<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

オリジナルSS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[11414] 【報告とお礼のみ更新】ログアウト(オリジナル/現実→ネットゲーム世界)
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/13 15:27

はじめまして

・このSSのあらすじを端的に書きますと『知り合いとネトゲの世界に放り込まれた主人公だが自分だけは持ちキャラの能力と道具があって俺つえー』です
 真面目な小説を書くのに疲れた作者の欲望と願望が非常にダイレクトにつづられています。読んで下さる方はご注意の上、軽い気持ちでお読みください。

・作品自体はアレな出来かもしれませんが、作者自身は精一杯、至極真面目に書いたつもりでいます。
 誤字脱字はもちろん、描写不足や展開が強引な部分、設定の矛盾等がありましたら一筆頂けると助かります。
 女心がわかっていない という点だけは平にご容赦ください。

・Arcadiaの設定について不慣れなもので、タグは特に使っていません。
 また一話のつもりで書いたのですが、Arcadiaの一話としてはかなり長めの分量になっています。
 このタグが合うと思う、この辺りで区切って何話で投稿するといい等のアドバイスも頂けるととても喜びます。

・もし万一感想が頂けるのでしたら作者は小躍りすることと思います。そんな奇特な方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

・最後までお付き合いありがとうございました。


8/30 投稿
    第五話 修正(舞→麻衣) ご指摘本当にありがとうございます
    第二話 修正(Ai→Mai)  ご指摘本当にありがとうございます

9/5 第六話 投稿
   第四話 修正(メジマズ→メシマズ) ご指摘本当にありがとうございます。
   感想への返答 追記

5/1 第七話 投稿
   誤字脱字を複数修正
   雑記に追記

5/2 第七話 修正 (重く→軽く)  ご指摘本当にありがとうございます

9/30 全話修正 無駄な余白の消去と誤字脱字の修正 逆に読みにくくなっていた場合はお知らせください

9/30 第八話 投稿 FF14正式サービス記念 突貫工事の投稿なので修正予定 
            記念と言うか普通に更新したいのですがどうしてこんなに間が空くのでしょう
            私のPCはクライアントをインストールする段階で蹴られるのでプレイができません 悲しいです

9/25 第九話 投稿    ほぼ一年越しとなりました 遅くなって本当に申し訳ありません
   第八話 各所修正  14ちゃんどうして死んでしまったん?



[11414] 第一話 ログイン
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:15
 :自分には何の楽しみもない。全く充実感を得た事がない。

:もしもはっきりとそう言えるのならば、私は君達を見あやまっていたんだろう。

:共にボスモンスターを倒した時、喜びを分かち合ったじゃないか。

:ついに限界レベルに達した時、何にも勝る達成感を得たじゃないか。

:レアアイテムがドロップした時、私達は世界の誰よりも幸せだと笑いあったじゃないか。


:あの日々は嘘だったというのか。夢か幻だったというのか。

:いいや、間違いなく現実だ。

:パソコンの前でポチポチボタンを押していただけだと悲観する必要はない。

:私達は最高の経験をしてきたじゃないか。

:だと言うのに、ただちょっと飲み会に行って来ると言うだけでリア充扱いというのは過去への冒涜なのではないか。

:そうだ、この世界だって間違いなく現実だ。私達はみなリア充であり誰かを区別するような事は




:……はい、すみません。行ってきます。12時にはログインしますんで……








  ――私が寝るとみんな死んじゃう


 こんな言葉が最近世に出ているのをご存知だろうか。
 インタビューを受けたとあるネットゲーム廃人の言葉で、至極わかりやすくネットゲームの現状を伝えていると言えるだろう。
 ネット上の電子空間で仲間と集い、それぞれのキャラクターを操作して共同でゲームをプレイするオンラインゲーム。
 俺もまたそんなネットゲームをプレイしていて、中学時代から大学生に至るまで足掛け7年以上も同じゲームにはまり続けている。
 その名も『ワンダー』別に覚えなくても良い。ネットゲーム黎明期のゲームだけに名前も単純だが、幸いな事に未だにユーザーはかなり残っている。7年もやっているのに未だに飽きが来ず、大学に入学してからは食べながら寝ながらゲームをする生活だと言っても過言じゃない。
 そして毎晩ゲームの世界に居るような人間は俺だけではなく、いつも居るキャラクター同士で一緒にゲームをしている。
 そんな生活では夜にログイン――ゲームに入る事――をしないだけでもちょっとした言い訳が必要になるのだ。
 特にネット上で『リア充』なんて呼ばれそうな理由では。
 別に悪くはないはずなのに謝ってしまう辺り俺も件の廃人さんと同じレベルに達しているのだろう。

 何せ――俺が居ないとみんな死ねない――のだ。


















第一話 ログイン

















「おー、来たのか山田! 付き合いの悪いお前まで居るのを見ると、もう終わりなんだって実感するなぁ全く」

「先輩、すみませんと言えばいいのか、どういたしましてと言えばいいのか、よくわからないんですが」

「おめでとうって言っときゃいいんだよ。いや、部長には言うなよ、無内定でもう一回いきそうだから」

「おめでとうございます先輩。むしろありがとうございます」

 おう、と大様に頷いた比較的親しかった先輩と離れ、俺は座敷席の隅に腰を下ろした。
 貸切の小さな店内は喧騒に包まれ、どこかしらで常に一気のコールが行われている。
 一気、一気と聞いても一揆、一揆であのBGMが脳裏を流れる俺には明らかに場違いな空気だ。

「山田ー! 飲んでるか!?」

 少し離れた席から声がかかった。おそらく先輩だったと言うだけで名前は覚えていないが、空のグラスを掲げて応えておく。

「既に軽く吐きそうですー!」

 嘘だ。まだ1杯しか飲んでいない。

「吐いとけ吐いとけ、吐いてからがスタートだぞ!」 

 はははははと笑っているテーブル席に笑い返して、俺はふっとため息をついた。
 大学入学後、試験の情報集めの為に比較的真面目そうだと選んで入った経済学研究会は、内実は大量の部員を抱えた飲みサークルだった。
 試験の情報自体は潤沢に手に入ったので、忘れられない程度に飲み会や遊びの企画に参加して過ごしてはや一年と少し。
 夏の終わりに開催された俺にとって二年目の追い出しコンパの席。こうして座っていても違和感の無い程度には馴染めているようだ。
 外で遊び歩くより家でネットゲームがしたいと言い切るような人間の俺がこうしていられる理由の一つはおそらく名前。
 自分で言うのもなんだが山田という名前は覚えられやすい。
 人数が多いので被るかどうかが問題だが、部に一人と言うならそうそう忘れられずに済む。
 理由のもう一つは、恐らく友人の為だろうか。
 一通りのテーブルを回り、今こちらに向かってきている童顔小柄のあの男。

「や、相変わらず飲んでないね山田」

「健一、一次会はいつ終わるんだ」

「まだ始まって30分だよ……今9時半で、11時半までは貸切」

 うわぁ、と声を出して机につっぷした俺の背中にそいつが腰を下ろす。どこかでかわい~という黄色い声が聞こえた。
 富田健一。低い身長と愛嬌のある顔立ちでどこにでも馴染んでいく可愛がられ系の、それこそリア充な男だ。
 しかし実はこいつはちょっとオタっ気があって、携帯でネット掲示板を見ていた俺に気づいて話し始めたのだ。
 とは言えネット掲示板と少し深夜アニメを見ている程度で、そのぐらいは探せば部内にいくらでも居そうである。
 しかしその手の気配は出来れば見せず、見ても見ないのがマナーなのだといつか言っていた。
 ネットゲームにはまり込んだ俺とはディープさが違う気もするが、そういった話が出来るのは彼にとっては俺だけらしくてよく話している。
 女子部員の言う『健ちゃん』が、しきりに入会を勧める宗教狂いの先輩の愚痴とその宗教への罵詈雑言を言っていたと知ったら、あそこできゃーきゃー騒いでいる女の子は一体何を思うのだろうか。


「いや、僕も帰りたいんだよ、本当は。まあ付き合いだと思って飲んでいこう。会費は部費からだし」

「別で会費払うから帰って狩りしてぇ……」

 背中に乗っていた健一が隣に腰を下ろし、少し肩をすくめて言った。

「まあでもお世話になった先輩は結構居るしさ、帰るのはないよね」

「かといって一年しか付き合いのない俺達が先輩の所に割り込むのも違うだろ」

「……だよねぇ」

 ちょっといい子面した健一に現実を突きつけて二人でだれる。

「しかし部内コンパとか意味ないにも程があるよ。上手く運んだとしてどうするのさ、次から気まずいだけじゃん」

「上手く運んだなら付き合えよ、遊び前提かよ。流石リア充だな」

「掲示板ではいつでも童貞。心は魔法使い候補」

「こういうのが居るから世界に戦争はなくならないんだって俺は思う」

 テーブルに最初から据えてある瓶ビールを思わずグラスに注いでしまう程に腹の立つ発言だった。
 ビールは飲めないのでこのまま置いておくだけなのだが。
 こいつは時々俺を男女の飲みに連れ出すのだが、脱出を図る俺とテイクアウトを狙う健一は上手く噛み合う。
 俺は本当に普通に帰宅しているのだが、もしかすると知らぬ間に共犯扱いなのかと思うとあまり強くも言えないのだ。

「まあ僕らに仕事があるとしたら……ねえ、君、そうそう、ちょっとこっちおいで」

 二人でひとしきり愚痴を言った後。
 唐突に健一は、近くの席で一人で座って空のグラスを見つめている長い黒髪の女性、恐らくは一年生の女の子に声をかけた。
 春の新歓コンパでもやはり一人で居たのを見かけた覚えがあった。確かその時は四年の先輩に構われていたように思う。
 しかし長い髪と言うと聞こえはいいが、前髪もかなり長くてうつむいていると相当暗そうに見える子だった。
 俺も一応気になってはいたんだが、名前もわからず放っておくしかなかったのだ。
 やはりこういう事が出来るか出来ないかで真のモテ男が決まるのだろうか。
 ただのやっかみだな。気のきく男は素晴らしい。

「あの……何でしょう……?」

「まあほら、座って座って、ねっ」

 見た目愛嬌のある健一に言われたのが良かったのか、おどおどとやってきた女の子は、やはりおずおずと向かいに座り込んだ。

「騒がしいから大変かもしれないけど、一人で座ってると送られる先輩が気にしちゃうからね。見た目は一緒に、そこに座ってるといいよ」

「あ……ごめんなさい、ありがとうございます」

 良い所があるじゃないか、俺は横目で健一を見て、思わず息を呑んだ。
 恐らく見慣れていないとわからないだろうが、優しく微笑んだ健一の表情は非常に裏のある作り笑顔だったのだ。
 こうやって落とすきっかけにするんですね。 
 にこにこと笑う健一と、ぺこぺこと頭を下げる後輩の図がどこか皮肉に見えたのだった。
 しかしこの子の名前は何だったろう、健一は知ってるんだろうか。

「それで、えっと……」

 話を続けようとして健一が詰まる。微妙に困った表情を見るに、こいつも呼んだくせに覚えてねぇ。
 とは言えこんな時に参加率が低いと逆に楽でいい。

「俺はあんまりこういうの出ないから名前覚えてないんだけど、一年生だよな。何て言ったっけ?」

「あ、松風です。松風、麻衣」

 松風か。山田と違って覚えにくいな、とは口に出さないが。

「山田ー、部室に来ないからって麻衣ちゃん忘れるのはないよー」

 健一が調子のいい事を言っているのに呆れはしたものの、少し羨ましくもあった。
 今の今まで名前も知らなかったくせにいきなり下の名前を呼ぶというのは、自分にどれだけの自信があれば出来ることなんだろうか。
 それにしてもこうして女性を前にした健一は男から見ると軽薄な笑みを浮かべているんだが、本当に女性受けはいいんだろうか。
 俺は男同士で喋っている時の自然な笑い方の方が余程良いと思うんだが、本人に言った事はない。

「こいつの名前知らないだろう。富田だ。富田健一。いきなり名前で呼んだ失礼な二年生」

「新歓から呼んでるよ! こっちのが山田、名前を覚えてなかった失礼な二年生が山田ね」

 お互いにお互いを紹介しあう。果たして理解できたのだろうか。
 っていうかもしかして健一、俺の苗字しか覚えてないんじゃないか。山田でいいやとか思ってるんじゃないか。

「ふふ、ありがとうございます、先輩」

 ウケ狙いで言ったのが当たってくれたようで良かった。笑うと中々可愛らしい子だ。
 もう少し明るければ人気も出そうなんだが、今の時代面倒くさい女の子は嫌われる傾向にあるんだろうか。
 それでビッチを量産するというのは結果みんなが不幸なんじゃなかろうか。いや、俺はゲームがあればそれでいいんだが。
 と、黒髪の後ろから、こんもりと盛り上がった茶色の髪がのぞいた。

「あれ、麻衣、健先輩と一緒なんだ?」

 茶色のもふもふから声がかかる。
 噂をすればビッチ、とはやはり口に出さない。

「あ、桂木さん……」

 少しほっとしたように松風が

「よう」
 
 自分がついでなのはわかっているし後輩だし、適当に返す俺

「すずちゃん、こんばんわ」

 一番親しげに返事をした男の健一。
 隅っこのテーブルにひっそりと座る俺達にわざわざ声をかけてきたのは、入部からあからさまに健一狙いの一年生、桂木すずだった。
 方向性を間違ったように周囲から髪を集めて盛り上がりを作る妙な髪形。
 お水で商売をしているお姉さんのようだが、まだ化粧の腕は追いついていないのか泣きぼくろが唯一のアクセントなぐらいに顔は地味なままだ。
 ぱっと見は普通かどちらかと言えば微妙に入る顔立ちなのに明るい雰囲気とノリで何となくモテそうな気がする。
 正しく可愛い系イケメンの健一が言うには、彼女は雰囲気イケメンならぬ雰囲気ヤリマン。
 曰く、こういうのと一回関係すると面倒くさいことになるから気をつけろ。
 お前いつか刺されるぞ。刺されろ。いやいい、俺が刺す。

「麻衣って先輩と仲良いんだっけ?」

「いえ、一人だったから声をかけてもらっただけで……」

 そっかー、と笑って断りもなく松風の隣に腰を下ろす、桂木すず。
 今まさに仲良くなっている最中だった時にその関係をぶち壊す魔法の言葉『仲良いんだっけ?』
 わざと言っているのだろうか、女性は実に恐ろしい。
 ネットゲームではフレンドのギルメンだって友達です。リアルは本当に怖い所だ。

「二人は仲良いよね。講義同じなの?」

「そうなんです。語学も一緒なんですよ。ねー?」

「は、はい……」

「語学、フランス語だっけ。僕はロシア語で楽は楽だけど、何か楽しくないんだよね」

「難しいですけど格好良いからやっぱり第二はフランスって思ってたんですよー。麻衣は発音綺麗だよねー?」

「え、えっと……」

 可哀想に、逃がしてあげる筈が結局その辺りのテーブルと同じノリになっている。
 目の前の会話に全く混じらず、無駄に注いだビールをどう処理したものか悩んでいる俺と同じぐらいに可哀想だ。
 ちなみに俺の第二外国語は中国語である。理由は麻雀で数字だけは覚えていたからだ。


「健ちゃーん、ちょっと来て来てー」

「はーい? 何ですか先輩ー?」

 遠目の席から健一にお呼びがかかる。人気者は凄い。
 そしてそれに当然のようについて行く桂木すずもかなり凄い。
 数ヶ月続いているあのアプローチを笑顔でスルーし続けている健一はやはりさらに凄い。

「ふぅ……」

「はぁ……」

 思わず出たため息が、はす向かいと被ってしまった。
 恥ずかしそうに俯いた松風に果たして声をかけるべきなのだろうか。

「やりにくいよなぁ、こういうの」

「…………」

 返事は返ってこない。
 とりあえず先輩という立場を利用して愚痴を聞かせて間を持たせておく。

「別にみんなで集まるのはいいと思うんだが、飲んで喋るだけっていうのは結構辛い。前のバーベキューとかは焼き係で結構楽しかったんだけどな」

「あ、はい、頂きました」

 夏休み序盤に開催されたバーベキューなのだが、俺は徹頭徹尾焼いていた。
 焼き時間も考えず適当に具財を刺しまくる健一とそれを問答無用で焼いて配る俺で結構面白かったのだ。
 と言うかこの子も居たのか。毎日のように部室に居るらしい健一に忘れられているのに、幽霊部員ではないんだな。
 無視されている訳ではないようなのでもう少し話してみる。ついでに言えば誰かに愚痴を聞いてもらいたい気分でもある。
 うつ伏せに置かれていた空のグラスにビールを注いで松風の前に置き、話を続けた。

「うちの追いコンは夏だからいろいろあると思うんだよ。去年の追いコンは飲みじゃなくて海だったんだが、泳いで良し、遊んで良し、食べて良し飲んで良し埋まって良しであれで俺達は溶け込めたと思うんだ」
 
 我が研究会は春の学園祭での発表が最後の行事で、夏に四回生が引退というのが定例である。

「う、埋まったんですか?」

「埋まったな。海の方に顔を向けてうつ伏せに」

「…………」

 いじめは、ありません。

「それで背中の砂に穴開けられて、文字の型に日焼けしてさ。俺は口下手だけど秋までネタになって助かったよ」

「そうなんですか……」

 俺は現実の人付き合いよりネットゲームが大事なだけで特に口下手ではない……と思いたいのだが、こう言った方が面倒がない。

「男はまあ馬鹿やればいいだろうけど、女の子は大変だろう。変に親しくするとあれこれ面倒だろうしな」

「…………」

 多分そうなのだろうと言ってみたが反応がない。
 松風は目の前に置かれたビールを両手で持ち、泡がはじけるのを見つめている。
 目線が前髪で隠れて表情を読み取ることも出来なかった。

「…………」

「…………」

「……参ったな」

「……すみません……」

「えっ……」

 思わず呟いた言葉に返事が返ってきて驚いてしまった。本当は言うつもりはなかったのだ。
 何となく口の中で呟いただけなので、まさか聞かれるとも思わなかった。
 余計だと思ったら口に出すもんじゃないな、やっぱり。

「いや、悪い、そんなつもりじゃ……」

「…………」

 沈黙が痛い。
 お見合いでもあるまいし、気にしなければ問題ないんだろうが、俺はそこまで図太くなれそうもない。
 最近の小粒な新作ネトゲはどうにかなりませんか、とか言ったら意外と食いついてきたりしないだろうか。

「……先輩は」

「ん?」

 幸い、盛大な自爆をする前に顔を上げた松風が声をかけてくれた。

「先輩は……どんな風に、部に居たんですか?」

「部に居たって言うか……どう馴染んだかって話?」

 こくりと頷いた。
 どうやって馴染んだって言うとそこに居ただけなんだが、そういえばさっきも一人で同じ事を考えたな。

「山田って覚えられやすいし多いだろ。みんなが山田山田って気軽に言うからさ。」

「名前ですか……?」

「ああ。それにほら、あいつが――」

 と、遠くのテーブルで桂木すずの口に柿ピーを押し込んでいる健一を指さした。
 一体何をやってるんだあいつは。

「あいつとよく騒いでたからさ。誰でもいいから話してりゃ、気がついたらそれなりに馴染んでるもんだ」

「そういうものですか?」

「そういうもんだよ。要は居て不自然じゃなきゃいいんだ。仲の良い奴がいない時一人で居て、それで文句言われたりはしないからな」

 友達が少ない奴だと思われるという不満は受け付けない、実際少ないんだからあきらめろ、と口には出さないが。

「なるほど……」

 随分と酷い理屈だが気に入ってもらえたらしい。

「松風は麻衣って名前が呼びやすいからな。健一と桂木がまいまい言ってるのを聞いてればみんなもその内まいまい言い出してすぐ馴染む」

 呼びやすい名前は友達を作る上で結構有利だと昔思ったことがある。
 その点で言えば麻衣というのは十分に優秀だろう。

「桂木は知り合いが多いみたいだし、健一もまぁ悪い奴じゃないよ。その辺から仲良くなっていけばいい」

 うんうん、と一人で納得していると、松風がおずおずと口に出した。

「じゃあ……」

 何となく気分が良く、苦手だがさっき入れてしまったビールに口をつける。

「山田先輩も、私のこと、麻衣で……」

 噴出すことはなかったが、思わず一気に半分近く飲んでしまった。



 俺、今日からリア充として生きるよ。
 
 今までありがとう。さようなら、ネットゲームの世界。


 なんて、一瞬でも思ってしまったのがいけなかったのかもしれない。




 その後に何かがあったわけでもない。
 最初に名前を呼んだ時に噛まずに済んだのが俺にとって多少幸運だったぐらいだろうか。
 二人が戻って来るまでの短い間、彼女と俺はぽつぽつと言葉を交わしあった。
 戻るや否や健一が我が意を得たりとばかりに彼女の正面に俺を座らせ、普段は軽く流す桂木と何故か積極的に騒いだ。
 混ざりやすい話題だけこちらに話を振る二人のおかげなのだろう。
 部内の人間や一年生の授業といった他愛もない話ばかりだったが、俺は一時間以上彼女と会話を続けた。
 普段から女の子とチャットはしている。しているのだが、『中身』も正しく女性の相手というのは久しぶりかもしれない。
 やけに黒い笑みを浮かべて俺を肘でつつく健一に何か気恥ずかしさを感じたのは気のせいだと思う。





 ずっと正面に座っていた彼女に手伝わせながら意味のない責任感で瓶ビールを片付けた俺は、一次会終了で早々と離脱を宣言した。 
 明日バイト早いんで、と惜しまれながら撤退を表明した富田健一と、先輩に送ってもらいます、とむしろ突撃を宣言した桂木すず。
 何も言わずにこちら側に立っていて、何となく帰宅組に混ざっていた松風――麻衣。
 俺含む四名の帰宅組は最寄の駅に向かって狭い路地を歩き出した。

 残暑の色濃い9月の空気は酷く暑苦しく、路地の両脇からはビル内部からの熱風が吹き出している。

「山田、これからどうする?」

 さっきまで桂木とあーだこーだ言いながら先頭を歩いていた健一が、気がつくと俺の横でにやにやと笑っていた。
 何を意図しているのかはよくわかったので、期待に沿っておくことにする。

「急いで帰って、みんなと合流して、狩る」

「わかってるくせに、本当にムッツリだね山田」

 残念ながら隣のニヤニヤは止まってくれなかった。
 顔をしかめた俺にさらに一歩近寄り、健一は横目で麻衣を示す。

「麻衣ちゃん、さっきから山田を見てるじゃん。結構いい感じなんじゃないの?」

 頻繁にこちらに視線が向けられているのは気がついていた。
 何故なら俺もちらちら見ているからだ。そりゃ、気になります。
 
「このまま押せば麻衣ちゃんは落ちそうだけど、どうせ無理だろ? すずちゃんは面倒だけど、山田がその気なら4人でもう一軒。付き合うよ?」

「…………」

 何て無駄な気遣いだ。しかし無用とは言えない自分が情けない。
 断るべきだと思う。このタイミングで帰宅の途につけば約束通り12時間に合う。
 つまり深夜組のログインと夜組みのログアウトのタイミングに間に合うということだ。
 そこでPT――パーティー。複数人で経験値やアイテムを共有して狩りを行うグループ――の再編成に混じれば丁度狩りに行ける。
 付き合いのいい仲間達のことだ、俺が来る前提で準備をしてくれているだろう。

「いや……」

 ちらりと麻衣の方を見た。向こうも向こうで似たようなことを言っているのだろう、桂木が彼女に詰め寄っている。
 外の暑さでジャケットを脱いだのだろうか、麻衣は小脇に上着を抱え、桂木の圧力から逃げるように背を逸らしていた。


 その時、偶然強いビル風が吹き抜けて彼女の長い黒髪が柔らかく揺れた。
 丁度そちらへ目を向けていた俺の目にほっそりとした麻衣の全身の輪郭が映る。
 はっきりと見えたわけではないのだが、茶色短髪の女性に見慣れていたせいか、広がる黒髪に透けて見えるシルエットに思わず息を呑んだ。
 不健康ではない程度に締まった腰と肉付きのいい臀部から細い足首、彼女には少し不似合いに派手なミュール。
 今まで気にもしていなかったが、胸の下で絞ったデザインのブラウスは細い姿態と裏腹に小さくない胸部を強調している。
 きっとあの胸は触った時に硬さを感じさせない素晴らしい……いや、俺は何を考えているんだ。
 思わず下から上へ舐めるように観察していた事に気づき、視線を戻した瞬間、目と目が合った。
 やばい、と思う間もなく向こうから目を逸らされた。路地は薄暗く表情は読めないが、幻滅されているのは想像に難くない。

「やっぱり俺は……」

 断られるより先に遠慮しておこう。
 逃げるように俺が言い終えるより先に、桂木の声がこちらに届いた。

「麻衣、行くってー。先輩達も来ますよね?」

 思わずもう一度彼女に目を向ける。 
 ちらりとこちらを見て、困ったように笑ったその表情が俺に一瞬で腹を決めさせた。

「ああ、ああ、俺も行きたいよ。な、健一」

「うんうん、飲み足りないよね」

 じゃあ行く、と情けない事を言わなかっただけでも男らしいと褒めてもらいたい。
 いや、褒めるべきではないのだろう。後の面倒を考えれば本当にここで間違っておくべきだったのだ。
 間違っていないことが間違いな道――廃人の道――を既に選んでいるつもりだったのに半端な色気なんて出すから。





 向かう方向を変えてしばらく後、突然の出来事だった。
 そうでなくとも、前を歩く健一と桂木の後ろ、麻衣と微妙な距離でお互いを伺いながら中学生のような甘酸っぱさに浸る俺はその予兆に気づく由もなかった。

「うわっ、何こ――――」

「きゃ、き――――」

 唐突に聞こえた叫び声に慌てて視線を前方に向けると、前を歩いていた二人の足元から青い光の柱が立ち上るのが見え、二人の姿と共にその声が半端に途切れた。

「……ポータルゲート?」

 それが見慣れた『エフェクト』のように見え、そんな馬鹿らしい事に気をとられて致命的に反応が遅れた。
 シュンシュンという聞きなれた『効果音』に思わず自分の足元に目を向けるのと同時、下から渦を巻くように青い光が立ち上る。

「せんぱ――」

「麻衣――」

 二人手を伸ばしあい、すぐ隣の手が触れ合うより早く、視界が光で埋め尽くされた。



 本当に一瞬にも満たない時間。
 白一色にゆらめく視界の中でちらりと何かが見えた気がした。
 見慣れたウインドウと数人のデフォルメされたキャラクター。
 今日も帰ったらやろうと決めていて、しかし先ほど諦めたオンラインゲーム。そのキャラクターセレクト画面だった。
 何かを考える暇はなかったし、実際何も考えてはいなかった。
 ただ、さっき見えた『エフェクト』と『効果音』が自分の頭を一瞬で似非リア充からネトゲ廃人へと切り替えていたのは確かだと思う。
 人生の1/3以上を共に過ごしたそのゲームについての対応はもはや反射行動に近い。
 気のせいとも思える僅かな時間で俺はメインキャラクターを選択してエンターキーを押していた。
 キーボードなんてないし、マウスもない。だが確かにいつも通りの行動をしたという自覚がある。
 再び白だけに覆われた世界。
 俺は、一気に駆け上っているような、高速で落ちているような、そんな感覚に包まれた。


 実を言うと、コンパでフラグが立つなんて馬鹿馬鹿しいことあるわけない、やっぱり夢だったんだな、等と考えていた。
 さらに言ってしまうと数秒後、尻を地面に強く打ちつけ――全く痛くはなかったのだが――隣で呆然としている麻衣と目を合わせた時。
 まさに草原としか思えないどこまでも広がる緑と、晴れ渡った‘青空’を見て尚も、彼女が夢ではなかったことの方を喜んでいたのだ。
 つくづく、間違っていない。だからこそ俺は――相当に長い時間、間違い続けてしまったのだ。





「何これ、何処ここ、どうなってるの!?」

「太陽……? 昼……な訳ないよね。 どこかの建物の中かな?」

 大混乱する茶色のもこもこ、桂木すずと、案外落ち着いた童顔小柄の優男、富田健一。

「………………」

 ぽかん、としたままこちらを見つめる黒い長髪、松風麻衣。
 彼女も時折何かを言おうと口が動くのだが明確な言葉はまだ出てきていない。
 そして冷静に周りを観察しているようで、俺自身も茫然と座り込んだままだった。
 おそらく目の前の彼女もそうなのだろうが、猛烈な勢いで思考が空転していて何も行動を起こせずにいたのだ。
 何かテレビの撮影か。ドッキリなのか。それで俺は仕掛け人の麻衣と仲良くなったのか。
 いやそんなはずはない。何せ同じ大学で同じ部員だ、姿を見かけた覚えぐらいはあった。
 しかしそういった大掛かりな仕掛けが裏になければこの状況は何なんだ。
 というかさっき見えたあの光は――『エフェクト』は、特定の地点へ繋ぐポートを開いてキャラクターを転送する魔法の――

「山田、山田、大丈夫? 麻衣ちゃんも、ほら、しっかりして」

 健一に呼びかけられ、俺も我に帰った。
 何にしろ今はゲームのことを考えている場合じゃない。
 仕掛け人がいるなら精々平静に乗り越えてがっかりさせないと腹に据えかねるし、そうでないなら……これは神隠しだとでも言うのか?
 それはあまりにも馬鹿馬鹿しい。その上神隠しってのは戻ってこないからそう言うんだろう。それは勘弁してくれ。
 明日からゲーム内でイベントが始まるんだ、あれに参加するまで俺は……いや、だからゲームのことは後で良いんだ。

「ああ、悪い。何だこれ、明るいって事はビルの中か? 携帯も圏外だし、何のテレビか知らないが大掛かり過ぎるだろう」

「本当に、こういうイタズラするならタイミング考えて欲しいですよね。折角良い感じだったのに!」

 立ち上がり、どこかに居るのだろうスタッフ向けにちょっと皮肉っぽく言ってみた俺に桂木が頷いたが、少し意図が違うような気がする。
 まあ、夢じゃなかったというだけで喜んでいる俺が安っぽいのかもしれない。

「でも、そんな、撮影だなんて……」

 ふらふらと腰を上げた麻衣が両腕で体を抱くようにして桂木の後ろに隠れた。
 何かカメラがあったりしないかと周りを見渡すが付近は一面の草原にいくらかの丘陵があるだけだ。
 俺達が立っている辺りには草の生えていない道のようなものがあり、時折歪みながら二方向へ伸びている。
 遠くに目を向けても人工物らしきものは見えず、道の続く遥か先に連なる山脈があるぐらいだろう。
 しかしそれも日本にあるような緑に染まった山じゃない。白い岩肌に覆われた真っ白な岩山がいくつも重なりあって見える。
 遠くてよくわからないんだが、あんな外国旅番組で見るような岩山が日本にあっただろうか?
 恐らく麻衣もそちらを見たのだろう、不安げにこちらに視線を向けている。
 俺と麻衣の様子に気づいたのか、桂木も遠くの山脈を見て言った。

「何、あのわざとらしい『やま』。壁に絵を書くにしてももう少しそれっぽく描けば良いのにねー?」

 ねー?と桂木に声をかけられた麻衣は何も言えずにおろおろとしている。
 しかし、壁に絵を描いてそれっぽい世界に見せかけてどこかでカメラで撮っているわけか。
 トゥルーマンショーかよ、と思った。ので口に出した。

「トゥルーマンショーかよ」

「そうそう、それです! きっと壁まで行ったら扉があるんですよ!」

「そんな映画あったねぇ。僕もあれ見た後、ちょっと日常が怖くなったよ」

 桂木と健一はうんうんと頷いたが、麻衣だけはまだ落ち着かずにきょろきょろと辺りを見回している。

「じゃあとりあえずこの道っぽいのを辿って壁まで行こうか」

「はーい、すずは健先輩についていきまーす」

「帰りてぇ……」

「は、はい」

 そういう事になった。
 歩き始めるとよくわかる、ビルの中に敷き詰めたとは思えないリアルな土の感触。
 慣れ親しんだ太陽の光と吹き抜ける風の匂いが明らかに屋外であることを伝えているが、誰もそれを口には出さない。
 麻衣だけはごまかす方が恐ろしいのだろうか、無言で俺の隣を歩いていた。




 通話機能は相変わらず圏外を示し続ける携帯電話の時刻によると、歩き始めて恐らく一時間程は経過しているようだ。
 前を歩く二人は既に無言で、健一も桂木も軽く息を乱している。
 隣の麻衣は大分前から辛そうだったのでジャケットとバッグを預かったが、かなりバテているようだ。
 俺はそんな彼女を、歩きにくそうな靴だしな、と余裕を持って見ていた。
 我ながらネットゲーム大好きの超インドア派だと思っていたのだが、特に疲れたとは思わない。
 普段なら5分歩いただけでも軽く息が荒くなるぐらいなんだが妙な状況で体の調子がおかしくなっているんだろうか。
 ふらふらと歩く麻衣が3回ヒールを踏み外したところで、俺は休憩を進言した。


 歩き始めた頃より随分と高さを落とした太陽を眺め、俺達は無言で地面に座り込んでいる。
 俺には特に疲れはなかったが麻衣の疲労が凄い。桂木と並んで座って荒い息をついている。
 大人しそうだし肌も白いし、体力がありそうには見えなかったが……ここまでだとは思わなかった。
 この道が何処まで続いているのかわからないがこの先歩けるだろうか。
 そもそもこれが本当に何かの企画だと言うならこんな長い道を歩かされる筈は――

「僕は、こんなに広い建物なんてないと思うんだけど……」

 休み始めて数分、全員の呼吸が落ち着いた頃にぽつりと健一が言った。
 俺も丁度考えていたことだし、誰も口には出さなかったがみんなが思っていたことだ。

「じゃあ何だって言うんですか、私たちはこの原っぱのど真ん中に瞬間移動してきたんですか?」

 苛立たしげに桂木が言う。相当焦っているのだろう。
 体力に問題のない俺もそれほど余裕がないのに、疲れている三人が不安じゃない訳がない。

「でもすずちゃん、多分これが外なのも昼間なのも間違いないよ。僕にも信じられないけど、後のことを考えないと……」

「でも、そうじゃないと、そんなのって……! じゃあ、私たち何処に居るんですか、どうすればいいんですか!?」

 健一の言葉を遮って、堰を切ったように桂木が泣き言を言い始める。

「足が痛いよ、もうやだよこんなの……何でこんなことになってるの……?」

 そしてそれを慰める気力は誰にもなかった。

「こんなのいらない……もういいから、外に出して……」

「桂木さん……」

 桂木の声に涙が混じるのを俺は無言で聞いていた。
 ここに来た時とは逆の形に桂木が麻衣にすがりつき、それを麻衣が抱いている。
 しかしその麻衣も落ち着いているわけではないだろう。恐らく疲れすぎて取り乱す余裕もないんだ。

「山田、どうしようか……」

 近寄ってきた健一が不安そうに言う。
 正直俺も優しい言葉をかけてやれる気分じゃない、筈だ。

「人が来るのを祈るにしろ、人里があるのを願うにしろ、希望を持ってこのまま道を進むしかないだろ」

「山田は落ち着いてるね……もしかして、山田が裏で仕掛けしてたりしない?」

 なかば諦めたように言った健一に、俺も溜息をついて返した。

「俺も全部お前の企みってのを願ってる」

「だよね……」

 背中合わせに座り込んで二人でだれた。
 居酒屋の席でより、もっとへこんだ。
 とりあえず、たまたま買って鞄に入れていた烏龍茶の出番だろうか。
 見せびらかすように口に含み、あえてまず麻衣にペットボトルを渡した後。
 状況的に余裕がないんだと思い込んでいるだけで、俺は多少冷静かもしれない。
 そう自覚した。




 30分の休憩を取って再び歩き出すと、程なく徐々に傾いでいた太陽が遠くの山脈にかかるぐらいになった。
 そちらに向かっているわけだから進行方向は西か。今更の話だ。

「麻衣、大丈夫か?」

「……はい……」

 10分ともたずにふらふらしはじめた麻衣に、俺は少し緊張しながら声をかけた。
 これから自分の言おうとしていることを考えて胸の鼓動が早まる。
 この期に及んで全く無駄な所に余裕があるなとは自分でも思うのだが、それも未だに疲れを感じていない為だろうか。
 さらに緊張を強めながら何でもない風を装い、歩みを止めて麻衣の肩に手をかけた。

「全然大丈夫そうじゃないぞ。ほら、乗れ」

 立ち止まった麻衣の上着とバッグと受け取り、背中を向けてしゃがみこむ。いや、本当に恥ずかしい。緊張する。

「そんな、悪いですから……」

「このまま進みが遅くなって動けなくなるのが一番まずい。俺はまだ大丈夫だから皆の為に乗ってくれ」

 らしくない台詞が何故かスラスラと出た。まるでチャットでもしているような気分だ。
 多分顔を見ずに済んでいるからだろう、今も鼓動は全速力で早鐘をならしている。

「すみません、本当にすみません……」

 しゃがんで向けた背中の後ろで、麻衣が泣きそうになって頭を下げているのが何となくわかる。
 そしておれの視線の先。前方で足を止めた桂木が健一に何かをねだっているのが見えた。
 調子が出てきたじゃないか、桂木すず。お前はそうじゃないと。

「いいからほら、乗れ。二人も待ってるし」

「……すみません、お願いします」

 後ろに差し出した両手に足が乗せられ、背に暖かく柔らかな感触が広がっていく。
 限界と思われた心臓の鼓動がさらに早まる。聞かれたら余りにも恥ずかしい。
 俺は思わず勢いよく立ち上がってしまった。

「きゃっ……」

「悪い、しっかりつかまっててくれ」

「あ、はい」

 肩に乗せられていた手が首に回り、さらに密着度が上がる。
 ずり落ちた麻衣の体を反動をつけて持ち上げると、二人の体が一瞬離れて再びぶつかり、何かがふんわりと形を崩すのが背中でわかった。
 手のひらは柔らかく薄い素材のロングスカート越しに太ももに触れていて、動かしてはいないが、指の先が感じている柔らかさは恐らく臀部。
 少し荒い麻衣の吐息が耳元を撫で、女性特有の甘い香りが俺の全身を包み込む。
 何かもうこのまま家に帰れなくても良いぐらい圧倒的に幸せだった。

 しかし、それにしても……

「何だこれ、軽いな、麻衣」

「え、あ……ありがとう、ございます……?」

「ああいや、褒めたとかじゃなくて……違うぞ、俺もそんな気分じゃない。純粋に軽いんだ。助かるよ」

「すみません、よろしくお願いします」

 いえいえこちらこそ、とは口に出さなかったが。
 人を一人背負っているとは思えないほど軽いのに感触がしっかりわかるのはなぜなんだろう。
 前の二人に追いつき、結局桂木を背負わなかったらしい健一と久々に軽口を交わして、俺は疑問を心中に沈めた。





「日、沈みましたね……」

「曇ってきてよくわからなかったけど……この暗さは完全に沈んだな」

 最初は静かに背負われていた麻衣だが、俺が体力的には余裕綽々なのを見て時折話かけてくるようになった。
 肌寒さを感じて一度降ろしてジャケットを着せたので、余計な事をしなければ幾らかは俺の心――密着度――にも余裕がある。
 本当に心から至極残念だが。
 前を歩く二人は相変わらず無言だ。
 それもそうだろう。そろそろ休憩から二時間、あわせて三時間歩いていることになるのだ。
 山歩き同好会だって三時間歩けば多少は疲れる。インドア派の俺達など何をかいわんや、だ。
 そう考えると何故俺は疲れる様子がないのか……もはや自分でも理由は無視している。
 
 太陽が沈んで辺りは暗がりに包まれ、雲に覆われた空からは月明かりも射していない。
 周囲は一面の草原からちらちらと大きな木がそびえ始めて先には森がある事を予感させた。

「今歩いてるのが本当に道なのかもよくわからない。これ以上進むのは危ないよな」

「そう、ですね。でも、じゃあ……」

「……野宿?」

「うぅぅ……」

 悲しそうにうめいた麻衣がちょっと可愛かった。余裕が出てきたようで何よりだ。
 居酒屋に居た頃よりむしろよく喋っている気もする。
 この面倒を乗り越えて四人仲良くなれたら麻衣も部に馴染めるだろうか。

「おーい、健一、桂木ー……!?」

 黙々と前を歩いていた二人に声をかける。
 揃って振り向いた二人の顔に余りにも疲れが色濃く出ていて、思わず驚いてしまった。

「山田、どうしようか」

 これからの話だと理解しているのか、健一は何も聞くことなく最初から本題に入ってきた。

「どうしような。進むと言われても俺はまだ大丈夫だが」

「山田意外と体力あったんだね……僕はもう、無理っぽいよ……」

 ばたんと音がしそうな勢いで健一が座り込み、その横に桂木が並んで倒れこむ。

「とりあえず人が通ったらわかるように道が見える場所で、何か空模様が怪しいからそこら辺の木の下で休もうぜ」

「本当、山田元気だね……」

 どこか皮肉気に言って健一がもう一度立ち上がり、隣の桂木に手を貸した。仲良くなったようで何よりだ。

「山田せんぱーい、私もおんぶ……」

 と思ったのだが。想い人の手前だろう、俺には何も言わず自分で歩いていた桂木が、ついに音を上げて俺にすがって来た。
 悪いが一人乗りなんだ。それよりどうせ今日はもう進めないだろう。

「そこの木までだ、頑張れ。ほら、俺も早く休みたいんだよ、行くぞ」

「はぁい……」

 重そうなサンダルをずるずると引きずって歩き出した桂木の背を健一が支える。
 何かもう本当に息が合ってるなあっちの二人。いや、そういう意味で言うとずっと背負っていた俺達もか……?

「……?」

 横目で背中から顔を出した麻衣を見ると、はい? とでも言いたそうな素の表情でこちらを見返してきた。
 全く意識していないようだが、降りて歩くと言われないならまあ嫌われてはいないんだろう。
 しかし、特別好きになりましたって訳でもないのに相手の気持ちを気にするのに意味はあるんだろうか。
 俺もやっぱり疲れてるのか、当然だな。
 麻衣に曖昧に笑みを返して、俺もまた木陰へと歩き出した。




「僕達必死になって歩いてきたけど、結構まずい状態じゃないかと思うんだ」

 手元にあった水分を分けて飲み干したところで、眉をひそめて健一が言った。

「そりゃ、マズイのはわかってますよ。ここが何処かもわかんないし誰も通らないし何もないし喉も渇いたしお腹も減ったし!」

「僕が言ってるのはそう言う事じゃないんだ、すずちゃん。9月って言っても夜は少し冷えるし、今日は特に寒く感じる」

 確かに熱帯夜も珍しくない昨今では稀な涼しい夜だ。店を出た時は今夜も暑いなと思ったのだが。
 黙って聴いている俺と麻衣にも視線を向けて健一は続けた。

「半日歩き通して疲れきって、全身汗で濡れて、ここで休みながらもし眠っちゃったら……多分、危ないと思う」

「危ないって……健先輩、どういう意味ですか?」

「わからないよ、僕だって詳しいわけじゃないもん。でも、嫌な予感だけはたっぷりするよね?」

 沈んだ表情で見詰め合う二人を、何となく茶化してみたくなった。

「……風呂上りに扇風機をつけたまま寝て、低体温で死ぬ奴って結構居るんだぜ」

「山田ー、やめてよー」

「山田先輩、それ本当に冗談になってないですよー?」

「先輩……」

 非難轟々だった。

「いや、悪い。でも俺と麻衣はそんなに汗かいてないからな。まあ大丈夫だよ」

「あ、はい……ありがとうございます」

 いえいえ、とお辞儀しあう。
 余裕のある俺達を胡乱げな目で二人が見ていた。

「とりあえず、ハンカチはあるよね。僕達向こうに行ってるから体拭いて。服が湿ってるなら山田を脱がそう」

「……俺が死なない程度にしてくれよ」

「はいはい、行くよ山田」



 余り離れるとお互いに不安だろうとそこそこの距離で女性陣に背を向けたまま休む。
 健一も自分のハンカチで汗をぬぐっていた。

「でも山田、本当に凄い体力だよね。麻衣ちゃん背負って何時間歩いたの?」

「2時間以上は歩いたな。正直自分でも驚いてる。俺は虚弱な奴だと思ってたんだが」

 首をひねりながら言うと、健一が怪しく笑いながら近寄ってきた。

「愛の力かなー、山田くーん?」

「力を出す要因があったとしたら、絶対に愛じゃなく性欲だな」

「それも愛だよ、愛」

「お前が罪悪感もなくヤリ捨ててる理由がわかったから黙ってろ」

 はいはい、と笑って言う辺りこいつは絶対にわざとだ。
 良くて精々友達レベルの俺が言うのもなんだが、健一が麻衣に近寄らなくて良かった。

「これに仕掛け人が居るとしたら多分山田の体力が誤算だろうね。頑張れば何とかなるかもしれない」

「仕掛け人ね……居るのかそんな奴」

 何となくで適当に言った俺に健一は真面目に返事を返してきた。

「突然眠って目が覚めたら……とかならまだわかるけど、みんな起きてたからね。僕も正直疑わしいとは思うんだけど」

 健一は恐らく、この状況の事を歩きながらずっと考えていたんだろう。
 まあ、胸の感触と甘い匂いに溺れながらどうやって違和感なく尻を触るかしか考えていなかったのは俺ぐらいのものか。
 最終的に余り気にせず触りたくなったら好きに指を這わせていた。もちろん、少しだけだが。
 仕方がないのだ。普通に背負っていれば、無理に避けようとしない限り触れてしまうのだ。
 これぐらいは許して欲しいと思うので、もしも麻衣に後から責められても堂々と謝ろうと思う。
 正直、人生最高の2時間でした、と。
 内から湧き出た謎の力なんてのがあるとしたら、間違いなく愛じゃなく性欲だ。

「山田、聞いてる? だからって超常現象的な何かでワープして来ましたじゃ訳がわからない。犯人が居ると思った方がまだ気が楽だよ」

「あ、ああ。まあ犯人が居たとすれば『頑張れば何とかなる』ぐらいのレベルなんだろうしな」

「笑い事じゃないよ。山田も真剣に考えてよ」

 流石に怒られた。いや、悪いとは思っているんだがどうにも危機感が沸かない。

 この覚えのある感覚は一体なんだろうか。


 困っている健一を上から見ている感覚。

 苦労している麻衣を凄く気軽な気持ちで助けられる。

 助け合う健一と桂木を、どこかほほえましい気持ちで見ている自分。

 例えると、低レベルの狩りにお守りでついて行った時の気分、が近い。

 何というかその……




 Yamada : そりゃケンイチ達は死ぬかもしれないけど、俺はこのMAPじゃ死ぬほうが無理だよ





「は?」

「え?」

 何も言ったつもりはないのに俺は口を開いていた。ひらいていた? 口を? 何だ、今何があった?

「何さ、まっぷって。悪いけどこの状況じゃどうしようもなくなったら山田に先行してもらうから、死ぬ時は山田からだよ」

「あ、ああ……いや、俺何か妙な事言ったよな? 悪い、俺も疲れてるみたいだ」

「そりゃそうだよ、山田は一人分背負ってたんだもん。このままここで休んでも大丈夫かな……野宿のことなんて全然わかんないよね」

 大して気にせず悩みこむ健一を尻目に、俺は恐ろしいほどの違和感と既視感に襲われていた。
 今の気分が丁度ゲームで例えるとわかりやすかったから、脳内でチャット文字に近い形で表現しただけだ。
 普段、口には出さないが……と考えているのと同じぐらいの気持ちで、軽く。それが――

 ――今、俺は……チャットをしたのか……?

 そんな事は起こりえないという違和感と、これはゲームの中でいつもやっているじゃないかという既視感が俺の中で戦っているのを感じる。
 余りにも空恐ろしい自分の思考に俺は戦慄を覚えた。

 ――現実がゲームのように感じられて、チャットをしようとすると言葉を喋る? そんなの――

 その先は言葉にしたくなかった。考えているだけなのに『チャット』してしまわないように口を強く抑えているのが酷く情けない。

 ――俺は――

 この異常な状況下で、普段ゲームに溺れ続けていた俺は……

 ――狂っている――













「キャァァァァァァァ!!」

 一瞬自分の叫び声だと思った、俺にとってはそれ程に恐慌の時間だった。
 しかしすぐに立ち上がった。これは桂木の声だ。
 こんな絹を裂くような悲鳴、たとえチャット文字でだって俺には出てこない。

「山田っ!」

「急げっ!」

 健一と声を掛け合って20メートル程先の麻衣と桂木の元に走る。
 何があったのか、野犬にでも襲われたのか。思考の大部分は焦燥にかられていた。
 そして俺の中の冷静な部分は、麻衣が悲鳴を上げなかったのは無事だからなのか、それとも先に『何か』に襲われたからなのかを慎重にはかっていた。
 さらに冷静な部分は――


 ――MOBが沸いたんだろ


 原因を正確に予測していて、そしてどんな結果が起きても俺には問題にならないこともまた、知っていた。






「健先輩っ!!」

「山田先輩!」

 麻衣の大声なんて始めて聞いた。そして、俺を呼んでくれてありがとう。
 木の根元に立つ二人の周囲、5メートル程の距離を置いて犬のシルエットが動いているのが見えた。

「おらああああああああああ」

 大声で叫んで威嚇しながら二人のそばに走りこんだ。
 普段なら恥ずかしいと思う所だが、野犬の恐怖の方がよほど勝っている。それを振り払うための叫びでもあった。
 

 ――別にこんな雑魚にそこまでしなくてもいいだろ


 まだ疲れているのだろう、健一は少し遅れて辿り着いた。

「うわ、野犬? どうしよう、何かに火をつけて追い払う?」

「つけた後はどうやって消すんだよ。ああ、山火事になれば警察とか来るかもな」

「命懸け過ぎますよ、そんなの最後にしましょう! それよりあの犬、あの大きい犬! 牙の生えてるあの犬!」

 桂木の視線の先にはなるほど大きな犬が居た。いや待て、あれは本当に犬か?
 薄暗くて把握し難いが、あの凶暴な姿はまさか……


 ――シュタイナーウルフとウルフの群れ、邪魔だな


「あれ、狼……?」

 同じ事を考えたのだろう、麻衣が引きつった声を上げる。
 俺にしっかりとしがみついているこの子だけでも守ってやりたい。

「麻衣、まさか日本に狼が居るわけないじゃない。狼は絶滅したんだよ?」

 桂木の声もやはり引きつっている。それでも空元気を出せるだけ優秀だ。

「ここ、日本なんですか?」

「…………」



 ――シュタイナーウルフは小ボス、出現MAPはカールの森01



「どうしよう、襲ってくるかな。僕、大体の野生動物は人間だと知ったら帰って行くって聞いたんだけど」

「ライオンぐらいでかい犬だからな、何とも言えないぞ」

「怖い事言わないでよ……」



 ――条件付きアクティブ設定。一定時間近くに居ると、範囲内で最もレベルの低いキャラクターをターゲットする、だったと思う。多分。



 健一も涙目だが俺も涙目だ。
 さっきの話の直後に早速、死ぬのは俺からなのだろうか。本当に勘弁して欲しい。
 飛び掛ってきたら鼻っ柱を殴りつけてやろうと腰を落として身構えた所で、一番大きな犬と目が合った。
 襲ってくるかと思ったがあっさりと目はそらされ、犬の視線がゆっくりと下方向に流れるのが見える。
 しがみついていた麻衣の体がビクンと震えた。瞬間。

「この野郎、来るなら来い!」

 俺じゃない、麻衣を狙っている。それに気づくと同時に一歩前へ踏み出していた。
 触発されたように三頭の犬が飛び掛ってくる……三頭!?

「うわ、や、やべっ」

「山田っ!!」

「先輩っ!?」

 一頭なら人間様の力を見せ付けてやろうと思っていたのに、まさかの同時攻撃。
 まずい、これは……ダメかもしれない。
 それに俺に張り付いた麻衣も危ない。残った時間では麻衣を背中に隠して犬達と向かい合うことしか出来なかった。
 目を見張るようなスピードで噛み付きにかかってくる三頭の犬。狼なのだろうか、俺には違いがわからない。
 時間が引き延ばされて走馬灯ぐらいは見せてくれるのかと思ったがそういう事もなかった。
 仕方がないか。不思議な事に俺はここまで来ても無駄に落ち着いたままなんだから。やっぱりゲームのやりすぎで狂ってるんだな。



 ――流石にウルフぐらいは素手でも一撃だろ



 最後だから、と。
 さっきまで意図的に無視していた『狂った』思考のままに体を動かしてやることにした。
 そりゃそうだろう、ゲームの中のノーマルな狼は雑魚も雑魚だ。俺にだって造作もなく倒すことが出来る。
 いやはや、現実とは違うのが心底残念だ。
 もはや一刻の猶予もない。ただ思うままに、思いっきり片腕で振り払ってやる。
 結果も、予想通りの――



「キャインッ」

「キャンッ!?」

「ギャッ!!」



 3種の呻き声と共に犬の姿が掻き消える。そうだよな。そうなる、そうなるに決まってる……。

「山田!?」

「山田先輩!?」

 現実を理解できていないような二人の声が聞こえる。桂木はわかるが健一は驚くなよ、さっき言っただろ。

「せん……ぱい?」

 俺の背にしがみついている麻衣からかすかな声が聞こえた。
 そんなに心配するような事じゃない。これでも俺、結構廃な方なんだぜ……とは、口に出さなかったが。
 でも折角だし、格好良い台詞の一つでも言ってみようか。
 今なら多少クサくても決めて聞こえる気がする。俺が君を守るよ、とか、どうだろうか。

「麻衣、俺が……」

「山田っ、でかいのが!!」

 言いかけた所で一番大きな野犬――シュタイナーウルフ――がこちらに走り出す。
 桂木の台詞じゃないが、タイミング考えろよ。折角良い感じだったのに。
 クイックスロットの魔法を選択。こちらに向かってくるシュタイナーウルフをターゲットに指定。
 今もくすぶる違和感と既視感から、ずっと抱え続けた違和感ではなく既視感の方を選び取る。
 見えるのはいつも通りの光景。MAPを歩いていたらアクティブの雑魚が襲い掛かってきたから一応倒して行くだけだ。
 既視感を優先したことで意図的にわけていた二つの思考が一つになって、同時に違和感が消える。
 俺は根っこから廃人なんだなぁと思わず苦笑してしまった。


「――キュアバースト――」


 口に出す必要はないのだろうが、何となく言ってしまった。聞こえると恥ずかしいので口の中だけで呟く。
 初級神聖魔法に今更詠唱なんて必要ない。瞬時に『スキル』が発動。

「きゃ………」

 後ろで桂木の声が聞こえる。しばらく暗かったからちょっと眩しいよな、すまん。
 シュタイナーウルフを中心に白い光が爆発的に広がり、すぐに薄れていく。
 全て消え去った時には『MOB』の姿は消えていた。
 調べたことはないが、流石に初期MAPの小ボスぐらいは一確だろう。


「山田、麻衣ちゃん……無事?」

 数秒の沈黙を経て、健一が恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
 スキル発動モーションとかを取った覚えはないし、初級神聖魔法は術者に何がしかのエフェクトがついたりはしない。
 多分、状況が読めないのと、俺が無事なのか不安なんだろう……だよな? 
 やってみた後でなんだが、ネトゲの魔法を実際に使う奴だとか絶対に思われたくない。
 くるりと振り向いて麻衣と目を合わせる。こちらも状況が理解できていないのか目をぱちくりとしている。

「……無事か?」

「あ……は、はい」

 守れて良かった、とか。声をかけておけばちょっとしたフラグだったのかもしれない。
 しかし俺の中で最良のタイミングが既に過ぎ去っていたから。
 そして今の俺は、その最良のタイミングに調子に乗った事を言わなくて本当に良かったと心から思っているから。
 うん、と頷いて健一に向き直った。

「健一。何だ、今のは」

「僕が聞きたいよ……無事でよかった」

「ふぇぇぇ、麻衣ー!!」

 走って抱きついてきた桂木が俺から麻衣を奪い取って行く。
 下手をしたら弾き飛ばされそうな勢いだったが……そうだな、桂木のステータスじゃ俺を吹き飛ばすのは無理だろうな。
 何とも痛々しい思考だ。しかしスキルまで使っておいて今更ごまかすのも馬鹿馬鹿しい。
 ゆっくりとシュタイナーウルフの死んだ場所に歩み寄る。少し小ぶりのベル型のマークが淡い光を放って点滅していた。
 お金の単位『ベル』 プレイヤー内ではベルマークとして親しまれている。
 手を伸ばすとするりと溶け込んで消えた。現実にあるとこんなシステムになるのか、ちょっと気味が悪い。


――本当にここは、オンラインゲーム『ワンダー』の中、なんだな。


 何もかも納得がいかないのに、俺の中の疑問だけは綺麗に解消された。
 路地で出くわした、転送魔法『ポータルゲート』
 真っ白な世界で見えた気がするキャラクターセレクト画面。
 危険なはずの状況でなぜか落ち着いている余裕。
 歩いても歩いても疲れない異常なまでの『体力』もだ。
 そして、もう約束を気がかりに思う必要はない――俺はちゃんと12時にログインしたのだ。




「雷か何かで逃げたみたいだね。また来るかもしれない、とにかく移動しよう」

 俺が野犬を気にしていたと思ったのだろう、歩み寄ってきた健一が言った。

「急いで、急いで行きましょう! ……それにしても、お腹減った、水も欲しい……」

 最初は勢いの良かった桂木が情けない声を出す。
 食料と飲み物は十分に携帯している筈だが、果たしてインベントリ――持ち物欄――を開くにはどうすれば良いのやら。

「先輩……」
 
 健一と入れ替わってそばに来た麻衣が気遣わしげに俺を呼んだ。
 そんな顔をしなくて良い。まあ、何とかなるさ。
 少なくとも現在地はわかるんだ。町まではもう少しあるが、死ぬような敵は居ないし、死んだって生き返らせてやる。
 もちろん、口には出さないが。

「大丈夫だよ、ほら、行こう」

 安心させてやろうと、無理に勢いよく歩き出したのが悪かったのか、俺は麻衣の次の言葉を聞き逃してしまった。

「きゅあ、ばーすと、って……」

 やはり、余計なことは口に出すべきじゃ、ないな。




[11414] 第二話 クエスト
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:15
  人工的な光のない夜がこんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
 曇天の空は幸いにも雨粒を落とすことなく過ぎ去ってくれそうな様子だが
 切れ目なく重なる雲の海は星の光や月明かりも遮ってしまっている。
 先程襲われた野犬の恐怖も含めて、俺達は肩を寄せ合って不安な夜を過ごしていた。

 ――というのは建前だ。
 夜になると空が曇るのは、最初期MAPであるこの草原では星明かりの描写が出来ていなかったことが原因である。
 雨の振る場所は特定の地域だけなので幾ら曇っていても不安に思う必要はない。
 先程の野犬――シュタイナーウルフ――は1体だけしか存在しない小ボスで、一度倒せば一日は出現しない。
 このMAPには他にアクティブなモンスターは沸かないので何の危険もないのだ。
 こんな、それこそゲームのような話を、現実に怯えている三人に聞かせることが出来るだろうか。
 ネットゲームの中に入り込んでしまったという現実――リアル――をどう受け止めればいいのか、俺もまた図りかねていた。

「先輩、眠いです……」

「いいよ、眠っても。僕と山田が起きて見てるから、またあいつらが来たらすぐに起こしてあげるよ」

「怖いから、先輩も一緒に寝てください!」

「あのね、すずちゃん……」

 神経が太いと言うのか、よく頑張っていると言うべきか。
 茶色のもこもこ髪はおとなしい形に潰れてしまっているが、桂木すずはいつもの調子を取り戻している。
 俺の隣でそれにすがりつかれる童顔の男、富田健一。
 女性の桂木とそう変わらない背丈なのだが、可愛らしい顔立ちと合わさって中々の優男である。
 普段は後輩の桂木に懐かれても軽く交わしているのだが、歩き続けて疲れた上に時差もあわせて完徹の現状、されるがままになっていた。
 さらに健一と桂木を挟んで反対側には長髪の女性、松風麻衣がうつむいて沈黙を保っている。
 空気が湿っているせいだろうか、まさに烏の濡羽色と言うべきその黒髪は、よく見ると整っているその顔立ち以上に彼女の印象として強い。

 俺達はシュタイナーウルフに襲われた場所から200メートル程離れた大木の下に並んで座り込んでいた。
 相手が本当に野犬ならこんな距離はないも同然だろうがどうせ出てこないので問題はない。
 正直な話、現実に現れたモンスターを魔法で倒すというまさに夢のような経験をした俺は、今も冷静なつもりで随分と調子に乗っていると思う。
 本来なら女性二人を挟むように男で座るべきなのだろうが、麻衣の隣にいるとどうしても格好をつける自分の姿が想像されるのでこうして離れた位置に腰を下ろしていた。
 ウルフを警戒する必要がない以上得られた時間で考えるべきことはたくさんある。

 どうしてこんな世界に来てしまったのか。

 どうして俺は自分のキャラクターの力を使えるのか。

 どこまでその力が扱えるのか。

 そして最も大事な事、どうすれば現実の世界に戻ることが出来るのか。

 いや、これもまた逃げの発想なのだろうか。
 今の俺たちのとって『現実の世界』はここ、剣と魔法とモンスターの世界『ワンダー』なのだから。













第二話 クエスト












  まんじりともしないまま一夜を過ごし、朝日が昇るのを見届けた後、俺以外の三人は崩れるように眠りに落ちていった。
 しかし三人の寝顔を見比べると男の健一の寝顔が一番整っているというのはいかがなものだろう。
 後でからかってやろうと決めて、俺はゆっくりと立ち上がった。
 どれもこれも考えても答えは出なかったが、幸いにも眠気はない。
 寝ようと思えばもちろん眠れるだろうが、睡眠欲自体が自分の制御下にあるのを感じていた。
 理屈もわかっている。ゲームの中の『睡眠』は宿屋での休息を除けばモンスターの睡眠ガス等による『状態異常』として扱われる。
 その睡眠攻撃は精神力を基準にレジストが可能で、俺はステータス的に睡眠に完全耐性がある……と思うが、自信はない。

 今最大の問題はそこなのだ。
 俺がこの世界に飛ばされた時に一瞬見えたキャラクター選択画面。
 あそこでの記憶が正しいとすれば、俺が選んだのは使う頻度の一番高いメインキャラクター。レベルは限界値で職業も最上位職、装備もほぼ完全に近い。
 7年も毎日同じゲームをやっているのだから流石にそれぐらいは当然なのだが……果たして本当に俺がそのすべてを引き継いでいるのかがわからないのだ。
 ステータス画面を開いて確認すればいいのだろうが、そんなものあるわけがない。装備もアイテムも確認することが出来ない。
 先程のウルフとの戦闘を見るに、初期MAPで困らない程度の能力は持っているのは間違いない。ステータスについては後回しでもかまわないと思う。
 しかしインベントリ――所持アイテム欄――だけは何とか確認できないと困る。
 俺たちが最後に食事を取ったのは時間にしてもはや14時間前、水分摂取は10時間前。
 流石にすぐに問題が起きるような時間ではないが、ここまで歩き続けたことも含めて体が弱るには十分だろう。
 今の時点で既に空腹なんだ、何も口に入れずに今日を歩きぬいて町にたどり着くのは難しいと思う。 
 せめて水だけでもとMAPをよく思い出してみたが、このあたりに川があったという記憶はない。むしろ町を挟んで対称位置だ。
 当てはある。満腹度というステータスがゲーム内にあるので、俺のキャラクターはいつも食料と水を十分に持ち歩いていた。
 それをインベントリから取り出すことが出来ればそれで解決する。魔法を使うよりもずっと簡単な筈だ。
 しかし、ズボンのポケットを探ろうが、鞄の中を漁ろうが、四次元ポケットがないか腹を確認しようが、何もありはしない。
 
 腹立ち紛れに近くを飛んでいた鳥をにらみつける。クイックスロットから神聖魔法キュアバーストを選択。
 スキル発動――は、しない。こんなのはただの八つ当たりだ。
 スキルをショートカットに登録して、ボタン一つで使用するクイックスロット。
 それが存在することを頭のどこかで理解していて『いつも通りに』使うことが出来るのに、それが他に繋がらない。
 我ながら全くもって役立たずな事だ。
 幸いクイックスロットには普段使うスキルが一通り登録されていて、少なくとも今の自分の妙な力のベースが何であるかはわかる。
 職業は選んだ通りのメインキャラクター、守性僧侶系最上位職 カーディナル――枢機卿――だ。
 回復能力と支援能力は抜群だが、キャラクターの能力とアイテムの性能がインフレしきった『ワンダー』の世界では正直微妙な評価を受けている。
 普通のモンスター相手なら回復と支援は最上位の下、上位職でも十分に手は足りる。
 その為、枝分かれした攻性僧侶系最上位職 パトリアルフ――総主教――の方がよほど優秀で人気があった。
 カーディナルの特技と言えば、町のNPCに猊下と呼んでもらえるという面白スキルや、聖職者の転職NPCを代行できるぐらいだ。
 それでも俺が使っていたのは仲間内に一人居ないとどうしても困る理由があるからで、だからこそ毎日ログインを――



「う、ぅん……」

 耳に届いたかすかなうめき声に俺は思考を中断した。
 眠っている三人の方に目を向けると、すやすやと眠る健一と桂木の横で麻衣が随分とうなされていた。
 さっき見た時は足を抱えてうつむいたまま眠っていたのだが、今は全身を地面に横たえている。
 見ていると時折寝返りの出来損ないのように体をくねらせ、ふらふらと顔を左右に振っているようだ。
 その表情はこの距離でもわかる程に苦しげで、珠のような汗が顔全体を……

「待て、普通じゃないだろ、これ……!」

 慌てて駆け寄ったが、近づくと異常はすぐにわかった。

「何だこの熱……麻衣、お前ほとんど背負われてただろうが……」

 汗で濡れて、その体を冷やして。風邪の危険ぐらいはあるかも知れないと思ったが、麻衣の様子は尋常には見えない。
 ただ急な風邪で熱が出ているだけなのか、それとも持病なのか。それすら俺には判断がつかない。
 なんの対処も出来ないとおそらくまずいことはわかる。しかし全員着の身着のままここに居るのだ。解熱剤どころか風邪薬すら持っていない。
 女性陣も持っていたとして鎮痛剤ぐらいだろう。、
 どうすればいい。回復魔法でもかければいいのか? 
 本当に人間に効くのか、回復魔法が。
 何が原因かもわからないのに適当に魔法をかけたりして絶対に悪い事が起きないと言い切れるのか。
 夜を明かす間、ずっと黙ったままうつむいていた麻衣の姿が脳裏をよぎる。

「くそっ……さらに大人しくなったと思ったらずっと我慢してたのか」

 自分が着ていた上着を脱いで麻衣に被せた。
 目を覚ましていたのだろう、麻衣が薄っすらと目を開けてこちらを見た。

「ごめんなさい、せん、ぱ……」

「いい、喋るな。何とかしてやる。ちょっと待ってろよ」

 体調の辛さ以上に、自身への情けなさが麻衣の瞳からあふれ出していた。
 情けないのはこっちだって同じだ。化け物一匹消し飛ばせても風邪が治せない僧侶に何の意味があるっていうんだ。
 せめて原因がわかればいい、麻衣は何でこうなってるんだ。
 そうだ、ここがゲームの中だと言うなら、原因はやはり状態異常だ。
 一体何の状態異常で……


 ――PT欄で見ればいい


 瞬間、思った通りに体が動いていた。
 いや、体は動いていない。
 ただ、PTメンバーを表示するウインドウを開くボタンを押した感覚があった。
 中空に出現する半透明の光の集合体。可愛らしいフォントで、Yamada,Kenichi,Suzu,Maiの文字。
 余りの非現実感に呆れている余裕もなかった。クリックの仕方がわからないがとにかく指でMaiの文字に触れる。
 追記の詳細ウインドウが開き、HPとMPにSP、バフとデバフ、状態異常の画面が表示される。
 HPとMP、SPは残り生命力と魔力にスタミナ。バフは能力向上、デバフは能力低下、スクルトとルカナンを表示しているようなものだ。
 確認すると、MaiのHPは<15/130>で、状態異常<熱病>。
 一瞬思考が止まっている間にもHPの数値が動く。HP<14/130>――


 ――ヒーリング――


 ターゲット指定 松風麻衣。
 淡い白色の光が麻衣を包み、初級神聖魔法が発動する。
 何が起こるかわからないからと甘えていられる状況ではない。HPの減少速度がいくら遅くてもおそらく残り十数分で息絶えていた。
 初級とはいえ使用者のステータスに影響を受ける回復魔法だ、本来はこの1発で3000以上の生命力を与えられる。
 鼻血が出る程のオーバーヒールだが、麻衣は多少顔色が良くなっただけで未だに苦しげにうめいている。
 今も中空に光が集まって形作られている冗談のようなPTウインドウを信用するなら、麻衣は継続して熱病状態にあるのだ。
 熱病の治療には治癒魔法のリカバリーオールか専用アイテムのディスコールドを使わなければならない。
 どちらも普段は使わないのでクイックスロットにはない。スキルウインドウを開くか、インベントリを開かなければ。

「せんぱい……?」

 魔法のエフェクトが見えたのだろう、麻衣がふらふらとこちらに手を伸ばす。
 何も答えることは出来なかったが左手でしっかりと握りしめてやる。

 落ち着け、麻衣が苦しんでいることを別にすれば、時間はある。
 ヒールをかけ続けている間は死ぬことはないんだ。
 だが、麻衣が苦しんでいるからこそ、胸の鼓動は収まってくれない。
 ただの知り合いがちょっと風邪ひいてるぐらいで何を動揺しているんだ俺は……!

 さっきの感触で、いつも通りにキーボードを入力するんだ。スキルとインベントリぐらい目をつぶっていても開けるだろう。
 深呼吸をして右腕を伸ばす。いや、違う。実際にキーボードがあるわけじゃない。体の動きはむしろ邪魔だ。
 集中しろ、集中して、しかしいつも通りに。
 ポイントはいつも通り、だ。

 廃人らしくやってみせる――


 ――とりあえず殺してから蘇生すれば熱病は消えてるだろう


「――ふざけんなっっっ!!!!」

 それが、いつも通りの俺の考え。
 手っ取り早くて面倒がない。しかし今、絶対に納得は出来ない。
 自分の中のあってはならない思考を殴り飛ばした瞬間、中空に光が瞬いて2枚の光のスクリーンが出現した。
 見慣れた横文字の並ぶ方に右手を当て、スキル選択。


 ――リカバリーオール――


 ターゲット指定 松風麻衣。
 暖かな緑色の光が麻衣を包み込むとともに、表情がやわらぐ。
 PTウインドウの表示でも状態異常は消えている。思わずほっと息をついてしまった。
 リカバリーオールは初級レベルの状態異常は全て治癒するスキルだ。
 便秘が治ってこの後ちょっと苦労したりしてな……とは口に出さなかったが。俺も少しは調子が戻った。

「……ぁ……」

「大丈夫だ、休んでろ」

 麻衣がこちらに何かを言おうとして力尽きたようにまぶたを落とす。
 そっと頭をなでてから確認すると状態異常欄には睡眠の表示。出来れば夢だと思ってくれ、麻衣。
 握ったままだった左手をゆっくりほどいて周りを見る。
 今も俺を取り巻くように、光で出来たウインドウが3枚浮かび上がっていた。
 まるで未来技術満載のSFみたいな光景だが、残念ながらこの世界は溢れる程にファンタジックである。
 触っていなかったインベントリウインドウに手を伸ばすと、光で出来たアイコンをつまむ事が出来た。
 ボトルに入った水を取り出すと魔法のように手の中で実体化する。
 何となく安全な水だと確信できる。毒見役の気分で先に頂かせてもらった。

「しかし……」

 初めてスキルを使った時もそうだった。
 なんとか他の画面を表示できるようになった今もだ。
 まさか麻衣が危ない目にあうたびに、俺はちょっと覚醒するのか?

「……酷いイヤボーンだ」

 全員が寝ているので思わず口に出してしまった。
 しかし幸いな事に現実をゲームとして考える大体の感触はつかめたと思う。
 次からは麻衣が叫ぶ前に助け出すヒーローを目指してみようか。
 そんな馬鹿げた考えで、自分の中の淡い思いに蓋をした。流石にそういう状況じゃないだろう。



 確認の手始めとして、とりあえず装備ウインドウを開こうとしてみる。
 装備ウインドウは素直に表示されてくれた。
 現在の装備品はなし。全てインベントリに戻っているようだった。
 アイコンの光を指でつまんで手持ちの汎用アイテムを装備欄に放り込んでいくと、手品のように自分の衣装が変わっていく。
 体のラインがはっきりと出る白色の聖職者のローブに、ビレタというんだろうか、それらしい帽子。
 背中にはローブと同色のマントがうっすらと輝きながらひるがえる。
 右手には真っ直ぐに伸びる乳白色の杖、先端部分には大きめのミスリルの十字架が模られ、瞬くように光を漏らした。
 左手には本物の天使から聖別を受けた分厚い聖書が神聖な魔力をほとばしらせている。
 足元を守護のオーラを放つ歪んだブーツが飾り、両腕には黄金の魔力を放つ腕輪、首と耳元も同様に光を放つアクセサリーが踊る。
 うむ、完璧だ。完璧に――


「ありえねぇ……」

 絶対に二度と装備しない。そう決めてすぐにアイテム欄に戻した。
 こんな格好で知り合いの前に立つぐらいなら裸でドラゴン相手に前衛をした方がまだマシだ。
 誰にでも装備できる鳶色のローブが比較的地味なデザインだったので取り出しやすい場所においておく。

 ステータスウインドウも見てみると、見慣れた自分のスタータスのままだった。
 細かい能力値はわざわざ確認しないが、装備なしでも少なくとも麻衣の500倍のHPはある。問題ない。
 後は全体マップが見られば完璧なんだが……何故だろうか、こちらは何度試しても開いてはくれなかった。





 それから数時間後、太陽が南中にもなろうかという時間になって、三人は目を覚ました。
 最初に目を覚ました桂木はなんと俺が水を飲んでるのを見ていきなり飛び掛ってきた。元気である。
 桂木が出所不明の水と食事をあっさりとたいらげた所で、むくりと麻衣も起き上がった。
 取り乱す事もなく、何も聞かず、おはようございます先輩と冷静に言われ、正直俺の方が動揺したように思う。

「う……あ、え……?」

「おう健一、起きたか?」

「おはようございます! 寝顔可愛いかったですよー!」

 麻衣が朝食――昼食とも言える時間だが――を食べ終えたところでようやく健一も目を覚ました。
 昨日は気の抜けていた俺の代わりに必死に行動指針を決めていたんだ。相当疲れていたんだろう。
 健一はしばらく頭を抱えた後、ようやく昨日の出来事を思い出したのか、うんうんと頷いた。

「ああ……うん、そっか……。うわー、夢の中より地獄の状況だね」

「そんなに酷い夢だったんですか、健先輩?」

「うん、すずちゃんが出てきたんだ」

「ふえっ、せ、先輩っ!?」

 あちらもあちらで一眠りして調子が戻ったようだ。
 ボトルに入った水と、持っていてもまだ違和感をがないかと選んでインベントリから取り出していたチョコレートを健一に渡してやる。

「山田、こんなの持ってたんだ? 水なんてあったの?」

「たまたま一枚あったチョコだ。水も夜露だからそれだけしかないぞ」

 いぶかしげ、という程ではないが疑問符を浮かべた健一が、俺の言葉にげんなりした表情を浮かべる。

「助かるけど……何とか今日中に人を見つけないと、山火事作戦発動になるね」

「あっちの草原まで燃えたらどこにも逃げ場がないけどな」

「……それでも逃げる元気がある間じゃないと、自殺にしかならないよ」

 思いつめた表情で言う健一。大丈夫だ、カールの森から町まではこのカールの草原を横断するより幾らか近い。

 
 数分後、降下を始めている太陽にようやく気づいて焦り始めた俺達は急いで一夜を借りた大木に別れを告げた。

 ――そういえば。
 歩き出して間もなく思い出したのだが、森の入り口の傍にある大木には森の精霊のイベントがあったような――
 ちらりと振り返ると、大木で一番太い枝に足をかけて、少し寂しそうな少女がこちらを見ていた。
 ごめんなさい、とは口には出さなかったが心中で告げて、俺は前方を並んで進む三人を追った。
 最後尾なのを良い事に後ろ手にPTウインドウを開いて見ると、麻衣のスタミナ数値は既に<60/100>まで落ち込んでいる。
 全く、手がかかる娘ばかりだ。


 このまま森に入るのはどうなんだという会話がなくはなかったのだが、これまで来た道を戻って反対側に進む気力は誰にもなかった。
 幸い獣道に近かった足元の道は随分と広くはっきりしたものになっている。
 人里が近いんじゃないかと希望を持って、昨日よりは幾らか元気よく俺達は進んでいった。
 しかしその元気は、俺達は一体どこに居るのか、何が起こったのか
 そういった根源的な疑問から目をそらし、目の前の危機と希望に身をゆだねているに過ぎなかったのかもしれない。

「あそこ、あそこにあるの、門と建物じゃないですか!?」

 休憩を挟みながら歩き続けて視界が夕暮れに染まる時間。
 久々に視界に入った人工物に桂木が騒ぎ始めるのを聞いて、俺もほっと息をついた。
 この辺りにある門と言えば町の入り口だけだ。ようやくとりあえずの人里――カントルの町――についたらしい。 
 背中の麻衣に声をかけて俺も歩みを速める。
 食料だ、飲み物だ、寝床だ、というよりも、俺には気になっている事があった。
 この町ならその答えの一つが出るはずなのだ。
 しかしカントルの町、か。何か忘れているような――


「あの、ここって、どこなんでしょうか?」

「カントルの町だよ。そりゃまあ田舎だがな、知らずに来たのか?」

「僕ら日本から来たんですがどれぐらい遠い所なんですか? いえ、えっと、ここって何ていう国の……」

「アテナス帝国の……お前ら、一体どこから来たんだ? 悪いが日本ってのは聞いたこともないぞ」

「えぇ!? でも今喋ってるのが日本語じゃ……」

 健一と桂木が町の中に居た門番らしき兵士を質問攻めにしているのを俺はぼんやりと見ていた。
 俺の背から降りた麻衣も同様に、動きを見せずに二人を見ている。

「あー……麻衣は、いいのか?」

「はい、大丈夫です」

「……そう、か」

 何の圧力を感じるわけでもない、特に変わらない様子なのにどこかが恐ろしくて会話を続けられない。
 半日背に乗っていた事を考えても特に俺に隔意を抱いている様子はないんだが……。
 やっぱり俺がスキルを使ったのを覚えてるんだろうか。覚えてるんだろうな。キモイと思われたかなぁ。

「絶対おかしいよ、日本語喋ってるのに日本は知らないとかいうし、世界に国は4つしかないとか言うんだよ!」

「あの人、ここが地球だって事も知らないって! 世界が丸いのも知らなかったんですよ!?」

 何故か軽くへこんでしまっだ俺の所に二人が戻ってきた。こちらとは対照的に二人ともハイテンションだ。
 しかし声が大きいぞ二人とも、門番さん睨んでるから。

「……意外と、丸くないかもしれないですよ?」

「え……麻衣?」

 こういった話に珍しく口を挟んだ麻衣に、一瞬会話が止まる。
 揃って見返す俺達に麻衣は逆に驚いたようで、おどおどと続けた。

「その……何となく、思っただけです。ごめんなさい」

 終わってしまった。
 微妙な雰囲気になった空気を良いように使おうと、俺も口を挟むことにする。

「ちょっとからかわれただけだろ、警察とか捜そうぜ。別行動で良いよな」

「え、山田、ちょっと待って……」

 許可も取らずにさっさと歩き出した俺に、桂木の声がかかった。

「山田先輩、パス!!」

「は? ……うわっ」

 思わず振り返った俺の所に凄い勢いで麻衣が飛び込んできた。桂木が押し出したらしい。

「30分ぐらい後にそこで合流しましょう、麻衣をお願いしますねっ!」

 何か騒いでいる健一を問答無用で引っ張って桂木は去っていった。そこ、というのは町の広場の噴水の事か。
 隣でこちらを見上げている麻衣と目を合わせ、すぐにこちらからそらした。
 隠し事があって既に知られているという状態にやはり後ろめたさがある。
 麻衣の方もうつむいてしまった。よくわからないが、酷く申し訳ない。
 蓋をしたはずの淡い思いがあふれ出す。
 いや、これは恋ではないと思う。これでもそんなに惚れっぽいつもりはない。でも――

 全てとは言わないが、話してみようか。

「じゃあ、行くか」

 無言で頷いた麻衣の表情は、やはり前髪に隠れて見えなかった。



 町の西にある広場に向かう。小さな子供が遊んでいた。
 北にある井戸に向かう。数人の女性が会話をしていたので軽く会釈をする。
 東の酒場を訪ねる。仕事着の男達が酒を飲んで騒いでいるだけだった。
 中央の広場にやって来る。通り過ぎる人々と、憩いの時間を過ごす恋人達が目に入る。
 噴水の傍のベンチに二人並んで、健一と桂木を待つ。少し早めに来てしまったようだ。

「……先輩、大丈夫ですか?」

「ん、俺、何か変な顔してたか?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」

 交番のように見える建物を見つけては様子を見たり、今は洒落たアクセサリーの店より食べ物屋が気になると軽く笑いあったり。
 それほど違和感のある町歩きをしたつもりはなかったが、俺の様子がおかしいのには気がつかれたようだ。

 ここ、カントルは小さな町だが、そもそも『ワンダー』にはそう何十箇所も都市があるわけじゃない。
 それにカントルは数少ない『ワンダー』運営開始からある町の一つだ。
 後から追加された馴染みのない町とは違って、ここにはいつでもプレイヤーが集まっていた。
 西の広場は、昔所属していたギルドが使っていた。
 北の井戸は、水を使ってアイテムを生成する生産職が沢山居た。
 東の酒場は、回復した後にダンジョンへの転送を請け負う初心者魔法使いが溜まっていた。
 中央の広場は、帝都よりも多いぐらいのユーザー商店で埋め尽くされていた。
 しかしそのどこにも、冒険者に見えるような人間は居なかった。
 俺は異世界に迷い込むのと電脳世界に入り込むのなら、個人的には後者の方が帰還の目があると思っている。
 週1回のメンテナンスによるサーバーダウンで外に放り出される可能性があったし、現実の技術者が俺達が戻ってくるための研究をしてくれたかもしれない。
 全く誰にも信じてもらえなかったとしても……もし知り合いと連絡を取ることが出来たなら。
 俺や健一の家族はともかく、麻衣と桂木の両親は娘がいつまでも戻らない事をさぞ気にかけているだろう。
 せめて娘の無事を伝える事だけは出来たはずだ。
 しかし残念ながらその可能性はなくなった。

 どうやらここはオンラインゲーム『ワンダー』とは似て非なる世界のようだ。
 どうして俺がゲームの力を使えているのかはわからないが、二つの世界に関係がないというのはむしろありえないんだろう。
 きっとこの世界は、ゲームの世界と、そして現実と、どこかで繋がっている。
 それが場所なのか物なのか概念なのかはわからないが、何とかしてそこにたどり着かなければならない。
 諦観と決意を胸に隣の麻衣を見る。もうごまかすべきじゃないだろう。

「あのさ、麻衣……」

「先輩、朝の事なんですが」

「……あ、ああ」

 俺が諦観に至るまでの時間が麻衣にとっては決意の時間になったようだ。
 機先を制され、俺には麻衣の話を聞くことしか出来ない。

「少し曖昧なんですけど、先輩に助けてもらったのは覚えてるんです。ありがとうございます」

「いや、大したことはしてないよ」

 本当に大したことはしていない。何せMPで言えば30ほどしか使っていないのだ。
 俺達は体を傾けて向かい合っている状態なのだが、こちらの胸元を見ている麻衣の表情はうかがうことが出来ない。

「その……魔法みたいな、何かで……」

「あ、ああ……」

 何を言っても自滅にしかならない気がして二の句が告げない。
 ゲームの魔法を実際に使える人間とか、凄いけど気持ち悪いよな……全く、助けてフラグを折るんじゃ意味ないよなぁ。
 と、俺はこの瞬間まで、酷くのんきな事を考えていた。

 初めてそれに気づいたのはかすかに震える麻衣の指が視界に入ったからだ。

 ――いや、待て。そもそも、彼女は俺を……何だと思っている?

 この良くわからない現象に巻き込まれた中で、俺だけ変に力があって、妙な魔法も使ってみたりして。
 それは、気持ち悪いとか、凄いとか、そういう段階の話じゃなくて、つまり
 麻衣は、この状況は全て俺がやった事だと、そう思うのでは――

「えっと、その……」

 麻衣の声が遠くに聞こえる。
 息が詰まる。
 調子に乗ってばかりいて、どうしてこんなことも考えていなかったんだと、心中で焦燥が荒れ狂う。
 同時に、じゃあどうすればよかったんだと、汚い自己正当化の気持ちが暴れだす。
 思いつく限りの言い訳を捲くし立てたいぐらいの気持ちなのに、言葉が喉を通らない。
 怖い。次の言葉を探している麻衣がどんな風に俺を攻めるのかを考えたくない。
 ただ見知っているだけで俺にとっても異郷であるこの世界で、彼女達に見捨てられるかもしれないという想像が、たまらなく恐ろしい。
 ゆっくりと息を吸い込んだ麻衣に、俺は決定的な言葉を予感した。

「ここって、地球とはぜんぜん違う、その……異世界……みたいな所、なんですよね」

「……みたいだな」

 しかし、ようやく出てきた言葉はまだ俺を攻めてはいなかった。
 未だ身構えている俺を尻目に――麻衣は、ほっと息をついた。

「ですよね……最初からそんな風には思ってたんですけど」

「そう、思ってたのか?」

 会話の流れが変わっていくのについていけずに生返事を返すしかない。
 そんな俺を気にした風もなく、そして、先程の現実を認める台詞こそが一番辛かったのだと言う様に、麻衣は気軽に言葉を続けた。

「そういうお話、よく読むので。異世界に呼び出されてそこは一面の草原でしたって、王道ですよね」

「あ、ああ、ワンパターンだな」

 違います、王道です、と訂正された。

「でも、すぐには信じられなかったんです。ここは本当はヨーロッパのどこかで、一瞬で気絶して連れて来られたから昼になってるんじゃないか、とか。そんなありえないことも沢山考えました」

「ああ、俺もだよ」

 嘘じゃない、が、本当でもない。俺は心のどこかでこの世界のことを知っていた。
 彼女が考えている事がわからなくて、ただ話にあわせることしかできない。
 麻衣はゆっくりと首を左右に振り、あわせて長い髪がふわりと揺れる。

「わかっていたのに、でも信じ切れなくて。どうして良いかわからなかった時、先輩が見せてくれたんです」

「俺が……何を?」

 唐突に話が俺に向いた。いや、唐突ではないのか? 理解が追いついていない。
 ただ心中には不安とない交ぜになった希望がある。
 もしかして麻衣は、勘違いしている?
 いや、違う。

 麻衣は、俺の事を、勘違いしないでいてくれている……?

「はい。ただ異世界に呼び出されたんじゃなくて、先輩には不思議な力が使えるようになって……そっか、やっぱりそういうことなんだなって」

「……」

「聞こえてました、先輩が狼に襲われた時に魔法を使うの。それで気がついたんです。私達、役目があってこの世界に来たんだって。きっと、大事な大事な、私達にしか出来ない役割が」

「……」

 何も言えなかった。
 小説オタか、方向性が違うだけで俺に劣らず痛い思考だな、とは口に出せない。
 そして、確かにそうかもしれないと思ったのもある。
 俺達がこの世界に来たのはただ迷い込んだんじゃなく、何らかの意味があるのは間違いない。
 それは路地で誰かが出したに違いないあのポータルゲートが証明している。
 ならば麻衣の言う事は理解できる。きっとどうしても俺達を呼ばなければならない理由があったのだ。
 しかし意味、理由があるとしたら、それは本当に俺達四人になのか? 
 ゲームのキャラクターを持っていたのは俺だけなんだ。
 なら本当は呼ばれるのは俺だけで三人は――

「先輩も、怖かったんですよね」

 俺の頬にそっと細い指が触れた。
 思考の渦の中で麻衣と健一、桂木に見捨てられるという想像よりなお恐ろしい事実に気づこうとした俺を、滑らかな感触が現実へ引き戻す。

「よくわからない力が突然使えるようになって、でも今そんな事言ったら、きっと先輩が疑われます」

「っ! 麻衣は、そう思っていないのか?」

 俺を見上げた麻衣の顔から前髪が流れ、表情がはっきりと映る。
 まるで俺が見ているのを確認して、安心させるように。麻衣はふわりと微笑んだ。 

「怖かったのに、不安だったのに、本当はきっと嫌だったのに。私を守ってくれたんですよね」

「――麻衣」

「弱い私が悪いのに、熱の出た私を助けるために、頑張ってくれたんですよね」

「……」

 涙が出そうだ、とかそんな事はないと思う。
 少し視界がうるんでいるような気がするが、今泣いてしまったらそれは裏切りになる。
 麻衣は、勘違いをしている。それは正しくて、とても優しい勘違い。
 俺を信じてくれた麻衣に報いるために俺は言わなければならない。
 本当は、スキルを使って見せる自分が痛々しくて言いたくなかっただけなんだと。
 一人上から目線で、みんなからどう思われるかなんて、考えても居なかったのだと。
 俺はそんな奴なんだと、ちゃんと伝えないと――

「だから……ありがとうございます、先輩」

「――っ!」

 顔を背けた俺を追うことなく、麻衣はゆっくりと話を続けた。

「先輩は僧侶さんなんですよね。じゃあ……富田先輩が異世界の勇者、かな?」

 そんな風に言って、逆の方が合いそうです、と彼女は笑った。

「なら桂木は、戦士か」

「桂木さん、怒りますよ?」

 言うべき事はこんな事じゃない。もっと大切な事がある。
 でも、もしも許されるのなら。
 ただ彼女を助けただけの俺にそんな資格があると言うのなら。

「それなら私は魔法使いになりたいです。そしてみんなを家に連れて帰る魔法を……」

「――麻衣」

「……はい?」

 優しい夢を語る麻衣を真っ直ぐに見た。
 とてもじゃないけど最高のタイミングではないと思う。
 こんな半泣きの顔で、散々慰められた後に言ったって絶対に決まる台詞じゃない。
 それでも俺はどうしても、彼女に伝えたかった。
 あの時言わなかったあの一言を。

「俺が、守るよ」

「……先輩?」

「何が起こるのか、何をしなきゃいけないのか、何もわからないけど、それでも。絶対に俺が――」

 一度冗談のように考えた。
 二度と麻衣を苦しめたりしない、その前に助け出すヒーローになろうと。

「――――」

「――俺が、麻衣を守るよ」

 照れくさいとかそんな問題じゃなかった。
 自分の情けなさを嫌という程実感して、こんな台詞を吐く資格なんて何処にもないと腐りながらそれでも。
 どうしても、口に出さずにいられなかった。

「……はい」

 帰ってきたのはたった一言だったが、彼女の笑顔を見られただけで、心底から、言ってよかったと思った。
 きっとこの、一生で一番恥ずかしい思い出を、俺は永遠に後悔したりはしないだろう――




「健先輩……!」

「うん、すずちゃん。君が、僕を守るよ」

「はい、私が先輩を……ふぇ、ええええ!?」

 背後から漫才のような声が聞こえて、俺は猛烈な勢いで振り返った。
 久しぶりに見る黒い笑みで笑う富田健一と、真っ赤な顔で健一に詰め寄る桂木すずがそこに居た。

「お前ら、いつから居たんだ!?」

「えーと、僕が勇者って所からかな」

 良かった、危ない部分は聞かれていない……だが。
 ある意味それ以上に大事な部分を思いっきり聞かれている。
 ああもう、もしかしてやっぱり口に出すべきじゃなかったのかと、俺は既に軽く後悔し始めていた。
 いや、それよりもだ。

「俺の後ろに居たんなら、麻衣、気づいてたんだろ!? なんで言わないんだ!」

「え、いえ……その、先輩、とても素敵でしたよ?」

 麻衣の白い肌が少し朱色に染まっている。
 いや、そんな問題じゃないんだ。
 はっきりと好意を示してくれるのはうれしいんだが……ちょっと待て。
 よく考えると俺のさっきの台詞は言わば告白みたいなもので、それに対して麻衣のこの反応はその、そういう?

「僕も守ってよ、山田ー?」

「……お断りだ。死ぬときはお前からだぞ、勇者健一」

 空気を読まずに、それとも読んだのか。茶化してきた健一に言ってしまった瞬間、少し罪悪感を感じた。
 健一は俺がゲーム内の力を持っているのを知らない。その上で、俺が健一を勝手に勇者扱いするなんて。

「こんぼうも持ってない勇者じゃスライムにも勝てないよ。……ねえ、山田、麻衣ちゃん」

 真剣な、というよりも何処か開き直った表情で、健一は続けた。

「僕らも色々街を見て、話を聞いて……ここは地球じゃないんだなって思ったんだ。これだけの人がこんなに上手に日本語を使ってるってだけでも理由には十分だよ」

 言われて気がついたが、町の人々はみな金髪であったり桃髪であったり銀髪であったり、顔立ちも西洋風にしか見えないのに扱う言葉は淀みのない日本語だ。

「建物の仕組みも街の構造も違うし……信じられる? 魔法を使ってる人も居たんだよ? それを二人にどうやって言おうかと思ったんだけど、やっぱり同じこと考えてたんだね」

 思わず麻衣と二人顔を見合わせ、自然と苦笑しあった。
 真面目に町を調べて苦しみながら結論を出したのだろう二人とは、俺たちの思考の過程は全く違う。
 わざわざ言う必要も無いか。みんな同じ気持ちでここから頑張れるのなら、俺も心を入れ替えよう。
 麻衣を守る。みんなを守る。そして、絶対に三人を元の世界に連れて帰る。

「……先輩、大丈夫ですよ」

 座ったままぐっと握り締めた俺の右手に、麻衣がそっと手を添えた。
 ありがとう、一緒に頑張ろう、と。口には出せなかったが……気持ちは伝わったと思う。
 直後、二人の空気を盛大に全力で壊すように健一が俺たちを引き離して。

「それでさ! 色々話を聞いたらこの世界には実在する神様が居るんだって!」

「……神様が……? 本当、なんですか?」

 興味深げに首をかしげた麻衣に、健一が詳しく話を聞かせている。
 ライソード教国という神を信奉する国に、神は定期的に光臨するのだと。

 確かに、居る。イベントで会った事もある。
 しかしゲームの話だと思っている俺には全く出てこない発想だった。
 言われて本当に納得した。目からうろこが落ちたと、そんな気分だ。
 なるほど、この世界が実際にあるのなら、実在する神に頼るのは理にかなっている。

「ちょっと遠いみたいなんだけど、そこを目指してみようと思う。もちろん移動はできるだけ安全な形で、途中でも地球の話を聞く。どうかな?」

「ああ、いいと思う。神様が居るってんなら当然何とかしてくれるだろう」

「やっぱりそうですよね? 私と健先輩も、聞いた瞬間にこれだ!って思って……」

 ぐぅ~と。勢い込んで話しに入ってきた桂木の腹の虫が大きな鳴き声を上げた。
 思わず黙り込む一同。気にする必要は無い、みんな腹は減ってるんだ。

  ~♪~~♪♪♪~♪~~♪♪~~

 誰かがフォローを入れる前に、遠くから勇壮な楽曲が聞こえてきた。
 俺にとっては聞き覚えのある音色だった。しかし、この曲は――。

「この曲、何でしょうね? もしかして今更、ここでネタばらしー、なんちゃって!」

 これ幸いと話を再開する桂木と

「もうそういう希望を持つの、やめようよ……」

 諦めたように言う健一。
 一連の流れに、麻衣もくすくすと笑っている。
 俺の方は聞こえてくる曲に疑問を感じていた。これは帝都の城で流れてくるBGMの筈なのだ。
 徐々に大きくなっていく音楽はどうやら楽隊が歩きながら演奏しているようだった。
 楽隊だけでなく槍や剣を持った戦士も一緒に行進していて、俺達の居る中央広場の前を通るように東から進んできている。

「豪華だね……お祭りの日なのかな?」

「にしては露店とかないですよねー。あったら健先輩とまわれたのに……」

「勇者歓迎のお祭り、とかじゃ……」

 いつも通りの桂木と、妙な事を言い出した麻衣を放って俺はその行列を見つめた。
 帝都で流れるBGMという事はまさか皇帝が来ているのかもしれない、と。
 しかし行列の中心にすえられた大き目の馬車の屋根に座る一人の少女の姿に、その予想はあっさりと覆された。

「可愛い……ねえすずちゃん、あれ王女様のパレードかな?」

「うう……私、先輩に可愛いって言われたことない……」

 諦めろ桂木。
 そしてあれは多分王女じゃない。
 あの服装は、攻性剣士中位職の――

「いやー、名高いドラゴンナイトのクーミリア様がこの街にも寄ってくださるとは、ありがたいことだ」

「……ドラゴンナイト?」

 通りがかりの町人の会話が聞こえてきたが、さっさと通り過ぎたのか続きは聞こえてこない。
 麻衣達が疑問符を浮かべている中、俺は一人で納得していた。
 ――名高いドラゴンナイト様、か。
 ドラゴンナイトは攻性剣士の中位職、つまり初期職の一つ上というだけのそれほど強くない職業だ。
 しかしこの世界では、それでもパレードの中心になるほどの存在になっているとは。
 ダンジョンから溢れてくるモンスターを押さえ込むために各国が必死になっているというゲームの設定と
 そのダンジョンの中でモンスターを好き放題に倒すプレイヤーという矛盾が、どうやらこの世界では正されているらしい。
  中位職ですらも数少ない、そんな状態なら、モンスターはともかく人間相手ならみんなを守れるかもしれない。
うん、と頷いて気合を入れ、通り過ぎたパレードをまだ見送っている俺の『仲間』に声をかけた。

「それより、こんなに人が来たんなら宿とかホテルとか一杯なんじゃないか?」

「っ!!」

 言った瞬間、桂木が凄い勢いでこちらに振り返った。

「そうですよ、急いで探さないと今日も外でになっちゃいますよ! ホテル街ありましたよね、すぐ行きましょう、健先輩!」

「すずちゃん、その言い方は……」

 言葉の選び方が悪すぎるぞ桂木。わざとなのか?
 すぐさま歩き出した桂木に苦笑しながら健一が続く。
 先に立って俺を振り返った麻衣に頷いて俺も桂木を追いかけた。





「おう、四人で一部屋で良ければ開いてるぞ」

「や、ったぁぁぁぁぁぁ」

 先頭に立って、立ち並ぶ宿屋に突撃を続けた桂木は10軒目にして空きのある宿を見つけ、へなへなとへたりこんだ。
 もふもふした茶色の髪がしおれているのを俺は特に気にしていなかったが、本人は相当恥ずかしかったんだろう。
 かすかに、お風呂、シャワー、髪、ベッドとつぶやいているのが聞こえる。頑張ったな女の子。
 ――むしろ二晩近く何もしていないのに全く変わらない麻衣の方が絶対におかしい気がする。

「……山田、先輩?」

「何も言ってないぞ?」

「いえ、呼ばれた気がして……。私も、お湯が欲しいんですよ?」

「あ、ああ。ここまでご苦労様だった、な」

 俺は口に出していないし、麻衣の方を見てもいない。女の子は、やはり怖い。

「先払いになるが、構わないか?」

「あ、はい。お幾らでしょうか?」

 桂木に代わって宿屋のおやじさんに対応した健一の顔が、次の言葉で引きつった。

「4人で一部屋で、一晩40ベルだ。夕食もつくぞ」

「……円じゃ、ないんですか?」

「ん? ベルを持ってないのか? 悪いがベル以外の金なんざ見たことねえ、ウチじゃ扱えないぞ」

 無言で振り向いた健一、ゆらりと立ち上がる桂木、のっそりと近づいてくる麻衣。
 何で全員俺の方に来るんだ。何か不気味だぞお前達。

「どうしよう、日本語が通じるから絶対円で通ると思ってた」

「ここまで来てお金が無くて無理とか絶対駄目ですよ、嫌ですよ!」

「何かお金になりそうな物を急いで売りに行けば……」

 健一が時折見せるような黒いオーラが全員から立ち上っている。
 思わず、周囲浄化の上位神聖魔法を使いかけた。やめろお前ら、おやじさんがおびえてる。

「ベルっていうのは、どういう物なんですかね?」

 今更こんな初心者丸出しのことを聞くのは酷く恥ずかしかったが、とにかく話を進めないとまずい。
 俺が代表して前に出ておやじさんに声をかけた。

「これだよ、見たことないか? モンスターを倒したって出てくるじゃないか」

 突き出されたおやじさんの手のひらにベルのマークが点滅している。
 あからさまに魔法の匂いを感じる貨幣に、三人の顔がさらに引きつった。
 次のリアクションを取られる前に、俺はさっさと会話を続ける。
 幸いにも理由は既にあるし、金銭を持たないままではどうせ身動きがとれないのだ。
 疲れた上に異世界を認めた開き直りと宿を見つけた喜びと落胆、全てで混乱している今押し切ってしまった方がいい。多分。

「これでいいんですかね?」

 いつも通りに、NPCにトレードを要請するイメージ。
 俺の手のひらに恐らくは丁度40単位であろうベルの光が点滅した。

「何だ、あるんじゃねえか。3番の部屋だ、飯が出来たら呼ぶから休んでな。」

 おう毎度と俺のベルを吸い取ったおやじさんから鍵を受け取り、仲間からの無言の視線を感じながら宿の奥の部屋に歩き出した。



「べっどぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

 ばったーんと激しい音を立て、桂木が子供のようにベッドに飛び込んだ。
 一人10ベルと安価な宿だったが、部屋は4つのベッドで埋まって広くはないものの、決して悪くはない。
 俺が何となく座らずに立っているとそれぞれ好きな場所を選んで寝床を埋めていった。
 入り口傍のベッドに転がる桂木と、その隣に座った麻衣、一番奥に腰掛けた健一。ベッド同士の間は酷く狭いというのに、何だこの順番は。
 さっきの恥ずかしい台詞を聞かれていた為か、全く誰も気にする様子が無い。
 確認を取っていないだけで、俺と麻衣が隣というのは妥当なのかもしれないが……当然みたいな空気はどうも落ち着かない。
 ゲームの中をのぞくと彼女居ない暦=年齢なんです。
 後ほど現状の正確な把握を要求します、松風麻衣さん。
 それとも俺から改めて言うべきなんだろうか。気恥ずかしさとは別に、何故かそういう気にはなれなかった。

「それにしてもさ。僕はもう山田が何を出してきても驚かない気がするけど、さっきの、何なの?」

 確かに烏龍茶だチョコレートだ水だベルだと色々出したような気もする。
 烏龍茶は本当にたまたま買っていた物だが残りはインベントリから出したのだ。ごまかしておくしかないだろう。
 もう少し深刻に聞かれていたら危なかったかもしれないが、宿が決まって気の抜けた健一でよかった。
 それに――何なら、バレてしまったって構わない。きっと麻衣は俺を弁護してくれるだろう。

 とりあえず、一応の理由を伝えておく。

「気味が悪いから言わなかったんだけどさ、でかい犬に襲われた所、あるだろ。あそこに落ちてて、拾ってきた」

「あの犬……? あれ、モンスターだったんだ?」

「おやじの言うことを信じるなら、そうなんだろう」

「……よく生きてたねぇ、僕たち」

「全くだ」

「…………」

 話題がモンスターにシフトしたのは良かったのだが、これはこれで問題がある。
 やめろ、これ見よがしに目線を送るな、麻衣。小説の世界と違って俺は英雄とかになる気はないんだ。
 みんなを英雄にするつもりもない。みんなを守るので多分精一杯なんだ。
 だからそんな期待に満ちた視線を注ぐのはやめてくれ――。

「まあ、怪しいものじゃなくてお金だったみたいだからな、みんなにも分けておくよ。俺の感じた気味の悪さを共有してくれ」

「嫌なこと言わないでよ……」

 シュタイナーウルフのドロップはたかだか500ベル程度だが、言わなければわかるはずも無い。
 俺のインベントリのベル欄には少なくとも億の単位の数字が表示されている。面倒を避けるためにも多めに渡しておこう。
 健一を指定して、トレード要請。10k――いや、一万単位程のベルが俺の手で点滅する。
 おっかなびっくり差し出してきた健一の手に近づけると、吸い込まれるようにベルのマークが消えた。

「うわ、うっわ……何これ、いや、えぇぇ、何これ?」

「どうだ、ろくでもない感じがするだろう。ほら、桂木も」 

「き、消えた……健先輩、大丈夫です……ひゃぁぁぁぁぁ!?」

 この世界に入った時から相当のベルを所持していた俺も、最初にベルを拾ったときは気味の悪い感じがした。
 二人は相当の違和感を感じているんじゃないだろうか。頑張れ、これが使えないと何も買えないんだぞ、多分。
 うわぁうわぁと騒ぎ続ける健一と桂木が落ち着く前に、隣のベットから麻衣がゆっくりと手を伸ばした。

「……行くぞ?」

「はい……お願いします」

 こくん、と麻衣が喉を鳴らす音が聞こえた。
 麻衣にトレードを要請するイメージ。2万程度の――うるさい、どうせ贔屓だ――ベルの光が俺の手に灯る。
 手を近づけていくと、ベルの光は麻衣の手の中に吸い込まれて消えた。

「……麻衣、大丈夫か?」

「…………」

 リアクションがない。
 こちらに手を伸ばした姿勢で固まっているのでそのまま握ってみたが、全く動きがない。
 多かったかな、と不安になったところでぽつりと麻衣が言った。

「……頑張ります」

 頑張れ。



 麻衣がぎくしゃくと動き始めた辺りで、宿屋内におやじさんの声が響いた。

 曰く、おら、飯の時間だぞ、と。

 この世界で始めての食事に全員多少の不安を感じていたが
 酒場を兼ねた食堂の狭いテーブルに並んだ食事は、危惧していたよりずっとまともなものだった。
 少し固めだが暖かいパンに、濃厚なトマトのスープ。
 レタスと思わしき野菜のサラダには塩しか振られていなかったが、意外と味は良くて揃って驚いた。
 メインは辛めの牡蠣のソースがかかった牛……と思われる肉の焼き物。
 これで一人10ベル部屋代混みというのは信じられない話だった。

「おう、お前さん方もワインはどうだ?」

「はいっ、お願いします!」

 テーブル毎に酒をついでまわっていたおやじさんに桂木が元気に応じた。
 久々の休息をとり、美味しい食事を取り、皆の表情もずいぶんと緩んでいる。
 それは恐らく俺もだろう。

「しかし、例の騎士様とは関係ないんだろう? 何でわざわざこの街に来たんだ?」

「まあ、たまたま通りがかったから……かなぁ」

 本当の事情を話す訳にもいかないし、言った所で信じられもしないだろう。
 あいまいに話す健一とおやじさんの声に耳を傾けながら、俺の胸に不思議な焦燥感と危機感が湧き上がっていた。
 この町についたときにもあった何かを思い出せていない予感。一体何を――

「ほら、帝都の預言者様が言ったらしいじゃねえか、この町にグレーターオーガが来るってよ。そんでここしばらく来客が減っててよ……」


 ――忘れて、た


「山田、大丈夫?」

「そりゃ山田先輩も化け物は怖いですよー。オーガってほら、ハルク……みたいなのですよね?」

「先輩……」

 ナイフを取り落とした俺を心配してくれる仲間の声も今は遠い。そうだ、これがあったんだ。
 ここカントルの町はゲームのスタート地点であるカールの草原から最も近い町で、ここにたどりついたプレイヤーはあるイベントに迎えられる。
 それが、複数のグレーターオーガとオーガによる町への襲撃だ。
 もちろん始めたばかりのプレイヤーは通常のオーガにすら歯が立たないので、町で高レベルのプレイヤーに声をかけて救援を求める事になる。
 高レベルのプレイヤーからクエスト装備を借り、アイテムの使い方を聞き、それらゲームの基本を教えられ
 初めてのPTを組んで戦い方の基礎を聞き、協力してオーガを撃退する、そういう一連のクエストだ。
 助けた方のプレイヤーも町を舞台にしたお祭りクエストを楽しみ、さらに報酬がもらえるので人気がある。
 ただ最近では初心者はめっきり減っていて俺自身はもう年単位で参加していなかったので完全に忘れていた。

 だが、ここには高レベルプレイヤーなんて居ない。
 俺のレベルは確かに高いが、昨日この世界に出現したという意味で言えば俺にも初心者側としてクエストを受注する資格がある筈だ。
 そうなるとイベント自体が成り立たない。恐らくこの会話はそんなイベントがあるよ、というフラグなだけだ。
 だが、そうではないという予感がしてならない。俺は、何かを見落としている?

「何だ兄ちゃんビビってんのか? 大丈夫だよ、わざわざ例のドラゴンナイト様まで来てるってんだから、オーガなんざ本当に来たって問題ねえさ」

 ――そうか、それで――

 がっくりとうなだれた俺を笑い飛ばし、おやじさんは厨房に戻っていった。
 ああ、それでわざわざドラゴンナイトなんてのが凱旋していたわけか。
 ドラゴンナイト単独では相当の装備と潤沢なアイテムを持ってようやく1匹のグレーターオーガと戦える程度だが、それでもやれることはやれる。
 彼女を高レベルプレイヤーとして扱い、その力を借りてクエストを攻略する……とでも言いたいのか。
 そこまでして条件を揃えて、一体何をしたいっていうんだこの『仕掛け人』は……!

 それなら、断る。こっちは絶対に、乗ってなんてやらない。
 そもそもネットゲームのクエストというのはやりたくなければやる必要はない。
 一人用ゲームの様にクリアしなければ次の町に進めないという強制クエストは、一部の高レベルダンジョン以外には存在しないのだ。
 今回のオーガの襲撃イベントも専用のMAPで行われ、外に出れば失敗扱いで一般フィールドと合流する。
 つまり、オーガが来る前に町から出てしまえばもう一度戻らない限り俺たちには関係なくなるのだ。
 大丈夫だ。臆病者と言われてもいい。皆を連れて安全に逃げ出そう。

 食事を終えて部屋に戻ろう、という所で麻衣が俺を呼んだ。
丁度いい、多少誤解しているとはいえ麻衣はいくらか事情を理解している。先に話しておこう。

「麻衣、例のオーガの話だよな。あれなんだが明日の朝一で――」

「はい、頑張りましょうね、先輩」

「――町を……出よう……と……麻衣、さん?」

 この『クエスト』に謎の意気込みを見せる麻衣。
 今のは聞き間違いだろうか?

「いや、ああいう話になった以上、パターンとしてオーガは来る気がしないか?」

「はい、きっと来ると思います。あそこまで思わせぶりに話をして結局来ないなんてありえません」

「だよな。だから……」

「はい、頑張りましょう。私、まだ何も出来ませんけど、精一杯協力しますから」

「…………」

 この世界には俺達しか出来ない役割があって、それを果たすために4人は呼び出された。
 麻衣は確かそんな事を言っていた。俺も否定はしなかった。
 つまり……

「最初の狼で先輩が目覚めて、次はもしかして、私だったりするんでしょうか。ちょっとドキドキしちゃいますね」

 らしくもなく無駄にハイテンションの麻衣。
 そうか、本当に今更だけど、こういう子だったのか。
 もしかして、あの台詞は失敗だったかな……。
 俺の両手を握って頑張ろうと繰り返す麻衣は放っておいたら一人でオーガに戦いを挑みそうな勢いだ。
 自分から危険に飛び込むヒロインを、ヒーローはどうやって守るというのだろう。
 ああ、本当に、余計なことを口に出さない方がいいのかもしれないと。俺は既に二度目の後悔をしていた。



[11414] 第三話 でたらめな天秤
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:16
  完全に夜の帳が下りたおやじさんの宿。
 室内唯一の明かりだったランプの火を消して俺達はようやくまともな寝床で眠りにつこうとしていた。
 丸一日以上越しにまともな食事によって満たされた胃袋と、久々に汗を流した肌を流れるシーツの感触。
 それだけで、涙が出る程に幸せだった。
 窓にカーテンなんて洒落たものはないので外の明かりで部屋内がうっすらと照らされている。
 僅かに聞こえる誰かの寝息と衣擦れの音が、俺に一人ではない安心感をくれると同時にその重みを感じさせていた。

 天井を向いて明日の事を考えながらふと寝返りを打つと、かなり近い距離に女性の顔があった。
 思わず驚いた俺に、隣のベッドで横たわっている麻衣が少し笑ったように見えた。ちょっと照れくさい。
 隣と言っても狭い室内。二人の間にはほんの少しの空間があるだけなのだ。
 ずっとこちらを見ていたのだろうか。何となく目を合わせたままで時を過ごした。
 外から微かに聞こえてくる馬の嘶きと蹄の音が否応なく異国であることを理解させたが、今この時だけは全てを忘れて安らいでいられるような気がした。
 ゆっくりと流れる穏やかな時間に目蓋が重くなっていくのを感じる。

 そんな時、俺はふと少しの暑さを感じてシーツから手を出し、二人の間に置いた。
 特に何を考えていたわけではない。暑かったというだけだ。
 しかしその手を、同様に手を出した麻衣がそっと握った。
 眠りかけてぼんやりしていたせいか俺は驚かずに握り返し、麻衣も少しの力を返してくれた。
 腕を伸ばすという程の距離もない。少しだけ手を出して握り合ったまま静かに見つめあう。
 言葉を交わす事なく、それでもどこか分かり合い、俺達は眠りに落ちていった。
 予想外の言動に動揺して結局確認はしていないが、この手の先に居るのが初めて出来た俺の恋人なんだと思う。
 明日、俺は彼女のために、オーガの群れから街を守る。

 ――いや待て、それはおかしい。














第三話 でたらめな天秤














  朝の日差しと街の喧騒にゆっくりと意識が戻ってきた。
 よく考えると俺にとってはこの世界に来て初めての眠りだったのだが、特に夢らしい夢も見てはいない。
 キャラクターの能力的に体力と精神力が無駄に高い為だろうか。ホームシックのような気配もない。
 元が電子データの『ステータス』に感情すら支配されている自分に恐怖を感じているのは確かだ。
 しかしそれすらも気軽に乗り越えてしまうのが限界値まで引き上げられている精神力なのだろうか。
 俺はその点について余り気にせずに済んでいた。
 正直、ただ廃人だからだという結論が自分の中で出ている気も、した。

 耳を澄ますと3人分の寝息が聞こえてくる。
 まだ皆眠っているのだろう。

「……ぅん……」

 手を繋いでいる俺が動いたからだろうか。隣で寝ている麻衣が少し身じろぎをした。
 元の世界とは違うからか朝の空気はどこか肌寒く感じられ、握ったままの彼女の手をそっとシーツへ戻した。
 この手は一晩中そのままだったのかと思うと少し感慨深い。

 しかし今最も大きな問題なのも、この可愛い彼女さんの事だ。
 幾らかの事は、昨日の本人の話でわかっている。
 元々ジュブナイルが好きだった麻衣は、この世界に放り出された瞬間から、これはまさに物語のような出来事だと思い始めたらしい。
 しかし何の理由もなく異世界に吸い込まれたのなら、巻き起こるのは冒険活劇ではなくホラーかスリラーになる。
 その点で不安に思っていた所、同行者の一人が自分を庇って狼に立ち向かい、なんと魔法を使って見せた。
 そうか、私達は異世界に召還された勇者なんだ――という事で彼女の中で決着がついたようだ。
 ついでに、突然の力に混乱しながらも自分を助けようと必死になった先輩というのは、彼女の中の基準値を満たしていた模様。

 いや、それはいいんだが。
 その考えはオンラインゲームの世界に入り込んだと思っている俺よりはまともだと思う。
 そうして同じく異世界に来たと理解している俺と彼女だが、しかし重要な違いがあった。
 それはそのまま、この世界がゲーム中の出来事なのか物語で語られるお話なのかという事だ。

 ゲームだと思っている俺にとって無理な事は無理だ。
 やれば死ぬ。そして痛手を負う。決してやるべきではない。

 だが物語だと思っている麻衣にとっては、登場人物が無茶に挑む事こそが自然なんだろう。
 そして課せられた使命を果たさなければ帰還できないのはそういった物語の王道でもある。

 彼女の中では、生きて帰る為にもオーガ退治は避けて通れないイベントなのだろう。
 最低でも一人は力に目覚めているので勝算はある……という所か。

 どちらが正しいのかは俺にもわからない。
 何せ確実にわかっている事は異世界に呼び出されたという事実だけだ。
 この世界そのものがゲームと同じ設定に由来していたとしてもおかしくはない。
 ――そしてもし麻衣の説を信じるのならば。
 全員に使命があったのだと、するのならば。
 呼び出されたのは特別な力がある俺だけが原因で、三人は巻き込まれただけなんだと思う必要は……ない。
 麻衣が無理にやる気になっているのはその点も要因にあると思う。
 恋人が悪いと思いたくないから、だから恋人をオーガと戦わせる。
 なんとも良い彼女だ。ああ、本当にそう思う。

 麻衣の説が正しければ俺達はこの試練を乗り越える。じゃなきゃ、それこそ『お話』にならない。
 しかし俺の考えが正しく、これはオンラインゲームのクエストを模したものだとしたら、相当に危ない状況だ。
 レベル1ならグレータオーガどころかオーガの攻撃の余波ですら十分に死ねる。
 それを三人抱えて、攻め手は中位職NPC一人で、全員無傷でクエストを突破しようだなんて
 そんなのは絶対に無理だ。

 ここまでの短くない時間で元はただの知り合いに過ぎなかった三人は俺にとって大切な仲間に変わっている。
 ゲームの雰囲気のせいで危機感を持てない俺を見捨てることなく、自身が折れることなく、生きて帰ろうと努力する健一も。
 ビッチだなんて思っていて悪かった。今ならお前がどれだけ一途に健一を思っていたかがわかる。桂木の事も。
 勿論、麻衣の事も。
 誰かを死なせてしまうなんて俺には考えられない。

 もしシステムが同じであれば、このイベントは町を出れば問題ない筈なのだ。
 やはり機会を見つけて説得してしまうのが一番手っ取り早い。
 朝一とはいかなくなったが、オーガが来る前にとにかく出発する。
 もし嫌がるのが麻衣だけなら強引に引っ張り出してもいい。
 麻衣の普段の押しの弱さを攻めて、絶対にダメだと言い切ってしまっても良いんだ。

 ……だが、それなら昨日の夜にも出来たのだ。

 どうしても怖かった。恐ろしい事があった。

 もしも俺を信じてくれる麻衣を裏切って、嫌われて、麻衣が俺を疑うようになったら。

 そして健一や桂木も同じ考えに至ってしまったら。

 この手の暖かさを、一度得たものをどうしても失いたくない。

 その考えが楔のように俺を縛りつけ、動きを封じていた。


 ――まあ、死んでも生き返らせればいいし、適当でいいだろ


 うるさい、黙れ……っ!







 朝から聞こえていた街の喧騒には、何処か剣呑な雰囲気があった。
 目を覚ました女性陣の身繕いの時間を利用して健一の説得にあたる事にしたのだが、宿の外は明らかに戦いの準備といった様相で、どうにも落ち着かない。

「どうにもヤバそうな感じだよな。今日の早いうちにこの町を出た方がいいんじゃないか」

「うーん、どうなんだろうね……」

 道の半ばをふさぐように設置された棘の突き出した木製の柵に腰掛け、健一も首をひねった。

「手元にないから正確な事は言えないけど、昨日見かけた地図では隣町まで結構距離があったよ。もう一泊して疲れを取って、準備もちゃんとしてからじゃないと動くのは危ないんじゃないかなぁ」

 正論だ、正論であるが故に困る。

「そりゃそうなんだが……それでオーガに襲われたらもっと大変だとは思わないか?」

 俺の言葉を臆病さと取ったのだろう、健一は気楽に笑った。

「大丈夫だよ。昨日あんなに沢山兵隊さんが居たし、ドラゴンナイトって凄い女の子も居たんだから。もし来たら、ベルマークだけ集めに行こうよ」

 渋面を浮かべる俺を、冗談だよと笑い飛ばし、健一は宿に戻っていった。
 ため息をついた俺の横を長い槍を背負った軽装の戦士らしき男が通り過ぎていく。
 この戦士はオーガにも勝てないし、素のドラゴンナイトじゃグレーターの相手は出来ないよと言ったら果たして信じてもらえるだろうか。

 呼ばれた訳でもないのにさっさと部屋に戻った健一を追うと、女性陣はしっかり身支度を終えていた。
 相変らずこういう時の健一は凄いと思う。どうしてわかったのだろうか。

「宿のおじさんが朝食も食べてけって言ってましたよ。行きましょう健先輩! 山田先輩も!」

 桂木は朝から随分とテンションが高い。
 少し落ち着いてくれ、腹ペコキャラだったのかお前は。
 元気良く朝食へ向かった桂木を追って俺も食堂に向かった。

 朝食は昨日のトマトのスープがそのまま冷製に、後はバターを混ぜ込んだやわらかいパンだけの質素なものだった。
 だがそれに不満を覚える者は誰も居ない。
 丸一日何も食べないぐらいたいしたことはない、そう思っていた現代人の俺たちの意識を命懸けで歩き通した一日が完全に変えていた。

「でよ、近くでオーガの大群を見かけたって話が何件も来てるらしくてな。そんでこんなに物々しい準備をしてるって訳だよ」

 聞いてもいないのに、牛乳を配りながらおやじさんが話す。
 専用MAPに入っている以上今日の夜には戦闘が始まる。設定通りなら近くに居るのは当然だ。

「避難とかはしないんですか?」

「どっから来るかわからねえからな。斥候が見つけたら安全な所に誘導するんだとよ」

 狼のモンスターですらあれだけの脅威だった事を考えれば、怪物の代名詞にも近いオーガとはどれほどのものかは誰にでも想像が出来る。
 オヤジさんが厨房に戻った後、俺の前では平静を装った健一も含めて皆少し不安気だ。
 今なら、聞いてもらえるだろうか?

「やっぱりさ……早く町を出た方がいいんじゃないか? 昼にでも出発すれば大丈夫だと思うんだが……」

 精一杯真剣に伝えたつもりだった。

「山田先輩ー、もう、何言ってるんですか」

 しかし本当に深刻に思っている俺の意図とは違い、からかうように桂木が笑った。

「町の外にオーガが居るから、急いで町から出よう。何ですかその理屈、おかしいですよー?」

「この町の外には殺人鬼が居る、こんな町に居られるか、俺は一人で行くぞってね。山田、死んじゃうよ?」

「……いや、そうだな。すまん……」

 ……ごもっともだ。
 意外と怖がりなんだなぁ山田は、という話で場はなごんだ。
 なごんじゃダメなんだよ、なごんじゃ。

「先輩、頑張りましょう」

 うるさい、笑うな麻衣。




「とりあえずもしもって事もあるから、どこから逃げられるか見ておこうか」

 そういう話で町を歩き始めた筈が、何だろうこの状況。

「健先輩可愛いから本当にどれでも似合いますよねっ。これ、これ着てみてください!」

「すずちゃん、これ多分女物だと思うんだけど……」

 カントルの町の防具屋である。
 言い方を変えるなら、服のお店である。
 当然のこと鎧や兜も置いているのだが、店が広すぎて一部を見ていると普通の洋服店と見まごう程だ。
 しかしどれも普通の衣類より丈夫な生地で出来ていて旅人用の服と言うにふさわしいものばかりである。
 確かにいつまでも元の世界から着ていた服で済ますわけにはいかないのだ。早めに調達した方がいいのは間違いないと思う。
 だが女の子がはしゃいでいるこの雰囲気が俺にはどうにも慣れない。
 桂木の事は健一に任せて俺は実用装備を探す事にした。

 店内を回ってみると、見慣れた名前の防具がそれぞれのデザインで陳列されている。
 ゲームの中の装備品がこうして確かに存在しているというのは少し感動的な光景だった。
 重厚な鎧や兜、どこか魔術的な力を放つ衣類と僅かに神聖な光帯びた聖者の服。中には俺が装備できる物もいくつかある。
 手に取るのは堪えたが、中にはデザインだけで買っておきたいと思う程の品も見かけた。

 ――ともかく、今は俺の装備のことじゃない。
 条件なく装備する事の出来る防具の中で比較的防御力の高い物を考えながら幾つかをリストアップしていく。
 レベル1のキャラクターが装備なしでオーガの攻撃を受けたら即死は避けられないのだ。
 しかし金はあるのだし、ここでしっかりと良い防具を選んでそこそこの硬さに強化すれば
 まあオーガの一撃ぐらいなら何とか耐えられ……

「……耐えられない、よな……」

 根本的にHPが低すぎるので、多少硬い装備で軽減したぐらいでは無意味だ。
 それを何とかしようとすると固定でダメージを割り引く特殊防具や、高級付与魔法が必要になる。
 ユーザー商店があればまとめて買いこんで、見た目は恥ずかしいが割と死なない格好にコーディネートしてやるのだが、ない以上はどうしようもない。
 他にもHPの最大値を引き上げる初心者用特殊装備も存在し、それらは俺も所持はしていたのだが
 レベル最大値のこのキャラクターでわざわざ持ち歩いている訳もなく、ゲーム内の銀行に預けてあるのだ。
 そして銀行は各国首都にしかない。いやはや全く、どこまでも詰んでいる。

「先輩、これ、先輩に似合うと思うんですけど……どうですか?」

 離れたところでせめて丈夫そうな皮の衣類を物色していた俺に、ひょっこり現れた麻衣が声をかけた。

「ん、どんなのだ?」

 少し恥ずかしそうに差し出されたのは、一枚の生地で出来た大きめの、真っ白なローブだった。
 腰の辺りでベルトで軽く絞られていて、デザインとしては悪くない。
 悪くはないのだが……

「……あー、一応は遠出するのに白は難しいんじゃないか。汚れ、目立つぞ?」

「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい」

 慌てて戻っていった麻衣の手にあったローブは金糸で数箇所に十字架の刺繍が施されていて、一目で聖職者の旅装とわかるものだった。
 別にセンスが悪いわけではないんだが、俺を僧侶に仕立て上げようとするのは勘弁してくれないだろうか。
 とりあえず、このジャケットが日本で売ってるようなデザインに近いから……

「先輩、この帽子とかは……」

「――俺、ちょっと他の店見てくる!」

「あっ……」

 どこぞのお菓子にありそうな形をした平たい帽子を持ってきた麻衣から逃げるように、俺は店を飛び出した。



 きっと彼女も付き合い始めでハイテンションなんです。普段はあんな子じゃないんです。
 心の中で自分で自分に弁護をしつつ、俺は防具屋の前でため息をついた。
 とにかく少し時間を潰そう。一歩踏み出して正面に視線を向けたところで、妙な光景が視界に入った。
 数人の戦士に指示を出す年の頃13,4歳の少女。明らかに異様と言える様子だった。
 敬礼をして少女から駆け去る戦士と入れ替わりに、俺の目が少女と合う――と思ったのも一瞬。

 ――これは、まずい。多分イベントだ。

 覚えのあるイベントではなかったが即座の判断できびすを返した。
 しょうがない、麻衣の趣味にちょっと付き合ってやるのも甲斐性だよな、と防具屋の扉に手をかける。


「すまない、ちょっと待ってくれないか」

 少女らしい声質で、しかし流麗な台詞が響いた。
 ついでに言うと、俺の服の裾を小さな手が掴んでいる感触もある。
 ああ、敏捷型ドラゴンナイトだったんですねと諦観の思いを抱き、俺は少女に向き直った。

 昨日は距離があったのでよくわからなかったその姿をはっきりと見ることが出来る。
 一般的なドラゴンナイトの服と、要所を覆う簡単な鎧。どちらも市販のもので防御力はさほど高くない。
 短く切りそろえられた金色の髪は滑らかだが、その線の細さがむしろ幼さを強調させている。
 顔立ちは整ってはいるがまだ育ちきっていないのが明らかで、美しさより可愛らしさが圧倒的に強い。

 総じて、はっきりとまだ子供だとしか感じられない。
 この世界はただ強いというだけでこんな少女に戦場に立つ事を強いているのか。

「……えっと、何か御用でしょうか?」

 じっと見つめていたのが気恥ずかしく、こちらから声をかけた。
 お偉いドラゴンナイト様に相対するには適当な言葉選びだったかもしれないが、当人は特に気にした様子もなかった。

「いや……ただ随分と、腕が立つように見えた」

 向こうも向こうで言葉使いが微妙におかしい。無理をしているのだろうか。
 こちらが返事を返す前に少女はさらに近づき、小さな手が無遠慮に俺の体を這い回る。

「あ、あの……?」

「鍛えている様子はないが……中身は、並じゃない。この魔力は司祭か」

 ――わかるのか。

 一人で納得した様子の少女に、俺は逆に驚かされた。
 各職の固有装備をすれば職業はわかるが、そうでなければ区別はつかないのが普通だ。
 聖職者として偉大な立場にあるカーディナルはスキルを使えばNPCから特別な扱いを受けるが、この世界に来てまだ起動したことはない。
 しかし、会話をしただけで勝手にこちらの職業を判別してクエストを進めるNPCというのは割と居たように思う。
 この少女もその類なのだろうか。
 しかし、ふむふむ、と少し嬉しそうにする目の前の少女がNPC――ノンプレイヤーキャラクター AI仕掛けの機械――だとはとても思えない。

「教国で祈っているしか能がないのが神父どもだと思っていたが、骨のある男も居るものだ。ここまでの情報ではオーガの襲撃は日の入りと同時と予想されている」

 身振り手振りを加えながら少女は続けた。

「私は指揮を担当しているクーミリアだ。襲撃の際は中央で援護をしてくれると助かる。使える司祭が一人居れば戦況は全く変わるだろう」

 厳しい台詞だが、少女らしい姿、幼い声で言われてもどうにも緊張感がない。
 だからだろうか。こんな幼い子供に期待を受けたのにそれに応えられない自分に情けなさを感じながら、俺は素直に口に出していた。

「申し訳ありません、俺は、オーガ討伐には参加できません」

「……どうして、だ」

「仲間もこの町に居ます。オーガにちょっと蹴られただけで怪我じゃすまないような、そんな戦い慣れていない仲間が。俺は仲間を守るだけで手一杯なんです」

 すみません、と頭を下げた俺を、少女はちょっと驚いた表情で見ていた。
 そして少し寂しげに、しかしどこか満足げに微笑んで、頷いた。

「そうか、そうだろうな。大切な誰かより優先するものなど、何もありはしない。……絶対に、守るんだ」

 ではな、と最後まで少女らしい言葉を発することなくドラゴンナイトのクーミリアは去っていった。
 恐らくもう無事な彼女と言葉を交わすことはないのだろう。
 ドラゴンナイト一人ではグレーターオーガを倒す事は出来ない。俺はそれを知っている。

 でも見捨てた。一人の少女と四人の仲間を天秤にかけ、片方を捨てた。
 それは間違っていないはずだ。NPCと仲間を比べる事などできよう筈がない。

 それでも、それでもだ。

 ――この世界は、オンラインゲーム『ワンダー』とは似て非なる世界のようだ――

 いつか自分で思った事だ。
 俺が今切り捨てた物は本当に、機械仕掛けのNPCだと言い切れる程軽いものだったんだろうか。
 忸怩たる想いを抱えて防具屋の扉を開いた。
 そしてそこに

「それ似合うよ麻衣ー、絶対山田先輩より合う合う!」

「うん、可愛いよ麻衣ちゃん。それ一着決めよう」

「そ、そう、ですか……?」

 俺に着せようとしたローブを、麻衣が自分で着ていた。
 まだやってたのかお前達。



 色々買うものがあるので、と別行動を希望した桂木と麻衣を止めるほど、俺は鈍感ではなかった。
 慣れない皮の服の感触にくすぐったさを感じながら。久しぶりに男二人、健一とおやじさんの宿屋へ帰る途中の事。
 俺達は何とも男心をくすぐる店を見かけた。

……勿論、武器屋だ。


「山田体力あるんだし、こういう大きな剣も使えるんじゃないかな?」

「無茶言うなよ、そんなの無理に決まってるだろ」

 何せ聖職者だ。剣は装備できないのである。
 店内に陳列された武器は名前だけ見れば慣れ親しんだものばかりだったが、実物を見ると、これもまた違う感慨がある。
 無理だとは言ったものの、健一の示したバスタードソードにはやはり憧れがあった。

 もしもキャラクターセレクト画面で違うキャラクターを選んでいたなら、俺は大剣を振り回す高位の騎士であった可能性もあるのだ。少し惜しく思える。

「こういう普通の剣って感じのなら、僕でも平気なんじゃないかな?」

「……どう、だろうな」

 そう言って健一が手を伸ばしたのは、名前もそのまま『ソード』と呼ばれる武器。ショートでもロングでもない半端な長さだ。
 長さ的には健一に良く馴染み、文句を言う所などないのだが、俺は思わず言いよどんでしまった。
 あの武器には一応の装備制限レベルがつけられていた。たしか、レベル15ぐらいだ。
 制限に達していないのに無理やり使おうとするとどうなるのだろうか。正直良い予感がしない。

「ま、まあ、初めて刃物を扱う訳だからな。この辺のナイフとかにしておいた方がいいんじゃないか?」

「うーん、そんなもんかなぁ」

 未だにソードが気になるようで、手に持ってちょっとポーズをとったりしている。
しかし。

「……何かしっくり来ないし、そうだね。使いやすいのにしようか」

 良い判断だ、健一。
 鉄製の簡素なナイフ――レベル制限なし――を2本購入してそれぞれが持ち、俺達は武器屋を後にした。
 恐らく俺が使って戦っても素人を超える事は絶対にないのだろうが、冷たい鉄の感触はどこか安心感をくれたのだった。




 日が沈む前に早めの夕食を取ったのだが、味は全く覚えていない。
 昨日と同じ、おやじさんの宿屋の3号室。
 チェックアウトがどうのと全く言われないのを良い事に俺達はそのまま使わせてもらっていた。

「そのドラゴンナイトの子は、日の入りと同時って言ったんだよね……?」

「ああ。予想とは言ってたけどな」

「もう、大分沈んでますよね……。ハルク、来るのかなぁ」

「すずちゃんの言う通りハルクが来たら、凄く助かるんだけどね……」

 それぞれに不安気ではあるものの、勤めて緊張感をなくそうと努力していた。
 のんびりと座り、直接は見えないが夕日の沈んでいるのであろう空を眺める。
 徐々に徐々に、鼓動が高鳴ってきた。
 俺の記憶では襲撃のタイミングは空が完全に明るさを失った時だ。
 自分の中だけで時間の経過が狂っているのか、見る間に空が黒に染まっていく。

「もう日は沈みましたし、やっぱり今日は来なかったんですよ、うん……」

 桂木が勤めて明るい声を出したのだろう、元気に言った、その瞬間だった。

 それは予想したよりもずっと低音だった。
 宿屋から南側、町の入り口にある大門の辺りから大きな破砕音が響いた。

「ふぇ……」

 桂木が言葉を止め、もう一度窓の外を見る。
 外から大勢が叫びあう声が幾重にも重なり合って聞こえはじめた。

――南だ、門が破られたぞー!!

――いつ来たんだ、見張りは何をしていた!?

――すぐにクーミリア様に……ぐぶぁっ……

「ひっ……!?」

 最後にかすかに聞こえた水音を含んだ呻き声に、桂木がしゃがみこんだ。

「すずちゃん、大丈夫だよ。ここまでは来ない。大丈夫……」

「桂木さん……」

 健一が傍に膝をついて桂木をなぐさめ、麻衣がその隣に寄り添った。
 無言のまま俺も座り込み、四人肩を寄せて嵐が過ぎ去るのを待つ。
 叫び声と爆裂音。オーガの呻き声と人間の喚き声が連鎖する。
 俺にしかわからないだろう、剣士のスキル使用音が連続で響き、オーガの足音と共に地響きで部屋全体が揺れる。

 間違え様のないぐらいの闘争の気配と命のついえる感触。
 濃厚な血の香りが部屋の中にまで届いている。
 精神力がどうしたという問題ではなかった。
 いつしか俺の体も意思とは別に小刻みに震え始めていた。

「山田先輩も震えてる。やっぱり、怖いんですか?」

「……当たり前だろう。健一が死ぬ時は俺からだとか言うし、な」

「あれは冗談だよ……でもほっとしたよ。山田が怯えてるの見ると落ち着くよね」

「……ちょっとだけ、わかります」

「麻衣まで裏切り者か。言ってんじゃねえよ」

 あはは、と乾いた笑いが少しだけ響いた。
 そんなものは外の喧騒に一瞬にしてかき消されたが、それでも俺達の精一杯だった。
 初めてこの世界に来て、たった1時間で音を上げたあの時とは違う。
 ありえない状況でどこか開き直って、それでも誰も生きる事を捨てていないのを感じる。

「南から来てるんなら、北に逃げればいいんでしょうか?」

「でも誘導があるんなら、それまで大人しくしてた方が……」


 ――あ、やめ、助け、いやだああああああ


「あ……」

 かなり近い距離で、苦しみと嘆き、断末魔の声が響いた。
 同時に足音と揺れの感覚が縮まり、破砕音が至近から聞こえてくる。

「もしかして、近くに……」

 揃って窓に視線を向けたその時。

「――ひっ!?」

 上空から窓の対面の建物へ、少女が叩きつけられた。
 簡素な鎧と対照的に重厚な剣、短い金色の髪は所々朱に染まっている。
 鎧の下の龍騎士の服まで全てがぼろぼろだが、それは確かにこの町の希望だった筈のドラゴンナイトだった。

「あの子……昨日の……」

「酷い、ぼろぼろじゃないか……」

「――っ」

 驚きに目を見開く桂木と健一とは対照的に麻衣が目を伏せ、全身に力を込めた。
 昨日は頑張ろうと言っていた割に、結局彼女は何の動きもとっていない。
 だが、俺はそれでいいと思っていた。
 危機が遠い間は何かが出来るつもりでいても、実際にその時が近づけば怯えが先に立つのが当たり前だ。
 俺は正直に言えば、間近で人の死を感じて自分の死を予感して、それでも人を助けようなんて言い出せる
 麻衣がそんな何かを捨てた人間じゃなくてほっとすらしていた。
 それでも、麻衣は恐怖で動く事の出来ない自分の無力感に苛まれている。
 震えながら、必死に立ち上がろうとしている。
 その肩を押さえ、俺は涙を浮かべて見上げてきた麻衣に頷いた。
 それでいいんだ。俺達は間違ってない。これで――

 ――そうだ、それで、いいんだ。

 声が、聞こえた気がした。
 堕ちたドラゴンナイトが動いている。
 恐ろしい程の勢いで壁に叩きつけられた少女が
 震える足で、誇りの剣を杖にして
 ゆっくりと立ち上がっていた。
 窓越しにこちらを見て、辛そうに、しかし満足気に笑う少女が、確かに言った。

 ――絶対に、守れよ


「――っ!!」

 わかっていた。
 大した装備のないドラゴンナイトがグレーターオーガに立ち向かえば、こうなるのはわかっていたのだ。
 彼女は死ぬ。

 高い回復力で何度立ち上がろうとも
 命を振り絞って一匹を倒す事が出来たとしても
 結局はモンスターの手にかかる。
 
 俺は助けられたのかもしれない。
 でも、見捨てた。
 仲間達の命と天秤にかけて、あのクーミリアを捨てた。
 間違ってはいない筈だ。NPCと人の命が比べられる訳がない。
 それでも、あの少女は 死ぬと決まっているあの少女は
 また、笑って化け物に挑みかかる――!


「……せん、ぱい?」

 知らず立ち上がっていた。
 体の震えが止まっている。全身が何かを為せと要求している。
 だが今この場を離れて、戻って来た時に三人の姿が無かったら、俺は絶対に壊れる。
 天秤は既に傾きを決めて、軽い重石はゴミと捨てられた。もう戻す事はできない。
 全て理解しているのに納得が出来ない。

 俺は、誰もを救う英雄になんてなれない。

 俺は、誰かを捨てる賢者になんてなれない!

 俺は――――



「おい、まだ居るか!?」

「あ、おじさん……」

 緊迫した空気が一瞬にしてぶち壊された。
 唐突に部屋に飛び込んできた宿のおやじさんが、俺達を見てニヤりと笑う。

「逃げてなかったか、いい子だ。化け物連中はもうこの辺まで来てる。さっさと逃げなきゃなんねえ」

「でも、何処へ……」

 ぼんやりと見上げた桂木を得意げに見返して、おやじさんは続けた。

「オーガが踏んでも壊れない、立派な地下室があんだよ。お前さん方、うちに泊まってラッキーだぜ」

 地下室は厨房の中にあった。
 ワインセラーを兼ねたあまり広くはないその空間には他にも数人の客が逃げ込んでいる。

「ほら、兄ちゃんも入んな。あんな巨人にうちの客を殺させやしねえ」

「……おやじさん」

「あん?」

「ここ、オーガが踏んでも壊れないんですよね。グレーターも大丈夫ですか?」

「あー……そいつは、やってみなくちゃわかんねえな」

 ……そうか。そりゃ、しょうがないな。
 おやじさんの自信なさげな一言が、俺にはむしろ嬉しかった。
 地下室でこちらを見上げる麻衣に目を合わせ、告げる。

「後は、任せた」

「あ――はいっ!」

 麻衣の声を聴いた瞬間に俺は走り出した。
 後ろから泡を食ったおやじさんの叫び声が聞こえるが、そちらは麻衣が何とかしてくれるだろう。
 手遅れかもしれない。逆に後悔する事になるかもしれない。
 だがどちらにしろあの地下室でじっと運に任せて耐え忍ぶより、もっと有益な事がある。
 さっきから全身が叫んでいる。使える筈なのに使っていない全ての力が大声を上げている。
 俺は絶対に何かをしなきゃいけない。
 それは少なくとも、あんなちっぽけな巨人気取りを偉そうにさせておく事じゃない筈だ。

 宿の裏手、さっき叩きつけられていたのとそう変わらない辺りで、まだ彼女は生きていた。


 ――ヒーリング――


 ターゲット指定 ドラゴンナイト――クーミリア

 俺の使った回復魔法にクーミリアがその表情を驚きに変えた。
 なんだ、魔法を使われるの、慣れてないのか?

「昼の司祭……仲間は、いいのか?」

 悪い想像でもしたか不安気に言った少女に、俺は後ろの宿屋を指した。

「ここが俺の最後の砦だ。ここまで来られたら引くわけにはいかないんだ」

「……それは、正念場だな」

 背後でグレーターオーガの唸り声が聞こえる。
 気に入らないのなら殴ってみろ。その棒っきれがへし折れるだけだ。
 再度、クーミリアをターゲット 回復魔法をかける。

「もう十分だ」

 笑って言って、少女は力強く立ち上がった。 
 小さな全身に力が戻っている。だが、それは幸運の兆しではない。
 ヒーリング2回で十分だという事は彼女は最大で数千のHPしか持っていない証だ。
 あのオーガの攻撃を装備なしで受ければ一撃で1000近いダメージになる。
 数回殴られただけで少女は再び半死人に戻るわけだ。
 だが、舐めるなよ『仕掛け人』こっちだってそこらの中位職とは訳が違うんだ――


 ――コンセクレーション――

 ターゲット指定 クーミリア

 少女の周囲を金色の光が包む。
 それは消える事なくその姿を維持し、力強いオーラを放ち続けている。
 少女の全てのステータスが一時的に上昇。


 ――グランドサクラメント――

 ターゲット指定 やはりクーミリア

 今度は少女の体自身から溢れ出した白い光が、回転しながら吹き上がった。
 HPとMPが一時的に倍加される。
 美しいエフェクトに、使った俺もしばし見とれた。
 初めてのスキルを実際に使ったときはいつも少し感動してしまう。
 あの魔法を現実で……と。廃人の思考だろうか。

「これ、は……」

 一瞬表情に困惑が浮かび、しかし、騎士の行動は迅速だった。
 力を貯め、こちらに一歩を踏み出したグレーターオーガの元へ少女が駆ける。
 反応して振り上げた棍棒が頂点に達するより早く、その足元に辿り着き

「せあああああああ!!!!!」

 その腕が振り下ろされようと動くより尚早く。
 光と共に振りぬかれた一刀が、グレーターオーガの両脚を断ち切っていた。

「ちょ、お前……!」

 驚いたのは少女の発揮した力ではない。
 半ばから両脚を切り捨てられたオーガが消滅するまでの間、どの方向に倒れるかわからない。
 隣には皆が隠れている宿がある。こちらに倒れこめば半壊は免れない。
 ――しかし。

「はっ!!」

 短い呼気と共に振りぬかれた白い電光を放つ一撃が、道に沿ってグレーターオーガを突き倒した。
 動きが派手でわかりにくいが、恐らくはノックバック属性のある剣士スキル バニッシュアウト。

「これで、いいんでしょう?」

 楽しげに笑ってクーミリアが言った。全く、心臓に悪い。

「これが、本当に、私? ……一体、何をしたの?」

 消滅していくオーガを背景に剣を一振り。
 はじめて見る幼い喜色を浮かべてクーミリアが聞いた。
 だが、今はそんな事が問題なんじゃない。

「それより、仕事をしてくれ。ほら、獲物はまだまだ居るぞ」

「あ、うん……。ああ、任せてくれ。」

 途中で口調を戻し、慌てたようにクーミリアが駆け出した。
 大きくスライドして三歩目で跳躍。
 建物の屋根まで飛び上がり、最も近いオーガに一直線に向かっていった。

 俺もこのままここに居るわけにはいかない。
 初めて使うスキルに少し緊張しながら、しかし本来ゲームの中では最も使い慣れたスキルを起動。

 ――ショートテレポート――

 視界の届く範囲に限り、任意の地点に瞬間移動する高位スキルだ。
 一瞬視界がブレ、期待した通りにおやじさんの宿屋の屋根に降り立った。
 広がった視界で白と金の入り混じった光がすさまじい勢いで町を疾走しているのが見える。
 石垣を殴りつけていたオーガの懐に飛び込み、光を帯びた剣の刺突で打ち倒す。
 剣士のスキル。インパクトスラストとかそんな名前だった気がする。
 中央の噴水に手をかけていたオーガの首も瞬く光と共に虚空へ飛び上がる。
 壁を蹴り、屋根を飛び、駆け回る少女。
 暴れまわるオーガが全て鎧袖一触に切り倒されていく。

 付近をあらかた片付け、屋根の上の俺に気づいて戻ってきたクーミリアが息を弾ませて言った。

「こんなにも身が軽い。こんなにも力が溢れる。今なら、今なら何だって出来る気がする!」

 服と剣だけでオーガの群れを相手にしていると言うのに大した喜びようだ。
 だが、俺もそんな少女に懐かしい喜びを感じていた。

 ――そうだ、これが好きで俺は僧侶をやってたんだ。

 俺の魔法で力を受けたキャラクターの限界以上の力を見て目を輝かせる仲間が好きで
 一人じゃ倒せない強敵が二人なら簡単に倒せるあの感動を分かち合おうと必死に話す仲間が好きで
 それで、俺は僧侶を――


 こんな事を現実にオーガと戦っている彼女に話せるわけがない。
 数箇所で燃えている町並に照らされ全身を赤く染めた少女に、俺は曖昧に笑い返した。
 PTメンバーではないので状態はわからない。適当にヒールをかけ、バフをかけなおして送り出す。
 残るは大物だけなんだろう。少女が飛び込んでいく方向のグレーターオーガがどんどん倒れていくのが見えた。
 多少殴られても全く気にせずに、そのまま攻撃を受け流して即座に反撃をしている。
 ダメージが蓄積すると飛ぶように俺の元に戻ってきて、回復と支援を受けて再度駆け出す。
 ソロで――単独で――は倒すのが無理な敵も、バフをもらって定期的にヒールが来れば倒せる、だからこその聖職者だ。

 だがしかし、凄い。
 仮にも最上位職の俺のバフをかけた以上、本人の基本値によるが各ステータス20ぐらい、あわせればレベルで言って30程度は上昇した事になる。
 ネットゲームを経験した人にはわかるだろう、支援職の援護というのは圧倒的なまでの差を与える。
 だがそれでもドラゴンナイトの身であれだけの戦いをし、僧侶の俺を『使いこなす』彼女のセンスは並外れていると思う。

 
 4度目の往復を終え、見える範囲にオーガが居なくなったところで、唐突に後ろに影が差した。
 ん、と振り返ると、グレーターオーガよりさらに巨大な、完全に建物を超える大きさのオーガの巨体があった。
 その手にはどこの大木から切り出したのかと思うほどに野太い棍棒が握られている。
 全く何の気配もなかった。この巨体に気づかなかったというには余りにも違和感がある。

 こいつは恐らく今ここに出現したのだと――POPしたのだと――自分の中のゲームの感覚が告げた。
 その瞬間、また何かを忘れている予感が走った。
 門から入り込んできたはずのオーガ達。
 なのにこいつに限って『出現』などという手段で姿を見せたその理由を、俺は知っている――


 ――グゥルゥゥゥァァァァァァ


 10メートルはあろうかというその巨体の上げる咆哮に思考が止められたと同時に少女がオーガへと突進していった。
 足のすくんだ俺とは対照的に平然と駆ける小さな影。あわてて支援をかけなおし、見守る。
 俺の使える攻撃魔法は数種類しかない。
 その中で触媒なしに使えるのは初級神聖魔法のキュアバーストのみ。
 普通のオーガも一撃では倒せないこの魔法をいくら撃ったところであの化け物に大したダメージはないだろう。
 いつだって僧侶はそうだ。自分の出来る全てを託して、誰かの勝利を祈るしかないのだ。
 しかし少女はよくがんばっている。
 時に痛烈な攻撃を受けているが、それは俺の手で瞬時に癒えるのだ。
 これがネットゲームの醍醐味だよな、と。
 ゲームの力を引き出して使うに連れて、俺の中の現実感が希薄になっていくのを感じていた。
 そして――


 ――グルァアアアアアアアアア!!!!!


 オーガが吼え、その巨大な棍棒を振り回す。
 怪物の意地と相当な圧力を感じるが、タネを知っていれば恐れる事はない。
 アレは死ぬ直前のバーサクモード。そんなものただの最後っ屁だ。
 やってしまえ、そう言った俺に頷き返し、少女が突撃をかけた。

 巨大なオーガの顔まで届こうかという大きな跳躍と共に、トドメの一撃が放たれる。
 クーミリアの全身を白色と金色の光が取り巻き、携えた剣にも力の光が灯った。
 小さな体が大きく捻られ、足場のない筈の虚空を強く踏みしめて少女の全身が高速で回転する。
 鮮やかな直線を描いて放たれた光の刺突 インパクトスラストが

 ――あっけなくはじき返された。

「なっ…………っ!?」

 驚愕の表情を浮かべる少女は振り回された棍棒を受け流せず、大きく弾き飛ばされた。
 バーサクモードの特徴、常時ノックバック攻撃。それは知っている。
 だが、物理攻撃をはじき返すスキルなんて持っていなかったはずだ。
 一体何が起きているんだ。
 動揺の中で呆然と少女を見詰めた俺にオーガが向き直り、巨大な棍棒を持ち上げた。
 このままだとあの一撃を受ける。俺自身は問題ないだろう。どれだけ大きいと言っても所詮オーガだ。

 だが、地下の皆は――
 短い時間で必死に集中。
 『いつも通り』にスキルウインドウを開いた。
 スキル選択

 パッシブスキル ――神の威光―― 

 稼動状態へ

 青白いオーラが舞い降りるようにして俺の体を取り巻く。
 それについて感慨にふける暇もなかった。
 ほとんど間もなく、空気を切り裂く轟音と共にオーガの棍棒が振り下ろされる。
 思わず腰を引きそうになるが、精神力のステータスと足元の仲間の存在が何とか俺が踏みとどまらせてくれた。

 大きく息を吸い込む。精一杯腹に力を入れて、臆する事無くそれに向かって片手を開き、真っ直ぐに向けた。
 直撃の瞬間、ぐわんっと頭まで揺れる衝撃が走る。
 しかし――俺は一歩も動く事無くその攻撃を受け止めていた。
 神に選ばれし枢機卿が、その威光を最大限に発揮するスキル、神の威光。
 神は悪しき魔物の手で引き下がったりは、しない。ノックバック無効効果が常時発揮される。

 しかし間違いなく、幾らかのダメージは受けた。
 高いステータスがあるとはいえ、HPの最大値があるとはいえ、結局のところ装備はさっき買った皮の服だ。ダメージは通る。
 それでも……敵の攻撃は遅い。
 この鈍重な攻撃速度では、おそらく何もせずに立ち尽くしていても殺される事はないだろう。
 その事実が何故か逆に俺を苛立たせた。
 一拍後、真横から今度は白い光がほとばしる。

「ぁぁぁぁあああっ!!!!」

 お株を奪うようなノックバック攻撃、雄叫びと共にバニッシュアウトで突っ込んできた少女がオーガを宿から引き離してくれた。
 大きく吹き飛ばされたオーガが辺り一帯にとんでもない大振動を巻き起こす。地下室は、大丈夫だろうか。
 心配する間もなく、壁を蹴って飛び上がり、幼いドラゴンナイトが俺の元に戻ってきた。
 あの一撃をまともに受けたのだ。大きなダメージを受けているだろう。
 元よりぼろぼろだった鎧は完全にその形を失い、服も多少目のやり場に困る程度に崩されている。

 しかし俺には奴への対抗手段がないのだ。
 情けない事に、もう休んでいいと声をかけてやることもできない。
 それでもとにかくバフをかけなおそうと視線を向けたところで、こちらが驚くほどの大声で少女が叫んだ。


「ご無事ですか、猊下!?」


 ……あ、こう、なるんだ……
 神の威光を降ろすと言う事は、誰にでも見える形で神に認められた者だと示すのと同義。

 ――という設定の為、このスキルを起動するとNPCが平伏する。
 たとえ相手が王様であっても一応の礼儀は示してくれる程だ。
 常時発動型のパッシブスキルだが、一切ノックバックをしないのは場合によって良し悪しがある。その為起動と停止が出来るが……
 これは、出来れば起動したくない。

「先程は失礼な言動を、真に申し訳ありません。初めてお会いした時にも不躾な真似を行いました上に、騎士団の為すべき戦いに猊下を駆り立てるような蛮行、わたくしこの身の未熟を――」

 うっわぁ、と口には出さなかったが、見た目10代前半の少女に盛大にかしづかれるハタチ。ここが地球なら通報レベルだ。

「と、とにかく、あいつを倒すぞ。それからだ」

「はっ、お任せください!」

「うっわぁ……」

 ビシっと向けられた敬礼に、今度は思わず口から出てしまった。
 頼むから本当に勘弁して欲しい。
 俺が引いている間に、先程よりさらに勢い良く少女が飛び掛っていった。
 クーミリアの振るう全ての剣撃に、そしてあらゆる攻撃に鮮やかな光が灯る。
 先程失敗した為、手持ちのあらゆるスキルを連発しているのだろう。
 どの攻撃も死にかけのオーガにトドメをさすには足るものなのは間違いない。

 しかし――届いていない。
 よく見ていると全ての剣撃がオーガの皮膚で止められているのだ。
 どういう理屈だ、幾らボスだからってそれはインチキが過ぎる。
 ボスだから――

「……ボス……あ……っ!?」

 と考えて、俺はようやく大切な事を思い出した。
 あいつは恐らく最後に残ったボスオーガだろう。
 このクエストは最後のオーガはクエストを受注した低レベルキャラクターでしか止めをさせない設定になっているのだ。
 やはりメインは低レベルだ、というゲーム製作者側の配慮なのだろう。本物を見たショックですっかり忘れていた。
 今も必死に戦っているクーミリアには悪い事をした。もう休んでもらってよかったのだ。
 しかし、それなら話は簡単だ。あと1発突けば死ぬオーガなんて、まさに張子の虎。
 足元でオーガをひきつけている少女の辺りを狙って、スキル行使。


 ――ショートテレポート――


「なっ何をなさって……!?」

「え? ……ちょっ!?」
 
 行きなり肩を掴まれた。
 何を言う間もなく、クーミリアは突然隣に現れた俺を必死に後方へと引っ張っていく。

「待て、あれ、トドメさせないだろ。すぐ倒すから……ああ、もう!」

 枢機卿が化け物の真ん前に飛び出すという余りと言えばあんまりの状況からか、必死の形相で全く聞いていない。
 その間にも2回ほど至近距離に棍棒が振り下ろされた。危ないぞ、俺じゃなくて、お前が。
 スキル欄から神の威光を選択 

――神の威光――停止

「ほら、わかるだろ、離してくれ。大丈夫だから」

「え、あ……一体、何が……」

 理性的な混乱ではなくシステムによる混乱からか、クーミリアがおろおろと俺を離した。
 すぐに奴に近づいてスキルを選択。

 キュアバースト、ターゲットグレーターオーガ、ボス。

 少女の光の剣撃を見た後ではいくらも見劣りする光がオーガを包んで広がった。
 そしてその光が――オーガの雄叫びと共に消え去る。

「届いて、ない……!?」

 もう1発。再度瞬いた光も、オーガに何の痛痒ももたらさなかった。
 もう1発……!

 ――キュアバースト――

 ターゲット指定 グレーターオーガ――BOSS――バーサーク!


 ――グルァァァァァァ!!!!!


 オーガの棍棒が振り回され、追いついてきたクーミリアが背後に弾き飛ばされる。
 ダメだった。俺の魔法では奴に何のダメージも与えられていない。
 いくら初級魔法とはいえ、流石に1や2のダメージは入る筈だ。
 なら、残る可能性は。
 俺がこの『カントルの町<オーガの群れ襲撃クエスト>』の受注制限レベルを超えているのか。
 この世界に入ったばかりだからといって上がりきったレベルじゃ無理だったのかもしれない。
 そうでなければ、クエストのクリア状況も今の俺に引き継がれているのか。
 どちらにしろ俺は低レベル側のクエスト受注者ではない。

 ――ならアイツに止めをさせるのは、まさか…

 恐ろしい想像に足を止めた瞬間、俺もまた振り回される棍棒に弾き飛ばされた。
 背中を地面にこすりつけて冗談のように吹き飛ぶ。
 ダメージは少ないが……痛い。
 なまじっか効かないせいか、腕の皮を薄皮一枚ずつはいでいくように地面がこすれる。
 その上、買ったばかりの服がぼろぼろだ。
 それでもダメージ自体は総量から見れば大したものじゃないんだ。
 必死に痛みをこらえ、立ち上がった。
 よろよろと立ち上がろうとするクーミリアを視界の隅に、こちらへと棍棒を向けたオーガと真っ直ぐにらみ合い、打開策を考える。
 ――その前に。



「やめてくださいっ!!!」

 出会ってからの時間は短いが、随分と聞きなれた声。しかし、大声を聞くのはまだ二度目。
 宿屋の前、つまりオーガの目の前に、白いローブをまとった麻衣の姿があった。
 この馬鹿野郎、一体何をやってるんだ。
 宿の前に立った麻衣が気丈にオーガをにらみつけている。
 だが遠目からでもわかる。倒れそうな程に両足が震えていた。
 オーガは当然、目の前に立った小さな人間を叩き潰しにかかる。
 それは、その人は、駄目だ、やめろ――


――アークミスティリオン――


 指定したセルの周りを3回だけあらゆる攻撃を防ぐ遮蔽フィールドで覆うスキル。
 麻衣の周りが青い壁で包まれる。だが、頼りなげなあの光が持つのはたったの3回。
 スキルディレイ、クールタイムは――再使用までには、30秒の時間が要る。二度目はない。
 オーガが棍棒を叩きつける。同時に駆け出した。

 オーガが棍棒をなぎ払う。もっとだ、もっと早く。

 オーガがその野太い足で踏みつけてくる。壁が、破れる。

 間に合わない。

 瞬間、何か乗り物にでも乗ったのかと思う程の速度で視界が動いた。
 自然と定めていた自分の肉体の枠を超えて、キャラクターの敏捷値を搾り出しているのを感じる。
 またこのパターンか。でも今回はお前が悪いんだぞ、とは、口に出す余裕もなかった。
 足裏が加熱するほどの勢いでオークの足の下に滑り込み、麻衣を抱いたまま一気に飛び出した。
 恐らくもう限界だろうに、クーミリアが雄叫びとともにオーガに挑みかかるのが背後で聞こえていた。
 だが恐らくは何の打撃も与えられない。このままじゃ、ダメだ。
 早く戻って手伝わなければ、いや、手伝っても無駄だ。
 俺達ではトドメがさせない。その為には、クエストを受けた低レベルプレイヤーの力が要る。
 それこそ、立っていられない程に震えている胸の中の彼女のような。

「麻衣、何馬鹿をやってるんだ。後は任せたって言っただろう!?」

 十分に距離をとってから地面に下ろし、詰め寄るように麻衣を睨んだ。
 怒りがわくほどの悲しさがあった。
 そんなにも自分達が特別だと信じたいのか。
 その想いにすがりつかなければ心を保つことが出来ないのか、と。
 だが、すぐに気づいた。
 麻衣の瞳に浮かんでいたのは俺の想像とは違うものだ。
 恐怖と、申し訳なさと、しかしもっと大きな安堵。

「ごめんなさい、でも、私が、私が無茶を言ったせいで、先輩が、先輩が……って……」

まさか、この無鉄砲なヒロインは

「――俺を、助け、に……?」

 英雄がなんだとか、勇者がどうとかじゃなかった。
 自分を守ろうとする、ナイトにもなりきれない僧侶が心配で仕方がなくて
 この魔法の使えない魔法使いさんは、死地に飛び出してきたのだ。
 そして、その通りだ。俺は紛れもなく確かに、彼女の助けが必要な状況にある。

 こうなったら――――いや、待て。
 道を限定しちゃ駄目だ。まだ手段はある。
 一瞬周りを見渡して考えた。
 恐らく設定はイベント通り。このオーガが最後のモンスターで間違いない。
 なら俺がオーガをひきつけてその間に麻衣にみんなを連れ出してもらう。
 そしてオーガの相手はクーミリアに任せて4人でさっさと町を出てしまえばいいんだ。
 後は野となれ山となれだ。町が破壊されたって構わない。俺達が無事ならそれで……。

 ――麻衣と、目が合った。
 お互いに何も口には出していないのに、麻衣の目が言っていた。
 ダメだと。それでも、絶対に嫌なんだと。
 無茶だと思う。危険な目にあわせたくないと思う。
 しかし同時に、麻衣の想いに応えたい気持ちもある。
 そしてどちらにせよ、彼女がこちらにしか協力しないと言うなら、他に方法はなかった。

「麻衣……麻衣にしか出来ない役割が、ある。力を貸してくれるか? 一緒に、戦ってくれるか?」

「――――もちろん、です」

 歯を鳴らす程の恐怖に震えたまま、しかし彼女は言い切った。


 ――グランドサクラメント――

 ターゲット 松風麻衣
 HPとMPが倍加する。しかしそれでも彼女のHPは300に満たない。
 あのグレーターオーガなら、攻撃の余波だけでも十分に死にきれるだろう。
 インベントリから一度だけつけたネックレスを取り出した。
 馬鹿げた強さの魔王から低確率でドロップするこのネックレスは、ゲーム内の金額でも相当とんでもない値段になる。
 問答無用であらゆる攻撃を半減させる絶大な効果があるが、手に入れるのに仲間とともに相当の大冒険を強いられた。
 だが、その重みがきっと守る。守ってくれ、みんな。
 麻衣の首に白銀の鎖をかけ、インベントリから鳶色のローブを引き出す。二人まとめて覆ってその下で麻衣を抱え上げた。

「あいつはもう死に掛けてる。本当に、後一発撫でられただけでも倒れるぐらいに。でも、そのとどめは麻衣達じゃなきゃさせないんだ」

「……」

「何とかあいつの足元に近づくから、あの太い足首を一発殴りつけてやってくれ。それで、あいつは倒せる」

「……はい、出来るだけ、やってみます」

「よし、上等だ」

 随分と昔の事だ。
 俺がこのクエストを手伝った時、さあトドメだ、と言われた初心者プレイヤーが今の麻衣と似たようなことを言っていた。
 出来るだけ頑張ります、とチャットしたそいつは見事に最後の一撃を入れてくれた。
 きっとやれる、絶対にいける。
 少なくとも俺はあの時より強いし、麻衣にはあの冒険者よりも勇気がある。

「……行くぞっ」

 声とともに飛び出した。
 カーディナルという最上位職でステータスに補正がかかっているので、意識して伸ばしていない敏捷数値も多少は増えている。
 その分速度が上がっていても、しかし人を一人抱えて縦横無尽に駆け回るようなことは全く不可能だ。
 駆け出した俺の速度は陸上競技の選手よりよほど遅い程度だったが――これでもゲームならプレイ開始から7年、やり方ぐらいは心得ている。
 突っ込んでくる俺に気づいたのか、ドラゴンナイトの少女を無視してオーガがこちらに向き直る。
 弱いキャラクターを狙うAI設定が残っているのかもしれない。
 真っ直ぐに走る俺達めがけて、オーガの棍棒が振り上げられ、振り下ろされる。
 これだけの時間があればクーミリアならオーガの頭まで飛び上がれるだろう。
 しかし俺にはそんな力はない。

 届かない。

 避けるだけの敏捷もない。

 神の威光でまともに受け止めれば、麻衣が――

「甘いな、単純思考のモンスターが」

にやりと、俺はもしかしたら健一のように黒いかもしれない笑みを浮かべていた。


 ――アークミスティリオン――


 3発限りの無敵の壁を発動、2歩前の空間を指定。
 発動と同時に領域に飛び込み、光の壁がオーガの棍棒がはじき返される。
 タイミングは完璧。まさに会心のスキル行使。

 もう奴の体は目の前だった。これは、もらった。
 麻衣が動くのを感じる、そうだ、やっちまえ――

 ――奴の足が、目の前に『迫る』



「うわあああああああっ!?」

 思わず麻衣をかばう様にオーガに背を向けた。
激しい衝撃と共に一瞬の浮遊感、直後、思いっきり地面に激突した。

「蹴られ、た……?」

 そんな攻撃、ゲームではなかった。
 いや、当たり前だ。この世界は現実なんだ。
 しかし現実だというのならあいつは一体何だと言うんだ。
 あれだけ刺されても切られてもピンピンしているボスオーガ。これはどんな理不尽だ。
 良い所取りかよ、何て酷いでたらめだ。

――だが、本当良い所取りででたらめなのは――

「くそっ、大丈夫か、麻衣? ……麻衣!?」

「…………」

 返事は帰ってこなかった。
 蹴りと言っても野太い足で軽く飛ばされただけだ。それほど大きいダメージの筈がない。
 麻衣に入ったのはその副次ダメージだというなら、なおさら少ない。
 大丈夫、大丈夫だ。
 『いつも通り』を取り戻すのに一瞬の時間が必要だった。
 PT欄を表示。展開したままだった麻衣の詳細欄にはHP<20/260>状態異常<スタン>の文字。
 良かった、まだ、生きてる。


 ――ヒーリング――


 麻衣を包み込む回復魔法の白い光に胸元のネックレスが瞬いた。
 これがなければ食らっていたダメージは倍になっていた。ありがとうな、みんな。
 再びターゲットがクーミリアに戻ったのだろう、剣戟の音が響いてくる。
 一撃食らってもまだ死なずに済んだというだけで戦いが終わったわけじゃない。
 ここまでして結果は失敗だったのだ。奴はまだ倒れてはいない。
 もう一度、行くしかない。
 だが、たった今死に掛けて気を失った麻衣に、さらに死の危険を冒せというのか。
 麻衣だけじゃない。クーミリアにかけた補助魔法はとっくに消えているのだろう。
 もはや相手にすらされていない少女が、まさに必死で俺達からオーガを引き離している。

 二人が命をかけている。だというのに、無駄な精神力と体力を持つ俺はあいつの攻撃じゃ死ぬ方が大変なぐらいなのだ。
 俺だけが一人安全地帯で他人に命を張らせている。

 失敗した苛立ちが、自信への憤慨に形を変えて燃え上がった。
 こんな力要らなかった。
 俺も麻衣と一緒に勇者を目指して命を懸けられるほうがよっぽどマシだ。
 それでも、麻衣は死ぬ危険を冒して俺に力を貸してくれたんだ。
 俺だって死ぬ気になればまだ出来ることはある。
 心のままに、衝動的に自殺する人の気持ちが少し理解できた気がした。
 何処か開き直った気分でオーガを睨みつけ、スキルウインドウを表示させる。
 まだ一度も選んだ事のないスキルを選択。
 アイテム欄から幾つかの触媒を実体化して装備品を――


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 何とも可愛らしい男の叫び声が響いた。
 まさかと目を向けると、そこには見慣れない旅人衣装を身に着けた、見慣れた男と女がオーガへと走っていく姿。

「な、やめ……」

 立ち上がる時間もなかった。目をそらす余裕も無かった。
 馬鹿な、命を賭けるなら次は俺の順番の筈だ。
 それに、死ぬのは俺からだと言ったのはお前じゃないか。
 どうしてそんな、無茶苦茶な事を……。
 一般人の接近に慌てたクーミリアの声が響く。

「ダメだ、こっちに来るなっ! くそっ、貴様いい加減に……ぐっ」

 軽く少女を弾き飛ばしたオーガが健一と桂木に向き直り、棍棒を握りなおした。



 そしてその太い腕に

 記憶にある鉄製のナイフが

 極々軽い勢いで――サクっと



「グォ、グルォオオオオオオオオ!!!!」

「……え?」

「きゃー、健先輩! すっごーい!」

「……うわぁ……マジかよ……」

 思わず口に出していた。何だこの幕切れは。
 いや、確かにゲームではこういう事はありがちだが……。
 健一が投げたのだろう短刀が地面に落ちて乾いた音を立てるのと同時、グレーターオーガ――BOSS――の体は霞のように消え去った。
 力が抜けて、思わずその場にへたり込んでしまった。遠くでクーミリアが剣を鞘に納めているのが見える。
 その時、実際に聞こえたわけではないだろうが、俺の脳内に盛大なファンファーレが鳴り響いた。

 ――クエスト 達成――

 ついでに言うと、俺以外の三人のレベルアップ音が何回か鳴ったような気も、した。


「終わったんですか……?」

 大ダメージによる一時的スタン状態だった――痛みで気絶していた――麻衣が意識を取り戻していた。
 何と答えるべきだろうか。とりあえず、麻衣の流儀で言わせてもらうとするなら。

「俺達がひきつけて、健一と桂木が止めを刺した。四人の勝利だ」

「……やった、ね、先輩……」

 まだ朦朧としていたのか、麻衣には珍しく親しげな言葉だった。
 申し訳ないが、やったのはクーミリアと健一だけだと思う。



 勢いよく飛び出してきたようだが二人も死ぬ覚悟だったのだ。
 そりゃもう、とんでもなく怖かったに決まっている。
 ひとしきり騒いだ後に桂木は腰を抜かし、英雄の健一は落ちるように気絶してしまった。
 何とか無事だった宿屋にふらふらと戻ると満面の笑みでおやじさんが出迎えてくれた。

「見てたぞお前さん方、やるじゃねえか! 流石は冒険者って奴だな」

 そんなことは一言も言った覚えがない。

「……今晩、部屋、開いてますかね?」

 麻衣に寄りかかられ、左肩に健一を担いで右腕で桂木を抱えた俺に、おやじさんは3号室の鍵を投げ渡してくれた。
 気絶した健一と動けない桂木を二人同じベッドに放り込み、四人で泥のように眠った。

 恐らくは、数時間後。

「おい、起きてるか? ドラゴンナイト様がお会いしたいってんだが、出てこられるか?」

 睡眠耐性が原因ではないと思うのだが、戸外のおやじさんの声に反応して起き上がったのは俺だけだった。

「はい……すぐ、行きます」

「悪いな、頼むぜ」

 立ち上がってローブをまとう。
 買ったばかりの一張羅は擦り切れて着られる状態ではなかった。
 部屋を出る前にちらりと見ると、健一と桂木は仲良く抱き合って眠っている。
 何だろうか、悪戯が不発に終わったようなこの悔しさは。
 静かに眠っている麻衣のベッドに吸い込まれた視線を引き離して、俺は部屋を出た。


「こんな夜中に失礼をした」

「別に構わないけど。ただ、下らない用件だったら多少不機嫌にはなると思う」

「それは保障できないな」

 先刻とは少し色合いの違う龍騎士服を着たクーミリアは、苦笑しながら一枚の紙を手渡した。

「これは?」

 文字は日本語なので一応は読める。
 目を落とすと乙だの甲だの難しい単語が並んでいるが、何かを一台どうのと……

「それを門の係官に渡せば私達の馬車が受け取れる。情けない話だがこれで手を打ってはもらえないか」

「……何の話だ」

 必要があって手助けをしただけでクーミリアから謝礼をもらう約束などしていない。
 ついでに言えば、恐らくクエスト達成報酬――結構な経験値だ――を俺以外の三人は受け取っている。

「今回の被害、騎士団全体の失態と言えるレベルだ。私個人の武功は差し置いても、旅人の力を借りなければオーガすら倒せなかったとは……報告できない」

 それでいいのか、と言おうとした。
出来ないことは出来ないと言うべきだ。そうでなければ、また不幸が起きる。
だがそんな正論は、搾り出した少女の言葉の前では手の中の紙切れと同じだった。

「そうでなければ……死んだ者達が、余りにも不憫だろう……」

 彼女はまだ幼かった。 
クーミリアの見た目が、というだけの話ではない。
俺の支援魔法にはしゃいでいたあの姿は間違いなく年相応に少女のものだったのだ。
なのに彼女はこれだけのものを背負っている。
恐らくは幾らかの才能があって、何とかドラゴンナイトになることが出来たというだけで。
俺ならキャラクターを作って半日で到達できるレベルにいるであろう彼女が。

「王様……皇帝か。には好きなように伝えてくれていい。俺達が何かしたとは、本当に思ってない」

「すまないな、何から何まで」

 俺の負い目は恐らく彼女にとっては侮辱に当たるのだろう。
 蟻が頑張っているのを申し訳なく思う象のような思考はいい加減捨てなきゃならない。
 自分の力を正しく見定めて、何が出来るのか、何をすべきなのかを明確にしなければ。
 そうでなければ、仲間に本当の事を話せすらしない。だが――

 ――良い所取りかよ、何て酷いでたらめだ――

「……だけど馬車の話は別だろう。パレードに使ってたあの馬車なら相当大きかった筈だ、乗り物なしでどうやって帝都に帰るんだ」

 思考から逃げるように口を開いた。
 遠慮で言ったつもりはない。
 俺達が使うには本当に過ぎた代物だったし、騎士団を馬車なしで帰らせるのもあんまりだと思ったのだ。
 しかし彼女は少しだけ困ったように笑って、気にしないで欲しいんだが、と前置いて言った。

「私一人で使うには、少し……大きすぎるんだ」

「……っ!?」

 俺達が宿で震えていた間に何度も聞こえていた断末魔の声。
 部屋の中にさえ届いた、今も町に残る血臭。
 現れなかった、指揮官である筈のクーミリア以外の戦士。
 あれだけのパレードを構成していた騎士団員が全員……もう、居ないと?

 ――ダメだ。
 俺が罪悪感を感じてみせるのは、本当に死者への冒涜だ。
 あの時天秤にかけのはクーミリアだけじゃなかった。
 この町の全てが失われても仲間を守りたいと思ったんだ。
 もし俺が最初からオーガに挑んでいれば、結果は無事な騎士達と宿屋の倒壊、地下室の崩壊だったのかもしれない。

 今でもこれでよかったと思っている。それでも、それでも。
 ゲームの中じゃなく現実なんだと、まだ心から理解しきれていない自分がいる。
 なのに、目の前の少女はNPCだと割り切っているわけでもない。
 このままじゃダメだ。激しい焦燥感が胸を焦がした。

「そう……か」

「本当に気にしないでくれ。全滅して任務失敗と、全滅したが任務成功では何かもが違うんだ。感謝している」

 初めて会話をした時のように寂しげな、それでいて満足げな笑みを浮かべ、少女は頭を下げた。
 つられてお辞儀をした俺が姿勢を戻したときにもまだ彼女は頭を下げたままで
 そして小さな声で、言った。

「……帝都にいらした際は、ぜひ城をお尋ねください。お待ちしています――猊下」

 何かを言い返すより早く、身を翻した彼女は振り向くことなく去っていった。
 参った。帝都には、出来れば入りたくない。

 部屋に戻ろうと、この辺りでは唯一無事だったおやじさんの宿を見上げ、何となく思った。
 最初の町のイベントで帝都に借りを作り、豪華な馬車を手に入れた。
 戦う覚悟のなかった仲間達は最初の勇気を持ち、達成感を得て、ほんの少し力をつけた。
 そして俺自信も、でたらめな力を隠して他人を犠牲にすることをこれ以上許せそうにない。
 『仕掛け人』の意図通りだろう。だが、このままそれに乗り続けていいのだろうか。
 俺も、いい加減に決意しなければいけないのかもしれない。
 とりあえずは、間違って隣のベットに入ってみようか、と決心を固めた。

 
 そして翌朝。

 やめておくべきだと思ったなら、やっぱり、やるもんじゃない。
 確かに反省している。だから頼む、そのネックレスだけは、お願い返してください……。







[11414] 第四話 特別
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:16
  宿の扉を静かに開き、朝の空気をゆっくりと胸に吸い込んだ。
 しかし色濃く残る血と肉の香に思わずむせ返りそうになってしまった。爽やかな朝だとは欠片も言えそうにない。
 宿の前の道に目を向けると、ひび割れた石畳が数本の歪んだラインを描いている。
 それはあたかも巨大な暴力で叩き付けられた人間が石畳を叩き割りながら地面を滑走していったような。
 俺自身は傷跡もなく治っているが、いや全く、よく生きていたもんだ。
 少しだけ馬鹿馬鹿しく思い、ひび割れを辿るように歩き始めた。
 両脇には瓦礫となった石壁と原形をとどめない幾つもの建物が無残な姿をさらしている。

 一夜が明けてクエスト専用MAPから一般MAPに戻ったはずのカントルの町は、未だにその惨状を色濃く残していた。
 オーガが踏み抜いたのであろう石畳はあちこちが楕円状に崩れ、各所にどす黒いシミがこびりついて今も濃厚な血の香を振りまいている。
 崩れた建物の下には掘り出すことが出来ていない死体が残っているのだろう。
 おぞましいとしか表現のしようがない、恐ろしい腐敗臭も感じられた。
 まだ日の出から間もない時間だが既に合同葬儀が始まっているようで、中央の広場に沢山の花が手向けられている。
 足を止めて周りを見渡し、一人溜息をついた。

「全く……全員、生きててよかった」

 こんな台詞、聞き方によっては皮肉どころか嫌味の一種だろう。
 だが俺には皮肉のつもりも嫌味のつもりもなく、言うならばむしろ――自虐の言葉だった。
 どれだけ少なく見積もったとしてもこの被害の半分は俺一人の働きで防げた筈のものだ。
 それが正しいと判断して切り捨てた全てが、重い現実となって俺の背にのしかかる。
 ――彼らを生き返らせる方法は、ある。
 貴重な触媒が必要だが、それなりの数を所持している。数十人なら蘇生する事は出来るだろう。
 誰を生かして誰を殺すかを選ぶ、それこそ神にも挑もうという行為だが、それでもやらないよりはマシだ。
 そもそも蘇生スキルはゲーム内では最も使い慣れたスキルの一つなのだ。それが俺の役目だったとすら言える。
 だが、それでもだ。
 もしも蘇生スキルを使った結果、起こるのがスキル効果の蘇生ではなく、記憶にあるイベントの通りなら――

 うつむき、もう一度溜息をついて、そこにやはり地獄の残り香を感じて……俺は踵を返した。
 昨日のオーガは明確にシステムに支配されながら、なおも現実の怪物として存在していた。
 それならば、人間味あふれる宿のおやじさんだって、ドラゴンナイトのクーミリアだって、システムに支配されながらも現実の人間として存在しているとして何がおかしいのか。
 そう考えると廃墟に埋もれた肉塊が俺に怨嗟の叫びを上げているようにさえ思われた。
 知らず足を速め、短い朝の散歩を終えようと宿へと急ぐ。
 歩きながらそっとPTウインドウを開くと、見慣れた名前のHPがいくらか上昇していた。
 これだけの為に肉塊の仲間入りをしそうなぐらいの無茶をした馬鹿な仲間を叩き起こしてやる。そう決めた。
 ――しかし

「……麻衣、もう怒ってないといいんだけどな……」

 彼女にベッドから叩き出されて町をさまよう甲斐性なしがどれだけシリアスを気取ってみた所で、どうにも緊張感がないのだった。










 第四話 特別











  幸いにも麻衣は怒ってはいなかった。それどころか向こうから謝られてしまった。
 調子に乗った俺が悪いんだ。こちらこそ申し訳ない。
 しかしどうにも困ったことに、それで済んではくれそうにない。

「本当に、何考えてるんだよ山田! 下手したら全員死ぬところだったんだよ!?」

「私達が助けに行かなかったら先輩だけじゃなく麻衣も怪我してたかもしれないんです、ちゃんとわかってるんですか!?」

「本当に反省しています、二度としません。二人には心から感謝しています」

 その代わりに健一と桂木が烈火の如く激怒していた。
 未だに俺の力については何も話していないのだから怒るのは当然だろう。 
 しかし仮に、俺に凄い力があるからみんな隠れてろ、と事前に伝えていたとすれば
 麻衣も健一も桂木も地下室から出ては来ず、あのボスオーガは倒せないままだったかもしれない。

 だから、その――

「――結果オーライということで、一つ」

「山田っ!!」

「ごめんなさいごめんなさい」

 いい加減ちゃんと話をしてしまいたいのだがタイミングがつかめない。
 この流れで言って更なる怒りを呼び起こしたら、取り返しがつかない程に見損なわれるかもしれない。
 それでも、ゲームの事はともかく力が使えることだけは説明しないと、このままでは戦うのも守るのも難しいのだ。
 ようやくお説教に一段落の着いた健一に恐る恐る声をかけてみた。

「あの、健一さん……?」

「…………」

「その、ですね……」

「……何さ」

「…………オーガを倒したお礼ということで、立派な馬車をいただきました」

 違う、そっちじゃない。まず言うべきことはそれじゃない。
 しかし、怖い。
 眉をひそめてこちらを睨む健一が、単純に怖い。
 この男は童顔の癖に怒ると案外迫力があるのだ。

「……馬車? 馬車って……」

「ここからは歩かずに済みそうです、はい」

「本当ですか!? もう丸一日歩いて木陰で眠るような生活には戻らなくていいんですね!」

 まだ怒っていた桂木が喜色を浮かべて食いついてきた。
 これはいけるかもしれない。

「幌もついてるでしょうから、野宿でも寝床には困らないと思う次第です、お嬢様」

「やったぁぁ! 聞いた、麻衣!?」

「は、はいっ!」

 よし、桂木の機嫌は直った。
 ついでにちょっと怯えた様子を見せていた麻衣も幾らか元気が出ている。

「……頑張った甲斐はあったってことで、いいのかなぁ」

 健一も一応納得してくれた。
 ありがとう、本当にありがとう、クーミリア。君のおかげで助かった。
 ……何か間違っている気はするのだが。




  俺と麻衣以外は大して戦っていないとはいえ、前日の疲れはまだ残っているかもしれない。
 しかし血と肉の香りが残るカントルでもう一泊というのは全員が拒否した。
 生き埋めになっている人を助けたり、瓦礫の除去を手伝ったり、求められてはいなくとも出来ることはあるかもしれない。
 それを捨ててこの場を離れる。無責任かもしれないが、やはり俺達も他人に気を使っている余裕はなかった。
 ともかくは馬車を受け取り、開いている店で十分な旅支度をして出立することに決めたのだった。
 幸い、なのだろうか。大門の係員――最初に質問攻めにした兵士――は生きていた。
 しかし鎧の影に白い包帯が見え隠れしている。やはり無傷ではすまなかったんだろう。

「お前らどうも妙な奴らだと思ったら冒険者だったんだな。オーガを倒すのに少しは手を貸したってのも聞いてる、俺からも礼を言っておくよ」

「いえ、僕たちはそんな大したことは……」

 お前は誇ってもいいと思うぞ、健一。
 オーガのボスを倒した思い人を誇らしげに示す桂木と、困っている健一。
 こういうファンタジー的なものに憧れがあるのだろうか、麻衣は馬車の周りをくるくるとまわっていた。
 馬車はパレードの中にあった一台で、四頭立ての立派な大型馬車だった。本当に俺達には過ぎた代物だ。
 荷台と言って正しいのだろうか、馬に引かれる馬車本体は4人が十分に横になれそうなぐらいの大きさを持つ丸みを帯びた長方形。
 スプリングは簡易な物しか備えられていないようで乗り心地は保障できないだろうが、少なくとも寝るに困ることはないだろう。
 中身は見事に空だった。システム的なトレード設定で強制的に空になっているのか、大勢が乗っていて余分なものを入れられなかったのかはわからない。
 ともかく必要な品は買い集める必要があるだろう。このサイズなら何でも積める。十分に備えることが出来そうだ。
 とは言うものの……馬車の旅に何が必要かは詳しくないが、ゲーム内では食料と馬の餌以外を必要とした記憶がないのだが。
 
 外側をよく見ると馬車上部を覆う折り畳みらしき幌からは神聖な力が感じられる。多少はモンスターの接近を阻害する効果もあるのかもしれない。
 これからお世話になるだろう馬たちも、そこらの野生動物は一蹴しそうな程に立派な体格をしている。足を止めた麻衣と一頭の馬が見つめ合っていた。
 だが残念なことに俺はそんな勇猛な姿を見て、安堵でもなく不安でもなく、諦観の念を得ていた。

 ――騎乗スキル、結構要りそうだなぁ。
 少し怖い気持ちもあったが馬の鼻先に手をかざすと、親しげに口元をすりつけてくれた。このスキルも効いているようだ。
 『ワンダー』には各職固有のポイントを振り分けて育てる職スキルとは別に、修練を積めば条件なしに上げることの出来る一般スキルが存在する。
 歩く、走るといった基本操作ではなく、料理、裁縫、鋳造、錬金、騎乗、建築、演奏等のゲーム内生活にかかわる行動がスキルとして設定されているのだ。
 その中の一つが騎乗スキル。上昇させれば馬やラクダだけでなく巨大な虎や象、空飛ぶ巨鳥やドラゴンにまで乗ることが出来る。
 御者台に座って方向を指示する程度の仕事でも、これだけの猛馬となればそこそこの騎乗スキルが必要だろう。恐らく俺がやるしかない。
 一緒に乗っているだけでもじりじりとスキルは伸びていくので旅が長引けば多少の言うことは聞かせられるかもしれないが……続かないに越したことはない。

 ――ブルルルルルッ!!

「きゃっ」

 数頭の馬を撫でつける俺に安心したのか、見つめていた黒馬に触れようとした麻衣が威嚇されて尻餅をついた。
 乗せるとはいかなくとも触るぐらいは良いだろうに、なかなかプライドの高い馬らしい。
 きょとんと俺と馬を見比べる麻衣に手を差し出した。

「麻衣、大丈夫か?」

「ありがとう、ございます……。私、動物には好かれる方だと思ってたんですけど……」

 しょんぼりと、名残惜しそうにその漆黒の毛並みを見つめながら麻衣が言った。
 軽く手を伸ばしてみると俺には軽く鼻を突いて挨拶を返してくれる。……どうにも視線が痛い。

「まあ、その内に懐くさ。もし嫌ってるならあれぐらいじゃ済まさないだろうし」

「……先輩、不公平です」

「怒られても困る。俺のせいじゃないんだから」

「……うぅ」

 落ち込む麻衣にあわせるように、長い黒髪がしおれている。
 どうも俺は黒毛に懐かれるみたいだな、とは、口に出さなかったが。

「まあ、鼻とか結構べとべとしてるから触らなくて良かったよ。ほら、さっさと準備して行こう」

「……そうですね。人参、買って行きましょう」

 餌は麻衣がやるのか。相変わらず変な所でだけアグレッシブだ。
 戻ってきた二人と合流して、本当に簡単に馬の扱い方を聞き――手綱を引けば引いた方に進む――予想以上に大きかった馬車を一旦預け、買い物に向かうことにした。

「これ、本当に7日も持つんですか? 普通のパンにしか見えないんですけど……」

「魔法がかかってるからね、食べるってだけなら10日だって平気さ。その分ちょっと値は張るけど町を出る人は皆これを買って行くんだよ」

 幸い開いていた食料品店のおばさんは幾つかの保存食を見せてくれた。
 俺のインベントリに入っている食料はNPC商店ではなくユーザーの作った料理なので、もっと長持ちする上に味も良く、満腹感も得られる設定の筈だ。
 首都にある銀行からレシピを取り出せば俺もそこそこの魔法料理を作ることが出来るのだが、スキル任せに体が勝手に動いて料理をする光景というのは想像しただけでもそら恐ろしい。
 腐りにくいパンとベーコン、チーズ辺りと水だけあれば次の町までは大して困ることもないだろう。これで十分だ。

「魔法のパンって、何か嫌な予感が……。健先輩、これ本当に食べて大丈夫なんでしょうか?」 

「すずちゃん、失礼だから! これ、買います、買いますんで!」

 気持ちはわかるが言ってはならないことを口に出した桂木、責任持ってこのパン腐る前に全部食えよ。

「……これも、下さい」

 ……麻衣、本当に人参買うんだな。
 馬の餌は別に飼い葉を貰ったんだが……。

「消そうとすれば簡単に消える魔法の火種に、一日入れておくと中の物が消えちゃうゴミ箱……便利だけど、どうやって出来てるんだろう」

「魔法、なんじゃないのか?」

「……便利な言葉だね、魔法って」

 安いゴミなら地面にドロップして放っておけばそのうち消失すると思っている俺からすると、多分そのゴミ箱は何も入っていないだけだとは思うが。
 旅支度、というのは先日の買い物とはまた別なのだろう。
 やはり二人での行動を希望した麻衣と桂木を見送り、俺と健一は男二人で必要なものを見繕っていた。
 しかし昨夜あれだけの事があったのに、見回ると全ての店がちゃんと開いている。
 イベントMAPから通常MAPに移行したことでシステム的に無理やり開かされているのかもしれない。
 どうもゲームのシステムと世界の現実とが、完全に剥離しているのに強引に共存させられているような。そんな違和感があった。

「あの、さ、山田」

「ん?」

 予備の部品に工具の類、ぬかるみに車輪が詰まった時の為のボロ布や荷止め等の汎用品としてロープと紐といった必需品を買い終えた所で、健一が少し言い難そうに声をかけてきた。

「僕、やっぱりもう少しちゃんとした剣を買おうかと思うんだ」

「……いや、昨日みたいな事はもうないように気をつけるぞ?」

 無茶をしないという意味ではなく、みんなを危険にはさらさないという意味だ。
 しかし昨日の俺が直接の原因ではなかったのか、健一は少し困ったように首を振った。

「そういうんじゃないんだ。……ただ、持っておこうかと思って」

「……まあ、無茶な使い方をしないなら……って、俺に言えたことじゃないか」

 じゃあ武器屋行ってみようぜ、と声をかけた俺に健一は笑顔で頷いたが、その笑顔はどこか陰があるように感じられた。


 当然とばかりに開いていた武器の店で、健一はやはり『ソード』を手に取った。

「昨日も見たけど、やっぱりこれかな。それに……なんだか今日はしっくり来る気がするよ」

「……そんなもんか」

 サイズだけは自身に丁度いい剣を握って意気込む健一は、口振りとは裏腹に剣に馴染んでいるようには見えない。
 HPだけでは健一のレベルがどの程度伸びているかはわからないが、クエスト一つでソードの制限レベルに届きはしないだろう。
 恐らくまともに扱うのは不可能の筈だ。
 だが今の健一は、どこか止めるのを躊躇わせる危機感を感じさせた。
 大丈夫だろうとは思う。武器を持っていても、敵に襲い掛かるかどうかはまた別なのだ。
 要は振らせる機会を作らなければいい。こちらでさっさと倒してしまえば、わざわざ危険を冒さず俺に任せてくれるだろう。
 何ならちょっとモンスターを倒させてもう少しレベルを上げればいい。ソードぐらいはすぐに装備できるようになる。

――馬鹿な。何を考えているんだ俺は。

「……あ、ああ、なかなか良いんじゃないか。勇者健一、最初の剣だ。俺もこの棍棒みたいなのを買って行くよ」

 見た目は棍棒だが相当の重量と破壊力を持ったウォーメイス。その中から大人しいデザインの1品を選び出した。
 恐らくしばらくの間は戦う必要もないのだが、健一が武器を持って俺が持たなければ健一が敵に挑むしかなくなる。
 ここから次の町――教国へ向かうのなら山岳都市ガイオニスがとりあえず最初にある――までのモンスターなら、健一を守りながらでもメイスで倒せるだろう。
 さっきは何の気の迷いか一瞬考えてしまったが、まさか健一を戦わせる訳にはいかない。

「勇者、か……」

「いや、冗談だぞ、皮肉った訳でもない。……どうしたんだよ、健一」

 慌てていたので言ってしまったが良い冗談じゃないのはわかっていた。
 すぐに訂正したのだが……健一の表情はいよいよ真剣味を増した。
 思いつめた様子で剣を鞘に収めた健一が振り向く。

「……もしも、もしもなんだけどさ」

一度言葉を飲み込み、しっかりと俺の目を見て、可愛げのあるその顔を精一杯の重さに染め上げてゆっくりと言った。

「もしも僕が本当に勇者だったら……山田はどうする? 一緒に戦ってくれる?」

「……は?」

 まさかの台詞に茶化す余裕もなく、素の返事を返してしまった。
 俺の返答は健一にとっては予想通りであり、期待外れでもあったのだろう。
 すぐに冗談だよと笑って告げ、健一は剣を抱えて店員の元に向かっていった。
 俺は今の言葉をどう受け取ればいいのだろう。俺の力に気づいているという訳ではなさそうだったが……。
 後を追おうと持ち上げたウォーメイスは羽のように軽かったが、陳列台の軋みは間違いのない重さを伝えてきた。
 感じない筈の何かの重さを、何故か右手の武器に感じる。
 結局の所、本気であろうがなかろうが、僧侶の俺一人で出来ることに大差はないのだ。
 この重さを守るために、俺は自分の出来ることを。この武器を振るうことを躊躇わない。
 お互いに何かはわからない決意を固め、荷物を抱えて無言のままで気を張って馬車に戻った俺たちを――

 ――内部をピンクの飾り物で汚染された馬車が迎えた。

「ちょっと山田先輩、健先輩もやめてくださいっ! そんな、折角飾ったのにー!!」

 二人、全てを盛大に投げ捨てた。
 桂木にどれだけ怒られてもそこだけは譲れなかったのだ。



 必要だと思われる荷物を一通り積み込んだが、それでも中には余裕があった。なんともありがたいことだ。

「これで多分大丈夫、かな」

 最後に馬用の水を積み込んだ健一が馬車から降りた。これでもう出発しても問題ないはずだ。

「でも先輩、オーガは全部居なくなったって言っても前の狼みたいなモンスターって居るんでしょう?」

「まあ、幾らかは居るんだろうな」

 作業を手伝っていた桂木がハンカチ代わりの布で手を拭い、不安げに言った。

「じゃあ私達だけで町を出たら危ないんじゃないですか。誰かと一緒に行くか、傭兵さんとか、そういう人にお願いしないと……」

「……あー……そうだなぁ」

 言われてみると、普通はそう考えるのか。
 安全なルートで町から町へ移動するだけなのに護衛がどうとか全く考えていなかった。

 ……どうしよう。
 確かに誰かに頼んだ方が安全だというのが普通の考えなんだが、俺には正直そういう人間が信用できるかの方が怪しい。
 人質を取られて馬車ごと奪われそうになったらそれこそ詰みだ。
 全て渡して開放される事を祈り、ショートテレポートで追いかけて全員殴り殺すしか選択肢がない。

「けど、傭兵なんて普通は盗賊崩れみたいなのばっかりだろ。こんなデカイ馬車に乗った素人集団なんて、町を離れたら身包みはがされるんじゃないか?」

 地球のあちこちに居るのであろう傭兵さん、ごめんなさい。
 口には出さなかったが、出したいぐらいの気持ちだ。

「じゃ、じゃあ、どうしよう……怪物が出たら……」

「……まあ、何とかなるさ」

「何とかなりますよ」

「適当ですか!? 麻衣もっ!?」

 隣に来ていた麻衣と二人、気楽に請け負った。
 実際、次の町のガイオニスまでは少数だけ居る強力な敵を別にすれば全てノンアクティブモンスターなのだ。
 それこそシュタイナーウルフに襲われたような偶然がなければ何と戦う必要もない。

「すずちゃん、それ、僕も考えたんだけどさ」

「良かった、やっぱり健先輩は頼れますよねっ」

 腕を組んで言い出した健一に喜色を浮かべてすがりついた桂木は、次の言葉で崩れ落ちた。

「この町、戦える人はほとんど全員オーガと戦って力尽きちゃったんだって……」

「……どう、するんですか、健先輩」

「……何とかするよ」

「ふぇぇぇ、適当ー!」

「…………健一?」

 もういいですよ、何とかしてください、何とか、と拗ねてしまった桂木を宥めながら、俺はどこか違和感を覚えていた。
 しかし、これでとにかく出発は出来る。
 次の町へ、その次の町へ、そして神に会えば……せめて、何かしらの突破口が開ければいいのだが。





  お世話になった宿の親父さんと門の兵士に挨拶をし、太陽の向きとコンパス、地図をしっかりと見比べて。
 俺達はついに自分の意思で旅を始めた。
 森の中の道は時折曲がり角があり、全体として見れば蛇のようにのたくっている。
 しかし町同士を繋ぐ街道だけあって馬車がすれ違えるぐらいの広さはあった。

「今日からまたしばらく、野宿の日々が始まるんですね……」

「折角旅の始まりだってのに、いきなりテンション下がるような事言うなよ桂木……」

「まあ、屋根があるだけ大分マシだよ。食べ物も毛布もあるし……まあ、すずちゃんも居ちゃうけどさ」

「ふぇぇっ!? 私、居ない方が良いんですか!?」

 出発後の俺達が最初に話題にしたのは明日の希望ではなく、差し迫った苦労だった。
 一見は男性用のようだがその実はっきりと女性としてのラインが浮き出る衣装を着込んだ旅人仕様の桂木すずが、後ろの馬車から御者台へ顔を出している。
 茶色のもこもこ髪もある程度は復活し、思い人にからかわれる辺り、中身はいつも通りである。
 俺と同じく御者台に座った富田健一は馬車の振動に慣れないのか時折座りなおしている。
 こちらはどこか主人公らしいと言えなくもないような、皮の衣類を上下で身にまとっていた。
 俺の方は綿と絹で出来た普通の洋服の上に防具店で見つけた現実に通じる部分のあるジャケットを羽織っている。
 服装自体は全員がまさに旅人なのだが、残念ながら俺達には楽しい旅という夢よりも辛い現実の方が大分重かった。

 ――しかし一人、麻衣だけは少し夢の比重が大きいらしい。

「先輩、私達、自分の世界に帰してもらう為に神様に会う旅をするんですよね?」

「……まあ、そうなるな。さっさと会って家に帰してもらおう」

「何だか素敵ですよね、大変な旅になるでしょうけど、皆で頑張りましょう!」

「……そう、だな」

 健一と桂木は苦笑いに逃げている。
 相手をするのは俺の仕事なのか。初めての体験だが、彼氏ってのは大変なんだな、やっぱり。
 しかし、別に本気で言っている訳じゃないのはもうわかる。
 オーガを倒すのにあれだけの苦労を強いられて、流石の麻衣もこれ以上の冒険譚を期待してはいないだろう。
 麻衣なりの気合の入れ方と、励ましなのだ。多分。
 
 そう思ってふと後ろの麻衣を振り返る。
 桂木同様馬車の中からこちらを見ている麻衣は、昨日と同じ白のローブ姿。
 しかし何着か似たデザインのものを選んで買ったらしく多少細部が違っていた。
 こちらは腰と共に胸の少し下でも絞られていて、決して貧相ではない麻衣の胸部が強調されて見える。
 ポータルゲートに吸い込まれる前から着ていたブラウスと何処か似ているように感じた。
 足元は地味だが歩きやすい靴に変え、長めの靴下は恐らく絹製なのだろう、艶やかな白が違う白さを持った麻衣の足とコントラストを描いている。
 頭には長い髪を押さえるように暖色の帽子をかぶっているが、そこから流れる黒髪が白と金だけに彩られたローブの上を自身も意匠の一部だと主張する様に飾っていた。
 そしてワンポイントのアクセント、胸元にオーガ退治の際に貸した白銀のネックレスが揺れている。
 わざわざ見える位置にかけている辺り気に入ってくれているのだろうが、あれはゲーム内の価値で言うと数千万ベルになる。
 能力が強力で落とすボスが強いとはいえ、結局の所単純なレアドロップだ。算出はそこそこにある。
 持ち金から言えば買い直すことは難しくないのだが……思い出もあるのだ。出来れば返してもらいたい。

「あー、麻衣、そのネックレス、なんだけど……」

「あ、はいっ」

 俺が何かを言う前に、嬉しそうに麻衣が続けた。

「とっても素敵です。私、大事にしますね、先輩」

「……ああ、そうしてくれると嬉しい」

 わざとだろうか。少しそんな気がする。
 しかしそれでも、声を弾ませる麻衣にどうやって返せと言えばいいんだろうか。
 その上調子に乗ってベッドに潜り込んだ負い目はまだ残っている。彼女だろうと許可なくすれば犯罪だ。
 しかし友達を超えないあっちの二人は素直に抱き合っていたのに、逆に俺は麻衣に突き飛ばされるというのは何かおかしくないだろうか。
 ――まあ装備状態にある以上盗まれたり落としたりする事はない筈だ。安全のために預けたままでも問題はない、よな。
 とりあえず理屈だけつけて納得し、細かい事は無視を決め込み、やるじゃん、いつ買ったの? と黒い笑みを浮かべる健一をあしらって――俺は馬に速度を上げさせた。


 カントルが離れるにつれて、ずっと臭っていた生々しい香りは薄まり、いつしか消えていった。
 馬を歩かせ始めて数時間、血の香から逃れた安堵感は消えさり、程よい旅の緊張感が鼓動を揺らしていた。

「何でもかんでも、器用だねえ山田は……」

 御者台に座り、結局誰の言うことも聞かなかった馬の手綱を引く俺を見て、隣に腰掛けた健一が言った。
 今さっきも手綱を握らせてみたのだが、健一がどう手綱を引いても馬達は右にも左にも曲がらず、加速も減速もせずにのんびりと歩き続けたのだ。

「ずるいんですよ。先輩にだけ皆懐いてるんです」

「だから怒られても困るって……」

 本気で言っている様子はないが、馬車の中の麻衣もまた文句を言い出している。
 まあ振動する馬車の中で冗談を言える元気があるというのは良いことだろう。
 何せ桂木の方は揺れが落ち着かないのか、馬車の真ん中辺りでクッションを積み上げた上に座って一人笑点状態になっているのだ。
 馬車の振動に合わせて前後左右にゆらゆらと揺れる姿はなかなかユーモラスだが、本人は真剣らしく見ていると怒られてしまう。

「じゃあ後でもう一度やってみよう。こっちで手綱握っておけば多分暴れたりは――」


 ――クケェェェェェェ


「――モンスターか?」

「ただの鳥じゃ、なさそうだね」

「凄い鳴き声ですね……」

「ひゃっ、きゃぁぁぁぁぁぁ」

 最後は驚いて転んだ桂木だ。
 唐突に聞こえた尋常ではない鳴き声に各々が警戒を強め、俺と健一は腰の武器に手を伸ばした。
 多少遠くから聞こえてきたのでわかりにくかったが、あれは怪鳥のモンスター、ウイングハーピーの鳴き声だったと思う。
 丁度このマップに主に出現するモンスターだ。恐らくは間違いない。
 何の指示もしていないが馬達は自然と減速しながら動揺することなく歩みを続けている。
 彼らがカントルに来た時にもこの道を通ったのだから落ち着いているのは当然かもしれないが、動物が驚いていないというのは少し安心させてくれた。

 ウイングハーピーは怪鳥モンスターでありながら地上タイプであり、低空飛行しかできない。
 その上奇襲のような事はせず、こちらから襲い掛からない限りは見える位置をうろうろして去っていく、ノンアクティブタイプのAI設定だ。
 落ち着いてしばらく待てば姿を見せ、やがて去っていく筈だ。


 ――クケェェェェェェ


「……山田、この声、近づいて来てる?」

「だろうな。こっちに来るんじゃないか」

 しかしこれだけ時間をかけて鳴き声が一つなら相手は単独。可愛いものだ。
 ほっと息をついた俺に、起き上がったのか桂木が詰め寄ってきた。

「何でそんな余裕あるんですか先輩、この凄い声に襲われたら、大変ですよ! あったじゃないですか、ほら、鳥に襲われる映画! ……えっと、何て言ったっけ」

「鳥、だろ。古いの知ってるな……リメイク版か?」

「それならこの声カラスなのかなぁ……」

 うんうんと頷き合う俺達に、桂木が泣きそうな声を上げた。

「だから何でそんな余裕あるんですか先輩、二人ともー!」

「桂木さん、大丈夫ですよ」

「……麻衣まで……」

 がっくりとへこむ桂木。
 麻衣は俺の力をある程度は知っている。オーガの時には焦っていた俺が今回は落ち着いているから余り心配していないんだろう。
 だが健一は違う。話題に乗ったのは平静だからではなく、恐らくは何も考えずに返事を返しただけだ。
 ちらりと視線を向けると、青ざめた顔で剣を握り締めている。
 俺が何とかすれば大丈夫だろうと思っていた、だが、もしかしたら逆だったのだろうか。
 毎回毎回俺から危険に飛び込んでいたから、健一は何かしらの責任を感じている……?

「やっぱり、傭兵さんとか雇えばよかったんですよ、ちゃんと沢山お金払って守ってもらえば……」

「カントルに戦える傭兵とか残ってるわけないだろ。下手したら壊滅してたんだぞあの町は」

「ふぇぇぇ、もうやだ、健先輩、怖いー!」

 桂木が騒いでいるが、健一は何のリアクションもとらない。
 そもそも町を出る時、この町にはもう護衛の類を請け負える人間が誰も居ないにしても、そのまま出発するのは危険だと桂木は主張した。
 だが俺は平気だろうと言い、麻衣も俺を見て大丈夫だろうと言った。そして――健一が平気だと言って、それで出発したのだ。
 しかし健一が言ったのは本当にそんな台詞だったか。平気だと、何とかなるとそう言ったのではなく、健一は――


 ――クケケェェ!!


 目の前に舞い降りるように、小人の手を大きな翼に変えたようなモンスターが現れた。
 実際には高く飛べないので横から滑るように姿を見せただけだ。
 声はモンスターチックだが見た目には非常に愛嬌があり、近くをまとわりついた後去っていくそのAI設定からも和みキャラに位置づけられている。
 馬達はその習性を知っているのだろう、ハーピーを無視してしてそのままゆっくりと歩みを進めている。
 俺はウイングハーピーの実物を初めて目にした感動で健一が動いたのに気がつかなかった。
 そうだ、健一は『何とかする』と、そう言ったんだ。

「皆、下がってて!」

 まるで『勇者』のような事を言い、健一が馬車から飛び降りる。
 首をクリクリと曲げて不思議そうに見つめるウイングハーピーを睨みつけ、健一は剣を手に一気に駆け出した。
 とりあえず即死はしないだろうからヒールで何とかなる――
 ありえない事を考えて行動が鈍った。

「なっ……、この馬鹿っ!!」

 慌てて飛び降り、敏捷値をフルに使って追うが、そもそものハーピーとの距離が近過ぎる。
 馬車の速度に合わせて後ろにホバリングするハーピーへすぐに追いついた健一が両手で握った『ソード』を振り下ろした。


 ――クェェェェ?


 ゲーム内では聞いた事のない疑問符のような鳴き声をあげてハーピーが避ける。
 空中を泳ぐように、氷上を滑るように、剣を持った健一をパートナーに踊るような動きでハーピーは数回の斬撃をかわしきった。

「うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 時間で言えば三秒にも満たない時間が永遠にも感じられる。
 健一がさらに剣を振り回そうという所で、ようやく追いつく事に成功した。

「やめろ健一っ!」

 暴れる初心者剣士を後ろから全力で羽交い絞めにし、武器を奪って馬車の中の放り込む。
 一瞬やりすぎたかと思ったが桂木が受け止めていたようだ。役得していてくれ、桂木。


 ――クケェェ?


 まだ疑問符をつけて鳴きながら、ハーピーはひらひらと馬車の前を飛んでいる。
 健一が『ソード』を振り回したのが幸いだった。
 恐らく装備制限レベルに満たないことでダメージ判定がつかず、攻撃が外れやすくなっていたんだろう。
 比較的回避率が高いとは言えウイングハーピーは低レベルのモンスターだ。
 ナイフの方で攻撃していたら1発ぐらいは直撃して健一が反撃を被っていたかもしれない。
 試みた攻撃が全てミスでダメージを与えられていないので、ハーピーはまだ『システム上の』アクティブ状態にはならず、こちらを伺っているままだ。
 分けて考える必要があるのかはわからないが、後は現実の問題だ。このモンスターが大人しい、もしくは人懐っこい性格であれば……。


 ――クケェェェェェ!


 切りつけたにもかかわらず襲い掛かってこないモンスターを呆然と見つめる健一を尻目に、ウイングハーピーは一声鳴くと飛び去っていった……低空飛行で。

「……ふぅ。良かった、行った……」

 俺の声を皮切りに全員の安堵の吐息が重なった。
 危ない目にもあったが、中々に貴重な経験だった。ゲームで言われる可愛いモンスターというのは実際に可愛い可能性が高そうだ。
 いずれ一人でダンジョンに潜って、サキュバスとかに襲われてみようか……と、言っている場合じゃない。

「……しかし健一、何無茶してるんだ。大人しいモンスターだったからいいものの、皆死んでる所だぞ?」

 朝言われた事の焼き直しだ。
 俺としては半ば冗談だったのだが、健一は本気で落ち込んでしまった。

「うん……ごめん、ありがとう……」

「いや、別に本気で言った訳じゃないんだが……。まあ、馬だって人を蹴り殺せるぐらいなんだ。危ないモンスターでも動物と一緒だ、襲ってこない奴は沢山居るさ」

「それに……格好良かったですよ、健先輩!」

 いや、そのフォローはどうなんだ桂木。
 健一が馬車内に入ったからか、御者台に座った俺の横に麻衣が腰掛けた。

「お疲れ様です、先輩」

「……ああ、さんきゅ」

 その一言で癒された、間違いなく癒されたのだが。
 一番楽なポジションだなぁ、麻衣……とは、口に出さなかった。





「大分、暗くなってきたな」

「そうですねえ……」

 馬の休憩を数回はさみ、日の暮れる時間になった。持ち回りで御者台のナビシートに座っているのだろうか、隣は地図を持った桂木だ。
 今の所あれからモンスターは出ていない。街道にはモンスターが出現しにくい設定になっているのでこんなものだろうとは思う。
 しかし健一は多少落ち込んではいるものの、返した剣をしっかりと腰に差し直していた。
 次に現れたモンスターにまた襲い掛かったりするとまずい。しかしどう止めたものか。
 曲がり角を曲がった回数と頭の中の地図を照らし合わせるとここまでで丁度半分ぐらいは進んでいるだろう。
 周りの木の本数も相当に減っていて、既に森じゃなく林と言えるレベルだ。山岳都市に近づいているのは間違いない。

「馬もそろそろ疲れてるだろう。晩飯にして、休むか」

「うぅ……助かります」

 ぐったりと桂木が言った。揺れに慣れるどころか限界を迎えているようだ。

「まあこのペースなら明日の夕方には次の町だ、後ちょっと頑張れ」

「明日には着くんですか!?」

 聞くと直ぐに喜色を浮かべる。このリアクションの良さは桂木の良い所だろう。
 横目で桂木を見て、一応言っておいた。

「一日、頑張れるんならだけどな」

「……頑張ります」

 頑張れ。


 夕食は焚き火で暖めたパンに焼いたベーコンを乗せ、さらに小さく切ったチーズを乗せたという、買った品目から完全に予想されるメニューだった。

「もうちょっと材料があれば何か作れるように調理道具は買ったんですけどねー」

「へぇ、すずちゃん、料理得意なの?」

 ピザモドキと化したパンを配りながら言った桂木に、健一が食いついた。
 始まりの町カントルと山岳都市ガイオニスが馬車で二日程の距離だとすると、町を飛ばさずに進めば教国まで最高で4日程度に区切られた旅になる。
 根菜類の野菜のように常温で保存できる食料を買って進めば、調理の出来る人間が居ればもう少しまともな食生活が送れるかもしれない。
 他3人から注がれる熱い視線に気圧されながら、桂木がおろおろと言った。

「いや、その……同じ名前の調味料は幾つか見つけたんですけど、知ってるのとは違うから……ちょっと、何作っても実験作みたいになっちゃうかもなー、なんて……」

 そんな事は全く構わなかった。
 間髪入れずに頭を下げておく。

「よろしくお願いします」

「期待してるよ、すずちゃん」

「ふぇぇぇぇ!?」

 期待の旅する新人コック、桂木すずの誕生だった。

「……桂木さん、いいなぁ……」

 …………………。

「……あ、わ、私もちょっとぐらいは出来ますよ? その、レシピがあって普通の材料がないと自信がないだけで、全然大丈夫ですよ?」

「……いや、別に何も言ってないぞ、麻衣」

 心の中ですら何も口に出していない。視線も向けていない。何故わかった、麻衣。

「ぅぅぅ、先輩には絶対何も作ってあげません」

「いや、人によっては聞くのが悪い事もあるから言わなかっただけで、悪気は別に……」

「うぅぅぅ」

 うーうー唸ってパンをかじる麻衣はそれはそれで可愛い。
 しかし、先の言い方は全然自信ありげではなかった。
 漫画のように食えない飯を作り出す人間が本当に実在する事を、メシマズスレをたまに見る俺は知っている。
 別にこんな状況で彼女の美味しい手料理が食ってみたいとか言い出すつもりはないから……。
 リカバリーオール、使う羽目にならなきゃいいんだが……と、口に出さず思った。
 ちなみに、どの馬も人参は食べなかった。

「とりあえず3時間ぐらいしたら健一を起こすから、それまで寝ててくれ」

 と言ったのが5時間ほど前だろうか。今日も俺は寝ずの番をしていた。
 相変わらず睡眠欲は脅威ではないのでこれといって困る事もない。
 近づいてきたモンスターが騒ぐ前にキュアバーストを使うのが唯一の仕事で、多少暇なのが問題な程度だった。
 と、動かない馬車に人が居るのか見に来たのだろうか、鳴き声をあげる事もなくウイングハーピーがやってきた。
 特に何も考えることなくクイックスロットから魔法を選択。

――キュアバースト――

 ターゲット ウイングハーピー。
 無音で光が炸裂し、ハーピーが姿を消す。一応このぐらいの雑魚なら一撃でも倒せるのだ。
 可愛いモンスターなのだが何故か一人の時は情をかけるという発想すら起きなかった。
 目線をぼんやりと正面に戻した所で、後ろから小さな声が響く。

「……先輩」

「っ……麻衣か。悪い、眩しかったか?」

 一瞬二人にバレたかと緊張したが、幸い馬車から出てきたのは既に俺の力を――方向性はともかく――知っている、麻衣だった。

「…………」

「……麻衣?」

 何も言わずに隣に座り込む彼女の姿に少し動揺する。
 出会った頃の気まずかった雰囲気を思い出し、何か話さなければならないのかと焦ってしまったのだ。
 だが、流石にあの頃とは違う。
 俺も何も言わず、そのまま傍で寄り添った。

「先輩は……」

「……ん?」

 しばらくの時間を置いてから麻衣が口を開いた。
 彼女はこうして、何かを言うのに時間をかける時がある。大分わかってきていた。

「先輩は凄く、強くなってます」

「別に……そんな事はないと思うけどな」

 仮にもマップボスのシュタイナーウルフと比べればウイングハーピーの方が幾らも弱い。
 麻衣の目の前で、彼女風に言えば『覚醒』して見せた時と変わっていなくてもおかしくはない……実際、変わっていないのだし。
 しかし麻衣が言いたいのはそういう事ではないのだろう。
 オーガと対峙したあの時の事。健一を助けようとしたさっきの出来事。
 意図していたわけではないが、彼女の望んだ道を、俺は進んでいる。

「私は何も出来ないままです」

「……麻衣を先頭に立たせて化け物と戦うような事になったら、それはそれで嫌だぞ、俺は」

 私もです、と麻衣は笑ってくれたが、その横顔は笑みとはとても言えない程に寂しげだった。
 俺が最初に力を使い、健一も一応はオーガを倒して見せた。
 でも、麻衣はまだ何もしていない。出来ていない。
 俺が昼間に思った楽なポジションにいるという事を、恐らく麻衣も感じているんだろう。
 幾らかの余裕を持って旅を始めているが精神的には俺達が今も極限状態であることに変わりはない。
 今日も健一が少しおかしかったぐらいなのだ。
 そんな時にただそこに居る事しか出来ない苦痛。
 それは、何処まですべきなのかで精一杯の俺には想像できないものだろう。

 だが……そんな事を他人に話したってどうにもならない。
 恐らく麻衣もわかっているだろう。
 それでも俺を頼ってくれた。
 情けない言葉を口に出してくれたのが嬉しかった。
 俺は、彼女に何を言ってやればいいんだろう。
 麻衣はこれ以上俺に何かされる事を求めてはいない。何かが出来る自分こそを望んでいる。
 だが、もしも麻衣が何かの力を得て、そして自分の身を守り、敵を退ける事が出来るようになったら――

「強くなる方法は、ある」

「え……?」

 何も考えずに口に出していた。
 確かに方法はある。クエストでレベルが上がった以上、麻衣もモンスターを倒せばレベルは上がるだろう。
 高レベルの僧侶が傍にいれば何の問題もない。理屈だけで言うのならいつだって強くなる事は出来る。
 でも――

「別に、そのままでいいさ」

「……?」

「守られていてくれ。守らせてくれ。何だったらお姫様で居てくれればいいんだ」

「……でも、私は……」

「少なくとも今、俺は麻衣のおかげでまともで居られる。頑張った後に一言労ってくれれば、きっと俺は何だって出来るから」

 悪くない台詞だと思った。
 嘘はついていないし、気休めのつもりもない。
 のだが。

「……嫌です」

「……そうですか」

 一刀両断だった。

「私も出来ることをしたい……何かが出来るようになりたいんです。私も、皆の力になりたい……」

 うつむいて、麻衣は言った。
 俺はこのままでもいいと思う。でも、麻衣はそれではいけないと言う。
 短い時間の間に俺達は何度もこうして意見がぶつかっている。
 これまでは結果として俺が譲る形になっているが、これは全て麻衣の問題だ。
 俺の意見はもう言った。しかし俺が何と言おうと麻衣が選び、自分で選択する。
 だからこれ以上何も言わない……それは、本当に正しいんだろうか。

 長く黙り込んだつもりはなかったが、気づくと座り込んだままの麻衣が静かに寝息を立てていた。
 どうすれば強くなれるのか結局聞かれなかった。
 モンスターを倒せば――というのは予想しやすい事だ。もしかしたら何となくわかっているのかもしれない。
 だが仮に理解していても、それで実際にモンスターに立ち向かうことができるだろうか。
 巨大なボスオーガを倒した健一ですら今日ハーピーに挑むのも決死の覚悟だったんだ。
 逆にオーガに蹴りつけられて死ぬような目にあっている麻衣がモンスターを倒すなんて出来るわけがない。
 結局は無理なのだ。でも、それでも納得が出来なくて、それが『嫌』だったのかもしれない。

 無理をして欲しくないから言わなかったが、幾つもクエストをこなしたり、PTメンバーに代わりに敵を倒してもらう事で経験値は得られる。
 もしもそうして麻衣が強くなったら、自分で強くなれるようになったら、彼女は誰かの力になろうとするのだろうか。
 その時、俺はどうすればいいのかを考えてしまう。
 一緒に戦えばいいだけの筈だ。
 肩を並べて、背中を合わせて二人で困難に立ち向かって、そして生きて帰る。
 麻衣の流儀だが悪くない話だと思う。
 しかし俺は、俺達の関係は、そのままでいられるだろうか。
 今は俺が力を持って麻衣を助け、麻衣は俺を支えているんだと思う。
 もしも麻衣が力を持ったなら彼女にとって俺は必要な存在なんだろうか
 ただ一言好きだと言ってくれたら。
 俺の事が一番なんだと、そう言ってくれたら。
 俺はきっとためらわずに決められた筈だ。
 麻衣に一番大切な言葉をもらっていない事が――俺からも何も伝えていない事が――酷く、どうしても重く感じられた。



 ――そんなのは言い訳だ。
 結局俺は、頼ってくれた恋人に何も出来なかった。
 少なくとも、隣でこんなにも無防備に眠る程に信頼してくれているのに。
 なのに今更に証明を欲しがるなんてどれだけ女々しいんだか。
 童貞はこれだから困る……と、きっと健一なら笑い飛ばしてくれただろう。
 もしかして親の愛が足りなかった子供とかなんだろうか。そんな覚えは一切ないんだが。
 相変らず羽のように軽く感じられる麻衣を抱き上げ、馬車へと運んで行った。

「……ぅ……ん?」

 扉代わりの布を軽く開いて中に入ると、人の気配に気づいたのだろうか、桂木がもごもごと寝言を漏らした。
 その隣に暫定的に作られた毛布の寝床に麻衣を下ろした所で、麻衣を挟んで向こう側で寝ている桂木がふと、目を開く。

「あ……」

「ん?」

 呆然とした桂木の視線を確認すると、抱いていた麻衣を下ろす俺の姿は、今から麻衣に覆いかぶさろうとしているようにも……見える。

「お、おじゃ、お邪魔しました……っ!」

「……寝てろ」

 毛布に絡まったままじたばたと身を起こそうとする桂木を置いて一人で馬車を出た。
 星もない暗闇の空、それでも何故か薄っすらと見通せる不気味な闇をたたえた森。
 俺は知らず言葉をこぼしていた。

「……好きなら好きって、言えばいいんだ」

 麻衣が俺に応えてくれないんじゃないかと、今更危惧する方が馬鹿馬鹿しい。
 それでも、その言葉を伝える気持ちになれない。

「……俺は、麻衣が好きなのか……?」

 当たり前だと。口に出そうとは、どうしても思えなかった。





「いやほら、あんまり気持ちよさそうに寝てるからつい、な」

「……で、山田は徹夜?」

「俺は徹夜とか慣れてるから大丈夫だ。ほら、朝飯食ってさっさと行こうぜ」

「あ、あのねえ……」

 健一が怒っているのはわかるが、起こすと遊びに来たハーピーに突撃しそうだったので仕方がなかったのだ。
 朝食後、貴重な水を分け合ってそれぞれ身支度を整えた後。
 今日も頑張って行こうという時に、健一が俺を馬車内に押し込んだ。

「今日は僕が馬車を動かすから、山田は昼は寝てて」

「……出来るのか?」

「昨日ちゃんと見てたから大丈夫さ。任せて、山田はちゃんと寝る事」

「……そうか?」

 眠い訳ではないが、眠らせてくれるのなら断る理由もない。
 御者台には健一と桂木が並んで座っている。頑張ってくれ。
 何となくオチを理解しながら毛布を敷いて横になったところで、先に馬車の中に居た麻衣が目の前に座り込んだ。

 見上げてみると、柔らかく微笑んでぽんぽんと膝を叩いた。
 昨日の今日で俺は少し気まずく思っていたんだが、これは気にしていないのか、気がきくというのか、それとも……
 ……もしかして案外と嬉しかったんだろうか、お姫様で居ればいいと言われたのは。
 麻衣の膝に頭を預け、そのまま目を閉じた。
 時折髪や顔を触れているのは麻衣の手だろう。滑らかな感触が鼓動を早め、同時に安らぎをくれた。
 優しく幸せな時が流れた。このまま一日かけてガイオニスにつくのならそれ以上の事はない。
 だが残念な事に、馬車はいつまでたっても動き出してくれなかった。

「山田ー、ちょっと来てー!」

 当然すぐにお呼びがかかる。

「……ありがとう、麻衣。ちょっと行ってくるな」

「頑張ってくださいね」

「任せろ、今の俺は多分無敵だ」

 元気に立ち上がった俺に手を振る麻衣が少し残念そうに見えたと、そのぐらいは自惚れてもいいと思う。




「……モンスター、出ないね」

「出ないならそれに越した事もないだろ。結構可愛かったけどな、昨日のは」

「…………」

「黙んなよ……困るから……」

 俺が手綱を握った瞬間素直に歩き始めた馬車に揺られて数時間、御者台に並んで座る健一はずっとローテンションだった。
 前日の失敗――と言う程でもない、健一の立場からすれば勇気ある挑戦を、随分と悔やんでいるらしい。
 その上に御者を務めることも出来なかったとあって今日は相当の落ち込み様だった。
 一応しばらくは気を使っていたのだが、段々と面倒になってきた。
 相手は麻衣じゃない。男で友人で、ついでに言えばリア充の健一に遠慮するのも馬鹿馬鹿しい。

「昨日は朝からどっかおかしかったし、何かあったのか?」

「…………」

 無視だった。

「もう4日目だ。誰も口には出さないけど、そろそろホームシックとかもありそうだよな」

「別にそういう訳じゃないんだけど……さ」

 うつむいて言う健一。
 昨夜そうしたからだろうか、無言のままでそのまま次の言葉を待った。
 進み続ける馬車は二つほど緩やかなカーブを描いただろうか。
 少しの間をおいて、馬車の中で何やら話している麻衣と桂木を振り返った後、健一が口を開いた。

「その、どう言えばいいのかわからないんだけど……ありのまま話すよ?」

「異世界に引っ張り出されるより面妖な事なんてそうそうないだろ。今なら何でも聞けると思うぞ」

 軽く答えた俺に応じてか、健一の方も極々軽い様子で言った。
 顔の方は完全に引きつった笑みを浮かべていたが。

「どうもさ、その、何て言うか……レベルが上がったような気がするんだ、僕の」

「……ああ……レベル……?」

 思わず、ああ知ってるよと言いかけてしまった。
 レベルが上昇している事はわかっていたが、まさか本人も気づいているとは考えてもみなかった。
 しかし言われてみると、スキル発動のエフェクトが見えているのなら自分のレベルが上がった時の盛大なエフェクトも見えるはずだ。
 具体的にレベルだと言及する辺りからすると感覚として上がった実感があるのかもしれない。

「何を言ってるのかわからないと思うんだけど、僕にも正直よくわからないんだ。ただ、何か恐ろしいものの片鱗を……」

「……結構余裕あるだろ、お前」

 どこかで聞いたような話になってきた。
 隠れオタの健一とネタの混じった会話をするのはよくある事だったが、こちらに来てからは珍しい。
 口火を切って大分吹っ切れたらしい。幾らか緊張の取れた笑みを浮かべて続けた。

「別に冗談で言ってるわけじゃないんだけど、本当にそうとしか言いようがなくって。多分あのオーガを消した時に経験値が入ったんじゃないかと……いや、真面目に言ってるんだよ?」

「悪い、ちゃんと聞いてる。大丈夫だ、健一がおかしくなった訳じゃない」

「……山田?」

 全て話す良い機会だ。
 この状況を俺のせいだと疑われる――実際にそうである可能性はある――不安は残っている。
 それでも、今話さずにいつ話すと言うんだ。
 少なくともおかしくなったと思われる事はない。すぐには口に出せなかった気持ちも理解し合えるだろう。
 馬車の中の二人がこちらに気づいていないのを確認し、軽く言った健一に調子を合わせて俺も出来るだけ軽く聞こえる様に、言った。

「ここ……この世界、多分ゲームの中だと思うんだ。覚えがあるんだよ、何て言うか……設定に」

「……ドラクエとか、ファイナルファンタジーみたいな……ゲームの中?」

「ああ。レベルとか魔法とかある、そういう世界だった」

 実際口に出してみると酷くありえない話だった。
 まともに聞けば異常だとしか言い様がないだろう。しかし健一はそれを真面目に受け取り、納得したように頷いた。

「ゲームか……なるほど、それで山田はずっと余裕があったんだ。その割には様子がおかしかったのも、そういう事なんだね」

「ああ。最初にゲームの中だと気がついた時は本気でおかしくなったと思ったよ。今でもちょっと不安なぐらいだ」

 初めてチャットを打ってしまった時だ。
 信じられない状況下に置かれた自分がゲームのやり過ぎで狂ったのだと本当に思った。
 あの時の恐慌を思えば、今こうして落ち着いて説明しているのも驚ける程だ。

「それで……どうもゲームで育ててたキャラクターのレベルがそのまま残ってるっぽくてさ。それで馬が言う事聞いたりするみたいだ」

「……ゲームのキャラのレベルを、山田が?」

「何を言ってるかわからないと思うが、俺にもわからん」

「突っ込む余裕、ないよ。……何だよそれ、それじゃ勇者は山田の方じゃないか。人を勇者呼ばわりしたくせに」

 健一が眉をひそめて言った。

「ああ……なるほどな。それでお前、自分が勇者だったらとか言ってたのか」

 レベルが上がる自分が特別なんじゃないかと、それを不安に思って勇者だったら何て言っていたのか。
 昨夜桂木から逃げていなかったのも、誰かにすがりたかったからかもしれない。桂木が勘違いをしていないと良いんだが。

「そうだよ。みんないつも通りだし、僕だけレベルが上がってるんなら僕が何とかしないとって……勘違いだったけどさ」

 幾らか残念な気持ちもあるのだろう。どこか不満げに健一は言った。
 しかし問題はない。どう頑張っても俺は支援職だ。PTの花形だとはとても言えないだろう。

「心配ないぞ。俺に出来るのってホイミとかスカラとか、そんなのだけだ。勇者が居るとしたら俺以外の奴だな」

「ホイミ……僧侶みたいだね。……ああ、それで麻衣ちゃんが山田は僧侶って言ってたんだ。麻衣ちゃんにはもう話してるの?」

「俺に多少出来る事があるのは知ってる。でも麻衣は小説の中だと……小説みたいな世界だと思ってるみたいだ。女にゲームがどうのって話してもなあ」

「まあ、レベルとか言っても馬鹿だと思われるだろうね……」

 ゲームをやる女の子は沢山居るが、やらない所か疎んでいる子も決して少なくはない。
 その筋に興味を持っていない女性へゲームの話をする程に馬鹿馬鹿しい事はそうそうないだろう。
 ここはゲームの中だからその設定について説明したい、とか――全く、ありえない話だ。
 出来れば麻衣がフォーチュンクエストなんかを読んでてくれると良いんだが。
 しかし実際はあの二人もレベルは上がっているのだ。
 少なくとも桂木はエフェクトに気づいただろうし、俺にはわからない健一と同じ感覚を味わった筈だと思うんだが……気にした様子はない。

「じゃあ山田は強くてニューゲーム、僕らはニューゲーム、か。何か気が抜けたよ。もう任せちゃってもいいの?」

「かなりレベルはあるし敵のAIも知ってる。まあ大量に襲ってこなければ大丈夫だな」

「……そういう事って、あるの?」

「次の町を出た辺りからないとは言い切れない。お前らより馬と馬車の方がHP高いから、馬車から出ないでくれ」

「……僕もレベル上げようかなぁ……」

「無茶言うな、ハーピーにかすりもしないくせに。あれ雑魚なんだぞ」

 嘘っ、と大声を出した健一に馬車の女性陣が反応し、ゲームの話はお流れになった。
 話していない事はたくさんある。この世界の現状、これから出会うかもしれないクエスト、目指している神の事、俺にどんな能力があるのか。
 そして健一自身が選べる可能性も――いや、これは気づかなくていい。みんなは俺に守られて居てくれればいいんだ。
 なのに違和感がある。レベルを上げようかと言った健一にそうすべきだと応じた自分が居るのを感じる。
 少なくとも一人には隠し事を話せた。わだかまりはマシになって然るべきなのに、むしろしこりが残っているように思う。

「健先輩、何話してたんですか? あ、私達も先輩の事話してたんですけど、麻衣ったら結構惚気るんですよ、こう見えて。やっぱり私も……聞いてます? 先輩――」

 ――しかしそんな事よりも、普段よりさらに健一に懐く桂木に感じる嫌な予感の方が随分と重い。
 一昨日の事があるからか邪険に扱う事も出来ず困り果てる健一もそんな様子だった。
 世界がどうしたという大問題よりも、目の前に迫った小さな問題の方が大きく感じる。
 どうにも俺達は勇者向きではなさそうだ。




 結局、その日は何の問題もなく進み続け、日が沈む前にあっさりとガイオニスにまで辿り着いた。
 カントルの大門よりもさらに大きな門。
 その前で馬車が止められ、門兵による検閲が始まった。

「その馬車は騎士団所有の物だろう、それに乗ったお前達は何者なんだ」

 中に怪しいものは何もなかったが、馬車自体を見咎められて厳しい顔の門兵がこちらを睨みをつけている。
 ガイオニスの町に入れないというイベントはなかったと思うが、こんな所で面倒事にはなりたくない。
 おろおろしている麻衣と桂木をなだめ、とりあえず素直に事情を話してみることにした。

「ドラゴンナイトのクーミリア様から褒賞としていただきました。こちらがその書類です」

「うむ、よかろう。馬車はこちらで預かるか?」

 幾らか緊張していた俺の気持ちはどうなるのだろうか。

「……はい、お願いします」

 クーミリアから受け取った書類を見せて一言名前を出すだけで、あっさりと納得された。
 よく考えると帝国首都に向かうのも教国へ向かうのも途中までは同じ道のりだ。
 先に出発したクーミリアが話をしておいてくれたのかもしれない。
 幼い少女ではあったが、そういう気をまわしてもおかしくないような雰囲気のある子だった。
 すると……今のはこの男のちょっとした嫌がらせだろうか。案外クーミリアのファンなのかもしれない。


 門兵に馬車を預けて俺達は山岳都市ガイオニスに足を踏み入れた。
 構造や雰囲気はカントルに似ているが、大きさを単純に倍にしたぐらいの規模のある町だ。
 どうして森の中の町と似ているのかと言えばゲームの中でその理由が語られていた。
 それはガイオニスは山岳都市と名がついているものの、山間部にあるだけで山の上にあるという訳ではないからだ。
 どちらかと言えばこれから山を越えていく足がかりとして存在する町としての色合いが強かった。
 反対側から来た場合には長い丘陵をゆっくりと上って、後は下るだけなのがガイオニスの山なのだが
 こちらから上る場合は急な山道をしばらく歩き続けなければならない。
 その為こちら側に宿場町が作られ、自然と発展していった……とか、そんな設定だったと思う。
 なのであちこちに宿が見られ、その中の多くには温泉もある。
 宿場だけあって酒場も充実していて、冒険者も多い。そういえばクエストも豊富だったはずだ。
 むりやり開始されるクエストが存在していないか、後で確認しておこう。

「……それでは!」

 ぽんぽんと手を叩き、おのぼりさん丸出しに周囲を見回す俺達に向けて、桂木が言った。

「前回の反省を活かして、まずは宿から! いいですね!?」

 気迫溢れるその言葉に反論する者は一人としていなかった。
 近場の宿屋に向かって突撃していく桂木の姿に、町に到着する度にこうなるような、謎の既視感を覚えたのだった。


「ウチは一人20ベルだぜ、部屋にも風呂が――」

「次っ!」

「一人30ベ――」

「次っ!」

「一人10ベルだ。四人一部屋でいいか?」

「あー……次っ!」

「一人10ベルだ。四人なら二人ずつの二部屋でいいぞ」

「お願いします!」


 ――何も言う余裕がなかった。
 値段を聞いてはさっさと出て行く桂木の代わりに、苦笑いをする店主に頭を下げるので手一杯だったのだ。
 店主の様子を見るに、これだけの数の宿があるとそういう客も少なくはないようだった。
 確かに貧乏なのは仕方がないので、どうか許して欲しい。いや、俺は全く貧乏ではないのだが。

「という訳で、お部屋をお借りしました」

「借りたというか強奪したような気分だよ、何となく……」

 とりあえず一つの部屋に集まり、ようやく休むことができた。
 二本の鍵を握って黒いオーラを放つ桂木が不気味だが、とりあえず健一と並んで腰を下ろして座る。
 麻衣も疲れた息を吐いている。休むために疲れるという無駄な自給自足が成り立っていた。

「そういう訳で、部屋割りです」

 やる気満々で言う桂木。
 朝の俺のような、つまりは何となくオチが見えたような顔で、健一が聞いた。

「……どう分けるの、すずちゃん」

「旅先の宿、4人の男女、そして部屋は二部屋。これはもう、部屋割りは決まってますよね、先輩!」

 桂木の輝く瞳が健一を捕らえ、捕らえられた本人はぐったりしている。
 これもまた極限状態の精神の発露の形なのか。馬車の揺れでおかしくなったのか。
 それとも昨日様子のおかしかった健一への桂木なりの気遣いなのだろうか。
 何となく、フラグを感じ取った恋する乙女は無敵なだけだという気もした。

「ですので、行ってらっしゃい山田先輩。頑張ってね麻衣」

 正直、全くありがたくない申し出だった。
 そんな事に頭を使っている場合じゃないのだ。
 そもそも麻衣とまともに知り合ってまだ数日だ。当然のように手は繋いでいるし、膝枕まで行けば頑張っている方だろう。
 一昨日はベットから追い出され、昨日は食い違った言い争いをした。ここで二人にされるのは出来れば遠慮したいのだが……

「だそうだが……どうする麻衣、健一」

「私は大丈夫ですけど……」

 麻衣は即答だった。
 嬉しいのは嬉しいのだが、そういう態度が俺を混乱させるんだ、麻衣。

「え、嫌だ」

 健一も即答だった。
 嬉しいのは嬉しいのだが、そういう態度はどうなんだろうか、健一。
 まあ健一は俺と二人部屋になって色々と相談したいことがあるんだろう。俺の方もそれは同じだ。

「な、何でですか、健先輩!?」

「いや、ほら、貞操が危ないような気がする」

「別にたいして大事にもしてないくせに、どうしてそんな事言うんですかっ!」

 元々かなり遊んでいた健一が言う台詞ではないのは確かだが、桂木の方も随分と酷い言い草だった。

「知ってるのに好きなのかよ……いや、お前本当に健一が好きなのかそれ」

「好きじゃなかったらこんな事言う訳ないじゃないですかー!」

 本気で泣いているのではなさそうだったが、うわーんと泣き声を上げる桂木。
 俺が見ている前で桂木が好きという言葉を口にしたのは初めてだった。
 健一も口に出して言われた事はなかったのだろう。少し驚いたように桂木を見つめていた。
 はっきりと行動して、はっきりと口に出せる桂木が羨ましく思える。
 だからだろうか、少しだけ手伝ってやりたい気持ちになった。
 俺も少し頑張って麻衣と話し合ってみようか。
 桂木をなぐさめようとしない麻衣も意図は同じだろうと思う。

「はあ……よし。行くか、麻衣」

「あ……はい」

 えんえんと泣いている桂木の手から不自然に突き出されている隣の部屋の鍵を受け取り、麻衣をつれて部屋を出る。

「え、ちょっと、山田!? 麻衣ちゃん!?」

「そういうの、慣れてるんだろ。優しくしてやれ」

 扉を閉じる寸前、泣いている筈の桂木の手が健一に延びていくのが見えた。
 ついでに言えば絶望に沈む健一の表情も。

「この『お話』、多少ホラーになってきたんじゃないか、麻衣」

「一応ラブコメディなんじゃないでしょうか……」

 お世辞にもラブロマンスではないらしい。麻衣も中々言うもんだ。
 こちらも部屋に入り、とりあえず二人で荷物を下ろして一息つく。
 お互いに疲れている事もあるのか、妙な雰囲気には全くならなかった。

「よし、麻衣はどうする?」

「じゃあ、お風呂を頂いてきます。その、温泉があるそうなので……」

 宿に温泉、いい言葉だ。
 だというのに、入ってる間はステータスアップの効果があったな、と夢のない事しか浮かばない自分が悲しかった。

「俺はちょっと調べものがあるから町に出てくるよ。夕食前には戻るから」

「あ……はい、行ってらっしゃい……」

 丁度良くクエストについて調べる時間が出来た。
 一人で置いて行くのは悪いかとも思ったのだが、麻衣は極々普通の、どちらかと言えば体力のない女の子だ。
 馬車に揺られただけの二日間でも間違いなく疲れているだろう。
 状況のわからない異世界、どうしても皆で行動することになって一人の時間を中々取れないこともある。
 温泉に浸かって体を休め、部屋でゆっくり気を抜く時間を作るのもそれはそれで気遣いだろう。
 
 とりあえずの理屈をつけて宿を出ると、町の中心部へと歩き出した。
 中央少し東辺りにクエストの固まった酒場があった筈だ。
 本音を言えば、昨日のような話になるのを先送りにしたい気持ちがあった。
 自分の中にずっと怪しくささやいている部分があるのを感じる。
 やらせてしまえばいい。
 俺が手伝うからその可愛らしいハーピーを殴り殺せ。そうすればお前の望みは叶うんだ、と。
 無理やりに武器を握らせ、震える恋人を魔物に突き出してやればいいんだ。
 何せ仮にもカーディナル監修のパワーレベリングだ。
 スキルで倍加させたHPとネックレスの加護。他の装備も貸せば、本来なら一撃で四回分死ねるような攻撃をする敵とだって戦える。
 クエストを組み合わせて休みなく戦わせ続ければ数日でクーミリア並の強さが得られるだろう。
 それでも、絶対に死の危険はないと保障できるんだ。
 俺がオーガの襲撃前夜に麻衣から要求された事に比べれば、幾らかは穏当と言える――

「……全く、何をやさぐれてるんだか……」

 なんとも攻撃的な考えを頭を振って追い出した。
 ゲームの中だという状況を別にすれば、彼女に振り回されるのは間違いなく幸せな部類に入る悩みだ。
 桂木の素直さを真似出来ない自分への苛立ちなのだろうか。それを相手にぶつけるのも馬鹿馬鹿しい。
 とりあえずは幸いにも、実際に何かしたわけではない。大丈夫だ。
 昨夜の事だって結果だけ見れば今日の麻衣は機嫌が良い。期待には添えなかったが、悪い気分にはさせなかった筈だ。
 初めてのまともな恋愛がどうにも不安で、落ち着かないだけだ――


 本当に、それだけなのだろうか。
 オーガと戦った時から胸にあるこの感覚。
 既視感と違和感が戦っていたあの時の、既視感だけを取り出したような、本当にゲームの中に入っている気分。
 装備できない武器を望む健一のレベルを上げてやろうかと考えたように
 見た目も中身も害がない生き物をモンスターだというだけの理由で無感動に消し飛ばしたように
 俺はゲームみたいに、初心者プレイヤーを育成して楽にするべきだと思っている。

 そんなものは現実的に無理なんだ。
 最初から力があって戦う事は出来ても、人並みのままで化け物と戦って強くなるなんて尋常じゃない。
 無理にやらせて、そして出来たとしても、まともな精神でいられる訳がないんだ。
 なのに俺は当然の事としてレベル上げを選択肢の一つに置こうとしている。
 現実とはズレたゲームの感覚。それは確かに、一度認めて選び取った既視感だ。
 だがそれが俺の中でどんどん肥大化している。現実を塗りつぶしてゲームの部分が拡大している。
 もしかしたら、麻衣の言葉が原因なのかもしれない。
 出来ることをしたい、出来るようになりたいと彼女は言った。
 もしも初心者プレイヤーに、あれがやりたい、これがやりたいと言われたら、とりあえずレベルを上げろと返すだろう。
 俺は……現実に思い悩んでいる麻衣を、そんな話と同列に扱っている……?

「ろくでもないな、廃人ってのは……」

 自分の馬鹿馬鹿しさに嫌気がさした。ゲームにのめり込み過ぎた弊害だろう。
 そもそも根本的に俺以外の三人ではゲームウインドウも開けない。
 物理的な認識とは別のところにある『いつも通り』の感覚を言葉で伝えるのは不可能だ。
 ウインドウが開けない以上、レベルを上げた所で装備が良くなってHPが増える程度だ。
 ステータスを振り分けることも、スキルを獲得することも、もちろん使うことも出来ない。
 逆に半端な希望を与えれば昨日の健一のようにまた事故が起きる危険がある。本当に傭兵を雇うのも考えた方がいいかもしれない――


 ――気がつくと目的の酒場は目の前だった。
 外観は古びているが、木製の大きな看板はゲームで見たことがあるそのままだ。
 現実的に考えようと努力をするたびに、こうしてゲーム通りの『設定』が邪魔をする。
 どこか苛立たしげに、俺は建物の中に足を踏み入れた。


「初めて見る顔だな。何の用だ?」

 とりあえずカウンターの席についたところで、マスターらしき男に声をかけられた。
 NPCとしてこの酒場の店主に話しかけた記憶はあったが、確かにこんな口調だったと思う。
 ただ酒を飲みに来ただけだったらどうするつもりなんだろうか。

「あー……旅の途中に寄っただけだ。これから山を越えるつもりなんだが腕に自信がない。魔物絡みで面倒事が起こってないかと思ってな」

 ふむ、と頷いてマスターはグラスを寄越した。
 何を注文した覚えもないのだが、中に入っている液体はサービスなのだろうか。

「最近、中腹の関所にゴブリンが襲撃をかけてるらしい。すぐに町を出るなら気をつけた方がいいだろう」

 50ベルだ、と告げた店主にベルを払った。
 宿代と比較すると恐ろしく高いが、ゲーム内で宿代が不気味な程安いのは定番と言えば定番かもしれない。
 グラスを一口舐めると、度数は強いが果物の風味がある、飲みやすい酒だった。
 残して出るのも失礼だろう。少しずつ飲み進めながら、俺はぶつぶつと呟いていた。

「ゴブリン襲撃クエ、強制受注なのか? 倒さなくても進める位置に沸いてればいいけど、多分無理だよな……」

「あ、あのー……」

 ん、と視線を向けると、空席を挟んだ隣の席に座っていた女性がこちらを見ていた。
 衣装は明らかに冒険者といった装いだが、装備レベルから判断するに余りレベルが高そうではない。
 もぐもぐと口ごもりながら俺の全身を舐めまわすように見てくる冒険者の女性。
 俺の服装は昨日と同じような絹のシャツに綿のズボン、ジャケット。
 元の世界に近い服装だが材質的に違和感を覚えられるような物ではないと思う。
 これは――またイベントなのか?
 他の誰も居ない時で良かった。よし、逃げよう。
 残っていたグラスを飲み干して俺は無言のまま立ち上がった。

「え、ちょ、ちょっとっ」

 NPCが何か言っているが、これ以上ゲーム的な面倒事はお断りだった。

「あ、あの、君もプレイヤーなんじゃないのっ!?」

 はいはい、今度はプレイヤーか。本当にネットゲームだな――

「――は?」

 余りにも予想外の言葉でささくれ立っていた思考が一瞬で正気に戻った。
 振り向くとそこにはやはり冒険者の姿がある。
 慌てて立ち上がったのだろう、半分腰を上げてこちらを向く彼女をよく見つめてみた。
 服装自体はゲーム内で見かける汎用ナイト防具を現実に作りましたといった風情だ。
 しかしよく考えると、クーミリア以外にゲーム内の職専用装備をした人に出会ったことがない。
 兜を装備していないのでわかるが、茶色がかった髪を数箇所ピンで留めた髪型は元の世界でよく見かけた。
 そもそも顔立ちがアジア人的な――日本人にしか見えない――人を見るのはこの世界で始めてだ。

「今、ほら、クエストとか言ってたよね? 関所にゴブリンが襲ってきてるって『ゴブ襲撃クエ』、知ってるんでしょ?」

「あ、ああ……。って事は、君も……」

 頷いた俺に喜色を浮かべ、冒険者――異邦者は、言った。

「うん、私も多分一緒。外から『ワンダー』の中に入っちゃったみたい」

 仲間が見つかって良かったよー、と椅子にへたりこむ同郷の娘。
 具体的に何がとは思いついてくれなかったが、出会えたのは色々と良い事だと思う。
 なのに何故だろうか。
 俺はどうしても、イベント以上の面倒事に出くわした気がしていた。





[11414] 第五話 要らない(上)
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:16
  情けない話だが、自意識過剰もいい所だったという訳だ。
 一人だけだと思いきや実は二人であったとなれば、何処かに三人目四人目が居たとして何がおかしいだろうか。
 自分が特別だなんて発想は妄想もいい所だった。もはや俺に役目なんてものがあるのかどうかすらも疑わしい。
 そして同時に、懸念だけは現実のものになった。
 初めて出会った同郷の人間もまた『ワンダー』のプレイヤーだった。
 それはつまり、同時に呼び出された俺達四人の中で主体となったのは恐らく俺だけだという事だ。
 健一も桂木も麻衣も、あの時たまたま俺の近くに居なければこの世界に連れて来られはしなかったんだ。

「もうこの世界に骨を埋めるしかないのかなーとか思ってさー。でもせめて出来ることはしたかったから、お金貯めて、レベル上げて、何とか情報だけでもって酒場に通って――」

 隣に腰を下ろした俺に、同じ世界から来た冒険者が嬉しげに話しかけてくる。
 気持ちはよくわかる。異世界に放り出された時の不安は同じだろう。初めて同郷の人間を見つけられれば喜ぶのは当然だ。
 しかし安堵した女性とは裏腹に俺は強い後悔と焦燥、自己嫌悪に駆られてろくに話を聞いていなかった。
 健一には話してしまった事だし、隣の彼女もまたネットゲームの世界に居ると自覚している。仲間に説明する事自体は難しくないだろう。
 だが、それは皆は俺に巻き込まれただけだという事実を明確に告げる事でもあるのだ。
 原因は別のところにあって俺もまた被害者の一人なんだと言い訳をしたい気持ちもあった。
 しかしそれ以上に、現実の人間よりもゲームの方を重視していた筈の自分が女の子と親しくなれそうだというだけの理由でほいほい着いて行った事、それこそが本当の原因なんだという後悔が強くあった。
 俺が廃人らしく素直に帰宅の途についていればきっと皆を巻き込むことなんてなかったんだ。


 そして同時に――もしも廃人らしく一人で帰って召喚されていれば、守る物も現実への未練もなかったのなら、この世界で好きなように出来たのに――という浅ましい思いを感じたのも事実だ。
 カーディナルとして得られるであろう地位か、この世界には並ぶ者のないだろう神聖魔法のスキル、もしくは単純に所持している莫大なベルを使えば、現実で願う欲望の大半は叶っただろう。
 その上パソコンの画面越しにプレイするより余程リアルにゲームの世界を楽しめる。
 ああそうだ。ゲームにのめり込んでいた俺にはまさに天国と言える状況の筈だ。
 だがそうはなっていない。お荷物が居たからだ。そして大切なお荷物を守ると決めたからだ。
 面倒事を避けるために、そして愛すべき重荷達から疎まれないために、俺は現実の自分という枠を大きくは超えていない。
 それが残念だった。薄汚いとわかっていながらも悔しかった。
 どでかい家に使用人を抱えて贅沢三昧。高価な貢物や下世話な要求と引き換えに致命傷すら癒す奇跡の男として好き勝手に振舞う。そんな欲望に満ちた選択肢を選んだって良かったんだ。
 だって俺は特別じゃなかった。他にも呼び出された人間は居たんだ。なら俺が持たされた力を使って好き放題して何が悪いって言うんだ。

 
 ――しかし、もはやそんな選択は出来ない。
 俺は巻き込んだ責任として出来るだけ早く皆を送り返す方法を見つけなければならないだろう。今更、という話だ。
 仲間を巻き込んだのが悔しい。皆がついて来てしまったのが勿体ない。そんな類似して相反した思いを抱えている自分に嫌気が差し、それでもやはり惜しいと思ってしまう。
 どちらにせよ逃げ道はもうない。事実を話せば皆はどう受け取るだろうか。俺のせいだとなじるだろうか、あっさりと受け入れるだろうか。
 両方がありそうで予想が出来ない。それでも言う以外には――

「あのー、聞いてる? 聞こえてますかー、大丈夫ですかー?」

「……いや、悪い、色んな事考えてちょっと聞いてなかった。同じ境遇の奴に会うなんて、予想外と言うか期待してなかったと言うか……」

「あはは、あたしも全然期待してなかったんだけど、やっぱり気づいたらそれっぽい人を探しちゃってて。隣に日本人が座ったかもって気づいたらもう舞い上がっちゃったよ」

 何とも軽い様子で彼女が言った。
 しかしその口調とは裏腹に瞳は赤みを帯び、薄っすらと涙が浮かんでいる。

「本当、声かけてよかったー。まあ、まさか無視して帰られそうになるとは思わなかったけどね?」

「いや、前に勝手にクエスト受けさせられて苦労したんだよ。オーガ襲撃クエをNPCと二人で抜けてきたんだ、もう他人に関わるのはお断りの気分でさ」

 うわぁ、と口に手を当てて冒険者がうめいた。
 イベントの事、クエストの事、そのまま口に出しただけで話が通じるのがこんなにもありがたいとは思わなかった。

「あのクエが来たって事は結構レベル低いの……? うん、でもこれからは二人だから何とかなるよね」

「あ、いや、俺は一人じゃ――」

「待って、ここまで簡単に来られたってことは高い側で受けた? どうしよう、あたしあんまりレベル高くなくて……。邪魔になったりするかな。正直今一人で置いて行かれるとどうしようもない感じなんだけど」

「そういうんじゃなくて――」

「あたしパラディンなんだけど、アイテムがほとんど倉庫でお金も首都キャラのままなの。一人じゃ群れてない雑魚狩ってすぐ逃げてくるしかなくて、ここから他の町に行こうにもほら、モンスターの配置が――」

「だからちょっと聞けって――」

 二人、という言い方からして俺と違って彼女は一人だったんだろう。異世界にたった一人。それならば酷く心細かったことは理解できる。 
 しかしそれにしても勢いよく、多分ここに健一や桂木が居ても半分も理解できないだろう事を捲くし立てる彼女――とりあえず職はパラディンらしい 騎士系の中位職だ――を、カウンター越しに渋い声が止めてくれた。

「何だ、知り合いかアクリ。そいつは新顔かと思ったんだがな」

「あ、えっと、出身が同じで……」

「ほう、そうかい。あんた、アクリもまだ新入りだが腕は相当だ。護衛に使うなら損のない買い物じゃないか」

 ほれ、と俺と彼女の前に再度グラスを置いてマスターは去っていった。
 50ベルで飲み放題なんだろうか、サービスなんだろうか、どうにも理解がしがたい。
 とにかく話が止まったのは丁度いい。

「えっと、アクリでいいのか? 俺は一人じゃなくて他に三人と一緒にこっちに来たんだ。そっちは一人だったのか?」

「あ、うん……じゃなくて、違う違う! そんな外国人的な名前じゃなくて、それはほら、キャラ名! こっちに合うから名乗ってただけで、ちゃんと名前はあるの」

「悪い。俺は山田だ。キャラも山田って名前で通してた。それで、アクリはいつ頃ここに来たんだ? 俺達は四日前にカールの森のスタート地点に――」

「やめて、お願い、何かもう本当に恥ずかしい。口に出してアクリとか呼ばれると死にたくなるから。あたし栗原、栗原杏里」

「……そういうもんか?」

 しっかりと頷いて返された。
 ボイスチャットでクラウドさんやセフィロスさん、聖天使猫姫さんなんかと会話をした経験があるとそれほど違和感がなかったが、確かに恥ずかしいかもしれない。
 相手は何となく年下のように見えるが、年上だと言われても多少驚く程度だ。
 女性の年齢を見た目でわかれというのが無茶かもしれないが――栗原さん、ぐらいでいいか。

「じゃあえーと、栗原さんは――」

「でさ、山田君と一緒に来た人ってどんな人? レベル高いの? 魔法使い系の人居ないかな、来た時ポータルゲートっぽいのが見えたからあれで出られるんじゃないかって期待してるんだけど」

「…………」

 言葉を被せられるというより、チャットが遅れて会話に混ざれない感覚が近い。
 どうにも現実で女性と会話をしている気分にならない。ゲーム内で男っぽい女キャラを相手にしているようだ。
 まあどちらにせよ話す事は山のようにある。順番の違いだと割り切って事情を話した。

「……こっちは俺以外『ワンダー』なんてやった事なかったから、レベル1からになってるんだ。多分俺に巻き込まれて連れて来られたんだと思う」

「うわ……それはご愁傷さまって言うか……可哀想って言うか……ちょっと羨ましいって言うか……」

 痛ましい顔、というよりは羨ましげな表情で言われた。
 一人よりは良いと思ったのだろうか。俺は他人を巻き込むよりは一人の方が幾らかマシだと思うのだが。

「俺としてはむしろ申し訳ないな……。とにかく、さっさと帰りたいから教国で神に会って話を聞いてみようって事になってる。そっちは何か情報は?」

「ううん、全然。MOBの配置的に一人じゃこの町から動けなくて、とにかく生活費を稼ぐので精一杯って感じで……そっか、そう言えば神様って居たねー」

 こちらも初めて健一から神の話を聞いた俺のようにうんうんと頷いた。ゲーム的な発想しか出来ないと思いつかない事なんだろう。
 彼女がこの町から動けなかった理由のMOB配置というのは理解できた。
 俺達は出会わなかったが、この町を出たMAPは両方ともボスとは別に少数だけ強力な敵が出現する。
 俺なら回復しながら無理やり倒すのは難しくないのでそのまま進んできたがパラディン単独では少々厳しいだろう。
 街道を進めば出くわす可能性は極々少ないが、多少なりとも死の危険はある。
 ゲーム内なら街中に居る魔法使いに頼んで隣町まで飛ばしてもらえばいいのだがここではそうもいかない。
ふと気づくと、それほど会話をしたつもりはなかったのだが外は大分と暗くなっていた。
健一と桂木に声をかけていいものかは別として、とりあえず麻衣とは合流したい。

「んで……あー、他の仲間と一緒でも良いか? まだゲームの世界だって全員に話してないんだ、説明を手伝って欲しい」

「うん、大歓迎だけど……そのー、結局どんな感じの人? 男ばっかり?」

「俺を入れて男二人女二人だ。男の方には話してあるんだけど……女の子にここはゲームの世界なんだよ、とか言えなくてな」

「それは……まあ、そういう子も居るけど……あたしもほら、女なんだけど……」

 何か的の外れた抗議を受けた。
 確かに目の前の冒険者は女性だ。
 幼めの顔立ちだが愛嬌はある。見目麗しいとは言わなくとも可愛いと言って差し支えはないだろう。
 金やら白やらの髪を町中に見かけるせいか、元の世界では見慣れた茶色がかった短い髪も逆に新鮮に映った。
 服装はゲーム内ではよくある鎧を脱いだナイトの基本衣装だが、部分的に肌を露出しながら体を覆うデザインは現実に見るとなかなか悪くない。
 小柄ではあるがむしろ要所で引き締まった体躯は活動的な彼女の表情ともよく合う。ネットゲームにはまりそうには見えないが……だからレベルが低いのか。
 しかしその割には妙な親近感を感じる。これは一体何と言えばいいのだろうか。健一が俺と絡もうと思った理由はこんな感覚なのかもしれない。
 見た目がどうとか、最初から知っていたから何だとか、女だからこそだとかそういう話とは別の意味で、女扱い自体が違う気がした。
 強いて言うならば――

「――お前はどことなく俺と同じ匂いがするから大丈夫な気がしてさ」

「…………何、その自虐みたいなの」

「自虐だと思う辺りが同じなんだよ。全員宿に居るから続きはそっちでいいか、アクリ」

「栗原です。杏里でも良いです。許して下さい、お願いします」

 わかったよアクリと軽く返して立ち上がった俺のジャケットの首元がしっかりと掴まれた。
出会った瞬間以上の半泣きで首を振る情けないパラディンを杏里と呼び直し、桂木も名前で呼んでみようかと少しだけ思った。


「この宿に泊まってる。ゲームでは使えなかった中央以外の宿も一応泊まれるみたいでさ」

「うーん、宿代安いんだし、もうちょっと高い所でも良いんじゃないの?」

 安くて二部屋という桂木の希望に応えた宿の前に戻ってきた。
 見た目はオンボロとまではいかないが豪華でもない。異様な程安く設定してあるゲーム内の宿代から言えばもっと良い宿を選んでも構わなかったのは確かだろう。

「ゲームの世界だって伝えてないからさ、節約してくれてるんだよ。明日からは多少豪遊できるな」

「お金はあるんだ? 装備じゃわかんないけど、山田君ってやっぱりレベル高いの?」

「……その辺は後にしよう。さっさと入ろうぜ」

 答えを待たずに足を踏み入れた俺の後ろを、はいはい、と軽く続く杏里。
 フロント――と言って良いのだろうか――に居た店主に聞くと、麻衣から部屋の鍵は預かっていないらしかった。
 恐らく既に部屋に戻っているのだろうが、もし麻衣が風呂から上がっていないと健一と桂木の愛の巣をノックする羽目になる。
 それは全力で遠慮したい。居てくれよ、麻衣。

「麻衣、居るか? 入って大丈夫か?」

 軽く扉を叩き、隣に気を使って小さめの声で呼びかけたのだが応答がない。

「寝てるんじゃないの?」

「……かもな」

 そっとノブを回すと扉は音もなく開いた。
 部屋にはランプの明かりが灯っているが麻衣の姿はない。少なくとも暗くなってから一度は部屋に戻ったのだろう。

「飲み物でも買いに行ったかな。とりあえず座ってくれ」

「はーい。うっわー、凄い庶民的な部屋。こういうのもちょっと良いよね」

「……嫌味か?」

 うそうそ、と笑った杏里の前に腰を下ろしたところで、折り良く扉をノックする音が響いた。
 振り返るとまだ水気を帯びた長い髪をタオルで押さえた麻衣が部屋の入り口に姿を見せた所だった。

「ああ麻衣、おかえり」

「先輩、戻ってたんで……すか……」

 言葉を止め、ぽかんとこちら、俺と杏里に視線をさまよわせる麻衣。
 どうしたのかと一瞬考えてしまった。
 昨夜の桂木を思い出したが、あの時のように疑いをもたれるような姿勢ではない。
 そこそこの距離を置いて向かい合って座っていただけだ。
 杏里の服装は幾らか肌を露出しているが取り立てて騒く程でもないだろう。
 いやしかし、冷静に考えると単に知らない人が部屋に居ただけでも十分に驚くか。
 麻衣から見れば、風呂から上がって涼んだ後部屋に戻ったら、一緒に泊まる筈の彼氏が微妙に酒を飲んで見知らぬ女を連れ込んでいた訳で――

 ――状況だけで凄くまずいんじゃないか、これって


「うわっ、違う、そうじゃない麻衣、勘違いだ!」

 思わず立ち上がった俺にビクッと反応し、完全に表情を引きつらせた麻衣が一歩後ずさる。
 状況を飲み込んでいなかったのか同じく唖然としていた杏里も口を開いた。

「ち、違うよ? あたし山田君とはさっき酒場で会った所で、ちゃんとした所で話そうってここに連れて来られただけで……」

「ちょっとは言葉を選べよこの馬鹿っ!」

「ひぃっ!? ご、ごめんっ!」

 どう考えてもわざとだとしか思えない言い訳をされた。
 麻衣の目がこんなにも目を見開かれているのは初めて見た気がする。
 一歩、また一歩と後ずさり、麻衣の全身が完全に部屋の外に出た。
 まずい――いや、大丈夫だ。焦らなければ良いだけだ。
 それが難しいんだが、とにかく、すぐに騒ぎ立てたりしない麻衣の性格が幸いした。

「事情があるんだ。こいつも俺達と同じで日本からこの世界に迷い込んだらしくて、それで連れて来た。それだけだ、他には何もないからな!?」

 それだけでも十分に一大事な訳だが、麻衣は再び目を丸くして――ゆっくりと表情に柔らかさが戻った。

「え……日本から……私達と同じ様に、この世界に……?」

「ああ、それだけだ」

 力強く言い切って頷いて見せる。
 緩んだ麻衣の表情に、緊張していた俺の全身からも硬さが取れた。

「それだけですか……良かったです。私、ビックリしちゃって……」

「俺が悪かったよ。そりゃあ驚くに決まってる。でも、それだけだから大丈夫だ」

 ほっと息をついた麻衣は肩に降りていたタオルを押さえ、ようやく部屋に入り、扉を閉めた。
 こんな事で冗談みたいな修羅場を起こすのは余りにも面倒だ。危ない所だった。

「……それだけ、それだけって……初めて同じ世界の人に会えたのに、それだけ扱いって……」

 良かった良かったと和む俺達を涙目で見つめる杏里の言葉は全く耳に届かなかったのだった。











第五話 要らない(上)











 ともかく、出会えた喜びを三人で分かち合うことができた。

「日本から来たってだけで、たまたま山田君と会っただけの栗原杏里。ただそれだけなんだけど、よろしくね」

「松風麻衣です……あの……ごめんなさい……」

 ――と思ったのだが、杏里はまだ怒っていた。
 怒る相手がいるというのもむしろ幸せだと思って欲しい。そう思ったのでそのまま口に出した。

「まあ不機嫌になる相手が居るってのは良いことだな」

「本人に言われても全然説得力がないから……ああもう、何でこんなに軽いの!? ゲームの中に入り込んだ仲間が初めて出会ったって感動的な場面じゃないの!?」

「ゲームだって確認したら色々とどうでもよくなった。気楽に行こう、気楽に」

「うっわ、あたしが逆に気楽に行こうって言われるの、結構レアだよ!? もういい、適当にいくもん」

 杏里があからさまに怒った顔をしているが、どう見ても楽しそうだった。こういう普通の会話が嬉しいんだろう。
 そして俺の言葉もまた、嘘だった。むしろ空元気の類だ。
 これから話すことに麻衣が怒るかもしれないと、失望するかもしれないと、本当は不安に思っている。
 ただ、どうしてだろうか。別れを告げられてもそれほどは落ち込まない気もしていた。
 彼女についてあれやこれやと悩むのがいい加減に鬱陶しい。
 俺はもともとマメにメールを打って人間関係に気を使うような性質じゃないんだ。
 むしろ振られてしまえば厄介事が減って気が楽になる――


 ――最悪だ。正直麻衣に面倒な所があるのはいい加減気づいているが、それでもこの発想はない。
 しかし素直な気持ちであるのも事実だった。
 リア充は嫌いだ何だと言いながらそういうのに憧れているのが自分だと思っていたのだが、実際には想像以上のダメ人間だったのか。

「あの、ゲームって……」

 それは聞き咎めるだろう。まだ杏里には慣れないのか、麻衣が俺の方を見て聞く。
 表情を改め、しっかりと麻衣に向き直って言った。

「前からそうじゃないかと思ってたんだが、こいつに会って確信が出来た。どうもこの世界はゲームの中らしい」

「ゲームの中……ですか?」

「ああ、剣と魔法とモンスターの世界だ。俺はそれを知ってて、やったことがあった。だから幾らかは魔法みたいな力が使えたらしい」

「…………」

「…………」

「でさ、あたしもそれやってて、それでこっちに呼び出されたみたい。本当、災難だよねー」

 見つめあって深刻に押し黙った俺達の空気を、先程のお株を奪うように気楽な杏里がぶち壊しにする。
 座った状態でさらに腰が砕けそうになるのを堪え、精一杯真面目に続けた。

「健一も桂木もゲームの経験はないみたいだ。でも杏里はゲームをやってたって所から見るに、この世界に呼び出された原因は俺だ。麻衣も、皆も、俺に巻き込まれただけだと思う。本当にすまない」

「あ、いえ、そんな……」

 頭を下げた俺の肩に、まだ理解が追いついていないのだろう麻衣がおろおろと手をかけた。
 暖かい感触に思わず甘えてしまいそうになるが、少なくとも俺が感じている申し訳なさがせめて伝わってくれたらいい。さらに深く頭を垂れる。
 今の関係を面倒くさがっている事への負い目もあったと思う。その癖、無責任に笑い飛ばして嫌われる度胸もない。
 むしろこの話も別の来訪者という現実に出くわさなければ言えないままだったかもしれない。まったく、我ながら本当に情けない話だ。

「あたしも山田君もこのゲームやってたから、松風さんは山田君のついでに引っ張り込まれたのかもしれない……らしいんだけど、別に山田君のせいって訳でもないし。出来れば許してあげて」

「いえ、許すとかそんな……とにかく先輩、もういいですから」

「……すまん」

 上げようとした俺の頭に手を置いて、杏里が言った。

「だよねー、そのぐらいでそんなに怒ったりしないよねー」

 彼女さんだしねー、と杏里が笑う。
 いや怒るだろうと言い返す気も起きない。載せられた手をそのままに身を起こした。
 何だろうか、杏里を連れてきたのは恐ろしく失敗な気がする。事実だけ認識して置いて来れば良かったかもしれない。

「でね、そのゲームっていうのがネットゲームの一種で、同じ世界でみんな同時に遊べるようなゲームなの」

 俺が口を開く前に勝手に杏里が説明を始めた。
 酒場で話していた時と似た感覚。これ以上謝るのは話題に遅れたチャットを打ち込むようで、話に入れない。

「……えっと、ボードゲームみたいなの、ですか?」

「うーん、一万人ぐらい同時にやるボードゲームがあれば、そんな感じかな」

「一万って……この世界に来てる人、そんなにも居るんですか?」

「ううん、それはゲームの話で……いや、ここもゲームの中なんだけど……えーっとね……」

 言いよどんだ杏里が俺の方を見て、不満気に言った。

「ってなんであたしが説明してるの。こういうのは彼氏の仕事だと思うんだけど」

「……いやもう……お前ずっと黙ってろ。俺の妄想じゃないって事だけ請け負ってくれればそれでいいから」

「はーい」

 入り口側のベッドに座った俺と隣に麻衣、奥に杏里という配置だったのだが、杏里は転がって壁の方を向いてしまった。
 お前の寝床じゃない。と言うかこいつは真面目にしたいのか適当にしたいのかどっちなんだ。
 そもそも何の為に来たんだろうか。いや、ゲームの話が俺の妄想ではないと保障してもらう為に呼んだというのは確かなのだが。 
 久しぶりにまともな会話をしてテンションがおかしいんだろうと一応良い方向に考えておくことにした。
 ごほん、と咳払いをして麻衣に向き直る。
 こちらは混乱しているようで、しかし苦笑を浮かべていた。確かにここまで混ぜっ返されると深刻な顔をするのが馬鹿馬鹿しい。

「色々言われて混乱してるだろ、ちょっと落ち着いてくれ」

「はい……大丈夫です」

 すーはーと大きな音をさせたわけではないが、麻衣は素直に深呼吸をした。

「まあ杏里の言ってた通りなんだが……他のプレイヤーは居ないみたいだ。だからゲームの中じゃなくてゲームの設定通りに作られた世界の中になるな。イメージとしては小説の世界が実在して、そこに吸い込まれたようなもんか」

「やっぱりそうなんですか……」

 やっぱりと言われてしまった。
 例えてしまうと結果は麻衣の予想通りになってしまったのだ。何か間違っている気がするのだが。

「でもゲームはゲームだからな。俺やこいつはゲームとしてその世界で遊んでいて、強くなってた。その分が何故か反映されて、麻衣を治したような力が使えるみたいだ」

 クイックスロットからスキルを選択、ヒーリング。ターゲット松風麻衣。
 別にモーションは必要ないのだが、わかりやすいように軽く手を振ると同時。麻衣の全身を緑色の光が包み込み、薄れて消えた。

「あっ……」

「こんな感じだ。予想は出来てたんだけどさ、おかしくなったんじゃないかと思われそうで言えなかったんだ。今まで黙ってて悪い。謝るよ」

 もう一度謝ろうとしたのだが、目の前の麻衣ははっきりとわかる喜色を浮かべていた。

「凄い……! 先輩、これ、好きなように使えるんですか?」

「あ……ああ、ある程度は使いこなせてると思う、けど……」

 自分の力ではなくゲームをする感覚でキャラクターの力を使うイメージだが、それなら7年のキャリアがある。使いこなしていると言ってもおかしくはない。
 しかし、モンスターを倒すとか病気を治すとか、何かしらの事情がある時以外に使って見せたのは初めてだ。
 驚いている様子を見るに麻衣はもっと特別な状況でないと使えない力だと思っていたのかもしれない。

「もっといろんな魔法が使えるんですか? 火を出したりとかは?」

「いや、光を出す以外は傷を治したり元気にするのばっかりだ。悪いな、僧侶で」

 そんな事ないです、凄いです、とテンション高く言われた。
 嫌われると思ったのが逆に大喜びされている。何なんだろうこれ。おかしいのは俺の方なのか。
 もしかすると、一応は安心してもいいんだろうか。
 なんとなく健一は平気そうだから問題は桂木だが……健一と上手くいっていれば絶対に怒らない気がする。
 頑張ってくれ、桂木。

「あ、山田君僧侶系なんだ? あたし前衛だからさ、上手く――」

「黙っててくれ」

「うう、ちょっとぐらい良いじゃん……」

 こちらに向き直っていた杏里を転がして壁に向ける。
 麻衣の方は気にした様子もなく、俺の方に詰め寄ってきた。
 ちょっと距離が近い。いや嬉しいんだが、杏里の背中から微妙にプレッシャーを感じた。イチャついてんじゃねえ、みたいな。
 さっきから杏里が変に絡んだり混ぜ返したりするのはその辺りが起因している気がする。そういう所も俺に似ていた。
 しかし麻衣は本当にテンションが高い。余程ファンタジーに憧れがあったんだろうか。

「私にもそういう魔法、使えるようになるんですか? あ、先輩が昨日言ってた、強くなる方法はあるってこれの事なんですねっ」

「……ああ。昨日会った鳥のモンスターを500匹ぐらい殴り倒せば一つは使えるようになるな」

「…………」

 とりあえず落ち着かせる――へこませる――ことは出来た。
 ベルを出せるようになった時点で現代的に見れば魔法使いみたいなもんだと思うんだが、あれは別枠らしい。

「俺はゲームとしてレベルを上げて、それで最初から力があるから戦えるんだよ。昨日も言ったけど麻衣は無理に何かしようとしなくて良い」

「……ぅぅ……先輩、不公平です」

「……そんなに使いたいのかよ……」

 『いつも通り』のイメージ、インベントリウインドウを開く。
 虚空に開いた光のスクリーンに――オーガの時は目に入っていなかったのか――やはり瞳を輝かせる麻衣。
 いくつか表示された装備品アイテムから杖を一本選んでドロップ、ウインドウからこぼれ落ちたアイテムは即座に実体化された。
 よく考えるとこの時点で既に相当な手品だ。

「ほら、これ持ってみな」

「魔法の、杖……?」

「ああ、正しく魔法の杖だ。ファイアーボールが使える」

「――っ、本当ですか!?」

 これはフリースペルを使用できる特殊なアイテム、炎の杖で、装備するとファイアーボールLv1が使用可能になる。
 しかし初級スキルのファイアーボール、その上使用レベルも1で攻撃力はほとんどない。ただ話のネタに使う為に持っていただけだ。

「えっと、先輩、どうやって使うんですか?」

 背丈の半分にも届こうかという長さの杖を渡された麻衣が嬉しそうに立ち上がった。
 どこに向かって使おうかと考えているのか、辺りを見回している。
 はっきりと言うのが麻衣のためだと思う。それでも、希望を与えて突き落とすようなことは余り好きじゃない。

「使い方、わからないだろ」

「……? は、はい」

「この世界に来て、誰にも説明されなくても……俺は使えたよ」

「…………」

 押し黙る麻衣から杖を取り上げ、片手に持つ。手に持った時点で装備扱いになっているのだろう、装備欄を開くとメイン武器が炎の杖に変わっていた。
 窓を開けて炎の杖を差し出した。ファイアーボールLv1の射程はそれほど長くない。さして近所迷惑でもない筈だ。 
 左手でスキルウインドウを開き、装備した時点で追加されていたファイアーボールのスキルボタンを押す。
 思ったより大きい火の玉が勢いよく噴き出し、宿の外の空気を焦がして、消えた。

「……だから、麻衣。諦めろとは言わないけど、その杖から魔法が出せるぐらいまでは、無茶はしないでいてくれ」

 少し熱を持った炎の杖をもう一度麻衣に手渡した。
 重そうに受け取った麻衣は、少し躊躇った後、ゆっくりと頷いた。

「……イジメだ」

「黙ってなさい」

 ファイアボールのエフェクト音まで聞こえたのだ。流石に寝ても居られないだろう、杏里が起きだして言った。
 また転がそうとしたのだがするりと避けられてしまった。
 立ち上がった杏里の横の虚空に何の前触れもなく光で出来たウインドウが浮かびあがる。
 なるほど、他人がやるのを見るとこれは相当に凄い光景だ。
 杏里は少しこちらを睨んで怒ったように続けた。

「うん、これはイジメだよ。ちゃんと教えてあげないと。松風さん、ちょっとKボタン、押してみて」

「……ボタン、ですか?」

 しげしげと炎の杖を見つめる麻衣。
 手品じゃないんだから、杖にボタンがついてるわけじゃない。
 Kボタンというのはスキルウインドウを開くときのショートカットキーだ。
 杏里はキーボードのキーを押すイメージでウインドウを開いているらしい。

「ううん、杖についてるんじゃなくて、キーボードのKキー、押してみて」

「……キーボード、何処にあるんですか?」

「ないんだけど、あるような気持ちで!」

「…………」

 ううーん、と悩みこむ麻衣に無理やり虚空を指でつかせる杏里。
 この辺この辺、と言っているが、多分無駄だと思う。
 キーボードを押すのはただのとっかかりだ。
 ウインドウを開くイメージが大事なのであって、ボタンを押す行動とゲームを操作する意識が連動していないと意味がないんじゃないか。
 少なくとも俺はもうキーボードを押すつもりでウインドウを開いているわけではない。『いつも通り』というのは言ってみれば反射行動なのだ。

「無理なのかなぁ……」

「ボタンを押させるよりは、このウインドウを開くのを意識したほうが良いんじゃ……いや、無理に出来るようにならなくて良いんだ」

 乗せられて思わずアドバイスをしそうになった。
 一度息を吐き、落ち着いたところで、出来るだけ優しく聞こえるように言った。

「全部話した以上、出来るだけの事はするよ。麻衣は俺が守る。皆を守れる力がある。今までみたいに不安で居る必要はないんだ、信じてくれ」

「……はい」

 少し寂しげだったが、麻衣は微笑んで頷いてくれた。
 炎の杖をしっかりと抱きしめているのがどうにも不安なのだが。この子、絶対に諦めてない。

「――あっまーい! 甘い甘い空気があまーい!」

「うるさい。麻衣はレベル2か3だぞ、守るに決まってるだろ」

 麻衣と二人だけならこんな感じの後はそこそこ良い空気になるのだが、今日は杏里が混ぜ返しにかかった。
 邪魔者の筈なんだが――逆に考えると、毎回こうして甘めの雰囲気にごまかされていた気がする。
 麻衣、不公平なのは申し訳ないが、どうせ無理なんだからさっさと諦めてくれないか。
 幾らか魔法を覚えたとしても化け物と戦えるような性格じゃないだろうに。
 いや勿論、口には出さないが。

「あはは、大丈夫、あたしも手伝えるから……あ、でも、山田君のレベルって結局どのぐらいなの?」

「……もうカンストしてる」

「うえっ!?」

 女らしくないうめき声を上げた栗原杏里をターゲット、PTへの加入招待を送るイメージ。
 意外にあっさりと出来た。要請が届いたのだろう、杏里が虚空に指を這わせると同時、PTウインドウにAcriの文字が追加された
 見るとHPは8500程度。パラディンは守性騎士系の前衛職だがまだ中位職クラスだ。頑張ってこんなもんだろう。

「うわ、こんな普通の装備でHPが5万って、もう気持ち悪いの粋だよ、これっ!?」

 同じくPTウインドウを見て失礼なことを言う杏里に釘を刺した。

「……絶対お前にはヒールをかけん」

「ああ、嘘、ごめんごめん。よろしくお願いします山田先生」

 実際問題、そんなに騒ぐようなレベルではない。
 サービス開始から七年を数える『ワンダー』に何百人のレベルカンスト――カウンターストップ、数値的な上限――プレイヤーが居ると思っているんだ。
 杏里はゲームを始めてから余り長くはないんだろう。こちらにもやはり、無理はさせられない。

「実際お前も戦わなくていい。山ほど出てきた時は流石にちょっと頼むが、それ以外は俺任せで大丈夫だ」

「え……やだな、大丈夫だって。これまで一人で戦ってお金稼いでたんだよ? レベル差あるから経験値も稼ぎ放題だし、あたしが前衛で平気平気」

 加入者のレベルが近いとPT内でモンスター撃破経験値が分配されるが、カンストしている俺とレベル一桁が三人、そしてレベル40前後の杏里というPTでは倒した者に全ての経験値が入る。
 最上位僧侶が無償でレベル上げを手伝っているのに近い状況だ。限界レベルの俺が経験値を稼ぐ意味もない。ゲーム内なら正しい理屈だろう。
 しかし――

「やられたら、痛いだろ」

「……大丈夫だって」

 余り大きな声で言ったつもりはなかったが、杏里の返事は幾分トーンを落としたものだった。
 殴られれば痛い。当たり前の理屈だが、これ程にゲームの設定と噛み合わない現実もない。

「殴られて、ヒールかけられて、殴られて、ヒールかけられて……どんな拷問だよ。目の前で見たくないぞ、そんなの」

「あたしもやられたくはないけど……」

 クーミリアの場合は相手が覚悟を決めた騎士団員で、戦闘開始の時点で既に死にかけで、多分NPCで……と余り気にならない条件が揃っていたが、それでも相当痛々しかった。
 普通の人間は痛みを感じれば身をすくませる。本来は倒せる敵が相手でも痛みで動きが止まれば苦戦は免れないだろう。
 そうなれば場合によっては本当に拷問に近い状況になる可能性もあるのだ。
 死ぬような激痛を受けて身動きが取れなくなり、それはすぐさま癒され、また激痛が襲う――
 杏里も一応は普通の女の子、そんな目にあわせるのは御免だ。
 しかしあちらはすぐに意気を取り戻し、さっとウインドウを操作して装備を重厚な鎧に変えた。

「ほら、全身鎧だし、盾とか持ってるし、防ぎながらやるから平気だよ。痛そうに見える、これ?」

「……いやまあ、見えないが」

「……動けるんですか?」

 恐る恐る聞いた麻衣に、余裕余裕、と軽やかに動く杏里。床が抜けそうだから脱げ。
 確かに分厚い装備をした上なら雑魚の攻撃はそれほど痛くはないだろう。
 いざという時の為に戦いなれた人間がもう一人は欲しい気持ちもある。
 『皆』を犠牲にしないのであれば、どうしても妥協する必要があるのなら、その役目は杏里に任せるのが妥当かもしれない。
 俺と同じくプレイヤーで、前衛職だ。敏捷型のクーミリア程ではなくとも、体を使いこなせればその運動力は俺の比ではないだろう。
 本人も孤独に命を懸ける暮らしより随分とマシだと思う。
 そもそも相手が杏里だし、余り気にする必要はないかもしれない。

「じゃあ、雑魚は一緒に頼む。でも無理はさせない……いや、する必要がないんだからな。痛い思いをしてまで前に立たなくて良い。一緒に皆を守ってくれ」

「ん、おっけー」

 返事とともに鎧を纏った杏里の手が中空のウインドウをすべる。鉄の装備品が消え去り、数秒で元の姿に戻った。

「それで、その皆っていうのの残りは何処なの? 外出中?」

「あー……麻衣、二人と会ったか?」

「……いえ」

 ふるふると首を振る麻衣の顔は微妙に赤い。
 どうしたものだろうか、なんとも説明しにくい事情だ。

「……まあとりあえず、夕食、食いに行こうぜ」

「そうですね、はい、そうです。栗原さんもご一緒しますよね?」

「え、うん、行くけど……何なの、放って置いていいの、残りの人?」

 放って置かないと後が怖いんだ。とは口に出せなかった。
 二人で杏里を押しだし、さっさと鍵を閉めた。宿で夕食が出るとは聞いていないので外の店だろう、そのまま宿を出た。

「杏里、この町に住んで長いんなら、美味い店とか知らないか?」

「まだ四日ぐらいなんだけど……まあ一応」

「よし、案内頼む」

「う、うん……あ……ねっ、ちょっとさ、この状況は両手に花だよね、山田君」 

「……強いて言うなら、花と花瓶だ」

「うわー、引き立て役……」

「先輩、そういう言い方は……」

「松風さんちょっと嬉しそうだし……しかも否定しないし……」

「こう見えて麻衣は結構黒いんだ。気をつけてな」

「え、先輩っ?」

 気がかりがなくなったからだろうか、久しぶりに晴れやかな気持ちだ。
 男一人に女一人、その中間が一人、そんな気分で道を歩く。

「あー、何か納得いかない。松風さん風に言うと、不公平!」

 不意に杏里がこちらへ身を寄せた。
 体が触れ合わない程度に俺から少しだけ距離を開けていた麻衣へ、からかうように笑いかけている。
 俺は杏里を押しのけて反対側の麻衣を引き寄せた。少し身じろぎをしたが大人しく傍を歩いてくれた。

「あーあー、お暑いですねー」

 薄闇で町の明かりに照らされて笑う杏里の表情が不意討ちのように感じられた。
 どこか第三者的な目で可愛いと曖昧に考えていたその顔。それは確かに魅力的だった。
 身を寄せた時の思った以上に柔らかい感触、甘い麻衣の匂いとは違う、透き通る柑橘類の香り。
 こんな事をするんなら、杏里には彼氏が居ないんだろうか。そんなどうでもいい事が酷く気になる。
 何故か目をそらして、しかし麻衣の方を向くことも出来ずに、前を向いたままで何でもないように話を続けた。

「ネットゲーマーにリア充が居ないと思うなよ? ……こんな台詞、一週間前の俺が聞いたらぶん殴りそうだけど」

「うわー、死んじゃえばいいのに。世界樹の実が3つあるから3回は死ねるよー?」

「勘弁してくれ、お前相手じゃ殺される方が苦労する」

 歩くのは男一人に女一人、中間が一人。
 出会ったばかりの女性を勝手に区分けして、自分にとっての範囲外だと思い込む。
 会話の内容が理解できないのだろう、麻衣が困っているのがわかるが、わざわざ説明したりもしない。
 さっきから杏里とばかり話している。それをあえて自覚しない。
 本当に楽しい夕食だった。

 気がかりが一つ、増えた。






  日本風だと強硬に主張されればそう思えなくもない。そんな店での夕食を終え、顔合わせは明日の昼にしようと決めて杏里とは別れた。
 麻衣と二人、宿への道を辿る。
 まだ道を覚えきっていないのだろう、隣の彼女は時折不安気に周囲を確認しているようだった。
 片手にはまだ炎の杖を握っている。装備レベルに制限はないのでそれほどの重さは感じていないと思う。
 しかし女性が持つには少し長めなので時折コツンコツンと音を立てていた。

「……Kボタン……」

「いや、別にKキーがどうこうって問題じゃないんだぞ、本当に」

 ぽつりと呟いた麻衣の言葉に思わず突っ込んでしまった。やっぱり諦めていません、この子。
 よほど魔法に憧れているのだろう。見習い魔法使いを目指す魔法使い見習い――といったところだろうか。
 丁度良く周りには人通りがない。さっきまで杏里に構ってばかりだったからだろう。何となくサービスしてみる気になった。
 俺の言葉に反応して、杖を体で隠そうとする彼女に笑いかける。スキルウインドウを表示。
 普段は使わないスキルを選択し、少し前方を狙って発動。


――アルターピース――


 進行方向に神をかたどった大きな光の集合体が現れ、軽い音と共に拡散。小さな天使の様な光の欠片がランダムに周囲を飛び交った。
 足を止めそうになった麻衣の背を押し、そのまま光の中を進んでいく。
 効果は光の中ではHPの自然回復力が上がったり、属性が着いたりする地味な物だが、見た目だけはまさに幻想的な光景だった。
 麻衣は声も上げずに見入ったまま、ふらふらと歩みを進めている。
 光を反射して輝く白いローブ。同じく白い肌は、興奮からだろうか、少し赤みを帯びている。
 明るく照らされた横顔は今にも融けてしまいそうな程に緩んでいて、俺に不思議な満足感をくれた。
 元より効果範囲の狭い魔法だ。すぐに範囲を抜け、光は内部に人が居なくなったことで自動的に効果を失って消えた。
 しばらく無言のままで歩き続ける。
 消えた後もちらちらと後ろを振り返って居た麻衣が俺に向き直って嬉しそうに言った。

「先輩、私、頑張りますね」

 俺が悪い。今のは格好をつけた俺が悪いんだけど、でも、その決意は俺の期待とは方向が違うんだ、麻衣。


 少し考えたのだが結局健一達には声をかけないことにした。二人だけで部屋に戻る。
 時間はまだ早いが前日は一応徹夜だ。抑えている眠気をそのまま感じればすぐに眠れるだろう。
 寝るか、と声をかけると素直に頷いたので、ランプの火を消した。
 寝巻きに使えるような服も買ってはいるのだが、そういう姿を異性に見せるのが少し恥ずかしい。
 俺はそのままの格好でベッドに横になった。
 特に何も言うことなく、麻衣も同様にローブのままで隣のベッドに入っていった。
 着替えるから出て行け、とか。実はちょっと言われてみたかった気もする。

「……麻衣」

「……はい?」

 暗くなった室内で声をかけられた割に緊張した様子も怯えた雰囲気もないのが少し残念な気もしたが、実際そういう話題を出すつもりはない。

「さっきは適当になったけどさ、いや、今もちゃんとしてる訳じゃないけど……麻衣がここに来たのは俺に巻き込まれたせいだと思ってほとんど間違いない。本当に、申し訳ないと思ってる」

 ごまかしたような形になっていたのが気になっていた。もう一度言っておきたかったのだ。

「……それは、良いって言ったじゃないですか。何の話かと思ったのに……もう」

 どういう意味だ、それは。何を意図した台詞なんだ、麻衣。
 一瞬動揺した鼓動を鎮めて、極力何でもないように言った。

「さっきは杏里のせいでちゃんと言えなかったからさ。言っておきたかったんだ。ありがとう」

「…………栗原さん、名前で呼ぶんですよね」

 少しだけ冷えた声だった。
 怒っているとか寂しそうだとか、それほどに感情が込められているわけではなかった。
 隣に視線を向けたが寝具に隠れて麻衣の顔は見えない。

「最初に聞いたのがアクリってキャラ名だったからさ。それに近い名前の方が呼びやすいんだ」

「……そうですか」

 実際にそうなのだが、こんな言い方をされると別の理由があるんじゃないかと自分で疑いそうになる。女性の声にはそういう妙な力があると思う。
 もし杏里が相手なら、妬いたか? と軽く声をかけてやれただろう。
 あいつは何と返事をするだろうか。そんな訳ないと怒るだろうか。妬いて何処が悪いと開き直るだろうか。
 少なくともこの瞬間に口に出せば麻衣の返事は聞くことが出来る。しかしそれに興味がわかない。
 心のどこかで好意的な返事は来ないだろうと身勝手に確信している自分が居た。

「……先輩が……」

「……ん?」

 麻衣の方に視線を戻すと彼女もこちらを見ていた。
 視線が合った瞬間に止まった言葉を、麻衣はゆっくりと繰り返した。

「先輩だけが呼ばれたんなら……きっと私は、先輩を助けるのが役目なんですね」

「……俺の方に役目なんて大層な物があるのかどうか。他にも来た奴が居るんなら、俺だけが特別なんて事はないだろ」

 いじけたつもりはなかったがそんな台詞になってしまった。
 思わず目をそらしてしまった視界の隅で、麻衣が恥ずかしそうに笑うのが見えた。

「それでも、私は先輩の力になりたいです。出来ることなんてないかもしれないですけど、それでも……」

「――――ありがとう」

「……はい」

 昨日言って欲しかった言葉だった。 
 今さっきまで彼女と他の女を比べていた男には勿体無い言葉だ。
 もし昨夜そう言ってくれたなら、きっと俺はこんな気持ちにならなかったのに。
 嬉しいはずなのに、それなのに罪悪感に襲われることなんて、なかった筈だ。
 どうして今になって言ってくれたんだろうかと考えて
 ふと、俺もさっき言わなかった事を言ってみようかと思った。

「麻衣……もしかして、さ」

「……はい?」

 きっと麻衣は興味なさげな返答をすると思った。そんな風に思い込んでいた。
 でも今なら少しだけ、可愛い返事を想像できる気がしたのだ。


「杏里にちょっと妬いたり、したか?」


「………………」


 無言だった。
 マズイ。完全に外した。
 よく考えるまでもなく空気ぶち壊しだ。
 調子に乗って失敗した。何をやってるんだ俺は。

 どうフォローしようかと数秒の間悩んだ。
 そしてその時間はいつかのように、彼女にとっては決意を固める時間になったらしい。

 唐突にばさっと音を立ててシーツを跳ね除け、麻衣が起き上がった。
 普段はこうして目立つ動作で動くタイプじゃない。
 思わずつられて身を起こした俺と視線を合わせ、麻衣は薄闇でもわかるほどにしかめた表情で言った。


「当たり前じゃないですかっ」

 マジギレだった。
 ヤバイ。完全に藪蛇だ。
 しかしどうしてだろうか、怒っているのが不思議と嬉しい気がする。
 それでも初めて見る迫力のある麻衣の姿に、笑いながら返事をしたらこの場でお別れな予感すらした。
 とりあえず表情を引き締め、出来るだけ謝罪の気持ちを込める。

「悪い、初めてゲームの……この世界の事を何でも話せる人に会って、ちょっと調子に乗ってた」

「…………そうですか」

 身を起こしていた麻衣はそのまま寝床を出た。
 こちらに来るのかと思わず身構えた俺を尻目にランプへ近寄ると、マッチを取り出して火をつける。

「……麻衣?」

 薄暗がりから薄明かりに転換した部屋の中、麻衣は俺の対面に座ると、据わった目つきで言った。

「全部話してください」

「……何を?」

「全部です。そのボードゲームの事も、先輩の力のことも、この世界のことも、全部です。全部話してください。今からです」

 身を起こしたまま固まる俺に向かって、逆に身を乗り出すようにまくし立てる。
 テンションの落差についていけない俺を睨み、麻衣は一言で状況を説明した。

「先輩、私、怒ってるんです」

「……ごめんなさい」

 とりあえず、ボードゲームではないということから説明を始めよう。一晩で足りるといいんだけどな。
 余計な事を言ったのか、逆にこれで良かったのか、今の俺には判断がつかなかった。




  流石に全部というのは無理だった。
 二時間程が過ぎた所で俺より先に麻衣が限界を迎え、軽く舟をこぎ始めてしまった。

「麻衣、もう大体の事は話したし休もう。眠いんだろ?」

「大丈夫、です……」

 ゆらゆらと揺れながら言われても説得力がない。
 そもそもこの世界の事や俺に使える力の事は話し終わり、次に話す事と言えば他の職業……魔法使いの話とかになる。
 出来れば聞かせたくない。これ以上やる気になられるとウインドウぐらい開けそうで不安なのだ。
 由来するシステムが違うような気がするのだが、少なくともベルの出し入れは出来るのだし、不可能ではないかもしれない。
 身を乗り出して肩を軽く押すと麻衣はそのまま横倒しに倒れた。
 ちょっと不満そうな顔だったが、素直に寝る姿勢を作ってくれた。子供みたいで少し可愛い。

「明かり消すぞー?」

「はい……」

 返事をする声も眠そうだ。ランプを消して戻ると既に目を閉じて寝息を立てていた。
 抑えているとはいえ俺にも眠気はあったが、何となくベッドに腰掛け、眠る麻衣を見つめる。
 数分か、もしかしたら10分以上かもしれない。俺はそのままの姿勢でいた。

「……案外頑固だよな、麻衣」

「…………」

 勿論返事はない。
 だが、何となく口に出していた。

「……絶対に自分からは言わない気だろ」

「…………」

 好きとか、愛とか、恋人だとか、彼氏彼女だとか。
 そういう台詞を麻衣は絶対に言おうとしない。
 最初から気づいていた。麻衣は受け入れただけで、積極的に俺を求めたのではないと。
 女性に縁の薄かった俺はそれだけでも良かった。
 でも――

「言って欲しいの、わかってるくせに」

「…………」

 経験が少ないから、自信がないから。
 不安になって、わからなくなって、最後には要らなくなる。
 失うのが怖いから、面倒だと嘘をついて投げ出そうとする。
 そうして全部捨ててしまう所だった。
 いやはや、恋愛って、やってみないとわからないもんだな。
 少し冷静に自分を観察できたのは麻衣が歩み寄ってくれたからだと思う。現金と言えば現金だろう。 
 でも麻衣だって随分なもんだ。
 最初に色目を使ったのは自分の癖に後は全部人任せで、大事な部分は許さない。
 その割にキープが外れそうになると怒り、少し近寄って手綱を締める。駆け引きというより自分勝手だ。
 俺も少しぐらい不満を言ったっていいだろう。
 言うだけ言って俺も横になる。そのまま闇を見つめて眠りに入ろうとした。


「……先輩だって、言ってくれないじゃないですか」

「…………」

 眠気の感じられない麻衣の声が響く。
 今度は俺が無言を返した。

「…………ごめんなさい、起きてました」

「ああ、知ってた」

 次の言葉には全く動揺せず即答した。
 また少しだけ無言の時間が流れる。
 お互い身じろぎの音すら立てない。

 不思議と宿の外からも何の音も聞こえてはこなかった。

「……ぷっ」

「……先輩っ!」

 耐えられなくなって思わず噴き出してしまった。
 麻衣もこちらを見て不満気な声を上げている。

「いや、何だろうな、初勝利って感じだ」

「……ぅぅぅ、先輩、ずるいです。不公平です!」

 悔しそうな麻衣に声を上げて笑った。
 ようやく理解した。
 麻衣はちょっと面倒で、その上に面倒な事が好きな子なんだ。
 それに付き合うのもまあ甲斐性なんだろう。
 それなら――

「あんまり頑固な様だと、杏里に乗り換えるからな」

「……先輩、もしかしてそれ、ちょっと本気なんじゃ……」

「どうだろうなー?」

「ぅぅぅぅぅ」

 人を困らせた分、精々悩むと良い。
 それで、出来る事なら俺を好きになってくれれば良いと思う。
 俺も頑張ってみよう。もっと麻衣を好きになれるように。冗談が本気になってしまわないように。
 お休みなさいと怒った様に言う、間違いなく確かな俺の恋人へと返事を返し、今度こそ俺も休む事にした。
 麻衣を相手に散々ゲームの話をしたかもしれない。今日まで感じていたゲームに引き込まれるような違和感はもうなかった。
 でもどうしてだろうか、眠りに沈む直前に脳裏に浮かんだのは、得意気に笑う杏里の姿だった。



 こちらの世界で初めて見た夢の中で俺は『ワンダー』をプレイしていた。
 初めて出会った初心者パラディンと気が合い、ずっとチャットをしていたような気がする。
 眠れた時間は長くはなかったがそれでも気分良く目覚めることが出来た。



「あ、山田」

「どうしたんだよ、早いな、健一」

 気づくと日課のようになっている朝の散歩を終えて宿に戻ると、健一が丁度部屋から出てくるところだった。
 
「まあ、とりあえずお疲れ様。ご愁傷様。お幸せに」

 笑顔で言い捨てて部屋に戻ろうとした俺の首が思いっきり引っ掴まれた。

「何もしてないし、何も起きてない……わかるよね、山田?」

「……いや、別にいいけどな……流石に桂木が可哀想じゃないか?」

 振り返った俺から手を離し、健一はため息をついて宿の壁にもたれかかった。

「本当に何もしてないよ。色々話を聞いて、僕も話をしただけ。後は二人でパンかじって寝たよ」

 嘘を言っている様子ではなかったし、こういう事を恥ずかしがって隠すタイプでもない。本当なんだろう。

「襲われなかったのか。案外純情だな、桂木」

「……すずちゃんは真面目だよ」

 壁にもたれかかったままズルズルと背中を滑らせていく健一。空気椅子一歩手前ぐらいまで姿勢を崩して唸る様に声をもらした。

「だからさ、あんまり仲良くしないようにしてたんだけど……」

「言われちゃったもんはしょうがないだろ。何となく、言ってもらえないよりはマシな気がするしな」

「お、麻衣ちゃんのこと? 聞こうか?」

「……とりあえずはお前の話だ」
 
 こちらの話に逃げようとする健一を押しとどめた。

「振ったのか? ってか、お前今彼女いるんだったか?」

「うーん、彼女じゃないけど、女の子は居たよ。あっちの世界だけどね。……だからまあ、戻ってから返事をするって事で」

 こいつの言う彼女じゃない関係というのは昨日までの俺と麻衣のように可愛らしい曖昧さではなく、もっと悪意と肉欲に満ちている。
 やっぱり桂木に矯正してもらうべきだと思う。間違いない。

「俺は桂木を応援するよ。手が早いくせに無駄に責任感があるお前なら一回で桂木が人生決めてくれそうだ」

「わかってるから、嫌なのに……」

 さらに姿勢を崩してへたり込んだ桂木を軽く蹴飛ばして、昼にそっちに行くからと伝え、俺は部屋に戻った。
 ――戻ったのだが、当然そこにあるのは静かな寝息を立てる彼女の姿だ。
 いやしかし、これから昼までどうしようか。
 寝姿が汚い女性は多いと外でへこんでいる遊び人から聞いたことがあったが、麻衣は寝相も良いし寝顔も可愛い。
 素なのかわざとなのか半端に人を振り回す癖に、結局の所は押しが弱いのが麻衣だ。半ば無理やりに押し倒せば問題はない気がする。
 いや、やらないけどな。うん。
 無駄に高い精神力ステータスをむしろ下げたい気持ちになりながら、皆が使えるアイテムや装備はないかとインベントリのチェックをして時間を潰した。
 チェックの為に実体化していた魔力を帯びた装備品に、目を覚ました麻衣が飛びつき、その一つが彼女の懐に納まった所まである意味で予定通りだ。
 いずれ投資分の利益はしっかりと回収させてもらいたいと思う。


 Acri : そろそろ行くよー? 起きてるー?

「うおわあああああああああ」

「せ、先輩っ!?」

 もうそろそろ正午かという時間、いきなり脳裏に浮かんだ丸文字フォントのチャット文字と杏里の声に、思わず飛び上がってしまった。
ついでに、欲しがる麻衣から守っていた炎属性の攻撃を防ぐ指輪が奪われた。
薄く赤いオーラを放つその指輪は見た目とは裏腹に使い捨ての消費装備で、俺のスキルでも安い材料があれば作れる。
涙目でこちらを見つめる麻衣に精一杯勿体つけて頷いておいた。言わなければわからないのだ、恩に着ておいて欲しい。

「あー……アクリ……杏里から、チャットが来た。いや、意味がわからないと思うけど、チャットが来た」

「……そ、そうなんですか」

 昨夜ネットゲームのシステムの概要は説明したのである程度は理解してくれている筈だ。
 しかし、何故かどの指にもピッタリと合う魔法の指輪に目を丸くする麻衣は聞いているのかいないのか。
 とりあえずチャットウインドウを開こうと頑張り、そこに文字を打つイメージに苦労し、ようやくチャットを送る。
 杏里から返事が帰ってくるのにも5分以上の時間がかかった。向こうも向こうで難儀しているようだ。
 声も自然に入っている事に気づいたのだろう、文頭に『You've Got Mail!』と入っていた。そんな携帯みたいな事をしなくても気づく。 
 ついでに以前見た映画を微妙に思い出した。あれもあれで面倒くさい二人の恋愛物だった気がする。

「これは携帯代わりにはなりそうもないな……。麻衣、向こうの部屋の二人、呼んで来てくれないか。何もなかったらしいから」

「あ、はい」

 結局右手の薬指にはめたらしい。
 嬉しそうにその指輪を見せて、麻衣は部屋を出て行った。
 これは物で釣っていると言えば良いのか、魔法で釣っていると言えば良いのか。
 とにかく、杏里が来る前に健一と桂木にいくらか説明はしておくべきだろう。




「じゃあ、その同じ世界から来た人と会ってる間、僕らを放っておいたと……?」

「気を使ったんだよ、感謝してくれ」

「はい、ありがとうございますっ、先輩!」

 ナイスです、と親指を立てる桂木に、密着状態で抱きつかれている健一がげんなりした表情を見せた。
 ゲームの中なんだと知らなかったのは桂木だけのせいか、誰も動揺しないのを見て桂木もあっさりと事情を受け止めた。

「――つまり、桂木も健一も俺の巻き添えだと思うんだ。本当に申し訳ない」

「それって……先輩もどちらかと言えば巻き込まれた方なんじゃ……」

「だよねぇ……」

 あっさりしている。あっさりし過ぎている。俺がおかしいのか、やっぱり。
 にこにこと微笑む麻衣はこうなるのを予想していた様だった。全く、良い仲間だ。


「そういう訳で俺には妙な魔法が使えるから化け物関係のトラブルはこっちで引き受ける。杏里――昨日会った奴も一応は戦力だから、ここからは大した危険はないだろう」

「その人、杏里さん? 女の子なんだ――痛い、痛いって!」

 反射的なのだろうか、聞いてきた健一の腕を桂木が締め上げる。PTウインドウでHPを確認したくなるのをこらえて気にしないように努めた。

「女は女だけど、ネットゲーマーだしな。そういう雰囲気は期待しない方がいいぞ」

「良かったですねー、健先輩?」

「もう……どうでもいいよ」

 返事は保留した筈なのに、完全に首輪がつけられている。良かったな、桂木。

「…………」

「……ん、麻衣?」

 仲の良い二人に触発されたというよりは、見事な尻に敷きっぷりに心が動いたようで、麻衣も俺の右手を抱いた。
 幾らか力を入れているようだったが、多分麻衣では全力で握っても痛くはないと思う。暖かくて、柔らかい。
 丁度その時、ノックの音が響いた。説明も一段落ついて良いタイミングだ。

「杏里か、入ってくれ」

「はーい、お邪魔しまー…………」

 扉を開けてこちらに顔を覗かせた杏里が一瞬硬直し、そのまま頭を戻して扉を閉めた。

「待て、何やってるんだ、何で逃げる!」

「やだー、こんな甘い空間であたしだけ一人とか無理ー! もういい、ここでNPCと仲良くなって幸せに暮らすから!」

 硬直している他三人は頼れないので一人で追いかけた。しかし言われてみると酷いリア充空間だった気もする。
 俺があんな中に呼ばれたら間違いなく部屋を飛び出していただろう。
 配慮が足りなかったと思う、すまない。口に出すと余計惨めにするので言わなかったが。

「とりあえず帰る目星を付けるまで手伝ってからにしてくれ。あー……FF14が出るまでに帰りたいんだよ、俺は」

「あ……うん、それは確かにそうかも」

 何となく思い出して言ったのだが、取り乱していた杏里が一瞬で正気に戻った。
 来年に開始されるらしい大作オンラインゲーム。それまでに現実に帰れなければネットゲーマーとしては非常に厳しい状況に追い込まれるだろう。
 タイムリミットは年内。二人手を取り合って絶対に帰ると決意を固めた。
 連れ立って部屋に戻り、健一と桂木を引き離して、一人で中央に立っている杏里に自己紹介をさせた。

「というわけで、栗原杏里です。パラディンレベル42、スキルは盾型でステは体力、鎧と剣以外店売り装備だけどスキル使えばある程度頑張れると思うから、よろしくね」

 笑顔で異国語を話す杏里に、健一と桂木がどうしようという目を向けてくる。大丈夫だ、そいつはわざとやってる。

「こっちに来たのは6日前で、カールの森の山側のスタート地点に出たっぽいんだけど気づかなくって。一方通行の川あるでしょ、あれに落ちてこっちに流れてきちゃったんだ。カールの森はプチドラで、山の方はゴブとフェンリルでしょ、もう身動き取れなくなっちゃって。それで困ってたんだー」

 普通は全く理解できないであろうここに居た理由を説明しているが、もはや俺以外の三人は理解をあきらめている節があった。不思議な生き物を見るような目で杏里を見ている。

「川を流されてこっちにきて、近くに危ないモンスターがいるから町から離れられなかったって事だ。杏里、わざとややこしく言うのやめろ」

「あはは、ごめん。そっちは四人だったみたいだけどあたしは一人でこっちに来たからちゃんと人と話すの久しぶりなんだ。いいなー、仲良さそうで」

 まだ引きずっていたらしい。桂木が少し嬉しそうにして、健一がさらにぐったりした。
 ようやく、よろしくお願いします、いえこちらこそ、とやり始めた三人をのんびりと眺められる。
 と、俺が聞いていなかったことを健一が気軽に聞いた。

「杏里ちゃん、失礼かもしれないけど、学生かな? 僕らはみんなA大で、山田と僕が二年、女の子は一年なんだけど」

「うえっ!? ……あ、あたしも大学、一年……なんだけど……そっか、あそこかあ……」

「……何で俺を見るんだよ」

「……見えないなあ……」

「……思いっきり殴ったら何ダメージぐらい出るんだろうな、確認してなかった」

「嘘、嘘! いや嘘じゃないけど、ごめん!」

 別にそんなにレベルの高い大学というわけでもないのだが、杏里は結構ダメな方の子なのかもしれない。

「しかし、一回生か……そのレベルを見るに、『ワンダー』始めて2,3ヶ月……」

「……な、なに? 何が言いたいの、山田君」

「……大学デビュー……ダメだったのか……」

「違うもん、理系なのがわるいんだもんー!」

 うわーんと突っ伏す杏里。
 失敗という意味では麻衣も同じなんだろうが、あきらめずに部活に姿を見せていた麻衣とは逆に、杏里はゲームにのめりこんでしまったのか。

「気持ちはわかる、大丈夫だ。俺なんて7年前からだ。つい一週間前まではリア充死ねとか言ってたぐらい。大丈夫、まだやり直せる」

「廃人に上から目線で現実を慰められた……私って何なんだろう……」

 どんよりと俺の横でへこむ杏里を見て健一がぽつりと言った。

「仲……良いんだね」

 あんまり仲良くすると隣の彼女が怖い。是非お前も仲良くしてやってくれ。いや、口には出せなかったが。










「山田君ー、回復POTと治癒POT、半分ずつでいいー?」

「俺が居るからどちらかと言えば治癒メインで頼む」

「はーい……あ、二年なんだから一応先輩の方がいいの?」

「後輩がそんなに居たら逆に面倒だ。お前は普通にしてくれ」

「ん、おっけー」

 旅支度である。
 レベルがあること、装備があること、魔法やそれに類似した特技があることを話して聞かせた結果、持っていた道具類を抜本的に見直すことになった。

 残念ながら今のレベルでは現状の装備以上の防御力を得るのは難しい。
 そこで回復アイテムの類を買い込んで、それでいざという時は何とかしようという結論だ。
 と言っても回復すれば何とかなるのは杏里ぐらい。健一達にはスタミナ回復のアイテムを持たせて、せめて長く逃げられる様にしたい。
 ちなみに回復POTは即時回復、治癒POTは持続回復。ケアルとリジェネみたいなものだ。

「インベに入れてショートカットから使うと飲まなくても良いんだけど、焦った時使えなかったらぐびっといくしかないんだよね。飲みやすい味のを買おう!」

「……味とかあるのか、ポーション」

 あるある、と力強く頷く杏里。一人で過ごす間、杏里はポーションを使いながら戦っていたらしい。
 それはつまり傷を負ったということか。焦って回復しないといけないような状況に陥ったのか。
 危険を冒さず持ち金で過ごせる限りだらだらと宿に居ても良かっただろうに……まあ、ゲームの中に入れたのにじっと動かないのも耐えられないか。
 しかし焦れば焦るほど反射行動で上手く力を引き出せる俺とは逆に、杏里は焦ると使えなくなるらしい。
 プレイ時間の差がそういう点に出ているんだろうか。

「山田ー、この赤色の薬、イチゴみたいな味がするんだけど、どうかな?」

「回復量は結構あるぞ。二本で全快するだろうからそれでいいんじゃないか」

 了解、と答えて別の棚に向かった健一と桂木が木製の籠に薬を詰め込んでいる。
 命が懸かっている以上妥協はないだろう。むしろこれまでちょっと放置しすぎだったきらいがある。

「先輩、この薬、飲むと魔力が回復するらしいんですけど……」

「少なくとも俺には要らないな。回復量も少ないし、高いし……後、麻衣が飲んでも魔法はつかえない」

「……はい……」

 しゅんとした麻衣が薬を戻しに行った。小脇に抱えた炎の杖がゆらゆら揺れて少し怖い。

「……うん、不公平だよね」

「ん、何がだ?」

 気に入ったらしい。昨日も言ったフレーズで、杏里が言った。

「桂木さん、ちょっと来て来て」

「はいー? 何でしょうー?」

 不慣れだからか、同い年の杏里にも桂木はまだ敬語だ。
 よく考えると男二人が杏里を名前で呼んでいるのに女同士は苗字だ。どう考えても逆だろう。
 疑問符を浮かべる桂木に耳を寄せて、杏里が囁くのが俺にも漏れ聞こえた。

「ちょっとさ、松風さんの装備見てよ、ほら」

「装備って……」

 服装、と受け取ったのだろう。きょろきょろと薬屋を見回す麻衣の姿を、桂木が見つめた。
 基本はいつも通りの白のローブだ。ただ午前中に俺がエンチャントをしたので耐性が幾らか上がり、ぼんやりと白く光っているようにも見える。
 小脇に抱えているのは炎の杖。多少大きいことを別にしても内封した魔力が漏れ出していてまともな杖には見えない。ゲーム内では珍しい品ではないがNPC商店に並んいる訳でもない。この世界なら逸品と言えるレベルだろう。
 頭にかぶった帽子も先日とはデザインが変わっていて、今日渡した――取られた――物だ。純粋に魔法防御力が引き上げられ、微妙にステータスが上がる。こちらも若干妙な力を感じる筈だ。
 指には見慣れない指輪がぼんやりと赤く発光している。どう考えてもただのアクセサリーには見えないし、実際に違う。
 何よりも胸に揺れる白銀のネックレスが素人目にも洒落にならない迫力でオーラを振りまいていた。強く主張しているわけではないので気づき難いが、意識して目を向ければすぐにわかる。
 ひるがえって桂木の姿を見てみた。

 E 布の服

 多分、口にすればこれで済むと思う。
 スタイルを重視した先日の衣装とは違って柔らかな生地で大きめに全身を覆った可愛い服だ。
 間違いなくセンスはあると思うが防御力は普通としか言い様がない。
 俺が両方を見比べたのを見計らってか、ニヤニヤと杏里が迫ってきた。

「不公平だよね? ねえ山田君、どう思う?」

「……あー、いや、すまん……」

「……えっと、健先輩が私には何もくれないなーっていう、話です?」

 方向性としてはそうなのだが、意味的には違う。

「桂木は何て言うか……常識人で無理をしないから、別に装備とか貸さなくても良かったんだよ」

「え、じゃあ麻衣が着けてるの、あれってゲームの装備……なんですか?」

「そうそう、しかも高いよー。全身あわせるとお城ぐらい買えるよ、多分」

「ふぇぇぇ!?」

「買えねえよ。ってかそんなに高くねえよ」

 魔王のネックレス以外は大した金額じゃない。それ以外なら全身あわせても500万ベル程度だ。
 ネックレス自体もそこそこ算出されているので、自力で手に入れていなくても手が出ない値段ではなかった。
 ネットゲームの世界には現実の本物のお金275万円で落札された城つきの島や、毎日プレイして孫の代にようやく入手できるアイテムなどが存在する。
 そういった馬鹿げた品物と比べればそう大したものでもないのだ。
 ゲームを始めて数ヶ月の杏里には高く見えるだろうがそれは単に見方の問題だ。
 七年頑張れば格闘技なら黒帯が取れるだろうし、ほとんどの資格に手が届く。
 平社員なら一端に役職を持ち、生まれたばかりの子供も最後の七五三を迎えるまで育つだろう。
 七年というのはそれだけの時間だ。それだけを捧げたんだから多少の対価はあってもいいと思う。

「高くないらしいですけど」

「山田君の認識がおかしいんだって。ほら、全部売ると今日の宿代で言えば何日分ぐらいになる?」

「……3000万日……ぐらいか」

「ふぇぇぇぇっ、何それー!?」

 宿代が安すぎるのが問題であって、俺のせいではない。多分。

「ユーザーに売れば、だ。店に売ったって金にはならないんだから一緒だろ」

「それはそうだけど、価値で考えればむしろ上がるよ? 魔ネックとか絶対城つきの土地もらえるぐらいの値段になるって」

 算出が0なので確かにレアリティとして言えば上がる。
 価値を理解できる人がこの世界に居ればとんでもない額になるものばかりかもしれない。

「……持たせた方が面倒が起きるかな、あれ」

「……逆に手を出す気にならなさそうだけど……まあほら、今は桂木さんの事」

「あ、はいはい」

 ぼんやりと麻衣を目で追っていた桂木があわててこちらに振り向いた。
 体は硬直しているが、表情は少し緩んでいる。とんでもない額のアイテムを押し付けられるのかと緊張しながら、ちょっと期待しているらしい。

「あたしは手持ちでギリギリなんだけど、山田君もう何もないの?」

「あるにはあるんだけど、全部職装備だな。麻衣にアレを預けてる以上、ボスが出たら全部着けなきゃまずいかもしれないし」

 装備制限レベルがないのは一部の低レベル魔法装備とアクセサリー類に多い。
 しかしレベルに制限がなくとも職業に制限がある事は少なくない。少なくとも手持ちの残りは全て聖職者限定の品だ。
 そもそも雑魚相手でもまともには戦えないので防御を整える意味が薄い。
 一人の時に襲われれば仮に一撃を耐えても数回で死ぬのだから、幾つか譲っておいたところで大した効果がないのだ。
 そして旅の途中で一人になる時と言えば街中か、それこそ手洗いの最中ぐらいだ。それも今後は杏里が居れば問題ない。
 俺と一緒に戦いに行くような特殊な状況でない限りは、戦えば即ち死ぬ。そうでなければそもそも必要ない。この二択になるだろう。
 それでも麻衣に渡しているのは麻衣が俺と一緒に無理をした結果だ。この子は俺と一緒に殴られてくれるのだから仕方がない。
 さらに言えば、贔屓だ。結果だけ言えば無駄だからこそ出来る贔屓だと思う。
 現実のお金を使わずにプレゼントを渡せるのが便利だという気持ちも、正直ある。
 付き合い始めてまだ数日。男の子は格好をつけたいのだ。

「エンチャは?」

「スクロール使い切った」

「強化ポーションとか……」

「持ち歩くかよそんなの」

「あー……困ったね」

「銀行に行けば結構ある。とりあえず教国までならこのままでも問題ないと思うんだけどな」

「えっと……結局私はどうすればいいんでしょー?」

 困った様に笑う桂木に申し訳ない返答をしようとした所で、後ろからひょっこりと健一が姿を見せた。

「忘れてたよ、すずちゃん。はい、これ」

「え……これって、あの時の……」

 健一が鞘に納まった短剣を桂木に手渡した。
 俺と一緒に買ったあの短剣。オーガにトドメを刺した由緒ある物だ。
 普通のナイフだが頑張ればいつかオーガキラーぐらいは名乗れるかもしれない。

「僕は自分の剣があるから、すずちゃんが持ってて。出来れば使わなくて済むようにしたいけど……」

「あ……はいっ! ありがとうございます、健先輩! 大事にします!」

 桂木は完全に満足した様子だ。
 そりゃ俺から高価な物を貰うより、健一から安い物を貰った方が嬉しいだろうさ。
 しかし何だろうか、この脱力感は。
 タイミングと性格から考えて絶対に今の話を聞いてて思いついたくせに、あの男はこれだから困る。
 隣を見ると杏里は俺以上に疲れた様子だった。

「カップル二人の惚気に巻き込まれた感じだよね、あたし」

「……あー、一応言っておくんだが」

 無言のまま濁った目で見返してきた杏里と視線を合わせ、健一を指差して言った。

「あいつ、あの剣はまだ装備制限に届いてないんだ」

「……うわぁ……身を捨てた献身だね……」

 後で俺がもらった方のナイフを渡しておこうと思う。


 夕食は昨日と同じ店を選んだ。
 何となく醤油を思わせる味付けのスープに、何処となく味噌っぽいソースのかかったサラダ。
 すましと言うには濃いし、味噌ダレと言うには薄い。日本風ではあるのだが微妙におかしい。
 メインは魚だが何故か塩釜焼きで、一応ちゃんと食べられはした。少々味が薄い上に一緒に出てきたパンにもほとんど味がなかったのが残念だ。
 店でまともな日本食を食べるのは難しいのかもしれない。うんうん唸りながら食べていた桂木の頑張りに期待したい所である。
 昨日同様、夕食後に杏里とは別れた。
 一通りの準備は終えた。急ぎの旅ではないがさっさと帰りたいのが本音だ。明日の早朝出発することに決めている。
 わざわざ宿を変えるのは面倒なのでそのままもう一泊。面倒なので部屋割りもそのままで、とは桂木談だ。
 山を越えて次の町に着くのは3日後の昼ぐらいだ。何はともあれ体力は温存するべきだろう。
 麻衣と二人の部屋、それでも色気のある会話はなく、すぐに眠ることにした。

「じゃあ、お休み」

「はい、お休みなさい」

 何を期待していたわけでもないがそれでも、二人部屋でベッド同士に距離があるのが何となく残念だった。
 しかし昨日も長くは眠っていないので眠気はある。さっさと眠ってしまおう――


――うわああああああ、すずちゃん、ちょっと、やめ、やめっ……っ!!!!


「…………お休み、麻衣」

「…………はい、先輩、お休みなさい」

 俺たちは何も聞いていない。
 無言のままに確認しあい、そのまま眠りに着いた。
 幸いにもそれ以上の物音が隣から聞こえてくることはなかった。
 健一の抵抗が何処まで続くのか、友人として温かく見守ろう。そう決意した夜だった。





[11414] 第六話 要らない(下)
Name: 検討中◆36a440a6 ID:111d7f98
Date: 2011/11/12 19:16
 一時期は見なかった夢を何故か今日も見た。
 夢の中の俺はやはりネットゲームをしていて、仲良くなったパラディンと旅に出ていた。
 大きな教会が見たいと言ったそいつを長年連れ添った火龍の後ろに乗せて、低い高度でゆっくりと飛んでいく。
 壮大な風景とモンスター、いつもの様にひっそりと存在するダンジョン。全てが見慣れた物だった。
 それでもはしゃぐそいつに付き合っている内に、二人にとって特別になった場所が幾つも出来た。
 それはこの世界に初めて来た時――目覚めてから思い出せば酷い皮肉だ――を鮮明に思い出させる感覚。
 懐かしく、そして新鮮だった。
 『ね、大聖堂ってさ。確か……その、結婚とかも、出来るようになってるんだよね……?』
 はにかんで聞いて来たらしくないそいつに、知り合いの式に出る度に馬鹿騒ぎでデスペナがつくと笑って答えた。
 その時はそれだけだった。
 大聖堂に向かう理由が一つ増えるまでに――それほど長い時間はかからなかった。




「……どんな夢だよ……」

 薄ぼんやりとした悪夢の記憶を振り払って身を起こすと既に日が昇っていた。
 残念ながら腕時計はこちらにつけて来なかったが時刻ウインドウが表示できる。
 午前6時50分。昨夜は早く寝たので十分に休んでいる。起きるなら丁度良い時間だろう。
 僅かに残った眠気を耐性で脇に退け、ベッドを出て部屋内に視線を巡らせた。
 隣のベッドには当然麻衣が居る。そして勿論眠っている。
 もう眠っている麻衣の姿に特に感慨を覚えなくなってきていた。
 付き合いだしてまだ一週間と経っていないのにこれはどうなんだろうか。

「麻衣、ほら、起きろ。朝だぞ」

「ん……ぅ……先輩……?」

 軽く揺するとすぐに目覚めてくれた。
 四人の中で比較的寝起きが悪いのは健一ぐらいでのもので、それでもすぐに起きてくれるので助かっている。
 そう言えば杏里はどうなんだろうと一瞬考えた。もう起きているんだろうか。
 しかしあの唐突なチャットメッセージで目覚めさせるのも不憫だ。そっとしておこう。

「おはよう、ございます……」

「おはよう。まだ早いけど風呂に行くなら今の内だ。しばらく野宿になるし、入っておかないか?」

「……そうですね……はい……はい、行きましょう」

 大して時間もかからずしっかりと目が覚めたらしい。
 言いながら少し恥ずかしそうに手櫛で髪を直している。見ると確かに幾らかほつれていた。
 寝相が良いとは言っても流石に長さがある、仕方がないんだろう。
 麻衣の物だろう、小さな櫛がテーブルに置かれているのが目に付く。
 拾い上げて、ベッドの上で服を整える麻衣に歩み寄った。

「あ、ありがとうございます……先輩?」

「じっとしてててくれ」

 受け取ろうとした麻衣の後ろに回り、長い黒髪に指を這わせる。俺の意図を察したのか麻衣は無言で両手を下ろした。
 そっと頭を撫でた後、軽く手櫛を通していく。思ったよりも柔らかい。そして少し油分の感触がある。
 一晩でこれなら道中お湯が使えないのは辛いだろう。帽子を被る意図もわかる。
 ほつれた部分は無理をせずに少しだけほぐして、下からもう一度。
 力を入れたつもりはないが数本の髪が指に絡んでいる。湿っていて、ほんのりと冷たい。
 ふわりと長い髪が舞う。麻衣が身じろぎをする度に部屋の中に甘い匂いが広がるのを感じる。
 簡単に済ませて櫛を手に、今度は最初から毛先に手を伸ばし、下から少しずつ櫛を入れていく。
 長いからどうしても時間がかかるが、少しずつ登って行くそれが逆に楽しかった。
 徐々に上に進み、ようやく根元に近い辺りまで進む。指の腹で軽く頭皮を揉んで上から櫛を通した。
 すんなりと流れていく感触が気持ち良い。同じように感じてくれているのだろうか、緩んだ麻衣の横顔はどこか幼く見えた。
 ざっと済ませたところで正面に向き直ると麻衣は目を閉じていた。きっと、余程気を抜いていたんだろう。
 
 シーツの上に揃えられた手に櫛を置いて彼女から離れ、バッグからタオルと下着を取り出して風呂の準備をした。
 この世界では平均的だが残念ながら余り触り心地は良くない生地だ。
 柔らかくて良い香りのするタオルにはきっと帰らなければありつけない。

「さ、行こう。カギは俺でいいよな」

「あ、はい……あの、先輩」

 未だにベッドに座ったままの麻衣が、まだ少しぼんやりとしたまま俺を見つめた。

「上がったら、また……いいですか?」

「……高いぞ?」

 お幾らでも、と言われてしまった。そこまで言われたらしょうがない。
 ……麻衣が替えの下着を用意する所を思いっきり見てしまったのは引き続きぼんやりしていた彼女が悪いのであって、決して俺のせいではないと思う。
 この世界に混浴という文化はないのだろうか。いつか絶対に調べてみよう。
















 第六話 要らない(下)
















 荷物の大半を馬車に積み終わり、管理が悪いのか若干体調を崩していた馬達を治癒してやるぐらいの時間が経っても、まだ杏里は約束の大門に現れない。

「まさか、寝坊か?」

「妙な事が起きたとか言うより寝坊しただけって方が幾らか気が楽だよ」

 そうフォローした健一は御者台に座り、今日も馬が言うことを聞かないのを確認している。
 そう言えば杏里は騎乗スキルを上げているだろうか。俺も馬車内でみんなと談笑する側に回ってみたいんだが。

「あ……見てくださいほら、あれじゃないですか?」

「あれってのはちょっと酷く…………ああ、うん、アレだな」

 遠くの方でこちらに走ってきている人影が見えた。
 それだけなら良いのだが、前衛職の身体能力だろう、相当の勢いで疾走している。
 クーミリアの様な一瞬の瞬発力がない為か。その人影は後ろに砂埃を出すという半ばフィクションのような光景を現実のものにしていた。
 唖然と見守る間にも凄まじい勢いで駆け抜け、冗談のように砂煙を起こながら杏里が馬車の目の前に停止した。

「―――ごっめーんっ! ごめん! 寝坊しちゃった!」

「……いや、いい、十分だ。気にするな」

「あ……あはは、おはよう杏里ちゃん」

「お、おはよー、栗原さん」

「おはようございます……」

 爆笑するという事はなかったのだが、実際に見られて少し感動した。
 四人でうんうんと頷いているのを杏里が不思議そうに見ていたが言わずに済ませておこう。
 そうすればまたいずれあの光景が拝める日が来るかもしれない。
 
 最後にもう一度準備を確認したが一通りは揃っていた。
 芋やら玉葱やら、まともに使えそうな食材が増えているのが期待できそうだ。

「あれ、杏里ちゃん、荷物は?」

「あたしは全部インベに入ってるから手ぶらで大丈夫。結構筋力あるからさ、そんなにスタミナ減らないの」

 不思議そうな健一へ得意気に笑い返した杏里は、むん、と力こぶを作った。肉が集まって微妙に盛り上がる状態を力こぶと言うのなら、だが。
 インベントリを使っているのなら杏里に荷物なんてものがないのは当然だろう。
 むしろ杏里本人がお荷物かどうかを確かめるべきだ。

「杏里、騎乗スキルあるか? あるなら交代で……」

「ううん、全然ないよ?」

 即答でお荷物確定だった。
 残念ながら麻衣の膝枕で寝ながら次の町へ行く野望は一瞬でついえた。本当に本当に残念だ。

「うっわ、こいつ使えねえ……」

「大丈夫だって、一緒に隣に乗ってあげるから。ね?」

 寂しくないよー、と偉そうな事を言う杏里を馬車の中に押し込んだ。
 結局俺にとってはナビシートの交代要員が一人増えただけのようである。


「じゃあ、俺達は行きます。ありがとうございました」

「――待て」

「……はい?」

 門兵に簡単に挨拶をした所、思いっきり呼び止められた。
 よく見ると行きに止められた門兵だ。またクーミリア関連で何かあるんだろうか。

「お前達、どこに向かう? アテナスか、それともライソードか」

「サイレイン経由でライソード、ですが……何か問題でしょうか」

「関所を通って東三叉路を通るルートだな?」

「……そうですが」

「わかった……問題はない、行くと良い」

 聞くだけ聞いて、言うだけ言って、兵士はさっさと戻っていった。
 何なんだろう、本気でクーミリアファンの嫌がらせな気がしてきた。ロリコンなのかだろうかあの男。
 もしもこの先もう一度クーミリアと会うことがあったらあの兵士には気をつけるように伝えておこう。

「山田、どうしたの?」

「……いや、行こうか」

 二度目の出発、ナビシート第一号はやはり健一。
 手綱を少し緩めると馬達は元気良く歩き出した。
 今日は相当な山道を歩かせることになる。騎乗物ウインドウで馬達のステータスは見られるので気をつけておかなければならない。
 遠ざかっていく山岳都市ガイオニスを振り返ると例の門兵と思わしき男がこちらを睨むように見ていた――ような、そんな気がした。






 朝食代わりにカントルで買わされたパンの残りをかじる事にした。
 焼きたてとは程遠い時間が経っているのにそこそこ食べられる。困ったことに、魔法というのは本当に便利なものらしい。

「でさ、次の町ってどんな所なの?」

 隣で同様にパンをかじる健一。一昨日の夜も食べたからだろう、明らかに食が進んでいない。

「教会都市サイレイン、そして境界都市サイレイン。そこを抜ければ、教国首都ライソードまで4日って所だな」

 俺も同様に食欲の起きなかったパンを口から離して言った。 
 名前や予定は昨日聞かせているが境界の話はしていない。疑問符を浮かべた健一に向き直る。

「サイレインは帝国と教国の境目にある。他に宗教があるって訳でもないが、一応布教の意味で教会が山ほどあるんだ。それで教会都市だ」

「へえ……バチカンみたいな感じ?」

「いや、それは首都ライソードの方だな。あっちには大聖堂があるし教会一つ一つの規模が大分違う。サイレインは教会の数だけが多いんだよ。それで色々面倒ごとがあるらしくて、お使いクエストが山ほどある町だ」

「……お使いクエ……やらされるのかな」

「通行証が要るとかそういうのはないから、まあ無視すればいいだけだと思う。むしろ問題は境界都市の方だな」

「…………つまり?」

 口にしてもわかりにくい話だろう。首を捻って先を促した健一に応じた。

「さっき言った通りサイレインは帝国と教国の境目にある。休戦状態にはあるが二国は今もって臨戦態勢……って設定だった。だから帝国のスパイや教国の内通者がわんさかいる。そっち方面のクエストも多い」 

「戦争かあ。余り係わり合いにはなりたくないね」

「まあな……でも神を降ろすには結構な準備が要る。何かしら戦争の為に神を使おうとしてくれればこっちにはラッキーだ」

「神様を使うって……あー、そうか、山田はゲームの中なら神様に会ったことあるんだ? どういうのなの、その神様って」

「……言ってなかったか?」

 聞いてないよ、と睨まれた。
 そういえば麻衣に迫られてこの世界の大半の事を話し終えたから安心してしまって、昨日の夕食でもオーガ退治の話なんかをしていた。
 桂木も今頃は麻衣と杏里から聞いているのだろうか。一応健一にも話しておこう。

「えーと、だな。まず神は魔王に大分押されてる」

「押されてるんだ?」

「押されてないとゲームにならないからな。その理由の一つが各国首脳部に潜入してる魔王の眷族。それが理由で教国以外の国では幾らか信仰心が落ちていて神がパワーダウンしてる。それで神は人間の戦いにも介入するんだ。で、定期的に戦争の為に神が降ろされるからそこで話しかけられればイベントを一気に飛ばせる、と」

 戦意高揚、武器の聖別、首都防衛の加護。何でもいい、戦争再開前に神を降ろす所に丁度出向ければそれ以上のことはない。

「なるほどね。その眷族を倒して神を復活させて魔王を倒すってストーリーなんだ」

 そう考えると確かにありがちな話だろう。
 しかし折角納得してくれたようなのだが、残念ながら違う。

「いや、別に復活させたりはしなかった。眷属とかはまだ名前だけで未実装だし……昔は何もしなくても普通に魔王と戦えたしな」

「……じゃあ何のためにその設定があるのさ」

「イベントと、クエスト」

「……大丈夫かな、神様……」

「一応神の為に色々するクエはあって、その結果としてやっと魔王の空間に踏み込める。でもそれは単に入場許可フラグってだけだ。一人が何かして世界の設定が変わるんじゃネットゲームは成り立たない」

「そんなもんなんだ……」

 実際にはイベントをこなすと自分の画面では神が常時ライソードに降臨している状態になるが、それこそだから何だという話だ。
 話しかけるたびにお礼を言われて、なのに何故か魔王とモンスターの居るMAPに飛ぶかどうかを聞かれる。
 行けば倒した筈の魔王は復活していて、数日に一度だけ戦える。
 結論を言えば確かに健一の言う通り――

「まあ、そんなもんだな」

「……ちょっと期待がそがれたなあ」

 軽く落ち込まれてしまった。
 しかし魔王を除けばこの世界でもっとも強力な――プレイヤーを除いて――存在だ。
 イベント内ではそこそこ威厳もあったし、個人的には期待している。

「でも全能はともかく全知って設定は確かな筈だ。それが生きてれば俺たちがここに居る理由ぐらいは教えてもらえると思う。イベントの内容も大体覚えてるから自力で呼び出すこともできる。手がかりは近づいてるよ」

「そっか……でもさ、そもそも自分の世界に知らない人間が入ってきたら向こうから来てくれてもいいぐらいなのに……」

 全くだ。それなら面倒がなかった。

「美しい女神って事になってたからその辺も楽しみだな」

「へえ、女神なんだ。神の如き美しさ、かな……」

 馬車の中にいる俺の女神様を振り返ると、スキルウインドウらしき光のスクリーンを表示した杏里に何かの説明を受けていた。
 当然右手には炎の杖を握っている。随分としつこい女神様だ。
 一緒にそれを見ている健一専用女神の桂木はどうなんだろうか。
 なんとなく桂木なら素直にウインドウぐらい開いてしまいそうな気がする。ただの印象だが、意外とありそうだ。

「杏里ちゃんはパラディンだって言ってたよね」

「ん……ああ、みたいだな」

 声をかけられて視線を馬車の正面に戻した。道はそろそろ勾配のピークを迎えている。
 周囲は山肌に覆われているが幸いにも崖ギリギリを進まされるような難所は存在しない。
 昨夜もゲームをしていた頃の夢を見たせいだろうか、この馬達がペガサスなら今頃次の町に着いているのにと詮無いことを考えた。
 しかし翼こそついていないものの、この道も歩き慣れているのだろう。馬達は相変わらずもくもくと歩いてくれている。
 このPTで一番頼れるのはこいつらなんじゃないかと思ってしまう気持ちも、若干はあったりする。

「それで山田は僧侶で……そういうのって最初から決まってる? それとも後から転職して?」

「転職だな。ナイトなら帝都、シーフなら王都、魔法使いは天空都市で神父は教国首都。クエストをすればその職業になれる」

 中位職で枝分かれして後は一本道だ、と話を続けるが正直微妙な気分だ。
 やはりネットゲームを知り合いに解説するのは不思議な気恥ずかしさがある。

「僕もクエストが終われば転職できるのかな?」

「まだレベルが足りないな。最低で10からだ」

「そっか……うーん、レベル上げか……」

「レベルだけ上げた所でステータスも振れない、スキルも使えないのにどうするんだよ。麻衣みたいにそっちの練習をしたほうが建設的だ」

 言って、虚空にPTウインドウを表示してやる。
 光が集まって映像を映し出すSFに近いぐらいのファンタジーな光景を見て健一がげんなりと呻いた。

「いきなりそんな魔法みたいなことするのは難しそうなんだよ……」

「残念だけどこれが初歩だ。しかし……何でベルは出せるのにこっちは全く理解できないんだろうな。この世界なら……」

「……この世界なら?」

「……いや、なんでもない」

 ベルを使うのはこの世界なら誰にでも出来ることだから、と口に出そうとして、すぐにやめた。
 この考えは危険だ。突き詰めると俺と杏里以外の三人が世界にとってプレイヤーではなくNPCとして扱われているという結論にしかならない。
 クエストを受けて、オーガに止めをさせた。だから大丈夫だとは思うんだが……クーミリアの例もある。
 不安はずっと感じていたが、絶対にそうであってほしくない。そうであったら――いざという時に取り返しがつかない事になる。

「まあオーガを倒して一応HPは伸びてるみたいだけどな。ほら、数値が――あれ……?」

 PTウインドウのKenichiの欄を展開、表示されたHP、MP、SPを見て違和感に気づいた。
 KenichiのMPは40、SPは100――スタミナは%表示なのでこれは現在100%のスタミナを確保しているという意味――で、そこまではいい。
 問題はHPの数値だ。表示されている健一のHPは330。
 見ると展開されたままのMaiのHP数値は、こちらもやはり上昇しているが230しかない。
 明らかに差があった。もちろんステータスで体力数値に振れば最大HPは伸びるが、健一は数値を伸ばしていないはずなのだ。
 職業によって変わる面倒くさいHP計算式をすべて覚えてはいないが同職同レベルでステータスを上げていないならこれだけの差はつかない筈だ。
 自分がキャラクターを作る時は体力を1に設定した特化型にする事もあるが実際の人間にそれはないだろう。
 麻衣は元々体力がなかったから初期数値が低めに設定されているのかもしれないが……それでも100の差はおかしい。
 健一も体力自慢というタイプではない。麻衣とそんなに極端な体力差はないだろう。
 考えられるのは、こちらに来てからオーガを倒すまでの間ずっと体力不足に悩んでいた健一の無意識で体力数値が伸ばされているか、それとも――

「あ、一応僕の方が二人よりはHPがあるんだ。うわ、でも100倍しても山田に届いてない……やっぱり納得いかないなあ」

「……伸びてるっぽいぞ、お前のステータス」

「……え?」

「体力が増えてないと麻衣とこんなに差はつかない。多分知らない間にステータスを上げてるんだと思う」

「本当に!? じゃあレベルさえ上げれば強くなるんだ?」

「可能性はあるけどな……」

 勝手にステータスが伸びていると言うと異様に聞こえるが、頑張って歩いたから体力が増えたと考えれば逆に当然だ。
 長い距離を歩いて頭が良くなっている方がむしろおかしいだろう。そんな事が起きるのはゲームの中だけだ。
 そしてここはゲームの世界だからこそ好きな様に伸ばす能力を選べる。なのに健一のステータスは勝手に変化している。
 麻衣の数値を確認すると健一より明らかにMPが多い。
 MPは知力と精神力で伸びるが、知力はむしろMP回復速度への影響が強い。大きな効果があるのは精神力の方だ。
 俺を助けるために一人でオーガの前に飛び出して、それで精神力が伸びた……?
 魔法使いを目指す麻衣が意識的に伸ばすなら間違いなく知力の方だろう。やはりプレイヤーよりNPCのイメージが強い。
 
 いや、考え方が悪い。ゲームのシステムそのままに動いている俺や杏里と何かが違うんだ。
 何と言えばいいんだろうか、健一達を支配しているのはゲームの設定じゃなく、この世界の現実の法則の様な気がする。
 そこに差がついている理由は何だ。どうしてそんな違いが生まれているんだ。
 ゲームのシステムを認識できていないということなんだろうか。ゲームであることを知っても、理解できている訳じゃないのが原因だろうか。
 
 どこか、そんな単純な図式ではない気がしている。
 ゲームをプレイしていた俺と杏里だけがデタラメなシステムで動いていて、それがむしろおかしい。
 なのに世界はその異端をあっさりと受け入れているし、クーミリアだってこの世界の人間なのに動きだけ見れば俺以上に'外れて’いた。
 情報が足りない。絶対に神に会わなければならない、何故かそんな風に思う。

「まあ、レベルを上げようにもここらのモンスターじゃもう健一には荷が重い。どうしても必要になったらカントルの辺りに戻らなきゃな」

「そっか、進んでるから強いモンスターが出るんだね……じゃあしばらくはしょうがないかな」

 進んだから強くなったのではなく各国首都から遠い位置に居るからなのだが……そんな事を話しても意味がない。
 無茶はするなよ、と声をかけたのだが、頷きながらも腰のソードを確認している。まあ男の浪漫だし仕方がない部分はあると思うのだが。

「……言い忘れてたんだが、その剣は装備制限が15ぐらいだからお前が使うと敵に当たるかもわからないぞ」

「え゛っ!?」

 桂木が聞いている時にはどうしても言えなかった俺の気持ちも察してもらいたい。
 ちなみに当の桂木のHPは二人の間ぐらい、至極平均的だった。何とも常識人で安心する。 





 三時間程で中腹の関所に到着した。
 関所と言っても通行料を取られるわけではない。道行く旅人から道中の情報を聞いて危険がある場合は随時伝えるという好意的なものだ。
 迎えた時は笑顔だった中年の兵士は若い男二人女三人の俺達を見て苦い顔をした。

「最近ここらにゴブリンが群れて出るんだよ。腕に自信がないようなら出来れば戻った方が良いぞ」

 そっちも安全とは言い切れないんだがな、と申し訳なさ気に言う兵士に、後ろから顔を出した杏里が軽く請け負った。

「腕には自信がありますから! まっかせといて下さいっ!」

「……連れが何か言ってますが、会わない事を祈って進みます。ありがとうございました」

「……ああ、気をつけてな」

「大丈夫だって、全部倒しちゃうから! おじさん、後の人にはもう出ないって言っちゃって――」

 余計な事を言うな、杏里。
 優しい視線を送ってくる兵士に頭を下げて関所を通過する。
 隣の健一に視線を向けて馬車を指すと、肩を竦めて中に入ってくれた。
 申し訳ないがああ言われては、それこそオチが見えているという話だ。

「立った、立った、フラグが立った、ってね?」

「ね? じゃねえって……全くお断りなフラグだな……」

 交代で出てきた桂木は相当退屈していたのだろう、むしろ嬉しそうだった。こちらとしては勘弁してもらいたい。
 スキルウインドウを表示している俺と、インベントリウインドウを表示している杏里。ぼんやり座っているが一応は臨戦態勢だ。

「出てきたらどうする? あたしが全部倒そうか?」

「いや、タゲは俺が取るから個別に倒していってくれ」

「……ゴブリンぐらいなら何とかなるよ?」

 嘘つけ、群れのタゲ――ターゲット 攻撃対象選択――が全部来たらPOTで間に合うか怪しいくせに。
 初心者の強がりを受け入れる上級者のつもりで優しく笑ってやったらマジ切れされた。何が悪かったんだろうか。

「……全くもう、いっそ死んでも何とかなるんだから少し任せてくれてもいいじゃん。カディならフルリザあるんでしょ?」

「……まあ、あるけどさ…………」

「うん? 触媒足りないの?」

 口ごもった俺に対して、素のままの表情で杏里がこちらを見てくる。
 何でもない事のように言われたが、ゲームの世界で死んだらどうなるか、というのは相当に深い部分じゃないだろうか。
 死んだら戻れるかもしれないと考えてしまうのはよくあることだし、蘇生なんてものがある世界だとさらに複雑だ。
 
 しかし杏里は人が気にしてることこそが馬鹿だとでも言う様に、あっさりと口に出してくる。
 そう言えば最初に声をかけられた時も、俺が話すのに何日もかかったプレイヤーって台詞を第二声に持ってきていた。
 そういう性格なんだろうか。むしろ俺が悩み過ぎなんだろうか。
 わからないがしかし、やはり色々と気にするのが馬鹿馬鹿しくなったのは確かだ。
 不安で口に出せなかった事でも、杏里に言われると不思議となんとかなるように思える。
 どうしてだろうか。意見が合わないのは麻衣と同じなのに、何故か悪い気分じゃない。
 少しだけ呆れて、少しだけ面白い。軽く笑って杏里と目を合わせた。

「いや、数はある。そうじゃなくて……何て言うんだろうな。杏里はそうやってあっさり踏み込んでくるよな」

「……もしかして、会って三日であつかましいぞこの女的な宣告をされてる? あれ、もしかして今、山田君フラグ折れた?」

「何だ俺フラグって、最初から立ってない。それに別に貶したわけじゃなくて……そうだな、蘇生魔法な……」

 カディ、カーディナルのスキルには死者を蘇生する魔法がある――いや、蘇生する魔法自体は守性僧侶中位職で既に覚える。
 だがその蘇生スキルを受けると莫大なデスペナルティが付加される事になるのだ。次レベルまでの必要経験値10%分がレベルを下げてでも奪い去られる。
 そしてカーディナルのスキル、フルリザレクションはそのペナルティを無視して蘇生が可能になる。その為どうしても身内に一人必要で、俺はこの職業を選んでいた。
 しかし死んだ後にその場で蘇生されることを選ばずセーブポイントへ戻ればペナルティは一気に緩和されるのでそれ程の問題はない。
 そもそもカーディナルが実装されるまで何年もの間ペナルティつきの蘇生と復帰に慣れていたので便利なスキルでも無いなら無いで何とかなってしまうのだ。
 少人数で狩りをして死んだら一緒に戻る。大人数なら死なないように動く。カーディナルが求められるのはお祭り騒ぎとカンスト寸前で必死になっている誰かの蘇生だけだ。
 そしてレベルが限界値に達すれば必要経験値は0になり、当然ペナルティもない。仲間の大半がカンストしていれば尚の事効果が薄い。
 必要だけど要る時だけ来てくれればいい。そしてパトリアルフの方が正直便利。気の良い仲間が居なければ寂しいゲーム生活になったかもしれない。

「フルリザはある。こっちじゃまだ使った事はないけど……なあ、杏里」

「え、何? 実験にあたし殺す、とか……?」

「誰がするか、そんな事……やらないからその鎧脱げ。そうじゃなくてな、杏里は世界樹クエ、まだやってないだろ?」

「世界樹ってあの長い連続クエでしょ、レベルも足りないし始めてもないけど……」

「それでな、蘇生のイベントがあるんだ。世界樹の実を使ってNPCが息子の蘇生を試みる」

 世界樹の実は使い捨ての蘇生アイテムでペナルティつきの蘇生を行える。希少とゲーム内では設定されているがあまり珍しいアイテムではない。
 それを手に入れてきてNPCに渡して、事故で死んだ息子の蘇生を手伝うイベントがあるのだ。

「……どうなるの?」

 大体俺の言いたい事を察したんだろう。明らかにテンションを落とした杏里に、何故か溜飲が下がる気持ちで続けた。

「……ゾンビになって復活するよ。倒せばイベントが進む」

「……うわぁ……」

 実際に生き返ってしまったらそれ以外のNPCイベントで死者が出た時に何の感慨もなくなってしまうからゲーム的には当然だ。
 しかしこうして現実になると余りにも重い。それが原因で蘇生を考えてしまう自分を止めてきていた。

「ま、そういう事でな。ちゃんと蘇生できるかゾンビになるかがはっきりしないからフルリザには頼らないつもりでやってるんだ」

「なるほどねー……そっか、それは……うっわー、ぞっとしないね、そんなの」

「まあ心配するな。お前が死んだら一応試してやるから」

「……ゾンビになったら、どうするの?」

「ターンアンデット」

「即答!? あたし浄化されるの!?」

「光の中に消し去ってやるから安らかに眠れ。きっと夢の中でNPCと仲良くやってるさ」

「やだー! せめて死に際の夢は元の世界がいいー!」

 だだをこねられた。
 しかし正直、杏里に試みれば成功するような気がしている。
 杏里と俺ならフルリザや世界樹の実のシステムに乗ってその場で復活できる様に思うのだ。
 その反面、麻衣や健一に試みたらどうなるかはずっと考えていたが……不安材料ばかりが増える。

「いいよもう、山田君が死んだら世界樹使うからね」

「……で、殴り倒すのか?」

「…………山田君のゾンビに勝てるのかな、あたし……」

「POTが切れた後からが勝負だろうな」

「うう、二代目魔王山田君誕生の予感しかしない……」

 止められるのはお前だけだ。頑張れ杏里。





 どうでもいいことをつらつらと話し続けて数十分、気配らしいものは一切発せず、そいつらは唐突に現れた。

「おいでなさったか……こりゃ、思ったよりグロいな」

「匂いも、うっわー、臭い……みんな、外出ないでねー?」

 馬車に声をかけた杏里に幾つかの返事が返った。外にさえ出なければ馬車の耐久力が削りきられるまでは大丈夫な筈だ。
 馬の足を止めさせて御者台から飛び降りた俺達の前方50メートル程におよそ20匹のゴブリンが群れを成している。
 
 ――グルァァァァァ
 
 群れの中央に位置した比較的まともな斧を握った一匹が叫び、鬨の声を上げて一斉に襲い掛かって来た。
 一瞬前に出ようとした鎧姿の杏里を抑え、代わりに飛び出す。
 走りながら反転、襲い掛かってくるゴブリン達に思いっきり背中を見せる。バックブローで攻撃優先度が上がる筈だ。
 しかし現実的に考えると無茶もいい所だろう。案の定唖然としている杏里をターゲット。


 ――コンセクレーション――


 ――グランドサクラメント――


 金と白の光が杏里の体を取り巻き、力のオーラを吹き上げる。
 れで相当殴られてもターンアンデットに挑戦するような目には合わないだろう。

「いや、ちょっと、そんな場合じゃないって!」

 慌てたように叫び声を上げる杏里の姿に後ろにゴブリンが迫っていることを予期した、と同時。
 感覚としては、すぱーん! という所だろうか。バラエティ番組でお笑い芸人がやわらかい棒で殴られたらこんな感じだろう、という痛みを連続で受けた。
 ぺちぺちと殴られながら向き直ると大量のゴブリンがそれぞれの獲物をこちらへ向けている。折れた剣、短い棍棒、さびた斧、どれも大した物じゃない。
 アタッカーは杏里に任せたいが、とりあえずはと腰に下げていたウォーメイスを取り、手近の一匹を狙って思いっきり叩きつけた。
 出来れば今生感じたくなかった、何かの潰れる手ごたえが返ってきたが……残念ながらこちらは神父だ。とてもじゃないが一撃で倒す力はない。

 ――グォォォォ!!

 やはり即死には遠いダメージだったらしい。そのゴブリンは視線と声に怒りをこめて短剣を振り回して来た。しかしほとんど痛くはない。
 オーガの攻撃を受け止めた時のあのダメージが1000弱とすると、こいつらの攻撃は50程だ。20匹居るとすればダメージ自体は同じになる。
 しかし体力によるダメージ減算が固定数値で入っているのでほとんどダメージがないのだ。
 普段は固定値の減少は何も嬉しくないが、こういう時には便利だ。1000ダメージが950になるのと50ダメージが1になるのでは全く意味が違う
 しかし痛くないからといって楽でもない。剣やら斧やらを掻い潜ってメイスを振り下ろすと緑の血が噴き出し、むせ返るような悪臭が返ってくる。普通に地獄だ。
 
 馬車の方を振り向くと4体のゴブリンが杏里に向かっていた。
 杏里は慌てる事なくしっかりと腰を落とし、左手の大盾――カイトシールド、だったと思う――を軽く前方に出して右手で下段斜に直刀を構えている。
 詳しくはわからないがこなれた構えだろうと思う。当然か、この世界の戦闘経験ならおそらく俺より多い。
 盾装備の前衛職は本来複数の敵と相対する方が自然だ。大丈夫だとは思うが、一番俺に近い1匹をターゲットにスキルを使用する。
 キュアバーストの光がゴブリンにダメージを与え、しかし倒すには至らず怒ったゴブリンがこちらに向き直った。
 残りは3匹。再度詠唱する間もなく杏里に肉薄していく――

「――えいっ、ていっ……やっ!」

 何とも気が抜ける掛け声だったが、意外にも杏里の戦い振りは鮮やかだった。
 飛び掛ってきた1匹目の攻撃を盾で捕らえ、逆に押し返して完璧なタイミングで弾き返す。パラディンのスキル、シールドパリィ。
 ゲーム内では判断の難しい敵の攻撃タイミングもこうして目の前に相対するとわかりやすいが、それでも十分な思い切りと反射神経だ。
 たたらを踏んだ1匹目に構わず、振った盾を引き寄せるのではなく盾の重量で体を引き寄せて2体目の攻撃を抑える。
 攻撃を止めた所で迫ってきた3体目に体ごと盾で打ちかかっていく。衝撃を受けた3匹目は頭の上にひよこマークを浮かべて倒れこんだ。
 サブ攻撃の盾殴りは小型モンスターに中確率でスタンを与える……流石に自分の職らしく、よくわかっている。

「よっ、せいっ! ……ひやぁっ!?」

 まだ攻撃を試みていた2匹目に向かって斜め下から切り払った一撃が、恐らく本人も予想外だったんだろう。何の抵抗もなくそのまま振り切られた。
 思いっきり噴出した緑の返り血を引っかぶった杏里が叫び声を上げている。気持ちはわかる。臭いし、汚いし。
 攻撃の威力が想定外だったのは支援を受けた自分の体がどの程度動けるのか把握できていなかったんだろう。
 ゲームと同じ気分だった俺が悪い。事前に使って体を慣らせてやるべきだった。
 しかし幾らか驚いただけでグロテスクなゴブリンの死体に怯えたり混乱する様子はない。
 一応は生き物の命を絶ったのに、その点については極々落ち着いているのだ。杏里は予想外に頼れるかもしれない。
 目の前で仲間が真っ二つになったからだろうか、及び腰になった1匹目を軽く切り捨て、スタンしていた3匹目の首を容赦なく落とした所で、杏里は見つめている俺に気がついた。

「あー、山田君、サボ……って…………ぶふっ」

「……なんで笑ってんだよ」

 戦闘中に吹き出されるとは思わなかった。何だその反応は。

「いや、だって何か……子供に絡まれてる保父さんみたいな……ぷっ、ふふふ、あははははっ」

「……いいから手伝え。範囲攻撃あるだろ、パラディン。何ならテレポートで全部擦り付けるぞ」

「ご、ごめん、今……ぷっ、今やるから……」

 折角感心した所なのにこれだ。
 戦闘中に自分の姿が笑いのツボに入る相棒というのは最悪の部類に入る気がする。
 ぺちぺちと殴られながら憮然と見つめる俺から離れた位置でようやく姿勢を整え、杏里がこちらに構えを取った。

「じゃあ、いくよー?」

「ああ……いや、行くって何だ、行くって」

 こっちに来て範囲スキルを撃つのだと思っていたら、杏里はその場で腰を落とし、全身を盾の後ろに隠した。
 そして――――そのまま猛烈な勢いで突進を始めた。

「お前、何でプッシュチャージなんだよっ!?」

「てえやあああああああああっ!」

 言葉は同時で、着弾は直後だった。
 金の光と白い光、ついでに赤の閃光を交じり合わせて高速で突進して来た杏里が放ったのはプッシュチャージ。
 助走距離で威力の変わる盾突撃スキルだ。
 十分な助走距離と潤沢な支援の下で放たれた最速の一撃は全てのゴブリンを盛大に弾き飛ばし――俺を天高く舞わせた。
 いや、天高くというのは言い過ぎだろう。
 数秒で――それでも数秒は空中に居た――特に痛みもなく、しかし結構な勢いで地面に激突した。
 幸い大きなダメージは受けていない。杏里の突進を受けた前面には流石に鈍痛を感じたがそれもすぐに消えた。

「何ダメぐらい入ったかな、ね、どのぐらいかな!?」

 砂埃を上げて止まった杏里が期待に満ちた声を上げた。
 ずっとソロだったプレイヤーに支援をかけると大体こうして暴れ始める。
 冷静だったクーミリアもあれだけはしゃいでいたのだし、杏里ならこんなものかもしれないと妙な納得をしてしまった。
 文句を言う前にとりあえずステータスを確認してみる……何だろうこの尻に敷かれているような気分は。

「お前な……いや、もう回復してるっぽいけど」

「これでも自然回復超えないとか……うう、本当にゾンビになったら勝てないかも」

「……よし、ゆっくり話をしようか。凄く大事な話があるんだ、杏里」

 冗談だって、と笑う杏里の顔が微妙に赤く染まっていく。
 人を盛大に吹き飛ばしといて照れてるんじゃない、全く。
 鎧を戻していつもの騎士服に戻った杏里を小突いた所で、最後まで残っていたボスゴブリンの死体が消失した。


 ――クエスト 達成――


「山田、もう終わったの……うわっ!?」

 馬車から顔を出した健一が驚いた様に自分の頭上を見上げた。
 クエスト達成経験値によるレベルアップ。ゴブリン掃討クエの経験値は多くないがレベル一桁なら1か2ぐらいは上がるだろう。

「何かさ、レベル上げ手伝ってる状態だよね、これって」

「……まあ、いいんじゃないか」

 表示したままのPTウインドウで三人のHPが増加していた。
 杏里は思った以上にちゃんと戦えている。これなら教国首都までは何の問題もないだろう。
 体力や敏捷性が上がって日常生活に損はないのだから戦えない程度ならレベルが上がるのは良い事だ。
 後は……そう、桂木の技術力ステータスが伸びてくれればそれ以上の事はないのだし。
 ゴブリンの匂いが消える辺りまで進んだら昼飯にしよう。



 


 昼食は朝の間に買っておいたらしい果物のサラダだった。
 ハチミツのかかったフルーツサラダは何とも甘そうで正直に言えば余り嬉しくはなかったのだが、女性陣に加えて健一まで喜んで食べているので大人しく頂戴した。
 味はそこそこだったのだがやはり物足りない。簡単に済ませて軽く馬を休ませ、早々に出発した後もまだ俺の腹は空腹を訴えていた。
 インベントリの料理を『使用』する形で使えば見られずに腹は膨れるのだろうが……わざわざ選んで用意してくれた桂木の気持ちを考えると手を出す気にならない。

「全然足りない、って顔してるよ? インベに料理あるけど食べる?」

「俺も多少は持ってるよ……まあ、夕食までは我慢する」

 精神力ステータスは満腹度には影響してくれない。複雑な気分で手綱を握る俺を見て隣の杏里が笑った。

「女の子が3人いるんだから夕食はちゃんと作ってあげるって。レシピなしで作ったら魔法料理にはならないけど、ちゃんと食べられるものは出来るんだよ?」

「できるのか、料理?」

「……素で疑問に思ってるっぽいのが凄い失礼だよね。これでも一人暮らし暦半年、家事は任せなさい」

 胸を張って自信満々に言われた。
 半年って、それは大学に入って一人暮らしを始めたってだけじゃないのか。

「丁度飽きて適当になってくる時期だろ、それ……」

「ううん、得意なんだって、本当に。ゲームでも料理スキルはちゃんと上げてたんだよ?」

「ああ、それは助かるな。そっちには期待しておく」

 基本レベルが低いと生活スキルの上昇速度が余り早くないので俺よりは低いのだろうが、出来るならそれに越したこともない。
 魔法料理は作るのにそれなりの時間が必要だ。出発前に手分けして作っておければ幾らか食生活を豊かに出来る。
 明るい未来に希望を見出した俺とは対照的に杏里はへこんだ様子だった。

「折れてる、絶対山田君フラグ折れてる。酷いなー、あたしからのフラグはビンビンなのに」

「一応女の子を自称するならビンビンとか言うなよ……」

 照れてる? 照れてる? と詰め寄ってくる杏里を押し返してため息をついた。
 前の俺なら生き物を殴り倒したリアルな感触に落ち込んでいそうなものを、能天気な杏里と話していると全くそんな気分にならない。
 こいつのそういう所は嫌いじゃなかった。今なら少しは楽しい旅だと言ってもいいかもしれない。

「あの……栗原さん」

「ん、松風さん? どうしたの?」

 まだ苗字なのかお前ら、と一瞬思ったが口には出さなかった。
 麻衣がすぐに他人と仲良くなれるような性格なら今こうして異世界を旅する羽目にはなっていないだろう。
 ついそれを忘れそうになるってしまうのは、扉代わりの布を開いて馬車から半分身を乗り出している今のような姿が結構活動的に見えるからだ。
 会った頃と比べれば幾らか顔を上げて話す様にもなった。そうして見ると麻衣はやはり綺麗だと言っていい顔立ちをしている。
 そういう目で見ればスタイルも決して悪くないし、時々よくわからない事を言い出して勝手にテンションを上げる以外に不満らしい不満もない。
 本当によく出来た彼女だ。俺にはもったいないな。

「もう危なくないんでしたら、代わりますけど……」

「ああ、いいよー、大丈夫だから。クエのゴブリンは終わったけど普通のMOBはいつ出るかわかんないしね」

「……そうですか」

 しょんぼりと戻って行ってしまった。
 杏里と二人で感動しながら手を振る程度の扱いしかしていなかったが、ノンアクティブのモンスターは道中に時折見かけていた。
 アクティブのモンスターもゴブリン以外に出現する可能性がある。杏里の言う通り危険はあるだろう。
 
 しかしよく考えると出発してからは余り麻衣と話していない。
 いつでもイチャついてないと駄目ってわけでもないんだろうが、余り放っておくと――そう、今やってる様に杖を見つめてぶつぶつ言い出すので怖い。
 そう考えると案外愛されているのかもしれない。夜にでもフォローしておこう。

「んー、あたし邪魔者だったかな。単体のゴブでも松風さんのHPじゃ相当痛いから出来れば外には出て欲しくないんだけど……」

「実際その通りだしな、そこは麻衣に我慢してもらうしか……いや、我慢って言い方は何か調子乗ってるみたいで嫌だな」

「ラヴラヴでウザイね?」

「……真顔でウザイとか言うなよ、傷つくだろ」

 進行形で傷ついてます。どんよりと言い返された。美形の男NPCに走るなら手がかりを見つけてからにして欲しい。
 しかし単純に横に乗せるなら今の杏里よりは麻衣の方が見栄えがいい気がする。
 隣に座る杏里をじっと見つめてみる。確かに杏里も可愛いとは思うのだが、どこか容姿が子供っぽく感じた。
 桂木や健一よりさらに一回り小柄な上に、気にしていなかったがよく見ると非常にすっきりした体型をしている。
 部分的に肌の出る服を着ているのに全く色気がない。
 表面上は何となく凹凸がわかる程度だ。何度か触れた覚えがある麻衣と比べると余りに女性らしくない。

「……あの、ね」

「ん、どうした?」

 何の遠慮も無く見つめていたせいか、杏里は微妙な表情を見せていた。

「あんまりこう、じーっと見られると、照れるなーって……」

「ああ、悪い、俺は良い彼女に出会えて良かったなあと思って」

「えええっ!?」

 思いっきり後ろに下がった杏里の顔が目に見えるぐらいの勢いで赤く染まった。
 まずい、言い方が悪かった。麻衣にはとても言えない台詞も杏里には軽く口に出せるのだが、軽すぎて考えなしになる部分がある。

「いや、勿論お前じゃなくて麻衣な。杏里と違って良かったなって」

「折るよ!? 杏里ちゃんフラグ真っ二つに折るよ!?」

「立てた覚えがないし、折っていい」

「ううう、ふこーへい……」

「そうだな、不公平PTだな」

 麻衣の台詞だが、杏里も気に入ったらしい。
 しかし過去の経験から言うと、俺はこんな風に初対面の女性から微妙なフラグの立つ対象ではないと思うんだが。
 彼女が出来るとモテるようになるというのはこういう事なんだろうか。余裕が出来るから気安く話せて、冗談や褒め言葉も軽く言える気がする。
 単に杏里と気があうだけだろうか。向こうもそう思ってくれているのかもしれない。

「まあ、こんな時に明るく騒いでくれるのは助かってるよ。お前のおかげで大分元気になれた気がする」

 上手く言えた気がしない。こんな流れで言ってもとってつけたお世辞にしか聞こえないかもしれない。
 少し不安に思ったのだが、杏里は素直に微笑んだ。

「あたしも……こんな時に馬鹿な事言ってるあたしに付き合ってくれる山田君が居て、本当に良かった。一人だったらきっと、もう駄目になってたと思うから」

 普段より少し真剣な言葉に、確かな杏里の気持ちを感じた。
 初めて会った時に明るい口調の裏で涙を浮かべていた姿を思い出す。
 杏里も同時に呼び出されていて、あの時で確か4日……会話の出来る相手が居るからはっきりと狂いはしなくても、現代の人間としては限界だったのかもしれない。

「俺も難しく考えすぎて結局何も出来ないばっかりで、いつか後悔する事になってたと思う。会えてよかったよ」

「……うん」

 少し力が抜けていたのだろう、馬車を襲った大きな振動で杏里がこちらに体勢を崩した。
 肩同士をぶつけ合って、そのまま足の方へ倒れこんでくる。軽い衝撃と共に杏里の頭が綺麗に俺の膝に納まり、呆然とこちらを見上げてきた。
 何となく頭に触れてみると、子猫のように目を細めた。薄い茶色の髪は意外と触り心地が悪くない。涼やかな杏里の香りを感じ、そのまま軽く撫で続ける。
 平地では少し暑いぐらいだったが山を登ってきてかなり涼しくなっている。日差しの暖かさと杏里の温もりが気持ち良い。

 暖かい雰囲気だった。でも、それだけじゃない。杏里はそのままの姿勢で笑っているし、俺の口もゆるんでいる。
 お互いにどのタイミングでいつもの流れに戻るのが一番面白いかを計りあっているのを感じた。
 幾つかは思いついた。いきなり膝から頭を落としてやってもいいし、唐突に胸の近くを触って溜息をついて見せてもいい。
 杏里はどうするだろうか、思いながら軽く耳に触れて――

「なに、してるんですか」

 ――そりゃ、そうだ。唐突に御者台から一人分の姿がなくなったら見にも来るだろう。
 ゆっくりと振り返ると無表情の麻衣がこちらに身を乗り出していて、寝ているらしい健一のそばで桂木が めっ と人差し指を向けていた。

「いや、倒れてきたからちょっと遊んでやってただけで……」

「な、何もないよ!? だた少し良い雰囲気になったから甘えてみようかなって――」

 黙れ。余計な事を言うな。
 もごもごともがく杏里を膝に押さえつける俺へ冷たい視線を向けた後、麻衣は極々平静に言った。

「栗原さん」

「――ぷはっ……は、はい」

「もう危なくないんでしたら、代わります」

「……はい、ありがとうございます」

 そそくさと起き上がりすごすごと馬車に入っていった杏里に桂木が何事か言っている。
 無言のまま隣に腰を下ろした彼女に視線を向けると、こちらをじっと見ていたらしく思いっきり目が合った。

「え、えーと……」

「……先輩、膝、貸してください」

「…………どうぞ」

「……栗原さんと仲が良いからって怒ってる訳じゃないんです。でも、やっぱりそういうのは嫌です。わかりますよね?」

「はい、ごめんなさい」

 膝に頭を下ろした麻衣に小言を言われ、しかし数分で機嫌を直した彼女をずっと撫でたまま夕方まで歩き続けた。
 昨日の事といい麻衣は結構嫉妬深い……独占欲が強い? いや、経験がないから判断がつかない。これが普通なのかもしれない。
 どちらにせよ、少なくとも今は好かれているような実感がある。膝の上で甘える彼女が可愛い。
 ――麻衣に邪魔されなかったら――と何度か思ってしまったのを、考えないように胸に押しとどめる。
 女の子と付き合うのは大変で、多分別れるのはもっと大変なんだろう。
 惰性というのがどんな物か、自然消滅というのが何故起こるか、何となくわかった気がする。
 いや、麻衣と別れる気はさらさらないんだが……何となく、だ。




 山越え全体の道程から言えば8割、一日目の行程を終えて休憩所らしき山間の広場に馬車を止めた。
 火種を出してきて火を起こし、紙と枯れ木で強めたら彼女の出番だ。

「それではシェフ桂木、よろしくお願いします」

「ふええっ!?」

 エプロンまでしてやる気満々なくせに驚いてるんじゃない。

「御者役頑張った俺は休憩してるから、後任せるな」

「えと、はい。あんまり自信はないんですけど……やれるだけは」

「ん、あたしも手伝うよー。じゃがいも使うんでしょ、剥く?」

「いえ、それは茹でてからなので、まずお水を……健先輩、ベーコンそのまま食べないでくださいっ!」

「あはは、お腹減っちゃってさ」

 にぎやかに料理を始める三人を少し離れたところで座って眺める。
 こうしてみると飯盒炊飯でもしているようで和やかだ。残念ながら米はないのだが。
 見ていると、調理を始めた三人から弾き出された麻衣がこちらに向かってきた。
 二人の時間が出来て良かったよ、麻衣。

「ううう……」

 良かったって言ってるじゃないか。そんな顔するなって、ほら。


「というわけで、完成でーす」

「……結構かかったな」

 優に一時間を超えるぐらいの時間が経っていた。
 漏れ聞こえていた話からすると火力が問題だったようだ。料理用の特殊アイテムを早く銀行から出したい。

「あたしもお腹すいたー。ほら、食べよ食べよ」

「いや、とりあえずはシェフ桂木の説明を聞こう。桂木、本日のメニューは?」

 見ればわかるのだがとりあえず聞くのが礼儀だろう。
 手伝っていた二人も含めて四人から見つめられ、桂木が少し不安気に言った。

「一応、ジャーマンポテト……なんですけど……塩とバターぐらいしか間違いない調味料がなくて、これぐらいしか……」

 出来上がりを見れば、確かに普通のジャーマンポテトだ。
 少し薄めに切られたポテトにたまねぎとベーコンが食欲をそそる香りを漂わせている。
 こんな状況で『普通の』料理を作るのがどれだけ大変かはわかる。材料をそろえるところから考えても相当苦労しただろう。
 何となく全員で拍手を送る。おろおろと照れ笑いを浮かべる桂木を優しい目で健一が見ていた。
 いただきます、と何となく唱和するのが日本人だと思う。
 一口食べたその味は元の世界で食べた事のあるそれで、思わず目頭が熱くなった。
 この世界でも悪くない食事を取ったことはあるが、それでもどこか日本らしくない香草の味や不思議な匂いが残っていた。
 しかし、これにはそれがない。日本料理ではないけれど、間違いなく日本の味だった。
 美味しい美味しいと上がる声に桂木の顔が赤くなる。誇っていい。ありがとう桂木。
 それにしても……

「結構手間かかっただろ、美味いけどそんなに無理しなくてもいいんだぞ?」

「茹でて焼くだけですから別にそんなって程じゃ……」

 十分に手間だ。焼くだけ煮るだけの料理もそんなに少なくない筈だし、これは焼くのも材料毎の料理だったと思う。
 桂木も幾らかの自覚はあるんだろう、少し健一の方に視線を向けて、小声で続けた。

「結構得意だったから……最初の手料理だし、その……これぐらいはって……」

 言葉もなく見詰め合う二人に暖かい視線が注がれた。残さず食べろよ、健一。

「……先輩、私も頑張りますね」

 いや、何も言ってない。頑張らなくていい。やめろ、明日が怖いからやる気を出すな、麻衣。




 食事を取って片付けたらさっさと眠るのが旅人の暮らし方だろう。
 時間で言えばまだ9時程度ではある。杏里が驚いていたがもう大分旅慣れしてきている俺達は既に眠い時間だ。

「じゃあ俺が起きてるから皆は先に寝てくれ。杏里、夜中に交代いいか?」

「ん、おっけー」

 戦える杏里が居る以上は一人で起き続ける必要もない。
 5時間で交代、と決めたのだが、それには物言いが入った。

「山田と杏里ちゃんが交代で起きるなら僕も山田に付き合うよ。女の子だけの中で寝る気にもならないし」

 お前昼に思いっきり寝てたじゃないか、とは口に出さなかった。
 一人では退屈なのも確かだ。付き合ってくれるならそれはそれで嬉しい。

「それじゃあ私も栗原さんと一緒に起きてますね、麻衣も、いい?」

「あ、はい……そうですね」

「……男女別か。そうだな、気が楽だし、そうするか」

 男組と女組で交代して起きれば、それぞれ同性だけで眠れる。大分落ち着くだろう。

「あたしまだ眠くないし、先でもいいかな?」

「俺は眠りに耐性あるからな、いつでもいいぞ」

「……精神150?」

「ああ、超えてる」

 これ見よがしに溜息をついた杏里を殴る真似をしてから馬車に入った。
 眠気は抑えられるが、眠れるのなら眠りたいのが人間の気持ちだ。これだけでも杏里が来てくれてよかった。

「んじゃ、お休み」

「うん、ちゃんと起こしてよ?」

 男二人、色気のある会話なんてある筈もなく、さっさと床についた。

 ――うん、だからさ、松風さんは――

 眠ろうとした所で、馬車外から聞こえる小さな話し声が気になった。
 別に大した意味はない。微かに聞こえたので何となく気になったというだけだ。
 しかし無駄に高い技術ステータスが気になった声に対して盗み聞き判定を起こす。
 当然の様に成功。本当なら聞こえないはずの女性陣の話し声がはっきりと耳に届いた。


 ――ごめんね、昼の事。そんなつもりはなかったんだけど、山田君とは何か気が合って――

 ――いえ、私も、その……ごめんなさい――

 ――あれは麻衣も怒るよね。麻衣、あんなに山田先輩大好きなのに……――

 ――えっと、あの……――

 ――大丈夫だよ、山田君も松風さん大好きだから。ほら、その首のとか、他のも。普通は他人にあげたりしないよ?――

 ――あ、そうそう、麻衣のそのネックレス、凄く高いんだって。何千万円もするって……――

 ――えっ!?――

 ――ううん、単位で言うと最低で億だよ――

 ――ふえええっ――

 ――私、そんな高価な物だなんて……返さなきゃ……――

 ――いいんじゃない? 高い分だけ効果は高いんだから、松風さんの為にあげたんだよ、きっと――

 ――麻衣の安全に比べたら値段は問題じゃないっ! 愛されてるね、麻衣?――

 ――あ……はい……でも、私も先輩に何か、ちゃんと形で示せたらいいんですけど……――
 
 ――え、じゃあヤれば?――

 ――栗原さんっ!?――

 ――やっぱり、そうするべきですか?――

 ――麻衣ーっ!? 何言い出してるの!?――

 ――うん、松風さんスタイルいいし、基本体押しでもいいぐらいだと思うよ?――

 ――やめて、栗原さん、麻衣を悪い道に引きずり込まないでっ!――


「…………マジか」

「……ん? どうしたの、山田?」

「あ、いや……うん、何でもない、何でも」

 これ以上聞くのは余りにも卑怯な気がして、頭まで毛布を被って音を遠ざけた。
 直接言われたわけではないが麻衣から好きだと言われてしまった形になる。
 正直、そんなには好かれてはいないんじゃないかと思っていた。でも……すまない、麻衣。
 というか、もしかして明日から体押しで来るのか。今までも相当体押しだった気がするんだが……。

 
 ――言われてしまったって、しまったって、何だよ。


 考えをやめて目を強く閉じた。
 どうせ今日もどこかのパラディンの夢を見るんだろう、そう思いながら眠りに入っていく。
 しかし夢の中の俺はいつもの仲間とゲームをしていて、一度もそのプレイヤーとは会わなかった。
 ただ時折フレンドキャラクター『Acri』のログインを知らせるメッセージが画面端を流れていた。
 しかし見るとすぐにログアウト表示に変わっていた様に思う。
 いつも通りに楽しかった筈なのに、何故か物足りない気分をずっと抱えている、そんな夢だった。





「や、ま、だ、くん……夜、だよ……」

「うおわあああああああああああ」

 夢を見ていた俺を甘い囁き声が現実に引き戻す。
 しかし耳元で告げられたその余りの違和感に、思わず反射的に飛び上がってしまった。

「あ、杏里か……夜だよってなんだよ……いや、夜だけど……」

「そこまで驚かれると逆に何か……寂しいような……」

「とりあえず、交代だな。ほら健一、起きろ」

 俺の大声も気づかずに寝ている健一を蹴り起こし、入ってきた麻衣と軽く頷きあって馬車の外に出た。
 麻衣が微妙に緊張して見えたのは俺の気のせいだろうか。それとも緊張していたのは俺の方か。

「あ、山田君の匂いがするー! あたし、山田君の毛布借りるねっ」

 ……俺は何も聞いてない。何も聞いていない。


「じゃあ杏里ちゃんは強いんだ?」

「無理をさせたくないのは一緒だけど、素人扱いするのも失礼だな。単純にモンスターと戦うなら俺より戦力だよ」

「へえ……本当に僧侶なんだね、山田」

「当たり前だろ。その上、残念だけどこっちの僧侶はバギクロスもホーリーもない」

「でも女の子を戦わせるのはあんまり……ねえ山田、お手軽にレベル上げる方法ってないかな?」

「ねえよそんなの……」

 だいたいそんな夜だった。
 特別な出来事と言えば、ひょっこりと現れた羽つきウサギのモンスターに麻衣が買ったまま放置されていた人参をやってみた所、後から後から20羽ほど現れて手に負えなくなったぐらいだろう。
 奈良公園で鹿せんべいを配っているような気分で人参は綺麗に捌ききれた。
 仲良く去っていった羽ウサギを見て、少しは健一がモンスターへの印象を変えていると良いと思う。



「今日も一日進んで野宿だ。さ、頑張っていこう」

「とりあえず山道が抜けられるならもう何でも良いです。うう、お尻痛い……」

 モンスターへの警戒はどうでも良いような扱いになってきた。
 昨日健一杏里麻衣が隣に座ったからか、御者台の俺の横はクッションを敷いた桂木が座っている。
 馬車の中でもそこそこ辛いのがこちらに座ると余計に加速するようだ。揺れに慣れない上に振動が痛いらしい。
 無理をして付き合う必要もないんだが、だからと言って無碍にするのもやはり違う気がする。
 責任を感じてモンスターに向き合うぐらいなら尻の痛みをその代わりにしてくれた方がいいんだ。

「あ……あの、山田先輩、後ろ……」

「……ん? 忘れ物か?」

 馬車の後ろを振り向いて何事か言う桂木に応じると、羽ウサギの群れが小さく飛びながらついてきていた。

「あー……夜に餌をやったから懐いたのかもな。馬が食わなかった分を代わりに食わせたんだ」

「ずるいですよー! うわー、ちっちゃな羽がはえてる、可愛いー!」

 確かに間違いなく見た目は愛らしい。
 短い足で精一杯前に飛び、小さな羽根をちまちまと動かしてほんの少しだけ飛ぶ。
 ちょこまかと可愛い動きで追ってきているが、残念ながらこの辺りに出るモンスターはやはりレベルが低くない。

「気をつけろよ、桂木なら体当たり3回で半殺しぐらいにはなるから」

「あれでですかっ!?」

 あれで、だ。
 幸い餌をやっていた健一は一撃も食らわなかった。撫でたりつついたりするのが攻撃判定にならなくて幸いだ。
 和んでいた桂木が表情を一変させるのと合わせたように羽ウサギ達は森の中に戻っていった。
 またこちらに来る事があったら人参を買って来てやろうと思う。










 順調すぎる旅に嫌な予感を覚えていなかったと言えば嘘になるだろう。
 その上フラグという意味では事前に嫌という程立っていたのに、正直な話、それは全くの予想外だった。

 ゲームとは全く無関係な事を普通に話しながら、数時間程は馬を歩かせただろうか。
 ついに山を登りきり、帝都と教国への分かれ道――ガイオニスの門兵と話した東三叉路――が見えた。

「あれ、曲がり角ですか? 初めてですよね……どうしよう、山田先輩、道わかります?」

「大丈夫だ……ってか、これまでもそこそこ分かれ道はあったんだぞ、言ってないけど」

 慌てて地図をひっくり返し始めた桂木に思わず苦笑してしまった。
 MAP内で幾つか道が分かれていても結果行き着く所が同じなら問題はないのだ。
 ここのように違うMAPへ向かう意味での分かれ道は看板がついているし、騎乗物を持っていない頃は歩いて通った事もある。
 騎士団所有の馬達だけに、帝都へ向かい慣れていたんだろう。教国の方へ手綱を向けると少し戸惑ったようだった。

「ここで出るモンスターが変わるんだ。アクティブはそんなに居ないけど……一応杏里と代わった方がいいな」

「あ、はーい。栗原さん……わ、ちょっと起きて……」

 モンスターが切り替わるタイミングでもあったので、既に臀部的に限界を迎えている桂木に杏里との交代を頼んだ。
 当の杏里は……爆睡している。全くもって緊張感がない。
 まあ隣に誰も居なくてもそれはそれで安心なんだ。溜息をついて視線を戻した――瞬間。



「――はあああああああっ!」

 何の気配もなかった。
 感じたのは衝撃と鈍い痛み、そして聞き覚えのあるエフェクト音が唐突に響き、何もわからないままに視界が大きくブレる。
 それこそ光のような速さで白い閃光が横合いから飛び込み、痛烈な一撃で俺を馬車から弾き落としていた。

「ぐっ……な、なん……」

 視界の隅にステータスウインドウを展開。ダメージは確かにあるがそれほど大きくない。痛みさえ気にしなければ問題はないレベルだ。
 馬達が嘶きを上げて足を止めていた。大きなエフェクト音で驚いたのは馬だけではないんだろう、桂木が馬車から顔を出して叫ぶ。

「山田先輩っ!? ……え、この子……」

「やめろ、戻れっ――!?」

 モンスターだ、と続けようとして言葉が止まった。
 俺の正面に立っていたのは贔屓目にも化け物には見えなかったからだ。
 最初に目に入ったのは金色の髪だった。攻撃の威力から見て大型のモンスターだろうと判断して向けた視線が最初にそれを捕らえたのだ。
 そのまま頭に焦点が合って今更のように気がついた。人間だ。そして、恐らくは子供だ。
 タイミングを計るように小さく体を動かすのにあわせて短い金色の髪が揺れる。
 本当なら愛らしいだろう表情を精一杯の緊張に彩り、その半ばを隠すように両手剣を正眼に構えている。
 杏里が着ているナイトの基本衣装と似た服装、その上を部分的に覆う鎧にも見覚えがある。
 ダメージのショックで抜けていた記憶が繋がった。そうだ、最初の裂帛の気合を込めた雄叫びも既に聞いている。
 ただそれを向けられる相手がオーガではなく俺だというだけで――


「……クー、ミリア……?」

 その言葉が合図になった。
 ほんの少しだけ表情を歪め、一度だけ共に戦ったドラゴンナイトの少女が俺にその剣を振り下ろした。

「せ――やっ!」

 縦に、返す刀で横に、全身を大きく捻って少女の剣が俺に向けられる。
 反射的に向けたウォーメイスは二合で弾かれ、光をまとったクーミリアの剣がジャケットとシャツを突き破って胸にまで突き刺さった。

「ぐっ……なん、なんだよっ!?」

 痛みで冷静な思考が出来ていないのが自覚できた。
 クーミリアの攻撃なら相当無防備に食らい続けなければ死なないのはわかっているが、それでも痛いものは痛いのだ。


 ――ショートテレポート――


 クーミリア、ついでに言えば馬車からも離れた位置に一瞬で飛ぶ。
 奇襲で仕留めるつもりだったのか。少女の悔しげな表情を見ながら、自分を対象にヒーリングを使った。
 こちらに来てから自分に回復魔法を使うのは初めてだ……まさか、その相手が彼女になるとは思いもしなかった。

「クーミリア、俺だ、わかってやってるのか? 何か事情があるなら――」

 焦った中で精一杯の言葉にも耳を貸さず、再度俺へ剣を向け直すクーミリア。
 問題はない。どう頑張ったってクーミリアに俺は倒せない。それは間違いない。
 しかし逆に止めるにはどうすればいい? まさか彼女を殺せと――

「山田君、敵っ!?」

「杏里――だめだ、待てっ……」

 敵の襲撃だと思ったのだろう。飛び出してきた杏里は寝起きらしく髪が随分とぼさぼさのままだ。
 そしてそれに気づけたという事は――兜を被っていない。普段の服以外にまともに装備をしていない。
 警告した俺と同時にクーミリアもそれに気づき、そして敏捷型ドラゴンナイトの動きに杏里は反応できなかった。

「え……ぁっ……」

「―――――あ、んり……」

 無言のまま振り切られたクーミリアの剣が斜めに杏里の体を切り裂き、赤い血飛沫が盛大に舞う。
 金色の髪と小さな体が軽やかに舞い、薄っすらと血の色に染まって輝いた。
 余りにも非現実的な光景に思考が止まる間にも俺の中のどこかが冷静に杏里をターゲットする。


 ――ヒーリング――


 スキルを使うと同時にPTウインドウを確認、派手なのは見た目だけで杏里のHPはまだ8割以上残っている。
 それも治癒魔法で一瞬で全快した。しかし安堵する時間もない。

「やっ……痛……う、あああああっ」

 俺からは背中しか見えないクーミリアが連続で剣を振るう。
 一振り毎に杏里の体が朱に染まり、聞くに耐えない苦悶の声が響いた。


 ―― ヒーリング――


 大丈夫だ、回復は溢れるぐらいに間に合っている。
 このままどれだけ続いてもクーミリアでは杏里を殺しきれない。
 ……だが、それが何だっていうんだ。
 連続でダメージを食らい、そしてすぐに癒される。
 吹き出す血が虚空で消え去り、薄れて消える傷跡をなぞるように再びの剣戟が襲う。
 ゲームではよくある、そして現実にすれば地獄の光景だ。
 俺はこんな目に杏里を合わせたくないと言って、杏里も嫌だと言ったんだ。
 それを、それが……くそ、わかってるのか―― 

「クーミリア……!」


 ――アークミスティリオン――


「――――っ!?」

 杏里の周囲を青い光の壁が覆い、地獄の剣戟を塞き止めた。
 小さな全身で大きく剣を振るう分だけ彼女の攻撃は弾かれた時に隙が大きい。
 しかし耐えられるのは3発だけだ。クーミリアの攻撃速度なら数秒ともたないだろう。
 杏里を回復してやる時間もない。まさしく仇を睨み付けるようにしてクーミリアの背後を狙う。
 ショートカットのスキルを使うと同時にスキル欄を展開、左手でパッシブスキルの一つを稼動させる。


――ショートテレポート――


 一瞬で背後に飛び、同時にウォーメイスを振り上げる。
 もはや是非もなかった。
 いや、そんな罪悪感は起こっていなかっただろう。
 燃え上がるような怒りだけを胸に右手の棍棒を――

「――っ!」

 少女の短い呼気が聞こえた。
 俺が右手の棒切れを振り上げて下ろすまでには、それを聞く十分な時間がある
 そしてそれは――最初から後ろを斬るつもりだった彼女の全力の剣が振り切られるのに、十分過ぎる時間だった。

「……えっ……?」

 見事な一撃だったと思う。
 これ見よがしに杏里を狙い、しかし最初から俺が狙いだったんだろう。
 背後を見ることなく振るわれた光の剣撃は見事に俺の急所、首筋を捕らえ――そして、皮膚一枚すら切れずにそこで止まっていた。
 目の前の『敵』が、いつか聞いたような歳相応の声を上げて呆然と立ち尽くすのを冷徹に見る。

「ぅ、ぁっ……」

 止めることなく振り下ろしたウォーメイスの一撃が少女の顔面を襲い、一歩後退させた。
 しかしそれだけだ。俺の攻撃一発じゃ前衛職にはとても痛撃を与えられない。

「……舐める、なっ!」

 咆哮と共に前進したクーミリアの剣とメイスを合わせる。しかし俺の力では止められない。
 恐らく意識的に打ち合わせた事で使えもしないソードパリィをした判定になったんだろう。
 先程は弾かれただけのメイスが俺の手から離れて道の反対側にまで飛んだ。
 だが、それがどうした。
 偉そうに、そっちこそ舐めてるんじゃねえぞ、たかが中位職如きが――

「ぅっ……っ!」

 構わずにそのまま右手を小さな体に振り下ろす。
 職業補正値だけでも相当な筋力があるのだ。殴られた少女の左肩が不自然に下がった。
 お返しのように連続で剣を叩きつけられるが、痛みさえ無視すればそんな物は何でもない。
 全てが青い光に覆われた俺の体に触れる事すら出来ずに弾かれる。
 起動したスキル、神の威光の力が俺を一切後退させずに守っていた。

「な……んで……」

 三発の斬撃の全てが弾かれてクーミリアの表情に怯えが混ざった。
 弾かれているだけで確かにダメージはあるのだが……あの杏里の姿を見た今、そんな事を言う気になどなれない。
 もう一度拳を振るった。避けようとした少女の動きが不自然に鈍り、右肩を捕らえる。
 俺の敏捷性は低く、しかし技術力は高い。動きは遅いのに何故か攻撃は当たる。
 自分の剣は全て弾かれ、避けられるはずの鈍重な攻撃を無防備に受けて、一歩引いたクーミリアにさらに拳を重ねる。
 顔面に届いた右拳に一瞬柔らかな感触が走り、直後に硬い物に突き刺さった手ごたえが帰った。

「ぐ、ぅっ……」

「――――っ」

 余りにもリアリティのある感覚と赤く腫れた幼い少女の顔に、一瞬で頭が冷える。
 勝敗は決している。いや、最初から決まっていた。
 クーミリアでは俺に勝てない。きっと彼女もわかっていただろうに、何だってこんな事を……。
 そして、それは俺も同じだ。何をやっているんだ、と自覚しながら……体は止まらない。
 まるで自動攻撃を指定しているように、そのまま少女を殴り続ける。
 動かない体を必死に振って放たれた二発の剣撃を無視して横っ腹に拳をねじ込む。
 投げ出すようにぶつけられた剣を肩で弾き飛ばし、こめかみに右拳を叩きつける。

「う、うああああああああっ!」

 破れかぶれの光の刺突――インパクトスラスト、だったか――を意に介さず、小さな顎を左拳が捕らえた。
 ふらふらと後退してようやく体勢を崩し、クーミリアが地面に膝をついた。

「何でだよ……くそっ……」

 戦う姿勢だけは崩した相手を前に、俺の腕もようやく止まってくれた。
 彼女のHPは素で3000程度だった筈だ。
 俺が一発殴ったところでダメージは100か200だがそれでも殴り続ければ痛みは蓄積する。
 いや、蓄積どころじゃない。10回で半死半生、これ以上は場合によっては死ぬ。
 それでも少女の目には闘志が消えていない。動けないのではなくただ力を溜めているだけのようにさえ見えた。
 確かに座っていれば回復速度が上がる設定もある。しかしその時間は同時に俺のHPも回復させる。
 俺と少女にある生命力の圧倒的な差。それは回復力にも影響している。
 命を削って放った少女の剣は確かに俺に大きなダメージを与えていたが、それも自然回復だけで十分に癒えていくのだ。
 冷静になった今、これ以上殴り続けるのは絶対にお断りだったが……どうしろって言うんだ。
 悪いのは向こうだ。話を聞かずに襲ってくるNPCなんてモンスターと何が違う。
 倒してしまえば、いっそ殺してしまえば――

「うー、お待たせー」

「――杏里っ!? 大丈夫なのか、血は……」

 思わず握り締めていた俺の右手を、鎧と付属したグローブに覆われた冷たい手が握った。
 いつのまにか立ち上がって装備を整えた杏里が俺の横に来ている。

「POT飲んだから平気平気。それに切られたって言うか……あれ、ブラッディソードの出血エフェみたい」

「――――」

 思わずクーミリアに視線を戻していた。
 ドラゴンナイトのスキルの中に、相手に弱ダメージと継続ダメの出血という状態異常を与える地味なスキルがあった。
 恐ろしく低威力の為に人気がなくゲーム内ではほとんど見なかったが……そうか。
 やっぱり最初から、杏里を殺す気はなかったのか。

「クーちゃん……この子が山田君の言ってたNPCか。というわけで……」

「あ、お、おい……」

 極々平然と向かってくる重装のパラディンに向かって反射的に剣を向けるクーミリア。
 それを予期していたように、軽く杏里の盾が振るわれる。
 一応攻撃の判定だったんだろう。膝だけ持ち上げてほとんど屈み込んでいた少女の体勢がシールドパリィでさらに崩れた。

「とー……りゃっ!」

「う、うわ……」

 相変らず気合の入らない掛け声と共に、杏里は少女に軽く笑いかけ――ガンッ! と鈍い音が響いた。
 多くのゲームにあるだろう、盾で殴って気絶状態にするバッシュ系のスキル。盾が大型なのでヘビーバッシュか。
 大きな盾で思いっきり顔面を殴り飛ばされたクーミリアは頭にひよこを浮かべて倒れ伏している。
 サブ攻撃とは違いスタン率が高く、見た目とは裏腹にダメージはほとんどなかったはずだ。
 ない筈だ。そうだったと思う。多分。ないよな?

「うん、決着!」

「……いや、もう、お前が良いならそれでいいけどな……」

 どうも、そういう事らしかった。




 持っててよかった荒縄ロープ、である。最初にカントルで買っておいたのが使う機会に恵まれた。
 しかし気絶した少女の体を縛るというのは、もう倒錯的を通り越して変態的だ。
 かといって急に起きると危ないので俺と杏里以外はクーミリアに近づかせられない。
 そして杏里が一人で人間を縛ってしまう技術を持っていたなら、それはそれで今後の付き合いを考えなければならない羽目になるだろう。
 しょうがなく俺もそっと縄を抑えるぐらいの形で、四苦八苦する杏里を手伝った。
 そうしていてわかったのだが、この娘、歳の割にそんなに幼児体型というわけでもない。しっかりと柔らかかった。
 どうもそれに気づいたらしい杏里が――いや、多分この場合は『俺がそれに気づいた事』に気づいて――微妙な表情をしている。
 そして逆に俺はそれに気づかない振りをして、縛り終えた杏里に声をかけた。

「起こすぞ……いいか?」

「あー……うん」

 まだ若干不満そうな顔つきだがそこの所は何とか収めて欲しい。
 むしろぱっと見は縛り方に納得がいかないように見られそうで、他人事ながらそちらが心配だ。
 ともかく。
 いくら敏捷型のクーミリアの体力数値が低くとも放っておけば気絶はすぐに解けるだろう。
 しかしわざわざ待つ必要もない、スキルを起動する。


 ――リカバリーオール――


 ターゲット、クーミリア。
 残り2羽程にまで減っていた頭のひよこがふわふわと飛び立ち、小さな体の割に大きな瞳が、ゆっくりと開かれた。

「……そう、か……」

「……冷静だな?」

「そのつもりで来たんだ。これ程にあしらわれるとは……思わなかったが」

「負ける気って……そんなの……」

「……そのつもりで……何のために、だ?」

 殺しにかかった相手に捕らえられてもクーミリアは冷静だった。
 困惑する杏里に自嘲した様に笑いかけ、もう青いオーラは消えている俺を見て続けた。

「何人もその姿を一目見ただけで、その神性を感じ取らぬ事はない。神に愛されし、認められし、それは代弁者であり代行者。神の使徒の再来を確認したと……私は陛下に伝えた」

「皇帝に……それは言わないんじゃなかったのか?」、

「それだけは出来なかった。あくまでも戦闘に関わらない形でとは言ったが……これだけの事実、陛下に伝えない事など、私には……」

「……そうか」

 そういうものなのかもしれない。俺が口を出せるような事ではなかった。
 そして恐らく、俺が一番聞きたい部分はその先にあり、クーミリアに隠すつもりはないんだろう。

「教国に神の使徒が戻れば、形勢は変わる。それは絶対に許容できない。配下部隊壊滅の汚名、その首をもってそそげと主命を受けた」

「……わかってたんだろ、無理だって。それは死ねと同じだって言わなかったのか」

 カーディナルが神の使徒だというのは設定としてあった。しかしそれがそんなにも重いものだとは思ってもみなかった。
 逃げるように問いを発した俺に、否定か、肯定か。少女はらしくない、どちらとも取れるような曖昧な笑みを答えに代えた。

「ガイオニスの兵士から連絡を受け、宮廷魔術師の転送でこちらに来た。もしも教国ではなく帝都向かうのなら……いや、それだけだ。さあ、殺すと良い」

 何も言えなかった。
 恩人を殺せと命令を受けてむざむざ殺しに来たのかと罵る気にもなれない。
 彼女は間違いなく本気だった。そして、本気で挑んで返り討ちにあうのを知っていた。最初から全部わかっていたんだ。
 襲撃をかけたのは俺一人しか御者台に居ない時。
 テレポートする俺にはまともにやっても追いつけない。仕方なく別の人間を襲って挑発したその時も見た目だけ派手なスキルを使った。
 そして可能な事なら戦いを避けようと、俺達が教国へ向かう道を選ぶまで手を出さなかったんだろう。
 あのロリコンの――違うんだろうが――門兵が帝都に情報を流していたなら目的地も一緒に聞いた筈だ。
 いつなのかは知らないが、追いついた時点で手をかけてもよかったのに。
 主命を断る事も逃げる事も出来ず、俺に恩を仇で返す事も避けたくて、そして結果殺される道を選んだ幼い少女。
 
 全く、ふざけてる。
 何が悪いんだ。頭の悪い皇帝か、滅茶苦茶なこの世界か、神の威光を使った俺か。
 それともお前か――『仕掛け人』

「……すまないと思っている。しかし……もう、私に残っているものは……頼む、終わらせてくれ」

 さあ殺せ、と意気込んで言うならまだしも、気落ちしたように言われるから始末が悪い。
 ふわふわの金髪と愛らしい顔、妖精のような声でそんな事を言われても正直困るのだ。とてもじゃないが殺せるわけもない。
 振り返ると離れたところで見ている健一達も困った表情を見せていた。
 桂木がぶんぶんと首を振っているが……わかってる、殺したりしないって。
 どうしたもんか、と杏里を見て――さっき以上に思いっきり不満気に見返された。

「あたし、そういうの嫌い」

「……え……は?」

「いや、嫌いって……お前な」

 ぽかんとするクーミリアと渋面を浮かべる俺に構う様子もない。
 腕を組み、うん、と強く頷き、杏里は続けた。

「全然、死にたくなんてないくせに!」

「…………」


 何となく、微妙な空気が辺りを包んだ。
 俺もクーミリアも、ついでに言えば後ろの三人も無言だった。
 
 言いたい事はわかるんだがその台詞はもっとこう、長い話の〆に持ってくるものじゃないだろうか。
 二言目がそれってどうなんだ。幾らなんでも単刀直入が過ぎないか。
 俺が突っ込む前に、杏里はさらに言葉を重ねる。

「その馬鹿みたいな王様も、馬鹿正直に聞いちゃった君もだけど……そんな事より、死にたくないくせに死ぬとか言い出す子供とか、凄く嫌い」

 純粋にわがままな台詞だった。
 でもそれは奇麗事じゃなく本音なんだろうと、それだけは確かに伝わったと思う。
 理解が追いつかない様におろおろと視線を動かしていたクーミリアの表情が一瞬だけ歪む。
 それに気がついたのか、単純に言いたい事を言っているだけなのか。
 しかめっ面をふっと和らげて、杏里は少しだけ微笑んだ。

「お姉さんが聞いてあげるから、ほら、子供はもっとわがまま言いなさい」

「え……あ……」

「死にたくないんでしょ? 嫌なんでしょー?」

「…………」

 正直な話、馬鹿な事を言っていると思った。
 誇りと忠誠の為に死にたいと、そう言うに決まっていると思ったのだ。
 しかしそんな俺の不安を他所にクーミリアはうつむいて黙り込んでしまった。
 それは……確かにそうなんだろう。
 振るう力がどれだけ強かろうと、口調がどうであれ、持たされた責任が何であれ、彼女はまだ幼い。
 見た目からしてもはっきりと解かっていて、ずっとそれを理解していた筈だ。
 言動に惑わされたつもりはないのに、どうしてだろうか。
 そうして甘い所を見せてくれたりはしないと、他人を買いかぶって自分を下に見ていたのかもしれない。
 正しくまだ子供なんだ。絶対死にたくはないだろうし、甘えもしたいだろう。
 杏里に感心すればいいんだろうか。それとも呆れればいいんだろうか。
 何かもう、コメントが出てこない。
 呆然と立ち尽くす俺を尻目にクーミリアに歩み寄った杏里は、屈み込んでそっと小さな顔に触れた。
 その表情は後ろからは伺えない。
 でも、俯かせていた顔を上げて能天気なパラディンを見つめる少女の表情で……何となくわかる気がした。

「あたし達さ、ちょっと困った事があって旅をしてるんだ。でも後ろの三人は本当に素人なの」

 後ろを示した杏里の手に沿うようにクーミリアの目線がずれた。
 苦笑いを浮かべる健一とにこやかに手を振る桂木をぼんやりと見返している。

「だからさ、もう全っ然人手が足りないんだ。ライソードには用があるだけで、終わったらさっさと出る予定だし……」

「え……ぁ……?」

 よしよしと少女の頭を撫で、背中に手を当てて少しだけ抱くようにして、杏里が笑う。

「ずっとの旅じゃなくて、もしかしたらすぐにでも終わるかもしれないけど……ね、一緒に来ない?」

「わ、たし……」

 何の相談もなく勝手に勧誘始めやがって。
 それでも、すがるようにこちらを見たクーミリアに俺が言える事なんて決まっていた。

「杏里が良いなら、いいんじゃないか。どうせその命令は果たせないんだ。魔法でも毒でも、納得が行くまで試してみろ。死なないぞ、俺」

「山田君……何かさ、もうちょっと言い方ってあるでしょ?」

 杏里、お前にだけは言われたくない。
 殺そうとした相手に拒絶されなかったのは随分と予想外だったらしい。
 驚いたようで、混乱したようで……でも今にも手を取りたいような、そんな風に見える。
 もう一押しかな、と杏里を見るとそちらもうんうんと頷いた。

「ね、この子強いし、一緒に来てもらってもいいよね?」

 駄目押しなんだろう。離れていた三人を振り返って言った杏里に、桂木が笑って何かを言いかけて――――










「――駄目です――」



「え……」

「麻衣……?」

 麻衣が、はっきりと拒絶を口にしていた。

「先輩を殺そうとして、栗原さんをあんな風にして……そんな人、絶対に要りません」

 言い切った。そして、口を挟めなかった。
 確かに道理だった事もあるし、戦えない麻衣達の事を考えていない誘いだと思ったこともあった。
 それでも何かフォローをしようと口を開く前に、クーミリアが動いた。
 回復力の高い前衛職だ。もう十分に回復していたんだろう。
 縛られたままの状態から微塵もバランスを崩さず立ち上がり、大きく後ろに跳躍する。
 呆然と見つめる俺達の前で少女の後ろから赤い魔力で編まれた剣が具現化され、縄を断ち切って消えた。
 魔力の剣を作り出して投擲するイリュージョンブレード、こういう使い方もできるのか。
 それに、逃げようと思えば最初から使えただろうに、それでも……。

「あ……待って!」

 杏里の声にも耳を貸さず、無言のままで振り返って歩き去っていく。その方向は俺たちの進む向きとは逆。
 そちらにあるのはガイオニスか――そうでなければ、帝都だ。
 一瞬考えてからスキルを起動する。
 
 パッシブスキル ――神の威光――

 稼動状態へ。

「待てっ!」

 スキルの効果か、クーミリアが足を止めてゆっくりとこちらに振り向いた。
 距離が離れていてよくは見えないが、しかし、彼女の大きな瞳が少しだけ濡れているように見える。
 呼び止めはした。でも何を言えばいいのかはわからない。
 天秤にかけるというのなら、麻衣とクーミリアはとても釣り合いはしない。
 それはカントルのあの日に既に決まっている。それでもやはりその時と同じように、このままじゃダメだと思えてならないのだ。

「猊下」

「……クーミリア」

 先手を取られて、思わず鸚鵡返しに名を呼ぶ事しか出来ない。
 少女は自分を殴り倒した男の情けない姿にほんの少しだけ笑みを浮かべた。

「猊下の御要望であっても……例え神本人の命令であっても、わたくしにとっては陛下の御言葉が優先されるのです」

「……そんな……そんなの……」

 間違ってる、とは口に出せなかった。
 半端に助けようとして期待を持たせて、後から蹴落とした立場でもある。偉そうな事は言えない。

「もう猊下に剣を向けることはありません。……そう、その剣を、誓いに代えて」

 言われて、クーミリアが自身の剣を置いたままにしている事に気がついた。
 そして視線を戻した時には、本当に驚くような速度で、もう声の聞こえない位置まで走り去っていた。
 あれだけ早く走れるなら確かにカントルから帝都までも一日か二日だろうが……。
 神の威光を消して溜息をついた時、オーガに襲われたあの日に聞こえない筈の彼女の声が届いたように、小さな謝罪を受けた。


――すまなかった


「……謝る事、ねえだろ……」

 ガキのくせに、と。
 今なら心から思える気がしたのに。





 何とも言えない雰囲気だった。

「……確かに、危ないとか、不安だとか……ちょっと考えたのは事実だよ」

 健一は自身の不信を認めた。

「可愛い子でしたし、悪い子でもなさそうでしたし。話はなんだかわかりませんでしたけど……麻衣、可哀想じゃなかったかな」

 桂木はまだ罪悪感を感じているようだった。

「……先輩を殺そうとした、それだけで絶対に……絶対に駄目です」

 麻衣は小さいけれど確かに、本当に怒っていた。

「んー、言いたい事言ったし、最後は死ぬ気って感じでもなかったし……何か、また会える気がしない?」

 少し気落ちして、それでも杏里は明るく振舞おうとした。

「……まあ、とにかく行こうぜ。俺達もそんなに余裕があるわけじゃないしな」

 そして俺は正論に逃げる事しか出来なかった。
 クーミリアは誓ったけれど絶対とは言い切れない。別の刺客もありうる。
 俺が一人で御者台に座って杏里が馬車の中で三人を守る。
 言葉もなく、そんな形で歩みを進めた。
 クーミリアの剣は大切に保管しておこう。必ず返す日が来ると信じたい。

 ――後から考えると、その日は案外早々に訪れたのだが。




「ね、山田君」

「……ん、どうした?」

 一時間程歩いてようやくぽつぽつと会話が再開された頃、杏里が後ろから顔を出して話しかけてきた。
 クーミリアを『撃退』して、一つの国に敵として見られている現実が俺達に降りかかった。
 今までのようにのんびりした旅には出来ないだろうと、皆には移動中は車内から出ないように頼んでいる。
 杏里にも一応は心境の変化があったのだろうか、しっかりと鎧を装備していた。

「やっぱり皆のレベル、上げた方がいいのかな。変な卑屈さとか、警戒心とか懐疑心とか……持ったりしたら」

「それぐらいで丁度良いのかもしれない。今回は俺に危機感が足りなすぎたんだ」

「そう、かな……」

 これは間違っている。
 不安気に、というより心配気に見つめる杏里の視線に思うものがあった。
 杏里のおかげで悪い癖が抜けてきていたのに、少しシリアスになるとすぐにこれだ。

「……いや、悪い。俺が原因だって言って終わるのも、それはそれで逃げてるだけだな」

「あれ、なになに、ちょっと格好良い事言ってみたりして」

 混ぜっ返されたが、微笑んだ杏里は全てわかっているような顔だった。
 昨日余計な事を話したせいかもしれないが、能天気なくせに意外と侮れない。

「どちらにしてもこの辺のモンスターを狩らせてレベル上げってのは無理だろう。教国まで行けば初期MOBも居るし、とにかくそこまではしょうがないな。レベルの事は健一には話してみるから、そっちも女の方を頼む」

「うーん……だよね。サイレインでクエとかあればいいんだけど」

「……お使い以外でな」

 苦笑しあって、少し調子が戻った。結局問題は先送りだ。でも、向き合うと少し楽になれると思う。

「しかし……NPCに敵対されるって普通はないよな。気をつけてたつもりだけどこれからは町の中も安全じゃないのか」

「松風さんの装備とか、ちょっと考えた方がいいんじゃない?」

「……言うのが、怖い。そっちは別に対策を取ろう」

 頑張ってね、と軽く笑われた。
 一緒に頑張ってくれ、頼む。







 気持ちの切り替えも旅の中で学んだ事の一つだ。
 昼飯にするか、と声をかけた時には元気よく返事が返ってきた。何よりだ。

「本日の昼食は、あたしが用意します!」

「……リカバリー、オール」

「早めの状態治癒魔法っ!?」

 幸い杏里の手料理ではなかった。
 俺の言葉に笑って反応しながらインベントリに触れた杏里の手元に、湯気を放つパイが実体化する。
 なるほど、PC製作の魔法料理か……こちらではまだチョコレートしか食べていない。

「こちら、ミートパイになりまーす。五つ星なので、設定としてはほっぺたが落ちる程美味しい……筈!」

 筈、なのである。
 虚空から出現したミートパイを恐る恐る齧ってみると……なるほど、美味い。
 腹も満腹になったが、しかし一気に満腹にまで持っていける食料を幾つも持ち歩く必要はない。
 多分杏里の手元にもそんなに数がある訳じゃないだろう。雰囲気を戻そうとわざわざ振舞ってくれたんだと思う。
 いい所があるじゃないか。目配せをすると、口元に小さく人差し指を立てて悪戯っぽく笑って見せる杏里。
 俺の好感度を上げて一体どうしたいんだこいつは。何となく逆ギレに近い事を考えてしまった。

「うう、ううううう」

 桂木はうんうん唸りながらちびちびとパイを齧り、時折ふええと泣き声をもらしている。
 気落ちするな、桂木。教国に着いたらレシピを渡そう。それを使えばお前も魔法料理が作れる。


 

 流石に食後の会話が盛り上がるという事もない。早めに出発となった。

「あのさ、山田、ちょっといい?」

「……今度はお前か」

 歩き出して数分、顔を出したのは健一だった。
 顔を狙われたら死ぬ……と言っても、流石にそこまで警戒したら何も出来ない。
 それに杏里には言わなかったちょっとした希望なのだが、プレイヤー同士の対決、PKにはレベル制限がある。
 レベル20に達していないキャラクターには対決の申請が出せず、対戦許可マップに入る事も出来ない。
 クーミリアと健一がNPCとして判定されているなら意味はないだろうが、逆にNPC同士なら尚の事戦闘は起きない。
 縛りに縛ってもすぐに限界は来る。顔を出すぐらいなら大丈夫だろう。

「さっきの、オーガと戦ってた子なんだよね? 山田が凄い僧侶で教国に向かってるからって、それだけで殺そうとしたの?」

「……らしいな」

「……何て言うのかな、その……それは山田にあんまりじゃないのかな」

 確かにそちらの意味でもあんまりではある。
 せめて帝国につくか教国につくかぐらい選ばせてくれてもいいんじゃないか。

「でもまあ、クーミリアが悪いわけじゃない。まだあの歳だし、命令されて嫌と言うってのは……なかったんだろう」

 少しだけ期待を持つとすれば、杏里のどこまでも我侭な言葉が幾らか届いていればあの生意気な子供も多少の自分勝手ができるんじゃないかと思う。
 自分が少しだけ杏里に変えられた自覚があるからだろうか、何となく期待してしまう。
 能天気な友人に会ってちょっと明るくなりました、というのと同レベルで語るのも酷かもしれないが。

「あの歳で……もう、あんなに強いんだよね。普通なのかな、結構凄い呼ばれ方してたけど」

「凄いは凄いだろうな。この世界は中位職も少ないらしいし。でもあんなの俺なら一日で上がるレベルだぞ、それで持ち上げられて戦えだとか――」

「ちょっと待って、ストップ。今の言葉、もう一度」

 ちょっと待ったコールがかかった。どこだろうか。

「クーミリアは凄い。中位職が少ない。俺なら一日で上がる」

「その、最後の所。レベルってそんなに簡単に上がるの?」

「あー……そうだな、難しい所だな」

 ゲームの中ではレベルが低い内は楽に上がったのだが、この世界で簡単かと言われると何とも言いがたい。
 モンスターそのものが微妙に少なく感じるし、何をするのにも時間がかかるように思う。
 転送してくれるプレイヤー魔法使いも居ないしアイテムも売っていない。
 しかし、全て勘案したとしても――

「レベルだけで言えば、この世界でも一週間ぐらいで届くと思う。多分な」

「そんなにすぐに上がるんだ……」

 わかってるのか、一週間だぞ。これからさらに一週間とか行方不明が蒸発に変わりかねない時間だぞ。

「一週間もかけて強くなって何する気だよ。言っとくけどここでレベル上げたって現実では何の役にも立たない……んだ、ぞ?」

 言っていてやたらと胸が痛んだ。7年も無駄な時間を過ごしやがって。そう言われたような気分だ。
 むしろこうして役に立っているのはもしかして得なんだろうか、やはり損なんだろうか。
 微妙にテンションが下がった俺の心中を察したのか、健一は軽く笑って、しかしすぐに表情を戻した。

「別に強くなりたいわけじゃないよ。怯えて過ごすのも、山田と杏里ちゃんに縋りつくのも、どっちも嫌なだけさ。出来ればすずちゃんぐらいは守ってあげたい」

「最初は桂木に守らせる、みたいな事言ってただろ。大した進歩だな、お前」

「…………あれは、冗談だよ」

 無言の時間に微妙な罪悪感が感じられた。そっと目をそらす辺りも怪しいが、心意気に免じてやる事にする。

「とりあえずこの辺にはお前に倒せる敵が居ない。レベルを上げるにしても、どちらにしろ教国に行かなきゃいけないんだ。話はそれからだな」

「……そっか」

 結局先送りにするしかない。それは事実だ。
 でもそれで終わらせないと、さっき決めたところだ。少しだけしょげている健一の肩を抱く。

「でも、お前の希望は聞いた。お偉い神様が何の頼りにもならなかったら、その時は出来るだけ力を貸す。絶対だ、約束する」

「……ありがと、山田」

 気にするな親友、と、口には出さなかったけれど。
 いつかこの友人に背中を預けて戦う日が来るのなら、それは現実に戻れなくても悪くないぐらいの未来かもしれない。

「うわー、どうしようかな。変な話だけどイメージ的にはシーフがいいのかな。魔法使いは麻衣ちゃんの希望だし……あー、でもやっぱりナイトってあこがれるよね」

「……お前神に見捨てられる方がいいのか?」

 そんな事ないよ、と首を振ったものの、健一の妄想は止まる所を知らなかった。
 ナイトだろうがシーフだろうが勇者だろうが好きにしてくれ。どうせ俺は裏方の僧侶だ。
 その時は桂木が惚れ直すぐらい、花を持たせるように頑張ってやろう。





 幸いにも麻衣が夕食を作るとは言い出さなかった。
 流れとして俺がインベントリから料理を出そうかとも思ったのだが、恐らく桂木には道中の食事について予定があったと思う。
 昼はともかく夜にそれを乱すのは忍びない。俺は早々にシェフ桂木に出番を求めた。

「今日は昨日より大分適当なんですけど……」

 言いながらもキノコ類と大根にごぼうやネギなんかの腐りにくい野菜をスープにしている桂木はどこか満足気で、多分間違っていないんだと思う。

「あれ、人参ないんですか? 沢山あるから使おうかなーと思ってたんですけど……」

 ごめんなさい。羽兎が食べつくしました。
 醤油に問題があるらしく、スープの味は微妙に違和感が残るものだったがそれでも十分に食べられるものだった。
 そして意外にも醤油風味のスープ――汁と言うべきか――が主食のパンに合う。美味しゅうございました。


 ごちそうさまです、を唱和するのも日本人だと思う。
 今日は手伝わなかった健一が食器を片付けて――水は貴重なので食べたらすぐに軽く流して拭く、だけだ――今日も就寝だ。

「じゃあ今日は交代して、女の子組が先に寝る感じで、いい?」

「ああ、どっちでもいい。起こすからな、ちゃんと寝ろよ」

「そこまで言われると絶対起きないぐらいに寝て見せたくなるよね」

「やめてくれ……」

 無駄に元気な杏里が馬車に入るのを見送って、そのまま見ていると桂木と健一も馬車に入っていった。
 残っているのは……

「あの、先輩……」

「健一と交代か?」

「……はい」

 健一じゃ杏里に手は出せない――物理的な意味で――から、確かにこれでも問題はない。
 杏里が気にしないのなら、だが……二人とも平然と昼寝をしていたし、今更と言えば今更だろう。
 いつもの様に二人並んで座り、システム的に暗くても十分に見通せる闇の中でぼんやりと空を見上げた。
 モンスターは居ても野生動物は居ないので、寒さを毛布でしのいで火はつけずに過ごしている。
 毛布一枚では幾らか冷えるので自然と距離は縮まっていった。
 肩同士がしっかりと触れ合い、俺が一緒に毛布に入るかと言うべきか悩み始めたところで――麻衣が小さく口に出した。

「……ごめん、なさい」

「いや……麻衣が悪いわけじゃない。取り返しがつかない事になってからじゃ遅いんだ。俺が気遣うべきだったよ」

 昼の事だろう。随分とわだかまりがなくなっていたようなので馬車の中ではもう話していると思う。
 それでこうして俺たちを二人にしようと企んだ……そんな所だろう。

「……私、酷いですよね」

「そんな事言うなよ」

 以前なら素直に受け取れた麻衣の言葉に、否定されるための台詞なんて出すなと言ってしまいそうになった。
 弱音を吐いてもいい。でもそれに溺れたら前に進めなくなる。

「私、悪い子です……」

「麻衣……」

 杏里が俺にそうしてくれたように、下を向いて小さな声で言う麻衣をたしなめようと思った。
 しかし彼女の次の台詞に、その言葉を途中で飲み込む。

「でも……好きなんです」

「――――っ」

 うつむいたまま、少しだけ震えて、何かを吐き出すように告白する麻衣。

「好きなんです、大好きなんです。本当に、先輩、私、だから……」

「……ありがとう、麻衣……俺もだ」

 だから大丈夫だと言った瞬間、胸元に彼女が飛び込んできた。
 2枚の毛布を挟んで確かに暖かな、柔らかい感触がある。目の前の髪が闇の中で尚も黒く艶やかに見えた。
 俺もだと追従して言うんじゃなく、ちゃんと好きだと言ってやりたい。
 なのに何故か口に出せない。
 どうしてだ、言おう言おうと悩む間が、やはり麻衣の決意の時間になってしまう。

「先輩……」

 胸に押し付けられていた麻衣の顔がこちらに向き直る。
 焦りそうなぐらい近い距離に麻衣の全てがあって、かすかに囁かれた声の甘さにとろけそうになった。
 本当に近い二人の間をさらに少しだけ縮めて――震えながら目を閉じた麻衣の意図をわざわざ確認するほど鈍くもない。
 極々軽く顔を傾けて、それだけで唇に柔らかい何かを感じた。
 さらに強く麻衣の匂いに包まれて知らぬ間に目を閉じる。
 思ったより感動するような感触じゃないなと、冷静などこかで思っていた。
 実際に触れ合っていたのは数秒だと思う。それは長いようでいて、一瞬にも感じられる時間だった。

「あ、あの……」

「えーと……」

 明かりがなくてもわかるぐらいに頬を染める麻衣と見つめ合った。
 暖かい、いや、熱いぐらいの気恥ずかしい空気。耐えられなくなったんだろう、麻衣が立ち上がった。

「お、お休みなさいっ」

「いや、待て、麻衣」

 とりあえずローブの端を引っつかむ。
 つんのめった麻衣は照れが怒りに変わったような表情でこちらを睨んでいるが、微妙に口元は緩んでいる。愛い奴め。

「お休みじゃないだろ。健一と変わったんならまだ5時間あるぞ」

「あ……ぅ……」

 別に無視して戻ってもいいだろうに、根が真面目な麻衣らしい。大人しく隣に座り込んだ。
 さて、どうしてくれようか。とりあえずは俺のファーストキスを要求した責任を取ってもらおう。
 

 5時間をかけて先程の行為を数回繰り返した程度だったが、それでも残りの三人を起こす時間には麻衣は相当ふらついていた。
 麻衣にした投資の成果を幾らかは回収できたように思う。体押し歓迎です。

 




 馬車の中で眠る桂木と健一を軽く揺すると二人はしっかり起きてくれた。
 しかし微妙にいびきをかいている杏里は何となく起きない気がしたので、呼ぶ前にスキルを使ってみる。
 リカバリーオールが睡眠状態を解除。音が出そうなぐらいの勢いで杏里の瞳が開いた。

「……あれ、山田君?」

「ああ。交代だぞ」

「…………山田君、来なかったじゃん」

「……何にだ。思いっきり起こしに来たぞ」

 寝ぼけているのだろうか、ううん、なんでもないんだけど、とよくわからない事を返された。
 やはり寝起きは良くないらしい。寝床の上でふらふらしたまま話し続ける杏里。

「んー、松風さんと仲良くした?」

「お気遣いありがとう、たっぷりした。……いや、したのかと言われたらしてないけど」

「あー、そのぐらいなんだ……松風さんは多分それが限界だし、後は山田君からで」

 寝ぼけた様子のまま、おっけーだからね、と言われた。何をだと言うべきか、知ってると言うべきか。
 寝起きに下品な事を口走った杏里には一応制裁を加えて馬車を出る。
 麻衣は麻衣で桂木にからかわれていた。もしかして俺たちは暇つぶしのネタか何かだろうか。
 杏里もようやく出てきたし、こちらも戻ろう。








「とまあ、中に入っても結局二人なんだよな」

「そう……です、ね」

 しかも今度は寝床がある。方向としてはさらに良くない。
 扉代わりの布を閉めた後、どうにも動こうとしない麻衣の背中を押して、簡易に作った毛布の寝床に座らせる。
 対面に座るとすぐに顔をそらされた。そういう風にされると、なんだか逆に困らせてみたくなる。
 軽く力を入れてそっと押してやると、麻衣は押されるままに素直に横になった。
 麻衣自身は結局のところ恥ずかしがるだけで拒んでいない。
 杏里に言われるまでもなく、昨夜のことを思い出すまでもなく、はっきりとわかる。
 冷静なつもりでも自分の中の何かが止められない。
 布一枚隔てて友人が居るというのに、そのまま麻衣に覆いかぶさった。

「ぁ……ゃ……」

それでも顔をそらす麻衣から小さな声が聞こえて、それが逆に燃え上がらせる。
 わざとやってるのか、そうなんだろう。なら、遠慮は要らない。
 体重をかけると、怯えと期待で朱に染まった麻衣の顔、そして下に敷かれた毛布が近づいて――





 ――杏里の、匂いがした。


 どこか蠱惑的に甘い麻衣の匂いとは違う、状況からすれば場違いな、透き通る香り。
 ここは杏里が使っていたんだろう。昨日俺の匂いがすると言った杏里を何となく思い出した。
 理由はわからない。冷めた、と。一言で言えばそうなんだろう。
 身を縮めて目を瞑る麻衣に口付けて、お休みと声をかけて身を起こした。

「え……?」

 麻衣の声を無視してそのまま隣に横になり、目を閉じる。
 理由なんて幾らでもあるだろう。大事だから、急ぎすぎたくないから、外に人が居るから。好きに解釈してくれると思う。

 今日も夢にはどうせパラディンが出てくるんだ。そう思って眠りについたが、結局夢にそいつは出てこなかった。
 夢の中の俺は、どうして来ないんだと、八つ当たりの様な怒りを感じていた。
 そうだな、起きた時最初に見た顔があいつの物だったら言ってしまうかもしれない。
 来なかったじゃないか、と。




[11414] 第七話 我侭(上)
Name: 検討中◆36a440a6 ID:66e23c0e
Date: 2011/11/12 19:16
 言わなくてて済んだと言うべきか、それこそ機会を逸したと考えるべきなのかもしれない。
 半ば見慣れた夢の中から現実へと意識を引き戻したのはすっぽかしパラディンではなく、音もなく馬車へ乗り込む何者かの気配だった。
 薄く目を開けて確認すると小柄な人影が俺達をじっと観察している。
 しかし見ているだけでは埒が明かないと考えたのか、俺の隣で眠る彼女へと忍び寄り、そっと身を寄せて――


「……桂木、親しき仲にも何とやら、とか言うんじゃないのか」

「ふぇっ!?」

 思いっきり麻衣の匂いをかぎはじめた侵入者に思わず突っ込んでしまった。
 いや、桂木が何を意図したのかはわかる。
 心配する気持ちも、気になる気持ちもわかるのだが、行動がおかしい。

「いえその、麻衣に何かあったらどうしよう、と思いまして」

「……判断基準が匂いって女としてどうなんだよ」

「何言ってるんですか! 女の子は誰だって匂いに敏感なんですよ!」

「嫌な世の中だな……」

 本当ですって、と続ける桂木には悪いが匂い基準な人は少数派だと思う。
 幸い、なのだろうか。良くも悪くも制御できる俺の眠気は簡単に飛んでくれる。
 軽く身を起こして服を着たままの姿を見せ、桂木と視線を合わせた。

「ほら、昨日は何もなかったぞ」

「みたいですねー。残念です」

「残念って……いや、何か起きてたらどうするつもりだったんだ?」

「それを理由に健先輩にも覚悟を決めてもらおうかなと」

「……悪いな、俺達が奥手なせいで」

 思わず謝ってしまった俺に桂木はいえいえと首を振ったが、本当にこちらが悪いんだろうか。
 返事は保留されているはずだが努力を禁じられているわけではないらしい。
 元の世界に戻るまで健一は桂木を抑え続けられるのか、何となく親友の冥福を祈りたくなった。

「ん……ぅ……」

「麻衣、起きたか?」

「おはよー、麻衣。山田先輩どうだった?」

 どうって何だ、どうって。
 桂木に突っ込みながら未だに起きようとしない彼女に目を向けた。
 横でこれだけ騒げば普段の麻衣なら目が覚めている所だと思うのだが、起き上がる気配もない。

「もう朝だぞ、起きてくれ」

「……せん……ぱい……」

 肩を揺すってみると一応反応はあった。
 あったのだが、何事か呟きながら身を丸め、俺の腕を抱き込んでまだ寝るんだと全身で主張し始めてしまった。

「……麻衣?」

 呼んでみると伸ばした腕がさらに強く抱きしめられた。
 寝ぼけているんだろう、手のひらが柔らかい部分に思いっきり押し付けられている。
 麻衣は俺の腕に顔を擦り付けるようにして微かに声を漏らした。

「せんぱいの……におい……」

「……ほら?」

「いや、ほらって言われても」

 麻衣に『先輩から栗原さんの匂いがします』とか言われたらどうしようとしか答えようがない。
 そして正直そんな事より、初めて自分の手で感じる男の夢の詰まった部分の感触で頭が一杯だった。
 ただの柔らかさよりも包まれて押し返される弾力を強く感じる。
 抱きしめられた腕に睡眠時独特の暖かさが伝わり、身じろぎのたびに変わる感触と小さな呼気に翻弄される。
 指を動かしていいんだろうか。いいんだろう。いい筈だ。ダメと言われても逆に断りたい。
 昨夜寸止めにしたのが納得いかないと、そういう事なんだろう麻衣。それなら――

「麻衣、丸くなっちゃいましたね」

「……あ、ああ。寝ぼけてる、な」

 強くなったはずの理性を超えかけた何かを第三者が止めてくれた。
 桂木が居なかったら、タイミングよく声をかけてくれなかったら、危なかったかもしれない。
 麻衣に飲み込まれた腕を無理やり引き抜いてみると失った空間を埋めるようにさらに小さく丸くなった。
 さっきから何となく猫っぽい仕草で可愛らしい。

「起きないな」

「起きませんねー。普段もこんな感じなんですか?」

「いや、今まで寝起きが悪いと思ったことはないけど……」

 と言うか、桂木よりも俺の方が麻衣と一緒に寝た回数が多いんだろうか。
 よくよく思い出してみると確かにそんな気もする。
 まだ付き合い始めて一週間も経たないのだから凄いと言えば凄い話だ。
 逆に言えば桂木がどれだけ頑張っているのか、健一も逆にどれだけ頑張っているのかという話にもなる。

「今日はちょっと出るのを遅らせます?」

「んー……それでもいいんだけどな」

 珍しく寝起きの悪い麻衣を見ているとやはり強行軍が過ぎるのかと考えてしまった。
 9時に休んで5時間交代で眠り、7時に活動開始。
 ちょうど良いと言えば良いんだが睡眠時間としては不足気味だろう。
 慣れない馬車の旅、桂木以外は動く馬車の中で居眠りぐらいはできるようになっているが、精神的に落ち着くものでもないだろう。
 普段と違う食べ物、粗末な寝床、時折聞こえるモンスターの声、自分の身を清潔に保つどころか、まともなトイレすらない。
 他にも男の俺には理解できない部分で、女性陣には相当なストレスがたまっているだろう。

 誰に文句をつけられる訳でもない、仲間内の旅だ。出発を昼に設定したって内側に問題はない。
 ただ少しの危険があるだけだ。
 外の三人と俺が交代して、全員をもう少し休ませる。そうするべきかもしれない。

「そうだな、じゃあ……」

「――やっぱり、ダメっ。ほら麻衣、甘えないで起きてっ!」

 言いかけた俺を遮るように桂木が無理やり麻衣の身を起こした。
 それで寝ていられるような人間もなかなか居ないだろう、麻衣はようやくふらふらと動き出した。

「……いいのか?」

 問いかけた俺に珍しく少しの苦笑を返し、桂木は一言だけ答えた。

「帰りましょう、ね」

「そう……だな」

 昨日の事をどう受け止めたのか、麻衣以外のそれぞれに詳しく聞いた訳ではないけれど。
 桂木も桂木で思う所があったんだろう。

「おはよう、ございます……」

「おはよう。先行ってるな」

 まだ寝ぼけた様子の麻衣に手を振って馬車を出た。
 空はもう随分と明るい。一日を始めるには十分過ぎる時間だろう。
 クーミリア以外の追っ手が絶対に来ないとはとても言えない。

 追っ手。そう、追っ手だ。
 今時笑えるような言葉なのに、現実にされると面白い要素が一つもない。
 後ろを気にして、前に怯えて、逃避のような旅が、始まる――




















第七話 我侭(上)


















「おはよう山田君! ね、松風さんどうだった?」

「……おはよう、杏里。麻衣は……ちょっと寝足りないみたいだな」

 だから、どうだったってのは何なんだ。
 朝からテンションの変わらない杏里にシリアスな気分を一瞬にしてぶち壊された。
 向こうからすれば起きて5時間の一番元気な頃合なのかもしれないが、いきなり全開になられてもついていけない。

「ほほー、寝足りないと。寝足りないとおっしゃいますか」

「……そういう意味じゃないぞ?」

 怪しい笑顔を貼り付けて迫る杏里をかわして、地面にそのまま座っていた健一に軽く手を振り、隣に腰を下ろした。
 女性に囲まれて気疲れするタイプじゃないと思っていたんだが桂木と杏里というのは面倒な組み合わせなのかもしれない。
 何となく燃え尽きたような空気を漂わせていた。

「程々にしときなよ、山田。後に影響が出ないようにね」

「何もなかったっての……わかってるんだろ」

「まぁ、ね」

 本当に何もなかったというのは情けない話かもしれないが、それで良かったと思う。
 女二人に囲まれて、背後の馬車がぎしぎし揺れ始めたなら……それは健一にとって余りにも地獄だっただろう。
 何か起こそうとすれば起こせたのは間違いないんだろうが、よくよく考えると踏みとどまってよかった。

 ――起こそうとすれば?

「――あー……」

「山田、どうかした?」

「……まあ、ちょっと」

 麻衣の寝不足の理由が何となくわかった気がした。
 むしろ勝手に納得して寝た俺が無頓着過ぎる。

「えー、でもさ山田君、松風さんの匂いが凄くするよ?」

「――お前もかっ! お前もなのか杏里っ!」

「な、なにっ? あたし変な事言った?」

 俺の知らない女性の生態が証明されてしまった瞬間だった。
 とりあえず話を変えよう。一応戦闘員だけが居るちょうど良い状況だ。

「……で、だ。今日からはちょっと気をつけて進もう。俺が外で、他は中な。杏里、中は任せるぞ」

「えっと、うん。それは平気なんだけど、もしかしてあたし一日中ずっと鎧着てるの?」

「あー……それか」

 気にしていなかったが、言われて見ると杏里は全身フル装備だった。
 非戦闘員二人を守って夜を過ごすというのは結構気を使ったんじゃないだろうか。
 明日からは俺と杏里だけが交代で外に居るとか、その方がむしろ楽かもしれない。

「……盾はまあ出しておいた方がいいんじゃないか。いざって時に入り口が塞げればそれでなんとかなる」

「ん、了解」

 ぽんぽんと鎧兜が姿を消し、杏里は見慣れた騎士の衣装に戻った。
 ご苦労様、と口には出さなかったが、杏里も休めるように日中は何も起きなければ良いんだが。

「おはようございます」

「おはよー、松風さん」

「あ、麻衣ちゃん、おはよう。山田に変なことされなかった?」

「……大丈夫です、何も、してくれませんでした」

 見繕いを終えていつもの姿で出てきた麻衣は、まだ寝ぼけているんだろうか、怒っているんだろうか、開き直っているんだろうか。
 桂木でもなかなか言わない、物凄い問題発言をした。

「そ、そう、良かった、ね?」

「えっと、ご飯にしましょうか」

 後から出てきたシェフ桂木を手伝いに健一と杏里が離れ、一応怒ってはいないらしい麻衣が俺の隣に腰を下ろした。

「…………」

 恨めしげな目で見られても困る。プライド的なものを傷つけたのはわかるが状況的にしょうがない。
 いやまあ、それは後付の言い訳なんだが。

「わかってはいるんですけど、納得できません」

「……ごめんなさい」

 一週間前なら考えられない理由で怒られ、謝っている自分がむしろ信じられないくらいだ。
 こういうのは現実では頻繁にあることなのだろうか。
 後で健一に聞いてみたいと思う。





 朝食はパンを斜めにスライスしてその上に目玉焼きを載せた、どこかで見たことのあるようなものだった。
 驚いたことにマヨネーズもついてきた。実は俺達が起きる前に調理は進めていたらしい。

「卵は常温でも結構長く持つので、多分旅向き……だと思うんですけど」

 まだ町を出て三日目なのだが、ガイオニスはそれほど農業や牧畜が盛んだったようには見えない。
 他の町から馬車で輸送されてきたものが売っていると考えると食材を選ぶのにも気を使うんだろう。
 魔法の野菜なんかもゲームにはあったんだがこんな田舎には売っていないか。
 まあ、腹痛ぐらいなら恐らく治せるから問題ない。もちろん本人を前に口に出したりはしないが。

「まあダメになってたとしても山田君がなんでも治せるから平気だよね」

「……作った人に失礼な事を言うな、杏里。感謝して食え」

「昨日山田君が言ったんじゃん、あたしに!」

 記憶にございません。


 自然と役割が分担されて出発の準備も早くなった。
 人参は食べてくれなかったが飼い葉は食べてくれるらしく、麻衣は馬の世話を。
 桂木が毛布を仕舞い、食器が割れないように積み込むのを杏里が適当に手伝う。
 動いている間に外側で衣類や毛布を干せるようにするのが桂木の野望らしい。
 俺と健一は馬車を点検する。昨日止まった時にやっているが、明るい時間にもう一度。
 麻衣の後ろから馬の体力を回復して、俺の準備は終わりだ。

それぞれ準備が終わったら俺は御者台に、皆は馬車の中に。一声かけて出発する。

「よし、じゃあ行くぞ? 良い……か?」

 馬車の方を振り向くと大きな盾が完全に入り口を隠していた。

「おっけーだよー」

「……頼むからそれはやめてくれ。疎外感が酷い」

「ん、了解」

 盾をどけて顔を出した杏里の笑顔に頭痛を覚えながら、馬に足を進めさせる。
 ぎしぎしと音を立てて馬車はゆっくりと進み始めた。
 これまでのペースなら今日の夕方には次の町、教会都市サイレインに辿り着ける筈だ。








 ずっと下っていた道が平坦になり、むき出しの山肌に緑の色が増え始めた頃。
 襲い掛かってきた猪のモンスター、ステップボアを適当に魔法で駆逐しながら俺は一人限界を迎えていた。
 女性陣にストレスが溜まっているかもしれないと偉そうな事を考えていた朝の俺はどこへ行ったんだろう。
 先に俺の心があっさりと臨界点を超えてしまっている。

「おーい、聞こえるかー?」

「うん? どうしたの、山田」

 後ろの馬車から顔を出した健一を正面から見つめ、俺ははっきりと告げた。

「悪い、暇だ」

「……いや、そんな事言われても」

 入り口に近いところは危ないので全員が馬車の奥の方に引っ込んでしまっている。
 一人の俺に気を使ってか余り騒いでいないが、時折笑い声なんかが聞こえると酷い疎外感があった。
 昨日までは大体ナビシートに誰か居たこともあって――有体に言うと、寂しい。
 精神の能力は相当高いはずなのだが、感情を抑える効果が実は薄かったりするのかもしれない。
 モンスターは雑魚しか居ないし、怪しい人影も見えない。
 誰かに話し相手になってもらう位は大丈夫だろう……と思う。

「じゃあ、麻衣ちゃん呼んで来ようか」

 麻衣じゃなくても良いんだが、何かを言う前に戻っていってしまった。
 まあ杏里を除けば防御力的に一番硬い。安全と言えばまだ安全だ。

「先輩、どうかしましたか?」

 気をつけるように伝えているせいか、辺りを気にしながらそっと顔をのぞかせる麻衣には何とも言いにくいのだが

「いや、ずっと一人だと何かやたらと寂しくて思わず」

「……えっと……ごめんなさい」

 こちらこそ申し訳がない。
 随分なわがままを言ったと思うのだが、それでも麻衣は嬉しそうに微笑んでいる。
 外からは見えない位置に座り込んだ麻衣とどうでもいい話をしながら暇をつぶさせてもらった。





「天空都市、ですか……ラピュタみたいな?」

「あそこまで荒れてないけどな、イメージは結構近い。ゲームの画面だと浮いてるってのは実感しにくいんだけど自分の目で見られるなら一度行ってみたいな」

 別に何を話しても良かったんだが、麻衣が喜ぶのはこういう話だろうと伝えていなかった転職のことや他の町の事を話していた。
 魔法都市でもある、天空都市。実際に大空を飛ぶ都市があるのだから俺個人としては見てみたいと思う。

「まあ空が飛べないと行くのが面倒だから、多分機会はないと思うんだけどな」

「先輩、飛べるんですか?」

「いや、俺は飛べない。空を飛べる動物があれば乗って行けるから楽なんだよ」

「空を飛ぶ……動物に……」

「ペガサスとかフェニックスとか、そういうのな」

「――っ!」

 息を呑んで、恐らくは瞳を輝かせているんだろう麻衣には悪いのだがやはりそちらにも縁はないと思う。
 空を飛べる騎乗動物はそこそこにレアで、俺が持っていた騎乗物は何故か装備欄から消えている。

「それで……そこで、魔法使いになれるんですね」

「レベルが足りれば、だけど……なりたいのか?」

「はい!」

 姿は見えていないのだが、こう力強く言われるとやめておけとも言い難い。
 曖昧に黙るしかない俺に勢い込んで麻衣が続けた。

「どんな魔法が使えるんですか? 炎を出したり、空を飛んだり、動物と話したり、そういうことが出来るんですか?」

「あー……炎は出る。空は飛べない。動物は……まちまち」

「まちまちって、話せる動物が居るんですか? 猫とか話せますか?」

「ペットにしてから友好度を上げると、一部の動物と話せる。猫とか犬とか」

「凄い……お家で猫を飼ってるんですけど、話せるようになるでしょうか」

「いや、世界が違うから……」

 相変わらず変なところで元気になる麻衣だ。
 いや、いい加減わかってきている。ファンタジックな話になるとハイテンションになるんだ。
 俺も可能なら動物と話してみたいとは思うがいかんせん僧侶である。
 そして残念ながら麻衣に転職の機会があるかは怪しい。

「後は攻撃魔法メインだな。雷を落としたり吹雪を起こしたり、地震を起こしたり……そうだ、最初にこの世界に引き込まれたあれも魔法使いの魔法だ」

「えっ?」

 そういえば麻衣には言い忘れていた。
 最初のポータルゲートもスキルの一つだ。
 指定したセルに特定の場所とつなぐゲートを開くスキル。
 ダンジョンの中には飛べないが、行ったことのある町と、登録した地点幾つかには繋ぐことが出来る。
 俺が使えれば元の世界に帰ったり出来るのかもしれないが、いかんせん僧侶である。

「じゃあ、あそこに魔法使いの人が居たんですか? それで私達に魔法を……」

「それは……どうだろうな。俺の知ってるスキルとこの世界の魔法ってちょっと違うんだよ」

「……?」

 疑問符を浮かべているのだろう麻衣に説明を試みた。

「ゲームのスキルは基本的に射程が決まってるんだけど、この世界ではそれが甘いって言うか、曖昧なんだよ」

「しゃてい……」

「あそこの木までなら炎を飛ばせる、って感じで技の届く距離が限定されてるんだ。それで、本来なら俺が使うような支援魔法は射程が短い」

「近くの人にしか、魔法はかけられない……ですか?」

「そう、それだ。本当はそうなんだけどな。でも麻衣にアークをかけた時みたいに、走って結構かかるような距離でも魔法は発動してる」

 オーガと戦った時に使った防壁魔法のアークミスティリオンは自分の周囲3セルの範囲で1箇所にしか使えない。
 それがどう考えても数十セル離れていただろう麻衣の足元でもあっさりと発動したのだ。

「他にも画面内ならどこでもテレポートできるスキルもある。今ならどこまで飛べるか……地平線までいけそうだ」

「現実に合わせた感じにちょっと変わってるんですね」

 何とも説明の難しい感覚だが、何か便利になってる、という感じだ。
 逆にゲームと現実の魔法が丸っきり同じである方がおかしいと言えばおかしい。それはそれでいい。

「まあ、だから別の世界にゲートを開けるかって言うと別問題なんだけど……突然足元にゲートが開くイベントとかもある。何ともな」

「イベント……なら、やっぱり最後までやり遂げないと……?」

「それも、何ともな」

 麻衣好みと言えば麻衣好みの話ではあるが、やはり俺には曖昧に答えるしかなかった。
 しかし正直な話、俺個人としては『仕掛け人』が居るような、そんな気配を感じている。
 作為的なまでに起こるイベントと、クエスト。
 何か狙いがあって、何かをやらせたくて、こうして俺達を誘導しているように思える。
 でも他の皆にそんな妙な危機感は持って欲しくなかった。
 そして同時に、もしも神が頼りにならなかった時に『犯人が居て、そいつを捕まえれば帰れる』という希望として提示したい、と考えても居た。
 俺は一応僧侶だ。死んでも生きられる、そんな可能性ですら最低五分五分にはある。
 むしろ望みが途絶えた時、それが一番危ない。願わくば神は期待に沿う存在であって欲しいと思う。

「私が魔法使いになって、その魔法でみんなと帰る……」

「……万が一ライソードに行って駄目なら、本当にそれもありかもしれないな」

 転職すれば麻衣にも魔法は扱えるのか、その最大の問題を超えられるのならそれもそれで悪くない。
 転職までの後5レベルか4レベル程度なら適当なお使いクエストを幾つかやれば上がるくらいだ。
 意図的に受けられるとは限らないのでモンスターを倒すと考えても、やはりそれほどはかからない。
 レベルを上げて一直線に魔法を覚えればこちらの時間でも10日でお釣りが来るだろう。
 希望は多い方が良い。最悪の場合にどれを採用するかはみんなで相談するとしよう。
 一人納得したところで麻衣が嬉しげに恐ろしい事を言い始めた。

「先輩が手伝ってくれるんですか? じゃあ私、本当に魔法使いになれるんですよね?」

 ――いや、その発想は、おかしい。
 そして似たような話を数日前に聞いた覚えがある。

「……麻衣も神様に見捨てられたい派か?」

「い、いえ、そんな事はないんですけど……」

 流石にそこまでではなかったらしい。少し沈んだ声で続けた。

「帰りたいです、お家に」

 お母さん、きっと心配してると思います。

 ぽつりと言った麻衣に返す言葉はなかった。
 一応一人暮らしの俺はまだ心配されてはいない、と思う。
 しかし実家暮らしの女性の身で連絡がつかずに一週間が過ぎれば普通は警察沙汰だ。
 彼女の両親が眠れぬ夜を過ごしている事を思うと胸が痛む。

「……でも折角なら魔法を覚えて帰りたいんです」

「だから、世界が違うって……」

 その上で、冗談の様に言っているが本気にしか聞こえないのがそら恐ろしい。
 麻衣と健一、健一が居るからついでに桂木を含めると、このままでは神に見捨てられたい派が最大派閥になってしまう。
 ゲーマーの俺と杏里が帰りたいのに他がこっちに魅力を感じ始めるというのはどうなんだろうか。
 皆があちらの世界に未練はないというなら一生分はありそうな金を持っているこちらの世界で働かずに過ごせるのも悪くはないんだが……

「FF14、やりたいんだよ」

「……ゲームですか?」

「ああ。その為に何とか帰りたいんだ」

「そうですね……私も、続きが読みたい本が沢山あります」

 家族や友人だけではない。
 こちらの世界に残るなら――残らなければいけないなら――そういった細々とした未練の全てを断ち切らなければならない。
 まだ半年以上あるのにもうテストプレイが始まっていたりしないよな、と妙な不安を抱えながら。
 俺は次世代主力ネットゲーム候補への未練が捨てられそうになかった。

「先輩がやってるゲーム、私も一緒にやってみたいです」

「麻衣……」

 嬉しいんだが、本当に嬉しいんだが、彼女を連れてログインしたら絶対に間違いなくフレンドにハブられる。
 それでも、数日ハブられてもいいから自慢したい気もする。
 その為だけでも家に帰る理由には十分かもしれない。






 太陽が南中を過ぎて少し、幾らかの空腹感を覚えてステータスウインドウを開くと満腹度の数値が随分と低下していた。
 自分の体調が数値でわかるというのは相当に不気味だったが、例えば医者の様な職業なら日常的なことかもしれない。

「山田先輩、そろそろお昼にしませんか?」

「――よろしくお願いします」

「ふぇっ……ご飯の前と後だけは無駄に低姿勢ですよね、山田先輩……」

 それはシェフを敬っているのです。
 タイミングよく声をかけてきた桂木に一も二もなく頭を下げて答え、街道を外れた草原に馬を向けた。


 小鍋の水を焚き火にかける麻衣の横で杏里が干し肉を削り、桂木は木の器で調味料を混ぜて味をみている。
 残念ながらエプロン姿なのは桂木だけだが、女性が集まって料理をしている光景はそこそこ華やかに見える。
 役立たず要員……という訳でもないのだが、わざわざやる事もないので弾き出された男二人、座って傍観に徹していた。

「何かこう、良い光景だよね」

「お前は混ざっても違和感ないんじゃないか」

「――それはそれで、楽しいもんなんだよ?」

 開き直るな健一。

「切り終ったよー?」

「あ、じゃあそれは水が沸騰したら……」

 楽しそうなので口を挟めないんだが、杏里が肉を削っていたあの剣で先日ゴブリンの首を斬り飛ばしているのを見た覚えがある。
 インベントリにしまえば新品同様に戻るから、関係ないのではあるが。
 関係ない……よな……?
 恐らくは男のニーズに合わせて作ったんだろう、干し肉で作った肉吸い的な何かは、味は美味しゅうございました。




 食事を終えて休息もそこそこに、出発するべく馬車に乗り込もうとしたその時だった。

「……何か聞こえないか?」

「ほえ?」

「馬車……みたいな音が、来た道のほうから聞こえる……ような気がする」

「それ、音判別スキル? そんな地雷なんでわざわざ上げてるの、山田君」

「……うるさい」

 二重の意味でうるさい。何となく上げてしまったんだ、なんとなく。
 近くに居た杏里にはわからないようだったが、自分のスキルを信じるならこちらに馬車が近づいてきている。
 それも元来た道、帝国領の方から――

「とりあえず全員馬車に隠れててくれ。何事もないとは思うけど……」

「あたしも付き合うよ? 護衛も居ないと絶対不自然だから」

「だ、大丈夫なんですか?」

「モンスターでも殺人鬼でも平気平気。そもそも山田君の聞き間違いかもしれないしね?」

 いや、それはないと思うんだが。
 不安げに馬車に入る三人を見送り、フル装備の杏里と音の発生源を待った。
 程なく一台の馬車が視界に入る。
 揺れの問題もあり比較的余裕のある速度を選んできた俺達とは違い、相当な速度で進んでいる。
 走らせているとまでは言わないが、恐らく長時間動かすなら全速力に近いだろう。
 牽かれている馬車本体の大きさはこちらの馬車と変わらないのにあちらは八頭立てだ。
 またたくまにこちらに追いつき、追い抜くか……と思われた所でゆっくりと速度を落とし、見つめる俺達の前に止まった。

「……ヤバそう?」

「いや、どうなんだか……ぱっと見は普通の馬車だな」

 御者台に座っているのは普通の男性に見えるし、そもそも騎士団の馬車をそのまま使っている俺達の方が怪しいと言えば怪しい。
 とりあえず挨拶でもしてみようかと近づくと謎の馬車の方も中から数人の戦士と初老の男性が現れ、にこやかにこちらに手を振った。

「……普通のおじさんだね」

「普通のおじさんだな」

 普通の馬車だったらしい。



「こんな所で立ち往生なさって、何かお困りごとですか?」

「いえ、昼食を取っていたらそちらが近づいてくるのが見えたもので……」

「いやいや、そうですか。私どもは急ぎの配達物がありましてね。今日中にサイレインとは普通なら不可能な所、我々になら出来るだろうと――」

「そ、そうなんですか……」

「そちらはお二人ですか? この辺りは凶暴な猪や、時に奇怪な化け物も現れますがご存知で?」

「あの、急いでるんならどうぞお先に……」

「おお、これは失礼。では我々が先に行きますので、どうぞ後からいらして下さい。道中のモンスターどもを退治するのも隊商の仕事の内ですからな」

 それでは、と一言残して返事も待たず、再び猛烈な勢いで馬車は去っていった。
 会話した時間は数十秒にも満たなかった。確かに急いでいたんだろう。
 NPC馬車隊商……ということなんだろうか。

「商人さん……だったのかな」

「多分、そうなんじゃないか」

「……よくわかんなかったけど、いい人だったのかな」

「……多分、そうなんじゃないか」

 とりあえずルートのモンスターを倒して行ってくれるなら楽で良い。
 何はともあれ、遅れない内にこちらも出発しようと思う。





「だからさ、もう少し無茶をしてもいいんじゃないかって話なの」

「今の段階でも結構無理はしてると思うんだけどな」

 交代したという訳でもないんだろうが、午前中に麻衣が座っていた場所に今度は杏里が座っている。
 振り返ると麻衣は馬車の隅で舟をこぎ、桂木が健一にもたれかかっているのが見える。
 夜余り寝られていない分昼間に休んでくれるなら助かるぐらいだ。
 ついでに話し相手が一人残っているなら言う事はない。

「だってさ、疲れたらスタミナポーション飲んでヒールかければ全回復でしょ? ゲームだって事はもっと活かさないと」

「体は元気になっても精神疲労は抜けないんだろ。異世界に来てるんだから、俺は体より心の方が心配だ」

「若いんだからちょっとの気疲れぐらい何てことないよ。山田君、絶対心配し過ぎだって」

「……そうか?」

「そうだよ、折角ゲームの世界なんだからもっと楽しまなきゃ」

「楽しむ、ねぇ……」

 さっきから笑顔でお説教らしき事を言う杏里いわく、つまりもっとゲーム的に動くべきなのだそうだ。
 システムとしては眠らなくてもスタミナポーションを飲めば問題ない。
 疲れた馬はヒールで回復するし、人間の苦痛だって治せる。
 教国までの食事なんてインベントリから出したもので十分だし、これも食べずにポーションで良いぐらいだ。
 ついでに言うなら、幾らか健一を鍛えて、麻衣に魔法ぐらい教えてやれ……という話らしい。

「俺が言うのも何だけど、流石にそれは人間捨て過ぎじゃないか?」

「元の世界から捨てられたんだからしょうがないじゃん。利用できるものは利用して、楽しめるところは楽しもうよ」

 モンスターハントというのは楽しむの部類に入るんだろうか。
 そもそも自分の体を使った戦い方のわからない俺には、三割ぐらいは当たるからとにかく剣を振り回せなんてアドバイスしか出来ない。
 ましてや魔法の教え方なんてさっぱりだ。魔法の呪文なんかがあるんだろうか。

「それに、他にもあるの!」

 まだお説教が続くのか。
 と思ったが、杏里はむしろ機嫌良さそうに続けた。

「あたしとしてはもっとゲーム的な出来事とかも楽しみたいんだ。さっきの馬車も見た事ないけど、何かのイベント?」

「あれは本当に心当たりがないな。街の外を歩き回ってるNPCなんて聞いた事もない」

「じゃあそれこそ面白いイベント発生! ……なんじゃない?」

「あー、俺は新規のイベントも面倒事の部類だと思う方だから」

「……やり尽くしてるんだね、山田君」

 哀れむような溜息をつかれると何か悔しい気がするが仕方がない。
 7年も同じゲームをプレイしていると新しいキャラを作るたびに同じクエストを何度もこなす事になる。
 そして何度も何度も似たようなクエストを済ませていると、何故か新しいイベントにも大して興味がなくなってくる。
 わかったから結果だけもってこい――という荒んだ気持ちになったりするのだ。
 落ち込んできた俺に気がついたか、杏里は無理に明るく続けた。

「ま、まあほら。あたしが適当過ぎるのかもしれないけど、絶対帰るんだって追い詰められてるのもきっと辛いよ? ちょっとは気を抜いて気楽にいこうよ」

 気を抜く、気を抜く……か。
 本当に気を抜いて好きなようにやっても良いと言うのなら。

「……正直な話、ちょっと遊んでみたいなとは思う」

「ほほう? 言うてみ、言うてみ?」

 誘導されたようで納得がいかない部分はあったが、俺にもこの世界でやってみたい事があったのは事実だ。
 幾らかの飽きが来ていたにせよ、それでも長い間この世界を楽しみ続けてきたのだ。 
 例えば――

「帝都のダンディさんがどのぐらいダンディなのか見てみたい」

「あー、居たねえ、ダンディさん! 会ってみたい会ってみたい!」

 ちょび髭NPCの愛称ダンディさんは台詞回しの全てが恐ろしいほどに紳士なのだ。
 何かのクエストで会話をしてから惚れ込んでいる。

「飛行船に乗ってみたい。カジノをやってみたい。プルンがどんな感触なのか触ってみたい。サキュバスと戦いたい」

「うんうん、わかるわかる。プルンとプルンプルンって触り心地も違うのかな? あ、サキュバスは後で松風さんと相談して」

 プルンはチュートリアルと一部マップで戦える超雑魚モンスターでよくあるスライム的ポジションだ。
 強化版のプルンプルンも結局弱いのだが、どちらもプニプニして実は美味しい、と設定にあった。
 そしてグラフィック的にはプレイヤーの股間を触っているとしか思えないモーションで攻撃してくるサキュバス。
 絶対に麻衣の許可は出ないと思う。

「それに……機会があったら強化NPCを全力で殺すって決めてる」

 武器や防具を高い現金と引き換えに強化する強化NPCは確率論を無視して強化に失敗し、アイテムをロストさせてくれる。
 あいつは絶対に許さないと思わなかったプレイヤーは殆ど居ない筈だ。

「あたしはまだ強化とかしてないけど……ほら、これだけ全部やらないで帰っちゃうのも勿体なくない?」

 それは、そうだ。
 ゲームの中に放り込まれるというのは悪夢だが、ある意味で夢が叶っているのも間違いない。
 それでも責任はある。

「皆をちゃんと連れ帰らないといけない。そこまで遊んでる暇はないだろ」

「別に誰も山田君にそこまで期待してないってば」

「……それはそれで傷つくんだけどな」

「自業自得だよー。世界は一人で背負えるほど重くはないんだから」

 勝手に世界を巻き込まないで欲しい。
 でも確かに、もう少し気楽に遊んでもいいのかもしれない。
 なんせゲームなんだ。ゲームで遊ばずにどうするっていうんだ。

「……クーミリアの次がもう来ないって言うなら、皆を転職させてスキルを使わせて、ダンジョンに行って……とか、やってみたいけどな」

「あー、そういえばクーちゃんが失敗したから次が来るとか、そういうのあるかもしれないんだ」

「忘れてたのかよ……」

 流石にそれは冗談だった様だが、やっぱり杏里は気を抜きすぎだと思う。





「それでさ、結局強化するのは次の武器で良いかなって、一度も強化しないままになっちゃったの」

「まあ良し悪しはあるけど、確かにレベルが低い内は……ん?」

 だらだらと会話を続けながら馬を進ませていると、また微かな音が耳に届いた。
 いや、これは音じゃない。
 声――微かな、叫び声。

「何か……やばそうだぞ、杏里」

「ん、おっけー」

 様子の変わった俺を伺っていた杏里は何も言わずともすぐに装備を整えてくれた。
 長い間一緒に居て愛着がわいてきているので余り無理をさせたくないんだが、状況が状況だ。
 ぎりぎりの速度で体力を削りながら走るよう馬達にも指示を送った。

「う、うわっ。山田、どうしたの?」

「ふぇっ、あんまり揺れるとちょっと、痛いですっ!?」

「悪い、良くわからないけど前で何かと誰かが戦ってるらしいんだ。間に合うようなら一応助けてやりたい」

「戦い……って……」

 流石に目が覚めたらしい桂木と麻衣を奥に戻させて前方に向き直った。
 距離が近くなるに連れてはっきりと状況がわかってくる。



 ――ギョルルルァァァァァァァァッ!

 ――ぅぁぁぁぁぁっ、この野郎っ!


「……これ、プチドラの声か?」

「うえぇ、あれが居るのー?」

「自信はないけど、あれっぽいぞ。この世界の一般人の強さだとかなり危ないんじゃないか」

「あたしでもヤバくないとは言い切れないんだけど……」

「前衛やれとは言わない、アタッカー任せるよ」

「うう、盾職なのに……」

 言っている間にも前方に大きな化け物の影と見覚えのある馬車が姿を見せた。

「あれ、もしかしてさっきのおじさん達?」

「らしいな。 ――ここで止めるぞっ!」

 一声かけてドリフト気味に馬車を急停車させた。ゲームの操作だがこれも出来るのか。
 無茶な軌道で馬車から放り出された杏里が空中で綺麗に姿勢を整えるのを視界の端に、スキルを発動する。


 ――ショートテレポート――


「――の野郎、来るなら来やがっ!?」

 本当に視界の範囲内なら転移出来るようだった。
 唐突に目の前に現れた俺に戦士らしき男が目を丸くするのを無視して『プチドラ』と向き合った。
 ドロドロと半ばまで融解した体皮を持つ長身の人型モンスター。
 その右手は竜のアギトを模しているが、そんなことは正直どうでもいい部類の気持ち悪さだ。

 ――ギョルルルァァァァァァァァッ!

 グロい。
 プチドラ――正式名称、プチドラゴニックミュータント。どの辺りがプチなのかは製作者にしかわからない――は想像以上の存在感で俺に飛び掛ってきた。
 竜のアギトの右腕による打撃攻撃はブロックした両腕に振動と幾らか痛みがあるが程度のダメージだったが、ぐんにょりとした感覚が想像以上に……

「キモぉぉぉぉぉぉっっいぃぃぃ!!!!!」

 轟音と共にプチドラが真横に吹き飛んだ。
 赤色の光をまとって盾を突き出した杏里の突進攻撃、横合いからまともに当たったらしい。

「助かったよ。何だアレ、想像してたよりさらに……ちょ、おいっ」

「うううう、気持ち悪いよう。やだもう、死んで、死んで、死んでー!!」

 盾にべっとりと付着したぬらつく液体に涙目になった杏里がプチドラに突進、片手の直刀でむちゃくちゃに切りまくっていた。

 ――ギョルル、ギュルァ!?

「うるさい、死んで死んで死んで死んでー!!」

 緑の液体をほとばしらせながらのたうつ皮膚の融けたグロモンスター。
 そして狂気に満ちた表情で化け物を切り刻む女性。
 どちらを見ても完全にホラーの世界だった。
 一応援護に来てくれたらしい商隊の戦士もドン引きの表情を浮かべている。
 しかし、いくら勢いに乗っていてもプチドラは素の杏里の攻撃力で圧倒できるほど弱いモンスターでは……

 ――ギョルルルァァァァァッ!

「ひぃゃぅぁっ!」

 危ないだとか怖いだとかの感情よりも明らかに生理的嫌悪感を表に出した叫び声で杏里が大きく飛び退いた。
 雄たけびと共に振り回された両腕、さらに追撃の触手攻撃まで回避した重装のパラディンは数回ステップを踏んで俺の隣まで後退して来た。

「この見た目で触手までついてたんだな、こいつ……」

「ううう、死んで……死んで……」

「……大丈夫か?」

 戦い自体は冷静だったが明らかにテンパっている杏里をメインに戦うのは流石に悪いし、元よりその予定ではない。

 ――コンセクレーション――

 ――グランドサクラメント――

 金と白の光が杏里の体を包み込み、能力値を引き上げる。
 鎧に覆われた肩を軽く叩き、今度は俺が腰のメイスを片手にプチドラへ殴りかかった。

「杏里じゃないけど……死んでくれっ!」

 過去例を見ないほど手加減なしに振り切ったメイスは鈍い音を立てて見事にプチドラの頭に直撃した。
 直撃した、が、さほど効いた様には見えない。その上やはり人生で味わった事のないグロテスクな反動が右手に伝わった。

 ――ギョルルルッ!

 俺の間合いは同時に相手の戦闘距離でもある。
 リアルな感触に一瞬怯んだ俺の隙を逃さず触手が右腕に絡みつき、両腕が交互に顔面に叩きつけられた。
 グロい。グロ過ぎる。

「ぐ、あああああ、やめろ、クソっ……杏里、早くっ!」

「ごめんね、ちょっと我慢して! 死ね、死ね、死んじゃぇぇぇぇっ!」

 痛いのだが、そんなにも痛くはない。
 だが何よりも気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い。気分が悪い。
 触手を押さえている分プチドラは俺しか攻撃してこないようで、杏里は好き放題に敵の背中を切りまくっている。
 タゲ取りとしては完璧だがむしろダメージが大きいよりも地獄だった。

「うおおおおお、そうだ、死ね! 死んじまえ!」

「この腐ったヘドロが、調子に乗ってんじゃねえ! ぶっ殺してやる!」

 さらに好機と見たか商隊の戦士が加勢してくれた。
 俺同様に杏里の影響を受けたのか、口々に死ねと叫びながら獲物を叩きつけている。
 グロテスクを超えて何処かシュールな時間はさして続かず、一分と経たずにプチドラは息絶えた。
 しかしその短い時間で俺を含めて全員の体は緑色のむせ返るような悪臭を放つ体液で覆われていた。

「はーっ、はーっ……やまだ、くん……」

「……どうした?」

「強敵、だったね。過去最高の……」

「……だな」

 緑色の殺意を迸らせる杏里の迫力に押されただけでなく、俺の方も何の異論もなかった。
 絶対に二度と戦いたくない。
 こいつと戦うぐらいなら素直に帝国の暗殺者でも来てくれた方が幾らもマシだと心から思った。






 数人が怪我をしていたものの、幸い死者は居なかった。

「痛ぇ……痛ぇよう……」

「ほら、治してやるから泣き言言うな」

 怪我で済んだのなら簡単に治せる。
 右腕が半ば食いちぎられるという大怪我に対して無茶な励ましだろうが、治すので許してもらいたい。

 ――ヒーリング――

「すげえ……なんだ、これ……」

「神の奇跡って奴だよ……受けた事ないのか?」

 カントルでも思った事だが、僧侶系の職業は一般的じゃないんだろうか。
 一瞬で治癒していく傷に目を丸くする最後の男から離れた所で、昼に話した初老の男性に頭を下げられた。

「本当に、本当にありがとうございます。そのお力、高名な司祭様とお見受けします。先は失礼な真似を……」

「あー……えーと、頭を上げてください。聖職者とした当然のことをしただけで……その……」

「山田君ー、照れてる? 照れてるよね?」

 それもあるが、似たような事を別の人間にも言われたのを思い出して落ち着かない。

「それより届け物があるんでしょう。さ、行って下さい」

「ああ……そうです、そうでした。申し訳ありません、ろくな御礼もなく――」

 わかったからさっさと行ってくれ。
 何度も頭を下げた後、やはりすさまじいスピードで馬車は走り去っていった。


「良い事したねー」

「地獄だったけどな」

 ほんとほんと、と苦笑しながらまだ緑色の残る髪をタオルで拭いている杏里――そのタオル、もらったのか?

「なあ杏里」

「んー?」

 今の出来事は地獄だったし、二度とやりたくないと心から思う、思うのだが。

「こんな有様だけどさ」

「……うん」

 全身が悪臭を放つ緑の液体に覆われては絶対に出てこない筈の気持ちが胸から湧き出してくる。

「普通は倒せないモンスターから誰かを守って、あっさり倒して見せて、感謝されて……」

「うん、そんな感じだったね……それが?」

 悪戯っぽく笑った杏里に笑い返し。
 俺も出来るだけ気楽に楽しんで見えるように、言った。

「凄い、気持ちよかった」

 全く状況にそぐわない俺の言葉に――しかし杏里は大きく頷いてくれた。

「だねっ――最高に、気持ち良いっ!」

 強く吹いた風に乗せてタオルを放り投げ、杏里が踊るように回転した。
 ゲームの衣装らしく短めのスカートになった騎士衣装が鮮やかに翻り、やはり短い杏里の髪も柔らかな円を描いた。
 まわり終えると同時に直刀を抜き払い、軽く掲げて見得を切って。
 普段なら見ているだけで赤面しそうな動作もこの世界なら輝いて見えた。

「あたしたち、きっと最強だよね」

「この世界ならな」

 馬鹿な会話だと自覚しながら、俺も少し胸を張って応えた。
 笑い合って馬車に戻ろうと踵を返す
 その瞬間だった。

 ――クエスト 達成――

「……これ、クエストだったの?」

「らしいな」

 思わず展開したPTウインドウに表示された仲間のステータス、またしてもその数値が増加している。

「まだ転職には足りなさそうかな?」

「でも結構上がってるな……」

 後お使いクエスト1回か2回、って所かもしれない。
 まあ、それも良い。この世界で好き勝手してから帰っても、別にいいんだ。
 何なら彼女が満足するまで魔法を使わせてやるのも甲斐性かもしれない。
 レベルアップしたのを感じたんだろう、馬車から顔をのぞかせた三人に手を振って、二人走り出した。



[11414] 第八話 我侭(下)
Name: 検討中◆36a440a6 ID:ccff8182
Date: 2011/11/12 19:17
  オンラインゲーム『ワンダー』における初期職業は冒険者という名前だ。
 戦闘用スキルは覚えないし職業固有の能力ボーナスも低い、転職を前提とした基礎職業。
 そんな職業でも一応レベルが8程度にもなると完全無欠の雑魚相手なら意外と戦えたりする。
 悪くない武器を持って相応の戦い方をし、その上で適切な支援が受けられれば以前出会ったゴブリンぐらいなら狩る事が出来るのである。

 ――と、ゲームを楽しむ気満々の杏里が言ってしまった。

「要はね、先制攻撃なの。先にぶった切っちゃえばもう勝ったのと同じだから」

「やられる前に?」

「うん、やればおっけー」

「……物騒な話だな」

「そりゃ、そういう話をしてるんだから。僕も山田みたいに魔法で何とか出来ればいいんだけど」

 そんな役目をお前に求めてはいないんだが、と口には出さない。
 馬車に戻って程なく、危ないモンスターに襲われてる人達を助けたんだと武勇伝を披露してしまったのが拙かった。
 まるで御伽噺の英雄譚の様なそれは麻衣の乙女回路以上に健一の漢回路を刺激してしまったらしい。
 出来るのなら自分も手伝いたいという男の台詞を俺は拒否することが出来ず、杏里が冒頭の事実を述べた結果。
 こうして栗原杏里の簡単モンスターの倒し方講座が開講となったのだった。
 しかし他に居ないとはいえ教える側の人選が悪い。

「キーワードはやぶれかぶれ、コツは適当!」

「……なにそれ」

「実感があるかはわかんないけど、今は普段と全然違う力が出せる筈なの。だから別に細かい事を気にしなくても気合さえあればダメージは通る!」

「言い切られても……」

 御者台に座る俺の背後、馬車の入り口辺りで向かい合った二人。
 自信満々に言い切る杏里とは対照的に、余りにも適当過ぎる説明を前にして健一が困惑の色を見せている。

「本当本当。あたしでも思いっきり叩いたら岩が割れるんだから」

「……素手で?」

「一応ガントレットがついてるけど」

「…………」

 自慢気に力こぶを作る杏里に健一が頭を抱えた。
 杏里が気楽に無茶苦茶を言うのはいつも通りだが、それについていくのは難しい。
 ただ、無茶と言ってもこれはまだ理解できる部類だと思う。

「まあ言いたい事はわかるけどな」

「山田も同類……?」

「いや、人を化け物みたいに言うなよ」

 俺も体ごと二人に向き直り、少し苦笑した。
 健一は元の力と今の力に差が少ないので体感するのが難しいかもしれない。
 しかし俺には自分の筋力や体力が不気味な程に増えているのが確かに実感出来るのだ。
 近接職とは違い、俺がどう頑張っても岩は割れないのが残念だが。

「多分だけど、今はレベルが足りないからわかんないだけじゃない? 例えばほら、普通に考えてこんなの持てるわけないし」

 少し面白そうに俺と健一を見比べて、杏里はいつも使っている直刀をインベントリから出し、手首だけで軽く振るった。
 それだけの動作で軽い剣風が巻き起こり、馬車を引く二頭の馬が嘶き声を上げた。
 サイズとしては麻衣が抱えている炎の杖より幾らか小振りの剣だが、確かにこれだけの大きさの鋼の塊はそんなに簡単に扱えるようには見えない。

「僕もレベルが上がる度に……何て言うんだろう、力が強くなってるって言うか、体力がついてるって言うか……そういうのはわかるんだけどさ」

「あたしはそれを何倍もしたぐらいに感じてるの。山田君なら多分10倍以上。ほいっ」

「そんなもんなんだ……うわっ、何これっ!?」

 気軽に渡された剣を反射的に受け取った健一が思いっきり体制を崩した。
 やはり相当に重いのだろう。両腕で直刀の重量を支えながら健一が目を丸くしている。
 確かに重いんだろうが、しかし具体的に俺と杏里にどの程度腕力の差があるのか。
 少し、健一の抱える剣を持ち上げてみたが――持つのがやっとと言うぐらいに、重い。

「っと、確かに重いぞこれ。よくこんなの振りまわしてるな」

「重さは感じるんだけど握ってみると軽い……って言うと何か偉そうだよね。でもそんな感じ」

 鉄の塊がとんでもなく重たいということは感じられるのに、それを簡単に振るえてしまうらしい。
 俺も使っているメイスが重いのは理解できるが、それを何の問題にもせず使っている。感覚としてはこちらも同じだ。

「レベルが上がったら僕にも持てるのかな?」

「んー、レベル制限だけじゃなくて筋力制限もあるし、そのステータスがどう伸びてるのかもよくわかんないんだけど」

「健一はHPが大分上がってるから近接系に育ってそうだな」

「近接……かぁ」

 レベルは同じはずなのに麻衣と健一のHPとMPにはそれぞれが逆方向に倍近い差がある。
 本人がステータスウインドウを開けないため詳細は確認できないが、恐らく健一は筋力や体力が伸びているんだろう。
 桂木にこっそりと聞いたが、健一は昨夜も剣の素振りをしていたらしい。その辺りが原因なんだろうか。
 逆に言えば麻衣は恐らく知力や精神力を大きく伸ばしていると思われるのだが、彼女に精神力を使い果たしたり知恵を絞ったりする場面があっただろうか。

 ――あったような気も、する。

 ちなみに桂木は丁度二人の中間辺りだ。本当に普通で安心させてくれる。

「じゃあ剣士とかを目指すとして、どう戦えばいいんだろう?」

「うん、だから適当でいいってば」

「いや……その、さ」

 言いよどむ健一の考えている事はわかるのだろう、杏里も困った様に笑って言った。

「ゲームと同じで、しっかり近づいてちゃんと狙えば適当でも命中率通りに当たるの」

「……命中率?」

「そそ。だからあんまり気にしてないかな」

「適当って……構え方とか振り方とか、そういうのは全く関係ない?」

「やっぱりちゃんとした方がよく効いてる気はするけど、気がするってだけで確かめようがないから。落ち着いて無理せず振れればそれでいいよ」

「素振り、意味なかったな」

「…………言わないでよ」

 可哀想に、健一は完全にへこんでいた。
 影ながらの努力がステータスに影響している可能性を考えれば決して無駄でもないのだが、それを言って余計に頑張られるのも怖い。

「本当にそんな……そんなもんなんだ……」
 
「そんなもんだよ。何て言うかほら、剣道が出来なくても包丁で人は刺せるじゃん?」

「……その物騒さは方向性が違うんじゃないか」

 酷い言い草だったが確かに間違ってはいないと思う。
 杏里は今は一般人そのままに過ごしているが、以前見せた砂煙を出すような速度も、重い鎧を着込んだ上での素早い動きも、常人離れした身体能力に支えられている筈だ。
 精神面にステータスを多く振りわけている俺と比べて肉体面のステータスを上げている杏里は現実の肉体に強い影響を受けている。
 本来の自分とは大きく違う現在の体の『性能』、それを使いこなそうとすればそれだけで相応な難しさがあるのは想像に難くない。
 しっかり近づいてちゃんと狙って、落ち着いて無理せず武器を振るう。確かにそれ以上を望むのは無理が過ぎる話だろう。

「ちょっとまって、でも、それならさ」

「うん、何?」

「適当に殴っても数値通りに当たるんなら、じゃあこっちもモンスターの攻撃は避けられないとか、そういうこと?」

「――――え?」

 思わぬ問いに俺も杏里も一瞬答えにつまった。
 確かにゲーム通りに考えるなら避けようとしようがすまいが当たるものは当たって外れるものは外れる。
 しかしそれは――

「んー……そう、なの……かな……」

「いや、でも……違うんじゃないか……?」

 曖昧に答える俺たちにむしろ不思議そうに健一が問いを重ねる。

「ゲームではそうなんじゃないの? そもそもどういう計算なの、命中率とか回避率とかって」

 ――聞きたいと言うのか、それを。

「物理攻撃の命中判定は、武器と武器種による基本命中率を職種による命中率補正にかけた後に技量値とレベルで補正した数値から対象モンスターの敏捷値とレベルに応じた値を引いた上で武器熟練度を適用し武器種習熟度の調整を加えた上で基本攻撃スキルのスキルレベルが加味されさらに攻撃時の距離と地形で若干の味付けをしたややこしい計算の末にまあ大体当たってたまには外れるぐらいの数字が残る」

「……大体当たるんだね」

「回避率も聞くか?」

 健一と、ついでに杏里もが力なく首を横に振った。
 ゲームの計算式から数値を具体的に出すなんてのは、キャラクターを作る前や新しい高価な装備を用意する前にどうしても必要にならなければやるもんじゃない。
 ともあれ、余程とんがったステータスでなければ100%の命中率や回避率にはならない。
 例えば俺は魔法成功率と詠唱速度の為に技量を限界まで上げたステータスになっている。
 その上これまで出会ったモンスターとは大きなレベル差もあった。外した記憶がないがそれは恐らく自然だと思う。
 クーミリア――ドラゴンナイトの少女も、スピードを考えれば避けられて当然の俺の攻撃がきっちり当たっていた。
 システム的に、ゲーム的に考えれば当然の結果だ。
 しかし――

「まあ現実的には……ありえないな」

「うん、ちゃんと動けば避けられたと思う。さっきのプチドラもそうだし……よくわかんないけど、もしかしたら攻撃範囲の外でミス扱いとか?」

 同じような違和感は杏里も持っているらしく、自信なさげに否定の言葉がかえった。

「こっちは狙えば当たるのに向こうの攻撃はちゃんと避けられるんだ? それなら結構楽にやれるかな?」

 期待を籠めた健一の台詞に杏里と二人、顔を見合わせた。
 同じことを考えているんだろう、杏里も困ったような表情を浮かべている。

「んー、でもそういう避ける動きもステータスに依存してるよね。あたしはあんまり素早くないからわかってても食らっちゃうことあるし、相手が早すぎて距離的に空振っちゃうこともあったし」

「俺もそれで苦労してる」

「だよね……」

 攻撃速度の為に幾らかは敏捷性を引き上げている杏里と違って俺は職業ボーナス分しか速さがないのだ。
 それでも一般人と比べれば相当に早いが、化け物の攻撃を避けきるに足るとはとても言えない。
 ショートテレポートはそれを補えるものの、状況把握とそこからの行動でタイムラグがある。もしも実力の近い相手と戦いになる事があれば使い道は少ない。
 仲間の壁になることが多い現状の戦闘では尚の事だ。

「…………」

「…………」

 基本的には攻撃を受け止めざるを得ない者同士、どちらともなく溜息をついた。
 
 だが、攻撃範囲外、というのは本当にありえるだろうか。
 『ワンダー』は元々かなり古い時代に作られたゲームだ。
 通常攻撃が出来る距離まで一時的にでも近づけば、行動決定後に離れてもダメージの判定が行われるという、今時は少ない設定になっている。
 攻撃すると決めて相手が当たる距離に居れば、それこそクーミリアのように『何故か』直撃を受けてしまうはずだ。
 回避するにはそもそも絶対に近づかないか、素晴らしい回避力を備えるしかない。ゲームらしい話だ。
 その為、攻撃の瞬間にだけ距離をとって攻撃を避けるなどというテクニカルなシステムは備わっていない。
 現実的には当然なのだが、だからこそゲーム的にはありえない。
 しかしそう考えていけばそもそもスキルの仕様も――
 
 と、考えている俺に健一がおずおずと口を開いた。

「えーと、あとさ」

「ん?」

「もしかして弓みたいに遠くから当てられる武器があれば結構やりたい放題なんじゃないかと思うんだ。どうかな?」

「……そうだな、結構ありなんじゃないか」

 確かに遠距離武器の利点はゲームより現実の方がよほど活かせる。
 足を狙う、罠にかける、地形を利用する。ヘイトを稼がない範囲なら前衛を壁にしても撃っても良い。
 スキルがなくとも頭を使えばやりたい放題というのはあながち間違いではないかもしれない。
 ――使いこなせるのなら。

 使えるのか、と聞いた俺に健一の表情が目に見えて引きつった。

「あれ、実は弓道部とか? 肩をはだけて弓とか射っちゃえる?」

「……ううん、未経験なんだけど。何て言うかほら、その、さっき言ってたシステム的な何かでさ」

 健一はインドアではないもののアウトドアと言える程ではない。
 ただでさえレベルが低い上に近接武器を扱う自信もないので間合いの取れる武器を考えているんだろう。
 ステータスで無理やり戦っている俺でも殴り合いは怖いぐらいだ。気持ちはよくわかる。
 しかし、残念ながら――

「弓が装備できるのって……」

「弓手職の系列だけだな」

 弓を装備できる職業は多いのだが全て転職後の職業だ。冒険者には装備できない。
 俺がナイフを扱うように一般人レベルで使える可能性はあるが、それならやはり最低限の技術が必要だろう。

「じゃあ、遠くから石を投げるとか」

「石投げは……」

「固定で1ダメージ……」

 攻撃動作どころかエモーション動作である。タゲを取る以外には使えない。

「……遠くからナイフを投げるとか」

「あ、それはあるな、投擲攻撃」

「本当? じゃあそれを使えば援護とか出来るんじゃない?」

 確かに出来るだろう。オーガを倒した実績もあることだし、案外投擲武器とは相性がいいかもしれない。
 しかし、これはこれで――

「確か投擲も武器が決まってて……投げると確率でロストするんだっけ」

「ナイフを100本持ち歩ける、とかならいいかもな」

 インベントリが使えないとこういう時に困る。
 弓を扱うにしても結局矢を持ち歩くのに苦労した事だろう。

「…………」

 無言で頭を抱える健一に、情けない動作と合わせていつも以上の愛嬌を感じる。
 男の癖に可愛らしい様子にどこか不条理さを覚えていると、ついに観念したらしい。

「……杏里ちゃん、剣での戦い方、教えてくれるかな」

「あはは、だから私も本当に適当に振ってるだけなんだけど」

 素振りの成果が発揮できると何よりなんだが。




「開けゴマー、とか?」

「それ、魔法なんでしょうか?」

「だってほら、魔法のランプ……」

 麻衣と桂木は流石にモンスターを殴り倒す気はないらしく馬車の奥で魔法の練習をしている。
 魔法の練習という名の雑談の会、もしくは若干漫才のようにも見えた。

「あたしも最初は殴り殴られ頑張ってたんだけど、やっぱり痛いとどうしても動きが止まっちゃうの」

 杏里先生の講義は続いている。
 武器の扱いについては本当に教えられないんだろう、行動方針と精神論が中心になっていた。

「殴り合いって、思ってたよりずっと大変だったよ。最初なんて怖くて痛くてずーっとやられ放題」

 ボクサーだって殴られれば一瞬動きは止まる。当然と言えば当然の話だ。
 しかし野生動物にも近い実在のモンスター相手にその隙は致命的かもしれない。

「だから避ける、受ける。最悪の場合でもどこか防具に当てるようにしないと絶対駄目。ダメージは変わってないんだけど体に直に当たるのとは気持ちが全然違うから」

「杏里ちゃんみたいに鎧を着ててもやっぱり痛いのは痛いんだ?」

「それがそうなの。もうびっくりするぐらい痛くて、どう考えたって負けないような相手にちょっと危ない所までいった事もあったりして」

「――っ」

「えええ、大丈夫だったの?」

「残念ながら……って大丈夫じゃなかったらここに居るあたしって何なのっ」

「いや、冗談冗談。そっか。杏里ちゃんもやっぱり苦労してたんだね」

「…………」

 いや、実際に致命的だったんだ。
 杏里と出会ったガイオニスの周囲にいるモンスターは、先のプチドラの様に数匹だけ居る特異な敵を除けば彼女一人で軽くあしらえる相手ばかりだ。
 現在の杏里が装備しているのはNPC商店で買えるありふれた武具だが、それでも正面から戦えばただ殴り合っているだけで十分に圧倒できる。
 例えば必要ない筈なのに逃げ回って相当な数の敵に囲まれてしまったり、何も出来ず無抵抗に攻撃を受け続けるような事がなければ……危険な状態には追い込まれない。

「痛かろうが死にそうだろうが戦える気合があればそれが一番なんだけど、やっぱり難しいから。勢いで倒せる相手だけ選んで先制攻撃、これが完璧な作戦だと思う」

「もし敵の方から襲い掛かってきたら?」

「逃げて。頑張って逃げて」

「うわぁ……」

 何の躊躇もなくゴブリンの首を飛ばした杏里を思い出した。
 敵の攻撃を鮮やかに捌き、的確に処理していく姿が蘇った。
 クーミリアの剣を幾度も受けて血を流し、しかし冷静だった彼女の異様に気がついた。

「それから一番大切なのは、山田君が居ない時は絶対に戦わないってこと。とりあえず山田君が居れば即死以外で死ぬ事はないから」

 だよね? と笑顔で振り向いた杏里に俺は頷くことしか出来なかった。
 傷ついて癒されて、また傷ついて。そんな拷問みたいなことをさせたくない――以前俺がそう言ったあの時、杏里は大丈夫だと言った。
 殴られて殴られて……それでも命懸けで抵抗する戦いに比べれば、命の危険がない今は確かにお遊びなのかもしれない。

「と言っちゃうと全部山田君にやらせちゃえばいいことになるんだけど……あー、やっぱりそうしよっか。楽だし」

「いや、僕も戦えるようになりたいって話で……」

「あたしは何か教えるとかそういうタイプじゃないんだもん。そだ、そろそろ山田君と代わろ?」

「……俺は僧侶だから殴り合いとかどうしようもないっつの」

「うーん、やっぱり全身にナイフを装備して投げまくるのが良いのかなぁ……」

「やりたいなら良いけど、絶対にあたしの方に近づかないでね?」

「だ、だよね……どうしようかな……」

 数日前の生命の危機を明るく話せるというのは強いのか鈍いのか。
 全身刃物人間への道を歩もうとする健一を笑顔で拒絶する杏里、は多少の危険や幾らかの痛みは笑い飛ばせる域にいるんだろう。
 皆と一緒に戦うというのは杏里がしたような危険を味あわせることに他ならない。
 その重みを強く感じ、深く深く考える。
 そして俺は健一を見据えて言った。

「よし、とりあえず次に出た敵と戦ってみるか」

「…………マジで?」

「うんうん、いけるいける!」

 健一相手に気を使うのも馬鹿馬鹿しい。男がやると言っているんだからやればいいだろう。
 ステップボアならバフ込みで4,5発は耐えられるので全く問題はない。
 二発で半殺しになる痛みというのはどの程度か、受けてみて本人に判断してもらおうと思う。
 麻衣や桂木ならともかく健一ならいいだろう、うん。





 ――プギィィィィィ!!

「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――」

「健先輩ーっ!? 山田先輩、早く、早く助けてっ!」

「うーん、飛んだねー。トラック相手の交通事故みたい」

「だ、大丈夫なんでしょうか……?」

「とりあえず杏里、あいつ処理しておいてくれ」

 正面から向き合ったモンスターの圧力を前に、健一は当然のように棒立ちだった。
 猪の突進をまともに受け止めて空を舞う人影をのんびりと追いかけ、落下した所でヒールをかけてやる。

「どうだ、やれそうか?」

「……次は絶対、避けるよ……」

「……そうか」

 言葉とは裏腹に倒れこんだまま起き上がろうとしない健一。ショックで体が動かなくなっているらしい。
 後のことは駆け寄ってきた桂木に任せ、簡単にステップボアを切り裂いた杏里と目を合わせる。

「無理だろ」

「無理だね」

 言葉をかわし、ごく自然に頷きあった。
 とは言え本人が満足するまではやらせてやりたい所だ。

「魔法使いになるのもこんなに無茶しないと駄目なんですか……?」

 桂木に支えられて身を起こす健一を見て不安げに言う麻衣。
 軽く肩を叩き、安心させるように、力強く答えた。

「健一には漢として引けない場面があっただけだ。麻衣は時間をかけてちゃんとレベルを上げてやるから心配しないでくれ」

「うわー、不公平だ」

 二人を公平に扱う方がよほどおかしい。
 ふらふらと身を起こす健一を小突き、確かに安全な時に色んなことをやってみるのもいいかもしれないと、少しだけ納得した。






















 第八話 我侭(下)





















 地平線に微かな影が見えた時、最初に脳裏に浮かんだのは『大草原の小さな家』だった。
 周囲はひたすら草原に囲まれて緑一色、その中に小さな白い家があるように映ったのだ。
 しかしすぐに気がつく。距離がある為小さく見えるだけで、実際には巨大な白亜の壁がそびえ立っている。
 何もない草原にぽつんと都市。ゲームでも相当な違和感があったが現実で見るとさらに異様だ。
 
 ともあれついに町が見えた。ライソードを目的地とするならあそこが最後の通過点になる。

「見えたぞー、サイレインだ」

「本当ですか?」

 返事は一人分だけだった。
 馬車の中に視線を送ると、まだショックが抜けていないらしい健一を膝に乗せた桂木がこちらに人差し指を立てている。
 杏里の方は二人から背を向けて大きな盾を布団の様にして眠り込んでいた。
 健一に色々あったとは言え、あの状況で不貞寝をしたい気持ちはわかる。そっとしておこう

「見ても大丈夫ですか、先輩」

 こちらはしっかり起きていた、入り口脇までやって来た麻衣に頷き返し、遠く見える白壁を指差した。

「あれがサイレインだ……と思う。予想より少し早く着いたな」

「夜は中で食べられますね」

「そうだな。壁の中には確か畑もあったし、そういうのが食べられるかもしれない」

 地平線まで馬車の速度でも一時間はかからないだろう。ようやく一休みできる。
 問題は、よくわからない味付けの適当な料理を食べるより、桂木が作った方が俺たちの口に合うという事か。

「……えっと、失礼します」

 顔を出すぐらいなら同じだと考えたのか。麻衣が俺の隣、御車台に腰掛けた。
 少しだけ体重をかけて寄りかかってきた麻衣に応えて、二人支えあうようにしてしばらく馬を進ませた。







 サイレインが近づいてくるにつれて遠めには小さく見えた壁の大きさがはっきりと伝わってくる。

「凄いですね。何もないところにこんな大きな街が……」

 幾らか傾いた太陽の下、継ぎ目すら見えない城一色の外壁は薄い銀色に輝いている。
 確かに幻想的と言うに相応しい光景だと思うが、俺は違う感想を持っていた。

「凄いと言うよりおかしいよな」

「おかしい……ですか?」

「ここさ、最初はただの草原だったんだよ」

「……?」

 不思議そうにこちらを見返す麻衣に言葉を間違えたことに気がついた。
 ゲームの内容を現実として説明するのはいつも難しく感じる。
 言葉足らずになると言うか、一番大切な部分が噛み合っていないというか。
 ネットゲームの世界は、本当に一つの世界として存在しているかのように、そこだけに適用されるルールや法則、常識が存在する。
 それを知らない、体験していない相手は会話の意味すら把握できない場合があるのだ。
 そして良くも悪くもその部分を理解していて、俺と噛み合ってしまう杏里と話しているのは気楽で――

「先輩?」

「……いや、えっとだな。町が出来る前の最初って意味じゃなくて……普通の草原マップにアップデートで町が追加されたんだ」

「町が追加……?」

「ただ連続した草原マップにモンスターが居るだけだったのに、マップとマップの間に後から強引に町を設置した結果、あんな感じになってる」

 あんな感じ、と町の周りを指差して麻衣は少し納得したようだった。
 立派な外壁を持つ大きな町があるのに。その周りはただ一面草原だけ。外壁の外には建物が一つもない。
 物語ならこんな町もあっていいだろうが現実にあると明らかに妙だ。
 大きな入り口から薄っすらと街並みが見えるから都市だとわかるものの、そうでなければ入るまで何かはわからないだろう。

「そうですね、ちょっと不自然です」

「やっぱりこういうの見ると、確かにゲームなんだなって思うよ。魔法がどうとかより、こっちの方に違和感がある」

 現実にはありえない生き物、現実にはありえない出来事。
 しかしそれよりも、マップの継ぎ目という現実では存在しないシステムが如実に現れる事が俺には異様に映る。
 それをどう受け取ったんだろうか、麻衣は少し俯いて、小さく言った。

「ここはお話の中。ゲームの中。動物も町も人も……作り物」

「どうにも、普通に生活してる人間にしか見えなかったけどな」

「……それでも決まったことしか出来ない登場人物。昨日の人もそうだったんでしょうか?」

「俺には……わからないな」

「……」

 杏里とは違い、やはり麻衣はクーミリアの事が気になっているんだろう。
 結局の所は麻衣が正しかったと思う。
 幼く可愛らしく、そして可哀想だったから、何となく許せる気がしたけれど。
 剣を向けられた人間を無条件に許せる心の広さを持つだなんてそんなに簡単なことじゃない。
 全員が、そして彼女本人が受け入れたとしても、俺達は叶うなら短い旅にしたいと思っている。
 連れて行ってもきっと長く一緒には居られないのだ。
 勿論してあげられることは他に幾らもあっただろう。でも俺達は見知らぬ他人の人生に責任が取れるほど立派な人間じゃない。
 相手が本当にNPCならなおさら気にする必要はない筈だ。


 ――ちょっとは気を抜いて、気楽にいこうよ――


 ――しかし、そう、そんなに気負って考える事もなかったかもしれない。
 ゲームの中で、元々は敵の新しい仲間、可愛い少女がPTに加入した……それは何かおかしかっただろうか。
 もしかしたらそれでも良かった……



 ――プギィィィィィ!!



「っ、先輩っ!」

 唐突に響いた何かの鳴き声。
 麻衣に言われるまでもなかった。進行方向に砂煙と動物の影が見える。
 前方に見える突進中のステップボアをターゲットし、クイックスロットから魔法を発動する、イメージ。
 大分と慣れてきた手順をすんなりとこなし、虚空に白い光が冗談のように瞬き、強く輝いた。
 勢いよく突進していた猪がつんのめるように止まり、そのまま横転する。

「あ……先輩、凄い!」

「いや、悪いけどまだなんだ」

 麻衣から向けられる尊敬の視線が痛い。
 ステップボアはまごうことなき雑魚モンスターなのだが、初級神聖魔法一発で倒せるほど弱くはない。
 と言うより一発で倒せるモンスターの方がかなり少ない。
 のろのろと起き上がり、再び突進の姿勢を取ったステップボアが走り出すと同時に、再度スキルを発動。
 カウンター気味に魔法を受けてさらに倒れこむステップボアに、最後はタイミングを図る必要もなくディレイが切れるのと同時にスキルを発動した。
 人間の腰までありそうなサイズの猪が白い光と共に消滅していく。
 俺自身は全く身動きを取っていないのが、もう苛めにしか見えない。
 流石に気分が悪いかと隣の彼女を伺ったのだが案外そうでもないようだった。

「簡単に勝てちゃうんですね、先輩」

「ああ……うん、まあ……」

 生き物を殺戮する彼氏を輝く瞳で見つめる彼女というのはどうなんだろうか、どこか猟奇的ではないだろうか。
 勝てる、と表現するのが彼女なりの優しさなんだと考えたい。

「本来はそんなに簡単でもないんだけどな。魔法で動きが止まるとか、ゲームではなかったし……」

「そのまま走ってくるんですか?」

「そうなる筈なんだけどな」

 ノックバックや硬直付与の効果がないただの魔法攻撃なら、ゲームではダメージを受けながらも敵は攻撃を続ける。
 しかしこの世界に普通に存在するモンスターだからか、攻撃を受ければ止まるし痛がったりもする。
 時には逃げ出したりすることもあるのだ。
 機先を制すればそのまま倒してしまえるのでここまでモンスターで特に苦労はしていない。
 
 しかし最後に消滅するから幾らか罪悪感が軽減されているが、やはり生き物を殺すというのは余り気分が良くない。
 身勝手な考えだが、誰かの目があるところでは特にやりたくなかった。
 かと言って誰も見ていないといつかのように無感動に敵を消し飛ばしてしまうこともある。
 あれはゲームだから気にしなくても良い、と区分けするには厳しい行為だと思う。

「……ボアのベル、拾わないのー?」

「なんだ、起きたのか、杏里……?」

 後ろからの声に振り返ると何かもう凄いことになった杏里が居た。

「杏里、鏡見ろ」

「ん……持ってないし……ふぁ……」

「借りろ。ほら、もうすぐサイレインだからしゃきっとしろ。健一も起こしてくれ」

「んー、健一くーん、もうつくよー」

「あ、ちょっと、栗原さんっ!?」

 髪はぐちゃぐちゃで、片方の頬に毛布の模様がつき、もう片方の頬には盾が食い込んだ妙な跡のついた変な女――
 つまるところ杏里に、膝の上の想い人が襲撃された桂木が騒いでいるが……もう放って置こうと思う。

「夜はそれ程寝る時間がないし、昼に寝てくれるぐらいで丁度良いよな」

「そうですね」

 と言ったものの、昨夜まともに眠れていないだろう麻衣の方が長い時間起きてくれている。

「麻衣も、昨日は悪かったよな、本当。今日はちゃんとゆっくり休めるから」

「……はい」

 そんなに残念そうな顔をされても困るんだが。

「――自分達だけ桃色の空間作って、ずるいと思う」

「……早いな、杏里」

「桂木さんに叩かれたの……痛い……」

「大丈夫、ですか?」

「んー。平気」

 果たしてダメージはあったんだろうか。単に気持ちの問題かもしれない。
 髪の方は櫛を通した程度だが、顔に残った跡は綺麗に消えている。自然回復だろう。
 しかし寝起きで目つきが据わっているのは変わっていない。
 並んで座っている俺達に邪悪な視線を注ぎ、杏里は黒く笑った。

「やるのやらないのでイチャつけるのなんて今の内だけだもん……どうせすぐに会う日は毎回ってなって、面倒になって、それで別れるんだもん……」

「起き抜けに何を言ってるんだお前は……」

 別れろー別れろーと聞こえてくる呪詛に麻衣の方も苦笑している。
 男女関係で誰かに妬まれるなんて杏里に会ってからが初めてで少し新鮮なんだが、麻衣もそうだったりするのかもしれない。
 呪いの声が落ち着いたところで、近づいてくるサイレインの門を見ながらふと杏里が言った。

「そうだ、ここの聖剣教会見てみたいなー」

「ああ、良いかもしれないな」

「せいけん教会……ですか?」

「そう、聖剣が祭られてる教会。土に刺さった剣を抜けたら英雄で、なんとその聖剣がもらえるの!」

 どこかであったような話である。もちろん、抜けるようには出来ていない。

「わぁ……素敵なお話ですね」

「そう! ターゲットしたら性能だけはわかるんだけど、それがもうすっごいの。絶対欲しいよね!」

「英雄ってちょっと良い響きですよね」

「うん、本当に凄く強くって、スキルも上がるし――」

「……お前ら、噛み合ってないぞ」

 盛り上がっているので別に良いんだが。

「折角来たんだから見ておきたい気もするな。あの滅茶苦茶大きなステンドグラスの教会とか」

「ん、それライソードの方、大聖堂だよ。山田君、一緒に行こうって言ってたでしょ?」

「ああ、そうだった……そうだけど……」

 思い出した、確かに大聖堂だ。フレンドの結婚式で何度も見た教会。
 それはそうなんだが、一緒に行くなんて話――しただろうか?

「私、ヨーロッパの教会とか好きで……色々見て回りたいです」

「適当に観光もしようか。一日で見て周れない広さじゃないしな」

 本当は帝国の誰がしかに襲撃される危険もあるんだろうが、一応は教国内になる。幾らか安心はしていいだろう。
 そもそも本当はこんな心配など必要なく、俺達は追う必要のない相手と見られて放置される可能性だってあるのだ。
 しかし仮にも部隊長だったらしいクーミリアを撃退したという大きな気がかりが楽観的な自分を抑え込んでいた。





 後ろの二人も準備を追えたらしく、馬車から顔をのぞかせた。

「白い……大きい……綺麗……」

「うん、三行で言うとそんな感じだね」

 三行とか言っても桂木にはわからないぞ、健一。
 俺と杏里と健一で、既に解る方が多数派になってはいるが。

「この町の次にライソード、神様の居る町がある。でもここから最低で二日はかかるだろうし……道は険しくて敵も強い」

「ちゃんと準備していかないとダメ、ってことか」

 ぽんぽんと腰のソードを叩きながら健一が呻く様に言った。
 まだ使いこなせていないその剣以外に盾のようなものを買うのもいいかもしれないと少し考えていたりする。
 投擲武器を用意するよりは実用性があるだろう。出来れば逃げて欲しいんだが。

「険しいって……大丈夫なんですか? 山田先輩、どのぐらい大変なんです?」

「自分の足で歩いたわけじゃないんだけどな、文字通りに山あり谷ありだった」

「ふぇぇ、また山……」

 桂木にとっては谷より山が問題か。未だに振動に慣れないらしいから仕方がないな。

「山を登って吊橋で谷を超えて、それでまた山を登って、それから山を降りて……歩き終わった時には右手が疲れてる。そんな道かなー?」

「右手……?」

「ほら、これこれ」

 不思議そうにする桂木に、杏里が右手でマウスをクリックする動作を見せていた。
 マウスを握る手が疲れるって事だろう。わかりにくい。
 視線を戻すと、サイレインの門の端で門兵と思わしき男が手を振っている。
 あそこで検問を受ける、ということだろうか。
 よくよく考えるとこの馬車は帝国騎士団のものをそのまま使っているわけだが、止められたりはしないだろうか。
 ほんの少し緊張しながら馬首をそちらに向けた。









 なんと言えば良いんだろうか、やたらとフレンドリーだった。

「いやー、そんなに若いのに自分の足で巡礼なんて、今時感心だよ。このままライソードにも行くのかい?」

「は、はい、数日泊まったら向かう予定です」

「そうかそうか! うん、本当に素晴らしい!」

 白いローブを着ている麻衣が隣に居たのが効いたらしい。
 巡礼に来たという言葉があっさりと信用され、むしろ歓迎を受けるている。
 あっけなさ過ぎて拍子抜けしてしまうぐらいだった。

「内緒なんだけどね、商人と違って巡礼者には街の方で支援があるんだよ。宿を決める時に巡礼だって言えば、どこも安くしてくれるよ」

「はい、ありがとうございます……」

 そこで出ようとする商人さんが思いっきり聞いている気がするが、その辺りはいいんだろうか。
 苦笑している辺り暗黙の了解と言った所なのか。

「馬車は預かれないから、悪いんだけど応じた宿を探して欲しい。東の大通りなら何軒も見つかるよ」

「わかりました、ありがとうございます」

「では、良い滞在を!」

 爽やかな門番に見送られ、入り口から東へ馬の足を進める。
 すぐに着くと思ったが思ったより時間がかかったようだ。もう十分に夕方と言える時間になっている。
 外壁だけでなく街の建物全てが白亜のサイレインは、傾いだ太陽の光を受けて町全体が黄金色に輝いていた。
 ただの町家も、装飾の施された教会も、豪奢な商店も。全てが絡み合いながらイルミネーションの様に連なっている。
 さほど遠くない距離の複数の教会から同時に鐘の音が響いて、恐らくは意図しているのだろう、複雑だが壮麗な音のメロディーが耳に届く。
 贔屓目に見ても幻想的だと言えるその光景に揃って声もなく見蕩れた。

「ね、山田君」

「ん……杏里?」

「ここに住むのもいいかもしれないって……思わない?」

「……大丈夫か、お前」

 どういう思考の結果そこに行き着いたのか、わかるようなわからないような。

「そうですね……凄く、綺麗……」

「ほら、杏里のせいで麻衣がどんどん汚染されてるだろ」

「松風さんは会った時から結構凄い人だった気がするんだけど……」

 俺の立場としてその発言は認められない。
 横の明らかに失礼な会話すら耳に入っていないぐらいに見惚れている麻衣はとりあえず置いておこう。
 あちこちに出ている露店の中から適当な店を見繕い、馬の足を止めさせる。
 美味しそうな果物のジュースがあったので素材も確かめずに5人分購入し、馬車の泊められる宿を紹介してもらった。
 残念なのか幸いなのか、味の方はぼんやりしていた麻衣の意識を戻すぐらいにアグレッシブだった。
 インベントリに入れて説明文を見ると攻撃力の数値が設定されている。これは捨てようと思う。






 教えられた宿屋は今までよりずっと高い金額を取る代わりに何も聞かず何も言わずに部屋へと通してくれた。
 ベッドと大きなテーブルのある広い一室で荷物を下ろし、ようやく一息をつく。

「はー……疲れたよー」

「いや杏里、寝てただろ」

「寝苦しかったから、もう逆に疲れちゃって」

「うん、それわかるよ。僕もやたらと体痛くてさ」

「健先輩、私と~っても足がしびれたんですけど?」

「お前らな……」

 ため息をついて椅子に腰を下ろすと、麻衣も俺の対面の席についた。
 疲れているのか、眠いのか。溜息ではないだろうが、吐息を吐くのが微かに耳に届いた。
 少し俯き加減になっている様子が暗く見えて、何故か初めて会話をした日に一人で沈みこんでいた彼女の姿が重なって見えた。

「……麻衣?」

「あ、はい。何ですか先輩?」

 それは一瞬だけの気のせいだったらしい。
 思わず声をかけるとすぐに顔を上げ、俺と目が合うと少し首を傾げて微笑んでくれた。
 少し湿った黒髪が幾らか間をおいて頬を流れ、意識もしていなかった麻衣の匂いを少しだけ感じる。
 上目遣いでおどおどしていたあの日とは違いしっかりとこちらを見つめている。
 よし、と何処か嬉しく思いながらも、よく考えると特に用事はなかった。

「いや……長旅だしな。やっぱり麻衣も疲れたか?」

「そうですね。少しだけ」

 笑ってくれてはいるのだが、確かに少し疲れた笑顔に見える。
 疲れが取れるように長めに滞在するべきなんだろうか、それとも一日でも早く帰るべきなんだろうか。
 杏里は少しは無茶をしようと言ったが、皆はどう思っているんだろう。

「健一、まだ夜には早いしちょっと外を歩かないか。まともな飯の食えそうな店も探したいし」

「あー……うん、行こうか」

 こちらは幸い元気そうな、桂木をあしらっていた健一が頷いて立ち上がってくれた。
 
「じゃあ、後頼むな」

「はーい、行ってらっしゃーい」

 軽く請け負った杏里に手を振り、二人連れ立って部屋を出る。
 扉を閉める直前、見詰め合う女性陣の間に何となく微妙な雰囲気を感じたのは気のせいだと思う。







 猪にはねられたショックは流石に癒えているんだろう、健一は意外と元気そうに歩いている。
 俺には答えを決めかねる『若いんだからもっと無茶をしよう』という杏里の意見についてどう思うだろうか。

「回復魔法とかポーションって副作用はあるの?」

「ポーションは100本ぐらい飲むとやっと中毒になり始めるけど、すぐ治る。魔法は特にないな」

「んー、なら別にもう少し無理してもいいとは思うけど……やっぱり女の子の体調は読めないからね」

 つまりは何とも言えないという事か。

「慣れない場所に連れて行って無理させると、三人に一人がお腹壊すよ。それでもう一人は頭が痛くなって、最後の一人は調子が悪くなる。女の子ってそういう生き物だから」

「……何が違うんだよその三つ」

「色々違うんだよ、色々」

 足が痛いって言われたらもう末期だね、とやはりさっぱりわからない話を続けられた。
 日が沈んだサイレインはやはり美しい町だったが、男と二人で雰囲気も何もあったものじゃない。
 道沿いに並んだ露店や店舗を冷やかしてだらだらと歩みを進めた。

「そういえばさ」

「ん?」

 宿を紹介してもらった露店と似た果物が売られているのに恐怖に近い何かを感じていると、健一が少し改まって声をかけてきた。

「麻衣ちゃんとは、上手くいってる?」

「上手くいきすぎてるぐらいだ。その話かよ」

 わざわざ真剣にこの話はどうなのかと思ったのだが、健一は真面目な表情で続けた。

「なら良いんだけどさ。杏里ちゃんとも仲良くやってみるたいだから……どうなのかと思って」

「……普通に仲良くしても悪くはないだろ?」

「そりゃ、悪くはないけどね」

 言い訳のようだと自分でも思いながら言った言葉に、健一は少し溜息をついた。

「まあ、山田にそのつもりがないならその方が良いよ。僕も麻衣ちゃんの方がお勧めだし」

 ――――それは

「な……なんだよ、それ。どういう意味だ?」

「なんだ、じゃないよ」

 反射的に言い返した言葉に思ったよりずっと強い言葉が返ってきた。

「どういう意味か? 山田はそこが悪いんだって言ってるんだよ」

 そこってのはどこの話だと、軽口を言えるよう空気ではない。

「僕は麻衣ちゃんが良いって言ってるんだからそれで良いだろ、なんで嫌そうにするのさ」

「嫌そうって、そんなつもりは……」

 そんなつもりはなかった。でも、確かにそんな風に言ってしまったかもしれない。
 曖昧に言い返した俺に厳しい視線を向け、健一が説教のように続ける。

「麻衣ちゃんの話だけじゃない。杏里ちゃんへの態度もそうなんだよ。いくら仲が良くても彼女と他の女の子っていうのは区別しなきゃダメだ」

「区別って……」

「区別するのが当たり前だろ。曖昧なのは失礼なんだよ。僕だって同時に何人もなんてした事ないよ」

 言われてみるとそうだったかもしれない。
 この男は連れている女が頻繁に違った。
 いつだってとっかえひっかえで……それでも被っている時期はなかったような気がする。

「特別扱いをしなきゃダメなんだよ。不公平なぐらいで良いんだ。彼女にだけ見せる顔とか、してあげる事とか、そういうのが必要なんだ」

「……ああ」

「だからね、許されたからって何をしてもいいわけじゃないし、求められないからって何もしなくていいわけじゃない。わかる?」

「……なあ健一」

「なにさ」

 何と言うか、ためになった。
 同じネトゲ仲間と話すのが楽しいからつい、と自分には言い訳できても、他人の視点で言われると胸に来るものがある。
 素直に受け止めるべきだと思う、のだが――

「いや……お前からこの手の話を聞いて感謝する気持ちになったの初めてだ」

「いつも聞き流してたもんね、山田」

「全く関係なかったからな……」

 関係があるようになったというのは喜ぶべき事なんだろうか。
 
 思わず息を吐いた俺と同時に、健一も疲れたように溜息をつく。 
 少し道を外れ、崩れた塀を椅子代わりに並んで腰を下ろした。

「……ごめん、ちょっと八つ当たりだった」 

 ぽつりと言われたその言葉に首を振る。
 間違ったことを言われたとは思っていなかった。

「まあ、さ。この機会に慣れておいた方が良いよ、こういう媚びられるような事に」

「そうか? この世界に入らなかったら女なんて一生縁がなかった気がする」

「麻衣ちゃんは最初から押せば……まあそれはともかくさ、実際の所は山田も考えてるでしょ。もしかしたらもう戻れないかもしれないって」

「…………それは」

 予想外の言葉に一瞬息を呑み、ゆっくりと答えた。

「……そりゃ、考えてないとは、言わない」

 皆の居る前では出来ない、踏み込んだ話だった。
 確かにもしもの場合を考えているのは事実だ。
 しかし俺の考えているそれは全ての可能性を潰した後のことだ。
 神に会い、それがダメなら麻衣を転職させて、それでもダメなら力づくで魔王を従えても良い。
 何をしても無駄に終わったのならその時はこの世界で生きていかなければならないが、そんなのはずっと先の話になる筈だ。
 
 しかし健一の言う可能性はもっと近い未来を見ているように思える。
 曖昧に答えた俺に健一は深く聞こうとはせずに続けた。

「例えば……生きていけるように皆強くなって、仕事を探すのかモンスターを倒して暮らすのか知らないけど……きっと知り合いも増えるよね」

「そうだな」

「仲間が出来るかもしれない。家族になる人が居るかもしれない」

「そういうこともあるかもな」

 言われて、クーミリアのことを思い出した。
 この世界に残るんなら彼女のように何かの機会に出会った誰かを見捨てる必要はないんだろう。

「でもさ、山田頼みなんだよ、結局は」

「……俺頼み?」

 そう、と頷いて健一が続ける。

「山田のレベルに達するまで死の危険を冒さないように出来る?」

「いや……どうやったって無理がある。ってか、もっと低い段階で止まるな」

 モンスターの経験値はレベル差で補正される為、絶対に安全な雑魚を倒し続ければいつかは限界が来る。
 カンストまではとても届かない。それどころか上位職になる前には危険なダンジョンに潜る必要が出てくる筈だ。

「だろ? だからどんな場面でも、どんな人と出会っても――僕らも、誰でも、きっと山田に頼る事になる。山田に取り入ろうとする人が沢山出てくる。だから……色目を使われるのに慣れるに越した事はないと思う」

「…………」

 考えた事はあった。この力を使って好き放題にすればどうなったかと。
 取り入ってくる人間を、色目を使う相手を、遠慮せず存分に味わって、好きなように生きる道もあったのにと――想像した事があった。
 でもそれはきっと誰もを不幸にして、俺も幸せにはなれない未来だろう。それぐらいはわかる。
 しかしきっと、ただ生きていくだけでも近い状態にはなってしまうのだと、健一はそれを気にしてくれている。
 俺にはそもそもこの世界に残るつもりがない。だから過剰な心配だとは思うが……気遣ってくれるのは嬉しいと思った。

 ――そしてそれよりも、もっと気になる部分がある。

「俺って、今もそんなに色目使われてるのか?」

「僕の立場からは言いにくいよ。そういうのに気づく為にも慣れろって言ってるんだし」

 麻衣の事を言っているんだろうか、杏里の事を言っているんだろうか。それさえも俺には判断がつかない。

「この世界で生きていく努力より、家に帰る努力をさせてくれ……」

「まあでも……結局さ、そんなに問題はないんだよね、戻れなくても」

「――は?」

 いやいや、問題あるだろう、どう考えても。
 俺の視線に気がついたのか、少し苦笑して健一が続ける。

「怪我も病気も山田が治せるんだから、寿命だけ考えればあっちの世界よりずっと長いよ。少し時間をかければ強くなれるんなら食べるのに困る事もないだろうし」

「そりゃそうだけど……他の部分で困るだろ」

「そんなのは些細な事だと思わない? 本音を言えば、僕は例え戻る方法が見つかってもこっちの世界にまた来る手段がないなら帰るべきじゃないと思ってる」

「な――」

 少しでも早く皆を元の世界に戻したい、家に帰らせたいと思っていた俺には予想外の言葉に、思考が止まった。
 眼前の親友は言葉も出せずにいる俺をしっかりと見据えている。

「だって考えてもみなよ。ここでならどんな病気も怪我も治る。死んだって蘇生できるかもしれない……んだよね?」

「……ああ」

 それは事実だ。
 今の所は使う機会がないが『ありとあらゆる全ての状態異常が治療できる』と定義された魔法がある。病気であれ怪我であれ問題にはならない筈だ。
 そして蘇生も……失敗を恐れないなら、挑戦する事は出来る。

「いつか僕らの誰かが大怪我をして死に掛けたら。癌でもなんでもいい、もう治らない病にかかったら」

 まるで預言者のように言葉に力を込めて、ありえるだろう未来を健一が告げる。

「そしたら僕らは絶対にこの世界を求める。これからも生きていくんだ、そんな日が来るのは間違いない」

「それは――」

「余分に一月かかっても、一年かかったっていい。しっかり道を掴んでおかないと後悔する事になると思う」

 十年は困るかな、と言ってようやく笑った健一に俺もようやく思考が追いつき始めた。
 確かに考えてみるとこの力を再び求める日はいつか来るだろう。
 その可能性を無視して帰ろうとすれば、成功したとしてもいつか悔やむ事になるのかもしれない。

「それにこの世界『ワンダー』でいいのかな。日本と比べたらそりゃ良くはないけど、地球って単位で見ればここより環境の悪い国も多いし――」

 それも確かだ。確かではあるが――

「――でも、それでも、戻るべきだ……よな」

 さらに続いていた話を思わず遮って言ってしまった俺に、意外にも健一は強く頷く。

「うん。そうなんだよ、それは間違いない。だからさ、つまり……」

 首を捻り頭をかいて。
 数秒の時間を置いて健一は呻くように続ける。

「自分でもよくわかってないんだけど……僕は変な事を考えてるんだよね」

「…………」

「多分逃げてるんだ。本当に帰れるかわからないから、帰らなくても良い理由を、言い訳を探してるんだと思う。きっと皆も似たようなことを考えてる」

 言葉を捜しながら自分の考えを整理しているんだろう、健一は独り言のように話している。

「誘拐犯を好きになっちゃう人とかそんな話と同じで……精神の均衡を保つ逃避……? そう考えないと平常でいられないぐらい追い詰められてる……って事なのかな」

 自分で自分を分析する様なことを当たり前に話している健一に不気味な戦慄が走った。
 隠れオタらしく以前から斜に構えたり自己批判をするような所はあったが、これ程ではなかったと思う。

「普通に言ってるけど……大丈夫なのかよ、それ」

「自分でわかってる間は大丈夫だよ。日本の話を嫌がったり、帰る為の努力をしなくなるまではなんとかなると思う。多分ね」

 聞く限りでは既に限界に達しているような言い方だが、健一は平然と苦笑した。

「根本的に僕らがどんな形でこの世界に居るかもわからないんだ。もしも意識だけ入り込んでる、なんて事になってれば……ここに戻って来られても何も意味ないし、そんなに長い時間生きていられない。遊んでる余裕はないってわかってるんだけど、自分に都合の良い様に考えてる間は落ち着いてられるからさ」

 情けないね、と呟いた健一の気持ちはよくわかる。
 結論が出ない事を言い訳に深く考えていないだけで俺にも沢山の不安がある。

『意識だけ抜け落ちた俺達四人があの路地裏に倒れていて、今も本当の体が弱り続けていたら』

『ここに居る自分はただのコピーで、本物の俺はちゃんと存在して今も生活をしているんだとしたら』

『本当は俺は一人で死んでいて、ここは死ぬ直前の夢なんだとしたら』


「こんな状況で、本当の本当に最悪の事態なんて俺も考えたくないな」

 少しふざけて言ったつもりだが、上手く笑えた自信はない。それでも健一は笑い返してくれた。

「考えたくないけど時々どうしても考えちゃう事があって……。だからさ、ガス抜きなんだよ。剣なんてのを握ってる僕も、杖を振ってる麻衣ちゃんも、追い詰められた部分を消化してる……。うん、本当に悪いね、山田。迷惑かけてると思うんだけど、借りは絶対返すから」
 
 麻衣が魔法にこだわっている様に、杏里がゲームを強く意識している様に、か。
 迷惑だとは全く思っていなかったが、無理をして欲しくないとは思っていた。
 守られてばかりで情けないという男の意地の裏に、最悪の場合に何の逃げ道もない自分への切迫感があったと言うなら。
 そんなこと、最初から完璧な逃げ道を保障された――いや、この世界こそが自分にとっての逃げ道だった俺は考えてもいない事だった。

「……そりゃ、そうだよな。ちゃんと支えなきゃダメだよな……麻衣のことも。ありがとな、健一。後でちゃんと謝っておく」

「それはこっちもだよ。さっきの話じゃないけど、今だって本当は山田頼みなんだ。山田も帰るの辞めようなんて言い出したら皆どうなるか……」

「いや、悪いけど俺は絶対に帰るぞ。最悪一人でも」

 今も進化を続けているだろうネットゲーム世界に魅入られた俺は、こんな科学とかけ離れた世界で暮らす気にはなれない。

「その時は連れてってよ、お願いだから」

「ま、そう言ってられる間は大丈夫か」

 立ち上がった俺に合わせて健一も立ち上がった所で、ふと思い出したことを口に出す。

「桂木は普通に見えるけど、ガス抜きはお前相手にしてるのか?」

「…………さ、そろそろ帰ろうか。夕食はほら、途中にあったちょっとイアリアンっぽい店とかいいんじゃない?」

「……ああ、そうだな。うん……」

 もはや風前の灯にしか見えない抵抗に少しだけ胸を痛め、内装だけはヨーロッパ風だったその店の場所を思い出そうとしたその瞬間。


 Acri : ごめん、すぐ戻ってきて! 桂木さんがどこにも居ないの!


「……は?」

「ん? どうかした?」

 唐突に聞こえた杏里の声、いや『チャットメッセージ』に足を止めた。
 居なくなった? 桂木が? 本当に? 
 一体何をどうしたらそうなるんだ?

「山田?」

「……桂木が居なくなったらしい」

「すずちゃんが……な、なんでっ!?」

「んなこと知るか! とにかく戻るぞ!」

 すぐに走り出そうとしたのだが、俺が先に出て健一を視界から外すと健一も居なくなってしまいそうで怖い。
 俺同様混乱している健一を促して後に立ち、スキルを発動する。

 ――コンセクレーション――

 突然の神聖魔法に周囲の人々がざわめくが気にしてはいられない。
 黄金のオーラが健一の体を取り巻き、走る速度が目に見えて上がる。
 それでもまだ俺の方が早いが、担ぎ上げても遅くなるだけだろう。
 宿までの短い距離が長く感じるほどの焦燥の中、目の前に見えていた健一の背中が――

「すずちゃん……!」

 小さなく聞こえた声と共に、俺から一気に離れる。
 先程の支援以上に健一のスピードが上がった。
 何のエフェクトも出ていない。スキルは発動されていない筈だ。
 それなら、これは……残されていたステータスポイントが敏捷値に振り分けられている?
 ――いや、そんな事を考えている場合じゃない。
 幸い二人とも帰り道は覚えていた。迷うことなく教会都市を駆け抜ける。
 駆け込んだ客を怪訝な顔一つせず迎えた宿の従業員を無視し、割り当てられた部屋に駆け込んだ俺達を
 


「っ、すずちゃん――……え……?」

「あ、健先輩。お帰りなさい……どうしたんですか、そんなに慌てて」

 のんびりと例のダメージジュースに挑む桂木が迎えた。

「…………」

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 その場にへたり込んだ健一と駆け寄る桂木を避けて部屋に入った俺の視線の先、杏里が気まずい顔で目をそらしている。

「…………ただいま。麻衣も……杏里も……な」

「その、ごめんなさいだから、そんな顔しないで、ねっ?」

「え、えっと……」

 諦めたように手を合わせた杏里の隣で麻衣が困った顔で笑っている。
 無事だったならそれが一番いいんだが、精神的に色々と疲れた。
 とりあえず、全部説明してくれ。











「実は、私物を車に忘れてたのに気がついたんです」

「そんなことで二人に来てもらうのも悪いと思って一人で出て」

「ここの裏に周ったら馬車のところで小さな子が泣いてて、迷子だって言って」

「近くの教会の子らしいんで連れて行ってあげてすぐに戻ったんですけど……」


 そういうことだったらしい。

「あー、もう……ちょっと信じられないような話だけど、前みたいに誰かに襲われるかもしれないんだから、すずちゃん一人だけでうろうろするのは――」

「わかっては居たんですけど放って置けなくて……ごめんなさい……」

「ね、ほら、しょうがないでしょ? ね?」

 大体の事情はわかった。一人で出て行った桂木も見送った杏里も困るが、しつこく言っても仕方がない。
 それに、仕方がないと言えばどちらにも事情はあっただろう。

「まあチャットは打つの時間かかるし、訂正間に合わないか。桂木の方はクエだから……そりゃ断り様がなかっただろ」

「ふえ?」

「クエストって……また何か始まるんですか、先輩」

 桂木が疑問符を浮かべ、麻衣が喜色を浮かべる。出来れば麻衣の方はやめて欲しい。

「『サイレインの子ら』っていうおつかいクエストがあるんだ。町で迷子に声をかけられたら強制受注で、送っていくまで絶対離れない。断っても断ってもダメだっただろ、桂木」

「その、別に断ったりはしてないですけど……」

「……親切なんだな」

 いえいえいえ、と首を振られてしまった。
 ゲームでは普通に試していたが、確かに泣きついてくる迷子を放置して行こうとするのは相当非情かもしれない。
 現実では通報されたらと考えると怖いが、桂木ならそんなこともないだろうし。

「それで、その迷子の子で何が起きるのさ? おつかいって言うぐらいだから何か買ってくるとか?」

「おつかいゲーとか言われるの、あるだろ。あれをしろこれをしろって指示を出されて、言われるままにあちこち歩き回らされるイベントだよ」

 ようやく立ち直った健一が首を傾げるのに答えて少し考える。
 今までなんだかんだで関わったクエストを全てこなしてきたが、今回もそうするべきだろうか。
 クエストを受けたからと言って絶対に終わらせなければいけないとは限らないのがネットゲームだ。今回も無視して一考にかまわない。

「じゃあ先輩、明日何かが襲って来るとか、そういうことはないんですか?」

「……幸いにも、な」

 何故心持ち残念そうなんだ、麻衣。

「教会の人に明日また来て欲しいって言われてるんですけど、それってもしかして?」

「クエストの続きだ。そこからあれこれと雑用で町中を周らされる」

「それはちょっと嫌ですね……でも、おつかい……はじめてのおつかい?」

 それを言われると聞きなれたテーマソングが自動再生されて困る。
 どうしたものかと同じくクエストの知識があるだろう相手に視線を向けると――

「――うん、明日はそれやろう!」

「え……?」

「やるのか・・・…ってかお前が決めるのかよ」

 強い決意を持って独断で全員の予定を決定した杏里に思わず突っ込む。
 雑用と聞いて難色を示していた桂木が呆気に取られるほどの意気込みだった。

「だってほら、このクエって最後までやれば聖剣協会に入れるやつだよ? ね、やろうよ」

 確かにクエストのラストはこの町の聖剣教会の最奥MAPだったと思うが……

「そんなにこだわってたのか、杏里……」

「……街中歩くだけて終わるんなら、良いんじゃないですか?」

 うんうんと頷いてみせる杏里、そして麻衣も謎にやる気を見せている

「……どうしようか、健一」

「えっと、すずちゃん、やるの?」

 俺に水を向けられた健一が桂木に振り、受注者本人に話が戻る。
 桂木はほんの少しだけ考えた後で申し訳なさげに言った。

「さっきの子と、明日も行くって約束しちゃったので……」

「……了解」

 やっぱり親切なんだな、と今度は口には出さなかった。

「うん、じゃあ明日は頑張ろうっ!」

「頑張りましょう!」

 意気込む杏里と麻衣。やる気の必要になる出来事は何もないんだが……特に杏里はわかっているだろうに。

「それで、私は具体的に何をすればいいんですか、山田先輩?」

「あー……『サイレインの子ら』は指示通り町中を歩くだけで、特別何かやるって事はないと思う」

「危ない事もないんですね?」

「多分大丈夫だ」

「そうそう大丈夫だって。それに色んな所を周るから観光にもなるし!」

 やるとは言ったものの、やはり心配なんだろう桂木を杏里が気楽に励ましている。
 どちらにしろ観光はするつもりだったのでレベルアップがついでに行えると思えば悪くはない。
 悪くはないんだが……

「結構経験値も入るクエストだから、終わらせたらもう転職も出来るかもしれないしね?」

「うーん、出来れば私はまだ学生のままがいいなーと……」

 いや、転職ってそういう話じゃないぞ桂木。

「じゃあ私も魔法が使えるようになれるんですか?」

「ここじゃ転職が出来ないからどちらにしろ無理だ、麻衣」

「え……なら別にあの猪とか倒さなくても良かったの? 僕の苦労は!?」

 健一の方はご愁傷様だ。どうせ倒せなかったんだから良いだろうとは思うんだが。
 しかし今回クエストを受注したのは桂木だけの筈だが、クリアした時の経験値はどうなるんだろう。
 ともあれ先の展望を語り合う仲間に水をさすのも気が引けて、その心配は口には出さないことにした。
















「あの、これ全部サラダなんじゃ?」

「みたいですね……」

「精進料理なの? でも全部生のままって、それもう料理って言わないよね?」

「どうしよう、お水だけ飲んで別の店行こうか?」

「流石にそれは悪いだろ……参ったな」

 見た目だけはイタリア風だった料理店に入店し、何故か日本語で書かれているメニューを眺めて……全員が頭を抱えた。
 流石教会都市、見事に肉と魚を排した野菜尽くしのラインナップが並んでいた。
 さらにそれらは全て焼くも煮るもない生サラダの類だけだったのだ。
 
 一応はこれも旅の経験かと、それぞれ好みのサラダを注文した。確かに地球ではそうそうないことだろう。
 出てきた野菜はなるほど新鮮で美味と言える物だったが……味気ない。


「まあ女はサラダ好きかもしれないけど、男にはきつい店だな、ここ……」

「――――っ、山田君!」

「な、なんだ。どうした杏里」

 皿に盛られたレタスらしき物をつつきながら何となく愚痴をこぼしたその時。
 こちらが驚く程の勢いで顔を向けてきた杏里、その目が光ったように見えた。

「女の子はサラダが好きとか……山田君、それは勘違いだよ」

「……違うのか? よく食べてるだろ?」

 極々普通のイメージを言った俺に向けて、杏里は躊躇なく吼えた。

「わざわざ好きで草なんて食べるわけないでしょ! あたし草食動物じゃないんだよ!?」

「……あ、杏里?」

 いや、怒られても困る。草って言うな。

「肌のこととか体の事とか……何よりイメージを考えて好きでもないのに頑張って野菜食べてるんだよ! わかる!?」

「……そう、なのか?」

「小食な女の子は可愛いー、みたいなイメージがあるから全然足りないのにお弁当も小さくして、本当はそんなに好きでもないのに甘い物にも詳しくなって――」

「いやその、すまん。ごめんなさい」

 またしても俺の知らない女性の生態が明らかになった瞬間だった。
 何かの逆鱗に触れたらしい杏里を諌めながら、しかしそれは本当に正しいのかと他の女性陣に視線を向ける。

「お野菜、好きですけど……」

 あんまり量は食べない方なので とおずおずと言った麻衣。

「私も結構サラダ好きですよ?」

 甘い物は大好きです と笑って言う桂木。

「……らしいぞ」

 ちらりと杏里の方を伺う。

「う、裏切り者ー! そうやって可愛いイメージで固めても結局後から苦労するだけなんだよ!? 素直になろうよ!」

「いえ、そんなつもりは……」

「栗原さんが野菜苦手なら、やっぱりこの後で他のお店に行きましょっか」

「そういう話じゃないのっ!」

 何か大分とややこしいことになっていた。

「杏里ちゃん、大変なんだねぇ」

「お前はどうして他人事みたいな顔してるんだよ……」

 そしてサラダをつつく姿が一番さまになっているのが健一だった。






 ともあれ疲れは溜まっていた。
 今日も二部屋取っているので男女で部屋をわけ、早めに休むことにした。

「じゃあそっちは頼むぞ、杏里」

「わかってるってば。もう、そんなにあたし信用ない?」

「……お前な」

「冗談冗談、ちゃんとするから」

 前科者の杏里が無駄に自身満々なのが逆に不安を誘う。
 杏里に真剣さが足りないのはゲームだとわかっているからか、それとも健一が言うようにこれでも追い詰められているのか。
 先の話が脳裏をよぎり、余り強く言う気にもなれない。

「一人で風呂に行くとか便所に行くとか、そういうこともないようにな?」

「はいはい、連れションを徹底するから大丈夫」

「女がそういうこと言うなって……まあ、お休み」

「ん、お休み~」

 部屋に戻っていく杏里を見送り、こちらも部屋に入った。
 先に部屋にいた健一は風呂に行くつもりなんだろう、準備をしている。
 特に何も言わずこちらも荷物を開いた。
 杏里と違って俺はゲーム内アイテム以外をインベントリに入れていない。
 不便ではあるが皆と同じようにあれこれと持ち歩きたかったのだ。
 
 しかし、それにしても、だ。

「……男だけって、落ち着くよな」

「わからなくはないけどさ」

 何となく言った言葉に健一が苦笑を返してきた。
 女性三人ともそんなに気を使うような関係ではなくなっているが、それでも男相手の気楽さとは違っている。
 きっと向こうも向こうで同じことを言っているんじゃないだろうか。

「もう早く入って早く寝よう。今日から素振りはいいや……」

「……お疲れさん」

 腰のベルトごとソードを落として健一がため息をついた。
 努力をすればその分だけ意味はあると思うが、物騒な方向から離れてくれるのは望ましい。

 さて風呂だ、と思ったところで――ふと思い出したことがあった。

「そう言えば、混浴とかってあるのか、ここ」

「……みんなで入るの?」

 恐ろしいものでも見るような目を向けてくる健一。

「な訳ないだろ。麻衣と入るんだよ……いや入らないけどな、入らないけど」

「……どっちなのさ」

 彼女と二人で湯船につかる。
 口に出してみると余りのありえなさに反射的に否定の言葉が出てしまった。
 付き合って短いというのを除いても相当な難易度だと思う。世の混浴経験カップルに戦慄を覚える。

「いやないだろ、ないない」

「別に山田達は二人で入ったって良いだろうけど……僕はすずちゃんとはやだなぁ……」

 桂木も可哀想に。

「お前は混浴とかしたことあるのか?」

「そりゃ、何回かはあるよ」

「うわぁ……マジか」

「何だよその失礼な反応、山田が言い出したんだろ」

「悪い、つい」

 思わず口に出してしまったが、そうか、健一は経験者か……。

「まあその、折角だし、詳しく聞かせてもらおうか?」

「……結局やる気満々なんじゃないか」



 食事前の話で勘違いをしていたが、健一の経験談はハイレベルすぎて俺には基本的に役に立たないことを思い出す結果になった。
 ゲームの中だから何故かこちらの方がレベルが高いが、それを除けば基本スペックと経験値に恐ろしい程の差がある。そんな現実を思い出した。
 明日も明日でクエストがある――言ってみるとおかしな話だが、本当にクエストがあるのだ。
 風呂を上がって何をするでもなく、すぐに休むことにした。

 会話もそこそこに床につくと、抑えていた眠気が一気に襲い掛かってきた。
 ステータスなんていう訳のわからないものに支えられているだけで、きっと俺も疲れているんだろう。
 久しぶりに心から体を休めて目を閉じた。








 久しぶりに見た『ゲーム』の夢。
 現実ではないとわかっていながら、俺は何故かそれを気に留めずにゲームを楽しんでいた。
 フレンドのパラディンと共に火龍の背に乗って、フィールドを飛翔していく。
 あれこれと口を挟むそいつに言われるまま、何度も上昇と下降、寄り道に回り道を繰り返しながら、ふと目に付いた町に降り立った。
 沢山の教会と山のようなクエストがあるものの、実装の遅かったその町にはそれほどプレイヤーキャラクターはいない。
 折角なので観光でもしようか、と歩き出した俺達に――声がかかった。

 『Acri? アクリか? 何処行ってたんだよお前、皆探してたぞ』

 『え……あ、うん……』

 声をかけてきた男はどうやらパラディンの知り合いらしかったが、余り芳しい関係でもないのか、彼女は戸惑った様に返事をした後に黙り込んでしまった。
 普段なら部外者の俺が口を出したりはしないのだが何故か放っておくのも気が引けて、まだ行かないのかと助け舟を出してやる。

 『あ……そうだね、ごめん。えっと、今度顔出すから』

 作り笑いを浮かべたそいつに男は納得がいっていないようだったが構わず町の奥へと進んでいく。
 しばらくはどこか上の空だったそいつも段々と調子を取り戻して、二人でその日の冒険を楽しんだ。
 
 何か面倒ごとがあって所属していたグループに顔を出さなくなる――なんてのはよくある話だと、その時の俺は思っていたのだ。







 光に反応したのか、それともこの時間に起きようと決めていたからだろうか。
 丁度日の出と共に目の覚めた俺は同室の健一を起こさないよう静かに身を起こした。
 久々に見た暢気な夢は色々と抱えていた悩みや不安を幾らか軽くしてくれたように感じる。
 後期に実装されたこの町には雨が降る可能性もあった。
 しかし当然の様に晴天を迎えてくれている窓外の空に目を向けて、今日はいい日になりそうだと一人、思った。

「……くしゅっ」

 何か気配でも感じたのかくしゃみと共にもぞもぞと寝返りを打つ健一。
 いつもと違ってこいつ一人置いて散歩に行く訳には行かない。
 朝食までまだ時間はある。眠気は残っていないが色々と考えることがあるだろう。
 椅子に腰を下ろして目を閉じて、しばらくの時間ゆっくりと思索にふけることにした。
 とりあえず、今日のクエストは――――





「山田君が寝過ごすとか、珍しいこともあるんだねー?」

「僕が起きたら椅子に座って爆睡してるからさ、もう何かと思ったよ」

「……悪かったな、二度寝だよ」

 俺が最初に目を覚ました日の出から数時間後、腕時計のアラームで起きた健一は椅子で眠りこけていた俺を発見。
 ご丁寧にも隣の部屋三人を招き入れ、ベッドがあるのにわざわざ椅子で熟睡する変人を全員で眺めた後、ようやく俺を叩き起こしてくれたらしい。
 完全耐性のあるステータス異常にやられるというのはもう油断とかいうレベルを通り越して余りにも情けない。
 あからさまにからかって来る健一と杏里に何も言い返せなかった。

「それでえっと、昨日の教会に行けばいいんですよねー?」

 俺一人が散々笑いものにされた朝食の時間の後――出てきたのは朝から野菜ばかりだった――荷物の準備を終えて集まった所で桂木がのんびりと聞いてきた。

「ああ、そこから言われるままにうろうろするだけだ。途中でついでに買い物なんかも済ませよう」

 準備とクエストを今日の内に済ませて、何事もなければ明日の昼に出発。
 一応の予定を確認をした後に連れ立って部屋を後にした。





「確かあの教会、孤児院ってこっちの方だったよねー?」

「はい、そうですそうです、その先の角を左に曲がって――」

 先に立って歩き出した杏里と桂木、その後を追う健一。俺は最後尾を麻衣と並んで歩いていく。
 そして隣の彼女は、一目見てわかるぐらい非常にご機嫌な様子で朝のサイレインをきょろきょろと見回している。
 胸に抱いた炎の杖がこつんこつんと石畳を突く音が時折聞こえていた。
 
「……なあ、麻衣」

「はい、何ですか?」

 語尾に音符でもついていそうな口調でこちらに向き直った麻衣に、一応、と断って言った。

「……今日は多分特別なことは何もないぞ?」

「昨日も聞きましたから、ちゃんとわかってます」

 あっさりした口調に少し驚いた俺を見据え、だからこそだ、とでも言う様に麻衣が微笑む。

「今日はゆっくり町を見て回れるんですよね。この世界で初めて来た町を先輩と歩いた日みたいに……」

 ――そういえばそんなこともあったなと、口には出さなかった。危ない所で出さずに済んだ。

「そうだな、あの時はちょっと俺が焦ってたし……今日はしっかり楽しもう」

「はいっ」
 
 危惧していた怪しい視線や後をつけられている気配もない。
 異世界で旅をさせられる、なんて状況だ。息抜きはとても大事だろう。
 大理石の壁に跳ね返された陽光に白く輝く麻衣を見て思う。やっぱり今日はいい日になるだろう。


「この子はライソードで学ぶ機会をいただいて、明日にもこの町を出立する事になっています。この子の最後の思い出に、この町を見せてやってはいただけませんでしょうか」

「はい、わかりました」

「それではまずは西の祭壇を……あ、こらっ!」

「ぼく、先に行ってるからね!」

 場所を指定されるとその子供は先に現地に走っていく。追いついて話しかけると戻っていく。
 ただそれを繰り返すだけの単純なクエストである。 

「あの子一人で行っちゃいましたけど、大丈夫なんでしょうか……?」

「大丈夫大丈夫、そういうクエストだし」

「まあこの町で生まれたんだし、迷子になることもないよね」

「え……だって私、昨日迷子だったあの子を連れてきたんですよ!?」

「あんまり気にするなって」

 所詮ゲームの設定、細かいことはいいのである。
 とは言え桂木が心配そうなので真っ直ぐ子供の後を追いかけることにした。
 西の祭壇はスキルがない場合のエンチャントができるとかそんな場所だが、まあ俺たちには関係ない。
 結構綺麗な装飾がしてあったと思うのでその辺りは少し楽しみだ。






「ぼく、先に帰ってるからね!」

「ちゃんと前見て、走ったら危ないから……ああ、もう……」


「次は東にある集合墓地に、この子の両親もそこに……あ、こらっ!」

「ぼく、先に行ってるからね!」

「……えっと、すぐ追いかけますね」

 ――――そんなことを数回繰り返して。

「ぼく、先に帰ってるからね!」

「はいはい、気をつけてね」

 西の祭壇、東の集合墓地、南の連鎖鐘教会群、中央のサイレイン第一教会大聖堂。
 最初は一人で目的地に走っていく子供を慌てて追いかけていた桂木も要領がわかってきたのか、たまに寄り道なんかもするようになっていた。
 とりあえず先程第一教会で話しかけたのであの子は今孤児院に戻っている筈だ。少しゆっくりしても問題ない。
 歩き通しで少し疲れていたこともあり、第一教会前の広場で行われているバザーを見て回ることにした。
 地面にござをひいただけの簡易な露店から屋台の様に移動式の店もあり、食べ物から衣類、雑貨等の多様な品物が売られている。

「これ十字架ですよねー? こういうのはここでも同じなんでしょうか?」

「みたいだね。これはロザリオかな……なんか数珠みたいだ」

「あ、健先輩、これ! これ、良いと思いません?」

「すずちゃん、あんまりそういう無駄遣いは……」

「無駄!? 無駄って言っちゃうんですか!?」

「……桂木、可哀想に。よし麻衣、欲しいのがあったら何でも言えよ」

 何となく久しぶりにそれらしい扱いを受けている桂木から隣の彼女に目を向け、こちらは無駄な甲斐性を示してみた。

「え、えっと……そういうのは……」

 展開的に戸惑っているものの、割と物欲があるらしい麻衣は少し嬉しそうにしていたりする。

「ちょっと健先輩、あっちずるいですよ!」

「うん、諦めも大事だよ、すずちゃん」

「ふええっ!?」

 別に店で買えるレベルのものならこちらで出すが、桂木が思っているのはそういうことではないだろう。
 元々が冗談だ。麻衣の方も何が欲しいとも言い出さなかった。

 ……そう言えば、杏里は。

「あーっ! やっぱり露店には野菜以外のもあるんだ、良かった~!」

 色気より食い気か、お前は。
 しかし良い発見だ。正直インベントリの食料アイテムに手を出したいぐらい、たった二食でも菜食生活に辟易していた。

「折角だし、昼飯もついでに食べるか? 俺も出来ればサラダはしばらく遠慮したい所だった」

「あはは、そうですねー。でも……これはこれで、何なんですかね?」

「……何だろうな」

 この町が完全菜食主義なのかは知らないが、余り肉の匂いをさせるのは避けているのだろう。
 食べ物の露店はどこも少しだけ魚と肉を混ぜたお焼きであったり、野菜のスープに最後に干し肉を入れるのであったり、教会に気を使ったらしい品になっていた。
 しかしそれにしても匂いがなさすぎる。いったい何の肉、何の魚なんだろうか。
 まあ味はそこそこ美味しかったのだが。



「よし、じゃー気合入れて次の――あれ?」

 苦手な野菜以外の何かを食べて元気が出たのか、それとも次の目的地が『例の場所』だからか。
 意気込んでいた杏里がふと、バザーの隅の露店に目を向けた。
 つられて見てみるとどこか見覚えのある男性が店を開いている。

「ん……あの人、途中で会った隊商の……」

「――おお、これは司祭様! 先日は本当にありがとうございました!」

 それは成り行きで助けた隊商のおじさんだった。
 護衛は傭兵の類だったのか、今は数人だけで小奇麗な布を敷いた簡易な露店を構えている。

「おじさん、ちゃんと荷物間に合った?」

「ええ、それはもう! お蔭様で私共の信頼も保つことが出来ました。いや、本当に何とお礼を言っていいか……」
 
 ぺこぺこと頭を下げるおじさんに偉そうに胸を張る杏里。
 正直もうこの話はいい。あんまり言われても恥ずかしいだけだ。
 それに余りあの子を待たせるのも悪い、という視線を桂木から向けられてもいる。
 さっさと孤児院に戻って、次の目的地に行こう。

「そういえばおじさん、あんなに急いで結局何を運んでたの? それだけずっと気になってたんだけど」

「ああ、それですか。本来は依頼主以外に話すようなことはしないのですが、特別ですよ。実はですね数の少ない特殊な――」

 話の途中だったがクエストの途中でもある。割り込むつもりで声をかける。

「杏里、そろそろ――」

「――呪毒の媒介を運んでいたんですよ、帝国の依頼で。やはりこの町の裏の顔は怖いと……ああ、口外はしないでください。お願いします」

「――っ」

 思わず言いかけた言葉を呑みこんだ。
 息を呑んだ俺と同様に杏里も身動きを止めている。
 数瞬の後、こちらに顔を向けてゆっくりと表情を歪ませた杏里がぽつりと言った。

「……あたし、フラグ立てた?」

「じゃあ俺達行きますね」

「あ、ええ、本当にありがとうございました司祭様」

「待って山田君、無視しないで!」

 良くない空気を感じ取っているらしい後ろの三人を促して孤児院への道を早足に進む。

「うう、ごめんってばー!」

 うるさい、もうついてくるなお前。










「呪術師、ですか……?」

「ああ、魔術師から転職できる中位職。デバフとモブコントロールが仕事だな。解毒ポーションで消せない呪いの毒を使ったりも出来る」

 元よりスパイの暗躍している町という設定だ。別に毒の一つや二つ輸送していたって何もおかしくはない。
 しかし日付を指定した緊急の依頼で、その輸送を俺達が助け、さらに中身を含めた顛末まで聞いてしまっている。
 普通ならそれがどうしたと言える話だが、ゲームでこうなると全く意味が違ってくる。
 もう明らかにフラグとして機能しているとしか思えなくなるのだ。
 はっきり言ってその呪毒のターゲットは俺達だと考えるべき、それぐらいの必然性を感じる。

「消えない毒って……大変じゃないですか!?」

 ある意味このクエスト最大の当事者である桂木が大いに慌てている。
 勿論内心で慌てているのはある程度こちらも同じだが。

「呪いの毒だからポーションじゃ消えないんだけどな、その代わり一番簡単な魔法でいいから、何か祝福魔法をかければそれで消えるんだ」

「……えーと、つまり?」

「まあ多分、問題ないってことだ」

 すぐに荷物を取って町を出てもいいのに、急ぎながらも孤児院に向かっている理由がそれだ。
 祝福魔法一発で消える呪毒。それは人間相手には効果が薄く、モンスター相手にはさらに効果が薄い。しかも触媒が要る。いわゆる地雷スキルだ。
 というか呪術師自体が対人戦においては地雷みたいなものなので、はっきり言ってそんなに警戒していない。
 
「呪術師って攻撃魔法とか全然ないよね。エレマスなら怖かったけど、まあこっちなら大丈夫だよね? ……だからほら、もう許して? ね?」

 杏里の方も一応何とかなると判断しているようだ。
 まだ気にしているようだったが、杏里が余計なフラグを立てたと言っても、恐らく話を聞かなくても何か起きるのなら起きただろう。
 警戒できる余地を作っのだと良い様に考えることも十分に出来る。わざわざ口には出さないが。

「……エレマス?」

「エレメンタルマスター、精霊使いね。こっちは攻撃魔法メインの方だから火力あるんだよねー」

「精霊って……精霊って何なんですか? どんな風に使うんですか、見えるんですか!?」

 今はそういう状況じゃないぞ二人とも。
 ともかく、だ。

「何かあっても問題ないとは思うけど、このクエストをわざわざ最後までやる必要もない。一応挨拶だけしてすぐに出発した方がいいかもしれない」

 ある意味丸投げする気持ちで桂木と健一の方に問い掛けた。

「…………」

 無言でこちらを見つめ返す健一。

「でも町を出たからって安全って訳じゃない。野営中に襲われる位ならここで来てもらった方がやりやすいかもしれない」

「…………」

 不安気に視線を返してくる桂木。

 町を出て進んでいったからと言って安全なわけではない。
 相手がクーミリアの様に正面から来るのでなければ、仮にも教国の町中の方がまだ安全かもしれないのだ。

「さらに言えば、帝国はもう俺のことなんて忘れてて、ただの自意識過剰かもしれない」

 何だかんだで何も起きなかったここ数日で俺の胸に大きくなってきていた考えだ。可能性はある。

「それはないんじゃないかなー、流石にここまで完璧にフラグ立っちゃったらね?」

 杏里が暢気な――どちらかと言えば諦めたような口調で口を挟んだ。
 俺もそうだろうなとは思う。

「……もう少しで終わるんですよね?」

「ああ、次がラストだ」

「じゃあ……最後までやりませんか。フラグってよくわかんないですけど、全部が伏線で繋がってるって言うんなら、今日あの子についていく事もその中に入ってるんじゃないです?」

「……それは、そうかもな。襲撃がクエストの一部として絡んでたら……終わらせる前に絶対かち合う。そこで戦うか?」

「うん、それいいんじゃないかな。僕もずっと逃げ回るより攻めた方がまだ気が楽だと思う」

 最後の目的地に辿り着く途上で襲われる可能性が高く、それがわかっていればむしろ対処は楽――と考えるのか。
 しかしそれはかなり危険な選択肢だ。特に戦えない三人には。
 何があっても問題ないと信頼してくれているのか。

 視線を向けると杏里と麻衣も軽く頷いた。

 杏里がすぐに装備を整えられる様インベントリを開き、健一は腰のソードを確認している。
 麻衣がずっと抱いていた炎の杖を両手で握りなおし、桂木もポーチのポーションを数えなおしている。
 全員が戦闘態勢を整える間にもう孤児院が見えてきた。
 
 重苦しい仲間の表情を見て、言わない様にしていた言葉が思わず口をついた。

「……悪いな、本当に、全部俺のせいで」

 何度も何度も謝ったところで、誰も喜んだりはしない。それでも言わずには居られなかった。

「それは言いっこなしですよ、山田先輩」

 代表した訳でもないだろうが、桂木が少しだけ笑って言った。
 肩をすくめる健一、頷く麻衣と視線を合わせる。
 目と目で通じ合うなんて笑ってしまう様な話だけど。
 ありがとう、皆。
 
 杏里は……まあ、こっちは俺と同じか。
 
「……? あれ、山田君?」

 自分には視線がこないことに戸惑っている杏里を流して、俺もスキルウインドウを開いた。
 大して引き出しもないけれど、出し惜しみは無しだ。相手が死んだって構うものか。

「そう言えば山田先輩、最後の目的地ってどこなんです?」

「……聖剣教会の一番奥、創剣の間って所だ」

 それはこの町に入る前に定めた、俺達の目的地でもあった。










「ああ、その子でしたら勝手に奥まで走って行ってしまいましてね、どうしたものかと思っていたのですよ。御一緒しますので連れ出していただけますか?」

「……はい、よろしくお願いします」

 ここまでのクエストと同様に一人で走っていった孤児院の子供。
 
 心をすり切らせる程の警戒をしながら聖剣教会に辿り着くまで、意外にも何も起こらなかった。
 教会内に入り神父に話を聞き、奥へ入る許可を貰う。そこまでしても危険な気配は感じられない。
 立派な門兵や衛兵を配した聖剣教会。その中で帝国の襲撃を受ける可能性があるだろうか。
 思わず気を抜いてしまいそうになる自分を叱咤して、先を歩く神父の後をゆっくりと進んでいく。

「時々遊びに来る孤児院の子でしたが、こんな悪戯をしたのは初めてでして。何かあったんでしょうか?」

「町を離れなきゃいけないとかで、あちこち見て回ってて……」

「この町最後の思い出、ですか……止めたのは悪いことをしましたね」

 のんびりと話しながら歩みを進める神父からも決して警戒を解かない。


 そして最奥――創剣の間

 楕円形をした荘厳な広間の奥に、何か剣が刺さっていたような台座が飾られている。
 似た物が大広間にあり、そちらには本当の聖剣が刺さっている。
 こちらは勇者がその聖剣を誕生させた伝説の広間……なのだという。

 その台座の前に立った小さな子供がこちらに手を振っている。あの子に話しかければ『サイレインの子ら』は終わる。
 両側、天井共に壁画の描かれた壁が覆っているが、最上部に一部分だけガラス張りの窓がある。
 来るとしたら入り口か、窓からか、それとも――

「ああ、全くこんな所まで入って。駄目ですよ、厳しい教会なら何かの罰が下される場合もあるんですからね?」

 手を振っていた子供に駆け寄り優しく声をかける神父。
 広間の中央で神父に連れられた子供と合流した。
 見上げてくる子供に桂木がゆっくりと声をかける。

「……思い出、全部作れた?」

「うん、ありがとう、お姉ちゃん!」

「頑張ってね」

「うんっ!」

 桂木がお姉さんと呼ばれたことに安堵したように見えたのは気のせいだろうか。
 簡単な言葉と共にまた駆け出した子供が広間の扉を駆け抜けた瞬間、桂木の頭上にレベルアップのエフェクトが派手に光った。

 ――クエスト 達成――

 達成直後に何かあるかと思ったのだが、それもない。
 本当に何事もなく終わってしまった。

「今回受注してたのは桂木だけなのか」

「エフェクトが2回見えたから、桂木さんはもう転職できるんじゃない?」

「い、いえ、私はまだ学生で……」

 緊張を解いたわけではないが、一人とはいえ転職可能レベルに達したのだ。
 少し和やかな空気が流れて、俺もそれに引きずられた。




 その、短い時間に、白い影が眼前を翻って


「――は、ぁ……?」


 気づくと俺の胸に、一本のダガーが突き立っていた。





 聞こえた声は知らぬ前に俺の喉から漏れ出したものか。
 痛みよりも先に来たのは吐き気、そして胸からこみ上げる熱い何かの感触。
 思わず吐き出したそれは血のように赤い――違う、本当に血の塊だ。
 大量の血を失って倒れこみかけた体をふらつきながら支えた。

「……ふえ?」

「……え?」

 桂木と麻衣の声が耳に届いて、それが脳に認識されて、そこまで来てもまだ状況はわかっていなかった。
 何が起きたのか、どうすればいいのか、それを考える間にも指先だけが――現実の指ではないけれど――正しくスロットを選択していた。

 ――ヒーリング――

 意識せぬままに虚空に出現していたステータスウインドウの俺のHPが一瞬でMAXに戻る。
 どこまで減っていたのかすらも確認できなかった。
 問題はそれだけじゃない。刺さったままのダガーのせいでさらにHPが減り続けている。
 
 HPが減ってる? 違う。そんなことはどうでもいい。
 胸が熱い。焼けるように痛い。大切な何かが自分の中で壊されていく。痛い、痛い、痛いっ――

「せ、先輩? 嘘……何、これ……」

 ふらふらと寄ってきた麻衣が冗談のように胸から突き出したダガーの柄をに触れようとして、その手が止まった。
 抜いた瞬間に血が噴出して死ぬ。そんな漫画のような展開を想像したんだろう。
 
 そうだ、危険だ。抜くのは危険だ。
 でも抜かなくても危険……当たり前だ、刃物が根元まで突き刺さってるんだぞ、危なくない訳があるか。
 
 ――落ち着け、大丈夫だ。冷静になれ。引き抜くと同時に回復魔法をかければ問題ない。
 きっと死ぬほど痛いんだろうが、それをのぞけば何も問題なんてない。

「大丈夫だ麻衣、俺は――」

「――――おっと、失礼しました。返していただきますね」

「――っ!? なに、を……」

 自分の胸に伸ばした俺の手を払った何者かが、何の躊躇もなく、勢いよくダガーを引き抜く。

「がっ……ぐ、ぁ……」
 
 今の声も、俺のものか。

 それは体の中心を硬い鉄がえぐり、こそぎとる理解できない感触。
 
 痛みは度が過ぎると返って感じないものだと、ゲームとは無関係に経験から知っていた。
 しかしそんな事は全くなかった。余りの激痛に胸をかきむしってのた打ち回りたい衝動に駆られる。
 胸から流れ出す自分の命に怖気が走り、もう一度冗談の様に血を吐いた。
 知らぬ間に今度こそ膝をついていた。
 霞む視界でステータスを確認する。ダメージは――たかだか数百。
 後100回刺されても死にそうにない。今にも俺は死にそうだっていうのに、この数値。何の冗談だ。

「おや、随分と酷い怪我ですが……大丈夫ですか?」

 引き戻されるダガーとそれを握る腕の先を見る――いや、見るまでもなくわかっていた。
 俺達をここまで連れてきた神父。決して教国の人間だからと警戒を解いたつもりはなかったのに。
 意識の隙を突かれたのか、それとも別の何かなのか。
 ステータス的に俺が警戒すればほとんどの騙まし討ちも奇襲も気づく筈なのに、無様に正面から刺された。
 結局素人の俺がどれだけ気を張ったところでこの体たらくか。
 自分に再度回復魔法をかける。体の中身が治っていく気味の悪い感触に襲われるが、少なくとも痛みは治まってきた。

「やめろ、何をしてるんだっ!」

 顔を上げられない俺の前に、庇う様に健一が立った。
 そのさらに前に立つ鎧姿の杏里。
 俺に縋り付く麻衣を後ろに下げてくれているのは桂木か。

「何をと言うのはこちらの台詞でしょう。神聖なこの創剣の間を血で汚すなど、何のおつもりですかな?」

「……ふざけてるの? 何か知らないけど、もう絶対許さない――」

 ガチャリと、杏里が直刀を向けたのだろう音が響く。
 躊躇なく刺してくるような相手だ。このまま杏里一人に任せてはいられない。

「おお、怖い怖い。申し訳ありません、これでもこの教会の主任神父な身でして」

 とにかく這いつくばってる場合じゃない。起きろ。起きて倒せ。起きて守れ。起きて殺せ――!

「そうですね、自己紹介でも致しましょうか。私は帝国軍諜報第二……」

 ――キュアバースト―ー
 
 ターゲット 名前なんて興味ない 眼前の『敵』

 音のない爆発が強制的に相手の言葉を止めて幾らか後退させた。

「っ、山田君!?」

 神聖魔法が直撃したが、大して効いてはいないだろう。
 神父の格好なんてしているがきっと相手は呪術師。魔法防御は高い。
 しかし間は取れた。立て直して、畳み掛ける。

「ぐ、ぅぅぅぅ」

 歯を食いしばる。立ち上がる。暴れまわる吐き気を全力でメイスを握り締めた右手に集める。
 散り散りになった思考が何よりも単純な一つの結論だけを提示した。
 ――奴をぶっ飛ばせ。

「行くぞ、杏里っ!」

「えっ、あっ……」

 途惑っている――というより話の途中に倒しにかかった俺に呆気に取られているんだろう杏里を追い抜いて、一気に敵に向かって殴りかかる。
 相手が魔法使いの系統なら魔法戦より殴り合いの方が優位に立てる筈だ。
 赤いオーラを纏って襲い掛かる俺に『敵』が向き直る。もう体勢が整っているが、遅い。
 この距離で俺の技量値で、魔法職に回避の目はない。
 
「くらえ……っ!?」

「おや、神の使徒であると聞いていましたが……随分と野蛮ですね」

 赤いオーラに包まれたメイスが嘘の様に奴の眼前、虚空を叩き割った。
 後退する相手を追おうとする体が上手く動かせない。打撃距離まで肉薄した瞬間から嘘の様に体の動きが鈍っている。

「――せーーのっ!」

 流石に立ち直りが早い。体勢を崩した俺を再度追い抜いた杏里が大きな盾を振るった。
 技量値とレベル補正がどうなるかはわからないが、前衛職のパラディンなら攻撃も当たるだろう。
 
 ――そう思った俺を裏切るように、杏里の動きもやはり奴に接近すると不自然に動きが鈍った。
 タイミングを逸したシールドバッシュは当然の様に外れ、さらなる後退を許す。
 
 胸を刺し貫かれたショックがまだ残っていた。何が起きているのか、自分が何をすべきなのか、はっきりとは思考がまとまらない。
 しかし距離が開いた相手に大して、動かない体と対照的に無意識だけが行動を起こし、自然と奴をターゲットする。
 ターゲットした敵の体が不気味に黒く光っている。スキル使用エフェクトだ。
 こちらより発動が早いだろうが、関係ない。
 黒い光が瞬きながらこちらに向かってくるのを無視して、スキルスロットから唯一の攻撃魔法、キュアバーストを選択。発動――

「いけませんね、全く。少し大人しくして……話を聞いていただけますか?」
 
 ――発動、しない。

「なっ……」

「山田君いけるの? 刺された所、平気?」

「山田っ! 大丈夫っ!?」

「あ、ああ……大丈夫だ、下がってろっ!」

 隣に立った杏里に肩を叩かれ、後ろから声をかけてきた健一に答えて。ようやく少しだけ、本当に落ち着いた。
 メイスを握りなおし、姿勢を整えて敵に向き直る。
 話を聞け、とか言っていたが……。

「何を言ってるんだ、お前。俺を殺しに来た癖に、何が話だ。ふざけるなよ」

 言いながらその間に杏里をターゲット。
 今の内に支援魔法をかけて、聞くだけ聞いて隙を探して、一気にけりをつける。

 ――コンセクレーション――

 ターゲット指定――

「いえいえ殺しに来たなど、とんでもない。かのドラゴンナイトが剣を奪われた相手、私ではとてもとても」

「じゃあ何で山田君を刺したの。それが話し合いに来た人のすること?」

「…………」

 杏里と男がなにやら喋っているがそんなことはどうでもいい。
 
 どうして何も起きない。
 本来ならコンセクレーションは対象に全ステータス上昇の効果を与え、金色の光がエフェクトとして出るはずだ。
 しかし油断なく剣を構えて話す杏里には何の魔法もかかっていない。
 これは……スキルが、発動していない?

「おやおや、私がいつ話し合いに来たと言いましたか? 私はあなたがたを――」

 未だに消えてくれない吐き気を抑え、何かの状態異常かとステータスを確認する。
 HPは微減、MPは全快。状態の欄には二つの異常が文字で表されていた。


 呪毒

 アンタウント


「………アンタウント?」

 思わず口に出していた俺の言葉をかき消す様に、冷たい声が響いた。

「――あなたがたを脅迫に来たのですよ」

「っ、山田君、それ呪い!」

 こちらに視線を向けた杏里が叫んで、ようやく俺も気がついた。
 起き上がった後からずっと体を包んでいた『赤いオーラ』
 そうだ、これは呪いの……そうでなければ呪毒のエフェクトだ。
 最初のダガー、あれに呪いがかかっていたのか。そして恐らくまだ続いている吐き気の原因もこれだろう。
 胸をぶっ刺される何ていうあんまりな体験のせいで、そんな事にも気がつかないぐらい動転していたのか、俺は。
 
 呪毒は祝福の属性を持つ魔法なら何だって解除できる。それこそ見習い神父のマイナーブレッシングでも。しかし――

「ごめん、焦っててすぐにわかんなくて……山田君? どうしたの?」

「どうもアンタウント食らってるらしい」

「……え?」

 対象に『アンタウント』の効果を与える、レスアンチタウント。呪術師のスキルだ。
 本来のアンチタウントは自身へのヘイト値――モンスターからの脅威値――を下げる効果がある。
 しかしまだ下位職の呪術師が使うレスアンチタウントにはそれほど利便性の高い効果がない。
対象を一体だけ指定してそれを『誰もターゲット指定できない』状態にするだけなのだ。
 それが『アンタウント』状態。
 モンスター相手の戦いでは、ボスモンスターに効果がないので意味が薄く、また対人戦闘でも単体にしか使えない上に範囲攻撃は問題なく使える点から効果が少ない。
 見る機会が少なく、正直考慮に入れていなかった。

「じゃあ呪い解けないんじゃ……」

「解けないな。杏里、あいつ一人で倒せそうか?」

「うーん……よくわかんないけど、当たらないんだよね。動きも早いし、あれ本当に呪術師なの?」

「ああ。あいつクモ使ってやがる。多分呪毒、レスアン、クモ取った敏捷呪術師だ」

 クモ――正式なスキル名はスパイダートラップ。
 呪術師の覚えるデバフ、モブコントロールスキルの一つ。効果範囲内の敵の命中率と敏捷を大きく下げるスキルだ。
 しかし効果は大きいが非常に使いにくく、覚えているプレイヤーは少ない。
 何せ後衛職のスキルなのに、効果範囲が『自分の周囲』なのだ。
 序盤の雑魚はともかく後半の敵は皆範囲攻撃がある。デバフをかけに射程に入ったらあっさりと死ぬ未来が待っているだろう。

「……何、その意味わかんない構成」

 呆然と言う杏里。確かに普通なら意味がわからないスキルとステータスの組み合わせだ。
 呪毒、レスアンチタウント、スパイダートラップ。3つは関連性の薄いスキルなので全てを取ると他のスキルが大きく犠牲になる。
 上位職への転職寸前ならともかく、レベルの低い内は他には何も取れないと言って良い。
 ゲーム内なら意味がないを超えて何も出来ないビルドだ。誰かがそんなのを作っていたら、キャラクターデリートからの作り直しを勧める。
 しかしその組み合わせが『今』なら別の使い道に繋がる。

「意味は……あるんだろうな。一対一で司祭を殺す……いや、脅す。それに特化してるんだ、多分」

「――これはこれは。理解が早いようで助かります」
 
 状況に気づいたのを確認したのだろう、おどけた様に言う呪術師――そう、少なくとも相手の職は呪術師か、最悪その上位職だとはわかった――を睨む。
 こちらの視線など意に介さず呪術師が続ける。

「その呪いは少しずつあなたの命を蝕んでいく……おわかりでしょう、そう長くは持ちませんよ。さぁ、武器を捨ててこちらに来て頂きましょうか」

 余程この呪毒に自信があるのか、奴は余裕の笑みまで浮かべている。
 確かに普段ならそうだろう。不意打ちで切り付けて呪毒をかけ、怯んでいる所でアンタウント状態に。
 焦って殴りかかってきた相手は持ち前の敏捷性とスパイダートラップで簡単にあしらえる。
 なるほど完璧だ。こんな状況でしか使えないのに、この状況には確かに合っている。合っているが――

 ――いい加減にしろよ、このクソ野郎。


「…………ふざけんな」

「おやおや、信仰の為なら命が惜しくはないと?」

 先手を取られて良いようにやられていたのが腹立たしい。
 この期に及んで『甘く見られていた』というのが気に入らない。
 何よりも突き刺されたダガーが、あれだけの激痛が、こんな取るに足らない呪毒の為だったというのが絶対に許せない。

「10秒に200ダメ? 随分毒のレベルを上げてるんだな」

「……? 何を言って……」

 ダメージという概念を知る筈もない、呪術師が途惑うのを無視して言葉を重ねる。

「で、それが何だって言うんだ。そんなので俺が死ぬ訳ないだろ、自然回復も超えないぞこんなクソダメ」

「あー……呪いって普通に回復続くんだったっけ」

「……強がりは結構です。こちらとしても手間をかけてわざわざ死んでもらうのも惜しい。早くこちらに――」

 頷く杏里と睨みつける俺を見比べてただのブラフだと判断したらしい。表情を笑みに戻して哂う呪術師。

「理解できないならこっちはどうだ、ほら、俺が死にそうに見えるか……!」


 ――ヒーリングサークル――

 自分中心範囲 即時発動


「なっ……!?」

 治癒の力を伴った光が俺を中心に広がり、僅かにあったダメージも一瞬で回復した。
 範囲祝福なんて便利な魔法はないが範囲回復の魔法は幾つかある。
 こういう物があるからアンタウント状態には対した意味がないんだ。
 そしてはっきりとわかる形で、逆に状況を理解させられた呪術師が絶句した瞬間に――

「と、言うわけで……ぇぇいっ!」

「――っ!?」

 見事に隙を突いたと一撃だったと、見ていた俺も思った。
 飛び出した杏里の盾攻撃。しかしそれもスパイダートラップで鈍足化、ぎりぎりで回避される。

「あーもう、変な事考えないで剣使えばよかったー!」

 確かにさっき剣で攻撃していれば当たってはいただろうが……戦闘中とは思えない台詞だ。
 殺さないように手加減していたのか、それとも剣で小技を当てるより盾攻撃でスタンから決めてしまおうと思っていたのか。
 今まで直接は使っていなかった直刀を振るって杏里が呪術師に迫る。

 ターゲットできない以上攻撃魔法は使えないし、打撃攻撃も当たらない。支援魔法すら使えない。
 役立たずを自覚して下がり、健一達と合流した。

「先輩、大丈夫なんですか!? さっき刺された所は……」

「ああ、もう治ってる、痛くもない。悪いな、心配かけて」

「うわぁ……良かったですけど、本当にでたらめですね山田先輩……」

 即死レベルの傷があっさり治っていたらそういう反応にもなるだろう。心配する麻衣と、呆れる桂木。
 健一の方は震えるソードを真っ直ぐ握ったまま、杏里と呪術師の戦闘から目を離していなかった。

 横薙ぎに振るった杏里の一撃をバックステップで避け、縦に振るえばサイドに周る。
 最初は焦っていた呪術師も今は余裕を持って、何やら喋りながら簡単に回避している。
 昨日自分で言っていたように、杏里はゲーム内の能力とは別の剣を扱う『スキル』がない。
 恐らく専門的な訓練を受けているのだろう敵の動きに、とてもついていけていない――

「――そ、こぉっ!」

 そう思っていた。きっと奴もそうだったんだろう。
 既に杏里の攻撃を見切っていた呪術師がわざとらしく皮一枚で避けようとした直刀の一撃、それが微かに輝き、剣先から白いオーラが『伸びる』

「ぐ……っ!?」

 当たったのは右腕。致命傷には遠く、しかし浅くない傷。動きの鈍った敵を逃さず、右へ左へ、杏里が連続で剣を振るう。

「おーら……ぶれーどっ……」

 武器攻撃力と命中率を上げるオーラブレードのスキル。
 杏里が使っている所は初めて見たが、恐らく、今の奇襲は狙ってやったんだろう。
 射程が延びると知っていた辺り、俺達と合流する前は使っていたのか。

「この……舐めるなっ!」

 しかし僅かに射程が延びただけ、それを補正されればすぐに避けられる。
 それはわかっているだろうに、しかし杏里はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
 下段からの切り上げが避けられたその瞬間、スパイダートラップで鈍足化している杏里の動きが一瞬だけ加速する。

「……っ、ぱにっしゃーっ!!」

 気合の抜けた、しかし確かな雄たけびを上げて杏里の振るった剣の光が炸裂した。
 ほとばしった光が確かな破壊力を伴って呪術師に襲い掛かり――しかし、届かなかった。

「うわぁ……これでもダメなの?」

 オーラブレード・パニッシャー オーラブレード発動後に使える小範囲スキル。
 剣が纏っていたオーラを炸裂させて自分の前方にダメージを与えられるのだが……それも、やはり全速には遠い剣速では見切られてしまっていた。

「ごめーん! やっぱり一人じゃ無理っぽいー!」

「……そう言われてもな」

 多分今のが切り札だったんだろう、杏里が情けない声でヘルプ要請を出してきた。
 手伝ってー、と言いながらも必死に剣を振るっている相棒には悪いんだがこちらは何も手伝えそうにない。
 呪毒自体は大して問題にならないし、ここから全員で逃げる方法を探ってもいいか……?

「――行って来る。すずちゃん達をお願い!」

「……は?」

 思わぬ言葉に一瞬呆気に取られた。
 ここまで大人しくしていたから、完全に『それ』の可能性を忘れていた。
 杏里の要請に応えて健一が前方に駆け出している。

「健先輩っ!? 危ないですよっ!」

「っ、僕にだってちょっと注意を引くぐらい――」

 何を言ってるんだ、注意を引いたら逆に不味いだろうが。
 不味い、止めないと。走るか? だめだ間に合わない……そうだショートテレポート

「…………」

 杏里の剣を踊る様にかわして回り込み、こちらへ……健一へと向かう呪術師。
 その背に杏里の剣が迫るが、やはり鈍る。届かない。
 にぃ と呪術師の唇が歪む。やばい、急がないと――

 ――ショートテレポート――

 健一と呪術師の間の空間を指定。即座に発動。

 瞬間、視界が歪み、唐突に現れた俺に驚いた奴の顔が映る。
 とにかく止める。メイスを持って殴りかかった俺の攻撃が……あっさりと、避けられた。
 ターゲット出来ていない以上、恐らく命中補正が効いていない。その上スパイダートラップで鈍った動きではかすらせる事すら出来ず。
 そうだ、アークをかければ……だめだ、間に合わない。
 
「ようこそ、いらっしゃい……その勇気、尊敬しますよ……くっくっくっ……」

 健一に向けて、あの『ダガー』が突きこまれた。

「蛮勇というものですがね……!」

「ぐっ……痛っ……」

 振り返った瞬間胸に突き立っているところまで覚悟していた。しかし健一はよく避けていた。
 来るのがわかっていたんだろう、倒れこむほどの勢いで横に避けて、ダガーは左腕を浅く切り裂くにとどまっている。
 ……しかし、それで十分だった。赤い不吉なオーラが健一を包みこむように広がる。
 それを確認したか、呪術師が踊る様にステップを踏んで大きく後退する。

「健先輩っ! 大丈夫ですか!?」

 桂木が駆け寄ってくるのを見ながら、無意識にカウントを取る。1、2、3……

「流石は神の使徒、いやはや油断でした。私の呪毒が意味を成さないとは……」

 偉そうに勝利宣言の様なものをはじめる呪術師を睨みつける。4、5、6……

「健一君やられたの? ちょっと、不味いんじゃ……」

 こちらに引いてきて杏里に肯き返す。7、8、9……

「さあどうされますか、神の使徒。ご友人の命が惜しければ……」


 10――


「ぐぅ、ぁ、ぁあああああっ!?」


「一緒に――来ていただけますね?」



 ――サークルヒーリング――

 自分中心範囲 即時発動

「うぁあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」

「健先輩っ! そう、これ、これ飲んで……」
 
 健一の呻き声が一時的に収まった。しかし本当に一時的だ。
 桂木がポーションを飲ませようとしているが……それも結局効果はない。
 PTウインドウの健一のHPの内、呪毒のダメージは1回で1/4を削り取る。
 自分の命の1/4が失われるというのは一体どれだけ苦しいものなのか。
 思考が空転している間にもまた10秒が過ぎる――

「うあっ、ぐっ……」

 覚悟を決めていたのか、歯を食いしばった健一からはうめき声が聞こえただけだったが……

「先輩っ! 健先輩! ああ、しっかりして下さいっ……」

 桂木がポーションを飲ませている。ポーションの残量だけで考えても健一は当分は死なないだろう。
 しかしその間はずっと10秒毎に苦しむ事になる。

「山田君……」

「……先輩」

「麻衣……悪い。杏里、後頼む」

 隣に来た麻衣と杏里に一言だけ告げて、薄汚い笑みを浮かべた呪術師の元へ歩き出す。
 元より皆は巻き込まれた身だ。ここからの指針を杏里が示せるのなら俺は居ない方が安全なぐらいだ。
 今まで甘えてきたが……最初からこうするべきだったんだ。

「ほら、どこへでも連れて行っていい……だからアンタウントを解け」

「ああ……お待ちください。そこの貴女、そう、ローブを着た貴女。どうぞこちらに」

「――なっ、麻衣は関係ないだろっ!?」

 麻衣まで呼び寄せた呪術師に掴み掛かるが……服の端をつかむことすら出来ない。

「おやおや何を仰います。本当に来て下さると言うのならこちらも手荒な真似など致しません。御一人では寂しいでしょう、どうぞお仲間もご一緒に」
 
「お前……ぐっ……」

 後ろで健一が呻いている。麻衣をこれ以上巻き込めない。健一を助けないと。何とかしないといけない。でも、どうやって。
 俺が躊躇する間にも麻衣が隣まで来ていた。

「……先輩、行きましょう」

「麻衣……」

「素直で何よりです。恨むのならそう、御自身か帝都をお願い致します。私はただ命令に従っているだけの身ですので……くっくっくっ……ふっはっはっはははは――」

 汚い哄笑を上げる奴を殴り飛ばしてやりたいのに、どうやったってきっと当たらない。
 どうしようもない。行くしかない。
 何とか途中で隙を見て、麻衣だけでも――








 ――――何を言っている、オクスヴァイン

 声が響いた。
 どこまでも通り抜けるように、しかし耳に強く残る。流麗な、だが幼い声だった。

「その命令は中止の通達が出ている。もうお前も聞いているな?」

 創剣の間の入り口から姿を見せた小さな影が、ゆっくりとこちらに向かってくる。

「お前の任務は元より諜報部の独自令だ、私の受けた勅令に及ぶべくもない。強行を上申したとは聞いたが……却下されただろう」

 小さな体を杏里に似た騎士の衣装が包んでいる。要所をカバーした金属製の鎧は白銀に帝国の意匠が刻まれた、簡易だが正規の騎士鎧。

「その上に禁止されていた人質までも。他人を笑えた身ではないが……帝国の威信を地に落とそうと言うのか」

 金糸の様に細く透き通った短い金の髪。愛らしい顔はその幼さとはかけ離れた厳しい表情を浮かべている。

「聞いているのかオクスヴァイン。今回の事はお前の独断だろう。それを――」

「――黙れっ! 負け犬が今更何のつもりだっ!?」

「負け犬はご尤もだが、先も言ったように任務……勅命だ」

 突如大声を上げた呪術師に欠片も怯んだ様子を見せず、ついに少女が――ドラゴンナイト・クーミリアが、俺の眼前にまで進み出た。

「すまない、これは私の失態だ。こいつはこちらで片付ける」

「え……あ、ああ……」

 極々簡潔に言うとクーミリアはこちらに背を向け、呪術師と向かい合った。
 久しぶりの再会の様に思ったが考えれば二日前に会った所だ。
 こちらからすれば二度と会えないと思った相手だったが、向こうからすればそれほどの感慨はない……のだろうか。

「貴様、陛下を誑かして得たあのような任務……押し通そうと言うのか」

「……私には幾ら言おうが構わないが」

 その背に負った小さな体に似つかわしくない大剣を器用に抜き払い、ドラゴンナイトは冷たく告げる。

「陛下を侮辱したその言葉、命で償ってもらうっ!」

「ぐっ……なっ!?」

 言葉と同時に振り切られた神速の一閃は、呪術師が未だ握った呪毒のダガーを一撃で叩き折っていた。







「……凄いね、クーちゃん」

「いや、援護しろよお前は」

 未だ呪いに苦しむ健一の元に戻った俺と麻衣を暢気な杏里の言葉が迎えた。

「んー、何かほら、ちょっと攻め切れないって感じでしょ?」

 杏里の指す先で呪術師を攻め立てるクーミリアは間違いなく押しているが、敏捷の高い呪術師とスパイダートラップの組み合わせに致命打は与えられていないようだ。

「だからこそお前が手伝ってやれって」

「あたしが行っても大して変わんないよ。それより!」

 言って、健一に縋り付いていた桂木を引っ張り起こす。

「桂木さん、ちょっと耳寄りな話があるんだけど。健一君を助けられるような、そんな良い方法が」

「――っ、どうすればいいんですか!? 栗原さん、私どうしたらっ」

「お、おい杏里……」

 安請け合いはやめろ、と言おうとした俺を指差し、杏里が言った。

「桂木さんが山田君に転職させてもらえばいいの、見習い司祭に」

「……ふえ?」

「杏里、それ、は……」

「先輩、そんなことできるんですか? それなら……」

 確かにカーディナルには聖職者の転職NPCを代行できる能力がある。
 それはこちらからターゲット取る必要もないのでアンタウント状態でも問題ない。
 桂木は恐らく転職レベルを迎えているし、たとえ見習い司祭でもなってしまえばマイナーブレッシングを覚える。
 しかし――

「杏里、あれは転職する側からの申請が要る。それに桂木じゃスキルは……」

 そう、こちらが勝手に相手を転職させるようなことは出来ない。
 向こうから俺に転職したいと要請を送り、俺がそれに応える形で転職が行われるのだ。
 ゲームのシステムを全く理解していない桂木が転職申請を送り、転職し、さらに祝福魔法を使う。何段階の壁があるんだ。
 幾らなんでも無理がある。首を振った俺に、杏里はいつも通りの気楽な結論を言った。

「出来る出来る、愛さえあれば何でも出来るっ!」

「愛ならあります!」

「なら出来る! じゃあ、あたし行って来るねっ」

「な、ちょ……おいっ!」

 言うだけ言って結局はクーミリアの援護に行ってしまった杏里。
 残されたのは苦しむ健一と、意気込む桂木、期待の視線を送ってくる麻衣。

「すずちゃん、無理しないで……ぐぅ……ぅ、ぁぁぁぁっ」

「山田先輩、お願いします!」

 健一にまたポーションを飲ませ、必死に頼んでくる桂木に嫌とは言えなかった。
 しかし現実的には無理だ。出来ないことはどうやったって出来ない。

「焦るな、まだ手はある。クーミリアと杏里があいつを倒してくれれば、それで俺のアンタウントが解けるから、それで……」

「――あの人が」

 俺の言葉を遮って、桂木が立ち上がって叫ぶ。

「あの人が死ねばいいなんて、そんなの……わかってますっ!」

 桂木は悲痛な叫び声を上げて、ポーチに備えていたんだろう、見覚えのあるナイフを振りかざした。
 確かあれは健一が桂木に渡していたナイフ。オーガに止めを刺したものだ。

「これでっ、いいんですかっ!?」

 言葉と共に、丁度二人から距離を取っていた呪術師へ、ナイフを投げつけた。

「っ、桂木……」

 勿論当たるようなことはなく、それどころか気づかれることすらなく呪術師の背後に落下して突き立ったナイフ。
 しかしそれは明らかな殺意が籠もっていて、出来ることなら自分がこれを刺したいと、投げたこれが刺さってしまっても後悔はないとはっきり示していた。

「できるんなら私がやってます! でも、無理だから……出来ないから、だから、だから……」

「桂木さん……先輩、駄目なんですか?」

 無理な筈だ。出来ない筈だ。でも可能性があるのなら……

「……やってみよう」

「――ありがとうございます!」

「言っとくけど、やるのはお前だからな、桂木。気合入れろよ。俺にも、何のアドバイスも出来ない」

「っ……わかりました、大丈夫です!」

 と言っても、どう説明すれば良い。俺に転職したいと頼んで来い、と言えば良いのか?
 悩んでいる俺が転職の準備中だと判断したのか、麻衣が祈るように言った。

「桂木さん、頑張って……」

「うん……ね、麻衣」

「……はい?」

 首をかしげた麻衣に少し照れた様に桂木が言った。

「もし上手くやれたら……私のこと名前で呼んでみない?」

 ――――お前、それ

「すずちゃん、それ、死亡ぶらっ、ぐぁっ……」

「健先輩……! 山田先輩、お願いします!」

「……ああ、任せろ」

 リアルに素で死亡フラグを吐く奴とか始めてみた。しかも対象は想い人だ。なんというか、もう逆に諦めがついた。

「桂木、何でも良いから、見習い司祭……シスターになりたいって強く思え。俺に向かって」

「……はいっ」

 訳のわからない事を言われたのに、必死なんだろう、桂地は両手を握って祈る様に頭を下げた。それがシスターのイメージなのか。

「もっとだ。なりたい、シスターにしてくれと俺に要求するんだ」

「シスターになります、してください……っ!」

 桂木は祈っている。でも、だめだ。申請は来ない。
 不安気に健一を支える麻衣も祈ってくれている。
 しかし麻衣が毎日魔法を思っていたことを考えれば、むしろ桂木に今出来ないのも当然なのかもしれない。 

「シスターに、シスターに……」

「桂木……」

「シスターになります、シスターにしてください……」

「桂木、もう……」

 無理だと言おうとした俺に、俯かせていた顔を上げた桂木が叫んだ。

「大丈夫です、やれますから……私が……私が健先輩を守りますからっ!」

 見開いた目から一筋の涙がこぼれた。
 
 いつか健一が冗談で言った台詞を。
 
 それを今桂木は、確かに心から――




 転職申請
 
 Suzu
 
 冒険者→見習い司祭

 Yes/NO




「――きたっ!」

「本当ですか!?」

「本当だ、でも……ちょっと待て」

 後はYesのボタンを押してから俺が3回、転職申請者――桂木が4回、なにかしら発言したら転職は終わる。
 本来なら『汝我らの移動型ポーションになることを誓うか?』等と冗談で言う為にある仕様だ。
 でも恐らく、今は何でも良いわけじゃない。
 
 無理を通して俺に申請を送ったように、奇跡を起こした桂木をさらに引き上げる言葉が要る。
 何を言えば桂木はもっと気合が入る? いや、何を言わせれば桂木は奇跡を起こせる?

「……愛があれば、か」

「……先輩?」

「いくぞ、桂木、いいな?」

「――はいっ!」

 大きく息を吸った俺に合わせて桂木も息を飲み込んだ。
 出来ても出来なくても、結局俺はクーミリアと杏里を信じている。背後で聞こえる剣戟の音が勝利で終わると思っている。
 それなら桂木を、桂木の気持ちも信じて良いはずだ。
 さっきは出来なかったけれど、ここからは俺も転職の当事者だ。桂木ならやれると信じる。
 虚空のウインドウのYesボタン、しっかりと押した。


「桂木……健一を助けたいか?」

「はい!」

 一言目。

「心の底から、どうしても助けたいんだな?」

「はいっ!」

 二言目。

「それは……何故だ?」

「――――っ」

「…………」

「――健先輩が、好きだから」

 三言目。
 もう俺の出番は終わりだ。

 無言でいる俺に不思議と途惑うことなく、桂木はもう一度口に出した。


「大好きです、健先輩――――健一さん、愛してますっ!」


 桂木の四言目。
 白い――いや、色のない光が勢いよく桂木の足元から立ち上った。
 転職は成功。それは当然だ。申請が来た時点でもうここまでは失敗しない。
 そしてこれから桂木にはスキルを使うという大きな壁があるのだが――

「お願い、お願いっ! 死なないでっ!」

 もう俺には、桂木が失敗するとは全く思えなかった。

「なっ、あれは……あの女は司祭じゃなかっただっただろう!?」

「後ろを見ている場合か!?」

「うわー、本当に愛だけでやれちゃうんだ……」

 金色の光が桂木の組んだ両手から突き破る様に放たれ、健一に、麻衣に、俺に降り注ぐ。
 俺と健一を覆っていた赤いオーラが光に当たった部分から急速に食いちぎられていく。

「健先輩っ!」

「……すず、ちゃん」

 俺達にかかった呪毒は数秒とかからずに霧散した。
 
 っていうかこれ、本当にブレスか?
 エフェクトとしてはコンセクレーションに近い上に効果だけを見るとありえない筈の範囲祝福魔法だ。

「ありがと、すずちゃん……あはは、本当に守ってもらうとは思わなかったかな」

「先輩……」

 感動の場面が繰り広げられているが本来そんな場合でもない。
 とりあえずこっちの三人は置いてクーミリアと杏里の援護に行きたいのだが……

「くっ……もう挽回は無理……でしょうかね」

「――待てっ!」

 まだ致命傷は負っていない様だが、もう全身傷だらけの呪術師がクーミリアの剣を避けると同時に跳躍、広間の後方まで飛んだ。
 そして全身に再び黒いエフェクトが浮かび、始めて攻撃の為の魔法が放たれた。

「なっ……オクスヴァイン!」

 追いすがろうとするクーミリアの眼前に分厚い炎の壁が生まれ、その追撃を阻む。

「残念ですがここまでですね。任務を完遂できなかったのは心残りですが……いやはや、ドラゴンナイトの裏切りにあっては致し方ない事でしょう」

「裏切りだと……それはお前の事だろう! ここまでして今更帝都に戻れるつもりか!?」

 こちらにはどちらが正しいのかもわからないことを言い合う二人だったが、呪術師――オクスヴァインというらしい――はクーミリアの話は聞いていないようだった。

「ですが私は必ず、また皆さんをお迎えに上がります。次は逃げられませんよ……くっくっくっ」

 こちらを睥睨する奴に魔法の一つも打ち込みたいのに、まだターゲット魔法は使えない。
 せめて何か言ってやろうと口を開いた俺の機先を制して、後ろから苦しげな叫び声が上がった。

「来るなら……来ればいいだろっ!」

「……健先輩?」

「健一……」

「おやおや、一番足を引っ張っていたあなたがそんな偉そうな台詞を吐きますか! これはお笑いですねえ、ふっはっはっはっは」

「そりゃ、僕には何も出来ないけど……次までそうだと思うなよ。絶対にお前は許さない……山田を傷つけて、すずちゃんに無理をさせて……」

 まだ起き上がることすら出来ていない健一の目が、しかし恐ろしいほどの光を放っていた。
 ただ強い眼光だというんじゃない、物理的にすら感じる…・・・いや、これは本当に物理的な――

「僕が、皆を守る。絶対に、お前の好きになんかさせない――っ!」

 健一の目が、全身が一瞬だけ強い極光を放ち、間を置かず創剣の間そのものが微かに揺れた。

「これは……っ、とにかく、これで終わりだと――」

 まだ捨て台詞を続けようとしたオクスヴァインの言葉がまたも止まる。
 クーミリアの足元に突き立っていたナイフ、桂木の――元は健一のナイフが、先に持ち主が放った極光と同じ光を放っていた。
 瞬く光に呼応するようにして創剣の間が鳴動する。
 長い時間に感じられたが実際には一瞬の時間で、揺らめく光が優美な長剣を形成し、実体化した。

「この、剣は……」

 唐突に自分の前に現れた一振りの剣を呆然と見つめるクーミリア。

「くっ!」

 読めない状況を警戒したのか、オクスヴァインがこちらに背を向けて一気に逃走に出る。
 それを見ると同時に、反射的に叫んでいた。

「クーミリアっ! 投げろっ!!」

「――――わかった!」

 すぐさま反応したクーミリアが自分の剣を手放し、眼前の剣を引き抜き――

「い、けぇぇぇっ!」

 オクスヴァインの背に向かって全力で投げ放った。
 それがどうなるのか、理解していたわけじゃない。
 でも何かしらの考えが回る前に隣の麻衣を抱き寄せて顔を自分の胸に押し付け、健一も倒れこんだまま桂木を同様にしていた。
 そして俺と健一とクーミリア、その傍に立った杏里の見る前で、健一のナイフから生まれた剣は光を伴って空気の壁を越え炎の壁を突き抜けて、流星の様に走り

「が……ぐがああぁぁぁ――――!?」

 当然の様に呪術師の背へ突き刺さった。
 直後、剣がその刀身から、そしてオクスヴァインの内からも強く波打つ極光を放った。
 その極光の圧力で決壊したオクスヴァインの体はまるで何もなかったように消滅し……奴が断末魔を上げられた時間すらほんの一瞬だけだった。

「…………中々、良い剣だ」

 冗談なのか本気なのか、クーミリアがぽつりと言うと同時にオクスヴァインの残した炎の壁は溶けるように消える。
 そしてその先にはあるべき筈の長剣ではなく、見慣れた一振りのナイフ。

「――クエスト達成、だな」

 エフェクトは出ないが、俺は全員に聞こえるようにそう言った。
 何はともあれ、このクエストはこれで全て終わったのだ。











 幸い聖剣教会の人間があの偽神父以外も帝国の手のものだったらしく、それ以上何かが起こることはなかった。
 あれだけの騒ぎが外に聞こえていなかったということもないと思うのだが……クエストというのはそういうものかもしれない。
 そのまま帰ろうと思ったのだが、杏里の言で聖剣の間だけは見ていくことにした。
 見るべきか見ないべきか考えなかった訳ではないが、何はともあれ、知っておくべきだと思う。

「で、これが噂の誰にも抜けない最強の聖剣……なんだけどね。さっき見た所だから感動なんてないかなー?」

「…………」

 面白そうに笑う杏里。
 そして健一は呆然と聖剣……ほんの数分前に呪術師の命を奪った物とまったく同じ形をしたその剣を見つめた。

「これ、健先輩の……」

「……ですよ、ね……?」

「……山田、どういうことなのさ?」

 呆然とする三人から視線を向けられる。そう言われても俺にもわからない。
 わからないが、まあこれがゲームなのだと単純に考えれば。

「お前が創ったんだろ、聖剣を……違うのか、勇者様」

「……僕が……」

 今はただの剣にしか見えない剣をぼんやりと見やり、健一がゆっくりと聖剣へ歩み寄る。
 すると呼応するように刀身から薄く揺らめきながら極光が瞬き……健一は足を止めた。

「健一君それ引っ張ってみたら? 多分だけど、抜けるんじゃない?」

「…………いや、いいよ」

 健一が下がると極光も収まり、聖剣も静かにただの剣へと戻っていく。

「えーっ、勿体ないよー! それ強いんだよ、本当に最強だよ、本当本当!」

 あれは確かに間違いなく最強の剣だ。敵に応じて武器を変えるのが当たり前のネットゲームにおいてありえない筈の『最強の剣』
 しかし健一は軽く笑って手の中のナイフを掲げて言った。

「僕にはこれがあるから、さ。こんなの荷が重過ぎるよ」

 まあ、あんなの持ち歩かれたらややこしくて仕方がない。勇者にこんな事を言うのも失礼だろうが……健一にはナイフぐらいがお似合いだ。

「健先輩、それ、私にくれたんじゃなかったんです?」

「……え、いや、それは……欲しいの、すずちゃん?」

「神の使徒に、勇者……これを陛下に報告するのか、私は……」

 出来ればそれはやめてくれ、クーミリア。















 宿の部屋に戻ってきて、とりあえず血に濡れた服を着替えた後。

「ありがとうクーミリア。助かったよ、本当に」

「いや、先も言ったがあれはこちらの失態だ。むしろ謝罪するべきは私の方で――」

「うーん、クーちゃん生きてたんだね良かったー。どうやったの? 怒られたりしなかったの?」

「だからその話をこれから――」

「あの、ごめんなさい、あの時はその……酷い事を言って……」

「健先輩、見て下さい、ほら! ほら! これで先輩を助けたんですよ!」

「うん、ありがとう、本当にありがとう。だからもうちょっと離れて……」

「……お前ら、ちょっと全員黙れ」

 戦闘時のテンションと、そこからの開放感で全員やたらとハイテンションだった。
 そして桂木が何か魔法を使っている。いや、もういい。覚えたんだろう。そう、魔法を覚えたんだ。
 健一が勇者かもしれない事と比べたらもう何でもありだろう。


「クーミリア、無事なのは良かったし、また会えて嬉しい。でも……何か任務で来たとか言ってたよな?」

「ああ、そうだ。私がここに居るのは陛下から直々に受けた勅命による」

 勅命。あの時も、俺と杏里に切りかかったあの日もそう言っていた。
 緊張してしかるべきなのだが、今度こそ本題に入れるのが嬉しいんだろう、少し顔を綻ばせているクーミリアを見ていると全くそんな気になれない。

「そこの……アンリ、に言われた事を少しだけ使わせてもらった」

「ん、あたし? そう、あたし杏里、栗原杏里。よろしくね?」

「自己紹介は後にしよう。杏里を使ったって?」

 ああ、と頷き、楽しそうに微笑んで少女が続ける。
 ちょっとした悪戯を友達に自慢するような、そんな表情だった。

「神の使徒に帝国と敵対する意思はなく、教国に組する事もない。そしてもしも信用できないのなら監視役として私を同行させても良いと言質を取ったと……陛下に伝えた」

「……それって」

「……つまり」

「うわ、大嘘だね~」

 嘘八百だとまでは言わないが、何と言うかやたらと都合の良い物言いだ。それで本当に信用されたのか?

「私は今まで一度も嘘や偽りの報告をしたことはない。だから一度ぐらいは良いだろう? そう、少しだけ我侭を言わせてもらったんだ」

「うんうん、子供はそれぐらいじゃないとね」

 杏里も笑い、桂木も微笑んでいる。苦笑している健一も否とは言わないだろう。
 そして麻衣に目を向けると……

「……クーミリアさん、あの時は酷い事を言って……ごめんなさい」

「いや、あの時も悪いのは――」

「――一緒に来て、力を貸してくれますか?」

「……ああ、喜んで……いや、任務なのは確かなんだ。そう旅の道ずれの様に扱われても困る」

「はい、でも、よろしくお願いします」

 少し苦笑して頷いたクーミリアと麻衣に和解が成立したらしいのを見て、ようやく俺も息をついた。

「つまりクーミリアが皇帝を説得してきてくれたから、一緒に来てくれれば帝国から襲われるとかそういうことはない、と」

「ああ。今日の様に手柄を求めての暴走はあるかもしれないが……私とお前と、それに勇者も居る。問題はないだろう」

 私も勇者というのは初めて見るんだが、と呟いたクーミリアに健一が慌てて首を振っている。ついでに杏里があたしは? と寂しげにひとりごちていた。

「あー……良かった。もう今日みたいなのは本気でお断りだ。死ぬほど痛かった」

「死ぬほど苦しかったね……本当にもう嫌だよ」

「情けない事言うなよ、勇者」

「大丈夫ですよ、健先輩は私が守りますから」

「……す、すず、さん。さっき魔法使ってました、よね?」

「あ……麻衣、約束覚えてたんだー!」

 もうテンションが高すぎて止められそうにない。
 健一の剣の事、転職してスキルまで使った桂木のこと。
 素手で受けたクーミリアの剣よりダメージは低かったのに死ぬほど痛かったあのダガーのことや、明日からの旅のこと。
 色々と考えることはあったが……俺ももう疲れた。
 杏里に構われて困った様に笑っているクーミリアを見て、とりあえず一つだけ思ったことは。
 なるほど、今日は良い日になったなと、そんなことだった。







[11414] 第九話 飛び立つ理由
Name: 検討中◆36a440a6 ID:9de4a211
Date: 2011/11/12 19:17

  生きてその時を超えられた喜び、気がかりの残っていたクーミリアとの和解。
 喜ばしい出来事が続いたお陰で皆の勢いも大いに盛り上がっていたが、それも時間が経つと幾らか落ち着いてくれた。
 ようやく冷静になった俺達に、ここまでずっと使っていたあの馬車には追尾の魔法がかかっていたのだと少女は言った。

「付与術式が破壊されない限り帝都から居場所が探知出来る。今回もそれを使わせてもらった」

「あー……GPSが付いてたって事かな。何度もピンポイントで追って来れたのはそういうことなんだ」

「……魔法ってなんでもありなんですね」
 
 桂木が複雑な表情で言う。
 しかし他人事の様に首を傾げる本人も現代人の基準では既に立派な魔法使いだ。
 
「やたらと豪華な褒美だとは思ってたけど、そういう事か。あの時からもう立派に警戒されてた訳だ」

「……すまない」

「謝ることないよ。ここまで来るのに車がなかったらって、考えただけでぞっとするぐらいだから」

 軽く言った杏里に俺も心から同意したい。
 もしもここまでずっと徒歩行軍だったなら、スタミナポーションを飲ませながら一日歩き詰めで、それでもサイレインまで来るのに何日も余分に必要になった筈だ。
 
「私の手で打倒出来ない以上、彼らは他の誰であっても害することが出来ない。しかし私なら彼らと交渉が出来る。……陛下には大体そんなことを伝えた」

「随分大きく出たんだな、クーミリア」

 何でもないように言った少女の言葉が俺には意外に感じられた。
 つまりクーミリアは皇帝様の前で帝国最強を自称した訳だ。
 そりゃ確かにこの歳で部隊一つ率いていたというのに弱かったら話にならないだろう。
 しかし自分に勝てない相手には誰も勝てない、か。

「もう馬車が教国に入る寸前なのは確認していた。入国してしまえば少数の刺客で攻めざるを得ない。ならば私が最大戦力だ」

 まあ、そうでもなかったようだが――そう小さくつけたされた。
 
 あの呪術師のことを思えば返す言葉もない。
 特化型ステはいくらレベルが違ってもきついんだよ、こっちは火力職じゃないし。

「ともかく、私からの直接の監視と術式を通しての間接的な監視。その両方を維持することを条件に一時的に抹殺令の取り消しは認められた。悪いがまだあの馬車は使っていて欲しい」

「むしろ、ダメって言われたらどうしようって思いました」

 桂木の台詞に全員で頷いた。
 悪いことをしているわけでもないのだ、場所が伝わるぐらいなら何も問題はない。

「こちらからの要望はそれだけだ。教国付きの司祭ではないんだろう? 何の用があるかは知らないが私も力になる。それが終った後でいい、一度陛下と謁見の機会を持ってくれ」

 少しほっとした様子で頬を緩めたクーミリアが言葉を続けた。
 ――が、今度は逆にこちらの笑顔が固まる。

「用事が終わった後でってのは微妙なんだけどな……」

「そこからまた遠出は……ちょっと……」

「永住の予定があるのか? 出来れば教国内には余り留まってもらいたくないんだが」

「あー、いや、そういうんじゃなくてな……」

 どう説明すればいいんだろうか。ゲームという――異世界という概念は通じるのか?
 隣の麻衣と顔を見合わせて考える数秒の間に、横から杏里が口を出していた。

「あたし達ね、迷子なの」

「…………?」

 きょとんと見つめ返すクーミリアに笑いかけ、杏里が続ける。

「こことは全然違う、地図にも乗ってない場所からゲートで無理やり飛ばされてきたの」

 最初に飛ばされた魔法、あれをポータルゲートだと仮定するなら、確かに嘘ではない。

「だから帰りたいんだけど、どこに行けばいいかわかんないから神様にお伺いを立てようかなって思って、皆で向かってるんだ」

「地図にない場所……未開領域、魔物の領地から来たと言うのか?」

「えーと、あたし達にはその魔物の領地ってのが何なのかもよくわかんない。正直異世界に来たんじゃないかって思ってるぐらいだから」

「…………そう、なのか?」

 こちらに視線を向けてきたクーミリアに頷いて返す。
 
 ゲームの話、俺達が知っているこの世界、そして帰りたい本当の世界の事。
 どこまで言って良いのか俺には判断が付かなかったが、少なくとも杏里は嘘を言ってはいない。
 帰り道がわからない今、情けない言い方だが五人で迷子になっているのが俺達の現実だろう。
 
「そうか……こちらにお前達の情報が入っていなかった筈だな。未開領域にも町があり人が住んでいるらしいと噂に聞いてはいたが……」

 俺の勘でしかなかったが、未開領域というのはゲーム的に未実装で入れないMAPをさしている様な気がする。
 『ワンダー』サービス開始から何年たっても大量に残っている実装予定の新MAP達。それは言い方を変えれば未開地だ。

「僕達、神様に聞けばきっと帰る方法を教えてくれるんじゃないかって……もしかしたら送ってくれるかもしれないって期待してるんだよ」

 だから神様に会って、そこからまた旅が続くのはちょっと怖いんだと、健一が話をまとめた。
 
 とりあえずクーミリアにはこう話しておこうと、無言の内に全員が了解していたと思う。
 いずれ本当のことを告げたい。しかし元々はこの世界を遊び場にしていただなんて、言うべきかはわからなかった。


 俺達の話にふむふむと何度か頷き、愛らしい顔を痛ましげに歪ませ、クーミリアが真剣に言う。

「訳ありなのはわかっていたが、そんな事情は想像もしていなかった。なるほど、それは問題だ」

 特に、と俺と杏里を見て続ける。

「司祭……お前とアンリは、その地の守護の要にあったのだろう? 一刻も早く帰らねばならないな」

 当然の様に言う少女。やはり随分と買いかぶられているらしい。
 しかし、そんな事は全くないんだ――とは、どうにも言い難い空気だった。
 グレーターオーガの時もそうだったが、クーミリアはその人間の『守るべきもの』に不思議と強い感情を示す。
 もしかして何か事情があるのかと、聞けるほど親しいわけでもないのだが。

「別に焦らなくてもいいんだけど……ってかさ、結局自己紹介がまだだよね」

「そう言えばそうですね」

「そだね、後回しにしたんだっけ」

 ――と、何故か全員の視線が俺の方に集まった。
 俺からなのか?

「あー、山田だ。カーディナル……を、してる。まあ普通の神父だよ」

「……よく言う」

 珍しく呆れた様子のクーミリアが可愛くない。
 しかしゲーム内の職業で自己紹介をする羽目になる日が来るとは思わなかった。
 本当に冗談抜きに恥ずかしい。いつか思い出して悶える位、悪い意味で思い出になりそうだ。
 
「あたしは栗原杏里。パラディンやってて、多分クーちゃんと同レベルぐらい。よろしくねー」

「クーちゃん……」

 変な呼び方はやめろとも言いにくいのか、微妙な表情のクーミリア。
 そして多分、やめろと言ってもこいつはやめない。

「えーと、桂木すずって言います。学生です」

「いや、シスターだ」

「ふえぇっ!?」

 俺が転職を認めた以上、ゲーム内の職業としては既にそうなのである。

「お前も司祭か。道中苦労をかけると思うが、よろしく頼む」

「え、えっと、そんなことは……」

 桂木は妙に堅苦しく喋るくせにやたらと愛嬌のあるクーミリアをどう扱って良いか決めかねているらしい。

「僕は富田健一。えっと、何なんだろう、僕も学生……?」

「ああ、聖剣を扱えるんだろう? 頼りにしている」

「……う、うん」

 思いっきり引き攣った表情で健一が頷く。実際あれはどうやったんだろうか。
 今も出来るのか。後で聞いておこう。

「松風麻衣です。えっと、私は……」

「魔法使い見習いって所だな」

「っ……先輩?」

 少し驚いたようにこちらを見る麻衣。
 見習い魔法使いではなく、魔法使い見習いだ。多分意味はわかっているんだろう、麻衣も少し表情を苦笑に崩した。

「そうか……魔導師なら、いずれゲートを会得すれば……」

「それも考慮には入れてる。でも麻衣はまだまともに魔法が使えないからな」

「ぅぅ……」

「まあお前達ならそこまで修練を積む間に世界中を周る方が早いか」

 変な納得をしたドラゴンナイトと若干へこんでいる魔法使い見習い。
 そして最後に全員を見回して、騎士服の裾をちょっと気にして身なりを整えて、クーミリアが口を開いた。

「クーミリア・ゼル・クーヴァだ。ドラゴンナイトの称号を受けている。帝国第五騎士団長だ……が、もう私しか居ない部隊だな」

 あの日全滅した部隊、その部隊長がクーミリアだった。
 そして今や、一団の長でありながら俺達の監視なんて閑職の任を負わされている。
 
 だがクーミリアは言った。わがままを言ってここに来たのだと。
 なら俺達が何か負い目を感じるのはきっと失礼に当たる――あの夜にも思った事だ。

 
 
 …………しかし、ふと思ったんだが。

「悪い、俺だけがちゃんと名前言ってないな。俺は山田、――」

「――あー、色々あってお腹減っちゃったよ。そろそろ夕食食べに行かない?」

「そうですねー。あ、クー……ちゃん、美味しいお店とか知りません?」

「……私も教国内に入るのは初めてだ。すまないが町の構造程度しか把握していない」

「あたし、サラダはもうやだー! ね、まだちょっと残ってるからインベから料理出そっか?」

「いや、お前ら……いいけどな、別に山田で」

「えっと……お疲れ様です、先輩」

 どんな慰めだ、麻衣。
 
 ともかく仲間が増えた。そして彼女のおかげで、魔物の襲撃を除けばもう危険は何もない。
 ずっと心にのしかかっていた重い不安がなくなったが、幾らかの気がかりが増えた。
 健一の妙な力、桂木の使った魔法、クーミリアに伝えられていない真実。
 でもそんなのは些細な話だろう。皆で家に帰ることが出来れば、それで全てが解決する筈なんだ。
 

 実は部屋に近場の店の紹介パンフレットのような物があったらしい。
 騒ぎながらテーブルを囲む4人。そこから離れて杏里が俺の方にやってくる。

「ね、山田君」

「……ん、何だよ」

 ふと嫌な予感を覚えて後ろへ引いた俺に、小柄な体がさらに身を寄せる。
 楽しげに、というよりは何かたくらんでいるような笑みを浮かべて、杏里は俺に囁いた。

「無事に日本に帰れたら……その時は、私も山田君を名前で呼んでもいい?」

 ――――こいつは、桂木の天然死亡フラグが何処か羨ましかったとでも言うのだろうか。

「……呼びたきゃ呼べよ。変なフラグを立てるなって言ってるだろ、わざとか、お前」

 もう怒る気力もない俺の台詞に心から嬉しそうに微笑む杏里。

「あのね、実はあたし、他人の地雷踏むのってちょっと好きなんだ」

「…………ああ、そうかもしれないとは思ってた」

 わざとやってるのかと思っていたが、本当にわざとだったらしい。
 ある意味一番安定しているくせに、やたらと不安を感じさせてくれる。
 相変わらず相棒とは呼べそうにないパラディンだった。
 





























 第九話 飛び立つ理由































 ふとクーミリアが言った。
 『勇者が本当に居るとは思わなかった』と。
 しかし俺の方はそうではなかった。勇者の存在を知っていて、会った事すらあった。
 それはこの世界に来るまで、そうだと知らず勇者っぽい健一と友達付き合いをしていた――などという意味ではなく。
 ゲームの世界でキャラクターとして出会っていたのだ。

 オンラインゲーム『ワンダー』内において、勇者とはプレイヤーの選べる職業ではない。
 英雄の役割を持ってストーリークエストを展開するNPCとして『勇者』が存在するだけだったのだ。 
 冒険の途上で聖剣を持った英雄と出会い、その力を借りて、時にこちらの力を貸して敵を撃退する。そんなクエストが幾つかある。
 しかしその中には、勇者が創剣の間で聖剣を新生させる様なイベントはなかった。 
 だから正直に言えばあの時健一が何をやらかしたのか、俺にも全くわからない。

「つまり僕みたいなのじゃなくて、どこかに本物の英雄が居る筈だってこと?」

「でもその凄い剣はちゃんと置いてありましたよねー? それって抜いた人が健先輩の他には居ないって事なんじゃ……」

「うーん、元々聖剣は教会に残ってるのにその剣持ってうろうろしてるって訳わかんないキャラだったし、何でもありな気もするけど」

「その前にお前達の知識の根拠を聞きたい。聖剣を持って諸国漫遊している勇者が別に居ると……そう言いたいのか?」

「……あー、噂と同じようなレベルの話だから、確証は全くないんだけどな」

 夕食は結局屋台で買うことにして、宿の部屋で食事を囲みながら談笑の時間を持った。
 昼と余り変わらないメニューになったが、野菜よりはいいと強硬に主張する杏里と――控えめに肉を所望したクーミリアが決定打になった。
 
 クーミリアの歓迎会をしようと言った桂木に反対する者はおらず、あれやこれやと買い集めて宿に戻ってきたのはつい先ほどの事。
 皆が明るい話をしようと努力するのだが、根が真面目なクーミリアを中心に据えて会話をするとどうしても先程の戦いの話が出てきたりもする。

「そもそも健一、あのナイフを剣に変えたの、どうやったんだよ。自分がやったって自覚はあるのか?」

「うん、よくわからないけど……そこにあるのが当たり前で、むしろないのがおかしくて、だから欲しいと思ったら来てくれて……」

 腕を組んで首を傾げ、呻く様に健一が言った。
 よくわからないと言われても、こちらからはさらに全くわからない。

「今呼ぼうとしても上手く呼べないんだけど……何ていうか『そこ』にあるような気はしてる」

「……超能力者か霊能力者みたいな台詞だな」

「健先輩、やっぱり凄かったんですよね!」

「一瞬掴んだだけだが、私が握ると恐ろしい違和感があった。確かにあれはお前の剣なんだな」

 お気楽な桂木と感慨深げに言うクーミリア。
 そのクーミリアがふと、俺の方に視線を向けた。

「そういえば私の剣だ。ヤマダが持っているんだったな?」

「ああ、そうだ、預かってるよ。今返すな」

「いや、いいんだ」

 インベントリを開こうとした俺を押し留めるように手を振り、クーミリアが苦笑した。

「あれはしばらくお前が持っていてくれ。そんなに大した理由があるわけじゃないが……きっと今はそれが良いと思う」

 今の剣もなかなか悪いものじゃない。そう言って少女は椅子に立て掛けた長剣に手を滑らせた。
 例えそれが苦笑であっても、クーミリアが笑うとどこか幼さが強まって見えるのだが――どうしてだろうか。
 今はそこに熱く燃えたぎる何かを感じて、酷く嫌な予感がした。
 出会いの思い出に、とかそんな甘い考えは決してありえない気がする。
 俺と杏里をいつか打ち倒して、そしたら返してもらおうとか、そんなことを考えているような。
 
「あ、そうそう!」

 自分にも向けられている怪しい気迫に気づいているのかいないのか、杏里がぽんと手を叩いて視線を集めて――話題を変えてくれる。

「剣の話で思い出したけど、そろそろ皆の装備を変えたいよね!」

「桂木はともかく、他は大してレベル上がってないだろ……特にお前」

 転職した桂木は職専用装備が使える。確かに装備変更の価値があるかもしれない。
 しかしそれ以外の面々は代わり映えしないだろうし――特に杏里のレベルは全く変わっていない。

「山田君、わかってないなー。そろそろ新しい服が欲しいなーって言ってるの」

「……そうか。そりゃまあ、このままって訳にもいかないしな」

 言い出した杏里はいつもゲームと同じ騎士衣装から着替えていないように思うんだが、口に出して言おうとは思わなかった。
 確かに今の服はこの世界で買ったもので、元々の生地の質が悪く、水で洗って干しているだけなので一度着るとずいぶんとへたってしまう。
 言っている事はもっともかもしれない。

「そういや洗濯して使ってたけど、よく考えたら買い換えながら行っても良いんだよな。全部新しく買うか」

「服、使い捨てにするんですかっ!?」

「その方が楽だろ」

「…………」

 どこかの大富豪のような話に桂木が唖然としていた。
 ゲーム内資金は有り余っているので日常の衣服――つまりは布の服――なら全く問題ないのだ。
 
「やったっ、じゃあ明日は山田君の奢りで、皆でぱーっと買い物っ!」

 おー! と桂木と、控えめに麻衣が握り拳を掲げた。
 苦笑している健一はともかく、興味のなさそうな顔をしているクーミリアは女の子としてどうなんだろう。

「ってか、昨日もちょっとは買っただろ」

「あれは露店見ただけだし、足りない!」

「……まあ、もう何も危ない事はないしな。買い物ぐらい楽しんできてくれ」

 ゆっくり観光をして疲れを取る筈が、今日は逆に疲れを貯めてしまった。
 明日こそは皆が息抜きを出来る時間になって欲しいと思う。
 ――そう、どこか他人事の様に言った俺に

「先輩も一緒に選ぶんですよ?」

「……あ、ああ」

 不思議なやる気を見せる麻衣が俺に小さく釘を刺した。
 今度こそ神父の衣装を着させられるんだろうか。ここは一応教会の本場に入る町だ、無駄に品揃えもいいかもしれない。
 
「出来れば程々で頼みたいんだけど、麻衣?」

「……ふふっ」

 凄く嬉しそうに微笑まれてしまった。
 らしくもなく悪戯っぽいその笑みはとても魅力的だったのだが、明日は幾らか覚悟を決めておいた方がよさそうだった。











「あの時は正面からやられた訳だからな、ある意味でヤマダよりも悔しい気持ちはある。アンリの盾技、どこで修めたものだ?」

「んー、それは秘密だけど……お姉ちゃんって呼ぶなら教えてあげてもいいよ、クーちゃん?」

「……遠慮しておく」

「杏里ちゃんってたまに凄い自由だよね……」

 いや、そいつはいつでも自由だ。
 
 酒も入っていないのに宴もたけなわもあったものじゃないとは思うのだが、そこそこに盛り上がってはいた。
 どうでもいい事からどうでもよくない事まで、あれこれと話をしながら料理を口に運ぶ。
 この世界に送り込まれたあの日を少しだけ思い出して、それも今日の出来事と一緒に忘れるよう、誰もが明るい話題を選んだ。

「あの、山田先輩」

 そんな一応は宴の場で、テーブルから少し離れた桂木が、小さく手を振って俺を呼んだ。

「ん、どうした、桂木」

「……いえ、大した話じゃないんですけど」

 それはそうだろう、桂木から世界の根幹にかかわる重大な話とかされても困る。
 口に出しはしなかったが表情で伝わったか。本人も自覚しているらしく苦笑を浮かべた。

「クーちゃんの分も部屋を取ったんで、一応部屋割りを。私と麻衣で、栗原さんとクーちゃん、それから先輩達でいいかなって」

「ああ、それでいいんじゃないか」

 直接剣を向け合ったからか、並びあって戦ったからか、クーミリアは割と杏里に気を許してるように見える。仲良くしてもらうとしよう。

「出来れば山田先輩に、俺は麻衣と一緒が良い、とか言って欲しいんですけど」

「子供が居るからダメだ」

「……そうですよねー」

 今までとは違い、まだそれほどの年齢ではない子供が同行している。
 流石の桂木も未婚の男女が同室する教育上の問題点を無視したりはしなかった――無視したそうな様子ではあったが。
 
 とはいえ男に混ざって騎士をやっていたクーミリアがそんな事を気にするのかは微妙な所だと個人的には思う。
 皆の様子次第だが、それも少し考えておいても良いかもしれない――

「あ、後……ちょっといいですか?」

「どうした?」

「……いえ、その……」

 思考していた一瞬の間に桂木の表情が変わっていた。
 らしくもなく言いよどみ、周囲に視線をさまよわせている。
 自分では明るい空気を壊すつもりはないんだろう、笑みを浮かべようとして、しかしそれは酷く歪んでしまっていた。
 
「…………さっきの人の事なんですけど」

 さっきの人、というのが誰のことなのか。聞き返そうとは思わなかった。
 ちらちらと皆の様子を伺い、小さく俯いて、しかしはっきりと、桂木が尋ねる。

「あの人……死んだんですよね?」

「…………ああ」

「……そう、ですよね」

 さっきの人。
 俺たちを襲ったあの呪術師。
 桂木は見えていなかっただろうし、光になって弾け飛んだ事を殺したと言うのかはわからない。
 しかしあの剣に刺されて生きているというのは考えられない。あれはそういう物だ。
 だからこそ英雄の剣。プレイヤー装備にはありえない、形だけの最強の武器。
 
あいつは死んだ。
 クーミリアの投げた剣で……俺達が殺した。それが多分、事実だ。




 ――今夜適当に騒いで、明日は好きなだけ買い物でもして、気晴らしをして。それで忘れてくれないかと思っていたのだが。




「やっぱり気にしてたか?」

「えっと……そういう訳じゃないんですけど……」

 あの場には偶然がいくつも重なっていた。
 健一は元々持っていたナイフを桂木に渡していて、桂木はたまたまそのナイフを選んで投げて、それが最後にクーミリアの元にあった。
 仮にそんな偶然の一つだけを辿って、桂木が投げたナイフがそこになかったとすれば、確かにあの男は死なずに逃げる事が出来たのかもしれない。
 それは本当なら逃がしてしまったと言うべきで、桂木は称えられるべきなのだろうけれど。
 人殺しの役に立って褒められたいだなんてそんな風には俺にだって思えない。

「俺も今は考えないようにしてる。多分ちゃんと受け止められるのは家に帰れてからだと思う」

 逆に言えばそれまで考える事から逃げると、一緒に逃げてしまおうと言っているのだが、桂木はそれには触れなかった。
 いつも通り笑おうと頑張っているのだろう。それが逆に痛々しい、涙がこぼれそうな位の泣き笑いの笑顔。

「いえ、ちゃんとわかってるんです。ここはそういう世界で、あの人はそういう人で、多分私が悪いんじゃなくて」

 それは、と思わず口に出していた。
 桂木は自分が殺した訳ではないと正しく理解している。
 でもそれはやらなかったからではなく。

「でも、もしもあの時それが出来たんなら……きっと、私が自分で……」

「……桂木、それは……」

 殺さなかったんじゃなく、殺すことが出来なかっただけ。
 ただ、自分に敵を殺す力がなかっただけなんだと。
 きっと彼女が始めて人間に明確な殺意を向けた瞬間だったのだろう。

「…………」

「俺も偉そうな事言える身じゃないけど……気にするなよ。本当に」

 本当に桂木が何か悪い事をしたわけじゃない。妙な責任を感じるのはお門違いだし、気にしすぎだろう。
 でもそれで済まない位、人の命はきっと、重い。

「はい、ちゃんとわかってますから……大丈夫です」

「大丈夫、か……」

 確かにわかってるんだろう。
 わかっているからこそ、放ってはおけない。
 全部ごまかしてなあなあで忘れてしまおうなんて、やっぱり無理があったか。

「……よしっ、そろそろお開きにするぞー!」

「ふぇっ?」

 突然大声を上げた俺に桂木が目を丸くする。

「んー、まあ明日も早いし、そろそろいい時間かな?」

「ライソードに発つなら早朝から出るべきだと思うが……買出しを済ませてからと言うなら、明日は忙しくなるな」

 タイミングよく、間違いなくこっちの様子を伺っていただろう健一が同意して、クーミリアも頷いた。

「クーミリアは左の部屋で寝てくれ、杏里もそっちな」

「ん……山田君はどうするの、麻衣ちゃんと一緒?」

「当たり前だろ。ほら、さっさと行け。麻衣も行くぞ」

「あ、はい」

「え……えぇ? ふぇぇっ!?」

 瞬く間に健一と桂木を残して全員が部屋を出てくれた。
 何とも変な所ばかりでいい連携が出来るようになっているパーティーだ。
 
「じゃあ……また明日な、お休み」
 
「はいはい、明日ね、山田」

 扉を閉める寸前、苦笑する健一と目が合った。
 あいつもあいつで相当ショックはあるんだろうが、男が甘えていい場面でもない。
 一応命まで救われたんだ、そろそろ覚悟を決めて桂木を支えてくれてもいい頃だろう。

「悪いなクーミリアも、乗ってくれて」

「素人の女子供だ、実戦の後はこんなものだろう。特に魔物相手に熟練しても、多くは人間を相手にすれば脆い」

「……そんなもんか」

 血なまぐさい言葉を平然と言われて、面食らわなかったと言えば嘘になる。
 察しがいいとは思ったのだが、彼女も状況をしっかりわかっていたようだった。
 自分が同僚を手にかけた事を受け入れた幼い少女。この場の女子供代表とはとても思えない。

「まあ、ここまで過保護にしてきたしな」

「逆にお前が特殊なんだ、ヤマダ。私が今まで見てきた司祭はどれもあんなものだった」

 やはり僧侶系の職業は数が少ないらしい。少ないがゆえに大事にされて、壊れ物の様に扱われているんだろうか。

「まあ、あの司祭は受け入れる気があるだけまだ先が期待できる。貴族の三男坊よりずっと良い」

 一応フォローだったんだろうか、言うだけ言ってクーミリアは隣室に入っていった。
 何というか、男前な少女だと思う。

「……クーミリアさん、大人ですね」

「隊長様なんだな、本当に……」

「いや、それはいいんだけどね?」

 自然と寄り添った麻衣の隣で、杏里が困った様に俺を見上げてきていた。

「あたしがクーちゃんとなんだよね?」

「……麻衣とがいいのか?」

 そうじゃなくて、と手を振る。

「桂木さんは健一君が優しくしてあげて、松風さんは山田君とイチャイチャして……それで、私は?」

「…………悪いな」

「ううう、不公平、絶対不公平だよ」

 健一の言葉じゃないが、優先順位はある。俺は麻衣が一番心配でそれを優先していい筈なんだ。
 確かに本当に、杏里には心から悪いとは思っているんだが。

「お前なら平気だと思ってるって訳でもないんだけどな……頑張れ、一人でもないし」

「はぁ……まあ、クーちゃんは山田君より頼りになりそうだよね。お休み」

「ああ、お休み」

「……お休みなさい」

 申し訳なさげな麻衣に手を振って、杏里も部屋に入っていった――直後に、クーミリアの微かな叫び声が聞こえた。
 あいつは何をやっているんだろう。大丈夫だろうか、クーミリア。

「えっと……戻りましょうか」

「そう、だな」

 とりあえずこちらはこちらだ。
 自分達を殺そうとした男が目の前で死んだ。それも知り合いが殺したのだ。
 普通なら彼氏の胸でしがみついて一夜を過ごしてもいいぐらいの大事件だと思う。
 しかし俺の彼女は、少なくともこれまでの様子は誰よりも普段と変わらなく――いつも通りの麻衣に見えた。






「何だか現実のような気がしなくて……そういうお話もあるかなって、普通に納得しちゃってるんです」

「そう、か……」
 
「私は先輩のおかげで何も見てないですから。でも、その……やっぱりおかしいですか?」

「いや、俺も似たようなもんだよ」

 似たものカップルだったと、そういうことなんだろうか。
 相手はNPCだったなんて今更言うつもりはない。少なくともクーミリアの中に電子回路が入っているってだけでも考えたくない話だ。
 それでも俺にとってゲームの設定が残っているように見えて、全てがリアリティに欠けている。
 目の前で人間が光に分解された光景よりも、それが仲間に与えた影響を考えてしまうぐらいに。

「現実感がないんだ。魔法を使って戦って、死体も残らず消えて……本当に死んだんだってわかってはいるんだけど」

「そうですね」

 本当に同意したのかはわからないが、麻衣は頷いてくれた。

「桂木、大丈夫だといいんだけどな。随分思いつめてるみたいだった」

「すずさん、優しいですから……」

 意外にな、と口には出さなかった。
 この世界に来る前、色々なものを穿って見ていた俺は桂木の優しい所なんて想像すらしていなかったんだ。
 そういえば麻衣は桂木を名前で呼ぶ約束をしっかり守っているようだ。折角死亡フラグを打ち破ったんだ、そういうことは大事にしてもいいかもしれない。

「でも、本当にあの人は消えて……死んじゃったんですよね。ちゃんと考えなきゃ……」

「やめてくれ、気にせずに済んでるならその方が良い。こんな異世界の話は目が覚めたら全部消える夢みたいなものなんだ」

 麻衣は納得してしまっている自分に納得していない、そんな様子だった。
 ――そして、俺もそれは同じだ。

「俺こそ……本当は考えなきゃいけないんだ」

「え……?」

「元々の原因が俺だし、俺が殺したのと大差ないんだ。ちゃんと自覚しなきゃいけない」

「そんな事……っ」

 言う内に感じる、自分にもよくわからない、不思議な焦り。
 口を開いた麻衣を制して、続ける。

「だってさ、俺はあれが正しかったんだと思ってるんだ」

 不安げに見上げてくる彼女の目を見つめる。
 揺れる瞳に、止めるべきだと頭のどこかが口を挟む。それを無視した。

「今後もこんな事があるかもしれない。いや、無いと思うけど、あったっておかしくないんだ。その時もまたクーミリアに頼るわけにはいかない。俺が殺せないと駄目なのに……そうだ、そもそも今日だって俺が何とかするべきだったんだ」

 言いながら、怒りがこみ上げてきた。

「出来るはずだったんだ。殺せる筈だったんだ」

 何を言っているのかが自分で把握出来ていない。
 ただ思うがままに、まるで吐き出すように、口から言葉が零れ落ちる。

「むざむざアンタウントなんて喰らわなきゃ勝てたんだ。それなのに…………いや違う、そうじゃない」

 本当に感じているのはそんな小さな後悔じゃない。

「そもそも来るのがわかってて攻めさせようなんて、そんなのが馬鹿だったんだ。自分から危険な場所に行くような事しないですぐ逃げればよかった」

「……先輩」

「死んだらどうするつもりだったんだ、俺は。フルリザだって効かないかもしれない。死んだら終わりかもしれないのに」

「先輩、大丈夫ですから……」

「でも俺は何とかなると思ったんだ。レベルで負けてる相手なんて居ないんだし、俺が死ぬわけないし、だから負けるわけないって。健一は、麻衣はそうじゃないってわかってた筈なのに俺は」

「…………」

「いい所を見せたかったんだ。クーミリアに勝ったみたいに、きっとまた勝てるから」

 それは余りにも醜く汚い、俺の本音。

「驚かれて、怖がられて、尊敬されて、羨ましがられて、凄い凄いって言ってもらいたかったんだ。そしたら絶対気分が良いって、だから――」

「――先輩っ!!」

 暖かく柔らかい感触と、甘い香り。
 見えている筈の視界に何も見えていなかった。動いていた筈の体が石の様に固まっていた。嘘のように消えていた感覚が戻ってくる。 
 
 いつの間にか麻衣が全身で俺を抱きしめていた。
 どこかに行こうとする俺をしがみついて止めているとも思えるぐらい、強い力。
 一体いつからこうされていたのか、そんな事にすら気がつかなかった。
 
「わかってます、先輩が凄く頑張ってるって、皆がわかってるんです。こんなに、こんなに無理して……」

 震える腕を麻衣の背に這わせる。全く震えが収まらない。欠片も力が入らない。
 ただ麻衣に触れるだけの両腕。でもそれでよかった。本当に力が入ったら、全ての力が込められたら、俺でもきっと彼女の体を壊してしまえる。
 
「……麻衣」

「大丈夫です、先輩、皆ちゃんと無事です。明日からはもっと、もっと大丈夫になりますから」

 麻衣の手がゆっくりと頭の後ろに添えられる。
 優しい感触に、他人に頭を撫でられるなんて何年ぶりだろうと馬鹿な事を考えた。
 柔らかい麻衣に包まれてふと感じた眠気に『抵抗』しようとは思わず、俺はそのまま意識を手放した。
 

 どれだけ精神力が強い設定になっていても、どれだけ体力が多く残っていても、心は消耗していく。
 それは寂しいとかつまらないとか、そんな浅い話だけじゃない。そのことに気がついたのは翌朝目が覚めた後だった。
 
 そして直後、前日までの事を考えれば俺は麻衣に相当悪いことをしたのではないかと思ったりしたのだが。

「おはようございます、先輩。本当によく寝てましたね」

「あ、ああ……おはよう」

 どうしてだろう、当たり前のように隣で寝ていた麻衣は普段よりずっと上機嫌だった。





 これは割とどうでもいい話なのだが。
 俺は麻衣の腕の中でまた『ワンダー』の夢を見ていた。
 いつものように火龍の上に乗った俺と、後ろに腰掛けたパラディン。
 とある山を通過している途上でふとそいつは言った。
『この騎乗用ドラゴンって何処で出したの?』
 この山のネームドモンスターがたまに出すんだと言った俺に、そいつは『アレ?』と指をした。
 その先に居たのは頂上付近の高台で周囲を睥睨する紅いドラゴン。
 それだった。
『アレかー』
 当たり前のようにドラゴンに挑みかかったパラディンは、当たり前のように死んだ。
 幸い俺のフルリザレクションでペナルティーもなく復活できたものの、なんとも無軌道な行動だ。
『フルリザって便利だね?』
 そんなことの為に取ったんじゃ――。
 いや、そうだな。
 皆がそんな風に馬鹿なことが出来るよう俺はカーディナルになったんだ。
 夢の中でそんなことを思いだしていた。










「おはよう、ヤマダ。早いな」

「昨日は早かったからな……ってか大丈夫かクーミリア」

「アンリをどうにかしてくれれば大丈夫だと思うが……」

 それは少し頑張らないと難しい。
 早朝と言って良い時間に部屋の扉をノックしたクーミリアは随分と消耗した様子だった。
 アンリが何をしたのか、あえて聞こうとは思わない。
 あいつの気持ちもわかるのだ。
 人形でさえありえないだろうと思える程に愛らしく整ったクーミリアの顔を見ていれば、女性なら多少はいじりたくなるだろう。きっと色々と。 

「さて。この町で物を買ったりはしたくないが、そうも言ってはいられないだろう。早く済ませて町を出よう」

「こんな朝早くから店開いてないだろ、ここは一応観光地だし」

「わかっている。わかっているが……教国内に居るというだけでどうにも落ち着かないんだ……」

 そしてクーミリアは、もうやだ、と小さな声で漏らした。
 そんなに追い詰められてたのか。

「おはよー山田君、松風さん。ふっふっふ、今日はインベに入る限り買い込むつもりだから山田君は財布役を頑張って――」

「お前とりあえずクーミリアに謝れ」

「――え? あ、ちょっと、どういう話!?」

 杏里に無理やり頭を下げさせ、やりすぎるなと説教をし終えたあたりで桂木と健一も部屋にやって来た。

「おはよ……ふぁ……」

「朝から元気ですねえ、山田先輩」

「まあな。俺は二人が眠そうで安心したよ」

「ふぇっ!?」

 二人とも普段の調子に戻っている。何よりだ。
 そしてこれから俺が疲れる時間だ。

「そろそろお店も開きますね、先輩」

 はいはいそうですね、麻衣さん。お付き合いさせていただきますよ。












 武器防具道具屋――小規模な町なので買い物の出来る店は一つの建物に詰め込まれている。ユーザーの利便性の為に、システム的に――は4時間営業だったという話で、何の問題もなく買出しは始まった。
 保存の利く食べ物は野菜だけだったので食材は後ほど露店を回ることに決めて、装備品だ。
 装備品が問題だったのだ。

「こんな品揃えは要らなかった」

「桂木さんの装備が揃うし、これはこれで良いんじゃないの?」

「要らなかったんだ」

「ちょっとは聞いてよ……あ、松風さん戻ってきたよ」

 流石に教国の一都市、僧侶職の装備が無駄な程に充実していたのである。
 本来は無駄ではない。何せこちらは転職したての初心者僧侶なんてのを連れているんだ。
 きっとどの服にも桂木の精神力を引き上げる効果があるだろう。
 
 しかし要らなかった。こんなには要らなかったんだ。
 こんなにも嬉しそうな麻衣の顔、俺はここで見たくはなかった。

「先輩、これ見てください、デザインが私のローブと同じなんです。多分作者が一緒なんですよ」

「いや、魔法使い志望の麻衣とお揃いってのは聖職者としておかしい……」

「ね、着てみましょう? 他にもほら、こっちの杖、昔見た本に出てきた――」

「ああ、うん、もう好きにしてくれ……」

「頑張ってね~」

 麻衣に引っ張られて試着室に連れ込まれる俺を、杏里はほがらかに見送った。
 お前も服買えよ。なんで超乗り気だったくせにいつもの騎士衣装のままなんだよ。

 試着室で剥かれるというのもやはり初体験だった。
 貴重な体験だろうが、知らないままが良かったと思う。






「とっても似合ってますよ、先輩」

「うん、意外なことに悪くないよ山田君。本当に意外」

「そうかよ……」

 あれこれと着せられて最終的に選ばれた精鋭五着、その中の一つを着た俺に、麻衣はなんとも満足げに頷いた。
 杏里も何故か褒めていたが、コスプレを見られているようで何も嬉しくない。

「着るけどな。麻衣が選んでくれたんだから、一応着るけどな。他の奴なら絶対に着ないからな」

「本当に似合ってると思うんですけど……」

 麻衣の選んだこの『聖職者の服』は長い袖、長い襟の、足まで届くローブだ。
 もしもこんな服を着ている所を写真に撮られたら間違いなく死ねる。
 全員の携帯のバッテリーが切れていることを切に願うが、たまに電源を入れて写真を撮っている俺の携帯がまだ元気な辺り、何とも望み薄だ。

「お前達は選べたか」

 と、俺達から離れて見回っていたクーミリアが苛立たしげに戻ってきた。

「こちらは駄目だ。まともな鎧が一つも置いていない。流石教国だな、こんな備えで魔物と戦っていくつもりか」

「まあこの町にドラゴンナイトの装備はないだろうな……。一応首都に着いたら使える装備を銀行から出すつもりだけど」

「そこまで世話になるつもりはない。この鎧も帝都の鍛冶師が――」

「大丈夫、クーちゃんの服も買ってあるから。あたしの目測では絶対に合う!」

「……」

「……」

 杏里の言葉に、まだ可愛らしさのあったクーミリアの顔が明らかな渋面に変わった。

「あのー」

 ついでにひょっこりと桂木が顔を見せた。

「健先輩と一緒にクーちゃんの服を選んでみたので、ちょっと試着とかどうかなーって」

「…………ぅぅ、もうやだ」

「あのな、お前らの歓迎の仕方、そいつには絶対に喜ばれてないからな?」

 クーミリアを引きずっていく二人にそう言ってはおいたものの、聞いている様子は全くなかったのだった。









 買い物だ、などと盛り上がったところで全員現状はわかっている。
 当然何時間も店で粘ったりはしない。精々一時間で全ての買い物を済ませ、馬車へと集まった。
 

 馬車だ。
 帝国の追尾魔法がかかっている馬車だ。
 そう、クーミリアからもらった馬車だ。
 
 ――あの、クーミリアさん。あなた、動かせますよね?

「元は私達の馬車だ。当たり前だろう」

「よっっし、流石団長! ありがとうクーミリア!」

「ヤマダ? ……どうした?」

 ぐっとガッツポーズをした俺にクーミリアは首を傾げるが、そんなことはどうでもいい。
 ついに、ついに御者役を卒業できる。
 俺も馬車の中で皆と過ごす時間が取れる。
 楽しい旅が始まる!

「俺の時代だ、俺の時代が来た!」

「よかったね山田君。って言っても全部クーちゃんに押し付けちゃ駄目だからね?」」

「そんなことしねえって」

「別に構わないが……まさか、ずっとヤマダが御者を?」

「あたしたちじゃ馬が言うこと聞かなくて。ずっと山田君が一人で頑張ってたよ」

「鬼かお前たちは」

 正しく本音、といった様子のクーミリアの言葉に杏里がさっと目を逸らした。
 こいつが空いた時間にずっとスキルのトレーニングをしていれば馬車を操れるぐらいにまで成長していた可能性はあるのだ。
 健一達は申し訳なさそうではあるのだが、あちらはレベル的にトレーニングの効果が薄いので仕方がない。

「まあ二交代ってことでいいか?」

「ああ、任せて欲しい」

 頷いて請け負ったクーミリアの安心感が凄い。
 この面子で一番若いのに、一番頼りになる。

「えっと、水、食料、私物、ポーション、寝具と洋服、食器もあるし、馬のご飯も……」

「宿屋の人がちょっと整備してくれたみたいだね、車輪が綺麗になってるよ」

 桂木が積荷をチェックし、健一が馬車の状態を確認すれば出発だ。
 ちなみに桂木の言う『私物』は俺達が地球で持っていた物だ。
 紛失するのは困るが、インベントリに入れて出せなくなっても困るので持ち歩くしかない。
 俺達にとっては水と食料に次いで重要な物だった。

「とはいえ、私は帝国所属の身だ、門番に姿を見られるのも困る。悪いが町の外までは頼む」

「おーけー。麻衣、隣な」

「はい」

 こうして明らかに聖職者の衣装を着た二人が御者台に並ぶと本当に巡礼者のように見える。
 馬車に帝国の国旗でもついていれば危ないが、そういう訳でもない。クーミリアが引っ込んでいる分には問題ないだろう。

「じゃあ出発だ。ライソードに着くのは二日後の昼ぐらいだな」

「二日か……結構かかるんだね」

「山道だもんねー」

「っ……が、頑張ります」

 明らかに引きつった返事を返してきた桂木が寝具を使ったクッションを用意し始めるのを確認し、俺は馬に前進の指示を出した。

 果たして俺達の願いに女神は応えてくれるのか。
 これが最後の希望だとは言わない。それでも一番期待しているのは間違いない。
 願わくば――本当に、願わくば――家に帰りたいという俺達の願いが叶うよう、それこそ神に祈り。
 俺達は協会都市サイレインを出発しようとした。

 出発しようとして通った、大門で。

「ああ君達、町を出るのか。巡礼の続きってことは、ここからライソードかい?」

「ええ、そのつもりですが……何か問題がありますか?」

「そうじゃないんだけどね、ちょっと噂になっているんだよ」

 来た時にも出会った衛兵が、少し曇った表情でそんなことを言いだしたのだ。
 何かもう嫌な予感しかしない。出来ることなら聞きたくないんだが。

「どうもね、途中の火龍山脈で本物のドラゴンを見たって話があってね……」

「…………」

 聞きたくなかった、そんな話。そんなフラグ建てたくなかった。

「昨日は教会で少し騒ぎもあったようだし、最近色々物騒だからね。そういうこともあるかもしれない」

「…………そ、そうなんですか」
 
 その主犯だとはとても言えない。
 聖剣教会は事実上帝国に乗っ取られている状態にあるらしく、一応大した問題にはならなかった。
 それでも人の口に戸は立てられないのだろう。

「まあ噂は噂だ。隊商も途切れていないし、平気だと思うよ。ライソードは信徒なら本当に行くべき場所だ。気をつけて良い旅を」

「はい、ありがとうございます」

 手を振る衛兵に挨拶をして、俺達はサイレインを出た。

「先輩、ドラゴンが居るんでしょうか?」

「居るって言ってたし、居るんだろうなぁ。……なんで嬉しそうなんだ、麻衣」

「え……そうですか?」

 不思議そうに自分の頬を撫でる麻衣。

「あの山ね、本当にドラゴンのネームドモンスターが出るの。フレイムドレイクっていうそのままの名前なんだけど物凄く強くて……」

 後ろでは杏里がドラゴンの講釈を始めている。

 ああもう、祈ることが足りなかった。
 『無事に』『平穏に』家に帰らせて欲しい。そう思う。心から願い直す。

 しかし、きっと前半の部分は叶わないのだろう。
 そんな気がしてならなかった。













 数時間後。
 周囲の草原が荒れた山肌へと変化した辺りで俺はクーミリアと御者を交代し、初めて荷台に乗って馬車の旅を行うことになった。
 揺れは御者台に比べれば随分とマシだし、ゆっくり足も伸ばせる。何なら横になったっていい。
 システム的な体力は御者台に座っていれば何も問題はないが、精神的には大違いだった。

 ちなみに御者台の隣は杏里だ。クーミリアが自ら希望した。
 何か悪さをした時に止められる人間が横に居た方がいいだろう、と。
 言うまでもなく誰一人そんな心配はしていない。

 ともあれのんびりと地図を見ながら、現在地はこの辺りだな、何てことを話してしばらくの時間を過ごした。
 旅って良いものだなと今更の感想を覚えてしばし。
 寝具を積み上げて作ったクッションの上でゆらゆらと揺れながら桂木がこんなことを言い出した。

「私、段々とバランス感覚が良くなって来た気がするんですよねー。もうほとんど転んだりしませんから」

「そういえばすずちゃん、最初は何度も落っこちてたよね」

「あの頃の私とは違うんですよ、健先輩」

「レベルが上がってるからだろ、どう考えても……」

 揺れに弱い桂木はずっとこうしてクッションの上で旅をしていた。
 考えてみると技術、敏捷、体力、力、精神力の上がりそうなトレーニングだ。
 言わばバランスボールみたいなもので、そりゃバランスよく育つだろうな、桂木。

「あ、すずさん」

「……? 何、麻衣?」

 何やら揺れながら目を瞑って瞑想の真似事を始めた桂木に麻衣がおずおずと声をかけた。
 麻衣は背後に立てかけた炎の杖に手を這わせている。

「昨日の話なんですけど、すずさんも、何て言うかその……山田先輩みたいな事をしてましたよね?」

「あ、えーっと……」

 少しだけ考える様子を見せた桂木は膝の上の両手を持ち上げ、ふらふらと揺らした。
 収まりが悪そうに何度か握った後に、その手を軽く胸の前で組む。
 まるで本物の聖職者のような姿勢だが意外と照れはないらしく、桂木は平静に目を閉じた。
 何となく全員が無言で見詰める中、祈りの言葉を捧げるように何事かを口の中で囁いて――

「――――っ」

 桂木の足元から白い光が吹き上がり、同時に麻衣の周囲を薄緑色の光が取り巻いた。
 全身を軽く覆った祝福魔法の光は効果の発揮を知らせるように一度煌き、薄い色となって固定される。

「うん、出来るみたい」

「まほう、まほう……」

 ぽかんと見つめる麻衣の視線に照れた様子で笑い、得意気に桂木は胸を張った。

「どうですか、凄いですよねっ?」

「凄いよすずちゃん、本当に魔法だ……」

 普段俺が使ってるだろ、とかそういうことは口に出さなかった。
 空気を読むというのは大切なことだと最近学んだのだ。

「ど、どうやったんですか!?」

「えーっと……強く願うの」

「……願う?」

 意気込む麻衣に軽く頷き、桂木は目を閉じて言った。

「強く強く一つだけを願って、心から思って、気持ちを籠めて。そしたら胸の奥で何かが揺れるのを感じるから、それを力にして願いを外に押し出せばいいの」

「…………」

「…………」

「わかりにくいですかねー?」

 本当にファンタジーの魔法使いかシスターにしか思えない台詞に俺と健一は何も言えなかった。

「ぅぅ……」

 そして麻衣が絶望していた。

「ま、麻衣、ちょっと待ってね、わかりやすく言うから。まず何ていうかその、何か不思議な力みたいなのが心の中にあるから……」

「魔力なんて一度も感じたことないですっ!」

 どうにも、色々と一杯一杯らしかった。
 そりゃそうだろう、あれだけ夢だった魔法を友人に先に使われた上に、何か訳のわからない感覚を体得して使いこなされているんだ。
 麻衣の中に特殊な成長がないだけに衝撃も大きいんだろう。

 しかし俺も成長していないという意味では麻衣以上だ。何も言えず、騒ぐ二人を健一と並んでぼんやりと眺めた。

「聞いたか健一、心の中に力があるとか言ってたぞ。一歩間違ったら電波だな」

「まあ僕にもちょっとわかるよ。『剣』がある所もそういう場所だと思うんだ。感じるんだよ、何となく」

「…………」

 こいつら地球に帰ってから大丈夫だろうか。
 心の中に不思議な力を感じたまま日本で生きるのはきっと辛いだろうに。

「……そんな、コイツ大丈夫か、みたいな顔しないでよ。こっちだって気味が悪いんだから」

「逆の立場なら絶対そう思うだろ、お前も」

 そりゃそうだけど、と健一は小さく溜息をついた。
 革製の鎧を着たその姿だけを見ていれば魔法ぐらいは使ってもおかしくないとは思うが……。

「そもそも山田はどうやって魔法使ってるのさ」

「キーボードのボタンを押すだけだな」

「…………」

「健一、コイツはもう駄目だなって顔するのやめろよ」

「だってさ……」

 別のベクトルで駄目なのは否定できないが、不思議な力を感じる人間と比べれば僅差で俺がマシだと思う。
 こっちはゲームをしている感覚をそのまま引っ張り出しているだけだ。不気味な体力や筋力はともかく、僧侶になった実感なんて欠片もない。
 そう考えると自分の肉体と精神の変化を確かに実感している桂木は……大丈夫なんだろうか。
 誰にも変わった様子はないし、その辺りは問題ないと思いたい。

「――そうです!」

 ぽんと手を叩き、麻衣が珍しく大きな声を出した。
 どうしたのかと見つめる俺に輝く笑顔で振り返り、麻衣は力強く俺の手をとった。
 
「先輩、桂木さんみたいに私もシスターにしてください。そしたらきっと出来ます!」

「魔法使いになりたいんじゃなかったのか、麻衣」

「……ちょっと妥協します」

 そこは妥協しないで欲しい。
 神様が駄目だった場合は麻衣に魔法使いになってゲートを覚えてもらうしか策がないんだ。

「そもそも桂木が転職を申請できた理由もよくわからないんだ。本来はマウスで選択肢をクリックしなきゃ駄目なんだぞ」

「マウス……クリックしたんですか?」

「してないしてない」

 ふるふると首を振る桂木。そりゃそうだろう。あの時桂木が考えていたことなんて、ただ健一のことだけだ。

「多分、桂木の中で一番強い何かが物凄く作用した結果だろう。そこの馬鹿のせいだ。きっと桂木も今みたいな平時じゃ無理だったんじゃないか」

「そうですか……」

「馬鹿って……」

 落ち込む麻衣には悪いが諦めてもらいたい。
 いずれ機会があれば転職クエストをしっかりと案内するから。
 健一は知らん。色んな意味で自業自得だ。

「でも同じようにって考えると、山田先輩が健先輩みたいに死に掛ければもしかしたら麻衣も……」

「あっ……そうですよね!」

「いや待て、その反応はおかしいだろ!?」

 怖いことを言い出した桂木に、麻衣が明らかに期待した反応を見せた。
 なんだその『その発想はなかった』って表情は。

「麻衣、絶対転職できるようにするから。妥協しなくても魔法使いになれるから。だから変なこと考えるなよ? きっと本職の人が魔法も教えてくれるからな?」

「えっと……はい、わかりました」

「…………」

 少し困った笑みを浮べて頷く麻衣が全く信用できない。
 彼氏が命の危機に陥らないかなー、とちょっと期待している彼女とか、どうなんだ。これが普通なのか?

「一応言うけど麻衣ちゃん、山田が危ない状況って僕らは全滅してるからね?」

「わかってます、わかってますから」

「…………」

 こんな残念な会話をするぐらいならいっそ御者台に居たかったような気がしなくもなかった。
 いやはや、平和な旅も良し悪しだ。








 それから一時間ほど山道を歩んだだろうか。
 もうすぐ昼飯にして、また御者を交代するかなと考えていた時だった。

「あれ……止まった?」

「どうしたんでしょう?」

 一定のペースで進んでいた馬車がゆっくりと減速して止まったのだ。
 どうしたのかと前方の様子をうかがった俺達に、杏里が振り返って言った。

「山田先生、少しお時間よろしいでしょうか」

「気持ち悪い呼び方すんな。どうした、杏里?」

 杏里は輝くような笑顔で宣言した。

「迷いました!」

「……あのな、お前ちょっとマジでいい加減にしろよ?」

「待って待って違うんだって。だってあたし初心者だしね、ライソードに行くのに道なんてたまにしか通らなかったし、正直そんなには覚えてないし!」

「なら聞けよ! ノリで適当な道進んだだろ!?」

「すまない、ヤマダ。私が恐らくこの方向だろうと……」

「恐らくで行くな! クーミリアも帝国出身で道わかんないんだろ!」

「面目ない……」

 馬車から出て周囲を見回してみる。
 左は崖、右は断崖絶壁の山道。霞む程の距離にサイレインが見えた。
 全く見知らぬ場所ならどうしようもないかと思ったが、景色が良いので覚えている道だった。

「あー……多分このまま直進だな。少し回り道だけどちゃんと本線に合流出来る」

「そうか。それは良かった」

 ほっと息を吐いたクーミリアの肩を叩き、俺は杏里の首を掴んだ。

「……そうだな、良かったな杏里?」

「ひうっ!?」

「わざとか、杏里? わざとなのか?」

「何がっ!? ちょっ、絞まる、絞まってる! 山田君自分で思ってるより力強いから!」

「この先に行けば確かに合流できる。できるけどな、何でまたこんなややこしい所を通ったんだ?」」

「いやほら、景色が良さそうな道があったなーって思って」

「……旅を満喫してるな、お前」

 ってか、しっかり道を覚えてるんじゃないか。
 
 雲が近いと言える程の標高ではないが、既に十分な高地だ。
 遠くに見える草原と、その中央に白い街が広がる光景は確かに絶景ではあった。
 
「まあまあ、息抜きも必要だって。ほら、大きな鳥が飛んでるよ?」

「レイドガルーダ、レベル80だな」

「知ってるよー。山田君はちょっと情緒ってモノがわかってないと思う」

 火を吹きながら空を飛ぶ怪鳥を見て情緒を感じる趣味なんてない。
 実物を目にするとやっぱり迫力があるなーとは思うが。

「健先輩、あれ! 火の鳥が飛んでますよ!」

「フェニックスか何かかなぁ。綺麗だねぇ」

 いや、ガルーダだ、などとわざわざ言いはしないが。

「あれはガルーダです!」

 って杏里の奴、言いやがった。
 何か得意気に解説してるし。別に良いんだが、クーミリアの頭に疑問符が浮きまくってるぞ。

「凄い、もうこんな所まで登って来てるんですね」

「あー……そうだな」

 俺の横までやって来た麻衣が下を覗き込んでふらつくのを支え、地球で見たよりもずっと広く感じる空を眺めた。
 確かに綺麗だけれど、でもきっと地球にもこんな光景はあるだろう。
 いや、もっと美しい景色だってあるはずだ。
 俺はそっちを見たいと思う。
 出来るのなら、仲間と一緒に。
 
「……? あの、先輩、もしかして本格的に迷ってるんですか?」

 小さく息を吐いた俺に何を思ったか、麻衣が不安そうに見上げてきた。

「いや、杏里の気まぐれでちょっと寄り道してるだけだ。時間はそんなに――」

 言いかけて、慣れない感覚が何かを捕らえた。
 聞こえない筈の音が聞こえてくる気がする。それは以前にもあったことだった。
 
「この音……鳴き声は……」

 知覚したのは何か聞き覚えのある鳴き声、いや、咆哮だった。
 すぐに出てこないが、頻繁に聞いていた筈の音。

「……竜?」

「え?」

 聞き覚えがあるはずだ。これは確か火竜召喚時に鳴るエフェクト音――

「――まずいっ、全員乗れっ!」

「は、はいっ」

「ふえ?」

「どうした、ヤマダ?」

 考える前に従ってくれた麻衣の背を押し、きょとんとした桂木を掴んで馬車に引きずる。

「ちょっと、山田先輩!?」

「竜が来てる!」

「りゅっ……」

 言った瞬間に桂木の表情が引きつり、自ら馬車に走り出した。
 そうそう、そういうのが正しい反応だ。

「本当に来たんだ……」

「フラグはしっかり回収するのがそれらしいよねー」

「いや、いいからお前らも乗れ。何か近づいてきてる気がするから、急いで出るぞ。クーミリア!」

「いつでも出られる!」

 やっぱりかー、みたいな困った反応を見せる面々を馬車に叩き込んだ。
 頼れるドラゴンナイトは馬車の準備を先に済ませてくれている。
 全員乗り込むと同時に馬を進ませた。
 
「竜の気配がわかるのか、ヤマダ?」

「かすかに吼えるのが聞こえた。今も……羽ばたく音が近づいてきてる!」

「っ!」

 クーミリアが手綱を振るうと馬が速度を上げた。
 しかし本当にこちらに来ているのだとしたら、馬車の速度では時間を稼ぐことすら出来ない。
 フラグを立ててすぐ回収。確かにゲームの世界らしいが、流石にドラゴンは洒落になってない。

「俺が時間を稼ぐ。その間に出来るだけ距離を離してくれ」

「馬鹿を言うな。私もドラゴンナイトだ、竜に引けをとるつもりはない」

「いや、クーちゃん、どれだけやる気でも物理的に無理なことってやっぱりあると思うよ?」

 装備を整えた杏里が荷台から顔を出して言った。

「実際あたしも手も足も出なかったし。あ、でも倒せば卵落とすかもしれないんだよね」

「言ってる場合かっ!」

「アンリ、まさか件の竜と戦った経験が――っ!」

 咆哮が聞こえた。
 音判別スキルによる気味の悪い知覚ではなく、自分の耳に竜の咆哮が届いたのだ。
 間違いなく、かなり近くにまで来ている。

「話してる場合じゃなさそうだね。よいしょ、っと」

「な……おい杏里、それは……」

 幌馬車の屋根部分を掴み、杏里が軽やかに幌の上へと飛んだ。
 
 いや待て、幾らなんでもそれは流石に無理が――

「……破れないのか、それ」

「屋根が壊れる、なんて詳細なこと決まってないし。平気平気」

「そういうもんか?」

 柔らかい布で出来た幌の上に重装備で平然と立ち、杏里は後方に盾を構えた。
 まさか放っておくわけにもいかないだろう。
 押しなれたキーボードを押す感覚を再現する。
 即座にスキルが起動した。

 ショートテレポート

 視界が一瞬ブレ、直後に杏里の隣へと転移した。
 結構な勢いで走っている馬車の上だ。乾いた風と揺れでバランスを崩しそうになった。
 しかし確かに足元は柔らかいだけで、破れたり支えが折れる様子はない。
 しかし、馬車がダメージを受けたら幌が破れることああったような気がするんだが。

「こっちの速度は限界だ。もう竜は見えるか?」

「うん、小さく見えてる!」

 叫ぶクーミリアに、杏里が叫び返した。

「流石に速いな。どうする、杏里?」

「どうするって……どうしよっか?」

 作戦なしか。
 まあそれはこっちも似たようなものだ。

「とりあえず狙いが誰かによるな。俺が狙いならこっちでひきつける」

「そうじゃなければ?」

「防ぎながらマップ外まで逃げ切るしかない」

「勝率低そうだねー」

「まあ、な」

 最悪の場合は馬車を諦めるしかないだろう。
 積荷が焼かれたとしても、命には代えられない。
 二日間ポーションでしのぎながら次の町に向かうのは不可能なことではない筈だ。

「ちなみに山田君、あの竜って誰をタゲってると思う?」

「距離と視界で言えば俺かお前だろ?」

「……音判別でぎりぎりわかるような距離から飛んでくるぐらいにヘイトを取った人がどこかに居るんだよ?」

「…………」

 そこまで竜に追いかけられるような特殊な人間には一人しか心当たりがない。

「健一……」

「まあ、勇者とドラゴンって定番だよね」

「笑い話になってないけどな……」

 乾いた笑い声を上げた俺に苦笑を返し、杏里はゆっくりと腰を落とした。
 視界に映るドラゴンの影はぐんぐんとその大きさを増していく。

「あの時はやられたけど、今回はちゃんと防いでみせるから。助けてね、山田君」

「今度は死ぬまで放っておいたりしないから、心配すんな」

 杏里とゲーム内で会ったことなんてない。一緒にドラゴンと戦ったことなんてない。
 なのに当然のように認識を共有している。それはまるで夢の中のような、違和感がないことへの違和感。
 間違いなく、俺と杏里はどこかで繋がっている。
 もしかしたらこの世界に深く関わる何かで。

「――っ、麻衣っ!」

「は、はいっ!」

 幌の下から聞こえた麻衣の声に不思議な焦りと安堵を覚えた。
 いや、そんな場合じゃないんだ。

「揺れるぞ! 荷物を抑えててくれ! それからいつでも飛び出せるように準備、ついでに耐火ポーション飲んどけ!」

「わかりました!」

「杏里もな」

「はーい」

 万全を期すに越したことはない。
 俺もインベントリのレジストファイアのポーションを一つ使用した。

「からっ!? 辛いよ、このポーション!」

「……いいから全部飲め」

 見た目は赤い液体の耐火ポーション、どうやら辛いらしい。
 涙目でポーションを口に運ぶ杏里に微妙に意気がそがれる感を味わいつつ、俺も装備したメイスを構えた。

「あいつの特徴、知ってるか?」

「ぜーんぜん」

 ポーションの瓶を放り捨てて苦笑する杏里。
 そりゃ、初心者プレイヤーがフィールドボスの能力なんて知ってるはずもないか。

「ここのドラゴンは実装時期が初期だから範囲攻撃はない。あるのは固定射程の単体攻撃と直線射程の単体攻撃だけだ」

「つまり死ぬのは一人だけってこと?」

「……攻撃に割り込めば全部防げるってことだ」

 わかっているのかいないのか、パラディンは直刀を揺らしてふむふむと頷く。

 この山に沸くドラゴンは『ワンダー』のオープン当初から存在しているモンスターだ。
 初期のボスだけあって範囲攻撃や複数ターゲット攻撃、ノックバック攻撃といった気の効いた技は持っていない。
 しかしそれでも一時期の目玉ボスではあったのだ。したがって沸き待機時間が長く、HPも多い。

 最初はそれでもよかったのだが、今から見れば落とすレアは型落ち感の否めない品々だ。
 特殊レアの騎乗アイテム『フレイムドレイクの卵』も所有者の移動が出来ない、販売不可のアイテム。
 現状では精々中級者が狩りに来る程度のボスでしかなかった。

「それで山田君は諦めてないわけね」

「ああ。とりあえずチャンスぐらいはある」

 今の装備でも俺一人で十分に攻撃を受けきれるレベルのボスだ。
 モンスターの追尾範囲がゲームと同じだとすると、追ってくる範囲は遠くともマップ内のみ。
 このマップは山を登りきって降りていく途中で切り替わる。そこまで行けばターゲットは切れる筈だ。

「この速度で走れば2時間って所だろうな」

「前途多難だねぇ」

 全くだ。
 火竜の影はもうその姿がはっきりとわかる大きさになっている。
 交戦距離に入ろうとしているのだろう、口元に収束された炎の輝きが見て取れる。
 冗談抜きで熱いんだろうな、くそっ。

「一発目は必ず単体ブレスだ。防ぐぞ」

「うわー、痩せそうだねー」

「痩せるのはいいけど、骨にはなるなよ!」

 軽口を遮るように火竜の雄叫びが響いた。
 スキル一覧を開き、神の威光を起動する。
 
 ドラゴンの放った火球が一直線にこちらに向かってくるのを確認して、俺は強く歯を食いしばった。
 二時間の超ロングトレイン。ゲーム内でも一度としてそんな経験はなかった。
















「急降下来るよー!」

「こっちで受け止める!」

 言って、高空から高速で舞い降りてきたドラゴンの爪の一撃を両手で受け止めた。
 攻撃が直撃すると、直後にドラゴンは大きく羽ばたいて俺から離れる。
 足元が柔らかい馬車の幌に埋まり、鋭い刃が肉に食い込もうとする気味の悪い感触を振り払い、すぐさま回復魔法を入力した。

「また飛んだ!」

「パターン的に次はブレスだ。杏里、いけるか?」

「大丈夫!」

 杏里が自信に満ちた声で言うと同時に、前方に構えた大型のカイトシールドが七色に輝いた。
 パラディンの防御用盾スキル、エレメンタルシールド。一定時間属性攻撃のダメージを割合で軽減するスキルだ。
 エレ盾、などと呼ばれるこのスキルと耐属性ポーションを同時に使えば、ある程度はブレスのダメージを抑えられる。

 大きく翼を広げ、ドラゴンが大きく口を開く。
 数秒の溜めの後、グロテスクな竜の口内から火球が放たれた。
 
「んーっ!!!」

 妙な気合と共に杏里の盾に受け止められた火球は、その場で炎を炸裂させて散った。
 完全単体攻撃のブレスだけに、そばに居る俺は熱さも感じないが、逆に言えば熱量の全てが小さな杏里の体に襲い掛かっている。
 即座にヒールを発動。緑色のエフェクトと共に杏里のHP数値が最大まで引き上がる。

「あ、っつー……熱いっていうか痛い。熱いし痛いしやっぱり熱い」

「無理すんな、駄目なら代わるぞ」

「盾もないのに直で炎にぶつかってる山田君とか心臓に悪すぎ。自分で食らった方がマシだって」

 流石に物理攻撃の全てをシールドパリィではじき返す自信はない。
 そう言って杏里が請け負ったのがブレスの防御担当だった。
 神の威光で物理攻撃は肌に食い込まずに受け止められるが、炎のブレスは体でそのまま食らうしかない。
 ソロをしていた頃に敵の攻撃を受けた経験が豊富な杏里によると、盾や鎧で攻撃を受け止めるのと素肌に直接命中するのでは、HPの減少は同じでも体感する痛みに大きな差があるらしい。
 盾越しなら熱さがマシだと思う、という理由で、彼女は一撃でHPの4割を削り取るブレスを食らい続けていた。
 正直言ってこちらの方こそ心臓に悪い。ポーションとエレ盾がなければ即死に近いダメージなのだ。

「また高度上げてる……。生きてるモンスターっぽく動いてるから攻撃速度が滅茶苦茶低いね。これなら何とかなるかも」

「こっちが動いてるのもあるな。トレイン状態だと攻撃回数が落ちるから。クーミリア、そっちはまだ行けそうか?」

「馬はまだ走れます、猊下!」

「…………ソウデスカ」

「神の威光切れば?」

 切るとドラゴンの爪に切り裂かれる。流石にそれは勘弁して欲しい。

 細い崖際の山道を全力で走らせるクーミリアの馬術は、なるほど、流石騎士といえるレベルだ。
 戦闘を始めて数十分、俺達は龍の攻撃を防ぎながら山を登っている途中だった。

 上空で翼をはためかせている火龍は、山道を必死に駆け抜ける俺達を睥睨して小さな唸り声を上げている。
 こちらの様子をうかがうように円を描いて旋回する姿は敵だと思わなければ勇猛で美しいと言えるかもしれない。

「なんか攻撃止まったね、もうタゲ切れたのかな?」

「まさか。こっちから反撃してないから待機状態がちょっと長いんだろ。そうでなきゃ……」

「……そうでなきゃ?」

「攻撃パターンが変化する時の待機時間……はないはずだよな。あいつ、そんな仕様じゃないし」

「初期ボスでしょ? 通常攻撃とブレスだけじゃないの?」

「その筈だけどな……」

 威力の違う何種類かの通常攻撃、急降下攻撃、必殺技として炎のブレス。それがあの火龍の行動の全てだ。 
 それだけでも防ぎきるのは難しいと思っていたが、本来の仕様よりずっと遅い攻撃速度が俺達を助けていた。
 確かにボスモンスター独特の物理法則を無視したとしか思えない超高速攻撃は実際には不可能だろう。
 それが制限されているのは理解できないわけではない。しかし。

「また急降下来るよ!」

「あ、ああ」

 現実に即したルールがモンスターの行動を縛るとしたら、その代わりに与えられているものは何だ?

 そんな違和感と不安を無視して、俺はドラゴンの急降下攻撃を受け止めようとした。
 高速で舞い降りたドラゴンが爪を振り下ろしてくるのを受け止め、すぐに離れるドラゴンを見送って回復魔法を――

「あっ……山田君っ!」

「な、ぐっ……うわっ!?」

 ――竜が離れなかった。
 肌に食い込まない爪を強引に引っ掛けて、俺の体を崖側へと投げ飛ばしたのだ。

「う、嘘だろっ!?」

 そんな行動はありえない。あるはずがない。
 考える間にも景色が切り替わっていく。遠ざかっていく馬車と竜、杏里とクーミリア姿。
 
 放物線の頂点を越えて落下に入る直前に、視点を定めてスキルを起動した。

 ショートテレポート

「っ、猊下!」

「ぐっ……マジで危なかった……」

 狙いがそれて御者台側に落ちてしまったが、馬車が視界から離れる前にテレポートを使うことが出来た。
 油断していた。そうだ、カントルで戦ったあのグレーターオーガがそうだったように、ゲームにない行動をとってくる事だってあるんだ。
 この世界はまるでゲームのようだけど、それでもゲームそのままじゃない。わかっていたのに。
 
 考えている場合ではなかった。
 御者台で姿勢を立て直す短い間に幾度も金属音が響いている。
 ドラゴンは攻撃を続けていて、まだ馬車は走っているのだ。

「山田君、無事っ!?」

「大丈夫だ! 杏里、そっちは……そりゃやばいよなっ」

 視界の端のPTウインドウに表示された杏里のHPは残り1/3を割ってさらにじりじりと減少している。
 急いで幌の上の杏里にヒールを使用した。

「やってみる、とっ……結構出来るもんだよねっ!」

「無茶すんな、代わるぞ!」

 杏里はカイトシールドを振り、ギリギリで龍の爪を弾いていた。
 受け止めてしまうと俺同様に投げられる可能性がある。確かにシールドパリイなら防ぐことも出来るだろう。
 しかし、幾ら重装だと言ってもレベルが足りていない。一発受ければ10%以上HPは削られる上にパリィに成功してもまだダメージは貫通する。
 そもそも成功率に自信がないと言っていたのだ。任せておける筈がない。

「ごめん、ちょっときついかも。お願いっ」

 振るわれた爪を弾いて一歩下がる杏里。
 本来なら問題ない行動だった。例えボスであれ、シールドパリィが成功すれば一歩後退するぐらいは怯んでくれる。
 しかしこの竜は、もうそんなモンスターではなかった。


 ――グォァァァァァァッ!


「杏里!」

「――っ!!」

 爪を弾かれた勢いでそのまま体を回転させた竜、その長い尾が高速で振るわれた。
 風を切る鋭い音は一瞬で空間の弾ける音に切り替わる。音速の巨大な鞭が杏里へと迫った。

「く、ぅぅぅぅぅっ!」

 構えた盾が破壊されないのが不思議な程の轟音と共に杏里の身が崩れた。
 杏里のHPが一撃で危険域にまで減少する。

「嘘だろ、クソッ」

 倒れこむ杏里を御者台から見上げ、ヒーリングを使用した。
 杏里のHPが最大に戻る。しかしその最中にも竜は動いていた。
 連撃が、まだ終わっていない。
 
 尾を叩きつけ、そのままの勢いを維持して龍が回転する。
 再び向き直った火竜は大きくその口を広げ、鋭い牙を獲物に突き立てんとしていた。 
 大ダメージの余韻が残った杏里が動ける筈がない。倒れこんだままで迫る竜の口を呆然と見つめている。
 三連続攻撃も、噛み付き攻撃も、俺は見たことがなかった。
 もしかしたら噛み付きは杏里の最大HPを越えるダメージがあるかもしれない。
 

 どうすればいいんだ?
 馬車は今も動いている。セル指定のアークミスティリオンは意味がない。
 使える支援魔法もない。杏里のHPは既に倍加してある。
 テレポートで割り込めば――――駄目だ。そもそも、まだヒーリングのエフェクトも消えてない。
 次の魔法が使用可能になるまでワンテンポは要るんだ。
 
 一瞬の間に思考が空転する。即死しないことを祈るしかないのか? 何も出来る事はないのか?

「貫け、幻影っ!」

 流麗な声が鋭く響き、俺の真横を透明な剣が駆け抜けた。
 愚鈍な司祭が思考するよりも、神速のドラゴンナイトが剣を振るう方がずっと早かったのだ。
 クーミリアの放ったイリュージョンブレードがほんの数秒、龍の動きを止めた。
 十分だ。流石ドラゴンナイト。

「下がれ!」

「山田君、ちょっ!?」

 杏里の前にテレポートすると同時に彼女を強く背後へと押し出す。
 鎧と鎧のぶつかる金属音が聞こえてきた。クーミリアが受け止めれくれたんだろう。
 クーミリアの稼いだ数秒間で出来たのはそこまでだった。
 俺は両手を広げ、大きく口を広げた竜の牙を受け止めた。


 ――グルァァァァァァァッ!


「――――ぐっ」

 神の威光が効いているのか、幸いにも牙は食い込まなかった。
 本当に幸いだ。もし効いていなければ、この牙は俺の体を貫通したかもしれない。
 その位の無茶苦茶な痛みと圧力。
 ワニの噛み付く力は種類によっては1000kgを越えるのだと聞いたことがある。
 数十倍のサイズを誇るこの竜は一体どれだけの力で噛み付いてくるのか。
 
 危なかった。杏里が食らったら体が半分になっていたかもしれない。
 HPが残っていたってきっと心の方が死ぬ。
 
 良かった、良かったけど――それでも、痛いことには変わりない!

「がああああああああああっ!!」

「先輩っ!?」
 
 思わずもれた俺の呻きに重なって麻衣の声が聞こえた。
 見ると足元の幌が部分的に切り裂かれ、そこに青ざめた麻衣がいた。
 大丈夫だと言ってやる余裕もない、テレポートでもなんでもいい、とにかくこの状況から脱出を――

 ――グォォッ!!

「っ!?」

 視界が揺れ、テレポートの使用に失敗した。
 食い込まずともしっかりと噛み付いていた牙が、俺を持ち上げて離れ、また食いついてくる。

 何が起きたのか理解できなかった俺が感じたのは、匂い。
 生臭い血の匂い、鼻につく油の匂い、そして吐き気を催す酸の匂い。
 足が幌から離れて完全に空中に浮いている。

 俺は、竜の口内に全身が飲み込まれていた
 
「山田君っ!!」

「このっ、狼藉を!」

 一瞬だけ周囲が揺れた。
 聞き覚えのあるエフェクト音は、パラディンのシールドチャージと、ドラゴンナイトのバニッシュアウト。
 どちらもノックバック効果のあるスキルだ。俺から引き離そうとしてくれているのだろうが、ボスモンスターはノックバックしてくれない。

 え、いや、ちょっと待て。もしかして俺――


「食われてる、のか?」


 呆然と一人ごちると同時に、再び竜が動いた。赤銅色の口内のさらに奥へと運ばれていく。
 牙がもごもごと俺に突き立てられて鋭い痛みが走る。
 
 そんな、俺は今食われてるのか? 竜に? 

「待て待て待て待て……嘘だろっ!?」

 今更に抵抗を始めるが、もともと筋力値ではボスのドラゴンに歯が立たない。
 HPもぐんぐん減少していた。慌てて自分にヒールかけるが、かけ続けていないと間に合わない。

「ヤマダッ!」

「ああこれ、マズイ。マジでマズイ。二人とも、無茶でも頼む、頼むから助けてくれっ!」

「助けたいんだけどっ! ああもう、山田くんを離し……づっ!?」」

 外でも頑張ってくれているようだったが、レベルの低い二人の攻撃では竜は小揺るぎもしない。
 
 もし飲み込まれたらどうなるんだ。
 喉を通って胃に運ばれて胃酸に解かされて腸を通って……その間ずっと回復魔法で耐えろと?
 
「んなの、お断りだぞっ!?」

 牙の中から掴みやすそうな形をした一本を掴み、飲み込もうとする龍に抵抗する。
 幾らなんでも無理だ。生きたまま食われるなんて、そんなものには耐えられない。
 こんなでかい竜、童話みたいに腹の中から攻撃したって怯んでくれるとも思えないぞ。
 

 ――グルァァァァァァァッ!


 しかしいくら耐えたところで時間稼ぎ程度でしかないのかもしれない。
 クーミリアが手綱を放したせいか馬車も止まっている。逃げきることさえ出来ないんだ。
 
「はぁぁっ!」

「離せって、言ってんのー!」

 ドラゴンに咀嚼される俺の耳に、クーミリアの剣の音が幾度も聞こえてくる。
 杏里が盾をぶつける揺れも伝わってきていた。
 PTのステータスウインドウの中で杏里とクーミリアのHPは幾度も上下を繰り返している。
 ポーションを呑みながら必死に戦ってくれているんだろう。
 桂木も少ないMPで幾度もヒールをかけてくれている。
 それでも足りない。俺たちにはこいつを妥当する手を最初から持っていない。


「山田っ!!」


「健一っ!?」


 いや、そうだ。まだ手はある。
 
 他の何が効かなくても、どれだけレベルが足りなくても、本来は倒せない相手であっても――

「山田を助けるんだ――応えてくれっ!!」

 あいつの聖剣は、絶対に切り裂く!










 ――コツン












 健一の声と共に龍の口内に飛び込できた小さなナイフはあっさりと弾かれ、また馬車へと落下していった。

「…………」

「…………あれ?」

「健先輩ーっ!?」

「いや、わかんないんだけど、何か上手く出ないんだよっ!?」

「使えねえなっ!!」

「うわああああ、ごめん山田ー!」

「まだしがみついてるから、何とか引っ張り出してくれっ!」

「そんなこと言われても、こう暴れられると」

「ならまずは動きを……っ!?」

 目の前に赤い光がともった。
 小さな赤光は見る間に拡大し、収束し、その輝きを増していく。
 恐らく、ブレスの予備モーション。
 もしも零距離でブレスを食らえば、幾らなんでも一瞬意識が飛ぶだろう。
 その間に喉の奥にまで持っていかれればそこからは抵抗のしようがない。

「冗談だろ……!」

 とにかく距離を離そうともがく俺をあざ笑うように、牙にこめられた力が強まる。
 がっちりと噛み付いた牙はとても離れてくれない。
 これは終わった。
 本気で飲み込まれる。
 
「くそっ……くそっ、くそっ! 全員逃げろ、俺が食われたらタゲが移るかもしれない!」

「そんなの、無理! 山田君を置いて……」

「いいから行け!」

 杏里に怒鳴ると同時に、ブレスの硬直か、ドラゴンの動きが止まった。
 ブレスの火球が膨れ上がっていく。

「うわああああああああああっ!」

「先輩……駄目ーっ!!」

 諦めかけた俺の耳に麻衣の声が届いた。
 
 無理やり口外に視線を向けると、両腕を振り上げる白いローブ姿が視界に入った。
 

 その手に握られたのは、彼女には扱えない炎の杖。
 使えたとしても何の効果もない、たったLv1のスキルが使えるだけのお遊びアイテム。

 しかしその先には身の丈を越えるほどの巨大な炎の塊が作り出されていた。


「麻衣……?」


 使えない筈の魔法。

 起こせない筈の炎。

 ありえない規模の力。




「――――ファイアー」




 まっすぐな麻衣の瞳は、俺の知る不可能の全てを退ける意志に染まっていた。




「ボールッ!!――――」




 轟音と共に開放された炎の塊は一瞬で俺ごとドラゴンの口内を包み込み、ブレスの火球すらも取り込んで爆裂する。
 とてつもない破壊力はあっさりと竜の口腔を引き裂き、激しい爆圧で俺は口の外へと吹き飛ばされた。

「ぐっ…………?」

 俺は体が灰になるぐらいの熱を覚悟したが、麻衣の炎は俺を焼きはしなかった。
 まるで麻衣に抱かれているように、爆炎に取り巻かれてそっと地面へと降ろされる。

「何だ、今の……?」

「先輩っ、先輩、平気ですか!?」

「あ、ああ……」
 
 魔力を使い切ったのだろう、ふらつきながら駆け寄ってきた麻衣の体を支えた。
 まるで助けた方と助けられた方が逆のようだったが――そうだ、俺は麻衣に助けれたんだ。

「今のは本当に危なかった……ありがとう、麻衣。助かった」

「あ……その、そんな……」

 自分が何をやったのか思い出したのか、おろおろと杖を振る麻衣。
 そこに馬車から飛び降りてきたクーミリアが叫んだ。

「よし、ドラゴンが墜ちるぞ!!」

「…………あれは」

 麻衣の炎が想像以上の破壊力を発揮したんだろう、ドラゴンは口から煙を吹いて崖を墜落していた。
 ずっと上空に位置していたドラゴンの背中が初めて視界に入った。

「もしかして、鞍がついてる?」

 同じことを考えたのだろう、杏里が言った。
 そういえば、今までずっと防いで、弾いてばかりで、一度も攻撃を――ターゲットをしていなかった。
 しっかりと竜に狙いを定めた俺の目に、その名前が映った。
 
 Yamada's FlameDrake

「……俺の竜だ」

「えっ?」

 そっと麻衣を放し、ショートテレポートを起動した。
 
 視界にぎりぎり入っていた竜の背に転移し、落下する鞍の強引に掴む。
 気味の悪い浮遊感をこらえ、インベントリを開いた。

「お前、俺を追いかけてたのか」

 何故かそれだけ残っていた手綱アイテムを取り出す。
 
「微かに聞こえた声に気がつくぐらい、俺を探してたのか」

 どこにも繋がっていない手綱を握り、召喚コマンドを使用する。

「来い、エルフラト!」



 ――グルォァァァァァァァッ!!!



 手綱の耐久度減少と引き換えに、騎乗用召還アイテム『火竜エルフラト』がフレイムドレイクの卵から再召喚された。

 急速に迫っていた地面が一気に遠ざかる。
 雄たけびと共に強く強く風を切り、馬車のある崖を越えてなお上に。
 しっかりと繋ぎ直された手綱を握る俺を乗せ、竜は力強く翼を打ち、一気に高度を引き上げた。

「また、俺を乗せてくれるのか?」

 ――グルルル……

 喉をならしたような音で答えるエルフラト。

 こいつが探してたのは健一じゃなかった。
 どういう理屈か俺の装備欄から放り出されてモンスターに戻って、それでもずっと俺を探し続けていたんだ。
 好感度MAXは伊達じゃなかった。いや、そんなシステム的な話を除いても、何年間も一緒に遊んできた俺の相棒なんだ。
 吹き付ける風のせいか、それとも別の理由か。思わず涙ぐみながら、俺はふと思った。

 でも、それなら何で俺を食おうとした、お前。















「悪い、こいつ俺の竜だった」

「マジでふざけてんの、山田?」

「全く気づいていませんでした。すいませんでした」

 頭を下げた俺に溜息をつき、健一がすとんと腰を落とした。

「どれだけ焦ったと思ってるのさ……」

「ふえぇ……もう、皆無事だったし、良いんですけどねー」

「え、えっと……」

 桂木は健一の横に座り込み、麻衣は何とも微妙な笑みを浮べていた。

「ごめん、あたしちょっとそんな気がしてた。タゲったらYamadaって書いてあるし」

「言えよそれ。頼むから言ってくれよ」

「いや、まさか気づいてないとは思わないし……」

 そりゃそうだろうけど、さ。

「ヤマダ、これはお前の竜なのか?」

「ああ、正真正銘、俺の竜だよ」

 神の威光も切り、いつも通りのクーミリアが竜を見つめて言った。
 
 こいつは間違いなく俺の竜だ。
 エルフラトの鼻先に手を伸ばすと、うろこに覆われた鼻先が当たり前のように押し付けられる。
 甘える竜の姿にクーミリアは目を輝かせた。

「さっきやっていたように、乗れるのか?」

「そりゃまあ、その為の竜だからな」

「竜に……乗る……」

「…………」

 過去一度も見た事がないほどに期待した表情を浮べるクーミリア。
 何を考えているのか、手に取るようにわかった。

「…………乗りたいか?」

「乗りたい!」

 即答だった。

「わかった。と言っても最初の相手は決まってるから、後ででいいか?」

「うん、待ってる! 約束!」

「あ、ああ……」

 心から嬉しそうにエルフラトの周囲を回り、時折硬い体に触れて歩くクーミリア。
 正面まで周りこむと、若干迷惑そうな竜を見つめて言った。

「絶対、乗りこなすから」

「…………」

 システム的に俺にしか乗れないんだが。
 完全に素に戻って大喜びするクーミリア、どこか慣れた様子の杏里、少し興奮している麻衣と、疲れた健一。
 そして一番まともな反応、大きな竜の姿に怯えていた桂木が恐る恐るやって来た。

「それで山田先輩、この子どうするんです? みんなで乗るには流石に小さいですよね?」

 何となく自分は乗りたくないという雰囲気を見せる桂木には申し訳ないが、仮にも特殊レアの騎乗アイテムは伊達ではない。

「こいつ馬車とかを爪で掴んで運べるから、みんな馬車に乗ってれば一緒に飛べるんだ」

「ふええ……ゆ、揺れそうですね……」

「まあ、落ちたら大惨事だな」

「ふえええええっ」

 命綱ー! と叫びながら荷物を漁りだした桂木。高所恐怖症だったりしたら悪いが、少し我慢して欲しい。
 こいつなら馬車の数倍の速度が出る。二日の予定だったサイレインへの工程だが、明日中には着くことが出来る。

「よし。麻衣、準備してくれ」

「はい?」

「こいつ二人乗りなんだ。後ろで付き合ってくれ」

「……は、はい」

 嬉しそうな、それでいて嫌そうな。
 麻衣は何とも微妙な表情で頷いたのだった。










「下、大丈夫か? 馬は大人しくしてるか?」

「大丈夫だ、いつでもいいぞ!」

 馬を馬車の中で伏せさせ、荷物をしっかりと固定し、エルフラトに馬車を掴ませた。
 破れた幌の穴から青ざめた桂木と苦笑した健一の姿が見える。

「よし……行くぞ、麻衣」

「はいっ!」

 不安定な姿勢で空を飛ぶ恐怖よりも竜の背に乗る興奮が勝ったのか、後ろに乗った麻衣は力強く答えた。

「行け、エルフラト!」

 ――グルァァァァァァァ!!!

 手綱を一振りすると、雄たけびを上げてエルフラトが舞い上がった。
 一気に高度を上がる。全身に強いGがかかった。
 
「うわああああああああああ」

「ふええええええええええっ!?」 

 風を切る快感。馬車から聞こえる叫び声。

 猛スピードで過ぎていく景色はこれまでの時間のかかる旅を吹き飛ばしてくれるようだった。

「麻衣、大丈夫か?」

「はい、な、なんとか……」

 背後から聞こえる麻衣の声としがみつく感触に、どこか違和感があった。
 一緒に乗ったこともない筈のパラディンが、本当はそこにいた気がしてならない。
 
 それでも、こうして二人で空を駆けるのは何とも良い気分だった。

「凄い……速いんですね」

「そりゃあな。竜が遅かったら格好つかないだろ」

「でも、馬車よりずっとはやい……」

「……………………」

「先輩?」

「いや、なんでも」

 ドラゴンの速さを他の何かと比べて褒められると微妙な気分になるというのは多くのゲームプレイヤーにあることだとおもう。
 杏里を乗せた時は気をつけよう。あいつ、絶対に嬉々として地雷を踏みにかかるに決まってる。

「そういや麻衣、ファイアーボール使ってたよな?」

「あ……はい、そうなんです!」

 魔法使い見習いを卒業しそうな麻衣は弾んだ声で言った。

「すずさんの言ってたこと、少しわかりました。胸の奥に、私に力を貸してくれる何かがあるんです」

「…………そか」

 スピリチュアルな発言をする人間が増えてしまった。
 戻ってから変な宗教に嵌ったりするなよ、頼むぞ。

「しかしあの炎、PTメンバー……ってかプレイヤーの俺にはそりゃ効かないだろうけど、わかってて撃ったのか?」

「えっ?」

 プレイヤーがモンスターに使ったファイアーボールの爆炎が、PCの俺にダメージを与える筈がない。
 考えてみれば当たり前の事だが、麻衣がそんなことを理解しているとは思えなかった。

「だって、私の魔法が先輩を傷つける訳、ないじゃないですか」

「……………………」

「あの、先輩?」

「もう立派に魔法使いだな、麻衣」

「え、それ、あの…………?」

 どいつもこいつも、俺に理解できない何かを体得して先に進んでいく。

 人間の枠を、いや、プレイヤーキャラクターの枠をあっさりを越えていく。

 この世界には間違いなく俺が知らない何かがある。




 まるで「もうこれを使っても良い頃だ」とでもいうように帰ってきた、いや、『返ってきた』火竜。
 そして次の町ではついに倉庫が開き、俺が望むものが全てに近いレベルで手に入る。
 何かの策略のようだが、そう考えるとすれば、恐らくはゴールが近いのだということになる。


 それが何を意味するのか。
 もしかすれば、麻衣の言うように『俺たちのやるべき使命』のようなものがあるのかもしれない。
 今更ここがゲームの中だ何ていうつもりはない。
 無関係だとか、興味がないとか言うつもりもない。

 乗ってやるよ、このクエスト。
 この世界にありえない俺の力の全てを使いきってでも、目的を果たしてやる。

 だから絶対に、絶対に俺達を帰らせてくれ。

「この景色も、この経験も、全部良い思い出にして、帰ろうな、麻衣」

「…………はい、先輩」

 しかし何故だろうか。
 そんな決意そのものが誰かに予定されていたような、強い不安を感じたのだった。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.14720511436462