め取った鬼無子の血の味の中に、人間の血以外の味が濃くなっている事を感じたのも、雪輝が声音を固くした理由の一つであった。

「言葉の綾でございます。お忘れください」

 短く言い捨てて鬼無子は帯に括りつけていた印籠の蓋を開けて、中から一寸ほどの丸薬を取り出し、口の中に放り込むとすぐに咀嚼し始める。
 まるで本当に石でも噛み砕いている様な硬質の音が鬼無子の口の中から零れてからしばらくすると、鬼無子はそれを一息に飲み込み、白い咽喉がごくりと音を鳴らす。
 一噛みするごとに口の中に広がる言葉にし難い苦味や酸味、辛味に鬼無子の眉間に深い皺が刻まれるが、同時に体中で疼いていた妖魔の血肉が静まってゆくのも感じる。
 先ほどの丸薬は四方木家や百方木家などの妖魔の血肉を宿す家が抱える医師達が調剤した、一時的な効果しかないが即効性の高い妖気鎮静剤であった。
 調剤の内容や材料を知る医師達も皆死に果てて、鬼無子が所有するわずかな量しか残っていない貴重な薬だが、今は使用を躊躇っていられるような状況ではなかった。
 荒かった呼吸が見る間に元の落ち着きを取り戻し、滲んでいた血混じりの汗も止まる。体調は万全からは程遠いとは言え、それでも生半可な妖魔には遅れを取らぬ程度には戦える状態にまでは持ち直している。
 しかし、あの恐るべき妖剣士・黄昏夕座や妖哭山の妖魔の長といった面々を相手にするのは、自殺行為と言うしかあるまい。

「雪輝殿」

 決意の色を宿して自分の瞳をまっすぐに見つめてくる鬼無子が、それ以上口を開くよりも先に、雪輝が機先を制した。鬼無子がどんな理屈を並べたてようとも譲るつもりがないと分かる、確たる語調で告げる。

「それ以上は何も言うな。私は鬼無子を見捨てぬ。私は鬼無子を守る。そう決めた。そしてこれは覆らぬ。天地がひっくり返ろうとも、だ。故に何を言っても無駄だと思うておけ」

 ひなと鬼無子と共に過ごしている時には滅多に見せぬ、大妖魔としての威風を纏い厳かに告げる雪輝に気圧されて、鬼無子は息を呑んで無言になったがそれでもまだ異論はある様子であった。

「鬼無子、黄昏夕座がどうした。妖魔改がどうした。妖哭山の妖魔がどうした。立ちはだかる者達がいかに強大であろうとも、私は私自身に誓った事を破りはせぬ。鬼無子にどのような事情があろうとも、それがどうしたと私は君を助ける」

「しかし、それがしを置いていけば、少なくとも夕座めはこれ以上は追っては来ぬでしょう。あれは恐るべき手錬の主です。雪輝殿といえども……」

「負けぬと言っている」

 雪輝の言葉は変わらず厳然と断じるものであった。

「雪輝殿……」

 雪輝が自分を想い守ると告げる言葉に、鬼無子はこれ以上ない喜悦に心が弾む事を自覚していたが、同時に雪輝が自ら窮地に進まんとする選択肢を選んでいる事に対する不安と失うかもしれないという恐怖に、心の中をかき乱されてもいた。
 そんな鬼無子の心情の複雑さを見てとり、雪輝はそれまでの厳然とした雰囲気を一変させてにっこりと巨大な狼の面貌に笑みを浮かべる。

「なに、私も最近自分と言う妖魔がどのような存在か分かって来たからな。昔よりは強くなっている。再び夕座が姿を現したなら、鬼無子の心配が無用の物であると証明して見せよう。だから、私に任せよ」

 その様子を狗遠は黙って見守っていたが、生粋の妖魔として産まれ育った狗遠からすれば、雪輝らの為に自己の犠牲を許容する鬼無子もそれを許さずにわざわざ荷物にしかならない鬼無子を見捨てようとしない雪輝も、どちらも理解する事の出来ない異形のモノでしかなかった。
 狗遠個人としては足手まといにしかならないだろう鬼無子など、ここに放り捨ててさっさと愚弟を血祭りに上げて一族の長の地位に戻り、他の妖魔共を雪輝と共に尽く殺し尽くす、と考えている。
 とはいえその目的を素直に口にした所で雪輝が鬼無子を見捨てる選択肢を選ばない事は、匿われていた数日と今のやり取りからも明らかだ。
 雪輝が鬼無子の思考を理解する事は出来なかったが、ある程度反応や傾向というものは学習出来たので、狗遠は自身の言動を目的に沿う様な反応を得られるものにする程度の事はできた。
 この流れでいけば結局雪輝は鬼無子を連れたまま妖哭山内部を目指して、あの妖魔改とかいう者達を誘いこむだろう。
 その過程でどれだけの妖魔と妖魔改達が衝突して命を散らすかは、狗遠の知った事ではなかったが、愚弟の喉元を噛みちぎってやる為には雪輝の助力は何としても必要であるから、余計な事を言って機嫌を損ねる事の無いようにと、狗遠は殻を閉ざした貝の様に口を噤んでいる。
 沈黙こそ維持していたのだがお互いを見つめあって一人と一頭の世界を作っている雪輝と鬼無子の様子は、面白くないことこの上なかったので、狗遠は胸中の苛立ちをわずかでも紛らわす為に、ふん、と鼻を鳴らす。
 そんな風に狗遠が色々と言いたい事をぐっと飲み込んで、雪輝と鬼無子を睨み殺すかのごとく険しい視線で見ていたが、唐突に雪輝が真正面から鬼無子を見つめていた姿勢から首を伸ばした。
 不意を突かれた形になった鬼無子は雪輝の動きに対応するのが遅れて、見る間に視界の中で大きくなる雪輝の顔を躱す事が出来なかった。
 雪輝が桃色の舌を伸ばして鬼無子の唇をぺろ、と舐めて鬼無子がへ? と呆気に囚われている隙に更に雪輝の口先が鬼無子の唇に押し付けられる。
 湿った肉と肉とが触れる水音が小さく一つ、雪輝と鬼無子の口の間でした。
 鬼無子が緊張と衝撃に体を硬直させている間に、雪輝は唇を離してはまた付けるという行為を、小鳥が啄ばむように数度繰り返す。
 この一連の行為に狗遠は当初、ぽかんと口を開いてその場から足を動かせずにいたが、雪輝が何度も鬼無子に口付けるのを見ているうちに、自分でも理解できぬほど激しい感情が燃え上がって、雪輝の尻尾の付け根に噛みついて雪輝の行為を止めていた。

「痛っ、狗遠、何をする?」

 裏切ったか? という様には疑わずなにか機嫌を損ねたかという問い方である。突然自分に噛みついてきた狗遠を相手に、雪輝もほとほとお人好しに出来ている。
 狗遠は雪輝の一本一本が長くたっぷりと空気を孕んでふわふわとした毛並みに包まれた尻尾を、がじがじとそれなりに力を込めて噛みながら、どす黒いほど変色している胸中の感情に突き動かされて低い声で恫喝するように答えた。

「貴様こそこの状況が分かっているのか。毛無しの雌猿を相手に何をしている……」

 狗遠の機嫌が最悪と言う名前の奈落の底へと急下降している事が雪輝には不思議であったが、何を、と問われれば素直に答えるのがこの狼である。

「無事を祈るおまじないだ。ひ……ある者に教わったものでな」

 ひなに、と言いそうになるのをぐっと堪えて、雪輝はあっけらかんと答える。口付けて無事を祈るまじないとする、という慣習や行為を見聞した事のない狗遠はそれでも納得のゆく様子は見せず、噛んでいる雪輝の尻尾を更に二度三度と噛む。
 流石に本気で狗遠が噛みつこうものなら雪輝の尻尾は付け根から噛み千切られていただろうが、幸いそこまで狗遠も力を入れてはいなので雪輝もそう強くは咎めないが、眉根を寄せて困った顔を造る。
 その一方で雪輝に不意を突かれて唇を何度も奪われて、頬を上気させて真っ赤に染めていた鬼無子はと言うとおまじないという単語に、以前目撃したひなと雪輝の接吻の光景を思い出し、雪輝がその時と同じ意味合いで口付けをしてきた事を理解する。
 行為の中に恋愛的な成分を含まぬ事であったのは、鬼無子の胸にかすかな寂しさを抱かせたが、それでも口付けるという行為はとても胸躍るものであったから、鬼無子はほぅ、と蕩けた吐息を零す。
 鎮静剤の効果以上に雪輝の口付けの衝撃によって全身の痛みを完全に忘れ去り、もじもじと左右の指を絡めながら雪輝の顔を見上げて請い、願い、望んだ。

「あの雪輝殿……」

「うん?」

 相変わらず狗遠は雪輝の尻尾にかじりついていたが、雪輝は多少の痛みは無視して鬼無子の声に応じて振り返る。
 豊かすぎるほどに豊かな乳房の前で握り拳を作った鬼無子は、そのまま潤んだ瞳で雪輝を見上げる。異種である魔性の狼に心奪われた乙女の頬は恋の熱に浮かされて朱に染まっていた。

「も、もう一度まじないをいただけませんでしょうか?」

 うっとりとした表情のまま鬼無子は瞼を閉ざし、唇を結んで雪輝へと自分自身を差し出してまじないを――口付けを乞うた。
 卑しいな、と心の中で囁く自分の声が聞こえたが、鬼無子は構うものかと雪輝が今一度自分の唇を奪う事を強く願った。
 そしてそれを拒む理由は雪輝の中にただの一片たりとも存在していなかったので、雪輝がもう一度鬼無子の唇に触れるのは当然の結末であった。
 また暖かな感触が自分の唇に触れるのを感じて、鬼無子は緩みそうになる目尻を必死に抑え込み、心の中を歓喜で満たす。
 もっと欲しい、もっと深く、もっと激しく、もっと根こそぎ自分と言う存在を奪って、もっと貴方のなにもかもを奪ってしまいたい。
 もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと……。
 女としての欲望と数多の強大な妖魔を取り込んできた四方木家の妖魔を喰らう本能が同時に強く表出して、鬼無子は本能に突き動かされるままに雪輝の首に腕を回そうとし、その腕が空を切った。
 腕が空を切るのと同時に自分の唇に触れていた雪輝の口の感触が遠のき、痛い、という雪輝の声が聞こえてきたものだから、鬼無子は頬を火照らせたまま瞼を開いて状況を把握に掛った。

「雪輝殿?」

「狗遠、突然なにをするのだ?」

「うるさい。なぜかは知らぬがひどく気に入らぬのだ。貴様も狼のはしくれなれば毛無しの雌猿などと過剰に馴れ合うものではない」

 鬼無子の瞳には仰向けに転がされて腹のあたりを滅多やたらと狗遠に蹴り飛ばされている雪輝の姿が映し出された。
雪輝は尻尾を噛まれていた状態のまま鬼無子と熱い接吻を交わしている隙を突かれて、狗遠に転がされたようだ。
 すぐさま体勢を立て直して狗遠の足蹴りから逃れた雪輝は、自分の主観では理不尽に暴力を加えて来た狗遠に抗議の目線を送っている。
 先端がやや丸みを帯びた二等辺三角形の両耳をぴんと直立させて、やや頭を下げた姿勢を取り、雪輝はじぃっと狗遠を見つめる。
 狗遠は先ほどよりもはるかに強い怒りと鬱憤と苛立ちを抱いていたが、雪輝の青い満月の瞳に見つめられるのは大の苦手で、真っ向から雪輝の視線を受け止める事が出来ずに顔を背ける。

「狗遠よ、お前は毛無しの猿などと言うが私からすれば人間を毛無しの猿とは見えぬし、鬼無子はとても美しいと思うぞ」

 美しいと褒められて鬼無子が恥ずかし気に顔を俯むかせれば、狗遠は逆にますます不機嫌さの度合いを強いものに変えて周囲に負の感情の微粒子を撒き散らしている。
 鬼無子を褒めると狗遠の機嫌が悪くなる、という事を両方の感情の変化から理解した雪輝は、ならば狗遠を褒めるとどうなるかと言う事を検証する為と狗遠の機嫌を取り繕う為にこう言った。

「鬼無子は学もあり信義に厚く頼りになる上、とても美しい。そして狗遠、私はお前の事も美しいと思う。私がいままで目にした事のある雌の狼達の中で、お前ほど凛々しく美しい狼はいなかった」

「……ふん、言葉ではなんとでも言えよう」

「私の言葉を信じるかどうかはお前の好きにせよ。偽りを口にするのは、私の苦手とする所であるがな」

 それきり狗遠は雪輝を蹴り飛ばす様な事はせずにふん、とまた鼻を鳴らしてそっぽを向くが、その尻尾がかすかに左右に振られているのを雪輝は見逃さなかった。
 とりあえず褒めておけば狗遠の機嫌はなんとか取り持たせる事が出来るようだ。さて問題は狗遠を褒めた時の鬼無子の反応である。
 情緒的な面においてあらゆる経験値の乏しい雪輝は、遭遇した事のない場面や人間関係に直面するとこうしていちいち手探りで確認するという、手間のかかる手順を踏まなければならなかった。
 そして雪輝の視線の先の鬼無子はと言うとこちらはこちらでにこにこと笑っていた。
 狗遠に対する褒め言葉は確かに耳に入ってはいたのだが、それよりもまず雪輝に美しいと褒めて貰えた事が鬼無子の心を満たしきっており、狗遠に対する雪輝の褒め言葉など右の耳から左の耳へと抜けていたのである。
 はて? と雪輝は首を捻る。狗遠を褒めたならば今度は鬼無子が不機嫌になるか、と雪輝自身は予測していたのだが、その予測を見事に裏切って嬉しそうに笑みを浮かべているではないか。
 鬼無子を褒めると狗遠は不機嫌になるが、狗遠を褒めても鬼無子は不機嫌にならない。これは一体どういう事であろうか。雪輝はこの両行為の結果の違いがさっぱり理解できずに、心中でしきりに首を捻っては疑問符を浮かべていた。
 これが狗遠を褒める時に鬼無子の事も褒めていたと言う事に気づいていれば、まだ雪輝の疑問も解決したのだが、この狼の思考形態は所々で巨大な穴があき、更には螺子の締め方を間違えている箇所が散見される為に、凛に阿呆だの間抜けだの言われても仕方がない面が確かに存在している。
 しかも鬼無子が機嫌を損ねた時にどうやって取成すかを考えていたわけではないのだから、この狼は時々救いようがないほど愚かであった。
 とはいえいつまでもこうして一人と一頭の女性の機嫌を伺う事に熱中するわけにも行かないのは、自明の理である。というよりも既にだいぶ時間を無駄にしていると言ってもいい。
 ただこれまでのやり取りは雪輝や鬼無子自身も気づかぬ事ではあったが、鬼無子の精神を安定させて、ひいては妖魔化を抑制する結果に繋がりこの場の誰もが知らぬ所で鬼無子の容態を良い方向に向けていた。
 上機嫌な様子の二人に雪輝は、再び気を引き締めた声をかける。

「鬼無子、調子はどうだ? いつまでもここにこうしていては夕座に追いつかれよう。そろそろ動くぞ」

 いざ闘争となれば百戦錬磨の鬼無子である。それまで惚気が占め尽くしていた思考を切り替えて、自身の肉体の状態を正確に把握して雪輝に報告する。ただし思い出の棚の中に厳重にしまい込み、いつでも思いだせるようにしてはいたが。

「普段のざっと八割ほどは動けるかと。白猿王ほどの力を持った妖魔までならなんとか対等に渡り合えるかと存じまする」

「そうか。それと二度と妖魔の血を使うな。使う様な事態にもさせぬ」

「……はい。心に留めておきます」

 実際に妖魔の血を使うかどうかは、これからの事態の推移による為、鬼無子にも絶対に使わずに済むかどうか確約できるものではなかったが、力強く断じる雪輝の言葉が嬉しくて、鬼無子は柔和な微笑を浮かべながら首肯した。
 外見上からは不機嫌なのかどうかわからない狗遠が、面倒臭そうに口を開く。議題にあげるのは鬼無子の事であった為、本来ならば口にするのも鬱陶しいのである。

「それでこの毛無しはどうする。いちいち休んでいては足手まといにしかならぬわ」

 鬼無子の事は毛無しと呼ぶ事に決めたらしい。む、と鬼無子は不愉快そうに顔を顰めるモノの、確かに足手まといになっている事は否定できず、口を噤む。

「ふむ。とはいえ鬼無子一人を置いていっても安全な場所は、現状、ほぼない。それゆえ唯一残っている安全かもしれぬ場所を目指し、鬼無子を休ませつつ山で暴れておる飢刃丸や夕座を討つ」

「安全かもしれぬ? 妙な言い方をするな。どこの事だ、雪輝よ」

「お前も知っておろう。妖哭山内部に唯一住まう仙人、天外の事だ。あやつは色々と胡散臭い老翁ではあるが、実力は疑いの無い本物だ。妖魔除けの結界ひとつをとっても、それは分かるだろう」

「あのしわくちゃの事か。あれとの親交があったのか」

 天外の事を妖哭山の妖魔がどう思っているのかを、苦々しく吐き捨てる狗遠の様子が良く表している。
 骨と皮ばかりの皺まみれの老人などは腹の足しにもならぬ所であるが、高位の仙人の血肉であれば、わずかな量でも滋養となり力となるから、妖哭山内部の妖魔の多くは、何とかして天外を喰らおうと目を光らせている。
 しかしながら狗遠の祖父母の更に祖父母と遡ったはるか昔からこの妖哭山に住まい、今に至るまで怪我一つ妖魔達に負わされた事のない天外は、極上の獲物であると同時に妖魔達の爪や牙の届かぬ存在でもあるのだ。
 妖哭山内部の妖魔では、善の性質を持って産まれた雪輝位しかまともに会話をした事のある者はいないだろう。

「妖哭山のこの荒れ具合でも天外は変わらずに庵で生肉でも齧っているだろう。それに仙人ならば鬼無子の身に良く効く薬かなにか知っておるやもしれぬ」

 鬼無子の知識の外にある術法なども修めている天外であれば、確かに鬼無子の体の奥底に根付く妖魔の血を緩和させる某かの知識を持っているかもしれないが、雪輝とは逆に鬼無子はそれほど期待してはいなかった。
 確かに傷は癒せるだろうが、四方木家の宿業はそう容易くこの身から消える事は無いだろう、と既に自身の結末に関しては受け入れていたし、助平で諧謔に富んだ扱い難い天外ではあるが、一応悪人ではないようだから鬼無子を助ける術があるのなら既に提示していただろう。
 それはまた別にしても確かに本調子ではなく足手まといになりがちな今の自分が、身を寄せられる唯一の場所ではあるだろうから、鬼無子としては反対の意見を口にする事は無い。まあ、露骨に好色な視線を寄せてくるので、天外の事は好きではなかったが。

「天外を頼るのは良いとしてそれまでの道のりが少々厄介だな。あやつの庵はほぼ中心に建てられている。何度かは戦わねばなるまい」

「我らならば長共と出くわさねばどうとでもなる。毛無しの雌猿を庇わずに済むなら尚更な」

「確かに本調子とは行かぬが、そこらの雑魚妖魔になど遅れはとらぬ。灰色の毛並みをした雌狼とかな」

「ほほう?」

 言うや否や目線を合わせて目に見えない火花を散らす狗遠と鬼無子に、雪輝はこの二人の仲はどうにかならぬものかと思案したが、自分自身が二人の不仲の理由の一つである事に気付いていない以上は、どれだけ頭を悩ませたところで妙案を思いつく事は無いだろう。
 雪輝は鬼無子と狗遠には気づかれぬようにそっと溜息を吐いた。こうして言い合いを重ねている間にも周囲の状況は変動しており、実際雪輝達の頭上には翼長二丈はあろうかと言う巨大な猛禽十数羽が翼を羽ばたかせている。
 狙いは雪輝達ではなく、蝙蝠の翼を背中から生やして臀部からは大蛇が伸びている獅子面の混合魔獣の群れと一戦交えているようだ。時折両者の血や肉、千切れた羽などが落ちては周囲の木々を騒がせている。
 急がねば余計な戦いを強いられよう。雪輝は視線を妖哭山内部へと向けた。目指すは天外の庵。
 しかしそこに至るまでに一体どれだけの激戦を経ねばならぬのか。 
 この判断がはたして正しいものかどうか、雪輝には見通せぬ霧の中に迷い込んだような不安の塊が、心中に在った。
 雪輝の不安は雪輝自身にとっては悪い方向で的中した事は、もはや語るまでもないだろう。妖哭山の内外を隔てる山頂部を目指して走る雪輝と狗遠を道行きには、ほとんど休む間もなく連続して妖魔達が姿を見せて、雪輝達を阻んだのである。
 邪妖精や悪霊、経立、妖魔と生息域や種類を問わずにありとあらゆる妖魔達が山中を跋扈して殺し合う異常事態が、妖哭山全体に広がっており、雪輝達は血の霧が立ち込める様な酸鼻極まりない戦場を進む他なかったのである。
 疾風の速さで木々の間をすり抜けて走る雪輝の背に跨った鬼無子は、雪輝が作りだした氷の薙刀を振りかざして、左右の大樹の枝から飛び掛かって来た劣鬼の胴を薙いだ。
 雪輝の熱量操作によって造り出された七尺ほどの長さの妖気混じる氷の薙刀は、白い冷気を全身から立ち上らせながらも、握る鬼無子の手に凍傷や霜焼けを起こす事はなく、抜群の切れ味を持って劣鬼の臓物と骨を纏めて上下に断つ。
 刀剣の扱いは言うに及ばず武芸百般に至るまで幼少期から叩き込まれた鬼無子にとって、薙刀も扱い慣れた武具のひとつである。鬼無子が十代前半の頃共に過ごした宗家の少女が薙刀を最も得意な獲物としていたことも理由の一つだ。
 紫色の血を撒き散らしながら劣鬼の四つにされた肉体がどん、と音を立てて地面に落ちた時には、既に鬼無子を背に乗せた雪輝と狗遠ははるか彼方を走っており、地面の下から振動を頼りに姿を見せた巨大な蚯蚓(みみず)の妖魔の頭部を、前肢の一振りで四散させていた。
 上空での混合魔獣と魔鷹との戦いは激化の一途を辿っており、周囲にはばらばらにされた両方の飛行妖魔の死骸が落下して、臓物や半分しかない頭部などが枝にぶら下がっている。

「血の雨が降り注ぎ、臓物や死骸の破片がぶら下がる森か。酒池肉林、しかしこの場は血の池と骸のぶら下がる林と来た。風情など欠片もないな、これは」

 先ほどから雪輝の嗅覚は多くの妖魔達の体液が混ざり合った凄まじい悪臭が届いており、聴覚が捉えるのも争い合う妖魔達の唸り声や断末魔の悲鳴の多重奏である。
 まともな神経の人間が現状のこの妖哭山に放り出されたなら、一瞬で発狂に追い込まれてしまう。
 ひっきりなしに姿を見せる妖魔や猛獣の類を退けながらの道行きは、ひどく時間を要して雪輝達にもそれなりの消耗を強いている。
 雪輝の首筋の毛を左手で握り締めながら、鬼無子は氷の薙刀にこびりついた酸性の劣鬼の血を振り払い、移動速度の速さから融けた絵の具の様に後方の流れてゆく景色の中に襲い来る妖魔の姿が無いかを警戒していた。
 馬上ならぬ狼上の状態では崩塵よりも長柄物の方が良いと即興で作ってもらった氷の薙刀は、下手な霊的処置を施した武具よりも切れ味鋭く、込められた雪輝の妖気の強力さから物理的にも霊的にも高い殺傷能力を有している。
 狗遠を迎えに行く時に長柄物を使わなかったにも関わらず、いまは使用しているのは崩塵を鞘に納めている状態の方が、鬼無子の体内の妖魔の血肉の顕在化を抑制する効果が高まる為だ。
 崩塵のみならず鞘の方にも対妖魔を想定した結界を展開する為の真言が刻み込まれており、崩塵の霊気と合わさることで妖魔の血肉を抑制する効能が増すように作られた特注品なのである。
 妖魔化から人間の肉体へと戻りつつある鬼無子の肉体の負荷を抑える為にも、いまは崩塵を納刀している状態が鬼無子には好都合なのである。
 上空から一直線の軌道を描いて流星のごとく急降下してきた双頭の蝙蝠の首を、上空に半月を描く薙刀の一振りで斬り飛ばし、ざあっと首から溢れだした双頭蝙蝠の血が霧雨の如く降り注ぐよりも早く雪輝が駆け抜ける。
 既に二十以上の妖魔を屠り、鬼無子は妖魔改が足を踏み入れたことで加速度的に妖哭山の内部が、狂ったように闘争の渦中に巻き込まれている事をひしひしと感じていた。
 予想をはるかに超えて狂奔している妖哭山の妖魔達の現状に感じる焦燥に突き動かされて、雪輝は白銀の眉間に皺を寄せ、四肢を動かす速度を緩めて狗遠と鬼無子に声をかけた。

「このままちまちまと相手にするのも面倒だ。山頂部まで一気に道を開く」

「それはその通りですが」

「どうやる気だ」

「森を焼き払っては山火事になるのでな。一気に凍らせる」

 言うが速いか疾走の速度を完全に落として足を止めた雪輝は、周囲の山そのものが放つ妖気や討ち滅ぼした妖魔達の残留妖気を一気に喰らい集めて、体内で自身の妖気と混ぜ合わせて莫大な妖気を蓄える。
 本来は天地自然の清浄な気によって肉体を構築している雪輝にとって、他者の放つ妖気を収束し、一時的にとはいえ体内に蓄える事はそれなりの負担が掛る行為であったが、このままちまちまと戦い続けての消耗の方を雪輝は嫌った。
 雪輝の胸がぐっと膨らみ、咽喉を通じ進行方向に向けて雪輝の咆哮が放たれた。前方に広がる木々のみならず山肌それ自体と大気そのものを大きく震わせる大音量は、尋常な生物ではなく妖魔である雪輝ならではの魔性の咆哮であった。
 音速で雪輝の咆哮が響き渡るのにやや遅れて次々と山の木々が巨大な氷の中に飲まれていって、雪輝達の現在位置から山頂部まで一直線に冷気が包み込む。
 雪輝達が走り抜ける幅三間ほどの道行きの左右に巨大な氷壁がそそり立ち、地を駆ける妖魔達の侵入を拒む壁となる。
 さらに天へ向けてぐんぐんと伸びる氷壁はその横壁の部分から槍穂のごとく先端の鋭い小さな氷柱が無数に伸びて、上空の妖魔達の侵入を拒む氷の天蓋を作りだした。
 通常の氷ではなく雪輝の妖気によって造り出された氷は鋼鉄と同じかそれ以上の硬度によって、破壊しようとする妖魔達の侵入を拒んで弾き返すだろう。
 視界の大部分が一瞬で氷が埋め尽くす光景に変わった事に、流石に鬼無子と狗遠もしばし言葉を忘れた。
 天地の気を食べて滋養に変える雪輝の特性を活かした雪輝ならではの、局所的な天候操作と称しても誇張ではない現象である。
 流石にこれだけの事をすると疲労を感じるのか、雪輝が自然に纏っている妖気の量が減少し、心なしか疲れた様子を見せている事に気付き、雪輝の背に跨ったままの鬼無子が元気づける様に優しく首筋の毛並みを撫でる。

「雪輝殿、それがしが言うのもどうかと思われるかもしれませぬが、あまり無理をされませぬよう、お気をつけください」

「大したことではない。それよりも急ぐぞ。内部の強力な妖魔もこちら側に顔を見せるようになっている。下手をすればこのまま長かそれに近い力を持った者達と顔を合わせてしまうかもしれん。それにこの氷壁を見て私かそうでなくとも強力な妖魔が居る事に気付き、寄ってくるだろうしな」

 確かに雪輝の氷壁生成は途方もなく目立つ行為であり、妖魔達の注目を否応なく集めてしまうものだ。

「そういう危険性のある事をするのならば、事前に断りぐらいはいれろ、雪輝」

「むぅ、すまぬ。鬼無子も」

「その事は後で。それよりもせっかく作った道です。早く行きましょう。そうせねばわざわざ雪輝殿が作られた意味もなくなってしまいますぞ」

 確かにそうなってはわざわざ妖気と体力を幾許か消耗してまで氷の道を作った意味がない。雪輝はすぐさま疾走を再開する。
 雪輝の妖気を含んで展開された氷壁は期待通りの頑健さを見せて、天空や地上から襲いかかろうとしている妖魔達を完全に遮断し、雪輝達にその敵意を浴びさせるだけで終わらせている。
 振動や妖気を探知して、地中からも主に虫型の妖魔達が襲いかかろうとしているが、それも雪輝が地面にも張り巡らせていた氷が厚い壁となった立ちはだかり、出現を尽く阻んでいる。
 雪輝と狗遠の足で一直線の最短距離を駆け抜けるだけなら四半刻と掛るまい。実際、鉄の様に硬い黒い山肌が続く山頂部に至るまでの間、道の左右と下に広がる氷壁は一匹たりとも妖魔の侵入を拒み通している。
 少なくとも内外を隔てる境界線である妖哭山の山頂部までは、雪輝達は確かに無事妖魔達との戦いを避ける事が出来た。そう山頂部までは、である。
 雪輝達が最高速度を維持して山頂部まで駆け抜けていたその視線の先に、不意に巨大な黒い影が姿を見せたのである。
 雪輝と狗遠の嗅覚に気付かせず、かろうじて聴覚が聴き取っていたが、その正体にまでは気付けずにいた雪輝達は、自分達の目の前に立ちはだかったその妖魔の威容に、かすかに息を呑んだ。
 まるで小山の様な巨体に緑色の体毛を生やし、口元からは城門を破る巨大な鎚を思わせる牙が大小様々伸びている。猪だ。ただし猪と呼べるかどうか怪しいほど巨大な猪である。
 本来ならば妖哭山内側で熾烈な勢力争いに終始しているはずの妖魔七勢力の一つ、“魔猪”の長である破岩(はがん)だ。
 四つ存在する緑の瞳で雪輝らを睥睨していた破岩は、その巨躯に見合う重厚な妖気を迸らせながら、ぐうん、とそれこそ小屋くらいなら一踏みで壊せてしまうほど巨大な前肢を振り上げて勢いよく足元の地面へと振り下ろす。
 破岩の前肢が地面を踏み砕くや同時に巨大な地震かと思わせる振動が大地を揺らし、衝撃と振動が山頂部の鋼鉄のごとき大地と雪輝の氷壁を薄氷のごとく粉砕せしめる。
 それまで妖魔達の牙や爪にもわずかな傷を刻まれるだけという堅牢さを見せていたが、魔猪の長から見れば肢の一踏みとその余波だけで破壊できる他愛のない代物に過ぎなかったようだ。
 衝撃と振動が左右の氷壁と地面を砂状にまで砕く寸前に、雪輝と狗遠はその場から跳躍して虚空を踊り、振動波の範囲から離れた位置に着地してすぐさま腰を落として戦闘態勢を取った。
 雪輝の背に跨っていた鬼無子も、雪輝らが跳躍中に離れて雪輝の傍らに着地して氷の薙刀の切っ先を、破岩へと向ける。
 ぶふう、と破岩の平たい鼻から毒素混じりの吐息が零れて、破岩が悠々と歩を刻む雪輝が作った氷壁を目印に待ち伏せをしていたということだろうが、雪輝の行動は思い切り悪い方向に働いてしまったと言う他ない。
 いまだ本調子ではないがそれでも強力な退魔士としての戦力は維持している鬼無子が、視線は破岩から外さずに雪輝に問うた。

「雪輝殿、こやつらは?」

「見れば判るが猪だ。名を破岩と言い、猪の長を務めている。一撃の重さなら妖哭山でも三指に入るだろう。奴の突進は紙一重では躱してはならぬ。奴の突進と共に押しのけられる風に奴の妖気が混じり、その風に触れるだけで肉が爆ぜて骨が砕ける」

「承知いたしました」

 問いはそれきりで、鬼無子は眼前の猪を殲滅すべき敵と認識して、完全に意識を戦闘態勢に整える。三百六十度あらゆる方向からの奇襲にも反応してのけるだろう。
 鬼無子とは反対の側で雪輝同様に狼の戦闘態勢を整えていた狗遠は皮肉を聞かせた言葉を雪輝に投げかける。

「お前の氷が目印になったな」

「全くだな。だが、正面からのぶつかり合いだ。不意を突かれなかった分良しと思うておけ。どうせなら飢刃丸が出てくれば色々と手間も省けたのだがな」

「はん、余裕を見せるではないか。ならばさっさと猪の首を噛み切るとしようか」

 破岩は確かに強敵である。それは狗遠も認めよう。だが同時に強敵であればあるほど、血肉を喰らった時の力の上昇値は大きく、また傷を癒す助けにもなるだろう。
 妖魔改達を幾名か屠り、その血肉を少量ではあるが胃の腑に納めたことで、狗遠の傷は大幅に癒えており、これで破岩ほどの力を持った妖魔の血肉を喰らう事が出来れば、完治が見込めるうえに更に力を増大させる事も出来るだろう。
 そういう意味では裏目に出たような雪輝の氷壁生成も、悪い面ばかりではない。
 破岩の背後からは破岩の一族と思しい気配がいくつも感じられる。一族で最も強力な個体が長を務める妖哭山の妖魔達にとって、長は勢力を維持する為にも決して欠かす事の出来ない存在だ。
 どれほど強力であろうとも長が単独で行動する事は滅多にない事だ。更に言えば狗遠は元は妖狼族の長であり、雪輝もまた妖哭山屈指の強力な妖魔である。
 鬼無子の戦闘能力は知り様がないにしても、破岩が待ち伏せするにも警戒して一族を引き連れているのは当たり前だろう。

「前から思っていたがこやつらはなかなか美味そうだな」

「猪鍋は美味かったが、こやつらではまずそうだ」

 噛み合っている様な噛み合っていない様な会話を交わして、雪輝と狗遠は揃って破岩に視線を向ける。決して油断はできない強敵を前に、二頭の狼と一人の女剣士の総身からは適度に緊張した闘争の気配が立ち昇っていた。

<続>

通りすがり様
ご指南ありがとうございます。どうにもくどくどと描写を重ねる癖があるもので、色々と試行錯誤しておりますが、剣豪小説風の雰囲気は私としても好ましいのでなんとか取り入れられるよう努力いたします。

taisa様
>ほっぺをすりすりとかおっぱいをぷにぷにとかしっぽでもふもふとかするくらいですよぅ!ですからなにとぞっ……!

……では敏感な獣耳や翼や尻尾の付け根をいじったり膝の上に乗せて後ろから抱っこしたりくんかくんかしたり毛繕いをする振りをして違うところを触ったりはしないのですね? でもまだ子供が居ないのでなんとも言えませんけれども(笑)

ヨシヲ様
( ゚∀゚)o彡°モッフる! モッフる!(挨拶返し)
というわけで未登場ボス一名様ご案内でございます。いまだ本調子ならぬ狗遠と鬼無子とはいえ、三対多ながら戦力は十分と言ったところ。新キャラですがマイペースさんなので麓に留まっております。手助けしなくても夕座なら問題ないという裏返しでもありますけれども。

ではでは今回はこれまで。誤字脱字文法の誤り、ご感想などありましたらどしどしお寄せください。お読み頂きありがとうございました。

4/26 22:28 投稿
5/17 08:50 修正



[19828] その二十一 仙人奇怪話
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/05/22 21:31
その二十一 仙人奇怪話

 四方の壁と天井は、良く磨きこまれて黒く艶光る木板。ひなの背の三倍は高い所に一片二尺の窓があり、直径三寸の鉄格子が何重にも嵌めこまれている。
 山の民の少女凛と重鎮である祈祷集の長であるお婆に庇護されたひなは、集落の場所を秘匿する為に目隠しをされた上で山の民の集落へと案内されて、集落の一角にある隔離房にその居を移していた。
 本来は懲罰用に使われる隔離房であるが、予めお婆の指示でもあったものか、運び込まれた寝具は真新しく、床には青い匂いの薫る畳が敷き詰められている。
 他にも大人が目いっぱいに手を広げてようやく抱え込めるほど大きな火鉢や、金網の上で湯気を吹く鉄瓶と湯呑、もんぺや綿入れの他真新しい小袖や足袋、襟巻などが入れられた行李が用意されていて、衣と住には出来うる限り配慮がなされている。
 無論四方が木の壁に閉ざされて、出入りするには壁の一枚に設けられている鍵付きの開き戸を通るしかない、という事実は小さくない閉塞感をひなに抱かせてはいた。
 ひなは鬼無子や雪輝と別れた時と同じ格好のまま、座布団の上にちょこんと正座で座り、肩を落としながら、憂鬱な秋の光が差し込む格子窓を見上げている。
 雪輝と鬼無子と同じ空の下で離ればなれとなっている事が無性に悲しく、同じ空の下で闘争に身を投じて傷ついているかもしれない一頭と一人の事が心配でたまらなくて、ひなは小さな胸が張り裂けてしまいそうな気持ちだった。
 妖魔蔓延る魔性の山に住まう以上、いざ荒事となれば無力でちっぽけな自分は何の役にも立たず、足かせにしかならない事はひょっとしたら雪輝達以上にひな自身が理解していたかもしれない。
 しかしこう言う時の為に自分の身を守れるようにと天外仙人から、護身の術を学んでいた筈なのに、これではまるでその成果を発揮する事も出来ないし、学んだ意味というものもない。
 だから、ひなは心配と不安と無力感がたっぷりと込められた溜息を、薄い桜色の唇から零した。

「雪輝と鬼無子さんの事が心配です、って書いてありそうな溜息だな、ひな」

「凛さん」

 いつの間にか、ひなの背後には菓子鉢を手に持った凛の姿があった。背後の開き戸の鉤を開ける音一つしていなかったと、ひなの聴覚は訴えていたが、ひなを驚かせようとしたのだろうか。
 告げられていた予定日よりも早く妖魔改達がこの妖哭山を訪れて、あろうことか山の民と消極的友好関係にある雪輝と交戦状態に陥った事は間違いない、という凛とお婆からの報告は、山の民たちに緊張の雷を走らせて集落全体が臨戦状態になっている。
 その事を表す様に凛が地肌の上に纏っているのはあの妖虎の革をなめした全身服で、その上に赤染の小袖を纏い、背中には修復を終えた刃蜘蛛を背負っていた。
 この状況で凛ほどの戦闘と鍛冶師としての才覚を併せ持った人材を遊ばせている余裕は、山の民には欠片ほども存在していないのだが、ひなは雪輝からの大切なという言葉では到底足りないほど重要な預かりものである。
 そうでなくとも、凛からすればひなは血が繋がっていなくとも実の妹同然に可愛くて可愛くて、仕方の無い少女だ。
無理にでも時間を作って労う事くらい、あとでどんな労苦となって返ってこようが、厭う理由にはならない。
凛はこちらを向いたひなの前に、入口の近くに重ねて置いてある座布団を一枚引っ掴み、ぞんざいな扱いで畳の上に放って、その上に尻を置いた。

「ああ、まあ、なんだ。変な風に誤魔化してもひなには通じないしな。とりあえずあたしの耳に入ってきてる事を教えてやるから、あんまり気を揉むんじゃないぞ」

「はい。あの、雪輝様達の事は何か?」

 うん、と一つ置いてから凛は腕を組んで自分の頭の中でどう話すべきか思案してから、口を開いた。

「とりあえず外の連中達は雪輝達にかなり痛めつけられたらしい。戦闘の現場に駆け付けた里の連中の話じゃ、ほとんどの奴が追いかけられないほど深手を負ったみたいだ。雪輝達は現場を見る限りは、特に怪我をした様子は無い」

 そうですか、とひなは安堵の息を吐く。外から来たと言う妖魔改の者たちの安否は、それなりにひなにとっても気がかりなことではあったが、やはり雪輝と鬼無子が無事かどうかというのは、何よりも優先される一大事だ。
 自分にできる事でなにか雪輝と鬼無子の役に立つと言うのなら、それが自身の命を絶つ行為であろうとも、おそらくは躊躇せぬほどにひなは雪輝と鬼無子を大切に思い、同時に依存してもいる。
 雪輝に必ず返ってくるという約束を貰っているからこそ、表面上の平静は維持できているが、下手な事を口にしてしまったらひなの精神は容易く均衡を崩してしまうだろう。
 凛はこれまで接してきた経験から、理屈よりも感覚的に凛はひなの精神の不安定さを理解していたから、とりあえず雪輝達に関する不吉な報告を行わずに済んだ事に、肩を凝らせていた余計な力を抜く。
 少し乾いた感のある咽喉を潤す為に、凛は腰紐に括りつけていた竹の水筒を取り出して、滋養強壮効果のある薬湯を煽った。ハッカに似た爽快さが咽喉元を過ぎ去る。

「凛さん達はこれからどうなさるのですか。協力するように要請されていらっしゃるのですよね」

「痛い所を突いてくるな。まあ約定より早く来たからこちらを騙したって文句を言ってはいるけど、だからといって放っておくわけに行かなくってね。怪我した連中が山の麓に野営するっていうから、取り敢えずの護衛と薬とか人手と物を貸してやることになった。代金はばっちり貰うけどな」

「お山の奥へは行かれないのですか?」

 雪輝の背の上にずっと居たが、それでも妖哭山の内側に足を踏み入れ、外側の環境をはるかに上回る血と怨念渦巻く内側の環境とそこに住まう大蛇の妖魔と遭遇した経験を持つひなにとって、いかに凛が手錬であると言い聞かされても、山の奥へ行く事は果てに死の待つ道行きとしか思えない。

「いや、それが奇妙な話というか命知らずというか。妖魔改の連中で一人だけ雪輝達を追って奥に向かったらしいんだわ。いくらなんでも命知らずに過ぎるとは思うんだけど」

「その方、大丈夫でしょうか」

 雪輝達を最優先に置くひなではあるが、生まれつき優しい性格であるのは紛れもない事実で、愛し慈しんでくれる雪輝や鬼無子らとの生活の中でその優しさはきちんと育まれていたから、雪輝達の敵となる妖魔改の人間であっても死なずに済むに越した事は無いと、極自然に考えている。

「う~ん、まあ、百に百は無事ですむ筈もないんだけど、それだけ腕に自信があるってことだろうな。妖魔改の連中が来たせいか山の妖魔達がますます殺気だっていてさ、あたしも警備の為に外回りに行かなきゃならなくってね。あたしらも流石に山の奥にはいかないって釘を指しておいたし、でもあたしが次にここに来られるのは日を跨いでからになりそうなんだ」

「そうなのですか。それは寂しいですね。でも、凛さん、お怪我だけはしないでくださいね」

「お、おう。任しとけ。山の妖魔が百来ようが二百来ようがあたしと里の連中ならどってこた無いからさ。ひなには暇をさせてしまうけれど、ちょっと小屋の方も様子を見てなんか暇を潰せそうなものがないか探してみるよ」

「そんな、無理はなさらないでください。私の事よりもご自分の事とこの里の方々の事を一番に考えてくださればいいですから」

 凛相手だとこういうひなの言い方は逆効果になるのだが、ひなはそこまで考えが及んだ様子は無く、驚いた顔をしてしきりに首を左右に振っている。

「へへ、ま、そこは凛さんにお任せってな。暇で仕方ないかもしれないけれど、雪輝達が帰ってくるまでの辛抱だ。あいつの事だからすぐに帰ってくるよ」

「はい、そう信じています」

 まっすぐに凛の瞳を見つめて首肯するひなの瞳には、揺るがぬ雪輝への信頼が煌々と輝いている。


 ひなの身の安全が確保されていた頃、雪輝達は妖哭山内外を隔てる頂上部で妖猪の長である破岩との戦闘に明け暮れていた。
万全の状態ならば長級の妖魔とも戦えるものの体に負った傷の癒え切らぬ鬼無子は、氷の薙刀を振るって肉の津波となって襲い来る妖猪の雑兵を相手取っていた。
一頭一頭が体当たりで簡単に家屋の一つ二つ吹き飛ばす巨体を持った妖猪達の突進や、三日月のごとく反りかえった太く長い牙を、急流の中を泳ぐ魚の様に流麗に捌きながら、鬼無子は氷の薙刀を体全体を使って振るい、遠心力をたっぷり乗せた斬撃で、妖猪の油でぬめる皮や分厚い筋肉を切り裂く。
こちらを吹き飛ばそうとする突進を、妖気混じりの風圧に体勢を崩されぬぎりぎりの距離で回避してすれ違いざまに妖猪の四本肢を切り裂き、動くすべを失った妖猪の巨体を遮蔽物代わりにして、群れを成して突進してくる他の妖猪達の突進に飲み込まれぬように動きまわる。
妖気抑制の丸薬を服用した時点で八割ほどに体調は整っていたが、時折酷い鈍痛が体のあちこちに走り、鬼無子の動きを鈍らせる。
妖猪達の巨躯が風を切る音、大地を駆ける爪の音、炎の様に熱く激しい吐息、目の前の獲物を逃すまいと睨みつけてくる殺気混じりの視線、それら全てを聴覚と視覚、触角と嗅覚で感じ取る作業に鬼無子は集中していた。
こちらの腹に風穴を上げようと突き上げてくる牙に薙刀の刃を合わせて力の流れを合流させて、相手の重心を操作してその妖猪を転がし、手元で縦にくるりと回転させた薙刀で転がした妖猪の首の付け根を断つ。
かっ、と骨込めに鮮やかに首を切り落とした音がし、薙刀に宿る雪輝の妖気が妖猪の首と胴体をそれぞれ氷の中に飲み込む。
体力と気力を消耗した今の鬼無子がただ一人で妖猪の群れを相手にするのはいささか骨が折れ、どこまで相手に出来るものか鬼無子は冷静に考えていた。
雪輝に急遽与えられた薙刀は刃にこびりついた妖猪の血脂を瞬時に凍結させて、振るう間に剥がれ落ちる為、切れ味が鈍る事は無く重量もほとんど感じられないほど軽量で得難い獲物ではある。
だが足を斬り動くすべを失った妖猪達が絶命した妖猪達の死骸の数が増えるほど、足場が取られて鬼無子の動きに制限が設けられる。
まだ息のある妖猪の体を踏み台にして、海上の船から船へと飛び移るように跳躍し、鬼無子はまだまだ辺りに獣臭を撒き散らしている妖猪の数が減った様に見えない事に、かすかに苛立ちを募らせた。
ちら、と視線を外せば妖猪達とは比べ物にならない小山の様な巨体と大山の迫力を兼ね備えた妖猪の長と戦う雪輝と狗遠、二頭の狼の姿が映る。
突進に伴う風圧が妖気を孕み触れたモノすべてを破砕する脅威となるが、長である破岩の場合はその範囲と威力が桁違いに高く、普段なら紙一重で避けられる所を三尺近く距離を置いて回避していた。
白銀と灰色の二色の風となって破岩の周囲を肢を止めることなく駆けまわる雪輝と狗遠は、即興ながらも息のあった連携を見せて片方が破岩の視界に入って否応なく注意を惹く間に、残る片方が一撃を加える戦術を終始選択している。
単純にその巨躯故の大質量と分厚い毛皮と硬柔併せ持った筋肉に、妖気の守りを兼ね備えた破岩に牙や爪を届かせるには、こちらも妖気を一点集中させて攻撃を行う他なく相当な集中を強要される。
破岩の一撃の重さならこちらは軽く当てられただけでも意識を刈り取られかねない。
 回避した破岩がそのまま背後にあった大岩を砕き、砕かれた大岩の破片が粉状にまで粉砕されている事に、雪輝が目を細めた。単なる破片ではなく粉状になっていることが、どれだけの威力があるかを物語っている。

「破岩、貴様までなぜ外側に姿を見せる? 飢刃丸のように若さゆえの短慮をするほど貴様は血気に逸ってはおるまい」

 口元から鋭く伸ばした六本の牙を振りまわしながら、雪輝の姿を真正面に捉えた破岩が答える。大岩をいくつも転がしたように濁った声であった。

「時が来たのだ。白銀の魔狼よ。大狼が死に、魔猿一族が滅び、条件が満たされた事で来るべき時が来たのだ」

「何を言う? 蒙碌したか偉大なる猪の長よ」

「お前は知らずとも良い。お前は知っても良い。妖哭山はすべてその時の為に在ったのだ」

 雪輝の視界を破岩の巨体が埋め尽くす。およそ六間の距離では、雪輝の反応速度と動体視力をもってかろうじて捉えうる破岩の巨体からは想像もつかぬ高速の突進だ。
 左方への跳躍の為に重心を動かす雪輝の目の前で破岩が四肢を踏ん張り、あろうことかその突進の威力と速度を完全に相殺して急停止して見せる。
 四肢に掛る負荷は想像を絶するだろう。おそらくは破岩の強靭な肉体をもってしてもそう何度は行えぬ行為に違いあるまい。
それゆえにこの行動は雪輝の虚を突いて、左方への跳躍動作に入っていた雪輝は、筋肉を無理矢理捻じ曲げるほどの勢いで後方への跳躍に切り替える。
しかしそれでも急停止状態から方向転換を終えた破岩の動きの方が早い。破岩が六本の牙を横殴りに雪輝へと叩きつける。
雪輝と同じ大きさの鉄塊も微塵に粉砕するだろう牙の殴打だ。いかに狼系統の妖魔としては破格の防御力を有する雪輝といえども、これの直撃を受けてはたまったものではない。
かわしきれん、と雪輝が瞬時の判断で破岩の牙が命中する部位の妖気を集中させて、防御の厚みを増し、その寸前に咄嗟に破岩の懐近くまで飛び込んだ狗遠の牙が、破岩の左後ろ脚の付け根に深々と突き刺さった。
牙を通じて一挙に破岩の体内に侵入する狗遠の悪意ある妖気が、破岩の気を逸らし雪輝への殴打が勢いを失し、雪輝の回避行動を許してしまう。
自分の左後ろ脚に喰らいつく狗遠に憎悪の視線を向けて、破岩は後ろ脚を持ちあげて思いきり地面に叩きつける。自身の体重を活かした押し潰しだが、流石に狗遠はそのまま潰されるほど鈍重な狼ではない。
牙を抜いてすぐさま離れて、口の中の破岩の血を飲み下しながら破岩の視線を真っ向から受ける。

「時が来ただのなんだのと。邪魔する者は全て踏み潰してきた猪にしては随分と遠回しな物言いをするものだな。それとも来たというのは貴様の死に時か? 蒙碌爺めが」

「狗遠よ、お主ら狼の一族も役目を果たし終えた。後は我が一族だけではなく、この山に住まう妖魔全てが滅びるまで殺し合うまでなのだ。器にお主らと同じ形が選ばれた事を考えれば、お主らがもっとも役目を果たしたとも言えるがな」

「ふん、いよいよもって蒙碌したな。だが他の妖魔共を滅び尽くすと言うのは悪くない話だ」

 口ではそう言う狗遠であったが、破岩の瞳はこれまで見た事の無いほど静かで、凪いだ水面の様に落ち着いている。決して破岩が老齢ゆえに蒙碌したわけでも破壊と殺戮の本能に、自身の生命と一族の将来とを委ねているわけではない事を物語っている。
 それはまるで自分達に訪れる未来を悟り、諦観に心を委ねているかのようで、奇妙な胸騒ぎを狗遠に与える。
 だが狗遠に思案する時間は与えられなかった。ようやく破岩に与えた一撃を切っ掛けに、このまま押し切るべく雪輝が狗遠へと吼えたのだ。

「合わせろ、狗遠!」

「私に命令するな」

 反発を示しながらも、狗遠は雪輝の動きを見逃さぬようにと破岩と雪輝に対して意識を割り振る。破岩を前後に挟んで雪輝と狗遠が鉄の様に硬い剥き出しの大地を蹴る。二頭の狼が蹴り出した大地が、あまりの圧力に爆発して狼達は老いた妖猪へと襲い掛かる。
 巨体とそれを活かした一撃の重さを最大の武器とする破岩相手には、もっとも基本的で有効な戦い方だ。
無論破岩もその戦法に対する対処の仕方は心得ているだろうが、雪輝や狗遠ほど基礎的な身体能力が高い敵を相手にするのは、初めての事だろう。
破岩の巨躯を支える四肢を狙い、身を低くして襲い来る雪輝や狗遠達に対して、破岩は足を踏み上げて踏み潰す行為や、蹴り飛ばす行為、または牙を唸らせて振り回すことで白銀と灰色の狼を近づけまいと荒れ狂う。
小山ほどもある巨体が旋風の速さで動きまわり、足踏み一つをするだけで辺り一帯の地面が揺れ動き、巨大な罅が広がって鉄並みの硬さを持った大地を粉砕してゆく。
破岩の体が動くたびに巻きおこる風は物質化寸前の妖気を交えて、それ自体が一種の武器と化して破岩の周囲を取り巻いている。
雪輝と狗遠はこれに対して自身の肉体から発する妖気を同調させ、多少の圧力が掛るのみに抑え込み、破岩の足や牙をかいくぐって自分達に数倍する破岩の巨躯に一撃一撃を与えて行く。
一対一ならばともかくも、雪輝と狗遠の強力な魔狼二頭の組合せは意外にも見事な連携によって破岩の巨躯に傷を与え続けて、殺気を込めた狼達の妖気は破岩の肉体を徐々に衰弱させてゆく。
 腹、肩、首、足と破岩の体に着けられた傷は数を増し、分厚い毛皮と筋肉は破岩の衰弱に比例して弱まり、より容易く雪輝と狗遠の牙と爪を通してゆく。
 雪輝と狗遠が左右から同時に飛びかかり、破岩の首筋に一気に牙を深く突き立てて、血管の束を纏めて噛み千切り、そのまま肉と骨を食い千切るや、破岩の首から血が噴水の様に噴き出す。
 返り血で頭から真っ赤に濡れそぼった雪輝と狗遠は肩を並べて後方へと跳躍して、血を流す破岩と距離を置いて真正面から相対した。常に妖気の防御膜を強く展開しなければならない為、かなりの消耗を強いられてはいたが両者ともにいまだ肉体的な傷は無い。
 破岩の正面に並び立つ雪輝と狗遠目がけて破岩が、急速に消えゆく命の炎の最後の燃焼を見せるがごとく、これまでで最も早く最も強く最も重い突進を見せる。
 破岩の巨躯から放たれる迫力の凄まじさは、相対する雪輝と狗遠の体に重しを乗せられたような重圧を与えるほどだ。
 正面からの真っ正直な突進だ。雪輝と狗遠がそれぞれ左右に跳躍すれば回避できる。しかし雪輝はその考えを意識化で否定した。破岩の視線は雪輝の全身に鎖の様に絡みついており、狙いを雪輝の身に定めている事は明白だ。
 左と右、あるいは上と後ろどちらに雪輝が飛んでもその姿を追って、破岩は突進してくるだろうし、そうすれば雪輝は一撃でほとんど戦闘不可能な状態にまで追い込まれかねない。
 そうなれば残る無事な狗遠が破岩に絶命の一撃を与えるのは間違いないが、その事を破岩はまるで度外視している様に雪輝には感じられる。自身の命を捨ててまでも雪輝を殺すことに執着している。
 例え首だけになろうとも相手を殺そうと狂的な執念を見せるのが、妖哭山内側の妖魔に共通する本能の様なものだが、それにしても破岩が見せる執念はどこか違う、と雪輝の心が囁いていた。
 狗遠が右に飛んで破岩の突進を回避するには間に合う余裕を持って動くが、雪輝は変わらず不動。雪輝が自分同様に回避すると思っていた狗遠にとっては寝耳に水の様な雪輝の行為だ。
 狗遠が咄嗟に雪輝の名前を呼ぼうとした時、不意に雪輝の足元を中心に妖気が高まっている事を感知する。雪輝が見せた妖気を媒介とする熱量操作の異能。それを行っているのだと狗遠が気付いた瞬間、雪輝がようやく後方へと跳躍した。
 だが本気で破岩の突進を回避しようとするほど距離を取ったわけではなく、ほんの二間ほどの跳躍である。

「我ら尽く滅びるともお主だけは、お主だけはこの手で引導を渡す!」

「そこまで恨まれる心当たりはないが、ここで死ぬ理由は無いのでな。返り討ちにさせて貰うぞ、破岩」

 先ほどまで雪輝が肢を置いていた空間に後ろ足までを踏みしめた瞬間に、その大地が一気に灼熱して融解する。この地点に至るまでの氷の道を作ったのとは逆に、分子運動を加速させて莫大な熱量を産み出し、山の一部を局所的に溶岩に変えたのだ。
 はたしてどれだけの深さを持たせたものか、突進の勢いを下方向に変えて、破岩の肉体が溶岩の高熱によって焼かれながら沈みこむ。
 雪輝と狗遠の連続攻撃に晒されてあちこちに傷を負って衰弱していた破岩は、全身を包み込む溶岩に抗う事叶わずに、次々と炭化してゆく。

「貴様が万全の状態ならばあるいは脱出も出来たろうし、そもそもこのような簡単な罠というのもおこがましい罠に引っ掛かる事もなかったろう。破岩、思慮深さを持ち合わせていた貴様が、なぜそうも短慮的な行動を取るようになった」

 既に首から先を残してほとんどの体を灼熱に焼かれる苦痛に襲われながらも、破岩が不思議と落ち着いた声音で雪輝に答えた。

「誰にも死に時がある。だが我らはそれをこの時と定められておる。死に様くらいは自分で決めようとしただけの事よ」

「飢刃丸の行動が原因、いや、切っ掛けか?」

「いいや、お前だよ」

 最後にそうつぶやいた破岩の鼻先が、船が海に沈むようにして雪輝の造り出した溶岩溜まりの奥底へと沈みきる。破岩の残した雪輝が原因だと言う言葉は、少なからず雪輝に戸惑いを抱かせたが、それよりも鬼無子の状況を把握しなければと頭を切り替える。
 狗遠は破岩の血肉を貪る機会を逸した事に歯噛みして悔しがっていたが、雪輝が破岩の最期に頓着せずに鬼無子へと視線を向けている事を知ると、こちらも鬼無子の方へと目線を動かす。
 氷の薙刀を振るい十数頭に及ぶ妖猪を屠っていた鬼無子だが、肉体が不完全である事が響いて、肩で息を荒くしてやや顔色を青く変えている。周囲に溢れる妖猪達の大量の血潮と妖気に触発されて、抑制していた体内の妖魔の血が疼きだしているのかもしれない。
 まずいな、と一つ吐いて、雪輝はその場から駆けだして鬼無子を囲い込む妖猪の群れに牙を唸らせて、自分とそう変わらない大きさの妖猪の頭を一撃で噛みつぶす。口内に入り込んだ脳漿や潰した頭蓋骨を吐き捨てて、雪輝が吼える。

「猪どもよ、貴様らの長は滅びた。命が惜しくばこの場より退け。退く者を追いはせぬ」

 恫喝の為に肺の中の空気を絞り出した雪輝の咆哮を受けても、妖猪達の間に動揺や怯む様子は見られず、それどころか自分達の長が滅ぼされたことで返って戦意を煽られたかのようにしきりに鼻を鳴らし、地面を蹴る動作を繰り返している。
 雪輝は妖猪達のその様子を訝しく見ている。猪突猛進という言葉そのままの生き物ではあるが、もう少し知恵を働かせる様子を見せた筈だ。それがまるで熱病に浮かされて正気を失ったかのように、命尽きるまで戦い続けようとしている。
 破岩の時が来た、という言葉と関係があると言うのだろうか。このまま戦い続けても埒が明かん、と雪輝は判断して鬼無子のすぐ傍へと跳躍する。
 このまま妖猪達と戦い続ければ多少時間はかかるが全滅させられるだろう。だがその間に他の妖魔達が嗅ぎつけてくるのは間違いなく、あるいは妖魔改の者達が追いついてくるかもしれない。
 その懸念は鬼無子も共有していたのだろう。自分のすぐ傍に雪輝が着地すると、なにかを言われるよりも早く雪輝の背にひらりと軽やかに飛び乗る。

「いくらか息が荒いな。大事ないか?」

「ご心配なく。それよりも雪輝殿、喋る暇も惜しゅうございます」

「承知、狗遠。このまま駆け下るぞ。送れぬようついてまいれ」

「誰に物を言っている」

 まるで山津波の様に一つの流れとなったこちらに鼻先を向ける猪たちの中を、鬼無子を再び背負った雪輝と狗遠は、妖猪達が反応を上回る速さで駆け抜けて、一気に妖哭山内側へと向かう足を速めた。
 緑の海が広がる内側へと進む雪輝達に妖猪達の足では到底追いつけず、見る見るうちに両者の距離は開いてゆく。
 雪輝は猪との戦闘で取られた時間を考え、後方から迫ってきているだろう妖魔改との距離を推し量ろうとし、前方から吹きつけて来た風の臭いに思わず眉をしかめた。
 雪輝にとって誕生の地であると同時に思い出すのも苦痛な年月を過ごした場所であるが、頬を叩いた風に混じる血の匂いと妖気の濃厚さ、霊魂の恨みの籠った呻き声がこれまで感じた事の無いほどの強さになっている。
 狗遠を長の地位から追いやった飢刃丸が妖狼族を率いて他の一族にただ戦いを仕掛けているだけではこうも行くまい。妖狼族をはじめとする主要七種族のみならずありとあらゆる妖魔や魔植物が凄惨極まりない殺し合いを行っていなければ、こうはなるまい。
 この内側の空気は鬼無子にとっては苦痛以外の何ものでもないだろう。氷の道と破岩戦で相当に消耗を強いられてはいたが、雪輝はそれでも体内を循環している妖気を体表に表出させて、鬼無子を保護する防護膜を形成する。
 目には見えない雪輝の妖気の膜に覆われて、内側に近づくにつれて増す苦痛を堪えていた鬼無子の顔色が、幾分か落ち着いたものに変わる。

「鬼無子、気休めにはなったか?」

「はい。幾分、落ち着きました」

 疾走は維持したまま雪輝は背後の鬼無子に問いかけ、鬼無子は多少無理をした笑顔を作って、雪輝に答える。
雪輝が鬼無子を保護する為の防護膜を作る一方で、鬼無子も雪輝の背に倒れ伏す様にしてしがみつき、呼吸を整えて血流の流れを操り、人間の肉体が発する気の生産量と純度を高めて、体内の妖魔の血の抑えに回す。
 夕座との戦闘で予想外の苦戦を強いられた影響は長く鬼無子の心身を蝕む事になりそうだった。

「おい、雪輝。それであのしわくちゃの所をまっすぐ目指すので良いのだな」

 雪輝の傍らを走る狗遠だ。少量とはいえ破岩の血肉を胃に納め、生まれ故郷に戻って来た事で愚弟に対する憎悪の念を轟々と燃やしているせいか、鬼無子と反比例するようにこちらは精気を迸らせている。
 実際、こうして雪輝と話しながら走っている間にも狗遠の体は憎悪と復讐の感情を活力に変えて、急速に傷を癒しつつあった。あと半刻もすれば狗遠の肉体は万全の状態に戻るだろう。

「ああ。私が先導する。しかし、この様子では妖魔達の頒布図が随分と変わっていそうだな」

「一族の根城も変わっているかもしれん。だが外にかなりの数が向かっているから、数自体は常よりも減っている筈だ。その分凶暴になっているのだろうがな。普段ならお前に牙を剥かぬ様な小物まで襲い掛かってくるぞ」

「相手にするのは面倒だ。先ほどのような荒技も使えんし、速さで切り抜けるしかあるまい。狗遠、遅れるな」

 だから命令するな、と抗弁しようとした狗遠であったが、言い終わるやすぐさま更に加速を重ねる雪輝に、口を開く間を惜しんで肢を動かさざるを得なかった。
 外側よりもさらに鬱蒼と生い茂る木々から垂れ下がる蔦や天に向かって伸びる枝、どれだけの年月をかけて成長したものか苔むした幹と、あちらこちらに新鮮な赤い飛沫に濡れて、様々な色の肉片がこびりついている有り様だ。
 常であれば骨まで残さず食いつくすだろうに腹の辺りや体の一部を食われただけ転がっている死体や、そもそも口を着けられた様子の無い死体もそこかしこに散見されて、純粋な殺し合いが行われている事を雪輝と狗遠に暗に伝えている。
 薄もやの様に木々の合間を漂っているのは、死んだ妖魔の霊魂が融け合い自我を無くしてただ生命を憎悪する最もけがらわしい類の悪霊であろう。
 三つ首大百足や百本角甲虫といった昆虫の類なども、お互いを見つけた端から殺し合っており、雪輝達が蹴る大地やそれを覆う草花は得体の知れない汚汁に濡れていて、ただの人間が触れようものなら即死する猛毒性を発揮している。
 妖魔の体液の混合液が大地を濡らし、気化した混合液と元から溢れている魔花妖草の花粉の類が混濁した大気は、久しぶりに内側を訪れた雪輝を汚らわしい歓待で迎えている。

「これは酷いな。なにかの疫病でも流行ったとしか思えん狂いぶりだ」

 鼻を突く言語に絶する異臭の凄まじさに、雪輝は嫌悪の念を露わにして鬼無子を保護する為の防護膜の遮断性を更に高める。狗遠も最後に見た妖哭山の光景からかけ離れた辺りの様子に、灰色の体毛に包まれた眉間に幾筋かの皺を刻んでいる。

「病に侵される弱い奴が悪い、と言いたい所だが流石にこれはなにか尋常ではないとしか言えんな」

 そう言う間も二頭の狼は足元や木々の隙間を縫って襲い来る虫怪や妖魔の類を相手取り、肢を振るい牙を唸らせて、二頭の通った後には新たな死骸が点々と残されてゆく。
 全速力で駆ける二頭の狼の動きに追従出来る妖魔は極めて限られて、たまたま二頭の進路上に居た妖魔や、空か二頭を獲物と見定めた飛行型の妖魔が時折襲い来るだけで数自体は少ないのが救いではあった。
 かつてはひなを背負って目指した天外の庵が立つ湖目指してひた走る雪輝が、不意に肢を止めて正面上空に青い視線を向ける。狗遠の知覚に触れるものは何もなかったが、より鋭敏な雪輝には上空の空間を押し退けて出現した存在に気付いたのである。
 それまでの疾走からゆるやかに歩を緩めて肢を止める雪輝に気付いて、狗遠が再びその傍らで肢を止めて雪輝の視線を追う。
 そこには皺まみれの肌がかろうじて骨に張り付いたと見える人型が、絹の光沢が眩い紫色の袖の広い衣服をまとった姿で空中に胡坐をかきながらこちらを見下ろしているではないか。
 雪輝が妖哭山内側での活動拠点を求めて尋ねようとしていた相手、自称仙人の天外その人に他ならない。地面に着くほど長く伸びされた顎の白髭を左手でしごきながら、天外は愉快そうに瞳を細めて声をかけて来た。

「直接会うのは随分と久しぶりになるの、雪輝。それに初めましてだな、先代妖狼族の長よ。それに鬼無子ちゃんもか。なんの用があって今時この山にやってきおった?」

 何もかも分かった上で言っているのだとはっきりと分かる厭味ったらしい天外の口調である。雪輝の背中の上の鬼無子も、うつ伏せにしていた体を起こして、空中の天外を見上げている。
 どこから雪輝達の行動に気付いたのかまでは分からぬが、雪輝達が自分を探している事を察して、重い腰を上げて姿を見せたのだろう。

「伺いも立てずにすまぬが、お前の所で少し休ませて欲しい。特に鬼無子の体の事で相談がある。それと今、この山で何が起きているのか知っている事があったら教えて貰いたいのだ」

「頼みごとばっかりだのう。まあ話くらいは聞いてやろう。それに鬼無子ちゃんの体の事は前から気になってはいた事であるし、特別に妖狼も一緒にわしの庵に入れてやろう」

 以外にもすんなりと承諾の意を露わにする天外に雪輝が拍子抜けした様子を見せるのと、狗遠が自分の知りつくした場所に連れ込んで始末する気かもしれん、と警戒の意識を高めるのと同時に、天外が右手を上げて指を鳴らすと世界が一変した。
 天外が雪輝と狗遠をまとめて空間ごと転移させたのだ。天外になにか力が集中しているのを、雪輝は察知していたが敵意は感じられず放置したのだが、よもやこのような事をされるとは予想しておらず、一瞬で変化した周囲の光景に驚きを隠せず、両耳をピンと直立させて周囲を観察する。
 それまで様々な液体でぬかるんでいた地面は硬質の感触に変わり、床も壁も天井も繋ぎ目一つない白い金属質の物体で構成されていて、壁の構造材と同じ構造材製らしい机や椅子が一つの組合せとなって規則正しく並んでいる。
光源が天井の中央に浮かんでいる白い光の球のようだ。まるで小さな太陽がそこにあるかのように輝き、周囲を照らしていた。
 大気に穢し尽くしていた悪臭もすっかり消え去って澄んだ大気に変わり、かすかに花の芳香が混じっている。
 天外の背後の壁だけは巨大な玻璃(ガラス)の板の様なものが埋め尽くしており、そこに妖哭山のあらゆる場所の光景が、細かく区切られて映し出されていた。

「ここは以前訪れた庵とは違う場所か?」

 背に跨っていた鬼無子を降ろしながら、雪輝が興味を隠さぬ調子で天外に問うと、天外は空中からふわりと柔らかく着地して、椅子の一つの上に腰を降ろすと足を組んで頬杖を突く。

「無論別の場所よ。今ではわしと祈祷のお婆しか知らぬ場所だ。とりあえずは鬼無子ちゃんを休ませるのが良かろう」

 もう一度天外が指を鳴らすと床の一部が割れてその奥からなにか巨大な筒の様な寝台が競りあがってくる。
好奇心に駆られた雪輝が筒型の寝台に近づいて観察すると、ちょうど天井を向いている面は緑がかった玻璃のような物体が嵌めこまれていて、ちょうど人が一人中で横になれる位の大きさだ。

「ただの寝台ではなさそうだな」

「服を着たままでよいから鬼無子ちゃんはそこで横になりなさい。それは中で眠っておる物の治癒力を高める特別な代物よ。ついでに鬼無子ちゃんの体の中で人間と妖魔がどのような具合になっておるか調べられる」

「本当に大丈夫か? 鬼無子、こやつが信用できぬようなら無理に寝ずとも良いぞ」

 天外への信頼が欠片もない雪輝の言葉に、天外は幾分か気分を害した素振りを見せる。ただそれも本気ではなくあくまでそう見せているだけなのかもしれないのが、この天外という奇妙な仙人の面倒な所だった。

「かー、この畜生めは己の都合を押しつけるくせに、好意で返せばそれを疑いよるか」

「しかしな、お前の過去の行いを鑑みるに素直に信じられぬのだ」

「雪輝殿、その程度でおやめ下さい。天外殿、それがしは貴方をお信じ申します」

「ふむ、素直でよろしい。履物を脱いで横になれば勝手に体を調べてくれるから、何もせんで良いぞ」

 かすかに空気の抜けるような音を立てて筒状寝台が蓋の様に開き、天外の言葉に従って鬼無子は草履を脱ぎ、腰の帯に佩いていた崩塵と雪輝の造った氷の薙刀を寝台の傍らに置いて、横になる。
 鬼無子が横になるのを待ってから開いていた蓋が元の通りに閉じて、鬼無子が筒状寝台の中に閉じ込められる形になった。その様子を心配そうにしている雪輝の様子がよほど面白かったのか、鬼無子は寝台の中でくすりと笑んでいた。

「調べ終わるまでちと時間がかかるでの、その間に話を聞いてやろう。鬼無子ちゃんにも聞こえておるから、聞こえているかどうかは気にせんで良いぞ」

 ひっひっひ、と咽喉の奥からいかにも腹に一物あると言わんばかり奇怪な笑い声を零し、ここまで沈黙を保っていた狗遠がその声が癇に障った様子で口を開いた。天外から不穏な事を口にすれば、即座にその首に牙を突き立てかねない危険な様子だ。

「まずは私の愚弟の所在、ついでこの山で起きている異常な事態に着いて貴様の知っている事をあらいざらい喋ってもらおう」

「は、血気に逸っておるわ。その元気の良さに免じて話してやろう。お主の弟じゃが一族を率いてあちこちを走り回って食い殺しまくって力を蓄えておるわ。探さんでもそのうち向こうがお主らを見つけて襲い掛かってくるじゃろ。わざわざ探し回らんでも良いと思うがな」

 これは雪輝と狗遠も予想していた事なので、確認が取れたと言うだけの事なので特に驚いた様子は見せずに共にふむ、と一つ頷いて納得した様子だ。

「次にいまこの山で起きておる事じゃが、まあ噛み砕いて言うとの、ここはちょっとした実験場なんじゃよ。その実験が終わりの段階に近づいた事で妖魔共がそれぞれの役割に従っておるだけの事」

 ずい、と一歩前に出て雪輝が答えぬ事は許さぬという意思を込めて天外を睨み、問いかけた。

「実験の目的とはなんだ。破岩と戦ったが奴は時が来たと言っていたが、この事か? そして奴は私にいやに執着していた」

「ふむ、相変わらず小賢しく頭が回るの、お主。実際、この妖哭山に生きておる妖魔の中でもこの山の意味を知っておるのは最古参の連中でも極一部。破岩の言うとおり時が来た、という表現は的を射ておるな。そしてお主に執着しておったと言うのは、ま、この実験場の目的にお主が成るかもしれんからじゃろなあ。
 この山はな。ある者が器を作る為にこさえた実験場なのよ。試作品として何百年か前に大狼が産み出され、大狼をたたき台にして次にお前さんが産み出されたというわけよ。そしてお前さんが及第点を得たことで、既存の妖魔共と性能を比べる為に殺し合いが始まったというわけだ」

「待て。器といったがそれはどのような器だ。そして実験場を拵えたのは誰だ?」

 気恥ずかしげに天外はこの老人には意外な素振りで禿頭をぼりぼりと音を立てて掻いた。

「それはわしにも良く分かっておらんでなあ。まあとりあえず妖魔として強力な個体として設計されておるのは確かよ。ただ大狼もお前さんもなかなか強力な妖魔である事からも分かるじゃろう? 
この実験場を拵えたのは、どこぞの神さんかなんかとしか言えんわ。なにしろ自然環境そのものに手を加えて造られたほどの規模であるからの。これからはわしの推測混じりだがな、雪輝よ。おそらく妖哭山の主要な妖魔共とお主が殺し合うのが最後の仕上げ。お主が死ぬか他の妖魔共が尽く死に絶えてお主の性能が立証されるかするまで、妖哭山の現況が続くであろうな」

「お前の言う実験とやらが事実なら、私が死ねばまた新たな実験がやり直されるわけか」

「大狼、お主と続いて三頭目の特別な狼が産み出されての」

 思わぬ所で自身の誕生の理由を知らされる形になり、雪輝の内心は複雑極まりない心境であったが、それでも表面上は意見に深い皺を刻んで寄せるだけに留めて、もう一つの疑問を天外にぶつける。

「では天外よ。この山の存在の意味を知るお前は、一体何者だ? ただの仙人界からの追放者ではあるまい」

 雪輝の問いに、天外は亀裂のような笑みを浮かべた。

<続>

頂いたご感想への返事はまた後日に。お読み頂きありがとうございます。これからよろしくお願い致します。



[19828] その二十二 魔狼と魔剣士
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/06/05 20:58
その二十二 魔狼と魔剣士


 ぽっかりと開いた亀裂の様な笑み。それを口元に貼りつけたまま天外はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。そこにはわずかな悪意と無邪気なからかいの気持ちと、そして類別できないなにかが秘められていた。

「わしが何か、か。そんなに気になるのか、雪輝よ?」

 椅子に腰かけたまま問いかける得体のしれぬ老人に、白銀の魔狼は青く濡れた満月の瞳をしっかと見据えて、皺しかない肌を枯れ木の様な骨に貼りつけたようにしか見えない老人の真意を見抜こうと試みている。
 雪輝の傍らの狗遠も筒状の寝台の中で横たわる鬼無子も、雪輝と天外の問答に気を引かれながらも、言葉を挟むことなく固唾を呑んで見守っている。
 雪輝が天外に答えた。

「ああ、なるとも。私が『私』であると自己を認識してから初めて見たのは、お前だった。仙界を追われたとはいえ、このような場所に庵を構えているのも奇妙な話。それにこの山の事情に詳しすぎる。お前は何だ? そして……私は何だ?」

 天外の正体を問う以上に、自身の真実を問う雪輝はこれまでひなや鬼無子が見た事がないほどの深い苦悩を抱いていた。
その様子を興味深げに見つめながら、天外は口元に貼りつけていた笑みを崩し、それまでの軽薄かつ飄々としていた相好を、仙人であるという肩書に相応しい超然とした雰囲気を纏う。
突けば今にも砂と変わって崩れそうな罅割れた唇から紡がれるのは、世界の真理を解き明かす賢者の言葉以外にあり得ないと感じるほどに、いまの天外の姿は神秘と計りしれぬ知性に満ちている。

「お前の問いから答えてやろう。お主の肉体は先ほど語ったように器に他ならぬ。この山が天地と近隣の気脈から強制的に吸い上げた最も純度の高い気を材料に、これまで妖哭山の妖魔達の闘争から収集した記録を元にして作り上げられた最強の妖魔の器。
 妖哭山を作り上げた八十八万柱の神のいずれか、十中八九邪悪な神の類に違いあるまいが、その邪神が手駒でも造ろうとして妖哭山という環境を整え、数多の妖魔の血と死と莫大な時間を引き換えにして作り上げた、とびきり贅沢でとびきり呪われた器。それがお前じゃ」

 言うなればこの妖哭山の存在の目的こそが、雪輝という個体そのものなのだと言える。顔も知らぬ先祖の時代から妖哭山での闘争に明け暮れていた妖魔である狗遠からすれば、これは聞き逃せぬ話である。
 生まれた時からただただ殺し合いに明け暮れていた自分や一族の者達が、この白銀の魔狼や大狼を産み出す為の礎に過ぎなかったと言うのだから、自分達がまるで目に見えぬ糸に操られている傀儡人形の様だと不快に感じていたのである。
 もっともそれと同時にやはり雪輝を伴侶にと選んだ自分の目に狂いは無かったと、どこか誇らしくもあったが。

「それは分かっている。この私の眼や耳や尻尾や肢が、器に過ぎないのは十二分に理解した。私が知りたいのは、その器を満たす『中身』の方だ。私を『私である』と認識しているこの意識も、造り物なのか?」

 これまでの天外の言葉が全て真実であると言う前提によるが、雪輝の肉体が妖哭山の実験の産物である事はまず間違いない。だがそれよりも雪輝が真偽を問うているのは、自身を雪輝であると認識している意識、あるいは精神の正体をこそ知りたいのだ。
 天外の言葉を切望して待つ雪輝に、天外は変わらぬ荘厳ささえ纏う雰囲気のままに告げる。いまならばこの老人が世界の真理を知る仙人であると言う話も、紛れもない事実と信じる事が出来よう。

「それはわしにも正確な所は分からぬ。だが、雪輝よ。お前がわしと初めて対面した時の事、憶えておるな?」

「ああ。満月の下、私とお前は対峙し、周囲は破壊の限りが尽くされて荒れ果てていた。私とお前は、戦っていたのか?」

「然り。大狼という失敗作を経てこの妖哭山にお前さんが産み出された時、わしはお前さんを滅ぼす為に動いたのよ。大狼は強力な妖魔だったがこの山の中ではざっと十指にはいるほどの力しか持たなんだ。しかしお前さんがこの山に誕生した時に感知した力は大狼の比ではなかったのでな、流石にわしも腰を上げざるを得なかったのよ」

 あっけらかんと、それこと明日の天気の話でもしているかのように話す天外の言葉の、聞き逃せぬ文言に気付き、それまで黙って天外と雪輝の話を聞いていた鬼無子と狗遠が、揃って天外に視線を向ける。
 雪輝の天外に対する反応か、あるいは天外の行動次第でこの場が新たな戦場と化すのは間違いない。それを悟り、狗遠と鬼無子は天外に向ける視線に警戒の成分を含ませた。

「そうしたと言う事は、お前はこの山の実験の創始者とは敵対関係にあると言う事か」

 かつて自分と戦ったと天外は言うが自分の記憶にない事である、と雪輝は、鬼無子と狗遠の警戒ぶりとは真反対の様子で、天外に対して敵意を見せる事はなく、あくまで淡々と事実を確認する口調で呟く。

「まあ、の。そんでま、この世に誕生したばかりのお前さんとさんざかわしはやり合って、わしが渾身の術でお前さんに一撃を与えた所で、ちょいと事情が変わったのよ。第二の大狼だったはずの妖魔が、お前さんに、つまりは自らを雪輝であると認識しているお前さんになったのよ。それがお前さんの最初の記憶の正体だの」

「お前の言う事が事実ならば、この器を満たしている私という中身の正体は分からぬままか」

 結局は自分が何者であるかという事は分からぬ事に、雪輝はこの狼には極めて珍しい、疲れた様な嘆息を零す。普段の呑気さなど欠片もない雪輝の様子は、この場にひなが居たら大いに心を悲しませて、雪輝を出来る限りの事を持って慰めようとしたことだろう。

「そう気にするな。わしが見た限りお前さんは善の性質の魂を持っておる。お前さんの肉体は純粋な天地の気の塊であるから、妖魔としては珍しい事に別段邪悪だとか害毒を含んでいるというわけでも無し。これまで通りに暮らせばよかろうよ。
それにな、ある程度知恵の回る生き物になると、大なり小なり自身の存在というものに疑念を抱くもんじゃ。なぜ生まれて来たのか、とか生まれてきた意味を知りたがるのよ。
実際には世の中にゃあそんなものありはせん事が多いが、生まれてきた意味だのと七面倒なものは、結局自分で見つけるかこれだと思い込んで解決する問題だの。
お前さんは明確な目的の元に造り出されたわけじゃが、その後の事を自分で決める事の出来るだけの頭は持っておるじゃろ? お前さんの中身が一体何なのかなんぞ、知らんでも生きてゆけるし、自分で考えて生きる目的や存在する事の意味を見つけるこっちゃ」

「助言のようなそうでないような。なんとも抽象的な言葉であるな」

「前に会った時、お前が似たような事を言ったじゃろうが」

 前に会った時、とはひなを連れて天外に会いに来た時のことだろう。天外に会った時、この世が神々によって造られた神々の遊び場である、と教えられた際に雪輝はひなに対して、神の思惑など気にせず心の思うままに生きればよい、というような意味合いの事を告げている。
 よもや自分の吐いた言葉が巡り巡って自分に帰ってくる事になるとは、と雪輝は微苦笑を口に刻んでから、天外に首肯した。

「天に吐いた唾が自分の顔に堕ちて来たような気分だな。お前に揚げ足を取られるとは。とはいえ、確かに私という中身が何なのか、知らずとも生きては行けるし、生きる意味なら既に見つけてもいたか。……では天外よ、もう一つの私の質問に答えて貰おうか。お前は一体何者だ?」

「仙界の掟を破った元仙人の爺じゃよ。気まぐれにこの山に居を構えて殺し合う妖魔共の姿を肴に酒を飲みながら日々を過ごす堕落した仙人様。それがわし。それでよかろう」

「確かにお前の正体がなんであれなにかが変わるわけではない。昨日までの私ならそう考えただろう。だが今この山の事態を解決するにもお前の知恵と素性は知っておいた方がよさそうなのでな」

 引き下がる様子を見せない雪輝の態度に、天外は腕を組んで考える素振りを見せる。この老人の厄介な所は、平気で嘘を吐くだけでなく真実を話しても全ては離さずに、情報の一部をあえて伝えない、といった具合に話を鵜呑みにすると後で厄介な事になる場合がある。
 天外の口にする事が全て真実であるかどうか、まだ隠されている情報があるかどうかの判断もしなければならないのは、およそ嘘偽りとは無縁に生きている雪輝には極めて難しい。

「そうだのう、お前さんの言うとおり妖哭山の実験を始めた者とは一応、敵対関係にあると言ってもよい。雪輝よ、今のところ、お前さんは創造主の思惑から外れた意思で動いておるようじゃ。そうである限りわしはお前さんと戦うつもりはない。今のお前さんの状態の方がわしには都合が良いからの」

 条件付きの味方より中立と言った所だろうか。雪輝は明確に今、敵であるという立場を天外が示さなかった事で良し、と判断した。

「私が私でなくなったら容赦はしないと言う事か。今回の事態の顛末次第ではお前と再び私が戦う事になるとい考えて良いな?」

「おうよ。ただわしがお前さんを滅ぼしに掛る時は、もうお前さんは『雪輝』では無くなっておるだろうがの。そこら辺は出た所勝負になるがな」

 今回の事態の収拾を図る為に天外に情報提供を求めたわけだが、余計に面倒な情報を与えられた事で余計に頭を悩ませる事になってしまったのは、雪輝にとって大きな誤算だ。
下手をすれば夕座や他の妖魔の長達を倒した後に、ともすれば雪輝は天外とも戦わなければならなくなるかもしれないとは。
 雪輝が嘆息するのも無理の無いことだったろう。その雪輝の傍らで沈黙を維持していた狗遠がかすかに牙を覗かせて喉の奥で物騒な唸り声を立てていた。

「貴様が雪輝に敵対すると言うのならその時は私の牙でその枯れ枝の様な首をへし折ってやろう」

 はっきりと雪輝への助力を口にする狗遠に、雪輝は少なからず驚いた様子で眼をかすかに見開いて隣の狗遠の横顔を見つめ、天外は元の胡散臭さしかない怪しげで好色な老人の顔に戻っていた。

「妖狼の元長よ。お前さんも血に刻まれた呪いに屈服しておってもおかしくは無い筈じゃというのに、こうして雪輝の隣におるとはな。まったく偉大なるかな愛の力は」

 そのままかっかっかっか、と声を大にして笑う天外に、それ以上狗遠は食ってかかる事はせずに不愉快さを隠しもせずに、狗遠は一つ鼻を鳴らしてからそっぽを向いた。この不愉快な老人を一秒たりとも視界に入れておきたくないのだ。
 ひとしきり笑ってから天外は、右手を目の前に持ってくるとそこに小さな光の粒子が集中し、薄緑色に発光する光の板が出来上がり、そこに白い光が文字を刻んでゆく。
 おそらくは先ほどから鬼無子が横になって寝そべっている筒状の寝台が調べた鬼無子の肉体の情報が、そこに書き込まれているのだろうと雪輝は推察する。
 自身の正体について多大な興味と不安があったが、それ以上に鬼無子の容体の方が雪輝にとってははるかに重要な問題である。先ほどよりも更に真摯なまなざしで雪輝は天外を見つめて、口から零れ出る言葉を待つ。
 天外が目の前に持ってきた光の板に触れると、鬼無子が寝そべっていた筒状寝台の上半分が開き、いささか閉塞感を覚えていた鬼無子はやれやれと言わんばかりに上半身を起こした。
 それから雪輝達と同じように天外へと視線を向ける。鬼無子自身の感覚としては人間としての意識を維持できるのは長くて半年と言った所だが、この奇妙な老人はどのような判断を下すのか、興味がないと言えばうそになる。

「よくもまあ、これだけ妖魔の血肉を取り込んだものと取り敢えずは褒めておくわい。しかしこれはいささかまずいの。妖魔の血肉の影響がちと強すぎるわい。そう長くはないな」

 こればかりは茶化す気にはならなかったようで、天外は真剣な口調で鬼無子の容態の危うさを口にして、雪輝の眉間に深い皺を刻ませた。くるりとこちらを振り返る雪輝の視線を受けて、鬼無子は全てを受け入れた穏やかな笑みを浮かべる。
 美しい笑みだ、と雪輝は素直に思う。同時にその様な顔を浮かべる鬼無子への怒りも胸の内に湧きおこる。鬼無子の肉体の異常に気付けなかった事、そうさせてしまった自分への途方もなく大きな怒りも。

「鬼無子。分かっていたのだな?」

「はい。ここ最近の事でありますが、やはりそういう家の生まれでありますから、自分の運命というものくらいは心得ております」

 雪輝の顔に更に大きな皺が寄った。怒りの感情よりもさらに大きく深い悲しみが、この狼の面貌を歪ませる。雪輝にとってはようやく手に入れたばかりの家族を、遠からぬ内に失うと告げられたのである。平静な心理状態で居られる筈もない。

「ひなは悲しむ。泣きもするだろう。そして私もそうなったら、悲しい」

 この場に狗遠が居る事さえ忘れて、雪輝は飼い主の死を間近に見た飼い犬のように、悲しげにくぅん、と咽喉の奥で鳴らしていた。
 あまりの落ち込み様に狗遠などは信じられないものを見た思いで、ぎょっとした顔を拵えて雪輝を見つめているのだが、その事に気付かぬほど雪輝は鬼無子の運命に意識を奪われていた。

「申し訳ありません。それがしも出来れば雪輝殿達と共に在り続けたいと願ってはおるのです。ですが、すべての命にやがて死が訪れる様に、それがしの命にも必ず訪れる運命だったのです」

 全ての運命を受け入れた穏やかな笑みを口元に浮かべたままであったが、雪輝の隠そうともしない落胆と悲しみの感情を目の当たりにして、胸の奥に押し殺していた、生きたいという渇望が身じろぎするのを感じ、そっと顔を俯かせる。
 鬼無子とて生きたいのだ。愛するひなと雪輝と一緒に、ずっと生きていたいのだ。数百種の妖魔の血が流れる呪わしいこの身を、忌避する事もなく受け入れてくれるひなと雪輝と。
 だがそれが叶わぬ事は、誰よりも鬼無子自身が理解していた。多くの先達たちがそうだったように、覚醒させるたびに強まる妖魔の血肉に意識を奪われれば、そこから人間としての意識を取り戻す事はあり得ない。
 これまで多くの人間達が妖魔へとその魂と肉体を堕して、それまで共に轡を並べていた仲間や親兄弟、恋人の手に掛って歴史の闇の中へと葬られてきたのだから。
 いずれ残虐で邪悪な妖魔へと堕ちた鬼無子の始末を、雪輝に委ねるのはあまりにも残酷だ。
だから鬼無子はかねてから最後の時は自分自身の手で始末を着けることを決めていたし、その事ばかりは雪輝にも最後の最後まで秘密にするつもりだった。
そうしなければ雪輝は聞きわけの無い子供が駄々をこねる様にして、鬼無子がどう言った所で聞かずに、鬼無子の自決を止めるだろうから。

「例え鬼無子が妖魔に変わろうとも私もひなも気にせぬ。これまでの様に一緒に暮らしてゆけばよかろう。第一、私など最初から妖魔なのだから、気にする事は無いぞ」

 こう言う事を心から本気で言える狼なのだ。そしてひなも雪輝の言うとおりに鬼無子に対する態度を変える事は無いだろう。
だからこそその優しさが鬼無子には、思わず涙が零れ落ちてしまいそうになるほど嬉しく、そして切なくなるほどに辛かった。

「そうであるのならそれがしもこれほどまでには思い悩みはしなかったでしょう。しかしながら人間が妖魔に変わると言う事は存在の本質の変化のみに留まりませぬ。殊にそれがしの様に数多の妖魔の血を引く者は、徳の高い僧や神職にある者であれその性を一変させ、凶暴残忍、邪悪の権化と化してしまうのです。
それがしもその例からは漏れますまい。雪輝殿にもひなにも確実に刃を向けてしまいます。雪輝殿、それがしにとってそれがどれほどの苦痛であるか、お察しください。雪輝殿になら理解していただける筈です」

 こうまではっきりと鬼無子が明言すると言う事は、つまりは、もうどうしようもない冷厳な事実なのだと雪輝は理解せざるを得ずに、押し黙った。
 そして鬼無子の言うとおりに、もし雪輝が鬼無子の様な立場で、例えば天外が戦ったと言う第二の大狼としての意識が目覚めて、雪輝が雪輝でなくなりひなや鬼無子に牙を向けることになったら、鬼無子と同じように自決の道を選ぶだろう。
 雪輝自身の精神の正体について結局不明のままに終わったことよりも、鬼無子に待つ運命の過酷さに雪輝は悲しみと懊悩の色を深めて、二等辺三角形の耳をぺたりと倒しこみ、尻尾は元気を失って長々と床に伸びて動く事を忘れている。
 本来鬼無子の方が慰められるべき状況であったが、雪輝がこの世の終わりを目の当たりにしたかのような落ち込み具合を見せるモノだから、雪輝と鬼無子の立場は全く逆のものになっていた。

「雪輝殿、そうお気に病まないでくださいませ。なにも今日明日にもそれがしが死ぬと言う話ではないのですから、今しばらく時間はございます。ですからまずは妖哭山の事態の収拾を念頭にお置きください。夕座に飢刃丸率いる妖狼族、またそれ以外の妖魔達も雪輝殿を狙い動くと見て間違いないでしょう。迷いを抱えたままで戦える相手ではありますまい」

「そうではあるが、鬼無子の事を考えるなという方が私にとっては無理がある。すまぬな、本来私が君を慰めるべきであろうに、要らぬ心配をかける。まず先に夕座と山の妖魔共を片付けて見せよう。だがな、鬼無子」

「はい」

 鬼無子は自分の方を向く雪輝の視線を真っ直ぐに受け止めた。

「私は最後の最後まで鬼無子の事を諦めん。その事を、忘れないでくれ」

 この狼が生まれ持った善性がはっきりと分かる穏やかで、優しくて、そして確たる意思を秘めた宣言だった。口にした通り、雪輝は本当に最後の最後まで鬼無子を救おうと足掻くことだろう。
その事が分ったから、鬼無子は思わず感動で涙ぐみそうになるのを堪えなければならなかった。
雪輝と鬼無子とが過酷な運命の重圧に耐えんとしている一方で、狗遠は妖魔に変わる事の何が問題なのだ、と内心では面白くない思いでいっぱいだった。
雪輝が格別優しい言葉を鬼無子に掛けるのも、お互いの事を心底から理解し合っているかのようなやり取りと雰囲気も気に入らないことこの上ない。
なんなら私がそこの毛無し猿の息の根を止めてやろうか、と狗遠は魅力的なことこの上ない提案をしようか考えたが、それを口にすれば確実に雪輝が自分の事を見限ると言う事は理解できたから、大変腹正しかったが口を噤んでいた。
妖哭山内側の妖魔達にとって、眼の上のたんこぶをはるかに上回る目障りな存在であった仙人が始めた気に入らない話もそうだが、鬼無子とかいう妖魔の匂いのする人間の女のどうでもよい運命についてぐだぐだと語り合い、意思が通じ合っている様子を見せられる羽目になるなど、狗遠にとっては夢にも思わなかった事だ。
少なくとも狗遠にとっては、不本意ながら雪輝の手を借りて飢刃丸を始末し、妖狼族の長の地位に返り咲くだけだった筈の話が、今では妖哭山全体と雪輝の素性と鬼無子の運命に関わるものにまで広がっている。
まったくもって狗遠には不本意な話である。
そんな二頭と一人の空気を変えたのはやはりというべきか、今回の事態において多くの鍵を握り、その存在を秘匿しているだろう天外であった。

「随分と陰気臭い話をしておるが、鬼無子ちゃんの体じゃがな、わしに任せれば何とかしてやるぞ?」

 倒していた耳をピン、と立たせて雪輝が首を千切れんばかりの勢いで天外の方へ向け、鬼無子もやや遅れて驚愕を張り付けた表情で天外を凝視する。
 青と黒の二色の視線を集めて、天外は愉快そうに唇を吊り上げながら言う。

「わしは色々と失われた技術や古い知識について詳しくてな。鬼無子ちゃんの様に人間の体にそれ以外の生き物を取り込んだ連中の治療法という奴にも多少明るい。鬼無子ちゃんの場合、単に肉体だけでなく霊魂にまで影響が及んでおるから薬を呑んでそれでもう大丈夫とはいかぬが、妖魔化を防ぐ処置くらいは只でしてやってもよい」

 先の見えぬ闇に閉ざされた中に差しこんだ一筋の光明。それはあまりにも眩く、唐突に過ぎた。
天外の気性を嫌というほど知る雪輝は、天外の言葉を信じて良いものかどうか逡巡するが、このような状況で偽りを口にしても天外には何の益もない事を考えれば、事実であると考えても良いだろう。
 縋る様な声になっていないと良いが、と雪輝は天外に対して借りを作る事で後々生じるだろう厄介事を頭の片隅で意識しながら、天外に問いかけずにはいられなかった。

「鬼無子を助けられるのだな」

「完全に人間にする事は出来ん。鬼無子ちゃんは人間と妖魔の混じり合った状態が極自然な状態なのでな」

 狗遠はまるで興味の無い様子で、鬼無子は半信半疑の様子で、天外の顔を見つめていたが、次に雪輝が深く頭を下げて天外に懇願の言葉を口にすると驚いてそちらに視線を映した。

「どうかよろしくお願いする。鬼無子を助けて欲しい」

「他者の為に頭を下げられるか。お前さんが器から雪輝に変わって良かったと、いま心より思うぞ。願わくは生涯そうであって欲しいの。多少、準備に時間を取る。お前さん達、今日はここに泊って行け。寝床と食事くらいは用意してやらんでもない」

「しかし事態を一刻も早く収めねばなるまい。休むのは鬼無子だけでよいだろう」

 咄嗟に雪輝に抗弁しようと鬼無子が口を開くが、それよりも天外が反論を述べる方が早かった。

「確かに鬼無子ちゃんの状態は芳しくはないが、お前さんと狗遠も消耗しておる。気付いておらんのか? 特にお前さんはちと大技を連発しすぎだの。妖気がかなり目減りしておるぞ」

 天外が持っていた光の板が再び無数の粒子へと散り、天外が指を鳴らすと再び雪輝達の周囲は瞬き一つをする間に光景を一変させて、以前雪輝がひなと共に訪れた無常庵へと有り様を変える。
 気付けば雪輝達は青い匂いの薫る真新しい畳が一面に敷かれた百畳ほどの部屋に立っており、天外は何重にも重ねた錦織の座布団の上に胡坐をかいて洒落た彫り細工の施された煙管を咥えて、煙の輪をぷかぷかと吐いていた。
 つい先ほどこれと同じ現象に見舞われたばかりとあって、雪輝達に驚く気配なかったが、天外の見事という以外形容のしようがない手並みには畏怖の念を、大なり小なり抱いていた。

「ここを出て左に曲がってまっすぐいった突き当たりに部屋を用意しておいたから、そこで今日は寝るんじゃな。食事は後で運び込む。ああ、雪輝と狗遠と言ったか、お主らは爪を出さんようにしておけよ。畳と床板に傷が付くでな」

 天外に言われたとおり連れ立って襖を開いて部屋の外に出てみると、そこにはやはり以前雪輝が訪れた時と同じような、見通せないほど高い天井や廊下の左右に並ぶ無数の戸口や障子、絢爛な襖と言った光景が広がっていた。

「相変わらず出鱈目な」

 雪輝の呟きが狗遠と鬼無子の心情を代弁していた。天外の言った通りに左に曲がり、たった今建てられたばかりの新築の建物の様に真新しい庵の廊下を歩き、指定された部屋へとたどり着く。
 名のある武家の者や貴種の人間が宿としてもおかしくない豪奢な造りの部屋である。人間の世界にとんと縁の無い雪輝や狗遠からすれば、別段どうという事もなかったが、宮仕えをしていた鬼無子には、部屋の中にある文机や箪笥、火鉢をはじめ調度品の一つ一つが吟味を重ねられた一品である事が分かった。
 狼の妖魔と浪人が一泊の宿とするには余りに過ぎた場所というほかない。天外の部屋を出る時に脱いでいた草履を手に、鬼無子は二十畳ほどの部屋の中へ足を踏み入れて、片隅に積まれていた座布団を敷いてその上に正座した。
 雪輝と狗遠もそれに倣い畳の上に体を横たえて休息の体勢を取る。狗遠は本来なら一刻も早く行動に移りたい所だが、天外の言うとおりに自身と雪輝の消耗は感じていたから、この場での休息に異を唱える事はしなかった。
 鬼無子の身体について色々と問いかけるべきかどうか、雪輝は少しばかり悩んだが天外が治療を確約した以上はこれ以上無理に問いかける気にはなれずにいた。既にこの時点で雪輝は自身の中身の正体に対する疑問を忘れている。
 良くも悪くも自分より他者に重きを置く雪輝にとっては、自身の事よりも鬼無子の体の事の方がはるかに重大事として捉えられている為だ。
 陽が傾き地平線の彼方に沈んだ頃だろう、と雪輝が感覚から判断した頃、不意に襖の外から複数の匂いが立ちこめて、襖を開いてみると野菜と茸の煮物や魚の塩焼きや味噌を塗って焼いた魚やらが山と盛られた膳とお櫃、それに狗遠用であろう生の獣肉が山盛りで置かれていた。
 基本的に食事を必要としない雪輝の分が省かれている。一宿一飯の世話をするという天外の言葉は嘘ではないようで、鬼無子と狗遠は多少怪しみながらも用意された食事を一つ残さず平らげた。
 ちょうど空いていた腹を満たし終えた頃に再び天外が姿を見せて、鬼無子に風呂の位置を案内するとすぐさま姿を消したが、おそらくは鬼無子の肉体の妖魔化を防ぐための処置を準備するのに時間を取られているのだろう。
 半刻ほどしてからほんのりと肌を桜色に染めた湯上り姿の鬼無子が、部屋に戻って来たのを見てから、雪輝は自分も休まなければならぬなと組んだ前肢の上に顎を載せて瞼を閉じた。
 おそらく飢刃丸やその他の妖魔達との決着を着けるまで体を十分に休める機会は巡ってはこないだろう。ならば休める時に休めなければいざという時に状態を万全とする事は出来ないだろうから。
 そうして瞼を閉じてからうとうととしだして、雪輝が自分の意識が睡魔の手の中に沈み込むのを感じた時、雪輝の耳は自分を呼ぶ声を拾い上げてぴくりと震えた。
 先ほど閉じたばかりの瞼を雪輝は開いて周囲の光景の変化に気付く。瞼を閉じる寸前まで天外の用意した部屋にいた筈であるのに、今雪輝の周囲は麗らかな昼下がりの陽光が心地よい外であった。
 枝葉を四方に広げた大樹の根本で雪輝は横たわっているらしい。いずこかの大きな屋敷の庭の様である。庭の一角を占める雪輝の知らぬ無数の花々が、風にそよいで様々な色彩が波の様に揺れている様は美しい。
 天外の仕掛けた幻術かなにかか、と訝しみながら雪輝は首を巡らして自分のすぐ傍にいた誰かの姿を視界の中に納める。
 子供である。ひなよりも幼い、背丈が精々三尺に届くかどうかという幼子だ。青く染めた絹の着物を着て、薄い桃色の帯で締めている
雪輝の興味を引いたのは人間の耳の他に白銀の髪から飛びだしている獣の耳と、着物の帯の辺りから伸びている尻尾、それに袖や裾から覗く手足が髪の毛と同じ色の毛皮に包まれている点だった。
指先は犬や狼と人間の丁度中間の様な形状をしていたが、指先に至るまで毛皮に包まれて真珠色の爪の先端がかすかに覗いている。
くりくりとした黒い瞳に人懐っこい笑みの良く似合う女の子である。どことなくひなに似ているな、と雪輝は一日と離れていないのに、ひなともう随分と話していないような寂しさを感じた。
狼の耳と尻尾に手足、それと人の顔と胴を持った半人半獣の幼子に、雪輝は穏やかに声をかける。例えこれが天外の仕掛けた幻術の類であろうと、雪輝に目の前の幼子に危害を加える事は出来そうにもなかった。

「私を呼んだかね?」

 肩高六尺という狼としては途方もない巨躯の雪輝に対して、幼子はまるで怯えた様子は見せずなおかつ無防備な姿で、大輪の火周りを思わせる笑みを浮かべてこう言った。

「とおたま」

「?」

「おせなかのせてください」

「ふむ」

 とおたま? いずこかの地方で狼を指し示す言葉であろうか、と思いつつも雪輝は幼子の提案を拒絶する理由は無かったから、地面に腹ばいになった姿勢のまま幼子に優しいまなざしを向け、頷いて答える。
 雪輝の許可を得た幼子はにこにこと嬉しそうに雪輝の背中によじ登って跨り、雪輝の背中の毛並みを握って体を支えて、きゃっきゃと弾んだ声を零している。
 ひなもこれ位積極的に甘えてくれると嬉しいものだと、雪輝は背中に加わるわずかな重みを実感していた。初めて出会ったころに比べれば随分と素直に雪輝に甘えるようになったひなだが、雪輝としてはもっと積極的な触れあいを望んでいる様である。
 とても和やかな気持ちにはなったがこのままこの幻かなにかに捉われたままというわけにも行かない。雪輝は背中の幼子を落とさぬようにと気を配りながら立ちあがった。

「落ちないようにしっかりと捕まっていなさい」

「はい」

 まだまだ舌っ足らずな声で答える幼子に、雪輝は我知らず口元に穏やかな笑みを浮かべている。この屋敷の子供だろうと見当を着けて、雪輝は聴覚と嗅覚に神経を集中させる。
 どこまでも穏やかで優しい空気の流れる場所であったが、全く未知の場所である事と今の雪輝には自分自身と鬼無子と狗遠のそれぞれの事情を解決しなければならないと言う、差し迫った現実があり、あまりこの場に長い時間いるわけにはいかなかった。
 屋敷の縁側の方に向けて雪輝がゆるりと周囲への警戒を怠らずに進んでいると、丁度正面の障子が開き、背中に乗せている幼子よりも幾分か年上で、ひなとそう変わらない少女と子狼が三頭ほど顔を覗かせて、雪輝の姿を認めるや笑みを浮かべる。
 雪輝が生まれたての子供だったらこうだろう、という小さな子狼はそっくりそのまま小さくした白銀の子供、灰色の毛が首元や足の付け根に広がっている二色の子供、金色の毛並みが顔や背中に広がり、尻尾がことさらふんわりとしている子供の三頭である。
 その子狼三頭を連れているのは、栗色の髪の合間から先端だけ白銀色の毛が生えている狼の耳を覗かせた少女だ。濃紺の道着姿で左手には紫染めの鞘袋を手にしている。剣術を嗜む剣術少女なのだろう。
 雪輝の背の幼子とは違い道着から覗く手足は人間の者で狼の血がいくら薄いのであろう。だが仔細に観察すれば少女の体からは多くの妖魔の匂いが香っている。ちょうど、妖魔の血を疼かせている時の鬼無子に近い。
 この場所で目覚めてから出会う者全員が狼の血を引いていると分かる子供たちばかりである事に、雪輝はなにか意味があるのだろうかと知識はまるで足りないが回転は悪くない頭を悩ませる。
 雪輝が目の前の子どもたちにどう接するべきか迷っていると、たっと駆けだして縁側から降りた三頭の子狼達が雪輝の足元まで駆け寄って、しきりに雪輝の身体に自分達の体を擦りつけ、わふ、みゃん、と小さな声を上げて甘えてくる。
 獣の子供に甘えられると言うのは嶽を除けば初めての事であるから、雪輝は少々戸惑いながら、子狼達を踏み潰さないようにと注意を払いつつ、好きにさせた。
 そうしていると雪輝の背中の幼子が目の前の少女に朗らかに声をかける。

「ねえたまも、とおたまのおせなかにのりますか?」

 少女は愛する異母妹の提案に微笑を浮かべたまま首を横に振り、縁側に正座して鞘袋を左手側においてこちらを見下ろす雪輝の顔をまっすぐに見つめてこう言った。

「お父様、今日はお散歩ですか?」

「お父様?」

 首を傾げる雪輝に、少女は品の良い笑みを浮かべたまま言葉を重ねる。親の躾が良く行き届いている事が、見て取れる笑みと聞きとれる声音だった。

「はい、お父様。なにかおかしかったでしょうか」

「とおたまー?」

 ここにきてようやく雪輝の頭の中で背中の幼子の言う『とおたま』が『父様』と言っているのだ、という事に気付いた。となるとこの背中の幼子や足元の子狼達、目の前で正座し凛とした佇まいで雪輝を見つめている少女は揃って雪輝の子供という事になるらしい。
 なるほど、と雪輝は納得した。これは夢なのだと。
 それでも背中に感じられる幼子や足元の子狼達の存在を実感させる重さやぬくもり、匂いといったものは確たるものと雪輝には感じられていた。
 夢であると言うのならいつまでも見ていたいと願う様な心地の良い夢であったが、今の雪輝には現実を放棄して夢の世界に耽る事は許されなかった。
 雪輝は座したままの少女に笑いかけて言った。

「良い夢だな。とても」

 そこで目が醒めた。
 ぱちりと下ろしていた瞼を開き、雪輝はのそりと首を持ちあげて周囲を確認し、既に寝巻からいつもの野袴姿に着替え終えて腰帯に崩塵を佩いた鬼無子と、その鬼無子と睨み合いをしている狗遠の姿がある。
 朝から早々に剣呑な雰囲気を漂わせる一人と一頭であったが雪輝の起床に気付くと一時的に休戦協定を暗黙のうちに締結し、睨み合いを終了させる。

「おはよう、鬼無子、狗遠」

 普段の調子でのほほんと言う雪輝に、鬼無子は同じように挨拶を返し、狗遠は世の中面白くない事ばかりだと言わんばかりにそっぽを向く。雪輝はそんな狗遠の様子は気にせずに、夢の余韻に酔うかの様に機嫌が良かった。
 この世に産まれてから初めて見た雪輝の夢は、それが夢だと分かった時は言葉にし難い寂しさを残したが、それでも素晴らしいものだったと雪輝を喜ばせる夢だった。
 だから雪輝がこう口にするのもそう無理の無いことだったろう。それが及ぼす影響を雪輝がまるで考えていない事は、大きな問題ではあったが。

「ふむ、しかしあれだな。子供というのは良いものだな。私も欲しくなった」

 この言葉がはたしてどれほどの衝撃を鬼無子と狗遠に与えたものか。本心からそう望んでいるのだと分かる雪輝の台詞を理解した時、鬼無子と狗遠は全く心が通じ合っていないにもかかわらず、同時に雪輝へと視線を集中させる。
 視線の矢を浴びせられる形になった雪輝だが、上機嫌なこの狼は鼻歌でも歌いだしそうな様子である。ある意味幸せな脳味噌と神経の持ち主だ。

「ふん、なんだ、雪輝。私の話に乗るつもりになったのか。なら愚弟を始末したらさっそく子を作るか。今回の事で一族も随分と減っただろうから、何頭も産まねばならんな。望む所だがな」

 妙に力の籠った声で言う狗遠の尻尾は、その心情を表現するように左右にゆっくりと振られていた。
たいして鬼無子はと言えば狗遠に対して親の仇を見るかのような、気の小さい人間だったら卒倒して泡を吹くほどに怖い瞳で睨みつけてから、雪輝に言葉の真意を問いかける。
狗遠の誘いに乗るつもりになったと言われようものなら、鬼無子は自分がどんな反応をするが分かったものではなかったが、自分との間に子が欲しいと言われたら、という妄想が鬼無子の脳裏によぎらなかったと言えば嘘になる。

「雪輝殿、唐突にどうなされたのです。これまで子共が欲しいというような事は一度も口にされた事は無かったではありませぬか」

「うむ、別に狗遠の誘いに乗ると言うわけではなくてだな。つい今しがたまで私に子供が居る夢を見たもので、ついついそう言ってしまったのだよ。いや、目に入れても痛くないほど可愛い子供たちだったよ。夢でなければいいのにと思うほどにな」

 心の半分は安心し、もう半分は残念な思いで満たしながら、鬼無子は人騒がせなお方だと溜息を吐く。
狗遠はと言えば要らぬ期待を抱かされたことで、即座に不機嫌に変わっていたが、考えようによっては雪輝が子供を作ることを真剣に考える様になったのだから、そう悪い話ではないかと自分を宥めていた。
自分の言葉が一頭と一人をひどく動揺させたと知らぬ雪輝は、上機嫌な様子そのままに尻尾を左右に振っている。
妖哭山の状況や鬼無子の体の事、自身の精神の正体の事を忘れているのではないかと疑わせる様子の雪輝であるが、完全に気を緩ませているわけではないようでいつのまにか部屋の中に足を踏み入れていた天外の存在に気付いて、視線をそちらに向けている。
雪輝の視線に遅れる事半瞬ほどで、鬼無子と狗遠も天外の存在に気付く。この二頭と一人に気配を悟らせぬだけでも、この老仙人が常軌を逸した存在であることの証明といっていい。

「鬼無子ちゃんの処置の用意が出来た。ただ一度取りかかると半日は動けん。そしてもう一つ。お前さんを追ってきた外の人間が来ておる。わしが片づけても良いが鬼無子ちゃんの処置に手を取られるでな、雪輝よ、お前が始末せい」

「黄昏夕座か、正式に挨拶した事はまだなかったから、丁度良いか。後顧の憂いを断つのもな」

「雪輝殿、夕座との因縁はそれがしが自らの手で着けます。お手を煩わせるまでの事もありません!」

 夕座の危険性を理解しているが故に声を大にして雪輝を制止しようとする鬼無子に、雪輝はゆっくりと首を左右に振って拒絶の意思をあらわした。

「だめだ。鬼無子はこれ以上戦うな。天外の治療が終わるまでここで待っておれ。それとも私では夕座に勝てぬと言うつもりか? 私を信じよ」

「夕座めは恐るべき使い手です。それこそ純粋な技量ではそれがしの知る者の中でも一、二を争いましょう。剣術だけではないなにかをあやつは備えております。例え雪輝殿といえども……。正直に申し上げれば、その様にそれがしは考えてしまっているのです」

「鬼無子にそこまで言わせるとは敵ながら見事という他ないが、それでも私にとって夕座は花に集って腐らせる毒虫も同然。ここで命運を断っておきたい相手だ。鬼無子はここで待て」

 ほとんど初めて上の立場から断固と命じる雪輝の言葉に、鬼無子が怯む様子を見せると雪輝はそれ以上鬼無子が言葉を重ねる前にと、すぐに立ち上がり天外の背後の襖を開いて外へと出る。
 すれ違い際、雪輝は天外に短く呟いた。

「鬼無子を外に出すな。任せるぞ」

 いつも他者に対する皮肉やからかいを含んだ言葉ばかりを口にする天外も、この時ばかりは真摯な雪輝の声音に同じように答える。

「任せい。例え恨まれることになっても治療だけはしっかりとしてやる」

 雪輝に危険が及び鬼無子が治療中に飛び出そうとしても、無理にでも抑え込むと、天外は言っているのである。
雪輝の後に狗遠が続いて襖の向こうに消える背中に鬼無子が雪輝の名を呼ぶ声をかけたが、雪輝はそれに振りかえらずにそのまま部屋の外へと消えた。

「天外殿、それがしも外に参ります」

 天外の答えを待たずにすぐさま雪輝の後を追うべく動いた鬼無子が襖を開いた時、目の前にあったのはこの部屋に来る時に見た廊下ではなく、中央に寝台の置かれた石室であった。
 寝台の横に紫色の液体を入れた瓶が吊るされた棒がいくつか置かれていて、瓶の底からは透明な管が伸びている。石室の壁際にはいくつもの棚が置かれていて、そこには棒に吊られているのと同じような瓶や、乾燥させた植物の葉や茎、根っこが納められている。
 天外がこれまでたびたび見せた空間を操作し別の場所と場所を繋げる術、と悟った鬼無子は烈火の激情を湛える瞳で背後の天外を睨みつけたが、天外はまるで気にした風もなく石室の中へと歩を進めて寝台の横で止まる。

「雪輝の奴もあれで男じゃ。言い出したら聞かぬよ。あいつが死ぬか生きるかは実力と運次第。ここで雪輝の勝利を祈る事それだけが鬼無子ちゃんに許される事よ。わしは嘘をつくし情報を隠しもするが、雪輝の奴と交した約束は守る気でおるでな。鬼無子ちゃんの処置が済むまではここから出さぬ」

 雪輝同様に自分が何と言おうと、またどうしようとした所で譲る気は天外にないのだと悟り、鬼無子は雪輝に自分を信じろと言われた事と合わせて、無意識に崩塵の柄に添えていた手をそっと離した。
 事と次第によっては、鬼無子は天外に斬り掛っていただろう。鬼無子は自分がどう動こうともこの状況を変えられないと理性で感情を必死に宥めて、心中で吹き荒れる感情の嵐を沈めることに専念した。
 一度瞼を閉じて深く息を吸い、肺を一杯に膨らませた息をゆっくりと吐き、瞼を開いてから鬼無子は天外にこう言った。

「処置、ですか。天外殿、自分の体の事は自分が何よりも知っております。そして我が一族の歴史がこの身に流れる血が祓われる事の無い事を如実に語っております。雪輝殿に告げられたそれがしの肉体の妖魔化を防ぐと言う言葉、事実かもしれませぬがそれでもそれがしの寿命をわずかに伸ばすのが精一杯。それが真実では? 例えこれ以上の妖魔化が止まったとて、それがしの人間の肉体が妖魔の血肉が放つ毒素に耐えられませぬから」

 天外は、この老人には珍しく苦笑した。自身の力の不足を悔やむ様な笑いである。

「これだからお前さんがたはやり辛い。どいつもこいつも察しが良すぎるわい。わしにできるのは鬼無子ちゃんの残る半年の寿命を一年か二年に伸ばすことじゃ。要らぬ期待を抱かせたなら済まぬの」

 素直に謝意を示して頭を下げる天外に、鬼無子は首を振った。

「いいえ、残された時間が伸びるだけでもそれがしにはありがたき事でございます。ですが天外殿、出来うる限り早くその処置を終えて頂きたい。雪輝殿達の力にならなければなりませぬ」

「承知した。まずはこの寝台に横になるのじゃ。それから鬼無子ちゃんの体の中に霊血を入れる」

 崩塵を抜いて寝台に立てかけてから横になり、左腕の裾を捲った鬼無子が、血を入れると言う言葉に反応して、仰向けの体勢から天外の顔を見上げた。好色な糞爺といった天外の顔には、崇拝する神を前にした信者のように荘厳な色が浮かんでいる。

「血を入れるのですか?」

「そうじゃ。輸血というが、まだこの国には無い概念じゃな。血を穢れと考えるこの国ではもう数世紀は受け入れられぬものじゃろうが、これから鬼無子ちゃんに入れる霊血は穢れなんぞとは無縁の代物よ。大昔にこの星に降り立った神々の体に流れる神血を希釈し、神でない者の肉体に使えるように調整した代物よ」

 もっとも神々の本体はこの世界より高位の次元に存在しており、こちら側に降臨した神の肉体はあくまで仮初の器に過ぎない。仮にこの世界に降臨した神が討ち滅ぼされるような事があるとしても、それはいわば水面に映る姿を叩かれた様なもので神そのものにはなんら痛痒を与える事は無い。

「神の血肉はこの世界のあらゆる存在よりも優先される物質よ。それを体に入れるとなれば妖魔の血肉が真っ先に浄化される。人間の部分に影響が出ぬようにわしの方で希釈しておくが、一度始めれば処置が終わるまでは動けん」

「分かりました。一刻も早くお願いいたします」

 うむ、と頷いてから天外は寝台の傍らの棒に吊るされている瓶から管を取り出し、その先に備え付けられている針を、ぷつりと鬼無子の左腕に付き刺した。
 高貴なる者の色である紫の神の血が、透明な管を伝ってゆっくりと鬼無子の体へと流れて行った。



 雪輝と狗遠が襖を潜るとその先はすでに無常庵の外へと繋げられていた。天外が常に展開している妖魔除けの結界が今は解除されているようで、雪輝と狗遠の体に負荷が掛る事は無い。
 対岸がはるか遠い湖のほとりに立つ無常庵の周囲にも、妖哭山に立ちこめる濃厚な血と腐敗した肉の悪臭が漂っており、空気を吸った肺腑や鼻孔が赤く染まってしまいそうである。
 狗遠にとってはむしろ好ましい環境であるかもしれないが、もともと内側の環境に嫌気がさして離れた雪輝にとっては、すぐさま白銀の面貌を顰めざるを得ないものだ。

「狗遠、お前は手を出すなよ。夕座ばかりは私が直接手を下さねば気が済まん」

「ふん、あの毛無し猿が決着を着けていれば面倒なことにならなかったものを。あやつの尻拭いをするのがそんなに大切か?」

「ここで決着をつけねばいつまでも関わることになりそうな予感がする。お前は余計な横槍が入らぬように周囲への警戒を頼みたい。傷はもう癒えただろう?」

「私に命令をするな」

 そうは言いつつも雪輝と夕座が戦い始めたなら、雪輝に頼まれたとおりに他の妖魔達の介入がない様に行動する自分が、あまりに簡単に想像できて、狗遠は不愉快そうに鼻を一つ鳴らした。

「第一だな、あの爺のような奴は腹に一物二物抱えている者だ。あやつの言葉をどこまで信用できると言うのだ」

「半分といった所だな。あいつは自分でも言っていたが、嘘は言わぬが情報を隠して伝える事や、そもそも嘘しか口にしない時と言動の真偽を読む事が出来ん。だが鬼無子を任せると頼み込んだ時の、天外の眼は信じる事の出来るものだった。だから任せた」

「はっ、どこまでも甘い奴だ。それでよく今日まで生きてこられたな」

「なら私を番にするのは止めにするか? 私の様な甘っちょろい雄が番では、お前に要らぬ苦労をかけるだろう。ちょうど今のようにな」

「自覚があるのなら少しは慎む事を覚えろ」

「そう言いながら、お前は良く付き合ってくれるものだな」

「知るか。貴様といると調子が狂う」

 ある程度数が減った事で短期的な小康状態が生じたのか、比較的妖哭山内部での戦闘の騒音や気配が幾分か少なくなったようである。夕座という外部からの介入者との決着を着けるには、丁度良い機会であるかもしれない。
 庵を出てから血の匂いが濃すぎるほどに濃い風の中に混じる人間の臭いを、雪輝の鼻は敏感に嗅ぎ分けて、臓物や血肉のぶちまけられている森の中を迷うことなく進んでゆく。
 おそらくは夕座もどのようにしてかは分からぬが、雪輝の存在と接近を知覚しているのだろう。雪輝の嗅覚が嗅いだ臭いの源は動く事を止めている。
 現在の妖哭山の状況を考えれば不気味なことこの上ない事に、妖魔達からの襲撃は一切なく、肢を止めることなく雪輝は木々の開けた場所で夕座と対峙した。
 七勢力にこそ数えられぬが、強力な妖魔である熊の妖魔達の死骸が折り重なった山の上に腰かけた、人とは思えぬほど美しい魔性の剣士と。
 清澄な朝の陽光であるはずなのに、夕座に降り注ぐ陽光だけは腐臭を発しているかのように穢れてしまっていても、おかしくは無いだろう。
 纏う青い着流しに血の一点も着けることなく、そしてまた白磁の肌に傷一つ刻むことなく、片膝をついて死骸の山の上に腰かけていた夕座は気だるげな仕草で雪輝を見下ろした。
 見つめられた者が魂まで吸い取られそうなほど美しく、虚ろな瞳が白銀の獣を映して薄く細められる。それだけで老若を問わずに女なら頬を朱に染めるだろう。

「こうして対峙するのは初めての事か。四方木の姫はどうした。大狼よ」

「鬼無子の手を煩わせるまでもない。私を大狼と呼ぶ者よ。私はお前を生かしておくつもりはないのだ。貴様はここで死ね」

 雪輝が殺意を隠さずに告げた瞬間、雪輝の全身から妖気と殺気とが炎のごとく爆発させて噴出させる。それは雪輝の傍で肢を止めていた狗遠の全身を打ち、思わず狗遠がその場から後方へと跳躍してしまうほど、敵意と殺気に満ちていた。
 周囲に無差別に放たれる雪輝の妖気は、はるか地下で奇襲の機会を伺っていた蚯蚓や土竜といった地下に棲息する妖魔達をはるか遠方へと逃げださせていた。
 鬼無子に固執し鬼無子に妖魔化を強いた夕座を、雪輝は口にした通りに殺すと言う以外の選択肢を持っていなかった。雪輝が他者に対して抱いた殺意の強さという点において、おそらくは最も強いものだったろう。
 四肢を肩幅よりやや大きく広げて重心を落として瞬時に疾風へと加速する体勢を整える雪輝に、夕座がゆらりと死体の山から腰を上げて、右手に握っていた抜き身のままの妖刀紅蓮地獄の刀身が、妖しく輝く。
 熊の妖魔達を無数に斬り殺した後とは思えぬ、純銀の輝きを紅蓮地獄の刀身は纏っている。夕座の凍える様な剣気と紅蓮地獄の刀身から立ち上る強力な霊気は、雪輝の放つ強大な妖気と真っ向からぶつかり合い、拮抗状態を作り上げる。
 魔狼と魔剣士との対峙はどちらかの死という結末以外にはあり得ぬ死闘となることは自明の理であった。

<続>
頂いた感想への返信を送ればせながら。

>通りすがり様

はい。もともとこの山に住む妖魔たちの遺伝子というか霊魂のレベルで外に広がらないようプログラミングされているのですね。ただ外側に移り住んだ者達はその本能が希薄なので、主水のようになにかのきっかけで外に出ようとするものも居るのです。

>taisaさま

天外の面倒な所はその時々で嘘と本音を使い分けて、なおかつ意味のある嘘と意味のない嘘も平気で吐きまくる所ですね。真っ正直な雪輝にとって相性最悪の相手なのです。今回の事も果たしてどこまで天外が本当の事を口にしているのか、雪輝には正確なところが把握できていなかったりします。

>天船さま

いやあ、夕座も嫌われたものですね。鬼畜なので仕方ありませんが。とりあえず次回雪輝の頑張り次第でございますね。ちなみに狗遠は雪輝への愛の力で本能を抑え込んでいたりいなかったり。

>ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)
別板の方に力を入れていたら遅くなってしまいました。申し訳ございません。天外の立場ですがこれは結構複雑な設定だったりします。現在は雪輝が現在の意識を保っていられる間という条件付で味方をしていますが場合によっては途方もない強敵になる可能性があるのです。

ではではここまでお付き合い頂きありがとうございます。また次回もよろしくお願い致します。



[19828] その二十三 真実
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/06/20 12:56
その二十三 真実

 つい数日前までは妖哭山の内側の大部分は樹木それ自体が悪意を持って成長したかのように絡まり合い、緑の天蓋となって樹海を暗黒の中に沈めていたが、まるで天空の彼方から無数の隕石が飛来したかのように木々の絡み合った根からまるごと吹き飛ばされている。
 横倒しになった巨木や途方もない衝撃に吹き飛ばされた木々の破片が山のように積み重なり、その上に巻き上げられた土砂や汚泥のように粘ついた血潮が降り注いで、吐き気を催す色彩をぶちまけている。
 土砂や木々の下に、あるいはその上に無数の妖魔の死骸が散らばり、繰り広げられた激戦の凄まじさを暗に物語っている。
 そして恐るべきことに地形が大きく変化するほどの激闘を繰り広げているのは、たった二体の妖魔であった。それ以外の妖魔達の死骸は二体の妖魔の戦いに巻き込まれた不運な者達のなれの果てに過ぎないのだ。
 実に丸三日に及んだその激闘もいま、終わりを迎えていた。
 七色の色に輝く羽に包まれた翼は羽ばたく力を失い、無数の傷から溢れる自分自身の血に濡れている。
 翼の羽ばたき一つで小規模な砦など基礎から吹き飛んでしまうだろう、巨大な鷹である。
 だが千里の彼方まで見通す瞳から生命の光は失われて、だらしなく開かれた唇からは紫色の舌がだらりと零れ、傷つけられた臓腑から溢れた血潮が滝のように流れている。
 妖哭山の空の覇者として恐れられた妖鷹族の長、穿鷹(せんおう)だ。
 血に刻まれた本能の為に妖哭山の外に出る事は無かったが、もし自由に空を飛ぶ事が出来ていたならば、妖哭山の妖魔に共通する残虐性と旺盛な破壊と闘争への本能から、それこそ神夜国に悪名を響かせる大妖魔となっていただろう。
 しかしいまや穿鷹の首には深々と牙が突き立てられて、野太い首の骨はへし折られた為に絶命している。突き立てられた牙から流れ込む毒によって、穿鷹の体は内側から紫色に変色し始めており、強烈な悪臭を放っている。
 穿鷹の生命の灯を奪ったのは、これまた見上げるほど巨大な蛇であった。どれほどの激闘であったものか、左目は潰れて今も激しく血を垂れ流し、這いずり回るだけで街を一つ壊滅させてしまう巨大な蛇体の鱗はあちらこちらが剥がれ落ちている。
 雪輝が妖哭山最強と認め、相討ちに持ち込む事も難しいと断ずる蛇妖の長である紅牙だ。
 牛馬を十も二十も丸ごと飲み込めるほど巨大な自身の口の中で、ようやく命の火を消した妖鷹族の長に一瞥をくれてから、紅牙はその場に吐き捨てた。
 辺り一帯に響き渡る落下音を立て、下敷きになった妖魔の遺骸や木々を押しつぶしながら穿鷹は血飛沫を撒き散らし、大地にもう二度と羽ばたく事の無い翼を広げた。
 妖哭山で一、二を争う戦闘能力を保有する蛇妖族は、妖哭山全体に広がった狂的な殺戮の嵐の中にあって、その脅威の度合いから立て続けに多くの妖魔達から襲撃を受けており、紅牙の腹心をはじめ、一族の多くの者達が戦いの中で命を失っている。
 紅牙は既に死した同胞達に対してさしたる関心を示す事もなく、鎌首をもたげてある方向に残る右の眼を向けている。
 長、長、紅牙様と生き残りの蛇妖達が周囲に集まって、声なき声で紅牙に呼び掛けるが冷厳な蛇妖の長はそれらの声が届いていないのか、瞳をじぃっと向け続けている。
 その視線の先では妖哭山の外からやって来た魔性の剣士である黄昏夕座と、妖哭山で行われている果てしない実験の産物である雪輝とが、対峙しているのであった。
 紅牙は耳にするだけで股間が思わずいきり立つほど、妖艶に濡れた声で周囲の同胞に呼び掛ける。

「お前達、いよいよ時が来たようだ。皆、胎を据えよ。我ら一族、滅びるか否かの境目よ」

 そう告げる紅牙のたった一つとなった右の瞳には、この性情冷酷無残な雌蛇がおそらく生涯で初めて浮かべているだろう愁いの揺らぎが宿っていた。


 小山ほども折り重なっている熊の死骸から降り立ち、夕座は冬の空を冷たく斬り裂く三日月の様に美しい妖刀紅蓮地獄を右手に、古代から降り注ぐ月光を底に集めたかのごとく美しい狼の妖魔を前にしてあるか無きかの笑みをうっすらと浮かべている。
 太陽が地平線の彼方から姿を覗かせて、黄金の光が世界を照らし出している筈であるのに、夕座と雪輝が対峙する一角でばかりは黄昏の陰鬱な光の中に沈みこんでいるかのようであった。
 世界の様相さえ変えて見せるほどの美貌と雰囲気を纏う、一人の若者と一頭の狼が居る為に。
 雪輝から数歩下がった位置で肢を止めた狗遠は、骨の髄まで凍える様な剣気を放つ夕座を前に、心胆の奥深くを戦慄させていた。
 初見の時は夕座が率いて来た妖魔改の隊員達を相手に戦っていた為に、真っ向から夕座の気を浴びるのは今回が初めての事になるが、妖哭山の中で争ってきた妖魔達とは根源的な質の異なる気は、狗遠の本能に警鐘を鳴らさせるものだった。
 ひなを連れた鬼無子と凛が赴いた街で不運にも遭遇してしまったこの妖しいほどに美しい若者との因縁を、ここで明確に断つべく全身に殺気を滾らせる雪輝も狗遠同様に夕座の剣気を真っ向から浴びてはいたが、既に夕座を殺すと決めた雪輝にはさして感じ入る物もない。
 手強い、ただその一語が脳裏に浮かび、波間の泡玉のように弾けて消えただけである。
 雪輝の全身は既に天外の庵を出る前から妖気が漲り、戦闘態勢を整えている。千の刀槍や百の銃を相手にしても、何ら恐れる必要の無い強大な妖魔たる雪輝の放つ殺気を浴びる夕座は、まるで動じる様子もなく面白げに見つめ返している。
 初撃のきっかけを探る雪輝を前に、夕座は右手の紅蓮地獄の切っ先をゆらりゆらりと気まぐれに動かしながら、口を開いた。

「お主、大狼ではあるまい。以前に見たあの狼めよりもお主の方が放つ妖気が強い。あれの纏っていた凶相もない。大狼はどうした?」

 大狼との面識があると告げる夕座から、警戒の意識を外さずに雪輝は答えた。いちいち応じる辺り、律儀に過ぎる狼である。

「あれはとうの昔に私が滅ぼした。大狼なぞ痕跡一つ残っておらぬ」

「ほう。それは見事。となればお主は上級妖魔に相当するか。これでは私以外の者には任せられぬな。よいよい、鬼無子姫を我がものとする余興程度に考えておったが、どうしてどうして余興では済まぬ楽しみができたわ」

 心底楽しげに笑む夕座に、雪輝はこれ以上口を開かせる事さえも疎ましく、足場と下大地が砂塵となって砕けるほどの踏み込みで、夕座へと迫る。
 まさに大地に走る白銀の流星。
 緑と茶と赤とで彩られた大地の色彩を切り裂く白銀の光明は、夕座に触れる寸前で大きく弾かれて、苔むした古い大樹を幾本もへし折りながらようやく停止する。
 目にも止まらぬ雪輝の突進をより早い太刀の一振りで迎撃した夕座の技こそ凄まじい。
 夕座の白く艶めかしい喉笛に牙を突き立てんとした雪輝の首を、雪輝から見て左斜め下から切っ先を跳ねあげて迫る紅蓮地獄の切っ先を躱した雪輝は、首の左付け根のあたりをかすかに濡らす自身の血に、視線を送った。
 完全に切っ先は避けた筈だが、その切っ先から放たれる剣気と音の壁を越えたことで発生した真空による鎌鼬現象によって、厚さ一尺の鉄に等しい雪輝の体毛と妖気による防御圏が切り裂かれ、皮と肉を斬られたのだ。
 鬼無子の一刀と同等の斬撃である。雪輝の戦闘能力を支える強みの一つである防御は、夕座相手には通じない事はこれで証明されている。
 傷を負った箇所に妖気を多量に流し込み、一瞬で傷口を癒着させて止血を施す。傷自体は浅く戦闘行動に支障をきたすほどではない。

「気に入る入らぬは別として手強い敵である事ばかりは確かな事実か」

 ぐる、と血に狂った肉食獣そのものの唸り声を咽喉奥から零し、雪輝はゆったりとした動作でこちらを振り返る夕座の顔を真正面から見据える。雪輝と対する夕座の顔からは笑みが取り払われている。
 たった一度の交錯に過ぎなかったが、それだけでも夕座は雪輝の実力を正確に読み取り、常に浮かべていた笑みを潜めて紅蓮地獄に左手を添えてふらりふらりと歩を進める。
 赤ら顔の酔漢の足取りの様に頼りなく見えるそれも、重心を定めず如何なる動きにも対応する為の独特の歩方であり、剣の道を何十年もかけて歩き続けた者でもそうは身に着かない。
 およそ武術や兵法と名の付くものにはとんと縁の無い獣である雪輝には、夕座の剣士としての技量のほどは正確に見極められるものではなかったが、警戒に警戒を重ねるべきと判断は着いた。
 もっとも警戒を重ねる事と攻勢に出る事を躊躇するのは全く別の話。雪輝は自分が激突したことでへし折れた大樹を足場に、再び夕座めがけて四肢を躍動させる。
 常人の眼には映らぬ速さで雪輝は夕座との十間の距離を零にすべく走り、小刻みに左右へと動き、急停止と急加速を織り交ぜて無数の雪輝の残像が夕座の前方に現れては消えてゆく。
 夕座相手にはさほど効果は無いだろうと雪輝自身考えてはいたが、何もせずに正面から突貫するよりはましと割り切っていた。
 数えても数え切れぬほど現れる残像に紛れる雪輝の狙いは、夕座の後方からの延髄を狙っての噛みつき。一噛みで人間の首を骨ごと噛み千切る咬筋力と牙の鋭さを有している事は、改めて語るまでもないだろう。
 例え牙が届かずとも雪輝の身体に触れるだけで木の葉のように夕座の体は舞い飛び、樹木か地面に激突して全身の骨を粉砕する。
 夕座の真正面から夕座を中心に半円を描いて背後へと風を切りながら疾駆し、雪輝は青い瞳の中に夕座の背後を捉えて飛びかかった。
 案の定、というべきか夕座の背まであと二間という所で雪輝の眉間めがけて夕座の左脇を通して紅蓮地獄の切っ先が、銀閃鋭く突き出されていた。雪輝の肢は止まらず、また止められない距離と勢いであった。
 わずかに体を左に傾けて切っ先を避けた雪輝は、紅蓮地獄の刃に数本の体毛を切り散らされながら、かまわずそのまま夕座の背へと猛獣の恐ろしさそのままに最後の一歩を踏みこんだ。
 牙が届かねば両前肢に二振りで夕座の頭蓋を、骨片混じりのひき肉に変える心算の雪輝に対し、夕座は左脇を通して紅蓮地獄を突きだす動きに連動して体を左旋回させて雪輝と真正面から相対し、そのまま膝を折って身を低く沈める。
 雪輝の牙はがちんと激しい音を立てて空を噛んで火花を散らし、視界から下方へと沈みこむ夕座を追って跳躍中の雪輝は、横に伸びた体を丸めて両前肢の爪を限界まで伸ばした状態で背の見える夕座へと振り下ろす。
 夕座の体を上下に別つ両前肢の一撃を、夕座は足を滑らせたように思いきり低く身を沈めた姿勢から左方向へと大きく飛んだ。
 雪輝の両前肢は夕座の残像を貫いて地面に大きくめり込み、それを利用して雪輝はめりこんだ前肢を支点にその場で方向転換を行い、横に逃げた夕座を再び視界正面に捉える。
 肢を蹴ったのは奇しくも雪輝、夕座共に同時であった。右手一本に握った紅蓮地獄の横薙ぎの一閃が、雪輝が跳躍を挫く絶妙な間で襲い掛かり、咄嗟に四肢を突っ張って前進を止める雪輝の左頬に短い一文字の斬痕を刻む。
 のみならず雪輝の首を落とし損ねた右から左への一刀は、飛燕のごとく切っ先を返して雪輝の右頸部を狙って二文字めを刻まんと動いている。
 これに雪輝は右前肢に多量の妖気の膜を積層させて振るい、紅蓮地獄の刃と打ち合って巨大な鉄塊が激突した様な轟音を立ててお互いを弾きあう。
 紅蓮地獄を弾く雪輝の巨躯に相応しい剛力に体勢を崩す夕座の腹めがけて、雪輝は急停止させた肢を動かし、牙を唸らせた。
 青い着流しの布地に真珠色の牙の先端が触れ、そのまま夕座の白蝋のごとき肌を突き破らんとした雪輝の牙は、右の頬桁を思いきり打ち据えてきた夕座の左膝に逸らされて、着流しの一部を裂くに留まる。
 夕座の左膝蹴りの勢いをそのままに雪輝はその場から飛んで夕座と距離を取り、青眼に構えた夕座と相対する。
 雪輝が背後を取ってから一連の攻防に要した時間は一秒か二秒にも満たないだろう。神経を限界まで研ぎ澄まし集中の限りをつくした攻防は、雪輝と夕座の主観においてはるかに時間的感覚が延長されていた。
 青眼に構えた夕座との相対状態は、しかしわずかも維持される事は無かった。青眼の構えを崩すことなく下半身の動きだけで、雪輝との距離を詰める奇妙な走法で夕座が迫り雪輝もまた迎える為に動いた。
 夕座の圧力の凄まじさが成せる業か、雪輝の視界の中で縦に構えられた紅蓮地獄の刃が、雪輝の視界を埋め尽くして夕座の姿を隠す。
 目晦ましか幻か、と雪輝の思考の一部が囁く間こそあれど、雪輝の視界を埋め尽くしていた銀刃が、吸い込まれる様にして雪輝の眉間へすいと伸びる。
 暖簾を推す様な力みの無い極自然な動きのようで、刃を突きだす予備動作の一切を雪輝は知覚する事が出来なかった。故に、突き出された刃を左に躱せたのは、ひとえに雪輝の反射神経と反応速度の賜物と言えた。
 夕座の背丈とそう変わらない巨体の雪輝がそれでも重心を低く抑えて、紅蓮地獄を握る夕座の右手を噛み潰しに掛る。首か胴に牙を突き立てて命を断つことよりも夕座の戦闘能力を削ぐべく方針を変えて挑んだ。


 天外に用意された石室の中の寝台に横たわったまま、鬼無子は意識を明瞭と保ったまま自分の体の中に透明な管を伝って入ってくる、神の血だという紫色の液体を一瞥してから天外の顔を瞳に映す。
 皺を寄せ集めて作った様な老人の顔には先ほどから謹厳な趣が浮かんでおり、少なくともその表情を見る限りにおいては鬼無子の治療を真摯に行っていると信じる事が出来た。
 輸血という耳に馴染みの無い行為を受けてからどれだけ時間が経ったのか、意識は明瞭としていると言うのにそればかりは分からず、雪輝はどうなったかとずっと考え続けていた鬼無子は、それを天外に問う事にした。
 正直に答えが得られるかは甚だ疑わしかったが、それでもこの老人に頼る以外の術を持たぬ事を、鬼無子は歯がゆい気持ちと共に理解していた。
 妖魔の血を妖しく疼かせた影響であるのか、ひと際赤みを増して艶めかしさを増す唇を動かして、短い言葉を紡ぐ。

「天外殿、外の様子を知る術はございませぬか」

 それまで鬼無子の体に流し込む血の量を、砂粒一粒一粒をつまんで城を築くような繊細さで注視して調整していた天外は、ちょうど調整作業が終わった事にわずかに相好を崩して、鬼無子の願いに応じるべく懐に手を突っ込んで小さな銅鏡を取り出す。
 ひなに与えた品と良く似たものである。遠距離間での映像と音声のやり取りを可能とする不可思議な鏡だ。おそらくこれに雪輝達の様子を映し出すものなのだろう。
 寝そべった体勢から上半身を起こそうとする鬼無子を天外は手で制し、小洒落た仕草で左手の親指と中指で小気味よい音を一つ立てると、鬼無子が背中を預ける寝台それ自体が置き上がり、鬼無子に一番負担をかけない角度で停止する。
 天外の気遣いに、鬼無子は小さく黙礼した。

「いまぁ、雪輝と黄昏夕座が殺し合いを始めて半刻(一時間)といったところだの」

 天井から見えない糸で吊るされていたのか、銅鏡は天外の手からふわりと浮きあがって離れるや、鬼無子の目の前までひとりでに動いて止まる。術の発動そのものがまるで知覚できぬ事に、鬼無子は微量の情けなさを交えた苦笑を浮かべた。
 仮に鬼無子が天外と敵対したなら、天外の仕掛ける術の類を発動前に察知する事は出来ず、一方的に追いつめられるだろうとはっきりと理解させられた事と、仮にも自分を治療してくれている恩人との戦いを想定した自分への嫌悪が浮かべさせた苦笑である。
 浮かべた苦笑を一瞬でひっこめ、瞳を細めて銅鏡の映し出す光景を見る。雪輝と夕座の直上から俯瞰する視点から、戦闘の様相を伺い知ることが来た。
 雪輝に同行した狗遠は手出しを禁じられているのか、その姿が映る事は無く銅鏡の鏡面に白銀の影と青い影とが時折交錯し、一瞬の間に無数の攻防が煌めいては消え、その都度巨木の根が絡み合った凹凸状の足場や灌木、乾いた血のこびり付いた巨岩が切り裂かれ、砕け散り、目に見えない衝撃の波が周囲の霊的存在を圧倒している。
 鏡越しに映し出された光景からそれだけの事を鬼無子の瞳と直感は見抜き、雪輝と夕座の戦いが互角の様相を呈していると結論した。
 全力を出した雪輝の瞬間的な最高速度は音の壁を容易く超える領域にある。その速度で雪輝の巨体が押しのける大気は剛腕を持って振るわれる鉄槌に等しく、さらに雪輝の妖気が混入することで破壊力を劇的に増している。
 雪輝に触れずとも雪輝の体が押しのけた大気に触れるだけで並大抵の妖魔など致命傷を負うが、その殺戮の風と雪輝の牙と爪を夕座は妖刀一振りを片手に凌ぎ切り、速度ではわずかに劣るも神業と、いや魔性の技と畏怖するほかない刀の冴えで反撃の刃を繰り出している。
 鬼無子はふと、この普段の態度からはまるで察せられないが、偉大な知慧を秘めているやもしれぬ老人ならば、自分の疑問の答えを全て知っているのではないかと問いかける。

「天外殿、あの黄昏夕座というもの。あれの正体を御存じなのではないですか。天外殿はこの山の事ならずこの世の闇と影の中に埋もれた知識にも通じておられる様子」

 いつの間にかどこからか取り出した樽椅子を鬼無子の寝台の左横に起き、座布団を敷いたその上に腰かけていた天外は、鬼無子の問いかけと深く艶のある闇の色をした鬼無子の瞳を見つめ返し、含む者のある笑みを浮かべた。
 雪輝が見たら、またなにか騙されるのではないだろうかと警戒するに違いない曲者の笑みである。

「そうさなあ、この神夜の国は北を源義経の源氏が、南は卑弥呼の起こした邪馬台国が支配しておった。そしてこの島国のちょうど臍のあたりは小国が乱立し、それを二百と数十年前に異世界から連れて来られた織田信長が制圧、その勢いのままに一度神夜全土が統一された事は、語るまでもないわな」

「それはそうですが、なぜその様なお話を?」

 天外の語った極めて簡略的なこの国の歴史は鬼無子ならずとも寺子屋に通う子供なら、知っている程度の極々基礎的な知識である。かつて織田に屈服させられた邪馬台国が母体となった大和朝廷に産まれ育った鬼無子にとっては、聞かされて楽しい話ではない。

「ではその織田家の四代目の事は知っておるかな?」

「……詳しくは存じませぬ。ただ、歴史にその名を残す事も憚られるほどの狂人であったと聞いております。知勇を兼ね備え、先見の明に富み、政略と謀略にも長け、希代の名君たる素質を兼ね備えながらも、八徳を母の腹の中に置き忘れて産まれ、血を見ることに喜びを覚える陰惨無比な性であったと」

 四代目織田家当主織田信風。織田家が神夜国全土を支配下に置いていた最後の代の当主にあたる。
あらゆる方面に傑出した才能を持ち、類稀なるそれらの才能をいかんなく発揮して隷属する者達に繁栄を享受させる一方で、日に最低でも一人は殺さずにはいられないと言うおぞましい性癖を、わずか齢九つの頃から露わにした、その存在を記録に残す事も憚られた狂君。
女中や小姓、臣下からその家族、領民と相手を選ばずに自ら振るう刀で切り刻み、突き出す槍で刺し殺し、引き絞った弓弦から放たれた矢で逃げ出す哀れな犠牲者の背中や後頭部を射ぬき、その手に掛けた者達の血を体に塗りたくって悦に浸っていたと言う。
時には妊婦の腹を裂いて赤子の性別を当てる賭け事をし、凶行の対象は人間のみならず野の獣や妖魔にも至り、妖魔を八つ裂きにした快感と興奮のままにまだ息のある妖魔の腹に手を突っ込み、腸を引きずり出してそれを喰らうなど、常軌を逸した言動を繰り返した。
でありながら君主としては領地経営、軍事、政務、外交とあらゆる面において神夜の歴史を紐解いても片手の指にも満たないほど極めて優れた能力を見せ、永らく臣下達の反発を抑え込んでもいた。
しかしそれも遂には限界を迎え、自らの褥の中で殺したばかりの女中のまだ暖かい死体を犯している所を襲われて、武装した兵三百二十四名、術師五十七名を斬り殺した末に、遂には首を断たれて葬られたという。
一説には四代目が手に掛けた人間や妖魔、動物の死体を積み重ねれば比喩ではなく一つの山が築き上げられ、流された血は川を赤く染めて海にまで届いたという。

「なぜ百年以上も昔に死んだ男の話に?」

「その四代目こそが、あの黄昏夕座の正体に他ならぬからよ」

 天外の言葉の意味を理解した鬼無子は愕然とした表情を浮かべ、次いで細めた瞳に銅鏡の中に移る夕座の横顔を映した。陽光も月光に変えてしまいそうなほど青白く美しい横顔には、無垢な童のような笑みが浮かんでいる。
 持てる全力の力を出し切っての殺し合いが心底楽しいに違いない。
 凄艶な笑みを浮かべる夕座の顔を見ながら、鬼無子は天外の言葉が事実であるのなら、それを可能とする外道の術を思い浮かべて口に乗せる。
 絞り出された鬼無子の事は、それでも風に揺れる風鈴の様に美しいのに、隠し得ぬ畏怖と嫌悪の響きを孕んでいた。

「死人をこの世に呼び戻す術となれば……反魂の法。しかしあれは、これまで成功した事の無い外法のはず」

 反魂の法。それを生み出したのが誰であるのか、それは分からぬが死後の魂の管理を司る冥府の神や、高位の神を除けば決して行なう事の叶わない、失われた生命の復活を人間の手によって成さんとした最高位の術であり、同時に決して成されてはならぬ術である。
 過去、数え切れぬ名もなき術者達が試みてはその都度失敗して、世界の法則に挑んだ代償を支払い、その悲惨極まりない結末が後の者達に対する訓戒となった禁忌。

「反魂の法というてもばらばらの死骸を集めた死体に新たに魂を宿すものと、本人の死体に失われた魂を呼び戻し、生者にするものとがあるが、四代目に施されたのはそれらの折衷案と言った所じゃったかのう。
 織田家の四代目はの、その性邪悪極まりなかったが、その邪悪さゆえに魂の強さも人並ならぬ凄まじさを誇り、それを惜しんだ事と怨霊となった四代目に復讐される事を嫌った反逆者達が変則的な反魂の法を施したのじゃ。
 おまけにただ蘇らせるだけではない。夕座と今は名乗っておる四代目の死体に国中の妖魔の死骸や呪詛や怨恨の類をありったけぶち込み、対人対妖魔戦闘用の兵器に生まれ変わらせたんじゃな。ちょうど鬼無子ちゃんや百方木家の様な形での」

 たぶんに毒を含む天外の言葉であったが、鬼無子自身妖魔の血肉を代々受け入れて来た自身の一族に対し、人間とは呼べないのではないか、これではただの戦いの道具ではないか、と思う所があった為言い返しはせずに苦く口を噤むだけに留めた。

「もちろん反旗を翻して逆らわぬように服従の術を施したのは言うまでは無いわな。老いる事は無く病に倒れることもなく、人間の限界を越えた能力、生前から持っていた天与の剣才、死後に施された術によってより強化された強大な魂、冥府より呼び戻された異形の精神、異世界から招かれた英傑の血統、それらが合わされた結果、百方木や四方木の歴史にも匹敵する怪物が生まれたわけよ」

「その様な外法が行われた事を察知できなかったとは」

「南方生まれの鬼無子ちゃんにとっては、ある意味、夕座に感謝しなければならんかもしれんぞ。織田家当主であったあやつを暗殺するのに手古摺ったせいで、当時の織田家の重臣たちが何人か殺され、事態を収拾するのに膨大な時間を費やした事で織田家の支配は揺らぎ、源氏と大和に反旗を翻す隙を与えたのじゃからな。
もっともその後で支配力低下を危惧した織田の連中が自ら手に掛けた四代目を黄昏夕座として蘇らせる一因にもなったのじゃから、皮肉なもんよなあ」

 天外の言う事を全て信じてはならないと雪輝から前もって聞かされていたが、この時皮肉と揶揄を交えながら語る天外の声音に、偽りの響きは無しと感じた鬼無子は天外の語る内容に十中八九虚偽は無いと判断していた。
 だが天外の言葉を事実と考えれば、夕座の妖魔改に対する影響力なども納得が行く。弑逆の果てに刃の露と消えたとはいえかつては織田家を支配していた当主であり、その凶行の凄まじさで知られた相手となれば、例え術によって逆らう事は無いとしていても、そうそう夕座の意に反する事は出来ないだろう。

「しかし、天外殿、どのようにしてそれほど詳しい事を調べ上げたのです? 我ら討魔省でさえ掴めなかった秘事の筈」

「なあに、そこは仙人らしくな。千里眼と順風耳、さらに髪の毛の千分の一ほどの大きさのからくりをこの世のあちこちにばら撒いておってな、そいつらが情報をわしの元へと運んでくれるのよ。それにはるか天上にもわしの眼を配しておる。おおよそこの世の事でわしの目に着かぬ事はない」

「……」

 千里眼と順風耳については仙人などが備える特殊な力として知識にあった鬼無子であるが、その後の髪の毛の千分の一という目にも映らぬだろう極小のからくりや天上に配した天外の眼、となるとこれは何を指しているのかさっぱり分からず、何も言えずに再び鏡の映し出す戦いの光景へと瞳を映した。
 天外は山羊の様に顎から伸びる白髭を左手でしごきながら、苦渋に歪む鬼無子の横顔を一瞥してから、鏡に映し出された夕座と雪輝の戦いを見つめる。
 まるで牢獄の様に巨木が立ち並ぶ緑と赤の斑模様の木々の中を、疾風のごとき高速で大地を駆けながら雪輝と夕座は飽きることなく何度も激突を繰り返し、その余波が周囲の地面と木々を粉砕し、闘争の痕跡を無数に残している。
 雪輝は天外の庵で一晩休んだ事によって完全に回復した妖気を出し惜しみすることなく使い、凹凸の激しい地面から直径が十尺はあろうかという巨大な氷の槍が、夕座の体を串刺しにするべく次々と伸び、天へと向かって屹立する氷の槍を夕座は風に舞う蝶のように軽やかに避けていた。
 氷槍から立ち上る白い冷気が肌をくすぐるほどの近距離で回避しながら、時に夕座は回避の間に合わぬ距離や死角から襲い来る氷槍を、紅蓮地獄を無造作に振るって氷槍の先端部を切り飛ばし、時には足場代わりに蹴り飛ばして雪輝を追う動きを見せる。
 百人千人を貫き殺すほど大規模に展開された氷の槍を無傷のままにくぐり抜けた夕座が、徐々に雪輝との距離を詰めるその先で、氷結から炎熱へと攻撃方法を転じた雪輝の意思によって、夕座の美貌を正面から竜の顎と化した紅蓮の炎が襲い掛かる。
 肉体の深部、おそらくは骨に至るまで瞬時に炭化させる大熱量の炎は、夕座の全身を飲み込むその瞬間に二つに分かれ、夕座の後方に広がる木々を灰燼に帰してゆく。
 あろうことか夕座は術を用いるのではなく盾に構えた紅蓮地獄の刃を持って、襲い来る炎をまるで生ける生物のごとく縦に割り、自身には火の粉一つ届かせることなく炎の中を進んでゆく。
 鬼無子をして同じ芸当ができるかと問われれば、苦い声を零すことしかできない神がかった技の冴えである。立て続けに放った氷結と炎熱の二連撃を凌がれた事に、雪輝は白銀の毛皮に包まれた顔に、わずかな焦りと大きな驚きを浮かべる。
 雪輝と夕座の戦いの天秤を動かす切っ掛けは、まだ訪れてはいない様である。だが、天外は気付いていた。
夕座の底知れぬ魔性の剣技に鬼無子が目を奪われる一方で、戦闘開始時と比べてわずかずつではあるが、雪輝の身体能力が増している事、そしてこれほど連続して妖気による熱量操作を繰り出しながら、雪輝の妖気がいまだ底を晒さずにいる事を。
天外はほんのわずかに悪戯心を動かして、本来なら話すつもりではなかったある事を鬼無子に聞かせることにした。

「ところで鬼無子ちゃんや」

「なんでございましょう」

 雪輝と夕座の殺意を欠片も隠そうとしない、死力を尽くし戦いに意識を奪われている鬼無子の返事は、いささか気の抜けたものであったが、続く天外の言葉はそんな鬼無子の意識を天外に振り向かせるに足るものであった。

「雪輝の中身だがな、詳細な事までは分からぬし証拠もないが、大雑把な正体ならばわし、見当がついておるのよ」

「なればなぜそれを雪輝殿に黙っておられたのです」

 天外に敵意を含む寸前の険しい視線を向けて、鬼無子は硬い声音で問いかけた。一時とはいえ夕座と雪輝の死闘から目を離させるだけの衝撃が、天外の言葉にはあったのだ。

「話しても自覚が伴わなければ意味がなく、また確証はないのでな。下手な期待や思い込みを与えるのも良くは無かろうと配慮したからだの。雪輝の肉体に納められておるのは、おそらく神以外には干渉できぬ外の世界から連れて来られた魂じゃろう」

「外の世界、でございますか?」

 天外が雪輝とひなに伝えたこの世界が神々の遊戯場に過ぎず、閉ざされた世界である、という事実は、鬼無子をしても知識の外にあるこの世の秘事であり、外の世界という天外の言い回しに鬼無子はいまひとつ腑に落ちない様子である。
 そんな鬼無子に構わず天外は鏡に映る、戦闘中の雪輝の姿を見つめながら世間話の延長の様に話を続ける。

「うむ。この世の森羅万象は神が造った。しかしながら神の手に依らぬ自然に生まれた世界が、この世の外には無数に広がっておる。越界者という言葉くらいは耳にした事があろう? 
彼ないし彼女らはすべからくこの世以外の世界から来た者達じゃ。源義経しかり織田信長しかり卑弥呼しかり、神の意思と手によってこの世界に連れて来られた者達は、大概が世の歴史というものに深く関わる事が多い。
 というのも異界の者達が連れ込まれるのは世界の変化を神が望んでおる場合が多いからじゃ。現状の秩序や混乱を変えうるものとして異界の者達が連れて来られ、時には異能の力を与えられる。
 神が整えた妖哭山という環境と繰り返される実験の果てに産まれた狼の妖魔という器。そこに納められるは異界の魂。そしてなぜ納められるが神の造り出した人形ではなく、異界の魂である理由は何か」

 天外の言葉を、鬼無子はわずかも聞き逃すまいと息を呑む事さえ忘れて待つ。

「この世のあらゆる生命にはいくつかの定めが神により刻まれておる。ひとつは必ず死を迎える有限の定め。ふたつは決して神を倒せぬと言う定め。過去を振り返れば神を打倒した英雄も居ないではない。じゃがそれは、別の神がその神を人間に倒させたい時のみに限る。ようするに神の意思と介入無くして人間が神を打倒する事は叶わんという事じゃ」

 ここまで語り、天外は試す様に鬼無子の顔を見る。神を打倒とは言うものの、実際にこの世に顕現する神は、高位次元に存在する神の本体の影の様なもので、この世の存在でも干渉できるように劣化させたものだ。
 仮にこの世界で神を打倒したとしても、高位次元に座する神の本体にはなんら痛痒を与える事は出来ない。それは例えば水面に映る自分や地に落とされた影を幾ら叩こうとも、自分自身にはなんら痛みがないのと同じようなことだ。
 そう、この世界では人間に限らず、妖魔も、霊獣も、植物も、獣も、鳥も、魚も、あらゆる生命が神に反旗を翻したとても、真に打倒する事は叶わないのだ。
 天外の言葉に含まれていた真意に気付いた鬼無子は、これまで考えもしなかった恐れ多い事に気付き、かすかに震える声で天外に問いかけた。なぜか、その答えを聞いてはいけない様な気がした。

「この世の人間では神を打倒する事は出来ない。ならばこの世の人間でなければ、打倒できると言う事を意味しているのですか。……神を」

「くく、そう言う事よ。神に造られたのではない異界に産まれた者ならば、神の定めに縛られずに牙を剥く事が出来る。これまた推論で根拠薄弱じゃが、おそらく妖哭山を造った神は、他の神を倒せる駒を造ろうとしたのじゃろう。
己が意のままに動く最強の妖魔の肉体と異界の魂を併せ持った神をも倒せる駒をの。そうしてその駒を解き放ち、この世に混乱を齎し神々の代理戦争を起こそうとしたのかもしれん。あるいは単に暇つぶしの為に、世の中が騒ぎ立つような強大な力を持った存在を造り、この世の秩序を崩そうとしたのかもしれんがの」

「では今の雪輝殿の精神は、その異界の存在のものであると天外殿は考えていらっしゃるのですね」

「そうじゃ。おそらく器に封入された段階で異界の魂の精神は強制的に眠らされ、神の与えた命令に従う様にされておったのが、わしとの戦いで不具合が生じ、神の呪縛が解けて本来の異界の魂の精神が目覚めたとわしは睨んでおる。
ただ記憶は失ってしまったようだがの。雪輝の奴、時々妙に小賢しい事を口にしたり、常識から外れた振る舞いをするじゃろう? 
それは雪輝が産まれた本来の世界での知識や常識を、いくらかは憶えておるからなのじゃろう。精神と知識や行動が吊り合っておらぬちぐはぐなあいつの言動も、そう考えれば多少は辻褄が合う」

「では本来の雪輝殿はいったいどのような方、いえ存在だったのでしょう。この世の外に広がる異界のモノ。朝廷の始祖である卑弥呼女王が異界より降臨した方である事は、存じておりましたが実際に異界に由来する存在を目にするのは初めてのこと故、恥ずかしながら想像もつきませぬ」

 再び遠方を映しだす鏡に戻した鬼無子の視線の先では、夕座の左肩の肉をわずかばかり食い千切り、口腔の夕座の肉を吐き出す雪輝と、間を置かぬ反撃の一手で雪輝の左後肢の付け根に右八双から振り下ろした刃を斬りつける夕座の姿が映る。
 雪輝と夕座それぞれの与えた傷から溢れる血潮で、白銀の体毛と青白い肌を双方共に赤に染めながら、妖魔と死人の戦いはより一層苛烈さを増してゆく。
 自分とは違う世界から連れて来られたと聞かされて尚、鬼無子の雪輝を見つめる瞳には思慕と慈しみの光が、変わらぬ強い輝きで宿っている。
この世の闇に蔓延る妖魔と欲望に塗れた外道との戦いしか知らなかった少女の胸に宿った初めての恋の炎は、そうやすやすと消える事は無いようだった。
雪輝の奴には勿体無い良い女だのう、と天外は心中で一つ吐き捨ててから言葉を繋いだ。

「さてな。そこまではわしにも分からぬ。ただ人間に近い精神構造の持ち主ではあるじゃろう。それに人間の外見に対して忌避感や嫌悪感を抱いておらぬ様子であるから、本来のあいつの肉体も人間に近しい外見をしておったのじゃろう。ただ狼の肉体を持っておる事に違和感を覚えておらんようじゃし、これはちと自信がない」

「雪輝殿……」

「恋する女の顔じゃのう。雪輝の奴、全く奇妙な縁を持っておる様だの。さてそろそろ動くの。雪輝の精神がようやく体に馴染み始めよったわ」

 天外の言葉に疑問符を投げかけるよりも早く、鬼無子は天外の言わんとしている事を朧気ながらに理解した。鏡に映し出される雪輝の動きが、徐々に、徐々に、それでもはっきりと分かるほど速さを、鋭さを増している。
 いやそれだけではない。純粋な動きの速さ以外にも鏡越しにも頬を打たれる錯覚を覚えるほどに、雪輝の全身が放つ妖気がその力強さと質を増しているのだ。
 天外の言う言葉が事実であるのならば、本来封じられ続ける筈だった雪輝の精神が目覚めた事によって、雪輝の肉体と精神の間に齟齬が生じ、十全に肉体の能力を引き出せずにいたのだろう。
 しかしそれが今、黄昏夕座というかつてない強敵を前にして精神と肉体が馴染み始めた事によって、本来の能力を発揮しつつあると言う事か。
 祈る様に切実な瞳で鏡の向こうの雪輝を見つめる鬼無子に、天外はもう一つの隠しごとは告げずにおく事を決めた。
 妖哭山の内側から離れて外側で暮らし始めてから、生命の危機に陥った経験がなく窮地に追い込まれなかった為に、雪輝の肉体と精神が同調する切っ掛けはこれまで存在しなかった。
 しかしそれも同族内での権力闘争に敗れた白猿王一派が外側に追いやられた事で雪輝は、真にその生命を追いこまれ、さらに続く怨霊との戦いでも死の淵に瀕した事でその持てる潜在能力を萌芽させる切っ掛けを得ることになった。
 短期間のうちに連続して生命の危機を経験したことによって、雪輝という器の完成度が増し、最終試験として予め規定されていた妖哭山内側に棲息する妖魔全種族による見境なき殺し合いが始まったのである。
 白猿王との死闘が切っ掛けになったというのなら、その死闘に至る前にも雪輝の未来に変化を齎したある切っ掛けが存在していた事を、天外は忘れてはいなかった。
 あの日、一人のちっぽけな少女が贄として奉げられ、それを哀れんだまだ名前を持たなかった頃の雪輝が引き取り、共に暮らし始めた事によって、雪輝の精神はようやく覚醒し始めたのだ。
 ひなが贄に捧げられたと聞いた鬼無子が妖哭山に足を踏み入れた事で、雪輝とひな達と出会ったが、もしひなが贄として奉げられず雪輝と出会う事がないままであったなら、鬼無子との出会いは無かったかもしれない。
 そうなっていたなら、白猿王一派やその後の怨霊達との戦いの結末も、また違ったものとなっていただろう。
 そして、あのひなという哀れでちっぽけな、そして愛らしい少女もおそらくは……。


 交差した瞬間、右の首の付け根に走った灼熱を知覚した瞬間、雪輝はそこに妖気を注ぎ込み、すぐさま止血と傷口の癒着を施す。
 崩塵にも匹敵する高い霊的殺傷能力を有する紅蓮地獄の刃と夕座の技量が合わさった一太刀は、本来瞬時に癒える筈の傷の再生を妨害し、血が滲み続けている。
 戦闘開始から一刻近くが経過し、森と言わず岩場と言わず川と言わず、戦場を変える度に周囲の環境の外観を大きく破壊している。
 雪輝と夕座は深い亀裂の刻まれた崖に面した広場で対峙していた。崖の下を除きこめば突き出した岩塊に衝突して白い飛沫を上げる激流が見え、さらにどれほどの深さがあるのかまるで分らぬ激流の底に、時折妖しく仄光る無数の光や、途方もなく巨大な影が見えたことだろう。
 雪輝と夕座が飛びだしてきた森は輪切りにされた大木や、粉砕された岩の破片が散らばって、ほんの少し前までの光景を、面影ほどにしか残していない。
 ゆっくりと中天を目指す太陽の光が差し込んで、黄金の祝福が体の大部分を朱に染める雪輝と、あちこちの布地が破けた青い着流しから覗く肌を自らの血で濡らす夕座を照らし出す。
 夕座は美の神の寵愛をこの世の人間すべてから奪い去ってもおかしくないほどの美貌の頬にも、雪輝の爪痕が深々と刻まれて完全な調和を乱していたが、傷跡から零れる血の彩りが、この死せる若者に背徳的な美を与えている。
 瞬き数度分の停止から先に動いたのは雪輝である。乾き切らぬ血の滴を毛先から零しながら、一陣の風となって夕座の正面より真正直に吶喊。
 夕座が左八双からの左袈裟の刃を振り下ろす寸前、そのまま飛びかかると見せていた雪輝が、四肢の運びの変化によって夕座を中心に半円を描き、紅蓮地獄から最も離れた右方より夕座の右半身を噛み潰しに掛る。
 この雪輝の動きに対して夕座は、紅蓮地獄は間に合わぬと判断し、左足を軸に右半身を後方へ退き、かろうじて雪輝の牙が己の皮膚と肉を貫くのを寸前に躱す事に成功する。
 右半身を退く反動で左袈裟の太刀を巻きこむようにして雪輝の右頸部に叩きこむ。風切る音も凄まじく、鼓膜を切り裂くかのような甲高い音に先んじて振り下ろされる紅蓮地獄を、雪輝は左方に跳躍して躱す。
 紅蓮地獄の刃風に触れた白銀の体毛が数本、はらりと宙に舞い陽光を浴びて燦然と輝いていた。
 その輝きが消えるよりも早く、雪輝は左右に重心を揺らしながら正面に相対した夕座へと踊り掛り、右に、あるいは左に、あるいは上に下にと見せかけた動きを見せる。
 これまでほとんど虚のない実一辺倒の力押しの戦い方をしてきた雪輝が、虚と実を交えた戦い方を見せているのだ。
 雪輝の牙、右前肢、左前肢、熱量操作による炎熱と氷結。全てが一撃で必殺の威力を備えるそれらに、虚と実の役目を振り分けて用いれば敵対する者に与える重圧は飛躍的に増す。
 それは刃の影に伏せた刃、影と見せた実の刃、たった二振りの刀で夢幻自在の刃を振るう伏刃影流の術理を、狼の五体と妖魔としての異能を合わせた五つの武器によって雪輝なりに再現した戦法であった。
 右の前肢に纏わせた紅蓮の炎の影に隠した左前肢の爪が夕座の右頬を掠め、傷の周囲に凍傷を発生させて細胞を壊死させ、頸部を噛み千切りに掛った牙を紙一重に躱す夕座に、躱されると分かった上で唸らせた牙に続き、牙を咬みあわせた頭部の下に伏せていた左前肢が上弦の月を描いて、夕座の白く逞しい胸板にむざむざと爪痕を刻む。
 本来人間が二刀流を持って成す伏刃影流の技の冴えを、ただ一度戦っただけのましてや狼の体を持った雪輝が、再現し尽くすのはたぶんに無理があるが、伏刃影流の剣鬼蒼城典膳との戦いは確かに雪輝の中で血肉となっていた。
 それまでの戦い方を一変させた雪輝の動きに、反応が遅れた夕座は立て続けに傷を負ったが、それさえも戦いを盛りあがらせる要素に過ぎぬと艶やかに、そして凄絶に笑う。この死人の心が、常人とはかけ離れた世界にある事を、如実に表す笑みであった。
 息を吐かさぬ怒涛の虚実入り混じる雪輝の猛攻に晒されて、夕座はその冥府から蘇った死肉の体から、次々と赤い血を流してゆく。
 煙幕のごとく展開された炎の壁が、紅蓮地獄の一刀に真っ二つに割られた瞬間に、人間の頭ほどもある氷の弾丸が雨あられと夕座に殺到し、これを残像が幾重にも折り重なるほどの速さで紅蓮地獄を振るって夕座は叩き落す。
 斬撃の衝撃に氷の弾丸が微塵と砕ける中、夕座の背後を取った雪輝の振るった右の前肢が、夕座の背に新たな爪跡を刻む一方で、夕座は口の端から血の滴を零しながら右手の紅蓮地獄をくるりと回転させて右わきを通して背後に突き込み、雪輝の右肩に紅蓮地獄の切っ先が吸い込まれる様にして突き立てられた。
 紅蓮地獄の纏う霊力が妖魔である雪輝の肉体を焼き、雪輝の振るった爪は殺意を満々と含んだ妖気によって夕座の肉体を苛む。
 雪輝と夕座は双方共に灼熱の痛みを堪えながら、全く同時にそれぞれ後方へと跳躍して距離を置いた。もう何度目になるか分からぬ仕切り直しである。
 紅蓮地獄の切っ先を右下段に下げ、夕座が無垢な童を思わせる笑みを浮かべて雪輝に言う。

「ふふ、これほど楽しいのは久方ぶりよ。ともすれば鬼無子姫と斬り結ぶよりも心躍っておるかも知れぬ。おお、聞こえるか、美しい狼よ。脈打つ事を忘れて久しい私の心臓が動いておる。冷たく凍えた血を私の五体に送り出しておる。股ぐらがいきり起つかのようよ」

「私は楽しくなどない。貴様の顔はもはや見飽きておる」

 にべもなく答える雪輝の声音は、ひなには一度として聞かせた事の無い妖魔という存在に相応しい、冷厳そのもの。
 対する夕座は恋文を目の前で破られた少年の様に、拗ねてみせた。その所作に、雪輝の顔に新たな苛立ちが浮かび上がる。この一頭と一人、とことん相性が悪く生まれついている。

「つれない事を言うものよ。とはいえ私もいささか疲れを感じておる故、決着を望むのは私とて同じ。時に狼よ、紅蓮地獄の意味を知っておるか? 紅蓮地獄とは仏教で言う所の地獄の一つ、あまりの寒さゆえに肌がひび割れて、そこから溢れる血によって蓮の花のごとく染まるからよ。お主はどうやら氷と水の相が強く、寒さは感じておらぬようだがな」

 夕座の言葉が終わると同時、雪輝は全身に走る違和感に気付き、その直後既にある程度塞いだはずの傷という傷から、筆舌に尽くし難い痛みと猛烈な喪失感が発するのを、牙を噛み砕かんばかりに噛み締めて耐えた。
 夕座との戦闘開始から流した血の量をはるかに上回る新たな失血と、雪輝をしても苦悶の声を堪え切れぬ痛みに、折れそうになる膝と消えそうになる意識を必死の思いで支え、雪輝は朦朧と霞む視界の先に移る夕座を睨みつける。
 妖刀・紅蓮地獄の所有者が与えた傷は望む時に、例え塞がれていたとしても再び斬りつけられたばかりの鮮やかな傷と変わるばかりか、激烈な痛みと出血を強いて敵対者を死への旅路に誘うのだ。
 もはや死に体と化した雪輝へと夕座はゆるりと歩を重ねて行く。さしもの雪輝も体内の大部分の血を失い、傷の治癒も不可能とあっては生命の灯が消える寸前の、最後の反撃を加える事も難しいのでは、いや不可能なのではないだろうか。
 まさしく紅蓮の花を全身に咲かせて、元の白銀の毛並みが顔の一部を除けば一切なくなり、血の匂いを香らせる雪輝に反撃の力が残されていないと悟ったのか、夕座は余裕を湛えた声音で歌うように告げる。

「楽しい一時であったぞ、名も知らぬ魔性の狼よ。お主の様な斬り刻み甲斐のある妖魔と出会えたのは久方ぶりであった。そして私は鬼無子姫という極上の花嫁を我が腕の中に抱こうぞ」

「させぬ、と言っておる」

 意識とはまた別に、意思ばかりは変わらぬ強さを堅持していたが、雪輝の口から出た声は耳をそばだててもかろうじて聞きとれるかどうかという、あまりにも弱々しいものにすぎなかった。
 雪輝を前に大上段に紅蓮地獄を振り上げ、切っ先が青い空を指した所で制止する。

「運が悪かったな。狼よ。ちょうどこの山に入る所で狸を三匹ばかり可愛がったお陰でな、今日の私はすこぶる機嫌と調子が良いのだよ」

 狸、という単語に途切れそうになる意識を必死に繋いでいた雪輝は、あの穏和で見ている方が和やかな気持ちになる狸の親子の姿を脳裏に鮮明に思い浮かべた。
 主水と朔と嶽と、仲の良い親子の姿が思い浮かび上がるのと同時に、雪輝の背筋を黒々とした悪寒が貫いていった。この若者と出会った主水達に訪れる運命が暗く閉ざされたもの以外になにがあるというのか。
 愕然と雪輝が体を強張らせる様子に、夕座は不思議そうな視線を向けていたが、どうでもよい事と斬り捨て、振り上げた紅蓮地獄を真っ向唐竹割に振り下ろさんと意思を働かせた瞬間、今にも膝が折れんとしていた雪輝の全身から嵐のごとき物理的圧力を伴う妖気が迸り、夕座の全身に鳥肌を泡立たせる。

「!?」

 黒髪を煽られ咄嗟に後方へと跳躍して距離を置いた夕座の目の前で、雪輝の全身の毛が逆立ち、更に白銀の毛並みをべっとりと濡らしていた血が瞬時に蒸発する。
 主水達の辿った運命を理解した瞬間、雪輝の精神の全てをかつてない怒りと悲しみが満たし、それは雪輝の肉体の潜在能力を爆発的に開花させ、同時に激しい感情は新たな力を生み出している。
 紅蓮地獄の持つ異能によって全身に刻み込まれた、塞がらぬ筈の傷は紅蓮地獄の霊力を上回る雪輝の妖気の迸りによって見る間に癒着して、傷痕は一つ残らず消える。
 周囲の大地や虚空を満たす気や、残留妖気、更には怨念さえも渦を巻く様にして急速に雪輝の肉体に吸収されて、更に雪輝の戦闘能力を急速に高める。
 窮状から一転、消耗した妖気も体力も流出した血も完璧な状態へ戻り、燃え盛る太陽のごとく強大な力の塊と化した雪輝の姿に、夕座は隠しきれぬ感嘆の吐息を零す。

「見事、だが……」

 言葉を紡ぐその刹那、夕座は浮遊感に包まれ、首筋から瞬く間に力が流出してゆくのを痛烈に感じた。なに、と疑問を言葉にする事もできぬまま、夕座の視界は徐々に天を仰ぐものに変わり、その先に口元をべっとりと赤く濡らした雪輝の姿が映る。
 憤怒という言葉では何万回重ねても足りぬほどの感情を全身から迸らせながら、その青い満月の瞳は凍える様に冷たい。
 雪輝が夕座の知覚をくぐり抜け、反応することさえ許さぬ速度で夕座の首筋を噛み千切ったのだ。
 首を半ばほどまで噛み千切られ、零れ出る血潮で赤い花を空中に咲かせながら、吹き飛んだ夕座の体は、白い激流が轟々と音を立てる崖下へと今まさに落下しつつあった。
 ただただ冷たく憎悪の炎を燃やす瞳を自分へ向ける雪輝の姿を仰ぎ見る夕座の心中には、自らに二度目の死を与えた雪輝への恨みや憎しみは無く、ただこの想いだけがあった。

「なんと、美しい狼よ……」

 そうして瞼を閉じつつ、人ならぬ美しさを持った死人の若者は、呆気なく激流の只中に飲み込まれて消えた。
 夕座の姿が激流の中に飲み込まれまでを見つめ続けた雪輝は、やがて陰惨な運命を迎えただろう主水親子たちの冥福を祈る様にして、遠く、遠く、妖哭山の隅々へと悲しみに満ちた狼の遠吠えが木霊した。

<続>
いただいたご感想への返信はまた後日にて。お読み頂きありがとうございます。

6/16 投稿
6/20 修正



[19828] その二十四 別離
Name: スペ◆52188bce ID:97590545
Date: 2011/09/02 23:49
その二十四 別離


 青い空の果てまで届く様な狼の遠吠えが妖哭山の隅々にまで響き渡り、それまで狂乱の闘争に耽っていた妖魔達全てが、雷に打たれたかの如く動きを止めて遠吠えの聞こえて来た方角へと、一つの例外もなく意識を向ける。
 白い水飛沫をあげる川の流れを朱に染めて戦っていた魚妖と水妖も、互いの首に爪を食いこませ合い空中でもつれあっていた妖鷹と肉食雀の群れも、流された血でぬかるんだ大地の上を駆け激突を繰り返していた邪妖精と妖虎も。
 あと一歩で敵対している者の命を奪えるという所で、あるいはあとわずかで殺されるという窮地にありながらも、妖魔達は戦う事、殺し合う事を忘れて、自分達の産まれて来た意味が果たされた事を、ただ噛み締めた。
 なぜならその遠吠えは、この妖哭山が造り出され、これまで無数の妖魔達が血で血を洗おう戦いを繰り広げ、死に続けてきた目的が半ば達成された事を伝えていたからだ。
 この世界を支配する八十八万柱の神のいずれかが、同胞である神さえ葬れる最強の手駒を産み出すべく用意したこの妖哭山という試験場。数え切れぬ多種多様な妖魔達という実験体達。そして白銀の狼とその器に封入された異世界の魂。
 天外という想定外の要素の介入によって一度は狂ったそれらの歯車が、ようやく噛み合い始めたのである。
 本来の自意識に目覚めた雪輝の魂と最強の肉体である狼の器がようやく完全な同調を果たし、黄昏夕座という外の世界からやって来た招かれざる来訪者を倒したのと、妖哭山の目的が半ば達成されたのはまったく同時の瞬間であった。
 そして雪輝の『完成』を知ったのは、雪輝と夕座の決着の場からやや離れた所で、かつては配下として率いていた同族と争っていた狗遠も同じだ。
 雪輝と夕座がほぼ互角の戦いを繰り広げた影響を受けて、樹海の地形や景観は大きく変わっており、根元からへし折れた木々が折り重なり、抉られた土や砕かれた巨岩が無数に散らばっている。
 ただでさえ巨木が折り重なるように枝葉を伸ばして視界と行動を妨げる悪条件が、雪輝達の戦いの余波でさらに悪化しているのが現状だ。
 その中を灰色の毛皮を持った狗遠と、狗遠より一回りか二回りほど小さい狼達が風のごとく走り回り、時折牙と爪を閃かせて血飛沫を散らしていた。
 雪輝に手出しを禁じられ距離を置いていた狗遠であったが、その間に雪輝達が妖哭山内部に足を踏み入れた事に気付き、決着を着けるべく探し回っていた飢刃丸に捕捉され、血を分けた弟と同胞を相手に容赦と慈悲を捨てた戦いを繰り広げていたのだ。
 自身よりも小柄な――それでも一般的な狼を上回る大きさなのだが――妖狼達が飛びかかってくるのを、親が子をあしらう様に軽々と蹴散らしていた狗遠は、雪輝の遠吠えを耳にするのと同時に全身の細胞がざわめくかの如き感覚を覚えて、あろうことかそれまで躍動させていた四肢の動きを止めて青く晴れ渡る空を見上げる。
 これ以上ないほどの致命的な隙であるにも関わらず、周囲の妖狼たちのみならず妖狼を指揮しているだろう飢刃丸に至るまでが狗遠と同じように、雪輝の遠吠えを耳と全身と、そして魂で聞いていた。
 雪輝の遠吠えに魂まで奪われたかの如く呆然と空を見上げていた狗遠だったが、不意にその口元から笑い声が零れ始める。
 愉快で愉快で仕方がないと、堪えようとしても堪え切れない笑い声だ。

「く、くくくく、くっくっくっく。くははははは」

 雪輝の遠吠えの余韻が消えつつある中、高らかにこれ以上面白い事は無いと告げる代わりに狗遠の咽喉から零れる笑い声が、木々の間で反復し合い、かつての長の奇行を前にして周囲の妖狼達が怯えたように狗遠に視線を集める。
 狗遠の牙で首筋を噛み切られて体の大半を自身の血で染める者、両前肢をへし折られて赤茶けた地面を舐めている者、腹を爪で割られて薄桃色の臓物を撒き散らし絶命寸前の者と死の淵にある妖狼達も例外ではなく、狗遠の高笑いがまるで死神の足音であるかのように怯える様子を見せている。
 くっく、と咽喉を震わせる狗遠を制止したのは妖狼達の群れを割って姿を見せた、左耳が半ばから欠けている赤毛の狼である。
 狗遠から妖狼族の長の座を奪い、雪輝に対する悪意をわずかも隠さぬ危険な狼の妖魔、飢刃丸。のそりのそりと狗遠とそう変わらぬ巨躯から周囲の妖狼とは一線を画する重厚な妖気を発しながら、どろりと粘ついた暗い感情を溜め込んだ瞳で、姉を見つめる。
 自らの牙で確かに致命傷を負わせたはずの姉が、こうして自分の目の前で息をしている事を、飢刃丸は大した問題とは捉えていなかった。
 今度こそ完全に息の根を止めてくれる、と極めて単純かつ確実な問題の解決方法を考えているからだ。

「姉者、なにがおかしいのだ?」

 ようやく笑い声を咽喉の奥に引っ込めた狗遠が、危険な響きの混じる声音を出す弟を見る。ほんの数日前に反逆の牙を向けられたばかりの筈だが、随分と久しぶりに会った気分であった。
 狗遠に傷を負わせ逃亡させてから今日に至るまでの間、相当の数の妖魔を屠り、死肉を食い漁って来たのは間違いがない様で、最後に狗遠が見た時に比べて飢刃丸が全身から溢れさせている妖気の質と量は数段増している。
 少なくとも狗遠ではもはや敵わぬほど強大な妖魔となっているのは間違いがあるまい。あの陰湿さばかりが目立った奴が大したものだ、と狗遠は心のどこかで弟の成長を喜ぶ余裕があった。我ながら奇妙な事だ、と嘆息しながら狗遠は口を開く。

「お前も分かっているだろう。愚かな弟よ。お前も聞いた筈だ、雪輝の叫びを。あれに敵う者は最早この山にはおるまい。蛇どもの雌長も、虎どもの若造もな。ましてや貴様などでは」

「その目は節穴か、姉者よ。貴様を長の座から追い落としてから今日に至るまで、おれがどれだけの妖魔共を喰らい我が身の血肉と力に変えてきたか、それを知るまい。おれはかつて奴に敗れたおれではないのだ」

 飢刃丸に応じるように狗遠は心中で嘲笑う。確かに自分はどれほどの妖魔を飢刃丸が喰らってきたのかは知らない。
 同時に、狗遠はこう思う。
 だがお前も知らないだろう、弟よ。あの白銀の狼が、どれほど強大な存在であるかを、そして今、なったのかを。ああ、良い気分だ。実に良い気分だ。やはり雪輝を番にと望んだ自分は間違っていなかったと、狗遠は愉悦に浸る。
 狗遠はあの皺まみれの老人の言っていた事を完全に理解しているわけではなかったが、それでも雪輝が妖哭山でも無二の強大かつ特殊な存在である事は本能で理解している。
 その雪輝を見染めたのがほかならぬ自分であるのだから、少しばかり自慢げな気分になるのも無理はないだろう。
 狗遠は足元で呻いていたかつての配下である妖狼の首を、左の前肢で呆気なく踏み折ると愚かなる弟を見た。
 妖哭山に産まれた妖魔の全ての血に含まれている狂乱の因子が、いまも狗遠に争いに狂え、雪輝と戦いかの存在が最強であるかを証明せよ、と絶えず命じているが、狗遠はそれを意思の力で屈服させた。
 冗談ではない。妖哭山最強は雪輝だ。先ほどの咆哮と共に山を震わせた妖気の凄まじさが、なによりもその事を雄弁に物語っている。そして私は奴と番になりこの山を制覇するのだ。
 狗遠は、血の刻印に従わんとする己の身体にそう強く言い聞かせて、目の前の弟達と対峙し続ける。
 自身の肉体にさえ逆らって雪輝と傍らにあろうとする狗遠の心を、天外は愛と称したが、はたしてそれが事実であるかどうか、狗遠がそれを認めるかどうか、狗遠自身にさえ分からぬ事であったろう。

「さて、飢刃丸よ。貴様の心臓に私の牙を突き立てるのに、雪輝の手を煩わせるまでもない。なにより私に牙を剥いた貴様の首を噛み千切るのを他の奴に任せるほど、私は優しく出来てはおらぬ」

「おれとの力の差も分からぬか。いっそ哀れというものよ、姉者。死して我らの血肉となれい」

 姉と弟と。
 雪輝を巡る立場の違いから対立する二頭の妖魔は、死力を尽くした戦いの幕を開いた。



 腕に繋がれた管から紫色の血を妖魔化に対する抑制薬として受け入れたまま、鬼無子は空中に投影されている雪輝の姿を、凝然と見つめていた。その瞳の中には歴戦という言葉も霞む死闘を重ねた退魔士として、目の前の妖魔の力を図り知ろうとする動きもあった。
 夕座によって死の淵にまで追い詰められた、あろうことか雪輝自身が山からの避難を促した狸親子が夕座の手に掛ったという事を聞いた瞬間、映像越しにさえ鬼無子の全身を泡立たせるほどの怒気と殺気を嵐のごとく噴出し、次に鬼無子が認識したのは首を半ば噛み破られて激流へと落下してゆく夕座の姿。
 鬼無子の目をもってしても影さえも追う事が出来なかった、それまでとは比べ物にならぬほど速く無慈悲な、雪輝の一撃によるものだ。
 白猿王の一件から今日に至るまで短期間の間に雪輝が死闘を繰り返し経験した事と、かつてないほど追い込まれて死に瀕した事、更に狸親子に待ち受けていた悲惨な運命が、雪輝の覚醒を促す要因となり、潜在能力を爆発させた結果であろう。
 いま、雪輝は凶暴な水棲の妖魔達がひしめく激流の中に飲み込まれた夕座を見届け終え、狸親子の魂の安息を祈る様に遠吠えをしている。
 その姿に、鬼無子はただただ悲しみばかりを覚えていた。
 妖刀紅蓮地獄の特殊な力によって、雪輝の全身から鮮血が溢れだして、白銀の毛皮が余す所なく血の色に染まる瞬間を目撃した時などは、治療の事など頭の中から消え去りすぐさま助けに行かんとした鬼無子であったが、例え雪輝を見捨てる事になろうとも鬼無子の治療を行うと事前に公言していた天外によって止められている。
 身を預けていた寝台から跳ね起きようとした鬼無子は、目に見えない何百人もの人間に抑え込まれているかのように身じろぐことしかできず、この場で唯一そのような真似のできる天外に向けて、火を噴くかの如き激情を湛えた視線を浴びせた。
 しかし視線だけでも睨みつけられた者の視線を貫いておかしくない鬼無子の激情は、天外の横顔に浮かぶ創造する事も出来ないほど冷たい表情によって、瞬く間に沈められてしまった。
 その天外の横顔に鬼無子は肝心なことを失念していた事を悟る。そう、この天外という老人は雪輝にとっては必ずしも味方と呼べる存在ではなかったではないか。
 もし雪輝が妖哭山の創造主の意図どおりに神の手駒としての使命に目覚めたならば、底の知れない不気味な老仙人は全力を持って雪輝を排除せんと動くだろう。
 かつてこの妖哭山に産み落とされたばかりの雪輝と戦い、その機能に異常を生じさせるほどの力を持っている事は、これまでの話から分かっている。仮に天外が全霊を尽くしたならば、雪輝とて滅せられないという保証はないのだ。
 そこまで思い至った鬼無子に険しい視線を向けられている事に気付いた天外が、嫌に粘っこい笑みを口元に浮かべて、鬼無子を振り返る。

「危惧しておることは手に取る様に分かるが、安心することだの。まだ雪輝の奴は神の手駒ではなく雪輝としての人格を保持しておる。あの馬鹿狼が雪輝である限り、わしは手を出さぬよ」

 天外は鬼無子にそう告げて、いつの間にか手元に浮かべていた光の板に視線を映し、目まぐるしく表示される数字や記号を読み取る作業に集中し始める。鬼無子には皆目見当もつかないが、その光の板に表示されている数字などが雪輝の状態を示すものなのだろう、と推測する位の事は出来た。
 いまひとつ天外の言う事に関しては信頼を置きかねる事実が、鬼無子にとっては一抹の不安となって心に影を落とす。

「かつて、天外殿が戦ったと言う時の雪輝殿もいまのような強さだったのでしょうか」

「んん? そうだのう、身体能力で言えば奴がただの駒として産み落とされた時の状態に匹敵しておるの。本来の人格が目覚めた事で器である狼の肉体との和が乱れて、これまで雪輝の奴は持てる力を完全には発揮できておらなんだが、それもこの土壇場と試験が最終段階に入った影響でどうにかなったようだからの」

 光の板から視線を外さずに、天外が返した言葉に引っ掛かる物があり、鬼無子はかすかに細首を傾げた。元より雪の様に白い肌であったが、妖魔の血と神の血が争っている影響を受けているのか、そのまま透き通って消えてしまいそうなほどに顔色が悪い。

「身体能力、という事は雪輝殿には本来であればまだ何か別の力があると?」

「まあ、そうなるかの。今、あいつは熱量を操作することで炎や氷を操る力を持っておるが、あれは至極原始的な魔術や陰陽術に通じるものがある。わしが初めて矛を交えた時、奴はわしも知らん魔術や精霊術を使ってきおった。雪輝の奴、元いた世界では相当に腕の立つ術使いだったのかもしれんの。だからこそその魂が神の目に留まったと考えるべきかもしれん」

「ではいずれ雪輝殿は本来産まれた、その異世界とやらの術も使えるようになると?」

「推測ばかりの話になるがの。ただそれには雪輝が狼の肉体に封じられた事で失った記憶を蘇らせる必要があるじゃろうて。まあそれを抜きにしても今の奴は十分に強い。並大抵でない妖魔でもあれに勝てるものはそうはおらんの。それよりも鬼無子ちゃんや、この後の事、ようく考えておいた方がええぞ」

「……黄昏夕座が倒された事で織田家が総力を上げて雪輝殿の排除に動くかもしれぬと言う事でしょうか?」

 にやり、と天外は鬼無子の言葉に新たな笑みを浮かべて答えた。その笑みが、鬼無子の回答では不足であると語っている。

「それとも神の造り出した存在である雪輝殿に惹かれて、妖魔共や邪教徒達、あるいはこの妖哭山の創造主の魔の手が伸びるやもしれぬという意味でございましょうか」

「ふむ、やはり雪輝の奴には勿体無いの。そこまで考えつけば、ま、満点をやっても良いの。雪輝はわしらと違って神の定めた制約に縛られぬ存在じゃ。例えこの世に現出する神が地に落ちた影のごとき映し身に過ぎぬとても、その影を払拭する事の出来る存在というのは目障りなことこの上ないからの。
 明日かそれとも遠い未来の事かはわしにも分からぬが、雪輝の奴が創造主以外の神にも目を着けられてもおかしくはあるまい。神の尖兵や信徒らとの戦いとなれば、最悪今の世界の均衡は崩れて世は乱れ、混沌の時代が来るやもしれぬ。
 あるいはそれこそが雪輝の創造主の目論見かもしれぬし、あるいは単に暇つぶし程度に過ぎぬかもしれん。如何せん、神々にとってこの世は遊び場に過ぎんからの。途中で飽きて遊びを放置する神も居るから予測が着かんで、どうにも性質が悪いわい」

「となりますと雪輝殿は創造主や他の神々にその存在を黙認、ないしは放置される可能性もあるのですか」

「まあ無きにしも非ずとしか言えんなあ。雪輝の奴が盛大に神殺しでもやらかさん限りはわりと大丈夫かもな」

 天外のその返事を最後に、鬼無子と天外の間で会話はぱたりと絶えて、一端別れた狗遠との合流を計り、動き始めた雪輝へと両者の視線は吸い寄せられた。



 妖哭山外側の麓にほど近い開けた場所に、天幕を張っただけの簡素な妖魔改の拠点が築かれていた。
 現状の妖哭山では内側のみならず外側にも争乱と血臭に満ちていたが最外縁部に位置する場所である為、比較的風の運ぶ血の臭いは薄く、絶え間ない妖魔達の争いと断末魔の声もどこか遠い。
 天幕の周囲ではまだ動ける妖魔改の隊員達の他に、かねてよりの約定に従って錬鉄衆の戦士達数名が警護に就いているが、妖魔改側が到着の期日を偽った事と、山の民の雪輝に対する好意が原因となって、両者の間には硬質の空気が流れて、会話が交わされるような友好的な様子はない。
 そしてその拠点の最も奥深い場所で、金糸と銀糸の刺繍が煌びやかな座布団を敷いた切り株の上に腰かけていた派手な装いの男が、手に持った小さな鈴を凝視していた。
 紫の黛と青の口紅で彩った端正な顔立ちに、洒脱に着崩した紫色の着物、長い黒髪に鷹の羽の飾りが着けられており、なんともは異様な風体の青年だ。
 夕座の援軍として妖哭山に駆け付けた妖魔改の弓使い伊鷹である。水晶細工を思わせる大きな弓を左肩に持たせかけて、右手に摘んだ銀の鈴を眼の前まで持ち上げてしげしげと眺めている。
 りぃん、とかすかな風に揺れて銀鈴は耳に心地よい音を立てている。伊鷹はその音にしばし耳を預けていたが、ほどなくして心底驚いたという顔を拵える。
 伊鷹が手に持っている銀鈴は夕座の状態を知らせる為の特殊な鈴だ。伊鷹は、妖魔改の精鋭たちの中でも最強の一角に名を連ね、かつ過去の行動から危険視されている夕座の監視役を任されている。
 かつて一度は冥府へと旅立った織田信風の魂を呼び戻し、黄昏夕座として蘇らせる際に服従の術式を施しておいたとは言え、類稀なる精神と魂の強さを兼ね備える夕座に新しい織田の当主達は現在に至るまで極めて強い警戒の念を抱いてきた。
 これまでも伊鷹以前に夕座の監視役として妖魔改の中でも特別腕が立ち、信用のおける者達が選ばれており、もはや慣例となっている。
 伊鷹はいつのまにか自分の視界の端に膝を突いて待機していた影座へと視線を映し、独特の口調で話しかける。手の中の銀鈴がまた、りぃん、と鳴る。妖魔ひしめく魔窟には相応しくない清涼な響きである。

「お聞き、影座。夕座殿がどうやら倒されてしまったようだよ。いやいやぁ、私もこれはちょっとぉ、信じられない事だねぇ。黄昏夕座百五十年の歴史の中で初めての事じゃないのかい? とはいえこれは拙いねぇ。すぐに引き上げの準備をお始めな。先に帰した怪我人達と合流して引き上げないと。戻ったら上に報告、いや警告しなきゃならないねぇ」

 夕座が倒された事が心底信じ難い様で、伊鷹は口を開く間も信じられないと首を横に振るう仕草を繰り返し、いまだ音を鳴らす銀の鈴に瞳を向けている。
 妖魔改の中で監視役であると同時に夕座の相棒としての役割も担っている伊鷹でさえ、こうも動揺を露わにするのだから、心底から夕座に心酔している影座はどう反応するかと言えば、まるで石像が口を開いたかのように淡々と言葉を伊鷹に返した。

「承知いたしました。四半刻(三十分)以内に撤収の用意を終えまする」

 果たして影座の心中いかばかりか。伊鷹はあえて言及する事もなくこちらも淡々と自身のすべきことを頭の中で整理し、優先順位を割り振ってゆく。

「よろしくお願いするよぉ。私は私の役割を果たさないとねぇ。夕座殿も世話を焼かせる御仁だぁ」

 夕座の敗北の動揺と衝撃を忘れ去り、伊鷹はそれまで腰かけていた切り株からいかにも難儀そうな様子で腰を上げ、それまでどこか気だるげであった鋭い瞳に胡乱な光を宿す。
 ゆらゆらと瞳の奥で揺れる光は、捉えた獲物を決して逃さず射殺す狩人の光、そして人の世を乱す魔性を討つ誇り高き退魔士の光であった。

「大狼、か。これから色々と厄介な事を引き起こしてくれそうだねぇ」

 同じ妖魔改に属する人間でありながら夕座と伊鷹とではっきりと異なる点の一つに、夕座は妖魔改に属しながらも、あくまでも自身の欲望を叶える事を最大の目的としているのに対し、伊鷹は妖魔改の人間として妖魔や邪教の信徒達を討つ事を使命として強く認識している事が挙げられる。
 そして国家の霊的な守護を担う者達にとって、織田家の霊的戦力において切り札と言える黄昏夕座を撃破するほどの妖魔は、後々の災いとなる事を避ける為に早々に滅するべき、という考えに行きつくのは、至極当然の事であった。



 妖哭山に住まう人間達、錬鉄衆の隠れ里に凛と祈祷衆総帥であるお婆の口利きで匿われているひなが、不意に唯一外の光景が見える鉄格子の嵌められた窓へと黒瑪瑙を思わせる円らな瞳を向けた。
 いまもどこかで妖魔同士の殺し合いが行われているとは信じ難い平穏が、錬鉄衆の隠れ里には満ちている。だがそれは奥底に不安と恐怖を押し込めた薄氷の平穏である事を、誰よりも里の人間たち全員が理解していた。
 鉄格子に区切られた空はどこまでも青く晴れ渡り、ひなの黒い瞳を同じ色に染めてしまおうと企んでいるかのようだ。
血の赤に染まりつつある大地の色を映して、空の青が血の赤に変わらぬのが不思議なほど、妖哭山の大地には死と血と怨念が渦巻いているのに、青空だけが我は知らぬとばかりに変わらぬ色を維持している。
 見回りの合間を縫ってひなの話し相手になりに来ていた凛が、ひなにやや遅れて同じように窓へと視線を向ける。凛の瞳に映るのはやはり何の変哲もない青い空。自分達の苦労も知らず、腹が立つくらいに晴れてやがる、と凛は益体もない悪罵を心中で零す。
 ひなと同じように窓を見上げた凛だが、何かを感じたひなと違い凛は何かが聞こえたわけでも、見えたわけでもなかったようで、不思議そうに窓からひなへと視線を映した。

「ひな、どうかしたのか」

 凛に声を掛けられたにもかかわらず、ひなは視線を窓の外へと向け続けたまま、くしゃりと幼さの中に美貌の片鱗を覗かせつつある顔を歪めて、悲しげに口を開く。

「私にもよくわかりません。ただ、とても悲しい声が聞こえました。雪輝様だと思います」

「雪輝の声が聞こえたのか」

「はい」

 過酷な妖哭山の暮らしで研ぎ澄まされた凛の聴覚には、ひなの言う様な雪輝の声は届かなかったが、その事を訝しむよりも、凛はひなと雪輝の間でならそう言う事もあるだろうと納得する方が先だった。
 まだ出会って半年も経っていないと言うにも関わらず、ひなと雪輝は人間と妖魔という種の壁を越えた絆を育み、実の親子か兄妹の様に仲睦まじく暮らしている。
 あるいは雪輝という強大な妖魔の傍らにあり続けた影響で、ひなと雪輝との間になにか霊的なつながりが結ばれている可能性もある。以上の事から、凛はひなが雪輝の声を聞いたと言う事を否定する気にはならなかった。

「ひなになら雪輝の声が聞こえてもおかしくは無いけれど、あいつの悲しそうな声か。そりゃよっぽどの事があったってことだろうが……」

 考えたくはないが場合によっては鬼無子の身に何かあったということだろうか、と凛は腕を組み太い眉を逆八の字に潜めて腕を組み、難しげな顔で咽喉の奥から唸り声を零す。
 まるで気まぐれな猫が生涯を左右する選択肢を突きつけられて苦悩しているかのようである。凛の予想は半ば外れていた。この時ひなに聞こえたのは狸親子の運命を知り、夕座を倒したすぐ後に雪輝が上げた遠吠えの響きであった。
 妖哭山の内側と外側は明確に山頂部によって区切られ、雪輝の遠吠えは妖哭山の内側で反響し合い留められていたが、やはりと言うべきか互いにとって特別な関係にあるひなの耳には届いていたようである。

「雪輝様が泣いていらっしゃいます。どうして私は、こんな時に雪輝様のお傍にいないのでしょう」

 ひなの円らな瞳から大粒の涙が零れだし、それはやがて流れとなってひなの左右の頬を濡らしながら顎を伝い、固く握りしめられたひなの拳の上に滴り落ちた。
 雪輝の悲しみに共感したひなの悲しみと、傍にいる事の出来ない自分に対する情けなさと悔しさが、涙に変わってひなの拳の上に落ちて、ぽたり、ぽたりと音を立てる。
 ああ、雪輝がこの場にいたなら何を置いてもひなの涙を止めたいと願ったことだろう。ひなに涙を流させない為に雪輝は存在していると言うのに、雪輝によってひなが涙を流すとは何たる皮肉である事か。

「それはひなの所為じゃないよ。ひなが悪いんじゃない」

「でも、とても悔しいです。雪輝様をお慰めしたいのに、私に何の力もないからお傍にいる事も叶わないなんて。私には雪輝様以上に大切なものなんてなにもないのに」

 ひなの言葉の中に雪輝に対する大きな依存を聞き取り、その危険性にかすかに眉を潜めながら、それでも凛はひなを慰める事を選んだ。
 錬鉄衆を生の中心に置く凛では、ひなと雪輝の関係を変えるほどまでには踏み込めない。少女と狼の関係に変化を齎せるほど近い関係にあるのは、いまは鬼無子一人くらいのものだろう。

「だったら雪輝が帰って来た時に泣き顔を見せられないってことは分かるだろう。今は好きなだけ泣いていいから、あいつが帰って来た時には笑顔を見せられる様に出来るな」

 凛はひなの傍らに腰を降ろして小さなひなの体を抱きしめる。小さな子供は安心させる時、誰かのぬくもりを伝えることが一番確実である事を、凛は経験上知っていた。

(早く帰ってこいよ、雪輝。ひなの涙を止めるのにはお前の無事な姿が一番なんだからよ)



 妖哭山を震わせる遠吠えの木霊が消えた頃、雪輝は夕座との戦いの影響によって無残に破壊され尽くした樹海の中を、狗遠の匂いを追っていた。
 先ほどから大地を駆ける無数の足音と争いの音が雪輝の耳に届き、狗遠を囲む憶えのある匂いや血の匂いがある事も、雪輝の心中に焦燥の念を抱かせる。
 夕座との戦いに巻き込まぬように狗遠に手出しを禁じたが、夕座との戦いに没頭するあまりに狗遠とはぐれてしまった事が悪方向に働き、飢刃丸との戦いを狗遠だけに委ねる結果になってしまった。
 無事であれと願う想いに突き動かされる雪輝の肢は、まもなく念願の場所へと雪輝を導いて動く事を止める。
 狗遠に返り討ちにあって襤褸屑同然になった妖狼達の死骸が散らばっているのは良い。
 雪輝とても予期していた事だ。一度自分を裏切ったものを同胞とはいえ狗遠が許す筈もない。長の座に返り咲いたらかつてよりはるかに厳しく一族の者達を扱ったことだろう。
 だから雪輝の肢を止めたのは息絶えた妖狼達の死骸ではなく、荒く息を吐きながら大量の血を流して大地に倒れ伏す狗遠の姿だ。そのすぐ傍には口元を姉の血で濡らし凶光を瞳に宿す飢刃丸がいる。
 内臓を傷つけられたのか咽喉の奥から溢れる血を吐きながら、狗遠はかすかに首を持ちあげて、青く濡れた満月を思わせる雪輝の瞳と視線を交錯させた。

「狗遠、すぐ天外の所に運ぶ。いま少し待て」

 安堵したのだろう。狗遠の体がかすかに弛緩する。意識を失ってはいないようだが、傷の深さからして長い事放置はしておけない。
 まるっきり自分を無視する雪輝の言動に、飢刃丸が牙を軋らせて瞳に揺れる凶光を更に強く暗いものに変えて、雪輝を睨みつける。まだ雪輝が妖哭山の内側で暮らしていた時、雪輝に返り討ちにあった記憶が、飢刃丸の脳裏に克明に蘇っていた。

「銀狼、貴様はいつもそうだ。妖魔達の事など、そしておれの事などまるで眼中にないと言う態度を取る」

「飢刃丸か。私が憎くてたまらぬという顔をしているな」

「当たり前だ。おめおめと生き恥を晒し今日に至るまで生き延びたのは、いつか貴様のそのすかした面をおれの牙でずたずたに噛み千切ってやる為よ。その為ならば屈辱にも耐えよう。そしておれは数多の妖魔共を喰らってここまで力を着けた。既に姉者とておれの敵ではない」

 飢刃丸の猛る殺気に応じて周囲を囲んでいた生き残りの妖狼達は、巻き添えになる事を恐れて一歩二歩と下がっている。飢刃丸から叩きつけられる殺気と妖気を風に柳と受け流しながら、雪輝は飢刃丸へと静かな瞳を向ける。

「血を分けた姉と弟で殺し合う事に躊躇も何もないか。この山を造った神はよほどの性悪の様だな。飢刃丸よ、お前を生かしておく事は禍根を残すこととなる故、貴様の望み通り今度こそお前の命運を断つ」

 雪輝にしては珍しい情けを欠片も含まぬ非情の宣言である。だがそれは飢刃丸にとって拭い難い新たな屈辱として受け止められ、飢刃丸の総身からは新たな黒々とした感情と共に殺意が陽炎のごとく立ち上る。

「断てるか、貴様ごときに!」

「できるとも」

 夕座との戦いで負った瀕死の重傷は、雪輝の感情の爆発と同時に周囲の気脈を強制的に吸い上げた事で、極小さな傷に至るまでが全て完治し、膨大な失血も補填されている。体調は完璧といって良い状態にある。
 魂と肉体の調和がとれた事で、雪輝の天地の気を喰らう力も強化され、例え怨念に毒されて穢れに満ちた気であろうとも体内で浄化し、問題なく血肉に還元できる段階に至っている。
 夕座との死闘による消耗が欠片もない雪輝と、姉を打倒し怨敵を前にしてこれ以上ないほど精神を高ぶらせた飢刃丸とが、小細工なしに真っ正面から激突する。
 雪輝と飢刃丸の踏みしめていた大地が爆発し、風をぶち抜き、音の壁を越えて双方が交錯し、雪輝の咬み合わせた牙からぼとぼとと大量の血が零れ落ちて大地に新たな赤色の斑点を散らす。

「言うた通りであろう。お前の命運はこの場で断つと」

 雪輝はその言葉と共に口腔の中の飢刃丸の肉を吐き捨てた。雪輝の背後では頭の右半分をぽっかりと抉られた飢刃丸が、灰色の脳漿をどろりと零しながら、信じられぬと残る左目を見開きながら雪輝を振り返り、呆気なく崩れ落ちた。
 夕座との戦いを経験する前の雪輝であったなら、こうも容易く飢刃丸を倒す事は出来なかっただろう。いや、狗遠を無傷で倒すほどの力を獲得した飢刃丸だ。雪輝との実力差はほとんど遜色の無いものだっただろう。
 しかし夕座に限界まで追い詰められ、主水親子の悲運を知って激情を爆発させた事によって、身体能力を完全に発揮できるようになった雪輝の力は、妖魔を喰らって力を高めた飢刃丸の想像をはるかに上回っていた。
 飢刃丸が余りにも呆気なく倒された事に周囲の妖狼達が動揺に襲われる中、雪輝はそれきり飢刃丸への興味を失い、目を細めて愚かな弟の末路に血まみれの笑みを浮かべている狗遠の傍へと歩み寄る。
 左肩の付け根と腹部が大きく斬り裂かれて、息を吸って肺が膨らむ度に新たな血が溢れだし、血に濡れた内臓がかすかに見える。

「くく、馬鹿な……弟よ。……自分の分というものを、弁えて、おらんからこういう目に……遭うのだ」

「あまり喋るな。外で私がお前を拾った時よりも傷は深いぞ。それと血まみれで笑われるとちと怖い」

「ふん」

 雪輝はそっと鼻先を狗遠の傷口に近付けて、自分の肉体を元の気へと還元してから狗遠の肉体に適合するように調整し、流し込む。純度の高い気は生命力そのものと等しく、例えそれが妖魔であろうとも肉体の傷を癒す助けになる。
 雪輝の鼻先から白銀の光が狗遠の傷口へと流れ込み、見る間に新たな細胞が生まれ、断たれた神経が癒着し、失われた血液が見る間に造り出されて、傷そのものが消えてゆく。
 不覚にも飢刃丸に負わされた傷が癒え、更には新たに力が流れ込んでくる感覚に、狗遠は素直に驚きを露わにしたが、そのまま雪輝にされるがままでいた。

「応急手当に過ぎんが、せぬよりはましであろう。時に狗遠よ」

 むくりと横たえた体を起こし、狗遠は雪輝の顔を真正面から見つめて問い返した。

「なんだ?」

「私の傍に寄れ。最後の敵が来る」

「な」

 なに、と狗遠が口にするよりも早く雪輝が狗遠に体を密着させ、体内で練っていた気を周囲に展開し、分厚い妖気の膜と変えて自分と狗遠を保護する。
いまや妖哭山最強の妖魔と呼べるだけの身体能力を覚醒させた雪輝の超知覚が、すぐ身近にまで迫った脅威を感じ取ったのである。
 周囲の妖狼達が再び狗遠の膝下に着くべきかと躊躇する間に、それは雪輝達に襲いかかって来た。薄紫色の巨大な球体である。それを雪輝は妖気と途方もない気体状の毒が混じった吐息であると看破していた。
 完全に雪輝と狗遠を球形に囲い込む雪輝の防御圏は、その毒の吐息に耐えたが周囲の妖狼達や環境は耐えられなかった。
妖魔達の血に濡れていた大地や、無数の砕けた木々、雪輝達を伺っていた妖狼達が毒の吐息に飲まれるやいなや、瞬きをする間こそあれ、見る間に全身を崩壊させて液状に変わってゆく。
毒を持った妖魔は珍しくは無かったが、ここまで強力な毒性を有している個体はそう多くはない。毒の吐息が飛来した方角に険しい視線を注ぎ、雪輝は妖気の防護膜を維持するのと同時に背後の方向に妖気を流しこんで、毒を払い安全な道を作る。

「雪輝、この毒は」

「ああ、これだけの毒を扱えるのは紅牙くらいのものだろう。狗遠、お前はこの場から出来るだけ早く離れて天外の元へ行け」

「っ、私も!」

「駄目だ。これ以上先を言わせるな」

 足手纏いだからか、と狗遠は噛み締めた牙の奥まで出かかった言葉を飲み込む。妖哭山最強の名を争う紅牙は、確かに飢刃丸にさえ及ばなかった狗遠では真っ向から戦うには難しい相手だ。
 いまの雪輝でもなければ紅牙と真っ向から戦う事は出来まい。自らの牙を砕きかねぬほど噛み締めながら、狗遠は自身の無力を呪いつつゆっくりと後ずさりを始めた。奇しくもこの時、雪輝へ愛情を注ぐひなと狗遠は同じように自分自身の無力を呪っていた。

「おい、雪輝」

「なんだ。あまり時間は無いぞ」

「こう言う事を言うのは性に合わぬが、死ぬなよ。私と番になって子を成すまで、何が何でも死ぬな」

 誰かを案じる言葉を口にするなどおそらく生まれてから初めてなのだろう。狗遠は慣れぬ事をしていると実感しているのだろう、苦々しく口にする。
 自分の身を案じてくれていると言うのに、口にする言葉とまるで正反対の狗遠に、雪輝は穏やかな微笑を返した。なかなかどうして狗遠にも可愛い所がある物だな、と感心していたのである。
 度胸があると言うべきか、頭のねじの締め方が緩いと言うべきか。ここら辺が雪輝の雪輝たる由縁であろう。

「任せろ。死ぬ理由は一つもない」

「なら、良い」

 後ろ髪を引かれる思いなのだろう。狗遠はこちらを振り向いた雪輝の瞳を名残惜しげに見つめてから、踵を返して雪輝が毒気を払って作った道を走り始める。
狗遠の気配が遠のいてゆくのを感じながら、雪輝は最後の最後で出てきた大物との戦いを前に、静かに、深く息を吸い込む。
いまだ周囲に残留している紫色の毒を、防御膜の外側に発生させた炎で焼き払い、雪輝は視線を上方へと傾ける。雪輝の巨躯を丸ごと飲み込んでなお余りあるほどの巨大な影が、前方に現れた大蛇から投射されて、雪輝の視界から太陽を覆い隠している。
その全身を視界に収めるのが困難なほどに巨大な大蛇は、一つだけになった瞳に雪輝の姿を映し、感情の伺えぬ視線を浴びせかけている。

「紅牙、久方ぶりだな。だが変わらぬ姿とは言い難いな」

「ますますもって小生意気になったな、狼よ」

 妖鷹族との死闘で片目を失い、大筒の直撃にもびくともしない筈の鱗はあちらこちらで剥がれ落ち、乾いた血が蛇体に赤い斑点を散らしている何とも無残な姿のままで、蛇妖族の長である紅牙は、雪輝の皮肉をさらりと受け流す。
 潰された目玉こそまだ再生してはいなかったが、この雪輝をして戦いを避ける強大な妖魔である雌蛇は、鱗と目玉を除く傷のほぼすべてが完治していた。
 先ほどの毒の吐息を砲弾のごとく飛ばしてきたのは、この紅牙に間違いない。雪輝は紅牙の存在に気付くのと同時に、蛇妖族が周囲に隠れていないか探りを入れていたが、今のところ半径一里以内に紅牙以外の蛇妖の気配や臭いは感じられない。
 紅牙以外の蛇妖達はまだ他の妖魔達と交戦状態にあるのかもしれない。そうであるのなら雪輝にとっては好都合ではあるが……。

「それでお前もこの山の実験に従事しているというわけか、古き蛇よ」

 どこか疲れた声音で雪輝は答えた。生きる事に疲れを感じはじめた老人を思わせる声であった。
 天外に自分の存在の真実について告げられた時は特に堪えた様子を見せなかった雪輝であるが、現在の山の狂乱状態や自身が神の意図によって生み出された操り人形である、という事実はこの呑気な狼にとってもそれなりに精神的な衝撃を与えていた様だ。

「ほう、その話、良くも知っていたもの。天外にでも聞かされたか?」

「ああ。聞いて愉快な話ではなかったがな。大狼も私と同じ実験の産物だったのだろう」

「あれはお前には遠く及ばぬ未熟者であった。それゆえ我らに牙を剥かぬ限り放っておいても構わなんだが、大狼の次に生み出されたお前はそうも行かん」

「お前も他の妖魔同様に、血の刻印に従って私との戦いを欲するか」

「お前を倒す事は望む。だが私は我らに刻まれた宿命に従うつもりはない」

「どういう意味だ?」

 四肢を開き、かすかに重心を低く落として戦闘態勢に移行しながら、雪輝は闘志の炎に新たな薪をくべて、周囲の気を取り込み体内で循環させて、更に強大な力へと変える。
 目の前の狼の総身から発せられる妖気の質と量が、以前とは比べ物にならない事を感じながら、紅牙はしゅう、と薄紫色の毒混じりの吐息を吐く。
 食い殺してきた獲物の血で赤く染まったという牙から透明な毒液を滴らせながら、紅牙は言葉を紡いだ。

「この山が強大な妖魔を産み出す為の実験場である事を、私は卵から孵ったばかりのまだ無力な子蛇でしかなかった頃に知り、そして時を経るにつれてこう思う様になったよ。ではその実験が終わった時、私達はどうなるのか、とな。
 もしこの山の創造主の意図通りの存在が完成したなら、妖哭山と我らは役割を終えた事になる。では役割を終えた我らにはどんな結末が用意されているのか?」

 紅牙の危惧が、雪輝には手に取る様に理解できた。この時、雪輝は紅牙に対してある種の共感を抱いていた。自らの運命を顔も知らぬ第三者によって定められ、敷かれた道の上を歩む事を強要された者同士の、同情にも似た共感。
 妖哭山という壮大な規模の実験場を用意し、おそらくは数千年単位という長期間に及ぶ実験も、世界そのものを創造した神からすれば片手間にできる程度の事に過ぎないだろう。
 ましてや神にとってこの世界の事象は全て遊びの範疇に含まれる。
 そんな神からすれば役割を果たした妖哭山や妖魔達など、切り捨てるのにわずかな躊躇を抱く事もないだろう。
 天変地異、例えば天空から隕石が無数に飛来するか、あるいは大規模な地震、あるいは山を根こそぎ流す様な途方もない大嵐……それらの手段を持って妖哭山全体を壊滅させる方法を取る可能性も馬鹿に出来ない。
 妖哭山における実験の終了は、同時にそこに住まう妖魔達の運命に終焉が訪れる可能性を強く孕んでいる。その事を、紅牙は誰に言うでもなくただ一匹で案じ続け、その果てに導きだした答えに従って、今、雪輝と対峙しているのだ。
 確かに大地と触れあい、また鱗同士が擦れ合っている筈だと言うのに、紅牙の巨体は物音一つ立てずにうねくって、雪輝に対して鎌首をもたげた体勢を維持する。
 雪輝は、かすかに目を細めてこれまで敵としてしか認識していなかった蛇妖族の長へと、哀れみを交えた視線を向ける。少なくとも目の前の蛇妖は自分などよりもはるかに長い時を、人知れず苦悩と共に生きてきた事には間違いなかったから。

「なるほど、な。ならば実験が終わらぬ限りは少なくとも妖哭山とそこに住まう妖魔達が用済みにはならない、とお前が考えたわけか」

「賢しい奴め。だがその通りだ。大狼程度ならばまだ実験が終わりを迎えたわけではない事は明白故、私は歯牙にもかけなかった。お前も人間の童を連れていた時、あの時はまだお前は私にとって絶対の脅威ではなかったゆえ、見逃した。
 だが、今のお前は別だ。今のお前ならば創造主の目的に沿うだけの力があるだろう。お前を持ってこの山の実験が終わりとなるのなら、私はそうならぬよう抗う。 お前を倒し山の実験を存続させ、一族の命運を繋がねばならぬ。お前の次の存在も、その次の存在も、私はその全てを倒してこの山を存続させるぞ、狼よ」

「そうか……。お前のその信念に免じて討たれてやりたいと思わぬでもない。が、私には約束がある。狗遠と、鬼無子と、そしてひなと、必ず生きて変えると交した約束がある。紅牙よ、敬意を払うに値する蛇よ、お前はここで終わりだ」

 もはや交すべき言葉は無いと、雪輝と紅牙の双方が悟る。雪輝は交した約束の為に。紅牙は自らの信念の為に。両者は互いの存在を否定しなければならぬのが定めであった。
 紅牙と雪輝との距離は十間(約十八メートル)。紅牙にとっても雪輝にとっても一瞬もあれば十二分に詰める事の出来る距離だ。
 先手を取ったのは雪輝である。爆発的に増大した妖気に任せて紅牙の蛇体全てを包み込むほどの途方もない規模の冷気を瞬時に発生させ、瞬き一つをする間に紅牙を見上げるほど巨大な氷の山の中へと閉じ込める。
 蛇妖は総じて冷気に弱い。例え紅牙ほどの蛇妖としては最高峰に位置する個体であっても、冷気を弱点とする生物的特性は変わらない筈だ。
 これで終わればいいが、終わる筈がない、という雪輝の思いが伝わったわけでもあるまいに、氷山の中に閉じ込められた紅牙の蛇体から、なにか虫の羽音に酷似した低い音が発し始め、音が大きくなるのに合わせて分厚い氷山に内側から罅が走り、雪輝の目の前で粉状にまで細かく砕け散る。
 雪輝の瞳は確かに見た。紅牙の数万枚を越えるだろう鱗一枚一枚が極微細な振動を放っているのを。紅牙の蛇体全体を覆う無数の鱗一枚一枚が、超振動を発生させて氷山を内側から破砕したのだ。
 毒に関しては以前から雪輝の知識にあったが、振動を発生させて物体を破壊する力はこれまで知らなかった事だ。強敵の秘めていた新たな脅威に、雪輝は舌打ちを零しながら真っ直ぐに駆けだす。
 第一歩の時点でつい数刻前までの最高速度に到達した雪輝は、鱗の剥げている箇所めがけて跳躍し、妖気を乗せた前肢の爪を叩き込む。
 分厚い肉を妖気の爪が水を割く様にほとんど手ごたえなく切り裂く。鱗の無い箇所であれば、雪輝の攻撃は十分に紅牙に通じる。
 紅牙の潰れた左目側の死角から飛びこむ雪輝を、紅牙はあえて一撃を受けてから迎え撃った。
 前肢の先端から不可視の妖気の爪を長く伸ばし、一息に紅牙の肉を裂いた直後の雪輝にうねる紅牙の蛇体が真正面から叩きつけられたのである。
 体表に展開している妖気の防御膜と体毛に限界まで妖気を流し込み、集中的に防御力を高めた雪輝は、それでもなお骨の奥まで届く衝撃に襲われて、そのまま弾き飛ばされて大地に叩きつけられる。
 巨大な窪地が出来るほどの衝撃で背中から大地に叩きつけられた雪輝は、それでもさしたる痛痒を感じている様子はなく、巻き起こる粉塵の中心地で、すぐに体勢を直して紅牙へと視線を映す。
 紅牙は思いきり深く息を吸い込んで咽喉の辺りを大きく膨らませていた。背筋のど真ん中を稲妻で焼かれる様な衝撃を感じ、雪輝はすぐさまその場から大きく飛び退いた。
 直後、顎を限界まで開いた紅牙の咽喉奥から、先ほど雪輝と狗遠目がけて放たれた猛毒混じりの吐息の砲弾が立て続けに連射されて、次々と雪輝へと降り注ぐ。
 吐息に含まれる猛毒もさることながら、純粋な破壊力も小さな砦くらいなら一撃で粉砕せしめる、途方もない代物だ。
 風を置き去りにするほどの速さで樹海の中を走る雪輝を精密極まりない速度で捕捉し続け、紅牙が吸い込んだ吐息の続く限り猛毒の砲弾を撃ち続けた。
 一瞬前まで雪輝のいた空間に着弾した吐息は、まず直径十五間(約二十七メートル)はあろうかという巨大な窪みを大地に穿ち、次いで拡散した猛毒が凄まじい勢いで大地と大気を溶解させている。
 肉体と魂の調和が整った事で、能力を劇的に向上させた雪輝をしても背筋に寒い物を覚える厄介極まりない攻撃といえる。
 ただ幸いなのは妖気がある限り熱量操作を続けられる雪輝と違い、紅牙はあくまで自身で分泌する毒と吸い込んだ大気の蓄えが続く限り、という弾数制限があることだ。
 紅牙が吸い込んだ大気を全て出し終えた瞬間を見計らい、紅牙を中心に円を描く様に回避行動を取っていた雪輝は、急激に方向を転換して紅牙目がけて激しく大地を蹴って迫る。
 高速で大地を走る雪輝に押しのけられた大気が荒れ狂い、岩や木々の破片を巻きあげられている。例え鬼無子や夕座であっても果たして反応しうるかどうか、それほどの速さで雪輝は紅牙へと飛びかかった。
 紅牙は雪輝の姿を無事に残っている右目ではっきりと捕捉し、真紅の牙を露わにして大口を開き、雪輝の体に大穴を開けんと迎えうつ。
 さしもの雪輝といえども紅牙の猛毒と牙が相手では、一撃で致命傷に至ってもおかしくは無い。
 千分の一秒単位での反応で、雪輝は四肢の先端に妖気を滞留させて即席の足場と変えて、空中で鋭角に軌道を転じわずかな距離を開いて、がちんと火花を散らして噛み合わされた紅牙の牙から逃れる。
 わずかに零れた毒が雪輝の左脇腹の毛に触れて、見る間に白銀の毛並みが黒く変色して腐れ落ちる。雪輝はすぐさま新たに妖気を放出して付着した毒を払うのと同時に、加速して紅牙の左頭部の付け根にほど近い箇所に、自分自身を弾丸として叩き込む。
 雪輝自身にも凄まじい衝撃の反動があり、雪輝は大きく後方に弾かれるが、空中で身を捻り体勢を正して軽やかに大地に着地する。
 一方で紅牙は圧倒的な質量差があるにもかかわらず、大きく頭部を逸らしもんどり打って仰向けに倒れ込んでいた。
 紅牙の巨体に数百本の樹木が押し潰され、幾重にも重なる破砕音を奏で上げる。紅牙が仰向けの状態から体勢を直す前に追撃を、と狙う雪輝を左方から山の崩落を思わせる巨大な尻尾が、横殴りに襲い掛かってくる。
 ただ雪輝に倒されただけではない、ということだろう。
 咄嗟に紅牙の尾と自身との間に氷壁を五重に展開し、雪輝は直上に飛び上がる。
 雪輝の妖気が混入した氷壁は同等の厚みの鉄に数倍する強度を誇っていたが、紅牙の尾の前にはぴんと張った薄紙程度の抵抗しか示さず、呆気なく砕かれる。
 五枚の氷壁は合計一秒ほどの時間を稼ぎだし、雪輝にとって回避を成功させるのにはその一秒で十分であった。
 尾が抉り抜いた大気の乱れに体を流されかけて、体勢を乱されてそれを修正する事に意識を割いた瞬間、置き上がり恐ろしい速度でなおかつ音一つ立てずに迫っていた紅牙の頭部が、巨大な戦鎚となって雪輝の体を真正面から捉えて吹き飛ばす。
 体中の骨という骨や内臓がそのまま口の中から溢れだしてしまいそうになるのを、必死に堪えて、雪輝は吹き飛ばされる中で無理矢理に妖気を操作して方向を転換し、強引に着地する。
 ごはぁ、と血と胃液を交えて液体を吐いて口元を汚し、雪輝が苛立ちを隠さぬ声で言う。

「この、石頭がっ」

「貴様に言えた義理か」

 雪輝の視界をあっという間に埋め尽くす速さで迫りくる紅牙目がけて、雪輝は冷気ではなく紅蓮の業火で応じた。雪輝の扱う事の出来る最大級の冷気でさえ、紅牙には通じぬ事から、打てる手を全て確かめる腹積もりであった。
 はっきりと鱗の欠損が目立つ今の紅牙であれば、普段なら通じぬ様な炎熱による攻撃も、通じる可能性がわずかでもある。
 何の前触れもなく足元から出現し、天まで焦がさんと燃え猛る炎の海に飲まれた紅牙は、しかしそれでもわずかも勢いを減じることは無く、わずかに鱗の剥げた箇所の肉を炭状へと焦がしたきりで、雪輝へと迫りくる。
 氷山を砕いた超振動は効果を発揮するまでわずかながら時間を要する事から、業火を突破したのは超振動ではあるまい。雪輝の瞳は、わずかに紅牙の鱗の隙間に残っている紫色の液体に気付く。

「毒の膜で自身を覆い尽くしたか、器用な真似を!」

「貴様ほどではないわ!」

 叩きつけられる紅牙の頭部を右方への跳躍でかわし、雪輝は稲妻のように鋭く大地を駆けて、連続して紅牙の蛇体へと再び体当たりと爪牙を用いた斬撃を叩き込む。
 蛇と狼の互いの信念と存在をかけた戦いなど知らぬとばかりに降り注ぐ陽光を跳ね返し、白銀の光が格子のごとく紅牙を囲い込んで百、二百と瞬く間に攻撃を重ねて行く。
 流石に罅が走り紅牙の鱗がわずかずつ砕け始めるが、同時に紅牙と激突する度に大きく妖気を削られる雪輝も、傷こそないが消耗を強いられた。
 というのも紅牙が全身に常に振動を纏いだしており、接触するだけでも傷を負わされてしまい、それを防ぐためには妖気の防御膜を展開しなければならないからだ。
 炎熱にしろ氷結にしろ雪輝の保有する遠距離攻撃手段ではどうしても紅牙の守りを突破するには及ばず、決着を着けるには近接戦で致命の一撃を加えなければならない。
 紅牙の頭部を死角となる顎下から全身を弾丸に変えてかちあげ、わずかに作った隙に周囲の気脈から一気に力を吸い上げ、消耗した妖力を補充。同時に反撃の体勢を即座に整えた紅牙からの、返しの一撃に備えて回避と防御の用意を整える。
 これを先ほどから延々と繰り返し、不死身かと疑いたくなるほど弱る様子を見せない紅牙を相手に、雪輝は絶え間ない猛攻を加え続けていた。
 雪輝の牙と爪が唸り、生み出される業火と冷気は周囲の地形を変えながら幾度となく紅牙を包み込み、巨体そのものが比肩する者の無い巨大な武器である紅牙は、猛毒滴る牙と鱗から発せられる万物を原子にまで分解する超振動、毒液を交えた大気の砲弾で応じている。
 延々と繰り返される両者の戦いは、数刻の時を経て太陽が山々の稜線を夕焼けの色に染めながら沈むまで膠着状態を維持していた。

「がはっ」

 紅牙の残る右目を潰さんと踊り掛った所を、狙い澄まされた反撃の一撃で叩き落された雪輝は、地面の上を何度も跳ね飛びながらかろうじて四肢を踏ん張って大地の上に立つ。
 膨大な量の気を取り込み、自身の力へと還元して戦い続けてきた雪輝であるが、予想をはるかに上回る紅牙の強さに、既に周囲の気脈はあらかた枯渇し始めており、これ以上周囲から気を補充するのは難しい状態であると言える。
 となれば賭けの要素が大きくなるが、一撃で勝負を決めに掛らねばなるまいと雪輝は腹を括る。
 いくつもの円形の窪みが出来上がり、そこがかつて長い年月を経た巨木の生い茂る樹海であったなどと、誰が見ても信じられぬほど荒れ果てた戦場で、雪輝は大きく肩で息を吐きながら紅牙の瞳を正面から見据える。
 紅牙もまた決着を強く意識した雪輝の瞳に感じるものがあった様で、攻撃を控えて雪輝の言葉を待っていた。雪輝が大きく消耗を強いられていた様に、一見堪えていない様に見える紅牙も、意識が半ば朦朧とするほどの傷を蓄積していた。

「終わりにしようか、紅牙」

「そうだな」

 お互いの命を狙う敵対者とは思えぬほど穏やかな声音で短い言葉を交わし合い、雪輝と紅牙は一瞬の沈黙を共有する。雪輝が狙うはただ一点のみ。紅牙がもまた雪輝が一撃で勝負を着ける為にどこを狙うかを理解していることだろう。
 深く肺一杯まで空気を吸い込み、雪輝は紅牙へと真っ向から飛び掛かる。両者の間に開いていた二十間の距離は一瞬でさえ長く感じられる時間で、無と化した。

「ぐるおぁああああ!!!」

「死ねぃいい!!!」

 ぐばっと水音を立てて開かれた紅牙の鮮血をぶちまけた様に赤い口内には、大量の毒が溜め込まれていた。まさに雪輝の狙い通りの展開であり、同時に紅牙の狙った通りの展開でもあった。
 鱗に覆われていない上に一撃で致命傷を与えうる場所として雪輝が選んだのは、紅牙の口内、そして紅牙もまた雪輝の狙いを看破しここで決着を着けるべく自分の口内に大量の毒を分泌して溜め込んでいたのである。
 雪輝は空中で妖気によって形成した足場を蹴って更なる加速を得て、躊躇なく紅牙の口の中へと突撃する。体表上を高速で対流する妖気の防御膜にありったけの妖気を回し、螺旋状に高速回転させる事で貫通性能を向上させる。
 ばくん、と勢いよく紅牙の口が噛み合わされて、雪輝の視界は暗黒に閉ざされる。紅牙が特別濃厚に、そして大量に分泌した毒は凄まじい勢いで雪輝の攻防一帯の防御膜を侵食し、わずかに防御膜を突破した牙の数本が雪輝の左半身を掠める。
 瞬時に体の内側から腐ってゆく言語に絶する痛みに襲われながら、雪輝は更に紅牙の口内で加速を重ねる。体内を犯す紅牙の猛毒への対抗よりも攻撃に残る妖気を投入し、激突した紅牙の口内の肉のさらに奥へ、奥へと進む。
 紅牙の口腔へと雪輝が突入し、ぴたりと紅牙の動きが止まって数秒後、ぼこりと音を立てて紅牙の後頭部が膨れ上がり、限界まで伸びたそれはやがて内側から巨大な爆発が起きたように弾け飛び、母胎を裂いて産まれた血まみれの鬼子のように紫の毒液と紅牙の毒血に塗れた雪輝が姿を現す。
 勢い凄まじく紅牙の後頭部を突き破り、紅牙の上顎から上を吹き飛ばした雪輝はやがて重力の鎖に全身を囚われて、ゴミのように大地に叩きつけられる。
 雪輝に遅れる事五秒、脳味噌を吹き飛ばされた紅牙の体がゆっくりと横倒しになり、鼓膜を破りかねない地響きを立てる。さながら局所的な地震といっても過言ではないほどの振動が辺り一帯を襲う。
 その振動で意識を半ば喪失していた雪輝が、四肢を投げ出して倒れていた姿勢からかろうじて首を起こして、絶命した紅牙の姿をうっすらと開いた瞳に映す。
 ぼとり、と音を立てて雪輝の左前肢が付け根から溶け落ちた。全身を余すことなく毒に置かされていたが、口内で牙を受けた左半身の損傷があまりに酷い。
 四肢の一つを失いながら、なんとか立ちあがろうと震える体に鞭を打ち、雪輝は足掻いていた。

「早く、鬼無子と、ひなの、所に……帰らないと。心……配、している、だろう、から」

 もはやまともに目も見えず意識もはっきりとしていないのだろう。雪輝はどちらへ向かえば良いのかもわからずに、夢の国の中に迷い込んだかのようにふらふらと彷徨し始める。しかし毒に侵された体は満足に動く事が出来ず、一歩進む事さえ覚束ない有り様である。
 そして雪輝は三歩進んだ所で力尽きて、小さな音を立てて倒れた。



 冬の冷たさを多く孕んだ秋の風が吹く様になり、一層寒さが肌を嬲る様になっていた。幸いにして秋の空は天高く晴れ渡り、この世に生きるあらゆる生き物を全て祝福する様に太陽が煌々と輝いている。
 妖哭山の最外縁部にあたる麓に、傷の癒えた鬼無子とひなと一人の青年の姿があった。
ただしひなはいつもの野良着姿ではなく庶民の一般的な旅装姿である。三人ともが穏やかな笑みを浮かべて談笑に耽っている。
 ひな達と会話を交わしているのは、あの黄昏夕座の美貌もかすむかのような、夢にさえ見る事の出来ない美貌の青年であった。
 本物の銀さえも色あせて見えるだろう白銀の髪と、青く濡れた満月を思わせる鮮やかな色彩の瞳、目鼻顔立ちの彫りは神夜の人々よりも深く異国の情緒を感じさせる。背丈は六尺ほどで体つきは柳の様なしなやかさとたくましさを兼ね備えている。
 老いも若いも、そして男と女の区別なく魅了して心まで奪う、まさに人ならざる美貌の主という他ない。しかしどこか天性の人の良さが滲んでおり、纏う雰囲気も春霞に包まれている様な穏やかなものだから、不思議と人懐っこい印象を与える。
 苦労を知らずに育った大店の若旦那――ただし途方もない美しさの――と言えば誰もが納得しそうだ。空の色を思わせる水色の袴姿であったが、背中に大きな風呂敷包みを背負っているのが、道化の様な愉快さがある。
 だがその青年の左腕は付け根から失われている様で左袖は風に靡いており、また左目は固く閉ざされている。この様子では左目を失明しているのであろう。
 ひながよいしょ、と小さな声を出して背中に小さな風呂敷を背負う。

「これでもう忘れものはありませんね、雪輝様」

 ひなの満面の笑みを向けられた青年――主水に人間への変化の術を教わり、見事人間へと化けて見せた雪輝は、にっこりと途方もなく美しいのに、その癖親しみやすさの滲む好もしい笑みを浮かべて愛する少女に答える。

「ああ、小屋を離れるのには寂しさを覚えるが、仕方あるまいな」

 紅牙がとの死闘の果てに、力尽きて気を失った雪輝であったが、かろうじて治療の終わった鬼無子と、合流していた狗遠がその場に駆け付けた事で、奇跡的にも命を繋ぐことに成功し今日に至っている。
 その代償として雪輝は左腕を付け根から失い、左目は完全に失明し、左耳の聴力も喪失し、左足も日常生活を送るには十分に動くのだが、戦闘を行うには支障が生じる程度に問題が残っている。
 妖哭山最強の妖魔であった紅牙を倒した事で、妖哭山の実験が終了になるかという危惧を雪輝は抱いていたが、今のところその様な気配はなく、狂乱に陥っていた内外の妖魔達も本来の性質を取り戻し、外部に進出していた内側の妖魔達は全て元いた場所に戻っている。
 今回の戦いで多くの妖魔の集団が主戦力と長を失っており、暫くの間は子を増やし新たな長を決める事に時間を費やす事になるだろう。
 雪輝が山に留まり続ける事によって実験が継続されるかもしれない可能性と、夕座を退けた雪輝を危険視した織田家が本格的な討伐隊を指し向ける危険性から、雪輝とひなと鬼無子は妖哭山を離れる事を、話し合いの末に決めていた。
 今日はその旅立ちの日であった。樵小屋は管理を山の民に委ねて、旅に必要な荷物は全て整理してある。織田家の追跡を割ける為、鬼無子の土地勘と伝手のある大和朝廷を目指して、西に旅する予定である。
 雪輝と鬼無子とひなは揃って山の方角へと視線を向ける。そこには雪輝達を見送りに来た凛の姿があった。名残惜しさをたっぷりと薄い胸の中に溜め込んでいるのだろう、凛の瞳は先ほどから潤みっぱなしである。

「なあ、本当に山を出て行っちまうのか?」

「仕方あるまい。私達がこの山に留まってはさらに厄介事が襲いかかって来かねぬ。山の民に迷惑をかけよう」

 それ位は気にしなくていいのにさ、と凛はそっぽを向いた。どこか頬が赤いのはひな達と別れる寂しさもあるが、人間に変化した時、予想だにしなかった美貌を披露した雪輝の顔を正面から見られないことにも関係しているだろう。
 ぐずる凛を慰める様にひなが声をかけた。左前肢を失った姿で帰還した雪輝の姿を見た時は、丸一日泣き通して悲しんだものだが、今は心の整理が着いた様でいつも通りに年齢不相応に落ち着き払った調子を取り戻している。

「今生の別れというわけではありません。いつかまたここに戻ってこられます。ですから、その時までどうかお健やかに、凛さん。凛さんは本当に良くしてくださって、私、お姉さんが出来たみたいで嬉しかったです」

「ひなぁ~、本当にいい子だよぉ」

 ひしとひなに抱きついておいおいと泣く凛の姿に、雪輝と鬼無子は顔を見合わせて苦笑する。かねてから凛がひなを実の妹のごとく大切に思っていた事は知っていたが、よもやこれほどとは思わなかったのである。
 そのまま暫くの間凛はひなに抱きついて離れなかったが、よしよしとひなが凛の背中を撫でて慰めているうちに踏ん切りが着いたのか、やがてひなの背中にまわした腕を解き、ひなを解放する。

「外で何か困った事があったら山の民を頼るんだぞ。内の長とお婆の紹介状があれば大抵の所なら宿くらいは貸してくれるからさぁ。気が向いたら顔を出せよ、ここに戻ってこいよ」

「ふふ、これではひなとどちらが子供なのか、分かりませぬな、凛殿」

「ちぇ、あたしだってらしくないって事くらいは自覚しているさ。でも寂しいもんは寂しいんだからいいじゃないか」

 鬼無子の言葉に凛はますます拗ねる様子を見せる。困ったものだと三人は顔を見合わせたが、いつまでもこうしてじゃれ合ってばかりもいられない。まだ陽の高いうちに大和朝廷を目指して旅立たねばならない。
 三人の空気の違いを察したのだろう。凛はそれ以上ひなを引き留める事はせずに、ただ寂しさと悲しさを湛えた瞳を向けるきり。

「ではな、凛。お前との決着を着けられずに済まぬとは思うが、いずれまた会う時まで息災であれよ」

「凛さん、これまで本当に良くしていただいてありがとうございました。凛さんの事は絶対に忘れません。ですから凛さんもお怪我などしないでくださいましね」

「短い間ではありましたが、それがしにとって掛け替えの無い記憶となる日々でありました。折を見てまたこの山に戻ってくる事もありましょう。その時にはまた変わらぬお付き合いをお願いいたします」

「うん、皆も、本当に怪我とか気を付けてな」

 最後にひながぺこりと凛に頭を下げて、三人は凛に背を向けて妖哭山の麓から西へと向けて歩み始めた。凛は、その背中が見えなくなるまで長い事そこに立ち続けた。一頭の妖魔と二人の少女達の進む未来が、少しでもより明るく幸福である事を、願いながら。
 一番歩幅の小さいひなに合わせてのんびりと妖哭山周囲の荒野地帯を進む雪輝達は、鬼無子の語る大和地方の話に好奇心を隠さずに質問をしながら、これから自分達に待ち受ける未来を想い、のんびりと足を進めている。
 そうしていると不意に雪輝が左の方に生えている数本の木陰に向けて、こんな風に声をかけた。

「私としてはもう一人くらい旅の道連れが増えても構わぬのだが、どうだね」

「雪輝様?」

 とひなは不思議そうに手を繋いでいる雪輝の顔を見上げたが、鬼無子はと言えば雪輝と同じものに気付いていた様で、一国の姫君と見えるせっかくの気品ある顔立ちを盛大に歪めて、木陰から姿を見せた一人の女性を睨みつける。
 まるで灰を頭からかぶった様に髪の色から着物に至るまで、灰色一色で整えた女である。
 身の丈は五尺と七寸と雪輝ほどではないにせよ、この国の標準的な身長を越えていてすらりとした長身は雪輝と同じようにしなやかでいながら、くびれる所はくびれ、出る所はきっちりと出ており、全体的に非常に調和のとれた体つきをしている。
 眼差しは鋭く人見知りをする子供であったら一睨みされただけで泣き出してしまいそうだ。険の強さが目立つがまず一級の美女である事は変わりない。
 擦り切れた草履を履いた足が、ゆっくりとではあるが雪輝達の方へと向かって歩き出し、灰色の美女はどこかぶっきらぼうにこう言った。

「お前が望むのなら一緒に行ってやっても構わん。今更一族の元に戻る気もなくなったしな」

 実際、飢刃丸の死に続き紅牙と雪輝の戦闘に巻き込まれた事で妖狼族の主だった戦士達はほとんど死に絶えており、群れを維持する事はほぼ不可能となっていた。今更長の座に返り咲くだけの価値は、狗遠の中ではなかったのだろう。

「なら一緒に行こうか、狗遠」

 薄く笑みを浮かべて告げる雪輝に、ふん、と狗遠はつまらなそうに鼻を鳴らしたが、尻のあたりの布地がもぞもぞと動いている事から、隠している尻尾は素直に同行を誘われた喜びを露わにしているらしい。
 唐突に姿を見せた女性の正体が分からず小首を傾げているひなに、鬼無子が耳打ちして今回の騒動で共闘した雌狼の妖魔である事を伝えると、ひなはあら、という顔を拵えてから深々とお辞儀した。
 ひなに頭を下げられた狗遠は、ひなの左手と雪輝の右手が固く握りしめられている事に気付き、また、ふん、と鼻を鳴らした。
 雪輝が自分以外の雌と慣れ慣れ親しくしている事は面白くないことこの上ないが、今は雪輝と行動を共に出来る事の喜びから上機嫌で、それ位は許してやろうと言う気分になっていたのであろう。
 狗遠が雪輝の知り合いであると言う事からそれだけでひなはもう警戒はしていない様子であったが、狗遠を雪輝を巡る恋敵であるとはっきりと認識している鬼無子は、正面から狗遠と睨み合いをはじめ二人の視線がぶつかりあって、勢い激しく目に見えない火花を散らしている。

「二人とも、置いて行くぞ」

 鬼無子と狗遠が火花を散らし合っている間に、雪輝とひなは足を動かす事を再開しており、いつのまにか距離が開いていた。慌てて鬼無子と狗遠が雪輝達の後を追い始める。

「雪輝様」

「うん?」

 こちらを見上げてくるひなに、雪輝はなんだね、と口にする代わりに首を傾げて問いかけた。

「とても賑やかになりそうですね」

「そうだな。旅は道連れと言うし、道中は賑やかな方がよかろう」

 はい、とひなは答えてから、そう言えば、と以前から気になっていた事を雪輝に聞いてみることにした。

「そういえば、雪輝様は今年で御幾つになるのですか? 百歳くらいですか?」

「ん? いやそこまでは長生きしていないな。確か……」

「確か?」

「今年で五歳くらいかな」

 直後、ひなと鬼無子の挙げた驚愕の叫び声を、青い空が吸いこんでいった。良く晴れた空は今日が旅の始まりには最良の日であると主張しているかのようだった。

<完>

というわけで第三部これにて終了でございます。雪輝たちの山での戦いが終幕を迎えるため、これまでに比べ非常に長いものとなりました。これまでお付き合いくださった皆様には心からの感謝を捧げます。
また雪輝ですが産まれた時から二十代前半の状態であったので、外見年齢は別に子供ではありませんし、精神年齢も外見よりやや幼い程度です。

ではご感想への返信です。

白いクロさま

はい。第三部最終話を除けば最大の危機でしたが、そこは主人公補正といいますか、まあ土壇場の切り札で逆転でございます。

通りすがり様

過分なお言葉、心に染み渡るかのようです。当初からあった設定ではありますが、なかなか表に出す機会がなく、少々唐突に過ぎたかなと危惧しておりましたが、お褒めの言葉を頂き安堵しております。

天船様

第四部に持ち越しかと思わせておいて蛇の問題は解決しました。妖魔改も伏線を感じさせる動きを見せましたが、今回は退却しています。雪輝にとっては失うものの多い戦いだったかもしれませんが、同時に避けては通れぬものでもありました。

taisaさま

天外は非常になぞに満ちたキャラとしてつくってありいます。ある意味で非常に便利なおじいさんです。ぎりぎり善人かな? という位に胡散臭い人なので信頼はあんまりされておりませぬが。雪輝の前世などについてなどまだなぞを残していますがそれらも今後飽かしてゆく予定にはなっておりますので、お楽しみに。

Lさま

予定としましては本当に子宝に恵まれた大家族になってもらう予定です。修羅場もいっぱいというのが私の技量で書きうるかどうか怪しい所ですが。幸せ一杯にはなるかなと思います。

ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)
とまあこんな感じでもし夕座が負けたときのこととかをあらかじめ決めてあったので、素直に妖魔改は退却しました。まあいかにも、な感じになっておりますが。ま雪輝はぶちキレた時に体力気力が完全回復していましたので、そのまま連続先頭に突入で。中ボス二体からラスボスまでセーブポイント無しの強制戦闘イベントと言ったところでしょうか。

ここまでお付き合いくださり誠にありがとうございました。また今後もお付き合いいただければ幸いと存じます。
感想、誤字脱字などお待ちしております。

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