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[12144] おんりーらぶ!?【第一部】 【完結】
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/03/01 00:00
 前書き

 この物語は、いわゆる、現実→異世界ものです。
 かなりベタな内容となっておりますが、お楽しみいただければ幸いです。

 一話当りの文章量がかなり多く、読んでくださる方にご負担がかかると思いますが、ご容赦下さい。

 since 2009 9/23



[12144] 第一話『ルール通りの世界なら』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2011/06/19 20:53
―――**―――

 物語は無数にある。

 ときに数多の人生が、ときに数多の作品が、この世界を物語で満たしていく。

 それが形をなすための媒体は様々だ。
 本で、テレビで、映画で、インターネットで。
 思考で、感情で、想いで、魂で。

 物語は紡がれていく。

 そしてそのどれもが、キラキラと輝いて、そこに在る。

 また、
 ときには、そのストーリーに惹きつけられ。
 ときには、その登場人物に惹きつけられ。

 人の眼も、キラキラと輝いていく。
 世界は、光で満ちているのだ。

 純粋無垢な子供に限らず、その、美しい物語たちは、ページをめくられるたび、人の心を躍らせ、人に、何かの意味を持たせる。

 そうやって、世界を輝かせ続けるのだ。

 だから世界は、優しくできている。

 ただ―――

「つ……つ……おおぉ……」

 幼少の頃より、物語を追い続けた人物が1人、ここにいる。
 歳は、つい10日ほど前、見事に大学入学を果たしたばかりの、18。
 入学の際に軽く整え、イメチェンでも図ってみるかと若干茶を入れた髪以外は、黒いシャツと、ジーンズ、そして適当に羽織った青い上着、と、少々ずぼらな性格が見え隠れしている。

「つ……く……う……」

 物語は世界を輝かせる。
 だが、仮に。
 仮に、目を輝かせるのに年齢制限があるとすれば、彼は、それを過ぎているかもしれない。
 インターネットにはまり込み、昼夜を問わずネット小説を読みふけっていた彼は、実のところ、大学に入学できたのは奇跡だったのではないかと周囲に囁かれていた。

 確かに物語は、世界を輝かせる。
 特にインターネットの小説は、手軽に読める分、はまり込む者も少なくはない。
 ただそのせいで、本来とは逆に目を曇らせる者―――自分の生活リズムを崩す者も同時に少なくないのだ。

「く……うぅ……やば……い……」

 残念ながらその一例である彼―――日溜明(ヒダマリ=アキラ)も不健康なリズムを繰り返していた。
 眼は、そのせいで、残念ながら濁っている。

 その、日常。

 昼夜が完全に反転した入学前の期間の名残が、徐々に薄まってきた頃。

 その、日常。

 そろそろ大学で、どの授業をとるのかを決定しなければならなくなってきた頃。

 その、日常。

 そこから、アキラは、

「落ち……落ちる……マジ……やば……いって……!!」

 何故か、高度100メートルはあろうかという塔に張り付いていた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 青空の下。
 この村のシンボルでもある、高く高く天を突くような塔の元。

 そこでは、今、“結婚式”が行われていた。

 サラサラと風が流れ、若草の匂いが舞うその草原は、村の中にそのまま自然を残したような教会の庭であったりする。
 周囲は、それ自体が敷居のように背の高い木々で囲まれ、その中心の芝生には、正方形に整えられた大理石の白く大きな足場。
 そこには、純白で木製のベンチが2列。一糸乱れず整列している。
 その、青の下、白と緑の世界。
 そこに集まった者の一部は、正装、とでもいうべきスーツやドレスを着て、優雅に腰を下ろしている。

 ただ、残りの者は、頭から漆黒のフードをかぶり、塔の真下の一高い台座を取り囲んでいた。
 その光景は怪しげな雰囲気を醸し出しているが、その中央、台座の上に凛と佇む1人の女性の存在は、その陰りをかき消すように輝きに満ちている。

「天にまします、我らが主よ……お聞きください」
 花嫁の姿を模した白を基盤としたドレスに、彼女なりのアレンジか、橙色のラインが入り、かえって白を栄えさせていた。

 神聖な空間。
 そこで彼女は、指を胸の前で組み、祈りを捧げる。
 肩まで降りるストレートの赤毛も頭で纏め、若干切れ長の瞳も長いまつげと共に伏せ、言葉を紡いでいく。

 “必死に”。

「この身、エリサス=アーティを、おみっ……御身のそばに……こっ、この心を、御身のそばに」

 一瞬、少女、エリサスの血の気が引いた。
 彼女の眼の前に“引き渡し手”として立つ、彼女を育てた妙齢の女性の体も、冷や汗交じりにピクリと動く。

 噛み、かけた……。
 静かに閉じていた眼を身体の硬直にあわせてきつく閉じ、エリサスはすぐに雑念を振り払う。

 今、自分は“神に求婚”しているところだ。
 この求婚の儀が済めば、自分は国を守る騎士団の一員に入れる。
 子供の頃に見た、晴れやかな憧れの儀式の場に、自分は今立っているのだ。

 幼いとき、自分は両親を失った。
 残された自分と妹は、この村の孤児院で長く育ち、今ではその手伝いをしている。
 だけど、それじゃ駄目だ。稼ぎがない。
 騎士団になれば国仕え。
 現在貧しい生活を送っている自分たちの育ての親に、もっと楽をしてもらいたい。
 そして、自分の妹にも、もっといい思いがさせられる。

「たとえこの身体が砕かれようとも、たとえこの身体が枯れようとも、心は貴方に捧げ続けることを誓います」
 ようやく去年16になり、試験を受け、1回落ちて、今年ようやく資格が取れたのだ。

 この儀式は、人呼んで、真実の場。
 ここでの嘘は許されない。

 決められた文と、許される範囲でのアレンジ。
 昨日遅くまで丸暗記したその言葉を、慎重に紡いで、自分は結婚する。

 古臭いしきたりとはいえ、このあと配属されることになる国の魔道士たちも見ているのだから、正確に、この儀を完了させなければならない。

「では、誓いの口づけを」

 正面に立つ“引き渡し手”が、手を広げて決められた言葉を述べる。

 ようやく、エリサスの緊張の糸が解けて、表情も柔らかくなった。
 暗記した分はすべて言い終えたのだ。
 あとは、ツンと、空に向かって軽く口を突きだすだけ。

 これで神との婚姻は完了し、ゴールイン。
 そしてばっちり給料をゲット。

「……」
 心に浮かんだ雑念を振り払い、エリサスは口をツンと空に向けた。
 すでに儀式を終え、後ろで整列している同期たちの輪に自分も入っていくことができる。

 その光景を、正面から見ていた彼女の育ての親は微笑ましく見守った。
 微妙にエリサスの頬が紅潮しているのは彼女がそういった経験を全くしてこなかったからであろうことが浮かび、微妙に照れているのだと推測できると、場の神聖さも忘れて笑ってしまいそうになる。

 ともあれ、目の前の少女は自分の手元を離れるのだ。
 未だに彼女たちが自分の元を訪れたことを思い出す。
 幼い姉妹の2人で、人見知りを押し隠すように眉を寄せて並んでいたのがつい昨日のようだ。
 眼を伏せれば、脳裏に鮮明に浮かぶその光景は、目の前の少女と変わっていないようにも見え、それでいて、確かな月日の流れを感じとらせる。

 嬉しさと寂しさが入り混じった微妙な感情を胸の奥にしまい、もう1度、自分の娘の晴れ姿を正面から見据えた。

「……ぁ……」
「……?」

 後ろのギャラリーが、1人、2人と騒ぎ出す。
 その様子に、エリサスは気づいていない。ただ、自分の終了の言葉を待つように、空に唇をツンと上げているだけだ。

「危ない!! 2人とも!!」
 急速に、嫌な予感がしてきた直後、叫んだ誰かのその指を追って見上げてみれば、

「―――!! エリー!!」
「んえ?」
「っ―――」

 自分と、エリサス―――エリーの間に、人が“ふわふわ”と落ちてきた。
 青空より濃い青の上着が自分の目の前を通過したとき、正面にいるエリーと目が合った。
 いや、目が合ったのは気のせいだ。ただ、自分がエリーの眼を見ているだけ。向こうはこちらを見てはいない。

 エリーの目はまるまると開き、信じられないような顔を地面に倒れ込んだその落下してきた人物に向けている。

「う……そ」
 そんな呟きが漏れた唇に、遠慮がちにエリーは指先で触れ、身体をわなわなと振るわせる。

「何だ……!? 人か……!?」
「どこから……!?」
「上だ!! 空から……!!」
「飛んでいたぞ!!」

 気を失っているのか、倒れ込んで動かない少年を挟みながら、エリーと向かい合う。
 放心状態の彼女の指先は、未だ唇から離れない。

「それより、今……」
「あれって……」

 ギャラリーの声を拾い、ようやく事態が把握できた。
 あまりの出来事にそこまで目で追えたわけではなかったが、ふわふわと落下してきた少年とエリーの顔が、その、近かったような気がするのだ。

「うそ……、うそ……、うそ……、」
「エ、エリー、落ち着きなさい」

 なんとかなだめようとするも、エリーの震えは止まらない。

「はは……は……ははは……」
「エ、エリー?」

 最後に。
 エリーはその固まったまま不気味に笑うと。

「うーん……」
 パタリとその男の隣に倒れ込んだ。

―――**―――

 夢を、見ていた。
 自分が妙な塔の上に張り付いているという夢を。
 顔を横に倒して見えたのは、壮大な大自然。草原が広がり、遠くに見える山々。
 丁度、RPGのように、自分が今いる村だか町だか分からない場所は孤立しているようだ。

 そして、その、眼下。
 足元には、小さな町並みがあった。
 時代錯誤でもしているのか、はたまた日本ではないのか。
 木や土を主として使われた四角い建物たちは、チェス盤のように整理されて並び、その間の道には露店でもあるのか、赤や黄色の作物のようなものが見える。

 ここは、異世界だ。

 そしてそこから、大冒険が始まる。
 自分は“勇者”となり、この世界を滅ぼそうとしている“魔王”と戦うのだ。
 まるで、自分が好きなネット小説のように。

 末期だ。
 自分でそう思った。
 もしこれが自分の夢なら、自分の脳は終わっている。
 そして、最も信じたくないが、これが現実なら自分は落下して残念な結果になるだろう。

 だから、末期。

 ただ、体力の限界が来て、落下した自分に襲ったのはリアルな浮遊感。
 そして、近づいてくる、死。
 叫び声さえ上げられない。
 目をきつく閉じた顔に、暴風が叩きつけられる。

「……?」
 だが、何故か、自分は目を開けた。

 見えるのは、人の集まりと、白い世界。
 そして、自分の先にいる、1人の女の子。
 花嫁姿で、祈りを捧げている。

「―――、」

 目を開けてよかった、と思った。
 全身の体が震えるような、感動。
 自分が落下していることを忘れ、彼女が自分に近づいてきているかのような錯覚を起こした。
 理由は分からない。
 だけど、身体は震え続ける。

 その少女は目を閉じ、自分を待っているかのように顔を上に向けていた。

「!?」
 加速していた自分の体に、奇妙な光が付着した。
 その光は、まるで魔法のように身体の速さを止め、緩やかに地面に近づける。

 未知の体験に身体が泳ぎ、顔が前に出るように体が反転したところで、その少女は、目を、開けた―――

「……?」
 アキラはそこで目を覚ました。
 身体はうっすらと汗ばみ、頭はずしりと重い。

「っ、だぁ~~……」
 かけ布団を頭からかぶり、アキラは大きく息を吐き出した。

 なんという夢を見ていたのだ、自分は。恥ずかしすぎるにもほどがある。
 布団の中で頭をガシガシとかき、意味もなく布団を蹴りつけ、悶絶する。

「俺は……うわぁ~~……いてぇ~~よ……存在がぁ……!!」
 ベッドの上でもんどりうって、ゴロゴロと暴れ回る。
 これからは、インターネットを控えた方がいいかもしれない。
 そう、目を固く閉じながらアキラは誓いを立てた。
 ただ、過去何度もそう誓っても、破ってきたことなのだけど。

「……―――」
「……?」
 布団の外から、何かが聞こえてきた気がした。

 眉をひそめながら、音源を探ると、

「あれ……?」

 先に、布団の空気の違和感に気づいた。
 いや、匂いと言った方が正確か。

 まず、自分は普段布団で寝ている。
 それなのに、寝返りを打つたびギシギシとなるのは、間違いなくベッドのそれだ。
 そして最も重要な異変。

 自分の布団は、こんなに暖かな匂いをしていない。

「―――!?」
 布団をバッと開け、天井を見る。
 暗さに慣れた眼が暗闇でも捉えた天井は、自分の知っている黄ばんだ白ではなく、木造ペンションのような荒い茶色。
 ぶら下がっている電灯も、裸に近い豆電球のようなものに変わっていた。

「え……ちょ……っと?」
 体を起こせば、天井通りの木造の壁に囲まれていた。
 自室の六畳間と大きさは同じだが、木の匂いがするその部屋は、ベッドの脇に小さな机が付いているだけで殺風景だった。
 当然、起きればすぐに手元にあったパソコンも、ない。

「どこだ……?」
 小さな呟きに返ってくるのは当然何もなく、アキラはしばしベッドの上で硬直していた。

「……、」
 このまま止まっていてもらちが明かない。
 そう判断して、アキラはベッドから這い出す。
 サイズの小さいベッドに転びそうになりながらも、きちんと揃えられていた自分の靴を見つけ、そのままの動きでドアに向かう。

 とりあえずは、ここがどこかなのか把握しないと。

―――**―――

「素晴らしい!」
 恰幅の良い男が、大口を開けてツバキをまき散らした。
 広いテーブルを囲うこの会合に集まった者たちは、その様子に顔をしかめ、自らのカップを手で守る。
 この村の長であるこの男に、みな一応敬意を表し、咳払いをしてごまかすが、表情を変えようとする者は誰一人いなかった。

「聞けば、その男は奇妙な出で立ちをしていたそうではないか!!」
「はぁ……」
 エリーの育ての親、エルラシアも、表情を隠そうとしていない派だった。
 何度も響くその男の声に、隠そうともせずため息を漏らす。

「見た者は、その者が神々しい光を纏い、まるでその場に降臨するように舞い降りた、と。もう、間違いはない!!」
 男は、その様子に気づいているのかいないのか、相も変わらず声をホールに響かせ続けた。

「いやいや、とうとう我が村も輩出できるか……“勇者”を!!」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 とうとう我慢できなくなり、エルラシアは声を荒げた。

「何かね?」
「また“繰り返す”おつもりですか!?」
「少し落ち着きたまえ」
 落ち着くのはお前だ。
 そこまで口を出かかったが何とか飲み込み、エルラシアは立ちかかった腰を下ろした。

「それに、“繰り返す”とは心外だ。今までの輩は、“勇者”ゆかりのこの地を欺き、私腹を肥やさんとする勇者を名乗る府届き者よっ!!」
 ついこの前町まで行って見てきた劇の影響か。
 芝居がかった村長のセリフを聞き、今度はエルラシア以外からもため息が漏れた。

「村長。お言葉ですが、“1つ前の勇者のときも”同じことをおっしゃられていませんでしたか?」
「あのときは、私の目が曇っていた」
 今度は全員から、ため息が漏れた。

 この村、リビリスアークは、かつて、この世界を滅ぼそうとする“魔王”を撃破した勇者の出身地である。
 当時は聖地として崇められ、多くの人がこの地を訪れたことでさらに発展していった。
 だが、時代と共に第2、第3の魔王が現れ、ぽつぽつと各地で新たな勇者が誕生し、今回の記念すべき“百代目の魔王”ともなってくると、初代の魔王を滅ぼしたという印象は薄れ、今では知る人ぞ知る、という程度になり下がってしまっている。

 ただ、それほどに、人と魔王一派との戦いは歴史があるのだ。

「だが、今回は違う!! そのような幻想的な現れ方をした者は今までいなかった。今度こそ、“勇者の地”がどこなのか、世界に知らしめられる!!」
「“魔王”を、倒すのが、目的でしょう? 決して、この村を、繁栄させるのが、目的ではありませんわ!!」

 何故、こんな男が村を治めているのか。
 かつて、初代の勇者を手厚く保護し、旅に出させて以来、ずっとこの、ファリッツ家がこの村を納めている。
 特に現在のこの当主、リゼル=ファリッツは酷い。
 村を繁栄させることしか頭にないのは、あるいは村長としてのあるべき姿なのかもしれない。
 だが、不審な人物を見つけるたびに、勇者と崇め、強引に旅立たせているのはいかがなものか。
 エルラシアが知っているだけでも、今まで8人はいた。
 年端もいかない者も、ファリッツは強引に危険な目にあわせ、その者たちは例外なく消息を絶っている。
 今頃魔物の餌か、どこか遠くの村で日々を送っているのだろう。

 ファリッツが強引に彼らに出した援助も、徐々に寂れてきているこの村にとっては小さくない。

 ファリッツ家先祖も、草葉の陰で泣いているのではないだろうか。

「だが……、ふむ。分かった」
「……?」

 ファリッツは、ようやく自分に不審の目が気づいているのに気づいてか、居住まいを正しながら、みなを見渡した。

「今、勇者様は?」
「……私の孤児院で、お休みになっています」

 エルラシアは、突如現れた少年を勇者と呼ぶことをわざわざ訂正しなかった。

 確かに彼は、今までにない現れ方をした。
 自分とエリーの間に“ふわふわ”と降りてきたとき、確かに感じた、“魔力”。
 自分は、“エリーの妹”ほど魔術には詳しくはないが、レベルは明らかに上級者だった。
 その場にいた国仕えの魔道士に聞いても、彼のことは知らないという。
 そして、この村にしては不自然な出で立ち。

 確かに、何か感じるものがある。

「では、こうしよう。彼にはテストを受けてもらう」
「テスト……ですか?」

 こくりと頷くファリッツに、エルラシアは、背筋に冷たいものが当たるような感覚を起こした。
 “自分が一番懸念している、エリーのこと”もあるのだ。
 これ以上妙なことを言ってもらっては困る。

「そのテストを受けてもらい、合格すれば、援助する。それでいいだろう?」
「……まず、テスト内容をお聞きしたいのですが」

 次にリゼル=ファリッツの視線が山に向いたとき、エルラシアは、カップを投げつけようとする手を止めるのに必死になった。

―――**―――

「こっち……か?」
 月夜が照らす廊下を、アキラは慎重に歩いていた。
 ギシギシとなる足場も、ただただ質素にドアが並ぶ壁も、アキラの背筋を寒くさせるが、現状、アキラの頭に元の部屋で眠り続けるという選択肢はない。

 ただ、外に出ようとしていたアキラだったが、その前に、どうしても気になることがあった。

「―――、……」

 まただ。
 また聞こえた、“あの歌声”。

 時間さえ分からないが、夜に響くあの歌の主を、アキラは探していた。
 何の言語かも分からないが、あの、どこかで聞いた唄―――その、主を。

「……!」
 階段を上り、三階に到着したアキラは、さらにその上にあるドアが小さく開いていることに気づいた。
 そして頬をくすぐる、外気。
 ここから、屋上につながっているのかもしれない。

 歌声は、どんどん近付いてくる。

「……、―――、」
 屋上に出ると、少女が、いた。

 小さく胸の前で手を合わせ、屋上の縁に登り、すっと広がる町並みを見下ろしながら。
 彼女は透き通るような声で歌っていた。
 髪ごと羽織った漆黒のマントをはためかせ、村の中央にある、天高くそびえる塔に正面から向き合い、月下で、祈るように。

 そこにいる彼女は、凛とし、それでいてどこか遠くに想いを馳せているように神聖な雰囲気を醸し出していた。

「…………、もう目、覚めたんすか?」
「……ぅ、えあ?」

 その光景に呑まれ、アキラは唄が終わっていたことに気づかなかった。
 目の前の少女は、半分だけ閉じたような顔をゆっくり向けてくる。
 先ほどの雰囲気は、気のせいだったのだろうか。

「! って、おまっ……え、は……」
「……」
 正面から見据えて、ようやく気づいた。
 目の前の少女は、自分の夢に出てきた、あの、花嫁だ。

「こんばんはっす」
「……あ、ああ、こんばんは」
 見惚れていた少女は、とん、と縁から飛び降り、アキラの元までとぼとぼ歩み寄ってきた。

「自分はマリサス=アーティ。マリーっす」
「マリス?」
「……マリーっす」
「ああ、俺はヒダマリ=アキラ。よろしく」

 アキラが差し出した手を、マリスはどこか不機嫌そうにとり、軽く揺すった。
 ただ、マリス。
 中立的な顔をしているが、どうやら日本人ではないみたいだ。

「……君、日本語上手だよね?」
「……」
 マリスは小さく首をかしげながら、眠そうに、半開きの眼をこする。
 胸の高さから覗いてくるその眼は、下手をすれば閉じているように見えた。

「悪いけど、ここがどこだか教えてくれないか? 俺、正直何も分からないんだけど……、」
 アキラは、ちらりと、村を見渡した。
 先ほど、夢で見た通りの姿をしたその村は、自分の知るどの場所も当てはまらない。
 ただ、ふつふつと身体の中で生まれ始めた“ある予想”を、ぬか喜びだけは避けるように抑え込む。

「リビリスアークっす」
「リビ……え? なんだって?」
「リビリスアークっす」
「リビリスアークス? え? 国は?」
「にーさん、その調子だと間違った情報がどんどん増えていくっすよ」

 気だるそうな声を出しながら、マリスは壁に背を押しあてて座り込んだ。
 アキラもそれに倣って隣に座る。
 どこかマイペースそうなマリスは、小さな欠伸を噛み殺しながら、置いてあった布の袋から、分厚い本を取り出した。

「にーさん、自分も聞きたいんすけど、昼間、あの塔に張り付いて何をやっていたんすか?」
「……、見てたのか?」
 その雰囲気も、一人称も、どこか妙なマリスは、小さくコクリと頷いた。

「……分からねぇ。気づいたらあそこにいたんだ」
「……」
 塔に張り付いて何をしていたのか。
 そう問われても、アキラに正確な答えを用意することはできない。
 本当に、気づいたらそこにいたのだ。

「記憶障害っすか?」
「……かも、しれない。マジで、意識が戻ったら……あれ?……」

 そう言って、アキラは頭をガシガシとかいた。
 記憶がない。

 自分が何者で、出身地はどこか、ということまでは分かる。
 だけど、直前。
 自分が気を失って塔に張り付いていた以前の記憶が、霞かかって呼び起こされないのだ。
 消えている、というわけでもないだろう。
 思い出せそうで思い出せない、といった、微妙な感覚。
 そんなむずかゆい頭をもう1度かいても、答えは出てこなかった。

「もし、それが本当なら、にーさん……」
「?」
 マリスは、ぱらぱらページをめくって、とあるページを開いた。

「本当に、“勇者様”かもしれないっすね」
「……?」
 聞き慣れない―――いや、聞き慣れ過ぎているその単語をマリスは発しながら、まるで童話のような挿絵のあるページをアキラに向ける。

 1人の青年が巨大な闇の塊に、大きな剣を振りかざし、勇敢に戦っているその挿絵は、月下でも、映えた。

「……!」
 マリスは、手を差し伸べる。
 その表情は、アキラの脳が芯から震えるような笑みだった。

「ようこそ“異世界”へ―――」

―――**―――

 遥か昔。
 この世界では、とある2つの種族が存在していた。

 空高く存在する輝かしい“神族”。
 そして、地中深く存在する禍々しい“魔族”。

 いや、禍々しいというのは語弊がある。
 それは、神族を基盤として考えた場合に、魔族の使役する魔物が異形なだけであって、魔族にも人の姿に近いものが多い。
 ただ、使い魔として自身に近い姿を使役した神族から見て、異形の使い魔を使役する魔族が禍々しいと表現されるのは自然の流れだったのだろう。

 いつからかは知られていない。
 だが、その両種族が存在しているという事実が、あっただけ。

 ただ、あっただけならば問題はなかった。
 乖離して存在していた両種族は、自分の領土を守ることに専念しているだけで事足りたのだから。
 問題があったのは、その先。

 神族の住む天界と、魔族の住む魔界の中間に、地上という場所が発見されたことから、その2つの種族の戦いの歴史は始まった。
 両種族は同時に地上を発見し、その流れから、地上を我がものとせんと戦うこととなる。
 以前から互いに存在を知っていたものの、あまり互いを友好的に思っていなかったこともあり、分け合うという発想はなかった。

 しかし、両者の戦いは拮抗し、硬直状態へ。
 これ以上の戦闘は、舞台となった地上そのものを破壊しかねないと思われ始めたとき、地上で新たな種族が発見された。

 “人間”という種である。
 魔族は非力な人間を戦場にいる動物程度にしか認識しなかったが、神族は違った。
 この互いにじり貧の硬直状態から抜け出すべく、新たに発見された事象を、“可能性”として認識し、味方につけることを思いついたのだ。

 人間側からしても地上で行われる戦闘に終止符を打つことは望むべくことであり、また、異形の魔物を使役する魔族に比べれば、まだ自身に近い姿をしている神族の方に親近感を覚え、その条件を呑む。

 神族は自らの力を人間に分け与え、また人間も神族に知恵を分け与え、神族の軍政は徐々に力を伸ばしていった。
 人間が“戦力”として認識されるほどに教育されると、魔族は多量の敵軍の猛攻を受け、地上を放棄、撤退することになる。

 これを受け、魔族は“神族に染まった人間”を今度こそ敵と判断。
 魔族は未だに地上侵略を目論み、“魔王”と呼ばれる実力者が乗り込んでくるが、そのたびに、人間によって防がれている。

 その、魔王を撃退する人間。

 それを、人は、“勇者”と呼ぶ―――

「ちょ~っ、中二」
「もう少しマシな感想はないんすか?」

 マリスの屋根の上での授業を聞き、アキラは大欠伸をかました。
 自分は確かにトリップ物の小説が好きだ。
 このシチュエーションというのも、あったらいいな、と思っていたくらいなのだから。

 だが、本当にその“異世界”に迷い込んだ今、アキラが浮かべたのは陳腐な感想だった。

 ここが異世界だというのは、納得せざるを得ない。
 初めて見る地。
 非現実的な町並み。
 現実からの強制移動。
 日本語しか話せない自分が異世界の者と会話できるという便利さ。
 そして、記憶が若干飛んでいるという、トリップ物定番の事態も起こっている。
 こんな立派な夢を見るほど、人生は楽しくできていないということを、アキラは嫌というほど知っていた。
 定番なら自分はこの物語の主人公で、“勇者”なのだろうが、何かもやもやする。

 というか、恥ずかしい。
 この後自分は“打倒魔王”決意し、旅立つのだろう。

 少しは燃えるものがある。

 だが、自分は何か?
 必殺技の名を叫んだりして戦っていくのか?
 もう一度言おう。

 恥ずかしい。

「その“勇者様”は、言い伝えによれば“異世界”からの来訪者の比率が高いらしいっす。半分は超えてるっすよ」
「……ちなみに、ま、“魔王”? とかいうのはどれくらいいたんだよ」
 長時間この世界の簡単な歴史を語ってくれたマリスに僅かな親近感を覚え、アキラは口調が軽くなる。
 マリスがどことなく、くつろいで座っているせいか、アキラの緊張も薄れてきていた。

「今回で“百代目”っすね……。まあ、魔族側からしてみたら、“人間すら突破できない”のは、屈辱っすからね」
「人間、すら……?」
「魔族が本当に恨んでいるのは、自分たちを“悪”に仕立て上げた神族。人間は、神族の防波堤っすよ。魔族を魔界に閉じ込めておくための」
「……」
「同時に発見した地上が神族の“洗脳”を受けた人間。それが面白くないんすよ」

 人間が神族の“洗脳”を受けた。
 何が善で何が悪か。
 その判断材料は、“自分がどこに立っているか”。
 人間の立ち位置を、遥か昔に天使側に付けたというのならば、なるほど確かに人間は神族に洗脳されていることになるだろう。

「さっきからやけに魔……相手側の肩持つな」
 一瞬、魔族と言いそうになった口を紡ぎ、アキラはマリスを呆れたように見た。
 魔王が限界。“魔族”という更なる中二ワードを口にするのは、まだまだ先になりそうだ。

「今のは“中立説”。よく考えるとこの歴史はこういうことなんじゃないか、って思う人もいるんすよ。まあ、自分は“神族説”も“魔族説”もどうでもいいから、“中立説”を1番知ってるだけっすけどね」
 そこで、マリスは小さく欠伸をした。

「眠いのか?」
「いや、なんか、にーさんといると和むんすよね」
「……って、え……」

 ちょこん、という擬音が似合うようにマリスは小さな頭をアキラの左肩に乗せた。
 甘い、シャンプーの匂いがする。

「? どうしたんすか?」
「……いや、なんか、RPG買ったら、それが実はギャルゲーだった、みたいな?」
「…………にーさん、無視していいっすか?」
「……ああ、頼む」

 口を突いて出た言葉は、できれば永久に封印していただきたい。
 夜風とは別の寒気をごまかすように、アキラは奥歯をかみしめた。
 だけど、男の性か、マリスに見えない位置でガッツポーズをしたりしている。

 ようやくアキラは思えてきた。
 異世界、万歳、と。

「それより、お前……」
「だからマリーっす。名前を知っててもらわないと、結構面倒なことになるんすよ」
「あ、ああ、マリス……」
「……」

 今日会った子、しかも美少女にいきなり好かれ、名前で呼ぶことを強要されるというギャルゲーにしても荒い展開に、それもいいものだと思いながらも、アキラは先ほどから気になっていることを口にした。

「なんで、お前は俺を“にーさん”って呼ぶんだよ?」
「ん~、“にーさん”だからっすよ」
「……そっか」
 和み続けるマリスにこれ以上の追従はつかれるだけと判断したアキラは、ため息交じりにマリスの本をぱらぱらめくる。
 所々にある挿絵はともかく、書いてある知らない文字も意味が分かる。

 ご都合主義、だ。
 アキラにとって万々歳なのだが。

「それで、俺は、ゆ、“勇者”とかいう存在なのか?」
 鼻をくすぐる甘い香りを極力意識しないように体を硬直させたアキラのガッツポーズは、まだ解けない。

「多分そうっすね……。ああ、やっぱ自分変っすね……。にーさん、もしかして……やっぱり……」
「ちょっと、ちょ……!?」
 妙に体が近くなってきたマリスを、身をよじって避ける。
 正直に言えば嬉しいのだが、攻略対象キャラクターのいなかった現実世界では、アキラの女性への免疫はゼロ。
 体を震わせ口籠ることしかできない。

「そ、そうだ! 魔法!! 魔法、あるんだろ? 見せてくれないか?」
「ん~、うぇ? もう見せたじゃないっすか」
「……え?」
 マリスは名残惜しそうに体を離すと、ゆっくり天を突く塔を指差した。

「にーさんが落ちてきたときに、ほら」
「……!」

 アキラは、再び”あの光”に出逢った。
 発光したのは自分の足に乗せている分厚い本。
 それをマリスが指差した途端、幻想的な銀の光。

 その光に包まれた本は、アキラの目の前でふわふわと浮かんだ。

「綺麗っすよねぇ……この色」
「わっ、分かった、分かった……!!」

 目の前で怪奇現象が起こったアキラは震えながら、本を凝視する。
 だが、マリスが力を抜くと、本は、ぼとりとアキラの膝の上に落ちた。
 燃えていたようにも見えたその本は、変わらずひんやりとしている。

「どうっすか、今の」
「あ、ああ、というか、ありがとう……」

 マリスは満足げに頬笑み、再び頭をちょこんと乗せた。

「にーさん、面白かったすよ……。白く発光しながらゆっくりと降りてくるの見てたら、笑いそうになったっす」
 なんと、自分はそんな天からミカエルが降臨するかのような登場をしていたとは。
 ほとんど気を失っていて自覚はなかったが、さぞかしギャラリーにはドラマティックに見えていただろう。

「はあ……、というか、マリス。お前ぜんっぜん印象違うよな……」
「?」
 のほほんとしたり、笑ったりしているマリスを見て、アキラは盛大に肺に溜めたものを吐き出した。

「ドレス着ているときは、なんか……まあ、違うよな」
「…………ああ、」
「?」
 マリスは不意に、ポン、と手を打った。

「にーさん、勘違いしてるっすよ……。あのとき、ドレスを着てたのは、自分じゃないっす」
「……は?」
 マリスは眠そうな目をそのままアキラに向けて、呟いた。

「あれは、“ねーさん”っすよ。自分の双子のねーさん。ほら、丁度……」
 ギッ、という音が響いた瞬間、振り返ったアキラの目に飛び込んできたのは、“マリス”だった。

 いや、そのはずはない。
 容姿、背丈ともマリスと同等だが、違うのは切れ長の眼。
 タンクトップのシャツとジャージにも似たズボンという簡易な服装だが、纏う雰囲気はマリスより鋭く、色白の肌が月下によく映える。

 屋上のドアの前、マリスよりも明るく長い髪を夜風になびかせ、その少女は、その目をすっと開いて自分たちを見下ろしていた。

「……」
「……」
 月を背に立つその姿に、アキラは再び体が震えた。
 マリスと出会ったときと同じような、いや、それ以上の、激情。
 それが体の中で暴れ回っている。
 不思議な感覚だった。

 同じ容姿の2人に挟まれていることもさることながら、夢で見た少女が、目の前に立っている。
 今度は、間違いなく本人だ。
 その事実が、身体を打ち砕く。
 こんな感覚は、生まれて初めてだ。

「……エリサス=アーティ。自分の双子のエリーねーさんっす」
「……あ、ああ……」
 どこか遠くに聞こえるマリスの声に何とか返事をしつつ、アキラの目は、エリーを捉えて離れない。

「? にーさん?」
「にっ……」
 マリスがアキラの身体を揺すったところで、初めてエリーから声が漏れた。
 その声は、一部しか聞いていないにもかかわらず、アキラの身体の中を揺らし続ける。

「に、”にーさん”ですって!?」
「なっ!?」
 身体の揺れは、一気に収まった。
 いや、エリーの怒声に吹き飛ばされた。

「あっ、あああんた……っ、あたしの妹に、どっどんな、プッ、ププププレイ強要してんのよ!?」
「は!?」

 ビシッ、とエリーに指差されたのはマリスの頭が乗ったアキラの肩。
 それと同時にアキラの脳裏に蘇ったのはトリップ物定番のイベント。

 すなわち、女性からの理不尽な暴力。

「っ、まっ、待て!!」
「っ―――」

 伸びてきた手は、マリスを掴み、ぐっとエリー側へ引かれていった。
 そのままの勢いでマリスを庇うように後ろに回したエリーは、アキラからマリスを守るように腕を広げた。
 どうやら、いきなり殴られるわけではないようだ。

「マ、マリス、大丈夫!?」
「大丈夫っすよ……。それよりねーさん、目が覚めたんすね」
 夜空に響くエリーの叫び声と、夜空に混ざるようなマリスの声。
 同じ顔をした二人を交互に見ながら、アキラは恐る恐る立ち上がった。

「こっ、ここは、夜間、男性立ち入り禁止よ!! あなた、何者!?」
 顔を真っ赤にして怒鳴るエリーに、先ほど見惚れていたことも忘れ、アキラは退避態勢に入った。

「お、俺は、ヒダマリ=アキラだ」
「誰が自己紹介しろって言ったのよ!?」
「おっ、お前だお前!!」
 暴力は何とか避けても理不尽さは避けられないのか。
 エリーの声に反発するように大きな声を返したアキラは、壁にじりじりと後ずさった。

「マリー、この男は!?」
「え、だから、にーさんっす」
「あの男の言うことなんか聞いちゃダメ!!」
 自分の妹の正気を取り戻そうとするように、エリーは何度もマリスを揺すった。
 されるがままに揺すられるマリスは、目を回し、どこか気持ちが悪そうだ。

「あっ、あたしの妹洗脳しといて……、何やってるのよあなた!!」
「洗脳って……。お前あれか!? 被害妄想女か!?」
「質問に答えなさい!!」

 寝起きで混乱しているのか、怒鳴るばかりで会話が成り立たないエリーから一旦視線を外し、アキラはマリスをすがるように見た。

「ね、ねーさん。にーさんは……」
「だから!!」
「とりあえず、揺するの、止めて、欲しい、っす……う……きゅぅ……」
 ダメだ。
 アキラは揺すられて意識がもうろうとしているマリスを見て、状況を正しく理解した。

「とにかく、ここからすぐに出て行って!! 今、すぐ!!」
 くらくらと頭を回すマリスをようやく解放し、エリーは肩で息をしながら外を指さす。

「あ……ああ、」
 その剣幕に押され、アキラはゆっくりと歩き出す。
 背中から煌々とした殺気に押され、屋上を1歩出たところでエリーの悲痛な叫びが聞こえた。
 きっと、“変わり果ててしまった”マリスを何とか正気に戻そうとしているのだろう。

「なんだってんだよ……マジで」
 苦々しげにつぶやき、元の部屋に戻ろうともせず、アキラは建物の外に向かう。

 異世界に来て、塔から落下し、気を失って、目がさめれば美少女に理由もなく好かれ、その姉に理不尽にも追い出される。
 単純に言ってしまえばこれだけの一日。
 そんな一日が、終わろうとしている。

 だが、建物を出るとき、アキラの身体にジンと熱いものが芽生えた。
 いや、その熱が芽生えたのは、今ではない。

 さっきだ。
 これは、あの被害妄想が激しい女、エリーに出会ったときからのものだ。
 どれだけ罵倒されても、アキラは何故かあの少女のことが気になった。

 Mへの目覚めである、

 わけはない。

 ただ、どうしても、気になる。
 そうとしか言えなかった。

 気取った言葉を使うなら、“運命”、なのだろうか。

「なんだってんだよ……、マジで」

 温度差の激しい姉妹との出会い。

 異世界での最初の夜に名前を付けるなら、そうなるのだろう。
 アキラはもう1度呟き、あてもなく建物の外に出た。

―――**―――

「へっ、くしっ!?」
 昨日の夜とは打って変わって光と活気が包まれる村の中、アキラは急激な寒気を覚え、目を覚ました。

 アキラが寄りかかって眠っていたのは昨日の建物の郵便受けの下。
 昨日当てもなく外に飛び出たアキラは、所持金も土地勘のないことも手伝って、街をうろうろ徘徊したあと、結局この場に腰を落ち着けることとなった。

「あ~、喉いてぇ……あ~、」
 ゴホゴホと咳をして、身体を伸ばす。
 無理な体勢をしていたせいで体中からパキパキという音が漏れるが、背中と尻の痛みはそれを超えていた。

「……?」
 何とか立ち上がったところで、アキラは、自分の隣に毛布が丸まっているのに気づいた。
 おそらく寝返りを打ったがためにそうなっているのだろうが、もともとは、アキラにかかっていたのかもしれない。

「……」
 僅かばかりの思考のあと、アキラは軽く土をはたき、毛布を畳んで周囲を見渡した。

「腹……へったな……」
 そう呟くも、時間が早いのか、元の世界の田舎の村並みをそのまま土と木で造り変えたような道に、人通りはない。
 表通りの喧騒が、僅かに聞こえる程度だ。
 正面に飲食店と思われる建物があるが、あいにくそちらも閉まっていた。

 さて、自分はどうしよう。

 異世界で、1人。
 ここがどういう文化を持った世界なのかという情報も、宿も、先立つものも、何もない。
 加えて言うなら空腹だ。

 異世界に漂流した主人公は、その世界で手厚く保護を受け、徐々に世界に慣れていくものではないのだろうか。
 だが、自分はどうだ。

 昨日そのガイドらしき少女に出逢ったというのに、同じ顔の少女に追い出され、現在野宿明け。
 途方もないとは、このことだろう。

「ひっでぇ~っ、この仕打ち」
「……、おはようっす」
「―――!?」

 突如話しかけられ振り返ったとき、一瞬、血の気が引いた。
 そこにいたのは、朝から気だるそうな声を出す、1人の少女。
 月の下で見ただけだが、この雰囲気の少女は、太陽の下で見てもどこかのほほんとしている。

「…………ガッ、ガイド!!」
「? マリーっす」
「あ、ああ、悪い、マ、マリス」
「……、」
 女性をファーストネームで呼ぶことは慣れない。
 戸惑いながらも、かすれた喉は何とか名前を紡いでくれた。

「この毛布、お前が?」
「? そうっすよ。本当は運んでもよかったんすけど、ねーさんに見つかったら大変だと思って」
「ああ、ありがとう。マジで」
「ねーさん、“妹”のことになると、いつもああなんすよ。大丈夫だったっすか?」
「あ、ああ、ありがとう」
 この少女にはお礼を言ってばかりだ。
 そんな気もしたが、この世界で唯一と言っていい協力者に、アキラは鼻のあたりがジンとするのを感じた。
 どこか気だるそうにマイペースを保っているのに、気を使ってくれる。

 明るいところで見ると、マリスの髪は、エリーの赤毛と違い、色の薄い銀の長髪だった。
 瞳も、エリーと比べると色彩が薄い。

「双子なのに、本当に違うな……。あの、なんだっけ、エリサス……?」
 方や、ほとんど理不尽に怒鳴り自分を追い出したエリー。
 方や、理由もなく好いてくれる親切なマリス。

 いくらエリーのことが気になるとは言え、選択問題にもならない2人の姉妹の善悪は、アキラの中で確かに構築されつつあった。

「ねーさんは、過保護っすからね……。自分はよく、守ってもらってるんすよ。昔から」
 マリスは小さな欠伸をしながら、表情を緩めた。
 過保護という言葉を使ってはいるものの、マリスが姉を好いているように感じるのは、アキラの気のせいだけではないだろう。
 ただ、追い出されたアキラ側からしてみれば、あの性格は、身体が震える思いだ。

「でもあれは、異常じゃないのか?」
 アキラは昨夜のことを鮮明に思い出せる。

 月夜に突如現れたマリスと同じ顔の、エリー。
 電撃が走ったかのように身体が芯から震え、頭をハンマーで殴られた。
 そんな感動を何故か覚えたその直後、それを与えた少女が叫び、妹に妙なことをしていると勘ぐり、自分を追い出したのだ。

 ただ男女が寄り添って座っているだけで、顔を真っ赤にして妙な単語を口走っていたのは、面白かったと言えばそうなのだが、実際容疑をかけられた側からすれば冗談でない。
 マリスに寄り添われて、アキラが鼻の下を伸ばしていたのは事実だとしても、沽券にかかわる。

「まあ、そういうこと言わない方がいいっすよ……」
「?」
 マリスは開きっぱなしの門にゆっくりと歩を進めながら一言漏らした。
 来い、ということらしい。

 今度こそ事情を説明してくれるのだろう。
 そんな安堵が身を包んだアキラは意気揚々とその後を追う。
 門の中は、外からも見えた小さな公園のような庭が広がっていた。

 その中を歩きながら、アキラは自然と頬が緩んだ。
 アキラの中でマリスの好感度がうなぎ登りしていく。
 エリーに出会ったときの衝撃も薄れ、自分を何故か好いてくれるこの少女になら、“メンバー”にいて欲しいと思える。

 しかし。
 宿の問題も解決しそうだと調子が上向きになりかけたアキラに、

「だって、」

 マリスから、爆弾が投下された。

―――**―――

「お、お母さん!! 今の、本当に!?」
「え、ええ……」
 エリーは野菜を洗いながら、隣でそれを切っている育ての親、エルラシアによく通る声を返した。
 コンロには大きな鍋が設置され、それらが投げ込まれるのを今か今かと待っている。
 孤児院の朝は早い。
 子供たちが起きてくる前に食事の用意を終えなければ、幼さゆえの不満で、この建物は大混乱するだろう。
 最も、この時間にしては大きな声を出したエリーをたしなめるほどの余裕は、エルラシアにはなかったりするのだけど。

「あのお方が今回の“勇者様”。昨日の会合でそう決まったわ」
 それで。
 と、エリーは辺りを見渡す。
 集められた食材は、野菜だけにとどまらず、この孤児院では珍しい牛肉まで並んでいる。
 朝からどうかとも思うが、村長にもてなすようにと渡されたのだろう。

 あのお方、とは、自分もよく知らない。
 ただ、入隊式のとき、空から降ってきた男のことを指すのであろうことは、容易に予想できた。

「まったく、ファリッツ氏も毎度毎度……」
 ぶつぶつと野菜に向かってつぶやくエルラシアを見ながら、エリーは頭の中がぐわんぐわんと回っていた。
 こんなことなら、エルラシアの好意に甘え、眠っていた方が良かったかもしれない。

「ちょっと待って、じゃあ、あたしの入隊式は?」
「それは……そうね、聞いてなかったわ。あなたが気を失ったあと、すごい騒ぎだったし……」
「そんなぁ……」
 せっかくの晴れ舞台が丸潰れ。
 その事実もさることながら、ようやく1年越しに叶った入隊が流れては、一体どうなるのか。
 こんな小さな村に、国の魔道士が来てくれるのは年に1度か2度あるかないか。
 次のチャンスはいつになるか分からない。
 聞けばすでに同期たちもこの村を離れ、国の首都に向かっているとのこと。
 配属も割り振られ、各々国を守る準備を進めているのであろう。
 それなのに、自分がやっていることは、ジャガイモの皮むきだ。

自分の妹にも変な虫がつき始めたというのに、姉である自分がこれでは。
 自分だけが取り残されている錯覚を起こす。

「でも、そんなことはどうでもいいのよ」
「ど、どうでもいいわけないでしょ!?」
 エリーの剣幕に、エルラシアは、はっ、と息を吐き、発火装置に火を点けた。

「お母さん、私が魔術師になるの反対だったからって、いくらなんでもそれは……」
「そういうことじゃないのよ」
「?」
 エルラシアの浮かべた表情には、かろうじてファリッツ氏への怒りで隠された憂いがあった。

「あなた、入隊式の“決まり”。覚えてる?」
「……決まり?」
「そう。『あの場での嘘は、絶対に許されない』」
「え、ええ。覚えてるわよ。この国の歴史とか“しきたり”って、試験科目の1つだもん」

 正直、習っていて、どうかと思った。
 心を読む術を持つ神族への嘘はすぐに暴かれる。
 だが、神族と人間の儀礼の際には互いに礼儀として、神族は心を読む術を、人間は嘘を吐くことをそれぞれ禁止した。
 それが、入隊の儀の“しきたり”の由縁だそうだ。

「でも流石にあれは、頭の固い人たちだけの風習よ? それが何か関係あるの?」
「大ありなのよ……」
 エルラシアは、もう1度大きなため息を吐いた。

「まさか、エリーを国に送り出す心の準備をしたばかりで、“こっち”の心の準備もしないといけないなんて……」
「?」
 よく見れば、エルラシアの眼にはクマができていた。
 昨夜、寝ていないのかもしれない。

「エリー。あなたはね、その頭の固い国仕えの前で、誓いの口づけをしたのよ。“勇者様”に」
「……―――」

 波紋は最初、小さく広がった。
 そしてその波紋は徐々に勢いを増し、エリーの中で霞がかっていた入隊式を呼び起こす。
 気を失う、その直前。
 なにか、起こらなかったか、と。

「…………え、」

 エリーが、野菜の匂いがする指をゆっくりと唇に持ち上げたとき、屋敷の外から叫び声が聞こえてきた。

―――**―――

「だから言ったんすよ……。“にーさん”だって」
「……」
「……」
 マリスは、隣に座ったエリーと、テーブルを挟んで正面に座ったアキラを交互に見やる。
 二人の顔は、蒼白に染まり、時折アキラから喉の調子を整えようとするかのようにゴホゴホと聞こえてくるだけで終始無言。
 エルラシアは、まずはお互い話をすべきと、アキラに軽く挨拶してすでに調理場に戻っているのだが、話し合いは始まりそうにない。

 洋造りのこの応接室には、開け放たれた窓から涼やかな風が吹き込んできていた。
 若干乾燥しているその空気と、外の青空を見るに、今日はいい天気になりそうだ。
 だが、この部屋の室内は、どんよりとした、じめじめとした、ずしりと重い空気が漂っていた。

「二人とも、なんか喋って欲しいっす」
 空気の重さに耐えかねたマリスが、ぼそりと一言漏らす。
 様子の奇妙な2人の目付け役としてマリスが抜擢されたのだが、マリスにしてみれば重苦しい空気に放り込まれただけのような気がしなくもない。

「ヒダマリ=アキラです……。よろしく……」
「エリサス=アーティ……。昨日はどうも……」
 昨晩したばかりの自己紹介も、覇気の全く感じられない口からボソボソと漏れただけ。
 二人とも、テーブルの上で視線を泳がせ、ほとんど放心状態だった。

「あたしさ……夢があったんだ……」
 そのままの状態でエリーからようやく漏れた声は、哀愁がまんべんなく漂っていた。

「国の魔道士になって……国を守るの……。その給料をここに入れて……孤児院のみんなにもっといい暮らしをしてもらって……。それでお母さんにもっと楽をしてもらうの……。素敵でしょう?」
「ねーさーん? 目が、乾いてるっすよーう?」
 前でマリスがひらひらと手を振っても、エリーの眼はそれを追わず未だに泳いでいる。

「それでいつか素敵な人と結婚して……。幸せな家庭を築くんだ。協力して、孤児院で子供たちの世話をするの、えへへ。ちなみにそれは、今じゃダメ」
 セリフの最後は妙に力がこもっていた。
 自分の夢、というよりも将来への願望を口にしたエリーは、再び自虐的にえへへと笑う。

「でもさ、それ、もう叶わないんだよね……。見知らぬ人の妻になって……。あたしは人生の墓場に早々と入るの……。どこで間違っちゃたんだろう?」
「ねーさん……。『“勇者様”へは最大限の敬意を払わなければならない』っていう“しきたり”ガン無視っすね……」
「えへへ~……あ~嬉しいなぁ~……幸せだなぁ~……」
 付け焼刃のように出てきたエリーの賛美は、重苦しい空気の中に溶けていった。

 エリーも、礼儀がなっていないということは十分に分かっている。
 だが、試験をパスしたときからまっすぐに引かれていた自分の輝かしいルートが粉々に砕かれ、敬意を払う余裕はない。
 加えて言うならば、目の前の“勇者様”は、昨夜の一件によりどうしても信用できなかった。

「……」
 マリスはエリーを横目で捉えつつ、正面に座しているアキラを見据えた。

 マリスがむしろ、姉のエリーより気にしている存在。
 姉の性格を知っている以上、突如婚約者ができてしまったことを聞けば、エリーはこの程度のショックは受けると思っていた。
 だが、アキラはどうだろう。
 マリスの見た限り、アキラはこの事実を知って、うろたえるだけに留まると思っていた。
 そして内面ではどこか喜ぶ。
 そんなリアクションをある種期待してこの事実を言ったというのに、アキラはエリー同様、乾ききった瞳を泳がすだけだ。

「俺さ……夢があったんだ……」
 次いで、アキラからエリーと同じ調子の声が漏れた。
 エリーも初めてまともに話をする相手のかすれ声に、ゆっくりと顔を上げる。

 アキラはふっと笑い、今度は宙に視線を泳がす。

「昔からさ……ハーレムに憧れてて……」
「ストップっす」
 話が二言目から妙な方向に吹っ飛んだ。

「何だよ……。もう少し語らせろよ」
「ストップ」
 今度の静止はエリーからかかった。
 初めて起こした動作らしい動作は、手の平をアキラにつき出すもの。

 今、この“勇者様”は、何を言った?

「もう1度やり直していいわよ?」
「結婚しちゃさ……ダメなんだ。ほら、不倫ってよくないだろ?」
 せっかくのチャンスを、アキラは話を進めることに使った。
 夢遊病者のうわごとのようにこぼれるその言葉を拾う気にもなれなくなったエリーだが、その発言にいろいろと問題があることだけはアキラに伝えたい。

「自分が何言ってるか分かってるの?」
「ハーレムがいい……。これは俺の偽らざる気持ちだ」
「マリー。あたし、幻聴が聞こえるわ……。何か妙な魔法使った?」
「ねーさんもっすか? ちなみに使ってないっす」

 エリーは黙って放心状態のアキラを見やる。
 これが、自分の婚約者。
 その事実が浮かんでくるだけで、卒倒しそうだ。

「にーさん、昨日から“面白い”人だと思ってたんすけど……真性っすね。それともよっぽどショックだったんすかね……」
「真性よ。真性の、変態……!」
「んえ?」

 口調の強くなったエリーの声を聞いて、アキラはようやくそこに人がいることに気づいたかのように顔を向けた。
 眉を寄せて汚らわしいものを見るような眼をしているエリーと、含み笑いしているように見えるマリスを見て、ようやくアキラは、あ、と一言漏らす。

「テイク2を」
「さっきチャンスはあげたでしょう?」
 やり直しの要求もあっさり却下され、エリーはマリスを腕で庇い、2人分のイスを1歩遠ざける。

 その光景を見て、アキラは、阿呆のようにしていた顔を、引き締めた。
 が、すでに手遅れと悟り、破れかぶれになって言葉を続けた。

「何で? いいじゃん、ハーレム。男の夢」
「じょ、女性の前でそういうこと言わないでくれる? この変態!!」
「へっ、変た……ゴホッ、ゴホッ……ああ~、ん~」
「にーさん、風邪っすか?」
「ああ……。どこかの誰かが外に追い出したからな……」

 春先で、夜はまだまだ十分に冷える。
 野宿の経験のないアキラは、よりによって地面に座り込んでいたがため、調子は最悪だ。

 だが、ぼうっとする頭に誘われ、うわ言のように呟いたこととはいえ、アキラの言葉は本心だったりする。

 アキラがトリップ物の小説にはまり込んだのは、極論を言えばそのほとんどがハーレムものだからだ。
 来訪者は、異世界の美女に好かれ、毎日楽しく暮らしていく。
 嬉しいイベントも盛りだくさんだ。
 “現実”というシュミレーションゲームには、そんなことは起こり得ない。
 少なくとも、アキラの経験上では。

「と、とにかく、」
 アキラを諭すのが無駄と分かった以上、この話題は広げたくない。
 エリーは、テーブルを砕かんばかりの勢いで手を置くと、震える肩をなんとかなだめ、アキラを見据えた。

「あたしたちは、お互いに納得してない!」
「ああ、同感だ」
 ようやく意見が合致した婚約者と視線を交わし、エリーは、マリスをすがるように見た。

「ねえ、マリー。婚約、破棄する方法ない? できれば、あたしが年内に国仕えになる方法も」
「ん~……」
 姉の熱い視線を受け、マリスはちらりとアキラを見た。
 一応、1つは方法を知っていたりする。

「ていうか、“しきたり”って無視しちゃいけないのかよ? 元はと言えば、こいつが誤爆したのが事の発端だろ?」
「“しきたり”は破ると酷い目にあうって聞いたわ。それより、あなたが落下してきたのが事の発端よっ!!」
「“魔王討伐”っす」
「「……は?」」
 ついに罪のなすりつけ合いを始めた二人を見ながら、マリスは、しぶしぶ自らが知る方法を1つ提案した。
 2つのぽかんとした口が、アリスに向く。

「本当にありえないって感じなんすけど、魔王を討伐した勇者には、特権が与えられるんす。神族が願いを叶えてくれる、っていう」

 魔王を地上で撃退した報酬。
 そう考えれば、神族という神秘的な種族が人間の願いを叶えるというのは当然とも言える。
 それをエサに人間たちを協力させていると言い換えることもできるが。

「って、待てよ? その特権を婚約破棄に使えってか?」
「自分に思い浮かぶのはとりあえずそれだけっすね……。あの場での言葉じゃ、離婚も許されないっす」
「う、うう~っ」

 眉を寄せるエリーだが、もしこの場に別の者がいれば、青ざめ、身体を震わすだろう。
 当然、“魔王討伐”の栄誉を婚約破棄などということに使った勇者はかつて1人もいない。
 ついでに言うなら、そんな理由で討伐される魔王も、冗談ではないところだろう。

「まあ、どの道今さらなかったことにはできないっすよ。村のみんなも見てたっすからね、2人の誓いの口づけ……」
「わっ、忘れようとしてるのに言うなーっ!!」

 悲痛な叫びが何度も響いた孤児院の朝、村長であるリゼル=ファリッツが訪ねてきたのは、朝食後のことだった。

―――**―――

「おおっ、神よ!! この出逢いに感謝いたします」
「……は、はあ……」
 アキラの目の前で跪き、ファリッツは仰々しく両手を広げて頭を垂れた。
 ファリッツの後ろに並ぶ2人の従者も、それに倣って同じく跪く。

「この日を今か今かと待ちわびて降りました。昨夜はお疲れであろうと挨拶をご遠慮させていただきましたが、不詳わたくし、今後はご協力を惜しみません!!」
 ファリッツの態度が、いい加減胡散臭くなってきたアキラは、困ったように隣のエリーに視線を送る。
 だが、エリーはファリッツの態度を呆れたように眺めるだけだった。

「自己紹介が遅れました。村長のリゼル=ファリッツと申します」
「あ、ああ、ヒダマリ=アキラです」
 立ってもアキラより背が低く、それでいて恰幅のいい村長は、未だににこやかに笑っている。
 この笑顔が、人に媚を売るための笑顔だと分かるのは、隣のエリーが微塵にも笑っていないお陰だろう。

「ファーストネームは、ヒダマリ、ですかな?」
「いや、アキラの方ですけど……」
「では、アキラ様!!」
 感極まった様子を“演技”しているファリッツは、アキラに握手を求めてくる。
 それに応じながらも、アキラは、ファリッツの従者が呆れながらメモ帳に何かを書いているのを横目で見た。
 名前でも書いているのだろうか。

「さて、ご機嫌はいかがですか? なにぶん小さな村でして……こちらの建物が勇者様のお身体にあったかどうか……」
「いや、ま……ゴホッ、ゴホッ」
「!? どこかお身体でも!? エルラシア、エルラシア!!」

 村長の声が響き、奥の部屋からエルラシアがうんざりしながら現れた。
 ドアの向こうに密集しているのはアキラたちと時間をずらして朝食をとっている子供たち。
 好奇心にあふれた多数の目を、エルラシアはマリスに任せ、ドアで封じた。

「いかがなさいました? 村長?」
「勇者様のご気分が悪いようだ。君の管理は一体どうなっている? 勇者様への不届きは重罪だぞ!?」
「さっきも、申しました!!」
 エルラシアはファリッツを怒鳴りつけ、アキラを申し訳なさそうに見た。

「今日の面会は遠慮して欲しいと申しましたのに……。アキラさん、具合大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫です。少なくとも2人が悪いわけじゃないんで……」
 先ほど朝食の際も気を使ってくれたエルラシアに、鼻の奥がジンとなるのを感じながらも、隣のエリーを小さく睨む。
 エリーは、無表情をアキラに向けていた。
 付き合いは短いが、何が言いたいのか不思議と分かる。
 わざとじゃない、だろう。

「大丈夫であるのなら……、アキラ様。1つ、お願いがあるのですが……」
「ちょ、村長! 日を改めてください!!」
 エルラシアの悲痛な叫びを尻目に、ファリッツはアキラを誘うように建物の外へと歩き出した。

「実は、最近困ったことがありましてな」
「? はあ……」
 そのまま歩を進めたアキラは、村長のわざとらしく寄せた眉をぼうっと眺めていた。

「この辺りに、とあるモンスターが多く出没するようになったという話は、お聞きになりましたか?」
「いや、聞いてないですけど……」
 そもそもこの世界に来て、アキラは村から1歩も外に出ていない。
 モンスターすらも、話を聞いただけで実在するかどうか分かっていないのだ。 

「それでしたら……いや、エリサス。説明してさし上げられるな?」
「できなくはないですけど……」
「そうか! やはり私などから聞くよりも、説明がてらに親睦を深めた方がよいでしょう?」
 いやらしく笑うファリッツは、エリーの顔が歪んでいるのに気づいているのかいないのか。
 ついさっき、互いの目的がはっきりしたばかりの2人は、相変わらず上機嫌のファリッツにとぼとぼとついていくことしかできない。

 建物の外に出たファリッツは、出てすぐの庭に停めてある台車に向かう。
 茶色い畳のようなカバーがかかった台車は、その重さを象徴するように、庭に深々と車輪の傷を残していた。
 荷物番なのか、そこにも従者がおり、ファリッツの指示通りにカバーを開ける。

「まあ、詳細はともかく、お願いしたいのは、そのモンスターの討伐なのです。ぜひ、“勇者様”のお力をお貸しいただければ幸いなのですが……」
「おおっ」

 カバーが取られ、アキラは瞳を輝かせた。
 これぞ、異世界の定番。

 武具だ。

 いささか荒く並ばされているが、鉄製の、剣、槍、兜、盾、そして鎧までも、メジャーな武具が勢ぞろいしている。
 他にも、ナイフと思われるものや、弓、と、アキラが名前を知らない奇形な武器まであった。

「村一番の職人に造らせました。どれでも好きな物を好きなだけお持ちください」
 これが勇者様への献上物というものか。
 昨日の今日でオーダーメイドなどできるはずもないのだから、すべて市販のものなのだろうが、目を輝かせるアキラには、そのことに気づきようもなかった。

「こ、これでモンスターを倒せばいいんですね?」
「ええ、ええ。勇者様のお気に召したようで幸いです」
「ちょ、ちょっと、」

 さっそく台車に手を伸ばしたアキラに駆け寄り、エリーはボソボソと囁く。

「あ、あんた、本当にやる気? 口車に乗せられてるのに?」
「前にRPGやったんだけど、そのときの勇者への献上物はこん棒とかだったんだ……。俺は今、猛烈に感動している」
「相手はモンスターよ? 異世界から来たとか言ってたけど、魔法、使えないんでしょ?」
「平気平気。どうせ、最初の村のモンスターだろ? スライムクラスは楽勝だって」
「え……、本当に……?」

 エリーの呟きも聞き流し、アキラは武器を物色する。
 やはり何と言っても、剣だ。
 槍も捨てがたいが、最も勇者らしい武器と言えば、これに限る。
 あとは、投げナイフか何かを選べば完璧だろう。

「本当にこれ、貰っていいんですか?」
「勇者様への献身は最大限に。これは、“しきたり”なのです」
 また、“しきたり”か。
 そんなことを僅かに思うが、こんな“しきたり”なら大歓迎だ。
 アキラは今、ようやくこの世界を楽しめる予感がしていた。
 “しきたり”とは便利な言葉だ。
 後付け設定、どんと来い。

 勇者、万歳だ。

 そんな様子を見ながら、エリーはため息を吐く。
 アキラの身体能力は知らないが、“あのスライム”を倒せると言い放った以上、何か特殊な力があるのだろう。
 だが、それを踏まえても、村長の思惑通りになるのが気に入らない。

「ところで、エリサス。勇者様との婚姻の儀は、いつにする? あの騒ぎだったのだから、もう1度改めてすべきだろう?」
「っ、」
「いつがいいか……。サミエル。私の予定の開いている日はいつだったかな?」
 さきほどメモを取っていた側近が1歩前へ出た瞬間、エリーはバッと手を広げ、静止をかけた。

 どうせ、村長の頭には、この村の者と勇者が結婚すれば、さらにこの村に“はく”が付くとでも思っているのだろう。

「まっ、魔王を倒してから、です! 今は、魔王を倒すことを優先しましょう!!」
「おおっ、エリサス、ではお前も討伐に向かってくれるのか!?」
 この村でぼさっとしていればいつ結婚させられるか分かったものではない。国の魔術師隊に入る儀式は、間違いなく結婚式のあとになってしまうだろう。

 どうやら自分も、村長の話に乗るしかないのだと悟り、エリーはため息を盛大に吐きながらアキラに並んで武器を物色し始めた。

 こうなったら、魔王でも何でも倒してやろうじゃないか。

―――**―――

「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチュ(笑)?」
「(笑)はいらないわよ。それが、討伐対象のモンスター」
 アキラ、エリー、マリスの三人は、村から出た大草原を歩いていた。
 正面に見える巨大な岩山に向かって、踏みならされて植物が生えなくなった1本道を、背に負った洋風の剣をガチャガチャと鳴らしながら進む。
 その途中、エリーから受けた説明に、アキラはうんざり、とでもいうように欠伸を漏らした。

「なっが(笑)」
「正式名称よ。やっと覚えたと持ったら、何よ、(笑)って。通称マーチュ」
「ねーさんも覚えるの苦労してたっすからね……」
 後ろをとぼとぼ付いてくるマリスの呟きに、エリーは分かりやすく咳払いをした。

「先に通称を教えろよ」
「あ、あたしだって覚えるの苦労したのよ? 同じ苦痛を味あわせてやりたいって思うのは自然なことでしょう!」
「かぁ~。それで、そのマーチュ(笑)ってのが、あの山に?」
「ええ。あそこが本拠地」

 エリーの話だと、そのマーチュなるモンスターが出没し出したのは、別に最近のことではないらしい。
 ときおり山を下りて悪さをするマーチュに困っていると言えば困っているが、別に今討伐する必要はないだろう。
 つまりこれは、ファリッツの勇者を試すテストというものなのであろうことは、実情を知っているエリーにしてみれば容易に想像がつく。

「てか、名前からして相当強そうなんだけど……。その正式名称(笑)」
「いちいち(笑)をつけるの止めてくれない?」

 アキラは先に見える山を壮大な景色と共に眺めた。
 太陽が真上から照り付け、それでいて、涼やかな風がかさかさと草むらを揺らす。
 ここが異世界なのはともかくとして、こういう景色は心洗われるものがあった。

「それにしても、モンスターって、こういう場所には出ないのか? てっきり村の外では普通に襲われるって思ってたんだけど……」
「普通ならエンカウントするわよ。ほら、いるでしょ?」
「?……!」
 エリーに指差されて背の高い草むらを見てみれば、何やら、がさがさと動いているモノがいた。
 自然生物だと思えばその程度のサイズなのだろうが、草の間からときおり見える姿は、とりあえずアキラの知っている生物ではないだろうことが分かる。

「……“勇者様”に恐れをなして出てこないってか?」
「はあ……。半分正解だけど……恐れられているのは、あなたじゃないわよ」
「?」

 困ったように振り返ったエリーに倣い、アキラも視線を後ろに向ける。
 だが、当然、そこには相変わらず眠そうに瞳を半分閉じているマリスがいるだけだった。

「ああ、自分、モンスターに怖がられるんすよ」
「え?」
「“数千年に一人の天才”。そんなこと言われたりして……。たまに家に、国からスカウト来るのよ……」
 なんと、そんな後付け設定もあったとは。
 言われてみれば、確かにアリスには神秘的な雰囲気がある。

 だが、それをカミングアウトしたエリーの顔は憂鬱なままだった。

「スカウト、受けないのか?」
「それはダメ!!」
 当然の疑問を口にしたアキラに返ってきたのは、エリーの怒号。
 昨夜から聞いているその声は、広い広い大草原に淡白に響いた。

「もしマリーが受けようものなら、激戦区の遠隔地に飛ばされちゃうわ……それは、ダメ」
「…………自分も、興味ないっすからね」
 眠気を抑えるのが限界のような気だるい声は、エリーのセリフを否定はしなかった。

「そ、れ、よ、り。あんた、そんな恰好で大丈夫なの?」
「え?」
 エリーはずんずん歩を進めながら、アキラの格好を横目で見定める。
 変わっていない。
 最初に見た通りのラフな服装に、ただ単に剣を背負っただけ。
 一応腰には、こちらも貰い物の投げナイフが数本ケースに入ってぶら下がっているが、防具は一切存在しなかった。

「そんな恰好じゃ、危なくないの?」
「お前だって、大して変わってないだろ」
 エリーは、身体に吸いつくような上下の連なったアンダーウェアに、腕やすねに簡単な防具が付いている機動的な姿だった。
 ハーフパンツのようなズボンも、羽織った半袖のローブも、動きを阻害しない程度で、ローブの方は腹部ほどまでの短い丈。
 長い髪をポニーテールに結び、そのまま背中に垂らしている。
 武器らしい武器もなく、せいぜい両拳に鉄で編んだような手袋をはめてはいるが、他には何も持っていなかった。

 そして、マリス。
 こちらは本当に変わっていない。
 長い髪の上から漆黒のローブを羽織っているだけで、単純によそ行きの服を着てきただけのようにも思えた。
 魔法使い、と言えばそう言えるだろうが、あくまでこの世界における一般服の範疇だ。

「あたしたちはいいの。魔力でカバーできるから。でも、あなたは……」
「いや、いいだろ、これで」
 アキラは軽く剣に手を当て、足を速めた。
 アキラが重視したのは、攻撃面でも機動面でもなくファッション性。
 重苦しい兜や鎧を纏うのは、微妙に似合わないと感じたからだ。
 ついでに言うなら、フル装備をすると、おそらくアキラは重さで動けなくなったりするのだろうが。

「まあ、自分がいればなんとかなるっすよ。マーチュはそこまで強いモンスターじゃないっすし」
 マリスもそう漏らし、足を速めてアキラの隣に並んだ。

 その様子を見ながら、エリーは小さく眉を寄せる。
 変だ。
 自分の知っている妹は、こんなに積極的じゃない。
 いつもどこか面倒そうに厄介事から遠ざかり、村を見下ろし歌っているだけだ。

 それなのに、今のマリスはどうだ。
 モンスター討伐の話を聞くが否や、参加を表明し、ここにいる。
 機嫌も良さそうだ。
 自分の育ての母も嫌っているファリッツの思惑通りになっていること重なり、エリーは何かもやもやする胸を軽く叩いた。

「マリー。この人だけは止めときなさい」
「大丈夫っすよ。にーさんは、ねーさんのっすからね」
「「それは違う」」

 2人が声をそろえたところで、一行は、山のふもとに到着した。

―――**―――

「レベルが1つも上がらないで最初のダンジョンに到着したか……」
「たまには意味の分かることを喋りなさいよ」

 山に開いた巨大な穴に入っても、様子の変わらないアキラに呆れながら、エリーは神経をそばだてた。
 外とは違う。
 ここは、マーチュの本拠地だ。
 いくらマリスがいると言っても、本拠地に入られた以上、向こうは撃退を考えるだろう。
 つまり、エンカウントしたら戦闘が始まるのだ。

「まずは、お手並み拝見ってとこね。ほら、行ってよ」
「てか、暗くないか?」
 必要最小限、と持ってきた松明に火を点け、アキラは奥を照らす。
 松明も定番のものと、僅かばかりに心躍るものがある。
 ごつごつとした岩肌の通路が、ずっと奥に続いているのだろうが、照らした範囲では当然ゴールが見えない。

「?」
 だが、照らした先、岩陰で、何かが動いた。
 それが何かは目で追えなかったが、ここがマーチュの巣である以上、その本人だろう。

「ほら、いたわよ。行って」
「ちょ、押すなって……!!」
 エリーにグイグイと背を押され、アキラはしぶしぶ松明をエリーに渡し、剣を抜く。
 ズシリと重い金属の感触を両手で受けとめ、じりじりと慎重に、今何かが蠢いた岩陰に近づいていく。
 足が重いのは、初めてモンスターに出遭うという感動より、未知の生物と戦闘するという恐怖が勝っているかだろう。

「……!? ……うぉ……?」
 だがそれは、アキラを待たずに、ぴょこっと出てきた。

 背丈は、小さな犬ほど。
 アキラの膝にも満たないサイズのそれは、狐色のリスのようなモンスターだった。
 くるっ、と丸い眼をしたその肩や額には、渦巻きの模様がついており、後ろに見える尻尾も細長くも、ふぁっさふぁさの毛で覆われている。
 その、愛らしい生物は、必死に2足で立ち、怖がっているかのようにプルプルと震えていた。
 身体の前にちょこんと飛び出した小さな前足に、ドングリでも持たせてやれば、愛玩動物の完成だ。

「マーチュよ。さあ、倒して」
「できるかぁっ!!」
 無情なエリーの言葉に、アキラは叫びを洞窟に反響させた。

「ぴょこ、で、ふぁっさふぁさ、で、ちょこん、だぞ!? お前に人間の心があるのかよ!?」
「って、来てる来てる!!」
 エリーの指を追ってみれば、マーチュがトコトコ歩いてきていた。
 まるで初めて歩みを覚えた赤子のように、その姿は懸命だ。
 ここで、『きゅう?』とでも鳴かれたら、アキラは防具を揃えなかったことよりも、おやつを持って来なかったことを悔やむだろう。

 しかし、

「キューッ!!」
「っ―――」
 予想以上に鋭い鳴き声が洞窟内に響いたあと、マーチュは跳んだ。
 鋭い狩猟動物の動きで、マーチュはアキラ目指して、渦巻き模様が付いた頭から突っ込んでくる。

「う、おっ!?」
 ほとんど転ぶように洞窟内で倒れ込んだアキラに聞こえたのは、ドゴンッ、という岩の砕かれる音。
 倒れ込んだまま恐る恐る顔を上げれば、砕けてひび割れた壁の元、ぱらぱらと落ちる小石の中、マーチュが再び懸命に立ち上がっていた。

「きゅう?」
 おやつを与える気には、なれなかった。

「こっ、こいつ、えっ、こいつっ!?」
「マッ、マーチュに背を向けちゃダメ!! また跳んでくるわよ!!」
 すぐに立ち上がって離脱を試みようとしたアキラは、エリーの教科書通りの言葉にピタッと止まる。
 相変わらず愛らしいマーチュの後ろには、無残にも砕かれた岩の埃が舞っていた。

「っ、やるか!!」
 回避の際、放り投げた剣を拾い、マーチュと対峙する。
 どこかウルウルとしているように見える丸い瞳の奥に、マーチュの本気を垣間見た。

「攻撃するときは速いけど、普段の動きは遅いわ!!」
「お……おうっ!!」
 エリー指導の元、戦闘のチャートリアルを受け、アキラは慎重に、マーチュににじり寄った。

 身体の前に突き出すように構えた剣先が、プルプルと震える。
 手のひらは汗に濡れ、緊張を解くように、握り離しを繰り返す。
 目の前のマーチュは相変わらず愛らしいが、下手をすれば冗談抜きで死ぬだろう。

 良心の呵責は未だにアキラを攻め立てるが、もうこうなったら、やるしかない。

「うっ……らぁっーっ―――」
 剣を大きく振り上げた瞬間、アキラの身体の奥の本能が、でかい声で『馬鹿野郎っ!!!』と叫んだ。
 それが、人間に備わっている第六感か、はたまた防衛本能かは定かではないが、一瞬遅れ、アキラも自分がいかに危険なことをしたかに気づく。

 目の前には、突撃で岩をも砕く、マーチュ。
 そんなマーチュの前で、両手で剣を振り上げ、無防備に腹部をさらしているのだ。

 マーチュがリスのような顔を、いたずらを思いついた子供のような笑みに変える。
 この体勢でできる最大限の回避を試みようにも、身体は動かない。

「キューッ!!」

 あ、これは、死んだ―――

「―――、」
「―――!?」

 マーチュの額の渦巻き模様がアキラの眼前に迫った瞬間、それは、急停止した。
 マーチュは全身、淡いシルバーの光に包まれ、ふわふわと、まるで水の中に沈んでいるかのように短い手足をばたつかせている。

 この事態に理解が遅れたが、アキラはこの光を、昨晩見ている―――

「にーさん、今っす」
「お、おう!」
 振り上げたままだった剣を、今度こそ勢いよく振りおろす。
 空中で動けずにいるマーチュを見ると、先ほど以上に罪悪感が沸くが、殺されそうになったアキラにはそれを気にしている余裕はない。

 ガギンッ

「……」
 きつく目を閉じて剣を振り下ろしたアキラに届いたのは、腕のしびれと、奇妙な音。
 確かに剣は振り下ろしたのに、どうしても嫌な予感が頭から離れない。

「……!?」
 恐る恐る開けたアキラの目に飛び込んできたのは、未だシルバーの光を保ったままふわふわと浮かぶマーチュ。
 涙目で、額の渦巻き模様をさすっている。
 そして、自分の両手が握る、先が折れて軽くなった剣だけだった。

「なん……だと……!?」
「『なんだと』じゃないでしょ!!」
「―――!?」

 自分が全力で攻撃した小動物が無傷だったことと、初めて使った剣が真っ二つになったことでのダブルのショックを受けたアキラ。
 その、アキラの眼前、横から何かが跳び込んでいったと思えば、目の前の涙目の愛らしいマーチュが、物理的な衝撃を受け、壁に向かって吹っ飛んで行った。

 インパクトの瞬間、闇を吹き飛ばすように爆ぜた色は―――スカーレット。
 それを受けて、マーチュは倒れ込んでピクリとも動かない。

「あああっ!! マーチューーーッ!!」
「ばっかじゃないの!?」
 跳び込んでいったのは、エリーだった。
 マーチュを殴った右の拳をわなわなとふるわせながら、アキラを睨みつけてくる。

「あんたマリーがあんなチャンスくれたのに……。なに武器壊してんのよ!?」
「こ、これは、剣が悪い!!」
「物のせいにしない!!」
 エリーにぴしゃりと言われ、アキラは押し黙る。

「いくらマーチュだって正面から切りかかられたら魔力で守るくらいするわよ!! それにいい加減な切り付け方して…………って、それ、もうくっつかないわよ」
「わっ、分かってるよ!」
 折れた剣先を拾い、壊れた個所をじっと見ているアキラはむくれながら返した。
 パキリ、という表現がそのまま使えるように、剣は折れている。
 最初の一刀で、アキラの武器は腰に下がった投げナイフだけになっていた。

 初めての戦闘は、自分の武具が壊れ、第三者の攻撃で幕を閉じたという結果。
 正直、ショックが大きい。

「ま、まあ、にーさん、その、反射神経は良かったすよ……。それに、綺麗に剣も折れるってことは、結構力あるじゃないっすか」
「ありがとうマリス。俺その優しさで泣く」
 せっかくのフォローも届かず、アキラはそろそろと、2つの剣の欠片を持ちながら、マーチュに近づいて行った。

「それにしてもお前……、よくこんな愛らしい生物いきなり殴れたな……」
 アキラの脳裏に浮かぶのは先ほどのインパクトの瞬間。
 エリーの拳がマーチュの頬にめり込み、その瞬間、スカーレットの炎が爆ぜていた。

「あなたは切りかかってたでしょ……って、何するつもりよ?」
「この剣は、こいつの墓にする。何も与えてやれなかった俺ができる、せめてもの弔いだ」
「……って、ちょっと!!」
「あ、あぶないっす!!」
「え……?」

 珍しくマリスの大声を聞いたと思った直後、不用意に近づいて行ったマーチュから、バチバチと、グレーカラーの電撃のようなものが走り始めた。

「―――っ」
 頭に危険信号が走った直後、マーチュが、小規模な爆発を起こした。

「がはっ!?」
 その衝撃をもろに受け、吹っ飛んだアキラは、背後の壁に強く背中を打ちつける。

「モンスターは、もともと魔力で創られた存在。戦闘不能になると、その魔力が体の中で暴走して爆発するの。分かった?」
「いだっ、いだっ、が~っ、痛いって!!」
 背中を抑えながらゴロゴロともんどりうつアキラに届いたのは、エリーの冷ややかな視線と、今の爆発の正体だった。

「なんか、なんか……!!」
「にーさん、じっとして欲しいっす……」
 体を土まみれにして転がっているアキラに、マリスが近づき手をかざす。
 すると今度はアキラの患部にシルバーの光が満ちた。

「おお……、おおお……!!」
 燃えるように扱った背中が、冷却シートを張ったように冷めていく。
 光が徐々に弱まり、洞窟内の光源が再び松明だけに戻る頃には、アキラの怪我は完治していた。

「どうっすか?」
「マリス。好きだ。大好きだ」
「ふざけてないで立ちなさい!!」
 エリーの怒号に十分に応えられるほどの健康体に、アキラは余裕を持って立ち上がる。
 この姉妹のギャップは酷い、という認識を強くしながら。

「てかさ、教えてくれよ。爆発するって。分かるわけないだろ、そんな後付け設定……」
「あたしたちはあなたがモンスターの墓を作ろうとするバカだってことを、教えて欲しかったわ」
「マリスはすごいよなぁ……。怪我まで治せんのかよ」
「こっ、のっ」
 よっぽど松明でも投げつけてやろうかと思ったエリーだが、その松明は跳び込むさいマリスに渡したことを思い出し、代わりに強く拳を握った。

「はあ……、とにかくあなたの実力は分かったわ。外に置いとくわけにもいかないし……、これから先は後ろに隠れてついてきなさい。武器もないでしょ?」
「いや、まだ投げナイフが……」
「……投げてみなさい」

 アキラは不満げに、慣れない手つきでナイフを腰から外し、近くの壁へ投げつける。
 だが投げた直後、マンガのように切っ先はまっすぐ飛ばず、くるくると回転し、結局柄の部分が壁に当たってカラカラと足元に転がった。

「……思ったよりも難しいな」
「もう1度言うわ。あなたは大人しく後ろからついてきなさい」
 付き合ってられない。
 そのままのセリフを顔で出し、エリーは、小さな光を手から放ちながらずんずん進んでいった。
 色は先ほどのスカーレット。
 あの光なら、十分に松明代わりになるだろう。

「ま、まあ、これからっすよ」
「うん、マリス。この辺で声出して泣ける場所知らないか?」
 最初のダンジョンは、レベル1のまま侵入し、どうやらこの先も、アキラの戦闘参加はなさそうだ。

―――**―――

「うぉぉぉおおーーっ!!」
 襲いかかってくるマーチュが、壁まで吹き飛ばされる。
 跳びかかってきた3体全てが一瞬で戦闘不能に陥った。

「はぁっ!!」
 今度は遠距離攻撃。
 突撃体制になったマーチュに鋭い光が飛び、その光に貫かれたマーチュは、その場で蠢き、こてっ、と倒れ込んだ。

「こいつで最後だ!!」
 群れをなして襲いかかってきたマーチュも残り1匹。
 最後の特攻さえも許さず、高速の攻撃がマーチュの体を寸分違わず捉えた。

「相手が悪かったな……」

 バンッ、バンッ、バンッ!!

 最後に手向けの言葉を呟けば、それが戦闘終了の合図のように、倒れていたマーチュが一斉に爆発する。
 先ほどまで、この一幅大きくなった洞窟の道を埋め尽くさんとしていたマーチュは全滅し、残っているのは自分たちだけになった。

「パララパッパッパーッ!!」
「うるさーいっ!!!」
 背後でガッツポーズをしながら奇妙な擬音を奏でたアキラに、エリーは怒鳴りつけた。

「あんたねぇっ!! 大人しくっていたでしょ!! なんで静かに見てられないのよ!?」
「悪いな……マーチュ。どれほどお前が愛おしくても……討伐の対象になった以上、俺は仕事と割り切って動くんだ」
「話を聞けーーーっ!!」
 未だアキラは戻って来ない。
 この洞窟の奥に進む途中、出会ったマーチュの群れはこれで7回目。
 その全ての戦闘をエリーとマリスの二人だけで終えていたが、3、4回目辺りから、黙って見ていただけのアキラは妙な叫び声を上げ始めていた。

「いや、そろそろ俺強くなったんじゃないか? 次の戦闘からでも参加を……」
「見てただけのあんたの何が変わったっていうのよ!?」
「いや、ほら、経験値って、馬車の中にも入るじゃん、な?」
「意思疎通できることを喋りなさい!!」
 エリーはまたごわんごわんと洞窟内に怒号を響かせ、そのまま背を向けすたすたと歩いていった。

「まあ、にーさん。今回はしょうがないっすよ。流石に死んだら魔術じゃ生き返らせられないんすから」
 ときおり入るマリスのフォローに涙ぐみながら、アキラは2人について行った。
 手には、もう剣はなく、代わりに預かった松明だけが握られている。

「……」
 同じ高さの2つの背中を松明の光の先に見ながら、アキラはちろちろと、自分の中で好奇心が恐怖に勝っていくのを感じていた。

 2人がこうもたやすく倒せるマーチュ。
 それを考えると、最初の戦闘は何かの間違いだったのではないか、と思う。
 ならばそろそろ、自分も戦闘に参加できないだろうか。

 だけど、マリスが言うならば、自分はそれができないのだろう。
 やはりなんとなく、もやもやする。

「! 来たっす」
「はあ、本当に数が多いわね……!」

 またも現れたマーチュの群れは、アキラの腰ほどの高さの身体、と、先ほどよりも少し体が大きかった。
 その群れに、エリーは迷わず跳び込んでいく。

 エリーは群れの中心にいたマーチュに、拳をそのままの勢いでたたき込んだ。
 その瞬間、拳にスカーレットの色が爆ぜ、その勢いでマーチュは吹き飛ぶ。

 これが、エリーの戦闘スタイルのようだ。
 武闘家のように拳や蹴りの応酬で相手を襲う。
 ただ、アキラよりも細いその腕の筋力はたかが知れている。
 攻撃力の大部分を占めているのは、魔力だ。
 インパクトの瞬間に魔力を流し込み、相手を撃破する。
 マーチュは肉体的な攻撃と魔力の威力をそのまま受けて、吹き飛んでいく。
 威力が高いのは、マーチュが一様に一撃で戦闘不能になっていることから容易に想像できる。

「―――、」
 次いで、マリス。
 マリスは、エリーの攻撃で分断したマーチュに小さな手のひらを向け、そこからシルバーの光を飛ばす。
 受けたマーチュは、焼かれるように光を纏い、そのまま倒れ込む。
 シンプルな、魔法だけでの攻撃。
 魔法使いのような攻撃を的確に受け、マーチュは次々と戦闘不能に陥っていった。

 バンッ、バンッ、バンッ!!

「パララパッパッパーッ!!」
「うるさーいっ!!」
 このやり取りも何度目か、肩で息をしながらエリーはアキラを睨みつける。

「にーさん、ねーさんを刺激するのはとりあえず止めた方がいいっすよ……」
「あ、ああ。ありがとう」
 マリスから伸ばされた手を取って、岩陰に座り込んでいたアキラは立ち上がる。
 一方エリーは、またも肩をいからせ歩いて行っていた。

 双子で、同じ背丈で、同じ顔。
 それなのに、この2人はこうも違う。
 戦闘スタイルはともかく、性格が違いすぎた。

「はあ……はあ……」
「……」
 再びアキラの前を、双子の姉妹は歩いていく。
 洞窟内で聞こえるのは、松明のメラメラとした音と、人数分の足音。
 そして、エリーの荒い息使いだけだった。

「なあ、お前、大丈夫なのか?」
「あ、ん、た、がっ!! 戦えないからでしょう!?」
「ね、ねーさん……」
 アキラが口を開けば、エリーの怒号とマリスのフォロー。
 異世界にいきなり来て、手厚く保護してくれるマリスには、本当に感謝している。
 流石に、アキラの夢の、ハーレムのメンバーにいて欲しいと思っただけの人物だ。

 だけど、どうしても。
 何故かエリーのことが気になっていた。
 昨夜の出会いでの、身体中が震える衝撃。
 思い出せば、未だ、容易に体を震わすことができる。

 アキラの人生で、かつて1度もなかった衝撃。
 それが、どうしても、身体の中で爆発を繰り返すのだ。

「っ―――」
 今度は、1匹だけだった。
 物陰から飛び出てきたマーチュに、エリーは迷わず攻撃を放つ。
 アキラの代わりに爆発してくれたマーチュに荒い息切れだけを残して、エリーは歩を緩めなかった。

「ねーさん、飛ばし過ぎっすよ」
「さっさと帰りたいの!! 奥まで行けば、それでいいでしょう?」

 ピリピリしているエリーは確かに刺激しない方がいい。
 たとえ、身体中が震えた少女相手でも、アキラは今度こそ声はかけなかった。

「マリスは……余裕そうだな?」
「その子は、存在そのものがチートなのよ。って、マリス。その男から離れなさい」
 未だ警戒が解けないエリーは、マリスをアキラから引き離す。
 デフォルトになりつつあったマリスの位置は、エリーの隣に移動した。

 あの二人が前列で並んでいれば、いかにマーチュが大群で押し寄せても、総て撃破されるだろう。

 いいとこなしだ。
 そんなことを、アキラは思う。
 異世界に来て、“勇者様”と言われて。
 それなのに、自分は黙って2人の女の子に守ってついて行くだけだ。

「勇者の隠された力とか……ないのか? そういう設定」
「だから、意味の分かる……!……」
 そう言いかけたエリーの眼前が、徐々に明るくなっていった。
 届くのは、暖かな日の光。
 そして、外気。

 この洞窟は、どうやら山を切り抜いて外につながっていたらしい。

「はあ、もう終わりかな?」
 エリーがようやく肩の力を抜き、最初に光満ちる外へ歩いて行った。

「そうみたいっすね」
 次いで、マリス。
 マリスは変わらず力を抜いたまま、のんびり歩いていく。

 そこから1歩後れ、アキラも光へゆっくりと歩を進めた。

「……」
 本当に、出番がなかった。
 自分は、愛らしい姿のマーチュ1匹倒せず、この依頼は終わるようだ。

 不甲斐ない、と言われれば正にそれだけだろう。

 もしかしたら、自分がエリーに怒鳴られても叫んでいたのは、その不甲斐なさを紛らわすためのものだったのかもしれない。

 そして、それ以上に。
 自分よりも小さな女の子に頼りっきりになっていた現状が、アキラは一番気にかかった。

 ただ、今さら言っても仕方ないことなのだけど。

「はあ……」
 大きくため息を洞窟内に響かせ、アキラは光に吸い込まれていった。

「―――、?」
「……」
「……」

 洞窟をようやく出て、新鮮な空気が肺を満たしたところで、アキラはすぐそばで棒立ちになっている2人に追いついた。

 出た場所は山の中にできた窪みのような場所らしい。
 野球場のような巨大な草原は山に囲まれ、真上から太陽が照りつける。
 そして、その中央には誰が置いたのかこの場を埋めるように巨大な岩が、ズンッ、と待ち構えていた。

「……」
「……」
 2人とも、茫然とその場に立ち、ただただ目の前の巨大な岩を見上げているだけだ。

「何やってんだよ? てか、ここ出口じゃないのか?」
「グ……、グルルルルッ!!」
「―――!?」

 気楽に二人に並んだアキラの耳に、この場総てを震わす地鳴りのような音が届いた。

「……な、なん―――」
 身を竦ませ眉を寄せ、アキラは凍える子犬のように辺りを見渡していた。
 しかし、その音源に気づいてしまえば、その震えがピタリと止まる。

 この、音源は、目の前の岩だった。

「あ……、う……え……!?」
 目の前のゴツゴツとした茶色の岩は、よくよく見れば生物だった。

 まるで岩そのもののように形作られた四足歩行の巨大生物。
 アキラの身長など、地面にめり込むように体を支える前足よりもはるかに小さい。せいぜい、小指の爪程度だ。
 肩や背には、岩盤だろうが鉄板だろうが容易に貫けるであろうドリルのような棘が装備されている。
 丸まった尾は、その全貌を現してはいないが、広げれば今まで歩いてきた洞窟の長い道なりにさえ相当しそうだ。
 今まで真横を向いていた顔をゆっくり向けたと思えば、まるで竜のように鼻が突き出た物々しい顔立ち。
 そして、その額には、最も太くたくましい螺旋模様の角が、天を突かんとするように備わっていた。

 だが、その、螺旋模様の角には、アキラは何故か見覚えがある。
 具体的に言うならば、ついさっき。
 マーチュとかいう愛らしい生物の額にも、渦巻き型の模様がついてはいなかっただろうか。

「グルルルッ」
 その生物は、その禍々しい瞳で、3人を捉えた。

「…………グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチュ(笑)?」
「え……ええ、グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチュ(大)……よ……?」
「グランドマイアンドロスガーディックス~~(略)~~ギガミュータントマーチューーーッ(焦)!!!?」

「グググ―――、ギィィィィァァァアアアア―――ッ!!!!!!」

 その叫びで、この山に存在する総ての動物が震え、飛べるものは飛び、その術を持たないものは持てる筋力全てを使ってこの場から離脱する。
 残った生物は、この場で棒立ち状態の、3人だけだ。

「っ―――、2人とも、下がるっす!!」
 言われるがまま、アキラは全力で元来た通路に駆け込んだ。
 ほとんど飛びように洞窟内に倒れ込んだアキラは、壁に頬ごと密着させ、必死に身を隠す。
 地響きに揺れる視界の先、マリスが両手を突き出し、巨大マーチュを広範囲の光で抑え込んでいる。
 だが、マーチュの角は、その防御壁をすでに突き破っており、そこからミシミシとシルバーカラーの盾にヒビが入っていっていた。

「なっ、何なんだよ、あれ!!?」
「しっ、知らないわよ!!」
 いつの間にか、同じように通路に駆け込んでいたエリーが、隣で息を弾ませていた。
 エリーもマリスの忠告通りに下がっていなければ、突撃を仕掛けてきたマーチュに踏み潰されていただろう。

「でっ、でも、確かマーチュは成長すると大きくなるって……。で、でも、あのサイズは……」
「真ん中のサイズの奴いなかったじゃねぇーかよ!!」
「だっ、だから知らないって!!」
 つい昨日まで、近くの村で平和な暮らしをしてきたエリーだ。
 まさかこんな近所に、村を軽く潰せるような生物がいるとは夢にも思わなかっただろう。

「っ―――」
 2人が洞窟内で喚き合っていても、戦闘状況は変化する。
 ついにその猛チャージで防御壁を突破したマーチュは、鋭い爪を小さな身体に振り下ろした。

「―――」
 マリスが小さく何かを呟いたかと思えば、今度はその身体が白く光り、つむじ風のように飛翔した。

 ズゥンッ!!

「わっ!?」
「きゃっ!?」
 マリスが難なく回避しても、マーチュの爪は大地を砕き、地鳴りを起こす。
 その地震で洞窟内も揺れ、アキラとエリーの背後に岩が崩れ落ちてきた。

「みっ、道が!!」
「うぉぉぉおおおーーーっ!? どうすんだよ!?」
 退路を断たれ、パニックに陥りながら、2人は洞窟から這い出す。
 この場総てが揺るがされ、安全場所などもう存在はしていなかった。

「―――っ、」
 2人が洞窟から這いだしてきたのを視界の隅で捉えたマリスは、身体を光で包んだまま、巨大なマーチュの周りを陽動しながら飛ぶ。

 このマーチュ。
 マリスが知っているどのモンスターよりも大きい。
 魔王の牙城の近くに行けばいることはいるだろうが、こんな片田舎に出てくるにしてはあまりに常識外れだ。
 周りを飛んでいる自分の身体など、マーチュから見ればハエとさえ大差がないだろう。

 そして、最も恐ろしいのは額に尖る、角。
 マーチュというモンスターは、成長すればするほど、つまり、力を高めれば高めるほど身体が大きくなる。
 その次は、毛が抜け落ち、岩肌の身体が現れる。
 そして、身体の成長を迎え切ったあと、ようやく額にある螺旋の中心から天を突くように角が発達するのだ。

 身体の成長もその種の限界を明らかに超えている上に、発達しきった角。
 こうなれば、おそらく目の前にいるマーチュは、先天的な才能にも恵まれ、成長しきっていることになる。

 つまり、目の前にいるマーチュは、世界最強のマーチュ。
 この山のマーチュの群れのボスだろうが、こんな場所にいるべきモンスターではない。

「―――っ、ディセル」
 マーチュの巨大な角の横なぎに、マリスは再びシルバーの盾を創り出した。
 今度は先ほど砕かれた略式ではなく、詠唱まで付した防御の呪文。
 ただその盾も、マーチュの攻撃を1度防いだとはいえ、攻撃に歪み、もう持ちそうにない。

「……」
 追及は後回しだ。
 今は、2人もいるのだから。

 飛んでみて分かったことは、この広場の出口は、自分たちが入ってきた道しかないということ。
 もしかしたらこのマーチュはここで成長し、外に出られなくなったのかもしれない。
 だから、子分のマーチュたちに食料を運ばせていたのだろう。

 ただそれが分かったところで、その唯一の道が潰された以上、自分たちに退路がないという絶望的な事実が姿を現しただけだった。
 辺りの山も高く険しく、空路さえも塞がれている。

「―――2人とも!! 伏せてて欲しいっす!!」

 落石に逃げ惑いながら、広場に隅にいる二人に珍しく張り上げるように声を荒げ、マリスは天に手をかざす。
 その手を煌々と銀色に輝かせ、全身を使って振り下ろした。

「レイディーッ!!」
 落雷のような閃光が、マリスからマーチュに落とされた。
 その鋭い一撃は、サイズの小さいマーチュに放っていた遠距離攻撃の強化版。

 詠唱呪文を付した、この辺りのモンスターならばすべからく消し炭になる、必殺の一撃。

「ギィィィイイイーーーッ!!?」
 これにはさしもの巨大マーチュも、苦痛で身体を暴れ回させる。
 だが、本来なるべき戦闘不能には程遠く、身体をいからせマリスを睨みつけた。

「―――!?」
 鋭い光に焼かれたマーチュは、身を震わせ、巨大な角を天に向ける。
 その角は、今までのマーチュが爆発する際のグレーカラーの波動を纏い、バチバチと帯電でもするかのように危険に光る。
 マリスはその角に、膨大な魔力が集中していることを瞬時に察知した。

 これは、まずい―――

 マリスの眼が足元の二人を捉えたとき、マーチュの角から閃光が走った。

―――**―――

 アキラがこの異世界に来て、最初にへばりついていたリビリスアークの高い塔。
 そこは、今、完全にキャパシティーオーバーの状態だった。

 もともと教会の象徴として建てられた巨大な鐘の塔だが、高台ゆえに、壮大な景色を見るためにも十分に使える。
 そして今は、主に後者の役割を果たしていた。

「どうだ、見えるか?」
「い、いえっ」
 村長、ファリッツの指示に、その側近、サミエルが望遠鏡を覗きながらおどおどと答えた。
 彼が様子を伺っているのは、先ほど“勇者様一行”が向かった村の近くの岩山。
 その“勇者様”の名前は、ヒダマリ=アキラ。
 今朝ほど会った少年の名を、ファリッツが忘れぬように自分にメモをとらせたのは記憶に新しい。

「ええいっ、貸すんだ」
「は、はいっ」
 ほとんどひったくるように望遠鏡を受け取り、ファリッツも山の様子を探る。
 だがサミエルは、その行為に何の意味もないことを十分に知っていた。

「くそっ、山が邪魔で見えんな……」
 そんな悪態を吐くファリッツの後ろでは、エルラシアをはじめ、村民の人間が恐る恐る同じ方向を見ていた。

「それにしてもなんだ? この地鳴りは……!! “勇者様”に何かあったら……くそっ、」
「だ、か、ら、危険だと申しましたでしょう!? それに、エリーたちもいるのですよ!?」
 先ほどからいら立つファリッツの後ろにいるエルラシアは、ファリッツが強調した“勇者様”の言葉にさらに苛立っていた。

 今回の件よりずっと前から育てていた、ファリッツは好きになれないという感情は、今度こそ確固としたものになる。

 だがファリッツなど、今襲っている純粋な危機感に比せば矮小なものにすぎない。

 さきほど、この村まで届いた巨大な響き。
 それは、エリーたちの安否を気に掛けながらも孤児院の子供たちの世話をしていたエルラシアにも当然届いた。
 子供たちに決して外に出ないように言いつけ、その世話を心許せる近所の者に頼み、飛ぶようにこの高台まで登ったのはつい先ほど。

 崩れることを懸念して塔の下で二の足を踏んでいたファリッツを追い越したのは痛快だったが、やはり不安は身体中を駆け巡る。

 ファリッツが地鳴りと表現した、あの音。
 それがどうも自分には、何か巨大な生物の叫び声にしか聞こえなかった。

 山に囲まれて様子が一切見えないあの地では、今一体何が起こっているのか。

「村長、今すぐ、衛兵に様子を見にいくようにと……、」
「わ、分かっている。だが、村の護衛も……。サミエル、サミエル!!」
「はっ、はい!!」
「今すぐ国に連絡を入れろっ!! 兵を回してもらうんだっ!! “勇者様”の危機だと伝えるんだ!! 動かざるを得なくなる!!」
 ファリッツの怒鳴り声に、サミエル集まった村の人たちの合間を抜け、塔を駆け足で降りていく。
 こういう場合の判断は流石に村長か。
 一瞬感心したエルラシアだが、ただただ無意味に望遠鏡を覗き続けるファリッツの背中を見ると、やはりどうしても、だ。

「ああ……。エリー、マリー……アキラさん、どうか、無事で……」
 ただ、結局自分も村長と同じように祈りを捧げるだけ。
 エルラシアが指を組んで固く眼を閉じたとき、岩山から、グレーの光がほとばしった。

―――**―――

「っ―――、え?」

 エリーは、何が起こったのか理解できなかった。
 マリスが宙を飛び交い攻撃を仕掛けていたことと、その直後、巨大マーチュの角に何かがほとばしったことまでは目で追えたが、何故今自分がシルバーの光に包まれ、ふわふわと宙を浮いているのかが、エリーには分からない。

「うぉぉおおっ!? う、浮いてる浮いてる!! 俺らっ!!」
 エリーの混乱は、隣からの声にかき消された。
 マリスの戦いを並んで見ていた男は、同じようにシルバーの光に身を包み、隣に浮いている。

「あ……、危なかったっす……ね」
 次いで、自分たちの足元に、自分の妹を見つけた。
 空と地面に境界線を創るかのように展開された巨大なシルバーカラーの光の盾に手を置き、頬に汗を一筋流している。
 だが、その境界線は、まるでガラスのようにひびが入り、すぐにパリンッと割れてしまった。

 ヒビだらけの地面と岩肌。
 まるで自分たちがいる場所をとり残して、世界そのものが変わったかのように総てが破壊されていた。

「今のは……?」
「ギガクウェイク……。あのマーチュ、“土曜”の魔術使えるみたいっす」

 エリーはつい先日あった試験を思い出す。
 マーチュは、“土曜属性”のモンスターだ。
 あのサイズまで成長すると、マーチュといえども魔術が使えるようだ。

 だが、ギガクウェイク。
 その呪文は、土曜属性の魔術の奥義とも言える大技だ。

 土曜属性の魔力を全体に放出し、それに触れた大地や壁にも伝達するように破壊の波動がほとばしる。
 避けるには、地面や壁から完全に自分を隔離し、その上で襲いかかる魔力をもガードしなければならない。

 たった今、マリスが自分たちにそうしたように。

「―――」
 マリスはエリーたちをちらりと見ると、再び巨大マーチュに襲いかかっていった。
 決してマーチュの攻撃範囲に自分たちが入らないようにうまくマーチュを陽動し、魔力を飛ばしていく。

「あいつ……本当に強いな……」
「……だから、存在そのものがチートなのよ……」
「?」
 マリスの戦いを部外者のように眺めながら漏らしたアキラの言葉を、エリーはどこか憂いを帯びた言葉で拾った。

「なんでもそう。あたしより、なんでもできるのよ、あの子は」
「……」
 エリーは自虐的に、シルバーの光を纏う手の平を顔の前で開いた。

「あたしもマリーが国仕えになるのは反対だし……、本人は興味ないって言うから受けてないけど……。マリーならあんな試験、簡単にパスできるわよ」

 あんな試験。
 それは、エリーが受けたという、国の魔術師の試験だろう。
 アキラにはその難易度がどの程度のものなのか知らないが、入隊の儀にわざわざ国の魔道士が集まったと聞いている以上、それ相応のものなのだろう。

 ふわふわと浮かぶ不安定な光の中、アキラは、眼下で戦っているマリスではなく、エリーだけを見つめていた。

「さっきも見たでしょう? マリーがマーチュと戦ってるのに……、あたしはあんたと一緒に落石を必死で避けてただけ」
「いや、あいつは天才なんだろ?」
「……“その双子のねーさん”は、そうじゃないのよ? 度胸もない。潰されるのが怖くて、近づくこともできないんだから」

 エリーは、最愛の妹マリスに、コンプレックスがあるようだ。
 悔しそうに、マーチュの周りを飛び交うマリスを眺めながら、エリーは小さく『あーあ……』と漏らした。

 コンプレックス。
 総てに恵まれている人間が存在しないと考えれば、それは誰でも持っているものだろう。
 ただ、それを受け止めて、起こす反応は人それぞれだ。

 そのコンプレックスを埋めようと奔走する人間もいれば、ただ単純に諦めるだけの人間もいる。
 自分がどちらの種類の人間なのかと問われれば、アキラはおそらく後者に分類されることになるのだろう。

 例えば、テストで悪い点を取ったとき。
 例えば、体力測定で一緒に受けた奴より劣っていたとき。

 元の世界でのプライドは、言い訳と共に埋もれていった。
 そんな自分が不甲斐ないと思いつつも、本気で悔しがったことは、多分、なかった。

 幼い頃からやっていれば、と思ったことは、何度もある。
 だが、今からやろうとは、どうしても思えなかった。

 だから、自分は仮想の世界に思いを馳せ、そんな自分をリセットしたいという願望に取りつかれていたのだろう。
 その仮想の世界での自分は、主人公で、英雄で、たくさんの美女たちに囲まれているのだ。
 そんな世界を夢見ない者は、多分存在しない。

 いかに現実主義者で、いかに後悔のない人生を送ったと言い切れる者でも、夢を見ることを拒絶する者はいないはずだ。
 どんな人生を送ったか、ということと、夢を見る、というのは、離れて存在するものなのだとアキラは思う。

 だけど、そんな諦めだけで満ちていた世界から、自分は離脱した。
 “主人公”になれるチャンスをもらったのだ。
 そのはずなのに、自分は今マリスが戦っているモンスターの、10分の1にも満たないマーチュすら倒せない。

 ようやく、自分の中で生まれていた“もやもや”に、“悔しさ”という名前がはっきりつけられそうだ。

 そして、

「なあ、俺たちなんかできないのか?」
「?」
 同じように悔しさを持っているエリーに、ようやくアキラはその声をかけられた。
 自分の悔しさもさることながら、アキラはどうしても、エリーがそうなっているのを見るが、辛い。

「なんか、その辺の岩砕いて、逃げ道作っとくとか……」
 アキラが見たのは、今や自分の目の高さにある山の肌。
 落石が懸念された下とは違う。
 今自分たちがいる高度がこの飛翔の魔術の限界のようで山を超えることはできそうにないが、ここなら攻撃して山を掘り進んでも危険ではないだろう。

「まあ、俺の使命は応援になるんだけど、さ」
「はあ……。山が砕けるなら、マーチュに攻撃してるわよ」
 アキラの提案を切り捨てたエリーは、今度は怒鳴らなかった。
 ただ、嘲笑とも違う呆れ顔を、アキラに向けるだけ。

「ま、まあ、そうだよな」
 そんな顔を見ると、どうしても、アキラの心拍数は上がる。
 熱に浮かされるように、頭がぼうっとするのだ。

 ああ、もしかしたら、自分は。

「―――、危ないっす!!」
「―――!?」

 アキラがその声に反応し、エリーの手を引き全力で身体を動かすと、たった今自分たちがいた場所をマーチュの巨大な尾が薙いだ。
 岩山を抉る一撃は、この山総てを震わす。
 もしも受ければ、痛いと感じる余裕さえないだろう。

「あっ、あんたよく空中で動けるわね……!?」
「あっ、ああ、俺もびっくりだ!!」
 何とか回避を成功させたアキラ自身も、奇跡的に最高の働きをした自分の反射神経と運動能力に目を丸くする。

「こっ、これは勇者の血が……!?」
「それはない!!」
 この銀の光を纏っていれば、マリスの力を借りずとも、本人の意思で動けるらしい。
 この魔術の性能は、アキラの頭に後付けされて入っていく。

 だが、それと同時に、エリーに大声で否定された“勇者の血”とやらが、身体の中でふつふつと現れ始めたのを感じた。

 自分は、“戦い方を知っている”。

「な、なあ、俺、マジで勇者かもしれないっ!」
「はあっ!? じゃ、じゃあ何とかしないさいよ!!」

 エリーが見据えるのは、未だ動きの鈍らない巨大マーチュ。
 マリスが攻撃を幾度となく打ち込んでも、その底なしの体力は尽きる気配がない。

「い、いや、まだあいつの相手は早いっ。もう少し、ソフトな相手なら……」
「あんた……って、また来たぁぁぁあああーーーっ!!」

 巨大な尾が、再び二人を襲った。
 マーチュは再警戒対象のマリスを追いながら、近くを飛び交う五月蠅い2人を払うように尾を蠢かせる。

「あっ、あんたっ、勇者でしょ!? ほっ、ほらっ!!」
「ぜっ、前言撤回の方向で!!」
 持てる筋力全てを使って、アキラとエリーは尾を避け続ける。

 先ほど思わず掴んでしまった手は、離さない。

「っ―――、レイディー!!」
 マリスも必死にマーチュの注意をアキラたちから逸らそうとするが、尾を動かすだけで事足りる相手な以上、その尾の動きは止めない。

「どっ、どうすんだよ!?」
「どうするも何も……!?……」
 突如、アキラに手を引かれるまま飛んでいたエリーの眼が、マリスを捉えて見開かれた。

「どっ、どうした!?」
「マッ、マリスが疲れてる!!」
「!?」
 そう言われてマリスを見たが、アキラには何がどう違うのか分からなかった。
 半分閉じたような瞳も、つむじ風のように空を飛び続ける動きも、何一つ変化はない。
 今まで通りだ。

「そっ、それマジなのか!?」
「あたしには分かるのよ!!」
 流石に双子、と言うべきか。
 マリスの微妙な変化を敏感に察したエリーは、握る手を強くした。

「攪乱するように飛んでるし……。さっきの防御もあんなに大きく……、ど、どうしよう!? あっ、あたしたちがいるせいだ……」
「おっ、おま―――、っ、うお!?」
 顔面蒼白になったエリーへの返答は、身体に起こった異変にかき消された。
 今まで空を自由に行けたシルバーカラーの光。
 それが、急激に収束しだし、徐々に高度も下がっていく。

「2人―――っ」
 再び飛翔の魔術を放とうとしマリスは、それを遮るかのようなマーチュの突撃に離脱以外の行動を取れなかった。

 2人はとうとう地面に降り立ち、再び落石との戦いが始まっている。

 まずい。
 もし、ここで、“あれ”をされたら―――

「ギィィィィイイアアーーーッ!!!!」
 マリスが危惧したと同時、再びマーチュが強大な雄叫びを上げた。
 そして、その角にほとばしる、グレーカラーの膨大な魔力。

「まっ、まずいっ!! あっ、あれっ!!」
「さっ、さっきのか!?」
 慌てふためく二人から、マリスは遥か遠くにいる。
 マーチュは魔力を溜めながらも、尾で威嚇し、マリスの動きを封じていた。

「どっ、どうすれば―――」
「……」
 必死に打開策を探ろうと視線を泳がすエリーの横、アキラはギュッと、手を強く握り返していた。

 汗に濡れた手の向こう、エリーの心音が聞こえる。
 絶体絶命という言葉は、まさに今こそ当てはまるだろう。

 現状、打開策がない。

 だから今こそ、アキラは強く念じた。

 異世界への来訪。
 双子の美少女との出会い。
 そして、村から勇者と崇められたという設定。

 細部は微妙にずれたが、ここまでベタづくしなのだ。
 だったら、残っているもう1つのベタな設定。

 “勇者の力”とやらが発動してもいいではないか。

 自分に隠された力。
 それが、今、絶対に必要だ。

 先ほど、空中での移動中、浮かんだ身体の中の奇妙な感覚。
 “勇者の力”と思えた、あの、“戦い方を知っている”という感覚。

 恐怖で埋めたその感覚を、必死に探る。
 “この世界に自分が来た意味”があるというのなら、絶対にこの状態を救える術があるはずだ。

 少なくとも。
 隣で震える女の子を、助ける術が。

 この子を、どうしても、助けたい。

 あるはずだ。

 ルール通りの世界なら―――

「―――」

 “来た”。

 身体の中からふつふつと、何かが沸き上がってくる。
 右手には、浮かんできた感覚を。
 左手には、エリーの手を。

 それぞれ強く強く掴む。

 ベタな展開と言われてもいい。
 後付け設定、万歳だ。

 その2つは、決して離したくはない。
 何故か、そんな想いが強まっていく―――

「っ―――」
「え……」

 アキラの右の手のひらが、煌々と光る。
 色は、オレンジ。
 その光は、未だ差し込める太陽と混ざり、キラキラと輝いていた。

「……」
「ぁ……ぇ……」
 アキラは、恐怖と絶望で冷え切っていた身体が、輝く右手から、ポカポカと温まっていくのを感じた。
 その熱は左手から、エリーにまでも伝わる。

 いける。

 アキラは確信した。
 この光には、絶大な信頼を寄せていい。

 そう、本能が訴えかける―――

「うぉぉぉおおーーーっ!!」
 アキラはその光を放つように、前に突き出した。

―――カラ、カランッ。

「…………え?」
「……は?……はぁっ!?」

 今まさに必殺の一撃を放とうとするマーチュに飛んでいったのは、アキラの放つ絶大な威力の光線、

 ではなかった。

 飛んでいったのは固形物。
 それはまるで、子供に投げられた玩具のように、数歩先の地面に転がる。

 その、オレンジとクリムゾンレッドの、筒状のボディ。
 普通の竹を切り取り、それに短剣でも突き刺したような形。
 その筒は、穴の空いている端と、空いていない端があり、空いている端には、竜の顔を模しているように装飾が付いていた。

 だが、結局のところ、その形状は、

「あっ、あんた、村長から玩具の銃でも貰ってたの!?」
「いっ、いやっ、あれっ!?」

 まさしく銃そのもの。
 ただ、銃というよりは、大砲をコンパクト化したような形状だった。

 だが、この世界には、このようなコンパクトな銃はない。
 エリーの目からは、竜の顔をモチーフに造られた玩具にしか見えなかった。

「え、えっと……?」
 しばし、茫然。
 たった今、究極の攻撃を繰り出したつもりでいたアキラは、投げ出された勢いでくるくる回っていた銃が止まるまで、その玩具をじっと見ていた。

「って、遊んでる暇は―――」
「あっ、ああ!!」
 マーチュが今まさに魔術を放とうとしていることをようやく思い出し、アキラは一縷の望みをかけて転がった銃に駆け寄った。

 持ち上げてみても、軽い。
 手触りは、造りがいいのか良くなじむが、近くで見ればますますチャチな玩具だ。
 竜の口に相当する先端の穴から覗いても、中に弾薬らしきものも見つからない。

 マーチュの魔力は放出寸前だというのに、自分は玩具で何をやっているのか。

「くっ、来るっす!!」
 マリスの叫びが聞こえる。

 そんな中。
 どこか諦めたように、もしくは、何の気なしに。

 アキラがカチッと引き金を引いてみた瞬間。

 それは、起こった。

「……―――」
 エリーは、見た。
 アキラが引き金を引いた瞬間、巨大なマーチュがオレンジの光に包まれたのを。

 放出先は、アキラが取り出した、銃。
 膨大な魔力が溢れ、その竜は、破壊の光線を吐き出した。
 小さな竹ほどの太さの穴から、あの巨大なマーチュをまるまる飲み込むほど巨大で、圧倒的な光。
 その光線は、マーチュすらも通り越し、山そのものさえ飲み込んでいく。
 そのまま天高く伸びていき、太陽と混ざっていった。

 このオレンジの光が持つ意味を、エリーは知っている。

 系統ごとにカラーの違う魔力の波動。

 自分の火曜属性は、スカーレット。
 マリスの月輪属性は、シルバー。
 マーチュの土曜属性は、グレー。

 そして、オレンジは、

「“日輪属性”」

 ふわり、と。エリーの元にマリスは答えを発して着地した。
 光に包まれた巨大マーチュに、完全に背を向けて。
 叫び声すら上げられず、光に飲み込まれたマーチュの生死は確認するまでもない。

「やっぱりにーさん、“勇者様”みたいっすね」
 ふう、と息を吐くマリスの顔は、どことなく緩んでいる。
 それはきっと、月輪属性の魔術師が好む日輪の光を近くで見たからだろう。

 この世界に存在する属性の中で、最も希少と言われるその光。
 マリスがアキラに惹かれる理由が、ようやくエリーも理解できた。

「はあ……。使うのが遅いのよ……」
 エリーがそう呟いたところで、ようやくマーチュが倒れ込み、最後の地鳴りを響かせた。

「……? あれ、にーさんは……?」
「え……あれ?」

 破壊の出所を探っても、そこには誰もいない。
 荒れただれた広場の中、立っているのはエリーとマリスだけ。

 巨大マーチュを一撃で倒した“勇者様”、アキラは、こつ然と姿を消していた。
 何一つ、別れも告げず。

「―――不思議な人……だったわね」
「ねーさん、違うっす……!! あっち、あっち!!」
「へ?」
 マリスが珍しく慌てて駆けていったのは、エリーの真後ろの岩の壁。

 何があるのかと振り向けば、そこには、1人の男が倒れ込んでいた。

 横に向いた顔は、額と鼻から血を流し、眉を苦痛で歪ませ、大地を抱きしめるようにうつ伏せで倒れているのは、間違いなく、“勇者様”だ。

「あ……が……が……う……っ……」
「―――グロッ!?」
「いっ、言ってる場合じゃないっす!!」
 マリスは慌てて手をかざす。

 自分の攻撃の反動で後ろに吹き飛んだアキラは、強く体を岩場に打ち付け、その激痛で嗚咽を漏らすことしかできない。
 吹き飛ぶ方向が少しでもずれていたら尖った岩に身体が突き刺さっていただろうが、幸か不幸か半死半生のアキラに何かを考える余裕はなかった。

「あ……あ……が……、」
 シルバーカラーの光が、アキラの患部に集中していく。
 処置が早いのが幸いか、アキラの傷は、順調に塞がっていった。

「どっ……どうっ……なっ……、」
「マーチュなら倒したわよ。あんたの攻撃が」
 途切れ途切れのアキラの声を拾い、エリーが澄んだ顔で見下ろしてきた。
 アキラは痛みでうずく顔で、笑みを返す。
 その攻撃を放った強力な銃は、アキラの足元に転がっていた。

「本当に、“勇者様”みたいね……」

 ああ、よかった。
 マーチュを倒したことよりも、エリーがそこで笑っていてくれることが、アキラは嬉しい。

 やはり、自分は、あのとき、

「……ふぅっ」
 マリスがかざした手を離し、銀の光が小さくなって消える頃には、アキラの傷もやわらぎ、身体を起こす程度はできるようになっていた。

「痛みはまだ残ると思うっすけど……とりあえず大丈夫っすね」
「あ……あ、ああ、大丈、夫だ。助か、った……」
 マリスの言う通り、未だズギッ、と痛みはあるが、とりあえず助かったらしい。

「マジで、ありが、とう」
「どっちかって言うと回復魔術は苦手なんすけどね……。でも、よかったっす」
「いや、お前が、いなかった、ら、さっき、も……さ、っき……?…………!!?……」
 呂律が回らないアキラの身体が、さらにプルプルと震えた。

「……!?」
「?」
 最初は痛みのせいだと思っていたマリスも、警戒心を新たにする。
 どうもアキラは、何かを見て、震えているようだ。

「ね、ねえ、どうしたのよ?」
「―――!! まずいっす!!」

 何が、とエリーが聞き返すまでもなかった。
 最後と思われた地鳴りが、再び発生。

 飛び退くように振り返ったエリーの瞳に、信じられない、いや、信じたくない光景が飛びこんできた。

 倒れ込んだマーチュが起き上った、わけではない。
 それならある意味遥かに幸せだったろう。

 問題なのは、倒れ込んだ巨大なマーチュが、この閉ざされた空間で、身体中に魔力をほとばしらせていることだった。

「まっ、まさか―――」
「戦闘不能の爆発っす!!」

 エリーの顔が一気に青ざめた。
 モンスターの爆発の威力は、その蓄え込んだ魔力に依存する。
 上位魔術を放てるほどのこの巨大な生物の爆発は、先の洞窟内での小動物の爆発とは比較にならない。
 下手をすれば、この山総てを消し飛ばしかねない。

「っ、ねーさん、自分の後ろに!!」
「マッ―――」
 マリスは二人を庇うように立ち、巨大なシールドを展開しようと両手を広げる。
 だが、マーチュの魔力の一端を使って放たれた攻撃にさえひび割れたシールドが、その源全ての爆発を耐えきれるだろうか。
 エリーの予想は、ノーだ。
 加えて言うなら、マリスはもう限界が近い。

「っ―――」
 今すぐこの場から離れなければならない。
 自分たちが考えなければならないのは、防御ではなく、回避だ。
 だが、飛べる高さに限界がある以上、この場所からの離脱は―――

「……!! そうだ! こっ、これ!!」
 エリーは、足元に転がったアキラの銃にしゃがみ込んだ。
 人一人吹き飛ばした噴射とマリスの魔術を併せて使えば、山を越えられるかもしれない。

「って、これ、な、によ……!?」
 だが、手を伸ばしたその銃は、地面に張り付いているかのように動かなかった。

 “重い”のではない。
 “持てない”のだ。

 理由は分からない。
 だが、不思議な感覚が、この銃を持つことを拒絶させる。

 とにかく、エリーには、この銃を装備することができなかった。

「ちょっ、ちょっと、ねぇっ!!」
「な……ん、だよ?」
 よろめきながらもようやく立ち上がれたアキラの手を取り、エリーは銃に近づける。
 すると、どういう原理か。落ちていた銃は、アキラの手に吸いつくように拾われた。

 あとは、

「マリー、逃げるわよ!!」
「……! 了解っす!!」
 展開しようとしていたシールドを瞬時にキャンセルし、マリスはアキラにしがみついた。
 そして二言三言呟き、3人の身体を宙に浮かせる。

「いい? 合図したら撃つのよ!!」
「いっ、いや、これ、肩外れそうになる……わっ、分かった!!」
 2人にしがみつかれ宙を浮くアキラの眼に、巨大な身体をさらに膨張させたマーチュがいやでも飛び込んできた。
 すでに臨界点。
 バチバチとほとばしるグレーカラーの魔力の量の前には、先の魔術の記憶さえ瞬時に塗り替えられる。

「っ、ここが限界っす!」
「おぅ―――ぎっ―――」
「っ―――」

 飛翔魔術の最高到達地点に達したマリスが叫んだと同時、アキラは再び禁断の引き金を引いた。
 その瞬間、オレンジ色の閃光が噴き出されたと思えば、その勢いで3人は上空へ吹き飛ぶ。
 ついでに言うならば、アキラの肩の骨は、今度こそ外れたようだ。

「いっで―――」
「!! 危ないっす!!」
 肩の激痛に滲む視界の先、アキラに、先ほどのトラウマが近づいてきた。

「っ―――」
 発射の向きが悪かったのか、3人が向かった先には、空への道の障害物、飛び出た岩。
 この勢いで飛び込めば間違いなく命はないというのに、頼みの綱のマリスは、3人を少しでも高く飛ばすことに精一杯だ。

「どっ、どうす―――」
「あっ、あたしが!!」
 アキラの顔が恐怖に引きつったとき、届いたのはエリーの叫び声。
 強引に自らの身体を2人の前へ動かし、拳を突き出した。

「―――」
 生きていたのだから、成功したのだろう。
 アキラは目を閉じていたが、いつまで経っても襲ってこない衝撃に、恐る恐る目を開く。
 衝突の瞬間、眼前いっぱいに広がったスカーレットの魔術は発動し、障害物を見事粉々に砕いていた。

 もう3人を遮るものは何もない。
 スカーレットとシルバーに輝く発行体が、オレンジをロケットブースターに青空を行く。

 その塊が太陽に混ざりゆく、その瞬間。
 無人となったマーチュの山が、グレーの光に飲み込まれた。

「―――終わったっすね……」
「たっ、助かった……!!」
「かっ、肩っ、肩っ、がっ……!!」

 3人の吹き飛ぶ先は、偶然にもリビリスアークの方角。
 アキラの銃が閃光を吐き出さなくなったところで、マリスはゆっくりと、不時着ポイントへ軌道を修正した。

―――**―――

「多分、これで大丈夫っすよ」
「あ、ああ……ありがとう……」
 アキラは恐る恐る、右手を上げる。
 ある一定以上の高さに上げると未だ痛むが、どうやら骨ははまったらしい。
 ただ、痛むのは肩だけではなく全身なのだが。

「ま、名誉の負傷ってやつね」
「そりゃどうも……。てかさ、手、痛いんだろ?」
「む」
 先ほどからずっと拳をさすっていることを見透かされ、エリーは喉で唸る。
 すぐにマリスが光で包んだエリーの拳では、岩を砕いた手袋が無残にも破れていた。

「山。砕けるじゃないかよ」
「砕いたのは、岩、よ。……ああ、マリス、もう大丈夫。ありがとう」
 エリーは拳を動かし、様子を確認する。
 そこでようやくマリスは、ほっと息を吐き、とろん、と眠そうな顔を作って草原に座り込んだ。

 3人が不時着したのは、リビリスアーク近くの草原。
 さしものマリスも疲れたようで、村まで飛ばすことはできなかった。

「まあ、村の人が迎えに来てくれるっすよ」
「そうね。今度こそ、村長に文句言わないと……!!」
「そう、だな……。流石に最初のボスで、あれはない」
「だ、か、ら、意味の分かる……あ、え……」
「!?」

 アキラの足元に転がっていた銃が、途端、輝いた。
 巨大マーチュを一撃で倒した神秘的な武具が、空に溶けるように透けていく。
 そしてその光の残照は、アキラの胸に吸い込まれていった。

「お、おおっ、なんか必殺の武器っぽい」
「“魔術による武具の具現”。立派に必殺の武器っすよ、それ」
 魔術で武器を創り出せるのか。
 何か燃えるものがあるその設定に、アキラは目を輝かせた。

「妙に身体が熱いのも、この銃の力、か……」
「いや、にーさん単純に風邪っす」
「え?」
 言われて、アキラは額に手を当てる。
 熱い。
 そして、自覚して初めて、景色がぐわんぐわんと揺れているような気がしてきた。

「…………ゴホッ、ゴホッ!!」
「何いきなりせき込んでんのよ!?」
「いや、なんか景色が歪む……。マジで……!」

 そう言えば、確かに朝から体調が悪かった。
 アキラはそれを思い起こし、さらにせき込む。
 今までもったのは、戦闘でのアドレナリンだったようだ。

 病は気から、を体現するように、自覚した今、アキラに急激な寒気が襲ってきた。

「だっ、だ……めだ……。もう、座っても……いられな……」
「ちょ、ちょっとっ」
「病気は治せないっすよ……」
 パタリと仰向けに倒れ込んだアキラの視界には、青空の中、同じ顔の2人が映った。
 2人とも、休んでいいと顔で言ってくれている。

「は……はは……」
 頼りなさ気に乾いた唇から声を漏らして、アキラは意識を手放すことを決めた。

―――もしかしたら、これは、風邪のせいだったのかもしれない。

「―――」
 天才的な魔術を発揮して、怪我を幾度となく治してくれたマリス。
 その上、親切に接してくれた。
 感謝しても、し足りない。

 それなのに、何故か。
 マリスより、エリーのことを目で追っていた。

 やっぱり、熱のせいなのだろう。
 今、急速に意識が遠ざかっていくのも。
 熱に浮かされ、よりによって女性の前で素直すぎる自分の夢を口走ったのも。

 そして。

 自分がこの異世界に来て、最初に出逢った、花嫁姿の女の子。
 そこで、自分が。

 エリーに一目惚れをしていた、なんてことを思ったのも。



[12144] 第二話『今必要なのに、今の今まで』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:05
―――**―――

 ヒダマリ=アキラの朝は早い。
 まず、日の出と共に起床。
 そして、風邪で二、三日寝込んでしまった時間を取り戻すように、急いて宿舎を飛び出す。

 だが、冷静さをも併せ持っていた。
 そのまま駆け出す、となってしまうと身体に悪い。
 まずは、寝起きの身体に合図を送るために簡単なストレッチ。
 関節という関節を回し、最後に深呼吸をしたところで、まるでボクサーのように両手を振りながらジョグを始める。

 コースはおおよそ、村を四分の一ほど回る程度。
 だが、日ごとにコースを変え、村の地理を頭にたたき込む。
 まだ開いていない店を見て、活気包まれる昼ごろにはどのような姿になるだろうと想像するのがお気に入りだ。

 そして、宿舎に帰ってきてからも、トレーニングは終わらない。
 体が温まったところで、腕立て、腹筋、背筋を二十回。それを、三セット。
 さらに、実戦を意識して、ダッシュも行う。
 前に、後ろに、そして、左右にも。
 先のマーチュ戦で瞬発力が必要と判断したアキラは、広い庭を駆け回る。

 そして、最後に素振り。
 村長からもらった最初の剣は折れてしまったが、素振り程度なら、その辺りの木材で十分だ。
 これから剣で戦うかどうかは分からないが、近距離戦の力はつけておきたい。
 やらないよりはマシだろう。

 簡単な朝の運動が終わったところで、朝食の匂いが食堂から流れてくる。
 最後に整理体操を行なって、シャワーを浴び、ようやくエルラシアをはじめとする孤児院のメンバーに会う。
 そして、クールな顔つきで、おはようと言い、朝食後に始まる、マリスの魔術の授業を受けるのだ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「…………一日、だったっすね」
「一日、だったわね……」

 その、“時間にして”マリスの授業が終わる頃、双子は食堂で顔を見合わせていた。

 長い赤毛に切れ長の瞳の少女は、エリーこと、エリサス=アーティ。
 つい先日国仕えの魔術師になり損なった彼女に今ある憂鬱は、“別の大問題”。
 それもこれも含めて、盛大にため息を吐く。

 一方、そのため息を受け止めるのは、同じ顔つきのマリスこと、マリサス=アーティ。
 髪の色は薄い銀で、瞳も色彩が薄く、のほほんと表現すべきか、眠そうに半分閉じているような状態だが、背丈も含め、エリーをまるまるコピーしたような姿だった。
 とても、数千年に一人の天才と言われている人物とは、年齢もさることながら思えない。

 二人とも同じように美少女と表現できるが、エリーの顔は、やつれたように歪んでいる。

 七、八人いる子供たちは、今頃、孤児院の長、エルラシアに午前の授業を受けているだろう。
 学校も兼ねているこの孤児院では、エルラシアや、住み込みの手伝いとも言えるエリーやマリスが教鞭を取ることになる。
 さしずめここは、職員室といったところか。

 だがその職員室は、どこか、どんよりとした空気に包まれていた。
 当然、悩みの種は、一週間ほど前に現れた“勇者様”。

 見事巨大マーチュを撃破した勇者ことアキラは、おそらく今頃、夢の中だろう。

「くわぁ……、おっ、二人とも、おはよう」

 否。
 どうやらアキラは、すでに起き出していたらしい。
 どれほど修辞を重ねてもクールとは表現できない寝ぼけ眼での『おはよう』は、食堂内に小さく響いた。

 一週間ほど共に生活していれば慣れたもの。
 貸し与えたジャージの隙間から体をポリポリとかき、片手で髪を寝かしつけるように撫で下ろしていた。

「あ、マリス……。朝飯とかってもう残ってないか?」
「いや、あるっすよ……っ……」
 晩年、眠気眼を浮かべているマリスが席を立とうとすると、その腕をエリーが強く掴んで座らせる。
 そして、もう片方の手で、隣の空いている椅子を指差し、アキラを促す。

「? なんだよ?」
「……もう罪悪感もないの?」

 朝から不機嫌な空気を真正面から浴び、アキラはしぶしぶ席に着く。

「今、何時だか分かる?」
「? 十一時過ぎ……いや、もう半か。ほら」
 アキラが食堂の大きな時計を指すと、エリーは拳でテーブルをガンッ、と叩いた。

「あ、ん、た、ねぇっ!! トレーニングはどうしたのよ!?」
「え、いや、ほら、え、っと、」
「あんた、開始二日目に何て言ったっけ?」
「え、っと……明日は頑張る」
「そうよねぇ、確か、身体を休めるのもトレーニングとか言って、一日寝て過ごしたわよねぇ」
「……はい」
「あんたが続けているのって、“休む”っていうトレーニングだけじゃない!!」

 ごわんごわん、と食堂に響き渡るエリーの声に、マリスは控えめに耳を塞ぎ、アキラは蛇に睨まれた蛙のように動かない。
 風邪で寝込んでいる間に考えたというトレーニングの紙は、初日以来使われたことはなかった。

「ま、まあ、大丈夫だよ。勝てんだろ? 魔王なんて」
「っ……、あ、ん、た、は……!!」
 アキラは座ったまま、光を手のひらに浮かべた。
 すると、その光は収束し、筒の形状の武具を形作る。
 その武具こそが、先日巨大マーチュを一撃のもとに葬り去った日輪属性魔力の具現。

 山一つなど容易に消し飛ばせる、最強の銃だった。

「いやぁ~、マジでこれ、強いよなぁ……」
「ちょ、ちょっと、それ、こっちに向けないで……!!」
 アキラは力を抜く。
 するとその銃は、空気に溶けるように光となってアキラの身体に入り込んできた。

 ピンチにならないと出ない、というわけでもなく、出し入れは自由自在だ。

「た、確かに、それ、途方もない威力だけど……」
「そうだろ? やっぱすごいよなぁ、勇者って……!」
「あんたそれ撃つと、肩外れるんじゃなかったっけ?」
 エリーの言葉も聞き流し、アキラは調子に乗って出し入れを続ける。
 そこで、いつの間にかこの場を離れていたマリスが朝食を運んできた。

「でも、不思議っすよね、それ。正直、激戦区の魔道士でも、その威力の半分も……下手をすれば、この世に存在する魔道士の誰も出せないっすよ」
「だよなぁ、ほら、魔王なんて一撃だって」
「……」

 上機嫌でパンにバターを塗り始めるアキラを見ながら、エリーはこめかみに手を当てた。

 “タチ”が、悪い。
 魔術の知識どころか、この世界の知識もほとんどないアキラに、最強の武具。
 これはほとんど、何も分からない子供に大砲の火種を持たせるようなものだ。

 あるいはそれは、魔力だけに限らない。
 一切努力をせずに富を得た者の末路は、普通、身の破滅。
 この男は、どこかで痛い目に遭わないといけないような気がしてくる。

 一方、アキラにはそんな危惧はなかった。
 最強の力を手に入れている。それの、何が悪いのか。
 そして、その力に頼ることの、何が悪いのか。

 チートとも言えるその絶大な力への評価は、アキラとエリーでは違っていた。

「でも、気になるんすよね……」
「? どうした?」
 アキラが一品食べ終わったとき、正面に座るマリスが眉を寄せる。
 この少女は数千年に一人の存在。
 先のマーチュ戦でも、尽力してくれ、その力を見せてくれている。
 その人物の助言は、二人の耳をそばだてるのに十分だった。

「あんな超絶的な魔術……。なんのペナルティもなく放てるなんて」
「いや、肩外れるんだけど……」
「そうじゃないっすよ。肉体的な問題じゃなくて、魔力的な問題で」

 マリスは眠たげな眼で、アキラの手のひらを見据える。

「にーさん、この前二発も連続で放ったのに、魔力による疲労はなかったんすよね?」
「え? あ、ああ。まあ、熱でぼうっとしてて、覚えてないっちゃあ覚えてないんだけど」
「う~ん……」
 マリスは唸る。
 どうしても、その力の出所が気になるのだ。

 魔力の具現化。
 それは、ある意味、魔道士の最終段階だ。
 魔力を消費し、敵を討つのが魔道士だが、飛ばせる魔術を凝縮し、何かを形作る。
 そのレベルは、遥かに高く、遥かに強い。

 それなのに、アキラは何の経験もなく、あの武具を具現化した。
 そして、乱発可能。
 等価交換を前提とする魔術に、そのようなことは本来起こり得ない。

 “勇者様の力”、と言ってしまえばそれまでだろうが、そのような表現で片付けられないほど、あの銃の威力は絶大だった。
 なにせ、アキラはこの世界に来て、魔道を何も学んでいないのだから。

「じゃあ、“回数制限”とかあるんじゃないっすか?」
「回数制限?」
「例えば、具現化可能な回数とか」
「え?」
「あんた今、無駄に五、六回出し入れしてたわね……」

 エリーに言われ、アキラは手を下ろす。
 これからは、不用意に出さない方がいいかもしれない。

「ま、まあ、大丈夫だよ。ほら、俺、勇者だし」
「……あんた、途方もないほどダメ人間ね。それでハーレム? はっ、笑わせてくれるわ」
「…………」
 エリーの皮肉に、アキラはぎゅんっ、と胸が痛くなる。
 熱に浮かされ、自分の夢が口走ったのはつい先日。
 それ以来、エリーはそれを種にして侮蔑交じりにアキラと言葉を交わすようになっていた。
 アキラにとってある種自分の黒歴史のようなものを曝さると、やはり、どうしても、なるのだ。
 ぎゅんっ、と。

「ひっ、人の夢を笑うのは、良くないんだぞ……!!」
「それは夢じゃないわ。呪いのアイテムよ。砕いて捨てなさい」

 そこで、食堂のドアがばんっ、と開いた。

「あ、にーちゃんだ!」
「え、いるの?」
「うん、ほら!」

 勉強道具が入った鞄を部屋に置いてくる間も惜しみ、子供たちが数人食堂に駆け込んでくる。
 年齢は様々だが、どの子どもたちも、元の世界でいえば小学生程度だろう。

「おう、お前ら……」
「お、お話聞かせてください!」
「昨日の続きを!」
「い、今大丈夫ですか?」
 先走ってアキラの手を引く低学年を、高学年組が抑える。
 だが、アキラはにこやかに笑って子供たちについて行った。
 最近の日課らしい日課。
 子供たちの相手というイベントは、どうやら今から始まりそうだ。

「大人気っすね……」
「精神年齢が近いからでしょ」
 子供たちと共に、わーっ、と駆けてくアキラの背中を双子が見送る。
 ある意味アキラは、この孤児院に貢献していると言えなくもなかった。

 エリーが聞いたところによると、アキラは色々な話を知っているらしい。
 入手経路はおそらく異世界だろう。
 その話が子供たちの心をつかむのに、そう時間はいらなかったようだ。

「微笑ましいっすよねぇ……。子供に好かれるっていうのは」
「マリー。何度も言うけど、あの男だけは止めなさい」
 いくら子供に好かれるとはいえ、駄目人間の典型だ。
 先のマーチュ戦も子供たちに話したそうだが、大分アキラの活躍が脚色されていたことだろう。

「大丈夫っすよ。にーさんは、ねーさんのっすからね」
「ち、が、う!!」
 今、自分を悩ます最大の原因を口にされると、エリーはいきり立った。

 忘れようとしても忘れられない、一週間前。
 嘘の許されない儀式の間で、神への求婚をしたことは記憶に新しい。
 そして、その誓いの口づけをしたエリーの唇に、アキラが真上から落下したことも、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 自分は、大切なファーストキスを、あのアキラに捧げてしまったのだ。
 ついでに、入隊式が流れるというおまけ付き。

 その上アキラは、ハーレムがいいとふざけたことをぬかし、婚姻を拒否。
 そんなもの、こっちも同じ気持ちだ。

 ハーレムを目指す人間と書いてサイテーヤローと読む存在と結婚など、考えたくもない。

「でも、にーさん、格好よかったじゃないっすか。マーチュも倒してくれたし……」
「それはそれ、これはこれ、よ」
 分かっている。
 あのアキラが、いや、あのアキラの力がなければ、自分たちはどうなっていたことか。

 あのまま殺されていたか、山ごと吹き飛ばすような巨大マーチュの爆発に巻き込まれていたか、だ。

 確かに、エリーもあの件は覚えている。
 不覚にも、少し、格好いいと思ってしまった。

 だけど、アキラの生活態度を見ていた一週間で、そちらの方は忘却の彼方へ飛び立ってしまったようだ。

「とにかくあたしたちの目的は、婚約破棄。それは、あのバカも同じでしょう?」
「とうとうバカ呼ばわりっすか……」
「そ、それなのに、あたしたち何やってんのよ?」
「……」

 マリスは食堂を見渡す。
 もう何年も見てきた光景だ。
 そして、この一週間でも、それは変わらない。

「な、ん、で、旅立たないのよ!?」
「そ、それはにーさんにこの世界の常識教えないとっていうことで、」
「話聞いてる限り、あいつの世界とあんまり変わらないわよ!! 『ごゆっくりおくつろぎ下さい』っていう村長の視線も、段々不審になってるじゃない!!」
「ねーさん、自分に怒鳴らないで欲しいっす」
 最近ボルテージが上がっている気がする自分の姉を見ながら、マリスは窓の外に視線を移す。
 そこでは、木の下に座って子供たちに話を聞かせるアキラが笑っていた。
 こうして見ていると、勇者様、というのは嘘で、子供好きで柔和な青年にしか見えない。

「ねーさん……、何気ににーさん、孤児院向けの性格っぽいんすけど……」
「それが、なによ!?」
「だから、ねーさんがにーさんと結婚すれば、ねーさんの夢……夫婦で孤児院やるっていうのが叶いそうな……」
「うなーっ!!」

 エリーの奇声と共に、ドアが再び開かれた。

「あら、エリー、マリー。子供たちは?」

 入ってきたのは、二人の育ての親、エルラシアだった。
 教室の片づけをした彼女には、次に昼食の準備が待っている。

 そのエルラシアに、エリーは苛立たしげに、窓の外に視線を向けた。

「あら……。アキラさん……、本当に助かるわね」
「お母さん!!」
「まあ、そうよね……。“勇者様”に子供たちの世話を任せるなんて失礼なこと……」
「そうじゃなくて!!」
 駄目人間のアキラを、自らの母が微笑ましく見るのが、どうも我慢できない。

 エルラシアに、マリス。
 なんなら村長も加えていい。
 何故自分の周りには、アキラを肯定的な目で見るものが多いのだろうか。

「最初はエリーを嫁に出すなんて考えられなかったけど……、はあ、良かった。アキラさんで」
「大声で泣いていい?」
 もう絶望だ。
 こうなれば本当に、魔王を倒し、その特権で婚約破棄をするしかないだろう。

「でも、アキラさん……」
「?」
 そこで、少し。
 エルラシアの瞳が憂いを帯びた。

「寂しくないのかしら……。元の世界には、ご両親もいたんでしょう?」
「軽い記憶喪失は継続中らしいっす……。移動の直前が、どうも思い出せないらしくて」
「……」
 本人はケロッと笑って、子供たちに話を聞かせている。
 そんな光景を見ながら、エリーは口を尖らせた。

 異世界からの強制移動。
 そんな事態が身に降りかかったら、エリーはどうなるか分からない。
 エルラシアやマリスと永遠に離れることになる。
 そう考えると、アキラを見る目が、少し複雑な意味を持つ。

「ああ、アキラさんのご両親にご挨拶したかったわ……。エリーの母として」
「うわーんっ!!」
「あ、そうそうマリー、ちょっと頼みたいことが……」
「?」
 絶望の淵に沈むエリーから視線を外せば、眠た気だがどこか上機嫌な眼の同じ顔。
 アキラが来てから対照的な双子に苦笑しながら、二言三言マリスに告げると厨房に歩き出した。
 エリーとマリスが、下準備はしていたようだ。

―――**―――

「そこで俺は目覚めるわけだ。勇者の力に」
「うん、うん」
「でな、こう、現れた銃を構えて、絶大的な一撃を放った。それは、巨大なマーチュを派内の光で包み、一撃で倒した」
「わぁ~」
「だが、物語はそこで終わらない。ほら、モンスターは死ぬと爆発するだろう? そこで登場したのがまたも俺の力だ」

 余程娯楽がないのか。
 アキラの話に目を輝かせる子供の数は未だ減らない。
 他にも元の世界のマンガや、インターネットで読み漁った話を聞かせていたりするが、最も人気なのは、今まで見えていた山が消し飛んだ、対巨大マーチュ戦の話。
 話すたびにアキラの活躍場面が増えているが、子供の中にそれに気づくものは存在しない。
 結果、主演アキラの大スペクタクル巨編に変貌を遂げつつあるマーチュ戦は、子供たちの中に確かに息づき始めていた。

「それで、」
「アッ、アキラ様~っ!!」
 良いところで話を切られたアキラは、眉を寄せて顔を上げた。
 すると、門から、見覚えのある男が走ってきている。
 村長の側近の一人、サミエルだ。

「しっ、至急、そっ、村長のところまでお越しいただけますか!?」
「ぅ、は、はい……?」
 勢いそのままに、叫んだサミエルに、アキラは立ち上がり、消極的な肯定の言葉を漏らす。
 すると、パァとサミエルの顔が輝き、一礼して動向を促した。

「悪い、エルラシアさんに、出かけてくるって言っといてくれないか?」
「ええ~?」
 不満げな子供たちの声を振り払い、アキラ歩き出した。
 いくら巨大マーチュのときはめられたとは言え、武器の提供までしてくれた村長の言葉は無碍にはできない。
 ついでに言うなら、アキラも、村長の、いつ旅立つのか、という視線には気づいていたりする。
 “勇者”という面目を保つ意味でも、ここは従うべきだろう。

 アキラは頭の中で旅立っていない言い訳を考えつつ、サミエルの背を追った。

―――**―――

「……?」
 孤児院よりも広い、白塗りの建物。そして、それに倣っての整った広い庭。
 そんな中で、アキラはポツンと立っていた。
 急ぐことに精一杯で事情を話さなかったサミエルに、ここで待っているように伝えられて、十分ほど。

 退屈にあかせて視線を泳がせていると、一人、見慣れない女性が立っていた。
 足元に必需品最小限しか入っていなさそうなナップザック。
 庭の壁に背を預け、目を閉じて沈黙を守っているが、なんと言っても目を引くのはその出で立ち。

 腰には、細く長い黒塗りの剣。
 種別でいえば日本刀なのだろうが、武器というより芸術品のように目に映るのは、長身の姿に映えるからだろうか。
 服装も、下半身こそ長い足にフィットするような黒のスパッツだが、上半身は日本でいうところの着物。
 深い紅色のその着物に肩を僅かに超えるほどの黒髪が垂れ、風に凪いでいる。
 胸元は、残念ながら下に着た黒のアンダーウェアでガードが固いが、控えめに自己主張していた。

 そして、顔立ち。

「……」
「……!」

 あまりにもジロジロ見ていたアキラと、その女性の眼が一瞬合った。
 精緻に形作られた日本人形のようなその顔は、エリーに似てどこか切れ長の眼で凛々しく、とても愛でる対象には見えない。
 触れれば切れるようなその空気の主は、アキラの姿を認めると、軽く一礼し、なんてことのないように再び目を伏せた。

「えっと、こんにちは……」
「……え、あ、ああ。こんにちは」
 思わず、アキラは声をかけていた。釣られて、その女性も声を返す。
 その声は、姿に似て、自分をしっかり持ったような凛々しい声だった。
 服装もさることながら、アキラには、その女性が武士のように見えてくる。

「え、っと、あなたは?」
「……私は、サク。ファミリーネームは、ない」
「? ……俺はヒダマリ=アキラ。アキラ、が名前」
「だろう、な」
 サク、と名乗ったその女性は、背に預けていた身体を立たせ、アキラと向き合う。
 そのあまりにまっすぐな視線は、アキラの方が視線を外すほど。
 背丈も、アキラより若干低い程度で、高い。

 だが、正面から見て、アキラは認識を強めた。

 サクは、美人だ。

「? すまない。私はあまり人と話すのが慣れなくて……」
「……いや、やっぱりこうじゃなくちゃって思ってさ」
「?」
 怪訝な顔をするサクに、見えない位置でのガッツポーズ。
 アキラは、異世界の同年代の女性は、すべからく美形であるというお約束の展開に、震える身体を抑えきれなかった。

「変わった格好だよね?」
 同年代のように思える余裕から、アキラは気楽に話を始めた。
 サクが先ほどまでしていたように壁に背を預ける。
 サクも、それを見て、再び背を預けた。

「ここは、あまり異国の者が来ないのか?」
「? そういう服を着ている人なら、見たことないけど……」
「そうか。他の国では見向きもされないほど、様々な人がいるぞ?」
 様々な人の最たる例、異世界から来たアキラは、サクの言葉に他の町や村を想像する。

 華やかな町並み。
 様々な建物、店。
 そして、複数の美少女との出会い。

 ようやく、他の町へ旅立つモチベーションが芽生えてきていた。

「って、ことは、サクさんは異国から?」
「ああ。旅をしているんだ。色んなところを回ったよ」
「へ~、俺はここから出たことはないよ」
 そうか、と小さく呟くサクを見て、アキラは徐々にテンションが上がっていった。
 自分をしっかり持った者との会話とは、ここまで気持ちのいいものなのだろうか。
 同年代との何気ない普通の会話が、嬉しい。
 孤児院の同年代は、怒鳴り散らすエリーか、のほほんとしていてこちらまで眠気が襲ってくるようなマリスしかいないのだ。

「それにしても、君の主人は……、失礼だが、人を待たせるな。もうかれこれ半時ほどこうしているよ」
 何か誤解しているようだ。
 あえて訂正をしなかった。
 村長の使用人と思われていて、実は勇者様。
 そんなおいしい展開を思いついてしまっていた。

 勇者なのに、それを誇示しない。
 そんな展開は、クールで格好いいではないか。

「それで、サクさんは何でここに?」
 気取られないように、努めてクールに振舞ったアキラへの返答は、サクの人差し指一本。
 その指は、高い高い教会の塔を超え、見通しのいい青空へ向かっていた。

「この辺りの者なら分かるだろう。あそこには、一週間ほど前には山があった」
「……あ、ああ~」
 そう言われて、アキラはサクが差している方向に何があったのかを思い出した。

 あそこは一週間前、巨大マーチュとの戦いを繰り広げた場所だ。
 アキラの銃の砲撃と、巨大マーチュの爆発で山はまるまる一つ消し飛んでいた。

「すごい爆発だった、よね」
 実は自分がやった、と喉から出かかったが、まだ村長の使用人の役は継続中。
 アキラはあくまで一般市民のような感想を口から引きずり出した。

「ああ、すごい爆発だった。たまたまその場にいた愚かな人物が、無様にも一週間ほど気絶するほどのな」
「……え?」
 サクの声が震え出したと思えば、今度は拳を作ってプルプルと身体が震えていった。
 だが今、やけに具体的な話をしなかっただろうか。

「たまたま通りかかった近隣の村の者が、“手厚く”看病してくれたが……、お陰で一文なしだ。まったく、愚かだよ、私は。…………はあああ~っ」
 震えたまま出てきたため息は、妙にビブラートが効いていた。
 その美声を受け、アキラの背筋は寒くなる。

「そ、その上……、あちこちと……か、身体を……見られたり……!! ううっ……!!」
 途端歯切れの悪くなったサクは、真っ赤になった顔を両手で覆った。

 “手厚く”看護され、自分の身体を見られた女性が顔を赤くする。
 そんなシュチュエーション、アキラは『大好物です!』と言えるが、顔を覆った手の隙間から、ちらちらと殺気が混じっていては喜んではいられない。
 その上、その原因の一端、いや、九割ほど担っているのだから、せいぜい薄っぺらな笑顔を浮かべられる程度だった。

「ま、まあ、何でも巨大なモンスターが爆発したそうだから……」
「マーチュ、だろう?」
「……?」
 サクはため息交じりに、足元に転がっているナップザックから便箋サイズの封筒を取り出した。

「……、これだ。巨大マーチュの調査の仕事。倒すのは不可能と言われていたらしくて……。まあ、今となっては分からないが」
 眉間にしわを寄せ、サクは手紙を握りつぶした。
 身体を見られたことは、余程悪しき記憶らしい。

「まあ、一応引き受け、私は様子を見に行ったんだ」
「そ、それであの山に」
 どうやらサクは、モンスターの駆除を引き受けながら旅をしているらしい。
 モンスターは、人間にとって害ある存在。
 ならば逆に、それが仕事になり得る、ということなのだろう。
 握りつぶされて丸まったその手紙を横目で見ながら、アキラはこの世界のルールの一端を掴んだ気がした。

「だが、私が巻き込まれたのはマーチュの爆発ではない。マーチュは土曜属性。私が見たのは、グレーの閃光ではなかった」
「……ほ、ほぅ……」
 自分が握り潰していたことに今気づいたように、サクは丁寧に紙を畳んで仕舞った。

「私が見たのは……オレンジの閃光。山そのものを吹き飛ばすような、巨大な破壊光線。幸か不幸かマーチュの爆発の前に気を失っていて……、そのあとは……あ、あああ……!!」
 サクは再び、赤い顔を手で覆った。
 そしてやはりちらほらと、指の隙間から殺気が漏れているのだ。

「で、でも、まあ、それは、」
「あれは、間違いなく日輪属性の光。初めて見たが……、まあ、それはいい。ともかく、目が覚めた私はこの村に現れたと聞いたんだ。“勇者”が」
「…………ほぅ」
 何やら話がまずい方向に行っていないか、と先ほどから気づいているのだが、アキラは再三、軌道修正に失敗している。

「流石に一週間前となれば、この村にはいないだろう。行き先を尋ねにここの長を訪ねたんだ。そうだ、アキラ、だったか。君は、知らないか?」
「……………………」
「……? まあ、いい。知らないなら、すまなかったな」
「……、ちなみに、勇者様を見つけたらどうするおつもりで?」
「そ、それは、」
 そこで、サクは一旦周囲を気にし始めた。
 脂汗を流しながら硬直しているアキラの様子に気づかず、ぼそぼそと、小さく声を漏らす。

「僅かにとは言えど……し、しきたり違反になるから……、あまり声を大にして言えないんだが……、」
 サクは周囲を警戒し、アキラの耳に口を近づける。
 途端、今まではきはきと話していたサクが挙動不審になった。
 これほどしっかりしているように見えて、“しきたり”というものには、無抵抗に従うようだ。
 というよりも、この世界の住人総てが、と言った方が正確かもしれない。

「……決闘を申し込む」
「……けっ、」
「決闘だ。一応、勇者様に無礼なことは許されないが……、まあ、ぎりぎり許容範囲だろう。とにかく、私は勇者と戦わないと、収まりが付かない」
 さて、どうしよう。
 勇者と名乗らなかったのが、順調に裏目に出ている気がする。

 だが、アキラの中に、すでに名乗り出るという選択肢はなかった。
 というより、勇気がない。
 異世界に行った主人公たちは、アキラの知る限り、『すまない。君がいたことを知らなかったんだ。責任は取る。何でも言ってくれ』みたいなことを平気で言っていた。
 だが、無理だ。
 胃がきりきりと痛む中、空におぼろげに浮かぶ多くの先駆者たちに、アキラは羨望の眼差しを向けた。

「しかし、君は不思議だな。すらすらと言葉が出てくるよ。何故か、親しみやすい」
「いや、話し上手聞き上手ってよく言われるんだ、はははっ」
 アキラはそのカラクリを、初日だけ参加したマリスの授業で聞いていた。

 日輪属性を有する者は、みなを惹きつける力がある、と。
 その最たる例は、月輪属性のマリスだが、火曜属性を操るエリーも含まれるそうだ。
 つまり、“勇者様”というのは、輪の中心にいる存在。
 世俗にまみれた言葉を使えば、モテモテになれるそうだ。

 だが、それも絶対ではない。
 怒鳴り散らすエリーのように、敵意を向けようと思えばいくらでも向けられる。
 ただ、少しコミュニケーションが取りやすくなる程度、といったところだ。

 周囲の人とコミュニケーションが取りやすい、というのは、人との繋がりが希薄になっている元の世界の人間には重要なアビリティ。
 ご都合主義万歳だ。

 だが今、サクから向けられている好意が、かえってばれたときの反動になると思うと、胃は、きりきり痛む。

 どうすればいいのか。
 アキラが必死に頭を回転させていると、

「バカ者!! 勇者様を外で待たせるとは、」
「す、すみません、まさかあの者も外で待っているとは……」
 聞こえてきた。
 破滅への階段の足音が、村長の家の中から。

 やっとか、と小さく呟きサクは壁から背を離す。
 もう駄目だ。
 こうなったら、どれほどいたたまれない気持ちになろうと、多くの先駆者に倣って、潔く謝るしかない。

 大丈夫。
 自分は勇者。
 勇気ある者、だ。
 アキラは強く強く、自分に暗示をかけた。

「おっ、お待たせして申し訳ありません、勇者様!! 客人も、長らく……?……」

 ドアが壊れんばかりの勢いで走り込んできた村長が眼にしたのは、待たされて多少なりとも苛立っている、来訪者の剣士と、

「? おや?」

 いや、それだけ。
 アキラはこつ然と、村長の屋敷から去っていた。

―――**―――

「マリス!! マリス、どこだ!?」
「ちょっと!! うるさいわよ!!」
 転がり込んできたアキラに、エリーは午後の授業の準備の手を止め、アキラに怒鳴り返した。
 だがアキラの視線は、エリーを飛び越え資料室を泳ぐ。

 本の匂いに包まれた小規模な図書館。
 ここには、孤児院の授業で使われる教科書が収納されており、一つきりの窓から差し込める小さな光と、その光を受けるソファが備わっている。
 そのソファが、よくマリスが本を読んでいる定位置だということを、アキラはこの一週間で認識していた。

 だが、

「マリス? マリスやーいっ!」
「っ、無視?」
 駄目人間と認定しているものの、無視されるのはやはり面白くない。
 エリーは取り出した資料を、入り口近くの机に無造作に投げ捨てた。

「マリーなら、お母さんと一緒に隣の町でお買い物」
「うっ、嘘だろ!?」
 自分がここにいるというのに、アキラの顔が更に蒼白になる。
 やはり、面白くない。

「じゃっ、じゃあ、前の食堂のおばさんだっ!!」
「へぇ……。あたしの優先順位はそれより下なわけ?」
 わさわさとしているアキラの肩をガッと掴み、強引に落ち着かせる。

「くっ、止むを得ない……!!」
「あ、の、ねぇっ!!」
 この男は、人をイラつかせる天才なのだろうか。
 やれやれ、とため息をつき、窓のソファに腰をどかっ、と落とした。
 ただ決して、窓の外から見えない位置に。

「なあ、決闘って、なんだ?」
「……は? え、えっと……」
「ほらぁ……、やっぱり知らないんだろ?」
「まっ、待って。思い出すから!!」
 まるで自分を頼りにせず、諦めモード全開のアキラに、エリーは頭の引き出しを片っ端から開けた。
 アキラが知りたいのは、決闘という言葉の意味ではないだろう。
 必要なのは、“この世界における決闘とはどういうものを指すのか”、という情報だ。

「えーと、まあ、戦いよ」
「戦い? やっぱり? てか、嫌な予感するんだけど……」
「まあ……戦いっていうより、殺し合いね……。それを受ければ、勇者様も“しきたり”も何もないわよ。ただ純粋に、人間として戦うの」
「ほぉらぁぁああ~~、思った通りじゃねーか……!! 止めろよぉっ、そういう後付け設定……!!」
「あっ、あたしに言わないでよ……!! てか、あんた決闘受けたの!?」
 頭を抱え、ソファにうずくまるアキラは、子犬のようにプルプル震えている。
 今更ながらに、なぜこの男が“勇者様”なのか理解に苦しむ。

「……受けてない。でも、勇者と決闘するって奴に会った。向こうは俺が勇者って気づいてなかった」
 ボソボソ漏れた言葉を拾い、エリーは、ほっ、と息を吐く。

「なんだ。じゃあ、受けなきゃいいじゃない」
「……え? できんのか? それ」
「ええ」
 顔を上げたアキラの眼が、自分を頼っていることを感じ、エリーは得意げに頷く。
 ほらみなさい、あたしでも解決できるじゃない、と。

「相手が申し込んできても、『勇者様に無礼なことは慎め』とか言えばいいのよ。まあ、受けたら終わりだけど」
「お……おおっ!!」
 アキラの顔が、ぱあっと明るくなる。
 エリーは得意げになって続けた。

「だから、あんたは相手が何を言っても無視すればいいのよ。決闘に必要なのは、“本人から直接聞いた名前”。“自己紹介”が行われていないなら、決闘は成立しないわ」
「…………う……うわぁぁぁあああーーーーっ!!」
「なっ、何よ!?」

 アキラの顔が反転したとき、孤児院のチャイムが鳴らされた。

―――**―――

「……?」
「マリー、どうしたの?」
「いや、」
 隣町に向かう馬車に揺れ、マリスは眠たげな眼をリビリスアークに向けた。
 隣に座ったエルラシアも、それに倣って自分の生まれた村を振り返る。
 馬車の窓の向こうにかすむ村は、何一つ変わらず平和に見えた。

「なんか、変な感じがしたんす」
「え?」
「いや、気のせいかもしれないんすけど……」
「……ああ、大丈夫よ。エリーも、アキラさんもいるんだから」
「……そう、なんすけど、」

 怪訝に眉を寄せるマリスを見て、エルラシアは小さく笑った。
 おそらく、マリスは“勇者様”から離れることに、妙な抵抗があるのだろう。
 自分の娘たちは、随分と彼にご執心のようだ。

 マリスはもとより、エリーも。
 試験のストレスで、口数が減っていたエリー。
 その試験がようやく終わっても、本来の自分を忘れてしまったかのように、自分を作っていたような気がする。
 その上、念願の入隊式が流れ、婚約が結ばれた。
 本人の意思とは関係なく、だ。

 エルラシアからしてみれば、エリーの心が今度こそ塞ぎ込んでしまうのではないか、という懸念が頭から離れなかった。

 だが、今のエリーは、元の、魔術師隊を目指す前のエリーに戻っている気がする。
 自分を作ることもせず、自然に、元気に。
 勇者様に怒鳴りつけているのは、“しきたり”としては問題なのだが、やはり、それより優先される“親”の感情が、エルラシアに笑みを与える。

「じゃあ、買い物をさっさと済ませて、早めに帰りましょうか」
「……分かったっす」

 ただ、マリスの懸念は、それとは別のものだった。
 なにか、良くないモノが、あの村に近づいているような、そんな、悪寒。

―――**―――

 相手の名を知り、相手に自分も名乗る。
 そうすることで、これは“辻斬り”ではなく、“決闘”に昇華される。

 互いを知る者なら、いかなるときも決闘が可能。
 だが、そうする者は少ない。
 何故なら、相手を知る以上、そうすることは通念上望むべくことではないのだから。

 だから、決闘前に、名があることを伝えるそうだ。
 相手は、自身と同じ人間。
 それを認識し、認識させ、冷静さを取り戻す。

 元来は、決闘阻止のために生まれた“しきたり”。

 それが、決闘の大前提だそうだ。

「…………」
「…………」
 広さは、なんとか野球に使えるほど。村一番の公園で、アキラとサクは向かい合っていた。
 一人は殺気に似た怒気を飛ばし、もう一人は青白い顔で微妙にうつむいている。
 公園には、その二人を囲うように村の人々が集結し、各々不安と興味が入り混じった表情を浮かべていた。

「……まさか未だ村に留まっているとは思わなかった……。だが、先ほどの非礼は、詫びない」
「……ごめんなさい」
 よく通るサクの声に対して、アキラがか細く出した声は、先ほどのアキラの様子を知っている最前列のエリーにしか届かなかった。

「ただ、互いの名を交わしたのは私にとって幸運だった」
 アキラにとっては、不運だった。
 そう、幽霊のように生気のないアキラの顔を見ながらエリーは正しく結論付ける。

 孤児院に、あのサクという少女を引き連れた村長たちが押し寄せたのは、つい先ほど。
 “自己紹介”が済んでいる以上、村長たちも止められないと諦め、この公園を“場”として提供してきたくらいだ。
 以来アキラはあの表情のまま、死刑執行を受ける囚人のようにとぼとぼこの場に誘われた。

「改めて、互いの名を交わそう。私は、サク」
「…………」
「…………私は、サクだ」
「…………」
「聞こえているのか? ヒダマリ=アキラ」
「……はぃ。ヒダマリ=アキラです……」
 はあ、とエリーはアキラの小さな声より大きなため息をついた。
 あの“勇者様”は、あまりに情けない。
 ただ、ようやくアキラが何を恐れて身体を震わせているのかが分かってきた。

 あの、サクという少女に、だ。

 離れたこの場で見ていても、サクが先天的に持っているような空気が感じられる。
 触れれば切れそうな鋭い雰囲気。
 それでいて、熟練者を思わせる落ち着いた物腰。
 そして、腰に下がった怪しげな長刀。

 戦えば無事では済まないというのは、エリーにしてみれば一目瞭然だ。

 対して、その空気に呑まれている、一般人にしか見えないアキラ。
 蛇に睨まれた蛙が表情豊かなら、今のアキラのような顔になるのだろう。

「決闘のルールは知っているな? どちらかの戦闘不能、もしくは棄権によって終了する」
 決闘前の式辞を述べ、サクは手を、すらりと長い日本刀に当てる。
 だがその表情は、その剣よりも鋭くアキラを射抜いていた。

「決闘の理由は……その、……先に話したな……!」
「…………」
 サクがどこか赤くなり、雑念を振り払うように小さく顔を揺すった。
 その理由とやらをエリーは知らないが、やはりサクは本気らしい。
 アキラは黙って、ただただサクの言葉を聞いている。
 だが、いつでも動けるように腰を落としたことだけは分かった。

「……あのバカ」
 エリーはそれを見て、小さく漏らす。
 アキラの頭には、きっと、棄権という選択肢が浮かんでいないのだろう。

 アキラは、小心者の癖に、いや、小心者ゆえか、妙に見えを張りたがる。
 これほど村の人間が集結している前で、ギブアップはできないとでも考えているに違いない。
 隣の村長など、“勇者様のお力”とやらを間近で見られると嬉々としている。
 それに加えて、さきほどサクとの会話もあり、いたたまれない気持ちにアキラはなっているのだが、エリーの予想は大きく外れていなかった。

「……」
「……」
 両者はただ向かい合い、お互いを図るように見る。
 サクは怒気を向けているようだが、エリーには、アキラの表情が読み取れなかった。
 静かに、サクを見つめるだけ。

 何を考えているのか分からない。
 ただ、びびって動きを止めているようにも見えるが、もしかしたら、何かを考えついているのかもしれない。

 そう考えると、エリーの脳裏には、どうしても“あのとき”のことが浮かぶ。
 巨大マーチュとの戦い。
 『勇者の血が目覚めた』とかなんとか言い出したときには、呆れ顔を向けることしかできなかったが、その直後、アキラは確かに巨大マーチュを倒す力を生みだした。
 本当に、“ピンチ”を“勝利”に変えられる、おとぎ話の勇者のように。

 だから、今回も、もしかしたら。

「では、いくぞ……!!」
「っ、」
 そんな思考をエリーが進めている中、決闘は始まった。

「―――」
「っ、―――」
 サクが刀に手を当て、地を蹴った瞬間、エリーは悟った。
 サクにした評価は、微塵にも間違っていなかったことを。

 地を鋭く滑るように駆け出したサクは、一瞬でアキラとの間を詰め、居合いの要領でアキラに切りかかる。

 アキラは、動かない―――

「きゃ……」
「…………」
「…………」

 エリーからも、多くのギャラリーからも小さな悲鳴が漏れた。
 沈黙を保っているのは、当事者の二人だけ。
 サクの刀の切っ先は、アキラの喉元数ミリといったところでピタリと止まり、予想された惨劇は回避されていた。

「…………何故、止めると分かった?」
「…………ふ、」
 切りかかったサクはそのままの体勢で、アキラを鋭く睨む。
 するとアキラは、深く眼をつぶり、次に、どこか達観したような瞳をサクに向けた。

「何も分からないまま殺されそうになった。……それだけさ」

 アキラは、何故か口調だけはクールに振舞い、ガタガタ震えながら一歩二歩と下がった。
 怯え切った目は、サクではなく、自らの命を刈り取ろうとした長剣に向いている。

「……って、あんた何やってんのよ!?」
「しっ、知るかぁっ!! 死ぬっ、これっ、マジで!! てか速っ!?」
 ほとんど涙目で、サクからさらに離れ続けるアキラの背は、後ろのギャラリーにどんどん近付いていく。

「……ふざけているのか?」
 初激で相手の実力をはかろうとしたサクは、抜いた刀を鞘に戻し、再び居合いの構えを取る。
 アキラはその光景が、先日の小さなマーチュの突撃ポーズのように思えた。
 しかも今度は、ふんだんに死の香りがする。

「そっ、そだっ。きっ、君はそんなに悪い人じゃない!! 人を殺そうなんて思わないだろう!?」
「……何を言い出している?」
 取ってつけたようなアキラのセリフは、サクの睨みに封殺される。
 先ほどの場所から一歩も動かず、この決まり文句をクールに言えればあるいは効果があったかもしれないが、今となっては単なる命乞いにしか聞こえない。
 アキラはご都合主義唯一の頼みの、『諭して戦闘を終える』という突破口をものの見事に潰していた。

「確かに私は人を殺さない……。だが、決闘となれば、勇者も人もない……!!」
「そっ、そうですか~っ、って違う!! 俺は、おっ、お前を、しんしる!!」
 か、噛んだ……。
 エリーは冷ややかにアキラを眺めるが、サクはかえってヒートアップしていった。

「……、おっ、お前が戦うつもりがないなら仕方ない。命だけは助けてやろう」
「ぉ、ぅ?」
 サクがプルプル震えながら出した言葉に、アキラはそれだけを捉えて表情を緩める。だが、明らかに、アキラの説得が効いている顔ではなかった。

「なに。寝込むだけだ。一月ほどな……!!」
「ヘルプッ、ヘルプッ!!」
「アッ、アキラ様!!」
 アキラが外聞を捨て、今まさにギブアップをしようとしたところで、村長、ファリッツが叫んだ。

「おっ、お力をお見せください!! その無礼な女に、なにとぞっ!!」
 ファリッツからしてみれば、地元の希望の星がこんなところで破れることは許されない。
 しかも、いきなり訪ねてきて勇者の所在を聞き出そうとした相手に。
 ましてや“決闘”だ。
 長年待ち望んだ異世界からの来訪者には、ここで敗北してもらうわけにいかない。

 だが、それを隣で聞くエリーは、嫌悪に近い表情を浮かべた。
 ファリッツは、アキラのことをまるで分かっていない。

 アキラは、あの“勇者様”は、今やどう見ても孤児院の従業員。
 そんな一般人が、サクほどの実力者相手に何をしろというのか。
 希望の星が汚れるどころか、消えてしまうかもしれないというのに。

「勇者様!! 巨大マーチュを撃破したという、あのお力を……!!」
「……!!」
 隣のファリッツの叫びを聞き、今度エリーに浮かんだのは悪寒。

 そうだった。
 あの、一般人は、

「っ、そうだ!! あるじゃん!!」
 アキラの手のひらから、光が漏れる。
 色は、オレンジ。
 太陽に溶け込むその色は、しかし収束し、アキラの右手に確かなモノを形作っていく―――

「! ようやく来るか……、日輪属性……!!」
 アキラの手に、クリムゾンレッドの銃が現れた。
 竜の顔に似たそれからは、改めて見ると、絶大な魔力が溢れだしている。

「“具現化”……。見たところ魔道タイプのようだが……、まあ、見せてもらおうか……!!」
「はっ、でかいことはこいつを受けてから言うんだな……!!」
「だっ、だめ~~~っ!!」
 途端態度のでかくなったアキラから出たのは、勇者というよりタチの悪いチンピラのような言葉。
 だが、不敵に笑って銃を構えるアキラに届いたのは、聞き慣れた怒号。
 ギャラリーに溶けていたエリーの静止の大声だった。

「あっ、あんた、そんなのここで使ったらどうなるか分かってんの!?」
「えっ、あっ、」
「てか、殺す気!?」
 唯一の希望に全力で飛び付いたアキラは、冷静になってみると、自分がしでかそうとしていた行為の重大さに気がついた。

 巨大マーチュを山ごと一撃で葬り去った絶大的な一撃。
 それを放てば、サクはもちろん、この村ごと消し飛ぶことになろう。
 それもその反動で、発射口ずれる可能性が多分にある。
 地図からリビリスアークの名が消える日の足跡が、確かに聞こえてきた。

「なんであんた、0か100しかないのよ!?」
「0は言い過ぎだろっ!!」
「何を話している!?」
 サクの声が二人のやり取りを鋭く切り、アキラを凍りつかせる。
 体制は、今すぐにでも切りかかってきそうだ。

「その技の威力は知っている。だが、放つ前に勝負を決めればいいのだろう?」
 サクの考え方は自然だ。
 威力の高い魔術は、放つのに当然時間がかかる。

 “魔力”、“時間”、そして“生命”。
 その何かを差し出すことで、魔術は生まれ、対価が高ければ高いほどその威力は増す。
 サクの見立てでは、あのオレンジ色の絶大な閃光の対価は、“魔力”、そして“時間”。
 膨大な魔力はともかくとして、放つのに時間はかかるはずだ。
 それなら、あの運動能力で劣るアキラを切り捨てることは可能のはず。

 しかし、エリーはそのサクの思考を読んでなお、村の危機を感じずにはいられなかった。
 あの技には、チャージがない。
 先のマーチュ戦も、アキラが何の気なしに引き金を引いたら、閃光が飛び出したのだ。
 いかにサクが素早いとは言え、“カチッ”で済むアキラの方が、遥かに早い。
 それも、サクの突撃に下手に驚いて誤爆されでもしたら、関係のない方向に破壊の閃光が飛び出し、無差別テロが完成するだろう。

「じゃっ、じゃあっ、どうしろってんだよ!?」
「大人しく切られなさい!!」
「だからお前に相談したくなかったんだよ!!」
 怒鳴り返したアキラは、しかし、構えた銃をゆっくり下ろす。
 このまま撃てば、“人殺しどころかエリーが悲しむ”。
 それが、なんとなく、嫌だ。

 風邪はもう、治っているはずなのに。

「行くぞっ!!」
「っ、―――」
 サクが再び地を蹴った。
 アキラは銃を構えられない。
 せめてサクが跳躍してくれれば威力を見せることができるのに。

 サクは、もう、眼前に迫っている―――

 ガキッ

「―――っ」
「……」
「……!?」

 銃を下ろしたまま硬直していたアキラの耳に届いたのは、何かと何かがぶつかる衝撃音。
 そして、目の前にいる、二人の人物だった。

 一人は、サク。
 居合いの勢いそのままに、アキラに襲いかかった対戦相手。

 そして、もう一人は、

「何のつもりだ? 決闘中に」
「……エリサス=アーティ。それが、あたしの名前」

 拳に付けたナックルガードで、サクの一撃を止めたエリーだった。
 スカーレットの火花が散り、その長刀を、両手で防いでいる。

「……そうか、サク、だ」
 サクは“察して”、“自己紹介”を済ますと、ふっと笑った。
 そして、エリーに押し返され、定位置にバックステップで下がる。
 アキラはその光景を、エリーの背中越しにぼんやりと眺めていた。

 ギャラリーは、エリーの乱入に、騒ぎ出す。

「って、お前!!」
「決闘の途中参加はありよ。もっとも、相手が認めた場合だけどね」
 エリーは、きっ、と表情を引き締め、長い髪をゴムで止める。
 サクより長いポニーテールが目の前で揺れたかと思うと、エリーはくるっと振り返り、アキラを疲れたような目で見た。

「ナッ、ナイスだ!! その後付け設定!!」
「はあ……、あんたほっとくと、魔王より早くこの村を滅ぼしそうだからね……」
「勇者に従者は付き者か……」
「従者じゃないっ!!」

 エリーは叫んで、身体を魔力で覆う。
 どの属性でも、最低限は可能な身体能力向上と防御幕。
 それすらできないアキラは、エリーからもう一歩下がった。

「てか、お前大丈夫なのか?」
「大丈夫よ!! 勝てばいいんでしょ、勝てば!!」
 エリーの拳から、スカーレットの炎が漏れる。
 足を守るプロテクターは持って来なかったが、万が一にとナックルガードだけは持て来てよかった。

「あの巨大マーチュ見たら、大体何も怖くなくなるわよ!!」
 最後にそう言って、エリーはサクを睨む。
 サクはその間に、長刀を再び鞘にしまっていた。

「火曜属性……か」
 エリーにはじき返された自らの愛刀をちらりと見て、サクは意識を集中した。
 すると、その長刀も、エリーの拳のように光を漏らし始める。

 色は、オレンジより希薄な、イエロー。
 だがそれは、スパークし、いかにも鋭そうな閃光を放つ。

「……、金曜属性、武具強化型……!」
 それを見ながら、エリーは試験科目の実戦知識を頭の中から掘り返す。
 金曜属性。
 全属性中、最も硬いとされる魔力。
 そして、戦闘スタイルは、武具強化型。
 エリーと同じように、得意な武具に魔力を込めて攻撃するタイプだ。

「ふっ、」
「……!」
 それだけ確認すると、エリーはサクに飛びかかって行った。
 自分は遠距離攻撃が苦手だ。
 どの道近づいていかなければならない。

「っ、」
 サクも刀に魔力をほとばらせたまま、突撃してくる。

 互いに視線を交差させたまま、一撃を、放つ―――

「―――!?」
「っ……」

 かすっ、た。

 回避、された。

 サクの横なぎの一撃を、拳で受けるのは危険と判断したエリーは、とっさに身をかがめていた。
 互いに身体が一瞬止まる。
 自分の必殺の居合い切りが回避されたサクも、大分余裕を見て回避したのに髪を掠められたエリーも、相手のレベルに目付きを鋭くした。

「っ、てぃっ!!」
「くっ―――」
 切りつけて広がっていたサクの腹部に、エリーは拳を突き上げる。
 だがその拳は、身体をコマのように回したサクの着物の襟の一部を焼いただけだった。

 回転し、再びエリーを襲うイエローの閃光を放つ日本刀。
 それを確認するや否や、エリーは全筋力を使い、後方へ跳ぶ。
 空を切った刀は、エリーの離脱を確認したサクによって再び鞘に戻された。

「はあ……はあ……」
「……ふう……」
 互いに距離を取り、息を整える両者を、ほぼ完全にギャラリーと化したアキラは、茫然と眺めていた。

「って、お前強いじゃん!!」
「あんたが弱すぎんのよ!! あたしだって、これぐらいは……!!」
 アキラの声に律儀に叫び返したエリーは、再び居合いの構えを見せるサクを睨んだ。

 確かに、サクは強い。
 だけど、あの巨大マーチュほど絶望的な力は持っていないのも確かだ。

 一応、魔術師の試験には実戦という項目がある。
 模擬戦闘だから実戦ではないとはいえ、エリーの実力は、一応国を守る及第点に達していた。

 エリーが拳を繰り出し、サクがぎりぎりで避ける。
 サクが居合いを繰り出し、エリーの髪を掠る。

 武術と剣術。
 対極のようで通じる物のある二つの戦法は、魔力を散らし、白熱していく。
 ただその熱も、ときおり、アキラから漏れる『うりゃっ!!』だの『ていっ!!』だのの言葉に、いいタイミングで冷めていく。

 あたしはあんたの操る格ゲーとやらのキャラじゃない。
 そんな見当外れの方に向かう怒気を、足に込めて蹴りを見舞う。
 その攻撃を、地をダンッ、と蹴って避けたサクは体勢を整えると、またも刀を鞘に入れ、構えたままふっと笑った。

「流石に勇者の仲間……。やるな……!!」
「あなたもね……」
「おお……、なんか本格バトル物っぽい」
「黙ってなさい」
 やはり律儀にアキラに返すと、エリーは拳の光を強くした。
 流石に金曜属性は硬度が高そうだ。
 まともに受ければ、拳ごと真っ二つにされるだろう。
 硬さだけなら、爆発的な威力を誇る火曜属性のインパクト時に相当する。
 だから少しでも魔力を込め、いつでもインパクト時の力を出せるようにしておかなければならない。

「だが、あまり、戦闘を経験していなさそうだな……。なぜ最初の攻防、二激目を回避した直後、襲いかかってこなかった?」
「……!」
「センスはあるが……、まだ、荒削りだな」
「まずい、敗北フラグが立った!! どうする!?」
「サク、って言ったわよね? ちょっと待っててくれる? 後ろの奴の口を塞ぐまで」

 大人しく黙って見ていられないのか。
 エリーはそういう意味合いの睨みを後方に送ると、アキラは黙り込んだ。
 それでいい、と頷いて、再びサクに向かい合おうとしたとき、何か異変を感じた。

 アキラが、何故か、妙な顔つきをし、虚空を睨んでいるのだ。
 ギャラリーは、ただただ、自分とサクの戦いを見ているが、アキラだけが、何故か、空を。

「……なあ、なあ、」
「……今度は何だ?」
 アキラは上を見て、エリーはそのアキラを見ている。
 今度は、決闘に色々と茶々を出されていい加減に苛立っているサクが、アキラに応じた。
 だがアキラは、どれほど殺気を飛ばしても、茫然と空を見ているだけだ。

「あれ、何だ?」
「何って…………!?……」
 アキラに指差され、ようやく、エリーもサクも、そして、ギャラリーも空を見上げる。
 すると、晴天の空に、何か一つ、巨大な影のようなものが見えた。
 その影は、弧を描くように旋回し、村を目指して降りてくる。

「―――!?」
 ズゥンッ、と衝撃音が聞こえたときには遅かった。
 その何かは、丁度エリーとサクの中央に降り立ち、身を震わせる。

 太い身体に、太い腕。
 背中に仕舞われた翼は、身体に倣って大きい。
 濁った土の色の体肌には、毒々しい膿のような膨らみがいくつもあり、マーチュのように身体中に鋭い棘が付いている。
 総てを切り裂くような長い爪と、総てを砕くような鋭い牙。
 大きな口は、巨大な顔の中でも確かな存在感を示すように裂けている。

 ただ、その姿は、太った竜のように見えなくもない。

「う……うそ、まっ、まさか、アシッドナーガ!? 正式名称は、」
「そっちはいい!! モンスターなんだろ!?」
「うっ、うわぁぁーーーっ!!!!」

 そのモンスターを視認した途端、ギャラリーは蜘蛛の子を散らすように広場から駆けだしていった。
 村長、ファリッツも、従者に囲まれ一目散に逃げ出す。
 結果、広場に残ったのは、アキラとエリー、そして、その巨竜の反対側に立つサクだけとなった。

「なっ、なんでこんな所にっ!?」
「っ、」
 サクは、回り込んでアキラたちに駆け寄る。
 落ちたばかりで蠢くだけだが、こんなレベルのモンスターの出現時、一人でいるのは危険すぎる。

 それにしても、アシッドナーガとは。
 激戦区の最前列にいても、まず見ないモンスターだ。
 魔王の牙城に侵入してようやく見かける程度か。
 “魔王の種類”によっては、下手をすれば魔界に乗り込まないと出会えないかもしれない。
 噂でしか聞いたことのない、一般人にしてみれば伝説のモンスター。
 そして、その実力も、出現場所の期待を裏切らない高レベル。
 下手にブレスでも吐かれようものなら、こんな村など瞬時に火の海と化すだろう。

「あっ、あのモンスター、やばいのか!?」
「やばいなんてもんじゃ……、ああっ、まずいっ!!」
「ふっ、二人ともっ、落ち着け!」
 アキラはアシッドナーガの外見に、エリーは自ら持つその知識に震える。
 そんな二人を嗜めようとするサクも、何の活路も思い浮かばなかった。

「グルルッ、あー、あー、」
「……!?」
 三人が震えていると、降り立ったアシッドナーガから、野太い声が漏れた。
 そしてその巨体をのそのそと回し、三人に向き合う。

「あー、あー、お、前、ら、魔、術、師、か?」
「しゃっ、喋った!?」
「「!!?」」
 明らかに異形の存在が発した音声が言葉と認識でき、アキラは顔を歪める。
 決闘の途中にモンスターが乱入してくるというのもお約束だが、眼前の光景は、そんなことを考える余裕をアキラに許さなかった。

 そして、残る二人の顔は更に青ざめる。
 隣の男はただ物珍しいということに驚いているのだろうが、“言葉を話すモンスター”の意味を、エリーもサクも知っていた。

 知性がある、ということがまず一つ。
 そして、最も恐ろしいのが、“魔術の詠唱が可能”ということ。
 つまり、あの巨大マーチュのように魔力の量に任せて放出するのではなく、確かな技術を持って魔術を扱うことができるのだ。
 目の前のアシッドナーガは、それほどまでに成長した存在。

「魔、術、師、か?」
「……そっ、そう、よ」
 恐ろしいことに表情まであるアシッドナーガが、不満そうに顔を寄せたのを見て、エリーが返答する。
 下手に刺激すれば、この村が危険だ。

「そ、う、か……。俺、は、魔、王、様、直、属、の、ガ、バ、イ、ド、様、直、属、の、ゲ、イ、ツ、だ」
 魔王様直属のガバイド様直属のゲイツ。
 それはもう魔王様から大分離れた身分だ、というつっこみを、アキラが飲み込むのは容易だった。
 今は、そういう雰囲気じゃない。

「そっ、そんなあなたが、ここに、何の、用?」
 声を絞り出すように、エリーは言葉を紡いだ。
 もう背中は、汗に濡れている。
 見た目もさることながら、話すだけで危険な魔力が荒れ出すゲイツに完全に呑まれていた。
 一方サクは、一言も発せない。
 長らく旅を続けてきたとはいえ、こんなモンスターに出遭ったこともない。
 話に聞いた程度だが、アシッドナーガの実力は、今まで倒したモンスター全てを足しても、届くかどうか分からないほど。
 その上、“言葉持ち”。
 力を、想像することもできない。

「俺、は、探、し、て、る。キャ、リ、イ、を、殺、し、た、奴、を」
 エリーは、太っているせいで潰れかかっているゲイツの瞳に、怒気が入り混じっているのを辛うじて察することができた。
 だが、言葉の意味は分からない。

 キャリイ。
 おそらく誰かの名前なのだろうが、聞いたことはない。

「あなた……何を言って……」
「俺、は、知っ、て、い、る。こ、の、村、に、い、た、奴、が、キャ、リ、イ、を、山、ご、と、吹、き、飛、ば、し、た、こ、と、を」
 たどたどしいゲイツの声を拾った二人は、後ろにいる残ったギャラリーに視線を向けた。
 アキラは一瞬眉を寄せ、そのあと、顔を一気に青くさせる。
 あの巨大マーチュがキャリイとイコールでつながった瞬間の当然ともいえる反応に、エリーとサクは顔をそむけ、諦めたようにゲイツに向き合った。
 二人とも、呪いのような言葉を吐き捨てたのは、アキラの気のせいではないだろう。

「せっ、か、く、育、て、た、の、に、キャ、リ、イ……!!」
「あっ、あのっ、そいつを見つけてどうする気?」
 悲哀に歪んだゲイツに危険な香りを嗅ぎ取り、エリーは会話を続けようと急いで声を出す。
 下手に感情に任せたら、村をその勢いで消しかねない。

「殺、す」
 どうぞ~、とサクが一歩退きかかったとき、

「こ、の、村、も、殺、す。み、ん、な、殺、す」
 何の解決にもならないと悟ったエリーがその腕を抑えた。
 サクは諦めたように刀に手を当てる。
 エリーは、ちらりと広場を見渡した。
 十分に、広い。
 流石に決闘場に選ばれただけはあって、村で戦うとしたらここしかない、という場所だ。

「どうする? 外に連れ出すか?」
「……いえ、ここで」
 移動させるとなると、自分たちは当然村の中を駆け回ることになる。
 下手に陽動しようとして、村そのものを破壊されては元も子もない。
 ならばむしろ、一応は広いこの場を選ぶべきだろう。
 もしこの場で収まらないのなら、どこで戦っても村の存亡は変わらない。

「ガ、バ、イ、ド、様、も、悲、し、ん、で、い、る。俺、も、悲、し、い」
「相手に遠距離攻撃をさせるのは危険だ。村が危ない」
「ええ。波状攻撃で、近距離戦に持ち込むわよ」
 先ほど実力を計った者同士、最小限の言葉で戦略を決め込む。
 たとえ危険なモンスターといえども、“魔物”であって“魔族”ではない。
 一匹だけなら、何とかなるかもしれないという勝機あっての作戦だ。
 危険であることには変わらないが、何とかなるかもしれない。
 ただ、問題なのは、足手まといがいるということ。

「アキラとか言ったな。戦えないのなら、邪魔にならないように……」
 意識だけはゲイツに向けたまま、サクはちらりと振り返った。

 しかし、

「……いない……だと……!?」
「いや、あっちにいるわ」

 真後ろではなく後方。
 広場の外に視線を移すと、アキラはちゃっかり物陰に身を潜めていた。

「…………ある意味利口だな……。だた、本当にあれがキャリイとかいうのを倒したのか?」
「信じられないけど、ね!!」
 その言葉を皮切りに、エリーは跳んだ。
 両拳どころか全身にまとうのは、スカーレットの閃光。
 温存を考えずに、防御までにも手を回し、火達磨のようになってゲイツに襲いかかる。

「ギィィィアアアーーーッ!!」
「ノヴァ!!」
 威嚇するよう雄叫びを上げたゲイツに、エリーは拳を叩き込んだ。
 先のマーチュ戦と違い、詠唱しながらの爆裂拳。
 狙うは短期戦だ。
 早く終われば終わるだけ、村への被害は少なくなる。

「っ―――」
 バンッ、という爆発音は、エリーの拳とゲイツの爪から響いた。
 強烈な爆竹を鳴らしたようなその音を響かせても、ゲイツの爪はひび一つ入らない。

「グググッ!!」
「っ、きゃっ!?」
 ゲイツがその腕を払った勢いで、エリーを蹴散らす。

 知能や技能を優先させた“神族”の使い魔と違い、“魔族”の使い魔は筋力と魔力を優先させたものが多い。
 その力は、エリーの火曜属性の魔術でも、押し返すことはできなかった。

 しかし、

「―――!?」
 エリーを振り払った直後、ゲイツの瞳に映ったのは無防備になった腹部に切りかかるサク。
 必殺の居合いは、まさに神速。
 鋭く切り込むその攻撃は、イエローの魔力をほとばしらせ、ゲイツに襲いかかる。

「!!?」
「ギィィッ!!」
 サクの攻撃は、巨大な腕からは想像もできない素早さで動いたもう片方の爪に止められた。
 流石に鋭い金曜属性の剣激に、ゲイツの爪に切りこみが入るが、それも僅か。

「ぐっ、わっ!?」
 その腕の筋力に任せた振り払いは、サクの身体を数メートル飛ばして蹴散らした。

 だが、その、振り払った側。

「ふっ、」
 いつの間にか回り込んでいたエリーが拳を振り上げていた。
 狙いは、たった今、傷の入った爪。

 金曜属性の硬度で傷ついたその爪に、インパクト時の威力が高い火曜属性の攻撃が加われば、

「ノヴァッ!!」
「ギッ、ギィィィイイイアアアーーーッ!!」
 一つの鋭くも太い爪に、ガラスが砕けるように何筋もひびが入った。
 強固さを誇ったその爪の一本は、二人の攻撃で何とか封殺できそうだ。

「ギィッ!!」
「っ、」
「―――」
 エリーは再び弾き飛ばされる。
 だが、次いで、サクが切りかかった。
 とにかく、誰かがゲイツの近くにいなければならない。

「ふっ、」
「っ、―――」
 エリーとサクは、交互にゲイツを攻める。

 爪は、左右の四本指合わせて八本あるが、その全てを破壊するのは、“駄目だ”。
 物理攻撃を封殺してしまえば、ゲイツは魔術を使い始める。
 こんな村の中で、そんなことをさせてはならない。

 そして、倒すのも、もしかしたら危険かもしれない。
 どれほど魔術を蓄えているかは知らないが、村の中で爆発させるのも本来望むべくことではない。
 深手を負わせて追い払う。
 それが、理想だ。

 だから、砕けそうな爪は、突破口。
 その一点だけを攻め続け、ゲイツにダメージを蓄積させていく。

「ギィィイッ!!?」
 ついに、エリーの一撃が一つの爪を砕いた。
 サクの表情も、若干緩んだ。

 いける。
 そう思いながらも、気だけは緩めず、二人は攻め続けていった。

―――**―――

 強い。
 いや、弱い?

 アキラは二人とゲイツの戦いを安全地帯で眺めながら、先のマーチュ戦と比べていた。
 あの、ゲイツと名乗ったモンスター。
 確かに爪などに硬度があり、防御力は高そうだ。
 そして、二人を腕のみで弾き飛ばしているところを見ると、筋力もある。
 だが、あの、身体の大きさに任せて暴れ回っていたマーチュに比べると、もう一つ、という評価を下さざるを得なかった。
 巨大な猛獣に首輪を付ける者が、必ずしも猛獣より強いというわけではない、ということだろう。
 エリーとサクの二人がうまくゲイツの魔術を封じているからかもしれないが、それでも巨大マーチュの方が出会いたくない存在だ。
 総合力はともかくとして、ゲイツは、巨大マーチュより、弱い。

 そして、戦っている二人も。

「……」
 エリーと、サク。
 この二人も、あの巨大マーチュの“対戦相手となった少女”と比べると、弱い。
 あの空を、身体にまとった閃光の勢いそのままに飛び交ったあのマリスは、攻撃力も速力も遥かに高かった。
 あのゲイツの体など、マリスが放ったシルバーの光線に瞬時に貫かれそうではないか。
 サクも確かに鋭いが、速くはない。
 どうやら居合いの一撃のみ、辛うじて目で追える程度の速度になれるらしい。

 “いずれにせよ、低レベルの戦いだ”。

「……」
 その、“低レベルの戦い”。
 そのはずなのに、自分はここにいる。
 “伝説の勇者様”は、建物の陰に隠れ、その低レベルの戦いを見ているだけ。
 参加もできずに。

「……」
 分かっている。
 このもどかしさは、丁度一週間前にも味わった。
 あのときも、何かしたいとアキラは確かに思ったのだ。

 それなのに、“一週間も時間があったのに”、自分はあのときと変わらない。

 風邪で寝込んでいる間、もどかしかった。
 完治したら村中走り回って、体を鍛え、魔術も習い、“勇者になりたい”と確かに思ったのだ。

 それなのに、決めたはずのトレーニングは、三日坊主にすら及ばなかった。

 アキラの視線は、スカーレットの魔力に包まれたエリーに向く。
 たまたま目が覚めてしまったトレーニングの開始時間。
 布団が恋しくて、動けなかった朝。
 エリーは、自分がいるべき場所に立って、身体を伸ばしていた。
 動こうにも、やはり身体は布団を求める。
 エリーの視線がアキラの部屋の窓に向いたとき、アキラが取った行動は、窓から見えないように伏せること。
 時間をおいて、恐る恐る窓から顔を出すと、すでにエリーはいなかった。
 きっと、もう、走って行ってしまったのだろう。

 エリーは、あのマーチュ戦で、自分を鍛えたいと思ったから、行ったのだ。

 行っていれば、もしかしたらあの中に自分はいたかもしれない。
 剣を振りかざし、二人と連携を決め、ゲイツを攻め続けていたかもしれない。

 何故“このとき“にならないと自分はやろうと思えないのか。
 何故“このとき”に必要な力を、持っていないのか。

 今必要なのに、今の今まで。

 自分は何をやっていた。

「っ、……」
 人はいきなり変われない。

 そんなことは分かっている。
 “だけどそれは言い訳だ”。

 “今ならいくらでも自分を責めることができる”。

 明日からでも、あのトレーニングを再開しろ!!
 そう、心の中は叫ぶ。
 だけど同時に分かること。

 きっとこの戦いが終わった日常でも、自分は変われない。

 きっと“力”があると怠け、そして、次の戦いで後悔する。

 その繰り返し。
 この円は、同じところから動かせてくれない。
 きっと、ずっと、そうだろう。
 自分はずっと、レベル1。

「……」
 ほら、また諦めた。
 頭の中に、また声が生まれる。
 そしてその声は、耳を塞いでも意味はなく、アキラを苦しめていく。

「……」
 “この円じゃ、駄目だ”。
 回りながらも、確かに上に進む円に自分は行かなければならない。

 弧を描きながらも、昇り続ける螺旋階段のような、円に。

 “きっかけ”は、もうあったはずだ。
 異世界への来訪。
 こんな奇跡的な“きっかけ”が、目の前にあった。
 だけどそれは日常に埋もれ、霞んでしまっている。

 打倒魔王、という“きっかけ”。
 これも、霞んでしまっている。
 結婚はごめんだが、いつまでも訪れない“それ”も、後回しで考えようとしていた。

 もう、自分を変える“きっかけ”を、アキラ自身が見つけなければならない。
 そうでなければ、今まで生きてきた意味を見つけることができない。

 見つけなければ。
 それを探そうとさえしなかった自分を、“救うために”。

「ノヴァッ!!」
「グッ、ガァッ!?」

 エリーの一撃が、砕けた爪の隙間を縫い、ゲイツの腹部に突き刺さった。
 土色の醜い顔を歪ませ、身もだえしたゲイツは、腕を振り払う。
 エリーはうまくそれをくぐって避け、またも離脱する。
 戦闘は、順調そうだ。

 だが、

「グググッ、ガアッ!!」
「―――なっ、くっ!?」
 これが知恵持ちの強さか、今までと同じようにエリーの反対側から切りこんだサクに、ゲイツは予期せぬ動きを見せた。
 今まで身体に埋まり込んでいたのか、突如でん部から棘だらけの尾が飛び出し、鞭のようにしなってサクを打つ。
 避けようもないサクが反射的に長刀で防いでも鞭のような尾は絡みつき、驚異的な筋力でサクの身体を刀ごと持ち上げると、そのまま強引に投げ飛ばした。
 狙いは、跳びかかろうとした、エリー。

「きゃ、ぐ!?」
「あっ!?」

 ゲイツから突如飛んできた人間砲弾を受けると、エリーとサクは抱き合うようになって広場を転がる。

「はっ、はっ、う……」
「っ、……―――!?」
 悶えた二人が何と身体を起こすと、ゲイツは尾に残ったサクの剣を遠くに放り投げ、肉で埋もれた眼を閉じていた。
 身体はグレーの光をほとばしらせ、震えている。

 二人の位置はアキラとゲイツのほぼ中間。
 今、二人が決して開けるわけにはいかなかったゲイツとの間が、ある。

「まず―――」
「ク、ウェ、イ、ク!!」

「っ、―――」
「―――」

 ドンッ、と、ゲイツが野太い両腕を突き出すと、空気が震えた。
 真空波とも表現できそうな空気の歪みが二人に届いたかと思えば、二人は巨大な鉄球に殴られたかのように宙を舞って吹き飛ぶ。
 二人が瞬時に身体に発したスカーレットとイエローの魔力も、グレーの振動に吹き飛ばされるように散り、淡い光となって二人の軌跡を形作るのみとなった。

「ごはっ、ぐ、うう、がはっ!!」
「ぐっ、はっ、はっ、げはっ!!」

 思わず一歩退いたアキラの眼前には、魔術の威力に、上半身の衣服を強引に引きちぎられたようなありさまの二人。
 胸元から、エリーは淡いピンクのブラが、サクは胸に巻いた白い包帯のようなさらしが、引きしまった身体と共に覗いている。

 おおっ、エロい! とはアキラには言えなかった。
 もんどりうって苦しむ二人は、ただただ激痛に耐えるようにきつく目を閉じている。
 振動を届ける魔術を直接身体に受け、二人の身体の中では、未だにその余波が暴れ回っていた。

「おっ、おい、大丈夫かよ!?」
「はっ、はっ、ごほっ!!」
「けはっ! あっ、あんた、がはっ! 何で、ここまでっ、ごほっ!!」
 気づけばアキラの足は、広場の中に入っていた。
 火に惹かれる夏の虫のように、戦闘に惹きつかれてしまったのかもしれない。
 ただ、アキラの力は、実際虫のようなものであったが。

「……っ、あぅ、ああっ、みっ、見る、なぁ!」
「そ、そんなこと、言ってる、場合じゃ、ない、でしょ!」
 自らのありさまに気づき、サクが破れた着物の前を閉じた。
 それを嗜めるエリーも、口ではそう言っていても、同じように前を閉じている。
 戦闘中でもやはり恥じらいはあるものなのか。
 ただ、二人は、ゲイツの“詠唱魔術”の威力に、それくらいの行動しかできないのだけれど。

「くそっ、マリスはまだ、」
「そっ、それはダメ!!」
 アキラの言葉に強く反発し、エリーは手のひらを地面に押しつけた。
 暴れる身体を抑え込み、強引に立ち上がろうとしている。
 何時しか流れ始めていた額の血も、未だメトロノームのように等間隔で身体を襲う激痛も無視し、“それ”だけ避けたいとでも言うように唇を強く噛んでいた。

「……お前……」
「……」
 そこで、アキラは気づいた。
 エリーは、“きっかけ”を、手に入れている。

 あの巨大マーチュ戦、アキラはエリーのコンプレックスを垣間見た。
 何でもできる妹。
 それに恥じないように、姉であるエリーは、日々精進することができている。

 その、“きっかけ”があるから。
 だからエリーは、自分のために頑張れるのだ。

 簡単なようで難しい、“自分のために頑張る”という行為。
 それができているのだ。
 認めたくないが、自分の、婚約者は。

 じゃあ、アキラは、

「―――!! あれ、は!!」
 顔を上げたときに飛び込んできた光景に、サクが叫んだ。
 見れば、ゲイツは身体を震わせ、腕をブンッ、と振った。
 すると、砕かれた爪の奥から新たな爪が生え出し、再び危険に鋭い両手の爪が生えそろう。

 アシッドナーガの危険性。
 それは、驚異的な竜族の筋力に、自己再生能力も備わっていること。
 これでゲイツは、エリーとサクの攻撃を完全にリセットした。
 二人に、甚大なダメージを与えて。

「グッ、グググッ、殺、す……!!」
 いかに回復したと言えど、爪を砕かれたことへの怒りは収まらない。
 ゲイツは身体を震わせ、身体中にグレーの閃光を纏う。

「まずいっ、あれっ、まさかっ!!」
「ギッ、ギガ、クウェイク!!」
「詠唱も、する気か!?」

 忘れることもできない、あの、山を砕かんばかりの大魔術。
 しかも、詠唱魔術。
 空を飛べるマリスがいなければ、避けられもしない。

 いや、それどころか村の中で使われでもしようものなら、

「どうす……ごほっ!!」
 いくら立とうと思っても、身体がついてこないエリーは再び倒れ込んだ。
 サクも立てない。
 金曜属性の弱点の土曜属性の魔術を直接受け、ダメージは甚大だ。

「っ、―――」
 自分たちが育った村が、壊滅する。
 そう思っても、何もできない。
 エリーは、いつしか衣服を抑える手も解いて、地面を強く叩き続ける。
 その反発で起きようにも、身体はピクリとも動かず、バタバタと手足を暴れさせることしかできなかった。

 顔だけ上げたうつ伏せの視線の先、ゲイツのチャージが完了している。

 もう、これは、

「……?」
 その、ゲイツに向けた視線の途中、誰かの足が現れた。
 悩むまでもない。
 そのスニーカーは、アキラのものだ。

 “勇者様”は、あのときと同じように、自分を庇うように動いている。

「あっ、あん……た……」
「…………」
 エリーの怪訝なうめき声が聞こえるが、向けられた主、アキラも、自分の行動がよく分からなかった。
 手だてはない。それは、認める。
 だけど、何故か自分は“こう”しなければならない、という欲求が、身体の中から沸き出てきていた。

 アキラの視線の先には、醜い顔を邪悪に歪ませる、ゲイツ。
 この村のどこにいても、死という結果を届けるであろう大魔術を放とうとしている。

 だけど、自分はここにいたい。
 自分は、エリーの前にいなければならない。
 そんなことしか、考えられなかった。

 熱はもう、ないはずなのに。

「おまっ、え……!!」
 サクも、アキラの行動が分からない。
 戦ってみても、何もできなかったアキラ。
 そんな人間が、自分たちを庇うように立って何が変わるのか。

 だがアキラは、背後からそんな視線を受けても、振り向きもせずただただゲイツを見ていた。

「…………」
 もしかしたらこれは、“きっかけ”なのかもしれない。
 アキラはおぼろげに、そう思う。

 自分は、“自分のために頑張れない”。
 絶対にどこか、妥協が出る。
 言い訳が先に出て、自分を甘やかす。

 だったら、いいじゃないか。

 “他人のために頑張れば”。

 こんな土壇場でそんなことを想っても遅いのは分かっている。
 だけど少なくとも今、後ろにいる女の子が悲しむのは、耐えられない。

 身体がそう叫ぶ。
 きっかけは、手に入れた。
 あとは、今、眼前に迫った“死”を、どう回避するか―――

「く、ら、え!!」
「―――!?」

 ゲイツが魔力を纏い、虚空に急上昇した。
 村全てが見渡せる教会の塔を超え、太陽と共にグレーの塊が青空に浮かぶ。

「!! まず、いっ!! あそこ、から、放つ気だ!!」
 サクは苦痛に顔を歪めながらも避けんだ。
 あの高度にゲイツがいては、どうあっても止められない。
 遠くに墓標のように突き刺さっている長刀が手元にあろうが、自分の身体が全回復していようが、何も変わらないだろう。

 確実な、死。
 旅をしている以上その覚悟はあるつもりだったが、“そこ”にあるその香りに、身体は魔術と別に震える。

 だが、

「「…………あ、」」

 隣の二人は、途端呆けた。
 表情から読み取るに、『え、いいの?』と言いたげだ。

「ギ、ガ、」
 空に浮かぶ魔力の塊、ゲイツはそんな二人の様子に気づかない。

「ク、ウェ、イ、」
 激昂に任せ、ゲイツが、その太い腕を村に振り下ろそうとした、その瞬間、

「バカめ飛んだなっ!!」

 下から、そんなふざけた声が聞こえてきた。
 そして周囲が瞬時に太陽色のオレンジに包まれる。

 アキラは確かに、戦闘において虫だった。

 だが、その虫は持っているのだ。
 強力無比な、ロケットランチャーを。

「―――」
 ゲイツは認識もできない内に、吹き飛ばされた。
 そして、村の遥か上空で、大気を揺する爆発を起こす。
 大きさは、広場ほど。
 どうやら暴走させるほど魔力を蓄えていたマーチュと違い、ここで倒しても問題はなかったようだ。

「ぐっ、がぁぁぁあああーーーっ!!! いっでぇぇぇええええーーーっ!!!!」
「あんた……思ったより丈夫ね……」
 その広場。
 反動で小さなクレーターを作り、アキラはその中心でもんどりうっていた。
 顔を苦痛に歪め、必死に肩を抑えている。
 足元に転がる筒状の銃を八つ当たりのように蹴飛ばし、目には涙。
 だが、サクは確かに見た。
 この土だらけになって転がる男から、あの破壊の光線が出た光景を。

「はあ……、何であんたは、0か100しかないのよ?」
 そのクレーターを覗きこんでいるエリーは、呆れ半分に笑っている。

「だからっ、0はっ、言い過ぎ……いっでぇぇえええーーーっ!! マッ、マリス!! マリスゥゥゥウウウウーーーッ!!」
 苦痛いっぱいのアキラも、それが過ぎれば、『汚ねぇ花火だぜ』とか言いながら笑うのだろう。
 何故かそんなことを、サクは思った。

 “こんな人なら、仕方ないかもしれない”。

 サクは、小さくため息をつき、胸元を止める手を強くした。
 失礼はまずい。

 そんなサクの口元も、どこか小さく、

―――**―――

「うっ、っ、がぁっ!!」
「応急処置は終わってるでしょ? 喚かないで」
「いやっ、死ぬっ、死ぬっ!」
「……状況を説明して欲しいっす」
 マリスは眠たげな眼を、目の前の三人に向けた。
 ベッドでもんどりうつアキラと、その脇で看病のようなあざけりのような行動をしているエリーは、いつもの通り。
 だが問題なのは、その二人から一歩離れ、直立不動で立っている女性の剣士。

 村に向かう途中の馬車で、エルラシアと共に見上げた空が太陽の色に染まったのは、マリスの半分しか開いていない目でも見えた。
 近づきたがらない馬車の運転手を何とか説き伏せ、通常よりも早く馬を飛ばさせて来てみれば、孤児院の前にできた人だかり。
 その人だかりをかき分け、特に執拗に入れてくれと喚いたファリッツの相手をエルラシアがしている間に飛び込んだこの医務室は、相変わらずの騒ぎ。

 一体何が起こっているのかと聞こうにも、マリスの声はアキラのうめき声にかき消された。

「マッ、マリス!? やっと、あがっ!! たのっ、頼、むっ!!」
「察したっす」
 マリスはエリーの対面のベッドの脇に近づき、手をかざす。
 すると、アキラの身体はシルバーの光に包まれ、輝き出していった。

「う……うおぅ……」
 やはり、あの光は、アキラの銃のものだった。
 この外れた肩がいい証拠だ。
 日輪属性のアキラに近づいて緩んだ頬のまま、マリスはため息を吐いた。

「前にも言ったっすけど、痛みは少し残るっすよ」
「……お、おおっ、ああ、でも、いや、まだ痛い」
 そうは言いながらも、アキラの腕は動くようになっていた。
 左腕だけで身体を起こすと、上半身だけ起こしてベッドの頭に背を預ける。

「じゃあ、何が起こったかを……」
「……って、うお!? お前!!」
 マリスの声は、再びアキラの声にかき消される。
 アキラの眼前には、エリーから借りた上着を羽織ったサクが立っていた。

「お前っ!! 居たのかっ!?」
「今気づいたの?」
 慌てふためくアキラと違い、エリーはただため息を吐くだけ。
 服の貸し借りをする間も大人しかったサクに対する警戒心は、薄れているようだ。

「!?」
「ちょっ、」
 だが、アキラが起きたことを、正確に言えば話を聞ける状態になったことを確認すると、サクは腰から刀を抜いた。
 しかしそれは、鞘ごと。
 それを横に倒し、サクは跪きながらアキラに差し出すように両手で前に突き出した。

「“決闘のしきたり”により、私、サクは、勇者様に仕えさせていただきたく思います」
「…………は?」
 自分が悶えている間用意していたのか、しっかりとした口調からスラスラと出てきた言葉に、アキラは耳を疑った。

「……にーさん、決闘したんすか?」
「はあっ!?」
 今度はエリーに、マリスの声はかき消された。

「決闘の“しきたり”を……ご存じでしょう? 敗者は勝者に絶対服従」
 だがサクは、そんなエリーの叫びも意に介さず、言葉を紡ぐ。
 決闘のしきたり。
 それは、最初に決闘を始めた両者、つまり、アキラとサクの間で主従関係が結ばれるというものだった。

「って、あれ、うやむやに、」
「うっ、うやむやになっても、私は決闘を始めてしまったんだ……!! だから、筋は通さないといけない……!!」
 顔が赤いのは、恥ずかしいからだろう。
 だが、筋は通す。それが、サクの考え方。
 うやむやなままにしてしまっては、しこりが残ってしまう。
 もともと旅を始めたのも、自分が仕えるべき相手を探すためのようなものだ。

 ならば、目の前の“勇者様”。
 眼前で見たあの光線の威力は、アシッドナーガを一撃で消し飛ばすほど絶大。
 しかも、全くチャージの時間がないという即効性。
 先の決闘で使われなかったのも、自分の身を案じて、と思い至ってしまえば、再戦を申し込む気にもなれない。
 命も、救われている。

「先ほどまでの非礼は、“詫びない”。だけどこれからは、貴方に仕えよう。アキラ様」
 最後に深く一礼し、サクは身を起こした。

「……」
 それを正面から見据えたアキラは、状況に頭がやっと追い付き、口からかすれた笑い声を発する。

「……いいな。いいよ、この後付け設定……!!」
「よかったわ、ね!!」
「ぐ、がぁ!?」
 顔だけ笑顔なエリーの平手が、アキラの右肩にバンッと張られた。

「てめぇっ!!」
「あんた調子に乗って、ふっ、不埒なことっ、しっ、したら……、わっ、分かってんでしょうね!?」
「なあ、サク、こいつを、何とか、」
「大丈夫ですか、アキラ様?」
 サクは微笑んだまま動かなかった。
 “そうすべきとき”は、自分で判断できる。
 アキラもエリーも、予想通り、どこか笑っているのだから。

「あの~、」
 そんな中、マリスがそろそろと手を挙げた。
 本人たちは自覚がないだろうが、親密度が上がっている気がするアキラとエリー。
 そして、そのアキラに仕えると言い出した見慣れない女性。
 外の騒ぎ。
 決闘という穏やかではない言葉。

 いい加減、限界だ。

「状況を、説明して欲しいっす」



[12144] 第三話『天上は、遠く座す』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:06
―――**―――

 ヒダマリ=アキラの朝は、普通だ。
 無理をしない程度の、少し早めに起床し、のそのそとベッドから這い出す。
 そのまま頼りない足取りで洗面所に向かい、顔を洗う。

 そして、部屋に戻って身支度を整えたところで、ベッドを惜しむように倒れ込む。
 パキパキとなる身体中を伸ばすだけ伸ばし、ベッドへの熱い抱擁を終えたところで、身体を強引に立たせる。

 そして、

「アキラ様、起きてますか? “奥さま”はもうお待ちですよ」
「う、うがぁぁああーーっ!!」
 部屋の外からの声に、もう一度もんどりうつのだ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「あ……あああ……ああああああ…………」

 孤児院の廊下をアキラは悲痛な声を出しながら歩いていた。

 隣には、先日アキラの“従者”となった、サク。
 切れ長の凛々しい眼をアキラとは対照的に覚醒させながらも、よたよた歩くアキラに一歩下がって付いてくる。
 髪はちょんまげのように後頭部で縛り、服装も黒のアンダーの上に深い紅の着物。
 今は腰に刀を差していないが、彼女の愛刀を装備すれば、立派な剣士となる。
 彼女が刀に金曜属性の魔力を纏わせた攻撃は、竜族の爪にさえ傷を入れることができるほどの実力者だ。
 歳は、聞いたところによればアキラより二つ下の16らしいが、長い背丈に鋭い雰囲気から、それより大人びて見える。

 繰り返すが、彼女はアキラの従者なのだ。
 信じられないことに。

「……着物、直ったんだ」
「ええ、エルラシアさんには感謝しています。ここまで正確に再現できるなんて」
 新調したばかりの着物の懐に手を入れ、嬉しそうにブンブン振る仕草に、年相応の少女を垣間見て、しかし、アキラは小さくため息を吐いた。

 サクは、美人だ。
 和風の顔立ちも、しっかりした口調も、それでいてどこか恥ずかしがり屋な性格も、アキラの好みにフィットしている。
 是非、自分の夢、ハーレムの一員になってもらいたい。
 しかも、ご都合主義そのままに、サクはアキラに仕えてくれているのだ。
 今も、子犬のように、アキラのあとについてくる。

 それなのに、

「アキラ様。今日は昨日の復習から始めると、“奥さま”が、」
「う、それ、禁止だ! それ、言わないでくれぇ……」
「? は、はあ……」
 自分は、今、とある少女と婚約中。
 そのせいで、ハーレムなどと言い出すことはできない。
 それ以前に、見た目そのままに、儀に適ったことを好むサクだ。
 まかり通らない可能性大だ。というか、知られたくない。

 ただでさえ、風邪の熱に浮かされ、婚約者には口を滑らせてしまったというのに。
 できれば自分の婚約のことも知られたくなかったのだが、いつの間にか知っていたのだからどうしようもない。

「! ようやく来……!!……きゃっ!?」
「あ、ねーさん大丈夫っすか?」
 庭に出ると、同じ顔の二人が出迎えた。
 眠たげな眼で鋭い魔術を飛ばしたマリスと、それをしゃがみ込んで回避したエリー。
 髪や瞳の色と、目つきが違うこと以外は、背丈も同じ双子の姉妹だ。
 それも、美少女の。

 眠たげな眼の少女は、妹のマリス。
 若干薄い色彩の瞳も、その妙に落ち着いている様子も、どこか呑気そうに見えるが、彼女は数千年に一人の天才と言われている魔術師。
 マリスの操る月輪属性の魔術の威力は、アキラが見たこの世界の誰よりも強い。
 だぼだぼに見えるマントを肩からすっぽりと覆い、いつもの魔術師の格好をしている。

 一方、もう一人は、姉のエリー。
 妹との帳尻を合わせるように切れ長の眼付きは、サクほどではないが鋭く、活発そうな印象を受ける。
 火曜属性の魔力を身体に纏って戦うのが彼女の戦闘スタイルであり、その威力は大岩を砕くほど強烈。
 こちらは、活発そうに見えるTシャツとジャージズボンのトレーニングウェア。

 性格もそれに近いものがあるが、最近、気苦労が絶えないのが現状だ。

 何故なら彼女こそが、アキラの婚約者であったりするのだから。

「にーさん、おはようっす」
「ああ。てか、マリスもいるのかよ。珍しいな」
「たまたま目が覚めたんすよ。で、せっかくだから、参加してみようと思ったんす」
 ほとんど寝ているようなマリスの眼を見ると、やはりどうしても覚醒しているようには見えないが、今となっては慣れたもの。
 アキラは感心したように唸って、身体を伸ばしながら空を見上げた。
 形のいい雲がいくつか浮かんでいるが、十分晴れているさわやかな朝だ。

「今日はマリーまで頑張ってるのに……、あんたは……」
 マリスはいつも通りのほほんとしているが、エリーはその空の下、身につけているランニング用のTシャツを汗で濡らしている。
 アキラが起きる前に走っているのだろう。

 汗で艶やかに濡れた四肢。
 悩ましげに聞こえる運動中特有の息遣い。
 そして僅かに透けているシャツ。
 それらが、思春期を抜け切れていないアキラのテンションを上げていく。
 これでにっこりと笑われようものなら、眠気は完全に払われるだろう。

 エリーと、マリス。そして、サク。
 三人の魅力的な女性に囲まれているこの状況は、単純に言ってしまえば、嬉しい。
 アキラの夢に合致したシュチュエーションだ。
 だが、その夢の前には、自分がエリーと婚約を結んでいるという事実が立ち塞がる。

 それでは他の女性に目移りすることは許されないのだと、アキラはこの光景の前でも、やはりため息が先行してしまうのだ。

「……ほら、時間ないわよ。昨日の、覚えてる?」
「うしっ、任せろおぅっ!!」
「返事だけはよくなったわね……」
 今から始まるのは、アキラの魔術の鍛錬だ。

 村を襲来した魔物、ゲイツとの戦いがあったのは、五日ほど前。
 それ以来、サクに起こさせるという完全に人頼みの手段を使い、アキラは朝の運動を再開していた。
 最初は懲りずに日の出と共に起床、と無茶なことを言い出したアキラだが、エリーに不可能だと断言され、しぶしぶ継続できそうな軽めのものに妥協。
 それでさえ眠気が勝っているのだから、今となってはエリーの判断は正しかったとアキラは認めざるを得ない。

「まずは身体に、血が回っているのを感じるのよ」
「わ、分かってるって……!」
 アキラは言われた通り、身体中に神経を張り巡らせる。
 こんな血行を促進させるようなイメージ、したことない。せいぜい、イメージ療法というもので聞いたことがある程度か。
 だが、“あの銃”を生み出すときのことを思い起こすと、自然と身体の中の“流れ”が掴めるようになった。

「…………」
 そして、それが血管から溢れるような状態を想像する。
 今行っているのは、魔力を薄く放出させ、身体に防御幕のようなものを張る方法だ。

 勇者たるアキラの属性は、日輪属性。
 だが、この防御幕は、属性に関係なく行えるらしい。
 これができるできないでは、戦闘での生存率は格段に変わる。
 というより、戦闘に参加するような魔術師にとっては、これが大前提の魔術だ。

「…………にーさん、身体中から一気に噴き出すのが無理なら、どこか一点だけから出して、そこから広めるようなイメージをするといいっすよ」
「あ……ああ」
 いつまで経っても棒立ちのままだったアキラに、見かねたマリスの助言が届いた。
 アキラはその通り、身体の一点、一番イメージしやすい右の手のひらに、力を集中していく。
 手のひらが熱くなってきたことを確認すると、それを腕に、そして、身体まで伸ばし、熱を広げていく。
 すると、身体が、何か温かなものに包まれたような気がした。

「にーさん、素質あるっすね」
「いや、すげぇ、マリス。お前すげぇよ」
 マリスのアドバイスのお陰か、はたまた勇者の特権か、初めて“具現化”以外の力が使えたことにアキラの身体が震える。

「いや、マジでマリスすげぇ。どこかのガーッとやるとか言ってただけの奴とは全然、」
「……じゃあ、試すわよ」
「へ? どわっ!?」

 目を開けた途端飛んできたエリーの拳を、アキラは寸でのところで回避した。
 その拳が、僅かに火曜属性の色、スカーレットの魔力を宿していたのは気のせいではないかもしれない。
 驚いて動いたアキラの身体からは、魔力は散ってしまっていた。

「なっ、危っ!? てめっ、何てことを……!!」
「役に立たなきゃ意味ないでしょ!? ほら、こっち来なさい!!」
「でっ、でも今のはっ、……わっ、分かったよ」

 エリーはアキラの腕を掴み、マリスから引き剥がすように庭の中央に手を引いていった。

「……マリサスさん、あの二人はやはりいつも、“ああ”なのだろうか」
 どこかむくれたように二人を眺めているマリスの横に、今まで一歩引いていたサクが隣に並び立った。
 サクの身長で横から見ると、隣にいる少女の眠たげな眼は、閉じているようにしか見えない。

「……マリーでいいっすよ」
 起きては、いるようだ。
 アキラやエリーといるとき以外は無口なマリスの声は、いつでも初めて聞いたような錯覚を起こす。
 サクが最も知っている彼女の声は、夜の闇に溶け込むように響く、聞き心地の良い歌声。
 応答があったことに僅かな感動を覚え、サクは了承するように頷いた。

「では、マリーさん。あの二人は、いつも、」
「そうっすね……。ああいう風に、仲いいっすね」
 マリスの視線を追えば、見えるのは怒鳴るように指示するエリーと、それにしぶしぶながらも従うアキラ。
 だが、マリスやサクの眼から見ると、それはやはり仲のいい恋人のじゃれ合いのように見えるのだ。
 先ほどマリスから引き剥がしたのも、どう考えても可愛らしい嫉妬のようにしか思えない。

「でも、にーさんもねーさんも婚約は破棄するつもりらしいんすよ」
「! そう、なのか?」
 サクは先ほど、アキラに奥さまという単語を控えるように言われている。
 余計な詮索はしまい、と、サクは視線を泳がせた。

「……」
「……、では、アキラ様の“力”について聞いてもいいだろうか」
 黙り込んだマリスに、サクは会話をつなごうと話題を変える。
 年齢で言えば、サクはエリーやマリスより一つ下だ。
 だが、サクが敬語を使う対象は、主人たるアキラだけ。
 それに違和感を覚えないのも、サクのまっすぐな性格やしっかりとした口調故だろう。

 ただ、年齢が違っても喚き合っている目の前の二人にも、違和感は覚えない。

「アキラ様は、あのように、その、」
「魔術、全然使えないっすよ」
 言い淀んだサクの代わりにマリスが言葉を紡ぐ。
 通常魔術の攻撃は元より、あのように防御幕さえ張ることができない。

 今も目の前で、今度は控えめに飛んでくるエリーの拳を、アキラは防御幕を放棄して回避しているくらいだ。

 それ、なのに、

「“具現化”。それも、威力は常軌を逸している」
 サクは今でも思い出せる。
 あの、破壊の閃光を。

 自分とエリーが二人がかりでも抑えきれなかったアシッドナーガを、断末魔さえ上げさせずに消滅させたオレンジ色の光線。
 反動も酷く、対象のみを討ち滅ぼせるほど控えめではない巨大な光線は、使い勝手は悪いが、それを補って余りある力を秘めている。
 しかも、チャージがない。
 魔術的なペナルティがないあの銃は、現段階で間違いなく世界一だろう。

「天界や魔界にもあのレベルの具現化ができる魔道士は、まずいないだろう。それなのに、アキラ様は、」
「……異世界から現れた“勇者様”の特権らしいっすよ。秘めたる力が覚醒した。そういう展開、よく本で読んだことあるっす」
「……」
 サクも確かにそういう展開を聞いたことはある。
 だが、現実に見てしまえば、その認識は改めざるを得ない。
 そもそも、ありえないのだ。
 何もないところから、あんな力が出現するなどということは。

 アキラが異世界から来た、というのはいい加減信じるべきなのだろうが、この世界にいる以上、その力はこの世界のルールに則らなければならないはずだ。

「自分が思うに、」
「……」
 マリスの眼が、少しだけ大きくなった気がした。
 向いている先は、またも魔力を散らしエリーの攻撃を回避した、アキラ。

「にーさんの身体の中に、膨大な魔力が眠っている。そう考えるしかないっす」
「……」
 マリスは、アキラに秘めたる力がある、という点を肯定した上で、仮説を立てていた。
 だが、確かにそう考えるしかない。
 そもそも威力以前に、“武具の具現化”など相当程度魔力と技術を有していなければできはしないだろう。
 防御幕も張れない人間が、それをできるなどあり得ないのだ。
 考えられるとすれば、技術を魔力でカバーしている場合。
 ただその仮説も、アキラが何故そのような魔力を有しているか、という疑問にぶつかる。

 だがそれも、“勇者様”だからと言ってしまえばそれまでなのだけど。

「恐く、ないのだろうか。アキラ様は、自分の力が」
「恐いっすよ」
「……?」
 マリスはゆっくりと、前へ足を踏み出した。

「分からない力は、恐い。そういうものっすよ」
「……!」
 言われて、サクは気づいた。
 目の前の少女の属性に。

 月輪属性。
 それも、日輪属性ほどではないが、希少種だ。

 “一般に考えられる魔法”が使える属性。
 空を飛び交い、魔力を飛ばし、敵を討つ。
 身体を癒すこともできる。
 予知能力を使えると聞いたこともあった。

 だが、認知されているのはその程度だ。
 未だ誰も、その“奥”を見ていないとされている。

 もし、数千年に一人の天才と言われるマリスの力が増せば、一体何が起こるのか。

 それを想像しようにも、眼前には闇が立ち塞がり、凡人の視界を遮る。

 サクは目の前の少女に、自分では分かりもしない悩みを垣間見た気がした。
 だから、月輪属性の者は、日輪属性の者を特に好むのかもしれない。
 自分と同じ悩みを持ち、もしかしたら、眼前の闇を消し去ってくれるかもしれない、明るく照らす太陽を。

「まあ、でも、にーさんなら大丈夫っすよ」
 マリスはだぼだぼのマントから腕を出し、半分閉じた瞳をそのままサクに振り向けた。

「自分と違って、にーさん、元気っすから」
「……言ってしまえば、それに尽きる。ということか」
 サクも歩き出す。
 朝の鍛錬はもう終わり。

 いつの間にかエリーの拳を避けきれずにもんどりうっているアキラを治療して、朝食を取りに行こう。

―――**―――

「しんっ、じらんねぇ、この女。二連打だよ二連打。避けられるかぁっ!!」
「“次は当てる”って宣言して攻撃したでしょ? 防御幕を途切れさせたあんたが悪い!!」
 食卓で対面に座るアキラの叫びに、エリーはフォークを動かしたまま怒気を飛ばす。
 当初は“勇者様に無礼なことをするな”とたしなめていたエリーたちの育ての親、エルラシアも、今では仲睦まじいと傍観を決め込んでいた。
 “勇者様”が現れて以来、すっかり早めにずれ込んでいた孤児院の朝食も、もしかしたらそろそろ子供たちと一緒に、と成り変わりそうだ。

「そうそう、エリー。結婚式だけど、花嫁衣装は入隊式のとき着てたあれでいい?」
「うっ、ごほっ!!」
「うわーんっ!!」
 エルラシアがからかい半分で“例の話題”を出すと、アキラは喉を詰まらせ、エリーはわざとらしく泣き喚く。
 その様子に、やはりエルラシアは頬が緩むのだ。

「サクさん、おかわりは?」
「いや、もう大丈夫だ」
「そう、遠慮しないでね。マリスは?」
「欲しいっす」
 礼儀正しく食べているサクと、眠りながら食べているようなマリスに苦笑しながら、マリスの皿にパンを置く。
 五日前から一人増えている食堂の朝は、穏やかに、時間が流れていた。

「って、そうよ!!」

 否。
 その穏やかさは、エリーが立ち上がらんばかりの勢いでテーブルを叩いたことによって壊された。

「エリー、静かに」
「ああ、ごめん……、って、そうじゃない!!」
 エリーは顔をブンブン揺すり、食堂に揃った面々を眺める。

「ふっ、不自然!! なにこの孤児院!! 何でこんなに戦力集中してるの!?」
 認めたくないが超絶的な力を出せる、目の前のアキラ。
 そもそもチート的な強さを誇っている、妹のマリス。
 そして、国の魔術師試験をパスした自分に、一人で旅を続けていただけはあって戦闘力が高いサク。

 自分たちは一体、何をやっているのか。
 アキラとマリスがいれば、現状でも魔王と戦えるほどかもしれないのに、こうやってのほほんと日々を田舎で過ごしている。
 才能の無駄使いだ。
 確かに故郷を離れ、旅をするのは辛い。
 だが、とっとと魔王を撃破しに旅立ってもいいではないか。
 ついでに言うなら、結婚の話をのらりくらりとかわすのもそろそろ限界だ。

「ちょ、ちょっと待てよ。俺、今日あいつらに最終話を聞かせるつもりなんだぜ?」
 アキラの言う、あいつらとは、孤児院で預かっている子供たちのことだ。
 元の世界でインターネット小説を読み漁っていたアキラの話のストックは多い。
 その話で、子供たちの眼を輝かせるのは、完全にアキラの日課だ。

「再び異世界を訪れた“主人公”が、かつての宿敵と共に最後の戦いに挑む。いやぁ~、燃えてくるよなぁ~」
「そ、ん、な、こ、と、は、聞、い、て、な、い!!」
「おおっ、この前のゲイツみたい」
「ああ~っ、あんたはその点に関してだけは味方だと思ってたのに……!!」
 何を孤児院の暮らしに順応しているのか。
 エリーが悲痛な叫びを上げ、頭を抱えて食卓に突っ伏した。
 マリスがタイミングよくソースの付いた皿を移動させたお陰で、エリーの長い髪は無事だ。

「お母さんには悪いと思うけど……、あたしたち、旅に出ないと。一応、“勇、者、様、の御一行”なんだし」
「苦々しげに勇者って言葉を使うなよ。それに、村の人たちも暖かに接してくれるじゃん。村長は、いい加減なんか言いたげだったけど」
「それはそうよ……」
 エリーは村の人たちの気持ちが分かる。
 村に、これだけの戦力が集中しているのだ。
 今この村は、おそらく強固な城より安全な地帯。
 自分たちの村が魔物におびえなくて済む現状は、望むべくことなのだ。
 その上、アシッドナーガのゲイツを撃破したことで、“力”だけではなく、“勇者様”であるアキラへの評価はうなぎ登り。
 勇者の実情を知らない村の女性たちが、アキラの噂を楽しげにしていたのを聞いたときは、心臓が止まるかと思った。
 孤児院の子供たちの中にも、ちらほらと異性への興味が芽生えている女の子がいるとなっては、事は一刻を争う。

「……ねえ、あんた。よっ、よよっ、幼女趣味、ある?」
「お前は朝から何を言い出すんだ。耳年増」
 顔だけ上げて見上げてきたエリーに、アキラは呆れた声を返した。
 ここで真剣に思案しようものなら、再び防御幕の特訓が始まってしまうかもしれない。

「しかし、アキラ様。私は確かにこれ以上、ここに迷惑をかけるのは、避けたいと思っているのですが……」
「まあ、サクさん。気にしなくていいんですよ?」
 エルラシアの寂しげな視線をサクは受けたが、そうも言ってられない。
 大した働きもできない以上、長居するのは、道に反する。

「でも、実際頃合いっすよ」
「?」
 パンを平らげ、満足げなマリスはマントの中から一通の手紙を取り出した。
 その茶色の便箋は、金色のシールでピッチリと封がしてある。
 若干破けているのは、マリスが開けて読んだのだろう。

「なに、そ……」
 顔を横に倒していたエリーの眼が見開き、途端、ガバッと身を起こした。
 その衝撃でフォークが床に落ちても、エリーの目はマリスの手元のみを捉えている。

「こっ、これっ、そのっ、えっ、」
 エリーはその封筒、正確に言えばその金のシールのロゴを何度も目にしていた。
 竜の牙を形作っている淵に、中央の見慣れたネイム。
 それは、国家のロゴだ。
 二か月ほど前、エリーに魔術師隊の合格通知を届けた、輝かしいエンブレム。

「朝届いたんすよ、これ」
「? 見ていいか?」
「いいっすよ」
 アキラはマリスから封筒を受け取ると、何の気なしに、ビリッ、っと開けた。

「ああああっ!!」
「? 何だよ?」
「そっ、それっ、国の! 国のっ!!」
「ばっ、やっ、止めろ!! その振り上げたナイフをどうするつもりだ!?」
「あんたはっ、あんたはっ、何でっ!? 何でそんなに無神経なのよっ!?」
 鬼気迫る表情のエリーから椅子を引いて距離を取り、アキラは中から上質なオレンジ色の手紙を取りだした。

「え~と、親愛なるマリサス=アーティ嬢……、」
 そこまで読んだとき、エルラシアから、ああ、という声が漏れた。
 それは、国からマリスへの“ラブレター”の常とう文句。
 魔道士隊の参加を求めるその手紙は、未開封のままマリスの部屋物入れに投げ込まれているのをエルラシアは何度も見ていた。

 だが、今回は、内容が違った。

「貴女の前線参加の報せを受け、アイルーク国王の名のもとに、リビリスアークを危険地帯と認識、指定し、魔道士及び魔術師数名を派遣……」
「え!?」
 アキラの声を遮ったのは、エリー。
 信じられないものを見るような眼を、自らの妹に向けているのが、異常事態を的確に表していた。

「まっ、魔道士!?」
「本当に、魔道士が来るのか!?」
「自分が頼んだんすよ」
 エリーとサクの叫びにも負けず、マリスは相変わらずのんびりとした口調で言葉を紡いだ。

 エリーが受けたのは、魔術師試験。
 その後魔術師隊に配属され、実戦の経験を積み、魔術師試験より難易度の高い試験をパスし、ようやく到達できるのが魔道士だ。

 もぐりでも魔術師は名乗れるが、魔道士にはなれない。
 経験と功績を得ることで、ようやく到達できる存在が魔道士だ。
 このアイルーク国にも数十名しかおらず、激戦区の地域にほとんど全てかり出されている。

 ましてやこんな田舎では、魔道士が来るのは入隊の儀礼時くらいだろう。
 エリーにとって、魔道士は憧れの存在であり、夢でもある。

 そんな魔道士が、魔術師を引き連れてこの村を警護するというのだ。
 この国の力加減は、どうかしている。

「え、てかマリス、国にそんなこと要求できんのかよ?」
 エリーたちが何に驚いているのかは分からないが、雰囲気から慌ただしい空気に乗っておこうと、大げさにも立ち上がる。
 だがその動きも、この事態の前には決して珍しいことではないらしい。

「前から自分には魔物と戦って欲しいっていう手紙は来てたんすよ……。それで、巨大マーチュとかアシッドナーガがいるって報告がてら、にーさんと……“勇者様”と旅に出るからこの村を守ってもらいたいって言ったら……、」
「あ、そういや確かに」
 アキラはマリスに言われて、アシッドナーガのゲイツが発した言葉を思い出した。

 魔王様直属のガバイド様直属のゲイツ。

 魔王の組織がどれほどの大きさなのかは知らないが、そんなモンスターが襲来したということは、再びここにそんなモンスターが現れるかもしれない。
 いずれにせよ、ここの守りは必要なのだろう。
 マリスはそれを見越して、もしかしたら事情を聴いたその日に国に手紙を出したのかもしれない。
 国の方が、村長宛てではなく、マリス宛てに手紙を出したのは、マリスに媚を売りたいという下心の現れかもしれないが。

「今日来るって書いてあったっす。だから、その人たちが来たら、自分たちはここを離れても大丈夫っすよ」
「ああ、この子ったら……」
 国にそんな要求をしていたマリスに、エルラシアは頭を抑えた。
 だが、あの村長、ファリッツが目を見開き驚愕する姿を見られると思うと、どこか気分がいい。

 ただ、それは、“相殺されているのだけれど”。

「……じゃあ、あたしたち、出発の準備、しないとね」
 エリーが軽く食器を片づけ、静かに、しかし、すっ、と鋭く立ち上がった。

「ごちそうさま」
 そして小さくそれだけ漏らし、自室へ準備に向かう。
 足取りは、少し早い。

「……じゃ、俺は、あいつらに聞かせる話の準備でもするかな。用意はすぐ終わるだろうし」
「それなら私も、準備を」
 エリーを皮切りに、食卓の面々は順々に食堂を出ていく。
 アキラは呑気な足取りで、サクはアキラの分の食器も軽く片付けて。
 この面々での朝食は、これで魔王を倒すまでおあずけになるだろう。

「ねえ、マリー」
「?」
 そんなことを思いながら、エルラシアはのんびり出ていこうとするマリスを呼び止めた。
 振り返ったマリスの瞳は相変わらず半分閉じていて、奥が見えない。

「さっきの、マリーらしくないわよ」
「……何がっすか?」
 食堂に取り残された二人は、食器を挟んで対面に座り、ただただ、互いの目を見ている。
 しかし、そこで、マリスは僅かに視線を外した。

「……ああ、かーさんに言うの忘れてたことっすか。それは申し訳ないっす。急に旅立つっていうのは……、いきなり自分たちいなくなったら、ここ、大変っすよね」
「それは、いいの」
 確かに孤児院は忙しくなるだろう。
 それに、いきなり育てた我が子いなくなるのは、寂しいに決まっている。
 だが、そんなもの、エリーが魔術師試験をパスしたときから覚悟はできていたのだ。
 二人の双子が、ここを旅立つ日が近いということは分かっていた。
 アキラが来てからの半月、その間だけでもいてくれただけで十分だ。

 だからエルラシアが言いたいことは、それでは、ない。

「……ああ、魔王討伐は、確かに危険っすよ。でも、大丈夫っすよ。“勇者様”がいるっすから」
「それも、違う」
 魔王討伐。
 それは大げさでも何でもなく、“世界を救う”ということだ。
 そんな危険な旅、親としては反対したい。

 だが、“それ”をやりたいと、子供が望むなら、親の仕事はそれを快く送り出すこと。
 それが意義のあることなら、なおさらだ。
 エリーが魔術師になりたいと言い出したとき、それを反対したエルラシアだが、いつしかその考えに至っていた。

 だから、それでも、ない。

「マリー、なんで、その手紙……、“エリーの前で”出したの?」
「…………」
 マリスは答えない。
 ただ、半分閉じていて奥の見えない瞳を、エルラシアに向けるだけだった。

「マリー、あなた、その、」
「…………」

 エルラシアは知っている。
 エリーが持つ、マリスへのコンプレックスを。

 妹のマリスは、数千年に一人の天才と言われるほど。
 二人を育てたエルラシアにも、マリスの尋常ならざる知識の成長に、目を丸くしたのを今でも思い出せる。

 二人が十歳になった頃、エルラシアは二人を連れて、王国へ観光に行った。
 そこで行っていた、魔術適性試験のイベント。
 直前に魔道士を近くで見たエリーが憧れて、遊び半分に二人に受けさせた。

 その結果、妙な騒ぎが起き、わざわざ国所属の魔道士が、半分閉じたような眼を持つ少女に、本格的な試験を受けさせたのを、エリーと並んで見ていたのがつい昨日のようだ。

 それは遠い世界の光景。
 マリスとエリーの間に、才能という非情なシェルターが下ろされたように思えた。

 そして、その頃からか。
 マリスの教育を国に任せてみないか、と孤児院に人が来るようになったのも、エリーが本格的に魔術の勉強を始めたのも。

「話の流れで、っすよ」
「……」

 マリスは、国からの申し出を、断った。

 ただ、エリーだけに懐き、他の者にはほとんど口も利かない。
 エルラシアが彼女の心を開けたのも、かなりの時間が必要だったほどだ。

 そんな、人見知りのマリス。
 そんなわけの分からない環境に行きたくない、というのを珍しくはっきり言っていた。

 だが、エルラシアは思うのだ。
 エリーに懐く、マリス。
 彼女は、エリーの気持ちを察していたのではないか、と。

 認められるマリスを囲う大人たちは、エリーに背を向けることになる。
 マリスが認められることを自分のことのように喜んでいても、エリーが、心の奥に、何を持ってしまうのか。
 双子の姉の気持ちは、聡いマリスなら、きっと分かるだろう。

 現に、国から来る勧誘の手紙を、朝一番に郵便受けに向かい、自分の部屋に隠している。
 その黄金のエンブレムが、エリーの目に触れないように。

 毎日、毎日。

 ただ、今日を除いて。

「……分かんないっす」
「……マリー?」
 言い訳を諦め、マリスは目を伏せた。
 容易に伏せられるその瞳の奥の色を、エルラシアはついにこの日まで、見ることはできなかったのかもしれない。
 だが、目の前の少女は、聡いのに、“分からない”と口にした。
 その顔も、やはりもやもやとしている。

「にーさんとねーさん見てたら、ああしたくなって……」
「マリー、あなた……まさか、」
「……分かんないんす、よ」
 マリスは、すっと立ち上がった。
 その仕草も、先ほどのエリーと瓜二つだ。

「自分も準備しないと……。かーさん、あとでも言うと思うんすけど、今までありがとう」
 僅かに大きく見えた瞳は、食堂からゆっくりと出て行った。
 もしかしたら、その色も、エルラシアは初めて見たかもしれない。

 でも少しだけ、安堵の息を漏らした。
 マリスらしくはなかったが、あれが女の子らしい行動だったのだと気づけば、心が不思議とポカポカする。
 十年以上も付き合って、ようやく見えた天才の奥は、自分たちと何も変わらない。

 エルラシアは村長への連絡も後回しに、紅茶を淹れに立ち上がった。

―――**―――

 着ていた服をベッドに投げ捨て、行儀悪くその上に座り込んでズボンも脱ぐ。
 桃色の下着姿になったエリーは、僅かにずれたそれを直し、正面の鏡をぼんやりと眺めた。
 引き締まっていても出るところは出ている健康色の四肢。
 瞳もくりんと大きく、戦闘時の鋭さは自室では無く、愛らしい。
 それらは背中に垂れる長い髪ごとカーテン越しに差し込める光に照らされ魅力的だが、その上についている顔はやはりどこか曇っている。

「えへ」
 鏡を見ながら、強引に笑ってみせた。
 しかし、口元だけ笑ったような顔は、エリー本人から見ても人形のような乾いた表情。
 若干乱れた髪を手で撫でつけてみても、その人形は変わらず偽りの笑みを浮かべるだけだ。

 朝練の後に浴びたシャワーで火照っていた身体は、すっかり冷めてしまっていた。

「なーにやってんだろ……、あたし」
 自虐的な呟きを発し、両手を膝について強引に立ち上がる。
 鏡の横のクローゼットの正面にのそのそと歩き、両手で開けば、年頃の女性にしてはあまりに少ない衣服が姿を現した。
 もっとも、孤児院の手伝いやら勉強やらで、持っていたとしても見せる相手もいないのだけど。

 ただ一着だけ、興味本位で買ってみた余所行きのおしゃれな服がクローゼットの奥にかけられている。
 サクの着物とは違い、淡く明るい紅のワンピース。
 服が泣いているという表現を使うなら、まさに今だろう。
 防虫対策だけは施しているその服は、大きな町で買ったとき一回試着しただけで、ずっとクローゼットの隅にいる。

 ついに、着る機会がなかった。
 そんなことを呟いて、孤児院で着ている普段着で押し潰し、戦闘用の服を取り出す。

 身体に吸いつくアンダーウェアに、その上に着る魔術の施された短いローブとハーフパンツ。
 拳を守る小手や、急所を守る軽いプロテクターを取り出し装備すれば、いつもの戦闘服だ。
 だがそれらは、先ほどまで来ていた服と同じようにベッドの上にポンッ、と投げられた。

「……分かってたこと、でしょう」
 それらを見下ろしながら、エリーは呟いた。

 自分の妹は、マリスは、天才。
 対して、姉の自分は、凡才。

 自分が数週間学んで身につけるようなことでも、マリスなら『ああ、そういうことっすか』と言って、瞬時に習得してしまう。
 そんな妹が誇らしくある、というのは、エリーの偽らざる気持ちだ。
 だけど、どうしても、それと同時に思うことはある。

「……」
 静かに、アンダーウェアを纏い、旅の支度を進める。
 しかし、一つ動作をするたびに、鏡を見てしまうのだ。

「……」
 同じ顔の、妹。
 その妹は、どれほど自分とかけ離れている存在なのだろう。

 自分が魔術師試験の結果に一喜一憂しているとき、マリスは手紙一つで魔道士を動かせる。
 こうなってくると、自分が魔術師試験を通れたのもマリスの影響が働いているのではないか、と勘ぐってしまう。
 ただその辺りのフェアさは、一度試験に落ちているお陰で、悲しいことに立証されている。

 幼いときから人見知りの激しい妹を、害悪から守るために奔走していたが、それすら凡人の思い上がりなのだろうか。

 才能への挑戦を試みていても、やはりその差を見てしまうと、心は少し、軋んでいく。

「……、ふう」
 旅用のバッグに、必要最小限の衣服を入れていく。
 打倒魔王の旅だ。余計なものは持って行けない。
 最後にちらりとワンピースを見て、バッグにはまだスペースがあるのにクローゼットを閉じた。

 あとは、マリスの指示でやってくる、魔道士たちを待つだけ。
 長年育った孤児院との別れが近づいてきているのに、エリーはむしろ、今すぐにでも旅立ちたかった。

「なんか、手伝おっか……。最後に」
 バッグのジッパーをキュっと閉じ、エリーは立ち上がった。
 身体を動かさないと、どうしても思考が妙な方向へ行ってしまう。

 エリーはバッグをそのままにして、肩を軽く回しながら部屋のドアを開けた。

「…………うおっ!?」
「…………あんた、何やってんの?」
 ドアを開けた途端、現状、マリスよりも問題視している男が立っていた。
 腕を組んで目を瞑っていたアキラは、ドアの音に目を開け、飛びあがらんばかりの勢いで身を引く。

「もう一度言うわよ? あんた、あたしの部屋の前で、何やってんの?」
「……いやさ、聞いてくれよ、」
「?」
 アキラは手をバタバタ振るように言い訳を始めた。
 身体が常に離脱態勢なのは、朝の防御幕の鍛錬が尾を引いているからだろう。

「ほら、よくあるじゃん。落ち込んでいる女の子の部屋のドアをノックして、何かかっこいい言葉をかける、みたいな感じのシーン」
 この男が言ったことを正確に理解したことは一度でもあっただろうか。
 エリーは先ほどよりも増幅した疲労を、大きく吐き出した。

「でもさ、何て言ったら格好いいか考えてたら、そのドアが開いたんだ。台無しだよ、台無し」
「あたしのせいだっての!? てか、だっ、誰が落ち込んでんのよ!?」
「うおっ!? 違ったのか!? じゃあ俺何やってんだよ!!」
「知るかぁっ!!」
 もう、悩んでいる自分が馬鹿らしい。
 この意味の分からないことしか言わない男は、勇者じゃなければ村の外に放り出しているところだ。
 ただ、推測は、間違っていなかったのだけど。

「それより、あんた。これ何?」
「え?」
 自らの勘違いに身をよじっていたアキラの足元に、妙に大きいバッグが二つほど置いてあった。
 よくよく見れば、そのバッグは孤児院の備品だ。

「いや、これは旅支度だって。エルラシアさんに言ったら、用意してくれて……」
「……旅行じゃないのよ? こんな多荷物、運べるわけないでしょ……」
「ああ。だから荷台とか……」
「はあ……、なんでここで半月しか暮らしていないあんたの方が荷物多いのよ……」
 魔王討伐の旅、というものと、旅行、というものの区別は、アキラには付けることができない。
 エリーは頭を抱えながら、二つの荷物を持ち上げてみた。
 重い。
 明らかに、必要な物以外が大量に入っている気がする。

 どうやら、外まで出て身体を動かす必要はなさそうだ。

「これ、あなたの部屋に運びなさい」
「……え?」
「必要な物だけ、選び直すわよ」
「いや、俺が、」
「あんたがやった結果がこれだからでしょう!?」
 エリーはアキラに荷物を持たせ、持ち上げさせる。
 本人も重いようで、アキラは歯を食いしばっていた。

「ほら、さっさと部屋に行く!」
「半分持ってくれると、とても嬉しい」
「あたしはあんたが、とても哀しい」
「ひどっ」
 アキラの背をぐいぐい押して、廊下をぐんぐん進んでいく。
 だが半分ほど進んだところで、エリーはアキラに先に行くよう言って、部屋に駆け足で戻った。

 打倒魔王の要の“勇者様”が、あんなに呑気で、気楽で、旅への緊張感がまるでない。
 だったら自分も、一つくらいはいいではないか。

 閉じ終わったバックを開け、エリーはクローゼットを開いた。
 バッグにまだ、空きはある。

―――**―――

「な、ん、で、言わなかったのよ?」
「いや、俺は、その……、分かったごめん」
「ごめんで済むかぁっ!!」

 勇者様御一行の四人は、壮大に広がる大草原を歩いていた。
 この道は、アキラも知っている。
 あの、巨大マーチュがいた山につながる道だ。
 今ではすっかり険しい山は消え去り、見通しの良くなった景色だが、その遠くの向こうにも山脈が広がり、自然の大きさを感じさせる。

「まあ、自分が悪いんすよ……。どうも国の人に会うの、苦手なんす」
 後続を、エリーと色違いの小さなバックを持ったマリスがとぼとぼ歩く。
 ちらりと振り返れば、すでにリビリスアークは遠い。
 今あそこには魔道士の一個小隊がおり、知らされていなかった村長が大層肩身の狭い思いをしていることだろう。

 マリスは、幼いころから国の熱烈な勧誘を受け、どうもその存在を苦手にしていた。
 国の人間もその事情を察して、勧誘を手紙に変えたりしたのだが、口実があればすぐにでもマリスの元へ押し寄せる。
 それを避けるべく、四人は彼らの到着直後、弾けるように村を去り、ようやく息を吐き、今に至る。
 ただ、エルラシアが、やりたい放題の村長への簡単な復讐がてらに、四人を急ぎで送り出したという理由もあるのだけど。

「おかしいとは思ったのよ……。あんたが多荷物抱えてあたしの部屋に来たってのが」
「いやまあ、魔道士たちが到着した、って言いに行ったの忘れてたのは、お前が荷物の整理するって言い出したからなんだし……」
「あ、ん、た、は……!!」
 すっかり身軽なショルダーバッグ一つになったアキラが、そう言えばと切り出したのはほんの三十分ほど前。
 マリスの事情やら、国の人間に会うのは無駄に時間を取るやらで、エルラシアの挨拶もそこそこに、孤児院を飛び出すことになってしまった。
 “勇者様の御一行”の出発が、パレードのように晴れやかではなく、逃亡者のような小ぢんまりとしたものになったのは、アキラは少し、もったいないと思っていたりする。

「はあ……、お母さんに、あとで手紙書かないと……。子供たちにも……」
 もろもろの事情を飲み込んだ上で、それでもなお、エリーの顔には憂鬱が浮かぶ。
 別にパレードで盛大に送り出してもらいたいわけではないが、打倒魔王の門出は、しっかりと行いたかった。
 どうやら自分は、儀礼だとか形式的なことに縁がないらしい。

「ところでアキラ様。これからどちらに?」
 腰に下がった長刀と、肩にかけたナップザック。
 旅慣れているサクの足取りに迷いはなかった。
 手早く準備を終えていたサクは、ちゃっかりと、エルラシアにしっかり礼を言っていたようだ。
 アキラの荷物を持とうとしたところをエリーに止められたのは、未だにどこか不満があるのだけれど。

「……ああ。あの山を登る」
「そこに山があるから、とか言い出したら、」
「……ノープランだ。てか、俺は他の村を知らないんだぞ?」
 言われてみればそうだと、エリーは持ち上げた拳を下ろし、この辺りの地図を頭の中に浮かべた。
 ダイアルがずれていた馬車は使用せずに、徒歩で飛び出したこの道。
 この道は、どこに繋がっていただろう。

「あの山に向かうと、その、あの、小さな村が、その、あああ……」
「? どうしたのよ?」
 エリーの思考を、サクの悲痛な呻きが遮った。珍しく、歯切れが悪い。
 あの辺りには、サクが“手厚く”看病を受けた村があるのだ。
 彼女の心の傷は、未だ癒えていないらしい。

「じゃあ、にーさんの言う通り、山を登った方がいいっす」
 事情を知ってか知らずか、マリスはその村を避けるルートを探っていた。

「あの山、険しいっすけど、抜ければ大きな町に繋がってるっすから」
 普段馬車は、あの山を大きく迂回する形で通り、直通のものはない。
 乗り換える必要もあるくらいだ。
 だが徒歩なら、流石に時間はかかるが、直進することが可能だ。

 しかし、遠くに見える山々は、マリスの言葉通り、険しい。

「……マリス、あの山着いたら、俺たちを飛ばすことはできるか?」
「一応……まあ、多分できるっすよ」
「流石っ!!」
「っ、マリーに頼らないで! てか、少しは体鍛えなさい!!」
 草原に響くのは、マリスの声を遮っての怒号。
 それに返したアキラの声も大きくなり、喚く二人の後ろを静かな二人が付いていく光景に、自然と変化していった。

「…………やはり、婚約破棄をしようとしているとは思えないが」
「……、でも、そうするって言ってるっすよ」
 横からの声に、マリスは眉を微妙に寄せたまま、静かに返した。

 マリスは、エリーのことを、当然好きだ。
 幼いころからずっと一緒にいる自分の双子の姉は、無口な自分を何度もかばってくれている。
 そんな姉を、何年も傍で見て、自分は育った。
 それなのに、前で言い合っていても自然体な二人を見ていると、やはり何故か、眉が寄っていってしまう。

「しかし、マリーさん」
「何っすか?」
 喚く二人の後ろを歩き、会話がないことに寂しさを覚えたのか、サクは口を開く。

「国の魔道士隊を動かせるとは……、見る機会は今までなかったが、あなたは相当力があるようだ」
 やはりサクも、そこが気になっていた。
 こんな辺境の、小さな村の住人が、たった一人で国を動かす。
 これはもう、異常事態という言葉さえも遠く霞む。

「失礼だが、ご両親は?」
「……、多分、名前を言っても分からないっすよ。一応自分も調べたんすけど、別に有名じゃないっす」
「……そう、か。では、先祖の方に……」
 マリスの遠い先祖に、大魔道士がいたのかもしれない。
 そして、その遺伝子が、マリスの代に覚醒した。
 そう考えるのが、サクには最も自然に思える。

 だが、それは、

「“自分が一代目”」

 凡人の発想だ。
 マリスの一言に、サクの身体が僅かに震えた。

「調べてもないっすけど、この力は、誰の遺伝でもない」

 その、マリスの、天才の、発想に。

「自分が、天才なんすよ」
 サクの目から見ても、才ある者の発言とはここまで凛々しく映るものなのか。
 前の騒ぎを半分閉じた瞳で見ながら、マリスは強く、そう呟いた。

「……確かにそう思うべきなのだろう、な」
 昇るべき山は、徐々に、しかし確実に近づいてきた。

―――**―――

 てくてくてく。
 足音三つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音三つ、元気に登る。
 てくてくてく。
 足音三つ、だんだん早く。
 てくてくてく。
 足音三つ、駆け出した。

 てくてくてく。
 足音二つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音二つ、急いで登る。
 てくてくてく。
 足音二つ、どんどん速く。
 てくてくてく。
 足音二つ、震え出す。

 てくてくてく。
 足音一つ、聞こえてくるよ。
 てくてくてく。
 足音一つ、怯えて登る。
 てくてくてく。
 足音一つ、だんだん遅く。
 てくてくてく。
 足音一つ、とうとう止まる。

 疲れちゃった? はい、捕まえた。
 も~う、おしまい。
 足音一つも聞こえない。

「これが、私があの村で聞いた歌です。迷い込んだ旅人たちが、一人、また一人と消えていく様子を唄った、呪いの童歌」
「こえぇ~っ、恐えぇよっ、超恐ぇっ!! なんで童歌に呪いの要素が必要なんだよ!?」
 山道を登りながら、アキラは身体を震わした。
 この山の情報を求めてきたアキラに返したサクの答えは、どうやら満足してもらえなかったらしい。

「もともとは、遠くの地方のものの替え歌らしいですが、この山でも似たようなことが起こっているらしく……」
「マジで!? マジなのか!?」
「あんた、怯え過ぎ」
「だってよぉっ、もう何かが出現する感じになってんじゃん!! これで難なく山を超えたら、むしろ拍子抜けだろ!?」
「……あんた、何か起こって欲しいの? 起こって欲しくないの?」
 もう頂点を過ぎ、傾きかけた太陽のもと、エリーは一応、辺りを警戒した。

 山頂に向かう、うねった蛇のような道は、三人程度なら横に並んで歩ける程度。
 一応用心のため縦一列になって歩いているが、先頭を行くエリーが振り返りながら歩ける通り、この高さでは緊張感に欠ける。

 だがそろそろ、山道も中腹に差し掛かる。
 いくらマリスがいるとはいえど、恐れを知らない種の魔物たちが出現する頃合いだろう。

「というか、二人は聞いたことあるのか? 今の唄」
「一応は、ね」
「あるっすよ。自分たちの村から大分離れているんすけど、元の唄は有名っすから」
 アキラに対して、エリーとマリスは冷静そのもの。
 エリーに先頭を譲って正解だったかもしれない。
 最後尾を守るマリスに、自分のすぐ背後にいるサク。
 守りは、万全だ。

「あれ?」
 アキラが登ってきた高度を確認したとき、先頭のエリーが途端止まった。
 その目は、自然なようにも不自然なようにもとれる、なんとも不思議な洞窟を捉えている。
 日の光も差し込まないその洞窟は、山の中腹に位置し、大きさはマーチュのいたものと遜色ない。

「なんだろ? この洞窟」
「結構深いな、ここ」
 さっそく洞窟の中を覗き込んだアキラとエリーが口々に漏らした感想は、洞窟内に小さく響く。
 外にいる限りは、その洞窟の底が分からない。

「もしかしたら、山の反対側に続いているのかもしれません。以前、その、私が介抱を受けた村の者が、この山にはそういう穴が多いと言っていました」
「じゃあ、ショートカットできるんじゃね?」
 アキラたちが目指しているのは山の反対側の町。
 それを考えれば、山をまるまる登って下るより、反対側に繋がる洞窟に入った方が、かなり、合理的。
 というより、楽だ。

「でも、なんかの巣とかだったら……」
「うおっ、結構中広いぞ」
「って、待てぃっ!!」
 マーチュ戦の記憶まで失っているのか。
 アキラはエリーとサクを追い越し、平気で洞窟内に入っていった。
 アキラの見る限り、この洞窟は本当に反対側に続いているように思える。

「ちょっと、あんたさっき童歌に怯えてなかった?」
「勇気ある者、だから勇者。そう習わなかったか?」
「……もう」
 駄目だ。この男は、旅というものを誤解している。
 エリーは頭を抱えた。
 確かにマリスがいるお陰でモンスターたちは現れず、村の外の世界というものが安全に見え、気が大きくなってしまうのも仕方ないかもしれない。
 だが、マリスの存在が異常なのであって、本来ならモンスターとの戦闘は必至という位置に自分たちはいるのだ。

「私たちも、入ろう」
「……、っすね」
 明るい場所に残された二人も、頷き合って歩を進める。
 確かに中に入らずには、様子は分からない。

 だが、

「? なんだ? なんか足元濡れてないか?」
「え? あれ? ほんとだ……」
「―――」

 耳が仲の二人の会話と足で跳ねる水の音を捉えた瞬間、マリスの表情が変わった。
 こんな岩だらけの荒れた山に、水など湧くはずもない。
 ましてや登る形で入るような洞窟に、水は溜まらないはずだ。

 そして、天気も、数日晴れが続いている。

「―――っ、にーさん、ねーさん!!」
 濡れるわけがない。

 液体状のモンスターでもいない限りは。

「? 何だよ?」
「マリー?」
「ここは―――」

 マリスの声は、突如発生した山の振動に遮られた。
 揺れが大きい。
 これは、自然の地震ではなく、局地的にこの場だけを襲っている。

「っ、アキ―――」
 サクが飛び出そうとするも、もう遅い。
 洞窟の入り口が軋みを上げ、サクの眼前で崩れ落ちた。
 中の二人の叫びも聞こえない。
 今、アキラとエリーは、マリスとサクから完全に分断された。

「今の揺れは……!?」
「どくっす!!」
 マリスがサクを押しのけ、壁に手を当て、目を瞑った。
 岩に流し込むのは、魔力だ。
 その反動で、岩の深さを測る。

「……、まずいっすよ。結構奥まで、岩が落ちてる……」
「っ、そう、か。どうする―――」
 魔法で破壊しようにも、洞窟がさらに崩れるかもしれない。
 二人が落石を避けるように駆けて行ったのが僅かに目で追えたが、これ以上の衝撃は避けるべきだろう。

「……こ、この洞窟は、反対側まで続いているかもしれないのだろう?」
 緊急事態に湧き上がる激情を抑え、サクは冷静に考察を進める。
 主人を危険から守り切れなかった悔恨も、とりあえず後回しだ。

「そうっすね……。自分たちは反対に回って、洞窟の出口を探すべきっす」
 マリスはそう言って、腕を振るった。

「……!」
 すると、マリスとサクの身体はシルバーの光に包まれ、宙に浮いた。
 これは、月輪属性の飛翔魔術だ。

「とにかく、飛ばすっすよ」
「ああ、頼む、―――」
 ぐんっ、と疾風のようなスピードで、二人は山頂へ向かう。
 サクは、このスピードの飛翔魔術を初めて見た。しかも、二人同時にだ。

 ただその魔術は。
 サクが見たどの魔術より、荒れていた。

―――**―――

「調子に乗りすぎました。本当に、すみません」
「…………」
 深々と頭を下げたアキラに、エリーが返したのは無言。
 ただ手に魔力を集中し、スカーレットの炎で閉ざされた洞窟を照らすだけだ。

 広さはある程度はあるが、背後で崩れた岩が圧迫感を与える。
 正面は、照らした範囲では何があるのか分からない。

「なあ、悪かったって」
「……いいわよ、もう。あんたなんか」
 刺々しい言葉をようやく返し、エリーは歩き出した。
 アキラはとぼとぼ、それについていく。

「なあ、荷物、持とうか?」
「あたしより体力ないでしょ」
「……」
 ついに無言になったアキラには、前を歩くエリーの背が、今まで以上に遠くに見えていきた。

 まただ。
 また自分はやらかした。

 調子に乗って、危険かもしれない洞窟にずかずか入り、結果、閉じ込められた。
 その上、エリーも巻き添えだ。

「……」
「……」
 エリーは相当怒っている。
 アキラは本能的に、エリーの感情を察した。

 いつも怒鳴り散らしているエリーが、急に黙り込んでいる。
 そして、諦めたような口調で、アキラと目を合わせようともしない。

 正直、いつものように怒鳴られていた方が遥かにマシだった。

「……、なあ、そういえば、さっきさ、」
 遠く離れて行ってしまうエリーを呼び止めるように、アキラは無理矢理口を開いた。
 アキラの声に、今度は振り向いてくれたが、エリーの眼は、どこか冷めきっている。

「なによ?」
「いや、ほらさ、さっき閉じ込められる直前、マリスが叫んでたろ? 何かを」
「……、ええ」
 エリーの顔が、若干曇った。

「あいつが何言おうとしたか分かるか? さっき洞窟が崩れたのも、何か察したのかもしれないし」
「……、分からないわよ。ごめんね、あたしとで」
 ほら、また自虐的になった。
 アキラは何故か、エリーの心の動きを察することができた。
 付き合いの短い彼女が持つ、妹へのコンプレックスの深さを、アキラは知らない。

 だけど、何故か、分かる。
 エリーだけがいる今、アキラには、彼女に笑っていて欲しいと思う。
 だから、察せる。
 彼女の好むことや嫌いなことが。

 自分はいったい、どうしてしまったのだろう。

「でも、お前なら分かるだろ?」
「……あのね、双子って別にテレパシー使えるわけじゃないからね」
「そうじゃなくて、」
 アキラは言葉をそこで切って、ぬかるむ足場を確かめるように蹴った。

「マリスが叫んだのって、確か足元濡れるって俺らが言った直後だろ? だからさ、そのヒントで、分かるんじゃないか? ほら、お前、頭いいし」
 別に、アキラにそう言われても嬉しくない。
 旅の知識はおろか魔物の知識さえゼロ。
 そんなアキラに、頭いいとか言われても、何の意味もない賛辞だ。

「…………」
 だけど、仕方なく、エリーは頭を回転させた。
 マリスが何故叫んだのか。

 外に何かが出現した。
 それは微妙だ。
 少なくとも、それなら出て来いとは言わない。
 だからアキラの言う通り、この洞窟内が濡れていたからマリスは叫んだと考えるべきだろう。

 では何故、濡れているとまずいのか。

「……、そう、ね」
「! 何か分かったか?」
 スカーレットの光を強くして、洞窟をさらに明るく照らす。
 すると、地面だけでなく、壁も濡れていたことが分かった。天井にも、僅かだが滴っている。
 それも、全体的に、というわけではなく、まるで何かが通ったように部分的に濡れていた。

「……、ここに雨って、最近降ってないわよね?」
「え? ああ、こことあの村の天気が同じなら」
「……、じゃあ、……えっと、」
 アキラに出した最終確認も肯定された。
 マリスが瞬時に辿り着いた答え。
 それを、追う。

 何かのモンスターのせいで濡れている。
 そう考えるべきだろう。
 問題は、どんなモンスターなのか。

 最も重要なヒントは、足場の、液体。

「……! ま、まさか、」
「…………あんまりいい思いつきじゃないみたいだけど……、どした?」
「こ、ここって、」
 二人が、洞窟内の開けた空間に到着した。
 アキラとエリーは揃って足を止める。
 そこは、この洞窟が全貌を現し始めるかのように、小さなドームのような形状の空洞に、今自分たちが出た道がいくつも開いていた。

 そして、その中央。
 エリーが予想した通りの存在が、数体、不気味に蠢いていた。

 エリーの発するスカーレットの光に突如照らされたそれらは、テカテカと光を反射し、脂ぎったような濁った身体を縮こまらせる。
 だが、形は存在しなかった。
 地面にへばり付いたガムかおう吐物が命を持ったように姿を変化させ、あるものは地面にさらに広がり、あるものは湧き上がるように身体を上部へ伸ばしゆらゆらと身体を立たせる。
 ゼリー状の、それらの物体。

 それは、

「ス、スライム族……!!」
 実物を見て、エリーは自信を持って、自分の推測を口にした。
 名前を呼ばれて、それに応えるように、スライムたちは一体、また一体と身体を立たせていく。
 顔もないもないスライムたちの“前”は、間違いなくアキラたちに向けている側だ。
 カラーは、今はスカーレットを映しているが、目を凝らせば濁った水のように汚らしい泥の色だった。

「プロトスライム……!! ここ、プロトスライムの巣だ……!!」
「ス、スライム!? あれ、スライム!?」

 澄んだ青の身体で、にやけ面で笑う小さな存在。
 それを頭の中で直ちに抹消し、アキラは身を一歩引く。

 とうとうアキラたちを外敵と判断したのか、表情のないスライムは、どろどろと足跡のように地面を濡らし、アキラたちの元へ這い始めてきた。
 速さは、人が歩く程度。
 しかし押し寄せる数体は、まるで逃げ場を奪うように、アキラたちを取り囲んでいく。

「にっ、逃げるわよ……!! 一体ならともかく、四、五、……七体もいたら、」
「こ、こっちだ……!」
 エリーの慌てように、スライムへの認識を新たにしたアキラがすぐ脇の通路に走り出す。
 スライムが、ああいう感じだとは思わなかった。
 もっと初心者向けの存在であって欲しいと、再び例のにやけ面が頭に浮かび、それをかき消す。
 ライトの役割を果たすエリーに先頭を譲り、暗い通路に二人分の水音が響いていった。

 今は、走る。それだけだ。

「っ、なあっ、あいつら、強いのか!?」
 通路に駆け込み、スライムたちから大分距離を取ったところで、アキラが前を行くエリーに叫ぶように聞いた。
 あのスライムたちのスピードなら、到達するまで大分時間がかかるだろう。
 今のうちに、相手の戦力を聞いておきたい。

「え、液体系は厄介なのよ。バラバラにしてもくっついちゃうし……。特にプロトスライムは水曜系。あたしじゃ相性が悪いのっ!!」
「じゃっ、じゃあ、何が効くんだよ!?」
 徐々に足を緩め、歩くほどのスピードになった二人は、息を整え始めた。
 アキラの叫び声を最後に、エリーは無言になってとぼとぼ歩く。
 入り込んだ通路は、壁のいたるところに穴が開いており、当初入った道とは違い、ほとんど迷宮のようになっていた。

「……魔力で吹き飛ばすか、弱点の金曜系の攻撃」
 “それ”ができる二人が思い浮かんだが、アキラは頭から追い払った。
 しかし、エリーは、そうしなかった。

「ごめんね。よりによって、あたしで」
 右手に輝くスカーレットが、若干弱くなった気がした。
 この洞窟の迷宮のゴールは、見えない。

「あ~、えっと、気に、すんなよ」
「そういう言葉、かえって傷つくって知ってる?」
 前を向いたままのエリーの表情も、見えなかった。

「正直、あんたもマリーがいれば良かったって思ってるでしょ?」
「……、まあ、多少は」
「そうよね……。あんたがあの銃使えないのも、ここじゃまずいからでしょ?」
「…………」
 そう言われれば、アキラは全面的に肯定することしかできない。
 膨大な破壊力を誇る攻撃は、この洞窟が崩れることさえ許さず、スライムごと総てを消し飛ばすだろう。
 だが、その反動は酷い。
 こんな狭い空間でそれを使えば、アキラの身体はすぐ背後にあるゴツゴツとした岩の壁に打ち付けられ、無事では済まないだろう。
 その怪我をカバーできる回復魔術の術者は、マリス。
 今この狭い空間では、アキラは戦うことができない。

「……あたしも、マリーにいて欲しいって思ってるくらいだもん」
 僅かに登り坂になった通路を行きながら、静かな会話は続いていく。

「もう、正直に言うわ。あたし、マリーの才能に、嫉妬してる」
 分かっていたことだ。 
 だけど、エリーの口からはっきりそう聞くのは、初めてだった。

「マリーのことは大好きだけど……、何度も思ったわよ。どうしてあたしじゃないんだろう、って」
 これは、アキラの持つ日輪属性の力が働いているからだろうか。
 エリーの口から、素直な気持ちが漏れていく。

「だけど、才能なんて欲しがってもどうしようもないから……、あたしはひたすらその差を埋めようとした。“先天的”に“後天的”が挑む。なんかそういうの、格好いいとか思って時期もあったし」
 アキラはこれ以上、見たくなかった。
 こんな、自虐的な心の闇を。
 これは間違いなく、人を惹き付ける日輪属性の力が働いている。
 太陽とは、こういうものも受け止めなければならないのだろうか。

「だけど、今日の差は応えたわ……。“国の魔道士隊を動かせるコネ”を持つ人物の姉は、魔術師試験に一回落ちてる。そう考えると、ね。思うのよ。あたしって何だろう、って」
「ストップ、だ」
 もう駄目だ。
 少なくとも今、アキラにこの闇を見続けることはできない。
 それを明るく照らす力は、今のアキラにはないのだから。

「……あ、ごめん」
「いや、」
 気まずさに振り返ったエリーの顔は、驚くほど表情がなかった。
 ただつらつらと、言葉を続けていただけなのだろう。

「あのさ、お前、そういうの止めた方がいいって」
「……分かってるわよ。でもなんか、不思議と口に出したくなったのよね……。マリーには、言わないで」
「……言えねぇよ」
 言えるわけもない。
 そんな、エリーの心の傷を。
 この姉妹の関係を壊しかねない想いは、表に出すべきではないのだろう。

 今のアキラにそれを繋ぎ止める力は、ない。
 だけど、

「ま、まあ、お前がダメなら、俺はもっと酷いけどな」
「……?」
 心の闇を根こそぎ晴らすことはできなくても、今浮き出た闇だけは、消しておきたい。

「“あれ”を使えないんじゃ、俺、ぶっちゃけ一般人だし」
「……何よ? いつも、俺は勇者様だぁっ! とか言ってるくせに」
「いや、まあ、それは、ははっ、」

 落ち込む人を立ち直させるには、三つ、方法がある。

 一つ目は、その人物より高いところに立ち、聖者のように導くこと。
 二つ目は、その人物と同じところに立ち、親族のように支え合うこと。
 三つ目は、その人物より低いところに立ち、道化のように笑わせること。

 高いところには行けない。同じところも、今は無理だ。
 だから、低い所へ。
 姑息でも何でもいい。

「だからさ、頼むぜ? 俺たちが生き残るには、お前に頼るしかないんだから」
「…………はあ、あんたと話してると、本当に、―――」
 それで言葉を切って、エリーは歩く速度を上げた。
 途端離れたスカーレットに光に、アキラは慌てて近づいていく。
 こればかりは冗談ではなく、離されるわけにはいかない。

「なあ、今、何て、」
「“疲れる”って言ったのよ!」

 ようやく賑やかになってきた道は、まだまだ続く。

―――**―――

「―――」
 疾風のような光体が、目の前の液状物体の一つに飛んでいく。
 色は、イエロー。
 その人物が腕を振るえば、風切り音を残して、スライムが一刀両断となる。
 金曜属性の力で分かれたそれらは、片方のみそのまま残り、もう片方は単なる泥水となって地面に吸い込まれていく。

「どくっす!!」
「……!!」
 止めを刺さずして、サクはその場から離脱する。
 するとその背後にいる少女の周りに浮かぶシルバーの矢が、一斉に弓を引かれたようにスライムに襲いかかっていった。
 数は、四。
 その場にいるスライムと同数だ。

「―――レイリス」
 先のマーチュ戦で使った魔術の高位に位置するその呪文をマリスが呟けば、総てのスライムが串刺しにされ、所々で小さな破裂音を奏で、その命を終えた。

 その範囲攻撃の威力の前では、自分が行った攻撃など霞んでいく。
 サクは小さくため息を吐き、自らの愛刀を腰に仕舞った。

「流石に、強いな」
「足止めには助かってるっすよ」
 二人は短く言葉を交わし、目の前の山肌を眺めた。
 そこにはいくつも、反対側にあったような穴が開いており、マリスとサクが近づくたびにスライムたちが湧き出してくる。
 結果、二人は中に侵入をできずに、この場で立ち往生していた。

「……、それにしても、妙だ」
「何がっすか?」
 先陣タイプ、後陣タイプとバランスの取れている二人は、スライムそのものには危険を覚えない。
 サクが先制してスライムの動きを止め、マリスがその隙に範囲攻撃で全滅させる。
 サクが金曜属性であることも手伝い、数回目の戦闘を終えても、二人はダメージを全くと言っていいほど受けていなかった。

 だが、気になることは、ある。

「私がこの山にいたときは……、スライムには遭わなかった」
「……確かに、スライムが昼からこんなに積極的なのは、妙っすね」

 スライムはもともと、地下の濁った水に魔力を流し込まれた魔物だ。
 確かに種類によっては太陽の下にいることもあるが、少なくともプロトスライムは日の光を嫌い、洞窟からは出てこない。

「あの唄の元になった魔物は、間違いなくスライムたちのはずだ」
「……」
 マリスも、サクの推測には異論はない。
 この辺りを飛んでみた限り、スライムより危険な魔物はいなかった。
 実際、一般人にはスライムを倒す手段などなく、この辺りを夜に通れば、唄の通り足音は消えていくだろう。

 だが、その、この辺りの主的な存在のスライムが、何故こんなにも、積極的なのだろう。
 思えばアキラとエリーが閉じ込められた落石も、マリスの侵入を避けようとしていたと考えられる。

 頂点に君臨する生物は、別に生活を変える必要はない。
 変えなければならないのは、それより強い外敵が現れたときか、“統制者”が現れて、ルールが創られたとき。

 いずれにせよ、この山で一番危険なものは、プロトスライムではないという結論に導かれる。

「アキラ様たちは……、まだ、出てこられていない……!」
 穴に近づくたびにスライムたちに押し返されて、思うように探索できない。
 サクが苦々しげに呟いたセリフに、マリスは眠たげな眼を、ゆっくり向けた。

「……サクさん」
「?」
 再び穴に向かおうとしたサクを、マリスが呼び止めた。

「サクさんは、にーさんのこと、どう思ってるんすか?」
「……? 主君、ということか?」
 サクの返答に、濁りはなかった。
 しかし、どうしても、マリスにはそれが奇妙に見える。

 自分がいなかった間、二人は決闘したと聞く。
 決闘のしきたりは、敗者は勝者に絶対服従。
 そんなことは分かっている。
 だが、行動はとにかくとして、心までは動くわけではない。
 それなのに、サクは嫌な顔一つせずに、アキラを主君と認めているのだ。

 それが、微妙に、変だ。

 マリスは、能天気にご都合主義と喜んでいるアキラとは違う。
 自分は見定めなければならない。
 共に旅する仲間には、合理的な信頼を置く必要がある。

「…………確かに……、あの男は、弱い」
 マリスが自分の返答に満足していないことを察し、サクは胸の内を明かし始めた。

「あまりこの話をしたくないが……、私の家は、もともと誰かに仕えること生業としていた」
「……」
 サクはどこか遠くを眺めるように、視線を空へ向けた。
 その瞳に映る故郷の空は、もしかして、曇っているのだろうか。
 そんな目をしている。

「それなのに、私は仕える対象から逃げ出した。どうしても、仕えることができなかった。“自分はここにいるべきではない”、とな」
「それで、“ここ”っすか?」
「……ああ」
 サクは目を伏せ、顔を元に戻した。

「あの男は……アキラ様は、弱いが、強い。その力に、過程はどうあれ命を救われた」
 絶対的なモノは、あらゆるものを惹き付ける。
 その仮定に基づけば、日輪属性の惹き付ける力とは、そういうものなのかもしれない。

「天命だと悟ったよ……。それに私自身、アキラ様の力になりたいと思った。彼にはもっと、上がってもらいたいと。不思議と、な」
「……」
 それは日輪に惹き付かれているだけ。
 そう言おうとも思っても、マリスは何故か、言えなかった。

「そもそも……、是か、非か。強いか、弱いか。そんなことは関係ない。私は彼に仕えると決めた。それだけだ」
 “しきたり”に縛られた世界。
 そこでは、神話のようにオラクルを受け、それに染まる者が多い。
 自分を確かに持っていても、それを受け入れる。
 サクはそういう種類の人間なのだろう。

 マリスには、サクの持つ、汚れ無き忠誠心というものは理解できない。
 だけど彼女に、信頼は、置けた。

「満足してもらえただろうか」
「……!」

 サクがアキラに向ける感情が、“そういうもの”ではないと分かった途端、マリスはそれが“どうでもよくなった”のを感じた。

 なんてことはない。
 微妙に変だったのは、自分だった。

「とにかく、二人を助けよう。行くぞ」
「……そうっすね」

 今は、これでいい。
 マリスは目をさらに細め、サクが飛び込んでいく穴を見据える。
 今の問題は、二人の救出。
 そして、この山の持つ、更なる危険への配慮。

 気を抜いている場合では、ない。

―――**―――

「―――きゃぁぁああっ!?」
「!!?」
 事態は途端、一変した。

 二人で並んで歩いていたと思えば、隣のエリーの姿が消え、逆さになって宙に持ち上げられる。
 勢いよくエリーからバッグが落ちたところで、アキラはようやくその事態に思考が追いついた。

「っ、なに、が―――」
 アキラの顔が驚愕に歪んだ瞬間、視界の片隅に、スカーレットに照らされたゼリー状の物体が映った。
 そのプロトスライムは、道の壁のいたるところにあった横道から伸び、エリーの足首を締め付け持ち上げている。

「っ、ああ、あうっ!!」
 片足を持ち上げられたエリーは、逆さまのままうめき声を上げる。
 その液体の姿からは想像もできない万力のような締め付けが、エリーの右足首に襲い続けていた。

「っ、おいっ!!」
 目の前のエリーの手を掴み、アキラはスライムの全貌を見渡した。
 先ほど見た群れのスライムより大きい。
 そしてそのスライムは、エリーを掴んだまま、横の穴に引きずり込もうとしている。

「どっ、どうすっ、」
「ぐぅぅうう、ああっ!!」
 エリーの足を襲う激痛は、足を持っていかれるほど。
 ロープ状になったスライムの締め付けに、骨までもきしみを上げ、エリーはまともな思考ができない。
 魔力で覆っていなければ、人間の体など、瞬時にねじ切られているだろう。

「っ、そだっ!!」
 アキラは腰に下がったバックを引きちぎらんばかりの勢いで開けた。
 数本バラバラと足元に落ちるも、アキラが掴んだのはそのうちの一本。

 以前村長からもらった投げナイフを、逆手に持ち、エリーの足首に伸びている細いゼリーに振り下ろした。

「っあ!?」
「うおっ!?」
 思った以上に手ごたえのない攻撃は、どうやら成功したようだ。
 エリーの身体は中から落下し、その足首にまとっていたゼリーは力をなくし、ぶよぶよと蠢いて本体に近づいていく。

「にっ、逃げるぞ!!」
「っぅ、え、ええ!!」
 顔をしかめるエリーの手を引き、アキラはスライムから距離を取った。
 持っていたナイフをやみくもに投げ、空いた手で、エリーのバッグを掴む。

 目の前のスライムは、アキラの投げたナイフを体内に取り込み、不要と判断したのか身体の外に無造作に吐き出した。

「まず……」
 アキラが駆けだしながら手を引いたエリーが、力なく座り込んだ。

「どっ、どう……」
「たっ、立てない!!」
 恐怖に歪んだエリーの表情を見た瞬間、アキラは迷わずエリーを腕に抱えた。
 そして、もたつくこと数秒、アキラは後ろを確認もせずに走り出す。

「ちょっ、ちょっと、」
 いわゆる、お姫様抱っこの状態で洞窟を進むエリーは、泳ぐ視線のまま目の前にあるアキラの顔を見上げる。
 突然のスライム襲撃もさることながら、こんな機敏な動きをこの男がしたことに、動揺が隠せない。

「ぜぇ、ぜぇ、俺だって、ぜぇっ、ぜぇっ、やるときは、ぜぇっ、ぜぇっ、」
「息切れ早っ!?」
 さっそく限界の見えるアキラの肩には二人分のバッグがぶら下がっていた。

「あんた、そんなもの、」
「はっ、はっ、何か、はっ、はっ、勿体なく、はっ、はっ、」
「分かった、分かったから!!」
 もう何も言うまい。
 自分が走れない以上、アキラを頼る他ないのだから。
 揺れるアキラの腕の中、エリーはせめてもと、光る右腕を進行方向へ突き出した。

 アキラは全力疾走で洞窟の迷宮をぐねぐね曲がるり、最後に大きな道へ飛び込んで、

「もうっ、げん、かいっ、」
「きゃあっ!?」

 エリーを投げ出すようにそのままこける。
 泥水の上にビチャッと投げ出され、エリーの身体は泥にまみれた。

「ぜぇっ、ぜぇっ、ごほっ、ごはっ、はっ、はっ、」
「…………、さいっ、てーっ!」
「む、む、ちゃ、言うな、って……!」
 両手両膝ついて、息も絶え絶えなアキラと、泥を全身に被ったエリーは顔を見合わせた。
 ほとんどスライムと同じ色になってしまったようなエリーは、ため息一つ吐き、ふらつきながらも何とか身体を起こした。

「でも、ありがと」
「ぜぇっ、ぜぇっ、ごほっ、ごはっ、」
「聞けって!!」
 エリーに遅れること数秒、アキラは震える足で何とか立ち上がった。
 顔は、頭まで血が回らなくなっているのか、蒼白。
 吐き気をもよおしているような顔つきで、ふらつく身体を壁に預け、背後を確認した。
 あの大きなスライムは、追ってきていないようだ。

「……俺っ、俺っ、は、決め、た。朝、走るっ」
「それならあたしが強引にでも起こしてあげるわよ。あんた、体力なさすぎ」
「結構頑張った方じゃね!?」
「うんうん、頑張った頑張った」
「そのコメント、もう少し感情込めろよ」
 未だ顔色悪く、立っているのも限界のようなアキラが伸ばした手を、エリーは不自然さも感じず、取った。
 単に八方美人なだけかもしれないが、アキラはそういう人間だ、と。

「肩、貸して」
「う、おぅ」
 エリーは左腕をアキラの腰にまわし、二人は歩き出した。
 身体が密着している自分に、隣のアキラが良からぬことを考えているのではないか、と僅かに懸念するも、エリーはただ前だけをスカーレットに照らす。

「なあ、足、まずいのか?」
「……そう、ね。少なくとも……っぅ、」
 試しに右足を地面についてみると、鋭い痛みと尾を引く鈍い痛みが足首を襲い、エリーの動きが止まる。下手をすれば骨にひびが入っているかもしれない。
 その痛みに耐えようと、アキラに回った腕がさらに強くなった。

「いっ、痛そうってことはっ、伝わって、きたっ」
 ほとんど抱きつくようにもたれかかってくるエリーに、アキラは慌てて顔を背けた。
 丁度鼻の下あたりに来るエリーの髪も、身体の触覚が確かに感じているエリーの胸も、その体温も、息遣いも、アキラには刺激が強すぎる。
 マリスにもたれかかられた経験ならあるが、エリーがそうすると、意識が全く遮断できない。

「ちょっ、ちょっと、何か変なこと、」
「か、考えてない!」
 ラブコメみたいだ。本当に、ご都合主義の。
 そう思いながらも、アキラは口調も強く否定する。

「でも、あんた、」
「そ、それは、違う!」
「…………ふーん……」
 エリーの瞳が、マリスのように半分閉じて、アキラを睨む。
 同じ顔で同じ表情なのに、アキラは二人の区別がはっきりついた。
 というよりも、エリーは、他とは違う。

「……」
 だけど、駄目なのだ。
 エリーだけは。

 自分とエリーは、不本意にも婚約中。
 今は、それを打ち消すための旅の途中だ。

 もしこれでアキラがエリーにそういう意味の好意を持てば、自分がそれを認めたことになる。
 結婚は、駄目だ。
 ハーレムの主は、既婚者であってはならない。
 だから、エリーだけは。

 それなのに、何故こうも、気になるのだろう。

「と、とにかく、早くマリスに治療してもらおうぜ」
「……、そう、ね。マリスなら、ね」
「お……、おう」
 ごまかすために出したその話題に、再び気まずい空気が流れた。
 エリーの腕の力が若干弱まる。

 何故こうも、自分の口からはろくなことが出てこないのだろうか。
 エリーを励まして、笑ってもらえば、“駄目だ”と感じて話題を変える。
 変えた話題は、再びエリーの表情に影を落とす。
 どうどう巡りだ。

「で、でもさ、頼るところは頼っていいと思うぜ……。マリスにもできないことって、あるだろ」
「……あるにはあるだろうけど……、少なくとも“それ”は、あたしにもできないわよ」
 頼むから、そういう顔をしないでくれ。
 アキラは、何度もそう念じた。

「うそうそ、冗談。もう大丈夫よ」
「あのさ、」
 わざとらしくカラカラ笑うエリーを遮って、アキラは強引に口を開いた。

 何かを、言え。
 そう、頭の中で声が響く。
 何でもいい。
 彼女を喜ばせるようなことを。

 このままにしていたら、マリスの話題が出るたび、彼女の顔が曇る。
 それは、駄目だ。
 それは、スライムに出遭うことより、避けなければいけないこと。
 アキラはそう、強く思う。

 確かにマリスは天才だ。

 天上は、遠く座す。

 無情なほどに。

「……っ、」
 “だけど、そこにある”。
 たとえ自分が無理だとしても、彼女だけには、そこを見ていて、目を輝かせていて欲しい。

「とっ、とりあえず今、お前がいないと、スライムに殺される」
「……こんな足なのに?」
「そっ、そんな足でも、だ。それに、暗くなる」
「…………」

 もう少しマシなセリフはなかったものか。
 結局、さっきのように道化になるしかなかった。

 小説の、多くの主人公たちは、こういうときにはビシッと決めていたではないか。
 そんなセリフを数多く読んでいるのに、自分は、こんな大事なときに、突っかかりながらも無理矢理言葉を紡いだだけ。
 アキラは思う。
 自分は、何なんだ、と。

「……まあ、でも、スライムに遭ったら、あたしを抱えて逃げてくれる?」
「結構きついんだけど……、分かった。じゃあ役割分担しようぜ。お前は照らして、俺は運ぶ。ひたすら、逃げる」
「勇者様御一行の行動とは思えないわね……?……」

 エリーがどこか笑いながら、ぴょん、と飛ぶと、今まで以上に水が跳ねた。

「何だ? ここ、めちゃくちゃ濡れてないか?」
 エリーの照らした先に目を凝らすと、目の前の通路は、足場だけに限らず、天井、壁、と、まるで穴いっぱいに水が通過したようにぐっしょりと濡れていた。
 天井から落ちる水滴が、足元の水たまりに跳ね、水音を響かせる。
 今までせいぜい壁の腰辺りまでの高さしか濡れていなかったことを考えれば、ここの濡れ具合は異常だ。

「スライムが通った直後なんじゃ……」
「いや、それ以前に濡れすぎよ……。何体いるの……?」
 エリーのスカーレットの光が、その先を照らす。
 すると、細い通路は終わりを告げるのか、どこか開けた空間が見えた。
 しかしそれも、暗闇の先。
 どうなっているのかは分からない。

「……どうする?」
「ど、どうするもなにも、戻ったら……」
 先ほどの大きなスライムと鉢合わせ、そう考えられるだろう。
 アキラはちらりとエリーの右足を見下ろした。
 力が入っていないそう足のひざ当ては、鉄製なのにロープ状の痕が付き、ひしゃげている。
 防御幕もまともに張れないアキラであれば、一体何秒もつことか。

「……、これはスライムたちが結構前に通った跡。今はいない」
「ポジティブって言った方がいい? 能天気って言った方がいい?」
 そういうエリーも、戻ってあの大きなスライムと出遭うことは避けたかった。
 身をもって、あのスライムの万力のような力は学んだのだ。
 思い出すだけでも右足がさらに痛む。

「……、行きましょう。戻るのもなんだし」
「…………、そう、だな」
 二人は寄り添って、慎重に広間に近づいていく。
 いつでもエリーを持ち上げられるように、肩に回した手を強くして。

 エリーの意見に合意はした。
 しかし、何となく嫌な予感がする。

 こういうとき、話の流れから、“出る”のではないだろうか。
 小説しかり、RPGしかり、ついでに言うなら以前の巨大マーチュしかり、出現するタイミングのような気がする。

 このスライムの巣の、“ボス”が。

「…………、」
「…………ほら」
 広間に入ると、巨大マーチュのときのように、二人はぴたりと止まった。

 広さは、小学校の体育館ほどだろう。
 見える限り、形は円形のドームだが、高さや、その全貌は暗すぎて分からない。

 そして、その、中央。

「……思った通りだな……、こういう展開……」
「……また、なの?」
 二人の顔は、その物体に引きつった。

 巨大マーチュと違い、その物体は声を上げない。
 ただ、ぶよよんっ、と身体を震わせ、蠢くだけ。

 まるで、巨大なプリンがこの空間を埋めるように鎮座し、スカーレットに照らされている。
 高さなど、アキラの身長のゆうに十倍はあるだろう。
 あの巨大マーチュほどのサイズの液体生物の種族は、エリーに言われなくとも分かった。
 これは、スライム族だ。
 ただ、エリーに照らされたその色は、濁った泥のプロトスライムと違い、綺麗に透き通る、青。 
 そして大きさも、今まで見たスライムの比ではない。
 この存在から見れば、先ほど遭った大きなスライムも、普通の小さなスライムも差はないだろう。

「……ブッ、ブルースライム!? でもっ、おっ、大きすぎ……!!」
「だから何で真ん中のサイズいないんだよ!?」
 叫んだと同時、二人に最も近いスライムの身体の一部が光り始めた。
 色は、スカイブルー。

 これは、プロトスライムと違い、魔力を高めたブルースライムの、魔術。

「っ、」
「きゃ!?」
 アキラは頭に鳴り響く警鐘に素直に従い、エリーを抱きかかえて走り出した。
 その直後、アキラの踵を怒涛の水流がかすめ、入ってきた通路になだれ込んでいく。

「ど、わっ!!」
「わわっ!?」
 最早そうすることが決まっていたかのように、アキラは転びながらエリーを投げ出した。
 右足を庇って受け身を取ったエリーは、アキラの体力のなさの招いた事態だと諦め、代わりにスライムを転んだまま睨む。

「シュッ、シュロート!! 水曜属性の魔術……!!」
「っ、とりあえず、立てるか!?」
 エリーをぐっと引いて立たせ、アキラは攻撃の跡を横目で見た。
 その水流は、自分たちが歩いてきた穴を拡張させるほど巨大で、受ければ流される、というよりも押し潰されそうな威力を誇っていた。
 何で旅の序盤からこんなモンスターに出遭うんだ、と嘆きながらブルースライムを見上げれば、全身たゆたう巨大スライムが、再びアキラたちに近い一部を光らせる。

「―――っ、」
 再び、ドンッ、とミサイルのような水流がホールに穴を造る。
 この洞窟はこういう風にできたのではないか、と意味のない推測を頭に浮かばせながら、アキラは再び投げていたエリーに手を伸ばした。

「あっ、あんたっ、たまにはっ、抱えてられないのっ!?」
「悪いとは思うが、これが俺の限界だ」
 ぐしょ濡れになったエリーの肩に再び手を回し、アキラは退路を探った。
 駄目だ。
 どこかの通路に逃げ込もうものなら、ブルースライムの魔力を回避できなくなる。
 先ほど天井まで濡れていた通路がそれを物語っていた。
 あの魔術の太さは、通路の幅を超えている。

 もう、止むを得ない。

「……、なあ、マリスは近くにいると思うか?」
「……? なによ、いきな……!……」
 アキラの顔がこれから自己に降りかかる悲運を呪うように歪む。
 そして、手のひらを輝かせ始めた。

「……ぁ」
 暗闇で見ると、改めて分かる。
 この、アキラの右手から漏れだす光は、自分のスカーレットや、スライムのスカイブルーとはケタが違う。
 このオレンジは、暗い空洞総てを明るく照らす、日輪。

 その、日輪属性の光が、アキラの手元で収束していく。

「……、いく、ぞ……!!」
 もう駄目だ、これしかない。

 アキラは震えた声のまま、現れたクリムゾンレッドの銃を構えた。
 武具の“具現化”。
 魔道の最高位に値するその行為の成果は、確かにアキラの手の中で息づく。

「ちょっ、ちょっと、それっ、」
「ぜっっったい、痛いと思うけど、まあ、この前のゲイツのとき耐えられたし……。マリスがすぐに治療してくれれば……」
 エリーは後ろを振り返った。
 ごつごつとした岩肌が、眼前にある。
 ここでもしアキラが反動で吹き飛べば、身体をどう打ちつけるか分かったものではない。

「で、でもっ、っ!?」
 もう、時間はなかった。
 巨大なブルースライムは、またも身体の一部を輝かせている。
 狙いは言うまでもなく、動きを止めたアキラとエリーだ。

「自分にグッドラック」
「っ、―――」
 最後に妙な呟きを残し、アキラは引き金を引いた。
 途端溢れ出す、膨大な魔力。

 結果は総て決まっている。
 その破壊の光線の前に訪れるのは、今包まれたブルースライムのように、等しく滅亡。

 そして、アキラに襲いかかる、物理的な反動―――

「っ、ノヴァ!!」
「―――!?」
 エリーはアキラが吹き飛ぶ直前、その背中に回っていた。
 痛む右足で強引に地を蹴り、アキラの背中から身体を支える。

 全身に噴き出したのは、インパクト時最大の威力を誇る、火曜属性の魔力。

「ぎっ、ぎっ、ぎっ、っ!!」
「っ、―――、」
 この衝撃は、もしかしたらブルースライムの魔術より強いかもしれない。
 痛みを総て放り投げ、身体総てを使ってアキラを止めても、地面を削るように足が下がって行く。
 今すぐにでも、身体ごと吹き飛び、岩に叩きつけられそうだ。
 でも、自分はこうしなければいけない。

 マリスは、彼の傷を癒すことができる。
 だけど、自分はそれができない。

 できるのは、今、ここで、彼を支えること。

「っ、―――」
 だけど、この、威力は―――

「……?」
 そのとき、アキラの身体から、銃とは別にオレンジ色の光が漏れ出してきた。
 その光は、スカーレットと混ざり、エリーの身体にも流れ込んでくる。
 あの、マーチュ戦でも感じた、身体がポカポカと温まって行く感覚。

 まだ、もう少し、行ける。

 何故か身体が活性化していく。
 これは、日輪属性の力だろうか。

「―――うっ、あっ!?」
「どわっ!!?」
 ついに、エリーに限界が来た。
 だがそれと同時に、銃の光線が弱まっていく。

 すっかり威力が弱まったまま後ろに飛ばされた二人は、そのままの体勢で後ろの壁に突っ込んだ。
 だが、その程度、身体に張った防御幕で耐えられる。

「―――……」
「…………」
 ほとんど抱き合うようにずるずると壁の下に落ちた二人は、しばらく身体を震わせていた。

「っ、はあっ、はあっ、」
 エリーは身体を起こし、壁に背を預けた。
 立ち上がるのはもう無理だ。
 足が完全に動かない。

 だけど、

「またっ、肩っ、肩がぁぁぁああーーーっ!!」
 無事だ。
 隣にいる涙目の勇者様は、大事に至っていない。

「マリスッ、マリスゥゥゥウウーーーッ!!!」
「はあ……、まだまだ、か」
 まだ自分は、支えきれていないみたいだ。

 でも、今は、仕方ない。
 マリスと同じことができなくても、自分のやり方で、“結果”には迫れる。

 また明日からも、“先天的”に挑めそうだ。
 アキラがブルースライムごと貫いた空は、まだまだ遠い。
 だけど、やっぱり晴れていた。

「うがぁぁああっ、マリスゥゥゥウウウーーーッ!!」
「……あんたもう少し黙れないの?」
「……、呼んだっすか?」
「!! アキラ様、ご無事ですか!?」

 その、天井に空いた穴から、マリスとサクの二人がシルバーの光に包まれて降りてきた。
 どうやら今の光は、自分たちの居場所を知らせることにも役立ったようだ。

「マッ、マリス!!」
「……! また肩っすか……、にーさん」
「!! その前に、急いでここから出よう!!」

 サクが瞬時にアキラの身体を抱え、立ち上がらせる。
 だが眼は、たった今アキラの攻撃を受けたブルースライムに向いていた。

 ああ、そういえばそうだった。
 ブルースライムは身体を構成していた液体を地面に溶かせながら、バチバチと、スカイブルーの魔力を巨大な身体にほとばしらせている。

「っ、マリー、お願い!!」
「―――了解っす!!」

 マリスが目を瞑り、腕を振ると、この場全員の身体がシルバーの光に包まれる。
 そして、再び開けた半分だけの瞳は、虚空を睨んだ。

 これは、マリスにしかできないこと。
 だから、任せる。

「脱出するっすよ!! フリオール!!」
 四人の身体全身が、浮く。
 持ち上げられるのではない。
 まるで、その空間を切り取っているかのように、空に向かって動き出す。

「っ、―――」
 四人の身体が出たところで、山総てに鈍い衝撃音が響く。
 そして、唯一の大穴からスカイブルーの閃光が空を突くように漏れたかと思えば、まるで柱を失った家屋のように、山が崩れていった。

「……」
「……はは」
「これ、は……すごいな……」
 そんな現実感のない光景を、四人は浮かびながら眺めていた。
 聞こえるのは、山の崩れる轟音と、アキラのうめき声だけ。
 泥をかぶりながらも這い出た外は、思った以上に明るい。

「山を消しながら押し進んでるみたい……」
「肩っ、肩が……っぅ!!」
「お願い。今だけは黙ってて」
 四人がゆらゆらと地面に近づいてく。
 エリーは再三にわたるため息を突きながら、顔だけは、小さく笑みを浮かべていた。

―――**―――

 マリスの話だと、この辺りにいるスライムでは、戦うとき最も気にしなければならないのは魔力ではなくその力だそうだ。
 液体状の姿からは想像できないその物理的な締め付け。
 その威力は、エリーの足首のダメージが物語っている。

 そして、あのブルースライムも例外ではなく、魔力よりもむしろ注意しなければならないのは、その力。
 だからブルースライムが魔術のみを使っているときに、とっとと勝負を決めたのは正解だったと言える。

「……ああ、イテェ……」
 そんなことを後付けで聞き、アキラは倒れた木に座りながら腕を回した。
 目の前のたき火がゆらゆらと揺れる。

 マリスに治療してもらった腕は、鈍い痛みを未だ持っているが、もう大丈夫そうだ。

 日はもうどっぷり沈み、今日はもうこの山の樹海で野宿らしい。
 マリスとサクも外でスライムと何度も戦っていたらしく、下手に進んで何かのテリトリーに入るよりは安全、という決断は、洞窟内で動く気力を奪われたアキラにとってはありだと思える。
 それに、あの山のスライムが異常だっただけで、そこまで危険はないそうだ。

 町はまだまだ、歩くには遠いらしい。

「……あれ、サクさんは?」
「ん? ああ、見回り行ってくるって言って、さっき、」
 聞き慣れた声に振り返れば、近くの川ですっかり汚れを落としたエリーが立っていた。
 だが、その服装は、アキラの見たことのないものだ。

「何よ?」
「……、マ、マリスは?」
「あの子は、もう寝てるわよ。朝早く起きたから、疲れたってさ」
 エリーが振り返って、タオルを吊るしただけの簡易なテントを見れば、誰かが横たわっている気配。
 今日の連戦は、マリスの瞳の残り半分を閉じさせるに十分だったらしい。

「……、隣、いい?」
「……あ、ああ」
 腰をずらして、エリーのスペースを開ける。
 隣に座ったエリーは、小さく口を尖らせながら、たき火に手を当てた。

「……あのさ、」
「なに?」
「えっと、足、は?」
「……、もう治してもらったわよ……。てかあんた、その場にいたでしょ」
「ああ、いた、な」
 淡白な意味のない会話が、たき火の前で続く。
 そのある種の沈黙に、アキラはとうとうエリーの服を直視した。

「……なあ、それ、どした?」
「洗ったから乾いてないの。これはその代わり」
「……」
 エリーの服は、いつもの普段着や、戦闘服と違った、淡く明るい紅のワンピース。
 その服装はこのような外では不自然だったが、エリーの背中に垂らした長い赤毛や、引きしまった体つきによく映えている。
 先ほどまで支えて密着していたのに、今はこんなにも、近くにいることに身体が震えて行く。

「お前さ、俺に無駄な物持ってくなって言ってなかった?」
「必要だったでしょ、今着てるもん」
「……そういうもん?」
「そういうもんよ」

 ようやく顔をアキラに向けたエリーの瞳には、ゆらゆらとたき火の日が映っている。
 顔も、たき火の色を映していた。
 ああ、まずい。きっと自分もそうだ。
 エリーは、やっぱり美人だ。
 これは、まずい。

「で、感想は?」
「……、いや、まあ、その、えっと、」
「…………ま、いいわ」
 エリーはすたっと立ち、身体を伸ばす。
 その光景をぼんやり見ていたアキラは、エリーの手が下りたと同時に視線を外し、たき火を食い入るように見つめた。

「じゃ、あたしももう寝ようかな。見張り、お願いね」
「……あ、ああ。定期的に木を投げ込んできゃいいんだろ?」
「そうよ。じゃあ、おやすみ……」

 エリーは簡易テントに歩いていく。
 ああ、ここだ。
 思惑とは別に、身体の感情が、ここで何か声をかけろと言っている。

「あのさ、」
「? なによ」

 とりあえず、声をかけた。
 あとは、なにか、思いつけ。

「えっと、あのとき……、そう、あのとき、支えてくれて、ありがとな」
「……」
 たどたどしくも紡げた言葉は、果たして正解だったろうか。
 エリーの採点を待つのが怖くて、アキラはたき火だけを再び見つめた。

「……役に立てたなら、光栄よ。“勇者様”」
「……」
 それだけを呟いて、エリーの足音は遠ざかっていった。
 声の調子からして、及第点は、取れたのかもしれない。

「…………って、俺は何やってんだぁ……」
 アキラは集めてきた小枝で、地面をがりがりとかいた。

 婚約者であるエリーを受け入れるわけにはいかない。
 そのはずなのに、彼女に何か声をかけたくなる。

 自分の行動が分からない。

 エリーでなくても、マリス、サク、と魅力的な女性は自分の周りに入るではないか。
 好意を持たれているか否かはさておき、せっかく夢のハーレムに近づいているというのに、自分何故か、エリーばかりを見ている気がする。

 たった一つ、選ぶ。
 それをしてしまえば、その他の物語は潰えてしまう。
 そう、思うのに。

 何故か、この目が追うのは一人だけ。

「はぁ~~……、アホか、俺は」

 アキラはある種の真理に辿り着き、手に持った小枝をたき火に投げ入れた。

 なんとか、考えなければ。



[12144] 第四話『視界はかすみ、輝きは遠く』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/03/13 02:34
―――**―――

「そう、そうやって、腰を落として、」
「こ、こうか?」
「そうです。集中力を切らしてはいけません」
 アキラはサクに言われるまま、手元の集中力を高めていった。

「にーさん、大切なのはイメージっす。手元から離れて、それがどういう軌道を描くのか」
「……、うし」
 マリスのアドバイス通り、アキラはイメージを固めた。
 集中もしている。

 これなら、

「い、行くぞ?」
「失敗してもいいんすから、そんなに固くならなくていいっすよ」
「ああ……、よし」

 集中し、肩に力が入らないように注意し、アキラは、

「なっ、何やってんの!? あんたたちは!!」

 エリーの怒号に、持っていた全てのボールを落とした。

「あ……、ああ……、ああああ~~っ……」
 弾んで地面に転がっていったボールを、情けなくもアキラは追いかけて行った。

 この人の賑わう町、クロンクランに到着したのはつい先ほど。
 長かった影は徐々に縮小し、そろそろ太陽は頂点に昇りそうだ。

 アキラたちがいるのは、リビリスアークとは比較にならないほど広大な公園だった。
 周りを木々で囲まれ、涼しげな風がサラサラとそれを撫でる。
 町の中にあって、まるで外のようなその癒しに、遠くのベンチで仲むつまじく寄り添い、寝息を立てている男女も視界に入る。

 その、到着したばかりのクロンクランの町の公園。
 三人は、先のスライム戦で壊れた武具の修理に行ったエリーを、魔術の特訓をしながら待っていたはず、なの、だが。

「いやさ、二人ともジャグリングできるとか言い出して……」
「聞いたのは、にーさんなんすけどね……」

 手のひらサイズのボールを三つ拾い、アキラは不満げに口を突き出した。
 今、もし、エリーの怒号がなければ、成功していただろうに。

「ジャッ、ジャグリングって……」
「ほら、このボール。そこに落ちててさ、」
 アキラが指差したのは、公園のアスレチックのような遊具。
 砂の地面にいくつか小さな足跡が残っているのは、そのボールで遊んでいた子供たちがいたことの証明だろう。

「俺さ、三つならできたんだ……、いやっ、嘘じゃないぞ? こうやって、ほら、……あっ、」
「あっ、じゃない!! あたしが聞いてんのは、何で遊んでんのか、ってこと」
「そこに、ボールがあったから、さ」
「ふっ、」
 アキラの手からこぼれたボールを一つ拾って、エリーは大きく振りかぶった。

「ちょっ、ちょっとぅっ!?」
 慌てたアキラに腕を止められたエリーは、諦めたようにボールをアキラに返した。
 それだけで顔が明るくなるアキラに、子供に好かれる理由を垣間見た気がしたが、実際それは何の役にも立たないことに気づけば、出るのはため息だけ。

「勘弁してよ~~っ、あんた防御幕も張れないんだから……」
「まあ、いいじゃないっすか。ここまで歩いてきて、疲れてるだろうし……」
「確かに……、到着直後に特訓する、というのも、」
「二人とも、甘やかしちゃダメ」
 アキラに肯定的な二人の意見を、エリーはばっさりと切った。
 目の前で、今にもボールをこぼしかけている男は、このままではまずいのだ。
 現に昨晩野宿した場所からクロンクランまでは、直線ルートなら一日で到着できるだけはあり、大した距離がない。
 その程度の小さな言い訳でサボっては、再びあの悪夢の一週間が訪れてしまう。

「そんなこと言ったって……、じゃっ、じゃあお前、これできんのかよ?」
「え? できるわよ」
 何てことでもないように、エリーはアキラから渡されたボールを持って構えた。
 そしてボールを宙に投げ出せば、面白いようにエリーの手元でくるくるボールは回って行く。

「おおっ、」
「ほら、でき……あっ、」
 数回転したのち、ボールはエリーの手元から離れ転がっていってしまった。
 そして見えたのは、アキラの、なんだ、という表情。

「ちょっ、ちょっと待って、前は、ちゃんと、」
「ああ、いいぜ。何回でもやれよ。ほら、」
「うん。えーと、これがこうでしょ……、だから…………、って、ちがぁぁぁああーーーうっ!!」

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

―――クロンクラン。
 リビリスアークの北に位置するこの町は、大きさ的にはその比ではない。
 活気あふれる商店街。
 道を埋め尽くす人混み。その姿も、旅の者が多いのか様々だ。
 そして、自然をそのまま残した公園がいくつかあるほど、この町はとにかくスケールが大きい。

 辺りにいくつかある小さな村の者も、必要があれば馬車を使ってでも集まるほどで、この地方の中核をなしていた。
 リビリスアークからは山脈によって遮られている陸路だが、村からほとんど出ないエリーやマリスも、山脈を馬車で大きく迂回してまでも、買い出しで何度かここを訪れたことがあったりする。
 ただ、その山脈とやらも、加減のできないアキラの攻撃で、すっかり開通し、天気がいい日に高台にでも昇ればリビリスアークの巨大な塔が視界に入りそうだ。

「それで、どうだった? 直ったのか?」
「……、ええ、今日の夕方には直りそうだって」
 先ほどの公園で、結局アキラの口車に乗せられ、昔の勘を取り戻すまでボールを投げ続けていたエリーだったが、戻ってきた子供たちにボールを返すように言われるという最も恥ずかしい形でその幕は閉じた。
 エリーの不満は募るが、その様子をいつの間にか素知らぬ顔で遠くに立っていたアキラに怒鳴ったことで、臨界点からようやく降りてきている。
 アキラと同じく、遠く離れていたマリスとサクは、二人して並んで後ろを歩いていた。
 今下手にエリーに近づくのは、流石に危険と判断したのだろう。

「てかさ、武具屋だったんだから、あんたもくればよかったのに」
「いっ、いやっ、俺はさ、いらねーじゃん、な」
「……」
 人混みを避けながら進むアキラは、エリーから視線を外し、町並みを見渡した。
 辺りは活気にあふれ、交通整備をしている者がいるほど、人が多い。

「……ふーん、剣とかいろいろあったわよ? あんたが好きそうな」
「そ、そっか」
「……」
 アキラはまだ、視線を外したままだ。

 どうも、おかしい。
 アキラの様子が。

 今日の朝からだ。
 アキラの態度がそっけなく、もしかしたら今日はアキラの目をまっすぐ見ていないかもしれない。
 マリスやサクとは普通に話しているのに、何故かエリーのときだけ、わざとらしく態度を変える。
 何気ない会話はしているのに、しばらくすると、突如役どころを思い出したかのように視線を外す。

 というか、避けられている。

 まあ、そもそも、自分たちの旅の目的は、婚約破棄。
 そして、その手段たる魔王討伐だ。
 最低限のコミュニケーションが取れればそれで事足りる。
 別に、いいのだ。アキラが自分を避けようとも。
 ただ、戦闘中に、集中し、敵を討ってくれれば文句はない。
 それに、移り気の激しいアキラだ。
 安定した家庭を望む自分の理想から、アキラは最も遠い。
 ハーレムを目指すとか言い出す勇者様には、魔王討伐と同時に、さようなら。
 それで、万々歳。

「きゃっ!?」
「あ、すみません、」
「……、何やってんだよ、ほら」
 通行人にぶつかり、転びそうになっていたところでアキラの腕に起こされた。
 柔和な物腰の男性は、それを認めると歩き出す。

「すいません、」
 その後ろ姿にエリーが軽く頭を下げたところで、アキラはパッと手を離す。
 そして再び視線を泳がせ、決してエリーと目は合わせない。

「……、妙、だな」
 そんな調子で前を行く二人を見ながら、サクは隣のマリスに声を漏らした。
 すっかり話し相手となったマリスは、隣で半分の眼を静かに前に向けている。

 前を行くエリーの赤毛、切れ長の瞳とは違い、隣のマリスは色彩が薄い銀の髪に、とろんとした瞳。
 近しくなればそれを見ずとも差が分かる、対照的な双子の妹は、難しい表情を浮かべながら器用に人混みを避けていた。

「アキラ様は……、具合でも悪いのか?」
「……さあ、体調は良いみたいなんすけどね」
 返ってきたのも淡白な応え。
 サクは、ふっ、と息を吐き、自らの愛刀が邪魔にならないように手を当てていた。
 短く縛った黒い髪を軽く撫でながらも、和風の顔立ちをマリスのように曇らせる。

 目の前の男女二人。
 片方の男性は、サクと従属関係がある、勇者様ことヒダマリ=アキラ。
 自分が忠誠を向けている相手だ。

 そして、もう一人の女性。
 エリサス=アーティは、その勇者様の婚約者。

 二人は婚約を破棄すると言っているが、その実昨日までその仲は良好のように思えた。
 だが、今は、どこか余所余所しい。
 演出しているのは、自分の主、アキラの方だ。

 二人は、いや、アキラは、一体どうしたというのだろう。

「な、なあ、なんか、マジで人、多くないか?」
 ほら、まただ。
 途端アキラが振り返ったかと思えば、隣のエリーを追い越しサクに顔を向ける。
 エリーもそれが分かっているのか、それに応えようともしない。

「そうですね……、私がここを通ったときは、こんなに人はいなかったのですが」
「あれじゃないっすか?」
 マリスがだぼだぼのマントの中から、細枝のような腕を出し、町の景色の一部を指差した。
 土や木で造られた町の中に、大きな看板がつい立てられている。
 そこにはでかでかと、巨大なテントと派手な衣装の人間が映っていた。

「……サーカス?」
「そ、ここは結構そういう催しやってるのよ。沢山看板あったでしょ」
 エリーは隣で、今度は確かに周囲を見渡したアキラに、呆れた声を出した。
 今まで周りを探るように見ていたのに、この男の目にそれは飛びこんでこなかったのだろうか。

「よし、じゃあ、それ見ようぜ! 場所は……、自然公園?」
「さっき自分たちがいた公園っす。遠くにテントあったじゃないっすか」
「そ、そうか、公共物だと思ってた」
 サクの言葉や、マリスの言葉には反応する。
 そう思えど、エリーは胸の中でもやもやと何か膨らんでいく、いや、萎んでいくのを感じた。

 この男はきっと、マリスやサクを、ハーレムだとかぬかした自分の夢とやらに巻き込むつもりなのだろう。
 そう強引に思い至って、エリーは通行人を避けるふりをしてアキラに軽く体当たりしてやった。

「でも、結構高いっすよ。前にねーさんと見たときも、かーさんは遠慮しようとしてたくらいっす」
「……マジ、か」
 アキラは諦めたように、エリーの顔をようやく見た。
 この旅の路銀。
 一文なしのサクは元より、今メンバーの資金は、全てエリーが握っていた。

「無理。払えない」
「マ、マジか……!?」
「あたしの防具の修理代、思ったよりかかっちゃって……」
「……そ、そっか、」
「……」
 てっきり何かを言うと思ったアキラは、そのまま黙り込んだ。
 言われたら必要経費と怒鳴り返すつもりだっただけに、エリーは肩透かしをくらう。
 今まで、アキラを怒鳴りすぎたのだろうか。

「ま、まあ、見る方法もなくはないわね」
「……?」
 アキラとの会話らしい会話に、エリーはしぶしぶ、といった表情を作って切り出した。
 仕方ない。

 “必要経費”、だ。

―――**―――

「このくらいの町なら、魔物討伐の依頼が来ているはずよ」
 エリーは、どんっ、と構えた酒場のような建物の前で止まった。

 両開きの木の扉。
 どこか薄汚れたようなその建物は、無法者の溜まり場のようにも、ただの倉庫のようにも見える。

「町にとって危険な魔物の撃退で報酬をもらう。サクさんも、そうやって生活してたんでしょ?」
「ああ、その通りだ」
 サクがエリーに並んで頷く。
 サクはもともと、流れの傭兵のようなことをしていた。
 このような酒場に近づくのも、もう何度目か。
 リビリスアークの孤児院にここ数日泊まっていたが、この景色に新鮮さは感じられない。

「サーカスの開園時間は夜だから、あたしたちはそれまでに必要なお金を稼げばいいわけ」
「……でも、そんな大きな依頼、来てるんすかね?」
 マリスも並んで眠そうな眼を同じく建物に向けた。

 この辺りは、そもそも危険なモンスターがいない。
 せいぜい、昨日のスライムくらいだろうか。
 あの巨大マーチュや、巨大ブルースライムは特例中の特例だろう。
 今来ているのは、小さなマーチュの駆除や隣町まで搬送する荷物の護衛程度。
 それでは、夜まで頑張っても、人数分チケットは購入できないように思える。

「ま、まあ、ものは試しよ。あたしも入るの初めてだし……、ちょっと興味あったのよね」
 確かにマリスの言う通りだとは、エリーも思う。
 だが、妙な空気で、このまま無為な時間は過ごしたくない。
 戦闘になれば、気も紛れる。
 そうすれば、例えサーカスを見られなくとも、まあ、あの男も元に戻るだろう。

「まあ、あんたも実戦経験積んだ方がいいしね」
 ぐるっ、と振り返ってエリーは後ろの男を指差した。

「……、」
 いや、指さなかった。
 エリーの指が差したのは、相変わらずがやがやとした人混み。

「……って、いねぇぇぇえええーーーっ!!?」
「!? に、にーさん!?」
「―――っ、」
 絶叫するエリーに、通行人数名が振り返るが、マリスもサクも体裁を気にせず目つきを鋭くして辺りを見回した。
 自分たちが、気づかない間にいなくなるなどという芸当を、アキラがするとは。
 いや、それ以前に、消える理由がない。

「どっ、どうしっ、っ、」
 エリーが駆け出し、通行人を押しのけ、もがきながらもただ一人を探す。

 それなのに。

 アキラは、見つからなかった。

―――**―――

 どんっ、と女性にぶつかった。
 そして、いきなり口を塞がれ、どこかあどけない顔を間近で向けてきた。
 甘い香りのするウェーブのかかった亜麻色の髪が鼻をくすぐった。
 胸元が大きく開いたVネックの服から覗く、豊満な胸を押しつけられた。
 そして、鼻と鼻が付くほどの距離で、うるんだ瞳を向けられ、耳元で、『お願い……、私と一緒に、に、げ、て?』と囁かれ、手を引かれた。

 その状況で、その腕を強引に振り払える男がいるだろうか。
 いや、いない。

 そんなこんなで、アキラは、酒場の前で突撃してきた女性と、酒場から大分離れた路地裏に駆け込んでいた。
 路地裏に設置してあった樽の影に二人して腰を下ろせば、互いに聞こえる息遣いだけがその場を満たす。
 目の前の女性は、柔らかそうな頬と愛らしい表情を浮かべ、しかしどこか大人びた雰囲気も持ち、それでいて可愛らしく息を整え―――つまるところ、相当な美人だ。

 超、が五つは付くほどラッキーな展開に、アキラは意識せずとも、脳が溶けるように甘い彼女の香りを吸い込んでいた。

「はぁ……、はぁ……、」
「はあ……、はあ……、あの、」
「しっ、」
 と、目の前の女性は細く長い指を可愛らしくも紅いリップに当て、四肢をくねらせながら樽から人混みにぎわう表通りを覗く。
 膝上より少し短いスカートが眼前に来ると、アキラはその扇情的な姿に思わず目を背けた。

「あら、もぅ、やだぁ」
「ごっ、ごめんなさいっ」
 年上、だろうか。
 声の調子も甘ったるいが、その発達しきった体つきは、エリーやマリスはおろか、アキラが知っている元の世界の同学年にもいなかった。
 ちらり、と、スカートの中、どこか大人びた黒色が一瞬だけ視界の隅に入ったが、アキラはその記憶を直ちに脳内から抹消、

 しようとして、永久保存した。

「もぅ……、あ、もう大丈夫みたい」
「は、はあ……、ぉ、ぅ、」
 彼女が向き直れば、再び姿を現すVネック。
 正直、常識や体裁を気にせず飛び込んでいきたいとアキラは一瞬脳裏に浮かび、最後の最後に残った小さな理性が、それをぎりぎりで押し止めた。

「ごめんなさいね、巻き込んじゃったりして」
「あ、い、いや、て、てか、」
 彼女の猫なで声に、アキラはまともに呂律が回らない。
 くりんと大きいその瞳は、髪と同じ甘栗色に見える。
 そして、エリーと違い鋭くはなく、あくまで、目が大きいままだ。

「ヒ、ヒダマリ=アキラです」
「え? ああ、私はエレナ=ファンツェルン……。…………、えっと、アキラ君、でいい?」
「あ、はい、エ、エレナさん?」
「……、ううん、エ、レ、ナ、って呼んで?」
「~~~っ、」
 まるで野に咲く花のように屈託のない笑顔は、こんな路地裏で見るのが間違いだと思えるほど。
 脳髄の蕩け切ったアキラは、辛うじて身体を起こすと、あくまで紳士的にエレナに手を差し伸べた。

「ふふ、ありがと」
「い、いや、」
 その手に持った彼女の身体の何と軽いこと。
 ガラスの花を摘むように最善の注意を払い、エレナの身体を起こす。

「ぁ、」
「う、ぉ」
 しかしエレナは起きようとして、しな垂れかかってくるのだ。
 その身体を受けたアキラの胸に、エレナの胸が密着。そして、甘い香りの髪も鼻を撫でる。

 一度で二度おいしいその行動に、アキラは自分でも満点をつけられた。

「ご、ごめんなさい……。私ったら……大丈夫? アキラ君」
 これは勇者スキル発動か!!!
 アキラの頭の中でファンファーレが鳴った。
 やはり、異世界はこうでなければ。
 町を歩けば、こんなおいしい出会いが、溢れかえっている。
 ご都合主義、万歳だ。

「あの、さっき、どうしたんですか? エ、エレナ……さん」
「エ、レ、ナ。もっと仲良さそうに話して、ね?」
「は、あ、ああ、」
「うふふ、あ、り、が、と」
 いちいちハートマークが付きそうなエレナの口調は、そのたびに甘い香りが立ち込める。
 この場所が路地裏であることも忘れそうな、甘い甘い言葉。
 ああ、本当に良かった。
 この世界に来て。

「えっと、エレナは、どうして、あんなに急いで、」
「しっ、」
「わっ、ぎっ!?」
 途端、エレナはアキラの腕を掴んで樽の中に身を隠した。
 思った以上に急激な動きにアキラは舌を僅かに噛んだが、それを補って余りある役得に、そんな痛みはかき消える。
 フレグランスなエレナの香りを受け入れながらエレナが向いた表通りを見ると、何やら作業着を着た男たちが数名、急ぎ足で駆けていった。

「あいつらから、その、逃げてるのか?」
「え、ええ」
 エレナの頬に一筋汗が流れる。
 彼女が走っていた理由は、あの男たちに追われていたということに間違いはなさそうだ。

「ど、どうして、」
「そ……、それは……、」
 途端、エレナは顔を蒼白にさせ、子犬のように震え始める。
 まるでそのまま倒れてしまいそうな表情を浮かべながら、瞳をうるませ、アキラに顔を近づけてきた。

「わ、私……、実は、その、き、聞いてしまって……」
「な、何を?」
「その、えっと……、あの男たちが……、その、サーカスの、金庫を襲う、って」
「へ……?」
 その光景を思い浮かべているのか、エレナの身体はカタカタ震える。
 アキラの頭の中で、エレナは完全に保護対象になっていった。

「そしたら、たまたま通りかかった私を……、いきなり追ってきて……、」
 恐らく、計画が聞かれたと思ったのだろう。
 そして口封じのために、エレナを追いかけてきた。
 定番だ。

「じゃ、じゃあ、すぐにサーカスの人に知らせないと……、」
「そっ、それはダメ!!」
「わっ!?」
 立ち上がろうとしたアキラの腕を、エレナが再びぐんっ、と引く。
 その着地地点が彼女の胸なら、もう一度起き上ろうとしてもいいくらいだ。
 だが、その胸から、高い鼓動が聞こえ、身体が芯から震えていてきては、そんなことで遊んでいる場合ではない。

「もっ、もし知らせたら……、あいつらは今度こそ、私を……、」
「……」
 エレナが恐れているのは報復だ。
 そして、エレナのような身体つきの女性なら、その報復内容は、欲望そのままに一直線だろう。

「じゃ、じゃあ、どうすれば、」
「だ、大丈夫……。顔は、見られなかったと思うし……」
 エレナはしなやかな身体を震わせ、何度も頭の中でその瞬間を反芻しているようだ。
 やがて、大丈夫だと結論付けたのか、再び表情を花のように咲かせた。

「うん、大丈夫……。だから、お願い……。私、詳しくは聞いてないし……、このまま聞かなかったことにしたいの」
「……、わ、分かった」
 うるんだ瞳でそんなことを言われれば、アキラの選ぶ道は肯定のみ。
 勇者としてそれはどうかとも思うが、今アキラの本能、特に煩悩だが、エレナの言う通りにしろ、と叫んでいる。

「じゃ、じゃあ、まあ、いいとして……。何で、俺を?」
「……え? あ、えと、とにかく誰かに助けて欲しくて……、その格好、どこか遠くから来たんでしょう?」
 アキラの姿は、元の世界から来たままの服装だ。
 確かに遠くと言えば、間違いなくどこよりも遠い。

「あ、ああ、まあ」
「やっぱり! お強いんでしょう?」
「そ、そりゃあ、」
「まあ!」
 照れたように頭をかくが、実のところ、エレナが最悪の選択をしていたことをアキラは言わなかった。

 あの場にいたのは、アキラ、エリー、マリス、そして、サク。
 用心棒として選ぶにしては、あまりに応用の効かないアキラは、最も不向きだったりする。

「と、とりあえず、どうする?」
 エレナの目が、感嘆の色一色に染まっているおり、アキラはもう一度立ち上がった。
 エレナと体を密着させているのが最も幸せと分かっているのだが、これ以上は、理性の方もゴーサインを出しかねない。
 その上、まずは、三人に合流しなければ。

「で、でも、ちょっと待って、」
「?」
 エレナは座り込んだまま、もう一度体を震わせた。
 立ち上がったことで、エレナの胸を上から覗きこむ形になったアキラは、完全に硬直し、にやける顔を必死に止める。

「わっ、私、やっぱり怖い……。ほら、私の髪、見られたかも……」
 良い表情いたただきました。
 悩ましげに上目使いをし、甘栗色の髪を指先でくるくる回すその仕草は、そのままファッション雑誌の表紙にでも使えそうだが、アキラはカメラを持っておらず、ついでに言うならファッション雑誌の編集長でもない。
 結果、脳内の永久保存フォルダに一枚画像が増えた。

「しばらく傍にいて……、くれますか?」
「おうっ!!」
「しっ!!」
 路地裏に響いたアキラの声を、途端鋭く響いたエレナの声が止めた。

「あ、ごめん……」
「……う、ううん、やっぱり私……、恐くて……」
 エレナはアキラの手を借りて再び立つと、今度はよろけず足元のトートバックを拾った。
 エレナを、特にその胸ばかり見ていたアキラは気づかなかったが、彼女はバッグを持っていたようだ。

「……、ごめんね、ちょっと向こう向いててくれる?」
「え、あ、ああ」
 エレナは、バッグに手をかけ、上目使い。
 すぐにアキラは視線を外した。
 女性の荷物の中身は、見るものではない。

 だが、ぱさぱさと、衣服のこぼれる音が後ろからするのだから、まるでアキラの頭は弾く直前のパチンコのようにギリギリと背後を目指す。

「えっと、これ、で」
「……?」
「えっと、いいわよ」
 エレナから、よし、のサインが出ると、アキラは勢い良く振り返った。
 すると、そこには、

「ど、どう? に、似合う、かな?」
「…………」
 エレナはその辺りで売っていたのか、サーカスのロゴが入ったキャップの帽子をかぶっていた。
 彼女の長い髪は器用にその中に仕舞われ、その代わりに姿を現したうなじの曲線が、その、なんとも。
 黒のVネックはそのままだが、スカートだった下腹部は、ジーンズに変わっており、彼女の形のいいヒップの曲線が浮き出ている。
 ボーイッシュな服装でありながら、何故こうも女性が引き立つのか。
 それを匿う役割を果たす春物の白いロングコートを羽織っても、むしろ、その先に何があるのか、という欲情を駆り立てる。

「ちょっ、超似合う」
「あ、ありがと」
 顔を赤らめて、長いまつげを俯かせれば、またもアキラの脳内フォルダに一枚画像が増えていく。

「じゃ、じゃあ、あの、私と、その、デートしてくれる?」
「おうっ!!」
「しっ!!」
「……ごめん」

 互いに再び小さく笑い合って、二人は路地裏を後にした。

―――**―――

「……!」

 アキラがいなくなってから二時間ほど。三人は手分けして広い街を駆け回っていた。
 この世界に疎いあの男が消えたとなれば、何かの事件に巻き込まれた可能性が高い。
 下手をすれば、事態は一刻を争うかもしれないのだ。

 昼も採らず町を駆けずり回り、細かく探そうと入った路地裏。

 そこで、

「サ、サクさん?」
 人混みに塗れてくしゃくしゃとなってしまった綺麗な赤毛を必死に手で撫でつけていたエリーは、建物の陰に隠れて向こうを探っているサクの後ろ姿を見つけた。

「あ、ああ、エリーさん」
「? み、見つかった?」
「…………、そ、その、ええと、」
 妙に歯切れの悪いサクが、一瞬壁の向こうに視線を動かしたのを、エリーは見逃さなかった。

「なに、いたの? あいつ、」
「ま、まあ、いたにはいたのだが、」
「いたの!?」
 エリーがサクを追い越し、表通りに出ようとすると、サクが一瞬身を動かし、それを庇った。

「……なによ?」
「いや、その、私は、苦手だ。こういう状況が」
「……?」
 サクに勢いを止められて、エリーは同じように路地裏から向こうを覗った。
 すると目に当然賑やかな町並みが飛び込み、その向こうに白いテーブルと椅子が数組並んでいるのも見える。
 どうやらあれは、オープンカフェのような場所らしい。
 若いカップルから、会話に花を咲かせる女性たち、そして、買い物帰りか子供連れの親まで見えた。

「……ぇ、」
 そんな、場所を視線で撫でて、エリーは止まった。
 そこに、今いなかったろうか。
 自分が今探している、“勇者様”とやらが。

「って、あい、つ……?」
 思わず出て行こうとして、エリーは止まった。
 アキラが座っているテーブルの正面に、頬杖を突くように身を乗り出している、帽子の女性がいる。
 遠くてよく見えないが、二人の手元にはホットドックとジュースのようなものが見えた。
 ときおり、女性がストローを口に加えると、アキラの顔がにやける。
 視線がどうも胸に行っているような気がするのは、エリーの気のせいではないだろう。

 そして、その、女性の横顔。
 柔和のようで、どこか含みのある笑み。ふっくらとした紅い唇でストローを挟む様も、長い指の腹で、備え付けのポテトを摘む仕草も、通行人が足を止めかかるほど悩ましい。

 嫌な表情だ。

「……、」
「あのような場合……、声をかけていいものだろうか……、」
「……、いいに決まってんでしょ。あたしたちの前から消えておいて、」
 自分は楽しくデートしている。
 そんなアキラに、先ほどあの女性に浮かんだ感情も併せて向け、エリーは身体を震わせる。
 こっちは昼も食べずに照りつける太陽の元走り回っていたと言うのに、あの男はなに自分だけ遊んでいるというのだろう。
 テーブルに備え付けられたパラソルで涼しげであるし、何よりもあの顔。

「サクさん……、作戦を話すわ。あたしがあの女の気を引くから、あなたはあのバカの首を力任せに強引にねじ切って」
「それは作戦とは言わないと思うが、断る。一応あれが私の主君だからな」
 主君でなければサクもやっていたのだろうか。
 サクも予想外な光景のショックが薄れてきたのか、頭を悩ませ始めていた。

 だが、二人を見ると、主にアキラだけだが、初々しいカップルのようにも見える。
 目の前の女性は年上なのか、あどけなさの中に微妙に大人の香りを見せ、その一挙手一投足に、アキラはどぎまぎと表情を変えていく。

 出るタイミングもつかめず、二人はしばし、アキラたちの様子を見届けることしかできない。

 そんな風に物陰から二人が見ていることも知らず、アキラはエレナと、甘いと言い切っていい時間を過ごしていた。

「や、やっぱり、エ、エレナ、俺より年上なんだ、」
「もぅ、ダメだよ? 女性の年齢の話を広げちゃ」
 エレナの歳は、アキラより一つ上らしい。
 わざとお姉さんぶったエレナは、あどけなく笑う。

「それで、エレナも、旅を?」
 今さら変えるのも億劫で、そのままの口調を続けるアキラの拳はテーブルの下で強く握られている。
 これだ、これだ、と。
 今度はお姉さんキャラか。
 包容力もありそうなのに、どこか放っておけない儚げな表情。
 理想的な登場キャラクターに、アキラの拳は解けない。

「え、ええ……。ふふふ、と言っても、私はこっちの方は全然……戦えな~いっ」
 可愛らしく力拳を作ったエレナは、おどけるように小さく舌を出した。
 その仕草一つ一つに、道行く者も眼福だろう。

「? じゃ、じゃあ、路銀とかは?」
「……、え、ええ、それは、まあ、色々……。ダメだよ? 女性の秘密を一気に剥がそうとしちゃ……。一枚ずつ、ね?」
「おうっ!!」
「しっ!!」
 条件反射なのか、アキラの声にエレナの声が被さった。
 通行人が振り向くが、エレナの姿に目を止めたのち、幸せそうになって歩き出す。
 そんな通行人に優越感を覚えながら、アキラは目の前のパンを頬張った。

「それより、アキラ君のこと聞きたいな……。出身は、どちら?」
「え、俺? 俺は、」
 はて、ここで何と答えよう。
 無難なところで、リビリスアーク“ス”だろうか。
 だがそこで、頭の中に、待て、がかかった。
 最近それを隠そうとして、自分は酷い目に遭わなかっただろうか。

「えっと、」
「……うん、言いたくないならいいの……。じゃあ、どうして旅を?」
 質問の内容はさして変わっていなかった。
 だが、ここで途切れれば、今度こそ会話が途切れてしまうだろう。

「えっと、せ、世界を救うために、旅を」
「……へぇ、素敵ね」
 エレナの目が、少しだけジト目になり、少し含みのある笑い。
 大方信じていないのだろう。
 それならそれでいいと、アキラはドリンクを喉に流し込んだ。

「じゃあ、エレナは?」
「わ、私……? え、えと、だからダメだって。そんなに急いじゃ」
「え、いいじゃん、教えてくれよ」
 自分のことを話したがらないエレナに、アキラは今度は食い下がった。
 彼女のことを、もっと知りたい。
 その欲求が、駆り立てる。

「えっと、ね、」
 エレナも、流石にいくつも秘密にしているのはどうかと、微妙に視線を外して語りだした。

「私……、探しものがあるの」
「探し物?」
「う、うん、探し“もの”……」
 エレナ自身、何故口が軽くなったのか分からない。
 だが、目の前のアキラを見ていると、何故か勝手に口が開くのだ。
 この男に言えば、何かが変わるような、奇妙な予感がする。

「へぇ~……。ちなみに、何?」
「そう、ガバイド、って奴、を、」
 エレナは、さらっと言って、口を急いて閉じる。
 言い過ぎた。
 こんな片田舎には、なんのヒントもないはずなのに。

「―――」
 だが、目の前の男は眉を寄せた。

「……、」
 アキラは思考を進める。
 ガバイド。
 人名だろうか。最近、その言葉をどこかで聞いたような気がする。
 そしてエレナは『探しもの』と言っていた。それは、探し人ではないだろうか。

「……! 知ってるの?」
 アキラの反応に、エレナは鋭く目つきを変え、身を乗り出した。
 ふくよかな胸が押し出され、アキラの眼前にさらされる。

「うわわぁっ、ラッキ、」
「知ってるのかいないのか、答えなさい」
 思わず正直すぎる感想が口から飛び出たが、すぐにエレナの鋭い口調に遮られる。
 猫撫で声はどこへ行ったのか、凛とした強い口調は、雑踏の中にあっても良く通った。

「エ、エレナ?」
「いいから、」
「いっ、いましたっ!! あの女です!!」
 今度はエレナの口調が、男の声に遮られた。
 乗り出したまま振り返れば、エレナの背後にはいつの間にか先ほどの作業着の男が並んでいる。
 その、真ん中。
 先ほど間近で見た、小太りの男がエレナを指差していた。
 まずい。
 彼だけには、顔を見られている。

「お……、お早いお目覚めね……」
「なあ、こいつら、さっきの、」
「仲間もいたのか!!」
 アキラもエレナの胸をちらちら見ながら、五、六の男を見定める。
 屈強な体格の者が多く、目つきはギラギラとして危険な香りが立ち込めた。

「まず、」
「っ、」
 背に腹は代えられない。
 エレナは、情報を持っているかもしれない男に向くと、再びうるうると瞳を潤ませ、

「お願い……、あの人たちを倒してっ!!」
「え、いや、俺は、」
「私を……、守ってくれる?」
「おうっ!!」
 アキラのその声と同時、エレナはバッグを掴んで駆け出した。
 目指すは人混みの中。
 アキラが彼らを引き止めている間に、自分は逃げられるだろう。
 “あの男が目を覚ました”以上、この町にはもういられない。
 今日は下手をすれば、野宿になってしまうだろうが、今捕まるよりマシだ。

「……」
「……っ、」
「……!?」
 後ろから聞こえた吐息に、エレナは大きな瞳をさらに見開き振り返った。
 そこには、同じように必死に走っているアキラ。

「ちょっ、おまっ、何でお前まで走ってんだよっ!?」

 エレナは誤算をしていた。
 隣のアキラの戦闘能力は、こんな町中では、ほとんどゼロに等しい。
 結果、アキラにとって、エレナを守る、とは、一緒に逃げていくことしかなかった。

「悪い、おっ、俺はっ、こんなんだっ!!」
「威張って言うなっ!! さいっ、あくっ!!」
「うあっ!?」
 エレナの口調が変わっていることにも気づかず必死に走るアキラは、途端、胸倉を掴まれた。
 そして、エレナの瞳に映る、追ってくる男たち。

 この男には一瞬でも時間稼ぎをしてもらおう。
 そう思い、自らの腕に魔力を込めた、その瞬間。

「……ひっ、ひやぁぁぁあああーーーんっっっ!!?」
 雑踏の中、エレナの嬌声が響いた。
 今日一番の可愛い声を上げ、足からがくがくと崩れたエレナを見下ろし、アキラはしばし唖然。

 地面に張りつくように座り込んだエレナから帽子が落ちると、甘栗色のウェーブが垂れ、その中から荒い息遣いが聞こえてくる。

 何の騒ぎだと全ての通行人が足を止め、アキラたちから離れて輪を作った。

「なに……、なに……、なに……、よ、」
 震えたその声も、ゆっくり顔を上げて見せたうるんだ瞳も、そして先ほどの嬌声も、アキラのテンションを最高潮にまで押し上げた。
 後ろからは、男たちが目をぎらつかせて追ってくる。

「っ、」
「う、あっ、んっ、」
 選択を迫られたアキラは、昨日エリーにしたようにエレナを抱えると、人混みに突撃していく。
 エレナの身体は、豊満な胸のわりに軽く、相変わらず甘い匂いが漂ってきた。

「……」
 胸の中から聞こえるエレナの高い心音に駆り立てられる煩悩を全力で封じ、アキラは駆けた。
 だが、依然として事態は不明。

 一体、何が起こっているのか。

―――**―――

「そうっすか……」
「ああ、悪いね」

 マリスは作業着を着た男に、半分閉じた瞳を向けて、お辞儀をした。
 ここは先ほどアキラたちが魔術の特訓と称して遊んでいた広場。
 大きなテントの裏口で、マリスは、ふぅ、とため息と吐いた。

「にーさん、どこいったんすかね……」
 とぼとぼ公園を歩き出せば、先ほどのボールが同じ場所に落ちている。
 大方、子供たちがまたも飽きて投げ出していったのだろう。

「……」
 のんびりとそれに近づき、拾う。
 数は、全部で五つ。
 それらは面白いように、マリスの手の中で回っていく。

「……」
 アキラは、サーカスを見たいと言っていた。
 方々探して見つからなかったアキラが、もしかしたらここにいるのではないか、と思い至ったのはつい先ほど。
 だが、結果は空振りだ。
 これから先、アキラの行方の見当もつかず、自分たちはこれらのボールのように町をくるくる回るのだろう。

 そして、マリスの頭の中も、くるくると、回る。

「…………」
 アキラと自分の姉、エリーが“仲良さそうに言い合っている”と、何故か、困ったように眉が下がる。
 しかし、今日のアキラの、エリーへの接し方を見ても、同じく、だ。
 あの二人は、仲が良くていいのだと思う。そもそも婚約者だ。
 そして、同じ顔の自分が思うのも何だが、姉のエリーは、十分に魅力的。
 だから、今日の様子は、自然の流れに背いていた。

 それなのに、どこか、それで、ほっとしているような気がする。

 一体、これは、

「お、おいっ!? どっ、どうした!?」
「……?」
 先ほど話を聞いた劇団員の叫び声が聞こえ、マリスの手からボールが順々にこぼれて行く。
 それを追う気もなく、ただ足場に転がったボールの上、マリスの半分の瞳はテントに向いた。

「ぐ、うう、」
「いづっ、うっ、」
 見ればその男に、同じような格好の男たちが近づいている。
 男たちは皆一様に、腕をだらりと下げたり、足を引きずったり、人によっては誰かに寄り添いながら歩いていたり、と、重傷者が多い。
 何事か、とマリスが様子をうかがっていると、その男たちの後ろから見知った二人が現れた。

「エリーさん、あれは……、」
「え?……あっ、マリー!!」
 サクに言われ、エリーが駆け寄ってきた。

「ねーさん、にーさんは見つかったっすか?」
「…………、そんなのどうでもいいでしょ」
「?」
 途端瞳を乾かせ、エリーは視線を外した。
 そして口からぶつぶつと、呪詛のような言葉がこぼれていく。

「と、とにかく、ごめん、ちょっとあの人たちを、」
 治療だろう。
 その辺りの事情も聞く必要がありそうだ。

 マリーは呻きを上げる劇団員たちに、ゆっくりと歩み寄っていった。

―――**―――

 どわぁっ。
 そんな声と共に、アキラはエレナを投げ捨てた。

 路地裏に入った瞬間、アキラの短すぎる抱きかかえ時間はピークに達し、しまいには自分の足を蹴って倒れ込んだ。

「う……、わぁっ、ご、ごめん、」
「……、……、」
 地面を二回転ほどしたのち、うつ伏せのまま動かないエレナに、アキラは急いで起き上って近づく。
 自分はいったい何をやっているというのか。
 こんなときくらい、決めたかった。

「あ、あの、大丈夫、か?」
「……」
 エレナは、土まみれになった身体のまま、一向に顔を上げない。
 流石にまずいと思い、アキラは、エレナの肩に、手を伸ばした。

「っ!!」
「いっ!?」
 伸ばしたアキラの手が、路地裏に大きな破裂音を響かせて、弾かれた。
 残像が見えるほどの速度でアキラを弾いたエレナの手の向こうには、彼女がようやく上げた顔。

 その顔は恐怖に引きつり、その身体は恐怖に震え。
 眉を寄せて怯えるように地を這って離れたエレナは、荒い呼吸を肩でしていた。

「あ、あの、わ……悪、い……?」
「…………、なんだってんだよ……、くそ……、くそ……、」
「エ……、エレナさーん?」
 顔を背けて呟くエレナに、アキラはしばし唖然。
 アキラの目に、ようやく目の前の女性の陰りが映った気がした。

「……、っ……、」
 エレナは身体を回転させ、建物に身体を預け座り込む。
 片膝を立てたため、形のいいヒップがジーンズに浮き彫りになったが、今度こそ、アキラはそれを素直に受け止められなかった。

「あんたには、いくつか聞かなきゃいけないことがあるわ……」
 こっちのセリフだ。
 アキラは口を開きかけたが、エレナの甘い顔が鋭く変わり、アキラを睨むように見上げては、その言葉は押し止められた。
 目の前の女性は、本当にさっきのエレナと同一人物だろうか。

 というより、エレナは“こっち”だったようだ。
 包容力のあるお姉さんタイプではなく、表裏の差が激しいタイプ。
 アリと言えばアリだが、目の前でやられると恐いものがある。

「あんた、何者?」
「……、え、いや、だから、えっと、ゆ、勇者?」
「…………、属性は?」
「に……、日輪?」
「何でさっきからいちいち『?』が付くんだよっ!!」
 頬も紅く、どこか甘い吐息を漏らしながらも刺々しい口調のエレナは、苛立った顔立ちをアキラに向け続けた。
 だが、顔はどこか不安げだ。
 それを見下ろしていることに抵抗が出てきたアキラは、反対側の建物に腰を下ろし、目線を揃える。
 すると、エレナの表情が少しだけ楽になった気がした。

「な、なあ、悪いんだけど、今度こそ事情話してもらえないか? さっきの男たちのこと、とか」
「っ、あんなんどうでもいいんだよ。それより、追ってきてないんでしょうね?」
 エレナに言われ、ようやくアキラもこの場所がさきほどのカフェからあまり離れていないことに気づいた。
 あまりに遅い状況確認だが、華やかな表通りを見ても、誰も追ってきてはいない。
 どうやら、うまくまけたようだ。

「……ねえ、取引しない? あんたは知ってること全部喋る。私もそうする。嘘は、なし」
 エレナはアキラを見定めながら、強い口調で提案を持ちかけた。

 この男は、ダメだ。
 いつもなら甘い吐息を吹きかければ、男はべらべらと知っていることを語る。
 だが、アキラは、ダメだ。
 エレナに、とろん、となるまでの反応は普通の男と同じだが、持っている情報を口に出さない。
 恐らく、持っている情報の整理ができていないのだろう。
 対等になって話すしか、ない。

 とろとろくどくどやっていたら、また、あの男たちに見つかってしまう。

「あ、ああ、いいけど、」
「じゃあ、あんた、日輪属性で……“勇者”、なの?」
 この男に、“得意の魔術”をかけようとした途端、身体の火照りが止まらなくなってしまった。
 こんな状況は初めてだが、そうなる場合が一つだけある。

「えっと、そうらしい」
「……」
 やはり、と。
 エレナは熱に浮かされるように高揚しながらも、自分の推測に間違いがなかったことを理解し、小さく舌打ちした。

 日輪属性。
 月輪属性より希少なその属性は、全属性に影響を与える。
 それも、アキラの持つそれは、“エレナが感じた一端だけでも”あまりに膨大。

 全く魔力を感じなかったこの男の中にそんなモノが眠っていると知っていれば、公衆の面前であんな情けない大声を上げるなどという失態を曝さずに済んだものを。

「……じゃあ、“ガバイド”について、知ってることは?」
「ガバ……イド……?」
 アキラは、豹変したエレナの睨みを正面から受け、口ごもった。
 ガバイド。
 恐らく人名か何かのそれを、確かに聞いたことがある気がする。
 だが、異世界から来たばかりの自分が、探し続けているようなエレナより、“それ”知っているとは思えない。

 では何故、自分は聞いたことがあるのだろう。

「……、…………、」
「知ってるの、知らないの?」
 露骨に急かすエレナの声も聞かず、アキラは記憶を遡っていった。
 自分が異世界に来たのは半月ほど前。
 それ以降の記憶のはずだ。
 起こった出来事。
 まず、忘れもしない、エリーとの出会い。
 そして、巨大マーチュ戦。
 サクとの決闘。
 そして、そして、そして、

「……あ、」
「……!」
 記憶が昨日の巨大スライム戦まで来た頃、アキラは記憶の旅を逆走した。
 そうだ、自分は知っている。
 ガバイドという単語を使ったモンスターを。

「ゲッ、ゲイツだ! あいつが言ってたんだ!」
「っ、知ってるの!?」
「そうかそうか、そうだよ。いや、完全に忘れて、」
「いいから答えろって!!」
 身を隠していることも忘れ、エレナは乗り出すようにアキラに迫る。
 再び胸がせり出される形になったが、アキラはそれよりも、今度は眼前に迫った、睨みつけるような瞳が脳に入り込んでくるのを感じた。

「い、いや、俺も詳しくは知らないって。この前、リビリスアーク“ス”を襲ったモンスター……アシッドナーガ、だっけ? が言ってたんだよ。えっと、魔王様直属のガバイド様直属のゲイツ、って」
「…………、」
 魔王直属のガバイド。
 間違いない。
 エレナの知っているガバイド本人だ。

「なあ、ガバイドって奴、知ってるのか?」
 壁に背中を再び預け、眉間に皺を寄せたエレナに、アキラは恐る恐る声をかける。
 するとエレナは、今まで以上に苦々しげに表情を歪ませ、ふっくらとした唇をゆっくりと開いた。

「……、ガバイドは、今の魔王に仕えてる、いかれた研究者よ。“魔族”の中でも指折りの変態野郎」
「……」
 人間、どこまで恨みを溜め込めばこのような表情ができるのだろう。
 エレナが片手だけでパキパキと鳴らした指の骨が、今すぐにでもガバイドを八つ裂きにしたいと言葉を発したように感じ、路地裏の空気を凍らせた。

「そいつを、探してるのか?」
「…………、ええ。殺すために、ね」
 言わずとも分かったエレナの目的は、その声の調子だけで、アキラの背筋を震わせる。
 ここまで本当の意味で『殺す』と口にできる人間に、アキラは初めて会った気がした。

 エレナの憎悪は、深い。

「それより、リビリスアーク……ス? にアシッドナーガが出たって本当?」
 エレナの記憶では、初代勇者が現れたのは、この辺りのリビリスアークだった気がするが、どうでもいい。
 アシッドナーガほどのモンスターがこの辺りの田舎に出た、ということが最も重要だ。
 しかも、ガバイド直属のモンスター、だ。

「あ、ああ、山くらいのバカみたいに巨大なマーチュがあの山にいてな、そいつも、ガバイドが育てたとかなんとか」
「……」
 この辺りでそんな大問題が起こったことなど初めて聞いた。
 せいぜいこの辺りで注意しなければならないのは、隣の山のスライムぐらい。
 その山も昨晩崩れ去ったらしいが詳細は不明。
 どうやらこの辺りは、最近妙なことが起こり続けているらしい。

「な、なあ、ガバイドって、そんな変なモンスターを創ってる、とか?」
「……、ええ。あいつの専門は生物創造。…………そのたびに、色んな生物を実験台にしてんのよ」
 エレナから最後に小さく漏れた言葉で、アキラは、昨日の巨大なスライムもガバイドに連結することができた。
 真ん中のサイズがいなかった、マーチュやスライム。
 明らかに、この辺りで自然に到達したサイズではない。

「……、とにかく、私はガバイドを探してる。そして、目をつけてるのが、あのサーカス」
「……?」
 エレナの目は、路地裏からでも見えるでかでかとした看板に向いた。
 巨大なテントに、劇団員の写真。
 だが、その内容は、遠目でよく見えなかった。

「あのサーカス。最大の見物は、モンスターの芸。テントの中に、モンスターがいるらしいの。最近始まった見世物らしいけど、そういう風に魔物を使役できるなんて、普通、ありえない」
 魔物はそもそも魔族の使い魔。
 生殖能力を持つモンスターもおり、ほとんど主のいない野生の魔物も数多く存在するため、動物のように扱えなくもないが、それでも、懸念は残る。
 やはり、“主”が近くにいるのではないだろうか。
 そしてそんな道楽をしそうな魔族を考えると、ガバイドの影がちらほらと見える。

「だから、私はサーカスに探りを入れてたの。こういう大きな町を襲うのは、魔族にとって有益。護衛団を欺いて魔物を入れる良い方法だもの」
「…………」
 それが見つかって、エレナは追われていたのだろう。
 とすると、先ほどの作業着の男たちは劇団員だろうか。

 ならば、

「……ビンゴなんじゃないか? あいつら、必死に追いかけてきたじゃん」
「……、それは、別に自然よ」
 エレナは何てこともないように起き上り、バッグを拾って肩にかけた。
 足元は微妙にふらついているが、どうやら回復したらしい。

「自然?」
 アキラも立ち上がり、エレナに並ぶ。
 するとエレナは、ようやく余裕を取り戻したのか、舌をちろっ、と出して、甘い雰囲気を醸し出した。

「私の路銀、どうやって稼いでるか知りたいとか言ってたわよね?」

―――**―――

「まったく、この有様ですよ」
「すっ、すみません!」
「本当に、申し訳ないことをした」
 劇団員に通された、エリーとサクは、ほとんど空になった金庫の前で深々と頭を下げた。
 ここは、サーカスの劇団員の控室の小さなテント。
 後ろでは、エリーとサクに痛めつけられた悲劇の劇団員が、マリスの治療を受けている。

「いや、まあ、事情を知らなければ、仕方ないこと、ですよ」
「だっ、団長、仕方ないじゃ済まされないんですよ?」
 二人に頭を下げられた男の口調に、苛立った後ろの男が声を張った。
 その怒りは、せっかく“盗賊の女”を捕まえられそうだったのに、力ずくで止めてきたエリーとサクに向いている。

「うちの資金、全部取られちゃって……、今日の公演の料金、どうするんですか?」
「いや、それはもう払い込んであるから……、」
「それだけじゃなくて、前売りチケットの売り上げも無いんでしょう?」
 団員に責められ、団長は困ったように眉を寄せた。
 団長の眉は化粧のために異様に薄いが、それでも苦悩が見て取れる。
 団長とて、金品が奪われたのは痛い。

「それで、二人とも、なんでこんなことしたんすか?」
 事情に取り残された一人、マリスが、劇団員にシルバーの光を当てながら、首だけ動かして眠たげな眼を向けた。
 劇団員もやる気のなさそうな少女に治療されていることでの不安はあったが、身体中にできた痣が瞬時に消え去っていっては、文句の一つも出ない。

「いや、一応、主君が襲われていたら、助けなければ、と思い」
「あ、あたしはサクさんが、向かっていったから……、その、」
「わっ、私だけの責任かっ?」

 二人の目には、劇団員たちがアキラたちを襲う暴漢にしか映らなかった故の行為だが、話を聞いてみれば、売り上げを取り戻さんとするために目をギラギラさせていただけであって、念のために犯行現場を確認した今となっては頭を下げることしかできない。

 サクにしてみれば、昨日のスライム戦のときアキラを守り切れなかったことと、今日いつの間にかアキラがさらわれていたことの汚名返上のつもりだったのだが、その実、エリーの方が気合を入れていた気がする。

 現に、サクにされた峰打ちより、エリーの怒りを吐き出したままの拳の方が、劇団員に痛烈な刺激を与えていた。
 痛みにもんどり打っていた劇団員たちは、結局アキラたちを追い切れなかったのだから、恨みが深い。

「ま、まあ、過ぎたことは仕方ない……。それにお二人とも、お仲間が盗賊にかどわかされていると思えば、お辛いでしょう?」
「いえ、全然」
 団長の怪訝な顔にも、エリーは乾いた瞳を返した。

 浮かぶのは、あの、アキラの緩み切った顔。
 きっと、あの女の盗賊に、カモフラージュのために誘われたのだろう。
 普段から、頭の沸いたような奴だ。
 そんなことにも気づかず今も、襲われたお姫様を守る使命に燃えているのだろう。

 昨日まで、自分に差し伸べてくれていた手を向けて。

 酷い振られ方とかをされればいい。

「私も、謝らなければ、」
「……、アキーム……!」
 微妙な空気になった場に、小太りの男が割り込んできた。
 先ほどまでマリスの治療の最後尾で待機していたアキームは、自らの怪我も忘れ、団長に深々と頭を下げる。

「私が、あの女に、その、」
「い、いや、まあ、」
 アキームは表情を苦渋に歪ませ、唇を強く噛んでいた。
 その時間、この金庫の見張りをしていたこの男は、サーカスの敷地内をうろついていた不審な女を発見。
 しかし、その色香にかどわかされ、いつしか気を失い、気づいたときには女も金庫の中身も消えていたのだ。

「本当に、申し訳ありません」
「……まあ、お前はこのサーカスに必要な男だ。今回で注意してくれればいい」
「だ、団長……」
 物腰柔らかで、人を頭ごなしに責めない団長の好意は、身内に向けば気分がいいのだろう。
 夢を与える仕事をしている長とはこういうものなのか。
 他の団員も、アキームへは敵意を向けていないようだ。

「それでも、あの女を探さないと……、」
「そう、だな」
 続々と怪我が治っていく団員たちが、口を揃えて盗賊の追従をせがむ。
 確かに、ほうって置くわけにはいかない。
 だが、そろそろ開演の準備をしなければ間に合わないだろう。

「……、とりあえず、私に任せてくれ。お前たちは準備を」
「わ、分かりました……」
 おまけとばかりにエリーとサクに睨みを効かせ、団員たちはテントを出て行く。
 自分たちより小さな女性二人に痛めつけられた自尊心の痛みは、マリスの魔術でも癒せなかったようだ。

「とりあえず、町の警護団に連絡か……、いや、しかし、」
「……? どうしたんだ?」
 エリーは関わりたくないとばかりに視線を適当に泳がせ、マリスは治療を終えて眠そうにテントの外を眺めている。
 結果、残ったサクが悩める団長に一歩近づく。
 すると、アキームが団長の代わりに口を開いた。

「いや、実はこのサーカス、あまりいい目で見られてないのですよ……。その、私のせいで」
「いい目、とは?」
「いい、アキーム。私が話そう。……そのままの意味です。ほら、これをご覧ください」
「?」
 変わった団長が奥に積まれていたパンフレットを持ち出した。
 そこには今夜のプログラムが並んでいる。
 空中ブランコや綱渡り、そして団長自ら行うピエロのパフォーマンスなど定番のものが並び、最後に目立つようにモンスターの芸という項目があった。

「モンスターが、芸をするのか?」
「ええ、ええ。これが私どものメインイベントです!」
 途端、商業ようの口調に変わった団長は、伸ばした腕でアキームを紹介するように指した。

「猛獣使いのアキームが行う、モンスターの芸。これが、大反響で、もうっ、」
「ああ、あれってやっぱり魔物が入ってるんすか」
 盛り上がった団長を一気に冷静に戻させるような気だるい声が、マリスから発された。
 マリスの視線はテントの入り口から外に向いている。
 サクも確認してみると、確かに中の見えないようにシートが被せられている四角い大きな箱があった。
 恐らく中は、檻のようになっているのだろう。
 注意して見れば、町の騒ぎの中に、微妙に魔物の気配を察することができた。

「しかし、危なくないのか?」
「アキームがいれば、大丈夫ですよ。なあ?」
「え、ええ。私の前では、すっかり大人しくて」
 アキームは少し誇らしげに胸を張った。
 確かに、一般の人々にしてみれば、魔物を間近で見られるサーカスは良い体験になるだろう。
 確かにアキームは、このサーカスに必要な男のようだ。

「ですが、その、やはり、」
「ええ。町の方は、それを喜ばしく思っていないようで……。公演料も、かなりふっかけられました……」
「なるほど、な」
 警護団からしてみれば、魔物から必死に守っている町に、商売目的で魔物を入れられて笑ってはいられないだろう。
 その売り上げが奪われたとしても、公演料が振り込まれていては、あまり有効的に捜索してくれるとも思えない。

 サクは頭を悩ませた。
 手の空いている自分たちも、探すのは苦労するだろう。
 隣のエリーが、完全にやる気をなくしている。

「じゃあ、別の件で探してもらえばいいんじゃないっすか?」
「……? 別の件?」
 マリスがのんびりと団長に歩み寄って行った。
 妙な威圧感があるマリスに、団長が一歩後ずさる。

「その女の人……、にーさんをさらったんすよね?」
「……! そう、か……!」
 サクはマリスが切ろうとしているカードに気づいた。
 団長とアキームは、マリスとサクにどこか不穏な目を向ける。

 そうだ。
 自分の主君、アキラは、

「“勇者様誘拐”。これは、大罪っすよ」
 残っていたのが、団長とアキームだけで助かったと、サクは思う。

 テントから漏れた声は、二人だけなのに、サーカスの敷地中に響き渡った。

―――**―――

「ふっ、ふふ~~んっ、」
「な、なあ、俺たちとんでもないことしてないか?」
「え? なに?」
 町外れの森の中、すっかり調子を取り戻したエレナは、上機嫌に頭に付けたリボンを直した。
 甘栗色の髪に控えめな色のリボンが良く映えたが、エレナはアキラに持たせた鏡を一瞥すると、口を少し尖らせて足元の買い物袋にしまい込む。
 どうやらあまり気に入らなかったらしい。

「いやさ、これ買ったのって……、」
「もぅ、アキラ君ったらぁ……。そんな些細なこと気にしてたら、女の子にモテないよ?」
 エレナは甘ったるい猫撫で声を、鏡の向こうのアキラに送る。
 微妙に身をかがませて、胸をせり出させるのも忘れない。

「……って、騙されるかぁっ!!」
 おおっ、っと一瞬それを食い入るように見つめたアキラは、正気に戻り、森の中に声を響かせる。
 もう日は大分傾いて、森から見える町は赤く染まっていた。

「何よぉ……、アキラ君……。酷いよ……」
「……う、うぉぉぉおおーーーっ!!」
 瞳を潤ませ、まるで森の中にいきなり引きずり込まれた乙女のように不安げで切なげな表情を作られれば、先ほどまでのエレナが嘘のよう。
 だが、森の中に引きずり込まれたのはアキラの方であれば、どっちが“素”なのかが残念ながら分かってしまう。

 二人の足元には、さきほど町を離れる直前にエレナが買い込んだ大量の衣類や装飾品。
 それらの財源は全て、エレナが昼に窃盗を成功させたサーカスの売り上げだった。

「う~ん、あんまり大声出さないで? 私……恐い……」
「俺も恐いよ」
「ああ、アキラ君もなんだ……。私を守ってくれる?」
 アキラが恐怖を覚えているのは、サーカスの売り上げを完全に自らの欲望のままに使い込んだエレナなのだが、瞳を潤ませるエレナを見れば、そんな気持ちは流される。
 だが、ここで踏み留まらなければ、これ以上の犯罪に足を染めることになりそうだ。

「私と一緒に楽しむの……、いや?」
 いや、染めても良さそうだ。
 アキラの脳髄は、エレナの甘い頬笑みに溶けていく。
 だが、角度が変わって映った自分の緩みきった顔を見て、再びアキラは奮起する。

 これは、まずい。

「な、なあ、俺たち町に戻ろうぜ? こんな時間だと、ほら、町の近くでも魔物とか出るだろうし」
「はぁっ!? 冗談じゃないわよ。今頃町中私たちを探して警護団とか走り回ってるでしょうよ」
 買ってきた物の試着が終わったエレナは、再び刺々しく表情を作り、眼前に見える町を遠巻きに見渡した。
 若干小高いここからなら、辛うじてサーカスのテントが見えるが、華やかしいそこに今は近づく気になれない。

「お、お前なぁ……」
「そ、れ、に。ねぇ、アキラ君……、魔物が出ても、私を守ってくれるでしょ?」
「おうっ!!」
 鏡を持ったままガッツポーズをしたアキラの声は、森に響いた。

 話を聞くに、アキラはアシッドナーガを倒したそうだ。
 そして、自分が感じた力を持っている。
 強いことは強いのだろう。

 その上、直属のモンスターを倒したとあっては、ガバイドの興味が向いている可能性がある。

 エレナはアキラに、まだまだ利用価値を見出していた。

「……って、違う!! とりあえず俺は戻んないとまずいって。俺と一緒に旅してた奴らが、」
「ええ~っ」
 駄々っ子のように身をくねらせるエレナの姿は、なんと欲情的なことか。
 アキラはゴトリと持っていた鏡を足の上に落として悶えながらも、目はエレナの姿を記憶しようと動かない。

「ね、ねぇ、そんな人たちどうでもいいじゃない……。私と一緒にいても……、楽しくないの?」
「っ、う、ぉ!?」
 エレナはアキラに滲み寄り、アキラの腕にしがみついた。
 間違いなくわざとだろうが、その豊満な胸が、アキラの腕に吸いつくように形を変える。

「ねえ……、アキラ君……」
「な、何?」
「私……、あいつらに、追われているの……。捕まったら……、何されるか分からない」
 追われるに値するだけのことをしたのも棚に上げ、エレナは瞳を潤ませ続ける。
 顔に甘い吐息がかかると、またもアキラの脳髄は、とろん、と溶けていった。
 こんな展開は万歳だ。
 順調に、異世界漂流物の主人公の力は発動している。

 エレナの細腕など、あの男たちが粗雑に扱えば、小枝のように折れてしまうだろう。
 守らなければならない。

「私と……私だけと……、逃、げ、て?」
 耳元に甘い吐息を吹きかければ、すぐに『おうっ!!』と声が返ってくる。
 そんな声に備えて、エレナは僅かに身をすくませた。
 しかし、そんな行為に意味もなく、アキラの身体は固まったままだ。

「? アキラ君?」
「……、いや、その、」
 隣に甘い香りを携えながらも、アキラの眉は微妙に寄った。
 エレナだけと、逃げる。
 その先に何が待つのかは知らないが、きっと、輝かしいのだろう。
 何せ、こんな暗がりでも、彼女の美貌はキラキラと輝いている。

 だが、“それ”を、アキラは拒んでいた。

 “ただ一人”だけを見ること。
 それは、駄目だ。
 それは、できない。

 想像するだけで、光が強すぎる。
 そしてそれは、離れて行ってしまった。

 視界はかすみ、輝きは遠く。

 そう、思ってしまう。

「……? アキラ君、私とじゃ、いや?」
「……」
 “素”を出しすぎたか。
 懸念を浮かべたエレナは、少しだけ腕を離す。
 そんなエレナの動きを無関心に受け止め、アキラは見えないものを見るように目を細めていった。

 何故だろう。
 たった一人を見ること。
 その光景は、光が強すぎ、そして見えない。

 “それなのに、そこに一人がいる気がする”。

 今日一日、“それ”を避けるために極力冷たく接した女の子。
 それが、ずっと。

「……! なに、あれ」
「……うぇ?」
 腕の隣のぬくもりが、いつの間にかなくなっていた。
 それを探してアキラが見つけたのは、町を指差すエレナ。

 エレナのすらりと長い指は、町から上がる数本の大きく黒い煙を捉えていた。

「サーカス……か?」
「あんな禍々しい煙上げたら、誰も見に来やしないわよ」

 エレナと並んで見た町は、昼と様子が完全に変わっていた。

 いつの間にか辺りはすっかり暗闇に包まれ、町の明かりだけが浮かぶようにそこにある。
 だが、浮かぶ黒い煙が、その光を飲み込まんとするようにもうもうと立ち込めていた。

「でも、サーカスの方から……」
「……、なんか、っ、」

 エレナは言葉を飲み込み、買い物袋もそのままに駆け出す。
 続くアキラは一瞬遅れて、町に向かって走り出した。

 またも何かが、起こっている。

―――**―――

 それは、黒い煙と共に、始まった。

 そしてその煙は、“勇者様”をいやいや探していたエリーにも、ついにサボっていたエリーを見つけたマリスの目にも飛び込んできた異常事態。

 方向は、サーカスのテントだ。

「ねーさん、そっち、任せたっす!!」
「ええっ!!」

 一体何が起こっているのか。

 エリーは暴れ回る魔物に、スカーレットに輝く拳を打ち込みながら、煙の上がるサーカスのテントを睨んだ。
 きっと開演の迫ったサーカスに集まっていたのだろう。押し寄せる恐怖に歪んだ人々は、怒涛の勢いで、表通りを埋め尽くす。

 悲鳴飛び交うその波に逆らい、エリーは通行人を守りつつ、サーカスのテントを目指した。
 空路を行くのは、シルバーに輝くマリス。
 一般人を守るための陸路を進んでいるとはいえ、楽な空路が羨ましい。

「っ、」
 通行人に襲いかかった魔物を、再びスカーレットの拳撃が捉える。
 捉えられたモンスターは、ボウリングの玉のような身体を弾ませ、戦闘不能の爆発を起こす。

 この魔物は、リトルスフィア。
 まるまるとした黒く球体の身体に、小さな耳と手。そして背中にも小さな羽根が付いている。
 足は無く、羽ばたいて移動するモンスターだが、浮かぶ、と言った程度で移動速度も大したことはなく、攻撃能力も魔術師相手ではいささか力不足。
 その上、目の前のリトルスフィアは一般的なサイズと比べても小さく、一撃だけ与えているエリーの攻撃でも、全て戦闘不能になっている。
 愛らしい存在と言えば、愛らしいのだろう。

 だが、数が。

「っ、」
 正面のリトルスフィアに拳を叩き込み、そのままの勢いで反転して蹴りを放つ。
 つい先ほど引き取りに行った足の防具は、順調のようだ。
 だが、目の前の数は、減らない。

「ふっ、」
 徐々に人の数も減ってきた頃、エリーの瞳に、ようやく敵の全体数が見えてきた。
 広い大通りを埋め尽くさんとするように押し寄せるリトルスフィアの群れ。
 下手をすれば、数百に届きそうな大群が、町に漂い、人や町に攻撃を加えている。

 体当たりのその一撃は、以前の小さなマーチュに劣り、木造の建物すらも軋ませる程度だが、人に当たれば痛烈な痛みにもんどり打つことになるだろう。
 倒れてもがいている人を強引に起こし、大声で鼓舞して再び走らせる。
 エリーの方も、この数では、これ以上通行人を気にしていられない。

「クルルッ、」
 横から身体を回転させ弾丸のように飛びかかってきたリトルスフィアのつぶらな瞳に、今度は裏拳で応じ、瞬時に戦闘不能に追い込む。
 どこかの男がいれば、墓標を作ろうという馬鹿みたいなことをしそうだ。
 だが本来、水曜属性のリトルスフィア相手では、火曜属性のエリーの攻撃は効果が薄いはず。
 一向に数が減らない相手に、一体どこまでもつものか。

「―――!」
 背後から、エリーと同じスカーレットの炎が飛んでいった。
 振り返れば町の警護団が、慌てた顔でリトルスフィアを倒している。
 ようやく登場か、と呆れた表情を浮かべたが、今まで“勇者様誘拐”の犯人を追っていたことを思い出し、エリーは全力で目の前の球体を殴った。

「ノヴァ!!」
 詠唱を付した拳は、今まで以上の威力で魔物を吹き飛ばし、リトルスフィアの群れの間に空間を作る。
 一体を倒すには必要のなかった威力だが、魔物たちはその威力に怯え、動きを鈍らせた。
 その隙に、警護団からの魔術が襲い、魔物たちは順調にその数を減らしていく。

「……、」
 町は、大丈夫そうだ。
 警護団たちが戦ってくれている。

 エリーは、適当に魔物たちを倒しながら、サーカスへの足を進めた。

 アキラが攫われ、サーカスの金庫が空になり、そしてここにきてのモンスターの群れ。
 こうなると、一連の首謀者は、あの女に間違いはない。

 エリーは必要もないルートのリトルスフィアを殴りつけると、ただただサーカスへの足を速める。

「ノヴァッ!!」
 威嚇するように魔物を吹き飛ばし、牽制し、通路を曲がった。
 ここからサーカスの公演へのルートは、まっすぐの一本道。
 あとはただひたすらに、この道を進めばいい。

 どうもこの魔物たちは、サーカスから溢れているように思える。
 警護団がこんな大群を無策に町に入れるわけはない。
 考えられるとするのなら、サーカスの出し物のモンスターの暴走。
 サーカスの中に現れたあの女が、何か起爆剤の“種”を仕込んだのだろう。

「……?」
 自分とは逆走する人の群れの中に、知っているような気がする男が見えた。
 その男の顔は文字通り真っ白に染まり、慌てた顔で人々の波を避けて立っている。

「……! だ、団長さ、ん?」
「おっ、おおおっ、」
 急ブレーキをして止まれば、どうやら間違いはないらしい。
 挙動不審に近寄るのは、開演準備で顔に化粧をしたサーカスの団長。
 その化粧も途中で打ち切り、まだ下地しか塗っていないようだ。

「これっ、どうなっているんですか!?」
「わっ、私も、分からないのです……、いきなりテントから魔物が溢れだして……、あっ、」
「っ、」
 転んだ子供に襲いかかった魔物を、エリーの拳が捉えた。
 団長は子供を立たせ送り出したが、ピエロになり切れていない団長の顔はさぞかし怖かっただろう。
 今まで以上の勢いで走り出した子供が何を恐がっていたのかを、エリーは見逃さなかった。
 ただ、団長は、ここに立って、恐らくは大半観客だったのであろう人々の避難に尽力しているようだ。

「それより、すみません、アキームを見ませんでしたか?」
「アキーム? ……って、あの、猛獣使いの?」
「えっ、ええっ、逃げて行った顔の中に、彼は、」
「ノヴァッ!!」
 今度は団長に襲いかかった魔物を、エリーは殴りつけた。
 魔物の群れを討ちぬき、建物に叩き込まれたリトルスフィアは、爆発を起こす。
 この威嚇で、しばらくは近づかないだろう。

「もしっ、もしかしたらっ、まだ、いるのかもしれませんっ!!」
 団長の指はサーカスのテントを指した。
 そこは依然として、煙が立ち込めている。
 ここまできてようやくそれが、サーカスのテントが燃えていること故の煙だと判断できた。

「責任感の強い男です……、もしかしたら、魔物を止めようとしているのかも、」
「っ、あたしは今からそこに行きます……、探してきます!!」
「おっ、お願いしますっ!!」
 舞台ではこうなのか、団長の抑揚がある大きな声を背に、エリーは駆け出した。
 やはり、魔物を使役するのには無理があったのか。
 この暴走も、もしかしたらそのせいでのものかもしれない。
 それに、アキームという男の安否も気がかりだ。
 平常時でも怪しいのに、暴走時では一般人は近づくだけでも危険だ。

「っ!!」
 単調に前から突撃してきたリトルスフィアに、エリーはカウンターで拳を突き出す。
 暴走していて危険と言えば危険だが、所詮は群れの利益を活かせない獣の群れ。
 敵では、ない。

「―――……」
 その、はずだった。

 エリーの反応が遅れる、突き出した右腕側に、ちらりと黒い影が映る。
 それが、エリーの僅かな死角からの突撃であることに気づいたのは、

「―――」
 イエローの光がそのリトルスフィアを両断したあとだった。

「サ、サクさん!」
「エリーさん、これは、」
 ようやく合流できたサクは、息を弾ませ魔物を見やる。
 今までも暴れ回るように戦っていたのだろう。
 着物も土を被り、所々魔物の血が付着している。

「事情はあとで!! とにかく、サーカスを目指そっ!!」
「ああ!!」

 サクと並んで走り出せば万全。
 ときに死角から攻めてくるリトルスフィアを、もう片方が打ち倒す要領でサーカスのテントを目指す。

 だが、妙だ。

「サクさん、これ、」
「ああ、やはり、“戦われている”」

 サクも同じ懸念をしていたようだ。
 目の前の魔物を両断したサクの死角に、再び現れるリトルスフィア。
 それをエリーが殴り飛ばせば、今度はその死角から。

 今までただ単調に暴れていたリトルスフィアは、明確に、群れの利益を享受し始めていた。

「司令塔が近いのかもしれない!」
 サクは鋭くサーカスを睨んだ。
 眼前に迫ったそのテントはすでに全焼。
 消火活動も、魔物の群れに遮られて行えていないようだ。

 だが、そこに、間違いなく。

「リトルスフィアの……ボス」
「……」
 エリーから漏れた言葉に、状況も忘れ、サクは口元を緩めた。
 ボス。
 まるで、自分の主君のような表現ではないか。

 血眼になって探しても見つからなかった主君は、一体今どこにいるのだろう。

「おっ、お二人とも!!」
 公園に入ろうとしたところで、エリーとサクは、小太りの男に呼び止められた。
 勢いを強引に止め振り返れば、血相を変えた猛獣使い、アキームが駆け寄ってくる。

「アッ、アキームさん!!」
「あっ、あああっ、やっぱり、お二人だ!!」
 挙動不審に震え、アキームは息切れを抑えようとうずくまる。
 無事だったようだが、余程必死だったのだろう。
 額には、脂汗が浮かんでいる。

「だっ、団長が心配してましたよ!!」
「えっ、ええ、ええ、本当にっ、」
「とっ、とにかく、落ち着いてっ、」
 覗き込むようにして、エリーはアキームの回復を急かした。
 昼時、まっ先にこの男に拳を叩き込んだエリーには抵抗があったが、今から飛び込むこの公園。
 一体何がいるのか知る必要がある。

「アキームさん、だったか。ここには、何がっ、」
「ええっ、それは恐ろしいっ、」
 一体誰が管理者というのか。
 アキームは蹲ったまま震える声を吐き出し続ける。

「だから、何がっ、」
「恐ろしいっ、魔女がっ、」
「魔女?」
 エリーの顔が怪訝に歪んだところで、アキームはゆっくり顔を持ち上げた。

「私のペットを殺そうとする、魔女が、」
「……―――」
 遅かった。
 それは、エリーもサクも同時に感じたことだ。
 だが、エリーの方は、爆発を思わせる腹部の激痛に、そのままの勢いで吹き飛ばされた。

「―――ぐっ、がはっ!!?」
 その激痛が、アキームが突き出した鉄球のような腕の拳撃だと気づいたのは背を地に打ち付けてから。

「っ、」
 サクが飛ぶように一歩離れて睨んだアキームは、すくっと立つと、身体を震わせる。
 すると、両拳は鉄球に。
 耳元は長く怪しげに。
 身体全体も巨大な土色に変貌し、上部の衣服を弾き飛ばした。

「っ、これ、は、」
「くっ、かはっ、」
 エリーが悶えながらも身体を起こすと、すっかり姿を変えたアキームとサクが対峙していた。

 小太りだった男は、今や二メートルを超す巨体になり、上半身は並々ならぬ筋肉を隆起させている。
 この魔物をエリーは知っていた。

 筋肉質の身体に、握れば鉄球のような両拳。
 背中まで伸びた濁った茶色の立て髪に、ギロギロと危険に動く鋭い瞳。
 その額には、何物でも砕けない強固な角が二本生えている。

 これは、土曜属性の、

「オーガース……!?」
 ふらつく足で、エリーは何とか身を立たせた。

「貴様……、まさか……、擬態を……!?」
「ググッ、グググッ」
 身体を蠢かせ、アキームはさらに体の筋肉を隆起させる。
 巨大マーチュや巨大なブルースライムとは違い、一般的なサイズよりは僅かに大きい程度だが、それでも、この辺りにいていいような魔物ではない。

 その上、

「っ、生きてたか……!!」
 アキームは苦々しげにエリーを睨み、両拳をガツリと合わせた。

 やはり、“言葉持ち”。
 それも、以前のゲイツとは違い、言語は完璧のようだ。
 これは、異常事態だ。
 オーガースは、そもそも極端に知力の少ないモンスター。
 戦場にあって、敵味方を問わず目に映るもの総てを殴りつける。
 その分攻略も楽に済むが、目の前のオーガースは、明確な意思を持って、エリーとサクを睨みつけてきた。

 擬態も異常事態だ。
 そもそも擬態ができないはずのオーガースが、身体のサイズをも変え、あれほど自然な人間になることなどありえない。

「“勇者”は、どこだ……?」
「……!」
 拳を構えるエリーも、刀に手を当てたサクにも、警戒せず、変貌したアキームは地鳴りのような声を響かせた。
 この魔物の、狙いはアキラ。
 すぐさまそう判断し、サクは足に力を溜める。
 大方この騒動も、アキラをおびき出すためにアキームが実行したのだろう。

「貴様らサーカスは、」
 魔族の手先、と漏らそうとした口を、サクはすぐに噤んだ。
 テントを燃やしているのだ。
 恐らくは、アキーム単体が、この件の首謀者。
 この魔物の群れも、アキームが“猛獣”と称して運び込んだのだろう。

 確かにサーカスに潜り込めば、各地を転々とし、村にもほぼ無警戒に入れる。

「もう一度聞く……。“勇者”は、どこだ?」
「応える筋合いは……、ないっ!」
 サクは地を蹴り、アキームに切りかかった。
 放たれるは、必殺の居合い。
 埋まり込んだようなアキーム首をめがけて腕を振るう。

「っ、」
 ギンッ、と鋭い音が爆ぜ、サクのイエローの魔力が四散する。
 アキームは両拳でそれを受け止め、サクの押し込みをものともしない。

「グッ、ガァァァアアアーーーッ!!」
「づっ、」
 アキームが小バエを払うように腕を振れば、その絶対的筋力に、サクの身体は弾き飛ばされる。
 流石に、オーガース。
 その扱いにくさでも使役する魔族がいるほどに、戦闘力に長けている。
 その上、土曜属性。
 金曜属性のサクには、相性が悪い。

「っ、ノヴァ!!」
 サクを振り払って空いた胸に、エリーが特攻を仕掛ける。
 光るスカーレットの攻撃は、アキームの動きを凌駕し、吸い込まれるように胸に叩きこまれた。

「グッ!?」
「!?」
 エリーは一撃を、確かに加えた。
 ダメージもある。
 だが、アキームはその鎧のような筋肉を盾に、その場から微動だにしない。

「っ、クウェイク!!」
「―――!?」
 目下のエリーに、アキームは拳を打ち下ろした。
 拳にまとう魔力は、グレー。
 エリーの反応が僅かに勝り、巨大な鉄球は地を殴る。
 しかしそれだけで局地的な地震が起こり、小規模なクレーターを足場に作った。

「っ、」
「くっ、」
 足場にほとばしった魔力をエリーとサクは跳んでかわした。
 クウェイクの魔術は直撃を避けても隣接する大地を揺さぶり、魔力による打撃を受ける。
 だが、オーガースは、こんな魔術を使わないはずだ。

「―――!?」
 その場から、動かないものと思っていた。
 しかし、アキームは二人が跳躍した直後、溢れんばかりの魔力を拳に込め、突撃を繰り出してくる。
 狙いは、サク。

 両拳の鉄球が、眼前に迫る。

「がっ、はっ!?」
 以前のゲイツのような衝撃。
 身体全てを揺さぶるその一撃は、金曜属性に相性で勝り、サクの腹部を襲う。

「っ、サクさん!!?」
 自分のように、拳に魔力を込めたオーガースの一撃。
 エリーは、それを受けたサクが荷馬車に跳ねられたように吹き飛ぶのを見て顔が青ざめる。
 自分の細腕でもモンスターを一撃で屠る攻撃方法なのだ。
 あの大木を思わせるアキームの腕でそれを行えば、果たして、威力は、

「か……かは……、ぐ……、」
「!! サクさん!!」
 全身を痙攣させ、仰向けのまま呼吸困難に陥っているサクに駆け寄ったエリーは、サクの戦線離脱を早々に理解した。
 意識はあるようだが、身体はまるで動いていない。
 足元に転がった愛刀に手を伸ばそうとしているも、僅かに手首が動いているだけだ。
 恐らく、肋骨が折れている。

「っ、」
 これは、まずい。
 今すぐにでも治療をしなければ、生死に関わる。
 急いで、治療を、

「ククク……、」
 サクに突撃したポイントから動かず、アキームは不敵に笑った。
 その拳から繰り出された絶対的威力の突撃は、エリーの攻撃とは別次元に位置する威力。
 相手を浮かせてからの突撃。
 これが、“知恵持ち”の危険度。

「あの魔女を探しているのか……?」
「……!」
 サクを倒し、動きを止めていたアキームは、苦々しげに呟いた。
 その禍々しい瞳は、公園で燃えているテントを睨みつけ、殺気を飛ばし続ける。

「あの魔女なら、私がガバイド様から賜った魔物を殺そうとしている……。貴様らが終われば……、次はあの魔女だ」
「……!」
 また、この言葉を聞いた。
 ガバイド。
 その地位は、ゲイツの言葉通り、魔王直属。
 恐らくアキームも、ガバイド直属の魔物なのだろう。
 アキームの妙に高い知力や擬態能力も、巨大マーチュやゲイツを考えれば、その由来がガバイドに辿り着く。
 やはりアキームは、通常のオーガースとは乖離した存在だ。
 先のゲイツと同等以上の実力に、エリーは身体を強張らせた。

「もう、貴様らは、終わる」
「……?」
 アキームは、にやにやと笑いながら、エリーと倒れているサクを見やった。
 だがそれだけで、動こうとしない。
 『終わる』と宣言したにもかかわらず。

 一体、

「、エリー、さ、」
「っ―――」
 エリーが状況を確認しようとした、その頭。
 後頭部に、鈍い痛みが走った。
 音が、消える。
 倒れているサクの顔が悲痛に歪み、何かを訴えているように口をパクパク動かしていた。

 エリーは何が起きたか分からない。
 だが、自分に、地面が近づいてきたことを、淡白に見るだけ。

「ククク……」
 アキームは動いていない。
 だが、エリーは倒れ込んだところで、ようやくそれがリトルスフィアの突撃だったことに気づいた。

「……か、……う、あ……、」
 地面にうつ伏せに倒れたエリーの瞳に、辺りに浮かんでいるリトルスフィアの群れが映った。
 それはまるで、死者を囲う死神のように。

 いつの間に囲まれていたのだろう。
 アキームが現れたときは、いなかったのに。

 脳震とうを起こした頭には、疑問は浮かべど答えは浮かばない。

「終わり、だ」
「ぐっ……、」
 いつしか歩み寄ってきたアキームの顔が、眼前に現れた。
 鬼のような顔の持ち主は、片腕の鉄球を変形させ、一般的な手とすると、エリーの首を掴み、絞めるように持ち上げている。

「がっ、ぐ、ううっ、」
「ククク……、ん? お前は動くな」
「がはっ!?」
 エリーの首を絞め上げ、アキームは図太い足で動こうとしていたサクの腹部を踏みにじった。

「ぐっ、あっ、ああっ、」
「……ぅ、」
 足元の重傷のサクは呻くが、エリーは徐々に頭の中が白くなっていった。
 殺される。
 それほど確実な死が、目の前にあった。
 視界は白黒とし、身体は震える。
 揺らめく炎が僅かに瞳に映り、それが離れていく。

「最後に、良いものを見せてやろう」
「……、?」
 アキームが呟くと、まるでそれが合図のように、燃え上がっていた巨大なテントが崩れ落ちる。
 ライトアップされた公園は、視界を遮るものが消えた今、その全貌を現し、そして、

 “それ”は現れた。

「……!」
 透き通るような水色の、巨大な球体。
 サイズは、たった今崩れ落ちたテントにさえ相当する。
 そこから生える太い腕は、大切そうに自らの腹部を囲っていた。
 その巨体を浮かばせる巨大な翼が羽ばたけば、ゆらゆらと燃える炎がかき消えるように疾風を起こす。
 バサッ、バサッ、とリズムよく届く風が、テントの炎を自然公園の木々に移していった。

 そして、顔も、生えていた。
 竜のように鼻のとがった巨大な顔は苦痛に歪むも、大切そうに自らの身体を眺めている。
 それは、まるで胎児を宿した母体のよう。

 水色の球体。
 それを抱える腕や顔の付属物。
 もうろうとする意識の中、エリーは、その魔物の検索を始めた。

「マザースフィア。美しいだろう?」
 その問いには、応えられなかった。
 だがエリーは、ようやくリトルスフィアの数の量に合点がいった。

 産んでいるのだ。
 あの、水色の球体が。
 照明具に照らされたその透き通る身体は、美しくも禍々しい。

 見れば定期的に、ぼとぼととマザースフィアの下に黒色の大群が産み出されている。
 それどころか、身体を徐々に肥大化させていた。
 マザースフィアは、身体のサイズも変化させられるらしい。

「それなのに、あの魔女は……!!」
「がっ、」
 アキームが顔と同時に力を込めた腕は、エリーの首を万力のように締め付ける。
 だが、抵抗もできない。

「見ろ、あれを……!!」
 アキームが強引にエリーの顔をマザースフィアに向けると、その周り。
 銀色に輝く飛行物体が、マザースフィアに鋭い光を放っている。
 マリスだ。
 マリスは単身、マザースフィアに襲いかかっている。

 だが、ときおり産み出たリトルスフィアや、火が燃え移った木々を消し飛ばし、思うようにダメージを与えられていない。

「勇者のおびき出しは、あの魔女一人で十分……。さあ、死ね……!」
「かっ、あああっ!!」
 駄目だ。
 ここで自分が力尽きては。

 マリスが、一人でアキームとマザースフィアの相手をすることになる。
 そうなれば、

「死ね……!!」
「ぐっ、うぁぁああっ!!」

 あの男は、一体何をやっているのだろう。
 命の灯が消えゆく中、何故かエリーの頭には、一人の男が浮かんだ。

 あの男がいれば、なんと言っただろう。
 『死ね』を連発する奴は、死亡フラグが立っている、とか言うのだろうか。

 そいつは、今いない。
 本当に、何をやっているのだろう。

 でも、

「……っ、」

 確信があったわけでは、ない。
 信じているわけなんて、ない。
 現実逃避していたわけでも、ない。

 それなのに、エリーは、思った。

「―――!!?」
 アキームの、自らのペットの神々しさに惚れ込むような瞳が、一瞬唖然し、すぐさま驚愕の色一色に染まる。
 視線の先には、自らのペット―――その水色のペットが、闇夜を切り裂くオレンジの閃光に飲み込まれた光景。

「―――なっ!?」
「……、がはっ、げはっ、」
 緩んだアキームの腕から脱出し、地面に落ちたエリーは、せき込みながら、思った。

 ほうら、やっぱり来てくれた。

「いっっっっでぇぇぇええええーーーっ!!!!!」
 公園に響く悲鳴は、効き慣れたもの。
 直後に響いたマザースフィアの大爆発のあとも、その声だけがエリーの耳に残る。

「そん、なっ!!」
「っ、」
 残る勢力を総て使い果たし、エリーはサクを抱えて放心するアキームから距離を取った。
 周りに浮かぶリトルスフィアも、突然の母の死に、対応できていない。
 突然で、悪いとは思う。
 だけど、あの男は、そういうことしかできないのだ。

「っ、き、さ、ま、らぁぁぁぁあああーーーっっ!!!」
 離れた瞬間、アキームは我を忘れて怒号を飛ばす。

「ガバイド様から賜った、私の宝をっっ!!!」
「づ、」
「!」
 怒号を正面から受けながら、サクは愛刀を杖のようについて立った。
 エリーの首が絞められている間、踏みつけられようとも、手だけは刀に伸ばしていたらしい。

「はっ、かはっ、」
「サ、サクさん、大丈夫なの……!?」
「はっ、はっ、主君が現れた以上……、従者が寝ているわけにっ、はっ、」
 顔も青ざめ、口元から血を流し、それでもサクは構えを取る。
 確かにあの光に後押しされては、動かずにはいられない。

「あとは、この男だけだ……!!」
 サクの目には周りの怯えてうろつきまわるリトルスフィアは映っていなかった。
 確かに、司令塔を失っては何ら脅威ではない。
 あとは、アキーム。
 それだけだ。

「許さん……、ぞっ!!」
 オーガースの先天的に持つ、殺戮本能。
 それをむき出しに、アキームは再び拳を固めた。

 来る。

「……、あなた今、ガバイドって言った?」

 そう、思ったとき。
 背後から女性の声が聞こえた。

「いでっ、いでっ、またっ、肩っ、」
「っ、うるさいわよ」
 共に現れた男は、その女に投げ出され、地面に転がる。
 その悶えよう。
 右肩を抑えてもんどり打つその姿は、エリーはよく知っている。

「あっ、あんたっ!!」
「アッ、アキラ様!!」
「まじっ、まじっ、マリスは!? マリスはっ!!?」
 恐らくまたも外れたであろう肩を懸命に抑えたアキラの涙目に、昼以来の顔ぶれが映った。
 エリーは首に赤い手跡を残し、サクの顔は青ざめている。
 二人とも、ダメージは深い。
 そう見えて、最後に残ったちっぽけなプライドから、アキラは叫ぶ自分の口を塞いだ。

「ったく、どんだけ一発芸なんだよ、お前」
 エレナはようやく静かになった後ろにそれだけ呟くと、目の前の“情報持ち”に対面する。
 自分の身体ほどの腕を隆起させ、怒りに燃えるオーガース。
 正直、話し相手としては最悪だ。

「見つけた……、見つけたぞ……、そいつが勇者か……!!」
「今は私と喋ってんでしょ」
 地鳴りのような声を遮ったのは、エレナの冷ややかで抑揚のない言葉。
 それ以上の冷ややかな瞳でオーガースを射抜くと、エレナはふらりと近づいていく。

「……!! 貴様……、昼の……!!」
「……? あんた誰?」
「私に妙な魔術を仕掛けた女……!!」
 怪訝に顔を歪めたエレナの頭に、ようやく一人の該当者が出た。
 そういえば昼、自分が意識を奪った小太りの男がいたような気がする。
 魔物だったとは。
 随分回復が早いと思ったが、そういうことか。

「まあ、いいわ……。口が利けるなら、知ってること、全部話してもらえる?」
 エレナは、憤怒の形相の魔物を、変わらず冷ややかな瞳で睨み、近寄り続ける。
 その瞳の色は、背後にいるアキラにも容易に想像がついた。
 あの、ガバイドのことを話していたときの瞳だ。

「ガアッ!!」
「エレナ!!」
 攻撃範囲内に入ったエレナに、大木を思わせる腕が振り下ろされた。
 受ければ原形を留めるかどうかも定かではない。
 アキラは肩の激痛も忘れ、名を叫んだ。

「っ、」
「―――!?」

 だが、その惨劇は、起こらなかった。
 振り下ろされた大木は、エレナの左腕に受けられ、動きを止める。

「グッ、貴様……何者……!?」
「今は私が聞いてんでしょ」

 彼女の細腕は、一体どのような仕組みでできているのだろう。
 恐らく魔力による強化だろうが、筋肉の塊のようなモンスターを腕一つで止めるその異様さは、この場にいる全員が息を呑んだ。

「グッ、ウウッ!!?」
「エレ……ナ?」
 あれが『戦えな~い』とか言っていた女性の姿か。
 押し込もうとしている筋肉の魔物も、エレナの腕に抗えない。

「エレナ……? 貴様、エレナ=ファンツェルンか……!!」
 押し込もうとした腕に力を込め続けながらも、アキームは、目の前の女の名に、聞き覚えがあった。
 かつて、ガバイドが、“それ”が逃げ出したと、大層嘆いていたことを思い出す。

「実験素材の分際で……、逃げ出した上に、直属の私に歯向かうなど……ぐっ、がっ、」

 忌々しげに睨み続けるアキームの首を、エレナは空いた手で強く掴んだ。
 そして、そのまま腕に力を込め、アキームの足を浮かせる。

「女性の秘密は、暴くもんじゃないわ」

 これ以上ないと思っていたエレナの声が、さらに冷えた。
 力を込め続ける右腕の指が、アキームの首に食い込み、先ほどのエリー以上に呼吸が詰まる。

 現実離れした光景だ。
 華奢な女性が、腕一本であの巨体を吊るし上げるなど。
 後ろで見ている三人は、目を見開いていることしかできない。

「ガバイドに伝えなさい……。今ならもう殺れる。必ず殺す、って」
「がっ、はっ!!」
 聞いているのかいないのか。
 アキームは悶え続け、顔が青く染まっていく。

「……分かった? 分かったら消えていいわよ」
「ぐっ、があっ、きさっ、まっ!!」
「そう……、ダメそうね……。“これ”、全力でやったらどうなると思う?」
 アキームの瞳に、引く気ないことを正しく感じ取り、エレナは手のひらに魔力を込める。
 すると、エレナの手が輝き始めた。

 色は、ライトグリーン。

 その光を纏った途端、アキームの眼の色が褪せていく。

「木曜属性の……キュトリム……!!」
 エリーがエレナの魔術を言い当てた。

 キュトリム。
 相手の魔力を奪い、自らの力に変える上級魔術。
 それだけでも力は壮絶なのに、あの様子では、アキームの生命力さえ奪っている。
 しかも、急速に。
 それは最早、触れただけで相手を殺すことができるのと同義だ。

「き……き……、き……、」
「……」
 エレナはアキームの限界を感じ取り、そのまま巨体を無造作に投げ捨てた。
 投げられたアキームは白目をむき、直後に小規模な爆発を起こす。
 下手をすれば今までのリトルスフィアより小さな爆発は、エレナに総てを吸い取られた結果とも言えた。

「……まっず、」
 エレナは最後にそう吐き捨てると、目を瞑りながら僅かに乱れた衣服を正した。

 閉じた瞳の中は、最後まで、冷ややかなまま。

―――**―――

「と、いうわけで、」
「っ!!」

 昨日の騒ぎが過ぎ去り、アキラたちは宿舎を出たところで、甘ったるい声の女性にかち合った。

「私は、あなたたちの仲間になったのでした」
「どっ、どういうわけよ!?」

 清算を済ましたエリーが後続から這い出て叫ぶ。
 目の前の女性は、一体何を言ってくれているのか。

「?」
「ああ、ほら、昨日の、」
「……、ああ、あの人がっすか」
 マリスが浮かべた怪訝な顔に、並び立つサクが小声で補足説明をする。
 昨日アキームを倒した直後に町の闇に消えていったエレナは、心機一転、とでも言うように、にこやかな笑顔を浮かべていた。

「どういうわけはこっちのセリフよ……。町中に張り付けられてたわよ……、これ!」
 エレナが突き出したのは、手配書。
 そこには、エレナの容姿の詳細と、その罪状、“勇者様誘拐”と銘打たれていた。

「こんなんじゃ身動きとれないわ……。ねぇ、アキラくぅん」
「うおっ!?」
 エレナはしなやかに身体を動かし、アキラの腕に抱き付く。
 アキラの拳がガッツポーズを作っているのが見えて、エリーはそれ以上に固く拳を作る。
 大方、ご都合主義万歳とでも思っているのだろう。

「私たち……、デートしてただけよね?」
「え、あ、ああ、」
「私の無実……、晴らしてくれるよね?」
「ちょっと、あんた昨日の話忘れたの!?」
 このままでは丸め込まれてしまう。
 エリーは強くアキラの腕を引き、エレナから引き剥がした。

「昨日あたしが言ったこと、復唱してみなさい」
「『知らない人に、ほいほいとついて行くな』」
 魔物の残党を駆除し終わったエリーに怒鳴りながら教え込まれたこの言葉は、今でもエリーの口調、音量そのままに思い出せる。
 まさか、そんな小さな子供に言うような格言が、自分にそのまま適合するとは思ってもみなかった。

「誘拐の件はちゃんと説明しますから、それでいいでしょう?」
「それだけじゃないのよ」
「?」
 エレナは瞳を、少しだけ冷やした。
 あのガバイドのことだ。
 どこかに監視用の魔物でも配備していたことだろう。
 倒すべき勇者と行動を共にしていれば、それだけガバイドも動きやすくなる。

 そしてついでに言うなら、サーカスから盗んだ金品は使い込んでしまった。
 もう彼らに会うわけにはいかない。

「……ねぇ、アキラ君。私、邪魔かな?」
「いや、そんなことはない」
「ちょっとぉっ!?」
 駄目だ。遅かった。
 このハーレムを目指すとほざく男は、すっかり丸め込まれている。

「じゃあ、私、一緒にいていい?」
「おうっ!!」
「っ、」
 直後、エリーの怒号が飛び、アキラはそれに反発して言い訳を返す。

 いつの間にか、いつもの光景だ。

「あの二人は、あれでいい。私はそう思うよ」
「……」
 その光景を見つめるサクはうっすらと笑い、マリスは無言のまま、どこか困ったように眉を下ろす。

 こっちも、いつもの光景。

 まだ春先なのに。
 今日も暑くなりそうだ。



[12144] 第五話『異物たちの共演』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:09
―――**―――

「はぁ……はぁ……」
「……!」
 荒くも甘い息遣いに、アキラはいつもの通り、目を覚ました。

「ねぇ、アキラくぅん……、起きてるでしょ?」
「ぅん……、うおっ!?」
 目を開ければ当然のようにそこにいる女性は、高揚した悩ましげな顔をアキラに近づける。
 ベッドの上、アキラに覆いかぶさるように乗ったその女性は、薄いアンダーウェアだけを纏い、感触の分かる豊満な胸をアキラに押し付け、甘ったるく笑う。

「エ、エレナさ~ん?」
「もぅ……。エ、レ、ナ、でしょ?」
 長い指をアキラの口に当て、子供っぽく笑う女性は、エレナ。
 亜麻色の髪に、甘い顔つき。
 彼女のその扇情的仕草に、アキラの心拍数は、朝だというのに急上昇。
 これ以上ないほど、目が覚めた。

「ねぇ、アキラ君……。アキラ君の……、忘れられないの……」
「ちょっ、ちょっと!?」
「ちょっと吸っただけで……、私……、あんなに……」
 エレナはひんやりとした手を、アキラの顔に当てた。
 加減は難しい。
 ほんの少し吸い出しただけで、許容量を遥かに超えてしまう。
 慎重に、行わなければ。

「いい? 動かないで……」
「っ……、お……っ」
 エレナが長い瞼の瞳を閉じれば、まるで神話の絵画のよう。
 その神々しさに、アキラは時間を忘れ、動きを完全に止めた。

 やはり異世界はこうでなければ。

 エレナのような女性が登場したあとは、寝起きを襲われる。
 お決まりだ。
 完璧なご都合主義。

 だが、それでいい。むしろ、それがいい。

 アキラの心の中で、歓喜の華吹雪が舞ったところで、

「はい、しゅ~りょ~~っ!!!」
「……ちっ、正妻か」

 パターン通り、ドアが開け放たれ、息を弾ませたエリーが飛び込んできた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「今日は実戦形式ね。全力で殴りかかるから、うまく守って」
「お前最近そればっかだな!! 他に言うことないのかよ!?」

 拳を合わせるように打ち付け、エリーは目つきも鋭くし、赤毛をきゅっとポニーテールに縛った。
 身体にはばっちり、機能的な戦闘装束を纏っている。
 いつものように抗議するアキラに、今日こそ実戦の恐さを教え込まなければ。

「……、今日は、何を?」
「あら? 別に、いつも通りよ」
 アキラとエリーの対峙を遠巻きに見つつ、サクは隣で可愛らしく欠伸をするエレナを呆れた風に見やった。
 羽織った紅い着物も、黒髪のトップに縛ったちょんまげのような髪形も、腰から下げた長刀も、異様と言えば異様だが、サクも十分美人に分類される。
 だが、そのサクから見ても、隣の愛らしい容姿のエレナは美しい。
 何よりも、男性に媚びる仕草が絶妙だ。

「アキラくぅ~ん、頑張って~っ!!」
 声を出せば、甘ったるい猫撫で声。

 その声に、サクの主君たるアキラは、声を弾ませこういうのだ。

「おうっ!!」
「……うん、じゃあ、行くわよ?」
「ごめんなさい、俺、嘘吐きました」

 宿舎の庭を借りての朝の鍛錬は、順調に、賑やかのようだ。

 サクも身体に魔力を巡らせ、精神を集中する。
 エレナが現れてからというもの、すっかりアキラを起こす役の任を解かれたサクも、遊んではいられない。

「……、みんな、揃ってるっすね」
「……!」
 そんな朝の鍛錬に、一人、眠たげな眼の少女がのそのそと現れた。
 半分閉じた瞳はどこか色彩が薄く、髪もそれに倣っているが、その容姿は、背丈も含め、エリーと瓜二つ。
 エリーの双子の妹、マリスだ。
 彼女もアキラ率いる“勇者様御一行”だが、鍛錬の必要もない、数千年に一人の天才。
 ただのほほんと大名出勤を決め込み、アキラとエリーの喧騒を眺め始めた。

「……、エレナさん、またなんかやったんすか?」
「もう、そればっかりね。……やったけど」
「……」
 チロリと可愛げに舌を出したエレナの仕草に、マリスの瞳がさらに狭まる。
 この困ったような仕草でも、彼女の神秘さは損なわれない。
 同じ顔のエリーも、まごうこと無き美人だ。

 そんな美少女に囲まれ、異世界来訪物の主人公の恩恵をまんべんなく受け取る“勇者様”はいつでも顔がにやけている。

 その人物、アキラこそが、エリーにとっては最大の問題だった。

「はあ……、ほんっっっとうにいい加減にして下さいよ!! エレナさんも!!」
 対峙するアキラが、魔力を纏い始めるのを待ちながら、エリーは離れたエレナに届く声を張り上げた。

「まだ防御幕も張れない“勇者様”に、遊んでる暇なんてないんですから!!」
「ちっ、流石にうるさいわね……、正妻は」
「ちっがぁぁぁあああーーーうっ!!」

 幸か不幸か、アキラとエリーは不慮の事故で婚約中。
 エレナの呟くような声も、エリーは正確に拾い、大声で否定する。
 それは、違うのだ。
 現に今も、それを否定すべく、という、信じられないような理由で、打倒魔王を掲げているくらいなのだから。

「おい、防御幕なら張れるって……あっ、」
「あっ、じゃないわよ!!」
 アキラの身体からノッキングするように不規則なオレンジ色の光が帯びたかと思えば、それは急速に縮まって、朝の光に溶けていく。
 朝の鍛錬とやらを初めて一週間を超す程度。アキラは未だ、魔力を使いこなせていなかった。

「ほらぁぁぁああ~~っ、」
「もぅ、」
 嘆くエリーとやっきになって魔力の無駄なアイドリングを続けるアキラに、エレナが甘い吐息を吐き出しながら近づいて行った。

「ほらぁ、こうやって、」
「おっ、おおおっ、」
 そしてアキラの腕を身体に挟むように取り、漏れ出す魔力の安定を図る。
 だがその眼は、慎重に魔力を発動させるように鋭く変わっていく。

「ストォォォオオオーーーップッ!!!!」
「何よ?」
 いつの間にやらほとんどアキラに抱き付く形になっていたエレナは、うんざりとした様子で顔をエリーに向ける。
 今までの媚びるような空気は僅かに冷め、眉も怪訝に狭めた彼女に、甘さはない。
 こちらの姿の方が、エレナの“素”であることは、この数日の付き合いでエリーにも分かっていた。

「いい加減にして下さいよ~~っ、邪魔しないでください!!」
「あら? 合意の上よ? ねぇ、アキラ君?」
「おうっ!!」
「ノヴァ!!」
「うおっ!?」
 まさかの詠唱を附した一撃に、アキラはエレナに腕を引かれる形で回避に成功。
 エレナの身体に抱かれるように顔をうずめた。

「よっしゃっ!!」
「うあんっ、いっ、今動かないでよ……!!」
「っ、」

 魔力を吸おうとしたエレナは、アキラが僅かに動いただけで身悶えし、その反応に顔を緩ませたアキラにエリーが怒号を飛ばす。
 その様子を、マリスとサクは静かに見守る。

 いつの間にか決まって行くメンバー内での定位置は、今日も、やっぱり、賑やかだ。

―――**―――

「え? 俺は、ほら、最初北の町に行ったから、てっきり北を目指すもんだと……」
「自分は、にーさんが自信満々に進んで行ったからっす」
「私は、アキラ様について行くだけですから」
「あら、奇遇ね……。私も、アキラ君についてきただけよ?」

「答えが出たわね。満場一致で、あんたが悪い」

 朝食をとり終え、宿舎のアキラの部屋に集まった四人は、ベッドの上で呆けたような顔を浮かべる“勇者様”にため息混じりの顔を向けた。

「いや、まあ、それは違うだろ」
「大差ないわよ」
 身の潔白を訴えるアキラに、エリーは頭を覆いに抱えた。

 ここはクロンクランのさらに北に位置する小さな村。
 エリーやマリスの出身地、リビリスアークよりもさらに小さく、ほとんど集落のような場所だ。
 クロンクランを離れた一行は、近くの村を転々と移動しつつ、北を目指していたのだった。

 目的もなく。

「な、ん、で、今まで誰も気づかないのよ!?」
 リビリスアークをいきなり飛び出して、止むを得ない状況でクロンクランに到着したことをこの男は覚えていなかったのだろうか。
 エリーにしてみれば大きな町で情報を集めるつもりでもあったのだが、エレナの一件ですっかり町に居辛くなってしまったため、これまた止むを得ず町を飛び出すことになってしまった。
 そのため、一行が何となく進んでいく方向についてきただけなのだが、まさか目的がなかったとは。

「もぅ、こんな話し合いしてても意味ないでしょ? ねぇ、アキラくぅん、私、村を見て回りたいんだけど……、一緒に、」
「そうやって、エレナさんが遊んでばかりいるからでしょう!? あんたも!!」
 エレナの誘いに、普通に腰を浮かせたアキラを怒鳴って座らせる。
 エレナにしてみればアキラと共にいられれば、目的は達成できるので、別に旅の行く先を気にする必要はない。
 そんなエレナに振り回され、“一応”この一行のリーダーたる“勇者様”がこんな様子なため、エリーたちは舵を失った泥船に乗せられているようなものだ。
 いずれ転覆するのも目に見えている。

「ヒステリックな女はモテないわよ?」
「うわーんっ!!」
 完全に崩壊しているパーティの惨状に、許容量をオーバーしたエリーは声を出して泣いた。

「ま、まあ、ここで気づけただけでも収穫じゃん」
「あたし、今の結構イラッときたんだけど」
 エリーがいい加減限界だ。
 アキラは正しく判断し、メンバーに視線を泳がせる。
 そして、この事態を収拾できそうな少女に視線を合わせ、半分閉じた眼を正面から覗きこんだ。

「なあ、マリス。俺たちこれからどこ行けばいいと思う?」
「……、そうっすね、」
「そうやって、マリスに頼らないのっ!!」
「いや、ここはいいだろ、別に」
 同じ顔なのに、どうしてこうも音量が違うのか。
 双子の姉妹の見分け方は、色彩の差よりも、声を聞けば分かりやすい、と、この場にいる誰もが自然に頭に思い浮かべた。

「えっと、地図とか見た方が、」
 マリスがのほほんと動き、だぼだぼのマントの中を蠢かせた。
 中には、身体に斜めにかかっている小さなバッグがあり、その中にはマリスが選んだ旅の出需品が入っている。

「これ、ちょっと広げるっすよ」
 ベッドの脇の机を引きよせ、マリスは正方形の地図を置いた。
 そこには一面に大陸が埋め尽くされており、様々な個所に地名が書き込まれている。

「えっと、自分たちが今いるのは……、ここっすね」
 マリスの細い指が、地図の右の中部を指す。
 その指の近くに、クロンクランというアキラも知っている地名を見つけた。
 一応、初代勇者ゆかりの地、リビリスアークも豆粒のような字で書かれていたが、今いる村は名前すら載っていない。

「……え、てかこれ、世界地図? ちっちゃくね?」
「……、ああ、これはアイルーク大陸だけっすよ」

 この世界に存在する大陸は五つ。
 それぞれ、東西南北そして中央、と領土を広げ、それぞれ地上を分けている。
 アキラたちが今いるアイルーク国は、その名を大陸と同じにするだけはあり、東に位置するアイルーク大陸の中でも最も主要な国だ。
 その最東に、リビリスアークが位置する形となっていた。
 よくよく見れば、その地図の上に、タイトルとしてアイルークの名が、竜の翼を象徴する絵の中央に書いてある。
 以前、アキラも見た、マリスに届いた手紙のロゴだ。

「それで、この国の激戦区はここ。魔界への大きな“門”があるらしいんすよ」
 マリスは指を地図の上でするすると動かし、中央に広大に構えるアイルーク王国より、南西に外れた位置で止めた。
 戦場ゆえか、広大な平野がただただ広がっている。
 アキラたちは、見事にそこから遠ざかっている形になっていた。

「魔界への門……か、」
「ちょっと、そんなのどうでもいいでしょ? 魔王は今、地上にいるんだから」
 強いて言うなれば、魔王直属のガバイドも。
 どこか胸躍るようなアキラを、エレナはたしなめた。
 そこにいくのは、自分の目的にそぐわない。

「逆に、天界への門はどこに空いているんだ?」
 サクが興味深気に身を乗り出した。
 淡々とした同じ色の文字の羅列に、なかなかその名を探し出せない。

「? サクさん、知らないんすか?」
 天界への門と魔界への門。
 この二つの位置は、教養の範囲で教わるもののはずだ。
 自分の故郷であれば。

「ああ。私はこの国の生まれではないからな……。西のタンガタンザ出身だ」
「へえ……、じゃあ、エレナは?」
「……私はシリスティア。南、ね」
 エレナは、うんざりするような口調をアキラに返した。
 生まれなんて、エレナにとってはどうでもいい。

「よし、このまま北に行こう」
「その理由を、そこだけ出身者がいないからっていう理由以外で説明できる?」
「……、まあ、えっと、うん、まあ、その、理由なんか今はいいだろ」
「はあ……、」
 エリーもエレナと同じようにうんざりとした表情を浮かべる。
 この男の頭の中は、変なところで几帳面だ。

「……、でも、そうっすね……、北の大陸を目指すと……、というより、西に行くと……、」
 するすると地図の上を進んだマリスの指が、ある一点で止まった。
 そこは、北の大陸との境目付近。
 同じ色の文字だが、確かに、ヘヴンズゲートと書かれている。

「うおっ、見にくいっ」
「? そうっすかね?」
 アキラの視線の先には、そのヘヴンズゲートを囲うように様々な地名がごちゃごちゃと密集していた。
 マリスにとっては、これで十分見えるのだろう。
 彼女の所有物は、凡人が考える分かりやすく頭に入る地図である必要はないようだ。

「まあ、今さら引き返すのもあれだし、見に行こうぜ、それ」
「……、うーん……」
 アキラの提案に、エリーは唸る。
 大方、神々しい姿をしているという神族に想いを馳せているのだろう。
 確かに、マリスが苦手とする国に行くより、自分たちの婚約解消を行える“神族”に会った方がいいのかもしれない。
 それに、魔王に今すぐダイレクトアタックするよりは、経験を積んだ方がいいだろう。

 だが、しかし、

「まあ、いいじゃん、ほら、大きな町もあるみたいだし……、ここで色々情報集めようぜ」
「……、私は、アキラ君にさんせーいっ」
 『きゃはっ』と言う声が聞こえるように、エレナはすらりと長い腕を持ち上げ、満面の笑みを作った。
 このまま放浪していても、目的に近づけないようだ。
 それならば、もう少しアクティブに動くべきだろう。

「私は、アキラ様について行くだけ……、賛成も反対もない、ですね」
 サクは、当然のように頷く。

「……、決まったみたいっすね」

 四人の視線が、唸り続けるエリーに向いた。
 今エリーを止めているのは、結局アキラが最初に発した言葉通りになるのが腑に落ちないという小さなプライドだけ。

「わっ、分かったわよ! 行ってやろうじゃないっ、ヘヴンズゲートッ!!」

 一行の目指す場所は、決まったようだ。

 だがそれよりもまずは、やることがある。

―――**―――

 冒険は続く。
 その戦いの日々は、血と血で塗れ、勝者だけが生きながらえるという過酷なもの。

 だが、何故人は旅立ち、挑戦するのか。
 そう聞かれれば、一流の者は口を閉ざす。
 自分のための答えは常にあるが、万物総てに共通することがないのを彼らは知っているからだ。

 だが、一般的に言われていることはあった。

 受けたいのだ。
 勝利の誉れを。

 激闘を通し、泥まみれ、汗まみれになって、それでもその後に頬を撫でる涼風のなんと爽やかなことか。
 全力を出し切ったあとの爽快は、身体中を駆け巡り、その欲求を満たす。

 それが、欲しいのだ。

 では、何故、その快感に手を伸ばそうとしない者もいるのか。

 こちらの通説は、おおよその人に当てはまる。

 何かが、ないのだ。
 旅立つ機会や、現状に留まるものの背をどんっ、と押す手が。

 そして、その他には。

 旅することの経済的負担。

 先立つものがなければ、旅はできない。

「ぜっっったい、おかしい!! このチーム分け!!」
 そんなこんなで、とうとう底を尽きた路銀を稼ぐべく、アキラたちは魔物討伐の依頼を受けていた。
 うっそうと茂る森林の中、元気に声を弾ませているが、その内容は、現状への不満。
 そのアキラの喚きに、エリーは苛立ち、サクはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「あんたさあ……、あたしたちのこと、弱いとか思ってない?」
「アキラ様……、至らないとは思いますが、全力でお守りを、」
「そっ、そういうことじゃないっ!!」
 いい加減拳がプルプル震えてきたエリーに、奥歯をかみしめるように悔やむサク。
 エリーはいつも通りだが、主君の信頼を勝ち取れていない現状に苦汁を舐めているサクは、子犬のように眉を下げた。
 この依頼で、挽回しなければ。

「じゃあ、どういうことよ!?」
「いや、聞けよ。お前ら、俺の外れた肩を治せるのか?」
 そう聞かれれば、サクは何も言えなかった。
 エリーもサクも、治癒魔術は扱えず、アキラがもんどり打ったところで簡単な応急処置しかできない。

 アキラたちは、路銀を確保すべく、村の酒場で依頼を受けた。
 だが、依頼の中でも割のいいものは、ダブルブッキング。
 夕方までにこなさなければいけない二つの依頼は、その結果、二班に分けて行動することとなっていた。

 普通に戦えない我らが勇者様は、そのくせ意欲だけはあり、隙あらば魔物を倒したいと考えている。
 それが封殺されている現状は、アキラにとって不満を溜めることにしかならないのだろう。

「っ、と、」
 エリーは大きくせり出した大木の太い根につまずきながらも、ずんずん足を進めて行く。
 そのチーム分けにも、一悶着あったのだから、急がなければならない。

 まず、サクが主君のアキラと組むことを希望し、次に、エレナがアキラの腕を取った。
 しかし、アキラは治癒魔術が唯一使えるマリスと組むことを熱望し、これではチーム分けにならないとエリーが猛抗議。
 エレナをアキラから引き剥がせば、うるんだ瞳でアキラに迫り、話は一向に纏まらなかった。
 そこで神任せ運任せ。
 簡単なくじを作っての、文句なしの一発勝負のチーム分けの結果が、現状だ。

「てかなんだよ~っ、向こうのチーム……。何あのチートコンビ……」
「決まったことにぐずぐず言わない!! 一発勝負って言ったでしょ?」
 そういうエリーも、戦力が大きく傾いていることは感じていた。

 まず、妹のマリス。
 下手をすれば彼女一人で二つの依頼を同時にこなせそうなほどの無敵っぷりを誇っている。
 戦闘で、彼女が負傷したことさえ見たことがない。
 数千年に一人の天才のマリスがいなければ、自分たちは間違いなく生きてはいないと言い切れるだろう。

 そして、エレナ。
 彼女も異様だ。
 エリーとサクが二人がかりで殺されかけた巨体のオーガースを、彼女の細腕のどこにそんな力があったのか、軽々と持ち上げ、相手の生命力を奪い尽くし、瞬殺した。

 一応彼女たちの組には、二人と言えど、負担の大きい仕事を任せたが、森に入って早一時間。
 コミュニケーションに問題はあるだろうが、すでに依頼を終えている可能性もあるほどだ。

 それに比べて、こちらのチーム。
 この程度の依頼なら難なくこなせるはずだが、最大の問題、アキラを抱えている。
 通常の戦闘というものがまるでできない“勇者様”を守りつつ、戦わなければならない。

「てかさ、いいじゃん……。エレナがいれば、路銀くらい……」
「それはダメだって言ったでしょっ!!」
 最初は、エリーもそれを頼っていた。
 そもそも所持していた資金が尽きかけた頃、エレナが『ア、キ、ラ、く、ん、の、たーめっ』とかなんとか言いながら、大量の資金を持ち出し、切羽詰まっていたエリーは渋々その好意に甘え、その恩恵を多分に受けたのは確かなこと。
 だが、尽きることを知らないエレナの財源は、盗賊が現れたと騒ぐ村人たちによって一気に明るみに出ることになる。

 エリーは村人たちに財を返すことができなかったが、今後アキラたちにエレナの差し出す資金に手を付けることを禁じた。

「なんなの? あたしたちは……。近くの小さな村を回りながら襲う盗賊団?」
「まあ、かなり近いことをしたな。村人にはこれからも、世話になりそうだ」
「『近い』じゃなくて『そのもの』よ!! とにかく、あの女にかどわかされちゃダメ!!」
 エレナによって、すっかりその辺りの感覚が麻痺してきた“勇者様”にエリーは怒鳴り返す。
 世界を救うための崇高な旅だというのに、恐ろしく徳に反する行動は、“しきたり”的にも最悪だ。
 自分が“しきたり”によって苦悩しているのにもかかわらず、エレナはそれに従う素振りも見せない。
 エリーは未だ、彼女の腹の中が見えなかった。
 なにか、信用できない。

「そうだ、アキラ様。以前から気になっていたことがあるのですが、」
「?」
 アキラやエリーと違い、足場の悪い森林をすいすいと進みながら、サクはアキラの格好を眺める。
 服の中には簡単な防具を仕込んでいるとはいえ、相変わらずの一般服。
 武器は、ない。

「アキラ様、一般の魔物相手にどのように戦うおつもりなのですか?」
 “ボス”はともかくとして。
 一瞬そう続けそうになったサクは、そのアキラのような表現に口元が僅かに緩む。
 どうやら自分も、染められているようだ。

「まあ、確かに……、防御幕も張れないのに、とか思ってたけど……、あれ? ちょっと待って。むしろ、あんた何でここにいるの?」
「失礼だろっ、それっ、……、」
 だが、エリーが流れのまま口に出した言葉は正しかったりする。

「え、だって、村で待ってれば……、え、」
 アキラが森林に入る意味は、ない。
 今回の依頼は、そもそもエリーとサクがいれば十二分に達成できるのだ。
 そんな状況で、一撃必殺を誇るあの銃の必要性は、ゼロ。
 その上、アキラには通常の攻撃手段がない。
 防御幕も張れないそんな人間がこの森林を歩いているということは、自殺願望でもなければただの馬鹿だ。

「……」
「……」
「……」
 三人はぴたりと待って、顔を見合わせる。
 今回が初依頼のため、流れでアキラはついてきたが、下手をすれば死ぬここにいるより、よっぽど安全な村の中で防御幕の特訓でもしていた方が良かったはずだ。

「俺を……、守ってくれる?」
「うわぁぁぁあああーーっ、ほんっっとうにっ、何してんの!? あたしたち!!」
 そもそもアキラを戦力と数えていたことが間違いだった。気づけば自分の首を絞めていたエリーは、森林によく通る声を出す。

「……、……、」
 サクも頭を抱えた。
 自分が守るつもりであったが、そもそも守る必要もない場所にいてもらえれば良かったのだ。
 全員の心の中に、どこかあの銃の絶対的な光線がちらついたため、完全にアキラに対する評価を誤っていた。

「わっ、分かった、こうしよう!!」
 二人の表情に、アキラは流石に自尊心を刺激された。
 こうなったら、やってやる。

「俺に、戦い方教えてくれ!! 普通のやつを、」
「普通のって、」
 エリーも改めてアキラの姿を見るが、やはり丸腰。

「何で、武器……、持ってないの、よ……、」
 エリーの語尾は、小さく消えていった。
 そうだ。
 アキラの持っていたリビリスアークで貰った投げナイフは、自分を助けるためにスライム洞窟でばらまいていた。
 自分の、ために。

「いや、お前を助けるためにばらまいたろ。ほら、あの洞窟で」
「口に出したら台無しでしょっ!!」
 やはりどこか無神経な男の評価は、どうも上がって行きそうになかった。

「大体、あんた、どんな武器使いたいのよ?」
「えっと……、まあ、剣、かな……」
 そう聞かれれば、アキラの答えは決まっている。
 やはり異世界来訪物の勇者の武器は、剣と相場が決まっているのだ。
 世に存在する多くの物語は、勇者が剣を振りかざし、敵に向かっていく挿絵が存在する。

「……、私は、この刀しか持っていませんし……、その、」
「いや、いいって、それは、」
 ちらりと見た、サクの長い愛刀。
 アキラに差し出そうと一瞬浮かせたが、アキラはそれを制した。
 サクがその刀をいつも大切そうに手入れしていたことを知っていたし、なによりサクの武器がなくなる。
 流石に、貸せとは言えない。

「ですが、そうですね……。刀の使い方なら、村に戻ったあと、お教えすることはできます」
「おっ、おお、じゃあ、頼む」
「はい」
 剣と刀の使い方は異なるが、ある程度は通じるものがあるだろう。
 アキラが剣と刀のどちらを選択するかは分からないが、役には立てそうだ。

「さしあたって、今、どうするか、ですが……、」
 サクは、その顔を、アキラ同様ほとんど丸腰のエリーに向けた。
 エリーは単純に、両手を覆うナックルガードや急所を守るプロテクターを着けているだけだ。

「そうだな、よし、頼む。とりあえず今は、殴り殺し方教えてくれ」
「……教えてあげましょうか?」
「……!」
 エリーがアキラに向けて拳を握り締めた瞬間、サクは不穏な空気を感じた。

「……、着いてみたいね……、」
「ああ。……アキラ様、私たちから離れないように」
 エリーとサクは身構える。
 ようやく、討伐対象の魔物がいる空間に到着したようだ。

「……!」
 アキラは二人に挟まれながら、身を強張らせた。
 今、自分が見ている木の後ろの影が、僅かに動いた気がする。

「来た……。ライドエイプ」
 エリーが呟くと同時、木の陰から、アキラの胸ほどの高さの魔物が現れた。
 緑の瞳に猿のような顔つきは、全身、瞳と同じ緑色の体毛で覆われている。
 背丈のわりには小柄な体つきだが、その手は長く、直立しているのに足元についている。
 尾は短く、尾てい骨の辺りでくるりと丸まっているが、顔つきはどこか禍々しく、野生動物の攻撃本能を全体から出していた。

 この魔物が、村の食糧を漁っている故の討伐対象だが、見た目からそれ以上の被害が出ていないのは、アキラにとって信じられない。

「顔つきはあれですが……、私たちのことを、恐がっています」
「……あれで、か?」
「いきなりテリトリーに侵入されて、ってとこね……」
 エリーもサクも、身体に魔術の防御幕を張る。
 アキラは気づかなかったが、今になってようやく、そのライドエイプが一体だけではないことが見えてきた。
 木の陰から一体、また一体とわらわら姿を現し、木の上にも緑色の瞳が光っている。

「おいっ、多くね?」
「大丈夫よ……、マーチュほどじゃないけど、弱いから」
「ええ。エリーさんは、アキラ様をっ!!」

 サクはそう叫んで、ランドエイプの群れに飛び込んで行った。

―――**―――

「ギッ……キ……、キ……」
「……、あら、もうおしまい?」
 足元にぼとぼとと、ライトグリーンに発光していたランドエイプが数体落ちる。
 そして、その直後に、爆竹程度の小さな破裂音。

 二人を取り囲んでいた大量のランドエイプは、その爆発の上で妖艶に笑う一人の女性に身体を震わせた。

「ぺっ、まっず……。次は……、誰?」
 その女性、エレナは唾を足元に吐き捨てると、冷ややかな瞳を魔物に向ける。

「キッ、キキーッ!!」
 最早すべてを悟ったのか。
 ランドエイプの群れは巣を放棄し、生への一縷の望みを託し、逃亡を図る。

 だが、

「……」
 エレナの後ろから、無数のシルバーの光線が飛び、数十体の群れは各所で爆発を起こす。
 それは、この巣にいたランドエイプの全てが、終局を迎えた証でもあった。

「え……、えげつないわね……」
「……」
 エレナに言われたくはなかったであろうが、ランドエイプを全滅させたマリスは表情にも出さず、ただ、半分の眼を先に道に向けただけだった。

「てゆーかぁ、ランドエイプはあっちの担当でしょ? なんでこっちにもこんなにいんのよ」
 マリスとエレナの二人は、自らの討伐対象への道を歩き出す。
 通行ルートだけ、ランドエイプの巣を駆除しているが、これでもう三度目。
 下手をすれば、ランドエイプの巣の駆除がメインの向こうより遭遇している可能性すらある。

「……」
「……」
 エレナは無口な少女と、討伐対象への道を急ぐ。
 こんな、木々のせいで薄暗い空間に長居はしたくない。
 労力がかかる上に稼ぎも少ない依頼が嫌で、自己流の路銀の稼ぎ方をしていたのだが、あの正妻に止められたせいで、カタギの仕事をする羽目になってしまった。
 アキラが行くと言い出していなければ、自分はきっと、村の宿舎でのんびりくつろいでいただろう。

「……、てかさ、あんた、ほんっとにあの夫婦がいないと無口なのね」
「……」
 普段、挨拶程度しか交わさないマリスとまともな会話をした覚えはない。
 その無音ぶりは、足音まで聞こえないというほど徹底している。
 それは、薄暗い森林をまるで一人で歩いているような錯覚さえしてくるほど。

 常にアキラの近くにいるせいで会話をよくするサクに聞いたところ、サクもマリスと会話できるようになったのは、しばらく付き合ったあとだったそうだ。

「その魔術……、木曜属性の魔物相手でも有効なんすね」
 ようやく、マリスが口を開いた。
 半分の眼が向いたのは、エレナがパンパンとはたいている手。
 木曜属性のキュトリムを放つその両手に掴まれたものは、魔力どころか生命力さえも奪い尽くされ、同じく木曜属性のライドエイプさえも絶命する。
 その上、魔物を片腕で数体持ち上げる、細腕からは想像もできない腕力。
 マリス同様、明らかに、このメンバーの中でも格別の強さを誇っている。

「あんたも流石に月輪属性ってとこね……。こんな片田舎でよくまあ満足していられるわ」
 賛辞のような言葉も、エレナの興味の薄そうな顔では半減する。

 日輪、月輪以外の五属性には、相性というものが付きまとう。
 謎に包まれているとはいえ、月輪属性には明確な弱点が存在しない。
 強いて言うなれば、同じく謎に包まれている日輪属性程度だが、それでもその希少さゆえ、月輪属性は無類の強さを誇る。

「あんたさぁ……、戦闘が楽になる補助魔術とか、使えないの?」
「使えるっすよ。速度上昇、とか」
 適当な質問に、返ってきたのは肯定の言葉。
 エレナは半ば呆れながら、かつてどこかで聞いた話を思い出した。

 月輪属性の者に、できるかできないかで聞けば、当然のようにできると返ってくる。
 “一般に考えられる魔法”。
 それが、月輪属性が操る力だ。
 “魔術”と“魔法”という言葉は、ほとんど混合して使われている。
 だがその実、学問として習えるのは魔術だけ。
 魔法とは、空想の世界の存在と考えられているからだ。

 魔法の域にある能力を、解明し、誰しもが習得できる魔術に変えていく。
 それが、五属性には当てはまる。

 だが、全く解明されていない日輪属性は元より、月輪属性は、“魔法”を使えるのだ。
 相応の魔力が必要だとしても、それでは、“不可能”という概念すらない。

 それが、月輪属性。

「じゃあ、私にその速度上昇かけられる?」
「かけられるっすけど……、身体に負荷はかかるっすよ」
「……じゃ、いらないわ」

 だが、そんな月輪属性でも、自分に関係がないのならばエレナの興味は薄れていった。

「……」
 欠伸を噛み殺しながらいい加減に歩くエレナを見ながら、マリスは、サクのときのような疑問を持ち始めていた。
 アキラについてきたこの女性の、“中”が見えない。
 あのとき、サクがアキラ抱く感情が“そういうもの”ではないと知って、興味は薄れた。
 だが、今、目の前にいる女性はどうなのか。

「エレナさん」
「? なによ」
 エレナの猫撫で声の対象に、女性は含まれていないらしい。
 せり出した木の根を苛立たしげに避けて歩くエレナの口調には、配慮というものがまるでなかった。

「エレナさんは、にーさんのことどう思ってるんすか?」
「?」
 気づけば、マリスはサクのときと同じ問いを口に出していた。
 アキラに近づく女性全てに聞いている気がする。
 何故自分は、こんな審判のようなことをしているのだろう。
 アキラは、自分の姉、エリーと婚約しているというのに。

「アキラのこと?」
 亜麻色の髪を手の甲で撫で上げ、エレナは僅かに眉を寄せて聞き返した。
 口調はやはり、アキラに対するものとは違う。

「好きよ」
 だが、あっさりと、それが何でもないことかのように、エレナは言い放った。

「っ、それは、」
 マリスはまた、口を噤んだ。
 どうしても、日輪属性に惹かれているだけ、という言葉が吐き出せない。

「ええ、分かってる。アキラが日輪属性だから。でも、それでよくない?」
「……?」
 エレナは僅かに歩幅を緩め、マリスに並んだ。
 隣に来ると、エレナのスタイルの良さが木陰でも良く分かる。

「人を好きになる理由なんてさ……、何でもいいのよ。その人がお金持ってる、とかでも」
「……、なんか、違うっすよ……、それ。その人が好きなのは、お金ってことじゃないっすか」
 マリスの脳裏に、エリーの部屋にあった本が思い浮かぶ。
 あれでなかなかファンタジーな話が好きな姉は、漫画をはじめ、色々な物語を読んでいる。
 その話の中には、流石に年頃の少女ということもあり、若干過激な内容のものも含まれていた。
 そのせいで、妙に歪んだ知識が頭に入っているようだが、その物語は一様に、人を好きになるべくしてなっている。
 彼女たちは、好きな相手を好きになる、確かな理由があった。

 便利だから、好きなのではない。
 好きだから、好きだったのだ。

「大差ないわよ。例えばよく聞く、『優しいから好き』、なんて言葉、あるじゃない」
「……?」
「じゃあ、その人よりもっと優しい人が現れたら、その人は乗り換える?」
「……」
 そう言われると、好きになる理由とは、どこまでも、漠然としていると感じる。

「そんなもんよ……。お金を持っているから好きってのも、優しいから好きってのも、スタートに過ぎない。そうなんじゃないの?」
 エレナは僅かに眉を寄せ、どこか興味の薄そうな表情を浮かべた。
 その辺りのことは、エレナも漠然と思い描いているだけのようだ。

 だが、分からない。
 マリスの頭でも、その話が分からない。
 だけど、何故、自分が、みなに理由を聞いていたのかは分かった気がする。
 自分は参考にしようとしていたのだ。
 彼女たちの、理由を。

「だから私は、アキラが“日輪属性”だから好き。一発芸だけど強いから好き。利用価値があるから好き。シンプルで、いいじゃない?」
「……」
 エレナの言う“好き”が、なんとも軽く耳に響く。

 やはりこの人は信用できない。
 マリスは、眉を下ろした。

「だから、」
「?」
 エレナは足を止め、妖艶な笑みをマリスに向けた。

「日輪属性に惹かれるってのは、十分人を好きになる理由になるんじゃないの?」

「……、」
 マリスは言葉を、返さなかった。
 だが少し、胸のつかえは取れた気がする。

「あなたも結構……、おいしそうね……」
「……!!」
 ようやくエレナとの距離が近すぎていたことに気づき、マリスが身の危険を感じたとき、

 二人は、森の開けた草原に到着した。

―――**―――

「っ、」
 イエローの閃光が、ライドエイプを両断した。
 相変わらず、サクの初激は速い。

「―――」
 そのままの勢いで、サクは長刀を流し、跳びかかろうとしたランドエイプを横切りに薙いだ。
 速度は、やはり鋭いが、初激よりは僅かに遅い。
 アキラには、ようやくサクの初激の居合い切りが、足に魔力を溜めての跳躍だということに気づけた。

 長い刀を手足のように扱い、ランドエイプは次々に戦闘不能の爆発を起こす。
 ランドエイプは、その風切り音が、自分の命を絶っていることにすら気づいていないだろう。
 凛々しく表情を引き締めているサクは、魔術とは別に、木陰の中でも輝いて見える。
 動いてはだけた胸元は、アンダーウェアの上からでも、サクの身体のラインを浮き出たせていた。

 いい。
 いや、その、刀での戦いが、だ。

「ふっ、」
「!?」
 サクに見惚れているアキラの眼前で、スカーレットが爆ぜた。
 いつの間にか正面から襲いかかってきたランドエイプは、エリーの一撃の前に吹き飛ばされ、即座に爆発を起こす。
 こちらも、一撃だ。

「っ、ちょっとっ、ぼうっとしてないで!!」
 戦場において呆けている“勇者様”の護衛を務めるのはエリー。
 木曜属性に相性で勝っている火曜属性の彼女の一撃は、例えその人物が呆けていても、守り切る力があった。
 わざとやっているのか、ときおりアキラの直前まで魔物を攻め入らせると、十分に引き付けてからのエリーの一撃がカーレットに爆ぜる。
 近くで見ていると、格闘スタイルもいいものだと思うのは、何故だろう。

 そんなこんなで、森林各所で爆発を起こし、ランドエイプの群れは姿を消した。

「終わった……な」
「はあ……、まだ、はあ……、終わりじゃ、はあ……、ないわよ」
 荒い息遣いを整えると、エリーはアキラの腕を引き、離れたサクに近づいた。

「そうです。ランドエイプの巣は、恐らくまだ森の中にいくつか……、」
 依頼内容は、ランドエイプの全滅ではなく、単純に村の近くから追い払ってくれればいいそうだが、この分だとまだまだ巣は大量にありそうだ。

「見ているだけでも参考になったかどうか……、アキラ様、どうですか?」
「すごく……、いいと思いました」
「へ? わぁぁああっ!?」
 アキラはサクの衣服の乱れを直視し、久々に顔を赤くさせ、慌てて直す様子に顔を緩ませ、スカーレットの光が視界の隅に入って跳び退いた。

「お前さ、何? それって人を殺す予備動作だぞ?」
「違うわよ。来てるの……!!」
「……!」
 気づけば、いつの間にかランドエイプが現れていた。
 他の群れの魔物だろうが、空きが出た巣に現れるのが随分と早い。

「……? こいつら……?」
 サクは表情を引き締め、ランドエイプたちを怪訝に睨む。
 魔物の顔は相変わらず禍々しいが、その表情は、先ほどの群れより遥かにいきり立っていた。

「なんだよ、こいつら……!?」
 アキラもようやく表情の差というものが分かったのか、身体をこわばらせる。
 完全に、自分たちを敵視していた。

「まさか、ボスが近いのか……!?」
「悪いけど、ボスはいないわよ……。それを任せたのは、あっちの組」
「恐らく……、あちらの組から離れた魔物……だろうな」
 サクの推測は当たっていた。
 この森の魔物のレベルからしては、まるで災害に遭っているように無抵抗に殺される、あの二人の組との遭遇。
 その二人の進路に巣を構えていたランドエイプは、当然のようにその巣を放棄し、空いた巣を探してうろついていたのだった。

「はっ、俺たちも舐められたもんだぜ」
「……、気が済んだら下がってて」
「―――」
 エリーが構え、サクが突撃していく。

 どうやら今回は、アキラの出番はなさそうだ。

―――**―――

「てかさ、多くない?」
「……」
 マリスはエレナの言葉通りの大群を前に、眉を少しだけ下ろした。

 森林の中の開けた草原。
 そこには、長身のエレナの背丈も越える、緑色の魔物が密集していた。
 身体は野生の筋肉を纏い、威嚇するように分厚い胸板を叩いている。

 この、ゴリラのような魔物はクンガコング。
 マリスたちの組の討伐対象だ。

「一体だけって、聞いたわよね?」
「……、自分も、そう聞いたっす」
 ランドエイプのボスのような姿のクンガコング。
 それが今回、森の中で目撃され、怯えた村の者が依頼を出したそうだが、その数は、たったの一体。
 そのはずだったのに、目の前にいる数は、群れとして数えるのが相応しい。

「ったく……。これだから依頼って嫌いなのよ……。いい加減な感じが」
 エレナは気だるそうな声を吐き出し、冷徹な瞳を浮かべたまま、群れに近づいて行った。
 通常の者なら、この依頼の訂正を求めて村に戻るだろうが、そうすることも億劫だ。

「ま、始めましょ」
「……っすね」
 マリスがエレナの背中に声を返したところで、エレナに近かったクンガコングが飛びかかって行きた。
 しかし、それを避けるそぶりも見せず、エレナは右腕を突き出す。
 その手は、クンガコングの首を正確に捉え、絞め上げるようにその巨体を持ち上げた。

「グゴォォオオッ!!?」
「……!」
 クンガコングが悶え苦しむ。
 だが、マリスの目には、エレナが魔術を使っているようには見えなかった。
 ただ単純に、握力だけで、クンガコングの首を絞めている。

「最初に……、教えとかないとね……。どっちが上か」
「ガフゥッ!!」
 宙で悶えていたクンガコングから奇妙な音が漏れたかと思えば、その手足をだらりと下げた。
 そして、エレナは、力ずくで群れの中央に、絶命したクンガコングを投げ込む。

「ふぅ……、次は……、誰?」
 群れは、仲間の爆発を見届けなかった。
 最警戒対象となった目の前の危険人物に、全神経を張り巡らせる。

「あら? 逃げないの? 面倒ね……」
 流石に、一応は魔族の使い魔というだけはある。
 ライドエイプより力の高いクンガコングは、自己生命よりも、敵を滅することに集中するらしい。

「なら―――」
 エレナが次の獲物に襲いかかろうとした瞬間、目の前の数体が、上空からの光に貫かれた。

「……、」
 一瞬呆気にとられ、無防備に見上げてみればシルバーに輝く飛行物体。
 マリスはマントをはためかせ、ふわふわと浮かび、草原全土を見渡しているようだった。

「流石に……、あれはチートね……」
 あの高さでは、クンガコングは成す術なく殺されるだろう。
 エレナは妖艶な笑みを崩さないまま、魔物群れに突撃して行った。

「―――レイディー」
 マリスは適度に魔術を討ち下ろしつつ、エレナの戦いを観察した。
 エレナはゆっくり歩くように魔物に近寄り、その腕でクンガコングを絞め上げている。

 あのような緩慢な動きでは、集団戦に向かないと思ったのも束の間。
 エレナを囲んで跳びかかったクンガコングは、途端、対象を見失う。
 エレナは襲われる瞬間、俊敏な動きを見せ、窮地から離脱。
 襲いかかったクンガコングの背後を取り、再び絞め上げる。
 どうやら、面倒臭そうな顔そのままに、全力で動いていないだけのようだ。
 もしエレナの速度が不足しているようであれば、動きを上げる補助魔術でも使おうと思っていたのだが、その必要は全くない。

 “自分同様”、次元が違う。

「……キュトリム」
 今度は二体を同時に絞め上げ、エレナはライトグリーンの魔力で“味見”を行う。
 ランドエイプよりは、木曜属性の濃い魔力を感じるが、やはりクンガコング程度ではエレナは満足できない。
 小規模な爆発を背に、エレナは単純にクンガコングを絞め殺し続ける。
 その自分の姿には、いくら使い魔とはいえ、恐怖を感じていることだろう。
 恐怖は必要な感情なのだろうが、時として動きを鈍らせる。
 そのことをよく知っているエレナは、徹底的にクンガコングに恐怖を刷り込んでいく。

 だが。
 あるいはクンガコングは、自分に恐怖を感じていないのかもしれない。
 確かに、エレナをある程度は恐れているが、さらに危険な対象が頭の上に浮かんでいては、それも薄れるのだろう。

 空を行く、マリス。
 全てのクンガコングは、どう足掻いても抵抗できない存在から降る、落雷のような閃光に身体を震わせ、それを紛らわすようにエレナに跳びかかっていた。
 しかも、マリスが自分のように全力を出していないことは容易に見てとれる。

「……」
 エレナは、思う。
 マリス“も”完成され過ぎている、と。

 一発芸とは言え、チーム内で最強の力を誇る、アキラ。
 数千年に一人の天才と言われ、その実力も折り紙つきの、マリス。
 そして、エレナ。

 この“勇者様の御一行”には、チートレベルの存在が溢れている。
 最終局面というのなら、このくらいの力を持っていなければ、とても魔王一派とは戦えないだろう。
 だが、今は何だ。
 話を聞く限り、旅を始めた直後だそうではないか。

 残るエリーとサクも十分に強いが、自分たちと比べると天と地ほどの差がある。
 だが、エレナは思う。
 あれ位が、妥当ではないか、と。

 仮にこれが何かの物語を形作っているとすれば、自分たちは異物だ。
 敵が、敵ではなくなってしまう。

「……っ、」
 跳びかかってきたクンガコングを掴むのも億劫で、その禍々しい顔を殴りつけてやった。
 それだけで、クンガコングは起き上がれずに、爆発を起こす。

 やはり、弱すぎる。

「……」
 気にしていても仕方がない。
 自分たちは集うべくして集った、などという運命は信じないつもりだが、エレナは何故か、運命のようなものを感じていた。
 自分の思考が、信じられない。
 だが同時に、その運命に不自然さも感じてしまう。

 そして、その運命の導き手。
 それは、アキラ。
 いや、あのアキラの持つ、絶大な力、だ。

「“別の興味”も出てきたわね……。あの力の出所……、とか」
 エレナは目の前のクンガコングを、全力で蹴り飛ばした。

―――**―――

「うおっ、できた……!! 見てっ、見てくれってっ、これっ!!」
 ライドエイプの巣もこれで、ようやく二桁。
 そんな戦闘が終えた頃、エリーの隣の男が、途端動きを止めたと思えば、子供のように喚き出した。

「……、って、え、」
 エリーがまた妙なことを始めたかとアキラを見れば、その身体の表面に、確かな魔力の波動を感じた。

「これっ、防御幕だろっ、なあっ、なあっ、」
「え……、ええ、え、何で?」
 まだまだ微弱という評価をせざるを得ないが、アキラの身体は確かに防御幕を纏っている。

「アキラ様……、それは確かに……、え、」
 戻ってきたサクも、アキラの歓喜の声に、戸惑ったような言葉を返す。

「いや、なんかさ、こいつの近くで見てたら、なんか分かって……、」
「そっ……、それで、」
 確かに今の戦闘中、今までサクに向いていたアキラの視線が妙にくすぐったかったが、まさか防御幕を学ぼうとしていたとは。
 思わぬ殊勲な心がけに、エリーは目を丸くせずにはいられない。

「ほらぁ、言ったろ? 経験値は馬車の中にも入るんだって」
「ま、まあ、良かったわね」
 アキラの防御幕の指導を行っていたエリーは、素直に生徒の成長に賛辞を投げかける。
 間近で何度も自分を見て学んだ、というのも、悪い気はしない。
 本当に、良かった。

「確かに……、見学、という意味では、アキラ様はいて良かったですね」
「いやほらさ、身体の一点に魔力を集めて……広げる、だっけ? そしたら、さ、」
「……、」

 そんなこと、あたしは教えてない。教えられていない。
 変わらず子供のようにはしゃぐアキラと、その成長に微笑むサクを、近くにいるのに遠く見ながら、エリーは小さく呟いた。

「……って、違う」
「? どしたよ?」
「何でも、ないっ」
 気にし過ぎだ。
 そうだ、“そもそも何でもない”。
 エリーは、今度は心で呟いた。

「それより、あんた。それで動けるんでしょうね?」
「え、ああ、多分……、」
「……、」
 エリーのようにパンチを繰り出すアキラ。
 だが、防御幕は珍しく、その身体に留まったままだ。

「……よし。じゃあ、次は殴り殺し方教えてくれ」
「だから言葉を選びなさいっ!!」
 何故この男は、自分の気持ちを持ち上げてみたり、落としてみたり、落としてみたり、するのだろう。
 いや、今それはどうでもいい。いや、でも。
 エリーの頭の中は、もやもやとしたままだ。

「ようやくレベルが上がった気がするぜ……」
「パララパッパッパーって言って欲しい?」
「ああ」
「言うかぁーっ!!」

 だが事実、アキラの力は上がっている。
 超絶的な、あの銃やマリスやエレナ。
 その三つからアキラを隔離すれば、学習できるようだ。

 身の丈に合った相手との戦い。
 もしかしたらそれが、アキラにとって一番の経験になるのかもしれない。

 逆の言い方をすれば。
 その三つが、アキラの成長を阻害しているとも考えられるが。

 マリスやエレナはともかくとして、あの銃は、何故ここにあるのだろう。
 無ければ、少なくとも自分は死んでいた。
 それは、何度も思っていること。
 だが、どうしても。
 やはりあの銃は、アキラの身の丈に合ってはいない。

「パラララ?」
「違う。パララパッパッパーッ、だって」
「パララッ、……、うぅ、もう許して下さい」
「サクさん。こいつの言うこと、もう聞かなくていいから」
 アキラの奇行を阻止し、エリーは歩き出した。
 次の、身の丈に合った魔物、ランドエイプを探し出すために。

 アキラ、サク、そして自分。
 この三人が、アキラにとって、最もよく合っているメンバーのような気がする。
 あの銃もなければ、アキラはきっと、自分に合った武器をここに持ち込んでいたはずだ。
 そして、もしマリスがいなければ、自分たちは強行突破的にクロンクランを目指さなかったかもしれない。
 もっと慎重なルートを採ったのではないだろうか。

 そして、今の成長。
 やはり、妙だ。
 あの銃の送り主。
 勇者の力で済ましてきたが、そろそろ本格的に考える必要はないのだろうか。

「これも……、気にし過ぎ、か」
「? 何が―――」
 謎解きはおしまいだ。もやもやも、置いておこう。
 今は、ピースが少なすぎる。
 同じ言葉を今度は呟き、エリーが何気なく森林を見上げた瞬間、森の鳥たちが、一斉に羽ばたいた。

「―――!? って、何だ!? ボスか!?」
「っ―――」
 サクは警戒を強め、アキラを庇うように背後に立つ。

「……、違うみたい。ほら」
 だが、エリーは視線を上げたまま、冷静に返した。
 エリーの視線の先には、背の低い木々。
 その向こうに、見慣れたシルバーの飛行物体がちらちらと見える。

「マリス? あれ、マリスだよな?」
「ええ、そのようです」
 サクも警戒を解き、ただその存在を見上げる。

「どうやら……、向こうの組も近くにいるらしい」
「そうね」
「よし、じゃあ見に行こうぜ!」
「ちょっ、」
 防御幕に成功し、気が大きくなったアキラはずんずん進んで行ってしまう。
 “そこ”は、今行くべきではない。
 そう、エリーは感じているのに。

 だが、駆け出すアキラを止めることもできず、ただその背を追うことしかできなかった。

―――**―――

「……! 何よ……、ボス猿?」
「……、みたいっすね」
 マリスもエレナの横に一端降り立って、のんびりとした半分の眼で現れたそれを見上げた。
 未だ数の減らない魔物の群れの向こう、その倍ほどの姿のクンガコングが現れた。
 仲間の度重なる死を受け、いきり立って胸を強く叩いて威嚇している。

 だが、その程度だ。
 マリスもエレナも、現れたその魔物に、そんな程度の感想しか出なかった。
 現に空からその魔物の接近が見えていたマリスも、エレナに伝えようともしなかったのだから。
 大きいと言っても、あの巨大マーチュやマザースフィアほどの威圧感はない。
 単純に、身体が大きいだけの魔物。

 その魔物に従うように、今まで暴れていただけのクンガコングたちは、隊列を作り始める。

「ふぅん……。少しは知恵があるんだ」
「……」
 エレナの小馬鹿にするような言葉を聞きながら、マリスは再び宙に上がった。
 どの道、あのボスのサイズでも、マリスに攻撃は届かない。

「―――ふぅ、楽そうね……、上は」
 そう呟くエレナも、すでにクンガコングを新たに数体倒していた。

「レイディーッ!!」
「……キュトリム」
 そして、始まる。
 二人の存在の、狩りが。

「キィィィイイーッ!!?」

 マリスが遠距離から光を飛ばし、エレナが近接的にクンガコングを潰す。

 この森総てのクンガコングがこの草原に密集し、二人の外敵に抗う。
 ボスの指令か、ライドエイプも駆り出され、全戦力を持って自分たちを守ろうとする。
 だが、それらは総て、魔力に焼かれ、魔力を吸われ、一様に破壊されていく。

「行くっすよ―――」
「!!」
 上空から聞こえたマリスの声は、エレナに警戒を促していた。
 一体何をと見上げたエレナは、即座に、その危険性を理解する。

「―――レディクロス!!」
「っ―――!!?」
 これには流石にエレナも驚いた。
 マリスが両手を交差するように薙いだ瞬間、時空が歪み、宙に十字の“爪痕”が残った。
 そして、そこから無数の矢が現れ、草原に降り注ぐ。
 全てがシルバーの魔力に包まれた。

「っ、う……くっ、」
 土曜属性のギガクウェイクに匹敵する、月輪属性の上位魔術。
 エレナが自らも攻撃対象に含まれていることに気づくのに、時間は要らなかった。

「んっ、……う……あんっ!!」
 自分に降りかかる魔力を、両手を掲げて吸い尽くし、エレナは身体を震わせた。
 危なく、許容量をオーバーするところだった。

「……、……、……、ちょっ、ちょっと……!! あんた私も殺す気!?」
「結構手加減はしたっす……、それに、エレナさんなら耐えられると思ったんすよ」
 隣に降り立ったマリスは、しれっとした表情でエレナの怒気を返す。
 確かに、この魔術は危険すぎる。
 広範囲攻撃の上、威力も絶大。
 自分以外であったら、間違いなく耐えられなかった。

 目の前の、群れのように。

「……、むごっ」
「嬲り殺すエレナさんに比べれば、マシだと思うんすけど」

 草原も焼かれ、焦土と化している。
 目の前のランドエイプやクンガコングは、総て身体を焼かれ、所々で爆発を起こしていった。

 ただ一頭、倒れ込んで身体を震わすボスを除けば。

「あれに止めを刺せば、しゅ~りょ~~ってとこね」
「……! いや、」
「……はぁ……、何匹いんのよ」

 またも森林からわらわらと現れたクンガコングの群れに、エレナはうんざりとした表情を浮かべ、しかし、足を前へ進める。
 だが、その手を、マリスが止めた。

「何か……、おかしいっす」
「?」
 マリスの視線の先には、クンガコングの群れ。
 しかし、そのクンガコングたちは、今までのように二人に襲いかからず、守るような陣を取った。
 戦闘不能の爆発を待つばかりであるような、ボス猿の周りに。

「あれ……、」
「ああ。どうせ庇ってんでしょ」
 エレナは何てことのないように、その群れに冷たい視線を向け続ける。
 だが、歩き出すように進めた足を、ぴたりと止めた。

「あれ。何で庇ってんのか分かる?」
「?」
「あんな死にかけのボス猿を……。ボスってのは、群れの一番強い奴ってことでしょ」
「……」
 エレナの言葉は分からない。
 だけど、マリスは、その言葉を聞き洩らさないように顔を向けた。

「ぶっちゃけ好きだから、でしょ。最初はみんなあの猿に負けて、群れの下っ端になった。それが、スタート。だけど今は、それはもう関係なく、あのでかい猿が好き。それって、何かに似てない?」
「……」
 マリスは言葉を、返さなかった。

「ま、そんなもんなんじゃないの? さ、終わらせましょ」
「……っすね」

 マリスはもう、飛ばなかった。
 そんな必要はない。
 無情な戦いだが、決着は、もう着いている。

―――**―――

「っ……」
 エリーは見た。
 木々に隠れながらも、にわかには信じられない光景を。

 異物たちの共演。

 それは、依頼内容からかけ離れた数のクンガコングを総て滅し、現れたボスも特別な存在としてすら扱わず、もう終わらせようとしている。
 こんな光景を見せつけられては、自分たちは“そこ”にどう足掻いてもいけなさそうだ。
 巨大マーチュ戦のときも、マリスが自分たちを気遣って力をセーブしていたとしか思えない。

 目の前の草原に、結界でも張ってあるかのような壁が、確かに見えた。

「これ、は……」
 サクも、目の前の蹂躙に言葉を出せなかった。
 魔物たちは、自分たちにとって害ある存在、
 そんなことは分かっている。
 だが、目の前の光景を見せつけられては、ボスを庇うクンガコングたちが、あまりにも哀れだ。
 身近な人間の所業とは思えない。
 今までの常識総てが、消し飛んだ。

「…………、おお……、す……げ……、」
 一人、目の前の光景に、かえって士気を上げている者がいた。
 勇者様こと、アキラだ。
 確かにこの人物は、今マリスが放った上位魔術よりも遥かに威力の高い一撃を繰り出すことができる。

「だが……、はっ、とろとろやってやがんな……、よし、ここは、」
 いてもたってもいられなくなったのか、アキラは手のひらに光を集め始めた。

「ダメッ!!」
 だが、その光はエリーに手をグンと引かれ、四散する。

「なん、だ、よ……?」
 アキラは突然の妨害に顔を歪めたが、エリーの顔つきに、身体全ての動きを止める。
 エリーの顔は青ざめ、震えながらもアキラを見上げていた。

「お願い……、それは、止めて……」
 懸命に。
 祈るように。
 エリーはアキラを見上げ続ける。

「お願いだから……、あんたはあっち側に行かないで……!!」

 泣きそうな顔で腕にしがみつかれて、アキラは動けなくなった。

「あ……、ああ、」
 アキラがなだめるように声を返したとき、広場からボスの爆発音が聞こえてきた。

―――**―――

『いやぁぁぁああんっ、アキラくぅんっ、恐かったよぉっ』

 そんな甘い声が、別の意味で脳裏に刻まれ、今なお鳴り続ける。
 だがアキラはそれを振り払い、身体を伸ばし続けていた。

 昨日の依頼が終わり、今日は出発の朝。
 普段の時間に比べれば、遥かに早く。

 アキラは宿舎の庭で、入念に身体を伸ばしていた。
 すでに、軽く走ってきている。
 身体は、熱い。

「……」
 だが、エレナの声を吹き飛ばしても、脳裏に残るのは昨日の惨劇、そして、儚げなエリーの表情だけは付き纏う。

 別次元の戦い。
 それが眼前で繰り広げられ、虚勢は張ってみたものの、やはり身体は震える。

 だが、これで任せっきりにしていては、また、彼女はあの表情を浮かべるのだろう。
 それが脳裏にちらつき、アキラは自動的に目が覚めていた。

「……、って、違うっ、」
「? あんた。何一人で騒いでんの?」
「……!」
 十分に身体を伸ばし終えたところで、エリーが庭に入ってきた。
 姿はいつも通りの運動用のもの。
 アキラとコースは違ったようだが、どうやら彼女も走っていたようだ。

「珍しいわね……、あんたがこんな時間に」
「……、お前はいつもこんな時間から始めてんのか?」
「ううん。今日は早め」
 エリーは小さく欠伸をし、アキラの隣で身体を伸ばす。
 表情は少し優れないが、どうやら昨日の光景に、塞ぎこんではいないらしい。

 良かった。
 アキラは何故か、そう思った。

「ちょっと、背中押してくれない?」
「……あ、ああ」

 アキラは座り込んだエリーの背を優しく押した。
 背中の体温が手のひらに伝わると、何故か安心し、しかし、鼓動は早まる。
 エリーの鼓動も、伝わってきた。

「変なこと……、考えてる?」
「いっ、いやっ、」
「……そう」

 静かに、互いの身体を伸ばす。
 二人とも、何故早いのかは聞かない。
 ただ淡白に、準備を進める。

「今日は忙しいかもね……。ほら、あんたの、」
「あ、ああ……、武器、だろ」
「うん」

 静かな会話だ。
 思えば、エリーとこういう時間を過ごした覚えはあまりない。
 記憶の最後の静かな会話は、スライムの洞窟辺りだったろうか。

「……! あ、」
「……!」
 エリーが立ち上がりながら、静かに宿舎を見た。

「……、邪魔するのも……、どうかと思ったのですが、」
「ぜんっっっ、ぜんっ」
 ザッ、とアキラから距離を取って、エリーはサクを招き入れた。

「何だ……、みんな考えることは同じか」
「あんたがここにいるのは驚きだけどね」
「そう、かな……」

 アキラは目を瞑って、魔力を身体に流し始める。

 まだまだ頼りなくて情けない勇者様。
 それが、少しずつ、変わっているような。

「ふぅ……」
 エリーも息を吐き出して、魔力を込める。

 昨日の光景は、幸いにも、プラス方向に働いたようだ。
 自分も、アキラも、サクも。

 今は眠っている超人たちには届かない。
 だけど、いつかは。

「さ、始めましょうか」



[12144] 第六話『声が届く場所』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/04/19 01:04
―――**―――

 男は旅立つ。
 戦地へと。

 その後ろ姿に声をかけようとして、しかし、口を閉じた。
 自分が邪魔をしていいものか。
 目の前の男の力は絶大で、戦地に赴けば勝利を勝ち取れる。
 だが、自分はそれが嫌だと思う。

 このままでは、彼が遠い世界に行ってしまうのだ。
 届かない場所へ。

 自分も“そこ”を目指している。
 だけど男は、あらゆる過程を省いて、一瞬でそこに到達できてしまう。
 それが、嫌だ。

 彼がその力を使えば、誰もが目を奪われる。
 だが、それは、彼に、じゃない。
 彼の力に、だ。

 そのとき、一体誰が彼を見てくれるのだろう。
 彼は自分から、遠く離れてしまうのに。

 気づけば自分の手は、男の腕を取っていた。
 振り向く男にすがるように抱き付く。
 そして、男を見上げながら、口を開く。

『お願いだから……、あんたはあっち側に行かないで……!!』

「……、」
 エリーはそこで目を覚ました。
 長い綺麗な赤毛を背中に垂らし、寝起きの顔も、同じく赤い。
 鼓動は速く、息も若干乱れている。

 脳が再起するまでの時間は多く必要で、

「う……、うなーーーっ!!」

 そして悩みも多かった。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「悪夢よ、悪夢。ナイトメア」
 エリーは朝の鍛錬に向かうべく、宿舎の廊下を大股で歩いていた。
 口から出るのは大きな独り言。
 そして、早朝独特の冷ややかな空気と埃臭い廊下の匂いを肺いっぱいに吸い込み、盛大に吐き出した。

 思い出すのは、いや、ここ連日見る夢に思い出させられるのは、五日前の自分の痴態。

 別に、送り出せばよかったのだ。
 超人二人の元へ。
 そして、あのバカには肩の骨でも外し、精一杯呻いてもらって、それで終了。
 そうすれば、今後完全に無視を決め込み、そのまままっすぐに魔王の元へ。
 完璧だったはずだ。

 それなのに自分は、あの男の腕に弱々しくしがみつき、何を口走ったのか。

 所詮、あの男との関係なんて、不慮の事故による婚約。
 打倒魔王の報酬として、その婚約を破棄するつもりだというのに。
 勇者の力とやらを使わせ続けるのが、最短ルートのはずだ。

 それ、なのに。

「う……、ああああ~~っ!!」
「……、お前最近いつも発声練習から始めるけど……、それ、なんかのおまじない?」
「っ!?」
 ビダッ、と大地に音を響かせ、エリーは急停止。
 目の前の、寝不足の原因の男、アキラは、宿舎から奇声を発しながら出てきたエリーに怪訝な顔つきで振り返ってきた。

「……、随分早いじゃない」
「はっ、今日で勝ち越しだからな。三勝二敗」
「っ、あんたも数えてたってわけね……!」

 アキラが早朝にこの場に顔を出すようになったのも、五日前からだった。
 一体いつまで続くのかと、エリーは冷ややかな視線を送っていたが、その予想に反し、アキラは連日ここに顔を出している。

 しかも、自分よりも早く、だ。
 エリーの中で、ある種早起き対決のようなものが始まっていたのだが、どうやらそれはアキラも同じらしい。

「ほら、走ってこいよ」
「……、っ、上等じゃない。これから遅く起きた方が、長く走るってのどう? 村一週とか」
「はっ、勝てると思ってんのかよ?」
「……?」
 アキラの妙な自信を感じ取り、エリーは眉を寄せた。
 エリーの知る限り、アキラは絶望的に朝に弱い。
 そして、妥協にふんだんに塗れている。

「ま、朝起きるのにもコツがあってだな……、」
「……! ああ、エリーさん。おはよう」
「……、人に起こしてもらうって?」
 得意げに語り出したアキラの向こう、着物を羽織った女性が姿を現した。
 トレードマークともいえるその紅い着物と、トップで結って垂らした短いポニー。
 現れた女性、サクは、未だ眠気の残る二人と違い、すっと背筋を伸ばして立っていた。

「ひっ、卑怯よっ! あんたっ、」
「何とでも言え。勝つにはこうするしかなかった」
「……せめてあんたと勝負したかったわ」

 二人のやり取りに微妙に首をかしげているサクをエリーは横目で見やった。
 彼女は、異常なほど朝に強い。
 一人で旅を続けてきただけはあって、ベッドから瞬時に起き上がれるそうだ。

 それは、サクの主君たるアキラはその時間に起きられるのと同義。

 対してエリーは“あの悪夢”のせいで最近調子が悪い。
 この戦いは、大きく不利に傾いていた。

「ほら、ダッシュ」
「おっ、覚えてろ~っ!!」

 エリーは朝から元気に駆けて行った。
 あの様子だと、村の者たちを起こして回ることになるかもしれない。

「……、ま、これならいっかな」
「?」
 サクが怪訝な顔をするも、アキラは微妙に微笑んだ。
 妙に律儀な彼女のことだ。
 今日から距離を延ばすつもりだろう。

 だけど、そっちはどうでもいい。
 むしろ重要なのは、アキラの中での、エリーの位置付け。
 “夢のために好きにはなれない相手”だが、“友人”としてならいいかもしれない。
 僅かの妥協が入るも、どうしてもエリーを無視できないのだから仕方がないとアキラは思う。

「さ、始めよっか」
「ええ。これを、」
 サクは拾ってきた程良く太い木の枝を、アキラに渡す。
 アキラはそれを受け取り、何も言わずとも素振りを始めた。

「……」
 現在、アキラの従者かつ剣の師であるサクは、その様子を黙って見守りながら、思う。
 順調だ、と。

 急激に、ではない。
 緩やかに、しかし確かに上を目指して。
 五日前から、アキラは肉体的だけでなく、精神的にも成長している気がする。

 あの仲間の二人の超絶的な力を見たのが良い刺激になったのかもしれない。

 そして、今の環境も、良い。
 最近、エリーは意識して、依頼を二つ受け、必ずアキラ、エリー、サクの三人を組ませている。
 まだアキラの参戦は早く、見学、という程度だが、身の丈に合った仲間に囲まれ、魔力のコントロールというものが掴めてきたようだ。

 見栄っ張りなアキラが、強敵と当たったり、残る二人と組んだりすれば、必ずあの銃の力を発動させるだろう。
 それを見抜いてエリーが固めたアキラ育成方針は、アキラに確かな経験値が蓄積されるという成果を上げている。

 そんなこんなでこの近辺の村を転々とし、目指すヘヴンズゲートは目前。
 森林に囲まれた村の中からでも、その天を突く巨大な岩山は見えてきていた。

「……、そのくらいでいいでしょう。では、構えて下さい」
「……!」
 サクは持ってきたもう一本の枝を腰に構え、アキラと対峙する。

 エリーは、なんだかんだと言っても、アキラの成長を促している。
 ならば自分は、アキラの剣術のスキルを磨く。

 それが、今できる、主君のための行動。

「行きますよ」

 サクは加減をしながら、アキラに切りかかっていく。

 その、視界の隅。
 宿舎の壁に、村で買った安物の剣が立てかけてある。
 市販の物の中から、アキラの身体に合わせて選ばれたそれは、値段にしてみればまずまずのもの。

 アキラの勇者としての、第一歩の証だった。

―――**―――

「んもぅ……、最近アキラ君と朝のスキンシップが取れない……」
「寝込みを襲えない、の間違いっすよ、それ」
「っ、最近言葉に棘が出てきたじゃないの……」
 マリスとエレナは、並んでベッドに座りながら、目の前の会議に耳だけ傾けていた。

 半分閉じたような瞳に、どこかのほほんとした雰囲気のマリスは、エリーの双子の妹、というだけはあって、エリーに瓜二つ。
 眠たげな眼と色彩の薄い髪や瞳がエリーとの外見の際だが、付き合いの長いものは声の音量が双子を見分ける最大の特徴だということの容易に気づける。

 一方その隣、ベッドに可愛らしく座っているのは、エレナ。
 彼女の、まるで誘うように服から覗く大きな胸元と、ベッドという寝具が揃えば、朝という時間を忘れさせるほどの悩ましさ。
 ふっくらとした唇から洩れる甘い吐息は、ときおり見せる“素”を忘れさせるような妖艶さを醸し出している。

 だが。
 マリスは数千年に一人の天才、エレナは上位モンスターを瞬殺できるほどの実力者、と、外見だけからは判断できないほどの危険人物であったりもする。

「二人とも、ちゃんと聞いてるの?」
「大丈夫っす」
「ねぇ……、アキラくぅん、」
「うおっ、」
「エレねー、ストップっす」
 マリスは、アキラに迫ろうとしたエレナの腕を引いて止める。
 最近エレナを止める役は、マリスに変わっているようだった。
 エリーのアキラ教育方針の元、残ったマリスとエレナの二人には、依頼でよく組んでいる。
 そんなこんなで、いつの間にか人見知りのマリスは、エレナと打ち解けているようだ。

「っ……、あら、随分必死じゃない?」
「……」
「二人とも聞、い、てっ!」
 エリーが騒いでも、一向に話が始まらない。
 もうすぐこの部屋も出ないといけないというのに。

 常に作戦会議室なるらしいアキラの泊まっている部屋には“勇者様御一行”が勢揃しているが、騒がしい面々の話し合いが始まるのには、相変わらず時間が必要のようだ。

「とりあえず、今日の依頼の話だけど……、」
「てか、まだ着かないのかよ……、あれ」
 アキラがうんざりしたように、窓から見える山を指差す。
 聞いた話によれば、あれこそが天界への門。
 それなのに、その周囲を囲っているらしい賑やかな町にさえ到着していなかった。

「明日には多分着けるわよ。ま、そんなことは後回しでいいでしょ。今日の食いぶち稼がなきゃいけないんだから」
「はぁ……、だから私がいれば、うっはうはだって言ってるじゃない」
「いい? みんな。この人から物とか貰っちゃだめよ」
「了解っす」
「っ、こ、の、双子は……!!」

 エレナにしてみれば、依頼で路銀を稼ぐような時間を浪費しているのは望ましいことではない。
 今すぐにでも魔王の牙城にでも乗り込んで、魔王直属のガバイドを探し出したいのだ。

「聞いたところによれば、この村にも昨夜盗賊が出たそうだ」
「……、エレねー……、」
「エレナさん……、ほんっっっとにお願いしますよ……」
「ちょっ、私じゃないわよ?」

 そんな行為を繰り返してきたからか。
 全員の目が不信な色を帯びて、エレナに向く。
 話を持ち出したサクは、呆れ半分に鋭く目を尖らせている。
 主君のアキラが懐柔されている以上強くは言えないのかもしれないが、エレナの手癖の悪さに一番憤慨しているのは、あるいは“道”に反することを嫌うサクかもしれない。

「ねぇ、アキラ君……、信じて……くれるよね?」
「おうっ!!」
「ストップっす」

 アキラへの“吸引”もマリスに邪魔され、エレナは不機嫌に口を尖らせる。

「何よぉ……、そんなこと言ってると、い、い、こ、と、教えてあげないわよ?」
 変わらず不信の目を向けるメンバーに、エレナは妖艶な瞳を返した。

「い、いいこと?」
「うん、じゃあ、今日の依頼の話だけど……」
「アキラ君、あなたの奥さんが虐める……」
「「ちがーうっ!!」」

 この話題を持ち出されれば流石に止まらないわけにはいかないエリーは、無視を決め込もうとしたエレナの方を見事に向くこととなった。
 エレナの瞳が怪しく光ったのは、エリーの気のせいではないだろう。

「私さぁ……、聞いちゃったんだ。最近この辺りで起こっている盗難事件の犯人」
「聞いたも何も、犯人じゃないですか」
「だから私じゃないっつってんでしょうがっ!!」

 エレナは座り込んだベッドから立ち上がらんばかりの勢いで、エリーを睨み返した。

「そりゃ、村の人たちに少しは“ご協力”いただいたけど、使い道のない武具とか盗っても意味ないでしょう?」
「……、」
 確かに、とサクは唸る。
 サクも一応村の酒場で盗賊の話を聞いたとき、おかしいとは思った。

 最近この近辺を襲う盗賊は、金品だけでなく、武具や、場合によっては家具など種手雑多な物を奪い続けているらしいのだ。

「エレねー、売り払ってるんじゃ」
「どんだけ信用ないんだよっ、私はっ!! ……ちっ、とにかく、私が聞いたのは、」

 いつまで経っても嫌疑の張れないエレナは、諦めたように自分の持っている情報を開示し始めた。

「この辺りに……、シーフゴブリンの巣がいくつもでき始めたんだって」
「……? なにそれ盗賊?」
「そうっ、」
 唯一の理解者アキラに、エレナはしな垂りかかった。
 懐柔した相手、と言い換えることができるアキラの顔が緩むのを見て、エレナの口元が僅かに上がる。

「まあ……、確かに今日の依頼も、似たような話だけど……、」
 エリーは手元の資料に目を落とした。
 村に近いそれらの巣を潰してくれ、というのがメインの仕事ばかり。
 シーフゴブリンよりもエレナに嫌疑をかけていた自らの思考に、エリーは少しばかりショックを受け、しかし、目の前の光景を見ればそれで良かったと思える。

「まあ……、私が聞いたのはそれだけじゃないけどね」
「?」
 だが、エレナの話は続くようだ。

「何でもぉ……、数年前にこの辺りを有名な武器商人が通ったんだって。その途中、襲われて以来、積荷は行方不明。その中に、すっっっごい武器があったらしいわ」

 なに胡散臭い話を持ち出しているのか。
 そんなすごい物があったなら、とっくに誰かが見つけ出しているだろう。
 エリーはエレナの話を呆れ半分に聞き流そうとしたが、ぴたりと止まった。

 まずい。
 エレナの隣の男の目が、輝き出している。

「ほぅ……、伝説の武器、か……!!」
「……えっ?? う、うんっ、そうそう、伝説の武器!」

 言うまでもなく、アキラだ。
 エレナの表現から数段階上がった武器への評価に、エレナ自身も眉を寄せるが、話自体は彼女の予想通りの展開のようだった。

「ちょっ、あんた、何考えてんのよ?」
「いや、定番だなぁ……って思ってさ……」
 駄目だ、この男は。
 アキラはそういう話に弱い。
 お決まりのような、甘い話に。

「そうかそうか……、伝説の、ね……!」
 アキラは身体の中が熱くなっていくのを感じていた。
 森の中に眠る、最強装備。
 これこそ、長年語り継がれてきた冒険ものの鉄板。
 流石にご都合主義の世界だ。

 今朝の剣の鍛錬時、サクもそろそろ戦闘参加しても良さそうだと言っていた。
 そしてここにきて、そのような話。

「もう、間違いはない……!」
「間違いだらけよ。座りなさい」
 いつしか立ち上がっていたアキラは、冷静さを装い、ベッドに座る。
 だがその身体は、嬉しさのあまりプルプルと震えていた。

「と……、とりあえず、待って。どうどう」
 エリーはアキラをなだめつつ、背中に嫌な汗を浮かべていた。

 アキラはきっと、探しに行くと言い出すだろう。
 駄目だ、そんな話は。
 認めるわけにはいかない。

 せっかく身の丈に合った戦闘を繰り返し、成長している姿を見せ始めたアキラだ。
 その話の胡散臭さはともかくとして、そんな武器を今手に入れさせる必要はない。

 確かに、そんな武具は無いかもしれない。
 だが、目の前の“勇者様”には、なにか予感がする。

 アキラは、“そういうもの”を惹き付けてしまうのだ。
 サクの件しかり、エレナの件しかり。
 あるいはそれこそが勇者の条件のような気がしなくもないが、今回ばかりはそんな厄介事を惹き付けてもらっては困る。

 探しに行って、本当に伝説の武具でも見つけた日には、マリスとエレナの二人から離しての成長が水泡に帰すだろう。

「サッ、サクさん。サクさんも、要らないと思うわよね?」
「あ、ああ。確かに、今は必要ないと、」
 目を輝かせる主君の手前強くは言えないが、サクもエリーと同意見だった。
 せっかく勇者としての第一歩を踏み出したアキラだ。
 ベッドのふちに立てかけてあるその剣は、まだ使ってもいない。
 そんなときに、強力な武器が手に入れば、その剣はほっぽり出されてしまう。
 今アキラに必要なのは、武器による強化ではなく、自分自身の成長。
 当然、望むべくことではない。

「? 別に、いいじゃないっすか。持ってるだけでも」
 だが、マリスはどちらかと言えばエレナに賛成のようだ。
 アキラの力は、あの銃を含めて考えればメンバー最強。
 魔王を倒すのに十分のような気さえしてくる。

「マリー……」
 そこで。
 エリーはメンバー内で、アキラに対する評価が完全に異なっているのを感じた。
 あの銃の存在。
 それが、アキラの評価を捻じ曲げている。

 “最強カード”に対する評価は、メンバー内で完全に二分していた。

「でさ、アキラくぅん、私と、」
「じょっ、条件があるわっ!!」
「?」
 もう駄目だ。
 人数比率で二対三。
 このでは押し切られてしまうだろう。
 だが、譲れない線はある。

「探しに行くのは、あたしと、こいつと、サクさんだけ。二人は、別の依頼をしてて」
「えぇ~? それじゃ意味ないじゃない」
 やはりというかなんというか。
 エレナがその胡散臭い話を持ち出したのは、アキラと行動を共にするためのようだ。
 そして、あわよくば、“吸おう”としているのだ、この女は。
 不満さを隠そうともせずエレナは唸るが、これだけは譲れない。

 マリスとエレナがついてくれば、アキラは労せず力を手に入れてしまう。
 そして、勇者の第一歩たるその剣がどうなってしまうかさえ分からない。
 それだけは、駄目だ。

「……そういうこと言うと、私が聞いた詳しい話、教えないわよ?」
「それならそれで結構です! それに、どうせその辺りをふらついていて聞いたような話、探せばいくらでもみつかるだろうし」
「……ちっ、流石にやるわね、正妻は」
「正妻言うなーっ!!」

 エリーの再三にわたる怒号に、宿舎の管理人がたしなめに来たのはそれから数分後のことだった。

―――**―――

「そういやさ、」
「?」
 マリスとエレナの二人と別れ、シーフゴブリンの巣があると思われる地帯に向かう森の道の中、アキラが思い出したように呟いた。

「最近、このメンバーで依頼すんの多くね?」
「……、気づいてなかったんですか?」
 一歩後ろを固めるサクから漏れた言葉に、アキラは、いや、と小さく首を振った。

 別に、気づいていなかったわけではない。
 初日や次の日では、まあそういうこともあるか、と思っていた。
 事実この辺りの魔物は弱く、エリーとサクの二人でも十分に依頼がこなせるだろうという安心もある。

 だが、こう連日となると、流石に妙だ。
 今朝の様子といい、明らかに作為的だが、意図が分からない。

「あんたはさ……、まず自覚することから始めてよ」
「?」
 戦闘を歩くエリーはくるりと振り返った。
 流石に数日ここを歩き回っただけはあり、もう木の根につまずくこともないようだ。

「もうはっきり言っとくわ。あんたの成長……、その……、その銃に阻害されてる」
「は?」
 エリーはあえて、残り二つの要因を口にしなかった。

「強すぎるのよ……、今のあんたには。あっさり相手を倒しちゃうから、何の経験にもならない。分かる?」
「? 別にいいだろ、それで」
「良くないの!」
 やっぱり、この男は分かっていない。

「その力であっさり進んでったら、あんた完全にダメ人間よ」
「ダッ、ダメ人間って……、んなわけ無いだろっ」
 何故こうも分からないのか。
 エリーはわざわざ立ち止まって、聞こえるようにため息を吐いた。

「とにかく、あんたは身の丈に合った成長をして。あの銃はしばらく使用禁止」
「って、何でお前が決めてんだよ……?」
「あんたの外れた肩……、あたしたちには力ずくでしか治せないけどどうする?」
「てっ、てめっ、」
 それで、か。
 得意げになって歩き出すエリーの背を見ながら、アキラはようやくこのメンバー構成の意図がつかめた。
 自分の成長を考えているというのはともかくとして、エリーはアキラに銃を意図的に使わせようとしていない。

 思えばあのとき、マリスたちに合流しようとしたのを妨害されたのも、エリーがそれを考えていたゆえ、ということなのだろう。

「てかさ、エレナとは組んでよくね? 治療できないっぽいし」
「あの人とあんたが組んだら、何が起きるか分かったもんじゃないわ」
「っ、」
 どうやらそちらの面でも、エリーはエレナを信用していないらしい。
 アキラも、だ。
 二人に任せたら、依頼に向かわずに村で遊んでいました、何てことも普通に起こり得る。

「まあ、アキラ様。エリーさんも、色々考えがあるんですよ」
「……、らしいけど……、」
 最近マリスとあまり行動していないせいで、フォロー役はサクになっていた。
 この辺りの環境の変化も、エリーの筋書き通りなのだろうか。

 だが、事実として、アキラの力は上がっている。
 異世界に来た当初、全くと言っていいほどレベルが上がらなかったアキラ。
 それが、このメンバーで組むことになってから、確実にレベルアップしている。
 だがこれは、『最強技使用禁止の縛り』をしているだけなのではないだろうか。

 世界は優しい。
 そう、アキラは思っている。

 ならばその優しさが零した、勇者の力。
 それは、アキラのカードとして積極的に切っていっていいのではないだろうか。

 現にマリスもエレナも、あの銃の力ならば魔王が倒せるのではないか、と評価している。

 成長は、確かに嬉しい。
 異世界に来訪した主人公は、こうして力を上げていくべきなのだろう。

 だが、ご都合主義万歳のあの絶対的な力がある以上、これは最短ルートではない。
 マリスやエレナという最強カードも、ほとんど封印しているような状態。

 魔王を倒すためならば、今の行動は無意味だ。

「はあ……、お前は俺に、どうなって欲しいんだよ……?」

「っ、」
「……! 」
 エリーの身体が揺れて止まり、サクは機敏に反応してアキラを庇うように立った。

「いたようだな……、エリーさん」
「……、え? え、ええ、」
 サクの目つきが鋭くなり、エリーは一瞬遅れて身体に魔力を巡らせた。

「なにっ、なにっ、なんだよっ!?」
「いたんですよ……。魔物が」
「……っ、」
 アキラは突然漂った戦闘の匂いに、身体を震わせ、すぐに防御幕を張る。
 未だぎこちない動作だが、流石に基本中の基本。
 アキラはうまく身体を守り始めていた。

「……、」
 サクはそれを確認し、たった今気配がした森の茂みを見やる。

 やはりがさがさと、人の高さほどの薮が蠢いた。

「あれが、巣か?」
「……、いえ、シーフゴブリンは洞窟に住むそうです……。あれは……、」
 サクが正体を探ろうと目を細めたと同時、薮の中からガサリ、と土色の肌の小動物が姿を現した。

 リスのような顔つきの、その魔物。
 頭には、渦巻き型の模様が付いている。
 これは、

「……よう、マーチュ」
「きゅう?」

 薮の中で食糧でも見つけたのか。
 マーチュはどこか満足げにお腹をさすり、幸せそうな顔をアキラたちに向けてきた。

 この小動物は、忘れもしない。
 アキラが初めて遭遇したモンスターだ。

 その後遭遇した大型とは違い、姿は魔物よりも愛玩動物に極度に寄っている。
 背丈も、膝ほどまで、とやはり小さい。

「丁度いいかもね……、ねえ、倒してみてよ」
「だからできるかぁっ!!」

 マーチュはどこか怯えたように、アキラたちをつぶらな瞳で見上げている。

「あんたねぇ……、相手の姿に惑わされちゃだめよ。エレナさんがいい例でしょ」
「違うっ、こいつはっ、そんな奴じゃないんだ……!!」
「あんたがマーチュの何を知ってるのよ!? てか、あんた前に殺されかけなかった!?」

 それはそれ、これはこれ、だ。
 確かにあのときは命の危険を感じ、剣を振り下ろしたが、今はどうだ。
 ただ生活に必要な食事をしていただけ。

 そんなものに剣を振り下ろせば、アキラの良心は完全に破たんしてしまうかもしれない。

「あのさ、あんた今朝、サクさんから戦っていいって言われて喜んでなかった?」
「いや、そう、なんだけど、さ、」
 冷静に考えてみれば、抵抗がある。
 魔物相手といえども、命を奪うのだ。
 絶大な光線で消し飛ばすのとは、感覚的に違う。
 今アキラにある攻撃手段は、背負った剣のみ。
 それで、あの愛らしいマーチュを、切り裂かなければならない。

「てかさ、今更だけど、よくお前ら動物バンバン殺せるよな……」
「っ、失礼な言い方ね……、それに、マーチュは動物じゃなくて、魔物。モンスターなのよ?」
 その辺りの感覚は、やはりアキラと違うらしい。
 エリーもサクも、割り切っている。

「アキラ様」
「?」
 マーチュから目を離さないようにしながらも、サクは一歩前に出た。

「確かに……、普通の動物を模した愛らしい魔物を切るのは……、抵抗があるのでしょう」
「?」
 サクは僅かに、顔を伏せていた。

「ですが、マーチュといえども、成長すれば村を襲います。現に、マーチュの群れが滅ぼした村もあるのですよ」
 その諭すような口調に、アキラは震えた。

 エリーとサクは、アキラから見て年下だ。
 それなのに、アキラよりずっと多くの魔物を殺し、アキラよりずっと多くの経験を積んでいる。

 そして、アキラより。
 遥かにこの世界のルールに染まっている。

「魔物を倒せば、それだけ救われる人がいる。試験科目の一つに、そういう“倫理”ってのもあったわ」
 エリーも呟く。

 もしかしたら、きっとそれが勇者の役割、とでも言いたいのかもしれない。

「……、っ、分かったよ。どうせ、今さら、だ……!」
 自分はすでに、巨大マーチュ、アシッドナーガ、ブルースライム、そしてマザースフィアを倒している。

 いや、“殺している”。

 今さら、綺麗なままでいようとすることはできない。
 エリーとサクにだけ手を汚させるのも、道理ではないだろう。

「……、マーチュ」
「きゅう……、」
 可愛い小動物が、目の前に迫った勇者を無垢な表情で見上げる。
 今からアキラは、この動物に剣を振り下ろさなければならない。

 異世界来訪物の主人公たちは、そうしたことが、前提としてできていた。
 それだけに限らず、元の世界でも、狩りを行っている者はいる。
 世界の裏側で、その恩恵を授かりながら、自分たちはぬくぬくと生きていた。

 だが今は、自分がその場所にいる。

 彼らはきっと、生まれながらに、そういうことを“倫理”として心に置いていたのだろう。

 それが少し羨ましい。
 良心の呵責とは、どうやって戦っていたのだろう。いや、それは、無かったのかもしれない。

 価値観の違い。
 そういうものが、根底としてある。

 だけど自分は、それに少し疑問を、

「あの、」
「……ちょっと待ってくれ。今、結構良いこと言おうとしてんだ」
「いや、マーチュが……」
「あっ、」
 アキラが顔を上げれば、マーチュは短い手足をばたつかせ、必死に走っていた。
 目の前の男から発される不穏な空気に、正しく危機感を覚えたようだ。

「……、よし、勝った」
 やはり可愛らしい生物は、逃げ方も愛らしい。
 もう人に見つかるなよ。
 そんなことを心で呟いて、アキラは満足げにマーチュを見送った。

「勝ったじゃないでしょ!? 今すぐ追いかけてっ!!」
 マーチュの短い手足では、それほど速力がない。
 未だにマーチュを視界に捉えながら、エリーは叫んだ。

 この男には、精神的にもタフになってもらわなければ困る。

「いや、だってよ、あんな愛らしい、―――」
「ぎゅうっ!!?」
 難を逃れたようなアキラの表情は、次の瞬間強張った。

 必死に走っていたマーチュが、横から鋭い爪に襲われて転がり、次の瞬間には爆発する。

 木々の間から飛び出てマーチュを横から襲ったのは、アキラの胸ほどの高さの、濁った赤い体毛の魔物。
 先日のライドエイプの姿に近いそれは、長い手だけではなく、長い足もあり、膝を折って座りながらよたよたと現れた。

 顔は猿のようだが、ランドエイプより歪み、皺ばかりで髪のない頭には、小さく角が突起している。
 マーチュを引き裂いた爪を振って、血を払うと、苦々しげにマーチュが爆発した地点を睨んでいた。

 その姿の、何と憎々しいことか。

「…………おや? あれはモンスターじゃないか」
「ちょっ、ちょっと!?」
 アキラは妙に冷えた言葉を呟くと、迷わず剣を抜き、すたすたと赤の魔物に近づいていく。

「あっ、あんた、魔物倒すの抵抗あるんじゃ、」
「俺は勇者だ。魔物には、すべからく死を与えなければならない」
「っ、」
 横に並んだエリーが見上げたアキラの顔は、驚くほど冷えていた。

「魔物同士が殺し合い……? ……! ここはシーフゴブリンのテリトリーなのか!?」
 サクの声が後ろから聞こえたが、アキラは構わず目の前の汚物に近づいていった。

 そうかそうか、あれがシーフゴブリンか。
 その名の通り、強欲な顔つきをしてやがる。

 アキラの脳裏には、未だマーチュが裂かれた光景が浮かんでいた。
 お前も同じようにしてやろう。
 これは、いいきっかけだ。

「グルッ」
 アキラの接近に、シーフゴブリンは顔をさらに醜く歪ませる。声も、お世辞にも可愛らしいとは言えない。
 アキラはその目前で止まり、身体に魔力を巡らせた。

「お前は、やってはいけないことをやった」
「いいから切りかかって!! マーチュよりは遥かに強いのよ!?」

 エリーの声に、アキラはその剣を、薙いだ。

「―――!?」
 前回の反省から、横一線に振った剣は空を切った。
 目の前の魔物は、畳んでいた足を一気に伸ばし、跳躍。
 アキラから瞬時に距離を取る。

「はやっ、」
「グッ!」
 アキラが認識するよりも早く、シーフゴブリンは全身のバネを使ってアキラの元へ跳びかかる。
 キラリと光るのは、先ほどマーチュの命を奪った鉤爪。
 長い腕を鞭のように振るい、アキラ目指して振り下ろす。

「っ―――」
 アキラは思わず身をかがめた。
 頭の上から聞こえる風切り音。
 かなり速度がある。

「―――!?」
 難を逃れたと思ったアキラの眼前に、今度は遅れて魔物の長い足が迫っていた。
 両手両足を完全に伸ばせば二メートル近いその体躯を活かした、シーフゴブリンの時間差攻撃。

「っ、」
 アキラは転がるようにしてそれを避けると、すぐさま起き上り剣を正面に構えた。
 シーフゴブリンも着地し、身体を屈め、戦闘態勢を取る。

「はあ……、はあ……、……って、俺何やってんだ?」
「グルルッ」
 アキラがようやく我を取り戻したとき、シーフゴブリンは再び跳びかかってきた。

「……、なかなか、様になっているだろう?」
「……始まった動機は不純のような気もするけどね」
 アキラとシーフゴブリンの戦いを見守りながら、エリーとサクは思い思いの言葉を吐きだした。

 直線的に飛びかかるシーフゴブリンは体躯の長さゆえの変則的な攻撃を繰り出しているが、それでも、転がり回って避けるアキラを捉えきれていない。

 あの戦い方は、サクが教えたものだ。
 とにかく相手の攻撃を受けるな、と。

 あるいはそれは、剣の戦い方ではないのかもしれない。
 だが、刀を操るサクは、そう教わったのだ。

 サクは女性ゆえ、筋力に不安がある。
 もし相手の強い攻撃を受ければ、それだけで腕が痺れ、のちの戦闘に支障をきたすことになろう。
 だから、刀で受けるのは、どうあっても避けなければならない。

 ただ、それに固執するあまり命を落とすのは、当然望むべくことではないとも教わった。

 第一優先として、回避。次いで、防御。
 避けられる攻撃と、受けるしかない攻撃の区別を反射的につける鍛錬を、中心的に行ってきた。

 アキラはまだまだその辺りの区別を反射的に付けることはできないが、うまく攻撃を避け続けている。

「身体強化の方は……、まだまだ荒いようだな」
「っ、分かってるわよ……!」
 剣術を教えるサクに対し、エリーはアキラに魔術の使い方を教えていた。

 身体に囲った防御幕は、アキラが地面に突っ込むように倒れ込んでも無事なほど、正常に機能している。
 だが、身体能力に関しては、あまり強化されていないようにも見えた。

 このところ朝や夕方に身体を動かしているだけはあって、この世界に来たばかりの頃よりはマシだ。
 だが、あくまで一般的な成長程度。
 魔力による強化ではない。

「で、でも、いいのよ。とにかく、身体を守っていられれば」
 エリーとて、考えがある。
 あの男は、最初から魔術による攻撃方法の伝授を求めてきた。
 大方、魔力を放ち、敵を討ちたいとでも思っていたのだろう。

 だが、それは自分で見つけるべきことだ。
 アキラに合った戦闘スタイルも分からないのに、エリーが細かく指導するのも望ましくない。
 その上、それを教えてしまえば、今までの依頼で見学に徹することもできなかったろう。
 アキラとは、そういう男だ。

 ならば、絶対にやってもらいたい、身を守る術。
 無事でいてさえくれれば、それでいい。

「……って、ちがっ、」
「? ……!」

 サクが眉を潜めたところで、アキラとシーフゴブリンの動きが止まった。

「はあ……、はあ……、」
「グ……グルルッ……」
 互いに息を切らし、対峙するアキラとシーフゴブリン。
 アキラは相手の鞭のような身体をひたすら避け、身体中土に塗れている。
 一方、シーフゴブリンは、何度も機敏な攻撃をしかけているのに、避け続けている目の前の侵略者にいきり立つ。

「……、」
 アキラは、シーフゴブリンをまっすぐ睨み、剣を持つ手を強くした。
 先ほどから攻撃に転じようにも、ヒットアンドアウェーを繰り返す魔物を捉えきれない。
 だがもし剣を手放せば、シーフゴブリンの攻撃に更なる拍車がかかるだろう。
 この武器を、放り出すわけにはいかない。

 アキラは煮えたぎる頭の中で、何度も冷静になれと叫んでいた。
 愛らしいマーチュが殺されたことへの怒りはとっくに頭から追い出し、ただただ戦闘に集中する。
 確実に、勝つために。

「……って、なに俺はマジバトルしてんだ……?」
 小さく呟くも、状況は変わらない。
 エリーとサクは、隅に立って、この戦いを見守るだけ。
 この戦いは、アキラ一人で十分だと思っているようだ。

 確かに、勝てる。
 森ごと吹き飛ばせば。
 だが、それは違う。
 それは、ただの作業だ。

 戦闘の中にあって、アキラはようやくそう思えた。

 “あの勝ち方”は、総てを消し飛ばす。
 朝起きて走っていることも。
 エリーとサクの授業の時間も。
 そして経験値も。

 この戦い方で勝つことが、自分のあるべき姿なのかもしれない。
 頭も、身体も、そして技術も。
 その全てを総動員して闘わなければならない。
 そう、思える。

 何かの命を、剣で奪うことに抵抗があるのには、変わらない。
 だが、向こうも殺す気で戦っている。
 それならば、戦うしかないではないか。

 二人の師に、報いるためにも。

「グルルッ!!」
「―――!?」
 ついに息を整えたシーフゴブリンが、跳躍する。

 今考えなければならないのは、攻撃。
 転がり回っていても、いずれは殺される。

 魔術の攻撃方法は習っていない。
 攻撃方法で知っているのは、せいぜい、剣の踏み込み方程度だ。

 だが、何でもいい。
 ここで見つけるべきだ。
 攻撃方法を。

「……!」
 シーフゴブリンは、跳びかかりながら両手を大きく掲げた。
 跳んで伸びきった姿を見ると、まるで樹木が倒れてくるようにも見える。
 今までずっと、身をかがめて避けていた。

 だが、

「っ―――」
「―――!?」
 一瞬よぎった恐怖をもみ消し、アキラは跳びかかる魔物に踏み込んだ。

 今までなかった攻撃パターン。
 身体をまっすぐに伸ばしている、目の前の魔物。

 その、腹部。

「それは―――」

 この世界で最初に出遭ったマーチュには、自分はこう見えていたのかもしれない。
 接近戦で、無防備に腹部を曝し、マーチュに切りかかった自分。

 今の自分は、そんなことはしない。

「―――まずいだろっ!!」

 反射的に瞑ろうとした目を何とかこじ開け、アキラは剣を横なぎに振った。
 踏み込みも、サクに習った通り、完璧。
 目を開けていたおかげで、攻撃タイミングも完全に見えた。

 あとは、魔力を流し込むだけ。

「グルッ!?」
 その瞬間、オレンジの光が森林に爆ぜた。
 迷わず振り切ったその剣は、伸びきったシーフゴブリンの銅を切り裂き、今度は砕けずに通過する。

「……ぁ……」
「……!!」
 エリーとサクも、アキラの見せた突発的な動きに、身体を震わす。
 今の、攻撃方法は。

「っ―――」
 思った以上の反動の少なさにアキラは転がりそうになるも、何とか踏み留まる。
 その瞬間、背後から、爆発音が聞こえてきた。

「パララ……パッパッパー…………、」
 隣の呟きに、サクは苦笑した。
 だが、今のアキラの攻撃方法。
 エリーやサクと同じく、武具強化型。
 しかも、偶然だろうがインパクトの瞬間にだけ、魔力を流した。
 あれは、エリーの拳撃と同じだ。

「はあ……、はあ……、うっ、うぉぉぉおおおーーーっ!!? 勝った!?」
「お見事、です」
 放心状態に近いエリー程ではないが、サクも身が震えていた。
 最後の一撃は、見事という他ない。
 相手が隙を見せたチャンスを拾い、あろうことか飛び込み、シーフゴブリンを屠った。

 今さら恐怖が昇ってきたのかアキラの足は震えているが、なにはともあれ、目の前の勇者様は初めてまともに魔物を倒したのだ。

「いや、マジッ、マジッ、俺すごくねっ!?」
「……、遅いくらい、よ」
 空気の塊を吐き出しながらも、エリーはまだ震えていた。

「て、てか、そ、そう、何あたしの真似してんのよ!?」
「いや、お前が攻撃方法教えないからだろ……。それにお前、ここんとこずっと近くで魔物殴り殺してたから……、そりゃこうなるだろ」
「っ、っ、っ、」

 他に言い方はないのか。
 そんな言葉も、エリーは吐き出せなかった。

「し、しかし、まさか、ここまで戦えるとは、」
「よし、これから俺これでいくわ。何か今俺、超かっこいい……!!」
「……そういうこと言うから……、はあ、もういいわ」
 興奮冷めやらぬアキラに呆れながらも、エリーの身体は震える。
 隣のサクもだ。
 自分の教え子が、成長しているというのはここまで嬉しいものなのか。

「ま、調子には乗らないでね」
「分かってるよ……。だが、勇者の覚醒に、世界の平和は約束された」
「……、そう、」
「……!」

 すっかり有頂天の主君に背を向け、サクは身構えた。
 エリーも身体に魔力をほとばしらせ、目つきを鋭くする。

「え、なに、なんだよ?」
「それじゃ、“勇者様”……、」
「……!!?」

 アキラはようやく気づいた。
 木々の間、そして木の上にも、騒ぎを聞き付けた魔物たちがわらわらと現れ始めている。

「手を貸さなくて、大丈夫ね?」
「……ひとりでできないもん」

 アキラの妙な言葉を背に、エリーとサクは跳びかかって行った。

―――**―――

「私さぁ……、最近見飽きたんだけど、こいつ」
「ギ……、ギギ……ッ、」
 エレナは苦悶の表情を浮かべる目の前の魔物、クンガコングに冷ややかな視線を向けた。
 魔力さえ使っていない。
 ただ純粋に、首を絞めて吊るしているだけ。

「エレねー、悪趣味っすよ」
「あら、そうかしら? ていうか、サボってないで手伝ってくれる?」

 エレナはクンガコングを群れに投げつけ、後ろで見ているだけの、いや、自分の分の仕事を終えたマリスに振り返る。
 背後の爆発にも、エレナに怒りをあらわにするクンガコングにも、ほぼ無警戒で。

「エレねーがそうやって倒してるから……、時間かかるんじゃないっすか」
「こんな雑魚相手に本気になってらんないでしょ」

 マリスから魔力が溢れ出したのを確認し、エレナはつまらなそうに歩き、道を開ける。

「レイリス」
 シルバーの光が森林の闇をかき消したと思った直後、クンガコングたちはその身を焼かれ、爆発を起こす。
 前回の群れ討伐後も、どこから沸いて出たのかクンガコングたちは近辺に現れ、しかし再び絶命していく。

「……あんたも手、抜いてんじゃない」
「自分はちゃんと詠唱はしてるっすよ。上位魔術はエレねーに不評だったじゃないっすか」
 静かになった森林を、二人は並んでとぼとぼ歩き始めた。
 この分では、またクンガコングの群れの主がいるかもしれない。

「あんたとこうやって歩くのにも、飽きてきたんだけど」
「……自分もっすよ」
「……はあ、こういう会話もできるほど、か」

 警戒する必要もない森の中、二人は小さなため息を吐いた。
 それらのタイミングも一致するほどに、二人は並んで歩き続けてきている。

「……、まあ、ねーさんの言うことも分かるんすけどね」
「?」
 マリスが話題を振るのは珍しい。
 エレナは隣を歩く眠たげな眼の少女にわざわざ顔を向けた。
 これは、親密度が上がっているせいだろうか。

「にーさん、確かに強くなってるっすよ。自分たちがいると、絶対具現化を使うだろうし、」
「……ふーん、流石に双子ね」

 そういうエレナも、マリスの推測には同意できた。
 アキラは、自分たちのような存在と共に在れば、あの力を切り札としてではなく、通常攻撃のように扱うだろう。
 そういう見栄を張る男だ。

 だがあの銃を使うと確かに戦いには勝てるが、肩が外れるだけで、なんらアキラの経験にはならない。

「ま、それでも私は、ばんばん使っていっていいと思うけどね」
「……、」
「魔王までの最短ルートがある。それなのに使わないのはおかしいでしょう?」

 エリーの考えも分かる。
 だが、分かった上でなお、エレナはそれが無用だと感じた。

 魔王を倒せば、力を持つ必要はない。
 ならば、最短ルートを探ればいいのだ。

 “単にそれだけを考えているならば”。

「まあ、ねーさんには、ねーさんの考えがあるんすよ」
「……、私にはあの正妻……、アキラにぞっこんって感じに見えんだけど」
「っ、」
 その言葉に、マリスはぴたりと足を止めた。

「ダメ男好きって感じ?」
「また、そういう話っすか」
「あら? 女の子同士の話なんて、こんなもんなんじゃないの?」
「……?」
 エレナは僅かに視線を外し、わざとらしく欠伸をした。

「愛しの彼には自分の思った通りになって欲しぃ~、ってなとこでしょ。この分だと、婚約破棄するんだかしないんだか」
「……、するって、事あるごとに言ってるっすよ」
「……ふーん、」
 エレナの瞳が怪しく光る。

「ねえ、あんたはどっちのクチ? アキラとエリサス。婚約破棄して欲しい方? して欲しくない方?」

 どこか妖艶に。
 エレナは微笑んだままマリスに向かい合った。
 今までの依頼中、ときおりこのような話は出たが、ここまで直接聞かれたのはマリスにとって初めて。
 どうやらエレナは、あのときマリスがした通り、相手の腹の内を探ろうとしているようだ。

「……、エレねーは、どう思ってるんすか?」
「……」
 マリスは、質問を質問で返した。
 自分の答えは出さない。
 ただ半分の眼で、エレナを見上げるだけ。

「……ふ、」
 エレナはさらに怪しく笑った。
 以前、はっきりとアキラを好き、と口にした彼女だ。
 理由は微妙に不順のような気もしたが、彼女にとってその言葉は事実。

 ならば、“アキラを好きならどう思うのか”。
 それが、マリスが知りたい答え。

「私は別に、どっちでもいいわ」
「……、エレねー、それ、ありなんすか?」
「ありよ」
 エレナは大股で木の音を飛び越え、猫のような身のこなしで着地した。

「略奪愛って燃えない?」

 やはりというかなんというか。
 エレナは“しきたり”をほとんど無視している。
 この世界では珍しい存在だろう。

 だが、ある意味、エレナはアキラの理想の女性なのではないだろうか。
 ハーレムが夢、と言っていたのをマリスは正確に覚えている。
 そういう考えを持てる彼女は、もしかしたら、

「ま、アキラも満更じゃなさそうなのよね……、いや、私じゃないわよ。エリサスのこと」
「……、」
 そっちの方は、前から知っていた。
 本人は認めていないのだろうが、アキラは間違いなく、エリーに好意を持っている。
 その好意は、自分やサク、そしてエレナに向けるものと微妙に違うように感じた。

 大方、意識しないように自己を抑制した結果の感情だろう。
 そう考えると、エレナの言葉通り、婚約破棄は一体どうなることだろうか。

「でも、するって言ってるっすよ」
「…………、まあ、あのままじゃ意地でそうするでしょうね」

 そこで。
 ようやくマリスは進路が逸れていることに気づいた。
 自分たちが目指しているのはもっと南の方向のはずだ。

「エレねー、どこ目指してるんすか?」
「え? だからあの夫婦の様子を見に、よ」
「……!」
 エレナに先頭を任せたのは間違いだった。
 いつの間にか、ちらほらと自分たちに怯えて逃げて行くシーフゴブリンが視界に入る。
 そろそろテリトリーが近いのかもしれない。

「エレねー、依頼、どうするんすか?」
「あんだけ殺ればしばらく大丈夫でしょうよ。あんたと違って、私は全滅にこだわらないの」
 口ではそう言っているが、エレナの心変わりの最大の原因は、飽き、だろう。
 クンガコング討伐の依頼は達成していると言えば言えるが、自分たちならもっと完成度の高い依頼達成ができるはずだ。

「ま、サプライズで会いに行くのもたまにはいいでしょ。それに、なぁーんか、不安なのよね……」
「?」
 エレナはのんびりと歩きながらも、目を細めた。

「アキラの奴……、放っておくと、変なことに巻き込まれるし」
「……、いや、それは、そうっすけど、」
 そういう予感は、マリスも、そして、エリーやサクも持っていた。
 アキラは、ご都合主義だとか喜び、厄介事を持ってくる。
 そういう星の下に生まれたから、異世界なんて場所に来ることになったのだろう。

「けど、最近はねーさんもサクさんもずっと一緒にいるんすよ?」
「そうだけど、なんか、そろそろって気がしない?」
「……、」
 確かに、そう思う。
 伝説の武器を探す、と言い出したときから、そういう予感がじわじわと登ってきてはいた。
 本当に、探し当てそうな、そんな予感。
 そしてそれに伴う、トラブルも。

「知らない間にまた女の子増えてる、何てこともありそうじゃない?」

 完全否定ができないエレナの言葉に、マリスの歩幅が微妙に広まった。

「ま、私もこれ以上、変な虫が付かれても、……」
「……?」

 エレナは、垂れ下がった木々を苛立たしげに払いのけ、森の若干開けた場所に一歩踏み出し、そして固まった。

 それとほぼ同時に、マリスの耳に届いたのは、水音。
 目の前の小高い岩山から、チロチロと水が溢れ、その足元に小さな湖を作っている。

 マリスはエレナの脇を抜け、その場に一歩足を踏み出した。
 そこに、

「……!」
「……」

 表情を完全に固めた少女が立っていた。
 青みがかった短い髪に、健康色の肌。
 背丈は、マリスより少し低い程度だろうか。歳も、同じ程度かもしれない。
 僅かに垂れた眼をこれ以上ないほど見開き、じっと二人を見返してくる。

「……」
「……」
「……」

 沈黙は続く。
 エレナがちらりと視線を移せば、湖を囲う岩に干された衣服。
 それもそのはず、彼女は入浴中。
 一切衣服を身に着けていない。
 足を小さな湖につけ、チロチロと流れ落ちる湧き水を頭から被り、きめ細かそうなみずみずしい肌から水滴をこぼれ落としている。

「ぬっ、ぬおうっ!?」
「っ、」
 先にアクションを起こした少女、いや、起こそうとした彼女は、足が滑ったのかジャボリと鈍い水音を奏で、後転。

 そしてエレナが一瞬目を瞑るほど見事に頭を背後の岩山に、ゴチンッとぶつけ、

「きゃふっ!?」

 奇妙な声を喉から漏らし、ぶくぶくと湖に沈んでいった。

「……、どうする?」
「これ、にーさんに話したら、『そこにいるべきなのはお前たちじゃないだろ』、とか言いそうっすよね」
「……はあ、まあとりあえず、引き上げましょうか」

 まさか自分たちの方が見知らぬ女性に出会うとは。
 エレナはとぼとぼと、湖に近づいて行った。

―――**―――

「っ、」
 アキラは脇を絞め、剣をコンパクトに横に振る。

「ギッ、」
 オレンジの閃光一線。
 いつしか湧いて出てきたランドエイプを切り払うと、走ってその場から離れ、再び剣を構える。
 その直後、戦闘不能の爆発が起こった。
 あれに巻き込まれたくはない。

「―――、」
 次は、目の前の赤い魔物、シーフゴブリン。
 またも危険な鉤爪を光らせ、アキラに飛びかからんとしている。
 だが、あの変則的な動きにも大分慣れてきた。

 あとは、隙を作れば、

「ふっ、」
「!?」
 対峙したのとほぼ同時だったろうか。
 目の前のシーフゴブリンはスカーレットの一撃に襲われ、身体を宙に舞わした。

 なら次だ、と視線を泳がせたアキラの目に飛び込んできたのは、イエローの閃光。
 そして、所々で起こる爆発のみ。

 アキラがターゲットを探している間にそれが次々と消え、戦闘は終わったようだ。

「……、あのさ、俺、ちょっとやる気なくなった」
「集団戦でわがまま言わないでよ」
 エリーは、ふう、と息を吐き、アキラに近寄ってきた。
 アキラにしてみれば、先ほど獲物を横取りした相手でもある。

「ま、でも、大分安心できるようになったわ」
「実はお前が離れて戦うようになってから、魔物が嬉々として俺を襲ってくるようになったんだが……、」
 アキラは剣を振って、肩の鞘に納める。
 だが、今回も、魔物を数匹倒すことができた。
 順調に、レベルが上がっている気がする。

「って、サクは?」
「え、ああ、もう入って行ったわよ」
 エリーは軽く手を振るい、目の前の洞窟を見やる。
 小高い山に開けられたその空洞は、シーフゴブリンの巣。
 アキラたちは、もういくつも同じような巣を探索していた。

「……、ダメです。特には何も無いようでした」
 アキラの背丈ほどの入り口から、サクが現れ、小さく首を振る。

 聞いたところ、シーフゴブリンはあらゆるところから物を盗み、その巣に蓄えるという。
 だが、見つかるのは壊れた家具や、彼らの食糧ばかり。
 今回も外れらしい。

「よし、じゃあ、次行きましょ」
「……あのさ、次、俺に探索させてくれないか?」
 さっさと歩き出すエリーとサクを、アキラは引き留めた。
 このままは、何か面白くない。

「は? 何言ってるのよ?」
「いやさ、なんか俺が介入する前に、目の前でどんどん話が進んで行くのが耐えられないんだ」
「えっ、めんどくさっ」
 エリーは顔を歪めるが、アキラにとっては重要な問題だった。
 戦闘も自分を襲う最小限の魔物しか倒せず、攻めに転じようにも、エリーとサクに大多数を倒されている。
 そして、戦闘後に息を整えている間、いつの間にか探索は終了し、機械的に次の巣へ。
 いくつか前の戦闘など、アキラは同じ場所からほとんど動かなかった。
 動く必要のあることは、全てエリーとサクが解決している。

 初の戦闘参加によって気が大きくなっているアキラは、それがむしろ耐えられない。
 自分で、色々とやってみたくなっていた。

「あんた、ひとりでできないもん、とか言ってなかった?」
「戦闘は一人じゃ無理だ。だけど、探索ならいけそうじゃね?」
「……、」
 アキラの見栄っ張りな所が出ている。
 だが、せっかくやる気を出しているのだ。
 ここで抑え込んでも、逆効果だろう。

「……サクさんは、どう思う?」
「……、そうだな……。だが、アキラ様。中は、その、酷いことになっていますよ?」
「……?」
 サクの顔が歪む。
 それと同時に、エリーの顔も。
 エリーも一度、探索のために中に入ってみた。
 しかし、中はシーフゴブリンの糞などの異臭が漂い、とてもじっくり探索する気になれない。
 サクはエリーの心情を察し、率先して巣の探索をしているが、主君のアキラの前でなければ入りたいとは思えなかった。

「何事も経験だろ」
「……、まあ、あんたがやりたいって言うなら、止めはしないけど……、」
「よし、決定」
 アキラは機嫌よく、次の巣を探して歩き出す。
 その後ろを歩くエリーとサク。
 今ではすっかり、アキラに先陣を任せられる。
 ただ、余計なことをしないように全力で神経を張り詰めていなければならないのだけれど。

「随分、アクティブになったな」
「はあ……、油断してなきゃいいんだけど」
 目の前のアキラは、確かに変わっている。
 今までの戦闘では、後ろで怯えたように隠れ回り、そのくせ『行けえぃっ、我が従者たちよっ!!』なんてことを喚き散らしていた。
 それが今はどうだ。
 戦闘参加をすることで、色々と興味が出て、積極的に行動している。
 森の中を歩くのにも、エリーから決して離れようとしなかったというのに、今では先頭で風を切っているのだ。

「教え子の成長は、嬉しくもあり、寂しくもある。そんなことを、私は師から聞いたよ」
「ま、そうかもね」
 不安は拭えないが、確かにサクの言葉は的を射ていた。

 そうだ。
 自分は、アキラの魔術の師。
 だから、アキラには強くなってもらいたい。
 そう思っていたのだ。

「ま、あいつに探索の仕方ってのも教えないとね」
 自分の中の答えを見つけ、強引に納得する。
 それで、いい。
 アキラは、エリーにとって、“弟子”。

 そう考えれば、それでいい。

「……! うおっ、出たっ!!」
 今までよりも険しい岩山の元、アキラはバックしながら走ってきた。
 アキラの目の前には、今まで以上の数のシーフゴブリン。
 ランドエイプも現れ、数体だがクンガコングも姿を現している。

「ひとりでできる?」
「パス」
「あんたも戦うのよっ」

 エリーはそう叫んで、魔物の群れに突撃していく。
 サクも並んで、魔物を攻める。
 後ろは大丈夫。

 アキラは十分、勝ち残れるだろう。

―――**―――

「はっ!?」
 パチリ、という音が聞こえるほど勢いよく、少女は目を開けた。
 エレナとマリスは小さな湖の岩から、立ち上がる。
 ようやく溺死しかけていた女の子が覚醒したらしい。

「あれっ!? 私っ!? あれっ!?」
「とりあえず、落ち着きなさい」
 やはり、エレナの甘ったるい声の対象に女性は含まれていないのか。
 エレナ冷めきった目を、自分の身体を確認する少女に向けた。

「なにっ、なにっ、」
「っ、いいから落ちつけって」
 青っぽい上着とアンダーウェア、そしてハーフパンツ、とボーイッシュな姿をした少女の肩を、エレナはガッと掴んで地面に押しつける。

「なにっ、なにっ、何だぁっ!?」
「黙りなさい。そしてあなた、頭大丈夫?」
「ひどっ!?」
 怯えた表情を浮かべていた少女の瞳が涙ぐむが、エレナの真意はそこではない。

「頭打ちつけて気を失ってたんすよ」
 エレナに任せていては彼女が怯え続けることになるのを見越したマリスが歩み寄った。
 場合によっては、治癒魔術が必要かもしれない。

「んえ? ……って、いづっ!?」
 少女は頭に手を伸ばし、ある一点で背筋を震わせた。
 どうやら、コブができているようだ。

「うう~っ、痛ったぁ……」
「……!」
 その直後、マリスは手を下ろした。
 彼女の手から、スカイブルーの光が漏れ、患部を照らしていく。
 青みがかった短髪と混ざるそれは、水曜属性の治癒魔術だ。

「魔術師?」
「え? ええ、そりゃもうっ、現役バリバリでっ!!」

 声の音量だけなら、エリーと同じかもしれない。
 気を取り戻したばかりだというのにやたらと元気なこの少女は、口調も強く、何が楽しいのかからからと笑う。

「あなた、名前は?」
「おおぅっ、“決闘”ですかっ!?」
「……これ以上喚き続ければそうするわ」
「うけなかったっ!!」
 エレナは耳を両手で軽く塞ぐが、あるいはそれは、ただのポーズというわけではないのかもしれない。

「えっと、ですねぇ……、私はアルティア=ウィン=クーデフォン。ティアちゃん、とか、アルにゃん、とか親しみを込めて呼んでくれると、」
「私はエレナ=ファンツェルン。さ、始めましょうか、決闘を」
「うおおっ!?」
「エレねー、ストップっす」
 エレナの臨界点が、思ったよりも早く来た。
 エレナの掴んだ肩に一瞬ライトグリーンの光が見え、マリスは慌ててそれを止める。
 大音量を前にして、エレナの額に青筋が浮かんでいるような気がしてはなおさらだ。
 殺しかねない。

「自分はマリサス=アーティっす。アルティアさんは、ここで何してたんすか?」
「いや、だからマリにゃん、わっしのことは、ティアにゃんとか、」
「……、エレねー、休みながら交代してくれると嬉しいっす」
「せっ、せめてティアと~っ、」
 思った以上に、自分の臨界点も近かった。
 マリスは、姉の大声で慣れていると思っていたが、目の前のティアは違う。
 単純に、うるさい。

「うるさい女」
「エレねー、そういうのは、心の中だけで言うのが正解っす」
「ひどっ!?」
 変わらず喚くティアの前から、ついにマリスは距離を取り、エレナの相手を託す。
 今度は何が起ころうと、ストップしなくてもいいかもしれない。

「いいから何してたのか話しなさい。一人?」
「それが、聞いて下さいよぉ~、」
 ティアはわざとらしく口に手を当て、まるで内緒の話をするかのように呟いた。

「わたしゃね、朝、何かの物音に目が覚めたんですよ。それがもう、昨日遅くに寝たのにぱっちりと。いやっ、遅くまで起きてたからって、その、えと、あんなことやこんなことしてたわけじゃないですよ? へへへっ、そりゃ、あっしも15ですから、そういうのに興味はあるにはあるけど、あははっ、いやっ、何言わせるんですかっ!! まったくっ、」
「…………、一人称を統一して、あと二十文字以内に説明しなさい」
「無理です。それで、まあ、何かなぁ~と思って居間に行くと、」
「こっ、のっ、」
「エレねー、話は一応進んでいるみたいっす」

 この女を再び湖に沈めて、歩き出す。
 そういう目をしているエレナをなんとかなだめ、マリスは先を促した。
 流石に“勇者様御一行”として、人殺しはまずい。

「何といたんですよっ、不敵に笑うシーフゴブリンがっ!! 町外れとはいえ、町の中にですよっ!! それで私、びっくりしちゃって、もう唖然。寝起きだったし、顔も酷いことになってたんじゃないですかぁ? いやいやいや、あんなに驚いたのは、ちっちゃい頃に、」
「その辺どうでもいいから、さっさと先進みなさい」
 いい加減、時間の無駄だ。
 もし今、ティアから、シーフゴブリンという呼称が出てこなければ、とっくに彼女は湖の底に沈んでいただろう。

「いや、それでまあ、シーフゴブリンもあっしに気づいて、おっ、やんのかこのっ、と思ったら、シュタタッ、って逃げてっちゃって……、でも、それだけならよかったんですよっ! しかし、奴の爪に光る何か。その正体に気づいたとき、あたしゃ再び唖然! まさかそんなことがっ、って感じで、なんとそれは、」
「……、つまり何か盗まれて、それを探しに来たのね」
「おおっ、テレパシーッ!! さっすが、エレにゃ……いだっ、いだいいだいいだいっ!!」
 エレナはとうとう我慢できなかった。
 魔物を平気で絞め落とせる握力で、ティアの口を塞ぎ、そのままギリギリと絞めていく。
 そのくらいなら、と、マリスも動かなかった。

「うっ、づっ、ああっ、顔歪んでませんかっ!?」
「それくらいした方が良かったかしら?」
 エレナから解放されたティアは、蹲って頬をさする。
 その仕草も必要以上にオーバーで、エレナの逆鱗を面白いように撫でた。

「いやいやいや、まあ、そうなんですけど、それで私、賊を追って単身この森へ。そしたらなんと、巣が大量にあるじゃないですかっ! 空の巣とかを探索してたんですけど、巣の中で、見事に転んじまいましてっ、まっ、空いた巣を狙う、まさにっ、空き巣! そんなことするからこうなるんですねっ、なんちてっ、」
「……、それで、身体を洗ってたのね……」
「それは見事なこけっぷりでしたよっ、もう、ビターンッって、いやいや、痛くて痛くて、」
「そのくだり、これ以上掘り下げないでくれる? せっかく私が要約しているんだからさぁ……」
「うわっ、眼が恐い!!?」

 エレナにとって、単純な情報を聞き出すのにこれほど時間がかかったことは初めてだ。
 強いて言うなれば、初めて会ったときのアキラくらいだろうか。

「そだっ、お二方っ、この辺りで、シーフゴブリン見ませんでしたかっ! もう多くて多くて疲れて疲れて眠くて眠くて……、わたしゃどうすりゃいいのか……」
「湖に沈めてあげるわ」
「いやっ、そういうのはっ、ってあれ!? 私服着てるぅっ!?」
 そこでようやく気づいたのか、ティアは身体を振るう。
 髪は若干湿っているが、身体の水気は払われていた。
 簡単に洗ったはずの服も、二人がやったのか乾かされている。

「私が着せたのよ……。あなたの凹凸の乏しい身体にね」
「きっ、気にしてるのにっ!!」
 知ったことか。
 エレナは口を吐いて出そうだった言葉を飲み込み、代わりに優越感を持った笑みで、自分の胸をせり出した。

「っ、ずるいっ!」
「話が進まないわ……。それだけ騒げれば、もう大丈夫でしょ」
「やっぱり牛乳……、ですかっ?」
「さ、行きましょ」
「分かったっす」
「ちょっ、ちょっとおぅっ!」

 これ以上関わりを持ちたくない。
 振り返りながらそう目で訴えたが、ティアは歩き出した二人の前に回り込んだ。

「ここで出会ったのも何かの縁。お二方は、依頼でもしてたんですか? こんな森の深くでっ!」
「違うわ」
「いやいやいやっ、あっしの目は誤魔化されませんぞっ」
 聞こえる大きさで、エレナは舌打ちをした。
 確かに森林の奥で、女二人。
 魔術師の依頼でもなければ不自然なのだろう。

「もしかして、シーフゴブリンを……!?」
「……、当たらずしも遠からずって感じっすね」
 エレナの代わりに言葉を紡いだマリスは、軽く森林を見渡した。
 確かに自分たちは直接受けてはいないが、今まさにシーフゴブリンの依頼を受けた組みに合流しようとしていたのだ。

「実はですねっ、さっきも言ったけど、その、わたしくめは疲れちまいましてっ。そうまさに疲労困憊っ!! でもっ、盗まれたものを取り戻すまで、私の冒険は続くっ!! このまま戻るわけにはいかなくてっ、」
「かわいそうね……。こんなところで死ぬなんて」
「いやいやいやっ、早いっ、早すぎますよっ、その結論っ!! あたしゃ、まだまだ色々と経験したいことがっ、もう五、六ステップ置いてもらっても、きゃはっ、……って、待ってぇぇぇえええーーーっ!!!!」

 後ろから迫るティアを振り払う気力も失せ、エレナとマリスは無言で歩き続けた。

―――**―――

「……、防御って、大切だな……」
 アキラは暗く異臭漂う空間で、むくりと身体を起こした。
 身体は転がり落ちたせいで土に塗れ、両手は頭を庇っていたせいで軽く痺れている。
 背中も、剣が何度もぶつかって、ひりひりと痛んだ。

「おーいっ!!」
 ゴワンゴワン、と、洞窟内にアキラの声が響く。
 しかし、それに応える声は無かった。
 どうやらかなりの距離、落下してきたようだ。
 防御幕の性能の良さに僅かな感動を覚え、しかし身体は震えている。

「……どうするよ、俺」
 顔を絶望に歪ませ、アキラは頭を抱え込んだ。
 つい先ほどまで、魔物を倒して上がっていた士気が、カクンと下がっていくのを感じる。

 今までを遥かに凌ぐ数で現れた魔物の群れを、エリーとサクの二人と協力して倒したまでは良かった。

 問題は、そのあとだ。
 アキラの背丈の倍ほどもある入り口に、意気揚々と踏み入れた瞬間、それは起こった。
 てっきりあると思っていた足場がなく、アキラの身体は闇に消える。

 どうやら入口直前に、地下へと続く大穴が開いていたらしい。
 それが侵入者を防ぐ罠なのかは知らないが、ともあれアキラはその罠にかかり、曲がりくねった坂を転がり落ち、今に至る。

 感覚的には、短い。
 だが、思い起こせばかなりの長さ、転がっていた気がする。

 探索を任された直後の事態に、アキラの顔からは血の気が失せていた。

 さて、どうするか。
 目の前は暗いが、何かがいる気配はない。
 やはり巣の前で倒したのがここにいる魔物全てだったのだろうか。
 だが、前が見えないというのは、洞窟探索には致命的。
 探索用に持っていた松明も、転がってくる途中で手放してしまい、火が消えて、足元で真っ二つに折れている。
 この場で明かりを作ろうにも、火を点ける道具の方もどこかに落としてしまっていた。

 役立たずの松明を放り投げ、アキラは冷や汗を拭って目をつむる。

 このまま救援を待つしかない。
 だが、やはり暗すぎて不安だ。

「……、あれ、俺もしかしていけんじゃね?」
 アキラは手をかざし、神経を集中させた。
 何度も見てきた、エリーのスカーレットの光。
 防御幕ができるのだ。
 それなら、もしかして、今の自分なら、

「……、うおっ」
 一瞬、アキラの手上がオレンジに爆ぜた。
 驚くのも束の間、その光はエリーのように手に留まらず、闇に四散する。
 どうやら、力加減は難しいらしい。

「……、……、……、」
 ボッ、ボッ、ボッ、とまるで火付きの悪いライターのようにオレンジの光がアキラの手のひらでノッキングする。
 いつしか自分がこんなことをできるようになっていることに感動を覚えるも、やはり完璧な照明灯にはならないようだった。

 だが、その、束の間の光。
 それが、断続的にとはいえ、正面の道を照らしていく。

「おおっ、やるじゃん、俺」
 寂しさを紛らわすべくわざわざ呟いた言葉は、洞窟内に小さく響く。
 暗い中で静かにじっとしていては、気が狂いそうだった。

「……、」
 そして。
 何とか自分を保つために動き出したいとアキラが思ったとき。
 自らの出すチカチカとした断続的な明かりが、目の前の道を照らし出した。

 アキラが滑り落ちたその正面、洞窟内に迷路でもあるのか、大穴が、三つほど開いている。

「……、」
 アキラは、その中で真ん中を選び、歩き出した。
 上に昇る術はない。
 ならば、本来の目的の探索を始めるべきだろう。

「で、出てくるなよ~っ」
 身体を強張らせ、アキラは恐る恐る足を進める。

 手には光を、背には剣を。
 それぞれ強く確かめながら、アキラは闇に飲み込まれていく。

 こうして。
 アキラは人とはぐれたときに最もしてはいけないこと、その場から勝手に動き回るという行為を開始した。

―――**―――

「……!!」
「あら?」

 マリスとエレナが、魔物の戦闘不能の爆発を奏でた直後、見慣れた着物姿の少女が木々の間から飛び出してきた。

「サクさん?」
「二人とも、なんでここに!?」
 サクの記憶では、二人はここから距離のある場所で依頼をしていたはずだ。
 自分が全力で走っていた方向で。

 だが、サクの目の前にいるのは、間違いなくマリスとエレナ。
 “二人だけだった”。

「私たちの依頼は終わったから……、見学、よ」
「それより、サクさん一人っすか?」
 そうだった。
 マリスの言葉に事態を思い起こしたサクは、二人に詰め寄る。
 ここにいるなら、都合がいい。

「聞いてくれ、アキラ様と、それに、エリーさんもっ、」
「……、何があったの?」
 エレナの瞳が僅かに冷え、マリスも身を乗り出す。
 サクの慌てようからして、またアキラが何かを惹き付けたのかもしれない。

「それが、アキラ様がシーフゴブリンの巣を探索しようとして、穴に落ちて行ったんだ。そして、エリーさんも私に二人を探すように言伝を残して、滑り降りて行った」
「……」
「……」
「?」

 事態を説明し終えたのにもかかわらず、マリスとエレナは怪訝な顔つきを浮かべたまま。
 驚きこそはすれ、何か、リアクションが乏しい。

「……、サクさん、もしかして、にーさんたちが落ちてったのって、この岩山にあった巣っすか?」
「……? あ、ああ、そうだ」
「はあ……、ちっ、」
 マリスが指差した岩山に頷けば、いつも以上に大きいエレナの舌打ち。

 一体二人に何があったというのだろう。

「実はさ、私たちも探してんのよ。この山への穴への入り口。ちょっと面倒なことになっててね」
「サクさん、前に、にーさんとねーさんがスライムの洞窟に閉じ込められたの、覚えてるっすか?」
「あ、ああ」
 忘れるわけもない。
 アキラとエリーが洞窟に入った途端、落石が起き、穴が塞がれたあの事件を。
 何せ、先ほどアキラの姿が一瞬で消えたとき、そのときのことが脳裏をよぎったのだから。
 もう今後、中の見えないものにアキラを単身乗り込ませないと固く誓ったばかりだ。

「自分たち、たった今、同じようなこと経験したんすよ」
「?」
「そ、うるさいのが一人いてね……、そいつが足を踏み入れた瞬間、ガラララッ、って」
「正確には、自分たちが入ろうとした瞬間に、っす」
 二人は誰かと行動を共にしていたのだろうか。
 いや、今は後回しで構わない。
 重要なのは、この山も、あのスライムの洞窟同様、二人を拒んだという事実。

「それより、ここの入り口、やっぱり一つじゃないみたいね」
「そうっすね……、サクさん、にーさんたちが入った入り口に案内して欲しいんすけど」
「ああ、頼む」
 サクが駆け出し、二人がそれに続く。
 目指すは先ほど、アキラたちが滑り降りて行った穴。

 “これでもう、大丈夫だ”。

「……、」
 そのはず、なのに。
 サクは違和感を覚えた。

 自分は、いや、自分たちは、この二人の力に頼っている。

 自分の主君、アキラの危機。
 それは間違いない。
 メンバー内の“最強カード”を切るタイミングも、ここで間違いはない。

 しかし、やはり言い表せない違和感を覚える。

 あえて言葉を選ぶのならば、主君をまたも守れなかった不甲斐なさ。
 自分は、仕えると言っておきながら、アキラの窮地を救えた試しがない。
 自分の忠誠心は、やはり、形だけのものなのだろうか。

 だがその不甲斐なさも、絶大的な二枚のカードに押し消される。

 そうだ。
 適材適所ではないのだ。
 この程度の危機に、この力はあまりに大きすぎる。
 何の加減もない。
 何一つ苦悩をせず、解決だけが現れる。

「っ……、」
 サクは奥歯をギリッと噛んだ。
 不甲斐なさ、そして、自分の役割がもみ消される恐怖に。
 そんな恐怖の発生源は、他でもない、自分たちの仲間だ。

 だが、それでも。
 今はアキラを救うべきなのだ。
 このカードを切らざるを得ない。

 サクは案内しているにもかかわらず。

 まるで引き離すように、速度を上げた。

―――**―――

「はっ……、はっ……、はっ……、」
 アキラは身をかがめ、洞窟内の横穴に身をかがめた。
 右手には、すでに光を宿していない。
 ただ、自分の存在をもみ消すように、息を殺し、うずくまる。

「……、」
 アキラはちらりと、洞窟の“表通り”に視線を移した。
 そこには、目をギラギラと光らせた、シーフゴブリンが三体、いや、四体だろうか。
 一体を相手にしても、死力を尽くして転がり回らなければならないのだから、アキラに勝ち目はない。
 その上辺りは暗く、まともな勝負になるとは思えなかった。

 ノッキングするように光源を出していたせいで、目はチカチカする。
 だが、その足音が、徐々に近くに来ていることは分かった。
 向こうはまだ、アキラに気づいていないようだが、このままでは鉢合わせ。

 どうする―――

「……」
 アキラは先ほどまで光源になっていた、右手を眼前に広げた。

 “負け”はない。
 この力を使えば、負けることだけは絶対にないだろう。

 だが、“勝ち”はどうだ。
 アキラは左手で壁をさすり、即座にその判断を下せた。
 あのスライムの洞窟同様、壁はごつごつとした仕様になっている。

 勝ちも、ない。
 自分はあの四体を葬ったあと、間違いなくこの壁に身体を打ちつけることになるだろう。

 ここにはいない。
 自分の怪我を即座に治療してくれるマリスも。
 自分を支えてくれるその双子の姉も。
 ここにはいないのだ。

 だから、あの魔物たちとは引き分け。
 これが調子に乗ったペナルティだろうか。

 以前、エリーが、アキラには0か100しかないと言っていた。
 まさにその通りだ。
 アキラの具現化は、威力こそ絶大だが、使い勝手は最悪。

 しかし今、それを使わなければあの鉤爪で自分は引き裂かれるのだ。

「っ……、」
 だが、それを使わないように言った女の子がいた。
 アキラの、“友人”が。

 使うか、使わないか。

 その二つをかけられる天秤があれば、どれほど楽だろう。
 きっと、どちらかに傾いてくれる。
 だが、現実にそんなものはなく、今、自分で決断をするしかない。

 シーフゴブリンたちの足音はどんどん近付いてくる。

 しかし、右手は、

「っ……、」
 もう、こうなったら―――

「―――!?」
 アキラが決断を下す前に、シーフゴブリンたちに何かが突き刺さった。
 一瞬、洞窟の闇がスカイブルーの色に爆ぜる。

 反射的に顔を上げたアキラは、一瞬唖然。
 シーフゴブリンと、アキラを挟んでの反対側。
 手に煌々とした松明を握った青みがかった髪の少女が立っていた。

「ぬおおおっ!!? やっばーーーいっっ、一体だけじゃなかったぁぁぁああーーーっ!!? しかも決まってねぇぇぇええーーーっ!!!?」
 洞窟内に反響するその大声に顔をしかめ、アキラは横道から顔を出してその少女の向いている方を確認。
 そこには、足元を途端削られ怒りをあらわにする先頭のシーフゴブリンと、同じくいきり立つ背後のシーフゴブリンたち。

 どうやら不意打ちに失敗したらしい少女は洞窟内に声を何度も響かせ、身体を震わす。
 その姿に、シーフゴブリンたちは醜い顔をさらに歪め、長い手を伸ばして鉤爪を少女に向ける。

「っ―――」
 少女に跳びかかろうと、シーフゴブリンたちはじりじりと距離を詰めていく。
 間もなくアキラの横穴を通過するだろう。
 だが、その少女は、松明をぎゅっと握ってその場から逃げようとしない。

「よっ、よっしゃあ、来いやぁっ!! 倒すっ、それはもうっ、倒すともっ!!」
 洞窟に響く声が虚勢を張っているのは、アキラにもすぐに分かった。
 そしてその言葉が、シーフゴブリンたちに挑発として受け取られていることも。

「っ、」
 少女もそれに気づいたのか、松明を左手で強く握り、右手を差し出す。
 そして、手を銃のように形作り、人差し指をシーフゴブリンに再び向けた。

「シュロートッ!!」
「……!!」
 次の瞬間、少女の指からスカイブルーの閃光が走った。
 横穴にいるアキラからは、その軌跡が確かに見える。
 その攻撃は、今度こそシーフゴブリンを正確に捉え、身体を弾き飛ばした。

 飛ばされた先頭のシーフゴブリンは、僅かに身体を震わせ、小さな爆発を起こす。
 詠唱を付した彼女の一撃は、エリーたちと同程度以上あるらしい。

 だが、

「っしゃあっ!! どんなも……、って、いっぺんにはダメぇぇぇええーーー!!」
 残った三匹は、仲間を屠られた怒りそのままに、同時に少女に押し寄せる。
 声は相変わらず大きいが、顔は蒼白。
 間違いなく、危機が迫っている。

 ならば、

「っ、―――」
「―――!?」
 シーフゴブリンが横穴から見えた瞬間、アキラは剣を横なぎに振った。

 そして同時に込める、日輪属性の魔術。
 目の前の標的目前にして、シーフゴブリンは洞窟に爆ぜるオレンジの一閃に捉えられた。

「ギギッ!!?」
 二体。
 アキラは横穴から飛び出て、シーフゴブリンに対峙し、状況を把握する。
 幸いにも、アキラがタイミング以外合わせなかった攻撃は、シーフゴブリンの二体を葬ったらしい。
 仲間の爆発に、残る一体は跳ぶように一歩退き、アキラと対峙する。
 先ほどまで四体で絶望的だったが、今なら勝機があった。
 洞窟の広さも、剣を振るうに問題はない。

「きっ、来たぁっ、助かったぁっ!! ここでまさかの助っ人ぉっ!!」
「っ、お前、下がってろっ!!」

 確かに真剣にやっているときに、後ろでチャチャを入れられると気分が悪い。
 つい先日まで自分は向こう側だったのだと僅かに脳裏に浮かぶが、すぐに追い出す。
 今は、目の前のシーフゴブリンだ。

 後ろの少女の松明のお陰で、醜く歪む顔つきも、危険に光る鉤爪もよく見える。

「ギッ!!」
 そのシーフゴブリンが、アキラ目指して跳ぶ。
 流石に洞窟内ということもあり、身体は広げ切っていない。

「っ―――」
 伸びてきた長いリーチの攻撃を、アキラは剣でいなしながら回避する。
 流石に避け切るのは不可能だ。
 転げようにもここは洞窟内。限界がある。

 魔物の鉤爪がガチガチと剣に当たり、洞窟内に反響してく。

「ギッ、ギッ!!」
「っ、」
 一歩ずつ後退するアキラ。
 ほぼ直線に並んで単調な動きしかできないアキラに、シーフゴブリンは攻撃がしやすそうだ。

 だが、思い出せ。
 サクはこういうシチュエーションでも、戦ってきたと言っていた。
 自らの愛刀がその長さゆえ完全に振れない状況での戦いを、彼女は語ったはずだ。

 そのとき、自分は何を習ったのか。

「っ―――」
 一つは、この場からの離脱。
 自分の有利な場所に相手をおびき寄せること。
 だが、それは無理だ。
 ここはシーフゴブリンの巣。
 アキラは当然、自分にとって有利な場所がどちらにあるのかを知らない。

 なら、次は、

「っ、」
 ついにアキラは、少女の元まで下がらされた。
 目の前には、未だ怒りに震えるシーフゴブリン。
 このまま下がり続けるわけにはいかない。

「ギッ!!」
「っ―――」
 腕が直線に延びてきた瞬間、アキラは横に跳び込んだ。
 身体を壁に突撃するようにして直線の攻撃をかわし、すぐさま剣を振りかざす。
 やはり、そうだ。
 自分の動きが“場”によって単調になっているということは、相手にも制限がかかっている可能性もある。

 現にシーフゴブリンは、外で見た鞭のように腕を振るう攻撃が繰り出せていない。

「悪いな―――」
 今、目前には片腕を伸ばしきったシーフゴブリン。
 もう片方の腕より、遥かにアキラは速く動ける。

「決め―――」
「シュロートッ!!!」
 アキラが剣を振ろうとした瞬間、シーフゴブリンは吹き飛んだ。
 完全にアキラに意識を向けていた魔物を襲う、スカイブルーの一撃。

 それをまともに受け、シーフゴブリンは仰向けに倒れ、即座に戦闘不能の爆発を起こした。

「いよっしゃあっ!! 見たかぁっっ!!」
 目の前の少女は高らかにガッツポーズ。
 そのまま駆け出しそうな勢いで身体を踊らし、松明もブンブンと振る。

「いやいやっ、マジ助かりましたっ、ちょーかっこよかったですっ!! 不覚にもわたしゃ、ときめいてっ、キュンっと、」
「……嫌いだ、お前なんか」
「うわっ、いきなり振られたっ!!?」

 せっかくの見せ場が消失し、アキラは哀しげな瞳を目の前の少女に向ける。

 その邂逅を、松明だけがメラメラと写していた。

―――**―――

「あ、の、バカ……!!」
 エリーは足元の折れた松明をスカーレットの光で照らし、苦々しげに呟いた。
 松明が落ちていた以上、アキラがここにいたのは間違いない。
 大方、魔力で明かりをつくり、歩いて行ったのだろう。
 防御幕ができた以上、その程度のことは自力で編み出したに違いない。

 何で動き回っているのか。
 自分は慎重に坂を下ってきたというのに、アキラの方はずんずんと先に行っている。
 本当に、手間のかかる“弟子”だ。

「……、」
 エリーは目の前の穴を照らす。
 枝分かれした三本の洞窟の道。
 エリーは一瞬迷ったのち、真ん中の道を選んだ。
 あいつのことだ。
 どうせ真ん中だろう。

「……」
 早く、アキラを見つけなければ。
 アキラは今、確かに成長している。
 だが、それはあくまで一般的なもの。飛躍的に力を高めたわけではない。

 そうしたとき、最も危険なこと。
 それは、調子に乗ることだ。
 強くなったと高をくくって油断し、そして、

「……っ、」
 その想像がアキラだけに容易に想像でき、エリーは身体を震わせた。
 “弟子”だから。

「……」
 ただ、それ以上に気がかりなこともある。
 あの男に、“負け”はない。
 絶体絶命となれば、この岩山総てを消し飛ばす術を持っている。
 そのとき、後ろには何があるのか。

 自分はいない。
 マリスもいない。

 あの男は、壁に身体を、もしかしたら頭を打ち付ける。
 エリーはちらりと岩肌の壁を見る。
 あの衝撃でぶつかって、無事で済むとは思えなかった。
 それは、まずい。
 “弟子”だから。

「っ、たくっ、……!!……」
 エリーの歩幅が長くなった瞬間、スカーレットに照らされた岩陰に、何かが映った。

「ギッ……、ギッ……、」
「っ、まだいるの……!?」
 一瞬期待し、しかし現れたのが醜いシーフゴブリンだと知ると、エリーの目が冷えていく。
 やはり巣の中。
 シーフゴブリンはまだまだいるようだ。
 そうとあっては、余計な時間を取られている場合ではない。

 岩陰から現れた数、三体を確認すると、エリーは全身に魔力を纏い、それに飛び込んで行く。
 ほとんど動く間も与えず、それら全てに拳撃を打ちこむと、そのまま走り去るようにその場を離脱。
 後ろから聞こえてきた爆発音にも、何の感慨も湧かなかった。

 今は、シーフゴブリンの相手を慎重にしている場合ではない。
 あの程度の相手は、取るに足らない存在なのだから。
 一刻も早く、アキラを見つけなければ。

「……っ、」
 走って二股に分かれた道に到着すると、一旦止まり、息を整える。
 危ない。今の自分は、冷静ではなかった。
 高をくくるといえば、自分もそうだ。
 敵がシーフゴブリンといえども、ここはその巣。
 何体で、どのように、襲いかかってくるかも分からないのだ。
 狭い道で挟まれでもしたら、危険だろう。
 冷静になる必要がある。

「……、」
 どうも自分たちは、起こる事象に対して楽観的すぎのような気がした。
 ごり押しで旅を続け、安全面はあまり考えずに割のいい依頼を片っ端から受け、そして進む。
 調子に乗りやすい、と言い換えられるかもしれない。
 アキラだけでなく、メンバー全員が。

 確かにアキラがいの一番にご都合主義だと騒ぎ立てているのが主たる理由だが、他の者たちも、そういうものか、と納得している。
 今朝の武器の話も、その存在があるかどうかのみを考え、それに伴う危険を一切考慮しなかった。

 それは、おそらく、リスクをリスクと全員が思っていなかったからだ。

 自分たちは、危険を冒してあるかどうか分からない武器を探しに来ている、と、“思っていない”。
 魔物の巣を探索することを、危険と認識してさえいないのだ。

 エリー自身、結局は探すだけなら、と納得していた。
 だが、そもそも、探すという行為は危険極まりない。

 それこそ、アキラがいきなり消えたように。

 やはり、それも、あの“三つの要因”が、認識能力を麻痺させているからなのだろうか。

「……?」
 そうしたところで、エリーはようやく、この洞窟の異変に気づけた。
 シーフゴブリンの巣にあった、悪臭が、しない。

「……、」
 エリーは眉をひそめ、改めてこの洞窟を見やった。
 大きすぎる。

 シーフゴブリンは、そこまで大群で行動しない。
 現に自分たちが潰してきた巣も、この通路の一端程度ではなかったか。

 それなのに、何故、

「……」
 エリーは警戒を新たにした。
 また、何か妙な事態が起こっているような、悪寒。

 スカーレットの光で闇をかき消し、エリーは二択の道を選んで進む。
 するとまた、枝分かれした道。
 ここは迷宮か何かなのだろうか。
 故意に、侵入者が迷うような造りになっているような気がする。

 明らかに、シーフゴブリン以外の何かの介入。
 それが存在していた。

「……」
 エリーは慎重に、歩を進めた。
 これは、また、

「……!」
 エリーは、角を曲がったところで、スカーレットの明かりを消した。
 必要がなくなった。
 なぜなら通路はすでに、輝いている。

 これは、魔力。
 自分と同じ、スカーレットに輝く空間が奥にあり、その光がここまで漏れていた。
 いや、同じではない。
 エリーの煌々とした赤ではなく、“赫”。
 毒々しいその光が、まるでエリーを誘うかのように奥から伸びてきている。

「っ、」
 これは、危険だ。
 エリーは即座に判断した。
 足は震え、脳は撤退を強制させる。

 この先に、行ってはいけない。

 頭が導き出した答えを、エリーの身体は全面的に肯定し、今まさに引き返そうとした瞬間、

『ここまで来たんだ、行くしかない。そうだろう?』

 洞窟内に、声が響いた。
 男の声、だろうか。
 反響するそれは不気味に低く、それでいて、洞窟内を一気に縛りつけるかのように鋭い。

 完全に、目を付けられた。
 それも、“知恵持ち”に。

 今から引き返そうにも、もう遅い。
 エリーが逃亡すれば、間違いなく相手は追ってくる。そういう声をしていた。
 この声には逆らえない。
 低さゆえの強制力があるそれに、エリーはゆっくりと、僅かにでも時間を稼ぐように一歩ずつ足を踏み出す。
 身体は冷え切り、頭は何も考えられない。

「っ、」
 エリーは、感覚的にはあっという間に最後の角に到着し、赫の部屋に足を踏み入れた。

「……!!?」
 そこは、赫だけではなかった。
 巨大なホールのような空間に、金と銀の財貨がうず高く積まれている。
 シーフゴブリンが集めた宝だろうか。
 これだけで、一国を買えると錯覚を起こしそうなほどの、財。
 また、それだけにとどまらず、見た者総てを魅了する精緻な武具も、ぞんざいに転がされている。

 “だが、そんなものはどうでもよかった”。

 問題なのは、その全てを見渡し、横顔から光悦の表情をうかがわせる“一人の男”。

「どうだ。美しいだろう」
「……、」
 当然のように語りかてくる男に、エリーは何も返せなかった。

 後ろ姿だけなら、ただ赫いマントを羽織っているだけの背の高い男にしか見えない。
 だが、注視すると、その男の耳は先が尖り、髪は純金色。

 この、出で立ちは、

「よく来た。魔王様直属―――リイザス=ガーデランの第七十二番宝庫へ」
 振り返った男の顔は、皮膚の色がそもそもそうなのか、赫く、目つきも口元も釣り上がっていた。
 黒で塗りつぶしたような眼球は、その異様さに、人の身体を震わせる。

 それは、エリーにとって初めての―――

「っ、―――」

―――“魔族”との邂逅だった。

―――**―――

「いやいやいやっ、わたくし真っ逆さまに穴に落ちましてまさに絶体絶命っ!! そんなときっ、シーフゴブリンが落としたのか盗んできたのかは知りませんが足元に松明が落ちているではないですかっ!! これぞ神のお導きっ! わたしゃすぐさまポーチから火点け具を取り出しカチッとな。そしたらもううはうはですよっ!!」
「……」
 マシンガンのような言葉を浴びながら、アキラはアルティアと名乗った少女の話を頭でまとめていた。
 どうやら彼女は、自分と同じように仲間と逸れたらしい。
 しかも、方法も同じ。
 シーフゴブリンの巣を探索しようとして、だ。
 このシーフゴブリンの巣は、どうやら入口がいくつもあるほど、巨大のようだった。

「しっかし、驚きましたっ、先ほどの不意打ちっ! 私の位置からだとっ、こうニョキッと剣が岩から飛び出てですねっ、」
「あ、ああ……、」
 洞窟内の大声を響かせ喚き続けるアルティアを見ながら、アキラはさらに思考を進めた。

 松明でメラメラと照らされる彼女の顔つき。
 絶世の美女、とは表現できない。だが、可愛いと言えるだろう。それも、普通のラインを保った。

 彼女も異世界万歳ご都合主義による攻略対象キャラクターだろうか。
 どちらかと言えば、攻略対象というより、攻略ルートのないヒロインの友人、という感じもするが、二次小説当たりには彼女をヒロインとしての話も出るだろう。

 だが、出会ったばかりでこれほど喚き立てるとは。

 いや、待てよ。
 アキラは思考を進める。

 そうか、頭が残念な元気な子。
 これだ。
 これならば、十分に、ヒロインとしての地位を守れる。
 なるほどなるほど、そういうことか。
 あとは少しでも、深い話があれば大丈夫だ。

 だが、もし、そうだとするならば、

「……あ、俺、自分の思考が嫌いになった。この脳、腐り始めてる」
「どうしたぁっ!? なにっ、なにかぁっ!? 私がうるさいからかぁっ!?」
「自覚はあったのか……!!」
「ひどっ!?」

 横を歩くアルティアは表情豊かに頬を膨らませ、しかしからから笑っている。
 耳は痛いが、アキラにはそれが魅力的に見えた。
 こういう風に、感情を表に出してくれるのは、親しみやすい。

「いや、やっぱ、主人公には必要だな……、日輪のスキル」
「おおっ?? やはり先ほどのオレンジ―――」

 オーバーに両手を広げた元気な少女が、その直後、アキラの視界から消えた。
 そして彼女の声に変わって洞窟に響く、びたーんっ、という音。

 アキラは足を止め、身体を震わせた。
 隣には、松明を放り投げ、地面に飛び込んだアルティア。

 まさか、彼女は、

「うわわぁっ、またやったぁっ!? 恥ずかしぃーーーっ!!」

 ドジ、なのか。
 完璧だ。ドジっ娘とは。
 ここまで完璧だったなんて。

 久しぶりのご都合主義展開。
 やはり、異世界は素晴らしい。
 実在しないような要素を持った女性が溢れている。

 黙々と剣や魔術の特訓をしていたかいがあった。
 この出会いを、神に感謝しなくては。
 やはり異世界漂流物の主人公はこうでなくてはいけない。

 だが、

「……あっ、」
「……!」
 ふっと、洞窟が暗くなった。

 ドジっ娘が投げ出した松明がかき消えたの気づくのに、アキラはしばし時間がかかった。

「きっ、消えたぁぁぁああーーーっ!!? やべーぜアッキー、どうするよっ!?」
「……おっ、落ち着けって、多分、この辺に、……あった、」
 唯一の光源が消えたことに僅かに焦りながらも、アキラは残像を頼りに松明を拾い上げた。
 妙な呼び方をされた気もするが、この際どうでもいい。

「おおおっ、流石だぜぃっ、頼むっ、私に明かりをっ、プリーズ!!」
「いや、実は俺、どっかに道具落としてきてさ、」
「おおっ、気が合うねぇっ!」
「……、……、…………!!?」

 暗がりの中の会話を、アキラが理解するのには先ほどよりもさらに時間がかかった。
 輪郭だけ見える少女の笑顔が、固まっていくのも感じる。

「アッキー、マジっすか」
「こっちのセリフだ」

 ドジというものは、現実に存在すればただの厄災なのかもしれない。
 現実と理想のギャップにアキラは頭を抱え、渋々手に魔力を集めた。
 するとノッキングするようにオレンジの光が現れる。
 松明と違い、目が痛くなる光だ。

 絶対に、視力が悪くなる。

「流石ですねぇっ、アッキー!!」
「……え、……だっ、だろっ、そうだろっ!?」
 新たな光源を得たアルティアと、その行為を褒められたアキラの頬は緩む。
 やっぱりそうだ。
 自分はすごいのではないか。
 先ほどもオチがついたとはいえ、シーフゴブリンを二体葬っている。

 座り込んだままの少女に、にこにことした顔を向けられ、アキラは気分が良くなった。

「いや、アルティア、癒されるわぁ……。お前と同じ音量の奴いるんだけどさ。そいつから飛んでくるのは、びっくりなことに全部怒号なんだ」
「おおっ、お役に立てて光栄ですよっ! でも、あっしのことは、ティアちゃん、とか、アルにゃん、とか、親しみを込めてっ、」
「悪い、さっきも言ったけど、それだけは無理なんだ。人として」
「うおおっっ!? 人としてっ!?」
 いくら癒されるとはいえ、それだけは無理だ。絶対に。

「せめてティアと、ティアと~っ!!」
 アキラはオレンジに輝く右手を前に突き出し、歩き出す。
 やはり目はチカチカするが、今は自分がしっかりとしなくては。

 ここは、まだまだ敵地。
 油断はできない。
 自分がふざけていては、この組は壊滅するだろう。
 ティアはアキラのカンフル剤として、役に立っていた。

「あ、でも、そういえば、……うおっ!?」
 その、アキラの隣。
 跳び込むように並びこんだティアは、途端うずくまった。

「どうした?」
「い、いだっ、いだい……っ、」
「!」
 アキラが右手を向けると、ティアは自らの膝を、涙目でさすっている。
 注視すれば、そこはすり向け、血が流れていた。

「っ、」
 アキラはポケットに手を入れ、中を探った。
 何か、傷口に当てられるようなものを、

「……!」
 だが、その必要はなかった。
 ティアの手のひらからスカイブルーの光が漏る。

 その光は、マリスのシルバーの光のように患部に張り付き、傷を徐々に癒していった。

「……、ティア。お前、治癒魔術が使えるのか?」
「おうともさっ!!」
 あっという間に傷は塞がり、ティアは跳び上がらんばかりの勢いでぴょんと立つ。

「……、脱臼とか、治せるか?」
「んえ? そりゃ、一発ですよっ! ぽぽぽんっ! とねっ、あたしにかかって治せないのは、お、ん、な、の、こ、の、い、ち、ど、だ、け、の、き、ずっ、……きゃはっ、って何言わせんですかっ!!」

 変わらず笑うアルティアの言葉を半分以上聞き流し、アキラはその肩をガッと掴んだ。

「んええっ!?」
「安心しろ。俺とお前の平和は約束された」
「うわわっ、告られたっ!? いややっ、どうしよっ、」
「っ、そうじゃなくてっ、とにかく、見てろよ―――」

 これは仕方ない。
 そのはずだ。
 アキラは誰に対してか、心で何度も言い訳を繰り返し、右手をかざす。

 そして、今まさに、突貫工事を開始しようとした瞬間、

「―――!?」

 洞窟内に、爆音が響いた。

「なん、だ……!?」
「……、あっち、ですかね……!?」
 ティアも流石に神妙な顔つきになり、感覚的に音が聞こえた方向を指差した。
 アキラはそれを追って明かりを照らすも、断続的なオレンジの光の先には、やはり洞窟の壁がある。

「……、行く、ぞ」
「マジですかっ!?」
 アキラは惹き付けられるように、走り出した。
 何か、嫌な予感がする。

 背筋が冷めきり、汗が伝う。
 シーフゴブリンが潜んでいるかもしれない岩陰を無警戒に駆け抜け、ただただ音のした方へ。

 この悪寒が、外れてくれていることを願いながら。

―――**―――

「……で、どう思う? 私の財をっ!!」
「か……は……っ、はっ、」

 エリーの眼前、魔王直属、リイザス=ガーデランと名乗った魔族は、仰々しく手を広げ、赤いマントをはためかせた。
 金の装飾が施された鎧のような服装から、赫い皮膚を覗かせている。

 ギロリと、禍々しくも鋭い目つきの顔は、私欲に満ちた光悦。
 その顔を、身体を震わせ倒れ込んでいるエリーに向け、質問への返答を待っている。

「っ―――、」
 エリーは身体を強引に起こし、膝立ちになる。
 まずい。
 あの男から発された魔力を受けて、まだ立ち上がれない。

「早く起きろ。私は感想を聞いている」
 ガラガラと集めた宝が崩れ落ちるが、リイザスは目もくれず、ただただ見下ろしている。

 赫と、金と、銀の世界。
 そこは、今、エリーにとって地獄のような空間だった。

「だから、盗んだ物、でしょう?」
「……、」
 リイザスは、パチンと指を弾いた。
 するとリイザスの周囲に、一抱えほどある赫の球体が一つ浮かび、ふわふわと漂い始める。
 これは、さっきの、

「アラレクシュット」
「……!」
 襲いかかる球体を前に、エリーは震える足を強引に立たせ、その場から離れた。

 しかし、漂う球体は、ふわふわとエリーを追尾し、背後に迫る。

「っ……」
 この、追尾型の魔術は、避けきれない。

「―――」
 エリーはその魔術の前に構え、腰を落とす。

 生半可な攻撃では無理だ。
 やはり、上位魔術で消し飛ばすしかない。

「スーパーノヴァ!!」
 詠唱魔術を附した拳を、目の前の球体に突き出した。

「―――っ!!」
 エリーの拳が命中した瞬間、球体は赫く爆ぜ、目の前の景色を一色に染めた。
 鼓膜が破れたかと錯覚する轟音と、拳への激痛。
 その衝撃に吹き飛ばされそうになるも、エリーは魔力で身体を守り、踏み留まる。

「ほう……、」
 リイザスはその様子を感慨深げに眺め、それでもその光悦の表情を止めない。

「まあ、一つ目くらいは何とかしてもらはなければなつまらんな」
「……!?」
 エリーは目の前の自分の影が強くなったのを即座に察し、伸びのくように振り返った。
 その眼前、再び赫の球体が浮かび、エリーに迫ってくる。

 上位魔術は間に合わない。

「ノヴァッ―――っ!?」
 先ほどの一撃で痺れた右腕を庇い、左手でそれを殴りつける。
 しかしその直後、やはり球体は赫に爆ぜ、エリーの身体を吹き飛ばした。

「っ、あっ、うっ、」
 これは、火曜属性の魔術攻撃のようだ。
 エリーが触った直後、蓄えられた魔力が爆ぜ、インパクト時に集中して威力を高める。
 触ってはいけないその球体は、対象を追尾する爆弾といったところか。

「……で、どう思う? 私の財をっ!!」
 倒れ込んだエリーに、リイザスは再び同じ言葉を投げかけた。
 これで、三度目。
 最初の返答も、二回目の返答も、リイザスは聞き流し、魔術を飛ばしてきた。
 まるで、屈服を迫るように。

「っ……、」
 エリーはボロボロの身体を動かせず、顔だけ上げてリイザスを睨んだ。

 次元が、違う。
 リイザスはあの場を動かず、いや、戦闘にさえ集中せず、財を眺めながらエリーに魔術を飛ばしているだけだ。
 赫い皮膚を囲った黄金の鎧は、同じく赫く光り、相手に差を見せつけているかのように傷一つついていない。

 だが、歴然としてその差がある。

 やはり、“魔族”。
 エリーはその知識を呼び起こしていた。

 あくまで使い魔にすぎない魔物とは隔絶した力。
 激戦区でもまれにしか姿を現さない、諸悪の根源。
 そして、“魔王”になりうる存在だ。
 膨大な魔力を蓄え込み、その総量は人間とかけ離れている。

 しかも、“魔王直属”。
 歴代の魔王の中にも同じ魔族を従えた者はおり、その地位は、期待を裏切らないほどのもの。
 歴史の中でも、魔王直属の魔族を倒すことは、魔王攻略の絶対条件とまで言われている。魔王の力を凌駕する者も軍門に下っていたこともあるそうだ。

 それが、今、目の前に。

「金、銀、財宝……、それは素晴らしい」
「……?」
 エリーが声も出せずにもがくのを見て、リイザスは低い声をホールに響かせた。

「シーフゴブリンなどという下等な存在にも、その尊さが分かるほどに」
「……っ、」

 やはり、だ。
 この財宝は、この魔族が指示してシーフゴブリンに集めさせたもの。

「魔界にも、等しく金は存在する。その魅力は、万物を超えて共通だ」
 リイザスは目つきをぎらつかせ、周囲から奪い尽くした宝を眺める。

「逆に、感情などは無に等しい。分かるな?」
「……、」
 エリーは身体に神経を巡らせ、状態を確認する。
 駄目だ。
 まだ動けない。

「下等な者は、感情にすがろうと下らんことを言う。あらゆる感情は、必ず裏切る。“財欲”こそ、あらゆるものが最後に到達する真理」
 だからこの魔族は、その欲望そのままに、財を集めているのだろうか。
 仰々しく語らうリイザスの表情は、私欲に塗れている。

「っ……、」
「そう睨むな。別に私はお前を殺すつもりはない。平和的に解決しようとしているだけだ」
「……?」
 魔術で痛めつけておいて何が平和的なのか。
 リイザスは赫い顔でエリーを見下し、睨みを効かせた。

「分かるか? 私が欲しいのは、“財”。すなわち、お前の持つ財を総て置いて立ち去れば、それで私の欲は満たされる」
「……!」
 この魔族は何を言い出しているのか。
 人間に憎悪を抱いている魔族が、人間を見逃すなどとは。
 だが表情は、嘘を言っているようには見えない。

「命など、とるに足らん。摘めば財を集める能力さえ失ってしまうのだからな」
「……!」
 リイザスの眼が、僅かに殺気を帯びた。
 そこで、ようやくエリーもリイザスが屈服を迫るように攻撃してきた理由が分かった。
 単純に恐怖を刷り込み、財を差し出すようにする。
 リイザスにとって、人間の命などどうでもよく、財さえ手に入れられれば十分なのだろう。

 “財欲”への追及。
 それが、リイザス=ガーデランの意思。

「っ……、くっ、」
「動けんか? では、しばし時間をやろう」
 リイザスは沈黙し、蠢くエリーを見下し続ける。
 だが、エリーの身体は、例え総てを差し出そうとしても、立ち上がることもできない。

 これでは、やはり、殺される。

 もしかしたら、この金品や武具は、ここに迷い込んでしまった者たちが置いて行ったものかもしれない。
 命を財で買った者たちが。
 身ぐるみを剥がされ、戻った者たちは何を思ったろう。

 きっと自尊心を傷つけられた。
 だが、命は助かったのだ。

 “戻れた人たちは”。

「……、」
 エリーは一瞬、自分の財の感触を確かめた。
 メンバーの貯蓄が入っている。

 だが、駄目だ。
 渡したくない。
 自分は、勇者様御一行の一員だ。
 魔族に屈することは、絶対にできない。

 しかしそれでも、この恐怖から救われるのならば、と脳裏にちらつく。

「……、」
 でも、駄目だ。
 渡せない。
 何より、プライドにかけて。

 この場にいない者は、財で解決できるなら安いもの、と言うだろう。
 だが、一度でもそうしてしまえば、渡した者のプライドは切り裂かれる。

 “師匠”として、それだけはできない。

「まだか? 加減を間違えただろうか……。あと僅かなら、時をやろう」

 ここに。
 マリスやエレナがいればどうしただろう。

 エリーの脳裏に、メンバーの最強コンビが思い浮かぶ。

 リイザスを倒していただろうか。
 だが、自分はそうできない。

 “勇者様”はどうだろう。
 エリーの脳裏に、メンバーの最強カードが思い浮かぶ。

 もうすでに洞窟ごと消し飛ばしているかもしれない。
 だが、自分はそうできない。

 自分が助かる道は、財を差し出すだけ。
 しかし、そうして戻った自分を、彼らはどう受け止めるだろう。

『お前じゃ仕方ない』

 ゾワッ、とエリーの背筋が寒くなった。
 どこか慰めるような視線で、そう発しそうな男が思い浮かんだ。

 それが、一番、恐い。

「……、っ、」
「泣くほど悔しかろうと、財で解決すべきであろう? 残り―――っ!?」
 カウントダウンを始めようとしたリイザスの身体が、突如弾き飛ばされた。
 鋭く走った光は、スカイブルー。
 その事態に、エリーは肘を付いて身体を強引に起こした。

 今のは、一体、

「どうだ見たかぁっ!! カツアゲやろうっ―――って、決まってねぇぇぇええーーーっ!?」
「……、」
 胸に被弾したスカイブルーの攻撃に身体を弾かれたリイザスは、ただ静かに、大声が飛んできた方向を見やる。
 そこは、倒れたエリーの背後。

「っ……?」
 エリーも事態の把握に努めようと身体を蠢かせる。

 しかし、

「……!」
 その前に、身体は起こされた。

「ちょっ、お前っ、『絶対決めるっ!!』って言ってただろっ!?」
 アキラは、エリーの身体を労わるように抱え、エリーの後ろに叫ぶ。

 見られたく、なかったな。
 エリーか細い声で、聞こえないようにそう呟いた。

「っ、おいっ、大丈夫か!?」
「あ、っ……、うっ、」
 エリーから返ってきたのは、痛みをそのまま表現した嗚咽。
 ところどころ身体が焼けただれ、衣服も各所が弾けたように破れている。
 だが、アキラはそこよりも、エリーの表情に目が引かれた。

 この表情は、あのときとほとんど同じだ。
 向こう側に行かないでくれ、と懇願された、あのときと。

「っ、とにかく、早く、」
「私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇええーーーっ!!!」
 アキラが視線を泳がした瞬間、叫び声と共に慌ただしい駆け足が近づいてきた。

「てやっ!!」
 ティアはエリーに手をかざすと、スカイブルーの光を漏らした。
 これは、治癒魔術。
 焼けただれた身体に、冷却される心地よい感触が走り、痛みが徐々に引いていく。

「っ、ありがっ、って、……あなた―――」
「っ、って、お前足止めだろっ!?」
「ぬっ、ぬかったっ!!」

 エリーの声はアキラにかき消され、現れた少女も叫ぶ。
 一体誰だ、この女は。
 またアキラが、何か余計なものを惹き付けたような気がする。

「っ―――」

 アキラはエリーをティアに任せ、即座に立ち上がった。
 入り口でティアと身を隠して見ていた、エリーを襲っていた奇妙な男を。

 “計画通り”なら、あの男は倒れていたはずだ。

 到着後、すぐにでも飛び出そうとしたアキラを、ティアが一撃で倒すと宣言し、引き留められたのだが、攻撃は耐えられた。
 第二段階として足止めを任せてエリーに駆け寄ったが、ティアは何故かここで治癒魔術を行っている。

 結局そのまま乱入したのと変わらない状況で、アキラは目の前の男と対峙することになっていた。
 男は、ただただ立ったまま、静かに顔を伏せている。

 金と銀の、赫い世界。
 そして、目の前の異様な男。
 人間の姿をしているが、明らかにそれではない。
 無意識のうちに汗が滴り、防衛本能か、無意識のうちにアキラは剣を抜いていた。

 だが、身体は冷えていく。
 正体は不明だが、目の前の敵が、エリーを、

「そっちは任せたっ、アッキーッ!!」
「てめっ、ちょっと黙ってろっ!!」
「―――っ、もう、大丈夫っ!」

 眼前でホールに響くような大声を上げられ、エリーは立ち上がった。
 身体はすっかり元通り。
 だが、やはり、目の前の女が何者なのか分からない。

「……、よく来た。魔王様直属、リイザス=ガーデランの第七十二番宝庫へ」
「……!」
 エリーは、リイザスの言葉に、身体が震えた。
 先ほども聞いた、客人を招くような台詞。
 だが、その声の質は、先ほどまでより遥かに冷めきっている。

「おおおぅっ、まっ、魔族っ!? やはりかぁぁぁああーーっ!!?」
「そっ、そこのっ、……五月蠅い女。しばし静かにしていろ」
 冷え切った声そのままで、リイザスは騒ぎ続ける少女を睨んだ。

「……!」
 エリーの身体は、目を開いたリイザスにまたも震えた。
 口調こそ冷静だが、その瞳は、塗りつぶした黒から赫に完全に変化している。

「さっそくっ、でっ……、悪い、がっ。“交渉中”にっ、魔術を撃ち込むような下等な存在にっ、おっ、“教え”をくれてやるほどっ、私は寛大ではないっ」

 完全な赫に変色した眼をぎらつかせ、リイザスは身体を震わせ始めた。
 口から発される言葉にも、尋常でないほど力がこもり、額にはどす黒い血管が浮かび始めている。

「殺す……、殺、す……、殺すっ、ことにっ、したっ」
 震わせながら指を一本立て、それをエリーの隣に向ける。
 隣では、騒いでいた少女が、その殺気を正しく感じ取り、黙り込んでいた。
 臨界点を突破したリイザスの触れただけで爆ぜそうな殺気は、並び立つエリーにも暴風の様に叩き付けられている。

「グ―――」
 リイザスは両拳を握り、身体中に力を込めた。
 震えた身体の振動が、黄金の鎧にも伝達し、それだけで軋みを上げる。

「グ……、ガァァァアアーーーッ!!!」
「っ―――」
 大気を震わす雄叫びに、ついにリイザスの黄金の鎧がはじけ飛んだ。
 鎧に変わって異常に隆起した筋肉に身を包み、赫の部屋は死の匂い一色で染まる。
 ホールにうず高く積まれた財は崩れ落ち、金属特有の騒音を奏でた。

「アラレク―――」
「―――!?」
 リイザス両手を広げた瞬間、赫の球体がホール中に展開した。
 数は、四。
 それらはリイザスの脇に隊列するように並び、主の号令を待つように静止する。

「―――シュットッ!!!!」
 そして、リイザスは、腕を突き出した。

「っ、それに触らないで!!」
 その光景は、エリーには絶望的に見えた。
 自分を庇うように前に立っているアキラは、一歩も動かず棒立ちだ。
 もし僅かにでも触れれば、赫の爆弾に身体が吹き飛ばされる。

「……っ、私にっ、任せとけぇぇぇええーーーっ!!」
「っ、―――」
「シュロートッ!!」
 エリーが身構えた瞬間、背後からスカイブルーの閃光が二本走った。
 振り返れば両手を銃のように構えている、声の大きい少女。
 やはり彼女は、水曜属性の魔術師。

 その攻撃は、浮かぶ球体を確かに捉えた。
 その瞬間、触れられた爆弾は瞬時にその役割を果たし、金銀の財宝を弾き飛ばすようにその場で爆ぜた。

 そうか、遠距離攻撃なら、

「―――っ、二つで十分と思うかっ!!」
「―――!?」
 リイザスが腕を振った瞬間、それまで漂うばかりだった赫の球体が、一気に加速した。
 残る二つの爆弾は、鋭い流線型に変化し、エリーたちに迫ってくる。

「―――っ、」
 エリーは動かないアキラを追い越し、前へ出た。
 囲まれるわけにはいかない。
 少なくとも、一つなら、

「―――、スーパーノヴァッ!!」
 爆発覚悟でエリーは接近し、一つを拳で捉えた。
 エリーの上位魔術の攻撃が、流線型の爆弾と衝突する。

「っ―――、」
 拳を、今まで以上の衝撃が襲った。
 身体に魔力をほとばしらせ、踏みとどまろうにも押し込まれる。
 今までエリーが受けていた攻撃は、やはり、加減していたのだろう。

 残るは、一つ。
 アキラに迫る、赫の爆弾。

「……、」
「―――!!」

 エリーが振り返った瞬間、赫の魔術は爆ぜた。
 赫の爆風の先、エリーの眼に飛び込んできたのはアキラの有していた剣が勢いそのままに転がって行く瞬間。
 魔力を帯びていたのだろうが、その剣は、赫の熱にねじ切られ、破壊される。
 あれではもう、使い物にならない。

 アキラは、剣を投げたのだろうか。
 確かに赫の爆弾を切れば、エリーの右手を襲う激痛の威力をそのまま受け、アキラ自身もただでは済まないだろう。
 だが、これでアキラの武器は消えた。

 一体、何を考えて―――

「……!!」
 エリーがアキラの有する“装備”に思い当った瞬間、リイザスの魔力を背に感じた。
 伸び退くように振り返れば、再びリイザスの脇に隊列する赫の球体。
 今度は、またも四つ。
 リイザスの瞳は狂気に塗れ、すぐさま第二波を放たんとしている。

「アラレクシュット!!」
 余裕なのか、はたまた意味があるのか、リイザスはその場から動かず、魔力だけを放つ。

 もう、拳の痛みなど気にしている場合ではない。

「スーパーノヴァ!!」
 エリーは迫る四つの球体に迫り、先頭の一つを蹴り飛ばす。
 触れた瞬間に全力で魔力をほとばしらせ、爆発の威力を抑え込みながら緊急離脱。
 プロテクターは軋みを上げたが、まだ、動ける。

「シュロート!!」
 エリーが離脱した瞬間、またもスカイブルーの魔術が二本、赫の球体に迫った。
 すぐさま爆ぜる。
 残るは、またも一つ。

「っ―――」
 今度は食らいつくように、エリーはアキラに向かった球体に蹴りかかった。
 足に再び痛みが走る。
 だが、気にしてはいられない。

 駄目なのだ。
 あの男と、強敵を当ててしまっては。

 アキラが戦っていない以上、二人だけでリイザスに対抗するのは厳しい。
 だが、喰らいついてはいられる。
 もう少し戦力があれば、相手が“魔族”といえども戦えるのだ。

 それ、なのに、

「ふんっ、」
 リイザスは再び腕を振り、魔力を展開させた。
 それがリイザスの限界なのか、やはり、四つ。
 エリーの四肢は痛み、流石に今度が限界だろう。

 “だが、そんなことはどうでもいい”。

「……格上の方が、すぐ終わる」
「―――!!」

 爆ぜた地面の粉塵が晴れた先、エリーの耳にアキラの声が届いた。
 いや、本当に本人だろうか。
 それは、先のリイザスの声以上に冷え切り、エリーの背筋に冷感が走る。

 予感がした。
 遠い世界の扉が開かれてしまう、予感が。

 現状、“それ”しかないのは分かる。
 だが、何故かエリーは、それが恐かった。

 今は、一人で戦っているわけではない。
 自分と、回復魔術が使える女の子もいる。
 まだ、戦えるのだ。

 それなのに、アキラは、総てを放棄していた。

 明日が、濁る。
 “その力”は、続いていく未来を、閉ざしてしまう。
 そんな、悪寒。

「―――!!?」
 リイザスの表情も変わる。
 粉塵の先、赫の部屋に僅かに漏れた、太陽色。

 やはり、これは、

「……、」
 アキラは右手を輝かせ、夢遊病者のように粉塵を見つめていた。

 この先に、倒すべき敵がいる。

 それしか頭に浮かばない。
 あの魔族とかいう存在は、エリーを、

「……、」
 アキラは現れたそれを、まっすぐに構えた。
 クリムゾンレッドのボディ。
 引き金を引けば、万物に確実な死を与える、超絶的な銃。

 身体は活性化するように温まり、躊躇はない。
 何故自分は、これを使うことを控えていたのだろう。

 考える必要など何もありはしない。
 これさえあれば、守りきれるのに。

「ア……、アッキー……?」
「俺の後ろにも前にもいるな」
 どこか遠く聞こえてきたティアに、アキラは一言そう返した。

 魔術を教えてくれたエリー。
 剣術を教えてくれたサク。
 そして、カンフル剤になったティア。
 未だ全力を出していないリイザス。
 役に立つかもしれない、乱雑に転がっている武具。
 続く旅。

 それらは、いや、あらゆる伏線は、今関係ない。

 あるのはただ、敵を討つという欲求。
 そして、総てを消し飛ばせるという確信。

「……、」
 身体中に防御幕を全開で張る。

 防御幕を会得してからこの銃を使うのは初めてだ。
 もしかしたら、もう、補助も回復も必要ではなかったのかもしれない。

 今なら、支え切れる。
 そんな自信が浮かぶ。

「……、」
 粉塵が晴れ、正面に見えるのはエリーと、その向こうにいる害悪。
 睨むようにしてエリーを見れば、怯えたようにそこから跳び退いた。
 それでいい。

 “お前はそこにいないでくれ”。

「貴様―――」
 音が遠い耳に、リイザスの怒りに満ちたままの声が届いた。
 だが、別に聞く必要はない。

 魔王様直属だかなんだか知らないが、所詮そんなもの、だ。

「消えろ―――」
 リイザスに、その言葉が届いたかどうか。
 次の瞬間には、赫の部屋はオレンジ一色に包まれた。

 超絶的な光線は、何の抵抗もなく、山ごとリイザスを消し飛ばす。

 魔族も、赫の球体も、集められた財も。
 そして、壊れた自らの剣さえも。

「……、」
 全力で魔力をほとばしらせた身体は、今までのように吹き飛ばない。
 身体はその場に固定され、その衝撃を総て抑えきれる。

 アキラはこの光景を、初めてまともに見た。

 エリーたちは外から何度も見ていたのだろう。
 初めてだ。
 総てを無に帰す、絶大な力。

 確かにこれを見れば、惹かれてしまう。
 総てを、預けてしまう。
 そんな力だ。

 自分の前には何もない。
 行く手を阻むものは、何も。
 これで、“完全”だ。

「……」
 それなのに。何故か。
 顔を背けているのもかかわらず、エリーの表情が見えた気がした。

「……!! にーさん!?」
「ちょっ、なにっ!?」
「これはっ、」
 アキラが銃を下ろすと、後ろから三人分、足音が聞こえてきた。

「……、今の、にーさんが、」
 マリスはアキラに駆け寄り、身体を見定めた。
 だが、あの銃の後遺症とも言える脱臼や打撲がない。
 一体、これは、

「てか、あんたもここに……、って、ちょちょっ、あれっ、あれっ!!」
 マリスの思考はエレナの声に遮られた。
 呆けたように光線の先を見ていたティアを見つけるも、今問題なのはその視線の先に倒れ込んだ黒ずみの何かの身体。
 その黒こげの死体は、バチバチと尋常ならざる赫の魔力を漏らし、膨らんでいく。
 魔族といえども、蓄えた魔力が爆発するのは変わりないようだ。

 今考えなければならないのは、この“あまりに狭い”空間からの脱出だ。

「っ、どこから出れば―――」
「―――上だ!!」
 脱出ルートを探ったサクの声は、アキラにかき消された。

 アキラは構えた銃をそのまま天井に向け、ノータイムで引き金を引く。
 その瞬間、横穴を開けられ崩れかかっていた洞窟は上空にも削りぬかれ、オレンジの先に日の傾いた空の色を覗かせる。
 その間も、アキラの身体は吹き飛ばない。

「マリス!!」
「っ、了解っす!!」
 マリスは瞬時に判断し、腕を振るう。
 離れた個所で座り込んでいるエリーにもシルバーの光が届いたのを確認すると、顔をクン、と上に向けた。

「フリオール!!」

 この場にいた全員の景色が、一瞬で変わった。
 高速で通過する洞窟の穴、そして直後に広がる、夕焼け空の紅と森の緑の世界。
 身体を覆う銀。
 そして、眼下で爆ぜる洞窟の赫。

「……って、私状況つかめてないんだけど……、さ、」
 シルバーの光に浮かびながら、エレナは一言漏らした。
 眼前に広がる、自然構築物の現実離れした消滅。
 上空に飛ぶも、確かに届く壮絶な爆風。

 それはともかくとしても、いつの間にかノーリスクで銃を連発できるようになっていたアキラが分からない。

 ただ、そんな疑問も、絶大的なオレンジの光の前に、もみ消されていく。

 隣のマリスも、同じような顔をしていた。
 疑問を持ちながらも、日輪属性の魔力に触れ、頬を緩ませている。

 だが、残る四人は表情が違った。

 具現化使用直後に激痛に身体を歪ませるアキラは、静かに、崩れ落ちていく岩山を見下ろしている。
 いつの間にかアキラたちと共にいたティアは、騒がしい口を閉じ、唖然とした表情でアキラを見上げている。
 自分たちをここに導いたサクは、ただただ無表情に視線を森に泳がせている。

 そして、単身乗り込んでいたらしいエリーは、顔を伏せ、どこも見てはいなかった。

 アキラに、顔を合わせようともせず。

―――**―――

 日常の、終わり。

 エリーは翌日、夢を見る行為を取れなかった。

「……」
 運動のようの服に着替え、身体を機械的に伸ばす。
 自分は、差を埋めなければならないのだから。

 空は、生憎、曇っている。

「……」
 身体を伸ばし終わり、朝の冷気で身体をそそぎ、森の空気を肺いっぱいに吸い込む。
 そして、出るのは、ため息。

 脳裏に焼き付き思い起こすのは、魔族の最期ではなく、アキラの剣の最期だった。

「……」
 あの引き金を、引かせてしまった。
 その事実は頭を打ち鳴らし、エリーの眼を開かせ続ける。

 あの力は、総てを消す。
 伏線も、想いも、何もかも。

 それが、改めて、分かった。

「遠い……なぁ……、」
 エリーは不意に、そう呟いた。

 アキラはついに、リスクを背負わなくなってしまった。
 もう、自分が支える必要も、マリスが呼ばれる必要も、ない。

 それが、自分の魔術の授業が産み出した結果。
 アキラは防御幕を、いや、もしかしたら身体能力強化も会得し、自らの力を完全な物にした。
 彼の力にリスクがなくなった以上、ここに来る必要はないのだろう。
 アキラは、そういう男だ。

 剣も消えた。
 もう、教えるべきことは何もない。

 彼は、あちら側の世界の住人になってしまった。
 こちら側の世界で、最低限のことを覚えた瞬間、弾かれるように。

「……、」
 エリーはほぐし終えた身体を、なおも伸ばす。
 寝不足の頭痛すら、浮かんでこない。

「……!!」
 外からの足音に、エリーは弾かれるように一歩近づいた。

「……! エリーさん……!」
 しかし、そこから現れたのは、こちら側の人間だった。
 どうやら別ルートで、ランニングをしていたらしい。

「サクさん、眠れた?」
「……、いや、この時間まで粘ってみたが、」
 エリーの意図する想いが通じ、サクは頭を振った。

「あの、ティアって子は?」
「ああ、それなら先ほど部屋の前を通ったが……、静かだった。流石に寝るときは静かになるらしい」
「……そう」
 サクの律儀な返答に、エリーは顔を伏せる。

 ティアは、日の暮れた森林を進むことを諦め、おざなり的に宿舎に泊まった。
 どうやら彼女の家は、ヘヴンズゲートにあるらしい。
 どうせならと、今日護衛がてらに行動を共にすることになっている。

 だが、エリーが、サクに本当に通って欲しかった部屋は、そこではない。

「……、私も、近づけなかったよ」
「……」
 サクの正しい返答を聞き、エリーは身体を伸ばし続けた。
 やはりサクも、あちら側の存在と思っているようだ。

「……」
 魔族を倒したとあらば、無条件で魔道士隊に招き入れられるほどの功績。
 それなのに、その事態は、完全に“人ごと”だ。
 何も感動が浮かばない。

 またあのチートの力に終止符を打たれた。

 それが、たまらなく、恐い。

 目の前で、確かに上昇していた直線が、消えてしまったのだ。
 別の次元へ。

 この五日間は、一体なんだったのだろう。
 初めてだ。
 誰もを惹きつける太陽に、ここまで心を冷やされたのは。

「私も……、やはり、納得できない。こういうことを言うべきではないのだろうが……、な」
 力無げに、サクは一言そう漏らした。
 思い浮かぶのは、エリー同様、自分の主君。

 ティアという少女が感動しきりに喚き、マリスとエレナが笑顔で受け入れたアキラの顔。
 無表情に沈黙し、すぐに自分の部屋に戻ってしまった。
 エリーもサクも、一言も声をかけられていない。

 やはり彼を、遠く感じた。

「終わっちゃった……、って感じ?」
「……、ああ」
 サクは自らの感情をそのまま射抜かれ、首を静かに縦に振る。
 打倒魔王までの最短ルートは開かれた。
 それなのに、終わったと感じる。

 いいこと、なのだろう。
 打倒魔王を願う人々からしてみれば。
 しかし、やはり。
 彼には歩いてその場に到達してもらいたかった。
 決して、飛ばずに。

 昨日の木の枝は、まだ庭の隅に放置されている。
 これを使うことは、もうないのだろう。

「……、ま、やりましょうか」
「……ああ」
 人数の減った朝の宿舎の庭。
 片田舎の村のそれが、ここまで広いとは、思ってもみなかった。

「……、―――!?」
「!!」
 エリーが身体に魔力を巡らせ、サクが素振りを始めようとした途端、宿舎のドアがゆっくりと開いた。

「……、やほ」
「……っ、」
「……ぁ……」

 半開きのドアからそろり覗かせ、庭を覗ってきた顔に、エリーとサクは硬直した。

「……、えっと、あれ、早くね?」
「あっ、あんた、」
「お、おはようございます……、」
 硬直する二人に、アキラはそろそろと近づいてきた。

 どこか気まずそうな表情を浮かべ、視線は外している。

「……、」
 アキラは幽霊でも見るような顔の二人にを見て、自分の予想が間違いでなかったことを感じ取った。
 やはり、自分は、

「いや、さ、悪いとは思う。でもさ、しょうがなくね? あのときは、」
「なっ、何がよ……?」
 エリーのどこか余所余所しい声を聞き、アキラは怯えた表情を作った。
 怒鳴らないときのエリーは、相当怒っている、と。

「お、お前が、使うなっ、って言ったもん、俺、連発しちゃったじゃん……、」
「……は?」
「だっ、だから、悪かったって。それに、剣も、」
 アキラは睨んできている気がするエリーから顔をそむけ、渋い顔で、サクを見やる。
 あの剣は、彼女が武器屋でわざわざ選んでくれたのだ。
 しかし、それはもう消えてしまっている。

「ちょっ、ちょっと待って。あんた、何でここいいんのよ?」
「何でいるって……、そっ、そこまで怒ることないだろ!? 俺破門かっ!?」
 エリーは面白いように表情の変わるアキラを見ながら、身体にようやく血液が回って行くのを感じた。
 目の前の“勇者様”は、まるで親の言いつけを守れなかった子供のようではないか。

 サクも目を丸くする。
 昨日この男に表情がなかったような気がしたのは、あちら側の世界に行ってしまったからではなく、エリーに怒鳴られるのを恐れてのものだったのだろうか。

「……、“あの銃”があれば、あんた、もうここにいなくていいじゃない……」
 エリーは顔を伏せ、一言呟いた。
 ずっと身体を冷やしていた、その疑問。
 だが、アキラは一瞬むくれた顔を作り、ハキハキと返す。

「勇者の武器は、剣って決まってるんだよ」

「……、」
 ちらりとアキラの視線を向けられたサクの身体からも、冷気が消えた。
 昨日見たオレンジの閃光より、こちらの方が、温まる。

「ほら、昨日言ったろ……。俺、これでいく、って」
「三勝三敗」
「……は?」
「昨日の約束、覚えてる?」

 アキラは記憶をたどり、昨日の早朝に辿り着いたところで、顔を青くした。
 そうだ。
 遅く起きた方は、伸びるのだ。
 距離が。

「さっさと走ってこぉぉぉおおーーーっい!!!」
「サ、サクが起こしてくれないからだぞーーーっ!!!」
「もっ、申し訳ありませんっ!」

 エリーの怒号と、サクの謝罪。
 その大声に背を押されるように、アキラは走り出した。
 どんどん遠くなるその背中が、エリーとサクには、何故か、近く見える。

「……、もうっ、あんなに飛ばして、完走できるのかしら。村一週」
「……戻って来てくれれば、それでいいさ」
「……まあ、ね」

 声が届く場所。

 そこに彼は、いてくれる。

 サクはエリーの言葉に頬笑みを浮かべ、

「しけてなければいいのだが、な」

 昨日の枝を拾いに行った。




[12144] 第七話『二閃』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:13
―――**―――

「いやいやいやっ、わたしくめはっ、昨日の光景に未だに心高鳴っておりますよっ!! あの一撃っ!! 相手は魔族ですよ!? 魔族っ!! それがドーン、ガーッ、バーンッ、ですよっ!!」
「だ、だよなっ、そうだよなっ!!?」

「……、なんであの音量に耐えられるのかしら?」
「さあ……、ねーさんで慣れてるんじゃないっすか?」
「っ、」

 森林に響く騒音に、勝手な評価をしている二人。
 その二人を横目で睨んで、エリーはため息を吐いた。

 目の前を歩くのは我らが勇者様。
 そして、青みがかった短髪と、ボーイッシュな服装をした少女、ティアだ。

 女は三人寄れば姦しい、というが、ここには女性は五人。
 それなのに、この大音量の出所をたった一人の少女が担当しているとはにわかには信じがたい。

 ティアは腕を振ったり身体を踊らせたりと、全身を使って感激を表に出している。
 表情も溢れんばかりに輝かせ、森林の眠りを消し飛ばし続けていく。
 もしもマリスやエレナがいなければ、巣でもないのに魔物が押し寄せてくるだろう。

「ほんっっっとっ、さいっっっこぉぉぉおおーーーっに燃えましたっ!! いやいやっ、流石アッキーッ!! 勇者様っ!! あっしはまたもっ、コロッときちまいましたよっ!!」
「っ、」
「……、止めなくて、いいのか?」
 跳び回るようなティアを眺めながら、サクは一言漏らした。
 隣のエリーが前の光景を見ながら拳を強く握ったのを見て、表情は僅かに緩んでいる。

 本来なら、サクはアキラに並び立つべきなのだろうが、流石に有事でもないのにあの音量に近づきたくないというのが心情だ。
 警戒は怠っていないとはいえ、珍しく後続に甘んじている。

「別にっ、いいんじゃないっ? ヘヴンズゲートまでの付き合いでしょっ?」
「……ふっ、そうではなくて、アキラ様が調子に乗らないようにすべきでは?」
「あっ、そっ、そうよっ!」
 サクの言葉に、エリーは大股で前の二人に近づいていった。

「……、音量が増えたっすね」
「って、あんたなにけしかけてんのよ?」
「……、たまには賑やかなのもいいさ」

 サクは目の前の三人の喧騒を見やる。
 エリーが怒鳴り、アキラが不満を喚き、そしてティアはからから笑ってまたも騒ぐ。

 昨日からの付き合いなのに、ティアはすっかり打ち解けている。
 これは、アキラの力だけではない。
 音量はともかくとして、ティアが積極的に話しかけているからだ。
 妙なニックネームまでもつけて。
 話しかけることや、相手を愛称で呼ぶことは、あるいは日輪属性を超えてまで、人の心を開かせるのかもしれない。

 サクも騒々しいのは好きではないはずだったのに、何故か、前の三人に惹かれるものがあった。
 その奇妙な感覚は、奇妙なのに、身体が温まる。
 共にいた時間が短いはずなのに、ティアには何か感じるものがあった。

 ただ、身体が温まるのは、やはり朝の鍛錬を、三人で行えたことが一番の要因。
 あの主君は、いや、あの男は、裏切らない。

「さてさてさてっ、みなさんっ!!」
 突如、ティアがくるりと振り返った。

「……、言っとくけど、私は無駄な話に対して異常なほど沸点低いわよ?」
「おっ、落ち着いて下さいよっ!?」
 落ち着くのはお前だ。
 殺気交じりのエレナの視線を受け、ティアは大げさに一歩下がる。
 ピクリと動いたエレナの右手から視線を外さず、僅かにアキラの背に隠れた。

「もうすぐっ、到着いたしますよっ!!」
「うん、分かってるわよ」
 ティアの宣言に、エリーは正面にそびえる険しい岩山を見上げた。
 あの山が、ヘヴンズゲート。空に浮かぶ雲を突き破り、それは座している。
 そしてその周辺には、それを囲う町が密集しているらしい。
 もっとかかると思っていたが、かなり早かった。

 地元民ならではのティアの道案内は、想像以上に高性能だったようだ。

「到着したらっ、是非っ、あっしの家に寄ってくだせぇっ!!」
「行くのは天界への門だけ。みんな、いいわね?」
「ええ、当然よ」
「エリにゃんっ、エレにゃん!? あれっ、似てる!? どっちか諦めないと―――」

 ついに、エレナが走った。
 一瞬で距離を詰め、右手をティアの口に伸ばす。

 が、

「てやっ、ふえぁっ!?」

 やらなければいいのに大げさにのけ反ったティアは、そのまま後転。
 強かに頭を木の音にぶつける。

「うっ、のぉぉぉぉおおーーっ!!!?」
 右脳。
 右側頭部を抑え転がり回るティアを見下ろしながら、アキラはそう聞き取った。

 瞬間的にティアから代わった隣。
 エレナが冷めた目でそれを見下ろしているのを見ながら、アキラは小さく唸った。

 もう少し、自分は真面目に生きてみよう。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 ヘヴンズゲート。
 不自然すぎるほど高い岩山を囲ったその町の範囲は、異様に広い。
 東西南北と大まかな区切りはあるものの、ほぼ一体となっている町並みは広大で、遥か上空から見下ろせば、まるで森林に落とされた巨大なドーナッツのような形状をしている。

 アキラたちが到着したのは、ヘヴンズゲート東の町。
 宿舎に荷を下ろし、さっそく天界への門に行こうと思った、の、だが、

「……、あれ? みんなは?」
「おおおっっ!! エリにゃんっ!!」
「っ、」
 エリーが集会所と認定しているアキラの部屋を訪れれば、そこには騒音を奏でる少女しかいなかった。
 椅子をがたつかせ、せわしなく暴れ回る身体を抑えつけている。

「……、えっと、みんなは?」
「ああっ、アッキーならっ、マリにゃん、エレお姉さまとっ、わたしくめに伝言を残しっ、買い物に行きましたっ!!」
 ビシッと敬礼し、役目を果たしたティアは満足げな笑みを浮かべる。

 分かったことは、現状と、エレナからその不名誉な愛称が譲られていたということだった。
 エレナに新たな愛称がつけられていることを、彼女は知っているのだろうか。

「じゃあ、サクさんは、」
「? エリーさん……!」
 エリーが視線を泳がした直後、サクが背後から現れた。
 声を弾ませているのは、走ってきたからだろうか。

「おおっ、サッキュン!!」
「っ、止めてくれ……、その呼び方は……、」
 彼女も犠牲者か。
 エリーは息を整え部屋に入るサクに続き、大音量に入り込んだ。

「軽く探してみたが、いなかった。まあ、すぐ帰ってくる……、だろう……? ま、まあ、ただの買いもののはず、だ」
「っ、やられた……。あたし最近エレナさん甘く見てたかも……、マリーは御目付け役で行ってくれたみたいね……、」
 到着したらミーティング。
 そう確かに伝えたはずなのに、メンバーの半数以上がここにはおらず、代わりにいるのはティアだけ。
 ここしばらく大人しかっただけに、油断していた。
 五人そろっていなければ、話し合いの意味がない。

「私ならここにいますが!?」
「うん、見えてるわよ」
「……、それより、家に帰らなくていいのか?」
 やむを得ず、エリーとサクは腰を下ろした。
 視線は、カタカタ椅子を鳴らすティア。
 その顔は無垢な表情で笑っていたが、サクの一言に徐々に顔色が変わっていった。

「……、ぬ、ぬおおおっ!? ぬかったっ!! てか私っ、やっばーーーっいっ!!」
 この少女と話すには、宿舎はあまりに不釣り合いだったかもしれない。
 人の多い外の喧騒でも通行人すべてが足を止めるような叫びは、絶対に夜には使わせるわけにはいかないだろう。

「私っ、忘れてたっ!! シーフゴブリンがっ、のぉぉぉおおーーーっ!!!」
「ちょっ、外出ましょうか?」
「あ、ああ」

 流石に人が見にくるだろう。
 エリーとサクは、絶叫するティアの身体を掴み、部屋の外に向かった。

 落ち着いたミーティングをするためには、まずこの少女を家に送り届けることが先決だろう。

―――**―――

「う~んっ、久しぶりっ、」
「うおおっ!?」
「エレねー、ストップっす」

 一瞬ライトグリーンの光が見えた気がしたマリスは、アキラにからみついたエレナを引き剥がす。
 やはり、自分もついてきて正解だった。

「なによぉ……、ねえ、アキラ君。私、最近アキラ君とのスキンシップが取れなくて、寂しい……、」
「ま、まあ……、で、でもさ、俺たちバックレてていいのかよ?」
「うもぅ……、私と一緒じゃ、い、や?」
「エレねー、まずは魔力抑えてから言った方がいいっすよ」
「っ、ちょっ、離してよっ、」

 マリスはエレナの服をぐっと掴み、眠たげな眼のままアキラとエレナの顔を見上げた。
 アキラの顔は、緩んでいる。
 男の性か、久しぶりにエレナに迫られ、喜んでいるのは明白だ。

「……まあでも確かに、にーさんと一緒にいるの久しぶりのような気がするっすね」
「あ、ああ、そりゃ、な、」
 エリーの言いつけ通り、部屋で待っていられなかった後ろめたさはあるが、マリスも頬が綻んでいた。
 最近エリーが考案したアキラ育成計画の結果、エレナの不満が爆発したこの放浪も、悪いことばかりではないかもしれない。

「あっ、あれ見てこっ、」
 アキラの腕にあった感触が消えたかと思うと、エレナが露店に駆け出して行った。
 アキラとマリスが近づけば、商品の装飾品を頭につけ、機嫌のよい笑みを浮かべる。
 店員がその美貌に釘付けなことに機嫌をさらによくし、近づいた無表情なマリスにも同じように商品を見たて、可愛らしく笑う。

 そんな様子を見ながら、アキラの口の端も上がっていった。

 いい。
 すごく。

 やはりこうでなくては。
 最近ポンッ、と忘れていたが、この世界は優しいのだ。
 そしてその優しさを、異世界漂流物の主人公たる自分は存分に受けている。

 美女に囲まれ、町を歩けば皆が振り返るような花を両手に抱える勇者様。
 これだ。
 やはりこの物語のコンセプトは、それでなくては。

 瞳を半分開け、静かでミステリアスな雰囲気を醸し出す美少女のマリス。
 色気をふんだんに有し、まるで花のような笑顔を振りまく美女のエレナ。

 宿舎に戻れば、“友達”のエリーに、自分に仕えてくれるサク。いずれも美少女。
 そして昨日知り合った、元気で頭が残念な子のティア。一応及第点。
 万全だ。
 これぞ王道。

 男性の友人キャラクターがいないのは珍しい所だが、所詮、元は立ち絵も無かったような存在。
 無理に登場する必要はないだろう。

 最近、バトル物もいいかな、と思い、朝の鍛錬を行っているがやはりこういうサービスがなければやってられない。
 戦闘の方も順調であるし、まさに順風満帆。

 これで、

「にーさんの夢、ハーレムに近づいてるって思ってたりしてるんすか?」
「おうっ!!」
 エレナが会計に行っている間に接近したマリスに、アキラの元気な声が返ってきた。
 にかっ、と笑い、もうマリスには隠そうともしてない。

「正直さ、もう魔王倒そうとしなくて良くね?」
「とんでもないこと言い出したっすね、この“勇者様”は……」
 マリスは頭痛を耐えるように額を抑えた。
 今はいないエリーのように、この男をたしなめる役は必要なのかもしれない。

「でも、にーさん。いいんすか? このままだとねーさんと、」
「…………、やっぱりネックはそこなんだよなぁ~っ、」
 途端表情を暗転させ、アキラは深く顔を鎮めた。

 不慮の事故で、現在アキラとエリーは婚約中。
 その鉄の約定を、打倒魔王の報酬で取り消すべく、自分たちは旅をしている。
 それが、大前提。

 それなのに、今までよりは、アキラの表情からその陰りは消えている。

「……、にーさん、」
「え、いやさ、なんか“しきたり”とか言われても、いつまで経っても俺ら結婚する羽目になってないじゃん? なんか、こう、な、」
「っ、」
 視線を外しながら呟くアキラに、マリスは言葉が詰まった。
 駄目だ。
 この男は、また、日常に埋もれ始めている。

「……にーさん、それは自分たちが旅をしてるからっすよ? どっかに落ち着いたら、にーさんとねーさんは、」
「え、じゃあ、旅続けてたら、」
「にーさんっ!!」
「!!?」

 途端マリスから響いた声に、アキラも、町を行く人々も動きを止めた。
 通行人は痴話喧嘩と判断し歩き出すも、アキラは、止まったままだ。

 流石に双子、というべきか。
 まるでエリーの怒号のような大声だった。

「ちょっ、ちょっと、何やってんのよ?」
 マリスの剣幕をただちに察し、エレナは二人に駆け寄った。
 向かい合いながら目を見開くアキラと、顔を伏せているマリス。
 この二人から、そういう声が聞こえるのは、異常事態だ。

「……、にーさん、ついてきて欲しい所があるんすけど、」
「あ、え?」
「こっちっす」
 マリスは小さく俯いたまま、歩き出した。
 その背中に寒気を覚えたのは、彼女が戦っているとき以外では、初めてだ。

「……、なに、やったの?」
「い、いや、多分、俺が、また、調子に乗って、」
 しどろもどろになりながら歩き出すアキラを追って、エレナもマリスについてく。
 この二人が二人でいて、そういう雰囲気になったのは初めて見る。

 その、異様な空気。

 こんなことなら、別に欲しくもない装飾品なんて買っている場合ではなかった。

―――**―――

「いやいやいやっ、ほんっっっとうに申し訳ないっ!! 不肖このわたくし―――」
「―――っ、ああもうっ、この子ったらっ!!」
 ドアを開けた直後転がりこんで深々と頭を下げたティアを、妙齢の女性が抱きしめた。
 ティアに似て青みがかった髪を束ねた女性は、溢れんばかりの力を腕に込める。

「おおっ!? 絞まるっ! 絞まるっ!! いだっ、いだだだだっ!!」
 耳元で喚かれ、ようやくその女性はティアを離した。
 だが、目には涙を浮かべている。

「……、って、あら?」
 ようやく、その女性はエリーとサクに気づいたのか、すっと立ち上がった。

「えっと、あなたたちは……、え、」
「おおおっ! 母上っ!! よくぞ気づきなさったっ!! お二人はっ、私をっ、」
「助けて下さったのですか……? ああっ、ありがとうございます!」
「い、いえ、」

 やはり彼女がティアの母親らしい。
 何度も頭を下げ、その右手でティアの頭も下げさせる。
 エリーはその様子に、所体なさげに視線を泳がせた。

 入るときに見た看板通り、ここは武具屋のようだ。
 剣のコーナーには何振りも並び、槍や斧、身体に纏うプロテクターもある。
 あまり広くはないが、木と鉄の匂いに満たされたここには、ヘヴンズゲートに構えるだけはあって、なかなか上質の武器が揃っているようだ。

「ふふふっ、驚いたかいっ、エリにゃんっ―――へうっ!?」
「失礼でしょ。まったく……、」
 母にたしなめられるように叩かれ、ティアは頭をさすった。
 随分仲の良い親子のようだ。
 騒音奏でる彼女が育ったとは信じがたいほど良識をわきまえた母のようだが、ティアは良く懐いているように感じる。

「せっかくご足労いただいて……、どうぞ、上がっていっていただけますか?」
「い、いえ、あたしたちは、」
「おうおうっ、遠慮はなしだぜっ!! 私の部屋を紹介しよう―――へうっ!?」
「……さ、どうぞ」
 ティアの母と、頭をさするその娘に誘われ、エリーとサクは小さくお邪魔しますと呟いて奥の暖簾をくぐった。
 どうやら、家と店が一体になっているらしい。

「……!」
 奥の暖簾をくぐると、まず大きなかまどが目に入った。
 煙突に抜けているそのかまども、その近くに乱雑に並ぶ器具も、用途は容易に分かる。
 ここは、

「ああ、主人の仕事場です。ここは、一応武器を造っている店なので」
「……、やはりそうなのか」
 エリーももう一度店を見渡したが、サクがそれ以上に興味深げに視線を泳がせた。
 愛刀を腰に下げているとはいえ、サクはそういうものに関心が強い。
 以前アキラの武器を見繕うときも、一番楽しそうにしていたのは彼女だったような気がする。

「とすると、失礼だがご主人は金曜属性の?」
「え、ええ。私もそうです。魔術師隊にいたときに知り合って……、」
「……!」
 その言葉を久しぶりに聞き、エリーの身体がピクリと動いた。
 そこは、自分が試験をパスしながらも入り損なった場所だ。

「おうおうおうっ、そうだったっ!! 申し訳ないっ!! わたくしはっ、シーフゴブリンめが盗っていったお二人の大切な結婚指輪をっ!!」
「あなたが書きなぐっていった置手紙にはそう書いてあったのね……、落書きかと思ってたわ」
「ひどっ!?」
 呆れたようにため息を吐くティアの母は、そう言いながらもティアの頭を優しく撫でる。
 猫のように表情を緩ませるティアを見て、エリーはなんとなく、エルラシアを思い出した。

「で、でもっ、不覚にもっ、発見できずっ!!」
「戻ってきてくれたなら、それでいいわ……、そうだ、主人に連絡しないと。ごめんなさい、この子を探しに行ってて……、ごめんなさいね。ティア、お願い」
「私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇええーーーっ!!!―――へうっ!?」
 最後にパシッとティアの額を小突き、ティアの母は慌ただしく外に走っていった。
 どうやら、ティアの失踪に、父親は捜索に行っているようだ。

「さあさあさあっ、もてなしますぜぃっ!!」

 お邪魔しました。
 目の前の少女にそう言おうにも、騒音にかき消され、エリーとサクは腕を引かれた。
 自室は二階にあるのか、階段を勢いよく登っていくティアは、相変わらずからから笑っている。

 ミーティングが順調に遠ざかっていくのが走馬灯のように浮かびながらも、エリーは段差に転ばないことだけを考えた。

―――**―――

 そこは、違った。

 眼前にそびえる、高く険しい岩山。
 自然物でありながら、落石の懸念がまるで浮かんでこなかった。
 それはこの辺りの住民も同じようで、建物の距離が近い。

 一応は、距離をとっている。
 だが、その距離は、危険を感じてのものではなく、この山から感じる神聖さに気圧され、自ら一歩立ち退いているようだった。

 足場は白一色の砂が敷き詰められ、土色の巨大な岩山がまるで宙に浮いているような錯覚を起こす。
 まるでヤスリに削られたように精緻な岩肌の山は、今まで耳を満たしていた町の喧騒は吹き飛ばし、不気味なほどの静けさを持って、天を突く。

 視線を横に移すと、円錐の形状らしいのに、ただただ美しい岩肌が続いている。
 見上げても、天上は空の雲に覆われ、僅かにも見えない。

 ここが、ヘヴンズゲート。

「あれが、中への入り口」
 隣に並んだエレナが、指先でアキラの視線を誘導した。

「……!」
 そこには、白い直線が岩山に描かれていた。

 途方もないほどの長さのそれは、単純に言ってしまえば白い階段。
 世界遺産にもなりうるその階段は、建物数軒ほど横に広く、そしてそれ以上にただまっすぐに上に伸びている。
 それを、首を動かしてまで追っていくと、遠くに白く巨大な門が目に入った。

「岩をくり抜いて、中には神族が住んでいるらしいっす。それで、ドアから入って登っていくと、天界に行けるらしいっすよ」
 マリスはそう一言呟き、とぼとぼと巨大な階段に近づいていく。
 その入口には、仰々しい鳥居のような白い支柱がはめ込まれていた。
 そして、その柱の元。
 両脇に、白いローブのようなものを着た男が立ち並んでいた。
 胸のエンブレムには、太陽を模した紋章が刻まれている。

「あれが、門番っす。あそこに入ろうとすると、追い返されるんすよ。まあ、あの人たちは人間なんすけどね……。国に雇われてるんすよ」
「……、あ、ああ……、じゃっ、じゃあ、あの人たちも追い返されてるのか?」
 マリスの背の向こうに見えるのは、その岩山には不釣り合いな群衆だった。
 表情を動かさない門番の前、白い砂地の上に、薄汚いマントを羽織った人の群れが座り込んでいる。

 五十人以上はいるのではないだろうか。
 その数のそれらが一様に、その場から動こうとせず、ただ膝を付いて、自らの手を固く結んでいる。
 その異様な光景に、近づいてみて分かった。
 表情も、服装そのままに、苦悶に歪んでいる。

「あの人たちは、祈りを捧げてるんすよ。滅多に出てこない、神族たちに」
「……、祈ってるつーか、呪っているように見えるのは俺だけか?」
「……声を、聞いてみなさい」

 二人に促され、アキラは目を閉じて群衆の声を探り、

 そして、身体が震えた。

 家族を失った。
 村を滅ぼされた。
 希望を無くした。

 総てを、奪われた。

 各々理由は違えど、それらの内容は一貫し、総てが魔王を倒してくれ、というものだった。
 当時のことを思い出しているのか、涙を浮かべている者もいる。
 老若男女問わず、全員が、同じような顔を浮かべていた。

 何かに強く依存し信仰する、というのは、他人から見ればここまで異様に映るものなのか。
 彼らは総ての“業”をここで吐き出している。
 魔王を憎むことを、彼らは決して止めようとしない。

 絶望に歪む顔は、目の前の“神”に祈ることで、辛うじて“そこ”を守っているようにさえ感じた。

「信仰というものは……、多かれ少なかれ絶望から生まれるんすよ。気分、悪くなったっすか?」
「…………、ああ、ほんっっっとうに申し訳ないが、ひいた。…………なんちて、」
「……私から言わせれば、あんなの“人任せ”、だけどね」

 エレナの声が遠く聞こえ、そこで、ようやく気づけた。
 彼らは“祈っている”のではない。
 “頼っている”のだ。

 自分は、魔王の脅威というものにさらされていない。
 この世界の真実を、自分の目はまだ捉えていないのだ。
 死にそうになったことはあった。
 だが、実際に魔王に滅ぼされた村、というものを、アキラはまだ見ていない。

 昨日、サクから、マーチュに滅ぼされた村があるというのを聞いたが、やはり現実感は浮かばなかった。

 自分の知っている世界が、唐突に小さく思えてくる。

 アキラの認識では、この異世界は、優しくできていた。
 双子の美少女や、サクやエレナとの出会い。昨日だって、ティアという女性と知り合えた。
 そして、危険が起きても、何とかできる自分の力。
 例え魔族がいようとも、総てを蹂躙する力を自分は持っている。

 見渡す限りは、面白く、楽しく、幸せだった。

 だが、こう考えれば、背筋が寒くなる。
 もし、自分にあの銃の力がなければ、最初の巨大マーチュに潰されていた。
 もし、自分にあの銃の力がなければ、ゲイツにリビリスアークは滅ぼされていた。
 ブルースライムにも、マザースフィアにも、昨日の魔族にも、だ。

 銃だけではない。
 マリスがいなければ。
 エレナがいなければ。
 二人だけに限らず、エリーやサクがいなければ。
 どこかで何かを失っていた。

 考え出したらきりがない。
 自分の手の届く範囲は、常に平和が約束されている。
 だが、もしそれがなければ。

 自分もあの群衆のように、何かに祈っていたのだろうか。
 彼らには、力がなかったのだろうから。
 だから“神”に“頼る”のだ。

 魔王など、あの銃の力で楽に倒せると高をくくっていたが、自分が眠りこけている間に、世界のどこかで何かが消えていたのだろう。

 魔王討伐など必要ないと笑っていた先ほどにも、世界の裏側では何かが消えていたかもしれない。

「にーさん、勇者の旅ってのが、どういうものか分かったっすか?」
「……ああ。ま、まあ、神じゃなくて俺に祈って欲しいんだけど、な……、」
 冗談めかして呟くも、この“業”を見て、アキラの表情は僅かに変わった。

 その様子に、マリスは小さく息を漏らす。
 これで、彼は、目指してくれる。
 打倒魔王を。

「……ちっ、気分悪くなったわ。もうここ来たくないんだけど」
「あとでもう一回来るっすよ。ねーさんたち連れて」
「い、や、よ。私パス。遊んでた方がいいもん」
「今、行こう」
「!」
 アキラは惹かれるように、階段に向かって歩き出した。
 表情は、妙に冷めている。

「に、にーさん、いいすんか? ねーさんたち、」
「今、行きたい。そんな感じがする」
 アキラは自分が抑えきれなかった。
 今まで呑気に旅をしていた自分は、きっと、何も見えていなかった。

 この二人が、あの銃に肯定的だったのは、こういう意味だったのかもしれない。

 一刻も早く魔王を倒すことで、救われる者は増える。

 当然と言えば当然だが、今以上にそれを感じられるときはなかった。
 神に会うことが消化すべきイベントならば、今すぐにでも終えておきたい。

「……、ま、私はいいけどね、今で」
「……自分もっす、ね」
 ぐんぐん進むアキラに触発され、二人も階段を目指す。

 途中、群衆の一部がアキラたちに気づき、顔を上げた。
 だが、アキラは視界の隅にそれを捉えるだけで、歩を緩めない。

 これだけ祈っている人がいるのに、顔さえ見せない神への評価を落としながらも、アキラは進む。

「……!」
 門番が近づいてくるアキラたちに構えるが、関係ない。
 こっちは、“勇者様”だ。

 さあまずは、神に会わせてもらおうではないか。

―――**―――

「あっ、これ、新刊出てるのっ!?」
「おおっ、エリにゃんお目が高いっ!! なかなか過激な内容でしたよっ!!」
 思わず手に取り、軽く開いたのち、エリーは勢いよくその単行本を閉じた。
 確かに、刺激が強そうな内容だった。

 ティアの部屋に通された二人の目に最初に飛び込んできたのは、個人の部屋には多すぎる数の本棚。
 ベッドや机が一つきりの窓の下にあるものの、他の壁際は全て本棚で埋まり、中央の小さなテーブルを囲み込んでいるような圧迫感。
 もし、その本棚全てが辞典や歴史書で埋まっていれば、女性の部屋とは想像もできなかっただろう。
 だが、幸か不幸か本棚を埋め尽くしているのは全て漫画。
 そのカラーの背表紙が、ギリギリ部屋の明るさを保っていた。

「これは……、」
 サクは部屋に入ろうとするも、その光景に尻込みした。
 この面積に対して異様な数の漫画。
 その密度は、以前旅の途中、サクが立ちよった書店と比べても見劣りしない。

「へえ……、そういえば最近本とか……、あっ!!」
「おおっ、それを手に取りますかっ! 流石エリにゃん分かってますねぇっ!!」
「い、いや、あたしは、その、別に、ちょっと知ってるだけで、」
 色々と漫画を物色するエリーに、楽しそうにカラカラ笑うティア。
 音量がすっかり二倍になったこの部屋を眺めながら、サクは、何故か心が落ち着いていた。
 騒がしいのはあまり好きではないはずなのに、こうした喧騒は心地良く思えるのだ。
 あるいは、アキラとエリーの喧騒も。

 自分が、変わっているということなのだろうか。

「そういえば、サクさんは漫画とか読まないの?」
「……! いや、私はそういうものは、あまり、」
「おうおうおうっ、それならお勧めは―――」

 『これだっ!』とティアが出した漫画を見て、エリーはビシッと固まった。
 確か一度読んだ漫画。エリーでも、最後まで読めなかった。
 そしてそのチョイスは、初心者にはありえない。
 それは、もっと、その、上級者向けの、

「どうどうどうっ!?」
「……、……、」
 ティアが漫画の一ページを両手で開き、サクの顔に押しつけんばかりの勢いで近づけた。
 漫画の背表紙でサクの顔は見えないが、一言すら発しないサクの態度に、何となく、表情が分かる。

「……、下の、武器……、見る、行く、」
「うわわっ!? サッキュンどしたっ!?」
 片言でそれだけ発し、サクはふらふらと部屋を出て行った。
 顔は伏せたまま。
 やはり、刺激が強すぎたか、と、エリーはため息交じりにそれを見送る。
 確かにその本は、人に積極的に進めるものではないだろう。

「んん~? 面白かったんだけどなぁ……」
 サクを追い出した加害者のティアは眉をひそめその本をパラパラめくる。
 どうやらからかうためでなく、本気でお勧めだと思っていたようだ。

「よく……、そういう本、人に勧められるわね……」
 世間一般ではどうかは知らないが、エリーの認識ではそういうものはひっそりと自分の部屋で読むものではないのだろうか。
 なんとなく恥ずかしくて、エリーの部屋のそういう本は隠すように置かれている。

「それは、やっぱり、私のこと知ってもらいたいんでっ!」
 そして、ドンッと胸を叩き、エリーの疑問に叫ぶように返す。
 その声は、いつもの通り、僅かにも陰らず、本に囲まれた部屋に響いた。

「人の役に立つ、ってのは、立派なことじゃないですかっ! あっしのお父さんも、そういう仕事してましたしっ!」
「……、う、うん、」
 僅かにティアは顔を伏せて、しかし笑っていた。

「そのためには、人に信用されないと! 私のこと、色々知ってもらえれば、そうなるかなぁ、と、」
「そ、そうね、」
 新たな漫画を差し出しながら熱弁をふるうティアに、僅かに後退しながらも、エリーにはその発言の意味は分かった。

 この世界は、魔王の脅威にさらされている。

 魔物はあたかも通常の動物のように繁殖を繰り返し、常に存在しているが、魔王が存在するとその行動に統制力が生まれてしまうのだ。
 当然のように村を襲い、人間に危害を加える。
 その脅威にさらされた人の心には、余裕は消えていってしまう。

 総てを魔物に奪われ、人間の間でも強奪が繰り広げられることとなり、そのせいで滅んだ村もあると聞いた。
 そこでは皆、疑心暗鬼に目をぎらつかせ、他人との間に壁を作ってしまう。
 時間が経てば経つほど、その壁は強固になっていく。

 それを取り払う方法は、互いに知り合うことなのだろう。
 あるいは、アキラのように日輪の力を使って。
 あるいは、ティアのように積極的に話しかけて。

 ティアのような善意の笑顔は、人の心に届くのかもしれない。

「だからっ、エリにゃんもっ、あっしのことをっ、ティアにゃんとっ!」
「ごめんそれは無理。人として」
「あれっ!? デジャヴッ!!?」

 まあ、妙なニックネームはともかくとして、名前で呼ぶくらいはできるだろう。
 エリーは音量に耐えながら、新たな本を物色し始めた。

―――**―――

「……、ここには“それ”以上のものは置いてないぞ?」
「……いや、見ていただけだ。それに、なかなか上質だろう」
 鉄の木の匂いが満たされた店頭
 先の漫画のショックから薄れたサクに、一人の男が店のドアを開きながら話しかけてきた。
 視線はサクの腰の愛刀に向いている。

 三十、いや、四十代だろうか。
 中肉中背、とはどうしても評価できない立派な体躯に、無精ひげを蓄え、鋭い目つきをサクの愛刀に向けている。
 タンクトップのような白いシャツは汚れ、ぼさぼさとした黒い髪はどこかいい加減な印象を与えるが、それが全否定されるのはその雰囲気からだろうか。

「今日は店じまいのはずだが……、店の鍵、開いてたか?」
「……やはり、ここの主人か。すまない。私は……、私たちは、娘さんをここに連れてきただけだ」
「……? ああ、あんたらが娘を、」
 やはりティアの父で間違いないらしい。
 男は、のそのそと近づき、右手を差し出す。

「グラウス=クーデフォンだ。鍛冶屋をやっている。娘が世話になった」
「サク、だ。ファミリーネームは、ない」
 手を取って名乗ったサクに、僅かに怪訝な顔をしたグラウスだったが、すぐにその視線をサクの腰に移す。

「ずいぶん立派な長刀だな……。見せてもらっていいか?」
「……ああ。主人の留守中、家に上がった礼儀もある」
 サクは刀を鞘のまま抜き、グラウスに手渡す。
 主君以外にはありえない行動だが、この男には、職人としての覇気を感じた。

「……西のタンガタンザ製、か。お前……、サク、だったか。武家の生まれか?」
「…………その話はしたくないのだが……、分かるのか?」
「カマを掛けただけだ。だが、予想はできる。その服装にこの刀。俺もそこで腕を磨いた」
「……、」
 グラウスは長刀を光に当て、その白刃を入念に眺めた。

「……手入れは完璧だが……、随分刃こぼれがあるな」
「それは私の未熟さゆえに、だ」
「……そうか」

 静かな会話は続く。
 目の前の男が、あのティアの父とは考えられないほどに。

 いや、待て。
 そこでサクの思考に歯止めがかかった。
 この男、グラウス=クーデフォンと名乗らなかっただろうか。
 対してその娘、アルティア=ウィン=クーデフォン。

 ミドルネームを持つ者にしては小さな家に住んでいるとは思っていたが、まさか、“そういうこと”、なのだろうか。

「そうだ。ティアは?」
「上にいる。もう一人の仲間と、談笑中だ」
「そっちも、あんたみたいに強いのか?」
「……、」
 サクは言葉を返さなかった。
 一瞬、グラウスの眼が獲物を求めるようにギラリと光る。
 この男は、確か元魔術師隊だということを思い出し、その奥に当時の実力が見え隠れした。

「まあ、娘を助けてもらった礼だ。この刀、鍛え直してやろうか?」
「……できるのか?」
「ここは鍛冶屋だ。このまま旅を続けたら、この刀、折れるだろうな」
「……、」
 流石にそうなるわけにはいかない。
 サクが小さく頷くと、グラウスは鞘に刀を戻し、店の奥に歩いていく。

「奥さまとは、会わなかったのか? あなたを探しに行ったのだが」
「ん? ああ、入れ違いになったらしい。俺は伝言を聞いて、ここに戻ってきただけだ」
 炉に火を点け、よどみない動作で焚き木を投げ込むグラウスは、再びサクの愛刀を抜き、光に照らして確認を始める。
 炉が温まるまで、炉の前に座り込んでいるつもりらしい。

「……娘に会わなくていいのか?」
「あれの失踪は今に始まったことじゃない。誰かの役に立つためなら、どこまででも走っていくような奴だ」
 分かるだろ、という表情で、グラウスはサクを見返す。
 その瞳は、たった一晩共にいただけで娘のことを相手が分かっているという確信を持っていた。
 確かに、サクの耳にも、『私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーーっ!!』と騒ぐ彼女の声が未だに鳴り続けている。

「変わらんよ、あれは。義兄によく似ている」
「……、やはり、か」
 金曜属性の両親を持つ、水曜属性の娘。
 その存在は、やはり、そういうことらしい。

 グラウスは転がった工具を見定め始めた。
 乱雑に転がっているように見えていたそれは、その実、中央のイスに座れば、合理的な場所に置かれていることが分かる。
 その動作も淀みない。
 やはり、相当腕の立つ職人のようだ。

「……、あんたも金曜属性か?」
「ああ。だが、私はそっちの方はからっきしだ」
「そうか。珍しい、と言うべきだろうな」
「……」
 グラウスは立ち上がり、水場にのそのそと近づいていく。
 その意図が分かったサクは道を開け、足元に転がっていたバケツを差し出した。

「大分熱くなるぞ。そこに立っているのは辛くなる」
「見るのは慣れている。心配は無用だ」
「随分執着があるみたいだな、刀に。目を離したくない、か」
「……、まあ、そうだ」
 下手にごまかすのを止め、サクは水を汲むグラウスにそう返した。
 タオルを頭にギュッと巻いて、グラウスはバケツを持って炉に近づく。
 こうした光景を、サクは昔、確かに見続けていた。
 それでも、自分は刀を鍛えることはできなかったが。

 そして戦い方も、金曜属性にしては、珍しい。

「長刀か……。造りは見事だが、受けるのには向いていない」
「受けはしない。やはり、珍しいか?」
「分かっているなら、俺が口出しすることじゃないか」
 炉にさらに焚き木を投げ込むグラウスは、それきり口を閉ざし、炉をじっと眺める。
 その後ろ姿が、サクの脳裏で過去と結びついた。

 そして、

「うぉぉぉおおーーーっ!!! 火事だぁぁぁあああーーーっ!!!?」

 仕事場に響く大声と、ドタドタと鳴る足音に、全てがかき消された。

「ティア、仕事中だ」
「おおおっ!! お父さん!!? おかえりっ、いや、ただいまっ!!」

 ティアが騒音を響かせるも、グラウスは静かに炉を眺めるだけ。
 やはり彼女の叫びは、日常茶飯事のことらしい。

「あっ、お、お邪魔してます」
「おお、あんたがティアを、」
「そだっ、そうですよぅっ!! エリにゃんたちがわたしくめをっ、」
「ティア」
「……うっ、」
 父の睨みに、ティアは大人しく黙り込む。
 そうした光景も、何故かいつものこととサクは捉えられた。

「えっと、どういう状況?」
「ああ、彼が私の刀を鍛え直してくれるらしい。ありがたいことだ」
「……、」
 神妙な顔つきを微妙に歪ませたサクを見上げ、エリーはその視線を追った。
 そこから見えるティアの父親の背は、職人特有と言うべきか、威圧感のようなものを覚える。

「エリサス=アーティです……、」
「ああ。グラウス=クーデフォン。ティアの父だ」
「……?」
 顔だけ向けたグラウスの自己紹介に、違和感を覚えるも、エリーはサクに並んで沈黙を守ることにした。
 あのティアが黙り込むだけはある空気だ。
 だが、その黙り込んだはずの娘は、やはり落ち着きなく、そわそわとしている。

「……ティア、今から仕事だ。お前に頼みたいことがある」
「おおっ!! 任せろぅっ!!」
「買い物行ってきてくれ。一番遠い店で、いつもの。ゆっくりでいいぞ」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、と、けぇぇぇえええーーーっ!!!」
「ちょっ!?」

 竜巻のように走り出すティアから伸びてきた手を、エリーは避け切れなかった。
 サクはうまく身をよじり、その手を回避すると、再び定位置でグラウスの背中を見やる。

「ちょっ、ちょっ、」
「行こうぜっ、エリにゃん、サ……って、サッキュンがいねぇぇぇえええーーーっ!!?」
 店頭までエリーを引きずって、ようやくティアは片手が開いていることに気づいた。
 エリーが振り返れば、サクは手を振り、この場に残ることを伝える。

 ずるい。
 明らかに厄介払いが狙いの父の頼み事を、サクは難なくかわしている。
 ティアは一瞬口を尖らせたが、エリーの手を引いてずんずん進んだ。

「ちょっ、ちょっ、ちょっと!?」
「大丈夫大丈夫、ついでに町を案内―――へうっ!?」
 店を襲う暴風雨が出ようとした直後、開いたドアに盛大に頭を打ち付けた。

「……!!」
 エリーの手を離し、頭を抑えてうずくまるティアの先、見知った顔が現れた。

「エ、エレナさん……!!」
 現れたエレナの顔は、どこまでも冷えていた。
 後ろに、呆れたような顔のマリスと、顔を伏せているアキラも見える。

「三人とも、どこに、」
「あなた、確か水曜属性だったわよね?」
「んぇ?」
 エリーの声を遮って、エレナはその冷ややかな視線をうずくまるティアに向けた。
 その表情だけ見れば店を襲撃しに来たようにしか見えないエレナに、ティアはパアッと顔を明るくする。

「おうさっ!! あっしにっ、何かっ、御用―――いだっ、いだだだだっ!!?」
「これで、六人、と」
 今まさに騒ぎ出しそうになったティアの口を右手でふさぎ、エレナは軽く店内を見渡した。
 ティアの後ろで目を丸くしているエリーも、店の奥で何事かと視線を向けているサクもいる。
 やはりここに、“勇者様御一行”は全員集結しているようだ。

「エレナさん……? マリー、何かあったの?」
「それが、自分たち……、」
「さ、次は土曜属性の人、適当に見つくろうわよ」
「エ、エレねー……、それはともかく、そろそろ手、離さないと……、」
「うごぅ……、顔がっ、燃えてるぅっ!?」
 エレナに離され、うずくまるティア。
 だがエレナは、ティアに興味を失った顔で、軽く表通りを見渡す。
 その目は明らかに、次の獲物を探す狩猟動物のそれだった。

「ストップストップ!! 何!? 何が起きてるの!?」
 歩き出そうとしたエレナを引きとめ、事態を把握するべくエリーは叫ぶ。

 一体この人は、何をやっているのだろうか。

―――**―――

「門番たちの睨みも意に介さず、“勇者様一行”はヘヴンズゲートに踏み込んだ。長い階段を何とか上り、白く巨大なドアの前で振り向けば、まさに壮観。小さく見える町並みが見えると、その総てから声が聞こえてくるようだった。『魔王を倒してくれ』。そう、祈るような声が、確かに聞こえる。足元の悲痛に歪む人々の顔も僅かに明るくなった。それは、勇者の到来に、魔王への積年の恨みが晴らされる足音が聞こえてくるとでも言わんばかりの―――「ねーさん、ちょっと詰めて欲しいっす」―――「あ、ごめん、って、ああっ、本がっ、」―――「うおおっ!! すまないっ!! いやいや狭くてっ、」―――希望に満ちた顔だ。そして、重々しくも、確実に、巨大なドアが開いていく―――「それより、悪いんだけど客間とかなかったの?」―――「おおうっ!? その手があったっ!!」―――「いいわよ。今さら移動すんの面倒だし。それよりこの空間で、喚かないでくれない?」―――「アイアンクローはっ!! アイアンクローだけはーーっ!!」、…………」

 狭い部屋にも敷き詰めれば入るもの。
 鉄を打つ音が定期的に聞こえてくる下に残ったサクを除く、計五人。
 五人は、何とか各々居場所を見つけ、ティアの部屋に座り込んでいた。

「で、何があったの? 特に、エレナさん」
「どうもこうもないわよ」
「……無視は良くないな、無視は」
 妙な呪詛をぶつぶつと漏らしていたアキラを完全に視界から追い出し、エリーは、怒りをあらわにするエレナと向かい合った。

「ほんっっっとうにっ、あっったま固いつーのっ、あの門番っ!!」
 エレナは目の前の机を叩き割るほどの勢いで、目の前の小さなテーブルを叩く。
 幸いにもテーブルは壊れなかったが、もう二、三発エレナの拳を受ければ天寿を全うする前に撤去されることになるだろう。

「……、マリー、お願い」
 未だに怒りが収まりきらないエレナにこれ以上の話を聞き出すのは不可能と判断し、エリーは隣のマリスに視線を向ける。
 マリスはただただ冷静に、半分の眼で見返してきた。

「実は自分たち、流れでヘヴンズゲートに入ろうとしたんすよ」
「……みんなで行くって言わなかった?」
「お前、その情報だけ聞いて何故俺が悪いと判断した?」
 エリーの睨みを、アキラは不満げに睨み返してきた。

「ああ、自分がにーさんたちをそこに連れてったんすよ。まあ、入ろうとしたのはにーさんなんすけど」
「ほらっ!」
「お前嬉しそうだな……」
 アキラは諦めたように呟き、窓の外を見やった。
 だが、一番不満なのはエリーの評価ではないようだ。
 恐らく見ようとしたのは、先ほど行ったというヘヴンズゲート。
 位置が違うため窓の外には岩山はないが、アキラの頭には、未だにそこでの出来事が浮かんでいるらしい。

「それで、入ろうとしたら、」
「何て言ったと思う!? あの門番!!」
 エレナがマリスの声を遮り、再びテーブルをバンッと叩く。
 エレナの怒りに、ティアは震え、反射的に顔を覆った。

「『薄汚い者どもは消えろ』よ!? 信じられる!?」
「エレねー、もう少し表現はソフトだったっすよ」
「同じようなもんでしょ!!」
 エレナはまたもテーブルを叩こうと手を振り上げたが、流石に寿命を感じ取ってその手で髪をかきわけた。
 だが未だに、エレナの怒りは収まらないようだ。
 自分が怒られているわけでもないのに、エリーを始め、ここにいる全員の身体がプルプル震える。

「私はねぇ……、下っ端の癖に偉そうな奴らが、だいっっっきらいなのよっ!!」
「エレお姉さま……、その、スマイルスマイル」
「あん?」
「うわわっ!?」
 何とか会話に入ろうとしたティアを一睨みでエリーの背後に後退させ、エレナは拳を震わす。

「大体、こっちはアキラもいたのよ? な、ん、で、入れないのよっ!!?」
「あっ、あたしに聞かれても……、」
 どうやら現在、エレナが被っていた猫はその怒りに逃亡中のようだ。
 エリーは背後のティアの代わりにエレナの怒気一色の睨みを正面から受け、身体を震わす。
 流石に、恐い。

「……、それがさ、門番、何言っても『通せない』の一点張りだったんだよ」
 ときおり垣間見る程度だった“素”のエレナに、アキラも表情を強張らせている。
 だが、気持ちは同じのようだ。

「まあ……、“人間が言う勇者様”に、一々会ってられないんすよ、神も、神族も」
「?」
 その表現に、全員の顔がマリスに向いた。
 その半分の眼がアキラを一瞬捉え、マリスは僅かに眉を寄せる。

「ほら、勇者様って、何人もいるじゃないっすか」
「……ごめん、もう一回」
「だから、勇者様って、何人もいるんすよ」
 聞き返してみても、マリスからは同じ答えが返ってきた。

「また何か、妙な後付け設定が出てきた気がすんだけど……、」
 また妙なことを口走っているのはお前だ。
 エリーは小さく呟きそうになるも、確かにマリスの言葉は気になる。

「色んな地方で、勇者様が現れてるじゃないっすか。リビリスアークでも、何年に一度か二度……」
「……まあ、ね」
 マリスの言葉に、エリーは頷いた。
 リビリスアークの村長、ファリッツが、隙あらば若者を勇者と称え、送り出していたのを思い出す。
 あの小さな村ですら、エリーは何度か見た気がする。
 それを考えれば、各地からそういう旅立ち方をした“勇者様”が何人もいることになるだろう。
 だが、それでもエリーの頭に引っかかるものがあった。

「そんな“自称勇者様”が沢山いるなら、全員通している場合じゃないんすよ」
「あれ? でも待って……、“勇者様”なら、通れるんじゃないの?」
 ようやく、エリーは自分の疑問が分かった。
 “勇者様”には最大限の敬意を払わなければならない。
 その“しきたり”があるはずだ。

「それは、人間たちの“しきたり”っす。神族にしてみれば、勇者っていうのはある程度の“証”がないと、」
「だから私は、んな面倒なことしないでぶっ飛ばせって言ったのよ。アキラならあんな門番一撃でしょ。なんならあのうっざい岩山ごと」
「エレねー、そういうことする存在を、人呼んで魔王って言うんすよ」
 怒りの覚め止まらないエレナは、足を投げ出し背中を背後の本棚に乱暴に預ける。
 彼女の頭には、未だに見下しきった顔をした門番の顔が浮かぶ。
 その顔が、エレナの容姿に下劣なものになっていたことが、さらに怒りに拍車をかけていた。

「エレお姉さまの荒れ方が半端ないんですけど……、」
「自分も、止めるの苦労したっす」
 元気をエレナの怒気に削り取られ、おどおどと呟いたティアに、マリスはため息交じりに言葉を返した。
 ヘヴンズゲートの入り口で攻撃行為を取れば、本格的に追放されてしまう。

「まあ、ともかく。“証”がないとにーさんは勇者様って認められないんすよ。神族には」
「……、あれ、えっとさ、エレナさんじゃないけど、あの銃って“証”にならないの?」
 エリーの脳裏には、アキラが銃を具現化する瞬間。
 そこから漏れ出すのは、日輪属性の象徴たるオレンジの光。
 それを見せれば、十分に勇者と証明できるのではないだろうか。

 だが、マリスは、エリーの問いかけに首を振った。
 どうやらこのメンバーの中では、やはりマリスが先生役になるらしい。

「歴代の勇者を見ると……、確かにほとんど日輪属性っす。だけど、中には日輪属性じゃない人もいるんすよ。別の道を見つけて、魔王を倒した勇者様が。だから、日輪属性はほぼ勇者で間違いないんすけど、絶対じゃないんす」
「え、そうなのか?」
 流石にそう聞いては、アキラは黙っていられなかった。
 なんだそれは。
 やっぱり後付け設定か。
 やりたい放題だ。

「それならあっしも聞いたことありますぜぃっ! 神族にとっては『日輪属性=勇者』じゃなくて、『魔王を倒した者=勇者』だって」
「んなの私、聞いたことないんだけど?」
「ひぃっ、私に言われてもっ!!」
 エリーの背後から出てきたティアに睨みを効かせ再び後退させると、エレナは身体を起こした。

「とにかく、私はあの門番たちをぶっ殺さないと、」
「エレねー、違うっす。あそこを通らないと、ってさっきは言ってたじゃないっすか」
「……そうね、とりあえずあいつらを階段の上から見下さないと、収まんないわ」
「ひっ!?」
 そこで、またもエレナはギロリとティアを睨んだ。

「というわけで、ティア、だっけ? あんた私たちと一緒に来なさい」
「うへぅっ!?」
 てっきりまたも掴まれると思ったティアは身体を硬直させた。
 だが、エレナの言葉が脳まで届くと、権限な顔つきでエリーの背から這い出る。

「そ、そうよ。エレナさん、さっきも言ってたけど、何それ?」
「それが、一つの“証”とかいうのになるんだって」
 エレナはあの門番が言っていたことを口に出す。
 何とか聞き出した、あの階段を上る条件。

 それが、

「“七曜の魔術師”を集めれば、通してくれるんだってさ」
 その言葉は、アキラが紡いだ。

「……ってことは、」
「ああ―――」
 アキラはため息を吐いて集まったメンバーを順に指差す。

「日、月、火、水、木、金、」
 最後は一階のサクを指し、アキラは指を止める。

「あと土曜日だけ。な、お決まりだろ?」
「土曜“日”って……」
 エリーは呆れかえった瞳で見返してきたが、流石のアキラもこの条件にはため息しか出ない。

 だが確かに、日輪属性や月輪属性の者を探すのは事実上困難であり、七人メンバーを集められる者ならば、神族が逢うに値するのだろう。

「…………うぉぉぉおおっ!! 私の出番ですかっ!?」
「ま、あの階段登るまでの短い付き合いだけどね。あとは誰でもいいから適当にその辺から土曜属性の魔術師適当に探し出して、ぽいっ、」
「ひどっ!?」
「悪いけど私、水曜と土曜の人、その属性ってだけで嫌いなのよね」
「それ本当に悪いっすよ」
 やはりエレナの頭には、完全にインスタントであの門番を突破することしか浮かんでいないようだった。
 ただ、ネックである日輪属性と月輪属性がここにいる以上、あとそれだけで門番を突破できるのは事実だ。

 だが、

「……、」
 アキラの頭には、エレナとは違う意見が浮かんでいた。
 そうだ。
 何故それに気づかなかった。

 自分を除く、五人の女性たち。
 ティアとも、妙な縁ができている。
 ならば、残る一人、土曜属性の魔術師も、意味のある仲間であるべきではないだろうか。
 定番なら、間違いなくそうだ。
 そして、女性。
 完璧だ。
 まさかの男性キャラクターなどは要らない。
 女性、そう、女性だ。
 確信とも言える予想が、何故か強まっていく。
 彼女は、今どこにいるのだろう。

「……、何にやにや笑ってるのよ?」
「探すぞ……、最早神様とかどうでもいい……!!」

 不気味な物を見るような目を向けてくるエリーに、アキラは強くそう返した。

―――**―――

「あとは、魔術だ」
「……!」
 グラウスが、鍛え直したサクの刀に手をかざす。
 すると、イエローの光が刀身を包み、染み込んでいく。
 閃光が消えれば、芸術品を思わせる精緻な白刃。

 これで、完成のようだ。

「どうだ?」
「見事な手際だな……。流石に魔術師隊にいただけはある」
 受け取った愛刀を日の光にかざし、サクは満足げに頷いた。
 手入れは欠かさなかったものの、やはり本格的に鍛えてもらうと武器が生き返る。

「定期的に魔力で補強した方がいい。できるか?」
「ああ。それくらいなら」
 軽く振って感触を確かめ、サクは鞘に刀を戻した。
 いつしか聞かなくなってしまっていた澄んだ音に、顔は綻ぶ。

「気に入ってくれたようで良かった。お前は上で話し合いに参加しなくて良かったのか?」
「……ああ、今から行くつもりだ。本当に助かったよ。ありがとう」
「……一つ、いいか?」
 サクが背を向け、階段に足をかけたところで、グラウスに呼び止められた。

「ティアを連れていくのか?」
「……?」
 炉の中から炭になっていない焚き木をかき出すグラウスは、背を向けたまま呟いた。

「さっきお前の仲間が来たとき、そんなこと言ってたろ」
 サクは階段から足を離し、グラウスの背に身体を向けた。
 もしかしたら彼は、そういう“予感”がするのかもしれない。

「……、」
 確かに、サクも先ほどのエレナの言葉は気になっていた。
 エレナたちから事情を聴きたいところだったが、この父は、今、答えを求めている。

「もしそうだとしたら、いいのか?」
「ついていくなら、あんたみたいな人がいる方がいい。それに、それは俺の決めることじゃないし……、別に珍しいことでもないだろ」
 ガリガリと炉をいじる音が無機質に響く。

『別に珍しいことでもない』

 それは、確かにその通りだ。
 あの年で、魔術師。
 そうなれば、手に職を付けるよりも、旅をして魔物を倒すか魔術師試験を受けるのが通例だ。
 そして、見たところ、彼女は魔術師試験の勉強をしていない。
 漫画で埋もれたあの部屋がいい証拠だ。

 聞いたところによれば、彼女は治癒魔術を使えるらしい。
 そして、遠距離の攻撃魔術も。
 治癒魔術と遠距離攻撃の双方をマリスが担っている現状からすれば、確かに彼女は必要な人材だ。

「元気だけが取り柄で……、鍛冶屋を継ぐこともできそうにない。人の役に立ちたいと言ってるだけで、やりたいことも見つかっていない。たびたび町の外に駆け出して行ったと思えば、数日返って来ないのは当たり前」
「……」
 それが、ティアの行動なのだろうか。
 そんなことをされ続ければ、“親”は一体どう思うだろう。

「あいつはいつか、“やらかす”。治癒魔術が使えるから大事には至ってないが……、いつか、な」
「……」
 心配、なのだろう。
 彼女の将来も、彼女の身も。
 それこそ、店を閉めて探しに行くほどに。
 恐らく、毎回。

 現に、ティアは昨日、“やらかしかけた”。
 言ってはいないが、縦横無尽に突き進んだ結果、“魔族”に遭遇してしまっている。

 表情の見えないグラウスは、もう必要ないだろうに、炉をかき回した。

「ヘタレなのに、変な度胸だけはあってな……。理想を追うのは、別にいい。だけど、現実ってのはそう甘くない。その差ってのは、寿命が縮む。理想に届く前に、それが尽きる」
 もしかしたら、それはサクに言っているのではないかもしれない。

「あいつは本当に、義兄に似てるよ」

 最後にグラウスがそう呟いたところで、店のドアが勢い良く開いた。

「あなたっ!!」
「……!」
 入ってきたのは、ティアの母だった。
 青みがかった長い髪を振り回し、一心不乱にグラウスに駆け寄る

「良かった……、戻ってきてたのね……!!」
「どうした?」
 その剣幕に、グラウスの目つきが鋭くなる。
 ティアの母は、グラウスの手を引きながら外に連れ出す。

「……!」
「なっ、」
 それについて行ったサクの目に、信じられないものが映った。

 魔物、だ。
 ライドエイプやクンガコング。
 さらには、依頼で会う機会のなかった、赤く、野犬のような姿のレッドファングまでいる。

 外でなら、珍しいことではない。
 だが、それらが町の中、しかも、埋め尽くすように現れていては、話は別だ。
 ここはまだ町外れだが、この様子では町中に溢れているだろう。
 建物を力にあかせて殴りつけ始め、その建物から蜘蛛の子を散らすように人が逃げ出していく。
 どうやら、戦闘意欲もあるらしい。

「いっ、一体いつの間に……、っ、」
「―――、」
 一瞬。
 イエローの閃光がサクの死角から、爆ぜた。
 店から飛び出た三人に跳びかかった魔物が、グラウスの突き出した右腕に止められる。
 その手からほとばしるイエローの閃光は、金曜属性。
 その強固な盾に、魔物は身体を打ちつける。

「っ、」
 魔物がグラウスの盾に身体を打ち付けてから、その間、瞬きもできぬほど、僅か。
 サクは愛刀を抜き放った。
 魔物には、爆発するまで何が起こったか分からなかったろう。
 事態の把握ができる前に、サクの一閃によりその生命を終えていた。

「……確かに金曜属性と言えども、その速度なら受ける必要はなさそうだな」
「そうでもない。最近妙なこと続きで、なっ!」
 グラウスの評価にサクはそう返し、鍛え直してもらった愛刀を振るう。
 切れ味が増しているように感じる愛刀は、確実に魔物の命を刈り取っていく。
 事態の把握は後回しだ。

 今は、魔物を倒すのが先。

 ティアの両親もかつてとはいえ、魔術師隊にいただけはあり、この程度の魔物など瞬殺している。

 グラウスが店から商品の斧を持ち出し、ティアの母が魔物をイエローの魔術で押し潰したところで、サクは店の中に飛び込んで行った。

「グラウスさん、先ほど見させてもらったが、この剣、買わせてくれないか!?」
 サクは吟味した剣をラックから抜き放った。
 軽い細身の剣。
 これならば、扱いやすいだろう。

「? お前、」
「いや、違う。私用に、ではない!」
 怪訝な顔つきになったグラウスに、サクは声を張り上げて返した。

 サクの背後から、外の喧騒に気づいたのか、階段からドタドタと人数分の足音が聞こえてくる。

「これは私の主君用だ」

―――**―――

 ガギッ、ボギッ、グシャ。

 気持ちの悪い音を立て、原形を留めていない魔物が彼女の足元にボトボトと落ちる。
 その屍の上で、彼女は妖艶に笑い、しかし、瞳は冷めきっていた。

「次は……、誰?」
 その少女、エレナの瞳に、理性のある魔物は尻込みし、動きを鈍らせる。
 素手から魔物の血を滴り落とし、汚らわし気にそれを振り払った。
 その一挙手一投足が、その場にいる魔物の脳裏に、死の光景を届け続ける。

「よおぅっし、みんなっ、エレナから離れるなっ! ここは安全だ!!」
「あんたも戦えって!!」
 怒りの吐け口を探していたようなエレナの相手となった魔物は、すべからく悲惨な死に様を曝し、虚しくも爆ぜていった。

 その近くで安全を確保していたアキラはエリーの怒号に、サクから与えられた剣を抜いて、近くの魔物を切る。
 彼女が選んだだけはあり、かなり使い勝手が良い。

 店から飛び出た瞬間事態を把握した“勇者様御一行”は、町に散り散りに駆け、いつの間にか分散してしまった。
 今いるのは、アキラ、エリー、エレナ、そして、

「うぉぉぉおおーーーっ!! エレお姉さまメチャメチャつえぇぇぇえええーーーっ!!」
「次はあなたね」
「うわわっ、ヘルプッ!!」
 エレナから一気に離れたティアの四人だけとなっていた。

「っ、」
 戦闘に置いて未だ緊迫感のないティアの背後に迫った魔物に、アキラは切りかかった。
 見たことのない紅い野犬は、オレンジの一閃を受け、爆発する。

「うおおっ、アッキー、マジ助かったぜっ!!」
「てかお前も戦えよっ!!」
「はっ!? い、いよぅっしっ!! 任せろぉぉぉおおーーーっ!!!」
 思い出したようにスカイブルーの魔術を撃ち出したティアに背中を任せ、アキラは正面の敵と対峙する。

 それにしても、一体何故、大量に魔物が町を襲い出したのだろう。
 ヘヴンズゲートの並びということもあって、町の警護は万全だったはずだ。
 今も各所で警護団や旅の魔術師が戦っている。
 だが、一向に数が減らない。

「これはもしかしてあれですかっ!? 昨日の魔族の弔い合戦ですか!?」
「やべっ、何気にそうっぽい!!」
 後ろから響いたティアの言葉に、アキラは昨日の魔族を思い出す。
 あの銃によって一瞬で消え去った存在だったが、魔界にしてみれば異常事態なのかもしれない。
 しかも、あの魔族、リイザスは魔王直属だとか言っていた。
 それを考えれば、魔王そのものが攻め込んできてもおかしくない。

「なあっ、俺っ、悪いことしてないよな!?」
「おおうっ、あれでバッチリでしたぜぃっ!!」
「……って、ふざけてないで―――」
「っ、」
 エリーが駆け出すよりも早く、ティアの背後から迫った魔物を、アキラが両断した。
 再び騒ぐティアをたしなめ、アキラは次の魔物に襲いかかる。

「……!! ノヴァ!!」
 真面目、だ。
 エリーは目の前の魔物に拳を叩き込みながら、アキラとティアの二人を眺めた。
 あのアキラが、真面目に戦っている。
 昨日から何度見ても信じがたい光景だったのだが、今のアキラは昨日以上。
 的確に近い魔物に切りつけ、深追いはしていない。
 ティアにも要領よくフォローを入れ、順調に敵を倒している。

 もしかしたら、ティアという存在は、アキラにとって、実力以上に必要な存在なのかもしれない。
 魔力の量はともかくとしても、ティアは、曲がりなりにも依頼を見学していたアキラより経験が薄そうだ。
 そのティアが身近にいることで、アキラにとっていい刺激になっている気がする。
 ティアも守られるたび大げさに褒め称え、アキラの調子を上げていく。

「……ある意味いコンビよね」
「!?」
 後ろで魔物の叫び声が聞こえたかと思えば、エレナがレッドファングを絞め殺していた。
 瞳は、今まで以上に冷えている。
 その視線が魔物に向けばあるいは頼もしかったかもしれないが、仲間の二人に向いていては戦慄する他ない。

 ただ、エリーも、先ほどから必要もないのに詠唱しながら魔物を殴りつけていたりするのだけれど。

「まっ、今はほっときましょ。あっちと違って、陸路は大変なんだから」
「……!」
 エリーが見上げたエレナの視線を追えば、建物の間の空に、シルバーの飛行物体が通った。
 ときおり、雷のように降り注ぐ銀の閃光が見え、各地で爆音が聞こえる。
 数千年に一人の天才は、魔物の手が届かない空間で、見事にその任を果たしているらしい。

「……ちっ、いいわね、楽で」
 勢いを増したエレナの蹴りつけは、目の前の魔物を弾き飛ばす。
 エリーの武術とは違う、粗暴な攻撃。
 だが魔物はそれになす術なく、その命を終え、爆発していった。

「……」
 木曜属性は、全属性中、最も身体能力強化に長けている。
 エリーはエレナの戦いを横目で見ながら、その知識を浮かび上がらせた。
 だが、エリーの知る木曜属性の魔術師は、こんな“化物”と形容できるほどの力は持っていない。

 クロンクランでの戦いではオーガースを片手で持ち上げ、依頼の戦いではクンガコングの群れをマリスと共に蹂躙していた。
 これで、エレナの戦いを見たのは都合三度目。
 たった三度のその光景は、それだけなのに、エリーの脳裏に刻まれる。

 魔力にあかせての暴力的な戦いでも魔物は瞬殺されているのに、エレナにはまだ相手の力を吸い取る魔術、キュトリムがある。

 やはり、エレナは異常だ。
 単騎では、落ちようもない。
 こんな超人が、モグリでいたなどと考えられないほどに。

 もし、仮に。
 仮に“七曜の魔術師”を集めることになるとして、そのメンバーで打倒魔王を目指すとするなら、木曜属性はエレナ以外にあり得ない。

「っ、ノヴァッ!!」
 エリーは全力で目の前の魔物に拳を放った。
 毬のように弾き飛んだライドエイプはスカーレットの軌道を作り、遠くの群れに飛び込んで、爆ぜる。
 エレナとは違う、技術も用いての攻撃。
 それなのに、エレナの攻撃よりは遥かに劣る。
 だが、自分だって“勇者様御一行”のメンバーだ。
 負けてはいられない。

「ふっ、」
 町を走りながらの戦闘。
 裏道から、角を曲がった直後に現れたクンガコングを蹴り上げ、エリーは大通りを睨んだ。
 数多くの魔術師と、それ以上の魔物に埋め尽くされたそれは、先ほど通ったとは考えられないほどの惨状。

 一刻も早く、魔物を町から消し去らなければ、

「……?」
 魔物を蹴り、再び周囲を見渡したところで、エリーはようやく、そこにあった異様に気づけた。

 戦っている警備隊。
 戦っている旅の魔術師たち。

 それらは、別にいい。

 だが、その他の住民。
 それらが、魔物に埋め作らされた大通りで、逃げもせず、一心不乱に一つの方向に固く握った両拳を震わせている。
 目を固く閉じて。
 まるでそうすることが義務のように。

 そしてその全員の向く方向。
 それが頂点をとうに過ぎた太陽を背負う巨大な岩山だとエリーが気づくのには、時間は要らなかった。

「なっ、逃げ―――」
「ほっときなさい」
 叫ぼうとしたエリーを、エレナの冷たい声が止めた。
 息絶えた魔物を、まるで爆弾のように別の群れに投げ込み、冷たい瞳を祈る人々に向ける。

「この町の奴ら、引きこもりの神様に祈るの好きみたいね」
 皮肉も、何もなく。
 エレナは完全に興味を失ったような声を出した。

 エリーも、彼らが何をやっていたかは分かる。
 彼らは、神に、祈っているのだ。

 だが、その本質はそうではない。
 彼らは、神に、“頼っている”。
 彼らは迫りくる魔物たちから、戦えない者ができる最低限の行為、逃亡すらも行わず、ただ、神に頼っている。

 足掻きすらしていない。

 ヘヴンズゲートともなれば、信仰心の強い者もいるのだろう。
 だが、その光景は異様だ。
 現に旅の魔術師たちも、彼らの行動に戸惑っている。

「恥ずかしいとこ、見られたな」
「……!」
 飛びかかってきた魔物がイエローの閃光に爆ぜたかと思えば、その奥から無精ひげの男が斧を持って現れた。
 巡り巡ってここに来たらしいティアの父、グラウスは、何ともいえない表情で、“頼る”群衆を見やる。

「だが、あれはここだけに限らない。俺が魔術師隊にいたころ、各地を回ったが……、たびたび“こういう場所”がある」
 大斧を軽々と振り回し、グラウスはクンガコングを切り飛ばす。
 流石に元魔術師隊。
 引退しているとはいえ、この程度の魔物では疲労にすらならないらしい。

「せめて、逃げるってことだけでも、動いてくれればいいんだが、な」

 エリーはグラウスの言葉を背に聞きながら、魔物を屠る。
 確かに、戦うことまでは求めない。
 だが、自分の身を守る最低限のこと。
 それは、できなければならない。

 常に、“何かできる”と思って動かなければ、何も変わらない。
 それが、彼らには、欠如しているのだろう。

 グラウスのように、動く者もいる。
 それが、この町の一つの面なのだろう。
 だが、別の面は、エリーの背筋を冷たく撫でる。

 “しきたり”に縛られた世界。
 生まれてからずっと、見つめていた世界だ。
 不自然さは、一切感じない。

 だが、異世界から来たアキラや、“しきたり”にまるで縛られないエレナと出会って、それが徐々に、陰り始める。

 エリーは、自分の世界が狭く見えてきた。

「……! エリーさん!」
 その声に、我に返ったエリーは振り返った。
 グラウスの向こう、やはり共に行動していたのか、サクが駆け寄ってくる。
 その後ろに、ティアの母も見えた。

「エリーさん、みんなは……?」
「エレナさんならそこ、マリスは上で、残りの二人は今来るわ……!」
 手短に伝え、エリーは魔物を蹴り飛ばす。
 僅かにエレナを意識した乱暴な蹴りは、思った以上に有効打だったようだ。

「そうか、全員無事で……!!?……」
 見上げてマリスを確認しようとしたサクの表情が、固まった。
 上空に浮かぶマリスも、その方向を睨み、表情を硬くしている。

「ちょっ、あれ!!」
「―――!!」
 次いで気づいたエリーの声に、エレナも顔を上げた。

 マリスの睨む先、空から、巨大な塊が近づいてきている。
 まるで、晴天を覆う黒雲。
 東の空一色を染めるその塊は、魔物の群れだ。
 森林の空を飛び、まっすぐにヘヴンズゲートを目指してきている。

「っ、ほんとに、昨日の魔族の弔い合戦っぽいわね……!!」
「お前ら魔族を倒したのか!?」
 グラウスの緊迫感漂う声に、エリーは頷き、しかしその眼は空だけを捉える。

 巨大な獣王に翼が生えたような姿のザリオン。
 鋭く嘴を尖らせた巨大な翼竜を思わせるガブスティア。
 竜族の姿もちらほら見える。

 いずれも、今町を陸路で襲う魔物たちとは一線を画する激戦区の魔物たち。
 そしてそれらはほとんど禍々しい赫をその身に宿し、空の一角をその色に染めていた。

 常識外れだ。
 この大群は。
 町が、消える。

 容易すぎるその想像に、その大通りにいた魔術師全てが動きを止め、魔物たちですらもその大群に身体を硬直させていた。

「―――っ、流石に、これは、」
「……!」
 マリスが空から降り立ち、エリーの背後を見やる。

 エリーが振り返れば予想通り、裏道から出てきたばかりで事態を把握していないアキラが立っていた。

「あれ? みんな揃ってんじゃん」
「うおおおっ!! アッキー、上っ!! 上っ!!」
 アキラの呑気な声と、ティアの叫び声。
 アキラは一瞬眉をひそめ、そのままの顔で空の赫を見上げ、硬直した。

 自分は、とんでもない所に来てしまったのではないのだろうか。

「アキラ君、出番」
「え、あ、ああっ!!」
 勇者様の登場に、エレナはほっと息を吐き、アキラの正面を開ける。

「……、」
 右手にオレンジの光を集めながら、アキラはちらりとエリーを見た。

「……いいわ。流石に、これは、」
「だっ、だよな!!」
 エリーの許可に、アキラが集めた光をさらに収束する。
 日輪属性、武具の具現化。
 クリムゾンレッドのボディから漏れだすそれは、おびただしいほどの魔力。
 たとえどのような勢力で敵が現れようとも、それを無に帰す絶対的一撃を有した、最強の武具。

 その広場にいた誰もが、オレンジの光を漏らしたアキラに視線を向ける。

 この力を使うことに肯定的でないエリーも、その光景には気分がいいものがあった。
 神に頼りきっていた人々に、これを、見せたい。
 自分たちも頼っている。
 だが、その対象は、姿の見えない神などではなく、“仲間”、だ。

「……っし、」
 全身に魔力をほとばしらせ、アキラは身体を固定する。
 防御幕と、昨日のリイザス戦で、いつの間にかできるようになっていた身体能力強化。
 これを用いれば、もうこの力は、揺るがない。

「―――」
 アキラは銃を構える。
 狙いは、空の赫、総て。

 その光景を横から見て、エリーは、一般人にしてみれば死の淵のような事態でも、僅かに微笑んでいた。

 この男は、その力を使っても、朝、現れてくれる。
 その確信があれば、有事の際に、この力は必要だ。
 彼は、裏切らない。

「行くぜ―――」

 全員が固唾を飲んで見守る中、アキラから、巨大なオレンジの閃光が放出された。
 その神々しい光に、総てが息を呑む。

「―――……」

 総ての赫がオレンジに染まった、その瞬間―――

「―――!!?」

―――その赫に、同じオレンジの光が、空から撃ち下ろされた。

「なっ、」
 最初に声を漏らしたのは、サクだった。
 前方と上空から絶大的な一撃で狙い撃たれた赫の大群は瞬時に絶命。
 大気を揺する爆音を奏で、空を青に明け渡す。

 だが、今の攻撃は、アキラだけのものではない。
 もう一つ、同じ絶大的な一撃が、

「っ―――」
 サクは瞬時にその光線が放たれた方向を睨む。
 そこは、背後にそびえる巨大な岩山。
 その天井を隠していた雲は、巨大な輪を開けられ、不自然に漂う。
 あの穴は、間違いなく、今の光線を通したゆえのものだ。

 二閃。

 それが赫の魔物に確実な死を届けた。

「おおおっ、」
 次いで、群衆から声が漏れた。
 祈りを捧げていた者たちは、身体を震わせ、岩山に深々と頭を下げる。
 その瞳は、確信に満ちていた。
 今自分たちの窮地を救ったのは、あの岩山の上にいる存在だと。

「ちょっ、ちょっ、俺っ、俺はっ!?」
「いやいやアッキーあっしは見てましたぜすごいすごい」
「いや、お前はいいよ。しかも棒読みだし……」
「ひどっ!?」
 アキラとティアは喚き立てるが、その他は岩山を見上げていた。
 群衆は、祈りを捧げながら。
 戦っていた者は、目つきを鋭くしながら。

 これは、この場にいる誰もが、初めて経験した事態。

 神による一撃だった。

―――**―――

「んもぅっ、さっすがアキラ君!!」
「エレねー、ストップっす」
 階段を上りながらアキラにしがみつくエレナを、マリスが引きはがした。
 エレナはいつものマリスの仲裁に、わざとらしく拗ねたような顔を作るが、内心の上機嫌さは相変わらず漏れ出している。

 優越感一色の瞳を、眼下で見上げる門番たちに向けると、嘲るような表情を作り、顔を背けた。
 通れなかった階段への入り口を通過し、エレナの機嫌はようやく戻ったようだ。

「うおおっ、町ちっちゃっ!! いやいやいや、いっっちど登ってみたかったんですよっ!! この階段!!」
「何であんたもここにいんのよ。こけて転がり落ちなさい」
「エレお姉さまっ!!? 機嫌直ったんじゃないんですかっ!!?」
「冗談よ。あなたが黙り込んでさえいれば」
 エレナの睨みに、ティアは無理矢理自分の口を抑え込んでエリーの背後に隠れた。

 どうもエレナはティアを好きになれないようだが、自分を巻き込まないで欲しい。
 エリーは顔でエレナにそう返したが、エレナは気づきもせず、またもアキラの腕にからみつき、マリスに引きはがされていた。

 空から降り注いだあの一撃のあと、腑に落ちないながらも魔物の雑踏を倒していた“勇者様御一行”の元に、白いローブを着た使者が現れたのはほんの半刻ほど前。

 恐らくはアキラの攻撃を見たゆえだろうが、“神”が直々に“勇者”を呼び出したらしい。
 この異常事態に使者の中にも戸惑いに満ちた顔つきの者が多く、アキラたちも同じく戸惑ったが、エレナの一言により、ついぞここまで来てしまった。
 門番への復讐のためだけに神に会うと言った者は、もしかしたらエレナが初かもしれない。

「しかし……、神、か……」
 エリーの隣で、サクが神妙に呟いた。
 その瞳は、まだ半分ほどしか進んでいない階段の先にある、巨大な白い門。
 顔は緊張に震え、頬に一筋汗を流している。

「確かに……、あたしも、神族に会えれば、って思ってたんだけど、まさか神様とはね」
「ああ。おとぎ話でしか聞いたことのないような存在が、あの先にいるとは、な」
 エリーはようやく賛同者を得て、頬を緩めた。
 アキラ、マリス、エレナ、そしてティア。
 この四人は、緊張感がまるでない。
 どうしてこうも、普通でいられるのか。

「まあ、ぶっちゃけ神っていっても、神族の長ってだけでしょ? 国王と変わりゃしないわよ」
 相手が国王であっても緊張すべきだろう。
 そうエリーは思うが、エレナにとってそれらは一般人と同列らしい。

「エレねー、信仰心薄いっすよね……」
「私の信仰心が強かったら、人混み通ったあとに懐は潤ってないわよ」
「またやったんですか!?」
 ヘヴンズゲートでスリなどという信じられない行動を起こしていたらしいエレナは、しれっと笑う。

「勘弁して下さいよぉ~~っ、」
「あら? あなたが知らないだけで、同業者は沢山いたわよ。人が集まるってのは、そういうことでしょ」
「エレお姉さま、マジ半端ないですっ!!」
「あん?」
「ほっ、褒めたのにっ!!?」
「エレねー、ここで暴れると、ほんとに危ないっすよ」
 がやがやと騒ぐ面々。
 ティアに掴みかかろうとしたエレナを止めたマリスにも、緊張の色は見られない。
 彼女もどうやら、神様という存在に、そこまで心酔していないようだ。

 人間は力を与えられた対価として神族に従わされている、という“中立説”を良く知るだけはあって、あまり信仰心は高くないらしい。

 そして、

「いやっ、やっぱ定番だよなっ! 神様に会うってのはっ!」
 一人、緊張どころかこの展開に喜び切っている男がいた。
 恐らく神に会えば、そこでようやく緊張するのであろうが、今は定番の展開と心躍っているようだ。

「神に選ばれた“勇者様”が、ってか? やべーよ、俺たち空飛ぶ乗り物とか手に入れて、今まで行けなかった場所とか行けるようになるぜ?」
「どこからそういう発想出てきてるのよ?」
 胸躍るようにずんずん進むアキラに、エリーの声は届かなかった。
 アキラにしてみれば、せっかく赫の魔物を全滅させたのに、大衆が認めてくれなかったのが不満だったのだろう。
 その攻撃を、神が認めてくれたらしいことが嬉しいのだろうが、大衆の視線を集めたのがまさしくその神の一撃だったことは忘れているのかもしれない。

「とにかく、どうでもいいけど、失礼なことしないでよ!! 全員、分かった!?」
「おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、――――いだっ!? いだだだっ!!!?」

 最も不安な騒がしい少女の口をエレナの右手が捉えたところで、一行は白く巨大な門に到着した。

―――**―――

『……ああ、お前らは“そういうパターン”なのか』

 門に入った直後にそう呟きながら現れた男の案内に続き、アキラたちは宮廷のような廊下を歩いていた。
 岩山の中とは信じられない白く輝く廊下は、この場にいる全員が横並びできるほど幅も広く、天井も透けているように高い。
 壁や天井に神話のような見事な絵画が描かれているかと思えば、定期的に両脇に設置されている精巧な芸術品のアンティーク。
 人間界にあればいかなる成り金の豪邸なのか、と思うところだが、奥に待つのが神だと知れば、その豪勢さは妥当なところなのかもしれない。

 テレビの中でしか見たことのないような荘厳な廊下を、階段を上っていたときの高揚した気分はどこにいったのか、アキラは庶民特有のせせこましい表情を作りながら歩いていた。

「な、なんか、胃が痛い」
「あ、お前も……?」
 小声で横を歩くアキラに呟けば、同じようないたたまれなさを感じている者の声が返ってくる。
 エリーは自らの姿を忙しなく正し、緊張しながら視線を泳がしていた。

「そう緊張するな。その程度では主の前に立ってもいられない」

 そんなアキラたちの様子に、前を歩く男はどこか嫌味のある表情を返してきた。
 白いローブに身を包んだ男は長身で、色が薄く長い髪を、首筋で束ねている。
 よくよく見れば、耳が少し尖り、肌の色も妙に白かった。

「そういえば、さっきのどういう意味なんすか?」
 初めて見たが、彼は神族なのだろう。
 そうエリーが結論付けたところで、この廊下の雰囲気でも普段と変わらぬ気だるい声が響いた。
 相手が神族だろうが、マリスはなんら構えることなく半分の眼を前の男に向ける。

「さっきの、とは?」
「『そういうパターン』ってやつっすよ。自分たちが入ってきたとき、言ってたじゃないっすか」
 妹の態度に、感心しつつもどこか胃の痛さが増した腹部を押さえたエリーだが、確かにそのことは気になっていた。
 どこか高慢な印象を受ける前の男は、自分たちを一瞥し、そう呟いたのを覚えている。

「言った通りの意味だ。ここに招かれたお前たちは、ぞろぞろと仲間を連れた勇者一行。初代の勇者もそうだったらしいが……、“七曜の魔術師を集めるパターン”は、今までで一番多い」
「……、」
 お決まりのパターンとは、最も数が多いからそう言われるのだろう。

 あくまで態度をそのままにし、神族の男は前を向いたままそう返した。
 その様子に、一番気がかりな仲間にエリーは視線を移すと、予想通りエレナが不機嫌になっている。
 高慢な態度の目の前の男に、明らかに不満の目を向けていた。
 ちらほらと、殺気に似た空気も感じる。

 だが、目の前の神族の態度は自然なのだろう。
 人間の上に君臨する神族。
 その地位は、一般人が“勇者様”への敬意の、それ以上を向けなければならないとエリーは習った。
 自分がアキラに敬意を向けているかはさておき、目の前の神族は敬わなければならない。

「まあ、お前らは……、一人足りないようだが……、まあ、主が通せとおっしゃるのならば仕方がない」
「その主って、さっき加減も考えず上から光線撃ち落とした奴?」
「……!」
 エレナの不躾な言葉に、神族の男は足を止め、振り向きざまにギロリと睨む。
 だがエレナは、そんな男の視線を関心のないように見返した。

「ちょっ、」
 その険悪な空気にエリーは声を漏らすも、神族の男はその表情を変えないまま、再び歩き出す。

「私は見てないが……、魔物の大群が攻め寄せてきたのだろう? それを屠ったのだ。ありがたく思え」
「あら? あんなのうちの“勇者様”だけで十分だったわよ。もしアキラ君が同時に撃って相殺してなかったら、森の一角がまるまる消えてたわ」
 それは、エリーも思っていた。
 あの、空からの一撃。
 威力はアキラのそれと同等だ。
 山を消し飛ばすほどの威力の力を撃ち下ろせば、魔物たちの目下にあった森林は全焼していただろう。

 だが、変わらず続くエレナの挑発に、この場いる全員が身を硬直させる。
 この女は、気に入らない相手には、例え神族だろうと愛想をふりまかないらしい。
 エレナは得意げに嘲笑し、冷たい視線を目の前の男に送る。
 神族の男にとっては、人間などにそのような態度を向けられ、不本意だろう。
 順調に、エリーの胃は痛みを増していった。

 だが、

「相殺した、だと……?」
「うぇ、」
 次に振り返った男の睨みが向いたのは、エリーと同じく胃の痛みを患っていたアキラだった。
 神族に途端睨まれ、借りてきた猫のように大人しかったアキラの身体がさらに硬直する。

「そ。町の危機に随分もたついてた、あんたの主の攻撃とやらは、全然、全く、完璧に、要らなかったのよ」
「エレお姉さま、私、この空気耐えられないんですけど、」
「何となくついてきた罰よ。耐えなさい」
「きゅぅっ、」
 視線も向けないエレナの冷たい声に、大声の出し方を忘れてしまったようなティアがさらに小さくなる。
 この分なら、ティアも大丈夫だろう。マリスも、ある程度わきまえている。
 エリーは視線を縮こまったアキラと沈黙を守るサクに移し、二人も問題ないことを見届けると、エレナに視線を戻した。
 後生だから、せめて今から会う神の前では猫を被ってもらいたい。

「まあ、ここに入れるのだから、それくらいはできてもらわねば困ると言っておこう」
「っ、」
 エレナがさらに口を開きかけたところで、神族の男は足を止めた。

 何事かと様子を見ていれば、男は、手のひらを前に突き出し、目を瞑って何かを呟いた。

「……!!」
 すると、男が手をかざした空間、どこまでも続いて行くような廊下の中腹に、途端巨大なドアが現れた。
 ぼやけた光に包まれていた白塗りのドアは廊下の通路を閉ざし、光が収まると、まるで最初からそこにあったかのように目の前に座す。

「“お前たちには見えなかったろうが”、ここが、主が降臨される間に続くドアだ」
 最後に挑発的な言葉をアキラたちに、主としてエレナに届けると、神族の男は途端その場に跪き、ドアに向かって首を垂れる。

「ヴォルド=フィーク=サイレス。主の命により、現れた勇者一行を連れてまいりました」
 男の名は、ヴォルドというらしい。
 自己紹介さえもしなかったヴォルドは背後のアキラたちなど見向きもせず、ただドアにだけに意識を向ける。
 高慢な男のその様子が、その先にいる存在はどういうものなのかを明確に伝える。

 ドアの向こうにいるのは、間違いなく、

「そう。通しなさい」

 静かな、女性の声が聞こえた。
 しかしその静かな声は、そのはずなのに廊下中に響き、全員の身体を震わす。

 高圧的なようで、しかし逆らう気も起きないようなその美声が響き終えれば、代わりにドアが重く開く音が廊下に響く。
 光が漏れ出すように動き出したドアの前、ヴォルドは蹲ったまま。

 ちらりと視線を向けてアキラたちに同じようにすることを促すが、エリーが動く前にエレナが立ちふさがり、ヴォルドを見下す。
 駄目だ、エレナは。
 高圧的な相手に対して、全く屈するつもりがない。

「ヴォルド、ご苦労だったわね」

 開ききったドアの向こう、黄金色の王座に薄いローブ姿の女性が座っていた。
 身に唯一纏っているのは銀のローブ。
 それに隠された、雪のような白い四肢はキラキラと輝くように美しく、その容姿も同様だ。
 王座と同じ黄金の長い髪をトップで纏め、エメラルドの大きな瞳は総てを見定め受け止めるような寛容さを備えている。
 想像していたよりも、ずっと美しい。
 どれほど精緻に彼女を模そうと作品を創り上げても、決して届かぬ唯一無二の存在。
 あらゆる芸術家が、不可能と分かりながらも神を描く理由が分かる。
 その美貌を現世に繋ぎ止めておきたいと誰もが思うのだろう。
 僅かに尖った耳も、高い鼻も、総てが完璧に、“美”へのベクトルに足並みをそろえている。

 金と銀の装飾品が並ぶ巨大な王間が、赤いカーペットが一直線に向かう先の、その存在がいるだけで、霞む。

 キン、と耳鳴りがするような空間に、神は、王座のひじ掛けにもたれかかり、不遜に足を組んでいた。
 だが、それさえも、彼女が行えば、いや、彼女のみが、そうすることを許されるように人の眼を惹きつける。

 彼女が、今、天界を統べる者。

「女神……、じゃん」
 エリーの隣から、その光景に自然と漏れる声が聞こえてきた。
 その声に、エリーはようやく我を取り戻し、アキラの腰を軽く小突く。

「よく来た、勇者。入りなさい」
 目の前の女神は、アキラだけをそのエメラルドの瞳で捉え、招き入れる。
 熱に浮かされるように歩を進めたアキラに続き、全員がその間に足を踏み入れた。
 神への接近。
 それが、今、自分たちが行っていること、

「ヴォルド、ドアを」
「はい。お前たち、粗相のないようにな」
 背後からヴォルドが囁き、ドアでヴォルドの残る廊下が遮断される。
 不思議なことに、このドア以外、ここには出口が存在しなかった。

「……、従者が一人もいなくていいのかしら?」
「っ、」
「ちょっ、」
 最初に声を発したエレナの服の裾を、エリーは思わず力任せに引きよせた。
 やはりエレナは、ああいう態度の相手は例え神であろうとも、らしい。

「私は女神、アイリス=キュール=エル=クードヴェル。天界を統べる者、です。勇者、お前の名は?」
 しかし、女神、アイリスは、エレナを一瞥もせず、アキラだけをその眼に捉えた。
 表情からは何もうかがえない。
 エリーは、エレナの服を決して離さないようにしながら沈黙を守った。

「ヒダマリ=アキラ、です」
「そう」
 緊張でか細くなったアキラの声と、王間に響く静かなアイリスの美声が交差する。

 アキラだけが一歩前に出て、その神との対面を、エリーは残る四人と背後から見守った。
 こうして見ると、改めて、アキラが勇者であると認識せざるを得ない。
 あの神に、視線を向けられている。

「では聞くが……、アキラ。あのとき日輪の魔術、“プロミネンス”を放ったのはお前で間違いないな?」
「……、」
 神のプレッシャーを全身に受けながら、アキラは一瞬目を丸くした。

 プロミネンス。
 あの正体不明が放つでかい光線、と認識していた魔術に、そんな中二臭い名前が付いているとは初めて知った。

 アイリスからあっさりと告げられた新事実に、アキラはコクリと首を縦に振る。

「そう」
 アキラの応えに、アイリスはエメラルドの瞳を僅かに細め、一言だけ返した。
 思考を進めるように沈黙したアイリスに、アキラは尋問されているような気分を受け続け、一歩後ずさる。

「……、失礼ですがアイリス、さ、ま。その、日輪属性の魔術について、教えて下さります?」
 そのまま部屋に溶け込みそうだった一行を、エレナの僅かに嫌味を込めているような声が現実に引き戻した。
 エリーが腰の服を引くが、エレナは構わずアイリスに視線をぶつける。
 先ほどからアキラ以外を見ていない態度も気に食わないが、謎に包まれている日輪属性。
 その正体を知っている女神に、聞いておきたいことはある。

「…………」
「あの……?」
「…………」
「っ、」
 いくら呼びかけても反応しないアイリスに一歩詰め寄ろうとしたエレナを、エリーと、新たに加わったサクが全力で止めた。
 確かにあの態度は気に障るが、正に神をも恐れぬエレナを野放しにしておくわけにはいかない。
 一番の不安材料は、呆けたままのティアより、やはりエレナだったようだ。

「…………、その力なら、」
 ようやく、アイリスが口を開いた。
 しかしそれはやはり、アキラだけに向けて。
 エレナの額に青筋が浮かんでいるように見えるのは、エリーの気のせいだけではないかもしれない。

「すでに、十分に魔王を倒せるでしょう」
「……!」
 神の評価に、アキラの表情が変わった。
 背後に並ぶ仲間からも、同じ空気が漏れ出す。

 今まで、その予感はしていた。
 自慢げに自分は何度もその言葉を口にしていた。
 だが、神という存在に認められ、その予感は確信に変わる。

 アキラは、やはり、魔王を倒せるのだ。

「今回の魔王は英知の化身、ジゴエイル。何を企んでいるか分かりません。早急に倒す必要があります。……頼みましたよ」

 最後に。
 女神アイリスが、魔王の名と、お決まりのような台詞を口に出し。

 “勇者様御一行”の、神との邂逅は終わった。

―――**―――

「ねえ、アキラくぅん……、私、あの山が消し飛ばされるとこ、見たいなぁ……」
 流石に、『おうっ!!』とは言えなかった。

 翌朝。
 町外れの宿舎の前で、アキラはしな垂れかかるエレナを珍しくも押し返した。
 神族の王との面会に、毒気を抜かれたような面々は、会話もそこそこに眠りに就いたのだが、エレナだけは昨日からあの岩山の撤去をアキラに迫ってきている。
 余程、女神アイリスが気に入らなかったらしい。

「……、」
 だが、その感想は、アキラも抱いていた。
 昨日の面会は、一体なんだったのか。

 大した情報も与えられず、質問もできず。
 ただ、本当に、イベントのように消化された神との邂逅。

 これがゲームの世界なら、ない話ではない。
 アキラもかつて行ったいくつかのRPGでは、神様がいるんですよ、的な情報を与えるのみのどうでもいいイベントがあった。
 だが、それをやる必要性。
 それすら感じられない。

 そう考えると、今までアキラは、感想を持つ、ということを一切してこなかったように感じる。
 ただ情報を受け取るだけなら、誰にでもできる。しかし、これは重要そうだな、程度に考えるだけだ。誰もその奥を見定めようとしない。
 それが希薄になるのは、感想を持つ者が少ないからだ。

 感想。
 まるで小学校のときにやった、読書感想文のような話だ。
 アキラはその手のものが嫌いだった。
 物語は、楽しむためだけのもので、深追いしてしまえば濁ってしまう。

 物事には必ず二面性がある。
 両面見る必要がある、ということは、当たり前のようによく言われる。

 だがそれは、もしかしたら、物語のあるべき楽しみ方ではないのかもしれない。
 そう、思ってしまう。

 濁らずにいるからこそ、物語は、世界は、キラキラと輝くのだ、と。

 やっぱり駄目だ。
 深く考えるのは。
 優しい世界が表情を変えてしまう。

 アキラは、それが、恐い。

 腕にエレナの感触を受けながら、しかしアキラは、呆然と、高い岩山を見上げ続けた。

 神との会話は、ただ、魔王の名と、自分の力に名前が付く、という単なるイベント。
 そう、考えよう。

「……、エリーさん、」
「……うん、やっぱりサクさんも?」
 そんな、アキラとエレナから離れた二人は、同じように天界へ続く岩山を見上げていた。
 エレナを止めに行ったマリスを見送り、エリーはサクが自分と同じ疑問を覚えていると察する。

 昨日、一晩考えたが、やはり頭にしこりが残っていた。
 今日の朝の鍛錬を、中止にするほどに。

 静かな朝。
 二人が見上げるのは、ようやく形を取り戻しかけている、大穴の空いていた岩山を覆う雲。
 その雲を、神の放ったアキラの銃と同様の魔術、プロミネンスとやらが突き破ったのは明確に思い出せる。

「あの神は、言っていた。その力ならば十分に魔王を倒せる、と」
「そうなのよね」

 昨日の邂逅は、思い起こさずとも脳裏に刻まれていた。
 あの“神”という存在を一目見れば、その姿を生涯眼に焼き付けることになるだろう。

 だが、その言葉。

 今まで“しきたり”に無条件に従っていた二人の心に、闇を作った。

「ならば何故、“早急に倒す必要のある魔王”を、神は倒さないのだろうか」
 アキラと同じ力を持っているにもかかわらず。
 そう言葉を紡ぐ必要もない。
 二人が持っている疑問は、同じものだ。

 人間たちの義務。
 そう言ってしまえばそれまでだろうが、合理的ではないように思える。

「神ともあろう存在が、“魔族説”をとっている、なんてことは……、」
「それは、流石にね……、」

 口ではそういうものの、サクの言葉に、エリーは僅かに納得しかけた。

 “魔族説”。
 それは、人間界を魔族に明け渡すべきである、という説だ。

 もともと天界と魔界が存在し、その中間に人間界が後から発見された。
 それならば、人間界は天界と魔界で分けるべきであり、長年人間界を統べてきた神族はそろそろ、同等期間、魔族に人間界を渡すべきではないかと考えられている。

 そのあまりに強引な考え方に、神族を称える“神族説”や、冷静に歴史を視る“中立説”と比べると、支持する者は異様に少ない。

 だが、人間が魔王を倒せなくなったときをもって、魔族による支配が始まると考えるのなら、神が人間のみを魔王と戦わせている理由も分かる。

 ただ、いずれにせよ、人間界が支配されるべき場所であるという考え方は変わらない。

「どの道、私は神を好きになれそうにない」
「……、みんなそう見たい。特に、エレナさん」
 エリーも岩山を消し飛ばしたいと思うほどではないが、あのアイリスという女神に好感は持てなかった。
 神に誓いを立て、魔術師隊に入ろうとしていた自分の気持ちを、今はもう思い出せない。

 あの高慢な態度。
 案内をしたヴォルドという神族も同様だ。
 この町にいる住民は神や神族を称えているが、神族たちから見れば人間などその辺りにいる動物と変わらないのだろうか。
 もてなせ、とまでは言わないが、せっかくの勇者の来訪に、案内役のヴォルドとわざわざ呼び付けて命令のように魔王を倒せと言ったアイリス以外の神族が現れなかったのも、取るに足らない存在と思われているのだろう。

 そして、アキラのみに話していたのも気に入らない。
 神と会話したアキラは、未だに放心状態が続いているように口数が少なかった。
 大方、今になって神という存在がどういうものなのか理解し始めたのだろう。

 あの高圧的な態度に、質問もできなかった自分たちが得られた情報は、魔王の名前のみ。
 わざわざ神が自分たちを呼び寄せた理由も分からないままだった。

「てかさ、とっととこの町出ましょうよ」
 アキラで岩山を消し飛ばすことを諦めたエレナが、くるりと振り返った。
 長い髪を神族さえも見下す傲慢な動作で投げ上げる。
 その瞳には、いち早く嫌なことしか起こっていないこの町への怒りが見え隠れしていた。

「ねえ、魔王ってどこにいるの? とっとと殺してあの神の無能っぷり全世界に知らしめましょうよ」
 ヘヴンズゲートの町でよくそんな言葉を吐き出せる。
 人通りの少ない朝だから助かったものの、エレナはエリーの視線も意に介さず、私欲丸出しの顔つきでマリスを見た。

 マリスは眠たげな眼を一度閉じると、首だけ動かして空を眺めた。
 方向は、北。

「中央の大陸、ヨーテンガースに居城があるって聞いたっす。ここからなら、北の方が船着き場に近いっすね」
「んじゃ、決まりね」
 マリスの返答に、エレナは大股で歩き出す。
 あの神の態度は、エレナにとって、かえっていい刺激になったのかもしれない。

 エリーは小さくため息一つ吐き、その背を追った。
 目指すは、北の大陸だ。

「って、ちょっとぉぉぉぉおおおーーーっ!!!?」
「ちっ、」
 静かな朝に響いた大声と、エレナの舌打ちに振り返れば、そこには中ほどサイズのバッグを担いだティアが息を弾ませていた。

「待ってて下さいって言ったじゃないですかっ!!」
「ついてきてどうするのよ?」
「ほらっ、私っ、水曜属性だしっ!! この先もっ、何かあるかもっ、」
「いいわよ。本当に必要になったら現地でみつくろうから」
 冷たく見放すようなエレナの足元にしがみつき、ティアは騒ぎ続けた。

「はあ……、まあ変な縁、できちゃったしね」
「……ああ、そうだな」
 エリーの諦めたような言葉に、サクは小さく頷いた。
 サクの視線の先には、エレナに口を塞がれたティア。
 特別なことなど何もなかったのに、彼女には、何故か奇妙な親近感を覚える。

 昨日のグラウスとの会話も、このためにあったように思えるのだ。
 そして、変な縁と言うエリーも同じなのだろう。
 恐らくエリーも、サクと同じ感覚を味わっている。

 昨日、神との邂逅を通して打倒魔王の使命に燃えたティアが、両親に旅立ちの許可を取ると、今と同じ音量で騒ぎ消えていったのは、ある意味神よりも鮮明に思い出せた。

 ティアも、旅に出るなら今、と思っているのかもしれない。

「……うん、まあ、順調だ」
「……? アキラ様?」
「っ、」
 妙なことを呟き、エリーに詰め寄られたサクの主君も、彼女の参加に肯定的らしい。

 気づけば女性ばかりが集まっているこの“勇者様御一行”は、北の大陸を目指していく。
 音量を、増しながら。



[12144] 第八話『描けていた世界』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/03/13 02:39
―――**―――

「たっ、隊長ーーーっ!!」

 その声に呼ばれた隊長、イオリは肩ほどまでの黒髪を揺らす。
 無機質に物が並んだ執務室。イオリの黒髪を留める小さな飾りのついたヘアピンが、この部屋唯一の華やかさだった。
 黒い眼を手元の分厚い資料から正面に向ければ、重厚な木製のドアが、外からの駆け足に呼応して震えている。

 また、彼女か。

 そう確信を持って結論付けると、すっかり慣れてしまっている自分に苦笑し、再び手元の資料に目を落とす。
 そこには、各地方の事件の見出しがリストアップされている。

 ここのところ忙しく、一か月ほどで溜め込んでしまったそのニュースは、ここ、北の大陸モルオールだけのものに留まらず、全世界の大きな事件が取り上げられている。

 一応は毎日読んでいるローカルニュースは読み飛ばし、特に南の大陸、シリスティアのニュースに入念に目を通し、肩を落とす。

 “あの事件”は、未だ解決できていないらしい。

 何十年、何百年も前からときおり起こる失踪事件。
 依然、手がかりは不明。
 最早伝説になっているこの事件には、魔族が介入していると考えられている。
 一刻も早く解決しなければならない、痛ましい事件だ。

 まだ、か。

 小さく呟き、あとはざっと目を通す。
 軍事国家の政治の動きや商業都市の活気。
 未だに何の話をしているか分からない企業の新商品の情報を一目で不要と判断し、ファイルをめくると、イオリの手が止まった。

 アイルークの主要都市の一つ、ヘヴンズゲートでの事件。
 神の一撃が民を救ったらしい。

 見出しの番号を確認し、本文の資料をもう一つの分厚いファイルから検索した。
 神が力を見せたという話は、口づて程度にはに聞いていたがまさかアイルークの事件だったとは。

「……!」
 見つけた本文には、赫の大群が町を襲った、とある。
 その事件は、一週間前。

 たった、一週間前の事件、だ。

 イオリは僅かに目を細め、再び見出しに目を通す。
 今度は、東の大陸、アイルークを重点的に。
 今から一か月前にさかのぼって目を流し、そして見つけた、一か月前。

 クロンクランの事件。
 サーカスに紛れ込んでいた魔物が暴れたらしい。
 そういえば数週間前、大きな荷物を運ぶ旅団を見つけたら、入念に検査をしろ、と、イオリ率いる魔術師隊の管轄する地方に国からの伝達があった。

 そしてそれは、謎のオレンジの閃光によって町が救われた、とある。

 イオリの心が、僅かに高揚していく。

 まさか、これは、

「隊長!? いるんですか!?」
「……ああ」
 外からの騒がしい足音がピタリと止まったかと思えば、ガンガンとドアが叩かれる。
 小さく声を返せば、勢いそのままに開け放たれるそのドアは、またも壁に痛烈にぶつかり、ドアノブの形を確固たるものにしていく。
 この部屋を仕事用にあてがわれたときには無かったはずのその傷は、目の前の少女によってのみつけられたものだ。

「隊長……、いるならいるで出てきて下さいよ!」
「サラ。今日僕は休暇だろう?」

 イオリの視線の先、金の長い髪を隊員の礼装に仕舞い込んだ少女、サラは両膝に手を当て、息を弾ませている。
 彼女との付き合いは、もう二年近くになる。
 くるりと大きい瞳をジト目にし、座ったままのイオリに眉を寄せた顔を向けてきた。

「そう言われても、呼べって言われたんですよ! カリス副隊長に!」
「はあ……、」
 せっかく休暇を取って溜まり込んだ情報を整理しようとしてみればこれだ。
 休暇を圧迫されるのがこの世界の国仕えの宿命か。
 それとも、万全な策を採りたがるカリス副隊長の性格からだろうか。
 ともあれ、今日の休暇は流れそうだ。

「礼装は必要そうだったかな?」
「ああ、そうっぽいです!」
 イオリは再びため息一つ吐き、部屋の隅のラックにかかっているローブに近づいた。
 黒を基盤としたローブは、イオリが今着ているワイシャツと紺のスカートをすっぽり隠すほど大きい、裾から身体を通すもの。
 腰のあたりをベルトで止めれば、イオリの身体にぴたりと張りつき、実に動きやすくなる。
 だが、それにイオリは緩慢な動作で近づくと、再びため息を吐いた。

「隊長、そう面倒そうな顔しないでくださいよ!」
「サラが敬語を止めてくれれば、僕もやる気を出すさ」
「……、また、“僕”ですか……」
 サラは、さっとローブを羽織ったイオリに怪訝な顔を向ける。

 目の前のイオリ。
 まるで未来を見透かすかのように聡明な隊長の、その少女は、自分と歳はそう変わらない。

 落ち着いた物腰。
 理知的な表情。
 この町に現れたときは、“酷かったにもかかわらず”、今ではサラより聡明で、世情に詳しい。
 魔力もケタ外れだ。
 国の魔術師隊に入ってから一年を僅かに超す程度で、この地方に新設された魔術師隊の長、すなわち魔道士を務めているほどに。

「なんで、自分のこと“僕”って言い出してんですか?」
「いや、別に深い意味はないよ。前にふざけて使ってみたら、“好評”だったみたいだからね」
「……?」

 聡明に見えるイオリは、このように、途端妙なことを言い出す。
 総てにおいて完璧すぎる結果を出しているイオリなのだが、その奇妙な態度によってさらに近づきがたく、唯一近づくサラも、それには怪訝な顔しかできない。
 イオリが我を取り戻してからだろうか。“私”は“僕”に変わっている。
 そして、この少ない隊員たちからも僅かに距離を置き、どこか遠くを眺めるようにして戦場においても一人で立つ。
 それも、彼女の奇妙さを際立たせていた。

「人はいつか変わるものさ。サラも変わったろう? その敬語とか」
「……、そりゃ、イオリが隊長様ともなれば、」
「まあ、慌ただしさは変わっていないけどね」
 姿身で服装を簡単に正し、イオリは僅かに表情を緩める。
 彼女の作る壁を乗り越え、ここまで迫った者にしか見えないその親しみやすい微笑に、しかしサラは不満な顔を返した。

「うるさい、って言いたいんですか?」
「なあに。君より騒がしい人はきっといるよ」
 そう言って、イオリはサラを追い越し、執務室を出る。
 向かう先は、カリス副隊長のいるであろう会議室。
 大した用事でなければ、文句の一つも言ってやろう。

「隊長、もっと急いで下さいよ!」
「サラが敬語を止めたら、ね」
「隊長が一人称を改めたら、善処します」
「それは個人の自由だろう?」
「ならこっちもそうですよ」
 この町にはいささか大きすぎる造りの魔術師隊の宿舎の廊下を、二人の少女が歩幅も小さく歩き続ける。
 その光景が、口調こそ違えどサラには懐かしく感じた。
 しかし、イオリもすっかり“回復し”、今では胸で風を切る一個小隊の隊長だ。

 思い起こせば二年前のこと。
 森で魔術の鍛錬をしていたサラは、気を失っていたイオリと出会った。
 ワイシャツにリボン、紺のスカートと、モルオールの気候にしては奇妙な出で立ちをした少女。
 そのイオリが目を覚ましたときの悲鳴は、未だに脳裏に刻まれている。

 全身から発汗し、目には涙。
 怯えきったその表情でサラを見つけると、あらん限りの力で抱きついてきた。
 まるで、悪い夢から覚めたばかりの赤子のように。

 出会ったばかりの少女にいきなり抱き付かれ、サラは戸惑ったが、流石に震える少女を引き剥がすこともできず、なす術なくその場に座り込んだ。
 魔物に襲われたのだと判断し、その縁で、サラの家で保護することになったイオリは、当時、“酷かった”。
 食事も喉を通らず、気が触れてしまったかのように夜には泣き出し、身体の震えは一向に収まらない。
 サラの両親はイオリを同情的に受け止め、保護を続けたが、もしイオリが我を取り戻すのがあと少し遅かったら、国に任せることになっていたであろう。

 そんな彼女は、今は、別人のように国を守っている。
 隊員として、親友として、サラはイオリが誇らしい。

「それで、カリスは何て?」
「え、ああ、魔物が襲ってきたらしいですよ」
「……またか」
 イオリの足が、僅かに早まった。
 背丈が変わらないのにもかかわらず、足の長さの差か、サラは競歩のような動きになる。
 そういうところは、誇らしいというよりも嫉妬の対象だ。

「対処できそうにないのか?」
「え、ええ。カリスさんは、イオ……、隊長を呼べ、と」
 カリスの言葉をそのまま口に出そうとし、サラは口をつぐんだ。
 いきなり現れたような少女に従うことになり、隊員たちには不満を持つ者もいる。
 その最たる例のカリスは、やはりイオリの前でなければ“隊長”とは呼ばないらしい。

 イオリはサラの気遣いを不要だとでも言うように苦笑すると、しかし、またも目を細めた。
 あの男が、あの、イオリを認めたがらない男が、魔物が襲ってきたという理由でイオリを呼ぶ、というのは妙だ。

 イオリの足がさらに早まる。

「そんなに危ないのかな?」
「い、いや、副隊長は神経質なんですよ」
「……、」
 カリスの実力を、イオリは誰よりも認めている。
 仕事においては、私事を挟まない。

 本当に必要だから、イオリを呼ぶのだろう。

「ちなみに……、魔物はどこを襲っているのかな?」
「えっと、確か、ウォルファールです。ほら、港町の、」
「……?」
 そこで、イオリは足を止めた。
 勢い余って転びそうになりながら、サラは何とか踏み留まると、何事かとイオリの表情を見やる。

「……?」
 そこには、いつものように静かに思考を進めるイオリはおらず、ただただ眉を寄せ、事態を理解できないような少女が立っていた。
 こんな顔は、最初に会ったとき以来見ていない。

「隊長……?」
「……、急ごう」

 最後にそう呟き、イオリはとうとう駆け出した。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「お疲れ様です、副隊長! それに、た、隊長も!?」
「状況を報告しろ」
「はっ」
 “自己手段”で到着したイオリ、馬で町に到着したカリス、サラの三人を、同じローブを羽織った小柄な男が出迎えた。
 わざわざ敬礼したその男は、馬から飛び降りたカリスの鋭い瞳に身体を強張らせる。

 潮の匂いが届く、ここ、ウォルファールに魔物が現れたとカリスが聞いたのはつい半刻ほど前。
 僅かにも乱れるのを避けるべく、ぴっちりと固めたオールバックの髪形の下、度の強い眼鏡を指で押し上げ、カリスは町を見渡す。

 確かに魔物が現れているようだが、聞いていたよりもずっと少ない。

「現在魔物の主要部隊は壊滅しているようです。残党処理も、順調かと」
「なに?」
 カリスの目つきがさらに鋭くなった。
 自分が報告を受けたときは、大群が押し寄せ、当直の者たちでは対処しきれないと言っていたはずだ。

 港、という、水路の移動を司る町の重要性を考え、わざわざ隊長にまで連絡したというのに、目の前の男にはすでに緊張感もない。
 前線を放棄し、町の外から眺めるだけ。

「隊長、申し訳ありません。休暇中に、」
 流石にこれは自分の落ち度なのだろう。
 背後でサラと町を眺めるイオリに振り返る。
 面白くないと言ってしまえばそうだが、この場合、止むを得ない。

「……? 隊長?」
 嫌味の一つでも飛んでくると腹をくくっていたカリスに、いつものように遠くを見るような瞳を携えたイオリが無言を返した。

 その瞳のまま、彼女は町を眺めている。
 その姿は、例え目の上のたんこぶであったとしても、カリスがイオリを隊長と認めている由縁の一つ。

 以前、皮肉の意味も込めてイオリに何故そうも先を見透かすような表情ができるのか、と聞いたことがあった。
 帰ってきたのは、イオリの苦笑交じりの台詞。

 彼女は、“未来を視た”などと言い出した。

 普段理路整然としているイオリが言い出したそれを、何を馬鹿なと思っていたのもいつのことだったか。
 彼女は本当に、大局を読み切っている。
 属性は違うのに、あたかも、話に聞く月輪属性の実力者のような予知能力。
 しかも、ほぼ正確な。
 それが、自分と十ほども離れた年下の少女を隊長と認めざるを得ない理由だ。

 それを言い出したとき、イオリは、今のような表情を浮かべていた。
 凛とし、それでいて儚げな、こんな表情を。

「……っ、」
「……?」
 しかしイオリの表情が、僅かに曇った。
 何事かとその視線を追えば、町に入り込まんとする魔物、そして、それと戦っている数名の隊員。

「……?」
 だが、その隊員の向こう、一瞬、銀の閃光が走った。
 おかしい。
 自分たちの隊には、こんな片田舎の地方を警護する隊には、月輪属性などという希少種はいなかったはずだ。

「……!?」
 とりあえずは仕事だ、と、カリスは町に進もうとし、しかし止まった。
 必要ない。
 あの魔物の群れの討伐に、自分たちは出る幕がなかった。

「あ、れ、あの人たちは……?」
 サラも馬から降り、カリスに並ぶ。
 そして同じく足を止めた。

 二人が並んで見るその先、すでに雌雄は決している。

 紅い着物を羽織った女性が一瞬で魔物との距離を詰めたかと思えば、イエローの一閃が走り、対象に死を与える。
 身体の大きな魔物がいきり立ち、腕を振り上げたかと思えばその腹部に拳激がスカーレットに爆ぜる。
 スカイブルーがどこからともなく撃ち込まれ、遠方で魔術を唱えようとしていた魔物が吹き飛ぶ。
 仲間の次々の爆発に、筋力にあかせて暴れ回った魔物たちは、近くにいた女性に殴られ蹴られ、その腕につかまった魔物はライトグリーンの光を漏らして小規模な爆発を起こす。
 その事態に逃げ出そうとした魔物は、鋭いシルバーの閃光に貫かれ、逃亡さえ許されない。

 そして、その奥。

 唯一の男が、動きの鈍った魔物を切り裂けば、曇り空の下にオレンジが爆ぜる。

「……っ、」
 あの魔力を使える者は、この隊にはいないはずだ。
 いや、それどころか、この国にはいない。

 オレンジの、日輪属性の魔力を宿す者など。

「勇……者、様……?」
「ああ、そうらしい」
 隣のサラが漏らした言葉を、カリスは重々しく頷いて肯定した。
 日輪属性。
 それは、勇者であるのとほぼ同義だ。
 そして仲間もいる。
 彼らはもしかしたら、ヨーテンガースに乗り込むつもりでこの港町を訪れたのかもしれない。

「……、」
 だが、流石に、強い。
 カリスは彼らの動きに喉を鳴らした。

 雑多に種類が入り乱れる魔物の群れの中、相性に影響を受けない日輪属性の勇者の一撃は、効率がいい。攻撃範囲の敵を、選ばずに攻撃することができている。
 そして、近距離で戦っている火曜属性と金曜属性の少女。彼女らも、動きは熟練者だ。
 遠距離で戦っている水曜属性の少女はまずまず、と言ったところだが、それでも適時に魔力を飛ばして魔物を屠っている。

 ただ、そんな中。

 カリ。
 そんな音が隣から聞こえていた。

「……!」
 音の発生源では、イオリが、親指の爪を強く噛み、眉を寄せていた。
 そして視線は、カリスと同じ二人に向いている。

「隊長、あの二人、どう思われますか……?」
 恐らく自分と同じ評価をしているであろうイオリに、カリスは短くそれを問うた。

 視線の先には、まるで災害にでもあっているように無抵抗に爆発していく魔物たち。
 そして、それを演出している、“特に二人の女性”。

「あれ……、すご……、」
 またもサラから声が漏れた。
 ただ静かに戦闘を眺めるイオリの手前、うろたえたくはないがカリスもサラがいなければ同じことを口にしていたかもしれない。
 日輪属性の者がそこにいて、それ以外に目が行く経験などそうはないだろう。

 だがそれほどに、完成しきっている、月輪属性と木曜属性の二人。
 あの二人の顔を、見たこともない。

 あれは、異常だ。

 戦歴のない者がその光景を見れば、ただ勇者たちが魔物を倒しているようにしか見えないだろう。
 だが、経験を積んだ者、例えば魔術師隊にいるような者が見れば、その異様さが分かる。

 あの二人だけが、突出して強い。
 それこそ、どちらか一人でもいれば村の平和が永久に約束されると思えるほどに。

 もしかしたら、いや、間違いなく。

 カリスは確信を持って隣のイオリを盗み見た。
 認めたいかどうかはさておき、単純に戦闘力だけを考えれば、カリスよりイオリの方が上だ。
 だが、そのイオリと、この地方を管轄する魔術師隊の長と比べても、あの二人は、

「……隊長?」
「……、いや、なんでもない」
 カリスはイオリを嘲るような瞳を向けた。
 大方、この地方の最強を自負するイオリは、目の前の二人との実力差を感じ茫然自失しているのだろう。

 イオリは、カリスのそんな視線を受け、その意味も理解し、しかし呆然とすることを止めなかった。

 何故、

「何であんな人たちが……、何で今まで、」
 イオリが浮かべた疑問に似た言葉を、サラが吐き出した。
 確かに考えられない。
 あのレベルの実力者が、もぐりで存在しているなどということは。

「“わけあり”……、なのだろう」
 カリスは小さく笑うと、のそのそと町に近づいていく。
 仕事に対しては実直な男にしては珍しい緩慢な動き。

 だが、それでも十分だ。
 すでに魔物は全て滅してしまっているのだから。

―――**―――

「いやいやいやっ―――むぐっ!?」
「エレねー、最近早いっすよね、それ」
「私は国家の安静に協力しているだけよ」
 エレナは隣のティアの口を塞いだ手に力を込めたまま、冷ややかな瞳を奥の事務机に座る女性に向けた。
 女性は目を瞑り、指を組んで沈黙している。

 港町に到着するなり魔物の群れの強襲を受けた“勇者様御一行”は、その討伐が終わった直後に駆けつけてきた魔術師隊に案内され、ウォルファールに設置されたセーフハウスに通されていた。

 膝ほどの高さの机を囲んだ横に長いソファー。
 そこに三人ずつに分かれて座り、面々は部屋に視線を泳がせている。
 お世辞にも華やかとは言えない質素な作りのその部屋に、アンティーク類はほとんど置かれていない。
 せいぜい、奥の事務机の両脇に観葉植物が、せめてと置かれているくらいだ。
 奥の机には沈黙を守る少女が目を瞑り、その対面のドアの両脇には眼鏡の男性と金髪の女性が姿勢を正して直立している。

「なあ……、俺たち、良いことしたんだよな?」
「え、ええ、そのはずだけど……、」
 重苦しい雰囲気に、アキラは声を漏らした。
 隣に座るエリーから返答がくるも、どうしてもこの沈黙が身体中にのしかかる。

 対面のエレナやマリスの表情は、流石と言うべきか変わらないが、称えられるのかと意気揚々とここに訪れたアキラの顔は不安げに落ち込み始めていた。
 九人もの人間が密集するこの部屋の空気は、どこか、重い。

 彼らは、国仕えの魔術師隊なのだ。
 アキラにとって、軍隊などというものは初めて会う存在。
 頭が固いなどと言われ、規律が厳しいと受け取っていただけあって、冗談の一つも言えないのではという印象がどうしても脳裏にちらつく。

「そろそろ話を始めてもらいたいのだが、」
 そんなアキラの様子を見て取ったサクが、鋭い目つきのまま奥に座る女性を見やった。
 ドアの両脇に立つ男女とはここに通される際、僅かな言葉を交わしたが、奥の女性、恐らく隊長と思われる者は何一つ言葉を発さない。
 ただ目を瞑り、何かを考え続けているようだった。

 しかし、それにしても、若い。

「た、隊長……、」
「あ、ああ、すまない」
 ドアの脇に立った、サラというらしい女性が不安げに隊長に声をかける。
 彼女もまた、どうやらこの重苦しい雰囲気に耐えかねたようだった。

「ようこそモルオールへ……、と言った方がいいかな?」
 この重苦しい雰囲気の元凶、事務机に座った隊長がようやく目を開いた。
 だが、やはりどこか儚げな目を向けてくる。
 それでいて、アキラたちの反応を見定めるように。

 だが、それきりまた口を閉ざしてしまった。

「隊長、ご気分が悪いようでしたら、私が」
 とうとう我慢できず、カリスは一歩前に踏み出した。
 勇者様たちの視線が、自分一人に全て向く。

 井の中の蛙が大海を知ったのであろう。
 やはり、あの歳で隊長など無理だったのだ。

 ようやくイオリが見せた隙に、そんな嘲るような視線を向け、カリスは得意げな表情を浮かべる。

「改めまして、私はモルオール第十九魔術師隊、副隊長のカリス=ウォールマンです。町の危機を救っていただき、“隊を代表し”、お礼申し上げます」
 そのしっかりとした口調に勇者たちは居住まいを正し、隣のサラは不満げな顔を向ける。
 だが今、イオリは何の頼りにもなっていないのは、サラとて分かっているのだろう。
 カリスは下げた頭の下、小さく笑い、表情を引き締め、勇者を直視した。

「勇者様とお見受けしますが、お名前を覗ってよろしいでしょうか」
「あ、えっと、」

 口々に自己紹介をする勇者一行の名前を正確に記憶しながら、カリスはちらりとイオリを見た。
 聞いているのかいないのか、イオリは未だ、指を組んで目を瞑っている。

「……、ヒダマリ=アキラです」
 アキラは、自分の番が済み、他の者が自己紹介をしている間、事務机で思考を進めている少女を眺めていた。
 眉を寄せ、ひたすらに思考を進めているようだ。
 どこか固い印象を受けるその少女は、若い。
 魔術師隊の隊長は魔道士。
 アキラは以前、そう聞いた。
 ゆえに、あの少女に違和感を覚えることは自然だ。
 だが、それ以前に、何か、妙な感覚を起こしていた。

 顔は、見たこともないはずだ。
 リビリスアークから大分離れた場所を管轄する魔術師隊長など、知るはずもない。

 それなのに、何か親近感のようなものを覚える。
 その原因を模索しようにも、アキラの頭に答えは一向に浮かんでこなかった。

「そうなのですか、しかし……、サラ」
「はっ、はい!」
 同じように眉を寄せていたアキラの思考は、サラと呼ばれた女性のはっきりとした口調に遮られた。

「ええとですね、港はしばらく閉鎖するそうです。魔物の被害が、思ったよりも酷かったらしくて、」
「う……、わわわっ!!?」
 サラの言葉に、ティアは身をすくめた。

 エレナが魔物の掃討をするときに、ティアに『今から使う港だけは死守しなさい!!』と叫んでいたのをアキラは覚えている。
 どうやら今は、自分たちが中央の大陸を目指しているという話をしているらしい。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「エレねーのせいでノイローゼになりかけてるじゃないっすか……、」
「でも……、“魔術師隊の副隊長ともあろう方”なら何とかできるんじゃありませんか? 私たち……、その、とても急いでるんです」
 そんなティアを完全に無視し、エレナはカリスに媚びるような視線を向けていた。
 小さく身体を竦ませ、整った指をその胸の前で可愛らしく組ませる。
 もしエレナが立っていれば、カリスにしな垂れかかっていたかもしれない。
 ピンポイントでカリスが喜ぶような台詞を口に出し、その副隊長の表情が僅かに動いたのだから、効果はあるようだ。

 だが、久しぶりに見た気がするエレナのその仕草も、アキラはどこか遠く見ていた。
 やはりどうしても、あの少女が気になる。
 あの少女は、色気を醸し出すエレナや、隣に座るエリーとすら比べても、決定的に何かが違う。

 一体、

「……すまないが、」
 アキラが視線を向けていた少女が、途端立ち上がった。
 そしてアキラと視線がぶつかると、神妙な顔をして目を細める。

「アキラ。君と話がしたい」
「へ?」
「隊長!! 言葉を、」
 “勇者様”を途端呼び捨てにしたイオリを、カリスは地位を忘れ睨みつけた。
 自己紹介は聞いていたらしいが、あまりに礼儀がなっていないのだから当然だと言わんばかりのカリスの視線。
 しかしイオリは、そんな視線も意に介さず、アキラだけを見やる。

「えっと、俺?」
「ああ。二人だけで、だ」
 アキラに返ってきたのは、重みのある口調。
 何やら雰囲気が尋常ではない。
 年頃の少女に話しかけられ、喜べなかったのは初めてかもしれない。

「カリス、サラ。すまないが、少しの間こちらの方々の相手をしていてくれないか? 向こうの部屋を使わせてもらう」
「……、ええ、どうぞ」
 睨むばかりで言葉を返さなかったカリスの代わりにサラが声を出す。
 サラも初めて感じるイオリの雰囲気にのまれ、おぼつかない足取りで道を開けた。

「アキラ。来てくれ」
「あ、ああ……、」
「ちょっと、大丈夫なの?」
「多分、な」
 立ち上がろうとしたところで声をかけてきたエリーに頷き返し、アキラはドアを開けて待つ少女の元へ向かった。
 大丈夫かどうかの保証はないが、自分の覚えている違和感もある。
 とりあえずは、行ってみなければ。

―――**―――

「とりあえず、座ってくれ」
 先の部屋よりさらに小さい応接間に通され、アキラは指された椅子に座った。
 ソファーの感触とはほど遠い、冷たく硬い木の椅子は、粗雑に扱われているのか腰を下ろしただけで軋みを上げる。
 小さなテーブルを挟んだ反対側、同じように腰を下ろした少女はただただ冷静な瞳をアキラに向けてきた。
 最早個室と表現できるその部屋で、二人の視線が交差する。
 もしかしたらここは、応接室というより、面接室か何かであるのかもしれない。

「向こうのこともある。手短に用件だけ伝えよう。先に……、いや、そうだな、」
「……?」
 アキラを前に、言い淀む少女は何度も首を振った。
 こういう表情をする人間は、どういう種類の人間がアキラは知っている。
 この世界に来たばかりの自分と同じく、自分の持つ情報を整理できていない人間だ。

「えっと、まず、名前を、」
「…………、そう、か」
 再び目をつむり、少女はゆっくりとそれを開いた。
 ようやく、情報を整理できたようだ。

「……いや、今まで重苦しく接していてすまなかった。君たちの戦いを見て、深く感銘を受けていてね」
 表情を緩め、少女は微笑んだ。

「ぼ……、僕はモルオール第十九魔術師隊、隊長のホンジョウ=イオリだ」
「……!」
 今まで混乱に満ちていた表情から一変し、イオリはまっすぐな視線をアキラに向けてきた。
 だが、少し言い淀んで。
 ただその一人称に、アキラの身体はピクリと動く。

「“僕”……?」
「あ、ああ……、おかしいと思うかな?」
「すごく、いいと思います」
 予想通りのアキラの反応に、イオリは小さくため息を吐いていた。

 女性がこの一人称を使うだけで、喜ぶ人は大勢いる。
 アキラも当然、その一人だった。

「えっと、イオリ、さん?」
「イオリで構わないさ。君は勇者だろう」
「お、おお、」
 イオリの静かな返答に、アキラはようやく体が温まってきた。
 もしかしたら重い空気というのは自分の考え過ぎで、これは勇者スキルが発動しているのではないだろうか。

「それより、」
「?」
「他に、気づくことはないかな?」
「他?」
「そう、他に」
 アキラが考えることを放棄するような表情を浮かべたのを見て、イオリはまたも、盛大にため息を吐いた。
 そして、机の上のペンと紙を手元に引き寄せる。

「アキラ。君の名前をここに書いてみてくれるか」
「……? あ、ああ、いいけど、」
 その儀式に何の意味があるのだろう。
 アキラはペンの感触を久しぶりに感じながら名前を綴る。

「……うん、ありがとう」
 イオリはアキラからペンを受け取ると、紙に何かを書き込み始めた。

「勿体つけていても仕方ない。アキラ。僕の名前を言ってみてくれないか?」
「え、いや、イオリ、なんだろ?」
「フルネームで、さ」
「……?」
 アキラが先の会話を頭で反芻させる間もなく、イオリは何かを書きつづった紙をアキラ側に向けた。

 そこには、

「“本城伊織”。これが、僕の名前だ」
「……、え、」
 この異世界に来て、アキラはご都合主義そのままに、言葉を話せ、字が読めていた。
 文字の作りが違うのに、目を通しただけで“意味”が頭の中に入ってくる。
 ここは、そんな異世界来訪者に優しい世界。

 だが、今目の前にあるものを読むのに、そんな補正は必要なかった。
 “日溜明”の隣にある、その、名前。

「君も、“そう”なんだろう?」

 イオリの言うそれが、“ここを異世界と捉えているもの”だとアキラが理解するのに時間は必要なかった。

―――**―――

「あれ?」
「私ならここにいますっ!!」
「うん、見えてるわよ」
 応接間に戻ってきたエリーは、ソファーから元気よく立ち上がったティアにさらりと一言返した。

 結局、エレナが粘ってみても港の使用は物理的に不可能だった。
 面々は、港復活までこのセーフハウスを無償で提供されることになり、今は当てがわれた部屋に荷物を置いてきた帰り。
 エリーはてっきりみんなここに集まっていると思っていたのだが、待っていたのは恐らく言伝を頼まれたティアのみだった。

「みんなは?」
「はっ!! エレお姉さまは買い物に、マリにゃんとサッキュンは買い出しに行っております!!」
 びしっと敬礼し、役目を果たしたと満足げな表情を浮かべるティア。
 向かう先は同じはずの二組を分けて表現したのは、間違いなく、エレナは遊びに出歩いているからなのだろう。
 ついでに言うなら、自分が買い出しに誘われなかったのは騒がしいティアの面倒を任されたとしか思えない。

 だが、エリーが最も知りたかった人間の行方を、ティアは口にしなかった。

「えっと、あいつは?」
「ああ、アッキーならイオリンの所に行きましたっ!!」
 よくもまあ出会ったばかりの人間に愛称をつけられるものだ。しかも、魔道士に。
 部屋に反響するようなティアの言葉に、エリーは呆れ半分に感心するも、眉をひそめた。

 一体、何の話をしているというのだろう。

「そだっ、エリにゃん! ヒマならあっしと依頼受けに行きましょう!」
「暇って……、ちょっ!?」
 ようやく任を終え、開放されたティアは駆け出さんばかりの勢いでエリーの手を引く。

 旅にティアが加わってからは、いつもこうなっていた。

 依頼を受けて仕事する、というのが物珍しいのか、疲れを知らないように酒場と現場を往復している。
 時間が許す限り、アキラ、エリー、サクの班と、マリス、エレナの班の両方に参加しているのだからかなりのものだ。

 “七曜の魔術師”で魔王を倒すなどという胡散臭い話。
 本当に、お決まりすぎる話に、アキラですら怪訝な表情を浮かべたというのに、ティアは使命に燃えまくっていた。

「ま……、いっか」
 確かにそういう話は、“お約束”だ。
 お約束過ぎて、疑念は浮かぶも、ある種の納得感がある。

 エリーは手を引くティアに身を任せ、宿舎の廊下を走っていった。

―――**―――

「二年も前からかよ!?」
「ああ。森で倒れていたところを、あのサラに救われてね」
 イオリは変わらず冷静な口調を携え、手元のカップを啜った。

 その様子に、ようやくアキラは自分が覚えていた違和感の原因をかぎ取ることができた。
 イオリは、同じなのだ。

 その容姿、その雰囲気が、アキラの元の世界の女性と同じ。エリーやエレナとは、微妙に違うのだ。
 強いて言うなればサクが近いが、やはり元の世界の独特さ、というものがある。

 それにアキラは、やはり親近感というものを覚えてしまう。
 それこそ、荷を置いてすぐ、にここに駆け込むほどに。

「?」
「い、いや、なんでも、」
 イオリにまっすぐ向けていた視線を、アキラは外へ逃がす。
 改めて通されたのは、このセーフハウスの司令室のようだった。
 神経質さを感じさせるこの部屋には、シンメトリーを意識しているのか完全な中央に机が置かれ、それを挟んでアキラとイオリは椅子に座っている。
 部屋の両脇に置かれた本棚にも、完全に種分けされて本が並んでいた。
 奥の事務机の上も整頓され、曇り空が見える窓の淵にも埃一つないようだ。

 かなりの潔癖症ならば、こういう部屋になるだろう。

「……、誤解しているかもしれないが、ここは僕の部屋ではないよ」
「……! あ、ああ、そうなのか?」
 あまりにきょろきょろ視線を泳がせていたアキラに、イオリは眉を寄せた。

「このセーフハウスに僕の部屋はなくてね。ここは副隊長のカリスにほとんど任せてあるんだ」
 先ほどイオリが使用の許可を求めていた男を思い出す。
 あの神経質そうなカリスは、僅かに眉を寄せていた。
 しかし、イオリの、隊長の命には従うのだ。

「でもさ、すごくないか? 魔道士、なんだろ?」
「そうでもないさ。どうやらこの世界は優しくてね……。僕は魔力がかなりあったらしい」

 謙遜だ。
 何てことのないように出てきたイオリの一言に、アキラは胸の奥に一滴のしずくが落ち、その波紋が広がった。

 旅の道中、エリーやマリスから魔道士というものがどういうものかを聞いた。

 まず、魔術師試験。
 それは、記述式の試験から実戦の試験までと範囲が広く、そして深い。
 その合格者は魔術師隊に配属され、多くの経験を積むことになる。

 そして魔術師たちは、その魔術師隊で多くの経験を積み、魔道士を目指すのだが、この魔道士がかなりのネックになるのだ。

 魔術師試験よりも範囲が広く、より実務的な内容も組み込まれることになる、魔道士試験。
 しかも、知識だけでどのようになるものでもなく、魔術師隊での実績も問われることとなる。

 そうした多くの経験と実績を携えることで、ようやく到達できるのが魔道士だ。

 最短ルート上最も厄介な実績は世界の優しさが零した魔力の高さとやらでパスしたとしても、試験の方はどうしようもない。
 来訪者からしてみれば未知の学問に挑まなくてはならないのだから、そちらの方はこちらの世界の住人の方に大きく優位が傾くこととなる。

 通常の者ならば、全課程を終わらせるのに、十年かそれ以上。
 目の前のイオリは、それをたった二年でパスしたことになる。

「やっぱすごいだろ、それ」
「そうでもないさ。……世界に必死に順応しようとした結果だからね。……運も、良かった」
 優雅ささえ感じられる動作で、再びイオリはカップに口を付けた。
 優等生の余裕がにじみ出ているような気さえする。
 また、アキラの中で波紋が広がった。

「それより、君の話を聞かせてくれないか?」

 来た。

「俺は別に……、だよ」
「それこそ、だろう? 君は勇者で、こうしてここにいるんだから」

 イオリは、ずい、と身を乗り出し、アキラに顔を近づけてきた。
 どうもその瞳は、好奇心一色で染まっているようだ。

 この、好奇心。
 探求力とも言い換えられるもの。
 それが、彼女がこの世界で、魔道士まで上り詰めた力かもしれない。
 それをアキラは持ち合わせておらず、そしてそれに応えられるものも持っていなかった。

「俺は……、」
 そんなアキラは、開いた口を、閉じただけだった。

 イオリがこの世界に訪れて、二年。
 対してアキラは一か月を超えるほど。
 しかし、その月日だけを“言い訳”にできないほど、アキラとイオリには差があった。

 アキラは、この世界を旅している。
 旅の道中、仲間を得て。
 それこそ、RPGのように。

 だがそれは、本当に、自分の力だろうか。
 ごり押しで、強引に魔王を倒しに向かっている。
 その行為自体、意味はあるのだろう。
 ヘヴンズゲートで見た、あの大衆を救う旅なのだから。

 だが、世界の優しさが零したしずくだけを寄りどころに、アキラは漫然と日々を生きてきた。
 ご都合主義の世界。
 そこは優しく、キラキラと輝いている。

 だが、そうだとするのなら、アキラの価値は何なのだろう。

 仲間の全員が向いているのは、アキラではなく、アキラの力なのだ。

 そうであるなら、あの力は、一体、

「っ……、」
「?」

 駄目だ。
 アキラは頭に浮かんだ考えを打ち消した。
 この考え方は、物語に陰りを落とす。

「頼むよ。どうしても、聞きたいんだ」
「……?」

 そこで。
 アキラはイオリの表情がいつしか必死になっているのを感じた。

 その表情が、優しい世界を暴こうとする侵略者に見え、アキラはそんな妄想を打ち消す。
 彼女は、一人称が“僕”の、新たな登場人物。
 今までだって、そうやって考えてきたのだ。
 裏など、ない。

「頼む、アキラ。君の辿った軌跡を、僕は知りたい」
「……?」

 だが、彼女が口を開くたびに、その違和感が押し寄せてきた。

 彼女は、理知的で、聡明だ。
 彼女に自分の物語を見てもらうと、一体どういう形をしているのか。
 きっと、自分は、愚かな存在と思われるかもしれない。
 それを知るのが、アキラは恐いと感じていた。
 そんな、劣等感。

 だが、それとは別の違和感。
 彼女の持つ、好奇心。
 それが、何故か今、歪に見えた。
 彼女は、結論を急いでいるようにも見える。

「っ、分かった。まずは、」
 これ以上彼女と話していると、自分も物語の裏を探ろうとしてしまう。
 そう考えて、アキラは口を開くことで、それを解消した。

 陰りなどないはずの、自分の物語。
 その前提条件を、はっきりさせるために。

 まず、リビリスアークでアキラは双子に出会った。
 塔から落ちてきた自分は、思い出したくはないが、双子の姉と婚約することになる。
 そして、マリスと屋上で出会う。
 目が覚めた自分は、記憶が曖昧になっていた。
 勇者の試験とやらで、巨大マーチュと戦う。
 そこで、自分に力が眠っていたことに気づくというご都合主義が発動。

 次は、サクだ。
 長らく滞在していたリビリスアークで、サクが勇者の被害にあったといきり立ち、決闘を申し込んできた。
 そこで乱入してきたアシッドナーガと戦い、再び銃の力で迎撃。

 そのあとは、消し飛んだマーチュの山を越え、スライムの山も吹き飛ばし、強引ともいえるルートでクロンクランに到着。

 エレナとはそのときに邂逅した。
 クロンクランでの、異常事態のマザースフィアや、“知恵持ちの”オーガースと戦う。

 肩の痛みと別れを告げることになったのは、このときだ。

 そのあと自分は、朝の鍛錬に顔を出すようになり、エリーに魔術を、サクに剣を学ぶ。
 そして、ティアと出会い、魔族のリイザスとの戦い。

 最後は、ヘヴンズゲートで神との面会だ。

 カリ。

「……?」
 アキラが適当に要約したにすぎない物語に、イオリが起こしたリアクションは、右の親指の爪を噛む仕草。

 そして、思考を進める表情。
 この表情は、先ほども見た。
 何かをシミュレーションしている顔だ。

 頼むから、この物語に影を落とさないでくれ。

 そんな祈るような表情を、アキラはイオリに向けていた。

「ご都合主義すぎる、ってか?」
「……、」
 先を読んで、アキラはあえて言葉に出した。

 この物語には裏がある。

 彼女の口からは、“そう”聞きたくない。

「……、いや、そうではないさ」
 だが、彼女から返ってきたのは、アキラの予想に反していた。
 どうやら、シミュレーションは終わったらしい。

「確かに都合のいい物語だとは思うが、その推測は意味をなさない」
「?」
 イオリは、さらりと言葉を吐き出した。

「君はそういう星の下に生まれた。そう考えるだけで十分だ。何せ異世界に来たんだ。それぐらいの偶然の乱立は起こり得るだろう」

 まるで、答えをとっくに用意していたかのように。
 だが、その答えにアキラはほっと胸を撫で下ろした。

「月輪属性の者が“時”を司るのに対し、日輪属性は“刻”を司る。そういうことなんだよ」
「? ……同じじゃねーか」
「言葉が難しいな……、日輪属性が刻むのは、時間の“時”ではなく、“刻”だ」

 一度自分の物語が肯定されて、気分が楽になったアキラは、途端妙なことを口に出したイオリに顔を向ける。

「君が巻き込まれた騒動や、君と仲間たちの出会い。それらは、君がその場所に行った“時間”に起こったことじゃない。“君がそこに行くことを条件”に、起こったこと。僕はそう考えている」

 イオリの見解。
 それは、あらゆる伏線は、必然的にアキラと出会うことになっていた、というものだ。
 アキラはそう理解した。

 それは、非現実的だ。
 例えば自分がクロンクランに行かなければ、エレナはあの場におらず、サーカスの騒ぎも起こらなかった、と考えることになる。

 だが、そう考える方が、物語は成立し得る。
 物語の主人公が、仲間と出会うことは運命づけられていく、と。

 肯定されていくご都合主義。
 アキラは、身体が僅かに震えるのを感じた。

 だが、何故か手放しで喜べない。
 イオリの口調が、あまりに軽かった。
 それこそ、どうでもいい、とでも言いたいように。

「例えば君は、ここでも“刻”を刻んでいる。君たちが探している“最後のピース”。土曜属性の魔術師が、今目の前にいるんだからね」
「……!」
 やはりあっさりと、イオリは告げた。

 イオリが、土曜属性の魔術師。

「お前さ、そういうことよく分かるな」
「調べただけさ。それより、」

 ほら、まただ。
 イオリは、何か、急いている。

「マリサス、そして、エレナ。彼女たちのことを、詳しく聞かせてもらえないかな?」
「……、どうしてだよ?」
「純粋な興味、だよ。あのレベルの者がここにいる、と純粋に受け止めるには、僕はこの世界に染まりすぎている」

 それが本題か。
 アキラは胸の波紋がまた広がったのを感じた。

 イオリの言葉は上っ面のものだけだ。
 本当の狙いは、他にある。
 何故かアキラにはそう思えた。

「なんなら、“俺の力”も、か?」
「っ、」
 アキラが試しに口に出した、“同じジャンルの話題”に、イオリは正直に反応した。
 そして再び目を閉じる。
 どうやら、予期せぬ事態が起こると彼女はシミュレーションをしなければならないらしい。

 だがそれで、今度こそ。
 自分の力と、あの超人二人が同じ枠でくくられた。

「……、」
 イオリはまだ、目を瞑っている。
 一体何なのだろう。
 彼女の、この、“間”は。

「……ああ、そうだね。君が言うように、この物語が形を成しているのなら、その三つは不自然だ」

 口を開いたイオリは、再び冷静さを取り戻していた。

 だが、彼女が置き去りにした“焦り”は、アキラの心に残ってしまう。

 避けようとしていたのに、避け続けていたのに。
 アキラは、この物語を深く追い始めてしまった。

 自分の銃、マリス、そして、エレナ。
 この三つは、確かに不自然だ。

 最強カードが三枚も、物語の序盤から登場しているのだから。

 この物語が、アキラが育ち、勇者によって魔王が討たれるものだとする。
 そうだとするのなら、展開は早すぎだ。

 あの力たちは、旅を楽にしているが、成長を阻害している。
 以前、エリーも指摘していたことだ。

 そして、決定的に奇妙さが目立ったのは。

「……、」

 ティアという少女との出会い。

 アキラは“陰り”に侵入していった。
 言い方は悪いが、現段階で戦力的に不安な彼女が仲間になる意味が分からない。

 確かに彼女は、成長している。
 だが、今自分たちは、まっすぐに魔王の牙城を目指しているのだ。

 回復役が増えたのは、意味があることなのだろう。
 だが、マリスがいる時点で、その必要性がない。

 仲間とは、今の自分たちと同等か、それ以上の力を持っているべきなのだろうから。
 マリスとエレナがいる時点で、自分たちは戦力補給しなくともいいのだ。

 必要性。
 それは、アキラが“刻”を刻んでいるというのなら、存在していなければならない。

 物語としては、完結しても、歪な形をしている。

 駄目だ。
 アキラはまた、思考から這いずり出た。

 物語がないとするのならご都合主義が陰り、物語があるとするのならティアの存在が陰る。
 どちらを立てればいいのだろう。

「アキラ?」
「っ、いや、何でも、」

 自分は死にそうな顔でもしていたのだろうか。
 目の前のイオリは、眉を寄せ、ため息一つを残して席を立った。
 どうやら、カップが空になったらしい。

「まあ、あまり深く考えない方がいいかもね。正直なところ、僕も“総てが分かっているわけじゃない”」
「……?」
 部屋の角に設置された給湯場に立つイオリの表情は、見えない。
 だが、彼女の言い回しが、アキラは今まで以上に気になった。

 彼女は、何かを知っているのではないだろうか。

「さて、アキラ」
 イオリはくるりと振り返り、アキラをまっすぐに見据えてきた。

「君は“刻”を刻む、日輪属性の勇者。そう考えるなら、何か、起こりそうじゃないか?」
「どういう意味だよ?」
「言った通りの意味さ。君がここを訪れたなら、何か事件が起こる。……、ああ、君を責めているわけじゃない。君が訪れなければ、それは“刻”に選ばれなかった事件として、やはり発生するんだろうからね」
「だけど、」
「ああ、ここは君に選ばれた“刻”を刻む。そう思わないかな?」

 確かに、思う。
 ここは今まで旅して回ってきた村とは違い、イオリという存在がいる重要な場所だ。
 これを物語とするならば、ここで、何かが起きる、はず。

 だが、イオリは、理路整然としているわりに、何故、こんな理論が破たんするようなことを言い出しているのだろう。
 それも、確信を持って。

「さっきの、港襲撃は?」
「あれは序章に過ぎない。そう、僕は思う」

 僕は思う。
 そう付け足しているわりに、イオリは変わらず確信している。
 何かが起こる、と。

 一体なんなのだろう。
 この、イオリに覚える違和感は。

 アキラにとって重要そうなことをさらりと言うわりには、物語の形が歪なことには執着を見せる。
 同じ世界からやってきて、何故こうも、自分と彼女の視点は違うのだろう。

 それもやはり、彼女が何かを知っているから、なのだろうか。
 だが、それは聞けない。

 イオリの裏は、もしかしたら、アキラにとって見たくない、世界の裏側かもしれないのだから。

「……」
 何となく。
 彼女が信用できない。

 初めてだ。
 歳が近しい女性に出会って、こんな感情を抱くのは。

 思春期を抜け切れていないアキラは、女性との出会いに、いつだって胸躍っていたではないか。
 それなのに、彼女は、何か、恐い。

 この恐さを拭うには、アキラも、世界の闇に飛び込んでいかなければならないのだろうか。

「とにかく、備えていてくれると助かる。みんなにもそう伝えてくれ」
「なあ……、」

 確信に満ちたイオリの目を、まっすぐアキラは見返した。
 彼女が一体何者なのか。

 それだけは、知りたい。

「もし、俺が主人公なら……、お前は一体何なんだよ?」

 イオリは、またも、目を伏せた。

 そして再び目を開けた彼女の瞳は、どこか寂しげで、

「君に巻き込まれた登場人物。“わがまま”な、ね」

 何故か、最も心に残った。

―――**―――

「っ、」
 副隊長のカリスは、纏っていたローブを強引にベッドに投げつけた。
 ようやく本日の当直時間を終え、今はプライベートの時間。
 実直である必要はない。

「ふぅ、」
 投げつけて憤りが収まったのか、カリスは丸まったローブのしわを丁寧に伸ばし、几帳面にラックにかける。
 全ての物が整然かつ機能的に置かれたその部屋は、書物や仕事の資料の数にしては、異様に広く見える。
 ここは勇者様が寝泊りしているウォルフォールの港町から離れた町の、隊員の宿舎。

 大して広くもないあの場所に、イオリが手元に置きたがったサラを含めて計八人もの人間が寝泊りするのだから、カリスは自動的にあの場所から追い払われる形となった。
 何故、自分が勇者様の元にいられないのか。
 自分は勇者様のために、港の回復を急かし、一日中尽力していたというのに。

「……、」
 だがそれは、言うまでもなく、カリスにとって目の上のたんこぶであるあの隊長様のせいだ。
 将を射んと欲すればまず馬から、と、自分が勇者様の仲間の信頼を勝ち取っている間に、あの女はいきなり勇者様を懐柔していたのだ。
 これでは、この魔術師隊で最も評価が高いのは、間違いなくイオリであろう。

 マリスとエレナという存在の、異常な完成度に放心していると思って油断していれば、あっという間に輪の中に入っている。

 そしてその上で、イオリが言い出したこと。

 勇者様の護衛の要請で、自分も旅に出る、というのだ。

 その大義名分があれば、確かに隊長という立場でもそれが可能である。
 だが、大方隊長という責務に限界が来て、逃げ出したいとでも思っているのだろう。

 そして、その繰り上がりで、カリスは隊長に昇格する。
 その繰り上がりで、だ。

 事実だけを見れば、念願叶って隊長だ。
 魔道士なのにもかかわらず、副隊長という地位に甘んじてきた日々から解放される。

 だが、隊長の我がままのせいで、明日から引き継ぎ事項で残業の毎日が始まるのだ。

 いつだってそうだ。
 自分の功績は、誰も認めない。
 近くに、その功績総てを引き寄せてしまう隊長様がいるせいで。

「っ、」
 カリスは乱暴にラックから酒を取り出すと、グラスを粗雑に引き寄せ溢れるのもかまわずそれを勢いよく注いだ。
 丁寧すぎるほど手入れされた白いカーペットに染みができるも、酒をあおった直後にまた注ぐ。

 気に入らない。
 酒をあおったからか、カリスの心にその言葉が素直に浮かんできた。

 あの女はいつもそうだ。
 自分の僅かな隙に付け込み、手柄を立てる。
 まるで、遥か高みから見下ろし、細かい隙間にピンポイントで入り込んでくるように。

『十分だ。だが、完璧ではないな。君ではその程度なのだろう』

 聞いたこともないはずなのに、イオリはいつもそうカリスに語りかけているような気がしてくる。
 隊員たちは駄目だ。
 イオリのその聡明さに、若い女性の下で働く抵抗があるとはいえ、従順になっている。
 だが、何故誰も疑問に思わないのだろう。
 あんな奇妙な存在を。

 イオリの経歴を調べたことがある。
 だが、その一切は謎に包まれ、サラの実家、ルーティフォン家の推薦で入隊の儀も滞りなく行われたそうだ。
 疑わしい。
 疑わしすぎる。

 別に、身元不明など、珍しいことではない。
 魔物に村を滅ぼされる者も多いのだ。
 そこから魔術師になった者など、溢れるほどいる。
 彼女もそのクチなのだろう。

 そして有能ならば、魔道士になり、国を守れる。
 叩き上げで魔道士になれるのならば、大したものだ。
 十分に称賛に値する。それこそ、港町の自分の部屋を提供できるくらいには。

「……、」
 そう、今まで納得していた。
 だが何故か今日は怒りが収まらない。

 イオリと初めて出会った日は、未だに思い起こせる。

 新設の隊に配属されると知って、嬉々としてこの町を訪れた。
 魔道士である自分が片田舎の隊に配属されるのだ。しかも、自分の地元に。
 それは当然、隊長の地位に就くことを意味している。
 他の魔道士と比べ、成績が伸び悩んでいたカリスにとって、その話は目から鱗だった。

 だが、それは最高の提案だった。
 自分の実力が生かされるのは、前線ではなく、知力を活かした作戦を立てられる場所。
 つまり、隊長だ。
 しかも、隊はゼロから作り上げることができる。
 潔癖なカリスには、最高の場面が用意されていた。

 だが、飛びこむように訪れた隊長室。
 そこにはすでに、総てを見透かしたような少女が座っていた。

 親しげに含み笑いをし、カリスに役職を告げ、別の部屋を案内するイオリの背中。
 それが脳裏にちらつく。
 あのときは、何の冗談だと思っていたのだが、副隊長室の椅子に腰を下ろしたとき、ようやく自分の境遇を理解した。

 自分は、激戦区の隊から、遠ざけられただけではないのか、と。

 そこからカリスは、死に物狂いで働いた。
 いつか、隊長の地位に実力で就くために。

 今では魔術師隊を率いるどころか魔道士隊に入れるほどの実力があると自負している。
 しかし、国は、カリスではなく、完璧な結果を残すイオリしか見ていない。

 流石にまだ早いが、もう間もなくすれば魔道士隊に呼ばれる日も近かったろう。
 それなのに、イオリはその地位を、カリスが欲した地位をあっさりと捨て、旅に出ると言い出した。

 それが、どうしても、許せない。

「……?」
 カリスはそこで、自分の思考に疑問を投げかけた。
 いいではないか。
 イオリは、自分の責務に耐えられず、逃げ出した。
 そう考えるだけで、十分ではないか。
 いつもなら、とうにそこで思考を止めている。

 イオリは、気に入らないとはいえ、結果を残す。
 仮定や人間性は、結果の前では無意味。
 そう考えてきたではないか。

 何を、自分は、

「……、」
 いや、許せない。
 カリスは再び酒を注ぎ、それをあおる。
 足元のカーペットが汚れるが、そんなものはどうでもいい。

 カリスは狂ったように酒をあおり、ついに膝が砕けてその場に座り込んだ。

 イオリが去る前に、思い知らさなければならない気がする。
 何でもいい。
 どんな手段でもいい。

 あの女に、自分が無力であることを教え込めれば。

「……、」
 何度も、それが単なる作業のように、グラスに酒を注ぎ、あおり続ける。
 いつしかカリスはそれも億劫になって、ビンごと口に持っていった。

「何か……、何か……、」
『そう、お辛いのね……』
「……?」
 酔った頭のカリスには、その声が、溶けるように入ってきた。

「ああ……、何か、何か、」
 カリスはうわ言のように呟き、顔を上げる。
 だらしなく口を開き、呆けた顔で見据えた正面。
 そこに、一人の女性が眉を寄せて立っていた。
 顔は……、

「……?」
「ほら、楽になさって」
 カリスはいつの間にか、身体が後ろに倒れ始めていた。
 平衡感覚を失い、背中を打ち付けそうになったところで、女性の手がそれを止める。

「あ、ああ……?」
「あら、大丈夫ですの……?」
 まるで聖母のようなその口調に、カリスは頬を緩めた。
 気持ちがいい。

 このまま眠ってしまいたいほどに。

「あら、駄目よ……。まだ貴方は、考えなければならない。そうでしょう?」
「……、」
 そう言われて、カリスは閉じた目を開いた。
 再び見えた、目の前の女性。

「っ……、」
 雪のように透き通った肌。輝くように薄白い顔に金の長髪を垂らした女性は、カリスが息を呑むほど美しかった。

 黒いローブを身に纏い、ふっくらとした唇から洩れる笑みは、あらゆる男性の心を奪う。
 理想の女性。
 カリスにはそう思えた。
 そう表現するのが最も相応しい。

 昼に見た、エレナよりも妖艶に微笑んでいる。
 そういえば、彼女はいつ入り込んできたのだろう。

 鍵は、

「ほら、お口も」
「ぅあ……?」
 カリスの思考は、そこで遮られた。
 目の前の女性の手が、カリスの口元についた酒を拭う。
 だらしなく唾液もこぼしていたであろうに、嫌な顔一つせず。

「何か、考えつかないと……、」
「あぁ……、」
 ゴロンと転がった酒瓶は、いつの間にか空になっていた。
 これだけの量を、一気にあおったのだ、自分は。明日は仕事があるというのに。
 だが、そんな懸念も、露のように消えていく。

 今あるのは、目の前の女性への信頼。

 そして、イオリを、

「貴方の方が、彼女より強ければ……、」
「そう、だ……」

 その女性に促され、カリスは、頭の中に一直線が走るのを感じた。
 そうだ。
 イオリに無力だと思わせるには、倒すのが一番だ。

「いいえ、それでは貴方の闇は張れない……。屈服させて、無残に、」

 そうだ。
 倒しただけでは意味がない。
 それでは永久の勝利ではない。

 あの聡明な少女が、屈服し、許しを請ってきたところで、殺す。
 それで、自分の欲求は満たされるのだ。

「だ……、が……、」
 カリスに最後に残った理性が、それが実現不可能だと呼びかける。
 そもそも、イオリは強い。
 流石に、隊長だけあって、その実力は、カリスでさえも、認めざるを得ない。

 だから、自分は、

「違う……、貴方の方が強いわ。やりようによっては、もっと、もっと、」

 そうだ。
 イオリなど、取るに足らない存在だ。

 尊敬するところなど何一つない。

 何を今まで自分はためらっていたのだろう。
 魔力だけに限らず、仕事であっても、自分の方が有能だ。

「……、」
 いや、違う。
 強くない。
 自分は、イオリより強くない。
 この先、イオリはまだまだ強くなる。成長し続けるのだ。
 対して自分は、そこまでの成長率を持っていない。
 理性はそう訴えかけた。

 それに、彼女は、優秀だ。
 彼女の成長は、一応は先輩の自分にとって、誇らしいことのはず。

「大丈夫……、あなたはもっと、強くなれる」
 そうだ。
 強くなれる。
 だが、どうやって、

「大丈夫……、私に協力させて……」
「……、」

 大丈夫。
 大丈夫。
 大丈夫。

 そんな言葉が頭で何度も繰り返される。

「ぁぁ……、」
 最後に、自分の口がか細くそう呟いたのを感じて。

 カリスは意識を手放した。

―――**―――

 ティアを加えての朝の鍛錬四人組の早起き勝負、下位二人は村一週。
 サクが起こしてくれたにもかかわらず、寒くなってきた気候のせいで二度寝したのがたたり、アキラは久しぶりにペナルティを受けていた。

 北に訪れたからか、それともここがそういう気候なのか。
 かじかんだ手を懸命にさすりながら、アキラは白い息を弾ませていた。
 昨日、元気にもあれから依頼をこなしたらしいエリーとティアの二位争奪戦は、僅差でティアが敗れ今に至る。

 ティアも、朝練組。
 どこから出ているのか留まることを知らない元気は、今日も好調のようだ。
 ティアはアキラに何とか歩幅を合わせようと必死になって走っているが、まだ駆け出したばかり。
 どこかで電池が消えそうな危なげすら感じる。

 潮風が撫でる港町。
 港ゆえにある程度大きいそこは、しかし廃れた木造の建物が並ぶ。
 漁師の存在のお陰で、この時間に町が起き出しているのは新鮮だ。

 流石に一週はできそうにない。ある程度で切り上げても問題ないだろう。

「……、」
 だが、時間にしては活気ある空気の中、アキラの思考は暗く進んでいた。
 昨日イオリと話していて浮かんだ疑念が、再び脳裏に浮かび上がる。

 彼女との会話で、恐さが現れていた。
 その闇を解くためには、アキラも、世界の優しさの裏に、手を潜り込ませなければならいのだろう。

 それを振り払おうにも、アキラの頭にはそれが渦巻き、思考を止めることを遮り続ける。

「……、」
 ティアは、必要性があるのだろうか。

 別に、ティアのことを邪険に扱っているわけではない。
 実際、彼女のモチベーションはメンバー内で役に立っている。
 刺激として、ティアは重要な位置にいるのだ。
 現にアキラも、エリーやサクとは違う、自分と身近な実力を持つティアに影響を受け、良い意味での対抗心を燃やしている。
 これは、必要なのだ。
 そして、彼女が声を出して話し続けてきた成果で、メンバーに完全に打ち解けている。
 一番の懸念だと思われたエレナも、ティアの口を強引に塞いでいるとはいえ、むしろ最も親密度が高そうだ。

 現にアキラにも、ある種責任感のようなものが生まれ、楽しむばかりの子供ではいられないと感じさせられている。

 だが、別の懸念。
 ティアは現段階で、必要な戦力だろうか。

 確かに、強いことは強い。
 ヘヴンズゲートからここまでの旅路で、最も成長しているのはティアだろう。

 レベルの低い状態から、多くの経験を積み、一気にレベルが上がっている。
 あたかも、大量の経験値を注ぎこまれて何段階も同時にレベルの上がるゲームのキャラクターのように。
 前のアキラとは違い、ティアは身になる戦闘をし、伸びていく。
 それは、アキラも同様だ。
 そして、エリーとサクも。

 だが、それは同時に、場違い、という言葉が当てはまってしまう。
 ティア一人では、こんな経験は積みようもない。
 当然、自分たちでさえも。

 無理難題な依頼を見ても、何の抵抗もなく引き受けられる。
 エリーやティアが行っていることだが、全員、“危険”を“その程度”として受け取っているのだ。

 エリーも無意識に、自分たちの最強カードを前提に動いている節がある。

 もしかしたら、イオリは言いたかった“歪”はそれかもしれない。

 昨日の港を襲った魔物の群れ。
 それも、大量だった。
 あの群れとの戦いは、マリスとエレナがいなければ、港町に甚大な被害をもたらしていただろう。
 下手をすれば、港どころか町が再起不能になるほどに。
 未だに、昨日の疲労は取り切れていない。

 メンバー内の、実力差が著しいという事実。
 それを感じたのは、もうずいぶん前だ。
 だが、ティアという存在に出会って、その陰りに拍車がかかっているのではないだろうか。

「……、」
 優しく見えていた世界が、この曇り空のように陰っていく。

 この世界に来てから、ここまでの旅路。
 その優しさに、甘えるだけ甘えた。

 全員が、ご都合主義的に、運命に惹かれたと表現しているこの旅。

 エリーは、アキラと婚約したため、ついてきた。
 マリスは、姉についてきた。
 サクは、アキラを主君とし、ついてきた。
 エレナは、目的が似ているから、ついてきた。
 ティアは、人の役に立ちたいと、ついてきた。
 イオリは、元の世界の者同士と、ついてくると言い出した。

 それが、妙だ。
 特に、ティア。
 自分たちはたまたま森で出会い、家まで送り届けただけだ。

 互いを信頼するに足る、確固たる事件が起こっていない。
 その事件になりうる魔族との邂逅も、最強カードの前にもみ消された。

 確かに、神の間に通されて、使命に燃えるのも、この世界の住人ならば不自然ではないのだろう。
 だが、それ以前に、彼女はついてくる気満々だったようにも思える。

 必要さを迫られていないのに、ティアは現れた。

 これがご都合主義だとしても、いや、そうだとすると、一人一人にストーリーが無さ過ぎる。
 全員に物語を求めるのは酷かもしれない。
 そんなものが一々存在する仲間ばかりいる方が、むしろ不自然だ。

 だが、それでも。
 簡単に、旅が進み過ぎている。

 それを言い出したら、きりがない。

 アキラと婚約中のエリーや、同じ異世界から来たイオリはともかくとして。

 まず、マリス。
 彼女は自分たちを見送っても良い地位にいた。
 理由は知らないが、国仕えすることを拒んでいたマリスだ。
 彼女があの田舎町に留まっていた理由も分からないし、そもそもその力をふるう気は無かったのではないだろうか。
 いやそもそも、あれだけの才を何故埋めていたのか。

 そして、サク。
 彼女も何故、決闘などというものを挑んできたのか。
 自分のことを多く語らない少女のバックボーンを、アキラは見ていない。
 だが、思考が飛ぶような少女には思えない。
 そして、素性も知れないのだ。
 彼女にそのことを聞いても、適当にはぐらかされてしまう。
 その伏線をアキラはまだ回収していないのに、魔王の牙城は目の前だ。

 さらに、エレナ。
 彼女もまた、実力の大きく離れた存在に、何故ついてきたのか。
 エレナなら、一人でもガバイドを探し出していたのではないだろうか。
 路銀の工面一つとっても、団体で行動するのは、マイナスとは言わないが、プラスにもならないだろう。
 いや、マイナスかもしれない。
 何故ならアキラたちの実力不足に、旅の進行スピードを著しく削り取られているのだから。
 仲間は同等かそれ以上。
 それを定義として動くのならば、彼女にとって、自分たちは不要な存在。
 それこそ、アキラの銃やマリスが存在していたからこそ成立しうる同行だ。

 今までは、ああそうなんだ、と思っていた。
 だが、仕掛けがあることを前提に世界を見ると、なんとも歪な形をしていることか。

 それらの面々が旅をしているのが何故か、と聞かれれば、それは“運命”と答えられる。

 アキラの日輪の力が働いている、といっても、とんとん拍子で進んできたこの旅は、あまりに短い。
 自慢ではないが、自分がそこまでの信頼を受けられる者と、アキラは自負できないのだ。

 そして、その運命の温床が何か、と聞かれれば、誰もが口を揃えて一つの結論を差し出す。

 あの、銃だ。

 アキラには、あまりに不釣り合いなあの力。
 魔術の具現化などという、相当の魔力と高度な技術の結晶であるはずのそれが、アキラの像を歪ませている。
 エレナなど、アキラの力に惹かれてついてきたくらいだ。
 この強い勇者には、利用価値がある、と。

 その力がないときに、クロンクランに行っていたらどうなっていたのか。
 きっとエレナは、嬌声を上げずに、追ってきた劇団員にアキラを投げ飛ばせていただろう。
 いや、それ以前にクロンクランに到着さえできなかったかもしれない。

 やはり、綻んでいる。

 問題は、大きく分けて二つ。

 一つは、ご都合主義の存在。
 そしてもう一つ、それを前提に考えた場合、この多すぎる“バグ”。

 その、ご都合主義、いや、ご都合主義すぎる世界の裏側。
 そろそろ、開けてはならないパンドラの箱の紐に、触るときがきたのだろうか。

 描けていた世界。

 その崩壊が、眼前に迫っているのだろうか。

「っ、」
 恐い。
 アキラは、思考を止める。

 自分がこんな人間だったとは驚いた。
 流れに身を任せ、物語は汚さず、純粋に楽しんでいたではないか。

 あるいはそれは、無垢な子供の愚かさと表現できる。

 だが、世界は優しいのだ。

 その優しさだけ、見ていればいい。
 それが一番、美しい。

 そんなおり、

「……アッキー、あれって何だと思います?」
「ん?」
 隣で走っていたティアが消えたと思えば、後ろで、神妙な顔をして町の外を指さしていた。

「……、」
 アキラは目を凝らし、ティアの指した方角を眺める。
 遠くに僅かな黒い点が見えるが、曇り空に覆われた空の下では何一つ分からなかった。

「あれ、何かたくさんあるんですけど、」
「お前目いいな……。俺には……、」

 息を整えながら、ティアと並んでじっと空を眺める。
 だが、ようやくアキラも、その黒い点が複数あることに気づけた。

「あれじゃん? なんか、あれ」
「アッキー、分からないなら分からないでいいんですぜぃっ」
「いや、何か浮かんでるんじゃん? 気球的な何かが、」
「ごめっ、もう答え分かったっ!!」
 アキラが目を細めていたところで、ティアは叫んだ。

 そこでようやくアキラも気づいた。
 あれは、“群れ”、だ。

「てっ、敵襲だぁぁぁぁあああーーーっ!!!」

 ペナルティは中断だ。
 アキラは叫ぶティアの手を引き、一直線にセーフハウスを目指した。

―――**―――

「っ!!?」
「なっ、何!?」

 エリーとサクは、壊れんばかりの勢いで開かれたセーフハウスのドアに、身体を硬直させた。

「二人とも、サラを見なかったか……!?」
「え、いや、サラさんなら、」
「どうかしたのか?」

 朝の鍛錬時にいきなり乱入してきたイオリは、すでに魔術師隊のローブをまとっていた。
 昨日、自分はアキラと同じ異世界から来た、と言い出し、仲間に加わるらしいイオリ。
 彼女の魔道士としての戦力を勘案し、それを肯定的に受け取ったものの、やはり何か反発的な感情を持っていた。

 理路整然と、それが当然のことのように口に出したイオリの涼しい顔と、同じ境遇の者を迎えることに肯定的だったアキラを思い出すと、どこか胸がもやもやとする。

 だが、そんなイオリは今、昨日とは想像もできないほどの慌てた表情を浮かべていた。

「えっと、何か起こったんですか?」
「っ、その話なんだ。悪いが、サラはどこに?」
「……、あれ、隊長?」

 聞き慣れた声にイオリが視線を泳がせると、建物の蔭からサラが現れた。
 両手に彼女愛用の細長いロッドを持ち、身体は隊員服に包んでいる。

「サラ、一体どこに……!?」
「い、いえ、起きたら隊長がいなくなってたから……、目が覚めたついでにエリーさんやサクさんと特訓を……、……隊長?」
 サラの返答に、イオリは膝に手を吐いて脱力した。
 どうやら朝早く引き継ぎの整理に部屋を開けたとき、サラを起こしてしまったようだ。

 良かった。

「あ、ああ、すまない。それよりさっき、伝令が、」
 イオリは庭の東を睨んだ。
 隊員専用通路から一直線で、イオリの元に慌てた顔をした見張り台の当直が駆けこんできたのはつい先ほど。
 その事実にイオリは、今度こそ、隊長としての指示を与えなければならない。

「サラ=ルーティフォン」
「……、はっ!」
「現在東……、いや、もう見てもらった方が早い。あっちだ」
 イオリの口調に、サラは緊張した面持ちで、イオリの指した方向を見上げた。
 エリーも、サクと共に同じ方向を見やる。

 そこで、エリーもようやく、東の空に黒の塊に気づけた。
 あのときの光景と似ている。

 あの、ヘヴンズゲートで見た、赫の大群と。

「これは……、」
「っ、昨日より、数が多い……!?」

 段々と視認できる黒の塊。
 それが、魔物の隊群であることを理解するのに、時間は全くと言っていいほど必要無かった。

「見ての通りだ。サラ、隊員たちを、」
「はっ、はい! 副隊長は、」
「あっちはもう人を向かわせている。隊員たちを、戦闘配備に就かせてくれ!! 僕は、」
 サラが駆け出したのを確認して、イオリはエリーとサク。
 そして、遠方から駆け寄ってくる二人の人影を見やった。

「エリサス、“サクラ”。協力を頼む!!」

 イオリはそれだけをまくしたて、大群に向かって走っていった。

―――**―――

「どっ、どうなってんだよ!?」
 アキラは目の前の魔物に剣を振り下ろし、戦場の中叫んだ。
 アキラとティアに見えていたのは、魔物のほんの一端。
 空を覆っていた魔物の群れは、それだけでなく、陸軍も存在したらしい。

 急いでセーフハウスに向かう途中、駆けてきたイオリに事態を告げられ、すぐさま戦闘に参加して半時ほど。
 徐々に隊員たちも姿を現してきたが、未だに出揃っていない。
 もっとも、昨日の今日でこんな片田舎に警護に全力を傾けろ、というのは無理な話なのだけれど。

「っ、」
 名前も知らない犬型の魔物を、オレンジの閃光で切り捨て、町を睨む。
 潮風が頬を撫でる町並みは、すでに爆風と魔物の異臭に包まれていた。

 一手遅れるごとに、破壊されていく港町。
 果たして港は大丈夫だろうか。

「シュロート!!」
 スカイブルーの閃光が、空を行く魔物を撃ち落とすのが見えた。
 だがそれも、ほんの一部。

 アキラはターゲットをその狙撃手に変えた魔物を見て、ティアに駆け寄る。
 いつしか離れてしまっていたが、固まっていた方がいい。

「おおっ、アッキー!! マジでどうします!? これも、弔い合戦ですか!?」
「知るかぁっ!!」
 上空から迫る魔物を切り上げ、即座にその場から離れた。
 無理な体勢の攻撃に身体は痛むが、それでも、止まらず次のターゲットを探す。

 ティアの貢献度はかなりのものだ。
 遠距離攻撃が得意な彼女は、こういう乱戦で役に立つ。
 できれば遠方にいて欲しい所だが、必要性のないことはない。
 物語は、優しくできている。

 だが、負けてはいられない。

「っ―――」
「やばっ、」
 そう思ったのも束の間。
 ティアの遠距離攻撃の直後、体勢を立て直す間も与えず魔物が突撃してきた。それも、数方向から。
 群れの利を生かした時間差攻撃に、二人の顔は焦りに歪む。

 これは―――

「―――!?」
 アキラが何とか飛び退こうと身をよじった瞬間、その必要性は完全に消えた。

 どこからともなく的確に飛んできたシルバーの閃光に、全ての魔物は目標に到着することもできずに爆破される。

「マリス!?」
「遅れたっす!!」
 現れた半開きの眼の少女が腕を振れば、それだけで、瞬時にアキラとティアの貢献を上回った。
 あらゆる魔物がマリスを警戒し、動きを鈍らせる。

「マリにゃん!! これっ、」
「話はあとっす!!」
 その場の戦闘全てが、銀に包まれる。

「……、」
 マリスの戦闘を、真横から見たのは、アキラにとって久々だ。
 次元が違う。
 マリスから見れば、アキラの成長など、塵芥。

 鋭く光る銀の矢は、まるでこの町を滅ぼせる魔物の軍勢ですら、無価値な存在にする。
 逆にマリスが攻めてきたら、などという無意味な空想を浮かべ、アキラは負けじと剣を振った。
 答えなんて見えている。
 こんな小さな町など、一瞬で消えているだろう。

「マリにゃん、エレお姉さまは!?」
「向こうで分かれたっす。エレねー一人いれば、向こうの方は安全っすからね」
 片手間で魔物を倒し、マリスは小さく呟く。
 そんな呟き声が聞こえるほど、魔物の数は激減していた。

 マリスが現れて僅かに数分。
 このエリアの安全が確保される。
 それが、数千年に一人の天才がもたらした戦果だった。

「ジェルースにメトックロスト……。それに、パーウルまで……、珍しいっすね。月輪属性の魔物がいるなんて……」
 どれが何で、何がどれなのか。
 見える範囲の魔物が全て消えた今、アキラにはマリスの言葉さえ分からなかった。

 今まで、強いとしか認識していなかったマリス。
 それに背筋が寒くなったのは、昨日の会話のせいだろうか。

「っててててっ!!!? あれっ、ボスですか!?」
 アキラの思考を、ティアの大声が遮った。
 何事かとティアの叫びにアキラが身構え、指差された方向を見れば、遠くに建物程もあろうかという巨獣が現れている。

 硬度を現わすようにゴツゴツとした、見事な鱗の肌。
 以前の巨大マーチュのように鼻が突き出て、まるで四足歩行の竜種のような出で立ち。
 牙は鋭く、身体を支える四肢は太く、その巨大な爪で地を掴んで身体を揺らす。
 背中には身体に似合った巨大な翼が生え、その身体ほどもある太く長い尾まで棘のような立て髪が伸びていた。
 あれが暴れ出せば、まるで子供が玩具の城を壊すようにこの町は潰れるであろう。

「世界……、終わったな」
「アッキーーーッ!!? マリにゃん!! あれっ、あれっ!!」
「っ、分からないっす、」
「!!?」
 マリスから、まさかの不明という答えが返ってくるとは思わなかった。
 その返答に、アキラはさらにあの存在に恐怖を覚える。

「でも、」
 マリスの言葉には続きがあった。
 建物の間から見え隠れするあの巨獣を、冷静に分析するように睨む。

「あれ、魔物倒してないっすか?」

 どこまでも冷静な声に、アキラも倣ってそれを見ると、確かにあの巨獣は、太い爪や長い尾で魔物をなぎ倒していた。

「みっ、見境なく襲っているなんてことはないよな?」
「いや、でも、多分、」
 マリスが分析を進めているうち、巨獣はとうとう建物の陰に姿を消した。
 向かった先で爆音が聞こえてくるのは、マリスの予想通り、魔物を倒しているからだろう。

「みっ、みなさん!!?」
 そんな巨獣と入れ替わりで、三人に、息を弾ませた駆け足が近付いてきた。

「あれは、」
「サラさんっすね」
「よ、良かった、無事だった!!」
 町中を駆けずり回っていたのか、現れたサラは胸を押さえて立ち止まる。

「あっ、あのっ、隊長見ませんでしたか!? 見つからなくてっ!!」
「……! もしかして、」
 今にも駆け出しそうなサラに、マリスが返したのはいたって冷静な言葉。
 その会話に耳を傾けようとしたところで、アキラの瞳に、再びあの巨獣が映った。

「ちょちょちょっ!! あんにゃろーがっ!! 戻ってきてますぜぃっ!!!」
 ティアが叫び、身構える。
 大通りの向こう。
 巨獣は、大地を揺らし、巨大な竜族のような顔面をまっすぐ四人に向けて駆けてくる。
 目つきは鋭く、正面から見ればその威圧感から身体の神経が抜けていく。
 剣や魔術でどうにかできる対象ではない。

「っ、」
 止むを得ない。
 アキラが反射的に剣を仕舞い、右手に力を込めた、その瞬間、

「あああっ!! ラッキー!!!」
 何が、ラッキーなのか。
 途端騒いだサラは、手を振りながら巨獣に駆けていく。

「じっ、自殺願望ですかっ!!?」
「しょっ、正気か!?」
「ちっ、違いますよ!! 隊長っ!! 隊長ーーーっ!!!」

 ズウン、と威圧感たっぷりな擬音を奏で、巨獣は足を止めた。

「っ、サラ!!」
 今まで目が行っていた巨獣の顔から視線を僅かに上に逸らすと、そこには隊長服に身を包んだイオリが立っていた。

 アキラたちの姿を認めると、イオリはその高さから迷いもなく飛び降り、目の前に降り立つ。

「! サッキュンもいる!!」
 巨獣に目が行きがちだったが、足元を見れば、愛刀を振り、腰に指したサクが立っていた。
 どうやら行動を共にしていたらしい。

「アキラ様、それに、みんなも、」
「ああ、やっぱりこれ、召喚獣なんすか」
 どこか神妙な顔つきをしていたサクの言葉を、マリスの声が遮った。
 半分の眼は、大人しく動きを止めた巨獣を見上げている。
 とすると、イオリは召喚術士。
 かなり珍しいタイプだ。

「そっ、そうですよ!! 隊長、こんな町中でラッキーを出すなんて正気ですか!?」
「流石にこの数じゃ、加減なんてしれられない」
 召喚にはかなりの労力を使うのか、イオリは上に座っていただけなのに息が切れ、額には汗が浮かんでいる。

 だが、威力は絶大だ。
 魔物の被害に比べればそうでもないが、巨獣が歩いた道は、耕された畑のような惨状を作っていた。

「まあ……、少しやりすぎたけどね」
 そんなイオリの返答に、アキラは呆れながらラッキーと呼称された巨獣を見上げる。
 這っているのに、その背丈は、二階建ての建物をゆうに超えていた。
 全てを滅しそうな外見。実際、襲ってきた魔物に壊滅的なダメージを与えている。
 だが、よくよく見ると、微妙に愛嬌のある顔つきをしているようにも思えた。
 それも当然、味方だと認識していれば、だが。

「てか、お前馬鹿みたいに強いじゃねえかよ」
「っ、そういうことは、もう少し言葉を選んで言ってもらえれば素直に喜べるんだけどね」
 イオリは呆れ顔を浮かべるが、それでもアキラの認識は変わらなかった。
 召喚獣、というゲーム定番の存在にアキラは初めて出会うが、素直に受け取れるのは隣でマリスが冷静なままだからだろう。

 これが魔道士、というレベルの力なのか。
 魔術師隊という存在を侮っていたアキラの認識が変わる。

「そういえば、ねーさんは? 一緒だったんじゃないんすか?」
「いや、エリサスとは向こうで分かれたよ。ラッキーの近くに何人も集まっていては意味がないからね」
 そのラッキーの近くに唯一残ったサクは、ただ静かにイオリを眺めていた。目つきは鋭く、ほとんど睨むようになっているサクは、口を開かない。

「それよりサラ、戦況は?」
「あ、はい。現在、魔物の勢力は大幅に縮小しています。隊員たちも尽力していますが、その、エレナさんが……、」
「エレねー、朝も機嫌悪そうだったっすからね……」
 サラの返答に、アキラはその絵が容易に予測できた。
 ほぼ無抵抗で殺される魔物たちは、完全に恐怖を刷り込まれていることだろう。
 昨日イオリが仲間になると言い出してから、エレナはどこか機嫌が悪い。
 水曜属性と土曜属性の者が無条件で嫌い。
 そんなことを言っていた彼女だ。
 やはり、イオリが土曜属性だからだろうか。

 今見に行けば、エレナの全力の戦いが見られるかもしれない。

「そっ、それより、報告します!」
「?」
 サラは思い出したように敬礼し、イオリにまっすぐ向かい合った。

「カリス副隊長に、救援の要請に向かった隊員の報告ですが……、その、不在だったようです!!」
「!?」
 サラの言葉に、イオリの表情が変わった。

「カリスが?」
「え、ええ、今日は休暇じゃないはずなんですけど」
 それはそうだ。
 イオリが隊長の座を開けるのだから、引き継ぎ事項が溜まっているはずだ。
 そのはずなのに、あの、勤務に実直な彼が不在。
 それは、起こり得ない。

 何もなければ。

「それが、昨夜、リオスト平原に向かったらしく、」
「……、」

 カリ。
 再び、イオリから爪を噛む音が聞こえてきた。
 また何か、シミュレーションをしているのだろうか。

 だが、確かに妙だ。
 アキラも昨日、カリスと話はした。
 異常にまじめそうで、あの男からは常に固い雰囲気がふんだんに漏れ出している。
 そんな彼が、こんな緊急時、いないとは。

「リオスト平原って、どこにあるんですかっ?」
「あ、えっと、リオストラの……、私たちの本部がある町の、西にある平原です。岩山に囲まれてて……、魔物も多くて……、」
「……サラ」
 ティアへの説明中、シミュレーションが終わったのか、イオリが重い口調で声を出した。

「その話は道中できる。僕がこれからそこへ向かおう。一応そこは危険地帯だからね。何か、嫌な予感がする」
 イオリはちらりとアキラを見た。
 どうやら、例の物語のルールが発動しているとでも言いたいらしい。

「ここはもう大丈夫だろう。サラ、君が指揮をとってくれ」
 手短にそれだけ伝え、イオリはラッキーを見上げた。
 巨獣はそれに応えるように、小さく唸り、頭を下げる。

「アキラも来てくれないか? ラッキーなら、すぐにそこへ向かえる」
「あ、ああ、いいけど、」
 アキラの返答を聞き、イオリはラッキーに登っていった。
 巨獣に近づくことは流石に抵抗があったが、思ったより純情そうなラッキーの瞳にそれは薄れ、イオリの手を借りてそこに昇る。
 高い背かなから見た町の景色には、もう魔物は数えるほどしかいなかった。

「私も行こう」
 沈黙を守っていたサクも、巨獣によじ登る。
 イオリが手を伸ばすも、その手をとらず、サクは軽い身のこなしで乗り込んだ。
 表情は、微妙に固い。

「魔物がいるなら、回復役はいた方がいいっすね……、」
「うおおっ、あっしのでば……、ってちょっ!!?」
 マリスがティアを追い越して飛翔し、ラッキーの背にふわりと降りる。

「よし、行こう」
「ちょちょちょっ!! 私はっ!? 私はーーーっ!!?」
「悪いアルティア、これ以上乗ったら到着できそうにない」
「悪いなティア。このラッキー、四人用なんだ」
「……その翻訳に意味があったのか聞かせて欲しいところだけど、」

 イオリは、くっ、と顔を天に向けた。

「ラッキー、行けるかな?」
「グルルッ!!」
 ラッキーがイオリに呼応し、その翼を大きく開いた。
 途端動いたその巨体の振動に、アキラの身体が大きく揺れる。
 ティアとサラが思わず身体を引いたところで、ラッキーが翼をはためかせた。

「ティアーーーッ!! 町を頼むっ!!」
「おっ、おうさっ!! 私にっ、ま、か、せ、」

 その言葉を、最後まで聞き取ることはできなかった。
 イオリが掴まっているように指示したところで、

「っ―――」

 アキラたちに、異常なまでの浮遊感が襲った。

―――**―――

「こう連戦じゃ、一々加減なんて考えてらんないわ」

 エリーが到着したそこは、どちらが敵か分からないほどの惨状だった。

「っ、」
 エリーは息を呑む。
 一番の気がかりだった港を優先的に守るべき、と魔物を倒しながら向かった先、各所で起こる爆発が、最初、一人の人間によって形作られたとは思えなかった。

 海の近くということで固く作ってある地面は抉れ、天候の悪さで暴れる波が、断続的に町に侵入してきている。
 港を現わす標識も、近くにあった寂れたボロ小屋も、まるでその場所に隕石でも落とされたように破壊されつくされていた。

 だがその中央に、立っている女性は、そんな異様な光景にも、興味の薄い乾いた瞳を向けるだけ。
 彼女の元に行くと、いつもこんな光景が広がっている気がする。
 だが、今回ばかりは、流石に酷すぎだ。

「……エレナさん」
「あら?」
 声をかけたのは、何のためだったろう。
 見つけた仲間へのものか、はたまたエレナが自分を魔物と誤認し、襲いかかってこないようにするためか。

「だ……、大丈夫、でしたか?」
 そんなのは、あくまで言葉を紡ぐ意味しか持たない。
 彼女の安否を気にかける必要などないのだから。

「冗談じゃないわよ……。ここに来たとき、また港壊そうとしてたのよ、こいつら」
 こいつら、はもういない。
 総て、エレナに爆発させられている。

「い、一体何を、」
「はあ……、寝起きで戦うもんじゃないわね。あんまりわんさかいるもんだから、面倒臭くて“具現化”なんてしちゃったわよ」
「……!?」
 エリーの表情が変わったのに気づいているのか、エレナは大股で荒れ果てた地面を歩き、欠伸をしながら海を眺めた。
 少し、荒れている。

「あら? なによ?」
「“具現化”……、できるんですか?」
「できない、なんて言ったことあったかしら?」

 海を眺めるエレナから一歩引いて、その後ろ姿を、エリーは思わず睨みつけるように見ていた。
 彼女は、遠すぎる。
 いくらなんでも、これは。

 今、自分たちがこうやって静かに会話できるのも、エレナが魔物を滅したお陰だ。
 遠くで魔術師隊はまだ戦っているが、もう彼らに任せて大丈夫そうなほどに、大量の魔物は、消えた。

「強くなりたい?」
「……!」
 エリーの心情を見透かすように、エレナは海を見たまま呟いた。
 冷たい風が、身体を打ちすえる。
 だがエレナの言葉が、甘く、エリーの身体に溶け込んでいく。

「……正直な話、私、強いでしょ」
「……ええ」
 自惚れでも、不遜でもないその言葉。
 エリーはあっさりと肯定する。
 目の前の人物には、そんな言葉を吐き出す資格があるのだ。

「あんたの妹みたいに天才でもないのに……、何で強いと思う?」
「……、」
 エレナと、こんな会話を今までしたことはなかった。
 彼女の、強さの裏側。
 それは、単に経験の差ではない。
 自分とエレナは、そんなに歳は離れていないのだから。

「私さぁ……、シリスティアにいた頃、解決したい事件があったのよね」

 彼女が故郷の話をしたのも、これが初めてだ。
 エレナの言葉を、エリーは黙ったまま受け取った。

「でもさ、正直、十ちょいの女の子が何とかできる事件じゃなかったのよ」
 エレナが自分よりずっと若かったときの話。
 にわかには信じがたい想像を、エリーは頭で形作っていく。

「そんなとき、聞いたのよ。身体に大量の魔力を押し込んで、強引に“器”を広げる方法」
「……!」
 エリーの表情が変わった。
 それが、エレナの、

「まあ、下手したら死ぬんだけどね……。冗談抜きに、高確率で」
 エレナの口調は、一切変わらなかった。
 ただ単に、世間話でもするように。

「そんなわけよ。ぶっちゃけ私は、何年も修行して強くなる、なんてのが嫌だった。そういう人間だもの」
「……、」
 無言を返したつもりだが、恐らく肯定の雰囲気をエレナは感じ取っただろう。
 エレナの背中が、小さく震えた。

「努力家には、ふざけんな、って話でしょうね。あっさり強くなるなんて。でも、時間を使って強くなる方法と、命をかけて強くなる方法。どっちを選ぶかは、人それぞれでしょ」
 エレナの髪をかき上げる仕草が、遠くに見える。
 いつも大仰に振舞っている彼女は、とっくの昔に、それに見合うだけの対価を払っていた。

「ま、その方法にもいろいろ制約があるんだけどね。特定の場所で、特定の方法で。それに、地元じゃないとまず成功しない。風土的な問題なのかどうかは、知らないけどね」
 エレナは海を見続ける。
 彼女の瞳には、遥か遠くのシリスティアが映っているのだろうか。

「やりたきゃやってもいいけど、正直お勧めはしないわ。それに、今さらアイルークに戻るのも、」
「アイルークじゃないです。あたしたちの地元は」
 エリーは、いつの間にかエレナに並び立っていた。
 エレナが眺める空よりもっと近く。
 エリーが眺めるのは、中央の大陸。

「ヨーテンガース出身なの?」
「生まれは、ですけどね」
 どこか遠い目をして、エリーは故郷を思い出す。
 忘却の彼方にあるそこでの思い出は、両親の表情と、その訃報を受け取った光景だけだ。

「やるの?」

 エリーは言葉を返さなかった。
 分からない。
 その方法は、今までの努力を消してしまうだろう。

 だがなんとも、その言葉は甘美に響く。

「……さ、行きましょ。ここでサボってると、風邪引きそう」
 エレナはくるりと海に背を向け、喧騒の止まない町に歩いていく。

「エレナさん、」
「?」
 その背に、エリーは声をかけた。

「その事件、解決できたんですか?」
「……、」

 エレナは、はたと立ち止まり、すぐさま歩き出した。

「……その失踪事件は、今も続いてるわ」

 その一言だけを、残して。



[12144] 第九話『迷子が迷い込んだ迷路』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/03/13 02:41
―――**―――

 物語は、美しい。
 それに触れ、輝く人の瞳は、キラキラと世界を満たしていく。

 だから世界は、優しくできている。

 それが、大前提だ。

 アキラは心の中で、何度も呟く。

 “お約束”は、暴いてはいけない。
 それは、世界を濁らせてしまう。

 祈るように、何度も、何度も。

 幼少の頃から、自分は何度も輝いた世界を見てきたではないか。

 そして、幼少の頃、自分は見たではないか。
 秘密を暴こうとして、壊れた世界を。

 目を閉じて、深呼吸して、目を開く。
 そうすれば、キラキラと輝いた世界が目の前に広がっている。

 何かが起きても、笑って済まされる世界。
 そんな優しさが、この世界には溢れている。

 自分は、今のままでいい。

 だから、気にするな。
 きっと、“今はそのときじゃない”。

 もし、世界を輝かせたいなのなら、力があればいい。

 力があれば、総てを救える。

 そのはずなんだ。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 アキラは固く閉ざしていた目を、ゆっくりと開けた。
 開けた先、見えたのは土色の鱗。

 そうだ。
 自分は、イオリ操る召喚獣、ラッキーの背に乗っていたのだった。

「フリオールとファロート。時空を刈り取って魔術以外の外部干渉を選択遮断できる魔術と、速度上昇の魔術……いや、魔法、か。こんな使い方もあったとはね」
「ファロートの方は負荷が大きいからあんまり使いたくなかったんすけど……、ラッキー、大丈夫だったみたいっすね」
「ああ……、まあ、流石に疲弊はしているけどね」

 ラッキーの下から、二人の専門的な話が聞こえた。
 黒を基盤としたローブを羽織ったイオリに、相変わらずだぼだぼのマントを上から羽織っているマリス。
 二人は会話のレベルが合うのか、マリスの口調がどこか弾んでいた。

 気づけばいつの間にかラッキーは平原の中に着陸し、搭乗者が降りるのを待つように頭を垂れている。

「……アキラ様?」
「いや、」

 僅かに意識が飛んでいた気がする。
 アキラは隣で手を差し伸べているサクをぼんやりと見上げ、何とか立ち上がった。

「にーさん、酔ったんすか?」
「……ああ、多分、そんなとこ」

 思い出した。
 自分たち四人は港町から、ラッキーの背に乗ってこの場所まで飛んできたのだ。

 途中、マリスとイオリが何やら話していたのを必死にラッキーに掴まりながら見た気がする。

 その直後、マリスが注意を促し、何かを呟いたと思えば、ラッキーは急加速。
 それにもかかわらず、まるで密封された空間にいるように世界が高速で動き、その光景にアキラは目を閉ざしのだ。

 何かが、恐くて。

 ともあれ。
 アキラたちは目的の地、目的地に到着したようだ。

「……、」
 ラッキーの背から降り、アキラは周囲を見渡す。

 そこは、寂しかった。

 一方を森林に、残る三方を岩山に囲まれたその平原に、草木はほとんどなく、足もとの土も砂のようにざらつき、大地を覆うっている。
 見える森林も、アイルークで見たような青く茂るものではなく、冷風をそのまま通すような寂しさがあった。
 そして、広い。
 総ての景色が、小さく見える。

 寒い。
 北の地だから当然なのだろう。
 だが、アキラの身体は、それ以外の理由で、僅かに震えた。

「……、フリオール」
「……!」
 瞬間。
 アキラたちの身体にシルバーの光が吸い込み、溶け込んでいった。

 すると、今まで吹き付けていた冷風が遮断される。
 これは、ラッキーの背の上でも感じた。

「マリス?」
「寒いっすよね……、ここ」
 マリスも羽織ったマントの襟を引き、首をうずめさせた。

 さきほどラッキーの背の上で感じたマリスの魔術。
 やはりその魔術は、飛翔させるだけでなくかなり凡庸性が高いらしい。

「流石だよな……、マリス。ありがとう」
「? いいっすよ」
 小さく零した言葉に、マリスは首をかしげていた。

 ああ、自分は、いつも、もっと大げさだった気がする。
 アキラはぼんやりと、そんなことを考えてしまった。
 マリスが覚えた違和感も、それと同じだろう。

 やはり駄目だ。
 輝いた世界は、輝いた瞳にしか飛び込んで来ない。

 陰りを嫌う自分が、こうであってはいけないのだ。

「……っし、」
「? 今度はどうしたんすか?」
「魔物、いるんだろ? 気合、入れ直しただけ」

 明るく楽しく、強くなる。
 自分は、それを目指して行こう。

「あれ、……ってかさ、魔物、いなくね?」

 せっかく入れ直したアキラの気合は、やはり物寂しい平原に薄れて消えて行った。
 だだっ広いリオスト平原。
 その中にいる魔物らしい魔物と言えば、正に今自分たちが乗ってきたラッキーだけだ。

「おかしいな……、いつもはいるんだけど……」
「ああ、多分、自分のせいっすね……」

 ああそう言えばそうだった。
 イオリに半分の眼を向けながら呟くように返したマリスを見て、アキラは彼女の存在がどういうものなのかを思い出す。
 最近依頼では離れていて忘れていたが、彼女は魔物に恐れられるほどの存在だったのだ。

「流石だ! マリス!!」
「? にーさん、さっきから何か変っすよ」
「悪い……、今俺、自分見失ってる気がする……」
「?」

 自分は一体、どういう存在だったろう。
 どんな口調で、彼女という存在に接していただろう。
 確たる信念がない者は、一度揺るいでしまえば、こんなにも不自然な言葉しか吐き出せないのだろうか。

 やはり、力が、欲しい。
 “自分”が揺るがされないほどの、力が。
 世界のバグに、揺るがされないほどの、力が。
 それこそ、あの銃を必要としないほどの、力が。

 それまでは、やはり、世界の優しさに甘えているべきかもしれない。
 アキラはそこで、思考を止めた。
 今はRPGを進めるように、レベルを上げ、進んで行けばいいのだ。

「……、まあ、ラッキー、とりあえずお疲れ様」
 イオリが一応当たりを警戒しながら、ラッキーの額を撫でた。
 するとラッキーは小さく呻き、身体をグレーの光と化していく。
 そしてその光は、地面に吸い込まれていった。

「具現化、なのか……?」
「ん? いや、違うよ。ラッキーは召喚獣さ……。大地の精霊、とか言えば、分かりやすいかな?」

 そういうものなのか。
 アキラはとうとう完全に姿を消した巨獣の跡を、呆然と見ていた。

「てか、ラッキーって名前……」
「っ、別にいいだろう? 本城家では代々、ペットにはラッキーってつけているんだから」
 イオリは少しだけむくれた表情を作り、颯爽と歩き出した。
 向かう先は、どうやら森林の対面にある、岩山らしい。

「てかさ、ここ、どういう場所なんだよ?」
 それに続くアキラは、イオリの背中に声を投げかけた。

 世界の陰りに、無気力になっている場合ではない。
 今は強くなることが必要だ。
 そのために、情報は集めなければ。

「そうだな……、ここはよく、魔術師隊演習に来ている場所、といったところかな。あの岩山に、魔物の巣があってね」

 イオリの視線を追ってみれば、確かに岩山には蜂の巣のように横穴がいくつか開いていた。

 イオリの話では、そこを休憩所として使っているようだ。
 いくら駆逐しても訪れたときにはいつの間にか魔物が中で生活を始めてしまうらしい。
 演習の始まりはその掃除から。

 今からそこに向かうのは必然的に魔物の群れとの戦闘を意味しているが、確かに探している副隊長のカリスがこの場にいるというなら、あの場所以外はあり得ないだろう。

「……、」
 淡々としたイオリの説明を受けながらも、アキラは広さゆえにリオスト平原を見渡していた。
 やはり、何もない。
 寂しさ以外は。

 マリスの魔術でも遮断できない寒さが、背筋を撫でる。
 寂しさを、無駄な会話一切がない面々が助長させているのだからなおさらだ。

 アキラの隣を歩くマリスは、相変わらず半分の眼をぼんやりと前に向け、足音一つ立てずに歩いている。
 アキラの態度が妙だったからか僅かに眉を下ろしているが、こちらは、いつも通りだ。
 マリスに場が賑わうトークを期待する方が無茶な話だろう。

 だが、もう一人。
 あるいはマリス以上に無音を保った少女がいた。

「なあ、サク、寒いのか?」
「……、え、いえ、マリーさんのお陰で」

 やはり、妙だ。
 アキラとの会話もそこそこに、サクは再び、前を行くイオリの背中を見据えた。
 いや、睨んでいると言った方がいいかもしれない。

 港町を離れるときもそうだったが、彼女の様子もおかしい。

 普段、確かに彼女は口数が少ない。
 だが、それでも面々を眺め、小さく微笑んでいると思っていた。

 それなのに、今は、どうだ。

 一度気づいてしまえば、こんなにも、

「元気出してこうぜ、マジで。俺さ、何か会話がないのが耐えられない……」

 今思えば、こういうときにこそ、ティアが必要だった気がする。
 彼女が残った港町は、魔物の襲撃以上に賑やかなことだろう。

「アキラ、悪いんだけど、もう着いたよ。ここだ」
「……!」

 足を止めたイオリを視線で追い越し、アキラは岩山を見上げる。
 遠方から見た通り、その岩山には、まるで砲弾を何度も撃ち込んだような穴が、いくつも開いていた。
 まるで蜂の巣のようなその岩肌からは、確かに何か出そうな雰囲気さえ漂っている。

「外見はハチの巣だけど……、中はアリの巣だ。いくつか行き止まりのダミーもあるけど、基本的にどこから入っても奥で繋がっている」
 流石に演習で何度も来ているだけはある。

「……! なあ、あの馬、」
「ん? ああ、そうだね……。カリスは中にいるようだ」
 アキラが見つけたのは、岩山から僅かに離れて打ち立てられた柵に繋がっている、一頭の馬だった。
 それこそ誰かがここにいる証明になるその存在に、イオリが返したのは当然のような一言。

 彼女はとっくに、その存在に気づいていたのだろうか。

「待った」
 イオリが確信を持ってその一歩を踏み出そうとした瞬間、サクがようやく、自発的に口を開いた。

「中に、部屋はいくつもあるのか?」
「? ……ああ。本当に蟻の巣みたいでね。広間がいくつかある」
「それなら、」

 サクはちらりと面々を見渡し、最後にやはり、イオリを捉えた。

「二手に分かれよう。奥の部屋を目指すのではなく、“探索”、なのだろう?」
「……、そう、だね」
「……?」

 訳知り顔のイオリの表情に、僅かに影が落ちた。
 アキラは、イオリと相変わらず目つきを鋭くして彼女を見据えるサクを交互に見やり、ため息を吐く。
 その自分の仕草が、世界の陰りを見ようとしているのではないかという恐怖にとりつかれ、小さく首を振った。

「まあ、サクの言う通りだな……。よし、じゃあ、俺は、」
「にーさんは、自分といた方がよさそうっすね」

 マリスが一歩踏み出し、アキラに並び立った。
 確かに彼女そのものも、彼女の治癒魔術も、相当に心強い。

 だが、いつもは一悶着あるチーム分けの、その提案に。

 互いを牽制するように視線を交わすイオリとサクからは、一切の反論がなかった。

―――**―――

「いだだっ、いだだだだだっ!!!?」
「な、ん、で、私を呼ばなかったのよ?」
「エレナさん、ストップストップ!!」

 これがヒステリックな女はモテないとか言っていた人物の行動か。
 エレナはティアの口を掴んだ手にそのまま力を込め続ける。
 もっとも、一言二言で済む説明を、朝起きたときのちょっとした出来事から語り出すという暴挙に及んだティアにも非はあったりするのだが。

 すでに港町を襲った魔物は全滅し、今は提供されたセーフハウスの一室。
 最初にここを訪れたときに通された部屋に、残された面々は腰を下ろしていた。

「で、でも、どうします? 私たち、待機してないでリオスト平原とやらに行った方がいいんじゃないですかっ!?」
「魔物騒ぎの修復で、町中駆け回ってる隊員たちに送ってもらうのなんて頼めるわけないじゃない。とっとと港も修復してもらわなきゃいけないんだし。ねえ?」
「うわわっ!?」

 エレナのため息混じりの睨みに、ティアは顔をガードしてソファーからずれた。
 そうなることが分かっていて隣に座る辺り、ティアはエレナの懐いているような気もする。
 そしてエレナも、あのときの冷ややかな瞳を、とっくにしまっていた。

「……、ふぅ」
 エリーは小さく苦笑して、正面の二人から視線をそらし、窓を眺めた。身体は、魔物討伐で疲弊しているが、それ以上の憂鬱が、頭の中で巡る。

 窓の外は、曇っていた。
 アキラたちがイオリ操る召喚獣であの空を飛んでいったと聞いたときは、何を馬鹿なと思ったが、魔道士ともなるとそういうことができるのかもしれない。

 魔道士。
 エリーの目標だ。
 だが、その次元は、一体どのような経験を積めば到達できるのであろうか。
 聞けばイオリは、自分と一つしか違わないらしい。

「あの、みなさん?」
「……!」

 ノックと同時に聞こえてきた声に、エリーは疲労で崩れていた姿勢を正す。
 声を返すと開いたドアの先、隊員服に身を包んだサラが現れた。
 どこか元気がなく、疲れが溜まっているようだ。

「町は?」
「え、あ、はい。現在被害状況も大体確認し終わって……、隊としては報告書を作るだけになっています」
「……、」
 エリーは居心地悪げなサラに、一歩身を動かし、ソファーを譲る。
 今も隊員たちは町をかけているのに、彼女は何故ここに姿を現したのだろう。

「……、いいから座りなさい」
「え、あ、はい」
 エレナに促され、サラは緊張した面持ちでエリーの隣に腰を下ろした。
 だが、やはり僅かもすると、サラの表情は少し曇る。
 その横顔を、エリーは知っている気がした。

「どうかしたんですか?」
「い、いえ、」
 サラは小さく、そう返してきた。

 エリーは彼女が、先ほどの魔物騒動時、何をやっていたかを知っている。
 声を張り上げ、戦場を駆け、隊員たちの様子を見て回っていた。

 エリーが戦っているところにも数度、姿を現している。
 彼女は、ひたすらに、戦場を駆けていた。
 そして今も、状況確認で、駆けていたはずだ。

「……、お払い箱?」
「っ、」
 エレナの無遠慮な言葉に、サラは身体を分かりやすいほど動かしてしまった。

「い、いえ……、でも、多分、そう、なんでしょうね……」

 サラの脳裏に、先ほどの光景が浮かぶ。
 魔術師としては古株の先輩に、『疲れただろうから休みを取ってこい』と言われた。

 口調も優しく、表情も柔和に。
 その先輩は、確かに自分のことを労わってくれた。

 だが、その言葉を深く追っていくと、見えてしまう、裏側。
 自分は、力不足だと言われたようなものだ。

 イオリがリオスト平原に向かう際、自分にこの地の指揮を任せていった。
 魔術師として、あまりに浅い経験しかない自分に、だ。

 イオリから見れば、楽な仕事だったのだろう。
 こんな小さな港町での戦闘の指揮をとり、その後の被害報告をまとめることなど。

 だが、事実そうではない。
 彼女にとって当たり前は、サラにとって、年季が変わらないはずの自分にとって、“そう”ではないのだ。

 その古株の先輩が、あまりイオリを好意的に思っていないのをサラは知っていた。

 魔術師としては幼い年齢のくせに、隊長を務めているのもそう。
 いつも訳知り顔で、何の苦もなく問題をクリアするのもそう。
 そのくせ、単純ないたわりの言葉程度でその場を去り、個人的な深い話などしようとしないのもそう。

 完璧で、あまりにクールすぎるのだ。
 そのせいで好意を持たれにくい。

 対してサラは、隊員全てとよく話をしている。
 言い方は悪いが、新人として、可愛がられているのだ。
 隊員の個人的な事情なら、隊長のイオリ以上に知っていたりする。

 だが、信頼。
 その側面から見れば、隊員たちが向けるイオリへの信頼は厚い。

 なんだかんだ言っても、彼女には問題を解決できる力があるのだから。

 力で信頼を勝ち取っているイオリ。
 対してサラは、周りと話すことで好意を持たれている。

 そう考えると、自分が隊員たちと話しているのは、人の力に依存するための手段とさえ思ってしまう。
 自分はそのつもりがないのに、だ。

「世の中にはそんな悩みだらけね……」
「っ、」
 次にエレナから漏れた言葉に反応したのは、エリーだった。

「エレナさん、それは、」
「だってさ、私もそうだった……、そうだし」

 エレナから小さく漏れた言葉に、サラも顔を上げた。

「サラ、だっけ? そんな悩み、誰でも持ってるわ。それこそ、どっかの天才ちゃんも」
「……、」

 エレナが示唆しているのは、自分の妹だ。
 エリーは僅かに息が止まった。

 自分の妹は、そんなものとは完全に無縁だ。
 そう思っている。
 だが、エレナは、共に行動する彼女の何かの想いを、知っているのだろうか。

「あんたんとこの隊長も、持ってるでしょうね、それ。でも、力があるから、当面悩んでいない」
 サラに言っているようなエレナの言葉。
 だがそれが、エリーには自分に言っているように聞こえた。

 目指す場所の遠さゆえに、何かを想う。
 それが人間というものならば、エリーのこの感情も、自然なものなのだろう。

 その遠さゆえに、無気力な感覚を味わう。
 そんなこと、エリーは何度も経験している。

 前は、マリスに。
 今は、エレナに。

 だけど、

「だから、力が欲しい。あんたもそのクチでしょ」
 その『あんた』は、一体誰に言ったのだろう。

 正面に座るエレナの視線は、サラを捉えているようで、誰も捉えていないように見えた。
 あるいは、全員捉えているのだろうか。

 もしかしたら、彼女はあのとき、こんな表情で海を眺めていたのかもしれない。
 故郷でその力に見合う対価を払った彼女にも、今なおそれはあるのだろうか。

「ま、力があればいいのよ。私みたいに、暴力的なまでにね」

 エレナがそう紡いだ粗暴な言葉は、彼女の言葉なのに、悲哀に満ちているような気がした。

「エレお姉さま、かっけー……。マジ半端ないっす―――ひぃっ!?」
「別に掴みかかりゃしないわよ……。お茶淹れるだけ」
 エレナの視線の先には部屋の奥の給湯所。
 勝手に使うのも、彼女らしい。

「あんたも、人ごとじゃないでしょ」

 エレナが前を通りながら小さくティアに呟いた言葉は、エリーの耳には届かなかった。

―――**―――

「っ―――」
 魔物に切りかかったサクに、その隙を縫って犬型の魔物が飛び込んできた。

 良く、見える。

「―――!?」
 身を動かす前に、その犬型の魔物、ファングラスの身体に一本のナイフが突き刺さった。
 銀のフォークのような小型の投げナイフは、土曜属性特有のグレーの魔力をほとばしらせる。
 ファングラスが身もだえする前に、サクはその場から緊急離脱。
 直後聞こえた爆発の理由は、考えるまでもない。

 蜂の巣のようだった岩山の中に入ると、後ろに立つイオリの言葉通り、確かに蟻の巣だった。

 手を伸ばして飛べば指先が触るほど狭いメインルートのような道の途中には、大部屋に繋がる横道。
 中の大部屋は、建物数軒は入るのではないかというほど広がっており、戦うには問題ない。
 それこそ、魔物の群れが待ち構えていても、だ。

「っ―――」
 サクが魔物を切り裂き身体を反転させると、入り口付近からナイフを飛ばしていたイオリに魔物が飛びかかった。

 しかし一閃。
 イオリがローブの中から指先から肘ほどまでの短剣を取り出し、それを切り裂く。
 取り出された短剣は、柄の部分がワイヤーのような紐で結ばれた、一対のものだった。

 二本で一対の短剣を両手に掴み、接近を許した魔物を倒していく。

 やはり、武具強化型。
 だが、それも完全な物ではなく、あくまで切りつけることで魔力を流しやすくしているにすぎない。

 サクは最後の魔物を切り伏せ、爆風に背を向けてイオリに近づいて行った。
 大部屋は、再び沈黙が支配する。
 どうやらここには、副隊長のカリスはいないらしい。

「……、それが、基本戦術か?」
「ああ。どうも僕は魔力を飛ばすのが苦手でね……。遠距離攻撃は媒体がないと大した効果が出ない」

 近距離用に、一対の短剣。
 遠距離用に、投げナイフ。
 そして切り札としての召喚獣。

 これが魔道士というものなのか。
 随分と応用が利く。

 だが、サクがイオリに感じているものからすれば、そんな戦力などどうでもいい。

「それにしてもすごいね……。速度は魔道士の僕をゆうに上回っている」
「このレベルでなければ、旅はできない」
「流石に“勇者様の御一行”、か」

 イオリはそう呟いて、サクに背を向けた。
 やはり、ここではない。
 そんなことを、思いながら。

「それだけではないだろう?」
「……?」

 メインルートに戻ろうとしたイオリの背後から、冷たい声が聞こえた。
 僅かな敵意のこもったその台詞に、イオリは眉を寄せて振り返り、止まる。

「……、」
「っ、」

 ピタリ、と。
 振り返ったイオリの首元近くに、サクの愛刀の切っ先がつけられていた。
 腕ごとまっすぐ伸ばしたその愛刀の先、サクは、睨むようにイオリを見据えている。

「……、何、かな?」
「私は、信用できない相手と共にいるのは抵抗がある」
「……、」
 サクはまっすぐイオリを見据えていた。
 伸ばされた愛刀からは、殺気は感じない。
 だが、それが口を持っているように、語りかけてきた。

 真実を話せ、と。

「イオリさん……。私の名前を、言ってみてくれないか?」
「…………、」
 イオリはまた、目を閉じた。
 それが何を意味しているのか、サクにも分かる。

 彼女は、シミュレーションしているのだ。
 ここで出すべき回答を。
 そしてその後に続く会話を。

 やはり、駄目か。
 こうやってポーズで刃を向けても、彼女は冷静そのものだ。
 あるいは、こうなることを予想できていたのだろうか。
 せっかく、二人だけにしたというのに。

「改めて名乗ろう。今の私は、サク。“サクラ”じゃない」
「……、」
 ようやく、イオリは目を開いた。
 駄目だ。
 その瞳は、揺さぶりをものともしていない。

「僕は……、そう言っていたかな?」
「ああ。聞き間違いではない」
 先に、逃げ道を潰す。
 そうしなければ、彼女の脳内のシミュレーションを上回れない。

「……、そうだな、うん」
 彼女は回答を見つけてしまったようだった。

「僕とアキラは同じ異世界から来た。それは昨日、簡単に話したね」
 それは知っている。
 サクは慎重に頷いた。

「僕がこの世界に来た直後、“幸運にも”こんな噂を聞いた。かつて僕たちと同じ世界から来た者の末裔が、あらゆる豪族を守護し続け、今では大層な武家を築いている、とね」
「……!」
 やはり、イオリは知っている。
 その、事実を。

 だが、それを見つけるのは、容易ではない。
 それこそ、イオリの言うように、“相当な幸運”でもなければ。

「どうも僕たちの時代とは違うみたいでね。元の世界の、大昔の人間さ。でも、せっかくだから、調べ続けた」
「魔術試験の勉強も両立しながら、か?」
「……疑り深いね。でも、“そうでなければありえない”。そうだろう?」

 そう言われれば、サクは頷く他ない。
 だが、イオリに向けた刃を、下ろす気にはなれなかった。

 大部屋での、静かな会話は続く。

「そしたら数年前、その武家の娘が、勘当されたという事実を知った。理由は、流石に調べられなかった」
「……、」
 サクは刀を下ろした。
 これ以上の追及は無意味だ。

 自分の容姿、自分の出で立ち。
 ティアの父、グラウスにも勘づかれていた。
 ヒントはいくらでもある。
 その上、“予測”という論理を超える武器があれば、あとは一直線。

 彼女はそれを理由に、逃げ切ってしまう。

「……、もう、いいのかな?」
「ああ。無礼なことをして、悪かった」
「そうでもないさ。僕が悪い」

 イオリはそう呟いて、ルートに戻った。
 サクも刀を鞘にしまい、それに続く。

「でも、信用はしてくれると嬉しい」
 前を行くイオリは、どこか悲しげな声を出した。

「どうも僕は、周りの理解を得るのが下手でね……。元の世界でも、あまり“友”と言える存在がいなかったのも事実なんだ」
「それはその、“勘の良さ”が原因か?」
「ああ。…………まあ、こんなふうに言い訳が上手くてね……、でも器用さなんて、まるでない。僕は卑怯なんだよ。その上、“わがまま”だ」

 彼女も、自分の説明に無理があることだけは分かっているようだ。
 だが、こんな自虐的な言葉が、むしろ彼女を信頼させるものになることに、彼女は気づいているのだろうか。
 もし気づいてやっているのなら、かなりのものだ。

「確かに“隠し事”はある。多くは語れない」
「……!」
 サクの疑惑は、その言葉に止まった。
 彼女には、何か、秘密がある。

 それは間違いないらしい。
 それを前提にさせられれば、身体は、止まってしまう。

「だけど、これだけは信用していい」
 イオリはくるりと振り返り、サクの目をまっすぐ見据えた。

「僕は、味方だ。それだけは、信じてくれ」
「……、」

 もともと自分が持っていた彼女に対する不信感など、先の名前の件だけ。
 それを説明し終わったのならば、サクがこれ以上彼女に敵意を向けている意味はないのだろう。

 人は、底の見えない者は信頼しても信用しない。
 だけど、今のイオリの言葉には、確固たる“底”がある。

「……分かった」
 サクはそう吐き出した。

 イオリは仲間。
 そう考えた方が、気が楽だ。

―――**―――

「らぁっ!!」
「……!」
 動こうとしたマリスを制するように追い越し、アキラは魔物の群れに駆けて行った。

 オレンジの閃光が微弱な装置の光を超え、広間に爆ぜる。
 アキラに切り裂かれた魔物は爆発を起こすが、アキラはそれから距離をとると視線を次の敵に向け、再び駆け出した。

「……、」
 マリスはアキラの背を、ぼんやりと眺めていた。
 ときおり彼女に襲いかかる魔物は、彼女が全く見向きもしていないのに総て滅していく程度のレベルだが、数が多い。
 そんな中、アキラは、剣のみで戦い、戦場を駆ける。

「……、」
 強く、なっている。
 マリスの半分の眼が、僅かに広がった。

 依頼であまり組まなくなったとはいえ、例えばヘヴンズゲートで、例えば港町で、彼の戦いは何度か見ている。
 そのときは自分自身戦っていた上に、戦場全てを見渡していたからあまり気づかなかったが、彼の成長は、著しい。

 少なくとも、マリスの知るアキラは、あの大群の魔物に突撃していくような勇気を持ち合わせていなかった。
 飛び込んで無事に戦い続けられるような実力も同様に、だ。
 この辺りの魔物は、アイルークのそれよりは遥かに強い。
 それなのに、彼は、戦えている。

「レイディー」
 小さく呟き、マリスは、アキラの遠方から魔術を飛ばそうとしていた魔物を討つ。
 アキラもその魔物は気にしていたのか、ちらりとマリスを振り返り、小さく頷いた。

 久しぶりだ、こんな感覚は。いや、初めてかもしれない。

 今まで、自分やアキラは、敵をほぼ一撃で屠ってきた。

 何の感慨も浮かばないもの。
 マリスにとって、戦闘とはそういうものだ。

 そうした力を持っていたマリスだからこそ、成長という存在を、ここまで肌で感じたことはなかった。
 強いて言うなれば、自分の姉が、魔術師試験を突破したときが、これに近い。
 自分が時に協力し、確実な成果をエリーが残したときは、心の底から喜んだのだと思う。
 だが、あまり覚えていない。
 そのときは恐らく、自分がそういう感情とは無縁だと思っていたからなのだろう。

 だが今、旅を通して、誰かが成長する様を見て、こんなにも、頬がほころんでいるのだ。

「レイディー」
 機械的に、彼にとって邪魔な存在のみを討っていく。

 そうすることで、アキラはさらに動きを上げ、順調に魔物を撃退していった。

 行ける。
 自分が全力を出さなくとも、アキラが具現化を用いなくとも。
 この程度の魔物の群れは、倒せるのだ。

 ヘルプではなく、サポート。
 マリスがその位置に移動すれば、アキラは伸びていく。

 思えば自分は、無縁ゆえに、そのことに気づかなかったのかもしれない。
 頭の中では理解していたつもりでも、現実に目の当たりにして、そのことに気づかされた。
 エリーはとっくに、それに気づいていたのだろう。

「……、」
 僅かに眉を下ろすも、あの力を使わないアキラと噛み合って敵を討っているこの瞬間は、楽しい。
 戦闘を楽しんだのは、初めてだ。

 それはきっと、彼が成長しているからだろう。
 彼が目指してくれているからだろう。

 あの具現化の力のみがあったアキラは、もういない。
 それでも、

「『スタートに過ぎない』。そういうもんなんすかね……、」
「はあ……、はあ……、へ?」
 結局大半をマリスが倒すことになっていたが、二十、三十といた魔物の群れを総て滅し、息を切らせたアキラが戻ってきた。

「何でもないっすよ……」
 マリスは小さく返し、アキラの腕に触れ、治癒魔術を流し込む。

 それは、かつての肩の脱臼を治すときより、何故か多めになっていた。

「それより、ここ、便利だな……、ほら、灯り」
「そうっすね……、魔術師隊の休憩所ともなると、照明具は優秀っす」

 メインルートに戻ったアキラとマリスが見上げているのは、各所に設置されたランプのような照明具だった。
 大広間の天井にも、それが設置され、全ての照明具は連動しているのか個別に点けずとも煌々と灯っている。
 魔力を流せば、その種類に問わず発光するマジックアイテム。
 これほどの規模ともなると、アイルークではまれにしか見られなかったものだ。

 松明を持たずに洞窟探索ができるという便利性に、アキラは後付け設定万歳というばかりに喜んでいたが、マリスはむしろ、入る前からそれが灯っていたことの方が気になった。

 やはり確実に、奥に誰かがいる。

「でもにーさん、強くなってるっすね……」
「お、マジで?」
 マリスからの純粋な評価に、アキラはからから笑った。
 戦闘で吹っ切れたのだろうか。
 先ほど平原で見せた影のある不自然な笑い方ではない。

 もう少し精神的には強くなって欲しい所だが、彼にはその笑い方を、損なって欲しくなかった。

 調子に乗ったように、大股で歩き、アキラは先陣を進む。
 洞窟内は照らされているが、曲がりくねっていて先が見えない。
 それなのに、彼の足取りに、迷いは薄れているように感じた。

「にーさん、やっぱり強くなりたいんすか?」
 その背中に、マリスは半分の眼を向けたまま、呟いた。

「……ああ。まあ、な」
 表情は見えないまでも、アキラから返ってきた確たる声に、マリスは小さく微笑んだ。
 やはり自分も、彼の成長を見届けたい。
 彼がどういう物語を紡ぐのか、それを、どうしても、近くで知りたいと感じる。

 マリスを有するこの組は、順調に、奥を目指していく。
 大広間に入る、その都度、マリスはサポートに回り、アキラに経験を積ませた。
 やはり、自分でも、できるではないか。

「……!」
「……?」
 大広間の魔物を倒し続け、その数が二桁に昇ろうとしたとき、アキラとマリスは足を止めた。

「なん、だ……?」
 メインルートの道が妙に単調になり、歩みを進める先の角、何かの影が蠢いた。
 それも、数体はいる。

「……、この道で、戦うのかよ……?」

 ついに姿を現した魔物の群れに、アキラは軽く周囲を確認し、剣を抜き放った。
 だが、それを、マリスが手で制す。

「マリス?」
「ちょっと待って欲しいっす……」

 マリスは目つきを僅かに鋭くさせ、現れた魔物の分析を始めた。

 現れた魔物の数は、四体。
 どれも同種のようだ。

 まるで土をねって造られた泥人形のようなその魔物たちは、道を塞ぐように横一列に並び、マリスたちに目も口もないのっぺりとした顔を向けている。
 単純に人型を模したような、余計の飾りのない魔物の背丈は、アキラ程度。
 そして体つきも、ほとんど一般の人間の太さと同じだ。
 口がないから当然なのかもしれないが、その人形たちは言葉を発さず、ただじっと、その場で身を固めている。

「マリス、なんだよ?」
 その人形たちをじっと見据え、同じように言葉を発さないマリスに、アキラは視線を外さないように呟いた。

 ただ並んでいるだけなのに、こちらをじっと見てくる魔物には言い知れぬ不安がある。
 敵意があるかどうかさえ分からないのが、それをさらに助長させた。

「……、なあ、マリス、ちなみに、あいつらなんて魔物だ?」
「……、強いて言うなら、ゴーレム族に似てるっすね」
「……!」

 そこで、アキラは、マリスが自分を止めた理由が分かった。
 マリスは、あの魔物を知らないのだ。

 今までマリスは、魔物が遠距離攻撃をするタイプなのか、近距離攻撃をするタイプなのか、はたまたその両方か、それのみの情報を与えていた。
 確かに、アキラの属性からしてみれば、相手の戦術さえ分かれば何の影響もない。
 日輪属性は、相性とは関係なく戦えるのだから。

 だが、今、マリスはアキラを止めている。
 それは、完全にノーデータだからなのだろう。

 ただ、マリスという存在から考えるに、彼女のデータバンクに魔物がいないなどということは考えにくい。
 それを考えると、アキラの頭に、相手の正体への道が一本に開かれた。

 マリスが分からないと回答した場合のケース。
 それが、つい先ほどあったではないか。

「まさか……、」
「召喚獣……っぽいっすね。召喚獣は、個性が現れるっすから」
「イオリ……か?」
「イオリさんの召喚獣は、ラッキーだけのはずっすよ……、っ、」
「って、増えてるじゃねえか!?」
 アキラが見据えている魔物たちの向こう、同じく四体の泥人形が横一列に並びながら現れた。
 その泥人形たちは、先に現れていた魔物たちの後ろにピタリと並ぶと、そのまま直立不動を保つ。

 計八体の泥人形が並ぶが、それはまだおさまらない。
 またも奥の角から、影が蠢き、近づいてくる。
 それも、多い。

 すると、戦闘の泥人形の顔が、僅かに上向きに変わった気がした。
 その無表情から、異常なまでの危機感を覚える。

「マリスさ~ん、すっげぇ嫌な予感がするんだけど……、」
「全員揃ったら襲ってくる、なんてことが起こりそうっすよね」
「……やる、か」
「っすね」

 アキラはもう一度広さを確認し、泥人形たちに跳びかかっていった。
 隊列を組んでいるとはいえ、単純に行と列を作っているだけだ。
 この狭さでは、連携を取ろうにも高が知れている。

 アキラは剣を、横なぎに振った。

「……、」
「っ―――!?」

 すると、並んだ以降微動だにしなかった泥人形たちは正に一糸乱れぬ動きで同時に後方へ跳ぶ。
 そして新たに現れた四体と合流。
 さらに、奥からも四体。

 先ほどよりも数歩離れた地点で、四×四の行列を作る。

「なんだってん―――っ!?」

 またもその地点で無言を保つのかと思えば、泥人形たちは全員同時に身をかかがめた。
 のっぺりとした顔つきが、まっすぐアキラに向く。

 そして、

「っ、」
 メインルートの幅を埋め尽くし、泥人形たちはそのまま突撃してきた。
 やはり、十六体が揃うまで待っていたのか。
 それがスイッチだったかのように、泥人形たちはアキラたちに攻撃を仕掛けてくる。

「―――らぁっ!!」
 だが、向かってきてくれるのならば楽なもの。
 どうやら近距離タイプだったらしい泥人形たちに、カウンターを放つようにアキラは剣を振るう。

 横一閃。
 その一撃は、前列の四体を捉えた。

 が、

「―――!?」

 想像していた以上に、ずっと抵抗が少ない。
 まるで空を切ったような感触に、アキラは体勢を崩した。
 だが確かに、前列四体はアキラの剣の切り口からもろくも崩れ去っていく。

「っ、にーさん!!」

 背後からのマリスの叫び声がなくとも、前列の四匹が単純な囮だったことにはすぐに気づけた。
 後列たちが、土と化した前列を踏み越え、襲いかかってくる。

 だが、身体は、立て直せない。

「―――!?」
 残った泥人形十二体の当て身を受ける直前、アキラの身体はぐんっ、と後ろに引かれた。
 身体を覆う銀の魔力。
 その使用者は、考えるまでもない。

「にーさん、とりあえず今だけは、後ろに……!!」
 マリスは一言そう叫ぶと、泥人形の突進を遥かに上回る速度でアキラを自らの後方へ送る。
 彼女の瞳に映るのは、無表情だが確かな殺意を持っている、泥人形軍団。

「レイリス!」
 その軍団に、マリスが腕を一本突き出せば、洞窟内を滑るように走る複数の矢。

 数は、敵と同じ、十二。
 マリスの放った銀の矢は、目の前の泥人形のように隊列を組み、対応するように向かって行く。

「……!?」
「っ、」
 だがその十二の矢は、敵の全てに届かなかった。
 アキラが何度も見た、通常の敵ならばすべからく滅していくマリスの魔術。
 しかし、前にいた二列、八体が襲いかかりながら身を守るように手を交差させたと思えば、そのマリスの攻撃を防御。
 泥が吹き飛ぶように爆ぜた向こう、後方に残った四体がまだ向かってきていることは、アキラにも見えた。

「っ、」
「!?」
 当然、マリスにもそれは見えていたのだろう。
 しかし、第二波を放とうとしたマリスをアキラは追い越し、アキラは土煙に向かって行く。
 スペース上、この手の相手に、攻撃の手は緩めてはいけない。
 放っておけば、入り口にまで退却させられる。

「―――、」
 土煙の向こうから現れた泥人形に、アキラは迷わず剣を振り抜いた。
 後列の泥人形は前列以上に堅く、強度がある。
 だが、アキラがインパクトの瞬間に魔力を込めれば所詮は泥人形。

 他の敵と同様に泥人形は両断された。

「……!!」
 たった、一体だけ。

「っ、」
 一体、いつから横一列に並ぶのを止めていたのだろう。
 アキラが一体を屠った瞬間、その隙に、土煙の中から残る三体が飛び出してきた。
 左右と、上方から飛びかかってくる泥人形たち。
 自分を取り囲むような三方からの攻撃は、アキラは流石に、身体を動かせない。

「レイリス!!」

 今度は、マリスはアキラの身体を引かなかった。
 ただアキラの後方から跳びかかってくる泥人形たちを銀の矢で射抜いただけ。
 ただの土塊になり、地面にべチャリと落ちると、いつしかそれは、洞窟に溶けていく。

 アキラが体勢を整える頃には、戦闘は、終わっていた。

「はあ……、はあ……、」
「大丈夫っすか? にーさん、」
「あ、ああ……、」

 この洞窟内で、マリスが自分をサポートするように動いていることは、アキラも気づいていた。
 だが、その上で、マリスが先陣を譲ってくれてなお、撃退数はアキラが五体、マリスが十一体という結果が残る。

「っ、」
 アキラは頭を振って雑念を追い払った。
 今は気にするな。
 今考えなければならないのは、自分たちを襲ってきた、召喚獣らしき泥人形たちのことだ。

「マリス、今の、なんか、」
「そうっすね……、やっぱり“戦われてた”っす」
 マリスの同意を得て、アキラも自らの予感が正確だという自信が持てた。

 先ほどの十六体の泥人形たち。
 一列目は、ただの囮。アキラも騙されたように、近距離攻撃を仕掛ける相手の体勢を崩すのが目的なのだろう。
 二列目と三列目は、防御と目くらまし。相手の攻撃を防いだ上で、土埃を上げ、視界を遮る。
 そして四列目は、本命。遮られた視界の向こう、目がない泥人形たちには関係ないのか列を解放し、相手に襲いかかる。

 アキラは一列目でつまずいたが、ある程度の者でも、一列目に体勢を崩され、直後に襲う二列目と三列目に対抗できても、目くらましを受けた上で四列目に襲われる。

 問題なのは、明らかに、相当な連携が取れていたということ。
 つまりは、召喚の術者が近い場所におり、その上で自分たちを殺そうとしていた、ということだ。

「……!」
「また来やがった……!!」
 アキラの息も整わぬ内に、奥の角の影が蠢いた。
 その一糸乱れぬ影の動きで、相手はすぐに想像がつく。

「本当に、複数召喚タイプっぽいっすね……。一体一体はともかくとして、何体もいたら……、」

 マリス頼りになる。

 マリスの言葉は、アキラにはそう聞こえた。
 あの泥人形相手に対抗できるのは、範囲攻撃が可能なマリスだけだ。
 アキラでは、攻撃の手が追い付かない。

「……、マリス。さっきラッキーにかけてた、速度上昇、俺に使えるか……?」
「……!」
 アキラは剣を構えながら、マリスに静かに問うた。

「ファロートは負荷が……、それに、慣れてないと、頭が追い付かないっすよ?」
「なら、認識能力も上げてくれ。できるんだろ……!?」

 マリスの否定的な言葉に、アキラは更なる注文を加えた。

 聞かれれば、大抵のことはできる、月輪属性の者に。

 だが、それこそ負荷は尋常ならざるものになるだろう。
 マリスも表情をさらに険しくしている。

 確かに、そんなリスクを背負うことはない。
 マリスに任せれば、自分は後ろをゆっくり歩くだけで先に進めるだろう。

 泥人形たちの連携など、マリスにとっては所詮弱者の小賢しい足掻きにしか見えないのかもしれない。

 だが、それでは、意味がない。

「……、」
 マリスは、アキラと先の道を見比べた。
 泥人形たちは、ついに角から姿を現し始めている。
 今度は、すでに十六体。
 すぐにでも、突撃してくるだろう。

「やらなきゃいけないんだ……!!」
「―――、」

 アキラはまっすぐマリスを見据えてきた。
 そんなことをされたら、マリスは断れない。

 彼は、止められないのだ。

「いくっすよ、にーさん!!」
「ああ!! 頼む、マリス!!」

 マリスは、手を振った。

―――**―――

「やっぱり、ここだったみたいだね……!」

 イオリのよく通る声が、広間に響いた。
 サクは注意深く、辺りを確認する。

「……、」
 サクとイオリが到着したのは、サクがこの蟻の巣で見た中で、最も大きな広間だった。
 建物は元より、もしかしたら宿舎が庭ごと入ってしまうかのような空洞。
 魔物を倒しながらの道中、イオリの説明によると、ここが最も主として使っている休憩所らしい。
 かつて、この巣を作った大型の魔物もここにいたそうだ。

 一番奥にあるゆえに通行こそ不便だが、魔物もわざわざ奥まで行くこともなく、入り口付近に密集しているがゆえ、かえって奥の方が安全らしい。
 地面には腰かけようなのかいくつも大岩が散乱しており、部屋の奥には、モルオールの魔術師団の所有地とでもいうように、巨獣の大きな瞳を模したエンブレムの団幕が掛けられている。

 その、団幕の下。
 大岩に腰かけ、まるで糸の切れた操り人形のようにうなだれている男がいた。

 イオリの声も届いているのかいないのか。
 団員服に身を包んだ男は、だたそのまま身体を動かさず、足の先の地面に視線を向けていた。
 サクが昨日見た、オールバックで固めていたような髪形は乱れ、ずれた眼鏡もそのままにかけ、沈黙を保っている。

「カリス!!」
 もう一度、イオリが叫んでも、変わり果てた副隊長のカリスは動かなかった。

「……!」
 いや、動いていた。
 サクが注意深く視線を向けたのは、カリスの乱れた前髪。
 彼自身の震えに呼応し、徐々に震度を増していく。

「何故……、何故……、」
「……?」
 ついに、呟きがサクの耳にも届いた。
 まるで極寒の地にでもいるように、カリスの身体は震え続け、呟き声は大きくなっていく。

「何故……、何故……、こんなことに……、」
「……カリス。……カリス=ウォールマン!! 本日の勤務態度について、君に話したいことがある!!」
 イオリが声を張り上げても、カリスの耳には届かない。
 だがカリスは、うなだれたまま足を地につけ立ち上がった。

「何故……、お前一人じゃないんだ……、イオリ……!!」
「……!」
 カリスがイオリに向けた顔が視界に入り、サクは寒気を覚えた。

 人間に、どのような所業をすれば一日でそんな表情になるのか。
 瞳は黒眼が異様に狭まり、頬はごっそりと削げ、顔面は蒼白。表情は、苦悶に見知恵いる。
 色彩も薄くざらついた唇をプルプルと震わせ、カリスは、絶対零度の視線を向けた。

 もし、彼から背筋を冷やすような殺気を感じなければ、飢餓に苦しみ、助けを求める人物に見えていただろう。
 だが、やはり、彼からイオリに向けらえる殺意は、微塵にも衰えない。

「よりによって……、勇者様方を……、巻き込んで……!!」
「……?」
 カリスの視線が初めてサクに向く。
 その表情は、イオリに向けていたものと一変、ただ自分の不幸を嘆く、哀れな男のものだった。

「お前が……、お前一人が……、ここにくれば良かったのに……!! 港町はどうした……!? お疲れの勇者様たちを、何故連れてきた……!!」
「……、向こうの方はもう片付いているだろう。悪いが“勇者様たち”はあの程度じゃ足止めできない」
「ふざけるな……。勇者様たちを……、こんな場所までお連れして……!! お前だけが来るはずだった。お前がっ、隊の問題にっ、図々しくも巻き込みやがった……!!」

 殺気一色で染まった怒気を飛ばし、カリスはイオリを睨みつける。
 もう間違いはない。
 カリスは、イオリを殺そうとしている。

「お前のせいで……、俺は……、俺は……、」
「……、」
 サクは沈黙を守ったまま、カリスの計画を想定した。
 港を襲い、町を壊す。
 そうなれば、魔術師隊は、町の復旧に尽力することになるだろう。
 とすれば、副隊長のカリスを探すために割ける人員は僅か。
 マリスがいたお陰で襲われこそしなかったが、このリオスト平原は危険地帯。

 イオリが実際に判断したように、戦力的に彼女がここにくる確率は高いのだろうが―――

「……、」

―――穴がありすぎる。

 隊を束ねるのもとして、イオリが町に残ることもある。
 そして、勇者様御一行は、まさしく今の通り、ここに来るかもしれないのだ。
 そもそも、カリス探索が、後回しになる可能の方が高いだろう。

 いずれにせよ、彼女一人がここに来るのは、正直微妙だ。
 ある種“賭け”のようなつもりで立てた計画かもしれない。
 だが、“しきたり”を考えれば、魔術師隊の内乱などという暴挙は、もっと高度な計画を立てなければ、あまりに危険だ。
 まともな思考回路で考えたものとは考えられない。

 そもそも、彼が、魔物を操れるということを前提としなければ立てることもできない計画だ。

「お陰で……、俺はっ、俺はっ、勇者様に……、手を……!!」
「……!」
「大丈夫。アキラたちなら、きっと無事だ」

 ほとんど独り言のようなカリスの言葉に反応したサクに、イオリは小さく呟き返した。

「色々聞きたいこともあるが……、まともに会話はできそうにないね。一つ聞いておくよ。カリス、何が望みだ?」
 努めてクールに、イオリはまっすぐカリスを見据えた。
 その返答が当然分かっているサクは、すぐに愛刀に手を当てる。

 未だ完全に信用できたわけではないが、自分たちの味方だとあれほどはっきり宣言した以上、イオリと立ち位置を同じにするべきだろう。

「イオリ……、お前を……、殺す……!! 仕方ない……、仕方ない……、そこの女も……、勇者様も……、知られた以上は……!!」
「……!?」
「勇者様に手を向けたなど……、そうしなければ……、俺は……、俺は……、終わりだ……、」
 殺意を向ける対象に“様”付け。
 どこか支離滅裂な物言いに、サクが眉をひそめた瞬間、大広間に地鳴りが響いた。

「っ、なんだ……!?」
「―――カリス、やる気か……!!」

 イオリの声が地響きの向こうから聞こえたと思えば、自分たちとカリスの中間の地面が、大量の隆起を作った。
 サクとイオリが一歩飛び退くように離れた直後、その隆起は人型の高さまで膨れ上がると、徐々に圧縮される。
 気づけば大岩ばかりだった空間に、数十、数百体の泥人形が現れた。

 いや、“隊”と表現すべきかもしれない。
 奥まで判断できないが、少なくとも列は二十、三十を上回っている。

 それらは規則正しく行と列を作り、岩の上に立ったカリスの演説を聞くかのように、サクとイオリに背を向けていた。
 いや、それが背かどうかは分からない。
 僅かに見えた端にいる泥人形の顔は、後頭部同様、今から顔を掘られる人形そのもの。
 関節やつま先で判断する必要があるほど、その人形には特徴がなかった。

「召喚獣……!!」
「……ああ、カリスも召喚術士だ」

 だが、数が多すぎる。
 それこそ、広間一体を埋め尽くすほどに。

「ラドウス……。殺せ」

 何と淡白な命令か。
 ラドウスと呼ばれた泥人形たちは一糸乱れぬ動きでサクとイオリにのっぺりとした顔を向けると、身をかがめて構えをとった。

「イオリさん、離れないように」
「ああ……、分かっている」
「まずは―――、」
 先手必勝とばかりに、サクは地を蹴った。
 イオリも同じく、駆けてくる。

 跳び込む先は、端に並ぶラドウス。
 間違っても、二人で離れて戦ったり、中心で戦って囲まれるようなことになったりしてはならない。

「っ、」
 ラドウスが動くよりも先、サクは愛刀を抜き放った。
 鋭く光る、イエローの閃光。
 その一閃が、明確に、角の四体を切り裂く。

「……!?」
 が、思った以上に手ごたえがない。

「サクラ!! それは―――」
「っ、」

 囮。

 イオリの声が届くより先、サクは素早く判断すると、緊急離脱し体勢を立て直す。
 どうやら、ラドウスたちに個性のないのも作戦の内なのか。
 サクがいた場所に攻撃担当の召喚獣が襲いかかっていた。

「その名で呼ぶのは、止めて欲しいのだが、」
「ああ、すまないね」
 イオリは小さく呟きながらも、投げナイフを召喚獣に投げ込む。
 狙いは先ほどサクに襲いかかっていた攻撃担当のラドウスだ。
 数に限りのある投げナイフ。
 使う対象は、囮や防御担当の相手ではまずい。

「イオリさん、彼は、これほどに……!?」
「っ、」
 極力囲まれぬように壁を意識しながら戦うサクは、隣で一対の短剣を振るうイオリに視線を移した。

 この軍勢。
 魔道士とは尋常ならざる力の持ち主だと聞いたことはあるが、このレベルでは彼一人で魔術師隊を名乗ることさえできそうだ。

「っ、僕の知っている限り、彼はここまでの実力じゃないよ……!!」
 確かにこれほどの大群を操れるのなら、彼一人で魔術師隊が管轄する地区を守りきれるだろう。

 だが、サクは一つ知っていた。
 こういう戦い方ができる方法を。

 魔術の対価は、魔力、時間、そして生命だ。

 瞬時に出した以上、時間は対価ではない。
 となれば、カリスが今、犠牲にしているのは、

「っ、早く止めないと、」
「ああっ、分かっている!」

 イオリの額にも、いつしか汗が浮かんでいた。
 どうやらラドウスたちは、集中してイオリを攻撃しているようだ。
 サクが先ほどから必殺の居合いを放っても、残る感触はあまりに軽く、囮ばかり。
 主力たちは、カリスの指示なのか、密集してイオリを襲う。

「……、」
 ここまで恨まれるとは、一体イオリはカリスに何をしたというのだろう。
 サクの脳裏に何か違和感が残るも、全力で刀を振るう。
 もう一々鞘に収めていられない。
 身体を回転させるように勢いを上げ、ラドウスたちを切り裂く。

 召喚獣が戦闘不能になっても大地に溶けるだけで、爆発しないのは幸いだ。
 この大軍が爆発したら、洞窟が崩れてしまうかもしれない。

「誰かが操っているのか!?」
「……、」
 サクはまたも囮だったラドウスを切り裂き、視線を岩の上に乗ったままのカリスに向けた。
 カリスの顔色は相も変わらず病人のようだが、目をぎらつかせ、まともな人間の表情ではない。

「っ、彼に聞いた方が早そうだ……!!」
 イオリは一対の短剣を束ねて左手に持つと、右手の親指と人差し指で輪を作った。
 そしてそのまま口に近づける。

「一人で大丈夫か!?」
「ああ、行ってくれ!!」

 イオリの意図に気づき、サクは距離をとった。

 ラドウスを切り裂きながら向かった先、振り返れば、イオリは指を口に近づけて、

「ラッキー!!」
 叫んだ直後、洞窟内に澄んだ指笛が響いた。
 するとラドウスの密集地帯、先ほどの隆起とは比べ物にならないほど大地が膨れ上がる。

 土の塊は徐々に圧縮され、先も見た、イオリの召喚獣を形作った。

「僕はカリスに向かう!! ここは任せた!!」
「ああ、行ってくれ!!」
 この程度の相手なら、しばらくは一人で大丈夫だろう。
 サクが叫び返した声を聞き、イオリはラッキーに一直線に突き進んだ。
 そしてそれに飛び乗ると、巨獣をカリスに向かわせる。
 進行方向のラドウスたちは、その力に弾き飛ばされ、イオリの進路を遮れない。

「カリス!!」
 イオリは高くなった視線の先、変わらず自分を睨みつけるカリスを捉えた。
 こうなってしまえば、彼の安否など気遣っている場合ではない。
 このままラッキーで突き進み、彼を、倒す。

「ラドウス!!」
「―――!?」
 途端、イオリの視界は遮られる。
 カリスが叫んだ直後、目の前に先のラッキーにも勝る大地の隆起が現れた。

「ぐっ―――」
 その隆起にラッキーがそのまま突撃した振動に、イオリは全力でしがみつき、弾き飛ばされないように魔力を身体中に纏う。

「―――!?」
 まるで交通事故のような衝撃の先、ラッキーが衝突した巨大な隆起から大木のような太腕が伸びてきた。
 その二本の腕はラッキーの肩を掴むと、待ち上げようとでもしているのか、全力で力を込めてくる。

「グッ、グルルッ!!」
「ラッキー!! 押し返して!!」
 イオリは叫びながら、巨大な隆起をラッキーの背から見上げる。

 いつしか圧縮されていたそれは、やはり表情がない泥人形。
 だがそれは、サイズは先ほどまでのラドウスを遥かに超え、体格も人型だが、重量感のある巨人のような存在。

 これは、カリスの召喚術の最終形態だ。
 イオリは自らの知識を呼び起こす。
 召喚獣は、魔力の量で、その大きさが決まる。
 特に、土から作るラドウスのような魔物は、魔力で形を整えておかなければならない。

 足元のラドウスたちは、所詮小さな存在。
 魔力は微弱でいいが、これほど巨大となると、必要な魔力は圧倒的に膨れ上がる。

 カリスは、この粋にまだ達していない。
 それどころか、足元の数の召喚獣を同時に出すこともできないはずだ。
 これは明らかに、カリスが生命を削っていることの証明。

「っ、クウェイル!!」
 巨大なラドウス相手に押し合いを不利と判断したイオリは、ラッキーの肩に伸びている腕に短剣を突き立てた。
 共に詠唱するのは、土曜属性の上位魔術。

 揺るがない、土曜属性の魔術。
 ゆえに、揺さぶられるのはそれに接したものとなる。
 その理に則してイオリの短剣から漏れた魔力は、ラドウスの腕を揺らし、身体を破壊していく。

「……、……、」
 イオリの攻撃にすら無言な口のない巨人は、しかし確かに魔術の影響を受け、身体を構成する土を落としていく。
 同じ土曜属性の召喚獣だが、短剣を媒体に直接身体に送り込まれては、流石に効果があるようだ。

 身体が壊れれば、ラッキーで、いける。

「かっ―――!?」
 短剣に魔力を押し流していたイオリの胸が、突如鋭い一閃で突かれた。

 ラドウスに突き刺していた短剣は、繋がっている腰に刺さっていたもう一本の短剣に引かれ、イオリと共にラッキーの背中を転がる。

「っ、っ、か、はっ、」
 ラッキーの背に肘を突いたイオリは、胸を突かれて詰まった喉を何とか開いた。
 一点が、異常に熱く、激痛を届ける。
 口に嫌な味を感じつつ、イオリが何とか立ち上がると、先ほどまでイオリがいた場所から、カリスが目をぎらつかせて飛び込んで来た。

「苦しめ……、苦しめ……、苦しめ……!!」
「っ、」
 一対の短剣で、カリスの攻撃をいなす。
 カリスが持っているのは、鉄製の細長い棍だ。
 それが先ほど、イオリの胸を突いた、カリスの武器。
 もしその棍が喉を突いていたかと思うとぞっとするが、もしかしたらカリスはわざと外したのかもしれない。
 言葉通りに、イオリに苦痛を与えるために。

「っ、」
 時に刺すように、時に払うように。
 狂気に満ちた瞳なのに、カリスは技術的な攻撃を仕掛けてくる。

 だが、その攻撃は、

「ぐ―――!?」
 カリスが身をかがめたかと思えば、イオリの鳩尾が鋭く突かれた。

「がはっ、はっ、っ、」
 その激痛に受け身も取れずに、イオリはラッキーの背を転がされた。
 尾の近くまで転がされ、身悶えしながら必死に身体を起こす。

「イオリは……、弱い……、弱い……、そうだ……、俺の方が……、」
「っ……、は……、は……、」

 カリスは未だ狂気に満ちた瞳を、イオリに向けていた。

 強い。
 そんなことは知っている。
 魔力を含んだ総合力はイオリに分があるが、体技はカリスの方が上だ。

 だが、いくらなんでも、ここまでの差はなかったはずだ。

「死ね……、死んでくれ……、」
「……!」
 今になって、カリスの身体から魔力が溢れていることに気づいた。

 発見が遅れるのも無理はない。
 カリスは足元のラドウスや、ラッキーと未だ押し合いをしている巨大なラドウスも召喚しているのだ。
 足場のラッキーの押し合いは、さきほどのイオリの攻撃のお陰か、今度は五分のようだ。
 そんなラッキーの召喚に魔力を使っているイオリのように、肉弾戦に回す魔力がそこまであるとは考えられない。

 この力の対価は、生命。
 今すぐ止めないと、カリスは燃え尽きてしまう。

「イオリ……、お前は、隊長の器じゃない……。俺が、一番相応しい。そうだ、そうだ、そうだ、」
「……、カリス……、」
「お前さえいなければ……、こんなことには……、最悪だ……、最悪だ……、最悪だ……、」
 あるいはそれは、イオリに言っているのではないのかもしれない。
 自分に言い聞かせているのか、カリスは呪詛のように言葉を呟く。

「……、」
 だが、例え対象がどうあれ、イオリにそれは届く。

 足に力が入らない。
 カリスが鳩尾を突いたときに土曜の魔力を流し込んだのか、身体の中で、まだ魔力が震え、暴れている。

 だがそれ以上に、耳が痛い。
 そして、胸も、だ。

 カリスが向けているものは、純粋に、イオリへの殺意。

 彼はこんな人間ではない。
 イオリはそう、確信を持って言える。
 こんな卑屈な性格ではないはずだった。

 だが、彼をここまで変えてしまった理由。
 それをイオリは知っていた。
 その一端を、自分が担っているのだ。

「……、」
 二年前、突如イオリは日常から切り離された。
 だが思ったのは、この世界で生きていくこと。

 それだけだった。

 元の世界は、それなりに好きだったはずだ。
 両親もいたし、愛犬もいたし、深い交友を結ぶ相手はいなかったが、学校生活もそれなりに充実していた。

 だが、この異世界は、イオリにとってあまりに刺激的だったのだ。
 魔法というものとの出会い。
 神族や魔族など、架空の世界の存在も、当たり前として捉えられている。
 町を出れば魔物が現れるなど、まるでゲームのようではないか。

 そんな世界との邂逅は、当時十六だったイオリの目を向けさせるのには、十分だった。
 もともと現実主義を地で行くような性格だったのに、ここまで未知の世界に憧れていたとは、イオリ自身驚いた記憶がある。

 元の世界への愛着も、都合のいいことに記憶が飛び、日々の中でさらに埋もれていった。

 そして。

 自分に宿った力に、“そう”名前を付けられたのはそれからずっと後のことだった。

「カリス。“そんなことは、分かってるさ”」
 イオリは震える足で、何とか立ち上がった。

「前に……、僕に“予知能力”があることは話したね……? あれは、本当だ」
 遠くで戦うサクには届かないだろう。
 イオリはただ、目の前の男だけに、その言葉を届ける。
 絶対に、他の誰にも聞かれないように。

 これは、“隠し事”。
 イオリが辿り着いた、一つの可能性。

「僕は、きっと、未来を視たんだ。スタート地点で、今から何が起こるのかを」
 出所は分からない。
 しかし、イオリは確かに視た。

 夢とは思えないリアルで、長い幻想を。

「“その予知によれば”、隊長だったのは……、君だ。僕は副隊長」
 カリスの身体がピクリと動いた。
 イオリが予知能力のことを話したのは、カリスだけ。

 そうなのだ。
 そもそもイオリが召喚術士を目指したのは、“予知で視た”カリスがそうだったから。
 魔道士として、勤務に実直な彼を、尊敬したからだ。

 恩師として。

 カリスは、自分とは違う。
 魔力こそイオリより劣るが、彼は実直で、見た目では分かりにくいが人間味があった。
 実力と人望を兼ね備えた隊長だったのだ。

「“僕が尊敬する君”には、隠し事を話そう。僕は、異世界から来た」
「……」
 カリスはイオリを睨みつけたまま、動きを止めている。
 信じてもらえなくてもいい。
 どうせ、自分も憶測の話を始めるのだ。

「どうやら異世界来訪者には、この世界は優しくてね……。色々恩恵を授かっている。魔力もそう。そして、予知能力のようなものも」
「……、」
 自分がここまで先を読めるのは、先を“視た”からだ。

 予知能力のようなものが働いたのは、たった一度。
 この物語のスタート地点で、イオリは自分の、全ての旅路を視た。

 流石にその内容総てを記憶できたわけではないが、イオリは、先を知っている。

 あるいは、魔術試験の内容。
 あるいは、大群の魔物が管轄区を襲う時期や戦略。
 その情報全てを、イオリは“使って”、ここに在る。

「理由は分からない……。その予知夢とも言えるものを、何故視たのかも。僕は“総てを知っているわけじゃない”から。だけど、こういう仮説を立てられた―――」
 イオリは、先を見てしまった目を伏せ、ゆっくりと開く。
 師に対して、言い訳はなしだ。
 不思議と今は、口が軽くなる。

 イオリが立てた、一つの仮説。

「―――僕が視たのは、きっと、物語の“あるべき姿”。僕が自分の予知通りに動けば、こんな“バグ”は、起こらなかった」

 “何が起こるのか分かる”。
 そういう力を、自分はきっと授かったのだろう。

 物語のあるべき姿を、識るために。
 物語のあるべき姿を、守るために。

 それなのに、それで、魔道士になるための手柄を荒稼ぎした。
 気づけばイオリは、隊長だ。

「僕は、世界を壊してしまった。予知能力にあかせて、ね」
 自虐的に、イオリは呟く。

 視えていた世界。
 そこにはこんな、“バグ”は存在しなかった。
 総てが整然と並び、世界はキラキラと輝いていたのだ。

 だが、イオリはその結末を、結末だけは、絶対に避けたかった。
 途中まではキラキラと輝いていた世界は、最後、黒く、濁っていたのだから。

 だから自分は動いたのだ。
 予知で視ていた世界に、背を向けるために。

 アキラには絶対に話せない。
 彼は、世界の陰りを極度に嫌う。
 予知で視た世界では、彼はそういう存在だった。
 そして、今もそれは変わっていない。

 本当に、自分は卑怯で、わがままだ。

 やはりあの予知は、オラクルだったのかもしれない。
 未来はこうあるべきだ、という。
 もしこの“しきたり”に縛られた世界で生まれた者が“それ”を視たら、天命だと受け入れた者もいるだろう。

 それに、異世界から訪れたイオリは、逆らった。

「色々“バグ”が多いのも……、僕が責任の一端をになっているんだろうね。そのせいで、君はそんなになってしまった。本当に僕は、図々しい」
 最早カリスに対しての言葉ではないかもしれない。
 イオリも、カリスも、誰に向けてのものなのか、一方通行の会話をする。

 もう、イオリには、先がほとんど分からない。
 この世界にできた“バグ”は、イオリが予知で視た世界を遥かに超えている。
 自分が“視た”世界の筋書きから、あるべき物語の姿から、すでに遠く離れてしまった。

 イオリが視た予知では、今自分に牙を向けているのは、“サラのはずだった”。
 自分に対する劣等感が増大し、彼女はイオリに牙を向けていたのだ。
 だから彼女を、昨日自分から離れないように手元に置いた。
 知っているからこそ、それを避けるために。

 それなのに、自分が世界を弄ったせいで、今度はカリス。
 これは、ここでの戦いは“刻”だということを示しているのかもしれない。
 だが、“視た未来”では、隊長として凛としていたカリスが、自分にここまでの劣情を向けてくるとは思いもしなかった。

「僕はやっぱり……、卑怯な上に、人望がないね……。どうあっても、人に恨まれるらしい」
 イオリはぼそぼそと呟く。
 胸は、痛い。

「……本当の友人が、できないはずだ」
 それほどまでに、自分は卑怯なのだ。

「だけど……、」
 イオリは胸の痛みを押し潰し、カリスに構えた。

「殺す……、殺す……、殺す……、」
 未だ呟き続けるカリスは、言葉が届いていないのか、狂気じみた瞳を向け続ける。

「……力が欲しい。“視てしまった未来”を、絶対に変えたい。それこそ、魔道士になるほどまでに、経験を積んで……!!」
 それほどまでに、イオリは力が欲しかった。

 “視えてしまった未来”を、変えたい。

 それが、イオリの、

「そういうのは……、言って、欲しかった」
「―――!?」

 イオリが見据えたカリスとの間。
 シルバーの光に包まれた男が、どこから現れたのかラッキーに飛び乗ってきた。

「ア、 アキラ……!?」
「はっ、はっ、はっ、」

 息を切らせ、身体中から汗を噴き出し、それでもアキラは剣を構えた。

「い、いつから……?」
「ずっと近くにいたぞ……。ラッキーに乗ろうとしていた泥人形倒してたんだよ……!!」
「……!」

 言われてイオリがラッキーの足元に視線を移せば、泥の塊が大地に溶けていっている。
 よくよく考えれば、巨大ラドウスと押し合いをしているラッキーに、イオリを狙っていた小さなラドウスが乗って来なかったのも妙な話だった。

 だが、足元のそれ。
 その、最早、量、と表現できる数は、あまりに多い。
 これを、彼一人で行ったのだろうか。

「ああ……、今、俺、スター状態……、だから……、」
 アキラはさらりと口から吐き出したつもりだったのに、いつしかほとんど呂律が回らなくなっていた。
 向こうでサクと戦っているマリスをちらりと見る。

 彼女にかけてもらった速度上昇魔術、ファロート。
 同時に認識能力も上げてもらわなかったら、アキラはその勢いのまま壁にでも激突していただろう。

 まるで世界全てが自分を残してスロー再生になったような感覚。
 そのくせ、視力が高くなり、人の会話や音はより高度に、正確に拾えるという反則級のマリスの魔術。
 その力で、アキラは泥人形たちの戦術など意に介さず撃退し続けていた。
 もしかしたら、エレナがこういう身体能力にあかせた戦いをしているのかもしれない。

 だが、その対価は、先ほどからアキラの身体を襲い始めた激痛。
 どうやら自分は、実力以上の力を使うことになると、やはり苦痛を強いられる運命らしい。

「……、」

 だが、今は倒れられない。

 イオリの言葉は、確かに耳に届いていた。
 まだ完全に信じることはできないが、彼女は未来を視たらしい。
 そしてその力を使い、未来を変えてしまったことに、責任を感じている。
 そんなもの、口調から、いくらでも拾えた。

 だが、

「イオリ。お前の視た未来。俺はそこで“具現化”を使えたか……?」
「……、」
 アキラは確認の意味も込めて、小さく呟いた。

 自分の胸のつかえも、今ここで、取っておきたい。 
 マリスの魔術が体を蝕み続けても、この確認はしたいのだ。

 自分が結論付けた、歪な世界の最大の要因。

 その銃の、存在の意味を。

「……いや。君はそんなこと、できなかったよ」
「……そっか」

 アキラは少し、肩を落とした。
 勇者の力と喜んでいたそれが、今度こそ、自分とは別個のものだと認識させられたのは、少し辛いのかもしれない。

 だけど、この世界にある“バグ”の正体。
 やはりそれは、アキラの持つ、あの銃だ。

 この世界に、“バグ”を作っている存在は、イオリだけではない。

「だったら俺は、お前よりこの世界に“バグ”を作ってる」
 イオリの言葉を聞けば、彼女の作った“バグ”など可愛いものだ。
 巡り巡って何かの影響を出しているかもしれないが、それも些細なものだろう。

 対してアキラは、物語のあるべき姿を壊しながらここまで来ている。
 あの銃の力によって、伏線も、想いも、総てを蹂躙して。
 それをバグと捉えるのなら、アキラの所業は、それこそ最悪だ。

 何のことはない。
 世界の“バグ”は、やはり、アキラの力のせいなのだ。

 イオリの予知能力の出所は、分からない。
 あの銃の送り主も、未だ分からない。
 だが、それさえ使わなければ、この世界の“バグ”はなかったのだろう。

 だから、自分が見つけた道は、これで合っている。
 具現化に頼らないほどに、強くなればいい、と。

「ならもう、使わない……!!」

 随分自分も、変わってきたものだ。
 もしかしたらこれは、マリスの魔術による強化で、気が大きくなっているからだけかもしれない。
 だけど、それでいい。

 頼りない自分は、こういう風に気が大きくなっているときにしか、でかいことは言えないのだ。
 だが言えば、自分はそれを、守ろうと思えるだろう。

「“バグ”はもう、こりごりだ……!!」
 らしくもないことを考える羽目になった、“バグ”の作り手。
 その“バグ”は、世界に陰りを落としている。
 だったらそれは、避けたいではないか。

 そうすることで、世界は優しさを取り戻す。

「折角だから、一度くらいは見たかったかな……、」
「……!」
「ラッキー!!」
 イオリが小さく呟いたと思えば、短剣を仕舞い込み、ラッキーの背に手を当てた。
 すると今まで均衡していた巨獣たちの押し合いが、一気に優位に傾く。

「アキラ、僕はこれから、ラッキーに全力で意識を向ける……!! 君は、」
「……、ああ、」
 アキラは剣を構え、カリスと向かい合った。

 未だカリスは、ぶつぶつと何かを呟いている。

「あんな彼は……、もう見ていられない……」
「……、分かった」

 イオリの言葉を背に受け、アキラは一歩踏み出した。
 カリスもアキラの動きに呼応するように、手にした棍を構えた。

「殺す……、殺す……、」
「……!」
 最早カリスは、アキラが“勇者様”であることを失念しているのかもしれない。
 狂気の色が増した瞳を、アキラに向けてくる。

 人相手は初めてだ。
 だが、どうみても、説得が通じる相手には見えない。

 何が起こったかは知らないが、とにかく今は、彼を戦闘不能にすることだ。

 多少の傷を負っても―――

「……、」
 今のアキラの広い視界には、ほとんど全ての泥人形を葬り去っているマリスが見える。
 土曜属性の相手に苦戦していたサクに合流し、蹂躙するように戦い始めて数分。
 シルバーの閃光は、未だ衰えずそこにある。

―――彼女が何とかしてくれる。

「っ―――」
「―――!?」
 アキラの突撃に、カリスの目が見開いた。
 サクに並ぶのではないかというほどの、アキラの速度。

 カリスにしてみれば、技術が低いその一撃は、しかしその速度ゆえに、彼を棍ごと弾き飛ばす。

「が―――!?」
 うめき声を上げたのは、ラッキーから弾き落とされたカリスではなく、その一撃を繰り出したアキラ。

 流石に虫が良すぎたか。
 アキラの身体の中で、マリスの魔術が暴れ回る。
 この反動ゆえに、マリスは使用を控えていたのだろう。
 もしかしたら、この戦闘が終わったあと、アキラは廃人になるかもしれない。
 それほどの、激痛。

 だが、動く。

「―――っ、」
 アキラは落ちて行ったカリス目がけ、ラッキーから飛び降りた。
 すでに足元には泥人形たちはいない。
 残党も、他の者が当たってくれている。

 自分は、カリスだけを考えればいい。

「ぶ―――っ!?」
 向かった先、カリスが棍を振り払った。
 僅かなフェイントを入れての一撃。
 アキラは空中で、それをそのまま腹部に叩き込まれた。

「っ、がっ、」
「死ね……」
「―――!?」
 アキラが転げた先、いつしか詰め寄っていたカリスが棍を振り下ろした。
 マリスの速度上昇がなければピクリとも動けなかったろう。
 アキラはさらに転がり、その一撃を避ける。
 だが、カリスはそれに鋭く反応すると、離れて立ち上がったばかりのアキラに棍の追突を見舞った。

「って、つよ―――」
 剣をコンパクトに振り、それをいなしてアキラはさらに距離をとる。
 だが、そのアキラの動きも想定内だったのか、カリスは微塵にも大勢を崩さず、アキラに襲いかかってきた。

「っ―――」
 マリスというチートな存在の助力を得てなお、アキラはカリスに押されていた。
 攻撃に移ろうにも、これだけ近接されていては防御で手いっぱいだ。

「ちょっ、待て、って……!!」
 カリスは先ほどのアキラの突撃をインプットし、早くもアキラの動きを封じている。
 これが、魔道士というものなのか。
 大量の召喚獣を出し、疲弊はしているはずなのに、強い。

 アキラの身体は軋みを上げ続ける。
 さっそく先ほど使わないと宣言した力の魅力を感じる羽目になったが、アキラは雑念を振り払った。

 ただ、こういうときは、普通、勇者は相手を圧倒すべきではないのだろうか。
 それなのに現状、比喩ではなく、殺されそうになっている。

 広い視野に映るのは、泥人形たちを倒し終わったマリスとサク。
 そして、ラッキーと共に巨大な土の塊を地に還したイオリ。 

 気づけばこの戦闘は、完全にアキラ待ちになっていた。

「っ―――」
 アキラは、全力でカリスから離れるように跳び、遠くに着地。
 それを追って突撃してくる、カリス。

「もう少し―――」
 アキラはカリスに向かって駆け出した。

 カリスの横なぎに振る棍に合わせ、アキラは剣で防御の体勢をとる。
 ここまでは、カリスも計算通り。
 このあとは単調なアキラの攻撃を受け流しつつ、再び近接するだけだ。

 だが、

「―――!?」
 カリスが放った棍の一撃には、ほとんど何も、抵抗が残らなかった。
 振り抜いてしまった棍が弾き飛ばしたのは、持ち主のいない剣。
 カリスも、そうするとは思わなかったろう。

 まさか、戦闘中に、武器をあっさり手放すような者がいるとは。
 だがそれも、今のアキラに相当な速力があれば、成り立つ戦略。

 アキラは横なぎの棍の一撃を跳んで回避すると、無防備なカリスにその勢いのまま向かって行く。
 抵抗のない敵に攻撃すれば、隙ができる。
 それは先ほどアキラが、カリスの召喚獣で学んだこと。

「―――かっこつけさせろ!!」

 ファロートにより急加速したアキラの拳が、カリスの顔面をまっすぐ捉えた。
 カリスの眼鏡が原形を完全に崩壊させて弾き飛ぶ。

 それと同時に、カリスの意識も刈り取った。

「……アキラ。攻撃するときに喋ると、舌を噛むよ」
「いや、今だけはマジでかっこつけさせてくれよ……」
 小さく笑いながらのイオリの酷評に、アキラは息を荒げながら拗ねた顔を向ける。

 だが、気分は爽快だ。
 自分は初めて、ボスのような存在を、あの銃を使わずに倒せたのだから。

 そしてイオリに覚えていた違和感も、徐々に薄れていく。

「にーさん!!」
「?」
 アキラがどこか満足げに剣を拾うと、マリスが全力で近づいてきた。
 わざわざ飛翔魔術も使い、一瞬で詰め寄ってくる。

「なんだよ、マリ―――」
「今すぐ座ってじっとして―――」
「―――!!!?」

 マリスの顔が目前に現れたと思えば、アキラの視界は完全に暗くなった。
 身体から、弾き飛ぶようにシルバーの補助魔術が消え去る。

「っ、ぅっ!?」
 耳の中から何かが外に噴き出し、目玉は抉りだされるように疼き、身体の骨という骨が弾き飛ぶ。
 そんな感覚を同時に受け、アキラはその場に崩れ落ちた。

「っ―――」
 もう声も出せないほどの激痛に、アキラの顔が歪む。
 マリスは最早死体に近い有様のアキラに、全力で魔力を流し込んだ。

 いくらなんでも無理がある。
 あの速度上昇の魔術を、こんなに長時間使っているのは。

「マリーさん、アキラ様は!?」
「―――、」
 マリスに僅かに遅れて到着したサクに、マリスは何も返さなかった。
 今は、アキラの救命が第一優先。

 流石にサポートに徹しすぎた。
 敗れた副隊長のカリスの方が遥かに軽傷だ。
 やはり、あの速度上昇魔術は、容易にかけるべきではなかった。

 彼が調子に乗りやすいなどということは分かっていたはずなのに。
 拒もうと思えば拒めるこの補助魔術を、アキラは文字通り身体が果てるまで使い続けてしまったのだ。

 洞窟内が、カッ、と銀の色で満たされる。
 マリスは加減を考えず、膨大な魔力をアキラに流し込んだ。

「……、が、が、が、」
「……、」
 アキラに、身体の激痛に声が漏れる程度には、余裕が戻ってきた。
 だが相変わらず表情は苦悶に満ちている。
 アキラの身体のダメージは、以前の脱臼よりも遥かに酷い。

 でも―――

「……、」
 アキラの表情が、徐々に和らいでいく。
 回復魔術はあまり得意ではないと言っても、マリスにとって、だ。
 並みの術者では絶望的でも、何とかなる。

「かた、勝った……、かた、」
「……分かってるっすよ」

―――彼は、勝ってくれた。

 アキラを抱え起こし、ほとんど抱き付くようにマリスは魔術を込め続ける。
 求めた強さに、きっと彼は近づいた。

 彼にはもう、ヘルプは必要ではない。
 必要なのは、やはり、サポートなのだ。

 彼は、本当に、

「……? どうかしたのか?」
「……、いや、」
 二人から視線を外して洞窟の奥を睨むイオリに、サクが歩み寄ってきた。
 イオリは小さく目を伏せ、今度はカリスに視線を向ける。

 隣では、底なしと思えるほどの膨大な銀の魔力が、未だ放出されている。

「マリサスに……、気圧されたのか……、」
「?」
 小さく呟いた言葉に、サクは怪訝な顔を向けてくる。

 だがイオリは、目を瞑り、カリスの身体を抱えた。

「いや、もう……、何もないよ。さあ、帰ろう」

―――**―――

「……それじゃあ、もう分からないのかよ?」
「ああ」
 アキラが小さく吐き出した疑問に、イオリはあっさりと答えた。
 アキラが腰を下ろしたソファーの奥、事務机の上、イオリは手元に下ろしていた資料をさらさらと読みながら、ときおり何かを書き込んでいる。

 ここは港町、ウォルファールのセーフハウス。
 一昨日、アキラとイオリが話していた副隊長のカリスの仕事部屋だ。
 未だ意識の戻らない彼からの許可は当然取っていないが、イオリは我が物顔で部屋の書類を物色し、神妙な顔つきで筆を走らせている。
 カリスは職場にプライベートな物は持ち込まない、と断言してのイオリの行動だが、それはそのまま、彼の仕事だということに当てはまる。

 港は結局、数日閉鎖らしい。
 しばらくは、この町に留まることになるだろう。

「僕が視た世界から……、軌道が大きく逸れているみたいでね。……まあ、あまり役に立ちそうなことは言えないだろう」
「……、そっか」
 その話題にはやはり触れられたくないのだろう。
 イオリは、自分を“バグ”を作った者と考えているのだろうから。

 その“バグ”を、アキラは昨日見ている。
 イオリの話では、あそこで自分たちに牙を向けてきたのは、カリスではなかったそうだ。
 それだけ言って口を閉ざしてしまったイオリだったが、言いたくないのであれば触れるべきではないのだろう。

 アキラにとって必要な情報は、やはりこの世界には、“バグ”が確かにあるということ。
 ただそれも、イオリの予知が、物語のあるべき姿だったという仮説を前提にしなければならないのだが。

「それより、アキラ。身体は大丈夫なのか?」
「…………正直言うと、座ってるのもきついんだ、俺」
「はあ……、それにしては随分早起きだね。日も昇ったばかりだよ?」

 腰を下ろしたソファーから、一歩身じろぎしただけで、アキラの身体に痺れたような感触が走る。
 単なる筋肉痛、と考えることもできるが、頭の中にも鈍い痛みが響いていてはそう楽観的に結論付けることはできなさそうだ。
 ときおり熱に浮かされるように視界も歪むし、何よりどこか、肌寒い。
 脳に後遺症が残ったら、と、恐怖に身をすくませたのも何度目か。

 だがそれでも身体は、この時間に目を覚ますことを強要してきたのだけれども。

「朝の鍛錬……。参加しなくていいと言われていたのに、勤勉だね」
「お前ほどじゃないだろ……。寝てない、とかないよな?」
「……、」

 イオリは無言を返してきた。
 昨日の戦いでイオリも負傷しているはずなのに、彼女の目の前にはうず高く資料が積まれている。

 アキラは、膝が砕けているような感覚を味わいながらも、朝早くからセーフハウス内をうろついていた。
 この部屋の前を通ったときに、物音がしなければこんな時間に人がいるとは思わなかったろう。

「……、まあ、寝ろよ」
「……、」
 イオリはまたも、無言。
 涼しい顔で、山から次の資料を取り出した。
 アキラがドアを開けたとき、崩れた資料を死にそうな顔で拾っていたことからして、とっくに限界を迎えているだろうにもかかわらず。

 それでも、人がやるべき仕事をイオリは続ける。

「……お前さ、予知で視た世界と違うってだけなんだろ?」
「?」
「だからさ、そんなに責任感じなくても、」
「……、……いや、それでも、さ。カリスがあんなになってしまったのは、僕の責任。あるべき世界が壊れるのを、君は嫌うだろう?」

 僅かに長く思考を走らせ、イオリは返してきた。
 やはり、疲労は溜まっているようだ。

 だがアキラは、そこまでイオリが気を張る必要はないと感じる。

 イオリが視た未来。
 それは所詮、起こらなかった未来、だ。
 それこそ、パラレルワールドのようなものだったのだろう。

 そこから逸れたというだけなのに、イオリは『世界を壊した』と言っている。
 それともやはり、イオリにとって、尊敬するカリスの豹変は堪えるものがあったということだろうか。

 いや、それ以前に。

「……、」
 アキラはカリスに打たれた胸をさする。

 あの男、どこまでイオリを恨んでいたというのだろう。
 後で聞いた話によれば、生命は対価になるらしい。
 そしてあの戦いでは、彼はそれを差し出して力を増強していたのだろう。

 生命を対価にする方法は、限られた者しかできないらしいが、それでも、そうする者はごく少数だ。

 命をかけてまで、倒したい相手。
 その対象が、イオリだった。

 だが、魔術師隊内でそんなことが起こるというのは、やはり妙だ。

 イオリに話を聞いても、またも口を閉ざしてしまう。
 彼女が視た未来。
 そこでは、その伏線は回収できたのだろうか。

 そこでは、彼女はこんなにも沈んだ表情を浮かべていたのだろうか。

「でもさ、お前より俺の方が“バグ”作りまくってる気がするし、」
「じゃあアキラ、この仕事、変わってくれるかな?」
「…………、ほう。あれかあれか、」
「……分かったアキラ。僕が悪かった」
 冗談交じりにイオリがアキラに向けてきた字で埋め尽くされた一枚の紙は、見事にアキラの頭を通り過ぎていく。

 たが、小さくても、苦笑でも、笑みを浮かべてくれたことに、アキラの気は少し楽になった。
 やはりイオリの表情は、親しみが持てる。

「まあ……、気を遣ってもらって、ありがとう。元の世界で逢えていたら……、気が合っていたかな?」
「リアルの話は止めようぜ。今じゃこっちがリアルだ」
「ああ、やっぱり気が合いそうだ」
 イオリはまた、小さく笑う。
 やはり余裕がないのだろうか。
 もし、こっちが素なら、取り繕うのは止めて欲しいとアキラは思う。

「本当のこと……、言うとさ、」
「?」
 ついに限界が来たのか。
 イオリは資料をばさりと置くと、眼精疲労を押さえるように目頭を強くつまんだ。

「僕はきっと、こういう劇的な変化を待っていたんだよ。“バグ”を作りたい、とね」
「……、」

 劇的な変化。
 イオリの言うそれは、昨日の“魔族との戦い”のことを指しているのだろう。

「何故か視てしまった未来。その終着点を変えたくて……、二年間、奔走したんだ。だけど、変わったのは、自分の周りの小さな環境だけ。運命っていうものの力は、そう簡単に覆すことはできないらしい」

 その終着点を、イオリは決して話さない。
 だが、イオリはそれを、絶対に変えたいと言う。

 その終着点をアキラは当然知らないが、自分がイオリと同じ状況であったら、どうなっていただろう。

 絶対に避けたい未来。
 それが、目の前にある。

 やはりイオリと同じように、運命に抗っただろう。
 強引にでも力を求めて、力によってそれを捻じ曲げる。

 この世界は、“しきたり”に縛られているのをアキラは何度も見てきた。
 それがどんな色をしていても、天命というものを無条件に受け入れ、それを全うする。

 だが、アキラやイオリのように、思想が自由な異世界からの来訪者は、それに抗いたいと思うだろう。

 アキラのように、“バグ”を取り除いて、世界を戻したいと願う者。
 イオリのように、“バグ”を作ってまで、世界を壊したいと願う者。

 その根源は、同じ。
 ただ、未来が恐いからだ。
 自分が望んだ未来を創ることは、やはり、止められない。

 そのために、力を求めることも。

「でも、“バグ”を作った以上、落とし前は付けるよ。だからカリスの仕事は、僕がやる」
「……、」

 これが、魔道士、というものなのだろうか。
 いや、これが、管理職に就く、というものだろうか。

 彼女の責任感には、やはり、アキラは劣等感を覚える。
 少なくとも、今、あの仕事を手伝えるだけの能力が欲しい、と。

「ところで、さ。アキラ」
「?」
 イオリは大きく伸びをして、まっすぐアキラを見据えてきた。

「この世界には、君も感じた通り“バグ”が多い。それも、運命を捻じ曲げているような“バグ”がね」
「……、ああ」

 イオリに出会ってから、アキラは特にそれを感じている。
 自分の銃を筆頭に、マリスやエレナもその部類なのだろう。

 彼女たちを“バグ”などと表現したくはないが、確かに物語のあるべき姿から遠ざかっている元凶は存在している。

「認めたくはないけど……、僕が視た未来の方が“世界のあるべき姿”。そんな気がする。だからそれから逸れるのは、やっぱり“バグ”なんだよ」
「……、」
 やはり、“お約束”から離れているという違和感を覚えた以上、それは“バグ”と認識されるのだろう。

「そして、自己防衛なことを言うつもりはないけど……、僕以外に“バグ”の担い手はいるはずだ。それも、圧倒的な、ね」
「……、一人、心当たりがいる」

 圧倒的。
 そう聞かれれば、アキラは自分以外に一人、運命を捻じ曲げられるだろう存在を知っていた。

 “運命というものを与えられる存在”に、アキラは遭っているのだ。

「……、ちなみに、それは?」
 イオリも分かっている。
 一昨日アキラが話した中に出てきた、運命の担い手の存在を。

「アイリスとかいう、“神様”だよ」
「……、」

 カリ。

 イオリはまた眼を閉じ、爪を噛んだ。
 やはり確認だけだったのだろう。
 彼女のシミュレーションは、“神”という存在の思考を超えられるだろうか。

「でも……、自分で言ってて何だけど……、おかしくないか? 神様ってどっちかって言うと、運命を守りそうな気がするんだけど」
「……、確かに、ね」
 イオリはゆっくり目を開けた。

 やはりイオリも、アキラの仮説に信憑性を感じていないようだ。
 確かにアキラは、あのアイリスとかいう高圧的な神に違和感を覚えた。

 だが、神に、世界に“バグ”を作るメリットがあるだろうか。
 世界があるべき姿であることは、神にとって望ましいことのはずだ。
 何故なら世界のあるべき姿とは、一様に、“正義”と定義される存在に都合良くなっているのだから。

「……、けど、それならもう一人容疑者がいる」

 イオリの口調は、完全に犯人捜しだ。
 だが、アキラは身体を前に乗り出した。

「“魔王”」
「……!」
 イオリがさらりと口に出した言葉は、アキラにも予想ができていたものだった。

 運命によってメリットを受けるのが“神王”だとするなら、当然、デメリットを受けるのはその対極に位置する“魔王”だろう。

 アキラは思わず、右手を見た。
 未だに出所の分からない、アキラのご都合主義の力。
 今、最も身近にあり、最も影響力がある“バグ”の作り手。

 もし、“バグ”を魔王が作っていると考えるのなら、その力の出所も当然同じとなる。

 ならば、この力は、

「だけど、それが妙なんだよ……。“勇者”に力を与えることが、“魔王”にとって利に働くとも思えない」
 イオリのシミュレートは、そこまで進んでいたようだ。
 アキラの考えを読むように、イオリはまた目頭を押さえながら呟いた。
 確かに魔王が“バグ”を望んだとして、敵に力を与えることは明らかにやり過ぎだ。

 だが、イオリにそう言われても、アキラは背筋が寒くなるのを抑えられなかった。

 神ことアイリスの言葉を思い出す。
 今の魔王は、英知の化身、ジゴエイル。何を企んでいるか分からない、と。

 アキラには想像もできないような謀略が存在しているのではないか、と、勘ぐってしまう。
 やはりこの銃の力は、封印した方がいいのかもしれない。

「神王が作り手なら、メリットがない。魔王が作り手なら、やり過ぎ。だったら……、その両者が作り手だとしたら……、……駄目だ、流石に限界みたいだ。ヒントも少ない」
 イオリは資料を山に戻し、椅子を引いて立ち上がった。
 アキラが見上げたその表情は、どこか生気がない。
 やはり推測通り、イオリは寝ていなかったのだろう。

「アキラ。また話そう。悪いが、僕は少し、」
「あ、ああ。お疲れ」
 今のアキラも歩いたら同じような動きになるだろう。
 ふらふらとした足取りのまま、イオリはアキラの後ろを通り過ぎ、部屋を出て行った。

「……“バグ”の作り手、か」
 イオリを見送った景色は、天井に変わった。
 ソファーに行儀悪くも足を投げ出し、意味もなく右手をかざしてみる。

「……、」
 会話が消えた部屋の中には、外からエリーたちの声が入ってくる。
 今のアキラに、そこに参加する精力は残っていないが、どこかもどかしい。

「……、力、かな、やっぱ」
 意味もなく、しかし真意を、アキラは呟いた。

 このもどかしさは、力があれば蹂躙できる。
 昨日、そう考えた。
 それは今も、変わらない。

 だが、このまま魔王討伐を目指すべきなのだろうか。
 もし自分たちの旅が本当に魔王の思惑通りなら、それこそうまい話ではない。

 目に見えている、二つの“異常”。
 それは、どうご都合主義を重ねても、解明できないアキラの銃とイオリが視たというパラレルワールド的な予知。

 銃の方は、“バグ”を作る以上、“神王”には不都合。
 また、相手に力を与え過ぎている以上、“魔王”にとっても不都合。
 それは、さっきも結論付けられた。

 予知の方はどうだろう。
 “神王”にとって、物語のあるべき姿を守らせる役が必要だったとする。
 だが、イオリはその終着点を避けたいと言っていた。
 そう考えるような奴にそれを視せれば、イオリのように“バグ”を作るだろう。
 当然、望むべきことではない。

 ならば、“魔王”にとってはどうか。

 いや、それ以前に、“お約束”の存在。
 自分たちが“バグ”と表現しているということは、その“お約束”に身を委ねるべきだと思っているということだ。

 先ほどイオリは、アキラはあるべき世界が壊れるのを嫌うと言っていた。
 確かにその通りだ。
 世界はそうやって、輝くのだから。

 だが、今は、それにすら恐怖を覚える。

 “お約束”の存在意義は、一体何なのだろう。

 自分が覚えている、数々の違和感。

 それは、“お約束”に対してのものなのか。
 それとも“バグ”に対してのものなのか。

 種別ができない。

 そして結局、今回の事件も、釈然としないまま終わってしまった。

「……、だめだ……、」
 アキラはイオリのように目頭を押さえた。

 この推測は、未来予知という未知の力を前提としなければ進められない。
 論理や理論以前の問題。
 そんな不確かな足場では、アキラは一歩も進めないのだ。

 やはり世界の裏は追うべきではないのだろうか。
 こんなにも、頭と胸が痛い。

 それとも、自分が変わったのだろうか。
 もっと無邪気に、自分は優しい世界を謳歌しているはずだったのだから。

「……、」

 アキラは自分というものを持っていなかった。
 今まで物語を受け取るだけで、感想を持たなかったのだから。

 そんな人間が訪れたのは異世界。
 言語は通じるとはいえ、右も左も分からない“そこ”に落とされた。

 そしてその世界は、陰りを見せ始めている。
 複雑さを増し、どれが伏線で、どれが無意味な杞憂なのか分からない。

 “バグ”が多すぎる。

 迷子が迷い込んだ迷路。

 そこで、迷子は、アキラは、一体何ができるのだろう。

「……、考えるの……は……、やっぱ……、慣れない……、なぁ……、」
 小さく、そう呟き。

 アキラはいつしか、寝息を立てていた。



[12144] 第十話『踊る、世界(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2018/09/17 21:23
―――**―――

「イッッッオリーーーンッ!!」
「っ、エレナ、頼むよ」

 暴風雨に襲われたイオリに、エレナは甘栗色の髪をピクリとすら動かさず、大きな欠伸を返した。
 町を歩けば十人が十人振り返りそうなその麗しい顔つきも、今は騒音に不機嫌そうに歪ませている。
 胸元が開くシャツに、念のためと羽織っているカーディガンを適当に直しながら、エレナは呆れかえったような表情を目の前の二人に向けていた。

 朝なのにきっちりと魔道士のローブを着こなしているイオリと、青みがかった短髪を振り乱しながらイオリに抱き付くティアの二人は、傍から見れば魔道士と、それに憧れる子供のよう。
 実際話の内容も、子供が魔道士にねだっているようなものだったりする。

 イオリが仲間に加わってから、一週間ほど。

 早朝、という時間を考えていないようなティアの大声が向かう先は、ほぼイオリになっていた。

「あっし、ラッキーに会いたいですっ!!」
「っ、いや、だから、アルティア、ラッキーは、」
「いやだから、私のことは、」
「それは無理なんだ。人として」
「まだ何も言ってないのにっ!?」

 “勇者様御一行”が訪れる宿舎には早朝大声が響く。

 そんな通説がエレナの中に完全に形成されるほど、ティアは今日も絶好調。
 宿屋の店主が今すぐに怒鳴り込んできても、なんら違和感は無い。

 一週間は経つというのに、未だにティアのイオリへの興味は収まらないらしかった。
 離れている分にはいいと思っていたエレナも、流石にそろそろあの口を塞ぐべきではないかという考えに至り始める。
 寝起きで機嫌が悪いというのだからなおさらだ。

「しかし、良く懐いているな」
「あの子のあれは、いつものことでしょ」
 ティアとイオリから一定の距離を保つエレナの隣に、小さく笑いながら紅い着物を羽織った少女が並び立った。

「まあ……、そう、だな」
 小休止でもいれているのか、汗が浮かぶ額をタオルで拭いながら呟くサクは、小さく呟く。
 戦場に在れば鋭い顔つきになるのにもかかわらず、今はエレナとは対極の、和んだような表情を向けている。

 断言できるが、ティアに、癒しはない。
 エレナは再度欠伸をしながら、宿舎の入り口の階段に向かった。

 見上げた空は、僅かに曇っている。
 ただ、北の大陸にいたときよりは気候は安定し、早朝の冷えた空気も清々しい。
 いっそ、このまま眠り込めたら幸せな心地を味わえるだろう。
 だがそれも、たった一人の少女が出す音量で遮られるのだけど。

「そんなに眠いなら、寝てればいいじゃないっすか」
 最初からいたのだろうか。
 階段に座り込んだエレナに、ほとんど無音な少女が呟いた。
 だぼだぼの黒いマントを羽織ったマリスは、サクと違い、まるで発汗しておらず、人形のような涼しげな表情を浮かべている。
 マリスの色彩の薄い眼は、むしろ彼女の方が眠そうに、いつも半分ほど閉じていた。

「あのねぇ……、あんたが朝練なんてやり出してんのに、一人だけ寝てろって?」
「自分のせいなんすか?」
 今度は自分に静かに向けられた半分の眼に、エレナは睨み返した。

 どういう心境の変化か、マリスが早朝に顔を出すようになってから早一週間。
 つまりは、イオリが仲間に加わり、“勇者様御一行”が港町にいたときから、だ。
 ただ彼女は、自己の強化というよりは、連携の方に重きを置いている。
 マリスのサポートは彼女そのものが戦うよりは見劣りするが、それでもそつなくこなしているのは彼女の才を裏打ちしているようだった。

 そろそろ、依頼の組分けも、くじ引きにでもなるかもしれない。

 いつしか六人が宿舎の庭を埋めている。
 そんな中、自分だけが宿舎で眠っているというのは何となく面白くない。

 結果、“勇者様御一行”は、近年まれに見る早起き集団に変わっていた。

「……、」
 変わった、と言えば、エレナもそうだ。
 前の自分は、そんな状況でも無関心に眠り込んでいただろう。

 運命に引きずられた、としか表現できなかったこの旅は、自分にとって、形を変えているのかもしれない。

「イオリン、マジ頼みますよっ! 前は見せてくれたじゃないですかっ、ちっちゃいラッキーをっ!! あたしゃ、あんにゃろーめのっ、ちょーちょーちょーちょープリチーな顔が忘れられずっ!!」

 エレナも以前、イオリが操る召喚獣を見たことがある。
 どうやら召喚獣は流し込む魔力に寄って伸縮自在らしく、イオリが僅かな魔力で召喚した手乗りサイズのラッキーは、まあ、可愛く見えなくもなかった。

 ただそのラッキーは、特にティアに、かなり好評だったのだけは事実だ。

「おねげぇしますよぉぅっ!!」
「だから、意味もないのにラッキーを呼ぶのは、」
「意味ならありますっ!! 可愛いは正義っ!!!」
「それを意味ないって言うのよ―――」
「―――ふむぐぅっ!? いだっ、いだいいだいっ!!?」
 ついに、エレナは動いた。

 宿舎の入り口から飛ぶようにティアに襲いかかり、口を掴んで塞ぐ。
 がっちりと決まったエレナのアイアンクローは、万力のようにティアの顔を締め付けた。

 これ幸いとイオリが一歩距離を取ったのをエレナは見逃さなかったが、顔を押さえてうずくまるティアはそれどころではない。

「うごぅっ、顔がっ、ファイヤーッ!!?」
「助かったよ、エレナ」
「……、」
 やはり、土曜属性の者は好かない。
 小さく微笑んで見据えてくるイオリに、エレナは睨みにも似た視線を返す。

 港町に滞在したのは、約五日間。
 イオリの仕事が終わるのよりも早く港が復旧していれば、エレナは強引にでも船に乗っていたかもしれない。

「……、……、いようっし、ふっかーつっ!! さあ、イオリンッ!! ラッキーをっ!! さあっ、さあっ、さあっ!!」
「ティア。あんた、あの二人みたいに走ってくれば? ついでに探してくるとか」
「おっ、おうさっ! 私にっ、ま、か、…………はっ!!? エレお姉さま!! あっしは今っ、俗に言う厄介払いというものを理解した気がしますっ!!」
「あん?」
「ひぃっ!?」

 やってられない。
 エレナはため息にその言葉を乗せ、のそのそと入り口に戻った。
 マリスとエレナは、小さく苦笑している。

 ちらりと振り返った背後、再びティアはイオリにせがみ始めていた。

「強弱以外の属性間の相性って、本当にあるんすね……」
 どかり、と階段に腰を下ろしたエレナに、マリスが呆れながら呟いた。

「……、にしても感情制御が下手すぎよ、あの子」
「? それは、どういう?」
「知らなくてもいいことよ」
 エレナはちらりとサクに視線を送った。
 眉間に僅かにしわを寄せて。

 サクが知らないのも無理はない。
 所詮、血液型占い程度の話だ。

「水曜属性の人って、土曜属性の人に惹かれるらしいんすよ」
「……、そう、なのか?」
 サクは、ティアにからまれている、と表現できるイオリに視線を向けた。
 惹かれる、を遥かに超越しているような気もするが、あの光景を見せられてはその話の信憑性は僅かに上がる。

「ちなみに、木曜属性の者は何に惹かれるんだ?」
「ちょっ、何でいの一番に私の話が出てくるのよ?」
「純粋な興味、だ」
 エレナの睨みもさらりとかわし、サクは知識の宝庫とも言えるマリスに視線を向ける。

「水曜属性っす」
「……、ほう」
「言っとくけど、占い程度、よ?」
「エレねー、何気に詳しいっすね」
「っ、」
 それきり、拗ねたようにエレナは口を閉ざした。

 だがその表情を見ながら、サクは気づかれないように含み笑いをする。
 占い程度らしいが、面白い。
 そう言われてみれば、ティアの面倒を一番みていたのは、エレナだったような気もする。
 もっとも、言われて意識する、というのがそういうものの温床なのだけれど。

「まあ、占い程度っていっても、現にそういうのはあるじゃないっすか。“惹きつける力”なんていうのは……、ほら、」
「……!」
 マリスがだぼだぼのマントから出した指は、宿舎の外を差していた。
 それを追って見えてきたのは、何故か全力疾走をしているアキラとエリー。

 本日の罰ゲームを受ける羽目になった二人のコンビは、競い合うように宿舎の庭になだれ込んでくる。

「……、何やってるんすか? 二人とも」
「……、こいっ、こいつっ、がっ、最後っ、きょっ、競争っ、しようっ、とかっ、」
「あっ、あんっ、あんたがっ、いっ、言い出しっ、たっ、んじゃっ、なかっ、っ、たっ?」

 必死に隣の男が訴えた言葉を否定するように声を出したのは、同じように倒れ込んでいるマリスの姉、エリー。
 どちらがオリジナルか、というようなほど似ている双子のエリーとマリス。
 その差異は、髪や瞳の色彩が薄いマリスと違い、姉のエリーは赤毛を有していること。
 他にも近しい人間には分かる雰囲気の違いというものがあるが、現在最たるものは荒ぶるばかりの息遣いだろう。

「……察したっす」
 息も絶え絶えなエリーに、マリスは小さく頷き返す。

 そして、その隣。

「はっ、ごほっ、はっ、」
 “勇者様”ことアキラは黙り込んで、ひたすら息を整えることに集中していた。
 言葉にならなかっただろう声を、マリスは拾ってくれたようだ。

「……、……、」
 アキラの身体は汗に塗れ、正直もうこれが朝練でいいのではないか、というほど身体が熱い。
 アキラが朝これほどの距離を走ることになったのも、隣で同じように息を整えている女が、公正を期すためとか言い出し、サクのモーニングコールを禁止したせいだ。

 殊勲にも、新たに到着した町並みを記憶しようとしていたというのに、最後の長距離ダッシュで消し飛んだかもしれない。

「おおおっ、アッキー、エリにゃん!! おかえりっ!!」
「た……、ただ……、いま……、」
 大体は罰ゲームを受け、アキラの隣を走っているはずのティアが、びしっ、と手を上げて駆け寄ってくる。
 その元気があるのなら、半分でもいいから今の疲労を受け取って欲しい。

「お、おまっ、え、そういや、なんで、今日っ、」
「おうおうおうっ!? あっしの早起きの秘密を聞きたいんですかいっ!?」
 声を出す酸素も惜しみ、アキラは頷く。

「そう言えば私も気になっていた。私やイオリさんより先にここにいただろう?」
「ふっ、ふっ、ふっ、」
 サクの視線も受け、ティアは得意げになって笑った。

「ほらほらほらっ、寝付けないことってあるじゃないですかっ!! 布団に入っても何か色々考えちゃって……、いやっ、変なことじゃないですよ!? そりゃあ興味はありますけどっ、って、きゃはっ、またまたまたっ、何を言わせんですかっ!!」
「……、」
 声が出せればこの暴挙を止められるのだろうか。
 だが酸素を欲するアキラの身体は、口から言葉を吐き出してくれない。

「で、まあ、気づいたら大分時間が経ってるじゃないですかっ!! そこであっしは考えた。寝なくてもいけるじゃないか!? と!! そんなこんなで、あっしは今日徹夜です!! このハイテンションも、実はそれゆえにっ、だったりっ!!」
「……、」

 アキラは言葉を返せない。
 だが、そこでティアは僅かに表情を曇らせた。

「ただ……、いけると思ってたんですが……、もう限界で……、ねむ……、く……、きゅぅっ、」

「うわっ、馬鹿だーーーっ!!!」

 途端ふらつき始めたティアに、アキラはようやく、大声を絞り出せた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 クラストラス。
 中央の大陸、ヨーテンガースの北西部に位置するこの港町は大層な賑わいを誇っていた。
 他の大陸の港からの連絡は、ほぼ全てこの町に集約され、各地の名産品も商店街にずらりと並ぶ。
 ときおり潮の匂いが町並みを包む中で、それ以上の活気が人口と比例して溢れ返っている。
 どこか肌寒かった、アキラたちが数日宿泊したモルオール大陸の港町、ウォルファールとは空気が違った。
 その活気は、昨晩到着したばかりだというのに、アキラたちをすでに呑み込んでいる。

 周囲を城壁のような険しい岩山が囲っているこの大陸の、唯一の入り口と言えるこのクラストラス。
 ただ、このヨーテンガースの人口が北部に密集しているのには、交通の便以上の理由があった。

 ヨーテンガースの南部は、“死んでいるのだ”。

 当然、誰も思わないのだろう。
 世界最高の激戦区、魔王の牙城の傍に住みたいなどとは。

 その上、ヨーテンガース大陸の中央にも巨大な岩山、そして岩山以外の中部は人と魔王の垣根を作るかのように大樹海が広がっている。
 魔王の脅威からすれば心許ない防波堤だが、人の身と比してあまりに広大なその大樹海は、総てを阻むよう。

 上の一部が繋がっていない八の字のように、不可侵の場所が存在する。
 北部と南部は、同じ大陸に在って、そうではない。

 ゆえに、“双子大陸”。
 ヨーテンガースをそう称する者も、少なくはない。

「本末転倒。とてもためになる言葉よね」

 その、クラストラスの宿舎。
 エレナはベッドに足を投げ出しながら、隣のティアに呟いた。
 聞いているのかいないのか、かけ布団に顔まで埋ませている完全寝不足のティアの面倒を、エレナがみることになったのは何の因果か。
 その上熱があり、同室の自分がその保護者になるのは、ある意味自然かもしれないのだけど。

 割高だった宿舎の料金の都合上、女性陣六人の部屋割は当然二人部屋三つになり、エレナの同室は騒音発生機のティア。
 頑固反対したエレナだったが、寝るときだけは静かだと、今まで相部屋を担当していたサクに説得され、一人部屋を謳歌していた自分にティアはあてがわれていた。

 こんなことなら、無限を誇る自分の財源から料金を取り出せば良かった、と思い至り、しかしそれは、あの正妻に猛烈に反対されたのだとため息を吐き出す。
 お陰で残りの面々は自由の身で、依頼に向かってしまった。
 それなのに、窓から見える影が短くなった今も、エレナはティアと共に留守番だ。

「……、」
 今までの自分なら、どうだったろう。
 そんなことを、ぼんやりと思い浮かべた。
 一人部屋確保のために、勝手に部屋を一つ増やしていたかもしれない。

 やることもなく、のんびりと見上げた天井は、今まで宿舎より清潔感溢れる新木の木目。
 この港町の規模からか、宿泊施設は田舎のそれより質が高い。

「にしても……、やることねぇわぁ……、」
「……いややっ、ほんっっっと、申し訳ない。その上風邪とは……、」
「……はあ、あんた学習能力あるの?」
 どうやら目を覚ましてはいるらしい。
 いつもより遥かに音量の低いかすれ声に、口を閉じさせる意味でもエレナは冷たく返した。

 ティアが熱を出したのは、これで二度目だったりする。
 一度目はモルオールに近づいたとき。
 ティアは、大陸が変わるたびに倒れていた。

 原因は即座に分かる。
 彼女は、気候が変わっていることも一切考えず、駆け回っていたのだ。

 季節の変わり目は風邪をひきやすい。
 それは当然、旅をして気候が変わるときも同じこと。
 完全な通説になっているそれを、何故こうも無視できるのか。
 しかも倒れる直前まで喚き散らしているのだから、誰も彼女の具合の変化に気づけない。

 病気など吹き飛ばしてしまうようで、そうではないティア。
 そんな彼女は、一体いつまで駆け続けるのだろう。

「みなさんは……?」
「依頼よ、依頼。二組に分かれて……、ああ、そうそう。今度から依頼の組分け、くじ引きになるって」
 エレナは一応とエリーが残していったメモ用紙二つをぞんざいに折り畳んだ。
 依頼書の写しであるらしいそれらには、それぞれ魔物討伐だの積荷護衛だのと記されてあった。

「そうですか……、エレお姉さまは?」
「誰のせいでここにいると思う?」
「たはは……、ほんっっっとに、」
「いいから寝てろっての」

 こんな元気のない声を聞いていては、こっちまで調子がおかしくなる。
 エレナは適当に視線を泳がせ、ベッドの頭付近に台で止めた。
 そこには、ティアが昨日買って読んでいた漫画が置いてある。
 大方、この話に感化でもされ、眠れなくなったのだろう。

 エレナは気だるげに左手でそれを掴み、パラパラとめくる。
 依頼の報酬の分配で得た金を、各地の本屋で消費しているのは、ティアにこの旅の緊張感が無いからだろうか。
 ただ、旅立つ際には必ず処分し、邪魔にならないようにしているのだから別段言うことはない。

「おおっ、エレお姉さま、興味がありますか?」
「……、別に」
 ざっと見たところ、少女向けではなく、少年向けの本のようだ。
 都合良く力が増え、敵を討っていく、お約束の。

 エレナは、この手の話のどこが面白いのか分からない。
 現実というものは、これほど輝いた世界ではないことを良く知っている。
 世界は、“主人公”以外には冷たいのだ。

 歴史を見れば、“勇者様御一行”の旅も、キラキラと輝き、ハッピーエンドが約束されているように思える。
 だが、その裏。
 その旅路で倒れた“勇者様御一行”もいたはずだ。
 語り継がれるのは、魔王を討てた勇者のみ。

 他の勇者は、語られないほど、寂しい結末を迎えたのだろう。
 いや、もしかしたら、後世に残された勇者の物語も、美談に変わっているのかもしれない。

 自分たちの旅路は、“神話”になれるだろうか。
 この結末は、語られるほどの存在になるだろうか。

 そんな不安が、この世界には満ちている。

 いやだからこそ、こうした物語は世界を輝かせるのだろうか。
 我らが勇者様も、こういう漫画をティアから借りてよく読んでいる。

 彼はこういう話が好きだ。
 キラキラと輝く世界の陰りを嫌い、その輝きに胸を躍らせる。
 それは、周知の事実。

 だが逆に、こう思ってしまう。

 彼は、世界の優しさを信用していないのではないか、と。

 甘い部分を遠くから眺め、そこから一歩も動かず、胸を躍らせる。
 もし世界が優しいと確信しているのなら、その世界に飛び込めるはずだ。

 総てを見るのを嫌うのは、果たして、世界を愛している者なのだろうか。

「エレお姉さま、それ、面白いですよ……。仲間と力を合わせて……、強くなって……、ちょーちょーちょーちょー熱いです、よ?」
「……よくある話ね」
「それが、いいんじゃないですか。お金足りなくて、次の巻を買えなくなったのが不覚です……、」
「……、」
 言うほどの話なのだろうか。
 エレナが手にしたのは、五巻。
 知らない登場人物が、我が物顔で現れ、よく分からない話をしている。

「私、思うんですよ」
「……?」
 登場人物紹介のページを流し読みしていたエレナに、ティアのか細い声が届いた。

「どうしたら、そういう人たちになれるのかなぁ、って」
「……、なに、あんた? 現実と夢の区別もつかないの?」
「たはは……、」
 分かっては、いるのだろう。
 物語の彼らは、きっと、演じている。
 物語のあるべき姿を崩壊させないように、自分に与えられた役割を遵守しているのだ。

 だが、そう考えれば。
 現実にも、そういう思考はある。

 自分のキャラじゃない。
 そんな言葉を聞いたことはエレナも何度もあるのだ。
 その上、自分もそうしている。
 少なくとも自分のキャラは、アホな理由で倒れた人間を看病するようなものじゃない。
 そう、思っている。

 それが自分の、“キャラクター”、だ。

 それは同時に、自分が何かの“流れ”に飲み込まれていることにもなる。
 自分は、物語はこうあるべき、という“流れ”に。

 そういう“流れ”は、何から生まれたのだろう。
 普通に考えれば、現実がまずあって、物語が生まれたはずだ。
 だが物語は、現実に影響を与える。

 ファンタジーがリアルに近づいているのか。
 それとも、リアルがファンタジーに近づいているのか。

 そしてその境界線は、一体どこだろう。

 いつか聞いた、卵が先か、鶏が先か、という話を思い出す。

 現実の“想い”は、何から生まれたのだろう。
 物語の“想い”は、何から生まれたのだろう。

 “理想”という存在を産み出したのは、一体、何なのだろう。

 現実と物語は、相互に影響し合って、何かの道を作る。
 その道は、どこから見れば綺麗で、キラキラと輝くのだろうか。

「でも……、そういう風になりたいです」
「……、あっそ」
 らしくもないことを考えるのは、自分の“キャラ”じゃない。
 エレナは、今度は最初のページから適当に文字を追う。
 やっぱり五巻程度では、登場人物は弱い。

 これが、物語のあるべき姿なのだろう。

「だって、いいじゃないですか……、そこの人たちは、友達たくさんできてるんですよ?」
「っ、」
 思わず、ストン、と本体だけを落としてしまった。
 手元に残ったカバーを、緩慢な手つきで取りつける。

「あんたが言いたかったの、そこ?」
「へへへ、まあ、そうです」
「はあ……、」

 完成した本を、今度はそういう視点で眺めてみる。
 確かに、仲間が多い。

 まるで、自分たちの旅のようだ。
 行く先々で、出逢いがある。
 旅をしている以上、当然といえば当然だが、この主人公は確かに“刻”を刻んでいた。

 数多くの人に、影響を与えて。

「やっぱり、『自分はここにいる』っていうのを、私は残したいと思っているわけでして、」
「……、なに、あんた死ぬの?」
 病気で気弱にでもなっているのか。
 ティアは布団を掴んでさらに潜り込んだ。

「エレお姉さまは思ったことないですか? 『死んだらどうなるんだろう』って」
「……、」
 エレナは言葉を返さなかった。
 だが、そのせいでなかなか寝付けなかった夜が、確かにあったのを思い出す。
 もしかしたら、世界にいる誰もが思ったことかもしれない。

「私は、消えるのが、すごく恐いです。ときどきそんな不安が浮かんで……。実は、昨日の夜も、そんなことを思ってたりして、」
「それで、動きたくなったわけね?」
「たはは……、」

 布団の中から聞こえる、ティアのくぐもった笑い声が震えているのは、風邪のせいだけではないかもしれない。

「もしかしたら……、漫画家の人も、“想い”を残したかったんじゃないかなぁって思うんですよ、私は。私が友達をたくさん欲しいのも、自分の“想い”を知ってくれている人が欲しかった、とか思ってたり、」
「……、」

 自分がいなくなった世界。
 それは、想像もできない。
 だが、それはいつか必ず来るのだ。

 だから人は、何かに“自分”を残す。
 媒体は、様々だ。

「だから……、そういうお話、羨ましいんです。知ってますか、その本、話題作なんですよ?」
「これが……、ねぇ……、」
 息のついでに吐き出したようなエレナの声は、部屋の空気に溶けていった。
 いつしか半分ほど読み進めている自分に驚きつつも、また、ぱらぱらとページをめくる。

「いいですよね……、そういう風に、色んな人に、“想い”を伝えられて」
「……、私はその重い話を聞き続けなきゃいけないわけ?」
「なんですかぁっ、私にシリアスは向かないんですかぁっ、」
「“キャラ”じゃないでしょ」

 エレナは本をぱたんと閉じた。
 これ以上、途中から読むのは限界がある。

「でも、エレお姉さま……、」
「?」
「エレお姉さまは、イオリンのこと、あんまり好きじゃないですよね?」
「……ええ」
 突如出てきた名前にも、エレナはあっさりと返した。
 僅かにでも動揺するのは面白くない。
 それほど、水曜属性と土曜属性の者は好かないのだから。

「私は……、和気あいあいとしている方が好きなんです。“想い”を伝えたり、伝えられたりするのって、楽しいじゃないですか?」
「あんた、この旅がどういうものなのか理解してるの?」

 ようやくティアの話のゴールが見えてきた。
 ティアは仲良し子好しがいいのだろう。

 だが、今はもうそんな次元の話をしているわけにはいかない。
 魔王の牙城がある大陸についているのだ。

 これから自分たちは、ここを起点に路銀を稼いだら、まっすぐにそこを目指すつもりでもある。
 どうせこの面々の旅は、そこで終わるのだ。
 別に、必要ない。
 意地などではなく、客観的に。

「でもエレお姉さま……、イオリン、なんか寂しそうにしている気がするんですよ、あっしは。アッキーと話しているのは、よく見るんですけど、」

 それは、エレナも僅かに勘づいていた。
 あの女は、何か、隠し事をしている。
 その隠し事を、おそらくアキラは知っているのだろう。

 二人で何やら相談をしているのを、エレナも何度も見ている。

「……、それは、あのアキラの従者も同じでしょ」
「サッキュンの無口とは違うじゃないですか。なんか、『おぬし、自分のすべきことに迷いがあるな』、みたいなっ、」

 随分と、良く見ている。
 旅に出て、色々多感にでもなっているのだろうか。

「……、かっこつけてんじゃないわよ」
「……それに、エレお姉さまも、」
「……?」

 ティアは緩慢な動きで布団をめくり、顔を出した。
 風邪のせいか、布団の中の熱気のせいか、顔は少し赤い。

「エレお姉さま、私はね……、エレお姉さまが本気で笑うとこ、見たいんですよ」
「あん?」
「ひぃっ、ほらっ、スマイルスマイルッ、」

 下らない話だ。
 エレナは伸びをし、適当な動きでベッドから降り立つ。

 随分と、良く見ている。

「? エレお姉さま?」
「ちょっと買い物にでも行ってくるわ。このままベッドの上にいちゃ、眠くなるし」
「おおおっ、あっしもっ、お付き合いをっ、」
「寝てろ。うろちょろするな」
「うわわっ、今までで一番恐いっ、」

 殺気に交じりに身を浮かせようとしたティアを睨みつけ、エレナは緩慢にドアに向かって歩き出す。

「もう昼過ぎね……。なんか消化の良さそうな物買ってくるわ」
「おおおっ、何たる光栄っ、」
「黙れ」
「エレお姉さまっ、そういう命令文は止めて下さいっ、マジ恐いですっ、」

 やっぱり、水曜属性の者も好かない。

 エレナは髪を適当に撫でつけ、ちらりと台の上の漫画を確認した。
 あの口を黙らす意味でも、次の巻とやらを買ってきてやろうではないか。

―――**―――

「……遅くね?」
「しっ、」

 ついぞ我慢できなくなって呟いたアキラを、隣に並び立つエリーがたしなめた。
 だが、アキラから漏れた言葉に、ここに集まった全員から同意のようなため息が返ってくる。

 クラストラスの町の中、船着き場に集まっているのは、十数名の男女。
 その誰もが、旅慣れた様子で鎧やローブを着込み、目付きはどこか鋭い。
 アキラたち同様、この依頼を受けた旅の魔術師だ。

 だが旅慣れた彼らも、青空の下、潮風撫でるこの場所は、気候のお陰で僅かに心地よいが、数時間ほど立っているとなると流石に肌寒く、指先を擦り合わせている者もいる。

 この場に集めた張本人の若い女性は、全員から無言のプレッシャーを背中で感じ、今か今かと海を眺めていた。

「……、お……、おっかしいなぁ……、遅いなぁ……、すぐ来るって聞いてたんだけどなぁ……、」
 ときおり小さく、言い訳のような言葉を職員のようなその女性は漏らしていた。
 アキラたちが到着したときには愛想よく元気に挨拶していたというのに、今では頼り無げに茶色の長髪の毛先を指で弄っている。

「……まあ、アキラ。今日の依頼は一日潰すことになるとは聞いていたから、これも依頼の内だよ」
 背中に痛い視線を受け続ける女性が流石に不憫に思えてきたのか、エリーとは反対の隣に立つイオリが、僅かに大きな声で言葉を吐き出した。
 あの女性は、恐らくこの面々を集めるためだけに、一時的に雇われたにすぎないのだろうからなおさらなのだろう。

 今回から組分けはくじ引きと相成った本日の依頼は、アキラとエリー、そしてイオリの三人が一つの組、残るマリスとサクがもう一つの組ということになったのだが、ここまで時間を浪費していては、マリスたちの依頼は終わっている可能性もある。
 依頼内容は詳しく知らないが、向こうの班はマリスを有しており、魔物の討伐など一瞬で終わってしまう。

 対してこちらの依頼内容は、荷物運搬の護衛。
 暇潰しにエリーに聞いてみたところ、とある“儀式”を行うための道具を岩山に運びたいそうだが、その荷物が一向に届かないというのが現状だ。
 この大人数から察するに、かなりの量の荷物なのだろう。

「……、」
 そんな中、アキラが集まった旅人たちを眺めていると、一組、奇妙な集団が目に入った。

 女性、だろうか。
 濃いオレンジのローブ纏い、同色のフードを頭からすっぽりと被った小柄な少女がいた。
 海を眺めるように遠くに立ち、沈黙を守っている。
 吹きつける潮風にローブがなびいているのに、その少女は、まるで空間を刈り取られているように、静かにそこに在った。
 翻りかけたローブを両手で押さえる姿も慎ましく、顔がフードで隠れているのが悔やまれる。

 あの少女は、一人でこの依頼を受けているのだろうか。

「……、あんた、どこ見てんのよ?」
「え……、え?」
 隣の声に顔を向ければ、エリーが僅かに視線を強くし、見上げてきていた。

「断じて言うが、やましい気持ちはない」
「……どうだか」
 エリーの声に、アキラは渋々視線を戻す。
 だが、これ以上、船の到着を健気に待つ職員の女性を見ているのは、どことなく忍びなかった。

「まだなんですか?」

 ついに痺れを切らしたのか、集団の一人、どこか柔和な表情の男が女性に歩み寄っていった。
 早めに到着したはずのアキラたちよりも早くこの場に立っていた男だ。

「い、いえ、もうすぐ……、便が遅れているようで、」
「いや、寒いんじゃないかって思ってさ。向こうにいた方が良くない?」

 ブロンドの長い髪を、紺のローブの背にそのまま垂らしている男は、その女性の身を気遣うように微笑み続けた。
 風が吹きつけない納屋のような場所に誘導され、その女性は震えながら嬉しそうに頬笑み返している。

「ラースさんって言ったっけ? あの人。優しいわね……」
「へっくしっ、」
「今あたしは、本物の天と地ってもんを見たわ」

 エリーの嫌味にも、アキラは首を青い上着にうずめながら首を振る。
 依頼の内容が長丁場でないのなら、とっくに魔力で身体を温めたいくらいだ。
 ラースのように、他の人間を気遣っている場合ではない。
 他の集まった者たちも、いい加減に立っていることを放棄し、海から離れた適当な場所で座り込んでいる。
 仕事をしている認識としてはどうかと思うが、町に戻った者すらいるのだ。

「……、だからもっと着込んだ方がいいんじゃないって言ったのよ」
「いや、いけると思ったんだよ」
「はあ……、やってることはティアと変わらないね」
「今、俺は猛烈にマリスに会いたい」

 あの少女がこの場にいれば、無尽蔵の魔力で自分たちに風が吹きつけないようにしてくれるはずだ。
 だがそのアイディアも、隣のマリスの姉に睨みつけられ四散する。
 アキラは頬をポリポリとかきながら、視線を泳がせた。

「……あ、」
「? 何よ?」
「いや、お前じゃない。イオリ、ちょっといいか?」
「僕?」

 アキラは不機嫌そうに喉を鳴らしたエリーを置いて、イオリを離れた場所に連れていく。
 流石に、もうただ待つだけは限界だ。

「……イオリさ、」
「?」
 エリーや他の者から十分に距離を取り、アキラは囁いた。
 そのアキラの様子に、イオリも表情を僅かに引き締める。

「お前は、この依頼を“視た”か?」
「……え? ……あ、そういうことか」

 口に出して、イオリは気づいたのだろう。
 呆れたような表情で、アキラを見上げた。

「船の到着時間を知りたいってことかな?」
「あ、ああ、流石に風邪ひきそうで、」
「はあ……、」

 イオリは呆れた瞳を向け続ける。
 確かに、アキラもチートだと思う。
 だけど、イオリの“予知”はもっと有効に使いたいとも思うのだ。

「先が分かるのって、面白くないと思わないかな?」
「お、お前なぁ……、」
「いや、冗談だよ。……視てない。本当に、未来は変わっているみたいだ」

 イオリは視線を外し、のびのびとした表情で海を遠い目で眺めた。

「それに、僕の視た予知夢は、異常なほど長くてね。悪いけど、その細部を完璧に記憶できたわけじゃない。覚えていたのは、身の回りのことと……、そうだね、君が刻んだ“刻”くらいだ」
「いや、お前ならいけそうじゃん?」
「っ、君は僕のことをかなり誤解していないか? 超記憶能力とか、持ってないからね?」
「んだよ」
「……そこまで残念そうな顔されるとは思わなかったよ」

 またもため息を吐き出すイオリから顔を逸らし、アキラも海を眺めた。
 遥か向こうから船が来るはずなのだが、未だ、一向に見えない。

「……、」
 ふいに、その途中、反対にこちらを眺めているエリーが見えた。
 エリーはその場から一歩も動かず、先ほどの女性のように赤毛の前髪を指で弄っている。

「そういやさ、お前……、あいつと話とかしたことあったっけ?」
「……、エリサスのことかな?」
「ああ、そうだ……、そうだよ」
「いや……、挨拶程度、かな」

 場繋ぎの言葉だったのだが、その言葉で、アキラの中に小さな疑念が浮かんだ。

 イオリが仲間に加わって一週間ほど。
 彼女は、自分以外の誰かと話していたことがあっただろうか。

 この一週間、モルオールの港町で、イオリはひたすら事務の仕事をしていた。
 隊長の引き継ぎ。
 その仕事の量を、アキラは知らない。
 だが、ときおり訪ねた仕事場で、イオリはテキパキと仕事をしていたように思える。
 朝の鍛錬には顔を出していたが、その他の時間を全て使って、一週間。
 その総量は、想像もできない。

「……、」
 イオリは、未来を視たという。
 そして、その未来を認めることができなかったから、それを壊した、と。
 そのせいで誕生した“バグ”。

 その“バグ”は、モルオールの魔術師隊の副隊長のカリスが、イオリに牙を向けるという形で現れた。
 イオリが視た未来では隊長だったはずのカリスは、予知にあかせて隊長になった彼女に劣情を向け、イオリと剣を交えることになる。

 自分たちがそれを制したために、カリスは昏睡状態に陥り、一週間意識を手放すことになった。
 アキラたちが旅立つ頃には目を覚ましたらしい。
 だが結局、イオリは、カリスに顔を合わせないまま船に乗った。
 合わす顔がないというのがイオリの言葉だったが、そのせいで、カリスに対する伝言を文書にするという手間が増加したのは言うまでも無い。
 ただ、イオリがそれでいいと言うのならば、アキラが介入できることではないのだろう。

 しかし、その“バグ”の“落とし前”で、イオリが仲間に加わって一週間も経つというのに、メンバーと打ち解ける期間を逃してしまったようにも思えた。

 口数が少ないわけではない。
 むしろ、話はよくするようだ。
 それなのに、イオリは、

「お前さ、」
 アキラは言い出して、止まった。
 ここで自分は、何を言うつもりだったのだろう。
 まさか、皆と仲良くしましょう、なんてことを言うつもりだったのだろうか。

「?」
 イオリは小さく首をかしげてアキラを見返してくる。

 馴染めていないから、仲を取り持つ。
 そんな、学校の先生みたいなことをするべきだろうか。
 うまくいく場合もある。だが、それはほとんどの場合、お互いにとって苦痛になる。
 そして、うまくいく場合の台詞は、アキラの頭では生み出せない。

 しかし、イオリが輪の外で黙り込んでいるのは、何となく、嫌だ。

 だが、言葉が紡げない。

「まあ……、気を遣ってもらって助かるよ」
 イオリは小さく眼を瞑り、申し訳ないような表情を作った。

「皆とは、一度“予知”で知り合っていたからね……。そのとき、自分がどういう人間だったのか……、思い出せないんだ」
「……、」
 やはりアキラの考えなど、イオリはとっくに思い至っていたようだ。

「友人を作るのは……、本当に苦手でね。その上、下手に動くと“バグ”を作りそうで……、恐いんだ」
 イオリは目を瞑って、再びため息を吐き出した。

 今彼女の脳裏にあるのは、やはり尊敬していた相手との戦いだろう。
 思った方向へ動いたせいで、イオリは自分が視た世界のあるべき姿を壊していると考えているのだから。

 カリスのときの“バグ”は、“落とし前”の付けているとアキラは考えている。
 だが、彼女にとって、それは十分ではないのかもしれない。

「……、」
 イオリの横顔を見ながら、アキラはふと、自分だったら、どう“落とし前”を付けるだろうと考えた。
 現在、“バグ”を最も作っているのはアキラなのだ。

 あの、銃の力。
 超広範囲で相手を討つ、日輪属性の魔術、プロミネンスを放出する具現化の武具。
 想いも伏線も、何もかも滅するあの絶対的な力。
 それで自分は、総てを通り抜けてきてしまっている。

 自分は一体どうすれば、どうやって、物語をあるべき姿に戻せるのだろう。

 イオリのように、シミュレーションで全てを見渡すことはできない。
 先を考えていられないほど、今の自分は手一杯だ。

「君が羨ましいよ……、本当に。日輪属性の、その惹き付ける力が」
「……、」
 ローブに首を僅かにうずめるイオリに、アキラは言葉を返さなかった。

 確かにこの力がなければ、他人との関係が希薄になった異世界から来たアキラは、ここまで早く順応できなかったかもしれない。
 そういう意味では、ご都合主義は本当に助かっている。

「でも……、ありがとう」
「……、ああ、」
 淡白に言葉を返し、アキラも首をうずめる。やはり、潮風の撫でるここは、微妙に寒い。

「……、」
 すごい、と思ってしまう。

 イオリの方が、ずっと順応している。
 隊を束ねていたのだから。
 そう考えると、やはり自分そのものの価値が希薄になっているとアキラは感じる。

 同じ異世界から来た自分が築けた地位は、イオリに比して、あまりに小さい。

 ただ、今更考えても仕方のないことなのだけれど。

「まあ、極力話しかけてみるよ。僕にとっては、結構難しいんだけどね」
「大丈夫だろ」
「楽観的だね、本当に」

 イオリは、またも、苦笑に似た笑みを返してきた。

「……、」
 そんな、光景を見ながら。
 エリーはもう一度、赤毛の前髪を弄った。

 一体あの二人は、何を話しているのだろう。

 自分から離れてこそこそし始めたと思えば、自分から離れて二人で笑い合っている。
 あの男がへらへら笑っているのはいつものこととして、その隣のイオリ。
 ああいう風に笑える彼女を、エリーは自分の目の前で見たことがない。

 いつもどこか凛とし、朝の鍛錬に顔を出したときもティアが飛びついてこない以上は、毅然としている。
 そんなイオリが、やはりどこか楽しげに笑っているのだ。

 魔道士。
 それは魔術師隊を抜けてもイオリが有している地位であり、そして、エリーの夢でもある。
 魔道を職として志す者ならば、誰もが憧れるものだ。

 その存在は、遠い。
 しかし、歳が一つ上のイオリは、その地位にいる。

「なに話してんだか……、本当に」
 小さく呟いても、離れた場所にいる二人に声は届かない。

 異世界から現れた勇者様と、異世界から現れた魔道士。
 ぴったりだ。
 それは、遠く見え、キラキラと輝いているようにも思える。

 話し合いは終わっているだろうに、エリーの存在を忘れているかのように二人は戻って来なかった。

 ああして二人して話している光景は、よく見るのだ。
 何かこそこそと、誰にも聞かれないように言葉を交わす。
 エリーがその場に近づけば、話し合いはそこで終わり、バツの悪いような表情を作って二人は分かれる。
 そういう光景を見るのが、二人して話していること事態を見るよりどこか辛く、エリーは結局近づかないことにした。

 イオリの話になると不機嫌になるエレナには『正妻が浮気現場に行っちゃまずいでしょ』などと苛立った言葉を返されもした。
 憤慨したエリーだが、その実、それに近いことは思っていたかもしれない。

 不慮の事故で、現在アキラとエリーは婚約中。
 その婚約解消を行える神族に願いを叶えてもらうため、自分たちは打倒魔王を目指しているのだ。
 その中で、遊んでいる暇などない。
 そのはずだ。

 それなのに、あの男は一体何をやっているというのだろう。
 隣にいたらいたで、先ほどのように他の女性に視線を向ける。

 本当に、

「ねえ、君、」
「……えっ?」
 途端後ろから話しかけられ、エリーは思わず飛び退くようにその場で跳ねた。

「ああ、ごめん、そんなに驚かせるつもりは、」
「い、いえ、」

 振り返ると、そこには先ほどあの女性に話しかけていた男、ラースが立っていた。
 気まずそうな表情を浮かべ、しかしそれでも柔和そうな笑みを作っている。
 この場に来たとき簡単に話したが、やはり歳は、自分たちよりいくらか上のようだ。

「え、えっと、何ですか?」
「あ、ああ、ごめん。こんなところに立っていると寒いかな、って思ってさ」
「あ……、ありがとうございます」

 気づけばラースが全員誘導したのか、彼の指さす先の納屋には、人だかりができていた。
 日に焼けたボロボロの木で形作られたそれは見るからに頼りなさそうだが、それでもここに立っているよりは幾分マシだろう。
 そして外には、ドラム缶のようなものが設置され、メラメラと火が燃えている。

「中には壊れかけていたけど炉もあったし……、中にいるといいよ」
「は、はい」
 ラースのブロンドの長い髪に誘われるようにエリーは歩き出した。
 一瞬ちらりとアキラたちを視界の隅に捉えたが、こちらに気づいた様子はない。

 もういいか。
 風邪でも何でもひけばいい。

 エリーは心の中で僅かに毒づき、ラースに並んだ。

「お一人なんですか?」
「ん? ああ、長いこと一人で旅しててね……。君たちは、あっちの彼らと?」
 話し込んでいる二人に近づくのを敬遠しているのか、ラースはほとんど顔を動かさないままアキラたちを横目で見た。

「え、ええ。本当は、全部で七人いるんですけど」
「へえ……、“七曜の魔術師”みたいだね」

 みたい、ではなくその通り。
 そう思ったのだが、エリーはわざわざ訂正するのも面倒で、苦笑するだけに留めた。
 今さらだが、あの男を“勇者様”と認めるのが何となく許せない。

「まあ、俺は毎年一人でこの依頼を受けててね……。船が時間通りに到着したことなんて一度もない。何人か、帰ってしまったよ」
「はあ……、」

 それを防ぐべく、ラースは人々を誘導しているのだろう。
 本来ならばあの女性がやる仕事のような気もするのだが、やはり、気が利く。

「わ……、」
 そのまま歩いて納屋に近づいたエリーは、そう一言漏らした。
 メラメラと燃える火の温かさが身体をくすぐり、頬が弛緩する。
 自分の身体がここまで冷えていたことに気づかなかった。

 旅の魔術師たちも、こぞってその前に手を突き出し、火を灯すドラム缶を囲っている。

「この火は?」
「ああ、さっきこの辺に転がっていたのを、俺が勝手に、ね。ほら、女性は中にいた方がいい」

 ラースは微笑みながら、納屋の戸をノックする。
 一人の女性が中から扉を開けると、暖かな空気の中、二、三人の女性が暖気を漏らす四角い箱を囲っていた。
 先ほどまで手を擦り合わせていた旅の魔術師だ。
 オレンジのローブを羽織った先ほどの少女も、全員から痛い視線を向けられていた職員の女性もいる。
 それだけで一杯になるような小さな納屋だが、それだけに、温まりやすい。

「じゃあ俺は、あの二人も連れてくるよ。温まっていた方が、依頼もしやすいしね」
「本当に、ありがとうございます」

 ああ、天と地だ。
 柔和な笑みで戸を閉めたラースと、遠くでまたくしゃみをしているどこかの男は。

 エリーは、女性たちが開けてくれた場に座り込み、炉に手をかざす。

 ちょうどその頃、海の遠くから、巨大な船が近づいてきた。

―――**―――

「っぜぇ……、ついてくんなって言ってんだろうが……!!」
「了承できません。貴方はまた勝手に……、戻って下さい……!!」

「……?」
 適当な物を買い込んで、かつてのクロンクランよりも派手やかな町並みを歩き回っていたエレナは、奇妙な集団を目に止めた。

 高い建物とその前に盛大に開かれた商品店に囲まれた道、人ごみにまみれた町並み、その中を、自分と同じように、そのど真ん中をふてぶてしく歩いてくる者たちがいる。
 若い男女が全部で四人、だろうか。
 そこらを歩いている荷車を引く商人や、町を行き来する簡易な服装の住民たちとは違う。

 一人の男は黒いシャツにジーンズと簡易な普段着で身を包み、剣をだらしなく腰の辺りに下げ、隣に並ぶ男は山吹色のローブを羽織って、杖を背負っている。
 残る二人は女性で、一人は先頭の剣の男に何かを責めるように言葉を発し、もう一人は三人の後ろにいては姿が確認できないほど小さな身体でちょこちょこと歩いていた。
 その二人も、前の一人は修道服のようなローブ、後ろに続く一人は簡易なプロテクターのようなものを身に着け、やはり一般人とは一線を画している。

「……、」
 彼らが歩くだけで、町行く人々はそれを避けていた。
 ただ、目つきは強い。

 だが、エレナは冷めた瞳を向けながら、ただまっすぐに自分の行くべき方向を目指した。

「……、」
「……、」

 必然。
 道のど真ん中で、エレナとその四人はかち合った。

「……、」
「……?」
 戦闘の剣を背負った男が、立ち止まったまま、目つきを怪訝に歪めた。
 白髪、と表現できるだろうか。
 短髪のその男は、かなりの長身で、エレナを見下ろしてくる。

「……あ?」
 目つきの異様に悪いその男はそのままエレナを睨むが、エレナはただ、指が痛くなってきた気がして買い物袋を右手に持ち替えただけだった。

「っ、まず、……えっと、その、」
「?」
 動かない剣の男の隣、杖を持つエレナほどの背の男がエレナを見ながら、何かを言い淀んだ。
 こちらは黒い肩ほどまでの髪。
 にこにこと愛想笑いのような表情を浮かべるこの男の言葉の内容を察することはできたが、しかしエレナは、黙ったまま剣の男を見上げたままだった。

「えっと、その、ほら、ね、」
「マルド、ちょっと下がっていて下さりますか。……あの、察していただけませんか?」
 睨んだままの剣の金髪男と、マルドと呼ばれた杖の男。
 その後ろ、従者のようだった一人が、業を煮やしたのか前に一歩出てきた。

 エレナのようにウェーブがかかった艶やかな黒い髪を身体に纏った紺のローブの外にそのまま垂らし、少しだけ気の強そうな視線を向けてくる。

「……、」
 エレナはその視線を受けても、察する気など毛頭ないことを身体で表現する。
 すなわち、完全な仁王立ち。

 そのエレナの様子に、ウェーブの髪の女性は目つきを鋭くし、未だ後ろから動かないティアより小さな少女は、あたふたとするだけだった。

「……、で、なに?」
 エレナはようやく口を開いた。
 視線は未だ、長身の男に向けて。

「なに、ではないですよ?」
「今はあんたと話してないわよ」
「っ、なななっ、」
「カイラ……、ぅぅ……、押さえてぇ……、」
 流石に限界だったのか、後ろの少女がさらに一歩前に出そうだった女性のローブの裾を両手で掴む。
 カイラというらしいウェーブの女性は、エレナの態度に憤りを露わにしているのは、通行人にも容易に見てとれた。
 いつしかエレナたち五人の様子に人の輪ができ上がり、ひそひそと声を漏らしている。

「っだぁ? このアマ」

 ようやく、長身の男から言葉らしい言葉が漏れた。
 白髪の色とは対照的な、猫のように光る金色の瞳でエレナを見下ろす。
 その態度はあくまで高圧的。
 明らかに、エレナとの相性は最悪であった。

「なに? ていうか、どいてくれない?」
「はぁぁ~っ? やんのか?」
 エレナがほとんど睨み返すように白髪の男を見れば、男は睨む瞳を強くし、口元を強気に上げる。
 まるでチンピラだ。
 やはり、このような相手に、道を譲る気は起きない。

 強いて言うなれば、エレナは今、というより今も、すこぶる機嫌が悪かった。
 居残りになっていた現状もさることながら、軽い気持ちで探したティアの漫画。
 本当に売れているらしく、おざなり的に三、四店も回ることになってしまった。
 興味本位で買ってしまった今までの巻もズシリと重く、一刻も早く宿舎に戻りたい。

 こんなことをしている時間も惜しいが、八つ当たりできる場所を探していたのも事実だったりする。

「っ、スライク様、落ち着いて下さい……。あの、貴女。もう一度お願いいたしますが、」
「だから今はあんたに話してないでしょ」
 エレナの態度に、ウェーブの女性、カイラは踏み出そうとするも、やはり裾を後ろの少女に引かれる。
 だが裾を引く少女も、エレナをどこか信じられないように盗み見ていた。

「こちらの方は、スライク=キース=ガイロード様。“勇者様”なのですよ?」
「かっ、」

 どこの出身か分からないが、スライクというらしい若白髪男は、やはり“勇者様”か。
 カイラから漏れた言葉で断定できたが、当の勇者様本人から漏れたのは、その存在を気に入らないとでもいうような擬音。
 そこだけは、エレナと同感だ。
 “自称”の可能性も十分あるのだから。

「そう……。で、なに?」
「……、」

 “勇者様”。
 エレナは頭の中で、その単語を軽く思い浮かべる。

 “本物”かどうか定かではないが、随分と妙な勇者様もいたものだ。

 魔王の牙城があるこの大陸ともなれば、そろそろ出会うかもしれないと思っていた、が、所詮その程度、だ。

「いや、あの……、」
「……、」
 説明に口籠るカイラに、エレナは無言を返した。

 ようやくエレナが自分の言葉に反応してくれたとはいえ、カイラは慣れていないのだろう。
 無条件で従うべき、『勇者様には最大限の敬意を』という“しきたり”に、全く反応しない相手を前にするのは。

「あの……、」
「だから何よ?」
「わ……、悪いのですが、貴女。わたくしたちに道を譲っていただけませんか?」
「……、本人の口から聞いてないんだけど?」
「どけ」
「あん?」

 頬をぴくぴくと動かしながら道を譲ることを願うカイラに、ご丁寧にも単刀直入命令文で意思を伝えてくるスライク。
 その両者を最早条件反射か、エレナは同じ目つきで睨み返した。

 完全に対峙したエレナとスライクの強い視線が交差し、カイラと、杖の男のマルドがあたふたと身体を震わせ、

「ひぐ……ううっ、ひぐぅ……、」

 残る一人の小さな少女は、泣き顔を曝し始めた。

「っ、キュール!? ほら、しっかりして、」
「だって、だってぇ……、恐くてぇ……、」
 今まで以上に慌てたカイラが、キュールというらしい小さな少女をあやし出す。

「っせぇぞ、ガキ」
「……、ちっ、」
 スライクが小さなキュールに毒づいたところで、エレナは舌打ち一つ残し道を開ける。

 子供が泣き始めた以上、道一つ譲る譲らないで動かないのも馬鹿らしい。

「待てコラ」
「あん?」
 人の輪が順調に巨大になっていく場所から一刻も離れようと歩き出したエレナの背に、殺気にも似た空気の言葉が届いた。
 荷物を肩にかけながら振り返れば案の定、スライクが睨みつけてきている。

「スライク様、落ち着いて下さい」
「黙れ。おいテメェ……、」
 止めに入ったカイラを振り払い、スライクは緩慢な動作で一歩前へ出る。
 その鋭い猫のような瞳は怒り一色に染まり、その手は今にでも肩の剣に伸びそうだ。

「なに? やんの?」
「こっちのセリフだ。このアマ」
「スライク様!!」
 エレナがため息を吐いたと同時、カイラが間に割って入り、スライクと対面する。

「確かにあの女性は態度も大きくいかにも態度が大きそうで態度が大きいですが、いつか天罰が下るでしょう。押さえて下さい」
「なに? あんた私に向かって言ってんの?」
「いえいえ、滅相もない」
 スライクに対面したままちらりと振り返ってきたカイラの瞳には、僅かに挑発的な色が浮かんでいた。
 間違いなく、今の言葉はエレナに対するものだったのであろう。

「とにかく、スライク様。いい加減、機嫌を直して下さい」
「はっ、元はと言えばテメェが妙な依頼受けてくるからだろうがぁ……!!」

 やってられない。
 スライクの怒りの先が自分から僅かに逸れた隙に、エレナは歩き出した。
 背後から怒声が聞こえた気がしたが、もう振り返りもしないで、進み続ける。

「落ち着いて下さい。もうすぐ船も到着しますっ、荷物護衛の依頼はどうするつもりですか」
「っかっ、知るか。断れ。来ねぇのがわりぃんだろうが」

 その言葉が聞こえてくるまでは。

「ねえ、」
「あ?」

 エレナはくるりと振り返り、ずかずかと四人に近寄っていく。

 どうも今、カイラから漏れた言葉の内容が、エリーが残していった依頼書の写しにも記されていたような気がするのだ。

「今の話聞かせてもらえる?」

―――**―――

「大変遅れて申し訳ありません。それではただ今より、開始したいと思います」
 そんな言葉が、今まで針のむしろだった女性から漏れた。

 碇を下ろした見上げるほど巨大な船を背に、やはり炉が恋しいのかラースが作った簡易な暖気に身を委ね、言葉を紡ぐ。

「ご存知の方もいらっしゃると思いますが、サルドゥの民は、毎年この時期にお祈りをするのです」

 その演説を集まった旅の魔術師たちに囲まれながら耳を立てるアキラは、当然知らなかったことだが、“ご存知の方”はどうやらこの場にはいないらしく、全員聞き流し、ただただ話が進むのを待っている。
 寒いから先を急げ。そしてたき火の前から離れろ、ということらしい。

「そしてこちらが、サルドゥの民の方々です」
 完全に一時的に雇われたに過ぎないであろうその女性は、それも契約の内なのか、ちらりとその横に並ぶ数名に視線を移し、演説を続けた。
 初老の男から若い女性まで、みな、白装束を纏い、その上から暖かそうな上着を羽織っている。
 今までどこにいたのか、その者たちは船が到着するや否やその場に整列し、身体を震わせていた。
 大方、遅れた船の話を聞き、今までどこかの店にでも入っていたのだろう。

 依頼を頼んだ人々を放っておくのもどうかと思うが、“ご存知の方”たちが別段驚いた様子をみせないあたり、この手際の悪さは毎年のことらしい。

「では、私はこれで……、」
「おお、御苦労様」
「……!」

 解説を終えた女性の後ろから、一人の男が現れた。
 恰幅のいいその男は職員の女性に軽く手を振り、全員の前に仁王立ちする。

「サルドゥの民の族長、ヤッド=ヨーテス=サルドゥ、です」
 体格に似合った野太いが、どこか面倒そうに漏れた。

「先ほどの方が申していた通り、わたくしども、サルドゥの民は、毎年この時期に、儀礼を行います。これより、ここから南西、タイローン大樹海の末端に座すベックベルン山脈の麓、ガリオールの地へ赴き、打倒魔王を願うバオールの儀礼を取り行いたいと思います」

 言い慣れたようなつらつらとした言葉の中に、聞き慣れない地名や用語がいくつか出てきて、アキラはそれを全て聞き流した。
 覚えてられない。
 要するに、とある場所に行って儀式的な何かをするということだろう。

「ええと……、本日は、わたくしどもの警護をお願いいたします」

 依頼の内容は、至ってシンプルのようだ。
 打倒魔王の願掛けをするために、彼らを守ってその場所に行けばいいらしい。
 “しきたり”に縛られた世界では、こうした式典がよく行われるのだろうか。

 アキラは何となく、町の南西を眺めてみた。
 高い建物に囲われ賑わう町並みしか見えなかったが、遠そうな気もする。
 本当に、今日一日で終わるのだろうか。

「それと……、」
 ヤッドは言葉を吐き出し終え、その視線を集まった旅の魔術師たちに泳がせた。

「どちらの方が、“勇者様”なんだ?」
「っ、」
「え……、あ、はい」

 演説用の口調を放り出したヤッドから、あっさりと出てきたその単語にアキラは身体を硬直させた。
 そしてアキラが反応する前に、先ほどの職員の女性が一歩前へ出る。
 何気なく寄っていたドラム缶から身を離し、旅の魔術師たちを眺め、ある一点で視線を止めた。

「あ、あちらの方です……!」
 職員の女性は、恭しく頭を垂れた。
 しかしそのお辞儀は、アキラには向いていない。

「―――、」
 職員の女性に倣って全員が視線を向けたその方向、そこに立っていた一人の女性が、ゆったりと歩き出す。
 先ほどの、オレンジのローブを羽織った少女だ。

 少女は前に出ると振り返って一礼し、フードに手をかける。

「……、」
 アキラはその光景に、口を開けない。
 混乱のただ中だ。

 “勇者様”が、呼ばれた。
 それなのに、それは自分ではない。

 これは、

「リリル=サース=ロングトンと申します」

 フードの中から現れたその少女の顔、リリルの肌は、雪のように白く、人形のようだった。
 そしてマリスのような、色彩の薄い銀の髪。肩ほどで短く切られているのが相違点か。
 瞳も同色で大きく、オレンジのローブに良く映える。

「“勇者”を……、務めています」

 透き通るような声が紡いだ言葉は、アキラの脳髄に刻まれた。

―――**―――

「とっもだっちひゃっくにんでっきるっかなーっ!!」
「魔術師って、戦闘不能になったら爆発するのかしら?」
「エレお姉さまっ!?」

 エレナは隣の席で弾まんばかりに暴れるティアに睨みを利かせて黙らせると、そのままの瞳を目の前で立っている四人に向けた。

 一度、ティアの部屋に顔を出したのは失敗か。
 妙に人だかりができてしまった区間から離れて会話をしようとしただけなのに、尾行してきたティアの提案で、長話でもするようにこの喫茶店に入る羽目になってしまった。

 まだ顔も微妙に赤いというのに、ティアは楽しげに対面に並んで座る四人を眺めている。

 どうやら“勇者様”らしいスライクは、足を大仰に組み、ソファーの背もたれに手を伸ばし、態度も大きく最も奥に座り込んでいるが、残る三人の表情は硬い。

 昼をとうに過ぎた古めかしいこの店は、立地のせいで日当たりが悪く、すでに暗い。
 それにもかかわらず、昼時顔負けに賑わいを見せているのは、まばらな客さえが全員何事かと視線を向けるティアが要因だった。
 彼女がもし絶好調ならば、流石に店員が止めに来るだろう。

 ただそれも、“勇者様”がいなければ、の話だが。

「で、さっきの話の続きだけど、」
「あっしは、アルティア=ウィン=クーデフォンです!! 呼ぶときはっ、」
「次に私の言葉を遮ったときが、あなたの最期よ。ばーん、よ」
「うわわっ!?」
「っせぇガキだな……、」
「四面楚歌っ!?」
 ティアはエレナとスライクの睨みを同時に受け、天井で回っている天井扇のような動きで、テーブルの下に隠れた。

「で、でも、自己紹介……、」
「あん?」
「あの、わたくしたちはコントを見るために呼ばれたのですか?」
「だからあんたと話してないでしょ」
「っ、」
 修道服のようなローブに身を包んだウェーブの黒髪の少女、カイラに再びにらみを利かせ、今度はその隣に座る勇者、スライクに視線を送る。

 エレナの視線を受け、表情を変えなかった相手は初めてかもしれない。
 特に、媚びる視線ではなく怒りの視線の方は、今まで百発百中に相手を委縮させていた。
 だが、スライクは下らなさそうに目の前のやり取りを不機嫌そうに眺め、体勢も崩したままだ。

「ちょっと、」
「先ほども申しましたが……、こちらの方はスライク=キース=ガイロード様。タンガタンザの“剣の勇者様”です」
「自己紹介ってさぁ……、“自己”を紹介するもんじゃないの?」
「貴女。落雷とかに遭うのではないですか? わたくしは心配でなりません」

 カイラの言葉を聞き流し、エレナはちらりとスライクの横に立てかけてある剣を捉えた。
 長身の彼の身体によく合った、大剣。
 スライクはそれを無遠慮に眺めるエレナを睨み返すが、無言を保ったままだった。

「まあ……、んなことどうでもいいのよ」
「エレお姉さまっ、甘いマスクはっ!?」
「もっとインスタントな関係になると思ってたのに……、あんたが乱入してきたからでしょ」
「ま、まあ、いいじゃないですかっ、旅は道連れ世は情けっ!!」

 風邪声でも、何とか関係を持とうとするティアに、エレナはため息しか吐き出さなかった。
 甘い声など、もうほとんど必要ない。
 情報を聞き出したり、無理難題を押し付けたりするときに使うあの表情は、必要に迫られなければ意味のないものだ。

 特に、みなと旅をしている今では。

「俺は、マルド=サダル=ソーグです。アイルーク出身で、“杖の魔術師”なんてのをやってて、」
 エレナが何も言わなかったからか、完全に自己紹介の場となったこの空気に、次は杖の男が軽い口調で名乗った。
 流れで、出身も口にしている。

 彼の隣には、スライクの剣と同じく立てかけてある杖。
 先端に銀の宝玉の付いた深い茶色の杖は、エレナが力を入れれば折れそうだが、それでも重厚な造りのものだった。
 彼の羽織っているローブには、そういう武器こそが相応しいのだろう。

「……、わたくしは、カイラ=キッド=ウルグス。モルオール出身で……、“召喚の魔術師”を務めております」
 次に、面白くなさそうに呟いたのは、ウェーブの女性、カイラだった。
 修道服のようなローブを羽織った彼女は、イオリのような召喚術士らしく、武器らしい武器を持っていない。

「おおっ、やはりっ、“そっちのパターン”でっ!?」
「なにそれ?」
 カイラの自己紹介が終わったところで、ティアは再びくるりと回ってエレナの隣の椅子に座り込んだ。

「ふふふ、エレお姉さま、知りたいですか?」
「そっちのあなたは?」
「……ぇ、わたしですかぁ……、」
「エレお姉さまっ!?」

 勿体つけるティアを無視し、最後の一人、最も小柄な少女にエレナは視線を向けた。
 身体を包むプロテクターがやや不格好なに見えるほど、戦闘には不向きな雰囲気を醸し出している。
 先ほど見た、ティアと並んで歩いている光景から、ティアより身体は小さそうだった。
 明るい茶色の長い髪を、首の位置で縛っているが、その表情はその色と対極に位置している。

「わたしはぁ……、そのぉ、」
「ほら、頑張りなさい」
「は、はいっ、」
 隣のカイラに呟かれ、小さな少女は、ようやく顔を上げた。

「わ、わたしはぁ……、キュー……ル=……、マグ……ウェル……、で……す……。そのぉ……、シ……リスティ……ア……の……、“盾の……ま……、」
「は?」
「キュール=マグウェルですっ、シリスティアですっ、“盾の魔術師”ですっ」
 そこが声の限界なのか。
 普段のティアの声量の半分にも満たないか細い声を吐き出したキュールは、再びもじもじと、テーブルに目を落とす。
 自己紹介程度にもかかわらず、何を泣きそうになっているのか。
 ただ、少なくとも、彼女に“盾”は見当たらなかった。

「まあ……、覚えてらんないわ」
「エレお姉さまっ、あっしはばっちし記憶しましたぜっ!! ちなみにあっしはアイルーク出身です!!」
「で、さっきから何? “剣の勇者様”だの“杖の魔術師”だの」
「先ほどからの仕打ちがっ、胸にっ、グサリとっ!!」
「黙りなさい」
 やはり無理にでも宿舎に戻すべきだった。
 一向に話が進まない元凶を、エレナは睨みつける。
 ときおり小さくコホコホとせき込んでいるのだから、なおさらだ。

「……ええと、ご存じないのですか?」
「?」
 ウェーブの女性、カイラがどこか得意げにエレナに視線を向けてきた。
 面白くないが、要所要所でちゃちゃを入れるティアがいる以上、黙っていた方が話は進むだろう。

「“剣”、“杖”、“召喚”、“盾”って、初代の勇者様のパーティで猛威をふるったと言われる四人の戦闘スタイルなのですよ?」
「……、」
「“二代目の勇者様”のパーティも、そういう四人だったと聞き及んでいます」
「ふーん……、」
 言われてみれば、そんなようなことを聞いた気がする。
 歴史には恐ろしいほど興味がないエレナも聞いたことがあるのだから、相当有名な話なのだろう。
 そして、恐らくそれも、“勇者御一行”たる条件なのかもしれない。

「でも、マジかっけー自己紹介ですよね……。あっしもこれからはっ、何かっ、」
「あんたが妙なことをやり出しても私は絶対やらないわ」
「それでは統一性がっ、」
「すみませんが、」
 ティアが喚き出そうとしたところで、カイラがそれを遮った。

「それで、あなたは?」
「……、私?」
「そうですよ。自分だけ言わないなんて、」
「ほらぁ、言われたじゃないですか」
「っ、」
 ティアの口を塞ごうとした腕をぐっと押さえ、エレナはため息一つ吐き出し、いぶかしげな視線を向けてくるカイラに初めて視線を向けた。
 名前一つ言う言わないで話が長引くのは、やはり馬鹿らしい。

「私はエレナ=ファンツェルン、よ。シリスティア、ね」
「……、シリスティアの……、ファンツェルン……、ですかぁ……?」
 エレナが口を開いた瞬間、か細い小さな声が届いた。
 恐る恐ると言った小柄な少女、キュールの口調に、しかしエレナは機微に反応する。

「……、何?」
「っ、なんでもっ、ない……、ですぅ……、」
「エレお姉さまっ、キュルルンを虐めないで下さいっ!!」
「……ぇ、」
 キュールにとって、エレナの睨みより、妙な愛称を付けられている方が衝撃だったようだ。
 キュールは儚げな表情を満面の笑みのティアに向け、おずおずとした表情に変える。

「キュール? この女性のことをご存じなのですか?」
「ぇ……、そのぉ……、あのぉ……、違うかもぉ……、なんですけどぉ……、」
「……、」
「ぇ……、ぁっ、」

 エレナが視線を送ると、それだけでキュールは黙り込んだ。
 別に隠し立てしいることでもないが、今はそんなことはどうでもいい。
 それよりも、話を進めなければ。

 おどおどするキュールをなだめるカイラもさることながら、

「勇者様、なんですよねっ、」
「あ?」
「えっと、アルティアちゃん、だっけ?」
「いやいやいやっ、あっしのことは……、はっ!? アルちゃんという新たな愛称が今誕生しましたっ!!」

 今度は残る男二人、スライドとマルドに、にこにこと人懐こそうな顔を向けているティア。
 スライクは相変わらずの無愛想を保っているが、マルドはどこか楽しげだ。

 一体何なのだろう、この状況は。

「……、で、」
 緩みきった状況を打破すべく、エレナは強めにコンコンと机を叩いた。

「さっきの話、聞かせてもらえる?」
 今の問題はこっちだ。
 道中聞いたところによると、昨日彼らが追い返されたという村は、どうやら今アキラたちが向かっている場所であるのは間違いないらしい。

 エリーが残した、依頼書の写しの、依頼主。
 それは、彼らが口走ったカトールの民、だったことは覚えている。

「それが聞いて下さいよ、」
 ティアの影響で緊張がほぐれたのか、今度はマルドが声を出した。

「俺ら依頼を受けて、船着き場で護衛する荷物待ってたんですけど、来なくて来なくて」

 初対面のときより、遥かに口調が軽い。
 これが彼の素なのか、ティアの功績なのかは定かではないが、話はようやく進むようだ。

「それに寒くて……、時間になった瞬間帰ろうとしたスライクを止めてたんですけど……、流石に限界で、」
「かっ、それもこれも、こいつが訳の分からない依頼受けてくるからだろうが」
「言い訳になりますが、わたくしのせいだけではありません。あそこまで時間に不確かな依頼が世に存在するとは……、きっとサルドゥの民にも、天罰が下ることでしょう」
「なんでカイラはそんなに天罰下したがるの? 修道院でもそんなことしてたの?」

 口の軽くなったマルドの視線を受け、カイラは小さく咳払いをする。
 やはり服装そのままに、カイラは修道院出なのだろう。
 エレナたちは最短ルート上の場所しか回らなかったが、モルオールにはそういう場所が多いと聞く。

「……、」
 だが、そんなことはどうでもいい。
 問題なのは、目の前の“勇者様”が本物だとして、その依頼を受けたという事実。

「あなた、属性は?」
「あ?」
「日輪です。正統派の勇者様ですよ」

 睨むばかりで答えを返さないスライクの代わりにカイラが口を挟んだ。

「……、」
 やはり。
 その返答を聞きながら、エレナは小さくそう呟いた。
 そして、そうだとするなら、やはり気になることがある。

 アキラたちも、その依頼を引き受けているのだ。
 くじ引きの結果、どうなったかは知らない。
 だが、引き受けたという事実が問題なのだ。

 “刻”を刻む日輪属性の者が、その依頼には二人も介入していることになる。

 エレナはちらりと、外に視線を向けた。
 立地から、太陽はまともに見えないが、日は大分傾いているだろう。
 もう彼らが受けることを放棄した依頼は、始まっているはずだ。

「……、なんか“意味”があるのかもね……、その儀式」
「エレお姉さま?」
 エレナは、すっと立ち上がり、正面に座って並ぶ四人を見下ろした。

「あなたたち、もういいわ。私、ちょっと用事できたから」
「ちょっ、」
「それと、」
 何か言い出しそうだったカイラを遮って、エレナは視線をティアに移す。

「ティア、あんたは戻って寝てなさい。そんだけ元気があれば、留守番くらい一人でできるでしょ」
「ええっ、」
「ちょっと待っていただけますか!!」
「ぅぅ……、押さえて下さいぃ……、」
 適当に財布を取り出して代金を置こうとしたエレナを、とうとうカイラは大声で止めた。
 ローブの裾を泣き出しそうなキュールに再び掴まれるが、今度はそれを振り払う。

 いよいよ我慢できない。
 この、傍若無人なエレナの振舞い。
 “そんなことが許される人間”ではないはずなのに、何故こうまでも、“勇者様御一行”を“勇者様御一行”と扱わないのか。
 そんな人間、今まで一度も会ったことはない。

「貴女、先ほどから失礼過ぎませんか? この方は、“勇者様”なんですよ?」
「いちいち騒ぐな。めんどくせぇ」
「スライク様!! “勇者様”であるという自覚を持っていただけますか!!」
 カイラとて、意地がある。
 自分たちは、世界を救うという栄誉ある旅をしているのだ。
 カイラは怒気の混ざった瞳をエレナに向けた。

「うるさいわよ、あんた。そこの白髪が勇者だからってなんなのよ?」
「貴女はっ、どこまでっ!! っ、スライク様も、何か言ってやって下さい!!」
「っせぇ、騒ぐな」
「あああっ、わたくし発狂しそうです!!」

 エレナとスライクの言葉に挟まれ、カイラは大げさに髪をかき乱した。
 その様子も乾いた瞳で捉え、エレナは身体の向きを表へ向ける。
 もうすぐにでも、この場から立ち去りそうだ。

「なによ? 情報のお礼に、ここは私が奢るわ」
「そっ、そういう話ではなくて、」
「だから、なによ?」
「っ、」

 カイラは言葉に詰まった。
 エレナは一切表情を変えずに、ただ淡白に見返してくる。

 確かに、彼女の態度を除けば、この程度の情報の礼としては差し出された代金で十分だろう。
 別に急ぎの用もない。
 だが、その態度が、どうしても、だ。

 別に勇者様御一行に媚びへつらえと思っているわけではないが、それでも、誰もが勇者様には敬意を向けてきたというのだから。

「私さぁ……、“しきたり”がらみで態度変えるの、嫌いなのよね。最近無駄に高圧的な奴に逢ってさ。大して役に立ってもないのに偉いとか、イライラするのよ」

 エレナは立ったまま、カイラを見返してきた。
 その“無駄に高圧的な奴”が誰なのかは知らないが、エレナの表情からするに、余程気に入らない奴だったのだろう。

「でも、」
「ふふふっ、カーリャン、」
「っ!?」
 エレナに向けた視線の外から、途端妙な言葉が聞こえてきた。
 わざわざ視線を向けるまでもなく、その声の主は、ティアと呼ばれていた少女だ。

「実はあっしたちはですねぇ、」
「ティア、余計なこと言わなくていいわ。別に私は、“そう”だからってこういう態度をとってるわけじゃない」
「エレお姉さま……、マジかっこいいです!!」
「? いや、聞きたいんだけど、」
 ティアの態度に、マルドが身を乗り出す。

 カイラも自然と、そちらに視線を移した。
 全員の視線がティアに向き、エレナが諦めたように小さくうなずいたところで、

「あれはあっしが、シーフゴブリンに盗まれた指輪を探しに行ったときのことでした」

 しなくてもいい説明を、ティアは時間を遡ってから語り出すという暴挙に及んだ。

―――**―――

「まだ言っていないのかな……、アキラは」
「え?」

 クラストラスからもうすでに大分離れた草原の中。
 エリーの身の丈ほどもある巨大な車輪の横、隣を歩くイオリが久々に口を開いた。
 夕日に染められている、薄汚れた白い布のその馬車は、黒い馬十二頭総出で引かれている。
 最初はエリーたちも馬車の外に掴まりながら移動していたのだが、徐々に岩が増えてきたせいで足場が悪くなってきたこともあり、結局は歩くことになってしまった。

 家が一軒は入りそうなほど巨大な車内の中には、船から下ろされた神具が入っており、エリーが小耳に挟んだところによると、馬車内の面積を大きく占める大きなやぐらや、舞台のようなものらしい。

 馬車の周囲には、依頼を受けた旅の魔術師が十名ほど並んで歩いている。
 全十九名の依頼のはずだったらしいのだが、結局戻って来なかったらしく、この数名に落ち着いてしまった。
 クラストラスに残ったあの職員の女性が、どれほど船が遅れるか全員に通達しなかったゆえの結果らしい。

 手際の悪さを感じたのは、船の到着の遅れうんぬん以前に、あの女性に原因があるのかもしれない。

 だが、その程度のことは、歩いている旅の魔術師たちにとってはどうでもいい。
 問題なのは、今、馬車に乗っている存在。

 “勇者様”。
 あの、リリルと名乗った、色白の女性の存在が、脳裏に刻まれている。

 そして、さらに一人の男が馬車の中に乗り込んで数時間。
 サルドゥの民が乗っている馬車の中から、一向に戻ってくる気配がない。

「はあ……、どうせ中でサボってんでしょ。ほんっと、何考えてんだか」
 馬車の中に乗り込んだ男、アキラが入った馬車を眺め、エリーは極力大きな声でそう発した。
 馬の足音や車輪の音のせいで中に声が届くことは叶わないだろうが、それでも文句の一つくらいは言いたい。

 初めて逢う、自分以外の“勇者様”に、アキラはしきりに興味を示していた。
 ヨーテンガースに来た以上、いずれは逢うことになるとは思っていたが、まさか同じ依頼を引き受けていたとは。

 エリーですら猛烈に意識しているというのだから、アキラが興味を示すのは当然のことなのかもしれない。

 だが、話好きで女好きのあの男のことだ。
 大方、あのリリルとかいう女と鼻の下を伸ばして話し込んでいるのだろう。
 あの女性はサルドゥの民に促されて馬車に乗り込んでしまい、どこか話しづらい空気を持っていたが、アキラには人の心を開く日輪属性のスキルがある。

 本当にあの男は、タチの悪い力しか持っていない。

「えっと……、疲れてない?」
「……え、あ、はい。ありがとうございます」
 今すぐにでも車輪を殴りつけたい衝動を抑えていたエリーの前から、ブロンドの長髪をそのまま背中に垂らしたローブの男が近づいてきた。

「びっくりだよね、“勇者様”がいるなんて、」
 エリーの返事を聞き、二言三言会話をすると、柔和な頬笑みのまま今度は馬車の後続の魔術師たちの元へ歩き去る。

 こうして彼が様子を見に来たのも何度目か。
 歩くようになってから、頻繁に周囲を回ってはその度先頭に戻るその男、ラースは、自分も疲労が溜まりつつあるであろうに周囲への気遣いを損なわなかった。

「ほんっと、天と地。あのバカはサボって馬車の中で楽してるってのに」
「“勇者様”も、そこにはいるんだけどね、」
「…………、彼女も同じです」
「……、」
 僅かな沈黙ののち、エリーはあのリリルという“勇者様”も同じくくった。
 小さな村で育ったエリーは、勇者様は絶対の存在だと認識を持っている。
 それは今も変わらない。

 だが、どうしても、あのリリルという女性は好きになれない。

「……まあ、この依頼は荷物護衛というより、サルドゥの民の護衛。アキラも、さっきの彼女も、サルドゥの民を中で守っているって思えば、それほどサボっているというわけでもないさ」
「イオリさん、包容力ありすぎですよ」

 というより、放任主義というべきか。
 だが確かに、現れる魔物はこの人数に太刀打ちできず、馬車の足を止める必要も無いほど速やかに討たれている。
 十数回は襲われていると思うのだが、その内エリーたちが参加できたのは二、三回ほど。

 依頼の方は、至って順調だった。

「まあ、一応“勇者様”という地位を考えれば、それ位の待遇にはすべきなんだろうけどね。僕たちが特殊なだけさ」

 イオリの言葉に、エリーは面白くなさそうに口を尖らせた。

「でも、どうせあいつの方は、自分が“勇者様”ってこと、隠したいとか思ってますよ」
「?」
「どうせ、実は俺も“勇者様”だった、みたいな感じにしたいとかで、ね」
 エリーは馬車の中で交わされているであろう会話を想像しながら、呆れた表情のままその色の声を出した。

「なんだ」
「? なんですか?」
 突如苦笑したイオリに、エリーは怪訝な顔を向けた。
 ゆっくりゴロゴロと回る車輪の隣、イオリは、どこか面白そうにエリーを見返してくる。

「分かってるじゃないか、って思ってね。アキラが考えていそうなこと」
「……、」
 面白くないところを突かれ、エリーの表情はますます不機嫌になる。
 だがそれは、やはり、誤っているのだ。

「分かりませんよ……、ぜんっっぜん」

 エリーはちらりと、イオリを見て、そののち視線を先頭のラースに向けた。

 アキラはいつも、能天気に笑っている。

 まだアキラが馬車の外にいたとき、自分はラースと話していた。
 会話は思ったよりも弾み、出身や属性のことにまで話は及んだ。
 多分、自分は笑っていただろう。それも、楽しげに。
 長年旅をしているだけはあって雑学も多彩な彼の話は面白かったのだから。

 魔物が出てくるようになってからは、彼は先頭を歩くようになってしまったが、それまでずっと、エリーは笑って話していた。

 それなのに。
 ふと振り返れば、アキラはイオリと普通に話していたのだ。
 そしてやはり、楽しげに。
 こちらを見もせずに、だ。

「ほんっと、何考えてんだか……」
「? エリサス?」
「……、エリーでいいですよ」
「いや、人を愛称で呼ぶのは慣れなくてね……、」

 イオリは苦笑しながら、おもむろに魔道士のローブから投げナイフを取り出し、草の背が高い場所に投げ入れた。
 グレーの光が漏れたと思えば、その草むらの中から小さな爆発音が聞こえる。
 それが、一行の隙を狙っていた魔物の最期だということは容易に見てとれたが、緩みきった空気に振り返らない者すらいた。

「一応世界最高峰の激戦区の大陸だから警戒していたけど……、この分なら“ヨーテンガースの洗礼”は受けなくて済みそうだね」
「……今から行くベックベルン山脈は結構危険ですよ。……侵入だけはしないで下さいね」
「ああ、気をつけるよ」

 “ヨーテンガースの洗礼”。
 それは、この地にいる魔物の力が高いことを示した言葉だ。
 流石に魔王の牙城がある大陸だけはあり、魔物のレベルは格段に上がる。
 それも、他の大陸で見た同じ魔物ですら、力が違うのだ。
 その油断から生まれる隙でも、旅人は手痛い洗礼を受けることとなる。

 眼前に迫っている険しい山は、その代表格になりうるだろう。
 だが、イオリは、流石魔道士というべきか、クールに笑ってそれを眺めていた。

「……、」
 イオリは凛として、振り返った者たちに、問題ない、と軽く手を振る。
 エリーがよく見る表情だ。

 だがエリーは、もう一つの彼女の顔も知っている。
 イオリはもっと、笑えるのだ。
 特定の場所で、だが。

「そういえば、エリサスの地元はここなんだよね? マリサスも」
「……、ええ」
 ここまでの旅路で何となく交わした情報。
 ただ、イオリの言葉を肯定するのに、エリーは僅かに時間がかかった。

「この辺りなのかな?」
「いえ、もっと南です。タイローン大樹海を超えた先」
「魔王の牙城の近くで?」
「いや、流石に結構離れてますよ。山に囲まれた、小さな村です」

 イオリのハキハキとした言葉に、エリーは無感情のまま返す。
 表情も変えないイオリの中は、相変わらず見えない。
 一体今、彼女は何を考えているのだろう。

「それで、アイルークに?」
「ええ……。両親が……、その、いなくなってからは……、縁があったらしい孤児院に」
「そうか……、すまない、妙なことを聞いて」
「い、いえ、もう終わったことですから」

 エリーの無表情をそう取ったのか、イオリは小さく目を瞑った。

 両親が他界したのはもう済んだことだ。
 とっくに乗り越えた、過去の出来事。

 それよりも、今は、

「イオリさんは、あいつと同じ世界から来たんですよね?」
「ん? アキラのことかな? そうだね……。世界というものがいくつあるのかは知らないけど……、話を聞く限り、彼がいた世界は僕のいたそれと同一のものみたいだ」

 事もなげに、道中の会話を繰り返す。
 これも、意味のない話だ。
 ただ、場をつなぐためだけの。

 何故ならイオリは、自然に話していないのだから。

「アキラからはあまり聞いていないんだっけ? 彼らしい」
「え、ええ、あいつはそういう話は下手ですよね」
 エリーはイオリに重ねて同意した。

 あの男といえば、知っているのはどうでもいいような雑学ばかり。
 異世界の歴史というものに少しは興味があったのだが、その辺りのことはアキラも理解していないらしく、要領を得ない言葉が返ってくる。

「そうだね……。当時高校……、義務教育というものが終わったあとに入る学校だけど、そこにいた僕よりそういう面では疎いらしい」
「イオリさんから見ても、やっぱりそうなんですか?」
 エリーは重ねて同意した。

「まあ、機会があったら、今度話すよ」
「……ええ、お願いします」
 苦笑するイオリを見ているのを何となく避けたくなり、エリーは視線を外した。

 彼女は本当に、彼を知っている。

 胸の中のわだかまりは膨らむばかり。
 エリーが視線も強く馬車を睨んだところで、またも魔物が現れた。

 どうやら今は、依頼に集中した方がいいらしい。

―――**―――

「いやあ、やっぱり兄ちゃん面白いねぇっ」
「い、いや、あの、」
「はははっ、おっと、カップが空だ……、マーズ! お代りを!!」

 目の前の男は、ヤッドと名乗ったサルドゥの民の族長だ。
 大柄な体躯に、無精髭。
 恰幅のいい身体の中にはそれ相応の量のお茶が入っているはずなのだが、マーズと呼ばれた女性に運ばれてきた液体をグビグビと飲み、再びカップを空にする。

「ごめんなさいね、うちの人、話好きで」
「い、いや、」
「おっとアキラ君、君もお代りを貰いなさい。マーズ!!」
「はいはい、分かってますよ」

 アキラの止める間も無く、ヤッドにカップをさらわれ、マーズがそれを馬車の隅の樽に運んでいく。
 黒い長髪を装束の上で束ねた妙齢の女性の背を見ながら、アキラはため息を吐き出した。
 年齢のわりには妙に若々しいその女性、マーズは白い装束のみを纏い、憂鬱な表情を浮かべてカップに茶色い液体を注ぐ。
 普通のお茶のはずなのだが、上機嫌なヤッドの様子にアルコールでも入っているのかと疑いたくなる。

 自分が“勇者様”に興味を示してこの中に入り込んだのは一体いつからだろう。
 てっきり“勇者様”への対応が見られると思っていたのだが、それはほとんど無駄だった。
 他のサルドゥの民は広い馬車に腰を下ろし一歩離れていたが、ヤッドはほとんどアキラに接するのと同じように、リリルと話しこんでいたのだから。

 アキラが入ってくる前は、彼女がヤッドに掴まっていたのだろう。
 ちらりと視線を移せばリリルはヤッドから離れ、馬車に背を預けて座っている。
 室内で見ても色白のその少女はただ沈黙し、アキラとヤッドの会話を盗み見ていた。

 話すチャンスは、完全に失われている。

 今度は馬車の後部に視線を移し、アキラはそこに座す大荷物を見据えた。
 その場所には白い布を被せられた巨大な物体。
 ヤッドの話によると、そこには儀式に使うやぐらや神具が入っているそうだ。

「いや、俺も乗せるとき見たが、今年は見事な造りだったなぁ……。タンガタンザ製の特注品」

 その話は、一体何度目か。
 自分がここに入ってきたときも、ヤッドはリリルにそんな言葉を投げかけていた。

 アキラは借りてきた猫のように委縮し、ヤッドの話をひたすら聞く。
 馬車の隅に背を預けているのだが、揺れる車内に打ち付けた腰がそろそろ痛い。
 だが、離脱しようにも、それを塞ぐようにヤッドが正面で胡坐をかいているのだから動きようもなかった。

 残るサルドゥの民も、そして恐らくリリルも、アキラに同情的な視線を向け、しかしヤッドに絡まれるのを危惧してか、遠くで大人しく座っている。

 今頃外では何が起こっているだろうか。
 車内の前方についている窓から、外の様子を覗き見ようにも、小さな窓からは運転手の背中しか見えなかった。
 ときおり、外の魔術師の声や、魔物の爆発音が聞こえてきているのだが、馬車の足は止まらない。
 どうやらアキラが介入する前に、依頼は順調に進んでいるらしい。

「アキラ君、君は、タンガタンザに行ったことがないんだったね?」
「え、ええ、まあ、」
「あそこの技術はすごいぞぉ……。製鉄に関しては世界一だ」

 それも、かなりの数聞いている。
 隣に立てかけてあるアキラの剣を見ては、是非一度行くべきだと何度言われたことか。
 都合上、アキラはアイルーク出身ということになっているのだが、もう今後、会話としてヤッドに自分の出身を語る機会は失われているのだろう。

「そうだ、見てみるか? あの中のやぐらは、」
「っ、あなた!!」
 立ち上がりかけたヤッドに、ついに我慢できなくなったのか、鋭い声が飛んだ。
 あたふたとするばかりのアキラの前、ヤッドの肩を上から押さえ付けたのは、先ほどからお茶くみに殉じていた、マーズ。
 いよいよヤッドに我慢ならなくなったらしい。

「あれは儀式のときに出すんです!! “勇者様”への非礼といい、いい加減に、」
「分かってるって、俺を誰だと思ってる? サルドゥの民を束ねるヤッド=ヨーテス=サルドゥ様だぞ?」

 今立ち上がりかけた男の言うことか。
 ヤッドを上から抑えるマーズも、アキラと同じ視線を向けていた。

「あなた、アキラさんも“勇者様”に挨拶に来たんでしょうから、」
「ちょ、おい」
 マーズは手慣れた様子でヤッドを引きずっていく。
 それを見ながら、ようやく解放されたアキラは、姿勢を崩した。
 硬直していた身体がパキパキと鳴る辺り、外で歩いていた方が幸せだったかもしれない。

「はあ……、」
「……助かりました」
 だらけるような姿勢のアキラに、今度は今まで沈黙を守っていたリリルが近づいてきた。
 銀の髪に、それと同色の瞳。

 今、自分の隣に腰を下ろした小柄な少女は、“勇者様”、だ。

「私も、動きがとれませんでしたから……。あなたが来なければ、」
 リリルは小声で囁いた。
 アキラが来なければ、リリルはヤッドに捉まったまま、延々と同じ話が繰り返し続いていたのだろう。
 リリルとバトンタッチした形のアキラには、それ相応の情報が脳に刻まれていた。

 まず、今から向かう、ベックベルン山脈のガリオールの地で、舞台をセットする。
 そしてその舞台で、打倒魔王を願い、バオールの儀式を行うのだ。

 何でも毎年行うことが恒例となっているらしく、由来は定かではないとのこと。
 その辺りのことを、アキラは、五、六回ほど語られ、今では軽くガイドの真似もできるだろう。
 ついでにここにいる面々はサルドゥの民の代表だとか、かつてヤッドは旅をしていたが婿養子になって族長を務めているだとかの予備知識付きだ。
 ミドルネームを付けることが通例となっているサルドゥの民になるときに、自分に地名に由来した名前を付けた、だとかも聞かされ、アキラにもう、隙は無い。

「ええと、アキラさん、でしたっけ?」
「あ、ああ、はい。“勇者様”、ですよね?」
「止めて下さい、そこまでの敬いは求めません」
 アキラの言葉に、リリルは首を振った。
 だったら“勇者様”と名乗らなければ良かったのはないか、とも浮かんだのだが、アキラは頷くだけで返す。

 今は、“勇者様”というだけではない親近感が生まれていた。

「……まあ、そう言ったから、彼は嬉々として語り出したんですけれど、ね……、」
 リリルは疲労が溜まったような表情を浮かべた。

 やはり同年代のようだ。
 それだけに、やはりヤッドの話は辛かったのだろう。
 自分と同じく。
 アキラも同じ表情を作り、向こうでマーズに叱りつけられているヤッドを盗み見た。

 同じようにヤッドを見やるリリルの横顔は、船着き場で見た凛とした表情より、遥かに和んでいる。
 もう一つ、親近感を覚えた。

「あの、一人でこの依頼を?」
「……ええ、私は一人です。“三代目の勇者”、レミリア様をご存じでしょう?」
「……ごめんなさい」
「……何故謝るんですか?」

 知らないのだ。
 そんな歴史は。
 何せついこの間まで、勇者が大量にいるなどということを知らなかったのだから。

 アキラは、“七曜の魔術師”を集めるパターン。
 聞いた話によれば、“初代の勇者様”と同様らしいが、知っているのはそこまでだ。

 勉強より身体を動かすことを選んだアキラは、今、この世界の歴史は延々とヤッドが語ったサルドゥの民の歴史しか知らない。

「まさか、」
「ごめん……」
「……、謝られると、私が悪いことしているみたいになるんですけど……、知らなかったんですか……」
 僅かに口調が軽くなったリリルは、指を一本立てた。

「女性でありながら……、たった一人で魔王を討った勇者様。証もなく、誰の力も借りずに、ですよ」
 すごいでしょう、とでも言っているように、リリルは得意げに笑う。
 アキラはある種気迫のようなものを感じ、頷いて肯定した。

 確かに、一人旅は過酷なものであったのかもしれない。
 そして、それに倣う、リリルも過酷な旅をしているのだろう。

「……リリルさんもすごいじゃないですか」
「敬わないで下さい。あくまで“自称”、です」
「っ、じゃあ、リリル?」
 しきりに敬意を跳ね除けるリリルに気圧され、アキラは口調を崩した。
 リリルは満足げに頷いたが、アキラには違和感が残る。

 それほど敬われるのが嫌なら、何故、自分は“勇者様”だと名乗り出たのか。

「……、言わないと、駄目なんです」
「……?」
 アキラの疑問を察したのか、リリルはどこか遠い目をした。

「誤解している方もいますが……、“勇者様”の名の持つ意味は、人から敬われるものだけではありません」
「……、」
 そこで、アキラもおおよそ、話の流れが読めた。
 あの、アイリスという神と出逢った町、ヘブンズゲート。
 そこで自分は、憎悪を宿す者たちを見た。“勇者様”の旅というものがどういうことか理解したはずだ。

「勇者と名乗れば、敬われることを代償に大きな期待がかけられます。勇者は自称で事足りますが、暴利を貪る者もその重圧で逃げ出すんですから」
「……、」
「勇者であれば、それら総てを受け止めなければ……。不自然なまでに敬われるのは、苦手ですけどね、」

 アキラは沈黙した。
 それはまさに、普段自分が勇者と名乗らない理由だったのかもしれないのだから。
 気恥しさより何より、アキラは期待をかけられるのに苦痛を覚える。

 そして今、完全に、自分も“勇者様”であると言い出せない空気が完全に形成されていた。

「ですから私は、勇者と名乗るのです。……今は依頼の“本番”に備えてしまっていますけど、」
「……あ、」
 リリルの言う、依頼の“本番”。
 その事実をアキラはヤッドとの会話で知っているのだが、エリーたちは知らないだろう。
 やはり、伝えにいかなければ、

「でも、不思議ですね、あなたは話しやすい」
「っ、」
 立ち上がろうと思っても、話が続き、それは遮られる。
 先ほどはヤッドに。今度はリリルに、だ。

 アキラは諦めて、動きを止めた。
 どうせ、“手遅れ”だ。

「言葉がすらすら出てきて……、失礼ですが、属性は……?」
「いやっ、話し上手聞き上手って言われるんだっ、」
 アキラはいつかのサクのときのように言葉を濁した。

「……まあ、どの道、私が守り切ってみせます。それが、勇者の務めですから」
「偉いっ!!」

 もう解放されてしまったのか、ヤッドがリリルの言葉に呼応し、笑いながらアキラたちに近づいてきた。
 その足元がときおりふらついている気がするのは、馬車が揺れているからであると信じたい。

「いやいや流石に勇者様だ!! 必ずや、魔王を倒してくれ!!」
「はい、そのつもりです」

 リリルが視線も逸らさずにヤッドに返す。
 それは、期待を受け入れるという彼女の姿勢の表れだろう。

 アキラはその様子を、黙って見ていた。

 やはり、言い出せない。

―――**―――

「……じゃ、じゃああんた、知ってたわけ?」
「いや、伝えようとは思ったよ。だけど、抜け出すタイミングが見つけられなかったんだ……!!」
 パチパチと燃えるたき火の前、アキラの大げさな肯定に、エリーは拳をわなわなと震わせた。
 去年もこうして使われたのか、切り倒されていた大木に腰をかけ、正面の男を強く睨む。

 ベックベルン山脈と、今まで歩いてきた平原の境。
 カリオールの地には、サルドゥの民と旅の魔術師たちを併せて二十名を超える大人数がつめ寄せていた。

 周囲を険しい山道の入り口と、森林で囲われたその開けた場所。
 その南部に、アキラたち三人は座り込み、背後にある開けた儀式の場に魔物が近づかないよう見張っていた。

 すでにどっぷりと日の沈んだ夜空には無数の星が浮かんでいるのだが、流石に光源としては心許なく、周囲はただたき火のみに照らされている。
 ヨーテンガースを二分するタイローン大樹海ほどの規模ではないとはいえ、その森林は、馬車の通り道以外の陸路をほとんど奪っていた。

 アキラたちの守っている地点は、正面からベックベルン山脈が始まり、その直前に二十畳ほどの舞台と、その奥に設置された儀式用の巨大なやぐらが未だ白い布を被されている。

 この、儀礼を行う場所、ガリオールの地に着くや否やサルドゥの民が準備を進めただけはあり、今すぐにでも儀式を始められそうだ。
 木々の向こうに、整った舞台と、その近くに停めてある馬車が僅かに見える。

 ただ問題は、その開始時間だった。

「バオールの儀式は夜明けと共に」
 たき火に照らされたアキラの顔は、微妙に得意げになっていた。

「俺たちは今からここで野宿しながら、夜の見張りをするんだよ」
「っ、妙に詳しそうね……!!」

 エリーは、アキラの言葉に歯をかみしめながら返した。
 先ほど簡単な説明を受けたばかりだというのに、事態をより良く把握しているアキラは、事もなげに声を出す。

「まあ、少ないけど夕飯はくれたし、大丈夫だろ?」
 アキラは先ほど分配されたスナック菓子のような軽食を持ち上げ、楽天的に振舞っていた。

「どうすんのよ!? マリーたちに何も言ってないのよ!?」
「いや、もう遅いし……、俺に言われても……、」
 ついに叫んだエリーは、頭を抱えた。

 自分たちは、どうやら依頼の、一日中、というものを誤解していたようだ。
 すなわち、朝から夜まで、と。
 しかしその実態は、朝から朝までだったらしい。

 この距離を移動していたときから、クラストラスに戻れるのは日付が変わる可能性もあるとは覚悟していたが、まさか本当に翌日になるとは。

 安全面から考えて、大人数で行うにしては高額なこの依頼には、それだけの意味があったようだ。

 依頼を受けた魔術師たちの中には、知らない者もいたようだったが、ここまで休憩なしで歩かされた疲労から、非難を上げる者はいなかった。

 今はアキラたちがいる南部以外の三方で見張りを始め、思い思いに座り込んで護衛を始めているだろう。
 “勇者様”ことリリルは、日中休んでいただけもあり、中央で遊撃を務めているが、他の面々は疲れが溜まっていた。

 かくいうエリーも足は痛む。
 だがそれよりも、目の前の男に対する怒りの方が強かった。

 この事態が、あの船着き場で会った要領の悪い女性のせいかは定かではないが、どの道もう戻れない。

 手遅れ、だ。

「ほんっとに、あんたは……!!」
「まあ、今更言っていても仕方ない。それよりアキラ、テントを組み立てるのを手伝ってくれないか?」
「ん? あ、ああ、」
「っ、」

 イオリに言われ、アキラは立ち上がった。
 イオリは簡単な寝袋と、木に繋げば囲いになりそうな大きい布を持っている。
 先ほどサルドゥの民に配られたそれらは、この場で寝泊まりできる、簡易なテントだ。

「ある意味“ヨーテンガースの洗礼”だね……。魔物だけじゃなく、依頼でも苦労しそうだ」
「……あ、悪い、そっち引っ張ってくれ」
「ああ」

 テキパキとテントを組み立ていく二人を見ながら、エリーは軽く眼を擦った。
 しかし、移動中ずっと馬車に乗っていたアキラは元より、イオリは表情一つ変えずに動き続ける。
 彼女は自分よりも早く起きて朝の鍛錬に参加していたというのに、ここまでの旅路での疲労はさして無いようだ。

「それよりどうだった? “勇者様”は?」
「いや……、“勇者様”って感じだった」
「っ、アキラ、会話を成立させる気はあるのかな?」
 呆れたようにため息を吐き出すイオリは、しかし笑っているようにも見えた。

「あの、あたしも手伝いますよ」
「……いや、もう大丈夫だ。エリサスは疲れたろう? もうすぐ、……ってアキラ。何故その木にそれを結んでいるのかな?」
「え? あ、お前こういう感じにしようと思ってたのか……!」
「はあ……、まあ、いいか。それでも」

 エリーが介入する前に、テントができ上がってしまった。
 たき火から僅かに離れたそれは、テントというより単なるしきりだが、一応は中が覗けないようになっている。
 それだけで一杯になってしまうほどの小さなものだが、中には二つ分の寝袋が適当に転がされていた。

「よし、エリサスは休んでいてくれ。次はアキラのテントを作ろうか……。最初の見張りはアキラでいいだろう?」
「いや、俺、寝なくても大丈夫そうなんだけど……」
「っ、君は朝のアルティアの話を覚えていないのかな……?」
「あの!」
 苦笑交じりにテントを作り始めるイオリに、エリーは僅かに大きな声を浴びせた。

「あ、あたしも手伝います」
「……、お前疲れてそうじゃん。最初の見張りは俺やるし、休んでろよ」
 返ってきたのはアキラの声だった。
 エリーは踏み出す機会を逃し、ただ茫然と、二人の作業を眺める。

 蚊帳の外。
 今の状況今日はそう説明できるのだろうか。
 身体を襲う疲労感も手伝って、もう一つのテントができるまで、エリーは一言も発さなかった。

「……、」
 倒れた木に座り込み、今度はぼうっと、たき火の日を眺める。
 アキラとイオリは、未だ、作り終わったテントの近くで話していた。

 疎外感。
 そんなものを覚える。
 彼らの話は、自分が介入してはいけないようなものなのだ。
 誰だって、そういうものはあるのだろう。
 例え共に旅をしているメンバーでも、そういうものは存在する。

 だが、どうも、そんな仲間は遠くに感じるのだ。
 旅を始めた当初、何も知らなかったアキラは、しきりにこの世界の話を求めていた。
 それなのに、何も知らない彼は、いつの間にか、自分の知らないことを知っている。

 もう彼に、自分の声は届かないのだろうか。

「どうせなら……、最初から遠くにいなさいよ……」
 小さく呟いたその言葉は、たき火の音に溶けていった。

「こっちは、大丈夫かな……?」
「……!」

 足音が聞こえたと同時、そんな言葉が聞こえてきた。
 立ち上がるのも億劫で振り返ったエリーに、一人、森林からブロンドの長髪の男が姿を現す。
 肩にはズタ袋のようなものを提げ、柔和に微笑んでいた。

「あれ? ラースさん? なんで、」
「いや、俺は慣れているから見回っていて……、もしかして君たちも、知らなかったクチ?」
 現れた男、ラースは、ローブの裾を引いてエリーの隣に座り込む。
 彼の視線の先には、野宿するにはあまりに頼りないエリーたちの持ち物。
 どう見ても、宿泊するためのものは無かった。

「たまにこういう年があるんだよね……。泊まりだってことを知らない人がいて……、」
「ラースさんは、“勇者様”と一緒に遊撃なんでしたっけ?」
「あ、ああ、中央で、ね。本当は“勇者様”が護衛を務めると言うから、息抜きに、ね」
 ラースはどこか疲れたような表情を浮かべた。
 もしかしたらラースも、アキラの語った話の長い族長に捉まったのかもしれない。

「あれ? えっと……?」
「ああ、君が今年の犠牲者だった……。大変だったろう?」
「そうだ、」
 ラースの存在に気づいたアキラが歩み寄ってくる前に、エリーは立ち上がった。
 丁度、この場に居辛くなっていたところだ。

「ラースさん、あたしも見回り手伝いますよ。また色々お話聞かせていただけますか?」
「え、休んでいた方が、」
「大丈夫です」

 エリーは立ち渋ったラースを半ば強引に促し、森林に誘う。
 ラースがその様子に小さくため息を吐き、立ち上がったのを背中で感じ、足早にたき火から離れた。

「お、おい、お前、」
 背後からそんなアキラの言葉が届くが、エリーは足を止めず、振り返るだけ。
 振り返ったその先、エリーは僅かに、イオリを捉えた。
 イオリは言葉を発さず、アキラの隣でいつものように苦笑をしている。

「てか、その人は……?」
 その隣、アキラは怪訝な表情を浮かべていた。
 ラースとはほとんど言葉を交わしていないアキラが、彼のことを知るはずもない。

「……見てなきゃ、分かんないわよ」

 何故かそんなことを小さく呟き返し、エリーは森林の闇に消えていった。

―――**―――

「へえ……、」
 時を遡って、大分冷えてきた潮風が撫でる夕暮れ時。
 クラストラスの町の外、エレナは現れたその存在に、そう一言漏らした。

 紅い太陽に照らされたそれは、スカイブルーの鱗に覆われた、巨竜。
 イオリの操るラッキーよりは流線型に近い身体をしているが、大きな翼が付属するその背中は、それでスペースが圧迫されているとは思えないほど広い。
 鼻が尖ったような竜種特有の顔つきに、大きな瞳。

 しかしその瞳は丸く、温厚そうな色を携え、竜種のわりには牙もない。
 大通りを圧迫する程度の身体にしては、それ以外の攻撃能力は低そうだ。
 ドラゴンから牙や爪の攻撃能力を奪えば、丁度こういう姿になるかもしれない。

「ワイズ、ご機嫌いかがですか?」
 ウェーブのかかった黒髪の少女、カイラが修道服のようなローブから手を出し、自分の召喚獣の鼻を優しく撫でる。
 ワイズと呼ばれたその巨竜は、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らし、その愛撫を受け入れていた。
 やはり、どう見ても戦闘用に見えない。

 見えるとするなら、

「わっ、わわわっ!! カーリャンッ!! あっしも、いいですかっ!?」

 子供の目を輝かせる、愛玩動物に、だ。

「おっきーなぁ……、いいなぁ……、召喚獣……、いいなぁ……、いいなぁ……、いいなぁ……!!」
「グルル、」
 興奮状態のティアが撫で回しても、ワイズは変わらず気持ちよさそうに喉を鳴らす。
 種族の差から表情は読み取れないが、人間であったとしたら、ワイズは満面の笑みなのだろう。
 やはり、どう見ても、だ。

「カイラのワイズなら、六人でも行けると思います」
 二人と召喚獣から離れて立っていたエレナに、長い杖を背負った男、マルドが囁いた。
 隣には今にも欠伸しそうな白髪勇者様、スライクと、その影におどおどとして隠れる小さな少女、キュールが所在なさげに立っている。

 先ほどの喫茶店で、熱弁を振るうティアを止める気も失せ、気づかれないようにその場を後にしたエレナは、一人でアキラたちが向かったガリオールの地に向かおうとした。
 しかし、向かう先は、結局のところ、へき地。
 この時間ではすでに便もなく、その辺りの馬車の持ち主に色目でも使おうかと思っていたところでティアたちが合流。

 どう話をまとめたのか、召喚術士のカイラの力で共にその場に向かうそうだ。

「まあ……、俺たち、スライク以外の勇者様ってのに会ったことがなくて……、楽しみだよな?」
「かっ、」
「……、あ、悪い……」
 マルドの言葉に、威嚇するようにスライクは返した。
 どうも、その言葉を聞くことを拒んでいるようだ。

「……はっ、ご丁寧にも魔王を殺そうとしてんだ。マメな野郎だろうよ」
「……?」

 スライクから漏れた言葉に、エレナは眉をさらに寄せた。
 彼は、“勇者様”ではないのだろうか。

 口ぶりから、どうも、それが感じられない。
 そもそも世界を救うという使命に燃えていないように感じるし、何より魔王を倒すつもりがないようにも感じる。

 だが、アキラという存在への興味は少なからずあるようだ。

「でもどうしよう? 威厳たっぷり、とかだったりしたら」
「っ……、ぅぅ……、」

 エレナの思考をよそに、というより、スライクから勇者としては妙な言葉が漏れたにもかかわらず、マルドとキュールは話を続けていた。
 二人の中のアキラ像は、時間とともに膨らんでいくらしい。
 膨れていく限り、それはアキラから順調に遠ざかっていくのだが、エレナは黙って見ていた。
 その方が、彼らがアキラと出会ったとき、面白いかもしれない。
 樹海に行くために、面倒な手間を省けるとはいえ、望みもしない団体行動だ。
 それくらいは対価が欲しい。

「……、」
 だが、ふと、エレナはその対価が得られない可能性を脳裏に浮かべた。

 最近の、アキラの様子。
 鍛錬では、以前より遥かに集中力が増している。
 そしてその成果も、だ。

 今朝の様子一つとっても、アキラは成長している。
 以前のアキラがエリーと競争しようものなら、追う気も失せるような差が生まれ、町の中を一人でとぼとぼ歩いていただろう。

 勇者としての自覚が確たるものになったのかどうかは知らないが、彼はもう、肉体的には“勇者様”と呼べる存在になっている。

 あとは、

「エレお姉さまエレお姉さまエレお姉さまっ!! ワイズがマジ可愛いですよこんちくしょーっ!!! はっ!? イオリンのラッキーと並んでたらっ、あっしはいったいどうすればっ!!?」
「そうね。アイルークに帰ったら?」
 思考に沈んでいたエレナを、ティアの大声が呼び覚ました。

「うおおっ、冷たいっ!? 寒いですよっ、エレお姉さまっ!!」
「さむ……、って、あんた震えてんじゃない」

 夕暮れの潮風に当たるティアは、声こそ張り上げているが、顔色はどこか青い。
 エレナは羽織っていた亜麻色のカーディガンをぞんざいにティアに投げつけ、その手でそのまま町を指した。

「あんた、やっぱり戻りなさい。いい加減にしないと、」
「うおおっ!! エレお姉さまにほどこしを受けられるとはっ!! あっしは感激しまくりですっ!!」
「っ、」

 外気に触れた肌を軽くさすり、エレナは顔を背けた。
 今朝の“占い”のことも脳裏にちらつき、面白くない。

 だが、ティアは渡したカーディガンを羽織っても、やはり僅かに身体を震わせていた。
 他の四人は、苦笑いを浮かべるばかりで気づいていない。
 ティアは、風邪をぶり返している。

「これからそれで飛んでくんでしょ? それじゃあ、」
「ああ、それなら俺が何とかしますよ」
 エレナの言葉を察したマルドが、杖を取り出し、目を瞑る。

 余計なことを。
 彼から漏れ出した銀の光を見て、エレナは小さく呟いた。

「……、フリオール」
 銀の光が、こんな“低速”で展開されたのを初めて見た。
 マルドの杖の先の宝玉が光を放ち、六人の身体を包み込む。

「……、ふう……。これなら、大丈夫かな?」
「おおおっ、あったかいっ!!? マルドンッ!! マジありがとうですっ!!」
「……、負荷は、大きいんだけどね……、」
 ティアの奇妙なセリフを聞きながらも、マルドは軽く額を拭う。

 言葉通り、この広範囲のフリオールは彼には荷が重いようだ。

「……、」
 だが、これが普通なのだ。
 同じ色の魔術、いや、魔法を操る少女が語っていた、フリオール。

 攻撃以外の外部影響を選択遮断。
 時に重力にすら逆らい、宙を飛び交うことすらできる。
 数千年に一人の天才と言われるマリスにとってはその程度の影響は薄いらしいが、魔術を超越しているそれは、やはりそれだけの魔力を必要とするのだ。

「月輪属性に会うのは初めてなのですか?」
「お生憎様。七曜の魔術師は、もう全員集まってるわ」
 どうやらティアの演説は、流石に途中で遮られたらしい。
 召喚を終えて近づいてきたカイラに一言返し、エレナは大股でワイズに近づいていく。
 スカイブルーの姿のそれは、エレナの接近に機敏に反応し、小動物のように身を震わせた。

「ちょっと、ワイズを威嚇しないでいただけますか!?」
「何もしやしないわよ……、私たちを運んでくれるんでしょ?」
「っ、」

 エレナの物言いに、カイラはピクリと眉を歪めた。

「一応は引き受けた依頼。とっくに出発してしまったようですが、儀式は夜明け。十分に間に合うでしょう」
「……? 夜明け?」
 カイラから漏れた言葉に、エレナは依頼書の写しを取り出した。
 どこに目を走らせても、そんな言葉は書いていない。
 だが、今気づいたが、妙なことに、依頼が終了する正確な時間は書いていなかった。

「バオールの儀式は夜明けと共に。そう伝え聞きます」
「カイラはそういうことには詳しいからね」
 二人の言葉に、エレナは依頼書を握り潰した。
 恐らく、アキラたちはこの事実を知らないだろう。
 知っていたら、一言くらいは伝えに来たはずなのだから。

 手元で丸まった資料は、最早何の役にも立たない。
 誰が作成したかは知らないが、随分いい加減な仕事をする。

「まあ、そこだけ間に合っても、とんだ遅刻ね……」
「っ、あなたが、わたくしたちを、」
「サボるつもりだったじゃない。特にあの男」

 エレナは無遠慮に、欠伸をしているスライクを指差した。
 スライクは鋭い視線を返してきたが、エレナは乾いた瞳でそれを見返す。

「……それに、そもそもわたくしが協力するのは、“勇者様”のためです。誰か様とは違って、わたくしは他の“勇者様”にも敬意を払いますので」
「そう、それは殊勲な心がけね」
「っ、」
「カイラ、押さえろって、」
 マルドがエレナを庇うように立ちはだかっても、カイラはエレナを睨んだままだった。

 どうやらカイラが乗る気なのは、エレナに対する反発だったようだ。
 どうもエレナは、こういうタイプをあまり好めないらしい。

「……、ま、助かるわ。それより、ティア」
「はい!」
 フリオールの影響で寒気がなくなったのか、ティアは元気に声を出した。
 だがやはり、顔はどこか赤い。

「今の話聞いたでしょ? あんたに任務を与えるわ。あの天才ちゃんとアキラの従者。流石にもうすぐ戻ってくるだろうから、このこと伝えといて」
「おうさっ!! 私にっ、ま、……ええっ!? またお留守番ですかっ!?」
 喚くティアに睨みを利かせ、エレナは親指で町を指す。
 フリオールを纏っているにもかかわらず、身体を震わせていては、ただでは済まなくなる。

「いいから戻って風邪を治しなさい。あんた……、“間に合わなくなっても”知らないわよ」
「……、っ、…………了解……、しました……、」
 エレナの言葉が利いたのか、ティアは名残惜しそうにカイラのワイズを見上げる。
 だがそれでいて、彼女の焦点はあっていないように思えた。

 そう、それでいい。
 面々に別れを告げ、とぼとぼと町に歩いていくティアを見ながら、エレナは小さく頷いた。
 ティアが纏ったシルバーの光が、徐々に離れていく。

「……さ、行きましょうか」
「ちょっ……、えっ!?」
 ワイズが搭乗口のように頭を下げる前に、エレナは身体能力強化にあかせてそれに飛び乗った。
 一般的な建物の、二階ほどの高さだろうか。
 ワイズに負担を与えないようにふわりと着地したエレナは、無表情にぽかんと開けるカイラを見下ろす。
 エレナは、高くなった視線の先、夕暮れに染まる瞳に、確かに大樹海を捉えた。

「……よう」
「……!」
「随分乱暴だなぁ、おい」
 エレナの隣にいつの間にか同じようにワイズに飛び乗っていた男が、挑発的に見下ろしてきた。
 自分とほぼ同時に跳んだのかもしれない。
 ほとんど気づかなかった。

 自分に、身体能力で追従できた人間を見るのは初めてだ。
 流石に、“勇者様”というだけはあるのかもしれない。

「ふーん……、」
 だが、エレナはそれだけ呟き、視線を遠くに座す山脈に移した。

 ともあれ、自分たちは、アキラたちに合流する。
 杞憂であればそれでいいのだが、やはり、妙な予感はするのだ。

 モルオールの港町についてから、正確に言えばイオリが仲間になってから、どこか様子の変わった気がするアキラ。
 彼らがリオスト平原から戻ってきたときのことは、今でも覚えている。
 多くは語らなかった彼らだが、重傷のアキラに、意識を完全に手放していたカリス副隊長。
 それだけで、おおよそ、何が起きたのかは推測できる。

 だが分かったことは、やはり単純な事実だけで、何を“想ったのか”は分からなかった。

「……、」
 ほんの少しの疎外感に、エレナは紅い太陽を眺めた。

 太陽は、万物を惹き付ける。
 それならば、太陽は、何に惹き付けられるのだろう。

 それを観測するもの総てを愛で、そこに在る。
 表も裏も、同じ色。

 太陽もまた、そうして自分を見てくれる万物に、惹き付けられる。
 そのはずだ。

 それなのに、人間だから、影を作る。
 その影は今、エレナには見えない。

「ちょっ、ちょっと、貴女、今何をっ!?」
「そこの白髪も同じことでしょう」
 正規のルートから遅れて登ってきたカイラに、エレナは小さく返した。

「そうだ、あなた、水曜属性よね?」
 召喚獣ワイズのスカイブルーの鱗を撫でながら、エレナはどこか乾いた瞳を向けた。

「え、ええ。それが?」
 おずおずと頷くカイラの向こう、巨竜によじ登る残りの二人を見ながら、エレナは肩にかかった髪を手の甲で払った。

「いえ、別に」
 そしてエレナはまた、小さく返す。

 占いは、やっぱりあてにならない。



[12144] 第十一話『踊る、世界(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2018/09/17 21:22
―――**―――

 サルドゥの民がバオール儀式を行うガリオールの地。
 ベックベルン山脈の麓にあるその場所は、四方を囲うように旅の魔術師たちで守られている。

 この地で野宿し、祈りを捧げることも儀式の一つゆえの行動。
 それは、バオールの儀式を阻害したいと考える者にとって好都合。

 バオールの儀式のようなものは、世界にはいくつも溢れている。
 中には何ら効果はない偽物もある。
 だが、バオールの儀式のそれは、ヨーテンガースで行うだけはあり、本物なのだ。

 一つ一つの効果は微々たるのもの。
 だがそれが集えば、確かな効果として現れる。

 神に祈りを捧げると名目上の理由よりも重要なのは、その効果が、魔王の力を減退させるという結果をもたらすものであるということ。
 魔王の力を吸い取り、神に捧げられてしまう。

 そういう、“ルール”。

 特に、今年はまずい。
 “当たり年”なのだ。
 万全な状態にしなければならない。

 勇者がこの場で、“刻”を刻んでいるのだから。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「あいつが何を考えてんのか分かんねぇ……、……なんだよ?」

 ガリオールの地の南部、アキラたちが見張りを務めるこの場所の光源は、メラメラと燃えているたき火のみ。
 周囲の森林で拾ってきた焚き木を投げ入れながら、アキラは苦笑したイオリに怪訝な顔つきを向けた。
 空には木々の向こう、満天の星が散りばめられているが、それを見る気にもなれない。

「いや、同じことを言ってるな、と思ってね」
「?」
 イオリの言葉が、とある人物のことを指していることは分かったが、それでもアキラは首を傾げた。
 そして視線を、エリーがラースという男と消えていった森林へ移す。
 二人が消えてから大分経つというのに、その闇からは一向にスカーレットの光は現れなかった。

「エリサスも、言っていたよ。アキラが何を考えているのか分からないってさ」
「え? あいつだけに留まらず、いろんな奴に言われるんだけど……」
「……、今日に限って、だよ」

 イオリはまた、苦笑した。
 アキラは面白くないような表情を作って、足元の木をまた投げ入れる。

「……、」
 だがアキラは、今度ばかりは自分よりエリーの方が分からないような気がした。

 自分は、変わっていないはずだ。
 今日の一日を振り返っても、大した変化は無い。

 いつもの通り、朝の鍛錬に参加して、
 いつもの通り、依頼をこなし、
 いつもの通り、出逢いがあった。

 今度の出逢いは、自分以外の“勇者様”と、だ。
 オレンジのローブに、肩ほどまでの銀の髪。
 勇者と名乗ることで期待も受け入れる、自分とは違う、“勇者様”。

 そんな小柄な少女、リリルとの出逢い。

 だが、“それだけだ”。
 自分は、いつも通りだったはず。

 それなのに、エリーはいつもと違う気がする。

 不本意とはいえ、自分が馬車の中でサボっていたとき。
 てっきり、エリーが怒鳴り込んでくると思っていた。

 “勇者様”ことリリルと話していたときなど、正にそのタイミングだとも思えたのだ。
 それなのに、自分はすっかり話し込んでいた。

 エリーがいる場で、女性と会話が最後まで成立するのは珍しい。
 強いて言うなれば、エリーの目を盗んでイオリと話しているときくらいだろうか。

 この世界の“バグ”。
 この優しい世界に見えてしまった、歪み。
 その話だけは、何ら下心なく、イオリとだけ話さなければならない。

 その他は、きっと、いつも通りだと思っていた。

 それなのに、

「そういえば、さっきの人、誰?」
「エリサスに言われてたろう? 見てなきゃ分からない、って」
「……、見てたけど、分からないんだって」

 アキラは見ていたのだ、それはもう。
 エリーが楽しげにラースと話していたところを。

 イオリと会話をしているさなか、ときおり視線を移して見ていたのだ。
 だが見えたのは、普段自分に騒ぎ立てているエリーが、借りてきた猫のように大人しくラースと話している姿。
 先ほどもあの男が現れるや否や、共に去っていってしまった。

 一体いつ、あれほどまでに親密度が上がったのだろう。
 あの金の長髪を垂らしたローブの背を見ながら、アキラは結局、あの男に声はかけられなかった。

「複雑なんだよ……、女性の心っていうのは」
「……語るなぁ、」
「っ、アキラ、確かに君はいつも通りだね」

 アキラはまた、面白くない表情を作った。
 イオリもまた、苦笑する。

 いつも通りだ。
 自分が何かを口に出すと、イオリが苦笑する。
 本当に、いつも通り。

 いかに世界に“バグ”が満ちていても、自分がいようと思ったアキラの立ち位置。

「……、違う……、だろ」
「? アキラ?」
 ふいに呟いた言葉は、すぐ隣に座るイオリに当然届いてしまった。

 アキラはそれに、首を振るだけで返す。
 だが、口にしたことは、未だ心の中に残った。

「……、」
 パチパチと燃えるたき火を眺め、アキラは再び、今度は心の中で呟く。

 違う、と。

 自分が“いようと思うから”この位置にいるのではないはずなのだ。
 自分は“自然にこの場所にいる”だけのはず。
 好きなものに近づいていって、嫌いなものから遠ざかった場所がここのはずなのだ。

 そこには、なんら操作はない。
 ごく自然にそこにいて、能天気に笑っている。
 それが、自分だ。

 自分は、“キャラクター”を守るためにここにいるわけではない。
 そのはずだ。

「……、なあ、イオリ……、」
「……何かな?」

 不安を吐き出したような言葉に、イオリは静かに反応した。
 アキラの声色で、まるでその内容が分かっているかのように、凛々しい表情を浮かべている。
 これは、彼女の“キャラクター”なのだろうか。

「お前の予知だと俺は……、いや、悪い、いいや」
「……、」

 駄目だ。
 やはり聞けない。

 アキラが口に出そうとしたのは、イオリの視た予知では、自分はどういう“キャラクター”だったのか。
 だが、それは、聞いてはいけない気がした。

 イオリの考えによれば、彼女の視た予知こそが、世界のあるべき姿らしい。
 それに則していないものは総て“バグ”と呼ばれ、イオリに懸案事項として扱われている。
 また、アキラも、イオリの視た予知の内容をほとんど知らないのだが、今自分がいる世界に歪みの匂いを感じてしまい、彼女の考えを肯定的に思っていた。

 ゆえに、イオリが視た予知。
 もう大分、その予知から逸れて未来は歩き出してしまっているようだが、そこにはアキラもいたというのだ。

 その世界の、自分。
 世界のあるべき姿の自分は、一体どういう“キャラクター”だったのか。

 ある種答え合わせともいうべきそれは、やはり、恐くて聞けなかった。
 それを聞けば、きっと自分は、ぎこちなくなる。

 自分はきっと、確固とした足場を持っていないのだ。
 アキラは、イオリと出逢ったときにも思ったことを、再び浮かべる。 
 自分の立ち位置が分からないから、風に舞う木の葉のように流され、揉まれ、そして吹き飛ばされる。

「お前は……、やっぱりすごいよな……」
「立ち位置の話かな……?」
「……!?」
 何となく呟いた言葉に、イオリは正しく反応してきた。

「いや、さっき、僕に聞こうとしただろう……? 予知ではアキラがどういう人間だったのか、って」
「え、なに、お前エスパー?」
「っ、アキラ、エリサスには悪いけど、君は分かりやすい方だと思うよ」
 イオリは、アキラの前の木を何気なく拾い、たき火に投げ入れた。

「……僕はすごくはないよ。現に立ち位置が分からなくて、打ち解けられていないんだから」
「……でも、魔道士になってるだろ」

 アキラは思うのだ。
 イオリは、予知で、自分を見ている。
 アキラが今、知りたくないと思っている未来の自分を、イオリは知っているのだ。
 それなのに、イオリはいつも冷静に、確固たる意志を持って進んでいるのだから。

「意外となんとかなるものだよ……。まあ、僕の場合は、“バグ”を作ってまで突き進んでいただけだし、ね」
「でもさ、」
「……きっと、」

 アキラの声を遮って、イオリはいつも通り苦笑した。

「アキラ。君も見つかるよ、自分の立ち位置が」
「……語るなぁ、」
「っ、アキラ、」

 イオリが呆れたように口を開いたところで、アキラは空を見上げた。
 木々に遮られた向こうの星は、未だ輝く。

 自分はこの世界で、どこに立つべきなのだろう。

―――**―――

「そういえば、他にも四人いるんだっけ? クラストラスに?」
「あ、はい。急にこんなことになっちゃって……、大丈夫だとは思うんですけど、」
「災難だったね……」

 エリーは、振り返って同情的な瞳を向けてきたラースに苦笑を返した。
 ブロンドの長髪を垂らしたローブの背の向こうに、松明の火が燃えている。
 暗い森林に足を取られそうになりながら歩く自分に合わせたラースの歩幅に、エリーはどこか気まずいものを感じていた。
 自分が、足手まといになりつつある。

 今二人はガリオールの地の四方を守っている魔術師たちの見回りを行っていた。
 アキラたちがいた南部を離れ、次に東部。
 たった今北部を見回ったところで、次に西部、ベックベルン山脈で陣を取っている魔術師たちに向かっているところだ。

 だが、その見回りも、ほとんどエリーは何もしていない。
 一か所につき、二、三名ほどいる魔術師たちに、ラースがねぎらいの言葉をかけているところを後ろから何となく眺め、そのままその場を離れていく。
 護衛を務める魔術師たちが、ほとんど泊まりだということを知らなかったこともあり、肩に下げたズタ袋から食糧を配り歩いているほどだ。

 みな、サルドゥの民から配られた食料の少なさに不満があったのか、その施しに頬を綻ばせ、感謝の意を述べている。
 ラース曰く、毎年同じようなことが起こっている故の準備らしいが、どうやらそれは今年も的中したようだ。

 そんな気遣いもできるラース。
 だが、その隣を歩くエリーは何もしていない。

 せめて、と、荷物持ちを買って出ても、火曜属性の自分が照明役を買って出ようとしても、ラースにやんわりと断られ、結局後ろに続くだけだった。
 虫の声が聞こえてくる不気味なほど暗い森林の中、エリーは、ちらちらと周囲に視線を泳がせる。
 魔物でも襲って来てくれれば役割が果たせるのだろうが、生憎平和そのものだった。

「……ラースさんって、水曜属性なんですよね?」
「……ん? ああ、そうだよ。よく覚えていたね」
 エリーの問いかけに、ラースはせり出した木の根に注意を促しながら応えた。

 慎重に木の根を超えたエリーは、昼の戦闘を思い出す。
 馬車の先頭にいたラースが最もよりよく魔物を倒し、依頼に貢献した。
 そしてそのとき飛ばされていたスカイブルーの光は、記憶に新しい。

「治癒魔術もあるし、一人旅には便利な属性だよ。本当は、月輪属性がベストなんだけどね」
「……! 月輪属性のこと、詳しいんですか?」
 ラースから漏れた言葉にエリーは機敏に反応した。

 魔術師試験を突破したエリーも、その属性について多くは語れない。
 一般に考えられる魔法が使える属性。
 そこまでの認識で十分なのだ。
 月輪属性よりもさらに希少な日輪属性も当然除かれ、残る五属性がメインの試験範囲なのだから。

「まあ、長いこと旅をしているとね……、いろいろ頭に入ってくるさ」
「お話、聞かせてもらえますか……?」
 博学多才そうなラースに、エリーは距離を詰めた。
 山脈に近づき、木々が薄れ始めたところで隣に並び、ラースの言葉を待つ。

「“不可能なことはない”。そういう属性だよ」
「……、」
 ラースの断言するような口調に、エリーは黙って顔を向ける。
 エリーの年より五つか六つは上だろうラースの表情は、その程度の差をゆうに超越するほど、理知的だった。

「月輪属性の者に不可能なことがあるとすれば、魔力不足なだけ。すごい属性だね」
「……、はあ……」
 ラースからはサラサラ言葉が漏れてくる。

 それと同時、エリーの脳内に、その月輪属性の者の言葉が蘇る。
 確かに彼女、エリーの妹のマリスも、その言葉を発していた。

 例えば、マリスは、病気は治せないと言う。
 それは、月輪属性だから不可能なのではなく、魔力不足だから不可能なのだ。
 生み出す力より、滅ぼす力の方が、労力は大きいから、らしい。
 そんなようなことも言っていた。

 だが、それと同時に、エリーの背筋は寒くなる。

 あの、膨大な魔力を有しているマリス。
 あれで、力不足なのだ。
 もしマリスが更に力を増せば、本当に、総てを超越してしまう。

 今さらながらに、国が、マリスへ戦闘参加の要請を出していた理由も分かってきた。

「……じゃあ、」
 自分の妹に背筋を冷やされるのはいつものことだ。
 湧き上がる劣等感も、今はそこまで強くない。

 博学多才なラースを前に、エリーは、もう一つ、気になったことを口にする。

「“日輪属性”」
「……、」
 エリーから漏れた言葉に、ラースの表情が僅かに変わった。

「ラースさん、日輪属性のことで、何か知っていることはありませんか……?」

 口に出してみて、エリーは表情を曇らせた。
 行く末が気になる存在の代表格、アキラの属性。

 アキラのことは、当然、全く、完全に、どうでもいいのだが、日輪属性のことは少しでも知っておくべき。
 エリーはそんなことを思った。

「……、“不可能なことはない”」
「……?」
 一瞬、ラースはエリーの言葉を聞き逃したと思った。
 未だ、月輪属性の話をしている、と。

 しかし、エリーを見返すラースの瞳に迷いはなく、言葉を訂正する気もないようだった。

「日輪属性と、月輪属性は非常に近い。だけど、日輪属性の者は月輪属性と違い、“特化”することができる」
「特化……?」
「ああ、」
 ラースは目を瞑り、小さく微笑んだ。

「月輪属性は不可能なことはない。だけど、できないことがないだけで、到達できない領域はある。例えば、君の火曜属性も、“特化”できるだろう?」
「?」
 ラースは理知的に言葉を紡ぎながら、エリーを横目で見下ろしてきた。

「インパクト時の最大威力に“特化”した火曜属性。月輪属性がそれを真似しようとすれば、何重にも強化の魔法を使わなければならないことになる」
「……、」
 エリーは頭の中で、ラースの言葉を整理し始めた。

 つまり、月輪属性には、“結果として”不可能なことはない。
 だが、他の属性の模倣をするのは、効率的ではない、ということだろう。

 エリーは自己の学んだ五曜属性の特徴を思い起こす。

 インパクト時の威力、つまりは攻撃力に特化している火曜属性。
 遠距離攻撃や治癒魔術、つまりは魔術師タイプに特化している水曜属性。
 身体能力強化に特化している木曜属性。
 防御能力に特化している金曜属性。
 そして、揺るがない力、つまりは外部影響拒絶に特化している土曜属性。

 これらのことは、月輪属性の者もできる。
 だが、それをするには、各属性の者よりも多大な魔力が必要になるのだろう。

「もし、魔力の総量が尋常ではない月輪属性の者がいれば……、器用貧乏どころか最強に近いだろうね」
「……、」

 だから、マリスは最強なのだろう。
 正に彼女こそが、ラースが口にした、その魔力の総量が尋常ではない月輪属性なのだから。

 ラースが語るものは、エリーも初めて聞くことばかりだった。
 マリスからも聞いたことはない。
 試験科目が山積みだったこともあり、マリスから聞いたのは五曜の属性ことばかりだったのだから。

「だけど、頂上決戦なら、どう足掻いても月輪属性は最強にはなれない」
「……!」
 今エリーが浮かべたことに相反することが、ラースの口から漏れた。

「そうだ……、“特化”……!」
「そう」
 思い至ったエリーから漏れた言葉を、ラースは頷きながら肯定した。
 まるで、できのいい生徒を褒めるような笑みを浮かべる。

「確かに……、月輪属性固有の魔術もある。だけど、日輪属性の者の選択肢はそれ以上に無限だ。月輪属性が到達できる最後の場所。そこからさらに、日輪属性は歩き出せる」
「……、」
 どうしても、そういう話をしていると、唯一知っている人間の日輪属性、アキラのことを思い浮かべてしまう。
 アキラが力を増せば、マリスに並び、その上で自己の戦闘スタイルを伸ばすことができるのだ。

「まあ、その分希少で、何よりものにならない場合も考えられる。でも、最強への道は確かにある。そんな属性だよ」
「……、」

 だが、アキラを見ていると、どうしてもそう思えない。
 あのアキラが治癒魔術を使うところも、空を飛ぶところも想像できないのだ。
 思い浮かぶのは、エリーと同じように、インパクト時に魔力を流し込む攻撃のみ。

 “特化”が、始まっている。

「……!」
 そこで、エリーは気づいた。
 もしかしたら、自分は、

「……もし、」
「……?」
 エリーは歩きながら顔を伏せた。
 聞くのは恐い。
 だが、誰もいない今、何となく、聞いておきたいことがあった。

 あらゆることに精通しているように見えるラース。
 この人に、どうしても。

「もし、何も知らない日輪属性の人が一人いて、そいつを育てることになったら、ラースさんはどうやって育てますか?」
「……、他の属性の者は、全員いる場合で?」
「……、まあ……、はい」
 エリーの言わんとすることを鋭く察し、ラースは目を伏せ、額に指を当てた。

 そして、

「まず、月輪属性の者に師事させるだろうね。それだけで最強になれるし、いきなり“特化”させるのは日輪属性を活かせない」

 エリーが予想した通りの言葉を返してきた。

―――**―――

「―――!!」
「来た、みたいだね……、」
 アキラは即座に、イオリは冷静に立ち上がって魔道士のローブの裾を払う。
 エリーが見回りにこの南部の防衛地を離れて半刻ほど、森林に、何かの遠吠えが響いた。

 いや、何か、など考えるまでもない。
 ベックベルン山脈の麓、ガリオールの地。
 そんな場所で遠吠えできる存在など、魔物以外には考えられない。

「よし、やるか……!」
 アキラは足元に立てかけてあった剣を拾い、肩に装着する。
 そしてそれを抜き放った。

 エリーは戻って来ないが、ここで動かなければ何のための依頼か。
 アキラは森林に目を這わせ、剣を構える。

「アキラ、一応言っておくけど、」
「“ヨーテンガースの洗礼”だっけ? 大丈夫大丈夫」
「分かっているならいいさ」

 イオリも短剣を抜き、両手で構える。
 向いた方向はアキラと同じ。
 ただ冷静に、目を細める。

「……! 来た」
 呟いたイオリの視線の先、森林の闇から、緑の体毛で覆われたゴリラのような魔物が現れた。
 隆々とした筋肉に、二メートルはあろうかという巨体。
 醜く歪んだ顔は中央のたき火に照らし出され、アキラたちを威嚇してくる。

 この魔物は、アイルークでも見たことがあった。

「クンガコング……、だっけ?」
「っ、ガンガコングだ……!! ほら、角が生えている」
 イオリに言われて注視すると、確かに魔物の頭には二本の突起が飛び出ていた。
 緑の角は、緑の体毛にまぎれているが、先端は鋭く、攻撃能力は高そうだ。

「いや、当然のように言われても分からないんだけど……、」
「確かに君の属性じゃ気にすることもないか……。近距離タイプだ。見た目通りね……!!」

 アキラに唯一必要な情報を与えたイオリは、腰を落とす。
 しかしその目線は、今たき火に照らされているガンガコングを通り越し、その奥の闇を捉えていた。
 そして鋭く、表情を険しくしている。

「でも……、強い魔物だよ。モルオールでは一体も見たことがない」
「た……、たくさん見れて良かったじゃないか……、」
 アキラの視線も、現れたガンガコングから外れ、その奥の闇に向く。
 一体、また一体と、姿を現す同じ大型のゴリラ。
 アイルークの森で見たクンガコングのように、やはりそれは群れていた。

 見えているだけでも二桁には昇っているだろう。
 ここまで接近に気づかないのも、“ヨーテンガースの洗礼”たるものだろうか。

「グゴゴッ、」
「まずいな……、この数だと、」
 イオリは意識だけはガンガコングの群れに向けたまま、自分たちの防衛地を盗み見た。

「テントを張ったのが……、無駄になるかもね」
 そう言って、イオリはガンガコングに飛び込んでいった。
 即座に自分の役割が分かったアキラも、それに続く。

 魔物が集団で現れた以上、背中を合わせるように戦うのがベストだ。

「ゴォォォォオオオーーーッ!!!」
 飛び込んできた二人を見て、ガンガコングが森林に響く雄叫びを上げる。

 開戦、だ。

「―――」
「グッ!?」
 戦闘のガンガコングに一閃、グレーの閃光が走った。
 その一撃は、瞬間的に身を引いたガンガコングに僅かにかする。
 魔物の隆々とした筋力も手伝って、ダメージとしてはあまりに少ないその切り込み。
 しかし、そこからバチバチとグレーの光が漏れ、ガンガコングは身を震わせた。

「クウェイル……!」
 イオリが呟けば、ガンガコングの巨体の中、爆発するような衝撃が暴れる。
 揺るがない、土曜属性の魔術。
 それはいかに相手が防御を高めても、その干渉を拒絶し、甚大な被害を与えることができる。

「っ、」
 その攻撃に僅かに遅れ、イオリの背後から迫ったガンガコングにアキラは切りつけた。
 アキラはインパクト時のみに魔力を込め、オレンジの光を爆ぜさせる。
 闇を照らす日輪の光。
 しかし、アキラの手に残ったのは、剣で魔物を割いた感触ではなく、鈍器で岩を殴りつけたような衝撃だった。

「堅ってぇっ!?」
 辛うじて弾き飛ばすことはできたが、アキラの一撃はガンガコングに防ぎ切られた。
 袈裟斬りの攻撃は、確かにガンガコングに痛手を負わせたが、それでも戦闘不能に到達しない。

「っ、」
 痺れた手を忘れ、アキラは再び痛手を負ったガンガコングに切りつける。
 ようやく戦闘不能になって爆発した頃、背後から、二匹目の爆発音が聞こえてきた。

「アキラ!! 深追いせずに背後を守ってくれ!!」
 イオリはそれだけ叫ぶと今度はローブからナイフを取り出し、それを投擲する。

 勢いよく飛んだグレーの一閃は後方で隙を窺っていたガンガコングに刺さると、バチバチと光を散らす。

「クウェイル」
 これで、イオリが倒したのは三匹目。

 ガンガコングは木曜属性。
 イオリの土曜属性では相性が悪い。
 だがこの魔力の防御が低いこの魔物なら、切りつけて詠唱すれば、甚大なダメージを与えられる。

「っ、」
 アキラは背後で爆ぜる爆音を聞きながら、剣を掲げてガンガコングを牽制した。
 自分ができるのは、イオリを守ることだけだ。
 相性で劣っている以上、ガンガコングの攻撃を受ければ流石にただでは済まないだろう。

 だが、

「らぁっ!!」
 またも手元に残る、重い衝撃。
 ガンガコングの堅い筋肉を切りつけていては、剣の方も軋みを上げる。

 その上、相手はそれだけでは戦闘不能にならないのだ。

「―――、」
 攻撃方法が、まずい。
 アキラは即座にその結論に至った。
 そして視線を泳がせ、イオリを盗み見る。

 彼女の戦闘を間近で見るのは始めてだ。
 彼女は一体、どうやって、

「―――!?」
 アキラが視線を動かしたわずかな隙、その死角から、ガンガコングが決死の特攻を試みてきた。
 反応が当然遅れ、アキラは思わず下がるように跳ぶ。

 だがそこで、致命的な欠点に気づいた。

 今の、自分の役目は、

「っ、イオリ!!」
「―――!!」
 アキラの叫びに、イオリは瞬時に振り返った。
 そこには、自分の背後から離れたアキラと、その隙を狙って特攻してくるガンガコング。
 頭に生えた緑の角を、低い姿勢から突き出すように襲いかかってくる―――

「っ―――」
 イオリは迷わず、地面に飛び込んだ。
 アキラが跳んだ、その地点。
 アキラ足元に向かって転がったイオリは、即座に立ち上がり、特攻を回避されたガンガコングにナイフを投げる。
 詠唱までは間に合わなかったが、それでも動きは止められた。

「アキ―――」
 アキラを咎めようと口を開いたイオリは、口を閉じ、目を見開いた。
 魔道士たる動きで必死の状態から抜き出たイオリを待っていたのは、回り込んでいた別のガンガコング、二頭。

 二頭はその剛腕を掲げ、体勢を整え切れていない自分たちに、今にも振り下ろさんとしている。
 とっさにここから離れても、その着地地点ではさらに体勢を崩し、同じことがより悪い環境で起こるだろう。

「―――、」
 アキラはその動きが、スローモーションのように見えていた。

 こんな感覚は、何度もある。
 まるで、世界が、自分の出す“答え”を待っているような光景。

 例えば、あの巨大マーチュが総てを滅する魔術を放とうとした瞬間。
 例えば、アキラが初めて魔物を倒した瞬間。

 あるいはこれは、日輪属性の者のスキルなのかもしれない。
 時間を超越し、世界が勇者を待つ。

 正しい答えを導かなければ、そこで終わる。
 だが、チャンスはあるのだ。

「―――」
 この、ご都合主義。
 それを勇者は利用して、敵を討つのだ。

 それが、“ルール”。

「―――」
 今必要なものは、何なのか。

 あの銃の力。
 それも一つの選択肢。
 ノータイムで総てを滅するあの力は、この必至の状況でも総てを打破する。

 だが、他にも道はあるはずだ。
 現にアキラは、今、その力を拒んでいる。

 例えば、そう。

 イオリのように相手の防御に干渉せず、苦痛を与えられる攻撃方法。

「―――っ、」
「グ―――」
 アキラは素早く剣を振った。
 今までのように殴りつけるのではなく、ただ、かすらせるように。

 問題だったのは、魔力の込め方。
 爆ぜさせるのではない。
 触れた相手に、それを、残す。

 そういう魔力の操り方―――

「―――ガァッ!?」
 アキラの切りつけたガンガコング二頭が、呻いて僅かに怯む。
 切られた部位からオレンジの光をバチバチと漏らし、苦痛に顔を歪めた。

「っ、クウェイル!!」
 その一瞬の隙、イオリは一対の短剣を掴み直し、二頭のクンガコングに付き立てる。
 詠唱すれば漏れる、グレーの光。
 アキラの一撃でできた傷口からそれが入り込み、ガンガコングの身体の中で暴れ回る。

「っ、アキラ、助かった……!」
 即座にイオリは体勢を立て直し、短剣を拾って構える。
 元はと言えばアキラが招き込んだ危機だったのだが、それを突破できたのだから文句はない。

「……、は、はは、」
 アキラはイオリの動きを背中で感じ、剣を構える。
 しかしその剣は、ガンガコングを牽制しながらも、プルプルと震えていた。
 内心、かなりの震えがきている。

 今の一撃。
 単純な威力など、今までの攻撃方法の足元にも及ばないだろう。
 だがあのシチュエーションでは、最適の攻撃だ。

 微々たる魔力でも、隊内で暴れ回れば相手を怯ませることなど容易い。

 日輪属性とは、ここまで応用が利くものなのか。
 思えばアキラは、こうしてここまで来ていた。

 火曜属性の攻撃方法も、エリーの動きを見て覚えたものだ。
 銃の反動を抑え込んだときも、もしかしたらエレナを見て、木曜属性の身体能力強化を真似ていたのかもしれない。

 そして、今。
 自分は、イオリの動きを意識していた。
 かつてより魔力も高まり、それを扱えるようになった今、遥かに理解するのが早い。

 魔力の総量は絶対的に足りないだろうが、もしそれが満ちれば。

 自分に、できないことは、

「―――!! あ、あったわ……、」

 大きくなった気分は、即座に消えた。
 アキラは何かを悟ったように、空を見上げる。
 ガンガコングを牽制していたおり、空が、途端明るくなった。

「……、あれは……!?」
 背後のイオリも空を見上げ、ガンガコングたちも動きを止めた。

 闇が支配する森林の上、満天の星空の下、巨大な翼を持つ魔物が浮かんでいた。

 スカイブルーの鱗に覆われたその巨竜は、竜種にもかかわらず、鋭い爪も牙も持っていない。
 注視すれば温厚な顔立ちをしている。
 だが、アキラにとっては、ただただ巨大な害悪が現れたようにしか見えない。

「世界……、終わったな……」
「……アキラ、諦めるのがいつもながらに早いね……、」
 半ば放心しているアキラに、イオリはため息一つ吐き、指で輪を作った。

 あの巨竜の正体は不明だが、こちらを襲ってくるのなら準備がある。
 テントや荷物のことを考えて呼ぶのを渋っていたのだが、こうなった以上、止むを得ない。

「ラッ―――、……!?」
 イオリが今まさに指を咥えようとした瞬間、その巨竜から、小さな人影が跳び下りてきた。
 突如の事態に見上げるままになったアキラとイオリの地点、ガンガコングの集団が囲うその場所に、

「私さぁ……、こいつら見飽きたんだけど……、あれ? 角、生えてたっけ?」
「っ、」

 ある種ガンガコングなどよりも危険な存在が、遥か上空から何の苦もなく降り立ち、

「……、」

 エリーはその光景を、遠くから眺めていた。

―――**―――

「もぅ、泊まってくるなら言ってよね?」
「……、」
 迫ってくるその両手を、アキラは思わず避けてしまった。
 拗ねたような表情を作ったその女性、エレナはその両手を大きな胸の前で小さく握る。

「もぅ、酷いよぉ……」
「い、いや、ごめん、」
 甘んじて受け入れたかったところなのだが、たった今ガンガコング十数体を殴り殺した腕に掴まれたいとは流石に思えない。

「まあ、それより……、」
 エレナはアキラの心情を察したようで、あっさりと甘い声色を投げ捨てた。
 次に彼女が視線を移したのは、巨大な馬車。

 ガンガコングに、言い方を変えればエレナに襲われたアキラたちの護衛ポイントは凄惨たる被害を受けてしまった。
 あの場で身体を休めるのはほぼ不可能と化し、儀式を行うガリオールの地の広場に戻ってきたのだが、問題は、エレナの語る、四人のパーティ。

「何で“勇者様”が三人もいんのよ?」

 エレナの話では、彼女もクラストラスで“勇者様”に出逢ったそうだ。
 そのメンバーの中の召喚術士の力で彼女もここまで来たそうだが、依然としてその“勇者様”の正体は不明。
 先ほども、エレナを下ろしたあと、スカイブルーの巨竜は一足先にこの場に向かっていってしまった。
 本来この護衛の依頼を受けていたらしく、まずはサルドゥの民に挨拶に行ったようだ。

 エレナの語る、その男。
 それが、アキラ同様この場にいる三人の中の“勇者様”の一人。

 そして、もう一人。
 “勇者様”ことリリルも、あの馬車の中にいる。

「アキラ君は行かなくていいの?」
「……いや、いいや」
 エレナの申し出を、アキラは拒絶した。
 今あの馬車の中にいる、二人の“勇者様”。

 もう一人の男は知らないが、リリルは“勇者への期待”を総て受け入れている姿勢の持ち主だ。
 そんなところに、今さら名乗り出てはいけない。
 特に、煮え切っていないアキラは。

「……そだ、それより、あいつは……?」
 馬車から視線を外し、アキラは広場を見渡す。
 広場の中央には、巨大なたき火がメラメラと燃えている。
 その周囲にものが散乱しているあたり、勇者様の来訪に全員馬車に飛び込んだのかもしれない。
 そして、ベックベルン山脈の方面には、バオールの儀式を行う祭壇が設置され、その上から大きな白い布がかけられていた。
 舞台中央で布が膨れ上がっているのは、やぐらが置かれているからだろう。

 だが、どこを探しても、赤毛の少女が見当たらない。

「ラースさんと一緒に、まだ見回っているんじゃないかな」
 隣に立つイオリが、冷静に返す。
 先ほどの戦闘で転がり回った結果、ローブは僅かに汚れているが、彼女の表情に疲労は感じられなかった。
 やはりあの程度の戦いは、魔道士のイオリにとって楽にこなせる戦いだったのだろう。

「……そっか、」
 そんなイオリに、アキラは淡白に返す。
 先ほどの戦闘の熱も、イオリを真似て特殊な攻撃ができたという高揚感も、今はもう何も感じなかった。

「なに? また喧嘩?」
「っ、ち、違うって、」
 あまりに淡白すぎるアキラの声に反応したのは、エレナだった。
 どこか目を細め、呆れたような表情を浮かべている。

「まったく、妙な予感がして来てみても、あんたたちは変わらな―――」
「―――話になりません!!!」
 エレナの声は、少女の声に遮られた。

 オレンジのローブに肩ほどまでの銀の髪。
 色白の肌を高揚させ、小柄なリリルは馬車から飛び出てきた。
 そしてアキラたちの姿を見つけると、一目散に歩み寄ってくる。

「あ、アキラさん、大丈夫でしたか……?」
「いや、むしろリリルの方が大丈夫か?」
 表情を取り繕ったリリルに、アキラは僅かに気圧されながら返した。

「誰?」
「あ、ああ、私は、リリル=サース=ロングトン。勇者を務めています」
 エレナの言葉に、リリルはすらすらと言葉を返した。
 その口調に、淀みは無い。
 いつそう聞かれても、彼女はそう語るのだろう。

「ああ、あなたが……。私はエレナ=ファンツェルン」
「そういえば僕も名乗っていなかったかな、ホンジョウ=イオリ、だ」
「あ、はい、よろしくお願いします」

 自己紹介を聞きながら、リリルはちらちらと馬車の方に視線を送っていた。
 そちらに顔が向くたびに、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているあたり、余程気に障ることでもあったのかもしれない。
 意思は強くとも温厚そうだったリリルが、ここまで憤慨しているとは。

「……なんか、あったのか?」
「き、聞いて下さいますか?」
 いよいよ我慢できなくなったのは、リリルも同じだったらしい。
 アキラの言葉に即座に食いつき、口を開く。

「あのスライクという男……、まるで勇者の自覚がなくて……!!」
「……、え?」
 リリルから漏れた言葉に、アキラは反応が遅れた。

 スライク。
 それが、もう一人の“勇者様”の名前なのだろうか。

「もうすでに仲間も集っているというのに……、魔王を倒すつもりなどさらさらないとまで……!!」
「え、ちょっと待てよ、それ、本当に?」
 リリルの愚痴は、流石に聞き流せなかった。
 勇者でありながら、そんな発言をする者がいるわけがない。

「ええ……、お仲間の女性は使命に準じているようでしたが……、肝心の勇者があれでは、舵を失った船も同然です!!」
「そのお仲間の女性って、ウェーブの髪の?」
「……ええ、確かカイラ、と名乗っていました」
 憤慨しているリリルに、エレナが確認を取った。
 エレナは彼らの内情を知っているのだろう。
 だが、アキラにとっては理解の外だ。

 その勇者は、魔王を討つことを拒んでいるという。
 そういう意味では、リリルにとって、相性は最悪だ。

「あのスライクって男にキレてんのよね?」
「キレ……、え、ええ、憤りを覚えているのは確かです。不覚にも、一緒にいた小さな子を泣かせてしまいました」
「あなた見る目あるわね」
 エレナが同意するように深く頷いた。

 使命に燃えていない。
 エレナが憤りを覚える。

 その二つの情報で、アキラはその勇者の像がある程度絞り込めてきた。

 小さな子の件は理解の外だが、とりあえず、態度は大きいのだろう。

「はあ……、何故、あんな方が……、」
 リリルの愚痴も、佳境に入ったようだ。
 アキラは一息吐き、視線を森林に向ける。

 今頃エリーは、南部の護衛地に戻っているだろうか。

「……、あ、それより、先ほど魔物が現れたと聞いたのですが、」
「あ、ああ、それはもう大丈夫」
 アキラは答えながら、ちらりとエレナを盗み見た。
 エレナは涼しい顔のまま。
 彼女がいれば、もう、護衛は万全のような気もする。

「すみません、陽動の可能性もあると聞いて、私はずっと、サルドゥの民を……、」
「いや、いいって」
 リリルの言葉には、勇者としての自覚がこもっていた。
 大きな瞳を森林に鋭く向け、警戒心を新たにする。
 もしかしたら、憤りをぶつける場所を探しているだけかもしれないが。

「そだ、それより、俺たちのテントがボロボロに、」
「……、待った」
 そこで、イオリが口を挟んだ。
 イオリは目を細め、リリルを見据える。

「それ、誰から聞いたのかな?」
「?」
 イオリの真意が掴めない。
 アキラは表情を怪訝にし、言葉を待つ。

 だが、嫌な予感はした。
 イオリがこういう表情をしているときは、間違いなく、妙なことが起こっているのだ。

「口ぶりからすると、ここにずっといたようだけど、」
「え? ええ、いましたが……、ラースさんをご存知ですよね? 彼が戻ってきて、」
「……!」
 アキラの中に、ふつふつと、悪寒が湧き上がってくる。

「ラースさん、ここにいるのかよ!?」
「え、ええ。私と彼でサルドゥの民と祭壇を守っていたのですから」
 リリルが視線を向けたのは、巨大な馬車。
 それは、ラースがその中にいることを示唆している。

「エリサスは? もう一人いなかったか……!?」
「エリサス? 護衛を受けた方ですか?」
「っ、」
 首を振るリリルに素早く反応し、アキラは森林に視線を移した。
 深い闇が、木々の隙間を総て埋めている。

「……! あ、ああ、君たち、」
 そこで、一人の男が馬車から飛び出してきた。
 ローブの背に垂らした、金の長髪。
 ラースだ。
 僅かに焦った様子でアキラたちに駆け寄り、視線を全員に配る。

「今馬車から“勇者様”が……、……あれ? あの子は?」

 ラースの言葉は、完全なるダメ押し。
 やはりエリーは今、ここにはいない。

―――**―――

「……、」

 星明かりも遮られる森林の中、スカーレットの光がふらふらと動いていた。
 離れた位置からそれを見れば、まるで深夜の森林を徘徊する人玉のように見えるのだろうが、幸か不幸かそれを視認できるものはその場にいない。

 そしてその光の主、エリーは、ただ淡々と、森林の見回りを継続していた。
 虫の音や、自身が木の枝を踏みつける音が漏れても、ただただ沈黙し、無表情で。

 最後の見回り地、西部の護衛ポイントを回ったのち、魔物の雄叫びが南部から響いた。
 獣の雄叫びは、襲撃の合図。
 ようやく、依頼の本番が始まった。

 共に回っていたラースは陽動の可能性もあるとサルドゥの民の元に戻り、エリーはアキラたちの元へ急いだ。
 だが、そこで待っていたのは、大群のガンガコング。
 そして、アキラの奇妙な攻撃。
 イオリの土曜属性のような、相手の硬度に依存しない、中から揺さぶるような特殊な攻撃だった。

 これで、ラースの言葉は実証された。
 日輪属性に、出来ないことはない。
 威力は未だ絶対的に足りないが、アキラは、周りの影響を受け、成長できるのだ。

 喜ばしいことではないか。

「……、」
 それなのに、エリーは何の表情も浮かべていなかった。

 瞳を細め、ただただ無言で森林を歩く。
 下手をすれば、あの半分の眼の、無口なマリスに間違われるかもしれない。
 だがその自分の妹の方は、薄暗い森林を歩いても木を踏み砕かないほど、無音ぶりが徹底されているのだけど。

「……、」
 何故自分はその光景を見て、声さえかけられなかったのだろう。

 アキラが育った。
 それは、良いことなのだ。
 攻撃対象も、攻撃効果も、エリーとほとんど範囲が被っていたあの男が、特殊な攻撃を覚えた。
 これは、自分たちにとっては大きなプラスだ。

 総てを照らし、総てを惹きつける日輪は、そうであるからこそ価値がある。

 なのに、何故か心が冷える。

 日輪の力に心が冷やされたことは、これで二度目だ。

 一度目は、アキラの持つあの銃の力を、別の視点で見てしまったとき。
 日輪属性の、正体不明の具現化が、伏線も想いも総てを消し飛ばしたときだ。
 最近、とんと見なくなったが、エリーはあの力を、正直嫌いになっている。

 そして、二度目は、今。
 だが今は、微妙に、違う。

 アキラが自分から離れている、という点では同じ。
 だが、それは、彼が歩いて、だ。
 望ましい。
 それが、成長だ。
 日輪属性の“勇者様”は、日輪属性らしく、成長している。

 それなのに、心は冷えた。

「……、」
 一瞬振り返り、そしてなお歩く。
 エリーが今向かっているのは、先ほど回ったばかりの西部の護衛ポイント。

 自分が守るべき南部からは背を向けているが、問題はない。
 いや、それどころか、他の旅の魔術師たちが護衛する必要さえないだろう。

 旅の魔術師たちは、流石にヨーテンガースにいるだけはあって、屈強揃い。
 見回ったときに会った、各地点を二、三人ほどで守っている者たちは、存分にその使命を果たせるだろう。

 だが、もう、必要もないのだ。
 先ほど、アキラたちがガンガコングと戦っていた地点に、最強の守護神が現れたのだから。
 空に巨竜が現れたときは流石に焦ったが、彼女がそこから飛び降りてきた以上、敵ではないのだろう。

 その、現れた女性。
 エレナ=ファンツェルンがいれば、いかなることが起きようとも、バオールの儀式は遂行される。

 エレナが現れた瞬間、加勢するのも馬鹿らしいほど、安定感を覚えたのだ。
 だが、闘争心は瞬時に萎え、エリーはその場から静かにとんぼ返りしてしまった。

 今は、静かに歩くだけ。
 全く燃えてこない。
 胸の奥底、根底から、心を燃やす燃料が漏れているようだ。
 きっと、心に穴でも開いているのだろう。

『力があるから、当面悩んでいない』

 ふいに、エレナの言葉が脳裏に浮かんだ。
 彼女は語った。
 悩みのない人間などいない、と。

 それは彼女自身にも、そして、天才の妹も同じと言っていた。
 だが、彼女たちは、悩んでいるようには見えない。

 それはやはり、力があるからだろうか。
 自分にも力があれば、こんな些細なことなど笑い飛ばして、前に進めるのだろうか。

 たかが自分の思い通りにならないという、小さな悩み。
 いや、力があれば、自分の思い通りにならないなどということさえ起こらないのだろうか。

「……、っ、」
 エリーは首を振った。
 自分は今、何を考えたのだろう。

 自分を今襲っている憤りに、とっくに名前を付けているかのように思考が進んでいた。
 要するに自分は、アキラが思った通りに動いてくれないから気に入らないのだ、と。

 自分のことなど無関心にイオリと話し、自分の攻撃方法をあっさりと投げ捨てイオリのように攻撃した。
 それが気に入らないのだ、と。

 今までずっと、自分がアキラの魔術の師だった。
 流石にそろそろ務めきれなくなってきていたが、それでも攻撃方法は通じていたのだ。

 それが今日、完全に分岐した。
 あの博識なラースが語った、日輪属性の正しい育て方。
 それは、自分がアキラから遠ざけてしまっていた、月輪属性のマリスに任せるべきであったということらしい。

 きっと、全部裏目に出ていたのだ。
 自分の計画は。

 そうであるなら、自分は何をすべきなのだろう。

「……、」
 エリーは僅かに足を西に向けた。
 西部の護衛ポイントから逸れ、ベックベルン山脈の方面にふらふらと歩き出す。

 先ほど見回ったばかりのところに行くのは妙だ、という理由を付け、更に外側の警備に当たる。

 とりあえず今は、誰にも会いたくない。

―――**―――

「本当に信じられません……、騒ぎを大きくして……!!」
「いや、その、悪い……、」
「い、いえ、そのエリサスさんを責めているわけではなく、」

 アキラは隣で気まずい表情を作ったリリルに、首を振って返した。

「いや……、ほんとに悪い」
「……、」

 今、アキラたちは、森林を進んでいた。
 アキラが手に持つ松明はメラメラと燃え、森林を明るく照らす。
 その光に映し出されたリリルのオレンジのローブを見失わないようにしながらも、アキラは森林に視線を泳がせた。

 いなくなったエリーを探すべく、アキラたちは手分けして森林に入っていた。
 “ヨーテンガースの洗礼”の言葉通りの魔物に出遭ったアキラは、この森林の危険性を十分に理解させられている。
 だから、リリルと組んで回っているのだ。

 エレナは一人で東に向かい、イオリは南。
 もう一組の“勇者様御一行”、その内二人が北を探している。
 そして、ラースはサルドゥの民の護衛を務めていた。

 ただ。
 その中の主要人物である肝心の“勇者様”は、探される立場になっていた。

「いなくなるなんて……!!」

 リリルの憤慨した口調は、明らかに、スライクという勇者のみに向いていた。
 共にいたらしい、小さな女の子もいなくなったというのに、だ。

 馬車から飛び出てきたラースの話では、二人はいつの間にか馬車から姿を消していたらしい。
 離れた場所で話していたとはいえ、アキラたちにも気づかれずに、だ。
 リリルはそれを聞いて、即座にその男が勝手に出歩いていると断定。
 彼女の口ぶりは、森林の中に単身は行ってしまった“勇者様”の身を案じていないことだけは確かだった。

「……、」
 だが、アキラの意識は、リリルとは別の行方不明者に向いていた。

 エリーが、いない。

 アキラたちが魔物の襲撃を受けたとき、エリーは自分たちの元へ向かったとラースは言うのだ。
 それなのに、自分たちは彼女に会っていない。
 どう考えても、何かがあったとしか思えなかった。

「……、」
 だが、それと同時に思うことはある。
 エリーは、十分に強い。

 この森林。
 魔物が強いとはいっても、森林というだけはあって木曜属性の魔物が多そうだ。
 相性で勝る火曜属性のエリーなら、問題なく通行できるだろう。

 それなのに、彼女はいないのだ。
 何かがあった。
 そう考えるのが一番妥当。

 だが、それなら騒ぎがあってもいいはずなのだ。
 もしかしたら、エリーは、勝手に出歩いているのではないだろうか。

 その予感は徐々に肥大していく。
 どうしても、彼女がラースと共に見回りに向かう際、自分に見せた表情が気になる。
 彼女の瞳はあのとき、冷えていた。

「……、何、考えてんだよ……、」
「え?」
「いや、リリルじゃないって」

 怪訝な表情を浮かべたリリルに、アキラは目を瞑って返した。

『見てなきゃ分からない』

 そんなことを、あのときエリーは言っていた。
 でも、分からないのだ。
 見ていたのに、分からない。

「アキラさん、お仲間の方、心配ですよね……」
「……ああ、」
 スライクに対する怒りを抑え込んでリリルが呟いた言葉に、アキラは頷いた。

 心配だ。
 本当に。

 エリーは一体、何を考えて、

「っ、アキラさん」
「……?」
 思考の渦に沈みかけていたアキラを、リリルの声が呼び戻した。

 リリルはアキラを庇うように前に立ち、腕で庇う。
 “勇者様”たる自覚ゆえか、凛として、目の前の木を睨んだ。

「……、なに? 魔物か……!?」
「でしょうね……、その木の向こうに……!」
 リリルが睨む先は、一本の木。
 アキラがそこを照らしても、その大木からは何も感じなかった。

「……前から思ってたんだけど、どうやったらそういうの分かるんだよ? 気、とかか?」
 アキラは松明を左手に移し、剣を抜く。
 リリルの手前、あまり戦いたくはないのだが、流石に事情が事情だ。

 二人して緊迫した表情を、まっすぐにその木に向ける。
 だが、意識を向けると、アキラにも、何か妙な違和感が浮かんできた。
 確かにその木の向こうに、何かがいる。

 小柄なリリルはさらに腰を落とし、手のひらを木に向ける。
 完全に、戦闘態勢だ。

「……、ちっ、」
「……!」
 二人に睨まれた木から、一人の男が姿を現した。

 白髪に、長身。
 大剣をだらしなく腰に下げ、大まかな動作で現れる。
 妙に挑発的な瞳は、まっすぐリリルを捉えていた。

「何しに気やがったんだ? お前ら」
「っ、あっ、あなたは……!!」
 リリルの戦闘態勢が、さらに強くなる。
 しかし彼女の空気は、殺気ではなく敵意に変わった。

「かっ、千客万来だなぁ、おい」
「っ、」
「……、」
 アキラは魔物ではない存在が現れ、剣をただ提げた。
 二人は、何故か睨み合ったまま動かない。

 だが、一つ分かる。
 リリルが敵意を向ける人間は、一人くらいしかいない。

「あれが……?」
 リリルは敵意を向けたまま、首を縦に振った。

 やはりあの男が、スライク。
 白髪に長身。そして何より睨みつける瞳が特徴的な、もう一人の“勇者様”、だ。

 だが、

「あ? やんのかよ?」
「……、」
 リリルはスライクに向けたままだった手を下ろした。
 だが二人は未だ睨み合ったまま。

 やはり、リリルと比べると、あの男が“勇者様”だとは信じられない。

 凛としているリリルに対し、たちの悪いチンピラのような瞳を向けるスライク。
 ローブをしっかりと羽織っているリリルに対し、普段着のような服装にそのまま剣をだらしなく下げたスライク。
 明らかに、二人は対極に位置している。

「はっ、下らねぇ」
 スライクはそれだけ呟くと、そのまま腰を下ろした。
 木に背を預け、腕を組んで座り込む様は、あくまで挑発的。
 どう見ても、敬われる立場の人間の態度とは思えなかった。

「あなた、突然いなくなって……!!」
「テメェだっていきなり出ていったじゃねぇか……。人のこと言えんのかよ、“勇者様”」
「っ、あなたは……!!」
 リリルは座ったままのスライクに詰め寄り、怒りをそのままぶつける。

 アキラは二人のやり取りを、ぼんやりと眺めていた。
 リリルは、自分のことを忘れているのではないのだろうか。
 取り残されたような感覚に陥り、アキラは剣を収め、スライクたちに近づいた。

「あんたが、エレナを連れてきたのか……?」
「あ?」
 下から睨みつけられているのに押しつぶされそうになる重圧。
 それを感じつつも、アキラは一歩も引かずにスライクを見下ろす。
 やはり、敬う対象には見えない。

「エレナ……? ああ、あのアマか……、つーことは、てめぇが、だったのか……、」
「……!」
 スライクの猫のような瞳が、僅かに鋭くなった。
 僅かに笑いながら立ち上がり、今度はアキラを見下ろす。
 頭一つ分は高いその長身からの重圧は増加し、アキラは松明を強く握った。

「マメな野郎が多いもんだなぁ、おい」
「話は終わってません!!」
 リリルの大声で、スライクはアキラに向けていた瞳を面倒臭そうに移した。

「っぜぇ……、騒ぐな。あの修道院の女と同じように喚きやがって……。こっちはこんなところまで連れて来られて……、挙句あの人数。群れんな」
「っ、あなた自身、お仲間と群れているようですけど?」
「あいつらが勝手についてきただけだ。……知るか」
「っ、ああ言えばこう言う……!!」
 欠伸を噛み殺しながら返答するスライクの行動は、リリルの怒りを順調に加速させていく。
 流石に止めるべきかと思うのだが、アキラは極力、話題が自分に映るのを避けたかった。

「あなた、こんな場所で何をしているんですか……?」
「はぁ? 俺の勝手だろ」
「っ、“勇者様”が消えて騒ぎになっている以上、あなたの勝手では済みません!!」
「ちっ、」
 リリルの言葉はようやく届いたのだろうか。
 スライクは大きく舌打ちし、親指で森林の奥を指す。

「先に言っとくが……、お前が知りたいとかほざくからだぞ?」
 スライクはそのまま背を向け、指した方向に大股で歩く。
 彼には光源が必要ではないのだろうか。
 猫のような鋭い眼はその奥を睨み、そのまま進んでいく。

「一体……?」
「……、……!」
 アキラは二人の背を追いながら、あることに気づいた。
 この場にある光源は、自分の持つ松明だけ。
 だが、それは妙だ。
 自分たちが今いるのは、ガリオールの地の西部。
 ここには、光源がもう一つあるはずなのだ。

 すなわち、西部のポイントを守る、魔術師たちのたき火―――

「……!?」
「っ、おっ!?」

 スライクが立ち止まったポイントで、アキラは松明を前にかざす。
 そして、その行動を、後悔した。

 そこには、

「……、な、な、な、」

 リリルは驚愕して動きを止め、アキラは開いている手で口を抑えた。

 踏み散らかされたたき火の残骸。
 荒らされたテント。

 そして、その場に倒れ込んでいる、二人の男女―――

「な、な、な、」
 アキラは松明の光をその場から遠ざけた。
 良く見えなかったのが唯一の救いか。
 だが、重なり合うように倒れている二人は、明らかに、こと切れていた。

「無抵抗で殴られまくればこういう感じになる……、酷いもんだなぁ、おい」
「っ、あなたが……!?」
「おいおい、どうしてそうなる? “ヨーテンガースの洗礼”だろ」

 スライクは別段慌てた様子もなく呟く中、アキラは必死に口を押さえていた。

 “ヨーテンガースの洗礼”。
 その言葉を、アキラは軽視していた。
 初めて見る、自然死以外の死体。

 その光景に、胸の鼓動は止まらない。
 自分は初めて、魔王の脅威にさらされた空間に入ってしまった。

「血の匂いがしたから来てみたら……、これだ。つーことで俺はこの場の護衛がてら座り込んでた。満足したか?」
「な、な、な、」
「テメェはそれしか言えねぇのか……。珍しくもないだろ。……っ、んだぁ?」
 引き返そうとしたスライクの手を、リリルは止めた。
 そして更に表情を険しくさせ、スライクを見上げる。
 視線は、あまりにも強い。

「この依頼を受けた魔術師たちは、屈強な者たちばかりです」
「……あ? これで、か?」
「っ、そうです! その魔術師たちが、襲撃され、殺された。この事態に、あなたは誰にも知らせずこの場に座りこんでいたのですか!?」
「知るか。俺は依頼を受けていねぇんだからな」
「っ、あなたは!!」

 死者の前で、スライクはあくまでそれ相応の接し方をとらなかった。
 今度こそ断言できる。
 この男は、スライクは“勇者様”ではない。
 それどころか、人間として大切なものが欠落しているようにも思えた。

「……、アキラさん。埋葬を手伝っていただけますか……?」
「っ、え、俺!?」
 ついに、リリルの視線がアキラに向いた。
 松明で照らさないように必死に離れていたアキラは、諦めてリリルに近づく。

「止めとけ。最近やたらと視界にちらちら映る修道院の女がやるだろ……。素人が手ぇ出していいのか?」
「っ、それでも、悼まなければ……!! ああっ、私がいたのに……、」
 リリルは必死に目を瞑り、倒れ込んだ二人に近づいた。
 仰向けに動かし、手を組む。
 その光景を、アキラは松明で照らすだけだった。

 まだ、ショックが抜けない。

 死体の腫れた頬が視界に入るだけで、アキラの手は口を押さえ付ける。
 これが、“ヨーテンガースの洗礼”。

「……、っ、私が……!!」
 リリルは何度もそう呟いていた。
 期待に応える“勇者様”。
 その責務に、押し潰されているのかもしれない。

 こんな小柄な少女が泣きそうな顔で死体を悼んでいる中、スライクは離れた場所で木に背を預け、欠伸をしていた。
 同じく何もできていないアキラだが、流石にその光景には憤りを感じる。

「……あんた、いい加減にしろよ……!!」
「あ?」
 呟くつもりだったその言葉は、思ったより強くアキラの口から出てきた。
 スライクはそれを正しく広い、猫のような瞳で鋭くアキラを射抜く。

 今度は、気圧されたりはしない。

「せめて、伝えに来いよ……!!」
「んな義務、俺にあるか? 護衛がいなくなって危険なここの守りを放棄してまでか?」
「っ、」
 そんなことは、どうでもいい。
 全く話が通じないスライクに、アキラは強く視線を返した。

「そんな“死”。世界には溢れ返ってる。倒れた奴のことなんか、振り返ってられるか」
「そういう話をしてんじゃねぇよ……!!」
「かっ、」
「っ、」
「アキラさん、」
 跳びかかろうとしたアキラを、リリルが止めた。

「あなたは勇者ではありえません。誰が何と言おうと、それだけは確実です」

 リリルのスライクに対する怒りは憎悪に変わり、今すぐにでも攻撃しそうなほど。
 死体に祈りを捧げ終わったリリルは立ち上がり、小柄な身体を震わせてスライクを睨んだ。

「おめでてぇなぁ、おい。俺は勇者だと名乗った覚えはないぜ?」
「っ、何を、」
「魔王を倒すつもりなんざ、さらさら無いって言ってんだ。やってられるか、んなもん」
「っ―――」
 ついに、リリルが動いた。
 腕をかざし、それをそのままスライクに向ける。

 そこから漏れる光は、

「銀!?」
「―――レイディー!!」

 森林の闇を、シルバーの光が散らした。
 リリルの手のひらから矢のような魔力が飛び出し、そのままスライクに向かっていく―――

「―――っ、」

 バチン、と、スライクが突き出した片手で光が爆ぜた。
 リリルの攻撃を受け止めたのは、スライクの手から漏れたオレンジの光。
 シルバーの矢を握り潰したスライクは、猫のような金色に光る瞳を鋭くリリルに向ける。

「月輪……、劣化属性じゃねぇか」
「っ、」
 激昂に任せ、スライクを攻撃したリリルはその場に座り込んだ。

「……、申し訳……、ありませんでした」
 座り込んだリリルから漏れた言葉は、今の攻撃に対する謝罪のみ。
 だが、それで気は落ち着いたのか、リリルはそれ以上の攻撃をしなかった。

「月輪属性……、なの?」
「……ええ、」
 アキラが言葉をかけると、リリルはようやく立ち上がった。

「日輪でなくとも、勇者は名乗れます。“三代目”の勇者、レミリア様のように」
「……、」

 アキラは、アイリスという神と出逢ったヘブンズゲートでの話を思い出す。
 自分たちは、門番たちに神との面会を拒絶された。
 そしてそのとき、マリスは言っていたのだ。

 日輪属性は、ほとんど“勇者様”ではあるが、そうでない場合もある、と。

「だから私は、勇者を名乗るんです……。日輪属性の者以外は、戦果によって“証”を勝ち取るんですから」
「……、」

 アキラはそれに、言葉を返せなかった。
 日輪属性ではないのに、魔王を討つべく一人で旅をしているリリル。
 勇者を名乗り、期待をかけられ、それに応える。
 それが、リリルの在り方なのだろう。

 リリルは、アキラとも対極だ。

「それなのに……、あなたは日輪属性なのに……、そこにいるのに……、こんな……、」
 リリルは並んで倒れている二人をちらりと振り返った。

「こんなことを……!!」
「だから俺がやったんじゃねぇって言ってんだろうが。話聞く気あんのか……!?」
 スライクの言葉に、リリルは身体をさらに震わせた。

 リリルから見れば、日輪属性の者は、恵まれた場所にいる。
 仲間を集め、魔王を討てる日輪属性。
 それなのに、スライクは、そうであるのにそうではない。

 それが、どうしても許せないのだろう。

「テメェが勇者を名乗るのは勝手だ。恩恵も期待も勝手に受けてりゃいいじゃねぇか。俺はどっちもごめんだ」

 二人の価値観はあまりに違う。
 月輪属性なのに勇者を名乗り、恩恵も期待も受けるリリル。
 日輪属性なのに勇者を名乗らず、両者を拒絶するスライク。

 そして、アキラとも。
 完全に煮え切っている両極の二人。
 立ち位置が決まっているから、確固たる発言ができるのだ。

 だが、自分は、その狭間を行き来しているだけ。

 ならば、自分は、どうあるべきなのだろう。

「かっ、下らねぇ……、それより、おい、お前」
「……?」
 震えたまま動かないリリルを通り越し、スライクの瞳がアキラを捉えた。

「アキラ、とかいったか……?」
「……、あ、ああ、」
 エレナから聞いたのだろうか。
 アキラの名を口に出したスライクは指でベックベルン山脈の方角を指した。

「赤毛の女、知り合いか?」
「……!?」
 その言葉に、アキラは松明を落としそうになった。
 そうだ。
 自分たちは、エリーを探しに来たのだ。

「お前……!!」
「だから何で俺が睨まれなきゃなんねぇんだ……。さっき、そんな女がふらふら山に向かって行ったぜ?」
「……!!」
 アキラは反射的に山脈を見た。
 視線を移すさなか、視界に入ってしまったのは二人の死体。

 そうだ。
 この森は、危険だ。
 その上、山脈に近づくにつれて魔物も強くなっていく。

「くくく……、テメェがどっちのクチかは知らねぇが……、いいのか? ほっといて」
「……、っ、」
「……!」
 アキラが駆け出そうとした瞬間、リリルがはっとしてスライクの周囲を見渡した。

「そうだ……、あなた、キュールという少女は?」
「……、あ?」
 名前が出て、スライクは表情を変えた。
 睨みつけるような瞳が、さらに強くなる。

「あなたと一緒だとばかり……、」
「あのガキ……、消えやがったのか?」
 スライクの猫のような瞳は、適当に泳ぎ、そしてベックベルン山脈を捉えた。

「ちっ……、めんどくぇなぁ、おい」

―――**―――

「……、そっちも、だったわけ?」

 現在、ガリオールの地には激震が走っていた。
 エレナたちが森林から持ち帰った情報によって。

 夜も深まったガリオールの地の中央では、巨大なたき火が煌々と燃え、その前に集まったのは五人。
 一様に表情を強張らせ、警戒心新たに森林を睨む。
 他のサルドゥの民は、馬車の中で震えていることだろう。

 だがエレナは、血の気の引いている修道院服の女性に静かな瞳を返した。

「っ、そ、そちらも……、」
 その修道院服の女性、ウェーブの髪が特徴的なカイラは、エレナの言葉からただ事実だけを聞きとり、きつく目を瞑った。
 スライク率いる、もう一組の“勇者様御一行”。
 その中で、“召喚の魔術師”を務めるカイラは両手を胸の前に当て、祈るように震えている。

「カイラ、また、お願いできるか?」
 その隣に立つ杖を背負った男、マルドがカイラの肩に手を置く。
 “杖の魔術師”を務める彼は、カイラと組んで北部に向かっていった。
 当然、同じものを見たのだろう。
 表情は、堅い。

「……ええ。わたくしがやるべきでしょう」
「……、日が昇るまでは、とりあえずほっときなさい。今はここを守った方がいいでしょ」
「そうはいきません!」
 エレナの言葉に、カイラは反発し、睨み返した。

「あんな……、あんな光景を見てしまえば……、わたくしの役目は決まっています……!」
 カイラは、エレナと鋭く視線を交わし、東部の森林に向かって歩いていく。

 “あんな光景”。
 それは、エレナも覚えている。

 松明を頼りにエリーを探しにいった東部の森林。
 妙な胸騒ぎがして進んで行けば案の定。
 そこには、依頼を受けていたと思われる二人の男が倒れていた。

 たき火やテントは無残にも踏み荒らされ、その中央で倒れていた死体。
 身体中を殴打されたのだろう。
 先ほど見た、ガンガコングの群れにでも襲われたのだろうか。

 だが、妙だ。
 ヨーテンガースの依頼を受けた者が、あれほど無抵抗にやられるとは。

「……待ちなさい。一人で行く気?」
「どうあっても行きます。弔いができるのは、わたくしだけでしょうし、」
「……ちっ、」
 エレナは頭をガシガシとかいた。
 カイラは修道院で学んだ使命に燃えているのだろう。

 だがそれにしても、危険だ。

「先に、西部の護衛地を見た方が良くないか?」
 そこで、ラースが口を挟んだ。
 サルドゥの民の護衛を務めていた彼も、エレナたちの情報によって表情を険しくしている。
 遊撃が担当だったのは彼にとって幸運なのだろう。
 口ぶりからして、彼も、西部を守っていた魔術師たちの状態は察している。

「そう、ですね……、」
 ラースの言葉に、カイラは足を止めた。
 エレナ、そしてカイラとマルドの見てきた東部と北部は全滅。
 そうであれば、西部の魔術師たちは、現在危機にひんしている可能性もある。

「そうだ、それに、イオリさん、だっけ? 彼女も探さないと……、」
「あっちはあっちで問題ないでしょ」
 マルドの懸念を、エレナはあっさり切り捨てた。

 イオリが向かったのは、そもそもアキラたちが担当していた南部であり、そこは現在無人。
 別段異変を見つけることもなく、エリー探索を継続しているだろう。

「っ、貴女たち、本当に仲間なんですか……!? こんな危険な森に、一人で、」
「問題ないっつってんでしょ。あの魔道士は、あんたたちより数段強いわ」
 確かに、エレナにとって、イオリはどこか好かない。
 だが、そもそもそんな懸念は必要ないのだ。

 魔道士たるイオリ。
 彼女の実力は、自分やマリスを超えはしないまでも強大だ。
 経験値もさることながら、彼女には切り札の召喚獣もある。

 急を要するかもしれないのに、人員を割いてまで彼女を呼ぶ必要はない。

「とにかく、西部に行きましょう」
 僅かな個人的理由も加味し、エレナは連絡を放棄した。
 乾いた瞳は、西部に向く。

 恐らく手遅れなのだろうが、ある意味最も合理的な行動だ。

「私が行ってくるから、あんたたちはここを、」
「西部は……、特に危険だ」
「……?」
 エレナが歩き出そうとしたところで、今度はサルドゥの民の族長、ヤッドが止めた。
 依頼を任せた魔術師たちが実質壊滅した今、彼は大らかな表情を捨て、危機感を持った表情を浮かべている。

「ずっと前だが……、同じようなことが起こったらしい」
「……なに、それ?」
 エレナが聞き返すと、ヤッドはさらに表情を険しくした。

「俺がサルドゥの民になる前に、だが……、依頼を受けた魔術師たちがやられた事件が、前にもあったんだ」
「……、そのときも、全滅してたの?」
 ヤッドは、今度は首を振る。

「いや、一か所だけだ。それが、西部。ベックベルン山脈の直前だ」
「……、」
 エレナは山脈を眺めた。
 ガリオールの地において、最も危険なその箇所。
 町を抜け、平原を進み、そして最も人の住む場所から離れた山。
 その境。
 そこで、かつても悲劇が起こったらしい。

「そのときは、依頼を受けた奴がふざけて山脈に行ったらしい。だから俺は、西部を担当する奴らには、必ず言うことにしている。“山に近づくな”、と」
「っ、」
 そこで、カイラの表情が変わった。
 エレナも表情を強張らせる。

「そういえば……、俺も聞いたことがあります。バオールの儀式の由来は、“山の逆鱗”を鎮めるためにも行う、と」
 ラースはちらりと白い布を被った儀式の舞台を見た。
 その舞台は、西部の山に向かってセットされているのだ。

「まあ、確かに……。一説にはそうなっているな」
 博識なラースの言葉に、ヤッドは頷き返した。

 だが、まずい。
 非常にまずい。
 エレナは頭を抱えた。

 そんな伝承が、ここにある。
 そして、そんな伝承を、ものの見事に引き当てる男が、そこに向かったのだ。

「まずっ、」
「え、ええ、」

 エレナの脳裏に浮かんだ言葉を、カイラとマルドが口にした。
 まさかと思って見てみれば、二人の血の気が引いている。

「まさか、」
「スライクとキュール……、あいつら、西部に行ってるんじゃ、」
「それに、あの女性の勇者様も……!!」
「ちっ、」
 エレナは大きく舌を打った。

 アキラだけじゃない。
 そういうものを引き当ててしまう人間が、ここにはもう二人いるのだ。

「私はもう行くわ! それと、そこの修道服も行くんでしょ!?」
「っ、カイラです!! スライク様のようなことを言わないで下さい!!」
「天罰喰らうって? もう喰らってわよ……!」
 エレナは、ついに駆け出した。

「そこの二人はここの護衛。あの魔道士戻ってきたら、ここで待機するように言っといて……!!」
 エレナはラースとマルドに指示を与え、森林に駆け込む。

 消えたエリー。
 そして、“勇者様”が三人も向かった西部。
 ベックベルン山脈の伝承。

 何か起きないわけがない。

―――**―――

「ひぐ……、ひぐ……、」
「……、」

 孤児院で培った経験が、何一つ生きなかった。

 エリーは木に座り込んだままの少女を見下ろす。

 かなりの大回りで見回りをしていたエリーの耳に、奇妙な声が聞こえてきたのは数分前。
 何事かと警戒しながら近づけば、一人の小さな女の子がすすり泣いていたのだ。

 森林を抜け切り、険しいベックベルン山脈が姿を見せたここは、木々に遮られていた星が姿を現し、ぼんやりと明るい。

 その下、色彩の明るい髪の少女は、それとは間逆に位置する涙で腫れた表情を浮かべていた。
 エリーが近づいたとき、僅かに顔を上げてからは、少女はひたすら蹲って泣き続けている。

「……、」
 恐い。
 あっけに取られていた感覚が戻ると、エリーは次に、恐怖を浮かべた。

 薄暗い森林。
 たった一人の自分。
 凶悪な魔物が巣くう空間。

 そんな中で、この少女はしんしんと泣いているのだ。
 ホラーだ。
 まるで。

 だがその少女は、いきなり笑い出したり、不意をついて襲ってきたりすることなく、ただひたすらに泣いている。
 ある意味最も、対処できない。

「……えっと、お名前は?」
「……、」
 少女は鳴き声を小さくすると、再び顔を上げた。
 同じ高さに座りこんだエリーの顔が、少女のくるりと大きな瞳に映る。

 まるで初めて孤児院に来た子供だ。
 酷い人間不信のような顔。

 流石にここまで酷いのは見たことがないが、努めて柔和な笑みを浮かべるエリーに、少しだけ興味を示してくれたようだ。

「キ……、」
「キ?」
「キュ……、」
「キュ?」
「ール……、」
「キュルちゃん?」
「ぅぅ……、キュール……、キュール……、ぅぅ……、」
「……、そ、そう、キュールちゃん……? あたしはエリサス……、エリー、よ?」

 泣き腫らした顔に向かい合いながらも、ようやく互いの名を交わせた。

 その間、五分ほど。
 エリーは刺激しないように近づいた。
 まるで爆発物を取り扱うように、慎重にキュールの隣に腰を下ろす。

「えっと……、迷子になっちゃったのかな……?」
「……、」
 キュールはコクコクと首を縦に振る。

 肯定、だろう。
 だが、事態は依然として謎だ。

 キュールの服装は、エリーよりもさらに簡易なプロテクターのようなものだった。
 戦闘用というより、子供が転んで怪我をしないように付ける程度。
 暗い表情は、確かに迷子にしか見えない。

 だが、場所が場所だ。
 ヨーテンガース大陸の、ガリオールの地。
 こんな危険な空間に、迷子などいるはずがない。

 依頼を受けた旅の魔術師の中にも、サルドゥの民の中にも、こんな子供はいなかった。
 たまたまこの近くを通りかかった者たちの中にいて、そして逸れたのだろうか。
 それでも無理がある。

 事情を聞き出したいところだが、どうしても、キュールが口を開くには時間がかかりそうだ。

 自分も、見回りという依頼の責務がある。

「……、じゃ、じゃあ、キュールちゃん、あたしと一緒に逸れた人探そっか」
「ぃ……、やぁ……、」
「っ、そ、そっか、そっか、……いやかぁ……、」

 エリーは成す術なく、頭を抱えた。
 赤毛の前髪を指で弄り、対面のベックベルン山脈を眺める。

 森林はここで終わり、険しい岩肌がその姿を現わしていた。
 エリーの視線の先には、まるで境界線が引かれているかのように草木も途中で途切れ、登るにはロッククライムに挑まなければならないような傾斜のある山。

 こうしたベックベルン山脈の光景は、エリーもかつて見た。
 自分の生まれた村。
 山に囲まれた小さな村。

 そこでは、決してベックベルン山脈に入ってはならないと言われたのを思い出す。
 忘却の彼方にあった、小さな記憶の欠片が蘇った。

 危険度が異常に高いベックベルン山脈に囲われた、この大陸。
 だからこのヨーテンガースの入り口は一つだけなのだ。

「……、」
 こうして座っていると、緊張感も薄れ、疲労からか眠気も襲ってくる。
 見ているだけならば、何の問題もない。
 幼いときも、こうしてそれを眺めていたのだから。

 だが、そうするわけにはいかない。

 隣の少女を一人にはできないのだ。
 こんな場所では。

 キュールは依然として口を閉ざし、すすり泣くような声を漏らし続けている。
 自分は、会ったばかりの小さな少女の表情を晴らすことはできないのだろう。

 ただ一人、そんなことができるスキルを持った男を知っている。

「……、探しに来なさいよ……、ほんっとに……、」
 隣のキュールに聞こえないほど、エリーは呟いた。

 勝手に自分が一人になったことは間違いない。
 だが、自分が身動きできない今、アキラが遠くで笑っていると思うと何かもやもやとする。

 相手はイオリだろうか。
 それとも、現れたエレナだろうか。
 いや、あの女性の“勇者様”、リリルかもしれない。

 ああ、本当に、

「……!」
「っ、」
 エリーはそれを感じ、即座にキュールの腕を引いて立った。

 途端引かれてキュールは表情を強張らせたが、今は構っていられない。
 泣き叫ぼうが、何をされようが、座ったままでいるわけにはいかないのだ。

 今、背中で確かに感じた、危険な空気。

 エリーはキュールを庇うように立ち、森林を睨む。

「グ……、」
「……!」
 スカーレットの光を右手に宿し、それを突き出せば、現れたのはガンガコングの群れ。
 威嚇するように叫びこそしなかったが、緑の体毛に覆われた身体は震え、臨戦態勢を整えていた。

「っ、下がってて……!」
「ぅ、ぁぁ……、」
 現れた魔物に怯え、キュールは後ずさる。

 見回りをしていたのだから、そろそろ遭うとは思っていた。
 だが、問題はない。

 ガンガコングは木曜属性。
 土曜属性のイオリが、召喚獣さえ使わずに倒せていたのだ。

 相性で勝る自分が、倒せない道理はない。

 だが、“場所が悪すぎる”。
 ここで騒ぎを起こして、ベックベルン山脈の魔物に気づかれたら、

「―――、」
 エリーはキュールから離れ、瞬時にガンガコングに詰め寄った。
 即座に相手をせん滅する。
 それが今、取るべき行動。

「スーパーノヴァ!!」
 エリーの動きにガンガコングは反応できず、スカーレットの拳撃を腹部に受けた。
 鋭いその一撃は森林の闇をかき消し、月下に映える。

「っ、」
 詠唱含むエリーの上位魔術攻撃は、確かにガンガコングを吹き飛ばした。
 しかし、エリーの腕に残る重い衝撃。

 ガンガコングの魔力は総て身体能力向上に当てられ、肥大化した筋力は鎧のように強く、堅い。

 だが、

「―――、」
 今度は隣で腕を振り上げていたガンガコングを蹴飛ばした。
 堅いとはいえ、木曜属性。
 正しく魔力を込めて攻撃すれば、十分に倒せる。

「っ、」
 ガンガコングの注意を自分だけに引きつけることに成功し、エリーは攻撃を見舞う。
 スカーレットは煌々と輝き、ガンガコングにすべからく死を与える。

 静寂が打撃音と魔物の爆音にかき消される中、しかし静かに、エリーは冷えた心に思考を浮かべていた。

 倒せるのだ。
 この攻撃でも。

 そんなことを浮かべ続ける。

 相手が堅いからといって、この攻撃方法で倒せないわけではないのだ。
 別に、土曜属性のように、相手を揺さぶって攻撃しなくても、倒せる。

 だから、きっと、自分は間違っては、

「―――!?」
 エリーが最後のガンガコングを殴り飛ばした瞬間、魔物の爆発音をかき消す地鳴りが響いた。
 表情を一変させて振り返ってみれば、自分が下がっていろと指示したキュールが、きょろきょろと周囲を見渡している。

 そこまで下がるとは思わなかった。
 エリーとキュールの距離は、すでに遠く離れている。
 彼女の背は、森林の草木を超え、防衛線を超え、確かに岩山に触れていた。

「っ―――、」

 不可侵領域、ベックベルン山脈。

 それが、今、破られた。

「今すぐそこから離れて!!」
「―――!?」

 エリーの叫びと同時、キュールの隣の岩盤に亀裂が走った。
 岩山の中から何かが突撃したような、蜘蛛の巣状の跡。

 キュールの背丈と比べれば、十倍はあろうかという巨大なそれからは、バチバチとグレーの魔力が漏れ出す。

 そしてなおも亀裂は膨らみ、山脈自体が揺れ動く―――

「ぅぅ……、っ、」
 キュールは怯えてエリーに元に駆け寄ってきた。
 落石を器用に避け、息を弾ませ走り続ける。

 まるでこの世の終わりのような表情を浮かべたキュールはエリーに駆け寄り、足にしがみついてきた。

 ゴオンッ!!

 それと同時、ついに亀裂の走った岩盤がはじけ飛んだ。
 あるいは爆弾を用いれば、ここまで見事に爆ぜるのだろうか。

「ガ……、ガガガグッ、」

 月下、エリーのスカーレットの光が照らすその先。
 ワニのように巨大な口が現れた。

 四足歩行の土色の巨獣。
 動物に例えるのなら、丸々と太ったカバが一番近いだろうか。
 野太い四本の脚は足元の岩にも亀裂を作り、背には岩をそのまま装備しているような外観。
 山の中から現れた衝撃で落ちてくる岩を、その広い背中で受け、それにすら気取られず緩慢な動作で穴から這い出てくる。

 だが、その存在が有するのは、生命を持つ肌ではなく、そのまま岩で作り上げたような身体。

 人の形はしていない。
 だが、エリーは知っている。

 この魔物が、ゴーレム族に分類されることを。

「土曜属性の魔物……、ゴズラード……!!」
 エリーはその土色の魔物を見上げながら呟いた。

 まさかここに巣があったとは。

 常識外れだった巨大マーチュほどではない。
 あくまでイオリの召喚獣、ラッキーより小さいサイズだ。
 サルドゥの民が乗っていた、あの馬車程度だ。

 それでも巨大であり、アイルークでは見ることすら叶わない存在だが、エリーは知っている。

 この程度の魔物は、“ここ”にいる。
 不自然ささえない。

 ゴズラードは、“ヨーテンガースの洗礼”の代表格なのだ。

「……!!」
 エリーがゴズラードの睨みを全身で受けている中、再び地鳴りが響いた。
 そして現れたゴズラードの隣の岩盤にも同じ亀裂ができ上がる。

 エリーは知っている。
 ゴズラードは門番なのだ。
 ベックベルン山脈に足を踏み入れた者を襲う、獰猛な魔物。

 ベックベルン山脈に近づく者を討つためだけに生み出され、岩山に潜んでいる。
 ゆえに、その門番は。

 より良くその目的を達成するため、群れをなしている―――

「あああっ!!」
 エリーは足でキュールの震えを感じながら、その光景を呆然と見ていた。

 キュールの背が、ベックベルン山脈に命を与えたように総てが揺れる。
 もう手遅れだ。

 逃げようが何をしようが、あれはエリーとキュールを貪欲に追い続ける。

 いや、あれらは、だ。

「っ、っ、」
「……、」
 パニックに陥ったキュールを庇い、エリーは一歩前へ出た。

 現れたゴズラードは、五体。
 この護衛を突破して、ようやくベックベルン山脈に入れると言われる、危険な存在。

 だが、戦わなくては。

 激戦区の魔物だが、通常の敵なのだから―――

―――**―――

「っ、お前、もっと急げよ……!!」

 アキラの手の松明だけが唯一の光源の、薄暗い森林。
 そのアキラの背後をのんびりと歩く白髪の男、スライクは、猫のように金に光る瞳をそのまま向けた。
 その瞳には、何の焦りも浮かんでいない。

「はぁぁ~? 急ぎたきゃとっとと行きゃあいいじゃねぇか」

 アキラが急かしてもこの様子。
 スライクの歩みは変わらない。

「俺はテメェらが死体弄り何かしやがったから、気晴らししてるだけだ」
「っ、小さな子を探してんだろ……!?」
「ああ、それもあったな……、まあ……、暇潰しにはなんだろ」
「っ、」
「放っておきましょう、アキラさん。この男に何を言っても無駄です」
 立ち止まりかけたアキラを、リリルが止めた。
 スライクと会話することを放棄し、ただ黙々と森林を急ぐ。

 アキラたちは、西部の護衛地から離れ、そのままベックベルン山脈に向かっていた。
 連絡を欠くという、スライクと同じ行動をとってしまっているのだが、アキラにはそんなタイムラグも許せない。

 あまりに危険な予感がするベックベルン山脈に、エリーが向かってしまったというのだ。
 一刻を争う。

 幸運にも魔物は現れず、順調に歩を進めたアキラたちの足元は、森の柔らかい土から徐々に山の高度に変わり、傾斜も出てきた。
 ヨーテンガースへの海路を制限する岩山、ベックベルン山脈に、順調に近づいている。

「それに、キュールという子に罪はありません。エリサスさん同様、急いで探し出さなければ」
「はっ、そんなに急ぐことかねぇ……、」
「……、」

 アキラはスライクに、言葉を返さなかった。
 来ている、ということは、見捨てるつもりは無いのだろう。
 そう信じたい。
 だが、言葉の節々から、どうしても、懸念しているような感覚がしないのだ。

 今も自分のペースで歩いているだけだ。

 キュールという少女を、アキラは知らない。
 だが、リリルの言葉からして、この場に不釣り合いなほどの子供なのだろう。

「……、キュールって子、大丈夫なのか?」
「あ?」
 アキラは、ぼそりとそう漏らした。

 こんな場所に不釣り合いな小さな女の子。
 だがそれは、裏を返せばこの場にいられるほどの子供、ということだ。

 にわかには信じ難いが、キュールという少女は、相当な実力者なのかもしれない。

「まあ……、死にゃあにしねぇだろ。朝までに見つければ」

 どちらともつかない答えが戻ってきた。
 スライクの投げやりな回答に、アキラは表情を険しくする。

 どの道、急がなくては。

「―――!?」
 途端揺れた足場に、アキラたち全員が歩みを止めた。

 森林の木々が暴れ、何かの生物が逃げ出すような、慌ただしい森林の揺れ。
 断続的に聞こえる大岩が砕ける音が響き、そしてなおも、振動は続く。

「これは、」

 地震。
 そう判断したいところだったのだが、低い雄叫びが聞こえては、希望的観測は叶わなかった。
 これは、大型の魔物が現れた振動だ。

 そしてその場所は、

「っ―――、」

 アキラが松明を握り締めた先、いち早くリリルが駆け出した。
 向かう先は、ベックベルン山脈。

「っ、」
 僅かに遅れアキラも駆け出す。
 前を走るリリル身体は、銀の光を纏っていた。

 松明に頼らない、照明の魔術。
 魔力を温存していた彼女は、すでに臨戦態勢。

 今なお響く地鳴りを聞きながら、アキラは揺れる地面を駆けた。

 確信できる。
 パターンだ。間違いない。

 この依頼の“ボス”の存在。

 そして、“彼女”はその場にいる、と。

「―――」
 走り続けてリリルに並び、なおもアキラは速度を上げる。
 手に持つ松明は鬱陶しくも燃え続けるが、それでも腕を振り、前へ進む。

 そして、見えた。
 胸騒ぎが最高潮に達した瞬間、木々が薄れ森林が終わりを告げる。

 星の光に照らされて明るいその空間。
 アキラはわき目も振らずに飛び込んだ。

「……!!」
 弾かれるように森林を突破した瞬間、アキラは足を止めた。

 そこから僅かに離れたベックベルン山脈。
 急な斜面の岩山の麓、大穴が開いている岩山の前、岩で形作られたカバのような巨大な魔物が、数体存在している。
 それらはグレーの光を纏い、その全てを攻撃に割いているように見えた。

「……?」
 あまりに危険な匂いのする魔物を前にして、しかしアキラは唖然とした。
 即座に襲いかかってきそうな獰猛な身体つきをしているのに、その魔物たちは飛び込んできたアキラを無視し、ただひたすらに、群れで囲った一か所に突撃を繰り返している。

 その魔物たちは、スクラムを組んでいるかのように、そこを攻め続ける。
 あるいは、たった一つの餌を奪い合うひな鳥だろうか。

 はた目からは、同志討ちをしているようにしか見えない。

 一体、

「ゴズラード……!? 山脈の魔物が……、……?」
 アキラに僅かに遅れて入ってきたリリルも、同じように急停止した。

 二人して息を弾ませながら眺めるその光景は、あまりに奇妙。
 リリルも銀の光を纏いながらも、呆然とした。

「……?」
 恐る恐る近づいたところで、アキラに奇妙な物が見えた。
 グレーの魔力を漏らすゴズラードというらしい魔物が囲う、その場所。
 巨体に囲まれた中、グレーの光の間から、ときおりイエローの光が見え隠れするのだ。

 イエロー。
 金曜属性の魔術の色だ。
 だがその光は、金曜属性のサクが見せるものより、遥かに色濃い。

「……かっ、また面倒事を……、」

 そんな言葉が聞こえた瞬間、アキラとリリルの間を疾風が駆けた。

「―――!?」
 アキラがそれを、オレンジの光に包まれたスライクだと視認できた頃には、その男はゴズラードの群れに詰め寄っていた。

「ガゴゴ―――ッ、」
 突如背後から迫った侵入者に反応する間もなく、ゴズラードの群れは吹き飛ばされる。

 五、六頭のゴズラード。
 その巨体が宙を舞い、当然のように岩山に叩き付けられる。

 現実離れの光景を演出した一撃は、スライクが横切りに片手で放った大剣。
 爆ぜたオレンジは、その空間からゴズラードのみを吹き飛ばしていた。

「……ちっ、まとめてぶった切ったんだが……、相変わらず堅ぇな、おい」

 振り抜いた剣をそのままだらしなく下げたスライクは、その場に残った存在を呆れたように見下ろした。

 その視線の先には、たった今、ゴズラードの群れが囲っていたイエローの光。
 その発行体は、まるで小規模なドームのような形状を取り、外界から中の世界を断絶していた。

「……あ、あああっ!!」
 その中央。
 小さな女の子が泣き腫らした顔を上げた。

 本当に、子供だ。
 こんな場所には不釣り合いな。
 だが、恐らく彼女が、いなくなったキュールという少女。

 そしてその発行体の作り手。

「……! お、お前!!」
「……、」
 そのキュールの隣に視線を向けたアキラは、即座に駆け寄った。
 発行体の中、座り込んでいたのは赤毛の少女、エリー。

「あん、た……、」
「大丈……、っ!?」
 ようやく見つけたエリーに詰め寄ろうとして、アキラは弾かれた。

 エリーとキュールを囲っているイエローの球体。
 透明感があり、やわそうな囲いは、触れただけでその硬度が伝わってきた。

 これは、

「あああっ!!」
「っ、」

 途端、ドームが消えた。
 中心でそれを形成していたキュールはスライクの足に飛びつき、抱え込む。
 長身のスライクの長い足に抱きつく姿は、本当に、子供だ。

 だが、その彼女が今、この、ゴズラードの攻撃を防ぎきった球体を作り出していたのだ。

「離せクソガキ……。蹴り飛ばすぞ」
「でもっ、来てくれたっ、来てくれたっ、」
 スライクの底冷えするような声にも、キュールは足にまとわりつくのを止めなかった。

「“盾の魔術師”……、やはり金曜属性なんですね……。土曜属性まで遮断するとは……、」

 一歩離れてキュールを眺めるリリルが呟いた。
 だがアキラはそれを聞き流し、今度こそ、エリーの前に座り込んだ。

「お前、大丈夫かよ……!?」
「う……、うるさい、」
「うる……、って、お前勝手にいなくなって……、その、」
 怒鳴ろうとしたアキラの言葉は、エリーの有様に尻つぼみになっていった。

 見ればエリーの拳を守るプロテクターは歪み、膝当てもひしゃげている。
 堅い何かを攻撃し続ければこうなるだろう。

「……なによ?」
「いや……、とりあえず立てるか?」
「立てない!!」
「っ、お前は……、」

 何を意固地になっているのか。
 装備は破損しているが、エリーの身体そのものは大したダメージを受けていないように見える。
 先ほどのゴズラードと戦い、そのあとはずっとイエローのドームに守られていたのだろう。

 それなのにエリーは顔を伏せ、身体を震わせていた。

「とっとと倒しなさいよ……。銃でも何でも使って。言っとくけど、あたしみたいな攻撃方法じゃ弾かれるわよ……!!」
「っ、いいから立てって!!」
 アキラは強引に腕を引き、エリーを立たせた。
 それでもなおエリーは視線を外し、不機嫌そのままに視線を泳がせている。

「……かっ、随分頑丈だなぁ、おい」
「……!」
 そこで、ようやくキュールを足から剥がし終えたスライクが呟いた。

「ガキ。うろちょろするなよ」
「わっ、ああっ!?」
 片手でキュールを持ち上げ、背後にぞんざいに投げる。
 そして、投げた先で転がるキュールを見もしない。

「おっ、おいっ、」
「いえ、アキラさん。今ばかりは、」
 スライクの行動を珍しく咎めず、リリルは視線を岩盤に向ける。

 そこには、先ほどスライクが弾き飛ばしたゴズラード数体が身体を起こしていた。
 身体には凄惨たる巨大な切り傷が入っているが、緩慢な動作ながらも未だ戦闘不能になっていない。

「……!?」
「……あ?」

 その、ゴズラードの群れの隣。
 無残に砕かれた岩盤の隣に、亀裂が走った。

 そして岩盤を弾き飛ばして現れる、岩で形作られた新たなゴズラード。
 総勢、十は超えているだろうか。

 振動による落石の中、いつしか見える範囲の岩盤は総て砕かれ、それに対応する魔物が現れる。

 星空の下、巨大な魔物の大群は、アキラたちを完全にせん滅対象と認識していた。

「そん、な、」
「びびってんならガキのお守でもしてろ」
「な、」

 リリルに嘲るような言葉を浴びせ、スライクはふらふらとその群れに近づいて行った。
 この場にいる誰もが震えている中、表情一つ変えていない。
 そして大剣を掲げ、それをまっすぐにゴズラードの大群に向ける。

「随分な歓迎だなぁ、おい」
「―――!!」

 アキラは一瞬、スライクの姿を見失った。
 だが即座に目印のオレンジの光を見つける。

 光り輝くスライクは、最も近くのゴズラードに、横切りに大剣を振った。

「っ、」
 アキラの呼吸が止まった。
 その一撃は、ゴズラードの巨体をものともせずに弾き飛ばす。

「ガゴゴッ!!?」

 堅い岩で形作られていなければ切り裂かれていたであろう。
 辛うじて弾き飛ばされるだけに終えたゴズラードだが、その勢いのまま岩盤に叩きつけられうめき声を上げる。

「っ、」
 その隙を縫い、ゴズラードの一頭がスライクの横から突撃を繰り出した。
 しかしスライクはそれに一瞬で察知し、その場を跳ぶように離脱。
 そして再び駆け出すと、今度はそのゴズラードさえも切り飛ばした。

 軽々と大剣を片手で操り、“戦場”を“狩り場”へと変える。

 圧倒的な身体能力。
 それは、動きの鈍いゴズラードが取られられるものではなかった。

「……、」
 こんな無抵抗な戦いをアキラは見たことがある。
 身体能力にあかせた、暴力的な行動。

 これは、

「日輪属性……、木曜特化……!!」
 ふいに、エリーが呟いた。
 彼女はスライクの存在を知らなかったのだから、驚愕もひとしおだろう。

 だが、エリーは、あのスライクの力の正体を知っているようだ。

 木曜特化。
 言葉の意味は定かではないが、確かにスライクは、日輪属性でありながら、エレナのように身体能力を急激に上げている。

「―――、」
 スライクが大剣を見舞うたび、ゴズラードの巨体が宙を舞った。
 そして一体、また一体と爆ぜていく。

 耐久力がある相手のようだが、スライクの勝利は動かない。

 強すぎる。
 チートクラスの力だ。
 本当に、エレナのような。

「あの人は……、来てくれた……、」
「……?」
 足元から、声が聞こえた。
 身体をさすりながらよたよたと歩み寄ってきたのはキュール。
 キュールの瞳は、目の前のオレンジが爆ぜる光景のみを捉えている。

 興奮しているのか、惹かれるように戦いに近づくキュールをリリルが抱き込むように止めた。
 だが、キュールはそれが目に入っていないかのように足を動かし続ける。

 あんな男でも、彼女にとっては、“勇者様”なのだろう。
 態度はどうあれ、スライクはここに訪れ、彼女を救っているのだから。

 彼は、壮絶だ。

「……、」

 なら自分は、誰にとっての“勇者様”だろう。

「……、リリル」
「……、え、あ、はいっ、」

 スライクの戦いを呆然と眺めていたリリルに、アキラは呟いた。
 一瞬隣に立つエリーに視線を配り、一歩前に出る。

 全員の視線が向いている、スライクの戦い。
 放っておけば、戦闘は勝利で終えるだろう。

 何もしなくとも、だ。

 だが、傍観者のようにここに立っていては、“結果”は訪れない。

 今、自分がスライクに対して覚えているもの。

 憤り。
 嫉妬。
 劣等感。

 そんな単純な言葉では表せない。

 “勇者様”であることを拒むスライクが、ここまでしているのだ。

 だから、どうしても、動きたい。

 そして何より、エリーを助けに来たのは、“自分なのだ”。

「“ファロート”、使えるか……?」
「っ、あんた……?」
「……え?」

 アキラの言葉に、エリーとリリルは表情を変えた。

 ファロート。
 身体中の時間を速め、壮絶なほどの戦闘能力を纏える月輪属性の魔術。
 モルオールでカリス副隊長やその召喚獣と戦ったとき、アキラがマリスにかけてもらった魔術だ。

 そして、その反動も、アキラは経験済み。

「つ、使えますが……、でも、」
「頼む……!!」
 リリルの反論を、アキラは口で封じた。

 分かっている。
 スライクに任せれば、それだけで、戦闘が終わる。
 だがアキラは今、結果が欲しかった。

 日常でも勇者を名乗らず、戦地で傍観する。
 そんなものは、“勇者様”でも何でもない。

 煮え切らない自分。
 機嫌の悪いエリー。

 それを解決するには、“結果”が必要なのだと思う。

 自分の口は、人の機嫌を治すようなことを吐き出せない。
 だから、態度で示していく。

 あの銃だけは、駄目だ。
 だが、それ以外なら、その場しのぎでもなんでもいい。

 今は、とにかく、“結果”が欲しいのだ。

 どこかに、“立ちたい”。

「……、っ、ファロート……!!」
「―――!!」

 アキラの視界が、急激にスローに動いた。
 身体中が銀の光に包まれ、煌々と輝く。

 分かる。
 経験済みなのだ、この世界を。

 認識能力も上げてもらい、アキラはゴズラードの群れを睨む。
 並べる。
 今なら、スライクに。

 このファロートの反動は、知っている。

 “結果”の対価。
 身体中の激痛。
 そしてそれに伴う、肉体的損傷。

 だが、自分は、こんなものしか賭けられない。

「なんで、」
「……、」

 背後のエリーの言葉が届き、アキラは僅かに振り向いた。
 彼女もこの対価を知っている。
 馬鹿な行動だと思うだろう。

 現実的には意味のないのに、対価を払うことを。

 だがアキラにも意地はある。
 大切なことなのだ、それは。

 そして。

 煮え切らない自分も、いい加減に卒業しなければならない。

「俺は、勇者だ」
「……!?」
 宣言した言葉は、リリルにも届いた。

 だが、どう思われてもいい。
 失望されても、期待をかけられてもいい。

 それに、購い、応える。

 自分は、そうあろう。

「だから俺は、戦う!!」

 アキラは群れに突撃した。
 スライクのみを危険対象としていたゴズラードに迫っていく。

 新たな脅威の出現にゴズラードが構えるも、襲い。
 アキラは剣を抜き放ち、文字通り岩肌の背中に付き立てた。

 そして流し込む、爆ぜるような魔力。
 その攻撃のみに特化した一撃は、重く深く、ゴズラードの命を削る。

「ガゴゴッ!!?」
「っ―――、」
 呻いたゴズラードを確認し、アキラは即座にその場から移動する。
 次の獲物を視認すると、またも接近し、剣を振り下ろした。

 隙だらけになろうと、今の自分の速力ならば、ゴズラードに成す術はない。

 あと、六体―――

「テメェ……、火曜特化か……!!」
 鋭くなった認識能力が、スライクの呟きを拾う。
 呟きながらも、スライクはゴズラードを切り飛ばしていた。

 それに構わず、アキラは剣を振るう。
 インパクトの瞬間に魔力を流し込む攻撃方法。

 自分の一番得意な攻撃だ。
 何度も何度も、“自分の魔術の師”から盗んだ一撃。

 いかに相手が堅かろうと、今の速力なら、威力は常軌を逸している。

「かっ、随分荒いなぁ、おい」
「うっせぇっ!!」

 完全に声が聞き取れる領域までスライクに接近し、二人でゴズラードの群れに攻撃し続ける。
 アキラは速度にあかせて相手を切り裂き、スライクは身体能力にあかせて相手を切り飛ばす。

 いつしかエリーも飛び込み、リリルはアキラにかけたファロート維持に努めながら魔術で敵を討つ。
 アキラとスライクに任せていれば安全だろうに、だ。

 四人が集団戦の役どころにはまり、ゴズラードの群れを倒し続ける。

「……、」
 全員、煮え切っている。
 アキラはゴズラードを切りながら、そんなことを思った。

 何をすべきか。
 そんなもの、最初から分かっている存在は、ごく少数だ。

 だから、動いて探す。
 口を動かすより、身体を動かして、それを求め続けるのだ。

 ふらふらと、足元はおぼつかない。
 そんな足取りでも、動いて、動いて、まるで舞うように世界を横断し、いつか自分の“キャラクター”を見つける。
 見つけた“キャラクター”が気に入らなくなれば、そこからまた、動けばいい。
 そしてまた、同じ足取りで、歩き出す。

 踊る、世界。

 そんな世界で生きている。
 結果として意味があるかどうかは、どうでもいい。
 確かな足取りなんて、取らなくていい。

 そして見つければいいのだ。

「っ―――、」
 最後の一体は、スカーレットの光が捉えた。
 損傷の著しいゴズラードの隙を見切り、エリーが叩き込んだ一撃は、重く深く沈む。

 最後の魔物の爆音が響いたところで、全員の動きが止まった。

「はっ、はっ、はっ、」
 アキラは身体を震わせ、呆然と全員を見やる。

 エリーは息を弾ませ、ふっと笑っていた。
 リリルは目を瞑り、身なりを整えている。

 そして、

「やっぱりここにいたわね……、」
「っ、スライク様!! それにキュールも!!」
「……!」
 森林から、エレナと修道院服の女性、カイラが現れた。
 エレナは呆れたように、カイラは呆然と、荒れ果てた山脈を眺める。

「スライク様、ここでなにが、」
「知るか」
 二人と入れ替わるように、スライクは大剣をしまい、森林に入っていった。
 その背後に、小さな女の子を連れて。

「……、」

 来るぞ。
 スライクを追ったカイラの背中を眺めながら、アキラは身体を覆うシルバーの光が徐々に薄れていくのを感じていた。

「っ、ぐっ!?」
 銀の光が消え切った瞬間、血管全てが弾き飛ぶような激痛が走った。
 身体の中で暴れる、“結果”の対価。

 だが、アキラは大地を踏みしめ、踏み留まった。
 視界が歪む。
 どちらが上か下かも分からない。

 だが、それでも、ここに立つ。
 自分は、こうあるべきなのだ。

「ちょ、ちょっと、アキラ君?」
「……、戻ろう、ぜ……、」
 今声をかけてきたのはエレナだろうか。
 それすらも認識できず、アキラは森林に向かった。

 今、何人が自分の周りにいるか認識できない。
 だが、不確かな足取りでも、アキラは森林を目指した。

「……、」
 むくれ上がった大地に足を取られながらも、ひたすらに森林を目指す。

 松明も何もなく、星の光が遮られた暗い森林。
 そこに足を踏み入れたところで、アキラは膝から崩れた。

「……?」
 アキラは、自分が倒れたと思ったのだが、地面の衝撃がなかった。

 薄れゆく意識。
 そこで、

「いいから掴まんなさい」
「……ほんっと、よくやるわ」

 そんな声が、聞こえた気がした。

―――**―――

「状況を、説明して欲しいっす」

 アキラが意識を取り戻したのは、クラストラスだった。
 解散場所として選ばれた港町。

 潮風が頬を撫でるこの場所は、やはり、肌寒い。

 自分を運んだらしいサルドゥの民の馬車から這い出ると、半分の眼の少女にかち合った。
 色彩の薄い銀の髪に、同色の眼。
 無表情なマリスは、無表情なりに、抗議するようにアキラをまっすぐ見据えている。

「おうおうおうっ、アッキー、寝不足ですかい!?」
「……アキラ様、また、何か……?」
 マリスの隣には、ティアとサクが立っていた。
 サクは叫ぶティアを押さえつつ、焦点が定まっていないアキラの瞳を心配そうに覗き込む。

 アキラは微妙な笑みを返して、馬車の階段に座り込んだ。
 身体の節々は、未だ痛む。
 頭には妙な痛みが残り、視界さえくらくらしていた。

 ファロートの反動は、相変わらずのものらしい。

「……、」
 サルドゥの民は、馬車の中にはいなかった。
 視線を這わすと、その集団が、正装に身を包んだ男たちと話していた。
 彼らはこのクラストラスの護衛団だろうか。
 恐らく、依頼で起こった事件の報告をしているのだろう。

「……ああ、アキラ。目を覚ましたみたいだね」
「……、イオリ……、」
「ああ、みんなも来たのか……、」
 遠くの集団から、一人の少女が駆け寄ってきた。
 いつしか集合していた居残り組の面々を眺め、小さく苦笑する。

「お前、報告とか……?」
「ん? ああ、あの女性の“勇者様”と一緒にね……」
 イオリは僅かに目を伏せ、視線を僅かに集団に向けた。
 そこでは、リリルが何かを説明している。
 彼女の目に、自分はどう映ったろう。

 考えるのも億劫で、アキラは視線をイオリに戻した。

「本当はラースさんが適任なんだろうけど……、どこに行ったのかな……? いつの間にかいなくて、」
「……、そだ、もう一人の勇者は……!?」
「いや、彼らなら儀式が終わった途端飛び去っていったよ……。随分移動に長けた召喚獣みたいだね……」
 イオリは空を見上げた。

 確かにアキラの脳裏にも、ガンガコングと戦っていたとき空を飛んでいたスカイブルーの巨竜は刻み込まれている。
 そして、どうやらバオールの儀式はつつがなく進行したようだ。

 どうせなら見たかったのだが、族長のヤッドの説明で、大方想像がつく。

「エリサスとエレナも二人でどこかに行ってしまったよ……。流石に徹夜で疲れたのかな」
「……、そっか」

 アキラは小さく返した。
 はたして、エリーの機嫌は直っただろうか。

 結局倒れ込んだ自分を見て、失望したかもしれない。
 だけど、今の自分には、あれが精一杯なのだ。

 だから、きっと。

「……、」
 アキラは目を瞑った。

 これでいい、はずだ。

 そう、小さく呟きながら。

「……だから、」
 そんなアキラを見ながら、マリスはもう一度呟いた。

「状況を説明して欲しいっす」

―――**―――

「流石に中々役に立つものを作ってくれるなぁ……、ガバイドは」

 クラストラスから離れた平原。
 潮風が薄れた空気の中、一人の男が呟いた。

 金の長髪が特徴的な男、ラース。
 だが、彼の口から出たのは、先ほどまでの若々しいものではなく、どこかしがれた呟きだった。

「……、」
 ラースはローブの中から、小さな石を取り出した。
 深いスカイブルーの宝石。
 透明で菱形のそれの中には、儚くも確かに小さな光が宿っている。

 所有者の属性さえも変える、マジックアイテム。
 名前もまだついていないほど発明されたばかりのその宝石を、ラースは握り、砕いた。

「……、」
 手からこぼれるスカイブルーの欠片。
 もう、用はない。

 この、マジックアイテム。
 所有者の属性を変えられる半面、大きく魔力が削ぎ落される。

 使用用途などほとんどないのだが、例えば、“目立ち過ぎる色”を隠すには大きく役立つ。
 特に、今のような潜入時には。

「……、」
 ラースはサルドゥの民の儀式、そして、昨晩の事態を思い出す。

 友好的にある程度の関係を築き、自分の“キャラクター”を作った。
 すなわち、気配りできる、頼りになる男、と。

 安易なものでいい。
 深い関係を築く必要もない。
 ただそれだけで、旅の魔術師たちは自分が分け与えた食料に、警戒心を抱かないのだから。

 “勇者様御一行”を除く、全ての魔術師に配り終えた食料。

 毒薬を混ぜたわけではない。
 魔術さえ使っていない。

 ただ単に、睡眠性のある薬物を含ませただけ。

 それをすれば、“依頼が翌日までに及ぶと思っていなかった”という疲労も重なり、危険な森林で寝込むことになるのだ。
 あのどこか抜けている女性が担当になるようにするのも、依頼の時間を書類から削除するのも、随分と根回しをする羽目になったのだが。

 囮一つのため数名の魔術師たちを犠牲に捧げたが、その方が、“らしい”であろう。

 だが、これで、自分の描いていたゴール。
 “勇者様は無事な状態でバオールの儀式が行われる”という結果に辿りつけた。

「……、」
 手に残った宝石の欠片を、ラースはこねるように握りながら、僅かに笑う。

 魔物の襲来で全員が慌てる中、儀式のやぐらに細工を施すのは思ったよりも苦難を強いられた。

 だが、あれで、作用は逆になる。

 魔王の力を神に捧げる儀式は、異なる形で完成された。

 ほんの、僅かな力。
 だが、万全を期すために、その僅かも惜しいのだ。

 慎重に、確実に。
 そして、誰にも知られずに。

 そうすることで、完成される。

「……、」
 ラースは僅かに振り返り、クラストラスを眺めた。
 平原の向こうにある町並み。

 今頃、魔術師たちの死で、色々と騒ぎが起きていることだろう。

「三人……、か」
 小さく呟く。

 出逢った“勇者様”の候補。

 現状、三人。
 だが実際、誰でもいい。
 誰でもいいのだ。

 “スイッチを押せるのなら”。

「……、」
 “彼”は笑い、手に残った煤を払った。

 キラキラとその手からこぼれるスカーレットの宝石の欠片。

 それらは、オレンジの光に燃えていた。



[12144] 第十二話『儚い景色(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:21
―――**―――

 ごちゃごちゃとした色が、自分の小さな世界を支配する。

 黒とも茶ともつかない、混沌。
 白とも銀ともつかない、混沌。

 分からない。
 だが、ただ一つ。
 それが光を放っていないことだけは分かった。

 視野を広げようともがいても、自分は動けない。
 ただ色が、不気味に混ざり合っていくのを見届けるだけ。

 おかしい。
 そう、首をかしげながら思った。

 見ていた範囲では、それは輝いていたはずだ。
 様々な色が秩序を守って並び、そして確かに輝いていた。

 だが、今は。

 おかしい。
 心に生まれた疑問は、いつまでも首をかしげさせる。

 自分の、小さな世界。
 だが、それよりもっと小さい、自分。
 視野の狭さには気づけない。

 だから、自分が見ているものが、“理解不能”という結論だけを告げてくる。

 そして。

 だから、自分の脳裏に刻まれたのは、その混沌が生まれたきっかけだけ。

 深追いしたからだ。
 あの人が。

 それだけを、胸に刻んだ。
 分からなかったから。

 だけど。

 それでいいのだと、アキラは思う―――

「…………、」

 呆然と正面の窓を眺めること数秒、アキラはようやく、自分が寝入っていたことに気づいた。
 ひじ掛けのある一人用の木椅子に深々と座り込み、背中は堅い背もたれのせいで僅かに痛む。
 首のこりをほぐそうと回して見れば、パキパキと音が鳴り、その分僅かな爽快感が浮かんできた。

 木の縁の中から差し込む日からして、朝から昼に変わる頃だろうか。
 睡眠時特有の身体冷えはあるが、十分に暖かい。

 眠気が襲ってきたのは、この気候のせいなのだろう。

「……?」
 頭が事態に追いつかない。
 自分が今いるのは、とある町の宿舎の中。

 そしてここは、自分の部屋だ。
 僅かに大きい一人部屋。

 視線を落とせば、先ほどまで皆で囲っていた小さなテーブル。

 そういえば、朝のミーティングは終わって、

「……、ふ、」
「……!」
 不意に隣から聞こえた声に、アキラはびくりとしながら視線を向けた。

 右にあるのは、自分の寝床。
 先ほどまで二人用の椅子として活躍していたそのベッドには、今、一人の少女が座り込んでいた。

「寝心地悪くなかった……? その椅子」
「っ、お、お前、」
 妙に静かな声に、アキラは呂律の回らない声で返した。

 ベッドの上で足を投げ出しているのは、エリー。

 エリーは普段後頭部で束ねている長髪をそのまま背に垂らし、やはり静かな表情をアキラに向けてきていた。

 未だぼうっとする頭で、アキラが室内を見渡しても、自分とエリー以外いなかった。

「……、あんたの無表情ほど、不気味なものはないわね……」
「……いや、マジで軽く記憶障害になってるんだが……、」
「そんなとこで寝るからよ。ま……、最近の早起きのしわ寄せってとこね」

 言葉とは裏腹に、咎めるわけでもなくエリーは言葉を吐き出していた。
 今のアキラの混乱は、もしかしたら寝起きだからではなく、彼女のこの声色のせいかもしれない。

 アキラの経験では、彼女は怒鳴るのだ。壮絶に。

 もしくは、彼女は極端に静かになる。

 怒っているときと、そうではないとき。
 その両者を経験済みだが、後者は数えるほどしか見ていない。

「最近……、随分起きるの早いわね……」
「……罰ゲームはいやだからな」

 だが、多分。
 今は後者だ。

 アキラは淡白に返しながら、エリーにまっすぐ視線を向けた。

 怒鳴るでもない。
 怒って静かになるでもない。

 エリーは、こんなとき、どんな少女だったろう。

「嘘」
「……?」

 エリーは僅かに目を細め、小さく呟いた。

「あんたが無理しだしたの、あの“勇者様”たちに逢ってからでしょ?」

 あれから、十日ほど、だろうか。
 エリーの言う“勇者様”たちに逢ったのは。

 一人は、白髪の男、スライク=キース=ガイロード。
 一人は、銀髪の女、リリル=サース=ロングトン。

 唐突に出逢った、自分以外の“勇者様”。
 結局、去り際は大した会話もなく別れたのだが、その出逢いは、アキラの中で、確かな意味を持った。

 すなわち、自分はどうあるべきか。

 自分はあのとき、自称や外観も関係なく、勇者であろうと思ったのだ。
 確かにエリーの言葉通り、アキラの行動は、それを意識してのものだった。

 感動的な言葉もなにも吐き出せない自分は、行動で、そうあろう、と。

「……なんだよ? だったら起きてろ、って言いたいのかよ?」
「自由時間のうたた寝くらいでとやかく言わないわよ……。ま、もうすぐ依頼が始まるだろうけど」
「……、ああ、」

 そうだ、思い出した。
 今後の動向を話し終えたあと、他の仲間が依頼を受けに行ったのだ。
 それを待っている中、いつしか自分は寝入っていたらしい。

 ようやく脳が回転し出したアキラは、背もたれから身体を起こしうなだれる。
 横着して座ったまま眠るものではない。
 嫌な夢も見る羽目になった。

「……あんたさ、」
「……ん?」
 エリーは静かに、視線を窓に移した。
 アキラも倣ってそこを見る。
 だが、相変わらず、窓の向こうには日の光が当たった木造の建物しか見えない。

「無茶、しないでよね……。何かあると必死になって……、無理が来ると元に戻る。いつものパターンじゃない」
「てめぇ……、」

 だが、反論できない。
 確かにアキラは、そうやってここまで来たのだ。

 何かが起こるとやる気を出し、いつしかそれが霞む。
 そしてまた何かに触発され、それを繰り返す。

 波があるのだ。
 アキラのモチベーションは。

 ただその度、やる気を出している期間が延びる。
 それはきっと、成長なのだと信じたい。

「そだ、あんたさ、」
「?」
「あたしとの婚約、覚えてるわよね?」
「っ、忘れるわけないだろ、それは」

 アキラは頭をかきながら強く返した。

 不慮の事故でアキラとエリーは婚約中。
 その婚約を唯一解除できる神族に願いを叶えてもらうため、打倒魔王を誓ってここまで来たのだ。
 忘れるわけがない。

 それを同じく当事者のエリーから聞かれ、アキラは僅かに眉を寄せる。
 自分たちの最大の問題とも言うべきそれを、エリーはあくまで静かに語った。

 こんなことは、初めてだ。

「……、もし、よ」
「……なんだよ?」

 自分が動揺しているのに、エリーの口調は変わらない。
 アキラはどこか面白くないものを感じ、口を尖らせた。

「もし……、“それが無くなったとしたら”……、あんたは魔王を倒そうと思う……?」
「……、え、」

 大前提を覆すようなことを、エリーは聞いてきた。
 アキラは頭が追いつかず、ただ口を開けただけ。

「どうなの? “勇者様”」

 卑怯だ。
 エリーは、“聞いているのに、聞いていない”。

 十日ほど前、アキラは、エリーの前で宣言したのだ。

 期待をかけられるのが、どこか苦痛になりそうで、煮え切らなかったアキラ。

 そのアキラは、確かに宣言した。

 自分は、勇者だ、と。

 だから、そんな聞き方をされれば、こう答えるしかない。

「ああ」
「……、そう、」

 エリーはそれを聞くと、小さく笑って立ち上がった。

「あたしも準備あるし……、もう行くわ。あんたも準備、あるでしょ?」
「え、そりゃあ、」
「じゃ、」

 最後に短く別れを告げ、エリーは部屋を出ていった。

 一体、なんだったのだろう。

 エリーはずっと、自分が寝ている間ここにいたのだろうか。
 そして、今の話をするためだけに、自分が起きるのを待っていたのだろうか。

 アキラは椅子から立ち上がり、何となく閉まったドアを眺めた。
 あのドアから出ていったエリーは、最後まで、静かなまま。

「……、なんだってんだよ、あいつは」

 呟いても、当然その声はエリーに届かなかった。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 カーバックル。
 ヨーテンガース大陸の南西に位置するこの町は、北にはタイローン大樹海、西にはベックベルン山脈と、いずれもほとんど不可侵の領域に阻まれ、交流という観点ではいささか冷遇された地にある。
 しかし、町民にとって幸か不幸か、この町の南部には魔王の牙城があるという山岳地があるゆえに、軍事的な重要起点として強固な守りと共に栄えていた。

 魔王の牙城があるという、その山岳地。
 それは、ヨーテンガース大陸の南部、四分の一ほどを完全に埋め尽くすほど広大で、危険な魔物は元より人の足でも進行は難を極める。
 そしてその山岳地を北から囲い、抑え込むように、四つほどカーバックルのような町が点在しているらしい。
 その最西端のカーバックルは、言わば、魔王を閉じ込める牢の一本というところだろう。

 ヨーテンガース大陸の北に位置する入り口の港町、クラストラスを出て、西から回り込むようにタイローン大樹海を突破するとこのカーバックルにようやく到着できるという遠隔地。
 だが、不可侵領域のタイローン大樹海に安全に通行できるだけのパイプラインが確保されていることが、ここの重要性を物語っていた。

「……、」
 目前、なんだな。

 そんなことを、店の並ぶ繁華街の中、アキラはぼうっと町の中心にある建造物を眺めながら呟いた。

 いずれも石や鉄のような強固なもので形作られた町並み。
 外に出るにも町を囲う城壁のような守りの正規の出口を通らなければならない。
 東西南北と、僅か四つの門。

 それらから垂直に線を引き、ぶつかるのは町の中心の、今アキラが見上げている天を突くような高い塔だった。

 アキラが初めてこの世界を訪れたとき、落とされたのも、あんな塔だった。
 もっともあの村の塔は、あれほど強固に、そして、殺伐とは造られていなかったのだけれど。

 東のアイルーク大陸にある小さな村、初代勇者もそこから現れたと言われる、リビリスアーク。
 リビリスアーク“ス”、と、村の名前を誤認していたのも、未だ記憶に新しい。
 ようやく昨夜、この町に到着した夜、勇者の歴史でも調べてみるかと町の資料館で読み漁って見つけた事実に、アキラは頭を抱えた。
 だが、今からでも十分に訂正が利く。

 そんな僅かな旅路。
 だけど自分は、もう、いるのだ。
 魔王の牙城の、目前に。

「……にーさん、思い出してるんすか?」
「……、ああ」
 何となくセンチな気分になっていたアキラに、その誤認を与えた少女が呼び掛けた。

 たぼたぼのマントに、半開きの眼。
 色彩の薄いその瞳と同色の銀の長い髪は背中でマントにそのまま仕舞われていた。
 色が違うだけで、エリーと同じ容姿。
 彼女の双子の妹。

「“マリー”、だ……!」
「…………、にーさん、もしかして、今さら言ってるんすか……?」
「いや、昨日気づいた事実に、俺は……、」

 まさか今更気づいたとは、といった表情で、マリスは呆れたようにため息を吐いていた。
 無表情ながらも意思が伝わってくるのは、共に旅をしていた成果か。
 アキラは僅かな感動を覚えるも、彼女の戦力の方は未だ底が見えない。
 この、数千年に一人の天才とさえ言われるマリスが、今回の依頼のパートナーの一人だ。

「おかしいとは思ってたさ……、みんなはそう呼んでたし……。でもさ、そう名乗られたから……、」
「……マリスでいいっすよ」

 マリスは一言そう言って、半分の眼を塔に向けた。
 彼女の説明によると、あれは監視塔というだけではないらしい。
 顔を真上に向けてようや頂点が見えるその塔は、他の町から見える存在。
 すなわち、緊急時に危険信号を出すものらしい。
 他の三つの最終ラインを務める町にも、同じ建造物があるらしく、初代勇者の出身地にあやかって造られたというそれらは、実用性にも役しているとのことだ。

「でも……、早かったっすね、ここまで」
「……ああ」
 アキラもマリスと同じく、再び塔を見上げた。

 この世界に来て、すなわちあの塔から落とされて、二か月ほどだ。
 ほとんど移動時間にのみ費やされたようなこの旅は、間もなく終焉を迎える。

 それも、全ては自分たちの有する常識外の力によってだ。
 最たるものは、アキラの持つ、魔力の具現化の、あの銃。
 そして、隣のマリスも、それに匹敵する力を持っている。

 あまりに順調だ。
 この旅は。

 だが何故か、ようやく、とも思ってしまう。
 それは、自分たちが過ごした時間の密度によるものだろうか。

 隣のマリスも同様なのか、不思議な表情を浮かべていた。
 言葉を交わさずとも、そう思える。

 それと同時に、どうしても、この旅が終わった“後”のことを想像できないのだけれど。

「……、お待たせしました」
 そんな折、目先の武器屋から紅い着物を羽織った女性が現れた。
 肩ほどまでの黒髪を、後頭部の位置でまとめた女性は、素早くアキラたち二人に駆け寄ってきた。
 戦闘中になればきっとした凛々しい顔立ちになる、サク。
 ただ、サクは今、満足そうな表情を腰から下げた長刀に向けていた。

「どうだった?」
「専門家から見ても、問題ないそうです」
 アキラより僅かに低い程度の背丈だが、愛刀の状態を確認し終えて喜ぶサクは、どこか子犬のようにも見えた。

 とある事件からアキラを主君と定め、従者としての立場を守るサク。
 また、アキラの剣の師として戦い方を教えるほどの実力者だ。
 しかし、その様子は年相応の少女のようで、むしろ安心感を覚える。

 アキラと、マリスと、サク。
 この三人で、今から依頼を受けに行くのだ。

「でも、いいよな……、」
「?」

 間もなく、依頼の場所に向かう馬車が出るであろう。
 人もまばらな昼時より僅かに早い時間、歩き出しながら、アキラは何となく、サクの愛刀を眺めた。

「いやさ、その刀。俺のなんて、市販だぜ?」
 アキラが背中に担ぐのは、つい先ほど購入した片手用の剣。
 サクに見立ててもらったその剣は、激戦区というだけはあって質がいい。

 アイルークの町、ヘヴンズゲートから使用していた剣はついに限界に到達し、新たな武器を手に入れたのだが、やはりそれは、市販だった。
 戦闘において不具合こそないのだが、やはり魔王討伐を志す“勇者様”としては、不満はある。

「“伝説の武器”とか欲しいんすか?」
「お、そうそう」
 正にそれだ、とアキラはマリスの言葉に頷いた。

 先日、複数の“勇者様”に出逢った以上、世界に一つしかない伝説の武器を手に入れる、という儚い望みは薄れてしまったが、それでも、行く先々で武器を買い直す、というのはどこか格好がつかない。
 せめてサクのように、メンテナンスをして使い続けるような武器が欲しかったりする。

「なあ、サク。それ、特殊な武器なんだろ? 俺いろんな武器屋見たけど、そんなの見たことないぜ?」
「え、ええ、」

 サクは短く肯定した。
 彼女の身の丈にしては、長いその刀。
 アキラがずっと、彼女の装備として視界に捉えていたものだ。
 武器屋では見たことがない。

 それとも、彼女の出身地、タンガタンザには上質な武器が揃っているのだろうか。
 タンガタンザは、製鉄に関して世界一とアキラは聞いたことがある。

 そういえば、十日前に逢った勇者、スライク=キース=ガイロードも、見たこともない大剣を腰に下げていた。
 あとで聞いた話によれば、彼の出身地もタンガタンザらしい。

「名前とかついてるのか? なんか、かっこいい名前が」
 ちなみに、アキラは自分が背負っている武器の名前を覚えていない。
 覚えているのは、一ダースほど並んでいたこの武器の名前の最期に、“特価!!”とついていたことだけだ。

「いえ、名はありません。呼ぶ必要がありませんから。この武器は、そもそも私のためだけに生まれたものですし」
「……、ぎゃ、逆にかっこいいな……、」
「でも、その剣も上等ですよ。その値で手に入ったのが信じられないくらい」

 方や、個人のためだけに造られた刀。
 方や、セール品。

 どう考えても、サクの言葉でアキラは喜べなかった。

「でも、にーさんはある意味武器いらないじゃないっすか。最近見てないっすけど、」
「そうですよ」
「……、」

 二人が示唆しているのは、アキラのメインウェポンだ。
 魔力の具現化、プロミネンスを反動さえ抑え込めばノーリスクで放つ銃。
 日輪属性の強力かつ広範な魔力攻撃で、倒れなかった敵はいない。

 とある意地から使用を控えてはいるが、確かに剣一つでとやかく言える立場ではなかったりする。

「マ、マリスは武器とか使わないのか……?」
 あまり刺激して欲しくない分野から話題を逸らすべく、アキラはだぼだぼのマントのみを纏うマリスに視線を向けた。

「杖とかあったけど……、」
 アキラの脳裏には、先ほど武器屋で見た杖。
 専門用語なのか、説明書には何を書いてあるかさっぱりであったのだが、それでも戦力増強にはなるのだろう。

 マリスの戦闘スタイルは、魔術師タイプだ。
 魔力攻撃で、敵を討つ。
 とすれば杖は、イメージ通り、魔術師タイプの者を補助するものではないのだろうか。

「少しは考えたんすけど……、ただの荷物になりそうなんすよ」
 僅かに思考したのち、マリスはのほほんと答えた。

「杖って、使用者の魔力を増強して放出するタイプが多いっすから」
「え、いいじゃん」
「いや、」

 マリスは適当に視線を泳がせ、通り過ぎたもう一軒の武器屋を見やった。
 の先に立てかけてあるのは、セール品の杖。
 だがそれを興味薄げに眺め、半開きの眼をアキラに戻した。

「自分が使うと、耐えられなくてすぐ壊れるんすよ。“普通の杖”じゃ」

 どうやら“伝説の武器”が必要なのはマリスの方なのかもしれない。
 アキラはそれきり沈黙し、ただただ北の門を目指した。

―――**―――

「ふっ、ふっ、ふっ、」
「……お、落ち着くんだ、」
 イオリは目の前の少女に両手を突き出し、一歩後ずさった。

 黒いローブをベルトできっちりと絞めた服装。
 魔術を職として志す者の資格としての最終到達地点、魔道士であるイオリの正装だ。
 だが、小さな飾りのついたヘアピンで止めた黒髪から覗く表情には、僅かに汗が浮かんでいた。

 町行く人々や、イオリたちと同じように馬車の到着を待つ者たちからは、怪訝な表情を向けられている。

 それもこれも、目の前の少女のせいだ。

「イオリン……、いいじゃないですかっ、減るもんじゃなし……、」
「いや、僕の魔力が減るんだけど、」

 イオリが返答しても、目の前の少女の瞳は輝き続けた。

「いいか、アルティア、」
「あっしはアルティアではありません!! ティアにゃんです!!」
「いや、その愛称の方が本名だと言い張るのは無理があるんじゃないかな……、」

 青みがかった短髪に、元気、が特徴の、目の前の少女。
 ティアは、叫びながらもじりじりとイオリを建物の壁に追いやる。

 どこか狂気に満ちているようなティアの瞳に、イオリは己の不運を呪った。

 今回の依頼は、それぞれくじ引きでメンバーが決まり、各々当たっているのだが、

「っ、」
 ついにイオリの背が建物に触れた。
 ティアは目を輝かせ、さらにじりじりと接近してくる。

 依頼は三つ。
 一つはアキラ、マリス、サクの班。
 一つはエリー、エレナの班。

 そして最後の一つはここ、ティアとイオリの班だ。

「さあっ、ラッキーを……!!」

 ティアが必要に迫っているのは、イオリの召喚。
 召喚術士たるイオリ操る召喚獣、ラッキーの簡易召喚(小)は、その愛くるしい姿で、ティアの心を鷲掴みにしてしまったらしい。
 ここ最近、ずっと召喚を迫られているのだが、何故か妙な意地のようなものができ、イオリがティアの前で召喚していなかった。

 本日とうとう二人だけという組み合わせになってしまい、ティアの不満は爆発したようだ。
 頭一つ分低い体格とはいえ、ティアの狂気に満ちた瞳に、ある種貞操の危機さえ感じる。

「いいか、よく聞くんだ」
 イオリはティアを諭すように、落ち着き払った声を意識して出した。

「今から僕たちは、依頼に行く。いいね?」
 一言一言確認を取るように、もしくは子供を騙すように、イオリはゆっくりと現状を確認させる。

「内容は、魔物の討伐だ。ほら、ここに、」
 イオリはローブから、依頼書を取り出した。
 そこには確かに、魔物討伐、と記されている。

「それまで魔力は温存した方がいいだろう?」
「で、でも、イオリンならっ!!」
「っ、」

 ティアの食いつきに、イオリの頭痛は増した。
 痛い所をついてくる。
 確かに簡易召喚など、ほとんど何の労力も使わないだろう。

 依頼書を見ても、この激戦区にしては内容も軽く、何の支障もない。

「……召喚っていうのは、途方もないほど魔力を使うんだよ」
「……えっ、そうなんですかっ!?」
「あ、ああ、そうなんだ」
 イオリはまっすぐなティアの瞳から僅かに視線を逸らして肯定した。

「じ、尋常ではないほどに、ね。依頼に、大きな支障をきたすかもしれない」
「それだけ代償があるとは……!!」
 イオリは未だ、視線をティアに合わせなかった。

「だから、万全を期すべき……。そうだろう?」
「……、わ、分かりました……。……すみません」

 申し訳なさそうに頷いたティアに、ふう、とイオリは息を吐いた。
 馬車の到着時間まではまだ間がある。
 早期にティアをなだめられたのは幸いだ。

 だが、胸の奥がきりきりと痛んだ。
 狂気に満ちていた瞳を僅かに閉じ、途端意気消沈したティアは、イオリを追い込むのを止め、黙り込む。

「ま、まあ、アルティア……、その、今回は、」
「……はい」
 いつもなら猛烈にその言葉に反応するティアは、沈んだまま、沈んだ声色を返してきた。

 まるで、大人に約束を破られた子供のようだ。

 やはり、胸が痛む。
 きりきりと。

「そ、そうだ。じゃ、じゃあ、依頼が終わったあとなら、」
「―――!!」
 良心の呵責に耐えられなくなり、イオリが譲歩した瞬間、ティアの表情が一変した。
 途端飛び跳ねるように動いたティアは、満面の笑みをイオリに向けてくる。

「つっ、ついに……!!!」
「あ、ああ、分かった、分かったから、」
「うおおおおおーーーっ!!!!」

 叫び出したティアに、周囲の目がさらに冷たくなる。
 このモチベーションなら依頼はことなきことを得るだろうが、イオリはティアの肩を押さえ、黙り込ませた。

 この騒音発生機と共に依頼をすることになったのも、やはり、あのくじ引きのせいだ。
 邪険に扱っているわけではないが、流石に町中で叫ばれるのは勘弁して欲しい。

「そうと決まればっ、とっとと終わらせましょう!!」
「あ、ああ、そうだね、」
 ティアは悦びを身体全体で現わすように回ると、びしっ、と未だ閉ざされた門を指差した。

 この町、カーバックルの周囲を囲う重厚な灰色の門。
 二階ほどの建造物ならすっぽり隠すほどの高い壁に囲まれたこの町の、唯一の出口だ。
 もちろん、その巨大な門にも小さな勝手口が付いているのだが、魔物が大群で攻めるにはあの門を突破しなければならない。

 イオリたちが眺めているのは、町の西部に位置する門だが、東西南北全て同じ造りらしい。
 堅牢な、このカーバックル。
 魔王の牙城にあるのなら当然の処置であり、また、馬車の待合所も町の中にある。
 比較的大きい、元の世界のバスの停留所のよう。
 あの門を開き、馬車を乗り入らせたところで、再び閉めるのだから相当警戒しているようだ。

 イオリたちがいるのもその場所で、同じく馬車を待つ人々に白い目を向けられていた。

「イオリン……、あっし、ちょっと、ははは、」
「……、あ、ああ、まだ時間はあるしね。行っておいで」
 照れたように笑うティアにイオリは手を振り、見送った。
 その背中がどこか浮足立っているのは、イオリが与えた報酬のせいだろう。

 一人になって、イオリはゆっくり数人ほど座っている長いベンチの端に腰かけた。
 他の人々はようやく静かになったと、それぞれ会話を開始する。

 激戦区にしては、随分と平和な光景だ。
 温暖な気候も手伝って、眠気を誘うほど。

「……、」
 イオリは何となく、座ったまま空を眺めた。
 浮かんでいる形のいい雲の隣、太陽は、まだ頂上に届いていない。
 馬車の時間は正午なのだから、随分と早く来てしまった。
 とはいえ、装備の決まっているイオリ自身、あてもなく町を彷徨するのは性にあわない。
 もっとも、ティアに迫られながら足早にこの場に到着したのが最たる理由なのだけど。

「……、」
 イオリは、目を細めた。

 騒がしいティアがいなくなって、今は、一人。
 そんな状況では、いつも自分はこうした表情を浮かべているかもしれない。

 そして思考は進むのだ。
 黒い方向へ。

「……、」
 二年前。
 イオリは自分が“この世界”に来たときのことを思い出した。

 この世界の定義するところの“異世界”。
 自分は、そしてアキラは、そこの住人だった。
 非現実的だが、実際にそうなり、魔法という未知の存在を見てしまえば呑み込むしかない。

 昔のことを思い出すのは我ながら年より臭いとは思うが、そう思えるだけの場所にいる。
 魔王の牙城は目の前だ。

 そこで自分たちの旅は完結し、そして終わる。

「大丈夫だ……、」

 小さな声は、町の喧騒に溶けていく。
 離れた隣に座る、馬車を待つ人々も気づかない。

 それをいいことに、イオリは何度も呟いた。
 大丈夫だ、と。

 きっと、絶対に。
 自分たちは魔王を討ち、この物語は“神話”になる。

 カリ。

 イオリは親指の爪を噛んだ。
 思考を進めるときの、彼女の癖。

「……、」
 きっと、きっと、きっと。
 そう何度も、心でつぶやく。

 これは、祈りなのかもしれない。
 魔王に挑む不安を振り切るための。
 恐らく、こうして祈った人々は、多くいるだろう。

 歴代を通し、数多くいる“勇者様”。
 その中で、“神話”になれたのは、九十九代までの魔王を倒した、九十九組。

 その百人組目。
 それにきっと、自分たちは成れる。

 だから、きっと。

「……、」
 いつしか目を瞑っていたらしいイオリは、騒音を聞いた。
 視線を向けると、巨大な門がゆっくりと開き始める。

 どうやら、随分時間が経っていたらしい。
 馬車の到着だ。

「……?」
 イオリは立ち上がって、周囲を見渡した。

 いない。
 いれば即座に分かる、あの少女がいなかった。

 いくらなんでも遅すぎる。

「イッ、イオリーーーンッ!!」
「……!」

 途端、背後から声が聞こえた。
 僅かな安堵と共に、イオリは振り返る。

 開く門の正反対、青みがかった髪を振り乱し、ティアはわき目も振らず走ってきていた。

「ずいぶん遠くに、」
「そ、それ……、どころじゃ、な、い、んで、すっ!!」
 ティアはイオリの眼前で止まると、弾んだ息で言葉を強引に吐き出した。
 そのあまりに必死な様子に、イオリも表情を変える。

 周囲の人々が、またあの子か、という表情を向ける中、イオリには彼女の危機感が伝わってきた。
 ティアは、常時うるさいのだが、それでもいつも笑っている。

 それだけに、彼女のこの表情は、危険信号を放つ。

「あっし、どうしたらいいのか……!!」
「落ち着いてくれ、一体何が、」
「急いで、急いでアッキーを……!!」
「落ち着くんだ、アルティア」

 努めて冷静さを保ち、イオリはティアの肩に手を置く。

「それが―――」

 ティアが眉を寄せ吐き出した言葉に、イオリは再び、爪を噛んだ。

―――**―――

「カピレット、ある?」
「え、ええ、」
「あるだけ全部ちょうだい。それと、コアロックも。安いのでいいから」
 エレナはカウンター越しに女性の店員に告げると、そのまま振り返って背中を預けた。

 ウェーブのかかった甘栗色の髪に、甘い吐息を吐き出すふっくらとした唇。
 ふくよかな胸に、その見目麗しい顔立ちが合わされば、女性の理想形だろう。
 だが、胸元の開いた服に羽織ったカーディガンを軽く両手で直しながら、エレナは機械的な表情を浮かべていた。

 視線の先には、赤毛の少女、エリー。
 宝石店の中、ショウウィンドウが狭い室内を満たし、キラキラと輝く。
 が、それに囲まれた彼女は反面どこか暗い表情を浮かべていた。

 馬鹿。
 小さく口だけ動かし、エリーにメッセージを送る。
 気づいたのかそうでないのか、エリーは視線を外し、ぼんやりと、宝石を眺めた。

 ショウウィンドウに並ぶ、緋、蒼、碧と様々な宝石たち。
 女性なら一様に目を輝かせるそれらだが、恐らくエリーはそれを満足に捉えていないだろう。

 本来ならばエレナも楽しめる空間なのだが、生憎今はそういう気分ではない。
 遊んでいては、依頼のくじ引きに操作を加えた意味がなくなってしまうのだから。

「こ、こちらでよろしいでしょうか……?」
「……、ええ、」
 エレナは、女性の店員に運ばれてきた袋を受け取った。

 手持ちのズタ袋に入れられた、カピレット。
 覗き込むと、砕かれたクッキーのような小さな欠片がジャラジャラと音を立てた。

 鈍い光沢の、赤い石。
 とある岩石を商品化するため削り落されるこの付属物は、宝石としての商品には成り得ない、副産物だ。
 このカピレットを削ることで姿を現す宝石はショウウィンドウに並んでいるが、こちらの方に用がある。

 この宝石は、マジックアイテムなのだ。
 魔力を流すことで、火曜属性の力を発する宝石。
 夜の灯に使われることもある。

「これで全部?」
「え、ええ、」
 金額を確認するまでもなく、エレナは購入の意を伝えた。
 いかにマジックアイテムとはいえ、微弱なもの。
 こうした高級な店にはいささか不釣り合いな存在なのだから、店の奥にしまわれ、加工前は二束三文で手に入る。
 エレナはズタ袋の紐をきゅっと縛って手に下げた。

「それと、」
「……、」
 次に店員が差し出したのは、一応は横長のケースに入れられているものの、僅かに濁った岩塩のような石。

 ケースの中、上列に二つ、下列に三つ、計五つ並んでいる、コアロック。
 菱形の形のそれらもまた、マジックアイテムだ。
 魔力を流しても、何の効果も生み出さないのだが、コアロックは流された魔力を蓄えることができる。

 もっとも、こちらも価値は低い。
 ショウウィンドウに並んでいる透明度の高いものならいざ知らず、鈍い光沢を持つこちらは装飾品としてもアイテムとしてもあまり使用されないのだから。
 どこかの町にも、簡単な手見上げとして店先に乱雑に積まれていたのを思い出す。

「これ、二ケースね……。で、いくら?」
「あ、あの、お客様でしたら、」
「……いくらなの?」
 エレナの有無を言わぬ催促に流され、店員は委縮しながら金額を提示してきた。

 予想通り、安価だ。
 エレナは適当に財布から料金を取り出し、適当にカウンターに置く。
 慌てたように金額を数え始める女性の店員。

 彼女からしてみれば、エレナのような客は異様に映る。
 この店は、激戦区の町にあるとはいえ、ベックベルン山脈から取れる鉱物で発展してきたのだ。
 それだけに、ここでの宝石の購入は比較的安価で手に入り、その上、それで商品価値を落とさないほど上質で美しい。
 実用性が問われるこの地域でかなりの利益を上げられるのだから相当なものだ。

 特にエレナのような容姿の者なら、それ相応のものを購入してしかるべき。
 しかし、エレナが求めたのは、本来商品として扱っていないようなものばかり。
 経済的な問題かとも思いきや、彼女が投げ捨てるように置いた金額はかなり多く、また、彼女の財布からはそれ以上の貨幣が覗いていた。

「……、じゃ、行きましょうか」
 エレナは購入を済ませ、そのまま踵を返して店を出た。
 途中声をかけたエリーは僅かに反応し、ついてきているとはいえ、表情は、やはり暗い。

「……、」
 徐々に人気も増えてきた町並みを歩くエレナは、ちらりと後ろを振り返った。
 しかしエリーはそれさえ気づかず、ただエレナのあとを追うという作業を繰り返すだけ。

「……、止める?」
「っ、」

 エレナの言葉に、ようやくエリーは反応した。
 そしてどこか静かな表情を浮かべる。

 ここ数日、ずっと見てきた顔だ。
 まるで、町の中心の高い塔の天辺で、バランスを取ることだけを考えているような。

「ちょっと、いい?」
「……、」
 町行く雑踏が急に不快になり、エレナはエリーを路地裏に促した。

 高い建物に囲まれ、日の光が極端に制限された中。
 どこかカビ臭いそこは、町行く人々の目を一切引かず、町の中で確かに孤立していた。

「もう一度、確認よ」
「……ええ、」
 エレナはエリーを建物に追いやるように立ち、その瞳を捉えた。

「九分九厘、失敗する」
「……、分かってます」

 この十日間、何度もエリーに送った言葉だ。
 勧めもしない。
 止めもしない。
 これは、ただ単純な事実。

 九分九厘失敗。
 それは、千人がやって、たった一人が成功する可能性。
 その中の一人になるというのは、あまりに希望的観測だ。

 その上、エレナが口にしたのは、あくまで比喩。
 本来、それ以上に、可能性は低い。

 しかしエリーは頷いた。

「それでも……、」
「……、」
 エリーは視線を落とし、小さく呟いた。
 そして顔を上げ、エレナの瞳を確かに捉える。

「『あたし、やります』」

 その言葉をエレナはクラストラスでも聞いた。

 あの、アキラ以外の“勇者様”に出逢った依頼。
 思わぬ数の被害者を出したあの依頼から返ってきた直後、エレナは、エリーに呼び出された。

 声をかけられたときから、予感はした。
 そのときのエリーの表情を、エレナはかつて鏡で見た気がしたのだから。

 現状への憤り。
 どうにもできない環境。
 しかし、迫っている危機。

 それらが混ざると、人はそんな表情を浮かべるらしい。

「失敗したら、死ぬ。これは脅しでも何でもないわよ?」

 エレナは目を瞑り、またも事実だけを告げた。

 勧めもしない。
 止めもしない。

 そのどちらも、エレナにはする資格がないのだから。

「でも、強くなれるんですよね……?」

 エリーがこれから挑むのは、とある秘術だ。
 エレナが以前、看過できない事件に遭遇したとき、挑んだ秘術。

 魔力を大量に押し込み、対象の“器”を強引に広げる手法。

 魔術師にとって魔力とは、その生命と密接な関係がある。
 それこそ、命を対価として一時的に力を増大させられるように。

 その魔力の受け皿ともいうべき、“器”。
 ときには鍛錬によって成長し、ときには戦闘によって成長する存在。
 いずれも、魔力使用の回数が増えることに、その成長は起因している。

 確かに、先天的なものはある。
 魔力の“器”とは、何に依存しているかは不明なのだ。

 最たる例が、エリーの双子の妹、マリス。
 彼女の“器”は何に頼るでもなく、常識外れのサイズを誇っている。
 彼女が戦果を立てずとも、数千年に一人といわれるのには、それを測定した結果なのだ。

 だが、それ以外にも、それを広げる方法が存在していた。

 それが、今から行う、“器”への外部干渉。
 中から徐々に押し広げられるべきそれを、強引に拡大するのだ。

 本来、そのコアは、戦闘に置いて最も守るべき位置にある。
 肉弾戦でいうところの、内臓。
 いくら筋力を鍛えたところで、それを直接握り潰されれば、生き残れる者は皆無だ。

 そのあまりに儚い粘土細工のような受け皿に、例えば海の水を流し込めば、受け皿は形を変えるだろう。

 場合によっては、大きく。
 場合によっては、破損。

 結果、形が本来のものから乖離すれば、失敗、ということになる。

「確かに……、強くなれるわ」
 エレナはエリーの言葉を肯定した。
 止めるつもりも、ない。

「少なくとも……、私には勝てるくらいにね」
 その秘術の成功例たるエレナは、あっさりと自分を引き合いに出した。
 火曜属性のエリーが成功すれば、相性で勝る木曜属性のエレナを凌駕することはできる。

「じゃあ、」
「最後に、もう一度だけ言っとくわ」
 エレナはエリーの言葉を遮って続けた。

「これから起こるのは、想いの強さ、だとか、どれだけ真摯に務めたか、とか、そんなどうでもいいことは関係ない。完全な、運任せ。例えば妙にツキのあるアキラや、あの天才ちゃんに同じことをしても、あんたと成功率は変わらないわ」
「……、」

 エレナの言葉にも、エリーはきつく結んだ口を解かなかった。
 分かり切っていたことだ。

 この十日間を、エレナはエリーに準備期間として与えた。
 すなわち、気持ちを整理する時間、と。

 だがエリーは、“そう”ではないよう振舞っていた。
 決して、成功するのだから別れを告げる必要はない、と思っていたわけではないだろう。
 彼女が一人でいるときに、盗み見てみれば何かに押し潰されそうな表情を浮かべていたのだから。

 何が彼女をそこまで追い詰めたのだろう。
 彼女は決して、脆弱というわけではない。
 単純な実力で最も不安なのは、エリーではなく、むしろティアの方だ。

 だがその二人も、これまでの経験から、この激戦区で十分に戦えている。

 しかし、エレナにはどこか分かる。
 この“勇者様御一行”の中で、最も不安を募らせやすいのはエリーだ。

 チート、と呼ばれる力を持つアキラ、マリス、そしてエレナはその面で何も思い煩うことはない。
 イオリも問題ないだろう。チートとまでは言わないが、魔道士たる彼女は十分な実力者だ。
 この四人は、何の問題もない。

 そして、必然的にもっぱら比較対象になるサクとティア。
 だが、この二人も問題ないのだ。

 速度、という点で、瞬間的にはサクが最も長けている。
 危険な相手が現れても、戦闘において特に重要なそれに特化している彼女は、あまり危機感を覚えない。
 陽動さえ容易だ。
 その上、卓越した腕で刀を使うのだから、攻撃面も十分にこなせる。

 そして、ティア。
 彼女の場合は極端だ。
 勝てない相手が現れれば、さっさと諦めて後ろで治癒魔術をしていればいい。
 現にその力は重宝し、チーム戦では欠かせない存在でもある。

 だが、エリーは違う。
 彼女の戦闘スタイルは、敵に近接して、己の体躯のみで戦うもの。
 瞬間の威力は高いとはいえ、敵にしてみれば崩しやすい。

 もしエリーが勝てない敵に出遭ってしまえば、何もせずに遠くから見ているしかないのだ。

 サクは速力。
 ティアは治癒魔術。
 エリーは攻撃力。

 三人は、一芸を持っている。
 だが、それが生かされないシチュエーションが多いのは、やはり、エリーなのだ。

「……、行きましょ」

 エリーから言葉が返って来なくなり、エレナは歩き出した。
 僅かに頷いたのち、エリーもそれに続く。

 二つだけの依頼を三つと偽り、くじ引きを操作し、これから二人は儀式に向かう。

 “双子大陸”、ヨーテンガース。

 ここは、エリーの出身地。
 その山に囲まれた村とやらも、この近くらしい。

 そして、手に下げる二つのマジックアイテム。

 秘術の準備は整った。

「……、」
 二人は、路地裏を静かに出る。

 その影に、いつもは騒がしい少女が声も出せずに潜んでいることには、最後まで気づかなかった。

―――**―――

「ここ、だよな?」
「そのはずですが……、どうも……、」

 サクの唸り声を聞きながら、アキラは周囲の様子を眺めた。

 昼をとうに過ぎた森林、タイローン大樹海。
 カーバックルの町から北に位置するこの場所は、大樹海の入り口付近で、木々もまばら。
 日差しも十分差し込める。

 そんな中。
 アキラたちが辿り着いたのはキャンプ場のような場所だった。

「どうするよ、……いなくね?」

 それも、無人の。

 三角形のテントや、大きな四角いテントが十程度並ぶここは、確かに人間の生活の匂いがする。
 足元の土は踏みならされているし、テントの中心にあるのは巨大なたき火の跡。
 投げやりに置かれている飯盒やら何やらの調理器具。
 何かの赤い作物が、テントとテントの間に紐で吊るされて干されている。

 確かに、人間がつい最近までここにいたようだ。
 だが、どれだけ耳をそば立てても、笑い声一つしない。

 シン、とした森のどこか冷たい空気が流れているだけだ。
 てっきり来た瞬間に依頼人が待ち受けていると思っていたのに、これでは馬車から下りてまっすぐにここを目指した自分たちが報われない。

「……マリス、魔物討伐、なんだよな?」
「そうっすね……。依頼書にも、そう書いてあるっすよ」
 マリスは眠たげな眼を、手に持った真新しい用紙に下ろす。
 ここまでの道中でも聞いたことなのだが、その詳細は記されていないらしい。

「依頼人は、カトールの民、族長、カルド。タイローン大樹海の探索を行う、移動民族の人っすね」
「移動民族……、ね」
 そう言われて見てみれば、テントには大分年季が入っていた。
 その上、キャンプのように短期的にではなく、長期的にその場に居残れるよう、重厚な杭や野太いロープでセッティングされている。

「たまに町の近くに来て、いろいろ売ったり買ったりするらしいっす。タイローンには、結構珍しい食糧があるっすから」

 流石のデータバンク。
 マリスからはすらすら言葉が漏れてくる。

 だが、そんなアウトラインを聞いていても、依頼は一向に始まらない。

「留守なのかな……?」
「いや、流石に見張りくらいはいるはずっすよ。依頼のこともあるし、」
「……、魔物に襲われたとか……、」
「それならそれで、争った跡くらい……、」

 一切ない。
 人間がいないことを除けば、平和そのものだ。

「どうする? 引き返すか?」
「せめてもう少しくらい待った方がいいっすよ……。……? サクさん?」

 そこで、マリスがサクの異変に気づいた。
 サクはじっと、最も大きなテントを眺めている。

「サク?」
「今、そこに、」
「?」
 アキラが寄ると、サクはテントの入り口を指した。
 大きなのれんのような、その入口。

「……!」
 風にそよいでいるようにしか見えないそこ。
 だがアキラも注視して、ようやく気づいた。

 今、中から誰かがこちらを覗き見ていたことに。
 それも、一人二人ではない。

「すみませーん!」
 アキラが声を出すと、入り口の布が確かに動く。
 やはり、人がいる。

「俺たち、依頼を受けて、」

「“本当ですか”?」

 アキラの声を遮ったのは、どこか震えたような男の声。
 怪訝な顔をしながらも、アキラは一歩テントに近づいた。
 それだけで、入り口の布が激しく揺れる。
 その動きが、それ以上近づくな、と言っているようにも思えた。

「? 依頼書も、あるっすよ?」
 マリスも眉を寄せながら、手に持ったままの依頼書をテントに向ける。

「……、」
 それを、姿も見せずにテントから盗み見てくると、ようやくテントの布が開いた。
 薄暗いテントの前に、一人の男が恐る恐る姿を現す。

 年は、四十代ほど。
 日に焼けた肌に、白髪交じりの短い髪。
 広い肩幅に茶色い作業服のようなものを纏い、たくましい胸板を覗かせている。

 そんな、体格のいい、その男は、

「早く、入って下さい……!! 危険です!!」

 そんな言葉を、怯えながら叫んだ。

―――**―――

「それで、私は、どうしたらいいか分からなくてっ、」
「っ、」
「とっ、とにかく、急がないと、」
「分かっている!!」

 イオリは、騒ぐティアに一喝し、目を伏せ続けた。
 今は、落ち着かなければならない。

 緊急時、最も危険なことは、当たり前のことだが慌てふためくこと。
 今は冷静になり、どのような手を打つべきかを考えることだ。
 とはいえ、まともに思考が進まない。

「っ、……すまない、アルティア、酒場に行ってくれ。僕たちの依頼のキャンセルと、アキラたちの居場所を、」
「はい!!」

 文句も何もなく、ティアは指示通りに駆け出していった。
 その待ち時間、イオリはひたすら、状況を整理する。

 馬車の待合所、周りの人々が到着した馬車に乗り込む中、ただ立って、じっと眼を伏せ、爪を噛む。

 ティアが持ち帰った情報。
 それは、エリーとエレナが危険な儀式を取り行うというものだ。

 強引な“器”への外部干渉で、それを押し広げる秘術。

 イオリもどこかで、それを聞いたことがある。
 情報を集めることに執着していた二年間だ。
 儀式の詳細は知らないが、自殺にも等しいものだと分かっている。

 この想定外の事態に、イオリは睨むように視線を門に向けた。
 馬車を乗り入れ、再び閉ざされたそれは、重く、進路を阻むようにそこに座す。

 だがあの二人は、もうとっくに町の外へ向かってしまっただろう。

 今日の依頼は、珍しくもエレナが酒場に向かっていた。
 そして、くじ引きのさい、彼女が妙な仕草をしていたのを思い出す。

 結果、予想とは裏腹にエレナがエリーと組んだのを見て、そこに操作性は無いと踏んでいたのだが、まさか本当に狙った結果にしていたとは。

 こんな“刻”、刻んでいない。

 イオリが進める思考の中、何度もその言葉が生まれる。
 自分が視た世界に、そんな濁りはなかった。

 最後までは、全てがキラキラと輝いていたのだから。
 だが、今起こっていることは何なのか。

 あのエリーが、そんなことをするとは思えなかった。

 意地を張って、思いつめることはあるとはいえ、彼女はそこまで愚かではない。
 コンプレックスに苛まれながらも、彼女は実直に力を高めていた。
 それとも、“チート”な存在に囲まれ、心を痛めてしまったのだろうか。

「っ、」

 とにかく、今はアキラたちと合流することだ。
 ティアが呆然自失し、エリーたちを見失った以上、彼女たちを追う術はない。

 自分たちができる、唯一の方法。

 それは、あらゆることに精通している、エリーの妹、マリスに話を聞くことだ。
 彼女ならば儀式の存在を知っている可能性もある上、それに必要な場所まで特定できるかもしれない。
 何しろ、元地元民だ。

「……、」
 ティアを待つのももどかしく、イオリも酒場に向かって駆ける。

 やるべきことは決まった。
 あとは即座に彼らに合流し、エリーたちを追わなければならない。

 一刻も早く、止めなければ。

 いや、

「……、っ、」

 浮かんだ黒い思考を、イオリは強く地を蹴ることで解消した。

 黒い思考。
 僅かにでも、思ってしまった。

 エリーを、止める必要はないのかもしれない、と。

 もし彼女が成功すれば、パーティ内の戦力は大きく増強されるだろう。
 魔王の牙城は目の前だ。
 戦力増強は望ましい。

 そして、そうすれば。
 あの黒い結末から、脱出できるかもしれない。

「っ、」
 酒場の前に到着し、イオリは強く首を振った。

 違う。
 それは、違うのだ。
 人道的に、認めてはならない。

 もしかしたらこれは、自分が好き勝手動いた“バグ”かもしれないのだから。
 世界のあるべき姿から、大きく逸れたこの事態。

 創り手は、誰なのか分からない。

 だが、自分はそれを、看過するわけにはいかないのだ。

「! イオリン!!」
「っ、どうだった!?」
 待つこと数分、ティアが酒場の扉を壊さんばかりの勢いで飛び出してきた。

 その手に持つのは、依頼書の写し。
 どうやら、アキラたちが受けた依頼がつづられているものらしい。

「アルティア、離れてくれ!!」

 イオリは叫ぶと、指で輪を作った。

 町中だが、事態が事態だ。
 問題になっても、勇者様の名を使えば問題ない。

 イオリは大きく息を吸い、

「ラッキー!!」

 指笛を、吹いた。

―――**―――

 男は、カルドと名乗った。
 依頼書にもあった依頼人、移動民族カトールを束ねる族長だ。

 大柄で、筋肉質なカルドは、しかしその身を縮こまらせ、テントの中の椅子に慎ましく座っている。
 大木をそのまま切断したようなテーブルに、その子供のような同じ形の椅子。

 その対面に座っているアキラは、同じように委縮しながら、カルドに視線を向けていた。
 とても、周りは見ていられない。

「……、実は、」
「はい、」

 アキラの隣に座るサクが、カルドに言葉を返す。
 その反対にマリスが座り、相変わらず無音のままなのだが、このテントの中の人々の方が余程音を立てていなかった。

 キャンプ場のようなこの場の、最も広いテント。
 その中は、アキラたち含め、総勢二十名近くの人口を誇っていた。

 椅子に座っているのはアキラたちとカルドのみ。
 他の者たちは、その机を囲むように地面に座り込み、疑心暗鬼に満ちた瞳をアキラたちに向けてくる。

 人によっては怯え、人によっては威嚇するような瞳を向けてくるこの場は、異常なまでに居心地が悪い。
 アキラは決して視線を合わせないように、唯一言葉を交わせるカルドにのみ視線を向けていた。

「恐いんです」
「……え?」
 カルドから漏れた言葉に、アキラは眉を寄せた。

 恐い。
 見れば分かる。
 こんな大男が、震え上がっているのだから。

「わたくしどもカトールの民は、昔からこの樹海の探索をしているのですが……、ここ数日、どうも魔物が恐くなってきて……、」
「?」
「だ、だって……、魔物に殺されたら……、もう、お終いなんですよ?」
「……、」

 それで、よく探索などできるものだ。
 やはり奇妙なカルドの言葉に、アキラは、とりあえずはと先を促す。

「死んだら終わり……。そうしたら、探索も、何もできなくなります……」
「……えっと、それで、今までどうやって探索を?」
「そ、それは、その、何となく……、」
「……?」
「今考えても、自分たちの行動が分かりません……。何故魔物が出現するような場所で生活していたのか……、」
「……、」

 未だに話が分からない。
 アキラは頭を抱えた。
 この男は一体何を言っているのだろう。
 元も子もないようなことを、こうも当たり前のように語っている。
 しかも、恐る恐る周囲の人々に視線を走らせても、カルドの言葉に同意しているようだった。

「それなら……、樹海から出て生活すれば……、」
「そ、それは、できません。カトールの民は、昔から、この樹海の探索を、」

 今度こそ、アキラは額に手を当て、その肘を机についた。
 支離滅裂だ。

 恐いから、樹海の探索ができない。
 しかし、樹海からは出ない。

 その二律背反を訴えかけられたところで、アキラたちにはどうしようもない。

「それで、俺たちは一体何をすれば……?」
「あ、ああ、そうでした、」

 カルドはおどおどと立ち上がり、奥の机に乱雑に積まれた紙を、一枚取り出してきた。
 どうやら、この辺りの地図のようだ。

「そもそも……、わたくしどもが恐いと思うようになったのは……、夜に妙な“遠吠え”が聞こえてきてからなんです」
「遠吠え?」
「ええ、この……、」

 アキラは、カルドが机の上に広げた地図を覗きこんだ。

 使い古したボロボロとの地図。
 この大樹海の一角を現わしているらしいそれには、要所に細かな書き込みがあり、現在地や川の位置、さらには食糧になりうる食物がある場所が明記されていた。
 季節によって移動すべき位置や、その特徴。
 何年も前からここにいる者にしか作り上げることができないような地図だ。

 今アキラたちがいるのはその地図の西部のようで、町に向かうルートも書き記してある。
 アキラたちが通ってきた大樹海のパイプラインも、正確そうだ。
 そして、更にその西部、ベックベルン山脈と思わる場所には、新たに書き込まれたらしい赤い字の×マークがあった。

「四日……、いや、五日前ですかね……。この場所の方から、魔物の雄叫びが聞こえるのです……。獣のような……、ああ、それはそれは、」

 思い出すだけでも震えるようで、カルドや周りの民も身をすくめた。
 何故か声だけで、本当に恐怖が刻み込まれているようだ。

「でも、魔物の遠吠えって結構あるじゃないっすか」
 カルドの心が開きかけてきた頃、マリスが口を挟んだ。

 だがアキラも、同じことを思っていた。

 魔物の遠吠え。
 それを、この世界で初めて野宿を経験した夜にも聞いたことがある。
 あのときはただ体を震わせ襲ってこないように祈ったものだが、今では自然の音として捉えられるようになっているのだ。
 それなのに、アキラよりもずっとこの世界の野宿に精通しているこの人々がそれに震えるのは不自然に思える。

「そんなに変な遠吠えなんすか?」
「いや、それは……、でも、恐いんです」
「?」
 自分が覚えている恐怖の温床も分かっていないのか、カルドは執拗に、恐いとばかり口にする。

「えっと、ちなみにここには何かがあるんですか?」
 タイローン大樹海の探索を行う、カトールの民。
 しかしその者たちが、警戒しているのは、タイローン大樹海の魔物ではなくベックベルン山脈のそれなのだ。

「……え、」
「? 行く予定とか……、」
「い、いや、特には……、」
「……?」

 ますます分からない。
 何故そんな離れた場所に警戒するのか。
 近いといえば近い。
 だが、直接的には関係ないはずだ。
 対岸の火事に、ここまで震えるカトールの民。

 もう、会話が成立していないとしか思えなかった。

「でもとにかく、そこに様子を見に行ってもらわないと……、わたくしどもは……、外に出られないのです」
「はあ、」
「若い衆は、今は町に物を売りに行ってもらってますが……、戻ってきても、ここで足止めです」
「カルドさん!!」

 周囲から初めて声が漏れた。
 カルドをたしなめるような言葉。
 大方、今この場所は戦力が乏しいということをアキラたちに伝えたくなかったのだろう。
 確かにこのテントの中にいる人々を見渡した限り、戦えそうな若い人はあまりいないようだ。

「だから、とにかく、依頼を頼まなければいけなくて、」
 カルドはとうとう、祈るような目つきに変わった。

「……、」
 そこでふと、アキラは震えた。

 アキラの疑念は拭えない。
 だが、自分はそんなことに疑念を持つような人間だったろうか。

 話としては、遺跡に調査に向かってもらいたい、ということだろう。
 そして、その恐怖の元凶の遠吠えをする魔物を倒せばいい。

 それだけのはずだ。

 RPGではよくあるような話。
 適当にテキストを読み飛ばして、疑念さえ持たず、ずんずん進んでいくべきなのだろう。
 今までだって、そうして進んできたではないか。

「……、」
 深く考え過ぎだ。
 アキラは目を閉じ、こめかみを軽く押さえた。
 世界の“バグ”に、神経質になり過ぎているのかもしれない。

 これは、単なる依頼のイベント。
 そう考えることが、世界のあるべき姿のはずだ。

 それに、自分は、“勇者様”なのだ。
 震える民に、希望を与える存在。

 だが、やはり気になる。
 この、不協和音は。

「……、」

 “どれ”だ。
 アキラは、そんなことを思った。

 物語にある単純な謎。
 この疑念は、それなのだろうか。

 それとも、“バグ”から生まれた異変。
 この疑念は、それなのかもしれない。

 どれが、何なのか。

 身体が震える。
 判断がつかない。

「アキラ様」

 そのとき、サクが小声でアキラを読んだ。
 視線を向けると、サクが視線を入口の方に向ける。

 話がある、ということなのだろう。

「……、マリス、ここ、頼めるか?」
「……了解っす」

 アキラはマリスの返事を聞き、立ち上がる。
 同じく立ち上がったサクの背を追い、人々からは最後まで、疑念に満ちた瞳を受けたままだった。

「……、どう思われましたか?」

 テントの外に出て、たき火の跡まで来ると、サクが振り返った。
 やはり相変わらず、人気は無い。
 誰もが気配を消し、テントの中からこちらを覗っていると思うと、森の朗らかな気分は消し飛んでしまった。

「どう、って?」
「いや、彼らの様子です」
「……、だよな、」

 当然、アキラの隣でも、サクは疑念を膨らませていたようだ。
 アキラは転がっていた木を拾い、適当に煤だらけのたき火を弄った。

「彼の話は……、あまりに、」
「ああ、わけ分からん」
 答えながらも、アキラは安堵した。

 対岸の火事を恐怖と語るカルド。
 それに同意していたような、周囲のカトールの民たち。
 人数差から、こちらの常識の方がおかしいと思ってしまうほどだった。

「私には……、同じだと感じました」
「……? 同じ? 何と?」
「覚えていませんか? あの、カリス副隊長を」

 忘れるわけがない。
 アキラは、目を細め、頷いた。

 カリス副隊長。
 それは、イオリが国の魔術師隊の隊長を務めていたときの部下だ。

 有能な隊長であるイオリに劣情を宿し、牙を向けてきた男。
 イオリの創った“バグ”の、最たる例だ。

「言っていることが……、その、支離滅裂というか、」
「そういえば、」

 確かに、種類こそ違えど、カルドの言葉は、変わり果てたカリスの様子と同様だった。

 大柄なカルドは震え上がる。
 実直なカリスは愚直な計画を立てる。

 自然に結論を出しているようで、それらは何かが間違っているのだ。

「……?」
「? 何か?」
 アキラは何故か、サクの顔を見ていた。
 慌てて視線を逸らし、再びたき火をかき混ぜる。

 気のせいだ。
 気にするな。

「ま、とりあえずは依頼をやってみれば分かるだろ? 罠っぽいけど……、」
「……、え、ええ」

 適当に口に出したつもりだったのだが、サクは目を細めた。

 罠。
 口にしてみれば、確かにそんな気もする。
 だが、カトールの民の様子に、嘘はなさそうだった。

「それに、マリスもいるし、な」
「はい」

 アキラの言葉に、サクは即座に肯定した。

 マリス。
 数千年に一人の天才と言われ、実力もそれに恥じない彼女がいれば、何が起ころうと、依頼の達成は約束されている。

 だが、この話題を出したとき、いつも僅かに視線を外すサクは、珍しく全面的に肯定してきた。

「私は……、彼女の底が未だ計れません」

 アキラの懸念に気づいたのか、サクは言葉を紡いだ。

「彼女と二人で組んだとき……、次元の違いを感じさせられました」
「……あ、そういえば、組んでたっけ」

 アキラは十日前の依頼を思い出す。
 自分とエリー、そしてイオリが別の依頼に向かい、エレナとティアに留守を任せたあの日。

 別の“勇者様”に逢った自分たちの話題ばかりで、結局、マリスとサクの班の詳細を聞いていなかった。

「討伐対象が洞窟の奥にいたせいで時間はかかりましたが……、そこで、」
「終わったっすよ」

 サクの言葉を、いつしかテントから出てきていたマリスが遮った。
 依頼の手続きを終えたのだろう。
 手には、先ほどの地図の写しを持っている。

 だがカトールの民は、見送りもなく、再びテントの中に引きこもっているようだった。

「ま、とりあえず行くか。あの山……、てか、直接行った方が良かったな」
「まあ、遠いと言えば遠いんすけど……、大した距離じゃないっすよ。それに、比較的危険な魔物もいないっすから」
「……?」

 とぼとぼと歩き出すマリスの背を追うアキラは、その言葉に違和感を覚えた。

「マリス、そこ、知ってるのか?」

 こくり。
 マリスは頷いて返してきた。

「自分とねーさんの生まれた村、その辺りにあるんす。山頂まで昇らなければ、安全っすよ」
「……、え、」
「? 言ってなかったすか?」

 言っていない。
 アキラは確信を持って、そう言えた。

―――**―――

 ペンタグラムを形作るように、中央に人一人が寝転べる距離を保って、コアロックを五ヶ所に設置。
 一ヶ所に、二つずつの計十個。
 “部屋”の四隅に設置した松明に照らされて、濁った白の中はメラメラと燃えているよう。
 そしてさらにそれを囲うように、欠片とも砂ともつかないカピレットで円を書く。
 こちらも濁った、しかし紅い鉱物。

「……、」
 丁度一周したところで、空になったズタ袋を、エリーは隅に放り投げた。

「これで、いいんですか?」
「ええ」
 エリーが確認を取ると、壁に背を預けていたエレナが頷いた。
 儀式の準備は、整った。

「随分おあつらえ向きの場所ね……、ここ」
「避難所なんです。もっとも、場所が場所なだけに緊急用なんですけどね」

 二人が今いるのは、カーバックルから歩くこと数時間。ベックベルン山脈の麓の洞窟だった。
 木々に日差しが遮られた、深く、どこかカビ臭い、そんな場所だ。
 洞窟に入って、進路を阻む曲がりくねった道を進み、到着するのがこの最奥の広間。
 避難所とはいえ、これほど奥にまで人が逃げ込むことはあまりない。

 天井も吹き抜けのように高く、幅もある程度あるのだが、天然物の岩石がむき出しになっているせいで圧迫感はある。
 前にエリーが入ったシーフゴブリンの巣が近いかもしれない。

 だが、この場所は、一つだけ魔物の巣と大きく異なっている点がある。
 激戦区の危険地域、ベックベルン山脈にあって、この場所は魔物の出現率が極端に低い。
 魔物が不用意に襲ってこない性質を持つ鉱物がこの辺りにはあり、その上特殊な術式が組み込まれ、確かにここは避難所だった。

 人が生活できる普通の町と同程度のセキュリティ。
 明らかな敵意を持って現れなければ、野生の魔物たちは生理的にこの場所に近づこうとしない。

「……あんた、前にもここ、来たことあるの?」
「多分、ないです。村からほとんど外に出ませんでしたから」
 エリーの忘却の彼方にある生まれた村。
 それは確かに、この近くだ。
 ただ、この場所は話しでだけ聞いたもので、物心つく前はどうか知らないが、実際に来たのは初めてだ。

 あれから十年以上経っているとはいえ、この避難所は変わっていないらしい。
 これで、問題なく儀式は行える。

 行えてしまう。

「じゃ、始めましょうか」
「……はい」

 目を瞑ってエリーが作り上げた魔法陣に近づいたエレナは、落ち度がないか再確認していた。
 だが、完璧のはずだ。
 簡単な術式の編み方は、魔術師試験の科目の一つでもあるのだから。

「……。じゃあ、説明するわ」

 エレナはあまりに無表情な顔を、エリーに向けてきた。

「あんたは今からこの真ん中に座り込んで、“ひたすら耐えなさい”」
「え、」

 エレナの説明はあまりにシンプルだった。
 彼女が指差すのは、ペンタグラムの中央。
 そこに座り、ただ待てばいいと言う。

「他のことは私がやるわ」
「わ、分かりました」
 エリーは自分で描いたカピレットを踏まないように跨ごうとする。
 しかし、エレナが腕でそれを阻んだ。

「服」
「え?」
「服、脱ぎなさい」
「……えっ!?」
 聞き間違いではない。
 からかわれているわけでもない。
 エレナは相変わらずの無表情で、エリーの服装を見ていた。

「こ、こんな所で、」
「それ、」
「?」
「あんたのそのプロテクター。そんなもん着てたら身体中ズタズタになるわよ。それに、その服も。首なんか絞まったら、洒落にならないわ」

 あまりに事務的なエレナの言葉に、気恥しさも忘れ、エリーは呆然とした。

 戦闘用、というだけはあり、エリーの服装は機能的だ。
 上下に連なったアンダーウェアに、半袖の上着にハーフパンツのようなズボン。
 例え敵にもみくちゃに襲われても、エリーの身体を守れるものだ。

 しかし、エレナの目から見れば、それは暴れ回る自己の身体を傷つける要因にしかならないらしい。

「……、」
「早く」
「……はい」
 エリーはおずおずと、部屋の隅に歩き服を脱ぎ出す。
 手甲とプロテクターを外し、上着を脱ぎ、ズボンに手をかける。
 靴も危険だ。
 この靴は、蹴りを放つときのために鉄板が仕込んである。
 アンダーウェアは脱いだが、流石に下着は外せなかった。

「……、」
 日に焼けた健康色の四肢を露出させ、じゃりじゃりとした足場を裸足で歩く。
 淡い桃色の上下の下着を、何となく手で隠しながらエレナに近づくと、彼女は中央の場の小石を横に払っていた。

「……、」
 エレナは身体を起こし、エリーの身体をしげしげと眺める。
 自分の身体に自信がないわけではなかったが、エレナのスタイルを見ていると、エリーはやはり気後れしてしまった。

「……あの、」
「……、」
 エレナは相変わらずの無表情を、エリーに向け続ける。
 もじもじと身体を動かし、抗議の意を伝えるも、エレナはそのままだった。

「エレナさん?」
「……その髪も、切った方がいいかもね」
「……、あ、」
 エリーは言われて気づいた。
 背中まで伸びた、綺麗な赤毛。
 今はゴムで一本にまとめている。
 乱暴な戦闘をしていても、手入れは欠かしたことがない。

 だがその髪も、エレナにとっては危険なものに見えるらしかった。

「……こっち、来なさい。肩くらいまでで、大丈夫でしょ」

 エレナに言われるがまま、エリーは彼女について行った。
 到着するなり彼女が投げ出した一抱えほどのバッグ。
 彼女が手荷物を持ち歩くのは珍しいと思っていたのだが、その中には儀式に付属的に必要な用具が詰め込まれているらしい。

「……、」
 エレナはハサミと霧吹き、そして櫛を取り出し、エリーの背後に回る。
 シュッシュ、と簡単にエリーの髪をならして、櫛ですく。

 決して、痛まないように。
 霧吹きの液体も、ただの水ではない。
 女性の髪を切るという行為、それ相応の、特殊な液体だ。

 その手慣れた、しかし無機質な動きを背中で感じ、エリーはどこか背筋が寒くなった。
 無防備な下着姿でダンジョンにいるというこの事態さえ、取るに足らない恐怖。

「……今なら、よ?」
「……分かってます。でも、やって下さい」
「そう」

 赤毛をならし終え、エレナはハサミを取り出した。

 ジョキ。
 無機質な音が響いた。
 ふっと頭が軽くなる。

 そこでようやく、エリーは戻ることができないと感じた。
 今までだって覚悟が無かったわけじゃない。
 だが、今まで自分の外で行われていた儀式の準備。
 それがとうとう自分の容姿にまで浸食し、エリーは儀式の一部になってしまった。

「……、そんなに、苦しいんですか……?」
 エレナが器用に毛先を揃えている中、エリーは沈黙に耐えきれずに声を出した。
 服を脱げという指示。
 髪すらも、首が絞まると今切ってもらっている。

 それほど自分は、暴れることになるのだろうか。

「……、言っても、無駄よ。あんたが経験したことない、……想像もしたこともないことが、今から起こるわ」
「……、」
 流石に、身を固くした。
 衣服を脱いでいる現状も重なり、どうしようもなく恐くなる。

 足元をふと見ると、自分の赤毛が散乱していた。
 随分、伸ばしたものだ。

「……、ねえ、」
「はい」
「あんた、なんで髪伸ばしてたの?」
 気を紛らわせてくれているのだろうか。
 エレナは淀みない手つきで散髪を続けながら呟いた。

「……、願掛け……、みたいな感じです」
「願掛け?」
「ええ……、マリーと一緒に、伸ばそう、って」
「……、」

 一体、何の願掛けだったのか。
 どちらが言い出したのかも思い出せない。
 ただ、ずっと、一緒にいようという想いは、あったのだろう。
 たった一人の肉親だ。
 瓜二つの容姿もさることながら、マリスはほとんど、自分と一心同体と考えていた。
 毛先を揃えるときも、同じ。
 それだけに、妹をあるいは自分以上に守りたい。
 しかし、それは、逆、だ。

「髪みたいに……、簡単に伸ばせたら良かったんですけどね……」
「……そうね」
 エレナは淡白に、一言で返した。

 散髪は進んでいく。
 それは、完全に、マリスと乖離している。
 だがそうしなければ、彼女に近づけないのだ。

 足の裏で感じる、岩や砂のひんやりとした感触。
 パラパラと落ち続ける赤毛。
 そして今から始まる、命をかけた秘術。

 どうしてこうなったのか。
 エリーには思い出せなかった。

 エレナにこの秘術の存在を聞いたのは、もう、半月ほど前になる。
 魅力的な提案だった。それは認めざるを得ない。
 だけどそれ以上に、自分はそれを恐れていなかっただろうか。

 だが時間が経つにつれ、恐怖は薄れ、その甘美な吐息が耳元で囁く。

 これは、ルール違反だ。
 自分は、そう思う人間ではなかっただろうか。

 命をかけて力を手に入れたエレナを非難するつもりはなかったが、自分はもっと、安定志向の持ち主だった気がする。

 将来、魔術師隊に入り、誰かに恋をして、共に孤児院を経営するのがエリーの夢だ。
 よく読む漫画のような燃え上がる恋をしてみたかった。
 だがそれと同時、歳と共に広がってきた世界に、それを諦めた自分もいた。

 自分は、きっと、“普通”を求めていたのだ。

 だがそのはずなのに、自分はこのままではいけないと思ってしまった。
 いかに自分の力が上がっても、それでは足りないと頭で何かが囁き続ける。

 魔王討伐の旅だ。
 確かに力はあるに越したことはない。

 だが、魔王に憎悪を燃やす人々には悪いが、自分にとって、それは通過点のはずだった。
 魔王を討ち、婚約を破棄し、そして普通に戻る。
 それが、理想。

 目的と手段が入れ換わったのはいつからだったろうか。
 エレナに秘術の存在を聞き、それからの半月で入れ替わったのだとは思う。

 そして。
 魔王討伐をしなくてもいいなどと思ったのは、いつからだったろうか。

 だが、それは、きっと。
 もっと、ずっと、前からかもしれない。

「……、終わったわ。やっつけだけど、まあまあ、かな」
 エレナがエリーの肩の毛を払いながら、ハサミを仕舞い込んだ。
 軽くなって、心細くなった頭。
 肩よりさらに短い、おかっぱの髪型。

 自分からは見えないが、エレナの表情からするに、似合っていると信じたい。

「さ、真ん中に行って」
「はい」
 エリーは足元に散らばる赤毛を、まるで他人事のように見下ろし、歩き出した。
 目指すは、自分の作った魔法陣だ。

「……、」
 エレナは、自分に、勧めも止めもしない。
 再三の注意も、きっと、これから起こる苦痛を知っているがゆえの、ただの情報だろう。

 だが、それでいいとエリーは思う。
 今の自分は、あまりに不安定だ。
 どちらかでも言われたら、きっと、奈落へ崩れ落ちてしまう。

 そんな状況分析もできるのに、この足は、止まらない。

「じゃあ、二つ。始める前に言わなきゃいけないことがあるわ」
 エリーが魔法陣の中心に立つと、エレナは無表情なまま指を二本突き出した。
 彼女が立つのはカピレットの円の外。
 エリーと距離を持ち、ただ情報を与えてくる。

「これから、私はここから“スイッチ”を入れる。ただ、魔力を流し込むだけだけど」

 その魔力は、カピレットの力で火曜属性の魔力に変換され、五芒星のコアロックに溜まる。
 各箇所に二つあるのは、予備。
 予算の関係で上等な物は手に入らなかったが、それでも影響はないらしい。

 そんな説明を、自分は受けたのだと思う。
 エリーはただぼんやりと、エレナの二本の指を見ていた。

「一つ目の注意は、そこから絶対に出ないこと。どれだけもがき苦しんでも、そこにいることだけは放棄しないで」
「……はい」
「それから二つ目」

 エレナはペンタグラムの形で並ぶコアロックをざっと見てから、再びエリーに視線を向けた。

「始まると、コアロックが一ヶ所ずつ砕けていくわ。計五回。そのたびに襲う苦痛は、どんどん強くなる。強く光ったら合図だから、それに耐えなさい」

 エレナは腕をまくるとマウスピースを取り出した。

「気休めかもしれないけど……、舌、噛まないように、ね。それと、立ったままは絶対に無理。……呑み込まないようにしなさいよ」

 エリーはエレナがほうったマウスピースを受け取り、言われるがまま座り込んだ。
 マウスピースと、座った地面からひんやりとした感触が伝わってくる。

 エリーは必要以上に歯を噛み合わせ、身体をすぼめるように膝を合わせて腕を回す。
 そしてエレナは、体育座りになったエリーに視線を合わせ、両手をカピレットの円に置いた。

「……エレナさんは、誰に協力してもらったんですか……?」
 マウスピースの口のまま、エリーは不意に訪ねた。

「私は……、一人。魔力を宿す宝石を使えば、流し手は補えるのよ」
「……、」

 自分は多分、幸運なのだろう。
 薄暗く、松明だけが照らす洞窟。
 そんな中で、一人でこの儀式を淡々と進めることなどエリーには想像もつかなかった。

「それと、五つ全部に耐えなきゃ意味ないわ。徐々に強くなるんじゃなくて、最後に一気に、よ」
「……分かりました」

 エリーはぐっと、身体を硬直させる。
 今の自分は、きっと、死刑の執行を待つ囚人のような顔をしているだろう。

「エレナさん……、」
「……なに?」

 エリーは僅かに間を置いて、目付きを鋭くした。

「……お願いします」
「ええ」

 エレナは目を閉じ、深く息を吸った。

「もともとは、対象を滅するための術式」
 エレナから漏れた魔力が、カピレットに伝わる。
 そして洞窟内は、円形に輝くスカーレットで埋め尽くされた。

「でも、まれに……、本当にごくまれに、異常事態が発生する」

 コアロックも、僅かに輝き始めた。
 しかしそれは、濁った白から出ると思えない、鮮やかな紅。

「そのせいで伝説級の魔物が生まれて……、闇に葬られた秘術」

 エリーは目を、きつく閉じる。
 自分が今から挑むのは、その異常事態だ。

「いくわよ……、」
「はい」

 エリーは何度も、頭の中で反芻する。
 何が起きても、自分は、ここから出ない。

「―――、」

 エレナが何かを呟いた。
 何の言葉かも分からない、秘術の名。

 それと同時、最初のコアロックが、強く輝き始めた。

―――**―――

「……、これしかない。これでいいはず。これをしなければならない」

 気悦にまみれた声が、小さく響いた。
 まるで、誰かに囁きかけているように。

 暗闇の洞窟内。
 入り口が違う隣の洞窟では、現在儀式が行われている。
 壁一枚の向こう。彼女が温めた想いは、強い。

 完璧だ。
 あまりに。

「あと、もう少し……」

 それはきっと、女性の声なのだろう。

 ベックベルン山脈の、暗闇の洞窟。
 そこに浮かぶ、唯一の光源は囁き続ける。

 霧とも粒子ともつかない、そのぼやけた塊。
 だがそれは、確かに笑っていた。
 静かに、小さく、そして妖艶に。

 全てが自分の思い通りに進み、その罠が、今、閉じる。
 この上ない快感。
 この上ない全能感。

 しばし酔いしれ、そして、なおも笑う。
 間もなく日は落ち、月が登る。

 きっとそれは、不気味なほど巨大な満月だろう。



[12144] 第十三話『儚い景色(中編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:22
―――**―――

「……、遠くね?」

 ついに、アキラは呟いてしまった。
 購入したばかりの剣はガチャガチャと背で鳴り、じっとりとした空気のせいで汗を吸ったシャツが肌にべたつく。
 ヨーテンガースの温暖な気候に助けられているが、それでも日の沈みかけた森林の風は背筋を冷やした。

 タイローン大樹海を通り、依頼を果たすべくベックベルン山脈に向かう途中。
 徐々に紅くなっていく空の下で、魔物に襲われたのは一体何度目だろう。

 魔王の牙城の傍、ぐんっとレベルの上がった魔物たちとの戦闘は確かに楽なものではないが、抜群の安定感を誇る戦力が存在する以上、そこまでの危機には瀕し得ない。

 しかし、それでも片道でここまで時間がかかっては、以前受けた泊まりがけの依頼を彷彿とさせる。

 森の先に見える険しい山々には、未だ到着できない。

「距離はそんなでもないんすけどね」
 隣をとぼとぼ歩くマリスが呟いた。
 半分の眼を携えた彼女は、いつもの通り無表情に近い余裕顔。

 彼女にしてみれば“ヨーテンガースの洗礼”とやらも、どうということは無いらしい。

「まあ、麓に休憩できる場所があるっすよ。そこまで行けば、“遠吠え”が聞こえるんじゃないっすか?」

 アキラたちが、この樹海の探索をするカトールの民から受けた依頼。
 それは、ベックベルン山脈の方から聞こえてくる遠吠えを、つまりはその魔物を倒してくれ、というものだった。
 夜になれば聞こえてくるそうだが、やはり、どうも、胡散臭い。

「これでますます妙ですね」
 マリスの反対側、アキラから一歩下がって歩くサクが呟いた。
 今の空の色に近い紅の着物を羽織り、腰からは長刀を提げている。

 彼女もまた、挙動不審だったカトールの民に疑念を抱いていた。

「これほど離れているなら……、彼らが震える理由がありません」
「だよなぁ……、」

 そうは思っても、今さら戻る気にもなれない。
 ベックベルン山脈に向かう足は止まらず、大樹海を安全に横断するパイプラインも、今しがた横切ってきたところだ。
 依頼の現場は、目前に迫っている。

 汗のせいで僅かに冷えた身体に、アキラは上着に首をうずめ、重くなってきた足を強引に前に進めた。

 いくら怪しかろうと、どの道、依頼は受けてしまったのだ。

「まあ、どちらにせよ、行ってみなければ―――、……!?」
「―――!?」

 サクが小さく呟いたと同時、紅い空から、巨大な影が降りてきた。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

 パキン。
 薄暗い洞窟内で、小さな音が響いた。
 ペンタグラムを形作った小さなコアロックの一つ目が砕ける音。

 しかしそれを、エリーはまともに聞けなかった。

「っ、がっ、うっ、あっ、」

 声にならない呻きを、マウスピースをしっかり噛みしめたエリーから漏れる。
 先ほど切ったばかりの短い赤毛の頭を小刻みに揺すり、目をきつく閉じた。

「ぎっ、あ、やっ、」
 儀式が始まったと同時、腹部を中心に襲い始めた激痛が、一つ目のコアロックが砕けた瞬間、身体中で爆発した。

 身体中の骨が砕け、目玉は抉り出され、筋肉という筋肉がズタズタに切り裂かれ、今なおその力は強くなる。
 そんな感覚は、まさに、悪夢だった。

 自分がどう動こうとも、それは付きまとい、顔はカッと紅くなる。
 身体的な痛みだけではない。
 まるで高熱に浮かされるように身体が溶け、首が何かに締め付けられる。

 そして深海に沈むように身体中を押し潰され、呼吸さえままならない。

「ぎゅっ、ぎ、ああっ、ぎゅっ、」
 喉から、奇妙な音が漏れる。

 自分が今、どのような格好をしているのか分からない。
 仰向けに倒れ暴れ回っているのか、それともうつ伏せで蠢いているのか。

 唯一身に纏っている下着の締め付けすら、苦痛に感じる。

「づっ、づぅっ、ああっ、」

 身体の痛みなら、何度も経験してきた。
 例えば、リビリスアークを襲ったアシッドナーガ。
 例えば、クロンクランを襲ったオーガース。
 例えば、シーフゴブリンの巣で出遭った魔族、リイザス。

 それらの常軌を逸した攻撃を、自分はこの身に受けたのだ。

 だが、今に比すれば、それらは児戯にも等しいもの。

 例え、今までの苦痛総てを掛け合わせても、今の苦痛には遠く及ばない。

「……く、……く、」
 ようやく、爆発が収まった。

 収まったとはいえ未だ激痛が残る中、恐る恐る開けた片目。
 その視界は、色褪せた世界のみを捉えた。
 感覚が全て鈍り、しかし痛覚のみが身体に残る。

 気づけばエリーは、自分の顔を地面に押しつけ両手は胸と地面の間で身体を抱いていた。
 腰は上げたまま、うつ伏せのまま膝を立て膝立ちの状態から身体を前に倒した姿。

 顔と地面を濡らしているのは自分の涙なのか涎なのかさえ判断が付かない。

「中央に戻りなさい。その調子じゃ、外に出るわ」

 遠く聞こえる声が、エリーに囁いてきた。

 それが誰のものかすら、エリーには分からない。
 だが、どうやら自分は、暴れ回って中央から離れているようだ。

 辛うじて視線を上げてみると、確かに目の前にペンタグラムを囲うカピレットの輪が見える。
 完全に、中央に背を向けていた。

「じ……、じぬ……、」
「……、戻りなさい」

 エリーの呟きに返ってきたのは、またも誰かの無情な言葉。

 戻れ、とは。
 正気の沙汰ではない。

 今起こったことはなにか。
 何故か意識だけは覚醒され、気絶さえ許されないままこの苦痛を強いられる。

 このままでは発狂し、そののち命を落とすことになるだろう。
 口の中から涎と共に吐き出しそうになったマウスピースを噛みしめ、エリーは仰向けに倒れ込んだ。

 見えたのは、白黒の世界の天井。
 ゴツゴツとした岩肌の天井は、あまりに静かにエリーを見下ろしてきていた。

「ああ……、ああ……、ああ……、」
 口を広げたまま、浮かされるようにうめき声を上げ続ける。

 そこでようやく、エリーは思い出した。

 自分は今、儀式を受けているのだ。
 成功すれば魔力が大幅に上がり、失敗すれば命を落とす。

 そんな、秘術を。

「……戻りなさい。やるからには最後まで、よ」
「エ……、レナ……、さ……、」

 先ほどから自分に囁きかけてきた人物も同時に思い起こし、しかしエリーは動けなかった。
 身体中が儀式を続けることを拒絶し、精神も軋みを上げる。

 これは、人間が受けていいものではない。

 あの、コアロックが砕けたと同時に襲ってきたものは、“自分”を壊してしまう。
 肉体的にも、精神的にも、総てが砕かれてしまう。

 しかも、あの苦痛は、所詮“一つ目”だ。
 エレナは、儀式が進めばそれが増加すると言う。

 それを総て受けたら、自分は。

「っ、」

 エレナの言葉は正しかった。
 これは、魔力の“器”を広げる秘術などではない。
 ただ対象を滅するためだけの、術式だ。

 この苦痛から逃れるためならば、自分はどんなものでも差し出せる。
 ここで一言、エレナが『止める?』とでも聞けば、力の限りをもって首を縦に振るだろう。

「……、……?」

 しかし、エリーは外にも動けなかった。
 目の前のカピレットの輪が、逃走を阻むように煌々と輝いている。
 そしてその輪が、エリーに囁いているようにも感じるのだ。

 『逃げてはならない』と。

 それは、何度もエリーに囁きかけてきた。
 そして、エレナに秘術の存在を聞いてからも、ずっと心で響いていた言葉。

 旅を続けるためには、それしかない。
 いつしかそう思うようになった自分は、どれだけ注意されても、これを選んだのではないか。

「っ、」
 転がるようにうつ伏せになり、芋虫のように身体を捩って中央に向かう。
 全身全霊で戻ることを拒否しているはずなのに、身体は何故か、動くのだ。

 それが、一時的にも苦痛が収まったことによる余裕なのかは定かではないが、自分の心はその場に行くことを強要している。

 身体を汗と土で汚しながら、それでも進む。
 浮かされた頭は、恐怖も麻痺させているのだろうか。

「づ……、う……、」

 魔法陣の中央に到着し、エリーは指に力を込め、うつ伏せのまま地面に爪を立てる。
 生半可な覚悟では、今すぐにでも立ち上がり、外に飛び出てしまうだろう。
 必死に、耐えなければ。

「……、」
 エリーのその様子を見て、エレナは目を伏せた。
 甘栗色の髪を鬱陶しそうに振り、両手はカピレットに置いて魔力を注いだまま。
 そして見目麗しい顔は、きつく閉じた瞳のせいで歪んでいた。

 自分も、こうだったのだろうか。

 エレナも以前、一人でこの秘術に挑んだことがある。
 結果は、成功。
 だが、それでも、あのときの苦痛は未だに思い起こせる。

 見取った者のいない中での儀式。
 その中で、自分はどれほど叫び声を上げただろう。

 あのときも丁度、こんな洞窟の中であった気がする。

「……、」
 今、エリーは目を閉じ、暴れ回ってずれた下着を直そうともせず、ただ必死に次に備えている。
 年相応の身体に襲うのは、常軌を逸した苦痛。

 その姿が自分と重なり、しかしエレナは再び無表情を作った。

 ここで、情にあかせた声をかければ、きっとそれにすがりつく。
 自分がそうだった。

 止めて欲しいと、何度も思った。
 止まれない自分を魔法陣から引きずり出し、慰めの言葉一つでもかけてくれれば、それできっと泣いて喜べただろう。

 だが、一人だけの儀式には、そんな存在はいなかった。
 妥協だけは避けたいと思った末の、成功。

 “器”は広がり、自分は力を得た。

 だが、もしかしたら。

 あのときすでに、自分の心は、壊れていたのかもしれない。

「……!」

 最初に砕けたコアロックの右、時計回りに、次の石が強く光り始めた。
 目を瞑るエリーはそれに気づきようもない。

 だがエリーは、感覚的に分かるそれに、身体を更に強張らせていた。

 聞こえないだろうが、エレナは呟く。

「……二つ目。来るわよ」

―――**―――

「……、」
 言葉を失うとは、まさにこのことだった。

 シルバーに輝くイオリの召喚獣、ラッキーの背に乗る五人は、ぐんぐんと近づくベックベルン山脈を睨む。

「……、」
 タイローン大樹海を進んでいたアキラたち三人に飛来したのは、ラッキーに乗ったイオリのティアだった。

 そして、大雑把に聞かされた事実に、アキラたちは“そこ”を目指す。

「っ、マリス!! 本当にあそこなんだよな!?」
「……、」

 全力でラッキー加速に魔力を注ぐマリスは、頷くだけで返してきた。
 何度も何度も叫んだ、その言葉。

 マリスとて確証はないらしいが、そこ以外に思いつかないらしい。

 アキラたちが向かっているのは、ベックベルン山脈の休憩所。
 奇しくもアキラたちの依頼の目的地だったのだが、依頼など頭の外に放り出された。

「っ、」

 エリーが、死ぬ。

 現在、マリスと同じくラッキーに力を送ることに全力を傾けているイオリから聞いた話で、アキラに残っているのは結局のところその言葉だけだった。

 何を馬鹿なことを、と思う暇さえない。
 口早に説明したイオリはあまりに必死で、そしてその言葉はどうあっても看過できなかった。

 “器”を広げる秘術。
 そんなものは、どうでもいい。

 問題は、エリーの命なのだ。

「……、エレナ……、」
 そのエリーに付き添う女性の名を、アキラは苦々しげに呟いた。

 初めてだ。
 彼女に、心の中でここまで冷えた感情を向けたのは。

 何故、止めないのか。
 それどころか、何故そんな下らないことに協力するのか。

 共に旅した仲間だというのに、誰にも言わず、それを行おうとしているのだ。

 エレナは確かに、さばさばしている。
 自分にかけてくる甘い吐息も、アキラはいい加減、からかっているだけだとも分かっている。
 だが、それでも彼女を信用していた。

 本当に、信じられない。

「アッキー、その、」
「っ、何でお前も止めなかったんだよ!?」

 隣から聞こえたティアの声に、アキラは割れんばかりの怒鳴り声を返した。
 ラッキーに強く掴まるティアは、アキラの怒声に身をすくめ、口を閉ざす。

 ティアもティアだ。
 彼女はエリーとエレナの会話を聞いたと言う。
 何故そこで強引にでも割り込み、二人を止めなかったのか。

 ぐんぐんと進む中、紅い空には、徐々に夜の闇が迫ってくる。
 それに比喩するわけではないが、この面々が、アキラはどうしても黒く見えてきた。

「すみません……、私、どうしたらいいのか分からなくて……、」
「っ、」

 普段の元気が削り取られたティアの声に、アキラはラッキーを掴む手を強くした。
 八つ当たりしている場合ではない。
 ティアだって、頭が事態に追いつかなかっただけだろう。

 だがそれでも、どうしても、怒りが先に頭を満たす。

 そして、自分自身にも、その矛先は向かう。

「……、」

 何故、気づかなかったのだろう。

 エリーの様子を思い出す。

 朝、アキラはエリーと話したのだ。
 そしてそのとき確かに、違和感を覚えた。

 怒っていないのに、静かなエリー。
 そんなときの彼女は、いつも、何かを想っているようだったではないか。

『あたしとの婚約、覚えてるわよね?』

 覚えている。
 自分はそう答えた。

『“それが無くなったとしたら”……、あんたは魔王を倒そうと思う……?』

 思う。
 自分はそう答えた。

 だが何故エリーがそんなことを口走ったのか、あのときの自分は怪訝に思うこそすれ、何も言えなかった。

 今考えれば、あの言葉は、死期を悟っているようなものだったではないか。
 それに自分は、気づけなかった。

「イオリ!! もっと急げないのかよ!?」
「っ、五人も乗ってるんだ、待ってくれ!!」

 自分は何をしているのだろう。
 怒鳴り散らしているだけだ。

 だがそうでもしていないと、最低限の冷静さすら保てなくなりそうだった。

 高速で動く、眼下の大樹海。
 その急激な動きにも、アキラは世界の総てが遅いと感じる。

 移動にはあまり長けていない、土曜属性の召喚獣、ラッキー。
 土色の岩肌のその巨獣すら、何故もっと早く飛べないのかと、憤りを覚える。

「……! ラッキー!!」

 イオリの声で、ラッキーが急降下を始めた。
 向かう先は、到着したベックベルン山脈の麓。

 月輪属性のフリオールで囲われたアキラたちは、浮遊感を覚えないが、それゆえに、総てが遅く感じられる。

「っ、」
 地面に近づいた瞬間、アキラはラッキーから飛び降りた。
 マリスが瞬時に気づいてアキラの身体に魔力を飛ばさなければ、足の骨でも折れていたかもしれない。

 だが、アキラは振り向きもせず、山脈に駆け寄る。
 一刻も早く、エリーを止めなければ。

「……!?」
 大樹海が終わり、険しい姿を現したベックベルン山脈。
 そこに、以前の魔物騒ぎも忘れ接近したアキラは、その足を止めた。

 絶壁とも言えるその岩肌には、巨獣、ラッキーが入り込めるほどの大穴が、遠く離れて二つ開いている。

「マリス!! どっちだ!?」
「分からないっす!! でも、ここが避難所っすよ!!」
 遅れて駆け寄ったマリスも、叫びながら洞窟の入り口を見渡す。

「中は繋がってんのか!?」
「いや……、確か、」
「マリス!!」
「っ、少し待って欲しいっす!!」

 マリスはアキラに叫び返し、かつての記憶を呼び起こした。
 アキラが焦るのも分かるが、マリスとてエリーの妹だ。
 だがこの緊急時、取り乱している場合ではない。

「……、繋がってないっす!!」
 思い出した。
 確か、発掘の影響で、基盤が緩み、触れなくなったのだ。
 結果、残った二つを避難所として加工し、使用しているのがこの場所。
 両方とも、奥が深い。

 マリスは隣で息を弾ませているアキラを見上げた。
 後ろからは、残る三人が駆け寄ってくる。

「だから、」
「っ、」
 アキラは迷わず、右の穴に駆け出した。
 洞窟の暗闇にアキラは光源も持たずに飛び込んでいく。

「っ、自分はにーさんと!! 皆はあっちに!!」
 マリスも口早に叫んで、アキラを追った。

 エリーのことは当然として、今のアキラを放っておくわけにはいかない。
 あの取り乱しようは、あまりに危険だ。

 下手をすれば、この山ごと消し飛ばしかねない。

 とうとう沈みかけた太陽。
 そして空には、不気味なほど巨大な満月が浮かび始めた。

―――**―――

「来た……、来た……、来た……、」

 洞窟の奥、“粒子”は呟いた。

 ぼやぼやと人ほどの大きさで漂い、形も定めず、暗い洞窟での唯一の光源。
 そしてやはり、笑っていた。

 基盤が堅い場所を掘り進め、到着したのがこの二つの最奥の間だ。
 もしこの壁が崩れたら、この洞窟そのものも崩れるだろう。
 柱みたいなものだ。
 この壁は。

 その、壁を隔てた隣の洞窟からは、今なお叫び声が聞こえてくる。
 分厚い岩盤は、それを隔てる。
 だが、確かに、聞こえるのだ。

 激痛だろう。
 苦痛だろう。
 この世全てを憎むほど、身体も心も蹂躙されているだろう。
 強くなりたいという想いだけで、それを耐えているのだろう。

 最高だ。
 本当に。

 笑い、囁く。

 これはやはり、たまらない。

―――**―――

「はあ……、はあ……、っ、」
 エレナは最後の魔力を注入し、ふらふらと立ち上がった。
 これだけ流し込めば、あとは勝手に儀式が進む。

 消費した魔力は、想像を絶した。
 身体がうまく動かない。
 人間が介入して行うのなら、本来数人がかりの儀式だ。
 自分が秘術のさいに使った宝石は、やはり、それだけ強力な物だったのだろう。

 身体は熱く、僅かに耳鳴りがする。
 立ちくらみのように歪んだ視界を、頭を振ることで覚まし、のろのろと入り口の横の壁に向かった。

「……、」
 背を預け、ずるずると座り込んだ視線の先。

 その魔法陣の中にいるエリーは、動いていなかった。

 生きては、いる。
 だが、身体中の精力を使い果たし、ピクリとも動かず、かすれたうめき声を漏らしているだけだった。
 先ほどまでの耳をつんざくような悲鳴すら、上げていられない。
 身体中を泥で汚し、這いつくばっているエリーは、プルプルと痙攣していた。

「……、」

 三つ。
 エレナは顔をしかめ、砕けたコアロックを眺めた。
 まだ、三つだ。

 三か所目のコアロックは、二つ同時に砕けた。
 ようやく予備を用意した意味が出てきたのだが、あるいはそこで中止になった方が良かったかもしれない。

 エリーはすでに、限界だ。

「っ、」
 それでも、エレナは冷めた表情を作り続けた。

 エリーが限界。
 それは、誰の目から見ても明らかだ。
 だが、本人のことは、本人しか分からない。

 自分のときも、きっと、ああだったのだろう。
 身体中から発汗し、喉はかすれ、憔悴しきる。

 だが、自分は耐えた。
 それを知っている自分が、中断することはできない。

 勧めもしない。
 止めもしない。

 ただただ、務めて無表情に、ここで見守る。

「……、」
 寒気がした。
 こうした自分に。
 そして、これを選んだエリーに。

 命をかけて、魔王を討つ。
 そしてそれは“神話”になり、誰もが羨望の眼差しを向ける。

 立派なことだろう。
 “他の者から見れば”。

 後世に伝わる数多の物語。
 当然のように美談で、当然のようにキラキラと輝いている。

 だが、自分たちのこの想いまでも、伝わるだろうか。
 少なくとも、今こうして苦を耐え続けるこの場は、キラキラと輝いていないようにエレナには見える。

 だが、後世が見れば、この想いが伝わり切らない者から見れば、それは輝いているのかもしれない。

 また、物語の大抵は、最後にこう綴られているのだ。

『その後、幸せに暮らしまたしたとさ』

 時には表現を変えて、時には描写だけで、物語はそう在る。
 それが、救い。

 だが、その物語にいる自分たちには、分からない。
 自分たちは、その後、どうやって幸せになっていくのだろう。

 そして、“その後”に到達できるのだろうか。

「……!」

 僅かな思考ののち、四つ目のコアロックが強く光を放ち始める。

「……、来るわよ……」

 とっくに聞こえてはいないだろう。
 だがエレナは、無表情のまま、その事態をエリーに告げる。

 残るコアロックは、あと、二つ。

―――**―――

「はっ、はっ、はっ、」

 洞窟に入り込んでも、アキラは止まらなかった。
 後方から追ってくるマリスに頼らず、無秩序なオレンジの光を身体から漏らし、それを光源にアキラは走る。
 曲がりくねった道を超え、分かれ道でも迷わず曲がった。
 幸運にも行き止まりにはぶつからず、アキラの進路を阻む壁は現れない。

 ゴツゴツとした足場につまずきそうになりながら、ただ、前へ。
 息を切らし、全力疾走を続ける脚は油断すれば空回りを始める。
 それでも地面を強く蹴り、前へ、前へ。

「―――!?」

 一瞬。
 シルバーの閃光が、眼前で爆ぜた。

 アキラは反射的に足を止め、のけ反るように横転する。

「にーさん!!」

 目では、終えた。
 しかし、反応はできなかった。

 何故、

「レイディー!!」

 アキラの頭が回る前に、またも後方からシルバーの光線が飛んできた。
 その一撃に、たった今アキラに前方から鎌を振り下ろした魔物が討ち抜かれる。
 マリスの攻撃計二発を浴び、その魔物は銀に爆ぜた。

「はっ、はっ、はっ、」

 洞窟内に倒れ込み、アキラはようやく止まった。
 バクバクと心臓が鳴る。
 今、あのまま走っていたら、この首は飛んでいただろう。

「にーさん、落ち着いたっすか……?」
「あ、ああ、た……、助かった……、」
 冷や水をかけられたように、アキラは静かな声をマリスに返す。
 震える足で何とか立ち上がったアキラは、流石に今度こそ走り出さなかった。

「って、何で魔物が……!? ここ、避難所じゃないのかよ……!?」
「分からないっす……、でも、避難所はここで間違いないはずっすよ」
「じゃあ、」
「……、いや、変わった、とは思えないんすけど……、」

 マリスは眉を細め、周囲の壁を眺める。
 今度は自分の銀の光で照らされたそこは、確かに町でも感じる対魔物の気配で満ちている。

 余程の攻撃本能を持たなければ、魔物はこの場に近づかないはずだ。
 採掘が中止になり、今でもここは、避難所の役目を果たしている。

「……でも、魔物がいる……。まさか、ここじゃないのか……!?」
「……、いや……、」

 マリスはさらに目を細め、洞窟の奥を見やった。
 アキラは気づいていないだろうか、マリスは感じているのだ。
 奥で、確かに妙な魔力を感じる。
 危険な香りがする術式が、奥で編まれているのは間違いない。

 初めて感じる気配だ。
 だがそれを、自己の知識ではなく、経験に照らし合わせると、確信に変わっていく。
 奥で不安定ながらも燃えている魔力は、自分のよく知る気配。

 きっと、エリーのそれだ。

「多分……、ここで間違いないっす」
「……!」
「でも……、」
 進もうとするアキラを僅かに制し、マリスは慎重に歩き始めた。
 ここに魔物がいた以上、先ほどまでのように駆けさせるわけにはいかない。

「今の、やっぱり変っすよ……。メロックロスト。月輪属性の魔物がいるなんて……、」
 マリスは跡形もなく消し飛んだ先ほどの魔物を思い出す。

 あの、モルオールの港町でも見た魔物、メロックロスト。
 白いテーブルクロスを一抱えほどの球体にかけたような姿のその魔物は、アキラの背越しにも確かに見えた。

 魔力で浮かぶ大鎌を有し、対象に切りかかる。
 その大鎌も魔力で形作られたもので、簡易的な具現化とも考えられている武具だ。

 それほどの魔物が、ヨーテンガースにいること自体は不自然ではないのだが、この場所は避難所。
 魔族クラスの存在が差向けでもしなければ、こんな場所にいるはずもない。

「そんなに変なのか……?」
「そうっすね……、あるいはここが“侵略し尽くされていたら”、不自然じゃないんすけど……」
 魔族がここに魔物を差向ければ、とっくにこの避難所は崩壊しているだろう。
 それだけの理由を持ってこの場を攻めたということなのだろうから。

 だが、外で見た限り、この避難所は確かにその任を全うしていた。
 メロックロストがいた以上、ここは、“崩れ去っていなければ”不自然なのだ。

 入り口付近から魔物に襲われるのならば理解できるが、何故こんな奥に魔物がいるのか。
 そのせいで、奥の魔力を感じられるまで来たせいで、この場所に見切りをつけて他の場所を探しに行けなかった。

「……、“遠吠え”の魔物」
「……!」
 アキラの言葉に、マリスは僅かに瞳を大きくした。
 どうやら、自分もあまり冷静とは言えないらしい。

「そういやここ、依頼の場所で……、」
「そうっすね……。“妙なこと”が起きている場所っす」

 また、だ。
 自分たちがたびたび経験する、“妙なこと”。
 アイルークの大陸でも頻発した異常事態は、記憶に確かに刻まれている。

 だが、今回のこの不自然さは、何か、感じるものがあった。

 ただ妙なわけではない。
 言葉にできない違和感が取り巻くのだ。

 強いて言うなれば、仕組まれている、だろうか。

 自分たちは、この場所に必然的に引きこまれている気がする。
 もっと言えば、エリーが儀式をすることも、だ。

 あの姉は、真面目で、問題を一人で抱え込むことはあるが、それでも損得勘定ができない人間ではない。
 マリス自身、エリーが自分にコンプレックスを抱いていることは感づいているが、ここ最近、彼女は急激に力を増している。
 一介の魔術師のレベルを、大きく上回っているだろう。
 あと少しで、単純な肉弾戦ならエレナにも匹敵するかもしれない。

 それなのに、何故、

「……! また……!?」
「……、」

 いずれにせよ、引くことはできない。
 マリスはそう結論付け、半分の眼を現れた魔物に向けた。

 現れたのは、先ほどの鎌と共に浮かぶ球体、メロックロスト。
 そして、

「……!」
 マリスは表情を強張らせた。

 メロックロストの隣、数体、同じく丸い身体の魔物たち。

 パールスフィアだ。
 またも、月輪属性の魔物。

 白いテーブルクロスを頭からかけただけのメロックロストとは違い、その魔物は完全な球体で、以前、クロンクランで出遭ったリトルスフィアの同種。
 だが、パールスフィアは、手足も、顔すらもなく、ただシルバーの光を纏ってふわふわと浮かんでいるだけだ。

 これは、まずい。

「っ、やるぞ……!!」
「にーさん!! パールスフィアは……、……!?」

 叫んだところで、マリスは背後からの気配を感じた。
 ある種確信に満ちた悪寒に振り返れば、同じく浮かんでいるパールスフィア数体。

 顔のないその魔物は、ただ黙し、不気味に浮かんでいる。

「挟み打ちかよ……!?」

 狭い洞窟の道。
 そして前後から現れた魔物の群れ。
 確かに危険だ。
 だがそれは、“そんな程度のものではない”。

「っ、」
 メロックロストが前方から切りかかってくる。
 アキラがそれに応戦し、剣で受けたところで、マリスは頭を高速回転させた。

 そして魔力を身体中に巡らせ、魔物の位置を確認する。

 考えなければならないのは、“規模だ”。

 この洞窟内には、自分たち以外にも、人間がいる。

 この、“基盤が緩い洞窟内”には―――

「堅っ、てっ!?」
 メロックロストに剣を見舞ったアキラの手に、鈍い振動が残る。
 それでもアキラは浮かぶメロックロストを弾き飛ばすと、油断なく構えた。

 前方や背後に浮かぶパールスフィアというらしい魔物は、不気味に浮かんでいるだけ。
 メロックロストとの一騎打ちだ。

 あの魔物は、マリスの攻撃を一度耐えたように、耐久力がある。
 だが、動きはそこまで鋭くない。
 大鎌も、洞窟内では動きが直線的になるし、集中していれば退けられる。

 隣のマリスの力を借りるまでもない。

「―――!?」

 そこで、アキラの背筋が冷気に撫でられた。
 メロックロストの背後に浮かぶ、パールスフィア。

 未だ不気味に浮かんでいるだけだが、どうも、身体を覆う銀の光が強くなっている気がした。
 そして徐々にバチバチと魔力をスパークさせ、身体が膨れ始めている。

 隣の発光体のマリスを凌駕し、洞窟内を強く照らす。

 それが、どうも。

 戦闘不能の魔物が発する爆発直前の光に見えるのだ。

「っ、にーさん、下がって!!」
 マリスが言葉を発すると同時、肥大化を進めていたパールスフィアが二回りほど巨大になり、動きを止めた。

「っ、まさ、かっ、」
 かつて身を持って経験したアキラは、今度こそその光の正体を確信した。
 やはり、この銀は、戦闘不能後に発生する光。

 触れてもいないのに、目の前の球体は、“それ”を起こしている。
 しかもその激しさは、上位の魔物に匹敵していた。

「っ、」
 再び切りかかってきたメロックロストを弾き返し、アキラは言われた通りに後ずさる。

 戦闘不能の、爆発。
 それを、こういう視点で見るのは久しぶりだ。

 最後に見たのは、あの魔族、リイザス=ガーディランの爆発。
 その爆発は、密閉空間では驚異的なのだ。

 一つ、その爆風が強大な場合、それを避けえないこと。
 そして、もう一つ。

 戦闘フィールドそのものの破壊―――

「ディセル!!」
「―――!?」
 パールスフィアがついに爆ぜた瞬間、その爆風は、視界一杯を埋め尽くす。
 まともに受けたメロックロストは、断末魔の悲鳴さえ上げられない。
 しかし、アキラには届かなかった。

 突如目の前に展開した透明な銀の盾が、アキラと爆風を完全に遮断。
 考えるもなくその原因に振り返れば、背後で同じように爆ぜていたパールスフィアの影響も、マリスは遮断していた。

 洞窟の一区間を輪切りにして切り取ったような盾に、二人は攻撃を受け付けない。

 だが、まだ問題は解決していない。
 最大の問題は、アキラとマリス以外にも、この爆発の影響を受けるものが存在しているということ―――

「っ、フリオール!!」
「……、……?」

 思わず身をかがめたアキラの耳には、洞窟が崩れる音すら聞こえてこなかった。

「……、な……、」

 恐る恐る目を開ければ、世界の総てが銀の光に包まれていた。
 煌々と光るのは、“洞窟の総て”。

 今の爆風でも、この洞窟は崩れていない。

「……パールスフィアがいるってことは……、やっぱり、ここは異常っすね……、」
「……、マリ……、ス……!?」

 だぼだぼのマントから両手を出し、表情を険しくしているマリスは、小さく安堵のため息を吐いた。

「爆発専門の魔物……。完全な、使い魔っすよ」
 マリスは掲げていた両手をゆっくりと下ろしていく。
 だが、地下の総てに展開された銀は、そのままそこに在る。

「ここを……、支えているのか……!?」
「崩れさせるわけにはいかないじゃないっすか……、」

 静かに返してきたマリスに、アキラは声も返せなかった。

 アキラの周囲には、砕けてなお、不自然に天井や壁を保つ岩たち。
 それらは総て銀に発光し、まるで照明具のような役割を果たしていた。

 パールスフィアが爆ぜた進路も退路も、天井や壁は銀に発光し、役割を損なってはいない。

 マリスは、このベックベルン山脈の避難所総てを、魔力で支えているのだ。

 月輪属性。
 できるかできないかで聞けば、『できる』と返ってくる、“魔法”を使う属性。
 日輪属性に次ぐ、希少種。
 歴代でも恐らく最強のその少女は、半分の眼を輝く進路に向けた。

「急いだ方がいいっす……!! 儀式以前に、ここは、危険っす……!!」
「あ、ああ、」

 アキラは立ち上がり、駆け足になったマリスに続く。
 彼女がいなければ、ここで落石に遭い、全滅していた。

 ここまでの奇跡を起こせるマリスにうすら寒いものを感じながらも、アキラは銀に輝く世界で足を進める。

 とにかく今は一刻も早く、エリーを止めなければ。

―――**―――

「……、これは……?」

 イオリは、吹き鳴らそうとした指を下ろし、銀の世界で眉を寄せた。

 突如響いた轟音に、続く地鳴り。
 こうなれば強引にでもラッキーを召喚し、その下に身を隠すしかないと思ったところで、音が完全に遮断された。

 輝いたのは、銀の光。
 その光は、洞窟の崩壊も、地鳴りすらも止め、ひび割れた洞窟を未だ支え続けている。

「彼女だ……!」
「……、やはり、マリサスか……!!」

 身を伏せていたサクが立ち上がり、イオリと同じように表情を険しくした。
 衝撃の最中投げ捨てられた松明はくすぶり、足元に転がっている。
 もう松明の必要もないほどに、洞窟内は銀に光り輝いていた。

「でも、こんなの……、」
「彼女ならできる」

 立ち上がろうとしたティアに手を貸しながら、サクが答える。
 サクの確信に満ちたその言葉に、イオリは僅かに眉を寄せ、しかし、こう思ってしまう。

 こんな、崩れた洞窟を支えるような奇跡“程度”、マリスならば実現可能だ、と。

「以前……、彼女と二人で組んだ依頼、」

 サクは早速足を進めながら、ぽつりと呟いた。
 その進路すらも、天井と周囲の岩は煌々と輝き、形を保っている。

「そのときも、似たようなことがあった」
「それは、僕たちがアキラ以外の“勇者様”に出逢ったときの?」
「ああ」

 確かにそのときの話を、イオリはあまり聞いていなかった。
 自分たちの方が大事件に巻き込まれ、もっぱら話し手に回っていたあのときのことだ。

「そういえばあのとき、二人とも、随分遅かったですよね? どんな依頼だったんですか……?」

 留守番を務めていたティアも、そのことは気になっていた。
 もっとも、あのときはアキラたちが泊まりがけで出かけたということを伝える方が重要であったのだが。
 患っていた風邪の影響で、大事を取って早めに就寝したティアも、あのときのことをよく聞いていない。

「洞窟の奥の魔物を倒してくれ、という依頼だった。その途中、今のように突然洞窟が崩れたんだ。今のように防がれたがな」
「……、マリサスが?」
「ああ。依頼を完遂し、洞窟から出たところで彼女は魔力を解いたよ。その後洞窟は、“自然”になった」

 崩れたのだろう。
 イオリは周囲の岩を見た。
 所々ひびが入り、今にも崩れそうだ。
 だがそこに、抜群の安定感を覚えるのは、その光がよく知る銀の輝きを持っているからだろうか。

「やはり、妙だな……」
 イオリは足早に歩きながら、おもむろにナイフを取り出した。

「洞窟が崩れるのもそうだ。そんな事故が頻発するなんて……。そして、」
 イオリは持ったナイフを迷わず曲がり道の角に投げる。

「ギッ、」
 奇襲を仕掛けようとしていた魔物はグレーの閃光に射抜かれ、爆発した。
 それは、“いてはいけない存在”。

「魔物がいるのも、だ。ここは避難所だろう?」
 そのせいで、進行スピードは大きく削り取られている。
 一刻も早くエリーたちを止めなければならないというのに、これでは時間がかかりすぎだ。

「……そうだ、イオリさん」
「……?」
「言い忘れていた……。私たちは、ここにいるらしい魔物を倒せという依頼を受けているんだ」
「それは、今の……?」
「いや、なんでも遠吠えをする魔物を、だそうだ」

 イオリは目を細めた。
 あのときは必死だったが、そういえば、妙なことはとっくに起こっていたのだ。

「イオリさんたちは、私たちがどうしてあの場にいると……?」
「いや、僕たちは君たちの依頼を見て……、カトールの民に会いに行ったんだ。そこで、」
「そこで?」
「……、そこで、妙に口を閉ざす彼らから、苦労して情報を聞き出したんだよ」

 イオリはティアと共に向かったあのキャンプ場のような場所を思い出す。
 到着したときには無人かと思ったあの場所で、人に出会うのに大分時間がかかった。

「聞き出せたのは……、君たちがベックベルン山脈に向かった、ということだけ。机の上に出ていた、×マークの付いた地図を突き付けてね」

 イエスかノーで聞かなければ、ほとんど会話にならなかったカトールの民たち。
 何故か震え上がり、イオリたちに恐怖に満ちた瞳を向けてきていた。

「イオリさん……。彼らに出会ったということは、感じたと思うが……、」
「……ああ。確かに、カリスに似ていた」

 サクの言葉を、イオリは先読みして肯定した。
 支離滅裂な彼ら。
 それはまさに、あのときのカリスと同様だ。

 隣を行くティアは首をかしげる。
 事情を知らないのだから彼らに対する評価は付けられないのだろう。

「……、そう、か……、」
「……?」

 はたと、イオリは気づいた。

 サクは怪訝な顔を向けてくるが、イオリは視線を逸らし、奥歯を強く噛む。

 “そうだった”。
 伏線も、何もなく。
 “人を思った通りに導く存在”。

 それを、自分は知っていたはずだ。

「これは本格的に急いだ方が良さそうだ……。そうじゃなきゃ、」
「待て」
 イオリが足を速めたところで、サクの口調が強くなった。

 銀に輝く洞窟内。
 そこで、サクは、イオリに強い視線を向けてくる。
 これは、あのときと、刀を喉元に向けられたときと、同じ視線だ。
 流石に愛刀は腰に収まったままだが、サクの足は止まっている。

「悪いが……、本当にいい加減にしてくれ。何でも知っているようなのに……、私たちには何も伝えない。それでは、何もできないだろう?」
「……、」
 イオリも、強い視線を返す。
 だがこれは、言うわけにはいかないことだ。

「イオリン」
「?」
 睨み合ったまま動かない二人の間、小さな声が響いた。
 普段の半分よりも、もっと言えば風邪を患っていたときよりも遥かに小さな声だったが、それでもティアの口調は強い。

「私からもお願いします。イオリン、きっと、そのせいで、」
「……、」
 ティアは最後まで言葉を紡がなかったが、それでも、自分を咎めていることだけはイオリには分かった。

「私だって……、能天気なままじゃいられないって分かってるんです。そう在りたいとは思うんですけど……、でも、そのままじゃいけないって」

 イオリは言葉を返せなかった。
 もしかしたらこれは、初めて聞く、ティアの本心なのかもしれない。

 いつもからから笑っている彼女でも、流石に感じ取っている。
 いや、誰にでも分け隔てなく笑いかけている彼女だからこそ、この不協和音に過敏に反応したのかもしれない。

「エリにゃんが大変なことになってるのに……、こんなのないですよ……!」
「……、確かに僕は……、“異物”かもしれない」
 しばし言葉に迷って、イオリは呟いた。

 いつも自分に飛びつくばかりだった少女の言葉に返したのは、自分の本心。
 ずっと感じていた、冷めた想いだ。
 “予知”のことは話せない。

 それはきっと、彼女たちの“立ち位置”を決めてしまうことだろうから。
 あの世界で、あの在るべき姿の世界で、彼女たちが“自分”を知ってしまえば、自然とそこに向かってしまう。
 それは、“束縛”だ。

 そして、自分の非を曝す度胸もない。

「いつかは、きっと言える。だけど、今は、」
「……、アキラ様には話せて、か?」
「……、」

 別に、驚きもしなかった。
 メンバー内では、とっくに、自分とアキラだけで何かを話していることなど伝わっている。

「……ああ、そうだ。本当は、アキラにも話したくはなかった」
「でも、」
「少なくとも今、関係があるなら話してくれ」

 二人の視線は、完全に、イオリを責めるものに変わっていた。
 イオリにはそれが、徐々に煩わしいものに見えてくる。

 ここまで迫られては、答えを曝す以外に逃げ道がない。
 だが、それは、禁忌だ。

「今は、急ごう」
「今ここで、はっきりさせてくれ」
「……、」

 執拗に迫るサクから、イオリは瞳を逸らせなかった。
 流れる険悪な空気。

 言うわけにはいかない事実。
 しかし、言わなければならない状況。

 この二律背反は、一体、どうすれば、

「……!」
 そこで、イオリは気づいた。

 何故今、あんなにも現れていた魔物たちが、襲ってこないのか。
 襲われれば、空気が流れる。
 しかし、何も起こらないから、この銀の洞窟内の空気はかき乱されない。

 まるで、こうあることを、仕組まれているような、

「……、“サーシャ=クロライン”……!!」
「……?」

 イオリは、とある名を苦々しく呟いた。
 それと同時に、予感は確信に変わる。

 これは、“予知”での情報だ。
 だが、呟かずにはいられなかった。

 その、“魔族”の名を。

「二人とも真剣に聞いてくれ。今僕たちは、“攻撃”を受けている……!」
「イオリン?」
「? 何を……?」

 二人が戸惑うのも無理はない。
 “気づかれないこと”が、“その存在”の恐怖なのだから。

「悪いがこの話は後にしてくれ。やはり今すぐ、エリサスたちを見つけるべきだ」
 イオリは二人の強い視線を、強い口調で押し返した。

「何を……、……!?」

 サクが呟いたと同時、洞窟の奥から魔物の群れが現れる。
 この、見計らったようなタイミング。

 これは、間違いなく、“あの魔族”が介入している。

―――**―――

「……、やっぱり……、あんたたちか」

 銀の光に照らされた洞窟内、うねるような道を超え、曲がり道の先、アキラの瞳に一人の女性が飛び込んできた。

「エレナ!!」
 火照った体を沈めるように肩で息をし、壁に背を預けているエレナの奥の角は、そこだけスカーレットに照らされていた。

「……、」
 ほとんど駆けるようになっていたアキラは、エレナの手前で失速し、足を止める。
 今まで胸から飛び出るようだった衝動は、何故か、吐き出せなかった。

「急に崩れ始めたと思ったら……、光るし……、いると思ってたわよ」
 エレナの視線は、アキラの後ろ、マリスに向いた。
 そのマリスも、エレナの様子に、口を閉ざす。
 エレナはすでに、自分たちがここに何をしに来たのか察しているようだった。

 あるいはエレナがいつも通り傲岸不遜に立っていたのなら、胸の中の憤りをそのままぶつけていたかもしれない。
 だが今の彼女は、どこか憔悴し、疲れ切っていた。
 壁に背を預けているのは純粋な脱力感からで、もしかしたら彼女は壁に手をついて歩いてきたのかもしれない。

「……、あいつは、どこだ?」
 その様子に、エレナへの怒りを一旦置き、アキラは一番の関心事を口に出す。
 当然見当はついているが、やはり、どうしても、彼女の口から聞きたかった。

「……奥よ」
「っ、」
「待ちなさい」

 駆け出そうとしたアキラに、エレナはどこか冷たい声を出した。
 何の強制力もない言葉だけのそれは、しかしアキラの足を止める。

「……、行って、どうする気?」
「……止めるに決まってんだろ」
 アキラは強く、エレナに返した。
 気だるげに声を出すエレナは、そんなアキラの瞳から視線を逸らし、呟き続ける。

「あの子は、命をかけて強くなることを選んだ。それを、止めるの?」
「……、」
「個人の自由。……言ってしまえば、それだけのことよ」

 分かって、いた。
 エレナの言葉は、本当はとっくに、頭で囁いていた。
 だが、衝動的なこの脚は止まらなかった。

 だけど今、外から聞こえたその言葉は、アキラから力を奪っていく。

 エリーが死ぬかもしれないと聞き、自分はここまで全力で進んだ。
 だがそれは、本当に、自分が介入していいことだったのだろうか。
 ただ自殺するわけではない。
 勝機のある賭けだ。

 それは本当に、止めるべきことなのだろうか。

 だが、分かっているのに、どうしてこれほどまでに、自分は必死なのだろう。

「……、何で、」
 アキラが立つのは、銀と紅の分岐点。
 曲がり角の向こうから漏れるそのスカーレットは、アキラが入るのを拒むようにぼやぼやと輝き続けている。

「止めてくれなかったんだよ……、」
 エレナに背を向けたまま、アキラは声を絞り出した。
 どうしても、この先に進むことができない。

「……、私が……、そんな人間に見える?」
「っ、」
 アキラは無機質に、エレナの小さな呟きを受け止める。

 エレナは、ずっと、自分の目的以外には無関心だと態度で示していた。
 彼女が狙うのは、憎悪を燃やす対象、ガバイドという“魔族”だけだ。
 それ以外は、冷めた瞳を、ガバイドに対しては、もっとずっと冷めた瞳を、彼女は向けてきた。

 それを、アキラは知っている。
 “その彼女ならば”、この秘術を教えこそすれ、止めることはしない。
 それが、きっと、エレナの“キャラクター”だ。

「……私が、命かけて強くなろうとするような馬鹿を、止めるように見える?」

 少しだけの皮肉をこめて、エレナは同じ言葉をぶつけてきた。

 ずっと、冷めたままのエレナ。

 だが、“見える”。
 いや、“見たかった”。

 なんだかんだで、“そう”ではない彼女を旅で見てきたのだから。

 陳腐な言い方だが、エレナを信じたかった。

「……、止めて、欲しかった」
 足を踏み出すことを諦め、アキラは振り返った。
 確かに、曲がり角の向こうで、エリーがどうなっているのかを知りたくない欲求もある。
 だが、今は、どうしても、エレナをもう一度見たかった。

 魔王の牙城は目前。
 そんな場所で、これほどまでに、後ろが信じられなくなるとは思わなかった。

「……、」

 エレナは背を壁に預け、未だ肩で息をしている。
 彼女もきっと、秘術で疲弊したのだろう。

「……、止めて、欲しかった……?」

 エレナはようやくアキラに視線を合わせ、火照った表情を向けてきた。
 ここまで弱ったエレナを、アキラは初めて見たかもしれない。

「“私”が、止めるわけにはいかないでしょう?」
 だが、口調は、強かった。

「秘術で強くなった私が? 『あんたには無理だから止めなさい』って? 『私は耐えられたけどあんたは死ぬわ』って? 『あんたは弱いけど私やあんたの妹がいるから何とかなる』って? 言えるわけねぇっての……、」
「っ、エ、エレナ……?」

 エレナは一気にまくしたてた。
 まるで、その言葉を、何度も喉の直前で用意していたかのように。
 そのまま壁伝いにずるずると座り込み、右手で綺麗な甘栗色の長髪をガシガシとかいて顔を伏せる。

 アキラは、その驚愕に、声を出せなかった。
 エレナが秘術の経験者だったことより何より、彼女の“崩壊”に。

「港町で何の気なしに呟いた言葉を……、あの子があんな風に真剣に受け止めるとか、分かるわけないっての……!」

 こんな闇を、アキラは何度も受け止めてきた。
 その人間の、本音。
 これは、日輪属性のスキルだ。

 照らすことのできない自分には、あまりに大きな闇。
 それを一体、何度見てきたことだろう。

 そして、照らせたものは、あまりに少ない。

「……、」

 そして、照らせたチャンスを拾えたのも、あまりに少ない。

 自分は何度も、受けていた。
 エリーのSOS信号を。

 現状への不満を募らせるエリーから、何度も自分は受けていたはずだ。
 決定的なのは、朝の件。

 あれはきっと、やはり、最後通告だったのだ。
 いつまで経っても照らしてくれないことに対する、エリーからの。

「…………、止めて」
「……!」

 エレナは俯いたまま、初めて、その言葉を口にした。

「私はダメ。そこの天才ちゃんも、ダメ。でも、アキラなら……、“具現化”使ってないあんたなら、止める権利がある」
「……!」
 やはり、とっくに、エレナは気づいていたようだった。
 アキラが“意地”から、あの力を使っていないことに。

「残るコアロックは……、一つ。でもきっと、耐えられない。私も、あそこまでは乱れなかった」
「っ、」
 エレナの発した言葉全ては拾えない。
 だが、自分のなすべきことは分かった。

 今の自分なら、言う権利はあるのかもしれない。『一緒に強くなろう』と。

 正確に伝わらなくてもいい。
 土壇場で回らないこの口が、そんな臭い台詞を吐けるとも思えない。

 だが、それでも、身体は動かせる。

「ああ……!!」

 アキラは強く頷き返した。
 座ったままのエレナも、無音を保つマリスも、歩き出さない。

 この二人がそれをしても、きっと、エリーの心には届かないのだ。

「アキラ君、」
 エレナは顔を僅かに上げ、小さく、いつも通りふざけたように微笑んだ。

「酷いことになってるから……、あんま凝視しないであげなさいよ……?」
「……、―――!?」

 エレナの言葉を背に受け、スカーレットの光に足を踏み入れたところで、銀に輝く洞窟が揺れた。
 同時に響く、奥の部屋からの爆音。

 まるで、岩の壁が吹き飛んだかのような、

「っ、」

 アキラは即座に駆け出した。
 流石の事態に、マリスもエレナも共についてくる。

 忘れていた。
 ここは今、“異常”が起こっているのだ。
 奥からエレナが来たことで、魔物の危険は無いと思っていた。

 だが、やはり、常識で測れないから、“異常”なのだ。

「―――!?」
 スカーレットに輝く角を曲がった直後、その紅は銀に代わる。
 それは、スカーレットの光源が絶えたことを指し示す。

「……!」
 飛び込むように奥の間に入ったアキラの目に飛び込んできたのは、だだっ広い奥間だった。
 自然物で圧迫されたその空間の中心に、魔法陣のようなものがある。
 紅い砂の円の中、ペンタグラムの形に設置された各二か所計十の小さな石は、一ヶ所を残しひび割れていた。
 その中心、誰かが暴れたように土が抉れているのだが、そこには誰もいない。

「あれ!!」
 エレナの叫びと同時、その指差す先に視線を移すと、分厚い岩盤がはじけ飛んでいた。
 その下に散乱する岩は、マリスの銀の魔力を保ち、今すぐにでも修復を始めようとしている。
 その向こうに見える、同じくらいの空洞。

 そして、立った今その場に“浮かびながら”引きずり込まれた、銀に光る少女の身体。

「っ、」
 修復を始める吹き抜けのような穴に、アキラは駆け出した。
 気を失っているのか、ぐったりとしたエリーを通し、まるで巻き戻し再生のように戻っていく岩の壁。

 壁は、マリスの魔力。
 だが、エリーを浮かばせているのは、別の何かの介入―――

「マリス!!」
 修復を始める岩めがけて一心不乱に走りながら、アキラは広間に大声を響かせた。
 即座に意図を察したマリスが、その壁のみから銀の光を外す。

 すると、岩壁は、破壊された壁の任を自然に果たし、バラバラと砕け散った。
 向こうの部屋は、もう一本のルートのゴールなのだろうか。
 二つの洞窟がこの場で繋がり、休憩所は巨大な空間に変わり果てた。

「―――!?」

 飛び込んだ直後、アキラは動きを止めた。
 いや、硬直した。

 入った隣の広間の奥、建物の三階ほどの高さで陥没している壁、そこに探し求めた赤毛が見える。
 エリーは完全に意識を手放し、その、人一人が寝転ぶのが限界程度の空洞の中で、うつ伏せに寝ころばされていた。

 見上げる形になるエリーは、まるで、この洞窟の装飾品のように動かない。
 その扱いに、爆発するような怒りを覚えるも、しかし、それは縮小していく。

 すぐにでもその場に近づきたいのだが、生物としての最低本能、ピリピリと背筋を刺激する危機感が、不用意な接近を許さなかった。

「グルルッ……、」

 この広間もマリスの魔法の影響下で、総てが銀に輝いている。
 その、最奥。
 エリーが“入れられている”壁の下。

 巨大な銀の生物が、門番のように立ち上がった。

「……、あ、れ……、」

 その、四足歩行の生物。
 それは、まさしく、オオカミだった。
 だが、その巨躯は、一般の生物で測るそれではない。
 肩までの高さで、四、五メートルはあるだろうか。
 しかしそれでも、流線型の身体は動きの機敏さを醸し出していた。

 銀の体毛に覆われたその巨大なオオカミは、涎を滴らせ、深い銀の瞳を向けてくる。
 野生動物の獰猛さを宿す瞳の中心、額には、何故か濁った泥色の菱形の宝石が埋め込まれていた。
 むき出しにされている牙は、それ一本一本が、アキラの背に掲げた剣に相当するほど巨大で、万物総てを今にも引き裂かんとしているほど太く、鋭い。
 長い尾は蠢き、この巨大な空洞でも窮屈そうに岩壁を叩いている。
 爪も危険に尖り、身体全てが凶器に成り得るその姿。

 イオリの召喚獣、ラッキーと比べても、一回りほど大きい。

「ル……、ルーファング……!?」

 エレナが、アキラと同じく一歩を踏み出せないまま呟いた。
 流石に彼女も、この異常に危険信号を感じ取る。
 あの魔物が、エリーをあんな場所に運んだのだろうか。
 まるで獲物の隠し場だ。

「洞窟の魔物じゃないでしょ……、月輪属性の化物よ……!?」
「っ、」

 エレナの言葉に、アキラはようやく、この場での依頼を思い出した。
 カトールの民が恐れていると言った、遠吠えの魔物。
 あれで、通常サイズなのだろうか。

 確かにこれなら、畏怖の対象になるだろう。
 だが、こんな洞窟に、これほどの巨体が入れるわけがない。
 そして、出られるわけがないのだ。

 この“異変”は、今度こそ、完全な形になった。

 しかし、もう、理屈の話ではない。
 現に今、そんな異常が襲いかかろうとしているのだ。

 “遠吠え”の魔物。
 それは殺意を持って、アキラたちを睨みつけてくる。

「と、とにかく、あいつを、」
「え、ええ、」

 アキラたちの硬直が溶けたところで、ルーファングが、

「オオオオオォォーーーンッ!!」

 その遠吠えを、上げた。

「―――、」
「―――!?」

 アキラが駆け出すよりも早く、疾風が背後から突き抜けた。
 その銀に輝く飛行物体がマリスだと気づいたときには、彼女はすでにエリーを守るルーファングに襲いかかっている。

 何も言わずにルーファングに襲いかかるマリスを見ながら、アキラは自分のすべきことを即座に察した。

 エレナをして化物と形容されたルーファング。
 そして、それに向かっていった、数千年に一人の天才、マリス。

 自分の役目は、その戦場から動かないエリーを遠ざけることだ。

「お、おい!!」
 ルーファングの雄叫びと、マリスの魔術の爆音の中、アキラはエリーに叫びかけた。
 戦場に入り込まないように銀に輝く壁に沿ってエリーに向かう。

「っ、」
 しかし、それはルーファングの尾に阻まれた。
 まるで蚊を払うように振るわれた尾は、アキラの眼前に振り下ろされ、進路を阻む。
 見れば、マリスもエリーに近づこうとしているのに、ルーファングは巨躯を活かしてエリーを守っていた。

「ちっ、今は無理ね……、離れるわよ……!!」
 なおもがむしゃらに進もうとしたアキラの首は、エレナに掴まれた。
 そしてそのままずるずると引きずられる。
 その力が、あまりに弱々しく、アキラはかえって逆らえなかった。

「儀式は……、中断されたみたいね……。良かったかどうかは微妙だけど」
「……、」
 一旦、吹き飛んだ壁の所まで下がり、エレナは遠く離れたエリーを見上げた。

 その視線の間には、ルーファングと戦うマリス。
 銀の光に照らされた空洞内を、自身も銀の光を纏い、魔術の矢を撃ち下ろしている。
 俊敏に動くルーファングだが、常軌を逸した速度で錯乱するマリスを捉えきれていない。
 だが、マリスの攻撃も、同属性の不利さからか、いつものような一撃必殺とはいかないようだ。

「……、あの天才ちゃんが来て……、助かったわ」
「……!」

 ぽつりとエレナが漏らした言葉に、アキラは現状を正しく理解した。
 エレナは、戦えない。
 気づけば、彼女は熱に浮かされたように息切れを起こし、壁に背を預けていた。

 秘術のせいで消費した魔力は甚大らしい。
 いつもなら、とっくにあの巨大なオオカミに掴みかかっているところだろう。

「……、」
 アキラは剣に手をかけた。
 エレナが戦えない以上、自分が動くしかない。

 だが、あの巨大なオオカミに、自分は何ができるだろう。
 何とか隙を縫ってエリーを救い出したいのに、この場から動けない。

 今も暴れ回り、洞窟の壁すら破壊している。
 マリスがこの山脈に魔法をかけていなければ、とっくにここは崩れているはずだ。
 凄惨たる戦いをここまで近くで見ているのに、まるで見えない壁に遮断されているかのように、“ここ”は静かだった。

「っ、」
「止めなさい」
 アキラの懸念通り、エレナから静止の声がかかった。

「あんたじゃ、“具現化”しか手立てがない。“今だけは”、ダメ」
 エレナは、視線をエリーに向けた。

 確かに、駄目だ。
 今、意識を失っているとはいえ、エリーの前で、それだけはやってはならない。

 だが、このまま、マリスに任せるのも、

「……! そうだ、ファ……、」
 言い出そうとして、アキラは止まった。

 ファロート。
 自分の時間を速める魔術。
 だがそれも、結局マリス頼りだ。

 彼女なら、アキラにそんな魔力を割く方が、負担になるかもしれない。

「……、」
 アキラは頭を全力で回した。

 今、マリスと暴れ回るルーファングの戦いは、激化している。
 だが、洞窟内でそんなことをされているのに落石の懸念がないのも、マリスのお陰だ。
 この場は、完全なマリス頼り。

 今日はマリスに負担をかけ過ぎている。
 エリーを早期に救出するためにも、少しでも彼女を助けなければ、

 ピー。

「……!!」

 そこで、洞窟内に甲高い笛の音が響いた。
 そしてルーファングの足元が、膨れ上がる地響き共に膨れ上がる。

「ラッキーッ!!」
 現れた巨獣は、ルーファングに組みかかった。
 その突撃に、ルーファングは怯み、即座に離脱。
 再びエリーのいる壁を背にし、唸りを上げた。

「二人とも!!」

 現れた巨獣の陰から、サクとティアが現れた。
 浮かぶマリスとラッキーに乗るイオリから距離を取り、アキラたちの元へ駆け寄ってくる。
 やはりここは、隣の洞窟のようだ。

「これは……!?」
「儀式は止めた、あとはあいつを助けるだけだ……!!」
 二人に手短に状況を伝え、アキラは視線をエリーに向ける。
 エリーは未だ、動かない。
 その想像にぞっとし、アキラはルーファングを睨む。

 自分が今できることは、せめて見守ることだけだった。

「エレお姉さま……!!」
「悪いけど、あとにしてくれる?」
 ティアのどこか責めるような言葉をエレナは“いつも通り”流し、壁から背を離して立った。

「今は、あっち。あの馬鹿でかい犬を、何とかしないと……、ね」
 エレナは、傲岸不遜に、“そう”振舞う。
 どうやらもう、エレナは自分を完全に保っているようだった。

「ああ、とにかく、エリーさんを、」
 サクがエリーを見つけ、駆け出そうとする。
 彼女の速力ならば、あるいはルーファングの猛威を振り切れるかもしれない。

「……!! いや、待った……!!」
 だが、サクが駆け出す前に、アキラはそれを止めた。
 イオリのラッキーがルーファングの注意を引いた隙に、マリスがエリーに手を向けた。
 二言三言呟くと、エリーの身体が銀に輝いて浮き、高速でアキラたちの元へ接近してきた。

「っ、」
 エレナが即座に反応し、自らが羽織っていたカーディガンを脱ぎ、エリーを受け止める。
 マリスとイオリは、お互いを認識したときから、こうするつもりだったのだろうか。

「大丈夫か……!?」
「……ええ、……あんまり見ないであげてって言ったでしょ?」
 カーディガンでエリーを包み、エレナは庇うように抱きかかえた。
 容体が気になるところだが、どうやらアキラが見るわけにはいかない状態のようだ。

「っ、ティア、頼む!!」
「はい!!」
 ティアが即座に近寄り、スカイブルーの光でエレナの腕の中のエリーを覆う。
 水曜属性の、回復魔術。

 エリーの救出は終了した。
 あとは、彼女の治癒を行わなければ。

 ただどの道、アキラの出番はなかった。

「アキラ様、」
「……?」
 アキラがルーファングから背後のエリーたちを庇うように立つと、隣に並んだサクが神妙な顔をして呟いた。
 洞窟内を銀に輝かせる魔法の影響で、砕けた岩一つ飛んでこない。

 マリスとイオリは、ルーファングを攻めている。
 エレナとティアは、その隙にエリーを回復している。

 そんな事態の今、サクの口調は、あまりに静かで、そして、何故かあまりに深刻だった。

「あれが、遠吠えの魔物ですか……?」
「ああ、らしい」
 この空洞に響いた耳をつんざくような雄叫びを、アキラは今でも思い出せる。
 エリーを救出した以上、依頼など無視し、あの魔物を適当にあしらって今すぐこの場から逃げるべきかもしれない。
 戦闘不能後の爆発といい、あの魔物は危険すぎる。

「他には……?」
「他?」
 しかし、サクの瞳はルーファングを捉えていないようだった。
 鋭く視線を走らせ、洞窟内を何度も睨む。

「先ほど、イオリさんが妙なことを言っていて、」
「?」
「“サーシャ=クロライン”、と、確かに口走りました」
「誰だ、それ?」
「アキラ様もご存じなかったんですか……!?」

 サーシャ=クロライン。
 人名なのだろう。
 そしてそれについて、イオリは警戒しているらしい。

 聞いたこともない名前だ。
 だが、“あのイオリ”が口走った以上、それは、“予知”による情報なのかもしれない。

「じゃあ……、彼女だけ……。……ルーファングの存在といい、通路で出遭った魔物たちといい、やはり、何か、」
「……、」

 あての外れたサクは、やはり神妙そうに呟いた。
 どうやら彼女も、自分やイオリの持つ“秘密”をいぶかしんでいるようだ。
 だが、これは本当に、アキラも知らない。

 ただ、確信は持てた。
 カトールの民に出会ったときから覚えていた、違和感。
 これは、“バグ”じゃない。

 物語に則した裏だ。

「そちらも、何か妙なことは起こりませんでしたか……?」
「……、……! そういえば、」

 サクに改めて問われ、アキラの脳裏に、目に見えた違和感が思い起こされる。

 そうだ。

 アキラはマリスたちの戦いを、特にルーファングに注意して、見る。
 ラッキーの突撃を回避し、その隙にマリスに攻撃されているルーファング。

 あの魔物の魔力は、身体能力向上に注がれているのだろう。

 だが、決して、魔法を使っていない。

 少なくとも―――

「……、」
 アキラはエレナたちに介抱されているエリーに視線を向ける。

 ―――彼女をここまでさらった“魔法”は。

「オオオオォォォーーーンッ!!!?」
「―――!?」

 そこで、けたたましい雄叫びが響いた。
 即座にルーファングを見れば、イオリがラッキーの背から跳び、ルーファングの額に短剣を突き立てている。

 パキリと響いた、額の濁った泥色の宝石が砕かれる音。
 あの宝石が急所だったのだろうか。
 ルーファングはもんどり打ち、イオリは即座にその場を離れる。

「っ、ここを離れよう!!」
 その雄叫びを断末魔と捉えたイオリが、こちらに駆けながら叫んだ。
 背後には、役目を果たして溶けるように輝くラッキーと、同じく接近してくるマリス。
 そして、痙攣しながら仰向けに倒れたルーファング。
 どうやら戦闘不能になったようだ。

 考えるまでもなく、この場からの退避が求められていた。

「あっ、今はっ、」
「んなこと言ってる場合じゃないでしょ!!」
 エレナがティアの治癒を遮り、エリーを担ぎ上げる。

 マリスのお陰で洞窟が崩れることはないだろうが、確かにあれほど強大な魔物の爆発は、このホール一帯を消し飛ばすだろう。

 今は、逃げることだけを考えなければ。

「……!? 待て!!」

 マリスとイオリが十分に接近したのを確認し、突き抜けた壁に全員が駆け出そうとしたところで、サクが叫んだ。
 最後尾を努めようとした彼女の視線の先には、倒れたルーファング。

「いいから―――、……!?」

 待てもなにもないと思いながらも振り返ったアキラは、その足を止めた。
 サクの視線に合わせて向いた先には、今にも大爆発を引き起こそうとするルーファング。

 その、はずだった。

「なんですか……、あれは……!?」
 最初に口を開いたのはティアだった。

 今やその異常事態に、全員が足を止め、それを見る。

 大爆発を起こさんとしているはずの、ルーファング。

 それが、煌々と光を放つこともなく、

「……、ち、縮んで……る?」

 この大広間の面積を大きく占めていた、ルーファングの巨躯。
 それが、“萎み”始めた。

 鋭く尖った牙や爪は丸みを帯び、アキラの身体以上の太さの四肢は小枝のようにやせ細り、銀の体毛は抜け落ちる。
 まるで成長を真逆に再生しているかのように身体を縮小させ、子犬ほどのサイズに変わっていった。

「なん、」

 パン。

 アキラが口を開きかけたところで、子犬が小さく爆ぜる。
 それは、当初想定されていた爆発と比べ、あまりに小さく、ねずみ花火のような音だった。

「っ、ねーさん、」
「……!」

 今起きた事象に身動き一つ取れなかったアキラの脇をすり抜け、マリスはエリーに近寄った。
 エレナに抱えられたエリーに、銀の魔力を流し込む。
 たった今起きた異常事態にも指した興味を示さず、マリスは治癒魔術を始めた。

 彼女の頭の中では、今の出来事にも、理由がつけられているのだろうか。

「マ、マリス、今のは……?」
「っ、どうもこうもないわ……!!」

 アキラの言葉には、エレナが応えた。
 エリーをマリスに渡し、一歩前へ出ると、どこまでも冷え切った瞳をあまりに儚い爆発現場へ向ける。

「そうよねぇ……、そうよねぇ……、ヨーテンガースにまで来れば……、“こういうこと”くらい平気で起こるわよねぇ……、」

 全員を追い抜き、先頭に立ったエレナは、呪詛を呟くような口調で言葉を吐きだし続ける。
 魔力切れで高揚していた頬も、今は怒りのそれに変わっていた。

 エレナがここまで憤怒を起こす対象を、アキラは知っている。

「エ、エレナ?」
「あの、きったない宝石は、“ライドーグ”っていう希少なマジックアイテム。雑魚に埋め込むと、命と引き換えに数分間だけ力が増す―――」

 アキラは、先ほど爆ぜた小さな魔物を思い出す。
 あの小動物につけて、あそこまでの膨大な力を手に入れるのであれば、それこそ常軌を逸している。
 それをイオリが砕いたから、偽のルーファングは“いなくなった”のだろう。

 だが、エレナはその脅威がなくなってなお、この世総てを呪うかのような表情で、冷めた言葉を紡いだ。

「―――ガバイドの、発明品よ……!!」

 自分に敵意が向けられていないのに、アキラは身体中が痺れた。
 大広間中を満たすエレナの殺気は、彼女の疲弊すらも反映させず、ピリピリと空気を震わす。

「……悪いがエレナ。“ここにいるのはガバイドじゃない”」
「……!」

 そんな、先ほどの小動物ならいるだけで圧死するかのような殺気の中、イオリが小さく呟いた。
 アキラもサクも、そしてティアも話についていけず、冷静なその口調に黙り込むだけ。

 だが、イオリの言葉にもまた、どこか強い怒気が含まれていた。
 イオリは鋭い視線を部屋中に走らせ、エレナに並び立つ。

「いい加減に出てきてもらおうか。もう“分かっている”。カリスのときもそう。カトールの民もそう。エリサスもそう。さっきの僕たちにもそう。全部……、全部、だ。君が“囁いた”んだろう……?」
「……!」

 イオリの“確信に満ちた怒気”。
 それが露わになった瞬間、コン、と先ほどの爆発現場に、エリーが連れ去られて置かれていた壁の窪みから、小さな石が落ちてきた。

 先ほどの戦闘から打って変わって、音の消えた銀に輝くこの大広間。
 ここでは、マリスの影響で、石が落下することはあり得ない。

 つまりは、あの小石は、あの銀色の一握りほどの石は、ここに自然にあったものではないということ―――

「―――何故、あなたは“分かっている”のかしら……?」

 その小石から、どこか甘い囁き声が聞こえた。
 それはきっと、女性の声なのだろう。

 それと同時に、霧とも粒子ともつかないぼやけた塊が小石から噴き出した。
 小石の上に漂うその塊の色は、銀。
 この洞窟総てを支えるマリスの鮮やかなシルバーとは違い、その色はぎらつくように禍々しい。

「……あ、あれは、」
「あれが、か……!?」
 アキラの言葉を遮り、サクがイオリに強く問う。
 イオリは頷き、短剣を取り出した。

 その友好的ではないイオリの態度に、アキラは口を閉ざし、自らも剣に手を当てる。
 イオリの言葉から察するに、あれが、この“違和感”の、

「魔王様直属……、」

 その塊は、徐々に人を形作っていく。
 みるみる内に、完全に視認できるようになった“それ”は、女性だった。

 金の長い髪を背中に垂らし、薄く黒いローブのみを纏って体のラインを浮き上がらせている。
 ぎらつくような銀の眼が妖艶に微笑めば、身体の中は浮かされるように安定感を失い、底冷えするような暗い感情が溢れていく。
 細い眉に、長いまつ毛。
 幻想的とさえ言える端麗な容姿。
 まるで、夢の世界の住人だった。

「サーシャ=クロライン。……見つかっちゃったわね」

 雪のように白い肌。
 だが、絶世の美女と形容するには、この危機感が邪魔をした。

「っ……、」
 アキラは腰を落とし、目付きを鋭くする。

 彼女は、“魔族”だ。
 それも、色が指し示すように、魔法を操る月輪属性の。
 イオリが口走ったというその名を持ったこの存在は、あまりに妖艶だった。

 “魔族”。
 魔物の主であり、諸悪の根源。
 最後に見たのは、あのリイザス=ガーディランだ。

 だが、それでも彼女がそれと同種とは思えなかった。

 人間に極度に似た身体つき。
 あの赫の魔族、リイザスとは歴然とした差がある。

 だがそれでも、危険ということには変わりない。

「お前が、こいつを……?」
 呑み込まれるような空気を嫌い、アキラは声を絞り出した。
 洞窟を覆う銀の光に慣れたつもりだったのに、彼女の眼光はこれに勝って平衡感覚を失わせる。

「ええ」
 悪びれた様子もなく、サーシャは頷いた。

 その返答に、アキラは身体の血が噴き上がるのを感じる。
 やはり、この魔族が、エリーを秘術に導いたのだ。

「……、」
 だが、アキラは駆け出しそうになる自分を必死に抑えた。

 いきなりエンカウントした魔族。
 あのリイザスと出遭ったときと同じだ。
 頭が事態に全く追いついていない。

 そもそも、この魔族の狙いは何なのか。
 それすら分かっていない。
 リイザスは、単純に、“財欲”を求め、宝物庫にいただけだ。

 流石にもう、無鉄砲なことばかりしていられない。
 冷静にならなくては。

「どうでもいいけど……、ガバイドについて知ってること、洗いざらい―――、……何よ?」

 飛び出そうとしたエレナを、アキラは手で制した。
 サーシャからは、今まで直線的だった相手とは違う、不穏な雰囲気を感じる。

 エレナは自分の欲求そのままに行動しようとしているが、不用意に近づかせるわけにはいかない。
 何より彼女は今、魔力を大幅に費消しているのだから。

「何で、こんなことをした……?」

 あえて、アキラは問うた。
 単純な時間稼ぎだ。
 自分は何も思いつかない。

 逃げるべきか、戦うべきか。
 それすらも、突如現れた魔族の空気に押され、まともに判断がつかなかった。

 だが、少なくとも、自分以外の誰かなら何かを思いつくかもしれない。
 だから自分は、口を動かす。

「人間ってさぁ……、」
 七人と対峙するサーシャの貌が、さらに妖艶に歪んだ。

「誰しも強くなりたいとか……、地位が欲しいとか……、同じような悩みや不満を持ってるじゃない?」
 サーシャは得意げになって離し出す。

 リイザスもそうだったと、エリーに聞いた。

 魔族特有の、“教え”。
 魔族たちは、自分の考えを歓喜して周りに披露するものらしい。

「それに簡単に“囁きかける”だけで……、私が思った通りの方向に思考を進めさせられる」
 サーシャの顔が、とうとう醜く変わっていった。
 笑うごとに、私欲を丸出しにした下賤なものに。

「悩み、不安、不満。それをいじって、相手を奴隷のように動かす……。“支配欲”。それこそ、最高の快感でしょう?」
「っ、」
「そうそう、感謝してよね? その子の秘術、あと少しってとこで止めて上げたんだから」

 プツ。

 サディスティックな笑みを浮かべ、言葉を続けるサーシャ。
 それを聞いて、アキラの中で、何かが切れた。

 時間が稼ぎや、最早どうでもいい。
 相手が何を考えているのかも、同じだ。

 ぎらつくような禍々しい銀の眼を見ながら、アキラは身体中が熱くなっていった。

 こんなことで、エリーに、命をかけての秘術を選ばせたのだろうか。
 そして、最終段階直前まで待って、秘術を強制的に中断させた。
 決して、延命処置のためではなく。

 身体中の怒りが一方向に向き、血が湧き立つ。

 これは流石に、我慢ならない。
 あるいはエレナも、ガバイドとかいう魔族にこんな感情を持っているのだろうか。

「……もうお話は終わり。あなたたちも、私の人形にならない? 分かっていても、悩みからは逃れられない……!」
「……殺す」

 驚くほど自然に、アキラの口から言葉が漏れた。
 きっと、エレナのような口調だったろう。

 そして、“剣から手を離した”。
 流石に“これ”は、想定外だろう。
 相手にどのような策略があろうと、想いがあろうと、伏線があろうと。

 “この力”からこそ、何者も逃れられない―――

「いいんすか?」

 そこで、アキラの耳に、小さな声が届いた。
 煮え立っていた身体は、久しぶりに聞いた気がするその声を正確に拾うと静止する。

「……!」
 いつしか先頭に立っていたアキラを、だぼだぼのマントを羽織った少女が追い抜いた。
 ティアにエリーを任せて、ここに来るまでの緩慢な動き。

 だがそれを、この場にいる誰もが、動かずに見送っていた。

「……、あら、なに? あなた」

 サーシャがどこか挑発的に、声を出した。

「それ」

 まるで、その二人以外の時間が止まっているかのように、アキラたちは動けない。
 そんな空気も意に介さず、踏み出したマリスはマントから手を出し、サーシャの足元を指した。

 そこには、先ほどの銀色の小石が落ちている。
 だが、アキラは、それを目で追わなかった。
 自分の怒気は、冷や水をかけられたかのように一気に収縮。
 今感じているのは、恐怖、だ。

「“リロックストーン”。設置している場所に移動できるマジックアイテム。便利っすけど、その場所からほとんど動けないし、魔力も大分減るじゃないっすか」
「…………、物知りね」

 サーシャは、この場所にわざわざ足を運んだわけではない。
 遠隔地からリロックストーンで移動したに過ぎなかった。
 つまり、移動を解除し、サーシャが元いた場所に戻らなければ、彼女の魔力は削られていることになる。

 アキラはそんなことをおぼろげに理解しながらも、声すら出せなかった。

 二人の会話に、誰も入っていけない。
 サーシャは気づいていないのだろうか。

 無音のマリスから、アキラでも察せるほどの、触れれば切れるような殺気が漏れていることに。

「……で、何が言いたいの?」
 サーシャの挑発的な笑みは変わらない。
 だが、アキラは一歩、また一歩と後ずさった。

 これは、生物としての自然な反応なのかもしれない。

 突如現れた“魔族”。
 その、危険なはずの存在が、あまりに矮小に見える。

「だから、」

 マリスは、半分の眼をサーシャに向けたまま、いつもと同じ口調で呟いた。

「そんな状態じゃ、死んでも死にきれないと思ったんすよ」

「―――!?」
 反応できたのは、サーシャだけだった。

 一体いつアクションを起こしたのか、マリスはマントから手を突き出し、サーシャに銀の矢を放っていた。

「っ―――、ディセル!!」
 サーシャはとっさに両手を突き出して盾を展開させると、バヂンッ、と荒々しい音が響く。

「流石にこればっかりは……、自分も、」

 マリスはいつも通りの口調で、アキラに呟いた。
 “この戦いの主賓”からの声は、身体を芯から震わす冷気を持っている。

 そんな中、

「……、」
 マリスの魔術を防ぎきったサーシャの口元は、静かに、釣り上がっていた。

 これで、いい。



[12144] 第十四話『儚い景色(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/03/01 00:00
―――**―――

 “彼女”が最初に“彼ら”に攻撃を仕掛けたのは、モルオールだった。
 同じ魔王直属のリイザス=ガーディラン。
 その存在を滅した“勇者様御一行”。

 その強力な人間たちを操作したいと感じるのは、“彼女”にとって当然のこと。

 その場にあった“悩み”を利用し、襲撃をかける。
 すると、チェスボードの上で駒を動かすように、対象は動く。
 いつもの手口だ。
 逃れようのない、戦い。

 それを演出することは、“彼女”にとって容易いこと。

 だが、例外の事態が発生した。
 魔物がひしめく、おびき出した洞窟内。

 戦力を分断し、精も根も尽き果てたと思った、カリス副隊長戦の直後。

 洞窟内を埋め尽くしたのは、無限をも感じさせる、底なしの魔力。
 およそ凡人が考えるような魔力の総量を遥かに超越した、確かな存在。

 そこで、計画は変わった。

 分断したもう一方の“勇者様御一行”のメンバー。
 使い魔を通して耳にした、興味深い会話が頭に浮かび、総てが“彼女”の中で創り上げられる。

 大きく開けた、罠の口。
 ゆっくりと時間をかけ、ゆっくりと囁きかけ、獲物をふらふらと迷い込ませる。
 それを舌で感じ、間もなく口は閉じるだろう。

 逃れようなく。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「……、」
 銀に輝く洞窟の中、マリスは普段通りの無表情で、半分の眼を目の前の敵に向けた。

 たった今、自分の銀の矢を防いだ魔族、サーシャ=クロライン。
 背中に垂らした金の長髪も、女性としての完成形のような身体も、それに吸いつくような薄く黒いローブも、妖艶で、そして美しい。
 ぎらつくようなその銀の瞳に見つめられれば、異性ならば何物でも差し出すだろう。

 しかし、そんな相手を、マリスは完全に殺戮対象として捉えていた。

 背後には、自分と同じ“勇者様御一行”が勢揃いしている。

 エリーを看病するティア。
 魔族に殺気を飛ばしているエレナ。
 状況把握に努めているサクとイオリ。
 そして、自分の背後にいるアキラ。

 だが、彼らの力を借りる必要はない。

 “十分だ”。

「レイディー」
「っ―――」
 マリスは再び、高速の銀の矢を射出する。

 唸りを上げてサーシャを襲うその攻撃は、やはり銀の盾に弾かれた。
 流石に“魔族”。
 単純な攻めでは、討ち倒せないらしい。

「にーさんたち、ねーさん連れてもう少し下がってて欲しいんすけど」
「っ、ああ、お前らも……!」
 小さくマリスが呟いた言葉に、アキラは即座に反応した。

 いや、正しくは、マリスから感じた恐怖に、だろうか。
 アキラは面々を促し、二つの広間を繋ぐ大穴まで下がる。

 エレナは最後まで殺気をサーシャに向けたままだったが、流石に費消した魔力で戦うのは無謀だと感じたらしい。
 珍しくも大人しく、ティアと共にエリーを抱えた。

「―――フリオール」
 マリスはアキラたちが離れたのを確認すると、小さく呟き、身体中をシルバーの光で覆った。
 解明さえされていない、“魔法”の力。
 “自分が宙を舞うのに不都合な外部干渉”を打ち消し、自分の思い通りに操作し、身体を戦場の宙に走らせる。
 そしてその縦横無尽の位置取りから、敵を討つ。
 それが、マリスの戦闘スタイル。
 相手が魔族でも、それは変わらない。

 天井が吹き抜けているように高いこの場なら、十分普段の動きができる。

「―――、」
 マリスは眼下の敵に半分の眼を向け、サーシャは頭上の敵を妖艶に頬笑み見上げる。

 その挑発的な笑みが、またなんとも、

「っ、レイディーッ!!」
 大きく振りかぶり、その場から動けないサーシャに一閃。シルバーの閃光を放つ。
 鋭く走ったその一撃は、またもサーシャが展開させた“魔力遮断”の盾に防がれた。
 物理的な攻撃もある程度は防げる、原理が解明不能な“魔法”の盾。
 サーシャも集中し始めたのか、今度は一撃で砕けず、マリスの攻撃を完全に遮断した。

 流石に魔族というだけはある。
 そして、月輪属性という希少種の相手は、マリスにとっても初めてだ。

 だが、

「レイディーッ!!」
 マリスはシルバーの飛行物体と化し、銀に輝く洞窟内を飛び交った。
 そしてあらゆる角度から銀の矢を放つ。
 サーシャの真上や、ときおり正面にまで高度を下げて。

 たった一人でサーシャを完全に包囲し、魔術を放つ。

 眼下のサーシャは、あの場から動けない。

 十分、“殺せる”。

「―――ディアロード」
「……!!」
 ついに、サーシャが攻撃に転じた。
 宙を鷲掴みするように右手を突き出し、甘く囁きかけるような声が漏らした“魔法”の詠唱。

 その途端、マリスの周囲に銀の魔力が展開した。
 洞窟を照らすマリスの銀とは違う、ぎらつくようなその色。

 それは、さながら蛍光灯のように細長く光る銀の棒だった。
 それがいくつも、前後左右上下にずらりと並び、マリスとの感覚を狭めてくる。

「っ、」
 檻のようなその“魔法”に、マリスは即座に飛翔による移動を諦め、自己の魔力を発動させた。

「ディセル―――」
 外から見れば、マリスが爆発したようだったろう。
 マリスが身体を覆うように展開させた盾にサーシャの魔法が触れた瞬間、ぎらついた銀の魔力が爆ぜ、マリスの景色は爆風一色で染められた。
 だが、並みの者なら閉じ込められ、絶命を待つばかりのその魔法も、マリスの鉄壁の魔力に阻まれる。

「―――化物、って言われたことない?」
「よく言われるっすよ」
 自分の攻撃が防がれたというのに、サーシャの挑発的な笑みは変わらない。
 しかしその皮肉に、マリスは肯定を返した。

「レイディーッ!!」
「っ―――」
 さらに動きを機敏にし、残像が残るほどの速度でサーシャを攻める。
 上から、横から、さらにはときおり緩急をつけて。
 総てがサーシャの命を狙った攻撃を、マリスは繰り返した。

 相手がコアロックで動けない、この状況。
 流石に、わざわざ近寄っていくほど冷静さを欠いているわけではない。

 だが、それにしても、この敵は、どうしても、

「レイディーッ!!」

 “殺したい”。

「……、」
 アキラはその戦いを、完全なギャラリーとして傍観していた。
 隣にいるサクもイオリも、声一つ漏らさない。

 眼前で起こっている戦い。
 それは、まともな神経を持つ者では介入することができないものだった。

 銀に輝くの洞窟内で、銀に輝く二人。
 マリスは、“魔族”、サーシャの周囲を飛び交い、攻撃を撃ち下ろし続けている。

 それを防ぐサーシャから届く、爆音と熱風。
 サーシャの周囲では砂煙が舞い、アキラはほとんど視認できなかった。

 その土煙を突き抜け、四方八方から撃ち込まれる銀の矢。
 さながら戦闘機のようにそれを一人で囲うマリスは、あまりに強く、

「……、」

 そして、恐かった。
 それこそ、加勢した者さえもまとめて消し飛ばしかねないほどに。

 マリスは、完全に怒っている。
 付き合いの長さだとか、そんなものは関係ないほど、誰の目から見ても明らかに。
 普段無音で、感情さえも外に出さないような彼女が、相手を執拗に“殺そうとしている”のを初めて見た。

 何故、気づかなかったのだろう。
 アキラは縮小していった自分の怒りに対して、疑問を抱いた。
 頭に血が上っていたときは気づかなかった、この事態に激怒する存在。

 それは、エリーの唯一の肉親の、妹マリスだ。

 秘術を知ったエリーに“囁きかけ”、命を落とすような事態に追い込んだサーシャ。
 しかも、エリーが思いつめたのも、もともとはマリスが作ってしまったエリーのコンプレックスゆえのこと。

 この事態に、最も触発されるのは、やはり、マリスなのだ。

「……?」
 冷静になったからか、アキラはサーシャを囲う土煙の向こう、何か不穏な気配を感じた。
 ほとんど攻めようともせず、マリスの攻撃を防ぎ続けるあの“魔族”。
 マリスはダメージを全くと言っていいほど受けていない。

 “リロックストーン”というマジックアイテムで現れた者は、その場からほとんど動けないとマリスは言っていた。
 そのために、遠距離から猛攻撃を仕掛けるマリスに手の打ちようがないのだろうか。

 だが、それならば。
 何故この場から去ろうとしないのか。
 そして、そもそも何故、姿を現したのか。

「……、」
 アキラの中に、危険な香りの思考が浮かんでくる。

「イオリ」
「……、え、何かな?」
 目の前の戦闘から目を離さず、アキラは呟いた。
 イオリもそれを呆然と見ていたのか、僅かに遅れて反応する。

「何か、その、何て言うか、」
「?」

 イオリは怪訝な顔を向けてくる。
 だが、アキラは言葉を紡げなかった。
 今、自分が感じているこの懸念を、言葉にすることができない。

 嫌な予感がする。
 単純に言ってしまえばそれだけのことだ。
 だが、その原因が分からない。

 マリスの攻撃による爆音が響く洞窟内。
 その被爆地を、圧倒されながらも当然のように眺める面々。
 それは、マリスの力は揺るがないという、当然の前提ゆえだ。

 だが、それなのに、アキラの背筋を悪寒が撫でる。

「……、」
 考えろ。
 アキラは頭を回転させた。

 いつも答えにたどり着けない、自分の浅い思考。
 だが、それが必要だと、どうしても感じる。

 そもそも、あの魔族、サーシャのやったことは何か。

 エリーに“囁き”、危険な秘術に導いた。
 カトールの民の“恐怖”を煽り、妙な依頼を発生させた。
 小さな魔物に、マジックアイテムを使い、強大な魔物を出現させた。
 そして、恐らくは、魔物がこの洞窟そのものを崩したのもサーシャの指示だ。

 無秩序に並ぶ、サーシャの行動。

 もし、それを、

「……、」

 たった一つの線で結ぶことができたらなら―――

「レイディーッ!!」
 もう何度、この銀の矢を振り下ろしただろう。

 マリスは決して一ヶ所に留まらず宙を飛び交っていた。

「……、」
 彼女の“魔法”は確認した。

 先ほどの、ディアロードという攻撃。
 自分が思った空間に、触れれば爆ぜる銀の棒を出現させ、対象を滅する月輪属性の“魔法”だ。
 先のように防ぐことは十分可能だが、それでも流石に魔族、といった威力がある。
 相手が“コアロック”で動けない以上、錯乱して、的を絞らせてはならない。

「っ、レイリスッ!!」
 アキラたちを背に守り、土煙の向こうに腕を振るう。
 守り切られている下級魔術から、中級魔術への転換。

 一手でサーシャを襲う銀の矢を増大させると、マリスはなおもサーシャを攻めた。
 土煙の向こうから見える、サーシャの防御幕。
 そのぎらつく銀に、どこかくらくらしながらも、マリスは飛ぶ。

 どうあっても、あの敵を討ちたい。
 エリーを追い込んだことは当然として、その上で、あの挑発的な表情。

 力を求める。
 それは、本来生物が持つ願望なのだろう。

 マリスにとってはほとんど無縁だが、それは、輝いて見えるのだ。
 姉が、そして“彼”が、自分に見せてくれたこと。

 劣等感に抗うように生きてきた人たちを、自分は知っている。

 それなのに、目の前の敵は、それを蔑み、それを利用し、自分の思った通りの破滅へ歩ませた。

 だから―――

「……!!?」
 かくん、と、マリスの景色がぶれた。
 ぎらつく銀に焼かれた瞳は、視野を一気に狭めていく。

 そして、飛行速度が極端に落ちた。

 その“初めての感覚”に、マリスは僅かに瞳を大きくする。

 自分が攻め、サーシャがひたすらそれを守っていく。
 完全に硬直状態だったこの戦闘の優位は、覆せないほどの猛攻を仕掛けていたマリスが俄然有利だった。

 この方法で倒せなかった敵はいない。
 それは、マリスが無意識で、自分に“前提”を置いていたからだ。

 だが、今、それが―――

「戦闘しながら“別のこと”に魔力を割ける器用さ……、素敵よ」
「―――!!」

 マリスの攻撃の手が緩んだと同時、サーシャの挑発的な言葉が耳に届いた。
 すると土煙の中、ぎらつく銀の光が強さを増し、スパークするようにほとばしる。

 これは、

「ディアロード」
「っ―――、」
 今回、サーシャは銀の棒を檻として使うつもりがない。
 細い銀の棒、その先端が、総てマリスに向き、サーシャから射出される。

「―――ディセル!!」
 マリスは迷わず盾を展開させた。
 見下ろしていたサーシャから撃ち上げられるように向かってくる銀の棒。

 マリスの盾を貫かんと宙を走り、被弾するごとに、バヂンッ、と雷のような音を洞窟内に響かせる。
 サーシャのあの魔法は、自分の攻撃同様、矢のような役割を果たすらしい。

 これがサーシャの本気の攻撃だろうか。
 あまりに重いその棒の大群に、マリスは全神経を注ぎ込む。

「っ、」
 これで、リロックストーンによる魔力削減を受けているのだろうか。
 止むことのない怒涛の攻撃に、マリスは両手を突き出し、何度も盾を張り替える。

 半分の眼で捉える先、その手が震えていった。
 ぎらつく銀で、頭がくらくらする。

「っ、っ、―――っ、」
 マリスはついに、全ての銀の棒を防ぎきった。

 しかし、身体はようやく重力を思い出したかのように、ゆっくりと下降していく。
 いや、まさしく、“重力を思い出したのだ”。

 マリスはアキラたちとサーシャの中間に降り立ち、彼女の視線を自分だけに向けさせる。

「今の、耐えられるんだ?」
「……、……、」

 マリスは妖艶に微笑むサーシャは、防御に集中していただけはあり、負傷らしい負傷をしていなかった。

 マリスは言葉を返さず、その時間を全て、悟られないように息を整えることに注ぎ込む。
 顔はいつもの無表情。
 これは、崩すわけにはいかない。

「……、……、」
 だが、これは、まずい。

 マリスは熱に浮かされたかのようにぼうっとする頭を、しかし高速回転させた。

 今、“ほとんど感じなかった影響”が、明確に自分を削り取っていくように思える。

 だが、ここでは引けない。
 “背後の人たち”には、任せられる敵ではないのだから。
 彼らは、費消している。
 戦えないのだ。

 “強者は弱者を助けなければならない”。
 だから、守る。

 それが、当然のこと。

「ふふふ、」
「……?」
 サーシャは変わらず妖艶に、地上に降り立ったマリスに笑みを向けてきた。
 そして僅かにマリスから視線を逸らし、その背後をぎらつく銀の眼で捉える。

「後ろの人たち、退屈そうね?」
「―――、」
 サーシャがゆっくりと、腕を向ける。

 その瞬間、マリスは振り返った。

 後ろの人たちは、自分たちの戦いに、呆けたような表情を浮かべている。

 だが、今、サーシャの攻撃対象は、

「ディアロード」
「っ、フリオール!!」
 マリスは全身に魔力をほとばしらせ、背後の面々の元へ飛んだ。

 サーシャのあの魔法は、出現場所を選ばない。
 自分が庇うように立っていたところで、彼女はそれを飛び越え、あの場所に銀の檻を展開できる―――

「―――!?」
「なっ、」
 予想通り、面々の周囲に銀の檻が出現した。
 最初にマリスを襲ったときのように、それらは感覚を狭めてアキラたちに接近していく。

 自分が、守らなければ―――

「ディアロード」
「―――、ディセル!!」
 アキラたちに向かう途中、マリスの眼前に幾重にも銀の棒が展開された。
 マリスの進路を防ぐ、網状の防壁のように。

 視界は、ぎらつく銀一色に変わる。
 マリスはそれに、わき目も振らず飛び込んでいく。
 身体中から魔力を噴き出し、破壊しながら強引に進む。
 最短ルートで進まなければ間に合わない。

 自分の速力も加わり、壮絶的な威力と化したその銀の魔法は、マリスの身体に多重な負荷を加える。
 防ぎ切れなかった銀の棒は、鋭い先端でマリスのマントを引き割く。

 全身に走る痛み。
 全身に走る苦痛。

「っ、っ、っ、」
 だが、気にせず進め。
 急がなければ、彼らが危険だ。
 余力を考えず、ただただ一直線で。

 とにかく今は、“自分が彼らを守らないと”。

「にーさん!!」
「―――マリサス!?」
 マリスが決死の覚悟で飛び込んだ先、イオリが目を見開いて待っていた。

 イオリは短剣を構え、隣のアキラもサクも武器を抜いている。
 ティアはエリーを庇うように抱え、エレナは周囲に展開していた銀の檻を掴み、吸収していた。

 無事、だ。

「はっ、はっ、はっ、なん、で……?」
「……、っ、マリス……!?」
 アキラは剣を仕舞い、銀の景色の向こうから現れたマリスの身体を抱きかかえた。
 足元はふらつき、纏った漆黒のマントもボロボロになったマリスの身体は、異常なまでに軽い。
 だが、倒れかけているマリスが全体重をかけていることは分かった。

「なんで……、無事……、なん、すか?」
「……?」
 マリスがここまで困惑した表情を、アキラは初めて見たかもしれない。
 だが、アキラは何が起こったのか分からなかった。

 自分に浮かんだ疑念に捉われている最中、途端周囲に銀の檻が展開された。
 その銀の攻撃をイオリが防ぎ切ったあと、マリスが憔悴して現れたのだ。

 あの、無敵のマリスが。

 幻想的な“魔法使い”同士の戦い。
 その途端、自分たちが攻撃対象になって確かに焦りはした。
 だが、ここにいる面々からすれば、対処できない攻撃ではない。
 エレナなど、魔力が枯渇していても、かえって吸収できると楽々消滅させた攻撃だ。
 それなのに、何故マリスは血相を変えてこの場に現れたのか。
 それも、わざわざ敵の攻撃に飛び込んで。

「!! あんた、今すぐ休みなさい!!」
 僅かなりとも魔力を回復させたエレナが、アキラの腕の中で震えるマリスに怒鳴りつけた。
 そして、その衝撃を受けたかのように、銀に輝く天井から小さな子石が落ちてくる。

 まさか、これは、

「あはははははっ!!」
「……!」
 アキラはびくりと身体を振るわせた。

「嵌った、嵌ったわ……!!」

 銀に輝く広間の対面、突如高らかに笑い出したサーシャの表情は、異常なまでに醜く見えた。
 耳触りに響く、サーシャの笑い声。

「そうよねぇ……、そうよねぇ……、“雑魚は守らないと”……、あはははははっ!!」

 そこでようやく、アキラはサーシャの狙いに気づけた。
 そして、マリスの状況も。

 自分の腕の中で荒い息遣いを繰り返すマリス。

 彼女は、限界だ。

「……! そういうことか……!!」
 イオリは一歩前へ出て、サーシャを睨む。

 イオリも、気づいたようだ。
 サーシャの狙いに。

 この洞窟内で、エリーに秘術を行わせたのは、引くわけにはいかない“ゴール”を作るため。
 カトールの民に依頼を作らせたのは、時間差でこの場に呼び込むため。
 挑発的に話していたのも、“彼女”をたきつけるため。

 全部が全部、

「“マリサスが狙い”だったのか……!!」
「そうよ?」
 またもあっさりと、サーシャは肯定した。

「ふふふ……、“このフリオール”、切っちゃだめよ……?」
「っ、」
 アキラの足元に、再び天井から小石が落ちてきた。

 今この洞窟で、自然物の落下はあり得ない。
 ゆえにこれは、術者の魔法が完全な形で発動できていないことを現わしている。

「っ、あのときは……、テストか……!!」
 サクが刀に手を当て、目付きを鋭くした。
 彼女の脳裏に、以前受けた依頼が思い起こされる。

 突如洞窟が崩れたあの依頼。
 同じようにマリスが支えたあのときの事態は、

「ええ……、“限界値”を知るため」
 サーシャは高揚しきった顔で言葉を紡いだ。
 熟練者には、表情や感覚で、相手の残存魔力をおおよそ察することができる。
 マリスに広域の魔力を発動させ、あとは比率計算だ。

 アキラたちが、無意識のうちに持っていた、前提。
 それは、マリスの魔力が無尽蔵であるというもの。

 だが、彼女に不可能な魔法があるように、マリスにも当然、限界がある。

「もうっ、さいっこうっ!! 自分が作った大がかりな舞台で……、誰かが自分の思い通りに動く……。それが、そういう優秀な子だと、もうっ、」
「っ、」
 アキラは腕の中で、マリスの身体が震えているのを感じた。
 初めてだ。
 マリスが、ここまで悔しそうにしているのは。

「さあ、優秀なマリサスちゃん? 続けましょう? “そんな人たちには、私は倒せない”んでしょう?」
「―――っ、」
 ギリ、と、マリスの口から歯の音が鳴った。
 マリスはサーシャの言葉を聞きながらも、洞窟内を銀の光で保ち続ける。

 ここまで大規模な魔力だ。
 その上、マリス本人も負担が大きいと言っていた、月輪属性の魔法、フリオール。

 これを継続しながら、マリスは一人、サーシャと戦っていた。

 そして、先ほどの、マリスの行動。
 がむしゃらに相手の魔法に飛び込んだ彼女は、肉体的にも負傷している。

 それは、やはり、サーシャが、

「“囁いた”な……!!」
 サクが声を出したところで、アキラは再び、腕の中のマリスを見下ろした。
 銀の長髪の下、俯いたマリスの表情は見えない。
 だが、身体は、震え続けている。

「そうよ? あなたたちがその子と比べて絶望的に弱いから……、その子の責任感に、ね」
「っ、」
「自覚あったんでしょ? 雑魚の守護してやってる、ってさぁ」

 サーシャは醜い笑みを止めない。
 今、彼女の罠はマリスを完全に呑み込んだのだ。

「っ、」
 マリスの口元から、再びギリ、と音が聞こえてくる。

 マリスは今、一人で戦っていた。
 それこそアキラたちを、事件に巻き込まれた一般人のように見なして。
 そのせいで、マリスは他人を庇うような真似をすることになった。

 タイローン大樹海や、この避難所を進む途中の魔物との戦い。
 洞窟総てを支える魔法。
 ルーファングとの戦闘。
 戦闘後のアキラたちや、エリーの治療。
 そして、サーシャとの連戦。

 マリスに負担がかかり続けた今、彼女は窮地に追い込まれている。
 それなのに、彼女は戦うことを止めなかった。

 洞窟を支える任をこなしながら。
 マリスのそういう戦いを、アキラは何度も見た。
 巨大マーチュのときも、マザースフィアのときも、マリスは単騎で敵を滅していたのだ。

 それが今、再び起こった。

 自分たちは、強くなっているはずなのに。

 マリスは自分たちを、全く信用していない。
 見下している、と言い換えられるだろう―――

「……?」
「……、へぇ……、気づけるんだ。日輪属性は便利ね」
「っ、てめぇ……!!」

 アキラは怒りそのままに、怒号を上げた。
 今、自分に浮かんだ黒い思考。
 それが“囁かれた”ものだと知り、頭に再び血が上っていく。

 まるで連想ゲームだ。
 物事に表と裏がある以上、それを通して黒い思考に辿り着く。

 そうした人間を見ることで、サーシャの欲は満たされるのだろう。

「“支配欲”」
 サーシャはもう一度、自分の欲を口にした。

「思い悩んで……、見つける黒い答え。それが、まさか他人に操作されたとは思わないで進んでいく……。操るのは、最高の快感」

 アキラは頭を振り、サーシャを睨みつけた。
 僅かに浮かんだマリスへの嫌悪も、同時に打ち消す。

 これをマリスもされたのだ。
 相手をコントロールできるという、快楽。

 それが、サーシャの“支配欲”。

「さ? どうするの? 今逃げ帰れば……、間に合うんじゃない?」
「っ、」

 マリスが動けない、現状。
 この洞窟は、いつ崩れてもおかしくない。

 これが、サーシャが“リロックストーン”で現れた理由だ。
 彼女はいつでも、この洞窟を去ることができる。

 エレナは僅かに回復したとはいえ、未だ戦闘域には達していない。
 ティアはエリーの治療がある。

 現状、戦えるのは、アキラとイオリ、そしてサク。
 マリスの攻撃に耐え切られたように、彼女に守りに徹されればタイムオーバーだ。

「逃げてもいいわよ? 楽しめたしね」

 これはサーシャの挑発だ。
 彼女の狙いは、こちらの全滅。
 この挑発的な言葉も、マリスがそうしてしまったように、後先考えずこの場に居残らせるため。

 そんなことは分かっている。

 だが、どうあっても、

「……、イオリ。“一度くらいは見たい”って言ってたよな……!!」
「……! アキラ?」
 もう駄目だ。
 アキラは手のひらを広げた。

 口ぶりからして、あの魔族はこちらの“最強カード”を知らない。
 よもやノータイムで自己を抹消する力があるとは、サーシャも思っていないだろう。

 エリーの前だからとか、最早どうでもいい。

 あの魔族は、ここで、

「殺す」
「?」
 サーシャを睨みつけたまま、アキラは底冷えするような声を発する。
 弱ったマリスをサクに預け、一歩前へ踏み出した。

「あいつが爆発したら、どうなるんだろうな……?」
 アキラの手のひらが、オレンジの光を放ち始める。

 身体中が、手のひらから漏れ出した熱に温められる。

 久しぶりの感触だ。
 やはりこの力には、絶大な信頼を寄せていい。

「なに……?」
 サーシャの表情が、僅かに強張る。
 アキラはそれに、変わらず乾いた表情を向け続けた。

 マリスさえも退けた魔族、サーシャ。
 その力は、常軌を逸しているのだろう。

 だが、今から始まるのは単純作業。
 何の問題もない。

「……、見せてくれるの? 勇者様のち、か、ら」
「ああ。それがお前の最期の光景―――っ、」

 挑発的な表情を取り作ったサーシャを睨み、手を輝かせ続けるアキラ。
 その、アキラの上着の裾が、つん、と引かれた。

 思わず振り返れば、サクに支えられていたマリスが、顔を伏せながらだぼだぼのマントから腕を伸ばしている。

「マリス?」
「……いいっすよ、にーさん」
「……!」
 マリスはふらつく足取りでサクから離れると、よろよろとアキラに並び、サーシャと対面する。

「あら、いいの? 崩れちゃうわよ?」
「……にーさん、自分、本当にそういうつもりじゃないんす……」
 サーシャの挑発を無視し、マリスは顔を伏せながら、ぼそぼそと呟いた。

「誰かと組むのが……、向いてないことは分かってるんす……。自分で倒した方が、絶対に早いから……。でも……、でも、見下してるとかは、」
「あ、ああ……、分かってるよ」

 アキラの怒りは、また、マリスに止められた。
 エリーがアキラを衝動的に動かせる少女だとすれば、マリスは逆に、アキラを落ち着かせる少女だ。

「みんなも……、分かって欲しいっす……。“自分が異常”。それは分かってるんす」
「……、」
 弱々しいマリスの言葉は、全員に届いた。
 だが誰も、声を出さない。

 初めて、マリスの悩みを見た。
 さっきから、アキラにとって初めてのことだらけだ。
 これは、自分がマリスに少しでも近づけたからだろうか。

「だから、にーさん、」
「……!」
 マリスは伏せていた顔を、そのままゆっくりサーシャに向けた。
 アキラはそれを横から見て、身体を震わす。

 マリスは、疲弊し切っているのではなかったのだろうか。
 マリスの半分の眼は、今度こそ完全に冷え切っていた。

「今からの“これ”は、にーさんたちを信用してないんじゃなくて……、」
「マ……、マリス……?」
 ぞわっ、とアキラの身体が一気に冷える。

 今日一番の恐怖だ。
 銀に輝く洞窟内。
 この場の主賓は、やはり、マリスなのだ。

「“これ”は、個人的な報復なんす」
 マリスは右手をゆっくりとサーシャに突き出した。

 煌々と、強く輝くその小さな手のひら。
 一瞬、魔術攻撃と誤認したサーシャが身構えるも、漏れた銀の光はそのまま放たれず、マリスの手の中に留まり続ける。

 彼女は、アキラがそうしようとしたように。

 サーシャを一撃で滅するつもりだ。

「まさ、か、」
「っ、アキラ、離れよう!!」
 イオリが即座にその事態を察し、マリスの真横に立っていたアキラの身体を引き寄せる。
 アキラも、その場に立っていることの危険性は理解できた。

「―――」
 マリスの手から漏れる、膨大な月輪属性の魔力。
 それが、徐々に“何か”を形作っていく。

 アキラは、そういう動きをする魔力を、自分の手のひらで何度も見た。

 あれは、

「“具現化”……!! できるとは思ってたけど……、」
 エレナの声は、遠くに聞こえた。

 マリスの動作は、それだけを、アキラの脳裏に刻んでいく。

 そうだ。
 自分にできて、彼女にできないわけがない。

 マリスもまた、自分で認識している通り、“チート”と呼ばれる力を有している。

「―――、」
 マリスが、自分の手に留まる光を強く掴んだ。
 それと同時、洞窟内に爆ぜるのは、壁を覆い尽くす彼女自身の光と比べても、澄んだシルバーカラー。

 握り締めたマリスの右手。
 そこには、彼女の身の丈を超す長い杖が握られていた。

 長い柄の色は、白銀。
 その先端には左右対称に、天使のような純白の翼が広がっている。
 それを槍に例えるのなら、純白な翼の中間、刃の部分には、三日月を模した鋭利な深い銀の鎌。
 だが、そんな刃物すら、この場の誰の頭にも警鐘を鳴らすおびただしい量の魔力の前では、装飾品以外の意味を持たない。

 綺麗、だ。

 アキラは淡白に、そんな感想しか浮かべられなかった。

 精緻な造りのその杖。
 それはあまりに精巧で、何よりも強く輝く。

「レゴルトランド」

 これが、マリスの具現化。
 アキラに取って、自分以外のそれを見たのは初めてだ。

 マリスは言っていた。
 普通の杖では自分の魔力に耐えきれずすぐに壊れる、と。
 あの杖こそが、彼女の魔力を受けても損壊しない唯一無二のマリスの武器。

「……、」
 誰の目をも奪うその芸術品。
 だがマリスは、長年連れ添ったそれに特別な視線も送らず、その三日月の刃をサーシャに向けた。

「……、“固定ダメージタイプ”?」
「違うっすよ。“魔力依存型”っす」
 マリスはサーシャの問いに、あっさりと返す。

 その、なんとでもないような口調は、普段のマリスと同じだった。
 完全に、戦闘が終わっていると確信しているように、マリスは半分の眼をサーシャに向け続ける。

「あっさり言ってるけど……、それじゃ意味ないこと分かってる?」

 マリスの異様な雰囲気に気圧されながらも、サーシャは表情を再び取り作った。
 マリスには、彼女の余裕も分かる。

 自分は限界。
 サーシャにはまだ余力がある。

 いかに具現化といっても、爆発的に強くなるわけではない。
 アキラは例外中の例外だ。
 あくまで自分の実力の範疇で、自分が最も必要とする武具が形作られるだけ。
 “固定ダメージタイプ”でもなければ、術者の危機を覆すことにはならない。

 だが、

「これでいいんすよ……。魔力なら、“あるじゃないっすか”」
 マリスは表情を変えず、小さく返した。

「―――、」
 サーシャはマリスの杖のように、腕を向けてきた。
 あの場から動けない彼女にとって、正体不明の杖を向けられるプレッシャーは強いのだろう。
 そして、マリスを倒せば、今すぐにでもこの洞窟は崩壊する。

 どの道、彼女は攻撃してくるだろう。

「―――、ディアロード」

 マリスの半分の眼が向いている先、杖の先の向こう、銀の棒が再び大量に展開した。
 先ほどマリスが彼女にそうしていたように、あらゆる上下左右あらゆる角度から先を向けてくる。

 彼女の狙いは、杖を構えたままのマリス。
 数多の銀の棒が、マリスを取り囲むように撃ち放たれてきた。
 流星群のように、走る光。
 その終着点は、たった一つ。

「……、」

 この銀一色の世界で、マリスを包囲した、サーシャの“魔法”の群れ。
 ぎらつく、怪しげな銀。

 それは、

「―――、」

 一振り。
 マリスが軽々とその杖を振った瞬間、消え去った。
 純白な翼の装飾に触れた矢は、呑み込まれたように洞窟内から消滅する。
 再び鮮やかな銀の世界に戻った洞窟内。
 そこで、サーシャの表情が変わった。

 彼女は理解したのだろう。
 自分が放った“魔法”が、一体どこに消えたのかを。

「……、……、にーさんたちから貰おうと思ってたんすけど……、もう、十分っすね」
「……!」

 マリスは小さく呟いた。
 そして再び杖の先を、サーシャに向ける。

 一歩も動かず、それだけの動作を行ったマリス。
 サーシャの攻撃でも、何も起こらなかった。

 変わらない、状況。

 だが、一つだけ、変化があった。

 マリスの持つ、杖の先端。
 その三日月が膨らみ、満月に近づいている。

「……、」
 それを背後で見ていただけのアキラも何が起きたのかを理解した。

 “パターン”だ。
 あの芸術品が起こしたリアクションは。
 それは、アキラにとって当然の事態のようにも思える。

 マリスの杖は、あのサーシャの魔力を、“吸収したのだ”。

「エレねーみたいに自分の力には変えられないっすけど……、杖の力には変えられるんすよ」
「―――!!」

 マリスの杖の先端、最早半月と化したそれが、煌々と輝き出す。
 サーシャに向きながら、ヂヂヂとスパークしながら光を漏らす半月。

 そこまでくれば、サーシャも総てを理解した。

「レゴルトランドは“魔力ブースター”。少ない魔力でも、十分“殺せる”―――」
「っ―――」

 サーシャの視線が、自分の足元の石に走った。
 それを眺めるマリスは、無表情のまま、言葉を紡ぐ。

「レイディー」
「―――、」

 マリスの杖から光が放たれる刹那、サーシャが足元のリロックストーンを全力で踏みつけるのが、アキラには見えた。

 その直後、圧縮された鋭い銀の矢が、たかが低級魔術のそれが、洞窟の銀の岩盤を撃ち抜いた。
 アキラの世界を飲み込むような巨大な砲撃とは違い、槍のように細い、まるでレーザーのようなその一閃。
 その一撃は、ベックベルン山脈そのものを撃ち抜いたかもしれない。

「……、逃げられた……、っすね」
 マリスはゆっくり、先端が三日月に戻った杖を下ろした。
 いつぞやのエレナのように冷え切らせた半分の眼。
 それを、砕けて大地に溶けるように消えていくリロックストーンに向けたまま、

「戻った方がいいっす。流石にそろそろ、支え切れない」

 自分の銀一色になった世界で、小さく呟いた。

―――**―――

「―――」

 “それ”を聞いたのは、久しぶりだった。

 魔族サーシャを退け、戻ってきた町、カーバックルの宿舎。
 月明かりだけが窓から差し込める自室で、アキラはゆっくりと目を開けた。
 今までまどろんでいたベッドの上に別れを告げて、立ち上がる。

 暗闇に慣れた目で、無表情なままドアに向かう。
 机とベッドだけで埋まる、華やかさがほとんどない、狭く質素な、寝るためだけの部屋。
 ギギギ、というドアの建てつけの悪さもどこか遠くに聞き、アキラは部屋を出た。

 魔王の牙城の傍ということもあり、やはりこの町は、宿泊に力を入れていないらしい。

「―――……」

 同じように歩くだけで音が鳴るような木製の廊下を歩き、階段を見つける。
 誘われるように、アキラは上りの階段を選択し、重い足を一つ一つ持ち上げていく。

 三階の客室を超え、四階の関係者以外立ち入り禁止の部屋を超え、辿り着いたのは外への出口。
 両開きの扉の片方が半開きになって、月光を暗い階段に入れている。

 頬をくすぐる、外気。
 ここから、屋上につながっているのかもしれない。

「……―――」

 アキラはそれを開け、屋上に出た。

 “それ”は、歌声は、どんどん近付いてくる。

「―――、」

 屋上に出ると、少女が、いた。

 小さく胸の前で手を合わせ、屋上の縁に登り、すっと広がる町並みを見下ろしながら。
 彼女は透き通るような声で歌っていた。
 髪ごと羽織った漆黒のマントをはためかせ、町の中央にある、天高くそびえる塔に正面から向き合い、月下で、祈るように。

 こんな光景を、アキラは何度、見たのだろう。

「…………、うるさかった……、っすか?」
「……、いや、」

 夜の闇に溶けるような声を止め、彼女は振り返った。
 その半分の眼を、月光が染める。
 申し訳ないようなその言葉に、アキラは、心から否定した。

「マリス」
「……、」

 アキラが名を呼ぶと、マリスはまるで重力など感じていないようにふわりと縁から降り立った。
 そしてとぼとぼアキラに歩み寄り、扉の横の壁に座り込む。
 アキラもあのときと同じように、その右隣に座った。

「マント、直ったのか?」
「いや、買ってきたんす。魔術で編まれた法衣……。そういう店が、遅くまでやってて良かったすよ」

 マリスはマントに僅かに視線を向け、再びのんびりと塔を眺めた。
 リビリスアークを模したというこの町にも、その塔は、高くそびえている。

「……、あいつは、大丈夫だってさ。今、エレナたちが看てる」
「……そうっすか」

 ほっと、マリスは安堵のため息を吐き出した。
 やはり、マリスはエリーの部屋に戻っていないようだ。

「……、」
 マリスは、“魔族”、サーシャ=クロラインを退け、町に戻ってきてから、別行動をしていた。
 疲弊しているというのに、いつも通り、何を考えているか分かりにくい無表情のまま。
 戦闘でボロボロになった身なりを整えるためゆえと言っていたが、アキラも、そして他の面々も、どこか彼女の心情を察していた。

 彼女は、はっきりと、自分を“異常”だと言い放ったのだ。

「……、あの唄、何なんだ?」
「?」
「いや、よく歌ってるけど……、その、綺麗だな、って思ってさ」

 アキラは視線を塔に向けたまま、小さく呟いた。
 マリスがよく歌っている、あの唄。

 この世界に来て、最初に聞いたものだ。
 旅に出て、宿舎に滞在しているときには、流石に迷惑を考えて歌っていないようだが、アキラには、いついかなるときに聞いても心地よく思える。

「“おまじない”っすよ」
「おまじない?」
「“いつこうなってしまったんだろう”……。そういうときに、歌う、唄」

 マリスの口調は変わらない。
 だが、やはり、身近な者には感じられる、変化があった。

 町の東に位置するこの宿舎。
 巨大な満月の下、そこから眺める中心の塔の向こう、遥か西には険しくそびえるベックベルン山脈がある。
 そこにある“避難所”は今、完全に崩れ去っていた。

 マリスが“魔法”で捻じ曲げた、その運命を受け入れて。

「……、本当は、使いたくなかったんす」
「……、」

 極力意識しないようにしていたもの。
 それを、マリスの方から口にした。

「“具現化”。あの杖は、エレねーも回復できないくらい小さな魔力でも、あんな威力に変えられる」
「……、」

 今日初めて見た、マリスの“具現化”。
 レゴルトランドという、芸術品を思わせる、あの銀の杖。
 それからは、まさに“不可能”という概念を超越している可能性すら感じられた。

「特に、ねーさんの前では使いたくなかったっす」
「……、」

 今日の出来事。
 あの、人の悩みに“囁いて”、人を支配するサーシャ=クロラインは、エリーのコンプレックスにつけ込んだ。
 だが、例え“そう”であったとしても、その悩みは、やはりマリスが創ったものだ。

 マリスは悪くない。
 そして、エリーがそう思うことは、きっと悪くない。

 だが、今回は、たまたまそれが負に働いてしまっただけだろう。

「エレねーも、きっと“それ”ができる。でも、多分我慢してた。自分は、無理だったっす」
「……、いや、流石にあれは、俺も無理だった」

 アキラは、心の底から言葉を吐き出した。
 結局、自分でリロックストーンを破壊して逃げたサーシャ。
 あの挑発的な顔を思い出すだけでも、身体は震え、何かを八つ裂きにしたい衝動に駆られる。

「……でも、自分一人の力で倒したいって思ったのは、本当っすよ」
「……、」

 戦闘中、マリスも囁かれた。
 やはり、マリスが言いたいことは、それのようだ。

 超絶的な力を持つマリスは、自己解決能力が著しく高い。
 それゆえに、他人の力など、緊急時にすら思い起こされないのだろう。

「……、マリス、“分かってる”」
「……、」
「いや、その、な、」

 口にして、アキラは自己嫌悪に取りつかれた。
 これはやはり、触れてはならない部分だ。

 自分たちは今日、マリスに完全に守られた。
 サーシャの策略にはまり、危機に陥ったマリス。
 だがその状況すら、マリスは強引に跳ね返した。

 完全な力押し。
 そこに、他人が介入する余地はなかった。

 自分たちは、マリスに守られている。
 マリスも、心のどこかで、そう思っている。

 だがそれを、どちらか一方でも口にしたら、仲間として成り立たないのだろう。
 はっきりさせてはならないこと。
 やはりそれは、存在するのだ。

 今回サーシャは、その部分に触れた。
 メンバーの力に、大きな差がある現状。

 そのデリケートな部分は、きっと、この面々のアキレス腱なのだ。

 もっと長く旅を続けていれば、それは薄れていっただろう。
 だが、もう、その旅は終わる。

 この、“はっきりさせてはいけないこと”は、それだけに、胸に重く積もっていく。

「マリスは、強い。でも、それでいいと思う」
「……、」

 拙い言葉で、アキラは“それ”を刺激しないように口を開いた。
 マリスもそれを、黙って聞く。

 最強の仲間がいる。
 それ自体は、今まで思っていたように、いいことのはずだ。

 メンバー内の、最強と最弱を行き来する自分。
 いかなるものでも照らす、照らしてしまう、日輪属性の自分。

 きっと、自分の仕事は、誰しもが触れたがらないその部分に、入っていくことなのだとアキラは思った。

「マリスがルーファングと戦ってたとき……、マリスが必要だって思ったし、」
「……、」

 何もできなかったあの、巨獣との戦い。
 サーシャとの戦いの前哨戦。

 アキラは心のどこかで、この場にいることを間違えたような想いが浮かんでいた。
 昔、何かのRPGで、世界を自在に行き来できる移動手段を手に入れ、大分先のダンジョンに迷い込んでしまったときのことを思い出す。
 歩いているだけでエンカウントしてしまう、圧倒的強さの敵。

 そこで、アキラの操る主人公たちは、あっさりと全滅した。
 そんな感覚。

 だが、今日。
 エレナが呟いたように、マリスがいて、本当に助かった。
 これならば、迷わず魔王の牙城に攻め込めると思えたのだ。

「マリスは、やっぱり必要だって思った」
「……、」

 たどたどしく、思ったまま、言葉を吐き出す。
 “バグ”だろうが、世界の陰りだろうが、マリスは、いなければならない存在。

 その想いを乗せた、曖昧な言葉は、はたしてマリスに届いただろうか。
 マリスは半開きの眼を、塔に向けたままだった。

「……、にーさん」
「?」
「にーさんの夢って……、相変わらず“アレ”なんすか?」
「……、っ、」

 マリスが視線を変えないまま呟いた言葉に虚を突かれたアキラは、僅かに思考を止めた。
 そして、胃が痛くなる。

 最近、幸いにも話題にならなかった、アキラの夢。
 マリスも知るそれは、あまり刺激して欲しくない、ハーレムを目指すという戯けた夢だ。

「……、あ、ああ、」
 それきり黙り込んだマリスに、アキラは渋々肯定を返す。
 話題を変えるにしても、あまり声を大にして言いたくないものは、アキラにとって、ある意味この“勇者様御一行”の現状より“はっきりさせたくないこと”だったりする。

「なんで、」
「……、」
「なんで、ハーレムがいいんすか?」

 はっきり“それ”を口に出して聞いてきたマリスに、アキラは目を伏せた。
 笑われるか馬鹿にされるかの“それ”の理由を、聞かれたのは初めてだ。
 というより、興味を持たれたのが初めて、というべきか。

 男の夢。
 そう言ってしまえば、一言だ。
 だが、きっと、自分は、

「……、元の世界の話になるんだけどさ……、」

 正直、理論的でもなんでもない。
 とってつけたような空想話の方が、まだ美しいとアキラは思う。
 だが、きっと、あれが理由なのだ。

「俺の母親……、料理教室やってたんだ。家を改造して、趣味みたいに」

 まな板の音や、水がボウルに溜まる音にレンジの音。
 それは、幼いアキラの耳にもよく残っている。

 改造したダイニングキッチンの奥のソファーで、近所の主婦たちの背中越しに、母親の授業を分かりもしないのに行儀よく聞いていた。

「そこの生徒に、アカリさんって人がいて、よく遊んでもらってたんだ。授業そっちのけで」

 短い髪に、子供のように笑ったときに見える白い歯が特徴的な女性。
 当時あまり理解できなかったが、大学を卒業したばかりで、家業を手伝っていたそうだ。
 その余暇を利用して、料理を習いに来ていたらしい。

 もしかしたらアキラの初恋も、彼女だったのかもしれないというほど、輝いた女性だった。

「母親も、俺の世話を任せられて……、アカリさんは生徒の中で一番親しかった。一緒に遊びに行ったり……、妹みたいに思ってたかも」

 本当に、面白い人だった。
 子供心に、いつでも笑う人は素敵だと感じていたのを思い出す。
 アキラのせいで、料理の方はからっきしだったのだが、彼女もそれに満足していたようだった。

「その、アカリさん、って人がどうかしたんすか?」
「……、」
 マリスに促されて、アキラは追憶を続けた。

 部屋の中の景色のせいで、天気も季節も思い出せないが、“それ”が起きたとき、確か、母親はお菓子を教えていたような気がする。

「俺の親父、特殊な仕事しててさ……、よく、家にいたんだ。それで、たまたま時間が開いたのか、気まぐれで教室に入って来たんだよ」

 明るくも礼儀正しいアカリとは、すぐに打ち解けたようだった。
 それから、ソファーに座って遊んでいたアキラを挟んで、アキラの父がアカリと話す光景を見るのが増える。

 ときにはアキラを連れて、授業中だというのに外に遊びに行ったこともあった。
 ときにはアキラを連れて、仕事部屋の掃除をしたこともあった。

 どうやら彼女が大学で専攻していたものが、父親の仕事と似通った部分があったらしく、よく気が合っていたように思える。

 その難しい話は、当時のアキラには、というより今でさえ、理解できなかった。
 だが、当時の自分は、アカリと遊ぶ時間が削られることより、近寄れなかった父親の仕事部屋に入れたことに何か達成感のようなものを覚えていたように思う。

 そしてまるで、家族が一人増えたように、自分と父と母、そしてアカリの四人で出かけることも多くなった。

 そして、ときには。
 父とアカリの二人で、どこかに出かけていたらしい。

 だがそれでも、それはキラキラと輝いていたと思えた。

「……、まさか、」
「……、いや……、まあ、そうなんだけど、」

 マリスは当然、察したようだ。
 だがアキラは、言葉を続ける。

 どうせ、ここまで話してしまったんだ。

 アカリと父が親しくなってから、どれくらいの時間が経っただろう。
 夜、父親が出かけている日、アキラは母親にそれとなく聞かれた。

 普段、自分がいないとき、父とアカリはどうなのか、と。

 アキラは何も考えず、事実を伝えた。
 とても仲がいい、と。

 それだけで背を向けた母親に、アキラは多分、何か静止の意味を持つ言葉をかけた気がする。
 『待って』か『止めて』か。
 それは分からない。
 だが、子供心に、何か、危険な匂いを感じた。

 そして、母親からの返答は、『無理』。
 それだけは、耳に残って覚えている。

 次にアカリに会ったとき、あの輝くように笑う彼女は、泣いていた。
 いるように言われた寝室から抜け出して、ガラスの戸から中を覗いた光景。
 母親がアカリと、それに並ぶ父親に、何かを怒鳴っていたのを覚えている。

 そして、アカリを見たのはそれが最後だった。

「ぶっちゃけて言うと、不倫、だった。しばらくして、俺の親、離婚したんだ。それで俺は、どっちの子になるのかって聞かれた」
「……、どうしたんすか?」
「親父、って答えたよ。母親が、いろいろ壊したんだって思ってさ」

 どんな説明を受けても、アキラは答えを変えなかった。
 何を言われても、キラキラと輝いていた景色を壊した犯人が、母親だと確信していたのだから。

 キラキラと輝いていた、あの場所。
 だが、陰りは潜んでいた。

 儚い景色。

 無邪気の喜んでいた自分。
 だけどそれは、少し深追いしただけで壊れるほど、本当に、儚かった。

 父親に引き取られてから、母親にも、アカリにも会っていない。
 元の世界では、父親との二人暮らしだ。
 アカリは流石に事態が事態で、アキラたちに近寄るのを止めたようだった。

「正直今思うと、親父が悪い。だけど、今さら言えない。離婚したあと、母親の悪口を言っていた俺を、すごい剣幕で怒ってたから、なおさら、な、……どうした?」
「いや、そんな重い話が飛び出してくるとは思ってなかったんすよ」
「……悪い」

 別に幼少時代、重い傷を心に受けたわけでもない。
 トラウマではないのだ。
 そのときは、楽観していたのだから。

 気づかないまま、いろいろ終わっていた。

 そんな話をされて、リアクションを取れという方が無茶だ。

「でも、」
 アキラは塔を眺めたまま、ただただ呟く。

「俺は親父を選んだ。みんなで仲良くしてれば良かったのに、って。それから何となく、そう思うようになったんだよ」

 幼少時代、無垢に信じたものとは恐ろしい。
 心に刻まれたそれは、そう簡単には覆されないのだ。

 深追いせず、ただ、笑う。
 それが、アキラにとって遠くに在る、輝いた世界。

 追い過ぎると、どんなものでも、陰る。
 だから、それでいいのだと、やはり今も、アキラは思う。

「……、血じゃないっすか?」
「……言うと思った。でも、今さら、な」
「……、」

 マリスは半分の眼を伏せ、ようやく、塔から視線をアキラに移してきた。
 アキラもそれを見返す。

 この距離だと、やはりマリスの香りが鼻をくすぐるようだった。

「にーさん、それ、変わってないんすか?」
「……、だから、今さら、な、」
「でも、……、」
 マリスはゆっくりと目を伏せ、そして沈黙する。
 アキラも言葉を出さず、音が消え去った。

 満月の下での会話は、あまりに静かだ。

「……、もし、」
「?」

 マリスはようやく口を開いた。

「もし、自分が秘術を受けようとしたら、にーさん止めてくれるっすか?」
「……、え?」
 マリスの話は、再び飛躍した。
 アキラはそれに、間の抜けた声しか出せない。

「だから、今日みたいに、必死に、わき目も振らず、」
「……、いや、マリスは必要ないだろ?」
「……、」

 マリスは、そこで立ち上がった。
 アキラはそれに、声を出さない。
 ただ、座ったまま。

 この身体が動かないのは、本当はマリスの言っていることが分かってしまったからかもしれない。

「にーさん、」
「……、」

 マリスは立ったまま、半分の眼でアキラを見下ろす。
 満月を背にした彼女は、透き通るように見えた。

「できれば自分は、太陽は月だけを照らして欲しい」

 マリスの口調はいつも通りなのに、何かが違った。

「でも、他の星も、きっとそう思ってる」

 自惚れかもしれないが、アキラには、マリスの言葉が理解できた。
 だが、何故か喉が潰れて、何も吐き出せない。

 “それ”をすると、輝きから遠ざかるというのは、刻みこまれていた。
 アキラの中で、条件反射ができ上がってしまっている。

 だけど、マリスのその言葉だけで、何かが壊れるような感覚を味わった。

「にーさん、話してくれてありがとう。自分は、もう寝るっす。流石に、眠いっすし、」
「あ、ああ、お疲れ、」
 多分、今一緒に降りることは、マリスが望んでいない。

 アキラはその背中を、座ったままで見送った。

「……、」
 一人残った屋上で、アキラは巨大な満月を見上げた。
 まるで、太陽がそれしか照らしていないような錯覚さえ起こす。

 だが、視線を変えれば、数多の星が空を輝かせていた。

 太陽は、一体、何をやっているのだろう。

「……―――、」
 何となく、アキラはマリスの歌を口ずさんでいた。

 “いつこうなってしまったんだろう”。
 そんなときに、歌うもの。

 適当な、音だけでの真似だ。
 何の言語かも分からない。

「―――……」

 本当に、太陽は、一体何をやっているのだろう。

「……、え、嘘、あんただったの……!?」
「っ、」

 びくりとして、アキラは歌を止めた。
 終わると思っていた、長い夜。

 その屋上に、同じ顔の少女が現れた。
 今、一番逢いたくない女性かもしれない。

「っ、っ、おっ、おまっ、」
「……驚きすぎよ」

 白い布の服を身に纏い、現れた少女、エリーはアキラの右隣に座り込んだ。
 先ほどのマリスとは、反対側。

「唄。マリーだと思ってたのに……、って、そんなわけないか……。いたの?」
「……、あ、ああ、ついさっきまで、」

 しどろもどろになりながら、アキラは何とか返答する。

「お前、大丈夫なのかよ?」
「……ええ、もう。さっき目が覚めたばかりだから……、寝れなくて」

 ここにくるとやはりそうするものなのか、エリーの視線は高い塔に向いている。

「マリーに会いに来たんだけどね……、」
 そう言っても、エリーはそこから動かなかった。

 エリーが何気なく、手の甲で赤毛を肩から後ろに払う。
 その勢いが僅かに強く、肩までの髪がまくり上がった。

「……、お前、髪切った?」
「……、本当に見てないの?」
「?」
「……いいわ。良かった。……エレナさんに感謝しなきゃ」

 エリーは膝立てて、それを抱え込む。
 その静かな気配は、やはり双子の妹と瓜二つ。

 だが、アキラには、違って見えた。

「……全部聞いたわ」
「……、」
 先ほどのマリスと同じように、エリーの方から切り出した。
 同じく視線も外して、塔に向いている。

「目を覚ましたら、エレナさんがいて……、教えてくれた。あたし、ずっと“攻撃”されてたんだってね」
「……、」
 あまりにカラカラと、エリーは笑った。
 それがアキラには痛々しく感じ、乾いた表情しか浮かべられない。

「今思うと冗談じゃないわ……。死ぬなんて。あたしの夢は、孤児院を継いで、お母さんたちに楽をしてもらうことなんだから」
「……、でも、」

 その言葉を遮りたくて、アキラは口を開いた。
 こんな虚勢を張り続けるエリーは、あまりに、見ていられない。

「少しは思ってたろ……?」
「……、」
 エリーは言葉を止め、塔を眺め続けた。
 多分彼女は、その塔を見ていない。

「うん」

 アキラは、今日初めてエリーの声を聞いた気がした。
 何を言っているのだろう、自分は。
 多分そこは、触れていい部分ではない。

 だが、どうしても、口を開かずにはいられなかった。

「あんたに“具現化”使うなって言っといて、何やってるんだろうね、あたし」

 エリーは視線を地面に落とした。
 静かなエリー。
 やはりこのときの彼女は、“何か”を待っているのだ。

「悪かったな……、止められなくて」
「……別に、いいわよ。あたしが悪いんだし」

 不明確な、地に足を着けない会話。
 だが、それでもエリーには通じた。

「その、」
「?」

 アキラは頭を回転させる。
 今、彼女に何かを言わなければならない。
 彼女の悩みを和らげるような、何かを。
 エリーは今、沈んでいるのだから。

 落ち込む人を立ち直させるには、三つ、方法がある。

 一つ目は、その人物より高いところに立ち、聖者のように導くこと。
 二つ目は、その人物と同じところに立ち、親族のように支え合うこと。
 三つ目は、その人物より低いところに立ち、道化のように笑わせること。

「お、俺は、銃を使わない」

 道化は、卒業だ。

 アキラは何とか、ろくな言葉が浮かばない頭を鼓舞し、口をこじ開ける。
 彼女のその悩みを、どうしても、和らげたい。

「一緒に、その、強くなろう、ぜ?」

 気の利いた言葉は、言えなかった。
 あの洞窟内で浮かんだ想いを、ただ口にする。

 せめて自分は同じ位置にいるのだと、彼女に知ってもらいたい。

「だから、その、―――っ、」
「っ、」

 想いのまま、横を向いたアキラの眼前に、エリーの顔があった。
 彼女は地面から視線を移し、アキラを見上げていたようだ。

「……、」
「……、」

 月を映すエリーの瞳に、アキラはかすかに、自分も見つけた。
 彼女の瞳いっぱいに、自分がいる。
 顔色は分からないが、きっと、紅い。

 僅かにでも動けば、触れ合いそうな距離。
 マリスと違った、エリーの香りが鼻腔をくすぐる。
 暖かな体温が、伝わってくるようだった。
 口の中はカラカラだ。

 エリーは、動かない。

「……、」
 近い。
 肩はとっくに触れていた。
 鼓動が高まる。

 生気を取り戻し、紅くなっているエリーの唇が、本当に、近い。

 まるで、時が止まっているかのようだった。

 静かなエリーは、“何か”を待っているのだろうか。

 今、自分が見ているのは、“たった一人”―――

「……、っ、」

 アキラは、動かなかった。

「……、あ、危ない」
「っ!?」

 ペシリ、と、アキラの額にエリーの手のひらが当たった。

「か、顔近いわよ、あんた、」
「お、あ、ああ、悪い、っ、」
 エリーはアキラの額に体重をかけ、立ち上がった。
 そしてすたすたと歩き、ドアを背にして立ち止まる。

 顔は、見えない。

「あたし、マリー探すわ。お礼言わなきゃいけないし……。あんたにも、ありがとう。もう寝た方がいいわよ?」
「……あ、ああ、」

 聞こえただろうか。
 エリーは足早に、屋上から姿を消した。

「……、」
 今は、追えない。

 またも一人残された満月が照らす屋上。

 アキラは、またも何となく、口を開く。

「―――……、」

 “いつこうなってしまったんだろう”。



[12144] 第十五話『煉獄を視たことはあるか』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2011/06/19 20:54
 ―――**―――

「やっぱり、帰った方がいいですよ……!!」
「ええいっ、うるさい!!」
 弱音を吐き出すたび、前を行く男は怒鳴り返してきた。

 ようやくこの場に入り込めたというのに今帰るとは何事か。
 そんな言葉を、後続の男は何度も聞いた。

 汗が滴る。
 足は重い。
 徐々に強くなってきた土埃は、そろそろ本格的に砂嵐と名称できそうだ。
 埃と土で鼻が塞がり、ほとんど匂いも分からなかった。

 だが、体力と感覚が著しく削がれているとしても、確かに自分たちは何も成し遂げていない。
 この秘境に入るために買い込んだ食料や上着の費用も、馬鹿にならないのだから、前の男の言うことももっともだ。

―――ファクトル。

 すっぽりと頭から砂対策のフードを被った二人の男がいるのは、そんな名前のついた、“世界で最も危険な地帯”だった。

 足場は、油断すれば身動きが取れないような、ゴツゴツとした岩場。
 道、と形容できるかどうかは微妙だが、今歩いているだだっ広いここは、それを挟む岩山によって形作られている。
 その岩山に比べてしまえば狭いそこには、吹き込める風によって砂埃が常に巻き上がっていた。
 びゅうびゅう、と風が岩をかき鳴らし、人間と自然の力の差を感じさせるほど巨大な音色を奏でている。

 遥か上空から見れば、岩でできた迷路だろう。
 だがそれも、人の身に比すれば、スケールが違う。

 とにかくこの地域は、人間に開拓されておらず、自然なままでここに在った。

「ぜっっったい、まずいですって、こんな場所……!! 俺明日、当直だったのに……!!」
「馬鹿野郎!! 開拓されてないってことは、何か有るかもしれないだろ!!」
 その言葉は、確かに正しいかもしれない。
 とにかく、ここにまともな人間は近寄らない。

 裏を返せば、何を見つけても、それは“発見”となるのだ。

 貴重な鉱石や、古代の遺産。

 それらが“発見”される可能性は十分にあり、また、それは確かに一攫千金に成り得る。

 だが、見つかるのは、岩、岩、岩。
 そして、目も開けていられないほどの砂嵐。
 昼間だというのに、そのせいでどこか薄暗い。

 これでは、人間が近寄らない理由も分かる。

「大体っ!! どうするんですかっ!! こんな状態で魔物に遭ったら!!」
「お前は魔術師隊だろ!! 何とかしろっ!!」
「勘弁して下さいよ!! この場所に先輩入れたのばれたら、クビになるの俺なんですよ!?」
「だからお前にも半分やるって言ってんだろ!! それでトントンだ」

 完全に叫ばなければ声が届かなくなった現状。
 後続の男に返ってきたのは、無慈悲な言葉だった。

 学生時代の名残で、先頭を行く男には逆らえない。
 魔術師隊に入ってからも、後輩は、好奇心旺盛な先輩の気まぐれに付き合わされていた。
 だが、今回の職権乱用は、ここまで来てなんだが、恐い。

 場所が場所だ。
 何せ、この場所には、

「一匹!! 一匹でもいたら、帰るって約束ですよね!?」
「分かってる!!」

 分かってない。
 後輩は確信した。
 この先輩がそう言って、分かっていた試しがない。

 翌日仕事があるから夜には帰りたいと言っても、翌朝まで酒を付き合わされたこともあった。
 すぐに返して欲しいと言った金も、うやむやにされ、翌月会ったときにはすっかり忘れられていたこともあった。

 とにかく、先輩はそういう困った男なのだ。

 だが、今回は、強引に連れ込まれたここは、世界で一番危険な地帯。
 魔物のレベルも、先輩から被る迷惑も、ケタが違う。

 そもそもこの場所の魔術師隊の仕事は、後方支援が主たるものだ。
 魔物と戦うときも、一人で戦うことはほとんどない。
 “隊”として動くのだ。

 先輩は態度もでかく、体力もあるが、魔術の方はからっきし。
 すなわち、戦うのは自分一人なのだ。

 何度説明しても、先輩ははき違えているようだった。
 どうも、自分が飲みの席で漏らした、僅か一、二年で魔道士まで駆け上がったらしい人物の話がよくなかったらしい。

 だが、

「……、」

 後輩も、口ではそう言っていても、何となく、この場所に興味はあった。
 魔術師隊に配属されて、四年。
 この場所に入れる権限を持っているように、同期の中では一番の出世頭だ。

 自信も、ある程度はある。
 この激戦区の魔物を、倒したことは何度もあるのだ。
 もっとも、そのときは数人で行動していたが、自分一人でも解決できたかもしれない。

 そして、侵入を許されていないこの場所の魔物にも、自分は通用するだろう。

 だから、たった一匹。
 それだけなら、ちょっとした冒険で済む話だ。
 懲りない先輩に、少しは危険な目を合わせてみたいと思ったりもしている。

―――それが多分、よくなかったのだろう。

「……!! 何か、聞こえないか!?」
「え!?」

 先頭を行く先輩が、振り返って大声を上げた。

 聞こえない。
 聞こえるのは、厚い服を砂が叩く音と、岩にぶつかる風の音。

「……!」

 だが、僅かにでも集中すれば、規則的に、ズシン、ズシンと、地面が揺れていた。

「っ、魔物!!」
 後輩は、先輩を追い抜いて前に立った。
 余計な思考を頭の中か弾き出し、身体中に魔力を張り巡らせる。
 神経を尖らせ、砂嵐の中で何とか目をこじ開け、正面を睨んだ。

 日光さえ遮られる砂の舞う景色、その向こう、両脇の岩山が途切れている地点。
 そこから、

「―――!!?」

 ぬっ、と何かの影が顔を出した。

 土の向こう、僅かに見える、泥色の身体。
 巨大な顎は、岩山さえ飲み込むほど肥大し、そして重々しい。

 恐竜で言うところの、ティラノサウルスだ。
 二足歩行。
 両手は、胸の前で鋭い爪を携えている。

 その巨大な影は、その顔を、獲物二人に向けた。

「ガッ、ガルドン!? まさかっ、」
「逃げるぞ!!」

 一匹でも出現したら、逃げる。
 珍しくもそれを遵守した先輩に、後輩は何の異論も唱えず駆け出した。

 考えていた小さな思惑も、自分が持っていた小さな自信も、プライドも。
 何もかも投げ捨てただただ走る。

 いくら常識で測れない場所とはいえ、いきなりガルドンとは。
 自分たちは、この場所に入って間もないではないか。

 ズシン、ズシンと地を揺らし、その一歩で自分たちが歩いた幅を遥かに超越し、ガルドンは二人のいる“通路”に侵入してきた。
 足場はめくれ、巨大な体は岩山を削り、道なき道を“通行”してくる。
 荒れ果てた大地は、こうして形作られたのだろうか。
 振り返らずに走るも、その地響きの足音は、ずんずんと近づいてきた。

 息が上がる。
 足場の悪さに、体力が根こそぎ奪われる。
 足が、徐々に動かなくなっていく。

 やはり、興味本位で入ってはならない場所だった。

「ギッ、ガァァァアアアアーーーッ!!?」
「―――、っ、」

 最初、ガルドンは、雄叫びを上げたと思った。
 長い屈強な尾を振り回し、今すぐにでも頭から喰らわれると戦慄していた後輩は、限界に到達した足を止め、恐る恐る振り返る。

 どうも、ガルドンの声が、断末魔のように聞こえたのは、気のせいだろうか。

「―――!? せっ、先輩!!」

 同じように自分より一歩先で力尽きた先輩が、振り返り、そして、身体中の血の気を引かせた。
 きっと、“それ”を見上げる自分も同じ顔をしているだろう。

「っ、っ、っ、」

 見えたのは、巨大な山だった。
 いや、巨大と形容するのには、無理があるかもしれない。
 “巨大”は、人間が産み出した言葉でしかないものだ。
 “あれ”を形容した人間など、果たしているのだろうか。

 そして、それに背後から“噛みつかれ”、赤子のように振り回されているガンドル。
 身体を岩山に打ち付けられ、落石が酷い。
 すでにこと切れたガルドンは、今にも戦闘不能の爆発を起こすだろう。

「っ、っ、っ、」

 このファクトルの迷路を形作る険しい岩山と比べても、いや、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈と比べても、それは、あまりに、ケタが違う。

 砂嵐の向こうに見える、あまりにも巨大な影。
 見上げても見上げても、頂上を確認すらできない。
 その巨体で日光さえも完全に遮断し、世界は夜に塗り替えられた。

「……、か、“亀”……、」

 後輩は、その影を、そう形容した。
 頭の中で、総てが危険と示していく。

 だがそれは、その、四足歩行の常識外れの巨獣は、まさしく“亀”だった。
 足の一本一本が、ようやく“巨大”と形容できる。

 ここまでの接近に、何故気づかなかったのだろう。
 もしかしたら、自分が景色の一部と誤認していただけなのかもしれない。
 いや、景色ではない。
 “世界”の一部と、誤認していただけなのかもしれない。

 “それ”を視認する日は、来ないと思っていた。

 魔術師隊には、情報さえほとんど下りてこない。
 自分たちが支援している、魔道士隊のメンバーすら、“かえって”意識しないほど、それは、“違う存在”。

 ついに爆ぜたガルドン。
 その大爆発で、岩山の一角が消し飛ぶ。
 眼前で起こったその音すら、後輩の耳には届かなかった。

 現れたその影には、その大爆発さえ、大海に小石を投げ込んだ程度だ。

「……にっ、逃げろ逃げろ逃げろっ!!!!」
「っ―――」

 先輩の声で、後輩は我に返った。

 あの次元の違うガルドンさえ、人飲みできるような“それ”。
 身体中の疲労を総て忘れ去り、ただ足は“それ”から逃げる。

「走れ走れ走れっ!!!!」

 先輩は叫び続け、後輩はそれにひたすら従う。

 こんな場所まで、“それ”が来ている。

 これは緊急事態だ。
 自分のクビなど、この事態の前には忘れ去られるだろう。

 今すぐにでも、報告しなければならない。

「っ、」

 亀とは形状以外、何一つ比較にならない、“違う存在”。

 “移動生物要塞”、ルシル。

 それは、このファクトルの地を禁断とした、魔王の牙城だった。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「報告があったのは、一昨日の夜のことです」
「場所は?」
「目撃されたのは我々の呼称でDブロックと呼ばれる地帯です。第七部隊の……、つまりはこの防衛支部の南部。ファクトルに侵入して三十キロほどでしょうか」
「現在地は?」
「分かりません。すぐに調査部隊を派遣しましたが、すでに跡形もなく消えていました。足跡も、この砂嵐では……、」

 “勇者様御一行”が到着したヨーテンガースの激戦区最前線、第七部隊護衛支部と呼ばれる場所は、慌ただしい空気に包まれていた。
 絶えず足音が響き、ピリピリとした緊張感に包まれ、魔王の襲撃に備えている。
 “勇者様御一行”ともあろう存在が到着したのにも関わらず、応答してきたのはライグと名乗った目の前の三十歳ほどの魔道士だけだった。

 ガラス張りの窓は、風に狂う砂に打たれ鳴り響き、不気味な音を奏で続けている。
 すっと広がったこの部屋は、作戦会議に使う場のようで、長い机で四角形が形作られていた。

 緊張感溢れる口調でライグと話しているのは、ホンジョウ=イオリ。
 思慮深そうな顔つきに、魔道士にしか着ることの許されない公式の黒いローブ。
 髪を止める、小さな飾りのついたヘアピンが、唯一の女性らしさだろうか。

 ホワイトボードの前に立ち、張りつけられた地図を眺め、“緊急事態”について情報を共有している。

「それで、発見したという二人は?」
「重傷です。憔悴しきり、未だ意識が戻っていません。どうやらファクトルを一日中駆けずり回っていたようで……。部下のリードは、伝えたきり、巻き込まれた民間人と同じく養生中です」

 魔王の牙城を間近で見たというのは、やはりショックが大きいのだろう。
 生きて戻って来られただけでも、一生分の運を使い果たしている。
 情報を聞きたいところだったが、例え意識が戻っていても話はできないだろう。

 イオリはそう判断し、ホワイトボードの地図を見やった。

 タイローン大樹海と比べても遜色ない、広大な地帯、ファクトル。
 Dブロックと呼ばれたその一区間のみを切り取った地図の一ヶ所に、巨大な×マークが記され、いろいろと書き込みが入っていた。

 この場所は、自分たちが滞在していたカーバックルのほぼ真南に位置する。
 そんな場所で、“事件”が起きたのだ。

「……ホンジョウ=イオリ氏、ですよね?」
「ん、ああ」
 地図を眺め、思考を進めるイオリに、ライグから声がかかった。

「ご高名はかねがね。勇者様と共にこの地に現れてくれたことを、深く感謝いたします」
「力になれるのなら」
 ライグも魔道士らしいが、ひょろっとした風情に、長い手足。
 どちらかというと、ディスクワークが得意そうな男だった。
 イオリは短く返し、再び地図を見る。

「推測される、“ルシル”の現在地は?」
「調査隊からの報告をまとめると、五ヶ所。岩山の破損状況などから割り出したのですが……、」
 ライグが指を、地図の青くマーキングされた個所に這わせる。
 イオリはそれを、脳裏に刻み込んでいた。

「……、イオリン、マジ、かっけーですね……」
 そんな、二人の会話を、この部屋の残りの面々はぼうっと聞いていた。
 机に肘を付き、顎を手に乗せてだらしなく呟いたのは、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォン。
 青みがかった短髪の彼女の、常に騒がしい口は、流石にTPOをわきまえているのか、流石に騒音発生機には至っていない。
 今は、テキパキと会話を続けるイオリに、羨望の眼差しを向けている。

 だが、どこか緊迫感の抜けたティアの感想に、隣に座る女性がその頭を軽く小突いた。

 机にもたれかかったティアとは対照的に、腕を組み、足を組み、座った木椅子の背もたれに体重を預け、のけ反るように座っているのは、エレナ=ファンツェルン。
 ウェーブのかかった甘栗色の長い髪。
 ふくよかな胸に、生きた芸術品を思わせる美貌。
 それは、およそ女性としての理想形とも言えるスタイルだが、今はふっくらと妖艶に膨らんだ唇からは甘い吐息は漏れそうにない。

 退屈極まりない話し合いなどとっくに抜け出すような性格なのだが、自らの関心事とあっては流石に黙って話を聞いていた。

「その、“移動生物要塞”ルシル、というのは、一体……?」
 イオリとライグの話し合いに、立ったまま背を壁に預けていた女性が入っていった。
 現在、“勇者様”に仕えている、サク。
 触れれば切れるような鋭い空気に、凛とした眼差し。
 紅い着物を羽織り、それよりも特徴的な長刀を腰に携え、隙のない足取りでホワイトボードに歩み寄った。

「我々が呼称する、魔王の牙城です」
 サクの問いに、ライグはゆっくりと答えた。
 ここまで来ると、“魔王”という言葉がなんとも重々しく聞こえる。

「巨大な亀のような姿。ファクトル内を闊歩し、攻撃対象と認めれば例え魔物でもせん滅する、不気味な存在。魔族らしき存在が出入りしているという噂で……、まず、間違いない、と」
「牙城なのに、生物なのか?」
 サクは、ライグの言葉に眉を寄せる。

 このヨーテンガース大陸の南部の大半を占めるという、ファクトル。
 そこに魔王が座し、閉じ込めるように魔道士隊の支部がそれを囲っているとは噂では聞いたことがあったのだが、城が移動するなど想像だにしていなかった。

「おそらく、召喚獣の類だろう」
 イオリが地図から目を離し、サクに向き合った。

「“ルシル”、という存在は、魔道士になったときにようやく聞いたよ。移動する要塞。それゆえに、魔王の位置を特定できない」
 流石に、魔道士というだけはある。
 イオリの言葉に、サクは唸った。

 確かに魔王の牙城の位置が割れていれば、“勇者様”に頼らずとも波状攻撃をしかけることができる。
 戦いに赴くメンバーが、少数精鋭である必要はないのだ。

 魔王の牙城が移動する以上、費用がかさむ大群で攻めいっても、逃げられてしまう。
 その消耗戦は、広大なファクトルの地形で行うとすると、人間側があまりに不利だ。

 窓の外に見えるファクトルの岩地。
 砂嵐が吹きすさぶその地には、小回りが利く少数精鋭が入るのがいろいろと都合がいい。

 魔道士の仕事は、この場で、ファクトルを闊歩するルシルを閉じ込めてくことに留まるのだろう。

「“キャラバン”、という手も、何年か前に考えられたそうです」
 ライドは小さく呟いた。

 キャラバン。
 それは、住居用の荷を持って大人数で移動する手法だ。
 通常のキャラバンは各地を回り、商品販売や宣伝を行うものだが、彼らは探索のためだけに、ファクトルに侵入したらしい。

「ですが、移動速度に乏しく、魔物に襲われ全滅したと、逃げ戻ってきた者から報告され……、彼もすぐにこと切れたそうです」
「……、」
 費用も甚大ではなかっただろう。
 通常の敵でそのレベルの魔物がいるのだから、あまりに採算が取れない。
 惜しい人材もなくすことになっただろう。

 だから彼らは待っているのだ。

 各地を回り、経験を積んだ、少数精鋭を。
 “勇者様御一行”を。

 だが、その“勇者様御一行”も、すでに何組もファクトルに足を踏み入れ、それでも魔王の恐怖は終わっていない。

 彼らは、“神話”にはなれなかった。

「ですが、あなたたちなら……!!」
 沈んだ部屋の空気に気づいたライドが、顔を上げた。
 強引に上げたその表情は硬いが、瞳には信頼の色が映っている。

「我々ファクトル担当の魔道士隊は、“勇者様”を無慈悲に死地に送り出す部隊と噂されていますが、そんなことはありません」
 そんな噂をサクは今初めて聞いたのだが、口を開かなかった。

「“希望”になります。明日の命も分からないようなここで待つ我々は、本当に、“勇者様”を送り出した我々は、本当に、それにすがっていて、本当に、」
「あ、ああ、分かっている」

 心の底からそう思っていなければ出せないようなライドの声に、サクはおずおずと頷いた。
 気持ちはありがたいが、その言葉を聞くべきなのは自分ではない。

 今、その“勇者様”ことアキラは、その“希望”を、支部内に振りまいている。

「通行許可は出しておきます。それでは、御武運を」

 会話は、そこで終わった。

―――**―――

 ヒダマリ=アキラは、背中に下げた剣をガチャガチャと鳴らす風を受け、ファクトルの大地を眺めていた。
 高く登る太陽の下、巻き上がる砂埃の向こう、地の繋がる国の国境のように塞がれた柵の先、世の果てにまで続くような広大な荒野のさらに向こう、ベックベルン山脈と見紛うような岩山が連なって並んでいる。

 広すぎだ。

 日本、という元の世界の小さな国から来たアキラは、やはりこういった自然を見ることには未だ慣れない。
 あの山の向こうには今すぐにでも市街地が連なり、夜を忘れた世界が始まっているかのように思える。

 だが、地図で見たところ、アキラが想いを馳せる場所は、Dブロックと呼ばれる場所さえ超えていなかった。

「……、」
 ついに、来た。
 魔王の牙城がある、ファクトルに。

 だが、そんな感情は、ほとんど浮かんでいなかった。

 日常の延長。
 そんな気さえする。

 魔王を倒すことが目標の、この旅。
 だが、とんとん拍子でここまで来たアキラには、それすらも、“ゴール”という認識で捉えられなかった。

「……、」
 カチャリ、と、背負った剣にも構わず、アキラは背を建物に預ける。
 砂対策が施されたこの強固な造りの建物の中からでも、未だに駆ける人々の足音が聞こえてくるようだった。

 嗅覚は土埃で遮断され、目も大きくは開けていられない。

 “だが、その程度だ”。

 やはりそれは、日常の延長線上。

 背中の武具は、先ほど受け取った上物だった。
 良く手になじむそれは、相も変わらずアキラの身の丈に合った細身の剣。

 いかに“勇者様”といえども、あまりそういった援助をする余裕はないらしいが、気のいい魔道士の男がアキラの手に押しつけたのはつい先ほど。

 剣の感触にはとっくに慣れたが、それでも、自分たちが刻んだ時は、あまりに短い。

 自分の身なりも変わっていない。
 仕込んだ防具があるとはいえ、Tシャツにジーンズ、そして適当に買い繕った上着。
 せいぜい、伸びた髪を整えたときに染め直すのも面倒で、控えめな着色を施した髪が元の黒に戻っているくらいだ。

 だが。

「……、」

 アキラは何故かこうも思った。

 “ようやく到着した”、と。

 この短髪を染めたのは、軽くイメチェンでも図ってみるかと思った程度のこと。
 元の世界ちょっとした冒険心さえ、今は埋もれ、思い出せない。

 この世界の日々は、まさしく、冒険の連続だったのだから。

「……、にーさん、ここにいたんすか」
「……!」
 なんとなくセンチな気分に浸っていたアキラに、のほほんとした声が届いた。

 振り返れば、色彩の薄い銀の長髪をたなびかせた少女が、とぼとぼと歩み寄ってくる。
 漆黒のローブに、砂地でさえも足音が聞こえないほどの落ち着いた空気。
 アキラを捉えてくる、髪と同じく色彩の薄い銀の眼は、この場の砂埃のせいではなく、常に半分ほど閉じている。

 “無音”な少女、マリスことマリサス=アーティは、アキラの隣に到着すると、同じように背を建物に預けた。

「挨拶は終わったんすか?」
「ああ、正直疲れた」

 ここに到着し、身分を明かしたアキラに待っていたのは、この支部に集まった各員への挨拶だった。
 “勇者様”の登場に対する期待は大きい。
 流石に事態が事態で一同を集めての演説などをやっている時間はなかったが、それでも強い要望で、各所で仕事をこなしている魔道士や魔術師に挨拶回りをすることになった。

 アキラの生涯で、あれほどの人に歓迎されたのも、あれほどの人に握手をしたのも、初めてだ。
 微妙手が、未だ痺れている。

「この大陸のこんな場所まで来たら……、“自称”はほとんど外れるんすよ。それも、“勇者様”の仕事っす」
「めちゃくちゃプレッシャーかかったんだが……、」

 アキラは眉をひそめ、先ほどの光景を思い出す。
 “勇者様”、などというおとぎ話のような存在は、この世界でそれほど待ち望まれているということだろう。

 以前出逢った自分とは別の“勇者様”、リリル=サース=ロングトンという少女を思い出す。
 彼女は、こうした期待を受けることを拒んでいなかった。
 それが、“勇者様”のあるべき姿だと。

 今、彼女は何をしているだろう。
 自分たちがもたついている間に、もしかしたらファクトルに入ってしまったかもしれない。

「……、でも、緊張感はなさそうっすね」
「……、」
 マリスは、小さく呟いた。

「にーさんだけじゃなく、みんな。良いことなのか、悪いことなのか……」
「良いことだろ。ぎっちぎちに緊張するよりは」

 アキラは、どこか中身のこもっていない声を出した。
 何となく、その緊張感のなさの元凶が、分かっていたのだから。

 “三枚”だ。

 アキラはファクトルを眺めたまま、おぼろげに言葉を頭に浮かべた。

 この、“勇者様御一行”の緊張感のなさ、余裕とも言えるその原因には、三つほど心当たりがある。

 一つは、エレナ=ファンツェルンの力。
 彼女の底が見えない。
 命をかけて自己を強化する秘術を施したらしい彼女の実力は、敗北どころか苦戦という言葉を知らないかのようにさえ思える。

 そして、底が見えないと言えばこちらもそうだ。
 もう一つの原因、マリサス=アーティの力。
 数千年に一人の天才と言われる彼女の才は、あらゆる逆境さえ跳ね返す。
 “不可能なことがない”月輪属性。
 先日襲いかかってきた、マリスを討つためだけの罠も、彼女は強引に突き破ってみせた。

 そして、最後の一つ。

「……、」
 アキラは眼前に手のひらを広げ、それを眺めた。

 アキラの、“具現化”。

 総てを消滅させる日輪属性の魔術、プロミネンスを放出するあの銃。
 今やノーリスクで放てるその強大な力で、打ち倒せなかった敵、いや、打ち破れなかった状況は、ない。
 そしてこれからも、討てない敵はいないだろう。

 この絶対的な力の前には、恐らくマリスやエレナすらも、対抗できない。
 “回避”や“吸収”さえ、許すことはないのだから。

 “とある意地”から使っていない、この力。
 ご都合主義なことに、アキラがこの世界に訪れたときから備わっていた、この力。
 伏線や想いも超越し、総てを打ち消す、この力。

 出所は、未だ不明のままだ。

 そして、それらを総称し、アキラは、世界の“バグ”呼んでいる。

 ご都合主義の、優しい世界に生まれた歪。
 その創り手の想いは、一体、何なのだろう。

 だが、魔王の牙城は目前。
 このまま、総てが明かされぬまま終わってしまうのだろうか。
 単純に魔王を倒すだけの、ゲームのように。

「……、そういえば、にーさん」
「?」
 手のひらから目を離して視線を横に向ければ、マリスが壁から背を離し、半分の眼で見上げてきていた。

「ねーさんと、何かあったんすか?」

―――**―――

 エリーことエリサス=アーティは、短くなった赤毛をガシガシとかき、支部内をうろつき回っていた。
 時には、忙しく駆ける魔術師たちの波に乗って。
 時には、忙しく歩きながら言葉を交わす魔道士たちの波に逆らって。

 身体に吸いつくようなアンダーウェアに、羽織った上着。
 室内だというのに、何故かつけてしまったプロテクターやナックルガードの具合を意味もなく確認し、彼女はうろつき回る。

 頬には、うっすらと、汗。
 大きな瞳をどこか鋭くし、基地を徘徊する彼女の奇行に、魔術師たちは流石に話しかけられなかった。

 他のメンバーに情報収集を任せ、妹のマリスとファクトルに入る準備を整え終えたあと。
 アキラを探しにいくと言ったマリスを見送って、エリーはこの基地で、ある意味最も忙しなく歩き回っていた。

 ずっと、だ。
 ここ数日エリーは、一人でいるとき、ずっとこうしている。

 思い起こせば一週間ほど前。
 自分にとって、大事件が起こった日。

 日中に起きたことは、とある秘術の結果、身に降りかかった激痛やら苦痛やらで幸いにもほとんど覚えていない。

 問題は、その夜だ。

「……、」
 エリーはここ毎日行っている記憶の半数を開始した。

 自分に妙なところはなかったか。
 自然な態度だったか。
 ちゃんと、“自分”でいられたか。

 それら総てを勘案し、問題ないと結論つけたところで、しかしエリーは悶えた。

 危なかった。本当に。
 それに、その、ものすごく、近かった。
 しかも自分は、そのままで、

「っ、っ、っ、」

 エリーは奥歯を噛み、思考の渦から何とか這い出る。

「~~~っ、」
 少しでもあのときのことを考えるとこうなるのに、“自分が自分でいるため”には、確認する必要があるのだ。

 あのとき動かなかったのは、意識がもうろうとしていたから。
 具合が悪かった。
 眠かった。

 そんな言葉たちを、何度も頭の中で作った。
 しかし、わざわざ言うのもアレで、口が開けない。

 もっと言うのならば、“あのときの当事者”と、まともに目を合わせられなかったりする。

「……、っ、っ、」

 ヒダマリ=アキラ。

 ぼうっとしていると、“あの光景”が頭を侵食してくる。

 満月の下の、屋上。
 星空の下の、屋上。
 町の光景が見渡せる、他には誰もいない、屋上。

 ベストプレイスだ。
 それはもう。

 そんな場所で、自分たちは何をやっていたのか。

 見つめ合っていた。
 その、ものすごく近い距離で。

 互いの体温が溶けあうように感じられ、鼓動はリンクし、時は止まっていた。
 脳髄は蕩け、病気に侵されたように思考が痺れ、しかしそれが心地良い。

 そんな世界が、二人だけを包んでいた。

「あ~~~っ、」
 エリーから途端漏れた声に、近くを歩いていた魔術師がびくりとするも、エリーは全く気づかない。
 細い連絡通路の中間、エリーは今すぐにでも座り込んで唸りたかった。
 誰にも見えないよう部屋に入って、枕でも抱きしめながらベッドの上で転がり回りたい。
 自分たちの寝床は、まだ用意できていないのだろうか。

「……、」
 あのときの自分の顔は、きっと、紅かった。
 だが、夜の暗さに一縷の望みをかけ、アキラには気づけなかったと希望的観測をし、しかし唸る。

 傍から見れば滑稽な姿だろう。
 実際、数人がそれを目撃しているのだが、エリーの頭はそれらを認識できなかった。

「……、」

 自分とアキラは、不慮の事故で婚約中。

 それはもう、仕方ない。
 認めたくないが、仕方ないことだ。

 それを破棄するために、自分たちは魔王を打ち倒そうとしているのだから。

 目的が、婚約破棄。
 手段が、魔王討伐。

 そんな戯けた動機であっても、もう、仕方ない。
 それがこの旅の前提なのだから。

 だが、“その前提が覆される事態”が、発生してしまいそうだった。

 アキラは言った。
 『俺は銃は使わない』、と。
 そして、たどたどしくも、『一緒に強くなろう』と。

 あまりにも気の利かない言い回しだったが、不覚にも、少し、その、アレだ。

 そしてその直後、自分は、

「っ、」

 いや、違う。
 ちゃんと避けた。

 近くなってきたアキラの頭に、“即座に手を置き”、それを避けたのだ。

「っ、っ、っ、」

 アキラもアキラだ。
 あのあと、素知らぬ顔で朝連に参加して、罰ゲームを受けて走っていた。
 いつも通りの光景。

 エリーも疲労から起きるのが遅れ、ルールはルールと罰ゲームを受けることにしたのだが、自分を見向きもしないで身体を動かしていた。

 何か、もっと、アクションがあってもいいではないか。
 ついでに言うなら、あのあと軽く整えたこの髪にも、一言くらいは、何か。

 いや、違う。
 それでいい。
 それで、いいはずだ。

 あれは、何でもなかったのだから。

 それに、自分たちは今、どこにいるというのか。
 魔王の牙城があるという、ファクトルに到着している。
 自分の関心事は、そんな、“どうでもいいこと”ではないはずだ。

 こんな“下らないこと”で悶々としている場合ではないのだから。

 緊張感だ、緊張感。
 エリーは呼吸を整える。

 妙な唸り声を上げていた人物が急に落ち着き払った“てい”になり、再び魔術師たちの奇異の眼差しを受けているが、それにはやはり、エリーは気づかなかった。

「……、ふぅ、」
 悶々とするのは、いい加減終えなければ。

 日が経つごとにこうした時間が縮小しているのがせめてもの救いだ。

 結局この一週間、依頼のくじ引きに“幸運にも”恵まれ、あの男とは組んでいない。
 ここまでの移動中も、大して会話もしていない。
 精神を保つには十分な時間だった。

 落ちつけ自分。
 自分は、“エリサス=アーティ”だ。

 いつものように、あの男に怒鳴りつけているのが、“自分”ではないか。

 さあ、行こう。

「……!」
 エリーが踏み出した足は、見事なロールを描き、進行方向とは真逆に向いた。
 そして戦闘中でもかくや、と思わせる動きで身を物陰に隠す。
 今、自分が曲がって入ろうとした、階段。

 その下から、子供のように二段飛ばしで登ってきた男。
 “急いでいる”魔術師たちとは違い、“忙しない”その様子は、エリーは何度も見てきている。

 よりによって、あいつだ。
 ドクンと、胸が跳ねる。

「っ、」
 ここは、建物の二階。
 三階では、今、エリーたち以外の四人が情報を集めている。
 てっきりそのまま三階に向かうかと思った、登ってきた男―――アキラは、何を思ったかその場で立ち止まった。
 迷ったのかどうかは知らないが、その様子を影から覗うエリーは、息を殺し、特徴的な赤毛をはみ出させないことに意識を集中させる。

 今、アキラがいる場所には、階段以外はない。
 もしアキラが三階に進まなければ、このまま自分と鉢合わせすることになる。

 声を出すことが許されるのなら、今すぐにでも登れとエリーは叫んでいただろう。
 だがアキラは、どうやら昇ることを諦めているようだった。

 三階へ上る階段を一瞥し、頭をポリポリとかき、その足を、連絡通路に向けた。

「っ、」
 どこか身を隠す場所は、とエリーが視線を走らせても、不審人物を発見したかのような表情を浮かべる魔術師たちしか見えなかった。
 額に汗が浮かぶ。

 まずい。

「……、」

 いや、別に、まずくない。
 いいではないか。
 鉢合わせになっても。

 たまたま通りかかったように話しかければ、自然ではないか。
 ついでに、勇者として挨拶していたアキラに、調子に乗るなと一言でも言えば、それで、“自分”だ。

 ふー、よし。

 エリーが壁から身を離し、数歩下がって、たった今向こうから歩いて来たかのように一歩踏み出したところで、

「アキラ」

 三階の階段から、声が聞こえてきた。
 エリーは再び壁に背を合わせ、階段のスペースを覗う。

「イオリか。終わったのか?」
「ああ、ついさっきね。そっちも?」

 落ち着き払った物腰で三階から降りてきたのは、イオリだった。
 魔道士にしか着用が許されない黒いローブを纏い、理知的な顔立ちを浮かべている。

「……疲れたろう? 実は僕たちも、さっき異常に期待をかけられてね。……まあ、プラスに働いてくれるといいんだけど」
「ああ、もう、手が……」
「握手、か……。僕も入隊したときそうだったよ。日本だと、ボディランゲージはあまり広まっていないからね」

 日本。
 それは、あの二人がいたという元の世界の国だ。
 その話を、エリーは何度も聞いてきた。

「まあ、」
 最後の一段を降り切り、イオリはどこかからかうような笑みを浮かべ、右手を差し出した。

「とりあえずはお疲れ様。これからが本番だけど、頼りにしているよ、“勇者様”」
「……お前は俺の話を聞いていなかったのか?」
「冗談、だよ」

 イオリは出した手をあっさりと引き、やはり苦笑した。

「……、」
 何だ何だ、今のやり取りは。

 物陰で様子を覗うエリーは、イオリの表情を注視していた。

 理路整然とした端正な顔立ちに、年相応の女性の様子を僅かに覗かせる。
 自分の知るイオリは、生真面目で、もっと堅いイメージのある女性だ。

 いや、違う。
 自分は知っていた。

 今のようにたまたま覗く、二人の様子。
 そこでは、イオリは、“そう”ではない。

 笑い、頬笑み、どこか面白いように苦笑し、冗談を言う。

 そんなイオリを、エリーは何度も見てきた。

「そうだ、エリサスとマリサスは?」
「マリスには会ったけど……、あいつは分からない」
「そうか……。買い出しは順調そうだったかな?」
「……あ、」
「っ、聞いてないのか……。まあ、二人なら大丈夫かな」

 イオリは僅かに目をつむり、僅かに微笑む。
 アキラもどこか微笑した。

 やっぱり、嫌いな雰囲気だ。

「それで、何だって?」
「ああ、出発は三日後になりそうだ。明日と明後日はどうやら、砂嵐が酷いらしくてね」
「到着したばっかなのに……、まあ……」

 アキラは額に手を当てた。
 今日の朝と昼の狭間に到着したばかりで、疲労は溜まっているのはみな同じ。

 だがアキラは、はっきりと、言った。

「いよいよ、か」

 その言葉は、同時にエリーの中でも響いた。

 そうだ。
 本当に、自分たちは“そんな場所”にいるのだ。

 リビリスアークにいた頃は、夢にも思っていなかった、魔王討伐。
 今や自分たちは、“勇者様御一行”として、それを目指すのだ。

 まだ見ぬ魔王。
 その力は、常軌を逸しているはずだ。
 それこそ、討てば“神話”になれるほどに。

「まあ、準備期間にはなるさ。この辺りの足場にも、少しは慣れられるといいんだけど」
「やっぱ、話聞いた方が良かったかな?」
「いや、聞いた話はあとで僕が要約して伝えるよ。それより、地形の話を聞いた方がいいかもね。足場の悪い所ではいくつか依頼をしてるけど、砂嵐まであるとなると話は別だ」

 だが、そんな重要そうな話をしているのに、エリーは足を踏み出せなかった。
 やはり二人が話していると、自分の介入は許されないような感覚さえ味わう。

 アキラと、イオリだけが知っていること。
 それが存在するのは、とっくに知っている。

 だが、その内容について、あの二人は決して語らない。

 それは、触れてはならないことなのだろうから。

「……、」
 壁を、感じる。

 物陰から姿を現し、一歩進むだけで到達できるのに、“そこ”は、絶対領域なのだ。
 そして、二人の距離は、近い。

「―――そうだ、アキラ」
「……!」

 そこで、イオリの雰囲気が変わった。
 そして“壁”が、さらに強固になる。

 アキラもそれに気づき、目を細めた。

「“バグ”の話か?」
「……、近い」

 イオリは積極的には肯定しなかった。
 だが、口ぶりから、アキラは表情を変えない。

 “バグ”。
 あの二人の会話を盗み聞いてしまったとき、その言葉を聞いた。
 どうもあの二人は、それについて、共通の懸念を抱いているのだ。

 やはり、今あの二人には、近づいてはいけない。

 だがエリーは、引くこともできなかった。

「……、アキラ、実は君を探していたんだ。……話がある。いいかな?」
「ま、まあ、」
「来てくれ」

 そう言って、イオリは階段を下りていった。
 アキラもそれに続く。

 触れてはならない、二人。

 だがエリーは、いつしか二人を追っていた。

―――**―――

「きゅぅ……、」
「そのまま溶けて流れていったら?」

 エレナはあてがわれた自室、ベッドの上で液体のように伸び切るティアに、辛辣な言葉を呟いた。
 しかしティアはいつものように喚かず、青みがかった髪を枕に埋め、うつ伏せにただただ寝頃ばるだけ。

 やはりこの子を情報収集などというデリケートな場に置くべきではなかった、とエレナは今さらながらに頭を抱える。
 イオリが話していただけだというのに、頭の許容量をオーバーしたティアは、干されたクラゲのように動くことを放棄していた。
 もっとも、馬車に揺られるだけのここまでの旅路は、肉体的にも疲弊はあるのだが。

「しかし、本当に“証”は必要だったみたいだな」

 横並びにベッドが三つ置かれただけの質素な部屋の隅、壁に背を預け座り込んでいたサクから声が届いた。
 座ったまま愛刀を光にかざして、ときおり目をつむり、魔力を流している。

 頻繁に行っているその手入れには、やはり今日も余念がないらしい。

「“七曜の魔術師”。こうした支部がファクトルを囲っていては、入るのにも許可はやはり必要だったか」

 サクの言うことも、もっともだった。

 まず、この辺りには町や村がない。
 荒れ果てた大地が広がり、草木を見た記憶もない。
 ないない尽くしだ。
 本当に、ヨーテンガースの南部は“死んでいた”。

 エレナたちもここに来るまで、高い運賃の馬車を走らせ、まるまる三日かかったのだ。
 こうした宿を提供してもらわなければ、ファクトルに入るのは自殺行為。
 その上、忍び込まなければならないのだ。

 数日前にファクトルに忍び込んだという一般人も、大層苦労したことだろう。

 “七曜の魔術師”、という“証”がなければ、ここでも相当な悶着があったはずだ。

 もっとも、流石に緊急時ということもあり、あてがわれた部屋は三つだけ。
 倉庫を整理したとかで、未だどこか、埃っぽかった。

「ま、これでお役ごめんね。ティア、戻り方分かる?」
「エレお姉さまっ!?」
 流石にティアは反応し、ベッドから跳び起きた。

「そのお言葉がっ、胸にっ、ずずずずっ、と!!」
「黙りなさい」
 エレナはベッドに足を投げ出したまま、視線も合わせずに底冷えするような声を吐き出した。

 いつものやり取り。
 その様子に、サクは僅かに苦笑し、刀の手入れを続ける。

 この二人と同じ部屋、というのは妙に慣れなかったのだが、どうやらそれは、杞憂らしい。

 ティアが自分たちに加わったとき、エレナが水曜属性の魔術師を適当に現地で見繕うなどと言っていたのも、記憶に新しかった。

 ともあれ、自分たちは、今、ファクトルに到着したのだ。
 サクは入念に、刃こぼれを探し続ける。

 先ほどのライグという男が、いや、全世界が、自分たちにかけてきた期待。
 それに応え、“神話”になる。

 そうすることで、総てがキラキラと輝くのだ。

 だが、

「ティア、戻りなさい」

 エレナは二度、繰り返した。
 サクはピクリと手を止める。

 エレナの口調は、どこか、いつもとは違っていた。

「……ほんとのとこ言うと、あの正妻も。もしかしたら、そこのアキラの従者も」
「……!」

 会話の内容が自分にまでおよび、サクは視線を鋭くした。

「あんた、足場が悪いの、慣れてるわよね?」
「……、ああ。タンガタンザは、そういう地形が多い」

 タンガタンザ。
 その西の大陸は、サクの出身地だ。
 景色いっぱいに大地が広がる広大な地。
 そこで育ったサクにとっては、ファクトルの地形でも動きに支障はない。

「それで、ギリギリ。そんな気がするのよ」

 エレナの言わんとしていることは、とっくに分かっていた。

 “力不足”。
 それを、彼女は懸念している。

 あまり考えたくないことだが、この“勇者様御一行”の中で、エレナの不安材料に、自分は入っているのだろう。

 否定したい。
 だが、それを口にできないほどの事実がある。

 そして、それ以上に。

 エレナの言葉は、いつものような嘲りを含んでいなかった。

 彼女の表情は、懸念一色に染まっている。

「私やアキラ……、それにあの天才ちゃんや魔道士は……、多分、大丈夫。“常軌を逸して強い”もの」

 “常軌を逸して強い”。
 自己を含めてそう称したその言葉は、エレナが言うと、不遜とも過剰とも聞こえなかった。

 アキラには、あの壮絶な銃がある。
 マリスには、あの膨大な魔力がある。
 エレナには、あの暴力的な力がある。
 イオリには、あの強大な召喚獣がある。

 彼らは、“常軌を逸して強い”のだ。
 それこそ、ヨーテンガースの魔物にすら、そして、“魔族”にすら渡り合えるほどに。

「でも、私たちが入るのは、その“常軌を逸して強い”が“普通”になるとこ。世界最高の激戦区よ」

 サクもティアも、エレナの言葉に口を挟まなかった。
 ただ、それを聞く。

 その、事実を。

 この場に来るまでに、魔物には出遭わなかった。
 その理由は、“逃げ出したから”だそうだ。
 人間は愚か、ヨーテンガースの魔物すら、ファクトルの大地には近づこうとしない。
 この魔道士や魔術師がひしめく支部のみが、存在を許されるのだ。

「楽勝が、惨死に。辛勝が、惨死に。引き分けが、惨死に。ファクトルは、そういう場所なのよ」
「……! ここに来たことがあるのか……?」
 そのエレナの口ぶりに、サクはとうとう口を挟んだ。

 エレナは座ったまま、砂が叩く窓を眺める。
 問いかけへの応えは、返って来なかった。

「さっきの、ライグって人の言ってたこと、覚えてる?」
「……ああ」

 覚えている。
 彼は、自分たちを“希望”だと言ったのだ。

 僅かに重圧を感じたのだが、彼は、本当に、必死だった。

「それ聞いて、“恐くならなかった”?」
「……?」

 エレナの言葉の意味が分からず、サクは怪訝な表情を浮かべる。
 ティアも、同様の顔つきだった。

「……、そう」
 エレナはその“返答”を受け取り、ベッドから降りた。

 そして、いつも通り傲慢な足取りでドアに向かうと、僅かに足を止める。

「忠告は、したわよ」

 ドアが開き、エレナが外に出て、静かにドアが閉まるまで。

 サクもティアも、一言も発さなかった。

―――**―――

 日は高く、吹きすさぶ風も収まりつつあるファクトルの大地。
 それは、翌日に起こるという砂嵐の予兆を思わせる。

 そこに続く荒野を見渡し、魔道士隊支部の建物の陰に立ち、アキラとイオリは向き合っていた。
 アキラはただ立ち、イオリは僅かに視線を外してただただ黙し。

「……、俺さ、実はさっきここにいたんだけど、」
 沈黙に耐えきれず、アキラは声を出した。

 ここまでの道中、イオリは先ほど集めた情報を簡単に話してくれた。

 “移動生物要塞”、ルシルの存在。
 それが目撃されたという場所までの距離。

 地図を直接見なければ分からないような話は、イオリは飛ばしてくれた。

 早足で歩くイオリの言葉は、どこか重かったように感じる。
 だが、それを聞いても、アキラはやはり、“日常の延長線上”としか感じられなかった。

「……そういやさ、出発するときって盛大にパレードとかしてくれんのかな?」
「……いや、見送りくらいはあるだろうけど、それはないよ」

 ここに来て、ようやく口を開いたイオリは、どこか疲れたような言葉を返してきた。

 聞いた話によれば、“勇者様”へは最大級の敬意を示さなければならないという“しきたり”は、大きな町に行くたびに薄れていくらしい。

 何せ、勇者は数が多い。
 自称で事足りるそれまでには、流石に対応してはいられないのだろう。
 多くの人が集まる場所では、そうした“詐欺”も起こっていると聞いた。
 ほとんど自称が外れるここまで来ても、それは変わらない。

 当然、敬意を示してはくれるのだが、流石に物的支援までしていてはその場所の身が持たない。
 せいぜい、出身地くらいがそれをしてくれるだけだそうだ。

「……、」
 ただ、間をつなぐためだけの言葉。
 それは、アキラもイオリも分かっている。

「……、話って、何なんだ?」
 ここまで連れてきて、呼び出した理由は語らないイオリに、アキラはついにそれを問うた。
 楽しい話題ではないだろう。

 特に、“バグ”がらみでは。

「アキラ、君に頼みがある」
「……、」

 あまりに真摯なその口調に、アキラは身構えた。
 イオリは、目の前の少女は、どこか、“懇願”している。

「“約束を破ってくれ”」

 足音に揺れる建物や、砂の転がる音。
 それらが総てどこか遠くに聞こえ、ただ響いたのはイオリの声だけだった。

「なに、を……?」
「アキラ、さっき僕の話を聞いて、“恐くなかったか”……?」
「……?」
「強大な魔物や、過酷な地形。強大な魔王の牙城。僕たちが今から挑む諸悪の根源、“魔王”。それを聞いて、君は、“恐怖”を覚えたか?」

 イオリから溢れてきた言葉に、アキラはピクリと身体を硬直させた。

 その、懸念。

 それを、アキラは頭の中で、確かに浮かべた。
 だが、

「驚愕は、しただろう。いや、もっと簡易に、“驚いた”、かな」
「……、あ、ああ、」

 ずばり胸の内を言われ、アキラはくぐもった口調を返した。

 魔王の牙城は、巨大な“移動生物要塞”、ルシル。
 確かに、魔王の牙城には、どこか不動なイメージを持っており、それが動いていたというのは驚くべきことだろう。

 “だが、その程度なのだ”。

「きっと、多分、みんなそうだ。その事実に……、いや、“その程度のこと”に驚きこそすれ、恐怖までは感じていない」
「……まさかイオリ、恐いのかよ?」
「……、」

 イオリは僅かに止まり、アキラに視線を合わせてきた。

「恐い」
「……?」

 はっきりとした口調で、イオリはそう言った。
 だがその言葉にも、危機感は覚えない。

 いや、危機感“など”。

「イオリさ、恐がってちゃ、何も、」
「いや、それは違うと思う」
「?」
「“事実”を“事実”としてしか受け取らないのなら、コンピュータでもできる。それに感想を抱かないのなら、人間である必要はないよ」

 イオリの言葉は強かった。
 アキラに何かを訴えかけるように。

 どこか辛辣なイオリの言葉に、アキラは口を開かなかった。

 ここまでの旅路、その戦闘中、アキラは自分が“感想”を抱かないようにしたことがあったのを覚えている。
 魔物、と言っても生物だ。
 それを切り裂くのは、やはり気持ちのいいことではない。

 だから、“それ”を事実としてしか受け取らず、まさにコンピュータのように動いた。
 そうすることで、自分は、“勇者”になれるのだ。

 日常でも、同じ。
 自分は、“それ”を抱かなかった。

 そして、それが裏目に出たのは、イオリと出逢ったとき。
 “感想”を抱かなかった自分は、いつしか迫っていた世界の陰りのただ中で、嘆いていた。

 深追いすると、それは陰ることを知っていたから。

「みんな、麻痺している。道中迫ってきた脅威に対して、怒りや驚愕は覚えているが、最も大切な“恐怖”を受け取っていない」

 イオリの言う、“感想”。
 ここでは、恐怖のことだ。

 もしかしたら、全員に緊張感がないような気がしたのも、その“恐怖”がないからだろうか。
 というより、ここまでの旅路。
 敵に“恐怖”を覚えたことが、ない。

「はっきり言うのも避けたいけど……、マリサス、そしてエレナ。彼女ら二人がいれば何とかなる。そう、みんな思っている」
「っ、」
「そして、アキラの力もだ。僕は見る機会がなかったが……、聞いている限り、壮絶だ。ここで乱射しているだけで、ファクトルそのものを消し飛ばせるほどなんだろう?」
「……あ、ああ、」

 アキラは一応肯定した。
 世界総てをオレンジ一色で染めるあの力。
 仮定の話だが、それはできるかもしれない。

 伏線も、想いも、そして魔王すら、あの力なら超えられる。
 その確信は、未だにあるのだから。

「僕は、今すぐにでもそうしてもらいたいくらいだ。相手にどんな手があるか分からないから動けないが……、それでも、ね」
「いや、あれは、」
「そこで、だ」

 ようやく確信か。
 きっと見上げてきたイオリの瞳を、アキラはまっすぐに見返した。

「僕は、あの地に入ることに恐怖を覚えている。今すぐにでも逃げ出したいくらいに。……だから、“約束を破って欲しい”」
「……、」
「アキラ、君はモルオールで僕に言ってくれたね。もうあの銃は使わない、と」

 言った。
 確かに言った。
 先日、エリーにも宣言した言葉だ。
 その約束は、とうとうここまで守り切られた。

「アキラ、どうかためらわないで欲しい。一瞬遅ければ、最悪の事態になる。僕も……、きっと、マリサスも、エレナも、警戒しているはずだ。せめて僕たち四人は、危機感を持っていなければいけない」
「……、」

 完全に、イオリの中でパーティへの評価は二分していた。
 メンバー内の危機感を、常に掃ってきた力。

 その四つの力は、いつでも強大だった。
 力半分でも、解決できないことはない。

 だがその四人が、全力で戦わなければならない場所にいる。

 メンバーの最弱サイドにいるアキラを、最強サイドへ。
 危機感が欠けた今の状況を、解決することは難しい。

 だからせめて、戦力の拡充を。
 綺麗事など言っている場合ではない。

 それが、イオリの“懇願”だ。

 もしかしたら、彼女は、“未来を視た”と語るイオリは、

「イオリ。ここで、何かを“視た”のか?」
「……、」

 予想できていたのだろう。
 イオリから返ってきた沈黙は、そういう色を帯びていた。

「……アキラ。君は、煉獄を視たことはあるか?」
「……?」

 その声は、あまりに小さい。
 だがその瞳は、口調と同じくあまりに強かった。

「生と死の狭間。一歩でも進めば、地獄が待つ。退路はない。そんな場所を」

 ない。
 あるわけがない。

 日本では問題があったとはいえ、ぬくぬくと育ち、この世界の旅も、あまりに順調だった。
 イオリは、それを視たというのだろうか。

「やはり多くは語れない。だけど、頼む。ためらわず力を発揮してくれ。そうでなければ、」

 そこで口を噤んだイオリは、しかし視線を逸らさなかった。
 この“懇願”は、あまりに重い。
 イオリは、例えあるべき世界の姿を壊してまでも、それを、望んでいる。

「―――頼む」
「っ、」

 拳を握り締め、イオリは頭を下げてきた。
 いつも冷静で、困ったように苦笑しているイオリが、だ。

 身体は僅かに震えている。

 それに、

「あ……、ああ」

 アキラはくぐもった口調で、肯定しか返せなかった。

 風がサラサラと、また強くなっていく。

 アキラに頭を向けたイオリが、また、語りかけているような気がした。

 煉獄を視たことはあるか。

―――**―――

「……! ああ、ねーさん。部屋の場所、聞いたんすか?」
「……、」
「?」

 ノックもせずに部屋に入ってくるなり、自分を無視し、ベッドに頭から倒れ込んだ姉に、マリスは首を傾げた。
 エリーはうつ伏せに倒れたまま、動かない。

 三つベッドが並んだだけの、質素な部屋。
 窓の脇のベッドに陣取ったマリスの隣、エリーは中央のベッドに顔を埋めている。

 アキラと別れてからとぼとぼ支部内を歩いていたおり、部屋の準備が整ったと連絡を受け、同室のエリーとイオリに言付けを頼んだマリスは、部屋で地図を広げていた。

 先ほど顔を出したサクたちの部屋で貰った、ファクトルの地図。
 そのとき、サクとティアの妙な空気に半分の眼をさらに細めたのだが、今のエリーの様子にもマリスは同じリアクションを起こした。

 最近のエリーは、妙だ。
 基本的に自分と同室のこの姉は、突如頭をガシガシとかき、悶え、そしてマリスがいることに気づいて居住まいを正す。
 原因を追究しようと、先ほどアキラに聞いてもはぐらかされてしまった。
 やはり、二人の間で、何かあったのだろう。

 しかし、眉を僅かに下すも、マリスの今一番の関心事は、目の前のエリーだ。

 妙だ妙だと思っていたが、今日は、“違う”。

 こんな、無気力に倒れ込んだりはしなかった。

「具合、悪いんすか?」
「違う」

 乾いた言葉が返ってくる。

「買い忘れとかあったんすか?」
「ない」

 乾いた言葉が返ってくる。

「……そういえば、にーさんたち、どこ行ったか知らないっすか?」
「知らない」

 冷えた言葉が返ってくる。
 これだ。

「……、ねーさんたち、またなんかあったんすか?」

 僅かなため息ののち、マリスが呆れたように呟いた言葉には、エリーは何も返してこなかった。
 ただ、うつ伏せのまま、寝転ぶだけ。

 何をやっているのだろう、自分たちは。
 ここはどこだ。
 魔王の牙城がある、ファクトルだ。

 そんな場所まで来たというのに、それがまるで、アイルークの孤児院にいるときのようではないか。

 ようやく、エリーのこの様子に名前をつけられそうだ。

 無気力に倒れているようで、どこかピリピリとした空気を感じた。
 まるで、爆発寸前の、火山のように。
 だがそれでいて、その噴火は自分の中にしか起こらない。

 これは、拗ねている。

「出発は、三日後になりそうっす。あとで、イオリさんたちが話をしてくれるらしいっすよ」
「聞いた」

 マリスの経験上、こういうときのエリーに何を言っても無駄だった。
 淡白な言葉しか返って来ない。

 本当は、危機感を持って欲しいのだ。
 “魔王”、という名前に、現実感を持てという方が無茶かもしれない。
 それがどれほど強大な力を持っているかは分からないが、結局は“魔族”。
 つい先日、マリスが強引に一人で打ち破った存在でもある。

 だが、そうであっても、危機感は必要だ。
 警戒心と言い換えてもいい。
 この面々には、力があってもそれがまるでなかった。
 戦闘になりさえずれば、みな集中するだろうが、現状を見るあたり、不安は募る。

 だが、かけるべき言葉も見つからなかった。

 その危機感を取り除き続けてしまったのは、他ならぬ、マリスたちなのだから。

「……、」
 流石にピリピリしている姉の隣で地図を眺められるほど、マリスも神経は太くない。
 最後に簡単に確認し、それを畳む。

 今はエリーを、そっとしておいた方がいいだろう。

「自分は、にーさん探しにいくっす。もしかしたら、部屋に戻ってるかも、」
「止めなさい」
「じゃあ、散歩に」

 ほとんど同じなのだが、マリスはエリーにそれを告げて、歩き出した。
 ドアを開けて、外に出て、ドアを閉める。

 そこで、マリスはようやく息が吐けた。

「……、」
 マリスが出ていった部屋、エリーの頭の中では様々な言葉が渦巻いていた。

 アキラとイオリの会話。

 面々に、危機感がない。
 そんなことは分かっている。
 よくないことだ。

 自分たちは、力不足。
 そんなことは分かっている。
 よくないことだ。

 言われると辛いものはあるが、それを乗り越えようとしているのだが、今さら言われても取り乱したりはしない。

 何より、今は、“気をつけなければならないのだ”。
 一週間前に、自分たちに攻撃を仕掛け、逃げおおせた魔族、サーシャ=クロライン。
 人の悩みに“囁きかけ”、黒い思考に誘うあの魔族は、未だ生存している。

 いつ自分たちに囁いているか分からないのだ。
 こういう思考は、せめて解決するまでは自重すべきだろう。

 だから、問題は、最後の会話。

「誰にでも同じこと言ってんじゃない……」

 枕に吐き出した言葉は、濁って部屋に響いた。

 なんだなんだ、本当に。

 何が、『俺は銃を使わない』、だ。
 何が、『一緒に強くなろう』、だ。

 エリーの関心は、結局のところ、そこに向いていた。

 なんだなんだ、本当に。

 自分がそれを聞いたときには、すでにもう、彼の中でそれは決まっていたのだ。

 あの男が銃を使わなくなったのは、きっと、“そのとき”からだったのだろう。
 アキラはとっくに宣言していたのだ。

 イオリに。

「……、」
 今まで、昇って元に戻る、を繰り返していたものが、降りて元に戻るものに変化した。

 しかも何だ。
 自分にそれを言ってから、一週間しか経っていないではないか。

 それなのに、イオリの頼みに、アキラはあっさりと頷いて見せた。

 確かに、イオリの様子に思うものはある。
 ファクトルの危険性も、考慮すべきだろう。

 だが、それにしても、もう少し、何か。

「……、」

 あの男が、“そういう男”だということをすっかり失念していた。
 あの男は変わらない。

 結局この面々も、アキラ以外は女性になっている。
 “それに歓喜するような男”なのだ、アキラは。

「……、」

 いいはずなのだ。
 別に。

 銃を使わないでここまで来たことは、アキラの確かな糧となっている。

 この際、面々を集めて、盛大に宣言してもいいくらいだ。
 それで、逃げ道を潰してもらいたいくらいだ。

 “もうこの際”、全員に伝えて欲しい。

 その決意を聞いたのは、自分だけではなかったのだから。

 自分以外に、イオリも聞いている。

 よりによって、イオリ、だ。

「…………、あ~~~っ、これ、囁かれてる……、囁かれてる……、」
 傍から聞けば理解困難な呟きを、くぐもった声のままエリーは吐き出す。

 口でも開いていなければ、やっていられない。

「……!」
 そこで、澄んだノックの音が響いた。

「ああ、エリサス。ここにいたのか」
 エリーはドアが開き切る刹那、身体を即座に起こし、ベッドに座り直す。

 ある意味今最も会いたくない相手、イオリが部屋に入る頃には、エリーは“自然”を取り繕っていた。

「……? マリサスは?」
「……さっき、散歩に行きましたよ」
「そうか……。話があったんだけどね」

 “危機感”の話だろう。
 イオリが、最強メンバーに話していること。

 イオリは即座に出ていくのをためらったのか、ドアに最も近いベッドに座り込んだ。
 その冷静な顔からは、彼女が語った“恐怖”は感じ取れない。

 それとも、自分たちに危機感を持たせるのを諦め、むしろ不安を与えないよう振舞っているのだろうか。

「出発は、三日後になりそうだよ」

 それは何度も聞いたことだ。
 だが、わざわざ言うのも億劫で、エリーは頷くだけで返した。

「……と言っても、長丁場になるかもしれないけどね」
「?」

 だが、イオリの言葉には続きがあった。

「あとでみんなにも話すけど、とりあえず目的地を決めて、そこまでを往復するんだ。馬車は、貸してくれるらしい」

 ファクトルは広大だ。
 しかも魔王の牙城は“移動”する。
 入ればすぐに出遭えるというわけではない。
 それはもはや、“旅”だ。
 そして、砂嵐が頻繁に発生するその地で、長々と居座ることもできないだろう。

 結果、この支部を起点に、少しずつ調査を進めることになる。
 格安とはいえ宿代がかかるが、この激戦区の支部の部屋を提供してくれるのだ。

 いよいよもって、“証”の必要性が出てきた。

「だが、エリサス。本番のつもりでいてくれ。なにせ最初に行くのは、目撃証言のあった場所なんだから」
「分かってますよ」
「?」

 マリスのベッドを挟んで向き合うイオリに、エリーは短く返した。
 要するに、結局のところ、危機感を持て、ということだろう。
 不安を与えないように回りくどく言っていても、イオリは、自分の力のなさを嘆いているのだ。

「本当はそういうの、“勇者様”の仕事だと思うんですけどね」

 面々を鼓舞するのは、やはり、“勇者様”たるアキラの仕事だ。
 アキラが偉そうに語る姿は想像するだけでももやもやするが、イオリにあれこれと気を回されるのも面白くない。

 そうだ。
 面白くないのだ。

「……、まあ、アキラはそういうことには慣れないよ。その分、ね」
「……ええ、それは本当に」

 エリーは重ねて同意した。
 “それ”を知っているのは、イオリだけではないのだ、と。

「……、エリサス、その、もしかして疲れているのかな?」
「……いえ」
 僅かに視線を逸らし、エリーは否定した。

 確かに、疲れてはいる。
 いや、そうだ、疲れているのだ。ここまでの長旅で。

 だから、イオリと話すのが、面白くないのだ。

「まあ何にせよ……、いよいよ、だ」

 イオリが呟いた言葉は、今度はエリーの中で響かなかった。
 ただ無機質に、それを“情報”として受け取る。
 “感想”は、抱けない。

 イオリはずっと、気を張っているような気がする。
 アキラの前以外では、“イオリ”は、“イオリではない”のだ。
 そんな空気ににも近しい言葉に、抱けるものなど何もない。

 部屋の空気が、しん、となる。
 砂が窓を叩く音も、なんとも乾いて聞こえることか。

「―――エリサス」

 自分はそこまで冷たい表情を浮かべていたのだろうか。
 イオリがどこか腫れものを扱うような様子で、エリーに語りかけてきた。

「……この旅は、いつまで続くんだろうね?」
「?」
 ふいに、イオリはそんなことを呟いた。

 ただ間をつなぐだけの言葉だろうか。
 イオリは、彼女にしては珍しく、ベッドに足を投げ出し、姿勢を崩した。

「そろそろ話してみたいんだよ……。この旅の、終着点をね」
「終着点……?」
「ああ、終着点を」

 それは、“ここ”がゴールだとエリーに認識させるための言葉だろうか。
 それとも、彼女は本当に恐怖を覚えていて、それを和らげるための言葉だろうか。

 どちらかは分からない。
 どちらも、かもしれない。

 判断のつかないエリーは口を開かなかった。

 終着点。

 そんなもの、考えるまでもなく一つだけ。
 “魔王討伐”。
 それが、“勇者様御一行の旅”の終点であり、“神話”の最期に綴られるべき出来事だ。

「後世に残る僕たちの旅は……、きっと、魔王討伐までだろう。今までの伝承も、そこまで伝えられている」

 そんなことは知っている。
 わざわざ言うようなことではない。
 だが、イオリは、それを口にし続けた。

「……、」
 ただ、少し。
 思うところはある。
 というより、魔王の牙城が目前に迫っている以上、それは考えるべきなのだろう。
 これは本を閉じれば終わる物語ではなく、自分たちが今生きているリアルなのだから。

「“神話”の終着点は、きっと、“そこ”だ。だけど僕たちの旅は、一体どこまで続くんだろうね……?」

 イオリの言う、“旅”。
 それが、今のこの旅を指しているものではないとようやく分かった。

 彼女の言う“旅”は、この人生そのものだ。

「ここが最後の目的地。そう認識してなくてはいけない。だけど、どうも、ね」

 もしかしたら、これはイオリの独り言なのかもしれない。
 ここに危機感を持てと言っている彼女は、実のところ、先を見ているのだ。

 続く、日々。
 それに想いを馳せるだけに、彼女は、ここが、“終点”が恐いのかもしれない。

「イオリさんはどうするんですか? 魔王を倒し終えたら」
 独り言に、エリーは口を挟んだ。

 自分が今、イオリの言葉に思うものがあるのは、彼女が空気に近しい言葉を吐き出していないからだろう。
 彼女の本心は、きっと、ここで聞ける。

「…………、そうだね。魔術師隊に戻るかもしれないな……。その先までは、流石に考えられていない」
 その言葉が返ってきて、エリーは何故か、胸を撫で下ろした。
 イオリは、この世界で生きていくことを考えている。

「エリサスは?」
「……、え、い、いや、あたしは、えっと、」
 簡単に答えられていた、エリーの夢。
 魔術師隊に入り、いつか素敵な出逢いがあり、そして孤児院を継ぐこと。
 それは、口には出せなかった。

「……、やっぱり、アキラと?」
「っ、」

 まさか彼女の口から“それ”が出るとは思わなかった。
 エリーの身体がピタリと止まる。

「婚約してるって、」
「っ、そ、それ、あいつから聞いたんですか……!?」
「……、あ、ああ、そう、アキラに聞いたよ」

 イオリは僅かに止まり、肯定を返してきた。
 あの男は一体どこまで口が軽いのか。
 本人も知られたくなさそうだった事実なのに、よくもまあイオリに話したものだ。

「“魔王討伐の報酬”。それで破棄すると聞いたけど……、」
「……、つ、使います」

 小さく、返した。
 イオリが聞きたかったのは、“これ”だ。

 エリーは確信した。
 あれこれと気を回していた自分が馬鹿みたいだ。

 イオリは、自分たちの想いに、探りを入れてきたのだろう。

「……そうか。じゃあアキラは、一体どうするつもりかな……?」
「……?」

 言葉だけを捉えれば、わざとらしいイオリの呟き。
 だが、エリーは何故か眉を寄せた。

 イオリの口調は、まるで、アキラを“完全な他人”と扱っているとさえ思える。

「同じ異世界から来た僕は……、幸か不幸かこの世界で生活する術を持っている。でも、アキラは、」
「……、」

 異世界来訪者に優しいこの世界。
 アキラは何度もそう言っている。
 だがそれは、魔王を倒したあとはどうだろう。

 イオリの懸念は―――いや、もしかしたらその程度のものですらないかもしれないものは、そこだ。

 確かに、魔物を倒す旅を続けることはできる。
 魔王を討ったとしても、それは魔物の統制がなくなるだけで、町や村に被害を与える存在には変わらないのだから。

 イオリが魔術師隊に戻れるように、魔王を倒しても、魔物との戦いは終わらない。
 次の魔王が現れるときのために、人々を救い続ける必要もある。
 だが、旅をつづける以上、まともな貯蓄はできない。

 できる人もいるが、何せ、“あのアキラ”だ。
 彼はずっと、戦火の中にいることになる。

 それこそ、彼に合った職業、例えば孤児院の子供たちの世話係でもしなければ。

 未だどこか埃臭い、静かな部屋の中。
 静かな会話は続く。

「こんなのはどうかな? 魔王討伐の報酬、それを、アキラを元の世界に戻す、なんてものにするのは」
「っ、」
 今日一番の衝撃に、エリーは身体中の時間を止めた。

「それって、」
「いや、そういう解決方法もあるんじゃないか、ってね。アキラがこの世界から去れば、婚約は必然的に解消できる。万事解決のような気もするんだよ」
「それは……、その、そうなんだろうけど……、無理だと思います。あいつ、この世界好きそうだし」

 イオリの抑揚のない声に、エリーは必死に食らいつく。

 そもそも、異なる世界を行き来する方法など、何一つ不明なのだ。
 だが、アキラやイオリは何故、この異世界に来訪することになったのだろう。
 それを考えれば、それこそ神族が介入しているとしか考えられない。

 ならば、願いとして、その報酬はありだ。

 しかし、ご都合主義がどうだの言っていたあの男は、この世界を本当に楽しんでいる。
 アキラはこの世界を好きなのだ。
 帰るなどと、言い出しそうには思えない。

 そのはずだ。

「でも、彼が勇者でなくなれば、この世界の優しさは彼に向くかどうか分からない。失礼だとは思うけど、彼が魔術師試験を突破できるとは思えないしね」

 エリーは知っている。
 魔術師試験の難易度を。

 ここまでの旅で、アキラはある程度の知識を有しているが、それは実践向きで、むしろ魔道士試験の趣旨に近い。
 単純な基礎の学力も必要な魔術師試験とは、アキラには相性が悪すぎる。

「短絡的なアキラは、そのときにはすぐには分からないだろう。だけど、いつかきっと、後悔する」
「そんなの、」
「可能性の話だよ。歴史には神族に願いを叶えれもらって幸せな人生を送った“勇者様”もいるらしいけど……、その“特権”の使い道はもう決まっているんだろう?」

 エリーには、イオリの言葉は自分を責めているように聞こえた。

「それに、」
 ベッドに深々と座り、纏ったローブに構わず体重を預けるイオリは、ただただ言葉を吐き出し続ける。

「僕もそうだけど……、元の世界の記憶は曖昧だ。まるで、元の世界への愛着を損なわせるように。だけどもし、それを取り戻したら、アキラは―――」
「か、関係ない話です!! あたしには!!」
「っ、」

 想像以上の声が出た。
 ベッドから下ろした足に、自然と力が入る。
 今すぐにでも、駆け出してしまいそうだ。

「……すまない」
「あ、いえ、」
「いや、本当に、」

 イオリは今気づいたかのように、姿勢を正し、ベッドに座り直す。
 再三謝罪を口にするイオリに、エリーは視線を合わせなかった。いや、合わせられなかった。

「やっぱり相当まいっているみたいだ……。忘れてくれ」

 分かっている。
 イオリの危惧していることは分かっているのだ。
 だからそれゆえに、エリーは声を荒げてしまったのかもしれない。

 アキラの“先”。
 自分たちの“先”。

 それを考えるのがどうしようもなく恐い。

 今を生きる。
 それを口にするのはあまりに簡単だ。
 人によっては、そうすることに何の苦もないなだろう。

 だが、それは、“先”にいる自分を信用していないことにもなる。
 長期的に物事を考えられないことにもなる。

 取ろうと思えばいくらでも取れる、“裏”。
 それで、サーシャにもやられた。

 先も、今も、不安な現状。

 判断もつかないのにその間に落とされることが、エリーは、恐い。

「どうもエリサスくらいしかこういう話をできないと思ってね……。すまない」
「いいんです、本当に」

 確かに、“アキラを除けば”、一番話している。
 ティアは別として、イオリにとって不安を打ち明けられるのは、エリーが適任なのかもしれない。

「……、」
 そこでエリーは、はたと顔を上げた。
 目の前のイオリ。
 すでに、落ち着いた表情を取り戻している。

 彼女も、自分自身がたった今口にしたように、元の世界への愛着が削り取られているのではないか。

「イオリさんは……、元の世界には?」

 彼女も異世界からの来訪者。
 それならば、彼女がいるべき場所は、ここではないのかもしれない。

「僕は……、そうだな、」

 イオリは小さく苦笑した。
 いつもの表情。
 だがそれは、いつもと違う。
 エリーの目には、何故かそう映った。

「帰らないよ。多分ね」
「?」

 静かな部屋で、消え入りそうな声。
 イオリは焦点の合っていないような瞳を携え、小さく呟いた。

「この異世界には……、そう、二年もいたんだ。愛着もある、それに、サラもいる」
「……、」

 サラ。
 モルオールで会った、魔術師を思い出す。
 イオリの部下であった彼女は、親友でもあったようだった。

「で、でも、元の世界には、」
「そうだね。両親もいる」

 サラを語ったときと比べ、なんと軽い口調か。
 彼女の中の天秤が、どちらに大きく傾いているか、それだけで分かる。

「でも、こっちの世界の方が……、うん、いいと思う」

 うつむいたイオリの表情は、よく見えない。
 だが、多分、苦笑しているのだろう。

「あ、あいつが、帰るとしてもですか……?」
 顔が見えないときの特権か。
 エリーはとうとう、思っていた疑問を口にした。

 イオリは、アキラとよく話している。
 本当に。

 そして、彼女は、アキラの前では、より自然に見えるのだ。

 その距離は、近かった。

 思えばメンバーの誰もが、アキラに惹かれている。
 だがその理由も、想いの名前も、共通のものではないだろう。

 最近は、エレナがアキラに寄り添っても、憤りは僅かにしか浮かばない。
 何よりマリスに止められている。

 だが、イオリは、違う。

「……多分、勘違いしているよ」
「?」
 イオリはゆっくりと顔を上げ、エリーと向き合った。

 その顔は、いつも通りの苦笑した顔。
 だが、やはり、何かが違うのだ。

「アキラとはよく話す。それに、面白いと思うのは確かだ。元の世界でも逢ってみたかった、と感じるくらいに」

 イオリは表情を変えない。

「でも、僕はさ……、多分、」
「……、」

 カタカタと、砂が窓を叩いているはず。
 その小さな音は、エリーにはまるで聞こえなかった。

「アキラのことが、嫌いなんだと思う」

―――**―――

―――結局、エリーがアキラとまともに話すことはなかった。

「馬車って、誰か操縦できるのか?」
「ああ、自分とイオリさんが交代でやるっす。サクさんもできるんすよね?」
「ああ、多少は」
「じゃあ、三人っすね」

 三日後、“勇者様御一行”はファクトルに続く荒野に立っていた。
 聞いていたより大したことはなかったが、一昨日、昨日と続いた砂嵐も晴れ、太陽が東から昇り始める頃。
 早朝と言っても差支えない時間帯。

 馬車の操縦など、一体いつの間に覚えたのだろう。
 自らのオーバースペックをなんてことでもないように語る自分の妹を見ながら、エリーは馬車に積荷を積んでいた。

 先頭にいる四頭の馬が不釣り合いに思える、中程度の馬車。
 中は、七人と積荷だけで一杯になるほど狭苦しかった。

 砂対策の分厚い布や、悪い足場用に丈夫な車輪で造られているが、ヨーテンガースに来て最初に見た馬車、サルドゥの民のそれには遠く及ばない。

 だが、賃貸料を払ったとはいえ、かなりの上質だ。
 流石、魔道士隊の備品というだけはある。

 ここまでが、彼らが自分たちに支援できる最低限だ。

 今から自分たちはこれに乗って、ファクトルに入る。
 エリーは深く息を吸い込み、鼻にまとわりつく砂ごと吐き出した。

 大気は、乾いている。

「わああ……、あの、あのっ、ちょっとやってみていいですかっ!?」
「誰か、縄くれない? ちっちゃい子供一人拘束できるくらいの」
「エレお姉さまっ!?」

 その馬車の先頭、目を輝かせて馬に近づくティアにエレナの冷たい声が突き刺さる。
 ここに滞在し始めた初日、どこか様子がおかしかったティアは、もう完全に復活しているようだ。
 今の彼女に馬車の操縦を任せたら、あっさりと横転するだろう。

 最後に荷を積み終わり、エリーはため息を吐いた。

 集中しないと。

 いるだけで、じゃらついた口触りを感じる。
 パラパラと、顔に砂が当たる。
 息を思い切り吸うのも、ためらわれるほどだ。

「……、」

 集中しないと。

 僅かに視線を面々に送り、エリーは心の中で呟いた。

 緊張感が薄れた面々。
 やはり少しは強張っているようだが、最高潮には達し得ない。

 そして、自分も。

「……、」
 エリーの視線はアキラたちを追い越し、建物の前で数人の魔道士たちと話すイオリに向いた。

 随分質素な見送りだが、あの場にはピリピリとした空気が満ち溢れている。
 こちらは、まるで観光にでも行くような雰囲気だ。

 そして、エリーも、魔王討伐より―――魔王討伐“など”より、イオリの言葉の方が気になっていた。

 三日前の彼女の言葉は、耳に残って離れない。
 その真意もつかめぬまま、とうとう、“今日”だ。

「よし、出発しようか」

 話は終わったのか、イオリは自分たちの元へ駆け寄ってきた。
 その後ろから、魔道士たちの少ない声援が聞こえてくる。

 それも、どこか、遠い。

「アキラ」
「……、」

 イオリは僅かにアキラに目配せし、頷かせる。
 あのときの“懇願”の確認だろうが、イオリは小さく微笑んだ。

 やはり、“そう”見えない。

「アッキーッ!! 出発前に、何かっ!!」
「へ?」
 さっそく馬車に乗り込もうとしたアキラを、ティアが止めた。

「士気を上げるためにもっ、“勇者様”のお言葉をっ!!」
 彼女はピクニック気分の代表格だろう。

 必要性は感じるが、表情は、あまりに明るかった。
 今すぐにでも、身体を跳ねて暴れさせそうだ。

「えっと、」

 全員の視線がアキラに向く。
 だがエリーは、いや、全員が、その場から近寄ろうともしなかった。

「か、勝つぞっ」
「……、」

 しばし沈黙。
 何も考えていなかったことが浮き彫りになるようなアキラの言葉に、マリスは呆れたような表情を浮かべ、イオリは小さく苦笑する。
 エレナとサクが、小さくため息を吐き出したところで、

「おっ、おうさっ、私にっ、ま、か、―――ストップストップ!! エレお姉さまっ、今だけはっ!!」
「黙りなさい」

 アキラの言葉を何とか拾おうとしたティアが、掴みかかろうとしたエレナから一気に距離を取った。

 本当に、乾いた光景。

 全員が全員で、“日常”にいる。

 こんな場所なのに。

「……ま、行きましょうか」
 エレナが呟き、馬車に乗り込む。

 面々が、それに、無気力に続く。
 あるいはそれが緊張ゆえだったら、望ましかっただろう。

「ま、いいか」

 それで、納得してしまう自分も。
 エリーは小さく呟き、それに続く。

 みなが言うには、今回は探索だけで終わるかもしれない。
 魔王の牙城は移動する。

 目撃証言があったという場所には、もうとっくにいないだろう。

 食糧などが半分になったら、またこの場に戻ってくる。
 そうなるはずだ。

 だからむしろ、エリーの注意は別に向いていた。

 他のメンバーも。

 だから。

「行くよ」
 最初の操縦を務めるイオリが、馬車の面々に声をかける。
 メンバーは思い思いに、ばらばらに、それに適当に応じる。

 緊張感のない面々。

―――それが多分、よくなかったのだろう。



[12144] 第十六話『オンリーラブ(前編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2011/06/19 20:54
―――**―――

 来た。
 すぐに分かった。

 このファクトルは、庭なのだから。

「……、」
 その場所―――“王”に相応しい空間で、唯一の存在は確信した。

 この、物的意味合いでも世界の一部と形容できる、広大なファクトルの地。
 そこを、庭とまで形容できるのは、“その存在”からすれば当然のことだった。

 “その存在”が住む、いや、“乗る”その壮絶的な姿からすれば、まさしくここは、箱庭なのだから。

 侵入者だ。
 それも、数日前とは違う、本格的な“当たり”。

 ようやく来た。

 希望と言われる、“勇者”が。

 そして、ようやく終わる。

「……、」

 その存在は、小さく、しかし、“らしく”、荘厳に笑う。

 ようやく終わる。

 この、下らないチェスゲームが。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「? にーさん?」

 馬車の中から直接馬の手綱を引く先頭まで出たアキラを、半開きの眼の少女が迎えた。
 漆黒のローブに長い銀の髪をそのまま仕舞い込み、その上から砂対策の厚着を着込み、淀みない手つきで馬を操るのは、マリスことマリサス=アーティ。

 昼を僅かに過ぎた程度だというのにどこか薄暗いこの場所に、アキラたち“勇者様御一行”が入ったのは昨日の朝。
 うず高い岩山に囲まれた、それに比すれば狭い荒れ果てた足場。

 そこを行く馬車は揺らぎ続け、馬車を引く四頭の馬もすでに疲労を溜めている。
 車輪も特別仕様でなければ、とっくに破損しているだろう。

「もう起きたんすか?」

 操縦しているにもかかわらず、むしろ彼女の方が眠たげに見える眼を真横に座ったアキラに向け、マリスは小さく聞いてきた。
 余裕な表情、というより無表情に近いそれからは、疲労がまるで感じられない。
 数千年に一人の天才と言われるマリスにとって、例え“世界最高の激戦区”であろうとも、何も変わらないようだ。
 “魔術”ではなく、不可能を可能にする“魔法”を操る、月輪属性のマリス。
 その力は総てを超えているのだから、それは不遜や慢心ではなかったりするのだけど。

「流石に寝てられないだろ……、」
「……、」

 アキラはたった今這い出てきた馬車の中を思い返す。
 “七曜の魔術師”が共に行動している狭い馬車の中には、女性しかいないのだ。

 共に昨日の夜の番を務めた二人は睡眠をとっているが、そこに交じって寝ていられるほど、アキラの神経は太くない。

 そして、それ以上に、馬車の中は、居辛かった。

「休めるうちに休んどいた方がいいっすよ。いつ戦闘になるか分からないんすし」
「ああ、……でもなぁ……」

 アキラは視線を周囲に走らせた。
 馬車で揺れる景色には、砂と岩山しか見えない。

 僅かな休憩以外は走らせているというのに、どこまで進もうと景色は変わらなかった。

 そして、それどころか。

「魔物……、出ないっすね」
「……ああ」

 アキラの心情を察したのか、マリスが呟いた。

 そうなのだ。
 この地を囲う魔道士隊の支部から出発して以来、魔物どころか生物すら見ていない。

 意識して緊張感を高めていたそれも、その様子に萎え始めていた。

「魔物が出現するのって、もっと先だっけ?」
「らしいっすね。だから、休んどいた方がいいっすよ」

 再三休憩を促すマリスに、アキラは何も返さなかった。

 聞いたところによると、ここの魔物は、この辺りまではほとんど来ないらしい。
 というより、この辺りまで来ると、魔道士隊に駆除されるからだ。

 この地は、世界最高の激戦区、すなわち絶対領域。
 その拡大を防ぐために、この地は、魔道士たちによって閉じ込められている。

 といっても、何も起こらないというのも不気味だった。

「……、」
 アキラは何の気なしに、流れる景色の足場を眺めた。

 荒れ果てた大地。
 所々、土がめくれ上がって砂風にさらされている。
 確かに足場は悪そうだ。
 だが幸か不幸か、その場で魔物と戦う機会はなかった。

「……、」
 何となく、無言になる。

 岩を鳴らす風と、馬の足と、馬車の車輪の音。
 それだけが聞こえている乾いた空気の中、アキラはおぼろげに、右手開いた。
 そして、目の前にかざして見る。

 その右手は、今まで総てを蹂躙してきた。
 伏線も、想いも、何もかも。

 馬車は揺れ動き、砂埃が頬を叩くこの環境でも、その右手だけは揺るがなく見える。

 この右手から現れる、日輪属性の勇者たるアキラの、最強装備。
 プロミネンスという広大かつ壮絶な砲撃を放つ銃は、魔道を志す者の最終到達地点と言われる“具現化”だ。

 “とある意地”から使っていなかった、この力。
 それを、使うときが来ているのだ。

「……、風、強くなってきたっすね」
「……!」

 まるでマリスの呟きがそれを呼び込んだかのように、頬を叩く砂粒が強くなった。
 そして視界も徐々に悪くなる。

 風と岩の音色は力を増し、砂埃は舞い上がる。

 遮断されつつある日の光は世界に影を落とし、背筋を冷たい汗が撫でた。
 気分の問題か、馬車が闇に近づいているようにも見える。

 確かに、集中しなければ。

 終着点。
 このご都合主義の、優しい世界の切れ目。

―――ファクトル。

 ここには、魔王の牙城があるのだから。

―――**―――

「くー、」
「……、」
 薄暗く、狭い馬車の中。
 エレナ=ファンツェルンは、隣で眠る少女の乱れていたタオルケットを適当に直した。
 馬車の後方でチャプチャプと鳴り、面積を圧迫している食糧だけが、何の感情も抱いていないようだった。

 普段着にも近い簡易な服の上から羽織ったメンバー共通の分厚いローブを、逆にはだける。
 甘栗色の長い髪に、女性として理想的な身体つき。
 長いまつ毛に大きな瞳、そして妖艶に膨らんだ唇と、整った顔立ちの彼女は今、無表情だった。
 それこそ、木曜属性の彼女が敵を作業のように滅しているときのように。
 そんな表情を、“作っていた”。

「……、」
 思い直して、ローブを脱いだ。
 揺れる馬車の中、どこか重い空気。
 動かないとはいえ、砂対策の厚着は暑苦しいものがある。

「くー、」
 隣からは、依然、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 その少女、ティアことアルティア=ウィン=クーデフォンは、“こんな場所”だというのに、あどけない表情で、ときおり口をもごもごと動かしていた。
 青みがかった短髪の、水曜属性の魔術師。
 その短髪をかき分け、エレナは何となく、ティアの額に手を置いてみた。
 僅かに吐息を漏らしたが、どうやら、体調は問題ないようだ。

 問題なのは、彼女が、“彼女のまま”であるということなのだが。

 馬車は揺れる。
 魔王の地に来ているだけはあり、その中は、和気あいあいとは流石にいっていない。

 だた、ティアが目を覚ませば、それだけで、そんなムードは消し飛んでしまうだろう。

 ティアが今寝ているのは、昨日の夜の番を務めたからだ。
 もしそれを、キャンプの夜更かし程度だと彼女が感じていたのだとしたら、やはり、忌々しき事態である。
 そしてそれを裏付けるように、ティアは、遊び疲れた子供のように眠っていた。

「……、」
 直しても直しても乱れるティアのタオルケットをまたも直し、エレナは次に、正面で眠る少女に目を向けた。
 エレナと同じような体勢で、馬車の隅に背を預け、自らの長刀を抱え込むようにして目を閉じている。

 高い位置で束ねた黒髪に、エレナとは対照的な精緻な日本人形のような顔立ちの少女、サクは、静かに休み、ティアとも対照的だった。
 触れれば切れるような雰囲気を持つ、金曜属性の魔術師。
 いつもは特徴的な紅い着物も、分厚いローブに隠れている。

 サクとティアは、言い方は悪いが、エレナが直接脅しつけた二人だ。

 この場所の危険さ。
 認識の甘さ。

 だから気を張り、初日の夜の番をアキラと共に務めたのだろうが、それでもエレナの懸念は晴れない。

 確かに、気を張り過ぎてもかえって悪い結果になる、とはよく言われることだ。

 だが、そんな通説すら、戯言になる。

 気を張って、気を張って、それが僅かにでも途切れたとき、そこに待つのは惨めな末路だけ。
 ここは、ファクトルは、そういう場所なのだ。

 そしてそれは、“ここにおける通常の魔物”だけで、“そう”なのである。

 ここには、“そんなもの”と比較することすら愚かしい、魔王の牙城があるのだ。

 当然そこにいるのは、“魔王”だけではない。
 魔王直属の、“魔族”。

 それが、勢揃いしているであろう。

 “勇者様御一行”の旅の道中、出遭った“魔族”は二体。

 一体は、リイザス=ガーディラン。
 アイルーク大陸で遭った、“財欲”を追求するその存在は、アキラの最強の砲撃が、滅した。
 もう一体は、サーシャ=クロライン。
 ここ、ヨーテンガース大陸で遭った、“支配欲”を追求するその存在は、メンバー最強クラスのマリスを前に、逃亡を図った。

 たった、二体だ。

 先日宿泊した魔道士隊の支部でも、情報はほとんど集められなかった。
 逃げたサーシャもここにいるであろう上に、自分たちは、魔王戦力の総計を知らない。

 そして、もう一体。
 エレナだけが知っている、“魔族”。

 “それ”も、“未だ”ここにいるかもしれない。

 出遭ってどうするつもりかと問われれば、即座に『殺す』と返せる相手。

 “ガバイド”。

 自分たちが知っているだけでも、ここは、危険なのだ。

 だからエレナは、ひたすらに身体を休める。
 勝率を―――いや、もしかしたら、“生存確率”を少しでも上げるために。

「―――、」
 エレナが次に目を映したのは、サクの隣、同じように馬車に背を預け、ここ一帯の地図を眺めている少女だった。

 ホンジョウ=イオリ。
 巨大な召喚獣を操る、土曜属性の魔術師。
 黒髪に、小さな飾りのついたヘアピンが唯一のアクセサリーである彼女は、どこか暗い面持ちで、必死に現在位置とそれを照らし合わせていた。
 魔道士にしか着用を許されないローブも、今は面々と同じく、土色の分厚いローブで隠されている。

「……、」
 彼女は、“分かっている”。
 休息と、情報確認。
 つまるところ、それしか“許されない”この場所で、彼女は、それを理解し、それを実行している。

 助かった。

 エレナはふいに、そんなことを思う。
 イオリは、“警戒”していてくれている。

 魔物が現れないこの状況。
 決して、いつものように、“マリスを恐れて”現れないわけではないということを、イオリは理解している。

 今、“そう”であってくれているのは、自分、マリス、イオリ。そして多分、アキラ。
 エレナの目から見れば、そうとしか考えられなかった。

 他のメンバーは、“緊張”はしているが、“警戒”はしていない。
 だけどもう、仕方がない。
 自分たちだけ“そう”ならば、彼女たちがどう思っていても、結果には響かないだろう。

 結局のところ、エレナは残る彼女たちを、“そういうくくり”で考えていた。

「……、イオリさん、あたしたち、今どの辺りなんですか?」
 眠っている二人を気遣った小声が、外の風の音と混ざって吐き出された。

 重苦しい空気に耐えられなかったのは、エリーことエリサス=アーティ。
 短い赤毛に、大きい瞳。
 双子の姉というだけはあり、マリスと瓜二つの彼女は、“緊張”している最後の一人だ。
 そして、この“七曜の魔術師”の中の、火曜属性の魔術師。

 この、七人。

 その七人は、二つに分かれている。

 空気も、そして、実力も。

「ああ、流石にもうすぐ、とはいかないみたいだ。だけど、休養だけは、」
「……はい」

 ほら。
 あれだ。

 同じく小声で返してきたイオリに、エリーはまるで話しかける相手を間違えたかのように委縮し、再び身体を抱え込むようにして黙した。

 完全に、“別のこと”が気になっている。

 絶対に、何の余裕もない場所のはずなのに。

「……、」
 聞こえない程度に、エレナは空気の塊を吐き出した。

 砂風が馬車を叩く音と、食料の水音と、小さな寝息声。
 馬と車輪が大地を響かせ、馬車は前へ前へと進む。

 どこまでも我が道を行きたがるエレナにとっても、最終目的であるかもしれない、この場所。

 それなのに、こう思ってしまう。

 宿敵の首より、何より。

 “恐怖を無事に持ち帰りたい”、と。

―――**―――

「……、ああ、俺、やっぱり変わったかもしれない」
「? 何がですかっ?」

 天高く舞う砂が太陽を隠していたものとは違い、本当の夜が訪れたファクトルの地。
 アキラはパチパチと燃えるたき火の向こう、にこにこと笑うティアに小さく呟いた。
 その音量を遥かに超越して返ってくるその声に、僅かに苦笑し、視線を空に向ける。
 岩山に挟まれた空は、生憎曇り、そして狭かった。

 頬を撫でる土の匂いも、どこか弱い。
 砂嵐が発生しないのは僥倖だった。

「まず、体力。俺さ、もっと眠気に弱かったような気がするんだよ」

 今日は、ほとんど寝ていない。
 昨日夜の番を務めたというのに、目の前のティアのように休息を取らず、ずっと馬車の操縦席にマリスといた。
 それなのに、眠気は襲ってこない。

「それと、心も。今、馬車の中、あんま気になんない」
「おおっ!? アッキーが悟りの境地に!?」

 ティアから大げさな言葉が返ってくる。

 今、馬車の中では、ティアを除く女性陣が、湯浴みをしていた。
 湯浴みといっても、大したことはない。
 布を浸し、身体を拭くだけ。

 ファクトルは広大だ。
 魔王の牙城を目指すといっても、それは“移動要塞”らしく、今回探索で終わる可能性が高いのだから、女性からしてみれば身体を清めたいのだろう。

 ただそれでも、服は脱ぐ。

 もともと覗きをするほどの度胸はアキラにはないが、それでも今までは、悶々としていただろう。
 それが、今はどうだ。
 いい傾向なのだろうが、アキラの意識は、魔王に向いていた。

 ただ、少なくとも言えることは、ティアがアキラを見張る必要ない。

「ティア、お前はいいのか?」
「あはは、あっしは後でっ!! その、みなさんと一緒だと……、えっと、気後れして……、あはは」
「?」
「アッキー、女性にもいろいろあるんです」

 突如真顔でどこか冷めた言葉を吐き出したティアに、アキラはそれ以上追及できなかった。

「でもアッキー、休んだ方がいいですぜぃっ!? あっしはもう一晩、ばっちり行けます!!」
 ティアはよく寝ていたそうだ。

 だがそれが、“身体を休めていた”わけではないと、何となく思ってしまう。
 彼女は、“いつも通りのティア”なのだ。

「……、」
 目の前の、いつも通りの、ティア。

 それを見ていると、どうしても不安が募る。
 緊張感は、ある。
 だが、警戒心は、ほとんどない。

 あるのは、体力だけだ。

「……、」
 だがそれは、“結果として”、アキラも同じだった。

 身体中の感覚が湧き立ち、そして心には、夜も眠れぬほどの冷えた部分がある。
 身体を休め、万全の状態でいなければならいのに、それを感覚が拒絶する。
 全神経がピリピリと警告してくるのだ。

 そのせいで、休養が取れない。
 警戒と休養。
 そのどちらも必要だというのに、あまりにバランスが取れていなかった。

 “警戒”している三人、マリス、エレナ、そしてイオリは、“それ”ができている。
 一段階先にいる、あの三人。
 その真似事すら、アキラにはできなかった。

 伏線も、想いも、総てを蹂躙してきた旅路。
 ここはその、終着点なのに。

「―――アッキー、私は警戒していますよ」

 ティアからまた、静かな言葉が聞こえた。
 彼女はどこか視線をぼかし、目の前で揺れるたき火を、見ているようで見ていない。

「いや、多分、エレお姉さまが言う域には、全然達していないと思いますけど」

 ティアのこういう口調は、たまに聞く。
 面々に積極的に話しかける彼女。

 彼女は、ときたま、こういう雰囲気になるのだ。

「エレお姉さまにね……、前に、話したことあるんですよ。『死んだらどうなるんだろう』って」
「……、」

 たき火だけが、照らす世界。
 ティアのずっと小さな声だけが聞こえる。

 風の音も、馬車の中からの水音も、まるで聞こえなかった。

「人は、いつか死ぬ。分かっていても、私は恐い。だけど、思うんですよ。それが決まっているのなら、『恐がって動かないことが、恐い』って」
「……、どした、急に?」
「……、くぅ……、エレお姉さまにも似たようなこと言われました……。あっしにシリアスは向かないですかっ!?」
「い、いや、いいんじゃね?」

 アキラは一応、先を促した。
 こうした静かな場所で、ティアとこういう風に話したことは、思えば一度もなかったのだから。

「……それで、思うんですよ。いつかは何かにぶつかる。それまでは、恐がらずに走り続けたい、って」

 それは、もしかしたら、“挫折”を指しているのかもしれない。
 アキラが元の世界で経験したようなちっぽけなことではなく、もっと大きな、あるいは“旅にとって最も必要なこと”。
 それは、ここまで、一つもなかった。

 いや、本当になかっただろうか。
 アキラの頭のどこかが、何故か、ズキリと痛んだ。

「それに、エレお姉さまに言われたんです。『間に合わなくなっても知らない』って」

 ティアは本当に、エレナと話しているようだ。
 というより、懐いている。
 そしてもしかしたら、エレナも。

 そのときのエレナの表情は分からないが、きっと、心情は、ティアの身を案じていたのだろう。

「だけど私は、“いつも通り”を貫きたい。よく騒いで、よく寝て。変わらなきゃいけないってことは、薄々気づいているんですけどね」

 その機会は、きっと、アキラが奪ってしまったのだろう。
 順調に進んできた、これまでの旅路。
 その中身は、悪く言えば空虚なものだ。

 不揃いな世界は、“想い”を奪ったのかもしれない。

「だから、アッキー。休みましょうっ! あっしも昼間寝てたからいけそうですけどっ、一緒にっ、……って、きゃはっ、そんな意味じゃないですよっ!?」
「ティアに諭された……、」
「アッキーッ!?」

 ようやく話のゴール地点に到着し、アキラはうなだれ、ティアは喚く。
 だがアキラの中に、ようやく身体を休めるという選択肢が浮かんできた。

 ビクビクしないで、前に進む。

 きっと、そうすることで、この物語は“神話”になるのだ。

―――**―――

「……ラ、アキラ、」
「……?」

 意識がゆっくりと覚醒する。
 揺れる馬車。
 そしてそれより大きく、揺さぶられる自分。

 頭が徐々に回転したところで、アキラはようやく目を開けた。

「アキラ、起きてくれ」
「……、うわ……、かんっぺき寝てた……」
「いや、それはいいんだけど、起きてくれ。到着する」

 身体の節々がパキパキと鳴る。
 首を動かせば、折れたと感じるほど不気味な音を奏でた。

 随分と長い間、同じ体勢でいたようだ。

「おはよう」
「あ、ああ、」
 薄暗い馬車の中、目を開ければ、どこか苦笑したような表情で、イオリが覗き込んでいた。

「よく寝ていたね……。体調は?」

 身体に倦怠感は襲うも、流石にあと五分などとは答えられなかった。
 自分たちが今いる場所。

 ファクトルは、比喩ではなく、危険地帯だ。

 馬車内を見渡せば、各々が同じ位置で、座り込んでいる。
 ただ、エリーとサクだけがいなかった。

「到着したって、……どこに?」
「魔物の出現場所だ。今、二人の声も聞こえなかったみたいだね」

 その二人とは、エリーとサクだろう。
 イオリの視線の先、馬車の先頭、布に二人分の影が見える。

 今日の馬車の操縦担当者は、サク。
 エリーはそれに付き合って、そこにいるのだろう。

「……、俺って、どれくらい寝てた?」
「もう昼過ぎだ。エリサスもエレナも、とっくに起きてる」

 随分と寝ていたらしい。
 眠くなかったのは、本当に、心理的なものだけだったのだろう。

「やっぱり、疲れてたんじゃないですかっ!!」
「あ、ああ、」
 馬車内の正面から、騒音が聞こえた。

 昨日自分に寝るように促したティアは、どこか満足げに笑っている。
 ただ、起き抜けにしては厳しいその大声も、今は覚醒要因として望ましい。

「魔物は?」
「まだ、出ていない」

 イオリの返答を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
 ファクトルの魔物に、アキラはまだ出遭っていない。

 その大一番を、自分が気づくこともなく過ぎ去るのは、あまり面白いことではなかったりする。

「警戒しなさい」
「……!」

 その、自分が気づく間もなく魔物を滅せるであろう女性から、どこか乾いた声がアキラに届いた。
 いや、アキラだけではない。
 恐らく、この場にいる全員に、その女性、エレナは伝えているのだろう。

「こんな場所まで来たってことは、何が起きてもおかしくないわ。そうでしょ?」

 エレナはアキラ、イオリを一瞥したあと、隣のティアを追い越し、奥で座っている最後の一人、マリスに視線を向けた。
 マリスは音もなく頷く。

 その雰囲気は、いつもののほほんとしたものではなく、半分の眼をどこか険しくしていた。
 彼女は、“警戒”している。

 そうだ、“警戒”しなくては。
 アキラは一気に身体中を覚醒させた。

 エレナの言う通り、ここは何が起きてもおかしくはない場所。
 口伝てでしか聞いていなくても、自分は“警戒”しなくてはならない。

 ここは、世界最高の危険地帯、ファクトル。

 だから―――

「全員馬車から降りろ!!」
 外からサクの怒鳴り声が聞こえた。

―――そんなことが突然起きるのも、自然なことなのだろう。

「っ―――、」
 最も早く反応したのは、マリスだった。

 座っていたマリスは瞬時に跳び起き、馬車の分厚い布を突き破るほどの速度で外に躍り出る。
 翻った馬車の布の先、彼女が両手を振り上げるのがアキラには見えた。

「出るわよ!!」
「ぐぇっ!?」
 エレナが隣で座るティアの首根を掴み、マリスに続く。
 アキラとイオリが競い合うように外に出れば、そこは、銀の光に包まれていた。

「っ!?」
 起き抜けでその光景を見れば、いくらなんでも動きは止まるだろう。

 道と形容できないほどの、岩山に囲まれただだっ広い通路。
 上空から見れば巨大な迷路を思わせるファクトルの地形は、どこまで行ってもアキラには差が分からない。
 少し戻れば、すぐにでも魔道士隊の支部に到着できそうだ。

 だが今まで、吹きすさぶ砂風の中、岩山の上部から、大岩が落ちてきたことは流石になかった。

「―――フリオール!!」
 マリスがその岩石に両手を突き出し、馬車の上空数メートルで止めていた。

 彼女が即座に反応し落下を止めていなければ、馬車はアキラたちごと押し潰されていたであろう。
 外にいたエリーとサクも、馬車から急遽離れ、倒れ込んでいる。

「何がっ、」
「ヒンッ」

 アキラが状況把握をする間もなく、馬車が動き始めた。
 危機から即座に逃げられるのは動物の本能か。
 操縦者を失った馬は、わき目も振らず駆け出した。

「っ、」
「止めなさい!!」

 それを追おうとしたサクを、エレナの怒声が止めた。

「“そんなの”、どうでもいいわ!!」
「―――!!」

 面々の積荷が、馬車と共に離れていく。
 指揮系統のなくなった馬は、今すぐにでも馬車と共に横転するかもしれない。
 だがそんなものは、完全に後回しだ。

 エレナが睨んでいるのは、たった今、落石を引き起こした存在。
 岩山の上から、面々を見下ろしている数体の魔物だった。

 いや、数体ではない。
 舞い上がった砂の向こう、岩山の上部に、わらわらと黒い影が並んでいる。

「ガァァアアッ!!!」

 威嚇するように咆哮を上げ、アキラがその正体を視認するよりも早く、俊敏に自分たちと馬車の間に降り立つ。
 マリスも一々止めていられないほどの、異常な数。

 その魔物たちは、総て黒い体毛に覆われた、ゴリラのような姿だった。
 旅の途中見てきた、クンガコングやガンガコング。
 姿形は似ているものの、“それ”は、一体一体の体長がゆうに三メートルを超えていた。

 肥大化した筋肉で、胸を討ち鳴らし、くすんだ眼でアキラたちを睨む。

「ランガコング!!」
「っ、」
 イオリが叫び、エレナが即座にその大群に飛び込む。

 マリスが魔法を解き、落石を“自然”に戻したのが、開戦の合図だった。

 落下する大岩。
 揺れる大地。
 踏んだ足場では、右足と左足が同じ高さに並ばない。

 予兆も、なにもなく。
 アキラたちは突如日常から切り取られた。

 ランガコングと呼ばれたその魔物の数は、数十体にもおよび、今なお岩山から飛び降りてくる。

「っ、うっ、後ろに!!」

 ティアの叫び声に、アキラは剣を抜くことで応じた。
 進行方向に跳び下りて、その巨体で道を塞ぐランガコング。
 しかしその反対から、巨大な影が、ぬっ、と現れた。

 日が遮られ、夜になる。

 ティラノサウルスにも似た、巨獣。
 自分たちは、その間近を通ってきたというのだろうか。

 魔道士部隊の支部で、確認されたと情報を受けた、ガルドン。
 獰猛な姿に相応しい、想像を絶する力を持つ魔物。

 広大な、“道”。
 そこで、完全に挟まれた。

「進むぞ!!」
 サクが叫び、全員がそれに応じて駆け出す。
 後方には、この世のものとは思えないほどの巨獣。
 確かにどう見ても、エレナが殴りかかっている前方の方が安全地帯だ。

 “ファクトルが始まる”―――

「っ、」
 背後から迫ってくるガルドンから逃げるように、前のランガコングの群れに飛び込む。

「―――、」
 ランガコングの巨体。
 初手で倒すことを瞬時に放棄し、アキラはコンパクトに剣を振った。

 魔力を相手に残し、中から揺さぶり、深刻なダメージを与える。
 同種と思われるガンガコングの鎧のような筋肉も凌駕した“それ”。

 その、土曜属性のイオリから学んだ攻撃方法は、

「っ―――!?」

 僅か、コンマ一秒。
 その程度の足止めにしかならなかった。

「スーパーノヴァ!!」
 直後、アキラが足止めしたランガコングに、スカーレットの光が爆ぜた。

「お、……っ、―――!!」

 現れるエリーに、言葉をかける機会は失われた。
 エリーの攻撃を受けても動くランガコングに、今度は大量に魔力を流し、切り裂く。

 その、火曜属性のエリーから学んだ攻撃方法で、ようやくランガコングは動きを止めて倒れ込む。

 これで、ようやく、一体だ。

「っ―――、」
 ランガコングの巨体に埋め尽くされた景色。

 味方の位置も、ほとんど視認できない。
 寝起きで、息つく間もない戦闘が、途端始まった今。

 頭が追いつかない。

 だが、確かなことは、エリーと離れたら、どちらもランガコングに殺されるということだけだった。

「―――フリオール!!」

 ランガコングの雄叫びと、死刑執行直前を思わせる、背後のガンドルの足音。
 その中、澄んだ声が聞こえた。

 そして、身体が銀の光に包まれ、“重力を忘れる”。

 身体に当たっていた鬱陶しい土風や、戦闘の熱気すら遮断され、アキラとエリーの身体は宙に浮いた。

「マリ―――」
「行くっすよ!!」

 眼下のランガコングを一瞥し、マリスは全員の身体を前方へ運んだ。
 すでに岩山の上にはランガコングはいない。
 マリスはそれを待っていたのだろうか。
 足元の大群は、この高度には流石について来られないようだ。

 だが、背後から迫る巨体は話が別だった。

「っ―――」
 遥か上空と表現できるこの場でも、背後のガンドルにしてみれば獲物を口に収めるのに丁度いい。

 七人全員の身体を、前へ飛ばすマリス。
 広大な前の景色。

 ランガコングの大群に潰されたのか、すでに馬車は見えなかった。

「っ―――」
 高速で過ぎ去る総ての景色。

 マリスの飛翔速度は、背後から迫るガンドルをゆうに超えていた。
 だが、荒い。

 マリスもマリスで、この事態には余裕を見せられてはいないようだった。

「っ、一旦、下ろすっすよ!!」
 マリスが叫んだ。

 それと同時に、ランガコングの群れを抜き去った面々の身体が地面に下ろされる。

「走れ!!」
 着地と同時、アキラは叫んだ。

 背後からは、ランガコングの群れが獲物を一目散に追ってくる。
 その後ろに、ガンドルという巨獣を携えて。

 今すぐにでも、この場を離れなければ。

「―――っ、」
 全員が、一心不乱に走る。
 背後からは、強大な敵。

 誰も、馬車を探そうとさえしなかった。
 一体何だ、この場所は。
 こんなことが、頻発するのだろうか。

 ただ、逃げる。
 めくれ上がった荒れた大地を強引に踏みしめ、足を取られても、何が起こっても、ただ逃げる。

 光が差し込めているように思えるあの岩を曲がれば、助かるような気さえして。

「づ―――!!」

 全員の足が、同時に止まった。

 今までの“道”よりも遥かに広い、荒野のような、“道”。
 七人が横並びになった、その世界。

 その正面から、揺れた世界が迫ってきた。

「っ、」

 背後に戻り、ランガコングの群れや、常軌を逸した巨体のガンドルと戦う。
 それが、あまりに容易いことと思えるようなそれは、“世界”ではなく、“群れ”だった。

「ア……、アシッドナーガ!?」
「それだけじゃない!!」

 エリーの呟きを、イオリが大声で正す。

 だがまさに、そうだった。
 かつて、リビリスアークを襲撃してきた、アシッドナーガ。

 太った竜のような姿のそれは、毒々しい膿のような膨らみを身体中に浮かべ、そして尖った牙をむき出しにしているのも、以前見た通りだ。
 巨大な翼でアキラたちに迫ってくる、“ボス”と形容できるその存在。
 それが、見えている範囲で、十体。

 そしてそれは、その景色の“たった一部”だった。

 サーシャが襲ってきたときにも見た、銀の体毛のオオカミ、ルーファングもいる。
 あらゆる生物を融合したような身体、キマイラのような魔物もいる。

 他の場所に出現するだけで、“異常事態”と称される魔物。
 その、激戦区の存在。

 それらがまるで一塊の津波のように迫り、身体中で危険信号が鳴り響く。

「トッグスライムに、バースガルも!!」
 イオリが叫んだそれを、いちいち確認できなかった。
 しかも、きっと、それだけではない。
 見えるだけで、十種以上はいる。

 中型から、大型の魔物まで。
 どれも殺意をむき出しにし、まっすぐに押し寄せてくる。

 地上からも、空からも。
 その“世界”は迫ってきた。

 ただ、確かなことは。

 死と死の間で、挟まれているということ。

『煉獄を視たことはあるか』

 イオリの言葉が蘇る。

 進めば地獄、退路はない。

「っ、」
 まず、エレナが飛び出した。
 そしてアシッドナーガに跳びかかり、その巨体を殴りつける。

 そうだ、動かなくては。

 立ったままでは、最初に背後のランガコングたちに襲われる―――

「っ―――、アキラ!!」
 剣を構えたアキラに、イオリの叫び声が届いた。
 短剣を抜き放ち、魔物に応戦しながら、イオリは叫ぶ。

 そうだ。

 例えこんな状況でも、自分たちは“無事でいられるのだ”。

 アキラは剣をその場に突き刺した。
 この剣は、ここでは何の役にも立たない。

 そして駆ける。
 背後の敵から逃げながらも、これは、変わらず出現するのだから。

 今必要なのは、“最強カード”だ。

 この右手が掴むものは、きっと、

「っ!?」
「エリーさ―――」
「―――!?」

 見えていた景色が、僅かに変わった。
 視界の隅に映っていた赤毛が、そこから消える。

 聞こえた隣のサクの叫び声。
 振り返れば、同時に駆けていたエリーがファクトルに足を取られていた。
 サクが即座に駆け寄るが、エリーの足は、割れた大地に挟まっている。

 背後からは、迫る魔物たち。
 眼前からは、迫る怒涛の“世界”。

 ここで後方に“あの力”を放てば、エリーたちを巻き込むことになる。

 どうする。
 どうすれば、

「―――、」

―――“いや”。

 エリーだけは、救わなければならない。

 “そう想ったじゃないか”―――

「アキラ!!」
「っ―――、」

 イオリの叫び声が聞こえる。

 だがアキラはその右手を、エリーに伸ばしていた。

「アキ―――」
「!! フリオール!!」

 イオリの叫びが途絶され、次に響いたのは、聞き慣れないマリスの大声。
 その直後、アキラたちの身体は銀に包まれ、“視界が消えた”。

「―――!?」

 まるで、水族館のようだった。
 銀の光というケイジに阻まれ、自分の世界と目の前の世界が拒絶される。

 そこでようやく、マリスが察したのは、ここを突如襲った砂嵐だったことに気づいた。

 完全で流れる、砂嵐。
 魔物も、景色も、何も見えない。

 見えるのは流れる砂と、辛うじて、僅かな距離で輝く人影、サク。
 そして、自分と同じケイジにいる隣のエリーだけ。

 まずい、これは。

 “誰がどこにいるか分からない”―――

「っ―――、」
 砂嵐に包まれた景色。
 そこで、エレナは口に含んでしまった砂を噛み潰した。

 この砂嵐は、まずい。
 乱戦になっている現状、アキラはあの力を使えないはずだ。
 マリスが全員を安全地帯に飛ばし、アキラの砲撃で片付ける。

 それがベストだったのだが、その手は採れなくなっていた。

 ほとんど勘で、前方の影を殴りつける。
 聞こえる魔物の呻き声と爆発音。

 突然の砂嵐に反応できたのは、マリスだけだったようだ。
 この視界の悪い中、数の多い相手との乱戦は危険と思っていたのだが、魔物も混乱のただ中にある。

 だが、事態は好転していない。
 とりあえずは、誰でもいいから発見しなくては。

「……!」
 砂嵐の僅かな切れ目、そこに、シルバーの発行体を見つけた。

 小柄な少女。
 間違いない。

「―――、」
「ぎゃっ、わわっ!?」

 そこに詰め寄り、襟首を引くと、心臓が口から飛び出たような声が聞こえた。

「っ、エレお姉さま!?」
「しっ、」
 何とか合流できたティアの口を、急いで塞ぐ。
 声を出すのはまずい。
 魔物の群れが、それを頼りに襲いかかってくる可能性がある―――

「っ―――!!」
「ぐぇっ!?」

 案の定、エレナたちがいた場所に何かが振り下ろされた。
 ティアを掴み上げ、即座に距離をとりそちらを睨む。
 砂嵐の向こう、とっくに視認できなくなっていたが、どうやら野太い腕のようだった。

「―――、」

 冷静になれ。
 エレナは目を細め、周囲を睨む。

 この砂嵐。
 プラスの面で考えれば、魔物の大群をまける可能性がある。

 ティアを保護できたのは僥倖だ。
 マリスとイオリは離れていたが、あの二人は問題ない。
 エリーとサクは、アキラの傍にいた。

 抜け切れる可能性がある。

 問題は、どうやって合流するか。
 マリスも砂嵐から自分たちを守るのが精一杯で、全員を飛ばすことはできていない。
 それどころか、空すらも、魔物の群れがいる危険地帯だ。
 ほとんど無抵抗になる空路は諦め、陸路で進むしかない。

 何か、合図のようなものがあれば、

「……!! エレお姉さま、」
「……!」

 聞こえたティアの小声を拾い、エレナは“それ”を察した。
 ズシン、ズシン、と規則正しく聞こえる地鳴り。
 ティアが怯えているそれは、先ほどの巨獣、ガルドンの足音だ。

「全員、あの足音から“まっすぐ逃げなさい”!!」

 聞こえているかは分からない。
 だが、エレナは叫んだ。

 それに反応して襲ってくる魔物をかいくぐり、ティアと共に走る。

 この砂嵐の中、足音から逃げろとは無茶なことかもしれない。
 だが、せめて自分たちがどちらに進んだかの指針にはなる。

「っ―――」
 進行方向の魔物を殴り飛ばし、エレナはティアと共に進む。

 冷静になれ。
 何度も、自分に言い聞かせる。

 これを乗り切れば、きっと、“恐怖”だけを持ち帰れるはずだ。

 ファクトルは、“こんな程度のこと”は普通に起こるのだと。
 だから自分は、機械的に冷静になり、ここを切り抜ける。

 そうすれば、きっと―――

「―――!!」

―――駄目、だった。

 エレナは足をピタリと止める。
 隣のティアが何かを言っているが、全く聞こえない。

 余計な神経が遮断され、たった一点にしか向かなかった。

 機械のように冷静になろうとした身体は、たった一つの感情で、総てが埋め尽くされる。

「っ、」
 噛み潰した砂を、さらに潰す。
 あるいは、自分の歯ごと。
 そして拳は堅く握られ、身体中が震える。

 今、砂嵐の切れ目、僅かな隙間から、見えた。

 “勇者様御一行”と、魔物の群れと、砂嵐。

 それらしかないはずのこの場に、エレナは“それ”を見つけてしまった。

 湧き上がる感情。

―――それは、“憎悪”。

「ガ、バ、イ、ドォォォオオオオーーーッッッ!!!!」
「―――!?」

 隣のティアを振り払い、エレナは全く別の方向へ駆け出した。
 意図せず立ち塞がってしまった魔物は、総てエレナに殴り殺され、無残に墜ちる。

 例えあの巨獣、ガルドンがいようとも、何が起きようと、エレナの足は止まらない。
 さながらアキラの銃の光線のように、総てを蹂躙し、その場に駆ける。
 視界は謝絶されているというのに、“そこ”までの道はまっすぐに引かれていた。

 殺す、殺す、殺す。

 それしか浮かんでこない。

「―――、」

―――景色は総て、砂嵐に染まっていた。

―――**―――

 たった、一度の襲撃。
 それが、現状を招いた。

「すー、すー、すー、」

 歯から漏れる、空気の音。
 視界を途絶する暴風。
 マリスの銀の魔術はとうに切れ、顔を砂に殴りつけられる。

「すー、すー、すー、」

 ほとんど空気を吸い込めない呼吸法。
 それでも身体はそれを欲し、ピッタリと噛み合わせた歯を通して空気を取り入れる。

 アキラは目も開けられない砂嵐の中、ただひたすらに前に進んでいた。

 右手には、エリー。
 左手には、サク。

 その手から伝わってくる体温だけが、自分がこの世界にいる証のような気さえした。

 歩行速度は、通常の半分にも満たない。
 今襲われれば、例えこの激戦区の魔物でなくとも全滅するだろう。
 いや、そんな必要すらない。
 ただ前から、石を投げつけられただけで、自分は昏倒するだろう。
 避けることすら許されない。

 だが、幸か不幸か、周囲に自分たち以外の存在は感じられなかった。

「っ、ぷっ、」
 下を向き、砂を含んでしまった口から唾液を吐き捨てる。
 もう何度、こんなことを繰り返しただろう。

 身体の表面全ての水分がぬぐい去られ、顔は乾き切っている。
 砂に擦り切れた顔には、もう感覚がほとんどない。
 ときおり、自分が足を進めているか疑いたくなる。
 ただ砂嵐が自分たちを殴りつけているだけで、世界の景色は変わらない。

 歩いている方向はどうだろう。
 自分たちは、前へ進んでいるのか。
 そして、前へ進んでいくことは、そもそも正しいのか。
 自分たちがここにいることは正しいのか。

 心にいくら問いかけても、何も応えてくれない。
 拷問のような責め苦に、出口のないこの環境。

 世界の総てが敵になったとさえ感じられる。

 顔が痛い。
 腕が痛い。
 足が痛い。

 重い、辛い、寒い、苦しい。

 身体中の力が根こそぎ奪われる。
 今すぐにでも倒れ込みたい。

 だが、敵は追ってくる。
 逃げなくては。
 とにかく今は、逃げなくては。

 だが、“どこに逃げるというのだろう”。

 分からない。
 もう、何も、分からない。
 ただこの手だけは、離してはいけないことだけは、感じていた。

 これを離せば、自分は世界で一人になってしまう。

 この砂嵐を抜ければ、あのキラキラと輝いた世界に戻れるだろうか。
 少しでも戻れば、あのキラキラと輝いた世界に戻れるだろうか。

 一筋の光さえ見えない。

 ただ足は、惰性からか、止まらない。
 もう何時間、こうしているだろう。
 空にはまだ、太陽はあるだろうか。

 見上げることすら許されず、ただ砂を避けるように顔を伏せ、足を順々に前へ出す。

 もう何も、分からない―――

「……!」
 左手が、くん、と引かれた。

 一体、何だろう。

 もう一度手を引かれ、アキラの足は、導かれるまま僅かに左に動いた。
 そして、右手には自然と力が入る。

 自分が両手に何を掴んでいるのかすら、分からない。

 だけど、この手は、離せなかった。

「っ、」
 最後に強く、手が引かれた。
 それに導かれるまま、アキラは倒れ込む。

 途端止んだ砂嵐。
 アキラの隣で倒れていた左の女性と、今倒れてきた右の女性。

 総ての感覚が麻痺した中、辛うじて、ここが岩山にできた穴だということに気づけた。
 三人いるだけで、塞がるほどの小さな穴。

 後ろでは、砂嵐が巻き起こり、騒音を奏でている。

 アキラはそれだけを認識して、目を閉じた。

―――**―――

―――それは、すぐに夢だと分かった。

 小気味いい包丁の音。
 ボウルに溜まる水の音。
 笑い声。

 そして、まどろんでいる自分。
 座り心地の良いソファの隣から、『疲れた?』と笑いながら訪ねてくる人がいる。

 僅かに目を開けた向こう、その屈託のないはずの笑みは、どこかぼやけていた。

 そうだ。
 もう、ほとんど顔も覚えていない。

 だから、夢。

 父が現れた。
 自分を挟んで、座る。

 母は呆れたように笑い、授業を続けた。

―――ここまでだ。

 意識を覚醒させ始めた。
 夢というものが、本人の願望を現わすものならば、ここまで。

 だからアキラは目を覚ました。
 安堵すべき光景から、何一つ持ち帰らないまま。

「―――正直、認識が甘かった」

 場所も分からぬ岩山の狭い穴の中。
 最初にサクが切り出した。

 三人がゴツゴツとした壁に背を預け、向かい合って座り、纏ったローブで身体を覆い隠す。
 この空洞の前では、未だ狂気の砂嵐が強く舞っていた。

「砂嵐も……、突然あんな大群に襲われたことも……、そのレベルも。全部、全部」
「……、」

 奥歯を噛みしめるサクを見ながら、アキラもエリーも無言だった。

 認識の甘さがある。

 そんなことは分かっていた。

 アキラもイオリに再三注意されたことだ。
 だが、後から考えても、想像しろということさえ無理がある。

 空洞内にいるのは、たった三人。
 魔物の出現場に到達してから、僅か一瞬で、半数以下になってしまった。
 そんなもの、事前に察しろという方が無茶だ。

 頭の中で、どこか、何かの襲撃を受けても七人で話し合う場くらいはできると思っていた。

 ファクトル。
 世界最高の激戦区。

 突如砂嵐が襲ったことといい、その名に恥じない危険地帯だ。

 だが事態は、最悪だった。

「向こうは……、合流しているのだろうか……?」
「してる……。してなきゃ困る」

 サクの言葉に、アキラは強く返した。
 最も奥に座るアキラの眼前では、荒れ狂う砂嵐が未だ見える。
 幸いにも、まだ日は沈んでいないようだった。

「……、」

 逸れたメンバーは、四人。
 マリス、エレナ、ティア、イオリ。

 実体験として、この危険地帯を一人で歩いていては欲しくない。
 せめて、自分たちのように避難所を見つけられていればいいのだが。

「―――ごめん」

 砂嵐の轟音に交じったその小さな声は、しかし確かに聞こえた。

「邪魔……、しちゃったでしょ?」
 呟きながら、エリーは視線をアキラに向けてきた。

「いや、お前、それは、」
「最悪……、ほんとに、最悪……、足場悪いって聞いてたのに……、最悪……、」

 アキラが言葉を思いつく間もなく、エリーは膝を抱え、足元に視線を落とした。
 ぶつぶつと、自己嫌悪に陥った言葉を吐き出し続ける。

 あのときこの右手が掴んだのがエリーでなければ、確かに総て片がついていたかもしれない。
 結果、この広大な地で散り散りだ。

「約束のせい?」
「……違う」
「邪魔?」
「違う」

 エリーの呟きを総て拾い、アキラは言葉を返した。
 精神的に、かなりまいっているようだ。

「どっち道、砂嵐でわけ分かんなくなってたよ」
「……、」

 何を、自分は。
 こんな言葉しか吐き出せないのか。

 アキラは視線を伏せたままのエリーに思いついたままの言葉を発し、そして黙り込む。
 いつもの後悔だ。

「……イオリさん。あんなに叫んでたのにね」
「だから、」
「『約束を破ってくれ』って、言ってたのにね」
「……!」

 ピクリと、アキラの身体は揺れた。
 聞いていたのか、エリーは。

 あのときの会話を。

「―――ごめん」

 口の中が、身体の中が、総て乾く。
 そのエリーの言葉は、アキラには拾えなかった。
 ただ、しん、と砂にまみれた自分の靴を見下ろしただけ。

 イオリにも、そしてエリーにも、自分は“あの銃”を使わないと約束した。
 そしてそれを守って、ここまでの旅路を進んだのだ。

 だがイオリには、出発前、それを破ってくれと“懇願”された。
 アキラは、それに頷き返した。
 その真摯な願いを、避ける術を知らなくて。

 しかし、エリーには、何も言っていない。

「……、」

 だから、だろうか。
 だから自分の右手は、躊躇したのだろうか。

「違う」

 アキラは小さく呟いた。
 きっとそれは、自分に。

 あのとき躊躇したのは、やはり、自分だけのせいなのだ。

 絶大な力を持つ、アキラの“具現化”。
 その力に意識的にセーブをかけたときから、アキラの中でも、無意識に、それができ上がってしまっていたのだ。

 切り替えさえ、できない。

 だから即座に出せなかった。
 きっと、自分が介入しなくとも、あの状況を脱せると高をくくっていたのだろう。

 いかに最強の力でも、扱うのは自分自身。
 身の丈に合わない力は、ここまで来ても、身の丈に合わないのだ。

「謝るなら、俺だ。ほんとに、何やってんだよ、って話だよな……」

 ほとんど独り言。
 もし体力がもう少しあれば、壁でも力いっぱい殴りつけたい。

 そんな程度のこともできないほど、自分は凡人なのだ。
 そしてそのせいで、こんな事態を引き起こしてしまった。

 だが、エリーはただ、視線を落としている。
 そもそもこの力にセーブをかけたのは、他ならぬエリーだったのだから。

 そして今は、その力を、惜しんでいる場合ではない。

「―――なあ、俺、使っていいか?」

 せめて少しでも、“しこり”をなくそう。
 ふいに思い立ったアキラは、エリーに囁きかけた。

 エリーを責めたくはないが、躊躇した要因に、彼女がいるのは事実だ。
 “彼女がいるから”、自分はそれを使えない。

 だから、次。
 その力が必要になったら、それを躊躇なく使えるよう、彼女に許可を取りたかった。

 空になった背中の鞘。
 剣ももう、どこに突き立てたのか覚えていない。

「―――うん」

 返ってきた声の、なんと乾いたことか。

 これはあのときと同じだ。
 最初にエリーに使うなと言われたばかりで、あの力を使ってしまったときと。

 滅した相手は、“魔族”、リイザス=ガーディラン。
 そのときも、彼女はそんな表情だった。

 そのとき、彼女はどうしたら笑ってくれたのだったろうか。
 彼女はきっと、アキラが苦労も知らずにいることが、耐えられなかったのではないだろうか。

「なあ、魔王を倒したあと―――」
「……?」

 きっと、彼女は、エリーは、自分の魔術の師は、アキラが、上を見ていないことが、嫌だったのだ。

「―――魔術師試験、受けてみたい」
「……、」

 アキラは口に出した。

「お前も忙しいだろうけど、その、合間に、勉強とか教えてくれないか?」
「いいよ……、無理しないで」

 ようやく顔を上げたエリーは、その乾いた表情をアキラに向けてきた。
 それは、同情を向けられているのではないかと勘ぐっている、表情。

 それを受けて、アキラは、僅かにはっとした。

「……いや、違う。多分、そうじゃない」

 多分口に出したときは、沈んだエリーに手を指し伸ばしたかっただけだろう。
 だが、違う気がする。

 気づいたのだ。
 自分が、この世界で、“勇者”を終えたあとの世界。
 それが、どういう色であるべきか。

 続く、“旅”。
 いつまでも、勇者でいられるわけではない。

 この世界で生きていくには、自分は、“そう”あることが相応しいのだ。

「俺さ、魔術師になる。勉強して、資格取って、それで、それで、魔道士に」
「……、」

 エリーの表情は、まだ、いぶかしんでいる。
 だが、アキラは本気だった。

 高い壁だろう。
 あのマリスに勉強を習ったというエリーでさえ、一度落ちているというのだから。

 だが、一応アキラとて、元の世界で大学受験を経験している。
 残念ながら三流と言われても仕方のないキャンパスだが、それでも、受かったのだ。

 本気で取り組めば、できない話ではないだろう。
 誰に無理と言われても、自分はそれを、目指したい。

「だから、今は、あの力を使いたい。魔王を倒して、全員で戻って……、それで、そのあと。だから、使っていいか……?」
「……、」

 エリーは僅かに目を伏せ、呆れたように、“笑ってくれた”。

「―――だから、いいって言ったでしょ?」

 そして、本当の返事が返ってきた。

「二年はみといて」
「それは、魔道士か?」
「“魔術師試験”の第一部よ。試験は二部構成」
「ちょっと待て。それまでが、二年か?」
「三年かな……? 合格するころには、あんたより若い人、結構多いかも」
「うわぁ……、まあ、でも、」

 ズラリと並ぶ同期は、自分より年下。
 上司もそうかもしれない。
 その光景を思い浮かべるだけで、気後れし、しかしアキラはそれでもいいと思えた。

「あたしも、忙しいだろうし」
「そこは、ほら、頑張ってくれよ」
「教え方も、多分下手だし」
「いや、お前がいい、っ、」
「……、ふーん……」

 もののはずみで出た言葉に、エリーはジト目を向けてきた。

 だが、今さら訂正しようとは思わない。
 天才のマリスより、実際に魔道士試験までもパスしたイオリより、多分自分は、エリーに習いたいと思っている。

 不慮の事故で婚約した二人。
 魔王を討ち、その報酬でそれを消すために始まったこの旅。

 だがその“婚約破棄”は、今は、頭の外に追い出していた。

 きっと、それで、

「―――こほん」

 その咳払いで、心臓が飛び出した。

「……ああ、すみません」
 気まずそうに視線を外していたサクは、しかし、どこか笑っていた。
 気づけば砂嵐も、少しだけ、収まっている。

「サ、サクはどうするんだ? その、終わったら」
 開いた口で何とか言葉を紡ごうと、アキラはサクに問いかけた。

 ただ何となく、話しておきたかったのかもしれない。

 不安に押し潰されそうな今。

 その今だからこそ、これからのことを。

「そうですね……、私は、アキラ様の従者ですから……」
「……、あ、ああ、」

 凛としたたたずまいのまま、サクは言葉を吐き出した。
 その彼女と比べると、アキラの方が従者のような気さえするが、事実彼女は“とある事件”から、アキラに仕えているのだ。

「しかし、『“勇者”ヒダマリ=アキラ』に仕えているのなら、終わったあとは、」
「あ、ああ、いいよ。それで、」

 この奇妙な主従関係も、魔王を討つまでの方が相応しい。
 サクが自分の従者になったときは無邪気に喜んだものだが、自分がそこまでの度量がないことを、アキラはとっくに分かっていた。

「……そうですね。鍛冶屋、とか」
「……あ、悪い。ちょっと待った」

 これからのことを話している今。
 そこにきて、店を持ちたいときた。

 不謹慎だが、ものすごく、危険な香りがする。

「……、いや、悪い。それで?」
「……ええ、それで……、いや、止めておきましょう」

 サクも察したのか、口を噤んだ。
 だが、冷や汗をかいているようで、やはり少しは笑っている。

 全員、精神的には、回復したのかもしれない。

「まあ、とにかく、これからどうするか考えましょう」
「……ああ」

 そうだ。
 全員、思い描く未来がある。

 そこに到達するためには、今の危機を脱しなければならない。
 絶対に、だ。

「こういうのはどうだ? 砂嵐が止んだら、俺が空に乱射する。オレンジの光を見れば、マリスたちは俺らを見つけられるんじゃ……?」
「そうね……、あんまりさっきの場所から離れていないだろうし……。みんなこの辺りにいるんじゃないかな……、」
「いや、」

 僅かに浮かんだ作戦を、サクが止めた。

「近くにいるとすれば、あの魔物たちもだ。またあの大群が攻めてくるかもしれない」
「それでも、倒せるぜ?」
「……待って。もし、マリーが他の人たちと別れていたら、陸路は大変なことに……」
「……、」

 そうだ。
 マリスたちが空からくれば、あの銃は魔物たちを滅することができる。
 だがもし、向こうが二手以上に分かれていたら、陸路でこちらに向かうことになってしまう。

 そのとき、アキラが乱射した広大な光線が彼女たちを捉えないとは言い切れない。

「合流場所とか……、決めときゃよかったな……」
「……! あ」
「?」

 そこで、サクが声を出した。

「覚えていませんか? あのとき……、多分、エレナさんが、“あの足音から逃げろ”と叫んでいたのを」
「……?」

 アキラとエリーは首をかしげて顔を見合わせた。
 どうやら、聞こえたのはサクだけらしい。

「足音って……、あの、ガンドルのか?」
「ええ、多分」

 アキラの脳裏にも、背後から迫ってきた巨獣の足音の響きは刻まれている。
 それから逃げろ、とは、すなわち、“前へ進め”ということだろう。

「じゃあ、前へ進めば、」
「ええ、合流できるでしょう。この辺りを探索して、いなければ、そちらに向かいましょう」

 流石に、エレナだ。
 彼女も入る前から“警戒”していただけはある。

 少なくとも、エレナはそちらに向かっているだろう。
 彼女なら、この砂嵐の中でさえ強引に進んでいそうなのが逆に恐い。

「どの道、明日にしましょう。砂嵐も収まってからじゃないと……、」
「……メシとか、どうする?」
「……はあ、」

 アキラの懸念が別に動いたところで、エリーが蠢いた。
 身体に纏った分厚いローブの中に手を入れ、腰につけたポーチから、小さな袋を取り出す。

「一応、少しは持ってるわ。馬車襲われたらまずい、って思ってね」
「おお、流石……、あれ、俺だけ?」
「ええ、他の人も、同じことをしてましたよ?」

 見ればサクも、同様の袋を取り出していた。
 認識の甘さは、もしかしたらアキラが一番酷かったのかもしれない。

「ん」
「お、おう」

 袋から取り出したパンを頬張りながら、エリーはアキラにもそれを渡す。
 食いちぎり、渇いた喉で強引に飲み込んだ。
 水もない、質素な栄養補給。

 徐々に日は、沈んでいった。

―――**―――

 余計なことを。
 いや、その方がいいのだろうか。
 ただ、その場合は。

 ただただ静かな、その大広間。
 その、“とある存在”は、頭の中で情報を整理し、黙考を続ける。

 ここは、“安全地帯”。
 だが、ここ以外は、“そう”ではない。

 ならば、ならば、ならば。

「―――、」

 いい。
 これで。
 いや、足りないだろうか。

 慎重に、あらゆる場合を想定し、そして瞳を開ける。

 誰にも気取られることなく、“それ”は進めなければならない。
 そうでなければ、終わらない可能性がある。

 この、“下らないチェスゲーム”が。

 だから、これを、喜ぼう。

「……、」

 敵は強大だ。
 慎重に、確実に。

 この、“英知の化身”が挑むのは―――“あの存在”。

―――**―――

 結論として、何も、見つからなかった。

 魔物も、アキラが突き立てた剣も、そして、仲間も。

 アキラたちがいた狭い洞窟は、どうやら魔物の大群に襲われた場所からあまり離れていなかったらしい。
 大分長い時間歩いていたと思っていたのだが、砂嵐が収まった昼、見通しの格段に良くなった荒野は、目と鼻の先にあった。

 正規のルートから大きく逸れていたその穴から、その場所を探索すること数時間。
 探索を諦め、昨日の計画通り、ただ前へ進む。

 魔物が現れなかったのは僥倖だが、それでも、疲労感は身体中を襲っていた。

 目を覚ました頃には、太陽が高く昇っているほどに。

 アキラは、狭い洞窟の中、二人の少女と共に一夜を明かしたというのに、泥のように眠っていた。
 馬車、という恵まれた環境にいたときには、できなかったこと。
 それだけ、余裕がなかったのだろう。

 夜の最後の見張りを務めた起きに強いサクの話では、声をかけるのもためらわれるほど、アキラとエリーは眠り込んでいたらしい。

「……、」

 徐々に日が傾きかけた、危険地帯ファクトル。
 そこを、アキラたち三人は足だけを動かして進んでいた。

 その前進は、ほとんど“祈り”に近い。

 喉が渇く。
 頭が痛い。
 足が前へ進んでいる気がしない。
 時間も、分からなかった。

 昨日の砂嵐の中を歩いていたときも味わった感覚だ。

 そして、変わらない景色。
 風が砂をサラサラと転がし、砂と岩山だけの中をただただ歩く。

 アキラは、元の世界で、トップアスリートのインタビューをテレビで何度も見た。

 成功の秘訣。
 彼らの語りによれば、表現こそ違えど、自分に負けないことだそうだ。
 肉体的なことより、彼らは精神的なそれに着目していた。

 彼らは、苦難の先にある栄光、その場所に、自分がいることを信じ切り、ただひたすらに前へ進めるのだ。

 その理由が、今は、何となく分かる。
 もう大分歩いてきたこの道。
 ゴールが見えない。
 心が折れてしまいそうだ。

 不安だった。
 先があるのか、否か。
 何も分からない。

 信じることは、ここまでも、難しいことなのだろうか。
 あの悪夢を再来させるのではないかと怯え、ときおり吹く弱い風でも、三人で手をつなぐ。

 誰か一人でも弱音を吐けば、全員がこの場で足を止めるかもしれない。

 だから、口に含んでしまった砂を噛みしめ、ただひたすらに、足を進める。

 自分たちは、無理でも何でも、信じ切らなければならない。
 このどこまでも続く道の先、そこに、いる、と。

「……!!」

 もうどれくらい歩いてきただろう。
 日は沈み、岩山に囲まれ、狭い星空が姿を現したファクトル。

 そこに、一筋の、希望が見えた。

「い、今のは、」
「え、ええ……!!」
「っ、」

 アキラはにべもなく駆け出した。
 エリーとサクも、同時に駆ける。
 重い足を蹴り上げ、身体中の力を振り絞って進む先。

 荒れた大地に足を取られても、知ったことか。
 強引にそれを踏み破り駆け続ける。

 乾いた大地の先、岩山の挟むその先、星空の下。

 見えた。
 確かに。

 チカチカと道の先で光る、あの色。

 それは、自分たちのよく知る、澄んだシルバー。

「おーーーいっ!!!!」

 潰れた喉からは、想像以上の大声が飛び出た。
 ファクトル中に響く、アキラの声。
 魔物に位置を知られようが、知ったことか。

「―――」
 その声と同時、銀の光が空に浮かんだ。
 目映い星の中に紛れ、しかしそれでもその光は、何よりも輝いている。
 あの銀は、そう在るべきだ。

「―――、」

 何か小さな声が聞こえ、銀に輝く飛行物体から、ファクトルの闇を消し飛ばすような光が眼下に放出された。
 そして聞こえる、爆発音。

 あの場では、戦闘が起こっている。

 だがそんなもの、どうでも良かった。
 彼女がいる以上、その戦闘は、終わっているのだから。

「マリスーーーッ!!!!」

 その光―――マリスは、浮かんだ位置から、アキラたちに接近してきた。
 やはり戦闘は、終わっている。

「うおっ!?」
 銀に輝く飛行物体に銀の髪と半分の眼を見つけ、そこでアキラは大地に足を取られて転んだ。

「だ、大丈夫っすか、にーさ―――」
「マリーッ!!」
 転んだアキラの前に降り立ったマリスは、次いで接近したエリーに跳びかかられた。
 ほとんどタックルのようなそれは、正確にマリスを捉え、絞め上げてくる。

「マリー、マリー……ああ、ほんとに、」
「ね、ねーさん、く、首が、絞まってるっす……、ぅ、」
「よかった、よかった、」

 あらん限りの力で抱きついてくるエリーを何とか引きはがし、マリスは息を吐いた。

「マリス……、マジでよかった……、」

 たった一日ぶりの再開だというのに、立ち上がったアキラは心の底から安堵の息を漏らした。
 今の転倒で分厚いローブが僅かに破けてしまったが、そんなことはどうでもいい。

 あのマリスに、合流できたのだ。

「マリーさん、」
「サクさんも……、よかったっす。無事で」
 マリスの口調はいつも通りのものだったが、それでも、表情を綻ばせていた。
 この広大なファクトル。
 そこで逸れて巡り合うなど、奇跡のようなものだ。

「マリス、今の戦闘か?」
「……そうっすよ」
 マリスはちらりと振り返り、すぐまた顔を戻した。
 どうやら向こうは、完全に片がついているらしい。

「……、それで、みんなは?」

 感動の再会の余韻も僅かに冷め、アキラは目を細めた。
 マリスの後ろからは、誰も現れない。

「……、」

 マリスは一度眼を伏せ、三人に向かい合った。
 その表情は、いつもの無表情から僅かに逸れ、そして、

「自分は、一人っす」

 予想できてしまっていた答えを、小さく返してきた。

―――**―――

 マリスの話はこうだった。

 あの砂嵐に巻き込まれた日。
 辛うじて全員に魔力を飛ばしたあと、彼女も全員を見失ってしまったらしい。
 自分の魔力を飛ばした対象さえも見失う、あの妙な砂嵐。

 危険な香りを感じたものの、流石に仲間と魔物が入り乱れた環境で魔力を乱射することはより危険だと判断し、砂嵐の中を探索していたそうだ。
 空路は避け、陸路を進み、魔物がひしめくあの煉獄を、とぼとぼと。

 偶発的に出遭った魔物を滅し、ひたすらに自分以外の銀を探す作業。
 魔物にしてみれば、視界が途絶される砂嵐の中、歩き回るマリスの方がむしろ煉獄だっただろう。

 しかしそれは、結果、実を結ばなかった。
 いつまで経っても止まらない青天の霹靂に、マリスはついぞ探索を諦め、前へ進んだらしい。
 どうやらマリスにも、エレナの声は届いたようだった。

 そして、せめてもと、ここまでの道の途中にいた魔物を討ち、昨日の晩は、今、アキラたちがいる洞窟で待機していたそうだ。

「本当は、ずっと往復したかったんすけど、」
 魔力を流すだけで僅かな紅い光を放つマジックアイテム―――カピレットを何となく眺めながら、マリスは呟いた。
 そして、ローブの中から出した食糧をアキラに渡してくる。
 聞いた通り、マリスもこういう事態の備えはあったようだ。

 四人入ってもまだ余裕のあるその洞窟は、奥が潰れていること以外、アキラたちが泊まった洞窟とは雲泥の差があった。

 まず、広い。
 足を伸ばすだけで他者とぶつかったあの狭い洞窟とは違い、ゆうに距離を取れる。
 腰が駆けられるほどの岩もあった。
 ただ四人は、小さく一塊になっているのだけど。

「流石に自分も目立つ行動は避けたくて……。実際、少し外にいただけであの大群っす」
「さっきのか?」
「そうっす。あれだけやったら、流石にしばらく近寄らないと思うんすけど」

 もしかしたら、ここまでの道、魔物が現れなかったのはマリスのお陰だったのかもしれない。
 彼女は砂嵐の中でも行動し続け、この辺りの魔物の命を刈り取っていたというのだ。
 どうやら、ごり押ししていたのはエレナではなくマリスの方だったようだ。

「それで、これからどうする?」

 マリスに合流できたのは幸いだったが、未だ、残る三人は見つかっていないのだ。
 エレナに、ティアに、イオリ。

 彼女たちは、前に進んでいるのだろうか。

「移動速度なら、自分が一番のはずっす。イオリさんもあの砂嵐の中、飛ぼうとは思わないはずっすし」
「……だよな」

 昨日の夜から一日中ここにいたと言うマリス。
 彼女がここまで来ることができたのは、フリオールを使えたからだ。
 “外部影響遮断の魔法”が使えなくては、アキラたちのように砂嵐が収まるのを待つしかない。

 何より、マリスはここまで飛んできたのだ。
 そして、彼女は外を見張っていた。
 すなわち、マリスがいるここが、面々が到達できる“前”の限界値。

「でも、にーさんたち、出発したの大分遅かったんすよね?」
「ああ、昼はとうに過ぎていたと思う」
 サクの言葉に、全員が押し黙る。

 出発時間が大分遅かった自分たち。
 そうであれば、もしかしたら、自分たちが、“後ろ”の限界値であるのかもしれない。

 その前と後ろが出会った今、しかしそれは欠けていた。

「道が、別にあるのかもしれない」

 アキラは呟き、視線を外に向ける。
 淡い光で紅く光る洞窟から見える外は、ただただ暗かった。
 星空も、本調子ではないのかもしれない。

「もし、エレナたちが別の道にいるなら、探さないと、」
「……、そうね」
「ええ」
 あまりに希望的観測なアキラの言葉に、エリーが小さく返した。
 サクも頷く。
 一夜を共に明かした三人は、暗く沈むことの恐怖を、よく知っていた。

「確かにそうっすね……。でも、一つだけ。言っておかないといけないことがあるんす」
「……?」

 マリスは半分の眼を僅かに狭め、ローブの中から四角く折りたたまれた用紙を取り出した。
 そして、丁寧にたたまれたそれを、カピレットの光に照らして開く。

「ここ」

 マリスがローブから出した細い指は、地図の×マークが記された場所を捉えた。

「自分たちがいるここって、一応、“魔王の牙城”がある予測地帯なんす」
「っ、」

 アキラは“それ”を、ほとんど忘れていた。

 ファクトル。
 ここには、心身ともに削られてしまった。
 仲間とも、逸れてしまった。

 だが、それは所詮、この場所を“危険地帯”とする理由の一端でしかない。

 ここには、“魔王の牙城”があるのだ。

「もっとも、数日前は、っすけど」
 最後に小さくつけ足したマリスも、楽観はしていないようだった。
 いくら情報が古くとも、この近くにいる可能性があるだけで、警戒心をそばだたせていなければならない。

 ここまで来て、アキラはようやく魔王の存在そのものに、“恐怖”を覚えた。
 魔王、などというファンタジーの世界のそれは、今確かに、自分たちの近くにいるのだ。

 自分たちは疲弊し、メンバーを欠いている。
 未だ自分の銃に自信はあり、“許可”も貰っていると言っても、不安材料には事欠かない。

 そして、“魔王”。

 その存在は、一体、どのようなものだろう。
 かつて、ヘヴンズゲートで出逢った神―――アイリスが言っていたこと。

 “英知の化身”。

 イメージとしては、謀略を企てることに長けていそうだ。
 そうであるならば、自分たちは、

「ねえ、」
「……、」
「?」

 エリーに話しかけられても、アキラは黙考を続けた。
 本来ならば、イオリがやりそうなことだ。
 だが、今、彼女はいない。

 世界の歪を知っている自分が、考えなければならないことだ。

 “英知の化身”は、何を考えているのだろう。
 決まっている。
 自分たちを倒すことだ。

 ならば、あの砂嵐もいよいよもって怪しくなってくる。
 あの砂嵐がなければ、こんなことにはならなかった。

 マリスも、あの砂嵐のせいで、自分の魔力を感じられなくなったと言っている。
 あの、“不可能なことがない”月輪属性の天才が、だ。

 となればあの砂嵐は、自然発生などではなく、“魔王”―――最低でも、“魔族”が介入していたのではないだろうか。

 ということは、

「……、」

 もうすでに、自分たちは策略にはまっていることになる。

 姿の見えない、エレナ、ティア、イオリ。
 彼女たちは無事だろうか。

「―――!!」

 視線は虚ろ、思考は五里霧中。
 その途端、目の前のカピレットが砕かれた。
 面々の中央にあった光源を砕いたのは、サクの長刀の柄。

 何を、と思ったのも束の間、突如、ドドドドッ、と地鳴りが響き、パラパラと洞窟内に石の粒が降ってくる。

「何だ……!?」
「しっ、」

 息を殺して、出口を見やる。
 星明かりにぼんやりと照らされた外。

 そこは瞬時に、

「―――っ、」

 怒涛の黒い影に塗り潰された。
 右から左へ、まるで昨日の砂嵐のように、何かの影が高速で通過しつづける。
 大気は揺れ、洞窟内は今すぐにでも崩れそうなほどの地響きを奏でていた。

 その正体は考えるまでもない。
 あれは、あの、黒い大群は、魔物の群れだ。

「……、……?」

 暗い洞窟の奥、岩に身を隠し、四人分の瞳は外の光景を捉える。
 しかし、僅かに呆けた。

 アキラも右手を広げてこそはいれ、動かない。
 というより、動く必要がなかった。

 洞窟内の外、暗がりで蠢くそれらは、洞窟などにわき目も振らずに過ぎ去っていく。
 正体さえ視認できないが、大中小様々なサイズの影が、力の限りを持って走り続けていた。

 まるで魔物の百鬼夜行だ。
 だがその動きの速度は、生物としての本能をむき出しにし、霊的な要素は微塵にも組み込まれていなかった。

「魔物……? でも、何で!?」

 ほとんど叫ぶように、エリーが声を出した。
 それでも、地鳴りと魔物の足音の向こう、僅かに聞こえる程度だった。
 その騒音は洞窟内にも響き渡り、埃が巻き上がり、岩壁が削れる。

 だが、それを演出するものたちは、ただただここを過ぎ去るだけ。

 本当に、“何か”から逃げているかのように。

 激戦区の魔物たちが、こぞって逃げ出す、“何か”。
 それは、今まさに頭に浮かべていた、その存在以外にあり得ない。

「まさか……、嘘だろ!?」
 全員の懸念の行き着く先、アキラはそれを感じ、叫んだ。

 まさか、まさか、まさか。

「っ―――」

 ついに魔物の行列が過ぎ去った。
 ぼんやりとした星明かりが戻ってくる。
 アキラは何故か立ち上がり、ふらふらと外へ向かった。
 まるで、“そう”あることが決まっているかのように。

「―――ギ、ギァァァアアアーーーッッ!!」

 洞窟内から足を踏み出す直前、耳をつんざく何かの断末魔が響いた。
 すると一間、洞窟の前に影が走る。
 左から、右へ。
 きっと、あの巨獣、ガルドンだ。

 同じ個体かどうかは定かではないが、あの雄叫びは今も耳に残っている。

 だが、そんな巨獣、ガルドン。
 たった今、それが起こしていた右から左への“逃走”。
 それを一瞬で無に帰す、何かの存在。

「―――ギィィィィァァァアアアアアーーーッ!!!!」

 ガルドンの叫びは、あまりに巨大で。

―――そして、あまりに矮小だった。

「―――、」

 魔物たちの百鬼夜行はとうに止み、今はまるで残り香のように土煙が舞うファクトルの道。
 乾いた空気だけが支配する空間。
 だだっ広い荒野を囲うような岩山にできた洞窟から出た、その場所。

 踏み出たアキラは、必然、左に顔を向けた。

「―――、」

 数百メートルという、“たったそれだけの短距離”の先。

 そこには―――“世界”があった。

 全長は、図る気にもなれない。
 首だけ動かしても、その巨体を視界から外すことは不可能だった。
 前に見た、巨大マーチュの数十倍には相当しているだろう。
 この存在の身に比すれば、アキラなど、ノミ程度だ。

 生物に例えるのなら、話通り、やはり、“亀”だろうか。
 背中、と形容できるかどうか分からないが、その部分には、“山脈そのもの”が月下に照らし出されている。
 そこにあるのは、本当に、天を突くような高い岩山たちだった。
 神話の、『世界を体現する巨大な樹木・“ユグドラシル”』とでも言うべきか。
 その巨体は、“世界”を背負っているのだ。

 自分の眼前にあるのは、“その存在”の首の付け根に相当する場所なのであろう。
 一言も発せないまま、アキラは“空”を見上げる。
 そこまでは、自分の目の前から伸びた高層ビルのような首が伸び、その頂上には米粒のようなガルドンが蠢いていた。
 とうとうガルドンの命が尽きたのか、グレーに爆ぜ、一瞬全身が照らされる。
 だがその一瞬では、目の前の“世界”の百分の一も見渡すことができなかった。

 “それで上半身”、なのだ。
 今、数十キロはあろうかという先にある、それこそ世界樹のような前脚の角を曲がって、そこで初めて“世界”の本当の規模を把握することができる。

 こんなものは、これは、明らかに、“違う”。
 アキラの銃の砲撃でさえ、この“世界”総てを覆うことなどできはしない。

「っ、っ、っ、」

 隣に、人の気配をアキラは感じた。
 全員出てきたのだろう。
 しかし誰も、言葉一つ交わさなかった。
 ひたすらに絶句。

 信じられない。
 こんな化物の存在も。
 こんな化物がこんな近くまで接近していたことに、まるで気づかなかったのも。

「……、」

 ガルドンを“喰い殺し”、その存在の首がゆっくりと縮小し始めた。
 するするとしまわれていく、伸縮自在のその首。

 それを呆然と眺めながら、アキラはようやく気づいた。

 “音”が、無い。
 それどころか、もしかしたら気配すら。

 先ほど、この首にガルドンが捕まったときもそうだった。
 この巨大な存在が取る一挙手一投足から、アキラは何も感じられない。
 こんな巨体が動き回れば、それだけで暴風が巻き起こり、岩山は総て崩れ、ファクトルはとっくに真っ平らになっているはずだ。

 それどころか、こんな巨大な生物は、“存在してはいけない”。
 自身の体重を支え切れないからだ。
 それを許すのは、この世界の力。
 巨獣を巨獣たらしめるのは、その存在が有する“魔力”だ。

 “ようやく”、その首が元の位置に収まった。
 僅かな星明かりの先、鳥類のような鋭い嘴をピタリと閉じ、水分を吸い取られた樹木のような皺だらけのその顔。
 その嘴も、その皺も、そして黒ずんだ瞳も、あまりにもスケールが違う。
 そこらの岩山すら、この身に比すれば眉毛程度とすら形容できる。

 やはり、これは、“違う”のだ。

 今、目の前に、身体を支えるどころか“無音”で移動する最強の“世界”が存在する。

 魔道士隊も、これほど巨大な存在の行方を見失い、推測しか立てられないほど機密性に満ちた、それ。
 その巨体からの影響を、極限まで落とし、ファクトル内を縦横無尽に闊歩する、それ。

―――“移動生物要塞”・ルシル。

 それは、魔王の牙城だった。



[12144] 第十七話『オンリーラブ(後編)』
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2012/09/07 01:06
―――**―――

 “世界”という存在は、それそのものに感情を覚えるようにはできていない。
 前提としてある、ルール。

 だから人は、見えている範囲、世界を輝かせようと疾走する。

 世界の色を変えることはできない。
 だから、せめて。
 自分の世界の色をキラキラと輝かせようとするのだ。

 時には、自分のために。
 時には、他人のために。

 そして時には、他人の世界にまで介入して。

 自分の世界を守るのは、当然かもしれない。
 だが、結局、それに伴う“対価”は必要になるのだけど。

――――――

 おんりーらぶ!?

――――――

「ど……、どうする……、の……?」

 乾いた空気の中、エリーの小声が届いた。
 そんな小声でも、十全に届くほど静かな空気。

 アキラは、口に含んだ砂をそのまま飲み込んだ。

「ど、どうするもあるか……!!」

 突然の、“目的地との邂逅”。
 アキラは言葉をなんとか吐き出した。

 全員が“それ”を見上げる中、逃亡さえしない。
 分かっているのだ。
 あの存在が“その気”なら、逃亡など無意味だということを。
 自分たちが一日がかりで進むような距離を、ルシルは一歩で蹂躙できるだろう。

 月下の下、“背に付属する山脈”は、今にも星空を突きそうだ。

 自分が今まで“巨大”と形容していたものは、一体何だったのだろう。
 その言葉は、この存在以外に使うことは許されないような気さえする。

 視界総てを埋める、その存在。

 それは、ルシルは、まさに“世界”だった。

「っ、」

 ルシルはどうも、今はこちらを向いているようだ。
 上顎が飛び出た、鳥類のような顔立ち。
 両脇にあるその黒ずんだ瞳は、あまりの巨大さに、何を見ているのか、あるいは総て見ているのかすら分からなかった。

 だが、僅かな星明かりの元、完璧には把握しきれないが、自分たちを認識しているのは間違いない。

 幸か不幸か威圧感も隠されたルシルからは、“何も感じない”。
 本来なら、圧死するほどの威圧感を覚えるのだろうが、今はただこの静かな邂逅に、僅かな汗を滴らせるだけだった。

 やはり、“世界”に感情を持つことは不可能なのだろうか。

 だが、相手は魔王の牙城。
 平穏無事とはいかないだろう。

 ならば、攻撃しかない。
 あの巨体が本格的に動き始める前に、片を付ける。

 アキラは右手を広げた。
 僅かにオレンジの光が漏れる。

 今度こそ、ためらわない―――

「に、にーさん、待つっす……!」
「?」
「もし、あの中に、エレねーたちがいたら、」
「……っ、」
 マリスの言葉で、アキラの身体は止まった。
 そうだ、彼女たちは、すでに“侵入”している可能性がある。

「そうです……!! 三人とも、あの中にいるのでは……、」
「じゃ、じゃあ、どうすんだよ……!?」
「って、ちょっ!!」
「―――!?」

 アキラも、あのマリスでさえもそれに気づかなかった。
 僅かに視界の隅で捉えていたエリーが叫んで指差したのは、ルシルの顔。
 ルシルは顎を突き出しながら顔を下ろし、その嘴のような口を、全くの気配を見せず大きく開き始めた。

「っ、―――、」
 攻撃の予備動作。
 そう予想したアキラはマリスに視線を走らせた。
 マリスは即座に頷き、メンバー全員の位置を確認する。

 だがそれは、杞憂に終わった。

 ルシルの口は開き続ける。
 それは通常考え得る限界値を超えて、まるで自分の顔を飲み込もうとしているように、口が“裏返っていった”。
 ゴム風船を裏返しているような光景の中、見えてくるのは、砂で汚れた、黒い体内。
 ルシルの口が開き、口の中が見え、そして喉が見えかかったところで、ルシルはようやくそれを止めた。

 ルシルの“裏返った顔”はグロテスクに見えるかと思いきや、巨大な洞窟の外観と大差がない。
 もともとそういう構造なのだろうか。

「っ、……!?」

 そして、その洞窟から次に現れたのは、喉の奥から伸ばした、ルシルの“舌”だった。
 アキラは僅かに身体を強張らせ、しかしあまりに静かな光景に成り行きを見守る。

 ルシルから出た“舌”は、アキラたちの前方数メートルほどの場所に突き刺さった。
 幅は、人が十人以上はゆうに横並びできるほどだろうか。
 長さは考えたくもない。
 カメレオンのように舌を丸め込んでいたのか、数百メートル前方、地に着けている顔から、アキラたちの元まで伸びてきているのだ。
 しかしそれは唾液などで濡れてはおらず、ゴツゴツとした表面で、アキラたちとルシルの口の中までの道を作った。
 その道には、ルシルが地に顎を付けているというのに傾斜があるのだから、顎の高さも尋常ではない。

「な……、なんだってんだよ……!?」
「こ、来い、ってことじゃないの……?」

 エリーの言葉はもっともだった。
 巨大な生物が攻めてこず、口を大きく開けて、目の前に通路を作ったのだ。
 ルシルの“裏返った顔”、洞窟と化したその喉は、ずっと奥の“世界”に繋がっているようだった。
 最早、ルシルは“移動生物要塞”ではない。
 このファクトルの地に、突如現れたダンジョンだ。

 十中八九罠だろうが、ルシルに侵入するチャンスでもある。

「だ、だが、むざむざ口の中に……?」
「やっぱり、あそこが入り口なんすかね……?」

 面々が会話を続けても、ルシルはその体制のまま動かない。
 あの巨獣の体内に入るというのは、それだけで、大きな抵抗だ。
 時間だけが過ぎ、サラサラと風が砂を転がす音が徐々に大きく聞こえてくる。

 やはり。ダンジョンたるルシルは、動かない。
 ただひたすらに、アキラたちの“答え”を待っている。

「い、行くぞ。罠だろうが、エレナたちがいるかもしれないんだ」

 どの道、逃げることは許されない。
 アキラは意を決し、一歩踏み出した。
 恐る恐るルシルの下に足を乗せ、軽く力を入れて確認する。
 その間も、ルシルは微塵にも動かなかった。

 やはり、これは、自分たちを中に誘っている。

 もう、行くしかない。

―――**―――

 無限を思わせるルシルの“たった一部”、舌で作られた道を歩き、アキラたちは“体内”に侵入した。
 入った途端に閉じるのではないかと懸念していたのも杞憂に終わり、ルシルは顔を“裏返したまま”微動だにしない。

 恐らく食道と思われるところに侵入し、入ってすぐに緩やかな上りの傾斜が顔を出す。
 ゴツゴツとした岩壁の洞窟のように、しかしそれでいて圧迫感を何ら覚えない、だだっ広い道を慎重に上り、永遠を思わせる距離を上り切ったとき。

 岩壁はそこで終わっていた。

 ほとんど四人同時に踏み入れた、ルシルの体内。
 そこに、上下左右総てレンガのようなブロックが規則正しく並ぶ、四角い通路が姿を現した。
 数十人はゆうに横並びになれるだろうか。
 天井も透けるほど高く、通路というよりほとんどホールに近い。

 ご丁寧にも数十メートル間隔にマジックアイテムと思われる石が左右対称に埋まり込み、各々灯りの役割を果たしている。

 そして、前は、行き止まりが見えないほどに、長く長く続いていた。
 生物の“体内”という常識では、やはり測れない。

「遺跡みたい……」

 今まで灯りを担当していたエリーが小さく呟き、手を収めた。
 その呟きすら、あまりに静かなその空間に響く。

 生物の体内に入ったというのに、まるでそう感じられなかった。
 無臭な上に、空気も外と同様乾いたもの。
 横部屋さえない両脇の壁を建物と例えれば、ここは、活気のない市街地のようだった。
 だが、空を塞がれている以上、確かにここは遺跡に似通っている。

 そしてそれは、ある種“魔王の牙城”に相応しい、質素で、そして精緻な作りだった。

「……オレンジ、っすか」
「?」

 また、“遺跡”の中に呟きが響いた。
 マリスが最も近い発光装置にとぼとぼと近寄り、半分の眼でそれを凝視する。

「これ、自分も知らないっすよ……。こんな色を出せるマジックアイテムなんて……」

 確かにアキラも今までこの世界の発光装置を何度も見てきた。
 僅かな魔力を流すだけで夜の闇を逃れるマジックアイテム。
 だがそれは、総てどこか淡い色を出す程度のもので、もっと言うなれば紅い色の比率が著しく高かった。

 こんな、“昼”を思わせる光は放っていなかったはずだ。
 外ではその巨体で夜を作り、中は昼を作る、ルシル。
 その存在は、あまりに不気味だった。

「オレンジ……、ということは、」

 サクがマリスに並んでそれをしげしげと眺めた。
 マリスは僅かに瞳を狭め、そして頷く。

「“日輪属性”。今回の魔王は、やっぱり日輪属性っす」
「……!」

 ピクリ、とアキラの身体が震えた。

 日輪属性。
 自分以外で“それ”を見たのは、たったの二度だ。
 一度目はあの“神王”、アイリス。
 そして二度目は、あの、自分とは別の“勇者”、スライク=キース=ガイロード。

 世にも珍しく、有するだけで勇者の可能性が著しく高いその希少種属性を、“魔王”も有している。

「と、とにかく、前へ進むぞ。みんないるかもしれないんだし」
「……そ、そうね」
 アキラが進み、次いでエリーが歩き出す。

 僅かに気圧されこそすれ、ここで立ち止まっている場合ではない。

 エレナに、ティアに、イオリ。
 行方不明になった彼女たちはここにいるかもしれないのだ。

「でも不気味っすね……。誰も……、それどころか魔物も魔族もいないっすよ」
「つっても立ち止まってる場合じゃないだろ」
「分かってはいるんすけどね……、」

 マリスがアキラの隣に並び、半分の眼を鋭く周囲に走らせる。

 彼女の懸念は、全員が感じていた。
 ルシルが―――恐らくは魔王の思惑だが、中に招き入れたのだ。
 罠でないはずがない。

 驚くほど静かなルシルの体内。
 次第に口数の減った面々の足音だけが響く。

 何一つ情報がない現状で、その通路を歩くのは、まるで死刑執行を今か今かと待つ罪人のような気さえする。
 過酷な環境の外より、こちらの方が精神的にくるものがあった。
 アキラが忙しなく周囲に目を走らせても、続くのはやはり遺跡のレンガの壁。

 だがついに、何の襲撃もないまま、最初の通路を歩ききってしまった。

「……ないのかよ、罠」
「いや、それよりどうしますか?」

 通路の行き止まりに到達した四人は、口を開かないわけにはいかなかった。
 到着したのはT字路。

 作られた迷宮のように直角に曲がり、左右に分かれていた。

「四人、か……」
「いや、二手に分かれるのは正気の沙汰じゃないでしょ」
「わ、分かってるよ、」

 アキラは視線を二つの道に走らせる。
 どちらの道も、遠くに続き、先は見えない。

 いくらこちらが四人とはいえ、ここが敵の牙城である以上、選べる道は一本だけだ。
 そして、道が分かれている以上、どちらかが罠というのは十分にあり得る。

「マリス、何か分からないか?」
「……分からないっす。どっちも、何の気配もないっすし」

 頼みの綱のマリスも分からないようだ。
 これだけの巨体を動かす魔力も、彼女ですら感知できなかった。
 傍から見れば清潔なルシルの中は、未だ、不気味のままだ。

「あんたが決めて。どうなっても恨まないから」

 こういう場合、やはり“勇者”たる自分が決めるべきなのだろう。
 アキラはエリーに促され、ほとんど勘で右の道を選んだ。

「なあマリス。ここ、どう思う?」

 再び長い通路を歩きながら、アキラは隣を歩くマリスに率直な意見を求めた。
 無言のまま正体不明のルシルの中を歩くのは、やはり、辛い。

「そうっすね……。イオリさんの言っていたこと、覚えてるっすか?」
「ん? あ、ああ」

 現在行方不明のイオリ。
 ファクトルに入る直前までいた魔道士隊の支部で彼女が集め、みなに語った推測を思い出す。

「ルシルは召喚獣の類、ってやつだろ?」
「そうっす。自分もそうだと思うんすけど……、変なんすよね」
「変?」
 マリスが眉を下ろし、アキラは眉をひそめる。

「召喚獣は術者の魔力に比例してその力が決まる。だけど、そこに注ぎ込む魔力も、やっぱりそれだけ必要なんす」

 それも、イオリは語っていた。
 魔力の総量が高いならば、それだけ召喚獣も強力かつ強大になる。
 それは、召喚獣に“込めることができる魔力”は、多い方がよいからだそうだ。
 魔力と召喚獣は、正比例的な関係にある。
 イオリが前に見せてくれたコンパクトな召喚のように、込める魔力で召喚獣の力や大きさが決まる。

 つまり、自分の力を注ぎ込む量は、ほとんど任意なのだ。

「これだけ巨大な召喚獣。維持するのに信じられないほど魔力を注ぎ込まなきゃいけないはずっす。“具現化”と違って、“生成時のみ”に魔力が必要じゃないんすから」

 それが、“具現化”と“召喚獣”の違い。

 “具現化”は、あくまで武具。
 放っておけばいずれは消えると言っても、創り出しさえすればあとはそれを維持する魔力はほとんど必要がないのだ。
 魔道の集大成といわれるほど、その利便性は強い。

 しかし、“召喚獣”は一応生物なのだ。
 呼び出したあとも、その活動を維持するために、魔力を流し続けなければならない。
 その対価ゆえに、低レベルの者でも呼び出せても、すぐに消失してしまう。

「だから“召喚獣”を呼び出す以上、自分に“できないこと”ができる存在じゃなきゃ意味ないんす。そうじゃなきゃ、自分で戦った方が消費は少ないんすから」

 例えばイオリの召喚獣―――ラッキーは、イオリにできない“巨大な敵との交戦”や、“飛翔による移動”ができる。
 彼女が魔力の効率的使用を捨ててまでラッキーを呼び出すのは、彼女が不可能を前にする状況に陥ったとき。
 イオリがティアにせがまれても極力召喚獣を出したがらなかったのは、そういう意味合いもあったのだろう。

「それで、何が変なんだ?」

 サクが口を挟んだ。
 マリスは、もう一度ルシルに視線を走らせる。

「“巨大生物生成”、“魔力感知不可能”、“隠密移動”。必要な機能だとは思うんすけど、どれをとっても消費が尋常じゃないっす」
「“魔王”ってくらいだからな……」
「いや、そういう話じゃないっす」
「?」

 マリスは目を細めた。
 そして気づかれない程度、全員に視線を送り、口を開く。

「“召喚なんてこと”しない方が、絶対に強い」

 その言葉で、アキラの脳裏にとある光景が浮かび上がった。

 “魔族”、サーシャとの戦いでも、彼女は“そういう意味”の言葉を口にしたのだ。
 “余計なこと”に魔力を割いているのであれば、自分で戦った方が強い、と。

 だからマリスは、単騎で戦えば最強なのだ。
 召喚獣と聞けば、アキラたちは便利なイメージしかない。
 だが、“そんな発想すら”、マリスには存在しないのだ。

「……マリス、召喚獣出せるのか?」

 僅かな沈黙の内、アキラは口にした。
 このわだかまりは、この際置いておこう。

「いや、練習すればできると思うっすけど……、考えたこともないっす」

 確かにそうだ。
 マリスに“不可能なこと”はない。
 だからやはり、自分の“不足分を補う召喚獣”を出す必要性すらないのだ。

「とにかく、“魔王”がルシルを召喚した以上、“ルシルは魔王にできないことができる”はずなんす。日輪属性のことは分からないっすけど……、これだけの魔力があれば普通にどこかに牙城を構えてた方が効率的っすよ」

 そうだ。
 確かに居場所を掴まれないことは有意義なのかもしれないが、マリスが語るに、これほどの魔力があれば誰も抗えない。
 ファクトルの過酷な環境も考えれば、“そもそもルシルという存在は効率的ではない”のだ。
 なにせ、魔物の出現地に一歩踏み入れただけで、この現状を招いたのだから。
 防波堤としては、ファクトルは十全だ。

 ようやく、マリスの思考に追いつくことができた。

「待って、それ、おかしい」
「?」
 今度はエリーが口を挟んだ。

「魔力があれば、“不可能なこと”なんてないはずでしょう?」
「?」

 アキラは珍しい光景を見た。
 エリーの言葉に、マリスが首をかしげているのだ。
 もっとも、アキラも首をかしげる側だったのだが。

「それって、月輪属性のことじゃないのか?」
「? え、日輪属性もでしょ?」
「?」

 まるでかみ合わない会話に、とうとう全員の足が止まった。

「日輪属性と月輪属性は、不可能なことがない。だけど、日輪属性は“特化”できる、って」
「え? なにそれ?」
「……、ねーさん、なんでそんなこと知ってるんすか?」

 マリスの言葉を皮切りに、全員が不審な目をエリーに向けた。

「…………、あ、話さなかったっけ……?」
「聞いてねぇよっ、それっ!」
「えっと、い、いや、あのときはゴタゴタしてて」

 エリーは視線を外し、頬を小さくかいた。

「覚えてる? あの、ラースさんって人」
「?」
「ああもう、覚えてないならいいわよ」

 エリーの諦めきった表情に、アキラは過去の記憶を掘り起こしてみた。

 ラース。
 確かにどこかで聞いた名前だ。
 いや、待て。
 思い出した。
 確か、あの、二人の“勇者様”と出逢ったあの事件。
 そこに、もう一人、いつしか姿の消えていた“生存者”がいた。

「その人が教えてくれたの。日輪属性と月輪属性は似てるけど、日輪属性はその上で“特化”できるって」

 アキラの記憶検索が終了した頃には、エリーの話は次の段階へ移行していた。

 そして、また出てきた言葉。

 “特化”。
 これも、前にどこかで聞いた気がする。

「それって、本当なんすか? 仮説とかじゃなく」
「え、ええ、なんか、ものすごく詳しそうだったし、」
「ちょっと待て、置いてくなって」

 話についていないアキラとサク。
 アキラが代表して声を出した。

 この辺の知識も、魔術師試験には必要なのだろうか。

「一説には、日輪属性は月輪属性と同じ、というのがあるんす」
「?」

 マリスが口を開き、解説を始めた。

「“結果として”不可能なことのない二つの属性。だけど、日輪属性は他の属性みたいに、一つの力を“特化”することができるんすよ」
「?」
「“特化”っていうのは、あたかも他の属性みたいに、その方面に突出すること。例えば、エレねーみたいに身体能力向上とかっすね」
「……、……!」

 そうだ、思い出した。
 その、“特化”という言葉を最初に聞いたのは、やはり、二人の“勇者様”に出逢ったあの事件。

 あのとき、人間とは思えない身体能力を発揮した“勇者様”、スライク=キース=ガイロードに、エリーは『木曜特化』と呟いたのだ。
 そしてそのあと、スライクに、自分は『火曜特化』と言われた。

「だから、月輪属性は“劣化属性”。固有の“魔法”はあるんすけど、それでも、日輪属性の応用力は異常っす」

 “劣化属性”という言葉も、スライクは呟いていた。
 スライクとは別にいた、リリル=サース=ロングトンという、月輪属性の“勇者様”。
 彼女に、スライクはその言葉を使っていた。

 つまり、こういうことだろう。
 月輪属性は、他の属性の“真似事”ができる。
 それはすなわち、不可能を超越できるということだ。

 しかし、日輪属性は、他の属性と“同じこと”ができる。
 同じ不可能を超越した概念でも、日輪属性は月輪属性を上回って真に迫ることができるのだろう。

「…………、あれ、俺さ、魔法使ったことないんだけど、」
「やってんでしょ……、あたしの攻撃方法とか、イオリさんの攻撃方法とか、」

 アキラの記憶にある日輪属性の魔法は、あの銃が放つ、“プロミネンス”だけだ。
 だが、エリーにそう言われると、確かに、あの攻撃も魔術だった。
 攻撃方法は変わらずに、相手に別の影響を与える。

 剣で攻撃していただけのあれも、立派な魔術なのだろう。

「と言っても、検証できる人なんてほとんどいないはずっすよ。余程魔道に精通した人じゃないと……、それも、日輪属性の」
「でも、ラースさんは水曜属性だったわよ?」
「……、」

 自分の属性をあっさりと“劣化属性”と言い放ったマリスは、口調も変わらず思考を進めていた。
 マリスを見ていると、“劣化”という言葉はあまりに不釣り合いに思える。
 アキラの方が属性として優れていても、結局のところ、魔力の総量は隔絶した差があるのだから、それは当然なのだろう。

 だが、マリスは思考を進める。
 やはり、妙なのだ。

 “それ”を、日輪属性のスライクが知っていたのというのは、まだ分かる。
 だが、ラースという男は、アキラの記憶では水曜属性だったはずだ。
 マリスすら知らないようなことを、確信を持って語るなど、アキラの理解の範疇を超えていた。

 ルシルの体内という異常な場所にいるだけに、僅かな疑念でも大きく膨らんでいく。

「その、ラースという男は、あのとき港にいたか?」
 彼女も思考を進めて、そして黒い壁にぶつかったのだろう。
 サクは口を開き、どこか鋭い視線をエリーに向けた。

「……いつの間にか、いなくなっていた」
「おいおいおいっ、思いっきりあやしいじゃねぇか、あの人!!」
「あ、あたしに言われてもっ」
「でも、」

 始まろうとした二人の喧騒に、マリスが静かな声を挟んだ。

「その、ラースって人が言ったことが本当だとすると、やっぱり変っすよ。“不可能なことがない”日輪属性が、“不可能を補うため”の召喚獣を出してるなんて、」
「―――、しっ、」

 マリスの言葉を遮り、サクが鋭い視線を後方に向けた。
 マリスも即座に、そしてアキラとエリーは一瞬遅れてそちらを睨む。

「今、何か、」
「ああ、聞こえたな……」

 サクの言葉に、アキラも静かに返す。
 無限を思わせるこの道。
 その後方から、もしくはその全体から、何か、振動にも似た音が響いた。

「ルシルが……、動いた、とか?」
「口は閉じたかもしれないですね……。でも、揺れてないですよ」
「“感知できない”んじゃないの……?」
「……、」

 途端、このだだっ広い通路が狭く感じた。
 そうだ。
 失念している場合ではない。
 ここは、“魔王の牙城”なのだ。

「と、とにかく、前へ進もうぜ……。今は―――なっ、」
「―――っ、走るっす!!」

 アキラの言葉を遮ったマリスの叫びに、全員が同時に従った。
 今、見ていた後方の道。

 そこが、“狭まり始めていた”。

 どういう原理か、堅そうに見えていたブロックの壁がまるで内臓のように、ぐにゃりと歪んで道を飲み込むように閉ざされる。

 幸いにも後方から襲ったその事態に、アキラたちはひたすらに走り続けた。
 もし、僅かでも足を止めれば、“遺跡に飲み込まれる”。
 背中を押すのは、“縮小”による、追い風。
 しかしそれでも、余裕を見せることはできない。

 体内に侵入して以来、“縮小”という、初めて生物らしい動きを見せたルシル。
 それは、確かに“罠”だった。

 自分たちは何を学んでいたのだろう。
 こういうことが、平気で起こるのだ、ここは。

「っ―――、」

 わき目も振らずに走った長い通路。
 そこは、再び二手に分かれていた。

「っ、右だっ!!」

 直角に方向転換し、通路に飛び込む。
 またも現れる、先の見えない長い通路。
 ルシルの縮小も通路に準じているのはありがたいが、結局また、同じ逃走劇が始まるだけだった。

「っ―――、」
「―――!?」
 隣を走るマリスが、身体を銀の光に包み、くるりと振り返った。
 身体を浮かせ、そのまま進みつつ、腕を大きく振りかぶる。

「―――レイディーッ!!」
 後ろを走るエリーとサクの間を縫って、銀の矢が狭まる通路に突き刺さる。
 しかし、一撃必殺級のその一撃を受けてなお、ルシルの縮小はまるで止まらなかった。

「っ、ダメっす!!」
「ま、またっ!!」
「……!!」

 再び見えた、分かれ道。
 アキラは、今度は左と叫んで、全員がそこになだれ込む。

 今なお、ルシルの動きは止まらない。

「どっ、どうするのっ!?」
「っ、」

 エリーの悲痛な叫びを受け、アキラは視線を背後に向ける。
 迫りくる、ルシルの“縮小”。

 体力的にも、いずれ限界が来る。
 もう、こうなったら、“その方向にいないと思うしかない”。

 アキラが手を開き、身体を反転させようとしたところで、

「ちょっ、前っ!! 前っ!!」
「―――だっ!?」

 アキラの右肩は強く通路に激突した。
 “具現化”が完了していたら、銃を落としていただろう。
 わけも分からず視線を走らせれば、今まで整った直線ルートだった道がうねり、蛇のように歪んでいた。

「なっ、なんだってん、」
「っ、アキラ様!!」
「―――!?」

 一瞬、自分が切られたのかと思った。
 電光石火の勢いで愛刀を抜いたサクはアキラの隣を跳躍し、何かをスパリと切り裂く。

 うねった道の先、今度は正真正銘、“ホール”が姿を現わしていた。
 山一つ程度は軽々入るような巨大な空間。
 遥か遠くに、今入ってきたような道より遥かに狭い出口がいくつもある。
 その中の選択など、一々考えてはいられなかった。

 足場は今までの通路通り石畳が続いているが、そこは、まるで植物を植え込んだビニールハウスのようにコケや草木がびっしりと周囲を満たしている。
 うっ、となるような湿気のある植物の空気が、ホール中を満たしていた。
 まるで、殺風景なファクトルの草木がこの場所だけに集まっているかのようだ。

「また来たっ!!」
「っ、」

 エリーの叫びに、再びサクは跳躍した。
 彼女が切り裂いているのは、天井がぶら下がっている緑色の触手のようなツタ。
 数は、数百、数千は下らないだろう。

 それらはアキラたちを栄養分だとでも捉えているのか、一斉に天井から伸び、うねりながら襲いかかってくる。
 そして、正面にも伸びきり、

「っ、レイリスッ!!」
 銀の光が、ツタをズタズタに切り裂く。
 サクも刀を振るい、ボトボトと足元にツタが落ちてきた。
 一本一本は、弱い。
 だが落ちたツタも、うねうねと動き、不気味にも活動を中止していなかった。

「うっ、後ろっ!! まだ来てるわよ!!」
「走れ!!」

 マリスとサクが道を切り開き、エリーは外から迫ったツタを殴りつける。
 今になって、アキラは剣を手放したことを後悔していた。
 何も、できない。

「っ、」
「こっちっす!!」
 永遠を思わせる長距離走。
 先にゴールの一つに到達したマリスが、振り返って叫んだ。
 サクはその場でツタの追手を切り裂き続け、道を塞がせまいと神速の斬激を繰り出し続ける。
 アキラは出口に、転がるように飛び込んだ。

 周囲からは再びツタが、後方からは未だ“縮小”が、迫ってきていた。

「早く―――っ!?」
 出口に駆け込んで、振り返ったアキラは一歩のけ反った。
 縮小は、ホールの半分ほどしか進んでいない。

 だが、今、アキラたちのいるこの場所も、“縮小”し始めている―――

「っ、急げ!!」
「―――!!」
 アキラが叫び、エリーがツタを振り切って飛び込んできた。
 今すぐにでも駆け出したいが、まだ、サクは中にいる。

 この“縮小”、今までの飲み込むようなものとは違い局地的で、どこかこの“胃”から獲物を出さないためだけの仕掛けのようにさせ思えた。

 そしてそれは進行し、もう、なんとか人一人通れるほどしかない―――

「サ―――」

 手を伸ばすこともできず、紅い着物が映える緑の光景は、目の前の壁に途絶された。

「っ―――、」
「そ、そん、」
「どくっす!!」
 マリスの身体から銀の光がほとばしり、一閃。
 目の前の“壁”に槍のような矢が突き刺さる。
 しかし、そもそもそういう仕掛けなのか、目も覆わんばかりに爆ぜた光の先、傷一つつかない“壁”が黙して立ち塞がっていた。

 最悪だ。
 この敵地で、再び仲間と逸れてしまった。
 しかもあの“胃”は縮小しているのだ。

 この、定番の展開。
 だがそれだけに、身体中から嫌な汗が流れる。

「ど、どうしよう!? サクさん、あたしを先に、」
「っ、サクッ!!」
「はい」
「くそっ、もう仕方ない……。撃つぞ―――、……? サク?」
「はい?」

 右手を広げたアキラに届いたのは、どこか静かなサクの声だった。
 しかし、姿は見えない。
 次に、断続的にツタが切り裂かれる音も聞こえてきた。

「サク? 聞こえるのか?」
「ええ……、っ、」

 また、スパリ、とツタが切り裂かれる音。
 どうやらサクは、壁一枚隔て、向こうの“胃”で戦っているようだった。

「……この壁、何とかならないか?」
「っ、ええ、試してみたのですが、っ、切れません。ただ、“縮小”は止まっています」
 どうやら、窮地というわけではないらしい。
 ツタの切れる音と、サクの声が交互に聞こえる中、アキラは無駄と知りつつも“壁”を殴りつけてみた。
 ブロックの壁にしか見えないそれは、打撃を受けると、ぐにゃりと沈み、アキラの攻撃を押し殺す。
 打撃でも、魔法でも、斬激でも、このルシルの体内は破壊できないようだった。

「大丈夫か?」
「見ていてあまり気持ちのいい光景ではありませんが……、問題ありません。っ、このツタを倒すのは容易ですし……、そこまで速くない」

 姿は見えないが、とりあえず、サクは無事のようだ。

「ど、どうする?」
 落ち着きは取り戻せたが、事態は好転していない。
 アキラは頭をガシガシとかき、視線を泳がす。
 だがやはり、活路は見出せなかった。

「サクさん、そっち、別の出口もあるっすよね?」
「いや、同じように塞がっている……。あるいはこのツタを総て倒せば、っ、開くかもしれないが……、っ、」
 当事者たるサクも、落ち着き払った様子で状況を分析する。
 声とツタが切られる音だけが交差する“胃”の出口。
 だがいくら待ってもみても、壁は開かなかった。

「……、三人とも、先に行って下さい」
「っ、お、おい、」
「いや、そこで立ち止まっていては、いつまた“縮小”に襲われるか分かりません」

 “縮小”と聞き、アキラは周囲に視線を走らせた。
 今まで歩いてきた道より格段に狭くなったこの出口。
 三人横並びになるのがやっとだ。
 確かに“縮小”は驚異的ではある。

「不本意ですが、っ、ここで別行動にしましょう。入り口の方はもう開いています。私はそちらの探索を、」
「ほ、本当に大丈夫なのかよ……!?」
「ええ」
 向こうの状態はまるで見えない。
 ただ、機械的にツタを切り裂く音が聞こえてくるだけだ。

 ここは、学ぶべきなのだろうか。
 自分たちに時間的猶予はないということを。
 先ほどは、のんびりと歩いて“縮小”に襲われたのだ。

「……、分かった」

 アキラは小さく声を出した。
 その決断について、エリーもマリスも、そしてサクからも非難の声は上がらない。

「速攻で魔王倒して、戻ってくるからな……!!」
「……ええ、お願いします。―――、」

 最後まで、静かな声。
 それきり壁の向こうからサクの気配が消えた。
 もう彼女は、この場を離れて戦い始めたようだ。

「……行くぞ」
「ええ」

 静かに言葉を紡ぎ、再び姿を現した長い道をアキラたちは駆け出した。
 しかし決して、双子の姉妹と離れないように。

 今自分はどんな表情を浮かべているだろう。
 サクが無事だったという安堵と、彼女と別れた焦燥感。そして、また仲間と逸れたという危機感が入り乱れる。
 “縮小”が始まってから、ここまでは一瞬の出来事だった。

 だがもう、タイムロスはしている場合ではない。
 ルシルの中は、不気味なほど静かだが、確かに罠があったのだから。

 だから、たった今、宣言した通り、

「倒すぞ、魔王。速攻で……!!」

 狭く、うねった通路を、三人で駆ける。
 もう、とろとろ歩いているわけにはいかない。

 立ち止まっている暇は、ないのだ。

―――**―――

 間もなく終わる“刻”が来る、今。

 それに直面すると、どのような表情を浮かべるものだろう。
 “それ”は無為な思考に想いを馳せる。

 恐怖だろうか。
 絶望だろうか。
 そしてあるいは、高揚感だろうか。

 ただ、少なくとも、“それ”は笑っていた。

 達成感を覚えているのだ、確かに。

 誰も知らない。
 誰にも悟られない。

 そういったものが完成するときには、やはり笑うのが自然なのだろう。

 もう、誰にも止められない。
 自分は、演じ切って見せたのだから。

 間もなく終わる“刻”が来る、今。

 それはもう、起こるのだ。

 逃れようなく。

―――**―――

「……!」

 最早精緻な通路はなりを潜め、本当に内臓のようにうねった通路を駆け抜けた三人は、再び“ホール”のような場所に到着した。
 だが、先ほどの“胃”とは違い、遥かに小さい。

 円形の、狭い空間。
 周囲の壁は、今までのようなレンガ造りではなく、磨かれた大理石のように白く、滑らかだ。
 天井は、今まで以上、透けるように高かった。天辺すら視認できない。
 オレンジの光に包まれたその空間は、まるで、細長い塔の内部のようだった。
 そして中央には、塔の形にあわせているかのように、円形の白い舞台が鎮座している。

「な、なんだ、ここ……?」
 先ほどの“胃”のこともあり、アキラは慎重に視線を走らせる。
 だがここには、天高く続く壁の途中にあるオレンジの光源と、目の前の舞台だけ。
 いや、舞台というより、ただの台だ。
 地面より、たった一段高いだけ。
 もっとも、不用心に乗る気にもなれなかったが。

「……、ね、ねえ、出口、ないんだけど……、」
「え?」
 エリーの声で、アキラはようやく気づいた。
 確かに視線を走らせても、ここの出入り口は、今入ってきた道しかない。

 完全な行き止まり。
 そして、“胃”からここまでは脇道はなかったはずだ。

「な、なあ、もしかして、ここ、外れの道だった、とか?」
 思えば“胃”には出口がいくつもあった。
 自分たちは、マリスが選んだその中の一つに入ったにすぎない。

「……戻るか?」
「そうね……」

 一瞬、この場で唯一怪しい台に視線を走らせ、エリーは頷いた。
 先ほどの罠もあり、過敏になっている今、どうしてもあの台に乗る気にはなれないのはアキラと同じようだ。

 ルシルに入って以後、時間の感覚はまるでないが、大分長い距離駆けてきた気がする。
 もしかしたら、そろそろあの“胃”の出口も開いているかもしれない。

「マリス、戻るぞ。言った手前、サクに今会うのは何となく避けたいんだけど、仕方な―――」
「あれ」
「?」

 踵を返そうとしたアキラを、マリスの声が止めた。
 マリスは顔をほとんど真上に向け、半開きの眼で空を凝視している。
 そして、分厚いだぼだぼのローブから腕を出し、ゆっくりと上を指した。

「あれって、出口じゃないっすか……?」
「?」
 マリスの指の先を追っても、アキラにはオレンジの光に包まれた空間しか見えない。
 どこかぼやけたその光景から視線を戻し、エリーを見ても、首を振り返された。
 同じく見えないらしい。

「なんか、穴が開いてるっすよ」
「マリス……、お前―――」

 目、いいな。
 そんな言葉をアキラが吐き出そうとした瞬間―――

『その台に乗るといい』

―――どこかしがれた声が、“塔”に響いた。

「―――!?」

『昇ってくることができる。罠でないことは保証しよう』

 アキラの驚愕をよそに、声は淡白に響く。
 老人のように、しがれたその声。
 若々しくはないそれは、はっきりとした口調に、揺るがない意思を感じさせた。

「な、なに……?」
「ま、まさかとは思うっすけど……、」
「魔王、か……!?」

『そうだ。早く来てくれ』

 僅かな呟きをも拾い、“それ”は声を響かせ続ける。
 常軌を逸した存在であることを、あっさりと認めた。
 まるで、ちょっとした所用を頼むかのような口調。

 その声そのものからは、ルシルのように、“何の脅威も感じられなかった”。

『急がなくてはならないのだろう?』

「っ、」
 魔王に促され、現状を把握するのも滑稽な話だった。
 確かに、奇妙な空気程度に気圧されている場合ではない。
 時間がないのだ。

 だが、目の前の台が罠ではないと言われても、所詮敵からの情報だ。
 しかし、

「ど、どうする……?」
「っ、どうするも、行くしかないじゃねぇか……」
「……フリオール」

 台の前で立ちすくんでいたアキラたちの身体を、銀の光が包んだ。
 マリスが腕を振り、全員の身体を宙に浮かせる。

 オレンジとシルバーの光が混ざる景色。
 どこまで昇っても同じ造りのその“塔”。

 足元の台がぼやけて視認できなくなった頃、ようやくアキラの目にぽっかりと空いた穴が見えてきた。

 マリスの“魔法”で、アキラたちはそこに入り込む。
 入ったそこは、僅かな小道ののち、輝く大広間に続いていた。

 正方形の、巨大な部屋。
 一辺百メートルはあるだろうか。
 今しがた昇ってきた“塔”のように、総ての壁が磨かれた白い石造り。
 四方に設置された、闇にオレンジを作り出す発光装置は、煌々と輝き、温暖な空気が部屋を満たしている。
 高い天井の中央には、シャンデリアを模した巨大な光源。
 空気も、外の埃の匂いとは隔絶されて、どこか清潔だった。

 僅かな装飾品を内包しただけの淡白なこの部屋。

 そこに入ったアキラたちを、

「罠ではないと言ったのだが……、この高さを昇れるか」

 その最奥。
 最後の装飾品、一段高い王座に座る一人の男が出迎えた。

「そうか、“例えに出ていた”月輪属性の仲間はその彼女か。……相当優秀のようだね」

 座ったまま、“それ”は呟く。
 ブロンドの長髪に、総てを見通すかのような深い色の眼。
 肩に金の刺繍が入った漆黒のローブを纏い、僅かに皺の入った肌色の表情からは優雅ささえ感じられる。

 だがそれに、“恐怖”は何故か感じられなかった。
 どこか柔和な、そう、まさに人間。

 その存在の在り方は、ただの人間にしか見えなかった。

 いや、それ依然に。

 自分たちは、この男に、逢ったことがある。

「ラ、ラースさん……?」

 先ほど話に出てこなければ、アキラは即座に思い出せなかったろう。
 エリーの呟き通り、目の前にいるその男は、あの二人の“勇者様”に出逢ったときにいた、あのラースだ。
 あのときより、若干年老いているように見えるも、間違いは、ない。

「一応は、自己紹介から始めよう」

 “それ”は悠然とした動きで椅子から立ち上がり、右手を胸に当てた。

「ジゴエイル=ラーシック=ウォル=リンダース」

 言葉を紡ぎ、その男―――ジゴエイルは、僅かに笑った。

「“魔王”。と、呼ばれている」

 なんと陳腐で、なんと静かな邂逅なのか。

―――**―――

 ファクトルの地を囲う複数の魔道士隊支部。
 その内一つから派遣された全十名の魔道士の“ルシル調査”は、難航を極めていた。

 まず、昨日、突如発生した巨大な砂嵐。
 直撃こそ避けられたが、被害は甚大だった。

 馬を防護服で覆って風下に移動させ、馬車に全員で乗り込む。
 これだけでも大仕事だったのだが、慌ただしい作業で水樽をひっくり返しまるまる一つ分地面に寄付し、食料は踏みつけ、無残な結果となってしまった。

 その調査隊の長を務める男は、夜、馬車の中、地図と残存食料を勘案しながらこう思う。

 ファクトルの過酷な環境に、“慣れ”というものはほとんど存在しないのだ、と。

 外を歩けば魔物を警戒し続けなければならず、馬車の中にいれば常に揺れて身体を休めている気がしない。
 夜寝るときもいつ戦闘になるか分からないのだ。

 心も身体も休まる暇がない。

 最もきついのは精神面。
 どれだけ進んでも変わらない景色に、心を病んでしまう者も少なくはない。
 現に、今回初の調査隊員の二人は憔悴している。
 それも、珍しいことではない。

 こんな場所に、あと、五日はいなければならないのだ。
 定期連絡のための帰還には、まだ、五日もある。

 かくいうこの隊長も、ファクトルを調査十年以上務めるベテランなのだが、今すぐにでも帰りたいと思っているほどだった。

 “ルシル”の目撃証言から約一週間。

 神出鬼没のあの存在は未だ発見できない。
 発見できればすぐにでも帰れるのだが、出遭いたいかと聞かれればまた別問題だった。

「隊長っ!!」
「!」

 馬車の分厚い布が、破れんばかりの勢いで開かれた。
 五つほど後輩のその男は、顔を真っ赤に染め、身体中で息をしている。

「どうした? お前は休憩―――」
「それ、どころじゃっ、」

 喉が詰まり、ほとんど声が紡げない男に促され、隊長は馬車から出た。

「さ、さっき、爆音とか、あった、じゃないですか、」
「あ、ああ」

 途切れ途切れの言葉を拾い、隊長は頷く。
 確かに先ほど、怒号のような足音と、大気を揺する爆音が響いたのは聞いた。

 だが別に珍しいことではない。
 この辺りの魔物が死を迎えれば、それくらいの爆音は響く。
 大方、同志討ちかなにかだろう。
 言い方は妙になるが、そうして魔物が切磋琢磨しているからこそ、ここの魔物は危険なのだと考えることもできる。
 そうしたことには、下手に首を突っ込まないのが吉だ。
 それでも何故か一向に数が減らないのは、大きな悩みの種なのだが。

「そ、それで、あ、あれ、」
「……?」
 馬車の外に出て、星明かりの下、後輩の男が遠くを指差した。
 隊長は首をかしげる。

 巨大な岩山があるだけだ、そこには。
 別に、何も、

「っ、」

 ようやく気づけた。
 それは、山ではない。
 ここに馬車を止めたとき、そんなものはなかったのだから。

 ゆえに、あれは、“移動するもの”なのだ。
 隊長も、それを、初めて見た。

 だがまさか、“あれほど”とは。

「―――全員起こしてきてくれ。調査隊を再編成する。五名で、だ」
 声もか細く、決して気づかれないように小さく呟いた。
 これほどの距離で、“完全にそれの攻撃圏内”に入っていると錯覚するのは、あながち間違いではない。
 あれが、聞いた話し通り歩き出せば、ここまで一歩で到達できてしまうだろう。

「そ、それに、変なんです、」
 ようやく息を整え終えたのか、後輩の男は怯えた表情で言葉を初めてまともに紡いだ。

「ルシルが先ほどから、“微動だにしていない”んです」

―――**―――

「……、っ、」
 エリーは目の前の存在に、“恐怖”を覚えていた。

 強烈な威圧感も、脊髄を切り裂くほどの殺気も覚えない。
 だが、“それそのもの”に、恐怖を覚えるのだ。

 オレンジに輝く、無機質な大広間。
 その反対側にいる、その存在。

 魔王―――ジゴエイルは、あまりに“普通”だった。
 “魔族”としてではない。
 “人間”として、だ。

 エリーの記憶にある“魔族”―――リイザスは人の形をしていたとはいえ、やはり別種の存在だった。
 だが、ジゴエイルは、“人間”にしか見えない。

 それこそ、そのまま人間の群れに溶け込めるほどに。

 そして、“それ”をしていたことをエリーは知っている。
 ジゴエイルは“ラース”と名乗り、自分たちと同じ依頼の中にいた。
 そしてエリーは、彼と話していたのだ。

 あのときは今のような初老ではなく、青年のようだったが、それを抜きにしても違和感さえ覚えなかった。

 だから、恐い。
 そんな“魔王”に、何一つ疑問を抱かなかったことが。
 隔離して存在すべきである、日常と戦闘が混ざり込む、その瞬間。

 脳裏を黒い思考が侵食し続ける。

「っ、」
「……、」

 そのエリーの視界に、一人の男が割り込んできた。
 アキラだ。
 左腕を広げてエリーを庇うように立ち、右手は広げている。

「どうせ、すぐ終わる」
「……う、うん」

 自分が震えていることに気づいたのだろうか。
 アキラが小声で呟いた言葉に、エリーは小さく頷いた。

 そうだ。
 終わるのだ。

 恐怖など膨らむ暇もなく、一瞬で。
 彼は、“それ”ができる。

 何度も見た、その光景。
 覆らなかった事態は存在しない。

 だから、大丈夫だ。
 きっと、絶対に。

「……、」

 エリーは両手を強く握る。

 大丈夫だ、絶対に。
 それは揺るがない。

 だが、それなのに。

 何故自分は、こんなに祈っているのだろう。

「君が今回の勇者か……。正直、一番遅いと思っていたんだけどね」
「……?」

 二人から一歩出たアキラは、ジゴエイルの言葉に眉をひそめた。
 だがそれが、アキラを、あのときの二人の“勇者様”に比した言葉だと思い至り、奥歯を強く噛む。

「……仲間が優秀だからな」

 戸惑いながら、アキラはむっとして強い口調を選んだ。
 相手は魔王。
 勇者たる自分が、その眼前で、いつものようにビクビクしているわけにもいかない。

「確かに素晴らしい。……人数が少ないようだが、“七曜の魔術師”のパターンはそれが利点だからね。勇者の力はどうでもいい」
「……、」

 挑発、だろうか。
 一瞬アキラを追い越しマリスに視線を這わせたジゴエイルは、顎を僅かに上げて笑う。
 好感が持てそうな柔和な表情は、いつの間にか嫌味を含んだものになっていた。

 これは、一体何なのだろう。
 相手は魔王だ。
 それなのに、ただ単純に、こちらの神経を逆撫でするようなことしか言わない。安い挑発だ。

「にーさん、早くした方が、」
「……あ、ああ、」
 マリスに声をかけられて、ようやくアキラは我に返った。

 使命感を振りかざした勇者が魔王を討つ。

 そういうものが自然なのだと思っていたアキラにとって、ジゴエイルは奇妙に映る。
 だが、より好みしている場合ではない。

「……“あまりにあっけない”のもつまらないから話をしようと思ったのだが……、お気に召さないか」
「……、」

 また、だ。
 ピリピリと背筋を何かが刺激する。
 こちらを過小評価するような、陳腐な挑発。

 ジゴエイルは、何かを企んでいるのだろうか。
 罠があるとしか思えない。

 だが、目の前の魔王は脅威をまるで感じない。
 普通の人間が立っているだけだ。
 それゆえにためらう部分もあるが、今すぐにでも消し飛ばすことができるだろう。

「ときに、アキラ、だったかな」
「……!」

 名前を呼ばれ、身体が震える。
 自分の名前は、あの依頼で調べられたのだろうか。

「無駄に思考を働かせているようだが……、“時間がない”のだろう?」
「っ、」

 そうだ。
 また、ジゴエイルに思い出さされた。
 あまりに静かなこの空間にいると、それすら忘れてしまう。

 行け。
 身体はゴーサインを出す。
 だが、分からない。
 相手の罠は、一体何か。

 “それ”があることは、もう分かっている。

 だからそれゆえに、動けない。

「いや、罠などないよ。ほら、どこにも」
「……!」

 ジゴエイルはアキラの思考を読んだかのように、両手を大きく広げた。
 確かにこの部屋には、何も仕掛けが見られない。

 躊躇する必要は、どこにもないように思えた。

 右手はプルプルと震える。
 だが、最後の踏ん切りがつかない。

 いや、待て。
 冷静になれ。

 アキラは必死に思考を進める。

 そもそも、ジゴエイルの“狙い”は何か。
 当然、こちらの全滅だ。

 マリスが言うに、これほど巨大な召喚獣を出せるのならば、術者本人に相当は負担がかかる。
 効率的ではない召喚。
 とすれば、ジゴエイルに余力はないのではないか。

 だが、もし、仮に、ジゴエイルが“尋常でないほど”魔力を有していたらどうだろう。
 それこそ、召喚獣を“遊び”で出せるほどに。
 効率的でない行動を取る理由など、道楽以外にない。
 ならば、ジゴエイルは今なお強大な魔力を残していることになる。

 いや、それならば、何故ジゴエイルは襲ってこないのか。

 様々な思考が浮かんでは消える。
 いつしか頬を伝った汗が地に落ちても、誰も動かなかった。

「そういえば、君たちは“チェスゲームの終わらせ方”を知っているか……?」
「……?」

 チェスゲーム。
 その遊びを、アキラは知っている。
 元の世界にもあるものだ。
 この世界でも実物を見たことはないが、恐らく共通のものだろう。

 終わらせ方は、アキラもやったことがある、将棋と同じ。
 敵のキングを取ることだ。

 だが、そんなことを一々口に出す気にもなれない。

「……、」
 答えを返さず、アキラはやはり挑発的に見えるジゴエイルを睨みつける。

 そもそもそんなことはどうでもいい。
 問題は、ここにきて、ジゴエイルがどうでもいい話を始めたことだ。

 敵に会って、無駄な会話を続ける意味など一つだけ。
 すなわち、時間稼ぎだ。

「つれないな……。嗜んだことがないのか」
「……、」

 もう、想定するしかない。

 ジゴエイルには余力がない。
 “罠があると思わせることが、罠”。
 本当の狙いは、時間を稼ぐことだ。

 ならば、今すぐにでもたたみかけるべき。

 なの、だが。
 もし、間違っていたらどうなるか。

 右手に視線を走らせる。
 この力は、“最強”だ。

 しかし、前に一度、この最強の銃の出所を、ジゴエイルと推測したことがある。
 結局答えは出ず、ここまで来ても不明のままだった。

 もし、ジゴエイルの狙いが、この銃を“具現化”させることであったら、その罠に乗ることになってしまう。
 この銃を凌駕することなど、アキラには想像もつかない。

 だが、相手はあの神―――アイリスが言うところによる、“英知の化身”。
 どのような謀略があるか分からない。

 正体不明の罠があるという疑心暗鬼は、ますます深くなっていく。
 こんなことなら、この銃の正体が判明するまで調べ続けるべきだった。

「……、まだ、始めないつもりか?」
「……、っ、」

 この言葉一つとっても、どちらともつかない。
 時間稼ぎのためにあえて言っているのか、それとも、“具現化”を狙っているのか。
 もしくは、単純な罠か。
 マリスに攻撃してもらうにしても、どの道確率は同じだ。

「―――、そうか」
「……?」
 ジゴエイルは一瞬目を伏せた。
 そして僅かに含み笑い、聡明そうな瞳を開ける。

「煮え切らない君たちに、一つ、いいことを教えよう。きっと、攻撃する気になる」
「……?」

 魔力を使った連絡でも入ったのだろうか。
 ジゴエイルは、小さくため息をつき、口を開く。

「―――、」
 一瞬。
 ジゴエイルが言葉を出す前。
 アキラの身体中に寒気が襲った。

 何故だろう。
 自分は、“それ”を、知っている―――

「君たちの仲間だが、全滅した。生死までは分からないが……、全滅だ」

 あっさりと言われたその言葉。
 ここにいるのは、七人中、たった三人。

 サク、エレナ、ティア、イオリは―――

「どうだ? 急いだ方がいいだろう?」
「っ―――、」

 一瞬遅れて。

 エリーから、声にならない何かが漏れた。
 マリスの気配が鋭くなった。
 ジゴエイルは笑い続けていた。

 これは、何だろう。
 音が消えた、モノクロの世界。
 身体中が煮え立っているというのに、アキラの世界はあまりに静かだった。

 また来たのだろうか。
 世界が勇者の“応え”を待つ、この、空白の時間。

 そして、次は、“こう”だ。

「―――、」

 アキラの右の手のひらからオレンジの光が漏れる。
 部屋の同色すらかき消す、膨大な日輪属性の魔力。

 クリムゾンレッドのボディに、竜を模した黄金色の装飾。

 現れたのは、絶大な信頼を寄せられる、“最強の武具”―――

「―――!?」

 ジゴエイルの表情が変わる。
 そうだ、“これ”は、お前のものじゃない。

 忘れていた。
 これが、他人に付与されたとは思えないほどの安心感を思い起こさせることを。

 アキラは現れた銃をまっすぐジゴエイルに向ける。

 今のは、挑発のための嘘かもしれない。
 彼女たちが全滅するなど、信じられるわけがない。

 だが、罠だろうが何だろうが。
 そんなことは“関係なかったのだ”。

 伏線も、想いも、蹂躙する力。

 この最強カードは、最初から、最後まで。

 “最強だからここに在る”。

「……―――、」
「―――!?」

 総ての音が消え去った世界。
 アキラはただ、単純作業を行った。

 引き金を引くだけの動作。
 その直後、おびただしい魔力が射出された。

 それはまさに、竜の息吹。
 オレンジに輝く巨大な光線が、眼前の光景総てを埋める。

 身じろぎ一つできなかった魔王を飲み込み、ルシルを体内から貫いていく。

「っ―――」

 最初から、こうしていればよかった。
 無表情のまま、アキラは引き金から指を離す。

 イオリに言われた通り、ファクトルに入る前に射出すればよかったとさえ思う。

 総ての敵をこれで消し飛ばし、それでただただ魔王を討っていればよかったのだ、自分は。

「っ、……、っ、っ、づ、」
「―――!?」

 下ろしかけた右腕を、アキラはビクリとして上げた。
 “蹂躙”が通り、夜空が見える、ルシルに開いた穴。
 その、手前。

 “存在しているものがあった”。

「こ、こいつ、まだ、」

 信じられない。
 流石に魔王というべきなのだろうか。
 この砲撃の直撃を受けてなお、ジゴエイルは立っている。

「いや、にーさん、」
 マリスはいつの間にか一歩前に出て身構えていたが、それを解いた。

「……もう、決まってるっす」

 半開きの眼が捉えているのは、目の前のジゴエイル。
 ローブは焼き消え、ブロンドの髪はジリジリと焦げている。
 露出した肌も、焼けただれているとはいえ、やはり人間相応。

 今の砲撃に消し飛ばされていないことが、人ならざる者の証明ではあるが、もう“終わっていた”。
 生と死の狭間で、ギリギリ踏みとどまっているにすぎない。

 これほどまでに、あっさりと。
 今、自分たちは、“魔王を討ったのだ”。

 だが、その直面する死の前。
 ジゴエイルは、再び笑った。

「“一撃で倒してもらう”つもりだったが……、まさかこれほどとは……、な、」
「……?」
「―――な、なに……!?」

 その“振動”に、最初に反応したのはエリーだった。
 笑うジゴエイル。
 まるでそれに呼応するように、ルシルが全身を振るわせ始めている。

「答え合わせだ。“チェスゲームの終わらせ方”」

 外から舞い上がった砂が吹き込んでくる。
 まもなくジゴエイルは、間違いなく死を迎えるだろう。
 だが、それに構わず、ジゴエイルは立ち、声を絞り出し続けていた。

「“魔王”が“勇者”に討たれるだけ。繰り返される歴史……。つまらん。つまらなすぎる……。この“下らないゲーム”は……!!」

 ジゴエイルの例えていた対象がようやく分かった。
 彼の言う、チェスゲーム。
 それは、この、勇者と魔王の戦いのことだ。
 あるいは、神族と魔族の戦いのことだろうか。

 いずれにせよ、アキラは、その答えが分かった。
 チェスゲームの終わらせ方。
 相手のキングを取っても、並び変えられ最初から始めることができてしまう。
 ならば、終わらせ方は、

「“チェスボードを破壊する”。駒も……、なにも……、かも、」

 アキラはもう、ジゴエイルの言葉を聞いていなかった。
 そんな定番のこと、一々説明されなくても分かっている。

 問題なのは、このルシルだ。

 巨大な存在の、不気味な振動。
 そんなものは、“パターン”だ。
 想像できる限り、一つしかない。

 ルシル。
 この存在は、“爆発する”。

 大広間を照らしていたオレンジの光が徐々に薄まり、それはまるで大津波の前の潮の引きのようだった。

 視界が遮られ、闇が迫ってくる。
 開いた大穴から差し込める月や星の光は、あまりに淡すぎた。

「―――、っ、……?」

 その緊急時。
 ジゴエイルは語る。
 だが、音が総て遮断され、アキラの頭の中で何かが叫んでいた。

―――そして、“情報”が頭の中に途端漏れ出す。

 爆発の規模は、世界総てを巻き込むほど。
 ルシルはそれをするために召喚された。
 ジゴエイルにできず、ルシルにできることは、蓄えられる魔力の“限界値の超越”。

―――何故、自分は知っているのか。

 魔王はほとんど全て力をルシルに注ぎ込み、余力はなかった。
 いよいよ蓄えられたルシルが爆ぜる。
 その“スイッチ”は、魔王を一撃で倒すこと。
 その衝撃が大きければ大きいほど、ルシルはよりよく“それ”を達成できる。

―――聞いた、聞いたのだ。

 今、暗闇の向こう、ジゴエイルが声を振り絞り語っている、諸悪の根源らしい台詞。
 その“情報”を、自分は聞いた。

―――だから、とっとと“終わらせろ”。

 だが、一体どこで聞いたというのだろう。
 まるで、RPGのテキストを適当に読み飛ばすかのように、ジゴエイルの言葉を聞き流す。

 この物語の終点にあって、アキラはそれについて何の感情も抱いていなかった。
 あれほど目指してきた、“魔王”、ジゴエイル。
 その言葉すら、ただただ聞き流すだけ。

 一体何だ、この感覚は。
 どれほど広大な計画を聞いても、飽きた児戯にも劣る。

 世界が消失してしまう。
 その事態は、“どうでもいい”。
 それは“何とかなることを自分は知っている”。

 だから、何故、自分は。

 それより遥かに“大切なこと”を思い出せないのか―――

「―――っ、フリオール!!」
「……!!」
「ディセル!!」

 立て続けに二つ、マリスの声が響いた。

 ああ、そうだ。
 そうなっている。

「―――!!」

 闇に呑まれた大広間が、今度は銀の光に包まれる。
 何度も見た、マリスの澄んだシルバー。

 その二つの“魔王”は、ルシル総てを覆い尽くした。

「……ぐっ、にーさん!! 自分は―――、」

 マリスの言葉も、“知っている”。

 フリオールと、ディセル。
 外部干渉を防ぐ二つの魔法を重ねがけすることで、ジゴエイルとルシルを“一時的に切り離す”。
 ジゴエイルには拒絶される可能性があっても、ルシルは別だ。
 ルシルは、所詮爆発物の役割しか持っていない。

 “スイッチ”を切り離せば、それは、“止まる”。

 これは、“知っていた”。
 頭は割れるほど痛み、身体中を何かが締め付けていく。

 なんだ、この感覚は。
 “勇者”の目覚めなどという、戯けたものではない。

 これは、確信。

「にーさん、早く!!」

 マリスの催促が飛んできた。
 ルシルほどの規模を覆っているのだ。
 現に、銀の光は淡かった。
 彼女に他のことに魔力を回している余裕はない。

 そうだ。
 どれほど感慨が浮かばなくとも、やることをやらなければ。
 ここでの自分の役割。

 それは、ルシルの“魔力の貯蔵庫”を吹き飛ばすことだ。
 今はまだ、ルシルの魔力は“爆発”に転換されていない。
 魔力とは、別に、爆発物ではないのだ。

 そこを撃ち抜けば、召喚獣たるルシルは自分の身体を維持できず、消失する。

 世界はそうして、“勇者”に守られるのだ。

 だから、今、マリスが察知した、そこ。
 マリスが指差すアキラの足元に、引き金を引けばいい。

 今すぐに、だ。

「―――ぐっ!?」
 途端、何かに体当たりをかまされた。

 薄ぼんやりと光る程度の銀の世界。
 アキラはその衝撃に仰向けに倒れ、銃を取り溢す。

「ぐっ、あっ、っ……!?」

 カラカラと銃が転がっていく。
 倒れ込んで腹部に目を向ければ、ジゴエイルがアキラを抑え込んでいた。
 ジゴエイルは最後の力を振り絞り、強大な力でアキラの身体を締め付ける。

 まだ、これだけの力を、

「一瞬でプロミネンスを放つ日輪属性の勇者。ルシル全体を覆い尽くせるほどの月輪属性の魔術師。予想外はそう何度も起こせん……!!」
「がっ、あっ!?」

 ギリギリと万力のような力で、アキラは羽交い締めにされていた。

 暗がりの眼前に見えるジゴエイルの顔は、狂気に満ちている。
 最初に見た理知的とは対極に位置するその憤怒の表情。

「世界すらも、自己すらも、総てを消す……!!」

―――総てを無に帰す、本物の“破壊欲”。

 これが、“百代目の魔王”の本性。
 “英知の化身”―――ジゴエイル。

 それを自分は、“知っている”。
 “確かに聞いたのだ”。

 このままでは、ジゴエイルの単純な筋力に、アキラは“破壊される”。

 “いや、そうならなかった”。

 ならば、“次は何が起こった”のか―――

「―――!!」

 バンッ、とスカーレットの光が爆ぜ、アキラの身体は解放された。

「かほっ、」
「早く拾って!!」

 暗がりの向こう、見知った人影が、よく知る声で怒鳴った。
 エリーがジゴエイルを殴り飛ばし、アキラとの間に入る。

 そうだ。
 今は、とにかくルシルだ―――

「―――ぐぐっ!?」
「―――!?」
 銃の転がった方向に視線を走らせたアキラの耳に、ジゴエイルのうめき声が聞こえた。

 思わず身構えるも、直後、それがジゴエイルの断末魔であることに即座に気づく。
 死の直前で踏み留まっていたジゴエイルは、エリーの今の一撃でとうとう“それ”を迎えた。

 淡い銀が満たす大部屋。
 そこに新たに、バチバチとオレンジの光が現れる。

 これは、戦闘不能の爆発だ。
 いくらルシルに力を注ぎ続けたとはいえ、この部屋を消し飛ばすくらいの爆発は起こるだろう―――

「っ、“止めろ”!!」

―――銃を拾うことも忘れ、アキラはエリーにそう叫んだ。

 エリーがジゴエイルに駆け寄っていく。
 彼女が狙っているのは“相殺”。
 下手をすれば二次災害が起こる可能性があり、僅かなずれも許されない。
 アキラも極力自重している、危険極まりない行動。
 インパクト時最大級の威力が出る火曜属性のその一撃で、ジゴエイルの爆発を抑え込もうとしている―――

―――止めろ!!

 今度は、心の中で、その叫び声が響いた。
 身体中で警告音が鳴り続ける。
 モノクロの世界。
 アキラの時間は止まり、ただエリーの背中だけが離れていく。

 “知っている”。
 “知っているのだ”。

 漏れ出した想いは止まらない。

 ここで魔王が爆ぜたら、自分たちは全滅する。
 エリーの手は、それを救う唯一の方法。
 だからエリーは、一人で魔王の爆発に対抗する。

 そしてそれは、“成功してしまう”―――

「―――、」

 ゴォゥンッ!!

 スカーレットとオレンジの光が眼前で爆ぜ、鈍い音が響く。
 届く爆風。
 カッ、と光が目を焼き、大広間が粉砕される。

 天井は吹き飛び、壁砕け、しかしそれでもアキラは転げるだけで済んだ。

 部屋は淡い銀に戻り、星だけが空を照らす。
 ジゴエイルの最期がもたらしたのは、部屋半分の破壊。

 そして、今。
 拳を突き出したまま仰向けに倒れた、“その事態”。

「ね―――」
「っ―――、」

 ルシルの爆発など、頭の外に追い払われた。
 アキラは“一縷の望み”を託し、倒れ込んだ一人に駆け寄る。

「っ、」
 すぐさま跪き、身体を抱え起こす。
 魔王の爆発を眼前で受けたその身体は、どこまでも熱く。

―――そして、冷えていった。

「お、おい、」

―――“分かってしまった”。

 小声で呼びかけても、彼女は―――エリーは反応しない。
 分厚いローブは焦げ切り、身体は焼け、爆風で切ったのか、額や頬から血を流している。

―――“分かってしまった”。

 エリーは目を、開かない。
 いくら揺すっても、全く、微塵にも、動かなかった。

―――“分かってしまった”。

 そのショックに、涙さえ出ない。
 思考は途絶し、モノクロの世界が、暗転していく。
 これを、“どうしても避けたかったのに”。

―――“分かってしまった”。

 アキラの身体も、冷え続ける。
 間もなく総てが終わる、今。

 吹き抜けた天井から覗く、星灯りの中、転がった銃が視界に入った。
 あれは、“自分からの贈り物”だ。

―――“分かってしまった”。

「俺は―――“繰り返したのか”」

―――*―――

 “魔王”―――ジゴエイルは“恐怖”を感じる敵だった。

 切りかかったアキラの攻撃を回避し、不敵に笑う。
 しかしそれでいて、向こうからは攻撃してこない。

 マリスが銀の矢を放っても、それを難なく避け、やはり笑う。
 その思慮深い瞳は、アキラにこう語りかけてきている気がした。

『お前の本気はそれではないだろう?』

 “魔王”が、“勇者”の力を待つ戦い。
 “裏”を感じるその態度はまさしく、“恐怖”だった。

 その上、時間がない。
 この大広間に到達する前、仲間とはぐれているのだ。

 ときには、ファクトルで。
 ときには、ルシルの体内で。

 だから、アキラは焦っていた。
 すぐにでも倒さなければいけない相手。

 それなのに、相手はまともに戦おうとせず、ただアキラの攻撃を避けるだけだ。

 “それでは不十分だとでも言うように”。

 魔王が避けるだけの戦いは続く。
 だがそれは、“それ”を聞いて、終わった。

 “はぐれた仲間の全滅”。

 耳に届いたその言葉で、“世界が止まった”。

 怒りからか。
 焦りからか。

 それは分からない。

 だが、今すぐにでも魔王を倒さなければならないそのとき、世界はアキラの“応え”を待ったのだ。

 そして、“定番通り”。
 “勇者の危機”に生まれた、魔道の集大成―――“具現化”。

 アキラの遠距離攻撃を大きく助成する、最強の銃が。

 そして、その一撃は、“それ”までの道を一直線に引いてしまった。

―――**―――

「俺は―――“繰り返したのか”」

 大穴から覗く星空の下、ファクトルの乾いた空気が頬を撫でる。

 腕の中のぬくもりは、徐々に冷えていった。
 身体が震える。
 力強く抱きしめても、エリーは応えてくれなかった。

 涙さえ、出ない。
 それらしく、泣き叫んで彼女を揺することすらできない。
 ただ、覚えるのは、身体から総てが抜けていくような絶望感だけ。

「―――そうっすよ」
「……、」

 淡い銀に光る半壊した大広間。
 大穴に向いたままのアキラの前に、一人の少女が現れた。
 月を背にして立つその少女―――マリスは、いつの間にか砂対策の厚着、いつもの漆黒のローブだけを纏っている。
 月下を受け、風になびく銀の長髪。
 しかし、アキラにはその色彩すら、分からなかった。

「自分も今、思い出したっす……。自分たちは―――」

 ルシルの爆発を一時的に止めたまま、マリスは静かに呟く。
 その緊急時でも、アキラの身体はエリーを抱えたまま動かなかった。

「―――ああ……、“二週目”だ」

 アキラは呟く。
 ジゴエイルを倒した“刻”をもって、“当事者たる”自分たちの記憶は解放された。
 もうほとんどおぼろげな、遠い記憶。
 だが、確実に覚えていることがある。

 冷えていく、腕の中のぬくもり。
 これだけは、忘れようもない。

 この、“神話”の出来事。
 失うものがあり、魔王を討つ。
 定番の、出来事。

 本当に、“よくできた下らない話”だったのだ。

「にーさん……。今すぐルシルの“魔力の貯蔵庫”を撃ち抜いて、みんなを助けに行くべきっす」

 それも、マリスは“あのとき”言っていた。
 ジゴエイルの言葉が挑発かどうかは定かではないが、安全ではないだろう。
 他の四人を、今すぐ助けに行くべきだ。

 そして、未来に辿り着く。

 だが、アキラは身体中から力が抜けていた。
 心の中の大切な支えが消え去り、今はもう、自分は糸の切れた人形だ。

 あの銃の力を持ってしても、何もできない。

「……こいつがいない」

 アキラは呟いた。
 腕に力を込め、顔をうずめる。
 ようやく自分は、泣くことができているのかもしれない。

 この銃でみなを救い、辿り着ける“そこ”。

 その未来には、エリーがいない。

 “それだけは避けたかったことなのに”。

 思い出した記憶は、今の想いと二重になり、重くのしかかる。

 自分は何をやっていた。
 この銃があれば、総てを救える。

 余計なものを蹂躙し、ただただ未来に辿り着けた。

 それなのに、何が、意地だ。

「にーさん……、」
「―――マリス」

 アキラは、顔も上げずに呟いた。
 あのときは、彼女が言った。

 双子の姉を救うため、彼女は“それ”を、申し出たのだ。
 だが今は、アキラが口にする。

 魔王を討った報酬。
 “神族”が願いを一つ叶えてくれるというもの。
 それは、あまりに不確かだ。

 他のメンバーの状況も分からない今。
 一つの願いは、意味をなさないかもしれない。
 なにより“神族”は、信頼できないのだ。

 だから、最も信頼できる、彼女に問う。

「―――“逆行魔法”。使えるな……?」

 “結果として不可能なことがない”、月輪属性。

 その、固有魔法。

 その存在を、アキラは知っていた。
 自分たちが、この“刻”から遡ることができた、魔法。

 それは“総てを巻き戻す”。

「―――使えるっす」

 マリスはちらりと、眼下に視線を走らせた。
 彼女ができないことがあるとすれば、魔力不足。
 しかしその魔力は、今あるのだ。

 ルシルの振動が、この“刻”を持って、弱まった。

 ジゴエイルが蓄え続けた、世界を滅するほどの魔力。
 “その半分”をマリスは使い、世界は姿を変えたのだ。

「少し戻せば、“蘇生”もできるっす」
「それじゃダメだ」

 時間を戻せば、確かにエリーも戻るだろう。
 だが、それは、ジゴエイルもだ。

 僅かに戻ったところで何になるのか。
 結局この場に入った“刻”に戻ることになる。

 逆行して分かったこと。
 それは、運命は、容易には変わらない。

 また、これを繰り返すだけだ。

「にーさん、“それでも同じっす”」
「……、」

 マリスの言葉は知っている。
 そうだ。

 ここに到達した時点で、ジゴエイルの謀略にはまり込んでしまっていた。
 いや、中途半端に戻っても、“流れ”は変えられないだろう。
 ならばいっそ、最初に戻った方がいい。
 まっさら状態で、最初から。

 だが、自分たちは最初から繰り返して、結局ここに到達してしまった。

 一週目も、二週目も、同じ。

 先の世界から唯一持ち帰った“具現化”さえあれば救えると思っていた。
 自分が到達できた最強の力が最初からあれば、こんな結末にはならないと思っていた。
 同じ“神話”は再現されないと思っていた。

 過去の自分は、あまりに弱い。
 アキラは過去の自分を信じられなかった。
 だから、考える必要もなく総てを超えられるものを授けたというのに。
 結局は、同じだった。

「……ルシルの魔力は、あと一回分。失敗したら、今度は三倍悲しむことになる。この賭けは、あまりに、いや、でも、」

 マリスは口ごもった。

 分かる。
 分かるのだ。
 この“刻”に、心が壊れそうなのは、アキラだけではないということを。

 だがアキラは、慰めの言葉もなにもかけず、マリスの言葉を待った。
 決めたのだ、もう。

「―――最後の一回に、賭けるっすよ。その“具現化”に、もう一度、」
「それじゃ、ダメだ」
「……?」

 これは、利己的な旅だった。

 誰にでも、戻したい時間がある。
 誰にでも、戻したくない時間がある。

 時は、逆らうべきものではない。

 だけど自分たちは、それを犯した。
 仮定はどうあれ、魔王を討ったことは、他の者にとって大きな希望になるだろう。
 だが、それは、自分にとっては、ダメだった。

 この“刻”だけは刻まないために、時間を戻す。
 許されることではないのかもしれない。

 だけど、それが分かってなお、それをしなければ心は完全に壊れてしまう。
 先を視ることができない。
 彼女がいない光景は、どうあっても、想像したくないのだ。

 だから、マリスの力を“チャンス”と見立て、いっそどこまでも“我”を出そう。

「―――“記憶”を、持っていきたい」
「っ、にーさん、」
「分かってる」

 かつて、ここで、この“刻”に、マリスにそれは断られた。
 未来から“具現化”を持っていくだけでも不可能に近いのに、記憶はそれを遥かに上回る。
 それができてしまえば、総てが覆ってしまう可能性があるからだ。

「記憶を有したままの逆行は大罪っす。それに、ルシルの魔力が全部あっても、それは、」
「…………」

 聞いた。
 それをアキラは、聞いたのだ。
 だから苦肉の策で、“具現化”のみを持っていった。

 ある種、現れたばかりの強大な力に、惹かれていたのかもしれない。
 だがそれでこの“刻”が避けられないことは、今証明されたのだ。

「“具現化”なんていらない。持っていくのは、記憶だけだ」
「……、っ、そ、それでも、」
 マリスは、それを勘案した。
 極力エリーに視線を向けないようにしながら、頭を高速で回転させる。

 記憶の持ち込み。
 それに“似た”ことは、僅かなら可能だが、まるまる過去に影響を及ぼすほどとなると、対価があまりにも足りな過ぎる。

「完全じゃなくてもいい……、“力も何もない一週目”。“力だけある二週目”。どっちもだめなら、それしかない」
「……、」
「全員、全員救う。時間を戻すなら、魔王を絶対に倒す。それに必要なだけ、あればいいんだ」

 それでも、無理だ。
 マリスはそれを、知っている。
 感じられる、ルシルの魔力。
 現段階で、世界の半分を消し飛ばすことができるほどの力。

 だが、それでも、対価があまりにも足りない。

 マリスは首を振り、視線を落とす。

「無理っす。対価が、無い」

 ここで、無理、という言葉を出すのはためらわれた。
 顔が合わせられない。

 今できることは、勝率の低い逆行を行うこと。
 もしくは、二人で他の面々を助けに行くことだけだ。

 だが、アキラが望んでいるのは、それではない。

 それに自分は、応えられないのだ。

「―――なら俺の、命をやるよ」
「―――、」

 一瞬、何を言っているか分からなかった。
 思わず視線を向けた先、アキラが祈るような瞳を向けている。

「勇者の命だ。安くは無いだろ……?」

 魔術の対価は、“魔力”、“時間”、そして“生命”。
 今、エリーが倒れたのもジゴエイルの爆発を止めるべく、魔力を放出し、“生命”にまで対価が及んだ結果だろう。

 その理屈に則れば、それは、成立する。

「“魔王”を倒す“刻”をもって、俺は、いなくなる」

 自分の先など、いらない。
 そうでなければ、償いきれないのだ。

 自分は物語を壊し、そして結局は、この事態を避けられなかったのだから。

 昨日胸に宿した夢さえも、今なら簡単に捨てられる。

「っ、にーさん、今、自暴自棄になってるだけっす。一時の感情に流されて、絶対あとで、」
「できるのか、できないのか」
「っ、」

 マリスは死人のようなアキラの表情を受けて、奥歯を強く噛んだ。

―――“できてしまう”。

 勇者の“生命”は、その対価には十分だった。
 自分のそれと比しても、神に選ばれた者の特権か、アキラのそれは、違う。
 思わず計ってしまった自分に怒り、マリスはさらに食いしばる。

 特殊な秘術だ。
 他の魔術のように、“生命”を分割して使うことなどできない。
 だから彼は、確実に、

「ダメなんだよ、マリス……。今、そうしないと、マジで、本当に、今、」
「……、」

 その声は、悲痛だった。

 マリスはアキラを、落ち着かせることができない。
 今アキラの心は、ただ、どうしようもない現状から逃れるために暴れ回っている。

 きつく閉じた彼の目に、“先”はまるで映っていないだろう。
 今この“刻”を避けることしか、考えていない。
 今押し潰されないことしか、考えられていないのだ。

 短絡的な、と言ってしまえばそれだけのこと。

 ヒダマリ=アキラという人間は、決して、聖人ではないことをマリスは知っている。

 運命を受け入れる心の強さも持っていない。
 自分を騙して、心を乾かせる賢さなど持っていない。

 人にまですがり、捨てられるものは総て捨て、願いをただただ欲する人間だ。

 だが、“だからこそ”、どこまでも、“勇者”なのかもしれない。

 彼の“想い”は、確かに伝わってくる。

「っ、あとで“何とかなる”なんてこと、ないんすよ……?」
「できるのか……!?」

 止めるつもりで、しかし思わず口を滑らせてしまった。
 アキラの瞳は大きく開き、マリスをまっすぐ見つめてくる。

「でも、」
「マリス……!!」
「っ、」

 意味ない。
 成功して、未来に到達しても、“自分にとって、それでは意味がないではないか”。

 マリスは叫びたかった。
 だが、自分は、取り乱せない。

 自分はただただ静かに、彼に応じて不可能を可能にする、“マリサス=アーティ”。

 そして、彼は、止められないのだ。

「―――、」

 マリスの手のひらから、銀の光がほとばしる。
 しかしそれは、放出されず、確かな何かを形作っていった。

 色は、白銀。
 広がるのは、先についた、純白の大きな翼。

 彼女の身の丈を大きく超す“それ”を、マリスは掴み、振りかざす。

「―――レゴルトランド」

 現れた、マリスの“具現化”。
 最強の杖。
 ルシルの魔力ですら、この術式には圧倒的に不足している。
 だからこの杖で、それを増幅する必要があるのだ。

 そしてこれを出した以上、応えは、決まっている。

「マリス……!!」
「……ずるいっすよ、」
 聞こえない程度に、マリスは呟いた。
 顔を伏せ、杖を振るう。

 ルシルの“核”の位置を確認し、そこから魔力を吸収。
 そして、煌々と光るレゴルトランドを掲げ、目を伏せる。

「―――な人に、こんなこと」
「……?」

 マリスの呟きは、聞こえなかった。
 アキラはただ、掲げられた精緻な杖を見上げるだけ。

 月下に照らされたそれは、それ以上に、光を放つ。

 この光景を、アキラは確かに、覚えていた。

「……自分ももう、“わがまま”なことはしないっす」
「……?」

 遠く聞こえたマリスの声―――

「―――、」

―――そして、“唄”が始まった。

 マリスが澄んだ声で口ずさめば、心地よい、その、“唄”。

 ずっと、ずっと聞いてきた。

 “いつこうなってしまったのだろう”。

 そんなときに、歌う“唄”だと彼女は言った。

「―――、」

 身体に、何かがまとわりつく感触が走った。
 これは、前回の“逆行”にはなかった感覚だ。

 きっと今、対価が捧げられている―――

「―――、」

 マリスの唄は続く。
 アキラは力を込めたままの腕の中を、ちらりと見る。

 “いつこうなってしまったのだろう”。

 自分は、こんな人間だったろうか。
 こんな、自分をあっさりと投げ出せる人間だったろうか。

 それはもう、分からない。
 だが、きっと、それでいいのだ。

 自分は、自分のためだけに、世界を変える、そんな人間。
 褒められることでは、決してない。
 どこまでも利己的で、どこまでも醜い。

 だけどそれに、どうしても抗いたい。

 きっとそれは、醜い自分の、想いだけの物語になるだろう―――

「―――、」

 さらに強く、腕に力を込めた。

 今度こそ、助ける。

 全部だ。
 世界も、物語も。

 全員だ。
 マリスも、サクも、エレナも、ティアも、イオリも。

 そして、エリーを。

 自分など、どうでもいい。
 それが、“落とし前”。

 自分が壊してしまった世界。
 何のことはない。

 あれほど恐れていた“バグ”の作り手は、自分だったのだ。
 だから力は、ここに置いていこう。

 きっとそれで、自分の世界はキラキラと輝く。

「―――、」

 不安がないなどと、嘘は吐けない。
 重くのしかかるのは、世界を救うという、重圧。

 世界を好きなように変えるのだ。
 それだけに、誰もが救われなければならない。

 それをするのは、“勇者様”たる、自分。

 だけど、きっと、それでいいのだ。

「―――、」

 視界が歪む。
 身体が浮き沈みする。

 これは、術式の完成だ。
 つぎはぎだらけのこの世界を離れ、自分はこれから“そこ”に行く。

 自分がこの世界に訪れた地点へ。

「―――、」

 マリスが“唄”を紡ぎ終わり、レゴルトランドが一層光を放つ。
 もう、何も見えない。

 感じるのは、腕の中のぬくもりだけ。

 “いつこうなってしまったのだろう”。

 銀の色で光り輝く中、アキラは視線をエリーに向けた。

「……、」
 ああ、そうか。
 やっと分かった。

 この世界に落とされた、自分。
 あの塔の下。
 そこで出逢った、一人の女の子。

 風邪なんか、関係なかった。

 きっと、多分。

 “俺はお前に恋している”。

 それだけだ。
 だからお前に、逢いにいこう。

「……、」

 一週目は、力も何もなかった。
 二週目は、力だけあった。

 その二つには、最も大切なものがなかったのだ。

 力はいらない。
 連れていくのは、この―――

―――想いだけ。

「行くっすよ、にーさん!!」
「ああ!! 頼むマリス!!」

 マリスの声に、強く応える。
 銀の世界が、かすみ、暗転していく―――

 さあ、行こう。

 世界を変える、旅路へ。

 “三週目”の世界へ―――

―――**―――

―――** ―――

―――***―――



 プロローグ・完。



[12144] 後書き
Name: コー◆34ebaf3a ID:f1d928fa
Date: 2010/01/26 23:43

 読んでいただいてありがとうございます。
 『おんりーらぶ!?』いかがだったでしょうか。

 実は個人的に、一回の投稿につき@1000PVの目標を立てていたのですが、結果としてそれを大きく超えられて嬉しい限りです。
 このような形での完結になりましたが、お楽しみいただけたことを願っています。

 では…



 …………はい。
 終わりません。
 ふざけた前置きはともかくとして、本当の後書き(中書き?)に移りましょう。

 『おんりーらぶ!?・プロローグ編』いかがだったでしょうか。

 この話は、ほとんど完全に流れを決めてから書き始めたものでした。
 そしてテーマは、『最も長いプロローグ』。
 実際にもっと長いものもありそうですが、個人的にはボリュームはかなりあったと思います。
 長期間お付き合いいただいて、本当にありがとうございました。

 感想をくれた方々も、本当に感謝しています。
 誤字脱字のご指摘をいただいたり、マリスが人気だったり、タイトルが不評だったり、マリスが人気だったり、ご用法のご指摘をいただいたり、マリスが人気だったりと、様々なお言葉、重ねて感謝をさせていただきます。

 さて、物語の方ですが、『プロローグ編』の言葉が示す通り、まだまだ続きます。
 流石にここでの丸投げは、酷過ぎますので……。

 といっても、今までのように定期更新(たびたび守れていなかったですが……)にはならないかもしれません。
 私用や別の書きものも立てこんできており、不定期なものになると思われます(事実、次の更新もいつだかは決めていません……)。

 内容の方ですが、『プロローグ編』では伏線を張るだけのものにし、『本編』ではそれを回収する形にしていくことになります。
 そのため、『プロローグ編』では、妙な感覚が付き纏うものを狙ったのですが、成功したか不安でなりません。
 回収しない複線が、軽く空中分解しそうな予感もしていました……。

 『本編』の方は、これから執筆させていただきます。
 “逆行のテーマ”だけでも種々あり、いろいろと加味していきたいものです。

 登場人物たちにとって三週目の旅が、私にとっては伏線を回収する旅が始まります。
 いつになるかは分かりませんが、そのときは温かく見守っていただければ幸いです。

 また、ご指摘ご感想お待ちしています。
 では…


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